泡坂妻夫
亜愛一郎の逃亡
目 次
第一話 赤島砂上《あかしまさじよう》
第二話 球形の楽園
第三話 歯痛《はいた》の思い出
第四話 双頭の蛸《たこ》
第五話 飯鉢山《いいばちやま》山腹
第六話 赤の讃歌《さんか》
第七話 火事酒屋
第八話 亜 愛一郎の逃亡
第一話 赤島砂上《あかしまさじよう》
箱崎幸男は「週刊人間」を閉じて、籐椅子《とういす》の下に放り出した。どこに隠れていたのか、小さな蟹《かに》が一匹、面喰《めんく》らったように波打際の方に這って行った。
妻の京子はカンバスに向っている。狭い砂浜の横手に小さな岬《みさき》があって、松などが突き出ているが、どうということのない風景だった。京子と並んで石場明実がカンバスを立てている。この女性の身体は球が基本になって作られているようだった。顔や目や鼻がほぼ完全に近い球で、絵筆を動かすたびに、二の腕の丸い肉が、ぶるんぶるんと動くのである。広い胸に下っている小さなペンダントも、調子を合わせて動いている。二人共、どうということのない絵の出来栄えだったが、真剣な態度を羨《うらや》ましく思う。週刊誌は箱崎に、かゆいほどの刺戟《しげき》を与えたにすぎなかった。
曇り。風はなく、暑くも寒くもない。刺戟のない点を除けば、誠に申し分のない気分だった。
「週刊人間」は奇妙な週刊誌だった。活字が読みたくなったと言ったら、会長の富沢清が、まあこんなものが適当でしょうと言って貸してくれたのが、この週刊誌だった。
どのページにも活字が極度に少なく、写真のほとんどが見知らぬ芸能スタアばかりだ。
主要な記事は大体三つばかりで、最初の方のページは、中里ララのチャリティパーティの写真だった。この歌手の人気は、若者ばかりではないようで、一枚の写真には、中里ララの真っ赤なワンピースを買おうとして、小銭入れを片手に握り締め、他方の手を必死で振っている、三角形の顔をした小柄な洋装の老婦人が写っている。
その後のページには星占いなどが続き、やや記事らしいのは現在逃亡中の暴力団の元女組長、普賢《ふげん》の奈津《なつ》こと本名古山奈津の行方がいまだに判《わか》らないというものだった。背に見事な普賢|菩薩《ぼさつ》の彫物のあるところから普賢の奈津。その生い立ちが一ページほど記事になっているが、活字が大きくて何のことはない、映画の粗筋《あらすじ》を読まされているようなものだった。手に入らなかったのだろうが、肝心の彫物の写真もないのも、説得力に欠けている結果になった。
最後は大量の麻薬を密輸した男の話。これは麻薬に特殊な凝固剤を入れて固め、泥人形のような品に変え、南国の民芸品として輸入しようとしたのである。
箱崎はこの手口をちょっと面白いなと思った。人間には薬物が粉末だという先入観があり、その心理を狙《ねら》った着想はなかなかよろしい。だがその男が税関であっさりと捕まったところを見ると、どうやら税関の職員には先入観の持ち合わせがないとみえる。
「あなた、ローズピンクを取って下さらない?」
と、京子が言った。京子は片手に大きなパレットを持ち、片手に三本の絵筆を握っていた。箱崎が週刊誌を閉じたのを見ていたらしい。
箱崎は籐椅子《とういす》から身を乗り出して、絵の具箱を掻《か》き廻《まわ》した。
「ないな。ローズピンクなど見当らないぞ」
「ありますわよ」
京子はカンバスに視線を置いたまま言った。
箱崎は絵の具箱をがたつかせた。
京子は最後の一刷毛《ひとはけ》を描くと、箱崎の手元を見ていたが、身を屈《かが》めて一つのチューブを拾い上げた。
「ここにあるでしょう」
そのチューブのラベルは茶色だった。
「色が違うじゃないか。君が言ったのは、ローズピンクだった」
「ラベルの色が汚れただけなの。ちゃんと字を読まなければいけないわ」
京子はチューブの蓋《ふた》を取り、パレットの上に鮮やかなローズピンクを押し出して見せた。
箱崎は逆らわなかった。毎日せり出した腹を曝《さら》していると、何となく妻より優位に立つ気がなくなってしまう。
箱崎に較《くら》べると、京子の肢態《したい》はなかなか見事であった。小柄だが全身がよく引き締り、肌は山吹色に輝いている。この生活を始めるようになってから、京子は自分の身体に自信を持つようになったのが判《わか》る。それがよい方に作用したようで、年齢より確実に十歳は若く見える。
「海の色が素晴らしいわ」
歯切れのよい声だった。
振り返ると、新川冬子が三人の後ろに立って、二つのカンバスを見較べていた。
「今日は空の色がよくないのが、残念ですわ」
と、石場明実が転がるような声で言った。
声までが丸い感じだった。
新川冬子の出現で、箱崎の睡気《ねむけ》は一ぺんに覚めてしまった。
冬子は化粧をしていないが、やや目尻《めじり》の上った大きな眸《ひとみ》、直線的な鼻、歯切れのよい言葉が飛び出す軽快な唇など、都会的な感じの、三十前後の女性だった。京子と同じ意味で、実際の年齢はまだ上かも知れない。豊かな髪を腰まで下げているが、髪の美しさより、襟足《えりあし》の見えないのが残念だと、箱崎はいつでもそう思う。
「箱崎さんは絵をお描きになりませんか?」
と、冬子が言った。
「景色は、どうも――ね」
「わたしがモデルになりましょうか」
冬子は正面を向いた。箱崎は溜《た》め息を吐《つ》いた。
「実は、人物の方も駄目でした。私の描く人物は全《すべ》て心ならずも抽象画風になってしまうのです……」
冬子の肌はまぶしいほど白かった。紫外線には弱いようで、直射日光の下へはほとんど出ない。曇天でも陽灼《ひや》け止めクリームを塗っているのが判《わか》る。白い肌は夜の燃える火の中で、一際《ひときわ》目立つのだ。
「これから、宝捜しが始まりますわ」
冬子は箱崎の退屈を見抜いたようだった。
「そんな子供っぽいこと、お嫌い?」
「いや、いや」
箱崎は手を振った。
「私もそれを楽しみにしているところですよ。そんな遊びはもう何十年もやっていません」
「大人はいつも現実的な宝捜しをしているものですわ」
「なるほど……夢のない宝捜しなら」
競馬、競輪、賭博《とばく》――いずれも宝捜しの一種だろう。だがそれには金が二重三重にからみついている。
「お早う」
そのとき、声がした。
気付かぬうち、誰《だれ》かが近寄っていたのだ。後ろからふいに声を掛けられたので、冬子はびっくりしたように、カンバスの向うに身体を隠した。
声を掛けたのは二人連れで、一匹の犬が後についている。二人とも釣竿《つりざお》をかつぎ、大きな魚籠《びく》と箱を下げた姿だった。
一人は白髪の立派な体格をした男で、形の良い口髭《くちひげ》をたくわえ、葉巻をくわえている。
もう一人はまだ若い男で、背が高く見事に均整のとれた身体と、端麗な顔立ちが、ギリシャの彫像を連想させる。
犬は毛糸の塊りのような、白いテリヤである。
京子は絵筆を休めた。
「お早う。大漁になるといいですわね」
「はい、よいお天気ですから」
と、若い男が言った。立派な姿とはどこかちぐはぐした言葉だ。
口髭の男は軽く会釈をして通り過ぎる。この方は少し気取った態度だった。
犬はちょっと箱崎の方を見ただけだ。
「あなたも、もう少しお腹の始末を考えなければね」
京子は若い男の形のよい尻《しり》を見送りながら言った。
「それに、あの若い人、なかなか純情そうだわ」
「そりゃ、どうかな」
箱崎は若者の尻と自分の腹と比較されて、少し不機嫌になった。
「どうもあの二人は怪しい」
「どう怪しいの?」
「あの二人は毎日ああして一日中岩場にいるんだが、どうも釣りをしているような様子がない。第一、魚を魚籠《びく》に入れて帰って来たことがない」
「きっと、釣った魚は逃がして帰って来るのよ」
「それなら魚籠などわざわざ持って行くことはないだろう。あの岩場には水溜《みずたま》りがいくらもあるはずだ」
「そうよ」
丸い明実が言った。
「この間、わたしが岩場に近寄ったら、あの犬がやかましく吠《ほ》えるの。そうしたら、二人の姿が岩の間から見えたんです。二人は犬が吠え始めると、何かあわてて魚籠の中へ押し込んでいるようでした。あの犬はきっと見張り役として連れているんですよ」
「岩に隠れて何をしているんだろう」
「わたし、若い人がカメラをいじっているのを見たことがあったわ」
と、冬子が言った。
「週刊誌の記者かな? 望遠レンズでわれわれを隠し撮り、興味本位のルポでも作る気かもしれない」
「それにしては品がよすぎますよ」
と、京子が言った。京子はなお二人に好意的だった。
「名は何と言ったかな」
「半分だけ覚えれば、全部が判《わか》る名前だったわ。草藤十作《くさふじじゆうさく》さんでしょう」
「若い方は――字足らずのような名だった」
「亜《あ》さんでしたわ」
「名前の方は字余りみたいだった」
「愛一郎《あいいちろう》さんですわ」
「犬は?」
「タロウ」
箱崎は犬が一番まともな名を持っているなと思った。
「紹介されたとき、草藤さんは学者さんで……あらあら」
話に夢中になっていたので、パレットの絵の具が流れたのに気付かなかった。手でこすると、京子の乳房がローズピンクに染まった。
箱崎が身体の変調を感じてからもう長い。それがこの年、夏が近付くにつれてひどくなった。食欲がない、睡《ねむ》れない。
高校のとき同級だった富沢清という友達が、特別の健康法の研究を続けているのを思い出し、箱崎は富沢の事務所を訪ねた。
富沢は陽に灼《や》けて脂ぎり、てらてらした顔をしていた。ざっと箱崎の身体を見渡して、
「クーラーなんかつけているだろう」
と、占師みたいなことを言った。
「それでなくとも食欲がまるでないんだ。クーラーでもつけなければ、栄養が取れないじゃないか」
「夏に栄養を取る馬鹿《ばか》がいるか。食べられなければ食べられなくともよろしい。人間は自然であることが重要だ。物を食べなければ、自然とビタミンが欠乏し、眠くなるものだ。人間の健康法は〈自然に帰れ〉この一言に尽きる」
そして、富沢は大声を出し、演説調になったのである。
「――いつの時代でも真実である〈自然に帰れ〉ということを人間が言い出すようになってから、実に久しい。本当に久しい。人間の身体の毛が段段と少なくなり始めた時代、その異常さに気付き、このままでは終《しま》いに人間がつるつるに禿《は》げてしまうだろうと予想し、服などは身に着けるべきではない〈自然に帰れ〉と叫ぶ賢人がいたに違いない。その言葉に従わなかったばかりに、今ではこれこの通りの哀れなありさまではないか。俺《おれ》はその賢人の末裔《まつえい》なのだ。諸病の源は、皆〈自然に帰らない〉ところから発生するのだ」
富沢は続けざまに警句を吐いた。
「腹を空に向けて寝るようなぶざまな寝方をするのは、人間とサカサナマズばかりである。他の動物は死んだとき以外、あおのけにひっくり返ったりはしない。この悪習は人間が寝るとき、蒲団《ふとん》を使うようになったからである」
「人間は夜目がきかなくなったのは、電燈のせいだ。電燈がなくなれば、夜目がきくようになり、近眼もなくなるであろう」
「飛行機など発明しなかったら、何十万年後の人間の背中には羽が生えるかも知れない。今ではその望みが絶えてしまった」
等である。
箱崎はそれを聞いているうちに、なるほど「自然に帰れ」ということは素晴らしいと思った。だが現在の世に住んでいる以上、完全に「自然に帰る」ことは無理のようにも思えた。
そう言うと、富沢は待っていたといわんばかりに、
「そんなことはない。君も生命が惜しかったら、すぐ俺の会に入会するべきだろうな。そうすれば、ただちに自然に帰ることができるんだ」
「君の会――というと?」
「西日本|裸体主義者《ヌーデイスト》クラブ。俺はその会長になっている」
そこで富沢は、箱崎の前にどさりと書類の束を置いた。それは西日本裸体主義者クラブのパンフレット、会則、入会手続きなどであった。
富沢が大昔の賢人と違うところは「自然に帰れ」と叫ぶことによって、多額の金銭的利益を得ていることだということが、箱崎はそのときに判《わか》った。
よく訊《き》くと、僻地《へきち》の過疎現象で、四国の西にある、赤島という小さな島が、まるまる一つ無人島になってしまった。富沢はその赤島をそっくり借り受け、西日本裸体主義者クラブの集会場としたのだ。その第一回集会が八月の一月間行なわれる。赤島にいる限り、車がないので交通事故の心配がない。電気がないので電話も掛かってこない。ガスもない。テレビもない。新聞もこない。時計もない。警察もない。会員達はそこで自然を取り戻し、三日もいれば顔色が変り、一週間もいれば心が変り、一月いればどんな病気も逃げて行くと言う。
「じゃあ、食料などは森に入ったり海に潜ったりして、自分で取るわけかね?」
「真逆《まさか》、そこまで自然に帰れとは言わない。島にはホテル並みの料理人を揃《そろ》えてある。食事の心配は全くいらない」
その料金表もできていて、値段もホテル並みになっていた。
「そんなところに一月もいれば、頭がぼうっとして馬鹿になってしまわないか」
「むしろ反対だね」
と、富沢は言った。
「人間はいつでも、こせこせ、こせこせと、こせつき廻《まわ》って働いた気でいるだろうが、実はストレスの中にいるのだ。ここにネズミにストレスを与え、ころりと参らすデータがある」
富沢はパンフレットを開いた。そこには、ストレスで死んでゆくネズミのグラフが載っていた。箱崎は自分がネズミになったような気がした。
だが、それでも心に引っ掛かるものがあった。
「裸体主義者クラブというからには、会員は全《すべ》て裸になるわけだね」
「そう、すっぽんぽんの丸裸。これがまた実に素晴らしい。病気なんざ、服を着ているから取り付くんだ。恥しいと思うのは固定観念。そんなものはすっぱりと放り出せば、心身ともに自由になる。思考が柔軟になって、大いに創造力も湧《わ》きあがる。裸によって、青春の力もまた蘇《よみがえ》る。君が会員である以上、奥さんもまた同じでなければならない。勿論《もちろん》島には会員以外の人間が出入りすることがない。
会員は社会的に信用ある常識人ばかりだ。医者に払う金があったら、俺の会に入会することを誘《すす》めるが、どうだね」
妻に相談すると、京子は閉所恐怖症で、映画館も駄目な方だったから、この話には乗り気になった。
島に着いてから判《わか》ったのだが、事実、赤島には電燈もガスもなかった。「自然に帰れ」が第一の建前だから、カジュアルハウスという名で、会員に割り当てられた家は、丸太を組んで屋根は木の葉を乗せただけ。食事もあまり手間を掛けていない。
箱崎は富沢の発想に、舌を巻いてしまった。
これが普通のホテル経営であれば、電気、ガスはもとより、クーラーやプールの設備も必要だろう。それらの手間を全て省き、会費として金を集めるという。それも富沢が裸になって、思考が自由になったお陰だろうか。
とは言うものの、赤島での生活は、箱崎にとって、よい結果になりそうであった。
食事もすすみ、電気がないので、否が応でも早寝早起きの習慣になる。日の出、日の入り、日日に変る大自然の神秘には、感激を新たにしたものだ。海は澄んで泳いでいる魚が見えるほどだった。空気はうまく、鳥の声は爽《さわ》やかだ。電話機や目覚まし時計の音が一切《いつさい》ないのも、身体によい影響を与えているようだった。
裸になった子供達は大喜びだ。だが、最初のうち、大人たちは子供のようにゆかない。初めから天真爛漫《てんしんらんまん》に振舞ったのは新川冬子で、子供達や冬子を見ているうち、自然な振舞いが却《かえ》って美しく、無駄な羞恥《しゆうち》は醜く感じられることが判《わか》った。
初めどこかぎこちなかった対人関係も、三日四日と経《た》つうち、自然と慣れて固苦しさはなくなった。
身に着けたものを捨て去れば思考が柔軟になって創造力も湧《わ》くと言った富沢の言葉は少し大袈裟《おおげさ》だったが、自然の中に自然の姿でいることで、物の考え方が幾分変ったことは事実であった。
会員はざっと三十人あまり。一家族、夫婦、個人とさまざまで、老若男女が入り混っていた。
最初の日、富沢会長によって、一人一人が紹介されたが、箱崎のような会社員から、草藤十作の学者、石場明実の豆腐屋、新川冬子の料理屋主人と雑多だった。衣服を着ている間はそれらしく見えたが、一度衣服を脱いでしまえば、皆同じ人間になった。箱崎は人を記憶するのに、業種より体躯《たいく》の方がより的確だということも知った。それほど、人の身体は顔よりも多様性に富んでいるのだ。
会員の行動は全く束縛されなかった。会員達は思い思いに一日を過した。
島の西側は狭いが砂浜になっていて、泳ぎができる。岩場には魚の種類が多い。森には遊歩道があって、裸足《はだし》で散策ができる。
島には前の住人が残して行ったらしい野生化した何頭かの山羊がいたが、人が近付くと逃げて行った。山羊の他に兎《うさぎ》などの小動物もいる。鳥の声も雑多だ。
カジュアルハウスの前はちょっとした広場で、昼夜を通してかがり火が燃やされている。富沢によると、古代の人の智慧《ちえ》に倣ったそうで「生命の火」と名付けられている。
その広場で、昼食後、宝捜しが行なわれた。
広場に集まったのは子供を中心にした十五、六人だった。絵に飽きた京子や明実、冬子も後ろの方で見物することにした。広場に着くと、子供達のコーラスが終って、ちょうど宝捜しが始まったばかりだった。
富沢会長が中央に出て来た。片手に小さな折り鶴《づる》を持っている。
「さて、これからお待ち兼ねの宝捜しをいたしましょう」
富沢は手に持った折り鶴を皆に示した。前にいた子供が取ろうとするので、富沢は折り鶴を持った手を高く伸ばした。
「宝はこれと同じに作ったもう一つの折り鶴です。それが、この島のどこかに隠されています。それを捜し出すというゲームです。宝は危険な場所にはありません。ただ、ちょっと頭を使わなければなりませんがね」
「質問があります」
前にいた三年生ばかりの男の子が手を挙げて言った。
「その鶴《つる》はそのままで隠されているんですか。それとも何か箱にでも入っているんですか?」
「容器に入れれば、亀《かめ》に背負《せお》わせて、海に隠すこともできるわね」
冬子が京子にささやいた。
「なかなかいい質問だね」
と、富沢が言った。
「鶴はどんな箱にも入っていません。ただ、ある場所にそっと置いてあるだけです。ですから捜すには簡単でしょう。捜す時間は無制限。つまり、何日かかってもよろしいわけです。賞品は生きている兎《うさぎ》が一匹……」
わあっと子供が声をあげた。
その兎は手製の竹籠《たけかご》の中でニンジンを食べていた。
「どこに隠してあるのかしら」
と、京子が言った。
「そんなこと判《わか》るもんか」
箱崎はあたりを見廻《みまわ》した。見えるのはカジュアルハウスや木や岩。
「おそらく、岩の陰や木のうろの中だろうな」
富沢は再び危険な場所には折り鶴を隠していないので、岩場などには絶対近寄らないように注意すると、子供達は思い思いに散っていった。
昼食後、箱崎はカジュアルハウスに入ってとろとろするのが日課だったが、京子がどうしてもと言うので、遊歩道を歩くことになった。京子は懸賞の兎が何としても欲しくなったのだ。
狭い赤島の遊歩道は、二時間も歩けばゆっくり一周することができる。いつもなら箱崎にちょうどいい運動なのだが、宝捜しというので木の枝や岩陰に気を配ったため、一周したときには、かなり疲れてしまった。だが、宝の折り鶴《づる》はどこにも発見できなかった。
「富沢会長はちょっと頭を使わなければならないと言ったわ」
と、京子が言った。
「これでも使っている積りだがね」
と、箱崎が言った。
「どう使っているの?」
「きっと、思いも掛けないところに隠されていると思う……」
「それだけ?」
「それだけさ」
「思考の飛躍が必要だわ。それには気分を転換させるのがよさそうね」
砂浜に戻ると、明実が自分のカンバスに向って、二の腕をぶるんぶるんさせていた。
箱崎があたりを見廻《みまわ》すと、砂浜を見下ろす小高い岩の上に冬子が寝そべっていた。その岩の上にいると、島を一望にすることができる。冬子はその場所が気に入っているとみえ、カジュアルハウスにいないときには、泳いでいるかその岩の上にいることが多かった。
箱崎たちが帰って来たのを見て、冬子は岩から降りて来た。
「どうでした? 宝捜しは」
「駄目だったわ。それで、絵を描きながら、考えようと思って」
と、京子が言った。
そのとき、草藤と亜の姿が見えた。朝と同じ姿で、二人とも釣竿《つりざお》をかつぎ、大きな魚籠《びく》と箱を下げている。二人の後にはタロウの姿も見える。
「賭《か》けてもいいと思うな」
と、箱崎が言った。
「あの二人の収穫も駄目だったろう」
「訊《き》いてみるといいわ」
京子は二人と一匹が近付くのを待って、
「タロウ」
と、声を掛けた。
タロウは二人の間をすり抜けて駆けて来そうにしたが、すぐ思い止まるようなそぶりを示した。タロウが亜の脚にからみ付いた。亜は犬を踏むまいとして、重心を失ったようで、二、三歩よろけると、何かに躓《つまず》いた。そのまま長身の身体が棒のように傾き、砂浜の上に、ごく普通にひっくり返った。
「おい、大丈夫か」
草藤が言った。響きのいいバスだった。
「大丈夫です。転ぶのには慣れています」
ところが、大丈夫ではなかったのだ。砂地に放り出された箱は、ショックで蓋《ふた》が開き、中の品が外に転がり出した。
それは釣り道具ではなく、何台かのカメラであった。
見ていた明実が絵筆とパレットを放り出して、のそのそ起き上がろうとしている亜に詰め寄った。
「これは何ですか?」
亜は蚊の鳴くような声になった。
「カ、カメラです」
「これで、こっそり撮っていたわけなのね?」
「そうっと撮らないと、相手は敏感ですから……」
「それで、興味本位に書いて、発表するの?」
「無論、発表することが第一の目的で撮影しました」
「宥《ゆる》さないわ!」
明実はわめき立てた。
亜は明実の見幕に圧倒されたようで、草藤に助けを求めた。
「先生、何とかして下さい。だから僕は最初から嫌だと……」
それを見て、草藤が近寄った。拳《こぶし》を口に当て、おほんと咳《せき》ばらいしてから、
「奥様、これは私達にとって、重要な仕事であるのです。これが発表されれば、世間はきっとびっくりして――」
「汚ないやり方だわ。裸をこっそりと盗み撮って売るなんて」
「でも、魚に服を着せるわけにはゆかんでしょう」
「魚ですって?」
草藤は顎《あご》に手を当て、明実を見て首を傾《かし》げた。
「はて、人に肖像権があるとは聞いたことがありますが、魚にもそんなものがありましたかな?」
明実の顔が風船のように赤くふくらんだ。
草藤は口髭《くちひげ》をひねった。
「ははあ、奥様はどうやら勘違いされている様子ですね。では説明しますが、私達は人間の写真は一枚も撮っておらんのです。そのかわり、ヘゲタウオの生態は何千枚ものフィルムに収めてあります」
「ヘゲタウオ?」
「左様、その魚はもともと淡水魚として知られていました。ところが、驚くべきことに、この赤島の磯《いそ》にヘゲタウオを発見したのです。淡水性の魚が、なぜ赤島の磯に住むようになったのか。その謎《なぞ》を探るために、私達は魚の生態を観察しようと、この島に来たわけです。ところが、島はすでに西日本裸体主義者クラブの会場になっていました。それで私達はその会員の一人となり、島に上陸することになったのです。ただし、会長からカメラを持って島をうろうろしては困るとの要請があり、こうして釣り人の姿になって、毎日魚を観察しているのです」
「……少しも知りませんでしたわ」
と、明実が言った。
「でも、最初に怪しいと言い出したのは、この――」
「えへん、えへん」
箱崎は明実と草藤の間に入った。
「いや、御苦労なことです。この研究が発表されれば、さぞ話題になりましょうね」
草藤は得意そうに胸を張った。
「そりゃ、大騒ぎになるでしょうな」
「学者さん達が、大勢赤島に押し掛けて来る」
「裸体主義者がにわかに増えることでしょうな」
冬子が亜の傍《そば》に寄って来た。
「でも、折角《せつかく》カメラを持っていらっしゃるのに、魚ばかり撮っていてはつまりませんわね」
「雲も撮っています」
と、亜が答えた。
「どう? わたしを撮って下さらない?」
冬子は海を背に、ポーズを作った。
亜はどぎまぎしながら、それでも冬子に向って何回かシャッターを切った。
冬子が礼を言い、亜がカメラをケースに収め、一件落着したように見えた。だがそのとき、すでに次の事件が起こっていた。
明実が悲鳴に近い声を上げた。
「どうしたの? 赤島に青鬼でも出たの?」
と、冬子が言った。
「鬼なら裸だから出て来てもいいわ。でも、あのボートに乗っている男は、服を着ている!」
明実の指差す沖合いに、一隻のモーターボートが現われ、凄《すご》い勢いで島に近付いて来るのが見えた。続いてエンジンの音が聞こえてきた。
みるみるモーターボートは島に近付き、まっしぐらに浜に乗り上げた。
ボートを操縦しているのは真っ赤なアロハシャツを着た色の黒い男で、黒いサングラスを掛けているために、顔がただ黒い塊りに見えた。
サングラスの男はエンジンを止めると、ひらりと浜に飛び降り、足早に箱崎の方へ近付いて来た。
「来ないで、不法侵入だわ!」
明実がわめいた。
「俺《おれ》はこの島に用事があるんだ」
と、男は言った。
「用事があるのなら、あなたも服を脱ぎなさい」
「ちょっと、服を脱げない事情がありましてね。なあに、すぐ片付くことだ」
男は浜にいる全員を見渡すと、何を思ったのか、いきなり冬子に近寄って、腕をつかんで引き寄せた。
「誘拐《ゆうかい》だ!」
明実が叫んだ。
男は腰に手を掛けると、ぎらりと光る物を引き抜いた。それを冬子の胸に突き付ける。
「いいか。大人しくしろよ。騒ぐとこの女の命はないものと思え」
「会長を呼ぶわ。一一〇番だわ」
サングラスの男はせせら笑った。
「ほほう、面白いね。だぶだぶのおばさん。一一〇番に電話を掛けてもらいてえね。この島に電話がないことなんざ、先刻御承知だ」
男は冬子を引き立てて、モーターボートに乗せようとする。
そのとき、タロウが一声|吠《ほ》えると、男の腕に飛び掛かった。男は不意の犬の出現を全く予想していなかった。
「やい、止せ。畜生、あっちへ行け――」
男はタロウを振り解《ほど》こうとするが、タロウは男の腕に執拗《しつよう》にからみつく。
「どうやら、タロウは刃物を見て、サンマだと勘違いしているようです」
と、亜が言った。
「そう言えば、タロウの好物はサンマだったな」
と、草藤が言った。
「冗談じゃねえ。おい、こりゃあサンマじゃねえんだ。本物のドスだ。判《わか》らねえのか。おい誰か教えてやれ。この近眼犬にだ」
亜が近寄って、刃物を持っている男の手首をつかんだ。その力はごく弱いように見えたが、男は刃物を砂の上に取り落した。タロウは素早く刃物をくわえて、遠くに走り去った。
「やい待て。味な真似《まね》をするじゃねえか。この野郎は」
血相を変えた男は亜に飛び掛かった。次の瞬間、サングラスが跳ね飛んだ。亜は丸くなって砂の上に転がったが、すぐに起きなおった。男の方は大きく空を飛んで、地響きとともに砂地に墜落し、ぎゅっと言った。
男はのろのろ起き直ると、今の現象が信じられぬように、ゆっくり首を振った。そして赤いアロハシャツに着いた砂を振った。シャツには砂の他に、肌色のしみが着いていたが、ここでしみ抜きなどしている場合ではない。今度は拳《こぶし》を固めて亜に殴り掛かった。亜はひょいと身体を屈《かが》めると、信じられぬほど小さな塊りに変った。男が亜をまたぐ恰好《かつこう》になったとき、亜は男の足首をつかんで立ち上り、そのまま両手を伸ばしたから、男は片足を宙吊《ちゆうづ》りにされて逆さまになった。亜ははずみをつけるように男を二、三度ぶんぶん廻《まわ》してから、放り出した。男は箱崎の頭の上を飛び越え、頭から砂地に落ちていった。
「早く、裸にして!」
と、明実が騒いだ。
「何ぶん、規則ですから、仕方がないでしょう」
亜は砂を口一杯に頬張《ほおば》って、動けないでいる男に近付き、服を脱がせた。そのとき男が「服を脱げない事情がある」と言った意味が箱崎に判《わか》った。男のへそが二センチも飛び出していたのだ。
亜は男が動けないように、シャツとズボンを使って男を縛ってしまった。そこへ知らせを聞かされた富沢会長が駆け付けて来た。
「こいつ、どうしよう――」
と会長が腕を組んだ。
「食料を運んで来る連絡船が来るのは、三日ばかり後になる。それまでこうしておくのも面倒ですな」
「自然に帰しましょうよ」
と、明実が言った。
「この男が冬子さんを誘拐《ゆうかい》しようとした犯行は、誰の目にも明らかです。島には島の掟《おきて》がありますわ。ここで裁判をしましょう。結果は死刑。首くくりにして、屍体《したい》は土に埋め、自然に帰してあげましょう」
「自然に帰るのは嫌だ」
と、男は口をじゃりじゃり言わせた。
「死刑とは少し極刑すぎませんか」
と、富沢が言った。明実は丸い口を尖《とが》らせた。
「この男はその前に侮辱罪も犯したのよ。わたしのことをだぶだぶのおばさんと言ったんですよ」
「ほう、それは本当ですか?」
富沢は男に訊《き》いた。
「そう言ったのは確かだ。だが、俺は正直な感想を述べただけなんだ」
「もう宥《ゆる》せないわ。縛り首だわ」
「まあ、二人とも落着きなさい」
富沢は明実を制すと、皆を見廻《みまわ》した。
「まあ、ここで裁判というわけにもゆきませんでしょう。見ればあのモーターボートはまだ使えそうです。あれに男を乗せ、できるだけ早く本土の警察に引き渡すのがよろしいでしょう。どなたか、モーターボートの操縦のできる方はいませんか?」
冬子が手を挙げた。
「わたしなら操縦ができます」
「新川さん一人ですか……。一人では危険でしょう」
冬子は自信に満ちた口調で言った。
「わたし一人で十分だと思います。この男は身動きもできません。荷物を運ぶのと変りありませんわ」
「なるほど、それはそうでしょうが……」
「いいえ、大丈夫です。わたしに任せて下さい。本土へこの姿は何ですから、ちょっと服を着て来ますわ」
冬子はそう言うと、カジュアルハウスの方へ駆け出した。
箱崎も手伝って、縛った男をモーターボートの中へ投げ込んだ。男はもう縛り首にされないことが判《わか》ると、横柄な口に戻った。
「おいのっぽ。俺のサングラスをどこへやった?」
亜は義理固い男とみえて、砂浜からサングラスを捜し出して男に掛けてやった。
「ドスも俺んだ」
草藤はタロウを呼んだ。タロウは刃物をくわえて草藤のところへ来た。
「刃物は証拠品として、警察に渡すように、新川さんに言いましょう」
富沢は刃物を操縦席に置いた。
「俺に何か着せろ。裸で道中なるものかだ」
と、男が怒鳴った。
「いい加減にしろ」
と、富沢が男の頭をこづいた。
「お前の名は何と言う」
「何か着せろ」
「なぜ、冬子さんを誘拐《ゆうかい》しようとした?」
「だぶだぶでなかったからだ」
「どこから来た?」
「あっちから来た」
まるで相手にならない。
そこへ、冬子が帰って来た。頬《ほお》が上気している。冬子は長い髪を後ろできりっと束ねたため、機敏な感じになっていた。胸元の大きく開いたシャツブラウスは、マリンブルーで、小さな水玉がプリントされていた。エナメルの白いバッグをボートの操縦席にぽんと投げ込むと、
「じゃあ、行って来ます」
事もなげにボートに乗り込もうとする。
「くれぐれも気を付けて下さいよ」
と、富沢が言った。
「ねえさん、済みませんね」
サングラスの男が冬子を見て言った。
そのとき、亜の目が白くなり、両手をふらふらさせて、水の中を泳ぐような姿になった。
「…………」
冬子がボートに乗り移ろうとしたまま、亜の形に気を取られた。
「亜、どうした?」
と、草藤が言った。
「いや、この人達はどうも警察へ行く気はなさそうです」
亜はじゃぶじゃぶと海に入って行き、ボートの船縁《ふなべり》に手を掛けた。
「じゃあ、どこへ行くと言うの?」
冬子が訝《いぶか》しそうな顔になった。
「どこへ行くかは判《わか》りませんが、警察から逃げている人が、警察に行くことはないと思います。そうじゃありませんか。普賢《ふげん》のお奈津さん?」
亜の口から「普賢《ふげん》のお奈津」という名前を聞いて、浜に集まっていた全員が、あっと言ったきり、しばらくは口がきけなくなってしまった。
普賢の奈津は暴力団の女組長として、テレビや週刊誌を賑《にぎ》わせ、誰一人知らぬ者はない。それは、執拗《しつよう》な警察の目を逃れ、どこに潜伏してしまったのか、杳《よう》としてその行方が判らない、その見事な逃亡にあった。
冬子はじっと亜を見ていたが、縛られている男に言った。
「浅《あさ》、この人を知っていたのか?」
「いいえ、今、初めて会った人です。全然知らねえ人です」
「そうだろうなあ」
冬子は首を傾《かし》げて亜に言った。
「それが、どうして普賢の奈津と知ったんだね?」
「……それは、そのサングラスの人のお陰です」
亜は小さな声で喋《しやべ》った。
「浅のお陰だと?」
「……人間は他の人間を判断するとき、周囲の環境の様子も考慮して、その人がどういう人であろうかと見定めるわけです。ところが、人が着衣を脱ぎ捨て、大自然の中にいるときには、その人がどういう人であるか、見ただけでは全く判らなくなってしまいます。そんなわけで、僕は今迄《いままで》、新川冬子という人がどんな人だか、全く知ることができませんでした。もっとも知る必要もなかったわけですが……」
「兄さんの興味は何とか言う魚だけだったね」
「ところが、突然ここに浅という人が現われて、冬子さんを誘拐《ゆうかい》しようとする。浅という人は服を着ているのでその態度や服装を合わせて見ると、どうやら堅気とは言えそうもない。その浅さんがなぜ冬子さんを誘拐しようとするのか。その意味がつかみかねました。そうするうちに、冬子さんは服を着た姿になって戻って来ました。冬子さんがボートに乗ろうとすると、浅さんが〈ねえさん、済みませんね〉と言った」
「浅め、どじなことを言ったもんだ」
「そのとき、冬子さんと浅さんが作っている環境が見えてしまったのです。冬子さんはある首領らしく見え、浅さんがその手下のように見えた……」
亜はちょっと咳《せき》をして、
「それに、背中に目立つ彫物をしている人が潜伏するところは、裸体主義者クラブの中が、一番安全な場所じゃありませんか」
冬子はからからと笑った。
「なるほど、そこまで見通されちゃあ、敵《かな》わねえ。そう、わたしはその普賢の奈津さ」
「本当にあなたが普賢の奈津?」
と、明実が信じられぬように言った。
「疑い深い人だね、あんたも。話の種にその菩薩《ぼさつ》様を拝ましてやろうか」
冬子はボートに飛び乗ると、マリンブルーのシャツブラウスのボタンをぱらぱらと外し、手早く脱ぐと後ろ向きになった。
冬子の白い肌に、象に打ち乗った普賢菩薩が、曼陀羅《まんだら》風な図柄の中に浮き上った。箱崎はその華麗な彫物と、豊艶《ほうえん》な襟足の調和に、茫然《ぼうぜん》としてしばらくは我を忘れてしまった。
「おやっ?」
沖を見ていた冬子が、素早く肌を収めると、操縦席から双眼鏡を取り出して目に当てた。
「巡視艇だ……」
「ねえさん、早く結び目を解いて下さいよ」
と、浅が言った。
「もうそんな閑《ひま》はない。なぜもっと早く来なかった?」
「……色色事情が」
「いつもお前はそうだ。やあ、明石《あかし》さんの顔が見える……」
「明石警部ですか?」
「そうだ」
「そりゃいけません。早く逃げましょう」
「もう、駄目だね」
冬子は双眼鏡を放り出した。
「わたしはもう覚悟を定《き》めたよ。明石さんに手柄を立てさせよう」
「嫌だ、ねえさん。助けて下さい」
浅のわめきには耳を貸さず、冬子は箱崎の方に向きなおった。
「皆さん、お聞きの通りですわ。色色お世話になりましたが、またどこかでお目に掛かりましょう。もう一つだけの頼みで、どうぞボートをちょっと押してやって頂きたいの」
亜と富沢と箱崎で、ボートを押して波に乗せてやると、冬子はエンジンの紐《ひも》を強く引いた。エンジンが掛かると、冬子は操縦席に着き、颯爽《さつそう》として島を離れた。そのまま二人を乗せたボートは、大きく見え始めた警察の巡視艇に向って小さくなって行った。
「生命の火」が勢いよく燃えている。
さっきまで、子供たちの喊声《かんせい》が暗い夜空に吸い取られていたが、それぞれのカジュアルハウスに収まったようだ。
広場の一隅に、亜を囲むようにして、箱崎、京子、明実、富沢会長、草藤が草の上に腰を下ろしている。
亜は素焼きの大盃《たいはい》に、どぶろくのような酒を飲み干したところだった。
「亜は酒を飲むと色色なことを喋《しやべ》る」と草藤が富沢に言ったからだ。草藤は亜に葉巻をくわえさせ、火をつけてやった。
「……モーターボートで島に乗り付けた浅という男は、普賢《ふげん》の奈津の配下だということは判《わか》ったが、どうして冬子さんを誘拐《ゆうかい》しようとしたのだろう?」
と、草藤が訊《き》いた。
「――それは」
亜は律義に葉巻を吹かすと、
「浅さんは冬子さんを誘拐するためにこの島へ来たのではなくて、冬子さんを救い出すためにこの島へ来たのです。きっと、冬子さんが赤島に潜伏しているらしいことを警察が嗅《か》ぎつけ、それを何かの手段で浅さんが知ったのだと思います。浅さんはそのことを冬子さんに知らせなければなりませんが、生憎《あいにく》なことに、この島には電話も電報も通じません。然《しか》も、会員以外の者は簡単にこの島に上陸することができない。決められた手続きを踏んで島に上陸するのは面倒になると思い、浅さんはモーターボートで直接島に上陸することにしたのです。自分の顔を見れば冬子さんはその意味をすぐに知るでしょう。浅さんが拉致《らち》する演技に協力するはずです。この誘拐はごく容易に成功するはずでした」
「ところが、君とタロウのお陰で、浅は反対に取り押えられてしまった……」
「浅さんの行動の意味を知った冬子さんも、びっくりし当惑したでしょう。愚図愚図していては、いつ警察が島に現われるか判《わか》らない。そこで、自分がモーターボートを操縦し、浅さんを本土の警察に送る役を買って出たわけです。勿論、島が見えなくなったところに出て、浅さんの束縛を解き、警察とは反対の方向に逃げ出すことが目的でした」
富沢は組んでいた腕を解くと、亜に訊《き》いた。
「君はさっき、背中に目立つ彫物をしている人が潜伏するところは、裸体主義者クラブの中が一番安全な場所だ、と言ったでしょう。だが、反対にここは誰が考えても危険な場所だと思うんだが」
「そこが冬子さんの頭のよいところだと思うのです。さっきも言ったように、人間は他の人間を判断するとき、周囲の環境によって、大きく影響されるものです。例えば、いつも会っている人が、道で出会うとその人が誰だか判らなくなってしまうことがよくあるでしょう。よく考えてみると、その人は寿司《すし》屋さんだったり、八百屋さんだったりすることが多い。つまり、いつもの制服を替え、いつもと違う環境にいる人に出会うと、人間の固定観念が災いして、すぐにその人が誰だったかという判断がつかなくなってしまうものなのです。従って、制服もなく同一環境のこの島で生活する限り、自分と話している相手が、会社員か学者か豆腐屋か、といった概念は、全くなくなってしまいます」
富沢はうなずいた。
「君の話で、有名な俳優の芸談を思い出したよ。その俳優は稽古《けいこ》のとき、衣装を着けず、裸で役の練習をしたそうだ。役者が舞台装置の中で衣装をつけて現われる。つまり、亜さんの言う環境の中にあれば、一応はそれらしい役に見える。けれども本物の俳優となるためには、装置や衣装の助けを借りずに、役作りができなければならない。裸になって稽古をするのは、それが目的だったと言う」
「絵のデッサンも同じね」
と、明実が言った。
「普通デッサンは背景を描いたり、彩色したりしませんわ。背景や色の助けを借りず、その物を正しく描くことがデッサンの目的ですから」
「僕の話が判《わか》ってもらえたようです」
と、亜が続けた。
「つまり、裸体主義者クラブの島では、会社員や学者や豆腐屋さんといった区別はなく、従って、暴力団女組長といった身分も消えてしまうわけです。つまりどこかでいかにも女組長らしく写された普賢《ふげん》のお奈津さんの写真を見ていても、それはとうてい、この島の冬子さんとは結び付かないでしょう。ということは、裸体主義者クラブは、自分の身分を隠すために、大変都合のいい世界だったのです」
富沢が言った。
「冬子さんは料理屋の経営者という触れ込みでした。服を着たときの冬子さんはどうしても粋《いき》に見えましたよ。八百屋さんや魚屋さんではとうてい通用しない姿でした」
亜はうなずいて、
「一方、警察の方では、奈津さんを捜し出す場合、手掛りとなるのは何といっても奈津さんの背中に彫られてある普賢|菩薩《ぼさつ》の彫物です。警察は彫物のありそうな女性を捜すでしょう。人前では絶対に肌を見せないという女性こそ怪《あや》しいのですから、裸同士の集団である裸体主義者クラブなど、最初から捜査圏外にあるのと同じことです。つまり、冬子さんが裸体主義者クラブにいるというのは、警察の固定観念を計算に入れた、頭のよい隠れ場所だったわけです。冬子さんはこうして、島の中の会員からも、外部の警察からも、安全な場所にいることができたのです」
固定観念と言われて、箱崎は朝読んでいた週刊誌の記事を思い出した。薬物は粉末であるという人間の固定観念に目を付け、麻薬で泥人形を作り、南国の民芸品として輸入しようとした男の話だ。
まだある。自分は絵の具の箱にあるローズピンクのチューブをなかなか見出すことができなかった。チューブのラベルが茶色に汚れていたため、ローズピンクはローズピンクのラベルだという固定観念に囚《とら》われていたのが判断を誤らせる原因となった。
「一つだけ疑問があるな」
と、草藤が髭《ひげ》をひねりながら言った。
「亜は服を着て、モーターボートに乗り込もうとした冬子さんを見て、とっさに普賢の奈津だと見破った、などと恰好《かつこう》のいいことを言ったが、同じ場所に居合せた我我が誰も同じような考えに至らなかったというのが怪しい。亜は前前から冬子さんについて、何か不審に思っていたことがあるんだろう」
「当りました」
亜の呂律《ろれつ》が怪しくなった。
「実は、前前から、冬子さんの行動に、ある矛盾があることに気付いていたわけです」
「矛盾……そりゃどういった矛盾かね?」
「――何と言いますか、冬子さんは、自分の身体をなるべく目立たせようとする場合と、反対に人の目から隠そうとする場合がある、この完全に分裂した行動のあることに気付いていたのです」
「そう言われてみると、思い当る点があるわ」
と、京子が言った。
「冬子さんは子供みたいに、最初から裸になることを、何とも思わないようだったわ。今朝も、うちの主人にモデルになるからわたしを描いてみませんかと誘ったり、亜さんがカメラを持っていることを知ると、進んでカメラの前に立ったり……あれは自分の身体に自信があるからじゃないの?」
「冬子さんにはもっと大切な理由があったのです。世間では普賢の奈津がどこに隠れているのかが興味の的になっている。人前では絶対に肌を見せない女性が怪しまれるわけですから、冬子さんは反対に、自分の肌を積極的に人の前に出す必要があったのです。けれども、そうした態度とは裏腹に、冬子さんはときとして、自分の肌を見られることを、大変恐れているときがあったのです」
「そうだ……」
草藤が言った。
「これも今朝のことだったが、私が冬子さんの後ろから声を掛けたんだが、そのときの冬子さんの驚き方は普通じゃなかった。彼女は小雀《こすずめ》みたいにカンバスの向うに隠れてしまった」
「つまり冬子さんは、自分の無防備なとき、背中を見られることを、非常に嫌っていたのです。冬子さんが島で気に入っていた場所は、島がほぼ一目で見渡せる岩の上でしたが、そこにいるといつでも自分に近寄って来る人を知ることができるからでしょう。冬子さんは正面にいる人や、背後が暗くなっている生命の火の前では目立った存在でしたが、そうでないときの冬子さんは、背後に敏感でした。大体、身体に自信のある人なら、美しい襟足《えりあし》や背中を長い髪でいつも隠しているということが、不自然に思えます」
「それは僕も同感だ」
と、箱崎が言った。
「それに、冬子さんが直射日光の下にあまり出たがらなかったのも同じ理由ですか?」
「そうです。背中の彫物をドーランや陽灼《ひや》け止めクリームで消し、更に長い髪でカムフラージュしても、明るい陽の下では不自然に加工された肌の色が目立つでしょう。冬子さんはそれを嫌ったのです」
「冬子さんが背中にドーランを塗っていた、というのは?」
「僕が浅さんと格闘していたとき判《わか》りました。浅さんは砂浜に倒れて起き上がったとき、赤いアロハシャツに着いた砂を振い落しましたが、肌色のしみが落ちずに残りました。それがドーランで、冬子さんと揉《も》み合ううち、背中のドーランがシャツに着いたということがすぐに判りました。浅さんが縛られ、冬子さんがボートを操縦することになり、服を着なければならなくなりましたね。そのとき、冬子さんはべた着くドーランやクリームをシャワーで落したのです。髪も後ろで小さく束ねたのは動きやすいためです。無論服のために彫物が見えなくなったので、髪をまとめることができたのです。その上……」
箱崎はもうそろそろ亜の話が終るだろうと思い、冬子の彫物を絶讃《ぜつさん》しようとしたが、まだ続きがありそうなので、口をつぐんだ。
「その上、冬子さんは言葉の連想に、一つの癖を持っていましたね。例えば、モーターボートで島に乗り着けようとしている浅さんの姿を見て、明実さんが叫び声を上げたとき、冬子さんは〈どうしたの? 赤島に青鬼でも出たの?〉というような……」
「宝捜しのときもそうだったわ」
と京子が言った。
「冬子さんは宝の折り鶴を見て〈容器に入れれば、亀に背負わせて、海に隠すこともできるわ〉と言ったのを覚えているわ」
「そうでしょう。ですから、自分の本名、古山奈津を隠して偽名を作るときにも、似たような癖が出ているじゃありませんか。ほら、新川冬子――古と新、山と川、夏と冬……」
「隠すことは、顕《あら》われることです」
と、富沢が言った。
「会長さん、誰か宝物を捜し当てた人はいますの?」
と、京子が訊《き》いた。
「残念ながら、まだ……」
富沢は微笑しながら答えた。
「わたしには、折り鶴《づる》の隠し場所が判《わか》りかけたような気がします」
「ほう……そりゃ素晴らしい」
「会長さんが折り鶴を見せようとしたとき、前の子供が手を伸して触ろうとしたのを覚えているわ。すると、会長さんは手を高く上げてしまった。ということは、きっと折り鶴に触られては困るようなことがあったんでしょう?」
「…………」
「つまり、折り鶴といえば、紙で作られているという固定観念を利用して、あの鶴は別のもの――触られれば紙でないことが判ってしまう、固い金属のような物で作られているんですね?」
富沢は真顔になった。
「とすると、多分ここだわ」
京子は立ち上って、生命の火に近付いた。
「……普賢のお奈津さんは、私の陰謀も台なしにしてしまった」
と、富沢がぼやく声が聞えた。
京子は木の枝で火の中を掻《か》き廻《まわ》していたが、すぐ、すすで黒ずんでしまった小さな折り鶴《づる》を拾い上げた。
第二話 球形の楽園
前方に拡がる藍色《あいいろ》の山並みが、女性の胸みたいに見える。朝の空気も、妙に甘い。
いつも見慣れている景色に、新しい刺戟《しげき》を感じるのは、昨夜の首尾が良すぎたためだ。
〈スコーピオン〉にいたのは、神楽坂光子という、何でも知りたがる、ひどく好奇心の旺盛《おうせい》な女性だった。給料や貯金額をしつっこく訊《き》かれるのには閉口だったが、光子がまだ行ったことのない場所に誘うと、すぐついて来たものだ。
「ねえ……弁ちゃん。また誘ってよ」
耳元のくすぐったい感触が、まだ残っているではないか。
弁造はトラックを運転しているのが、急に阿呆臭《あほくさ》くなった。一刻も早く仕事を片付け〈スコーピオン〉に駆け付けなければならない。弁造は一段と車の速力をあげた。
蠍山《さそりざん》に向う山道。産業道路を曲ると乾いた砂利の道で、このところ晴天が続くものだから、車の後は濛濛《もうもう》たる砂煙が舞いあがっている。
曲り端《はな》で、道の肩がぐずぐずになっているところがあり、高をくくってハンドルを切ったら、後輪がずり落ちかかった。すんでのところで、崖下《がけした》へ真っ逆さまに墜落するところだった。
「畜生……」
運転席の窓から唾《つば》を吐き棄てる。次の瞬間、道の穴に車輪がはまり込んだようだ。荷台に積んである十トンの砂利が躍りあがったのが判《わか》った。
工事が始まるようになってから、急に道が痛みだしたのである。だが、道路は弁造のものではないし、トラックも会社のものだ。どちらが痛もうが毀《こわ》れようが構わない。トラックの積荷の重量が違反していることも承知の上だ。交通巡査の目が、こんな山奥まで届く気遣いはないので、運転席には酒の用意もしてある。
「くそっ……」
車が穴を踏んだ衝動で、その一升瓶が弁造の足元で横倒しになった。割れでもしたらどうするか。いつも油をしぼられている交通課へ行き、怒鳴り込んでやろうと思ったが、瓶は割れていなかった。歯で栓《せん》を引き抜き、酒を喉《のど》に流し込む。生ぬるくて、旨《うま》くはない。もっとも〈スコーピオン〉で飲む酒とは、値段が大いに違う。
口からあふれた奴《やつ》を、首に巻き付けたタオルでぐいと拭《ふ》く。その後へ南京豆《なんきんまめ》を放り込む。指に付いた塩を舐《な》める。太く、大きな手だ。
「逞《たく》ましい手ねえ。何の商売かしら?」
昨夜《ゆうべ》、神楽坂光子が、弁造の手を握って、そう言った。
「石に関係あるな」
「……陽に灼《や》けてもいるわねえ。爪《つめ》の間に砂が入っているところを見ると、河原で何かしているんでしょう」
