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斜光
泡坂妻夫
目 次
序 章 踊子
一 章 種子
二 章 鷺娘《さぎむすめ》
三 章 式の準備
四 章 お守り
五 章 疑い
六 章 多情
七 章 禁断のにおい
八 章 饗応《きようおう》
九 章 戯《たわむ》れ
十 章 辿《たど》り着く
十一章 途絶
終 章 廻《まわ》り道
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序章 踊子
その一
一日が終ろうとしている。
遠くの山襞《やまひだ》に日が落ちて、稜線《りようせん》の背景が血の色になった。
温泉街を抜けて、小さな赤い灯《ひ》を見たとき、香留《かおる》は三時間ほど前に見た、その光景を思い出した。その色は夕焼が忘れ残していった火影《ほかげ》に見えた。
「やあ、あれだあれだ」
先頭に立って歩いている有田《ありた》が、独得のけたたましい声を立てて笑った。
仲間は十人ほどで、全員|揃《そろ》いの浴衣《ゆかた》を着て、酒に酔っていた。宿の庭下駄《にわげた》は歩きにくく、音だけが大きく鳴り響く。
昼間、前を通ったときはガレージを思わせる素《そ》っ気《け》ないブロックの建物だった。近付くと、背丈《せたけ》ほどの看板が入口の前に立ち、赤い電気がデッサンの狂った裸婦を照らしている。
有田が切符売場の前で、大声で割引きの交渉を始めた。立看板には三人の名が赤い字で書かれている。ペギー日高《ひだか》、港小夜子《みなとさよこ》、そして三割方大きな字で、ローラ マラート。有田はこのローラ マラートを見るのが目当てだった。
ロビーに置かれていた劇場のビラを見て、有田は目を輝かせたのだ。
「これが、かのローラ マラートなら大変だ」
有田は気取ってそう言い、そっくり返って「かの」の講義をした。
ローラ マラートはハリウッドの映画女優で、五、六年ほど前、コメディアンのブンガ ブンガ主演の相手役としてデビューした。金髪の清純な美人だったが、その後、数本の映画に出演しただけで、姿を見せなくなってしまった。ある消息によると、ローラは不幸な結婚を経験し、その後、数本のアダルト映画に出演した。その内の何本かはビデオになって、密《ひそ》かに日本にも入ってきている。有田はブンガ ブンガの喜劇が好きで、その時代のローラの美貌《びぼう》は知っていたので、そのビデオに感激した、という。
「そのローラが、なぜ新潟《にいがた》の田舎《いなか》の温泉で踊っていなきゃならないのかね」
と、大黒屋《だいこくや》が訊《き》いた。
「きっと、悪い男に出会ったんだ。ローラはどこまでも薄幸《はつこう》なんだ。その男に欺《だま》されて、新潟へ売られて来たに違いない」
皆、本気にはしなかったが、食後の気散じにはいいと思う人もいた。会員の半数は、麻雀《マージヤン》と花札《はなふだ》それぞれの部屋に収まっている。香留は勝負事ができなかったので、誘われるまま十人ほどの仲間に加わった。
しばらくすると、割引き交渉がまとまったようで、有田は切符売場の前を離れて、けたたましく笑いながら入場券を一人一人に渡していった。最後に残った一枚を何気なくひっくり返して見て、有田はまた笑った。
「こりゃ、行き届いている」
香留も切符の裏を見た。大きくゴム印で電話番号が押されている。
「もし、その気になったら、責任を取ってくれるらしいよ」
「……ふうん。ローラ マラートでも、か」
と、大黒屋が言った。有田は切符を振り廻《まわ》した。
「もし、本当のローラだったら、判《わか》ってるね。抜け駈《が》けは駄目《だめ》よ」
連中は有田を先頭にして、劇場の中に入った。香留も続こうとしたとき、どこから来たのか、看板の前に立って、じっと出演者の名を見ている中年の男に気付いた。
男は浴衣《ゆかた》ではなく、灰色のオープンシャツだった。香留達が入口に入ると、男も切符売場の窓口に立った。
中は客席が二百足らずの小舎《こや》だった。前半のショウが終った後の休憩らしいが、ほとんどは空席だった。浴衣を着た五、六人ほどの塊《かたまり》が左右に席を取っている。薄暗い後ろの席には二組ほどのカップルが見える。換気の音が喧《やかま》しい割に、外の暑さと差はないようだ。
「まず、ご長老。一番前、かぶり付き」
と、有田が香留の手を取った。
「こんな若い長老があるかね」
「失礼しました。じゃ、独身貴族の代表として」
香留は無理矢理に一番前の席に坐《すわ》らされた。固くて前に傾《かし》いだ椅子《いす》だった。その周《まわ》りに仲間が集まった。
改めて仲間を見廻《みまわ》すと、矢張《やは》り香留が一番|年嵩《としかさ》だった。少し前までは、香留は千坂《ちさか》通り商店会の中で若手の内だった。それは、千坂通りの変化が急速に進んでいる証拠だった。最近、若い者の入会がめっきりと減り、年寄りの店は片端から大手の不動産業者に買い潰《つぶ》されていく。そこに新しく建つのはスーパーやホテルの高いビルだった。
全員が席に着くのを待っていたように、突然、照明が消えて、真っ暗闇《くらやみ》となった。
「写真の撮影、並びにアラームのご使用はお断わりします」
と、有田がわめいた。
「踊子さんに手を触れないようにして下さい」
これは大黒屋の声だった。
スピーカーから演歌が流れて、ぎくしゃくと幕が上がった。薄暗い水色のライトの中に、ガラス張りの浴槽《よくそう》がぽつんと置かれている。浴槽には白濁した湯が半分ほど張られていた。
舞台の上手《かみて》の袖幕《そでまく》が揺れて、赤いドレスを着た小柄な女性が、ステップを踏みながら登場した。塗装に近い化粧だが、目鼻立ちが小さいぐらいは判《わか》る。
「ペギー、待ってました」
と、有田が声を掛けた。
踊子が声の方を向いてにっこり笑い返したところを見ると、看板に名のあったペギー日高なのだろう。
しばらくすると、ペギーは踊りながら衣装を脱ぎ始めた。取り柄《え》は肉に弛《たる》みのないことだけ。手足が短いので、着衣のときよりもせかせかした踊りに見える。
ペギーは浴槽《よくそう》の縁に置かれていたタオルのうち、一本を腰に廻《まわ》し、もう一本を持って、客席の有田と大黒屋の顔を見較《みくら》べていたが、大黒屋の膝《ひざ》にタオルを投げ、舞台に登って来るように手招いた。
「俺《おれ》、困る」
大黒屋は急に弱気になった。周《まわ》りの仲間が宥《ゆる》さない。
「さあ、男の出番だ」
「ペギーと踊れ」
大黒屋は押し上げられるような恰好《かつこう》で舞台に登り、ペギーの横でタオルを持って棒立ちになった。
「いいぞ、大黒屋」
「漬物店《つけものや》」
ペギーは大黒屋の帯を解き、浴衣を脱がせた。物慣れた手付きで、今度は大黒屋の手からタオルを取り、腰に巻き付けて足元から手を入れ、下着を抜き取った。大黒屋はペギーの言いなりで、ばかばかしいほど無抵抗だった。
ペギーは裸にした大黒屋の手を取って浴槽《よくそう》の中に入れ、背中を流す。ただ、それだけのショウだったが、牙《きば》を抜かれた狼《おおかみ》のようになった大黒屋の態度に、商店会の連中は大喜びした。大黒屋が浴衣を着せられて元の席に戻《もど》ると、歯の浮くような音を立てて、赤い中幕が左右から閉まり、浴槽が見えなくなった。
大黒屋はくしゃみをした。
「まるで、日向水《ひなたみず》。すっかり冷えちゃったよ」
そして、不貞腐《ふてくさ》れたように煙草《たばこ》に火を付けた。
「もっと、サービスさせりゃよかった」
と、有田が言った。
「入場料を値切ったろう。仕方がねえ」
大黒屋がぶつぶつ言っているうち、音楽が民謡に変わり、舞台には二人目の踊子が上手から登場していた。
踊子は半開きの舞扇《まいおうぎ》で顔を隠し、五つ紋の紫の裾《すそ》ぼかしを引き擦《ず》りに着て、白|献上《けんじよう》の帯をだらりに結んでいる。衣装はけばけばしい化繊《かせん》の光沢《こうたく》だが、割に上手な着こなしで、一応、均整のとれた芸者の姿だった。
「この名前、何だった?」
有田は後ろの仲間に訊《き》いた。誰《だれ》も答えられなかった。有田は出まかせに女の名を言い、頑張《がんば》れと声援を送る。
踊子は舞台の中央で正面を向き、客席の声が静まると、はらりと舞扇を胸のあたりに下げた。
中高で頬《ほお》から顎《あご》にかけて直線的な面輪《おもわ》。素顔は厚化粧で隠されていたが、香留はその輪郭《りんかく》を見た瞬間、目の前に火花が散るような衝撃を感じた。
――しかし、そんなことはあり得ない。
そう否定するものの、踊子の横顔は香留の不安と期待とを煽《あお》り立てる。冷静な判断は、しだいに隅《すみ》の方へ追い詰められていく。
踊子はそれに止《とど》めを刺すように、白い帯に手を掛けた。帯は静かに床《ゆか》に流れ、紫の衣装が肩から滑り落ちる。下は緋《ひ》の長襦袢《ながじゆばん》に桃色の伊達《だて》巻き。踊子は無表情のまま、伊達巻きを解くと、後ろ向きになった。
しおらしいほどの撫《な》で肩《がた》。襟首《えりくび》から胸元のあたりが割に広く、首から離れた感じで小ぶりな二つの乳房《ちぶさ》があった。くびれた胴から下の起伏は、上体を思うと意外な成熟を見せている。
それで、否定の余地がなくなった。
そのときから、香留の視界は白っぽい靄《もや》が掛かり、あたりの物音が聞こえなくなってしまった。
弥宵《やよい》と別れてから、五年が流れ去っていた。だから、もう四十五歳になっているはずだが、ライトの中の弥宵を見る限り、その年月は逆行していると錯覚するほどだった。
弥宵の肌《はだ》は水水しく白いだけではなく、青味を帯びて輝いている。ライトが柔らかな皮膚を通して青い血管にまで届いているのだ。弥宵を美しいと思う気持とは反対に、香留の心は胸苦しさが強くなる。
ふと、踊っている弥宵の視線が、香留の方に舞い込んで来た。香留ははっとして顔をそむけた。香留はもう弥宵の顔を正視することもできなかった。
観客の全員が弥宵の顔を共有していることへの焦心《しようしん》は、しかし不思議な甘美さを伴っている。昔、同じ情感に責め立てられたことを思い出した。
しばらくすると、香留の耳に周《まわ》りの声が蘇《よみがえ》ってきた。
「本物のローラ マラートか」
「違う。顔は似せてあるが、ローラじゃない」
「じゃ、詐欺《さぎ》だ」
「同姓同名だと言うさ」
「どうせ、そうに決まっているさ」
「だが、この子も悪くはない」
「そうだ、そうだ」
いつの間にか、舞台では大柄な外国人の踊子が手足を動かしていた。香留は舞台に集中することができなかった。香留の視界では、白い塊《かたまり》がさまざまに形を変えているだけだった。
思考は堂堂巡りを繰《く》り返している。
――ローラはローラではなかった。とすると、港小夜子は弥宵でなくともいいんじゃないか。
数分前のことが、すでに夢に似た記憶に変わっていた。
ショウの次は映画だったが、他で飲み直す段取りができていた。香留は仲間達と小舎《こや》を出た。
「いかがでした、代表」
と、有田が香留に声を掛けた。
「いや、なかなか結構」
香留は大袈裟《おおげさ》に額を掌《てのひら》で拭《ぬぐ》った。実際、香留の額は汗を掻《か》いていたが、有田は下手《へた》なおどけだと思ったようで、けけけけと笑った。
「白人はいいでしょう。凄《すご》い迫力だったね」
話題は偽《にせ》のローラにだけ集中した。誰《だれ》も港小夜子が弥宵だとは気付かなかったようだ。それを知って、香留はほっとし、思い切って有田に言った。
「ところで、ローラの方はいいの?」
「……いいって?」
「切符の裏を利用しなくて」
「ああ、駄目《だめ》。あのボリューム、とても太刀《たち》打ちできない」
「じゃ、和食の方は」
「でもね、あれ、よく見ると相当|婆《ばあ》さんだよ」
「僕なら釣り合いそうだ」
有田は嘆声を発し、来る途中に公衆電話があったと教えた。
香留がダイヤルを廻《まわ》すと、若い男の声がした。
「港小夜子と会いたいんだがね」
「判《わか》りました。小舎《こや》の並びに〈ローリエ〉というスナックがありますから、そこでカミュブランデーを注文して下さい」
「……カミュブランデーだね」
「お客さんは?」
「〈大原館《おおはらかん》〉の浴衣《ゆかた》を着ている」
電話ボックスを出ると、有田達が待っていて、代表、行ってらっしゃいと言い、万歳を三唱した。
香留は五年前、正式に弥宵と結婚した。しかし、結婚生活は半年足らずで、弥宵は香留の前から姿を消してしまった。弥宵の籍はまだそのままにしてある。
その二
一日が終ろうとしている。
宿で教えられた通り、歩いて五、六分。道の左側に赤い灯《ひ》が見えてきた。
風のない蒸《む》し暑い日だったが、日が傾いてからはいくらかは凌《しの》ぎ易《やす》くなった。足を急がそうとすると、西目《にしめ》の左足が重い疼《うず》きを感じた。気温はまだ高いが、持病のリューマチは敏感に季節の移りを察知しているようだ。
西目が小舎に近付くと、切符売場の前で、揃《そろ》いの浴衣を着た十人ばかりが、わいわい騒いでいた。西目はそれを見て歩みを緩めた。その連中に見られても、どうということはないが、長年のうちに身に着いた習性というものだろう。
そのうち、仲間の一人がけたたましく笑い、切符売場を離れて一人一人に切符を配り始めた。西目はその傍《そば》を離れ、小舎の絵看板の前に立った。
看板には金髪の裸の女が身体《からだ》をくねらせている。稚拙《ちせつ》な筆は我慢できるとして、背後に描かれた放射線状の赤い図柄が不快だった。戦時中、小学校の教育を受けた西目は、その図柄からすぐ海軍の軍旗を連想した。その軍旗に憧《あこが》れていたことをまだ忘れていなかった。その中央に女が置かれて、軍旗は見事に品位を落としていた。
西目は看板の製作者や小舎主を詰《なじ》りたい気持だった。だが、すぐ、軍旗など見たこともない人達の時代になっていることを考え、不快のくすぶりは自分で揉《も》み消すしかないと思った。
看板には三人の踊子の名が並んでいる。西目はそっと手帳を取り出し、その内の一人の名を確認してから入場券を買った。
立て付けの悪くなったドアを押すと、さっき切符売場の前で騒いでいた浴衣《ゆかた》の連中が、まだわいわい言いながら舞台のかぶり付きに群がっていた。あとの客は算《かぞ》えるほどで、場内が妙にしんとなっているより、喧《やかま》しい連中のいる方が反《かえ》って落着ける気分だ。
西目はドアの傍《そば》の座席に着いた。ドアの上の蛍光灯《けいこうとう》が、じいじいと絶えず音を立てて消えかかっている。
しばらくすると、一足先に宿を出た倉馬《くらま》がドアを開けて、すぐ西目を見付けて傍に寄って来た。西目の隣の座席は毀《こわ》れて滑り台みたいになっていた。二人は一列後ろに移り、並んで腰を下ろした。
倉馬は持って来た紙袋を開き、煙草《たばこ》の箱を三つほど取り出すと西目に渡した。
「時間があると、もっと出たと思うんですがね」
少しの隙《ひま》をみて、パチンコ屋に行っていたらしい。
倉馬は自分でも煙草の箱を取り出して、封を切って一本を口にくわえた。西目は舞台の横に光っている「禁煙」という青い文字を横目で見た。
「こんな場所ですから、構やしませんよ」
倉馬は平気で煙草に火を付けた。西目も煙草の数は多い方だった。西目は貰《もら》ったばかりの煙草の封を切った。
かぶり付きで騒いでいる連中が席に着いたとき、急に場内が暗くなった。西目と倉馬の煙草の火だけが指先を照らし出した。
すぐ、水色のライトが付き、幕が上がった。
手元が暗い。西目はポケットから、葉書サイズのブロマイドを取り出し、ペンライトを当てて見た。アイドル歌手のカラー写真だった。丸顔で目鼻立ちの小さな女性の上半身だ。何度も見たブロマイドだったが、ここで確認しておく必要があった。
上手から赤いドレスを着た踊子が、スピーカーの演歌に合わせてステップを踏みながら登場した。西目は緊張したが、濃く化粧した横顔だけでは何とも言えない。
「ペギー、待ってました」
かぶり付きの一人が声を掛けた。
踊子はその方を見て笑い返し、次に西目の方を見た。
「間違いない」
西目は倉馬にささやいて、プリントをポケットに戻《もど》した。
「日高勢子《ひだかせいこ》ですね」
と、倉馬が言った。
舞台は入浴ショウというものらしい。勢子は舞台の中央に置かれたガラス張りの浴槽《よくそう》の廻《まわ》りで、踊りながら衣装を脱ぐと、かぶり付きにいる連中の一人を舞台に上げようとした。連中は大騒ぎになり、すぐ、一人が舞台に押し上げられた。
仲間の一人がストリップに参加したので、かぶり付きには笑いが絶えなかったが、踊子はその男と一緒に浴槽に入るというだけの、他愛のないショウが続いている。
西目は目だけで舞台を追いながら、無意識のうちに長かった捜査の経過を思い返していた。
最初は単純な殺人事件にみえた。だが、捜査を進めていくと、思わぬ袋小路に入ってしまった。手掛かりの一つ一つが最後になると必ずそれから先へは進まなくなり、犯人につながらないのだった。それだけに、西目は事件の解決に特別の執着を持ち続けている。
あれから五年たつ。日高勢子を見出《みいだ》すまで、ずいぶん廻《まわ》り道をしたものだと思う。西目の予感では、恐らく勢子は重要な鍵《かぎ》を持っていて、その証言で事件の全《すべ》てが明らかになるような気がする。
勢子のショウが終った。思わず腰を上げようとすると、倉馬が言った。
「もう少し付き合ってくれませんか」
「もっと、見ていたいのかね」
と、西目は訊《き》いた。
「ええ。入るとき看板を見ませんでしたか。ローラ マラートの名が出ていましたよ」
西目が見たのは日高勢子の名だけだった。
「ローラ マラート、と言うと?」
「……知らないんですか」
「知らない」
倉馬はくすりと笑った。どこか生意気だが、西目は倉馬の態度を不快に思ったことが一度もない。
「アメリカの映画界の女王ですよ。もっとも、アダルト映画界の、ですがね」
「……そんな女優が、どうしてこんな田舎《いなか》で出演しているんだね」
「勿論《もちろん》、偽物《にせもの》でしょう。でも、奇跡というものは、いつどこで起こるか判りません」
西目は苦笑いし、二本目の煙草《たばこ》に火を付けた。強い勝負師は勝ちを見届けると、より慎重になるという。はやる心を静めるにはいいかも知れない。
二人目の踊子は芝居に出て来るような芸者姿だった。
勢子と違い、二人目の踊子はかなり美しく感じた。舞踊のことは精《くわ》しくないのだが、それでも、素人《しろうと》の域を超えているぐらいのことは判《わか》る。だが、裸になると年齢は隠せなくなっている。西目はむしろその熟れた味がいいと思った。しかも、どことなく羞恥心《しゆうちしん》が伝わって来る。
「どうかね、この子は?」
と、西目は倉馬の意見を訊《き》いた。
「勢子の方がいいですね」
「そうかな」
「そうですとも。若い子の方がきびきびしていて気持がいいですよ」
西目はそういう見方もあるのかと思った。多分、若さのせいだろう。
この踊子は古風な道徳の中で育ったようで、自分を開放的にすることができない。だからこそ屈曲した感情が逆に情感をそそることになるのだが、倉馬のような若い者には、それが不健全に見えるらしい。
そう思うものの、西目はそれをじっくり観賞するほどのゆとりある気分ではなかった。
その踊子が終るとかぶり付きの連中にざわめきが起こった。
「次がローラ マラートだ」
「待ってました」
連中もアダルト映画の女王の名を知っているのだ。
金ぴかの衣装を着けた、金髪の女性が登場した。
「奇跡は起こったかね」
と、西目は訊いた。倉馬は笑って首を振った。
倉馬はそれでも腰を上げ渋っていたが、西目が立つと、紙袋を持ってついて来た。
楽屋のドアは開け放されていた。ドアの向こうには薄汚れたスクリーンが立っている。
西目は部屋の中に声を掛けた。
すぐ、若い猫背《ねこぜ》の男が出て来た。
「日高勢子さん、おいでですね」
「勢子はいますが、あなたは?」
西目は警察手帳を示した。猫背の男が気色《けしき》ばむのが判った。男の足元で重なっているラーメンの丼《どんぶり》が音を立てた。
「ローラ マラートに難を言うんじゃない」
西目はできるだけ穏やかに言った。
「あなた方の仕事のことで来たんじゃないんですよ。五年前の穴沢《あなざわ》の事件で、ちょっと話がしたい、と伝えて下さい」
猫背の男が奥に引き返し、ぼそぼそ言う声が聞こえて来た。
部屋着を引っ掛けた勢子が出て来た。舞台化粧のままだった。
「中へ入っていいわよ。クーラーがなくて暑いけど」
「……人に聞かれたくないんでね」
「じゃ、少し待ってて。フィナーレに出なきゃならないから」
西目は勢子が逃げる理由もないと思いながら、客席に引き返す気が起こらなかった。
部屋の前はすぐ舞台の袖《そで》で、黒いTシャツを着た男が舞台の方を向いてライトを操作《そうさ》していた。倉馬は黒幕の隙間《すきま》から舞台を覗《のぞ》いた。
「小舎の前にローリエというスナックがあるから、そこにいて頂戴《ちようだい》」
勢子はうっとうしそうに付け加えた。
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一章 種子
その一
「綺麗《きれい》な人でしょう。ねえ、いくつに見えて?」
国子《くにこ》は首を伸ばして、自分も写真を覗《のぞ》き込んだ。
キャビネのカラープリントは鮮明で、落着いた色彩だった。美しく積まれた石垣を背景にして、カメラを意識しない表情をとらえた構図は、素人《しろうと》が撮影したものとは思えなかった。
「いくつだと思う? 当ててご覧なさいよ。最近の写真よ」
国子は答えを強要した。
「三十……五、六かな」
香留《かおる》は思った通りを言った。国子は満足そうな顔になった。
「三十八。若く見えるでしょう。写真のせいじゃないのよ。本人はもっと美人よ」
香留は素直に、僕もそう思うと言った。
「三十八なら、年に不足はないでしょう。香留さん、今年でいくつになったの?」
「嫌だな。ちゃんと、確かめて来たんでしょう」
国子は笑った。
「七つ違い。悪くはないと思うわ。あなたと同じ年頃《としごろ》じゃ、女は花を過ぎているし、もっと若ければ、話が合わないでしょうし。それに、電話でも言ったけれど、この人、初婚なのよ」
「……結婚しない、わけでもあったの?」
「わけなんかないわよ。頭の良い人だから、若いうちは同年輩の男なんて、下らなく見えたんだわ。そのうち、自分の仕事が面白《おもしろ》くなって、気が付いたら今の年になっていたのよ」
「それで、急に?」
「昨年、この人のお父さんが亡《な》くなったの。お母さんも三年前に亡くしててね。きっと、両親がいなくなったので、兄さんのところにはいにくくなったのね」
兄は港《みなと》区の新橋《しんばし》で〈華《はな》おか〉という呉服商《ごふくしよう》を父親から引き継いで手堅《てがた》く商《あきな》いを続けているという。その妹が写真の華丘弥宵《はなおかやよい》で、現在、カルチャーセンターの和服着付教室の講師をしている。
「ねえ、いいお相手だとは思わない? 夕城《ゆうき》写真館で着付けもできるようになれば、きっとお客さんも増えると思うわ」
「……内は今でも手一杯ですよ」
「それは、あなたが一人だけで切り廻《まわ》しているからでしょう」
国子は焦《じ》れったそうにスタジオの方を覗《のぞ》くようにした。
「わたし達が子供の頃《ころ》は、いつも応接室が満員で、スタジオには多勢《おおぜい》の若い子が働いていたわ」
「あのときとは、時代が違いますよ」
「そんなことはよく知っているわ。それにしても、写真館に着付師がいるのといないのとじゃ、相当違うでしょう」
「それはそうですけど……」
「真逆《まさか》、ここの土地を手放して、どこかへ行ってしまおうなんて気じゃないんでしょうね」
国子は自分の心を見透《みす》かしている、と香留は思った。
最近、スタジオの中でプロに写真を撮《と》ってもらいたいと思っている若い人達が多くなっていることは確かだ。だが、せいぜい成人式の記念か七五三の祝ぐらい。とても昔の繁昌《はんじよう》は戻って来そうにもない。としたら、だらだらと儲《もう》けのない商売を続けているより、いっそ、千坂通りを引き払ってしまった方が精神的にも健康だろうと、いつも考える。
「とにかく、千坂通りの夕城写真館は、わたしにとって、掛け替えのない実家なんですからね。香留さんだって、まだ頑張《がんば》れる年でしょう」
「……あまり、年のことばかり言わないでもらいたいな」
「じゃ、この話、進めてもいいわけね。正直な感想はどうなの?」
香留は改めて写真を見た。
多分、腕を組むか解くかした瞬間にシャッターが押されたらしい。弥宵《やよい》の両腕が胸のあたりで舞っていて、快い躍動感があった。その軽快な身振りに対して、弥宵の表情はどこか冷たく固い。
「透明な感じだな。その割合には、少し暗い」
国子は背筋を伸ばした。
「そりゃ、堅気《かたぎ》のお嬢さんですからね。もの足らない点があるかも知れないわね」
照美《てるみ》のことを当てこすっているのだな、と香留はすぐに判《わか》った。
どこで調べたのか、穿鑿《せんさく》好きな国子は、先妻の照美が千束《せんぞく》の〈サリーハウス〉で働いていたことを最初に知ってしまった女だった。照美と結婚式を挙げてわずか一月後、国子は血相を変えて香留のところへ来た。
一体、どういうつもりなの。夕城家に傷を付けるような真似《まね》をして。あなたは変に気取った、今風な考えでいるんでしょうけど、世間はそんな風には思わない。れっきとした娼婦《しようふ》じゃありませんか。親戚《しんせき》中が大迷惑してるわ。
実際、それが世間に広まれば、国子の夫ならいい顔はしないだろう。国子の夫は小学校の教頭で、手の届くところに校長の椅子《いす》があった。その身内になった者が水商売をしていたとなると、穏やかな気はしないはずだ。
香留はもし照美のことが世間に知れるようになったら、叔母《おば》さんの口からそれが洩《も》れたとしか思えない、と言ってやった。それ以来、国子は夕城家に足を向けようとしなくなった。
いつでも身を固めようともせず、国子が持ち込んだ縁談を片端から断わっておきながら、さて、自分が選んだ女性がそれでは、国子が攻撃したくなる気持も判る。加えて、人並み以上お喋《しやべ》りな国子がそのことを誰《だれ》にも打ち明けず、じっと腹に溜《た》めていなければならなかったことには、想像を絶する苦痛があったはずだ。
だから、照美が交通事故であっ気なく死亡し、やっと百か日を過ぎたばかりで、早早に縁談を持ち込んだのは、香留がまた変な女と関わり合いになるのを怖《おそ》れているからなのだ。
国子は畳《たた》み掛けた。
「大体、勿体《もつたい》なすぎる話なのよ。華おかは代代続いている老舗《しにせ》で家柄はいいし、弥宵さんは今まで浮いた噂《うわさ》一つない真面目《まじめ》な人、結婚すれば、今の仕事は相談で辞めてもいいし、続けてもいい。弥宵さんのお給金は、きっとあなたの収入よりも多いわね」
香留は半分聞いていなかった。弥宵の写真に、気になるものが見えたのだ。
「この人、写真の嗜《たしな》みがあるの?」
と、香留は訊《き》いた。
「さあ……写真のことは知らないわ。でも、写真なら一緒になってから教えたって遅くはないでしょう。弥宵さんの趣味は――もっとも趣味を超えているけど、門脇《かどわき》流の踊りの名取《なとり》で、灯台|下《もと》暗しと言うのかしら、家《うち》の京子《きようこ》も門脇流でしょう。前から弥宵さんを知っていたはずなのに……」
写真に関心がないとすると、弥宵が手に持っているのは、何だろう。
弥宵は袖《そで》のたっぷりした黒のTシャツに共色のベルトをあしらい、細く長いネックレスを着けて、胸のあたりに上げた左手にカメラのケースを持っていた。最初、それはバッグかと思ったが、よく見るとバッグにしては小さすぎ、全体が鏡胴《きようどう》のあるカメラの形をしている。
「叔母《おば》さん、この写真、もう少しお借りしていいですか」
と、香留は言った。
「珍しく、気に入ったみたいね」
国子は表情を柔らげた。
「播《ま》かぬ種子《たね》は生えぬ。今度は育ちそうね」
国子が帰って行った後で、香留はルウペを取り出して、もう一度写真を見た。
解像のいい画面だった。弥宵が下げているカメラケースはブレていたが、際《きわ》どくトレードマークが読めた。ランダムの35S、専門家のためのカメラで、普通、女性がこんな品を持ち歩くことはない。
弥宵が下げているのがカメラケースだということが判ったときから、香留は弥宵にレンズを向けているのは、男に違いないと思った。そして、その男はある程度、専門的なカメラの知識を持っているはずだ。
こんな情景が目に映る。
「ここで、写真を撮《と》ろう」
男はケースからカメラを取り出して言う。男はいい写真を撮りたかった。それには、ケースが邪魔だった。
「ケースを持ちましょう」
弥宵の方から言い出したのかも知れない。
二人だけの散策だった。他に連れがいたなら、当然、誰《だれ》かがケースを持つ役を引き受けるはずだ。
男はそこで、続けてシャッターを切る。狙《ねら》った一度だけのシャッターチャンスとは思えない。
ルウペを通して、弥宵の別の表情も見えてきた。
目元の微《かす》かな笑いと、口のあたりに漂う含羞《がんしゆう》。官能的な曲線を描いている長い髪のうねり。その発見で、レンズのこちら側にいる男の存在が確認されたような気がした。
実際の弥宵は固く透明、なだけではない。一見、冷たそうに見える表情の奥に、熱っぽい女の匂《にお》いが伝わってくる。深読みするなら、それは男によって導き出され、それゆえに女はことさら冷ややかな仮面を作っているのだ。
国子の言うように、この年になるまで、浮いた噂《うわさ》一つないでは、反《かえ》って魅力に乏しく感じるし、むしろ不自然だ。これまで、男の二人や三人いてもおかしくはない。だが、それを措《お》いて、知らぬ男と見合いをする気になったことが興味をそそられる。
その好奇心は、自然と弥宵が立っている背景に移行した。
整然と並べられた石垣だが、その一つ一つは球形だった。同じ球形の石が美しく積み重ねられた石垣の上には濃い緑が生い茂り、その間から赤い椿《つばき》の花が顔を出している。
幽《かす》かな記憶があった。香留はその記憶を辿《たど》ろうとして、ある写真集を開いた。予感は当たっていた。
伊豆八丈島大里《いずはちじようじまおおさと》。江戸時代、島役人の居住地に長く築かれた玉石垣。弥宵が立っている背景と、八丈の玉石垣と椿のたたずまいはきっちりと重なり合った。
八丈の椿は十二月から二月ごろまで。国子は一番新しい写真だと言っていた。とすると、ごく最近、弥宵は八丈島へ渡ったと考えられる。
弥宵の相手は、八丈に住んでいる者か、東京から一緒の旅だったかは判らない。いずれにせよ、香留はその相手に、妬心《としん》に近い感情が起こった。浮気《うわき》な照美に手を焼いた記憶はまだ新しいが、そのときとは別な胸苦しさだった。
同時に、意外と激しい欲望の気配を感じた。
香留はこれまで、国子の播《ま》いた種子《たね》の全部を踏み潰《つぶ》してきたが、今度だけはそうしたくなかった。
その二
八月三十一日。
雨の多い暑い年だった。その日も、南方洋上に発生した台風が大型に発達して、刻刻と本土に接近しているという天気情報が、朝からテレビで繰《く》り返されていた。
西目は前の日から左足に痛みを感じ、台風が近付くにつれて、立ったり坐《すわ》ったりに顔をしかめなければならなくなっていた。
午前十時三十分ごろだった。穴沢《あなざわ》駐在所の渋江《しぶえ》巡査部長から南石和《みなみいさわ》署に通報が入り、
「今から十五分前ごろ、穴沢町の市道沿いの崖下《がけした》に、全裸の腐乱屍体《ふらんしたい》を発見したという届け出があったので、現場に行って見ると、他殺体の疑いが強く、現場保存に当たっている」
という。
西目は内心やれやれと思った。台風の接近とともに蒸《む》し暑さが増し、風も強くなっている。リューマチの機嫌もひどく悪い。
「西目さん、大丈夫《だいじようぶ》ですか」
と、倉馬刑事が訊《き》いた。倉馬は西目の宿病をよく知っていた。
「うん、平気だ」
西目は凶悪《きようあく》な殺人事件という予感がしていた。
「穴沢というと、五、六キロかな」
「そうです。でも、山の中ですから、容易じゃないでしょう。降らなきゃいいですが」
倉馬はいつも悲観的に物事を考える男で、しかも、その予想が悪い方に当たっていくことが多かった。
「どうも、嬶《かかあ》の奴《やつ》、また子供ができたらしい」
西目は同じ言葉を六回聞かされ、それが全部的中した。従って、倉馬は七人の子持ち。生活は楽でなく、勤めが終ると早く家に帰り、女房の内職を手伝っているという噂《うわさ》だ。
土橋《どばし》署長の指図《さしず》で、刑事課の西目と倉馬、それに鑑識課の職員は、ジープに乗り、強風の中を穴沢の現場に向かった。
現場は高台で、付近一帯は農家が点在している。主に高原野菜が栽培されているが、このあたりは農地が狭く、農閑期には石切りや炭焼きなどの収入に頼らなければならない農家がほとんどだった。
県道から未舗装《みほそう》の道路に入って、しばらく坂を登っていくと、道沿いに渋江巡査が到着を待っていた。傍《そば》に三、四人の男女が立っている。
その中の一人、短い白髪《しらが》頭のずんぐりした男が最初の発見者だった。
この、五、六日、このあたりで烏《からす》が変な鳴き方をしたり、あまり見掛けない野鼠《のねずみ》が駈《か》け廻《まわ》るようになった。今日、思い立って飼犬を連れて来てみると、その犬が崖《がけ》の中頃に転《ころ》がっている屍体《したい》を教えたのだという。
この市道は、穴沢の集落の住民以外は、あまり入って来ないところだと渋江巡査が付け加えた。
道の路肩に立つと、わずかながら、土とは違う色のものが見分けられる。斜面は縄《なわ》の助けを借りなくとも、注意して木の根伝いに降りられそうだった。
最初に倉馬が下に向かった。ほぼ、十五メートルほどのところに、倒木の跡のような窪地《くぼち》があり、倉馬はそこに降り立つと手を振って見せた。
屍体《したい》は全裸の男で、腐敗《ふはい》と虫とで二目とは見られぬ有様になっていた。何者かが屍体を運び、路肩から突き落としたものが、たまたまこの窪地に転がり落ちたという状態だった。
「死後、大分|経《た》っているようだな」
と、土橋署長が言った。鑑識の職員が平気で虫を掌《てのひら》に乗せてみて言った。
「虫の成長からすると、一週間から十日でしょう」
「……そんなものかな」
頭皮や肱《ひじ》など、すでに白骨が露出しているところもある。鑑識員は言った。
「このところ、高温で雨が多かったでしょう。普通の時期と違い、思ったより傷《いた》み方が早いはずです」
全身至るところうごめく虫の群れは、被害者の化身《けしん》のような気がする。西目は払っても払っても身体《からだ》に付いてくる蠅《はえ》に辟易《へきえき》した。
土橋署長は一見して、残虐《ざんぎやく》な殺人事件の疑いがあるとして、県警本部刑事部へ連絡した。前後して雨が降りだした。
県警本部までざっと十キロの道程がある。風雨がひどくなれば、到着はかなり遅くなるはずだ。それまで、現場を保存しなければならないが、事態は最悪だった。
手分けをしてジープからビニールシートを取り出して屍体を覆《おお》い、風に飛ばされないように石を置きロープでシートの隅《すみ》を木の幹に結ぶ。各各はビニールのレインコートを羽織《はお》るが、首や袖口《そでぐち》から嫌でも雨が入り込み、靴《くつ》はすぐ泥《どろ》でぐしょぐしょになった。
そのうち、空腹を覚えたが、それを言い出す者は誰《だれ》もいない。皆、腹が減っているには違いないのだが、食欲などないのだ。
そのうち、本部から捜査一課と鑑識課の職員が到着した。西目は辛抱には慣れているつもりだったが、このときほど時間を長く感じたことはなかった。
風雨の中を、屍体検視《したいけんし》の作業が進められる。本部は刑事部長、捜査一課長、鑑識課長以下十三名。足場の悪い上、屍体の損傷がひどいので、かなり大仕事になった。それでも、一時間ほどで屍体を搬出《はんしゆつ》し車に収容したが、鑑識員はなお現場に残り、現場検証を進める一方、西目達はその場から聞き込み捜査を開始する。
西目は渋江巡査と組み、現場近くの家を一軒一軒|廻《まわ》り、ここ半月の間、怪しい車や挙動不審《きよどうふしん》な人物を見なかったか、あるいは異様な物音など聞かなかったか、細かく訊《き》き出さなければならない。犯行を目撃している人物がいれば申し分ないのだが、警察にその通報がないところをみると、直接の目撃者はいないようだ。しかし、万一ということがあり、気を抜くことはできない。目撃者の記憶は、いつの場合でも急速に薄れがちだ。雨の止《や》むのを待ってなど、悠長《ゆうちよう》なことは言っていられない。
穴沢は戸数が二十戸ほど、人口が六十人あまりの小さな集落だった。その半数近くが田中《たなか》という姓を名乗っている。
渋江巡査は駐在所の勤務が古く、ほとんどの集落の人と顔見知りだった。人人は事件の発生を聞いて驚いた。渋江自身、殺人事件の現場に立ち会ったのは初めてだった。全《すべ》ての人は風雨の中を歩き廻《まわ》っている西目達の仕事に協力的だった。西目が質問すると、一生懸命に記憶をたどるのだが、捜査の手掛かりになるような話は全く聞き出すことができなかった。
夕方近くなると、ふいに雨が止み、雲が空を駈《か》け抜けて、みるみる青空が拡《ひろ》がっていった。
その家は「田中|治作《じさく》」という表札が掛けられていた。応対に出て来たのは、六十ばかりの大柄な女性だった。渋江が治作さんは、と訊《き》くと、仕事に行っているという。言葉の反応がちょっと遅く、見た目よりは老《ふ》けている感じだった。渋江が事件の説明をしても、事情がはっきり飲み込《こ》めないのか、感動しないのか、あまり表情を変えなかった。
期待もなく、西目が一応質問をしたが、矢張《やは》り得るところは何もなかった。
外に出ると、空は更に澄んでいた。西目は空を見上げて、急に疲労がひどくなった。ふと、庭を見ると、手入れが悪く、夏草が伸び放題になっているあたりに、いくつかの紺色《こんいろ》のカボチャが実っているのが見えた。カボチャに掛かった雨もまだ乾いていない。
「どうも、普段がのんびりとした生活ですからな。あまりものを疑わんのです」
と、渋江が言った。成果が得られなかったことに恐縮しているような口振りだった。
「いや、意外と手強《てごわ》い事件だと思います」
と、西目が言った。
「被害者の身元が割れる手掛かりとなりそうなものは、一つも残されていないでしょう。そういう犯人ですから、怪しいところを人に見られるようなへまはしていないと思いますよ」
しかし、その日の聞き込み捜査は決して無駄《むだ》ではなかった。それは、翌日になってから判《わか》った。
翌日、捜査本部に、甲斐《かい》大学医学部法医学教室に送り込まれた被害者の解剖鑑定の一部が報告された。
それによると、被害者は六十歳前後の男性で、身長一六〇センチぐらい。体重は六〇キロほどで、ずんぐりした体型らしい。顔は長めで筒状《つつじよう》、目は小さい方で両目の間隔《かんかく》が狭い。
歯はかなりひどい傷《いた》み方で、奥歯四本が抜歯《ばつし》された跡があり、治療を受けてない歯の多くは齲歯《うし》で歯槽膿漏《しそうのうろう》の進行も激しい。
頭髪は短い角刈りで、血液型はA型。
胃腸の内容物は、自家|融解《ゆうかい》が進んでいるので、食後の経過時間を知ることはできない。ただ、植物の種子のような残留物が発見されて、これは現在、鑑識課の方に廻《まわ》されている。
死因はほぼ絞殺《こうさつ》と断定。屍体《したい》は舌を噛《か》んでいるなどの窒息死《ちつそくし》の特徴がいくつか見られたが、頸部《けいぶ》から凶器と思われる繊維《せんい》が採集されたのが決め手になる可能性を持っていた。
被害者の死亡は、ほぼ一週間ほど前だが、前後、二、三日ずつの幅を持たせて考えた方がいいという。高温多湿という気象条件その他によっては、わずか十日で白骨化した例もある。結局、被害者の死亡推定日は八月二十二日から二十七日の間ぐらい、ということになる。
以上が解剖の途中報告で、個人識別の決定的な手掛かりはこの時点では見付かっていない。
次が現場検証の報告だが、この方は更に徹底していた。
被害者が発見された現場からは、被害者あるいは犯人のものと思われる遺留品は何一つ発見されなかった。被害者が投げ落とされたと推定される道路の傍《そば》、その一帯も隈《くま》なく捜索されたが、結果は同じだった。
西目が予感した通り、犯人は相当に注意深い人物と思われる。倉馬達は現場の近くの定時通行者、新聞、郵便の配達人、タクシー運転手などを尋ね歩いてきたが、矢張《やは》り西目と同じで事件の目撃者に行き当たることはできなかった。被害者が殺されてから発見まで、一週間という時間の経過が、かなり事件を難しくしているようだった。
被害者の身元が確認できなければ、捜査は一向に進展しない。悪くすると迷宮入りになる恐れもある。
