泡坂妻夫
亜愛一郎の狼狽《ろうばい》
目 次
第一話 DL2号機事件
第二話 右腕山上空
第三話 曲った部屋
第四話 掌上の黄金仮面
第五話 G線上の鼬《いたち》
第六話 掘出された童話
第七話 ホロボの神
第八話 黒い霧
第一話 DL2号機事件
宮前《みやまえ》空港の東の端に、白いものが霧のように現れる。それがみるみる脹《ふく》れあがり、走り来たって、透明などしゃ降りになった。強い日差が弱まらぬほど、雨の速度は早かった。
宮前市に住んでいる人たちの中には、前の年の惨事を思い出して、再び恐怖に落ち込んだ人も多かったに違いない。去年の同じ季節、この日と全く同じ雨のあとで、震度7の地震が、宮前全市を襲ったからである。
大地が波になり、人たちは呆然《ぼうぜん》と地にしがみつくだけであった。建物の倒壊、地割れ、崖崩《がけくず》れ、火災がたて続けに起り、気が付いたときには、市の三分の二までが甚大《じんだい》な被害を受けていた。このような地震が起きたのは、五十年ぶりのことであった。
百五十年前に地震が発生したときには、この土地は荒野であり、震源地を流れていた川が消え失せてしまったと言う伝説を残した。百年前の地震では、荒野は牧場になっており、五、六頭の馬が転んだだけだった。五十年前の地震では庄屋《しようや》の倉が半壊した。そして今度の地震の話題は、宮前空港の滑走路が、亀裂《きれつ》を生じたことであった。五十年ごとの周期で地震が来るというこの土地の古い言い伝えが、やがて確固とした信仰になってゆくだろう。
「――まさかこの雨のあとで、また去年のような地震にはならないだろう。同じ季節に同じ雨が降ったからといって、同じ地震があるなんて、考えられない。だいたい、そうちょいちょい地震など起ってたまるものか」
宮前警察署の刑事巡査、羽田三蔵《はださんぞう》は自分に言い聞かせていた。それでも、何秒かの間は息を止め、しっかりと空港の大地を踏みしめていた。大地はびくともしない。そのかわり、彼は白い雨を全身に受けて、身体《からだ》の芯《しん》まで、ぐしょ濡《ぬ》れになってしまった。
羽田刑事は、二時間も前から、宮前空港の送迎場に立っていた。震災復興後間もない空港の送迎場は、送迎場とは名ばかりで、屋根もない。滑走路との間は、荒縄《あらなわ》が一本仕切ってあるばかりだ。滑走路の向うは雑草の原になっており、いつの間にか畑が現れて、その先は低い平凡な山が続いている。空港に降りる飛行機の全《すべ》てがプロペラ機で、週に数える程しか便がない。この南国には珍しいものが何もないので、降りてくるのは陽《ひ》に焼けた土地の金持連中が殆《ほと》んどだ。
今の驟雨《しゆうう》をまともに受け、濡れて黒ずんだ羽田刑事は、自分がどんな姿になっているかが判《わか》って、苦り切った顔になっている。彼は、くしゃくしゃのハンカチを取り出して、帽子を叩《たた》いた。
「俺《おれ》は、時代遅れのテレビ映画に出て来る、張り込みをしている田舎の刑事と同じ顔をしているな」
と彼は思った。
実際、彼は色が黒く、目付きが鋭く、身体も敏捷《びんしよう》そうでいて貧乏臭く、その上いい具合に、よれよれのコートと、くたびれた靴がぐしょぐしょになっている。ありふれた映画監督がぼんやりと思い泛《うか》べる、普通の田舎刑事そのままの姿だ。
羽田刑事はカメレオンのようにまわりの色と同じになる体質を持っていた。「刑事さん」というのが、警察署内での羽田刑事につけられた渾名《あだな》である。彼の同僚は彼が警部に昇級したときの渾名もすでに用意してある。もちろん「警部さん」だ。
俺は職業を誤ったかもしれない。羽田刑事はときどき思うことがある。俺は刑事を一所懸命に勉《つと》め、同業者もあきれる程の刑事らしい人間になった。もし自分が画家になっていたら、世界中で最《もつと》も画家らしい男となり「絵描《えか》きさん」という渾名を貰《もら》っていたに違いない。魚屋であれば「魚屋さん」、乞食《こじき》であれば「乞食さん」だ。――そう、俺は俳優になるべきであった。彼は本気でそう考えた時期があった。自分が俳優であったら、どんな与えられた役にでもなり切り、名優と言われる人間になっただろう。実際、彼はあるとき演劇グループの一員になったことがあったが、たちまち絵に描いたような演劇青年ができあがり、鏡の中の自分に嫌気《いやけ》がさして、グループから抜けてしまった。
羽田刑事は腕時計を見た。四時十分――あと十分後にはDL2号機が東の空に現れる時刻である。今の驟雨で地震が起らなかったように、何事もない時間が、平凡に過ぎ去れば幸いであるが。
宮前空港の人影は、まばらである。その中には羽田刑事と同じ任務を持った何人かが、何でもないような顔をして、漫然と動いているはずである。県警からも、顔見知りの腕ききが、大勢空港のどこかに息を潜めているのだ。滑走路のはずれに、四角い車がじっと止まっている。もし、ある指令が下れば、数秒のうちにその車は走り寄って、真っ赤な消防車だったことが判るだろう。同時にどこからともなく数百人の警察官、機動隊員が空港のまわりに湧《わ》きだし、ヘリコプター、救急車、パトロールカー、テレビカメラなど一斉《いつせい》に轟音《ごうおん》とともに姿を現すことになっている。
彼とは無関係な人間は、羽田刑事の目には四人の男が見えているだけだ。そのうちの三人までは、彼のすぐ傍《そば》にかたまっていた。もっとも、羽田刑事の方で、何気なく三人に近寄ったのである。三人のうち誰《だれ》かが、ときどき「ああ、ああ」とカラスのような声を立てているのが気にかかったからだ。
三人は一つの禿《は》げちょろけた黒い機械を取り囲んで、忙しそうに動きまわっていた。三人のうち一人は肥った男で、だぶだぶのジャンパーを着込み、大きな頭になおだぶだぶの帽子を冠《かぶ》っているので、全体がだぶだぶの感じになっている。彼は黒い機械を雨に濡らすまいとして、黒いこうもり傘《がさ》を差しかけていたが、その傘もだぶだぶしていた。二人目の男は色は同じだがぴったりしたジャンパーを着ている、針金のように黒く細い身体で、雨やこうもり傘には目もくれず、しきりに三脚の上の機械を覗《のぞ》きこんでいる。
あの二人は俺に似ていると羽田刑事は考えている。二人共仕事に熱心だ。それに一と目でカメラマンと判る服装と態度が好感を持てる。
最後の一人の男は、背が高く、整った端麗な顔だちであった。年は他の二人と同じく、三十五ぐらいだろうか。色が白く、貴族の秀才とでもいいたかった。目は学者のように知的で、身体には詩人のようにロマンチックな風情があり、しかも口元はスポーツマンのようにきりっとしまっていた。茶の背広に、いい色あいの縞《しま》のネクタイをきっちりしめて、ネクタイピンやカフスボタンも目だたないが控え目な好みで統一してあった。
はじめ羽田刑事は、彼を羨望《せんぼう》に近い目で見ていたが、空港が雨に包まれたとたん、その男は全く意外な態度になったのである。彼は空を見上げるのに、口を大きく開いた。いきなり雨が降りかかっても、それを雨だと納得《なつとく》するまでには数秒かかっている。そうして「雨だ、雨だ」と叫んで、両足を揃《そろ》えてぴょんぴょん飛び跳ねた。その跳ねかたを見ると、運動神経の方がまるで駄目《だめ》のようであった。
それを見ると、陽に焼けた細い方のカメラマンが「ああ、ああ」と叫んだ。それで羽田刑事はその男の呼び名が「ああ」であることが判った。「ああ」はうろうろしながら、荷物の中からやっと傘を引っ張り出したが、それを開くまでに何分もかかった。その間にだぶだぶのカメラマンは身体に似ぬ敏捷さで、作業服を脱いで、手早く機械の上に投げかけ、「ああ」の手から傘をひったくるようにして取り、さっと拡げて機械の上に差し掛けた。「ああ」は傘を取られてまたうろうろし、新聞を取り出して、無器用に地面に散らばっている小道具を被《おお》いにかかった。
羽田刑事は一応がっかりし、それからほっとした。羽田刑事は「ああ」は駄目な男だとすぐに断定した。顔だちと脳がちぐはぐしているのがまずよくない。第二にカメラマンらしくない服装も気に入らない。
さあっと音をたてて、雨が通り過ぎた。思い出したように陽がかげり、それがまたたくうちに晴れると、空にはドーナッツ型をした緑色の奇妙な雲が現れた。雨を降らせた白い雲は、空港の西にしぼんで行った。
「やあ、狐《きつね》の嫁入りだあ」
「ああ」はごくあたりまえのことを言いながら、だぶだぶの男から渡された傘を危っかしい手つきでたたみはじめる。
「ほれ、あれだ」
カメラを覗《のぞ》いていた針金のような男が、突然、大声をあげた。
羽田刑事は反射的に時計を見た。四時十四分。そして空を見た。南国の東の青い空に、ぽつんと黒いものが見えた。
DL2号機に間違いなかった。彼は神経が張りつめてくるのが判った。同時に三人のカメラマンの動きにも目を離すことができなかった。カメラマンたちは、あのDL2号機を撮影しようとしているらしい。偶然にしてはできすぎている。偶然でないとすると、三人は、何の目的でDL2号機を撮影しようとしているのか。
また彼は、この三人の他に、もう一人の男にも気を奪われている。
その男は「刑事さん」の目につき易《やす》い諸条件を備えている点では、三人のカメラマン以上であった。ひょろりとした青白い男で、目は絶えずおどおど動きまわり、落着かない。ときどき妙に考え込んでいるなと思うと、せかせか歩き廻《まわ》る。三十分程前、この男は黒いぴかぴかの車で空港に来たのである。真っ白なカバーをした帽子を冠《かぶ》り、半袖《はんそで》のシャツだった。身なりは飛行機の乗客を迎えに来た運転手である。ところが「ああ」と同じようにどうもこの男も運転手らしくない。そのところが羽田刑事の気に触っている。
どこかで見たような男だ。羽田刑事は頭を振ったが想《おも》い出せない。頭を強く振ったせいか、涙が少し出てきた。彼は手の甲で目をこすった。そのとたんに記憶が甦《よみがえ》った。緋熊五郎《ひぐまごろう》という名である。今年の正月、酔っ払い運転で事故を起した男だ。記憶がほぐれだすと、あとは自然に想い出すことができる。被害者は若い娘で、柔道の師範であった。緋熊の車に跳ね飛ばされてもかすり傷一つしなかった。普通の人間なら、当然死亡していたに違いない。その時の緋熊は、被害者の娘に運転席から引きずり出され、交通課の巡査の前で、酒臭い息を吐くことになった。緋熊は署の中でめそめそ泣きづめに泣いていた。もう酒は飲みません、事故は起しませんと、くどくど繰り返す言葉が、傍にいた羽田刑事の耳の底に、まだ残っている。緋熊はその直後勤めていた会社を解雇されたが、今見るとまたどこかの運転手に雇われたらしい。雇った人間は、あの事故のことを知っているのだろうか。
緋熊五郎は絶えず羽田刑事と距離をおいている。羽田刑事が彼に近寄ると、彼は何気ないふりで離れるのである。羽田刑事は、俺のことを刑事だと気がついているなと思った。俺のことを刑事だと思うのは無理のないことだが、緋熊は必要以上に「刑事さん」を避けているように見える。
緋熊は空港が雨になるや、まっ先に小さな灰色の空港ビルの中に駆《か》け込んだが、雨が上ると、そろりと建物の中から首を出した。
だぶだぶのカメラマンが、また「ああ」と言った。DL2号機は見る見る大きくなり、ドーナッツ型の雲の真ん中を通り抜けて、空港の上に現れた。
三人のカメラマンは、明らかにDL2号機にレンズを向けている。羽田刑事の目が、一層するどくなった。
|A《エース》航空の2号機爆破の予告が、東京の羽田空港にはいったのは、十三時五十七分、DL2号機の出航する二十三分前であった。
声を変えようとしているのだろう。予告者は、変にかすれた声で、自分はある方法でDL2号機に時限爆弾装置を持ち込むのに成功した。機は正確に離陸後三十分で空中爆破されるであろう、と言った。電話を受けた交換手は、物馴《ものな》れた手つきで目の前にある非常の赤ボタンを押してから、どうしてそんなことをなさるのですかと睡《ねむ》いような声で聞き返した。電話の男はむきになって、悪役のようにせせら笑い、それはあの男がその飛行機に乗り込むのを知ったからだと答えた。交換手は気が遠くなりそうになりながらも、あくびを噛《か》み殺すような声をして、それではあの男以外の何も知らぬ乗客をも殺すようなことになる。あなたはそれでも人間ですかというような意味のことを言い続けたが、予告者は、已《や》むを得ぬわと威張《いば》り、いいか、宮前空港行き羽田発十四時二十分のA航空DL2号機だぞと、もう一度飛行機の名前を繰り返してから電話を切った。
すでに動き始めた電話の逆探知機によって、予告者は同じ空港の公衆電話を使用したことが知れた。保安官がまっすぐにその電話器に駆けつけたが、電話器の前には、三角形の顔をした洋装の小柄な老婦人が、小銭入れをしっかりと握りしめていて、保安官を見るなり彼の胸ぐらをむんずと取ったのである。
電話を掛け違えたが、小銭が戻《もど》って来ないと言うのだ。彼女にとって、一台や二台の飛行機が爆破されるより、一つの十円玉が戻らぬ方が大事件なのであった。むろん彼女の前にどんな男がこの辺りをうろうろしていたかなど、判るわけがなかった。
予告電話の直後、警察と連絡が取られた。DL2号機の隅々《すみずみ》が極秘のうちに調べあげられた。しかし爆発物らしい物は、どこにも発見されなかった。
犯人の声から推すと、異常性格者の、たちの悪い、いつもの悪戯《いたずら》という見方もできる。それにしても犯人が有名なジャンボジェット機などではなく、知る人の少ない、ローカル線のプロペラ機であるDL2号機を特に指定したことが気味が悪い。
空港では完全に同機が安全であることを確認したのち、乗客にはこの事件を一切秘密にしたうえで、予定通り東京の空港を離陸させた。すぐ宮前市にも異常事態が通報され、二十分後に宮前空港にも非常態勢が整えられた。
DL2号機の離陸三十分後(爆破予定時刻)には、何の異常も起らなかった。そして今、南国の宮前空港の羽田刑事の視界に、予定時刻通りDL2号機が姿を現している。気狂《きちが》いの酔っ払いめが、と羽田刑事は腹を立てている、小半日炎天下に立たされ、しかもずぶ濡れだ。俺の顔がますます「刑事さん」らしくなってゆく。
強い陽ざしに翼が輝くのが見える。DL2号機の安定した飛行を見ているうちに、彼の気持が落着いてきた。これで今日の仕事も終りなのだなと思った。緋熊五郎や三人のカメラマンたちのことも、ちょっと心にひっかかるものがあったまま、やがて忘れてしまうのだろう。
DL2号機はごおっと音をたてて、地面に降りて来た。着陸とは、緩やかな墜落だとある航空評論家が言ったのを想い出す。羽田刑事は目の前で飛行機の車輪から火花が散ったのを見た。飛行機は、ごつんという調子で着陸し、しばらくよたよたと走り、滑走路の端の草むらの中に頭を突っ込むようにして止まった。羽田刑事の息が止まった。空港の消火車も動かない。空港の職員の数も増えない。映画のフィルムが止まったように、しばらくはこの世界に動くものは何もなかった。
最初に動きだしたのは三人のカメラマンたちだ。
「ほっほっほ。変てこな着陸ですな」
羽田刑事は、ぎくんとして声のする方を見た。だぶだぶの男が飛行機の方に腕を伸ばして喋《しやべ》っている。
「ありゃ、操縦士がミスったんじゃないかね、稲垣《いながき》さん」
稲垣と呼ばれた黒く細い男も、興味深そうに飛行機を見ながら、
「折角《せつかく》いい滑走路が作ってあるのにね。あの飛行機は草が好きなのかしらん。成山《なるやま》さん」
「牛じゃあるまいし。もし爆発でもしたら……このフィルムで……」