「河原にいることもあるな」
「じゃ判った。考古学の先生ね。石を起こして化石を見付けたりする――」
「似たようなもんだな」
以来、弁造は考古学の学者にされてしまった。
尾根に出たところで、道の傍に停車している車が目に入った。先を急ぐ弁造には、それが障害物としか見えなかった。
車は埃《ほこり》だらけの小さい軽四輪で、じっと止まったままだ。弁造のトラックが近付くと、ドアが開いて、二人の人間が道の真ん中に飛び出した。一人は丸い感じの男で、半袖《はんそで》のサファリジャケットを着ている。もう一人は背が高く、黒っぽい背広にネクタイをきちんと結んでいた。二人は弁造の車に向って盛んに手を振りだしたが、それは毒にでも当って、踊りに似た痙攣《けいれん》でも起こしているように見えた。
「ちっ……」
弁造は舌打ちをした。
間抜けな二人が、慣れぬ山道に入りこみ、車が故障でも起こしたものらしい。勿論《もちろん》、弁造のせいではないし、そんな男に構っている閑《ひま》はない。
弁造は車の速度を落とさず、軽四輪すれすれに走り抜けた。あおりを食らって、丸い男がひっくり返ったようだ。
ラジオで中里ララが歌を唄《うた》っている。弁造も一緒になって唄った。
「――恋しているハートはガラスの細工、棄てないで、毀《こわ》さないで……だってやがら。畜生」
ボリュームをあげようとして手を伸ばしたとき、運転席の窓から、男の顔がにゅっと現われた。
一瞬、幽霊か、と思った。外は疾走する山の景色だ。人間の顔が出て来るような場所じゃない。
だが、たった今轢《ひ》き殺した男が現われるには早すぎる。幽霊だって色色|支度《したく》があるはずだ。
「……運転手さん、お願い。助けてください」
と、窓の外の顔が言った。
弁造はブレーキを踏んだ。男は窓の外から車にしがみ付いているようだ。
「一体、お前は、何だ?」
「今通りすぎた車に乗っていた者です。車が故障して困っているんです。助けてください」
「俺《おれ》はちょっと急ぐんだがなあ」
「そこを何とか力になってください。僕たち、昨夜からずっと動けないでいるんです」
弁造は改めて男の顔を見た。
必死の願いが表情に現われ、やや崩れて見えるが、なかなかいい男だった。
「通りすぎたとき、飛び付いたのか?」
「いいえ。通りすぎて、見棄てられそうになったのが判《わか》ったものですから、駆け出してやっと追い付いたのです」
「ううむ……」
本当だとすると、よほど足の速い男と見える。昨夜からずっと通り掛かる車を待っていたとすると、可哀相《かわいそう》な気にもなる。こう頼まれた以上、それでも断るというのは、男として恥というものだ。
「負けたよ。仕方がねえ」
「ありがとうございます」
「気を付けて降りろよ。今、車をバックさせるから」
窓から男の顔が見えなくなった。ドアを開けて後を見ると、軽四輪は三百メートルも後に見える。弁造は車を軽四輪に近付けると、トラックから降りた。
「先生……ちょうど目が覚めたところで、助かりました」
と、窓の男が、軽四輪の傍で待っていた丸い男に言った。言葉の様子では、たった今まで寝ていたようだ。丸い男は至って真面目《まじめ》な顔をして、弁造に深深と頭を下げた。
「私は羽並《はなみ》大学の戸塚左内と申します。お急ぎのところ、お車をお止め申し、恐縮しております」
弁造は大学の先生なら、知り合いになっていてもいいだろうと思った。相手が先生なら、言葉遣いにも気を配らなければならない。
「こりゃ、御丁寧なお言葉で、痛み入ります。どうぞ、お控えなすって」
「は?」
「いえ、お控えなすって。手前は新生セメントの社員、赤城弁造と申します。別名そうたの弁。以後、面体《めんてい》お見知りおきの上、向後《きようこう》万端よろしくお頼《たの》申します」
「手前は、亜と申します」
と、窓の男が言った。
「あ?」
「へえ、亜細亜の亜という字を書くんでござんす」
「?――――」
字の講釈をされても、その字が一向に浮んでこなかった。
「なるほど、ア、ジ、ア……するてえと、最初の方のアでござんしょうか。それとも、後の方のアでござんしょうか?」
亜はぼんやりした顔で弁造を見て、
「……多分、前の方の亜でござんす」
と、答えた。
「昨夜からずっとここにおいでじゃあ、心細かったでしょう」
「お腹も空きました」
車の傍に道祖神があって、前に団子が供えられている。杉なりの山が崩れているので、食べたのかも知れない。弁造の視線を見て、亜が団子の形をなおした。
「いつ崩れたのかな」
団子の山は一つも欠けていないようだ。亜は弁造の顔を見て、無実を晴らしたような顔をした。
「ところで、車の方の容態は?」
亜の話では、昨日の夕暮れ、突然車がうんともすんとも言わなくなってしまったそうだ。弁造は軽四輪をこづき廻《まわ》した。
「こうすると、昔のラジオならうまく直ることがあったんだがなあ」
車の中には、何やら複雑そうな機械や撮影の機具が一杯詰め込まれている。
「取りあえず、引っ張ってみるかね」
と弁造は言った。
「この先に、工事現場があるんだ。そこまで砂利を運ぶ途中でね。まあ、砂利を置いたら、町に戻るんだが、なに、引っ張っていりゃあ、途中でエンジンが掛かるでしょう。それで駄目なら、町で買い替えるんだね」
「そうと知っていれば、もっとママからお小遣いを貰《もら》っておけばよかった」
と、戸塚左内が言った。
弁造はトラックからロープを取り出し、トラックと軽四輪をつなぎ合わせた。戸塚が運転席に戻り、亜はトラックの助手席に着いた。エンジンを掛け、すぐに出発だ。
亜が鼻をくんくん言わせた。
「――お酒の匂《にお》いがしますね」
「なあに、水代わりだ」
弁造は亜をじろりと見た。
「それとも何か。酒を飲んでトラックを運転しちゃいけねえという、法律でもあるのか?」
「あ、ありません」
弁造の気分が変わって、このまま山中に置いて行かれるのを、恐れているようだ。
「じゃあ、何だって言うんだ?」
「ただ……お酒を飲むのなら、お酌《しやく》をしようと思いまして」
「へん。車の中で盃《さかずき》が使えるかい。ラッパ飲みだあ」
「もっともです」
亜は酒瓶を取り上げ、栓《せん》を抜いて、弁造の口に酒を注いだ。それで、弁造の気分がよくなった。
「後の車に乗っている人は、何の先生だい?」
「昆虫学の先生です」
「それで、こんな山奥にも来るわけだな」
「学者は研究室にばかり閉じ籠《こも》っていることはありません」
「考古学だってそうだ」
「あれも大変な仕事です」
「で、あんたは何をしているんだい」
「僕の仕事は撮影です。昨日はさそりのダンスを撮ることができました」
「さそりのダンス……ありゃなかなかいいもんだ」
「滅多に見ることができません」
「そりゃ、そうだろう。だが、昨夜《ゆうべ》は俺も見たぜ」
「本当ですか?」
「本当だとも。〈スコーピオン〉に行けば、毎晩見られるさ」
「スコーピオン?」
「さそり会館の地下だ」
「さそり会館なら知っています。僕が泊まっているホテルの前です」
「――というと、ホテルニューグランドサソリだな」
「そうです。ぜひ見たいものですね」
「俺も今夜行くつもりなんだ。もし行ったら声を掛けてくれ」
そのうち、蠍山《さそりざん》の山腹に、工事現場が見え始めた。
その場所だけ、緑が削り取られ、赤い山肌が露出している。近付くに従い、何台ものトラックやショベルカー、クレーン車などが見えてくる。その様子はどこの建設現場でも似たような光景だったが、奇妙なのはそれ等が取り巻く、中心に置かれた建物である。
それを建物と呼ぶには、ふさわしくないかも知れないが、人の作り出した建造物に違いなかった。それは、巨大な、白い球だった。
「あ、ありゃ何です?」
亜は座席から腰を浮かし、目を真ん丸にして、前方に乗り出した。
「あれかね」
弁造はにやっと笑って言った。
「ありゃ、さそりの殿様の、要塞《ようさい》だあ」
四谷乱筆《よつやらんぴつ》、蠍山《さそりざん》を初め、近隣一帯に土地を所有する、大富豪である。土地の人たちはさそりの殿様と呼ぶが、いかにも殿様らしく、乱筆はあまり人の前に出ることはなかった。これは気取っているためではなく、乱筆の人嫌いと、乗物嫌いによるためであった。この性癖は子供のときからで、乱筆は広大な屋敷にある、地下の穴倉に独り玩具《おもちや》を持ち込んで、遊んでいることが多かった。
学生期は東京の大学ですごした。その頃《ころ》、乗物恐怖症は一時押えられていたようだが、老年期に入ると、それが以前にも増した強い性癖となって現われた。それは、全ての生命保険会社から、保険の加入を拒絶される年齢になったのが、きっかけになったという。
他からの救済の望みが絶たれた以上、自分を守るのは自分しかない。人嫌いと乗物嫌いが、今度は自衛という形になって、現われたのである。
乱筆の外出は極度に減った。よんどころない用事のときは、お抱えの運転手で、防弾チョッキに、ヘルメットを着用しなければ、乗車することができなくなった。
その乱筆は、今年の初め、蠍山の中腹に、自分の余生を安全に保つための、建物を作る計画を立てた。それは、防空壕《ぼうくうごう》とも、洞窟《どうくつ》とも、要塞とも、避難所とも言えるシェルターであった。
「なんでも、近いうち、飛んでもない災害が起こるようだぜ」
と、弁造が亜に教えた。
その災害とは、地震、戦争、核爆発、地殻変動、星との衝突、大噴火――何が起こるか知れないという。それに備えての住居である。
蠍山の山腹、固い岩盤をえぐり抜いて、奥深い洞穴を作り、コンクリートで固める。その中には、優に二、三年は暮せるだけの食糧や水、衣類が貯蔵される。住居には自家発電、空気コントロールの機械も設備する予定だ。そして、その上に、特別緊急避難所として作り出されたのが、球形のカプセルであった。
カプセルは鉄と秘密の金属による特別の合金によって作られ、放射線を通さず、高度の衝撃、一万度以上の熱にも耐えることができる。このカプセルの中にいれば、どんな爆弾、噴火、地震が起こっても、どこにいるより生命は安全なのである。洞穴の一番奥にこのカプセルを据《す》え、乱筆はいざというとき、その中に避難する計画なのだ。
「まるで金庫だね」
と、弁造は亜に言った。
「スイスの家庭には、各戸に核シェルターがあるといいますよ」
「そんなにしてまで、生き長らえてえかね」
「さそりの殿様はお金持ちなんでしょう?」
「そりゃあ金冷えのするほど持っているだろう」
「それなら、金庫みたいな住いを作って当然です。お金の次に大切なのは、生命ですから」
「だが、大変な工事だぜ。殿様はあの要塞《ようさい》で、ほとんどその金も使っちまうんじゃねえかって、噂《うわさ》があるほどだ」
「もし地球が全滅するようなことがあれば、僕だって、最後の人類の一人でいたいです」
「俺《おれ》あ女がいなくなっちゃ、生きてても仕様がねえや」
「さそりの殿様に、奥さんはいるんですか?」
「いないね。十年も前に死んでしまった」
「すると一人暮しですか」
「あんな広い屋敷に、とても一人じゃ住めねえな。屋敷はあの要塞《ようさい》の向う側にあるんだが、そこに甥《おい》夫婦と、その子供たち、使用人なんかと住んでいるのさ」
「その甥の人が、次のさそりの殿様になるわけですね」
「そうだ。だが、あの人なら、あんな要塞は作らねえだろうなあ。作るとすりゃ、さしずめ、ヘリポートだろう」
「ヘリポート?」
「そう。こっちの方は、さそりの殿様とは大違い。根っからの乗物気狂いだ。若い頃、カーレースの選手だった。今でも、ジェット機のパイロットにあこがれていて……おや?」
弁造は耳を澄ませた。遠くからサイレンが聞えてくる。亜も窓から首を出して、後を見ていたが、
「パトカーが来ます」
「パトカーだと?」
弁造はハンドルを握りなおした。
「久し振りに、パトカーとレースでもすべえか」
亜はびっくりしたように、その腕に取りすがった。
「何だ。恐えのか、面《つら》に似ず、胆っ玉が小さいじゃねえか」
「恐いことも恐いですが、後に戸塚先生の車がいます」
「……そうだ。それを忘れていた」
「忘れちゃ困ります。その上、赤城さんはお酒も飲んでいるでしょう」
「酒なら、お前が無理に飲ませたんだぞ」
「こりゃ驚いたな」
それでも、弁造はしぶしぶ車を傍に寄せ、パトカーに道を譲った。
「畜生、こういうときじゃなかったら、崖から蹴落《けお》としてやるのになあ」
トラックが止まった瞬間、後部にずしんという衝撃があった。
「先生、追突しやあがったかな」
と、弁造が言った。
「あの車のブレーキは、さっき迄《まで》、なんともなかったんですがねえ」
続けざまに、けたたましいクラクションが鳴り響き、トラックの横を、二台のパトロールカーが通り越して行った。たちまち、トラックは白い砂煙に包まれた。亜はむせながらドアの窓を閉める。クラクションは鳴り止まない。クラクションは戸塚の車だ。
「先生、大丈夫でしょうか」
「大丈夫さ。死んでしまえば、クラクションも鳴らねえさ」
「そりゃ、そうです」
砂埃《すなぼこり》が収まるのを待って、外に出てみる。
戸塚の車は、トラックの尻《しり》に潜り込んだような形で止まっていた。二人の姿を見ると、戸塚がドアを開けた。
「ブレーキも効かなくなったんですか?」
と、亜が訊《き》いた。
「いや、ブレーキはしっかりしているんだが、パトカーが突き飛ばして行ったんだ」
と、戸塚が答えた。
「その代わり、エンジンが掛かるようになりました」
「そいつは豪気《ごうぎ》だ」
弁造が見ていると、軽四輪はうんうん言っているうち、トラックの下から自力でバックした。車は鼻柱を折られたボクサーみたいな顔になっていたが、どうにか動くようだ。
「どうするね?」
と、弁造が訊《き》いた。
「お陰で一人歩きできるようです。――ところで、さっき山の真ん中に、白い球が見えたんですが、ありゃ何です?」
「あれが、さそりの殿様の要塞《ようさい》だそうです」
と、亜が教えた。
「そりゃ、ぜひ近くで見たいもんですねえ」
弁造は感心した。学者というものは、好奇心が強いらしい。運命が変っていれば、神楽坂光子も学者になっていたかも知れない。
「じゃあ、一足先に行くからな」
弁造はあわただしく山を登って行ったパトロールカーも気掛かりだった。
弁造がトラックに戻ったとき、又、車のエンジンの音が聞えた。これは、建設工事主任たちの車だった。
建設現場はかなり広い台地で、崖縁は展望台のようになっているが、すぐ前に隣の山がせり出していて、眺めはあまりいいとはいえない。
砂利や砂の山の間に、鑿岩機《さくがんき》やショベルカーが並んでいる。岩壁の鑿岩はやっと始められたばかりという感じだが、その前面に据《す》えられている球形のカプセルが異様だ。ちょうど、岩棚に産み落とされた、怪鳥の卵である。
「ううん……」
車から出た亜と戸塚は、感にたえぬように、カプセルを見ていたが、弁造は崖縁に停《と》められているパトロールカーにすぐ気付いた。警察が来たのは、この現場に何か用があるようだ。
弁造は前後して現場に着いた、稲田工事主任の傍に寄った。
「……何か、あったんですか?」
稲田は大きな目をぎょろりとさせた。
「うん。殿様がカプセルの中に入っちまったきり、出て来ねえというんだ」
「へへえ。そりゃ、いつです」
「明け方だというから、もう、三、四時間はたつだろう」
「殿様一人ですか?」
「そうらしい。場合によっちゃあ、カプセルのドアを叩《たた》き毀《こわ》さなきゃならなくなるかも知れねえ……」
稲田は顔をしかめた。
現在、カプセルの中はまだ内装されていない。換気孔もなければ電線の入る道もない、ただの丸い部屋なのである。長方形の扉がただ一つあるが、現在、固く閉ざされていて、よく見れば、やっとその筋が見えるだけだ。勿論《もちろん》、緊急の際の避難所として作られているから、扉は特殊な構造で、外からは開けることもできない。そんな場所に長く入っていれば、窒息してしまうだろう。
「殿様は何だって、カプセルになど入ったんでしょう」
「殿様の考えていることなど、判《わか》るものか。前から……の気《け》があったしな」
稲田は自分の頭の上で手を廻《まわ》して見せた。
稲田が言うまでもなく、もともと、こんな山腹に要塞《ようさい》を作ろうという考えからして、尋常ではない。その異常な血を受け継いだかに思える、一組の夫婦の姿が見える。
しばらく、物珍しそうにカプセルを眺めていた亜は、弁造と稲田の会話に耳を傾け、工事現場に集まった人たちを見渡し始めた。当然、その夫婦の姿に目を留めて、目をぱちくりさせた。弁造の傍に寄って、
「……警察の人が来ているのは判ります。パトカーが停《と》めてありますから。でも、パイロットとスチュワーデスがいるのは、近くに飛行機が着陸しているのでしょうか?」
けげんな顔で言う。
「この近くに、空港なんぞないね」
「でも、あすこに警察の人と話しているのは、パイロットとスチュワーデスじゃありませんか?」
その男はがっしりした身体に、紺のダブルの背広、袖には金の筋が見える。大きな記章を付けた帽子に手袋。女性の方はすらりとした均整のとれた身体で、ブランデー色のスーツに同色の船形の帽子、白い手袋。誰《だれ》が見てもパイロットとスチュワーデスといった服装だった。
「その気になりゃ、俺だってダブルの背広で車を運転することもできるんだ。ただ、俺にゃその趣味がないだけだ」
「……すると、あの人たちは、趣味であんな服を着ているんですか?」
「そうさ。さっきも、ちょっと話したろう。さそりの殿様の甥《おい》夫婦で、乗物気狂いさ。四谷新太郎と若菜という夫婦。だが、本物のパイロットにゃなりそこなった。勿論、さそりの殿様の大反対に遭《あ》ったからだ。それで、いつもあんな身形《みなり》をしているんだ」
「それにしても、夫婦でよく気が合います」
四谷夫婦は、何人かの警察官に向って、しきりに事情を説明しているようだ。一人の警察官が、工事主任の稲田に何か言っている。稲田は何人かの工事関係者の間を歩き廻《まわ》る。
一通りの説明が終ったようで、何人かの警察官が、四谷夫婦の傍を離れる。
四谷新太郎は、ほっとしたように、ポケットから煙草《たばこ》を取り出して、火を付けた。細い葉巻だった。マッチの燃え差しを草の中に捨てる。それを目で追っていたが、ふと身をかがめて、草の中に倒れているものを両手で起こした。
見ると、何種類かの動物の顔を彫刻した、一メートルばかりの柱のようなものだ。
「ほう、こんな山に、トーテムポールがありますね」
と、亜が言った。
「昨日、工事人の誰かが、いたずらで建てたものさ」
と、弁造が教えた。
「おまじないか、魔除けなんでしょうか」
「さあ、知らないね」
新太郎は柱を起こすと、手をはたき、何もなかったような顔をして、妻の方を向いた。
「カプセルに近寄らないでください」
一人の警察官が、カプセルの傍にいる弁造たちに言った。
「どうしたんですか?」
と、戸塚が訊《き》いた。警察官は戸塚と亜を見較べた。亜は警察官の視線を避けるように、戸塚の後に廻った。
「あなた方は、工事関係者ですか?」
「さそり関係者です」
と、戸塚が答えた。
「……カプセルのドアを破壊します。火薬を使いますので、傍にいては危険です。なるべく離れていて下さい」
弁造は稲田の傍に寄った。
「カプセルのドアを毀《こわ》すそうですね」
「仕方がねえ。このまんまじゃあ、殿様の生命が危くなるんだ」
「新太郎さんの話じゃあ、今朝方、普段あまり外に出たことのない殿様が、外を歩いているのを見付けた。すると、殿様はいきなり駈《か》け出して、このカプセルに飛び込み、ドアを閉めてしまったというんだ。ドアは内側の装置で押しても引いても開くはずがない。内部との連絡もできない。このままじゃ危険だというので、新太郎さんが警察に電話をしたんだ。何でも、最近の殿様は、自分の身に危険がせまっていると、警察に電話をしたこともあるそうだ」
「本当なら、洞穴を掘った後で、カプセルを作ることになっていたでしょう」
「そうだ。それが順序だからな。だが、殿様は、途中から、まずカプセルを作れと言い出した。カプセルは心臓部だ。最も大切なところは最初に作れと言う。避難建物の全てが完成しないうちに災害が起こるかも知れない。とりあえず、カプセルだけでも作っておけば、気が休まると考えていたんだ」
見ていると、カプセルのドアのわずかな隙間《すきま》に電気ドリルが差し込まれる。ドリルは凄《すご》いうなりをあげるが、とうていドアはびくともしない。
別の工事人が来て、やや拡《ひろ》がった隙間《すきま》に、細い棒のような物を差し込んだ。棒には導線がつながっている。
全員がカプセルを遠巻きにする。固唾《かたず》を呑《の》んで見ていると、
――どおん。
瞬間、煙が立ち昇って、ドアがめりっと歪《ゆが》んだようだ。
二、三人の工事人が駈《か》け付け、ドアの歪みにツルハシが差し込まれる。こうなると、堅牢《けんろう》なドアもたまらない。太い何本もの閂《かんぬき》のような棒が動かされ、ドアは外側に、ぐいと大きく開かれた。
待機していた警察官は、それぞれ懐中電燈を手にして、中の様子をうかがう。すぐ何人かがカプセルの中に入り、又、出て来る。入れ代わりにカメラを持った係官がカプセルの中に入る。外にいる警察官の動きもあわただしい。パトロールカーの無線の音が聞える。
見ると、亜が何気なく、新太郎夫妻の後に近寄っている。臆病《おくびよう》な割には好奇心が強いようだ。弁造も亜にならって、横歩きで二人の傍に寄った。
カプセルから出て来た警察官が新太郎夫妻に何か言っているのだ。
「……四谷乱筆氏は、カプセルの中で、すでに死亡していました」
「…………」
「死体の状況を見ますと、他殺の疑いがあります」
「他殺ですって? そんな馬鹿《ばか》な」
新太郎はびっくりしたように言った。
「前頭部に打撲傷があります。また、背中にも突き傷が認められます。この傷も自分で付けることは不可能なのです」
「じゃあ、カプセルの中には、叔父《おじ》を殺した人間がいるのですね?」
「いません。カプセルの中には、乱筆氏の死体だけが横になっていました……」
「ねえ、弁ちゃん。それからどうしたのさあ」
と、神楽坂光子が言った。
「どうもこうも、あるけえ」
弁造は水っぽくなった水割りを、ぐいと飲んだ。
「おい、お代わりだあ」
「判《わか》ったわよ。わたしも頂戴《ちようだい》していいかしら?」
「お前と俺の仲だあ。遠慮なんかするねえ。どんどん飲めえ」
「ご馳走《ちそう》さま。……ボーイさん、頼むわよ。それからどしたのさあ」
「北海|盆唄《ぼんうた》じゃねえや。それからどした、それからどしたとしつっこいぞ」
「昨夜《ゆうべ》は弁ちゃんだって、しつっこかった癖に――」
「判ったよ。――お陰で工事は中止だあ。殿様が死んじゃったんだから、まあ、当り前だ。それから、戸塚ってえ先生に道を教えて……」
「帰るところなんか、訊《き》いてないわよ」
「帰らねえで、どうするんだ」
「色色あるでしょう。現場検証で、誰それの指紋が見付かったとか、誰それのアリバイが怪しいとか……」
「そんなの、知るかい」
「じゃ、凶器は?」
「凶器?」
「殿様を殺した凶器よ。凶器の持ち主が割れれば、それが手掛りになる……あらご苦労さん。弁ちゃん、生きのいい水割りが来たわ。飲みながら思い出してよ。凶器はどうしたのさあ」
「……凶器は、なかった」
「なかった?」
「カプセルの中にゃ、殿様を刺した凶器などなかったんだ」
「隅隅よく探したの?」
「探さなくたって、カプセルの中は一目で見渡せるんだ。丸い部屋に隅なんかあるけえ。部屋ん中には、椅子《いす》一つ、塵《ちり》っ葉一つ落ちてやしなかったんだ」
「だって、殿様の背中には、刺された傷があったんでしょう?」
「あった。俺も殿様がカプセルの中から運び出されるとき、ちゃんと見たんだ。あまり血は出ていなかったが、服がぶっ裂けていたっけ。見たところ、あまり切れ味のいい刃物じゃなさそうだったな。俺の考えじゃあ、鉈《なた》か斧《おの》でやられたんだ。だが、背中の傷より、顔面の方が凄《すご》かったぞ」
「顔も鉈で切られたの?」
「いやあ、あれはぶっ叩《たた》かれた感じだな。犯人の手元が狂ったんだ。きっと、鉈の腹で撲《なぐ》られたんだ。刃先で傷にゃならなかったが、それで参っちゃったんだ。何しろ、殿様も年が年だからな」
「でも弁ちゃん、そりゃあ、変だわ」
「何が変だ」
「だって、カプセルには殿様一人だけで入っていたんでしょう」
「そうだ」
「殿様が入ってから、カプセルの扉は内から閂《かんぬき》でしっかりと閉められていて、警察が来るまでは開かなかった」
「そうだ。扉を開けるには、爆薬を使うしかなかった。大変だったぜ」
「カプセルには蟻《あり》一匹入り込む隙間《すきま》もない」
「蟻どころか、空気も入らない。それで大騒ぎになったんだ」
「じゃあ、殿様を殺した犯人は、どこから入ってどこから逃げて行ったのさあ」
「そこだ」
「きっと、秘密のドアがあったのね」
「違うな。警察ですっかりカプセルを調べたんだが、カプセルの出入口は完全に一つだった」
「そんな不思議な話はないでしょう。誰もカプセルに出入りすることができないのに、カプセルの中で殿様が死んでいた、なんてさあ」
「お前も警察とおんなじ考えだな。考えを飛躍させることができねえから、いつまでたっても解決しねえ」
「――どう考えを飛躍させるのよお?」
「いいかい。こりゃあ、殿様が人間に殺されたと思うから、辻褄《つじつま》が合わねえ」
「すると?」
「ものの祟《たた》りだ、と思ってみねえ」
「……じゃあ、殿様を殺したのは、幽霊?」
「そう考えりゃあ、すっきりするだろう」
「恐いわねえ……」
「あのさそりの殿様が産まれた家筋だ。昔どんな変り者がいて、人をひどい目に遭わせていたか知れねえじゃねえか。その怨《うら》みが、今になって現われたんだ。因果だなあ……」
「怖いわよ。弁ちゃん」
「震えてんのか」
「お尻《しり》がぎゅうと、すぼまってさあ。今夜独りじゃ寝られそうもないよう」
「この野郎。誘惑しようてのか」
「昨日誘惑したのは弁ちゃんだわ」
「……おい、どこへ行くんだ」
「おトイレよう」
「お前ぐれえ小便の近え女はいねえな」
「だって、弁ちゃんがあんまり恐い話をするもんだからさあ」
すぐ、光子は戻って来たが、一人ではなかった。弁造が見覚えのある、二人の男と一緒だった。
「この人たち、弁ちゃんを尋ねていたのよ。お知り合い?」
と、光子が訊《き》いた。
「やあ、戸塚先生。それに……アジアの亜さんもか。よく来たなあ」
「ここへ来れば、サソリのダンスが見られると戸塚先生に話したら、そりゃぜひ見たいと言うもんですから、一緒に来ました」
「そりゃあよく来たなあ。まあ、ここへ坐《すわ》れよ。おい光子、酒だあ」
「はあい。水割りでいい?」
戸塚と亜は席に着いたが、何か落ち着かない様子であたりをきょろきょろ眺めている。
「こちらは……昆虫学の先生。矢張りねえ。弁ちゃんのお知り合いは、大学の先生なんか多いのねえ。……それに、弁ちゃんよりずっと上品でいらっしゃるわ。それから、こちらの方。まあ、わたしとしたことが、お洩《も》らししそうになったりして……あなた、ハーフ? それとも、クォーター? だって、わたし今までこんなに素晴らしいお顔の方、見たことがありませんわ。そう、あれは確か、外国の俳優さんで、ええと……」
「本当にここでサソリのダンスが始まるんですか?」
と、亜が訊《き》いた。
「まあ――こちら、それがお目当てだったんですか? お顔に似合わず腎張《じんば》っていらっしゃること。……あら、もう始まりですわ」
ちょっと場内が暗くなった。中央のフロアに甘いスポットライトがつくと、思い入れたっぷりなサックスの音が響きだす。
ライトの中央に踊り出たのが、真っ赤なドレスを着た、豊満な女性で、音楽に合わせて、全身をたわませた。
「……どうも、違うようです」
呆《あ》っ気《け》に取られたように踊り子を見ていた亜が言った。
「違わねえよ。静かに見ていな」
と、弁造が言った。
戸塚も何か落ち着かないようで、尻《しり》をもじもじさせている。
踊り子はまんべんなく客席を見渡しながら、怪しい笑いをうかべていたが、すらりと赤いドレスを脱ぎ捨てた。下は黒いブラジャーとパンティだ。
「いいぞ、いいぞ」
と、弁造が怒鳴った。
踊り子はちょっと弁造の方を見たが、何を思ったのか、ゆっくりと歩み寄って、いたずらっぽい目で戸塚を見て、背を向けた。
「……ホックを、外してよ」
戸塚の顔が、真っ赤にふくらんだ。
「こいつあいいや。さあ先生、ブラジャーを外すんだ」
戸塚の指が震えている。
「じれってえな。手伝ってやろう」
「……助かります」
ブラジャーが外れると、玉のような乳房が転がり出した。
踊り子はフロアの中央に戻ると、パンティも取り去った。正面を向くと、前に黒黒としたものが見える。
「……さそりだ」
亜が唸《うな》った。
踊り子の肌にぴったりと吸い着いた黒いさそりは、二つの鋏《はさみ》をふり上げて、下腹部に挑みかかろうとしているようだ。踊りが段段と煽情的《せんじようてき》になる。
「どうだい、気に入っただろう」
弁造は自慢した。
「最後には、あのさそりも落っこちるんだぜ」
踊り子は客席の間を一巡している。身体の動きで、作り物のさそりは、生きて動いているように見える。
踊り子は再び弁造の席に近寄った。
「さあ、先生。さそりを生け捕りにするんだ」
と、弁造がわめいた。
「……でも、ママが……」
「ママだって?」
弁造はその言葉が戸塚の口から出たとはとうてい信じられなかった。
「まあ、可愛《かわい》いのね」
と、踊り子が笑った。
「そんなら、俺が……」
弁造が手を伸ばした。
「あんたは、いつも出しゃ張るわね」
「さあ、皆に見えるように、こっちへ向け」
「専門家に助言する気?」
踊り子は身体をひねると、弁造の肩を突いた。
もののはずみとはこれだろう。踊り子の力は決して強くはなかった。だが、弁造は中腰になっていた。酔いも手伝ったから、弁造の身体は床の上に横ざまにひっくり返った。
見ていた客が笑い出した。
「……この野郎。やりゃあがったな」
踊り子はもう軽やかにフロアの中央に戻っている。弁造はそれに向って突進した。
「ちょっと、お客さん――」
弁造の腕を取ったのは、タキシードを着た、目付きのよくない男だった。間の悪いことに、弁造の嫌いな種類の男だった。
「裸でデュエットでも、なさんで?」
「勿論《もちろん》だ」
「そんなら、楽屋の方からお出んなって下さい」
ぐいぐい腕に力を入れて、引き立てようとする。弁造はかあっとした。
「利《き》いた風なことを抜かしやあがって!」
弁造のアッパーカット。
これが実によくきまった。相手は宙を飛んで行くと、弁造のいた席の上でひっくり返った。テーブルのガラス器が、一斉に飛び散った。
同時にかん高い悲鳴が響き渡った。見ると近くの席にいたらしい、三角形の顔をした小柄な洋装の老婦人が立ち上っている。服の胸が水びたしだ。水割りをもろに浴びたらしい。
「――これを、どうしてくれるの!」
通り掛ったボーイにむしゃぶりつく。
「この、出しゃ張りめ」
弁造の後頭部が、ぐゎんといった。よろける足を踏みしめると、第二撃が打ち下ろされる。それは辛うじて避けた。踊り子の武器は椅子《いす》だった。
その椅子をもぎ取ると、踊り子は悲鳴をあげて逃げてゆくから、逃すものかと追い掛ける。
「警察だっ」
誰かが怒鳴った。
その瞬間だ。だーんとピストルをぶっ放した奴《やつ》がいる。
フロアにシャンデリアのガラスが降りそそぎ、全員、総立ちになった。
「ママ、助けて――」
戸塚の声がする。
亜はどうしたことか、神楽坂光子を背中にかばい、大勢のボーイたちを前にして、獅子奮迅《ししふんじん》の戦いだ。弁造は加勢に行きたいのだが、自分に恥をかかせた踊り子を先ずぎゅうと言わせたい。
とうとう、バーのカウンターの隅に踊り子を追い詰めた。
「助けて!」
悲鳴を聞いて、亜に掛かっていた何人かのボーイが駆けつける。
踊り子は、とっさにカウンターに置いてあった酒瓶《さかびん》を、逆手《さかて》に持って身構えた。
「そ、それは困るんです。別の瓶にして下さいよ」
カウンターの中にいるバーテンが、酒瓶を取り戻そうとする。よく見ると、それは酒ではなく、中にガラス細工の帆船が入っている、ボトルシップだ。
「それを作るのに、一年もかかったんだ」
だが、踊り子はそんなことには耳も貸さない。
「――近付くと、撲《なぐ》るわよ!」
そこへ、一団となって、亜たちがなだれ込んで来た。チャンスとばかり、弁造も踊り子におどり掛かる。
踊り子が酒瓶を振り下ろすのが見えた。弁造は体をかわしたが、その下には別の頭が見えた。
「ぎゃあ……」
その頭は亜のものだった。亜はしきりに首を振って、カウンターに両手を突いた。
「丈夫な頭ね」
踊り子は感心したように言った。踊り子が持っている瓶は割れなかったが、中に作られている、ガラス細工の帆船が粉粉だ。
亜はそれを見ると、白目を出してひっくり返った。
「ねえ、弁ちゃん。それからどしたのさあ」
と、神楽坂光子が言った。
「どうもこうも、あるけえ」
弁造は生ぬるくなったアイスコーヒーを、ぐいと飲んだ。
「お代わりする?」
と、光子が訊《き》いた。
「コーヒーは酔わねえからなあ。もう沢山だ。お前はもっと飲むか」
「わたしももういいわ。亜さんは?」
「僕も、これで十分です」
「それに、ちっとも冷えていないじゃない。この缶コーヒーは」
「済みません、いつも、こうなんです」
「何も、亜さんが謝ることなんかないわよ。このロビーだって、狭くって、暑くってさ」
「電気をけちってるんだな」
「全く、ホテルニューグランドサソリのサービスは悪いったらないわよ。さっきも小銭を両替えしてもらったんだけど、両替えが面倒なら、販売機など置くなって言いたいね」
「まあ、安いんだから、それも仕方がねえだろう」
「おや、弁ちゃんは一晩警察に泊められただけで、ずいぶん気弱になったわねえ」
「昨夜は気が昂《たか》ぶっていたから、ろくに寝ていねえんだ」
「僕は朝の食事には参りました」
「そうだろうなあ。だが、よく寝ていたようだぜ」
「僕は割合、どこででも寝られる方なんです」
「でも、光子は気が付いて、よく迎えにきてくれたなあ」
「弁ちゃんが気の毒でさあ」
「ついでに、アジアの亜さんの顔も見たくなったんだろう」
「そんなこと訊《き》いてないわよ。昨夜のことさあ。それからどしたのさあ」
「そう、それだった。何しろ戸塚先生の顔にさそりが貼《は》りついたんだから、こりゃ大笑いだった」
「それから後のことよう、わたしが訊いてるのは。ほら、警察が大勢やって来て、暴れている人は全部捕まって、踊り子は別な意味で捕まって、と思ったら、さそりの殿様を殺した犯人も捕まった、と聞いたわよ」
「ちょっと待てよ。色色なことが一度に起こったからなあ。それに、酔っていたしなあ。――さそりの殿様を殺したのは、幽霊じゃなかったのか?」
「違うわ。幽霊なら警察などに捕まるわけはないでしょう」
「……うん、そうだ。アジアの亜さんだ。確か、あんたが、警察の誰かに、殿様を殺した犯人を教えていたっけなあ」
「じゃあ、亜さんも殿様を殺した仲間なの?」
「いや……僕は殿様を殺したりはしませんよ。ただ、僕は警察に捕まるのは嫌ですから、警察の協力者であることを知らせたかっただけです。それで、たまたまさそりの殿様を殺した犯人が判《わか》りかけたときだったので、その意見を警察に言っただけです。そうすれば、僕が警察への反抗者でないことが判り、自由にしてくれると思ったわけです」
「でも、そんなことを言い出す人間は、いよいよ怪しいというので、亜さんも結局は捕まってしまったなあ」
「あれだけは、僕の誤算でした」
「そうすると、亜さんが、さそりの殿様を殺した犯人を当てたわけ?」
「ええ……まあ」
「まあ、素敵ねえ。いえ、言っちゃ悪いけど、あなたたちってさあ、第一印象は凄《すご》くいいんだけれど、よく付き合ってみると、昆虫の生態とストリップと間違えたり、何かとんちんかんなところがあったでしょう。だから、お頭《つむ》の方は、ちょっと、どうかな、と思っていたわけ。じゃあ、亜さんは警察にも判《わか》らないことを解決したのね」
「いや、解決の方は、今、警察がしているところです。僕はただ、事件の解き方に、ちょっとヒントを教えただけです」
「また、偉いわ。普通の人じゃ、なかなかそうは言えないものよ、男は何かっていうとすぐ自慢して、俺は名探偵だなどと威張り散らすのにねえ。亜さん、それからどしたのさあ」
「……別に、どうっていうことはないんですが、警察では僕の言葉から、殿様を殺した犯人の容疑者として、四谷新太郎夫妻を逮捕したそうです」
「犯人は幽霊なんかじゃなかったわけね」
「つまり、新太郎夫妻は、これ以上さそりの殿様にお金を使ってもらいたくなかったのでした」
「……なるほどなあ。戦争や災害が起きたとき、同じ避難するんだったら、あの人たちなら、飛行機かなんかで逃げ出す方だろうな。蠍山にヘリポートでも建設するのなら、賛成だったろう」
「実際、新太郎夫妻は、最初のうち、殿様が亡くなったときは、その避難所を改造する気でいたようですね。ところが、殿様の構想は日とともに大規模になっていったのです」
「そりゃ、亜さんの言う通りだなあ。あの工事費で、殿様の財産がなくなってしまうんじゃないかと、他人事《ひとごと》でなく心配する奴《やつ》もいたものなあ」
「カプセルが完成すれば、マシンガンや大砲なんかも具《そな》えるかも知れないって言っていた人もあるわ」
「だから、殿様を知っている奴は、あの建物を要塞《ようさい》と呼んでいるんだ」
「それでは、殿様の財産を襲《つ》ぐ新太郎夫妻は、大変に困ることになるでしょう。無論、話し合いはあったでしょうが、もともと、殿様はそれをもっともだと聞ける人じゃありません。逆に、新太郎夫妻は自分の財産を狙《ねら》っていると考え、新しい強迫感が起こったようです」
「工事の途中、殿様がカプセルの製作を急がせたのは、それが理由だったんだな」
「あのカプセルに逃げこんでしまえば、殿様は絶対に安全でしたものね。一方、新太郎夫妻は、殿様が自分たちのことを少しも考えてくれない。工事の規模は大きくなるばかりだ。このままだと、本当に四谷家の財産はなくなってしまうと思い、最後の手段として、殿様の殺害を本気で考えるようになりました」
「殿様はそれに気付かなかったの?」
「無論、気付いていたでしょうね。自分に対する迫害には、ひどく敏感な人ですから。そして、昨日の朝、四谷家で、どんないきさつがあったか、それは現在、警察で調べているところでしょうが、殿様は新太郎夫妻に、斧《おの》で背後から襲われたのです。殿様はいつでも夫妻を疑っていた、その行動を油断しなかったためか、その襲撃で命を落すことはありませんでした。殿様は命からがら逃げ出し、自分が一番安全な場所だと思っている、カプセルの中に入り、ドアをしっかりと閉めて、外から絶対に開かぬような装置を施してしまいました」
「でも、空気が通わないから、長くはいられないわけでしょう」
「そうです。でも、殿様はそれをちゃんと計算していました。カプセルの中でしばらく待っていれば、工事関係者が何人もやって来る。それまでじっとしていれば、生きていられるだけの空気はある、とです。工事関係者の集まる時間が来たところで、カプセルの扉を開けて外に出る。真逆《まさか》、新太郎夫妻は大勢の工事関係者がいる前で、自分を襲うことはできない。そして、今度は新太郎夫妻が自分を襲った証拠の傷もあり、警察に引き渡してしまうこともできるのです。カプセルの中にいた間、殿様は楽園にいるような気分で過したと思います」
「それじゃ、今度は新太郎夫妻の方が困ってしまったでしょうね」
「そうです。ここまで来てしまった以上、殿様を生かしておくわけにはゆきません。工事関係者が現場に来てしまえば、それまでですから、誰もいない間に、殿様の息を止めてしまわなければなりません。けれども、カプセルの扉を外から開けることはできない。これは新太郎夫妻も十分に知っています」
「新太郎夫妻は、結局、カプセルの扉を開けずに、中にいる殿様を殺すことができたのね」
「一つだけ、方法がありました」
「幽霊の力を借りたの?」
「違います」
「そんなら、どしたのさあ」
「――つまり、カプセルを一つの容器と考え、中に入っているものを毀《こわ》す方法を考えればよいのです」
弁造は思わず、あっ、と言った。
「……さそりのダンスの踊り子が、亜さんの頭をボトルシップでひっぱたいたとき、瓶は毀れず中のガラス細工が毀れてしまった、あれだ」
「そう。あの踊り子さんは僕の頭を丈夫だと言ってくれましたが、もう少しで、脳味噌《のうみそ》の方が駄目になるところでしたよ。――カプセルと殿様とを比べると、ちょうど、丈夫な瓶と毀れ易いガラス細工のようではありませんか。僕は中の毀れたボトルシップを見たとき、犯人が殿様を殺した方法が、同じ原理だと判《わか》ったのです」
「すると、そのとき殿様を殺したのが新太郎夫妻だということも、判ってしまったの? 亜さんが新太郎夫妻と出会ったのは、昨日が初めてなんでしょう?」
「僕が初めて新太郎夫妻を見たとき、新太郎さんはちょっと説明に苦しむようなことをしていました。それがボトルシップを見ると同時に、奇妙に思い出されて、僕の頭の中で結び付いたのでした」
「昨日の新太郎さんなら、俺だって見ている。だが、説明に苦しむような動作なんかには気付かなかったぞ。あの人は、いつもお気に入りのパイロットの服装で、警察に向って、しきりに事情を説明していただけだったじゃないか」
「その後で、草の中に倒れていた、トーテムポールを起こしました」
「倒れていたから起こしたんだ。不思議はないだろう。昨日、亜さんが俺の車を止めたとき、お地蔵さんに供えてあった団子の山が崩れているのを、直したじゃないか。あれと同じことさ。新太郎は柱が倒れていたから、起こしたんだ」
「いえ、それは違うんです。僕の場合、お腹を減らしたので、お供えの団子を食べたんじゃないかというような顔を赤城さんがしたので、神様のお供えには手を付けませんという意味から、あの団子の山をなおしたのです。決して、無意味な行動ではありませんでした。ところが、工事現場で新太郎さんが見せた行動には、そういった意味が全く感じられませんでした。工事人の誰かが、閑つぶしに作り出したトーテムポールが倒れているからといって、わざわざ自分の手を汚して建てなおす必要があるでしょうか。それも、さそりの殿様がカプセルの中に入ってしまい、警察の世話にならなければならないようなときに……」
「そう言やあ、少し、変だ」
「これにはきっと、新太郎さんにとって、トーテムポールが倒れていてはいけない、わけがあるに違いありません。けれども、それが何であるか、僕にはさっぱり判《わか》らないまま、記憶に残っていたようです」
「それを思い出したのね?」
「新太郎が柱を建てなおさなければならなかった意味も判ったんだな?」
「そうです。トーテムポールが倒れたということは、最近、トーテムポールが倒れるような自然現象が起こったと考えられます。例えば、昨夜のうち、大風が吹いたとか……」
「ここのところ、ずっと穏やかな日だったわ」
「地震があった、とか」
「昨日、地震なんかなかった」
「とすると、人工的なことが考えられますね。大きな物を落としたときの地響き……あのトーテムポールは粗末な作りでしたから、小さな地響きにも、すぐにひっくり返ってしまったでしょう。けれども、新太郎さんにとって、トーテムポールが倒れるような地響きがあったことを、誰にも知られたくなかったわけです」
「そう言やあ、柱を建てなおした後、新太郎は、知らん顔でもするように、かみさんに何か話しかけていたなあ」
「あの現場で、地響きがあったことを知られまいとして、新太郎さんがトーテムポールを建てなおした、と考えれば、カプセルの中のさそりの殿様を殺した方法も、すぐ判るじゃありませんか。奥さんはそのとき傍にいて協力したかも知れませんが、直接手を下したのは、自動車の専門家だった新太郎さんの方だったでしょう。新太郎さんは、現場に置いてあったクレーン車を動かし、中にいる殿様ごとカプセルを上空に吊《つ》り上げ、いきなり地上に落としたのでした。ちょうど、ボトルシップが、僕の頭に衝突した状態になるわけでしょう。従って、殿様の頭にあった打撲傷は、凶器で撲《なぐ》られたためにできたのではなく、吊《つ》り上げられたカプセルが地上に墜落したときできたものでした」
「――つまり、犯人はカプセルの扉を開けずに、中にいる殿様を殺すことができたのね」
「警察ではその考えに沿って、捜査を進めてゆくようです。その前に、新太郎夫妻は重要参考人として、警察に呼び出されたようです」
「素晴らしいわ。亜さん、きっと警察で感謝されたでしょう」
「ということはないのです。昔から専門家に助言すると、ろくなことはないのです」
「専門家といえば……戸塚先生の姿が見えないわね」
「先生はずっとさそりのダンスに夢中です」
「さすが、こんな事件のあった直後、研究を忘れないとは偉いな」
「いえ、先生が今夢中なのは、昨夜見たショウです。ですから彼女が昼間出演している〈スコーピオン劇場〉へ、お弁当を持って行きました」
第三話 歯痛《はいた》の思い出
……歯が痛む。
大の男が畳に転がって苦しむのが虫歯――どこかで聞いた文句だが、それを思い出す思考の統一ができぬほど、歯が痛む。
井伊|和行《かずゆき》は昨夜ほとんど寝ていられなかった。
日中の痛みは忙しさで紛れていたらしい。それが、晩酌の酔いの醒《さ》める頃《ころ》本格となり、床についてから全感覚を占領した。とろとろとすると、蟹《かに》料理を食べている夢を見ている。その蟹が急に口の中で暴れ出し、奥歯を突っ付くので、びっくりして目を覚ます。またとろとろとすると、今度は追い詰められて発砲した犯人の銃弾が、井伊の左頬《ひだりほお》に当たって、奥歯に突き刺さった。
あとは覚えていないが、寝つこうとしては痛みは悪夢となって、とうとう朝までまんじりともすることができなかった。へとへとで床を這《は》い出し、洗面所の鏡を見ると、顔中が腫《は》れぼったい上に、左顎《ひだりあご》がぽってりとふくらんでいる。触ると熱もあった。恐る恐る口を開く。大きく開ければ痛みはひどくなるので、そっと口を開けて、撫《な》でるように歯を磨いていると、輝里子《きりこ》が鏡の中を覗《のぞ》いた。
「あなた。いい加減になさいよ」
「う……」
喋《しやべ》るのも億劫《おつくう》だった。
「終いには顎《あご》まで腐ってしまいますよ。顎がなくなったら、どうなさるんです。首も吊《つ》れなくなりますわよ」
「判《わか》っている……」
誰が悪いのでもない。悪いのは自分なのだ。それは実によく判っている。
昨年の秋、石焼き芋を食べていたら、重く固い物が芋の中から出て来た。うっかりしてたら、噛《か》んでいたところだ。井伊はそれを舌で外に出した。
「気をつけないといけない。石焼きの石を食べそうになった」
石焼き芋の石にしては、不恰好《ぶかつこう》な、汚ならしい石だった。
「あら、嫌だ」
見ていた輝里子が言った。
「石じゃありませんわ。これ、あなたの歯よ」
「歯?」
手に取って見ると、もともと奥歯の窩洞《かとう》に詰められていた、アマルガムの充填歯《じゆうてんし》だということが判った。何かの加減で、取れてしまったのだ。そっと舌で探ってみると、奥歯の窩洞が判った。
井伊の背筋に、冷たいものが走った。このアマルガムを充填するまでの騒ぎを思い出したからだ。
十年も前のことだ。
身長一七三センチ、体重七五キロ。柔道四段。一升酒を飲んでも乱れたことがない。およそ、恐いもののない井伊だったが、弱点はあった。注射針と歯科のエアドリル。注射針は見ているだけで貧血を起こす。エアドリルは決定的にだめで、歯科医院の前を通り、今エアドリルがきいんと鳴っているなと思うだけで、脈搏《みやくはく》が早くなる。
その頃〈紫龍丸《しりゆうがん》〉という漢方の丸薬があり、どこで覚えたのか、その薬を虫歯の窩洞《かとう》に詰めておくという手を使っていた。口中がやたら苦くなる方法だったが、痛みの一時凌《いちじしの》ぎにはなった。
痛みが去れば虫歯のことを忘れ、痛み始めると紫龍丸を使う。それを繰り返していたが、最後にはそれも効かなくなった。紫龍丸を口の中へ頬張《ほおば》ってみたが、だめだった。
どうにもこうにも我慢がならなくなり、死んだ気になって、警察病院の歯科へ行った。
歯科医は四十代の働き盛りという感じの男だった。医師は歯の間に挟まっていた紫龍丸をピンセットでつまみ出して、首を傾《かし》げた。
「何ですか、こりゃ?」
「紫龍丸です。漢方の痛み止めです」
「ほう。紫龍丸が痛み止めになりますか」
家に戻ってから、丸薬の瓶に貼《は》ってあるラベルの小さな字を読んだ。紫龍丸は経行《けいこう》不順のための、婦人薬だった。
歯科医の薬はなるほど紫龍丸より効《き》き目があった。気を良くして歯科医通いをしているうち、何回めかに、いきなり円転しているドリルを虫歯に突っ込まれ、気を失った。
「あなた、何ですか。幼稚園の子でも我慢しますよ」
医師はうむを言わさず、井伊を治療台に縛りつけた。
「この機械は最新式のエアタービンなのです。毎分三十万回転の高速で、切削《せつさく》能率がとても勝れているのです」
機械の性能を説明されても同じだった。エアドリルが廻《まわ》ると井伊の目も廻った。気がついてみると、治療は済んでいた。
そんな思いで充填《じゆうてん》された歯なのだ。もう二度とあの思いを繰り返したくはなかった。
鏡に向って口を開けると、左の奥歯にぽっかりと穴が開いて、焼き芋のかすが残っていた。アマルガムの歯を戻してみる。多少がたがたするが、何とか物を噛《か》むことはできる。井伊はそうっとしておくことにした。
ある夜、油虫が口の中に入った夢を見た。驚いて目が覚め、口の中の物を吐き出してみると、充填歯だった。歯も段段ゆるんでくるらしい。
その年の忘年会だった。