従って、該当《がいとう》年齢の家出人や所在不明者を洗い出さなければならない。一方、専門家に被害者の頭蓋骨《ずがいこつ》からその相貌《そうぼう》を復元する作業を依頼することとし、なお精細な解剖結果を待って、新たな事実に期待するという結論になった。
会議が終るころ、鑑識課より報告があった。被害者の体内から発見された種子が確認されたという。その種子は、カボチャだった。
それを聞いた土橋署長が、即座に断定した。
「被害者がカボチャを食っていたとすると、余所者《よそもの》だな。穴沢じゃ、カボチャは作らんよ」
西目はびっくりして立ち上がった。
「署長、穴沢じゃ、どうしてカボチャを作らないんですか」
「どうしてかは判《わか》らんがね。昔からの迷信だろう。カボチャを植えると病人や死人が出るといって嫌がり、穴沢の人達はカボチャも食べない」
後で西目が調べてみると、今でもある種の植物を忌《い》み嫌って栽植しないという土地が方方にある。穴沢のように一定の地域で栽植しないものや、一族や家で禁忌《きんき》されているものもある。
禁忌される植物の種類は多く、ビワ、カボチャ、トウキビなど、外国からの渡来植物である点が目立つ。
それはともかく、つい昨日、田中家の庭で見たカボチャが、いきなり西目の頭に躍り込んだ。
「署長、穴沢で一軒カボチャを庭に植えている家がありますよ」
一粒の種子が、劇的にも被害者の身元を語りかけたのである。
西目と倉馬はその場から連れ立って田中治作の家に向かった。
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二章 鷺娘《さぎむすめ》
その一
ホールのロビーには大小の花輪が重なりあっていた。晴れやかに着飾った着物の女性が目立つ。受付の前で足を止めると、国子の方が先に気付いて近寄って来た。
「早かったわね」
国子も薄紫の色留袖《いろとめそで》だった。御所車《ごしよぐるま》に牡丹《ぼたん》の裾模様《すそもよう》。綴《つづれ》の帯を苦しそうに締めている。
「どう、外は。朝、降りそうだったけど」
「いえ、まだ、保《も》つでしょう」
「それならよかった。降られると、お客さんの出足が鈍《にぶ》るから」
国子は興行主じみたことを言い、受付の方に来た三人連れの女性を見ると、急いでその方に声を掛けた。
受付の後ろには、同じ紙袋が山と積まれている。国子はその中から三つの紙袋を選《よ》り分け、三人の客に手渡した。その三人を場内に案内して、国子は香留《かおる》の傍《そば》に駈《か》け戻《もど》って来た。
「撒《ま》き物、あなたの分は用意していないの。いいわね」
「勿論《もちろん》ですよ。他人じゃないもの」
「弥宵《やよい》さん、もう来ると思うわ。悪いけど、一人で見ていて頂戴《ちようだい》」
「京子ちゃんは?」
「今のが、もうじき終るわ。そうしたら、次が藤娘《ふじむすめ》で、その次に京子が出るわ」
「胡林《こばやし》さんは?」
「あの人はパーティ。教え子の一人が今度衆議院選に立候補するんですって。ぜひにと呼ばれて、その方へ行ったわ。全く、因果ねえ」
「偉いんだから仕様がない」
「付き合いも多くなってね」
国子はまた新しい顔見知りの客を見付けたようだった。香留が傍《そば》を離れようとすると、声が追って来た。
「座席はGの二十、二十一、二十二。GパンのG。判《わか》ったわね。座席の上に会のプログラムを置いといたわ。そこにいて頂戴」
香留が場内の厚いドアを押すと、観客席の拍手が耳に飛び込んできた。ちょうど一幕が終ったところだった。香留は急ぐことはないと思い、一服してから場内に入った。
国子がプログラムを乗せた席は、舞台寄りの中央だった。
ホールは前の年にオープンした保険会社の高層ビルの地下一階。六、七百の客席はゆったりとして、劇場特有の匂《にお》いに、まだ塗装の匂いが残っている。
丹頂《たんちよう》の鶴《つる》の群舞を刺繍《ししゆう》した西陣《にしじん》の緞帳《どんちよう》の向こうから、幽《かす》かに三味線《しやみせん》の音が聞こえはじめる。
香留は薄いプログラムを見た。表紙には「杜月《とげつ》会」という文字と、葵《あおい》に水の紋が印刷されている。ページを開くと、すぐ、紋服を着た品のいい白髪《しらが》の歌舞伎《かぶき》俳優の写真が見えた。門脇杜衡《かどわきとこう》、それが門脇流の家元で、杜月はその高弟らしい。
プログラムを見ているうち、ブザーが鳴って幕が開いた。舞台一面、藤の花が咲き乱れている。国子はその藤娘が終っても席に来なかった。
観客席は八分ほどの入りで、幕間《まくあい》ごとに観客の出入りが忙しい。
十分の休憩も過ぎ、再び開幕のブザーが鳴り、客席の照明が暗くなりかけたとき、息をせかせかさせて国子が小走りに現れ、香留の隣の席に腰を下ろした。
「今度が、京子」
半分は自分に言い聞かせるように言い、すぐ反対側を向く。
薄い小豆《あずき》色の小紋を着た女性が小腰をかがめていた。国子は慌《あわ》ただしく座席に置いてあるプログラムを取り去り、隣に何か声を掛けた。その小紋の女性は顔をあげ、そのとき、香留と目が合った。女性は軽く会釈《えしやく》して、国子の横に腰を下ろした。国子が香留の方を向き、
「この方」
とだけ言った。
緞帳《どんちよう》が上がり始めた。その瞬間から、国子は舞台に没入したようだった。上体を前に倒し、瞬《まばた》きもしない。手に持ったハンカチだけが、無意識に鼻の汗を叩《たた》いている。
藤娘《ふじむすめ》とは対照的に、地味な暗い雪の夜景だった。川の流れに沿い、枯れた蘆《あし》が茂っている。水際に立った一本の細い柳の傍《そば》に、白無垢《しろむく》の衣装、綿帽子《わたぼうし》の花嫁姿の娘が、蛇《じや》の目《め》傘をさして、じっとたたずんでいる。
香留はその鷺娘《さぎむすめ》が京子だとは、ちょっと信じられなかった。中学一年生と知っていても、かなり大柄で、白粉《おしろい》で作られた顔は、濃厚な色気さえ感じられる。
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※[#歌記号、unicode303d]妄執《もうしゆう》の雲晴れやらぬ朧夜《おぼろよ》の 恋に迷いしわが心――
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長唄《ながうた》は三味線《しやみせん》が三丁、唄《うた》が三枚。
踊り始めた京子を見て、香留は緊張をなくしてしまった。京子の動きは、矢張《やは》り十二、三歳の子供でしかなかったからだ。手の上げ下げは体操でも見ているようで、恋に狂い、官能に身を焼き尽す鷺娘の凄艶《せいえん》さには遠く及ばなかった。京子が一生懸命に科《しな》を作れば作るほど、痛痛しい感じが先に立ってしまう。
しばらくして、京子は町娘に変化《へんげ》し、派手やかな衣装になってから、再び白鷺《しらさぎ》に化身して、地獄の責めの苦しさに羽をはばたかせる。狂いの場では盛大に雪が降り下ろされ、観客の拍手を誘って幕となった。
隣の国子は、香留の耳が痛くなるほど拍手を続けた。
「京子ちゃん、立派だったね」
と、香留が言った。
「わたしの方がどきどきしてしまったわ」
だが、国子はすぐ上気した顔を元に戻《もど》した。国子は変り身の早い女だった。
「お食事に行きましょう。この二階に〈彦一《ひこいち》〉が支店を出しているの。和食で、いいわね」
そして、国子は首を廻《まわ》し、弥宵に何か言って立ち上がった。
ロビーに出ると、国子は自分の客の応対に忙しくなった。国子の客は、京子の踊りを見ると帰って行くようだった。
それが一段落すると、国子は、
「ちょっと、お師匠《しよ》さんに挨拶《あいさつ》してきます」
と言って、楽屋の方へ行ってしまった。
弥宵を前にして、香留は言葉に窮した。
差し当たって、共通の話題といえば京子の鷺娘《さぎむすめ》しかない。
「祝事《いわいごと》があると、京子は家《うち》に来て写真を撮《と》るんです。三歳のとき、京子はすっかり草臥《くたび》れてしまい、シャッターと同時に大《おお》欠伸《あくび》をしました。七歳の祝いでは逆にはしゃぎ過ぎ、髪をすっかり崩してしまった……」
国子の言う通り、弥宵は写真よりも若く、美しかった。Tシャツ姿と違い、肩の丸みがひっそりと細く、小ぶりに締めた帯との釣り合いがまるで国子とは違う。弥宵は伏し目がちで、香留の話にときどき笑顔を混《まじ》えたが、至ってもの静かで弥宵の方から香留を観察するという気配は全くなかった。
次の開幕ブザーが鳴ったとき、急ぎ足で国子が戻って来た。
「悪かったわね、お待たせして。さ、ご案内しましょう」
ホールを出て長い廊下を渡り、エレベーターで二階まで。
二階は食堂街で、広い通路の両側にいろいろな店が並んでいた。どの店も明るいが閑散とした空気が、建物の新しさを象徴している。国子はちょっともたついたが、すぐ彦一を見付けた。
入口の近くがカウンターで、奥は割に広いようだった。三人は床の間のある小座敷に案内された。窓の外には一階のテラスに作られた広い植込みが見下ろせる。国子は独りで満足し、飲み物と料理を注文してから、改めて二人を紹介した。
弥宵の声は、もう少し不協和音を混えてもいい、と思うほど透明だった。写真では含羞《がんしゆう》に歪《ゆが》んでいた唇《くちびる》は、今、形良く整い、ときどき白い小ぶりな歯を覗《のぞ》かせている。
酒と小肴《こざかな》が運ばれてきた。弥宵は酒を少しだけ含み、すぐ盃《さかずき》を伏せてしまった。香留はその手元しか見ていなかったが、国子は別のところに目を留めた。
「あら、その帯はなに?」
びっくりしたような声だったので、弥宵は思わず腰に手を当てた。
「それ、染めだと思っていたら、違うのね」
「ええ……刺繍《ししゆう》なんです」
「嘘《うそ》……ちょっと、見せて」
国子は帯に顔を寄せた。
赤褐色の地色に、小さな白蘭《びやくらん》が見えた。蘭の白さと細く伸びた葉の緑が、強い光沢《こうたく》を放ち、二羽の蝶《ちよう》を舞わせている。国子は帯の上に指を滑らせてみた。
「信じられないけれど、刺繍ね。凄《すご》く細かく手が込《こ》んでいるのね」
「蘇州《そしゆう》の刺繍だそうです」
「蘇州……中国ね」
「ええ」
「でも、模様は中国じゃないわ」
「染めと図案はこちらで仕上げて送り、縫《ぬ》いを注文したんです」
「ちっとも知らなかったわ。悪いけど、後ろも見せてよ」
弥宵はちょっと当惑の表情になったが、目で笑って身体《からだ》を廻《まわ》した。
国子が嘆声をあげた。
前よりも大きな白蘭が左側にくっきりと浮きあがり、右にしなやかな葉を流している。蘭と蝶は絵筆で描いたと思われるほど精巧だった。
「素晴らしいわ。とても上品で、よく見ると豪華で。華おかさんで扱っているの?」
「ええ……」
「着物もあるかしら」
「ええ。春の展示会に出品する予定になっています。蘇州だけでなく、汕頭《スワトー》とか、中国|相良《さがら》、とか」
「それまで、待てそうにないわね」
香留はその間、国子の方に向けた弥宵の横顔や、曲げられた襟足《えりあし》、帯にきっちりと食い込んだ帯留《おびどめ》、上体よりも女性を感じさせる腰のあたりや、足を締め付けている白足袋《しろたび》などを夢心地で見ていた。
弥宵が向き直って、居ずまいを正したとき、香留は我に返った。心のうろたえを見られないために、何か話し掛けなければならなかった。
「華丘さんも、門脇《かどわき》流だそうですね」
「ええ……でも、最近はほとんど踊りません」
「鷺娘《さぎむすめ》は?」
「一度だけ」
「舞台で?」
「ええ」
「それは……ぜひ見たかったな」
聞き方によっては、京子の鷺娘では不満だった、と取れるかも知れない。だが、国子にはそんな配慮はいらなかった。大雑把《おおざつぱ》な国子の性格をよく知らない弥宵の方が心配し、まじめに京子の鷺娘を誉《ほ》めた。
「京子はこれから受験でしょう。これが最後だから、きっと張り切ったんだわ」
と、国子が言った。
「今日のビデオをパパに見せたら、どんな顔をするかしら。わたしだって、あんまり京子が綺麗《きれい》だったんで、むらむらっとしたもの」
食事が終ると、国子はそわそわして懐中時計を取り出した。
「これから、ホールへ戻《もど》って後片付けをしなきゃならないの。夜はパパと落ち合って、京子にご馳走《ちそう》する約束になっているわ」
翌日、国子から電話が掛かってきた。
「どう。弥宵さんの方は、気に入ったようだったけれど」
「……それが、心配で昨夜はよく寝られなかった」
「何が心配なのよ」
「もし、断わられたら、当分、立ち直れそうにもない」
「じゃ、言うけど、弥宵さん、本当は四十なのよ」
「例の……仲人口《なこうどぐち》だ」
「ええ」
「もしかして、あの人には子供がいる、というんじゃないですか」
「……いたら、どうなの」
「何人でも、僕が引き取ります」
その二
渋江《しぶえ》巡査の話によると、土橋署長の言う通りだった。穴沢《あなざわ》では昔からカボチャを忌《い》み嫌《きら》って植えたり食べたりはしない。
「渋江さんはどうなんですか」
と、西目は訊《き》いた。渋江は羞《はず》かしそうに言った。
「私も食べたことはないです。何しろ、内には喧《やかま》しい婆《ばあ》さんが達者ですから、買って来ることもできません。もっとも、子供のころから食べたことがないもんで、特に食べたいとも思いませんがね」
「田中治作の家は、迷信を気にしないんですかね」
「いや、あの家は他《ほか》から穴沢に転居して来たんです」
「なるほど」
「昔なら、自分の家とは関係ない場所でも、同じ穴沢にカボチャを植えられるのを嫌《いや》がったもんですがね」
「田中治作が転居して来たのはいつごろですか」
「二、三年前ですかな。確か、元は東京の人で、勤め先が定年になり、退職して穴沢に移って来たのです」
「家は新築のようじゃないですね」
「ええ。あの家は奥さんの粂《くめ》さんの姉さんが住んでいたんです。ご亭主の方は三年ほど前、病死したんですが、葬式を終えてからその姉さんは医者に心不全だと言われました。それが、気になったんでしょうね。今、山梨《やまなし》の養老院に入って生活しています」
「じゃ、その後を?」
「ええ、家を空けておくのは勿体《もつたい》ない。田中粂さんにとっては、娘時代によく出入りしていた家ですしね」
渋江は西目と倉馬を、再び田中治作の家に案内した。
穴沢は車の往《ゆ》き来《き》もない静かさで、昨日の騒ぎが嘘《うそ》のようだった。
田中の家の前に到着して、西目が気になったのは、矢張《やは》り、昨日、垣根越しに見たカボチャだった。
ところが、いくら庭を見廻《みまわ》しても、それが見当たらないのだ。
「例のカボチャが、なくなっていますよ」
と、西目が言った。
「そうですか。いや、さっきも言いましたように、私は迂闊《うかつ》なことに、昨日それには気がつきませんでした」
と、渋江は歯切れの悪い言い方をした。穴沢の人達は禁忌《きんき》のカボチャなど作るわけがない。だから、西目が昨日見たというのは、矢張り何かの間違いではないかと思っているようでもある。
「しかし、昨日来たときには、ちゃんと三つのカボチャが生《な》っていた」
西目は自分に言い聞かせるように言った。まだ雨に濡《ぬ》れているカボチャの記憶が生ま生ましい。
「いや、田中さんに訊《き》けば、そのカボチャがどうなったか判《わか》るでしょう」
渋江は竹垣の前を通り越した。
「粂さん、おいでかね」
気安く玄関の戸を開けて渋江は奥に声を掛けた。穴沢には玄関の戸締まりをするという習慣がないようだった。
「駐在さんか。また、昨日のことでかね」
奥から粂が出て来た。
昨日と同じ、洗い晒《ざら》した花柄の半袖《はんそで》ワンピースを着ている。肉の付きすぎた肩や胴回りを見ると、お世辞にも似合った服装とは言いかねる。
「そうだ。もう少し訊《き》きたいことがあるだと」
渋江は注意深く玄関に並んでいる履物《はきもの》を見た。
「お客さんかね?」
粂は渋江が二人の刑事を連れているのを見て、ちょっと緊張した表情になった。
「はい。今、協会の日高《ひだか》先生が来られて、ビデオを見せてもらっているところですが」
「協会、というと、ボランティア協会の日高|咲《さき》先生かね」
と、西目が訊いた。
「はい、その方です」
「そのビデオは長く掛かりそうかな」
「いえ、もうお終《しま》いになると思いますよ」
渋江はどうしましょうというように、西目を見た。
「じゃあ、ここで、ちょっと待たせてもらいますよ」
と、西目は言った。
粂はそれじゃと言って奥に戻《もど》って行った。
「協会の日高咲、というのは何者ですか」
と、倉馬が小声で西目に訊いた。
「知らないのかね」
「……名だけは聞いたことがあるんですがね」
「そうか。矢張《やは》り、時代は流れているんだな」
西目は渋江の方を見た。渋江も大きくうなずいた。
「……十年。いや、もっとになるかな」
「もっとになるでしょう」
と、渋江が相槌《あいづち》を打った。
「身上相談が上手で、ここの局じゃ毎日のようにテレビに出ていたよ。有名なボランティア婆《ばあ》さんだがね」
奥に入って行った粂がすぐ戻って来て言った。
「日高さんが、駐在さん達にもビデオを見てもらいたいと言っていますよ」
「……どんなビデオかね?」
「お孫さんの、です。歌を歌っているビデオです」
渋江は先に立って庭に廻《まわ》った。
縁に面した座敷で、小柄な老女がビデオを操作していた。
西目はその態度を見て、ちょっと驚いた。テレビに出ていた時代とほとんど変わっていない。年齢は九十に近いはずだ。咲は三人の方を振り返った。
「ご苦労さん。昨日の事件の聞き込みですか」
言葉も粂よりよほどしっかりしている。
「はい、ちょっと……」
と、渋江は言葉を濁した。
咲は事件にはあまり関心がないようで、
「嫌な事件が多いですね」
と言っただけで、テレビから離れた。
ビデオはニューミュージックの番組だった。西目の耳には騒騒しいだけの音楽。アイドル歌手がマイクを振り廻して、歌い踊り狂う。
「これが、わたしの孫です」
咲は目を細めた。
丸顔で目鼻立ちが小さく、美人ではないが愛らしい。その歌手が精一杯に口を大きく開けている。
「芸名は甲斐佳子《かいけいこ》。覚えておいておくれやす。やっと、これだけになりました。変わるものですねえ。小さいときは踊りで、この子の鷺娘《さぎむすめ》を見て、涙が流れたことがございましたよ」
「それは美しかったでしょうね」
と、渋江が言った。
「はい、でも、この歌も結構じゃございません? わたしはこの子の好きなようにさせています。二親を早く亡くし、可哀相《かわいそう》な子でしたから」
孫を溺愛《できあい》しているようでも、けじめはしっかりしていた。甲斐佳子の歌が終ると、咲はビデオを止め、デッキからテープを取り出した。
「お忙しいところを邪魔してしもうて。それなら、いなせてもらいます」
そして、粂に、
「困るようなことがおましたら、いつでも電話を掛けて下さいね」
と言い残して部屋を出て行った。
表まで咲を見送り、戻《もど》って来た粂に西目は訊《き》いた。
「日高さんはときどき来るのですか」
粂は足が不自由そうに坐《すわ》った。
「ええ。ここに来て、福祉年金のことで、ちょっと判《わか》らないことがあって。それから、ときどき見に来てくれます」
年齢からすれば、立場は逆だが、咲は昔からボランティア活動に情熱を注《そそ》ぎ続けてきているようだった。
「ご主人は今、どこにおいでですか」
西目は単刀直入に訊いた。
「ずっと、仕事です」
昨日と同じ答えが返って来る。
「いつお帰りですか」
昨日、それを訊かなかったのが悔《くや》まれる。
「……このところ、帰って来ませんです」
「いつから?」
「さあ……一週間ぐらい」
「仕事とは、どんな仕事なんですか」
「さあ……」
「ご存知ない?」
「はあ、しょっちゅう勤めを変えているようですから」
「すると、どの会社で働いているかも判《わか》らない」
「はあ……」
「電話は?」
「……いや」
「それで、ご主人がどこにいるかも判らず、一週間も留守にしていて、心配じゃないんですか」
「心配はしていますよ。今も日高先生と話していたところですよ。本当に、いい年をして、いつまでも風来坊で……」
「ご主人は歯医者さんにかかっていたでしょう」
「はあ。元元、歯の悪い質《たち》で、東京にいたころから、しょっちゅう――」
「穴沢に来てからは?」
「かかっていたようですね」
「どこの歯医者さんですか」
「……さあ。山梨市じゃないですか」
「保険証を見せてもらえませんか」
粂は散散待たせた挙句《あげく》、保険証は治作が持って行ってしまったようだ、と言った。
「その歯医者さんが、悪いことでもしたのですか」
と、粂が訊《き》いた。
「いや……」
西目は言葉を濁した。
「話は違うけれど、昨日、ここにあったカボチャは、抜いてしまったんですか」
「カボチャ?」
粂は変な顔をした。
「そんなもの、植えちゃいませんよ」
「穴沢じゃ、誰《だれ》もカボチャなど植えません。この土地の産土《うぶすな》さまがカボチャを嫌う、と日高先生から教えられました」
西目は渋江の視線を感じた。西目の自信がぐらつきだした。
「じゃ、買って来て食べるのはどうですか。治作さんは仕事に出る前、カボチャを食べたことがあるでしょう」
「家ではありませんよ。外でなら判《わか》りませんがね。穴沢ではカボチャは食べてもいけないそうです」
西目は大体の事情が判ってきたような気がした。
粂は本当はカボチャを作っていたに違いない。それが、穴沢でカボチャを作ってはいけないと教えた日高が来るという通知があったので、急いで処分したのだ。小さいうちなら草の間にでも隠すことができるが、大きく成熟してしまった実はそうはいかない。
「本当のことを教えてくれないかね。ここで、カボチャを作っていたんでしょう」
と、西目は言った。
「いいえ。作ってはいけないというものを作りはしませんですよ」
「日高先生には絶対秘密にしますよ」
「いいえ」
粂は強く頭を振った。融通の利《き》かない、ぼけの表情だった。西目は昨日発見された屍体《したい》が、田中治作だという、もっと決定的な証拠が出揃《でそろ》うのを待たずに訪問してしまったことを後悔した。
「電話を貸してくれませんか」
電話はその部屋の電話台に乗っていた。
西目は本部につなぎ、この家からは問題の歯科医が山梨市で開業しているらしいことしか確認できなかったと報告した。電話に出た折井《おりい》主任は、では早速、山梨市の歯科医を片端から当たってみると言った。
受話器を置いたとき、電話台の上に銀色に光るものが目に入った。硬貨より大ぶりで、見ると鯛《たい》を抱えている恵比須《えびす》の像で周囲に「236WORLD 1984」という文字が刻されていた。裏を返すと、米俵に坐《すわ》っている大黒《だいこく》の像、周囲の字は「ONLY FOR AMUSEMENT」。どうやら、ゲームセンターの専用コインらしい。コインを手に取ったときコインの大黒の面がべた付いているのが判《わか》った。
「これは、誰《だれ》のですか」
と、西目が粂に訊《き》いた。
「家《うち》の人が、どこからか持って来たんですね」
西目はコインを電話台に戻《もど》した。
治作は「236ワールド」というどこかのゲームセンターに出入りしていたようだ。
田中治作の歯を治療した医師は、翌日になってから突き止められた。
山梨駅前の開業医で「大川《おおかわ》歯科クリニック」という看板を出していた。直ちに捜査本部の専従員が飛び、大川歯科に残されていたカルテと、治療に使用されたレントゲン写真を手に入れて来た。
その結果、身元不明の屍体《したい》は田中治作であることが確認された。
治作は二年前の十月まで、大川歯科に通院していたのである。
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三章 式の準備
その一
式は内輪で、という香留《かおる》の意向だった。
旅は京都。弥宵《やよい》の父が丈夫《じようぶ》だったころ、商用で京都に足を運ぶことが多く、よく弥宵を連れて行った。見知らぬ土地よりも落着けるという希望で、全《すべ》て弥宵が予定を組んだ。
披露宴《ひろうえん》は中野坂上《なかのさかうえ》、青梅《おうめ》街道沿いにある小ぢんまりとした会館で、両家の主だった親族が二十人ほど出席した。弥宵を紹介されてから、二月後だった。
簡素な挙式だったが、香留は弥宵の角隠《つのかく》しに白の裲襠《うちかけ》を着けた花嫁衣装を見て、思わず襟《えり》を正したい気持になった。
照美とのときは、半分、お祭騒ぎだった。照美はウェディングドレスが似合い、朗らかで屈託なくよく笑った。照美の友達は皆若くて、よく飲みよく食べ、よく歌った。少しも湿っぽさがなく、面白《おもしろ》く軽く時が流れた。国子はそれが不満で、何て落着きのない式だろうと言った。
勿論《もちろん》、性格にもよるのだろうが、弥宵の態度には、不用意に近付きにくい、粛《しゆく》とした気配があった。香留との結婚を、得難《えがた》い大切なものとして考えている表れに違いなかった。
仲人は胡林《こばやし》夫妻が務めた。国子の夫は、親しみやすく、簡潔に挨拶《あいさつ》して二人を紹介した。仲人は腰を痛めているという理由で、着座したままだった。挨拶が終ると、弥宵の表情が和んだ。胡林はいつも生徒の前に立って話す職業なので、その効果を予想した上だったかも知れない。
食事の間も、胡林は気軽に弥宵へ話し掛けていた。
「とうとう、汕頭《スワトー》とかいう着物を買わされてしまったよ」
「……そうですか」
「好きなら好きで、着物が引き立つような体形でないとな。あれじゃ、着物に気の毒でならない」
「…………」
「しかし、いい値だった。目玉が飛び出してしまったよ」
「……申し訳ありません」
「でも、仕事にもびっくりした。まだ、中国には腕のいい職人が沢山いるようだね」
「はい」
「着付けを教えているそうですが、普段も着物ですか」
「いいえ……ちょっと不自由ですから」
「そうでしょうな。しかし、美しいものは、皆、不便なものです。絹物は洗濯機にかけられないし、銀製品は扱いが厄介だ。正しく文字を書くには、筆を吟味し、墨をすり下ろさなければならない。従って、女性は不自由でないとつまらない」
「まあ」
「こんなことを言うと、PTAから文句が来そうだが、女性は不自由なほどよろしい。着物は女性をぎりぎりのところまで、束縛するように作られているのが、昔の人の凄《すご》いところだと思いますな。もっとも、内の婆《ばあ》さんみたいに、不自由もなんのその、どたどた駈《か》け廻《まわ》るようでは、洋服も同じですが」
胡林は洒脱《しやだつ》な性格だったが、弥宵の兄は紋付き袴《はかま》などより、木綿の着物に前掛けが似合いそうな、ごく実直な男だった。額が禿《は》げ上がり、言葉付きも、兄というより、父親に近い。
「弥宵を何とぞよろしくお願いいたします」
華丘は香留に義理堅く頭を下げた。
「何分、弥宵は父に甘やかされて育てられました。至らぬ点も多いかと思います」
口では言わないが、弥宵が結婚することで、大きな肩の荷を下ろしたような気持らしい。
国子の話だと、兄嫁と弥宵が、反りが合わないようだという。亡くなった華丘の父親が、あまり弥宵を可愛《かわい》がり、兄嫁だけを働かせたのが原因だった。
国子は香留に言った。
「そりゃ、華丘さんは家を襲《つ》いで商売をやっていくことができる。弥宵さんの方はいずれ家を出る人だから、働くのは当然だと思うけれど、当人の身になると、そうは思えないようね」
国子は続けた。
「何でも、奥さんが嫁に来た年、お父さんは弥宵さんを連れて、三月も湯治《とうじ》だと言って別荘に行って遊んでいたことがあったんですって。身体《からだ》の工合《ぐあい》がよくないという理由だったけど、見た目には弥宵さんは元気そうだったそうよ」
「華丘さんが結婚したのは、ずいぶん前の話だろう」
と、香留は訊《き》いた。
「そうね。弥宵さんが十六の年ですって」
「そうすると学校も休んだはずだから、本当の病気だ」
「でも、奥さんはお嫁に来たばかりだから、相当|応《こた》えたみたいね。自分達に仕事を押し付けて、親子で湯治ですからね」
「で、病気の方は?」
「精神的なもの。昔で言う神経衰弱かしら。でも、大丈夫。それから病気らしい病気はしたことがないそうだから」
国子は弥宵の婚期が遅れたのは、その父親が溺愛《できあい》したため、片端から縁談を断わってきたからだと教え、
「あなたにとっては、それが幸せになったでしょう」
と、付け加えた。
衣装を振袖《ふりそで》に着換えてから、弥宵はかなり打ち解けた感じになったが、食欲はまだ平常ではなく、デザートに軽く手を付けただけだった。それを見ていると、弥宵の写真に男を感じたのは、単なる思い過ごしだと言えそうだった。
その写真は、とうに国子に返したが、その背景が八丈の玉石垣だとは国子にも言わなかった。下手《へた》な穿鑿《せんさく》は相手に不快感を与えそうだと思ったからだった。従って、男がいたとすると、弥宵がどう決着をつけて結婚式に臨んだかは、知ることができなかった。
披露宴《ひろうえん》も散会となり、香留と弥宵はそれぞれ着換えを済ませ、ロビーに出ると、胡林夫妻が待っていた。
胡林は弥宵を見ると、びっくりしたように椅子《いす》から立ち上がった。
「これはまた、がらりと粋《いき》ですな。まるで、鷺娘《さぎむすめ》の早変りを見るようだ」
弥宵は薄い小豆《あずき》色の小紋に蘇州《そしゆう》縫いの帯を締めていた。香留が最初に出会ったときの姿だった。
「弥宵さん、それで、旅行に?」
「はい、夕城《ゆうき》さんが、そうして欲しいと言いましたから」
と、弥宵は答えた。
胡林は香留の方を見て、にこりとした。
「さすが、君は昔から早熟だったからね。もう、着物の哲理を理解したとみえる。プレイボーイの面目――いや、失言。これは削除します」
胡林は二人のためにと言い、小さな紙包みを香留に手渡した。
国子が日本橋《にほんばし》に用事があるので、東京駅まで見送ると言った。
会館の前から、三人はタクシーに同乗した。
「爽《さわ》やかで、いい式だったわ」
と、国子が言った。
「胡林さんのお蔭《かげ》です」
香留は神妙に言った。
「内の人、お仲人には慣れているから。割に、どこでも評判がいいわ」
「わたしも大船に乗った気持でした」
「さあ、あなたも、これからは気持を新しくしなけりゃね」
車は淀橋《よどばし》を渡り成子坂《なるこざか》に向かっていた。新宿《しんじゆく》の高層ビル群が背を伸ばし始める。
「弥宵さんは、今のお仕事をまだ続けるのね」
と、国子が弥宵に言った。
「ええ。いずれ、よすことになるでしょうけれど」
「早くお子さんを作りなさいよ」
国子は香留が人生を随分|廻《まわ》り道している、と思っている。実際、香留の年になれば、成長した子が二人や三人いるのが普通だ。国子はこれをきっかけに、廻り道した分を取り戻《もど》すと同時に、実家である夕城写真館の繁昌《はんじよう》を望んでいるのだ。
「その内、わたしがいろいろと教えるわ」
と、国子が先輩風を吹かせた。
「子供の作り方を、ですか」
と、香留が言った。
「ばかね。弥宵さんが温順《おとな》しそうなんで心配なのよ。亭主の尻《しり》の叩《たた》き方とか、飴《あめ》と鞭《むち》の使い分けとか。弥宵さん、この人の言いなりになっちゃだめよ」
新宿駅でタクシーを降り、中央線で東京駅まで。国子とは新幹線の改札口で別れた。
時間を計って来たので、ホームに登ると、列車が到着したところだった。
グリーン車は半数の席が埋まった。
香留は初めて、弥宵と肩の触れ合う距離で、並んで腰を下ろした。着実に一歩一歩弥宵に近付いているという実感が、浮き浮きとした気分を誘う。何か労《ねぎら》いの言葉を掛けなければと思ったとき、向こうから通路を歩いて来た和服の男が、二人の前に来て、おやという表情で足を止めた。
「華丘さんの、お嬢さんじゃありませんか」
弥宵は顔を上げた。
「矢張《やは》り、そうだ。弥宵さん、ご無沙汰《ぶさた》しております」
男は頭を下げた。年齢は五十前後、紺《こん》の対《つい》に、銀鼠《ぎんねず》の襟巻《えりまき》をしていた。中肉中背、彫りの深い顔立ちだった。男は隣の香留に会釈《えしやく》をし、目で弥宵に訊《き》いた。弥宵は思い切ったように言った。
「わたしの、主人です」
「そうですか」
男は大きくうなずき、改めて香留に頭を下げる。
「初めてお目に掛かります」
「太刀掛《たちかけ》さん。父のお友達です」
と、弥宵が言った。
そのとき、列車が動きだした。太刀掛は座席の背に手を掛け、弥宵に言った。
「いかがでしょう。ここでは何ですから、よろしかったら、食堂車でお話ししませんか」
弥宵は香留の方を見た。やっと二人だけになった矢先で、香留は迷惑に思ったが、仕方がなかった。
食堂車は空《す》いていた。太刀掛はビールを注文した。弥宵はサンドイッチが欲しい、と言った。太刀掛は気のおけない男のようだった。そのため、弥宵が物を口にする気になったと思うと、不満は消えていった。
太刀掛は懐《ふところ》から革の紙入れを取り出し、名刺を香留に渡した。並みより大きな妙な字で「太刀掛四五郎」としてある。
「弥宵ちゃんには、うんと小さなときから、私の舞台を見てもらっています」
歌舞伎《かぶき》の中堅俳優なのだ。そういえば、言葉の歯切れがよく、感情の籠《こ》もった言い方をする。
「ちっとも存じませんでした。で、式はいつでした」
弥宵は「ごく、最近なの」と答えてから、くすりと笑った。今、式を挙げて来たばかり、と言えなかった自分がおかしかったのだ。
「そう。お父さんがお亡くなりになったとき、まだ独身でいらっしゃった。私はお兄さんのお覚え目出度《めでた》くないもので、仕方がありませんが、遠目でいいから弥宵ちゃんの晴れ姿を見たかった」
「兄は派手なことが嫌いでしょう。身内しかお呼びできなかったのよ」
「そうでしたか。いや、しかし、立派な奥様になられて、遅播《おそま》きですがお目出度《めでと》うを言わせてもらいます」
そこへビールが運ばれて来た。弥宵も形だけビールをグラスに受け、祝杯とした。
「お幸せですな」
と、太刀掛が言った。
「そう、見えて?」
「誰《だれ》が見てもそう思います。で、今日はどちらへ?」
「京都です」
「それは、結構。陽気はいいけれど、まだ混《こ》んではいないでしょう」
「小父《おじ》さんは?」
「名古屋。今度、名古屋の公演でね。ちょっと、用事が出来て、私独りが最後に行くことになったの。お蔭《かげ》で弥宵ちゃんと出会えて、とてもよかった」
太刀掛は香留に言った。
「生前、華丘さんには、随分お世話になりました。趣味の多い方で、声がよくて、取り分けて華丘さんの常磐津《ときわづ》なんかは、旦那芸《だんなげい》を遥かに超えていらっしゃった」
太刀掛の話で、義兄《あに》夫妻の気持もはっきりしてきた。義兄夫妻が汗水垂らして働いている間、父親は弥宵を連れて湯治《とうじ》に行き、芸事に熱中し、弥宵に踊りを習わせ、歌舞伎《かぶき》役者と付き合っていた。義兄が努めて身を堅くしているのは、父親への反動なのだ。
弥宵は太刀掛に父親のことを言われて、悪い気はしないようだった。
「旦那はときどき、変な物を作っては、私に使ってみないか、と言ったね」
太刀掛は懐《なつか》しそうに話した。
「あるとき、旦那は大きな白鼠《しろねずみ》を作った。中にモーターが入っていて、これが実に本物そっくりの動きをするんです。小道具さんが喜んでね、早速、『金閣寺《きんかくじ》』で使おうということになった。弥宵ちゃん、覚えている?」
「そうね……少し覚えているわ」
「ところが、残念なことに、結局、舞台には掛けられなかったんです」
「……そこまでは知らないわ」
「出来がよすぎたんです。雪姫《ゆきひめ》になる女方《おんながた》が、それを見ただけで震えあがり、声が出なくなっちゃった」
弥宵は小さく笑った。
「今度の『玉縒姫《たまよりひめ》物語』もう評判になっていますね」
「それ、それ」
太刀掛は得意そうに目の玉を動かした。
「舞台は神代ですからね。いつもそれが頭になけりゃいけない。神代というと、まだ武士も花魁《おいらん》もいなかった時代でしょう」
太刀掛は真面目《まじめ》な顔で言った。話の様子では、いつも太刀掛は江戸時代に生活しているようだった。
「震旦《しんたん》国というのがあったんだそうです。こりゃあ中国の古い呼び名だそうですが、その国の王様が陳《ちん》大王。一人娘が大比留女《おおひるめ》。このお姫様が七歳のとき身籠《みごも》ってしまった。大王が一体|誰《だれ》の子だと訊くと、いつかまどろんでいたとき、朝日の光を胸に受けて不思議な気持になったことがある。そのとき懐妊《かいにん》したのですという答え。これは神の子に相違ない。大王は生まれた子と母をウツボ船に乗せて、流れ着いたところを国とせよ、と言って海に押し出したんですが、この二人が流れ着いたところが日本の大隅国《おおすみこく》。これが物語の発端ですが、大比留女は後に玉縒姫となり、皇子は正八幡《しようはちまん》として崇《あが》められるようになるんです」
太刀掛は話上手だった。それに、根からの芝居好きらしく、その芝居の裏話や役者の噂話《うわさばなし》を澱《よど》みなく喋《しやべ》った。香留はつい太刀掛の話に引き込まれた。
「海幸彦山幸彦《うみさちひこやまさちひこ》の話をご存知でしょう。なにしろ、一本の釣鉤《つりばり》が宝物だった時代ですからね。考えるとおおらかなものです。日の出とともに人人は起き、日が落ちると一日が終る。空は澄み渡り、海は魚に溢《あふ》れている。互いに愛し合えば兄弟でも自然に結婚します」
「それは、罪じゃなかったんですか」
と、弥宵が訊《き》いた。
「そんな面倒なものはなかったんでしょうねえ。何しろ、その時代の人達は、平気で鶴《つる》なんかも女房にしていますから」
「……鶴女房《つるにようぼう》のような?」
「ええ。蛇聟入《へびのむこいり》なんてのもあるでしょう。蚕《かいこ》の神様は、馬と結婚したお姫さまですよ」
まだ、神話が宮廷でまとめられる以前、神代の人達は素朴だが奔放な生き方をしていたという。
「私はその芝居で、海神の役が付いています」
と、太刀掛が言った。
「山幸彦が私のところへ、失くした釣鉤《つりばり》を探しに来るんですがね。もっとも、この海神、内の山の神にゃ、ちっとも頭が上がりません」
名古屋駅に到着するまで太刀掛と一緒だった。京都まで、あとわずかだった。香留は花嫁の手を握る機会がなかった。
まだ、最後の儀式が残っている。その用意をしなければならない。
その二
「一昨日発見された屍体《したい》が、内の人なんですかねえ」
田中治作の妻、粂《くめ》は一向に納得《なつとく》する様子がなかった。
西目が案内して来た折井捜査主任は、屍体の頭部のレントゲン写真と、大川歯科からのパノラマ写真を並べて説明した。粂はその二枚が同じ人物のものとは認めたが、それが治作だと思うことはできなかった。
「あまり内の人の奥歯なんて見たことがありませんからね。今日あたり、ひょっこり帰って来そうな気がしてます」
最初のうち、粂はそう言い、迷惑そうな態度をしていたが、西目が庭にカボチャが植えられていたことを追及すると、
「日高先生は内に来るにも、方《ほう》を見て日を決めるんですから」
と、土地の人が嫌がるカボチャを抜き取ったことだけはやっと認めた。
「その、カボチャは?」
「台所ですよ」
「それも証拠品になりそうです。実は被害者の身体《からだ》から、カボチャの種子《たね》が見付かって、その人は殺される前にカボチャを食べていたことがはっきりしているんです。そのカボチャが、ここのカボチャの種類と同じかどうかを調べないとね」
と、西目が言うと、その内の一つを一週間ほど前料理したと粂は気持の悪そうな顔になって、とにかく、息子《むすこ》に報《し》らせますと言って電話の傍《そば》に寄った。
電話台の引出しから、薄いリストを取り出して、今度は眼鏡《めがね》を探す。眼鏡は次の間にあった。粂はダイヤルとリストに何度も目を動かす。それでも、二度ばかり最初からやり直さなければならない。
「そこに、幸明《こうめい》はいる?」
横柄な口のきき方だった。だが、相手が変わると、気味の悪いほど、猫撫《ねこな》で声になった。
「ああ、幸明ね。今、警察の人が来ていてね、父さんが死んだと言うのよ……何だかよく判《わか》らない……そう、歯の写真なんか見せられたけど」
粂は受話器を耳から外した。
「息子が話をしたい、ですって」
折井が受話器を受け取り、手短に事情を説明した。折井は最後に、
「失礼ですが田中幸明さんとおっしゃると、今度の市長選の?」
と、訊《き》き、その返事に頭を下げた。
田中幸明の名なら、その名を大きく印刷したポスターが、町中に溢れている。保守派の前市長の失脚で、若手保守派の田中幸明の名が、大きく浮上しているところだ。
折井は受話器を置くと、
「田中先生は、すぐここに来られるそうです」
と、粂に言った。
田中幸明の父が殺されたとなると、事は大きい。