「……一と財産とゆかぬまでも、成山さんの好きな……」
「……ほんとに惜しい……」
プロペラの音が続いているので、羽田刑事は男たちの声を聞き取るのに骨が折れた。
「……どうせ爆発するなら、あのドーナッツ雲の真ん中で……すばらしく、驚異で、奇蹟《きせき》な……」
「……で、刑事の――」
「ああ」は喋りながらふと羽田刑事の方を見た。目が合うと「ああ」はぎょっとした顔になり、成山と呼ばれただぶだぶの男の陰にかくれるように身体をすぼめた。羽田刑事は「ああ」の顔を睨《ね》めつけ、この男の顔は生涯《しようがい》忘れまいと思った。
予定の行動のように黒い牽引車《けんいんしや》が現れ、機に近寄って尾部をロープでくくり、滑走路の真ん中まで引っぱりはじめた。機は襟髪《えりがみ》を持って引きずられている大きなだだっ子のように、ずるずると後退する。作業員の口笛が聞える、そんな雰囲気《ふんいき》のうちに、作業が終り、タラップが取りつけられる。
機のドアが開いた。最初に姿を現したのは、三角形の顔をした老婦人で、びっくりするような速さでタラップの階段を駆け降り、あっと言う間に空港の建物に姿を消した。
次に姿を見せたのはふやふやと真っ白に肥《ふと》った男だ。遠目にも彼の顔が異様に緊張しているのが判った。その男ははじめタラップに足をおろし、階段を降りかけたとき、ちょっと躓《つまず》いたが、それはまるでわざと躓いたように見えた。そしてそのあとはしっかりした足取りに戻って階段を降りてゆく。
「はてな?」
調子の変った声が聞えた。「ああ」がきょとんとした顔でふやふやな白い男の姿を目で追っている。
「知ってる人かね」
成山が訊《き》いている。
「ああ、いやなに」
「ああ」は口の中で言葉を噛《か》み潰《つぶ》した。
三番目にびっくりするような美人がぱあっと機内から現れた。続いて派手なシャツを着た外国人が、美人と何か喋《しやべ》りながらゆっくりと階段を降りる。そのあと十人ばかりの乗客が次々に滑走路に降り立ったが、誰も空港の異常さには気付いていないらしい。いつもの空港と同じ陽気ささえあった。
羽田刑事は機内から出て来る一人一人の顔を見渡し、乗客のすべてが地上に降りたところで、ゆっくりと空港の建物に足を向けた。三人のカメラマンたちも機械を片付けはじめた。
乗客と出迎えの人たちで、狭いホールがちょっとの間ごった返した。三角形の顔をした老婦人が、同じような老婦人と出会って、カン高い声をあげている。羽田刑事は、ふと緋熊の姿を見たが、すぐ忍者のように消えてしまった。真っ赤なシャツの外国人が何やら喋りながら、身の丈《たけ》もあるトランクをかつぎ出している。
突然、羽田刑事の目の前に、ふやふやした白い男が現れた。近くで見ると、分厚《ぶあつ》い唇が白っちゃけている。それがこの男の印象をよけいふやふやしたものにしているようだ。そのとき、羽田刑事の予想していないことが起った。どこからともなく、緋熊が駆け寄って来て、白い男の前でぴょこんとおじぎをしたのである。白い男は腹の底で「うう」と言うような声を出して、手に持った鞄《かばん》を緋熊に渡し、
「ちょっと待ってろ。話をつけておかなきゃならん事がある」
と言った。そしてぐるりと顔を羽田刑事の方に動かし、
「署長を呼んで貰《もら》おう」
と、嚇《おど》すような口のききかたになった。
「署長?」
羽田刑事は訊《き》き返した。
「そうさ、宮前警察の署長をだ」
羽田刑事の傍に大きな顔をぐっと寄せて、
「お前、刑事だろうが」
羽田刑事は苦笑した。
「俺が乗って来た飛行機を爆破しようとした男は捕まったか」
「え? どうして」
羽田刑事は、ぎょっとして、真顔になった。
「爆破されなかったのは幸せさ。だがどんといっていたかもしれん。それなのに何だ、この空港には警備態勢というものはないのか。非常事態なのだぞ。警察の人間は、お前一人なのか」
緋熊が傍に寄って何かささやいた。白い男は、ちょっと目を動かしただけである。
「それに何だ、今のざまは。俺は三日に一度は空を飛んでいる人間だ。あんな着陸ははじめてだ。それに対して何の弁明もないというのはどうしたことだ。真っ先にスチュアーデスが悲鳴をあげて気絶したのを知っているのか」
「何故《なぜ》、あの機が爆破される予告のあったのを知っているのですか」
羽田刑事は伸びあがるような恰好《かつこう》で男の耳元に言った。
「そいつは俺のところへも電話を掛けて来た」
容易ならざる言葉だ。
「そいつとは誰《だれ》です」
「俺を殺そうとしている奴《やつ》だ。そいつは俺一人を殺すためには、何百人巻き添えにしようと屁《へ》とも思わんよ」
「そいつというのは誰です」
「判らん。とに角、俺を殺そうと思っている奴は千人もいるよ。俺の会社の半分以上がそうだ。奴らは伝染病のように革命主義にかぶれてしまった。いいか、これは殺人未遂だぞ。絶対に犯人を挙げるんだ。すぐ署長を呼んで貰おう」
「あなたは誰です」
「俺は柴《しば》総合工務の柴という者だ。糊野台《このだい》に住んでいる。ここに居を構えるようになってからまだ一年足らずだが、いずれ莫大《ばくだい》な税金を払うようになるわけだ。それがお前たちの給料になるわけだぞ」
「ここへ来て一年足らずと言うと――宮前地震のあった直後ですな」
奇妙なことに「地震」という言葉を聞くと、柴は急に穏やかになった。
「まあ、いずれ署長には俺が逢《あ》いにゆこう。――何だ、君たちはカメラマンか」
羽田が振り返ると「ああ」の一行がカメラを担いで立っている。
「そ、そうです」
と、「ああ」が答えた。
「そうか――」
柴は何かほっとしたように、
「すると、俺は気が付かなかったが、どこかにテレビカメラもいたと見えるな」
「テレビカメラ? そんなのいましたかね、成山さん」
さっき稲垣と呼ばれていた細い男が、だぶだぶの男に言った。
「まあいいさ」
柴は無理に笑い顔をして、
「署長に会いたい。署にいるかね」
「今日は留守《るす》でしょう」
羽田刑事はだんだん不機嫌《ふきげん》になって、ぶっきら棒な声になった。
「留守? どうしてだ」
「生花《いけばな》の会があります」
刑事は柴の顔を見ているうちに、嘘《うそ》をついてみる気になった。
「生花だとお――」
柴の白い顔がみるみる脹れあがった。
「この非常事態に生花だと。田舎のお巡《まわ》りめ。帰ったらよく言っておけ。近頃《ちかごろ》妙な奴が俺の家のまわりをうろついているんだ。警備を強化するように、とな」
羽田刑事の近くに、同僚の刑事が二、三人何気ない風で寄って来た。
緋熊が柴の大きな顔に口を寄せて、また何か言った。
「うう――それから宮前空港の所長というのか港長というのか知らんが、俺が逢うと言っておけ。今日は一時帰る」
柴はそう言い残すと、大股《おおまた》で歩き出した。鞄を持った緋熊が後を追う。羽田刑事も二人の後についてゆく。
空港の建物を出ると、道路まで五段ばかりの階段になっていた。柴は階段の前でちょっと立ち止まり、ゆっくり片足を二段目に下ろすと、よろりとした。それがわざと階段を踏み違えたように見えた。当人の柴はあとは無表情で、普通に階段を下りて行った。柴の前にはすでに緋熊が黒い車のドアを開けて待っている。柴が乗り込むと、緋熊は慎重にドアを閉めて運転席についた。
柴の車の熱気を吸って、羽田刑事は気分が悪くなった。あの顔はどこかで見たことがあると思って、頭をぐるりと動かした。昔教わった教科書にあった顔だ。被害妄想狂《もうそうきよう》の患者の顔と同じだ。羽田刑事はむりにそう断定した。
柴がよろけた階段のあたりで、しきりに段の石を覗き込んでいる男がある。「ああ」であった。羽田刑事と目が合うと、彼はそそくさと逃げる恰好になった。
「まて」
刑事は初めて「ああ」に声を掛けた。
「胡散臭《うさんくさ》い奴だ。何をしていた」
「階段を見ていました」
「ああ」は蚊《か》の鳴くような声を出した。
「階段に何がある」
「何にもありませんでした」
「何い?」
「いいえ、今の人がちょっと、その、ここでよろけたので、もしや階段が毀《こわ》れていて……」
「毀れていたのか」
「いいえ、ですから妙だと思って調べたのですが、何ともなっていませんでした。ここです、御覧なさい、刑事さん」
「何を? 刑事さんだと? 俺が刑事だということをどうして知っているんだ」
「ついさっき、肥った人と話をしていたのを通りかかったとき――」
「耳のいい奴だ。あの男のことを知っているのか」
「いいえ、とんでもない。お初《はつ》にお目にかかりました」
「君たちはあのことも知っていたろうな」
「あのこと?」
「そうさ、あの男の話していたことをさ」
「ははあ。署長の生花」
「惚《とぼ》けるなよ。DL2号機の爆破予告をだ」
「ああ、爆破予告の、あれですか」
「君たちがあのことを知っていなければ、わざわざこんな田舎の空港にカメラを据《す》えて、あの飛行機を写しているわけがねえ。特ダネ写真で一と儲《もう》けしようとしていたのか」
「え? するとあの肥った人が言っていた爆破予告というのは、本当だったんですか」
羽田刑事は答える代りに「ああ」を睨《にら》みつけた。「ああ」は震え上って、
「いや、違います。飛行機など写していたんじゃありません。写していたのは雲でした」
「雲? ふざけるな。雲など写してどうなるんだ」
「稲垣さん、ちょっと」
「ああ」は黒く細い男に助けを求めた。稲垣は一歩前に出ると意外に落着いた態度で、
「私たちがここで雲を撮影していた理由というのは、地震と雲との間に重要な関係があることを研究するためです。大きな地震の前後に、ある特定の雲や虹《にじ》が観察されたという報告が数多くされております。はたして地震雲というものが存在するものか。例えば、さっき珍しいドーナッツ型の雲の撮影に成功しましたが、あれは――」
「機が着陸したとき惜しいとか言う声が聞えたが」
「――成山さんだったかね、あの声は」
「僕じゃございませんよ」
成山はあわてて答えた。羽田刑事は「ああ」の方を向いて、
「たしか君は〈ああ〉とか言ったな」
「また違います。〈ああ〉じゃありません。〈あ〉です。亜硫酸《ありゆうさん》の亜という字を書きます。成山さんたちの研究に協力している写真家です。成山さんは東大助教授で地質学者です。稲垣さんはやはり同じ助教授で気象学者です。僕たちは怪しくないこともありませんが、決して刑事さんの厄介《やつかい》になるようなことはしていませんです」
「私は宮前警察の羽田といいます」
羽田刑事はカメラマンだと思っていた男が、実は学者であり、カメラマンらしくなかった男が本当のカメラマンであったので、すっかり調子が狂い、亜から自己紹介されると自分もふらりと身分を明かしてしまった。
「もしまだ何か疑いがありましたら、現像したフィルムを見せてもいいですよ」
と成山が言った。
「ぜひ、そうさせて貰うよ。それから、君たちの宿泊しているところを知らせてくれ」
「ホテルニューグランド宮前です」
羽田刑事は、宮前市で一番安いホテルに泊っているな、と思った。
翌日も前の日と同じような天候だった。羽田刑事は糊野台に向っていた。前の日に懲りて傘を持っていた。宮前市の中心にある宮前警察から歩いて二十分ばかりの糊野台に着くまで、十回も傘を開いたり閉じたりしなければならなかった。
柴からは十一回電話が掛って来た。署長は羽田刑事からの報告を聞いていたので、
「けたくそ悪《わり》い。田舎のお巡りは生花でいねえや。留守だと言っつくれ」
と江戸弁で怒鳴《どな》り、取りつく島もない。江戸幕府旗本の末裔《まつえい》である署長は一度|臍《へそ》を曲げたら、容易に直らないのである。
「俺は殺されそうだと言い続けていますが」
羽田刑事は警部補|音羽鉄司《おとわてつじ》に報告した。
「本当に殺されそうなのか」
音羽警部補は、鬼のような顔を四角にした。
「宮前市ではこの十年間殺しはありませんでしたよ」
「そうだなあ。奴の言うことはそれだけなのか。爆破予告について新しいことは?」
「何も言いませんよ。ただ誰だか判らないが殺される。これだけです」
「放っとくか」
「これから糊野台へ行ってみます。落着いて考えてみると、憎体《にくてい》ではあるが、そう悪い男とも思えない。緋熊五郎を拾ってやったそうですから」
「交通事故を起した男だったな。柴はそのことを知って拾ったのか」
「今朝、交通課から聞きました。緋熊は泣いて喜んだそうです」
「あいつはよく泣くんだ」
現に江戸前の署長は、緋熊の泣き落しにかかり、違反の罰を軽減させられた前歴がある。
「今からでも柴の家に行ってみます」
「御苦労だがそうしてやっつくれ」
音羽警部補は署長の口真似《くちまね》をした。
羽田刑事が調べたところによると、咋日の柴の言葉は大風呂敷《おおぶろしき》でもないようだった。柴総合工務、従業員二千、独力で産を成した。産と共に敵も多く作った。業者の間では「寝返りの柴」として有名である。柴が宮前市に居を構えたのは、彼の言ったとおり、宮前地震の直後であった。宮前市復興に目をつけたと思われるが、小さな宮前市に乗り出すような柴ではない。しかもこの不便な地に、永住するつもりらしい。謎《なぞ》と言えば、謎である。東京の本社では、従業員組合が待遇改善を求めて争議中、それが直接柴への殺意に結びつくかは判らない。
午後になっても、宮前警察にDL2号機爆破予告に関する新しい情報は何もはいってこなかった。むろん犯人のかけらも現れない。羽田刑事はぶらりと署を出た。
糊野台はだらだらした坂の上にあった。地震の前はこの坂はもっと急だったようだ。それ程この辺《あた》りの地震がひどかった。糊野台が噴火して山になったという噂《うわさ》が一時全国に拡がったものだ。
もう、こんな土地は御免《ごめん》だと、土地を売って、引っ越してゆく人もあったが、柴は反対にこの土地を買い求め整地して家を建てた。糊野台は特別景勝の地でもない。柴の仕事に、特別の利益があるのだろうか。
坂の上に雲がかかっていた。雲の下にカメラと三脚が見え、黒っぽい三人の男が動いているのが見える。羽田刑事が近寄ると、亜がびっくりしたような顔をして、
「やあ刑事さん、またお目にかかります」
と、言った。
カメラを覗き込んでいるのはやはり成山と稲垣である。羽田刑事はゆっくりと腕を組んだ。
「また雲を撮っているのかね」
「御覧なさい。すばらしい雲じゃありませんか」
亜は惚《ほ》れ惚《ぼ》れと空を指差した。
羽田刑事は空を見上げたが、雲を見たわけではなかった。彼はゆっくりと首を動かしてから、傍の塀《へい》を指して、
「この家は誰の家か知っているかね」
「昨日、空港で会った、柴という人の家でしょう」
亜が朗らかに答えた。
「この家をもとから知っているのか」
「いいえ、僕たちは、ここが一番地震がひどかったと聞いたので、来てみたのです。そうしたら、大きな表札が出ていましたよ」
確かに「株式会社柴総合工務」という大きな看板《かんばん》が見えるのである。
「それにしても妙な話だ。君たちは、昨日柴の乗っていた飛行機を撮影していたし、今日は柴の住んでいる家を撮影しようとしている」
「いや」
亜は羽田刑事の言っている意味が判ったらしく、片手を頭の上で振り廻した。
「僕たちが撮影していたのは雲です。柴なんどという人は昨日はじめて会ったばかりで、てんで関心が――いや少しはありますね」
どうもこの男の言うこと、途中から辻褄《つじつま》が合わなくなる。
羽田刑事は柴邸のベルを押すのをあとにし、家の廻《まわ》りを歩くことにした。
