泡坂妻夫
亜愛一郎の転倒
目 次
第一話 藁《わら》の猫《ねこ》
第二話 砂蛾《すなが》家の消失
第三話 珠洲子《すずこ》の装《よそお》い
第四話 意外な遺骸《いがい》
第五話 ねじれた帽子《ぼうし》
第六話 争う四巨頭
第七話 三郎町《さぶろちよう》路上
第八話 病人に刃物《はもの》
第一話 藁《わら》の猫《ねこ》
大きなくしゃみを一つすると、丘本喜久治《おかもときくじ》の右側後頭部がそれに応答して鈍《にぶ》く疼《うず》いた。
手を当てると、小さな瘤《こぶ》になっている。なんだってデパートの地下社員通路というのは、ああまで乱雑なのだろう。至るところに商品が積み重ねられ、壁《かべ》から天井《てんじよう》には大小のパイプが這《は》い廻《まわ》っている。丘本喜久治は足元に転がっていたマネキンの胸が気になっていたので、パイプの突起《とつき》に気が付かず、頭をぶっつけたのだ。真っすぐなパイプのつもりが、そこだけが半円形に曲っていた。丘本は頭を押えながら、社員用のエレベーターで十五階の展覧会場まで登った。エレベーターは化粧《けしよう》したての女店員で埋《うま》り、腰《こし》の曲った皺《しわ》だらけの男が運転していた。
二つめのくしゃみをすると、丘本は目を閉じて、鼻腔《びこう》の奥《おく》の様子をじっとうかがった。いつもの小悪魔《こあくま》どもの騒《さわ》ぎは感じられなかった。
――このくしゃみは、風邪《かぜ》を引き込んだためではない。
丘本は満足してポケットからパイプを取り出した。だがすぐ「禁煙《きんえん》」と書いた札が目に付いた。
――なんだってデパートというのは……
前の夜は、続けざまに四十六回くしゃみが出た。
「夏の風邪《かぜ》はこじらせては駄目《だめ》よ」
と、妻が心配した。
そのときも、丘本は目を閉じ、鼻腔《びこう》の様子をうかがったのだ。
「――風邪ではない。一日中デパートのクーラーの中にいたからだ」
と、丘本は答えた。
丘本のアトリエには、クーラーなどという文明の利器は置いてなかった。
「いいわね。仕事をしながら、避暑《ひしよ》ができて」
丘本は四十七回めのくしゃみをしてから妻を叱《しか》った。
「夏は暑く、冬は寒いから、人間には芸術が生れるのだ。だが、なんだってデパートってのはああクーラーを効かさなきゃならないんだ」
大体、丈夫な体質ではなかった。小さい頃《ころ》から、鼻が悪かった。慢性肥厚性鼻炎《まんせいひこうせいびえん》という病気と長い付き合いだった。だが弱い体質にかかわらず、他の大病の経験はなかった。他の病の前には必ず鼻腔に変調をきたすからだ。じっと鼻腔を探っていると体調が判《わか》り、鼻腔の方で丘本に無理をさせなかった。交通事故にも遭《あ》ったことがない。これは丘本の妻も信じなかったが、危険の直前には、鼻腔がそれを感じて騒《さわ》ぐからである。
「一病息災ですな」
と、医者が感心した。
「一病息災? 無病息災という言葉なら聞いたことがありますがね」
「いや、一病息災。なかなか含《ふく》みのある言葉でしょう。あなたは慢性鼻炎のために健康でいられる。頑健《がんけん》な身体《からだ》で、病一つしたことがないと、よく自慢《じまん》をしている人がいるが、私はそんな人間を信用しないね。そんなのに限り、なにか事が起ると、ころりと参ってしまうんだ。あなたのような体質が一番理想的なのです。もっとも、どこも悪くはない、完全に健康などという人間は、私に言わせると、世界中に一人もいやしないからね」
「まさか?」
「嘘《うそ》だと思ったら、顕微鏡《けんびきよう》で自分の指先をごらん。擦《す》り傷だらけになっている筈《はず》だから」
九時四十五分。開店前のクーラーは、一段とよく効いている。丘本のくしゃみで、何人かの女店員が忍《しの》び笑いをしている。彼女たちには、店内放送の声など耳に入っていないのだろう。
スピーカーから、支配人だか部長だかの訓辞が、長々と流れている。売上指数や、売上目標高の数字が並べられ、上方訛《かみがたなま》りに店独得の隠語《いんご》などが混って、丘本にもよく判《わか》らない訓辞だったが、最後の方で「十五階展覧会場の粥谷東巨《かゆやとうきよ》回顧展は予想外に好評である」というのが耳に入り、少しばかり気をよくした。
粥谷東巨――丘本は東巨の数少ない友人の一人であった。生前、東巨の名を知るのは、限られた関係者だけだったろう。だが、狂死《きようし》に近い彼の死に方が、世人の注目を集めた。東巨は束縛《そくばく》を知らずに生き、自分の描きたいだけの絵を描き、世間にへつらわぬ死に方をした。それが世間の関心をひくことになる。皮肉だな、と丘本は思う。この回顧展を東巨が知ったら、どんな顔をするだろう。
会場の入口に、大きく伸《のば》した東巨の写真と、略歴を記したパネルが並んでいる。略歴の文章は、丘本が書いたものである。
粥谷東巨、京都に生れ、少年期を過した。八坂《やさか》神社から知恩院《ちおんいん》附近は、彼の庭と同じであった。多感な時期、東巨の芸術的感性は、こうした土壌《どじよう》に育てられたのである。中学時代、美術を志し上京してA芸術大学西田教室に油絵を学んだ。在学中「土橋のある道」を発表。土橋の量感、初夏の光、土の湿度などが張りのある画面に描写され、専門家たちを驚嘆《きようたん》させた。徹底《てつてい》した写実性、完璧《かんぺき》を求める芸術的姿勢は、以来変るところがなかった。
だが、彼の画業は一部の人たちには認められながら、その生活は必ずしも恵まれているとは言えなかった。木の枝一本、小石一つをもゆるがせにしない創作態度は、必然的に寡作《かさく》であり、世間を驚《おどろ》かせるような奇作《きさく》にも乏《とぼ》しく、対人関係が下手《へた》なせいもあった。
初めての遺作展が開かれたのは、東巨の死んだ年である。一堂に集められた東巨の画業は、生前親しかった丘本喜久治を圧倒《あつとう》した。東巨の完璧な描写力には狂気《きようき》すら感じさせるものがあった。東巨の名が、じわじわ一般に知られるようになったのは、それからである。
今回の回顧展の売り物は、今まで展示されたことのなかった「新色藤子《にいろふじこ》像」である。
ポスター、新聞広告、チラシ、切符のいずれにも、女優「新色藤子像」が美しく印刷されていた。丘本は等身大のポスターをぼんやり見ながら、スピーカーの声を聞き流した。
スピーカーの訓辞が終った。女店員が切符売場のガラスの中に入り、受付|嬢《じよう》がコンパクトを開いて、鼻の頭を叩《たた》いた。受付の傍《そば》には、展覧会の目録、東巨の画集、複製画などが並べられる。
丘本は壁《かべ》に掛けられた複製画の見本の一枚が、曲っているのに気が付いた。
――東巨の奴《やつ》が見たら、嫌《いや》な顔をするだろうな。
東巨はきちょうめんで、融通《ゆうずう》の効かない男であった。そのため芸術的な手腕《しゆわん》を持ちながら、生涯《しようがい》を不遇《ふぐう》で過し、妻の死にすら打ち勝つことができなかった。
――彼に必要なのは、疎放《そほう》とずぼらであった。
丘本は曲っている複製の「新色藤子像」を直さないことにした。
東巨の残した人物画は多くなかった。東巨の偏執的《へんしつてき》なしつっこさに、モデルの大半は完成まで堪《た》え切れず、逃げ出してしまうからである。その数少ない人物画の一枚に「新色藤子像」があった。女優新色の美姿が、東巨の世界の中に見事に描かれ、間然《かんぜん》するところのない作品になった。「新色藤子像」は東巨の代表的遺作となり、同時に新色藤子の遺影《いえい》ともなった。新色藤子は絵の完成後、間もなく自殺して世を去ったからである。
東巨が新色藤子の魂《たましい》を奪《うば》った、とあるジャーナリストは書いた。東巨はその「新色藤子像」にどの位の年月を費したのだろう。それを知っている者は、一人もなくなってしまった。新色藤子、小山葺子《よしこ》、粥谷東巨――「新色藤子像」に関った三人は、いずれも自らの手で自分の生命を絶ったのである。
そのとき、がたんと大きな音がした。
丘本が振《ふ》り返ると、会場の中央で、黒い鞄《かばん》に躓《つまず》いている男があった。はずみで三脚《さんきやく》が倒《たお》れかかり、男は奇妙《きみよう》に身体《からだ》をねじって、機械を建て直そうとしていた。連れの男が何か小さく叫んで転ぼうとしている男の腕《うで》から、撮影機《さつえいき》を取りあげた。男はそれで安心したものか、派手《はで》やかに床《ゆか》の上に転がった。
受付嬢が吹き出し、丘本は眉《まゆ》をひそめた。
――そう、もう開店だ。あの二人にも、そろそろ仕事を終るように注意しておかなければいけない。
丘本は壁《かべ》から外されて、床の上に立てかけられてある東巨の「保多の海岸」に目を落した。
――絵を傷にでもされたら、ことだ……
その二人のうち、一人は中年の男で、目と眉が同じ形をしているため、顔の中に目が四つ、ないしは、眉が四つあるように見えた。開襟シャツに折れ目の抜《ぬ》けたズボンが、いかにも粗野な感じを受ける。
もう一人は四つの目の男より若く、色白で端正《たんせい》な容姿である。着方によっては厭味《いやみ》にもなりかねない明るい茶格子の夏服を涼しげに着こなし、細身の白靴《しろくつ》の先にまで、神経がとどいているようであった。
二人は開店前の展覧会場に三脚や撮影機《さつえいき》や照明器具などを持ち込んだので、丘本は東巨の絵を撮影に来た美術出版社の社員と見たが、違っていた。彼|等《ら》は東巨の絵よりも、東巨の絵の後にあるものに、絶大な興味を持ってやって来たのであった。
「この会場の壁《かべ》に、アンモナイトがあります。撮影させてください」
四つの目の男はもにゃもにゃ言い、名刺《めいし》を差し出した。見ると大学の教授で、三条|健《けん》とあった。
「アンモニヤ?」
丘本は四つの目を交互に見た。
「いや、アンモナイト。アンモナイトの化石ですよ」
自分の発音が悪かったのにもかかわらず三条健はむきになって言った。
展覧会場の係長がやって来て、前日社長からお話を聞いております。開店まで御自由にと、作り笑いをしながら二人を会場に通した。
「アンモナイトの化石って何です?」
丘本は係長に訊《き》いた。係長は急に渋《しぶ》い顔になって、
「何だか判《わか》りませんがね、古代の貝だそうです。大理石の壁にその物が埋《う》め込まれているとか、嵌《は》め込まれているとか言っていましたよ。若い方の男が見付けたらしいんです。社長も物好きだ。休日にでもさせればよかったのにね」
「一刻《いつこく》も早く見たくなったんでしょう。ああいう連中にはそんなところがあります」
実際、二人は矢も楯《たて》もなくなっているらしかった。二人は会場に入ると、荷物を床《ゆか》に投げ出して、いきなり正面の広い大理石の壁《かべ》に取り付いた。そして東巨の「保多の海岸」に手を掛けようとするので、丘本が驚《おどろ》いた。
「何をする気です!」
「絵の後の壁を見せて下さい」
三条の血相も変っていた。
「まあ、仕方がないでしょう」
係長がそう言い、絵が慎重《しんちよう》に取り外された。
「こ、これだ」
三条の四つの目が壁に焼き付いた。
絵の後の大理石の肌《はだ》に、頭を持ち上げたなめくじのような痕《あと》が七つ、同じ形で等間隔《とうかんかく》に並んでいる。全長は三十センチばかりで痕は上にゆくほど小さい。丘本の目には、ごくありふれた、ただのしみにすぎない。
「完全なハイハントセラス、七巻しているでしょう」
若い男が自慢《じまん》した。
「うん、アニュートーリだ。見事だ」
あとで聞くと、ハイハントセラスとはアンモナイトが棒のように伸《の》びた珍種《ちんしゆ》で、アニュートーリの方は名詞ではなかった。若い男が「亜《あ》」という名前だそうで、三条の言葉の不明瞭《ふめいりよう》から「亜の言うとおりだ」がアニュートーリと聞えただけである。
亜は早速|三脚《さんきやく》を立てはじめたが、どうも手付きがおぼつかない。あれでちゃんと撮影《さつえい》ができるのだろうか。
だが受付|嬢《じよう》などは、係長の姿が見えなくなるやいなや、亜の傍《そば》にぴったり寄り添《そ》って、撮影の手伝いなどしていた。
「男前だからな」
丘本は受付に戻《もど》って来た彼女に言った。
「見かけ倒《だお》しね」
受付嬢の顔は桜色に上気していたが、口は生意気《なまいき》な言葉を吐《は》き出した。
「そうだろうか」
「彼、とっても無器《ぶき》っちょなの。それに新色藤子の死んだのはいつでしたかなんて訊《き》くの。そんなこと常識じゃない?」
「他人の死んだ年など、俺《おれ》だって覚えちゃいないよ」
「あら先生、今年が七回忌じゃないの。でも、少しぐらいおつむが足りなくても、ああ見かけがいいと、矢張《やは》り一流だわ」
「男は、心じゃないのかな」
「勿論《もちろん》、顔ね」
だから、亜《あ》が黒い鞄《かばん》に躓《つまず》いて、大の字になって床《ゆか》の上に転ったとき、丘本はいい気持になったのだ。
丘本は二人の傍《そば》に寄って、時計を示した。
「そろそろ開店になります。お仕事は又明日にでもお願いしましょう」
のそのそ立ち上った亜と、三条は夢から覚めたような顔をした。
「おお、そうです。もうこんな時間になりますか。ああ」
「先生、早く片付けましょう」
亜が両手をばたばたさせた。彼の早くというのは、ただ両手をばたつかせるだけのことであるらしい。
「フィルムはちゃんと入っていただろうな、ああ」
三条は丘本と同じような心配をした。
器具類が片付けられると、名残惜《なごりお》しそうな二人の前に「保多の海岸」が元どおりにかけられた。亜はそれでも視線を動かさない。絵を透《とお》してまだアンモナイトを見ているのだろうか。
「おい、どうしたんだ。早く出よう。もう開店だとさ」
待ち切れなくなったように三条が言った。
それでも動かない。見ると白い眼が出ている。三条は亜の顔の前に手をかざし、ひらひら動かした。
「こ、この絵は?」
亜は絵を見ていたのである。
「この絵がどうしたと? 絵の中に化石でもあるのか。又、病《やまい》がはじまったのか、そんな顔をして」
三条は顔をしかめた。
丘本も不審に思って目を絵に移した。
「保多の海岸」東巨晩年の力作である。目を閉じても絵の隅隅《すみずみ》まで心に写すことができる。保多の初夏、浜辺で漁師たちが網《あみ》の手入れをし、子供たちがその囲りで遊んでいる百号であった。東巨らしいがっしりした構図、そしてなによりも、初夏の自然と人間の調和の美しさに、丘本は東巨の中でも、特に傑出《けつしゆつ》した一つであると考えている。今「保多の海岸」の前に立っても、初めて見たときの感動が甦《よみがえ》るほどだ。
「――顔じゃありません。手です」
亜の息遣《いきづか》いが乱れていた。亜はふらりと指を伸すと、絵の一点を差し、かすれた声で、
「この女の子の指は、六本あります」
と、言った。
「そんな馬鹿《ばか》な!」
丘本は思わず大声をあげた。東巨が人間の指を六本も描くなどということは、絶対にあり得ないことだった。
「でも、確かにこれは六本でしょう。ほら、一本、二本、三本、四本……」
亜がポケットからマッチ棒を取り出し、マッチの先を絵に近付けて算《かぞ》えだした。
画面の片隅《かたすみ》で網《あみ》をつくろっている漁師の手もとにじっと目を注いでいる五、六|歳《さい》の女の子。その右手は小さく、草を握《にぎ》っているために、余程の注意を凝《こ》らさないと指の数など目に付かないのだが、言われてみると、その指は確かに、六本付いているのだ。
丘本は目を疑い、何度もまばたきをして、顔を絵に近付けた。だが何度算えても、六本であることに変りはなかった。それも、東巨の筆は、意識的に六本の指を描いていたのだ。
「失礼ですが、絵描きさんですか?」
呆然《ぼうぜん》としている丘本に、亜が尋《たず》ねた。
「そうです。東巨とは、生前親しかった者です」
丘本は彫《ほ》りの深いこの男の顔を、しげしげと見なおした。
「どうして、この女の子には指が六本もあるのでしょう?」
「判《わか》りませんね。――こんなことを言い出したのは、君が初めてだ」
六本の指を描いた東巨の不可解は、丘本の心に漠然《ばくぜん》とした疑惑《ぎわく》を芽生えさせた。新色《にいろ》藤子、小山|葺子《よしこ》、粥谷《かゆや》東巨の死には、隠《かく》された何かがあるに違いない。あの少女の六本目の指と同じように……
丘本は「保多の海岸」の前に立ちつくし、二人が礼を言って会場を出て行ったのも、うわの空であった。
やがて店内に、開店のベルが鳴り響《ひび》いた。
東巨には熱心なファンがいる、と丘本は感心した。年齢《ねんれい》の幅《はば》も広い。
最初のエレベーターで、もう何十人もが切符売場の前に行列している。真っ先に会場に入ったのが、三角形の顔をした洋装の老婦人で、次が婦人雑誌から抜《ぬ》け出したような美人だった。もっとも美人の方は一直線に「新色《にいろ》藤子像」の前に駆《か》けて行ったので、その方面のファンらしい。
招待状を持って来た顔見知りの画家も来場している。丘本は火の付かないパイプをポケットに入れたり出したりしながら、何人にも挨拶《あいさつ》を交わした。
招待客が一段落して会場を見渡《みわた》すと、三条と亜の姿が目に止った。荷物を持っていないところを見ると、ロッカーにでも置いて来たのだろうか。
丘本の頭の半分は「保多の海岸」の六本指で占《し》められていた。そのため友達と会っても、おざなりの会話に相槌《あいづち》を打つだけだった。
丘本は急いで二人の傍《そば》に寄った。
「東巨がお気に入りましたか?」
「そう、絵は嫌《きら》いじゃないんですがね」
三条は亜をちょっと見て、
「こいつが、どうも気になると言い出しましてね。今度は亜の付き合いです」
丘本は三条が半券を持っているのに気が付いた。
「一《ひ》と言《こと》おっしゃれば、切符をお買いにならなくとも、よかったですのに」
「なに、亜が払《はら》ったのです。珍《めずら》しいことがあると思ってね」
その亜は、怪《あや》しく目を光らせている。「保多の海岸」を見たときと同じ目である。絵の隅隅《すみずみ》を舐《な》めるように見つくし、とても絵の観賞という態度ではない。
「何か見付かりますか?」
丘本は亜にささやいた。
「いや、まだ三、四枚見ただけですから――」
亜は目をしょぼつかせた。
また招待客が続いて来た。丘本は絶えず二人の動向を気にした。それで一時間ばかりたって、二人が出口から出ようとするのも、見逃《みのが》さなかった。
「東巨の御《ご》感想は?」
丘本は二人の前に立ち塞《ふさ》がった。顔も恐《こわ》くなっていたに違いない。
「東巨という人は、実に偉《えら》い人だと思いました」
亜はなにかさっぱりした顔で答えた。その言葉は正直自分の心のままを言っているようであった。
「これだけ自分の作品に自信を持っている人は、確かに偉いと思います」
亜が東巨の絵のことは言わず、東巨の人だけを言っているのが気になる。
「そして、絵の中に奇妙《きみよう》なものがまた見付かりましたか?」
丘本はふと亜の答えを聞くのが恐《おそ》ろしくなった。
「奇妙なもの? ああ、六本指のようなものですね。沢山《たくさん》見付かりましたよ」
亜は気軽に指を折りはじめた。
「針の間違《まちが》っている時計、重力を無視している水差しの水、あべこべの鋏《はさみ》、開くことが出来ないドア、春に花を咲かせたテンニンソウ……」
「そ、そりゃ一体――?」
わけのわからない物が一と山、目の前に積まれて、これで一つの作品を作れと迫《せま》られたようだった。
「例えば東巨の自画像がありますね。その背景に時計があるのですが、どうも針の工合が奇妙《きみよう》なのです」
「自画像に時計?」
彼の自画像に、時計などあっただろうか?
「一緒《いつしよ》に絵を見ながら、説明してください」
丘本は先に立って会場の中央に出た。「自画像」は「新色藤子像」の隣《となり》にあった。どの絵の前にも人だかりができていたが、丘本は無遠慮《ぶえんりよ》に人をかきわけた。
右手を頬《ほお》に当て、東巨はじっと正面を見据《みす》えていた。髪《かみ》が額《ひたい》にかかり、頬骨《ほおぼね》が高く、鼻が鋭《するど》い。東巨のひたむきな表情は、文学的な厚みさえ感じさせる作品だ。
「服の合せ方があべこべでしょう」
亜が小声で言った。
「それはそうだ。東巨は鏡の中の自分の顔を描いたのだからね。彼は鏡の中の自分をひっくり返してカンバスに移すことが出来るような器用な男ではなかったのです」
「そうすると、頬に当てている右手は、左手ということになりますね。その左手にある腕時計に注意してください」
その時計は半分|袖《そで》に隠れていたが、二つの針は、極く細い線ではっきりと描かれていた。
「短針はぴったり十時を指しているでしょう。もっとも、鏡の中だとすると本当は二時ということになりますが」
「それが?」
「そうです。変なのですよ。長針の方は三十五分になっていますからね。鏡の中としても二十五分でしょう。短針の方は、どうしても十時と九時の間か、十時と十一時の間でなければならないでしょう」
「そうだ」
丘本は素直にうなずいた。確かに、絵の中の小さな時計の針を気にすることなどおかしい。だが、東巨の針の描き方は異様なほど写実的であった。――どこかに変なところがありませんか? 自画像の東巨はそう挑戦《ちようせん》しているようだった。
「――それに、水差しの水がどうしたとか言いましたね」
「ああ、あれなら静物画でした」
丘本は人垣《ひとがき》を分けて「静物」の前に進んだ。
東巨の静物画は手を伸《のば》せば絵の中の物が取り出せそうな現実感が特徴《とくちよう》であった。その「静物」は小卓《しようたく》の上に、切りかけのパン、ナイフ、グラス、水差しなどが量感のある世界を作っていた。
「今度は、水差しに注意してください」
と、亜が言った。
丘本はもう絵全体を味わうことが出来なくなっていた。催眠術《さいみんじゆつ》にでもかけられたように、口が細くなっているガラス製の水差しに吸い寄せられた。――そして、信じ難い東巨の筆を発見した。
水差しの中には、ほぼ一杯《いつぱい》に水が入っていた。東巨は水の入ったガラスの、光の屈折度《くつせつど》を的確に表現している。だが、水差しの首にある水の表面が、三十度ほどに傾《かたむ》いていたのだ。
「重力を無視している水差しの水――」
丘本はうめいた。
「ところで、東巨という画家は、左利きでしたか?」
亜がまたとんでもないことを言い出した。
「左利き? いや、東巨は根っからの右利きだった。君、どうして東巨が左利きだと言うのかね?」
「いや、別の静物画には卓上に鋏《はさみ》が置いてあるものがありますが、その鋏が左利き用の鋏だったからです」
「〈編み物の机〉だ」
「編み物の机」は静物の小品である。机の上に太い毛糸、編みかけの布、鋏などが描かれている。
「この鋏かね?」
「鋏の二枚の刃《は》の合わせ方をよく御覧なさい」
亜の声は、悪魔《あくま》のささやきに感じられた。
「普通《ふつう》の鋏とはあべこべなのですよ。この鋏は右手で使うと、指の力を反対に入れなければなりません」
丘本は絵の中の鋏に右指を入れて開け閉めする動作を、必死で考えた。
「その隣《となり》にある裸婦《らふ》の絵――」
亜は続けざまに説明した。
「この裸婦はドアを背にしていますが、部屋《へや》の中には厚い絨毯《じゆうたん》が敷《し》きつめられていて、こちら側にはドアが開きません」
「向う側に開ければいいじゃないか」
「それが駄目《だめ》なのです。ドアの蝶番の背が、こちら側に出ているじゃありませんか。結局このドアは、こちら側にも、向う側にも開けることが出来ないのです。まだあります。〈早春の坂道〉という作品には、はっきりと、テンニンソウの花が描かれていますが、テンニンソウの花は、秋に咲かなければなりません」
丘本は口をへの字に曲げた。
「こうして見ると、東巨という画家は、さまざまな絵の間違《まちが》いを、わざと描いているように思えますね」
「わざとだって!」
丘本は吼《ほ》えるような声を出した。何人もの観客が丘本を振《ふ》り返った。丘本は額《ひたい》の汗を拭《ふ》いた。
この男は、容易ならざることを発見したようだった。これが知れれば、東巨の評価は一変するかも知れないのだ。
丘本は時計を見た。休憩にはまだ早かった。だが、時間などにかまってはいられない。
「君の話をもっとよく聞きたいのです。ぜひお茶でも飲みながら……」
亜は三条の顔を覗《うかが》った。
「俺《おれ》はハンバーガーの方がいいな」
と、三条が言った。
丘本はパイプにつける火で、指先を火傷《やけど》しそうになった。すっかり亜の話に夢中になっていたからだ。
「不思議なことに」
亜は自分のしくじりを弁解するようなおどおどした口調で話していた。
「東巨の間違《まちが》い――ただし当人は間違いであることを充分意識しているので、間違いとは言えないかも知れませんが、ここでは間違いとしておきましょう。その東巨の間違いは、ある時期から突然《とつぜん》起ったものです。東巨はそのとき、自分の画風に大転換《だいてんかん》を行なったもののようです」
「東巨が転換を?」
丘本は首を傾《かし》げた。無器《ぶき》っちょで、融通《ゆうずう》のきかない東巨に、画風の転換など考えられなかった。彼は死ぬまで一貫して自分の世界を曲げようとはしなかったはずだ。
「この回顧展に集められた画を見る限り、東巨の最初の作品から、中期の作品までは、いくら目を皿のようにしても、奇妙《きみよう》な間違いなど、一つも見付けられませんでした。僕は三条さんにも注意してもらいました。四つの目で見たのだから、まず見落しはなかったでしょう」
「そうだ。あんな絵の見方をしたのは生れて初めてだった」
三条はハンバーガーを頬張《ほおば》りながら言った。
「ところが、或《あ》る作品を境に、東巨は絵の中に得体《えたい》の知れない謎《なぞ》を描き込むようになりました。それは六本の指であったり、重力を無視した水であったりしますが、最後の作品まで、変な習慣を改めようとはしませんでした」
「その、境目の絵というと?」
「そう〈新色《にいろ》藤子像〉までの絵は全《すべ》て正常です。次の〈自画像〉以降の絵全部に奇妙な間違いがあるのです」
「新色藤子――」
「あの女優の像が完成したとき、東巨の身に起ったのは何だったのでしょう。自分の作品の全てをねじ曲げたものにしなければならなくなったほど重大なできごとというのは」
「新色藤子の自殺が考えられる――」
それは予想していたことだ。新色藤子の死がきっかけとなり、東巨の生活になにかが起りはじめたのだ。
新色藤子は際立《きわだ》った美貌《びぼう》で一世を風靡《ふうび》した女優であった。一と口に美人、麗人《れいじん》というが、よく見るとどこか個性を備えているものだ。人によってはその個性を好まぬということもある。だが、新色藤子の場合は、強いて個性といえば、矢張《やは》り美しいこと以外は見出せなかったことだ。完璧《かんぺき》なる美人――それが新色藤子に与《あた》えられた讃辞《さんじ》であった。
「そして、略歴によると、東巨の死も自殺でしたね」
と、亜が訊《き》いた。
「そして、彼の妻も同じ死に方でした」
新色藤子、小山|葺子《よしこ》、粥谷《かゆや》東巨――この三つの死は切り離しては考えられないのだ。
「彼の妻も?」
がくん、と亜の首が揺《ゆ》れた。
「そ、それは知りませんでした。東巨には妻がいたのですか?」
「正式には妻ではなかったようです。ですが、小山葺子は事実上、妻に違いありませんでした」
「彼女の死を、ぜひ聞かせて下さい」
今度は亜が吼《ほ》えるような声を出した。
丘本はこの男に全《すべ》てを話す気になった。葺子の死には、いまだにはっきりしない点が残っていたのだ。
「東巨は四十になるまで、妻を娶《めと》りませんでした。画業に明け暮れ、人付き合いも下手《へた》、なりふり構わぬ男で、若い頃《ころ》から女性が苦手だったとみえます。でも、女性の方から、彼に言い寄る変り種もなくはなかった。東巨には神秘的な雰囲気《ふんいき》があったからです。その平凡ではない魅力《みりよく》に引き付けられる女性も何人かいました。だが彼女たちとの交際も、いずれも長くはありませんでした」
「そうでしょうとも」
三条が大きく首を動かして同感した。
「小山|葺子《よしこ》、それが最後の愛人でした。東巨のモデルをしたことが、きっかけになりましてね。彼のアトリエに住むようになったのです。東巨の画業はともかく、変り者の東巨の愛人では、勿体《もつたい》ないような女性でした。美貌《びぼう》で賢《かしこ》く、気立てが和《やさ》しく、何よりも東巨の芸術の第一の理解者でした。私たち仲間は、岡焼《おかや》き半分、東巨をからかったものですが、本心は東巨の幸せを喜んでいましたよ。他人の目にも美しい夫婦でしたが、どういうわけか東巨は葺子の籍《せき》を入れようとはしなかった。葺子の方は気にもしていなかったようですがね。新色《にいろ》藤子も、葺子が東巨に会わせたのです。しかし、新色藤子は東巨の精神に、必ずしも利することにはならなかった」
「彼女が自殺したからですか?」
と、亜が訊《き》いた。
「そうです。彼女の死は、東巨に大きな衝撃《しようげき》を与《あた》えたようでした。〈自分が判《わか》らなくなったと言っているの〉葺子は私のところへ相談に来ました。〈新色藤子像〉は大作です。東巨の神経がへとへとになっているのに違いないと思いました。私は〈しばらく仕事を休んで、旅行にでも行きなさい〉と言ってやりました。葺子は私の提案に従いました。しばらくすると、日光から、葺子の便りが届きました。東照宮の絵葉書で、葺子の文字は活き活きとしていました。東巨はお上りさんのように一日中陽明門を見ていたそうです。〈もう大丈夫、すっかり朗らかになりました。これから清水《きよみず》に廻《まわ》ることにしました〉と葉書は結んでありました。東巨の故郷、清水、八坂神社、知恩院は彼の心を休ませるでしょう。この旅行は成功したな、と私は思いました」
「その後の作品が〈自画像〉だったのですね」
「そうです。京都から帰って来た東巨は、再び製作に打ち込みはじめました。東巨の作品はこの後、一層力の籠《こも》ったものになります。全作品の半数は、これから六年間、彼の死ぬまでの間に描かれたものです。葺子《よしこ》の死は、東巨の死ぬ半年ほど前でした。その一と月前、私は彼女に会っています。〈順調にいっているようだね、幸せだろう〉私は葺子にそう言いました。ところが、葺子の顔が少し曇《くも》ったのです。〈彼、まだ籍《せき》を入れようとしないの。どうでもいいんだけれど〉〈そりゃ、いかんな。俺《おれ》から注意してやろう〉二人共、もう若くはない。葺子が心配するのは当然でしょう。〈でも、私がそう言っていた、なんて言っちゃ嫌《いや》よ〉私は葺子の言うとおり、何かのきっかけのとき、東巨に糺《ただ》しました。返事は、歯切れの悪いものでした。〈葺子を愛していないのか〉私はむきになりました。〈そんな使い古された言葉を使うな。俺たちの仲はそれ以上だ。俺たちはこれで完全な夫婦だ〉そう言っただけ。私は勝手にしろと言って帰りました。葺子の死を知ったのは、それから一と月たってからです」
丘本はその日のことを忘れることが出来ない。梅雨《つゆ》空の続く鬱陶《うつとう》しい朝、東巨からの電話で葺子の死を知らされた。
「東巨のアトリエの屋根裏、葺子はベッドの中で死んでいました。東巨は三、四日、伊豆《いず》に旅行をしていて、留守だったのです。そのときの絵は八分通り出来上っていました。葺子の死は、東巨の帰宅する前の晩だったようです。隣人《りんじん》の証言によると、この一と月ばかり、東巨が精神的に不安定であり、原因の知れない怯《おび》えと不眠《ふみん》に悩《なや》まされ、困っていると葺子《よしこ》が漏《も》らしていたといいます。警察では、それは葺子自身の煩悶《はんもん》が、東巨に転嫁《てんか》された作り話だったろうと解釈しました」
「というのは?」
「葺子の遺書が発見されたからです。文面は短かったが、死の決意ははっきりと示されていました。自分は疲《つか》れ果て、東巨との生活を続けることが出来なくなったので死ぬ。きちんと署名があり、全《すべ》て彼女の筆蹟《ひつせき》でした」
「筆蹟は鑑識《かんしき》されたのですね?」
「そうです。私もその結果が気になっていた。私には彼女がどうしても死ぬとは考えられなかったからです」
「葺子《よしこ》は殺されたのではないかという疑いが、あなたにはあったわけですか?」
「いや、そこまで深く考えていたわけではありません。ただ葺子の死が納得《なつとく》出来なかっただけです。鑑識の結果は、遺書の手蹟《しゆせき》は葺子の手蹟に大変よく似ていると発表されました」
「似ている? 同じものではなかったのですか?」
「多少、字に乱れがあったようです。遺書は短いものだったし、筆記用具が、鑑定《かんてい》に不向きなものが使われていたからです。〈では、第三者が葺子の筆蹟を真似《まね》た可能性もあるのですね〉と私は食い下りました。係官は変な顔で私を見ました。〈私はそんな意味で言っているのではありませんよ。常識的には、遺書の手蹟は死亡者のものといっていいでしょう。ただし、完全に死亡者のものであるとの断定が出来なかっただけです〉私は引き退がるより他はありませんでした」
「そして、彼女の死因は?」
「服毒でした。ベッドの傍《そば》に小卓《しようたく》があり、ウイスキーが底に残っているグラスが置いてありました。その中に死因となった毒物が発見されたのです。ウイスキーの瓶《びん》からは毒物が抽出《ちゆうしゆつ》されませんでした。グラスの中に毒物が落されたのでしょう。毒は青酸性化合物で、東巨が特殊《とくしゆ》な画材として使用していたものの一部でした。グラスには葺子の指紋《しもん》だけが残っていました。酒瓶には東巨の指紋もありましたが、同じ家に住んでいるのですから、あって当然、ない方が怪《あや》しいくらいです」
「その他に、変った点は?」
「疑わしいものは、何一つありませんでした。家の締《しま》りはきちんとされていたし、ガスの元栓《もとせん》もしっかりしめられていました。家から持ち出された物も、運び込まれた物もない。部屋《へや》もきちんと整理され、葺子《よしこ》の死の他は、全《すべ》てが正常でした。警察では結局、こう結論しました。葺子の死は自らの手で服毒した自殺であり、その原因は、極度の精神|疲労《ひろう》による、発作である、と」
「それで?」
「それで、葺子の死は自殺と断定されたのです」
「いや」
亜はせかせかと煙草《たばこ》を吹かした。
「自殺の現場には、疑わしい物は一つもなかった、と聞きましたが」
「そのとおりです」
「何か、ありそうなんだがな……。何かが足《た》りない」
亜の目がすわっていた。丘本は一瞬《いつしゆん》、この男に話をしても、無駄《むだ》だったかなと思った。
亜は早口になった。
「――例えば、葺子の屍体《したい》が変な帽子《ぼうし》をかぶっていたとか、枕《まくら》カバーに帯上げが使われていたとか」
「枕カバーに帯上げ?」
丘本は冷たくなった珈琲《コーヒー》を含《ふく》んだ。苦かった。砂糖を入れるのを忘れていたのだ。
「何でもいいのです。屍体《したい》が奇妙《きみよう》な物を握《にぎ》っていた、とか」
丘本は思わずカップを取り落しそうになった。
「そう言えば、葺子は死ぬ間際、変な物を握っていましたよ」
「持っていた! それは何ですか?」
「屍体の手は、藁《わら》の猫《ねこ》を持っていました」
「藁の猫?」
「藁で細かく編んで作られた、小さい猫の人形です。東巨が東北に旅行したとき、葺子《よしこ》に買って来た、民芸品の一つでした」
今まで、黙黙《もくもく》とハンバーガーを食べていた三条が、ふいに四つの目を向けた。
「判《わか》った! 葺子は矢《や》っ張《ぱ》り殺されたんだ。葺子は毒を飲まされたことを知り、犯人を知らせようとして、とっさに藁の猫をつかんだ。犯人の名は藁山、藁川。いや、猫山か猫川。或《ある》いは、普段《ふだん》猫とかキャットなどと呼ばれている人間だ」
丘本は首を振った。
「葺子の知合に、そんな人間は一人もいませんよ」
「それじゃ、その猫を買った人間、ずばり東巨だ」
「あの藁の猫は、階下のアトリエの棚《たな》に置いてあったものです。棚には薄《うす》い埃《ほこり》の中に、猫の置いてあった跡《あと》が残っていました。毒を飲まされた人間が、わざわざ急な階段を降り、猫を持って又二階に帰るでしょうかね」
「ううむ」
「葺子が殺されたとすると、まず疑われるのは夫である東巨です。葺子が東巨が買った藁の猫など持っていたとすれば、更に疑問が生じるでしょう。東巨は当然、警察の尋問《じんもん》を受けました。だが、東巨には葺子《よしこ》を殺す理由が何一つありませんでした。葺子が死ねば、悲しむのは東巨だけです。更《さら》に葺子は、死ぬ三週間ばかり前、結婚届の用紙を区役所から貰《もら》っていることが判《わか》りました。用紙はそのままになってはいましたが、正式に入籍《にゆうせき》し、完全な夫婦として再出発する矢先のことでした」
「だが、何だって藁《わら》の猫《ねこ》を握《にぎ》っていたのだろう」
「警察は東巨の形見として、藁の猫を持ちながら死んだのだ、と説明しました。自殺者に愛人がいるような場合、よくあることだそうです」
「そうだろうな。それじゃ葺子は矢張《やは》り自殺だったんだ。殺人だとすれば、完全犯罪だ。それで東巨は?」
「その後のことなら、僕にも判るような気がします」
と、亜が言った。
「東巨は一室に閉じ籠《こ》もりがちになり、なおいくつかの作品を残しましたが、すでに全盛期《ぜんせいき》の面影《おもかげ》はありませんでした。心の崩壊《ほうかい》は誰《だれ》の目にも明らかで、それを癒《いや》す葺子はすでにいません。半年後、錯乱《さくらん》状態のうちの東巨は、同じ毒で自殺しました」
「そんなことは、だいたいパネルにも書いてあったぞ」
「でも、これだけは書いてはなかったでしょう。――東巨が、葺子を殺したのだ、とは」
店内には軽い音楽が流れ、家族連れの客があちこちに見える。粥谷《かゆや》東巨回顧展の目録を手にした客もいる。全《すべ》てが穏《おだ》やかで平常なデパートの昼。人の出入りで室温も快適となり、丘本のくしゃみも止っていた。
だが丘本の鼻腔《びこう》は異常を訴えていた。体調が変ったためではない。亜の奇怪《きかい》な思考が、鼻腔を刺戟《しげき》し続けたためである。
亜は葺子を殺したのは東巨だと言う。人の罪を指摘することは重大事である。何を根拠《こんきよ》にこの男は危険な断定を下したのだろう。亜の知っていることは丘本の説明だけ。それと、自分の目で発見した、六本指の少女、あべこべの鋏《はさみ》、開くことの出来ないドア?