幸明に電話をしてからの折井は、粂に対する言葉付きも変わった。西目は嫌な予感がした。西目は学歴はなかったが、長年多くの事件を自分の手で直接手掛けてきて、身体《からだ》を通して犯罪者の気持が判《わか》っているという種類の刑事だった。幸明の出現で、捜査は難しくなりそうな気がした。その前に、手を打つところは打っておかなければならない。
折井が粂に、治作がいなくなった日や、当時の服装などを訊いている。粂は治作の服装についてはどうにか答えることはできたが、日の記憶はほとんど曖昧《あいまい》だった。ダイヤルを廻《まわ》すとき判ったのだが、粂は数字の記憶が特に苦手のようだった。
折井が質問を続けている間、西目は畳の上に置かれたままになっている電話リストに手を伸ばした。
二種類の文字が入り混《まじ》っている。一つはかなり整った数字で、インクの色が同じところから、新しいリストに最初に書き入れられたものらしい。もう一つの手はその間のところどころに書き込まれていて、数字も稚拙《ちせつ》で筆記用具も鉛筆、ボウルペンとまちまちだ。西目は最初のリストは治作が作り、書き込みは粂の手だろうと思った。
リストの人名はあまり多くはない。定年退職後を田舎《いなか》でひっそりと暮らす夫婦を表徴しているようだ。西目はリストに目を通すうち、ふと、最後のページが気になった。そこには治作らしい手で、殊更《ことさら》小さな字の数字が意味あり気に書かれ、その上、電話番号の氏名はなく、AとNという二つのローマ字だったことも気になった。西目はそっと自分の手帳に、AとNとの電話番号を写し取った。
リストを引出しに戻《もど》しながら、四段ある小引出しを引いて中を覗《のぞ》いてみる。上段は筆記用具や鋏《はさみ》などの文具品。次は薬の瓶《びん》、その下は小布や毛糸の玉、一番下は少し重く、ドライバーや小さなハンマー、釘《くぎ》の箱といったものが詰め込まれていた。
西目は部屋を見廻《みまわ》した。
合板製の茶箪笥《ちやだんす》の上に置時計。西目は置時計の横に何通かの封筒があるのを見付けて手を伸ばした。
折井が粂から治作の履歴を訊《き》き出している。
それによると、治作は東京|板橋《いたばし》の生まれ。家は行商の魚屋で、治作は三男だったが、兄二人は小さいときに病死して、治作の記憶にはなかった。小学校を卒業すると、親は治作を家で使いたがったという。治作は魚屋を嫌い、赤坂にある大蔵省高官の屋敷で住み込みで働くようになった。走り使いや庭掃除をして、夜は中学校に通う、当時の玄関番だった。何年か後、粂が東京に出て来て、その屋敷に女中奉公することになり、治作と知り合ったのだが、治作を夫とすることは全く考えなかった。
治作は官僚の生活を見ているうち、学歴がなければ駄目だと悟り、大学に進学した。大学のとき、学徒動員を受け、軍需工場に派遣されて働いているとき、アメリカ戦闘機隊の爆撃に遭《あ》い、多くの仲間が爆死した中で、治作は九死に一生を得た。
粂と再会したのは敗戦後の闇市《やみいち》だった。粂は主人の家も焼かれて途方に暮れているとき、治作と出会い感激して言われるまま一緒に暮らすようになった。
治作はいくつか職を変えた後、江東《こうとう》区にあるタクシー会社の会計事務員となり、定年まで勤めあげたのだ。
粂の記憶は古い時代ほど確かなようだった。
「生まれでしょうかねえ。わたしゃごみごみした東京より、のんびり土をいじっていた方が余《よ》っ程《ぽど》いいと思うのに、内の人は山梨に行っては、何かかにか仕事を見付けてきます。勿論《もちろん》、年ですからちょっとしたアルバイトのようなものでしょうけれど」
と、粂は言った。
治作は家ではほとんど仕事の話をしなかった。これまで、一週間以上の外泊はなかったが、粂がそれほど怪しまなかったのは、治作は無断で家を空けることが珍しくなかったからだ。
西目が目を通した郵便物は、ほとんどがダイレクトメイルで、他には健康保険料の督促状が一通。特に事件の役に立つようなものはなかった。
西目は奥の部屋の方を見て、気軽に声を掛けた。
「ちょっと、治作さんの部屋を見てみたいんですがね」
すると、意外な返事が戻って来た。
「何とか令状というのを持っていますかね」
「……捜査令状のことかな」
「そう。今、電話で息子に言われましてね。その令状を見せてもらわなければ、家の中を捜させてはいけない、ってね」
西目は嫌な予感が当たっていく感じだった。
田中幸明は黒塗りの乗用車で、二人の若い男を従えて、難しい表情で西目の前に現れた。
「捜査本部に電話をし、土橋署長と話をして来た。親父《おやじ》が亡くなったのは、矢張《やは》り本当らしいな」
がっしりした体格で、髪の毛が多い。まだ四十歳にはならないはずだが、人を威圧する風格がある。明るい紺《こん》の背広にグレイのネクタイ。これで、笑うと人懐《ひとなつ》っこいという評判で、女性の人気もいいようだ。
折井は三枚のレントゲンフィルムを幸明に示した。
幸明はちょっと見較《みくら》べてから軽くうなずいた。覚悟ができているようで、表情からは心の動きは判《わか》らなかった。
「遺体は?」
「大学病院です」
「解剖は済んだんでしょうな」
「……多分」
「多分じゃ困るじゃないか。葬儀の日取りを決めなきゃならない」
西目がすぐ捜査本部に連絡し、いつ葬儀社が来ても大丈夫《だいじようぶ》だという返事を受け取った。
幸明は内ポケットから部厚な手帳を取り出して拡《ひろ》げた。
「明日が通夜、明後日告別式かな」
「わたしゃ、あの人が死んだなんて信じられないよ」
と、傍《そば》で粂が甘えるように言った。幸明は優しく言い聞かせる。
「僕だってそうだよ。だが、警察で証明してくれた。ここは全部僕に任せて、奥で休んでいて下さい」
「あんたも忙しい身体《からだ》なのに、済まないねえ」
粂は幸明に言われるまま立ち上がった。西目があわてて声を掛けた。
「奥さん、治作さんの写真がありましたら、拝借したいのですが」
粂は幸明の顔を見た。幸明がうなずくのを見て、粂は奥の部屋に入って行った。その間にも、幸明は若い男に指示を与え、寺や葬儀社に連絡をとる。
しばらくして、粂が二、三枚の写真を持って部屋に戻って来た。
「こんなものしか見当たりませんでしたよ」
どれもサービスサイズのプリントだった。西目はその内から、比較的特徴のよく出ていそうな一枚を選んだ。
「最近、どんな人がこの家に尋ねて来ましたか」
と、西目は粂に訊《き》いた。
「日高先生と、近所の人とか」
「治作さんのところへは?」
「……いませんねえ」
「電話は?」
「さあ……」
幸明が西目に言った。
「犯人の目星は付いているのかね」
「いや……やっと今、身元が確かめられた段階で」
「そうか。親父《おやじ》は人に怨《うら》まれるような人じゃない。ただ、親父は金持ちではないが、いつも不相応な現金を持ち歩く癖があった」
西目は改めて治作の写真を見た。
筒形の顔の輪郭は幸明に似たところがある。だが、全体の印象は、治作の方がずっと貧相だった。目の周《まわ》りの隈《くま》と、間隔の狭い小さな目のためだろう。
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四章 お守り
その一
宿の女が茶を入れて部屋から出て行ったあと、香留《かおる》はポケットから紙袋を取り出した。
「式場を出るとき、胡林《こばやし》さんが二人のためにと言ってくれたんだ。何だろうね」
弥宵《やよい》はその袋に目を向けた。香留はさり気なく袋を卓の左側に置いた。
「開けて、見てみないか」
弥宵は気軽に卓を廻《まわ》り、香留の左側に坐《すわ》り直した。
広くはないが、庭に面した座敷の開放感が、弥宵を寛《くつろ》がせているようだった。これが、ドアをぴっちり閉め切られた洋室では、逆に緊張感を増すだけだったろう。
「湯泉《とうせん》神社……」
弥宵は袋に印刷してある文字を読んだ。
「とすると、お守りかな」
弥宵は紙袋を逆さにした。筒状のものが弥宵の掌《てのひら》に転《ころ》がりだした。
「あ――」
弥宵は低く言った。それを投げ出すこともならず、持っていることもできないといった風で、弥宵は下を向いてしまった。
お守りは男の形をして、玉鉾《たまぼこ》と書かれ、細い水引が中央に結ばれていた。
「見せてご覧」
弥宵はほっとしたように、お守りを差し出した。香留はその手首の方を軽く握った。別の手でお守りを取って卓の上に置き、そのまま弥宵の手を引き寄せる。
弥宵の唇《くちびる》はこちこちだった。舌はとうに奥へ逃げ込んでいた。香留はちょっと唇を放し、
「迎えてほしいな」
と、言った。
弥宵は迎えはしたが、応じ方が判《わか》らないようだった。息も止めたままで、しばらくすると、弥宵の方から苦しそうに唇を放してしまった。香留の手は自然に八つ口から滑り込んでいて、弥宵の肌《はだ》の上を往《ゆ》き来《き》していた。
手の方が大胆になった。背から前に廻《まわ》り、汗ばんだふくらみを探りだした。先端に着いたとき、弥宵は身体《からだ》を固くするのが判った。
「困るかい」
香留は耳にささやいた。
「着換えてから……」
香留は言葉に従うことにした。身体《からだ》を放すと、弥宵は胸元をつくろったが、耳まで朱に染まっていた。香留は静かに立ち上がって、鏡台の横に重ねられている浴衣《ゆかた》を手に取った。
「じゃあ、湯に行こう」
香留は後ろを向いたままで言った。間を置いて、消え入るような声が聞こえた。
「お願いですから、明日からにして下さい」
香留はそれにも譲歩した。
「着換えだけ手伝おう。それも、嫌かね」
さすがにそれも拒むことはできないようだった。香留は浴衣を足元に置き、弥宵の手を取って立たせた。弥宵は何か言いたそうだったが、黙って立つと顔を上げられなくなっていた。
香留は帯留《おびどめ》に手を伸ばし、腰の強い絹の丸打ちの紐《ひも》を注意深く解いた。帯揚げを取り去ると、白蘭《びやくらん》の帯が崩れはじめる。弥宵の姿はしだいに品位を失っていく。それを美しいと思う気持が、手の動きを鈍《にぶ》くさせる。
弥宵は伊達巻《だてまき》は自分で解こうとした。
「そのまま」
香留は軽く言い聞かせ、伊達巻と腰紐《こしひも》も畳の上に落とした。白の長襦袢《ながじゆばん》を引きずった弥宵は、しだいに清純さも脱ぎ去っていた。香留はその裾《すそ》を分けた。緋《ひ》の湯巻きが長襦袢の裾から落ちたとき、弥宵は小さく、あ、と言ってから、
「もう、自分で」
と、身を屈《かが》めて浴衣《ゆかた》を拾い、長襦袢の上から手早く羽織ってしまった。弥宵は浴衣の下で肌襦袢も一緒に脱ぎ落としたが、一瞬、裸身の後ろ姿が香留の目に焼き付いた。全身でないにもかかわらず、その印象は鮮烈だった。気が付くと、散らされた衣類の間から、暖かな香気が立ち昇っていた。
先妻の照美は、セックスをスポーツと同じ次元で受け取っていた。当然として、身体《からだ》を羞《は》じる気持より、誇示することが多かった。寝室の照美はいつも健《すこ》やかな性欲を憚《はばか》ることなく表現することができた。その照美に、決して不満はなかったが、この弥宵を見ていると、古風といえる慎み深さの方が、激しく男の気持を掻《か》き立てることが判った。
弥宵は浴衣の細帯を締め終って、居ずまいの悪そうな表情をしていた。自分も着換えを手伝うものか迷っているようだった。香留はもう満足だった。
「じゃ、先に行って来るよ」
香留は上着とネクタイだけ取り、浴衣を持って浴室に入った。
「夫婦の間で羞《はず》かしがるのは、反《かえ》ってワイセツだわ」
と、照美はよく香留に言った。その理屈でいえば、情人の間で羞かしがるのも滑稽《こつけい》ということになるのだろうが、照美と何年か一緒に生活をするうち、香留の方でも、それが特別だとは思わなくなっていた。だから、弥宵が見せた反応が意外で、新鮮な期待を感じてしまうのだろう。
弥宵はその期待に背かなかった。
入れ代わりに湯に入って部屋に戻《もど》って来た弥宵に、香留は玉鉾《たまぼこ》が入っていた袋を見せた。その裏にこのお守りの功徳《くどく》が簡単に印刷されている。
湯泉神社は神戸《こうべ》の有馬《ありま》温泉の守り神として、古くから人人の崇敬を受けてきた、とある。その有馬温泉は大己貴命《おおなむちのみこと》と少彦名《すくなひこなの》 命《みこと》によって発見された。
大己貴命というのは、大国主命《おおくにぬしのみこと》のことで、出雲《いずも》神話の主役、大国主命には男女合わせて百八十人の子がいたということから、子授けの神様とされている。
「しかし、百八十人もじゃ、困るね」
と、香留は言った。
「十人ずつ生ませたとしても、十八人いたことになる」
「……何ですか、それ」
「愛した女性の数」
「……嫌だわ、そんなの」
「これは、太刀掛さんの芝居の世界さ。神代はおおらかだったんだ」
「おおらかなのが、いいんですか」
弥宵は顔を曇らせた。その表情を、可愛《かわい》いと思った。
香留は玉鉾《たまぼこ》を持って、軽く振ってみせた。
「何か、音がする」
「……ええ」
「中が開くようだよ」
香留は玉鉾を弥宵の前に置いた。弥宵は怖怖《おずおず》玉鉾を取り上げた。玉鉾はすぐ二つになった。中には稲穂が入っていた。
「一粒百倍……」
その神神にとって、セックスはスポーツだなどとは考えられなかったはずだ。伊邪那岐《いざなぎ》、伊邪那美《いざなみ》の美斗能麻見波比《みとのまぐわい》が表徴するように、それは国生み、豊穣《ほうじよう》を願う祈りの儀式だった。
「人って神代から同じことをしてきている」
と、香留は言った。
「同じでも、素晴らしいことだとは思わないかい」
弥宵は玉鉾を袋に戻《もど》して、香留の前に置いた。
「さあ、式もこれで終りだ」
香留は明るく言って、床の取ってある部屋に入った。
最後の儀式は二人だけで有終の美を飾らなければならない。それには、正しく式次を進めることが大切だろう。
弥宵は表情を固くして香留に従ったが、しばらくすると、感受性はむしろ高い方だということが判《わか》った。上体を解きほぐす手続きのうち、かえって弥宵の乳房は固く、鼻孔も強く張っていく。初めて奥区にたどり着くと、そこはもう、心待ちしているような温もりがあった。弥宵はすぐ火が付いたようで、
「もう……」
と、焦点のぼけた目を向けた。
香留は頃合いを見て、身体《からだ》の向きを変えた。だが、迎える気配は充分なのに、香留は強く阻まれて進むことができなかった。指の感触ではきついことを測《はか》ってはいたが、実際はそれ以上だった。
香留は無理を思いとまり、前の段階に手を戻《もど》した。二、三分もすると、弥宵の息が品位を失いだした。愛撫《あいぶ》を緩めても、もう同じだった。弥宵は必死で吟声《ぎんせい》を押し殺していたが、それも苦しくなったように、いきなり香留にむしゃぶりついて、
「お願い……」
と、乱れた声をあげた。
だが、いざ訪《おとな》おうとすると、前と同じだった。
「君の方も合わせてくれないと――」
と、香留は言った。
弥宵は目を閉じたままうなずいて、大きく身体《からだ》を開いた。
「いいね……」
進むと同時に、相手も押すのが判《わか》った。しかし、それは一瞬だった。
「あ、痛《つ》……」
香留は驚いて身体を離した。
「そんなに、苦しいのかい」
弥宵は消え入るような声で言った。
「引き裂かれるみたいなんです」
「……気持は迎えたいんだね」
弥宵は横を向いて、はい、とだけ言った。香留の胸に熱いものがこみあがってきた。それを聞いただけで焦《あせ》りの気持がなくなった。
弥宵は真剣な目を向けた。
「もう一度……今度は頑張《がんば》ります」
言い方がおかしかったが、香留は笑いを堪《こら》えた。するすると、闘争心が消えていくのが判った。
「いや、無理をしない方がいい。別に急ぐことはないのさ。伊邪那岐、伊邪那美さんだって、最初はうまくいかなかった」
二柱の神は、その方法がよく判らず、まごついているところへ、つがいの鶺鴒《せきれい》が飛んで来た。神はその尾の動かし方を見て、見倣《みなら》うことにしたのだ。
「でも、もう少しは慣れておいた方がいいと思うな」
香留は弥宵を抱き寄せた。
身体《からだ》からの流露はなお豊かになった。反対に乾きを覚えるらしく、しきりに唇《くちびる》を舌で湿していたが、そのうち、弥宵は唇をぎゅっと歯で噛《か》みしめ、息遣いが激しくなるのが判った。
「それが、いけない」
「…………」
「楽にして、唇を噛んだりしてはいけない」
「でも……声が……」
「それの方がいい。堪えるのは身体によくない」
「だって、困るわ」
「じゃ、聞かないことにする」
そんな気休めでも、多少の効果はあった。弥宵は唇を開けて微吟《びぎん》しはじめた。しばらくすると、思慮を失い、声の調子が高くなっていった。
探っていた身体《からだ》が、痙攣《けいれん》に似た反応を起こしたとき、香留は煽《あお》るのを止《や》め、崩れていく弥宵の身体を全身で包み込んだ。自分は途中のままだったが、不思議に満ち足りていた。
それだけでも朝になると、弥宵はすっかり打ち解けているのが判った。
目を覚ましたとき、もう薄化粧で身形《みな》りを整えていて、崩れ落ちた昨夜の面影《おもかげ》はどこにもなかったが、茶を入れるときのもの腰、それを口に運ぶ香留の姿を、じっと見守る弥宵の視線に、新しい情愛を感じるのだった。
昼間の散策は弥宵が案内役になった。
その日は洛北《らくほく》を中心に廻《まわ》ったが、賀茂《かも》川に懸《か》かる色褪《いろあ》せた御園《みその》橋を渡って、上賀茂《かみがも》神社の杜《もり》を見たとき、古い京都そのものに入って行く感じだった。点在する丹塗《にぬり》の鳥居と殿舎、橋殿、磐坐《いわくら》、そして本殿が王朝以来のたたずまいを残している。いつ、王朝貴族を乗せた牛車《ぎつしや》が出て来るか、と期待したくなるほど幻想的な世界だった。そこには神神の気配があった。
弥宵は案内書を読んでいて、上賀茂神社の神体は本殿の中にはないのだ、と言った。
本殿の裏手に廻ると、小さい窓が開けられていた。祭礼のときには、本殿の扉を開き、小窓を通して背後に神山《こうやま》を望む。その神山に降臨する別《わけ》 雷《いかずちの》 神《かみ》が信仰の対象となっているのだという。森や山そのものを遥拝《ようはい》する山岳信仰が、最も古い形のまま、今に生きているのだ。
「別雷神を生んだのは、玉依日売《たまよりひめ》だと言われています」
と、弥宵が言った。
「玉依姫――どこかで聞いた名だな。そう、太刀掛さんが話してくれた、震旦《しんたん》国の陳《ちん》大王の娘も、字はどう書くか知らないけれど玉依姫だった」
「玉依姫というのは、特定の女性じゃなさそうですね。玉というのは神霊の霊《たま》のことですから、神が依《よ》り付く巫女《みこ》のような女性を指して、玉依姫と呼ぶんですね」
「すると、玉依姫に別雷神を生ませたのも、神様なんだ」
ある日、玉依姫が川で遊んでいると、川上から赤く塗られた矢が流れて来た。これを持ち帰り床辺に置いて寝ると、玉依姫は懐妊《かいにん》して男の子を生んだ。その子が成長したとき、祖父が祝いの宴を張り「汝《なんじ》の父だと思う人に、杯《さかずき》を与えよ」と言った。すると、男の子は杯を捧《ささ》げて屋根の甍《いらか》を破り、天に昇って行った。矢は火《ほの》 雷《いかずちの》 神《かみ》の化身だったという。
それで、どうにか判《わか》ってくる。玉依姫はどれも処女のまま神の子を妊娠《にんしん》することができるようだ。
弥宵は夕刻になるにつれ、口数が少なくなった。結婚の儀式が、まだ完了しないことが頭にある証拠だった。
その日の宿はホテルだった。最初の日と気分を変えるつもりの予約だったのだろうが、ホテルの密室は二人をより密接にする効果があった。
香留は努めてさり気ない風を装った。テレビのニュース番組に関心を持つ振りをし、コマーシャルになったところで、何も言わずに立ち、浴室に入ってカランを開けた。
すぐ、弥宵が浴室に来た。
「言ってくだされば、わたしが用意しますのに」
「なに、先に髭《ひげ》を当たっておこうと思ってね」
香留は下着だけになった。弥宵は脱ぎ捨てた服を一つずつ拾い、胸に抱えて部屋に戻《もど》って行った。
髭を剃《そ》り終え、浴槽《よくそう》に身体《からだ》を沈めていると、曇りガラスの戸に、弥宵の姿が浮かんだ。胸にタオルを当てただけの白いシルエットだった。腕がドアのノブに伸びるのが判る。ドアが少しだけ開いた。
「いいかしら?」
「勿論《もちろん》、歓迎だね」
弥宵は両腕で肩を抱くようにして入って来た。視線が合うと、すぐカランの前に丸くなって、陸湯《おかゆ》を使い始める。
「来ないかと思った」
と、香留は白い背に言った。
「約束ですから」
「……そんな約束をしたかな」
「済みません。少し、横を向いていてください」
「……こうかな」
香留は横を向き、浴槽の片側に身体《からだ》を寄せた。湯の面が盛り上がり、弥宵が入って来たのが判った。
「もう、よさそうだね」
弥宵は湯に入ったばかりなのに、耳まで赤くしていた。
「あなたは、優しい方ですね」
弥宵は小さな声で言った。
「会えてよかったのは、僕も同じだ」
恐らく、弥宵は一大決心を固めて傍《そば》に来たはずだ。それを思うと新たな愛《いと》しさがこみあがった。
一緒に浴室にいて、改めて弥宵の羞恥心《しゆうちしん》の強さが判《わか》った。その気持は、情にも関わっているようで、相手の視線を恨めしく思えば思うほど、かえって情の高ぶる自分に思い悩んでいる。
そのしるしとして、ベッドに入ってからの感応が、昨夜よりも早い段階で現れていた。弥宵は自分から枕《まくら》を押し放し、溶けるような目で相手を求めた。
しかし、結果は昨夜と同じだった。香留は出血に気が付いて、それ以上執着することができなくなった。
「もう一度、お願いします」
出血を知らない弥宵はそう求めたが、そう焦《あせ》る必要はないと言い聞かせた。弥宵には男がいると気を回していた上では意外な成り行きだった。けれども、受け入れられなかったことに少しも不満はなく、逆に、容易でないことに尊《とうと》ささえ感じていた。
だが、弥宵にとってみれば、二度までの断念は不安を強めたようだった。
「わたし、違っているんでしょうか」
香留は首を振った。
「違ってなんかいない。感じ方も強いし、潤《うるお》いも充分だ」
「じゃ、迎えるのが下手なのかしら」
「いや、どこも悪いところなんかない。ただ、ちょっと気になったことがあった」
「……どこが?」
香留は明るく言った。
「さっき、僕のことを優しい方だ、と言ったろう」
「……それがいけなかったんですか」
「言うのは結構だが、段取りが前後していた」
「段取り……というと?」
「女の方が先に男を誉めてはいけなかった」
伊邪那美の方が先に「あなにやしえをとこを」と言ってしまったために水蛭子《ひるこ》が生まれた。そこで天《あま》つ神に伺いをたてると「女先に言へるに因《よ》りて良からず」という教え。そこで今度は伊邪那岐が「あなにやしえをとめを」と言い、次いで女神が唱えて大八島《おおやしま》を生むことができた。
その夜も、抱合だけで弥宵は落花した。
しばらく呼吸を整えてから、弥宵は香留のために唇《くちびる》を使おうとした。
「それは、ちょっと早すぎるみたいだね」
香留はそっと身体《からだ》を引いた。
「まだ、ビギナーだからな」
「……本当ね」
「そうさ。兵児帯《へこおび》が結べるようになったばかりかな」
「……西陣《にしじん》を締められるようになるかしら」
「一人前になれば、苦労も多いよ」
「どんな苦労かしら」
「僕だけじゃ、満足できなくなるかも知れない」
「ひどいわ」
弥宵は打つ真似《まね》をした。
弥宵が少しずつ心も開いてきたのが判《わか》った。それだけでも、充分な収穫だった。その上、羞恥心《しゆうちしん》が強く弥宵の春意を煽《あお》ることを確かめて、香留は自信が起きた。強いて進もうとしなかったのも、そのためだった。
翌日は京都から奈良に廻《まわ》った。
宿は大阪|梅田《うめだ》のホテルで、内装が玩具《おもちや》の宮殿の内部みたいだった。
「喜びの式は長いほどいい」
と、香留は言った。
「だが、長すぎるのも困ってしまう」
香留は少し言葉を厳しくした。
「今夜の僕は、あまり優しくはないかも知れない」
弥宵は真剣な表情でうなずいた。
「手順を間違えないようにしよう。まず、着ているものを取る」
「……ここでですか」
「そう」
香留は自分から浴衣《ゆかた》を脱いだ。弥宵も心を決めたように帯に手を掛けた。
香留は服を取り去った弥宵の手を取って、浴室の姿見の前に立たせた。弥宵は自分の身体《からだ》を直視しなかったが、香留が、
「じゃ、僕の方から」
と言うと、やっと顔を正面に向けた。
香留は弥宵を凝視したまま呪文《じゆもん》のように言った。
「綺麗《きれい》だ」
弥宵が後を続けた。
「あなたは優しい方です」
香留はうなずいた。
「それじゃ、次に移ろう」
「……今度は、何ですか」
「儀式じゃなくて、医学的なことなんだがね。剃刀《かみそり》を使った方がいいと思うんだ」
弥宵はその意味を知ると、あわてて両掌《りようて》を前に当てた。
「どうしてなんですか」
「今、優しくないかも知れない、と言ったね。そのため、万一、傷でもと心配して僕の気持が鈍《にぶ》るといけない」
無論、口実だった。弥宵の困惑を引き出すのが目的だ。だが、精《くわ》しくない弥宵は反論することができなかった。
「じゃ、自分でします」
「……剃刀を当てたことがあるかね」
「……いいえ」
「じゃ、無理だな。僕に任せなさい」
「……でも」
「もし、しくじって、今晩もだめじゃ困るだろう」
その言葉で、弥宵は観念したようにうなずいた。
弥宵のは細く、ほとんど直線だった。狭い面積で、両側から身体《からだ》の中心線に集まり、そこで筋を作っている。弥宵はその姿勢を作り続けることに、やっと耐えているといった表情だった。
初めて見る汀《みぎわ》は若く美しかった。少しの濁りもなく、血の色の濃淡が艶《つや》やかに光っている。香留は感動し、思わず何度か手を休めたほどだった。
予想通り、男の目に前を晒《さら》された弥宵は、そのときから燃え始めていて、奥区からの流露がはっきりと見えた。
「これで、西陣でも博多《はかた》でも大丈夫だ」
剃刀を当て終った香留が言った。
「すぐ、一人前だ」
部屋に戻《もど》ると、思った通り弥宵は愛撫《あいぶ》を必要としないほどになっていた。それでも、なお嬌羞《きようしゆう》を誘い、落ちかかる寸前を捕えることにした。
弥宵は背をずり上げたが、香留は両肩をつかんで容赦《ようしや》なく追った。そのうち確かな感覚が伝わった。実際、裂いたという手応《てごた》えだった。
「結ばれたよ」
と、弥宵の耳に言った。
「判るかい?」
閉じた目尻《めじり》に涙が光っている。
「判ります。嬉《うれ》しい……」
香留はそのままの姿勢でいた。二日間、肌《はだ》との接触だけで、遂げられなかった思いが一度にこみ上げ、頂上を感じていたからだ。手も休め、目も閉じたが、血の滾《たぎ》りは急な速度で全身に拡《ひろ》がった。
その瞬間、弥宵も押して来て、小さな声をあげた。だが、痛みのためか、未知の感覚を受けることはできなかったようだ。
その日も、紙に多少の血の痕《あと》が残った。が、香留は昨夜と同じように気付かぬ振りをした。
「あなたでなかったら、きっとだめだったと思うわ」
と、弥宵が言った。
「そんなことはない。越えてしまえば一思いのことさ」
「叱《しか》られなくて、嬉《うれ》しかったわ」
「叱るものか」
弥宵の表情に嬌羞《きようしゆう》が戻《もど》っている。
「胡林さんが言った通りだった。美しいものほど、手間が掛かる……」
「ほんとうに、あなたは優しいわ」
香留はそのとき、ふと、自分が誰《だれ》かと比較されているような気がした。
その二
田中幸明の話では、殺された父の治作は、外出するとき金を持っていた、という。その金額は粂《くめ》にも判《わか》らなかった。だが、金といっても、月月入る年金を溜《た》めておく程度で、びっくりするほどの額ではない。
それでも、わずかな金のために、人の命まで奪うという例はいくらもある。治作はその金のために殺されたものだとすると、丸裸にされていた理由がどうしても説明できない。治作が最後に家を出て行ったときの服装は、質素すぎるほどで、ライター、時計は使い捨ての品、装身具類は一つも身に着けていなかったというから、犯人が物盗りなら、金だけ奪えば、後は手間を掛けて治作を裸になどする必要はないはずだ。
犯人は治作を誰《だれ》にも知られず、この世から消したかったのだ、と西目は思う。そのため治作の身元が判明するような品をすっかり取り去り、人が行かないような崖下《がけした》に落としたのだ。とすると、その犯人像は行き擦《ず》りの強盗というより、治作の顔見知りの者と考えた方が自然だ。もしかすると、治作の身元が割れるというだけで、犯人がすぐ浮かび上がってくるような事情にあるのかも知れない。
粂の話によると、穴沢に来てから、治作の家を訪れて来た者はほとんどいないようだ。犯人は東京にいたときからの知り合いか、穴沢へ来てから付き合うようになった者か。とにかく、被害者の身元が判ったことで、捜査の範囲はにわかに拡大した。
屍体《したい》発見現場からは、犯人の手掛かりとなる遺留品は何一つ発見されなかったが、治作の家の中には、犯人と結び付けられる品が残されている可能性が考えられる。だが、治作の息子《むすこ》幸明が釘《くぎ》を差したとおり、軽率な捜査はできなくなった。本部では地裁に田中家の検証許状を求めることに決めた。
西目は本部に戻《もど》ると、田中の電話リストから写し取った数字を見て、電話のダイヤルを廻《まわ》した。局番は二つとも山梨市のものだった。だが、Aの番号には「この電話番号は現在使われておりません」というテープの返事が返って来た。残る一つのNの番号は釣具店だった。釣具店の主人が電話に出て、田中治作や粂という名は聞いたことがないと答えた。釣具店は主人と妻の二人暮らし。妻の方にもその知り合いはなく、二人の名もNというイニシアルには対応しなかった。
翌日、地裁からの検証許状を受けた捜査本部は、土橋警察署長、折井捜査主任、地裁からの立会人、それに西目と倉馬、鑑識官達が車に分乗して田中の家に向かった。
田中の家には縁側の部屋に棺《ひつぎ》が安置されていたが、まだ祭場の準備は始まっていなかった。親族らしい人達が四、五人。棺の横に養老院から駈《か》け付けて来たらしい粂の姉の小さな姿も見える。幸明の姿はなかったが、昨日、幸明に従っていた若い男がいて、許状を見せると、検証に同意するよう、粂に言った。幸明の指示を受けているようだった。
検証は治作の部屋を中心に進められた。だが、西目はすでに手遅れを感じていた。治作の部屋には文机《ふづくえ》と洋服箪笥《ようふくだんす》があるぐらい。綺麗《きれい》に片付けられているのだ。
日記、手帳の類《たぐい》はもとより、私信、メモのようなものも見当たらない。文机の横には一応本棚はあるのだが、本は十冊ほどで、それも暦とか健康法、家庭便利帳といったものばかり、字引にしてもどこかの新築祝いの引出物だった。
西目が訊《き》くと、治作は昔から日記などを一切書いたことがなかった、と粂は言った。
「じゃ、名簿などとかは? 治作さんは東京でタクシー会社に勤めていたんでしょう。そのときの会社の名簿なんかないんですか」
「さあ……父さんの部屋になければ、ないんでしょうねえ」
「それなら、古い写真のアルバムなんかは?」
「古い物はありませんよ。何しろ家は焼け出されですから」
「……焼け出され?」
「ええ、前の板橋の家が火事に遭ったんですよ。そのとき、古い物はすっかり焼けてしまいました」
「……それは、いつ?」
「四年前になりますか。あの火事がなければまだ板橋にいたでしょう」
西目はものを言うことができなくなった。西目は質問を変えることにした。
「治作さんは何か趣味を持っていませんでしたか」
「……何もない人でしたねえ。傍《そば》で見ていても、多少趣味があったらと思うときがありましたよ。退屈そうでしたからねえ。越して来た当座は、つまらなそうにテレビばかり見ていましたよ」
「……そうだ。お宅にはビデオがありますね」
「ビデオ?」
本当のぼけかとぼけているのか判らない。
「ほら、昨日、日高先生と一緒にビデオを見たじゃありませんか」
「ああ……あれなら、日高先生が持ってお帰りです」
「それは、ビデオテープ。ビデオデッキがありますね」
「何だか知りませんが、テレビを買ったとき、一緒に付いていました」
「治作さんはその機械で、何かを録画したことがあるでしょう。あるいは市販のソフトが」
「……さあ」
「デッキがあって、テープが一本もないというはずはない」
「あれば、どこかに転がってやしませんか」
粂か誰《だれ》かがテープも処分してしまったのだ。西目は質問を変えることにした。
「最近、治作さんは何をしていました」
「ですから、毎日、山梨市へ行ってはアルバイトをしていたようです。もっとも長く続けるような仕事ではなく、わたしにも仕事のことは話しませんでしたがね」
「仕事のないときは?」
「ないときも、お昼になると出掛けて行きました」
「何をしに行くんですか」
「さあ……近所の奥さんが駅前であの人を見たと言っていました。じっとデパートの休憩所に坐って、いつまでも通る人を見ていたんですって」
西目は思い掛けないとき鏡の前に出て、自分の姿を見せ付けられたように背筋が寒くなった。何一つ趣味がなくて、仕事以外、旅行のプランを立てることも億劫《おつくう》だ。休日はただぼんやりとテレビの前にいる。もし定年退職をした後は、治作のような毎日を過ごすようになるかも知れない。それも、わずか数年、目の前に迫っているのだ。
「じゃ、治作さんのところへ来た手紙を見せて下さい」
と、西目は言った。
粂は縁側の部屋に行き、茶箪笥《ちやだんす》の上に乗っている封書の束を西目に差し出した。西目が前の日に改めたものだった。西目は初めて見るような振りをしてダイレクトメイルの束を繰《く》った。
「葉書とか、年賀状のようなものはありませんか」
「父さんの部屋のどこかにありませんか」
西目は粂が本当にとぼけているとしか思えなかった。二人の会話が聞こえたらしい。棺《ひつぎ》の傍《そば》に坐っていた粂の姉が言った。
「年賀状なら、わたしも今年、治作さんに出しましたがな」
粂が嫌な顔をするのが判《わか》った。
西目はふと気付いて、電話器の横にあるリストを手に取った。急いで最後のぺージを開く。見るとAとNの数字の上に、フェルトペンで二本の棒が黒黒と引かれていた。
勘の鈍《にぶ》くなった、粂の仕業《しわざ》とは思えない。何かの理由で、幸明が指図《さしず》したのだ。幸明は治作の過去を全《すべ》て抹殺しようとしているらしい。
とすると、ある闘志が湧《わ》いてきた。それならば、どうしてもそれを暴《あば》かずにはいられない気持だ。
西目はリストを元のところに戻《もど》した。矢張《やは》り、AとNの電話番号は重要な意味を持っているとしか思えない。だが、西目が確かめたところによると、一本は現在その電話番号は使われていず、一本は釣具店の番号だったものの、田中治作という人物に心当たりはないという。
西目はふと疑問を感じた。
釣具店の夫婦のうち、どちらかが嘘《うそ》を吐《つ》いているのではないだろうか。たとえば、もし、釣具店の妻が治作と特殊な関係にあったとしたら、夫のいる前で治作を知っているとは言えないだろう。
小竹井《こたけい》釣具店は中央通りの外れにある小ぢんまりとした店だった。ショウウィンドウもなく、看板も小さく素《そ》っ気《け》ない。
下見に行った倉馬がすぐ戻ってきて、ちょうどかみさんらしい女性が独りで店番をしている、と言った。
西目と倉馬は連れ立って店のガラス戸を開けた。
ガラスケースの向こうで、編物をしていた女性が顔を上げた。西目は瞬間、これは違うと思った。年齢は七十ぐらい。白い頭には櫛《くし》を入れた様子がない。気の毒だが、治作の浮気の相手になるとは思えない。
「ご主人は?」
と、西目が言った。
「食事に行っていますがね。すぐ帰りますよ」
西目はさきほど電話をした警察の者だと言い、警察手帳を示した。
「奥さんですか」
女はそうだと言い、度の強い眼鏡《めがね》を外した。
「さっきの電話の件ですがね。写真でも確かめてもらおうと思って」
西目は治作の写真のコピーを取り出して見せた。女はやれやれというように眼鏡を掛けなおした。その表情は写真を見ても変わらなかった。
「全然、知らない人ですねえ」
と、女は言った。
「田中――何とか言いましたねえ」
「田中治作です」
「ニュースで見ましたよ。穴沢で殺された人でしょう」
「そう」
「田中幸明さんの親父《おやじ》さんですってねえ。お気の毒に」
女はまた眼鏡を外して二人を見較《みくら》べた。
「テレビを見ながら、内の人が言っていましたよ。どこかで見た顔だって」
「……親父さんの知り合い?」
「じゃなさそうだね。よく聞きもしなかったけど」
しばらく店で待っていると、小竹井が戻《もど》って来た。身体《からだ》に蕎麦《そば》の匂いを付けている。
小竹井はじっと治作の写真を見ていたが、何度かパチンコ屋で会った男だと言った。
「声を掛けたわけじゃありませんがね、店の中をうろうろして、よく物欲しそうな顔で落ちている玉を拾っていましたよ。貧乏|臭《くさ》い男で、それで、覚えているんです」
「その店は?」
「二三六《ふみろく》ワールド。間違いありません。私はその店しか行ったことがないんですから」
田中の家の電話台の上に乗っていたゲーム用のコインが二三六ワールドのものだった。
西目は二三六ワールドの場所を聞いて店を出た。
駅前商店街の中心。
かなり大きな雑居ビルで、二三六ワールドはその一階と地階を占めている。一階がパチンコ店で地階にゲームセンターがあるようだ。更に階上は喫茶店、レコード、ビデオのレンタル店、碁会所《ごかいしよ》、ナイトクラブなどの看板が並んでいる。
パチンコ店の入口近くの台はほぼ満席だった。機械の音と歌謡曲の中で、若い店員が景品の整理をしていた。その店員に写真を見せたが、どうも要領を得ない。この店に勤めてまだ一月にもならないらしい。西目が話の判《わか》る人をと言うと、店員は奥に案内した。
狭い事務所の横はガラス張りで、大きなコンピューターや何台ものモニターテレビが見える。パチンコ台もコンピューターで管理されるようになったとは聞いていたが、想像以上の設備らしい。西目が知っているのは、手動式の台で、台の裏で店員が駈《か》け廻《まわ》っていた時代の店だ。
事務所には青白い顔をした男が机に向かっていて、警察から来たと言うと、ちょっと緊張した表情になって「営業主任、油田卓雄《ゆだたくお》」という名刺を差し出した。そして、写真の男の顔には見覚えがあると言った。
「一時は毎日のように顔を見せていましたね。いえ、プロなんてものじゃありません。けち臭い玉の買い方で、よく落ちている玉を拾っていました」
「ここで、大儲《おおもう》けした、というようなことは?」
「……まず、なかったでしょうね」
「店員か、客といざこざを起こしたようなことは?」
「いえ。お客さんとしては静かな方でしたよ」
「友達のような者はいなかったかね」
「……そう言えば」
油田はちょっと考えてから答えた。
「似たような年頃《としごろ》の男とよく話し込んでいました。もう少し落ちると、浮浪者と見分けが付かないような風采《ふうさい》の人でしたが。その人もプロじゃありません。同じように取られる方で、そんなところから話し合うようになったんでしょう」
「二人が連れ立って来るようなことは?」
「それはなかったようです。いなければいないで自分だけで遊んで帰って行きます。いれば話し掛ける。そんな工合《ぐあい》です」
「じゃ、一緒に店を出て行ったことは?」
「それは、しょっちゅうだったようです。いつか、二人が焼鳥屋で一緒に飲んでいたのを見たことがありますよ」
西目はその男に興味を持った。
「二人の間で、金の遣《や》り取りは見なかったかね」
「それは見たことがありません」
「この店には、いつも何時ごろやって来るのかね」
「時間は定まっていませんが、大体、夕方が多いようです」
「その人の特徴は?」
「さっきも言いましたが、身形《みな》りは上等じゃありません。そう……いつも、赤い野球帽を冠《かぶ》っています」
西目はテーブルの上の小皿に、いくつかのゲーム用コインが入っているのに気付いて、油田に言った。
「この一枚をくれないかね」
「……何になさいます」
「ただの、お守りだ」
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五章 疑い
その一
香留《かおる》がカメラの手入れをしていると、国子がドアを押して店に入って来た。
「ああ、暑い。外はまるでフライパンだわ。目玉焼ができるわよ」
鼻の頭に汗の玉が見える。国子はせわしく小さな扇子《せんす》を顔の前ではばたかせた。
「お仕事?」
ガラスケースの上を覗《のぞ》き込む。
「いや……」
香留はあいまいに言い、ケースの上に散乱している部品をそっと隅《すみ》に寄せた。
「また、古いカメラなのね」