不相応に大きな鉄の門。見覚えのある黒い自動車が、ぴかぴかになって車庫の中にある。綺麗《きれい》に手入れのされた芝生。建物はコンクリートの二階建である。窓という窓は鉄の柵《さく》がはめこまれ、ぴったりと閉ざされている。塀の上には本物の刃物のように磨《みが》きあげられた忍び返しが植え込まれている。目には見えないが、家の廻りには無線警報器が張りめぐらされている感じだ。邸《やしき》の中は物音一つしない。
柴に妻はない。十年前離婚している。子供もなく、一人住いである。住み込みの婆やと、運転手を兼ねた緋熊五郎が身の廻りの世話をしている。
羽田刑事は邸を一周して、また三人のところに戻った。
「新しい建物ですね」
亜が人なつっこく言った。
「やっと一年たつかたたずかだろう」
「すると地震のあったあとに建てたのですか」
亜は腑《ふ》に落ちないような顔をした。
「どうした。地震のすぐあとで悪いのか」
「いや、別にどうってことはありません」
この男何を考えているのだろうか。
「君たちの他に、この付近に人を見かけなかったかね」
羽田は他の二人に訊いた。
「お昼頃、運転手が通用口から家の中に入るのを見かけましたがね」
成山はカメラから目を離し、煙草《たばこ》を取り出しながら答えた。
「それから、すごく威勢のよい女の子が、道の真ん中でこんな仕事をしているのは、通行の邪魔ですと亜を叱《しか》りつけて通って行った」
稲垣もひどく興味深そうな顔をして話にはいって来た。
緋熊が柴の邸の中に入ったことは不思議ではない。だが威勢のよい女の子というのがちょっと気にかかった。羽田刑事は、二人の話をもっとよく聞く気になった。だが彼が口を開かないうちに、二人の方から話しだした。
「あの女の子は運転手と一緒に歩いて来たんですよ」
と成山が言った。
「そう、その通用口で二人は別れたんだ」
「温順《おとな》しそうな女の子に見えたんだなあ。それが一人になるや、突然、亜に組みついてきた」
「僕が後ろ向きで、うっかりあの子にぶつかったからです。もう少しで投げ飛ばされるところだった。ありゃ柔道の心得がありますね」
「あの二人は何でしょうかね。恋人同士でもなさそうだし、兄妹でもないやね」
羽田刑事はちょっと考えてから、
「被害者だったかもしれない」
「被害者?」
三人の目が生き生きしてきた。三人は共通して旺盛《おうせい》な野次馬《やじうま》根性の持ち主であるらしい。
「緋熊は、自動車で、柔道家の女の子をはねたことがある」
「え? それは何時《いつ》のことです?」
亜が食い付きそうな顔になった。
「――今年のはじめ頃さ」
羽田刑事はむずかしい顔になった。
「まさか――その事故でその運転手が馘首《クビ》になり、柴という人が自分の運転手にした――というんじゃないでしょうね」
羽田刑事は目をぎょろりとさせた。
「その通りだ。よく知っているな。誰から聞いた?」
亜は何も答えない。答えられないのだ。白目を出している。他の二人は、自分の仕事のことをすっかり忘れてしまった。
「飛行機爆破予告の犯人は判りましたか?」
「この柴の家に何か起るのですか?」
たて続けに質問する。捕物《とりもの》でも始まるのを期待しているのに違いない。
羽田刑事は、むっつりとして糊野台から宮前空港を見下ろした。空港は茶色い俎板《まないた》のように見えた。空港の上には平凡な雲が浮んでいる。羽田は時々亜を観察する。亜はぼうっとして雲を見ているばかりだ。
糊野台の上にとんびが輪を描いた。
「静かだなあ」
成山がぼそりと言った時である。
奇妙な、不吉な音が、続けざまに柴邸から聞えてきた。
はじめのは鈍いずしんとした音で、続いて不規則なばたばたした足音が聞えた。更にぎいぎいと鉄のきしる音がして、黒光りする通用門の格子戸が開いた。門の隙間《すきま》から黒い塊が転がり出た。塊は羽田たちの足元に崩れた。緋熊五郎である。緋熊の頭から血が吹き出ている。緋熊は断末魔《だんまつま》のような両手を伸ばして羽田刑事の両足を捕えようとする。羽田は思わず二、三歩後にさがった。
「助、けてえ――」
緋熊は、ひきつった声帯の奥の方から声を出した。羽田は数秒たってから緋熊に近寄った。男はくたくたに丸まっている。
死んではいない。片頬《かたほお》が鈍器のようなもので、ざっくりとぶち割られている。羽田が抱き起すと、緋熊の青白い顔が魚のようにぱくぱく動いた。
「ああ!」
と羽田は亜を呼んだ。とっさに亜の名前が一番呼び易かったからだ。
亜はへっぴり腰で、一つのところをぐるぐる廻っている。血を見て逆上したのだろうか。
「いや、そっちの二人」
羽田はこの男はとうてい使えないと思ってあわてて二人を指した。名前は出て来ない。地質学者と気象学者は羽田の傍に駆け寄った。
「電話をしましょう」
どちらかの一人が言った。
「そうしてくれ。先に医者だ。次に署を頼む。この家の電話を借りてくれ。確か婆やがいる」
亜が突然近寄って来て、両手を変な風に振り廻した。そうして、駆け出そうとする二人の腕を馬鹿力《ばかぢから》で押えつけた。
「だだだ……」
羽田刑事は、この男あんまりびっくりして発狂したのかなと思った。
「何をする。寸時を争うんだ。君たち、この男には構わず、早く電話だ」
「だだだ……」
二人が亜を振り切ろうとする。亜は何を思ったのか、ひょいと軽く身をひねった。羽田刑事には鳥が羽ばたいたように見えた。そのとたん、成山の大きな身体が宙に弧を描いてひっくり返り、稲垣の細い身体が、空気に煽《あお》られたように地面に寝転がった。
亜は半開きになっている鉄の格子戸をぴたりと閉めなおした。
「だだ、駄目です。羽田刑事、この中には刃物を持った狂人がいます」
「狂人だとお?」
あとになって、冷静に考えると、亜の言ったことはもっともである。現に血みどろになった男がこの家の中から転がり出したのだ。してみると、この家の中には当然加害者がいるわけであった。けれどもこのときは、亜が「狂人」と言った意味がまるで飲み込めなかった。
「危険です。非常に危険です」
亜は叫び続けた。
「今にあの人が、この運転手のあとを追って、やって来ます」
「あの人? 誰だそのあの人と言うのは?」
「そう、何と言いましたかあの白く肥った人、ああ、この家の主人で柴総合工務の柴という人です」
そのとき、再び不吉な音がした。亜が今閉め直した鉄の格子戸の向うに、パジャマ姿の大きな男の姿が現れた。男の右手に、血のしたたる斧《おの》が下がっていた。
羽田刑事は、緋熊をそっと地に寝かせて立ち上った。
「きゃっ」
亜が叫んだ。柴がぎいと戸を開けて、外に出て来たからである。
羽田刑事は、落着いた足取りで柴に近寄った。柴が事情を説明するものと思ったからだ。彼の考えでは、緋熊五郎が飛行機爆破の予告犯人であり、かつ柴を狙《ねら》っていた男でもあったのである。緋熊は柴を殺そうとし、反対に柴に頬《ほお》を割られたのだ。柴はその事情を自分に告白するだろうと思ったのである。
「近寄っちゃいけない」
と亜が言った。
同時に、柴は、羽田が思ってもみなかった行動を起した。彼はゆっくりと斧を振り上げ、羽田の頭をめがけて打ち下ろしたのだ。
羽田が体《たい》を躱《かわ》す。亜が柴の両足に飛びかかる。斧は地面に食い込んだ。柴のスリッパが遠くに飛んで行った。亜は柴の足を持って、門の傍にずるずる引っ張って行く。足が奇妙な工合《ぐあい》にねじれた。柴はライオンのようにうめいた。羽田は奇妙なことに牽引車で引っ張られている飛行機を想い出した。
「刑事さん、手錠を」
「よし」
羽田刑事は、すごい早さで柴の足に手錠をかけ、片方を鉄の格子戸に繋《つな》ぎ合わせた。
「もう大丈夫です。さあこの家から電話をして下さい。それにまず、僕に水を一杯――」
亜は地面にぺたりと坐《すわ》りこんでしまった。
亜に投げ飛ばされた二人は、きょとんと乱闘を見ていたが、亜に言われて柴邸に駆け込んだ。
「何だ、こいつ、気狂《きちが》いか」
羽田はうめき続けている柴を見下ろして言った。
「その上に、この人は」
亜は肩で息をしながら、
「DL2号機爆破予告の、犯人でもあります」
と、やっと言った。
机を前にして、宮前警察署長と、音羽警部補が並んで坐り、亜と稲垣と成山が向い合っている。三人の隣に羽田刑事がいる。
署長は紺の縦縞の背広を涼しそうに着て、前の三人を細い目で見比べている。署長の後の壁には大きな風景画が掛っている。その横に見事なガーベラの鉢植《はちうえ》が置いてある。いずれも署長の作品であった。彼はポケットから、細めのパイプを取り出し、気取った手つきで火をつけた。
さっきから音羽警部補がドスのきいた大きな声で喋るので三人の頭が低くなっている。
「緋熊五郎の傷は、思ったより深くはなかった。柴にそのことを聞かせると、やや落着きを取り戻したよ。DL2号機爆破予告も、自分の犯行だと、たった今自白するまでになった」
「今度の事件は、俺の知らねえうちに、変な工合に終ってしまった。そうと知っていたら、一緒に糊野台まで行くんだったなあ」
と署長は残念がる。羽田刑事は苦笑してから、
「事件は終ったが、私にはよく判らないことだらけだ。ところが、緋熊が柴に襲われて門から逃げ出したとき、いやもっと前から亜には全《すべ》ての事情が判ってしまっていたらしい。それが私には納得できない。それとも私の知らない何かを掴《つか》んでいたのかね」
亜はまるで犯人のような顔をして坐っている。稲垣が共犯者が主犯をかばうように口を挟《はさ》んだ。
「亜はいつも僕たちと一緒に雲を撮影していました。夜中にこっそりホテルを抜け出すような事もなかったと思いますね。僕たちと同じ物を見、同じことを聞いていました。それなのに、亜には特別な判断力で一つ一つの意味が判っていたらしい。糊野台では思わぬ事が出鱈目《でたらめ》に起ったとしか考えられないのですがね」
「どうなんだね、君。すっかり説明して貰おうかい」
音羽警部補が大声をあげた。
羽田刑事は亜に煙草を取らせて、火をつけてやった。亜は背を丸めて煙草を吸ったが、その態度は美男俳優の演ずる失意の天才芸術家のようだった。けれどもそれは一瞬のことで、亜はたちまち煙にむせ返った。
「成山さんの言う通り、僕は皆さんの見て来た以外の事は何も知りませんでした。だが、柴さんをめぐって、短い時間の間に起きたいろいろなことが、僕が考えていたあることと、一つ一つ関連があったのです」
亜の声が犯行を自白する犯人のように低かったので、皆は息を潜めて彼の言葉に聞き入らねばならなかった。それに気付いてか、亜はことさら背を丸くして上目遣《うわめづか》いになり、声の調子も低く変えた。従って、以下五人の談話は、悪事の相談のような雰囲気になったのである。
「――ですから、緋熊さんが殺されそうになってからは、五のあとが六というように、ごく自然に、柴さんが凶器を持って現れるな、と感じたわけです」
「その、一から五までのこととは何かね」
羽田刑事が優しく訊いた。
「初めて柴さんを見たのは、あの人が飛行機から降りて来るときでした。あの人はタラップ階段に足をかけ、わざと躓《つまず》いたような恰好になりました。その態度に深い意味があるとは思わなかった。ところが柴さんは、飛行場のホールから外に出る階段でも、またわざと躓いたのですよ。僕の頭がこんぐらかりはじめたのです。これが、一と二、三は柴さんは自分の乗っていた飛行機が爆破予告をされているのを知っていたこと。それを聞いて頭が痛くなりましたね。四は柴さんが地震のひどかった土地に住むようになったこと。それを知ったとき、僕の頭にある整理が出来はじめたようです。五は柴さんが交通事故を起した人を自分の運転手に採用したこと。それを聞いたとき、あの人は次に人でも殺すのではないかと考えました。ですから緋熊さんが殺されずに門の中から逃げて来たときには、あの人が凶器を持って追い掛けてくるに違いないと思ったわけです」
「つまり君は気狂いの心理をよく知っているわけなのか」
署長は亜を覗きこんだ。
「いや、あの人の行動は完全に理論的でした。少なくとも、斧を持って緋熊さんを追い掛けて来たときまでは、僕たちと同じ思考状態にあったわけです」
「すると、DL2号機を爆破させるぞといった電話も、理由のない嚇《おど》しではなかったのだね」
「そうです。あの人はちゃんと計算を立ててあんな電話をしたのです」
「そのあたりから話して貰えないかね」
亜は何を思ったのか、ポケットから白い小さな物を取り出すと、軽く机の上に投げ出した。白い物は乾いた音をたてて転がってゆく。賽《さい》であった。五つの頭が賽を中心に寄り合った。
「一の目が出ましたね」
亜は賽をつまみ上げると、もう一度振る手つきをして、
「さあ、もう一度賽を振りますが、署長さんあなただったら何の目に賭《か》けますか?」
「警察で賽ころ賭博《とばく》をやるわけにゃいかねえよ」
彼の言葉は署外ならいつでも付き合うよというように聞えた。
「むろん仮にの話です」
「じゃあ二としてみようか」
「署長さん、柴さんの考えに似たところがありますね」
亜は賽を投げた。賽は同じように転がり、二の目が現れた。
署長は嬉《うれ》しくもない顔をした。羽田刑事は賽をつまんで、指先でひねくった。
「偶然に起ることを予測するとき、人間はだいたい三通りの思考法をとるようです。今の賽でたとえると、最初一の目が出たら、次にも一の目が出るぞと考えるのが一つ。本物の賭博師などにこうした思考をする人がいるようです。二度あることは三度あるという譬《たと》えがありますが、これと同じ考え方ですね。二番目は最初出た目の数のことは全く無視する考えです。この人たちの考え方は大変知性的でして、人情に左右されない。今まで起ったことは今まで起ったこと、これから先はこれから先という考えで、数学的にも最初一の目が現れ、次にも一の目が出る確率というのは――確か?」
「そんな計算はどうでもいいや」
と肥った学者が言った。
「数学のことを持ち出されると、腹がへってくるたちでね」
「はあ、そうでしたね。で最後は残った三番目の人たちの考え方ですが、実はこの中に柴さんも混っています。このグループの人たちは、最初に一の目が出てしまったのだから、二度目にはもう一の目は出やしないと考えます。今日は雨がうんと降っているから、明日は降るまいと考える人」
「ごく普通の人間が考える方法じゃないかね」
と署長が言った。
「話がしやすくなりましたよ、署長さん。さて、ここに、三番目の考えをしている人間で、しかも信仰に近い程、その考えに強く行動を支配されている人がいます。その人は更に、絶えず自分は何かの危害を受けるだろう、又は、何かの災害に逢うだろうという強迫感が離れないでいる。例えば地震ですが、地震に逢うことを、極度に恐れている人がいるとすると、この人は何処《どこ》に住んだらいいでしょうね?」
「亜の言いたいことが判って来たよ」
と稲垣が言った。
「今の賽ころの三番目の考え方をするんだな。地震の恐《こわ》い人間なら、大地震のあった直後、その土地に住めばよい。彼らはその土地に続けて二度も大きな地震が起るとは考えないからだ――」
羽田刑事は、宮前空港で雨に逢ったときの自分を想い出していた。あのとき自分は何を考えていただろうか。「まさか、また地震にはならないだろう。同じ季節、同じような雨のあとで、同じ地震が来ると定まってやしない。だいたいそうちょいちょい地震などあってたまるものか」と羽田刑事は自分に言い聞かせていたのだ。すると自分も柴と同じ思考の軌道を辿《たど》っていたのではないか。
「そりゃあそうだ。賽ころのように、また同じ地震の目が出ちゃあ敵《かな》わねえ」
と、署長が言った。
「しかし、学問的には、地震のあった時期に、もう絶対同じ地震がないとは言えませんがね」
だぶだぶの地質学者が言った。
「そりゃそうだろう。今度の地震でも、もうこんな土地は嫌《いや》だと言って何処《どこ》かへ引っ越してしまった人もいる。だが大部分の住人は、これであと、五十年は地震がないと思っているんだ」