それとも、亜は丘本の知らないような事実を、予《あらかじ》め知っていたのだろうか。
「そんなことはありません」
と、亜は否定した。
「僕《ぼく》は東巨に、小山|葺子《よしこ》などという女性がいることを、今まで知りませんでした。その女性が自殺したというのも、初めて聞くことです。ところが、僕は東巨の絵を見ているうちに、彼の悲劇が判《わか》るような気がしたのです。彼の悲劇は、東巨は完全ということを信じていたためだと僕は考えました」
亜は「完全」という言葉を、なぜか不完全に発音した。
「この世に、完全ということは、存在し得ないのですよ。ところが東巨という人は、完全、完璧《かんぺき》なことを信じていました。自分の芸術に対しても、新色《にいろ》藤子に対しても、小山葺子に対しても……」
「どうも君の言っていることがよく判らない。君はさっきから、完全だの完璧だのと言っていますが、君の言う完全とは、どういうことですか?」
丘本の声の調子は、ほとんど詰問《きつもん》に近くなった。
「文字通りの完全です。完全無欠の完全」
「それが、この世に存在し得ないというのは? 完全なものは、いくらもあると思いますがね」
「そう、概念としては、確かにあり得るでしょう。ですが、僕の言うのは、実際的な意味での、完全です。例えば、数学の基になっている数字の1とか2。これは概念としては確かに存在するでしょう。その上に数学が成り立っているのですから。ところが、実際上、完全な一センチの長さ、或《ある》いは完璧な二センチの長さというものは、作り出すことが出来ないのです」
「正確な物差しを使えばよさそうですがね」
「そう、正確な物差しを使えば、完全な一センチに近付けることは出来るでしょう。だが近付くだけのことであって、完全にはならないのです。〇・〇〇〇〇〇一ミリミクロンの誤差があっても、それは完全な一センチではない。同じような意味で、人間には完全な直線や、完全な正三角形を作ることが出来ません。完全な球や、完全な真空も同じです」
「われわれはあまり、気易く完全という言葉を使わない方がいいのかな」
と、三条が言った。
「ところが、東巨は自分の作品は、全《すべ》て完全だと信じていたのです」
だが、丘本の思考の揺《ゆ》れは、大きくなるばかりだ。
「そう、東巨は確かに、生涯《しようがい》完全な絵を求め続けて来た画家だった。でも、本当に自分の作品は完全だと信じていたと、どうして判《わか》るのです?」
「〈保多の海岸〉で、少女の指を六本描いたからですよ」
「――――?」
「〈自画像〉では時計の針を間違えて描いた。〈静物〉ではあり得ない水平面を描いたし〈編み物の机〉にはあべこべの鋏《はさみ》を置いた。〈裸婦《らふ》〉のドアは開くことが出来なくしたし〈早春の坂道〉には秋の花を咲かせた……」
「君にはそうした東巨の心が理解できるのですか?」
「判ります。つまり、そうした間違《まちが》いを描いておかないと、自分の作品が、完全な絵になってしまうからでした」
「そりゃ矛盾《むじゆん》している。東巨は最後|迄《まで》、完全な絵を描いたのじゃなかったですか」
「或《あ》る時期までは、東巨の絵は完全でした。初期の作品を見れば判ります。いずれも対象への写実に忠実でした。しかし、或る時期から、東巨のカンバスの中に転換《てんかん》が起りました。奇怪《きかい》な物を描き込むようになったのです。僕《ぼく》はそれを、東巨が完全なものに疑いを抱き、完璧《かんぺき》なものへ恐《おそ》れを抱《だ》きはじめたからだと思います」
「完璧なものへ恐れ?」
「東巨は完全なものが恐ろしくなったのです。そのため、奇怪な物を描き込んでは、自分の作品が不完全である姿に仕立てるようになりました」
「何がきっかけで?」
「無論、新色藤子の死がきっかけになったのです」
「…………」
「新色藤子も、自分の容姿が完全なものであると信じていた一人でした。芸能界ですから、最大級の賞讃、狂熱的《きようねつてき》なファンが、自分の美貌《びぼう》が完全であるとの信念を育てたものと思われます。ところが完全なものの最後はどうでしょう。新色藤子は或《あ》る日、鏡の中に自分の老いを発見したのに違いありません。他人の目には判《わか》らなくとも、自分を欺《あざむ》くことは出来ない。完全な美貌を守るためには――死しかないでしょう」
「死――ね」
「完全なものは、しばしば死が忍《しの》び込もうといたします。こんな話を読んだことがあります。ピアニスト、ロジャースウェインの自伝です。彼は生涯《しようがい》のうち、一度か二度、自分でも満足する、完璧な演奏をなし得たことがあったのだそうです。観客もそれに応《こた》え、快心と歓喜の渦《うず》の中に幕が降りる。幕の後で彼はこう思ったそうです。――この場所で、死にたい、と」
丘本はそのピアニストの心が、判るような気がした。もしそれが可能なら、これほど幸せな人間はいるまい。新色藤子も、その幸せを信じたから、死んだのだろうか。
「新色藤子の死は、東巨に大きな衝撃《しようげき》を与《あた》えました。完全なものに忍《しの》び込む、なにものかに畏怖《いふ》するようになったのです。人間の作った完全なものは、神が拒絶反応《きよぜつはんのう》を起すものです。人間が真っすぐに川を作っても、自然はいつも川を曲げてしまいます。純白な紙ほど陽焼《ひや》けがすぐ目立ちますし、畠に野菜だけ育てようとしても、すぐに雑草がはびこります」
「アニュートーリだ」
と、三条が言った。丘本は三条の発音の不完全さが、気にならなくなっていた。
「完全なものを恐《おそ》れる――これは東巨だけの考えでも、今までになかった、奇矯《ききよう》な思想でもないのです。昔《むかし》の人も、同じ考えに立って、一見|奇妙《きみよう》とも思える所為《しよい》をしております。その人たちは、完全な作品は魔《ま》が差すと信じ、完全なものに対する恐れを持っていました」
そう、新しい思想などではないのだ。神や悪魔《あくま》の力がもっと強く、人間を支配していた時代――丘本はその思想に覚えがあった。
「日光の陽明門を御《ご》覧になったことがありますか。ありたけの贅《ぜい》と美を尽《つく》した、まさに雄大で完璧《かんぺき》な作品ですが、陽明門には奇妙な柱が有名です」
「魔除《まよ》けの逆柱!」
丘本は思い出し、思わず大きな声を出した。
「そう、陽明門にある柱の装飾《そうしよく》ですが、グリという曲線文様の地彫《じぼ》りの中に、鳥獣花卉《ちようじゆうかき》が彫刻《ちようこく》されていますね。柱は全部で十二本あり、いずれも同じ装飾なのですが、このうち裏手の二本だけが、グリの地紋《じもん》が他の柱とあべこべに彫られています。これが魔除けの逆柱と呼ばれている、陽明門の奇妙な彫刻です」
丘本は亜の言葉にじっと耳を傾《かたむ》けた。いつの間にか、思考の振幅《しんぷく》が、亜の波動と重なりはじめたのだ。
「昔から、最高の美、完全なる作品は人間を越《こ》えたものとされていました。神の領域か悪魔《あくま》の領域かは知れません。そこに踏《ふ》み込んだことに対する恐《おそ》れが、意識的に奇妙《きみよう》なものを作らせたのです。魔除《まよ》けの逆柱とは、自分は完全なものを作らなかったという、作者の意思表示だったのです」
新色《にいろ》藤子の死で平静を失った東巨は、私の勧めで旅に出たとき、一日中陽明門を見ていたという。当然、魔除けの逆柱の前にも立っていたわけだ……
「〈新色藤子像〉を完成したあと、東巨が日光の次に足を向けた、京都にもわけのわからぬ彫物《ほりもの》がありますね」
「京都にも?」
「京都知恩院。知恩院の七不思議の一つに数えられている」
「そうだ。左|甚五郎《じんごろう》の忘れ傘《がさ》――」
「知恩院本堂、東南の屋根|廂《びさし》の梁《はり》に、傘のような形をした、得体《えたい》の知れぬものが出ています。これほどの大建築に全く瑕《きず》がないということは、かえって魔が差すという考えのもとに、わざと彫《ほ》り残された、これも魔除けの一つなのです」
「東巨は古人の知慧《ちえ》を学んだ?」
「それ以外にどう考えられますか? あれは、魔除けの六本指であり、魔除けの時計であり、魔除けのドアであり、魔除けの鋏《はさみ》であり、魔除けの……」
「そう、君の言う魔除けの思想というのはよく判《わか》るんです。だが、迷信深かった時代とは違い、科学の現代に、自分の作品が完全だと信じ、それに魔除けを描き込むというのが、まだぴんとこない」
「そうでしょうか――」
亜は新しい煙草《たばこ》に火をつけた。
「不思議なことですが、純粋に計算された現代の科学の世界でも、現実面になると、完全なものを避《さ》けようとする工夫が、ちゃんと凝《こ》らされているのですよ」
「現代の科学でも?」
「僕《ぼく》は以前、大きな工場を見学したことがありました。工場には無数のパイプがうねっていました。中には遥《はる》かかなたまで伸《の》びる、真っすぐなパイプもあります。ところが、よく見ると真っすぐなパイプは、完全な直線ではなかったのです。ところどころに、Ω型に曲げられている個所が目に付いたのです。僕は変に思い、これは何の呪《まじな》いかと訊《き》いたものです。工場の人は呪いとはよかったね、と笑いました。でも一種の呪いには違いない。彼の答えはこうです。鉄のパイプは気温の差で伸びたり縮んだりするものです。もし完全な直線にパイプを作ったとすると、そのためにパイプ全体が破壊《はかい》することだってある。Ω型の部分は、そのひずみを吸収するためにわざと作ってあるのだ、とです。新幹線のレールでも完全な一本ということはありません。千五百メートル置きに、必ず切れ目が付けられています。これも同じ理由からです」
丘本はふと自分の頭に手を当てた。不完全に作られたパイプのために作られた瘤《こぶ》の残りが、まだむずがゆさを残していた。そうだ、一病息災――。
「私のかかった医者も、完全に健康な人間などいやしない、と教えてくれました。また、完全に自分が健康だと思っている人間ほど、当てにはならない、とね」
「そのお医者さんも、東巨と同じ考え方をしているのでしょう」
ウエイトレスが珈琲《コーヒー》カップとハンバーガーの皿《さら》を下げに来た。亜はびくっとして話を止《や》め、ウエイトレスが遠くに去るのを見届けてから、ずっと声を落して、
「――そして、東巨の最後の完全な作品が、完全犯罪だったのです」
と、言った。
「完全犯罪――」
丘本の鼻腔《びこう》が、また怪《あや》しくなった。
「すると、葺子《よしこ》の遺書も東巨の作った偽《に》せ物だったというのですか」
「東巨の天性の写実の才能をもってすればね。不可能とは言えないでしょう」
鑑識《かんしき》の結果も、遺書の筆蹟《ひつせき》は、完全に葺子のものだとは断定していなかった……
「東巨は予め偽せの遺書を作っておいて、葺子を毒殺したのです」
丘本は思わず身震いをした。
「では、死に際に葺子が持っていた藁《わら》の猫《ねこ》は、どういう意味があるんです。矢張《やは》り、葺子が毒を飲まされたのを知って?」
「いや、藁の猫は、東巨が自分の手でアトリエから持って来て、死んだ葺子の手に握《にぎ》らせたものです」
「そりゃ不自然ですよ。東巨が殺人犯なら、自分の不利になるような藁の猫など、わざわざ屍体《したい》の手の中に握らせるはずがないでしょう」
「犯人が東巨だからこそ、屍体の手に藁の猫を握らせる必要があったのだとは思いませんか? これは東巨にとって、完全犯罪だったのです。完全犯罪に魔《ま》が差したら、一大事ではありませんか。東巨には、どうしても完全でなくする儀式《ぎしき》が必要だった。あれは魔除《まよ》けの藁の猫だったのです。東巨が〈保多の海岸〉で六本指の少女を描いたと同じように、です」
店内放送が、客の呼出しをしている。丘本にはそれが、遠い国の出来事のように思えた。
「だが、どうして東巨は、大切な葺子《よしこ》を殺さなければならなかったのです? 彼女は結婚届の用紙さえ用意していたじゃありませんか」
「しかし、結局はその用紙は届けられずに発見されましたね。結婚届を用意してから、二、三週間もたっている。これは大変|奇怪《きかい》なことです。東巨はその間に、夢中で葺子の筆蹟《ひつせき》の偽造《ぎぞう》に専念していたに違いありません」
「すると――」
「東巨は新色藤子の死によって触発《しよくはつ》された精神の不安定が、この時期になって再び再発していたのです。怯《おび》えと不眠に悩《なや》まされたのは、矢張《やは》り東巨の方でした」
「では葺子を殺したのは、ただの発作に過ぎなかったというのですか?」
亜はしばらく黙《だま》っていた。そして幽霊《ゆうれい》のように右手を動かして、
「僕《ぼく》は今、東巨の思想を、極端《きよくたん》にまで押し進めています。そうすると、東巨が葺子を殺すようになった気持が、よく判《わか》るのです」
亜はじっと遠くの方を見ていた。
「東巨は彼女を愛していた。愛という言葉を他人に使われるのさえ、嫌悪《けんお》するほどでした。だが、葺子は結婚届を出して正式に入籍《にゆうせき》し、完全な夫婦になることを望んだのです。僕はこう理解します。東巨がその葺子に殺意を抱《いだ》いたのは、自分たちが完全な夫婦となり、崩壊《ほうかい》することを、極端に恐《おそ》れたからだ、とです……」
第二話 砂蛾《すなが》家の消失
午後一時ごろ、集中|豪雨《ごうう》によって、花盛線《はなもりせん》の、満戸《まんど》、大銭《おおぜ》の間に土砂|崩《くず》れが起り、線路が飴《あめ》のように曲った。もし、列車が五分早く満戸を発車していたら、乗客ごと土砂に巻き込まれていた可能性もあった。
花盛線は、富高線《ふこうせん》の花盛から、西に伸びている、盲腸《もうちよう》のような短い支線である。無論、単線で、いつもなら牛や馬でも乗れるほど空《す》いているが、この日は、夏季休暇の帰京の客で、座席はほぼ満員であった。
室野肇《むろのはじめ》は早急に列車の復旧の見込みが付かないのを知って、困ったと思った。休暇を二、三日伸しても、仕事に差支えるほど重要な役職にいるわけではない。せいぜい呑気者《のんきもの》の、極楽《ごくらく》とんぼという異名を、また高める程度だろう。また室野の帰りを待ちわびる家族がいるわけでもない。
だが、その理由を糺《ただ》されると、自分が花盛線に乗っていたことが知れてしまう。室野の上司や同僚《どうりよう》は、しつっこく秘密の場所を聞き出すだろう。誰《だれ》にも知られたくはなかった。自分だけの世界にしておきたいのだ。あの穴場《あなば》は。
「困ったな」
室野は釣竿《つりざお》と魚籠《びく》を抱《だ》くようにした。
冷房が切れたのだろう。車内がじわじわ暑くなってきた。
「困りましたな。全く……」
前の座席にいた、商人風の男が言った。
色の黒い、骨太の男だ。頭を短く刈り、鼻と口がぐいと突《つ》き出ている。口をきくと、その口が更《さら》に突き出る。年は四十前後、線路の復旧工事を、黙《だま》って待っていられるような性格ではないらしい。
「こんなところでぐずぐずしていては、おまんまの食い上げだ」
その言葉のとおり、実によく飯を食うのだ。池田から乗り込んで来て、座席に坐《すわ》るなり、茶色の鞄《かばん》から、大きな握《にぎ》り飯を取り出して、七つほど平らげ、旧式のアルミの水筒《すいとう》に口をつけて水を飲み、最後になまのにんにくをがりがりと齧《かじ》った。室野の隣《となり》にいた、三角形の顔をした洋装の老婦人が、あからさまに嫌《いや》な顔をした。
「――一時四十八分、三十秒、か」
彼は態《わざ》とらしく腕《うで》をまくり上げ、デジタル時計を見て、秒まで読んだ。流行の使い捨て時計らしい。時刻の数字だけで、日付けがないのでそれが判《わか》る。
車掌《しやしよう》が廻《まわ》って来ると、隣にいた老婦人が立ち上って、食ってかかった。
「わたし、早く帰らないと困るのよ。お爺《じい》さんが一人ぽっちなのよ。あの人、いい年の割には元気なのよ。留守に妙《みよう》な女でも引っぱり込んだら、その責任は誰《だれ》が取る気?」
「責任といっても、何しろ、突発《とつぱつ》事故でありますから……」
車掌は鋏《はさみ》をいやにかちゃかちゃ言わせた。
「いつになったら、動くのよ」
「さっきも、車内放送で御《ご》説明したとおり、総力を挙げて復旧に当っております。ですが、第二次、第三次の山崩《やまくず》れを警戒《けいかい》しなければなりません。従って――」
結局、今日中に開通する見通しもついていないらしい。
「花盛まで歩くと、どの位かかるのよ」
「……五時間」
そして、老婦人の服装と、高いハイヒールと、彼女の持ち物らしい、棚《たな》の上に乗っている大きな赤い鞄《かばん》とを見比べてから、
「御《ご》婦人の方でしたら、八時間」
と、言いなおした。
室野は釣具店《つりぐてん》で貰《もら》った花盛附近の電車の地図を拡《ひろ》げて見た。満戸、大銭、元大銭、久間《ひさま》、円木《つぶらぎ》、住吉、そして花盛。ほぼ三十キロである。花盛に出れば、富高線に乗ることが出来る。
「道は? 他に土砂崩《どしやくず》れなど、起っていませんか?」
と、室野が尋《たず》ねた。
「ありません。お歩きになるようでしたら、線路伝にいらっしゃった方が、安全でしょう」
すでに、何人かの乗客は、荷物をまとめて、列車を降りはじめている。
「切符はどうなるのよ」
老婦人は、車掌《しやしよう》に食い下った。
商人風の男は、網棚《あみだな》から茶色い鞄《かばん》を下ろした。
「仕様がない。私、歩きますわ。時は金なりと言いますからな」
「花盛まで、大分ありそうですね」
室野は自分の決心がつかぬまま、ぼんやりと言った。
「なんの、わけはありませんよ。少し道はきついが、私は山を越《こ》すつもりです。そうすれば、三時間で花盛に着いてしまいます。私はこの土地で育った人間ですからな」
そう言えば、地図を見ても、鉄道は大きく山を迂回《うかい》しているのが判《わか》る。室野は、ふっと、自分はこの土地の者だという言葉を信用してしまった。そういう道があるのなら、案内してもらえないかと言うと、
「いいでしょ。旅は道連れといいますからな。私に尾《つ》いておいでなさい」
と、気軽に答えた。
すると、今まで商人風の男の隣《となり》に坐《すわ》っていた男が、
「僕《ぼく》もその山越《やまご》えの仲間に入れて下さい」
と、言いだした。
この男は、最初から室野の注意を惹《ひ》いていた。目立ったのである。背が高く、色白で、目鼻だちに気品があった。一見、取り済ましている風にも見えたが、実は温厚すぎる心のため、かえって冷たいふりをしている、とさえ思われた。黒っぽい背広に、きちんとネクタイを締《し》めた姿が、涼しさを感じさせたためかも知れない。持ち物は黒い鞄《かばん》が一つ。半石《なかいし》で乗車し、室野の前で立ち止ると、ちょっと会釈《えしやく》をしてから座に着いた。それから一時間ばかり、やや物憂《ものう》げな表情で、外の景色を見ていたが、何か深い思索《しさく》にでも耽《ふけ》っているように見えた。
「いいでしょ。三人旅は一人……」
乞食《こじき》と言い掛けて、商人風の男は口をつぐんだ。ろくに考えもせず、諺《ことわざ》が口から出る性質らしい。
その後で、今度は三角形の顔をした老婦人が、私も連れて行って、と言い出した。このときも彼は、
「いいでしょ。いらっしゃいよ」
と、気軽に言ったが、室野は必死で思い止《とど》まるように説得した。結果としては、それがよかった。彼女を道連れにしていたら、どんなことになっていたか判《わか》らない。
外に出ると、空は灰色の雲におおわれていた。湿気を帯びた風が吹く。雲はまだ雨を降り残しているようだ。
商人風の男は、列車から飛び降りると、二、三度足|踏《ふ》みをし、ろくに空も見ないで、
「や、これなら、すぐ晴れるぞ」
と、言った。
室野はこの男の方がうわ手だと思った。世の中は自分の希望するとおりに動いてくれるものと思っているらしい。自分も楽天家ではあるが、この空を見て、晴れるなどとは到底《とうてい》思えないのだ。
線路伝いに歩いて行くと、崖崩《がけくず》れの現場が見えた。緑の山肌《やまはだ》が、鋭《するど》く削《けず》られている。その下には、赤い土と灰色の石、黒い樹木の根や折れた枝が、がらくたの山になって、線路を塞《ふさ》いでいた。一と目で、早急な開通は無理だということが判《わか》る。鉄道員、警察官、消防団員などが、泥《どろ》まみれになって働いている。
地元の青年団らしい一人が、室野たちに、崩れた土砂の流れを避《さ》けて、線路に出る道を教えてくれた。
「御《ご》苦労さまであります」
商人風の男は、そう言うと、先頭に立って歩き出した。だが、教えられた横道には曲らない。真っすぐに山を越《こ》えてしまうつもりである。
「とに角、忙《いそが》しい身体《からだ》でしてな」
彼は宣伝用のマッチ、手拭《てぬぐ》い、タオル、煙草《たばこ》の外装などの注文を取って、売り歩く商売だと言った。そして二人に、葉書ほどもある大きな名刺《めいし》を渡《わた》した。名刺には説明したとおりの業種が摺《す》り込まれ、大きな字で、谷尾《たにお》商会、谷尾|庄介《しようすけ》と印刷されていた。
「この節、大所《おおどこ》が手を出して来るようになり、私のような小さな店は、こんな田舎廻《いなかまわ》りをせんことにゃ、食うてゆけなくなりました。商売はしにくうなりましたな」
そのくせ、儲《もう》かることは、儲かるです、と言った。
「あなたは、さしずめ、テレビの俳優さんでしょう。お忍《しの》びの休暇ですか?」
谷尾庄介は、もう一人の男に言った。谷尾が俳優だと踏《ふ》んだ気持も、判《わか》らなくはない。
だが、その答えは予想外であった。半石に来たのは、半石の奥《おく》にオオタケタテクサの花が咲いていると聞き、探しに行ったのだと答えた。
「オオタケタテクサ? 早口言葉みたいですな。珍《めずら》しいですな」
谷尾庄介にとって、その植物よりも、そんなことをして飯を食っている人間がいることの方が、ずっと珍しかったに違いない。
「それで、その、オッタテタケタテ……」
「いや、オオタケタテクサです。大竹博士が発見した、タテクサです」
「ふう、その草は見付かりましたか?」
「残念ながら、失敗しました。でも喜んで下さい。偶然《ぐうぜん》にショウキョウホウセンカの種子を採集することが出来ました」
亜《あ》と名乗ったその男は、黒い鞄《かばん》のポケットを、大切そうに触《さわ》ったが、谷尾は別に喜びはしなかった。
谷尾庄介は先に立って、ただひたすらに歩く。山道をどこまでも登る。登りつくと下りになる。そしてまた、登りだ。谷尾の希望に反して、空は一向に晴れる様子がなかった。
室野は学生の頃《ころ》、かなり山を歩いた経験があった。その室野が、今下りにかかっているものやら、登りにかかっているものやら、見当がつかなくなった。列車を降りて、二時間以上|経《た》っていた。
「この道で、花盛に出ますか?」
室野は念を押した。
「もう、一息ですな。あの山を越《こ》せば、もう花盛です」
谷尾はにんにく臭い息を吐《は》いた。
三人は言葉少なになった。かなり急な山道を登りついたところで、目の前にもう一つの山が現れた。おまけに、空は晴れるどころか、雲はますます深くなった。
「今度は、降《くだ》ってみましょ」
と、谷尾が言った。
いつの間にか、道のない草の中を歩いていた。
「室野さん、あなた、列車の中で、地図を見ていましたな」
「地図と言っても、こんな物ですよ」
室野は鉄道と国道ぐらいしか書かれていない、略図のような地図を出して見せた。これに頼《たよ》る気だとすると、谷尾の土地|勘《かん》というのも、心配になった。
「ははあ、この、地図ですか」
谷尾は考え込んだ。時計は四時を廻《まわ》っていた。
「どうも、以前に来た時と、まるで様子が違うとりましてな」
「以前というと、いつ頃ですか?」
「小学校の、四年生の頃でしたか……」
室野はこれは飛んでもないことになった、と思った。
「けれども、東へ東へとさえ行けば、自然に花盛に着きますよ。花盛でなくとも、富高線の線路には、到着《とうちやく》しますよ」
谷尾は旧式の水筒《すいとう》を、ぽんと叩《たた》いた。
それを見て、室野は愕然《がくぜん》とした。彼は谷尾の水筒を手に取って、強く振《ふ》った。水筒の栓《せん》にはめ込まれた磁石の指針がぐるぐる廻《まわ》り、止まると西を指した。もう一度、振ってみた。今度は、南を指した。
「そ、その磁石で、今まで、歩いていたんですか?」
亜の顔が、さあっと蒼《あお》くなった。
「それじゃあ、戻《もど》ることも、出来ませんですね」
亜の動転は目に余るものがあった。それを見て、室野は急に心細くなった。それまでは、この男と一緒《いつしよ》なら、火星探検にでも加わっても、心丈夫だと思っていたからである。にしても、この男は馬脚《ばきやく》を現すのが、早すぎはしないか。
「太陽でも出ていれば、腕《うで》時計を使って、正確な方向が判《わか》ります。もっとも、その方法は忘れましたが」
それじゃ、太陽が出ていても同じことだ。
「木の枝ぶりを見れば、大体の見当は付きますよ。枝ぶりの多い方が、南というわけですからな」
谷尾はのうのうと言った。だが、その枝ぶりからすると、三人はどうやら、花盛とは正反対の方向に歩いて来たようだ。初秋の日は早い。日は暮れかかり、ふと、肌寒《はだざむ》さを覚えた。
「もうだめだ。夜道を迷うより、ここで夜を明かそう」
と、室野が言った。
「私は忙《いそが》しいので、とてもこの山で夜を明かすことは出来ませんですよ。夜になれば人家の火が見えましょうから、それを目当てにしましょ」
谷尾は落着きなく言った。
「人家の明りが見えるという、確信がありますか?」
「ないとも言えませんでしょ。無駄《むだ》に喋《しやべ》っている間に、歩きましょ」
「そんなに歩きたいなら、あなた一人でお行きなさい」
室野は突《つ》き放すように言った。得心《とくしん》のゆかぬ追従をしている場合ではなかった。
「あなたと一緒《いつしよ》に、これ以上、無駄な体力を使うわけにはゆきません」
室野は亜を見た。亜は口を開けて空を見ていた。この男の意見も聞かぬ方がよさそうである。谷尾は黙《だま》ってしまった。身をすくめて、あたりを見廻《みまわ》す。室野に突き放されて、急に心細くなったようだ。
「……しょうがない。また野宿としますか」
この男、野宿には馴《な》れているようだ。
野宿と決ると、亜は草の上に、べったりと腰《こし》を下ろした。
「熊《くま》は好きな方じゃないんですが……」
「熊はどうですかな。けれども、しのび坊主《ぼうず》が出るということは、小さい頃《ころ》聞かされたことがあります」
と、谷尾が小声で言った。
「しのび坊主?」
室野は聞き馴《な》れぬ言葉に聞き耳を立てた。
「いや、とに角、腹が減りましたな」
谷尾は話題をそらすように言い、茶色の鞄《かばん》を開けて、握《にぎ》り飯を取り出した。
「こうなった以上、一人だけ食うわけにもゆきませんな」
そうして、七つの握り飯を、きちんと三つに分けた。もし谷尾が二人と別れていれば、独りで食べていたはずだ。室野は妙《みよう》な気分で、握り飯とにんにくを食べた。
あたりはどんどん暗くなる。無論、寝る気にはなれない。枯《か》れ木を集めて、火を焚《た》いた。
「どうも、この土地は嫌《いや》でしてな」
室野は、谷尾が向う見ずに山を越《こ》えたがった理由が、ぼんやり判《わか》ってきた。
「――しのび坊主《ぼうず》が出るからでしょう」
谷尾は口を突《つ》き出し、
「小さい頃《ころ》から、妙な話を聞かされて来ましたからなあ。もっとも、この年になれば、怖《こわ》いものなど、ありはしませんです」
「しのび坊主というのは、何ですか?」
それを聞かないことの方が、気味悪《きみわる》さを残すことになるようだった。
「それが、何やら判りませんです」
本当は、何やら得体《えたい》の知れぬ恐怖《きようふ》が、谷尾を襲《おそ》っていたようである。谷尾は自分の鞄《かばん》を抱《だ》きかかえるようにすると、
「昔《むかし》の親は、子供が寝《ね》ないと、よく脅《おど》かしたものです。私の土地には、妙な子守|唄《うた》がありました」
そう言って、谷尾は子守唄を歌った。抑揚《よくよう》の少ない、陰気《いんき》な調子の歌であった。
よき子は寝る子
わる子は寝ぬ子
わる子は捨《す》つべし片谷《かただに》に
わる子は見るべし片谷の
しのび坊主《ぼうず》に
消え砂蛾《すなが》
「……この歌を聞かされると、皆何となく恐《こわ》くなって、震《ふる》えながら寝《ね》てしまうのでした」
しのび坊主という意味は判《わか》らないが、消え砂蛾というのは母親から聞かされたことがあると言う。
「砂蛾家は、片谷に住む医者でした。昔は大名のお抱《かか》えの医師でしたが、何やら失策を犯して、花盛の奥《おく》の集落に移り住むようになったそうです。一説には、御内室の脈の取り方に、無礼があったと言いますな」
谷尾はうふふと笑った。
二人は谷尾の話を聞くことになった。谷尾も黙《だま》っているより、声を出している方が、不安がまぎれるようであった。
村の人達は余所者《よそもの》を嫌《きら》い、砂蛾家の移住を喜ばなかったが、相手は医者である。表面上は敬うそぶりを見せていた。或《あ》るとき、医師は村民の一人を、薬を盛《も》り違えて殺した。その真偽《しんぎ》は不明だが、砂蛾家はその場所を追われるように、更に奥まった、片谷に移ることになった。
それからしばらくして、村の一人が砂蛾家を訪ねて行くと、砂蛾家の家は消えていた。――砂蛾の老夫婦と三人の子供たちは、その家と共に、跡形《あとかた》もなく消えていたのである。
その土地の跡に、砂蛾の縁者《えんじや》が移って来た。だがこの一家も、何年かののち、やはり同じように、消えてしまった。幕末《ばくまつ》の話である。
「一家が死に絶えるという話は聞いたことがありますが、家ごと消えてしまうというのは、変っていますね」
亜は感心したように言った。
「作り話でしょ」
谷尾は気軽に答えた。
「田舎《いなか》には突拍子《とつぴようし》もない言い伝えが、いくらでも残っていますよ。昔の人間は、きっと閑《ひま》だったんでしょ。とに角、子供は寝《ね》かしつけなければなりませんからな」
「今では、その砂蛾《すなが》という一族は、全く残っていないのですか?」
「それが、残っているということです。どんな血筋になっているのか知りませんが、何代目かの砂蛾が、片谷に残っていますよ。東京の医学校を出たそうですが、血統ですかな。女のことで失敗して、どうやら医者にもなりそこなって、今、片谷で何をしているものやら……」
翌日は夜が白むと同時に歩き出した。雨だった。室野と谷尾は携帯用の雨コートを持っていたが、亜は持ち合わせがなかった。亜は背広をきちんと裏返しに畳《たた》んでかかえている。
名の知れぬ山をいくつか越《こ》し、植物の繁《しげ》みには数知れず迷い込んだ。飢餓《きが》が襲《おそ》い、三人の正常な判断力を奪《うば》った。或《あ》る時には、道を探すことより、岩の間の湧《わ》き水を探すことの方が緊要《きんよう》になった。
この間、ただ一人の人間にさえ出会わなかったのは、人家を避《さ》けて歩いていたとしか考えられない。それは冗談《じようだん》でも皮肉でもなく、遭難者《そうなんしや》が、道の一メートル傍《そば》で死んでいたという事実は、いくらでもある。そうした場合、悪魔《あくま》の存在が否定できなくなるのだ。三人が僅《わず》かに恵まれていたことといえば、気温が高かったことと、三人の性格が楽天的で、仲間割れがしなかったことだけだった。
三人は泥《どろ》まみれになり、靴《くつ》は大量の水を含《ふく》んだ。日の観念さえなくなった夜、人家の光を見た。
「……家だ」
誰《だれ》かが小声で言った。幻覚《げんかく》かも知れない。大声を出せば、消えてしまいそうな気がした。この日、三人は名の知れない茸《きのこ》を食べていた。
三人は崩《くず》れるように家の前に辿《たど》り着いた。古い表札があった。そこに、砂蛾淳治《すながじゆんじ》という字を見た。
月は厚い雲に覆《おお》われている。
家は平凡《へいぼん》な農家の造りだ。中央が土間のようで、右側の黒い影《かげ》は馬屋風だが、中にはぴかぴかの耕耘機《こううんき》が入っている。左側が居間になっているらしく、光は雨戸の隙間《すきま》から洩《も》れていた。土間の戸は半分開いたままである。
鈍《にぶ》い音がして、誰かが声をあげた。室野が振返《ふりかえ》ると、黒い影が倒《たお》れている。
「――痛い。こんなところに、根が出ている上に、雨水が溜《たま》っているとは、ひどいです」
亜の声である。谷尾がマッチをすった。有難いことに、煙草《たばこ》とマッチは、谷尾の鞄《かばん》の中に、売るほど入っていたのである。
見ると、柿《かき》の木がインドの舞踊家《ぶとうか》のような腕《うで》を張っている。亜はその根に躓《つまず》いたものらしい。助かったという気のゆるみも出たのだろうか、それにしても、なかなか起き上ろうとしない。
「おい、大丈夫か?」
と、室野が言った。
「大丈夫じゃないんです。ショウキョウホウセンカの種が、ああ……」
谷尾は続けてマッチをすった。衝撃《しようげき》で亜の鞄が開いている。亜は地面を舐《なめ》るようにして、何かを掻《か》き集めた。命より大切な種なのである。
「有難う。も、もうよろしいです」
家の中に、人の気配《けはい》がした。土間の戸が大きく開けられて、大きな男の姿が、光を背にして現れた。
谷尾はあわてて男の傍《そば》に近寄った。
「行き暮れて難渋《なんじゆう》いたしておる者でございます――」
臆面《おくめん》もなく、安芝居《やすしばい》に出て来るような台詞《せりふ》を続けた。当人は大真面目《おおまじめ》である。
「どうぞ一夜、軒先《のきさき》なりと、お貸し下され」
髪《かみ》を伸びるにまかせた、獅子《しし》のような顔の大男であった。男は室野と谷尾をうさん臭そうに見比べた。ここで断られでもしたら一大事である。谷尾は道に迷った顛末《てんまつ》を話した。
「そちらの、お方は?」
大男は亜を見て言った。亜はまだ未練らしく、地面にうずくまっている。
「あの人は、植物学者」
と、谷尾が説明した。学者がいた方が、信用されると思ったのだろう。
大男はしばらく考えてから、少し待っていなさいと言って家の中へ姿を消した。何か片付けているような音がする。釘《くぎ》を打つような音も聞えた。
やがて、大男は三人を土間に通した。土間には鍬《くわ》や鋤《すき》などの農具が置いてある。かまどは厚く埃《ほこり》をかぶっていた。大男は三人を右側の部屋《へや》に案内した。馬屋の真後に当る部屋である。
板敷で裸《はだか》電灯が一つ。古い木の箱が、いくつも積んである。動物とかびの匂《にお》いが立ち籠《こめ》ている。谷尾は戸口で蜘蛛《くも》の巣に顔を突《つ》っ込んで、あわてて払いのけた。
それでも、山の中より、どれほどましか判《わか》らない。その上、大男は意外に親切でもあった。大きな鍋《なべ》に、味噌《みそ》で味付をした、雑炊《ぞうすい》のような物を作って持って来てくれた。
「こういうときは、柔い物がよい」
腹に物を入れると、やっと人心地がついた。室野は釣竿《つりざお》を大切に立て掛け、亜は背広の皺《しわ》を伸し、谷尾は腹を叩《たた》いた。
「すっかり痩《や》せたような気がしますな。普段《ふだん》は七十キロを割ったことがありません」
大男はなま水はよくないと言って、茶を持って来た。変った味のする茶で、片谷で採れるのだと言う。
「すると、ここが片谷ですか」
谷尾は妙《みよう》な顔をして言った。
室野は電話が欲しかったが、電話のあるところまでは、これから二キロもあると言う。えいままよ。こうなった以上、じたばたしても同じことだ。室野はそういう気になった。
大男が部屋《へや》を立去った後、言われたとおりに木の押入れを開けると、何組かの蒲団《ふとん》があった。蒲団は固く、嫌《いや》な臭《にお》いがした。押入れの反対側に、小さな窓がある。それを開けようとして、思わず室野は立ち竦《すく》んでしまった。
「どうしましたかな?」
谷尾が室野の顔を見て言った。
「窓が……釘付《くぎづ》けにされている」
部屋の中の物は、全《すべ》て古い。だがその釘だけは、真新しく、銀色に光っていた。
「今、打ち込まれたばかりだ」
「妙なことをする人ですな。はん、窓の向うに、何か私たちに見せたくない物があって、窓を開けさせないようにしたのでしょ。だが、人の隠《かく》す物を見たくなるのは、人情ですな」
谷尾は自分の鞄《かばん》を引き寄せて、何かごそごそ探していたが、携帯用の七つ道具の中から、小さな釘抜《くぎぬ》きを取り出した。
「谷尾さん、そりゃ、止《よ》した方がよくはないですか」
亜があわてて押し止めようとした。
「そうだ。あの人には世話になっている。そっとしておくべきでしょう」
室野は大男の太い腕《うで》を思い出していた。
「そう言われれば、言われるほど、見たくなる質《たち》でしてな。困ったものです」
谷尾は窓に取り付いて、打ち込まれた釘《くぎ》を、一本一本|抜《ぬ》きだした。全部の釘を抜き取ると、茶色に曇《くも》ったガラス戸を開け、次に、雨戸を細く開けた。室野は立って、裸《はだか》電灯を消した。ああ言ったものの、矢張《やは》り好奇心は強い。室野は戸の隙間《すきま》に近寄った。亜も四つん這《ば》いになって、戸に顔を寄せている。
「あ!」
その景色は、生涯《しようがい》忘れることが出来ないだろう。
折しも雲が払われ、青白い月の光が、大地を満している。畠の畝《うね》が、凍《こお》り付いたさざ波に見えた。その波のただ中に、真っ黒い大きな家が、半分沈みかけた形で浮いていた。
「――ほう、合掌造《がつしようづく》りですな」
谷尾が感嘆の声をあげた。
大きな家が沈んでいる、と見えたのは、三角形の屋根だけが見えたからである。
茅葺《かやぶ》きの、古色|蒼然《そうぜん》たる、切妻《きりづま》合掌造りの家屋。屋根が鋭《するど》い角度で空に向っている。階数は四階とも、五階とも見える。一階の障子に、灯が映っていた。
「誰《だれ》かが住んでいるようですな」
そのとき、一階の障子が開き、人影《ひとかげ》が現れた。谷尾は首をすくめ、そうっと戸を閉めた。
「お獅子《しし》ではなかったようですな」
「お獅子? ああ、あの大きな人とは違っていたようです」
と亜が言った。
室野も一瞬《いつしゆん》だったが、月に照らされた男の顔を見た。頬《ほお》の高い、青く痩《や》せた顔。
「結局、ただの家だけでしたな。人生とは、いつもこんなものですわ」
谷尾は落胆《らくたん》したように言って、ガラス戸を閉め、釘《くぎ》を元通りにした。
お獅子はあの合掌造《がつしようづく》りの家を見せたくなかったのだろうか。それとも、見せたくなかったのは、あの人物だったろうか。或《ある》いは、これから起る何かを隠《かく》そうとしたのだろうか。考えているうちに、室野は睡気《ねむけ》がさしてきた。
室野|肇《はじめ》はいろいろな夢を見た。いい夢ではない。赤い布のようなもので、全身を包まれている。身動きも出来ず、息苦しい。どこかに運ばれて行く。すうっとあたりが真っ暗になる。穴の中に落されたのだ。穴には底がない。どこまでも落ちて行く。意識はしっかりしているのに、指一本動かすことが出来ない。繰り返し、そんな夢を見たようだ。そして、目が覚めた。
初め見たのは、見覚えのない、すすけた天井《てんじよう》であった。しばらくは、まだ夢の続きを見ているような気分だった。部屋《へや》を見廻《みまわ》しているうちに、少しずつ記憶《きおく》が甦《よみがえ》る。だが、なかなか思考が定まらない。
身体《からだ》を動かすと、全身が痛んだ。学生の頃《ころ》にはこんなことはなかった。社会に出て、身体が鈍《にぶ》ったものとみえる。起きようとすると頭がふらふらした。蒲団《ふとん》の上に、やっと半身を起す。すぐには立てそうもない。雨戸の隙間《すきま》から、光が差している。時計を見たが、止っていた。
「七時十一分二十秒ですな」
谷尾庄介が大きな腕《うで》時計を突《つ》き出して見せた。
「いや、さすが応《こた》えますな」
谷尾は首をぐりぐり動かした。亜も床《ゆか》の上に坐《すわ》っていて、ぼんやり顎《あご》を撫《な》でている。無精髭《ぶしようひげ》が目立っていた。谷尾に言われて、亜も自分の時計を合わせた。
遠くで、念仏の声が聞えている。
「お獅子《しし》の声ですな」
お獅子という言葉で、室野は窓を見た。夜、打ち込まれた釘《くぎ》が、そのままになっている。
「まだ開けないで、知らん顔をしておいた方がいいでしょう」
と、亜が言った。
外の空気が吸いたくなった。立ち上って戸の前に行くと、べっとりと蜘蛛《くも》の巣が顔にかかった。払《はら》い退《の》けると、大きな蜘蛛が、糸を引いて床に落ちた。亜が蜘蛛を拾い、珍しそうな顔をした。
「また、なんとかなんとかグモですかな」
谷尾が覗《のぞ》き込んだ。
「――いや、どこにでもいる、ハエトリグモです」
土間に出ると、水道があった。口をすすぎ水を飲んだ。水が胃の底まで浸みとおるのが判る。谷尾と亜も、はっきりとしない顔で土間に降りて来た。
「飲んでも大丈夫でしょうか。ゆうべなま水だということでしたが」
と、亜が言った。谷尾は水道の蛇口《じやぐち》を叩《たた》いて、
「水道でしょ。なま水でも何でも、もう喉《のど》が乾《かわ》いて、乾いて」
谷尾は顔を洗いながら、がぶがぶと水を飲んだ。続いて亜も顔を洗っていると、
「よく寝られたかの」
お獅子《しし》が姿を現した。念仏の声が消えて、かすかに線香の匂《におい》がした。
「お早うございます。地獄《じごく》で仏とは、このことでありました」
谷尾が頭を下げた。お獅子は三人を見比べて、
「今、朝飯を作るから、もう少し辛抱《しんぼう》していなさい」
そう言って、外に出て行った。
「朝飯と聞いたら、腹が鳴りだしましたよ」
谷尾は腹を撫《な》で、あたりを見廻《みまわ》していたが、流し台の下に、見覚えのある鍋《なべ》を見付けて引き出した。
「残りがあったと覚えています。行儀の悪いことは悪いですがな」
蓋《ふた》を取るや、残りの雑炊《ぞうすい》をいきなり口に入れた。だが、すぐに顔をしかめて吐《は》き出した。
「残念――もう酸っぽうなっとる」
足音がしたので、谷尾は急いで鍋を元通りに、流し台の下に突《つ》っ込んだ。
お獅子が手に黒い物を持っている。
「ゆうべはうっかりしたが、窓が開かんでしたろう」
「――窓?」
「普段《ふだん》使わん部屋《へや》なので、窓を釘付《くぎづ》けにしておいたのを、忘れとりましたよ」
「すぐに寝てしまったものですから、窓などには全然気が付きませんでした」
亜が平気で嘘《うそ》を吐《つ》いた。
「大分、お疲《つか》れのようでしたからの。空気が悪いから、これでお開けなさい」
お獅子は満足そうに言って、手に持っていた釘抜《くぎぬ》きを亜に渡《わた》すと、また外に出て行った。
「お許しが出ました!」
亜は目を丸くした。
三人は急いで部屋《へや》に戻《もど》り、雨戸を引き開けた。たちまち爽《さわ》やかな朝の空気が部屋を満した。しばらく見なかった青空が拡《ひろ》がっていた。空の下は一面の畠であり、その向うに、見馴《みな》れない紫色《むらさきいろ》の山が見えた。紫の山? 室野は自分の目を疑い、その場に立ちつくした。
谷尾が何か声を発したようだったが、室野の耳には、それが言葉として聞き取れなかった。
亜がどんと尻餅《しりもち》をつき、口をぱくぱくさせた。
「こ、こりゃ、一体……」
そうだった。あり得ない景色であった。窓の近くには少しの立木があり、その向うは畠である。抜《ぬ》けるほど青い空の下に、朝日を受けた、紫の山脈が見える。だが、夜、雨戸の隙間《すきま》から見た、三角の切妻合掌造《きりづまがつしようづく》りの家だけが、どこにも見えなかったのである。
「家が、消えてしまった……」
と、亜が叫《さけ》んだ。
「――あれは夢だったのか?」
夢ではない。三人が同じ夢を見るわけがない。
「妙《みよう》な茸《きのこ》を食べましたからな」
谷尾は亜の顔を見た。亜は手を振《ふ》って、
「あの茸はタケヌケダケと言って、そんな成分はないはずです」
「お獅子《しし》なら、何か知っているに違いない」
室野が外に出ようとするのを、谷尾が押し止めた。
「お獅子に何か言うのはよろしいが、食事が済んでからにしてもらいたいですな。あの人の気を悪くして、食事にありつけないようでは、一大事です」
二人は谷尾の言葉に従うことにした。室野は窓の外を見ると、頭が痛くなった。
朝食はぽろぽろした飯と、茄子《なす》の味噌汁《みそしる》。
お獅子は口が重く、多くを話さなかった。だが、彼が砂蛾淳治《すながじゆんじ》であること、近くには家は一|軒《けん》もないことなど聞き出すことが出来た。お獅子はバス停に出る、四キロばかりの道を教え、日に二本が通るだけだから、早めに出発した方がいいと言って、部屋《へや》を出て行った。
「早く追い出す気ですな」
と、谷尾が推測した。
「だが、まだお獅子を刺戟《しげき》してはいけませんよ。うまく行けば、耕耘機《こううんき》でバス停まで送ってもらえるかも知れない」
谷尾の言うことは一つ一つそつがない。
亜はぼんやり外を見ていたが、お獅子がいなくなると、のそのそ立ち上って、よいしょと窓を乗り越《こ》して外に出た。そして建物のあったあたりに歩いて行き、じっと地面を見下した。一面に小さな葱《ねぎ》が植えられている。植え替えられたばかりだろうか。
亜は今度は空を見上げ、両手を大きく廻《まわ》した。手に当る物でもあると思っているのだろうか。
「昨日食べたのは、オドリダケの一種でしょう」
谷尾は亜の踊りを見ながら言った。
亜はしばらくうろうろし、一本の草と小さな物を拾って戻《もど》って来た。
「又、珍種《ちんしゆ》がありましたかな」
と、谷尾が訊《き》いた。
「いや、この草自体は、そう珍《めずら》しいものではありませんが……」
艶《つや》のある長卵形の葉で、葉柄《ようへい》がなく、茎に巻き付くようについている。葉の縁《ふち》はぎざぎざして、上端《じようたん》に実を持っているようであった。
「この方が珍しいようです」
亜は畠の中から拾い出した物を示した。
「ほう、古い自在鉤《じざいかぎ》ですな。昔はどの家にでもあったものですが、今じゃ本当に珍しいですわ」
「すると、合掌造《がつしようづく》りの家の、消え残りですかね」
室野は黒い自在鉤を見て言った。
「室野さん、あなたはあの家が消えたことについて、何か心当りでもありますか?」
と、谷尾が訊《き》いた。
「そう、私はあれが幻覚だなどとは思えない。こんな話を聞いたことがありますよ。例えば山などで一時的に濃《こ》い霧がかかり、それがスクリーンの役目を果して、家とか人の影を写すんです。霧が晴れれば、影も消えてしまう……」
「そうそう、それに違いない」
谷尾は膝《ひざ》を叩《たた》いた。
亜はしきりに首をひねって、
「ブロッケン現象――ですか。でも、それにしては、合掌造りの家ははっきりしすぎていたし、あの時は月夜で、霧などはかかっていませんでしたよ」
と、大変に理論的である。
「そや、ブロッケン現象ではありませんな」
谷尾はすぐ反対意見に賛成した。
「それじゃ、私たちが寝ている間に、土砂|崩《くず》れが起り、家を流してしまう」
「そや、土砂崩れや」
と谷尾が言った。
「なるほど、でも山は遠すぎる上に、どこにも土砂崩れのあった跡《あと》は見えません」
亜は気の毒そうに言った。
「そや、土砂崩れではない」
と谷尾が言った。
「では、私たちの寝ている間に、大勢の人間が集まって、家を解体して、どこかに運んで行ってしまう」
「夜逃げや。それとも、家|泥棒《どろぼう》ですかな」
谷尾はすぐ新説に飛び付いた。
「少し無理と思いますが」
と亜が言った。室野はやけになった。
「あの合掌造《がつしようづく》りの家は、がらんどうであり」
「がらんどう?」
「そう、ビニール製のうんと大きなもので、私たちが寝ている間にたたんでしまい、車でどこかに運び去る」
「蜘蛛《くも》ですね、まるで。オニグモの仲間には、夕方になると網《あみ》を張って、朝になると巣をたたんでしまう、整頓《せいとん》好きな蜘蛛がいます」
「ビニール製の合掌造《がつしようづく》りでは、自在鉤《じざいかぎ》の必要はありませんですな」
と、谷尾が言った。
室野は谷尾に向って、
「じゃあ、谷尾さんはどんな考えを持っているんです?」
「私にも意見はあります」
谷尾は口を尖《とが》らせた。
「私は夕べ雨戸の隙間《すきま》から見ていたのは、今ここにある景色とは、違うと思うとります」
「景色が違う?」
「そう、この景色をごらんなさい。この辺りでは、どこにでも見られる畠に、どこにでもあるような山。ただ、夕べはあまりに合掌造りの家が珍しかったので、変った景色だなと思ったわけです。ところが、建物をなくしてしまえば、何の変哲もない景色になってしまう。ということは、この窓の反対側も、似たような景色に違いありません。つまり、今私たちは、夕ベとは反対の景色を見ているのでしょ」
「反対の景色?」
「そうです。私たちが寝ている間に、何かの加減で、家がぐるりと半回転したので、あの家がなくなったように見えたのでしょう。私の磁石《じしやく》も狂《くる》っていて、あのときは西も東も判《わか》らない状態でしたからな」
「すると、反対側には、あの合掌造りがありますか?」
「あるに決っていますよ」
「この家の前には、大変|特徴《とくちよう》のある柿《かき》の木が立っていましたね。家がぐるりと廻《まわ》ったとすると、今度はこの窓から、あの柿の木が見えるはずですよ」
「ははあ。――あの木はいらなくなって、きっと伐《き》り倒《たお》されたんでしょう」
家をぐるりと廻《まわ》すというのは、いかにも谷尾らしく屈託《くつたく》がなかったが、柿の木を伐り倒すようでは、残念ながら説得力には乏《とぼ》しい。
「いや、私はこんなところで、のそのそはしていられない。忙《いそが》しい身体《からだ》でしてな。皆さんもそろそろ、出掛けることにしませんか」
谷尾は我に返ったように時計を見た。
身支度は簡単だ。持ち物を揃《そろ》え、服の泥《どろ》をはたいて着る。室野は釣竿《つりざお》と魚籠《びく》を持った。亜は拾った自在鉤《じざいかぎ》は畠に放り出したが、草の方はポケットにねじ込んでいた。
谷尾は靴《くつ》をはいて、土間に立った。
「いい工合に、靴《くつ》も乾《かわ》きましたな」
戸を開けるとき、谷尾はちょっとためらった。ああ言われても、自説に執着《しゆうちやく》していて、戸の向うに合掌造《がつしようづく》りの家があるのを、期待しているようにも見えた。
戸を開けると、強い陽《ひ》が差し込んだ。谷尾は外に出ると空を見渡した。
谷尾の言うとおり、こちら側の景色は、窓から見えた景色とよく似ていた。だが、合掌造りの家だけは、どこにも見えなかった。家はない代りに、柿《かき》の木はあった。インド舞踊《ぶよう》を思わせるような枝に、青い小さな実が朝日を受けていた。
亜が口を開けて、柿の木を見上げた。
「ほう、大きな木の根が出ていますな。暗ければ躓《つまず》くのもむりはない」
と、木の根に気が付いて、谷尾が言った。亜の滑《すべ》った靴の跡《あと》も残っている。
いきなり、亜がかがみ込んだ。じっと地面に見入り、動かなくなった。
「根がどうにかしましたかな?」
「根じゃありません。芽が出ているんです」
亜は顔を上げたが、こっちの方は白眼が出ている。
「芽? そりゃこの天気では、いろんな芽も出るでしょ」
「ショウホウ、ホウ、ホウホケキョ……」
うまく喋《しやべ》れない。
「ショウキョウホウセンカとか言いましたよ」
「そう、その芽が出たんです」
「あなたがこぼした種ですな」
よく注意しなければ気が付かない。黒い土の中から、水々しい緑が二つ三つ、顔を出していた。
亜はポケットから、ルウペを引っ張り出して、その芽を観察した。
「他の種じゃない。確かに、ショウ、ショウ……」
亜はふらりと立ち上った。
「あの、が、合掌造《がつしようづく》り――」
「しいっ」
谷尾が口に手を当てた。
「まだ、それを言ってはだめです。お獅子《しし》は耕耘機《こううんき》を動かしていたようですよ。私たちを乗せてくれるつもりかも知れません」
そういえば、馬屋から耕耘機が半分ほど引き出されている。昼見ると、泥《どろ》だらけの耕耘機だ。
お獅子はその蔭《かげ》から姿を現した。
「支度が出来ましたか」
谷尾はお獅子に向って最敬礼をした。
「思いもかけぬお世話になりました。御《ご》恩は一生涯《いつしようがい》忘れませぬ。これからは片谷に足を向けて寝るようなことはいたしませぬ」
「なんの、ろくなお世話も出来なかったが」
谷尾はバスまでの道を確かめる。そして、
「立派な車ですな」
と、盛《さか》んに気を引くが、お獅子は、
「気を付けて帰りなされや。幸いに天気が続きますわい」
と言っただけだ。
柿《かき》の木に烏《からす》が飛んで来て、かあと鳴いた。
「もう、車の希望はなくなりましたな」
谷尾は室野と亜にささやいた。
「ですから、あの事を聞いて見ましょか?」
亜は大きく手を振《ふ》った。
「そ、そりゃ、いけません」
「いけないって? じゃあ、どうするんです」
室野は亜の言っている意味が、まるで飲み込めなかった。
「に、逃げるんです」
「逃げる? 私たちは何も悪いことはしていないぞ」
「でも、見たでしょう」
「合掌造《がつしようづく》りの家を?」
お獅子《しし》が聴《き》き耳を立てているようだった。亜はそれに気付かない。
「あの家はどうでもいいんです。早く行きましょう」
先になって歩こうとする前に、お獅子が立ちふさがった。
「少し聞きたいことがありますよ」
亜が震《ふる》えているのが判《わか》った。口もきけそうにもなかった。室野が前に出た。
「何ですか?」
「いや、そっちの背の高い人」
「は、はい」
亜は顎《あご》をがくがくさせた。
「今、あなたは見た見たと言っていたが、何を見たのか、聞かせてもらいましょう」
「――何も」
「正直におっしゃい」
お獅子は目をくわっと開いた。亜は一メートルも後へ飛び退《すさ》った。
「――合掌造《がつしようづく》りの家を見ました」
「あの窓を開けたのじゃな」
「そうです。実はこの谷尾さんが……」
お獅子《しし》は谷尾を一瞥《いちべつ》もしなかった。
「その家は、今あったかな?」
「ありません」
「そうじゃろう。そんな家など、あるわけがない。あなた方、わけの判《わか》らん茸《きのこ》など食べはしなかったかな」
「――食べました。あとで気が付いたら、オドリダケでした」
「それで、そんな物が見えたのじゃ」
「そうです」
「他に見た物は?」
「家の他は、何も見ません。いや、家も見てはいなかったのでしょう」
お獅子《しし》は満足そうな顔をした。その顔を見て、亜はすっかり油断したのである。亜は落着きを見せようとして、谷尾から買い求めた煙草《たばこ》を取り出そうとしたのだ。煙草と一緒《いつしよ》に、小さく折りたたまれた草が転がり出した。
「あ!」
亜は急いで拾おうとする。だが、お獅子の目は、それよりも早かった。
「うぬ!」
お獅子の顔が、倍に脹《ふく》れ上った。お獅子は耕耘機《こううんき》の隣《となり》にあった鉄パイプを取るより早く、亜の頭上をめがけて打ち下ろした。
一瞬《いつしゆん》、室野は亜の頭が砕《くだ》けたかと思った。だが、亜の身体《からだ》は、うなりを生じた鉄パイプの風に、木の葉が煽《あお》られるように宙を飛んだ。亜の姿が丸くなった、と思ったとたん、お獅子の大きな体が、無恰好《ぶかつこう》にはね返り、地響《じひびき》を立てて、頭から地面に落ちて来た。
「さあ、急いで逃げましょう」
お獅子《しし》が動かなくなったのを見て、亜はひょろりと立ち上った。
「この草は、一体何ですな?」
呆《あ》っ気に取られて見ていた谷尾は、亜のポケットから飛び出した草を拾い上げた。
「あたり前のケシです」
亜は肩《かた》で息をしていた。
「あたり前のケシには、ただし、モルヒネが含まれているんです」
「私は忙《いそが》しい身体《からだ》でしてな」
谷尾庄介は同じ言葉を、呪文《じゆもん》のように繰り返していた。ただし、この呪文の効き目は、全くなかった。
室野たち三人は、馬屋の後にある、例の部屋《へや》に閉じ込められてしまった。部屋は換気が悪く、蒸し暑くて臭《くさ》かった。窓からは蠅《はえ》や蚋《ぶよ》などが、容赦《ようしや》なく飛び込んで来る。その窓さえ、あわや、再び釘付《くぎづ》けされそうになったのだ。県警の捜査官たちは、自分たちの行動を、三人に見られることを、ひどく警戒した。
「私たちは馬やない。こんな部屋に押し込められては、人権|蹂躙《じゆうりん》や」
谷尾は鼻と口とを一緒《いつしよ》に尖《とが》らせた。
「それに、私たちは殺人犯の逮捕に協力したではないですか。恩を仇《あだ》で返す気ですか」
谷尾は捜査官《そうさかん》の措置《そち》が、全《すべ》て気に入らない。自分たち功労者は、丁重な扱いを受け、捜査官は恭《うやうや》しく、三人の苦心談を拝聴《はいちよう》するかと思っていたのである。ところが、三人は伝染病患者のように、いきなりこの部屋に隔離《かくり》されてしまった。事情聴取も、犯人並みの扱いである。その上、こちらの質問には、何一つ答えない。
「とに角、現在は事実|捜査《そうさ》中です」
それ一点張りだ。
「だから、あの時、逃げようと言ったじゃありませんか」
亜が愚痴《ぐち》っぽく言った。この男は、警察の行動を、的確に予想していた。前にもこんな経験があったのだろうか。
「どうも私の考えは、楽天的でありすぎたようです」
と、室野は虻《あぶ》を追い払《はら》いながら言った。どこかに死体が埋《う》められているかも知れないと亜に聞かされ、警察に通報することを、強く主張したのは室野であった。谷尾はそのとき、
「お獅子《しし》には一宿一飯の義理があります。でも、密告しても、よろしいでしょ」
と、気を失っているお獅子を見ながら言った。
そのお獅子は重要殺人容疑者として、自分の部屋《へや》にいる。捜査官はお獅子を、手厚く応対している。手洗いに立ったとき、部屋を覗《のぞ》いた谷尾が、帰って来て、
「巡査が団扇《うちわ》で、風を送ってやっとります」
と、口を尖《とが》らせたほどだ。
だが、三人の方は、団扇で風も送ってやることなく、縄《なわ》でぐるぐる巻にしたお獅子の口から、ある程度のことは聞き出していたのだ。
お獅子は砂蛾淳治《すながじゆんじ》と言い、谷尾が言ったように、砂蛾一族の末裔《まつえい》であった。格式のある家で、淳治は東京の医大に入学した。無論、医家としての砂蛾家を再興させようとする、両親の意志である。だが、淳治の在学中、二親《ふたおや》は次次と亡くなってしまった。親たちはかなりの保険金を残していたが、淳治には、勉学を続ける意志がなくなっていた。女|癖《ぐせ》が悪かったのである。
身体《からだ》は大きかったが、気の小さい男であった。よくない友達が、淳治の回りに現れるようになった。そういう人間が、淳治を利用するのを、彼は拒絶《きよぜつ》することが出来なかった。脅迫《きようはく》、強盗《ごうとう》、詐欺《さぎ》――いつの間にか、汚物《おぶつ》を身体中にひきずって歩く生活に漬《つか》り込んでいた。
淳治が最後に手を出したのが、麻薬《まやく》密造の仕事だった。これも、多少薬学の知識があるのに目を付けた、仲間たちが教唆《きようさ》したためである。
初めは、或《あ》る種の咳止《せきど》め剤などに混入されている、微量の麻薬を抽出《ちゆうしゆつ》する作業だったが、しだいに規模が大きくなった。都心では発見される危険が増してきた。そこで、廃屋同様になっていた、片谷の合掌造《がつしようづく》りの家に目を付け、内部を改造して、麻薬密造所としたのである。
最後にもっと大胆《だいたん》な密造を試みることになった。大量のケシを栽培し、その若い果実から、直接にモルヒネを取り出そうとするのだ。人里|離《はな》れた片谷は、うってつけの場所であった。
「そこへ、われわれが転り込んで来たわけですな」
と、谷尾が言った。
「お獅子《しし》は、麻薬密造所である、合掌造りの家を見せたくはなかったのです」
と、亜が説明した。
「それで、あの窓が釘付《くぎづ》けにされたわけなのですな。だが、待って下さいよ。あの合掌造りを外から見ただけで、あの中が麻薬密造工場だとは、誰《だれ》も思わないでしょ」
「そう、お獅子が見せたくなかったものは、まだ別にあったのです」
「合掌造りの中から顔を出した、お獅子の仲間ですか?」
「それもあるでしょう。だが、本当に見せたくなかったのは、あの畠でした。ケシは収穫が済んでいましたが、種子を採るためのケシが残っていたのですよ」
「そんな草、われわれには何やら判《わか》りませんがな」
「谷尾さんにも責任があるじゃないですか。僕《ぼく》をお獅子《しし》に紹介したとき、植物学者だと言ったでしょう」
「――悪気は、なかったんや」
「もし、あの一言がなかったら、お獅子は窓を釘付《くぎづ》けにすることもなかったでしょうね。僕たちが寝てから、ケシの上にビニールをかぶせ、ビニールハウスでも作っておけばよかったのです」
「で、亜さんはあの夜、ケシには気が付きましたか?」
「いいや、全然」
亜はとほんとした顔で答えた。
そしてその夜、お獅子にとって、不幸な事件が続発した。
合掌造《がつしようづく》りの二階の乾燥機から火を発し、合掌造りの家はあっという間に全焼してしまったのである。午前二時|頃《ごろ》のことだ。機械に不馴《ふな》れな仲間が、操作を過《あやま》ったものらしい。翌日は製品|搬出《はんしゆつ》の日に当り、疲《つか》れ切って寝入っていた二人の仲間は焼死。消火活動も、お獅子一人の手では、どうすることも出来なかった。
合掌造りの最も大きな特徴《とくちよう》は、釘《くぎ》や鎹《かすがい》を一切使わないことである。楔《くさび》の他は全て縄《なわ》や、特殊な粘《ねば》りの強い木をねった物で、柱をくくってある。壁《かべ》は板壁で、土は使わない。雪のために落ちることがないためだ。屋根は無論、茅葺《かやぶ》きである。火に遭《あ》った家は、土台に使われた自然石と、密造用の機具を残して、全《すべ》て灰になってしまうのである。
「ほう、焼けた土が出て来ましたな」
窓から外を見ていた谷尾が言った。
畠の中に、何人もの捜査官が、土を深く掘り起している。焼けた土と一緒《いつしよ》に、焼け残った柱や、大きな石が掘り出されていた。
穴を覗《のぞ》いていた一人が、何やら声をあげた。回りの警察官は、穴の囲りを、灰色の布でかこってしまった。
「ああされると、余計見たくなるのが、人情ですな」
谷尾は背伸びしたが、背伸びぐらいでは、見えはしないのだ。
「砂蛾《すなが》家は、燃えて、消えたのですな」
今までは亜の説明に半信半疑だった谷尾も、燃えた証拠《しようこ》が掘り出されたのを見て、やっと納得《なつとく》したようだった。
「しのび坊主《ぼうず》に、消え砂蛾……」
室野は子守|唄《うた》を思い出した。
「あの歌のとおりに、砂蛾家が消えたことは、奇妙《きみよう》な暗合ですねえ」
すると、亜がひどく真面目《まじめ》な顔をして、首を横に振《ふ》った。花盛《はなもり》線の座席で、じっと物思いに耽《ふけ》っていた亜の印象が、また蘇《よみがえ》っていた。
「いや、僕《ぼく》はあの歌とこの事件が重なったのは、奇妙な暗合でも、偶然《ぐうぜん》でもないような気がしているんです。あの子守唄の生れたわけも、何だか判《わか》って来たようです」
「子守唄の生れたわけ? あの歌は、昔の親たちが、子供を寝せるために作った、でたらめな文句ではなかったのですかな?」
谷尾も変な顔で亜を見た。
「ああいう歌は、何かしら、種があるものですよ。金平糖《こんぺいとう》のケシ粒のように、です。この山間の一つ家が、次々と消えて行ったという伝説。おそらく、砂蛾《すなが》の一族は、不幸な失火を、連続的に起したものと思えます。昼間なら煙で、人の目にも付いたでしょうが、真夜中でしたら、山の陰《かげ》で火も見えなかった。砂蛾家の焼失したあと、この地に来た人は、砂蛾家がなくなっているのを知って、びっくりしたに違いありません。無論、焼失の跡《あと》は残っていたでしょうが、消えたという驚きの印象の方が強烈です。合理的な説明は語りつがれることがなく、消え砂蛾だけが伝説や歌として残されたのです」
「これでもう一つ、あの子守唄が長生きすることになりましたな。あの消失は、あまりにも鮮《あざ》やかでしたからな」
と谷尾が言った。
鮮やか? と、室野は考えた。そうだ。夕ベの砂蛾家の消失は、あまりにも鮮やかであった。火災の起ったのは午前二時だという。にもかかわらず、朝七時には焼跡《やけあと》はすっかり整理され、新しく運ばれた土で畠が作られ、葱《ねぎ》が植えられていた。室野は苦しまぎれに、大勢の人が集って、家を解体してどこかに運び去った、という意見を言ったことがあったが、大勢なら、短時間での焼跡の整理も可能だろうか?