酔って、かぼちゃを口一杯に頬張《ほおば》り、天井を向いてばか笑いしたのがよくなかった。かぼちゃを飲み下したとき、奥歯にすっと寒気を感じた。舌を動かしたが、その歯を探すことができなかった。井伊は蒼《あお》ざめたとみえ、同僚が心配した。だが、理由は説明しなかった。
「明日になれば、出てまいりますわよ」
と、輝里子が言った。
「そりゃあ出てくるだろう。胃袋の中に歯があっても、どうにもならん」
「自分の物を探すんですから、別にそれが悪いと言っているんじゃありませんわ。ただ、探していらっしゃるときの姿を想像すると、とても気の毒で」
「自分のことは、自分でする」
「綺麗《きれい》に洗い流せば、そりゃ元通りにはなるでしょう。最初は少し臭味が残るかも知れませんけれど」
「おれの災難が面白いのか」
「ですから、ねえ、悪いことは言わないわ。歯医者さんへいらっしゃい」
井伊はそのとき、歯も探さず、医者へも行かなかった。痛みがないのを幸いに、充填歯《じゆうてんし》のないままでいた。
それが一年近くたって、うずうず痛み始めたのだ。
来るべきものが来た、という感じだった。
「あの歯大工め」
井伊はいらいらして言った。
「すぐ駄目になるような歯を作りおって」
「でも、十年も保《も》ったんでしょう」
と、輝里子が言った。
「おれの剃刀《かみそり》は二十年以上保っている」
「剃刀の刃と一緒になりませんよ」
「紫龍丸はないか」
「そんな薬、今どきありません」
「う、う……」
「あら、ひどい汗。まるで鏡の前のがま蛙《がえる》だわ」
「――思い出した。がまの油売りの口上だった」
「何がです」
「大の男が畳に転がって苦しむのが虫歯……それから何だっけかな。そうそう。紙に練ってうろに詰め、口を結んでおくと、熱いよだれが出るとともに歯の痛みが去る――。おい、がまの油だ。がまの油を買って来い」
「寄席《よせ》にでも売っているんでしょうか?」
「人の話を真面目《まじめ》に聞いていないな。大体、お前と一緒になってから、歯が痛むようになった」
井伊は八つ当たりをした。
「わたしの、どこがいけないんでしょう」
「名前が気に入らない。亭主が歯痛で苦しんでいるのに、キリコとは何だ」
「……そんなことを言えば、捜査課の主任さんは、板谷《いたや》さんじゃありませんか。主任に文句を言えますか?」
その板谷警部は、出勤した井伊の顎《あご》を見て、気の毒そうな顔をしたが、顔の三分の一は笑っているように見えた。
「井伊さん、熱がありそうですね」
と、板谷が言った。
「……多少あります」
「病院へいらっしゃい」
「でも――仕事が」
「差し当たって、今すぐという仕事はないでしょう。それよりも、井伊さんが重体にでもなって、長く休まれる方が課としては困るわけです」
「しかし……」
「奥さんに電話をしてあげます。一人で病院へ行くのは心細いでしょうから」
板谷が本気で受話器を取りあげそうにしたので、井伊はあわてた。
「待ってください。歯医者ぐらい、一人で行けます」
警察病院の歯科の医師は、十年前と同じ男だった。十年前とは見違えるほど痩《や》せて、老け込んでいた。黒かった髪も、すっかり白く変わった。
医師は井伊の歯を診察して言った。
「ははあ……相当長く放っておきましたね。これはもう、駄目です」
「駄目、というと?」
「抜いて、入れ歯にするよりありませんね」
「抜く……のですか?」
「今は機械が良くなっていますから、簡単です。注射をして歯の根を二つに割り、一つずつ抜いてしまえば……おや、どうしました?」
井伊の目の前が白っぽくなった。貧血を起こしたらしい。
医師はカルテと井伊の口腔《こうこう》をしきりに見較《みくら》べていたが、
「やあ、あなたでしたか――」
感慨深そうに言った。
「実に、あなたのような方は、空前にして絶後でしたね。あのとき充填《じゆうてん》した歯はどうしました?」
「……なくなってしまいました」
「そりゃ、惜しいことをしましたねえ。あれは、芸術的な作品でした。あの頃は、わたしも若かった」
医師はマスクを外して、腕を組んだ。
「だが、今、わたしには十年前の体力がない。よろしい、こうしましょう。東欧医科歯科大学歯学部附属病院にわたしの後輩が大勢います。紹介状を書きますから、そこへ行って抜歯していらっしゃい。後の治療はここで続けます。とりあえず、化膿止《かのうど》めの薬をあげましょう」
一、二週間警察病院に通うと、腫《は》れと痛みはすっかりなくなった。最後の日、医師は紹介状を井伊に持たせた。
「電話しておきましたよ。十二月四日、十時。待っているそうです。外来患者の駐車場はありません。そのつもりで……」
その前日の夕方――十二月三日の五時頃、捜査課がちょっと忙しくなった。
高額な宝石類を多数所持している、宝石商が行方不明になったという事件が起こったのだ。宝石商は十二月二日に空港ホテルで一泊、三日十二時の飛行機でパリへ向うことになっていたが、三日の朝、ホテルから姿を消してしまった。パリへ同行することになっていた知人からの通報で、警察の職員がホテルの部屋を調べてみると、身の廻《まわ》りの品はそのままになっていたが、宝石類はどこからも発見されなかった。
更に、ルームサービスのコーヒーカップが二人前テーブルの上に置かれたままになっていて、底にわずかな飲み残しがあった。その一つから、睡眠薬が検出された。
宝石商は極めて几帳面《きちようめん》な人物で、約束の時間に遅れたことのない男だった。パリに同行することになっていた友人は、前の晩、ホテルに電話を入れて、宝石商が投宿したことを確かめている。そのときの相手は、大変元気で、今度の旅行を楽しみにしていたという。
事態はにわかに犯罪の臭《にお》いがしてきた。
宝石商は巨額な宝石とともに拉致《らち》され、最悪の場合、謀殺されているかも知れないのだ。
板谷警部が陣頭に立ち、忙しく職員に指令を与えていたが、井伊の顔を見て言った。
「井伊さんは、もう帰宅しなさい」
「なぜです?」
井伊は不服そうに言った。
「あなたは明日、抜歯することになっているんでしょう?」
「そうです……でも」
「さっき、奥さんから電話がありました。大事な前の日です。今晩はゆっくりと静養し、明日にそなえてください」
井伊は世の中の人間が、全部敵になってしまったか、と思った。
東欧医科歯科大学歯学部附属病院は二十階建ての、ホテルみたいに垢抜《あかぬ》けたビルだった。
地下鉄を降りると、人の流れがぞろぞろ病院の中へ吸い込まれてゆく。井伊にはそれが虫歯の行列のように見えた。建て物が病院離れしているのは有難かったが、一歩中に入ると病院独特の消毒の臭いがした。
一階の広いホールは患者でごった返している。老若男女、これが全員歯を病んでいると思うと、何だか落着いた気持になった。自分の虫歯など、何万分の一、ごくささいなものに思えてくるから、妙だ。
目立つところに、初診者のためのパネルが立てられてある。井伊は深呼吸してから、それを読んだ。どうやら、診療申込書に必要事項を記入し、初診受付の窓口に出さなければならないようだ。
ホールの中央に、立ち机があり、その上に申込書が載っている。机の囲《まわ》りは人で一杯だが、順を待つうち、一人の男が申込書を前にして、胸のポケットに手を入れ、顔をしかめ首をひねりながら机の前を離れてしまった。筆記用具なら、紐《ひも》の付いたボールペンが机の上にある。気がつかないのかなと思ったが、他人に注意してやる心の余裕はない。すぐ空いた場所に割り込み、申込書を一枚前に置く。
月日、氏名、住所、年齢、性別……
ペンを走らせていると、隣で声がした。どうやら、井伊に話し掛けているらしい。
「あ、あのう……ちょっと」
井伊は手を止めて、隣を見た。
「今日は……何日なのでしょうか?」
背の高い、若い男だった。黒っぽいコートを着て、きちんと結ばれたネクタイが襟元《えりもと》に見える。
「十二月四日です」
と、井伊は教えてやった。
「あ、有難うございます」
男は礼を言ってから、申込書に向い、まず日付を記入した。
二枚目の俳優を見るようないい顔立ちだった。井伊は自分のことを忘れ、この男が気の毒になった。病院の恐怖で、思考の集中ができないのだろう。
見ていると、男は日付を書いた後、しきりにペンを空書きしている。真逆《まさか》自分の名を思い出せないのではないだろうと思っていると、氏名の欄へ、亜愛一郎と書き入れた。続けて性別のところでまごつき、女の活字の上に丸を書こうとして思い止まり、二、三度またたきをしてから、男の上に丸をつけた。
隣の男が面白くっても、ぐずぐずしてはいられない。井伊は手帳の間から保険証を取り出し、申込書に保険証番号を書き入れて、机を離れた。
初診受付の窓口の方へ行こうとすると、一人の男に呼び止められた。
両目の位置がずれてついている。髪の毛はぼさぼさで、相当にくたびれたコートを着て、近づくと臭《にお》いそうな男だった。
「あなたは初診の方でしょう」
口を開くと前歯の半分近くが欠けている。残った歯の全部に金を冠《かぶ》せてあった。
「……そうですが」
「じゃあ、まだ間に合います。この病院にかかってはいけません」
「なぜです?」
「この病院で、ひどい目に遭ったんです。他の病院に行った方がよろしい」
「それは、個人の自由でしょう」
「あたしは忠告しているんですよ。この病院は技術が下手で診療費が高い。まるで泥棒と同じです。だから、止しなさいと言っているんです」
「……わたしは紹介状も持っています。他の病院へ行く気はありません」
「あなた達は全部、この病院の名に惑わされているのですよ。この病院にはろくな人間は一人もいない」
「そこを退《ど》いてください」
「――全く、お気の毒な人だ。ここの患者は身ぐるみはがされた上に……」
井伊はそれに構わず、男を押し退《の》けて、初診の受付の方へ歩を進めた。
「……ちょっと、そこのお母さん。あなたは初診でしょう」
金歯の男は誰彼《だれかれ》となく捕まえては話し掛けているようだ。
邪魔が入ったために診療申込書を窓口に出すのが遅くなった。井伊は申込書に警察病院の紹介状と保険証を添えて、窓口の受付箱の中へ入れた。亜愛一郎が来て、井伊の書類の上に自分の申込書と保険証を置いた。迷い迷い申込書に記入していた男と同時になって、何か損をしたような気持だった。そのすぐ後に、立ち机の前でポケットを探っていた男が来て、受付箱の中に申込書を入れた、三人の書類が受付嬢の手で、一緒に窓口の中に引き込まれた。
「お名前を呼ぶまで、しばらくお待ちください」
と、若い受付嬢が三人に言った。
井伊は受付を離れた。ポケットを探っていた男は、むずかしい顔をして、再びあちこちのポケットをひっくり返し始めた。それでも目的の品は見当らないようだ。
受付嬢は申込書と保険証を突き合わせ、新しいカルテを作っているようだ。毎日の仕事とはいえ、文字を書くペンの速度が、機械みたいに早い。その間にも、窓口には新しい申込書が次次と重ねられてゆく。
立ち机の向うに、さっきの金歯の男が、別の人間を捕まえて熱心に話していた。捕まっているのは、三角形の顔をした洋装の小柄な老婦人で、迷惑そうな顔で男を見上げている。
スピーカーがかちりと音を立てた。受付嬢がスイッチを入れた音だ。
「――亜さん、井伊さん、上岡菊《うえおかきく》けこ……? あら、失礼しました。亜さん、井伊さん、上岡菊彦さん、窓口へおいでください」
と、受付嬢が言った。
受付嬢は三人を確かめて、保険証を戻し、歯科診療録とある書類に料金カードを添えて差し出した。
「三人さん、それをお持ちになって、予診室へおいでください」
「予診室はどこでしょう?」
と、亜が訊《き》いた。
「左側エレベーターの奥、案内板があります、その矢印――」
受付嬢は亜の顔を見た。とたんに、言葉が遅くなった。窓口のガラスに顔を寄せるようにして、
「亜さん、とおっしゃいましたわね?」
「そうです」
「ほら、あすこにエレベーターが見えるでしょう。その左側を廻《まわ》って奥にいらっしゃってください。そう、売店の前をお通りになって。右側に薬局がございます。薬局を通り越すと、左側が予診室です。その窓口にこの書類をお出しになって、予診を受けてください。はい、お大事に……」
井伊は感心した。いい男は病院へ来ても得をする。お陰で井伊も案内板の前に立って考え込まずに済む。
その亜は丁寧に教えてもらったにもかかわらず、薬局の前でうろうろした。
「予診室はこっちですよ」
反対に井伊が教えることになった。余程方向音痴らしい。亜と井伊と上岡は同時にカルテを受付の書類入れに投げ込んだ。
予診室の前はホールほど混雑していなかったが、それでも三十人以上の患者が待たされていた。
廊下は広く、柿色《かきいろ》のリノリュームが敷かれて、中央に長椅子《ながいす》が並んでいた。井伊はその空いている場所に腰をおろし、煙草《たばこ》に火をつけた。
受付で上岡菊彦と呼ばれた男も、空いている椅子に腰を下ろして、両手を握ると、互い違いに動かしていた。痛さを堪えているのだろうか。しばらくして、上岡は煙草に火をつけた。ときどき左頬《ひだりほお》に手を当てて顔をしかめている。煙草が苦そうに見える。
予診室の前には、後から患者が詰めかけるが、回転も早い。受付嬢は一分おきぐらいにカルテの名を呼びあげる。三人の患者が、前後して予診室を出て来たとき、井伊はそろそろ自分の番かな、と思った。予想は当たった。
「亜さん、井伊さん、上岡菊けこ……? あら、失礼しました。亜さん、井伊さん、上岡菊彦さん、おはいりください」
と、予診室の受付嬢が言った。
上岡は灰皿で煙草の火を消すと、吸殻を自分のポケットに入れて立ち上がった。
亜は急いでコートを脱ごうとし、妙な工合に袖《そで》がからまって、一か所に止まって、ぐるぐる廻《まわ》りだした。
予診室には七、八人の医師と看護婦が働いていた。井伊のカルテを見ていた医師は、懐中電燈をつけて、ざっと井伊の口腔《こうこう》を見てから、紹介状を読んだ。そして、不思議そうに井伊の顔を見た。
「二日前から痛み始めました」
という声が聞こえた。隣で予診を受けている上岡だった。
「親知らずが変に生えたために、虫歯になったのですね」
これは、亜に説明している医師だ。
「ぬ、抜かなければなりませんか」
怯《おび》えているような亜の声が聞こえた。
「うん、なるほど」
井伊の紹介状を読んでいた医師が言った。紹介状の半分は横文字で、井伊が覗《のぞ》き込んでもさっぱり意味が判《わか》らない。
医師は紹介状を封筒に戻し、カルテにゴム印を押した。
「第二|口腔《こうくう》外科へ行ってください。三階です」
医師は紹介状とカルテを井伊に渡した。
「第二口腔外科へ――」
と、上岡の前にいる医師が言った。
「第二口腔外科へ――」
と、亜の前にいる医師が言った。
三人は前後して予診室を出た。エレベーターも一緒だった。ドアが閉まるとき、一人の男が飛び乗って来た。両目の位置がずれてついている金歯の男だった。男はエレベーターが動いている間中、独りでぶつぶつ言い続けていた。三階で、四人は一緒に降りた。
降りるとすぐ第二口腔外科の矢印が見えた。エレベーターの左側で、長い廊下の両側に長椅子《ながいす》が置かれ、びっしりと患者が詰まっている。腰を下ろす場所がなく、立ったままの患者も数え切れない。廊下の右側が第二口腔外科だった。その中ほどに受付が見えた。
カルテを置くとき、受付のガラス越しに中を覗《のぞ》くと、明るい窓に面して、蜿蜒《えんえん》と治療台が続いている。全ての台に患者がいて、白衣の医師が取りつき、その間をせわしく看護婦が行き交うのが見える。金属性の音、エアドリルの唸《うな》り声、病院というより、まるで何かの工場みたいな風景だった。
井伊はここで、かなり長い時間待たされた。あまり退屈なので、廊下の壁に張ってある「盗難にご注意ください」と書いてあるパネルを、十回も読んでしまった。
第二口腔外科の受付は、眼鏡を掛けた、痩《や》せて皺《しわ》の多い女性で、ときどき遠くを見る目が眼鏡越しになる。老眼鏡で遠くを見るのが億劫《おつくう》なせいか、あまり患者の方を見ない。従って亜の顔も見ない。だから、亜の順序がずっと前にされるという心配もなさそうだ。
受付の机の上には、ひっきりなしに書類が往復する。その度に患者がマイクで呼び出され、診療の廻転《かいてん》はかなり早そうだが、何しろ患者の数が多い。井伊は時間を気にせず、ただ待つことにした。
絶えず診療室に患者や医師や看護婦が出入りする。どこかで、子供の泣き叫ぶ声が聞こえる。
十分ほどすると、長椅子《ながいす》が空いた。井伊は空いた場所に腰を下ろし、煙草に火をつけた。
井伊の前には亜がきちんとコートを畳んで膝《ひざ》に乗せ、じっと坐《すわ》っている。動かないでいると、哲学者が瞑想《めいそう》に耽《ふけ》っているような趣きがある。さっき、コートと格闘していたのが同じ人物とは、とても思えない。
亜の隣に上岡がいて、しきりにハンカチで手を拭《ふ》いていた。癇性《かんしよう》なのか、なかなかその動作を止めない。年齢は三十前後、白く丸い顔で前歯の四本が変に大きく、兎《うさぎ》に似ていた。
上岡の隣に、小さな女の子と、その母親らしい二人が話している。母親の声がソプラノで、向い側にいる井伊のところまで聞こえてくる。
「キリコちゃん、あの字は何という字だったかしら?」
母親は壁に掛けられている盗難注意のパネルを指差した。文字の最後に、東欧医科歯科大学と記されている。母親の言っているのは、東欧の東の字のことらしい。
「……知らないわ」
キリコは母親によく似た声で言った。
「習っているはずよ。ほら、夏休みに伊豆のおばあちゃんのところへ行ったでしょう。そのとき、乗り換えた駅――」
教育熱心な母親らしい。病院で待たされている時間も無駄にしない気なのだ。キリコと呼ばれた女の子は、首を傾《かし》げ、椅子の上で身体を細かく動かした。
上岡はやっとハンカチをポケットに蔵《しま》い、ぶつぶつ口を動かしている。
「判《わか》ったわ、ママ」
と、キリコが言った。
「東京の東という字ね」
「よくできました。じゃあ、東の次の字。これはまだ習ってないでしょうから、ママが言いますと……」
そのとき、受付に風采《ふうさい》の上らない男が現われた。玄関のホールで誰彼となく話し掛けていた、金歯の男だった。受付には二、三人の患者がいたが、男はその人たちを押し退《の》けるようにして、何か掛け合いを始めた。
「先生はお留守です」
受付の女性はそっ気なく言った。
「留守なわけはない。さっき、一階で後ろ姿を見た」
受付の女性は相手にしない。それが判ると、男は大きな声を出した。
「それじゃあ、誰か代りの先生でいい。おれの金歯を返すように言ってくれ。この間、抜いた金歯を返してくれ」
「…………」
「金歯を抜いて、そのまま取ってしまうとはひどいじゃないか」
「…………」
「金歯を返せ」
「お静かに」
「泥棒、金を返せ」
廊下にいる患者が、皆受付を見た。
「おれの財産を返せ」
男はしばらくわめいていたが、そのうち、診療室から出て来た若い医師に腕を取られ、どこかへ連れて行かれてしまった。
「亜さん、井伊さん、上岡菊けこ……? あら、失礼しました。亜さん、井伊さん、上岡菊彦さんおはいりください」
と、受付の女性が言った。
井伊の担当は、年配でいかにも熟練者という感じの医師だった。三六番の診療台に案内し、井伊を坐《すわ》らせると、紹介状を読み、ざっと口腔《こうこう》を見た。
「レントゲンをとって来てください。レントゲン科は二階です」
医師は黄色いカードに何か書き入れ、井伊に渡した。何気なく担当者のサインを見ると、卯月《うづき》としてあった。
歯科レントゲン科の受付の前で、亜と上岡と落ち合った。三人は同時にカードを窓口に置いた。
レントゲン科の前で待っている患者は十人ぐらい。すぐ呼ばれそうだと思いながら、矢張り落着かない。井伊は煙草に火をつけた。
そこへ、金歯の男が現われた。
「先生はいません」
と、受付嬢が男の顔を見て言った。
「じゃあ、誰でもいいから証人になってくれ」
男は口を開けて、前歯を指差した。
「ここに金歯があったという証人になってくれ」
「覚えていないわ」
「じゃあ思い出すんだ」
男は胸のポケットから、くしゃくしゃになった診療券を取り出した。
「十月十一日だ。十時頃、このレントゲン科で写真を撮ったんだ。その写真におれの金歯が写っているはずだ」
「そんな古いこと、覚えていません」
「十月十日は体育の日で祭日だった。次の日のことを、朝から順ぐりに思い出していけばおれのことも思い出すはずだ」
「存じません」
「判《わか》った。お前もぐるなんだな。東欧医科歯科大は、皆がぐるになって、おれの金歯を盗ったんだ」
受付嬢は男を無視して、カードの名を呼んだ。
「亜さん、井伊さん、上岡菊けこ……? あら、失礼しました。亜さん、井伊さん、上岡菊彦さんおはいりください」
レントゲン科の中は、仕切りのある小さな部屋がいくつか並んでいて、ドアの前にスリッパが揃《そろ》えてあった。
「上履きとおはき替えください」
と、受付嬢が三人に言った。
亜がちょっと手間取った。かがんで靴の紐《ひも》を解かなければならなかったからだ。井伊と上岡も紐のある靴だったが、脱ぐのに解く必要はなかった。担当の技師が個室のドアを開けた。窓のない細長い部屋で、中央に機械があった。井伊が機械の前に腰を下ろすと、担当の技師は、小さな灰色の板を、井伊の口の中へぎゅうぎゅう押し込んだ。
げえげえという苦しそうな声が聞こえた。亜の声だった。隣の部屋で、同じことをされているに違いない。
技師は口の中へ板を装置して、部屋を出てドアを閉めた。機械がジイイと音を立てた。それで終わりだった。技師はドアを開けて部屋に戻り、井伊の口から灰色の板を取り出した。
「げえげえ……」
と、亜が隣の部屋で、まだじたばたしているようだ。
部屋を出ると、上岡も撮影を済ませたようで、靴をはき替えているところだった。
「あ痛……」
と、上岡が顔をしかめた。
「どうして、もっと早く来なかったんです」
と、受付嬢が言った。
「いや……別口です」
上岡は靴をひっくり返した。中から青い松葉が飛び出した。
「十分ほどで現像ができます。それまで外でお待ちください」
と、技師が言った。
外に出て廊下を見ると、もう金歯はいなかった。長椅子《ながいす》で一服つけたとき、亜もレントゲン科から出て来た。目が赤くなっている。赤い目なら上岡の方が似合う。ちょっと残念な気もする。亜を迫うように、レントゲン科から受付嬢が来た。片手に紙コップを持っている。それを亜に差し出した。
「お水を持って来ましたわ。苦しかったでしょう。お気の毒にね。お大事になさってくださいね」
「あ、有難う」
亜はコップを受取ると、ぺこりと頭を下げた。
上岡はそれを見て、コップを持って中のものを飲むふりをした。受付嬢はそれを見たようだが、何の反応も示さなかった。上岡はぶつぶつ言いながら、両手を握って動かした。
しばらくすると、受付嬢が窓口に現われた。
「亜さん――」
井伊は立ち上がった。
「亜さん、亜愛一郎さん」
と、受付嬢は亜の方を見て、にこにこして言った。亜は受付に近寄った。
「本当に長くお待たせしてしまいましたわ。写真が出来ました。これを持って、元の第二|口腔《こうくう》外科へいらっしゃってください。道、ご存じですね。そう……右のエレベーターを利用なさって――」
「お世話になりました」
受付嬢は亜がいなくなっても、しばらくはぼんやり後を見送っていた。
一番手間取った亜の写真が一番最初にできあがった理由が判《わか》っているので、文句は言えない。何分かして、やっと夢から覚めたような受付嬢は、
「井伊さん、上岡さん、はい、あがり」
と、写真を突き出した。
ネガは厚い台紙に貼《は》ってある。火事場の残骸《ざんがい》みたいな井伊の虫歯が、真ん中に写っていた。
写真を持って三階の第二口腔外科へ。
三六番の診療台。卯月医師はレントゲン写真を見ていたが、何人もの名前を続けて呼んだ。すぐ、白衣を着た、学生のように若い医師たちが集まった。
卯月医師は若い医師たちに何か言った。井伊にはドイツ語だか英語だか、まるで判《わか》らない。
卯月医師は診療台から、注射針を取り上げた。若い医師たちが、一斉に井伊を注目した。
あ、教材にされるんだな、と井伊は思った。
「気を楽にして、口を大きく開けて」
と、卯月医師が言った。
井伊は口を開けた。きらりと注射針が口に入ったな、と思った瞬間、井伊の意識はすうっと消えかかった。そのとき、
「震えるんじゃないぞ。折れ釘《くぎ》だと思って引っこ抜け……」
と、卯月が若い医師を叱咤《しつた》する声が聞こえた。
何だか、ひどい臭《にお》いがする。
苦いような、甘いような、ひりひりするような、今まで嗅《か》いだこともない臭いだった。
「トレミー実験薬……」
その声で、井伊は目を開けた。
見ると、鼻のすぐ下に瓶があって、その中の薬を嗅《か》がされていた。若い医師の一人が井伊の頭を押え、二人が両腕を押え、一人が足を押えていた。診療台を見ると、血だらけの歯が銀色の皿の上に転がっている。
「はい、終わりです」
と、卯月が言って、瓶に栓《せん》をした。若い医師たちは卯月に一礼するといなくなった。
「口をすすいでください」
唇が、痺《しび》れていて、うまく水が飲めない。すすいだ水は赤くなっていた。
卯月は井伊の奥歯にガーゼをくわえさせた。
「しっかり噛《か》んでいなさい」
井伊は言われた通りにした。
卯月はカルテと料金カードと別の白いカードに何か書き込んだ。
「治療はこれで全部終わりました。処方箋《しよほうせん》を持って薬局へ行き、薬をもらって、指示通りに服用してください。抜歯した後ですから、今日一日、入浴、過激の運動はしないように。お酒もいけません。以上です」
卯月はカード類を井伊に渡した。
「へんへい……」
と、井伊は言った。先生と言ったつもりだが、口にガーゼをくわえているので、こういう声になる。
「まだ、何か?」
「ころ、ガーレは?」
井伊はガーゼを指差した。
「二十分ほどしたら、取って捨ててしまってください。後、多少出血があっても、心配ありません」
「ありがろうごらいました」
井伊は立ち上った。時計を見たが、あまり進んでいない。気絶していたのは、ほんの二、三分だったようだ。
過激な運動をしないようにという注意が耳に残っている。そっと診療室を出ると、亜が立っていた。
亜は少し青ざめた顔で、井伊と同じように血が滲《にじ》んだガーゼをくわえさせられている。井伊の顔を見ると、
「やっ、やっ……」
と言った。
「やっこくは、ろこれしたか?」
他にちゃんと喋《しやべ》ることのできる患者が何人もいるのに、態態《わざわざ》井伊が出て来るのを待っていたらしい。多少、顔見知りになったからだろう。変に義理固い男だ。
「あならも、くるりを、もらうのれすね」
と、井伊は言った。
「そうれす」
「わらしも、おなりれす。いっしょに、いきまりょう」
傍にキリコと手をつないだ母親がいて、二人の会話を聞くと、子供にこうささやいた。
「早く虫歯を治さないと、あのおじさんたちみたいになってしまうんですよ。キリコちゃんも、あんなになっては困ってしまうでしょ?」
女の子は上目遣いに、井伊と亜を見比べた。
エレベーターで一階へ。
エレベーターの奥に薬局があって、予診室に行くとき通ったのに、亜はもう忘れているらしい。とすると、抜歯の衝撃がよほど強かったのだろうか。
薬局の前に出たとき、その人混みに井伊はうんざりした。治療を受けた外来患者のほとんどが、この薬局で薬を貰って帰るのだろうから、混雑は覚悟していたが、歯を抜かれた以上、一刻も早く帰りたかった。
「そうろう、まらられるみらいれすね」
と亜が言った。
「しからありません」
と井伊が言った。
とにかく、カードをまとめて、薬局の受付に置く。
反対に、予診室の前は人が少なくなっていた。井伊と亜は予診室の前の長椅子《ながいす》に腰を下ろした。薬局の受付にもマイクがあり、患者を呼ぶ声は離れていても、よく聞こえる。
一服したくとも、口にはガーゼを詰められている。井伊は二十分ほど喫煙をがまんしなければならなかった。
予診室の方へ、上岡が歩いて来た。ガーゼを噛《か》んでいないところを見ると、歯は抜かれなかったようだ。井伊の前の長椅子に腰を下ろし、靴の紐《ひも》を解いて、結び直した。
「やあ、とうとう抜かれましたね」
声がした。見上げると、金歯の男が立っていた。手に何か紙包みを下げている。
「抜かれたのは金歯でしたか?」
井伊は何も言わず、首を横に振り、口のガーゼを指差した。この男にあまり関わりたくなかった。
「注意しないといけません。この病院は、金歯を盗むんです。それで、屋台骨をこんなに大きくした……」
何人もが、金歯の男を見た。
「あなたも、抜かれましたね?」
今度は亜に言った。
「ぽくのはおやりらるれす」
と、律義に亜が答えた。
金歯の男はちょっとぽかんとし、それから、これでは話が通じないと思ったのか、空いている廊下の奥の長椅子の方に歩いて行った。金歯はそこに腰を下ろすと、持っていた紙包みを開けた。中は弁当だった。ホールの売店で買って来たらしい。
金歯は弁当を拡《ひろ》げると、今度はコートの内ポケットをごそごそ言わせていたが、ウイスキーの瓶を引っ張り出した。栓《せん》を捨ててウイスキーをラッパ飲みしながら、弁当を食べ始める。
井伊は時計を見た。十二時十分前になっていた。そう言えば腹が空いてきた。だが、口にはガーゼがある。唇もまだ痺《しび》れている。
上岡は何度も靴紐《くつひも》を締めなおし、やっと気に入ったのか、立って床を踏み、工合をみている。
抜歯してから二十分|経《た》ったので、井伊は口からガーゼを外し、屑箱《くずばこ》に放り込んだ。ガーゼの半面は赤くなっていた。
亜も井伊に見習い、ガーゼを外して、口をもぐもぐさせている。口の中がねばっているみたいだった。井伊は売店の横に飲水があったのを思い出して立ち上った。
口をすすぐと、すっかり出血は止まっているようだ。亜もそれを見ていて、井伊の後ろに並んだ。
長椅子《ながいす》に戻り、一服する。唇が痺れていて、うまく煙草が吸えない。口の中はまるで煙草を飲んでいる味がしない。
金歯の男はすっかりウイスキーの瓶を空にしてしまった。瓶を長椅子の下に放り込み、弁当箱の隅についている飯粒をほじくり出して口に運んでいる。
上岡は両手を変な風に動かしていた。ちょうど炭坑節でも踊っているような手つきだった。歯の痛みを忘れるため、踊りでも思い出しているのだろうか。
「亜さん、井伊さん、上岡菊けこ……? あら、失礼しました。亜さん、井伊さん、上岡菊彦さん、どうぞ」
と、スピーカーが言った。
井伊は薬局の窓口へ行き、大きな薬の袋を受け取った。看護婦はカルテと料金カードも窓口から差し出した。
「これを会計の窓口に出し、お支払いしてください」
井伊はまた待たされるのだな、と思った。会計はホールの受付の奥にあった。会計には五つほどの窓口が開いていて、そのどれにも長い行列ができていた。行列の長さはほぼ同じだったが、井伊はそのうちから、比較的短そうな列の後ろに立った。井伊の後ろに亜が並び、その後ろに上岡が立つと、この行列は一番長くなった。
「失礼な……」
遠くで女の声がした。続けて、
「おれが、何をした?」
という声も聞こえた。
ホールの人の動きが、妙に変わった。
声のする方を見ると、ホールの立ち机のあたりの人影が少なくなっていた。人人は何かを避けるように、立ち机を遠巻きにしているようだ。
その中央に、金歯の男がいた。
金歯の足がふらついた。顔がまだらに赤くなって、ふうふう口で息をしている。
「やい、医者め。出て来い」
と、金歯は怒鳴った。
「出て来て、おれの金歯を返せ――」
女性の悲鳴が聞こえた。金歯がその女性の方へよろけて行ったからだ。
行列の人たちは全部金歯を振り返った。
「正正堂堂と、出て来い。泥棒医者めが。おれの金を取って……」
金歯は立ち机に手を突いて、ふらつく身体を支えた。
「皆さん……」
金歯は演説口調になった。
「くれぐれも注意してください。この病院は泥棒病院なのであります。それが証拠には、わたくしのこの金歯、この金歯を抜いて、盗ってしまったのであります。その金歯は二十年前、高い金額をかけて、入れた歯なのであります。あのときはいい時代でした。商売も面白いほど儲《もう》かって、歯なんかにどんなに金をかけても平っちゃらだった。それが……畜生!」
金歯は立ち机に両手を掛けると、えいとばかりにひっくり返した。
ホールに大きな音が響き渡り、カードが散乱した。会計の行列が崩れた。
遠くでパトロールカーのサイレンが聞こえてきた。間もなく、玄関が大きく開き、制服の警察官がなだれ込んで来た。警官と違う制服は、入口の守衛らしい。
それを見ると、金歯は一層|猛《たけ》り狂ったようになった。
「やあ、卑怯者《ひきようもの》め。自分の盗みを棚へ上げ、警察を呼んだんだな。面白い。捕えられるものなら捕えてみろ。出る所へ出て……」
警察官に向って躍り掛かって行った。だが、金歯の動作は早くなかったし、足ももたついていた。傍に寄っていた守衛がそれよりも早く飛びついて、金歯を羽交《はが》い締めにしてしまった。
「やあ、その手を放せ。武士の情けだ。そこ放せ」
手足をばたつかせるが、守衛は無情だった。そのまま、ずるずると玄関に引きずり出そうとする。はずみで、守衛の胸のポケットに入っていたボールペンが飛び出し、床に落ちた。
「おれの金を返せ……」
その叫びが最後だった。金歯は玄関から運び出されてしまった。
コップの中の嵐みたいだった。ホールにいる人たちも、すぐ静まった。病院の係員が出て来て、立ち机を起こし、床に散ったカードやボールペンを拾い集めて、机の上に戻す作業にかかった。
井伊はほっとして会計の方を向いた。上岡がいて、両肱《りようひじ》を曲げ、羽交い締めをするような恰好《かつこう》をしていた。騒ぎを見ているうちに、自分でも力が入ってしまったようだ。亜は離れたところでうろうろしていたが、井伊を見ると、その後ろに立った。
会計の窓口の行列は元の形に戻ろうとしていた。井伊は自分がどこの列にいたか、ちょっと思い出せなかった。井伊が右の方に動くと、亜も一緒に右の方に動く。井伊が左に戻ると、亜もくっついて来る。ひどく人を頼りにする性格らしい。とにかく、列の最後の方には違いないのだから、いい加減に列を定めて、その後ろに並ぶことにした。亜の後ろには上岡が並んでいたはずだったが、その姿は見えなかった。結局、亜が列の最後になったが、不平そうな顔はしなかった。
「元通りに並ばなければいけませんよ」
どさくさに紛れて、前の方に割り込もうとした男が注意されている。見ると、上岡が前の列から出て来て、兎《うさぎ》のような顔をきょときょとさせて、亜の後ろに並びなおした。なぜか、亜は白目になっている。
支払いを済ませると、小さな診療券が渡された。
まずは一服し、ゆっくりと玄関の方へ歩を進めた。何だか、一仕事終えたような気持だった。全く虫歯がこう厄介なものだとは思ってもみなかった。
亜も支払いを済ませたようで、玄関へ向っている。だが、その歩き方が、何だか妙だった。
ずっと井伊の方を見ながら、井伊と即《つ》かず離れず、ある距離を置いて歩いている。
井伊は玄関を出た。明るい空には雲一つなかった。思わず足を止めると、亜も立ち止まって空を見上げている。
すると、玄関から上岡が出て来た。ひどくせかせかした足取りで、井伊と亜の間を通り抜け、どんどん地下鉄の方へ歩いて行く。
亜は目を丸くして上岡を見送っていた。そして、しきりに井伊と上岡を見較べている。上岡が人に混って見えなくなりそうになったとき、亜は我慢ならないといった様子で井伊の傍に寄って来た。
「上岡さん、見えなくなってしまいますよ」
と、亜は言った。
「何だね?」
井伊は亜の言う意味が判《わか》らなかった。
「上岡さんが……。ああ、とうとう見えなくなってしまった」
「あの人が、どうしたと言うんだね?」
亜は何だかがっかりした様子だった。
「失礼ですが、あなたは刑事さんなんでしょうね」
「……警察の、捜査課の者です」
「ははあ、それじゃ、今日はただの歯科の患者さんだったんですね」
「そうですが……」
「僕はてっきり、あなたは上岡さんを捕まえるためにこの病院に来たのかとばかり思っていました。でもいいでしょう。さようなら……」
どんどん歩きだす。この男は上岡の逮捕を期待していた? 井伊は聞き捨てができなかった。
「――よくはない。上岡さんが、どうしたと言うんだ」
井伊は過激な運動をしないようにという医師の注意も忘れて、亜の腕をつかんだ。
病院前の広場。
噴水の前のベンチに、井伊と亜は並んで腰を下ろしていた。風がなく陽差《ひざ》しが暖かだった。時計台の時計が十二時二十分を指していた。
「わたしが警察の職員なのが、よく判りましたね」
と、井伊が訊《き》いた。
「井伊さんは警察病院の封筒に入った紹介状を持っていましたよ。それに、健康保険証を、警察手帳の間から取り出していたじゃありませんか」
と、亜が答えた。
「なるほど……その調子で、上岡菊彦のことも観察していたわけだ」
「別に、意識して観察していたわけじゃありません。病院で待たされている間、じっとしていなければなりませんので、嫌でも色色の人の顔を覚えてしまうし、細かなところまで見えてしまうのです」
二人はゆっくりと話しあっていた。口の麻酔がまだ効いていて、舌がうまく動かないからだった。
「――そう言えば、わたしが病院に入ったのは十時。診察と治療の時間を全部合わせても、せいぜい十分間ぐらい。二時間以上もわたしたちは一緒に待たされていたわけだ」
「その間、することは何もなかったのです。他人の細かいところが見えてしまうのも、不思議はありません」
「だが、わたしには上岡菊彦という人物、ただ歯を病んでいる患者としか見えなかったが……」
「僕も最初は同じでした。最初、上岡さんと出会ったのが、ホールの受付でした。そのとき、上岡さんはしきりに下顎《したあご》を押え、むずかしい顔をしていたのです」
「わたしもたまたま同じとき受付で一緒だった。……そうだ。上岡は診療申込書を前にして、必要事項を記入しようとしていた。けれども申込書には何も書き入れなかった。胸のポケットに手を入れただけで、立ち机の前を離れてしまった」
「僕もそれを知っています。上岡さんは隣にいたのです」
「あれは、ポケットに入れてあったはずの筆記用具が見つからない、そういった態度だった」
「僕もそう思いました。それも、ポケットに入れたつもりのペンか何かを、家に置いて来てしまった、という動作ではありません。家に置いて来たことが判《わか》れば、すぐ諦《あきら》めて、服についているあちこちのポケットを探しまわるようなことはしないはずでしょう。上岡さんは全てのポケットを改めてから、仕方なく具《そな》えつけのボールペンで申込書に必要事項を記入し、初診受付の窓口へ提出しましたが、待たされている間、なおあちこちのポケットをひっくり返して諦める様子がない。ははあ、これは特別大事にしていた筆記用具なのだな、と思いました」
「そう。その程度だったら、わたしにも想像ができる。上岡菊彦のことで思い出せるのは、あと、念入りにハンカチで指を拭《ふ》いたり、靴の紐《ひも》を結び直したり、変な手つきをしたり――そのくらいかな」
「井伊さんは、その上岡さんの動作を、何とごらんになりましたか?」
「さあ……待たされている時間は長い。じっとしていれば歯の痛みだけしか考えられなくなる。あれは、痛みを紛らすため、何か考え事に集中している動作じゃないかと思っていた」
「そこが、僕の考えとは、ちょっと違います」
唇が乾くとみえ、亜は唇を舌でしめした。
「上岡さんがその後、予診室や口腔《こうくう》外科の前で見せた行動は、痛みを忘れようとするものでなく、忘れた物を思い出すための行動だったと思います」
「思い出すための?」
「そうです。上岡さんはポケットから紛失してしまった筆記用具がどこにあるか、必死で思い出そうとしていたのです」
亜は歯の痛みが戻ったように、そっと顎《あご》を撫《な》で、小さな声で話を続けた。
「井伊さんも経験者だから、よく判ると思います。歯痛ほど切ないものはありませんね」
「そう、一度痛みだしたら、世の中にあるものは痛みだけになってしまった。それが?」
「上岡さんも同じだったと思います。思考の集中ができるような状態ではなかったのです。けれども、上岡さんは紛失した物をどこで無くしたか、それを思い出さなければならなかったようです。歯痛という不利な条件にあるときですから、ちょっと大変な頭脳労働になります。人間は必死でものを思い出そうとするとき、ときどき奇妙な行動をすることがありますね」
井伊の頭に、口腔《こうくう》外科の前で母親と待っていた、キリコの顔が泛《うか》んだ。キリコは「東」の字を思い出すため、母親に指導されて、東京駅のホームを思い出していた。それには臨場感を出す必要がある。キリコは身体を細かく動かし、電車に乗っているような気分になって、東京駅に着き「東」の字を思い出したのだ。
「上岡もキリコちゃんと同じことをしていた、というのですね」
と、井伊は言った。
「レントゲン科の前では、金歯さんが同じことを言っていました。受付のお嬢さんに自分のことを思い出してもらうため、自分が来院した日が体育の日の次の日、十月十一日だったと教え、その日、朝から順ぐりに思い出すように頼んでいたでしょう」
「そうだった。その気になれば、金歯がその日、レントゲンを撮ったか撮らなかったか、彼女は思い出すことができたかも知れない」
「ところで、上岡さんが無くした品は、筆記用具でしょう。筆記用具は日常使う物ですから、紛失したとすれば、多分、前日か、まず一昨日。そう遠い日のことではなさそうです。上岡さんの様子では歯が痛み始めたのが、昨日か一昨日。遠い日ではないといっても、歯痛と紛失が重なったときで、記憶は薄らいでいるかも知れません。いずれにしろ、上岡さんはその日のことを細かく思い出し、紛失した品が、いつ、どこで無くなったか、一生懸命で思い出そうとしていたのです」
「ポケットの中を探し廻《まわ》っていた上岡が、その次にしたことは……両手を握って互い違いに動かしていた。確か、予診室の前だった。あれは痛みを堪えているように見えたが」
「僕の考えはちょっと違っていました。あの両手の動きは、自動車のハンドルを動かしている形と同じに見えたのです」
亜はハンドルを握る形をして見せた。それは上岡の動作と同じだった。
「上岡さんの一日は、車を運転して、どこかへ行くところから始まっている、そう思いました。そのときには、筆記用具を持っていた確信があるのでしょう。それが無くなるのは、これから先です」
「口腔《こうくう》外科の前では……ハンカチで手を拭《ふ》き始めた。手洗いにでも行ったのだろうか?」
「それにしては、ずいぶん長いこと手を拭いていましたね。それが終わると、ぶつぶつ口を動かし始めました」
「誰かと話をしているのかね?」
「僕もそう思いました。けれども内容は全然|判《わか》りません」
「次はレントゲン科の前だった。上岡はコップの中のものを飲むふりをした――」
「誰かと話しながら、お茶でも飲んだのじゃありませんか?」
「それから、またあの動作だ。自動車を運転しながら、ぶつぶつ言いだした」
「今度は、誰かと一緒に車に乗ったわけです」
「それから、上岡はできあがったレントゲン写真を元の口腔外科に持って行く。口腔外科で上岡がどんな治療を受けたかは判らない」
「抜歯されなかったことだけは確かです」
「それから……」
井伊は無意識のうちにベンチに浅く腰掛け、やや上体を反らせて、口を開いていた。治療されているところを思い出していたのだ。それに気づき、井伊は苦笑しながら、普通の姿勢になった。
「今度は薬局の前でした」
と、亜が言った。
「もっとも、薬局の前は混んでいましたので、正しくは予診室の前。上岡さんは椅子《いす》に腰を下ろすと、すぐ靴の紐《ひも》を結び直しました」
「どこか、訪問でもして靴をぬいだのかな」
「それが変なのです。レントゲン室で上履きと替えたときでした。僕の靴は紐を解かないと脱げませんでしたが、井伊さんと上岡さんは紐を解かないでも靴を脱いでいましたね」
「すると……」
「上岡さんが靴の紐を結び直したのは、どこかの家に上ったためではなくって、こごんで何かを結んでいた動作を再現したのだと思います。たまたま紐の用意がなかったので、靴の紐で代用したのでしょう」
「靴紐の次が炭坑節だった」
「炭坑節?」
「ほら、踊りのような手つきで両手を動かしていた。君はあの動作が、何に見えた?」
「……そう。よく考えると、炭坑節がぴったりです」
「そうして、最後が会計の前。上岡は誰かを羽交い締めする恰好《かつこう》をしていた。そのときの上岡は、目の前の騒ぎを見ているうち、つい自分でも力が入ってしまったのではなく、それも思い出すための行動だったのかね?」
井伊は知らぬうちに、亜の思考と同じ歩調になっていた。
「そうです。その証拠に、上岡さんはとうとう最後には、自分の筆記用具がどこで無くなったのか、思い出すことができました。それまで大人しく順番を待っていた上岡さんの態度が一変してしまったでしょう。思い出したからには、一刻も早くその品を自分の手に戻さなければならなくなったのです。上岡さんは会計の列の前に割り込むほど、あせり始めたのです」
「守衛が金歯を羽交い締めにしたとき、守衛の胸ポケットに入っていたボールペンが飛び出してしまった。それも、思い出すためのヒントになったのだろう」
「そうです。上岡さんも、その日、誰かを羽交い締めにしたのです。そのとき、自分の筆記用具がポケットから飛び出してしまった。その日の自分の行動を色色思い出しながら、筆記用具が無くなったのは、そのときしか考えられない、という結論に至ったのです」
「上岡は誰を羽交い締めにしたのだろう。重い物を抱えるような形でもあった」
「その日、上岡さんと会っていた人物が、重い物になってしまったのかも知れませんね」
亜がさらりと言ったので、その言葉は井伊の耳を軽く通り過ぎようとした。
「何?」
井伊は思わず大声を出した。
「上岡さんは、その人物を重い物にしてしまうため、首を紐《ひも》でしっかりと結んだのではないでしょうか……」
「き、君は一体、どんなことを考えていたんだ?」
「上岡さんの奇妙な行動を、僕なりに解釈すると、こうなります」
亜はもぞもぞとポケットから煙草の袋を取り出し、よれよれになった一本を引き出して口にくわえた。まだ唇が痺《しび》れているので、うまくくわえられない。井伊はその煙草に火をつけてやった。
「その日、上岡さんは車を運転し、誰かと会ったのです。靴を脱ぐ動作をしなかったので、洋間の家かと考えられます。上岡さんはそこで茶などを飲んで、ちょっと話し合います。そして、指紋を残さぬように、自分の触れた品をハンカチで拭《ふ》き、煙草の吸い殻《がら》まで自分のポケットに入れます。これは相手がトイレなどに立った隙《すき》に行なわれたでしょうね」
「そこは、どこだ?」
「第三者の目につかぬようなところ。目撃者がいれば指紋だけ消しても無意味ですから。相手が一人だけでいる家か、ホテル――」
「ホテル……」
井伊は唸《うな》った。
「今度、上岡さんが車を運転するときは、多分、その人物と一緒です。次に上岡さんはその人物を重い物にするため、紐《ひも》で結びます。……待って下さいよ。上岡さんはかがんで紐を締めていましたねえ。すると、相手の首は地に近いところになければなりません。……ははあ、その人は茶などを飲んだとき、一服盛られたのですね。その薬が効いてきたため、立ってはいられなくなった……」
「それを、後ろから抱きかかえたのだな」
井伊の指が熱くなった。煙草が指元にまで燃えてきたのに気づかなかった。
「車が入れぬようなところだったのでしょうね。上岡さんはそこで筆記用具を落としてしまったのですが、そのときには全く気づかなかった。それから穴を掘って、重い物を埋めたというわけです。炭坑節の踊りのような手の動きは、そのときのことを思い出すため、臨場感を出すための、埋葬行動の再現だったのです」
「被害者は、一体、誰だ?」
「そこまでは判《わか》りません。ただ、犯行は上岡さんの歯痛の最中だったことが、重要に思えます。大きなことを決行するとき、歯痛という不利な条件にあって、なお果さなければならなかった。指紋を消し去り吸っていた煙草の吸殻まで自分のポケットに入れて、その場に残さないという行動を考えますと、かなり計画的ですね。ならば、なぜ歯痛が治まるのを待てなかったか。つまり、計画は日延べを許されなかった理由があるのでしょう。それは、日が替れば、被害者が遠くに行ってしまい、自分の手が届かなくなるからではないでしょうか」
井伊は唇を噛《か》んだが、痛くも何ともなかった。
「もっと早く知っていれば……」
「というようなことを考えながら、治療の順番を待っていると、上岡さんの傍にいつも警察の人がいるじゃありませんか。これはてっきり、あなたが上岡さんを逮捕に来たのだなと思ったのです。ところが、パトカーでおまわりさんが来ても、金歯さんだけが捕まって、上岡さんはどこかへ行ってしまいました。あなたはただの治療だけに病院へ来たようです。でも、安心でしょう。上岡さんはまだ歯の治療中です。いつかはまたこの病院へ来ます」
「じゃ、遅いな」
「カルテを調べたらどうです。保険を使っていれば、本当の住所が判ります」
「…………」
「もっと早い方法は――」
「それは?」
井伊は身体を乗り出した。
亜はポケットから丸められたちり紙を取り出した。広げると小さな松の葉が入っていた。
「レントゲン室を出るとき拾ったのです。井伊さん、これを落した覚えはありませんか?」
「わたしじゃない」
「部屋に入るときはなかったのです。とすると、上岡さんの靴の中からでも出たのでしょう。よく見て下さい。普通の松とは違い、葉が三針ついているでしょう。これは大変に珍しい松で、三鈷《さんこ》の松と呼ばれています……」
井伊は猟師になったような気分だった。自分の目の前に兎《うさぎ》が飛んで来て、木の根に突き当たって、ひっくり返る――。