戦前販売されていたベビーミノルタという子供向け写真機だった。専用のフィルムを使うので、実際に撮影することはできないが、香留は機械を毀《こわ》れたままにしておけない質《たち》だった。
香留の後ろにある棚には、さまざまな古い型のカメラが並んでいる。勿論《もちろん》、売り物ではない。幸いなことに、千坂通り商店街には、そうしたカメラを見ても欲しがる人間は一人もいなかった。
「いいわね。涼しいところで、好きなことをしていられて」
いつものことだから、香留はお蔭様《かげさま》でと口を濁した。国子は店の中を見廻《みまわ》し、スタジオの方も覗《のぞ》いた。
「すっかり、綺麗《きれい》になったわ」
「内装と外装だけと思ったら、目に付かないところがいろいろ痛んでいましてね。知らないうちに大工事になっちゃいました」
「でも、大体、元のままね。変にてかてかしてなくて、とてもいいわ」
「ウィンドウ、ご覧になりました?」
「見たわ。アンティークね。昔のままの夕城《ゆうき》写真館の写真だわね」
「懐《なつか》しいでしょう」
「そりゃ、懐しいけど、そんなことをしていて、お客さんの方は?」
「今、一つですね。でも、案外、若い子に人気があるんです」
国子は首を振りながらスリッパに穿《は》き替え、応接室のソファに腰を下ろした。国子は夏でも冷たいものがだめだった。香留は熱い珈琲《コーヒー》を入れることにした。
「お礼を忘れていました。お花を贈って頂いて有難《ありがと》う」
応接室には新装開店の花輪が並んでいる。国子は自分の名の入った花輪をすぐに見付けた。
「照美さんの方には知らせなかったのね」
「ええ。その必要はないと思ったから」
「それがいいわよ。照美さんの一周忌も終ったのだし、なるべく遠退《とおの》くことね」
「今度、照美のお父さんが入院することになったらしいんですがね」
「いいじゃない。そっとして置きなさいよ」
照美がサリーハウスで働いていたということだけで、国子は照美の親戚《しんせき》も毛嫌いするのだ。
珈琲を入れると、国子はちょっと口を付けただけでおいしいと言った。
「相変わらず贅沢《ぜいたく》な豆を使っているのね」
「別に贅沢なんかじゃありませんよ」
「クーラーも取り替えたのね」
「ええ。音がかなり喧《やかま》しくなったものですから」
国子は感心したように香留の顔を見た。
「あんたみたいな人も世の中にはいるのねえ」
「……僕は普通の人間ですよ」
「そうなのよ。別に仕事をあくせくするわけでもない。言っちゃ悪いけど、店の方はずっと下火。あれでどうするのかなと思って心配していると、ちゃんといい女の人が来て、お金を持って来てくれる」
「……弥宵はそんなお金持ちじゃありませんよ」
「でも、お父さんの遺産を貰《もら》ったんでしょう」
「……多少はね」
「こういうのを、艶福家《えんぷくか》っていうのかしらね」
照美のことは何も言わなかったが、薄薄は気付いているようだった。照美の場合は自分で稼ぎ溜《た》めた金だったが、ばかにできない金額になっていた。もっとも、一緒になってからの照美は浪費が爆発して、ほとんどを残さなかった。照美が事故死した後は、姉とその夫だという卑しい感じの男がやって来て、夥《おびただ》しい衣装や装身具を照美の車に乗せて持って行ってしまった。
「弥宵さんは?」
と、国子が訊《き》いた。
「今日は、仕事です」
「あら……火曜と金曜はお休みじゃなかったの?」
「何でも、友達に代理を頼まれたからと言って出て行った」
「……いつまで弥宵さんに仕事をさせるつもりなの」
「まだ……様子を見ているところ」
「この前もそんなことを言っていたわね。子供は?」
「まだ」
「早く作らないと。あなただって、年でしょう」
「判《わか》っています」
「奥さんを可愛《かわい》がりすぎてもだめだと言うわよ」
「どうして?」
「あら嫌だ。ご自分で考えなさい」
「多分、それかな」
「呑気《のんき》なことを言って。子は鎹《かすがい》なんですよ。弥宵さんが浮気でもして、出て行ってしまったらどうするの」
香留は笑い出した。
「笑いごとじゃないわよ。先先週、内のパパが、友達の出版パーティがあって銀座《ぎんざ》に行ったら、弥宵さんらしい人が若い男と歩いているのを見たんですって」
「……らしい人?」
「ほら、心配になったでしょう」
「叔母《おば》さん、それを言いに来たんですか」
「そうじゃないけど、あなたがあまりに呑気らしくしているから」
「それで、弥宵らしいという人は着物だった?」
「ええ」
「柄行《がらゆ》きは?」
「パパは着物のことなんか判らないわ」
「出版パーティは、何曜日だった?」
「……次の日二日酔いで学校へ行ったから、金曜日ね」
「だったら、弥宵は仕事だ」
「休むっていう手もあるでしょう」
香留は不思議そうな顔をして国子の方を見た。
「だって、弥宵が固いって紹介してくれたのは、叔母さんだったじゃないですか」
「あら……そうだったわね」
国子はくすくす笑った。
「あまりあなた達の仲が良さそうなんで、嫉妬《やきもち》が焼けたのかしら」
「それならいいけれど、あまり驚かさないで下さいよ」
「ちっとも驚いているようには見えなかったわよ。弥宵さんを信用しているのね」
香留の本心は反対だった。
国子が帰った後、写真機の修理の手が進まなくなった。
弥宵が勤めているカルチャーセンターの着物着付教室に電話を入れると、先生は休講日で来ておりませんという返事が返って来た。
逸《はや》る気持を押え、先先週の金曜日の記憶を手繰《たぐ》ってみる。
夜、町会の役員会のあった日だった。昨年度の収支決算と今年度の収支予算案が会で取り上げられていた。弥宵はいつも四時には帰宅するのだが、その日は会合で遅くなると言って家を出た。弥宵が帰って来たのは八時近くだった。香留は弥宵と入れ違って家を出た記憶がある。
その夜のことも忘れてはいない。役員会が終り、その仲間と近くの小料理屋で軽く酒を付き合って帰宅した。店は閉められていて、勝手口から家に入ると、弥宵は湯を使っていた。
その夜、弥宵はこれまでになかったほどの強い高ぶりを示した。しかも、その表情を必死で押し隠そうとする忍苦で、最後には息も絶え絶えの姿になったのが判った。
弥宵が家で生活するようになってから、少しずつ感覚を理解するようになり、その喜びは香留の気持も直接に満足させていたので、その日の感応は最も歓迎することだった。しかし、翌日からは落着いた状態に戻《もど》った。その夜の滾《たぎ》りは体調との関係ぐらいに思ってそう気には止めなかったのだが、弥宵が嘘《うそ》を言って勤めに出たことが明らかになってみると、疑いの霧が次次と湧《わ》いてきて香留の心を埋め始めた。
銀座で胡林《こばやし》が見たという二人連れが、本当の弥宵だったとすると、あの夜の姿態は、相手の男に刺戟《しげき》された感覚が、夜まで尾を引いていたと言えそうだ。体調と解釈するより、むしろそれの方が正しいと思えた。その相手は八丈島に行き、玉石垣の前で弥宵にカメラを向けた男のような予感がする。
夕方、弥宵は帰って来た。
「昼間、胡林の叔母《おば》さんが来たよ」
「そう……お花のお礼、言ってくれた?」
「ああ。改装した家がどんなになったか、偵察に来たんだ。スタジオをなくして貸間にしたんじゃないか、とかね」
それだけだった。香留は余計なことを一切口にしなかった。
にもかかわらず、弥宵の感覚は鋭くなっていた。体感を眉根《まゆね》に集め、そこから外には洩《も》らすまいと、懸命に押し戻《もど》そうとしている。
弥宵の表情を見ているうち、もの狂おしい感情におそわれた。
照美は仕事を辞めた後でも、サリーハウス時代の客と付き合っていて、誘われると気軽に出掛けて行き、男に抱かれて帰って来ることがあった。照美にとっては、ダンスのパートナーを変えるぐらいの気持だった。それが香留に知れてもあまり悪怯《わるび》れず、
「ご免なさい。もう二度としません」
と言って、香留の胸に入って来る。呆《あき》れるほど無邪気で、だから蟠《わだかま》りもその場限りだった。無論、二度や三度の露見ぐらいでは、照美の浮気の虫は治まらなかった。交通事故に遭った日も、バーで知り合っただけの若い男と、ドライブに出たのが原因だった。男はかなり酔っていたようで、その車に乗り込んだ照美も無謀に違いなく、ただ、事故に他人を巻き込まなかったことだけが手柄だった。
ほとんど、あっ気ない別れだったが、そのためか、どうしても照美を諦《あきら》められないと思い詰めることもなかった。
その夜の弥宵に対する感情は、これまで経験したことがないものだった。それは突然胸の中で小さな嵐《あらし》となり、それがすぐにはどうしてだかも判《わか》らない。
弥宵の秘密の壁を突き崩し、その口から投降の言葉をほとばしらせなければと思った。だが、組み敷かれた弥宵は、幻想の中では泣いて不倫を告白したが、実際には香留は何も詰責することはできなかった。
弥宵もすぐには身体《からだ》を整えられなくなっていた。その姿を見て、香留はすっかり弥宵に夢中になっていることに気付いた。
それから二、三日して、何気なく見たカレンダーに、尋常でないものを見付けた。
二階の居間、弥宵が使っている鏡台の横にそのカレンダーが貼《は》ってあった。弥宵が来る前には、その鏡台もカレンダーもなかった。もし、弥宵に疑いを抱いていなかったら、生涯そんな小さな印には気付かなかっただろう。
新聞半分ほどの大きさの一枚刷り。友禅《ゆうぜん》模様風な四季の花花がコラージュされた絵で、下の三分の一ほどに十二か月の数字が印刷されている。その下に更昌《さらしよう》呉服店という文字と、Sの字を崩したトレードマークが見える。そのカレンダーの七月二十日の日付を見た香留は、その数字の右下にぽつんと黒い点が付けられているのを見付けた。それは汚れでもしみでもなく、意識的にしかも目立たないように印されていることが一目で判った。
七月二十日、金曜日。それは、国子が改装した夕城写真館を見に来た日だった。香留は悪い予感のまま、二週前の金曜日を目で追った。――七月六日、金曜日。そこにも、同じ黒い印が、心の汚点のように刻されていた。
印は五月からで、全部で七つあって、その間隔は二、三週置きだということも知った。その上、二週間後の八月三日にも同じ印を発見して、心は重くなるばかりだった。
「夕城さんの、ご主人ですね」
と、電話の男は念を押した。
「ご依頼を受けました者です」
「ああ、黒川《くろかわ》興信所だね」
香留がそう言うと、相手の口は滑らかになった。
「これまでのあらましをご報告しようと思いますが、今、よろしいでしょうか」
「待っていたんだ。頼む」
「かしこまりました。弥宵さまは九時十分にお店を出られまして、京橋《きようばし》の着付教室には九時四十五分に到着。生徒に講習をなされまして、お昼には同僚二、三人と近所の蕎麦《そば》屋でつつがなくお食事――」
つつがなくお食事という表現が変だが、香留は笑えなかった。
「三時に講習を終り、着付教室を出まして、お独りで東京駅から上野《うえの》。上野山下口を出まして、すぐステーションホテルに向かわれました。ロビーの喫茶室では、待ち人が珈琲《コーヒー》を飲んでおりました」
「…………」
「二十四、五のすらりとした男性で、弥宵さまはそのテーブルにお着きになって、しばらくはご歓談。三十分ほどで二人でホテルを出られました」
「出た? 部屋に行ったんじゃないのかね」
「取り越し苦労をしていらっしゃいますよ、ご主人。何と言いましょうか、お二人は睦《むつ》まじそうには見受けられましたが、最後のところはお守りになっているご様子でした」
「それで?」
「上野の山に向かい、美術館に入場されまして、日本染色美術展をほぼ一時間ご鑑賞。そこを出られましてから、噴水のあたりのベンチで、これはほぼ三、四十分でして、その間、お二人の触れ合いは全くなく、別れ際の握手さえなさいませんでした」
「で、別れたのかね?」
「はい。上野駅で、男性はホームまで弥宵さまを見送りました。それで、たった今、弥宵さまは電車にお乗りです」
弥宵は終業後、展覧会を見に行くので帰宅は七時になると言って、朝、家を出た。興信所へは、七時|迄《まで》の弥宵の行動を見張るよう依頼していた。七時には少し早いが、弥宵が帰途についたので、調査員は一報を入れたのだ。
「今、私の部下が、相手の男性を追っています。部下が帰り次第《しだい》、精《くわ》しい報告書を作りましてお送りいたします」
調査員は電話を切った。
二人は指も触れなかったという点だけが救いに思えた。
その日一日、今、弥宵が知らぬ男の胸の中にいるのかと思うと、いても立ってもいられない気持だった。その苦しさは、小さな救いだけでは急には平常に戻《もど》らなかった。
二人に触れ合いがなかったのは、たまたまその日だけではなかったのか。そうでないとしても、いつかは、それもごく近いうち、弥宵が靡《なび》く日が来ることは確実のように思える。もっと黒黒とした情景も目に浮かぶ。それは、二人が今の調査員に金を渡し、虚偽の報告を要求している姿だった。
電話を切ってしばらくすると、弥宵が戻《もど》って来た。見たところ、弥宵の態度は普段と変わりはなかったが、香留の誘いには鋭く反応した。二週間前と同じだった。弥宵はその夜も、喜びに身を任せるのを必死で耐え抜いた。
翌日、黒川興信所から報告書が届いた。
それによると、弥宵と落ち合った男の名は、松島清詩《まつしまきよし》。年齢は二十四歳、東京|目黒《めぐろ》区の祐天寺《ゆうてんじ》の生まれ、アートデザイナー。現在、大白《おおしろ》デザイン工房で仕事を続けている。
その二
野球帽の男は、西目と視線が合うと、くるりと後ろを向いてパチンコ店から出て行こうとした。西目は駈《か》け出して野球帽の男の肩をつかんだ。倉馬が男の前に立ちはだかった。
「ちょっと、訊《き》きたいことがある」
「何も、悪いことをしちゃいませんよ。旦那《だんな》」
何本かの歯が欠けていて、息の洩《も》れる声だった。
「お前がしたことじゃない」
と、西目が言った。
「じゃ、何でしょう」
「どうして警察だと判《わか》った?」
「本当に警察の旦那方で?」
野球帽の男はとぼけたが、動物的な勘というようなものが働いたに違いない。
西目は治作の写真を見せた。
「この男を知っているな」
男は首を伸ばしたが、すぐ目を逸《そ》らせた。一目見て判った証拠だ。
「知っているんだな」
男は狡《ずる》そうな目になって、部厚い唇《くちびる》を舐《な》めた。
「何かお訊きになりたいんでしたら、一口飲ましてくれませんかね。そうしたら、どんなことでも喋《しやべ》りますよ」
「図に乗るんじゃないぞ」
と、倉馬が凄《すご》んでみせた。だが、相手は平気だった。
「この間も、同じことを訊かれたことがありますよ。話が判る人でしてね」
「……それは、誰《だれ》だ?」
「新聞社で」
西目は倉馬に目で合図し、男に言った。
「よし、判った。どこがいい?」
「いつも行く焼鳥屋で結構です。駅前で一番酒が安いんです。ね、こう見えても、良心的でしょう」
男は二、三軒先の店に二人を案内した。焼鳥屋にしてはかなり広い店だが、まだ時刻には早く、ほとんど客はいなかった。男はもの慣れた態度で一番奥のテーブルに歩いて行った。
「ここなら、他《ほか》の者に話が届きません、ね」
若い店員が来ると、男はコップ酒を注文した。
「旦那《だんな》は?」
「茶でいい」
「……悪いみたいだな」
男は店員を見て、もつ焼きと煮込みを注文した。
「まず、名を訊《き》こう」
と、西目は言った。
「枯堀《かれぼり》って言います。名は辰之《たつゆき》。ええ、十二支の辰で」
枯堀の年は五十九。住まいは駅前からバスで五つ六つ先。二年前までは鉄工所に勤めていたが、定年になってからは定職がない。治作とよく似た境遇だった。
酒が来ると、枯堀はほとんど一息に半分以上を飲み干した。
「それで、あの男のことを訊きに来たというのは、どんな男だった?」
「新聞社の、記者だって言ってました。山梨新日の。あれで、三十五、六にもなっているかな」
「名刺をもらったか?」
「ええ」
枯堀はよれよれの紙入れの間から、真新しい名刺を取り出した。西目は手帳に「粕壁享介《かすかべきようすけ》」の名と電話番号を控えた。
山梨新日は地元の保守系の立場にある新聞だった。
「この、粕壁という男と会ったのはいつごろだ?」
「二週間ほど前でしたよ。場所も、この焼鳥屋でした」
「で、どんなことを訊《き》かれた?」
「田中とはいつから知り合いだとか、どんなことを話していたとか、私が知っていることを、全部」
「よし、じゃ、それを思い出して聞かせてもらおう」
その話によると、枯堀が治作と顔見知りになったのは、そう古くはない。一年とちょっとで、パチンコ店でときどき出会うようになってから、どちらからともなく声を掛けたのが最初だ。
「だから、粕壁に教えられるまで、あれが田中治作という名だということも知らなかったですよ」
と、枯堀は言った。
最初のうち、二人はパチンコのどの台が出そうだとか、今日はいくらいくら損をしたとか儲《もう》けたとか、そんな話題だけだったが、話をしていくうち、治作は特別パチンコだけが好きだというわけではないことが判《わか》ってきた。
とにかく、退屈して身体《からだ》を持て余しているのだ。治作の妻、粂《くめ》はアルバイトがあるようなことを言っていたが、枯堀が見るところ、治作は働く気持をとうに失っていた。
パチンコは閑潰《ひまつぶ》しの一つだ。治作がパチンコ店の常連になる前、デパートの休憩室にいて、長い間通る人をぼんやり眺めていた姿を枯堀は一度ならず見ている。
「競馬を持ち掛けてみたこともありましたが、だめでしたね。まるで、ものを覚えようとする気がないんですよ。それに、けちな男ですから、馬券を買うことができねえんです。パチンコなら、損はしてもいくらかは遊ばせてくれますからいいんです」
「金は持っていたらしいじゃないか」
と、西目が言った。
煮込みともつが焼けて来た。枯堀はその両方にたっぷりと唐辛子《とうがらし》を掛けた。
「金は持ってました。でも、使うのはその内の少しだけ。あとの金は餌《えさ》にするためのものです」
「……餌《えさ》?」
「ええ。女を釣るわけ」
「パチンコ屋で?」
「ええ、最初のうちは、ね」
枯堀は酒を追加した。店員が鉄瓶《てつびん》を下げて来て枯堀のコップに酒を満たした。
「そっと札束をちらつかせるとね、結構ついて来る女がいるんです。いえ、私じゃありませんよ。私は糖尿《とうによう》があってその気はないんですが、田中はあれでかなり腎張《じんば》りでしてね。最初はすっかり取られちゃった女の方から声を掛けられたらしいんですが、味をしめるとパチンコの方はどうでもよくなって、その方面に一生懸命でしたね」
「その方だと、けち臭《くさ》くしないんだな」
「そうなんです。よっぽど好きみたいでしたね。それでね、首尾がよかった翌日は必ずここで飲ましてくれましたよ。それで前夜のことをね、私に聞かせるんです。こと細かくね、女の形や工合《ぐあい》なんかもすっかり話すんです。その記憶は大したもんですよ。あんまりしつこくて、気持が悪くなるときもありましたけど、私はただ飲んで聞いてるだけでいい。酔っ払っちゃえば、何ともなくなりましたけどね」
「何人ぐらいの話を聞いた?」
「パチンコ屋のでは、三、四人ぐらい」
「……すると、他の場所でも治作は女を誘っていたのか」
「ええ。パチンコ屋で引っ掛かって来るのは、大抵|年増《としま》でしょう。田中はそれじゃ物足らなくなってきたんです」
「じゃ、若い女を?」
「ええ。田中は若ければ若いほどいいって言ってました」
「どこで誘っていたんだ」
「新星《しんせい》中学校の前」
「新星中学校?」
西目はびっくりした。中学生といえば、まだ十四、五だ。
「ええ。放課後、下校する生徒を待っていて声を掛けるんだそうです」
「で、ついて来る生徒がいたのか」
「……そんな恐《こわ》い顔をしないで下さいよ。私じゃないんですから。田中の奴《やつ》、例によって札束を見せるんですよ。すると、中には金欲しさにうんと言う子がいる。ねえ、旦那《だんな》。世の中、乱れてると思うでしょう」
「その話も、聞かされたわけだな」
「ええ」
「何人ぐらいだ」
「……確か、二人。最初ものにした子に、他《ほか》にも金が欲しい子がいるかと訊《き》くと、いると言う。それで、二人目はその子に紹介してもらったそうですよ。でもね、その子達ばかり悪くは言えませんよ。町の中にゃ、女の子が欲しがるものが溢《あふ》れているわけでしょう。嫌なことでも少しだけ我慢すれば、それが手に入るわけですからね」
「その子達の名を聞かなかったか」
「聞いたはずですね。……でも、覚えちゃいません」
「AとかNのイニシアルの名前だと思うんだが」
「……だめです。すっかり、忘れてます」
「身体《からだ》の特徴なんかは? それも精《くわ》しく聞かされたんだろう」
「ええ……でも、さっきも言ったように、ほとんどうわの空で聞いてましたからねえ」
「何か覚えていないか」
枯堀は答える前に酒を注文した。
「悪く思わないで下さいよ。私、三杯目あたりが、一番頭がすっきりするんです」
「新聞記者の粕壁も同じことを訊《き》いたはずだが」
「そうなんです。でも、あのときは少し身体《からだ》の調子が悪かったね。思い出したら電話をするという約束で別れたんです」
枯堀はコップに口を付け、一口飲んでから首を傾《かし》げた。
「旦那《だんな》、何でもいいですから、どんどん質問して下さい。それで、思い出すかも判りません」
「……髪の毛は、長い方か短いか」
枯堀は嫌《いや》らしく口を歪《ゆが》めた。
「だめですよ、そんなのは。田中が話すのは下の方のことばっかりです」
となると、質問も容易でなくなる。
結局、枯堀が思い出したのは、一人の生徒はアケミという名で、体毛が濃く、卵型の生え際に大きなほくろがあって、疲れを知らない。アケミは付き合うほど図図しくなり小遣いの値上げを要求したこともある。もう一人はアケミの紹介で治作が付き合うようになった。枯堀はとうとうその生徒の名を思い出せなかったが、この女の体毛は少なく、あまり男の関係はなさそうで、姿は治作が知っているうちでも最も美しかった。男に対してはほとんど無知なところが、アケミよりも気に入っているという。
最後に枯堀は言った。
「田中はいつも厚いノートを鞄《かばん》に入れて持っていましたよ。それを見たことがあるんですが、これまで誘いに乗って来た女のことが、すっかり書き込まれてます。日日《ひにち》は勿論《もちろん》、時間もちゃんと入っていて、その間、何回で相手がどんな声を出したとか、女の姿は絵にしていまして、特徴なんかがすっかり判りますよ。旦那、それを見れば、うろ覚えの私の話なんかより、ずっと確かだと思うんですがねえ」
「なるほどな。ところで、田中の家を知っているか」
「知りません。俺達《おれたち》は女みてえに家のことをぐずぐず話したことは一度もねえんです」
「ただ、賭《かけ》と女のことか」
「へえ」
「八月二十二日から二十七日まで、何をしていた」
「……普通と同じですね」
「穴沢方面へ行かなかったか」
「そんなところへは、一度も行ったことがありませんよ……一体、あの田中が何をしたんです?」
「……知らないのか。誰《だれ》かに殺されたよ」
枯堀は口に運ぼうとしたコップをそのままテーブルに置いた。
「殺された?」
「一週間ぐらい前だ」
「……本当ですか」
「誰がそんな嘘《うそ》を言う」
視線が合った。枯堀はぶるっと身震いして手を横に振った。
「旦那《だんな》……俺《おれ》がやったんじゃありませんよ。こ、これだけは誓います」
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六章 多情
その一
銀座《ぎんざ》すずらん通り。
その通りでは広い間口の楽器店で、ガラスのショウウィンドウには銀の管楽器類が軽快な光を放っている。
店の左|隅《すみ》に赤いリノリウムを敷いた階段が見えた。BBギャラリーはその二階だった。香留《かおる》は赤い階段の下に立てられた小さな看板の字「三原鏡《みはらきよう》 松島清詩《まつしまきよし》 ジョイント展」を確かめて、螺旋《らせん》を描きながら上に続く階段を登った。
小ぢんまりとした画廊だった。閉館間際のためか、受付にも誰《だれ》もいなかった。入場者らしい人影もなく、奥の方にテーブルを囲んだ三人ほどの男女がグラスを前にしている。
香留は静かに展示を見ていった。三原鏡の作品のほとんどは油彩で、近くの衛星から望観した土星、月面上の未来都市、惑星間の超SST旅客機といった空想上の風物が、恐るべき緻密《ちみつ》な筆で描き出されている。三原はSF小説のイラストの他《ほか》、映画のアートデザイナー、CM製作と広範囲に活躍している新進の画家らしい。
松島清詩にもタブローはあるが、仕事は商業デザイナーで、レコードジャケットや、商品のパッケージの原画の他、製品化されたカーテンや壁紙なども展示されている。その中の一点の前で、香留は思わず棒立ちになった。それは、弥宵《やよい》が鏡台の横に貼《は》った、一枚刷りのカレンダーの原画だった。
パネルの略歴を読む。
松島清詩、東京目黒の生まれ。東欧大学芸術学部中退、学生時代よりイラスト、小説の装画を描き、新鋭出版美術家賞を受賞。現在、大白《おおしろ》デザイン工房のデザイナーとして活躍中。
松島清詩の作品を辿《たど》っていくうち、少しずつ作品の奥が見えてきた。その特徴はかなり鍛え抜かれたらしい技術で隠されていたが、香留が感じ取ったのは、病的と言いたいほどの弱弱しさだった。
描線はどれも息切れがしているように力がなく、淡い中間色を好む意味は、原色の強烈さが恐《こわ》く、それに直面することができない繊細な感性を持つデザイナーだと読むことができそうだ。それが、作品にまとめられたとき、危険を連想させるほどの脆《もろ》さと、すぐ褪《あ》せてしまいそうな細微さが、異色の美を作り出していて、視線を受けるだけで崩れ落ちてしまいそうなたたずまいが、見る側の優しさを誘い、静かに胸に迫る美を感じるのだ。
香留はそっとテーブルを囲んでいる三人を窺《うかが》った。その中には松島清詩はいないようだ。一人は女性で、男のうち一人は中年、もう一人は髭《ひげ》を生やした筋肉質の大きな男で、どう考えても繊細な感性の持ち主だとは思えなかった。
香留が一渡り展示を見て、そっと会場を出、階段を降りていくと、背後で軽い足音が聞こえた。一階に着いたとき、その足音は近くなり、香留の横に追い付いた。
「夕城《ゆうき》さんですね」
画廊でテーブルを囲んでいた女性だった。自分の名がその女性の口から出たことが不思議だった。香留は肯定も否定もせず足を止めた。
「きっと、いらっしゃると思っていたわ」
パステル画を思わせるような、落着いた明るさのある女性だった。年齢は三十前後、ベアショルダーの黒のワンピースを着ている。
「前にどこかでお会いしましたか」
と、香留は訊《き》いた。相手はいたずらっぽい笑い方をした。
「いいえ。わたしの名を言えば判《わか》って下さると思うわ。わたし、松島|森子《しげこ》と言います」
そして、香留の顔をじっと見詰めた。
「とすると、ちょっと浅くない間柄だとは思いません?」
「……松島清詩さんの」
「妻でございます」
森子は頭を下げた。
「ちょっと、お話がしたいんですけど、よろしいかしら」
「勿論《もちろん》、浅くない間柄ですからね」
「喫茶店でも、と言いたいんですけど、今、わたし飲み始めたところなの。軽く一杯付き合ってもらえないかしら。お見せしたいものもあるし」
森子が黒いスケッチブックのようなものを抱えているのに気付いた。
案内されたのは同じ通りの新橋《しんばし》寄り、横丁を入ってすぐ、狭い階段を登ったところにあるバーだった。
「展覧会の間、閉館するとここで飲むことにしているの」
森子はもの慣れた態度でカウンターの奥に行き、キープしてあるボトルを取り寄せた。香留が腰を下ろすと、森子は腕が触れるほどのところに椅子《いす》を引いた。
「何にします?」
「ソーダ割りかな」
「あら、気が合うわ。わたしもソーダにしているの」
バーテンは二つのグラスにハイボウルを作って二人の前に並べた。森子のグラスの色が濃かった。
「乾盃《かんぱい》しましょう」
バーテンの目に、気のせいか敵意が感じられる。
「清詩に会いにいらっしゃったの」
「顔ぐらい見ておきたいと思ってね」
「顔だけ?」
「そう」
「顔だけで、いいんですか」
「まあね。僕は気の弱い質《たち》だから」
「……顔を見たら気が変わると思うわ。あの人、あなたなんかより、ずっと弱いのよ」
「まあ、格闘したって、仕方がないと思うしね」
「じゃ、決闘もできないのじゃない」
「君は恐いことを平気で言うね」
森子は気っぷのいい飲み方をした。森子の方が濃いのに、先に空になった。
「思ったより、夕城さんて落着いているのね」
「思ったより、年だと言いたかったんでしょう」
「年を訊《き》いちゃ、悪いかしら」
「悪くはない。弥宵より五つ年上だ」
「ご結婚は?」
「今年、三月」
森子はびっくりしたようにグラスを置いた。
「じゃ、まだ新婚ね」
「年甲斐《としがい》もなく、ね」
「それで、よくそんなに落着いていられるわね」
「落着いていやしない。恐慌《きようこう》に陥《おちい》っているのさ。だから、こうして相手の男を確かめにやって来た」
「……あなたより、弥宵さんと清詩の方が古い付き合いのようね」
「多分ね」
「どれほど古いか判《わか》る?」
「見当も付かない」
「これを見れば、見当ぐらいは付きそうね」
森子は膝《ひざ》の上に置いてあったスケッチブックを取り上げた。
開くと、どのページも裸婦のデッサンだった。
「松島さんの絵だね」
「判る?」
「うん。いつ描《か》いたのか知らないが、ちゃんと松島さんの線の特徴が出ている」
「そんなの、問題じゃないでしょう」
「モデルの方かね。それなら、一目で弥宵だと判った」
「確かでしょうね」
「うん。身体《からだ》付きも、生え際の感じも」
森子はちょっと振り返った。遠くにいたバーテンが視線を逸《そ》らすのが判った。
「これ、清詩が大学に入ったばかりのときのよ」
「……なるほど、じゃ古い」
「わたしとの付き合いよりも古いのよ」
森子はグラスを傾けて氷を口に入れ、音を立てて噛《かじ》った。健康そうな白い歯だった。
「ちゃんとしたタブローもあったわ、捜すのに、ちょっと苦労したけど」
「松島さんが隠していたのかね」
「そう。問い詰めれば、本人はそんなつもりじゃなかった、と言うでしょうけどね」
香留はスケッチブックのページを繰《く》っていった。森子が覗《のぞ》き込む。
「弥宵さん、淫《みだ》らな表情だと思いません?」
「そうだな。しかし、描き手の気持も勘定に入れないといけない」
「弥宵さんには好意的なんですね」
「でもないが、こんなデッサンがあったとは信じられなかったんでね。弥宵はひどい羞《はず》かしがり屋だから」
「ベッドでは違うんでしょう」
「いや、同じさ」
森子が淫らだと評した気持が判る。困惑と喜びとが重なり合っているデッサンがある。その表情と、克明な画家の描法は、ほとんど春画と言っていいだろう。
「正直な気持を聞きたいわ。これを見て、平気でいられるんですか」
「少しも平気じゃない。年でね、感情がなかなか顔に出にくくなっている」
「あなたが気付いているのを、弥宵さんは知っているの」
「いや……まだ知らないと思う。僕だって、少し前までは、松島清詩という名も知らなかったんだ」
「興信所かなにかで?」
「そう」
「報告書には、どんなことが書いてあったの」
香留は二人はホテルのロビーで落ち合ったが、美術館に入っただけで、手も触れなかった、と教えた。
「それを信じてるの」
「信じやしないさ。君の話を聞いてからは、なおさらだ」
森子はじっと考え込んだ。
「僕ばかり喋《しやべ》らされているみたいだな」
香留はハイボウルのお代わりをした。
「君も人に頼んだのかね」
「いえ。わたしは独りで清詩の後をつけたの」
「そりゃ……頼もしい」
「ひどく、屈辱的だったけれどね」
「で、現場は押えられたかね」
「だったら、とうに、片が付いているわよ」
「でないとすると……僕が受け取った報告と同じようなものかな」
「そう。でも、わたしの勘ではとうに深くなっているわ」
「いつごろ?」
「このデッサンを描いたころ」
それが違うことは判《わか》っていた。だが、ここで弥宵の初夜の話をする気はなかった。
「ご亭主の勘は?」
と、森子が訊《き》いた。
「勿論《もちろん》、大いに疑うね。しかし、証拠がない。だから、弥宵を責めることができない」
「……わたし達、同じ被害者なのね」
「松島さんを、愛しているんだね」
「勿論よ。人間も、才能も。だから、口惜《くや》しいのよ」
「僕達、どこまでも、似ている」
「ねえ……」
森子は残りのグラスを一息に空《あ》け、香留の方を向いた。目が、光っている。
「ねえ……一緒に、復讐《ふくしゆう》をしませんか?」
艶《つや》のいい黒のストレートへアで、襟足《えりあし》を短く刈り上げている。だから、最初の印象は、少年のような明るさが目立ち、女が見えにくかった。
それが、二人だけになると、森子は鮮《あざ》やかに変身した。喉元《のどもと》から胸への起伏が、水水しい変化に富み、それを見ていると短く刈り上げられた襟足《えりあし》の青白さが、今度は妖《あや》しい色気となって迫ってくる。曲線の景観は、腰にかけてひとしお複雑な陰影を重ねている。
全身は均整のとれた固肥《かたぶと》りで、肌《はだ》が美しく陽焼《ひや》けしていた。しかも、全く水着の跡が見えない。
「近くの太陽じゃなさそうだな」
と、香留は言った。
「そう。グアム島の海岸で一週間。肌が縞《しま》になるのが嫌いなの」
「それは見る方も同じだな」
森子は相手の視線を楽しんでいるようだった。
「海と太陽か……よく似合っていたと思う」
「夕城さん、写真館でしょう」
「うん」
「今度、撮《と》ってもらえないかしら」
「歓迎するが……ご主人は?」
「あの人はだめ、弥宵さんしか目にないわ」
森子の身体《からだ》付きや、考えまで照美《てるみ》とよく似ていた。森子もいろいろに要求し、それをきいてやると喜ぶ質《たち》だった。ただ、違うところは照美よりずっと早い速度で頂上に駆け登ったことだ。
言われるまま味わっていた香留は、いきなり髪の毛をつかまれた。
「お願い、来て」
ほとんど、悲鳴に近い。
「どうしたんだね。まだスタートじゃないか」
「凄《すご》いのよ。こんなの初めて……」
「変則だからかな」
森子は返事もしなくなった。口をきく余裕もないようだ。
静かにまとまると、相手は言葉にはならない歓声を続けた。身体《からだ》の動きも積極的だった。ひたすら疾走するという感じで、香留も相手に付いて行くことにした。
すぐ歓声が切羽詰まり、左右に振っていた首が急に荒荒しくなった。森子が最後の声を絞り出して身体を突き上げてから、二、三呼吸して香留も相手に追い付いていった。
「短距離競争みたいだった」
と、香留は言った。
森子は肩の上に頬《ほお》を寄せてきた。初めて見せる可愛《かわい》らしい態度だった。
「あなたって、凄いわ。ちゃんと、合わせてくれたし」
「遠いのは嫌いかね」
「そうでもないんだけれど、今日はどうかしちゃったの」
「だから、特別だからさ」
「大きな声をしたでしょう」
「知らなかったのかい」
「……ばかね」
「その方がいいんだ。健康的だと思う」
「そうかしら」
「よく、おかしくても笑わない、悲しくても泣かないという人がいるけど、それは不自然だね」
森子はいたずらっぽい目を向けた。
「弥宵さんは、どうなの?」
「……不自然な方かな」
森子は香留の右指を握った。
「あなたの技《わざ》で、でも?」
「うん」
「声も立てないわけ」
「我慢強いんだ」
「特別な場合だったら、そうじゃないとは思わない?」
「…………」
「弥宵さんは、清詩となら、我慢できなくてありのままを晒《さら》しているかも知れないのよ」
森子は指を放し、その手を下に滑らせていった。
「ほら……もう、こんなに怒っている」
香留はされるままでいた。
「これから、どうしよう」
「勿論《もちろん》、見逃しにすることはできないわ」
「……矢張《やは》り、証拠を突き付けるのが一番だ。まだ、手に入っていないけれど」
「……一つだけ、手掛かりになりそうなのがあるんだけれど」
「自信は?」
「聞いて頂戴《ちようだい》。去年の十二月、清詩は三日ほど八丈島《はちじようじま》へ絵を描きに行ったの。あの人、旅行が好きで、気が向くと雨だろうと風だろうと出て行く。勤めといっても、普通のサラリーマンより自由ですから。最初のうちはわたしもついて行ったんですけど、清詩は観光地を避けて、気に入った景色があると一日でも二日でも同じところで絵を描いている。面白《おもしろ》くないでしょう」
「それで、八丈も独りだったんだね」
「そのときは。いつもの旅だと思っていたわけ。今考えると、そのとき、弥宵さんも一緒だったんだわ」
「……それは勘かね」
「いいえ、写真があるわ」
「…………」
「ちゃんと、弥宵さんが写っているわ」
森子は腕を伸ばし、スツールの上に置いてあったバッグを引き寄せた。中から取り出した写真を見ると、玉石垣を背にした弥宵がいた。国子《くにこ》に見せられた写真と多少弥宵の表情は違っているが、そのとき同時に撮《と》られた一枚に違いない。
「清詩のショルダーバッグの中から見付けたの」
森子は自分のバッグをスツールの上に戻した。
「ネガは?」
と、香留が訊《き》いた。
「そうね。ネガがあれば八丈島だということがはっきりするわね。きっと、会社に置いてあるんだわ」
「いや、この石垣は珍しい。八丈にだけ残っているものかも知れない」
「調べてくれる」
調べはとうについていたが、香留はうなずいて写真をナイトテーブルに置いた。
「十中八九、決まりだな」
「……憎らしいわ」
森子は大胆な姿で身体《からだ》の上に覆い被《かぶ》さってきた。
「ねえ……わたしにもリードさせて」
香留は両腕を頭の下に廻《まわ》した。
その二
西目《にしめ》は枯堀《かれぼり》の話を聞いた後、すぐ山梨新日社に電話を入れた。ちょうど、粕壁《かすかべ》は社で仕事をしていた。
「ご無沙汰《ぶさた》をしています」
と、粕壁は愛想よく言った。
粕壁は事件以来、記者会見の席などに顔を見せていたが、西目と直接話をしたことはなかった。
「会って少し話を聞きたいんだがな」
と、西目は言った。
「田中治作《たなかじさく》の件でしょう」
「まあ、そうだ」
「どこにいらっしゃいます」
「駅前の二三六ワールドのあたりだ」
「判りました。じゃ、その二階に喫茶店があります。よろしいですか」
「うん、待っている」
西目は倉馬《くらま》と二階に登った。
かなり広く、女店員に若い女性を集めているせいか明るい感じの店だった。一つ一つの席がゆったりとしている。西目は窓際の席に着いた。
「段段、判《わか》ってきましたね」
と、倉馬が言った。
「枯堀が見たというノートはどこへ行ってしまったんでしょう」
「犯人が持って行ったのか」
「しかし、治作はかなり筆まめな男だったと思えませんか」
倉馬は追及するような口調で言った。ともすると、そんな態度が生意気に見えることもある。だが、西目は黙ったまま非難するような人間は嫌いだった。西目は倉馬の考えを聞くことにした。
「あのノートは氷山の一角だと思います」
「すると?」
「治作は同じような記録を山ほど持っていたんじゃないでしょうか。その他《ほか》にも、本とか、ビデオテープとか」
「……それが、かけらも見付からなかった」
「それを処分したのは田中|幸明《こうめい》でしょう」
「だとすると、幸明は犯人の側に加担していることになる」
「結果的にはそうです。しかし、幸明は犯人が逮捕されるより、治作の性癖が公《おおやけ》にされない方を取ったんです」
「判るな。幸明の父親が変態的な漁色家だとすると、若く清潔なイメージを売り物にしている幸明にとっては、大変なマイナスだ」
「治作の妻の粂《くめ》は、治作がノートを作っていたことを知っていたんでしょうか」
「知っていたと思う。それで、幸明に相談したはずだ」
「幸明を問い詰めたら?」
「難しいな。相手が相手だし、一つ一つに目を通して処分する閑《ひま》などなかったと思う。治作が相手にした女の名など覚えていないだろう」
大通りを粕壁が渡って来る姿が見えた。歩行者は夕日を半身に浴び、長い影を引き擦っている。
すぐ、粕壁が喫茶店に入って来て西目達を見付けた。
山梨新日の記者、粕壁|享介《きようすけ》は三十五、六。黒の角縁の眼鏡《めがね》を掛け、骨張った色の黒い顔は一見、山男風だが、話し始めると相当に世間擦れしていることが判る。
「枯堀と会って来たばかりだ」
と、西目は言った。
「そうですか。さすが、ですね」
「いつから治作を追い廻《まわ》していたんだ?」
「三週間ほど前からです」
「治作が殺される前だ」
「ええ」
「治作には直接会っているのかね」
「いいえ。会えば用心されてしまいます」
「どうして治作を追うようになったんだ」
「枯堀から聞きませんでしたか」
西目達がどこまで知っているか値踏みするような調子だった。西目が黙っていると、もう知れているのだから構わないというように軽く口を開いた。