「――つまり、お獅子《しし》には、共犯者がいたわけですね?」
と、室野が言った。
「共犯者?」
亜は変な顔をして室野を見た。
「共犯者などは、一人もいません。全《すべ》て、お獅子一人の手でやったことです」
「それは変でしょう。共犯者が何人もいなければ、あの時間で焼け跡を畠にしてしまうなどということは、不可能でしょう。たとえ耕耘機《こううんき》の一台ぐらいあってもです」
「投光器も必要だったでしょうしな」
と、谷尾が言った。
「投光器?」
「さよう。いくら月夜だといっても、真夜中では電灯も必要だったでしょう」
そのとき、亜は実に奇妙《きみよう》な表情をした。口の端《はし》をだらしなく下げ、笑うとも泣くとも、恥しいともつかぬ表情だった。
「つまりあなたは、お獅子《しし》のやり口が判《わか》ったのですね。家が消えたことに、そう驚かなかったのですか?」
と、室野が言った。
「飛んでもない」
亜は大きく手を振って、
「家が消えたのを見たときには、腰《こし》が抜《ぬ》けましたよ。そして続けざまに、家が消えてしまった以上に不思議なことに出会って、世の中がちんぷんかんになってしまったのかと、あわてふためいたものでした」
「家が消えてしまった以上に、不思議なこと?」
「まず初めは、朝起きて時計を見たら、止っていたじゃありませんか。壊《こわ》れたのではない。ぜんまいがなくなっていたのです。僕《ぼく》は朝時計のねじを巻く習慣があります。今日まで、こんな奇妙な目に会ったのは初めてでした」
室野の時計も止っていたのだ。動いていたのは、谷尾のデジタル時計だけであった。
「次に、朝起きて室野さんがこの部屋《へや》を出ようとした時、蜘蛛《くも》の巣《す》が顔に付いたでしょう。巣を払《はら》うと、ハエトリグモが落ちて来た。あの晩も、谷尾さんが蜘蛛の巣に顔を突《つ》っ込んで、払い退けていたのを覚えています。それなのに、朝起きて見ると、もう蜘蛛は自分の巣を新しく作りなおしていたのです。真夜中から、朝にかけてです」
室野は息を飲んだ。亜の言いたいことが、判《わか》りかけてきたのだ。
「三つ目。土間に出て、顔を洗ったときのことです。谷尾さんが夜食べ残した鍋を開けました。ところが、中の粥《かゆ》はもう腐《くさ》っていたでしょう。四つ目は帰り支度をして、靴《くつ》をはいたときです。谷尾さんは、靴をはくや、嬉《うれ》しそうに、いい工合に靴も乾いています、と言いました」
「靴が乾いていては、いけませんかな」
と、谷尾が言った。
「今朝に限って、よくはないのです。前の晩、あんなに濡《ぬ》れていた靴が、一晩で気持のいいほど乾《かわ》いていては、いけないのです。どうも、片谷というところでは、全《すべ》てが信じられぬ程、働き者になっているようでした。時計はぜんまいのなくなるほど動き、蜘蛛は短時間で巣を新しく作り、細菌は食物をせっせと腐敗《ふはい》させ、風はどんどん濡れた靴を乾かしていました。――というような数々の不思議を説明出来る解答は、ただ一つ。だのに、僕《ぼく》はなぜそれに気付かなかったのか。今にして思い当るのは、僕たちの身体《からだ》が、正常ではなかったのですよ。朝、目が覚めたときのことを覚えていますか? 頭はもうろうとし、身体中は痛む。吐《は》き気はするし、すぐ起き上ることが出来なかったでしょう」
「年のせいか、と思いましたよ」
と、室野が言った。
「それが年のせいでないことは、柿《かき》の木の下で、拾い残したショウキョウホウセンカの種から、緑の芽が出ているのを見付けたときでした。種が一晩で芽を吹くのが珍《めずら》しかったのではありません。おそらく靴《くつ》に踏《ふ》まれて、表皮に傷が付いていれば、発芽は早くなるでしょうし、雨続きで土には水もたっぷりしていました。ところが、あの芽は、綺麗《きれい》な緑色をしていたのですよ。あの色は太陽の光を受けなければ、現れる色ではありません。あの芽は、丸一日、太陽の強い光を受けていたのです」
「すると、まさか?」
谷尾の目が大きくなった。窓の外が急に騒《さわ》がしくなった。だが、二人の注意は、亜にそそがれたままであった。
「その解答を、間違《まちが》いのないものにしてくれたのは、他ならぬお獅子《しし》の言葉でした。別れぎわにお獅子が言った言葉」
「――気を付けてお帰りなされや。幸いに天気が続きますわい」
と、谷尾がお獅子の口を真似《まね》た。
「そうです。お獅子は天気が続きますわい、と言ったのですよ。お獅子は不用意に、本当のことを喋《しやべ》ってしまったのです。つまり、前の日も、晴天だったという事実が、あの言葉に含《ふく》まれていたのです」
「前の日も、晴天……」
「僕《ぼく》たちが列車を降りて歩き出してからは、ずっと曇りか雨。太陽は一度も出ませんでした。この家に転がり込んだ夜、やっと雲が切れ、月を見ることが出来たのです。ところがお獅子は、天気が続きますなどと言った。――つまり僕たちは、丸、三十三、四時間も寝かされていたのですよ」
「三十三、四時間も……」
谷尾は口を大きく開けた。
「僕たちが目を覚したのは、この家に辿《たど》り着いた翌日の朝でなく、翌々日の朝なのでした。従って、僕たちが合掌造《がつしようづく》りの家を覗《のぞ》き見たのは、昨夜ではなく、おとといの夜のことでした。――ということに気が付けば、今朝起った全《すべ》ての不思議が、綺麗《きれい》に説明出来てしまいます。丸一日放っておいたのですから、時計が止ってしまうのも当然でしょう。蜘蛛《くも》が新しく巣を作りなおす時間も、たっぷりあったでしょう。食べ残した鍋《なべ》の中の食物が腐《くさ》っても不思議はない。昨日が晴天なら、濡《ぬ》れた靴《くつ》も気持よく乾《かわ》くでしょう。ホウセンカの芽も、太陽の光を受けて、緑色になるわけです」
「あの夜飲まされた茶の中に、睡眠薬《すいみんやく》が入っていたのですね」
室野はあの味を思い出した。
「お獅子《しし》は昨日が製品搬出の日だと言っていました。その前の日に、僕たちが転がり込んだのです。僕たちがその日にうろうろされては、事が面倒《めんどう》です。聞けば何日も山の中をさまよっていて、日の感覚もなくなっているらしい。彼等《かれら》から、丸一日太陽を盗《ぬす》んでしまえば、仕事の邪魔《じやま》にならないだろう。こういう考えから、お獅子は三人分の睡眠薬《すいみんやく》を調合したのです」
「私はお獅子に体重まで教えましたよ。それにしても、配合の腕は確かでしたな」
と、谷尾が言った。
「それはそのまま、お獅子が全《すべ》ての事件の痕跡《こんせき》を消してしまう、好条件にもなったのです。僕《ぼく》たちが寝込んだ真夜中、仲間の不始末で、合掌造りの麻薬《まやく》密造工場は、全焼してしまいました。焼け跡《あと》には、二つの焼死体が転がっている。警察に知れては、麻薬密造も発見されてしまう。お獅子は途方《とほう》に暮れたものと思います。馬屋の隣《となり》の部屋《へや》には、見知らぬ三人の男がいる。だが、彼|等《ら》に睡眠薬を飲ませておいたことに、奇福《きふく》を感じたでしょう、三人は次の日も眠《ねむ》り続けていることになっている。その間に、お獅子は合掌造りの密造工場の痕跡《こんせき》を、完全に消してしまおうとしたのです。彼は夜通しかかって、家の残りと屍体《したい》を焼き、翌日は土を掘り起して、地の中に埋《う》め込んでしまったのです。お獅子の大きな身体《からだ》と、耕耘機《こううんき》で、丸一日かかって、この作業を終えることが出来たのです。ハエトリグモが新しい巣を作りなおしたように――」
窓の外の捜査官《そうさかん》が、忙《いそが》しそうに動き廻《まわ》る。白い担架《たんか》が運ばれる。畠の穴にいる警察官が、
「二体の屍体《したい》が見付かりました。一人は二十二、三の男で……」
と、上官に報告する声が、微《かす》かに聞えた。
「本当なら、目を覚した瞬間《しゆんかん》に、事件の全《すべ》てを知るべきでした」
と亜が残念そうに言った。
「目が覚めた瞬間ですって?」
室野は信じられぬように言った。
「朝起きたときの髭《ひげ》の手触《てざわ》りは、確かに二日分の伸《の》び方でしたものね……」
第三話 珠洲子《すずこ》の装《よそお》い
起きてすぐ、鏡を見る。
最初に髪《かみ》の色を注目する。気のせいか、いつもの淑子《としこ》より、やや褪色《たいしよく》して青味を帯びている。りんこリンスが効いたように思えて、淑子は満足した。
髪の調子を見てから、自分の目を覗《のぞ》く。睡眠《すいみん》を充分取った後なので、眸《ひとみ》が美しく輝《かがや》いている。にきびだっていつもより目立たなかった。顔を洗ってから、右の乳房の上あたりに、眉墨《まゆずみ》で小さな星を二つ並べて描いた。
前の晩は夕食をお腹一|杯《ぱい》食べて、さっさとベッドの中に入った。時間が早過ぎ、さすがに寝付かれなかったものだから、父親の書斎《しよさい》に入って、こっそりブランデーを飲んだ。ベッドに戻ったら目が廻《まわ》り、そのまま朝になるまで意識不明になった。
夢ひとつ見なかった。目覚しはいつもより三十分早目に掛けて置いたが、気持よく目が覚めた。ベッドから出てすぐとんぼ返りを打ち、窓を一杯に開けて初秋の冷たい空気をうんと吸った。
朝の仕度はいつもよりちょっと時間が掛った。鞄《かばん》は重く、大きくふくらんで、はち切れそうだった。それでもずいぶん目立たなくするのに苦労したのだ。
「日曜だというのに、何をがたがたしてるんだ」
隣《となり》の部屋《へや》で兄たちが怒鳴《どな》った。
挑戦《ちようせん》には応じるのが淑子の主義だった。隣の部屋に出向き、三人の兄の枕《まくら》を次次に投げ飛ばした。
「どうしたんだあ、淑坊《としぼう》。今日は」
怒《おこ》った兄たちは淑子に組み付いた。淑子は立ち向い、堂堂と三人の兄をねじ伏せた。
「わたしは今日は元気なんですからね」
それから、りんこちゃんの歌を大きな声で歌い、朝食をみっしり食べ、書斎《しよさい》に行って父に行って来ますと言った。
「この頃《ごろ》、やる気が出たようですね。しっかり勉強していらっしゃい」
父親は淑子の重そうな鞄《かばん》を見て、満足そうに言った。母親もにこにこしていた。
家を出て、人気《ひとけ》のないのを見定めて、予備校と反対の道を急ぎ、タクシーを拾って駅まで飛ばした。バスを待っていたのでは遅《おそ》いのだ。
目的の駅に着くと、すぐ有料トイレに入り、鞄の中に詰《つ》め込んでおいた赤いセーターを取り出し、紺《こん》の制服と着替えた。セーターの真ん中には、大きな鈴《すず》がプリントされている。これを探すのに、どれほど苦労したか知れないのだ。
口紅《くちべに》を引き、お下げを巻き込んで、ショートカットのかつらに押し込むと、五つも年上に見えた。
ハンドバッグを取り出す。バッグの中には小型ラジオが入っている。制服を鞄の中に押し込んで、準備は完了。トイレを出て鞄をコインロッカーに投げこみ、イヴ劇場まで駈《か》け足。
一番だろうと思っていたら、そうではなかった。切符売場の前に、三角形の顔をした小柄《こがら》な洋装の老婦人が立ちはだかっていた。淑子《としこ》は仕方なく、老婦人の後に並んだ。
すぐ三人組の女性がつながって現れ、あたりを見廻《みまわ》してから、淑子の後についた。三人の女は鈴をプリントしたセーターを、敵意のある目で、じろりと見た。
三人とも、淑子と同じ年頃《としごろ》で、派手《はで》なセーターを着込んでいるが、学生だということはすぐに判《わか》る。変装が下手《へた》すぎるのだ。淑子に比べれば、プロとアマの違いだった。
初めの学生は無闇《むやみ》に肥り、大きい紙袋をぶら下げて、ぐしゃぐしゃとガムを噛《か》んでいる。きっと朝食|抜《ぬ》きでここまで飛んで来たのだろう。二人目はサングラスを掛けた骨張った女である。制服を紙袋の中に詰《つ》め込んでぶら下げていないところはいいが、眼鏡《めがね》が顔に合っていない。夜店かスーパーストアで手に入れたものに違いない。
淑子は三人目の女に目を移したとき、危く吹き出しそうになった。その女はセーラー服の上にトレーナーを着込んでいるのだ。
時計を見る。兄貴《あにき》のを黙《だま》って借りて来たのだ。十時の開場まで、まだ大分時間がある。淑子はバッグからイヤホーンを伸《のば》して耳に差し、ゆっくりとダイヤルを廻《まわ》した。そろそろ「ウエスト吉良《きら》の朝の歌謡曲」が始まる時間だ。加茂珠洲子《かもすずこ》一周忌特集と新聞にあった。聞き逃《のが》すわけにはゆかないのだ。
後の三人はラジオを聞く様子もない。ぼんやり朝の人通りを眺《なが》めているだけ。この特集を知らないようでは加茂珠洲子ファンとして失格である。きっと最近のりんこブームに乗っかっただけの、出来星のファンなのだろう。
淑子は違う。生前、加茂珠洲子がサインした色紙もちゃんと持っている。りんこがまだ売れなかった頃《ころ》「新生」のキャンペーンに行って貰《もら》った、まだたどたどしいところのあるサインだった。
りんこリンスのコマーシャルが始まっている。「りんこちゃんみたいな髪《かみ》の色になるリンス」だ。りんこの髪は細くて、青味を帯びていた。そんなことは前から判《わか》っていたが、騒《さわ》がれだしたのは、りんこブームになってからだった。宣伝通りに青味を帯びた髪になるとは半分も信じられないが、りんこの名が付いているので、買わないわけにはゆかなかった。
コマーシャルが終ると、聞き馴《な》れたウエスト吉良《きら》の声が騒騒《そうぞう》しく響き始める。
「けらけらけら。お早はん。いいお天気ですねい。爽《さわや》かですねい。けらけらけら。どうしましょう。このブーム。この机の上にある葉書、全部りんこちゃんのリクエスト。おったまげですねい。けらけら。早いものですねい。りんこちゃんが悲しい事故に遇《あ》ってから、もう丸一年。そいでもって、今朝《けさ》の歌謡特集は、りんこちゃん最大ときゅ……(自分の頭をひっぱたく音)りんこちゃん最大特集とまいりましょねい。けらけらけら……」
淑子《としこ》は司会者が気に入らなかった。言葉が下品なだけでなく、最大の欠陥《けつかん》はりんこのことをよく知らないことだった。淑子はりんこが死んでから、今日まで正確に十一か月と十三日であることを知っている。
すぐ、りんこの「新生」の前奏が始まった。淑子は目を閉じた。
あなたの胸に抱《だ》かれたくて
またこの街の雨の降る夜
化粧《けしよう》を落して帰って来たの
わたしのこころにつく嘘《うそ》を
あなたは救ってくれるでしょう
「……りんこちゃんが消えてしまった南の海には、まぶしいほどの太陽が輝《かがや》いて、一年後の今も同じ太陽が……」
ウエスト吉良がまくし立てていた。
淑子は聞いているうちに腹が立ってきた。出まかせも、ほどほどに願いたいものだ。あの日の海に、太陽など輝《かがや》いてやしなかった。太陽は古いマットみたいな厚い雲に覆《おお》われ、灰色の雨が降っていたのだ。
悲報の第一報のテロップが、テレビの画面に流れたときの衝撃《しようげき》を、淑子は忘れることが出来ない。
――九月二十五日。十四時二十分、羽田《はねだ》空港を離陸《りりく》した|A《エース》航空のDL4号機は、同十四時五十分、通信が途絶《とだ》え、そのまま消息を絶った。乗員、流行歌手加茂|珠洲子《すずこ》と、東欧《とうおう》映画ロケ隊。数名の加茂珠洲子ファンと、乗務員を含《ふく》む二十五名の安否が気遣《きづか》われている……
その日は大型の台風が接近していた。台風の影響で、各地に豪雨《ごうう》があり、宮前《みやまえ》市の空港には、かつてない濃霧《のうむ》が発生していた。
加茂珠洲子はその頃《ころ》、今のような人気はなかったが、淑子は大のファンだった。レコードを買ってサインしてもらったとき、珠洲子はにっこり笑って淑子に手を差し出した。透《す》きとおるような目で見詰《みつ》められて、淑子はいっぺんで珠洲子のファンになってしまった。加茂珠洲子が主演した映画は三本とも見た。発売された十五曲のレコードは全部買った。淑子の部屋《へや》には加茂珠洲子の大きな写真パネルが壁《かべ》に掛っている。加茂珠洲子は淑子の家族の一員と言ってもよかった。
二時間後、DL4号機の遭難《そうなん》が確認された。自衛隊の捜査《そうさ》ヘリコプターが、宮前市沖二十キロの海上に、漂流《ひようりゆう》している飛行機の燃料と、DL4号機の機体の破片を発見したのだ。ただちに巡視船が現場に赴《おもむ》き、更《さら》にDL4号機の残骸《ざんがい》、乗員の衣服の断片などを海面から収集した。加茂珠洲子が生前着用していたコートの切片も発見され、DL4号機の遭難と乗客全員の死亡が確実となった。
淑子はヒット曲「新生」を聞きながら、遭難した二十五人のうちに自分がいたら、どんなにロマンチックだったろうと思う。大きな魚のお腹の中で、りんこの肉と自分の肉が一緒《いつしよ》に納まっていたかも知れない。大きな魚はお腹が一杯《ぱい》になって、南の海の底をどこまでも泳いでゆく――
あなたの眸《ひとみ》に映るわたしは
眉《まゆ》も引かず口紅《くちべに》もない
昔のわたしは捨ててきました
ただ恐《おそ》ろしいのはあなたの胸で
新しい嘘《うそ》が始まること
「りんこちゃんが私たちに残してくれた歌は全部で十五曲、映画は四本でしたねい。けらけら。それでは数少ない曲の中から〈残月の曲〉聞いてねい」
と、ウエスト吉良《きら》が喋《しやべ》った。
今頃《いまごろ》、抗議の電話が放送局に殺到《さつとう》しているに違いない。りんこが残した曲は全部で二十五曲。十曲はおくらになっていたのだ。りんこが死んでから、りんこの歌が爆発的に売れ出し、レコード会社はおくらになっていた曲も発売し始めた。それも、全部というのではない。レコード会社の中には頭の良い人がいるから、効果的な時期をコンピューターではじき出して、一曲ずつ発売しているところだ。ウエスト吉良は「生前に発売されたりんこちゃんの歌は十五曲」と言いなおすべきだ。
映画の四本というのも間違《まちが》い。正確には八本。そのうちの四本が歌のシーンだけの映画である。だからこれも「主演映画は四本」と訂正すべきだ。更《さら》に精しく言うと、主演映画四本のうち、一本はこれもおくらになっていた。どこの会社でも儲《もうか》るとなると捨てた物でも拾い出す。そのフィルムは再編集されて上映されることになった。それがこれから封切りの映画「残月の曲」なのだ。
初め加茂珠洲子という歌手は、あまり人気があがらず、ぱっとしなかった。レコードの売り上げも普通《ふつう》だったし「歌謡曲ベスト10」に入ったのも一曲だけだった。週刊誌向きの話題にも乏《とぼ》しく、淑子の知る限りではただ一度、りんこが遭難《そうなん》する少し前、東欧《とうおう》映画の助監督との仲を小さく噂《うわさ》されただけだった。
主演映画といっても、全部がメロドラマなどに添えられた、時間つなぎの歌謡映画。上映時間の短い他愛《たあい》のない作品ばかりだ。
けれども、わずかではあるが、淑子のような狂熱的《きようねつてき》なりんこファンがいたことも確かだった。
りんこの死は、あまりにも突然《とつぜん》すぎた。加えて、事故を報道した新聞に載《の》った写真が、あまりにも魅惑的《みわくてき》でありすぎた。
ブロマイド屋の隅《すみ》に置いてあったりんこの写真があっという間になくなった。続いて十五曲のレコードはいくらプレスされても、生産が間に合わなくなった。「歌謡曲ベスト10」の上位に、りんこの歌が目白押しに並び始めた。
或《あ》る小さな映画館が、試しに「加茂珠洲子特集」を組んだところ、何人もの怪我人《けがにん》が出る騒《さわ》ぎになった。
淑子《としこ》は気分が悪い。何を今更と怒《いか》りたくなる気持だ。りんこの未公開映画が観られることは有難いが、ウエスト吉良《きら》の杜撰《ずさん》な司会を聞き、朝早く起きて長い時間劇場の外で行列しなければならなくなったのは、大いに迷惑《めいわく》だった。
気が付くと淑子の後に、長い行列が出来ていた。ほとんどが淑子と同じぐらいの年代。ほとんどがりんこリンスを使い、右の乳房の上に、秘密結社の秘密の合印みたいな、二つの印を付けているに違いない。妖《あや》しくて可愛《かわい》らしく、りんこの胸に付いていたふたごのようなほくろに似せて、である。
ウエスト吉良が「りんこちゃん特集はこれでおしまいら。又、来週の朝お逢《あ》いしましょうねい。けらけら」と言い、コマーシャルの音楽が流れ始めたとき、イヴ劇場の切符売場の窓が開いた。
イヴ劇場の開場は、ちょっとしたいざこざがあった。
一番前にいた三角形の顔をした洋装の老婦人が招待券を差し出したため、今日は特別興行なので、その券はお使いになれませんと言われ、怒《おこ》り出したのだ。
淑子は構わずに切符を買い、一番最初に劇場へ乗り込んだ。思い掛けぬいい気分を味わった。
だが、客席に入ったのは淑子が最初ではなかった。黒っぽい服を着た二人の男が壁際《かべぎわ》に立っていた。二人の持ち物らしい鞄《かばん》が座席の一番前に置いてある。淑子はその隣《となり》に腰《こし》を下ろした。一番前の、真ん中の席だった。
二人の男は、歓声を上げながら客席に突入《とつにゆう》して来る若い娘たちに度胆《どぎも》を抜《ぬ》かれたように、棒立ちになった。
淑子はその若い方の男を見て、思わずどきどきしてしまった。背が高く、端麗《たんれい》な顔立ちで、淑子の知っている俳優や歌手にも、ちょっと類のない品格を備えていた。クリーム色の格子《チエツク》の背広に紺《こん》のネクタイがよく似合い、着こなしも一流に見えた。
連れの男はマネージャーか付き人という感じで、顔の中に同じ形をした黒い物が四隅《よすみ》に並んでいて、それが二つの眉《まゆ》と、二つの目になっているのであった。
一としきりの騒《さわ》ぎが静まると、二人は大理石の壁《かべ》に向いた。顔を見られたくないのかなと淑子は思う。それにしても、壁を舐《な》めるばかりに顔を寄せている姿が妙《みよう》だった。
やがて、開幕五分前のベルが鳴った。あたりが暗くなると、二人はやっと壁から身体《からだ》を離《はな》した。若い方の男が向きなおったとき、通路を駆《か》けて来た女性と衝突《しようとつ》しそうになった。男の上体がぐらりと傾《かたむ》き、斜《ななめ》になったまま、六方《ろつぽう》を踏《ふ》むような形で、淑子の前までのめって来ると、膝《ひざ》の上にすとんと腰《こし》を下ろした。
「ご、ごめんなさい」
男は顔に似合わないうろたえ声を発した。
「構わないわ」
淑子は男の尻《しり》を押してやった。
「その代り、サインを下さい」
淑子は用意していたサイン帖《ちよう》とペンを渡した。
「サインですか」
男は今の失策の動揺《どうよう》が静まらないとみえて、しばらくサイン帖を眺《なが》めていたが、やっと、亜愛一郎《ああいいちろう》と書き付けた。サインらしくない四角い字だった。名前にも聞き覚えがなかった。
「どこの専属なの?」
と、淑子が訊《き》いた。
「いや、僕《ぼく》はフリーです」
「デビューはいつ?」
「デビューは………確か七年前」
下積みが長い割にはすれた様子がない。淑子は亜に好感を持った。
「作品は?」
「〈雲の瀑《たき》〉です」
「それ、歌? それとも映画?」
「はい、写真の方でした」
「ファンになるわ。頑張《がんば》ってね」
「はい、僕《ぼく》も一生|懸命《けんめい》仕事をします」
亜は丁寧《ていねい》に頭を下げた。
孔雀《くじやく》の羽根を一面に刺繍《ししゆう》した緞帳《どんちよう》が上ると、スクリーンに東欧《とうおう》映画のトレードマークが写し出された。
観客は興奮していた。
加茂|珠洲子《すずこ》の名前がスクリーンに現れただけで歓声があがった。
「残月の曲」は純愛歌謡メロドラマである。薄幸《はつこう》の美女に、純真な青年がからむといった構成で、上映時間を伸ばすための再編集がされたらしく、筋の展開が間伸びをしている割には、妙《みよう》にごたついた映画になっていた。画面の色彩が統一されていないのは素人《しろうと》が見ても判《わか》る。
だが、そんなことはどうでもいいのだ。りんこが登場し、恋をし、唄《うた》い、泣くだけで満足だった。
相手役の三条健治《さんじようけんじ》も得をしたはずだった。おくら入りをしていた主演映画が日の目を見、大入りは確実になったのだから。
淑子はまばたきもせずに、りんこの一挙一動を見て感動し続けた。
確かに「残月の曲」は加茂珠洲子の魅力《みりよく》を十二分に描き出していた。長い真っすぐな髪《かみ》の、やや青味を帯びた色も、正しい色で撮影《さつえい》されていたし、特徴《とくちよう》のある小さな耳も、いい角度でクローズアップされたシーンがあった。淑子はそれを撮影したのは、週刊誌に書かれた東欧映画の助監督に違いないと思った。りんこの美しさをよく知り、より美しく表現出来るのは、りんこの愛人を置いてはいないはずだった。
りんこが「残月の曲」を唄《うた》うシーンでは、大きく開いたドレスの胸から、ふたごのほくろが顔を出した。観客の誰《だれ》もが見逃《みのが》さなかった。わあっという声が場内を満たした。勿論《もちろん》、淑子の声も混っていた。
りんこがよくする、高音になるとき目尻《めじり》に指先を当てる癖《くせ》が出たときもそうだった。劇場が割れるような騒《さわ》ぎになった。クローズアップは顔の右側が多い。これはりんこの可愛《かわい》らしい右犬歯の八重歯《やえば》を強調するためだ。
薄幸《はつこう》のりんこが三条健治と恋をし、複雑な家庭の事情で別れ、捨て鉢《ばち》な気持で他の男と結婚しそうになり、友達の助言で思い止《とど》まり、希望のない生活が続き、それでも初恋の男を忘れられず、逢《あ》いに行くとすれ違い、相手は裕福《ゆうふく》な家庭の令嬢《れいじよう》と結婚しそうになり、やっぱり思い止まり、令嬢はあなたのせいだとりんこを怨《うら》み、りんこは自殺しようとするが、また思い止まり、神田《かんだ》の叔母さんの世話でラーメン屋で働き、そこに三条健治がたまたま冷し中華を食べに来て再会し、一緒《いつしよ》に死のうとするが、毒薬が手に入らず、三条健治は水泳が得意で、紐《ひも》はあっても首吊《くびつ》りは恰好《かつこう》が悪く、銃砲類《じゆうほうるい》は警察がやかましくて手に入らず、あなたは矢張《やは》り令嬢と結婚するべきですと、りんこが身を引き、三条はその気になるが、矢張り駄目《だめ》でりんこを追い掛けるが、りんこはなおも逃げ、僕《ぼく》がそれほど嫌《きら》いかと三条が言うと、矢張り好きで、それからなおごたごたしながら、最後に波瀾万丈《はらんばんじよう》の運命がどうやらまとまり、りんこと三条健治が手を取り合って強く生きようと誓ったところで「完」の字が現れると、観客の全《すべ》てが太い息を吐《は》いて満足した。
場内が明るくなると、ざわざわ人が立ち始める。
淑子の隣《となり》にいた亜と連れの男は、待ちかねたように同時に立ち上った。どこへ行くのかなと見ていると、元いた大理石の壁《かべ》の前に立って、しきりに壁の表面を覗《のぞ》いたり撫《な》でたりしている。
反対側の隣には劇場の外で淑子の後に並んでいた三人組が坐《すわ》っている。サングラスの女は眼鏡《めがね》を外してハンカチで目を拭《ふ》いている。肥った女は目を真っ赤にして、紙袋の中からフランスパンを出して食い千切《ちぎ》っている。
そのうち開幕の時間となり、ベルが鳴った。揃《そろ》いの赤いスーツを着た楽団がボックスに入り、音合わせを始めている。孔雀《くじやく》の緞帳《どんちよう》にスポットライトが当り、楽団がファンファーレを演奏し始めたとき、壁《かべ》を見ていた二人の男は駈《か》け出して来て、淑子の隣《となり》の席に舞《ま》い戻《もど》った。
「……本日は、かくも多数のご来場を頂き、関係者一同、感涙《かんるい》にむせんでおりますねい。けらけら」
と、ウエスト吉良《きら》が、マイクをかじりそうな顔で言った。でこぼこした額《ひたい》に汗《あせ》が吹き出ている。放送局から駈け付けて、間がないのだろう。
「いかがでしたか、ただ今の〈残月の曲〉は。感動でしたねい。さすが、わがりんこちゃんは……」
「お前のりんこちゃんじゃないわよっ!」
すかさず淑子が叫んだ。
ウエスト吉良は絶句し、大袈裟《おおげさ》によろけて見せた。
「そ、そりゃそうでしょうねい。改めましょ。それで、りんこちゃんの……」
「気易くりんこちゃんりんこちゃんて言わないで!」
並びにいる肥った女だ。ウエストは彼女を見付け、おいしそうなパンね。半分|頂戴《ちようだい》な。と、気をそらせた。
ファンファーレのあと、ロケットガールのラインダンスが済んで、天井《てんじよう》から「輝《かがや》け加茂|珠洲子《すずこ》大賞ショウ」の大きな文字が降りてきたところだった。文字の囲りには豆電球が点滅《てんめつ》し、ホリゾントにはオレンジ色の雲が流れている。
上手《かみて》のテーブルには大賞審査委員が並んでいる。作曲家、映画監督、作詞家、歌手、映画会社重役たちだ。淑子はほとんどの審査委員の顔を知っていた。
反対側|下手《しもて》の立ち机の前に、ウエスト吉良とエレーナ入江《いりえ》が並んでいる。ウエスト吉良はグレーの燕尾服《えんびふく》に、雪だるまみたいな蝶《ちよう》タイを結んでいる。エレーナ入江は上品なるり色のカクテルドレスだった。テーブルのスタンドマイクには紅白の大きなリボンが蝶結《ちようむす》びになっている。
ウエスト吉良は額《ひたい》の汗《あせ》を拭《ふ》いて、
「なんとはや、熱心なりんこちゃんファンが多いのには驚きましたねい。これから決定する大賞、きっと盛《も》り上るでしょうねい。どきどきしてきますねい」
「けらけらけら」
と、エレーナ入江が笑った。
「人の商売の邪魔《じやま》をしちゃいけません。では早速、大賞審査委員の皆さんの紹介をして頂きましょうかねい」
「東欧《とうおう》映画株式会社、棚田海雄《たなだうみお》さん」
と、エレーナが綺麗《きれい》な声で言った。ちょっと鼻に掛る、フランス語訛《なま》りのある言葉だった。
棚田海雄は立ち上って中央のマイクに立ち、加茂珠洲子大賞の成立について、簡単に説明した。まだ若そうだが、堂堂とした体躯《たいく》で、なかなかの好男子だった。
加茂珠洲子大賞は来年のゴールデンウイークに封切り予定の映画「珠洲子の絶唱」の主演女優を、一般公募して選出するために設けられた賞である。大賞に応募した女性四千三百一人。その中から、演技力、歌唱力、容姿に勝れた候補者十人が大会委員によって選出されている。これから、最後の大賞が、十人のうちの誰《だれ》かに決定される、と、東欧映画の棚田が説明した。
受賞者には賞状と楯《たて》、副賞に賞金が渡される。無論「珠洲子の絶唱」の主演女優の資格と栄冠も、同時に彼女のものになるわけだ。
淑子はどきどきしてきた。受賞者は、今世紀最大の幸運者に思えた。何んとしても、その最初のサインを貰《もら》わなければ、帰れないのだ。
審査委員が一人ずつ紹介される。委員のほとんどは、加茂珠洲子の死をおしみ、彼女に負けない大スターの誕生を期待すると結んだ。
「さあ、いよいよ大変なことになりますねい。おしっこ、出そうになりますねい。エレーナちゃんはどうです?」
「わたし、今、出ちゃったの」
エレーナはけろりとして言った。
ウエストはテレビカメラの方を向き、
「この人、僕《ぼく》の商売の邪魔《じやま》ばかりしている」
と、泣き顔になった。
「エントリーナンバー、二百三十一。江口みどり。東京」
エレーナは澄《す》んだ声で、出場者の名を呼んだ。
舞台《ぶたい》の正面の奥《おく》に作られたアーチのカーテンが左右に開いて、スポットライトの中に、最初の候補者が現れた。
胸の大きく開いたピンクのドレスだった。胸に二百三十一と数字が書かれている。
顔立ちはりんこに似ていた。真っすぐな長い髪《かみ》はりんこにそっくりだった。耳の形も悪くない。目がちょっと小さ過ぎるかな、と淑子は思う。口の感じはまるで違う。
二百三十一番は前奏に合わせて身体《からだ》を動かす。身振《みぶ》りはりんこの特徴《とくちよう》をよく捕えていた。やがて口を開く。八重歯がないので、淑子の採点は辛《から》くなる。容姿、六十五点。演技、九十点。
二百三十一番の唄《うた》は、四千人あまりの中から選ばれただけに、申し分なかった。高音部の声量はりんこより勝れているほどで、それが気に入らず、歌唱力は七十三点にした。
歌が終ると、ウエストが二百三十一番の傍《そば》に寄ってきた。
「いかがですねい。今日の出来は? 最高ですか?」
「……とても、あがってしまって」
二百三十一番は右手を目尻《めじり》に当てるしぐさをした。あがっているわけはない、と淑子は思う。あがっているなら、歌が終っても、りんこの演技を続けはしないだろう。ウエストも見逃《みの》がさなかった。
「それそれそれ。その形、りんこちゃんそっくりですねい。よく勉強している上に、お顔もよく似てらっしゃいますねい。身長はどの位ありますか?」
「百六十センチ」
ウエストは手に持った紙に目を移した。加茂珠洲子大賞の司会を務めるのだったら、りんこの身長ぐらい記憶しておくべきだと思う。淑子はりんこに関する全《すべ》てを空で言うことが出来る。りんこの身長百六十二センチ。体重四十七キロ。バスト八十七。ウエスト六十。ヒップ八十九……
「りんこちゃんより二センチ低い。ああ、それで、高いヒールをはいているわけですねい」
ウエストは二百三十一番のドレスをまくって見せた。
「すけベ!」
淑子の並びにいる肥った女が叫ぶ。
「おいしそうなパンね。あら、半分|頂戴《ちようだい》と言ったのに、全部食べちゃうの」
と、ウエストが声の方を向いて言った。
「ついでに、体重もうかがって、いいかしら?」
ウエストは二百三十一番の方に向きなおった。
「四十六・五キロ」
と、二百三十一番が答えた。
「りんこちゃんより〇・五キロ少ないですねい。ああ、それで、さっき楽屋で一生|懸命《けんめい》お弁当を食べていらっしゃったわけですねい」
その代り、体型はりんこと同じだった。ウエストは嘘《うそ》でしょうと言いながら、二百三十一番のお腹《なか》に触《さわ》ろうとする。二百三十一番はその手を払《はら》って後ずさりした。
「見ちゃった……」
ウエストはテレビカメラの方を向いて、呆《ほう》けた表情を作った。そして手を振《ふ》り払《はら》おうとする、二百三十一番のたった今のしぐさを真似《まね》して見せて、
「そのとき、見えちゃったの。あなたのおっぱいの上、ふたごのほくろがあった」
二百三十一番は笑っている。
「ねい。本当にほくろが付いているの?」
二百三十一番は答えない。
「これは重大事ですよ。ねい、そうじゃありません? もし、本当なら、大賞の選考に影響《えいきよう》するでしょうからねい」
ウエストは審査委員の方を向いた。審査委員のテーブルにライトが当った。
「そうですとも」
作曲家が大きな声を出した。
「ぜひそれを明らかにしてもらわないと、大いに困るわけです。これは大事件ですぞ」
ウエストは観客の拍手を求めた。
「というわけで、ねえ教えて頂戴《ちようだい》な。あのほくろは、本物?」
二百三十一番はちょっと赤くなり、小さな声で答えた。
「いいえ、あれ、眉墨《まゆずみ》で書いたものなの」
「ああ、安心した……」
ウエストは胸を叩《たた》いた。
「でも、立派な心掛けですねい。涙《なみだ》が出ますねい。おしっこが……それはどうでもいいねい。もう一度、あなたのほくろちゃん、見せて頂戴な」
ウエストはドレスの胸を開けようとする。二百三十一番は悲鳴をあげた。
「すけベ!」
と、肥った女が叫んだ。
「おいしそうなパンですね。全部食べちゃったと思ったら、もう一つあるんですねい。今度はきっと半分頂戴な」
と、ウエストが言った。
出場者は代る代る登場し、りんこの曲を一曲歌っては退場した。
淑子は一人一人を採点した。出場者はそれぞれりんこに似ていたし、唄《うた》も上手だった。だが平均して見渡すと、際立って勝れた候補者がいないことも事実だった。差は紙一重程度。審査は難渋《なんじゆう》するだろう、と淑子は思った。
出場者がほぼ出揃《でそろ》うころ、最後の方で淑子の目を引いた一人が登場した。
エントリーナンバー三千六十番。紹介された名は箱森伊津子《はこもりいつこ》。出身は埼玉《さいたま》。
最初の印象は、りんこにあまり似ていないということだった。スパンコールをきらきらさせたベージュ色のドレスは、パジャマみたいにだぶだぶして、着こなしがぎごちなく見えた。ヘアスタイルも無神経なようで、髪《かみ》の気は茶色で短く、強いパーマがかけられていた。だが、よく見ているうちに、三千六十番が、今までの出場者の中で、最もりんこに似ている一人だということが判《わか》ってきた。
前奏が始まるとき、淑子は三千六十番の容姿に、九十三点を入れることにした。
三千六十番の歌は「港を見る灯」。選曲がよくないと思った。あまり評判がなかった曲で、りんこの個性が出しにくい曲だった。
だが、三千六十番は、たいした破綻《はたん》もみせず「港を見る灯」を歌い切った。りんこの調子にならないところもある。動作もまだまだぎごちない。けれども声の質はあきれるほどりんこに似ていて、まだまだ努力次第では上手になる可能性があると思った。淑子は演技六十一点、歌唱力八十八点とした。これまで最高点を入れた一番目の出場者を抜《ぬ》いていた。
「エレーナちゃんと横顔を見て、びっくりしていたところですねい」
ウエスト吉良《きら》が出て来て言った。
「髪の形を変えようと思ったこと、ありますか?」
三千六十番は小さな声で、ありますと答えた。
「そうしたら、ぴったんこ。りんこちゃんにぴったんこ」
三千六十番は笑った。綺麗《きれい》な歯並びだった。残念ながら八重歯《やえば》がない。
「そうでしょう。ねえ先生」
ウエストは審査委員に同意を求めるように言った。
「確かに、よく似ていらっしゃいます」
と、東欧《とうおう》映画の棚田海雄が言った。
「ただ、少し勉強が足らないと思いますね。あなたは人にない素質を持っていらっしゃる。それをもっともっと磨《みが》き上げれば、きっと素晴《すば》らしいタレントになれると思います」
「身長はどの位?」
ウエストは三千六十番に訊《き》いた。
「百五十九センチ……」
「ほう、りんこちゃんより三センチも低い。そうは見えませんでしたねい。ヒールの高さは……」
ウエストは三千六十番のドレスの裾《すそ》をまくろうとする。
「すけべ!」
と、観客席から肥った女が叫んだ。
「あなたそれで、六つめのパンですね。七つ目のパン、僕《ぼく》に頂戴《ちようだい》ね」
と、ウエストが言い、裾をまくるのを断念した。
「あなたの耳、髪《かみ》に隠《かく》れていますねい。見たいなあ。駄目《だめ》ですか。それから、おっぱいちゃんも。あのパンのお客さんが恐《こわ》いから覗《のぞ》きませんけどねい。けらけら。あなたもお乳の上に、ふたごちゃんのほくろ、描いて来ましたか?」
三千六十番は笑って首を横に振《ふ》った。
淑子には、三千六十番の欠点が判《わか》ったような気がした。三千六十番の弱味は、りんこファンでないことだと思う。従って、りんこの特徴《とくちよう》をよく取れてないでいるし、りんこファンが、どういうところで喜ぶかも知らないのだ。
今まで淑子の隣《となり》で大人《おとな》しく見ていた亜愛一郎が、もぞもぞ身体《からだ》を動かした。長いこと坐《すわ》っていたので、疲《つか》れてきたのだろうか。
「おや、あなた指を怪我《けが》していますねい」
と、ウエストが三千六十番の手を見て言った。
そう言えば、右指の形が変だと思っていたが、よく見ると、食指と中指が一緒《いつしよ》に肌色《はだいろ》のバンドで巻き付けられていた。
「ええ……ちょっと」
三千六十番はちょっと手を見、すぐに下ろした。
「僕《ぼく》が噛《か》み付いたわけじゃないですねい。そんな顔で見ちゃ嫌《いや》よ」
ウエストは最後に体型を訊《き》いた。ヒップ、バスト、ウエスト、皆りんこより小ぶりだった。だが、舞台《ぶたい》での三千六十番は、大きく見えるようだ。棚田海雄の言う、人にない素質《そしつ》を持っている、と言うのはこのことなのだろう。
三千六十番はかなり多い拍手のうちに退場した。淑子は羨望《せんぼう》を感じて後姿を見送った。舞台の袖《そで》に入るところで黒い靴《くつ》が見えたが、舞台に似つかわしくないような、低い靴だった。
肩《かた》に何かが当った。隣《となり》にいる亜の上体がかしいできたのだった。顔を見ると、白目が出ている。
「どうしたの。気分でも悪いの?」
と、淑子が訊《き》いた。
「……いや、何ともありません。ただ、変てこなこと考えていただけで……」
変てこなことを考えるだけで、白目が出るものだろうか。
亜の態度に落着きがなくなった。
「エントリーナンバー。三千七百三十八番……」
と、エレーナ入江が次の候補者を呼び出した。
最後の出場者だった。一と目ではっとするほどりんこに似ていた。ただし、背が高すぎた。真っすぐな髪《かみ》は長く、りんこリンスを使っているような色だった。
亜がそわそわと立ちかかっている。隣《となり》の男に何かささやく。一緒《いつしよ》に退場する気配だ。
後の観客に気兼ねをしているのだろう。亜はへっぴり腰《ごし》のまま通路を歩き、ドアを押して見えなくなった。
三千七百三十八番の歌は、あまりうまいとは思えなかった。歌唱力は全出場者の中で一番|見劣《みおと》りがするようだった。淑子はこれで決定だと思った。大賞は間違いなく、三千六十番の箱森伊津子。すぐサインを貰《もら》わなければならない。彼女だって、感激するだろう。そして、ずっと後になっても、淑子のことを想《おも》い出すことがあるだろう。――まだ大賞も決らないうち、サインを貰いに来た子がいたわ。ええ、勿論《もちろん》わたしが一番最初にしたサインは、そのときなの。
ウエストと三千七百三十八番のやりとりが始った。彼女も胸の上にふたごのほくろを付けていて、ウエストがそれを覗《のぞ》こうとし、肥った女がすけべと怒鳴《どな》った。肥った女が十九個目のパンを食べていたところだった。
候補者全員の歌が終り、司会と審査委員が退場した。
舞台《ぶたい》は続けて歌謡ショウに移った。中里ララ、春嵐らん子などの、淑子が好きな歌手が出場するので、見逃《みのが》すわけにはゆかなかった。
歌謡ショウが終って二十分の休憩。それまでに審査会が終了する。入賞者は決定しただろうか。早くサインを貰おう。淑子は緞帳《どんちよう》が降り、客席が明るくなるのを待ち兼ねて立ち上った。肥った女は空っぽになった紙袋を押し潰《つぶ》していた。
ドアには大きな文字で「関係者以外の出入りは絶対にお断りします」と書いてあった。淑子は平気でそのドアを押して中に入った。馴《な》れていることだった。
劇場の楽屋というのは、どこでも変に汚なくて、賑《にぎ》やかで、寒寒しく、騒《さわ》がしさが入り組んだ不思議な世界だ。
ドアの向うに、しかめっ面をしたおじさんが淑子を見ていた。
「お早うございます」
と、淑子は早口で言った。
「コンテスト出場者の控室は第二|化粧室《けしようしつ》ですか?」
こんなとき劇場の固有名詞を知っていることは、大変便利だった。淑子は有名な劇場の間取りなら、だいたい知っていた。
「コンテストなら、第三化粧室」
劇場のおじさんは、それでもうさん臭《くさ》そうな顔をして教えた。
淑子は細い廊下《ろうか》を第三化粧室に急いだ。
部屋は白い荒壁《あらかべ》で、たくさんの鏡台が並んでいた。反対側の壁はロッカーになっている。
淑子は部屋を見渡した。見覚えのある出場者と、付き添いで狭《せま》い部屋《へや》はごった返していたが、箱森伊津子の姿だけが見当らなかった。
「箱森伊津子さん、いらっしゃいませんか?」
淑子は声を出してみた。だが、誰《だれ》も箱森伊津子がどこに行ったか、気にも止めていないようだった。
「手洗いかな……」
淑子は第三化粧室を出て、廊下を歩いた。
ふと、途中《とちゆう》の小室に、半分開いたドアから、亜の顔が見えた。亜に話しかけているのは、ウエスト吉良《きら》らしい。淑子はその部屋を覗《のぞ》いてみる気になった。
「――箱森伊津子さん、いらっしゃいませんか?」
部屋には四人の男がいた。亜愛一郎とその連れ。あとの二人はウエスト吉良と、棚田海雄だった。
箱森伊津子という名を聞くと、四人の顔がちょっとこわばったようだった。
「箱森伊津子さんに、どんな御用なのでしょう」
と、棚田があたりをはばかるように訊《き》いた。
「別に……どこにも見当らないものですから」
「まあ、後を閉めて、お入りなさい」
ウエストが言った。舞台でのウエストの言葉と、全く感じが違っていた。
淑子は言われたとおりにドアを閉め、出された折り畳《たた》みの椅子《いす》に腰《こし》を下ろした。
「箱森伊津子さんとは、お知り合いですか?」
棚田がそっと訊いた。
「いえ……ただ、サインが欲しかっただけなの」
「サイン――ね」
棚田がほっとしたように言った。ウエストが、にやにや笑った。
「お嬢《じよう》さん。ごらんのとおり、ここには箱森さんはいらっしゃいません。他をお探しになってください」
と、棚田が言った。
何か奇妙《きみよう》な雰囲気《ふんいき》だった。淑子は立ち上ろうとしたとき、机の上にある灰皿《はいざら》の中に、肌色《はだいろ》のバンドが丸めて捨てられているのを見付けた。
「箱森さんのバンドね」
四人は、また嶮《けわ》しい表情に戻《もど》った。
「箱森さんは、ここにいたのね。何かあったんだわ」
「何にもありません、お嬢《じよう》さん。もうすぐ、大賞の発表があります」
と、亜が言った。淑子は退かなかった。腕《うで》時計を見せて、
「まだ十八分もあります。ねえ、箱森さんに何かあったの? 教えてくれなければ帰らないわ」
「ははあ、さっき〈お前のりんこちゃんじゃないわよ〉と怒鳴《どな》っていたお嬢さんですな。この人なら、本当に帰らないかも知れません」
と、ウエストが言った。
「それに、僕《ぼく》も亜さんの話の最後が早く聞きたい。お嬢さん、僕たちの話を静かに聞いていてくれるなら、この部屋《へや》にいらっしゃってもよろしいですよ」
「ええ、静かにしているわ。でも早くしてね。箱森さんのサインを貰《もら》わなければならないから」
「お嬢さん、サインを貰うのはお好きですか?」
と、亜が訊《き》いた。
「ええ、大好きだわ。ほとんどの歌手のサインは持っているわ」
亜は妙《みよう》な表情になった。そして次に言った言葉も妙な意味だった。
「……それでは、お嬢さんなら、とっくに箱森伊津子さんのサインを持っているはずですがね」
亜はぺこりと頭を下げて、ウエスト吉良から差し出された煙草《たばこ》に火を付けてもらった。
淑子はこの男もっとスタイルに気を遣《つか》うべきだと思った。だが、静かにしているという約束なので、文句は言えない。
亜は煙草を吸って、煙にむせて、心細い咳《せき》をした。煙草の吸い方も下手《へた》な男が、何を言い出そうというのか、淑子は興味深く亜を見守った。
「――満員の劇場、三千人もの観客と、何人かの審査委員の前で、たった今実に信じられないことが起ったのです」
信じられないこと? 淑子は首を傾《かし》げた。コンテストの審査風景なら、何度も見に行ったことがある。だが、今日の加茂|珠洲子《すずこ》大賞ショウに、特別変ったことは感じられなかった。
亜は話し続ける。
「一体、今日の加茂珠洲子大賞に応募した人たちは、入賞することを唯一の目的としているのでしょう。珠洲子大賞を取り、賞金を貰《もら》い〈珠洲子の絶唱〉に主演し、スタアへの道を歩むために」
「そりゃそうです」
と、棚田が言った。
「予選の熱気は、そりゃ凄《すご》いものでしたよ。スタアになることは若い娘の夢ですからねえ。中でも少し歌に自信のある子の一念は激《はげ》しいものがあります。特に今日の候補者の十人の執念《しゆうねん》は、控室にいても息苦しくなるほどでしたね」
「僕《ぼく》は芸能界に暗いのですが、出場者の意気込みには圧倒《あつとう》されていました。出場者の全員は加茂珠洲子さんに少しでも似せるため、涙《なみだ》ぐましい努力を払《はら》っていました。背の低い人は少しでも高く見せようとして高いヒールの靴《くつ》をはき、身体《からだ》のサイズは珠洲子さんと同じ人が多かった」
「ありゃ、嘘《うそ》を吐《つ》いているんです」
と、ウエスト吉良が言った。
「あの場所で、計ることは出来ませんものね。一見して全く違う数字を口にした子もいました。ただ、身長だけは本当のようです。見て判《わか》る身長まで嘘を吐く勇気はなかったとみえます」
「身体《からだ》の動きや、唄《うた》う動作を珠洲子さんそっくりに真似《まね》るのは無論のこと、中には珠洲子さんの胸に付いていたふたごのほくろを、ちゃんと墨《すみ》で描いて来た人もいました。髪《かみ》の形を珠洲子さんのように作るのは言うまでもなく、青味がかった色に染めたとみえる人もいました」
「あれ、りんこリンスよ」
と、淑子が言った。
亜は淑子の顔を見て、なるほど、と感心した。
「出場者の全部、そうした努力を惜《お》しまない人はいませんでした。出て来る人出て来る人が珠洲子さんそのまま。僕《ぼく》はしまいには三度三度パンだけ食べさせられているような気になったものです。ところが……」
亜はごくりと喉《のど》を鳴らした。
「忘れもしません。九番目に出場した人。エントリーナンバー、三千六十。箱森伊津子さん。彼女は出場者の中でも、最も珠洲子さんに似ていたのです」
「それは確かでしたね。私の隣《となり》にいたエレーナ入江さんも、思わず小さく叫んだほどでした」
と、ウエストが言った。
「けれども、ただ似ているだけでは、少しも驚かなかったでしょう。程度の差はあるにしろ、これまで何人かのそっくりな人を見せられていましたから。僕が箱森さんを一と目見て、自分の目を疑い、天地がひっくり返るほどの驚きを感じたのは、そうです。箱森さんは一生|懸命《けんめい》、珠洲子さんに似せまいとしていたからに他なりませんでした」
「似せまい、ですって?」
棚田が頓狂《とんきよう》な声をあげた。
「最初、エントリーナンバー、三千六十番の箱森さんが紹介されて、カーテンから出場したときの印象は、あれだけ珠洲子さんに似ていたにもかかわらず、まず、似ていない、ということでした。ドレスはベージュで、スパンコールをきらきらさせてはいましたが、パジャマみたいにだぶだぶしていました。ヘアスタイルも妙《みよう》でした。髪《かみ》の毛は茶色で短く、強くパーマがかけられています。加茂珠洲子さんに似せるのに、最もふさわしくない髪の形に作られていたのです」
亜は特別|奇怪《きかい》な思考をしているわけではないことが判《わか》った。箱森伊津子を最初に見た印象は、淑子も同じだった。
「などと思っているうちに、箱森さんの歌が始まりました。曲は〈港を見る灯〉。僕はよく判りませんが、どうでしょう。あの曲はあまり珠洲子さんの個性を出しにくい曲のような気がしますが……」
「そうですね」
と、棚田が答えた。
「あまり評判にもならなかった曲でしたよ。だが、声の質はびっくりするほど加茂珠洲子に似ていた」
「棚田さんの感想はこうでした。〈あなたは人にない素質《そしつ》を持っていらっしゃる。それをもっと磨《みが》き上げれば、きっと素晴《すば》らしいタレントになれると思います〉。けれども、僕《ぼく》は少し違った見方をしていました。ウエスト吉良さんが、箱森さんの身長を訊《き》いたとき、その考えは動かしがたいものになりました」
「彼女、自分の身長を百五十九センチだと答えました。珠洲子より三センチも低い。そうは思えませんでしたね」
と、ウエストが言った。
「箱森さんが退場するとき、靴《くつ》が見えましたよ。驚くことに、箱森さんはヒールの低い靴をはいていたのです」
「そこまでは気が付かなかった。というのは、どういうことです?」
「普通の出場者なら、もし珠洲子さんより少しでも背が低かったら、高い靴をはいて出場するでしょう。ところが、彼女に限って、わざわざ低い靴をはいて現れた」
「高い靴をはくと?」
「珠洲子さんと同じ背になってしまうからでしょう」
「同じ背ではいけませんか?」
「彼女の行為は、すべてそうなのです。彼女は体型を訊かれましたが、わずかずつ、珠洲子さんのサイズよりずらして答えています。普通の出場者なら、なるべく珠洲子さんの体型に合わせて答えるでしょう。ウエストさんが言ったとおり、舞台《ぶたい》に物差しがあるわけではありません」
「そ、それは?」
棚田がかすれた声で言った。
「箱森さんは注意深く、珠洲子さんに似せまいとしていたからじゃありませんか。箱森さんは毛を茶色に染めて珠洲子さんの髪《かみ》形に似せまいとし、だぶだぶしたドレスで珠洲子さんの体型を想像させないようにし、珠洲子さんの特徴《とくちよう》が出しにくい歌を選び、ヒールの低い靴《くつ》をはいて、珠洲子さんより低く見せようとした……」
「もし、箱森さんが珠洲子に似せようと努力すると?」
棚田は恐《おそ》ろしそうな表情をした。
「僕《ぼく》たちは、加茂珠洲子さんその人を、舞台《ぶたい》の上に見出していたことになります」
「そ、そんな……」
淑子は思わず大声をあげた。
亜を除く三人が淑子を見た。大声を出しても、仕方がないという表情だった。
「すると、箱森伊津子という候補者は、実は?」
ウエストが低い声で言った。
「そうです。箱森さんのちぢれた髪《かみ》に隠《かく》された耳は、珠洲子さんと同じ特徴のある形をしていたに違いありません。だぶだぶしたドレスの奥《おく》の胸には、ちゃんと本物のふたごのほくろが並んでいたでしょう。また、舞台の上に立ったとき、うっかりとして目尻《めしり》に手を当てるなどの癖《くせ》が出ないように、右の食指と中指とを肌色《はだいろ》のバンドで強くまいて、その刺戟《しげき》で不用意に癖が現れるのを防ごうとしていたのです」
ウエストは灰皿《はいざら》の中に丸められた、肌色のバンドをつまみ上げた。
「このバンドには、そういう意味があったのですか……」
「あなたは、箱森伊津子の指をごらんになった?」
と、棚田が亜に訊《き》いた。
「ええ。箱森さんがコンテストに出場しながら、奇怪《きかい》なことに珠洲子さんに似せまいと努力している。その理由は、箱森さんが珠洲子さんそのものであると考えましたが、確証がありません。そこでわざわざ控室にやって来たわけです。僕《ぼく》は自分の考えを確かめないと、寝られなくなる癖《くせ》を持っていまして……」
「おかげで歌謡ショウひと幕見そこなったよ」
と、亜の連れが言った。
「箱森さんは控室の隅《すみ》で、指のバンドを取っているところでした。そっと見ると、案の定|怪我《けが》の様子は見えません。僕は傍《そば》に寄って〈まだ、大賞発表が残っていますよ。珠洲子さん〉と声をかけました」
「すると?」
「彼女の顔から、さあっと血の気が引き、観念したように、そっと全《すべ》てを話してくれたのです」
「それは?」
「箱森さん、いや、珠洲子さんは去年DL4号機が墜《お》ちたとき、実はあの飛行機には乗っていなかったのです。珠洲子さんは或《あ》る事情があって――それは東欧《とうおう》映画の助監督と共にいたことですが、次の便でロケ隊に合流するつもりでいた。ところが、飛行機が墜ち、先発のロケ隊は全滅《ぜんめつ》してしまいました。そして、何かの手違いから、発表された死亡者の中に、加茂珠洲子の名が出てしまった。珠洲子さんはこう言っています。その中には、何人かの珠洲子ファンが混っていて、珠洲子さんと同じ衣装を着ていた。そのことも珠洲子|遭難《そうなん》が確実とみられた一因だったと」
「なぜ、それを届けなかったのでしょう。誤報のまま、黙《だま》っていたのでしょう」
「それは、彼女と噂《うわさ》のあった助監督が原因だったと言います。彼と珠洲子さんとは、長いこと同棲《どうせい》していました。けれども、珠洲子さんの清純なイメージを毀《こわ》したくない会社では、二人の関係を強く押し隠《かく》していた。彼としては、それが大いに不満でした。一方珠洲子さんは、一向自分の人気がはっきりしない。自分の才能にも、芸能界にも見切りを付けようとしていたところです。二人の相談はすぐまとまりました。加茂珠洲子は死んだことにし、新しい自分の人生を切り開こう。――平凡《へいぼん》な人生、その言葉が、宝石のように美しく思われたと言います」
「その気持、大いに判《わか》りますな」
と、ウエストが言った。
「――こうして、二人の新しい人生が始まったのですが、皮肉なことに、珠洲子さんの死が報じられると、恐《おそ》ろしい珠洲子ブームが巻き上りました。二人の、夢にも思わないことでした。テレビでは毎日のように古いビデオが放映されています。りんこリンスが発売され、どの街角にも自分の大きなポスターが貼《は》り出されるようになりました。二人は急に世間の目が恐ろしくなったのです。明日にでも見出されるかも知れない。出来ることは、ただじっとブームが収まるのを待つばかりですが、ブームは下火になるどころか、ますます勢いを増し、おくらになっていた映画まで持ち出され〈珠洲子の絶唱〉が企画される始末になりました」
「それなのに、どうして最も危険な人前へ顔をさらす気になったのでしょう?」
と、棚田が言った。
「それは、珠洲子さんが、他人の目を欺《あざむ》く変相に自信がなかったためです」
亜は自分が悪いことでもしたように、上目使いになった。
「人間は必要に応じて、よく変相をいたしますが、これは考えているより楽な仕事じゃないと思いますね。怪人二十面相さんのような天才は別として、いざ素人《しろうと》が変相しようとしても、なかなか旨《うま》くゆかぬものでしょう。まして加茂珠洲子のように、全国の人たちに顔を知られている上に、一|生涯《しようがい》その作業を押しとおさなければならない。熱烈な珠洲子ファンに会ったら、すぐ変相を見破られてしまいそうで一歩も外に出られなかったといいます。――けれども人間は、ただ一人の人になら楽に変相することが出来るものです。僕《ぼく》にも、ウエストさんにもいます」
「僕が変相する?」
ウエストが変な顔をした。
「人間は、自分自身に変相するのなら、大変楽でしょう」
「自分自身に変相するだって?」
ウエストは口を開けた。
「人間がかばに変相するのは大変むずかしいでしょう。猿《さる》に化けるなら少しは楽かも知れない。人間の男が人間の女に変相するならもっと楽になります。男が同年輩《どうねんぱい》の男に変相するなら、大分楽です。最後に自分が自分に変相するのが、最も楽な仕事でありましょう。ということで、加茂珠洲子さんは、加茂珠洲子さんに変相することに決めたのです」
「それで、珠洲子は自分のコンテストに応募したわけですね」
ウエストの口は、まだ閉っていなかった。
「彼女は大賞を取る自信がありました。それはそうでしょう。自分より珠洲子さんに似ている人はいないはずですから。しかし、完全に珠洲子さんと同じではかえって怪《あや》しまれる。そこで、珠洲子さんは髪形《かみがた》を変えるなどの細工をして、なるべく珠洲子さんに似せまいとする注意が必要でした」
「歯並びはどうしたのです。珠洲子には特徴《とくちよう》のある八重歯《やえば》があったが」
「飛行機|遭難《そうなん》の直後、まだ珠洲子ブームが起らない前に、抜歯《ばつし》してあと差し歯にしたと言いました。でも、歯を直したぐらいの変相では、世間を欺《あざむ》く自信がありませんでした」
「ふたごのほくろは?」
「彼女が入賞してしまえば、世間の人たちはいつ彼女の胸にあるほくろを見ても何とも言わないでしょう。かえって彼女の心掛けをほめるでしょうね。入賞すれば、彼女は珠洲子に似れば似るほどいいわけです。世間の人は、この頃《ごろ》めっきり化粧《けしよう》がうまくなったと、彼女を賞讃《しようさん》するに違いありません」