「成山さんの言うように、それが正しいかどうかはともかく、柴さんは第三の考えに従って宮前市に土地を買い、居を構えたのでした」
亜は話を続けた。
「また、ここに、肥って足が弱り、転び易くなった人がいます。彼は転ぶことに非常な恐怖心を持っていた。彼はたまたま石などに躓いて転ぶ、けれども起き上ったとたんに、また続けて転ぶというようなことはあるまいと考える。そのため、彼は階段などを降りるときは、一度わざと躓くようなふりをしてから、階段を降りるという習慣ができたのです。――僕ははじめて柴さんを見たのは、飛行機から出てくるときでしたが、あの人はタラップの階段で躓いたのです。それがわざと躓いたように見えたので、奇妙なことをする人だなあと思いました。それから、あの人は空港のホールから外に出る階段でも、同じように階段を踏み外すような格好をしたのですよ。僕は階段が壊れているのか、石のようなものでも転がっていやしないかと気になったものですから、傍に寄ってよく見ました。階段には何の異状もなかった。何故そんな事をするのだろうか。ただ一つ思い当ることがあります。それは極度に転ぶのを恐れている人の、転ばないようにするための儀式に違いない。
「僕はそのあと、物好きにも柴さんと同じような思考をしてみました。家の近所で火事があったら、当分は火事の心配はあるまい、といった風にです。その頭で、ふいと、もし飛行機が墜落するのが恐くて仕方がない、と変な考えを起しました。そうしたら、飛行機が墜《お》ちるのが恐ければ、墜落した直後の便を選んで乗ればよろしいという答えが出ました。しかし航空事故なんてそうやたらにあるもんじゃない。そんな時にはどうするか。事故のあるのを待っていないで、自分で事故を作り出せばよい。――そしてはっとなりました。
「自分の乗る飛行機の、直前の便に爆薬を仕掛けて爆破してしまう。――けれどもね、狂人でもなければ、まさかそんな馬鹿なことはできない。だが、空港をそれと同じぐらいの緊張した空気にすることはできる。自分の利用する飛行機に時限爆弾を仕掛けたと、空港にもっともらしい予告をする。すると空港ではその機に対して、特に万全の注意を払うことになります。もし柴さんが異常なまでに飛行機の墜落を恐がっていれば、嘘《うそ》の爆破予告というようなこともしかねない、と考えました。
「けれども、そんな奇妙な考えは、僕の妄想《もうそう》に過ぎないと思っていました。ところが翌日になって、刑事さんから柴さんが最近事故を起した運転手をわざわざ雇ったということを聞いて、どきんとしました。一度事故を起した人が、もう一度事故を起すことは、まだ事故を起したことのない人間より少ない。交通事故を恐れている人が、一度事故を起した人を積極的に雇う。これはすでに私の妄想ではなくなりました。柴さんの思想なんです。
「僕は当然のことながら、刑事さんが柴邸をパトロールしているのを見て、柴さんの前日の言動を想い出していました。あの人は自分を殺そうとしている者がうろうろしていると言っていた。自分はいつ殺されるかもしれない。自分の安全は、どうしたら保たれるか? あの人の思考によると、一つの恐ろしい解答が出て来ます。
「自分の家に残虐な殺人事件が起り、日夜刑事などが出入りしている状態なら、まさかそこで、もう一度殺人事件が起るわけがないだろう――と」
羽田刑事の首すじが、ざらりとした。手を当てると大きなカブトムシが這《は》っているのである。気が付くと外が暮れかかり、小さな虫が電灯に引かれて窓から入って来ている。刑事は立ち上って、網戸を引いた。
亜の話はもう少し続く。
「柴さんが飛行機から降りたとき、見た目には、空港は平静でした。僕たちでさえ、あの空港が非常態勢にあるとは、夢にも思ってみませんでしたものね。自分の爆破予告によって、大丈夫なはずのDL2号機も変な着陸の仕方をした。きっと操縦士が緊張しすぎたのではないかと思いますがね。それについての弁明もない。飛行機を降りると、うす汚ない刑事が一人うろついているぐらいで、田舎の警察署長も生花の会に行って留守である。失礼――いや、これはあの人の心を代弁しているだけです。自分が演じた飛行機爆破予告も、見たところ何の効果もないようである。柴さんのうろたえ方が、僕にはよく判るような気がするんです。これ以上自分の安全を守るには――そう、自分の家に、本当の殺人事件でも起らなければならない――
「そう考えていたら、本当に緋熊さんが、血まみれになって邸の中から転がり出したので、腰が抜けそうになりました。柴さんは自分の信仰によって緋熊さんを殺そうとしたのです。しかしその信仰は、最後には脆《もろ》くも砕け散りました。あの人は、緋熊さんを斧で殺そうとするときでも、決してしくじらないように、一撃はわざと間違えて緋熊さんの脳天を外して斧を打ち下ろした。ところが、その音で緋熊さんは振り返ったのです。そのため、二撃目は頭をそれて、斧は頬を割ったのです。緋熊さんは殺されずに逃げ出すことが出来たのでした――」
その後、羽田刑事は、何枚かの写真を受け取った。亜から送られて来たのである。写真にはドーナッツ型の雲と、DL2号機が写されていた。しかし誰も雲など気にしない、おや、飛行機の写真だね、と言うのであった。
第二話 右腕山上空
顔をあげると、すぐ前に天があった。それほど空が青い。
春の南国の早朝、晴れ。右腕山《みぎうでやま》の上にぱらりと絹雲がかかり、銀色にきらめいている。この世界を支配しているのは太陽だけだ。
塩田景吉《しおだけいきち》はぎりりと牧草を踏みつけた。だが間もなく、俺《おれ》の作った極彩色の球が、この大空の帝王になるのだ。
この感情は子供の頃《ころ》の、雪の朝の興奮に似ていた。足跡一つない雪を見渡すと、彼はじっとしていられなかった。足の凍りつくのも忘れて、自分の足跡をつけるために、いつまでも駆けまわったものだ。白い襖《ふすま》を見ると、片端から墨を塗りたくる衝動を押えることができなかった。波のない池の前に立つと、大きな石を投げ込む。塩田景吉の性癖は年を取るとともに成長した。初々《ういうい》しい娘に会うと笑顔に牙《きば》を隠して近寄ってゆく。彼は七人の女性と結婚し、現在最後の妻と別居中である。
塩田は靴《くつ》の下で、牧草の折れる音を聞いた。それでこの草原には音のなかったことに気がついた。彼はちょっと目を閉じてから、秘書の小倉汀《おぐらなぎさ》にカーステレオを指差した。秘書はうんざりした態度で、カセットテープを機械に押し込んだ。本当はこのきりぎりすみたいなオールドミスを、十年も前から好きでならないのだった。だが塩田は十年間、今と同じように小倉汀の軽蔑《けいべつ》する行動のみし続けてきたのである。
けたたましいエレキギターの音で、右腕山の高さまで変ってしまった。馬鹿《ばか》騒々しいスネークソング。この歌は塩田景吉の作詞である。その音の中に、三台目の宣伝カーが到着した。
北から西にかけての地平線に、紫色の山脈が見える。山脈の西端に半島のような山がのっくりと蹲《うずくま》っている。
「ね、人が肘枕《ひじまくら》で寝ている姿に似ているでしょう。で、あの端の山に右腕山という名がついています。高さが八百五十メートルあるわ」
技師の赤鈴雛子《あかすずひなこ》が塩田に教えた。
「左腕山じゃいかんのかね」
「きっとあの山は右ききなんでしょうよ」
この飛行歴三百回の女傑は、黒いぴったりした火事場|頭巾《ずきん》のような帽子をかぶり、赤い襷《たすき》にもんぺ姿である。小柄な身体《からだ》が、りすのように敏捷《びんしよう》に動きまわる。
草原に三台の車が置いてある。クリーム色のポルシェは秘書の小倉汀が運転をして、塩田が乗って来たのだ。もう一台のマイクロバスは赤鈴雛子の部下たちの車である。塩田たちは赤鈴技師の先導で、右腕山を迂回《うかい》してこの場所に着いたのだ。いま到着したばかりの宣伝カーは、桃色の車体に赤い大きな文字でサンプロダクションと書いてある。エンジンが止まるとドアが開いて、陽《ひ》に焼けた、顎《あご》の長い男が現れた。サンプロダクションの監督|嵐長介《あらしちようすけ》である。続いて塩田と同じように丸い身体つきをした男が飛び跳ねるように出て来て、塩田の傍に寄って来た。
「さすが、ねえ塩田部長、いい空気だ」
男は鼻を脹《ふく》らませた。塩田は何にも言わずにパイプに火をつけた。
「相変らず皮肉だね。あんたも」
男は煙を吹きつけられて横を向いた。この男は煙草が大嫌《だいきら》いなのであった。
「遅かったじゃないか、え? ヒップ大石《おおいし》。それに目が赤いぜ。ゆうべ飲み惚《ほう》けたんじゃなかろうな」
「前の日に休養をとって、明日に備えるなんてえのは、素人《しろうと》のすることでさあ。見てて下さいよ。世間中をあっと言わせますから」
「自信だけは大きいようだな」
ヒップ大石は、ガムを口の中に放り込んだ。手に残った包装紙をちょっと見て、
「言っちゃ悪いが、おたくのガムは食えねえね。トリモチに砂をぶち込んだようだ」
「そんなことは、生産部に行って言えよ。二日酔いの口に合うようには作っちゃいねえとさ」
「バスト浅野《あさの》は現れましたか?」
「見かけないがね。お前がバスト浅野を気にするとは、妙な話だの」
「仕度《したく》があります。じゃこれで」
ヒップ大石は妙な笑い方をすると、来たときと同じ足取りで車に戻《もど》って行った。
宣伝カーから運び出されたけばけばしい色の、大きな部厚い布が草の上に拡《ひろ》げられている。そのまわりにカメラの三脚が据《す》えられる。嵐監督がかん高い声をあげて両手を動かしている。ヒップ大石は、小倉汀や赤鈴雛子に愛想をふりまきながら宣伝カーの中に姿を消した。
エレキギターの音に混って、突然、ごおっという音が起った。大きなバーナーに火がつけられたのである。
ヒップ大石は身体つきどころか、物の考え方まで塩田に似たところがあった。
「塩田部長、あんた五人の女と結婚したんだってね」
あるときヒップはこんなことを言った。
「じゃあ俺の方が一人多いや。今の嬶《かか》あは六人目です」
彼の考えていることがよく判《わか》る。塩田はすぐ興信所に電話を掛けた。一週間すると報告書が届いた。案の定、ヒップは一人少ない五人目の女と結婚したところであった。塩田も実は一人少ない四回目の結婚届を出したばかりであった。こんな調子で、彼はヒップの首根っ子を押えることに馴《な》れてきたのだ。
草の上の大きな布があおのけになった蛙《かえる》の腹のように脹《ふく》らみだした。袋の口に二、三人の若い男が取り付いて、バーナーで熱せられた空気を布の中に送り込んでいる。ある呼吸が必要なのだろう。赤鈴技師が、てきぱきと若い男を指導している。近くで見ると彼女の眉《まゆ》と髪の一部が焦げている。バーナーの火で眉が焦げるようでないと、熱風船のパイロットとして一人前ではないのだと、赤鈴の助手がうっとりとして塩田に教えた。
脹らみ始めた布には、真っ赤な蛇《へび》が描いてある。その蛇が鎌首《かまくび》を持ち上げるように、ゆっくり立ち上っている。蛇は黄色いベレー帽をかぶっていた。
「ウサギ、ペンギン、ゾウ、ハト? 古っ臭くってお話になりませんよ。そんな頭だからいつまでたってもうだつが上らないんだ」
塩田は飴辰《あめたつ》の番頭に毒口を叩《たた》いたのであった。その頃まだ飴辰は小さな町の菓子屋に過ぎなかった。塩田は飴辰の新米の店員であったが、飴辰の一人娘と同棲《どうせい》しており、彼の頭はもう禿《は》げあがっていた。忠実な飴辰の番頭は塩田の言葉が終らぬうち、彼の顎《あご》に一発食らわしたのである。
「ウサギやペンギンが古いなら、何がいいと言うのだね?」
大人《おとな》しい飴辰の主人は、二人の間に入っておろおろした調子で塩田に訊《き》いた。
「ヘビがいいと思います。そうです。ヘビです。ヘビならパンチがあります。強烈です」
「ヘビ? そりゃあパンチがあるかどうか知らんが、子供|対手《あいて》の菓子の商標としてはどうかなあ」
「子供だからヘビがいいと思います。子供なんて本来残酷なものです。蛇のように陰険で狂暴なものです。ぜひ蛇にしなさい。責任は私が負います」
「責任だと? 小僧にどんな責任が負えるんだ」
番頭の拳《こぶし》に、飴辰の主人はまたぶら下ったのである。
しかし商標を蛇にするという着想は、塩田の創案ではなかった。たまたま前の晩に観《み》た映画が、蛇好きの子供が残酷な殺人を犯すというもので、それが頭に残っていただけなのだ。以後彼の発想はすべてこの調子で貫かれた。他人の創案をいち早く頂戴《ちようだい》する。あるいは創案者にも気付かれぬように焼き直す。
飴辰の新しい商号は、番頭の苦い顔を横目に、「スネーク製菓」に定《き》まってしまった。商標はとぐろを巻いている蛇が鎌首を上げているところだ。きょとんとした顔で、舌がハート型になっている。塩田はここでもイラストレーターに食ってかかった。
「何だい、これが蛇かい。まるで日陰に伸びているなめくじじゃないか。本物の蛇を見たことがねえんだろう。すぐに水族館に行って来るんだな」
このイラストレーターは、商標の蛇の頭を自分の頭の形に、悪意をもって似せたと、彼は今でも信じている。この悶着《もんちやく》も、飴辰の主人が仲にはいり、蛇の頭にベレー帽を冠せることで治まりが着いた。
新しいスネーク製菓が発売したのは、スネークのキャンデーだ。ありきたりの飴をくねくね曲げて、刺戟《しげき》の強い包装をしただけのものである。これがよく売れた。子供の口に合ったのではない。がむしゃらに宣伝しただけである。味をしめた元飴辰の主人の社長は、番頭には秘密で塩田と計り、オロチセンベイを続けて発売した。表面に渦巻《うずま》きのプレスをつけただけの、普通の煎餅《せんべい》であった。
数多い製品の中にはいかがわしいのも少なくない。スネークチョコレートというのがある。これはスネークキャンデーのように、くねくねもうねうねもしていない。普通のチョコレートに過ぎなかったが、宣伝文句が「チョコレートの中にヘビのタマゴがはいっているヨ」と言うのだった。蛇の卵というのは実際は一とつぶの南京豆《ナンキンまめ》に過ぎなかった。これも実によく売れた。売り尽したところでこの宣伝は通産省から横槍《よこやり》がはいって発売中止になった。これによってスネーク製菓では二つの大きな利益を得た。一つは世間の親たちの顰蹙《ひんしゆく》を買ったこと、もう一つは役人に知人が出来たことである。
塩田の五人目の妻が逃げ出した頃、彼はスネーク製菓のぱりぱりの宣伝部長になっていた。住いも二十階建てのアパートのてっぺんに移した。初めて塩田のアパートを尋ねたヒップ大石は、窓から外を見て声をあげた。
「絶景だねこりゃ。でも、目がまわりませんか」
「俺はもともと高い所が好きだったのさ」
ヒップは感心したように唸《うな》り、ふと、こんなことを言った。
「部長、グライダーをやってみませんか」
「お前、やるのか?」
「いや、いまバスト浅野が凝っているんですがね。あたしは浅野に連れられて一度見物したことがありますが、ちょうど一機がふらふらになりましてね、頭から地べたに墜《お》ちたのを見てから、遠慮することにしています」
「それで、俺が地べたに落ちるところを、お前が見物しようというわけか。俺も遠慮したいね。それにしても、バスト浅野はグライダーもやるのかい」
「グライダーどころか、無鉄砲な男でね、サーキットもやるし、スカイダイビングもやれば、軽飛行機の免許も持っていましたよ。危険なことは一応手を出す性分《しようぶん》です」