調べると、植物学者は何本もの三鈷の松を教えてくれた。そのうちの一本が、府館線の双宿《もろじゆく》からバスで三十分入った、糸香《しか》神社の森にあり、管轄署の職員が捜索したところ、松の近くに新しく掘り起こされたような跡を見つけた。夜、警察官が張り込んでいると、車を乗り着け、森に入って来た男が、松の近くにある穴の跡を掘り返そうとした。逮捕するとそれが上岡菊彦で、その場で検証が行なわれたが、穴の跡から屍体《したい》と一緒に上岡の名が入っている万年筆が発見され、それが後の証拠品となった。
第四話 双頭の蛸《たこ》
事の起こりは一枚の葉書であった。
「週刊人間」編集部に廻《まわ》されて来たその葉書は、多くの書簡の中に埋れて、危く私の目を逃がれ、済の段ボウル箱に投げ込まれてしまうところであった。だが、僥倖《ぎようこう》にも私はその一葉を手にしたのである。それは、全くの偶然であった。もし、それがダイレクトメイルなどと一緒だったら、私は一瞥《いちべつ》だにしなかったであろう。
私の関心は最初から歌手、中里ララの結婚披露招待状の方にあった。何かの加減で、葉書はその裏に貼《は》り付いていたのだ。私は邪魔な葉書にちょっと舌打ちをしながら、招待状の封を開け、中に目を通した。結婚式の日時を手帖《てちよう》に写し取った後、問題の葉書が机の上に残った。
私は何気なく宛書《あてがき》を見た。鉛筆の幼い文字が並んでいた。漢字はたどたどしかったが、正確な字画に好感が持てた。私は手本を見ながら一心に文字を書いている小学生の姿を思い泛《うか》べた。差出人は北海道|釧路《くしろ》に住む、小学校五年の少年である。以下、この少年をM君と呼ぶことにする。M少年の文面は次の通りである。
ぼくがきのう体けんしたことを知らせようと思います。ぼくがよく釣をしにゆく湖があります。霧昇湖《むしようこ》という名まえで、道がふべんなせいで、いつもしずかです。きのうも釣をしていると、ごご四時ごろ、とつぜん湖のまん中から大きなタコが首を出しました。大きな頭が二つあって、一本の足はウシのどうまわりもありました。ぼくはびっくりしてにげました。うちの人や友だちにはなしましたが、だれもしんようしてくれませんので、週刊人間のおじさんにこのことを書きました。週刊人間に出そうと思ったのはせん週、コニマラ湖のかいじゅうのきじをよんだからです。ぼくのいうことはほんとうです。ではさよなら
これが全文である。
一読して私は思わず唸《うな》り声をあげたものだ。文章は単純だが、自分の体験した驚異を上手に表現し得ないもどかしさが感じられるではないか。M少年が見た物は、恐らく、極めて怪異な生物であり、最も驚くべき現象だったに違いない。だからこそ、誰《だれ》も少年の言うことを信じなかったのであろう。
私は一読するや、これはきっと真実だと思った。「ぼくのいうことはほんとうです」と書くとき、少年は真実を認めてもらいたさに、叫ぶような気持だったろう。私はこの言葉を繰り返し読んでいるうちに、胸の高鳴るのを知った。
週刊人間の特集記事に、コニマラ湖の怪獣のことを書いたのは、実はこの私であった。
コニマラ湖はアイルランドの西部にある延長わずか八百メートルにすぎない湖だが、昔から怪物が棲息《せいそく》するという噂《うわさ》が絶えたことがなかった。何度も探検隊が組織され、湖が調査されたが、最近、巨大生物の棲息を証明する写真が発表されたのである。それに関してはここでは繰り返さないが、湖が小さいという理由でこのような怪獣の存在を否定する学者が少なくなかったコニマラ湖にも、不思議な生物が発見されたのである。同じような湖の伝説や奇聞は、世界中で至るところに存在する。
霧昇湖でM少年が見たという双頭の蛸《たこ》もその一つなのだ。私はM少年の住所を手帖《てちよう》に書き写しながら、気負い立つ心を静めるのに骨を折った。
私は急いで資料室で地図を見た。少年の住むのは阿寒国立公園の西のはずれである。だが、その地図には霧昇湖の名は見出せなかった。地図にもない湖というのがかえって私の夢をそそった。私は心の中で繰り返した。実証のないものは何事も信じない。また、証明されていない何事をも否定しない。それが、私の主義なのである。
私はその日のうち、M少年に会うことに決め、東京を発った。
ここまで書いたところで、亀沢均はペンを置き、煙草《たばこ》に火をつけた。
読み返してみると、固くて、古めかしい文章だったが、書き直す気はなかった。ちょうど、古典を読み返しているときなので、その影響が文章になって現われたようだ。
普通なら黄戸編集長が書き直しを命じるだろうが、今、その閑《ひま》はないのだ。今夜中に印刷所へ電話入稿しなければ特ダネではなくなってしまう。印刷所は今頃《いまごろ》、記事の組み替えで大童《おおわらわ》のはずだ。ページに大きなスペースが開けられ、そこに亀沢の原稿がぽんと収まる。悪い気分ではない。黄戸だってどうこう言うことはできないのだ。
その黄戸は、最初この取材に反対だった。
「蛸《たこ》の争闘というと、蛸同士の喧嘩《けんか》なのか?」
と、黄戸は言った。
「喧嘩じゃありません。双頭というのは、二つの頭ということです」
「ふうん。昔、シャム双生児というのがいたな。すると、シャム蛸か」
「まあ、そうでしょう」
「足は何本ある?」
「手足のことまで判《わか》りません。でも、頭だけでも目撃しているということは、素晴らしいでしょう」
「だが、目撃者はその子供一人なんだろう」
「編集長、この葉書をよく読んでごらんなさい。真実の叫びが聞こえるようじゃありませんか」
「俺《おれ》には法螺貝《ほらがい》の音に聞こえるがね。大体、地図にもないような小さい湖に、そんな生物がいるとは思えない」
「相手は蛸ですよ。自分の足を食ってでも生きています」
「春になれば、新芽が出ると言いたいのか」
「取材費が出なければ、自費ででも釧路へ行きます」
「お前まで、口を尖《とが》らせることはないだろう」
黄戸はせかせかと煙草を吸い、灰皿の中に突っ込んだ。
「この前、UFO少年に掻《か》き廻《まわ》されたことがあったろう。この鈴木正麻呂という子もその口だと思うな」
「もし、大蛸が見付からなかったら、北海道の蛸焼きをお土産に持って来ます」
亀沢は意地になって言った。
「それまでに日本の怪獣特集を組む計画をしておいてくださいよ」
九月の釧路は足早に秋が過ぎようとしていた。亀沢は空港から、すぐタクシーを拾い、市の郊外に走らせた。
寄呂《よろ》という町に、亀沢の友達が住んでいたのだ。東京の大学を出てから、しばらく出版関係の仕事をしていた男だが、二年前、故郷の寄呂に帰ってしまった。失恋がその原因だという噂《うわさ》があった。几帳面《きちようめん》な性格を考えると、その噂はある程度当たっているのだろうが、亀沢は精《くわ》しいことを知らなかった。つまり、ちょっとした飲み友達だった。
電話で釧路に行くことを知らせて置いたので、小村井晋一は寄呂駅で待っていてくれた。小村井は東京にいたときより、陽灼《ひや》けして細くなっていた。亀沢は早速、鈴木正麻呂少年のことを話した。
「相変らず旺盛《おうせい》な好奇心だ」
小村井は笑った。
「だが、羨《うらや》ましいと思うよ。俺もここに帰って来てから、段段自分のことが見えるようになった。これからは自分の思う道を進もうと思う」
小村井は牧場を経営することが夢で、釧路を広く歩いていると言った。ただ、正麻呂の葉書の住所を見ると、ちょっと首を傾《かし》げた。
「留尻《るじり》というところは、この寄呂から四時間はかかる。霧昇湖は留尻から距離としてそう遠くはないんだが、何しろ原生林の中にあるから、車が入れるようなところじゃない。日帰りは無理だと思うよ」
「野宿になるかね」
「いや、留尻駅の近くに、小学校の分校があるから、野宿ということはないがね」
「住所からすると正麻呂が通っている学校かも知れない。じゃ、その学校に寄って、話を聞いてから湖へ行くことにしよう」
「俺もそのつもりだった」
実直な小村井は大きなリュックサックを背負っていた。亀沢の小さな鞄《かばん》にはカメラと原稿用紙が入っているだけだった。
寄呂駅から留尻まで。
黄戸編集長には話のゆきがかり上、ああ言ってしまったものの、亀沢は百パーセント鈴木正麻呂を信じていたわけではなかった。むしろ真偽は五分五分という感じだったが、単線の電車で山間を揺られて行くうち、奥深い谷間に原始を感じるようになると、亀沢の気持は双頭の大蛸《おおだこ》の存在が、あり得るという方に傾いていった。
留尻は無人駅だった。小村井が地図を拡げ、分校を探しだした。
分校は雑木林の奥だった。林を通る風は冷たかったが、陽差《ひざ》しはまだ強く、足を急がせると汗ばむほどだ。
雑木林がやや開け、小さな建物が見え始めたときだ。
飛んで来た何かが、小村井のリュックサックに当たって、ぱしっと小さな穴を開けた。続けて何発かの鋭い炸裂音《さくれつおん》が静かな空気を引き破った。
亀沢と小村井は、顔色を変えて地面に伏した。
「銃じゃないか」
遠くを窺《うかが》うと、子供達の喚声《かんせい》が聞こえる。何人もが悲鳴をあげながら、駈《か》け廻《まわ》っているようだ。
大人の声がそれに混ると、子供達の騒ぎは段段静かになる。亀沢と小村井は、騒ぎが収まっても、すぐには立ち上がれなかった。
校舎は木造の平屋で、ところどころ白いペンキが剥《は》げていた。狭い校庭に山羊《やぎ》と兎《うさぎ》の小舎《こや》が見える。十五人ばかりの生徒達は一列に並ばされ、先生らしい中年の男が順番に生徒を校舎に追い立て始めた。
生徒の全員が校舎に入ると、男は亀沢達を見た。手に黒光りのする拳銃《けんじゆう》が見えた。
「この学校では授業に銃を使うんですか」
亀沢は遠くに立ったまま訊《き》いた。
「――とんでもありません」
男は拳銃をポケットに押し込んだ。くたびれている背広が重そうに傾いた。亀沢と小村井はほっとして、男に近寄った。
「ちょっとした油断があったのです。あの子には充分注意していたはずでしたが」
「一体、何があったんですか」
と、小村井が言った。
「私の部屋から拳銃を盗んだ生徒がいたのです。真逆《まさか》、発砲するとは思いませんでした」
男はまだ完全には落着きを取り戻していないようだった。
「もう少しで命を失うところでしたよ。これをご覧なさい」
小村井はリュックサックの穴を見せた。男はすっかり恐縮してしまった。くどいほど詫《わ》びた後、このことは表立てないようにと二人に頼んだ。
「私はいつもあの子のことを考えているのです」
「問題児なのですね」
「確かに、そう言えるでしょう。でも、私はその子を正す自信があります」
男はそれが生甲斐《いきがい》のようだった。
「……それにしても、学校の中に拳銃《けんじゆう》が備えてあるとは思いませんでしたよ」
と、亀沢が言った。男は困ったような顔になって、
「私も、こんなものは好きではありません。けれども、仕方なく傍に置いているわけなのです」
亀沢は首を傾げた。
「そうです。熊《くま》が出るのですよ。今年はなぜかこれまでになく、熊の被害が多いのです。それで、万が一に備えて、護身用として銃を持たされているのです。熊が学校に現われたときには、どうしても子供達を守らなければなりませんからね。前の校長から引きついでいる銃です」
男はポケットから拳銃を取り出して、銃倉を開けて見た。拳銃は六連発だが、一発だけしか残りの弾がなかった。
「麻呂の奴《やつ》、五発も撃ちよったわ」
男は拳銃をポケットに戻した。亀沢はその言葉を聞き逃さなかった。
「麻呂とおっしゃいましたが、もしかすると、鈴木正麻呂君のことではありませんか?」
男はびっくりした顔になった。
「よく、ご存じですね。あの子は、確かに五年生の鈴木正麻呂といいます」
亀沢は名刺を取り出して相手に渡した。交換した名刺には「留尻小学校教頭 多聞覚」とあった。
「実は、その鈴木正麻呂君に会うため、東京からやって来た者です」
と、亀沢は言った。
多聞は亀沢の名刺を見ていたが、頭を押えて溜《た》め息を吐《つ》いた。
「……すると、またあの子は手紙を書いたわけですな」
「また――というと?」
「春でしたか。正麻呂は雪男を見たと新聞社に葉書を書いたことがあるのです」
亀沢はそれを聞くと、多聞と同じように頭を押えたくなった。
「でも先生、正麻呂君は、実際に雪男を目撃したのではないんですか」
「さあ、どうですか。正麻呂はときどきない物を見る癖があるのです」
「ないものを見る?」
「見るだけではなく、聞いたりもします。正麻呂は雪男と会話をしています。雪男の正体は、宇宙人で、夏休みに土星に連れて行ってもらう約束をしたそうです」
「――――」
「あなた方にはお気の毒ですが、今では誰も正麻呂の言うことを信じる者はいなくなりました。普段は頭も良く、賢い子供なんですがね、陽気の変わり目にときどき妙なことを言い出すことがあるのです。でも、正麻呂のことを嘘吐《うそつ》きだとは言わないで下さい。彼の目には本当に雪男やUFOが見えているんですから」
亀沢は物判《ものわか》りのよい多聞に感謝しながらも、段段頭が痛くなってきた。
「……本人に会ってみたいのですが」
「お会いになるのは構いませんが、正麻呂となるべく調子を合わせるようにして下さい。と言って、調子に乗りすぎても困るのです。一体、正麻呂は今度、何を見たと言って寄越《よこ》したのですか?」
「霧昇湖で大蛸《おおだこ》を見たと言うのです。それも、二つも頭を持つ、双頭の蛸です」
「双頭の蛸ね……」
多聞は酸っぱいものが口に入ったような顔をした。
「霧昇湖に古い伝説はないのですか。見たこともない大きな生物が現われるといったような」
「ありませんね。極く平凡な湖ですよ」
亀沢は正麻呂に会った。多聞の言うような賢い少年だとはとても思えなかった。正麻呂は頭が大きく、濁った目をしていた。
だが、亀沢は正麻呂の容姿や言動をそのまま書こうとは思わなかった。正麻呂だけではない。今度の取材で会った人達、留尻や湖も多少の変形を加えなければ、読物として面白くも何ともないのだ。
亀沢はしばらく目を閉じていたが、再びペンを取り上げ、原稿用紙に向かった。
北海道留尻の印象は、濃い深緑の匂《にお》いであった。短い季節に賭《か》ける樹木の生育には、動きさえ感じられた。
私が釧路に着くと、人間社北海道支局の小村井晋一君が出向いていてくれた。二人はローカル線を丸四時間揺られて、留尻の無人駅に到着した。
M少年が通学している留尻分校はすぐに判《わか》った。校長の多聞先生は温厚な人物であり、熱心な教育者であった。話がM少年のことに及ぶと、多聞先生は何度も大きく点頭されたものである。
M君は才知があり敏捷《びんしよう》で創造力豊かな少年である。決して嘘《うそ》を吐《つ》くような子ではないことを熱っぽく語ってくれた。私の前に呼ばれたM君は目をきらきら輝かしながら、精しい体験を話し始めた。
M少年は小学校五年生だが、天文学や古代の生物に関する知識が深く、却《かえ》って私達の方が教えられる場面が多くあった。従って、霧昇湖に現われた大蛸《おおだこ》の観察も、細かいところまで目が届いていたのである。
その日――正確には九月五日月曜日、M少年は朝から霧昇湖に行き、独りで鱒《ます》を釣っていた。なぜ月曜日なのに学校へ行かなかったかというと、それは、つまり、分校の創立記念日であっただけの話である。
暖かな日で、風はなく、湖面は鏡のようであった。だが、不思議に魚の食いが悪く、陽《ひ》も傾き始めるまでとうとう一匹の魚も掛からなかった。霧昇湖は原生林のただ中にあり、土地の人もあまり行かない湖である。勇敢なM少年は鱒《ます》がよく掛かるこの湖が好きで、よく独りで出掛けて行くのだが、これまで一度も浮子《うき》の動かない日などなかった。M少年は妙な気分で釣道具をまとめているとき、湖面の中央にただならぬ泡が立つのを見たのである。
泡はごぼごぼというような音を立て、数秒後、泡の下から何やら黒光りする小山のようなものがぬっと現われた。M少年は最初それが何やら判断がつきかねたが、湖面の姿が大きくなるにつれ、それが二つの頭をなし、その下に四つの目を認めたときには、全身がすくんだようになってしまった。
怪物は一分足らず湖面で水しぶきをあげてのた打ち、そのうちにゆっくりと沈んでいった。その最後の瞬間、腕のようなものがはね上がったが、M少年はその表面にはっきりと吸盤を認めたのである。その腕の太い部分は、径五〇センチは下らなかった。
M少年は家に戻ってから図鑑を調べたが、吸盤の形状は蛸《たこ》のそれに違いなかった。だがその大きさは常識を超えるものだった。そして二つの頭は動転のうちにも、連結していることをはっきりと記憶していたのである。これはいかなる巨大生物であろうか。誰に話しても信じてもらえないことが判《わか》ると、少年は一縷《いちる》の望みを託して、その情景を葉書に書き、人間社に送ったというのである。
私はM少年の話を聞いているうちにも、頭ががんがんするのをどうしても押えることができなかった。M少年は霧昇湖への案内を申し出てくれたが、まだ授業中であった。私は小村井君が用意した地図を頼ることにし、多聞先生から色色な注意事項を聞いた。
その日、たまたま、霧昇湖に赴いた二人の調査隊がいたそうである。この二人の調査は怪獣ではなく、ただ、霧昇湖に棲《す》む魚類の観察だという。多聞先生の話すところによると、その日は珍しいことに、留尻分校を訪れた人が多かったそうである。私達が多聞先生に礼を言い、分校を離れるとき、ふと別室の窓を覗《のぞ》いたところ、三角形の顔をした洋装の老婦人が静かに茶をすすっているのが見えた。彼女もその来訪者の一人だったようだ。
チャイムが鳴ったので、亀沢はペンを置き、玄関に立った。ドアを開けると中年の女性が大きな茶封筒を抱えて立っていた。
「写真の電送が済みましたわ」
と、女性が言った。
「ご苦労さん。お茶でも入れましょう」
女性は秋子と言い、小村井の友達の姉だった。大きな商社に勤めていて、亀沢が強引に頼み込み、会社のファクシミリで人間社に写真を電送してもらったのである。亀沢が原稿に人間社北海道支局と書いたのは、小村井のアパートに過ぎなかった。
「何もいらないわよ。お忙しそうだから」
秋子は散らかっている小村井の部屋を見廻《みまわ》して言った。
「有難う。大変に助かりました」
「……この中に、心霊写真があったわね」
秋子は茶封筒を亀沢に返しながら言った。写真の中には、確かに異様なものもある。しかし、心霊写真という言葉は意外だった。
「心霊写真?」
「あら、知らないんですか。あんなに霊がはっきり写されているのに……」
秋子は恐ろしそうに声を落とした。
「どの写真だか、教えてくれませんか」
亀沢は封筒を逆さにした。数十枚の写真が床に散った。秋子はそれを見ると、一歩後に身を退けた。
「あんなのは何でもないんだけれど、わたし、心霊写真にはどうも弱いの。そのせいか、よく霊の写っている写真を見付けるわ」
写真は全て霧昇湖で亀沢が撮影したものである。秋子は遠くの方から及び腰になって二枚の写真を指差した。二枚共、霧昇湖の全景が、広角で収められている。一枚は湖だけだが、一枚の方には湖面の中央にゴムボートが見えた。
「二枚の写真は同じところから撮ったのでしょう」
「そうです」
「二枚を較べると、違うところがすぐ判《わか》るでしょう」
「ボートがあるのと、ないのとですか」
「ボートのことはどうでもいいの。ほら、手前に石が見えるでしょう」
「……この石ですか」
「そう。ボートの写っている写真の方の石の表に、人の顔が現われているじゃありませんか。おお、怖い」
亀沢は写真を手に取って、秋子の言う石を見た。そう気にして見ると、石の表面に、確かに人の顔のような影が見える。
「言われればそのようにも見えますね。でも、影の工合で、たまたま人の顔らしく見えるだけじゃないんですか」
「影の工合なんてことがあるもんですか」
秋子は断乎《だんこ》として言った。
「それは明らかに人の霊だわ。それが証拠に、もう一枚の写真をご覧なさい。同じ石が写っているけれど、その写真にはまだ霊が出ていないでしょう」
亀沢は二枚を見較べた。秋子の言う通りだった。ボートのない写真にも、同じ石が写されているが、この方にはどう見ても人の顔らしい影はない。人の顔を決定しているのは、どうやら、細い唇で、一枚にはそれがはっきりと写し出されている。
「その写真はどちらを先に写したの?」
と、秋子が訊《き》いた。
「ボートのない方ですよ。これは湖に着いたとき、最初に撮影したのです」
「そうでしょうね。霊はその後で現われたんです」
「……確かに、二枚はほとんど同じ場所から撮られています。なのに、一枚の方にだけ人の顔が見えるのは不思議ですね」
亀沢は調子を合わせた。
「その人は男性ね。年齢は二十七、八。非業の最期をとげた人だわ」
「そんなことまで見えるんですか」
「わたしには、はっきりと見えるわ。この前も、心霊写真で、海で溺《おぼ》れ死んだ子供の年齢を当てたことがあったもの」
秋子が帰った後で、亀沢はもう一度二枚の写真を並べて見た。秋子の言うことは、恐ろしいほど当たっていた。確かに、この写真が撮影される直前、二十七、八の男が一人、霧昇湖で非業の最期をとげたのである。
亀沢はすっかり感心した。言われてみると、写真に写された石は、ますます人の顔らしく見えてくる。
全ての写真は二枚ずつ現像され、その一組は、現在、警察のところにある。原稿を書き始める少し前、二人の刑事と一人の関係者が来て、それを持ち去ったのである。そのときにも、この石のことが問題となったが、誰も人の顔と見る者はいなかった。石はもっと重大な意味を語ったのである。
だが、今は心霊写真に関わっているときではなかった。亀沢は二枚の写真を別にした。すると、別の写真が現われた。二人の男が並んで写っている。一人は草藤十作、一人は亜愛一郎という名だった。亀沢はその写真を原稿用紙の横に置いた。
霧昇湖への道は、車の通らない林道を歩かなければならなかった。私と小村井君はただひたすらに歩いた。多聞先生に教えてもらった通り、道祖神が祭られてあるあたりで、右に折れた。道は森の中の隘路《あいろ》で、私達はしばしば下草を切り開かなければ前に進めなくなった。しかも、その間中、空缶を叩《たた》き続け、熊《くま》の襲撃を退けなければならなかった。都会に慣れている私には、時間の感覚が全く失われてしまった。
そして、ついに私達は幻の湖の前に立つことができたのである。
私はしばらく呆然《ぼうぜん》として、その光景に心を奪われてしまった。湖は広く緑の水を盈盈《えいえい》と湛《たた》えていた。湖を囲む樹木は原始のままである。神秘な静寂の中に、ときどき名の知れぬ鳥が鳴く。私はこの湖なら巨大生物が生棲《せいせい》して当然だとさえ思い、疲れを忘れ時を忘れて湖畔に立ちつくしていた。
ややあってから、私は落着きを取り戻し、湖にカメラを向けた。そのとき、同じ湖畔に、二人の人物を発見した。多聞先生が言っていた、私達より一足先に湖の調査に来た人達であった。私は二人に近付き、学者の意見を聞くことにした。調査隊の二人は、極めて親切に私の質問に答えてくれたものである。それにしても、二人が立っているだけで、湖の風景が品格を増す感じである。それほど人間的な魅力に溢《あふ》れる人達であった。
一人は立派な体格で、白いものの混った口髭《くちひげ》をたくわえた紳士で、魚類学の泰斗《たいと》、草藤十作博士であった。クリーム色のタートルネックのセーターの上には紺の背広、くわえたパイプと黒のフォックスハンターがよく似合っていた。
もう一人は若く、草藤博士が古城の主なら、彼は貴公子と言えそうだった。彫りの深い優美な姿で、グレーの細い縞《しま》の背広に、きちんとネクタイを結んでいる。亜愛一郎という名で、草藤博士に付いて、水中生物の撮影に携わっている好青年であった。
草藤博士は、私がM少年の葉書を見てこの霧昇湖に来たと話すと、さもありなんという様子で大きくうなずいたものである。
草藤博士の話によると、霧昇湖は火山の爆発によって流れた溶岩に塞《せ》き止められてできた海跡湖で、湖水は塩分を含んでいる。しかも、人的な汚染を免かれていて、これまで太古の姿を保つことのできた湖なのである。従って、この湖には現在地球上で絶滅した昔の生物が、今なお棲息《せいそく》を続けていても、不思議はないと説明してくれた。
現に草藤博士は霧昇湖で古い種のヘゲタウオを確認しているのである。現在のヘゲタウオは淡水魚として知られているが、この塩湖には古い習性の魚が棲《す》んでいるとのことであった。
私は湖の下見を終え、釧路支局に戻って、ただちに本社に電話を入れた。翌日、ベテランのダイバーが二人、支局に到着した。私達は再び留尻に向かった。
亀沢はペンを置いてキッチンに立った。小村井が言い残していった通り、ジャーには湯があった。インスタントコーヒーの匂《にお》いを嗅《か》ぎながら、亀沢は多少のフィクションは仕方がないと思った。
正麻呂は亀沢が東京から来たと知ると、矢鱈《やたら》にはしゃぎ、宇宙人との会見談を止まるところなく話し始めた。最初から東京に行ってテレビに出演する気になっているようだった。
霧昇湖の印象も正麻呂に負けず劣らず、落胆ものだった。湖は赤く濁った、ただのだだっ広い水溜《みずた》まりにすぎなかった。ただし、学校をさぼった正麻呂が小半日人気のない湖畔にいたら、暖かい日などはとろとろとして、さまざまな幻想に襲われる可能性はあった。
草藤は年の割には気取った男で、取り澄ました表情は馴染《なじ》めなかったし、亜の動作に至っては、正麻呂と大差ないような感じだった。
亜は亀沢達が持っている空缶の束を見て変な顔をしたものである。
「熊《くま》の近寄らない、まじないですよ」
と、亀沢が教えたとたん、亜の顔がさあっと蒼白《そうはく》になった。
「先生、大変です。熊が出るそうです」
草藤は少しも騒がず、指をしならせて、口からパイプを取った。
「おや、多聞氏が話していたのを、聞かなかったかな」
「聞きません。聞けばこんな湖へは来やしませんよ」
「君は多分、足が早かったはずだ」
「早くたって先生、まだ熊《くま》と競走したことはありません」
その亜は湖に双頭の大蛸《おおだこ》が出るという話を聞いたときには、完全な恐慌状態になってしまった。
「せ、先生、もうこうしてはいられません。熊の次はお化け蛸です」
「蛸がどうした」
「陸からは熊が出て来ます。湖の方に逃げようとすると大蛸が首を出します」
「その方がいいじゃないか。熊は人間より蛸の方が食いでがあると思うだろう」
「蛸はどうします」
「蛸だって、熊の掌《てのひら》を食いたかろう。熊と蛸の格闘となる」
「どっちが強いでしょう」
「双頭の蛸なら足は十六本もあるだろう。熊の腕力も相当だな。まあ、水に引きずり込めば蛸、陸に引き上げれば熊だろうな」
亜はそのときズボンの裾《すそ》を折り返して、水の中に立っていたが、汀《なぎさ》に戻ろうとして悲鳴を上げた。
「先生、蛸が僕の足を引っ張っています」
「ばか、それは藻がからんでいるだけだ」
草藤は苦い顔をした。
「本気で蛸がいると思うのか」
「だって、この人達は態態《わざわざ》東京から蛸を見に来ているのでしょう」
「そんな生物はこの湖にはいません」
草藤はきっぱりと言い捨てた。
「誰が言い出したか知らんが、根も葉もないことです。こんな小さな湖の中に、そんな蛸などいるわけはない。まあ、入道雲が湖に写ったのでも見たのでしょうな」
草藤はやや厳しい顔で、亀沢達に向かって言った。
「あなた達も無駄骨を折るより、早く帰って、普通の酢蛸《すだこ》で一杯やる方がよろしい。週刊誌などで下手《へた》に騒がれると、わっと野次馬が押し寄せましょう。そうなっては、愛すべき霧昇湖は、たちまち踏み潰《つぶ》されてしまいますよ。私はそれをもっとも恐れるのです」
しかし、亀沢は酢蛸で一杯やる気にはならなかった。黄戸編集長の手前、絶対に後へは退《ひ》けないのだ。何が何でもダイバーを湖に潜らせ、それらしきものでも撮影しなければならない。最後の手段も考えていた。古タイヤか何かを湖に投げ込み、蛸らしく撮影してしまうのだ。
その日、支局に到着した二人のダイバーの横顔を紹介しておきたい。
一人は江藤雅男君といい、東邦大|水棲《すいせい》動物研究室にいる若い助教授である。ダイバーとしては十年近いキャリアを持っており、名のある湖は、ほとんど潜水した経験があるという。
もう一人は、女性のダイバーで、京島朋子さん。たまたま支局の小村井君と面識があった。美しい肢体を持つお嬢さんである。南国の海の底を見たのが病み付きとなり、今年の夏はシシリー島の海底を散歩して来たというほど、水底の神秘に取り憑《つ》かれている。
私達――支局の小村井君、ダイバーの江藤君と朋子さん四人は、すぐ留尻に向かった。駅では多聞先生、M少年と一緒になった。その日は土曜日で、学校は半日。多聞先生はぜひM少年に霧昇湖の調査現場を見せてやりたいと希望したのであった。
森に入ると、M少年に特別の勘が働きだした。彼は的確に道を選んだ。驚いたことに、昨日に較べ、かなりの短時間で湖に到着することができた。
すでに、湖畔には、昨日の草藤博士と亜君がいて、独自の作業を続けていた。江藤君と朋子さんは、勿論《もちろん》、草藤博士の業績を知っていた。霧昇湖に集まった人達は、それぞれの立場は違うけれど、大自然の神秘を探ろうという目的は同じなのであった。
草藤博士達に挨拶《あいさつ》を済ませると、私達は忙しくなった。私はカメラの位置を決め、小村井君はゴムボートや道具を整え、江藤君と朋子さんはウエットスーツに着替え、エアボンベを点検した。
多聞先生とM少年は手分けをして森から枯れ枝を集め、焚《た》き火の係を引き受けてくれた。陸の気温は暖かく、枯れ枝に火をつけた多聞先生などは着ていた皮ジャンパーを脱いでしまうほどだったが、湖の水温は表面で十一度と、かなり低いことが判《わか》ったからだった。
焚き火で湯が沸き、熱いコーヒーを飲んで、まず身体を温めた。
草藤博士と亜君もお茶に加わった。草藤博士はパイプをくゆらしながら、私達の成功を祈ってくれた。亜君は朋子さんの視線を気にしながらも、もし、大蛸《おおだこ》が現われた場合の身の処置を大変に案じているようであった。
ボートに色色な器材が運ばれた。身体を温めるための、湯を入れたジャーも忘れてはならなかった。ダイバーは二人が交代で潜水することになり、小村井君が助手を勤めた。まず、小村井君と江藤君がボートに乗り、湖に出て江藤君が最初の潜水を試みた。
その江藤君の報告によると、湖の透明度は極めて高く、湖はかなり深い。だが、水中の温度は急速に低くなり、十分間潜水を続けるのがやっとだということであった。
そして――あれは何回目の潜水だったろうか。
私はカメラに向かい、朋子さんは焚き火で背中を暖めていた。多聞先生とM少年は、じっと湖を見ていた。その湖の上のボートには、小村井君と江藤君がいて、江藤君が潜水の体勢に入ろうとしていた。草藤博士と亜君はちょっと離れたところで、相変わらず仕事を続けていた――。
突然、銃声が響き渡った。
それが、すぐ銃声だと判《わか》ったのは、昨日、同じ音を聞いていたからである。それは耳元で聞こえたような気がした。思わず振り返ると、亜君が
亀沢は書きかけの原稿用紙を一枚破り捨てた。
つい、筆が滑ってしまったのだ。奇怪な事件ではあったが、亀沢が書いているレポートとは関係のない出来事であった。
だが、考えれば考えるほど不思議である。多聞のジャンパーのポケットから拳銃を抜き取り、湖に向けて発砲し、ダイバーの江藤雅男を射殺した犯人は、本当に草藤十作だったのだろうか。
亀沢はこの事件に深い興味を抱いていた。その事件の前には、双頭の蛸《たこ》でさえ、にわかに色褪《いろあ》せて見えるほどだった。
銃声を聞いたとき、亜は驚愕《きようがく》の極に達したようで、逃げようとする足がもつれて、水の中に転倒してしまった。
同時に湖のゴムボートが大きく揺れた。ボートに乗っている一人が、がっくりと倒れたようだった。
亀沢は本能的にカメラのシャッターを何度か押してから、レンズを望遠に換えて、ファインダーを覗《のぞ》いた。中腰になって倒れた者を抱き起こそうとしているのは小村井だった。倒れている者の表情はボートの縁で見えない。
「どうした!」
と、亀沢は叫んだ。
小村井は両手を挙げた。手が血で染まっているのが判《わか》った。
「すぐ戻って来い」
亀沢は続けて叫んだが、小村井はかなり動転しているようでボートを動かそうとする気配がなかった。
後で考えれば無理もない。ダイバーの江藤が狙撃《そげき》されて倒れたのだ。小村井は犯人がなお汀《なぎさ》からボートへ銃で狙《ねら》いをつけていると、考えていたに違いない。
亀沢は頭をめぐらして、多聞先生と正麻呂に注目した。昨日、校庭で多聞の拳銃《けんじゆう》を持ち出して乱射した正麻呂のことが頭をかすめたからだ。だが、二人共、空手だった。多聞は気味悪そうに湖面を見渡し、正麻呂の方は濁った目を空ろに開けたままで、何が起こったのか、よく判らないような表情をしていた。朋子は焚《た》き火に背を向けて、ボートの方を見ていた。何分か前と同じ姿勢だった。
草藤は背広のポケットに右手を入れ、親指をぐいと突き出していた。
亜は何度か足を滑らせた後、やっと汀に立ち上がって、たて続けにくしゃみをした。
「誰です、銃を撃ったのは?」
亀沢は大声で言ったが、湖畔にいる人達は、互いに顔を見合わせているばかりだ。
「誰です、銃を持っているのは?」
亀沢は続けて言った。
「……銃なら、そこに落ちています」
と、亜が言った。
亜の指差す方を見ると、草藤の足先から、三メートルばかり離れたところに、黒光りするものが見えた。銃口からは薄い煙が昇っている。
「……私の銃だ」
多聞は脱ぎ捨てたジャンパーのポケットを探りながら言った。一番近くにいた草藤が思わず銃を拾おうとする。
「先生、触らないで下さい」
あわてて、亀沢が言った。
「皆さん、ボートにいる江藤君が負傷したらしいんです。でも、一緒にいる小村井君は、まだ誰かが続けて銃を撃つかも知れないと思い、帰って来られないでいるようです。ですから皆さん、ここには誰も銃を持っている者はいないという意味で、両手を挙げて下さい」
亀沢は手本を示すように、自分から両手を挙げて見せた。
再び亜のくしゃみが始まった。袖口《そでぐち》から流れていた水が、両手を挙げたために、身体に逆流したのだ。
小村井はそれを確認したようで、ボートが動きだすのが判《わか》った。
汀《なぎさ》に着いたボートの底に、江藤があおのけになっていた。水中眼鏡の奥の目がくわっと開き、ウエットスーツの胸に穴が開いて、血が流れ出していた。即死であった。
湖底調査の結果、数数の興味深い発見がなされた。
湖底は平らではなくかなり変化に富んでいたことがその一つであった。湖底には急な断崖《だんがい》や深い谷、入り組んだ洞穴があって、小説でたとえるなら、波乱万丈の趣きを呈していたのである。
一通りの調査が終り、私達は湖畔で焚《た》き火を囲んでいた。そのとき、異様な物音が
電話が鳴った。
亀沢は舌打ちしてペンを置いた。あとわずかで原稿を書き終えるところだったからだ。亀沢は手を伸して受話器を手にした。
相手は聞き覚えのある声で、警察の横川ですと言った。
「先程はお邪魔を致しました。お陰で犯人の自白を取ることができました。一言、お知らせしておきます」
「そうですか……」
亀沢は急に疲れが出たような気分になった。
「すると、あの通りだったわけですね」
「亜さんの言う通りでした。最初、信じられませんでしたがね」
と、横川刑事は言った。
「それで、写真をもう少しお借りしておきたいのですがね」
「証拠となるわけですか」
「そうです」
「こちらにも同じ物があります。保管して下さって、構いません」
「ありがとうございます。必要がありましたら、いつでもおっしゃって下さい」
亀沢は電話を切ったが、すぐ原稿の続きが書けなくなってしまった。あれが事実だとすると、事件は世にも奇妙な色彩を帯びたようだ。亀沢は自分の思考を懸命に大蛸《おおだこ》へ向けようとするが、すぐ湖畔で起こった殺人事件の方に戻ってしまう。
亀沢はしばらく原稿に向かうことを諦《あきら》め、煙草に火をつけた。
二時間ばかり前、横川刑事はもう一人の警察官と、亀沢のところへ来たのである。
亀沢がドアを開けると、二人の間にもう一人の男がいた。霧昇湖で知り合った、亜愛一郎だった。亜は二人に挟まれ、すっかりへどもどしていたので、てっきり亜が犯人だと思った。
「鶴沢《つるざわ》さん、た、助けて下さい」
部屋に入ると、亜は蚊《か》の鳴くような声を出した。
「私なら、亀沢ですがね」
亀沢が嫌な顔をして言うと、亜はますます取り乱して、
「生涯、亀を食べないと誓いますから、亀沢さん、助けて下さい」
と、筋道の通らないことを口走った。
「一体、どうしたのです」
亀沢は亜を落ち着かせようとして、煙草を差し出した。横川刑事がそれに火を付けてやった。
「ダイバーの江藤雅男さん殺しの犯人として、草藤先生が逮捕されたんです」
「正式に逮捕されたわけじゃありません」
と、横川が訂正した。色の黒い、実直そうな刑事だった。
「事件の参考人として、警察に来ていただいているのです」
「でも、昨夜、先生はホテルへ帰って来ませんでしたよ」
と、亜が言った。
「実際問題として牢屋《ろうや》に入れられたのと同じでしょう。気の毒に、先生は胃腸の弱い人です。留置場の食べ物は悪いに決まっていますから、先生はお腹を悪くするに違いありません。そうすると、夜通し便所へ通うことになり、それがならないとすると――」
「あまり興奮しないように」
亀沢は横川刑事の方を見た。
「草藤さんの、どこが臭かったのですか?」
「指です」
と、横川刑事が答えた。
「指?」
「そうです。被害者を撃った拳銃《けんじゆう》に、草藤氏の指紋が残っていたのです」
「すると、問題の拳銃というのは、多聞先生が持っていた?」
「そう。六連発のコルトBMスペシャル。拳銃には持主の多聞先生と、生徒の鈴木正麻呂君の指紋もありましたが、引き金にはっきり残っていた指紋が、草藤氏のものだったのです」
「草藤さんはそれについて、何か言いましたか」
「勿論、弁明はありました。何でも、多聞先生が脱いでおいたジャンパーのポケットから、拳銃が半分|覗《のぞ》いていたので、ちょっと持ってみただけだと言いました。草藤氏は若い頃、競技用の拳銃を握ったことがあるそうです」
「つまり、草藤さんは多聞先生の拳銃をちょっと持ち、湖面に向かって、ちょっと撃ってみたと見ているのですね」
「……ちょっと撃ってみた、というところが違います。草藤氏にはダイバーに銃を向ける強い動機があります」
横川刑事は亜の顔をちょっと見てから続けた。
「自然界に生きている動物や植物を研究している人達は、誰もが人間の自然破壊に眉《まゆ》をひそめています。それは大変結構なんですがね、中にはそれが度を越しているとしか思えない人達もいるのです。つい最近、イルカの愛護団体に属している一人が、漁師の網を切り破ってイルカを逃してしまった、という事件を覚えておいででしょう」
「草藤さんも熱狂的な自然愛護家だったというのですか」
「そう。草藤氏は人の手に汚されたことのない霧昇湖と、湖を取り囲む原生林を、掛け替えのないものに思っている人なのです。その人の前に、双頭の蛸《たこ》が棲息《せいそく》するなどと言って、どやどやと週刊誌の記者が現われたのです。その噂《うわさ》が広まれば、物見高い無数の人間が嵐のように押し寄せ、霧昇湖一帯の環境破壊は火を見るより明らかでしょう。地元の人達の懐も暖かくなるはずですから、うっちゃっては置けない。森の木は倒されて道路が敷かれます。湖畔には空缶と紙屑《かみくず》の山ができ、取りあえず民宿が軒を並べるでしょう。野次馬の中には胃腸の弱い人もいて……」
横川はふいと口をつぐんだ。
「――つまり、草藤さんは霧昇湖が霧昇湖でなくなることを恐れ、週刊誌の関係者を追い払おうとして、その一人を撃ち殺したと言うのですね」
「それ以外、考えられません」
亜はしきりに身体をもぞもぞさせていたが、小さな声で言った。
「僕はその意見に賛成できません」
「何か、賛成できない根拠でもあるのかね」
と、横川が訊いた。
「ダイバーの一人ぐらいが死んでも、週刊誌の記者が記事を書かなくなるとは思えないからです。現に、そこに書きかけになっている原稿は、霧昇湖のレポートなのでしょう」
「その通りですよ」
と、亀沢は答えた。
横川は亜を睨《にら》むように見て言った。
「草藤氏は自然破壊が始まりそうなのを目の前に見て、一時的に逆上したのですよ。従って、思慮が浅くなり、そこまでは考えなかったのでしょう」
「とすれば、もっと逆上して、週刊誌の関係者を皆殺しにしそうなものじゃありませんか」
亜は態度の割には思い切ったことを言った。だが、横川は落着きを失わなかった。
「草藤氏も多分そうしたかったでしょう。だが、それは不可能だったのです。なぜなら、多聞先生の拳銃《けんじゆう》には、一発しか弾が込められていなかったのです」
「一発ですって?」
亜は白目を出した。
「そう、たったの一発です」
横川は顎《あご》を突き出すようにして言った。
「……でも、さっき、多聞先生の拳銃は六連発のコルト何とかで」
「いかにも、六連発のコルトBMスペシャルでした。残りの五発はどうしたと言いたそうですね。では教えましょう。最初、多聞先生は言葉を濁らせていましたが、問い詰めた結果はっきりしたのです。拳銃には六発の弾が装填《そうてん》されていましたが、五発は前日発砲されていたのです。鈴木正麻呂君が多聞先生の隙《すき》を見て持ち出し、西部劇ごっこをしたと言います」
「それは本当です」
と、亀沢が言った。
「私達も狙《ねら》われたのですよ。ですから、江藤君が撃たれたとき、私は最初正麻呂が撃ったのではないかと思ったものです」
横川の連れの刑事が口を挟んだ。
「多聞先生は子供の教育には熱心ですが、他のことにはずぼらな面もあります。子供に銃を盗まれたことといい、その銃をそのまま無造作にジャンパーのポケットに入れて持ち歩くなど、非常識極まります。第一、不法な銃を前任者から引きついだなどとはとんでもない話です。先生は最初から熊《くま》などを恐れない、従って拳銃《けんじゆう》もあまり必要でないと言っていましたがね」
「その、江藤君を倒した弾ですがね」
亀沢は刑事に訊《き》いた。
「多聞先生の拳銃から発砲されたものに違いないのですね」
「それは確かです。江藤さんが受けたのは盲管銃創で、心室から取り出された弾は、多聞先生の拳銃から発射されたものであることが、昨日のうちに証明されました。更に、発射音がした直後、地に落ちている拳銃の銃口から、煙を認めた目撃者が何人もいます」
「私も、その煙を見た一人です」
と、亀沢が言った。
「僕も、それを見ました」
亜は更に身体をもぞもぞさせて、
「それなのに、どうして草藤先生だけが疑われるはめになったのですか。あのとき、湖畔にいたのは草藤先生だけじゃありません。僕もいました。それから、多聞先生と正麻呂少年、ここにいる亀沢さんと、焚《た》き火でお尻《しり》を暖めていたダイバーの京島朋子さん。この六人は、誰もが多聞先生の拳銃を使い、江藤さんを撃つチャンスを持っていましたよ」
「決め手となったのは、さっきも言った通り、拳銃に付いていた、草藤氏の指紋なのですよ」
「指紋以外に決め手となるようなものはなかったのですか。例えば――拳銃を発射した人の手には、火薬が燃えてできた煤《すす》が付く、といった……」
横川はじろりと亜を見た。
「あなたは何か色色知っているようですね。しかし、あまり専門家に助言しない方がよろしいですよ。勿論《もちろん》、あなたの言う検査方法はあります。けれども、この場合は駄目なのです」
「駄目、とは?」
亀沢が訊《き》いた。
「あなた方は、湖畔で焚き火をしていたのではありませんか。あなた方の両手は無論のこと、調べれば身体中が煤だらけになっていたはずです。発砲後の煤などは、それに較べればはるかに微量なものですから、そうした検査には適さない状態だったのです」
「……なるほど」
「ついでながら、三メートル以内の近射でしたら、被害者の銃創の周りにも火薬の煤が付着しますよ。ですが、江藤さんの銃創には、その痕跡《こんせき》が全くありませんでした。つまり、江藤さんは遠距離、拳銃が落ちていた湖畔から狙撃《そげき》されたのは疑う余地がありません」
「でも、それは草藤先生じゃありません」
と、亜が言った。
横川は両手で膝《ひざ》を叩《たた》いた。
「あなたが草藤氏を庇《かば》う気持は判《わか》りますがね、感情的に物を言っては困ります。あなたの言葉は論理性がない上、変に強情です。まだ、わけもわからず強情になる年齢でもないでしょう」
「ですから、亀沢さんに会わせて下さいと言ったのです。亀沢さん、助けて下さい」
亀沢はこわごわ頑固になっている亜を見て、気の毒になった。
「だが、私は何をすればいいのでしょう」
「写真を見せて下さい」
と、亜は言った。
「僕の写真は魚ばかりですから、学問の役に立っても、草藤先生を助ける道具にはならないのです。でも、亀沢さんは湖や調査隊の人達の写真を沢山撮っていたでしょう。その写真を見たいのです」
「写真をお見せするだけでしたら、わけはありません」
亀沢は撮影した日のうちに仕上げた写真の束を亜に渡した。亜はその一枚一枚を舐《な》めるように見ていたが、やがて引き吊《つ》っていた頬《ほお》の筋肉が緩んでにたにたし始め、手元に三枚の写真を残した。その内の二枚は、秋子が心霊写真と断定した写真だった。
あとの一枚は、湖を背景に、調査隊の姿も見える。湖に到着したばかりの写真で、全員は荷物を持っている。
「多分、あるだろうと思いましたが、ちゃんと写っていました。やれやれ、ほっとしました」
横川も写真を覗《のぞ》き込んだ。
「一体、何で安心しているんです」
「江藤さんを殺した真犯人が判《わか》ったからです。それは、草藤先生じゃありませんでした」
「何だって?」
今度は横川が感情的な声を出した。
「じゃあ、君は誰が真犯人だと言うんだ?」
「この人ですよ」
亜は平然と写真の中の人物を指差した。その人物は後ろ向きだったが、亀沢には誰だかすぐに判った。それは、草藤でも亜でも多聞でも正麻呂でも朋子でも亀沢でもなかった。
「この人は?」
と、横川が訊《き》いた。名を忘れたのだろうか。亜は口の中でぶつぶつ言った。
亀沢は横川が更に感情的になるだろうなと思いながら亜の代りに答えた。
「その人は、私を留尻に案内してくれた、小村井晋一君です」
横川は返事をする代りに口だけを開いた。理解したわけではない。呆《あき》れ返った顔だった。
亀沢も横川の気持がよく判る。被害者の銃創は遠距離からの拳銃の発射によったものだ。そのとき被害者と一緒のボートに乗っていた小村井が犯人であるわけはないのだ。
「君、いいですか……」
しばらくしてから、横川は優しい口調で言った。駄駄っ子を諭す態度だった。
「さっきも言った通り、こういう場合は、物事を論理的に考えないといけないのです。これは殺人事件なんですよ。軽はずみに犯人を断定するなど、とんでもないことです。それを何ですか、犯人は小村井さんなどとは。小村井さんは被害者の江藤さんと一緒にボートに乗っていた人ではありませんか」
「犯人が被害者と一緒のボートに乗っていてはいけませんか?」
「いけませんね。そりゃ、常識的には、犯人というものは、大体被害者の近くにいることが多い。しかし、今度の事件は特別で、色色の状況を調べた結果、被害者の江藤さんは遠くから狙撃《そげき》されたことがはっきりしている。たった今も、そう説明したばかりじゃありませんか。それとも君は、それをひっくり返すだけの証拠でも見付けたというのですか」
「いや……ただ、その……」
亜は横川に畳み込まれてへどもどし、持っていた写真を見せようか見せまいか、戸惑っているようだ。
「その写真に何か特別なものでも写されているんですかね」
反対に横川が訊《き》いた。
「……ただ、ちょっと」
「ちょっと、どうしたんです」
亜はおずおずと二枚の写真を並べて見せた。秋子の言う、心霊写真の二枚だった。
「この二枚は霧昇湖の全景で、大体同じ場所から撮影されていますね」
と、亜が言った。
「そうですな」
横川はむずかしい顔で写真を見た。
「この二枚を較《くら》べると、同じ湖の風景ですが、違っているところがあります」
「易しい問題ですな。一枚の方には湖の中央にボートが見えるが、こちらの方にはそれがない」
「もう一つ違っている点があります」
横川はしばらく二枚を見較べていたが、しばらくして写真から目を離した。
「……強いて言うなら、手前に転がっている、石ですがね」
「そ、そうです。判《わか》ってもらえて、よかった。ボートが写っている方の石の表面には、はっきりと横に細い線が見えるでしょう。ところが、ボートのない写真では、その線がありません」
「……だが、これはフィルムの傷か何んかでしょう」
「違います」
亜はこのときだけは自信あり気に否定した。
「僕は多少写真の知識を持っています。フィルムの傷でないことは、一目で判《わか》ります。そうでしょう、亀沢さん」
「……確かに、フィルムの傷ではありませんね」
と、亀沢が答えた。亜は続いて亀沢に質問した。
「そして、二枚はどちらが先に撮影されたのでしょう」
「ボートのない方です。少し後に、ボートの方を写しました」
「では、江藤さんが殺される前ですか、後ですか?」
「江藤君が殺された直後でしたね。銃声を聞いた直後、何度もシャッターを押したことを覚えています。ネガには連続して同じような絵が並んでいますよ」
「それは素晴らしいことです、亀沢さん。つまり、写真に写されている石の筋は、銃声が起こった後で付けられたものだと言えるからです」
「君は一体その石で、何を言おうとしているのかね」