「だが、君のために、彼女は一遍《ぺん》で見破られてしまった」
「申し訳ないことだと思っています」
「今、彼女、どこにいるね」
「僕《ぼく》はそれはいい考えだから、変相を続けるべきだと提案したのです。でも珠洲子さんはすっかり自信を失ってしまいました。たまたま僕の知り合いに警察官がいます。彼が勤めている場所を教えましたから、その人のところへ相談しに行っているはずです」
「彼女、入賞の結果が判《わか》らなくて、可哀相《かわいそう》ね」
と、淑子が言った。
「いや、後で知らせますよ」
と、棚田が言った。
「だが、結果なんて、もう決っているも同然だ」
「別の話になりますが、あれ、確かにサンカクガイでしょう」
と、ウエスト吉良が亜と、連れの男に言っている。
三人の目は、違う光を帯び始めていた。
「そう、サンカクガイ科のうちでも、特に珍《めずら》しいトレミーサンカクガイだと思いますね」
亜の連れはむにゃむにゃした発音で言った。興奮すると口が廻《まわ》らなくなる癖《くせ》があるらしい。ウエストは胸を張って、
「僕《ぼく》も最初あの大理石の中に見付けたときは、どきどきしましたよ」
そのとき、開演五分前のブザーが鳴った。ウエストは名残り惜《お》しそうに立ち上って、
「さあ仕事、仕事。お嬢《じよう》さんも早く席に戻《もど》った方がいいですねい。……それにしても、りんこちゃん、もっと自信を持つべきでしたねい。僕の友達には、舞台《ぶたい》に出ている僕を、まだ本当の僕だと信じない人、たくさんおりますものねい。けらけら」
と、言った。
第四話 意外な遺骸《いがい》
例年になく、紅葉が鮮《あざ》やかであった。
夏が長く、秋に入ってから、急に冷えこんだためだろう。妃護《ひご》山岳帯の緑は、目の覚めるようなモミジの赤、ナナカマドやトチの黄金色に彩《いろど》られ、岩間から噴出《ふんしゆつ》する真白な湯煙《ゆけむり》が、ひときわ色彩《しきさい》を引き立てて、豪華《ごうか》な錦織《にしきお》りを敷《し》きつめたようだ。とりわけて仙波山《せんばやま》南側の斜面《しやめん》は昼の日差しを絢爛《けんらん》と受け、壮麗《そうれい》な景観に、山に馴《な》れた桜井料二《さくらいりようじ》も、思わずオートバイを止めたほどだった。
ミフネスポーツB三五〇t、オメガという名で親しまれている単車だ。オメガはギリシャ語のオメガではない。眼鏡《めがね》のことだ。車体が眼鏡に似ているところから来ている。桜井のオメガは特に白い塗装《とそう》がされている。
桜井は紺《こん》の背広に少しくたびれたネクタイ。黒のキャラバンシューズに、ヘルメットは勿論《もちろん》白。
山にかかると、砂利道だった。空は青く澄《す》み渡り、風は一段と爽《さわ》やかだ。天気が続くので、砂煙《すなけむり》が舞《ま》いあがる。馬本《うまもと》川の渓流《けいりゆう》を越《こ》して、馬本温泉郷に入った。すぐ、強い硫黄の臭《にお》いが鼻をつく。
馬本温泉郷は、噴出湯《ふんしゆつゆ》の温度が九十八度もある高温が自慢《じまん》だが、旅館の設備と交通の便が悪い山奥《やまおく》のため、都会からの客はほとんどなく、近在の農家の湯治客が多かった。
桜井料二は北湯の前でオメガを止めた。
北湯温泉は、点在する温泉宿のうちで一番大きい。大きいといっても、木造の二階建てだ。湯煙を背にした建物は、下見の白いペンキが剥《は》げ落ち、二階の窓には滞在客の洗濯物《せんたくもの》が干されている。
宿の前に傾《かたむ》きかかった店があり、米や味噌《みそ》、缶詰《かんづめ》や酒、洗剤や肌着《はだぎ》などが、雑然と並んでいる。北湯温泉は全部|自炊《じすい》だからだ。店の前で手拭《てぬぐい》を下げた老人が雑誌をめくっている。その横で女の子が毬《まり》をついている。
桜井はヘルメットをぬいで店に入った。北湯の主人が店番をしながらカメラをいじっていた。写真にはうるさい男で、店の奥《おく》に暗室がある。北湯の音造《おとぞう》は桜井の顔を見ると、角型に禿《は》げた頭を起した。
「おや、料さん。いい天気だね」
桜井はフィルムと煙草《たばこ》を買った。フィルムはオメガのバッグに入れ、ポケットからパイプを取り出して煙草を詰《つ》めた。
「木村さんの葬式《そうしき》は盛大《せいだい》だったね」
その葬儀には桜井も参列した。死因にどこか不審な点でもないかと、桜井はそれとなく探りを入れている。だが死因は完全な脳溢血《のういつけつ》。桶谷《おけたに》医院の桶谷院長が嫌《いや》な顔をして桜井に言った。
「人間逆さにすれば、頭に血が集りますよ。どうです?」
テレビの刑事ドラマに、墓《はか》を掘り起すというのがあった。わくわくする場面だった。この土地も土葬《どそう》が習慣だから、不審な点があれば、いつでも墓を起せるのだ。
「他に変ったことはないかね、音さん」
桜井はパイプの先で頬《ほお》を押した。
「鶴田《つるた》の爺《じ》っちゃあと、婆《ば》っちゃあが来ただよ。重吉《じゆうきち》さんが大きなぴかぴかの車で乗せて来ただね」
「ふん、重吉がかね」
「重吉さんの嫁《よめ》っこ、初めて見ただが、えれえ別嬪《べつぴん》だっただ。香水さあ付けて。もっとも消毒薬みてえな臭《にお》いだったが、今東京じゃあ、あんなのが流行だべか」
鶴田重吉は桜井と同じ小学校だったが、二級上。ずる賢《がしこ》い男だった。東京で何をしているのか知れないが、いやに羽振《はぶ》りのよいところを見ると、碌《ろく》なことはしていなかろう。ついこの間、妃護《ひご》市にいる金持ちのどら息子《むすこ》たち三、四人と東南アジアを旅行して帰って来たばかりだと聞いている。あの男なら、麻薬《まやく》の密輸ぐらいやりかねない。
「重吉の奴《やつ》、東南アジアから帰って来たばかりじゃないか」
「そうだね。桶谷先生のせがれの武夫《たけお》、日比野《ひびの》さんの信光《のぶみつ》、たぬきの岩さんなんかと一緒《いつしよ》だっただ」
桶谷先生と言うのは妃護市にある医者、日比野は妃護市の市長、たぬきの岩さんとは本名が綿貫岩男《わたぬきいわお》と言う男で、この男は最近、山を売ったばかりだから、金を持っているには違いない。
「重吉の奴、いい御《ご》身分になったものだ」
「そうですな。今度の市議選には初出馬するだと」
それで市長や医者の息子を取り持ったわけか。
「都会さいると強気なもんだね。すっかり垢抜《あかぬ》けがして」
「重吉が、かい」
「嫁《よめ》っこの方だよ。あの娘《むすめ》は校長んとこの娘だよ。若《わけ》え頃《ころ》にゃ赤くって丸っけえ娘っこだっただ」
「そんなに変るものかい」
「今じゃ白くって、細え女になってるだ。新しい鉄砲《てつぽう》なんかはすに持ってね」
「鉄砲を、ね」
絵に描いたような成り上りを見るようだ。ぴかぴかの車、強い香水、新しい猟銃《りようじゆう》。海外旅行から帰ると、ふた親を体良《ていよ》く北湯に放り込んでおいて、自分たちはハンティングと洒落込《しやれこ》むつもりらしい。それにしても、重吉の奴《やつ》、正式な狩猟者《しゆりようしや》講習を受けているのだろうか。
「じゃあ、また来るだ」
桜井は急いでパイプをポケットに戻した。
「今、茶でも入れるだよ」
「そうもしていられない。俺《おれ》はこのところ、忙《いそが》しいんだ」
仙波山北|斜面《しやめん》の狩猟場が解禁になってから間もない。比較《ひかく》的豊かな猟場《りようば》で、土地の猟師《りようし》の他に、噂《うわさ》を聞いた都会のハンターの姿も見かけるようになった。
桜井が子供の頃《ころ》、山にはクマやイノシシが出没した。友達の親に猟師がいて、露天風呂《ろてんぶろ》に入っていた二メートルもあるヒグマを撃《う》ち止めたことがあった。桜井はそのヒグマを見に行って感動し、自分も大きくなったら、猟師になってクマを撃ちたいと思ったものだ。
現在、山にはそんな大物はいない。せいぜいキツネかノウサギ程度、タヌキでも見かければよい方だが、キジやヤマドリはかなりいる。土地の猟師の数は減ったが、その代り野鳥を狙《ねら》う都会のハンターが多くなった。
仙波山北斜面は、狩猟免状を持っていれば自由に出入りが出来る、いわゆる乱場で、そのためか、銃砲《じゆうほう》所持許可証を持っていなかったり、捕獲《ほかく》制限を上廻《うわまわ》る猟をしたりする不心得者の後を絶たない。市ではいずれ休猟区を設け、柵《さく》を作って入猟税《にゆうりようぜい》を取る方針だが、それまでは桜井が活躍しなければならないわけだ。
猟期は十一月から、翌年の一月一|杯《ぱい》、ほぼ三月。その期間はバイパスの交通整理や、挙動不審の男を訊問《じんもん》したりする閑《ひま》はない。山を一と廻《まわ》りすれば、きっと一人や二人の不心得者を見付けることが出来る。その方が率がよい。
桜井は北湯の前で車を廻《まわ》し、山道に戻《もど》った。人気がないのを確かめて、腕章《わんしよう》をつける。道は馬本川に沿って上る。
十分ほど走ると、湧《わ》き湯がある。湯は馬本川に流れ、板葺《いたぶ》きの脱衣所《だついじよ》など出来ていて、露天風呂《ろてんぶろ》になっている。昔、猟師《りようし》がヒグマを撃《う》ち止めた場所だが、滅多《めつた》に人が入ることはない。屋根だって朽《く》ちてなくなっているかも知れない。
桜井は露天風呂に降りる小道の近くで車を止めた。風呂を見るためではない。道の傍《そば》に古いジープが止めてあるのに気が付いたからだ。
ジープはタイヤが磨《す》り減り、あちこちにでこぼこのある、相当な古物だったが、捨てたのではない証拠に、車のシートの上にコートや弁当などが載《の》っている。
桜井はふと興味を覚えて、オートバイをジープの隣《となり》に置いて、露天風呂に降りる小道に出た。道を下ってゆくと、木の間から、遠くに人の動いているのが見える。露天風呂の方角ではない。反対側上流の方だ。釣《つり》でもしている人間があれば、釣魚税《ちようぎよぜい》を取らなければならない。
近付くと、二人の男だということが判《わか》った。けれども、釣師の服装ではない。
一人は白髪《しらが》の立派な体格の男で、形の良い口髭《くちひげ》をたくわえ、男っぽさが年齢《ねんれい》のために上品な色気に変ったというような、感じの良い紳士《しんし》だった。黒のフォックスハンターを冠《かぶ》り、クリーム色のタートルネックのセーターを無造作《むぞうさ》に着て、それがまたよく似合う。
もう一人は若い男で、こちらは体格は細いが、すっきりとした長身に、グレーの細い縞《しま》の背広。きちんとネクタイを結んでいる。ただ、ズボンの裾《すそ》を折り返して、流れの中に足を突《つ》っ込んでいる恰好《かつこう》は、服装とは大分ちぐはぐした感じだが、彫《ほ》りの深い顔立ちは、思わず息を飲むほどの気品があった。
二人は夢中になって、水の底を覗《のぞ》き込んでいる。年配の方の男が網《あみ》を持ち、若い方は顔に手を当てるようにして、網の中を見ている。網を動かしているところを見ると、魚を捕《と》っているには違いない。桜井は傍《そば》に寄って、声を掛けた。
「もしもし」
桜井の言葉が耳に入らない。何に没頭《ぼつとう》しているのだろう。
「釣魚《ちようぎよ》許可証をお持ちですか?」
若い方の男が、やっと顔をあげた。憑《つ》きものがしているような目だ。桜井の言っている言葉の意味が、まだよく判《わか》らないらしい。桜井が繰り返して言うと、ひどくあわてた素振《そぶ》りになった。
「あなたは?」
桜井は物馴《ものな》れた態度で、内ポケットから、黒い手帖《てちよう》を出して見せた。手帖には金色のマークが押されている。
「け、警察の方で?」
顔に似合わぬ声を発した。よくない事でもしているようだ。
「許可証を持っていなければ、釣魚税《ちようぎよぜい》を払《はら》って頂かなければなりませんね」
別に大声を出したわけでもないが、若い男は桜井の言葉をきっかけに腰《こし》が定まらなくなり、ふらふらと川の中にしゃがみ込もうとした。両手を高く差し上げている。手の中に見馴《みな》れぬ形をしたカメラがあった。
「おい、大丈夫か」
年配の男が急いで若い男の両腕《りよううで》を捕《とら》える。
「大丈夫です、草藤《くさふじ》先生。いきなり顔を上げたものですから、めまいがしただけです」
桜井を警官と知ってあわてたところ、いかにも怪《あや》しい男だ。
「お前が川の中でおねんねしようと構わないがな、そのフィルムを駄目《だめ》にしたら、只《ただ》じゃ済まないぞ」
草藤先生と呼ばれた年配の男は、叱《しか》るように言った。響《ひび》きのよいバスだった。
「今、釣魚税うんぬんというようなことを言われましたが――」
草藤は桜井の方に向きなおった。左手をズボンのポケットに突《つ》っ込み、ぐいと親指だけ出した気取ったポーズだったが、きざな感じはなかった。
「われわれは、ここで釣《つり》をしているわけではないのです」
「網《あみ》で魚を捕《と》っても同じことです」
「いや、われわれは魚を捕って食おうなどとしているのではないのです。ただ、魚を見ているだけです」
「魚を見て……どうするんですか」
「学会で発表します。来年北海道で、世界淡水魚|生棲比較《せいせいひかく》学会が開かれます。その資料を集めているわけです」
言われれば、魚籠《びく》なども見当らない。若い男の傍《そば》に置いてある黒い鞄《かばん》には、カメラやレンズなどの撮影機具《さつえいきぐ》がぎっしり詰《つ》め込まれてあった。
「なるほど……ここには珍《めずら》しい魚がいるわけですか」
「いますな。オオタケヘゲタウオがかなり生棲《せいせい》しています」
「オオタケ?」
「さよう。大竹博士が発見したヘゲタウオです」
ヘゲタウオとは聞かない名前だったが、学者という人間は動植物の名を、実に長い混《こ》み入った名に変えてしまう癖《くせ》のあるのを知っている。
「ところで、変ったことがあります」
「それは?」
桜井は目を輝《かがや》かせた。ついさっき、北湯の音造にも、変ったことがないかを聞いたばかりだ。
「普通、ヘゲタウオの生育に適する水温は二十度前後ですが、この川の水温は三十度を越《こ》しています」
それならどう変ろうと知ったことではない。
「そうでしょう。この土地の温泉は、高温が自慢《じまん》です」
「魚を捕《と》るわけではないのですから、釣魚税の必要はないですね」
「そういうことになります」
それでも、桜井はしばらく二人の仕事ぶりを見ていた。
草藤の態度は堂堂としている。桜井の抱《いだ》いている、学者のイメージを大きく離《はな》れ、こんな学者にならなってみたいと思うほどである。
一方、若い方の男の仕事を見ていると、初対面の印象とはかなりずれてきた。動作がぎくしゃくとして無器用そうだし、頭の回転も遅《おそ》そうだ。その上に桜井が傍《そば》にいることを意識しているらしくカメラの扱《あつか》いがぎごちない。どうも怪《あや》しいのだが、傍にいる草藤が立派なので、それ以上の訊問《じんもん》もためらわれる。
桜井はややしばし二人を見ていたが、では気を付けてと言い残して傍を離れた。
車を運転しながらぼんやり考える。世の中には、ずいぶん変ったことをして生活している人間がいるものだ。何と言ったかな、あの魚の名前は?
「待てよ」
桜井は車を止めた。手帖《てちよう》を出して書いてみる。オオタケヘゲタウオ……じっと字を見てから、今度はさかさまから読んでみる……
「やられたかな」
廻文《かいぶん》の学名など、あるわけがない。馬鹿《ばか》にされたのだ。よし、引き返してもう一度|訊問《じんもん》してみよう。それにしても、あの二人が川にいる本当の目的は、ますます判《わか》らなくなるばかりだ。
桜井がハンドルを握《にぎ》ったとき、前方の草むらに、ノイヌが群がっているのを見付けた。
ノイヌは土の中から何かを引きずり出して食い千切っているようだ。ただならぬ予感がした。
桜井はオートバイを降り、ノイヌに石を投げて威嚇《いかく》した。何|匹《びき》かが何かをくわえて逃げ去り、何匹かが歯向《はむか》う姿勢をとった。桜井は続けて石を投げ、クラクションを鳴らした。最後の一匹が逃げ去るのを見て、桜井はその場所に近寄った。
落着こうと思う心と反対に、心臓がどきどき音を立てた。自分は今、大変なことに直面している。狩猟違反《しゆりよういはん》などとは比べものにならぬ。これは、本物の、事件であった。
屍体《したい》はひときわ鮮《あざ》やかな、ヤマモミジの根元にあった。
道からかなり離《はな》れた山の斜面《しやめん》で、落ち葉が一面にかぶせられ、ノイヌが群がっていなければ、当然|見逃《みのが》していたに違いない。ノイヌに掻《か》き出されて、屍体の半分ほどが枯《か》れ葉の中に姿を現している。
屍体が尋常《じんじよう》でないことは、一目で判《わか》った。屍体は地面の上に横に寝かされ、四肢《しし》をちぢめている。枯れ葉の中から現れた上体は裸《はだか》で、皮膚《ひふ》は黒く焼けただれ、ノイヌに食い千切られたらしい腹部は赤と黒の入り混った内臓が露出《ろしゆつ》し、何ともむごたらしい様相だ。
なおも近寄って見る。皮膚《ひふ》にいくつかの穴《あな》を見付けて、桜井は興奮した。穴は何発かの弾痕《だんこん》に違いない。
初めて見る他殺屍体。そう思うと、自分でも不思議なほど、気味悪《きみわる》さや恐怖感《きようふかん》が消えていった。
皮膚を押してみる。筋肉は凝固《ぎようこ》し、硬直《こうちよく》を起している。硬直は屈筋《くつきん》に強く起って、手足をすくめた形だ。全身はまだらだが、体表に水疱《すいほう》はない。
髪《かみ》と眉《まゆ》が焼け、眼球が白濁《はくだく》している。頭部を観察しているうちに、突然記憶《とつぜんきおく》しているある顔と重なった。
「これは、綿貫岩男じゃないか!」
今まで判《わか》らなかったのは、屍体が焼けているのと、手足が凝縮《ぎようしゆく》して小柄《こがら》に見えたためだった。
綿貫岩男、通称たぬきの岩さん。親が猟師《りようし》だった。現在、綿貫は狩猟監視員《しゆりようかんしいん》の一人だ。最近三、四人の友達と海外旅行をして来たと、さっきも北湯の音造と話していたばかりだ。姉たちがいるが、他県に嫁《とつ》ぎ現在は一人暮し。昨年父が死亡したため、財産分けのため、山を売ったと聞いている。理屈《りくつ》っぽい性格だったが、人から怨《うら》まれるような男ではなかった。その岩さんが、どうしてこんな目に……
とに角、ぐずぐずしていられない。駐在《ちゆうざい》に届ける気は初めからなかった。桜井は駐在の木戸《きど》巡査が大嫌《だいきら》いだった。それよりも、北湯に戻《もど》り、電話で直接、妃護《ひご》警察署に知らせた方がよい。顔見知りで、桜井が好きな刑事がいる。
屍体《したい》の傍《そば》を離《はな》れれば、またノイヌが寄って来るかも知れないが、仕方がなかった。川にいた二人には番を頼《たの》む気がしない。若い方の男が、どうも気に入らない。それよりも、現場を細かく記録しておいた方がよさそうだった。
桜井はオメガにつけたバッグの中から、カメラを取り出した。バッグにはまだいろいろな道具が入っている。アルミの粉末や刷毛《はけ》が揃《そろ》っている指紋採取道具のケース、ルウペ、ロープ、足跡《あしあと》の型を取る石膏《せつこう》などである。
角度を変えて、何枚も屍体の写真を撮《と》る。大判のノートを拡《ひろ》げ、弾痕《だんこん》の位置、肉の損傷を精しく書き止める。最後に、燃焼を免《まぬが》れていた屍体の右|拇指《おやゆび》と食指の指紋をノートに押し印した。改めて現場を見渡す。遺留品らしいものは何一つないのを見定めて、桜井は落ち葉とイラクサを踏《ふ》んで現場を離《はな》れ、オメガにまたがった。
北湯の音造にフィルムを渡す。
「すぐ現像してもらいたいんですがね」
北湯の音造は気軽にフィルムを受け取った。
「料さん、また事件かい」
半分冷かし気味だが、ネガを見たらひっくり返るに違いない。
北湯の音造を暗室に追いやって、桜井は落着いて公衆電話の受話器を取りあげた。
那須《なす》刑事を呼び出すと、すぐ聞き覚えのある、やさしい声が聞えて来た。いつものとおり、パイプで頬《ほお》を押す癖《くせ》が出ているだろうか。
「――那須さんですね。いらっしゃってよかった。桜井です。ええ、桜井料二。御無沙汰《ごぶさた》しております。ええ、元気にやっています。今日は重大な報告のため電話をしました。仙波山北側中腹に、他殺屍体を発見しました。……いいえ、嘘《うそ》なもんですか。本当です。この目で見て来たばかりです。被害者《ひがいしや》は綿貫岩男。三十一、二|歳《さい》だと記憶《きおく》しています。御存知《ごぞんじ》でしょう。狩猟監視員《しゆりようかんしいん》の綿貫岩男です。屍体の硬直から推定しますと、死後二日は経《た》っているでしょう。死因は銃《じゆう》による内臓|破裂《はれつ》です。……いえ、銃でやられています。私見では、二連発《ダブルバレル》の散弾銃《シヨツトガン》の口径《こうけい》の大きなもの。二〇から三〇で鹿玉《しかだま》が使われたようです。なお、屍体は焼かれていました。……そうです。体表に紅斑《こうはん》や水疱《すいほう》が認められませんから、死後、石油などを掛けられて焼かれたと思います。屍体を撮影《さつえい》し、指紋《しもん》を取っておきました。……いえ、そうじゃありません。ノイヌがいたんです。ノイヌが屍体をかなり荒《あら》していました。早急な緊急《きんきゆう》配備が必要です。私はこれからすぐ戻《もど》り、現場を守ります。……ええ、北湯の前の道を二十分ばかり登ったところ。熊《くま》の湯の露天風呂《ろてんぶろ》を御存知ですね。その上です。……駐在《ちゆうざい》? 勿論《もちろん》、電話をしましたよ。出ませんでした。きっと、昼寝でもしているんでしょう……」
受話器を置くと、桜井は腕章《わんしよう》を外した。
現場に到着《とうちやく》したのは、警察よりも、駐在の方が先だった。
木戸巡査のバイクが、紅葉の間から近付いて来るのを見て、まずいかな、と思ったが覚悟は定っていた。
木戸巡査はパイプで頬《ほお》を押している桜井の気取った姿を見て、嫌《いや》な顔をして傍《そば》に寄って来た。
「なんで、俺《おれ》に教えねがった」
取って食いそうな顔で言う。
「電話はしましたよ。出ませんでした」
「嘘《うそ》を吐《つ》け」
木戸巡査は警棒をがちゃがちゃさせた。
桜井はその警棒でこづかれ、手錠《てじよう》まで掛けられたことがあった。
桜井はそのとき、バイパスで検問していたのだった。桜井はいつものように、片端《かたはし》から車を止め、ドライバーに免許証を提出させていた。堂に入った態度だった。交通課の腕章は本物より文字が綺麗《きれい》だったし、警察|手帖《てちよう》の出来工合にも絶大な自信があった。だから、木戸巡査が近寄って来たときにも、別に警戒心は起らなかった。自分の同僚が来たぐらいの気持だった。
だが、木戸巡査は桜井に一言二言口をきくと、すぐに手錠を掛けてしまった。
全く野暮《やぼ》な男だと思う。融通《ゆうずう》のきかないこちこち頭。中身を取り出して、掻《か》き廻《まわ》してやりたいほどだ。それ以来、この無趣味《むしゆみ》な巡査の頭を見るたびに、胸がむかつくのだ。
けれども、悪いことばかりではなかった。木戸巡査が捕《とら》えてくれたお蔭《かげ》で、桜井は那須刑事と知り合いになることが出来た。
那須は手錠《てじよう》を掛けられた桜井の傍《そば》を通りかかり、興味深そうに顔を見ていたが、
「警察官になりたいのかね?」
と、声を掛けた。
「なりたいです」
桜井が答えると、
「学歴は?」
と、尋ねられた。
「高校中退です」
「高校だけは出ておかないとなあ」
那須はパイプを頬《ほお》に押しつけながら考え込んだ。あとで聞くと、那須は中学出の平の刑事だった。
桜井はひどく感動した。感動のあまり、那須刑事の一挙一動が忘れられなくなった。桜井がパイプ愛用者になったのはその直後だった。
今更《いまさら》、学校に行く気はなかったが、腕《うで》には自信があった。家に戻《もど》るとすぐに手帖《てちよう》を作りなおし、今度は充分に気を付けながら巡邏《じゆんら》に出掛けた。狩猟《しゆりよう》が解禁になればその方の監視もしなければならない。手不足の折、有難いと思ってもらわなければ困る。現にこうして誰《だれ》よりも早く他殺|屍体《したい》を発見し、現場を守っているのだ。
「触《さわ》りゃしねえべな」
木戸巡査は屍体を見ている桜井に言った。
「触りゃしませんよ」
と、桜井は答えた。
「殺されたのは、いつ頃《ごろ》だと思います?」
「それはお前が心配することでねえ」
予想も出来ないに定っている。
「どんな銃《じゆう》だと思います?」
木戸巡査はそれには答えなかった。
「お前、署に余計なことを言ったそうでねえか。こういうことは、警察にまかせておけばいいことだ」
警察の車が到着《とうちやく》すると、木戸巡査の態度が固くなるのが判《わか》った。那須刑事はすぐに桜井を見付けた。
「君が発見したのだね」
「そうです。幸いノイヌは戻《もど》って来なかったようです。現場は私が発見したままになっています」
「屍体《したい》を撮影《さつえい》したと聞いたが」
「今、北湯で現像しています。もう出来上っている頃《ころ》かと思いますが」
那須はポケットからパイプを取り出して、頬《ほお》に押しつけた。桜井はちょっと赤くなって、自分のパイプをしまった。
改めて捜査官《そうさかん》の手で現場が撮影され、検証が始まる。桜井は捜査官たちの動きを一心に見続けた。
そのとき、車の音がして、砂煙《すなけむり》を巻き立ててジープが走って来た。
運転しているのは、川で魚の観察をしていた若い男で、隣《となり》に草藤が坐《すわ》っている。そしてもう一人、後の座席に意外な人物が乗っていた。赤いコートを着た、胸の大きい中年の女性だ。
ジープは警察の車の後で止った。
運転していた若い男が、桜井の顔を見ると、転がるように運転席から飛び降りて、
「刑事さん、助けて下さい」
と、悲鳴をあげた。
刑事さんと言われて、桜井は返事をためらって那須の顔を見た。那須の顔が笑っている。桜井はほっとして、若い男の顔を見た。
「どうしたんです」
「あ、あの人が……」
若い男は今しもジープから降りて来る女性の、大きな尻《しり》を指差した。
「フィルムをよこせと言ってきかないんです」
「フィルムを?」
赤いコートを着た女性は、桜井の前に立ちはだかった。
「そうなの。刑事さん、この男は、わたしのヌードを盗《ぬす》み撮《ど》りしたんだ」
「あなたは?」
「わたし、すこし下の露天風呂《ろてんぶろ》に入っていたのよ。そうしたら、近くで話し声が聞えるでしょう。見ると、この人たちが失礼にもわたしのヌードを撮っていたわ」
どうも怪《あや》しい男だと思ったら、それで意味が判《わか》った。ヘゲタウオの観察だなどと言って、その実は入浴者のヌードの盗み撮りをしていたのだ。
「君」
桜井は若い男の腕《うで》をつかんだ。男は真《ま》っ蒼《さお》になっていた。
「ち、違います。刑事さん、僕《ぼく》たちはヘゲタ……いや、ゲタヘゲ……」
出鱈目《でたらめ》な名だから思い出せないのも道理だ。
「オオタケヘゲタウオでしょう」
「そう、それを撮影《さつえい》していました」
「そのついでに、わたしのヌードも撮ったんだわ。カメラをこっちに向けていたじゃありませんか」
「それはもののはずみです。シャッターを押したわけではありません」
「どうだか判《わか》るもんですか。望遠レンズだって、ちゃんと用意しているわ。とに角、フィルムは頂きます」
「で、ですからさっきも言ったように、責任のある人の立ち会いのもとにこのフィルムを現像し、もしあなたのヌードなどが現れたら、いつでもフィルムを渡すと約束したじゃありませんか」
「こんな山奥《やまおく》に、写真屋などあるわけがないわ」
「いや、フィルムを現像してくれるところなら北湯にありますがね。御覧《ごらん》のとおり、私は仕事で忙《いそが》しい……」
さっきから、にこにこして聞いていた那須刑事が口を挟《はさ》んだ。
「いいでしょう、桜井さん。立ち会ってやりなさいよ。ここは私たちで鑑索《かんさく》を続けますから」
「でも……」
「いや、桜井さんの所見は大体当っていますよ。死因は散弾銃《シヨツトガン》による内臓|破裂《はれつ》。そのあと、屍体《したい》は焼かれて落ち葉で隠《かく》されていた。ただ、ちょっと気にかかることがありますがね……」
那須刑事の言葉を聞いていた若い男が、改めて蒼白《そうはく》になった。
「し、屍体ですって――?」
ちょうど捜査官が、下の地面を見ようとして、屍体を抱《だ》きあげたところだ。距離《きより》はあったものの、もろに屍体を見た若い男は、げっというような音を発した。
女性の方は静かだった。その代り少したつと、地響《じひびき》が聞え、桜井が振《ふ》り返ると、口から泡《あわ》を吹いてぶっ倒《たお》れていた。
女性をジープに運び込んだ桜井は那須に言った。
「ちょっと気にかかるというのは?」
「屍体は焼かれてはいるが、焦《こ》げているのは体表だけだ。ところが、屍体は固く凝縮《ぎようしゆく》している。手足を曲げ、闘士状《とうしじよう》姿勢と言うんだがね。これは身体《からだ》の奥《おく》まで火が通ったと思われる」
「と言うと?」
「屍体は焼かれる前に、よく茹《ゆ》でられたみたいだ……」
若い男の顔色が変った。桜井が、倒れるかなと思って見ていると、白目を出しただけだった。
桜井の顔を見ると、北湯の音造は店から飛び出して来た。
「――料さん、あの写真は、一体……」
「たぬきの岩さんなんだ。可哀《かわい》そうなことをしたなあ」
「だ、誰《だれ》が、どうして?」
「そりゃまだ発表の段階ではない」
「料さんは知っているだか」
「ん、まあね。それよりも、またフィルムを現像してもらいたいんだが」
「ま、また、あんなのを?」
「いや、今度のはあんな生臭《なまぐさ》くはない。ぐっと綺麗《きれい》なものかも知れない」
桜井は若い男に、フィルムを提出するように言った。
若い男はじろじろと音造の店構えを見て、
「このフィルムは重要な品です。責任のある店でないと」
と、口ごもった。
「俺《おれ》の腕《うで》を信用しねえだか」
音造は大きな声を出した。
若い男はあわてて手を振《ふ》り、
「いや、そう怒《おこ》るところをみると、技術も相当だと思います。お任せしますから、くれぐれも慎重《しんちよう》にお願いします」
と、フィルムを渡した。
「他に隠《かく》したフィルムなどないでしょうね」
女は凄《すご》い目をする。
いい匂《にお》いがすると思ったら、ジープにちょっと肱《ひじ》をついて、草藤が葉巻をくゆらせていた。
偉いものだと思う。草藤は綿貫岩男の屍体《したい》を見ても騒《さわ》ぐ様子がなかったし、女性がどうわめこうと、遠くの山を見て悠悠《ゆうゆう》と葉巻を吸っている。
自分もそうしたいところだが、とに角|那須《なす》刑事に全《すべ》てを託されている。責任は果さなければならない。
桜井は受け取ったフィルムの本数を算え、女性の見ている前で、音造の手に渡した。
「わしにまかせたら、大船に乗ったのも同じだ」
音造はどんと胸を叩《たた》いた。
音造が暗室に入ると、することもない。女性は店の中の椅子《いす》に坐《すわ》り、草藤は遠くの山を見ている。若い男は店の中を見てぶらぶらしていたが、そのうち北湯の前で小さな女の子に話し掛けている。
女の子は笑って、手に持っていた毬《まり》をつき始めた。余程|退屈《たいくつ》なのだろうか。若い男は何度も繰り返させている。女の子の歌が、切れ切れに聞えてくる。何気なく女の子の歌を聞いていた桜井は、突然《とつぜん》、脳天を打ち割られたような衝撃《しようげき》を感じ、びっくりして飛び上った。その、手毬歌《てまりうた》に、だった。
あんたがたどこさ ひごさ
ひごどこさ うまもとさ
うまもとどこさ せんばさ
せんばやまには たぬきがおってさ
それをりょうしが てっぽうでうってさ
にてさ やいてさ くってさ
ほねをなのはで ちょいとかぶせ
桜井は若い男の腕《うで》を取り、つかみかからんばかりの顔になっていた。
「君、この歌は……」
「しいっ」
男は指を口に当て、女の子が最後についていた毬《まり》をスカートの中に隠《かく》すと、ぱちぱちと手を叩《たた》いた。
「童歌《わらべうた》というものは、面白いですね」
男は呑気《のんき》な顔で言った。
「誰《だれ》がいつ作って、どういう風に拡《ひろ》がって行ったのかも判《わか》らない。それに、口から口へと伝えられるものですから、同じ唄《うた》でもその地方で歌詞が変っていることがあります。この歌も、僕《ぼく》が子供の頃《ころ》覚えた歌詞と、ちょっと違うところがある。〈ひごどこさ うまもとさ〉というところなんですが、僕は〈ひごどこさ くまもとさ〉と覚えています」
「この地方の子供は皆《みな》〈うまもとさ〉と歌っていますよ」
「そうでしたか。なるほど、ここは妃護《ひご》という土地だし、馬本温泉に仙波山。それは当然〈うまもと〉と歌われるでしょう。けれども、童歌はどれが正調で、どれが変形されたもの、などと詮索《せんさく》するのは野暮《やぼ》でしょうね。しかし……」
「ちょっと待って下さい。童歌の講義など、どうでもよろしい。君はこの手毬歌《てまりうた》と、今度の事件と……」
「勿論《もちろん》、関係があると思います。たぬきと呼ばれている男が、鉄砲《てつぽう》で撃《う》たれ、煮《に》られ、焼かれ、葉で隠《かく》されています。とても、偶然《ぐうぜん》とは考えられませんね」
「そ、そんな恐《おそ》ろしいことをした犯人というのは……」
「歌のとおりなら、猟師《りようし》でしょう」
男はあっさりと答えた。
「或《ある》いは、りょうじという名の人かも知れません」
桜井は慄然《りつぜん》とした。自分の名は料二ではないか。桜井は叫んだ。
「そんな馬鹿《ばか》な!」
「いや、僕《ぼく》はただ、歌のとおりならと言っただけです。あなたがりょうじさんだったら御免《ごめん》なさい」
「確かに……私は料二という名です。けれども――」
桜井は男の頭のてっぺんから足の爪先《つまさき》まで見直した。
「失礼ですが、あなたは本当の学者さんですか?」
「いや、草藤先生は有名な生物生態学の教授ですが、僕は学者じゃありません。ただ、雲とかゾウリムシとか貝などを撮影《さつえい》して生活をしています」
桜井は学者でさえ雲をつかむような商売だと考えていたが、そのうわ手をゆく人間がいるとは思わなかった。
「疑っていましたか。いつでも刑事さんの場合、特に疑いの目で見られることが多い」
そのくせ、自分では人を疑うことを知らないらしい。桜井をまだ刑事だと信じている。桜井は何か学者がいいものに思えてきた。
「さっき、妙《みよう》な名前の魚を言っていたじゃありませんか」
「ははあ。気が付きましたか。でも、奇態《きたい》なもので、世の中には偶然《ぐうぜん》、廻文《かいぶん》になっている名が方方にあります。植物にナベナという草がありますが、これも廻文でしょう。更《さら》に、学名になっているのでは、ナベナシナベナと呼ばれているナベナがあります。また、化学ではアルデヒドの仲間で、トヒデルアルデヒドと言うのもあります」
桜井は感心した。男は葉巻を吸っている草藤の方をちょっと見て、
「あの先生も廻文《かいぶん》なのです」
「あの先生が?」
「草藤さんの名は十作《じゆうさく》と言うんです。ほら、クサフジジフサク――見事な廻文でしょう」
桜井は呆《あ》っ気に取られて、草藤を見た。
「――それで、あなたの名も廻文なんですか?」
男はくすりと笑って、
「廻文と言えなくはありませんが、ちゃちな廻文にはなっています。姓の方は亜と言いますから」
「あ?」
「亜流の亜という字を書きます。名は愛一郎。全部つなげると、残念ですが廻文にはなりません。ウロチイイアアですから」
亜はウロチイイアアを嬉《うれ》ちいわあというように発音した。
女の子は飽《あ》きもせず毬《まり》をつきながら、歌を歌い続けている。桜井にはそれが狂《くる》った蓄音機《ちくおんき》のように思えた。
「もう止《や》めさせてもらえませんかね。気持が悪くなってきた」
歌の終りに、綿貫の屍体《したい》が目にうかぶのだ。
「ユミちゃん、有難う。もういいよ。お兄さんは全部覚えたから」
亜はポケットから外国の大きなコインを与《あた》えた。
「うれちいわあ」
女の子はそう言って駈《か》け出して行った。
「あの女の子の名がモトコでなかったのが、ちょっと残念でした」
「モトコならどうなります」
「〈子供歌歌《こどもうたうた》うモトコ〉という廻文《かいぶん》ができます」
桜井はあたりをうかがい、小声で言った。
「一体、犯人は何だって、こんな馬鹿《ばか》げたことをしたのでしょう」
「犯人にとっては、それが極めて重大なことだったからでしょう」
「その重大なことと言うのは?」
「そんなこと、判《わか》りゃしません」
桜井は時計を見た。那須刑事はまだ現場にいるだろう。この重大発見は、ぜひ自分の口から那須に教えなければならない。
「よろしいですか」
桜井は声に凄味《すごみ》を持たせて言った。
「このことは、絶対に、誰《だれ》にも喋《しやべ》ってはいけませんよ。犯人|逮捕《たいほ》の、重要な手掛りなのですから」
「も、勿論《もちろん》、こんな恐《おそ》ろしいこと、誰にも喋《しやべ》りゃしません」
亜が見掛け倒《だお》しに臆病《おくびよう》そうで、桜井は安心した。
しばらくすると、北湯の音造が、まだ濡《ぬ》れている印画紙を持って、暗室から現れた。亜の姿を見ると、飛んで来て手を差しのべる。
「あんた、プロだべ」
「そうです」
「そうだべ。でねば、こんなに見事にゃ撮《と》れねえだ。おれの気に入った奴《やつ》を一枚うんと大きくしていいべか。店に飾るだ」
「それは、困るわよ」
赤いコートの女性が立ち上って、棒焼きにされた印画紙を奪《うば》い取った。見渡してゆく目に、失望の色が現れた。
「これで、全部?」
「そうだ」
「残っていないでしょうね」
「残っちゃいねえだよ。ネガを算えるがいいよ」
女性はふんと言って写真を机の上に放り出した。そして、軽蔑《けいべつ》したような目で亜を見ると、
「あんたって、美意識というものが、ゼロなのね」
と言い残して店を出て行った。
「どうも、お手数を掛けました」
亜が桜井に言った。
「これからは、充分気を付けて下さい」
「もう、引き取ってよろしいですね」
「宿を教えておいて下さい」
「ホテルニューグランド馬本です」
馬本に一軒《いつけん》だけある、木造のビジネスホテルだった。
電話の向うで、那須刑事の顔色が変ってゆくのが目に見えるようだった。
「それは、お前の発見か?」
「そうです」
桜井はいい気持だった。交通違反者を捕《とら》えるより、よほど気が効いている。
「犯人は悪魔《あくま》のような男です」
「男ということが判《わか》るのか」
「こんな残酷《ざんこく》なことは女には出来ないでしょう」
「女の方が強い場合だってあるぞ」
桜井は赤いコートを着た女性のことを思い出した。
「話が後になりましたが、ヌード盗《ぬす》み撮《と》り事件、あの方の被告《ひこく》は無罪でした」
「それは、御苦労《ごくろう》だった」
「被告にはこれからよく気を付けるように訓告して帰しました。宿を聞いてあります。言いましょうか」
「……その必要はなさそうだな」
「とに角、また何かが判《わか》ったら連絡します」
「お前に何かが判るのか?」
「私が犯人を推理したらどうします」
「――総監賞《そうかんしよう》物だろうな」
「刑事にはなれませんか?」
「学歴がないとな。なっても詰《つま》らん」
電話を切って、桜井は決意を固めた。どうしても自分の力で犯人を突き止め、那須刑事に手柄《てがら》を渡さなければならない。
だがそれは、くたびれる仕事だった。
綿貫の知人の家を全部|廻《まわ》った。ついでに、桜井が知っている、猟銃《りようじゆう》を持っている家も全部巡訪した。訪問宅のほとんどは、桜井の癖《くせ》をよく飲み込んでいるから、協力的だった。一|杯《ぱい》出されて「料さん頑張《がんば》れ」などと激励《げきれい》も受ける。だが、綿貫岩男が、なぜ殺されたかの手掛りになるようなことを言ってくれる人間は一人もいなかった。むしろ、相手の方の好奇心が旺盛《おうせい》で、いろいろな質問を続けて桜井を帰さない。訊問《じんもん》されているのは桜井の方だ。
「これじゃ、物事があべこべだな」
気が付いたときにはあたりが暗くなっていた。
綿貫と一緒《いつしよ》に海外旅行をした三人にも会った。
鶴田重吉は応接室で、美人の細君とブランデーを舐《な》めながら散弾銃《さんだんじゆう》を磨《みが》いていた。気に触《さわ》る行動だが、聞いてみると、確固としたアリバイを持っているので落着いていられるわけだ。
「うちの人がたぬきの岩さんを殺すわけはねえべ」
と、美人の細君が言った。
日比野市長の息子《むすこ》の信光は、アリバイと銃を持っていなかった。だが銃などは秘密に手に入れることが出来ると考える。それに子供の頃《ころ》から目付きがよくない。綿貫に対しては、
「旅行中はよく酒を飲む男だった。アル中なら判《わか》るが、麻薬《まやく》中毒ではない」
と、言った。
桶谷《おけたに》医院の武夫は、ひ弱い感じだった。都会育ちの桶谷先生に似ている。旅行から帰って以来、ずっと風邪気味《かぜぎみ》で外出はしなかったと言う。麻薬密輸のことを臭《にお》わせると、
「麻薬なら、家の薬局に売るほどありますね」
と、答えた。
その結果、新しい事実は何も判《わか》らない。へとへとになって家に辿《たど》り着いて、つくづく個人の捜査の限界が思い知らされた。ただ一つ、綿貫が殺されるもっともらしい理由を考えればこうだ。綿貫は狩猟監視員《しゆりようかんしいん》で、かなり理屈《りくつ》っぽい性格だった。その男が不心得なハンターを見付けて注意したとする。綿貫のことだから、相当ねちねちと詰問《きつもん》しただろう。もし相手が悪かったら……相手がかあっとする質《たち》の男だったら、その場で銃口《じゆうこう》を綿貫に突《つ》き付けたかも知れない。
だが、後が判《わか》らない。銃殺《じゆうさつ》された綿貫は、煮た上に焼かれているのだ。なぜそんなことをされたか判らない上に、犯人は綿貫がたぬきと呼ばれていることを知っている人間だ。通りすがりのハンターとも思えない。亜の真似《まね》をして白目を出してみたが、頭がふらついただけだ。その夜はぐったりとして寝た。
翌日のテレビと新聞とラジオはこの事件で持ち切りだった。特に地方局の騒《さわ》ぎがすさまじい。いずれも童歌と殺人事件の、奇怪《きかい》な暗合を取り上げ、その意味の解明に苦しんでいるようだ。
テレビには土地在住の童話作家が、面喰《めんく》らった表情で突《つ》き付けられたマイクに向っていた。
「……そうですね。毬《まり》つき歌の〈あんたがたどこさ〉が歌われ始めるようになったのは、そう古いことじゃありませんよ。私の調べたところによると、昭和初年、全国的に流行しました。節の終りが全部〈さ〉で切れているでしょう。非常に歯切れがいい。現代的なんですね。覚えやすくてリズミカルです。当時の子供たちに人気を博しました。毬つきのルールは歌いながら毬をつく。最後の〈ちょいとかぶせ〉でスカートや袖《そで》の中に毬を隠《かく》します。毬がすっかり隠れて見えなければ成功というわけ。作者は勿論《もちろん》判りません。発祥《はつしよう》の地ですか? 歌詞からすると、肥後《ひご》の熊本《くまもと》だと思われますが、当然、ここの人たちは妃護《ひご》の馬本だと信じているでしょう。まだ他を探《さが》せば、ひごのくまもとがあるかも知れませんよ。童歌とはそういうものなのです。二番ですか? さあ……今まで聞いたことがありませんねえ」
桜井はオメガで駅まで行って、ありたけの新聞を全部買い求め、部屋《へや》中に拡《ひろ》げ、テレビをつけ放しにして考えた。
会社によって、それぞれ事件の焦点《しようてん》が少しずつ違っている。地元の新聞は無論トップ記事だ。テレビでは童歌と殺人事件の暗合に興味を持ち、新聞は綿貫が狩猟監視員《しゆりようかんしいん》だったことを重視し、綿貫が殺される直前、旅行をしていたことにも目を向けている、といった工合だ。
情報に不足はない。過多気味《かたぎみ》とも言える。だが、事件の核心《かくしん》がどこにあるかはさっぱり判《わか》らない。
那須《なす》刑事は何をしているだろうか。そう思ったら、もう一度現場に出掛ける気になった。那須によく似たテレビの事件番組の刑事がよく言っているではないか。捜査は現場|百遍《ぺん》である、と。
昨日と同じように、爽《さわ》やかに晴れた日だった。緑は深く、紅葉はますます鮮《あざ》やかに、沸泉《ふつせん》の蒸気は目にしみるほど白い。
まず北湯に寄ってみる。
北湯の音造が桜井を待ちかねていた。
「料さん、凄《すご》いでねえか。あんたの名前が新聞に載《の》っていただ」
そのうち、難事件解決の大手柄《おおてがら》として桜井の名が見出しで出るだろう。そう言いたかったところだが、思い止った。
音造は発見の様子を根掘り葉掘り聞きたがる。それは昨日で懲《こ》りているからいい加減にあしらい、怪《あや》しい人物の出入りなどを訊問《じんもん》する。
「最近で一番怪しかったのが、昨日来た学者の二人連れと、赤え女と、あんただったが」
「あんただけ余計だ」
「ほい口が滑《すべ》った。さっきも刑事にそう言ったもんでな」
「刑事が来たのかい。那須さんかい」
「違うだ。そう言や、あの刑事も怪《あや》しかっただな」
「俺《おれ》のことを聞いていただろう」
「そうだね。何しろ犯人は〈りょうし〉だって言うべ」
音造は変な目付きで桜井を見た。音造にまで疑られては世話はない。癪《しやく》な犯人である。捕《とら》えたらどうするか。
北湯を廻《まわ》り、道に出て山道を登る。しばらく車を走らすと、昨日と同じ場所に見覚えのあるジープが乗り捨てられてあった。
草藤と亜に違いない。車を降りて小道に入る。途中《とちゆう》で、熊《くま》の湯を覗《のぞ》いて見る気になった。しばらく見ていなかったし、昨日のこともあって、湯がどうなっているか、気になったからだ。
近付くと、脱衣所《だついじよ》の屋根が見える。古くはなっているが、むきだしの柱は案外まだしっかりしているようだ。
人の動く気配があった。見ると脱衣所の隅《すみ》に、女物らしい洋服が掛っている。
湯壺《ゆつぼ》の岩蔭《いわかげ》からかん高い声が響《ひび》いた。
「こっちへ来ないで!」
来ないでと言われると、余計気になる。岩蔭を覗くと、三角形の顔をした小柄《こがら》な老婦人が、タオルでしっかりと腰《こし》を押えている。
「私は……」
桜井が言おうとすると、
「知ってるわ。すけべの刑事でしょう」
「昔、ここに熊《くま》が出たんです」
「知ってるわ。この先に殺人事件があったことも」
「怖《こわ》くないんですか」
「それより、痴漢《ちかん》の方が怖いわよ。早く向うへ行って!」
どうも女心というものはよく判《わか》らない。見れば怒《おこ》るし、無視すると却《かえ》って気を悪くする。
小道を引き返す。と、出会い頭に顔色を変えた男とぶつかりそうになった。
亜だった。見ると、ズボンがずぶ濡《ぬ》れで、ただ事とは思えない。片|腕《うで》を振《ふ》り廻《まわ》して、
「ちょうどよかった。け、刑事さん、助けて下さい」
と言う。よく助けを求めたがる男だ。
「又、ヌードを撮《と》ったのですか?」
「違います。近くに病院があったら教えて下さい」
桜井は亜の濡れたズボンを見た。
「工合でも悪いんですか?」
「いや――僕《ぼく》じゃありませんよ。僕はただ川の中に坐《すわ》っただけ」
亜がカメラを持っていないときなので、草藤が助けようとしなかったのだろう。
「じゃ、草藤先生が?」
その草藤は少し蒼《あお》い顔で、腹に手を当てて木の間から出て来た。舞台《ぶたい》を歩いているような態度で、腰《こし》に手を当てたポーズも、気取っているとしか見えない。
「先生が急に腹痛になりました。病院まで先導してください」
「なに、大したことはない。ホテルの食事がひどすぎたようだ」
草藤はおほんと咳《せき》をした。
「先生に病気でもされると、僕《ぼく》が学会から怨《うら》まれます。病院に行ってください」
「では仕方がないが、なるべく美女のいる病院にしてもらいたい」
「贅沢《ぜいたく》を言っちゃいけません。馬本に病院は一|軒《けん》しかありません」
桜井がオートバイを走らすと、ジープがついて来る。桜井は車に取り付けてあるサイレンを鳴らした。万一のことを思って付けておいたのだが、実に素晴《すば》らしい音だ。
途中《とちゆう》でジープのクラクションが鳴った。桜井が車を止めると、ジープも止り、草藤が降りて来て草むらに入る。三、四分すると草藤は草むらから立ち上りジープに戻《もど》る。ジープがまたクラクションを鳴らし、桜井はサイレンを鳴らしながら走り出す。
少し行くと、またジープのクラクションが鳴り、車を止めると草藤が草むらの中に駈《か》け込む。
市街に入るまで、桜井は亜のクラクションで、五、六回車を止めなければならなかった。市街に入ると、草藤はやや落着いた様子で亜のクラクションは聞えなかった。桜井はサイレンを鳴らし続け、無論信号は無視のまま、桶谷《おけたに》医院の前に横付けにした。
草藤はさすがに憔悴《しようすい》しきってジープから降りて来て、
「この病院には手洗所は付いているだろうな」
と、蚊細《かぼそ》い声を出した。
強い消毒の臭《にお》いがする病院だった。病院と消毒薬の臭いは付きものだが、それにしても強すぎはしないか。看護婦が薬瓶《くすりびん》を倒《たお》しでもしたのだろうか。亜などは病院のドアを開けたとたん、白目を出した。
その看護婦は美人とは言えなかったが、草藤は腕《うで》を取られて診療室《しんりようしつ》に姿を消した。名を呼ばれたとき、看護婦の方にふらりとよろけたのは、明らかな草藤の芝居《しばい》だった。
「お蔭《かげ》で助かりました」
亜はほっとしたように待合室の椅子《いす》に腰《こし》を下ろした。
「昨日あんなことがあって、刑事さんもお忙《いそが》しいでしょう」
お世辞とは判《わか》っても、悪い気はしない。
「仕方がありません。皆《みな》さんのためですから」
「でも、もう、時間の問題ですね」
時間の問題? 桜井は亜の顔を見た。
「時間の問題とは、どういう意味です? そんなことは報道されていない。あなたはどうして捜査《そうさ》の方針を知っているんです?」
亜が背中を丸めた。上目遣《うわめづか》いで、
「いや、ただ、そう思ったものですから――」
「そう思う? なぜそう思ったのです。思っただけで、時間の問題などという言葉は出やしませんよ。何か根拠《こんきよ》があるのでしょう」
問い詰《つ》められると、亜はひときわ背を丸めた。桜井は煙草《たばこ》をすすめて、火をつけてやった。亜は浅く煙《けむり》を吹かして、
「……まあ、根拠と言えるかどうかは判《わか》りませんが、犯人がなぜ木の葉を綿貫さんの屍体《したい》の上にかぶせたかということを考えますと……」
「それなら、もう判っていることじゃありませんか。童歌の最後の部分〈ほねをなのはでちょいとかぶせ〉に合わせたつもりでしょう」
「それなら、なぜ犯人は、最後まで菜の葉に拘《こだわ》らなかったのでしょう」
「近くに菜の葉がなかったからでしょう」
「菜の葉はなくとも、それに代る草の葉でしたら、いくらでも生えていたはずです。それなのに、犯人はイラクサやカンアオイなどの草の葉を選ばずに木の葉を選んだのは変じゃありませんか?」
「木の葉を掻《か》き集める方が、草をむしるより面倒《めんどう》じゃなかった」
「すると犯人は物臭《ものぐさ》ですか。綿貫さんの屍体をいろいろ細工しているところは、とても物臭とは思えませんでしたが……」
桜井は腕《うで》を組んだ。確かに亜の言うことも一理ある。だが、この男、一体何を考えついたのだろう。亜は独り言のようにぼそぼそ喋《しやべ》り続けた。
「……昨日も話したと思いますが、童歌というものは、面白いものです。同じ歌でも、土地によって歌詞が違っていることがよくあります。子供が口伝えで伝えられるために、間違《まちが》いが起きたり、その土地の言葉に歌い易く改められたりするからでしょう。例えば〈一かけ二かけ〉というお手玉の歌ですがね、最後の方に〈お前は誰《だれ》かと尋《たず》ぬれば 私は九州|鹿児島《かごしま》で 切腹なされたとう様の お墓参りに参ります〉というところをある地方で〈お前は誰かと問うたれば 私は九州鹿児島の 西郷隆盛娘《さいごうたかもりむすめ》です 明治十年戦争に 討死《うちじに》なされた父さんの お墓参りをいたします〉と実に具体的に歌われているのを聞いて、びっくりしたことがあります。で、今度の〈あんたがたどこさ〉でも、僕《ぼく》が覚えた歌詞とは、ちょっと違うところがありました」
「それは昨日聞きましたよ。この土地では〈ひごどこさ うまもとさ〉と歌われているが、あなたが覚えているのは〈ひごどこさ くまもとさ〉と言うのでしたね」
「ところが、他の部分にも、それがあったのです」
「それは聞いていない」
「それを話そうとしたら、刑事さんは童歌の講義など、どうでもよいと言ったじゃありませんか」
それは言った覚えがある。しかし、あのときは、ただ手毬歌《てまりうた》と屍体《したい》の暗合でかあっとしていたのだ。
「歌詞の違うところは、最後の部分です。〈ほねをなのはで ちょいとかぶせ〉というところ。僕の記憶《きおく》では〈それをこのはで ちょいとかぶせ〉でした」
昨日亜が女の子に繰り返し歌を歌わせていた意味が判《わか》った。
「ということは……」
「犯人は最後まで忠実に〈あんたがたどこさ〉の歌詞のとおりの現場を作りあげていたのですよ。しかし、この土地で歌いつがれていた歌詞のとおりではありませんでした。自分が子供のときに覚えた〈それをこのはで ちょいとかぶせ〉という歌詞の方によったため、草の葉ではなく、木の葉で屍体を隠《かく》した……」
「すると、犯人はこの土地で育った人間ではない……」
「もうお判《わか》りですね。犯人はこの土地で育った人間ではなく、しかも綿貫さんを知っている人。銃《じゆう》を所持しているとすると、その方面からしぼってゆけば、犯人の逮捕《たいほ》は時間の問題ということになるわけです」
そのとき、診療室《しんりようしつ》のドアが開いて、桶谷《おけたに》院長が現れた。桜井と亜を見ると、真っすぐに歩いて来て、
「草藤さんの付き添《そ》いの方ですね」
と、変に険しい目付きで言った。
「そうです」
亜がふらりと立ち上がった。
「草藤さんはもっと精密な検査が必要です。患者《かんじや》を動かすことは出来ませんから――」
「それは困ります」
亜がいつになく頑《かたく》なに言った。
「困っても病状が悪いから仕方がない」
「草藤先生は単なる食当りです。薬だけ頂ければ充分です」
「素人《しろうと》が何を言うか」
「素人でも、その位は判《わか》りますよ。では言いますがね、先生。草藤先生は、絶対に、コレラやペストではないのです」
桶谷院長は棒立ちになった。こめかみに見る見る青筋がふくれ上り、顔から汗がにじみ出した。
「な、何を言うか」
「草藤先生を帰してくれないと、ここにいる刑事さんに全《すべ》てを言いますよ。そうすれば……」
桶谷院長は、床《ゆか》の上にへたへたと膝《ひざ》をついて、
「そ、それだけは、許してくれ……」
と、言った。
ホテルのロビーの一隅《いちぐう》。
「腹を下していると言ったら、いきなり直腸に器具を突《つ》っ込まれたよ。あんな診察《しんさつ》は初めてだった」
と、草藤がぼやいた。
亜は気の毒そうな顔をして草藤を見た。目に隈《くま》が出来ているが、案外元気そうだ。葉巻を持つ指にしなを作っていることで判る。
「追っ手は来やしないでしょうね」
亜がしきりに心配する。
あれから亜は草藤を救い出し、ジープに乗せて、一目散《いちもくさん》に逃げて来たのだ。
「来りゃ面白いがね。亜の腕《うで》っぷしは強いからな」
と、草藤が言った。それは何かの間違《まちが》いだろうと桜井は思う。亜の震《ふる》えは今しがた止ったばかりだ。
ロビーはがらんとしている。四つばかりの椅子《いす》に、テーブルには薄《うす》く埃《ほこり》が見えた。
「殺されたたぬきの岩さんは、東南アジアから、麻薬《まやく》などを持って来たのではなかったんですね」
と、桜井が訊いた。
亜の端麗《たんれい》な顔をよく見ていると、どんな難問題でも、たちどころに解決してみせて当然な男に見える。だが、今までの亜の行動には、まるで知性や鋭敏《えいびん》さが感じられなかったので、桜井には亜がこの事件の真相を解いていたとは夢にも考えなかった。亜を見ていると、均衡《きんこう》が取れているようないないような、妙《みよう》な気分になる。
亜は心細く咳《せき》をすると、
「しかし、綿貫さんが旅行から持ち帰ったものは、ある意味では麻薬などより恐ろしい、コレラ菌だったのです」
「あの医者がわしの症状に神経質すぎた意味が判《わか》ったよ」
と、草藤が言った。
「綿貫さんが体の変調を知って病院に来たとき、その病状に、桶谷院長がコレラだという疑いを持たなかったこと。これがそもそもの間違《まちが》いのもとになりました。だが、これは仕方のないことだったでしょう。山奥《やまおく》の田舎《いなか》の小さな町、そこにコレラが発生しようとは、桶谷院長でなくとも思わなかったに違いない。でも、航空機が発達し、誰《だれ》でも気軽に海外旅行に出掛け、東南アジアに数時間で行くことが出来る現在、そういった間違いはどんな田舎《いなか》にも発生する可能性があります」
「綿貫がコレラだと判《わか》ったときには、もう手後れだったわけですね」
「そうです。最後になって、やっと綿貫さんが東南アジアから帰って来た直後だったと知ったときには、もう手の打ちようがなくなっていたわけですね。そして、桶谷院長が同じ飛行機に、自分の息子《むすこ》の武夫と、市長の息子信光と、鶴田重吉が乗っていたことを知って、愕然《がくぜん》としたのです」
「綿貫は本当のコレラだったのかな」
と、草藤が言った。
「さあ、どうでしょうか。パラチフスや赤痢《せきり》にはコレラと同じ症状を起すものもありますしね」
「町医者が顕微鏡《けんびきよう》を使ったとしても、コレラ菌は識別できるかな。コレラ菌にはいろいろな種類があるぞ」
「けれども、桶谷院長にとって、綿貫さんがコレラの疑いがあるということだけで重大な問題だったのです。法律で定められたとおり、桶谷院長が届け出、それが、万が一にもコレラだと断定されると、どうなるでしょう」
「馬本中がひっくり返りますよ」
と、桜井が言った。
「今度の事件より、はるかに輪をかけた騒《さわ》ぎになるでしょうね。桶谷病院へは患者《かんじや》が一人も行かなくなります。綿貫と一緒《いつしよ》に旅行した他の三人も隔離《かくり》されるでしょう。日比野市長や鶴田の家が封鎖《ふうさ》されれば、目の前に迫《せま》っている市長選や市議選に敗北するのは、火を見るより明らかですね」
「桶谷はすぐこのことを市長と鶴田に知らせたわけだな」
と、草藤が言った。
「そうです。その結果は、今の桜井さんの話から想像すると、市長や鶴田さんの恐慌《きようこう》の方がはるかに大きかったでしょう。二人とも綿貫さんの病状を誰《だれ》にも知られてはならなかった。二人は桶谷院長にそのことを申し出ました」
「コレラの潜伏期《せんぷくき》は、数時間から一、二日だ」
「桶谷院長は、綿貫さんを隔離し、同行者だった他の三人の健康診断を極秘のうちに、徹底的に行う。三人の家を消毒して廻《まわ》った形跡《けいせき》もあります。同時に病院内に厳重な箝口令《かんこうれい》を敷く……」