塩田は行動家ではあったが、危険は嫌いである。生への執着が卑怯《ひきよう》なくらい強かった。
「どうだい、飛行機に乗って、色のついた煙で空いっぱいに蛇の絵を描いてみないか?」
「ぼくが? 駄目《だめ》ですよ、そりゃ。飛行機の操縦なんか知りません」
「習うさ」
塩田は意地悪く言った。
「お前が嫌《いや》なら、バスト浅野と専属を変えてもいいんだぜ」
「冗談じゃない。今更変えられたりして、たまりますか。――それよりもどうでしょう。蛇の絵を描いた気球を空に飛ばすというのは」
「お前、それに乗っかるのか。だが飛行船という奴《やつ》は、よく爆発するぜ」
「古いねえ部長は。熱風船というのを知らないと見えるね。気球のゴンドラの上で、プロパンガスかなんかで熱くした空気を気球に送り込めば、自然に空を飛んでゆくんですよ」
「なるほどな。熱風船か――」
突然塩田の頭が盗心で一杯になった。彼はいきなり電話を取り上げると、秘書の留守番電話に向って喋《しやべ》りはじめた。
「熱風船協会とか、熱風船クラブというのがあるに違いない。調べて電話をし技師と連絡をつけること。風船で国内一周を計画すること。熱風船の記録をすべて調べ上げること。ヒップ大石を何でもいいから記録保持者にしてしまう。懸賞の計画をすること。風船の名はスネーク一号。賞金は現金にする。敢行は春。季節風に乗せる。次のところに連絡する。航空局、警察署、気象庁、消防署、防衛庁、新聞社、デパート協会、動物園――」
次の週から、ヒップ大石の特訓が始まった。
「うっかりあんなことを喋って、ひでえ目に遭っていますよ。熱風船なんてもの、あんなに面倒だと思ってもみなかった。小さいコンピューターも積み込むそうですよ。とにかく計器や機械には弱くってね。妙な体操はやらされるし、夜更しも駄目。パイロットの先生が女性だというんで楽しみにしていたところが、この女のきついのきつくないの」
「おかげで健康そうじゃないか。こっちも商売上お前に失敗されたら困るんだ。無線やヘリコプターの手筈《てはず》も整っている」
「部長、悪い癖だよ。すぐバスト浅野を持ちだして驚かすんだから。あれじゃ脅迫だ。こっちは命がけですぜ」
ヒップ大石は漫才師であった。漫才の対手《あいて》は、バスト浅野という痩《や》せた小さな男だ。ヒップ大石にバスト浅野、禿《はげ》とちびのコンビはどうあがいても見栄えがしなかった。見栄えがしなければしない程、二人の芸は毒々しいものになっていった。バスト浅野は金持ちの不良息子《むすこ》である。おかげでヒップは彼の財力から、かなりの利益を受けたが、芸はさっぱり受けなかった。所詮《しよせん》、わがままな道楽息子とそりの合うわけはなく、このコンビは二年足らずで解消した。直接の原因は、バスト浅野の妹を、ヒップ大石が三人目の妻にしたためである。バスト浅野はこうして芸能界から遠ざかり、ヒップ大石は漫談や司会に、二人分の下品さで舞台をのたうちまわった。
その頃、塩田景吉はたまたまスネーク製菓に寄せられた一通の投書を読んでいた。それには、世間では貴社の製品を嫌う親が多いが、自分は反対である。子供が母親に隠れて貴社の製品を買うのは、何にも増して安全な冒険だというのであった。塩田は、この物分りの良い母親が何だか気に入らなかった。その晩、安キャバレーでヒップ大石を見た塩田は、ただちにスネーク製菓と専属契約を結んでしまった。スネーク製菓の蛇の商標の隣に、ヒップの禿頭が並びだした。スネーク製菓提供のテレビ番組では、ヒップが子供を対手に暴れはじめた。それ以来あの物分りの良い投書はもう来なくなった。
「部長、あと十分でヘリコプターが到着します」
「え? あと何分だ?」
「九分五十九秒です」
小倉汀は大声でそう言い捨てると、車の中に手を伸ばして、カーステレオの音量を下げた。ボリュームが下げられたので、歌詞はかえってよく判るようになった。
スネーク ネーク 食べよう ガッキ
バクバク ガッキ ガリガリ ガッキ
ダンダン ゴッキ
おだぶつだわね
塩田は、ふと淋《さび》しい顔になった。彼女に愛の告白をする日は、生涯《しようがい》ないのかもしれない。
スネーク一号のぴかぴかの色彩が、ガン細胞の写真のように、むくむくと脹れあがってきた。柳で編んだゴンドラの中で、赤鈴技師がしきりに計器パネルを調節している。嵐監督は風船とカメラの間を行ったり来たりする。
「どうです、部長」
ヒップ大石が塩田に声を掛けた。金ぴかのだぶだぶの服に三角の帽子。口を耳まで真っ赤に塗りたくり、額の上まで眉《まゆ》を描いた。ミカン程もある赤い鼻をつけて、黄色い毛が耳の両傍にぶら下っている。振り返った塩田が思わずぎょっとした程だ。よく見ると、濁った両眼がヒップのものに違いない。
「ね、凝ったもんでしょう」
彼は鳥のような形に両手を上げてみせた。指が四本しかない、白いだぶだぶの手袋をしている。指の太さがバナナ程あった。
「この手袋だって、耐火綿で作らせたんですぜ」
水が入っている何本ものタンク、毛布の入っている麻の袋。大きなバスケットは二人がかりでないと動かない。いくつもの砂袋《サンドバツグ》、コウモリ傘《がさ》、週刊誌。
「ずいぶんいろんな物を持ち込むんだな。あれで風船が上るのか?」
「空の上は寒いし、腹が減るってね。あのモンペのおばちゃんが、総重量をきちんと計算してくれています。この風船だったら、大の男が四、五人乗っても楽に飛び上るって。強気《ごうき》なもんだね。燃料を補給しながら、一と月も飛んでいられる用意がしてあります。これでベッドと可愛《かわ》い子ちゃんを乗っければ申し分ないんだがね。成功したら今度は太平洋横断といきましょうや。その時になって、スポンサー金をしぶらないように、たんと儲《もう》けておきなよ」
プロペラの音が近くなって、ヘリコプターが風船から離れた草の上に着陸した。前後して、三台のバスが風船の向う側に止まり、ぎっしり詰め込まれた子供たちを吐き出している。子供たちは風船の大きさと、ヘリコプターとガスバーナーの音に度胆《どぎも》を抜かれて、ただうろうろするばかりだ。付き添いの教員、嵐監督とその部下たちは、子供たちの整理にかかる。
「風船はおろか、ヘリコプターを見るのもはじめての連中だ。骨の折れるったらねえや。それにまたあの婆あが――」
嵐監督は塩田とヒップの前を通りかかって愚痴《ぐち》をこぼしながら駆け去った。
野次馬《やじうま》というものは、地の果てにも住んでいるものらしい。この広い草原のどこからともなく、三、四人の野次馬が現れ、口を開けて風船を見上げている。中でも、三角形の顔をした洋装の老婦人が、退《の》けても退けてもカメラの前に立ち塞《ふさ》がり、その度に嵐監督が腕を取って引き離すのである。
風船は殆《ほとん》ど球形になった。大きな壺《つぼ》を逆さまにした形だ。真っ赤な蛇が、しゃっきりと空中に浮いた。
ゴンドラの中で赤鈴技師が手をあげた。
「はい、行って来ます。仕上げをごろうじろね。バイバイ」
ヒップはそう言い残すと、大きな靴をばたつかせて駆け出した。子供たちを掻《か》き分けてゴンドラの中にやっこらしょと乗っかった。
「やあ、ヒップだ」
子供たちがわっと言ってゴンドラに集まりかかる。また子供と監督たちの格闘がくり返される。
子供たちから、はじき飛ばされるように、背の高い男がひょっこりと現れた。塩田はふと、他の俳優を使う覚えはないのに、妙だなと思った。その男は、色が白く、ギリシャ彫刻のように整った顔だちをしていた。黒っぽい背広を上品に着こなし、焦げ茶の細かい縞《しま》のネクタイをきちんとしめている。この男のように軽やかで気品のある歩き方を、塩田はまだ見たことがなかった。彼がとっさにその男を俳優だと直感したのは、その容姿のためだ。だが、男は片手にエクレールのカメラを下げていた。男の雰囲気《ふんいき》とカメラとは、似つかわしくなかったが、本当のカメラマンとすると、相当の腕前かもしれないと、塩田は想像した。
宣伝カーからいくつもの段ボールの箱が運びだされ、中にはいっている大きなキャンデーの袋を子供の一人一人に渡す作業が始まる。
「今食べるんじゃないよ。誰《だれ》だ、そこでもう開けているのは。風船が上ってから、そう、風船が上ったら皆でこの袋を片手で差し上げて――食べるんじゃないというのに!――」
「メモしてくれ」
塩田はうっとりとカメラマンを見ている小倉汀に、荒っぽく言った。
「一つ、熱風船の撮影会を企画すること。一つ、太平洋横断を検討すること。一つ、スネークフウセンガムの発売を考えること――」
赤鈴技師が駆けだしてきた。
「万事、旨《うま》く行っているわ」
彼女は男のように咳《せき》ばらいをして、
「機械と天候の調子はいいんだけれど、ヒップが旨《うま》くやるかしら」
「自信満々だったがね」
「自信だけなのよ。傍《そば》に寄ったら、酒臭くって、二日酔いなんじゃない? 頭に来たわよ。気圧計とポリメーターの区別も満足に覚えていないし、もし変なことにでもなったら、他のクラブの物笑いになるわ」
「あなたの顔を潰《つぶ》すようなことはないと思うな。あいつは失敗するようなことには手を出さない主義だ」
「一と月分もの食料を積み込むなんて、身の程を知らなさすぎるわ。私は今晩一と晩でも空にいれば上出来だと踏んでいる」
小倉汀がヘッドフォンと双眼鏡を持って来た。
「ヘリコプターの用意ができました」
「よし、すぐ行く」
塩田はヘッドフォンをつけ、ヘリコプターに向った。
機の中はひどく暑かった。プロペラの振動が身体に伝わる。身体のがっしりした色の黒い男が操縦席に足をふん張っている。塩田はその後の席に腰を下ろしてベルトを締めた。彼の隣に黒っぽい背広を着た男が坐《すわ》っている。さっき見かけたカメラマンである。男はエクレールを担いで、窓越しにファインダーから熱風船を見ている。
「部長、聞えますか?」
ふいに、ヘッドフォンの中で小倉汀の声がぴんと響いた。
「おう、聞えとる」
塩田はヘッドフォンから突き出されているマイクに喋った。
外を見ると、風船のまわりの子供たちも、やっと落着いて、風船を中心とした同心円に並ばせられた。ヒップはゴンドラの中でまわりの子供たちに愛敬《あいきよう》をふりまいている。まるで電車で隣り駅へでも行くような気安さだ。あいつもしかすると、俺より度胸がいいのかもしれないと塩田は思った。風船がやや向う側に傾きだしたのが判る。ヘリコプターの風のせいだろうか。
突然、塩田の身体が前に倒れかかった。ヘリコプターが地面から離れたのである。
「きゃっ!」
誰かが叫び声をあげた。誰だか判らなかった。まさか隣に坐っているカメラマンだとは思ってもみなかった。操縦士の肩が小きざみに動いている。笑っているのである。それで今の悲鳴が、カメラマンだと気が付いた。だがしばらくは、この男の容貌《ようぼう》と今の声が頭の中でうまく結び付かなかった。
「ヘリに乗るのははじめてかね?」
「ヘリが何ですって?」
小倉汀の声がした。
「いや、君のことじゃない」
塩田はあわててヘッドフォンを取った。
「ヘリに乗るのははじめてかね?」
「はあ、は、はじめてです」
よく見ると、男の顔から血の気が引いている。
「しっかりしろよ。だが、カメラを持つのもはじめてじゃなかろうな」
「だ、大丈夫です。今日はちょっと専門外の仕事でして――」
「君の専門というのは何だ?」
「はあ、だいたい、いつもは、雲とか気流とか、化石とかゾウリムシとか、マイソウムシとか、そんなものを撮っています」
塩田は嫌な気持になった。この男とカメラがちぐはぐなのは、カメラの経験が浅いからなのに外ならない。カメラマンはやはり、よれよれのジャンパーなど着ていなければならないのだ。サンプロダクションめ、目に付かぬところで手を抜いている。この男もおおかた安いアルバイトで雇われたのだろう。サンプロダクションの首っ玉を押えるタネが一つ出来た。
「メモを頼む」
塩田はマイクに低い声で言った。
「はい、部長」
「セコカメラ、判ったか」
「判りました」
小倉汀も低い声で答えた。その声が塩田の耳にむず痒《がゆ》く残った。
機はゆっくりと風船のまわりを一周した。風船の影が大きく、くっきりと地面に落ちている。右腕山も空から見ると思ったより立派である。
カメラマンを見ると、気のせいかおぼつかない手つきでエクレールを操作している。これだから人間の第一印象などというものは頼りにならない。
ゴンドラについている砂袋が次々に地面に落される。最後に、風船の引き綱が一斉《いつせい》に放たれた。
「ハンズオフです!」
小倉汀の声もやや緊張ぎみだ。
そしてスネーク一号はふわりと地上を離れた。
子供たちが一斉にキャンデーの袋を空に向けて上げる。子供たちの喚声、ヘリコプターの音、バーナーの唸《うな》り、スネークソング。地上では耳も破ける騒ぎだろう。ヒップがゴンドラの中で気狂いのように手を振っている。
風船が浮く速度は、案外緩やかだ。それは自分の方も動いているからに違いない。塩田は双眼鏡でゴンドラの中を見た。ヒップは地上に向って盛んにキッスを投げていたが、そのうちヘリコプターに気が付くと、向うも双眼鏡を目に当てて手を振りだした。ヘリコプターはもう一度、気球のまわりを一周してから、もとの場所に引き返した。風船はみるみる小さくなってゆく。それが塩田景吉がヒップ大石の生きている姿を見た最後であった。
塩田はへリコプターから出ると、まず顔の汗を拭《ふ》いた。小倉汀が草の上に椅子《いす》を運んで来た。塩田が坐ると、コーヒーが渡される。塩田はコーヒーを飲みながら、ぼんやりと右腕山の上空に小さくなってゆくスネーク一号を眺《なが》めた。春の陽《ひ》を浴びて、とろりとするような気分になる。カメラマンはまだ機内にいる。座席のベルトと格闘を続けているのだろう。あの男のフィルムを見ない限り、全《すべ》てが順調だとは言い難い。
キャンデーの袋を持った子供たちは再びバスに詰め込まれた。三台のバスはすぐ発車をする。
「無線が通じています。お話しになりますか」
小倉汀がマイクを差し出した。傍の四角な機械がざわざわ音を立てている。
「おい、ヒップ。聞えるか?」
塩田は遠くの風船を見て言った。
「やあ、部長ですか。聞えてます」
びりびり機械が喋った。
「どうだ、気分は」
「爽快《そうかい》だなあ。この景色をあんたにも見せたいよ。まさに絶景かな。手を振っているのが見えますか?」
塩田はマイクを胸のポケットに入れて双眼鏡を持ちなおした。
「うん。雲がきらきらして見にくいがな。動いているのは判る。遠くになると心細かろう」
「どういたしまして。こっちからは自動車が蠅《はえ》ぐらいに見えてます。そう、じゃあね」
機械がかちりと言って、ヒップの声が切れた。最後の言葉が変にあわてた口調だった。
「妙だな――」
「どうかしましたか?」
赤鈴技師が傍に寄って来た。
そのとき、気球はゆっくりと上昇しはじめたのである。
「山の頂上あたりかな。上昇気流に乗ったのだろうか?」
「風があります。とっくに山は越しているでしょう」
いつの間にかカメラマンが塩田の後に立っていた。皆と一緒に右腕山の空を見つめている。
「おや?」
塩田は椅子から立ち上った。
「何か異常でも?」
赤鈴技師が訊《き》いた。
「ゴンドラが妙に揺れている」
そのとき、風船は、今度はかなりの早さで、上昇しはじめた。
「いきなり高度を上げると、馴《な》れない人は高山病になると教えたのに」
赤鈴技師は焦げた眉をひそめた。
「乱気流にでも巻き込まれたら事だ」
「そんな筈《はず》はないわ。ここでは何度もテストをしています」
「通信はしているのか」
塩田は小倉汀に言った。
「さっきから呼んでいますが、何の応答もありません。スイッチが切れているようです」