と、横川が訊《き》いた。
「石にある筋は、拳銃《けんじゆう》が発砲した弾でできた傷だと言おうとしているのです」
横川の目が光った。
「じゃあ、草藤氏は何の理由で石など撃ったんです」
「草藤先生は拳銃を撃ちはしませんでした。撃ったのは、小村井さんでした」
「ばかな。そのとき、小村井さんは湖のボートの中にいた」
「……これはちょっと言い方が適当ではありませんでした。小村井さんは、草藤先生の指紋の付いている銃を、自分が湖にいる間に、爆発するような仕掛けをしたのです。――こう言わなければいけませんでした」
「どんな仕掛けだ?」
「簡単な方法でしょう。焚《た》き火の傍に置き、枯れ木や枯れ葉をかぶせておきます。焚き火の火はやがて、その場所に移り、銃を熱しますから、装填《そうてん》されている火薬が爆発し、その弾がこの石をかすめて、筋を付けたのです。一方、拳銃はその反動で、草藤先生の足元に飛び出したのです。小村井さんはもっと手のこんだことをしていたかもしれませんが、原理は同じだったでしょう。この石の近くを探せば、そのときの弾丸が発見されるに違いありません」
「焚き火から飛び出した拳銃なら、銃身は熱くなっていなければならない」
「その銃には誰も触りませんでした。私が止めたからです」
と、亀沢が口を挟んだ。
「あなたが、それを止めた……」
「そうでしょう。犯行があったとき、現場には手を付けてはいけない。これは、事件に関係することの多い私達でなくとも常識でしょう。正麻呂だってきっと知っていますね」
今度は横川がそわそわし始めた。
「……だが、被害者は、同じ拳銃で撃たれていた」
「江藤さんの傷は銃創じゃないと考えたらどうでしょう。江藤さんの傷は、鋭利な錐《きり》のようなものによる、刺創だったと考えるのです」
「……刺創では、弾丸が残るはずはないじゃないか」
「ですから、弾丸は刺創の創底に後から押し込まれたものです」
「その弾は、どうして手に入れた?」
亜は別の写真を取り上げた。調査隊が霧昇湖に到着したときの写真だった。
「ここに、小村井さんの後ろ姿が写っていますね。今度は小村井さんのリュックサックに注意して下さい。黒い穴が見えるじゃありませんか」
亀沢は亜の言おうとしていることが判《わか》り、思わずうなった。
「……それは、学校の傍で受けた傷です。鈴木正麻呂が撃った流れ弾が突き当たったのです」
亜はにこっと笑った。
「流れ弾は力が弱まっていますから、リュックサックを突き抜けることなく、リュックサックの中に落ち込んだものとみえます。そのときは気付かなかったのでしょうが、リュックサックを開いたとき、小村井さんはその弾を見付けたのです。その弾が殺人の役に立とうとは、そのとき思わなかったでしょうが」
亀沢がいった。
「ダイバーの江藤君と京島さんが来たのは翌日だった。それまで、小村井君はダイバーとして誰がやって来るか知りませんでした。小村井君が知り合いの京島さんと会ったのは偶然でした」
「その偶然が、どう小村井さんに殺意を起こさせたのか、僕には判りませんが、小村井さんはダイバーの二人と会ったのがきっかけで、殺人を考えるようになり、その機会を狙《ねら》い始めたのです」
亀沢は小村井と寄呂で会ったとき「これからは自分の思う道を進もうと思う」と話していたことを思い出した。
東京を離れてからの小村井が、どういう経験を経て、どういう心情に至ったのかは判らない。だが、それは「これからは自分の思う道を進むためには、どんな手段も選ばない」という決意を表わす言葉だったようだ。
「小村井は実直で、真面目《まじめ》な男だった」
と、亀沢はつぶやいた。
「そういう人が犯罪を考え始めると、矢張り、実直で真面目に犯罪を考えだすものです」
亜は続けた。
「小村井さんは、前日、正麻呂少年が発砲した弾を持っていること、多聞先生が護身用の拳銃《けんじゆう》を実に粗末に取り扱う癖のあることに注目しました。そして、不思議なアリバイを持つことのできる殺人方法を考え出したのです。それは、被害者のつい傍に犯人がいながら、近すぎるためにかえって犯人たり得ないという、状況を作り出す方法でした」
横川は腰を浮かせていた。
「そうだ。狭いボートの中で拳銃を使えば、恐らく相手は貫通創を受けることになるだろうな。傷口にも焼けた痕《あと》や煤《すす》を残すに違いない」
「小村井さんはそこまで読んでいて、そのからくりを実行に移しました。草藤先生も手にした拳銃を多聞先生が脱いだジャンパーのポケットから抜き取り、自分が江藤さんと一緒にボートへ乗る前、焚《た》き火の傍に隠しておいたのです。別に持っていた弾は、丁寧に汚れを取った後、ジャーの中に入れ、それをボートに積み込みました」
「なぜ、弾をジャーの中に入れなければならない?」
「実際に発砲された弾と同じような高温にしたかったのでしょうね。それは銃創の周囲の肉に、微妙な変化を与えるでしょう。屍体《したい》の解剖に当たったお医者さんは、銃殺されているという先入観がありますから、そんな点でも欺《だま》されたものとみえます。小村井さんの計画はそこまで注意が行き届いていたのです。さて、湖に出た小村井さんは、湖畔の銃声を合図に江藤さんを鋭器で刺殺してしまいます。江藤さんは水中眼鏡を掛けていましたから、通常の人より視界がずっと狭くなっていたはずです。小村井さんは自分が優位な立場で江藤さんを刺すことができたでしょう。凶器は多分、湖の中に沈められましたね。小村井さんはこの後、ジャーから用意の弾を取り出して……」
横川刑事は皆まで聞かずに立ち上がった。
「もう一度調べなければならない。屍体《したい》も、拳銃も、弾も、それから湖畔もだ。それから、亀沢さん、この写真をお借りしたいのです。そして、その小村井さんは、今、どこにいますか」
亀沢は複雑な気持で答えた。
「ホテルニューグランド寄呂です。京島朋子さんが投宿しているビジネスホテルです」
写真を集めながら、横川刑事がぼそぼそ言っていた言葉を、亀沢はまだ覚えている。
「――草藤氏の証拠固めのつもりで来たんですがね……」
人はさまざまな価値基準を持っているが、今、それがはっきりと判《わか》るような気がした。
秋子は例のものより心霊写真に強い衝撃を受けていた。亜と刑事達は例のものに見向きもしなかった。そして、正麻呂を初めとする週刊人間の全読者なら、例のものに驚倒するはずである。黄戸編集長は無論、高の知れた殺人事件のレポートより、亀沢が書きかけている原稿の方を一刻も早く欲しいに違いない。
家宅捜査に来た刑事たちが、小村井の日記やメモなどを持ち去った後の部屋で、亀沢は小村井の机に向かい、ドラム缶とゴムホースを利用した苦心の創作品、あの物が写っている写真を前にして、再びペンを握った。
した。それは
ごばごばという、全く今まで聞いたこともない音であった。
「あれだっ!」
私の傍にいたM少年が叫んだ。
私はあわてて湖を見た。ああ、それは何という驚くべき光景だったろうか。湖面に立つ泡を掻《か》き分けるようにして現われた黒い二つの小山の下に、赤く光る四つの目が爛爛《らんらん》と私達を見据《す》え……
第五話 飯鉢山《いいばちやま》山腹
待ち兼ねたチャイムが鳴った。
田岡千代之介はその瞬間にぱたんと教科書を閉じ、姿勢を正した。
「では、今日はこれでお仕舞い」
授業は尻切《しりき》れとんぼだったが、生徒達は歓声をあげた。浮き浮きした気分が表情に現われ、それを生徒達が読み取ったのに違いない。
「いよいよ、明日から連休だね」
生徒達は再び歓声をあげる。
その年、最後の二連休。連休中の注意など必要ではないだろう。中学生といえば常識を弁《わきま》えている年頃《としごろ》だ。立派な大人として扱う方がいい。下手《へた》な説教などは無用だと思う。学校からの通達事項は授業の前に済ましてある。田岡は教科書を小脇《こわき》に抱えると教室を飛び出した。
階段で武者東小路《むしゃのひがしのこうじ》と一緒になった。
「いよいよ連休ですな」
武者東小路もそわそわしている。田岡と出会ったところをみると、ほとんどチャイムと同時に教室から出て来たらしい。田岡と同じ気持なのだ。
二人は競走みたいに階段を駈《か》け降り、職員室に飛び込んだ。教員はまだ誰《だれ》も帰って来ていない。荒木校長がぼんやり窓際に立って校庭を眺めていたが、二人に気付くと、
「武者東小路次郎左衛門先生は、すばしっこいときもあるんですね」
と、白い目で嫌味を言った。
武者東小路は校長などに構ってはいない。机の上に教科書を放り出すと、洗面台の前に立って石鹸《せつけん》でごしごし手を洗い、丁寧に拭《ふ》いてから戻って来た。顔が半分笑っているのが判《わか》る。武者東小路は机の上に置いてある古い風呂敷包みを解き始めた。布は強く引けば裂けてしまいそうな古物だった。風呂敷が広げられると、ぼろぼろに錆《さ》びた一山の黒い鉄屑《てつくず》が出て来た。包みは昼休みに、一人の生徒から届けられたものだ。
「これこれ……」
武者東小路は舌舐《したな》めずりしながら、その一つをそっとつまみあげて目に近付けた。
「何ですか、それは」
荒木校長は半分いまいましいと思いながらも、好奇心には勝てない、といった様子で、傍に近寄って風呂敷の中を覗《のぞ》き込んだ。
「戦国時代の甲冑《かつちゆう》です。わたくしは鎌倉時代の前期のもの、と睨《にら》んでいるのですがね」
言われれば、丸みを帯びた断片は兜《かぶと》の一部らしく見える。鉄の小板は鎧《よろい》の直垂《ひたたれ》だろう。
「そんなものをどうするのですか」
と、荒木が訊《き》いた。
「復元するわけです」
武者東小路は答えた。
復元といっても、集められた断片は、元の甲冑《かつちゆう》の一割にも満たないようだ。武者東小路は小板を手にして説明した。
「勿論《もちろん》、欠落した部分は新しく作り出すのです。本物を手本にして、地金から札《さね》を作り、綴《つづ》っていくのですが、縅《おどし》に使う紐《ひも》も、糸から織り出しましてね、元の色に似せて染め上げ、結び方も特殊な場合はレントゲン写真に撮って研究しなければなりません」
「……偉い手間の掛かる仕事ですな」
荒木は呆《あき》れ顔で言った。
「なに、お金の方はともかく、わたくしの家系は気の長いことと顎《あご》の長いことでは誰《だれ》にも負けません。これを復元したら、早速着てみます。それから、写真を撮ります」
「写真をね」
「わたくしは顎が長いので、甲冑がよく似合うんです」
武者東小路は田岡を見てにやりとした。
「田岡先生の仕事だって、相当なものでしょう。何しろ、何トンという土の中から、たった一ミリぐらいの物を探し出すんですからね」
田岡は荒木校長の白い目が自分に移されたのが判《わか》った。
東京出身の二人の優秀な教師が双宿《もろじゆく》中学校に配属されたとき、地元ではちょっとした話題になったものだった。双宿は海沿いの穏やかな町で、雲丹《うに》や鮑《あわび》の名産地だが、その年までは不漁が続き、明るい話題に乏しい時期だったからだ。
だが、二人が着任すると、期待した教育の方面ではあまり期待できぬらしいことが判って、落胆する者もいたし、安堵《あんど》する者もあった。田岡は暇さえあるとリュックサックを背負い、軍手に地形図を持って、人の行かない岩場や山を歩き廻《まわ》り、ハンマーやシャベルを使って、何が面白いのか一日中土を掘り起こしている。一方、武者東小路の方は、片っ端から旧家を訪ね歩き、土蔵の中からぼろぼろになった古文書や古道具を見付け出しては修復したり復元したりしている。
校長や父兄の評価はあまり良くなかったが、二人は生徒達には妙な人気があった。二人は小うるさくなく、生徒達の遊びに寛大だったからだ。
そのうち、田岡は岩場からナウマンゾウの化石を発見し、武者東小路は旧家の納戸《なんど》から松尾芭蕉の真筆を発見した。これが国中に報道されて双宿は有名になった。二人のところへ縁談が降るほど集まった。田岡は千野義子という娘と結婚し、武者東小路は中里|奈那《なな》という娘を妻にした。
だが、田岡の方は結婚してから一時ナウマンゾウの調査ができなくなった。というのは、妻の義子の実家が神官で、そこで育てられた義子は、たとえ動物の化石でも、生き物の骨が家の中にごろごろしているのは堪えられず、不眠症になってしまったからだ。
田岡は一晩考え、思い切ってこれまで蒐《あつ》めた化石を博物館に寄贈し、興味の対象を変えることにした。田岡が目を付けたのは、コノドントだった。コノドントの化石は、普通〇・三ミリから一ミリ、大きくとも七ミリを越えることがない。そんな小さな化石なら義子が気にすることもなく、いくら採集しても場所をとらない。もっとも、簡単に採集できる化石ではない。武者東小路の言うように、何トンもの土の中からふるい分けなければならない。
「連休には、勿論《もちろん》、化石採集でしょうな」
と、荒木校長が言った。
「午前中は資料を調べます。午後になってから、飯鉢山の旧道にある展望台の近くに行く予定でいます」
「飯鉢山の旧道には、何かがありますか」
「コノドントの化石が露出しているのです」
「……例の、一ミリの大きさのとか」
「そうです。同じ地層が弁天岩の傍にもあって、そちらにも廻《まわ》る予定ですから、明日は忙しいのです」
荒木は気の抜けた顔になった。また、大きなナウマンゾウでも発見したかと思ったのだろうが、荒木には躍り上がらんばかりの田岡の気持が判《わか》らないはずだ。二畳紀系のチャート層に露出しているコノドントの完全体。それは、驚異に価する大発見なのだ。
「そして、それを写真に撮るわけですな」
「勿論です、と言いたいのですが、今のところ、器材が揃《そろ》わないのです」
「カメラはお持ちじゃありませんか」
「いや、対象が小さすぎましてね」
「学校の顕微鏡では間に合いませんか」
「……ちょっと、無理です」
器材をぜひとも揃《そろ》えたい。だが、資金がない。金融業者から借りたいほどだが、返す当てがない。
「――ほう、この錏《しころ》は金《かね》じゃない」
武者東小路が独り言を言った。
「鉄ではないわけですか」
荒木の興味は甲冑《かつちゆう》の方に戻った。
「つまり金属でない原料を用い、漆《うるし》で固めて……」
田岡の頭に、あることが閃《ひらめ》いた。
――金のない錏《しころ》なら、亜だ。
それは、素晴らしい思い付きだと思った。
――亜愛一郎に撮影を頼もう。
亜愛一郎は何年か前、田岡が参加したブラキオサウルスの化石調査隊に加わった撮影員である。
「あなた、今日もアノドントですか」
と、義子が言った。
「アノドントではありません。コノドントです」
と、田岡は訂正した。
「この連休にはこの家にいて、あなた好みのわたしの顔を見ながら、海鼠腸《このわた》で一杯やる気にでもならないのですか」
「……勿論《もちろん》、その方がいいに決まっています。あなたは僕の妻には勿体《もつたい》ないほど美しく、声が綺麗《きれい》です」
「あなたはいつも歯の浮くようなことを言って逃げようとするわ。歯が悪くなって抜けたらどうするのよ」
「歯が抜ければ、コノドントになります」
「あなたの頭の中にはコノドントしかないの。一体、コノドントって何なのよ」
「別に芝居を見るほど面白いものじゃありません」
「きっとまた、嫌らしい骨の化石ね」
「骨ではありません。歯です」
「歯?」
「小さな動物なので、歯しか化石に残らないのです」
「嫌らしいわね。目だけのお化けというのがあったけれど、それは歯だけなの」
「ですから、最近まで、コノドントという歯を持つ動物はどんな形をしていたかも判《わか》りませんでした。今からざっと三億年前の古生代から中生代の三畳紀まで地球上に生棲《せいせい》していた動物ですがね」
「その頃、人間はいたの?」
「かけらもありませんでしたね。人間が地球に出て来たのは新世紀の終わり、たった二百万年前ですから、生物としてコノドントは人間の大先輩であるわけです。どうです、偉いもんでしょう」
「偉くとも歯だけじゃ仕方がないわ」
「歯だけ見て、その動物の姿を想像した人がいます。トレミー博士はその動物の外形がナメクジウオに似ていると推定しました」
「ナメクジウオ……ますます嫌らしいわ」
「ところが、驚くべきことに、一九七〇年、アメリカのモンタナ州中央部に分布するセッカイ岩の中から、ついにコノドントを有する動物そのものの化石が発見されたのです。コノドントの研究が始まったのは一八〇〇年代の終わりですから、延延百年の後に、コノドントはやっと我我の前に姿を現わしたのです」
「あなたの言うことは矛盾しているわ。二百万年がたったで、百年が延延なんですか」
「……反省しましょう。そして、何とその形はトレミー博士が予言した姿によく似ていたのです。どうです。感動的でしょう」
「ちっとも。あなたが金歯を入れたコノドントを発見すれば別ですけれど」
「それは……ちょっと難しいかも知れませんね」
「いくらわたしの気を引こうとしても無駄ですよ。わたしにはちっとも面白くないわ。結局、あなたは貴重な連休だというのに、わたしを独りにして地べたを掘りに行こうと言うのでしょう」
「一緒に行きませんか」
「真っ平ですね。本物のされこうべでも出て来たらどうするの」
「洪積《こうせき》世紀の地層からでも出て来れば驚異です。双宿《もろじゆく》原人ですから」
「結局、あなたはその原人とでも結婚すればよかったのよ」
「けれど、僕を選んだのは君の方だったじゃないか」
「名前に惑わされたのよ。千代之介と次郎左衛門とを並べて、さあ、どっちかを選べと言われたら、誰でも千代之介を選ぶでしょう」
「子供ができたら、名前には気を付けよう」
「あなたの子供なんか作る気はないわ。歯だけが産まれて、入れ歯みたいにがたがた鳴るに違いないもの」
「君はなかなかシュールな感覚を持っていますね」
「あなたって、何でも誉《ほ》めれば済むと思っている。たまには他の手を使ったらどうでしょう」
義子が不機嫌になった原因は、午前中止むことを忘れたように降っていた雨が止んでしまったことにあった。田岡は雨を見て野外調査を諦《あきら》め、午後も雨だったら映画見物でもしようと義子にうっかり約束した。その雨が小降りになったので、田岡はいそいそと野外調査の支度を始めたからだ。
田岡は義子の気をそらそうとテレビを付けた。ちょうど天気予報の時間で、アナウンサーが午後からは天気はすっかり回復し、晴天になるでしょうと言っている。あわててチャンネルを変える。この局は科学番組の最中で、画面に見事なアンモナイトが写し出された。田岡はテレビのスイッチを切った。
「気にしなくともいいのよ。わたしもあなたを気にしませんから」
その言葉の通り、義子は昼になっても食事を作る気配がない。どうしようかと思っているところへ、小永井がやって来た。田岡が担当している生徒の一人で、最近はどこへ行くにも田岡の後に付いて来る。小永井はサファリウエアに腰ベルトを着け、キャラバンシューズをはいて、大きなリュックサックを背負い、地図入れを肩に掛けて、どこから見ても立派な地質屋さんスタイルになっている。
「先生、家の雲丹《うに》弁当を持って来ました」
「……それは、有難い」
田岡は弁当屋の生徒を持っていることを幸せに思った。小永井は義子にも弁当を進めたが辞退している。どうするかなと見ていると、田岡が大切に取っておいた中元の蟹缶《かにかん》を持ち出して、缶切りでごしごし蓋《ふた》を開けてしまった。
弁当を食べ終わった頃、亜愛一郎が現われた。段段調査の気分が盛り上がって来る。
亜は以前と少しも変わっていなかった。端麗な顔立ちで、白茶のブレザーに桜色のネクタイがよく似合っている。ただし、黒い小さな鞄《かばん》を持って、すっきりしているはずの上体が、泳ぐように揺れている。感動したときの癖だが、田岡が連絡してから、ずっと感動し続けていたようである。
「せ、先生。コノドントを発見したというのは、ほ、本当ですか……」
田岡はまず亜に弁当を与えて落着かせた。
「それも、完全体ですよ。この先の露岩で見付けました」
「凄《すご》いですね」
最初のうち、不思議そうに亜を見ていた小永井は、どうやら同種の仲間だということが判《わか》ったらしい。
「先生、早く行きましょう」
田岡を急《せ》き立てる。
「わたしも行くわ」
何を思ったのか、蟹缶をすっかり平らげた義子が言った。
「しかし……」
「コノドントを掻《か》き廻《まわ》したりはしないから、大丈夫よ」
義子は押入れから、真赤なアノラックを引張り出した。
義子の雲行きが変わったのは、何にもせよまずは目出度い。再び気分が変わらぬうちに出発しなければならない。田岡はまだ弁当を食べている亜に、食事は車で願いますと言い、時代遅れのワゴン車に三人を押し込め、自分は運転台に入った。
黒い雲がどんどん追立てられ、東から青空が広がってゆく。風は少し強いが、寒くはない。国道はほとんど車の影がなく、快適な運転だった。
双宿から糸香《しか》を抜けると、道の両側は刈取られた田圃《たんぼ》となり、やがて前方に紫色の山脈が迫って来る。後ろの座席で亜と義子が喋《しやべ》っている。
「……亜さん、奥さんは持っていらっしゃるの?」
「オクタントは現在ほとんど使っていません」
「まあ……使っていないだなんて」
「あれはちょっと古くなりましたから」
「そんなことを言っちゃいけませんわ」
「でも、今はクリノメーターにしています」
「それ、外国の方ですか」
「生まれは矢張り外国です」
「でも、別れたわけじゃないんでしょう」
「ええ。クリノメーターは方位器と水準器が一緒になっているから便利なんです」
「まあ、方位も気になさるわけ」
二人の会話は合っているようで合っていない。古い車のエンジンが喧《やかま》しいせいだろうが、多少、二人の耳も悪いかと疑いたくなるほどだ。
「スイジュンキってなあに?」
「水平を保つためのものです」
「まあ、女の水兵さん?」
「…………」
会話が噛《か》み合わなくなったところで、田岡が言った。
「正面に見える山の向こうに、頭の平らな山が見えて来たでしょう。あれが、飯鉢山です。標高九三〇メートルの平凡な山ですが」
「判《わか》っているわよ」
「いや、亜さんに説明しているんですよ。問題の露頭は飯鉢山の中腹を廻《まわ》っている旧道に沿った岩肌にあるんです」
「旧道ですね」
と、亜が言った。
「現在のところ、化石は飯鉢山の旧道と新道が分れる地点と、もう一つは旧道を五キロほど進んだ地点にあります」
「新道は最近作られたのですか」
「そうです。現在、旧道はほとんど使われていません」
「新道が作られるようになった理由というのが面白くってよ」
義子が話を取り上げてしまった。
「面白い話は大好きです」
亜が乗ってくる。
「旧道は昔の道ですから、とても狭いんです。車が入るとUターンすることは勿論《もちろん》、向こうから来る車と擦れ違うこともできなかったんです。道が山を廻《まわ》るまで、大体一〇キロあるの。その間に他の車と出会うと身動きができなくなるでしょう。それで、その真ん中あたりの岩を削って、道幅を広げ、車が擦れ違うための場所を作ったんですけれど、そのとき削った岩がよくなかったわ」
「岩の質でも悪かったんですか」
「そうじゃないの。その岩は弁天岩と言ってね、岩肌をよく見ると、弁天様のお姿がぼんやりと見えていた岩なんです。ご利益《りやく》があると言って、ときどきお花やお団子をお供えするお年寄りもいたんですけれど、その岩を知らない余所者《よそもの》の工事人がやって来て削り取ってしまった。さあ、どうなったと思いますか」
「……もしかして、弁天様がお怒りになったというんじゃないですか」
「その通りなのよ。弁天様がお怒りになって、お祟《たた》り始めになったのよ。その証拠に、弁天岩のあったあたりで、車の転落事故が続けざまに起こるようになったわ」
「怖いですね」
「怖いですとも。わたしの祖父がお祓《はら》いに行きましたが、あまり効き目はありませんでした。だって、そうでしょう。転落事故で死んだ人の怨念《おんねん》もそこに止まって、次の犠牲者を誘うでしょう。その犠牲者もまた怨霊《おんりよう》となって、弁天岩のあたりにうろうろしなければならなくなるでしょう」
「怨霊だらけになりますね」
「……亜さん、震えているんですか」
「面白い話は大好きなんですが、怖い話になると身体が細かく動くんです」
「ああ、亜さんは何という感受性の強い人なんでしょう。家の田岡はそんな話をすると、怨霊など出て来たら食ってしまうなどと、不遜《ふそん》なことを言うのよ。見ていらっしゃい。きっと怨霊から罰を受けるに決まっているわ」
「ぼ、僕はご免です」
「そういうわけで、最近道の改修が必要になったとき、関係者は旧道に手を付けることを凄《すご》く嫌がったわ。その結果、旧道はそのままにして置き、新たに飯鉢山の反対側、山の左方向を廻《まわ》るような新道を作ることになったの」
「僕だってそうしますよ」
「新道はずっと幅も広く、馬追平《うまおいだいら》へ出るのにもずっと時間が短くなったわ。その上、眺めは良いし安全なの。ガードレールもしっかりしているし、岩肌は落石を防ぐようにコンクリートで塗り固められたし」
「すると、新道からは化石を見付け出すことはできませんね」
「旧道に行けば、怨霊《おんりよう》が団体で待っていますわ」
「どうしましょう」
「田岡と小永井君はどんなことがあっても旧道で調査をするでしょう。亜さんは嫌なら付き合うことなどありませんよ。わたしと新道をドライブして、馬追平の方へ行ってみません?」
登り坂になると、そこは飯鉢山の山麓《さんろく》だった。行く手の道が左右に大きく分かれている。右側が旧道で、狭い砂利道だった。ガードレールもない、ところどころに心細い錆《さ》びた手すりが立っているだけだ。新道が出来て以来、この道を通る車はほとんどなくなった。
左側に大きくカーブしているのが新道で、義子の言う通り、道幅も広く、岩肌はコンクリートで塗り固められ、がっしりしたガードレールも付いている。見るからに安全な道だった。
田岡は三叉路《さんさろ》の手前で車の速度を落とした。三叉路の右角、旧道の手前に沿って、ちょっとした展望台ができていて、車をとめる場所がある。コンクリートのベンチがいくつか置いてあり、非常用の電話も備えられている。田岡は展望台に車を乗り入れて外に出た。
義子は亜の手を取らんばかりにして、展望台の突端に導いた。
「亜さん、ちょっとわたしの傍に並びません? わたし、この場所から見る景色が、一番好きなのよ」
亜は言われるまま義子の傍に行き、小手をかざして裾野《すその》の広がりを見渡した。義子に奉仕しようとしているのか、大袈裟《おおげさ》な身振りだった。
「奥さん、何という素晴らしい美景でしょう。絶景という言葉はこの景色のためにあるような感じです」
「ああ、あなたは何という表現の豊かな人なんでしょう。世の中には怨霊《おんりよう》を食べたがったり、景色よりナメクジウオの歯に感激する人もいるというのにね」
田岡は何を言われようが驚かない。小永井と一緒にワゴン車の後ろから、ハンマーやシャベル、クリノメーターやフィールドノートなどの七つ道具を取り出して点検する。
亜はしばらく景色を眺めていたが、そのうち、自分の鞄《かばん》を開けて三脚やカメラを取り出し始めた。
「亜さん、矢張りあの嫌らしい動物を撮るんですか」
「……いいえ。この景色を背景にして、美しいお姿を収めたいと思います」
「あら、美しいだなんて」
「ご迷惑でしょうか」
「いえ。亜さんがぜひにとおっしゃるのなら――」
義子は変になよなよとして、ポーズを作った。亜は何回かシャッターの音を響かせてから、田岡の傍に来た。
田岡は三叉路《さんさろ》の傍の露頭にへばり着いて、ルウペで岩肌を眺め廻《まわ》しているところだった。
「せ、先生。例のものは?」
目が光っている。
田岡がピンセットの先で示すと、亜はルウペを目の中に突っ込みそうにした。
「どうだ。見事だろう」
「驚異ですよ、先生」
田岡がそれとなく見ると、義子は旧道の向こう側で仁王立ちになり、腕を組んで亜の背中を睨《にら》み付けていた。
車のバッテリーからコードを引き、照明の手筈《てはず》を整える。三脚を立ててカメラを取り付ける。特殊な顕微鏡レンズを調整する。亜は目まぐるしく動き出したが、その割には能率の方は悪そうな感じだった。
それでも順調に撮影が進んだ。
亜は最後に、自分のノートに撮影メモを書き込んだ。頃合《ころあ》いを見て、田岡は小永井に車から採集袋を持って来るように言い付けた。小永井がいなくなると、田岡はそっと亜に頼んだ。
「……済まないが、また義子を撮ってやってくれないか」
「かしこまりました。今度はうんとセクシーなポーズを注文しましょうか」
「何でもいい。好きなようにしてください」
亜は心得てレンズを替え、旧道を横切って、展望台の方へ歩き出した。
そのとき、びっびいというけたたましいクラクションの音が響いた。
思わず振り返ると、糸香の方から来た乗用車が亜のすぐ後ろに迫っている。車は速度を落とそうとしない。亜は車が新道の方へ左折すると思っていたらしく、道の中央で棒立ちになっていた。だが、車は亜に向かって突き進んだ。
「危い――」
田岡が叫んだ。
亜の身体が露岩の側に吹き飛んだ。自動車に撥《は》ねられたようでもあり、自分で跳躍したようでもあった。
車は旧道の小砂利を蹴立《けた》てながら走り去り、すぐカーブで見えなくなった。
「大丈夫か?」
亜は岩の隅で片手にカメラを持ったまま、大の字に寝ている。
「ひらりと身をかわしました。大丈夫です、先生」
亜はカメラに気を遣っているようで、ゆっくり寝返りでも打つようにぱたんと俯《うつぶ》せになり、それから尻《しり》を突き上げ、最後に両腕を突っ張って立ち上がった。あまり良い恰好《かつこう》ではなかった。義子が泥でも払ってやるかと思ったがそうではない。
「――どうしてあなたそこにいたの、ベニモクセイの香りのためね」
鼻唄《はなうた》を歌っている。
「それにしても、乱暴な運転をする奴《やつ》だったな」
田岡は亜の傍に寄った。
「先生、ナンバーを読みましたか」
小永井も憤慨しながら走って来た。
「いや、その閑《ひま》はなかったなあ。車体の字を読むのが精一杯だった。どんな奴が運転していた?」
「黒いサングラスを掛けた男がハンドルを握っていました」
「……確か、窓にはカーテンが降りていたようだったな」
「そうです。車の中は見えませんでした」
亜はネクタイを締め直し、良い男に戻って、ポケットから見事に潰《つぶ》れた煙草《たばこ》の箱を取り出しぐにゃぐにゃになった煙草をくわえて火を付けた。
「車体に赤い文字で〈ニウ島屋〉と書いてありましたね」
「そう、ニウ島屋――あまり聞いたことのない名前だね」
義子がけらけら笑い出した。
「ニウ島屋だなんて嫌ね。あれは〈屋島ウニ〉だったわ」
田岡と亜は顔を見合わせた。
「先生、そうですよ。あれは屋島ウニでした」
と、小永井も言った。
「……おかしいな。いや、確かにニウ島屋と読んだんだがな」
「賭《か》けますか?」
「こっちには自信がある。賭けよう」
「何を賭けますの」
「来週の日曜日には調査を止しにして、映画を見て、フランス料理を食べ、そうして――」
亜がおほんおほんと煙草にむせた。
田岡は我に返り、取って付けたように言った。
「まあ、怪我《けが》がなくて何よりだった」
「僕もカメラが無事で何よりでした」
と、亜が言った。
「そろそろ一服したら?」
と、義子が言った。
「僕、珈琲《コーヒー》を持って来ています」
小永井はリュックサックを開けた。田岡が好物の蟹饅頭《かにまんじゆう》が見えた。蟹饅頭を食べながら、小永井にコノドントの講義を聞かせてやる。横目で義子を見たが不愉快そうではない。田岡は調子に乗って、ナウマンゾウの化石を発見した苦心談をたっぷり独演してやる。時間は万年単位から億の単位に飛躍する。田岡はいつの間にか、宇宙創世記の悠久な流れの中にいた。
車のクラクションの音で我に返った。
最前のけたたましい音ではない。ぴいぽうという調子の柔らかな音だ。見ると、旧道から、一台の乗用車がゆっくりと走って来た。車は展望台の前まで来ると、そろりと止まった。後ろ座席《ざせき》の窓が開いて、見覚えのある顔が出た。
「一生懸命、やってますな」
顔は荒木校長だった。車を運転しているのは息子《むすこ》らしい。
「雨が上がって、助かりました」
と、田岡が言った。
「私の方も、気分転換のドライブです。大いに頑張って下さい。成果を期待していますよ」
荒木はちょっと腕時計を見てから、運転席に何か言った。車は静かに動き出し、糸香の方へ走り去った。
「陰気な旧道をドライブするなんて、変ね」
車を見送っていた義子が言った。
「僕を偵察に来たんだろう。校長は僕と武者東小路をいつも気にしている」
「それより、あなた、まだ話の続きが残っていますわ」
と、義子がちょっと時計を見て言った。
義子は地面に寝そべった亜を見てから、何か気分が変わったようだった。亜はその様子を見ていて、再び義子を撮ろうとは言い出さなかったが、田岡は亜に気の毒な気がした。
「さて、いよいよ、次の場所に移りましょう」
田岡は講義を終えて立ち上がった。
「旧道の、奥ですか」
亜が乗り気でない調子で言った。
「そう。弁天岩の傍にある露頭が素晴らしいんです」
「でも、先生。そこは怨霊《おんりよう》の集合地だと言うじゃありませんか」
「君だって有難くない死に方をすれば、怨霊に変わるかも知れませんよ。そのとき、怨霊になった自分を怖がっていては仕方がないでしょう」
「ごもっともです」
「この土地の三畳紀の地層は、断層や褶曲《しゆうきよく》で乱されているので、大変に複雑な様子になっているんですよ。この場所と同じ地層が弁天岩のあたりにも露われているわけで、化石層位学、古生物学的研究にも、あそこは重要な地点と見ているのです」
「……でも、怨霊が群れをなして出て来たら、困るでしょう」
「大丈夫。僕が片端から取って食べてしまいます」
「もし、食べ切れないほど出て来たら?」
「わたしも手伝うわ」
と、義子が言った。
「感受性が強いということは、度が過ぎれば意気地がないということになってしまうんですよ」
「……判《わか》りました」
亜は仕方なく腰を上げた。
田岡は調査用具や採集した岩石を入れた袋を車に乗せ、展望台から発車した。
旧道に入ると、すぐ陰気な暗さになった。雨上がりの道は濡《ぬ》れて黒く、雑草が気ままに伸び、木の枝が重そうに道を覆っている。水を含んだ木の葉が窓をこすると、亜は音に驚いて後ろ座席で身体を丸くした。そのうち、左側に岩肌が再び現われる。右側は谷間だ。田岡は車の速度をぐっと落とした。
そのままで、約十分。そろそろ目的地に近付く頃だった。弁天岩があるのは、見通しが悪く、樹木が重なり合い、昼でも暗い場所だ。
「……先生、これは、怨霊《おんりよう》の臭《にお》いじゃありませんか」
亜が変なことを言い出した。
「怨霊って、臭うものなの?」
と、義子が言った。
「待てよ……」
田岡は鼻をうごめかした。そう言えば、確かに普通でない臭いが感じられる。
「あっ、先生。怨霊《おんりよう》が空に舞い上がっています」
今度はびっくりするほど大きな声だった。
「……どこだ?」
「右側の、谷底です」
田岡は車を止めて、亜の指差す方を見た。
目を凝らさなければ判《わか》らない。亜が指差す方向に、薄く白い煙のようなものがゆらめいていた。
「先生、食べる用意を」
「しかし、あれは霊魂じゃないぞ」
「温泉かしら」
と、義子が言った。
「温泉でもない。多分、何かが燃えているんだ」
田岡は車のドアを開けた。車の中にはっきりとした臭《にお》いが流れ込んだ。
「先生。これはガソリンが燃える臭いですね」
「よかったじゃないか。怨霊でなくて」
田岡は車の前に出て、谷底を覗《のぞ》き込んだ。
「……これは、怨霊より大変だぞ」
「お化けですか?」
「いや、どこかの車が転落しているんだ」
木の間隠れでよく判《わか》らないが、車だということは確かだった。裏返しになった車体の一部に、片足を上げたような形で車輪が見える。火は全く見えない。煙は燃え尽きた後のくすぶりのようだった。目を凝らすと、タイヤの向こうに人の腕が出ているのが判った。腕は全く動く気配がない。
「し、死んでるんでしょうか」
亜が田岡の肩越しに谷底を覗き込んでいた。
「まだ判らない」
転落場所は、矢張り弁天岩だろうか。田岡は小走りに旧道の奥に向かった。だが、十メートルも行かぬうちに、道が消えていることが判った。赤茶色の土砂が、道を完全に埋めていた。
「近寄るんじゃない。崖崩《がけくず》れだ」
と、田岡は叫んだ。
「あなた、危いわ」
義子が泣くように言った。
田岡は注意深く土砂の様子を観察した。赤い土に混って、黒い石や灰色の木の根、引き裂かれた枝などが妙に深とした感じで重なり合っているが、出水は見えなかった。
「これ以上、崩れ出すこともないと思うが、一時、引き上げるしかないな」
「残念です」
と、小永井が言った。
「やむを得ない。今日の調査はこれで中止にしよう。一刻も早く警察へ通報するのが、市民の義務だろう」
「弁天岩も崩れてしまったかしら」
と、義子が言った。田岡はあたりを見廻《みまわ》した。
「岩までにはあと二十メートルはあります。ここから見たところでは、そうひどい崖崩れとも思えないから、弁天岩は大丈夫だろうね」
「すると、あの車は馬追平の方から来て、この崖崩れに巻き込まれたのね」
「どうも、車を見ると巻き込まれたのじゃない。崖崩れの後で転落したようだ。多分、スピードを出していて、直前まで崖崩れに気付かず、運転を誤ったものだろうね」
だが、田岡には気に入らぬことが一つあった。
「それはそうと、今日は旧道を使う車が、いやに多い日だな」
狭い展望台には何台もの車がひしめき合っていた。
まず、警察の交通課の車が到着し、地元消防団や青年団が集合し、それに混って報道関係者や野次馬が続続と現われた。
すぐ、旧道の入口にはロープが張り回《めぐ》らされて立入禁止。旧道には警察のオートバイがひっ切りなしに往復する。
「誰かが谷に落ちたと聞きましたよ」
人混みの中から甲高《かんだか》い女性の声がしている。
「お心当たりがあるのですか」
応じる警察官の声も負けずにきいきいしている。
「ありますとも」
「では、どんな車なのでしょう」
一しきりがやがやいう声が続いたが、警察官の声は最後に断定した。
「では違います。転落した車は国産ではありません。イギリスのスポーツカー、シェパードです。安心してお引き取り下さい」
遠くからヘリコプターの音がしてきた。オートバイの音がそれに加わり、嵐みたいな騒がしさが続く。
田岡達は展望台にワゴン車を駐《と》めていたが、動こうにも動けなくなっていた。ベンチに坐《すわ》って、ぼんやりと成行きを待つしかないようだった。
しばらくすると、旧道の入口にできている人の輪が乱れ、ヘルメットをかぶった二人の男が出て来た。その後から、三角形の顔をした洋装の小柄な老婦人が現われた。老婦人の方はさっさと新道の方に行き、駐めてあった赤い乗用車に乗り込んで、あっという間にいなくなった。
ヘルメットの二人が田岡の方に近付いて来た。
「通報をいただいた、田岡先生でいらっしゃいますね」
ヘルメットを脱ぎ、一礼したのは頭と鼻の大きな逞《たくま》しそうな男だった。
「刑事部の有江《あるえ》と申します」
差し出された名刺を見ると、捜査主任警部、有江次郎としてある。
警察官と知ると、亜は背中を丸めるようにして、そっと田岡の後ろに身体を動かした。有江警部はその動きに目を光らせた。
「……そちらのお方は?」
「僕と一緒に仕事をしていました。撮影員です」
有江は亜を覗《のぞ》き込むようにして名刺を差し出した。亜は服に付いている全てのポケットを探り、最後に内ポケットから、よれよれの名刺を取り出した。有江は名刺をじっと見ていたが、
「ほう……」
口を丸くした。
「ご存じの名ですか?」
と、田岡が訊《き》いた。
「いや、初めてお目に掛かる名ですがね、私の兄も一郎というのです」
「すると、あなたは次男ですか」
田岡は有江次郎という名を確かめて訊いた。
「いや、太郎というもう一人の兄がいます。私の親父はぞろっぺえでね。筋道などどうでも良い人でした。私はそういうことが嫌いでして、これでも理詰めの考えをする方です」
「結構ですね」
「ところで、先生が事故車を発見されて、警察に通報されたのは、二時四十分でした。そのとき、先生は崖崩れがあったのは少し前らしいとおっしゃったそうですが、それには何か根拠がおありでしたか」
「……そう。それには理由があります」
「崖崩れの状態をご覧になってですか」
「いや、その点については専門ではないので崖崩れの状態を見ただけでは何とも言えません。ただ、私達が旧道に行って崖崩れを発見する少し前、この展望台の近くで調査をしていましたが、そのとき二台の車が旧道をドライブしていたのを見掛けたからです」
「なるほど。その車が旧道を走っているときには、まだ崖崩れは起きていなかった。こういうわけですね」
「そうです」
「それは、何時頃でしょう」
田岡はちょっと首を傾《かし》げた。そのとき田岡は講義をしていて、億単位の時間の中にいた。とても、分刻みの感覚からは遠い。
「荒木校長が通ったときは二時ちょうどでした」
と、小永井が言った。
「ほう、それは確かですか」
有江が小永井の方を見た。
「ええ。間違いありません。校長は僕達に声を掛けてから、腕時計を見ました。僕はそれに釣り込まれて、自分の時計を見たんです」
「わたしも時計を見ました。二時ちょうどでしたわ」
と、義子もその時刻を裏付けた。
「その車には荒木校長が乗っていた、と言いましたね」
「その通りです。車を運転していたのは、荒木校長の息子《むすこ》さんのようでした」
「間違いありませんわ。車を運転していたのは校長先生の息子さんでした」
と、義子も言った。
「その車は、どこから来たのですか」
「馬追平の方からです。車はゆっくり旧道から出て来ました。車に乗っていた校長が私達を見付けて声を掛けたのです。車はそのまま糸香の方へ走って行きました」
「なるほど。崖崩れの起こった後では、当然、旧道を運転して来ることはできなかったわけですな。では、もう一台の車というのは?」
「校長の車が通って行った、前だということは確かです」
「時間にしてどの位でしたか」
「……ええと」
「亜さん、そのとき撮影のメモを取っていたでしょう」
と、義子が言った。
「そ、そうでした」
有江はじろりと亜を見た。
「別に、隠していたわけじゃありません」
亜は鞄《かばん》をがたがたさせて撮影ノートを引きずり出した。
「……ええと。一時二十分。こう書いてあります」
有江は慎重に亜のノートを見て、自分の手帖《てちよう》にその時刻を書き入れた。
「その直後、その車が通り過ぎたのです」
と、田岡が言った。
「校長さんの車が通った、四十分前という勘定になりますね。で、その車も旧道から出て来たのですか」
「いえ、その車は糸香の方から走って来て、僕達の前を通り過ぎ、馬追平の方へ行きました」
「……四十分の間隔があれば、二つの車は旧道でぶつかることはない。私もたった今、オートバイで現場へ行って来たばかりですが、弁天岩まで十分もあれば楽に到着することができます。まあ、旧道を通過するには二十分もあれば充分でしょうね。つまり、最初の車が旧道に入り、少したってから、校長さんの車が入れ違いに旧道の向うからやって来た。こうなりますな」
「その通りです」
「ところで、前の車はどんな型の車でしたか」
「……さあ。僕は一瞬見ただけでしたから――」
有江は他の三人を見た。義子と小永井は車には全く興味を持っていなかった。
「トラックと乗用車ぐらいの区別はつくでしょう」
と、有江が言った。
「乗用車でしたね。ただし、国産か外車かは判《わか》りません」
「車体の色は?」
「赤……じゃない。車体に赤い字が書いてありました」
「ほう……どんな字ですか」
「ええと……」
田岡がまた詰まった。義子の方を見たが、すました顔をしている。田岡はゆっくりと言った。
「ニウ島屋でした」
「ニュー島屋ですか」
有江はノートに鉛筆を走らせた。
「いや、島屋の頭に付くのはニューではありません。ニウです」
「ニウね。ニューをニウと書くのが流行《はや》っているんでしょうかね」
有江はしきりに首を傾げていた。
「双宿では聞いたことがありませんね。先生はいかがです」
「僕もありませんね。旧道を入ったところをみると、土地の人間じゃないでしょう」
「奥さんは?」
有江は不躾《ぶしつけ》な目で義子を見た。
「知りません」
「じゃ……亜愛さんは?」
「ぼ、僕は余所《よそ》から来た者です」
警察を避けているような亜の感じが気になるらしい。有江は亜に顔を近寄せた。
「何だか、僕達が取調べを受けているみたいじゃないか」
田岡はちょっと言葉を荒くした。有江は急いで亜に近付けた顔を引き戻した。
「……いや。失礼しました。私は理詰めであると同時に入念をモットーとしているので、ついしつこくなったと思いますが、取調べているわけではないのです」
「すると、事故には何か不審な点でもあったのですか」
「……実はそうなのです」
有江は声を落とした。
「先生は警察に通報なさったとき、車の傍に人が倒れているようだとおっしゃいましたが、現場に行ってみると、被害者はすでに死亡していました。車は二十六屋のもので、死亡者は車の持ち主、二十六屋の社長、榎元|張夫《はるお》でした」
「二十六屋というと、双宿の金融業者でしょう」
有江はうなずいた。質(七)屋より得や(十九屋)で二十六屋という折込み広告が、最近の新聞に頻繁に入っている。サラリーマン金融会社で、田岡のところにも外交員が融資を勧誘しに来たことがある。月一割四分の利息で絶対に有利ですと言うのだが、それが高利か低利かも判《わか》らない。とにかく、金はないのだと言ったが、いや多少はお持ちでしょうと粘られたのには閉口した。
「榎元は悪どい金融業者でしてね。彼を殺したいほどに憎んでいる人間は数が知れません。ですから、我我の立場では榎元が殺されて車ごと谷に投げ込まれたと思う方が、事故で谷に転落したとするより、ずっと自然に感じるわけです」
「大変な男なんですね」
「従って、榎元が事故を起こしたと聞いて、すぐ捜査課が出動したのです」
「で、実際には?」
「後頭部に深い傷がありまして、これがどうも墜落でできた傷というより、鈍器のようなもので殴られた痕《あと》と思われるのです」
「なるほど」
「屍体《したい》が解剖されれば、はっきりしたことが判《わか》るでしょうが、私達は一応他殺の線でも捜査を進めているわけです」
「それで、念を入れているのですか」
「お判りになっていただけましたか。さて……」
有江は自分のノートに目を落とした。何か言おうとしたようだったが、何かが気になるらしい。じっとノートの文字を見詰めていたが、
「先生、ニウ島屋というのは、もしかして、屋島ウニではなかったんですか」
と、言った。
田岡と亜は顔を見合わせた。
「……いや、あれは――」
「まだ強情を張るんですか」
義子が低い声で言った。目が嬉《うれ》しそうに細くなっている。
「奥さんも車体の文字をお読みになりましたか」
「読みました」
「奥さんはいかがでしたか。ニウ島屋でしたか、屋島ウニでしたが」
「屋島ウニでした」
「僕も屋島ウニです」
と、小永井が言った。有江はうなずいて、
「奥さんと生徒さんの読み方が正しいようです。実は、屋島ウニという水産加工業者なら、双宿にちゃんと実在しているのです」
「……そうですか。実在しているわけですか」
田岡は有江に言われて、少し自信がなくなった。
「……僕が車の字を見たのは一瞬でしたからね。しかし、亜さんも僕と同じようにニウ島屋と読んだんですよ。どうしてかな」
「見間違えではありません」
有江は変に気取った調子で言った。演壇にいたら、芝居掛かった咳払《せきばら》いをするところだろう。
「屋島ウニの車が旧道を通ったとき、車を見ていた田岡先生と亜愛さんは同じ場所にいて、奥さんと生徒さんとは離れていたでしょう」
「そうです」
「田岡先生と亜愛さん、奥さんと生徒さんは、それぞれ旧道の両側にいて、通る車を向かい合うようにして見ていましたね」
「よく、それが判《わか》りますね」
「理詰めに考えると、それが判るのです。なぜ、目の前を通る車を見て、奥さんと生徒さんが正しく屋島ウニと読み、先生と亜愛さんがニウ島屋と読んでしまったのか。それは、車を見ていた位置が違っていたからなのです。勿論、先生が間違えたわけではなく、それはなるべくしてなった出来事でした」
「何だか謎《なぞ》めいていますね」
「いや、種を明かせば簡単なことです。先生が見ていた文字はもともとあべこべだったのです」
「あべこべ?」
「車体に書かれた屋号や店名の字は、あべこべに書かれることが多いのですよ。普通、横書きの文字は、英語や算用数字と同じ方向に書いて行くわけですが、車の場合、車の進行方向から書き始めるという習わしみたいなものができていまして、それに従う車が多いのです。まあ、進行している文字を読むときには、その方が目に馴染《なじ》んで読み易いという理由からでしょうが、そうすると、車体の片方は普通の方向に書けばよいが、車の反対側の文字はあべこべに書かないと、車の進行に沿って読めなくなります」
「ははあ――」
「屋島ウニの車も〈車の進行方向から書き始める〉という習わしに従って、車体の文字を書いていたと思います。つまり、車体の一方には屋島ウニと書かれ、車体の反対側はニウ島屋と書かれていたのです。この車が旧道に差し掛かり、先生達の間を抜けて行ったのですが、奥さんと生徒さんがいた位置では屋島ウニと書かれた側の字が見えたのです。ところが、田岡先生と亜愛さんは、反対側に立っていらっしゃった。すなわち、ニウ島屋と書いてある文字を〈車の進行方向から書き始める〉という習わしを気にしないで読んだため、ニウ島屋そのままを読み取ってしまったのです」
「なるほど、理詰めですね」
田岡は感心した。
「最初からあべこべに書いてあったのでは仕方がない」