「そのころ、ある噂《うわさ》を耳にしたんです。新星《しんせい》中の生徒が売春をしているらしい、というんですがね」
「…………」
「その噂が本当なら、事件でしょう。それで、取材に取り掛かったんです。新星中の生徒の何人かに当たってみると、どうもそれらしい気配がある。というより、知らない生徒は一人もいないほど、広まっていました。田中のおっちゃんがお金をくれる、というんですがね」
「田中のおっちゃん……」
「ええ。実際に、下校の途中、学校の近くの道傍《みちばた》で声を掛けられた子もいました。その子はたまたま独りだったので、怖くなって逃げ出したというんですが、三、四人ぐらいのグループになると強いですよ。ある子は田中のおっちゃんを皆でからかった、と言っています」
「で、田中のおっちゃんの後をついて行った子は?」
「残念ながら……確認できませんでした。あの新星中学は風紀が厳しいんで有名な学校です。髪形なんかも規定されていて、唇紅《くちべに》、マニキュア全《すべ》てだめ。見付かると父兄に呼び出しが掛かるほど。そうなると、生徒同志、互いに助け合う空気が自然に濃くなるもんなんですね。ある子が規則を犯して見付かりそうになると、皆で庇《かば》い合うんです。今度の場合もそうで、田中のおっちゃんから金を貰《もら》った子がいるには違いないんですが、何人かはそれを知っているのに、生徒以外の者には、絶対に教えない」
「学校はそれを知っているのかね」
「多分、とうに知っているでしょう。でも、完璧《かんぺき》な箝口令《かんこうれい》が敷かれていますね。もっとも、生徒が生徒ですから、誰《だれ》が田中のおっちゃんから金を貰ったかまでは突き止めていないと思いますが」
「田中のおっちゃんが治作だ、とは?」
「それも、知らないでしょう」
「君はどうして治作だということが判ったんだ?」
「だって、名が同じでしょう」
「田中という名はどこにでもある。本当は、どこから手掛かりをつかんだんだ」
粕壁は当惑したような顔をした。だが、話しだすと得意気に見えた。
「そのころ、田中幸明のことを調べていたんです。最近、ここじゃ話題の人でしょう。まず、次期の市長の椅子《いす》は幸明のものになるでしょうね。山梨新日は保守派ですが、後押しする人間のことをよく知らなければ、というわけ。その生い立ちを見ると、これが想像以上に恵まれているんです。学歴、容姿、運、悪いところは一つもない。それを並べ立てると限りはありませんし、本題と外れますから略しますが、ただ一つだけ気に入らないところに気付いたんです」
「…………」
「それは幸明の血統。血筋がよければ、勿論《もちろん》、それを表面にかかげるでしょうがね。幸明の場合にはそれがない。ばかりではなく、意識して幸明は父親のことに触れないんです。治作が東京でタクシー会社の会計係を勤め上げていたことはすぐ判《わか》りました。ねえ、刑事さん。結構じゃないですか。父親は地味な一生だったけれど、真面目《まじめ》なサラリーマンだったんです」
「そうだな。羞《はず》かしがるようなことじゃない」
「むしろ、サラブレッドでない方が、庶民の共感を得ると思いますよ。僕はその治作が、定年になって穴沢《あなざわ》のような田舎《いなか》で生活していることなんか、少しも知りませんでした。今度調べてそれが判り、意外な気がしました」
粕壁はちょっと胸を反らせた。
「この事件の起きる前でしたけれど、僕は東京へ行って来ました」
「ほう……」
「治作が勤めていたタクシー会社へ行ったんです。治作を知っている社員がいましてね。話を聞くことができました。刑事さん、治作が女癖が悪かったのは、質《たち》でしたね」
「……昔からか」
「ええ。仕事は信用されていたようですけど、陰気な性格で親しい友達はいません。当然、評判はよくないんですが、治作が女を見る目が気持が悪かったそうです。実際に、可愛《かわい》らしそうな子が入社すると、すぐ声を掛ける。それも、嫌らしくねちねちしているんで、そのためにすぐ退社してしまう子も少なくなかったそうです」
「それでも、中には――」
「それが、一人もいなかった。社長が一策として治作を女子社員から隔離してしまったし、先輩は新入社員に注意するようになったから、誰《だれ》も治作を相手にする女はいなくなったんです。噂《うわさ》では商売女からも嫌われていたようです」
「じゃ、大きなごたごたは起こさなかったわけだな」
「ええ。僕も何かあるんじゃないかと思っていたんですが、逆でした。でも、東京へ行ったことは無駄《むだ》じゃありませんでした。治作について、面白いことを教えてくれた元の同僚がいたんです」
粕壁は少し声を小さくした。
「治作はタクシー会社へ勤める前、十年あまり高校の教師をしていたことがあります」
「教師を?」
意外な言葉だった。西目は思わず身を乗り出した。
「かなり、気になるでしょう。担当は社会科の歴史だったそうです」
「……歴史ね」
「もっとも、歴史を専門に勉強したわけじゃなく、ほら、敗戦直後のごたごたで、どこでも教師が不足していたでしょう。大学では碌《ろく》に勉強はしなかったが治作は一応、大学を卒業して教師の資格を持っていたんで、高校の歴史ぐらいは教えることができたんでしょう」
「とすると、それはどこの高校だ?」
「判《わか》りません」
「タクシー会社に、治作の履歴書は残っていなかったか?」
「残っていました。見せてもらいましたがね。職歴のところは空白になっていましたよ」
「空白……」
「二つの場合が考えられますね。一つは自分に箔《はく》を付けるため、同僚に嘘《うそ》を言った。もう一つは、教師を辞めた理由が人に言えないようなことなので、履歴書には書かなかった。どっちでしょう」
「それで?」
「それまでです。会社からもういい加減にしろと言われて。自費で追い続けるほどの茶人でもなくってね」
粕壁は最後に言った。
「刑事さん、後をお願いしますよ。きっと、治作は面目ないことで教師を辞めたんだと思いますよ」
保守派の山梨新日では、田中幸明の美談以外は不必要なのだ。
「こういうのって、西目さん好みですね」
と、倉馬が言った。
倉馬は相手が権力で事件を揉《も》み消すようなことをすると、西目がすぐむきになる性格なのをよく知っていた。
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七章 禁断のにおい
その一
BBギャラリーで、初めて森子を知った翌日、香留《かおる》は電話で、弥宵《やよい》が写っている写真の背景は、八丈島の大里《おおさと》にある玉石垣に違いないと教えた。
次の日、今度は森子の方から電話で、相談したいことがあるから、出て来て欲しいと言ってきた。
香留は店を閉めてから、BBギャラリーへ出向いた。相変らず入場者は少なかった。森子は待っていて、近くの喫茶店へ案内した。
「話が済むまでは、酔わない方がいいと思うの」
森子は真面目《まじめ》な顔で言った。
「複雑になってきたのかね」
「そうじゃないけれど、判断を誤るといけないと思って」
観葉植物の多い、明るい喫茶店だった。森子はレモンスカッシュを注文した。前からそうしようと決めていたようだ。香留もウェイトレスに同じものを、と言った。
「清詩は何もかも白状したわ」
「八丈の写真がものを言ったんだ」
「ええ」
「偉いな。僕の方はまだだ」
「どうして」
「逃げられるのが恐《こわ》い」
おどけたつもりだったが、森子の表情は変わらなかった。
「清詩は前から弥宵さんを知っていて、一緒に八丈島へ行ったこと、その後もわたしに内緒で、ときどき弥宵さんと会っていたことを認めたわ。深く愛している、ということもね」
「……穏やかではないな」
「けれども、清詩はただそれだけだと言うの」
「……結ばれたことがない?」
「ええ、一度も。ばかにしているでしょう。二人だけで三日も旅行に出て、何もなかっただなんて、よく抜け抜けとそんなことが言えるわ」
「……君は、信じない?」
「信じるものですか」
「いや、僕はちょっと違う」
「違うって……」
ウェイトレスが注文を運んで来た。森子は口をつぐんだ。ウェイトレスが去ると、森子は荒荒しくストローをグラスの中に突き立てた。
「少なくとも、弥宵が僕と結婚する前には、それはなかったと思う」
「……彼女、知らなかった?」
「うん。最初の二日はだめだった。出血してね。三日目に、やっと、受け入れることができたんだ」
森子は考え込んでしまった。
「ただし、その後のことは判《わか》らない。松島さんの話を聞くしかない」
「不思議な一致ね。わたし達もそうだったの」
「初めての夜のことかね」
「ええ」
「君が?」
「いえ、わたしは経験があったけど、清詩の方が、ちょっとね」
「ふうん……」
清詩は大学中途でパリに渡って絵を学んだことがある。しばらくすると、人付き合いの下手《へた》な清詩は、孤独と不安に悩まされた。
ある夜、酔いにまかせて街の女の誘いに乗ったのだが、初めて開いて見た女は想像もできないほど毒毒しくグロテスクだった。欲望をなくした清詩に気付いて、相手は軽蔑《けいべつ》し、罵倒《ばとう》した。
元元、清詩は潔癖な質《たち》で、性を罪悪視する傾向があった、という。後になって判ったのだが、その外国女性との最初の出会いがたまたま不運で、それが更に性への嫌悪を強めた。
「その傷を、君が治してやったことになる」
と、香留は言った。
「そうなのよ。それなのに、ひどいでしょう。夕城《ゆうき》さんの場合だって同じだわ」
「ところで、二人はいつから知り合うようになったんだね」
「……それが、愚にも付かないの。清詩が言うには、もの心付かないときから、弥宵さんの姿を覚えているんですって。彼、フランス語を使ったわ」
「既視感……って奴《やつ》かな。フランス語は知らない」
「デ ジャ ヴュ。映画の題にもなっているわよ」
「すると、松島さんは生まれたときから弥宵を知っていたのか。ロマンチックじゃないか」
「夢想家なのよ。古臭《ふるくさ》い因果話じゃあるまいし」
「いや、本当にそうなら、素晴らしいと思うな。小さいときから夢の中の女性に憧《あこが》れていて、その人が現実の姿になって目の前に現れたら、僕だって黙っちゃいられない」
「夕城さんにもそんな人がいたの?」
「……残念だが」
「いなくても当たり前よ。清詩は独りっ子だから美しい姉のような女性を夢に描いていたのね」
「なるほど」
「お父さんは日本輸出入銀行の事務局長。わたしが結婚するときには亡くなっていなかったけど」
「固そうな仕事みたいだ」
「でも、そのお父さんと本当の血のつながりはないようなの」
「ほう……」
「清詩が高校生のとき、お父さんは肝炎で入院して、結局、その病気が命取りになったんだけど、そのとき、清詩は両親の血液型を知って、自分が本当の子じゃなかったことが判《わか》ったのね」
「すると、ますます、孤独だな」
「きっと、それから夢の中の女性がどんどん育《はぐく》まれていったのね」
「それが、なぜ弥宵なんだろう」
「多分、好きな女優の面影《おもかげ》とか特別印象の強かった人の目とか鼻とか――夢の中の人なんて、大体そんな風にして作られていくもんじゃないかしら」
「そうだね。松島さんは絵描《えか》きだから、イメージを作る能力が強いんだろう」
「清詩が女性を描くと、皆、弥宵さんの顔になるわ」
「……君はちょっと弥宵のイメージからは遠い」
「それはそうよ。わたし、押し掛け女房だもの」
「年齢は?」
「わたしの方が六つ上」
森子は神保町《じんぼうちよう》の画材店に勤めていて、そこに出入りする清詩と知り合った。森子の方が全《すべ》てに積極的だったという。清詩がパリから帰って来た年、故国の女性で、親しく話し合えるのはあまりいなかった。
「それで、現実の弥宵と知り合ったのは、いつだろう」
と、香留は訊《き》いた。
「清詩がパリへ行く少し前、アルバイトで大白工房へ出入りするようになってから。清詩は街で弥宵さんを見掛けて、夢中で声を掛けたようね」
「偶然に?」
「そう。ちょうど大白工房で、和服のカタログを作っていた最中で、弥宵さんぐらいの年齢のモデルを捜していたときだったわ。ところが、なかなか和服のしっくりするモデルがいない。そんなとき、清詩は弥宵さんと出会い、モデルになって下さいと頼み込んだわけね」
森子はグラスを傾け、ストローで氷をすくって口に入れた。
「しかし、松島さんはそれ以上、深くは付き合っていないと言うわけだね。無論、君は信じはしないが」
森子は氷に歯を立てて音をさせた。
「考えが変わったわ。夕城さんの話を聞いてから」
「……二人の関係は最初のまま?」
「そう考えても、不思議はなさそうね。だから、余計、口惜《くや》しくなる」
森子の感情が判《わか》ってくる。長い間、清詩の胸の中で作り上げられた弥宵像は、かぎりもなく神聖なものになっていて、すでに清詩の神なのだ。森子などとは、違う次元に存在する女性に違いない。
森子の言葉が強くなった。
「清詩は女の本性を羞《はず》かしく穢《けがら》わしいものだと思っている。それで、弥宵さんにそれを求めないのよ。弥宵さんは夢の中の女神だから。とても自分の手で汚すことができないんだわ」
「ただ、この上もなく純粋な愛を守っていたかったんだな」
「その癖、欲望の方はわたしで済ましてきたんだわ。清詩はわたしのことを排泄《はいせつ》の道具だと思っているんだ」
「……そりゃ、ちょっと言い過ぎだと思う」
香留は森子をなだめるように言ったが、同時に、清詩と会って帰って来たときの弥宵の反応を反芻《はんすう》していた。
その夜、決まって弥宵はいつもとは違い、激しく燃え盛るのだが、それは強い欲望を耐え忍んだ後だったからではないか。
「大昔、セックスは豊穣《ほうじよう》の祈りが込められた儀式だったはずだがな」
と、香留は言った。
「そうよ、ちっとも嫌らしいものじゃないはずだわ」
「ところが、人の心には、セックスをあからさまにしたくない一面もある。どの国でも坊さんはだいたい禁欲者で、それが聖人として尊敬を受けてきている」
「そんなの、古い考えよ」
「多分、そうだろうな」
「あの二人、まだ古い道徳に縛られていて、うわべだけを取り繕《つくろ》っているのよ。心の中は逆に欲情でどろどろしているのよ。清詩は芸術のためとか何とか言って、弥宵さんをモデルにしたんでしょうけど、本心は弥宵さんの裸が見たかっただけなのよ」
「……欲望を創造のエネルギーにすることを昇華というらしい」
「そんな難しいことは判らないけど、清詩のデッサンを見たでしょう。あの絵はちっともよくないわ」
「それは同感だ。欲望が生まに出ていると思う」
「そんなの、嫌らしく不健康だと思う」
「……難しいな」
「何か、判らないことを言った?」
「そうじゃなくて、たとえば、松島さんと弥宵が、ごく普通に結ばれていたとする。その方が、堪えられるのかね」
森子は言い終らないうちにうなずいた。答えを用意していたようだった。
「目をつぶることはできないけど、その方がさっぱりしているわ。こんなやり方で裏切られるのは我慢できないわ」
香留は照美ならきっと同じことを言うだろうと思った。
森子は空になったグラスを取り上げ、透かすようにして見詰めた。
「毀《こわ》したくなったな」
「え?」
「粉粉にしたら、普通の土に戻《もど》るでしょう。そうしたら、清清するだろうな」
「清純な愛を、かね」
「ええ。気取り返ったあの二人の付き合いを粉粉にするのよ。そんな不自然なやり方は、本当の愛なんかじゃないってことを思い知らせてやるのよ」
「ありふれた浮気の関係に引きずり落とすわけだね」
「ええ。それとも、弥宵さんを清詩に抱かせるのが嫌?」
「……君を知ってしまったんだから、嫌と言えば自分勝手すぎるな」
「じゃ、いいのね」
「いい。しかし、どうやって、二人を結び付けるのかね」
森子は口を歪《ゆが》め、怪しく笑った。
「普通じゃ、だめね」
「勿論《もちろん》だ。二人共、長い間理想を築き上げてきたんだからな」
「わたし達が加われば、うまくいくと思うわ」
「加わる……どう加わるのかね」
「四人で、宴会を開くの。二人を酔わせて、相手を変えるように仕向けるの」
「それは……かなり大胆な考えだ」
「夕城さんはどうなの。古い考えに支配されている方なの」
「……正直に言って、君の発想には及ばない。けれども、いつも弥宵の応接をもどかしく思っている。つまり、いろいろな経験をしたい、という願望があるということかな」
森子は持っていたグラスを置き、身体《からだ》を乗り出して声を低くした。
「清詩は近いうち、仕事で山梨の塩山《えんざん》へ行くことになっているのよ。新しくできるワイン工場の広告のシステム アプローチを受け持ったの。宿泊は工場の近くにある笛吹《ふえふき》温泉。わたしもそのときは清詩について行くわ。夕城さんも弥宵さんを連れて来るの。そして、偶然のような顔をして出会うわけ。わたしと夕城さんは、幼馴染《おさななじ》みといった役でね」
「……ちょっと年が違うが、うまくいくかな」
「いくわよ。清詩が嫌だと言ったら、そのときは裏切りを責め、必ずうんと言わせるわ」
森子は自分の計画に酔い、顔を紅潮させた。
その二
その夜の捜査会議は捜査員達に熱が入っていた。
最初に、折井《おりい》捜査主任が、田中家の検証報告をしたが、田中家からは治作の日常生活を窺《うかが》わせるような書類や手紙の類《たぐい》はほとんどなく、まして犯人とのつながりを思わせるような品物も発見されなかった。
「治作の妻、粂《くめ》は家に昔の手紙などがないのは、東京の板橋《いたばし》に住んでいたとき、火災で類焼を受けたからだと言っています。管轄の署に電話で問い合わせたところ、確かに該当《がいとう》する火災が四年前に発生していました。ただし、田中の家がどの程度の被害を受けたかは、同じ被災者の証言が必要でしょう。必要があれば捜査員を東京に向かわせます」
折井は更に、それにしても残っているものがないことに不審を抱き、家の周りを捜査したところ、焼却器があって、その隅《すみ》に一つのボタンが転《ころ》がっていたのを発見したという。更に精《くわ》しく焼却器を調べると、内側にべっとりとタール状のものがこびり付いていた。
「つまり、その焼却器で紙などの外、衣服やビニールのようなものまで焼却されたと思われるのです。灰などは最近処分されたようですが、近所の人が、昨夜遅くまで、風の工合《ぐあい》でときどき焦げ臭い臭《にお》いがしていたと証言しているところから、昨夜、田中家では大量のものが焼却されたようです」
と、折井は言った。
次に田中幸明の身辺を捜査している刑事が幸明のアリバイを報告した。
それによると、幸明の日課は分刻みであり、秘書が日程を決めて幸明と一緒について廻《まわ》っている。その間、幸明だけが独りで穴沢《あなざわ》の殺害現場に行くことは不可能だ。甲府《こうふ》にある幸明の事務所から往復一時間掛かる。十分や二十分なら何とも言えないが、一時間も幸明がいなくなれば、事務所は恐慌《きようこう》状態に陥《おちい》る。幸明は几帳面《きちようめん》な男だから、気ままにいなくなって、事務所の者を心配させたことは一度もなかった。
ただし、日曜日は別で、この日だけ幸明は仕事から完全に離れることにしている。八月では二十六日がその日に当たる。
「もっとも、幸明の家に住み込んでいるお手伝いさんの話では、幸明は旅行の予定があって一日中忙しく、外に一度も出なかったと言っています。もっとも、夜中のことは判《わか》りませんが」
「じゃ、翌日、二十七日から幸明は甲府にいなかったのか」
と、土橋《どばし》署長が訊《き》いた。
「そうです。二十七日は早朝に東京へ出発しまして、党本部へ行ったりパーティに出席したり、矢張《やは》り分刻みのスケジュールをこなしていました」
「帰って来たのは?」
「翌翌日の二十九日です」
治作の屍体《したい》が発見される二日前だ。
「幸明の宿泊場所は?」
「市の宿舎です。この宿舎は監視が厳重で、出入りの者は守衛が一一《いちいち》チェックしています。それによると、幸明が夜分、宿舎を出入りしたことは一度もないようです」
治作の死亡推定日は八月二十二日から二十七日までの六日間と報告されている。もし、幸明が何かの理由で穴沢に行ったとすると、日曜日以前の夜中ということになる。
捜査本部は治作の所持品を処分したのは、幸明だという考えに傾いている。その行為は犯人を庇《かば》うためか、それとも警察に知れると幸明自身が困るようなことがあるのかはまだ判らない。
次は西目が報告する番だった。
西目は手帳を開き、パチンコ店の常連、枯堀《かれぼり》と、山梨新日の粕壁《かすかべ》から聴取したことを報告した。捜査員達が真剣になって耳を傾けているのが判った。話が終ると土橋署長が言った。
「なるほど、そういうことなら、幸明が治作の悪癖を表向きにしたくない気持が判る。清潔さで人気を得ている幸明としては、一大事だろうな。前市長の二の舞いを踏むことになりそうだ」
前市長は女性とのスキャンダルが表沙汰《おもてざた》になって身を引いたばかりだった。
「しかし、前市長の場合は自分のことでしょう。幸明の場合は、親です」
と、倉馬が言った。
「うん。君の考えは合理的だ。外国だったら、どうということはないさ。だが、この国では事情が違う。いつだったか、殺人犯人の親が周囲からの攻撃にたまらず、自殺したことがあったじゃないか」
西目が言った。
「それにしても、その女生徒を突き止めるのは難しそうです」
土橋はうなずいた。
「難しそう、ぐらいならいいが、最高に困難だろうな。第一、新星中学の校長が絶対にそれを認めまい。また、枯堀が聞いたという生徒の特徴が特徴だから、身体検査をすることもできまい」
西目は手帳に目を落とした。昨日、田中の家の電話リストから写し取った数字が並んでいた。一度ならず確かめてみたが、普通の家庭とはほど遠い持ち主だった。
西目は煙草《たばこ》をくわえ、ライターを出そうとしてポケットを探った。そのとき、触り慣れぬものが指に当たった。取り出すと、ゲームセンターのコインだった。何気なく表裏を返していた西目は、思わず声をあげた。
「どうかしたんですか?」
倉馬が声を掛けた。
「いや……その女学生の、電話番号が判《わか》ったような気がしたんだ」
鯛《たい》を抱えている恵比須《えびす》の像の面で、コインの周囲に彫られた「236WORLD 1984」という文字の配列を見てあることに気付いたのだ。年号の数字の両側は、一字分の空きがあり「236WORLD」という文字の両端に隣接している。空き分の二字を加えると、コインの周囲に刻まれた文字は十四。つまり、コインの作る円は十四に分割されているわけだ。
ひょっとすると、電話器のダイヤルに円型に配列された数字も十四分割の位置にあるのではないか。
西目は傍《そば》にある電話器を引き寄せた。ダイヤルの一番高い位置に3が置かれ、一番低い位置には0がきている。3から9までの数字は七つ、その倍は疑いもなく十四だ。つまりダイヤルは1から0までの十の数字と、四字分の空きを含め、コインと同じく十四の数字で分割されているのだ。
多分、コインとダイヤルの分割の一致は偶然だろうが、治作はそれを利用して、自分だけに判る電話番号の暗号を作っていたに違いない。つまり、治作の電話リストに書かれていた二つの電話番号は数字の並べ方が実際のものとは狂わせてあり、それを正しい順序にするための乱数表が、ゲームセンターのコインに当たる。
これで、田中の家の電話器の横に置いてあったコインの片方が、少しべた付いていた意味も判る。
その面に接着テープのようなものを貼《は》って、電話のダイヤルの上に固定させる。それから、電話番号を廻《まわ》すのだが、そのとき、本物の方のダイヤルの数字は頭に入れず、コインの方の数字に従って指を当てる。すると、正しい電話番号が廻されるわけだ。
暗号としてはごく単純なものだが、ゲームセンターのコインさえあれば、すぐ正しい番号を呼び出すことができる。その点、優れて実用的だといえるだろう。
「西目さん、それじゃ、その生徒の家がすぐ呼び出せるんですか」
と、倉馬が訊《き》いた。
「そうだ」
西目はデスクにあった接着テープで、恵比須《えびす》の図が正しく立つような位置で、コインを電話器のダイヤルの中心に固定させた。ダイヤルの3とコインの9の位置が一致し、ダイヤルの0とコインのWORLDのOが揃《そろ》った。
「ダイヤルの5はコインでは空きになっています。もう一か所、コインには7がありません。この二つの場合、ダイヤルのほうの数字を使うのでしょう」
と、西目は言った。
「だぶっている数字もありますね。9はコインとダイヤルと、どちらを使うのでしょう」
と、倉馬が訊いた。
「まあ、暗号という性格上、私ならコインの9を使いますね」
実際にコインをダイヤルに貼ってみると、その意味は誰《だれ》もがすぐ理解したようだった。
「まだ、警察だと言わない方がいい」
と、土橋が言った。西目はうなずいて、手帳の電話番号を、コインの数字に従って廻《まわ》した。すぐ、呼出し音に変わった。電話に出たのは女の声だった。その声は、
「スドウです」
というように聞こえた。
「お宅に新星中学の生徒さんがいらっしゃいますね」
と、西目は言った。
「おりますが、あなたは?」
予想が的中した、と思うあまり、つい、即答ができなくなった。
「お嬢さんの、お名前は?」
「あなたは?」
「……わたしは……その」
「判《わか》りました。もう、掛けないで下さい」
相手は電話を切ってしまった。
「スドウ、という名のようです」
と、西目はぼんやりと言った。
「それだけ判ればいい。誰《だれ》かに、電話局へ行って調べてもらおう」
倉馬が言った。
「正直すぎますよ。僕がやってみましょう」
倉馬が二番目の電話番号を廻した。
「こちら、ハヤブサ急行便ですが、お届け物がございます。荷物のご住所がちょっと破損しておりますため、ちょっとご住所を確認したいのですが。……はい」
倉馬は急いでメモに鉛筆を走らせた。
「それから、お嬢様らしいのですが、恐縮です。お名前を……」
倉馬は受話器を置いた。確認した相手は田辺夏子《たなべなつこ》という名だった。治作が書いたイニシアルのNともぴったり一致していた。
「しかし、最良の方法じゃない」
と、土橋が言った。
「ハヤブサ急行便が着かないとすると、田辺の家じゃ不審に思うだろう」
「何かを送ったらどうですか」
と、倉馬が言った。
「何を送るんだね」
「貞操帯と鍵《かぎ》とか」
部屋が笑いになった。西目は捜査の停滞を乗り越えたからだと思った。
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八章 饗応《きようおう》
その一
窓の外は焼け付くような陽差《ひざ》しだった。風が強く、通り過ぎていく。樹木の大枝がゆさゆさと揺れている。
外はかなり暑いようだが、陽陰《ひかげ》の傾きで夏の衰えがはっきりと判《わか》る。朝夕、確実に日が短く感じられ、この日の暑さは夏の最後の足掻《あが》きのようだった。
やや遅い夏休みだが、八月二十四日から四日間、山梨の静かな温泉で休養をとるという相談に、弥宵《やよい》は何の疑いも持たなかった。ただ、同じ宿にずっといるという旅程に、弥宵はそれで飽きないんですか、と心配した。
「なに、しばらく温泉にいて飽きてみたいのさ。もし嫌になったら、どこかに行けばいい」
と、香留《かおる》は言った。
その旅程は、全部、森子が作ったものだった。
八月二十六日、その土地で「水上《すいじよう》神楽《かぐら》」という珍しい神事がある。湖の上に張り出された能舞台で、船を使って湖面にも楽人が活躍するという。森子はその芸能を見たいと言えばいいと付け加えた。
新婚旅行以来、二度目の旅だった。
目的地は遠くないし、急ぐ旅でもない。香留は昼近く店を閉め、弥宵と家を出た。
新宿《しんじゆく》から中央本線。
大月《おおつき》駅を過ぎると、乗り込んできた二人連れが香留の近くに来て喋《しやべ》り始めた。
「全く……世も末みたいだな」
「そうだ」
話の続きらしい。二人共、五十前後、声の響きがよく自然に会話が耳に入って来る。
「中学三年というと、まだ十四か十五だな」
「そう。その子を補導して事情聴取すると、他にも二、三人の仲間がいるらしい。全部、昭栄《しようえい》中学三年の生徒だ」
「内《うち》にも昭栄中に行っているのがいる。人事《ひとごと》とは思えない」
「内のは高校の男だが、バイクに夢中だ。気狂《きちが》いみたいな音を立てて走り廻《まわ》っている。他人に迷惑を掛けるな、といつも言っている。だから、親の躾《しつけ》が悪いなどと言われるのが、一番|辛《つら》い」
「女でも、男でも大変だな」
「売春はその子の智慧《ちえ》か?」
「いや、最初は誘われて味を覚えたそうだ」
「そうだろうな」
「しかも、六十になる爺《じじ》いらしい。札束をちらつかせて誘ったんだ。一度、味をしめると、今度は遊ぶ金欲しさだ」
「何に使うんだろう」
「ごく、単純なのさ。洋服を買ったり、東京へ行って音楽を聞いたり」
「内のは無駄遣いはしていない」
「それなら、大丈夫《だいじようぶ》だ」
「その親は娘が派手になったことに気付かなかったのかね」
「多分、そうだろう。他の中学だってほじれば何が出て来るか判《わか》らない」
二人はその親も悪いが、今の教育も悪いということで意見が一致した。
「今度の選挙の候補者に、教育熱心な男がいたね」
「ああ、田中|幸明《こうめい》ね。今度の事件をいち早く取り上げているね」
「若くて、女性の受けがいいらしいじゃないか」
「うん。まず、もう勝負は決まったね。前の市長のスキャンダルは個人的なもので、相変わらず保守の地盤はしっかりしているし、相手は皆よぼよぼだし」
「いよいよ、世代交代か」
「まあ……田中が勇み足でもしなければね」
その二人は勝沼《かつぬま》で列車を降りていった。
香留と弥宵は次の塩山《えんざん》駅だった。
駅前にはさっき、中年の二人が話し合っていた、田中幸明の選挙カーが、スピーカーのボリュームをあげていた。田中幸明は今度の市長選に初登場したらしい。この地方では、とうに選挙戦が酣《たけなわ》になっているようだ。田中幸明という男の登場で、選挙の関心が深まったのだろう。
森子が作った予定には、カミュワイナリーの見学が組み込まれていた。その醸造工場の広告計画を大白工房が請け負い、システム アプローチを立案する一員として、松島清詩がここに来ているからだった。
「宿で突然会わせるより、ちょっと布石をしておいた方がいいと思うの」
と、森子は言い、清詩の写真を見せた。
カミュワイナリーはタクシーで十分ほどの場所だった。
車がぶどう畑を過ぎると、小高い森を背にして、新旧の建物が見えた。新しい建物は左奥の四角い三階建てのビルで、まだ工事が完成していない。見学コースはその前に点在する大小の木造の建物だった。
正面の門の前で車を降りる。門柱には「富士見《ふじみ》酒造」という古く大きな看板が掛かっている。
見学客はまばらだった。
正面の待合室には、工場内の写真や、社史のパネルが展示され、大型のテレビにワイン製造工程のビデオが流されている。香留達がぼんやりとテレビを見ているうち、観光バスが到着したようで、急に待合室が賑《にぎ》やかになった。
赤いブレザーを着た中年のコンパニオンがハンドマイクを口に当てて、工場内を案内します、と言った。
コンパニオンの説明によると、新築の工場は秋には操業を開始する。そこはコンピューターによる低温管理システムを採用した最先端の工場で、年内には新製品のカミュワインが大大的に発売されるという。
見学者はコンパニオンの後に従い、待合室を出て、蒸留室、破砕室、圧搾《あつさく》場、瓶詰《びんづめ》の室、樽熟《そんじゆく》庫と、次次に建物を廻《まわ》って内《なか》を見物する。建物はどれも古く、使われている醸造用具も手で操作する類《たぐ》いのものが多い。むしろ、その方が見る側としては面白《おもしろ》く、安心感がある。いずれ、ここはまとめられて博物館にでも建て替えられるのだろうか、気のせいか従業員はあまり活気がない。
最後は製品の試飲室だった。部屋はワインの甘い匂《にお》い、コーナーの売店にはワインの瓶や土産物《みやげもの》が並んでいる。観光バスの客はこの部屋で一しきり賑《にぎ》やかになった。
香留はプラスチックのワイングラスを持って外に出た。広い芝生の一部が、野外レストランになっていて、パラソルを立てた白い丸テーブルが並んでいた。
「来てご覧。富士山《ふじさん》が綺麗《きれい》だ」
と、香留は弥宵に声を掛けた。
実際、ぶどう畑の向こうに聳《そび》える富士山や南アルプスの眺望は見事だったが、それは口実にすぎなかった。
丸テーブルの一つに、大きな紙を拡《ひろ》げて何か話し合っている三人の男に気付いたのだった。三人は思い思いのTシャツにジーンズ。観光客でないことは一目で判《わか》る。一人は長髪で髭《ひげ》を生やしている。もう一人は薄い色のサングラス。そして、一番若そうに見える三人目が松島清詩だった。
香留はゆっくりと三人の傍《そば》に近付き、一つ置いた隣のテーブルにグラスを置いた。そのとき、煙草《たばこ》をくわえ、ポケットからライターを探り出した清詩が、火を付けようとしてテーブルの紙面から顔をあげた。その前で、弥宵が椅子《いす》に腰を下ろそうとしていた。
清詩の動作が凍り付いたのが判った。それだけで充分だった。香留は清詩に背を向けるようにして椅子に腰を下ろした。
弥宵はしばらく遠くの山に目を遊ばせていた。
「何か、食べるかね」
と、香留が声を掛けた。
「そうね……」
弥宵は振り向いた。そして、香留の肩越しに、清詩の姿を認めたようだった。
軽くテーブルの端に置かれた手が、段段と握り込まれ、石のようになった。香留はさり気なく、表情の変化を読もうとした。弥宵の視線はもう一つの視線と交わっていた。息を止めているのは、何かを堪《こら》えているしるしだった。それを見て、香留はグラスを口に運んだ。
「外の酒は効きそうだ」
「……あ」
弥宵はやっと口を開いて、
「お代わり、貰《もら》って来ましょう」
逃げるように建物の方へ歩いて行った。
清詩が後ろ姿を見送っていた。声が聞こえる。
「知っている人かね?」
「いや――」
酒を取って来るだけにしては時間が掛かった。その間、気持を整えていたようで、グラスを持って戻《もど》って来る姿はすっかり落着いていた。
「僕の言うことを聞いていなかったのかね」
「え?」
「何か食べるか訊《き》いたんだ」
「……それでしたら、結構です」
それきり、弥宵は清詩の方を見なかった。
しばらくすると、グラスが空になった。
「そろそろ、行こうか」
香留は立ち上がった。並んで歩くとき、意識して弥宵の腰に手を廻《まわ》した。
手入れのよく行き届いた松が、玄関の屋根のあたりに枝を伸ばしている。植込みに打ち水。長い時代を経た二階建てのたたずまいは、自然の一部に化しつつある感じで、落着いた木の風格を見ていると、安手でない安らぎを感じる。
玄関のガラス戸が左右に引かれ、〈牧野《まきの》旅館〉と楷書《かいしよ》で書かれた金箔《きんぱく》の文字が見える。従業員に案内され、フロントに歩いて行く途中、香留は浴衣《ゆかた》を着た森子に気付いた。
玄関の右手がロビーで、その奥にちょっとした売店があった。森子は焼物が並んでいる棚の前に立っていたが、香留が宿泊カードに名を書き入れていると、カウンターの横にある公衆電話の傍に寄り、受話器を外した。だが、すぐ考えが変わったように、受話器を元に戻し、すぐ階段の方に歩き出して見えなくなった。香留はカードを見たままだったが、森子は視界の中にいた。森子の動作は何かの合図に違いない。
部屋は二階で、六畳の二間続き。奥の部屋の窓の外を鬱蒼《うつそう》と樹木が覆い、部屋を緑色にしている。見下ろすと、木の間隠れに渓流《けいりゆう》がかなり早い流れで岩を白く噛《か》んでいた。蝉《せみ》の声を乗せた風が疲れを忘れさせるほど爽《さわ》やかだ。
香留は電話器が置いてある違い棚の傍に坐《すわ》った。従業員が茶を入れて部屋を出て行くと、すぐ電話が鳴った。香留は手を伸ばして受話器を取った。予想したとおり森子だった。
「六時に清詩が帰って来るわ。六時半に岩風呂《いわぶろ》で待っていてね」
香留は有難《ありがと》うと言って受話器を置いた。
「フロントからだ。岩風呂をお使いなさいと勧めてくれた」
と、香留は弥宵に言った。
「外なんですか」
弥宵は気が重そうに言った。
「ああ。でも、客なんかいやしないさ」
実際、二階の部屋に案内されたとき、どの部屋も空いていた。
香留はゆっくりと茶を飲み時刻を計って、浴衣《ゆかた》に着換えた。
一階から裏手に出、更に右の階段を一階分ほど降りる。
「ご覧、ほんとうにいい眺めだ」
香留は弥宵の気を風景に向けさせた。
実際、渓流《けいりゆう》は二階で眺めたときよりは、ぐっと近付いて、淀《よど》みを作っている淵《ふち》の青さは吸い込まれそうになるほど透明だった。
板葺《いたぶ》きの小舎《こや》があった。三方が竹垣で囲われ、中に木のベンチと目籠《めかご》が置いてあるだけで無人だった。湯は小舎の床下まで来ていた。左側に楕円形《だえんけい》の大岩があり、湯はそれに沿うようにして三日月形に続いている。
香留は籠に浴衣を脱ぎ捨てて、踏み石伝いに湯に入った。湯は温《ぬる》めで白茶色に濁っている。
「明るすぎるわ」
と、弥宵が言った。
香留は聞こえない振りをし、遠くの山を見ていると、弥宵は思い切ったように浴衣を脱ぎ、タオルを胸に拡《ひろ》げて湯に入って来た。香留は振り向かずに言った。
「こうした景色の中にいると、段段と自然の中に溶け込むような感じがするな。アスファルトの道や、コンクリートの壁や、機械の騒音が病気を作り出す」
いつかテレビに出ていた医者の受け売りだった。布石のつもりだが、喋《しやべ》っているうち気羞《きはず》かしくなった。
「着飾った人付き合いも同じだ。自然の中では、裸の方が似つかわしい」
そして、弥宵を見た。不透明な湯で、弥宵の身体《からだ》はぼやけた白い塊になっている。
「そうは思わないかい」
「……それは、そうですけど」
「じゃ、明るすぎるなんて言わない方がいい」
川の音に混《まじ》って、小さな木の音が聞こえてきた。香留は石段を踏む庭下駄《にわげた》の音だということが判《わか》った。弥宵は音が間近になって、初めてびっくりしたように言った。
「人が、来るわ」
「人なら安心じゃないか。熊《くま》でも出たのなら大変だがね」
下駄の音は二組だった。足音は小舎の中に入って止《や》んだ。
「あら……お客さんね」
森子の声がした。
すぐ、腰にタオルを巻いた森子が小舎から出て来た。
「お邪魔します」
森子は屈託なく挨拶《あいさつ》して湯に入って来た。弥宵はとうに楕円形《だえんけい》の岩の向こうに行ってしまった。森子は小舎の方に声を掛けた。
「何してんの?」
ぼそぼそ言う男の声が聞こえた。
「ばかね。大丈夫《だいじようぶ》よ。こちらもご夫婦の方」
森子に言われて、上背のある清詩が小舎から出て来た。清詩の身体《からだ》は若く、思ったより逞《たくま》しい筋肉を持っていた。清詩は香留に軽く会釈《えしやく》して、森子の横に身体を沈めた。清詩は香留達に、強いて無関心を装っているのが判《わか》った。
森子は香留の方を見て、目で合図した。
「あら……」
森子の演技は真に迫っている。
「もしかして、夕城香留さんじゃないかしら」
「……夕城ですが」
「矢張《やは》りそうだったわ。香留ちゃん、わたしよ。森子よ」
「あ、そう言えば、森ちゃんだね」
「どうして、ここに?」
「夏の間ごたごたしていたんだ。それで、遅い夏休みさ。今、着いたばかり」
「内は仕事なの。清詩が出張で来ているので、東京に独りじゃつまらないから、押し掛けて来たの」
森子は清詩を紹介した。打ち合わせ通り、森子は一時、夕城の家の近くに住んでいたことがあって、よく夕城写真館のスタジオで遊ばせてもらった、と言った。
香留は弥宵を呼んだ。
弥宵は下駄の音を聞いたときから、隅《すみ》の方で小さくなっていたが、清詩の姿を見た瞬間から、表情をこちこちにして視線を逸《そ》らしたままでいた。
香留に言われ、弥宵は消え入りそうな声で、
「初めまして」
と言い、顔を伏せてしまった。
香留は弥宵の動揺に気付かぬ振りをして、
「こんな姿で初対面の挨拶《あいさつ》をするなんてね」
と、笑った。
「最初から裸のお付き合いね」
森子も楽しそうだった。
「香留ちゃんにお湯へ連れていってもらったことがある」
「……覚えているかい」
「ええ。あの頃《ころ》、割に彫物をした男の人が多かったでしょう。それが珍しくて、香留ちゃんについて行ったわ」
「今、いくつになった?」
「嫌……もう三十よ」
「親父《おやじ》の葬式に、来てくれた」
「あのときは碌《ろく》に話もできなくて」
「……とすると、五年ぶりだ」
「会えて、よかったわ。ここはひどい田舎《いなか》だから、すっかり退屈していたの」
「僕達は塩山の甘草《かんぞう》屋敷から、恵林寺《えりんじ》へ廻《まわ》って来た」
「清詩は車で来ているのに毎日仕事で、どこへも連れて行ってくれないの」
「ワイナリーも見て来た」