「ヒップの間抜けめ、機械の操作を忘れたんじゃなかろうな」
双眼鏡の中にはゴンドラだけが写っている。だが中に人の動いている気配がない。
「風船の高度は?」
「千三百――いや、もっとね」
風船はその間にもどんどん上昇してゆく。それが塩田には極めて異常に思えた。
「よしっ、ヘリで近付いて見よう。君も一緒だ」
塩田は後にいるカメラマンの腕をつかんだ。彼は塩田の見幕《けんまく》にどぎもを抜かれて、あたふたとエクレールを持ちなおした。
カメラマンがまだベルトを締め終らないうちに、再びヘリコプターは飛び立った。
「風船までの距離は?」
「三、四キロというところでしょう」
操縦士は落着いて答えた。
「何分で着く?」
「五、六分」
「そうか、何でもなきゃいいが――」
隣のカメラマンはひどく落着いた態度になっている。あんまり緊張すると腰が抜けるということがある。それだろうか。
「おい君、――何という名だね」
塩田は男の肩を叩《たた》いた。男はびっくりして振り返った。
「二度もヘリコプターに乗せてもらいまして」
大声でとんちんかんなことを言う。騒音で塩田の言葉が聞き取れなかったのだろう。
「いや、名を訊いているんだ。君のね」
「――僕ですか。亜《あ》と言います」
「あ?」
塩田は丸く口を開けた。
「そう、亜です。亜硫酸《ありゆうさん》の亜という字を書いて、亜です。名は愛一郎《あいいちろう》、亜愛一郎」
機はみるみる風船に追い付いてゆく。
「ところで君、撮影の用意をしといてくれ」
「撮影?」
亜はけげんな顔になった。
「撮影なら終りました」
「そうさ、スネーク一号のCM撮影は終ったさ。だが、報道写真としてあの風船を撮るようになるかもしれない」
「でも駄目です」
亜は頑《かたく》なに首を振った。
「駄目? なぜだ」
「フィルムがありません」
「何だとお?」
塩田は呆《あき》れて怒鳴《どな》った。
「全然ないのか」
「全然というわけではありません。カメラに一メートルぐらいなら残っています」
「一メートルで何分撮れるんだ?」
「五秒ぐらいでしょう」
風船の上昇はしだいに緩くなり、やがてぴたりと空に膠着《こうちやく》したように動かなくなってから、今度は地上に降りはじめた。
「コマ撮りはできるだろうな」
塩田は亜に言った。
「コマ撮りは得意です」
「その用意をしておいてくれ」
「またあの風船を撮るんですか」
「そうだ。なぜだか教えてやろうか」
塩田は、今のうちに事実を教えておいた方がいいと考えた。いきなりあのゴンドラの中を見せたら、気を失うに違いない。
「いいか、あのスネーク一号のゴンドラの中に、ヒップ大石が死んでいるからだ。胆《きも》を据えて撮りまくれ」
風船との間は五十メートル程になり、機は風船のまわりを一周した。双眼鏡で見るとゴンドラの中の様子は手に取るように判る。
風船の機械は全《すべ》て止まっているようだった。バーナーの火も消えている。動いているものは何一つない。ヒップが持ち込んだタンクや麻袋やバスケットもそのままだ。そして当人のヒップ大石は、ゴンドラの真ん中で、バスケットに凭《もた》れるような恰好《かつこう》で坐っていた。顔は上を向き、三角の帽子が斜めにずり落ちている。びっくりした形に塗られた目の奥の、本当のヒップの目は、まばたきもせず空《うつ》ろに開いたままである。大きな付け鼻は前の通りだが、真っ赤な口が異様に大きくなっていた。まるで顔半分が口だ。よく見ると右のこめかみに黒い穴が開いていた。そこから吹き出した血が、塗られた口紅と一緒に混り合っているのだ。右手の白い手袋の中に、黒く光るものが見える。塩田はそれがピストルであると確認した。
「し、死んでいますね」
亜の膝《ひざ》が震えだしている。
「小倉君、聞えるか」
塩田はマイクに向って、落着いた声で言った。
「ヒップ大石は死んだよ」
ヘッドフォンの向うで、小倉汀が叫び声をあげた。
「よく聞くんだ。ヒップ大石はスネーク一号のゴンドラの中で死んでいる。手にピストルを持っている。右のこめかみに銃創が見える。うん、銃創だ。わかったな。すぐ警察に通報するんだ。風船は下りつつある。機械は全部止まっているようだ。風船が着陸するあたりに急いで集まるように。待ち受けて、風船を受け止める態勢を作るんだ。うん、山のこっち側は向うと同じだ。草だけだ。ところどころに牛の群れがいるが、そんなもの追い散らせ。以上だ」
塩田は腹を立てていた。ヒップが塩田の計画を粉みじんに壊してしまったからだ。死にたい奴《やつ》は勝手に死ぬがいい。だがなぜこんな死にかたをしたのか。最後まで芸人を気取ったつもりか。それとも単にいい気分で死にたかったのか。この土地を選んだのはヒップ自身だった。ひょっとしたら、そのときから自分の死を演出していたのだろうか。それに気付かなかったのは我ながら間抜けな話だ。
目の下に右腕山を迂回《うかい》して来る二台の車が小さく見える。緑色の地面に、黄色い細い線が引かれている。牛の通る道だろう。車はその道を辿《たど》っているようだ。
ゴンドラの中の屍体《したい》が嫌でも目につく。まるで屍体の方がヘリコプターのまわりを、ふらふらさまよっているように見える。塩田は額の脂汗を拭いた。
「気分が悪くなった。先に下りて、風船を待とう」
「そうですね。風船が落下する速度が早くなっています」
ヘリコプターは草の上に着陸した。塩田は機から飛び出すと、風船を見上げた。操縦士は、かなり正確に、風船の落下点を予測したようである。風船はある確かさで、塩田の方に向って来る。
しばらくすると、赤鈴技師のマイクロバスが先頭で、ピンク色のサンプロダクションの宣伝カーが続いて到着した。
「一体、どうしたというの?」
赤鈴は塩田につかみかからんばかりである。
「俺にも何だかさっぱり判らん。だが、ヒップが死んでいることは確かだ」
「小倉さんが車で、電話のありそうなところを探しに行っています。でも警察が来るまで相当時間が掛りそうね」
「とにかく、なるべく風船を乱さないように着陸させ、警察の到着を待つよりない」
「医者はどうしましょう。もしヒップが生きていたときの手当は?」
嵐監督が心配した。
「右のこめかみに大きな穴が開いていたよ。まず即死に間違いはない」
刻々と風船は大きくなってくる。何本もの綱が二台の車に結びつけられた。その綱の端を風船に取りつけて、ブレーキにしようというのだ。
亜がエクレールを重そうに下げながら、塩田に近寄った。
「部長さん、ちょっと」
彼はもじもじする声で、だが妙に自信のある態度で話しかけた。
「何だね?」
「あの風船の中とか、ゴンドラの底、ないしはあの大きなバスケットの中などに、若《も》しかして人が隠れていやしないか。隠れているとすると、その人は着陸のときのどさくさにまぎれて、逃げ出しゃあしないか――」
塩田はこの男の奇怪な好奇心に呆《あき》れた。
「ヒップは殺されたとでも言うのか?」
「ただ、一応は風船をすっかり調べた方が――」
「そうしよう」
塩田は草の上で動いている人数を、それとなく算《かぞ》えた。自分と亜と赤鈴と嵐と操縦士。嵐の部下が二人、赤鈴の部下が三人。きっちり十人。しかし塩田は、亜の提案に従順だったわけではない。風船が降りて来るまで、そんなことでもしていなければ、やり切れなかっただけだ。
「あの車の中には、もう誰《だれ》もいないだろうな?」
「いませんよ。どうして?」
嵐監督は変な顔をした。
風船はぐんぐん大きくなった。近付くとかなりの速さだ。赤鈴と嵐が車に飛び乗り、風船と同じ方向に走らせる。部下たちが綱をつかんで駆けだす。
「それ!」
五人の若者がゴンドラに飛びついた。手早く引き綱が結ばれる。車のブレーキがかかる。ゴンドラはかなり傾いて、ずしんと地上に落ちた。ショックでバスケットと週刊誌とこうもり傘がゴンドラから飛び出した。すぐ何人かが風船に組みつき、中の空気を抜き始めた。
塩田はカメラから目を離した亜に声をかけた。
「どうだね。誰か風船の中から飛び出したかね?」
「誰も出て来ませんでした」
「風船が落ちる前には、何人いた?」
「十人です」
「今は?」
「十人です」
「バスケットの中は?」
これはすぐに判る。墜落のショックで蓋《ふた》が開き、夥《おびただ》しい缶詰《かんづめ》や、シャンパン、ウイスキーの瓶《びん》、毛布などが草の上に投げ出されていた。
ヒップは横になったゴンドラから、上半身を草に引き摺《ず》り出されている。帽子と黄色のかつらが飛び、赤く塗った頭がボールのように転がった。風船は皺《しわ》くちゃな、巨大な布の塊りになっていた。
塩田は大きな息をついて、パイプに火をつけた。亜がそれを見て変な顔をした。
「煙草は嫌いか」
塩田は死んでいるヒップと亜を見比べた。
「いや、僕も煙草は好きですが、何やらさっきからかすかに葉巻の匂《にお》いがしているんですが、今誰も葉巻など吸っている人はいないし――」
ときどき妙なことを言う。だが、葉巻の匂いがしていたことは本当だった。亜に言われるまでは気にしなかったが、塩田は葉巻の匂いで、自分のパイプに火をつける気になったようだ。
赤鈴が車から出て、ヒップの屍体をじっと見ると、大きな溜《た》め息をついて言った。
「大空の中で死ぬなんて、憎らしい自殺のしかただわ」
「しかし、これはどうしても、自殺ではないのですよ」
亜が小さな声で言った。だがその言葉は、誰の耳にもはっきりと聞えた。
「何だって?」
塩田は亜に馬鹿にされているような気がした。
「お前はさっきから、ヒップが殺されたようなことを口にするがね、ここ以外でならヒップが撃たれようが締められようが驚かない。だが、このゴンドラの中では誰もヒップを殺すなんてことは、不可能だ。俺たちはスネーク一号が飛び上ってからここに落ちるまで、一瞬も目を離さずにいたんだ。ヒップが殺されたのなら、犯人がいるはずだ。俺たちは誰もそんな人間は見なかったぞ。それともこの右腕山には空飛ぶ円盤がいて、緑色の宇宙人がヒップを撃ち殺したとでも言うのか」
亜は茫洋《ぼうよう》とした顔になり、顔を長くして、
「その宇宙人なら、緑色じゃなく、たぶん灰色をしていたでしょう」
「この人変だわ。私だって風船から目を放さなかったわ。ヒップが殺されたなんて信じられません」
赤鈴もむきになった。亜は彼女の見幕にたじたじとなりながら、
「本当は僕にもそんなこと信じられないんです。でもこの屍体をよく見て下さい。白い大きな手袋をしていますね。一本の太さがバナナ程ある上に、四本しか指がついていない。もし自殺をしたんだとすると、この人は手袋を脱いでピストルを握って自分を撃ち、それからまた手袋をはめなおし、改めてピストルを持って、安心して死んで行ったことになる。ほら、こんな太い指の手袋をしたままでは、あのピストルの引き金に指が入りっこありませんでしょ」
と、言った。
小倉汀の運転するポルシェが戻って来たのは、十五分後、二台のパトロールカーと救急車に詰めこまれた県警の捜査陣が到着したのは、それから二十分過《た》ってからであった。
警察官たちは、ほとんど無言で、極彩色の布の塊りを見渡してから、ゴンドラの中の屍体の検屍をはじめた。写真が何枚も撮られ、白衣を着た男がヒップの銃創を調べる。
警察官をしきりに指揮しているのは、顔中が真っ黒な髭《ひげ》の大男である。何かあると大きな両手をばたんと叩《たた》く癖があった。髭はヒップの手から、指紋を採り終えたピストルを取り上げ、銃口を嗅《か》いだ。亜が後から覗《のぞ》こうとすると、
「寄るんじゃないぞ」
大声で叱《しか》った。亜が思わずよろけた程大きな声だ。
「屍体に手をつけてはいないだろうな。責任者は誰だ?」
塩田景吉が前に出て事情を説明した。髭は自分は県警捜査一課の髭だとだけ言った。名刺を受けてはいない。塩田は今だにこの男の名が本名なのか仮名なのか知らない。髭はタレントとかコマーシャルという仕事が理解できにくい人間の一人であった。
「無駄《むだ》なことをしおって!」
髭は塩田の話を聞くと、不機嫌《ふきげん》そうに大声をあげた。塩田たちの行動の一から十までが「無駄なこと」としか思えないのだ。ヒップが死ぬ原因を訊かれた塩田は、髭に反感を持ちはじめていたので、全然思い当ることがないとだけ答えた。髭は両手をばたばた叩き、一層大きな声を出して、
「無駄に死におって!」
と怒鳴った。
ヒップ大石は、ぼろぼろに壊れた大きな人形のような姿で、担架の上に運ばれた。白衣の警察官の手で灰色の布が屍体に掛けられる。
遠くに駆け寄って来る何人かの人影が見えた。風船やヘリコプターを見つけてやって来る野次馬だろうか。
ゴンドラの中の荷物も一つ一つ運び出されて、草の上に並べられた。髭に言われるまでもなく、この品物のどれもが無駄なものになってしまった。
最後に髭は、空っぽのゴンドラの底を睨《みつ》めていたが、身体を屈めて網の目に詰まっている何かを拾いあげた。小さな紙片と銀紙だった。遠くからも、それがチューインガムの包み紙であることが判った。髭は白衣の警官と何か話しこみながら、ヒップの頭に顔を寄せていたが、立ち上った髭の顔は、仁王のようになっていた。
「自殺だという通報だったが、殺されたんだな、これは」
小倉汀が何か叫んだ。
「惚《とぼ》けるんじゃないぞ。屍体の口の中にガムのカスが残っている。今までガムを噛《か》みながら、自分の頭にピストルを撃った奴は、見たことがねえんだ。おい、お前たちの誰がこんな細工をした? 誰が殺した? よし、皆同じ穴のむじなだな。全員重要殺人容疑でしょっ引くぞ」
塩田は前に出て、
「しかし、ヒップ一人が風船で飛び立ったこと、その儘《まま》の状態で風船がこの場所に落ちたことは確かです」
「風船が飛んだかどうか、誰が信じるものか」
「風船が飛び立ったのは、三台の十六ミリカメラが記録しています。それにエキストラになった三百人の小学校の生徒と引率の教員が、それを目撃しています。更に、風船の落ちるところはコマ撮りで撮影してあります」
突然、この集団に、三人の若い学生が飛び込んできた。三人とも、真っ赤な顔をして、息をはずませている。
「僕たち、目撃しました」
と目を輝かせて言う。
「三人とも、です。肉眼の観測は五秒程でしたが、撮影もしました。うまく写っている自信があります」
口から泡《あわ》を吹いているのは、垢《あか》だらけの黒い詰襟《つめえり》を着た、坊主頭《ぼうずあたま》の学生だ。
「君たち、何だあ?」
髭があっ気《け》に取られた勢いだ。
「右腕中学校の一年生の天文部員です。僕たち三人は十時十八分、右腕山山腹にUFOの観測に成功しました。形はストラウチの円盤にそっくりでした」
「ストラウチ? 何だね、それは?」
「一九六五年十月二十一日、アメリカのミネソタ州セントジョージ付近で、保安官のアーサー・ストラウチの撮影したUFO――」
「君はさっきから、嬉《うれ》しそうにユーホー、ユーホーと言っているが、一体そのユーホーというのは何かね?」
坊主頭の学生は、ふいと口をつぐんでしまった。びっくりしたような顔で髭の顔を見なおす。この世にUFOを知らない人間が存在しているのが信じられぬといった顔だ。
「UFOとは、未確認飛行物体のことです。判《わか》り易《やす》く言えば、ほら、空飛ぶ円盤――」
亜が楽しそうに前に出て来て説明した。
「空飛ぶ円盤だとお?」
髭の顔がみるみる真っ赤になった。
「もう許さんぞ。ヒップ何がしを殺しておいて自殺に見せかける。それが他殺だと判ると、今度は宇宙人のせいにするのか」
「でも、この学生さんとヒップ氏は何の関係もありませんよ。この人の観測したことは、ひととおり聞いておく必要があると思うんですが」
小さなエンジンの音が聞えた。一台の車がこっちに向って来るのが小さく見える。