「その上、先生には失礼ですが、先生は先入観で字を見ていらっしゃったとも思います。これも無理のないことで、私達は屋号に慣れていますからね。つまり何何屋、何何軒というように〈屋〉の付く文字を最後に読む癖が付いています。その上、バー何何、ホテル何何というように仮名文字は屋号の頭に付ける習慣もあるでしょう。そういう先入観も重なって、一瞬見た文字を頭の中で組み立てたとき、屋島ウニがニウ島屋となってしまったのでしょう」
「……ごもっともです」
「わたしの勝ちね」
と、義子が得意気に言った。有江も似たような表情になっている。
「いや、ご協力いただき、大変有益なお話を有難うございました。これから、屋島ウニと荒木校長の話も聞かなければなりませんが、崖崩れのあった時刻は二台の車が通った二時以降。転落事故もその後だということが判《わか》り、これは、大変役に立つと思います」
有江は軽く一礼し、連れの警察官に目くばせをして立ち去ろうとしたが、ふと亜を見て変な顔をした。
「どうかしましたか?」
亜が白目を出している。田岡が肩を叩《たた》くと、瞼《まぶた》の上から黒目が降りて来た。亜は目をぱちくりさせていたが、
「いや、ちょっと気が付いたことがあっただけです」
「気になりますね。それは何か、おっしゃって下さい」
有江は亜の方に向き直った。
「……刑事さんはすぐ連絡すると言いましたが、屋島ウニの会社は今日はお休みでしょう」
「そうでしょうね。日曜日ですからね。でも、組合に電話をして、責任者の自宅を教えてもらい、連絡することができますよ」
「その結果、多分、屋島ウニの会社の駐車場は開放的で、車の持ち主は楽天家で、車は誰でも持ち出せる状態だったということが判るでしょう」
「?」
「荒木校長の方はすぐ連絡できます。恐らくこの近所にいて、何人もの人と会っているはずです」
「……理詰めで、それが判《わか》るのですか」
「まあ、一応――」
「あと、どんなことが判ります?」
「大したことじゃありません。あと僕が判ったのは、榎元さんという金融業者を殺したのは、荒木校長だった、ということぐらいですから」
有江警部は亜のてっぺんから爪先《つまさき》までを見渡して顔を歪《ゆが》めた。
「君ね、気軽に言って良いことと悪いこととがあるでしょう。思い付きぐらいで人を犯人だなどとは言うべきではありませんよ」
「勿論《もちろん》そうでした。いや、うっかり迂闊《うかつ》なことを言ってしまいました。良くないことでした。気になさらずに」
「僕は大いに気にしますね」
と、田岡が言った。
「先生、もう、いいです」
逃げようとするから、腕を押え、煙草を取り出してくわえさせ、火を付けてやった。
「この人はときどき、支離滅裂みたいなことを言いますが、よく訊《き》くと理詰めです。ただ、結論へ達したとき、自分でもびっくり仰天して、うまく言葉が出て来ないだけです。落着かせて、順序よく話を訊く価値がありますよ」
有江はもう一度亜を見て、胡散臭《うさんくさ》そうに言った。
「先生がああおっしゃるので訊《き》きますが、では、なぜあなたは荒木先生が榎元を殺した犯人だと言うのですか」
「……それは、田岡先生と僕が、屋島ウニという文字をニウ島屋と読んでしまったからです」
有江はこれはもう駄目だという風に首を振り、子供に言って聞かせるように、ゆっくりと喋《しやべ》った。
「その理由は、今、筋道を立てて、私が説明した通りですよ。車体に書く文字は、ときとしてあべこべに書くことがある、と」
「そ、その意味でしたら、充分、よく判《わか》っています」
「判っていれば問題がないでしょう」
「いや、僕が言うのは、僕達が屋島ウニの車を見ていた場所です」
「つまり、あなた達は二人ずつ、道の両側にいたのでしょう」
「ですが、僕と先生とは、道のどちら側にいたと思いますか?」
「……それは、車を後ろから見た場合、左側の車体に書かれている文字は普通に、左から右への順になっていますから、誰でも屋島ウニと読める。車は旧道に入っていったと言いますから、岩壁を左に、展望台を右に見て走っていたわけです。従って、奥さんと生徒さんはその位置、つまり、ここから見て、旧道の向こう側、岩壁の傍にいらっしゃった。それとは反対に、車の右側の車体の文字は、走行方向に従い、右から左へと書かれている。それを左から右に読もうとすればニウ島屋。つまり、先生と亜愛さんは旧道の右側、展望台の側にいらっしゃった。こうなります」
田岡と亜は顔を見合わせた。亜は申し訳なさそうな顔をしている。
「あら、違うわ」
と、義子が言った。
「違う? どう違うのですか」
有江は口を尖《とが》らせた。
「あべこべよ。わたしと小永井君がいたのが展望台で、田岡と亜さんは岩壁の方にいました」
「……そんなはずはないですよ。理詰めに考えればそうなるのです」
「理詰めでも、事実は違うのよ。四人の位置は正反対だったわ」
「待って下さいよ」
有江はノートのページを裂いて山形に折り、鉛筆で両側に屋島ウニと書き込んだ。山形の紙を自動車に見立てるつもりだ。有江は旧道の方を向き、紙の自動車を左から右に動かして見せた。
「いいですか。車体の文字は右から左に書いてあり、それをこちら側、展望台の方から見ていた人が、左から右へ読もうとするから、ニウ島屋となるのです」
「でも、実際は違っていたわ」
「……変ですねえ。論理的には正しいでしょう」
「そう、警部さんの論理は違ってはいません」
と、亜が言った。
「理論が正しければ、わたし達は岩壁側にいたというの」
と、義子は抗議した。
「いや、事実は曲げることはできません。でも、こうすれば、きっと皆さんの顔が立つと思います」
亜は有江の手から、紙の自動車をつまみ上げ、両面の文字を消して、それぞれ、あべこべに書き直した。
「ね……」
亜は旧道の方を向いて、紙の自動車を立てて見せた。文字は左から右へ、屋島ウニと読めた。
「しかし、それじゃ、両側の文字は、後ろから前へという順になるじゃないか」
「この世にそんな書き方をしている車は、一台もないでしょうね」
「勿論《もちろん》、ない」
「とすれば、答は一つに決まっています。屋島ウニの車は、どの車でもするように、車体の両側の文字は、前から後ろにという順で書かれていたのですが、しかし車の方があべこべに走っていたのですよ」
「あべこべ?」
「つまり、あの車は我我が前だと思っていた方が後ろで、後ろだと思っていた方が、実は前だったのです」
田岡は自分の脳味噌《のうみそ》もあべこべになったような気がした。だが、よく考えると、亜の言うことは正しい。田岡はあべこべに並べられた文字が、あべこべに走って来たのを読んで、ニウ島屋だと信じて疑わなかったのだ。
「ねえ先生。あの車は逆に走って来たのではないと言えますか?」
と、亜が田岡に言った。
「……言えないな。車はあっという間に通り過ぎ、ナンバーを読む閑もなかった。荷台のあるトラックやワゴン車なら一目で変だなと思うでしょうがね。乗用車の気取ったデザインとなると、走っていなければ前後の区別の付かない車が多い。車の窓はカーテンが降りていて中も見えなかった。サングラスを掛けた男がその車の中で後ろ座席にあべこべに坐《すわ》り、ハンドルみたいな輪を握っていれば、我我の目を欺《だま》すのは簡単だったと思うね」
「誰が運転をしていたというのですか」
有江が不愉快な口調で言った。
「校長か息子かの、どちらかでしょうね」
「校長の車は、馬追平の方から走って来たと言ったじゃありませんか」
「そうなんです。校長の車はあべこべに走りながら、旧道に入って行き、ちょっと行ったところで止まり、恐らく車体に張ってあった赤く目立つ屋島ウニのシールをはがし、時刻を見て、カーテンを開け、今度は普通の運転をしながら、旧道から戻って来たのです」
「旧道を出入りした二台の車は、一台だったと言うのですか」
「そう考えないと、どうしても辻褄《つじつま》が合わないのですから仕方がありません」
「……つまり、旧道を通り抜けた車は一台もなかった」
「そうです。もし、旧道の出口のあたりに目撃者がいて事実を知らなかった僕達の証言を聞くと、とんちんかんな問答になっていたでしょうね。無理に筋道を立てようとすると、屋島ウニの車は弁天岩のあたりで煙のように消失し、代わって、校長の車がお化けみたいに現われた、と考えなければならなくなります」
「……しかし、校長はどうしてそんなことをしなければならなかったのですか」
「車をあべこべに走らせる趣味の人なんて、聞いたことがありませんから、何か理由がなければならない。僕の考えでは、校長は旧道を通り掛かった二時頃、崖崩れはまだ起こってはいないということを証明しようと思ったのではないでしょうか」
「旧道を二台の車が自由に出入りしていたとすれば、当然、そう考えられますが――」
「実際にはその時刻より、ずっと早く崖崩れが起きていたのです」
「崖崩れの時刻が誤認されると、一体どうなります」
「金融業者殺人事件に関してアリバイが成立し、校長は容疑の対象から外されるでしょう」
「……谷に転落した車は、崖崩れが起こった後だということははっきりしている。崖崩れが二時以降に起こったことが証明されれば、当然、犯行も二時以降ということになる」
有江はうめいた。
「ですから、校長は二時以降のアリバイさえしっかりしていればいいのですから、今頃はこの近所で多勢の人と会っていると思うのです」
「最初から整理すると、どうなるんでしょう」
有江は呆然《ぼうぜん》とした調子で亜に訊《き》いた。
「……これは僕の妄想《もうそう》ですけれど、多分、こうでしょう。荒木校長と息子は金融業者の榎元さんに殺意を持っていまして、今日、飯鉢山の旧道、弁天岩のあたりに榎元さんを誘い出したのです。校長はどの道を使ったか判《わか》りませんが、犯行の前に崖崩れはすでに起こっていたのです。これは予期していない出来事だったのですが、犯行後、崖崩れを見ているうちに、ふと、うまいアリバイ作りを思い付いたのです。被害者と車は、崖崩れの起きた土砂の上に落ちていて、崖崩れはまだ誰も気付いていない。見通しの悪い旧道ですから、発見はいつになるか判りません。ところで、田岡先生。先生は今日、弁天岩の近くへ調査に行くことを、校長に教えませんでしたか」
「教えましたね。昨日、その時刻|迄《まで》、校長に言った覚えがあります」
「そうでしょう。とすると、校長は崖崩れを発見するのは、田岡先生だということも予想できたのです。その田岡先生がまだ発見者になる前、二台の車が旧道に出入りするのを目撃させて置けば、自分のアリバイが成立すると考え、共犯の息子と、それを実行に移したわけなのです。ただし、二台の車はちょっと姿を変えて走らせた方がいいと思い、違う音の出る二つのクラクションを用意し、車体にはシールなど貼《は》り、派手な字を使って偽装したのです。特に屋島ウニの名を使ったのは、その会社の車の管理が杜撰《ずさん》で、本物の車のアリバイがはっきりしない利点があったからだと思います。けれども、本物に似せるあまり、車体の文字も、ついうっかりして、本物と同じように、車の進行から書き始めたので、いざ車をあべこべに走らせたとき、僕達目撃者の証言が変てこになってしまったのです」
田岡は感心した。コノドントの歯からその全貌《ぜんぼう》を指摘したトレミー博士に優るとも劣らないように思った。
「……実に、偉い」
しかし、一度幻滅を味わわされた義子の価値は元に戻らなかった。
「当たり前のことね。わたしの友達などは、ワイシャツに付いた紅で、夫の浮気を発見したわ」
このとき、遠くから車のクラクションが聞こえた。見ると、糸香の方から白と黒に塗り分けた車が走って来た。
「チョウシケイの車ですね」
と、亜が言った。
その車の車体には、大きい文字で、左から右へ「庁視警」と書かれていた。
第六話 赤の讃歌《さんか》
ぱん、ぱん……
大空に真っ赤な煙が散り乱れる。
美術館前の大広場。ファンファーレが高らかに吹奏され、華やかなパレードの行進が始まった。先頭は少年少女の鼓笛隊。続くは、阿波踊《あわおど》りの行列、揃《そろ》いの若衆姿も艶《あで》やかな芸妓《げいこ》連中、とりどりの花を持ったクラブのホステス達。旗や造花で飾られた何台ものオープンカーにはモデル嬢達が輝く肌を誇示している。車を囲んで、三銃士、マドロス、神父、若武者、猿廻《さるまわ》し、相撲取りなどが練り歩いているのは若い画家達の仮装である。
美術館の正面に、紅白のリボンが張られている。どこからともなく黒の背広を着た役員達が現われ、リボンの前に整列する。曙光《しよこう》会会長、鏑鬼《かぶらき》正一郎の姿はすぐに判《わか》る。トレードマークになった真っ赤なブレザーに同色のベレー帽と蝶《ちよう》タイ。血色の良い赤ら顔で、部厚な唇に赤いパイプをくわえている。役員達に化粧鋏《けしようばさみ》が配られ、一斉にリボンがばらばらになる。同時に、紅白の柱に吊《つる》されたクス玉が二つに割れ、テープや紙吹雪が飛び散る。空に舞い上がる色とりどりの風船の間に、真っ白な鳩《はと》が飛び交う。
曙光会展の開場式は、毎年、華麗な段取りで賑《にぎ》やかに催され、美術の秋の幕開きを飾ってきたが、今年は一段の盛り上がりである。名物政治家や有名女優、人気歌手や著名作家達、多数の絵が展示されることになっていて、世間の話題が集中しているからだ。
しかし、阿佐《あさ》冷子の目には、それが、鏑鬼正一郎の葬儀のように見えた。
「……これで、鏑鬼正一郎は、完全に死んだな」
思ったことが、つい独り言になる。その声が耳に入ったのか、冷子の横で一生懸命パレードに見入っている、三角形の顔をした洋装の老婦人が、びっくりしたように振り返った。冷子は何となくばつが悪くなり何となく老婦人の傍を離れる。
場所を変えても同じである。冷子の視界には、異能な画家として見事な作品を生み出していた鏑鬼正一郎の姿はなく、曙光会を画壇最強の勢力に作り上げた為政者としての鏑鬼正一郎が、有名人達に取り囲まれて、満足そうに笑っていた。
鏑鬼正一郎が曙光会の会長に就任してから、曙光会展の入場者は五倍に激増したといわれる。事実、曙光会が勢力を伸ばすとともに、画壇全体が活気を帯びるようになり、その煽《あお》りか、今まであまり売れなかった阿佐冷子の評論集などにも影響が出ているらしい。現に、美術館前の広場には、赤を基調とした、いわゆる鏑鬼トーンのファッションにくるまれた若者の姿が目立っているし、または、絵画とはあまり関係なさそうな人達も多く集まっている。
「……中里ララも来ていますよ。あっ、香嵐《こうらん》らん子もいる」
興奮したような声が聞こえる。
あの連中も物好きな閑人《ひまじん》に違いない。絵よりも見覚えのある人気歌手の顔を探すのに熱心だ。
「なるほど、二人共、実物は綺麗《きれい》だね、悪運」
冷子は声の方を見た。冷子の目に止まった人物は、ちょっと意外な感じだった。男女の一組だったが、両方共、鏑鬼トーンとは無縁な身形《みなり》だったからだ。
「悪運」と呼ばれた男は、色白で端正な容姿を、伝統的な紺の背広とネクタイで決めている。軽軽しく人気歌手の名など口に出さないような知的な雰囲気があった。
女性のほうはずっと年上だった。大柄な身体に皮ジャケットとジーンズという装いで、いかつい眼鏡を掛け登山靴をはいている。
何やら、得体の判《わか》らない二人連れだったが、冷子はこれだから男は見てくれだけでは判らないと思った。一見、聡明《そうめい》に見えても、ちょっとした言葉で馬脚を現わす。今の会話からすると、本心から絵が好きではないようだ。
こうした人間にも美術館へ足を運ぶようにさせた鏑鬼正一郎の手腕は立派だが、反面、冷子はうら淋《さび》しい気分を抑えることができない。現在、鏑鬼が機械のように生産する絵の全てに、口当たりの良さを感じるだけで、見て心を動かされないのだ。二十年前の鏑鬼が描いた作品は、同じ赤を基調としながらも、もっと切羽詰まった凄《すご》みがあり、見る人の心に恐慌を与えるような激しさを持っていた。
「阿佐、冷子だね」
突然、肩をつかまれて、冷子は振り返った。全身に褐色の絵の具を塗りたくったインディアンの扮装《ふんそう》をした男が立っている。
「いかにも、阿佐ですが」
「〈芸術人間〉の評論を読んだ」
インディアンは酒臭い息を吐いた。
「よくも、鏑鬼先生を誹謗《ひぼう》したな」
阿佐はにっこり笑った。元元、こうした言い争いは嫌いな方ではない。
「あれは誹謗や中傷ではない。現在の鏑鬼正一郎の正しい評価をしてやっただけだ」
「うるさい。すぐ、雑誌に記事取り消しをし、謝罪文を書け」
「嫌だ、と言ったら?」
「こうしてやる」
インディアンは、いきなり冷子の胸倉をつかみ、喉《のど》を締め上げた。
「この、野蛮人……正正堂堂と……議論せず……暴力に……」
段段息が苦しくなるが、負けてはいられない。
「空《から》っ下手《ぺた》絵描きの……犬……」
気が遠くなりかかったときだった。
「君、女性に対して失礼ではないですか」
言葉は立派だが、そのくせ変に力のない声が聞こえた。
「何だと?」
インディアンは腕の力を緩めた。
「……薄野呂《うすのろ》野郎め」
阿佐はやっと最後の悪態を言うことができた。
声の主は悪運だった。インディアンは悪運の立派な押し出しに一瞬たじろいだ風だったが、すぐ肩をいからせる。
「これが、女だってえのか。この、般若《はんにや》の空揚《からあ》げみてえのが――」
「ぼ、暴力はいけません」
声が震えている。見ると、悪運の後ろに、大柄な女性が腕組みをして睨《にら》んでいる。悪運はどうやら連れの女性に命令されて中に割って入ったようだ。
「よし、お前が相手だ」
インディアンは悪運に向き直った。
「いや、ぼ、僕が相手になるとは言っていませんよ」
悪運の顔から血の気が引いている。それを見てインディアンは勝算を感じたらしい。拳《こぶし》を固めて身構える。それを見た悪運は背広を脱いで肥《ふと》った女性に渡す。見ているとこうした場面に馴《な》れているようでもある。やるかな、と見ていた冷子の期待は、次の瞬間に裏切られた。
勝負は最初の一発で決まりだった。下顎《したあご》に見事なパンチを受けて、悪運は丸太ん棒みたいにひっくり返る。
冷子は思い切った悲鳴を上げた。
見物人の間から、水戸黄門に扮装した男が現われ、インディアンの腕を取る。
「もういいだろう。今日はこのくらいにしておけ」
水戸黄門はインディアンを引きずって行く。
「阿佐冷子、覚えておれよ」
と、インディアンが捨て台詞《ぜりふ》を残した。
「女に背中を見せるのか、ゴキブリ絵描きめ」
と、冷子が怒鳴った。
地面に寝ていた悪運は、寝返りでも打つようにぱたんと俯《うつぶ》せになり、それから尻《しり》を突き上げ、最後に両腕を突っ張って立ち上がった。
「先生、これでよかったですか」
悪運は肥った女性から背広を受け取りながら訊《き》いている。
「まあまあだが、最後、起き上がるところが不恰好《ぶかつこう》だったな、悪運」
冷子は下顎《したあご》の脹《ふく》れ始めた悪運が気の毒になり、丁重に礼を言った。
「なに、そう礼を言われても困ります。あなたの大声が敵を怯《ひる》ませたのですから」
肥《ふと》った女性は磊落《らいらく》な調子で言った。
「それにしても、男ってのはどうしてこうだらしがないんだろう。なあ、悪運」
悪運は小声で、済みませんというようなことを言い、大股《おおまた》で歩き出す女性の後を追って人混みの中にいなくなった。
奇妙な二人の後ろ姿が見えなくなると、冷子は我に返り、再びもの悲しい気持に襲われた。
本当は冷子は鏑鬼正一郎の絵に、熱烈な愛着を感じているのだ。鏑鬼への敬意は、彼の取り巻き連中が何百人束になって掛かって来ても絶対に負けない自信がある。
もう二十年も前になる。冷子はまだ画学生だったが、鏑鬼正一郎が特異な情感と技能を持って、画壇に登場したときの鮮烈な印象を忘れることができない。その画風はすでに赤を基調としていて、どれも嵐のように烈しく、炎のように熱情的で、渦のような畏怖《いふ》を秘めていた。冷子はその絵の前に立ったとき、恐怖とも呼びたいような重圧感を受け、肌が粟立《あわだ》ってしばらくは息をすることさえ忘れてしまった。
しかし、鏑鬼が世間の注目を集めるようになってからは、その画風が急速に変わって行った。暗い赤への畏怖が消えて、明るい赤への讃歌が表面に押し出され、やがて、その色調は薄手な装飾に拡散してしまう。
現在の鏑鬼が、額縁の中の絵ばかりでなく、デパートの包装紙やファッションショウ、室内インテリアから学用品にまで手を染めているのは、赤の追究でなく、赤の叩《たた》き売りにすぎないと思う。砂糖水にわずかばかりのエキスを入れて大量販売する清涼飲料水の商法と同じ行き方だ。
だが、明らかな実質の低下と反比例して、鏑鬼の名利は止まることを知らないかのように広まるばかりだった。数年にして曙光会の会長に就任し、テレビの人気者になり、ベストセラー著者となり、画壇の大親分に祭り上げられている。
二十年前の感動を覚えている冷子には、鏑鬼が昔の歌を忘れ、芸術商人になってしまったことが何としても残念でならないのだ。〈芸術人間〉に発表した文章というのは、そうした日頃《ひごろ》の鬱憤《うつぷん》を正直に書いたものだった。
鏑鬼正一郎については、まだ書くべきことが数多く残っている。それには、二十年前、鏑鬼がなぜ赤を基調とした絵を描くようになったか、そのときの心の状態に分け入ることが必要だった。冷子は直接、鏑鬼に会ったが、鏑鬼は昔のことを語りたがらない男だった。鏑鬼が育った環境は恵まれているとは言えなかった。貧困の思い出を嫌う気持は判《わか》るのだが、鏑鬼という人間を知る上では、その時代に目が及ばなければならない。現在、虚名と金銭のみを追い続ける、好色で平凡な一人の人間が、二十年前のひととき、炎のように心情を燃焼させたものは何であったかを知るために。
本人が言わなければ、その時代の鏑鬼を知っている人達の証言が必要だった。その時期、鏑鬼が絵を描いていた土地、妃護《ひご》山岳帯の北端、赤臼山の麓《ふもと》に、浅日向《あさひなた》洋平という年寄りが住んでいる。鏑鬼の伯父《おじ》に当たる男で、その家に、両親を早く失った鏑鬼が、何年間か身を寄せていたことがある。
「――先生、お待たせしました」
人間社の編集員、旭名《あさひな》敏夫がやっと現われた。散散、待たされた冷子は不機嫌になっていた。
「遅かったじゃないか。どうしたんだ」
旭名は低血圧らしく、細く青白い頬《ほお》をつるりと撫《な》でた。
「何しろ……朝がとても弱い質《たち》でして」
まだ、すっかり人間を取り戻していない表情だ。
「人のことは言えないな」
「え?」
「なに、独り言だ」
悪運とその連れの女性を奇妙な一組だとは言えない。冷子と旭名が並べば、似たような一組になっているはずだ。
冷子は感動している。
二十年前、鏑鬼正一郎が独自の感覚で作品を制作していた、同じ世界にいる。
環境の俗化が進んでいるのは、せいぜい南にある馬本温泉郷止まり。赤臼山一帯は、二十年前、鏑鬼が見ていた風景のまま、一本の木も変わっていないようだ。
冷子は鏑鬼の初期の作品をよく見ているからそれが判《わか》る。鏑鬼の筆が、実景を無理に歪曲《わいきよく》したものでないことを知った。それは、貴重な発見だった。
冷子は今、赤の世界にいる。
赤臼山は文字通りの赤い山だった。ところどころの山肌から亜硫酸ガスと硫化炭素の混合ガスが噴出しているため、山腹には樹木が生育しないのだという。だが、その山裾《やますそ》は燃え立つような紅葉に覆われている。
赤臼山から発する川は、鉱物が沈澱《ちんでん》して赤い川床を作っていて、一見、赤い水が蛇行しているような異観である。
鏑鬼は好んで赤い空を描いた。それと同じ空がここにはある。
日没にはまだ時刻が早いから、夕焼けというより、低い雲が赤臼山の色を返照しているとしか思えない空の色だった。
四季の移り変りや朝夕の光に、この赤の世界は複雑な変化を見せるに違いない。鏑鬼は多感な青年期をこの風景の中で過ごした。持って生まれた資質は、赤の世界の中で、独自に磨《と》ぎ澄まされていったはずである。
「先生、素晴らしい眺めですね」
すっかり血色の良くなった旭名が言った。
旭名は鏑鬼の代表作「赤臼山暮色」と同じ視点に立って、赤臼山を撮影しているところだ。
「先生に教えていただくまで、鏑鬼正一郎に〈赤臼山暮色〉のような絵があるとは思いませんでした。鏑鬼と言えば、どれも同じような絵ばかり描いていて威張っている、テレビに出たがり屋さんとしか思っていませんでしたから」
「そうなんだよ。彼が初期のような絵ばかり描いていたら、とても今のように有名にはならなかったろうね」
「つまり、先生は、鏑鬼が甘ったるい絵を描いているのは、一般受けを狙《ねら》う、計算ずくの行為だと言うのですか」
「それがよく判《わか》らない」
「鏑鬼はここの生まれなんですか」
「いや、生まれは違うね。彼の生まれは金沢で、中学まで金沢で暮らしていたんだ。鏑鬼の家は、代代、友禅を染める模様師で、父親も腕の良い職人だった」
「じゃあ、小さい頃から絵には馴染《なじ》んでいたわけですね」
「まあ、父親は家内工業の模様師だったからね。当然、身の廻《まわ》りには染色の材料があり、父親の仕事はいつも見ていたと思う」
「その鏑鬼家は、なぜ金沢を離れてしまったんですか」
「父親が急死したからだよ。急性の肝硬変が原因だったらしい。父親は大変な酒飲みだったというね」
「子供達はまだ小さかったんですね」
「そう。父親の正之助には二人の息子《むすこ》がいて、正一郎に正二郎だったが、父親が死んだとき長男の正一郎はまだ中学校も卒業していなかったんだよ。正之助の妻はふじ子というが、ふじ子の実の姉が、浅日向洋平の妻なんだ。夫が死ぬと金沢には身寄りがないというところから、ふじ子は姉を頼って、この土地に引っ越して来たというわけだ」
「すると、浅日向洋平と鏑鬼正一郎とは、伯父|甥《おい》の関係になるわけですね」
「そう。ふじ子と二人の息子は多少でも生活が楽になるのを望んで転居したんだが、ここで待っていたのは更に厳しい運命だった。その後、二、三年のうちに、正一郎は母と弟を次次に亡くしてしまったんだよ」
冷子は改めて、自分が赤の風景の中にいることに気付く。
――そう、これは重要なことだ。父を失い、続けざまに母と弟とに死に別れた鏑鬼正一郎は、この赤の風景に面して、何を見、何を感じたのだろうか。
そのときだった。赤い世界の奥に、一つの人影が現われた。その人影は右腕をぐるぐる廻しながら疾走していて、見る見るうちに大きくなる。
冷子は顔をしかめた。若き日の鏑鬼への思索が破られたからだった。
その上、悪いことに、冷子は駈《か》け寄って来るワイシャツにネクタイの姿に見覚えがあった。東京を出発する直前に出会った悪運に似ているのだ。
もしそうだとすると、この出来事は実に作り物めいて、白白とした気分を起こされる。
「た、助けて下さい」
予感が当たった。声は悪運に違いない。だが、顔の大きさが倍ぐらいの大きさになっている。インディアンのパンチが、今頃効いてきたのだろうか。
「済みません、助けて下さい……あっ」
悪運は冷子の顔を見ると転倒しそうになった。
「これは、奇跡の再会です。あなたは、般若《はんにや》の空揚《からあ》げ――いや」
「阿佐冷子と言います」
と、冷子は静かに言った。
「確かにあなたとは今朝お会いしたばかりですね。しかし、お顔が違っているみたいだけれど」
「これが原因です」
悪運は握り締めていた右手を開いた。黒い虫のようなものが見える。
「何ですか、これは?」
「蜂《はち》です。今、朝日先生はクロスズメバチの大群に襲われているんです」
「蜂ですって?」
冷子の頭から、完全に鏑鬼正一郎が吹き飛んだ。
「だから、助けて下さい」
よく見ると、悪運の顔が大きくなっているのは、蜂に刺された跡だった。悪運の掌から蜂の死骸《しがい》がぽろりと落ちた。
東京では冷子が悪運に助けられている。今度は冷子が恩返しをしなければならないが、相手が蜂ではどうしたら良いか判《わか》らない。冷子は旭名に問い掛けた。
「どうしたらいいだろう?」
「東京でなら、すぐ保健所が来てくれるでしょうが」
と、悪運は泣かんばかりだ。
「スプレーを持っていますよ」
と、旭名が言った。
「殺虫剤の?」
「いや、脱毛剤のスプレーです」
「脱毛剤……君はいつもそんなものを持っているのかね?」
「ええ。無駄毛を取るためです。身嗜《みだしな》みですから」
冷子は実に嫌な気分になった。
「そんなスプレーが、蜂《はち》に効くかな」
「効きますよ。蜂の毛が皆抜け落ちて、蛆虫《うじむし》みたいになるでしょう」
「……何もないより、ましかも知れないが」
「あ、有難うございます」
悪運はスプレーを受け取ると、元の方向に駈《か》け出した。均衡の悪い駈け方だが、速度はびっくりするほど早い。
見ていると、悪運は遠くの木陰に見えなくなり、しばらくすると、二つの姿になって現われた。一人の方は背広らしいものを頭からかぶっている。二人の足取りが落着いているところを見ると、スプレーは効果を上げたようだ。
「スプレーを吹き掛けた蜂は、禿《はげ》にこそなりませんでしたが、不思議なほど戦意がなくなりました」
悪運は冷子のところに戻るとそう報告した。
悪運の背広のお陰で、連れの肥った女性に被害はなかったようだ。
「悪運が、蜂の巣の上に尻餅《しりもち》をついたのがいけなかった」
屈託なく笑う顔を見ていると、冷子は悪運が言った朝日先生という名と一緒に、記憶が甦《よみがえ》った。
「あなたは、生物学の朝日響子先生でいらっしゃいますね」
朝日は太い手を差し出した。
「そういうあなたは、美術評論家の阿佐冷子先生ですね。お名前はよく存じております」
二人は男みたいに握手を交わした。悪運は朝日の昆虫観察に付き添って研究対象を撮影するカメラマンだと言った。
「悪運さんの顔を早く手当てしなければ。近所に、これから訪問することになっている家があります。そこにご案内しましょう」
悪運はそのとき、少し口を尖《とが》らせた。
「ご親切は有難いんですが、ただ、僕は悪運じゃありません」
「……でも、朝日先生は悪運と呼んでいたでしょう」
朝日はからからと笑った。
「いや、この人の名は〈亜〉ですよ。亜硫酸ガスの亜という字を書きます。わたしが〈亜君〉と呼んでいるのを聞いて、あなたは悪運と聞き違えたようですね」
「……なるほど、亜、君、ですね」
それを聞いた旭名がぼそぼそと言った。
「それじゃ、亜さんと阿佐先生と朝日先生と旭名が集まって同行するわけですね」
阿佐は気羞《きはず》かしそうに付け加えた。
「行く先は、浅日向さんの家です」
その日の夕刻。
四人は浅日向家の居間で、囲炉裏《いろり》を囲み、浅日向洋平と妻の勝子の持てなしで、どぶろくを飲んでいる。
自在鉤《じざいかぎ》に掛けられた鉄鍋《てつなべ》から威勢良く湯気が立ち昇る。酒の肴《さかな》は紅鮭《べにざけ》のしょっつる鍋と、皿に山盛りにされた、色鮮やかな茄子《なす》の塩漬け。
浅日向洋平と勝子は、綺麗《きれい》な白髪で、能楽で蓬莱山《ほうらいさん》に遊ぶ翁《おきな》を見るよう。囲炉裏の火を見、鍋のたぎる静かな音を聞いていると、今まで東京の騒音の中で暮していたのが嘘《うそ》のような気がしてくる。
洋平夫婦は実に面倒見がよく、蜂《はち》に刺された亜の顔を見るなり、何よりもこれが一番と言い、赤チンを持って来た。亜の顔は、たちまちまだらな赤提燈《あかちようちん》みたいになった。
「あなたは素直な人ですね」
と、勝子が亜を誉《ほ》めた。
「正一郎はお洒落《しやれ》で、死んでも嫌だと薬を付けさせませんでしたよ」
そして、これからホテルへ行くのは大変だ、家は古いが部屋数は揃《そろ》っているから、遠慮なく泊っていきなさいと言ってくれたのは洋平だった。
酒が出されたとき、旭名は顔を曇らせたが、冷子はこれは良いと思った。
「先生、どぶろくは飲んだことがありません」
旭名は頼りない声を出した。
「だからいいんじゃないか。今日は正一合は飲め」
傍にいた朝日がけげんな顔をする。
「無理に、飲ませるんですか?」
「そうです。旭名君は酒が飲めないと言うんですよ。男の癖に酒が飲めないでは凄味《すごみ》がないでしょう。だから、このところ毎日付き切りで仕込んでいるのです」
「酒を仕込む?」
「動物に曲芸を教える要領でいいんです。毎日毎日、根気良く酒を飲ませるのです。大抵は途中でぶっ倒れますからね。彼のアパートに担ぎ込んでやらなければなりませんが」
「なるほど。男に酒を仕込むというのも面白そうですね」
朝日は赤脹《あかぶく》れになっている亜の顔を見た。
「亜君は酒が飲めたかな?」
亜は強いて落着こうとしているような態度で、
「僕なら大丈夫です。以前、人に頼まれて、タクシーの中でマーテルの青ラベルを一本飲んだことがありました」
「ほう、コニャックだね。しかし、妙な飲み方をしたもんだな」
冷子は相当な飲み手だったが、朝日はそれに引けを取らなかった。たちまち一升瓶が空になる。見ている浅日向洋平も楽しそうで、勝子に命じてどんどん酒瓶を運び込ませる。加えて、朝日の食欲も豪快だ。見る見るしょっつる鍋《なべ》が浅くなる。
「正一郎も酒が好きでしたよ。ただ、ワインやブランデーなどの洋酒は飲みませんでしたがね」
と、洋平が言った。
「鏑鬼さんは好き嫌いの多い人なんですか」
と、冷子が訊《き》いた。
「そう、神経質な子でしたからね。スジコやイクラ、タラコなどが駄目でしたな」
「魚の子が嫌いだったんですか」
「大体、丈夫な子ではありませんでしたね。大きくなってからも、お祭で強飯《こわめし》を食べ、お腹を悪くしたことがありました」
勝子が付け加える。
「それ以来、強飯を食べんようになりました。夏に西瓜《すいか》を食べたときもそうでしたね。きっと冷えすぎていたんでしょうが」
冷子はこの話を面白く思った。見るからに精力的な現在の鏑鬼からは想像できないようなエピソードだった。
「その頃の鏑鬼さんは、不幸続きだったようですね」
「そうなんですよ。家に来たときの正一郎は、不運のどん底にいたのです」
洋平はしんみりした調子になった。
「わたくしの家内の妹は、縁あって金沢の鏑鬼家へ嫁いで行き、正一郎と正二郎という二人の男の子を産んだのですが、夫の正之助はその子供達が一人前になるのを見ずに亡くなってしまったのです。義妹《いもうと》のふじ子は夫に死なれて心細くなったと言って来ました。正之助は模様師でしたが、後を継ぐ者がおりませんで、ふじ子は生まれ故郷に帰り、姉の傍に落着いて暮らしたくなったのです。ちょうど正一郎が中学を卒業、正二郎が小学校を卒業しまして、時期も良いというので、ふじ子は金沢を引き上げて来たわけです」
「わたし達にとっても、喜ばしいことでした」
と、勝子が言った。
「わたし達には子供がありませんでしたからねえ。主人もまだ若く働き盛りで、幸いお金に不自由はしていませんでしたので、二人の学費ぐらいは面倒を見てやることができたのですよ」
「ふじ子は針仕事ができましたから、町の炭屋の二階を借りて、呉服屋の仕立物の注文を取って、まあ、豊かではないが、人並みの生活を送るようになったのです。しかし、運ちゅうものは判らないもので、結局はこれが良くなかったです。ふじ子がここに引っ越して来てから三年目。下の炭屋が火を出しましてね」
洋平はほっと溜《た》め息を吐《つ》く。
「炭屋には石油を置いてありましたから、火の廻りは早い。正二郎は買物に行っていて留守。ちょうど学校から帰っていた正一郎は着の身着のままの状態で逃げ出しましたが、ふじ子は預かっている仕立物を何としても持ち出さねばと思ったのが間違いで、階段からは逃げられなくなり、煙に追われて二階から飛び降りましたが、運悪く地面に置いてあった馬鍬《まぐわ》に頭を割られ、正一郎の見ている前で即死してしまいましたよ」
冷子は思わず襟を正した。それは、正しく非業の死と言うにふさわしい。
「二人の子供は家に引き取りました」
と、勝子が言った。
「二人共、性格こそ違いますが、本当に良い子で、すぐ、わたし達は自分の本当の息子《むすこ》のように思うようになりました」
洋平はうなずいて、
「正一郎はわたくし達のことを気にして、新聞配達の仕事をしたいと言って来たことがありましたよ。わたくしは自由にさせました。もっとも、仕事は二、三日して辞めましたがね」
「朝には弱い子だったんですか」
と、冷子が訊《き》いた。
「いや、そうではありません。何か気に入らぬことがあったのでしょう。正一郎はその後、昼間近所の畠仕事《はたしごと》の手伝いなどして、そのお金を全部絵の具に替えていました」
「鏑鬼さんが東京へ出たのはいつ頃でしたか?」
「高校を卒業し、当人の望みで美術大学に入学するため、上京したのです。もっとも、長続きはしませんでしたが」
その辺の事情は鏑鬼自身が書いた文章で知っている。当人はアカデミックな学風に肌が合わなかったと言っているが、冷子はその点を洋平に確かめることにした。鏑鬼は学校が嫌いになった原因を、洋平には何も話さなかったようだ。
鏑鬼は浅日向の家に戻ってから、町の看板屋のビラ描きなどの仕事に手を染めるが、それもすぐ辞めて、後はただ部屋に閉じ籠《こも》って絵に専念していたという。
その二年間、冷子を驚嘆させた初期の作品群が、次次と描かれていたのだ。
「普通でないことは確かでした」
と、洋平は言った。
「正一郎はただ鬼みたいな形相になって、ただ、カンバスを赤く塗っていました。出来上がった絵を再び見る閑《ひま》も惜しそうで、ただ積み上げ、新しいカンバスに立ち向うのでした。冬でも火の気のない部屋から離れようともせず、三度の食事も自分の部屋に持ち込むほどでしたよ」
その姿は、冷子が想像していたものに近かった。冷子は東京を発つときから用意していた疑問を洋平に問い掛けることにした。
「女性はどうだったのでしょう?」
「女性?」
「ええ。鏑鬼さんが若かった頃の、女性関係ですが」
洋平と勝子は顔を見合わせる。
「……あの子はどうだったんだろう。ほれ、正一郎が病気になったとき、カーネーションとリンゴを沢山持って見舞いに来た子がいたがな」
「あの子は違いますよ。あの子が正一郎を好いとったかは知りませんが、正一郎の方じゃ、良うは思うとりませんでしたよ」
と、勝子が言った。
「はて、そうだったかな」
「そうですよ。正一郎はその子の見舞いの品をすぐわたしの部屋に持って来てしまいました。それで、ああ、あの子には気がないんだなあと思ったのを覚えとりますよ」
その他、正一郎の傍には、女性の姿が全くなかった、と洋平と勝子は声を揃《そろ》えた。
冷子は鏑鬼を駆り立てたものが知りたかったのである。それが、女性ではなかったとすると、正一郎の弟、正二郎の死だったかもしれない。正二郎の死は、鏑鬼が絵の制作に没頭していた時期だった。
「鏑鬼さんの弟の正二郎さん。確か……正二郎さんは若死にだったそうですね」
「気の毒な子でした」
洋平は重い口で言った。
「両親を早く亡くしたせいか、お互いに思いやりのある大変に仲の良い兄弟でしたのにね。わたくし達も本当の息子《むすこ》のように思っていたので、とても悲しい思いをしました」
「正二郎さんは、一体、どうして亡くなったのですか」
「自殺でしたよ」
洋平は重い調子を崩さずに答えた。
「ここから五キロほど東にある、桐岬《きりみさき》の崖《がけ》から海に飛び込んだのです。現場に遺書がありました。警察からわたくしのところへ届けられて、初めて事の大事を知ったのです。遺書には、将来の望みがないとあり、そうした正二郎の心境が見抜けなかったことが悔やまれてなりませんでした。いくらわたくし達が本当の子供だと思っていても、正二郎の方では、矢張りわたくし達に打ち明けられない悩みを持っていたのですね」
「……つまり、それが契機となって、鏑鬼さんが絵に没入するようになったのですね」
「それは、少し違います」
「違う?」
冷子は再びはぐらかされる思いだった。
「それは確かですよ。正二郎が死んだのは、正一郎の最初の個展が開かれた後でしたから」
「個展の後――ですか」
鏑鬼正一郎はその時期、絵を発表しようという心は全くなかったという。最初の個展は洋平の判断で取り運ばれた。洋平の友達で、小学校の教師をしていた男がいる。その教え子に、画商と関係のある仕事をしている事業家がいた。洋平はその手蔓《てづる》で、東京に鏑鬼の絵を運んだのである。
「……では、鏑鬼さんは、一体、どんなきっかけがあって、絵に専念するようになったのですか?」
と、冷子は洋平に訊《き》いた。
同じ質問を直接鏑鬼にぶつけてみたことがある。その答えは、自分でもよく判《わか》らないというものだった。
「なぜ蛹《さなぎ》が蝶《ちよう》になるのかと問われても、蛹自身にも判らないでしょうな」
と、洋平は言った。
「ただ、これだけは言えるでしょう。その変態は、かなり苦痛を伴うものだったようです」
「あら、そこにも苦しんでいる方がおいでです」
と、勝子が言った。
見ると旭名が青い顔をして息を弾ませている。
「先生、もう駄目です。このどぶろくは凄《すご》く効きます」
その隣では亜が気持良さそうに舟を漕《こ》いでいる。
冷子と朝日は手分けをして二人を一室に運び込み、浅日向夫妻に礼を言った。
冷子達が宛《あて》がわれた部屋は、かなり広い納戸《なんど》で、鏑鬼がアトリエとして使っていたという。気のせいか、かすかに絵の具の匂《にお》いが残っているようだ。冷子は新たな感慨でその部屋を見廻《みまわ》した。
朝日はまだいつもの寝る時間ではないと言う。冷子も同感で、飲み直そうと意見が一致する。
二人だけで話してみると、実に気が合う。どうも男というのは腰抜けで愚劣であるという見解から、牡蠣《かき》料理はトレミー風に限るという嗜好《しこう》まで同じだからいつまでたっても話が尽きない。次から次へと話に花が咲き、朝日はすっかり上機嫌となって、最後には東大の校歌を歌い出すから、冷子も手当り次第に小皿や茶碗《ちやわん》を叩《たた》いて斉唱する。ドンジョヴァンニを二幕《ふたまく》ぶっ通しに歌い終り、ベートーヴェンの第九交響曲を合唱しているとき、隣の部屋できゃっと言う声が聞こえた。
「亜君の声だ」
と、朝日が言った。
「泥棒かな」
冷子も耳を澄ませる。
「泥棒なら、合唱が聞こえている部屋の傍に近付くことはないでしょうね」
朝日は立って、部屋の引戸を開けた。
瞬間、冷子も叫ぶところだった。その部屋が真っ赤だったからだ。
「火事か?」
と、朝日が小さく叫んだ。
「違いますよ」
亜は敷蒲団《しきぶとん》の上に正坐《せいざ》している。意外に落着いた顔付きだった。
「目が覚めたとき、最初、僕も火事だと思いました。でも、これは朝焼けの色なんです」
「朝焼け――ね」
冷子はまだ寝ている旭名をまたいで窓の傍に寄り、障子窓を開いた。
「ほう……」
東の空に躍り出ようとする太陽の活力が、自ら出の舞台を赤く燃え立たせているのだった。暁光は大地にまで返照し、南側に見える赤臼山の肌も赤赤と染め上げている。
「これは見事な朝焼けだ」
朝日も感嘆して言った。亜は恐縮していて、
「僕の声で目を覚ましてしまったようですね」
朝日は笑って、
「なに、本当のことを言うと、まだ寝ちゃいなかったんだよ」
「じゃあ、先生が僕の顔を見て〈腫《は》れるや、腫れるや〉と歌っていたのも、夢じゃなかったんですね」
「そう歌っていたのは確かだが、君の顔を見て歌っていたわけではない」
「それなら安心しました」
「しかし……亜君はこの朝焼けを見ただけで、あんな声が出たのか?」
「そうです。朝焼けを見ているうちに、変なことを考えたものですから」
「それは、どんなことだね」
「喋《しやべ》っても信用してもらえそうもありません」
「言わないのかね?」
朝日はちょっと声を荒立てた。
「言います」
亜はあっ気なく主張を引っ込めて小声になった。
「……実は、今、盛んに活躍している鏑鬼正一郎は、この家で絵を描いていた鏑鬼正一郎とは違っているような気がしただけです」
「……じゃあ、今の鏑鬼正一郎は、一体誰だと言うんだ?」
冷子は亜の顔を覗《のぞ》いた。両方の目が白目になっている。
朝食は白い飯と若布《わかめ》の味噌汁。香の物は茄子《なす》の塩漬け。
朝日は無造作に地卵を割り、熱い飯に掛けて何杯も掻《か》き込んでいる。冷子は大声を出した後で味噌汁が旨《うま》く、何杯もお替りをする。
旭名は二日酔い気味で、小鳥みたいに香の物を突付くだけ。亜も何か胸に支《つか》えるものがあるようで、あまり食欲がなさそうだ。
食事を終えると、朝日はしきりに亜の方を見て目配せをする。
亜は浅日向夫婦を上目遣いに見、よれよれの煙草《たばこ》に火を付け、おほんと言い、ちょっと茶をすすり、口をもぐもぐさせる。
朝日は堪《こら》え切れなくなったように口を開いた。
「浅日向さん、この亜君が何かお伺いしたいことがあるそうなんですが、聞いてやって頂けますか?」
洋平はにこにこ笑って、
「何なりと伺いましょう」
そう言われると、亜は余計に固くなり、下手な役者が台詞《せりふ》を棒読みするような調子になった。
「……違っていたら、申し訳ないと思い、あまり言いたくはないと思っていたのですが、先生がああおっしゃるものですから、ちょっとだけ……」
「どんなことでも尋ねて下さい」
亜はもぞもぞと身体を動かし、ポケットから小さな物を取り出した。ありふれた洋鋏《ばさみ》だった。亜は鋏を洋平に示して、
「これは、僕が寝ていた部屋の、違い棚の隅に転がっていた品ですが、もしかして、鏑鬼さんが使っていた鋏ではないか、それをお訊《き》きしたかったのです」
洋平は妙な顔で亜を見た。重重しく持ち出された質問の内容が他愛なさすぎて、戸惑っている表情だったが、それでも、亜が差し出した鋏を手に取って、
「おっしゃる通り、正一郎がいつも使っていた鋏です」
と、答えた。
「じゃ、鋏の把《と》っ手《て》の部分を黒く塗ったのも、鏑鬼さんですね?」
「把っ手?」
「ええ、指を入れて持つ部分です。そのところは黒いエナメルのような塗料で塗られていますが、ところどころ禿《は》げていて、下に塗られている赤い塗料が顔を出しています」
「そう言われてみると思い出しました」
と、勝子が言った。
「この鋏は元、わたしが使っていたのです。正一郎と正二郎がこの家に来たときは、火事の直後のことで、持ち物がすっかりなくなっていました。そこで、すぐ必要になる品品を集めて、二人に分け与えたのですが、この鋏はその中の一つでした。ええ、元元は赤い鋏だったのですよ。正一郎は女の子の持ち物のような赤い色を嫌って、黒く塗り直したのでしょうね」
「それでよく判《わか》りました」
亜は満足したような口調で言った。だが、洋平はまだ納得しない様子で、
「しかし、正一郎が鋏《はさみ》の色を塗り変えたということを知ると、どういうことになるのですかね」
亜は当然のことのように言った。
「……つまり、現在の鏑鬼正一郎さんは、本当は正二郎さんだということも判《わか》るのです」
洋平はふいと笑いを引っ込めた。
「二十年前に自殺をしたのは、正一郎さんの方だったのですね?」
洋平と勝子は顔を見合わせる。
しばらくして、洋平は静かに言った。
「それを知って、どうなさるのですか」
声は静かだが、真剣勝負のような鋭さがある。亜はとたんにしどろもどろになり、
「そ、それを知っても、どうもしません。ただ、僕は自分の考えが正しいかどうか、それだけが知りたくて……」
朝日が助け舟を出す。
「この男の言うことは本当です。わたし達はどんなことを知っても他言しないと約束しましょう」
「あなたがおっしゃることを信用しましょう」
洋平は居ずまいを正した。
「この人がどんなことを考えたか知りませんが、現在の正一郎は、二十年前の正二郎だったということは本当です」
冷子は心の中で嘆声をあげた。
「一体、どうして二人が入れ替わるようなことになってしまったのですか」
「二人のために、それが、一番良いと信じたからですよ。――正一郎は東京から帰って来たとき、すでに絵が描けなくなっていたのです。正一郎は懸命に戦いましたが、敗北してしまったのです。絵が描けなくなった人生は無でありました。正一郎は絵を描けなくなったことに絶望し、死を選んだのです」
「……しかし、実際には、その時期、多くの絵を描いていたではありませんか」
「わたくしに言わせると、あの時期の正一郎が描いた作品は、絵ではなく、叫びだったのです」
「叫び?」
「そうです。わたくし達は作られた小説を読むより、一通の手紙に深い感動を受けることがあります。そういう意味で、あの時期の絵が人の心を打つのです。あれは絵が描けなくなった正一郎の魂の叫びでありました。しかし、その叫びは、人の心を揺さぶる力を持っていました。わたくしはそれを見て、多少なりとも人人の関心を得れば、正一郎の励みになるかと思い、友達の伝《つて》を求めて、わたくしが独断で個展を開いたのです。幸い、それが高名な美術批評家の目に止まり、正一郎の才能が認められるきっかけとなったのですが、結果は悪い方に向かってしまいました。わたくしの考えがそこにまで及ばなかったことが残念でなりません。絵を描き続けることを強要された正一郎は、追い詰められてしまったのです。正一郎には絵を描くことができませんでした。今迄《いままで》の通り、叫び続けていれば、すぐ声は嗄《か》れてしまいます」
「すると……正一郎さんの死後は、正二郎さんが似たような絵を描き襲《つ》いでいったのですね」
「そうです。正一郎の絵は叫びなのですから、人を打つ力は強くとも、色調や筆勢は複雑ではありませんでした。正二郎は正一郎の残した独得の画法をすぐ真似《まね》るようになりましたよ。全てはわたくしが指導したのです。これまで協力し合って来た兄弟だから、兄の遺志を襲《つ》ぐことは、兄も喜ぶに違いないと言ってやりました。最初のうちは、まだ納戸《なんど》に山積みされた正一郎の遺作に、正二郎の絵を少しずつ混ぜて発表していったものです。ですから、現在の鏑鬼正一郎は、正一郎と正二郎の複合体なのです。わたくしは、鏑鬼正一郎は、正一郎が彼を作り、正二郎が彼を成したものと考えているのですよ」