桜井は桶谷病院の消毒薬の物凄《ものすご》さを思い出した。更に、北湯の音造が、鶴田重吉の細君の香水が消毒薬臭かったと言ったことも思い出した。あの臭《にお》いは香水ではなく消毒された自動車の臭いだったのに違いない。
「だが、その結果、三人の中に発病した人は勿論《もちろん》、身体《からだ》に異状を覚えた人も一人もいませんでした。桶谷院長は、一応これでほっとしたのです」
桜井が訪問したとき、桶谷院長の息子は旅行から帰って以来|風邪気味《かぜぎみ》で、病院から一歩も外に出てはいないと言っていた。桶谷院長としては、普段|頑丈《がんじよう》ではない自分の息子を特に警戒していたのだ。
「綿貫さんだけ、よほど悪いものを食べたのでしょうか」
と、桜井が訊《き》いた。
「というわけでもないだろう」
草藤が言う。
「コレラ菌が体内に入って発病するには、個人差があってね。同じものを食べても、全く何でもない人がいる。反対に、特に胃液酸度が低かったり、胃腸障害や下痢《げり》、アル中である人にとっては、甚《はなは》だ危険であるわけだ」
「綿貫は旅行中、よく酒を飲んだと言います」
「きっと胃腸が弱っていたんでしょう。とに角発病したのは綿貫さん一人で食い止ったことは何よりでした。それが判《わか》ったときは、綿貫さんの病状がどうすることも出来なくなっていました。この綿貫さんをどう始末するか――」
亜はことさら声を低くした。自分が悪事を企《たくら》んでいる風だ。
「コレラの疑いがある屍体《したい》は、焼却《しようきやく》しなければなりませんが、困ったことに、この土地には火葬《かそう》の習慣がありません。死人は全《すべ》て土葬《どそう》にされます。もし、医師が強く火葬を要求すれば、遺族は綿貫さんの死因に疑惑《ぎわく》の目を向けるでしょう。いっそのこと、綿貫さんを彼の家ごと焼いてしまおうか。――これも考えものです。万が一発見が早く、消火がはかどり、家の中から、生《な》ま焼けの屍体が発見されれば大変です。というわけで、桶谷院長は頭を痛めたことでしょう。そして最後に、桶谷院長はうまい考えに辿《たど》り着きました。それは綿貫さんの屍体《したい》を、百度近い沸騰泉《ふつとうせん》でよく茹《ゆ》でて、殺菌《さつきん》しようという考えでした」
「医者は屍体に対しては専門家だ。そんなことぐらい、造作《ぞうさ》なく考え付くだろう」
と、草藤が言った。
「ところで、沸騰泉の中で綿貫さんの屍体が発見されたとすると、この、極めて異常な死に方を、警察ではいろいろ考えあぐねるでしょう。そして、煮沸《しやふつ》=殺菌《さつきん》という、ごく自然な連想をする人間が出て来るかも知れない。そこまで来れば、綿貫さんの海外旅行にも考えが及ぼされるでしょう」
「つまり、手毬歌《てまりうた》と引っ掛けたのは、一種の偽装《ぎそう》であったわけだな」
「人の目を欺《あざむ》くための一つの手段として、そのものの廻《まわ》りに、いろいろな余計なものを付け加えるというのがあります。桶谷院長は、たぬき=煮るという連想から〈あんたがたどこさ〉という童歌を思い出しました。日頃《ひごろ》、この童歌に出て来る地名が、この土地の妃護《ひご》、馬本《うまもと》、仙波《せんば》という地名によく似ていることを面白く思っていたのかも知れません。いずれにしろ、桶谷院長は屍体を〈煮《に》る〉以外に〈鉄砲《てつぽう》で撃《う》つ〉〈焼く〉〈食う〉〈木の葉で隠《かく》す〉などの余計なものを付け加え、第一の目的である〈殺菌〉という行為《こうい》を目立たなくさせようと考えたわけです」
亜はちょっと意味あり気に草藤の顔を見た。
「世の中には面白い人がいて、大変に趣向《しゆこう》を偏重《へんちよう》する性格の人がいます。江戸時代の作家で、自分の作品に誰《だれ》が見ても不自然な題名を付けた人がいます。つまり、不自然でもその題名は自分が考え出した廻文《かいぶん》になっているからでして、その作家にとっては、自分の作品の完成度などより、趣向の方を大切に考えたのです」
「うちの親父《おやじ》もそうだった」
と、草藤が言った。
「赤ん坊が喋《しやべ》れたら、きっと俺《おれ》は親父の命名に反対しただろうな。俺は十作だなどという名は大嫌《だいきら》いなんだ」
「桶谷院長も同じです。自分の息子にオケタニタケオなどと命名して喜んでいる。そういう人が、一度、手毬歌《てまりうた》殺人事件の趣向に取り付かれるともう夢中になって、綿貫さんの死を待たず、自分の手で撃《う》ち殺すという気違《きちが》いじみた考えを実行に移したのです」
「俺の親父も同じ立場だったらそうしただろうな」
草藤が憮然《ぶぜん》として言った。
「あとは僕《ぼく》たちの見聞きしたとおりです。警察では桶谷院長の思惑《おもわく》どおり、綿貫さんがなぜ茹《ゆ》でられたかというより、なぜ童歌に合わされたのかと、その意味を解くことのみに懸命《けんめい》になりました」
桜井はうなずいた。
「私の名は料二ですから、一時は私にまで疑惑《ぎわく》が向けられた」
「そりゃ厳しい。同業者にまでかね」
草藤が気の毒そうな表情で言った。
「そりゃそうです。刑事には血も涙《なみだ》もあってはいけません」
桜井は電話器の方に歩きながら、本当にそうなら、刑事という仕事は何だか無味|乾燥《かんそう》なものに思えてきた。
指をしならせてダイヤルを廻《まわ》す。ダイヤルを放した桜井の右手は、無意識のうちにズボンのポケットに入り、親指をぐいと突《つ》き出させていた。
桜井はタートルネックのセーターを着て、買ったばかりのフォックスハンターをかぶり、わざと鼻下の髭《ひげ》を剃《そ》らずにいた。
そのため、那須刑事は桜井が傍《そば》に寄るまで気が付かなかった。会釈《えしやく》をして通り過ぎようとすると、那須は変な顔をして追って来た。
「おい、現場を見に来たんじゃないのか?」
桶谷院長が逮捕《たいほ》され、現場が再検証されているところだった。
「そうです」
桜井はポケットから葉巻を取り出して火をつけて、肩《かた》から下げたブリキの採集箱を叩《たた》いてみせた。
桜井は無闇《むやみ》に植物の新種を見付けたくなったのだ。それも、イラクサだけが目当てだ。その新種の名ならもう決めてある。勿論《もちろん》「サクライイラクサ」だ。
そのためには、刑事などに構っている閑《ひま》はない。
第五話 ねじれた帽子《ぼうし》
強い風に煽《あお》られて煙草《たばこ》の火がすぐに短くなる。二月には暖かすぎる風だった。天気予報によると、低気圧が近付いているらしい。
長く続く高速道路の滑《なめ》らかな路面が、紺色《こんいろ》の空を反照している。空には雲一つなく、初春を思わせる眩《まぶ》しさがあった。
乾《かわ》いた落葉が、道路の上を軽い速さで飛んで行く。その落葉を追うように、物凄《ものすご》い音をたてて、オートバイが過ぎ去った。矢鱈《やたら》にステッカーを貼《は》り、丸太みたいな太い排気筒《はいきとう》を抱《かか》えた車だった。
小さくなってゆく赤と青を塗《ぬ》り分けたヘルメットを見送りながら、大竹譲《おおたけゆずる》はふと若さを羨《うらや》ましく思った。自分の若い頃《ころ》には、高速道路をオートバイで飛ばすなどという遊びはなかったのだ。まして、交通|取締《とりしま》りが一段と厳しくなっている折だけに、一層スリルが味わえるのだろう。自分も若ければ、ああだったろうか。若い女の子だって、タンクトップのハーレムパンツといういでたちで、自動二輪などを飛ばしているではないか。
十日ばかり前、湘南《しようなん》の海岸で、暴走族のグループたちが|土曜の夜の興奮《サタデイ・ナイト・フイーバー》を演じたばかりだ。大乱闘《だいらんとう》の末、補導に当った交通警察官が、リーダーと思われる若者に殴《なぐ》り倒《たお》され、昏睡《こんすい》のまま翌日死亡するという事件があった。犯人は直後に逃亡し、現在まで逮捕《たいほ》されていない。最近にない大事件で、交通の警戒は殊更《ことさら》厳重を極めているのだ。
駐車場《ちゆうしやじよう》に止めてある大竹譲の車は尻《しり》の四角い、古いステーションワゴンだった。大竹の車の隣《となり》に、格式張った感じの四角いヘッドライトがつけられたリンカーンが坐《すわ》りこんでいる。ドアの窓ガラスの隅《すみ》にステッカーが貼《は》ってある。まな板の上にのっている黄色いリンゴの絵だった。反対側は真っ赤なフェラーリで、窓から大きなブルドッグが外を見ている。リンカーンとフェラーリの間に挟《はさ》まれて、大竹の車は余計にみすぼらしく見える。
風が強いが、車の中で待っているわけにはゆかない。大竹の連れは駐車場に戻《もど》って来て、ドライブインの数多い車でまごつくに決っているからだ。
ウイークデーだが、ちょうど昼時分で、ドライブインはちょっとした混乱が続いていた。旗やテントが風に煽《あお》られ、紙くずがベンチの横で輪になって廻《まわ》った。
ひとしきり強い風の中を、売店の中から三角形の顔をした洋装の老婦人が駈《か》けて来た。腕《うで》にホットドッグの紙袋と小銭入れを抱《かか》えている。
「タケル君。お待ち遠さま」
彼女は真っ赤なフェラーリのドアを開けると、そう言いながら運転席に坐《すわ》った。
フェラーリは快適な出足で駐車場を滑《すべ》り出し、そのまま颯爽《さつそう》として高速道路を走り去った。車の窓からブルドッグが大竹を見送っていた。
それでも大竹の連れは現れない。犬にまで馬鹿《ばか》にされたようだった。何が困るといって、人を待つぐらい馬鹿馬鹿しいことはないと思う。大竹は煙草《たばこ》を捨てると、足で踏《ふ》み消した。
食堂と売店の横は小高くなっていて、棕櫚《しゆろ》の木などが植えられ、ベンチが置かれて、ちょっとした見晴らしになっている。大竹がときどきその方向を気にするのは、連れがのんびりと景色など眺《なが》めているのではないかと思うからだ。大竹の連れは何時間でも雲を見ていて、絶対に飽《あ》きない種の人間であった。
食堂からグレーのスーツを着た男がドアを押して出て来たが、大竹の連れではなかった。食堂から出て来た男は黒いソフト帽《ぼう》をかぶっているので、一目で違うことが判《わか》る。大竹の連れは帽子《ぼうし》などかぶっていなかったし、年齢《ねんれい》もずっと若い。
帽子をかぶった男は大竹の方にゆっくりと近寄って来る。身体《からだ》は大柄《おおがら》だが、上品な感じのする中年の男だった。真新しい、仕立てのきちんとした服で、どうやら、大竹の隣《となり》にあるリンカーンの持ち主のようである。だが、服装の割には、どうも帽子の形が似合わない。黒い帽子が変にだぶだぶした感じで、野暮《やぼ》ったく深深とかぶっているのは、風に飛ばされない用心としても、ひどく不恰好《ぶかつこう》であった。
大竹は他人の観察をしている自分に気付いて、ひどく情けなくなった。いくら退屈《たいくつ》しているといっても、こんなことは近頃《ちかごろ》にないことだった。全《すべ》てが連れの、愚図《ぐず》のためだ。
ドライブインですべきことは、全部済んだ。食事も済ませたし、珈琲《コーヒー》も飲んだ。煙草《たばこ》も何本も吸ったし、予備の煙草も買った。足腰《あしこし》も動かしたし、手洗いにも行った。それなのに、連れだけがなかなか戻《もど》らない。
「あなたは、もう少し落ち着かないと、早く死んでしまいますよ」
と、いつも妻が言う。だが、落着けば落着くほど焦《じ》れったくなる性分なのだ。自分は落着いた方が、早く死んでしまうだろう。第一、人生の仕事が済んで早く死ねば幸せなことだ。仕事が済んでもぐずぐず生きているなど、思っただけで身の毛がよだつではないか。
子供の頃《ころ》からじっとしているのが嫌《きら》いで、矢鱈《やたら》に世話好きであった。昔、田舎《いなか》にかかった芝居を観に行き、あまりにも主役が立ち廻《まわ》りで手を焼いているのを見かねて、舞台《ぶたい》に駈《か》け上り、悪役の足にかじり付いて、手助けをしてやったことがあった。気短かでお節介《せつかい》な性格は年と共に嵩《こう》じるばかりで、父親はそれを苦に病みながら死んだ。ただ、葬式《そうしき》の準備手続きの一切、大竹が駈《か》け廻《まわ》ったので、このときだけは初めて母親から感謝された。
最近、歯医者が大竹の歯を診《み》てびっくりした。歯の摩滅《まめつ》状態が青年と変りないと言うのだ。だがこれは当然で、大竹は食物をもぞもぞ噛《か》んだことが一度もなかったのだ。
大竹にとって、寝ることすら苦痛だ。自分がじっと目を閉じて何時間も横になっているかと思うと、羞《はず》かしくていても立ってもいられなくなるほどだ。
大竹はこの性格を感謝している。自分が無精《ぶしよう》でなければこそ、山や川を飛び歩き、新種の植物や魚などを発見して、博士号さえ受けることが出来たのだ。妻が何を言おうと、この性質だけは変えられない。
もう一度売店の方を見る。だが、連れらしい男はまだ見えない。全《まつた》く、胃腸にも、心臓にもよくない事態だった。先週ニューヨークの学会から帰ったばかり。最も多忙《たぼう》な週を過しただけ、少しの退屈《たいくつ》にも余計に苦痛を感じるのだ。
ニューヨークで世話になったのが、ジョンカラヤカンという男で、この学者は大竹に輪を掛けた世話好きだった。カラヤカンは金属学が専門だったが、それだけでは物足らず、数学に手も出せば、考古学の研究にも耽《ふけ》るという工合だ。二人はたちまちジョン、ジョウと呼び合う仲となり、カラヤカンはホテルや食事、飛行機や車など一切の面倒《めんどう》をみた。大竹も負けてはいられない。一週間で書籍《しよせき》百冊分もの意見を交換しあった。夜になるとカラヤカンはピアノを弾《ひ》いて自作のシャンソンを唄《うた》ってくれた。大竹も背広を裏返しに着て、泥鰌《どじよう》すくいを演じ、ひたすらサービスにつとめた。
ホテルに帰っても、気が昂《たか》ぶっているので寝られない。部屋《へや》のタオルで浴槽《よくそう》を磨《みが》き、窓ガラスを拭《ふ》いた。汚《よご》れが目立ったので、ついでにシーツも洗濯してやった。朝になるとメイドが呆《あき》れて「おねしょをなさったのですか」と訊《き》かれた。
カラヤカンの部屋を覗《のぞ》いてみると、朝早いというのに、もう姿が見えない。電話で尋《たず》ねて、調理室にいるのを知った。大竹が調理室に行ってみると、カラヤカンは白い上っぱりを着て、ガス台の前に立ち、大きなしゃもじで、鍋《なべ》の中を掻《か》き廻《まわ》しているところだった。
帽子《ぼうし》をかぶった男が駐車場《ちゆうしやじよう》に向って歩いて来て、リンカーンの方に身体《からだ》を向けると、男が急に分裂《ぶんれつ》したように見えた。
人間が分裂したように見えたのは、大柄《おおがら》な男のすぐ後に、もう一人の男がついて歩いていたためだった。
大竹は新しく現れた男の顔を見てほっとした。待ちに待ちかねた男だった。
「何をのそのそ歩いているんだ」
大竹は大声を出した。
帽子の男がちらりと見たようだったが、すぐにリンカーンの横に廻った。車の中から白い手袋《てぶくろ》をした運転手がドアを開けて外に出て来た。
大竹の連れの男は叱《しか》られて足を速めた。
「済みません。風が強くて……」
傍《そば》に来て、小声で言う。
「風が強いから、他人を風|防《よ》けにして歩いていたのか」
「そうです」
「今まで、何をしていた」
「鏡の前に立ったら、ちょっとネクタイが緩《ゆる》んでいるのに気が付いたのです」
大竹は感心して連れのネクタイを見た。顔と服装だけ見ていると、滅多《めつた》に見掛けないような好男子ぶりだ。
「それで、今まで鏡の前でネクタイを結び直していたのかね?」
「ネクタイを外そうとしましたら、シャツのボタンも外れてきたのです」
裁縫までしていたのでは、いくら待っても戻《もど》らないわけだ。
大体、この男を助手にしたことが、いらいらの原因だった。更にその本因は、武者東《むしやのひがしの》小路《こうじ》という長い姓の教授にあった。
大竹は植物|図鑑《ずかん》を作るための資料集めに忙《いそが》しく、写真に堪能《たんのう》な助手が必要になっていた。そのことを、ついうっかりと武者東小路教授に喋《しやべ》ったのである。武者東小路は名の長いことと気の長いことにかけては誰《だれ》にも引けを取らない人物で、大竹はなるべく傍《そば》に寄らないことにしていたのだが、その日は相手を選べぬほど多忙《たぼう》だった。武者東小路は大竹の顔を見てにやりとし、長い顎《あご》をゆっくりと撫《な》でてから、
「それなら、うって付けの男を知っています。写真は勿論《もちろん》プロ。学歴は判《わか》りませんが、科学芸術スポーツ、神社仏閣、多方面に知識があります。腕力《わんりよく》は相当ですし、著書もあって、あれはそう、何と言いましたか、そのう……ええと……すなわち――」
「そんなことはどうでもいいですから、早く名前を教えて下さい。どうです? 忘れましたか。早く」
「名前なら、亜といいます」
「あ?」
「そうです。亜硝酸《あしようさん》アミールの亜という字を書きます」
「亜硝酸の亜ですか。アミールのアですか?」
「亜硝酸の方の亜です」
「それなら亜鉛《あえん》の亜と言う方が早いじゃありませんか」
「ごもっともです」
その時になって、武者東小路がわざとじれるように喋《しやべ》っていることが判《わか》った。だが、亜という姓は大変感動的に思った。第一覚え易く、呼び易い。長たらしくないのが甚《はなは》だいい。
「気に入った。その人を紹介して下さい」
「大竹さんなら、きっと気に入るだろうと思いましたよ。実に、世話|甲斐《がい》のある男です」
と、武者東小路は言った。
大竹は研究室を訪ねて来た亜を見て、又感心した。背が高く身なりに気品があって、顔立ちもいい。それよりも、敏捷《びんしよう》そうに見える体格が気に入った。大竹は手を大きく叩《たた》き、
「いい、なかなかよろしい」
と、大声で言った。
次の瞬間《しゆんかん》、その期待が、ことごとく粉砕《ふんさい》したのだ。大竹の大声に驚いたのか、亜は椅子《いす》のないところに腰《こし》を下ろし、床の上で尾骨《びこつ》を強く打って、動かなくなった。
よく付き合ってみると、どじなのである。不器用でもあった。「世話|甲斐《がい》のある男です」と、武者東小路が言ったが、実際には世話甲斐のありすぎる男だった。大竹は一一フィルムの心配をし、カメラのキャップに気を使い、三脚の固定を確かめた。自分で撮影《さつえい》した方が速いくらいだ。車の運転もまかせておけない。亜の方は一向に無頓着《むとんじやく》で、大竹が車の運転を続けている間、荷台の標本や道具の間で寝てばかりいた。
そのため、仕事の間は亜の世話で退屈《たいくつ》はしなかったが、帰りの途中ドライブインでいらいらさせられるとは思わなかった。今後、亜の傍《そば》は絶対に離《はな》れず、絶えず世話を焼き続けなければならない。
大竹はステーションワゴンのドアを開けた。亜は茫洋《ぼうよう》とまず空を眺《なが》め、大きく深呼吸してから身をかがめようとした。
その時だった。同じように隣《となり》に車に乗り込もうとして身をかがめた帽子《ぼうし》の男が、ちょっとふらりとよろけたように見えた。帽子が車のどこかに当ったようで、わずかに阿弥陀《あみだ》となった。
次の瞬間《しゆんかん》、一陣《いちじん》の強い風で、男の帽子はあっという間に吹き飛ばされた。男はさっと頭を押えたが、手が頭のてっぺんを押えて、何とも奇妙《きみよう》な姿になった。
大竹は思わずキイに手を掛けたまま見守っていると、男は頭に手を当てたままの形で、悪いことをしているのを見付かったかのように、こそこそとリンカーンの中に潜《もぐ》り込んだ。
隣を見ると亜がいない。振《ふ》り返ると、亜は飛んで行く帽子《ぼうし》を追い掛けているのだ。片腕《かたうで》を振り廻《まわ》し、恐《おそ》ろしく均衡《きんこう》の悪い恰好《かつこう》だが、足は物凄《ものすご》く速い。大竹は感心した。人間というものは、どこかに一つ素早《すばや》い点を持っているものだ。
亜はたちまち売店と食堂の前を通り過ぎる。だが、帽子の方もはずみが付いているので、すぐには追い付けない。やっと小高くなった見晴らし台まで転がって行くと、帽子は坂のためやや速度が遅《おそ》くなった。亜はみるみる帽子に追い付くが、今度は亜の方が止らない。
どうするかなと思って見ていると、亜は帽子の傍《そば》を駈け抜《ぬ》け、しばらく先に行ってからやっと立ち止り、向うから転って来る帽子を受け止める気でいるらしい。ところが、又、一段と風が強くなり、帽子は勢いを盛《も》り返したようで、調子を外された亜は二、三度足をばたつかせたが、最後の手段と思い定めたように、飛んで来る帽子の上に尻餅《しりもち》をついた。
その時、軽いエンジンの音が聞えた。大竹が向きなおると、帽子を飛ばされた男が乗ったリンカーンが動き出すところだ。
大竹は自分の車から飛び出した。
「待って下さい。あなたの帽子を、今、拾ってくれた人がいます」
まるで無視するかのように、リンカーンは速度を上げ、高速道路に突《つ》っ込んで行った。
大竹の言葉が聞えなかった筈《はず》はない。現に、リンカーンの窓から、大竹の方を探るような視線があるのに気付いたのだ。大竹は腹立たしく小さくなって行くリンカーンを見送った。
「全く、何て奴《やつ》だ」
昔、落した物は絶対に拾わないのを見栄にした人間がいたそうだが、あの男も帽子の一つや二つ屁《へ》とも思わないような人種なのだろうか。
大竹は見晴らし台の方を見ると、亜は帽子の持ち主がいなくなったのも知らず、尻《しり》に敷いた帽子を拾い上げて、しきりに考えている。帽子は丸い円盤《えんばん》みたいになっているようだ。亜は帽子の中に拳《こぶし》を突っ込んだり、縁《ふち》をひねったりしていたが、やがて帽子を片手に持って戻《もど》って来た。
「どの人の帽子だったでしょう?」
亜はあたりを見廻《みまわ》して言った。大竹は亜が気の毒になった。
「折角《せつかく》だが、帽子を飛ばした男なら、逃げてしまった」
「逃げた?」
亜はぽかんとして口を開けた。
「そうだ。その男は帽子を飛ばした後、こんな手つきで頭を押えていたが、こそこそと車に乗り込むと、すぐ発車してしまった」
「リンカーンには、運転手がいましたね?」
「いた。男がすぐ車を出すように命じたようだ」
「帽子は要《い》らなくなったんでしょうか」
「要れば君が拾って来るのを待っていただろうな」
「僕《ぼく》が帽子《ぼうし》を追い掛けているのに気が付かなくって、諦《あきら》めたんですかね」
「いや、俺《おれ》だって注意してやったんだ。だから言っただろう。逃げたのさ」
亜はあたりを見廻《みまわ》した。だが誰《だれ》もその帽子には関心を払《はら》っていない。
「返してやりたいですね」
「君もそう思うか。俺《おれ》もさっきからそれを考えている」
「追い掛けましょうか」
「この車じゃ、どうしようもない。相手はリンカーンだ」
大竹は亜の持っている帽子を手に取って見た。帽子は真新しかった。だが、何となく形が悪い。大竹は帽子を両手で持ち、腕《うで》を伸して、遠くの方から眺《なが》めた。
「何だか、形が崩《くず》れてしまったな」
「僕のせいじゃありませんよ」
と、亜が抗議《こうぎ》した。
「さっきから見ていたんですが、この帽子はまだ新しく、生地《きじ》も上等でしょう」
「そうだ」
「この上に腰掛けたぐらいで、簡単に形が崩れるとは思えません。僕の考えでは、わざわざこういう形に注文したのだと思います」
「つまり、頭の形が悪い持ち主なのか」
「帽子《ぼうし》を飛ばした人の頭の形はどうでした?」
「そんなに曲った頭とも思えなかったな。もっともよく見たわけじゃない。それにあの男は頭に手を当てていた」
「それに、頭の大きな人でもあるようです」
「かぶってみるか」
大竹は亜に帽子をかぶせた。帽子は亜の鼻の上まで下った。
「なるほどな。この帽子はかなり大頭でないと似合わない」
「特別な形だとすると、又、誂《あつら》えるのが厄介《やつかい》でしょうね」
「そうだ。だから返してやりたいんだ」
大竹の胸の中に、いつものお節介《せつかい》の炎《ほのお》がだんだん大きく燃え広がって行くのが判《わか》った。
「よし、届けてやろう。帽子の裏に製造元の名が入っているはずだ」
亜は帽子をぬぐと、裏をひっくり返した。
「あります。〈藤沢《ふじさわ》マルセル〉と読めます」
「藤沢というのは、土地の名だろうか。それとも人の名だろうか」
「何とも言いかねます」
「いこう、通り道だ。藤沢に着いたら、電話帳を調べてみよう」
藤沢まで一時間ばかりの道程だった。
市街に入ると、大竹はすぐ電話ボックスに入った。電話帳を見て、藤沢マルセルが判った。ダイヤルを廻《まわ》したが通じない。綺麗《きれい》な女性の声が流れ、どうやら電話料が滞《とどこお》っている感じだ。
大竹は藤沢マルセルの住所を控えて電話ボックスを出た。車に戻《もど》って地図を拡《ひろ》げ、藤沢マルセルは市街の一番外れにあるらしいことを知った。
藤沢マルセルは、古い帽子屋《ぼうしや》であった。
看板のペンキが剥《は》げ落ち、軒が傾《かたむ》いている。ショウウインドウのガラスも白く曇《くも》り、陳列《ちんれつ》されている帽子も、ただ転がしてあるという感じだ。
建て付けの悪くなったドアを押すと、それでもからんからんと鈴らしい音がした。
暗い店の奥で、背の低い老人が大きな薬缶《やかん》の湯気を、帽子の縁《ふち》に当てているところだ。眼鏡越《めがねご》しにじろりとこちらを見て、
「何じゃい」
ひどく無愛想《ぶあいそう》に言う。
「ちょっと訊《き》きたいことがあるんだけれどね」
「そうだろう。どうも帽子を買うような顔じゃねえと思った」
「こりゃ恐《おそ》れ入ったな」
「それで、どこへ行くんだ?」
「いや、道を尋《たず》ねようとしているわけじゃない」
大竹は後に立っている亜から帽子《ぼうし》を受け取って前に出した。
「この帽子はおじさんが作ったんだろう?」
帽子屋は手に持った作りかけの帽子を台の上に放り出すと、大竹の傍《そば》に寄って来た。
大竹の手から帽子を取り、ひっくり返して裏を見た。
「こんな不細工な物、俺《おれ》が作ったんじゃねえ。作りたくとも、こんな下手《へた》にゃ出来ねえ」
「でも、裏にこの店のマークがあるじゃないか」
「俺の弟子《でし》に作らせた」
「そのお弟子さんは?」
「辛抱《しんぼう》のねえ若造だった。一と月前に暇をくれと言うから、そのとおりにしてやった」
「だが、この帽子を作った店が判《わか》ってよかった」
「よくはねえ。こんな出来損いを藤沢マルセルと思われちゃ承知出来ねえ。俺《おれ》はシャンゼリゼーのマルセルで十五年|叩《たた》き上げたんだ」
帽子屋は手にした帽子を、今にもくちゃくちゃにして屑籠《くずかご》にでも放り込みそうだった。大竹は子供から玩具《おもちや》を取り上げるように、帽子屋の手からそっと帽子を取り上げた。
「実は、この帽子はさっき風で吹き飛ばされたのを、たまたま拾ったものなんだ。それで、この帽子《ぼうし》を持ち主に返してやりたいんだが、持ち主の名は判るかね?」
「お前さんも、ずい分|酔狂《すいきよう》な人だね。だが、駄目《だめ》だ。その客の名前など判らねえもの」
「この帽子は客が誂《あつら》えて、お弟子さんに作らせたんだろう」
「あいつにゃ、まだ客の誂えが作れる腕《うで》なんかにはなっていねえ」
「すると?」
「奴《やつ》が遊び半分に作った出来損いだ」
「でも、この帽子は売れたんだろう?」
「売れた……あれは売れた内に入るかなあ? まあ、この帽子は盗《ぬす》まれたんだ。もっとも金は受け取っている。普通の五倍もの金をね。だが、俺はこんな帽子を売った気は全くないのさ」
「そのところを、もう少し精しく話してくれないか」
「全く、この帽子を持って行った客は、気狂《きちげ》えだった」
と、帽子屋が言った。
「気狂い?」
「そうさ。一週間前になるかなあ。ふらりと店に入ったのがあいつだった。いい身なりをしていたが、店に入るやいなや、目の前に転がっていた帽子を指差して、これをくれと言うなり値段を訊《き》くんだ。これは売り物ではありません、第一、大きさも合わないでしょうと説明する閑《ひま》もなく、なおしつっこく値段を訊くから、こっちも意地だね。この店にゃ、あんたに売るようなシャポウは一つもねえと言うと、奴《やつ》はいきなり札を放り出し、帽子を持って逃げ出したんだ。すぐ後を追ったんだが、ぴかぴかのリンカーンが外で待っていて、奴を乗せるとすぐに走り出しやがった。あんな帽子の買い方をする奴には、生れて初めてお目に掛ったよ。いい身なりをしていたが、あんな客は、俺《おれ》の客とは言えねえね」
「バックナンバーを覚えているかい?」
「駄目《だめ》だ。俺ぁ目が悪い。それに、逃げたといっても金は置いて行ったんだ」
「今まで、全然来たことのない客だったんだね」
「この土地の者でもねえね。俺はここに五十年も住んでいるが、つい見たことのねえ顔だ。俺の言うことを聞かねえから風で飛ばされたんだ。俺が作った帽子なら、きっちりと頭に馴染《なじ》んで、どんな風が吹こうと、びくともするもんじゃねえんだ。だから見ねえ。このぐれえの風に帽子を飛ばされやがって」
「そりゃ、困った」
「困るもんか。わざわざ届けてやることなどあるものか。お前さんも、いらぬ世話を焼かねえ方がいい」
大竹は顔をしかめた。続けざまに酔狂《すいきよう》だの世話焼きだのと言われたので、本当の世話焼きがどんなものか、この帽子屋に見せてやりたくなった。
「そう、俺《おれ》は世話焼きだ。この帽子《ぼうし》はどんなことをしてでも、必ず持ち主のところへ返してみせる。ついでだから言うがね、ショウウインドウは店の顔だぜ。毎朝拭《ふ》いた方がいいぜ」
「わしゃ、毎朝自分の顔も洗わねえ主義だ。そんなことを口で言う閑《ひま》に、実行して見せたらどうだい」
「よし、俺も世話好きだ。雑巾《ぞうきん》とバケツを出せ」
行きがかり上、仕方がない。とうとうショウウインドウを洗う破目になった。大竹は迷惑《めいわく》そうな顔をしている亜をせき立てて、たちまちガラスをぴかぴかに磨《みが》きあげた。
「どうだ。さっぱりとして、いい気分だろう」
と、大竹はショウウインドウを見ながら言った。
「看板の字が剥《は》げているのも気にならねえかね?」
と、帽子屋が言った。
亜は車の中で、しきりに帽子をひねくり廻《まわ》していた。
「先生、どうしましょう」
「困ったな。そんな物、もうどうにもならん」
「つばを取れば、植木鉢になります」
「つばはどうする」
「子供のスカートになります」
「なるものか。ばらばらにしないで、何とか返してやりたいな」
「そうですね。このままだと、ショウウインドウを洗ったのが、無駄働《むだばたら》きになりそうです」
「……そうだ。帽子《ぼうし》の裏を見ろ」
「マークなら、さっき確かめました」
「そうじゃない。内側に皮の縁取《ふちど》りがあるだろう。その間に切符とか、小さなメモなどを挟《はさ》んでおく習慣の人がいるものだ」
亜はなるほどという顔で、皮の縁取りの間を拡《ひろ》げて覗《のぞ》いていたが、すぐ歓声をあげた。
「ありました。こりゃ先生、素晴《すば》らしいですよ。病院の診察券《しんさつけん》と、デパートのレシートが見付かりました」
「ほう……じゃ、持ち主の名前も判《わか》るだろう」
「判ります。三井亀夫《みついかめお》、五十|歳《さい》としてあります。診察券の日付は二月十日になっています」
「一週間ばかり前だ。まだ通院している可能性があるな」
「診察券がなくては困るでしょう」
「そんなには困らないが、あるに越《こ》したことはない。届けてやろう。病院はどこだ?」
「東京の葛飾《かつしか》です」
「うん、ちょっと遠いな」
「皮膚科《ひふか》、泌尿器科《ひにようきか》、性病科。辰巳《たつみ》病院という病院です」
「性病科――ね」
「この人は健康保険には加入していないようです。医料自己負担のところに丸印が付いているので判《わか》ります」
「そんなことはどうでもいいが。――レシートはどこのデパートのだ?」
「東京の〈金銀銅〉です」
「それなら都心だ。では、デパートに寄ってみよう」
都心に入ると道路はいつものように混《こ》みだした。大竹が運転する隣《となり》で、亜は帽子《ぼうし》を膝《ひざ》に置いて、とろとろしているようだ。全く人生の損得などは、どこでどうなっているものやら、さっぱり判《わか》らない。
金銀銅の前に着いて亜を起すと、亜は目をこすりながら高層のビルを見上げて、
「このデパートの窓ガラスは、相当|磨《みが》きでがありそうです」
と、がっかりしたような声を出した。
受付でレシートは玩具《おもちや》売場で発行されたものだということが判った。すぐ教えられた階へエレベーターで登った。
亜の姿を見付けて、飛び抜《ぬ》けて美人の女店員が近付いて来た。
「いらっしゃいませ。何をお求めでいらっしゃいますか?」
「この男が玩具を買うように見えるかね?」
と、大竹が言った。
「見えますわ。お客様、夢がおありのようですもの」
亜はおほんと気取った咳《せき》をした。
「実は買物じゃないのです。ちょっとお尋《たず》ねしたいことがあるんですが」
「はい、わたしで判ることなら、何でもお訊《き》き下さいませ」
亜は少しぽっとしている女店員にレシートを見せた。
「このレシートのお客さんを、もしかして覚えていませんか?」
女店員はじっとレシートを見ていたが、
「偶然《ぐうぜん》ですわ。わたしがこのお客様のお相手をいたしました。一週間前になりますわ」
「帽子《ぼうし》をかぶった、大柄《おおがら》な中年の男性ですね?」
「はい。お名前も存じ上げております」
「三井亀夫といいませんでしたか?」
「いいえ。あの方は、千賀井鶴彦《ちがいつるひこ》様でいらっしゃいました」
三井亀夫に、千賀井鶴彦――大竹はその名をどこかで聞いたことがあった。女店員は不審そうな亜の顔をじっと見て、
「間違《まちが》いはありませんわ。千賀井物産の会長、千賀井鶴彦様に」
亜と大竹は口を揃《そろ》えて、あっと言った。
あっと言うのも無理はない。千賀井鶴彦とは、財閥《ざいばつ》千賀井グループの会長で、巨億《きよおく》の資産を有している男だ。
「あの……君はどうしてそれを?」
「わたし、少々株式に興味を持っていますの。それで経済誌などをよく読みますわ。千賀井物産の業績はこのところ良好のようですね。千賀井様のお写真はいろいろな本で見て存じておりますから、お忍《しの》びでいらっしゃいましても、すぐ千賀井様ということが判《わか》りました」
「お忍びというと、ただ一人で?」
「はい、帽子を深くかぶって、サングラスを掛けていらっしゃいましたが」
「それで、彼の買物というのは?」
「そこにございます」
女店員は陳列棚《ちんれつだな》を指差した。大きくて豪華《ごうか》なファッション人形が置いてあった。
「今、流行しているお人形ですわ。人形の髪《かみ》がいろいろな色に着け替えることが出来ますの。お一ついかがでしょう。お子様が喜びますわ」
「いや、僕《ぼく》には女の子供はいない」
大竹はあわてて言った。
「僕は財界のことに暗いんだが、その、千賀井には女の子でもいるのかな」
「いいえ。お子様は一人きりです。確か十七歳になったばかりのお坊《ぼ》っちゃまですわ」
「孫は?」
「御子息様はまだ独身です」
「じゃあ、あの人形は、誰《だれ》かへの贈《おく》り物だろうか?」
「いいえ。贈り物なら、値札を剥《はが》すように注意するはずです。反対に、わたしが値札を剥そうとしましたら、そのままでいいから、早くするように、とおっしゃいました」
「ううむ……」
「きっと、気まぐれのお買い物なのですわ。お金持ちもああなりますと、かえって御《ご》不自由でしょうね」
と、女店員は言うが、人形だけならそれも考えられないことはない。しかし、帽子の一件と考え合せると、どうも怪《あや》しい。
「いや。忙《いそが》しいところ、いろいろ有難う。君はなかなかしっかりしているね。きっと僕《ぼく》がお婿《むこ》さんの世話をしてやろう」
「ぜひお願いしますわ」
「どんな相手がいいかね。お金持ちかい」
女店員は亜の横顔をちらちら見ながら、
「お金だけでは詰《つま》りませんわ。愛情が深くて、やさしく、夢があって、背が高く……おやいらっしゃいませ」
女店員は他の買物客の方に向いてしまった。大竹が亜の方を見ると、亜は白目を出していた。
デパートを出るとき、大竹は亜に、
「あんな顔をするから、見ろ。美人で金を持っていそうな女の子に横を向かれてしまったじゃないか」
と、叱《しか》った。
「今度は辰巳《たつみ》医院ですか?」
大竹が地図を見ていると、傍《そば》で亜が言った。
「そうだ。乗りかかった舟だ。とことん迄《まで》後を追おう」
「でも、帽子《ぼうし》の持ち主なら判《わか》ったじゃありませんか。帽子は千賀井物産の受付に預ければいいでしょう」
「それはそうだ。だが、すこぶる怪《あや》しいと思わないか。千賀井は女の子などいないのに贅沢《ぜいたく》な人形など買っている。病院の診察券《しんさつけん》も偽名《ぎめい》だった。当然、保険証が使えないわけだ。大体、千賀井ともなれば、お抱《かか》えの主治医だって何人いてもおかしくはない。それなのに、なぜ偽名まで使って別の病院に出掛けなけりゃならないのだ」
「きっと、人に知られたくない病気に罹《かか》ったのかもしれません」
「藤沢の帽子屋にしてもそうだ。千賀井なら、帽子が欲しければ高級な帽子屋を呼び寄せることが出来る。人形が買いたかったら、電話一本で済むことだ」
「病院へ行ったり、人形を買うことを、他人に知られたくなかったのでしょう」
「それはどういうことだ?」
「知りません。ただ、千賀井の身の上に、あまり良くないことが起ったような気がしますね」
「千賀井は今の鶴彦で何代目だ?」
「さあ。僕《ぼく》もお金に関することは暗いんですが、江戸時代から続いて来た豪商《ごうしよう》でしょう。今の会長は極《ご》く大人しい若様で、世間の風に当らずに大きくなった、大変|希《まれ》に見る幸せな人だという記事を読んだことがあります」
「それなら俺《おれ》も知っている。御殿《ごてん》のような家で、何不自由なく育ったんだ。昔と違い、今は便利な物が沢山《たくさん》あるから、昔の大名よりも贅沢《ぜいたく》な暮しだという人もいる。音楽や美術にも明るい、結構な趣味人《しゆみじん》だ」
「羨《うらや》ましい限りです」
「そうかな。だが退屈《たいくつ》だろう」
「僕は三十五ミリの映画|撮影機《さつえいき》が欲しいんです」
「それで雲を撮《と》るのか」
「風でも撮れます」
車はごたごたした狭《せま》い町に入った。
「今度の辰巳《たつみ》医院というのは、どうも藤沢マルセルに似た家のように思うな」
大竹の予想は当った。探し当てた病院は、商店街の裏通りにある汚《よご》れた個人病院であった。
陽《ひ》がかなり傾《かたむ》いて、強い風は収ったが、急に気温が下り始めたようだ。
大竹は車から出ると、辰巳医院の外景を見渡した。建物は藤沢マルセルのように傾いたりはしていなかったが、古く汚《よご》れていることは同じだった。
「植木に水をやっていないようだな」
玄関の横に植えられている何株かのつつじの葉が、茶色になっていた。
「窓ガラスも汚れています」
と、亜が心細い声で言った。
ドアを押すと、病院独得の消毒の臭《にお》いがした。薄暗《うすぐら》い電灯に待合室が見える。首に厚い襟巻《えりまき》を巻いた年寄りが、赤いガスストーブの傍《そば》で、伺《うかが》うように二人を見た。
スリッパで歩くと、木の床がぎしぎしと音を立てた。
ちょうど、診察室《しんさつしつ》から唇紅《くちべに》を真っ赤に塗《ぬ》った看護婦が、待合室の患者《かんじや》を呼びに来たところだった。のろのろと年寄りが診察室に入る間、看護婦は胡散臭《うさんくさ》そうな顔で二人を見た。
「ちょっと、お尋《たず》ねしたいことがあります」
と、大竹が前に出た。
「そうでしょうね。病人らしい顔には見えないものね。保険? それとも、新聞屋?」
看護婦はマニキュアをした指を、開けたり閉じたりした。
「いや、実はこの病院で発行された診察券を、たまたま出先で拾ったのです。患者さんが困るだろうと思って、届けに来たわけです」
「この近くで拾ったの?」
「いえ。拾ったのは湯河原《ゆがわら》の近くでした」
「湯河原から……あなたたち、ずい分|酔狂《すいきよう》ねえ」
看護婦は歯を出して笑った。口の中に、何本も金歯が光って見えた。
「本当はお節介《せつかい》でもあるわけです」
大竹はポケットから診察券を取り出した。
「三井|亀夫《かめお》という人のです」
「三井さん……。確かにうちの患者さんよ。お預りしておきましょう」
看護婦は診察券を受け取ると、老人の後から診察室に入ろうとした。
「ちょっと……」
大竹が呼び止めた。
「まだ、何か用があるの?」
看護婦は自分だけ待合室に出て、後のドアを閉めた。
「……三井さんという人は、かかりつけの患者さんですか?」
「違うわね。今度が初めてだった」
「なるほど……」
「もういいでしょう。親切だったけれど、現金じゃないんだから、お礼のことは考えないのよ」
「勿論《もちろん》、そんなことは思ってもみません。ただ、先生にちょっと……」
「それなら、今診察中ですから、少し待っていなさい」
看護婦はそういうと診療室《しんりようしつ》に入って行った。
「医者に、何を訊《き》くんですか?」
と、亜が訊いた。
「千賀井鶴彦がどんな病気に罹《かか》っているのか、訊いてみようと思う」
「医者には、患者《かんじや》の秘密を守る義務がありますよ。この医者が、たやすく千賀井の病気を教えてくれると思いますか?」
「思わんね」
「どうします?」
「俺《おれ》は暴力は嫌《きら》いだが、事と次第によっては力ずくで言わせにゃならんだろう。聞くところによると、君もなかなか腕力《わんりよく》が強いというから頼《たの》もしい」
「じょ、冗談《じようだん》言っちゃいけません。暴力だなんて、飛んでもない……」
「何だ、震《ふる》えているのか」
「腰《こし》も抜《ぬ》けそうです」
大竹は亜が蒼《あお》くなっているのを見て、又しても武者東小路教授に一|杯《ぱい》食わされたなと思った。
その時、ぎいと音を立てて、玄関《げんかん》のドアが開いた。何気なく入って来た男を見た大竹は、思わず息をのんだ。同時に、亜も気付いたらしい。背を丸めて男から顔を隠《かく》すような姿勢になった。
玄関に入って来たのは、千賀井鶴彦であった。
そして、千賀井の頭には、真新しいだぶだぶした帽子《ぼうし》が載《の》っていた。
千賀井はちらりと二人の方を見ただけで、すぐ窓口を覗《のぞ》いた。
「――三井ですが、診察券《しんさつけん》をなくしてしまいまして」
「構いませんわ」
窓口の向うから、看護婦がまるで別人のような愛敬をふりまいていた。
「もう少し、お注射を続けませんとね……少しお待ち下さいね」
看護婦の顔が窓口から消えた。千賀井が待たされたのは、一秒ぐらいだった。すぐ診察室のドアが開き、押し出されるように老人が出て来た。注射されたようで腕《うで》を揉《も》み、服のボタンも外れたままだ。
「三井さん、さあどうぞ……」
老人を突き出し、手を取らんばかりに千賀井を診察室《しんさつしつ》に誘《さそ》い入れる。
「帽子《ぼうし》をかぶっている……」
大竹がうめいた。
「しかも、帽子をかぶったまま診察室に入りました」
亜がささやいた。
千賀井の診察は長くかからなかった。五分もすると帽子をかぶったまま、診察室から出て来た。腕《うで》も揉《も》まず、服装も診察室に入って行ったときのままだ。手に小さな瓶《びん》を持っている。
千賀井を送り出した看護婦は、待合室にいる二人を見た。
「この方たちが、診察券を届けてくれたのですわ」
千賀井は二人をちょっと見て、帽子の縁《ふち》に手を掛け、
「これは、どうも……」
と口の中で言っただけで、すぐ玄関《げんかん》の方に歩いて行った。
大竹が立ち上り、何か言おうとすると、診察室から白衣を着た小柄《こがら》な男が現れた。
「私に用というのは、あんたかね?」
大竹は焦《あせ》った。早くしなければ、千賀井がどこかへ行ってしまう。大竹は亜に目配せをした。亜はそっと立ち上り、千賀井の後を追った。
「どんな御用《ごよう》でしょう?」
大竹は半分亜の方に気を取られていたので、思っていたことが、自分でも知らぬうち口から出ていた。
「玄関の植木に水が足りませんね。葉が赤くなっています」
「それから?」
「窓ガラスが汚れている。洗った方がいいでしょう」
「それだけ?」
「失礼だが、看護婦さんは取り替えなさい。化粧《けしよう》が病院にふさわしくないし、患者《かんじや》を差別しすぎます」
「そうは考えているが――」
医者は看護婦に聞えないように言った。
「……あれは、私の家内なのです」
「それはお気の毒です。私の言いたいのはそれだけ。それじゃ」
大竹は急いで玄関《げんかん》に向った。
医者にもっといい女性を世話したいところだが、その場合ではなかった。
玄関を開けると、不思議な光景が展開していた。
まず、千賀井のリンカーンが目に付いた。その横に、千賀井の運転手が長く寝そべって、どうしたわけか、口から泡《あわ》を吹いていた。その前で、帽子《ぼうし》をかぶった千賀井と、亜が、しきりに何か言っている。千賀井の顔がひきつっているようだ。
亜は以前千賀井が飛ばした帽子を相手に見せながら、
「この帽子はあなたのですから、ぜひ受け取ってくれないと困ります」
と、食い下っていた。
「いや、私の帽子なら、ちゃんとこうしてここにあります。人違いでしょう。私はそんなところへ行った覚えはない」
「ところが、絶対に間違《まちが》いはないのですよ。千賀井|鶴彦《つるひこ》さん」
亜は、ずいと一歩進み出た。
「あなたの御心配はよく判《わか》るのです。だが、あなたの息子《むすこ》さんが犯した罪は罪です。この際、はっきり自首された方がいいと思います」
これには大竹も面食らった。
「亜、何ということを!」
亜はあくまでも千賀井に向って、
「そうすれば、人に隠《かく》れて小さな病院に通わなくとも、きっと病気は本復《ほんぷく》します」
「それは、私も……よく承知している……」
千賀井は苦しそうに顔の汗《あせ》を拭《ふ》いた。そして、堪《た》えられぬように帽子《ぼうし》をぬぐと、頭の斜《なな》め上に、満月のように白く丸い大きな禿《はげ》が露出《ろしゆつ》した。
大竹の耳に、リンカーンの開け放されたドアから、ラジオの声が聞えてきた。臨時ニュースを読むアナウンサーの声だった。
「……湘南《しようなん》の海岸で交通警察官を殺害した暴走族のグループの一人が逮捕《たいほ》されました。犯人は高校生の暴走族のグループ、二十一世紀と名乗る若者たちの一人、Kという高校生で、Kの自白によって残りの二十一世紀の全員逮捕も時間の問題と思われます。Kの自白によると、グループの主謀《しゆぼう》は……」
洗濯機《せんたくき》を廻《まわ》している間、大竹|譲《ゆずる》は部屋《へや》一|杯《ぱい》に資料を拡《ひろ》げ、テレビをつけて別の社会にも好奇心を絶やさない。天井《てんじよう》からゴム紐《ひも》でパンがぶら下っている。大竹は片手でゴム紐のパンを引き寄せては食い千切り、もう一つの手にペンを握《にぎ》って、猛烈《もうれつ》な勢いでメモを続ける。
遠くで長閑《のどか》な三味線《しやみせん》が聞える。大竹夫人が別室で清元《きよもと》を復《さら》っているのだ。ちょうど三千歳《みちとせ》の口説《くど》きにかかったようだ。大竹に言わせればあれも趣味《しゆみ》なら、これも趣味だと割り切っている。
洗濯しながら食事をし、しかも仕事を続けるなど朝めし前のことだ。この前亜が来たときなどは、空いている両足を使って、夕食用のうどんを捏《こ》ねていた。
亜もいつの間にか追いまくられて、煙草《たばこ》を吸いかかって天井《てんじよう》からぶら下っているパンを齧《かじ》り、一しきりむせ返った。
ペンを走らせていた大竹が、
「やあ、千賀井はとうとう自首したようだ」
と、言った。
テレビのニュースが、大竹の耳を捉《とら》えたのだ。亜も横目でテレビの画面を見た。
テレビの報道によると、千賀井|鶴彦《つるひこ》の一人|息子《むすこ》は二十一世紀と名乗る、暴走族グループのリーダーであった。二十一世紀は湘南《しようなん》地方に居住する資産家の息子たちが多く、ほとんどが高校の不良学生で、年長の千賀井は他のグループの中でもとりわけて顔が売れていたという。
事件の起った土曜日の夜、二十一世紀は湘南の海岸に集結し、大暴走《パレード》をくり拡《ひろ》げようとしていた。たまたまオートバイで通り掛った交通警察官が、グループを偵察《ていさつ》して本署に通報するため近付いて来た。グループはそれに気が付くと、警官を取り囲み、袋叩《ふくろだた》きにした上、路上に捨てて逃走したのである。警官は翌日死亡し、ただちに捜査《そうさ》が開始された。
暴走グループの数は多かったが、ほとんどは捜査線上から消されて行った。二十一世紀は最後まで残されたグループの一つだが、実力者の子弟が多く、捜査は慎重《しんちよう》でなければならなかった。千賀井が自首をして出たのは、捜査が最後の段階に入ったときであった。千賀井は知り合いの弁護士に付き添《そ》われて、警視庁に出頭したという。
「千賀井鶴彦は自分の息子《むすこ》が警官を殺した犯人だということを知っていたんだな。だが、口惜《くや》しいな。俺《おれ》は君と一緒《いつしよ》に千賀井を追い廻《まわ》していたんだが、そんな裏があるなどと、一度も考えたことはなかった。おい、亜。君がどういうわけでそれを知ったのか、教えてしまえよ」
亜は天井《てんじよう》からぶらぶらしているパンがなかなか捕《つか》まらず、両手を踊《おど》るように動かしていた。
「俺が気短かなのを知っているだろうな」
大竹はパンをつかんで、亜の口に押し込んでやった。
「どうして千賀井が禿《はげ》なのを知ったのだ」
亜は目を白黒してパンを呑《の》み込んでから、
「それは、風で飛ばされた帽子《ぼうし》を追い駈《か》けていたときです。僕《ぼく》はこの帽子のために駈《か》け出さなければならない。では、人間は風で飛ばされるような帽子をなぜかぶるのだろうと考えたわけです――」
「君は、そんなことを考えながら、帽子《ぼうし》を追い駈けていたのか?」
「ええ、まあそうですが、僕が考え付いたのは、人が帽子をかぶるのは、お洒落《しやれ》のためというのが一つ。もう一つは寒さや強い日光から頭を守るというのが一つでした。けれども、帽子を拾ったとき、変に歪《ゆが》んでいる帽子を見て、これはどうやらお洒落のためではないことが判《わか》りました。お洒落のためならそれをかぶる人は帽子の形にやかましいでしょう。僕はドライブインの食堂を出るとき、千賀井さんのすぐ後にいたのですが、あの人の帽子は似合っていませんでした」
「確かにそうだ。俺だってそう思った」
「そのとき、人間が帽子をかぶるもう一つの理由を思い付きました。それは人間は帽子で頭を隠《かく》せる、ということでした」
「そうして、千賀井の頭に禿《はげ》があると思ったわけか」
「いや、まだそのときは禿などということには考えも及びませんでした。ただ、藤沢マルセルの親父《おやじ》さんの話から、千賀井さんの帽子の買い方を聞いて、これは確かに、彼はあまり頭を見られたくない。いろいろ帽子を選んで、自分の頭を相手に印象付けたくない。帽子屋に自分の頭を見せたくない理由があるのだな、と思ったのです。そして、千賀井さんの頭に禿があるらしい、と判《わか》ったのは、千賀井さんがデパートでファッション人形を買ったのを知ったときでした」
「あれは、ただの人形じゃないのか?」
「そうですね。ただの人形ですが、あの人形はいろいろな色の髪《かみ》にするための、かつらが付いていたじゃありませんか」
「かつら……」
「そうです、円形|脱毛《だつもう》の禿を隠《かく》したかったら、あの人形に付いている適当なかつらを少し細工をすれば禿が目立たなくなるようにはなるでしょう」
「千賀井は自分の禿を隠すためのかつらが欲しくて、人形を買ったのか」
「人はどんな場合でも帽子をかぶったきりではいられませんからね。帽子をぬがなければならない場所が沢山《たくさん》あります」
「そりゃそうだ。辰巳《たつみ》医院で帽子もとらずに礼を言うので、ずい分失礼な奴《やつ》だと思った」
「その辰巳医院で、千賀井さんの頭に禿があるという仮定は動かせないものになりました。なぜなら、辰巳医院の看護婦が千賀井さんに〈注射をもう少し続けなさい〉と言っていましたね。医者に注射をされて診療室を出て来る人の様子は大体定っています。辰巳医院にいた年寄りのように、注射された腕《うで》を揉《も》んでいたり、服装が崩《くず》れているものです。ところが診療室から出て来た千賀井さんは、腕も揉んでいず、服も崩れていませんでした。服を脱《ぬ》いで元通りに着なおす時間には、あまりに早すぎたわけです」
「それで、君は千賀井が服を着たまま注射されたと考えたわけだな」
「服を着たまま注射をされるとなると、手首か頭ですね。辰巳医院は皮膚《ひふ》科ですから、前の奇行と照らし合わせ、千賀井さんの頭が禿《は》げている、と考えるのは自然でしょう。それも、突然《とつぜん》、毛がすっぽりと脱落《だつらく》する、円形脱毛症《だつもうしよう》というようなものに違いないと思ったわけです」
「千賀井はその病気を他人に知られることをひどく恐《おそ》れていた」
「つまり、自分の息子《むすこ》の犯行と、円形脱毛症になった時期が同じだったことが千賀井さんを当惑《とうわく》させたのです。千賀井の息子は、自分の犯した罪を、親だけには告白したのでしょう。或《ある》いは、息子の怪《あや》しい行動に気付いて問い詰《つ》めたのかも知れない。いずれにしろ、千賀井さんは息子の犯罪を知り、恐らく生れてから初めての苦境に立たされることになりました」
「千賀井は江戸時代から続いて来た豪商《ごうしよう》の後を襲《つ》いで、御殿《ごてん》のような家で大名をしのぐような環境で育ったんだ。世間の冷たい風にも当らずに過して来た趣味人《しゆみじん》が、初めて出会った苦悩《くのう》だったんだな」
「自分の会社の業績は順調、日日|是好日《これこうじつ》、趣味に明け暮れ、絶えず人の好意に取り巻かれていた人生に、青天の霹靂《へきれき》のような事件が起こったのです。息子を自首させれば、もう未来は闇《やみ》。自分の会社にも、相当な影響《えいきよう》が生じるのは覚悟《かくご》しなければならない。それとも犯行を最後|迄《まで》隠《かく》すべきか。いや、警察の必死の捜査《そうさ》を受け流すことはとても不可能に思える。あれやこれやを考え、心配に心配を重ねた揚句《あげく》、朝起きてみると、一部の頭の毛が丸く禿げてしまったのでした。つまり、千賀井さんは禿頭を人に隠《かく》したかったのではなく、禿になった原因を他人に探られることが、一番心配だったのです」
「つまり、辰巳《たつみ》医院で密《ひそ》かに脱毛症の治療を受けていた間は、あわよくば息子の犯罪をまだ隠そうとする気はあったのだな」
「そうでしょう。でもよかった。警察の手が入らぬうちに自首しましたから」
「君の一と言で、ふんぎりがついたのだ」
「千賀井さんの態度はもう半分自首に傾《かたむ》いていたようでした。僕《ぼく》はそれをちょっと押しただけにすぎません」
「千賀井の運転手の腹も、ちょっと押してやっただけか」
「あの人は自分の主人をあまりに庇《かば》いすぎたので、つい……」
「だが残念だったな。君の腕《うで》っぷしが見られなかった。俺《おれ》はさっきまで武者東小路の言葉を少しばかり疑っていたんだ。だが君はいつ千賀井と暴走族とを結びつけることができたのだ?」
「最初に千賀井さんの車を見た時です。車の窓に、二十一世紀のシンボルマークがありましたよ。息子《むすこ》がいたずらをしたのでしょうが」
「二十一世紀のマークだと? あの黄色のリンゴがか」
「あれは黄色のリンゴじゃありません。梨《なし》です。二十世紀の梨でしょう。その下に一の字があって、二十一世紀のマークになっているのです」
「俺はまな板だと思った……」
大竹は我を取り戻《もど》した。そう、俺はせっかちだったのだ。
「もうそんなことはどうでもいい。さあ、亜。愚図愚図《ぐずぐず》するな。どんどん仕事を進めろ」
大竹は残りのパンを噛《か》みもせずに呑《の》み込んだ。
「先生、そんなにせっかちで、よく頭が禿《は》げませんね」
と、亜が呆《あき》れ顔で言った。
「馬鹿《ばか》、自慢《じまん》じゃないが、これでも二年に一度はすっぱりと禿げるんだ」
と、大竹は答えた。同時にカラヤカンの見事だった光る頭を想《おも》い出していた。
第六話 争う四巨頭
「鈴木《すずき》主任さん?………」
梅津《うめづ》警察署の玄関《げんかん》を出るとき、すれ違った制服の婦人警官に声を掛けられた。振《ふ》り返ると、高橋《たかはし》巡査部長だった。彼女は評判《ひようばん》の美しい眸《ひとみ》を大きく開けていた。
「やあ、しばらくでした。元気ですか?」
高橋巡査は不思議そうな顔をして、鈴木の頭のてっぺんから爪先《つまさき》まで見下ろした。そういう表情をするのは、彼女だけではなかった。刑事課の主任だった鈴木を知っている職員の、全《すべ》てそうだった。
だが、女性で声を掛けたのは高橋巡査が最初だった。鈴木は彼女がどういう反応《はんのう》を見せるか、楽しみになった。
「……見違《みちが》えてしまったわ。すっかりお変りになりましたね」
「良く、ですか。悪くですか?」
鈴木は出来るだけ愛想の良い笑い顔を作った。
「十も、若返ったみたい……」
鈴木は満足した。高橋巡査の声には親しみも感じられた。
署にいたときに渾名《あだな》が「もさ鬼《おに》」。もさは猛者《もさ》のもさではなく、もっさりしているのもさ。「もさ鬼」は女性の職員に話し掛けられたことはほとんどなかった。あっても、ごく事務的な内容に限られていた。
「若返りの秘訣《ひけつ》は何でしょう?」
そうまで言われるとさすがに照れて、量の多い髪《かみ》に手を当てた。
「つまり――本来の私に戻《もど》ったからでしょうね」
以前なら、たとえ思っても言えなかったような言葉が、すらすらと口から出る。
「鬼《おに》刑事さん、仕事を取られて、ぼんやりしているものとばかり思っていたわ」
「最初のうちはそうでしたよ。鬼の面を外すのに、丸一年掛りました」
「ゆとりのある毎日のようですわ」
「ゆとりがあって充実しています。閑《ひま》もあります。貧乏は相変らずですが、あくせくはしません。今度、一緒《いつしよ》に映画でも見ませんか?」
高橋巡査の目元がぱっと赤くなったのが判《わか》った。
何年か前、同じことを言った記憶《きおく》があった。本気ではなかった。本気ではなかったので、高橋巡査は、
「主任、今晩は神社のお座敷でお忙《いそが》しいんでしょ?」
と、言った。
あとで、その日が節分だったことに気付き、鬼の鈴木は歯噛《はが》みをして口惜《くや》しがった。
今は本気だった。本気だったから、高橋巡査は、
「映画よりも、一度ゆっくりとお話がしたいですわね」
と、答えた。
鈴木は爽快《そうかい》な気分で外の空気を吸った。梅雨も明け、緑は一段と濃《こ》さを増した。大通りの尽《つ》きるあたりに丸い山が蹲《うずくま》っている。空が澄《す》んでいて、遠くの細い湯煙《ゆけむり》もはっきり見える。間もなく温泉街が賑《にぎ》わう季節だ。同時に署の仕事も忙しくなるのが例だった。だが、今の鈴木は悠悠《ゆうゆう》と景色など見、料理を楽しむことも出来る。当分、冬の来ないことも幸せに思えた。
今、思い返すと、長い長い冬だったような気がする。だから、急に春めいても、最初は当惑《とうわく》するばかりだった。
去年の今頃《いまごろ》はどうしていただろう?