三人の学生は訝《いぶか》しそうな顔になっている。あたりを見廻《みまわ》し、互いに顔を見合わせている。まだ担架の屍体には気付いていないが、場ちがいな空気だとは察しているようだ。
「あなた方は、ヘリコプターと熱風船で、UFOを追って来たのではないのですか?」
坊主頭の学生は亜に話しかけた。学生に無視された髭は、それでも気になるらしく、二人の話に聞き耳を立てている。
「そう、ある意味では、僕たちも宇宙人を追っていると言えるんだが、その前に君たちの観測をもっと精《くわ》しく聞きたいね」
亜は、物判りのよい教師のような態度になった。学生の目がまた生き生きとしてきた。
「僕たち、今日九時にこの牧場に来ました。火星のトレミー効果を観測するためです。観測は順調に進行しました。十時三分に右腕山の上空にこの気球が見えたのです。はじめ、UFOかと思ってどきどきしたのですが、すぐ宣伝用の気球だということが判ってがっかりしてしまいました。少しの間気球を見てから、また観測を続けました。それから十五分過《た》った十時十八分、右腕山を見上げたミミが、本当のUFOだと叫んだのです」
ミミと呼ばれた学生は、なるほどゾウのように大きな耳をしていた。
「ミミの指差す方向を見ると、右腕山の裾《すそ》から三分の一ぐらいのところに、すうっと動く円盤が見えました。動いていなかったら、気が付かなかったでしょう。まるで山肌《やまはだ》が一部引っ込んでゆくような感じでした。色は緑がかった灰色のようで、形はストラウチの円盤に似ていました。大きさはおおよそ五メートルから十メートルの間――」
「xa\/sinθの式を使ったのだね」
亜と学生は、意気投合した。
「三人とも、同じ円盤を観測したのです。ミミがカメラを持っていたので、すぐシャッターを切りました。とたんに円盤は山の中に溶け込むように見えなくなりました。観測時間は五秒たらず、音はしませんでした。もっとも、直後にヘリコプターが山を越して来たので、UFOが発音していたとしても、ヘリの音で、消されていたでしょう」
亜は大きくうなずいた。
「まったく、あの音は無粋だね。ところで、UFOの音を分析した学者で、M・シュゲットという人の研究では――」
「ふう」
髭は二人の話がつまらなくなったらしく、塩田をぎろりと見て、
「だからと言って、宇宙人がヒップを殺したなどとは信じないぞ」
と、言った。
ベージュ色の乗用車が、ピンク色の宣伝カーの傍に止まった。ドアが開いて、真っ赤なブレザーコートを着た小柄な男が現れた。ヒップ大石の元の相棒、バスト浅野である。彼は灰色のズボンに両手を突っ込んで、ぶらぶら塩田の傍に歩いて来た。
「やあ、口程もなかったね。ヒップの奴、どこまで飛ぶかと思ったら、小さなお山を一つ越しただけで、もうエンコかい」
塩田は、黙って担架を指差した。
「へえっ? 真逆《まさか》? 落っこちて?」
塩田はやはり黙ったまま、自分のこめかみにピストルの引き金を引く真似《まね》をした。バスト浅野は思わずあたりを見廻し、何も喋らなくなった。
髭は両腕を組み、一人一人を見廻している。ヒップの屍体は救急車に運び込まれた。バスト浅野は間《ま》が悪そうに、自分の車に寄り掛り、細い葉巻に火をつけて、やけに煙を吹かしている。学生と亜が夢中で何かを話している。ふいに、亜が目を白くして廻れ右をした。そして静かに髭の傍に寄ると、彼の耳に何かささやいた。髭が塩田を見た。亜は塩田に手招きをした。
「ねえ部長、ここに風船が落ち、皆が中の空気を抜いたとき、葉巻の匂いがしたのを覚えているでしょう。あのとき誰も葉巻など吸っていないのに、おかしいと思っていましたが、今その理由が判ったようです。空の上で吸った煙草の煙が、風船の中に籠《こも》っていたのです。それが風船の空気と一緒に抜き出されたので、あんな匂いがしたのでしょう。ところで、ヒップ氏は煙草を吸いませんから、もう一人誰かが、ゴンドラの中で煙草を吸っていたものとみえます。その煙草と、同じ煙草を吸っている人が、今現れました。ブレザーの下に、灰色のセーターを着ている人がそれです」
髭は無言で一台の車の傍に寄った。バスト浅野は今、ドアを閉めて、エンジンをかけ、立ち去ろうとしていたのであった。
警察署の窓から、右腕山が遠くに黒く見えている。
塩田たちの一行は、皆疲れ切っていた。仕事が目茶目茶になったことで、疲れが倍になったせいもある。疲れた上に訊問《じんもん》が続き、調書を取られて、薄暗い一と部屋に押し込まれたのだ。三時間もの間に出涸《でが》らしの茶が一杯。部屋は牛の匂いがし、弁当を食べる気にもなれない。窓のすぐ傍に、大きな牛舎があるのだ。木製のベンチには埃《ほこり》が積もっていた。
「バスト浅野はそれ程ヒップが憎かったのか」
塩田が口を開いた。彼は牛の鳴き声に、すっかり参っていた。何か喋っていなければ、神経が持ちそうもなかった。
「ヒップは浅野を散々利用したのよ」
誰も何も答えないので、小倉汀が嫌々《いやいや》口を開いた。
「浅野は金持の長男でしょう。ヒップは浅野の金をずいぶん使ったんだわ。でもそのお陰で、やっと二人のコンビの仕事が増えだしたとき、ヒップが一方的にコンビを解消してしまったんです。あんな大根とやっていられるかってね。本当は自分一人に、わりの良い仕事が転がって来たからなのでした。もっとも浅野は確かに芸の才能はない人だったけれど、あんなやり方はヒップが悪いに決っています。その上ヒップは、浅野の妹を散々|弄《もてあそ》んだ揚句《あげく》、離婚した。ヒップのことだから、自分の尻尾《しつぽ》は出さず、悪いのは浅野の妹一人にあるような企みをして、離婚した。このことが浅野には、金より何より、絶対にヒップを許せないことでした。今までヒップを殺さなかったのは、ただそのチャンスがなかっただけだと思うわ」
塩田は正義派の小倉の言葉が、自分に向けられているような気がした。
木のドアがぎいぎいと開いて、髭の大きな身体がはいって来た。
「奴、泥《どろ》を吐いたぜ」
部屋の隅《すみ》にいってざぶざぶ手を洗う。それを見て塩田は慄然《りつぜん》とした。あの手でバスト浅野が、雑巾《ぞうきん》のように引っぱたかれたのだろう。
「だが、すっかり吐かねえうちに、気を失いやがった。だからどうやって殺《や》ったのかまでは判らない、君たちにまた訊くが……」
部屋をぐるりと見渡して、すぐ亜を見つけた。
「亜と言ったな。そのカメラマンは。お前、何かを知っているな」
亜はすっかり怯《おび》えあがり、ベンチの中に丸まるような恰好《かつこう》になった。
「いや、僕は何にも知りません。ただ、どうやってバスト浅野が風船から抜けたか、それは、多少の想像で――」
「それを喋るんだ」
髭は両手をばたんと叩《たた》いた。
「喋らぬうちは、いいか、皆帰さないぞ。判ったな、亜」
「で、では、何から話したらよろしいでしょうか」
髭は、よれよれの煙草を亜に押しつけ、マッチで火をつけてやった。
「そうだな。浅野がどうやってゴンドラに乗り込んだか、まずそれからだろうな」
亜はこわごわ煙を吐き、小さな声で、
「バスト浅野を、熱風船に乗り込ませたのは、実はヒップ氏自身に、他なりませんでした――」
と、話し始めた。
「彼は何かのはずみで、風船旅行を引き受けたのですが、彼には、何日も空を飛ぶなどという自信は、はじめからなかったと思われます。風船の知識を教えられれば教えられる程、当惑したに違いありません」
赤鈴技師が大きくうなずいて言った。
「そうなのよ。あんな物覚えの悪い人はじめてだったわ。その癖自分の我を通すの。最後には覚えるという意欲がまるでなくなってしまったわ。嫌らしい真似はするし」
「その代りに独創性はあったのです。いかに風船旅行を成功させるか。普通の人だったら、一生懸命に技術を習うでしょうが、彼の場合、それをしなかった。智慧《ちえ》を働かせて一つの計画を考え出したからです。ヒップ氏の計画というのは、一人の専門家をゴンドラの中に、誰にも気づかぬように忍ばせておくというものでした。風船が飛び上ったら、すべての仕事をこの男に任せてしまい、自分は寝ながらにして、大冒険を成功させようという、ずるい考えでした。その男ははじめから定《き》めてありました。バスト浅野です。もし浅野がいなかったら、ヒップははじめからスネーク製菓の計画には乗らなかったに違いありません。バスト浅野はグライダーも操縦すれば、軽飛行機の免許さえ持っていました。つまり空と機械の専門家です。まして浅野は小柄で、ゴンドラに忍ばせるにはもってこいの男です。というわけで、ヒップ氏は密《ひそ》かに浅野を呼びだし、自分の計画を話して協力を求めたのです。浅野は、例によって、ヒップが極めて虫のよい仕事を持って来たのに最初は腹を立てましたが、よく考えてみると、これぞ彼を殺すチャンスだということに気が付きました。それ以後の準備は、全部浅野の手によって進められてゆきました。例えばこの土地を選んだのも浅野です。つまり、人のいない草原で、千メートルくらいの山があり、風船はその山を越して向う側に飛んでゆくといった条件を備えた地形。そして朝の太陽に絹雲がきらめいている背景、これが彼に必要な舞台でした」
「バスト浅野が、ヒップを操っていたとは全く知らなかった」
塩田は呆然《ぼうぜん》として言った。
「ヒップの奴、忙しい割には、案外|緻密《ちみつ》な青写真を持って来る。むしろ、ヒップを見直していたんだな。あのときの俺は」
「ヒップ氏が毒々しい道化師の扮装《ふんそう》をしたのも、浅野の案でした。浅野も同じ扮装をすれば、遠くから見られても、二人の区別がつかないという理由からです」
「彼は必要以上の量の荷物をゴンドラに持ち込みたがったわ。それが、まさか二人分の量だとは思わなかった」
赤鈴技師がそう言った。
「こうして二人の準備は全《すべ》て調《ととの》い、いよいよ当日です。小柄なバスト浅野は、大きなバスケットの中で毛布にくるまっていたのです。そして誰の目にもつかず、ゴンドラの中に運び込まれました。風船は予定通りに、バスト浅野とヒップ氏を乗せて空に浮びました」
「出発前のヒップの自信たっぷりな態度を思い出したよ」
塩田はあのときの光景が、ありありと目に泛《うか》ぶ。
「風船は順調に飛行する。右腕山の上を越すと、双眼鏡でも人間の姿がはっきりとは判らない距離になります。そこで浅野はバスケットから這《は》い出したのです。煙草好きの浅野は、当然まず一服したでしょう」
ヒップは無線で、塩田の視角の限度を確認している。そのあと、あわてて通信を切ったのは、浅野がバスケットから出て来たからなのだろう。
「しかし、浅野は打ち合わせ通りの道化師の恰好ではなく、意外な服装でバスケットから出て来たのです。一つは灰色の服をぴったり着ていたこと、太い手袋ではなく、ぴったりしたゴムの手袋だったこと、もう一つは――」
亜はそこでもぐもぐと言葉を濁らせた。
「ヒップ氏は浅野の服装を咎《とが》めようとする。そのとき浅野はヒップ氏の注意を、地上に逸《そ》らせます。例えば〈おや、ヘリがまた飛んで来る!〉嘘《うそ》を吐《つ》いたのです。ゴンドラに二人がいるところを見られては大変、ヒップ氏はあわてて双眼鏡で地上を見下ろす。双眼鏡を目に当てると、どういうことになりますか。視界がうんと狭くなってしまいますね。そこで浅野はごくやすやすとポケットからピストルを出し、ヒップ氏のこめかみに当てて引き金を引く――」
ダンダン、ゴッキ、おだぶつだわね。塩田は額の汗を拭いた。冷や汗であった。
「浅野はピストルをヒップ氏に握らせる。そうしてゴンドラから逃げ出せばすべて完了。ですが、いろいろな見落しに気が付きませんでした。一つ、ヒップ氏の手袋を脱がせなかったこと。二つ、ヒップ氏の口の中にガムがあることを知らなかった。三つ、自分の葉巻の煙が風船の中に残っているのに気付かなかった――」
窓から蠅《はえ》がやたらに飛んで来る。髭はまるで蚊《か》でも潰《つぶ》すように、蠅を叩いては丸めて床に捨てる。
「さて、これから浅野はゴンドラから脱出するのです。まず機械を全部止めてしまう。もしバーナーがついたままだったら、風船がどんな遠くに行ってしまうか判らない。海にでも落ちたらこの計画は水の泡。ヒップが自殺した姿を、誰かに目撃してもらう必要がありました。浅野は機械を止めて、ゴンドラから逃げ出したのです」
「逃げた? どこへ? ゴンドラの底? 風船の中? 逃げる場所なんか、ありゃしませんでしたよ」
嵐監督は早口で言った。
「もっと広いところ。浅野は空の中に逃げ出したのです」
「千メートルの上空に飛び出す? そんな無茶な!」
「普通の人なら考えつきませんが、浅野にはそれが出来たのです。浅野の特技を思い出して下さい」
「ヨット、グライダー、飛行機――」
小倉汀が指を折った。
「スカイダイビング!」
「そうです。浅野の灰色の服の背中には、パラシュートがついていたのです。彼は小柄な身体を毬《まり》のようにしてゴンドラから飛び降りました。彼の背後は陽にきらめいている絹雲があります。肉眼でそれに気付くのは無理でしょう。双眼鏡ではどうでしたか?」
「見えなかった。いや見なかったと言うべきだろう。俺はゴンドラの中ばかり気にしていた。双眼鏡の視界がもっと広ければ、あるいは見たかもしれない。でも見たとしても、それが人間だとは絶対に思わなかったろう」
と塩田は答えた。
「それで風船が急に上昇したのね」
「四、五十キロの重量がなくなったので、風船はどんどん上ってゆきます。もし山がなく乱気流が考えられない場所でしたら、僕たちはもっと早く、風船から何か落ちたことに気が付いていたでしょう。さて、浅野は右腕山の陰でパラシュートを開きます。七、八百メートルの上空で傘を開けば、こちら側からは全く見えません。スカイダイビングのベテランなら、五百メートルの上空で傘を開くこともむずかしくないようです」
「山のこっち側にもし目撃者がいたら?」
「そう、人里離れた山の中でも、現に三人の中学生がパラシュートを見ています。もし白い傘なら学生もUFOなどとは思わなかったのでしょうが、おそらく浅野は迷彩に染めた傘を使ったのでしょう」
「メイサイ?」
「緑色と土色のだんだらの柄ですね。少し離れると地の色に混って見えなくなってしまう。UFO好きの学生でなければ、見えなかったと思います」
「浅野の車のトランクに、そんな柄の布が詰まっていた。ありゃパラシュートだったんだな」
髭が大声を出した。
「パラシュートは無事に右腕山の裾《すそ》に降ります。ピンポイント着陸。そこにはあらかじめ自分の車が止めてあった。車もおそらく灰色のシートを覆い、木の枝かなんか乗せてあったのでしょう。浅野はすぐ傘を畳んで車に入れ、服装をなおして逃げればよかったのです」
「犯罪者の心理か。むらむらと現場を見たくなったんだな。それだけ自信があったのだろうが」
髭はそして両手をばたんと叩き、
「いいか、このことは他では一切喋っちゃならねえぞ判ったな」
と言った。この言葉には、この事件の解決は全部一人占めにしようという下心が露骨に見えていた。
「部長、ずいぶん顔色が悪いわ。大丈夫ですか?」
小倉汀が心配した。
「そうだ、俺も逃げ出す必要があるのだ」
塩田は自分の顔が、白くなっているのを知っていた。出来れば小倉汀を連れて逃げ出したいのだ。
ヒップ大石の死は、スネーク製菓のイメージを、すっかり変えてしまうだろう。急速な売り上げの伸びは止まって、間もなくスネーク一号のように、止めどもなく落ちてゆくだろう。そのとき、自分の頭にピストルを突きつけている飴辰の番頭の姿が、白昼夢のように、はっきりと塩田には見えたのである。
第三話 曲った部屋