冷子は呆然《ぼうぜん》としてつぶやいた。
「……鏑鬼正一郎は完全に死んでいたんだ」
「……僕は東京を出発する直前、偶然にも美術館の前を通り掛かり、鏑鬼正一郎氏の実物を見ました。そのときの鏑鬼正一郎氏は、真っ赤なブレザーに同色のベレー帽と蝶《ちよう》タイ。口には赤いパイプをくゆらしていて、いつもテレビなどで見るお馴染《なじ》みの姿をしていたのです。それは、いかにも赤の色調によって大成した、赤の画家にふさわしい、赤を愛好し、赤を讃美している気持をよく現わしているように思えました」
列車がトンネルに入った。トンネルの反響で、列車の音が急に喧《やか》ましくなる。それでなくとも、車輛《しやりよう》のリズムにともすると消えがちな亜のぼそぼそした声が、ふいと聞こえなくなった。
「え?」
と、朝日が訊《き》き直した。
旭名の横に坐《すわ》っている亜は、空咳《からぜき》をしてから、宙に消えた言葉を再び繰り返す。
「浅日向さん夫妻の言動が、しかし、ちょっと変だったのです」
「どう変だったんだね?」
冷子もさっきから、それを考え続けている。どうやら、亜は一夕、浅日向夫婦と食事をしただけで、ある結論を引き出す手掛かりをつかんだらしい。だが、冷子がどう思い直してみても、亜と同じ思策を辿《たど》ることができない。
突然、列車がトンネルを出た。亜の顔が明るくなる。
「一番最初は、浅日向さんの奥さんが、蜂《はち》に刺された僕の顔を手当てしてくれたときでした。奥さんは僕の顔に赤チンを塗りながら〈正一郎は死んでも嫌だと薬を付けさせませんでしたよ〉と述懐しました」
「正一郎がお洒落だったから、じゃなかったのかね」
と、朝日が訊《き》いた。
「そう、ただし、僕にはちょっと引っ掛かるものがあったのです。赤チンは赤い色でしょう。赤チンの色についてだけ考えると鏑鬼氏が大好きな赤だからです」
冷子には、物品の色だけについて考えるという亜の考えを珍しく思った。亜は話を続ける。
「次は夕食のときです。浅日向さん夫妻は、正一郎さんの食べ物の好き嫌いに言及して、嫌いだった食べ物のいくつかを並べましたね。それはスジコやイクラ、タラコなどでした。ははあ、正一郎さんは、魚の子類の生ま臭いのが駄目なのかなと思っていると、強飯《こわめし》や西瓜《すいか》が出て来ました。待てよ、強飯や西瓜は魚とは違うと思った瞬間、その全部に共通する特徴がひらめきました。スジコやイクラやタラコ、それに強飯や西瓜は、皆、赤い食品だということです。まだあります。正一郎さんはお酒が好きでしたが、ワインやブランデーなどが駄目だったと言う。正一郎さんは、その味や匂《にお》いではなく、赤い色に駄目だったということがすぐに判《わか》りました」
知らぬ間に、冷子の思考は亜と同じ波長で動き始めているのが判った。列車の響きが身体に慣れるように。
「阿佐先生が、浅日向さんに、正一郎さんの女性関係を訊いたときもそうでした。正一郎さんが病気になったとき、カーネーションとリンゴを沢山持って見舞いに来た女の子がいたそうです。その見舞いの品は、すぐ奥さんの部屋に運ばれましたが、それは正一郎さんがその女性を好ましく思っていなかったからなのではなく、カーネーションとリンゴの赤が嫌いだったのに違いありません。最後まで判《わか》らなかったのは、朝には弱くないはずの正一郎さんが、新聞配達の仕事を三日と続けられなかったことですが、それも、翌朝になってから判りました。正一郎さんは赤臼山近辺の凄《すご》い朝焼けと、夕焼けの真赤な世界の中で仕事をすることが堪えられなかったのです」
「確かに……あの土地の朝焼けは普通ではない鮮やかさだった」
と、朝日が言った。
「というようなことをまとめると、正一郎さんの心が段段と見えてきます。正一郎さんは単に、赤が嫌い、というのではなく、赤に恐怖を感じ赤に強い強迫感を持っていたことが判るのです」
「赤を讃美するのとは正反対だったんだね」
「赤への恐怖は、生まれつき持っていたものか、資質として備わっていたものかは判りませんが、表面に出るようになったのは、火災の体験がきっかけになったと思います。赤い火に追われ、逃げ場を失った母親は二階から飛び降り、運悪く地面に置いてあった馬鍬《まぐわ》で頭を割られたといいます。正一郎さんはその血しぶきを見てしまったのですよ。そのとき、燃え盛る火焔《かえん》と血潮の赤は、正一郎さんの心に強烈な恐怖を植え付けたものと思います」
「美術大学に入学しても、長続きがしなかったのは、それが原因だね」
「看板屋のビラ描きの仕事もすぐ辞めてしまったのも同じ理由からです。商店街のビラには特別大安売り、出血大サービスなどの赤い文字が躍っているではありませんか。以来、赤への恐怖は弱まることがなく、スジコやイクラは見ただけでも駄目。多分、うっかり口にしてしまった赤飯に身体の方が敏感に反応して、体調を崩してしまうほどだったのです。冬になっても火が恐くて部屋を暖房することもせず、囲炉裏の火を避けて、食事も自分の部屋に持ち込む習慣になりました。赤い品に触れるのを嫌い、鋏《はさみ》の把《と》っ手《て》の色を塗り替えなければ落着けませんでした」
「その正一郎が、なぜ赤い絵を描くことに没頭したのだろう?」
「正一郎さんは赤の恐怖を克服しようとしたのです。将来の目標を絵に置いている人間が、特定の色が嫌いでは困るではありませんか。お酒が嫌いな人をお酒を飲めるようにさせるためには、毎日毎日、辛抱強くお酒を与えなければなりません。それと同じことで、正一郎さんは赤と良い友達になれるよう、必死でカンバスに赤い絵の具を塗り込めていったのです」
「それを知っていた人は?」
「正一郎さんは誰にも話さなかったと思います。画家として立つには、決定的な弱点でしたからね。浅日向さんも、正一郎さんの絵が叫びだとは判《わか》っても、それが赤を恐怖する叫びだとは気付かなかったようです。正二郎さんの場合も同じで、正一郎さんの画風を受け襲《つ》いでからは、ずいぶん赤と仲良くやってきたではありませんか」
「わたしが気にいらなかったのは、その馴《な》れ馴れしさでしたよ」
と、冷子は言った。
「でしょう」
亜はにっこり笑った。
「もし、今の鏑鬼正一郎氏が、本当の正一郎さんだったら、赤いものを身にまとったり、赤いものを口の中に入れるような真似《まね》は、とても恐ろしくて、考えてもみないことだったでしょうね」
静かに聞いていた旭名が、亜のような口調でもぞもぞ言い始めた。
「……結局、正一郎さんは、赤への恐怖が消えないうちに追い詰められてしまったのですね。死の場所は赤臼山近辺ではなく、安らげる青い海の底を選んで。それはそうと、阿佐先生。先生のお陰で僕も少しはお酒が飲めるようになりましたから、今度は先生の男嫌いも直す番ではありませんか?」
阿佐はふと亜の顔を見た。こういう男と毎日顔を合わせていれば、あるいはという気になるかも知れない。だが、まだ亜の顔はまだらな赤提燈《あかちようちん》の状態にあり、更に悪いことに脱毛剤が掛かったのか、片方の眉《まゆ》がなくなっている。
車内のアナウンスが聞こえた。列車は麻雛壇《あさひなだん》駅に到着するところだった。
第七話 火事酒屋
夜道を急ぎながら、美毬《みまり》は夫の季節がまた巡って来たことを知った。
風が強く、ときどき真っ白な半月が雲に浮き沈みする。落葉が乾いて冷たい風に舞いあがる。小さな踊りが、あれを見ているときの夫に似ているのだ。
その日、姑《しゆうとめ》は商店会の旅行で留守。店にいるのは夫だけだ。
――早く帰らなければ。
気は急《せ》いているのだが、自然にゆったりとした足取りになる。お腹《なか》が重いから、自然に背筋が伸びて胸が反る。足が遅いのは、転ばないように気を付けているためもある。
「産み月だというのに、よく来たね」
友達が呆《あき》れた。美毬が悠然と、力士のように皆の真中に坐《すわ》ると、他の友達がこまめに座椅子《ざいす》やお茶を運んで来た。
いくらでも物が食べられる。その夜の友達は、胃下垂と低血圧でいつも青い顔をしていた美毬しか知らない。
銀蔵と結婚して二年目。その間に尖《とが》っていた顎《あご》が丸くなり、きいきい声がアルトに変わり、更に不思議なことには、近視が少しずつ治って、眼鏡の必要がなくなってしまった。
夫婦は似るというが、我ながら天晴《あつぱ》れな、文学少女から商人の上《かみ》さんへの変身ぶりだ。
好きな文学青年がいて、銀蔵との見合いはその男への面当《つらあ》てで、だから、夫が寝静まったあと、店のウイスキー瓶を抱えて、ほろほろしていたこともあった。だが三月《みつき》もすると、銀蔵の店とこの町が気に入ってしまった。
青蘭《せいらん》市は海に面した古い城下町である。人情は開《あ》けっ広《ぴろ》げでおおらか。悪く言えば軽薄なところさえある。野良犬が多く、火事が無闇《むやみ》に起こる。明治の末、東京の人間が多勢移って来た。だから、東京の下町の気風みたいなものが残されているのだ、と言う人もいる。
銀蔵はずんぐりした男で真ん丸い目に特徴があった。暗算がびっくりするほど早く正確だが、この才能は必要から生じたものらしい。姑《しゆうとめ》の話では、亡くなった父親が一升瓶を何本も学校へ運び、やっと中学を卒業させてもらったようだ。
この町には駈《か》けている者はない。よく考えると、人間が血眼《ちまなこ》になり、死物狂いで決勝点へ駈け込む理由は一つもないのだ。だから「桝銀《ますぎん》」のお上でいる限り、土蔵の鍵《かぎ》も必要でなく、主義や論理も意味がない。
ただし、気にかかることもなくはない。それは銀蔵の「趣味」のことだ。
薄薄その趣味に気付いたのが、結婚二日目。北国のホテルでだった。
街を見物してホテルに戻り、部屋のドアを開けると、中が真っ赤だった。
「あ、火事――」
美毬は思わず叫んだ。
その瞬間、今まで頼りなかった銀蔵の顔が急に引き締まった。銀蔵は運動選手のような敏捷《びんしよう》さで美毬を庇《かば》い、部屋に飛び込んで、真っ赤になったカーテンを開いた。
「……夕焼けだ。ほお」
空が鮮やかな夕焼けで、その色がカーテンを染めていたのだ。銀蔵は「ほお」と言いながら椅子《いす》に腰を下ろし、元通りの頼りない顔に戻った。
旅行から帰って二、三日経った日、銀蔵はぼんやり空を眺めていたが、何を思い付いたのか熨斗紙《のしがみ》を取り出して、美毬に「内祝」と書かせ、それを店の酒瓶に巻いて自転車の荷台に乗せるとどこへともなく行ってしまった。
姑《しゆうとめ》に訊くと、
「お嫁さんを貰《もら》った報告に、署長さんのところへ行ったんでしょ」
当然のことのように答えた。
「何の署長さんですか?」
「消防署の赤西署長さんよ」
「銀蔵さんと知り合いなんですか」
「そう。銀蔵のお父ちゃんからの付き合い。お父ちゃんも火事が好きでねえ」
その日は閑《ひま》だったから、姑は銀蔵の趣味のことを話し始めた。
「内《うち》のことを、世間じゃ何と呼んでるか知っている? 桝銀《ますぎん》と言ったって通じやしませんよ。皆〈火事銀〉と呼んでいるの。死んだお父ちゃんはあの子を消防署に勤めさせるつもりだったの。当人もその気でね。でも、背が低くて、赤西さんが絶対にうんと言わなかったわ。火消しは背が高くなくちゃいけないなんていうのは大昔のことだってね、お父ちゃんは怒ったんだけど、赤西さんは凄《すご》く頭が古くって飛んでもない頑固なの。〈背が足りねえと火事場で引き立たねえ〉って。署長さんの背中には火を背負った不動明王《ふどうみようおう》の彫物があって、お父ちゃんと気が合って、飲んべえで、火を見るのがご飯よりも好きで……」
店の裏にある土蔵に、親子二代のコレクションがあった。
屋根に茶色っぽい草が生えている古い土蔵だ。階下は倉庫に改造されて商品の置き場になっていたが、二階に所狭しと古い火事道具がぎっしりと並んでいる。
美毬が聞いたこともない「龍吐水《りゆうどすい》」という昔のポンプ。アメ色になった沢山の纏《まとい》。黒光りする鳶口《とびぐち》、刺《さし》っ子《こ》、半鐘、梯子《はしご》、掛矢、太鼓。大石良雄が着そうな火事装束に火事羽織。火事の錦絵《にしきえ》や古文書。新しいのでは、銀色の防火服が三着、黄色い酸素ボンベ、ガスマスク、ロープの束。
美毬が驚いていると銀蔵は調子に乗り、サイレンを鳴らして纒のバレンを振り廻《まわ》した。
しかし、銀蔵が最も大切にしているものは土蔵の中にはなかった。これは、後で美毬が見せて貰うことになるが、いつでも銀蔵の胸のポケットに入れられている一枚のカードである。
ある日、店で働いていた銀蔵の姿が急に見えなくなった。
「ねえ、どうしたのよ。お釣りまだなのよ」
山の上外科の看護婦に言われるまで気付かなかった。
「富ちゃん、ごめんね」
姑《しゆうとめ》は釣銭を看護婦に渡した。
「きっと、あれね」
「あれ?」
江田富江はポカンとしている。姑は黙って聞き耳を立てた。遠くでサイレンと鐘の音がしている。
「おじさんの耳、プロだわ」
富江は目を丸くした。
「火事場にいて、危険なことはないんですか?」
美毬は姑に訊《き》いた。
「お父ちゃんのとき、一度追っかけて行ったことがあったわよ。そうしたら、すっかり安心したわ」
美毬は今度はその機会を逃がすまいと思った。
銀蔵は夕方になって戻って来ると、自転車に一升瓶を乗せて、またどこかへ行ってしまった。
だが、次に火事が起きたとき、美毬は銀蔵を追うことができなかった。
消防車が店の前で速度を落としたのである。
「銀、いるかあ」
消防士が叫んだ。そのときもう銀蔵は刺っ子を着て待機していた。突き出された消防士の腕につかまると、銀蔵はそのまま車に飛び乗り、一緒に見えなくなってしまった。
「あんなことをしていいのかしら?」
美毬は呆《あき》れて言った。
「お酒の効き目ね」
と、姑が答えた。
先代のときから、火事が起こる度に桝銀《ますぎん》の店から酒瓶が消えていくことになっている。
その直後、気になる新聞記事を見た。近所の家に放火をし、火が燃えあがって、消防車が来たり野次馬が群がるのを、面白がって見ていた男が逮捕されたというのである。
美毬は眉《まゆ》をひそめた。犯人は変質者に違いない。しかし、銀蔵が同じ変質者でないと断言することはできない。むしろ、反対の可能性の方が強いと思った。ああ火事に執着するのは尋常とは言い難い。
美毬はその新聞記事を読んでから、銀蔵の行動に気を付けることにした。
その年の冬は、二、三度火事騒ぎがあったが、どれも美毬が留守のときで、銀蔵の後を追って現場に行くことはできなかった。火事のシーズンが過ぎると、忘れたように火事が起こらなくなった。青蘭市の人達は、変に義理固く、季節外れにはあまり火事を出さないようだ。
だが、銀蔵は火事を忘れてはいない。ときどき、空《うつ》ろな目で空を見上げているのは、火事を待ち受けている証拠だ。火事の禁断症状が起こり、発作的に火を付けて廻《まわ》るかも知れないので、美毬は油断することができなかった。
夏が過ぎ、秋の祭りが終ると、いよいよ火事の季節の到来だ。
その夜、会った友達の中には、夫が蚤《のみ》の芸当に凝っていて、甘やかすものだから蚤の口が奢《おご》り、夫の血に飽きるので、ときどきはわたしが餌《えさ》にされると、歎《なげ》いている新妻がいた。全く、男に限ってどうして変なものに夢中になるのか、その心が判《わか》らない。
美毬は家の近くまで来たとき、ふと足を止めた。自転車を飛ばしている夫の姿が目の前をよぎったような気がしたからだ。
駅から真っすぐの道を十分ほど歩くと十字路に出る。右へ曲がると、ごみごみした商店街が続き、その中に桝銀の店がある。反対に左の方は緩い登り坂で、静かな住宅地だ。坂を登りつめたところに山の上外科があって、更に疎《まば》らに住宅が続く。
今、美毬が十字路に差し掛かったとき、右の道から出て来た自転車が、道を横切って、住宅地の方に走り抜けたのだ。自転車の荷台に箱が乗っていて、二、三本の一升瓶が見えた。その自転車は見馴《みな》れている。
美毬は腕時計を見た。
十時を過ぎている。店もとうに閉めている時間だ。いつもなら、銀蔵が一杯やりながら時代劇のテレビを見ているころだった。
美毬が立ち止まっていると、同じ商店街の方向から、今度は黒い乗用車が乱暴な速度で走って来て、美毬の前を突き抜けて、あっという間に住宅地の方へ見えなくなった。
美毬は暗い坂の方を見た。耳を澄ませたが、消防車のサイレンや、鐘は聞こえない。しかし、黒い乗用車が気になる。銀蔵は酔っている時間だから、車にはねられでもしたら事だ。美毬は自転車の後を追い、住宅地の方へ行く気になった。
山の上外科の前は明るく、玄関には赤い電燈がついている。玄関のガラス戸を押して、看護婦の江田富江が出て来た。
「今夜あたりかな、と思っていたわ。ちょうどいい部屋が空いているわ」
美毬は手を振った。
「そうじゃないの。まだ陣痛じゃないの」
「じゃ、工合でも悪い?」
「いいえ、身体が悪いんでもないの。今、内の人の自転車を見たような気がしたものだから」
「あ、おじさんね。ちょっと前に向こうに入って行ったわ」
富江はバス停の方を指差した。
「酔っていなかったかしら」
「そうね。良いご機嫌だったわ。これで火事でもあれば言うことなしといった感じ」
「内の人がそう言った?」
「いいえ。これはわたしが思っただけ」
道は静かだった。車も自転車も通らない。ただ、ひょろりと背の高い男が坂を登って来るのが見える。その男は病院の前に立つと、目をぱちぱちさせた。
「ここは、ホテルとは違うみたいですね」
白茶のブレザーに桜色のネクタイをきちんと締めている。銀蔵の丸い顔を見馴れた美毬の目には、はっとするほどの好男子だったが、言うことがちぐはぐしている。
「病人ならお泊めしますわ」
と、富江が言った。
「……ときどきぼうっとして、道を間違えることがあります」
「それじゃ入院はできませんわ。この病院に精神科はありませんから」
男は変にがっかりしたようだ。持ち物は小ぶりな黒い鞄《かばん》が一つだった。
「矢張り、ホテルへいらっしゃい」
「そのホテルですが、僕は今、ホテルニューグランド青蘭へ行こうとしているのです」
「だったら、方向が反対だわ」
「大分、歩かなきゃなりませんか」
「バスがあるわ。バスで二つ目。ホテルといっても木造二階の小さな建物ですから、見落とさないようにね」
「判《わか》りました。ご親切に、どうも」
男はバス停の方へ歩き出した。
「病院とホテルを間違えるなんてね」
と、美毬が言った。
「ああ、変な夜だなあ」
富江は溜《た》め息を吐《つ》いた。
「今度こそ、わたしを攫《さら》って行く王子様が現われたと思ったよ」
「脳病の王子様ね」
脳病の王子様はバス停に立って、しきりに時刻表と腕時計とを見較《みくら》べている。重症ではなさそうだが、かなり物事を納得するのが遅いようだ。
美毬は富江にお休みを言い、教えられた道を曲がった。しばらくあたりを見て廻《まわ》ったが、銀蔵の姿は見当たらない。半ば諦《あきら》めてバス停の方に戻ろうとしたとき、曲り角からひょっこり銀蔵が自転車に乗って出て来た。
「ほお」
銀蔵はびっくりして自転車をひっくり返しそうになった。荷台に乗せた三本の一升瓶がかちゃんと音を立てた。
「今時分、どうしたの?」
「そ、そういうあんたは?」
「わたしは坂の下であなたを見掛けたので、こんなに遅くどうしたのかと思って後をつけて来たのよ」
「ああ、そうか。いやね、僕が経師屋橋之助《きようじやはしのすけ》のテレビを見ていると、この先の小沢さんから電話があって、銀さん済まないが、お客が来て酒が足らなくなっちゃったんだ。気の毒だが届けてくれないかと言うのさ。ちょうどテレビがいいとこだったけど、まあ仕方がない、すぐ行くよって急いで来てみるとね、ほお……」
銀蔵のとろんとした顔が、口惜しさを思い出して歪《ゆが》んだ。
「小沢さんじゃ、俺《おれ》んとこはそんな酒を頼んだ覚えはねえって言うんだ。第一、今夜はお客など来ていないし、よし来ているにしろ、家の愛妻は持て成しの途中で酒を切らすような間抜けじゃねえ。銀さん寝呆《ねぼ》けちゃ困るよって。冗談言っちゃいけねえ。確かに電話は小沢さんと言った。押問答をしているとね」
銀蔵は酒瓶を指差した。
「まあいいや、せっかく銀さんが持って来たんだから置いて行けだと。だからね、変なことを言うなって。桝銀は代代押売りをするような真似《まね》はしねえって言ってやった。それで、今、小沢さんとこから出て来たんだ。全く妙な夜さ。ほお」
「その電話の声は、確かに小沢さんだったの?」
「それがね……よく考えてみると、小沢さんだったような、違うような。公衆電話とも思えるし、ああ、頭が痛くなってきた」
これでは、脳病の王子様のことを悪くは言えない。
そのときだ。
ごおっというような音がしたと思うと、あたりが赤くなった。
「おっ!」
銀蔵が振り返る。
二、三軒先のブロック塀の家だ。鉄柵《てつさく》の門の向こうに火の手があがった。
「火事だっ!」
銀蔵は自転車に乗って走り出した。まるで、鬼神が取り付いたみたいだ。
「美毬、近寄るんじゃないぞ」
美毬は聞かなかった。美毬だって待ち兼ねていた火事だ。
銀蔵は叫びながら鉄柵の隙間《すきま》から手を差し入れ、掛け金を外した。火を背にした、人影が見えた。
「誰《だれ》か、いるわ」
門が大きく開いた。その瞬間、いきなり衝撃を受け、美毬は両膝《りようひざ》を地面に落とした。何かが爆発したようだ。
美毬達の後ろから駈け付けて来た男がいる。美毬達が第一発見者だとすると、その男は野次馬の第一号だ。その男はスローモーションフィルムを見るように、道に投げ飛ばされた。それが、脳病の王子様と判《わか》るまでに、何秒も掛かった。
「大丈夫かあ」
銀蔵は自転車の下からむくむく起きだした。しっかりと三本の酒瓶を抱えている。奇跡的にも、瓶は割れていない。美毬は無意識に自分のお腹を抱えていた。脳病の王子様は鞄《かばん》を抱えたまま地面に倒れている。
「大丈夫だわ、膝《ひざ》を着いただけ」
美毬は起きあがろうとした。
「立っちゃ、いけません」
ふいに、脳病の王子様が言った。じっとしているので、気絶でもしたかと思ったがそうではない。王子様は吹き飛ばされたままの形で地面に寝ていたのだ。
「飛ばされたときは、飛ばされたままになっている方が自然です」
相変らず変なことを言う。
あたりの赤さが急に増した。
銀蔵は王子様の言葉などに構わず、門の中に駈《か》け込んだ。
「勇敢な人ですね」
王子様は寝たままで批評した。
「爆発の原因が化学薬品のようなものだとすると、二度目の爆発が予想されます。ですから、起き上がるのはとても危険です」
ちゃんと筋が通っている。美毬は感心すると同時に、銀蔵のことが心配になった。
「今のは、化学薬品?」
「こう、火の手を見ていますと、どうやら燃料用の石油が爆発したようです。とすると、そろそろ立ち上がってもよさそうですね」
男はのそのそ起き上がり、美毬の手を取った。
「今のは、ご主人ですか」
「そうです」
「一瞬にしてそれが判《わか》るとは、いや、なかなか大したものです」
王子様は感心したように、しきりに首を振っている。
美毬は門柱の表札を見た。陶製の札に「掛矢《かけや》清一郎」という名が読める。
「節子さんの家だわ!」
と、美毬は叫んだ。
「お知り合いですか?」
「テニスのお友達なの、今日もテニスのお友達とお食事をしたんですけれど、節子さんは来なかったわ」
近所の家の二階の窓が開く。
「消防署に電話をして下さい」
銀蔵の叫び声がする。火勢が強く美毬はとても門の中には入ることができない。
しばらくすると、銀蔵が真っ赤な顔をして門から出て来た。
「誰か、出て来なかったか?」
「いいえ、一人も」
銀蔵は難しい顔になった。
「僕が駈《か》け付けて来たとき、門の中に人がいた」
「わたしも見たわ」
「今、家の廻《まわ》りを見て来たんだが、誰もいないんだ」
「裏口から出て行ったのではないんですか?」
と、王子様が言った。
「いや、この家には、裏口などない」
銀蔵はブロック塀を見上げた。塀の上部には忍び返しの役をするガラスの破片が植えられている。
「塀を乗り越えた人もいなかったわ」
と、美毬が言った。
「家の中からは応答がない。縁側のガラス戸や窓を全部|叩《たた》いて廻ったけれど、答える人がいないんだ。全部、内側から鍵《かぎ》が掛けられているようだ」
「……留守だと、いいんだけれど」
遠くから消防車のサイレンが聞こえて来た。火勢が一段と激しくなる。
三台の赤い消防車と一台の白い救急車が火の廻《まわ》りを囲んでいる。サイレンと鐘が響き渡り、投光器が当てられる。一番大きなポンプ車の上で仁王《におう》立ちになっているのは赤西署長だ。
駈《か》け付けた職員は、先ず縁側のアルミサッシの窓を叩《たた》き割った。中からどっと黒煙が吹き出す。ホースがどんどん門の中に引き込まれる。
家は小ざっぱりとした二階建てで、外壁が白く、屋根は群青《ぐんじよう》色の光る瓦《かわら》で葺《ふ》かれている。玄関の上にある二階のベランダからも火が吹き出し、カーテンの一部が吹き飛んだ。
「近寄るんじゃない」
美毬はすぐ職員に押し返された。みるみる野次馬の数が多くなる。
脳病の王子様はどうしたかなと目で探すと、隅の方にしゃがみ込んで、鞄《かばん》を開けてカメラを取り出している。鞄の中には写真の道具が一杯詰められているようだが、王子様の手付きが甚だ心もとない。フィルムを手から滑らせてあたふたと追い掛ける。フィルムを捕えるとカメラのキャップが転がってしまう。
一方、銀蔵の動きはリスのように機敏だった。職員の間を走り廻るのだが、邪魔にする者は一人もいない。銀蔵は近寄ろうとする野次馬を小まめに整理する。整理が済むと、一番前に立って火を見上げる。火の粉が飛んで来ようが、ホースの水を浴びようが、一向に動ずる様子がない。美毬はこれほど生き生きした銀蔵の顔を見たことがなかった。
脳病の王子様はやっとフィルムの装填《そうてん》が終わって、カメラを構えながら前に進んだ。銀蔵が見付けて、遠くから駈けて来る。
「おい、君。そこののっぽ。写真を撮っている人、怪我でもしたいのか」
と、後ろに押し戻す。王子様の背の高さが特に銀蔵に敵意をわかせるらしい。
「ぼ、僕は新聞社の者です」
と、王子様が言った。
「じゃ、身分証明を見せてもらおうか」
「……そんなもの、持っていません」
「じゃ、新聞社の者というのは嘘《うそ》だな」
「はい」
「じゃ、ただの野次馬じゃないか。消火の邪魔になる。ずっと退がって」
「あなたこそ何ですか。見たところ、消防署の人とは思えません」
「そう。僕は消防官じゃない。でも、ちゃんと火事場の通行許可証を持っている」
「通行許可証? そんなものがあるんですか?」
銀蔵は胸を反らせ、内ポケットから大きな皮製の定期入れを取り出した。サラリーマンでもないのに、定期入れを持っているのは変だ。美毬も銀蔵の手元を覗《のぞ》き込む。
銀蔵が大切そうに中を開くと、真っ赤なカードがきちんと収まっていた。
「どうです」
カードには疑いもなく銀蔵の名が署《しる》され、署長の印も押されている。
「……なるほど。こういう通行証を持っているのでは、文句が言えません」
と、王子様が言った。
銀蔵は傍に美毬がいるのを見て、えへんと咳払《せきばら》いをした。
「赤西署長から直かにもらったものです。今を去る三年前、五つになる女の子を火に包まれた二階から助け出したことがあったのです。そのとき、僕は他の賞を一切断わり、その代わりにこの通行証を赤西署長に書いてもらったのですよ」
銀蔵は定期入れをポケットに戻すと、すぐにいなくなった。
脳病の王子様は銀蔵の姿が見えなくなると、すぐ火事場に近付いて行った。口だけは素直そうだが、かなり図図しい性格のようだ。
王子様がいなくなった直後、何やら野次馬の間にどよめきが起こった。振り返ると、ポンプ車の後ろにバスがやって来て停《と》まった。バスの扉が開くとぞろぞろと人が降りて来て火事場に向かう。
この道にバスの路線はない。火事場巡りの観光バスに違いない。後で考えると不思議なのだが、火事場の狂的な興奮は、そのとき火事場巡りの観光バスが来ても当然だという気持にさせられる。
バスからの人で、野次馬が急に増えた。
ポンプ車の上にいる赤西署長は、無線のマイクを片手に、指揮を続けていたが、しばらくすると、急激な野次馬の増加に気付いた。
「おっ?」
赤西署長はマイクを放すと、拡声機のメガホンを持った。
「一体、そのバスは何だ? 何でバスが来てるんだ」
一人の職員がバスに駈《か》け付ける。
「火の手が見えたので、思わず駈け付けたそうです。運転手は何か手伝いたいと言っています」
と、職員が報告した。
「何? 手伝うだと。冗談じゃねえ、邪魔になるばかりだ、帰せ帰せ」
赤西署長はスピーカーで怒鳴った。
バスがクラクションを鳴らした。運転手がステップに現われた。
「皆さん、車にお戻り下さあい」
だが、誰も車に戻ろうとはしない。
「バスが発車しまあす」
気のない呼び掛けだ。そう言う運転手の目は火の手を見ている。
「さあ、バスに戻って。言うことを聞かないと、撒水《さんすい》しますぞ」
と、赤西が言った。赤西は顔を赤くさせて、ポンプ車の上から様子を見ていたが、
「銀、いるか? 火事銀は」
何かを決意したように呼び掛けた。
どこからともなく銀蔵がポンプ車に駈け付ける。美毬も心配になって傍に寄る。
「職員にやらせると、後後、面倒で仕方がねえ。俺が命令する。お前、やれ」
そのときの銀蔵の嬉《うれ》しそうな顔は、絶対に忘れられない。銀蔵は一人の職員からホースを受け取ると、バスの方向に放水を始めた。
あちこちで悲鳴が起こり、野次馬になっていた乗客がバスに戻りだす。運転手はやけくそのようにクラクションを鳴らす。
「また料金を取るなんて、あんまりよ」
かん高い声がする。三角形の顔をした洋装の老婦人が、小銭入れをしっかりと握り締めて運転手と掛け合っているのだ。
おおかたの乗客がバスに戻っても銀蔵はホースを手放さない。馴れていないので仕方がないが、美毬もぐしょ濡《ぬ》れだ。
最後、完全に手元が狂ったようで、ホースの水が赤西の横面に命中した。赤西はもんどり打ってポンプ車から転げ落ちる。
「うぬ、銀め!」
赤西はすぐ立ち上がったが、もう一人放水のあおりを食らってひっくり返り、起き上がれなくなった男がいる。見ると、口から泡を吹いている。
「水癲癇《みずてんかん》だ」
と、野次馬が言った。
「いや、火癲癇だ」
と、別の野次馬が言った。
「救急車へ運べ」
と、赤西が叱咤《しつた》する。
野次馬の中から、山の上外科の江田富江が出て来て、倒れている男の様子を見、付き添って救急車に運び入れる。
救急車はサイレンを鳴らして走り去り、バスも前後していなくなったが、ほっとする間もない。銀蔵が出て来て、
「担架、担架」
消防車から担架を引き擦り出す。誰か怪我人が出たようだ。
銀蔵は担架をかついで門の中へ入ろうとし、脳病の王子様に気付いた。
「おい、君」
「済みません。すぐ退《ど》きます」
「そうじゃない、手伝って下さい」
王子様の腕を取って門の中へ。
しばらくすると、銀蔵と王子様は担架に人を乗せて門から出て来た。担架にすっぽり収まっている人は防火服を着ている。その足元に王子様の鞄《かばん》が置かれてある。ガスマスクから目だけが見える。その目が苦しそうに閉ざされている。
「邪魔だ、邪魔だ」
二人は野次馬を割って、山の上外科の方へ駈《か》け去った。
「誰だ?」
赤西は心配そうに見送った。
「……さあ」
傍にいる職員が首をひねった。
再び銀蔵が戻る頃には、さすがの火勢も弱まっていた。
そして、火事は急速な終末を迎えたが、銀蔵が心配していたことが現実となった。
現場の二階から、一つの屍体《したい》が発見されたのだ。被害者は出火元である掛矢清一郎の妻、節子、三十五歳。節子はベッドにいて、火事に気付かぬまま、死亡した様子である。夫の掛矢清一郎は外出中だった。清一郎は鎮火してから戻って来たが、不測の事態に口もきけない有様だった。四十という歳の割には老けて見え、小柄な身体が余計痛痛しく感じられた。
更に、重要なことも発見された。玄関の傍に、石油を入れるポリ容器が見付かったのである。これによって、外からの放火説がにわかに強まった。
桝銀の店に、二人の警察官が踏み込んで来たのはその翌朝、まだ店を開けないうちだった。一人は変に鼻の頭が赤く、若い方は鉤鼻《かぎばな》だった。
美毬が応対に出ると、
「銀蔵さんはおいでですね。署まで来ていただきたい」
鼻の赤い警察官が恐い顔付きで言う。
銀蔵はまだはっきり目が覚めていない。
「どうして警察に呼ばれなきゃいけないんだ」
「公務執行妨害の容疑です」
赤鼻の警察官は冷たく言って令状を見せた。
「ほお……公務執行妨害って何だ?」
「あなたは昨夜、山の上の火事現場で、消火活動の妨害をしたでしょう」
銀蔵の顔が風船みたいに脹《ふく》らんだ。
「冗談じゃない。僕は消火の手助けをしていたんですよ。妨害などした覚えはない」
「しかし、あなたがポンプ車のホースを握り、見物人に撒水《さんすい》したことは、多勢の目撃者がいます」
「あれは、赤西署長に頼まれてやった仕事だよ」
「それは考えられませんね。そうでしょう。署長ともあろう方が、消防官を差し置いて、あなたのような人にホースを操作させるとは考えられない」
「だが、本当なんだ。嘘《うそ》だと思うなら署長に訊《き》いてくれ」
「ま、言い分があるのでしたら、警察で聞きましょう」
「どうしても連行する気なのか」
「そうです。はっきり言いますと、公務執行妨害|云云《うんぬん》はそう重要ではないのですよ」
「?」
「あなたは昨夜、まだ火事の起きないうちに、山の上のあたりにいたそうですね」
「……いた」
「出火の直後、掛矢さんの邸内に入り、火を見て踊り廻《まわ》っているあなたの姿を見た人がいるんです」
「そりゃ、火を見れば誰でも興奮するでしょう」
「興奮したいためにそうした、と思う人もいるのですよ」
「じゃ、僕があの家に火を付けたとでも言うのか」
「あなたは並み外れての火事好きで有名だし、ここしばらく青蘭に火事は起こっていない」
「内の人が火を付けた、ですって?」
美毬も黙ってはいられなくなった。
「そんなはずはありません。昨夜は、ずっと主人と一緒でした」
「奥さんも一緒だった?」
「そうです。主人があの家の門に入ったのは、出火してからです。主人はあの家に人がいては大変だと思い、窓や裏の戸を叩《たた》いて廻っていたのです」
「そうだ。ゆっくり火を見たのはそれからだったな。ほお」
と、銀蔵が言った。
この調子では、警察に行って何を言い出すか判《わか》らない。
「主人を警察へ連れて行くのなら、わたしも行きます」
警察官は心配そうな顔で美毬のお腹を見た。
青蘭警察署の取調べ室。
銀蔵と美毬を訊問《じんもん》するのは、銀蔵を連行した赤鼻の警察官だったが、鉤鼻《かぎばな》の警察官の外に東出《とうで》という警察署長も立会うことになった。
東出は見るからに真面目《まじめ》そうな男で、尖《とが》った鼻に度の強い眼鏡を掛けている。銀蔵がしきりに赤西の名を口にすると、
「ああ、あの、不動明王の先生ね。彼、出たがり屋ですから、そのうちここへも現われることでしょうが、もしそうだとすると、軽弾みなことを頼んだものですね。私なら、たとえ困っても捜査を民間人に依頼するようなことは絶対にしませんね」
赤西とは反《そ》りが合わないらしいのだ。赤西は陽性な独裁者、東出は小心そうな官僚タイプ。気の合わないのは仕方がないとして、赤西を無視されては、容疑者としては困ってしまう。
「ああ、その公務執行妨害のことはしばらく置きましょう」
東出が赤西のことに触れたくないのを察して、警察官が質問を変えた。美毬もその方が有難い。銀蔵が放火犯、悪くすると殺人犯ともされ兼ねない立場にいるのだ。美毬は昨夜の銀蔵の働きぶりを見て、逆にこの人は絶対に変質者にはならないと信じてしまったのだ。早いとこ無実にしてやらなければ可哀相《かわいそう》だ。
「では、昨夜、あなたは出火の時刻に、なぜ山の上に行ったのですか?」
「それは、酒の注文があったので、届け物に行っていたのです」
と、銀蔵が答えた。
「その、お得意さんは?」
「小沢さんと言います。掛矢さんの近くの家です」
「小沢さんね」
鉤鼻《かぎばな》の警察官が手帖《てちよう》にメモして、立ち上がった。
「どこへ行くんです?」
と、銀蔵が訊《き》いた。
「勿論《もちろん》、小沢さんの電話番号を調べて、確かめなければなりませんね。本当に桝銀に酒を注文したのかどうか」
銀蔵があわてた。
「だ、だったら、小沢さんは内に注文をしていません」
「ほう……」
警察官は椅子《いす》に坐り直した。
「じゃ、その話は嘘《うそ》なんですね?」
「嘘、というわけじゃない」
「どうも、夜更けて、夫婦があんな住宅地をうろつくのは怪しいと思っていた。あなたは火事が見たくて山の上に行き、それに感付いた奥さんがあなたの後を追った。しかし、少し遅く、放火が行なわれた後だった。こうなんですね?」
「違います」
と、美毬が言った。口下手の銀蔵ではどんどん悪い方に話が進んでしまう。来てよかった。美毬は精《くわ》しくその夜のことを説明した。
「……しかし、あなたは実際にその電話を聞いたわけじゃない」
それを納得させるのは、かなり難しいようだ。美毬は必死だった。
「内の主人は、嘘《うそ》が言えるような人じゃありません」
「ふん」
相手は無視した。容疑者の妻というのは皆同じようなことを言うのだろうか。
そのとき、あのことが閃《ひらめ》いた。今迄《いままで》、思い出さなかったのが不思議なくらいだ。
「そうだわ。最初、玄関に火が燃え上がったとき、門の中に人がいたわ」
相手の顔色が変わった。
「……それは本当ですか?」
「そうだ。確かに人がいた」
と、銀蔵が言った。
「それは、男ですか、それとも?」
二人は答えられなかった。
「じゃ、その人間はその後、どうなりました。消防車が到着する前に、門から出て来ましたか?」
「いや……出て来ませんでした」
「その後は?」
「……いや、僕は火を見るとすぐ門の中に入り、家を叩《たた》き廻《まわ》ったんです。しかし、そんな人はいなかったな」
「どうしたんでしょうね?」
「消えてしまったんです」
東出署長はにやりとして口を開いた。
「いいですか。今度の火災は最初から不審火の疑いがありましたから、現場検証は徹底して行なわれたんですよ。私の手元に来た報告によると、掛矢家の全てが施錠されていました。勿論《もちろん》、玄関もベランダの窓も小窓も、内側からしっかりと鍵《かぎ》が掛けられていたんですよ。ですから、あなたの見たという人は、家の中には入ることができなかった」
「家の人だったとしたら?」
「掛矢節子さん、あの被害者が犯人だと言うのですか。被害者が自分の家の外に火を付け、家に入って鍵を掛け二階に登ってべッドに入り、焼死するのを待っていたと言うのですか?」
「保険金目当てなら、他殺を装うことだってあるでしょう」
銀蔵らしくない発想だった。銀蔵だって懸命なのだ。だが東出はそれも一笑に付した。
「まあ、広い世の中には、そういう事件がなくもありませんがね。この場合は、そうは考えられないのです。検屍《けんし》の結果、被害者は出火の一時間も前に死亡していました」
「一時間も前?」
「ええ。解剖がまだ済んでいませんが、他殺の疑いが極めて濃厚だそうです」
「ならば、なお、僕が疑われる筋ではないでしょう。僕は掛矢さんの奥さんを殺す理由がない」
「殺人と火災。二つを別別に考えたらどうでしょう。殺人が行なわれた家に、たまたま放火魔が火を付ける、と」
「…………」
「あなた達は、口裏を合わせてここに来ましたね。怪しい人物が掛矢家の周りをうろうろしているのを見たことにしよう、と。しかし、残念ながら、掛矢家には裏の出口もなく、その人物は消えるよりなかった」
「もう一人いるわ」
と、美毬が叫んだ。
「その人物を目撃した人が、もう一人います」
東出は笑い顔を引っ込めた。
「それは、誰です。名は?」
「脳病……いえ。名は判《わか》りません」
「名が判らないようでは――」
「宿泊先を覚えています。ホテルニューグランド青蘭。すぐホテルニューグランド青蘭へ電話をして下さい。出てしまわないうちに。若くて背の高い、ギリシャ彫刻のような人だわ」
電話を掛けに行った鉤鼻《かぎばな》の警察官はすぐ戻って来たが、何か要領を得ない顔をしている。
「……確かに、該当すると思われる人物が、ホテルニューグランド青蘭に投宿していました」
「名は?」
と、東出が訊《き》いた。
「亜愛一郎と言っています」
「あ?」
「土のない壷《つぼ》と書くのだそうです。壷という字から土を取り除けば、亜が残ります」
警察官はメモを見せた。
「どうも、怪しい男です。警察だと言うと、おろおろし始めたのが判りました。ちょっと言葉を強くすると、すぐ来ると言いました」
美毬はふと心細くなった。亜愛一郎という男の言葉が、警察を信用させる力を持っているとは思えなかったからだ。
取調べ室のドアがノックされる。
「どうぞ」
と、東出が言った。
いかつい表情の婦人警官が、気力のない表情をした中年の男を連れて入って来た。婦人警官は東出に書類を手渡す。東出はざっと書類に目を通して、
「先に、交通課の方の調べを受けさせて下さい」
と、書類を婦人警官に戻した。
「かしこまりました」
二人は部屋を出て行った。
「前科《まえ》があるのですか?」
と、赤鼻が訊《き》いた。
「いや、前科はないのですがね。あの男は以前梅津温泉市の職員だったとき、似たような事件を起こし、退職させられていますね。いや、職員の採用はくれぐれも慎重でないと」
それで美毬はその男が、昨夜火事場に乗り込んで来たバスの運転手だったことが判《わか》った。
婦人警官はすぐ戻って来た。前と違いかなり上気していて、妙に色っぽく身体をくねらせた。
「亜さんという方がいらっしゃいました」
「ここへ通して下さい」
と、東出署長が言った。
「亜さん、どうぞ」
婦人警官は亜の手を取らんばかりにして部屋に導き入れる。
亜の姿を見た東出を初め二人の警察官は、一瞬、度胆を抜かれたような顔になり、ひょいと椅子《いす》から立ち上がった。美毬は亜の端麗さは見掛けだけだと判っていたが、それでも嬉《うれ》しくなった。
「昨夜のわたしのこと、覚えていて下さいますわね」
「勿論、桝銀《ますぎん》さんでしたね。昨夜は大活躍で」
婦人警官は敵意ある目で美毬を見、亜のために椅子を引いて、
「すぐ、お茶を入れてきますわ」
と、部屋を出て行った。
亜は何か落着かない風で部屋を見廻《みまわ》し、
「あ、あの……僕は今日、ヘゲタウオの観察で忙しく……」
亜の姿をじっと見ていた東出は、これなら大丈夫と思ったようで、ゆとりのある口調で言った。
「いや、判っておりますよ。決してお手間は取らせません。あなたはただ、昨夜あったことを正しく言ってくれればいいのです。そうしたら、ゆっくりとヘゲタウオでもナメクジラでも観察することができます」
「はあ」
「では、早速伺いますが、ここにおいでのご夫婦を知っていますか」
「昨夜、顔見知りになりました」
「以前は会ったことがないのですね」
「そうです」
「最初、会った場所は?」
「山の上外科の前で、奥さんと会いました」
「あなたはどこへ行くところだったのですか」
「ホテルへ行くつもりでした」
「山の上にはホテルなどありませんよ」
「ですから、病院とホテルとを見間違えたのです」
東出は嫌な顔をして亜を見た。亜は恥しそうに背中を丸めて椅子《いす》に小さくなる。
「それで?」
「病院の前にいた看護婦さんとこの奥さんにホテルの道を聞き、バス停でバスを待っていたのです」
「バスは来ましたか」
「バスが来ないうち、火の手を見たのです。僕は火事に気付くと、すぐ現場に駈《か》け付けました。桝銀さん達も僕の前を走っていました」
「二人の様子は?」
「桝銀さんは自転車ですから一足早く火元に到着し、奥さんと僕とはほぼ一緒になりました。火元の門の中を見ると、玄関のあたりに火の手があがっていて、その手前に人影が見えました」
「ちょっと待って下さい」
東出が制した。
「それは重要な問題なので、充分注意して発言して下さいよ。今、あなたは何を見た、と言いましたか」
「火の手の手前に、人影を見た、と言いました」
「それは、何かの勘違いじゃなかったんですか。火の影が人の形に見えたとかの」
「いいえ。あれは火の影などではなく、絶対に人間でした」
「ほう、絶対に、ですか。しかし、あなたは少し前に、ホテルと病院とを見間違えているような目を持っていることをお忘れなく。ね、見間違えたことも考えられるでしょう」
「…………」
「なぜ私が強くそれを主張するかと言いますと、それに該当するような人物は、それ以来二度と姿を見せなかったのですよ」
「それは知っています。桝銀さんが家の周りを見て来て、怪しい人物がいなくなった、と言いましたから」
「それをどう解釈します」
「家の中に入ったのでは?」
「あなたも桝銀さんと同じようなことを考えますね」
美毬は亜が銀蔵と同じ考えでは心細くなった。東出は被害者が出火の一時間前に死亡していたことを繰返し、こう結論した。
「第一、その人物は秘密の抜け穴を使って逃げて行った。第二、羽根が生えて空に飛んで行った。第三、火で燃え尽きてしまった。正解はどれだと思えますか?」
「……どれでもなさそうです」
「従って、正解は第四なのですよ。その人物は元元いなかった。ホテルと病院とを見間違えた目で、あなたはいもしない人をいると錯覚したのです」
亜は目をぱちぱちさせた。傍にいた赤鼻の警察官が煙草を与え、火を付けてやった。亜は煙草を二、三服してもじもじしていたが、
「それでも、僕は怪しい人を見ました」
と、はっきり言った。
美毬は思わず手を叩《たた》いた。
東出が机を叩こうとして手を挙げたとき、婦人警官が入って来た。婦人警官は香りの高い珈琲《コーヒー》を亜の前に置き、愛敬たっぷりに部屋を出て行った。
東出は溜《た》め息混りに言った。
「あなたは何という物判《ものわか》りの悪い人でしょう。いくら背が高くとも、頭の回転が悪くては困るでしょう。もっとも、青蘭市の消防官なら通用するかも知れませんがね」
「僕が消防官に?」
亜はけげんな顔になった。
「……そう言えば、昨夜の消防官は皆さん背が高かった。青蘭市では消防官は背が高くなければならないという規則でもあるのですか?」
「赤西署長は困った人ですよ。昔からの仕来たりで、火消しは背が高くなければならないと言い通しているのです。迷信みたいにね」
その言葉を聞いたとたん、亜が白目を出して後ろに倒れそうになった。銀蔵があわてて椅子《いす》を押える。
「気分でも悪くなったのですか」
「……いや、もう大丈夫。ちょっと頭を使いすぎただけです」
東出が言った。
「そうでしょう。頭を使ったのでやっとあなたの間違いだったことが判《わか》りましたね」
「いや、そうではなくて、もう一人、消えた人物がいるのに気が付いたからです」
美毬は亜が本当に脳病になったのかと思った。東出もいまいましそうに亜を見て、
「こりゃ駄目だ、すっかり混乱している」
匙《さじ》を投げるように言った。
しかし、亜は真顔だった。椅子を後ろに引いて立ち上がろうとする。
「どこへ行くんです?」
「で、電話をしたいのです。急用です。山の上外科の話が聞きたい」
鉤鼻《かぎばな》の警察官が亜を椅子に押し戻した。
「電話なら私が代わって掛けましょう。一体何が訊《き》きたいのです」
「昨夜の火事の現場で、一人の消防官が倒れました」
「それで?」
「僕と桝銀さんは担架でその人を山の上外科に運びました」
「それで?」
「その人が今どうしているかが知りたいのです」
「いいでしょう。訊いて来て下さい」
と、東出が言った。
鉤鼻の警察官は部屋を出て行ったが、すぐ戻って来た。不得要領な顔をしている。
「……昨夜、怪我をした消防官は一人も来なかった、と言っています。昨夜の急病患者は癲癇《てんかん》の病人が一人だけだそうです」
銀蔵と亜は顔を見合わせた。
「昨夜、確かに君と消防官を運んだね」
と、銀蔵が言った。
「桝銀さんが先棒でした」
「……山の上外科の玄関に運んだ」
「しかし、先に急患が来ていたようで、待合室には誰もいませんでした」
「僕達はその消防官が、もう大丈夫だと言うので、その人を残してすぐ現場に戻って来た」
「火事の結末を見たかったからです」
「その消防官が、なぜ、消えた?」
「その人が、放火犯だったからでしょう」
東出が苛苛《いらいら》したように口を挟んだ。
「あなた達、何をいつまで話しているんですか。その放火犯というのは、一体、何なんです?」
「用意周到な、殺人者でもありました」
東出はぎょっとしたような表情になって亜の顔を覗《のぞ》いた。
「君ね、軽弾みなことを言っちゃ困る。昨夜の事件は警察と消防署が協力して調査しているにもかかわらず、まだ結論が出ないんですよ。それなのに、ただ、火事の野次馬である君に犯人が判《わか》る道理がないでしょう」
「そうでした。僕などに判るわけがありませんでした」
亜は珈琲《コーヒー》カップに手を伸ばす。東出はもじもじした。亜が喋《しやべ》るのを中止したので、却《かえ》って後が聞きたくなったようだ。
「しかし……参考、ということもあります」
東出は赤鼻と鉤鼻の警察官を見た。
「参考のため、この人の話を聞いてみる必要がありそうですね」
「勿論《もちろん》です」
と、二人が言った。
「というわけで、亜さん。あくまで参考のため、あなたは話を続けて下さい」
亜は肩をすぼめて珈琲をすすり、口を開いた。
「その人は犯行に当たって、きちんと計画を作り、先ず、防火服一式を揃《そろ》えなければなりませんが、簡単に手に入れることのできる服ではありませんね。特別に注文すれば手掛かりを残すことにもなりかねませんので、もしかして、桝銀さんは防火服のコレクションを持っていませんか?」
「持っているとも、三着も内の蔵にある」
と、銀蔵が答えた。
「蔵の鍵《かぎ》は?」