まるで、地獄《じごく》にいるみたいだった。高橋巡査の言うような「ぼんやりしている」状態では、とてもなかった。
鈴木が署を停年で退職した直後も、毎朝通勤時代に着ていたよれよれの背広に手を通さずにはいられなかった。いつものように、弁当を作らせて外に出た。外に出ても当てはなく、ただせかせかと市街を歩き廻《まわ》った。公園などで弁当を食べ、夕暮になると署の建物を眺《なが》めた。顔見知りに出会ったりするとまずいので、遠くから眺めた。
家に戻《もど》ると湯が沸いていて夕食の支度が出来ていた。それを見ると、わけもなく腹立たしくなった。何日も電話の鳴らない日があると、鈴木の焦燥《しようそう》は激《はげ》しくなった。
梅津署の管轄に温泉街があった。署に大きな事件が持ち込まれることは稀《まれ》だったが、泥棒《どろぼう》や喧嘩《けんか》、家出人や犯人の照会などは絶えなかった。
鈴木はとりわけて仕事に熱心だった。彼の坊主《ぼうず》頭が端的《たんてき》にそれを象徴《しようちよう》していた。床屋《とこや》に行く閑《ひま》も惜《お》しかったし、自分の顔は坊主頭の方がより凄《すご》みが出るという自信があった。月に一度、バリカンで妻に刈らせた。
虎刈《とらが》りの坊主頭でもっさりした顔だが眼光が尖《するど》い。その目で睨《ね》め付けられると、こそ泥などは震《ふる》えあがったものだ。
もさ鬼《おに》刑事は、自分の活躍で市の治安が保たれているのだという自負があった。使命感は熱意の油で炒《いた》められ、粘《ねば》りの風味であえられ、執念《しゆうねん》の薬味がたっぷり加えられて、口に入れると、飛び上るほどの刑事気質が出来上っていた。
他の道楽も趣味《しゆみ》もないこの道一筋。わずかな楽しみと言えば、二人の娘の成長を見るだけだったが、この娘たちは大して器量も良くないのに、とっとと嫁《よめ》に行ってしまった。となると殊更《ことさら》仕事に夢中となり、気が付いたときには停年。ただ一つの生甲斐《いきがい》もなくなった。覚悟はしていたものの、ひどい衝撃《しようげき》であった。その当座、通い馴《な》れた市電の音を聞いただけで、胸の奥《おく》がきりきりと痛んだ。
その市電が、相変らずの音を立てて停留所に止った。
鈴木は警察署前から市電に乗った。一時を過ぎたばかり。車内は空《す》いていたが、坐《すわ》らない。窓に立って、外の景色を見る習慣になっていた。以前は目を三角にして調書などを読み耽《ふけ》ったものだった。
いくつかの停留所を通ると、電車はレンガ色の陸橋を渡った。陸橋の下に金堀《かなぼり》商店街の道が見える。
――今夜はどんな料理を作ろうかな?
電車は陸橋を渡って大きく左に迂回《うかい》し、商店街の入口で止った。鈴木は電車を降り、ぶらぶらと店を一軒一軒|覗《のぞ》きながら歩いた。
「――旦那《だんな》。ちょうど良かった」
魚屋の主人だった。この一年、すっかり顔|馴染《なじみ》になっていた。
「珍しいものがあるかい?」
「大ありだ。旦那。たった今、カタツムリが入荷したところだ」
「かたつむり?」
「ほれ、エスカルゴでさ。ブルゴーニュ産のエスカルゴ。生意気《なまいき》にジェット機に乗って来たんだ」
「嘘《うそ》だろう」
「そんなことを言うと後悔するよ。論より証拠《しようこ》だ。ほれ」
魚屋は店の奥《おく》から段ボールの箱を持ち出して、鈴木の前で蓋《ふた》を取って見せた。濃《こ》いブドウの葉が敷《し》き詰《つ》められ、その上に沢山《たくさん》の貝が並んでいる。
「どうです?」
「こりゃ、本当だった。だが、どうしたんだ?」
「仕入れたんでさ。旦那《だんな》のために」
「こりゃ驚いたな。注文流れだろう」
「白状しますと、その通り。伊豆政《いずまさ》のおかみ、ひでえ婆《ばば》あでね。娘《むすめ》の出産で、今日は店を休むんです、と」
「娘の出産? 伊豆政に娘がいたのかい」
「いました。一人娘で。ほれ、そこの金物屋へ嫁《よめ》にやったんです」
魚屋は向いの金物店を顎《あご》でしゃくった。
金物店なら知っている。主人は趣味《しゆみ》半分、店の奥《おく》に銃砲店《じゆうほうてん》を作っている関係で、よく署へ顔を出すことがあった。その息子《むすこ》が結婚したということは聞いたが、子が出来ていることまでは知らなかった。
「美人の嫁さんだったね」
「おかみの自慢《じまん》でね。だから、出産となると、戦争みてえに騒《さわ》ぎ廻《まわ》るんだ。もっとも予定日より大分遅《おく》れていたそうでね」
「それにしても、店を休むのは勝手だが、注文品までキャンセルにするとはひどいじゃないか」
「なに、こっちにも落度はあったんです。断りの電話があったのを、嬶《かか》あの奴《やつ》がころりと忘れた」
「そりゃ、こっちが悪い」
「だから、こうなったらやけだ。旦那《だんな》、エスカルゴ持って行っちゃって下さい。只《ただ》でもいい」
「真逆《まさか》、只とはゆくまい」
鈴木は店を見廻《みまわ》した。珍《めずら》しいことに、アワビや帆立貝が目に付いた。これも伊豆政の注文流れだろうか。
「今晩は貝尽《かいづく》しと洒落《しやれ》るかな。エスカルゴはブルゴーニュ風で、白ブドウとブケガルニとにんにくで煮込《にこ》むって奴《やつ》だ。とするとアワビはステーキがいいだろう。タルタルソースをたっぷり掛けてみようか。帆立はコキーユサンジャックで、カキはハーフシェルか、ベーコン巻で……」
「旦那、何だか知りませんが、話は判《わか》るね。どんどん持って行っちゃって下さい」
魚屋を出てからこの際とばかり酒屋へ入って、モーゼルを一本|奢《おご》ることにした。足りない香辛料《こうしんりよう》なども揃《そろ》えると大きな包みになった。鈴木は帰りの市電に乗った。
鈴木が料理に興味を覚えることになったのは、一束の干わかめがきっかけだった。
署を退職した当初、妻はよく旅行に誘《さそ》った。だが鈴木は、旅行など一度も面白いと思ったことはなかった。景色などどこを見ても同じか写真で知っているとおり。宿の食べ物はどれも鮮度《せんど》が落ちていて、冷めたものばかり。その上どこへ行っても莫大《ばくだい》な費用が必要だった。
妻は早くからそれを察知し、鈴木を置き去りにして自分だけ出歩くようになった。婦人会や同窓会、娘《むすめ》たちからも口が掛り、ただひたすらに旅行旅行と走り廻《まわ》る。
その日も妻の旅行で、朝一人目を覚ましたのだ。台所に入って味噌汁《みそしる》の具《ぐ》にするため、干わかめをボウルに張った水に漬《つ》けた。ゆっくりと拡がってゆくわかめを見ながら、ふと、自分の一生は何だったのだろうと考えた。仕事に対して悔いはなかった。にしてもこの空《むな》しさは一体何なのだろう。天井《てんじよう》に目を移すと、スクリーンのように過去のいろいろな自分が見えてくる。
我に返ってわかめに目を戻《もど》したとき、鈴木はびっくりして声を立てそうになった。
ボウルの中のわかめがどんどん水を吸い、ボウルに山盛《やまも》りになって、更《さら》に流しの上に這《は》い出しそうにしていたのだ。鈴木は生き物のように動くわかめを見ているうち、最初は恐怖《きようふ》を、次には呆了《ぼうりよう》を感じた。自分はわかめがこんな増え方をすることさえ知らない。鈴木はわかめの一束をそっくり水に漬けたのだった。
ボウルの中で山になったわかめを、丁寧《ていねい》に洗った。わかめを切ろうとし、庖丁《ほうちよう》を見ると、刃がまるで立っていない。料理の上手下手は庖丁を見れば判ると言うではないか。こんな庖丁ではうまい料理を作れるわけがない。
うまい料理――と思った瞬間《しゆんかん》、自分はこれまで、食物をうまく食べようとする意志が全くなかったことに気付いて愕然《がくぜん》とした。
食物をうまく食べる、むしろ逆に、うまい物への執着《しゆうちやく》を、避《さ》けようとする気持が強かった。
男は質実でなければならぬ。食物は五体を保つためのものであり、必要以上に飾り、手掛けることを嫌《きら》い、ただ栄養と速度とを尊んできたため、妻もそれに即《そく》した料理だけを作っていたのだ。しかし、いつも庖丁が磨《と》ぎ澄《す》まされているのは、質実とは関係がない。
鈴木は庖丁を磨き上げることにした。庖丁を磨いでいる間、どこかに料理の本があるのを思い出した。妻が嫁入《よめい》りのときに持って来た大きな本だった。本は本棚《ほんだな》の隅《すみ》で埃《ほこり》をかぶっていた。鈴木は本を拡《ひろ》げ、本格的なだしの作り方を覚えた。その本によると、妻の米のとぎ方さえ、まるで法に適《かな》っていないようだった。
鈴木は二時間かけて自分の朝食を作った。毎日の朝食の味とは格段の差だった。その感動は、今までに経験したことのないものだった。
もともと物に熱中する質《たち》である。
妻を台所から退《しりぞ》け、毎朝わかめの味噌汁《みそしる》作りに没頭《ぼつとう》した。鈴木はわかめにもさまざまな種類のあることを知った。味噌も同じだった。何週間後、自分でも傑作《けつさく》だと言える味を作り出したとき、鈴木は他の料理にも手を染める決心をした。今まで、料理の楽しさに無関心だったのは、大きな損失に思われた。
やがて妻の買って来る材料では気に入らなくなり、自分から商店街に出向くようになると、妻や娘《むすめ》は初めこの変化を訝《いぶか》しみ、次に心配し、最後には喜んだ。娘たち夫婦は日を決めて鈴木の料理を賞翫《しようがん》しに来るようになった。
鈴木が髪《かみ》の毛を綺麗《きれい》に伸し始めたのも、その頃《ころ》だった。身の廻《まわ》りを小ざっぱりすると、署に勤めていたときよりは十歳《さい》も若く見えた。鈴木の言う「鬼《おに》の面」を外すのに、こうして丸一年掛ったのだ。
電車を降りた鈴木の足取りは軽かった。頭の中にはエスカルゴが煮《に》えて、エシャロートの効いたバターを混ぜ、元の貝の中に詰《つ》めているところだった。
家に着くと、妻が若い男の客が来ていると言った。鈴木は料理が途中《とちゆう》で中断されたことを、少し残念に思った。
「来客とは珍《めずら》しいな。誰《だれ》だ?」
妻が丸く口を開けて、何か言ったようだった。
「忘れたのか?」
「名前の方は忘れかかっていますけれど、姓の方は忘れられませんわ。あ」
「何だ?」
「あ、という姓の人です」
妻は名刺《めいし》を見せた。肩書はなく、ただ亜愛一郎としてある。鈴木は名を見て思い出した。退職する前年、この男を取調べたことがあった。
「刑事さんじゃありませんね」
「そうだ」
「俳優《はいゆう》さんかしら。それとも、ファッションモデルさんかしら?」
妻の好奇心が旺盛《おうせい》になっているところをみると、あの男の美貌《びぼう》は変っていないらしい。
「ねえ、どこであんな方とお付き合いになることが出来たんですか?」
鈴木は買物袋を妻に押し付け、奥《おく》の座敷《ざしき》に向った。
亜はオックスフォードタータンチェックの背広にクリーム色のネクタイをきちんとしめ、座蒲団《ざぶとん》の上にかしこまっていた。鈴木が覚えているのは、湯から出て来たばかりの血色のよい顔だった。こうして坐《すわ》っている姿も、端麗《たんれい》な気品が感じられる。ただ、鈴木を待っている間、とろとろしていた風でもある。
亜は鈴木を見ると丁寧《ていねい》に挨拶《あいさつ》し、それから改めてごくゆっくりと目を大きくした。
「人違いかと思いました。刑事さん。息子《むすこ》さんが部屋《へや》に入って来たのではないかと……」
相変らず感度が遅《おそ》いようだが、所感はかなり大仰だ。
「手紙にも書いてあったでしょう。もう、刑事ではありません」
「――そうでした。鈴木さん、以前はもっと恐《こわ》い顔でしたね」
「退職してから趣味《しゆみ》も変ってね。君、貝は好きですか? カタツムリなんか……」
「大好きです」
鈴木は亜から精しく訊《き》き出そうとしていた事件に、ほとんど興味を失っていたのだ。
「貝の形は多勢の人を虜《とりこ》にしますね。僕《ぼく》は貝の形をした家を造って住んでいる人を知っています。でも、僕は貝の中身の方にも関心があります」
と、亜が言った。
「そうでしょう」
「先日四国に行ったとき、アワマイマイを撮影《さつえい》することが出来ました」
「アワマイマイ?」
「腹足類ニッポンマイマイ科のアワマイマイです。恋矢《こいや》が大きく、独得の形をしています。アワマイマイは大きいのでも有名でしょう。大きいのでは六十センチ近くにもなるそうですが、僕が見たのはそんなに大きな奴《やつ》じゃありませんでした」
「でも、味はどうかな?」
「味……」
亜は変な顔をして鈴木を見た。
「……食べちゃうんですか?」
「食べなければ、味は判《わか》らない」
「貝に、そんな楽しみ方があるとは知りませんでした……」
「私もつい最近まで知らなかった。ちょうど今、珍《めずら》しくエスカルゴが手に入りましてね」
「エスカルゴ……と言うと、エリックス ポマティアでしょう」
「エリックス――なんとかでは食欲が出ないでしょう。エスカルゴと言うと、ほれ、涎《よだれ》が出そうになります。これを湯掻《ゆが》いて塩胡椒《しおこしよう》するんです。あとは白ブドウ酒とブランデーで煮《に》るわけです。香辛料《こうしんりよう》に丁子《ちようじ》を差した玉ねぎと、にんにくと……」
亜は珍奇《ちんき》な動物を見るような顔になった。
鈴木は亜の顔を見て、不必要になってしまったことだが、一応は亜の話を聞くのが礼儀だろうと思った。亜はその話をするため、義理固く鈴木の家に立寄ったのである。
亜を取調べたのは金堀商店街で起きた奇妙《きみよう》な事件がきっかけだった。それは商店街が真っ黒になった騒《さわ》ぎで、そのとき亜は商店の住人たちと一緒《いつしよ》になって変乱し、署に連行された。事件は意外にも殺人事件にまで展開したが、亜は鈴木刑事の取調べの前で、それを予言し、的中させたのである。
鈴木は退職後の苛苛《いらいら》時代、土地の新聞社の訪問を受けた。彼が関係した事件を読物風に書いてみませんかという誘《さそ》いだった。鈴木はその頃《ころ》まだ元の仕事に未練があった。大いに乗り気だった。だが、事件を自分で文章にしてみると、どうも勝手が違う。第一、読物だの小説だのは読んだことがないので文章の要領が悪い。原稿を途中《とちゆう》で読返すたびに不快になった。新聞社では方針が変ったのか、そのまま問い合せのないのを幸に、その仕事を中断していた。
その頃、亜に手紙を書いたのである。金堀事件は鈴木が立合った中で、大きな事件だった。その詳細を記述しようとしたとき、もう一度亜の話が聞きたかった。それで、梅津の方角に足を向けることがあったら、ぜひ立寄るようにと書いて送ったのだ。
その手紙を忘れずに、亜は態態《わざわざ》来訪した。今更《いまさら》、あの話は聞かずともよくなりましたとは言えない。形なりにも亜の話を聞いておかなければ失礼だろう。話はざっと済ませ、亜にはエスカルゴとアワビでその償《つぐな》いをしよう。
と考えているところへ、妻が来客を告げた。一日のうち二組の客があるとは、全く珍《めずら》しい。
「田中|美智子《みちこ》さんですわ」
と、妻が言った。
「田中――どの田中だろう」
「田中|善行《よしゆき》様のお孫様じゃありませんか」
田中善行と聞いて、鈴木は思わず居住いを正した。
田中善行――立志伝中の人。独学独力で身を起し、衆議院議員を経て県知事の座を長く勤めた。この春、全《すべ》ての仕事を退《しりぞ》き、故郷の梅津に帰り、悠悠《ゆうゆう》余生を楽しむという談話を新聞で読んだ。美智子はその孫で、鈴木の娘と小学校が同じだった。
「娘《むすめ》は嫁《よめ》に行った。そう言ったのか?」
「嫌《いや》ですわ。美智子さんは、あなたに会いたいのですって」
「俺《おれ》に……」
玄関《げんかん》に出た鈴木は、思わず息をのんだ。
しばらく見なかったが、美智子は眩《まぶ》しいほど美しく成長していた。
若く活力に溢《あふ》れる表情に、ショートカットの大きなウエーブがよく似合う。茜色《あかねいろ》の地に白の細かい水玉のシャツブラウスの襟《えり》が鋭《するど》く胸元に切り込んで、健康な肌《はだ》に自然な色気が漂《ただよ》っていた。
「祖父のことで、内密にお話がしたいのです」
と言うとき、鈴木は夢見るような眸《ひとみ》に見詰《みつ》められて言葉を失った。
鈴木は亜のいることを思い、危険を感じた。この二人が出会うと、強い火花が飛び散るかも知れない。
美智子は亜を見るなり、さあっと蒼白《そうはく》になり、それから白い頬《ほお》にぱっと血の色が戻《もど》った。
亜の方はどうかなと見ていたが、まるで反応《はんのう》がない。平気な顔で初対面の挨拶《あいさつ》などしている。無関心なのかなと思うとそうではない。五分後にそわそわしだし、矢鱈《やたら》に煙草《たばこ》を吹かしてむせたりしている。女性に対しても反応はかなり遅《おそ》く、しかもその刺戟《しげき》は強力に受けている。残念なことに、大方の女性にはその過程は判《わか》らないだろう。
鈴木は内密の話ということを聞いていたので、それとなく亜を帰そうとしたが、美智子が反対した。
「ぜひ、若い方の意見も沢山《たくさん》聞いておきたいの」
それでは秘密にならなくなってしまうが、美しい女性はとかく自分に酔《よ》って、非論理的になってしまうことがあるものだ。と、抗議をしても始まらない。鈴木は美智子の話を亜と一緒《いつしよ》に聞くことになった。
「……これは祖父の身辺に起ったことなんです。鈴木さんは御存知《ごぞんじ》でしょうが、祖父はしばらく県知事を勤め、今年の春、全《すべ》ての仕事から身を引いて、この梅津の家で暮すようになりました。わたしも大学を卒業したのですが、祖父の面倒《めんどう》を見るようにと父から言われ、梅津に帰って来て、祖父と一緒に住んでいるわけです。祖父は最初のうちこそ、これですっかり肩《かた》の荷が下りた。せいせいしたなどと言っていましたが、しばらくすると、ときどきじっと物思いに耽《ふけ》る姿を見せるようになりました」
鈴木は大きくうなずいた。
「そうでしょう。知事とはまるで立場が違いますが、私も退職したとき、一時ぼんやりした時期がありました」
「それが、この一月ばかりのうちに、祖父の様子が変に変ってしまったのです。きっかけは、祖父が昔の友達――小学校時代の同窓生たちに逢《あ》った日からでした。友達というのは三人で、斉藤《さいとう》さんと井上さん――」
「待って下さい……」
鈴木は真剣になった。
「斉藤さんというのは、同じ梅津の出身で、三石銀行の元総裁、斉藤|三造《さんぞう》さんですか?」
「そうです」
「井上さんは、防衛庁の管理局長をされていた緑鬼会《りよつきかい》幹事長の井上洋吉さん……」
「そのとおりですわ」
「じゃあ、三人目のお友達というのは、小林|健夫《たけお》さんじゃありませんか? 大蔵省印刷局の局員から大蔵省政務次官にまで出世した……」
「よくお判《わか》りですね。さすがだわ」
「それは判ります。田中善行、斉藤三造、井上洋吉、小林健夫といえば、梅津小学校が産んだ大人物、囲碁《いご》の岡田九段を入れて、梅津の五傑《けつ》として有名です。このあたりでは、誰《だれ》一人知らぬ者はありません。梅津の子供は五人の苦心談を嫌《いや》というほど親から聞かされていますよ」
「三人の友達は、祖父と前後して第一線から退《しりぞ》き、梅津に居住するようになった人ばかりです。四人が最初に顔を合わせるようになったのは、小学校の同窓会に出席したときでした。祖父はその日を待ち兼ねたようにいそいそと会場に出掛け、帰って来たときには、その三人も一緒《いつしよ》でした」
「きっと懐しくて、別れにくかったのでしょう」
「わたしも、最初はそう思ったのです。ところが祖父たち四人は離《はな》れに閉じこもってしまいました。茶を運んでも、祖父は追い立てんばかりの態度で、わたしを離れから遠ざけ、誰《だれ》も近寄らせないように申しました」
「密談が始まったわけですね」
「その日、まだわたしは四人の間に重要な話が交されているとは思いませんでしたし、気にも止めなかったのです。わたしが、おかしいな、と思ったのは、翌日の朝、離れを掃除しているときでした。部屋《へや》の違《ちが》い棚《だな》に、こんな物を見付けてしまったのです」
美智子はそう言って、バッグを開け、小さく畳んだ新聞紙を取り出した。新聞紙を拡《ひろ》げると、赤鉛筆で囲まれた小さな記事が目に付いた。
「この赤鉛筆の囲みは、あの晩四人のうち誰《だれ》かが付けたものなんです。朝、わたしもこの新聞を見ましたが、そのときは勿論《もちろん》何の印もありませんでした」
鈴木はその見出しを見た。「黒田岩男氏入院」とある。
その記事には覚えがあった。黒田岩男は政界財界の黒幕として知られている。最近でこそ人に知られるようになったが、暗躍《あんやく》していた頃《ころ》の黒田は、総理をも動かす力を持っていると言われた。梅津|四傑《しけつ》と黒田との間は仇敵《きゆうてき》の関係であり、四人にとって黒田は目の上の瘤《こぶ》。黒田にとって四人は何かと目障《めざわ》りな存在であった。
「その日の夕刻、祖父は〈昨日の新聞はどこへやった?〉と尋《たず》ねました。何気ない風を装《よそお》っても、すごく気にしていることが判《わか》りました。わたしが新聞の束《たば》の中から探して手渡すと、祖父はそれを持って、すぐ離れに行ってしまいました。黒田岩男が死んだのは、それから三日目です。次の朝刊に、その記事が載っていました」
「死因は確か胃癌《いがん》でしたね」
「わたし、その記事が載っている新聞を読む祖父を、そっと観察しました。大きな見出しではありませんでしたが、祖父はすぐ気付いて〈ほう〉と声をあげたようです。けれどもわたしが傍《そば》にいるのを見てすぐ平静に戻《もど》りましたが、その表情は何となく嬉《うれ》しそうでした。その日の午後、斉藤元総裁、井上元局長、小林元政務次官の三人が、次次にわたしの家を訪れ、例によって離れに集ったのです」
「三人の表情はどうでした?」
「斉藤さんだけが何故《なぜ》かにこやかでした。井上さんと小林さんは揃《そろ》ってとてもむずかしそうな顔になっていました。四人の会談は夜になるまで続きました」
「離《はな》れを出て来た四人の表情は?」
「陰陽で言うと、祖父と小林さんが陽、斉藤さんと井上さんが陰という感じでした。翌朝、またわたしは離れの掃除に注意するようにしました。すると、普段見馴《ふだんみな》れない二つの品物に気が付きました。一つは大きな金貨で、片面に二羽の鷲《わし》のデザインがありました」
「それは大変な金貨です」
今まで黙って聞いていた亜が言った。
「ダブルイーグルだと思います。千八百年代にアメリカで作られた二十ドル金貨。年代によっては天文学的な価格が付けられているそうです」
美智子はいい音楽でも聞いているような表情で亜を見詰《みつ》めた。
「よく御存知《ごぞんじ》ですわ。矢張《やは》りあなたがいて下さってよかった。あいにく、製造年号は覚えていません。金貨のことを祖父に訊《き》くと、斉藤の忘れ物だと言って、さっさと引出しにしまい込みました」
「元銀行の総裁なら、金貨の収集があっても不思議じゃないでしょう」
と、鈴木が言った。
「勿論《もちろん》です。でも、収集なら大切にしまっておくのが当然ですわ。皆に見せたにしても、一枚だけ取り忘れたというのも変です。わたしが気になっているのは、四人がその金貨を何に使ったかですわ」
「なるほど……で、もう一つの品物というのは?」
「古い書物でした。〈孫子《そんし》〉です」
「ソンシ?」
「中国の最も古く勝れた兵書ですわ。その本も金貨と同じ祖父の机の上に載《の》っていました。本の間には長い栞《しおり》が差し込まれ、そっとそのページを開くと、こんな文章が目に入りました。――兵とは脆道《きどう》なり。故《ゆえ》に能なるもこれに不能を示し、用なるもこれに不用を示す……」
「近くともこれに遠きを示し、遠くともこれに近きを示す……確か計篇《けいへん》にある文章でしたね」
と、亜が後を続けた。
「よく御存知ですわ」
美智子は心持ち亜の方に身体《からだ》を寄せた。
「ほんとうに亜さんて博学なんですわね。専攻は何ですの?」
「閃光《せんこう》ならエレクトロニックフラッシュでしょう」
「まあ、電子光学を……」
話が合うようで合っていない。鈴木はやきもきしてきた。
「美智子さん、その書物のことを善行氏に尋《たず》ねましたか?」
「……そうでした。そのお話でしたわね。祖父はこれは井上の忘れ物だと言い、金貨と同じ引出しにしまいました。その後、四人は度度《たびたび》集まり、きまって離《はな》れで会合を重ねました。わたしはその都度《つど》離れに気を配りましたが、あるとき、四人はおみ籤《くじ》を引き合っていたことがあります」
「おみ籤? 神社に備えてあるおみ籤ですか?」
「お茶を運んだとき、音が聞えたのです。わたしが部屋《へや》に入ると、もうその音の出る物はどこにも見当りませんでした。最初、それは何の音だか判《わか》らなかったのですが、三人がお帰りになるとき、井上さんの持っていた細長い風呂敷《ふろしき》包みの形を見て、それが判りました。あれはおみ籤の箱だったのです。わたしは心当りの神社に電話をして、それを確かめました。ある神社の神主さんは、古いおみ籤を井上さんに貸したと答えて下さいました。井上さんは古いおみ籤を研究するという話だったそうです」
「おみ籤の研究ですか」
「最近、祖父は車とか馬に興味を示すようになりました。これまで、祖父が車や馬を話題にしたことは一度もありません」
「黒田岩男の死、金貨、孫子《そんし》、おみ籤、車、馬……」
鈴木は腕《うで》を組んだ。
「わたしが四人を観察した全《すべ》てをお話ししました。鈴木さん、このことから四人が離れでどんな密談をしていたか、お判《わか》りですか?」
鈴木はもう一度、美智子が持って来た新聞を開いた。そして、妻を呼んで黒田岩男の死亡記事の載《の》っている新聞を取り寄せた。
「私には一つの推察があります。が、その前に、亜さんの御意見を伺《うかが》いたいものですね」
亜は目をぱちぱちさせ、次に肩《かた》をもじもじさせた。
「まだ、明確にこれだからこうだとは言い兼ねますが……」
「ぜひその御《ご》意見を聞きたいわ」
亜はちょっと座り直し、
「四人の方の会合は、サーカスをしようという相談だと考えることが出来ます」
「サーカスですって?」
美智子は目を丸くした。
「サーカスには馬はつきものです。車は歯で引っ張ったり、轢《ひ》かれても平気、という芸に使います。金貨は奇術《きじゆつ》に使うのでしょう。空中から空っぽの手で際限もなくコインを取り出す〈欲張りの夢〉という有名な奇術があります。それには小さなコインより、大きな金貨の方が見栄えがするでしょう。孫子は記憶術《きおくじゆつ》に使用します。観客に好きなページ数を言わせ、その内容を当てる芸があります。新聞は、記事に意味があるのではなく、新聞紙として必要なのです。新聞紙を何重にも丸め、片方の端《はし》を切って曲げ、中心を引き出して伸すと、見事なペーパーフラワーが即席《そくせき》に出来上がります」
「おみ籤《くじ》はどうなるの?」
美智子は亜の傍《そば》を離《はな》れ、鈴木の方ににじり寄っていた。
「おみ籤の箱を振《ふ》りながら歌を唄《うた》います。面白いコミックソングが出来ますよ」
「なぜ、うちの祖父がおみ籤の箱を振って唄を歌わなければならないの?」
「観客が喜びます」
「そりゃ、大喜びだわ。元銀行総裁が歯で自動車を引っ張ったり、元政務次官が馬の上で逆立ちなどしたらね」
「で、ですから、まだ明確には言い兼ねると、最初におことわりしました……」
「鈴木さんはどうお考えですか?」
鈴木は亜が気の毒になった。以前、金堀商店街で起った事件は、あまり奇妙《きみよう》な出来事で、亜の変てこな発想とうまく合ったために真相を発見することが出来たのだろう。だが今度の場合、四人の密談をサーカスの計画に結び付けるなどは無鉄砲《むてつぽう》だ。美智子が腹を立てるのも無理はない。
「私は亜さんとは大分違った結論を出しました」
鈴木は鷹揚《おうよう》な態度で言った。どう考えても勝負は鈴木の勝だった。
「美智子さんを前にして、失礼かも知れません。だが、相談を受けた身としてはっきり言いましょう。四人の方が計画していることは、決して良いことではありません。美智子さんも薄薄《うすうす》それに気付いておられる。だから態態《わざわざ》私のところへ相談に見えたのですね?」
「そうです。鈴木さんの御《ご》意見をぜひ聞かせて頂きたいわ」
「端的《たんてき》に言うなら、その計画とは盗《ぬす》みです」
鈴木は美智子の表情を窺《うかが》った。美智子は静かに耳を傾《かたむ》けていた。
「もう一度この新聞記事に注意して下さい。と言うと、すぐ赤鉛筆で囲んだ記事が目に付くのですが、私は全体のページに注意しました。すると、黒田岩男の入院と死亡の日、別な事件が二つ起っています」
鈴木は一つの記事を差し示した。「不敵な怪盗《かいとう》出没」という見出しだった。貴金属店に盗賊《とうぞく》が侵入、多数の宝石、貴金属、古銭が盗まれた、というもの。もう一つは骨董店《こつとうてん》での盗難《とうなん》で、古い書画、書物が盗まれている。犯人の手口はいずれも巧妙《こうみよう》かつ大胆《だいたん》、高価な品ばかり盗んでいるので、二つの盗難事件の犯人は同一人であろうと記されていた。いずれも梅津で起きた事件だ。
「善行氏の離《はな》れにあった金貨と古書は、そのときの盗品《とうひん》であるというのが私の考えです。おみ籤《くじ》は無論|唄《うた》を歌うためのものではなく、本当の吉凶《きつきよう》を占《うらな》うために使われたのです。私は多勢の泥棒《どろぼう》を知っていますが、彼等《かれら》の多くは担《かつ》ぎやで、縁起《えんぎ》の良い悪いをひどく気にします」
「車と、馬は?」
「大掛りな盗みを計画しているに違いありません。盗みのとき車を使用するのは今や常識ですし、山奥《やまおく》に本拠《ほんきよ》を置くことになれば、車より馬を使う方が悧口《りこう》です」
「でも、どうして祖父たちが?」
「無論、お金に困ってではありませんね。盗みをする人の心は非常に複雑です。億万長者が一本の鉛筆を万引したという話もあります。盗みに限り、私は大臣でも市長でもその人の地位や財産を考えて容疑の対象から外すということはして来ませんでしたよ。従って、四人の方方が真逆《まさか》盗みを、とは考えないわけです。美智子さん、驚きましたか?」
「いいえ」
美智子は透明《とうめい》な声で答えた。
「少しも驚きませんわ。実はわたし、もっと大きなことを考えていたものですから……」
「もっと大きなこと?」
「はい。盗《ぬす》みは盗みでも、祖父たちが狙《ねら》っているのは国そのものを盗む、戦争かクーデターです」
「戦争……」
今度は鈴木が驚いた。美智子の方は相変らず静かに、唇《くちびる》の端《はし》に微笑《びしよう》さえ泛《うか》べている。
「そうです。祖父の変化は、黒田岩男の入院と死亡がきっかけとなりました。周知のとおり、黒田岩男は祖父たちの反対派。それも、最も手強い相手でした。その黒田が死亡したのです。当然、このチャンスに反対派を徹底的《てつていてき》に壊滅《かいめつ》しようという心に違いありません」
「すると……離《はな》れに残っていた金貨は?」
「軍資金ですわ。孫子《そんし》は言うまでもなく兵書。戦争の計画や作戦、謀攻術《ぼうこうじゆつ》が精しく説明されています。おみ籤《くじ》は吉凶《きつきよう》を占《うらな》うためですが、盗みの成否でなく、戦いの勝負を占っていたのに違いありません。戦争に車は欠かせません。馬は軍馬として使います」
美智子は理路整然と言い放った。
「で、どうなさる積りですか?」
「二時に祖父が家を出ます。運転手にそう命じているのを聞きました。後を尾《つ》ければ、きっとその確証をつかむことが出来ると思います。鈴木さんにはその上で相談に乗って頂きますわ」
美智子は亜の方を向いた。
「亜さん、車の運転は?」
「はい、何とか……」
「何とかじゃ困ります。祖父の車に気付かれぬように尾《つ》けるのですよ」
「一生|懸命《けんめい》運転します」
美智子は時計を見た。
「時間もちょうどです。わたしと鈴木さんは後の座席に乗ることにしましょう。さあ、出発だわ」
次の瞬間《しゆんかん》、美智子の幻滅《げんめつ》が決定的になったようだ。
足の痺《しび》れのためだろう。一度立ち上った亜が、奇声《きせい》を発しながら、派手やかに転倒《てんとう》したのだ。
田中善行の車は極く普通の速度で走っていた。鈴木と美智子は後座席に深く腰《こし》を下ろしている。
亜の運転は無器用だったが、善行の車を尾けるには問題がなかった。善行の車は尾けられていることに気付かないようだ。
ただ一度、後から来た真っ赤なフェラーリが物凄《ものすご》い勢いで追い越《こ》したとき、右側のボディにいやという程ぶつかって行っただけだった。その衝撃《しようげき》で右側のドアは開かなくなったが、美智子には善行の追跡《ついせき》の方が重要だった。真っ赤なフェーラーリの窓にブルドッグの顔だけが見えた。
善行の車は真っすぐに金堀通りに向っていた。レンガ色の陸橋の下をくぐると車は速度を落した。
商店街は学校から帰る子供たちが大勢いた。子供たちは上手に車の間を縫うようにして駈《か》け廻《まわ》った。亜はおろおろして何度も急ブレーキを掛けた。野球帽をかぶった子供の前でブレーキを掛けたとき、その子供はバットで車をひっぱたいて逃げて行った。ヘッドライトのレンズが割れて飛び散っただけだった。
金堀商店街の中程で善行の車が止った。善行が車を降り、車は走り去った。商店街は駐車《ちゆうしや》禁止地域だった。亜も車を止めた。
「どうしましょう?」
「祖父の様子を見ます」
車はゆっくりと善行の後を追った。善行は藤色の大きな縞柄《しまがら》のスポーツシャツの上に銀鼠《ぎんねず》のベストを着て、しっかりした足取りで一軒《けん》の商店に入った。
「金物屋ね」
「店の奥《おく》に、銃砲店《てつぽうてん》があります。盗《ぬす》みのために銃《じゆう》を手に入れるつもりでしょう」
と、鈴木が言った。
「大量に用意して、クーデターだわ」
と、美智子が言った。
「有名な奇術《きじゆつ》に、弾丸受止めの術というのがあります」
と、亜が言った。
善行はすぐ店から出て来た。店にいたのは五分ぐらいだった。善行はそのまま向うに歩き出した。手には何も持っていなかった。
「何を注文したのか、訊《き》き出すわ。それによって誰《だれ》の説が正しかったか判《わか》ります。亜さんもいらっしゃい」
三人は車を出て、金物店に入った。
金物店の主人は長い柳刃《やなぎば》の庖丁《ほうちよう》を眺《なが》めているところだ。
「ただ今はおじい様が、どうも……」
美智子の姿を見て、主人は庖丁をケースに収めた。
「祖父はどんな銃を何丁注文したのですか?」
と、美智子が訊いた。
「銃を?」
「とぼけなくてもいいのよ。祖父は銃を注文しに来たんでしょう?」
「いいえお嬢《じよう》様。おじい様は散歩の途中《とちゆう》だと言ってお寄りになったのです」
善行の態度はどう考えても散歩の途中であるわけがなかった。
「嘘《うそ》でしょう」
「私がどうしてお嬢様に嘘をつかなければならないのですか。あれ以来、お邸《やしき》へ足を向けて寝たこともございません」
あれ、というのは賭博《とばく》の現行犯で金物店の主人が逮捕《たいほ》されたとき、善行が陰で助けたことがあったことを言っているのだ。
「じゃあ、どんな話をしていたの?」
「世間話でした。それに――」
主人はガラスケースの上に載《の》っている半紙の包みを手に取った。
「実は今朝初孫が産れまして、はい。そのことをお話しすると、このとおりお祝いまで頂戴《ちようだい》したわけです」
その言葉に嘘があるとは思えなかった。
店を出ると道に人だかりが出来ている。レッカー車が来て美智子の車を引き出そうとしているところだった。指揮をしているのが、高橋巡査部長だ。
「わたしの車をどうする気なの?」
と、美智子が叫んだ。
作業を見ていた洋菓子店の主人が言った。
「家の前に捨てていかれてね。商売の邪魔《じやま》だから片付けてもらっているところだ」
「捨てたんじゃないわ」
「捨てたのでなければ駐車《ちゆうしや》違反です」
と、高橋巡査が言った。
鈴木は二人の間に割って入った。鈴木の説明を聞いて高橋巡査はうなずいた。
「でも、鈴木主任。結局は牽引《けんいん》が必要だと思いますわ」
言われて、改めて美智子の車を見た。バンパーがねじ折れ、エンジンカバーがへし曲っている。
「こりゃひどい。どうしてこんなになったのだろう?」
高橋巡査はちょっと赤くなった。
洋菓子店の主人が説明した。
「レッカー車がどじを踏《ふ》んだんだ。あんたの車の上に鉄の起重機を落っことしたんだ」
美智子は運転席に入った。
「その車は動かないね。賭《か》けてもいいぜ。もし動いたら、デコレーションケーキの特大を持って来る」
と、洋菓子店の主人が言った。
「……動くわ。早く乗って頂戴《ちようだい》」
と、美智子が言った。
鈴木と亜は後座席にもぐり込んだ。洋菓子店の主人はあわてて店に飛び込み、動きだした車に、特大のデコレーションケーキを抱《かか》えて追い掛けて来た。亜は窓からケーキを受け取るとき、白い目を出した。
「車の調子が狂《くる》ったわね」
ハンドルを握《にぎ》っている美智子が言った。
市街を抜《ぬ》けたが、善行の姿は見えなかった。善行の車もない。美智子は当てもなく車を運転したが、結局、
「一応、家に戻《もど》ることにするわ」
ということになった。
「銃を買うのでないとすると、祖父はなぜあの店に入ったのかしら?」
「盗《ぬす》みに入る準備で、家の間取りや店の鍵《かぎ》の種類を調べたのでしょう」
と、鈴木は答えた。
「亜さんは?」
「今までの僕の考えが全部|間違《まちが》いだったことに気付いただけです」
「そりゃ、そうでしょう」
美智子は油圧計《ゆあつけい》を気にしていた。油洩《も》れがしているらしく、針がゼロに近い目盛《めも》りを差した。だが、どうにか美智子の家までたどり着くことが出来た。
美智子は塀《へい》の角に車を止めた。緩《ゆる》い坂の下三十メートルばかり先の玄関《げんかん》に、一台の車が走り出そうとしたところだった。
「小林さんの車だわ……」
「すると、四人は又集会することになりそうですね」
車が去ると、もう一台の車が向うから走って来た。
「祖父が帰って来た……」
三人は塀《へい》の角に身を寄せた。
車が玄関《げんかん》に止った。運転手が降りて、後座席のドアを開ける。最初に善行が降り、続いて白髪白髯《はくはつはくぜん》の老人が降りてきた。老人は黒羽二重《はぶたえ》の五つ紋《もん》の付いた羽織に、折目の新しい袴《はかま》を着けていた。
「何者でしょう」
と、鈴木が言った。
「どこかで見たことがあるわ。きっと、飛んでもない大物だわ」
美智子はじっと遠くの車を見詰《みつ》めた。
運転手はドアを閉めて車の後に廻《まわ》り、トランクを開けて荷物を持ち出した。六十センチ角の重そうな箱が二つ。
「鈴木さん。祖父たちが何を企てているにしろ、いよいよ大詰《おおづ》めだという気がしませんか?」
と、美智子がそっと言った。
「私にもそう思えますね」
「わたし、あの白髪《しらが》の老人の正体を突《つ》き止めなければなりません」
「お嬢《じよう》さんお待ちなさい。今、行動を起しては危険が伴うかも知れない。われわれの方も計画を練り……」
言いかけたとき、鈴木の傍《そば》を車が通り過ぎた。ひどいぽんこつ車だった。それが美智子の車だと判《わか》ったのは一秒後だった。
亜が物凄《ものすご》い勢いで車に飛び付き、ドアを開けて運転席に飛び込んだ。
美智子が悲鳴をあげた。
玄関の前にいた三人が一斉《いつせい》にこちらを見る。美智子の車は運転手を跳《は》ね飛ばし、善行をひっくり返し、紋服《もんぷく》の老人を蹴倒《けたお》して突《つ》き進んだ。車の前方に電柱が立っていた。
寸前、ドアが開いて丸くなった亜が吐《は》き出された。亜は一回転するとゆっくりと立ち上った。亜の片手にはデコレーションケーキが保たれていた。
次の瞬間《しゆんかん》、美智子の車は轟音《ごうおん》とともに電柱に突き当り、完全なぽんこつに化していた。
「おじいさま、大丈夫?」
美智子が祖父の傍《そば》に駆《か》け寄った。
「先生、怪我《けが》はしませんでしたか?」
と、亜が紋服の老人を助け起した。
「先生……ですって?」
美智子はびっくりして亜の顔を見た。
「亜さん、この方を知っているのですか?」
「新聞などで拝見したことはありますが、実際には初対面です。さっき金物店で僕《ぼく》の考えが間違《まちが》っていたことが判《わか》ったので、すぐ思い出すことが出来ました。その道では誰《だれ》知らぬものない実力者……その二つの箱もヒントになりました」
「この箱は?」
美智子は運転手の持っている箱を見た。
「新しい碁盤《ごばん》ですね」
「碁盤……」
「従って、この先生は梅津の産んだ天才棋士《きし》、岡田九段でいらっしゃいますね?」
紋服《もんぷく》の老人は袴《はかま》の埃《ほこり》を払《はら》うと、にっこりと笑った。
「なに、天才棋士《きし》と言われると面映《おもは》ゆいが、いかにも岡田九段です」
そのとき、別の車が二台|到着《とうちやく》した。車から斉藤三造と井上洋吉が現れた。三人の重鎮《じゆうちん》は岡田九段を下へも置かない丁重さで、善行の離《はな》れに案内した。
料理がどんどん減ってゆく。
美智子はエスカルゴブルゴーニュ風が気に入り、亜はアワビのステーキに、
「こんなうまいもの、生れてから口に入れたことがありませんでした」
と声を震《ふる》わせた。
鈴木はすっかり気をよくし、モーゼルの次はランソンの黒ラベルを奮発することにした。
「鈴木さん、いつから料理の趣味《しゆみ》をお持ちになったのですか?」
と、美智子が訊《き》いた。
「つい、最近です。今では、なぜもっと早くから料理を始めなかったのか、後悔しています」
「それ迄《まで》は?」
「ただ一筋に仕事仕事でした。仕事だけが私の人生でした」
「祖父もそうでしたわ」
美智子は感慨《かんがい》深そうに言った。
「家に帰ってからも仕事に追われていた祖父を思い出します。恐《おそ》らく、寝ている間も仕事のことを忘れることがなかったのではないかと」
「銀行総裁の斉藤さん。防衛庁管理局長の井上さん。大蔵省政務次官の小林さん。皆そうだったと思います」
と亜が言った。
「だからこそ努力と実力だけで高官の座につくことが出来たわけですね」
その艱難《かんなん》はとても自分の比ではなかったろうと鈴木は思った。亜はうまそうにシャンパンを飲んで、
「美智子さんの心配の種になった四人の重要人物の奇妙《きみよう》な行動、その原因となったのは、四人にとって人生そのものの仕事が、いきなりなくなってしまったことでした」
「仕事がなくなっても生活が出来ればいいことじゃないの? 旅行にも出掛けられるし、本もたくさん読めるわ」
鈴木は首を振《ふ》った。
「そうじゃありません。美智子さん、仕事はわたしたちの人生そのものだったのですよ。人生のない暮しなんて考えられますか。私にはその経験があります。そんなとき、旅行に行っても少しの感動もありませんでした。字を読んでも全然頭に入りませんでした」
「そんなとき、たまたま境遇《きようぐう》を同じにする四人が出会ったのです」
と、亜が言った。
「同じ小学校を卒業し、辛苦《しんく》の末に成功した人たち。その再会はどんなに嬉《うれ》しかったかと思います。その後、頻繁《ひんぱん》に会合を重ねたとしても不思議はありません。他に人のいないときの四人は、きっと子供の姿に戻《もど》っていたことでしょう。その幼い姿は他の人に見られたくはなかったはずです」
「それが、離《はな》れに人を近付けたがらなかった理由なのね」
「ところが二度三度会っているうちに、子供の頃《ころ》の話題などは、すぐ尽《つ》きてしまいました。同じ苦労話はそう長続きするものではありません。といって、四人共、同じ興味をそそるような趣味《しゆみ》を持っているわけじゃない。何回目かの会合のとき、たまたま黒田岩男の入院が話題になりました。四人共、黒田岩男には大変関心があります。そのとき、こんな会話が交わされたのではないかと思うんです」
亜は声を低くして密談の調子になった。
「……〈黒田の奴《やつ》、入院したそうじゃないか。もうそろそろ御陀仏《おだぶつ》になってもいいな〉〈いや、あの黒田のことだ。そう易易《やすやす》とは死ぬまい〉〈なに、死ぬさ〉〈いや、死なぬ〉〈じゃあ、賭《か》けるか?〉〈黒田の死に生きにか。面白いな。賭けよう〉〈一週間のうち、黒田が死ねば俺《おれ》の勝だ。死なねばお前の勝になるぞ〉」
「人の死に生きを賭ける?」
鈴木はびっくりした。
「とても、知事と政務次官の会話じゃありませんね。でも、考えて下さい。四人が会うときは皆子供に還っているんです。ましてあたりに他人はいません。結局、賭《かけ》は実行されたのです。一週間以内に黒田岩男が死に、田中さんと斉藤さんが勝。井上さんと小林さんが負。その日、田中邸を訪れたときの四人の表情がそれを物語っていました」
「祖父は黒田の死亡記事を読んで声をあげたわ。あれは勝利の喜びだったのね」
「他の人から見れば他愛ない賭ですが、この賭は想像以上に四人を興奮させました。人生には運というものがあります。努力の他に運を見定めての決断が必要です。人生の成功者である四人は、当然その能力に優れていた。ある意味では運を逃さない人たち。言葉を替えて言うと、博才《ばくさい》に長《た》けている人たちです。今まで博才の能力がありながら、本物の賭博《とばく》を知らなかった。だが、賭博の好きな条件は具《そな》わっていた。それが、黒田死に生きの賭で、表面にひょいと現れたのです」
鈴木は自分のことを考えていた。自分の料理|趣味《しゆみ》も、長いこと表面に現れなかったのだ。それまで、料理|嗜好《しこう》は数多くの犯人を料理することで満たされていたに違いない。
「四人は、次にどんな賭《かけ》をしたのかね?」
と、鈴木は訊《き》いた。
「金堀商店街を歩く人なら誰《だれ》でも目に立つ、金物店の若|奥《おく》さんの、お腹《なか》でした」
「お腹……いつ産まれるかで賭をしたのかね?」
「今度の場合は変えてみたようです。産れてくるのが、男か女か」
「今日、祖父はそれで態態《わざわざ》金物屋さんへ訊きに行ったわけ?」
「お産は予定日を大分過ぎていたようです。賭はずっと前にされていたに違いありません」
と、鈴木が言った。
「ばかばかしいわ」
美智子が口を尖《とが》らせた。
「あるものに興味を持ち始めるきっかけは、ばかばかしいことがはずみになるものです。私が料理に心を奪《うば》われた最初は、水の中で拡《ひろ》がってゆくわかめを見たときでした。それから少しの間、私はわかめの味噌汁《みそしる》ばかり作っていましたよ」
「四人も同じでした。花札やトランプを使う複雑な賭博《とばく》はよく知らなかったのです。四人はしばらくの間、極く原始的な賭博で満足しなければなりませんでした」
「じゃあ、わたしが離《はな》れで見付けた金貨も、賭博に使われたのね?」
と、美智子が訊《き》いた。
「そうです。コインは貨幣としての役割の他に、美術や歴史の研究の対象にもなります。同時に収集や奇術《きじゆつ》や賭博の材料になることもあります。一つの貝を見るとき、ある人は造型の不思議さに心を引かれる。別の人はその生態に興味を持つ。他の人はその価格を考える。また、その味が気になる人もいます。それと同じで、斉藤さんの持って来たコインは、賭博用具として使われたのです」
「金貨でどんな賭《かけ》をするの?」
「一枚のコインを掌《てのひら》の中に隠《かく》し、裏表を当てる賭があります」
「文字返しとか、なめかたという奴《やつ》だ」
と、鈴木が教えた。
「数多いコインを使い、何枚か握《にぎ》ってその数の丁半を当てる方法もある。握りかっぱなどと言って、昔は子供たちがやる賭博だった」
「孫子《そんし》の本は?」
亜は気の毒そうに言った。
「本は栞《しおり》が差し込まれていたでしょう。本を閉じたまま栞を差し込み、その頁《ページ》数を賭《か》けるのです」
「昔、印刷屋の職人などの間で行われた賭博です。小林氏は昔、印刷に関係したことがありました」
と、鈴木が言った。
「おみ籤《くじ》は?」
美智子の質問に亜が答えた。
「おみ籤を振《ふ》り出し、その番号の丁半を賭けます。けれども、四人は段段単純な賭では満足しなくなっていったようですね。田中氏が車や馬に関心を示すようになったことで判《わか》ります。車はカーレース、馬は競馬です。でも、カーレースや競馬に深入りする前に、四人はもっと高級な勝負事のあることに気付いたわけです」
「囲碁《いご》ですね」
「囲碁なら離《はな》れの中でこそこそ勝負を戦わす必要もないでしょう。橘中《きつちゆう》の楽しみこそ四人にとって、ふさわしい清適ではありませんか。それで、四人は専門の棋士《きし》を迎え、手ほどきを受ける相談がまとまったわけです」
鈴木は二年前、金堀商店街で起った事件を思い出していた。あのときと同様に、亜の話にいつの間にか融化《ゆうか》されていた。
鈴木はそっと美智子の顔を伺《うかが》った。亜に対する一時の幻滅《げんめつ》が変化したか気になったからだ。
美智子は冴《さ》えない表情をしていた。何かのきっかけで美智子が喋《しやべ》った言葉を、鈴木は忘れることが出来ない。
「……わたし、本当は、にこにこして料理を作っている鈴木さんより、飢《う》えた狼《おおかみ》のように犯人を追っている鈴木さんの方がずっと素晴《すば》らしいと思うわ」
美智子はちらりと亜の方を見て言った。
その亜は酒の酔《よ》いと満腹感で、顔に張りがなくなっているように見えた。
何か月か後、四人の老人が二面の碁盤《ごばん》を囲んで考えに耽《ふけ》っている写真が地方紙に掲載《けいさい》された。そのときの見出しが「争う四巨頭」とあった。
第七話 三郎町《さぶろちよう》路上
遠くで鈴虫が鳴いている。
空気は爽《さわ》やかで快適な気分だ。身体《からだ》が軽く、自由に空を飛翔《ひしよう》していた。
鈴虫が鳴き続ける。