「何という工場?」
「カミュワイナリーと言った」
「まあ、奇遇ね。清詩は今、その工場に行って仕事をしているの。もしかして、会ったんじゃないかしら」
清詩は二人の会話を黙って聞いていた。何か息苦しそうな表情だった。
「家《うち》も最近改装した。ただし、古いところを直しただけだから、反《かえ》って昔に戻《もど》った感じになっている」
「それは嬉《うれ》しいわ。今度、ぜひお邪魔します」
森子は身体《からだ》が温まると、湯から出て岩に腰を下ろした。山を背にした森子は自然の中に置かれた彫像のようだった。
開放的な森子の態度を見て、ただ、いじけているのは見苦しいと感じたようで、弥宵もさり気なく湯から身体を出して、子供に帰った他愛ない二人の話に耳を傾けていた。
「香留ちゃん、あの方は相変わらずなの」
「ああ、相変わらずだね。古いカメラを手に入れて来ては直している」
「大分になったでしょう」
「それほどじゃない。昔から熱中しない方だったし、高いものには手が出ない」
「昔の、あれ、何て言ったかしら」
「ベビーミノルタだ。最近、同じのを手に入れたよ」
「懐《なつか》しいわ。ぜひ、見たい」
森子の掛け引きは絶妙だった。まだ、森子に話したことのない趣味まで引き出された。
最後に、森子は一緒に夕食をしたいと言い、清詩の同意を求めた。弥宵もうなずくと、森子は両手を空に突き上げた。
「嬉しいわ。わたし、香留ちゃんのことを、ずっとお兄さんみたいに思っていたの。だから、奥さんはお姉さんだわ」
酒が入ると、森子は更にほがらかになり、つられて清詩の口も軽くなった。
香留に問われるまま、自分の仕事の説明をした。
この近くに歴史の古いワイン工場が何軒かある。その一つが最近売上げを伸ばし、新たに工場を拡《ひろ》げることになった。この際、商品のイメージも一新する計画があり、その製作プランと広告のシステム アプローチの仕事が大白工房に持ち込まれた。
「工場の中にも、保守的な考えの人と革新的な人がいます。その調整が難しいんです」
と、清詩は言った。
新しくコンピューターが導入されると、昔からの醸造技術は必要なくなってしまう。長い経験と勘によって酒を作っていた職員は面白くない。
一方、若手の職員は色色な案を持ち寄って来る。瓶《びん》一つにしても、奇抜な形のデザインを考え出す。現実に、缶ワインのような計画も進められている。
「きっと、そんなのが若い人に受けるわよ」
と、森子が言った。
「皆、古いやり方には飽き飽きしているんだから」
「しかし、一度飛び付いてくれても、それも飽きられたときが恐《こわ》いんです」
と、清詩が言った。
清詩の言葉は聞きよく、どんなことが話題になっても、言うことは要領を得ていた。若いに似ず、感情だけでものを言う森子よりは器が大きく感じられる。それは明らかに、森子との年齢の差を縮めていた。同時に、弥宵との年齢の差も、だった。
容姿の上でも、清詩は好青年だと認めないわけにはいかない。清詩の持っている清潔な感じは、森子よりむしろ弥宵に映りがいい。その二人を並べて見て、最初から森子の感情は正常でなくなっているようだ。それが露天風呂での妙に挑発的な態度として現れたのだ。
食事が片付くころ、森子が欠伸《あくび》を噛《か》み殺しているのに気付いた。
「眠くなったのかね」
そのころになると、本当に子供の森子を遊ばせたことがあったような気がしてきた。
「ご免なさい。昨夜、あまりよく寝なかったの」
「……仕事の手伝いで?」
「そんならいいんだけど、わたしの部屋、何だか、気味が悪いの」
森子は急に陽気ではなくなった。
「部屋の窓のところにね、二抱えもある木が生えていて、横に枝を伸ばしているの。その茂りで昼間だって暗くて陰気な感じなの。昨夜、ふと目が覚めると、月の光でその木の影が障子に映っていて、その枝に人がぶら下がっていたのよ」
「気のせいだよ」
と、清詩が言った。
「叩《たた》き起こされて、僕も見たじゃないか。木の枝にぶら下がっている人影なんか、どこにも見えなかった」
「でも、見えたんだってば」
「気のせいだよ。昼間、気持が悪い部屋だなと思っていたからさ」
「それから、一晩中、魘《うな》されてしまったわ。きっと、前に、あの部屋で、何かあったに違いないわ」
「何もないって、さっきここの女将《おかみ》さんが言ったじゃないか」
「本当のことを言えば、ここへ来るお客がなくなるからだわ」
「枕《まくら》が変われば、よく寝られないことだってあるさ」
「そんなんじゃないの。わたし昔から敏感なのを知ってるでしょう。あの部屋にはよくないものがいるわ。それを、わたしは感じてしまうの」
そして、駄駄っ子のように言い張った。
「わたし、あの部屋には帰れない」
「……じゃ、どうするんだね」
「この部屋で寝る」
「ばかだな」
清詩は手を焼いて困り切ったように笑った。
「そんな子供みたいな判《わか》らず屋をいうんじゃない」
「子供でもいいわ。香留兄ちゃんの部屋で寝たいの」
香留は清詩に言った。
「よかったら、ここで休んで下さい。二間ありますから、好きな方を使って構いませんよ」
「でも……奥さんがいらっしゃるし」
香留は弥宵の方を見た。
「わたしに遠慮することなんかありませんわ」
と、弥宵が言った。
それが決まると、森子は元の表情に戻《もど》った。
清詩と森子は次の間に床を取らせた。森子は寝るときにも閉め切るのは恐いとだだをこね、間《あい》の襖《ふすま》を閉めさせなかった。
しばらくすると、森子の声が聞こえてきた。予想していた通り、森子が挑発しているようだった。
気配がはっきりと判ったとき、香留は手を伸ばした。
「あ、それは――」
と、低く弥宵が言った。
「合わせないと、向こうが困るよ」
香留はささやいた。
森子の声を聞いて、香留は激しく心が盛った。森子は相手に乗る姿になっていて、香留の方を見て嫣然《えんぜん》と笑いかけた。弥宵は最後まで耐え続け、とうとう一言も声を洩《も》らさなかった。
その二
受付から電話で、首藤明美《すどうあけみ》が出頭した、と言ってきた。
西目と折井捜査主任は、用意した紙袋を持って、すぐ受付に向かった。
明美はロビーのコーナーで、低いテーブルを前に婦人警官と向き合っていた。取調べ室などに閉じ込めない方がいいという本部の意向が受付に通じてあった。
明美は大柄で、成熟した身体《からだ》が、学校の制服を内側から突き破りそうだった。髪は肩に掛からないあたりで揃《そろ》え、陽焼《ひや》けした顔は健康そうだが、よく見ると脹《は》れぼったい目のあたりに崩れた感じが漂っている。
「お待たせしたね」
折井は明るく言い、西目と並んで明美の前に腰を下ろした。
「最近、変な泥棒が捕まったんだよ。そのことで、ちょっと訊《き》きたいことがあって、出向いてもらったわけ」
明美は、はあと言って、軽く頭を下げた。礼儀正しい態度だった。躾《しつけ》の厳しい学校の生徒は、自然に大人への対応の仕方を心得ているのだろう、と西目は思った。
折井はさり気なく続ける。
「その泥棒はね、お金や貴金属には目もくれない。盗んでいくのは、女性の下着だけ。泥棒の部屋を調べてみると、部屋中が下着の山。物が物だけにね、学校なんかに持って行って、皆の前で拡《ひろ》げたりしては、君が嫌な思いをすると思って、一人で来てもらったんだよ」
全《すべ》て倉馬の筋書だった。折井は倉馬が用意した紙袋の中から、紺《こん》のブルマーを取り出した。
「これもその一つ。盗品のほとんどは誰《だれ》の物か判《わか》らないんだけれど、これには名前が入っていたんだ」
折井はブルマーをちょっと拡げた。それをきっかけにして、婦警はそっと席を立っていった。
「ほら、ここに首藤明美、と書いてあるだろ?」
折井はブルマーに縫《ぬ》い付けられた小さな布を示した。明美はしきりに首を傾《かし》げていたが、
「これは違います。わたしのじゃありません」
と、はっきりと言った。
「違うかね?」
「ええ、学校のとは型が違います。それに、名札には校章も入っていません」
「……なるほど。じゃあ、違うな。この辺は首藤という名が多いから、別の首藤さんだろう」
折井は未練なくブルマーを紙袋の中に戻《もど》した。
「このごろ、下着を盗《と》られたことはなかったかね」
「……ありません」
「じゃ、この件はこれで終り。次は、この人のことだがね」
折井はポケットから治作の写真を取り出して明美の前に置いた。
「この人は知っているだろう」
「知りません」
西目は明美が表情をまるで変えないのにびっくりした。
「まあ……立て前としては知らないのも結構だがね」
西目は煙草《たばこ》に火を付け、煙を横の方に吐いた。
「いいかね。これはここだけのことにしよう。勿論《もちろん》、学校にもご両親にも友達にも言わない。言いたくてもできない。君は未成年だからね。こういう場合、未成年者の名前を公表しちゃいけない規則があるのを知っているだろう」
「はい」
「じゃ、この人を知っているね」
「ええ」
西目は変り身の早さに、またびっくりした。
「この人を何と呼んでいるね」
「田中のおっちゃん、です」
「……君は田中のおっちゃんに付き合ったことがあるね」
「ええ」
「場所は?」
「石和《いさわ》のホテル」
「田中のおっちゃんを好きだったのかね」
明美は笑っただけだった。むだなことを訊《き》くと思っているのだ。
「じゃ、どうして付き合ったんだね」
「お金をくれると言うから」
「いくら貰《もら》った」
明美の返事はあっけらかんとしている。少しも後ろ暗いところがない。この方が素顔で、それが証拠に友達と話し合うような口調になっていた。
「困った子がいたの。子供ができちゃったの。学校に知れたら大変でしょ。それで、病院へ連れて行ったんだけど、手術代が高くて、わたし達のお小遣いじゃ、とても間に合わなかったのよ」
「……そりゃ、本当に困った子だね」
「それで、嫌だったんだけど、田中のおっちゃんからお金を貰《もら》うことにしたの。それで、うまくいったわ」
明美にしてみれば、婚外交渉や妊娠《にんしん》は少しも疾《やま》しいことではない。だが、なぜかそれを忌《い》み嫌う大人達とのいざこざを避けるために、田中のおっちゃんから金を取ることを思い付く。それに対しても罪悪感はなく、秘密を守ると約束すれば、すぐ、ありのままを喋《しやべ》ってしまうのだ。
折井は妊娠したという生徒の名と、その子が手術を受けた病院の名を訊《き》き出した。
「もう一人、田中のおっちゃんに金を貰ってた子がいたね」
と、折井が訊いた。
「それは夏ちゃん。田辺夏子」
「その、夏子という子も金が欲しかったんだね」
「そう。夏ちゃんは旅費が欲しかったのよ」
「旅費……遠くに行って来たのかい」
「ええ。ハワイへ十日間。とても、楽しかったわ」
道理でよく陽焼けしている。西目は明美の白い歯を見ているうち、自分の価値観がぐらつくのを感じた。思えば、性は生物の基本であるのに、なぜ内密でなければならないのか。
「何人でハワイへ行ったの?」
「夏ちゃん達と四人」
「いつ行って来た?」
「三日前に帰って来たばかりだから……いつかな?」
それが本当だとすると、明美達は治作殺しの犯人ではあり得ない。
「田中のおっちゃんとのことを知っているのは、他に誰《だれ》がいるね?」
「誰もいないわよ。見付かればこうして学校へは行けないわ」
「……なるほどね。じゃ、田中のおっちゃんと最後に会ったのは?」
「……先月ね。わたし、もう用はなくなったもの」
「夏ちゃんは?」
「ハワイへ行く、ちょっと前」
「また必要なら、田中のおっちゃんから金を貰うかね」
「もう、絶対にしません」
明美は打てば響くように答えた。急に、自分は大人の中にいるんだということに気付いたようだ。
「そうだねえ。田中のおっちゃんも、君達を呼び出せなくなってしまったよ」
「……それ、どういうことですか」
「あの人は、君達がハワイで遊んでいる間に、死んだよ」
「……嘘《うそ》う」
明美は目を丸くした。本当に何も知らないようだった。
西目が事情を説明すると、明美はそれを聞いているうちに涙ぐみ、治作は嫌らしくて好きではなかったけれど、優しかった。夏子と二人でホテルでご馳走《ちそう》になった。弔問《ちようもん》に行けないのでわたし達の分まで拝んでくださいと言った。
捜査本部の部屋に戻《もど》ると、土橋が電話に出ているところだった。
電話が終るのを待って、西目は首藤明美のことを手短に話した。土橋はじっと腕を組んでいたが、
「矢張《やは》り、そうか」
と、渋い顔をした。
「今、新しい情報が入ったところだ。八月二十六日の日曜日の夜、穴沢《あなざわ》のバス停で不審な二人連れを見たという、バスの運転手からだ」
土橋の話によると、八月二十六日の夜、最終バスを運転していると、穴沢のバス停に立っている男女の二人連れがあった。時刻は七時半ごろだ。男は二十五、六。長身で色白の好男子。女性の方が年増《としま》だがこれもなかなかの美人だった。
穴沢のバス停は、集落の入口に当たるところで、不断はあまり客の乗降がない停留所だ。運転手がバス停に車を止めてドアを開けると、男の方が手を振った。済みません、乗るんじゃないんですと言う。
運転手はそれを聞いてバスを発車させたが、少し先の道に、軽四輪のワゴン車が駐車してあった。ははあ、これがあの二人の車か、それにしても何をしていたのだろう。人通りの絶えた夜、何となく味な気配だったと思いながら、ふと軽四輪車の中を覗《のぞ》いて見る気になった。
荷台にジュラルミンの鞄《かばん》、三脚や照明器具が積んであって、あの二人のどちらかがカメラマンらしい。
「車のプレートは東京のナンバー。残念なことに、番号は覚えていない。ただし、その運転手は、車の荷台に富士見酒造の名が入っている段ボウル箱を見た」
と、土橋は言った。
「東京ナンバーの車が、何のために穴沢に来たのか、一応当たってみる必要がありそうだ」
「……富士見酒造と言いましたね。聞いたことがありますよ」
折井は電話帳を繰《く》った。
「そうです。塩山にあるワイン工場で、最近、工場を新築して、社名もカミュワイナリーとした会社です」
折井は電話のダイヤルを廻《まわ》した。
しばらく、やりとりがあった。折井はメモを取っていたが、受話器を置いて言った。
「すぐ判《わか》りましたよ。それらしい車を使っている男がいます。ワイナリーは新製品の広告プランを東京の大白工房という会社に依頼したそうです。その、大白工房から出張して来たアートデザイナーの一人が、バスの運転手に見られた男に該当《がいとう》するようです」
「……東京のデザイナーね」
ちょっと、田中治作と似付かわしくない感じだった。折井はメモを見ながら後を続けた。
「名前は松島清詩。八月二十二日から二十七日まで滞在していました。宿は笛吹《ふえふき》温泉の牧野旅館です」
「旅館に行ってみましょう」
と、西目は言った。
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九章 戯《たわむ》れ
その一
翌朝、森子はワゴン車で清詩を塩山《えんざん》のカミュワイナリーに送り、一時間ほどで牧野旅館へ戻《もど》ってきた。そして、自分が西沢渓谷《にしざわけいこく》へ運転すると、香留《かおる》達を誘った。
「笛吹川を遡《さかのぼ》っていくの。広瀬《ひろせ》ダムまでは国道が通っているからわけはない。西沢渓谷には森林浴コースもあるんですって」
と、森子は言った。
森子が運転席に、香留と弥宵《やよい》が後ろの補助|椅子《いす》を起こして坐《すわ》った。
相変らず陽差《ひざ》しは強いが、風は爽《さわ》やかだ。風は大地の匂《にお》いがする。
しばらくして、森子が思い出し笑いをしながら言った。
「昨夜、ごめんなさい。つい酔って、わがままを言って」
「いや、いい思い出になるよ」
「香留ちゃんだから、つい気を宥《ゆる》したのね」
「……じゃ、いつもそうしているんじゃないのかい」
「いつも、って?」
「友達なんかと一緒にさ」
「……ばかね」
「そうかい。僕はまた、若い人はおおらかだと思って、感心していたんだ」
「……そうね。多少はおおらかなところがあるかも知れないわね」
笛吹温泉郷に点在する小さな温泉の湯治宿が、ぽつんぽつんと窓の外を過ぎていく。
「だから、弥宵さんは迷惑だったんじゃないかしら」
弥宵はちょっと香留の方を見た。そして、意外とはっきりした声で、
「いいえ、わたし達だって、同じだったんですもの」
と、言った。
「そう。それならよかった。何でも言えそうだわ」
「何を言うのかね」
「それは……後で」
車は広瀬ダムに着いた。
湖面が満満としているのが判《わか》る。空の色も都会とは違う。
「嬉《うれ》しいな。生まれ変わったみたいだ」
と、香留は言った。
「そうね。こうしているのが本当だと思うわ。香留ちゃんはいつも家に閉じ籠《こも》っているんでしょう」
「ああ。すると、家にいる自分は何なんだろう」
「鎖でつながれた、犬ね」
「犬はひどい」
しばらくして車に戻《もど》り、湖畔《こはん》を廻《まわ》って、西沢渓谷の入口に到着する。車を降りて、吊橋《つりばし》を渡ると自然の中だった。
笛吹川の源流で、渓谷には次次と大小の岩、奇岩が聳《そび》え立ち、行く手にさまざまな滝が姿を現す。中でも七つ釜《がま》五段の滝の見事さには、三人とも話す言葉を忘れていた。
その先に広い河原《かわら》があった。そこで、用意した弁当を拡《ひろ》げることにする。
「松島さんが一緒でなくて、残念だったね」
と、香留は森子に言った。
「仕方がないわ。わたしが勝手に押し掛けて来たんですから」
「独りじゃいられなかったんだ」
「ええ」
「……松島さんは幸せなんだ」
「わたし、もっと、彼をよくしてやりたいの」
「欲が深いんだな」
「ええ、とても、欲が深いの」
来たときとは反対、笛吹川の右岸に森林浴コースがあった。香留は森の中を散策するのは何年ぶりか思い出すことさえできなかった。
「この森の外に、騒騒しい都会があるなんて、信じられなくなったな」
と、香留は言った。
「どう、鎖を外された気持は?」
と、森子が振り返った。
「気持まで、自由になっている」
「清詩も、自由にさせたいな」
「明日は日曜日だ。松島君は休みなんだろう」
「ええ。明日はわたし達に付き合う、って言ってたけど、もっと、別の意味で自由にしてやりたいの」
「松島さんも鎖につながれているのかい」
「ええ。がんじがらめ。色んな柵《しがらみ》で縛り付けられているわ」
そして、弥宵に言った。
「奥さん、清詩をどう思っていますか」
弥宵はちょっとその意味が判《わか》らないようで黙っていた。代わりに香留が言った。
「松島さんは素晴らしい青年じゃないか」
「ええ。でも、清詩、本当はわたしみたいにずばずばものを言う女性は好みじゃないのよ。清詩が好きなのは、たとえば――」
森子は弥宵の方を向いた。
「奥さんみたいな方」
弥宵がどきっとしたのが判った。
「そんな……嘘《うそ》でしょう」
「いいえ、本当よ。清詩は一目ですっかり奥さんに夢中になってしまった。わたしにはそれがよく判るの」
「松島さんは、どうやら、年上の人が好みかな」
と、香留が言った。
「そうなの。わたしも最初、それを知って近寄ったわけ。もっとも、その当時は猫を被《かぶ》っていたから清詩の方が欺《だま》されたのよ」
「僕なんかは、森ちゃんの溌刺《はつらつ》としたところが魅力だな」
「そう言ってもらえると言い易《やす》くなるわ。一つだけ、お願いがあるんです」
「……どんなことかね」
「奥さんをお借りしたいの。清詩に奥さんへの思いを叶《かな》えさせてやってほしいの」
全部を聞かないうち、弥宵が叫ぶように言った。
「だめ。それは、わたしが困ります」
少しの間、沈黙が続いた。
「あなた、お断わりして」
香留はうなずいた。
「森ちゃんの方だって、ご主人がそんなことをしたらいい感じはしないだろう」
「勿論《もちろん》だわ。わたし、清詩が好きなんですもの。でも、男の人って違うのよね。ちゃんとした奥さんがいるのに、他の女も愛してしまう」
「つまり……君は松島さんを弥宵に奪われることが恐《こわ》いんだな」
弥宵が怒ったように言った。
「わたしが、奪うだなんて」
森子は厳しく言った。
「そうよ。それが恐いなんてもんじゃなくって、そうなったら、わたし、死ぬわ」
弥宵は何も言えなくなった。香留が穏やかに口を開く。
「森ちゃんの考えが判《わか》って来たよ。松島さんは、弥宵にすっかり夢中だ。だからと言って、弥宵を自由にすることはできない」
「そう。それが、柵《しがらみ》なのよ」
「しかし、森ちゃんは、いずれ松島さんがその柵を断ち切ることがあるかも知れない、と恐れているんだ」
「はい。きっと、そうなるわ」
森子の言葉を弥宵はきっぱりと否定した。
「なりません。わたしが、絶対に宥《ゆる》しません」
「奥さんにそんなことを言われちゃ、清詩が可哀相《かわいそう》だわ」
弥宵はまた黙ってしまった。
香留が言った。
「昔からそうなんだ。人は柵を感じたとき、思いは一層激しくなる。少し前まで、それは死罪だったけれど、その死も厭《いと》わない男女が多かった。今はそんなことはないけれども、柵は依然として残っているわけだ」
「だから、清詩が思いを遂げようとすれば、わたし達に隠れて密会するに違いないわ」
と、森子が言った。
「それが、森ちゃんはやり切れない気持なんだね」
「そうなんです。でも、そう思い詰めている清詩を見ているのも、とても辛《つら》い。それなら、いっそ、わたしのいるところで、と思ったの」
「そんなところで、松島さんがうんと言うかな」
「だから、わたしも、香留ちゃんと昨夜みたいにして……」
「そりゃ、君らしい……いや、そこまで考えるには、相当悩んだみたいだな」
「ただの思い付きなんかじゃないんです。わたし、真剣なんです」
「そうだろうな。だが、僕はいいとしても、昨夜で判ったと思うが、内の奥さんはなかなか、行儀がいい」
「ですから、お願いしているんです。奥さんを納得させて下さい」
弥宵は恐い顔をしていて、声を掛けることもできなくなった。
気まずい沈黙のうち、元の渓谷《けいこく》の入口に着いた。
「わたし、奥さんに悪いことを言ってしまったかしら」
と、森子が香留に言った。
「そうらしい。弥宵は君みたいに、おおらかにはいかないんだ。鎖につながれた犬なら、不自由だけれど、安全だ」
「そうね。仕方がないわね」
しばらくして、弥宵が言った。
「わたしだって、森子さんの気持が判《わか》らないことはないんです。でも、わたしは今のままの方がずっと自然だと思うの」
車は牧野旅館に着いた。
森子は二人を降ろし、自分は清詩を迎えに行くと言って、そのまま車を走らせて行った。
「君の考えは、少し窮屈《きゆうくつ》だと思わないかね」
部屋に入ってから、香留は言った。弥宵の表情は変わらなかった。
「わたしは死んでも嫌です」
「しかし、森ちゃんの気持を思うと、気の毒だとは思わないかい」
「そうですけど……森子さんがあんなことを言い出すなんて、信じられません」
「ついでに、僕のことをも、かね」
「はい。もう、その話は聞きたくありません」
予想はしていたが、弥宵にそうはっきり言われるとは思わなかった。香留はある焦立《いらだ》ちを感じた。
「森ちゃんの話を、額面通りに聞いていたのかね」
と、香留は言った。
「それは、どういう意味なんですか」
「森ちゃんの思いは、もっと深いんだ。本当は君、松島さんと会ったのは、昨日が初めてじゃなかったんだろう」
弥宵は顔色を変えた。気のせいか、顔から血の気が引いて見えた。
「しかも、最近じゃない。松島さんがまだ大学生のとき、君が絵のモデルになったこともあるはずだ。大体、昨日、君を一目見たというだけで、松島さんが君に夢中になった、という森ちゃんの話を本気で受け取っていたのかね」
「…………」
「気が小さいようだが、調べさせてもらった。僕だって、君は大切な人だからね。それで、君の相手が松島さんだということが判《わか》ったんだ。松島さんの展覧会場で森子さんと知り合い、もっと色色なことが判った。去年の十二月、君は松島さんと二人だけで八丈島に旅行していたこと。僕と一緒になってからも、ときどき松島さんと会っていたことなどを、ね」
「じゃ、あなたと森子さんとは、幼友達じゃなくて?」
「そう、この旅行は、すっかり森子さんが計画した」
「……欺《だま》すなんて」
「密会も欺しのうちには入らないかね」
「それは……」
「まあ、いい。普通なら、君達のことが判った段階で、大嵐《おおあらし》が吹き荒れたところさ。僕だってこの年をしても人並みに口惜《くや》しかったよ。若い森子さんならもっと辛い思いをしたはずだ。だが、その感情をむき出しにするような野暮《やぼ》なことはお互いに嫌いだった。男女が夫婦以外の異性に憧《あこが》れたりすることは仕方のないことで、一度そうなったら思い止《とど》まらせることは難しい。それが知れれば、お互いに傷付け合う。ただ、理性で考えれば、その傷を最小に止めることはできそうだ」
「……それが、この旅行の意味だったのね」
「そう。人に隠れて会いに行ったりするから腹も立つ。森子さんの言う通りだと思う。どうせ二人は別れられそうにもない。それなら、お互い納得の上で、思いを遂げるような場所を作り、ときどき会って愛を確かめさせればいい」
「言い訳をさせて下さい」
と、弥宵は坐《すわ》り直した。
「何でも聞く」
「あなたに隠れて、清詩――清詩さんと会っていたことは認めます」
「……それから?」
「それは、悪いことでした。正直に謝ります。でも、わたしと清詩さんとの間には、あなたが考えているような関係は一度もありませんでした」
「……僕としては、信じられないな」
「そうでしょうね」
弥宵は泣声になった。
「でも、それは本当なんです」
「松島さんを愛していたんだろう」
「はい」
「その松島さんと旅行をしても、結ばれなかった?」
「……それは、あなたがちゃんと知っているくせに」
「しかし、僕と一緒になってからのことは判らない」
「…………」
「一歩譲って、君の言うことが本当だとしよう。しかし、これからも、その付き合いを守っていける自信があるかね」
「あります」
「そう、君ならそれができるかも知れない。だが、これは君だけの問題じゃない。松島さんの意向も考え合わせなければならない。それでも大丈夫《だいじようぶ》だと言い切れるかね」
弥宵は黙ってしまった。緊張した沈黙が続いてから、弥宵が言った。
「あなたはそれで、いいんですか」
「いい。僕も森子さんを借りるから」
香留は重ねて言った。
「君は大体、深刻に考え過ぎるよ。昔の神神はおおらかだった。それを伝える祭が、まだ残っている土地だってある」
「……一つだけわがままを言わせて下さい」
弥宵はすがるような目を向けた。
「見られていると、とても耐えられません。部屋だけは、別にして下さい」
もし、清詩との初夜だとすると、その要求は当然な気がした。
「心配なんでしょう」
擦《す》り寄って来た森子が言った。
「何が?」
「決まっているじゃないの。奥さんのことよ」
「……まあ、多少はね」
「後悔はしていない?」
「うん」
「本当に?」
「うん」
森子は真面目《まじめ》な顔で香留の顔を見た。
「奥さん、よく清詩のところへ行く気になったわ」
「少し強い言葉を使った。可哀相《かわいそう》だったけれどね」
「あなたと奥さんと、いくつ違いだったかしら」
「……五つだ」
「それしか違わないの。父親みたいに見えるわ」
「僕が?」
「そう。年じゃなくて、態度が。いつも奥さんのことを労《いたわ》り、心配しているところが」
「そうかな」
「そうよ。憎らしいわ。あなたも、清詩も……」
森子は感情を身体《からだ》ごとぶつけてきた。
「奥さんのことなんか思っていちゃ、嫌よ」
香留は心を見透かされたように、どきりとした。
森子と入れ違いに、弥宵が戻《もど》って来た。
快活な足取りで清詩のところに帰って行った森子と違い、弥宵の方は足取りが定まらないほどで、崩れ落ちるように床の上に坐《すわ》り込んだ。
浴衣《ゆかた》はきちんと着ているものの、顔がきわどく紅潮し、視線が宙に浮いている。香留が手を廻《まわ》すと、初めて気付いたように、
「あっ――」
と、言った。
「どうだった?」
答えるゆとりもなさそうだった。そして、弥宵の方から取りすがって香留を押し倒した。
「早く……お願い」
そして、すぐ声を立て始め、没我の底に沈んでいった。
その二
田中治作が殺された死亡推定日と重なるようにして、東京から塩山の酒造工場に働きに来た男が、どういうわけか治作が殺された現場近くに来ていた。
しかし、西目はその松島清詩という男に特に疑いを持ったわけではない。むしろ反対で、治作とは何の関係もなく、ただ、どこかの人妻を呼び出して逢《あ》っていた、と考えるのが妥当だろう。そう思ってこの役を引き受けることを申し出たのだ。
首藤明美や田辺夏子を相手にしていると、どうもやり切れない気持になるからだ。相手にした治作を嫌いだと言いながら、殺されたことを知ると涙ぐんでしまう。そんな明美の姿から逃げ出したくて、この役を引き受けたのだ。
――倉馬に似てきたのかな。俺《おれ》も結構要領がよくなってきた。
と、西目は苦笑いした。
牧野旅館の女将《おかみ》は、まだ記憶が薄らいでいなかった。
女将は宿帳を繰《く》りながら言った。
「ええ、松島さんは確かに八月二十二日から二十七日までご滞在でした」
女将は宿帳を見るとき、赤い縁の眼鏡《めがね》を掛ける。すると、五つは若く見えた。
「毎日、会社に通っていたのかね」
「二十六日の日曜はお休みでしたわ」
「どこかへ、出掛けたかね」
「ええ、十時ごろ、お祭を見に」
「……そうか。二十六日は唐松《からまつ》神社の祭礼があったんだ」
西目も何度かその祭を見に行ったことがあった。湖の上に張り出された神楽堂《かぐらどう》で、古くから伝わっている神楽が舞われる。龍が湖の上を渡るので有名だが、総体に退屈な舞楽だった。
「なるほど、ここから唐松湖まで十五キロぐらいかな」
「ええ。その日は松島さんの車で。皆さんと」
「……皆さん?」
「ええ。松島さんの奥さんと、夕城さんご夫妻と」
西目はおやと思った。松島の妻も一緒だったとすると、バスの運転手に見られたのは、逢《あ》い引きなどではなさそうだ。
「松島さんの奥さんも来ていたのかね」
「ええ、奥さんは一日だけ遅れて。何でも、ご主人が出張で、独り家にいるのは淋《さび》しかったんですって。可愛《かわい》いわね」
「……可愛い。奥さんは美人だったかね」
「美人とはちょっと違いますね。健康的ではきはきした方ですから」
「年は?」
「松島さんより、ちょっと上。二十七、八に見えました」
すると、バスの運転手が見た女性とは違うようだ。
「それで、松島さん達と一緒に祭を見に行ったという、もう一組の夫婦というのは?」
「ああ、あのご夫婦は夕城さんね。松島さんの奥さんより、もう一日遅れて、二十四日から三泊されて、二十七日の月曜日にお帰りになりましたよ」
「ここで知り合ったのかね」
「いいえ。松島さんの奥さんと、夕城さんが幼友達だったとかで、偶然、ここで出会ったんです」
「……偶然ね」
「ええ。そう言っていました。とにかく、仲のいい四人でしたわ。羨《うらや》ましいくらい。松島さんが仕事から帰って来ると、お食事もお風呂《ふろ》も一緒で」
「……風呂も?」
「ええ。内には岩風呂があるんですよ。十人ぐらいは楽に入れますわ」
「いや……広さじゃなくて、その、男も女も一緒に?」
「あら、嫌だ。近ごろはお嬢さんだって、風呂に男の人がいても平気で入って行きますわ」
「……なるほど」
「最後の夜なんかは、四人同じ部屋で休みたいからと言って、同じ部屋に床を取らせましたわ」
西目はまたびっくりした。男女が自由な交際をするのは、中学生だけではないようだ。
「そういうことは、よくあることなのかね」
「ありますわね。ときどき」
「……つまり、風呂も一緒、部屋も一緒ということは……」
「見たわけじゃございませんけど、そうなることもあるでしょうね。今言ったように、松島さんの奥さんは明るいはきはきした方、夕城さんの奥さんは着物の似合いそうな美人。いいんじゃありません。いろいろに楽しんで」
「……その、夕城さんの奥さんというのは?」
よく聞くと、バスの運転手が穴沢《あなざわ》の停留所で見たという松島の連れの女性は、その夕城の妻のような気がする。
松島が牧野旅館に軽四輪のワゴン車で来たのは二十二日の夜七時ごろで、カミュワイナリーで仕事をして来た後だった。翌日の夕方、松島の妻、森子が到着し、その翌日、二十四日の夕方、今度は夕城と妻の弥宵がバスで旅館に着いた。それから、夕城夫妻は三泊して二十七日の朝十時ごろ帰っていき、松島はその日の仕事を済ませてから、四時ごろ自分の車で宿を発《た》った。投宿中、松島の車が夜になってから宿の駐車場を出たことは一度もない。これは、夜勤の従業員が口を揃《そろ》えている。
「祭の日は?」
と、西目が訊《き》いた。
「そう。お祭の日だけは四人の帰りが遅かったわね。八時半ごろだったかしら」
と、女将《おかみ》が答えた。
もっとも、帰りが遅かったのはその四人だけではなかった。矢張《やは》り祭見物の他《ほか》の客も、前後して帰宿している。
ここから穴沢まで車でなら三十分で充分だ。バスの運転手が穴沢で七時半ごろ二人を見ている。とするとその二人は、松島清詩と夕城弥宵だという可能性が大きい。運転手の話だと、ワゴン車の中は撮影機材だけで人はいなかったという。すると、二人は何が目的で、そこにいたのだろう。それも、戯《たわむ》れの一つなのだろうか。
ただの戯れなら別にいいのだが、バスの運転手の電話の裏に、別の女性も絡《から》んでいるとは思わなかった。大体、事件に女性が入って来ると、とたんに複雑になるものだ。
「その二組の夫妻の会話から、田中治作という名が出たことはなかったかね」
と、西目は訊《き》いた。
女将はその名を二、三度口の中で繰り返していたが、あら、と言って顔を向けた。
「あの事件でいらっしゃったんですか」
「そうだ」
「まあ、知らなかったわ」
「で、どうかね。その名に記憶がないかね」
「全然ありませんね。大体、あのころのお客さんは、皆、ここが初めてだと言っていましたよ。わたしだって、田中幸明の名は知っていたけれど、田中治作なんて名は初めて聞きましたものね」
「じゃ、四人の間でそんな名が出たことはなかったんだね」
「ええ。一度も」
「……しかし、仕事は別として、年寄りでもないのに、こんな温泉に三泊もするとはね」
「……野暮な方ね。刑事さんて」
女将は鼻にかかる笑い方をした。
捜査本部に帰ると、土橋が西目の帰りを待っていた。
「実は、田中治作が勤めていた学校が判《わか》ったんだ。東京の千代田《ちよだ》区|三番町《さんばんちよう》にある清暁《せいぎよう》高校という学校なんだがね。治作はそこに、終戦後から、十年余り勤めていたそうだ。倉馬君から今の電話だ」
「……よく判りましたね」
と、西目は言った。それが判るのはもう少し先だと思っていた。
「粂が口を割ったんですか」
「いや、搦《から》め手から訊《き》き出したらしい。粂の姉さんの虚栄心をちょっとくすぐってやったら、口止めされていたことを忘れたようで、すぐ答えてくれたという。粂の姉さんは昔の記憶だけははっきりしているそうだ」
倉馬らしいやり方だが、多分、それが正しいのだろう。直接、粂や幸明に問い合わせても、とぼけられて逆に向こうの警戒心を強めるだけかも知れない。
「倉馬君は治作が十年以上いた高校をなぜ辞めたのか、ひどく気になると言う。私もそうだ」
と、土橋はいった。
「西目君、ご苦労だが、倉馬君と東京へ行ってくれないか」
このところ、リューマチは大人しい。西目はすぐ支度《したく》をします、と言った。出張手当てが出れば、倉馬も異存はないはずだった。
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十章 辿《たど》り着く
その一
空はどんよりと曇り、朝から蒸《む》し暑かった。天気予報では南方海上に大型の台風が停滞しているという。だが、天候とは反対に、香留《かおる》の気持は晴晴としていた。
清詩が運転する車は、笛吹《ふえふき》川沿いを南に下っている。四人のドライブは学生の旅行のような華やぎに包まれていた。
朝、顔を合わせると、気のせいか、寝不足の目をした清詩が、
「お早うございます。よくお休みになれましたか」
と、快活に挨拶《あいさつ》をした。
湯も四人で一緒だった。弥宵もすっかり打ち解けた態度で、昨夜までうじうじしていたのが嘘《うそ》のようだった。
「幽霊は出なかったかな」
と、香留は森子に訊《き》いた。森子は一瞬きょとんとして、
「あら、そんなの、すっかり忘れていたわ」
と、笑った。
「幽霊が出る閑《ひま》がなかったみたいだな」
「そうなの。わたし達、明け方まで燃えちゃった」
「それはよかった」
「皆、奥さんのお蔭《かげ》だわ」
そのときだけ、弥宵《やよい》は返事ができず、下を向いてしまった。
「僕は独りっ児《こ》なんです。だから、一度に兄さんや姉さんができたみたいで、本当に嬉《うれ》しい」
と、清詩が言った。森子も言い添えた。
「わたしも同じ。奥さんは清詩を満足させてくれたから、他人とは思えないの」
そして、今度から姉さんと呼ばせてくれと弥宵に頼んでいた。
車は塩山《えんざん》に向かっていたが、恵林寺を過ぎて道を変え、山梨市への道を進む。
清詩の説明だと、塩山、山梨は甲州《こうしゆう》の鎌倉《かまくら》と呼ばれるほど古社寺の多いところだという。一昨日、恵林寺と放光寺《ほうこうじ》を見て来たと言うと、清詩は大井俣窪八幡《おおいまたくぼはちまん》神社に車を向かわせた。
八幡宮は時代の重みの感じられる荘厳なたたずまいだったが、森子はあまり興味を示さなかった。
八幡宮から万力《まんりき》公園を散策して、今度は笛吹川の支流|兄川《あにかわ》を遡《さかのぼ》る。
このあたりも古社寺の多いところだという。車が進むにつれて、花火の音が近くなった。
「昨夜も、花火の音を聞いたような気がしたわ」
と、森子が言った。
「そうしたら、わたしの何かが急に目醒《めざ》めたの。それで自分に気が付くと、びっくりするほど遠くに来ていることが判《わか》ったわ」
「素晴らしいところだったようだね」
と、香留が言った。
「ええ。今まで知らなかったのが、信じられなかったほど」
「それはよかった」
銀色の湖が見えてきた。道を歩く人と車の数が多くなる。湖の傍《そば》の空地に急|拵《ごしら》えの駐車場ができていた。そこに車を入れるため、清詩は車の速度を落とした。
「せっかく、知り合いになれたのに、明朝はお別れですね」
と、清詩が言った。
「そうだね。楽しかったから、あっという間だった」
「何だか残念です」
「仕方がない。僕ももっとここにいたいが、仕事がある」
「それで、どうでしょうか。祭の間だけ、奥さんと二人で歩いてみたいんです」
「……なるほど」
香留はロマンチックな提案だと思った。だが、弥宵が何と言うか判《わか》らない。香留は隣に坐《すわ》っている弥宵の顔を見た。弥宵に嫌がる表情はなかった。香留が答える前に、森子が言った。
「わたしは賛成よ。清詩もいいことを考え付くことがあるのね」
清詩は駐車場に車を置き、四人は車を降りた。森子がすぐ、香留の腕にすがり付き、
「じゃ、姉さん。清詩をよろしくね」
と、弥宵に声を掛けた。
弥宵は何か言いたそうだった。だが、淋《さび》しそうに笑っただけで、清詩に手を引かれて後ろを向いてしまった。
唐松湖《からまつこ》は湖と呼ぶには小さすぎるほどだった。宿の案内書には、数万年以上前の地盤沈下によってできた陥没湖《かんぼつこ》で、昔は現在の十倍以上の広さがあったが、次第に縮小して今の形に止《とど》まった、と説明されている。
湖岸の遊歩道は屋台店で賑《にぎわ》っている。弥宵と清詩の姿は、すぐ人にまぎれて見えなくなった。
「やっと、二人になれたわ」
と、森子が言った。
「清詩や奥さんの前では、ちょっと言いにくくてね」
「……何が?」
「何が、なんて言うところをみると、夕城《ゆうき》さん、気が付かなかったの」
「…………」
「あの二人、まだ、他人なのよ」
香留はびっくりして、ぼんやりと森子を見た。
「それは、本当かい」
「よく、調べなかった?」
「……ああ」
「お人好《ひとよ》しねえ。わたし、匂《にお》いですぐ判ったわ」
「参ったな」
「証拠もあるわ。昨夜、蒲団《ふとん》の下に、そっとテープをセットして置いたの」
香留は二度びっくりした。
「聞きたい?」
「聞きたいな」
森子はあたりを見廻《みまわ》して遊歩道を下り、湖の汀《みぎわ》にある平らな石の上に腰を下ろし、バッグから小さな録音機を取り出した。テープを途中まで巻き戻《もど》し、森子は音を絞って再生ボタンを押した。香留は機械に耳を寄せた。
機械は羽音のようなさざめきを出していたが、しばらくすると、人の声が流れだした。
――来たわ。
小さいが弥宵の声に違いなかった。その後、しばらく沈黙が続いた。
――君とここで会うとは思わなかった。
と、清詩が言った。
少しの間、さわさわという音が続く。弥宵が清詩の傍に来て着座した感じだった。弥宵の声がはっきりとした。
――じゃ、森子さん、何も言わなかったの?