「とうの昔、鍵などなくなっちゃっているよ」
「じゃ、それです。犯人は昨夜、車で桝銀さんの近くまで行き、公衆電話で偽《にせ》の電話を掛け、お酒を注文します」
「なぜ?」
「その夜、店にいるのが桝銀さん一人だということを知っていたからでしょう。桝銀さんを出火場所の近くに呼び寄せ、放火の容疑者に仕立てる意味もあります。桝銀さんが店を出るとすぐ犯人は桝銀さんの蔵に忍び込み、防火服の一式を盗み出し、車を飛ばして出火場所の近くに車を停《と》め、車から出る」
「……山の上の坂で、黒い自動車が乱暴に追い越して行ったぞ。あれが犯人だったのか?」
「多分そうですね。犯人は掛矢家に入り、桝銀さんが偽の注文先の家を出て来たところで、玄関に放火し、すぐ家の中に入って戸締まりをしてしまう」
「そんな――煙に巻かれてしまうじゃないか」
「そのための防火服なんですよ。犯人は家の中で直ちに防火服を着て、酸素ボンベを背負い、ガスマスクを着ける」
「それなら大丈夫だ。あの服は火の中でも十分間は保つ」
「実際は煙の中にいただけです。消防車が到着したのは家全体に火の廻《まわ》らないうちでした。消防官は窓を破って何人も家の中に出入りする。つまり、防火服を着てガスマスクを着けた犯人は、何人もの消防官の中に混ってしまうことができたわけです」
「じゃ、易易と門から出入りすることもできたでしょう。なぜ、担架で運ばれなきゃならなかったんです? その方が危険じゃないかな」
「いや、犯人は歩いて門から出入りする方が、もっと危険だと考えたのです」
「なぜ?」
「犯人は背が低い人間だったからです」
「背が低かった、ですって?」
「ねえ、桝銀さん。昨夜、僕達が担架で運んだ人のことをよく思い出して下さい。もし、身体の大きな赤西署長が担架で運ばれた、としたら?」
「……担架からはみ出してしまうかな」
「はみ出すのは大袈裟《おおげさ》としても、担架が一杯で、かなり重かったはずですね。しかし、昨夜の人は?」
「担架にすっぽり収まっていた。……足元には亜さんの鞄《かばん》を乗せる余裕もあった」
「つまり、背の低い人でしたね」
「あっ!」
美毬も初めて担架に乗せられた人が背が低かったことに気付いた。
「人間は不思議なもので、立っている人を見ると、背の高低は一目瞭然《いちもくりようぜん》、すぐに判《わか》るものです。ところが、寝ている人の背の高さというものは、よく見定めることが難しい。青蘭市の消防官は皆上背があるので、防火服に身を固めていても、背が低ければ、すぐこの男は怪しいと思われてしまう」
「そうだ。もし、背の低い消防官がいれば、すぐ僕が見付けて、署長に文句を言ってやる」
「ですから、背の低い犯人は、桝銀さんがうろうろしている外には出られず、横になった人の背丈はちょっと判らないという原理を利用して、担架で運び出されなければならなかったのですよ」
「すると、その犯人は?」
と、東出が訊《き》いた。
「僕は警察でないから何とも言えませんが、あの家が鎮火してから戻って来た、掛矢清一郎という人の背は、そう高くはありませんでした」
美毬は嬉《うれ》しくなって手を叩《たた》いた。あの火事を傍で見ていただけでこんな結論を引き出すとは、亜は矢張り脳病の王子様だ。脳病で逆に頭が良くなってしまったのだ。
そのとき、突然、美毬は腹痛に襲われた。
掛矢節子を殺害した犯人も、夫の清一郎だった。清一郎には愛人がいて、妻との三角関係を清算しようとして節子を殺害した。自分の家に火を付けたのは、犯行の隠蔽《いんぺい》と保険金欲しさからだった。犯行は計画的で、防火服を着ることを思い付いたのは、第三者に放火を目撃されることを恐れたためだった。
銀蔵がここまで美毬に話したとき、看護婦の富江が赤西署長を連れて病室に現われた。
赤西は二人を見ると顔をほころばせ、
「男か、女か?」
と、大声で訊《き》いた。
「玉のような男の子です」
と、銀蔵が答えた。ただし、次の質問には美毬も答えられなかった。
「そりゃあ、目出度《めでて》え。背は、高《たけ》えか?」
第八話 亜 愛一郎の逃亡
ガラスのシャンデリアがからからと澄んだ音を立てていたが、しばらくするとゆっくりとした揺れだけになった。ガラスのさざめきが収まるまで三十秒ほどだった。
花子はシャンデリアと腕時計を見較《みくら》べ、ロビーを横切ってトイレの前に立った。
「あなた、もう大丈夫よ。もう揺れは止まったわ」
返事がない。花子はドアを叩《たた》いた。
「確《しつ》かりして。目を廻《まわ》しているんじゃないでしょうね」
「……気絶なんかしていない」
ドアの向こうで籠《こも》った声がした。
「ただ、中にいたら催したんだ」
「それならいいけれど。心配させないでよ」
花子はトイレの前を離れ、ロビーのテレビをつけた。
すぐ水を流す音が聞こえ、太郎がさっぱりした顔で出て来た。
「今、震度五はあったろう」
「そんなにはなかったわ。せいぜい三ね」
「いや、五はあった」
「あなたは地震が嫌いだから大きく感じるのよ。五なんかはないわ」
「そうかな」
「いい加減に、地震の度にトイレへ駈《か》け込む癖をお止しになったら。みっともない」
「身体が自然にそう動くんだ。仕方がないじゃないか」
子供のときからの習性なのだ。家の中で便所が一番柱の多い場所で、だから地震で滅多に潰《つぶ》れることがない。そう教えられたのをずっと信じているのだ。
ちょうどテレビは夕方のニュース番組だった。フツ国国王、碩学《せきがく》、芸術家でもあるトレミー大博士の病状が回復、大博士を思慕する世界中の人達が愁眉《しゆうび》を開いたという。その後で地震速報となり、地震は北海道から東北、関東中部まで広範囲に及び、マグニチュード七、宮後市では震度四と報道された。
「それみろ、三なんかじゃなかった」
と、太郎が言った。
「……そういえば、波長が長かったみたいね」
「まだ船酔いみたいな気分だ」
「いっそのこと、ずんずんと来て、屋根の雪を落としてもらいたかったわ」
「君は、よくそんな怖《おそ》ろしいことが平気で言えるな」
「だって、このまま降り続ければ、雪下ろしをしなければならないでしょう」
「雪が下りるほどの地震なら、僕の心臓も止まってしまうぞ」
続いてテレビは天気予報となる。各地に記録的な積雪をもたらしている雪は、夜になっても止みそうにない。
「……全く、変な年だな。大雪の次が地震だ」
太郎の言う通りだった。
この北国は雪が少ない。一〇センチも積もれば大雪の部類だが、現在、積雪は三〇センチを越し、夜間も降り続けるという。
玄関のドアの鈴が鳴った。雪と一緒に入って来たのは駐在の井増《います》巡査だ。
井増巡査は玄関で雪を払い、ストーブの傍に寄った。目の大きな、鼻筋の通った、渋い感じの良い男だ。
「――変わったことはねえすか?」
井増はロビーを見渡して言った。
「今、大きな地震があったでしょう」
と、太郎が言った。
「地震? 気が付かなかったすね」
「かなり、大きかったですよ。このシャンデリアが落ちそうでした」
「今、ですか?」
「ええ、二、三分前」
「だば……歩いていましたな。それで、気が付かねがったんかな。そう言えば……いや、全く知りませんでした」
太郎は井増の感覚が羨《うらや》ましそうだった。太郎なら歩いていても地震の恐怖から逃れることはできない。井増巡査は自分が感じなかった地震などどうでもいいといった感じで質問した。
「で、有江《あるえ》さん。今日の宿泊客ですが、何人ぐらいですか?」
「ゼロですよ」
「ははあ、一昨日からこの雪ですからな」
「全く、掛かって来るのはキャンセル電話ばかり。正月の予約客もありません。泣きたくなりますよ」
「それは外を歩くわしらも同じすね。全く人泣かせの雪です。夜には国道が閉鎖されるちゅうことですよ」
「なに、客がいませんので、街へ買出しに行くこともありません。道など勝手に閉鎖されればいい。もう、やけくそです」
「でも、玄関には亜南様御一行という札が出ていますが」
と、井増が注意した。
「でも、この雪です。来やしませんよ」
「それは、どういう人でありますか」
「私の弟が双宿《もろじゆく》市にいまして、その紹介で予約してきたお客さんです」
「じゃ、身元は確かだ」
「ええ」
井増は何かきな臭い顔をして、小声になった。
「――実は、隣町で殺人事件が発生したすよ」
「殺人事件……ニュースでは何も言いませんでしたがね」
「ついさっきのことですから、まだニュースにはならねえでしょう。犯人は浮屋章治《うきやしようじ》という若え男で、雪で迷って来た女性を浴室に連れ込み、乱暴しようとしたのを騒がれ、首を締めて殺害したです」
「…………」
「犯人の浮屋章治は逃走中だば、緊急配備が発令されまして、万が一、有江さんのところへ怪しい者が立寄ることがあれば、警察に連絡してほしいのです」
「判《わか》りました。浮屋章治ですね」
「犯人は精神病の患者で幻覚を見ては暴れるそうですが、一見、背の高え優男《やさおとこ》ださけ、充分、注意してください」
井増はそう言うと、忙しそうに雪の中へ出て行った。
「……今度は殺人事件か」
太郎はうんざりしたように言う。地震には驚かない花子も気味が悪くなった。降りしきる雪、若い女性、浴室――ふと、ある物語を思い出した。
「小さい頃《ころ》聞いた昔話があるわ。それも、一人住まいの若者のところへ、雪の日に若い女性が訪ねて来るの」
「ほう……それで乱暴された?」
「これは民話ですよ。猟奇実話なんかじゃないわ。若者はその娘がすっかり気に入ってしまい、お嫁さんにしようとしたの。でも、娘の身体がとても冷たかったので、お風呂《ふろ》に入るように言いました」
「何だか、筋は似ているみたいだ」
「娘はなぜかお風呂を嫌ったんですけれど、若者が強く勧めるので断われなくなり、一人で風呂場へ入ったの。ところが、いつまで経っても出て来ません。呼んでも返事がないので若者が風呂場を覗《のぞ》きますと――」
「娘が殺されていた?」
「いえ、消えてしまったのよ」
「消えた? 窓から逃げたのかい」
「いえ、風呂場には窓がありません。一つだけある戸の前では若者が待っていたんですよ」
「ふうん……フージニーみたいだ」
「勿論、脱出奇術をしたわけでもないの」
「すると?」
「娘は湯に入って、解けてしまったのよ」
「解けた?」
「ええ、実はその娘、氷柱《つらら》の変身でした。家の軒下に出来た氷柱が若者に恋をして、娘に化けて若者に近付いた、というの。〈氷柱のお嫁さん〉という話」
「……なるほど。雪女とも違うようだね」
「雪女はもっと怖いでしょう。雪女を見た人は死ぬんですからね。この話は何か可憐《かれん》で悲しいと思わない?」
「うん、そんなお嫁さんなら、大歓迎だ。俺《おれ》なら冷たくても平気だ。すぐ、一緒に寝てしまう」
しかし、すぐ後で「ホテルニューグランド宮後」に飛び込んで来たのは、氷柱のお嫁さんではなく、氷柱の好男子であった。
男は全身雪にまみれ、寒さで身体がこわばり、太郎が支えなければ横倒しになりそうな姿だった。長い間雪の中を歩き続けて来たらしく、黒い鞄《かばん》を受け取っても、指は鞄を持つ形に曲ったままだ。
「よや、よや、よや……」
言葉まで凍り付いている。
「まあ、大変――」
花子は雪を払い落とし、ストーブの傍に連れて行く。
しばらくすると、男の顔に血の気が戻った。硬直が解けると、男はどんどん美しくなった。井増巡査よりまだ上背があり、品格も数段上だった。花子はどきどきした。
「よや……予約した者です」
男はやっと口を利いた。
「亜南さまでいらっしゃいますわね?」
花子は思い切って色っぽく言う。
「いや、亜南ではありません」
「……変ですわね。今日のご予約は亜南さまだけですけれど」
男は首を傾げた。
「ここは、ホテルニューグランド宮後でしょう」
「はい、そうです」
「だったらよかった。もしかして予約は電話だったので聞き違えたのかも知れませんね」
男は恐縮したように言った。
「僕の名は、亜なんです」
「あら、矢張り亜南さんじゃありませんか」
「いえ、亜南ではありません。亜、なんです」
「ですから、亜南さんですね」
「いえ、亜なんです」
太郎はじれったくなって宿帳を持って来た。男はそれに「亜愛一郎」と書き付けた。それを見て、太郎はあっはっはと笑った。
「いや、笑っている場合ではありません」
亜は急に笑いを引っ込めた。きちんと着こなした背広から湯気が立ち始めている。
「東野先生を忘れるところでした」
「そう、お連れさまがいらっしゃいましたわね」
「さっき、地震があったでしょう。それで、東野先生はびっくりして車の運転を過《あやま》り、雪溜《ゆきだ》まりに車を突っ込んで動けなくなってしまったんです。それで僕が一キロも歩いてここまで来たのです。先生を、た、助けて下さい」
亜はもっと毅然《きぜん》としている方がいい、と花子は思った。だが、一度東野先生を思い出した亜は、ただおろおろする。
「その場所はどこです?」
と、太郎が訊《き》いた。
「お宮さんの、大きな鳥居がありました」
「……それなら、まだ車で大丈夫ですね。私が迎えに行きましょう」
太郎は物置からスコップを持ち出した。
「ぼ、僕も行きます」
亜は律儀に太郎の後を追う。
キャンセルを覚悟していた二人の客が来たのだから、太郎が張り切るのは無理もない。最近、ホテルの業績はあまり芳しくないのだ。それに、この大雪である。とにかく、一人でも二人でも客が来てくれれば有難い。
太郎の父親の代まで、この一帯はかなり賑《にぎ》わった温泉地だった。それが、父親の代から出湯の量が減りだし、温度も低くなって、太郎が子供のころには完全に止まってしまった。それに従うように、客足も落ち始め、一軒一軒、転業する旅館が多くなった。太郎の家も「有江屋」という古い温泉宿だったが、太郎の代になってホテル風に建て替え、現代風な名に改めたものの、業績はいま一つという状態だ。
建物の裏手にはまだ有江屋時代の面影が残っている。かなりゆったりした庭と、洒落《しやれ》た離れがそのままだが、いずれそれも手放すようになるかも知れないのだ。
客が来るというので、花子が玄関の雪掻《ゆきか》きをしていると、太郎の車が帰って来た。その後から雪まみれになったジープが続いている。
二台は車寄せに停車して、乗用車から太郎、ジープから亜と東野先生が出て来た。
東野先生は猪首《いくび》のあまり人相の良くない小柄な男で、赤い皮ジャンパーに赤いマフラーを巻いている。太郎が二階の部屋に案内しようとすると、東野先生はあわてて手を振った。
「部屋に好みがあるのですがね、窓の外がすぐ地面という部屋に寝たいんです」
「窓の外がすぐ地面?」
「そう。ぱっと外に飛び出したとき、すぐ地面がないと困るでしょう」
「なぜ、外に飛び出すのですか」
「それはあなた、地震――」
東野先生はそう言うと、寒気に襲われたような表情になった。亜が口を挟む。
「先生は大変に地震が嫌いなのですよ。地震という言葉を聞いただけでこの通り顔色が変わります」
「……つまり、地震のとき、外にお逃げになる」
「ええ。先生は小さいころ、地震があるたびに、近くの竹藪《たけやぶ》に逃げ込んでいたそうです」
東野がぼそりと言う。
「竹藪は安全ですからね。竹の根は強く、どんな地震でも地割れしません」
太郎は懐かしそうな表情で東野を見た。
「いや、私も先生と同じです。私の場合は、トイレに駈《か》け込むのですよ」
「……あなたが羨《うらや》ましい。トイレならどの家にもあります。だが、竹藪のある家はほとんどない」
「私も大の地震嫌いですから、お気持はよく判《わか》ります。しかし困りました。当ホテルは一階には客室がありません」
「いや、地続きであれば、ホールの長椅子《ながいす》に寝てもよろしい。何しろ、たった今あれがあったばかり。まだ呼吸も平静ではないのです」
「……では、どうでしょう。離れをお使いになりますか。離れは平屋《ひらや》ですが」
「離れ――結構じゃありませんか」
「ただ、古い建物なので暖房などの設備がよくありません」
「なに、平屋であれば寒いぐらいは辛抱します」
「では、少少お待ち下さい」
太郎は離れの鍵《かぎ》を花子に渡した。
最近、庭は手入れをしていないが、雪のために風情を帯びている。温泉の豊富なときには、余り湯の流れが池の向こうを廻《まわ》っていたが、今では池も涸《か》れ、雪が吹き溜《だ》まって窪《くぼ》みも見えない。
花子が雪を踏んで離れに入り、座敷の埃《ほこり》をざっと払い、干涸《ひから》びた投入れの花を整理しているうち、太郎が小さな石油ストーブを運んで来る。掃除が済んだところで二人を案内すると、東野先生は大喜びだ。
「これこれ。安らかに眠れる家というのはこうじゃなければいけない。しかし、竹藪《たけやぶ》があればもっといい」
と、最後にはまた藪に拘《こだわ》った。
「立派な風呂場がありますね」
と、亜が広い浴室を覗《のぞ》いた。
「残念ですが、湯はとうの昔に涸《か》れてしまいました。浴室は本館一階にありますのでお使い下さい」
「私は一月や二月、湯に入らなくとも困らない男です」
と、東野が言った。
「それから、夕食は七時、本館のホールにお越し下さい」
と、太郎が付け加える。
太郎は鍵《かぎ》を亜に渡して、花子と本館に戻った。
「地震恐怖症の同病がいて、あなたは肩身が広くなったでしょう」
と、花子が言う。だが、太郎は変にむっつりしている。
「……だが、気に入らないぞ」
「何が?」
「お前が亜さんを見る目が気に入らない。どうも色っぽい」
「あら、いいじゃありませんか。亜さんは若くて好男子なんですもの」
「だが、見掛け倒しだぞ。無器用な男で、さっきもスコップを持たせたらへっぴり腰をした」
「あら、スコップを持たせたんですか。亜さんならカクテルグラスを持たせれば似合うのに」
「最初、玄関に立ったとき、変にしゃっちょこばっていたじゃないか」
「あら、わたしには氷柱《つらら》のお婿さんに見えましたわ」
「東野先生というのも、どうも怪しい」
「どこが怪しいんです?」
「地震で外に飛び出すなどというのは口実だと思う。あれは、絶えず誰《だれ》かに追われている顔だ」
「そうでしょうか」
「この雪だというのに、やって来たというのも変だ。井増さんに連絡した方がいいんじゃないかな」
「でも、身元は確かなんでしょう。そんな心配をするより、早くお食事の支度に掛からないと」
「……そうだった」
二人は調理室へ入った。太郎は冷蔵庫を開けて考え込んだ。
「お前は亜さんに旨《うま》い食事を奮発したいと思っているようだが、それはだめだぞ」
「あら、どうして?」
「今日は客がないものと思い、買出しに行かなかったので、肉も魚もない」
「どうしましょう」
「仕方がない。有り合わせで作るしかない」
「また、例の有江風懐石料理?」
「うん。相手は二人だから器《うつわ》だけは沢山使える。そうすれば量が少なくて済む」
「……お気の毒に」
「何でもいいから早く掛かれ。突き出しは海苔《のり》の松葉切りに山葵《わさび》、福神漬に大根の葉和《あ》え、ピーナッツの叩《たた》きに梅干のぬたを添えよう」
「向こう付けは?」
「蒟蒻《こんにやく》の苫舟造《とまぶねづく》りに烏賊《いか》の刺身」
「烏賊があったかしら?」
「ないから塩辛を塩出しして使う」
「あらあら」
「お椀《わん》は素麺《そうめん》とパンの耳を浮かせた澄し汁にしよう。煮物は豆腐とジャガ芋のしぐれ煮、周りは薄葛《うすくず》仕立てにして白子《しらす》を落とす」
「はいはい」
「後は焙《ほう》じ茶の茶殻《ちやがら》に浅漬の挟み揚げ、それと、納豆《なつとう》とパンの耳と卯《う》の花を捏《つく》ねにして揚げ、芥子酢《からしず》で食べさせよう」
「パンの耳と卯の花で、亜さんは目が赤くならないかしら」
「悪いときには米も足りない。雑炊《ぞうすい》だな。リンゴの皮を刻み込んで陸奥《むつ》雑炊ということにしよう。リンゴの実は俺が食う」
「お食後は?」
「砂糖水に蜜柑《みかん》の皮をすり混ぜて凍らせる。紀伊の国シャーベットだ」
「蜜柑の実は?」
「お前にあげる。ちょうど〈有江正宗〉がいいころだろう」
「……まだ湧《わ》きが止まっていないわ」
「なに、その方が胃の中でも発酵するからよく酔うぞ。先にドブロクを出して、相手が酔ったなと思ったら、一度に料理を運ぶんだ。ドブロクは腹が張るからな」
「わたしの父は辣韮《らつきよう》一粒で一升酒を飲んだわ」
「それに較べればこの懐石料理は贅沢《ぜいたく》なものだろう」
幸い、亜と東野先生はいける口だった。
二人は濃厚なモロミを旨《うま》い旨いと言って飲み、すぐ酔ってしまい、次から次へと出て来る有江風懐石料理に感激したようだ。
花子は客が満足する顔を見て安心したが、酔って話す二人の会話を耳にして、気になる点もあった。
「……じゃあ、そうなりゃあ君は生涯金には困らないだろうな」
と、東野。
「しかし……そういうのはあまり好きじゃないんですよ」
これは、亜だ。
「何だ、まだ娑婆《しやば》に未練があるのか」
「先生とも離れ離れになります」
「心配するな。ときどき見舞いに行ってやる」
「しかし……」
「うじうじするな。男らしくもねえ。腹を決めろよ。覚悟するんだ。君があの婆さんから逃げようとする気持が判《わか》らない」
花子が傍に寄ると、二人は声を低くするのである。酔っていても油断しない。でも、途切れ途切れにそれだけが花子の耳に入った。
「娑婆に未練――ね」
太郎は花子の報告を聞いて腕を組んだ。
「どうも怪しいぞ。殺人犯の浮屋章治は背の高い優男だと、井増巡査が言っていた」
「でも変よ。亜さんはお婆さんから追い掛けられているみたい」
「犯人は精神異常者だ。若い女がお婆さんに見えるかも知れない」
「亜さんは精神異常者には見えませんがねえ」
「精神異常者なら尻尾《しつぽ》を出すだろう。しばらく様子を見ていよう」
太郎もそれとなく二人に気を配る。しかし、すでにドブロクは二人の胃袋の中で着実に発酵を続けているようで、かなり酩酊《めいてい》状態になっている。
そのうちに東野先生は腰が定まらなくなり、
「ちょうどいいや、亜。歌を歌えよ。俺が〈ミミズ踊り〉を見せよう」
と、よろよろ立ち上がる。
亜は間の抜けた手拍子を打ち、
「さあー。ミミズ二つに切りゃ、二匹になれるよ。三つに切りゃ三匹になれるよ。嬉《うれ》しや、嬉しや」
と、調子の外れた声を出す。
東野先生は亜の歌に合わせて、床に寝そべって尻《しり》を突き立てる。酔っているのか精神異常なのか全く区別が付かない。二人はミミズ踊りを続けながら離れに戻って行った。
雪は止まない……
翌朝。
二人は至極まっとうな顔付きで朝食にホールへ出て来た。
「昨夜のミミズ踊りは面白うございましたわ」
と、花子が言った。
「ありゃ、私、踊りましたか?」
と、東野が頭を掻《か》く。
「すると、僕はもしかして歌ったんでしょうか」
と、亜。それでは精神病でなく健忘症だ。
「ええ、大きな良い声で」
亜は背を丸くしてこそこそとテーブルに着いた。東野は茶を飲みながら、
「しかし、昨夕《ゆうべ》のは本当に良いお酒でしたね。今朝、すっきりと目覚めて少しも残っていません。お腹がぺこぺこですよ」
と、空腹は有江風懐石料理のためだとはまだ気付かぬようだ。
「それではまた有江正宗をお持ちしますか?」
「朝酒結構ですな。しかし、仕事があるので晩の楽しみにしましょう。朝ご飯は何ですか?」
「今朝は〈朝粥《あさがゆ》定食〉ですわ」
「……お粥ですか」
亜の腹がぐうと鳴った。
亜が心細そうな顔をしたが、花子は気にしなかった。ミミズ踊りを見て以来、亜の評価は暴落してしまったからだ。
「朝からどんなお仕事なんですか?」
と、花子が訊《き》いた。
「山へ登って、ミミズを観察し採集します」
亜が楽しそうに答える。
「……目が大きくて、可愛《かわい》らしいわね」
「目はありません」
「あれ、目じゃないのかしら。ほうほうと鳴くのでしょう?」
「声帯がないので鳴きません」
「ミミズクには声帯がないの?」
「奥さんの言うのはちょっと違うようですね。ミミズクじゃないんです。ミミズなんです」
「ミミズナン……いや。あの、地面の中にいる?」
「ええ」
「目も鼻もない、頭も尻尾《しつぽ》も判《わか》らなくてぬるぬるした?」
花子は言っているうちに気味が悪くなった。
「あれで馴《な》れるとなかなか可愛いもんです」
「まあ、嫌らしい」
二人はそそくさと朝食を済ませ、外に出てジープのタイヤにチェーンを付ける。亜は太郎の言う通りかなり無器用らしく、何度も手を轢《ひ》かれそうになって雪の上に尻餅《しりもち》をつく。
「留守の間、お願いがあります」
と、東野は玄関へ見送りに出た花子に言った。
「もし、誰かが私達を訪ねて来たら、そんな人間はこのホテルに投宿していないと言って下さい」
「……どんな方が来るのでしょう?」
「多分、女性ですよ」
東野はにやっと笑った。
「しつっこく亜の後をつけ廻《まわ》している女性なんです。良い男も楽じゃないね」
「そんな女性なら、逃げることはないでしょう」
ミミズ踊りを見せなさいと、花子は心の中で言った。
「ま、色色ありましてね。亜はいずれ自首するんでしょうが、もう少し泳がしておいてやりたい」
「……悪いことでもなさったんですか」
「あ奴《いつ》はよく女性を裏切ります」
東野は亜に聞こえないように言うとジープに乗った。
「ミミズを取りに行ったわ」
と、花子は太郎に報告した。
「へえ。釣りでもする気なのかね」
「そうじゃないの。捕えて観察するんですって。わあ、気味が悪い。矢張り精神異常者なんだわ」
「……学者とも考えられる」
「あの二人が? 違うでしょう。それに、亜さんは女性を欺《だま》して追い掛けられているんですって」
「そうすばしこいとは見えないが」
太郎の方はミミズ踊りを見て、二人に好意的になったようだ。
「矢張り変よ。井増さんに連絡しましょうよ」
「でも、あの二人が泊っていないと言うと約束してしまったんだろう?」
「約束はしないわ。向こうが一方的にそう言っただけ」
「それでも、あの人達はお客様だからな。その女性が来て、どうしても怪しいようだったら何とかしよう」
その女性がホテルへ現われたのは午後になってからだった。
外に車の音がして、すぐ玄関のドアが押され、黒い毛皮のコートを着た女性がロビーに入って来た。
三角形の顔をした小柄な老婦人だった。
「こちらに、亜という方が投宿していないでしょうか?」
花子は相手の年齢が意外だった。花子は太郎の顔を見た。嘘《うそ》を吐《つ》くのは太郎の方がずっと上手だ。
「亜さんですか? 聞いたこともありませんね」
太郎はにこやかに答えた。
「では、愛という名では? もしかして亜南かも知れません」
老婦人はきいきいとまくし立てる。
「いえ。ホテルをお間違えじゃございませんか、奥さま」
「ここはホテルニューグランド宮後でしょう?」
「はい」
「変ですねえ。確かにそう聞いて参りました」
「一体、その亜さんにどんなご用件なんでしょう?」
「言えません。マスコミの耳に入るといけませんから。日本のマスコミは禿鷹《はげたか》みたいだそうじゃありませんか」
「すると……あなたは外国のお方?」
老婦人はそれには答えず、黒いバッグを開けて小さな小銭入れを取り出した。
「ちょっと、電話をお借りします」
ロビーの隅にある公衆電話へ。
老婦人はダイヤルを廻すと、英語で喋《しやべ》り始めた。花子と太郎は英語が判《わか》らない。二人がぽかんとしているうちに老婦人は電話を終え、受話器を置いた。
「どちらへお掛けで?」
太郎が何気ない風を装って訊《き》く。
「外務省へ電話をして警察の出動を要請しましたわ」
何だかひどく大袈裟《おおげさ》な状態だ。
老婦人は小銭入れを握り締めたまま玄関のドアを押して外に出て行った。花子と太郎もあわてて後を追う。
車寄せに停《とま》っているのは真っ赤なスポーツカーだった。
「タケル君、お待ち遠さま」
老婦人は車の中に声を掛ける。声に応じ、車の窓からブルドッグが顔を出した。
雪はようやく降り止んだが、積雪は五〇センチを越えている。吹溜《ふきだ》まりは胸まで積もったようだ。しかし、スポーツカーは雪など相手にしない。物凄《ものすご》い馬力で雪煙をあげて遠ざかった。
「……何だ、ありゃ?」
太郎が呆《あ》っ気《け》に取られて言った。
「あれが亜さんのお相手なのかしら」
「外務省がどうのと言っていたぞ」
「精神異常者がもう一人増えたとしか思えないわ」
太郎はスポーツカーが残した道を見渡した。
「しかし、凄《すご》い車だったな。お陰で大通りまで雪掻《ゆきか》きをしなくともよくなった。ちょうどいいから、町まで買出しに行って来るよ」
「……こんな日、わたし独りじゃ心細いわ」
「お客さんを干乾しにするわけにはいかない。戸締まりをよくして、何かあったらすぐ警察へ連絡するんだ。すぐ、帰る」
「判《わか》ったわ」
太郎は小一時間で戻って来た。それから夕方まで、何事もなかった。ただ、花子にはそれが嵐の前の静けさのような気がしてならない。
亜と東野を乗せたジープが帰って来たのは三時半だった。
二人共、寒さで氷柱《つらら》みたいに突っ張り、その癖、変にせかせかした態度でロビーに転がり込んで来た。
「いかがでした、ミミズのご機嫌は?」
と、花子が訊いた。
「それが……奥さん、気を付けて下さい」
と、東野が縫いぐるみのような防寒服を脱ぎながら言う。
「山の中で、ミミズが沢山雪の上に出て来ているんです」
「雪の上に?」
「ええ、ほとんどは寒さで動けなくなっていましたが、何か異変がなけりゃいいと急いで帰って来たんです」
「異変――また、地震かしら?」
「何とも言えませんがね」
亜はブリキの採集箱を肩からぶら下げている。その中にミミズが詰まっているのだろうか。亜は防寒服を脱ぐと採集箱を大切そうに持ち直し、東野の後を追って離れの方へ足を早める。雪の上に二人の足跡が深深と残った。
「また、地震だって?」
太郎はトイレの前に立っている。
「いいえ、地震とは言わなかったけれど、きっと幻覚よ」
「幻覚?」
「雪の上にミミズが出て来るなんて、ばかばかしい話だわ。あの人達、一日中雪の中をほっつき歩いていたらしいから、寒さで幻覚を見たのよ」
「矢張り、精神異常か?」
「似たようなものでしょうね。雪の上にミミズが見えたのなら、若い女性がバイオリンに見えてもおかしくないわ」
「バイオリンの絃《げん》を張ろうとして首を縛った?」
「一応、井増さんの耳に入れて置いた方がよくはない?」
「……そうしよう」
太郎はダイヤルを廻《まわ》したが、駐在所は留守のようだった。亜が浮屋章治だという証拠はないので一一〇番をという気にはなれない。
それから一時間ばかり経った頃、ホテルの裏庭に二つの人魂《ひとだま》が現われた。
花子は食事の用意で、調理室にいたのである。
「俺にも幻覚が起こったのかも知れない」
太郎が調理場へ来て、変な顔で言う。
「嫌よ、わたしをバイオリンに見ないで」
「いや、君ならちゃんと花子に見えるんだがね。今、裏庭に人魂《ひとだま》が二つ見えているんだ」
「……気味が悪い」
「それが俺の幻覚かどうか、君に見てもらいたい」
花子はガスの火を止めてホールに行った。
ガラス戸越しに庭を見る。
空はもう暗くなっていて、なだらかな雪の起伏がぼんやりと見える。離れの障子から洩《も》れるオレンジ色の明りがあたりの雪の上に散って、しばらく前に離れに行った亜と東野の足跡がはっきりと判《わか》る。
「ほら――あれだ」
太郎が指差すのは、離れから左に二〇メートルばかり離れた場所だ。
「あっ、見えるわ」
花子が思わず叫ぶ。
小さな赤っぽい光が二つ。雪の上に鈍くゆらゆらと揺れている。雪の上には人影などなく、ただ丸い光だけが動いているのだ。
「君にも見えるかい? だったら幻覚じゃないんだな。安心したよ」
「安心なんかしないでよ。火なんかじゃないわね。一体、何かしら」
「だから、人魂だろう」
「二ついるわ」
「離れにいるのも二人だ」
「二人が死んで、魂が離れて行く、と言うの?」
「離れに電話をしてみよう」
そのとき、玄関のドアが開いて井増巡査が飛び込んで来た。
「ここに、亜南さんが来たと言うではねえか」
井増は血相を変えて言った。
太郎は花子を見た。一瞬、何と答えていいか判《わか》らない。
「隠そうとしても駄目だ。昨日来たとき、亜南様御一行という札を見ただ」
「あれは電話の聞き違えでした。亜南さんではなくて、ただの亜さんでした」
「その、ただの亜さんなら、なお大事だべ」
「……その人が、殺人犯なんですか?」
「殺人犯、浮屋章治など糞《くそ》を食らえだ」
「殺人犯より重要人物なんですか」
「そんだ。今、本庁から連絡があった。来ているだな」
「亜さんと東野先生なら、一時間ほど前に戻って来られました」
「確かだな。部屋はどこだべ」
「離れですよ」
「離れ?」
太郎は窓越しに離れを指差した。
「逃げやしねべな」
「逃げはしませんよ。ほら、雪の上に二組の足跡が付いているでしょう」
「ううむ」
井増は離れを透かすようにして見た。雪の上に動いていた人魂はもう消えていた。
「裏口はどこだべか」
「離れに裏口はありませんよ」
「向こう側に、窓は?」
「向こう側は北ですから窓などありません」
井増の考えていることは判《わか》る。井増は二人の逃亡を気にしているのだ。足跡は離れに向かう二組だけ。他は綺麗《きれい》な積雪だ。いくつかの窓や縁先から出て行く足跡など一つもない。
井増は二人が離れから出て行った可能性がないのを知ると、ほっとした表情で、
「じゃ、お客様をご案内するべ」
と、外へ出て行った。
井増は改まった顔になって戻って来た。井増の後からロビーに現われたのは三角形の顔をした老婦人だった。
「亜さんは離れだそうです」
井増が案内しようとするのを、太郎が遮《さえぎ》った。誰かが訪ねて来たらいないと言ってくれという東野の言葉を覚えているのだ。
「お二人はお仕事のようですよ。電話をしますから、それからにして下さい」
太郎は離れのダイヤルを廻《まわ》す。
受話器をしばらく耳に当てていた太郎が首をひねった。
「……出ませんね。どうしたのかな」
「直接、行った方が早かんべ」
花子は嫌な予感がした。人魂を見た太郎も同じ気持らしい。ちょっと緊張した表情で先に雪の上へ降り立つ。花子も一行の最後に続いた。
離れの戸は太郎の手に従って開く。太郎が奥に向かって声を掛けるが返答がない。
「……ガス中毒じゃねえべか」
と、井増が言った。
「不吉なことは言わないで下さい」
老婦人がぴしりと言う。威厳のある声だった。
太郎は離れの玄関に上がり、襖《ふすま》を開く。三畳には誰もいない。井増、老婦人、花子の順で座敷にあがる。次の六畳には二人の持物が転がっているだけ。その奥の四畳半は全くの空。
「井増さん、いませんよ」
と、太郎が言った。
「そんなはずはねえべ。離れから出て行った足跡はねえんだからな」
井増は部屋の押入れを開け廻すが、人間は出て来ない。押入れを調べると廊下に出てガラス障子を開ける。縁先から出た足跡は一つもない。次は便所。
残るのは岩風呂のある浴室だけだったが、その前に立ったとき、花子は異様な雰囲気を感じた。
湯のないはずの浴室のガラス戸が、ほんのりと曇っているのだ。
「真逆《まさか》……」
太郎が言い、ガラス戸を開け、脱衣場から岩風呂の戸を開ける。
「あっ……」
朦朦《もうもう》とした湯煙が脱衣場に流れ込んだ。白い煙がすうっと晴れると、岩風呂から滾滾《こんこん》と溢れ出た湯が床を光らせていた。
「湯だ。昨日の地震で地下に変化が起こったんだ」
太郎は興奮した声をあげた。
しかし、亜と東野の姿は、浴室にも見えなかった。
「氷柱《つらら》のお婿さんが、解けてしまったんだわ」
花子にはそれが頭では異常だと判《わか》っていたが、そう言うしかなかった。二人は解けて、魂だけが庭をさまよっていたのだ。
「井増巡査、これはどうしたことですか」
と、老婦人が言った。
「二人は気球を使って逃げたとしか考えられねえです」
井増はあたふたしていた。
「すぐ、特別機動隊を出動させるのです。一刻も早く、二人を捕えなければなりません」
「は、早速、本部に連絡します」
あわてて本館に駈《か》け戻った井増は、ホールで殺人犯の浮屋章治とぶつかったのである。浮屋は人気のない調理室に忍び込み、食物を盗み出す気であった。当然、井増と浮屋の死闘がくり拡げられたが、今、それを述べるのは本筋ではない。
結局、井増の奮闘で食物にありつけず力が出なかった浮屋は逮捕されパトカーで連行されて行った。老婦人はスポーツカーに乗り、別のパトカーの先導でホテルを出発した。
「一体、あのお婆さんは何者だったのですか?」
井増の額の瘤《こぶ》を冷やしながら花子が訊《き》いた。
「フツ国|枢密局《すうみつきよく》、皇太子付きの親衛隊長で、名は絵英子《ええいこ》。今回は随従の特使として来日したとです」
「フツ国というと、あのトレミー大博士の?」
「そんだす。大博士は一時|病《やまい》に伏せられていましたが、最近、病状が好転されました。それで、この際、自分は王位を退位され、皇太子殿下に王位を譲位されるご意向――」
「す、すると、亜さんは?」
「左様、フツ国国王、亜トレミー仁一郎大博士の皇太子殿下であらせられます……」
|A《エース》航空のDL2号機は満席で空港を飛び立った。
有江屋の温泉が復活した翌年の四月、桜が咲き揃《そろ》った季節だった。いつもの年なら海外旅行など思いも及ばない。しかし、前の年に昔を凌《しの》ぐ温泉の温度が得られ湧出量も安定したため、客がにわかに立て混み始め、景気の見通しが付いたころ、亜愛一郎からフツ国国王の即位|戴冠式《たいかんしき》への招待状が届き、花子が熱心に参列を勧めたので太郎もその気になったのだ。
フツ国は南国にある花と野鳥の小国。平和な王国だが、半世紀前王女が日本に留学したとき亜仁一郎と大恋愛の末結婚し、後に仁一郎はフツ国国王となった。国王は以来学術芸術に驚異の業績を残し、世界中から奇跡の巨星と慕われている大博士である。大博士の著述の印税、さまざまな巨額の賞金、無数の特許料などによって国が運営され、住民は無税、学芸の施設、福祉は完璧《かんぺき》。海は美しく四季に花の絶えることがなく人情は厚く濃《こま》やか。強いて欠点をあげれば、国民がやや軽薄でいたずら好き、島に一台も車がないぐらいの点だろう。従って、飛行機も近くの島に着陸し、それから船でトレミー島に渡らなければならず、観光客はそうまでしてフツ国を訪れることは滅多にない。
即位の式典に招待を受けた人人は仁一郎の愛弟子《まなでし》ジョン・カラヤカン博士を初めとする世界中の学者や芸術家、仁一郎に私淑する政治家や民間人約二千人である。
DL2号機の乗客の全ては皇太子愛一郎の知人だった。愛一郎は父の祖国である日本の自然や生物を愛し、長い間さまざまな風物を撮影し続けていたので、愛一郎と知り合い彼を慕う人達が多くいた。
その中には当然、学術上の知人も多かったが、愛一郎は不思議なことに日常の生活で奇妙な事件に関わることが多く、警察の関係者も大分混っていた。そのほとんどはこの年、初めて愛一郎がフツ国皇太子であることを知らされ、目を白黒させたのである。愛一郎は自分が特別な人間であることを知られるのをひどく嫌っていたようだ。だが、生来の義理堅さから、この国で世話を受けた人達を戴冠式に招待することになったと思われる。
花子は乗客名簿に目を通した。名簿には百名近い名が連なっている。
学芸関係では、東大教授で地質学の成山博士、同じく地質学の稲垣博士、天文学の耳成助教授、考古学の三条健、淡水魚の権威草藤十作、植物では大竹譲、桜井料二助教授、昆虫の朝日響子、山根博士、サソリの戸塚左内、東邦|水棲《すいせい》動物研究室室長の京島朋子、歴史の武者東小路太郎左衛門、次郎左衛門兄弟、コノドントの田岡千代之介、小永井教諭、ミミズの東野博士、留尻小学校の多聞覚校長、留尻の詩人鈴木正麻呂、画家の一荷聡司、丘本喜久治、美術評論家の阿佐冷子、歌手では加茂珠洲子に加茂トシコ、コメディアンのウエスト吉良、エレーナ入江、囲碁の岡田十段。
警察関係では、警視庁の藻湖警視に井伊和行警部、宮前署の宮前署長、音羽鉄司警視、羽田三蔵警部、羽並署の高波警部、右腕署の氷解《ひげ》署長、下堀署の香嵐警視に呉沢警部、金堀派出所の島中巡査部長、馬本温泉駐在所の木戸巡査部長、妃護署の那須警部、海津署の鈴木元警部、バリカン署の中里警部に唐巣警部、赤島署の明石警部、留尻署の横川警部、双宿署の有江次郎警部、北宮後駐在所の井増巡査部長。
民間人では、スネーク製菓社長の塩田景吉、同宣伝部長の小倉汀、冒険家の赤鈴雛子、東欧映画重役棚田海雄、サンプロダクション重役嵐監督、袋町役場課長小網敦に係長島尾杉亭、週刊人間の黄戸静夫編集部長と亀沢均記者、旭名敏夫、青蘭社の磯明編集長、A交通の浜岡孝二と今西運転手、金潟タクシーの金潟社長、青蘭市市営バス運転手|黄金横行《こがねよこゆき》、糸香神社の千野義麿宮司、元自衛官中神康吉、釣具店主の室野|肇《はじめ》、谷尾商事の谷尾庄介、料亭伊豆政の政子、藤沢マルセル店主、北湯の音造、スコーピオン金堀店店主の玉葉匡子と蠍町店店主の神楽坂光子、黒川畳店店主、アンドレ洋菓子店店主、石場豆腐店店主の石場明実、金堀金物店店主、全日本ヌーディストクラブ会長富沢清、同会員箱崎幸男と京子、新生セメント稲田工事部長、ダンプ運転手赤城弁造、農業浅日向洋平と勝子、桝銀《ますぎん》店主と美毬《みまり》と毬男、辰巳医院院長夫妻、山の上外科婦長江田富江、盛栄堂病院陽里看護婦長、有江屋の有江太郎と花子。
それに、元県知事田中善行と娘の美智子、元三石銀行総裁斉藤三造、元防衛庁管理局長井上洋吉、元大蔵省政務次官小林健夫、青蘭消防署の赤西署長、財界の千賀井鶴彦という人達が加わった。
花子の左隣に髭面《ひげづら》の大男がいる。初対面は粗野な感じがしたが、笑うと人懐っこい顔になり話好きだった。南国、右腕という田舎《いなか》の警察署長で、氷解《ひげ》という顔とぴったりの覚え易い名だった。
花子は退屈していたので、有江屋の離れで起こった亜と東野の消失事件を話すと、面白そうに聞いていた氷解は最後になってううんと唸《うな》った。
「……床下や天井裏から脱出したのではないのですな」
「勿論《もちろん》ですわ。離れは古い家ですから、そんなことをすれば埃《ほこり》になってすぐ判《わか》ってしまいますもの」
「本当に、亜さん達は雪の上に足跡を残さずに離れから抜け出すことができたというのですか」
「ええ、建物のどこかに潜んでいた、という手でもないんです」
「真逆《まさか》、気球に乗り込んだ、というのでもない」
花子は何だか楽しくなった。探偵作家にでもなった気分だ。
「私が以前立ち会った事件も大変に不思議でした。空中に浮んだ熱風船のゴンドラの中で、一人の芸能人が殺害されたのです。しかも、その犯人は衆人環視の中で逃げ失せることができたのです」
「ヒップ大石殺害事件でしょう。当時大きく報道されましたから、よく覚えていますわ」
「その事件は実は亜さんが解決したのですよ。たまたま、アルバイトで関係者の中にいたのです。亜さんは自分の名が出ることを嫌がって表には出ませんでしたが」
「亜さんはいつもそうだったようですね。表沙汰《おもてざた》になると国王陛下の耳に入り、フツ国に呼び戻されるのを怖《おそ》れたのでしょう」
「しかし……いつもなら不思議を解決するはずの亜さんが消えてしまったのでは、謎《なぞ》の解けようがありませんな。一体、どんな手を使ったのでしょう」
氷解《ひげ》は大きな両手をぱんと叩《たた》いた。そろそろ焦れてきたようだ。花子は種明かしをしてやることにした。
「亜さん達は、別に不思議な手を使ったわけではないんですよ」
「ほう……手を使ったのではないのですか」
「ええ。その前の日に宮後では震度四の地震があったのです」
「それは最初に聞きましたが……」
「その影響だと思うんですけれど、長い間止まったままになっていた温泉がまた湧《わ》き出したんです」
「それも聞きました。それで、亜さん達が解けてしまったと言うんじゃないでしょうね」
「亜さん達は解けませんでした。解けたのは雪の方でした」
「……雪」
「ええ、急に湧き出した熱いお湯が湯壺《ゆつぼ》から溢《あふ》れ、外に流れ出したのです。それが雪を解かしながら川になって庭の奥を横切ります。元、流れのあった場所は雪の吹溜《ふきだ》まりになっていて、一メートル以上も雪が積もっていました」
「……湯は一メートルもの雪をすっかり解かすまでには至らなかったんですな」
「その通り、吹溜まりの下を湯が通り抜け、人がくぐれるほどのトンネルができていたのですよ。その空洞に亜さん達が気付いたんです。ほら、あの人達って、変なミミズを見付けても大騒ぎするでしょう。そのトンネルが珍しいとすっかり興奮して、トンネルの中に潜り込み、懐中電燈で雪の様子を調べていたんです」
「庭に現われた二つの人魂というのはその懐中電燈の光だったんですね」
「ええ。薄くなった雪を透かしてその光が見えていたんです」
「いや、ヒップ殺害事件を思い出しますよ。あのときも亜さんはそんな調子で犯人逃走の謎《なぞ》を解き明かしたものです」
「何しろ亜さんはトレミー大博士の血を襲《つ》いでいますからね」
「それで、今度は誰がその謎を解いたのですか。井増さんですか?」
「いいえ。井増さんはいませんいませんと騒ぐだけ。わたしと主人は矢張り氷柱《つらら》のお化けだったのかとうろたえ、絵隊長はピンク電話でフツ国大使室に報告しようとしましたが電話番号を間違え、小銭が戻らないと騒いでいました。結局、雪解けになって湯の川を覆っていた雪が落ち、それでトンネルができていたことが判《わか》ったのです」
「でも、逃走した亜さん達はすぐ捕えられたのでしょう」
「ええ、わたし達の騒ぎがトンネルを伝わって亜さん達に聞こえたのです。亜さんは王様に祭りあげられることが嫌だったので、そのままトンネルの向こう側から逃げ出し、庭を廻《まわ》って東野先生のジープに乗りました。でも勘の良いのがいたのです」
「それは、誰ですか?」
「タケル君です。絵隊長がいつも車に乗せているブルドッグですわ」
「ほほう……亜さんは犬に追いかけられたのですか」
「ええ、タケル君は亜さんの臭《にお》いをよく知っているんだそうですよ」
花子はその場にいたわけではなかったが、雪の中でブルドッグに追い掛けられている亜の姿なら、かなりはっきりと想像することができた。
そのうちに、瓢箪型《ひようたんがた》をしたトレミー島が眼下に見えてきた。
青い空に童画のような白い雲が浮いている。紺碧《こんぺき》の海、白い砂。
島の中央にある大宮殿は、熱帯降雨林を背にし、巨石に囲まれるようにして建てられている。建物自体が特別の巨石のように見えるのはトレミー大博士の苦心の設計だ。
宮殿前の広場は式典のために飾られ、多くの旗がはためいている。フツ国の国旗は弓の字を背中合わせに並べた形の「※」印である。
祭壇の両側には来賓が居並び、それを囲んで全国民が集合した。
午前八時。花火が打ち上げられ、フツ国国歌が演奏される。思わず身体を動かしたくなるような民族音楽だった。
さまざまな色彩の花に埋まった式場に、まずフツ国首相|王亜壺《おうあこん》が静静と登場、続いて亜トレミー仁一郎大王と王妃が姿を現わし、その後から愛一郎皇太子の姿が見えると、広場は熱狂の坩堝《るつぼ》と化した。
愛一郎が着た民族衣装は贅沢《ぜいたく》とはいえなかったが神神しいばかりの気品に満ちている。背が高いため正装の亜は一段と立派で、整った容貌《ようぼう》は一際《ひときわ》端麗だった。参列者の女性からは一様に溜《た》め息が洩《も》れたほどだった。
戴冠の儀が滞りなく終わると国民代表の参賀の辞、式次第の後半からは愛一郎を愛する国民が待ち切れなくなって勝手にトレミー酒で乾杯を交わして賑《にぎ》やかに飲み始める。
各国代表の挨拶《あいさつ》が続くころ、花子も少し退屈になった。花子の隣にいた草藤十作と桜井料二も同じ気持らしくひそひそ話す声が聞こえて来る。
「ねえ、桜井君、〈歩《ある》いている亜《あ》〉というのはどうです?」
「……何ですか、それは」
「今、作った回文《かいぶん》さ」
「なるほど……」
桜井はしばらく左掌を広げ、右指で文字を書くような動作を続けていたが、
「じゃ、先生。〈歩《ある》き飽《あ》きる亜《あ》〉というのはいかがです」
「ははあ……でも矢張り七字だ」
「回文は字数の多いほどむずかしそうですね」
「そりゃ、そうだ。一字増すと倍もむずかしくなるぞ」
「それじゃ〈歩《ある》いて寝《ね》ている亜《あ》〉これは九字になります」
「ううむ。二字も多いか。しかし、私に勝とうとしても無駄だぞ。〈歩《ある》いて舌《した》を出《だ》している亜《あ》〉十三字だ」
「〈歩《ある》いてじたばたしている亜《あ》〉」
花子も負けてはいられなくなった。花子はそっと草藤にささやいた。
「先生〈有江太郎《あるえたろう》とくどくどうろたえる亜《あ》〉というのができましたわ」
「や、奥さんのが一番秀逸です」
草藤は思わず声を大きくする。
各国代表の挨拶《あいさつ》がまだ続いている。
王首相がそっと絵隊長にささやく。
「長い間、お役目ご苦労でしたな」
「……ええ。留守の間、主人の浮気も心配でしたけれど、殿下はよく妙な事件に巻き込まれましたのではらはらし通しでしたわ」
「でも、これからは一安心でしょう」
「なかなかそうは行きませんわ」
絵は祭壇の方を見た。最後の代表の挨拶が終わり、亜は緋《ひ》の絨毯《じゆうたん》を敷いた階段を降りようとしている。
「まだ、お妃を選ぶお仕事が残っています」
「なるほど。それは一苦労ですな」
「それから」
「それから?」
「殿下のあのお癖が早くなおりませんことには……」
亜はそのとき現われたドーナッツ型の雲に気を取られてしまったらしい。そのために裾捌《すそさば》きに注意がおろそかになったようだ。亜は裾を踏んで足をもつれさせ、階段の下まですってんころりと転倒していた。
それを見た花子が言った。
「〈ある結末《けつまつ》につまづける亜《あ》〉」
平成14年6月14日 発行
角川文庫『亜愛一郎の逃亡』平成元年6月25日初版発行