虫の声は一段と高まり、変に騒騒《そうぞう》しくなった。響子《きようこ》の脳裏《のうり》で、丸い虫の胴《どう》へ二本の足が重なった。響子はその形が鈴虫ではなく、目覚し時計だということに気付いた。とたんに、身体が重くなった。もう空を飛ぶわけにはゆかない。
響子は手を伸ばして、枕元《まくらもと》を探り、時計のスイッチを止めた。だがベルはまだ鳴り続いている。鳴っているのは時計ではない。電話なのだ。響子はカーテンを見た。夜は明けきっていない。時計を見る。ちょうど六時。今時分電話を掛けて来る人間の心当りはなかった。間違《まちが》い電話に決っている。響子は蒲団《ふとん》をかぶりなおしたが、ベルは執拗《しつよう》に鳴り続けている。
とても寝てはいられない。響子は舌打ちして立ち上った。机の上の受話器を取る。中《ちゆう》っ腹《ぱら》なので、ただ受話器を耳に当てたままだ。
「もしもし……」
聞き覚えのない、中年の男の声だった。
「間違《まちが》いですね。こちら朝日ですよ」
切ろうとすると、相手は口早になった。
「ちょっとお待ち下さい。朝日響子博士でいらっしゃいますね」
「そうですが……」
フルネームを言われたので、響子は受話器を置く手を止めた。
「朝早くからお騒《さわ》がせして申し訳ありません。私、警視庁の捜査課《そうさか》の角山《かどやま》と申す者です」
「警視庁――」
「はい、実は昨夜事件が起りまして、私がその事件の担当になりました。先生は昨夜、タクシーで御《ご》帰宅になりましたね」
「そうです」
「若い男の方と御一緒《ごいつしよ》でした」
「そうですが……」
響子はゆっくりと昨夜の行動を思い起した。
「実は、先生がお降りになられた直後、そのタクシーが事件に遭《あ》ったのです。いえ、交通事故などではなく、極めて不可解な事件なのです。それで、先生にちょっとお話を伺《うかが》いたいので、これからお邪魔《じやま》をしてよろしいでしょうか。はあ、緊急《きんきゆう》を要することなのです」
「……やむを得ないでしょうね」
「ご協力下さいまして、有難うございます。では、三十分後、お宅に参りますので、よろしく」
角山という男は電話を切った。
段段目が覚めてくる。昨夜ベッドに入ったのが二時。四時間は寝ている。四時間という睡眠《すいみん》時間は、響子にとって別に少ない時間ではなかった。
響子は書斎の大机の前に腰《こし》を下ろし、煙草《たばこ》に火をつけた。机の上には書物と標本が散乱している。苦心の論文が、あと一息で完成するところだ。
「――それにしても」
と、響子は考える。
警視庁の角山は、響子に話を聞きたいのだと言った。あれが警視庁を動かすとは思えなかった。響子と一緒《いつしよ》にタクシーに乗った若い男の話も聞くことになるだろうか。
響子は煙草を消し、部屋着《へやぎ》に着替えて応接室のドアを押した。
ソファの中に若い男が倒《たお》れ込んで寝ていた。長い手足に締《しま》りがないが、寝顔は悪くなかった。瞑想《めいそう》に耽《ふけ》っている仏像に似ていた。
響子ははっとし、思わず赤くなった。十年前の男のことを思い出したからだ。響子が愛していた男は、寝顔が悪すぎた。響子は男の呻《うめ》きで目を覚まし、その寝顔を見てしまった。男は歯をむき出し、白目を出していた。響子は目を覚すと同時に、恋も冷ましてしまった。以来、どの男も同じだと悟《さと》ったようなつもりできたが、今、この男の寝顔を前にして、その所信が揺《ゆ》らぐのを感じた。
声を掛けてみたが起きそうにもない。響子はそっと男の肩《かた》に手を掛けて身体《からだ》を動かした。男が唸《うな》りだした。
「ああ――」
響子が呼ぶと、男は白目を出し、それからわっと言って飛び上った。
「ゆ……宥《ゆる》して下さい」
男は床《ゆか》の上に坐《すわ》り、怯《おび》えた目で響子を見た。響子はそれを見て安心し、これまでの自分の信念が正しかったことを知った。
「何だ。夢を見ていたのかい」
男はしきりに目をこすった。
「やあ、あれは夢でした。夢でほっとしました」
「魘《うな》されていたようだったよ」
「そ、そうです。僕《ぼく》が捕《とら》えられて、どこかの国の王子様にされる夢を見ていました」
夢まで他愛ないようだ。だが、すっかり目を覚した男は王子様と言っても決しておかしくはない。端麗《たんれい》な顔立ちで、まぶしいほどの好男子である。響子はそれが何となく気に入らなかった。
「だが、半分は正夢かもね。これから警察が来るってよ」
「警察ですか。でも、つかまえに来るわけはありませんね。僕《ぼく》は昨夜《ゆうべ》タクシーの中に傘《かさ》を忘れて来たので、それを返しに来てくれるのでしょう」
野放図《のほうず》もない楽天家ぶりだ。
「警察がそんなことをするものか。わたしの考えでは、あのことかもよ」
「あのこと……」
男は真顔になったが、ふいに血の気が引いていった。
「だ、だから最初|嫌《いや》だと言ったんです。警察というと、刑事でしょう」
「警視庁の捜査課《そうさか》と言ったから、多分そうだ」
「そ、そりゃ困ります。あれが警察の耳に入ったとなると、姐《ねえ》さん、どうなります?」
響子は渋《しぶ》い顔をした。警察と聞いて恐慌《きようこう》をきたすとは、どうも怪《あや》しい。
最初、この男を調査隊に加えたのは、錯誤《さくご》が原因だった。男の第一印象も何故《なぜ》か大外れだった。
男は学術関係の写真の専門家で、名前を亜愛一郎と名乗った。
「あ?」
響子が訊くと、亜は気取って、
「心のない悪という字です」
響子はまず感心した。「悪」という字から心がなくなれば「亜」だ。なかなか即妙《そくみよう》である。知的な眸《ひとみ》が、なお引き立って見えた。
響子たちの仕事は、ヒョウタングモの飛行形態の調査などだった。出発の当日、響子は皮ジャケットにジーンズで、いかつい眼鏡《めがね》を掛け登山靴《ぐつ》をはき、重いリュックサックを背負い、大きな胴乱《どうらん》を抱《かか》え込んでいた。同行の山根教授も同じような姿だった。
そこへ現れた亜を見て、響子は考え込んでしまった。
亜は薄《うす》いグレイの縞《しま》の背広に、細かい紺《こん》の水玉のネクタイ、糊《のり》のきいたワイシャツで、持ち物は小さな黒い鞄《かばん》が一つ。新婚旅行にでも出掛けるような身形《みなり》だった。
心配になった響子が訊《き》いた。
「クモの写真は大分|撮《と》っているかね?」
「クモは撮り始めてから長いです。〈雲の瀑《たき》〉という写真集もあります」
と、亜が答えた。
「ダーウィンは船上で飛行グモが雨のように海面に降り注ぐのを観測している。そのことかな?」
「そうでしょう。実に見事な雲でした」
「今度の調査の第一目的はヒョウタングモだ」
「うまく現れてくれるでしょうか」
「わたしもそれを祈《いの》っているのだが」
「ヒョウタングモなら、前に撮影《さつえい》したことがあります」
「ほう……飛んでいるところかね?」
「勿論《もちろん》、飛んでいました」
「何故《なぜ》、それを早く言わない。君の写真、ぜひ見たいな」
「あれは自慢《じまん》の写真です。ぜひ今度お見せしましょう」
亜はそう言って、どういうわけか空を見上げた。
その亜は山奥《やまおく》に入り、響子が大きな石をうんと言って起し、下から無数の蜘蛛《くも》を追い出したとき、きゃっと言って腰《こし》を抜《ぬ》かしてしまった。
「一体、どうなっているんだ?」
と、響子が叫んだ。
「先生の言うのは、虫の蜘蛛でしたか……」
「君の言うクモとは?」
「空に浮んでいる雲です」
亜は両手を拡《ひろ》げ、空を飛ぶ恰好《かつこう》をした。
「昆虫《こんちゆう》を撮影したことはないのか」
「あります。前にマイソウムシを撮《と》ったことがあります。安心して下さい」
響子はそう言われても、しばらくは安心することが困難だった。
亜が受け持った撮影の結果を別にすれば、現地での調査はかなりの成果をあげた。晩秋の快晴に恵まれ、ヒョウタングモやウロコグモの飛揚《ひよう》する瞬間《しゆんかん》を観察することも出来た。
昨夜、東京駅に着いたのが十二時半だった。山根教授とはそこで別れた。響子の荷物が増えていた。響子は半分の荷物を亜に持たせてタクシーに乗り込んだのだ。
「あのタクシーの運転手が、わたし達のことを覚えていたのだ」
と、響子が言った。
「でも、元はといえば、あの運転手の方が悪かったのではありませんか」
それは亜の言う通りだった。
タクシーの運転手は愉快な人間ではなかった。くわえ煙草《たばこ》で、ラジオの音を大きくして歌謡曲を聞いていた。
「バリカン町《ちよう》へ――」
行先を言っても返事をしない。日曜日の夜で、道には人影《ひとかげ》もない。運転手は当然のような顔で、信号など無視してびゅんびゅん車を飛ばした。
下手《へた》に事故でも起されたらたまらない。そこで響子は一計を案じたのだ。響子は運転手にやっと届くほどの声で、亜にささやいた。
「……まだ、息はあるだろうな?」
亜は最初その意味が判《わか》らなかった。響子が採集した昆虫《こんちゆう》の入っている胴乱《どうらん》をさすって目配《めくば》せすると、すぐ響子の心を知って、
「ご心配になるこたあありません」
ドスの利いた低い声を出した。
「薬の盛《も》り工合に手抜《てぬ》かりはありません。まだ息が止っているようなこたあねえはずです」
自分から乗ってきたのだ。響子は亜が一度調子に乗ると、とめどがなくなってしまう男だということをそのとき知った。
「家《うち》い帰ったら串刺《くしざ》しです」
運転手の耳が動いた。二人の会話が耳に入ったのだ。
「頭や手足が取れては困るぜ」
「委《まか》しておきなせえ――お響姐《きようねえ》さん」
響子は呆《あき》れて黙《だま》ってしまった。だが、亜はお響姐さんという言葉が気に入ったらしく、しつこく姐さん姐さんと響子を呼ぶようになった。
タクシーの運転は静かになった。バリカン町の響子の家の前で車を止め、金を払《はら》うと、ぴょこんと頭を下げ「有難うございます」と、運転手は人並みになった。
亜は去って行く車をしばらく見送っていたが、
「姐さん、傘《かさ》を忘れた……」
と、駈《か》け出したときには、車の姿は見えなくなっていた。
あれを運転手が警察に話したのだろうか。他に思い当ることはない。
「それで刑事が来たって、構わないじゃないか」
と、響子は亜に言った。
「別に悪いことをしたわけじゃない。それより、朝飯を食おう」
トーストに珈琲《コーヒー》。軽い朝食が終ったころ、玄関《げんかん》のチャイムが響《ひび》いた。
亜が玄関に立って行った。亜の肩越《かたご》しに見ると、玄関に現れたのは、紺《こん》の背広を着た小柄《こがら》な初老の男で、亜に警察手帳を見せていた。
警察官の後にもう一人、見覚えのある男が立って、小心そうな目で亜と響子をちらちら見ていたが、
「ま、間違《まちが》いありません。あの二人でした……」
と言う声が聞えた。
警察官の名刺《めいし》には角山|晃《あきら》とあった。角山刑事が改めて紹介したタクシーの運転手は、今西といい、|A《エース》交通のベテランで、十年間無事故無欠勤とのことだ。
その今西運転手は、角山刑事の横に、背を丸めて腰《こし》を下ろしていた。
「先生のことだなと、すぐに判《わか》りましたよ」
と、角山刑事が言った。
「今西さんが降ろしたという場所と、お顔立ちを聞きまして、教科書にも執筆されていらっしゃる昆虫《こんちゆう》学者、エッセイストでもいらっしゃる朝日響子博士であることは、すぐ想像が付きました。私、難かしいものは判りませんが、先生のエッセイのファンなのです」
言われると悪い気はしない。響子は亜に珈琲《コーヒー》を入れるように言った。
「――で、あの方は?」
角山はキッチンに立った亜の後姿を見て言った。
「わたしの仕事の手伝いをしている写真家です。なかなかいい男でしょう」
「昨夜《ゆうべ》、タクシーで御一緒《ごいつしよ》だった人ですね」
「若い燕《つばめ》にでも見えますかね?」
「いや、毛頭《もうとう》……」
と言いかけて、角山はそれでは失礼に当ると思ったようだ。
「いえ、えへん……先生は魅力的《みりよくてき》でいらっしゃいますから、或《ある》いは――というような考えも起るのは当然でしょうが、私は絶対――でないにしても、そうは思いませぬ」
と、力を籠《こ》めた。
キッチンで、かっちゃんと音が聞えた。
「愛公、どじを踏《ふ》むな」
と、響子は叫んだ。
亜が尻《しり》を立てるようにして、そろそろと珈琲《コーヒー》を運んで来た。角山は響子と亜を見比べて、やや落着きを取り戻《もど》したようだ。
「――さっきも電話でちょっとお話ししましたが、この今西さんは昨夜、奇怪《きかい》な事件に関わったわけです。その直前、先生方が車にお乗りになり、何か不穏《ふおん》な言葉を交されていたという。息はあるかとか、薬だとか、首が取れるとかを、今西さんが耳に挟《はさ》んでいるのです」
「確かに――でも、あれは……」
「いえ、私は先生を信じております。あれは人間のことを言ったわけではありませんね。先生が標本になさる、昆虫《こんちゆう》のことでしょう? いや、先生のユーモアはよくエッセイで承知しております」
「無論、悪気のないちょっとした洒落《しやれ》だったわ」
さっきまで応接室を見廻《みまわ》していた今西は、ほっとした顔になった。応接室には夥《おびただ》しい蜘蛛《くも》の標本が壁《かべ》に掛けられ、床《ゆか》の上にも積み重ねられていた。どうやら今西は、あの会話を過大に受け止めたらしい。角山は今西の納得《なつとく》した顔を見て、響子に言った。
「いや、それではっきりしました。そうだろうとは思いましたが、今西さんが重大事だと言うことで一応お話を伺《うかが》ったわけです。では、違うことをお訊《き》きしますがあの車にお乗りになったとき、何か気付かれたようなことはありませんか? 忘れ物があったとか車内が普通と違っていた、というようなことです」
「僕《ぼく》、あの車の中に傘《かさ》を忘れて来ました」
亜が大きな声を出した。角山が亜の方を見た。
「黒い、折り畳《たた》みの傘です。返して下さい」
「傘……あれはあなたが忘れた傘ですか?」
「そうです。ありましたか?」
「あったことはありました。……だが、すぐにお返しするわけにはゆきません」
「どうして、僕の傘が?」
「一応、証拠品となっているわけです。殺人事件のね」
亜はびっくりして立ち上り、だが立ち上ってもどうすることもないのが判《わか》ると、再び椅子《いす》に腰《こし》を下ろした。
「殺人事件ね……」
響子は静かに言った。
「そうなんです。あの車は殺人事件に使われたのです。ですから、もう一度思い出して下さい。先生がタクシーをご利用なさったとき、何か異常なことにお気付かれなかったか、どうか……」
響子は本気になって考えた。だが、角山の言う異常なものは、何も思い出せなかった。
「……別に、特別変っていたということはなかったわね。亜君はどうだった?」
「さあ……当り前のタクシーでしたね。座席には何も落ちていなかったし、メーターもちゃんと動いていました」
と、亜が答えた。
「いや、結構です。お二人の目に異状は認められなかったとすると、全《すべ》てはその後で起きたことになります」
「一体、その事件というのは、どんな殺人事件なのですか?」
響子は大きな興味を覚えた。
「いや、この今西運転手は、あなた方の降りた直後、車に屍体《したい》が乗り込んで来た、と言うのですよ」
角山刑事は当惑《とうわく》顔で言ったが、今西は目をぎょろりと動かし、一つ大きくうなずいた。響子は思わず身を乗り出した。
「――屍体が乗ってきたと言うと、屍体が口をきいて行先を言ったのですか?」
「そんな馬鹿《ばか》なことはありませんです」
と、今西が言った。思い出すと新たな恐怖《きようふ》に襲《おそ》われるらしく、声が嗄《か》れていた。
「けれども、この目で見たのです。あれは、そうとしか言い様がありません」
「それを、話してくれませんか?」
と、響子が言った。
今西は角山刑事の顔を窺《うかが》ったが、制止の様子がないのを見て話し始めた。
「……先生方をお乗せしたのは、東京駅のタクシー乗場で、時間は十二時半|頃《ころ》でした。わし、そんな高名な先生とは知らず、失礼なことを警察に申しまして、後悔しとります。はい。わし、いつでもお客さんをじろじろ見ないように心掛けてるんです。失礼に当りますから。で――バリカン町のこのお家の前までお乗せしたのが夜中の一時。走行表にもそう書いてあります」
響子は無言でうなずいた。
「わし、そのまま車を廻《まわ》して、今来たF号線を都心に戻《もど》ろうとしたわけです。そろそろ、会社に戻る時刻で、あまり都心から離れたくなかったからです。五分ばかり走らせたところで、次のお客さんに止められたです。行先を訊《き》くと、ちょうど会社の方角でした」
「よかったわね」
「わしも、そう思いましたです。そのお客さんは太い眼鏡《めがね》を掛けて黒っぽいコートを着ていました。人相はあまり覚えとりません。今話しましたように、わしはお客さんをじろじろ見ない性質《たち》で。持ち物は鞄《かばん》一つで、ごく普通の鞄だったと思います。男は物静かに新宿の三郎町《さぶろちよう》までと言っただけです」
「その人、僕《ぼく》が忘れた傘《かさ》を見付けませんでしたか?」
と、亜が訊《き》いた。
「さあ――傘を見付けたかどうかは判《わか》りませんが、傘のことは何も言いませんでした。お客さんは傘はおろか他のことも一切口にしませんでした」
「座席に立て掛けておいたのですから、気付かないわけはないんですがねえ」
亜は不服そうだった。
「その男に怪《あや》しいところは?」
と、響子が訊いた。
「別に……強《し》いて変ったところと言いますと、お客さんが車に入ると、強い消毒の臭いがしたことです。それで、病院に出入りする人じゃないかと思いました。が、いつもの癖《くせ》であまり深くは考えませんでした。あとは事故のないよう、一生|懸命《けんめい》運転に没頭したです」
「なるほど……」
違反を重ね続ける運転だから、真剣になるわけだ。
「三郎町まで二十分足らずで。はい、昨夜は特に車が少なかったです。お客さんを降ろしたのは三郎町のT字路の手前で。突《つ》き当りは三郎公園です。T字路の左角がビルの建設工事をしておりまして、その手前まで来ると、お客さんがここでよいと言ったのです」
「あの辺は小さな商事会社などの多いところだ」
「先生はよくご存知です。わしが車を止めますと、お客さんはメーターをちゃんと読んでいたようで、釣銭《つりせん》のないようにお金を用意していて、すぐ外に出て行きました」
「男の行先は?」
「さっきも刑事さんに訊《き》かれたのですが、別に注意をしておりませんでした」
「持ち物は?」
「それは見ていました。鞄《かばん》が一つ。バリカン町で車を止めたときのままの姿でした。――T字路は右折禁止になっております。わしは信号の変るのを待ってから車を左に廻《まわ》しました。それから、もののワンブロックも進まないうち、又、一人のお客さんに止められました」
「真夜中だというのに、ついていたわね」
「こうしたことは、まあ時時ですがあることはあるです。わしはすぐ車を止め、ドアを開けました。そのお客さんはごく普通に身体《からだ》を屈《かが》めて車の中に入ろうとしました。そのとたんです。ぎゃっと言う声がしたと思うと、お客さんは身体をかがめたまま後ずさりしました。すぐには腰《こし》も立たないようです。わしは何事が起ったのだろうと、ひょいと後座席を見ましたが、あんなに驚いたことはありませんです……」
今西運転手は首を縮めるようにした。
「座席の下には黒っぽいコートを着た、血まみれの男が倒《たお》れておりました。はい、首が飛んでもない方向にねじれて眼鏡《めがね》を半分外した目が天井《てんじよう》を睨《にら》んどりました。その顔を見て二度びっくり。何とその人は、たった今、T字路の手前で、車を降りて行った人だったのです……」
何とも奇怪《きかい》な話である。
だが、当の今西運転手は寝呆《ねぼ》けているとも、酔《よ》っ払《ぱら》っているとも思えない。大真面目《おおまじめ》なのは今西ばかりではない。角山刑事も同じだった。となると、響子の好奇心は増増《ますます》かきたてられた。
「……わたし達がタクシーの中にいたとき、勿論屍体《もちろんしたい》などはなかったわ。とすると、車の中に屍体を運び込んだ誰《だれ》かがいるわけね?」
「それが、いない、と言うのです」
今度は角山刑事が代って答えた。
「先生達がタクシーを降りてから、問題の客を乗せるまで、わずか五分間。その間、今西さんは一度もドアを開けていません。乗って来た客は鞄《かばん》が一つきり、その間屍体を車の中に運び込んだりすれば、いくら今西さんが客に無関心でも、気付かぬというわけはありません。三郎町までの二十分間、客は乗せてから降りるまで完全に一人きり。ドアは無論、窓も閉められたままです。問題の客が三郎町で車を降りる前後も同じでした。客は釣銭《つりせん》のないように料金を払ってすぐ車を降りたわけで、車のドアが開かれたのはほんの二、三秒でした。その間、今西さんに気付かれぬよう、屍体《したい》を車の中に運び込むなど、絶対に不可能なことなのです」
「それなのに、次の客が車を止めたときには、もうあの忌《いま》わしいものが座席の下に転がっていたのです」
今西は泣き出しそうな声を出した。
「わしはその客が車の中で何者かに殺され、幽霊《ゆうれい》となって車を降りて行ったとしか考えられんのです」
響子は腕《うで》を組んだ。
「でも、その人が殺されたものなら、殺した人間が車の中に乗っていなければならないはずだわ」
「あの男を殺したのも、きっと、幽霊です」
今西の思考は、完全に混乱しているようだった。
「刑事さんはこの人の話を、どう思いますか?」
「そう、納得《なつとく》はゆきませんが、信用するしかありませんね。今西さんがそんな話をでっち上げる理由はないのですから。それに、現実問題として、屍体は警察で確認されているわけです」
「警察への通報は、今西さんが電話をしたのですね?」
「そうです。わしはいつもテレビの刑事物を見ています。それで現場には手を付けるなということを知っているです。今言ったブロックの角に公衆電話がありました。屍体《したい》を最初に見たお客さんが教えてくれたのです。わしはそこから警察に電話をしたです」
「その、第一の発見者は?」
角山が答えた。
「余程驚いたのでしょう。私達が現場へ駈《か》け付けたときには、その人の姿はいなくなっていましたよ。目下《もつか》、近所を聞き込み中です。ありふれたジャケットを着た男だったそうですがね」
「屍体の死因は?」
「現在、解剖中《かいぼうちゆう》ですがね。胸に大きな突《つ》き傷がありまして、それが致命傷《ちめいしよう》だと思いますね」
「ということは、他の傷もあったのですね」
「そうです。屍体には他に大変|特徴《とくちよう》のある傷がありました。――いや、傷と言っていいかどうか。屍体の首は、完全に切断され、胴《どう》と離《はな》れ離れになっていたのですよ。……おや、どうなさいましたか?」
見ると亜が白目を出し、上体がゆっくりと倒《たお》れかかっているのだ。響子が亜の身体《からだ》を支えると、元の目に戻《もど》った。
「……いや、もう大丈夫です」
「そうでしょう」
角山は気の毒そうに亜を見た。
「気持の良い話じゃありませんからね」
「本当によかった」
と、亜が言った。
「僕《ぼく》たちがたまたま問題の客の次の客になっていたら、それと対面することになっていたでしょうね。そうでなくて、本当に良い日でありました」
亜の述懐をいつまで聞いていても始まらない。響子は質問を続けた。
「それで、その屍体《したい》の身元は?」
「今西さんがその客を乗せたというバリカン町で、病院関係を捜《さが》したところ、すぐに屍体の身元は判《わか》りました。屍体は鷹狩《たかかり》外科医院の院長鷹狩|勝直《かつなお》という医者でした」
「あの、鷹狩先生が……」
同じ町内の医師だ。あまり流行《はや》らない開業医で、響子は一度、足の親指の爪《つめ》を剥《は》がしてしまったとき、手当てを受けたことがあった。そのときの鷹狩は、あまり器用とは言い兼ねる手付きで、酒臭い息をしていた。
鷹狩は五十歳前後だ。妻と二人暮し。通いの看護婦が一人。息子《むすこ》は医大に通い、学生寮に入っている。
「あの鷹狩先生が、タクシーの中で殺されるとはね――」
「いや、それはちょっと違います」
角山が口を挟《はさ》んだ。
「私、鷹狩医師の屍体《したい》が、タクシーの中で発見された、と解釈しています」
「なるほど……」
「いくら何でも、狭《せま》い車の中で人を殺し、首を切断するのを、今西さんが気付かぬわけはありません。車の中の血痕《けつこん》が少なかったところからすると、犯行は他の場所で行なわれたに違いありません」
「そして、屍体を何等かの方法で、タクシーの中に廃棄《はいき》したわけね」
「飛んでもない話ですが、そのようです」
「その、犯行の場所というのは?」
「常識的に外科医院の診療室《しんりようしつ》がすぐ連想されますね。あすこには、色々の道具が揃《そろ》っています」
「そして、実際には?」
「注意深く片付けられてはいましたが、鑑識さんは診療室だとしても、常識的には考えられない、いくつかの血痕《けつこん》を検出したようです」
「鷹狩先生は奥《おく》さんと一緒《いつしよ》に住んでいたでしょう。奥さんはそのことに、全然気付かなかったのですか?」
「鷹狩医師は昨夜八時に外出したままだと言うことです。奥さんは医師の帰宅に気付いておりません。あの夫婦の生活では、それが日常になっているようですね」
「それで、犯人の見当は?」
「今のところついていません。それで、昨夜同じタクシーを利用された先生のところへ、朝早くからお話を伺《うかが》いに来たようなわけなのです」
「あまりお役には立たなかったわね」
「いや、私はただ、事実を聞かせて頂いただけで、充分なのです。万一、これからでも、何かお気付きになったことがあれば、いつでも連絡をお願い致します」
「後で、傘《かさ》を返して下さい」
と、亜が言った。
「面白いな」
響子はテレビをつけた。だが、ちょうどどの局もニュース番組が終ったところだった。
「そうでしょうか」
亜が気のない返事をした。
「君は面白く思わないのか?」
「雲を見ている方が面白いです」
「蜘蛛《くも》ばかり見ていると、ときには飽《あ》きがくる。気分|転換《てんかん》が必要だ。どうやって犯人は屍体《したい》を車の中へ捨てたと思う?」
「そんなことを考えるだけで胸が悪くなります」
「うん、これは凄《すご》い気分転換になるとは思わないか?」
「僕《ぼく》は転換したために、気分が悪くなっているところです」
「行って見よう」
響子はテレビを消して立ち上った。
「どこへです?」
「決っているじゃないか。殺人現場へだ。刑事や新聞記者がうんと来て面白いぞ。テレビの中継車も駈《か》け付けているかも知れない」
亜もしぶしぶ立ち上った。
「カメラを忘れるなよ」
「カメラ、どうするんです?」
「判《わか》らないかなあ。何か起ったらただちに撮影《さつえい》し、新聞社に高く売り込もう」
「それは、向うが本職でしょう」
「本職だって、見落しということがある」
家の中にいては気付かなかったが、外に出ると盛《さか》り場のような賑《にぎ》やかさだった。鷹狩《たかかり》外科医院の前には何台もの車が止り、人だかりが出来ていた。
「見ろ、もっと早く来ればよかった」
と、響子が言った。
医院の前にはロープが張り巡らされ、色色な人間が慌《あわただ》しく出入りしている。角山刑事の顔も見えた。角山は三角形の顔をした小柄《こがら》な洋装の老婦人に何か渡しているところだった。響子の顔を見ると傍《そば》に寄って来た。
「先刻はどうも……何か、新事実でも?」
「別にそうじゃないの。……あのお婆《ばあ》さんは?」
「いえね。病院の庭に小銭を転がしてしまったのです。中に入れるわけにはゆかないでしょう。それで、私が小銭を立て替えてやったのです。しつっこい婆さんでね」
「刑事さんのお仕事も大変ね」
「なかなか、楽じゃありません」
「で、そのお仕事振《ぶ》りを、ぜひ拝見したいと思って」
「仕事振り?」
「そう、わたし、殺人現場というもの、一度も見たことがありません。後学のため、ぜひ見学したいの」
「そりゃ、どうも……」
角山は顎《あご》を撫《な》でた。
「ごもっともですが、一般の方を現場に入れるわけにはゆきませんです。たとえ尊敬する朝日響子博士といえどもです。ここはテレビの撮影《さつえい》現場ではないのですから」
「そりゃ、判《わか》っているわ」
「面白くもなんともありませんよ。矢張《やは》り博士は蝶《ちよう》などと御一緒《ごいつしよ》の方が、お映りがよいと存じますが」
「映りがよくっても、本当はこういう仕事がしてみたかったの。昆虫《こんちゆう》を宛《あ》てがって興味を他に向けたのは、両親の陰謀《いんぼう》だった」
「結構なご陰謀ではありませんか。私、ちょっと忙《いそが》しい――失礼しますよ」
角山はロープの中に入ってしまった。
「ふん」
響子は鼻を鳴らして亜を振り返った。
「こうなったら、第二の現場へ行こう」
「第二の現場?」
「屍体《したい》が発見された場所だ。三郎町のT字路へ行こう」
鷹狩医院の前を離《はな》れてタクシーを拾う。
「三郎町へ」
「はい、早稲田《わせだ》の三郎町ですね」
愛想がいい。響子は話し掛けてみた。
「わたし達、何人に見える?」
「お二人です。お楽しみで」
「そんなことを訊《き》いちゃいない。もし、この座席に三人いたらどうする?」
「お天道様が黄色に見えるってのは聞きますがねえ。……人が二重に見えるってのはまだ知りません」
ラジオのニュースが始まった。アナウンサーは鷹狩勝直の殺害事件を喋《しやべ》りだした。聞いているうちに、運転手が落着かなくなった。
「お客さん、三郎町でしたね。変な忘れ物をしないで下さいよ」
三郎町のT字路の手前で降りると、運転手は何度も伸び上って後座席を覗《のぞ》いた。
「なるほど、タクシーの中に屍体《したい》を捨てるのは、ちょっと無理のようだ」
響子はあたりを見渡した。少し先に信号があった。道は突《つ》き当りで、信号の向うに公園の緑が見える。今西運転手の話した通り、道は右折禁止だ。今乗って来たタクシーが、左に曲って行った。
左角の建物が工事中だった。そう大きくはない。五階建てで、赤い鉄骨が組み上げられ、中には機材が積み重ねられている。工事現場に作業員が出入りしているが、通行人の姿はなかった。
響子は工事現場を左に曲った。二台のコンクリートミキサー車が唸《うな》りを上げて止っていた。建築中の建物の向う隣《どなり》は四階建てのビルで、一階がまだ店を開けていない中華料理店、地下がスナックのようだ。二階から上は事務所で、雑多な看板が掛っている。その向うも、同じようなビルが見える。響子はそのあたりで立ち止った。
「今西運転手が第二の客に止められたのは、この辺りだな」
「そのようです」
「彼が警察に通報した公衆電話はどこだろう?」
「このブロックの、向うの角じゃありませんか」
「行ってみよう」
角を曲るとすぐ、ガラス張りの公衆電話のボックスが見えた。中に入ってみる。ダイヤルを廻《まわ》す。変ったことはない。すぐ外に出る。亜が待っている。
「どこに掛けたのです」
「一一〇番だ」
「出ましたか?」
「ちゃんと警察につながった。異状はない」
「これからどうします?」
「現場をもっとよく見よう。現場|百遍《ひやつぺん》ということを聞いたことがある」
二人が電話ボックスの前から、今の道を引き返そうとしたときだった。ビルの建築工事現場のあたりで、わあわあ言う声が聞えてきた。見ると、三、四人の作業員が、せわしくコンクリートミキサー車を囲んで走り廻っている。
「何だろう?」
響子は足を早めた。
ミキサー車の回りに、生コンクリートが散乱している。作業員の動きが普通ではない。工事に何かの手違いが起きたようだ。ミキサー車によじ登っている作業員が叫んだ。
「ひでえいたずらをしやあがった! こいつは事だぜ」
事態は明白だった。車のミキサーから流れ出した生コンクリートが、ブリキの樋《とい》を伝ってどうしたわけか工事現場の隣《となり》のビルの地下に注ぎ込まれているのだ。
作業員は生コンクリートの流出を止め、樋《とい》を外しにかかっている。
すると、地下の階段を登って来た男が入口に現れた。角刈《かくが》りにした目鼻の大きな中年の男で、両手にセメントの粉が付いている。階段を登りきるや、かっと大きな目を開いた。
「貴様《きさま》ら、地下室をコンクリート詰《づ》めにする気か!」
一人の作業員が、ヘルメットを取って、ぺこぺこ頭を下げた。
「申し訳ありません。すぐ、処理しますんで、勘弁《かんべん》して下さい」
「責任者は誰《だれ》だ?」
「それがまだ来ておりませんので。現れ次第、改めてお詫《わ》びに……」
「全く馬鹿《ばか》なことをしたもんだ」
「でも旦那《だんな》、こりゃわれわれの粗相《そそう》じゃねえんです」
「何だと?」
「どこに態態《わざわざ》地下にコンクリートを流す馬鹿がいますか。われわれのちょっとした隙《すき》に、誰かがこんな手の込んだいたずらをしやがったんです」
「そいつは誰だ?」
「それが……判《わか》らねえんで」
「つべこべ言うな。車の管理はお前達の責任だ」
「へい、全くその通りで、別に言い訳をしようと思っているわけじゃあありません。ここのところは、どうぞこらえて下さい」
角刈りの男は口をへの字にしていたが、やがて地下の階段を降りて行った。別の作業員がバケツとシャベルを持って、男の後から地下に降りて行く。
「朝っぱらから、何てこった」
ヘルメットを手に持った男が舌打ちをした。男は響子に気付くと、声を掛けた。
「奥さん、あっちから歩いて来た人だね」
「そう」
「誰《だれ》かとすれ違わなかったかね?」
「誰か?」
「そう、こんないたずらをした奴《やつ》だ。車のこっち側には俺《おれ》がいたから、こんなことをした奴が通り掛ればすぐ判る。逃げて行ったとすれば、道の向う側だ」
「さあ――誰ともすれ違わなかったわ」
男は亜の方を見た。
「僕《ぼく》も先生と一緒《いつしよ》でした。誰もこっちからは来ませんでした」
「野郎、消えるわけはねえんだが、それにしても妙《みよう》だ」
車道は引っ切りなしに車が走っている。車道を突っ切るのは危険だし、反って人の目に立つだろう。
「変な道だな。屍体《したい》が現れると思うと、人が消える……面白い」
響子がぶつぶつ言った。
「俺達《おれたち》の災難が、そんなに面白えかね?」
と、作業員が言った。亜はあわてて響子の袖《そで》を引いた。
「先生、いけません。この人は気が立っています。早く帰りましょう」
信号が変わったところで、亜は歩道を先に立って渡りだした。
「君はこんな変な事件を目の前にして、よく平気でいられるな」
響子が追い付いて来た。
車道を渡って振《ふ》り返ると、灰色の空に五階建ての鉄骨が怪物《かいぶつ》の骨みたいに見えた。
「コンクリートを地下室に流し込んだ人は、消えたわけじゃないということが判《わか》ったので落着いていられるだけです」
と、亜が言った。
何気なく聞いていた響子は、亜の言葉にひっかかるものがあったので、心の中でもう一度繰り返してみた。
「何だって?」
響子は目を丸くして亜を見た。
「すると、君はその人間がどこに行ったのかを知っているのか?」
「その人が消えたとすれば、このあたりの建物の中に飛び込んだのでしょう。僕《ぼく》の考えでは、地下室のスナックですね」
「地下室……」
「工事現場には作業員がいました。道の反対側には僕たちがいた。その間でミキサー車に細工をした人なら、どこかの建物の中に駈《か》け込むより他に行く所がありません。一番早く駈け込みそうなところは、地下のスナックでしょう。その証拠《しようこ》に地下から出て来た角刈りの人の手に、コンクリートの粉が付いていたじゃありませんか。手に付いた生コンクリートが乾いて粉になるには、時間が早過ぎました。彼の汚《よご》れた手は、ミキサー車の機械を触ったからだとは思いませんか」
「すると、その犯人は角刈りの男か……」
「彼は作業員の隙《すき》を見て、ミキサーの栓《せん》を開け、樋《とい》を地下につながるようにちょっとなおし、自分はそのまま地下に戻《もど》ってしまったのです。これだけのことは、数秒で出来るでしょう」
「何故《なぜ》そんなことをした?」
「それは――タクシーの中から屍体《したい》が出て来た事件にも関係があると思います」
「鷹狩医師殺し……その謎《なぞ》も解けたのだな」
「まあ……」
返事は頼《たよ》りない。だが、響子は亜が変なことを考えている、と直感した。
「おい、勿体《もつたい》ぶるな。全部話してしまえよ」
「話してどうします?」
「刑事に教えなければならないだろう」
「どうも……刑事さんの前ではうまく喋《しやべ》れそうもありません」
「決った。こうしよう。わたしに全部話せ。そうしたら、わたしが刑事に話してやろう」
「それならまあいいでしょう」
「じゃ、最初に、犯人はどうやってタクシーの中に屍体《したい》を捨てることが出来たんだ?」
響子はバッグから煙草《たばこ》を出して亜にくわえさせ、火をつけてやった。亜は気のなさそうな声を出した。
「模型の小さな家なら、工場などで作り、車でお客さんのところに運ぶことが出来ます。でも五階建てのコンクリートの建物ともなるとそうは行きません。ばらばらの建材を現地に運び、そこで組み立てるわけです……」
そのときタクシーの空車が通り掛った。亜は手を上げ、車の中にそそくさと乗り込んだ。
「……五階建てのビルはそのままじゃ運べませんわ。ばらばらの建材を現地に運び、そこで組み立てるわけね」
と、響子が言った。
「当り前ですな」
角山刑事は気抜けした返事をした。
響子の応接室には多量の花が飾られている。演出を効果的にするため、響子が花屋から取り寄せたのだ。
角山の隣《となり》で亜が情ない顔をして、傘《かさ》をひねくっている。傘を返してもらったものの、骨の工合がすっかり悪くなってしまったようだ。
「そう、実に当り前な話ですわ」
と、響子が言った。
「でも、その当り前なことに、今まで気付かなかったんですから面白いわね。そのために、今西運転手は鷹狩《たかかり》先生が死んで、その幽霊《ゆうれい》が車を降りて行ったなどと言い出す始末です。愉快だわね」
「先生一人で面白がっていますね。すると、先生はもう犯人が誰《だれ》だか知っているわけですか」
「犯人は某《ぼう》としておきましょう」
「……某ですか」
「某は鷹狩先生を殺害しました。ところが犯行後、落着いて考えると、屍体《したい》のやり場に困ってしまったのです。ということは、その場所で鷹狩先生の屍体が発見されれば、即《すなわ》ち犯人自身が疑われるような場所、つまり、犯人は自分の居住所ないし仕事場で鷹狩先生を殺害したのです」
「ちょっと待って下さい。すると、鷹狩医師が殺されたのは、鷹狩医院の中ではないと言うのですか?」
「そうです。今朝、刑事さんはわたしに、現場は注意深く片付けられていたと言いましたが、わたしは違う考え方をしました。その現場は急いで偽装《ぎそう》されたために、細かいところまで行き届かなかった。犯人はわずかな血痕《けつこん》を、疑わしそうな場所に残すだけで、警察の注意をそちらに向けようとしたのだ、と」
「では、本当の殺害現場は?」
「……某所《ぼうしよ》としておきましょう」
「犯人も某でしたな」
「某は某所で鷹狩先生を殺害します。そして、今言った通り、屍体《したい》の処置に困ってしまった。一番いいのは屍体を鷹狩医院に戻《もど》してやること。でも、現実として屍体を出したり運んだりするのは、大変に危険なことです。犯行の日は日曜の夜、人通りがないといっても都会ですからね。犯人は思い余った挙句、屍体の首だけを切り離《はな》して、鞄《かばん》に入れ、鷹狩医院に向ったわけです」
「首だけを……」
「そう、犯人が運んだのは首だけでした。犯人がそのとき、鷹狩先生に似た変相をしたのは、事件を殊更《ことさら》、胡散臭《うさんくさ》いものにして、警察の注意を鷹狩医院に向けるためでした。今西運転手は自分でも乗客を観察しない方だと言っていましたね。それなのに、車を降りて行った問題の乗客を、一目で屍体《したい》と同一だと断定する方が不自然ですわ」
「その矛盾《むじゆん》は、私も判《わか》っていましたよ。今西さんは昨夜の先生方を、殺人結社の女首領とその子分だと考えていたのですよ。多分に事実を誇張《こちよう》して見る癖《くせ》がありました」
「鷹狩医院に入ったのは、鷹狩先生が持っていた鍵《かぎ》を使ったのでしょう。犯人は診療室《しんりようしつ》に入ると、適当な場所に先生の血痕《けつこん》を残し、すぐ医院を出ます。たまたま通り掛ったのが今西運転手のタクシーで、犯人は車を止め、三郎町までと命じたわけです」
角山刑事の顔が真剣になったのが判った。響子は続けた。
「犯人は消毒薬を鞄《かばん》かどこかに付けていました。無論、運転手に血の臭《にお》いを気付かれぬためです。三郎町に着くまで、犯人はすることがありました。鞄を開けて屍体《したい》の首を取り出し、用意したコートを何かでふくらませ、胴体《どうたい》らしく見せ掛けたのです」
「どうやら、そこで僕《ぼく》の傘《かさ》も使われたらしい」
と、亜が言った。
亜は自分の傘をあれこれいじっていたが、それで人間の胴体のような形を作り出していた。角山刑事がそれを見て、あっと言うと絶句した。
「犯人は胴体に見せる他の道具も用意していたのでしょうが、誰《だれ》かの忘れ物を利用するのもいい考えだわ。始末をする必要がないんですものね」
「すると、われわれが検視した、本物の胴は?」
と、角山が訊《き》いた。
「あとで運んだのよ。建築の資材みたいにね。――犯人は三郎町のT字路の手前で車を止め、手早く料金を払って車を出る。ええ、犯人はまだすることがありました。T字路の左側は建築現場になっています。ちょうど鉄骨が組み上ったところ。犯人は車から降りると、工事現場に入り、コートを脱《ぬ》ぎ眼鏡《めがね》を外して、鞄《かばん》と一緒《いつしよ》に一時工事現場の中に置いておきます。そして、工事現場を抜《ぬ》け、T字路の向う側に出て待っています。すると、信号待ちをしていた今のタクシーが左に曲って走って来る。犯人は再びそのタクシーを止め、今度は屍体《したい》の発見者として登場することになります」
「第二の客も、犯人だった……」
「犯人は今西運転手に早く警察に連絡するようにせき立てる。公衆電話のある場所も犯人が教える。今西運転手が屍体を見たのは一瞬《いつしゆん》のうち。屍体の胴《どう》と首が切り離《はな》されていることが判《わか》りませんから、異様に曲った首だけが特に強い印象となり、胴体が作り物だということまで気付かなかったのです」
「当然、そうでしょう……」
「わたし、さっき三郎町の現場へ行って来ましたのよ。公衆電話にもちゃんと入って。ええ、電話ボックスはそのブロックの先を少し曲ったところにあるので、ボックスに入ってしまうと、駐車してあるタクシーのところは、全然見えなくなってしまうんです。今西運転手がその電話ボックスに入った隙《すき》に、犯人は、多分人気のない工事現場にでも隠《かく》しておいた屍体《したい》の胴体の方を引き出し、タクシーの中に投げ込んで、作り物の胴と交換してしまいました。あとは工事現場に残した品物を持って逃げ出せばよかったのです」
「犯人は遠くに逃げたのではありませんね。すると、本当の犯行現場は、その近所に違いない……」
「某所にいる、某は――」
「私の掌中《しようちゆう》にあるのと同じです」
角山刑事は立ち上った。
今まで傘をいじっていた亜が口を挟《はさ》んだ。
「その場所には、多分|血痕《けつこん》などが残っているでしょうね。今ごろ犯人は、その痕《あと》を隠蔽《いんぺい》する作業に没頭している最中かも知れませんよ」
亜の言う通りだった。
警察が三郎町T字路あたりの聞き込みを始めると間もなく、一人の男がペンキの缶《かん》を持って戻《もど》って来た。訊《き》くと、朝コンクリート車の手違いで、自分の店の中に生コンクリートが流れ込んでしまった。壁や床が汚《よご》れたので、店を休業して塗装《とそう》するのだと、もっともらしい話をしたが、刑事は亜の話が頭に残っていたので欺《だま》されなかった。詰問《きつもん》すると最後には鷹狩《たかかり》殺しの一切を自白した。もう一歩のところで現場の血痕がそのままになっていたため、それが動かぬ証拠《しようこ》となった。鷹狩は某《ぼう》発展途上国の国王の注文で、特殊な植物から神経性の毒物を抽出《ちゆうしゆつ》し精製し、犯人の手を通して密《ひそ》かに輸出しようとしていたところ、金銭上の話がこじれ、犯人は発作的に鷹狩を刺殺《しさつ》したということであった。
第八話 病人に刃物《はもの》
歩幅《ほはば》が狭《せま》く、重い感じの足音は、陽里《ひさと》看護婦のものに違いない。
磯明《いそあき》は読んでいた校正刷りを手早く閉じ、サイドテーブルの上に載《の》せた。入院中の身体《からだ》で仕事をしていることを悟《さと》られぬよう、テーブルの上のリンゴをつかみ、果物ナイフを手に取った。
ドアが開くと、リストの愛の夢、第三番イ長調の旋律《せんりつ》と一緒《いつしよ》に、陽里看護婦が部屋《へや》に入って来た。大柄《おおがら》で、目鼻だちは整っているのだが、いつも白粉《おしろい》っ気がなく、胸を張り肩《かた》をいからせている。陽里が大声を出すたびに、磯明はいつも勿体《もつたい》ないと思う。ほんの一匙《さじ》の女っぽさがあれば、三十を越《こ》すまで、独身でいることはなかっただろう。
陽里はじろりと校正刷りを見、それから磯明の手元を見た。
「皮をむいているの? それとも、削《けず》っているの?」
「きざんでいるとも見えるでしょう」
その場をとりつくろったような皮のむき方だということは、すぐに判《わか》る。それに、ナイフの切れ味が凄《すご》くいいのだ。アフリカから帰った友達の土産《みやげ》だった。柄《え》に鷲《わし》の彫刻《ちようこく》があり、現地ではこのナイフで固い木の実も叩《たた》き割るそうだ。
「もう少し運動した方がいいわね。回復が遅《おく》れますよ。それに、今日はとても暖かですよ。緑も一段と冴《さ》えています」
「はい、判《わか》りました」
担当の外科医、磯明の手術に当った井池《いいけ》もそう言った。陽里は井池の思想に忠実な看護婦だった。盛栄堂《せいえいどう》病院は病後のリハビリテーションにも熱心な病院で、十階の上の屋上には、患者《かんじや》が利用できる庭園があり、訓練用の固定自転車や、平行棒などの設備も整っている。
だが、磯明は庭園に出て日向《ひなた》ぼっこをしながらぶらぶら歩く気は全くない。身体《からだ》が三つあっても足りないほど、忙《いそが》しいのだ。手術を言い渡されたときは、死刑の宣告も同じだと思うほど、がっかりしたものだ。
幸い手術の経過は順調で、昨日はふらふらしながらもベッドから降りて、部屋《へや》を歩くことができるようになった。そうなると、じっとしていられず、社に電話を掛けて、そっと校正刷りを持って来させたのだ。
陽里は形式的に磯明の脈をとり、熱を計った。
「そろそろ、退院になりませんか?」
カルテに書き込みをしている陽里に訊《き》いた。
「まだ無理でしょうね。むずかしい病気ですから」
陽里はカルテを見たまま答えた。
「今週中に退院できると有難いのですが」
「……井池先生に訊いておきます」
「よろしくお願いします」
顔をあげた陽里は、空になった隣《となり》のベッドをちょっと見たようだった。
磯明は今週中の退院は、ちょっと無理かなと思った。病院だって商売だ。ベッドを長く空けておくのは嫌《いや》だろう。
磯明の病室は二人|部屋《べや》で、隣《となり》のベッドは前の男が退院してから、一週間も空いたままになっている。
二日ばかり相部屋だった男は、堤俊夫《つつみとしお》という四十前後のひどく痩《や》せた男で、胃を切ったところだった。貰《もら》った名刺《めいし》には「堤経済出版社」とあり、同業憐《あわ》れむですななどと馴《な》れ馴れしかったが、その出版社は、磯明の聞いたこともない名だったし、堤の風采《ふうさい》も一向それらしくは見えなかった。一応出版社を名乗っている総会屋に違いないと睨《にら》んだ。その堤の手術も、井池の執刀《しつとう》だった。
井池の信奉者の心証をよくするには、井池を誉《ほ》めるのが最良だろう。
「井池先生は、いつもお忙《いそが》しい方ですね」
と、磯明は言った。
だが、あまり効き目はなかった。
「先生はこれからも手術があります」
陽里はぶっきら棒に言うと、再び校正刷りを見て、軽蔑《けいべつ》したように肩《かた》をいからせて、部屋から出て行った。
手術すると休養する間もなく、仕事に追い廻《まわ》されている男を、だらしないとでも思ったのだろうか。そんなことはどうでもいい。磯明は看護婦の姿が見えなくなると、リンゴとナイフを放り出し、校正刷りを毛布の上に拡《ひろ》げた。
青蘭社《せいらんしや》は自費出版専門の、小さな会社であった。小さいが堅実な営業で、業界には信用がある。今、手にしているのは、ある易者《えきしや》の私家本で「三易《さんえき》の発祥《はつしよう》」という題が付けられ、中国の夏の連山、殷《いん》の師蔵、周の周易という三つの易法を研究した本の校正刷りであった。校正刷りにはすでに「校了」の印が押されていたが、著者は厳格な男で、原稿は全《すべ》て旧仮名|遣《づか》い、活字もそれに従って旧字体と、強い指定があるので、自分も目を通しておきたいと考えたのだ。
磯明は何気なく一番上に綴《と》じられている扉《とびら》を見た。そこにある活字が跳《は》ねあがって見えたのは、そのときだった。磯明は一瞬《いつしゆん》、自分の目が狂《くる》ったのではないかと思った。
扉の題名が「三助の発情」とされていたからだ。
今|迄《まで》、何度扉を見ただろう。先入感とは恐《おそ》ろしい。「校了」の印が押してある扉に誤植があるとは、思ってもみなかった。
その上、事もあろうに「三易の発祥」が「三助の発情」とは!