――何を。
――わたし達がここで出会ったのは、偶然じゃなかった、ということ。
――偶然じゃない?
――ええ。夕城と森子さんが相談して、前もって決めていたそうよ。
――すると?
――わたし達のこと、あの人達に、知れてしまったわ。
――じゃ、どうして……
――お互い、破局を避けるためなんです。皆が納得したうえで、ときどき会い、とにかく、破滅することだけは防がなければならない、と。
――そうだったのか。じゃ、その覚悟で来てくれたんだね。
――あ、だめ……
また、機械に雑音が入り込んでいる。音は荒荒しい。
――皆が納得している、と言ったじゃないか。
――でも、わたし達だけは、違います。
――いつも、そればかりを言う。僕だって、普通の男だ。
――ご免なさい。
――どうしたらいいんだ。
――判《わか》りません。森子さんが帰って来るまで、待っていて下さい。
――そんなこと言ってるんじゃないんだ。いつまで、こうしていなきゃならないんだ。
清詩の声は絶えず焦立《いらだ》ち、弥宵の方は涙声で哀願し続けるだけだった。清詩は言い聞かせる。
――折角、夕城さんが大人の付き合いを勧めてくれたんだ。色色な柵《しがらみ》を自分から解き放すんだ。
――わたしはできません。
――どうしても?
――はい。
森子はテープのスイッチを切った。
「と、いうわけ」
「……なるほどな」
「この後、清詩は一度|諦《あきら》めると、奥さんに優しくなっているの。わたしにも使わないような言葉で。清詩は言葉で愛するしかなかったのね」
「……可哀相《かわいそう》な気もする」
「わたしは反対だわ。焦焦《いらいら》するわよ」
「結局、僕達は欺《だま》されていたんだ」
「そう。別れ際に、清詩は言い含めていたわ。夕城さんの部屋に戻《もど》ったら、僕を迎えたような顔をしていなさい、と」
すると、今朝、岩風呂《いわぶろ》での弥宵も演技だった、ということになる。
「だから、わたしが戻ってからの清詩は激しかったわ」
「……弥宵も同じだった」
「本当は、奥さんの身体《からだ》も清詩を求めていたのね」
香留は腕を組んだ。
「君は前に、清詩は神聖な女神のイメージを持っているので、触れることができないのだろうと言ったが、それは訂正しなければならないようだね」
「そうね。といって、奥さんの方が女神になっていたいわけでもなさそうね」
「じゃ、なぜ弥宵は最後まで拒み通したんだろう」
「判らないわ。ただ、奥さんは強い倫理観を持っていることは確かね」
「……武士の妻だね。まるで」
「奥さんの実家、呉服屋さんだといったわね」
「そう。何代も続いた老舗《しにせ》だ」
「親の躾《しつけ》が厳しかったのかしら」
香留はそうは思わなかった。弥宵の父親はかなり趣味人だったようだ。
「松島さんが、弥宵と二人だけになりたいと言ったのは、あくまで弥宵を従わせるためだったのかな」
「きっと、そうよ。だから、わたし達も欺《だま》されたままになっていて、様子を見ていましょうよ」
「そう。それが、一番いい」
相談がまとまると、森子の変り身も早かった。遊歩道に戻ると、すっかり祭を楽しむ気分になったようで、一軒一軒の屋台に足を留めるのだった。
香留は、あれほど強く拒否する弥宵に対して、その理由はともかく、心が痛んだが、すっかり心を宥《ゆる》している森子が傍《そば》にいると、つい、それを忘れ勝ちになるのだった。森子が若い恋人同志のように寄り添っているからだ。
どこからか、太鼓の音が響く。
「何か、あるみたい」
森子が神社の方を見て言った。
少し前に参拝したときは礼服を着た人達がちらほらするだけだったが、古い鳥居のあたりに、一般の参詣者《さんけいしや》が集まり始めていた。続けて太鼓が打ち鳴らされる。何かの儀式が行なわれているらしい。
そう広くはない境内《けいだい》は人で一杯だが、身動きができないというほどではない。社殿の前には、立烏帽子《たてえぼし》に束帯《そくたい》の神官、浄衣に緋袴《ひばかま》の巫女《みこ》、五つ紋の黒羽織を着た氏子《うじこ》総代が揃《そろ》っている。氏子が神前に供物《くもつ》を供え、神官が幣《ぬさ》を振り祝詞《のりと》を唱える。その間に氏子の一人一人が榊《さかき》を供える。祝詞はいつ終るとも知れず蜿蜿《えんえん》と続けられる。面白《おもしろ》いものを期待していたわけではないが、矢張《やは》り退屈だ。三十分もすると参詣者は半数になった。
「炊出《たきだ》しがあるわよ」
と、森子が言った。
振り返ると、境内の一隅《いちぐう》にテントが張られ、湯気が立ちのぼっているのが見える。
「僕達も貰《もら》えるのかな」
と、香留が言った。
すると、傍にいた絣《かすり》の着物の老婆《ろうば》が、
「お宮さんの強飯《こわめし》は、いただかんといけませんよ」
と、二人をうながした。
広い飯台を前にして、何人もの主婦が蒸《む》しあがったばかりの強飯を蒸籠《せいろう》から取り出して結びにしていた。参詣者がその周《まわ》りに散って、結びを受けている。
老婆はもの慣れた態度で、紙皿に結びと沢庵《たくあん》を取り分けて二人に渡してくれた。
「どこからおいでですか」
と、老婆が訊《き》いた。
「東京からです。初めて参詣させていただきました」
「それはようおした。今年が本祭、祭はこれからがよろしい」
「お神楽《かぐら》があるそうですね」
「はい。今夜の神輿《みこし》は子供のものですが。神楽は天平《てんぴよう》の舞楽でおます。終りまで、ご覧なさい」
「いつ終るのですか」
「朝日が昇るまで舞っとります」
「……一晩中?」
「それは昔の話。戦後は人口も減り、何かにせちがらくなりましてね。一日が終るまでです」
「一晩中だと、見る方も大変でしたでしょう」
「なんの、朝までいる人達は、皆、好き合うた相手と見ていますから、それが楽しみでしたね」
「なるほど」
「本当ですよ。昔はよかった……」
しかし、現在でも決して悪くはない、と香留は思う。
湖上に張り出した神楽殿は楽師と舞人を得て古い時代を蘇《よみがえ》らせた。楽師はゆったりとした幽玄な響きを奏《かな》で、舞人はそれぞれの衣装で、素朴な舞いを続ける。次次に登場する面の妖《あや》しい古さ。舞人の閑雅な動き。参詣者《さんけいしや》は汀《みぎわ》に敷かれた筵《むしろ》に腰を下ろしているのだが、そこにも神の気配が漂ってきた。
内容のよく判《わか》らない、何曲かの後、曲の旋律が早くなった。演じられるのは、素戔嗚尊《すさのおのみこと》の八岐《やまたの》大蛇《おろち》退治だった。実に素朴な神楽なのだが、異彩を放っているのは、数メートルもある布製の大蛇を小舟に乗せ、ちょうど湖面を渡る姿に操るのだ。
やがて、大蛇は神楽殿に這《は》い上がり、修羅場となった末、素戔嗚尊に首を落とされてしまう。琴、笛、篳篥《ひちりき》の音が朗朗と湖面を渡っていく。
その曲が終ると、潮が引くように参詣者は減っていった。その曲が一番の見物《みもの》だったらしい。六時近くにもなるとあたりはもう薄暗い。
曲はゆったりとした調子に戻《もど》り、舞人も実に悠然《ゆうぜん》として、神と一体となっているかのよう。森子は立とうともせず、静かな余韻《よいん》にひたっているようだ。
湖が暮れ泥《なず》み、神楽もよく見えなくなったころ、全曲が終った。神楽殿はそのまま闇《やみ》に消えていった。
「奥さん、飽きなさらんでしたか」
気が付くと、神楽殿の前の参詣者は算《かぞ》えるほどになっていた。それで、香留達が目に付いたようで、さっきの老婆《ろうば》が傍《そば》に寄って来た。森子は自分まで厳粛な気持になった、と答えた。
「昔はまだ序の口でした。これから、篝火《かがりび》が焚《た》かれて、その光の中で舞いが続けられるのです」
そのうち、神楽殿《かぐらでん》から楽師や舞人が順に橋を渡って地上の人となる。老婆はその一人一人を見て感慨深そうに言った。
「皆、年を取ってしもうて……」
香留は老婆に訊《き》いた。
「失礼ですが、あなたはおいくつになられましたか」
「もう、九十に手がとどきます」
それにしては驚くほど元気に、老婆は立ち上がった。老婆の視線の向こうに、丸顔で目鼻立ちの小さな女性が手を振っている。
「孫の勢子が迎えに来ております。来年も、と言いたいけれど、まあ、先のことは言わんことにしています」
神への儀式の終った夜になってからの祭は違う賑《にぎわ》いを見せていた。参詣者《さんけいしや》は神楽殿《かぐらでん》から遊歩道へと移って、すっかり寛《くつろ》いで屋台の酒を飲み、見世物を見物する。
だが、清詩と弥宵の姿はどこにも見えなかった。ためしに駐車場へも行ったが、清詩の車は見当たらなかった。
「どこへ行ってしまったのかしら」
と、森子は不服そうに言った。香留も少し弥宵のことが心配だったが、
「まあ、いいじゃないか。まだ、こんなに賑《にぎ》やかだ」
と、気楽に言った。
「でも、祭は終ったわ」
「……松島さんが恋しくなったのかね」
森子は香留の手をぎゅっと握って言った。
「もしかして、わたし達のいないところで、ルール違反をしているのかも知れないでしょう」
「……真逆《まさか》」
「いいえ。傍《そば》に主人がいると思うと、心理的にだめになる人がいるものよ」
「そうかな」
「……心配しないの。強がりみたいね」
「そう見えるかな」
「見えるわよ。清詩が帰って来たら、確かめなきゃ」
「もし、そうだったら?」
「繰《く》り返すけど、違反よ。何か、考えなけりゃね」
東京では見られない、珍しい香具師《やし》や見世物も多い。退屈はしないのだが、時間が長く感じられる。
二人の前に弥宵と清詩が帰って来たのは、八時すぎだった。
清詩は二人を見ると、晴れやかな表情で言った。
「姉さんは聞き入れてくれましたよ。もう、別別でなく、一緒の部屋で、と」
森子の心配は思い過ごしだった。弥宵は裏切ってはいなかったが、身体《からだ》はすでに違反してきたと同じほどだった。
すぐ、傍に清詩と森子がいる。正視こそしないが、全《すべ》てが判《わか》っている。弥宵の性格からすれば、どんなにか切ないはずで、それが、逆に嫌でも刺戟《しげき》を鋭くしているのだ。今朝《けさ》、森子が、びっくりするほど遠くへ来た、と告白したが、弥宵もその境地を経験したはずで、しばらくは呼吸が整わなくなっていた。
森子の方も、元元奔放な質《たち》に加えて、さっきの心配が感性を高めたようで、たちまちに溺《おぼ》れ沈むのが判った。
ややあって、森子が弥宵の傍ににじり寄って来た。
「姉さん、もう、いいわね」
そして、胸に手を伸ばした。弥宵は身をよじって起き上がり、浴衣《ゆかた》の前を合わせ、髪に手を当てた。
「清詩が待っているわ。姉さん、行ってやってね」
弥宵がうなずいて静かに清詩の傍に寄った。
二人は視線だけを交《まじ》えていたが、そのうち清詩が相手の肩に手を伸ばした。弥宵の胸が大きくふくらむのが判った。
「わたし達も……」
森子はもどかしいようにすがり付いてきたが、それは科《しな》だけで、香留と同じようにそっと弥宵の方を窺《うかが》った。
弥宵は清詩の横に添い臥《ふ》していた。ただ従うだけの態度は変わらない。清詩は適切な手順を心掛けているようだった。いきなり修羅場とならない心遣《こころや》りに、香留は安心した。そのうち、弥宵も何かしら舞い始めたと思うと、相手の思いのままになっていった。濡《ぬ》れ身に行き着いた清詩が、
「いいね」
と、耳元にささやくのが聞こえた。
着ているものを脱ぐのがその返事だった。弥宵は押し開げられていく。その瞬間、弥宵の口がぽっと丸くなり、眉間《みけん》に皺《しわ》が立つのが見えた。自分から浴衣を解き去った身体《からだ》が、現実のものとは思えないほど、美しく思えた。
「やっと、着いたわ」
森子がかすれた声で言った。
二人の間の長い忍耐が解き放たれた瞬間だったが、その姿はそのまま焼き付けられたように動かなかった。そして、その頂点は二人の背が丸めあう姿で判った。
森子が上気した目を向けた。
「見た? わたし、たまらないわ」
今度は森子の方が逆に煽《あお》り立てられたようだった。香留に挑みかかると、清詩の方に誇示するように上体を起こした。
「よかったかい?」
香留は戻《もど》って来た弥宵に言った。弥宵の慎みが取り散らされた感じになっている。優しく抱いたはずが、弥宵はもの欲しそうな身体《からだ》の動きで応《こた》え、その感じを取り逃すまいとするように、狂おしくすがりついてきた。香留は甘酸っぱい味覚に似た反感を覚え、その思いを弥宵に埋めていった。
「もう……どうにでも……」
言葉にならない声が、高く長く尾を引いた。弥宵は初めて感情を押えるのを放棄した。嬌声《きようせい》はしだいに短く切羽詰まり、最後の鋭い音律とともに身体を投げ捨ててしまった。
その二
久し振りの東京は雷雨だった。
四角に区切られた黄灰色の空が、ときどき白く光り、大粒の雨を落としている。だが、雷の閃光《せんこう》はストロボのフラッシュ、雷鳴は工事の騒音。ビルの谷間にいると雷雨までが人工に近くなってしまう。道を歩く人の列も、雨だからといって減ってはいないようだった。
「近くなので、ちょっと靖国《やすくに》神社へ寄りたいんですが」
と、倉馬は言った。
「親戚《しんせき》に二人ほど戦死者がいるんです。このところ、東京へ出掛けることがなくて、僕が出張するというと、参詣《さんけい》して来てくれと頼まれたんです」
倉馬のことだから、ひょっとすると親戚から集金してきたかも知れない。
慣れない地下鉄は敬遠し、飯田橋《いいだばし》から歩くことにした。いい工合《ぐあい》に、電車に乗っている間に雨は上がった。
駅からの道は昔のままだったが、両側の商店街は見違えるほど変わっていた。どこを見ても新しくきらびやかだ。しかも、決して薄手ではない。
靖国神社で参詣を済ませ、靖国通りを渡って三番町の清暁高校へ。
電話を入れておいたので、すぐ応接室へ案内され、校長と書類を持った職員が入って来た。
「早速、ご依頼の件にお答えしましょう。田中治作という教師は、確かに当校で社会を教えていたことがあります」
と、校長は言った。
「勤務年数は昭和二十二年から三十四年までの十二年間です」
「ここを辞めてから、他の学校に転勤になったのですか」
と、西目が訊《き》いた。
「いえ、辞職です。教師を辞めたのです」
「辞めるようになった理由は?」
校長は治作が書いた辞表を示した。それには一身上の都合によりと、簡単に記されている。
「それ以来、田中氏は学校とは縁が切れてしまったようですね。現在、同窓会の職員名簿にも、田中氏の名前は載っていません」
「今、田中さんと面識のある方はいらっしゃいませんか」
「残念ですが、現在、当校には田中氏を知っている職員は一人もおりません」
二十年以上も前のことだから無理もない。だが、西目は食い下がった。
「当時の校長先生は?」
校長は名簿を繰《く》った。
「田中氏が在職していた間、二人の校長が就任していますが、お二方とも死去されています」
「じゃ、同僚の先生は?」
西目は同窓会の職員名簿をコピーしてもらうことにした。
その間、当時の卒業アルバムに目を通した。写真はいずれもモノクロで、治作はいつも職員の後ろの方で、にこりともしないで立っていた。当時から老《ふ》けた顔で、若いときは多少髪が多い程度で、すぐ治作を見付けることができた。
治作は特にクラスの担任をしていたことはなかったらしい。生徒と一緒にうつっている写真は一枚も見付けることはできなかった。
コピーを持って校長室を出ると、運動場の方から女生徒の賑《にぎ》やかな声が聞こえてきた。
寮に戻《もど》ってから、西目と倉馬は手分けをして元清暁高校に勤めていた教師に電話を掛けた。
そのうちの何人かが死亡しており、何人かが病気で入院中だった。同じ時期、清暁高校に通っていたはずなのに、治作のことになると、記憶にないという教師もいた。
西目は最後に、治作のことを話してもいいという元教師に行き当たることができた。砥部唐子《とべからこ》、当時、清暁高校で国語を教えていた女教師だった。
砥部唐子はまだ現役の教師だ。国立《くにたち》の高校に勤め、家は国分寺《こくぶんじ》にある。清暁高校時代から砥部という姓は変わっていない。
国分寺からバスで二つめ。閑静な住宅地で、唐子は古いアルバムを用意して西目達を待っていた。
「あの田中さんが死にましたか」
唐子は感慨深そうに言った。だが、皺《しわ》の多い割には冷たすぎる表情には、過去を偲《しの》ぶ甘さは見られなかった。
「多分、わたし以外、田中さんのことを覚えている人はいないでしょうね。いたとしても、田中さんのことはあまり話したがらないでしょう」
と、唐子は言った。
「その通りです。田中先生のことはすっかり忘れてしまった、と言った先生もいらっしゃいました」
「忘れられるものですか」
唐子は冷笑した。
「つまり……田中さんの辞職に関係のあることなんですね」
西目は唐子の顔色を窺《うかが》った。
「勿論《もちろん》です。わたしの教員生活もずいぶん長くなりましたけれど、田中さんのような先生はただ一人だけでしたね」
「…………」
「死んだ人のことを悪く言うのは気が進みません。ありのままを簡単に話しますと、田中さんは学校の女生徒の一人に乱暴したのです。わたしはその現場を見てしまいました」
唐子は忌《い》まわしそうに口を歪《ゆが》める。
「わたしは若かったから、一本気でしたよ。真剣な態度で戦後の教育を考えていたわたしには絶対に宥《ゆる》せないことでした。校長は穏便な解決を望みましたが、わたしは承知しませんでした」
「その結果、田中さんは辞表を出されたのですね」
「ええ。元元が教育者としての資質に欠けていましたね。わたしは今でも、刑事事件にした方がよかったのではないかと思っています」
「それは、いつのことですか」
「昭和三十四年。売春防止法が実施された翌年です」
「……というと、田中さんにはすでに男の子もいます」
「言う言葉もありませんよ」
「その……被害を受けた生徒は?」
「今ではちゃんとした家庭を持っているでしょうね」
「充分、承知しています。絶対、その人に迷惑の掛かるようなことはしません」
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十一章 途絶
その一
「この人に見覚えがありませんか」
県警の刑事だと身分を明かした男は、手帳の間から一枚の写真を取り出して、香留《かおる》の前に置き、じっと表情を窺《うかが》った。
写真の男は色の黒ずんだ筒形の輪郭《りんかく》で、間隔の狭い小さな目をしている。年齢は六十以上に見える。何となく暗い感じのためか、長く注視する気がしない。
「知らない人です」
と、香留は写真から目を放した。
「そうですか……」
そう口では言うが、相手は釈然としない様子で付け加えた。
「田中治作という名なんですがね」
田中という姓の知り合いは何人かいるが、治作という名はない。香留はそう答えた。
「元、板橋に住んでいて、五年ほど前に穴沢《あなざわ》に越して行ったんです」
「……穴沢?」
これも聞いたことのない地名だ。
昼間、雷雨があった。これで涼しいかな、と思ったのは一時だけで、反動のように強い陽差《ひざ》しになり、蒸《む》し暑さは夕暮れが近づいても和らぎそうもなかった。
香留が配達されたばかりの夕刊に目を通しているとき、二人連れの訪問者があった。
一人は見るからに苦労を重ねて来たという感じの年配者で、背広やネクタイも相応にくたびれている。その男が西目という名刺を出し、山梨の警察から来た、と言った。
もう一人は三十ぐらい、店に入るとすぐカメラを並べた棚に目を走らせた。好奇心が強いというより、油断のならない目配りだった。
「山梨の塩山《えんざん》市穴沢。夕城《ゆうき》さんは最近、奥様と笛吹《ふえふき》温泉にいらっしゃいましたね」
と、西目が言った。
「ええ……お調べになったんですか」
「……ちょっとばかり」
そう言う口の裏から、旅行の日程を細かく訊《き》きただす。質問というより訊問《じんもん》に近い。香留は段段と不愉快になった。
「一体、その田中治作という人と、僕とどういう関係にあるんですか」
と、香留は言った。その返事によっては、これ以上相手になるまいと思った。
「つまり、あなた方が宿泊した牧野旅館のすぐ近くに穴沢というところがあるのです。たまたま、あなた方が笛吹温泉に来られていたとき、その穴沢で田中治作が何者かによって殺害されたのです。私達はその事件を担当することになったのです」
「殺人事件……」
思い掛けない言葉に、香留はびっくりした。
「ご存知ありませんでしたか。被害者の息子さんが著名人でしてね、東京の新聞にも取り上げられていたはずですが」
「……その事件のことなら全然知りませんよ」
「そうですか。いや、捜査を進めていくうち、犯人の手掛かり、証拠というものが、極端に少ないことが判《わか》ったのです。それで、一人でも多くの人に当たり、田中治作の目撃者を捜し出さなければならないわけなのです」
「それはご苦労ですが……私達に訊《き》いても無駄でしょうね。第一、穴沢というところへ行ったこともないし、あの温泉も初めてなので、馴染《なじ》みの土地なんかじゃない」
「いや、私達の仕事は、実に無駄の多いものでして、それを気にしていては捜査が進まないわけなのです」
と、西目は言い訳するように言ったが、香留は前前から、単に目撃者を尋ねている以上の含みを感じていた。それが、次の言葉でなおはっきりとした。
「ちょうど、あのとき、お祭りがありましたでしょう、唐松《からまつ》神社で……」
香留は用心深くなって、ええ、とだけしか答えなかった。
「奥さんと、ご一緒でしたか」
「……ええ」
「お連れは?」
「友達の夫婦も一緒でした」
「それは……宿でお知り合いになった?」
「たまたま、同じ宿に泊まっていた、僕の知り合いでした」
「なるほど……相手のご主人の方ですか、奥さんの方ですか」
「奥さんと幼友達だったんです」
「お祭りには、バスでしたか。それとも?」
西目はかなり予備知識を持っているようだった。その後の質問は、祭礼の日の四人のアリバイ調査と同じだった。
唐松神社の祭礼では、四人が一緒で、神楽が終ってからは森子と二人になっていたと聞くと、西目は気のせいか興味深い表情になった。すでに、西目は森子のところに行っていて、事情を聴取して来たかも知れない。とすると、下手な拵《こしら》え事はしない方がいいと思った。香留は記憶に残っている時刻をそのまま言った。
「すると、四人が宿に帰られたのが八時半ごろ。どうでしょう。その後、何か変わったことでもありませんでしたか」
「変わったこと?」
「……ええ。奥さんの気分が勝《すぐ》れなくなっていた、とか。そんなことですが」
「……ありませんね。ごく普通でしたよ」
「今、奥様は?」
「勤めに出ています」
「その、会社を教えていただきたい」
「……一体、何なんですか。僕達、疑われているんですか」
「いや……」
若い方の刑事が口を挟み、これは報告書を作る上で必要なので協力してほしいと和やかに言った。そして、
「言い遅れましたが、田中治作が殺されたのは八月二十七日の夕方以降だということがはっきりしているのです。さっき、旅程をお聞きしたとき、夕城さん達はその日は東京に帰られていたということですから、最初から疑うはずはありません」
と、付け加えた。
香留は弥宵《やよい》の通勤している着物の着付教室を教えた。
しかし、そこには弥宵はいないはずだ。弥宵は笛吹温泉での思い出を最後にして、姿を消してしまった。ただ、ごめんなさいという書置きだけを残して。
同じ日、清詩も森子を家に残していなくなった。
その、原因が何も判《わか》らない。
刑事が帰った後、香留は何もする気がなくなった。
西目は祭礼から帰ってから、弥宵に変わったことはないか、と訊《き》いた。
本当は、弥宵が変わったのはそのときからだった。あれほど頑《かたく》なだった弥宵が、はじめて清詩を受け入れたのだ。しかも、装いの全《すべ》てを捨て去った姿で。
そのときは、単純に清詩に説得されて、だと思っていたが、改めて考えると、弥宵の変化は豹変《ひようへん》とも言えそうだ。清詩と一緒のとき、弥宵に何かが起こったのだ。
電話のベルで我に返ると、店は暗くなったままだった。香留は部屋の電気をつけ、受話器を手に取った。
「刑事が来たわ」
と、森子が言った。
「いろいろなことを聞いて帰って行ったわ」
「僕達のアリバイを調べたのさ」
「夕城《ゆうき》さん、田中治作を知っているの?」
「知らない」
「……でしょうね」
「松島さんは?」
「そのことで、話がしたいわ。いつものところ、どう?」
「いいね」
弥宵と清詩がいなくなってから、二人が傷を舐《な》め合うようにして会うホテルがあった。
香留は森子に言われるまま、その場所で落ち合った。
「別に僕達を疑っているわけじゃない、そう言っただろう」
と、香留は言った。
「ええ。ばかみたいね」
「電話で言い掛けたんだが、松島さんはどうだろう。田中治作のことは?」
「よく考えたんだけど、そんな名を彼の口から聞いたことは一度もなかったわ」
「それにしても、刑事は変にしつこかったな」
「あのことでしょう」
「あのこと?」
「じゃ、夕城さんには訊けなかったんだわ。わたしは女だからばかにしたのね」
「何を訊かれたんだね」
「わたし達のこと。四人の関係。きっと、宿で何か聞いて来たんじゃない?」
「……で、何と答えたの」
「答えるもんですか。覗《のぞ》きの趣味がおありね、って軽蔑《けいべつ》してやったわ」
「そうか……」
西目の興味は別のところだったとすると、執拗《しつよう》な訊問《じんもん》の意味がのみ込める。
「松島さんがいなくなったことは?」
「それも言わなかったわ」
「……僕もだ」
「それから――夕城さんには言わないでくれと前置きされて訊《き》かれたことがあるの」
「…………」
「根も葉もないことだから、あなたに言っても気にはしないと思う」
「どんなこと?」
「もしかして、弥宵さんはずっと前に子供を生んだことがあるんじゃないか、って」
「……何だね、それは」
「ばかばかしいでしょう。あの人達、何も知りはしないのよ」
しかし、香留は森子のように笑いとばすことができなかった。
もし、あの瞬間の感覚を知らなかったら、西目の言葉を鵜呑《うの》みにしていたかも知れない。
その夜、森子を抱いたが、欲望を吐き出した、というだけだった。とくにその日は、心の空白がはっきりと判《わか》った。
森子も同じ思いのようで、それからの出会いは段段と遠退《とおの》くようになり、一年ほど経った日、
「わたし、清詩のことはすっかり忘れて、他《ほか》の人と結婚することにしたの」
それが、最後になった。
その二
元、清暁高校の職員だった砥部唐子《とべからこ》は、西目が他人に迷惑の掛からないよう約束をすると言うのを聞いて、少し考えていたが、
「田中さんに被害を受けた生徒は、当時、一年生だった、華丘弥宵《はなおかやよい》という子でした」
と、はっきりと言った。
西目は息を飲んだ。それは、笛吹温泉にいた夕城弥宵と同一人物ではないのか。
唐子はアルバムを開いて、スナップ写真を示した。制服を着た三、四人の生徒と一緒にカメラに笑い掛けている。
「美しい子でした。気立ても成績もよくて。だから、余計にやり切れない事件でした。それを知っているのは、当時の教師達だけで、無論、生徒に洩《も》れるわけはありません。でも、華丘さんのショックはかなりひどかったようで、しばらくしてから学校を中退してしまいました」
「……その後は?」
「どこまでも運の悪い子でした。たった一度だったのに、妊娠《にんしん》してしまったんです」
「…………」
「まだ十六ですから、無理もない。華丘さんは身体《からだ》の変化に気付かず、変だと思ったときはもう処置のできない状態でした。華丘さんが中退してからも、わたしはときどき家に行って、彼女を励ましていたんですが、それだけは気付かなかった」
「……結局、子を生んだのですか」
「ええ。華丘さんはお父さんの別荘で子を生み、そのまま、子供だけは欲しがっていた夫婦に引き取ってもらったそうです。勿論《もちろん》、華丘さんも承知して。その夫婦は実子として届け出ることにしましたから、華丘さんも、勿論、わたしなんかも子供の行く先は知らせてもらえませんでした」
「…………」
「教育者の限界ですね。あるとき、華丘さんのお父さんに呼ばれて、もう、家には来てくれるな。折角だけれど、娘は先生を見ると、嫌でもあのことを思い出すからと言われて、付き合いはそれ限りになってしまいました」
西目は華丘弥宵の当時の住所を控えて、唐子の家を出た。
唐子の家の応接室は、人形や花の絵で、少女が住んでいる部屋のようだった。どこを見ても男の気配は感じられなかった。
もし、あの事件で、唐子がひどい男性不信を植え付けられ、そのために男を傍《そば》に寄せ付けないできたのなら、治作はここでも大きな罪を重ねていることになる、と西目は思った。
外は雨がすっかり上がり、強い陽《ひ》が差して濡《ぬ》れた道に照り返っていた。
西目はその子の追跡調査を行なうべきだと思った。倉馬も同じ意見だった。今まで、無関係だと思っていた田中治作と夕城弥宵が異常な関係にあったことが判《わか》って、それは当然だった。
「華丘弥宵はまだ田中治作を怨《うら》んでいるでしょうね」
と、倉馬が東京駅に向かう中央線の中で言った。
「それは、そうだ。砥部唐子だって、まだ治作のことを忘れないでいる。もし、唐子が治作はまだその悪癖を続けていることを知ったら、怒り狂うことだろうな」
「……殺すかも知れませんね」
「しかし、弥宵が治作殺しの犯人だとすると、なぜ、正式に結婚した今になってその気になったんだろう」
「僕は男だと思いますね」
「男か」
「ええ。弥宵にぞっこん惚《ほ》れた男が、弥宵の過去を知って、逆上したんじゃないでしょうか」
「……その男は?」
「ちょっと複雑みたいですね。バスの運転手が穴沢で目撃した二人連れは、まだ誰《だれ》とも確認できないでしょう」
新宿駅から新橋まで。弥宵の実家、呉服店の華おかはすぐに判った。
頭の禿《は》げ上がった、見るからに実直そうな男がいて、弥宵の兄ですと言った。だが、極めて口の固い男だった。弥宵にそんな過去はないの一点張りだ。
元清暁高校の教師だった、砥部唐子という人が健在で、その人から全《すべ》て聞いて来たばかりだと言っても、
「私は存じません。もし、そんなことがあったとしても、父と弥宵とで決着をつけたのでしょう」
と、にべもなく言った。
「しかし、弥宵さんはここにいたわけでしょう。あなただって、もう、子供じゃなかったはずです。家の大事を知らなかったとは言わせませんよ」
西目が迫ると、今度は口を固く閉ざしてしまった。西目は仕方なく、下手《したて》に出ることにした。
「それじゃ、弥宵さんが生んだ子の、名ぐらい教えてくれませんか。子供が引き取られた先の名までとは言いませんから」
弥宵の兄は苦しそうな表情をしていたが、やがて口を開いた。
「父はその子に名を付けました。この子だけは清らかに生きて欲しいという願いをこめて、清詩と付けました。清は清純の清で、詩は詩歌の詩です」
それだけ判《わか》れば充分だった。
弥宵の生んだ子は、そのまま母親から引き離され、松島家の子となった。成長して美術大学に入ったというから、まず恵まれた家庭だったに違いない。だが、清詩は自分の実の生みの母が存在することを知った。
それは、いつのことか判らないが、最近であることに間違いなさそうだ。当然、清詩の実母、弥宵が浮かびあがってくる。清詩は弥宵に会って、自分の出生の秘密を訊《き》き出したのだ。
清詩は初めて田中治作を知る。教育者として考えられない破廉恥《はれんち》な行為。そして、母の屈辱と絶望の中で自分が誕生した。清詩が何知らず成長する間にも、母の苦しみは絶えることがなかったのだ。
それを知ると、清詩は父への憎悪に燃えあがり、母のための復讐心《ふくしゆうしん》を押えることができなくなった。母への愛が強ければ強いほど、それは一層|凄《すさ》まじい敵意を生じたはずだ。
八月二十六日、唐松祭の夜、穴沢のバス停に立っていたのは、弥宵と清詩に違いない。二人のうちどちらかが電話で治作を呼び出したのだ。穴沢のあたりで、落ち合う場所といえばバス停ぐらいしかない。二人はそこで治作と会い、思いを遂げたのだ。
「それに違いありません」
と、倉馬も言った。
「後は、裏付けを取るだけです」
会う人物は多くなった。夕城夫妻と松島夫妻。両方の住所は牧野旅館の宿泊者名簿の写しがある。
一応、宿舎に戻《もど》って、これまでの捜査を報告しておこうと、捜査本部に電話を入れると、思いも掛けない返事が待っていた。
「西目さん、その方の捜査ならもうよくなった。打ち切って、帰ってきてください」
折井主任の言葉に西目は呆《あ》っ気《け》に取られた。
「いいって、何がですか」
「つまり、牧野旅館の方は事件に関係のないことが判ったんだ」
「……それは、どういう意味ですか」
「田中治作の死亡時刻がはっきりしたんだよ。治作は八月二十七日の夜までは生きていたことが判ったんだ」
「目撃者がいるんですか」
「そうなんだ。日高咲さん、知っているかね」
「ええ。ボランティア活動をしている日高先生でしょう」
「その先生がね、事件を知って、出頭して来たばかりなんだ。先生は祭の次の日の夜、六時半頃、山梨駅で田中治作と会ったというんだ」
「それは、確かなんですか」
「年は取っているが、頭の方はどうしてしっかりしたもんだ。治作が酒に酔ってふらふらしているのを注意してやったそうだ」
「それは……確かに八月二十七日なんでしょうね」
「まず、疑いはないね。日高さんは二十六日の湖上|神楽《かぐら》を見ている。その、次の日の夜というから、確かなものだろう。祭は日曜日、その次が月曜。ちゃんと日高さんは知っている」
西目は恐る恐る訊《き》いた。
「嘘《うそ》だとは?」
「なぜ、嘘を吐《つ》くね?」
「そうだとすると、田中幸明のアリバイも成立しますよ」
「そうなんだ。しかし、あのボランティア協会は政治家と無縁だ。田中幸明を庇《かば》う理由はどこにもない」
「そうなんですか」
「それに、日高先生の人望は高いよ。あの先生が嘘を吐いたなどと言ってごらん。大変なことになるよ」
「……ですから、小さい声を出したんです。とすると、捜査は播《ま》き直しですか」
「うん。これから、治作から金を貰《もら》っていた新星中学の、首藤明美と田辺夏子の周辺を重点的に洗うことになった」
捜査本部では、とうに牧野旅館の方面を重視していないようだった。
二十七日まで治作が生きていたとすると、二十六日にバスの運転手が穴沢で目撃したという二人連れは事件とは無関係になってしまう。三人の間に何かがあったとしても、殺人事件には無縁だ。夕城夫婦は二十七日の十時、松島夫婦は同じ日の四時に牧野旅館を発《た》って、七時半にはすでに東京の自宅に着き、山梨にはいないからだ。
と、判《わか》ってもなぜか西目は自分の結論を捨て切れなかった。ひょっとして、その四人のうち誰《だれ》かが、東京へ帰る途中か、あるいは東京へ戻《もど》ってから再び穴沢に引き返す機会がなかったか。
西目は一応、夕城と松島を訪問することにした。
夕城写真館は古い建物の趣《おもむき》を毀《こわ》さず改装されたといった落着いた店で、主人の香留は人当たりのいい中年の紳士だった。妻は着物着付教室の講師で、その教室に行っていると言い、質問にははっきりと答えた。