陽里は扉の活字を読んだのに違いない。軽蔑《けいべつ》の目の意味も判《わか》る。磯明はエロ出版社の編集長と思われたのだ。
手術の経過がよく、校正刷りを見る気になったのが幸いだった。このまま本ができ上り、著者の手に渡ったらと思うと、慄然《りつぜん》とする。損害よりも、著者の激怒《げきど》が恐ろしい。何人もの目を通り誰《だれ》も誤植に気付かなかったのは信じられないが、現実にこうした誤りが起るのは、必ず悪魔《あくま》がどこかに存在していて、いたずらをしているに違いない。
磯明は小銭をつかんでベッドから飛び降りた。右|大腿部《だいたいぶ》の傷がきりきりと痛むが、寸刻を争う事態なのだ。磯明はスリッパを突《つ》っかけると、ばたばた廊下《ろうか》を走り出した。
向うに歩いて行く陽里を、構わずにびっこで追い越《こ》す。
「磯明さん? まだ駈《か》けてはいけません」
陽里は呆《あき》れて大声をあげた。
階段の傍《そば》に赤電話がある。電話の前に三角形の顔をした、洋装の小柄《こがら》な老婦人が立っていて、しきりに小銭入れを覗《のぞ》いているところだ。磯明は小銭を持っているので、
「急用です、お先に失礼――」
老婦人より先に、電話へ小銭を投げ入れた。
「わたしだって……おじいさんが」
むしゃぶり付かれても相手にしない。手早くダイヤルを廻《まわ》す。
「青蘭社《せいらんしや》か? 俺《おれ》だ」
「違いますわ」
女性の綺麗《きれい》な声だった。
「こちらは、花の湯です」
「失礼……」
自分の社のダイヤルを間違《まちが》えるとは、よほどの興奮だ。二度目はひどく慎重《しんちよう》になった。
「三助の発情、花の湯……畜生《ちくしよう》め」
磯明がつぶやくと、老婦人は立ち去った。気持が悪くなったらしい。
聞き馴《な》れた社員の声が響《ひび》いた。
「はい、青蘭社です」
「おい……俺《おれ》だ」
「やあ、編集長ですか。容態が変りましたか?」
「大いに変ったね。今、血圧がぐんぐん上がっているんだ。〈三易の発祥《はつしよう》〉はどうした」
「安心して下さい。もう、印刷に掛っていると思います」
「あの校了のままか」
「勿論《もちろん》です」
「ばか。中止だ。すぐ中止させるんだ」
「一体、どうしたんです」
「扉《とびら》を見ろ、トビラだ」
受話器の向うがしんとなった。
しばらくすると、けたたましい声が起った。
「編集長、まだぼやぼや待っているんですか。早く電話を切ってくれないと、印刷所へ連絡できないじゃありませんか」
「おい、表紙はどうなっているんだ」
「だから、あせっているわけでしょう」
相手はがしゃんと電話を切った。
しばらくぶりで駈《か》けたので、膝《ひざ》ががくがくしていた。心臓の動悸《どうき》も激《はげ》しくなっている。磯明は廊下《ろうか》のベンチにぐったりと腰《こし》を下ろした。身体《からだ》に悪い……実によくない。
「一体、どうしたと言うんですか?」
陽里《ひさと》看護婦が傍《そば》へ寄って来た。
「いや、もう大丈夫。もうあんな無茶はしません……」
陽里はうさん臭《くさ》いような顔で、ぜいぜい言っている磯明を見た。
廊下の向うから、痩《や》せた男がゆっくりとした足取りで近寄って来た。陽里を見ると、
「やあ、井池先生は?」
意味あり気な笑い方をした。同じ病室にいた堤だった。
「先生は、診療中《しんりようちゆう》です」
「そう、病院は、順番でしたね」
陽里は肩《かた》をいからせて歩き去った。
堤は磯明の隣《となり》に腰《こし》を下ろした。薄《うす》い水色のスポーツシャツに、紺《こん》のズボン。顔色がよくないのは、シャツの色が明るすぎるためだろうか。
「陽里さんね、あれで井池先生に惚《ほ》れているんでさ」
「……よく知っていますね」
「入院しているとね、色色のことが判《わか》るもんです。手術は済みましたか?」
「ええ、お蔭様《かげさま》で順調です」
「そりゃよかった。井池先生、念入りだったでしょう」
「ええ、滅多《めつた》にない病気だというので、慎重《しんちよう》だったようです。その後、あなたは?」
「私の方も、大変順調に行っていますよ。骨休めできますね」
「ところが、貧乏|閑《ひま》なしでね。入院中にも仕事をやらされるのでかないません」
「ほう。今の電話もお仕事なんですか。そりゃ大変でしょう。私などは入院したお蔭《かげ》でお金持ちになりましてね」
堤は意味あり気に笑った。磯明は改めて堤を見なおしたが、とても金持ちとは思えない身形《みなり》だ。堤はゆっくりとベンチから腰を上げた。
「井池先生に診《み》てもらうには、まだ時間がかかりそうですな。屋上を散歩することにしましょう。ご一緒《いつしよ》にどうです?」
言われてその気になった。花などを見れば、血圧《けつあつ》も下がるだろう。気分も落着くに違いない。
堤と連れだって、エレベーターの方に廊下《ろうか》を曲ったときだった。磯明の視界が、ぱあっと明るくなった。
廊下に一杯《ぱい》、真赤な薔薇《ばら》がぶちまけられていた。その真ん中で、陽里と若い男が、せっせと花を拾い集めている。見事に潰《つぶ》された薔薇があるところを見ると、その上に尻餅《しりもち》をついた者がいるに違いない。なぜか陽里の手に、一本だけカーネーションが混っていた。
陽里は珍《めずら》しく頬《ほお》を染めていて、薔薇を拾い集めると、若い男の手に渡した。男は軽く会釈《えしやく》をすると、身体《からだ》の向きを変えた。磯明と目が合った。
「……編集長。お見舞いに来ました」
磯明は端麗《たんれい》な男の顔を見た。男はグレーの背広に、茶のネクタイをきちんと締《し》めていた。
「やあ……亜愛一郎さん……」
磯明が「トレミー氏病」という奇病に取り付かれたのが三年前であった。
目が赤く充血し、くしゃみに鼻水。磯明は風邪《かぜ》を引き込んだものとばかり思っていた。その頃《ころ》、流行していた風邪の症状と同じだったからだ。ところが、翌年引いた風邪のときにも目が赤くなった。そのとき、目が赤くなったのは磯明一人だったが、別に気にもしなかった。目の充血は、風邪が治っても、なかなか元には戻《もど》らなかった。
そして、今度が三度目。目が赤くなり、くしゃみ、鼻水に続いて、右|大腿部《だいたいぶ》にしこりができ、触《さわ》ると火のように熱を持っていた。気味が悪くなり、近所の医師に診《み》てもらうと、大病院で精密検査をしてもらいなさいと言われた。
仕方なく知人の紹介で盛栄堂病院に行って検査を受けた。結果はトレミー氏病症候群が出揃《でそろ》っていて、完全なトレミー氏病。その日のうち、右|脚《あし》の手術を受けるべきだと言われた。
忙《いそが》しい磯明は、これには困った。
「切らないと、どうなります?」
「脚が腐《くさ》って、なくなりますね」
と、医師が答えた。
「赤目と脚と、どんな関連があるんですか?」
「それはまだ医学界の謎《なぞ》になっています。病気の原因も現在のところ、解明されておりません。ただ、治療は簡単です。大腿部の腫瘍《しゆよう》をちょいちょいと取り除くだけ。それで、すぐ目の方も治ります。十日も入院すればよろしい」
「十日間も……」
「脚が腐ると、今度は下腹部に移りますよ。そのうち、全身が腐って、最後には赤い目だけが動くようになります」
「生き腐れは嫌《いや》です」
「手術をしないと、そうなりますよ。早期発見でよかった。ここにはリハビリテーションの設備も整っています。手術して後遺症が出ることは絶対にありません。看護婦も美人を揃《そろ》えてあります……」
それで、磯明はほぞを固め、手術を受けることにしたのだ。執刀《しつとう》は井池という若い外科医。若いに似合わず腕《うで》の立つ医師だと、同室の堤《つつみ》が教えてくれた。手術はちょいちょいのはずだったが、井池はひどく慎重《しんちよう》だった。
手術後、回復の早さは、最初の診断《しんだん》で言われた通りだったが、看護婦が美人揃いというのは、やや違っていた。美人が揃っているのは、九階十階の個室に限られ、磯明のいる相部屋《あいべや》では、それほどではなかった。
手術後、麻酔《ますい》が切れたとき、磯明が痛い痛いと騒《さわ》ぐと、陽里《ひさと》看護婦は気が立っていたとみえて、カルテの板を振り上げ、
「気を失っている方が、楽かもね」
と言ったのを夢心地に覚えている。
その陽里は、まめまめしく磯明の病室に花瓶《かびん》を運んで、亜の持って来た薔薇《ばら》を活けている。陽里が女らしさを取り戻《もど》したのは結構なことだが、原因が亜だというのが気に入らない。
「あら、一本だけカーネーションが混っているわ」
亜は変な顔で花束を見ていたが、
「それは、僕が持って来た花ではありませんね。きっともともと廊下《ろうか》に落ちていたものが混ざってしまったのでしょう」
「――そう言えば、小さい子供がカーネーションを持って廊下を駈《か》けていたわ。でも、いいでしょう。花は多い方が」
「そうですね」
気が合うようだ。花を活け終ると、陽里は磯明を見て、にこにこしながら、
「急に過激《かげき》な運動をなさらないようにね。屋上へ出て、少しお歩きになるとよろしいわ。わたし、これから少し閑《ひま》がありますから、ご一緒《いつしよ》しましょう」
「それは、ご親切なことです」
「亜さんも、いかがですか?」
つまり、磯明はだしにされただけだ。亜はすがるような陽里の視線の中で微笑《ほほえ》んでいた。
「屋上には、何がありますか」
「屋上は庭園で、花壇《かだん》には沢山《たくさん》のお花が咲いていますわ。勿論《もちろん》、患者《かんじや》さんたちの歩行訓練が目的ですから、リハビリテーションの設備も整っています」
「僕《ぼく》、そういうのをまだ見たことがありません」
「それじゃ、ぜひ一度ごらんになっておくとよろしいわ」
「脳溢血《のういつけつ》で、ぶっ倒《たお》れたときのためにですか?」
磯明が口を挟《はさ》むと、陽里が睨《にら》んだ。その顔はいつもの顔だ。
屋上というので、磯明は堤のことを思い出した。途中《とちゆう》で亜が現れたので、堤は一足先に屋上へ行っているはずだ。
三人は部屋《へや》を出て、エレベーターに乗った。陽里は亜に寄り添《そ》うようにして、
「わたし、薔薇《ばら》をじっと見ていると、胸の奥《おく》が乱れてしまいそうな気持になりますわ」
などと言う。
亜も妙《みよう》に気取って、
「バラ科の花は、優れて華麗《かれい》です。桜、梅、皆美しいと思います」
「まあ、梅もバラ科ですか」
「イチゴもです」
「あなたは物知りなのね」
「サルトリイバラもバラ科かね?」
と、磯明が訊《き》いてみた。
「あれはユリ科の植物です」
「花も結構だが、植物は薬用にもなる。サルトリイバラの根を干したのが、山帰来《さんきらい》でしょう」
「山帰来……漢方ですの?」
と、陽里が訊《き》いた。
「昔は山帰来を飲むぐらいしかなかったからなあ」
「何に効く薬ですか」
「昔のサルバルサン。梅毒にかかった人が飲む薬です。まきぞえに遭《あ》って女房《にようぼう》も山帰来、なんてね」
陽里は亜と磯明を見較《みくら》べた。
「同じお仕事?」
「亜さんの本を、うちの社から出版したことがあります」
「どんな本?」
「〈雲の瀑《たき》〉です」
磯明は「雲の瀑」を「苦悶《くもん》のとき」と聞えるように発音した。ちょうどエレベーターが屋上に着き、声がドアの開く音にまぎれたので、磯明の意図は、一層効果的になった。
三人はエレベーターを降りた。
「全部カラー写真で、僕《ぼく》が特に強く感じたものばかりを集めました」
と、亜が言った。
「……ぼかしたところなんかも、あるんでしょう?」
陽里は不安そうに訊《き》いた。亜の答は明快だった。
「一か所もありません。全部、写したままです。修整なんかすると、価値がなくなってしまいますからね」
「……それは、そうでしょうけれども」
「見たいでしょう?」
と、磯明が下品に訊《き》いた。
陽里はそれを無視した。庭園を歩いている一人に目を留めると、
「――あら、鈴木さん、歩き方がずいぶんしっかりするようになりましたわ」
そう言って、さっさと二人の傍《そば》を離《はな》れてしまった。
「何か、急に気が変ったみたいですね」
亜はぼんやりと陽里の後ろ姿を見ながら言った。
「亜さん、気にすることはないよ。人間には誤解というものがある。印刷に誤植があるのと同じでね」
外は陽里の言った通り、明るい陽差《ひざ》しに満ちていた。屋上の中央には花壇《かだん》があり、さまざまな色の花が盛《さか》りだった。花壇の間には平行棒が渡され、二、三人の患者《かんじや》が花を見ながら、歩行の訓練をしている。ところどころに、固定した自転車や訓練用の階段などが見える。屋上への出入口の壁《かべ》には大きな鏡が張られていて、これは患者が姿勢を矯正《きようせい》するためのものだ。
亜は珍しそうに屋上を見廻《みまわ》している。磯明は説明した。
「屋上へ出られるのは、比較的《ひかくてき》良くなった患者でね。脳溢血《のういつけつ》で倒《たお》れた人は、最初、療法士の指導で、身体《からだ》を起すことから練習するんだよ。部屋《へや》の中では指先の運動がある。粘土《ねんど》細工や習字、ピストルの稽古《けいこ》をする人もいる」
「ピストルを?」
「引き金を引く訓練だから、無論、玩具《おもちや》だろう。もっとも、音の出るのもあるそうだ。患者もその方が張り合いが出るそうだ」
「実弾が出た方が、もっと張り合いが出るでしょう」
「物騒《ぶつそう》なことを言うなよ」
そのとき、磯明は堤《つつみ》の姿を見付けた。
堤は花壇《かだん》の向う、屋上の柵《さく》の傍《そば》に立って、外を見ているところだった。
「あの男、僕《ぼく》の隣《となり》のベッドにいた。胃の手術をしてね」
「煙草《たばこ》を喫《す》っていますよ」
「煙草ぐらい吸うだろう。さっき会ったら、大変順調で、金持ちになったなどと言っていた」
堤は短くなった煙草を捨てようとして、身体《からだ》の向きを変えた。そのとき、磯明に気付いて、手を上げてみせた。
堤は煙草を吸い殻《がら》入れに投げ込んで、こちらに近付こうとした。たまたま、毛糸の帽子《ぼうし》をかぶった一人の患者《かんじや》が、そろそろと堤の傍に寄っていた。堤はその人に気付かないようだ。ぶつかりそうな気がして、磯明は声をあげて注意しようとした。
瞬間《しゆんかん》、それは遅《おそ》かった。
堤は帽子の男に突《つ》っ掛るような恰好《かつこう》になったが、あわてて相手をかばおうとしたようで、かえって足元の注意が疎《おろそ》かになっていた。そこには、訓練用の階段があって、堤はそれに躓《つまず》いた。
遠くから見ても、強い倒《たお》れ方なのが判《わか》った。堤は花壇の向うに見えなくなった。
ぎゃっという声が聞えたのは、それと同時だった。
磯明は亜と顔を見合わせた。ただ、倒れただけの声とは思えない。打ち所でも悪かったのだろうか。いずれにしても、尋常《じんじよう》な声ではなかった。
磯明は花壇を廻《まわ》り、堤の傍《そば》にばたばた駈《か》け寄った。よく駈ける日だ。帽子の男はすでに立ち上っていて、呆然《ぼうぜん》と立ち竦《すく》んだままだ。
堤は花壇《かだん》の下に丸くうずくまっている。
「堤さん――」
声を掛けたが、堤は苦しそうに唸《うな》るばかりだ。身体《からだ》の下から血が流れているのが見えた。
「すぐ、病院だ!」
「病院なら、ここです」
と、亜が言った。
「だから、早く医者を……」
医者を、と聞いて、堤はよろよろ立ちあがろうとする。シャツの腹のあたりが血に染まり、何やら尖《とが》った物が突《つ》き出ていた。
磯明が抱《だ》き支えようとすると、
「動かしちゃいけないわ」
陽里が飛び付いて、磯明を退かせた。磯明の手に血が付いた。
「それよりも、早く、井池先生を――」
「僕《ぼく》が呼んで来ます」
亜が凄《すご》い速さで駈《か》け去った。
陽里はとっさにちり紙を丸めて堤の口に押し込み、ハンカチで猿轡《さるぐつわ》を噛《か》ませた。堤が舌を噛まないようにだろう。
そのうち、井池が現場に駈け付ける。医師というより、若い実業家という感じだ。井池は慌《あわただ》しく、堤の身体を見廻《みまわ》した。
「出血が多量ですわ、先生」
と、陽里が言った。井池は陽里を見た。
「君がいてくれて、よかった」
続けて到着《とうちやく》した手押車に、堤はそのまま乗せられて行った。井池と陽里が車の両側に付き添《そ》った。
堤の倒《たお》れた場所に、血溜《ちだま》りができていた。
「見たか?」
磯明は帰って来た亜に言った。
「見ました。はっきりとは判りませんが、あれは刃物《はもの》に違いありませんでした」
「堤さんは何かで、刺《さ》されたようだ」
「誰《だれ》が、刺したのでしょう?」
磯明は屋上をぐるりと見渡した。
堤とぶつかった帽子《ぼうし》の男は、平行棒にすがって、さっきからきょとんとした顔のままだ。二、三人の患者《かんじや》たちは、堤が倒れた場所から、かなり離《はな》れたところに立ち竦《すく》んでいた。
「堤さんは手に何も持っていなかった。自分の手で刺したのではない」
横を見ると、亜が白目を出していた。
「可哀相《かわいそう》に――堤さんは亡くなりましたわ」
と、陽里看護婦が言った。
磯明の病室に、低くハイケンスのセレナードが聞えている。廊下《ろうか》から流れてくるのだ。それもこの病院の療養法《りようようほう》のうちだ。
「死亡……そんなに深い傷だとは思えませんでしたがねえ」
と、磯明が言った。亜はじっと瞑想《めいそう》に耽《ふけ》っている姿だが、帰りの電車賃を思い悩《なや》んでいる風でもある。
「はずみというのは、恐《おそ》ろしいものよ」
と、陽里が言った。
「はずみ? あれがはずみなんですか? 堤さんの身体《からだ》には、刃物《はもの》が突《つ》き刺《さ》さっていたじゃありませんか」
陽里はじっと磯明の顔を見ていたが、
「磯明さん、それを見ていたのですね?」
と、声を低めた。
「ええ、見ていましたとも、亜さんも同じ物を見たと言っています」
「亜さん、そうですか」
亜は自分の名を言われて、身体をびくっとさせ、目をぱちぱちさせた。考えに沈んでいたのではなく、ただとろとろしていたようだ。
「そ、そうです。僕《ぼく》も、確かにこの目で見ました」
陽里は深く息を吐《は》くと、
「それなら言いましょう。堤さんの腹部には、確かにナイフが刺さっていました。先端《せんたん》は心臓にまで届くほどでした。手術室へ運ばれたときには、出血多量で、もうどうすることもできなかったのです。……でも、他の患者さんには、絶対に秘密にしておいてください。病気には興奮や不安を与《あた》えることが一番いけません。お判《わか》りですね?」
「勿論《もちろん》、そうします。で、あのとき、堤さんと突《つ》き当った患者《かんじや》さんは?」
「ああ、日野さんですね。日野さんには、堤さんが死亡したことは知らせません。日野さんは、ただ突き当っただけですから」
「警察へは届けるわけでしょう」
「一応は……事故だということで」
「事故? なぜ事故なのです」
「決まっているじゃありませんか。堤さんは誰《だれ》かが置き忘れて行ったナイフの上に倒《たお》れ、腹部を刺《さ》したのです」
「それはちょっと考えられませんね。ナイフが地面の上に突《つ》き出ていたとでも言うんですか?」
「それは判《わか》りません。それがもののはずみなのです」
「その、日野さんという患者《かんじや》さんに訊《き》けば判りますね。日野さんは地面を見ながら、実に慎重《しんちよう》に歩いていました。ナイフのような物が落ちていれば、必ず目に留まったでしょう」
「もし、ナイフなどなかったとすると……」
「これは殺人事件ですよ。警察の殺人係に連絡しなければなりません」
「軽はずみなことを言わないでください。殺人だ、警察などと……」
「そりゃ、この病院で殺人事件などが起きたことが判れば、病院は迷惑《めいわく》するでしょう。でも僕《ぼく》たちは善良な市民です。殺人事件が起きたのを知れば、警察へ知らせる義務があります」
「磯明さんが直接、警察へ知らせるわけですか」
「そうすれば、病院の立場は、もっと困ったことになります。人の記憶《きおく》が薄《うす》れないうち、現場が変ってしまわないうち、一刻も早く、警察に連絡するべきでしょう」
陽里はきつい目になった。
「いいわ。すぐ井池先生に話してみましょう。もし、警察へ連絡することになると、亜さんも重要な証人になりますわ。お帰りにならず、ここにいてくださいね」
亜は椅子《いす》から飛び上った。
「警察だけは堪忍《かんにん》してください」
「亜さん、何か悪いことでもしているんじゃないでしょうね」
と、磯明が言った。
「とんでもない。ただ、ちょっと警察とは相性がよくないだけです」
「だったら落着いたらどうです。僕《ぼく》だって同じだ。何も恐《こわ》いことはない」
だが、磯明にとって、その警察は恐《おそ》ろしい姿に変ったのだ。それは二時間ばかり後のことであった。
磯明と亜は、井池医師と二人の警察官を前にしていた。それが、二時間後の、磯明の病室だった。
井池は白衣の下から、赤いネクタイを見せていた。最初、亜の存在に、圧倒《あつとう》されたようだったが、亜が背を丸めて上目使いになると、鷹揚《おうよう》に腕《うで》を組んで、亜を見据《みす》えた。
二人の警察官のうち、唐巣《からす》という名の警察官が、主として質問していたが、色が黒く、鼻が突き出していて、気のせいか烏《からす》に似た顔だった。
唐巣は磯明の名を、次に亜の名を訊《き》いた。亜は名を訊かれると、
「ああ」
と言った。
「かあ……だと?」
唐巣は気色ばみ、亜を睨《にら》みつけた。磯明がまだこの警察官の名を知らないときだった。このことが、唐巣の心証を、すっかり害したようだ。以来、唐巣は高圧的《こうあつてき》な態度になり、亜はますます身体《からだ》を小さくした。
「堤さんとはお知り合いだったのですね?」
と、唐巣は磯明に訊《き》いた。
「……知り合いといっても、堤さんはすぐ退院しましたからね。部屋《へや》で一緒《いつしよ》だったのは、たった二日でした」
「二日間一緒にいれば、相手の人間をかなり知ることができますよ」
唐巣は磯明の名刺《めいし》をひねくり廻《まわ》した。
「本当に二日間だけの知り合いなのですね。その以前に堤さんと付き合ったことはないのですね?」
「この病院に来るまでは、全く堤さんを知りませんでしたよ。でも、どうして?」
「なに、あなたの会社が青蘭社《せいらんしや》、堤さんが堤経済出版社、同じ出版の会社でしょう。それで、もしかすると、その方面でもお近付きがあったのじゃないかと思ったのですよ」
妙《みよう》に歯に挟《はさ》まる物の言い様だった。
「……それで、あなた達は屋上で、堤さんが転んだところを目撃《もくげき》したわけですね」
唐巣は二人を等分に見た。
「そうです」
「屋上に堤さんが来ているとは、知らなかったのですね」
「いや、それは知っていました」
「ほう……それは?」
「今日、堤さんが病院へ来たとき、私は廊下《ろうか》で会ったのです。一緒《いつしよ》に屋上を散歩しませんかと誘《さそ》われたので、堤さんが屋上にいるだろうとは思っていました」
「なぜそのときご一緒しなかったのです?」
「たまたま、亜さんが見舞いに現れたからです」
「なるほど……、では、屋上にいた堤さんの様子を話して下さい」
「堤さんはエレベーターの出入口とは反対側にいて、柵越《さくご》しに外を見ていました。そして、吸っていた煙草《たばこ》を灰皿《はいざら》に捨てようとしたとき、僕達《ぼくたち》に気付いたのです。堤さんはすぐこちらへ来ました」
「どんな工合でしたか」
磯明は立ち上って、堤の動作を真似《まね》て見せた。亜が堤に突《つ》き当った日野の役を演じた。亜はなかなかの熱演で、義理|堅《がた》く、本当に転倒《てんとう》して見せた。
「……よく判《わか》りました。そのとき、二人の傍《そば》には、誰もいなかったのですね」
「そうです」
「堤さんは手に何か持っていましたか?」
「何も持っていませんでした。煙草を捨てた後の両手は、完全に空でした」
「日野さんの方はどうです?」
「同じです。日野さんも何も持ってはいませんでした」
「すると、妙《みよう》なことになります」
「……妙なこと、と言うと、堤さんを刺《さ》した刃物《はもの》は、地面に落ちていたのではなかったのですか?」
唐巣《からす》はじっと磯明を見た。
「その通りです。日野さんがちゃんとそう話してくれましたよ。日野さんは足が不自由なので、足元には充分気を配っていたそうです。地面にそんな刃物があれば、気付かぬはずはありません」
「すると、どういうことでしょう」
「実に不思議な話です。傍《そば》に刃物がないのに、堤さんは現実に刃物のために命を落してしまったのです。そうは思いませんか?」
「堤さんの死は自殺でもない。事故でもない。とすると、これは殺人なのですね」
「勿論《もちろん》、私達は殺人事件として捜査《そうさ》を始めているわけです」
「殺人事件だとすると、犯人がいるわけでしょう」
「そうです。犯人は一体どうやって、堤さんを殺すことができたのでしょう」
「私も、それについて、色色考えたことがあります」
「ほう……」
唐巣は興味深そうに磯明を見た。
「磯明さんのお考えを、ぜひ聞きたいものですね」
磯明はベッドの上に坐《すわ》りなおした。井池もじっと耳を澄《す》ませている様子だ。
「僕達《ぼくたち》は堤さんが倒《たお》れるところを見ていた、と言いましたが、完全に堤さんの全身を見ていたわけではないのです。僕達と堤さんの間には花壇《かだん》があるので、堤さんの大腿部《だいたいぶ》から下は、見えなかったのです」
「ほほう……」
「従って、堤さんが倒れたとき、犯人は花壇の下を這《は》って堤さんに近付けば、僕達の目に留まらず、堤さんを刺《さ》すことが可能です。傍に倒れていた日野さんが起き上らぬうちにです」
「すると、犯人は四つん這《ば》いになり、膝《ひざ》で走り廻《まわ》ったのですね?」
「そうでしょう」
「では駄目《だめ》なのです。私達も実は同じ考えにたどり着きましてね。そのとき屋上にいた全員の服を調べました。その結果、膝《ひざ》に泥《どろ》の付いた服は一着もなかったのです。その上、あなた達の目にも留まらぬ早さで這《は》い廻《まわ》るには、相当の体力と運動神経が必要になりますが、そのとき屋上にいた全員、身体《からだ》が不自由な患者《かんじや》ばかりでした。陽里《ひさと》看護婦と亜さんを除いてはね」
亜がぎくっとした。
「ぼ、僕《ぼく》は磯明さんの横にいました。それに、膝だってこんなに綺麗《きれい》です」
「よくアイロンのかかった服ですね。いや、部屋《へや》に入ったとき、真っ先にあなたの膝に注意しましたよ」
「犯人が屋上のどこかに潜《ひそ》んでいて、目に付かなかったのでは?」
と、磯明が言った。
「それもないのです。井池先生が堤さんの死因に不審を持って、すぐ病院の警備員を屋上にやって庭園の隅隅《すみずみ》を調べさせましたが怪《あや》しい者は一人もいなかった、そうですね」
唐巣《からす》は井池に言った。
「その通りです」
と、井池は答えた。磯明は腕《うで》を組みなおして、
「では、こういうのはどうでしょう。犯人は堤さんに近付くことなく、堤さんを刺したのです。つまり、遠くから、刃物《はもの》を投げつけたのです」
「時代劇の手裏剣《しゆりけん》のようにですか。それが致命傷《ちめいしよう》になったのですな」
「ただ投げるくらいでは無理でしょうね。それで犯人は特殊な道具を使うことになります。例えばピストルですが……」
「ピストル?」
「ピストルの先に刃物《はもの》を装置し、堤さんに向って発砲すれば、充分致命傷を与《あた》えることができるでしょう」
「わざわざそんな手間を掛けないでも、普通の弾丸《だんがん》を使う方が早くはありませんか」
「たまたま犯人が弾《たま》を持っていなかったのです」
「犯人は弾のなくなるほど人殺しをしたわけですか。銃声《じゆうせい》は聞えましたか?」
「……いや」
唐巣はにやりと笑った。
「なかなか面白いお話でしたが、銃声が聞えなくては、どうもね。その他に、どんな方法があるでしょう」
「僕《ぼく》の考えは、それでお終いです」
「お終いじゃあないでしょう。もう一つ、いい方法があるじゃありませんか。それをあなたの口から、ぜひお聞きしたいものです」
「さあ……他に堤さんを刺《さ》す方法があるとは考えられませんが」
「じゃ、私がお話ししましょう。犯人は遠くから堤さんに刃物を投げたのではありません。犯人は実際に堤さんに近付き、刃物で刺したのです」
「矢張《やは》り、花壇《かだん》の下を這《は》って近付いたわけですね」
「それが違うのです。犯人は立ったまま、堂堂と堤さんに近付いたのです」
「僕《ぼく》は、見ませんでしたよ」
「亜さんなら、見たでしょう」
亜は変な顔をしていたが、
「堤さんに近付いた人間と言えば、磯明さんと、僕と、看護婦さんです」
「そりゃ、堤さんが刺《さ》された後じゃないか」
と、磯明が言った。唐巣は大きくうなずいた。
「いや、それでいいのです。その三人が堤さんに近付いたことは確かなのですから」
「……それは、どういう意味ですか」
「その前に、井池先生から興味あることをうかがいましたよ。堤さんの診察日《しんさつび》は、今日ではないのだそうです。つまり、堤さんは診察が目的で、この病院に来たのではないことになるでしょう」
「診察が目的でないとすると?」
「勿論《もちろん》、誰《だれ》かと会う約束になっていたためでしょうね。診察が目的でなければ、会おうとした人は患者《かんじや》さんに違いない。それは、磯明さん、あなたではなかったのですか?」
「違いますね。僕は堤さんと会う約束など、した覚えがありません」
「あなたの担当の看護婦さんの話では、今日あなたの行動には、大変落着きがなかったそうですね。まだ身体《からだ》が回復していないというのに、顔色を変えて廊下《ろうか》を駈《か》けだしたり……」
「そ、それは……」
磯明の舌が引きつってしまった。自分が堤を殺した容疑者になっていることに気付いたからだ。
「よろしいですか。屋上の誰にも判《わか》らぬように堤さんに近付き、刃物《はもの》で刺《さ》すことができる方法は一つだけあるのです。それは、堤さんが倒《たお》れたとき、抱《だ》き起そうとしながら堤さんを刺す方法です。堤さんは転んだとき、打ち所が悪くて腹部を傷つけただけなのです。出血は刃物によるためではありません。刃物の傷ができたのは、その直後、磯明さんが抱き起しながら一突《ひとつ》き。そのとき磯明さんの手が血で汚《よご》れても、抱き起したのだから当り前です。どうです。それが一番無理のない方法じゃありませんかね。花壇《かだん》の下を四つん這《ば》いになるのや、ピストルの先に刃物を装置するなどという、できそうもない方法よりも」
「……何を証拠《しようこ》に、そんなことを言うのです」
「まあ、これをごらんなさい」
唐巣《からす》は鞄《かばん》を引き寄せて、中から布に包まれた品物を取り出し、慎重《しんちよう》に拡《ひろ》げて見せた。中から血にまみれた鋭《するど》いナイフが出て来た。ナイフの柄《え》に、鷲《わし》の彫刻《ちようこく》があるのが、はっきりと判った。
「このナイフに、見覚えはありませんか?」
磯明は顔色を変えた。
「あ、あります。僕《ぼく》の持っているナイフにそっくりです」
「これが、堤さんの腹部に刺《さ》さっていたナイフなのです」
磯明はあわててサイドテーブルの上を見た。引出しの中やその周りを調べたが、磯明のナイフは見当らなかった。
「僕のナイフがない」
磯明はわめいた。
「多分、このナイフがあなたの品でしょう。指紋《しもん》も残っているようですから、調べればすぐに判ることです」
「……僕は堤さんを殺すような理由がない」
「それは、あとでゆっくりと伺《うかが》いましょう。看護婦さんの話では、何か怪《け》しからぬ書物を出版しているとか……」
「僕は犯人じゃない」
「では、なんです?」
「僕はただの、トレミー氏病の患者《かんじや》だ」
青天の霹靂《へきれき》とはこのことだ。
病院でただ二日間、同室だった男の、殺人容疑者にされてしまった。その原因も磯明の病気と同じで、全く不明だ。
磯明はその場で亜と引き離《はな》され、病室を移された。その部屋《へや》は、監獄《かんごく》の方がまだ住み易く思われそうな、臭《くさ》く、汚《きた》なく、狭《せま》い、北向きの個室で、重い鉄の扉《とびら》が閉められると、外から鍵《かぎ》がかけられてしまった。その扉には覗《のぞ》き窓がついていて、いつも外から監視《かんし》されていそうで、極めて居心地が悪い。
連れて来られたときは夢中で判《わか》らなかったが、部屋は三階ぐらいの高さだ。部屋に一つだけ鉄格子のはまった小窓があり、ベッドに立ち上がって外を覗いてそれが判った。窓の外はなんの変哲《へんてつ》もない裏通りで、通りの向うは公園の塀《へい》が続き、人や車の通行も少ない。段段外が暗くなり、いつもならシューベルトのセレナーデでも聞える時間だが、この部屋にはその音楽も届かない。
青蘭社《せいらんしや》から連絡がありそうなものだが、何も言って来ないところをみると、警察に止められているのだろうか。警察に殺人容疑者だと知らされても、磯明編集長ならやりかねないとでも思っているのだろうか。
五時になると、扉《とびら》の隙間《すきま》から夕食が差し込まれた。箸《はし》を取ったが全然食欲が起らない。無理に口に入れても、旨《うま》くも何ともない。これで入院費を普通に払《はら》わされたのでは、割が合わない。
食事を済ませると、することがない。気が立っているから眠くもない。仕方がないので、ベッドに立ち上がり、小窓からぼんやり外を眺《なが》めることにした。
公園の塀《へい》の傍《そば》に、街灯がついて、青白い光が道を照らしている。日が暮れると、人通りもほとんどなくなった。
磯明がその車を見たのは、外の景色にも飽《あ》きて、ベッドに横になろうとしたときだった。裏通りに黒い車が入って来て磯明の目の下あたりで止った。ヘッドライトが消え、誰《だれ》か出て来るのかなと思って見ていたが、誰も出て来る様子がない。車のライトが全部消え、エンジンも止ったのに、人が出て来ない。
その車が気になっていると、今度は反対側から同じような車がゆっくり走って来て、かなり離《はな》れたところで、公園の塀にぴったり付くように停車した。車のライトが消えたが、矢張《やは》り人が出て来る気配がない。
二台の車は、三十メートルばかりの距離《きより》を置いて、向き合ったままだ。
二台の車の中には、それぞれ人が息を潜《ひそ》めていると思うと、何だか異様な雰囲気《ふんいき》だ。
と思っていると、磯明の目の下、やや左側の病院内から、人が現れた。病院の裏口から人が出て来たのだ。その人間は影《かげ》のように道に出て、向う側の自動車へ向って歩きだした。姿からすると男のようで、手に大きな四角い紙のような物を持っている。紙が白いため、その形だけが浮き上って見える。
すると、向う側の車のドアが開き、次次と二人の人影が現れた。三つの影がもつれ、何か相談でも始めたようだ。
次には、目の下に駐車している車にも変化が起った。ドアが開いて、同じように二人の人影が吐《は》き出され、三人の方に向って歩きだした。
紙を持った男は二人の人影を振《ふ》り切るようにして戻《もど》って来た。だが、こちら側にも二人の人影がある。三人はたちまち揉《も》み合いになり、白い紙が別の人間の手に渡った。紙を奪《うば》われた男はなお揉《も》み合っていたが、そのうち、向う側の車の中に押し込められてしまった。
車にヘッドライトがつき、磯明の目の前を通って、すぐ見えなくなった。
病院から男が現れてからは、あっと言う間の出来事だった。音の出ない白黒テレビを見ているようだった。
磯明はテレビで全く同じような場面があったのを思い出した。善良な市民が、悪辣《あくらつ》な権力者に拉致《らち》される場面だった。それと同じ誘拐《ゆうかい》が、目前で発生したのだ。病院にはまだ警察がいるかも知れない。扉《とびら》を叩《たた》いて知らせようと思ったが、どうせ信用されないに決まっている。磯明は善良な市民から、疑い深い殺人容疑者になっていたのだ。
車の走り去った後は、また元通りの裏道に戻《もど》っていた。ただ、目の下にある車が、いつまでたっても動こうとはしない。
しばらくすると、扉がノックされた。ノックなどしなくとも、鍵《かぎ》を開けて勝手に入って来ればいいと思い、返事をしないでいると、ノックは執拗《しつよう》に続く。仕方なくいい加減に返事をすると、鍵を開ける音が聞えて、扉が開いた。
扉の向うには唐巣《からす》が立っていた。
「病室を変えさせてもらいます」
と唐巣が言った。
「今度は刑務所ですか?」
磯明はふてくされて言った。
「違うんです、編集長」
亜の声だった。亜が唐巣の後に立っていたのだ。
「堤さんを殺害した真犯人は、たった今、逮捕《たいほ》されましたよ」
「……すると、病院の裏通りの?」
「あの窓から見えたんですね」
と、唐巣が言った。
「ご迷惑《めいわく》をお掛けしました。私ももう少しで犯人の手に乗せられるところでした。亜さんの助言がなかったら、あわや大切な証拠《しようこ》をなくしてしまうところでしたよ」
唐巣は犯人が持っていた白い紙を示した。それは大きな封筒《ふうとう》だった。
「それは?」
「堤さんのレントゲン写真なのです」
「すると犯人は?」
「そう、外科医の井池先生でした」
磯明は元の病室に戻《もど》された。
廊下《ろうか》の外に、慌《あわただ》しく人が往き交うのが判《わか》る。その足音に混って、シューベルトのセレナーデが聞えていた。
「すると、僕達《ぼくたち》に知れないように、犯人が堤さんを刺殺《しさつ》する、まだ他の手段があったわけなんだね?」
と、磯明が亜に訊いた。
亜は磯明が差し出した煙草《たばこ》に火をつけようとしていたが、なかなかライターがつかないでいる。ライターが悪いのか無器用なのか判らない。磯明はいらいらして、マッチで火をつけてやった。亜は煙草を一つ吸って、むせ返った。唾液《だえき》と一緒《いつしよ》に煙を吸い込んだものと見える。亜は涙《なみだ》を掌《てのひら》でこすった。どうしても顔立ちにはふさわしくない態度だ。だが悪くは言えない。
磯明は亜がいたために、元の病室に戻《もど》ることができたのだ。
「磯明さんをどうしても助けようと思い、一生|懸命《けんめい》になって考えたのです」
亜はそう説明した。
「堤さんを刺《さ》したナイフは、堤さんが持っていたのでも、ぶつかった日野さんが持っていたのでもない。地面に落ちていたのでもなく、空中を飛んで来たのでもない。勿論《もちろん》、犯人が堤さんに近付くことは不可能だった。口惜《くや》しいけれど、唐巣刑事が言うように、僕《ぼく》が犯人だとするのが、一番無理のない解釈《かいしやく》なんだなあ」
「犯人が編集長でないことは、僕にはよく判《わか》っていました」
「犯人の井池先生が、それと同じ方法をとったのだね。倒《たお》れている堤さんの身体《からだ》を検査するような顔をして、一|突《つ》き……」
「それがちょっと違うんです。堤さんの腹部には、そのときもう刃物《はもの》が刺《さ》さっていましたから」
「それじゃ、矢張《やは》り解答にならないじゃないか。ナイフは一体、どこにあったんだね?」
「誰《だれ》もナイフを持って来ることができなかったとすると、刃物のあった場所は、ただ一つのところしか考えられません」
「というと?」
「僕は刃物が外から来たのでなければ、内側にあったのだと考えました」
「内側だって?」
磯明は亜が何を言おうとしているのか、全く判らなかった。
「そう。あの刃物は、堤さんのお腹の中にあった物でした」
「堤さんは水色のスポーツシャツを着ていましたね。すると、堤さんのシャツには、お腹のところにポケットがあって、そこにナイフを入れていたと言うのですか?」
「いや、僕が考えたのは、本当の内側なんです。堤さんの身体《からだ》の中に刃物《はもの》があった、と考えたのです」
磯明は亜の言いたいことが判《わか》りかけて、思わずぞっとした。
「刃物は堤さんの皮膚《ひふ》の上に、突然《とつぜん》現れたのです。皮膚を、体内と体外を仕切る幕だと考えますと、幕の上に刃物が現れて、それが体外から来たものでないとすると、当然、体内にあったものだと考えられるわけです。つまり、あの刃物はもともと堤さんのお腹の中にあって、それが転倒《てんとう》したときの衝撃《しようげき》で皮膚を破って外に現れたのです」
磯明は亜の不思議な説明に、ぼんやりしてしまった。
「……堤さんは、曲芸師みたいに、胃の中へ刃物を飲み込んでいた、とでも言うのですか?」
「胃の中に飲み込んでいたわけではないのです。あのときお腹から飛び出した刃物は、実は手術用のメスでした。堤さんの胃を手術したとき、執刀《しつとう》の井池先生は、不注意にも、一本のメスを堤さんのお腹に残したまま、傷口を縫合《ほうごう》してしまったのです。堤さんは検査機器のチェックもかすめて退院してしまいました。信じられない誤りでしたが……」
「信じられない……」
言いかけて、磯明ははっとした。
人間には信じられない間違《まちが》いがある。悪魔の存在を認めたくなるのは、そうしたときなのだ。あの誤植が、何人もの目を易易《やすやす》とかすめてきたように――
「いや、僕《ぼく》にはそれが信じられるような気がする」
磯明はそう言いなおした。
「身体《からだ》の中に残されたメスは、誰《だれ》にも気が付かれぬまま、堤さんは退院ということになりました。しかし、退院してからも、身体に異常が続くので、堤さんは井池先生に再診断《さいしんだん》してもらいました。その結果、お腹の中にメスが残っていることが判《わか》ったのです」
磯明は自分の手術のとき、執刀《しつとう》の井池がひどく慎重《しんちよう》だったのを思い出した。あれは、堤の手術に手落ちがあったことを知った直後だったからに違いない。あり得ないはずのしくじりをした後は、誰《だれ》でも慎重になる。自分の会社の電話番号を間違《まちが》えた後、ダイヤルを廻《まわ》す磯明の指は、ことさら入念であった。
「それじゃ、レントゲン技師も、それを知っていたんでしょう」
と、磯明は訊《き》いた。
「ええ、陽里《ひさと》看護婦もです。でも、病院の関係者は同僚の失敗を、決して言わぬものだそうです」
「堤さんはすぐメスを取り出してもらおうとしなかったのですか」
「そうです。陽里さんの話では、堤さんはお腹の中のメスを種にして、すぐ脅迫《きようはく》を始めたと言います。裁判|沙汰《ざた》にして、恥《はじ》を広く世間に発表するか、それとも示談として、慰謝料をはずむか、とです。井池先生としては、医師としての生命にかかわる問題です。表沙汰になることを嫌《きら》い、慰謝料の相談に乗ったわけです」
「今日、廊下《ろうか》で堤さんと出会ったとき、大変順調に行っていますと言っていた意味は、身体《からだ》のことではなく、井池先生との慰謝料の相談だったわけですね。だから、入院したお蔭《かげ》で、お金持ちになったのだと……」
「いや、井池先生はまだ金銭は渡していなかったそうです。堤さんは多少の金額には、見向きもしなかったようです」
「すると、お金持ちになったと言うのは?」
「自分の身体に金物が入ったという意味なんでしょうね」
「もし、あのとき屋上で堤さんが転ばなかったら……」
「本当のお金持ちになったかも知れませんね。たまたまそれを見て陽里さんは、お腹の中にあったメスが、再び外に飛び出したのを知ったわけです。駈《か》け付けた磯明さんに、堤さんが何を喋《しやべ》るか判《わか》らない。とっさに陽里さんは、堤さんに猿轡《さるぐつわ》をはめて、何も喋れないようにしてしまいました」
「その後、この病室から僕のナイフを持ち出し、手術室で堤さんのお腹から出て来たメスと、取り替えたわけですか。堤さんは、陽里さんが井池先生に夢中だと言っていました」
「警察では井池先生が手術室で、堤さんの身体《からだ》にもう少し深くメスを入れた疑いもあると言っていました。陽里さんは絶対に井池先生の秘密を曝《さら》してはならないという気持だったでしょう。けれども、それには刃物《はもの》の出たところを明確にしておかなければなりません。どこにも刃物がなかったのに、突然《とつぜん》、刃物が現れたわけですからね」
「その辻褄《つじつま》を合わせるために、僕《ぼく》のナイフが使われてしまった……」
「井池先生が堤さんの身体から、メスを取り出したとき、陽里さんは絶対にこのメスのことを警察に知られてはならないと思ったのです。事態は緊急《きんきゆう》でした。陽里さんはとっさに編集長の部屋《へや》にあったナイフを思い出したのでしょう。私たちがまだ屋上にいる間に、陽里さんはこの部屋のナイフを持ち出したのです」
「凶器《きようき》がふいに現れた謎《なぞ》を説明するには、僕が犯人というのが、一番無理のない解決だったしね」
「その後、井池先生は、自分のところに、堤さんを再診断《さいしんだん》したときのレントゲン写真が残っていたのを思い出したわけです。そのレントゲン写真には、取り残したメスがはっきりと写されていました。そのとき、すでに警察が病院の捜査《そうさ》を開始していたので、うっかりしたことはできません。夜になって、警察が帰った後、井池先生はレントゲン写真とメスを持って病院を出、どこかで処分するつもりだったのです」
「……全く、恋をしている女性は恐《おそ》ろしいと言うか、素晴《すば》らしいと言うか――」
亜は花瓶《かびん》に近寄った。亜が持って来て、陽里が活けてくれた薔薇《ばら》があった。
「だが、陽里さんは、本当は心のやさしい人だという気もしますね」
と、磯明が言った。
「そうですね。僕《ぼく》が廊下《ろうか》で滑《すべ》って花をばらまいたとき、一緒《いつしよ》に拾ってくれましたから」
亜は薔薇の中から、一本のカーネーションを引き出した。
「このカーネーションは、あのメスと反対なのです」
磯明はちょっとその意味が判《わか》らなかった。
「……このカーネーションは、僕の花束にあったものではなく、一本だけもともと廊下に落ちていたのです。花を集めるとき、陽里さんが僕の花束から飛び出したものだろうと思って、一緒にまとめてしまったのです。同じ花でしたからね。反対に、人間の身体《からだ》と刃物《はもの》では、あまりに異質な同士なので身体と刃物が一緒に見えても、誰《だれ》も刃物が身体の中にあったとは考えなかったのです……」
本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品の文学性などを考慮しそのままとしました。
(角川書店編集部)
角川文庫『亜愛一郎の転倒』昭和61年11月10日初版発行