二人は二十七日の十時に宿を出、塩山で十時半ごろの中央線に乗り、新宿で食事などをして家に着いたのが一時半ごろ。それから店を開けて、夜は香留の叔母《おば》が来て、三人で食事をしている。それ以来、山梨に出向いたことはなく、田中治作という名も全く知らない。
一方、松島の家は、清詩は仕事で、妻の森子だけがいた。住まいは中級のマンションだった。
この二人も、牧野旅館を夕方車で出発、七時半には自宅に着いて、親しい隣人などに土産物《みやげもの》を配っていた。夜は清詩の友達のパーティに二人で出席して、遅くなって帰宅したという。
西目はそれでこの四人が治作殺しには無関係だと認めざるを得なくなった。
後になって、首藤明美と田辺夏子の捜査の方も進まなくなった。二人の口は固く、田中治作との関係を知る者は誰一人として浮かんでこなかったからだ。
そして、ぱたりと捜査は行き詰まってしまった。
しかし、なんと言っても西目の「好きな」事件だ。
その後、捜査本部は解散されたが、西目はこの事件を忘れ去ることができなかった。
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終章 廻《まわ》り道
その一
ローリエのドアを押すと、ひびが入ったような鈴の音がした。
奥に細長い薄暗い店で、カウンターの中には髭《ひげ》を生やした中年の男がグラスを磨いていた。入口の近くに背丈《せたけ》ほどのゴムの木の鉢植えが置いてあって、その向こうから化粧の濃い女性が出て来た。
鉢植えの陰でよく見えないが、半袖《はんそで》のシャツを着た二人の男が止まり木に並んでいる。客はその二人だけだった。
「いらっしゃいませ」
と、女が言った。ジャズコンサートのライブが流れている。
「カミュブランデーにしてくれないかな」
と、香留《かおる》は言った。
「かしこまりました。すぐお持ちしますから、二階でお待ち下さい」
入口の横に急な階段があった。女が先に立った。二階へ登り切らないうち、表のドアの鈴が鳴った。香留はどきりとして階段の途中で足を止めた。
「今晩は。まだ、暑いわね」
弥宵《やよい》の声ではなかった。香留はほっとして階段を登った。
「わたしのところへ、お客さんが来ているわね。あ、そう……」
聞き覚えのある声だった。今、劇場で見て来たばかりのペギー日高《ひだか》に違いなかった。
登り切ると左右にドアがあった。女は左側のドアを開け、部屋の電灯をつけた。
「どうぞ、ごゆっくり」
それだけ言って、女は階下に戻《もど》っていった。
ベッドの広さだけが目立つ部屋だった。ドレッサーの前に小さな百合《ゆり》の花がお座なりに活《い》けてある。香留は小さなテーブルの前に腰を下ろした。
この部屋に弥宵が来ると思うと、さまざまな情感がめまぐるしく交錯してくる。
弥宵との出会い、結婚式、京都への新婚旅行……もう無縁だと思っていた恋とハネムーンさえ経験した。
しばらくしてから、弥宵の破倫の気配と、松島森子との出会い。忘れられないのは、森子が計画し、笛吹《ふえふき》温泉で松島夫婦と過ごした三日間のこと。
弥宵との思い出はそれが最後だった。東京へ帰ってから間もなく、弥宵は香留の前から姿を消してしまった。
その、原因がまだ判《わか》らなかった。
ただ、思い当たることといえば、弥宵がいなくなった直後、山梨からだという二人の刑事が来たことだ。刑事は山梨で起こった、田中治作という者が殺害された事件のことで、捜査をしているのだと言ったが、香留にはその名は寝耳に水だった。後になって思うと、弥宵がその事件に関わっていて、警察から逃れるために姿を消してしまったのか、と疑えなくはない。だが、あの弥宵が殺人事件に関わっているなどとは、とうてい考えられなかった。
一方、同じころ、森子から電話があって、清詩が家を出て行ってしまった、と泣きながら言ってきた。弥宵も同じだと知ると、
「絶対に宥《ゆる》せない。わたしたちがあの二人のためを思っていろいろ考えてやったのに」
と、叩《たた》き付けるように言った。
香留と結婚して間もない弥宵はともかくとして、清詩の方はこれまで築きあげてきた全《すべ》てを放擲《ほうてき》してしまったのだ。それが、弥宵への愛だけだとすると、二人は思いも及ばない意志の力を持っていたに違いない。
ときどきの饗応《きようおう》だけではとても満たされず、互いに融《と》け合い、一つにならなければ生きてはいけないような感情に駆り立てられたのだろう。
それを思いこれを案ずるうち、香留はあることに気付いてはっとした。
――弥宵はここへは来ないのではないか。
もし、舞台の上から香留の姿を見ていたとすると、ここへは来られないかも知れない。
香留に悲しみだけを押し付けて、自分勝手に家を出て行ってしまったのだから、今更、合わす顔もあるまい。図図しい女性なら別だろうが、弥宵の性格はその反対だった。
――とすると、自分の方から会いに行かなければならない。
香留が立ち上がろうとしたとき、ドアがノックされた。
「ブランデーをお持ちしました」
弥宵は白と黒のチェックのキャミソールトップのニットに太い銀のネックレスを付けて、銀盆の上にボトルを乗せていた。すっかり客扱いに慣れた態度だった。
夢にまで見た弥宵だった。香留はしばらく声が出なかった。
「お飲みになる?」
「……ああ」
弥宵は銀盆をテーブルの上に置き、グラスにブランデーをついだ。香留はブランデーの刺戟《しげき》がありがたかった。
「嬉《うれ》しいわ。呼んでくれないかと思っていたのよ」
香留が酒を口にすると、弥宵は打ち解けた調子で言った。
「僕が来ているのを知っていたのか」
「ええ。舞台から見えました」
「もし、呼ばなかったら?」
「…………」
「僕の気持は判《わか》っているだろうね」
「……判らないわ。人の気持なんて」
「そりゃ、そうだった。つまらないことを言った。ただの客の気持かも知れない」
「それでも、遇《あ》えて嬉しいわ」
「じゃ、しばらくは、僕は君の客だ」
弥宵はキャミソールトップを脱ぎ去った。思いの一端が解きほぐれた。香留はもう夢中だった。弥宵も激しく反応した。
「判ったでしょう。わたしの気持は」
と、弥宵がささやいた。
「じゃ、僕の気持も伝えよう」
と、香留は言った。
「とても一度には言えない。まず、悲しんだ」
「…………」
「苦しんだ」
「…………」
「怨《うら》みもした。今では怒っている」
「…………」
「そして、今の気持は、実に自分が腑甲斐《ふがい》ない」
「いきなり、撲《なぐ》り付けて下さればよかったのに」
今度は香留が口をつぐんだ。
「殺したかったら――それでも文句は言いません」
「…………」
「森子さんはどうしていますか」
「あの子だって僕と同じさ。しばらくは、しょっちゅう会って傷を舐《な》め合っていたが、あの子は僕みたいにばかじゃない。とうに、ちゃんとした人と結婚して、今じゃ子供もいる」
「そうですか」
弥宵はほっとしたように言った。
「矢張《やは》り、清詩と一緒だったんだな」
「はい」
「清詩はどうした」
「……死にました」
「死んだ?」
「ええ。家を出た翌年。このまま、生きていけないと、清詩が手に入れてきた薬を一緒に飲んで……」
「君だけが残ったのか」
「ええ。昏睡《こんすい》している間に、吐いてしまったんです。それから、何度も死のうとしましたが、だめでした」
「……ひどい女だ」
それを聞くと、弥宵は激しく香留にすがり付いた。
「あなた、ご免なさい。何とお詫びを――」
その言葉も喉《のど》に詰まり、突っ伏して泣き止《や》まなくなった。
何か異常なことを経験してきたようだが、香留にはよく判らなかった。ひとしきり、激情が収まるのを待って、香留は声を掛けた。
「森子さんは、君が前から清詩を愛していた、と言った」
弥宵は小さくうなずいた。
「清詩も君のことが好きだったはずだ。それなのに、どうして一緒にならなかったんだ。年の差にこだわっていたとも思えない」
弥宵は再びうなずいた。
「一度はお互いに嫌になったことでもあるのかね」
「……いいえ」
「じゃ、どうしてだ」
「わたし達、結婚はできませんでした。清詩は、わたしの子でした」
香留はその言葉の意味がよく判《わか》らなかった。
「自分の子に対するような愛だった、というのかね」
「いいえ。本当の子だったんです。わたしがお腹《なか》を痛めて、生んだ……」
すぐにはものを言うことができなくなった。大体、弥宵が踊子になって、大勢の酔客の前で衣装を脱いでいたことすら信じられない。弥宵があれ以来、気がおかしくなったとしか思えないのだ。
「そりゃ、変じゃないか。僕と結婚したときのことを忘れてやしないだろう。あれが、子を生んだことのある身体《からだ》かね。それとも、朝日の光で身籠《みごも》った大比留女《おおひるめ》の話をここで信じろと言うのかね」
「これにはわけがあるんです。わたしが清詩を生んだのは、十六のときでした」
「……十六ね」
すると、弥宵がただ混濁しているわけではなさそうだ。結婚したとき、弥宵は四十歳だった。そのとき、清詩は二十四歳のはずで、年齢の計算だけならちょうど合う。
「高一の三学期が始まったばかりでした。わたしは体操部で、放課後、体育館で床運動の稽古《けいこ》をしていました。そのとき、歴史の教師に呼び出されたのです。わたしは全く警戒心がありませんでした。わたし一人、宿直室に行くと、教師はわたしに飛び掛かりました。……ただ、嫌らしく、痛いだけだった」
「…………」
「そのときのことはよく覚えていませんが、相当騒いだようで、ちょうど隣の職員室に居合わせた砥部唐子《とべからこ》という国語の教師が宿直室に入って来ました。わたし達の服はまだ乱れたままでした。砥部先生の告発で、その教師は結局、学校を辞めることになったそうです」
「……それ以来、学校には行かなくなったんだね」
「ええ。学校はもう見るのも嫌でした。砥部先生はわたしのことを心配して、よく家へ来て相談に乗ってくれましたが、終《しま》いには砥部先生の顔を見るのも辛《つら》くなってしまいました」
「その、一度だけで、子を?」
「ええ。気が付いたときは七か月でした。そのときでさえ、目立たなかったんです。父は人目を気にして、湯治《とうじ》だという名目で静岡の別荘へわたしを連れて行きました。その近くの個人病院の先生が、大変親切な方で、決して心配することはないと言ってくれました」
医師は自分の知り合いで、子供ができなくて、養子を欲しがっている夫婦がいると言った。弥宵の父は色色考えた末、弥宵の生んだ子をその夫婦に実子として引き取ってもらうことに決めた。
医師はその夫婦の名を知らない方がいいと言った。実際、その通りだったが、弥宵はどうしても不安で、入院中にこっそりカルテを調べ、その夫婦が松島という名だということを探り出してしまった。
その年の秋、弥宵は子を生んだが、男か女かも知らされないまま引き離された。そのとき、弥宵は医師に懇願し、もう、絶対に男を受け付けない身体《からだ》にしてほしいと言った。
医師は考えていたが、
「君には将来がある。まだ、人生を歩き始めたばかりだから、これからどんなことが待っているか判《わか》らない。そのときに後悔するようなことはしたくない。ただし、元の身体に近いようにしてあげよう」
と言い、分娩《ぶんべん》後、小さな手術を施した。
「これなら、お互いに愛を持たない限り、絶対に近付くことはできないよ」
と、医師は言った。
弥宵はそれまで話すと、やっと落着きを取り戻《もど》したようで、ブランデーグラスを取って口に当てた。
「あなたは本当に優しい方でした。少しも怒ったり焦《あせ》ったりせずに、わたしを一人前にしてくれたんですもの。あれから、毎日、あなたを思わない日はありませんでした」
若かった弥宵は、すぐ元気になって東京に戻った。だが、考えることは自分が初めて生んだ子供のことばかりだった。弥宵は張る乳を氷で冷やしては、ただ独りで泣いてばかりいた。
「あるとき、思い切って、住所を頼りに松島の家の近くまで行きました。そして、わたしの生んだ子が清詩と呼ばれて、無事に成長していることを確かめました」
それから、ときどきそっと遠くから清詩を見に行く習慣がついた。公園で子供達だけで遊んでいるときなど、衝動的に抱き竦《すく》めたこともあった。
しかし、清詩が成長するにつれ、近付くことがためらわれた。清詩が気付いて、変な気を廻《まわ》したりしては、松島夫妻に言い訳が立たない。弥宵もできる限り未練を断ち切ろうと心掛けた。
ところが、不思議な巡り合わせで、清詩は成人した男として、弥宵の前に現れたのだった。
清詩は大学生だった。着物のモデルをと、大白工房から弥宵の勤めている着付教室に派遣されて来たのだ。その清詩から声を掛けられ、弥宵は呆然《ぼうぜん》とした。一瞬、自分との関係が判ってしまったと思ったが、そうではなかった。清詩は美術大学に通う傍《かたわ》ら、大白工房に出入りしてデザイナーの仕事をしている。突然、声を掛けて失礼ですが、僕はあなたのような女性を求めていたのです。恐《こわ》いほど僕のイメージとぴったりなんです……。
清詩は既視感、というようなことを言ったが、実際、小さいときには何度も弥宵を見ているはずだ。清詩は無意識にその女性を覚えていて、それがいつの間にか女性の理想像を作り上げていたのだ。
「清詩の熱意で、わたしは仕事に協力するようになりましたが、とても不安だった。そして、その不安がすぐ現実となったんです。清詩はわたしに恋してしまった」
「……それで、本当のことを教えたんだね」
「ええ。清詩を悲しませたくなかったんですが、そうするよりなかったの。清詩は薄薄、両親が本当の親ではないことに気付いていたようなんですが、実の母がわたしだとは夢にも思わなかった」
事実を知った清詩は失望し、パリへ旅立って行った。
「清詩は二年、パリにいました。そして、帰って来るとすぐ森子さんと結婚することになりました。わたしは淋《さび》しかったけれど、清詩のためにはこれがいいのだと心に言い聞かせました。清詩は結婚してからも連絡してきて、ときどき外で出会っていたんです。そのことは、あなたも知っているわね」
「君は清詩と一緒に、八丈島へ旅をしたことがあったね」
「ええ。清詩はわたしが実の母だと知っても、もう、醒《さ》めることができなくなっていたんです。反って強められました。わたしが母だと知ってからの方が、一層、心を募らせる結果になってしまった」
八丈島の末吉《すえよし》には、タナバの墓という、八丈島始祖伝説の史跡がある。大昔、八丈島が大津波に襲われた。全《すべ》ての島民がそのために海に呑《の》まれてしまったが、タナという女性が、ハゼの木に取りすがっていて、奇跡的に命を取り止めた。タナはそのとき妊娠《にんしん》していて、やがて男の子を出産した。その子が成長してから、タナは我が子と交わって子孫を殖やしていった。これが八丈島の始祖伝説なのだ。
清詩はタナバの墓に弥宵を連れて行き、
「昔の人は母と息子《むすこ》が通じても宥《ゆる》されたからこうした伝説が残っている。息子が母を思うのは、むしろ自然じゃないか」
と、言った。
それでも、弥宵の男に対しての恐怖の方が強かった。清詩が清詩の父と同じことをすると思うと、弥宵は絶対に身体《からだ》を開くことができなかった。
それが、森子をひどく嫉妬《しつと》させた、愛の形だったのだ。
「それから、間もなくわたしの父が亡くなりました。父のいる間は、それでよかったんですが、兄の世帯になってみると、兄は態度を変えるような人ではないですけれど、どうしても居心地が悪くなるものなんですね。わたしは縁があったら、結婚すべきだと思うようになりました。そのとき、清詩を取り上げてくれた医師の心遣いを感謝しました。そして、あなたと出会い、あなたの優しさに心を奪われました」
「……少しも知らなかった。知っていたら、森子さんだって、あんな計画は立てなかったはずだ」
その結果、弥宵と清詩を心中にまで追い立てたとすると、香留にも重大な責任がある。
「だとすると、謝るのは僕の方かも知れない」
と、香留は言った。弥宵は淋《さび》しそうに首を振った。
「違います。これは全部、わたし達の問題です。だって、あのとき、わたしも本当のことを言わなかったから」
「……と、いうと?」
「わたしも、本心はそのことを望んでいたんです」
「…………」
「そのとき、わたしは昔の自分とは違っていました。ただ、男を嫌い、男と女のことを穢《けがら》わしいと思い続けていたときとは。あなたの上手な導きで、わたしはその喜びを知って、清詩とも、と願っていたんです」
それまでの男に対する嫌悪が取り払われ、弥宵の心が清詩に対しても開かれたらしい。
「でも、実際に会うと、矢張《やは》りだめでした。どうしても、清詩を生ませた父親のことが、わたしと清詩の間に立ち塞《ふさ》がってしまうのです。清詩が焦《じ》れるので、わたしはそのことをすっかり話しました」
「その、教師は?」
「田中治作です」
弥宵は冷たく言い切った。
「そうか……あの、山梨で殺された男がそうだったのか」
「清詩はそれを知ると、まだ見ぬ父に対して、憎悪を募らせてしまった」
「それで、田中の居所を突き止めたんだな」
「ええ。いつかはわたしのために復讐《ふくしゆう》する、と。たまたま、そのころあなたとの話が持ちあがったのです。わたしは清詩の心を冷ますにはこれしかない、と思いました」
弥宵は香留と結婚した。
となると、さすがの清詩も諦《あきら》めがついたようで、ときどきの外の出会いで満足するようになったが、逆にそのことが香留と森子に知れ、二人の関係は後戻《あともど》りすることになった。
カミュワイナリーの仕事で山梨に出掛けた後、森子の計画が進められていることを清詩は少しも知らなかった。
清詩は田中治作が住む穴沢の近くに仕事があり、更に、同じ宿に香留と弥宵が来合わせたことを、ただの偶然だとは思えなかった。これは、神の意志だと思った。
アートデザイナーの道を選んだこの青年はロマンチストだった。
八丈島のタナバ伝説、古代エジプトを初め多くの国で、近親の関係は始祖や王を生みだした。混沌《こんとん》の状態から世を統治する巨大な力の源は、特異な誕生によらなければならない。多くの地方に伝えられる処女|懐胎譚《かいたいたん》や、太陽を父とする日光感精譚も同じ意味を持つ伝説だ。
清詩は弥宵を恋したことは自分が選ばれた人間だと信じ、笛吹温泉の出会いと、饗応《きようおう》の誘いは神の意志だと疑わなかった。清詩の感情は再び燃え盛った。
しかし、弥宵はそれでも従うことができなかった。
清詩は言った。
「決着を付けるときがきた」
その決着とは、
「二人の間に立ち塞《ふさ》がるものを取り除く」
ことだった。
そして、弥宵も、ついに、
「そうしてくれれば、言うことを聞き入れましょう」
と、言ってしまった。
二十六日、香留たち四人と唐松祭を見物に行った日が、田中治作と決着をつける日となった。
清詩が弥宵と二人だけで祭を楽しみたいと言い出したのはその下心があったからだ。
清詩は弥宵と二人だけになってから、治作に電話をしたが留守だった。電話に出た粂《くめ》はいつも七時には帰宅しているという。七時に電話を入れると治作が出たが、酔っているようで、外出を嫌がった。清詩はそこで、自分はあなたの子で、ここに、弥宵も来ていると打ち明けた。
治作の声が変わった。治作は穴沢《あなざわ》のバス停で待っているように言い、電話を切った。
清詩と弥宵は車で言われた場所に行った。
だが、なかなか治作は来なかった。バスの運転手に二人が目撃されたのはそのときのことだ。
七時半、待ち兼ねた清詩は腹を決めて直接治作の家に行くことにした。
そこには、思い掛けない光景が待っていた。
玄関で声を掛けたが返事がない。庭に廻《まわ》ると戸が開け放されていて、縁先の座敷に治作が倒れていた。傍《そば》に粂が呆然《ぼうぜん》と坐《すわ》っていた。
「田中は絞め殺されていました」
と、弥宵は言った。
「酔った勢いで田中が全部|喋《しやべ》ってしまったんです。それでなくとも奥さんは田中に手を焼いていました」
治作は定年退職後、老年|痴呆《ちほう》状態となって、少女の後を追い廻し、怪しげなノートまで作っている。女癖の悪いのは昔からだったが、ここに来てからは特にそれがひどく、そのことしか頭にないようだった。
つい近頃《ちかごろ》、新星中学のあたりをうろつき、田中のおっちゃんと馬鹿《ばか》にされている男のことを耳にした幸明から電話があり、まさかお父さんではないでしょうね、と釘《くぎ》を刺されたばかりだった。
粂にとっては、痴呆状態の夫より、前途に希望の多い幸明の方が、較《くら》べものにならぬほど大切だった。これから頼りになるのは息子しかいなかった。もし、治作のことが表沙汰《おもてざた》になれば、息子がどんなに困るか判《わか》らない。いや、幸明の政治生命はそこで終ってしまうぐらいのことは判断することができる。といって、夫は言ってそれを止めるような状態ではない。
そんなとき、昔、治作が学校の生徒を妊娠《にんしん》させたことがあり、その親子が近くまで来ているという。
今まで聞いたこともなかった出来事を突き付けられて、粂の憎悪が爆発してしまった。
粂は両腕の腰紐《こしひも》に積年の思いを込めた。
「もし、手当てが早ければ、田中は蘇生《そせい》したかも知れません。でも、わたしたちにはその気はありませんでした」
粂は比較的落着いた態度で、弥宵と清詩に今までのことを話すと、
「わたしに免じて、治作のことはこれ限り忘れてほしい。あなた方も、これが表沙汰《おもてざた》になれば困ることも多かろうから、一つだけ力を貸してもらいたい」
と、言った。
それは、治作の身元がすぐには判らないようにして、近くの崖下《がけした》に投げ捨てることだった。粂は警察が治作の屍体《したい》を発見するまでに、家の中に残っているいかがわしい治作の遺品の全《すべ》てを処分しなければならなかったのだ。
清詩は手を貸すことにした。手間の掛かることではなかった。清詩の車を使い、粂の頼みどおり、三人で屍体を崖下に投げ落とした。悪事を働いた意識はなく、三人とも忌《い》まわしい過去が消えた、と思った。
弥宵と清詩は、そのまま粂と別れて祭に戻《もど》った。八時を過ぎていた。
宿望の夜だった。
「あなたもちゃんと見ていたでしょう。森子さんはびっくりするほど遠くに来た、と言ったけれど、わたしはそれ以上だったと思っています」
今の弥宵の言葉には誇りさえ感じられる。
「肉も骨も溶けてしまいそうで、もう、生命さえどうなってもいい。今までのこともこれからのこともなく、ただ相手と同じ坩堝《るつぼ》の中にいて、湧《わ》き出るままに身をゆだねているだけ。一度それを知ってしまうと、あなたに見られるのが羞《はず》かしいと思うより、すっかり何もかも見られたいという欲求の方が強くなってしまった。あなたに代わってからも、清詩にわたしの喜ぶ声を聞いてもらいたくなっていました」
香留は弥宵の変貌《へんぼう》にびっくりした。
だが、言われればその通りだろう。弥宵は息子と恋人の愛を一度に受けたのだ。
それは遥かに、香留の想像を超えていた。香留は言った。
「そうだ。あのときほど美しい君を見たことがなかった」
「仕方のないものなのね。わたしの命は、清詩のものになってしまった。こんな世界があるとは夢にも思いませんでした。あなたは、東京へ帰ってからも、ときどき四人で会おうと言ったでしょう。それを聞いて嬉《うれ》しくて、どんなに感謝したか判《わか》らなかったわ」
「それができなかったのは、警察の手が廻《まわ》ると思って?」
「はい。それまで、田中幸明の存在を知らなかったんです。そういう実力者の父親が殺されたとすると、警察は必死になるに違いない。清詩は、遅かれ早かれわたし達のことも知れてしまうだろう、と言いました」
「……君は清詩のことを放っておくことができなかったんだ」
「ええ。親としても愛人としても。勿論《もちろん》、あなたのことを思わないわけではなかったんです。あなたにまで、迷惑が及んではならないと……でも、本当はそれは言い訳ね」
あの夜以来、理性はあってはならないものになった、と弥宵は言う。二人はそのために世間を捨てなければならなかった。
弥宵と清詩は、各地を渡り歩いた。
そして、持ち合わせた金もなくなり、逃避に疲れ果てた清詩は死のうと言った。弥宵は清詩と一緒に死ぬことに憧《あこが》れを抱いていたから、浮き立つような気持で抱かれ、与えられた薬を飲んだ。
死に場所は榛名山《はるなさん》の山中だったが、弥宵は昏睡中に薬を吐いていて、死ぬことができなかった。一度生き返ってからは、どうしても死ねなかった。弥宵は清詩を弔《とむら》い、山を降りた。
魂の抜けたようになっている弥宵を助けてくれたのは、ペギー日高だった。ペギー達の仲間は貧しかったが、皆、人情味の豊かな人達だった。弥宵が問われるまま身の上を話すと、ペギーの仲間はひどく同情してくれて、勧められるまま、その一座に加わることになった。
最初のうちは、洗濯や衣装の繕《つくろ》いをしていたが、思い立って舞台にも出ることにした。
「わたしなんかもさ、昔、ひどいことをして来たの。たった一人の身寄りである祖母に背いたり、ちゃんとした奥さんの亭主を取ったりしてね。でも、今、こうして舞台に立っていると、どういうわけか昔のことが片端から洗われていくような気がする」
という、ペギーの話を聞いたからだった。
それは、自分を曝《さら》して罰とする……というような心境に近いようだったが、ペギーの体験は弥宵の心を動かした。
「わたしの場合、もっと何かがあったわ。お客さんに身体《からだ》を見せることに。ちょっと、口では言えないけれど、嫌ではなかったんです」
と、弥宵は言った。
「ずっと続ける気かね」
「判りません。今も、あの事件を担当している刑事さんが来ているし……」
「……劇場に?」
「いえ、下にいるわ」
「すると、あの二人がそうだったのか。ちらりと見ただけで、暗くてよく判《わか》らなかったけれど」
「あの人達、舞台のわたしには気が付かなかったわ」
「そうだろう。化粧した顔だけじゃ、僕だって判らなかった」
「だから、顔を隠すようにして、ここに来たの」
「……すると、あの刑事は誰《だれ》に会いに来たんだろう」
「ペギーさんに。あの人達、さっき楽屋へ来て、穴沢の事件のことを訊《き》きたいと言っていたから、まだあの捜査を続けているみたいね」
「……大丈夫《だいじようぶ》なのかな」
「ペギーさんは、わたしが困るようなことは、何も言わないと思うわ」
「しかし……態態《わざわざ》ペギーがここにいるのを突き止めて来たんだ。何かがなければならない」
「知られたら、知られたときのことよ」
「……君は変わった。少しも動じない」
「だって、一度死んだ人間ですもの」
「しかし……もう、絶対にどこへもやらない」
香留は力をこめて言った。
「もう、会えないと思っていたわ」
「僕達、これから、どうしよう」
弥宵はしばらくうつむいていたが、
「最初に、あなたの咎《とが》めを受けなければ」
と、言った。
「そうだな。どんな仕置が相当かな。磔《はりつけ》か火炙《ひあぶ》りか……」
香留は冗談を言う余裕がでてきた。
「そうしたいほど、苦しかったよ。とにかく、家へ帰って来なさい」
「家に……入れてくださるんですか」
「そうさ。罰は、それから考える」
香留は弥宵の腕を引き寄せた。
その二
ローリエには客は誰《だれ》もいなかった。
化粧の濃い女が寄って来た。
「あとから一人来るんだがね。静かに話がしたいんだ」
と、西目は言った。
「お連れさんは、男の方?」
と、女が訊《き》いた
「いや、僕達より若い女の子だがね」
「……お飲物は?」
西目は席も決まっていないのに、妙な店だと思ったが、オレンジジュースを注文した。
倉馬はミルクがいいと言った。
それを聞くと、女は店の一番奥のテーブルに二人を案内した。ほどよく音楽が流れている。ここなら店の者に話は届きそうにもない。
「君はいくつになった」
と、西目が倉馬に訊いた。
「何ですか、突然」
「なに、つい、昔のことを思ってね」
「田中治作の事件ですか。あのころはまだ若かった」
「そりゃ、俺の台詞《せりふ》だろう」
「本当ですよ。子供がどんどん育って、こっちは痩《や》せるばかり。このごろはパチンコだって生活費の一部です」
「じゃ、景品を貰《もら》っちゃ悪かったかな」
「本当はね」
倉馬は苦笑いしながら煙草《たばこ》に火を付けた。
「しかし、西目さんは偉い。執念の勝ちでしたね」
「勢子《せいこ》の話を聞くまでは、勝ちかどうか判らない」
「もし、勝ちでしたら、田中幸明がどう出るでしょう」
「どう出ても、もう、俺は面白がる元気がないよ」
その後、田中幸明はおおかたの予想通り市長選に楽勝し、市長の座に着いている。
ドアのベルが鳴った。振り向くと勢子ではなかった。旅館の浴衣《ゆかた》を着た男だった。男はすぐ女に案内されて二階に登っていった。再びドアが開いた。
「今晩は。まだ、暑いわね」
勢子は中年のバーテンに声を掛けて、西目の方に歩いて来た。
きっかけがあった。
しかも、西目はそのきっかけを、もう少しで見逃すところだった。
五年前、田中治作が殺された年だった。『玉縒姫《たまよりひめ》物語』という歌舞伎《かぶき》が評判になった。神代の物語で、若手人気俳優が揃《そろ》い、舞台は華麗なスペクタクルというので、前評判も高く、実際、劇も充実していて、ロングラン興行になっていた。
芝居に興味のない西目は、歌舞伎などどんな評判でも大入りでも見たいとは思わなかった。ただ、新聞やテレビなどで、何か騒いでいるぐらいにしか思わなかった。西目とは別の世界のことだ。
そして、五年目の今年、それが再上演されることになった。それでも、相変らず西目は無関心だった。
その西目が、突然、その歌舞伎を観《み》ることになった。
西目は結婚して二十五年目になっていた。それを知った西目の娘が、銀婚式だと騒ぎだした。
「ばか、俺《おれ》が敵国のあほな習慣を真似《まね》すると思うか」
と、西目は言った。
娘は銀婚式を諦《あきら》め、その代わり、歌舞伎の切符を二枚西目に渡した。
「俺は温泉の方がいい。リューマチがちっともよくならない」
と、西目は妻に言った。
「そんなことを言うもんじゃありませんよ。あの子が聞いたら、気分を悪くします」
「だから、いないところで言っている」
「この切符、買うのが大変だったそうよ」
「そうか。お前が見たいと言ったんだな」
西目は重い腰をあげた。
久し振りの東京見物で、その日は高層ホテルに一泊。西目は窓から下を見て恐ろしくなり、こんなところで地震でも起こったらどうなるだろうと思い、なかなか寝付くことができなかった。
次の日が歌舞伎。
『玉縒姫物語』は大入満員、次から次へと変わる豪華な舞台や役者の早替りなどは面白《おもしろ》かったが、趣味のない悲しさで、ときどき居睡《いねむ》りが出て、隣席の妻に小突かれた。
帰りの列車の中だった。
西目は退屈しのぎに、歌舞伎のプログラムを開いた。筋書を読むと、見ただけではよく判《わか》らなかったところもきちんとする。筋書を読み終えてページを繰《く》っていると、劇評家のエッセイが載っている。ぼんやりとそれに目を通す。
「一体、どうしたの?」
妻の声で、我に返った。
「気分でも悪いの? 手が震えているわ」
「……いや」
震えているだけではない。手はプログラムを鷲《わし》づかみにしていた。
ページを閉じて、深呼吸する。
今、読んだばかりのエッセイを心の中で繰り返す。
その、重要なところを要約すると、次のようになる。
――古代の日本人達は、日が沈むと、一日が終ったと考えた。これは、心情的には現在の私達も同じで、ごく普通の考えだ。だが、昔は国によって、一日の終り方が違っていた。
それには三通りあって、日没を一日の終りとするのは古代日本、アテネ、ユダヤで、同じ暦法であった。
二番目は夜の終りを一日の終りと考える暦法。インドや古代カルディア人の暦法である。
三番目は夜半を一日の終りとする決め方で、古代エジプト人、ローマ人、そして現在の我我が使っている暦法がこれだ。
日本では古くは日没を一日の終りと考えていたが、飛鳥《あすか》時代、天智《てんじ》天皇十年より、夜半|子《ね》の刻までを一日の終りと定めた。これは、中国の暦法に倣《なら》ったのである。
従って、この劇の時代の人達は、まだ日没を一日の終りとし、同時に一日の初めとしていた。『今昔《こんじやく》物語』にはまだ昔の暦法が使われていて、現在の我我なら、昨夜、あるいは昨夕《ゆうべ》と呼ぶところを、今夜《こよい》と言っている記述が何か所か見受けられる。
しかし、こうした慣習というのは、なかなか改まらないものらしい。筆者が子供のころ祖母が健在だったが、昨夜のことを今夜と言う習慣が直らず、ずいぶん迷わされた経験があった。
祖母は紀州《きしゆう》和歌山の出身だが、まだこの遺習を化石のように残している地方があるかも知れない――
西目は一時混乱し、そして、沈考した。
田中治作殺害事件で、今まで進められていた捜査が急に行き詰まってしまった。よく考えると、その原因は一つしかない。
ボランティア活動を続けていた、日高咲の証言だ。
咲は唐松祭の次の日の六時半ごろ、山梨駅のホームで田中治作を目撃した、と言った。
唐松祭は二十六日だから、翌日なら、当然、二十七日だ。誰《だれ》でもそう思う。
ところが、咲の暦では、湖上|神楽《かぐら》が終り、日が沈んでしまった時点で祭の日は終った。当然、暦は一枚|繰《く》られ、二十七日となる。だが、実際はまだ二十六日は六時間も残っている。咲がホームで治作を目撃したのは、二十六日の六時半なのだ。
これは単純だが、恐ろしい錯誤だ。
だとすると、田中幸明も、夕城弥宵も松島清詩も、まだ、容疑者だ。
しかし、肝心の咲は、三年前に老衰で死亡している。
西目はそのまま署に駈《か》け付け、びっくりする折井捜査主任に詰問した。
「咲さんは、正確に二十七日の夜六時半ごろ治作を見た、と言ったのですか。それとも、ただ、祭の次の夜とだけ言ったのですか」
折井は答えられなかった。
咲のことを調べると、出身は和歌山の旧家で、協会の会報に書かれたエッセイを読むと、祖母に育てられた思い出が述べられている。その可能性はますます強い。
「咲さんの孫が、昔、歌手でテレビに出ていたことがありますよ」
と、倉馬が言った。
「確か、甲斐佳子《かいけいこ》とかいう芸名でした」
これも調べると、本名は日高勢子。甲斐佳子という名でレコードを出したこともあるが一年半ほどで廃業していた。妻子ある男に欺《だま》されて方方に不義理を重ねた結果らしい。勢子がいた芸能社もレコード会社も、現在、勢子がどこにいるか知らなかった。
その勢子が目の前に坐《すわ》っている。
近くで見る勢子は、意外とあどけない顔をしていた。世間|擦《ず》れしたところがどこにも見えない。歌手時代を考えると、相当な零落だと思うが、勢子の態度は無邪気で明るかった。
楽天的な性格が反《かえ》って不幸を呼び寄せるといった質《たち》の女性らしい。
勢子を捜し出すのに、ずいぶん廻《まわ》り道をした。ここで会うのはその結果だが、これで終りではない。場合によっては捜査は初めに逆戻《ぎやくもど》りするかも知れない。全《すべ》ては勢子の一言に懸《か》かっている。
西目は慎重に問い掛けた。
勢子の祖母、日高咲が、古い時代の日の算《かぞ》え方を日常の習慣としていたか。
否か。
勢子は深い考えもないようで、すぐに口を開いた。
角川文庫『斜光』平成3年5月10日初版発行