「住めば都と言いますがね、こんな言葉は、団地など知らなかった人間の寝言でさあ。僕の住んでいるところは、まさしく、住めば地獄と言うのがふさわしい。まあ、課長、一度後学のために、見物にいらっしゃいよ」
と、鳥尾杉亭《とりおさんてい》はこぼすのである。
小網敦《こあみあつし》は、杉亭がそろそろ酔ってきたなと思った。鳥尾杉亭の癖は、酔うと「ねえ、家ヘいらっしゃいよ」というのである。
狭いバーである。時刻が早いためか、客は小網敦と杉亭の二人だけであった。古いシャンソンが流れている。店にはマスターが一人、客には目もくれず、隅《すみ》の方でレコードのプレーヤーを舐《な》めるようにして見入っている。無精髭《ぶしようひげ》を生やした中年の男で、小さな紙片を機械の下に入れたり出したりして、プレーヤーの廻転盤《かいてんばん》が、完全に水平な状態で廻《まわ》るように苦心しているのである。二人が店に入ったときから、すでに彼はその作業に没頭していた。
「音という奴《やつ》は、生き物みたいに微妙なもんです。私はひどく神経質な性格なんだ」
と彼は言い、水割のグラスを二人の前にきっちりと並べ、髭《ひげ》をぼりぼりと掻《か》いた。髭の中から、小さな白いフケがぱらぱらと落ちた。そのフケを汚れた袖《そで》でぐいと拭《ふ》き取り、そうしていそいそとプレーヤーの傍《そば》に行ってしまったのである。
「君のところは、確か美空《みそら》が丘《おか》新団地と言ったなあ」
小網敦は穏やかな調子で言った。
彼に初めて逢《あ》った人は、小網の敏腕らしい風貌《ふうぼう》と、きびきびした言葉つきに引き込まれるのが常であった。何人もの実業家や事業主がうっとりし、彼の前に旨《うま》そうな餌《えさ》を下げてみたが、小網は現在の袋町役場の戸籍係の椅子《いす》から立ち上ろうとしなかった。ほんとうは、古い官吏の伝統を忠実に守ることが好きなのであった。事実彼には、老人みたいな趣味があり、この日も袋町役場の俳句クラブに行った帰り途《みち》だったのである。
「美空が丘新団地ですか」
杉亭はけたけたと笑った。
「住民課には、どこにでも、突拍子もない少女趣味の奴がいるもんですね。言っておきますがね、課長、もし僕の家を探すんでしたら、美空が丘新団地なんて言っても、あすこらの人には通じませんよ」
鳥尾杉亭はけち臭く水割を飲むと、わざと声を落して、
「僕の団地はね、お化け団地で通っているんでさあ」
「お化け団地――ね。こりゃあ覚え易《やす》くっていいや」
「喜んじゃいけませんよ。大体団地に一度入居したら、なかなか引っ越せるもんじゃありませんがね、うちの団地に限り、早くって三月《みつき》、半年もすると、神経が変てこになってくるんです。うちの上にも、三月めの所帯が二軒ありますが、もうそろそろ音《ね》をあげる頃《ころ》じゃないかと、楽しみにしていますよ。真上に住んでいるかみさんが、今までは会っても声を掛けたこともなかったのに、最近ちょいちょい立ち寄るようになったのが証拠です。その亭主《ていしゆ》というのがほれ、死んだたぬきの茂平《もへい》の縁者らしい。もう一軒はまだそんな気配がない。家内も住んでいる人間の顔を見たことがないと言っていますから、この方は少うし長持ちしそうですがね」
「君はあの団地に入居してから、どのくらいになる」
「この五月で、ちょうど一年目です。あの団地が出来てから、ずっとですから。僕のように辛抱《しんぼう》強く我慢しているのは、もう算《かぞ》える程になりましたよ。お陰《かげ》で一年しか住んでいないのに、あの団地じゃ、古狸《ふるだぬき》で通っています」
「この住宅難に、珍しい話だね。その団地には、お化けでも出るのかい」
「お化けの方がまだましだと、皆言っています。五月も、今頃の季節になりますとね、風向きの工合《ぐあい》で、時とすると火葬場の煙が窓から入って来るんでさあ」
小網敦は顔をしかめた。
「句にもならない――」
「なるもんですか」
杉亭はふと天井を見上げて、
「春風や、死びとの匂《にお》い運び来て、ですかね、ひっひっひ」
「嫌《いや》な笑い方をするなよ。保健所に署名を集めて嘆願したらどうだ」
「何度もやっていますがねえ。ちっぽけな団地の、百人足らずのために、火葬場の移転などしてくれると思いますか」
「火葬場は、そんなに近いのか」
「つい目と鼻の先です。どうして入居するときそれに気付かなかったのかなあ」
無精髭のマスターが、やっとプレーヤーから離れて、二人の前に立った。
「どうです。ずっと音が違うでしょう」
「以前、団地用に場所をとらないように、レコードが斜めになって廻るプレーヤーがあったよ」
「団地用の、ね」
マスターは悲しそうに首を振り、問答無益というように口をつぐんでしまった。杉亭も悲しそうな顔になり、話を続けた。
「どこで聞いたんですかねえ。学生時代の文学仲間が、いま週刊誌の編集部にいましてね、面白《おもしろ》い記事になりそうだから、取材に協力してくれって言って来ました。冗談じゃありませんよ。この上物笑いにされて、たまりますかってんだ。ところがこの男、僕よりしつっこい男でね。しまいには、ただ遊びに来ると言うんです。友達でしょ、ただ遊びに来るのを断わるわけにもゆきません。それに、今の団地に移ってからは、誰《だれ》一人遊びに来る奴はいなくなったんです。今度の日曜日に、とうとう来ることになりましたよ。ねえ課長、面白い男なんですよ。日曜には課長もぜひ家にいらっしゃいよ」
もともと「お化け」という名称は、古くからこの土地にあったのですと、杉亭は説明する。
お化け団地の建っている土地は、その前には小さな沼であった。正式な名は桶沼《おけぬま》と言う。桶のような形をした楕円形《だえんけい》の沼だったと土地の人は説明する。だが土地の人は桶沼とは呼ばず、お化け沼と呼びならわしていた。沼はどろどろした藻《も》におおわれ、沼のまわりには、背の低い黒っぽい灌木《かんぼく》がびっしり生い茂っていた。そしてこの森をお化けの森と言う。芝居の「小幡小平次《おばたこへいじ》」の舞台そのままの、陰気な沼であったらしい。
お化け沼の近くに、これも古くから火葬場があった。この土地はもともと土葬の風習がある。従って、火葬場が使われることは、ごく稀《まれ》であったが、大正大震災の年に疫病が流行し、それ以来死者を火葬にすることが慣例になった。
地形のせいでもあるのだろう。淀《よど》んだ空気の日には、火葬場の煙が、お化け沼の上に傘《かさ》のように立ち籠《こ》めるのである。
陰気ではあるが静かな日々、暗いが平穏な日々は、いきなり終りを告げた。ある日、突然、猫の額のようなお化け沼は、三台のブルドーザーによって、あっと言う間に埋め立てられてしまった。お化けの森の灌木も、片端から引き抜かれ、コンクリートの柱が夜通し打ち込まれた。裸電球に怯《おび》えた蝙蝠《こうもり》が何千羽となく飛び去った。
お化け沼の跡は、西部劇の砂漠《さばく》のような色になり、その上に、二棟の四角い鉄筋アパートが、にょきりと立った。別に丘らしいものは見当らなかったが、どういうわけかそのあたりは、美空が丘と名付けられた。
新地名の書類に印を押した中に、二毛茂平《ふたげもへい》という議員がいた。渾名《あだな》をたぬきの茂平という。たぬきの茂平が次にすることは、新産業道路の建設計画の書類に目を通すことであったが、その書類ができあがらぬうち、実行力のあるこの政治家は、あっ気なく脳溢血《のういつけつ》で死んでしまった。
たぬきの茂平の死は、彼自身にとっても、また新しい団地に入居することになっていた五十所帯の人たちにとっても、不幸なことであった。たぬきの茂平の死と同時に、住民から幹線道路建設に対する反対運動が起った。道路が、この土地に運んで来るものは騒音と煤煙《ばいえん》しかないと言うのだ。とは表向で、実は他の実力者の方向に、幹線道路が迂回《うかい》することに定まってしまったのだ。茂平の部下たちは、ことごとく反対派に寝返った。そして茂平の夢であった、美空が丘を中心とする東洋一の大団地建設計画は、いつとはなしに立ち消えになってしまった。
お化け沼の上に建てられた二た棟のアパートは、心細くも孤立した。それでも、五月の爽《さわ》やかな日曜日には、何台ものトラックが、土煙を立てて真新しい家具を、いくつも団地に運び入れた。南向のベランダには、真っ白な干し物が並び、若い主婦たちの明るい声が、コンクリートにこだました。しかしその声は、日がたつに連れて、だんだんヒステリックな不満の声に変っていった。
まず団地の入居者が直面した問題は、交通がひどく不便なことだ。美空が丘まで行くためには、急行の止まらぬ私鉄駅で降り、日に数本のバスに乗り換えて、古袋というところまで。その先は、田圃《たんぼ》道を五キロも歩かなければならなかった。この古袋から美空が丘までの道は、馬車の通っていた私道である。おそらく、日本一長い私道かもしれない。団地に家具を運び込んだトラックが、この狭い道の肩を、ぐずぐずに毀《こわ》してしまった。怒った農家は、車の通行を阻止するため、道の出入口に何本もの杭《くい》を打ち込んだ。以後、古袋から美空が丘まで車で行くには、五倍もの道を迂回《うかい》しなければならなくなった。主婦たちは、マッチ一つ買うにも、五キロの古袋まで歩き、くたくたになって帰って来た。
子供を持つ親たちは、学校でも頭を痛めた。学校はやはり古袋にあり、初めのうちは身体のためにはいいわと言っていた母親が、授業参観に行き、学校の水準がかなり低く、すし詰め教室であり、しかも土地の生徒が野卑であると、真っ青になって戻って来た。もっともこの学校は、子供を大学に送るために建てられたのではないから仕方がない。
団地の一棟は四階建てである。一棟に、四階まで通じる三つの階段がある。階段の両端には、一つずつの所帯が向き合っている。ごく普通の形式の建物だ。一棟には二十四の所帯があり、南北二列にお化け沼の上に建てられていた。
そのうちの南側、一号棟の住民が、入居すると間もなく、この棟は曲っていると騒ぎだした。机の上に置いた鉛筆が、何もしないのに、ひとりでにころころと転がりだすというのだ。
自分たちの団地が、土地の人たちから、お化け団地だと言われているのを耳にしていたので、初めてそれに気付いた人は、ひどく無気味であったと言う。それでも、机が曲っているのではないかと思い、机を買ったデパートに苦情を持ち込んだ。デパートの係員がすぐ飛んで来て、しばらく机を見ていたが、首をひねりながら、低い声で、
「こんなことを申すのは何ですが、この建物は、少うし、傾《かし》いでいるようです」
と言い、出しかけた菓子折を鞄《かばん》の中にしまいこむと帰って行った。そこで、騒ぎが大きくなった。
確かに、一号棟は、ごくわずかではあるが、南北に曲っていたのだ。このことが明るみに出るまでは何でもなかったのに、急に頭痛を訴える主婦がでてきた。コップに注《つ》いだ水が傾いていると騒ぎだす家があった。――もっとも、その家の食卓は、本当に曲っていたのである。
「地震でも来たら、どうするのだ」
住民は、住民課にどなり込んだ。
係官は、全く騒がず、紙の上にいろいろな数字を並べた。――地下の岩盤が○メートル□センチ、粘土層が○センチ□ミリ、建物の傾度が○度□分△秒ということはすでに調査済みです。従って、震度7の場合の何とか度が△、6でしたら□――
「――結局、建物の倒壊ということは、物理的、数学的、化学的には全くありません。しかし、善処します」
「君のところは何号棟だね?」
小網は杉亭の顔をうかがうように訊《き》いた。
「喜んでください。ぴったり一号棟でした」
「やけくそになるなよ。――そんなに曲っているのかい」
「面白いですよ。朝、起きてみると、家中部屋の隅に落ち込んで寝ていますよ」
「嘘《うそ》をつけ」
「これは明らかに、工事のミスですね。ピサの斜塔と同じで、一階は比較的、傾き工合が軽いが、上にゆく程ひどいのです」
「今どき、ピサの斜塔みたいな工法をしているのか」
「何だか判《わか》りませんが、曲っていることは確かです」
「で、君は四階に住んでいるというのだろう」
「うちは三階なんです」
杉亭はいかにも残念そうな顔をした。
「住宅課は善処したかね」
「善処していますよ。今だに建物を直すなどと言って来ませんからねえ。そんなことにでもなれば、又一時引っ越さなければならなくなる」
その騒ぎがあってから、二た月ばかり後のことである。七月のはじめ、団地の子供が、変な虫を捕えて遊んでいるのを、母親が見付けた。二センチばかりの、真っ黒な、穢《けがらわ》しい虫で、ひっくり返すと気味の悪い黄色の腹が見えた。手で捕えると、口と肛門《こうもん》から褐色《かつしよく》の液を出す。それが、腐ったような臭いを放った。この虫が、団地のまわりに、いくらでもいるのである。
「こいつ、マイソウムシだあ」
団地へ野菜を売りに来たおばさんが、そう教えた。
「だが、昔のとちいっと形《な》りが違うているのう」
「埋葬虫と書くんです」
杉亭はカウンターの上に指で字を書いた。
「この虫は動物の屍肉《しにく》を食らうんです。食い残した肉は、自分の穴に持って行って埋める。それで埋葬虫という名が付いたそうですね。ところが、こいつは昔からある普通の埋葬虫じゃないんだそうです。江戸時代に南米から渡って来た種との雑種で、学名はヒメオオクサシデムシと言います。だいたい、マイソウムシと言うのは、シデムシの別名であります」
そのヒメオオクサシデムシが、お化け団地を中心にして、爆発的に増えだしたのである。お化け沼地帯の環境の変化で、何か生物のサイクルが狂いだしたためとしか考えられない。どこからともなく、うようよと増え続ける、黒いシデムシの集団に、団地の住民は震えあがった。あるとき猫の骸骨《がいこつ》が団地の中で見付かった。それは一と晩でシデムシが猫を食い尽したかすなのであった。シデムシの集団発生は、ムシ自身の習性も変えてしまうらしい。腐肉を食うはずのシデムシが、ある晩団地に植えられた少しばかりの芝生の苗を食い尽してしまった。このムシの謎《なぞ》は、未《いま》だに昆虫学者にも解けていない。夏の夕方、涼しくなった北側の壁に、びっしりとシデムシが貼《は》り付き、クリーム色の壁が真っ黒になったこともある。夏の暑さに窓も開けられない。ぴったりと戸を閉めて外出したのにもかかわらず、帰ってみると何千というシデムシがどこからともなく、家の中に入って来て歩きまわっている。これは換気扇や排水口から侵入したのである。
衛生課はあわてて、お化け団地の一帯に農薬を大量に散布した。シデムシの気狂いじみた発生は、一時収まったものの、小さな群れはその後、一と月ばかりあちこちに出現しては、住民を脅かした。秋になると、流石《さすが》のシデムシも影をひそめた。けれども、今度はどんな生き物が団地を襲うかもしれない。主婦たちはいずれも、夏の終りになると、げっそりとやつれ果てたのである。
もともと、お化け沼一帯は、湿地帯だった。お化け沼は埋め立てられたが、お化け沼に集まって来ていた地下水は、行き場所を失い、団地の地下にじとじとと拡《ひろ》がっているものとみえる。秋の初め、一つの台風が雨を降らせて去ると、美空が丘の地面は沼に戻ろうとする気配が見えた。団地の住民は、膝《ひざ》までの長靴《ながぐつ》を売っている店を探しまわらなければならなかった。冬になると町営の水道が寒さで破裂して断水となり、水運びで、住民の中には病人も出るありさまとなった。その病院は古袋にあり、七十八になる医者が一人いるだけである。
「だが、もう春になったのだから、これからは、そんなこともないだろう」
と、小網は慰めるように言った。
「そんな気休めは言わないで下さいよ。それどころか、一年中で春が一番せつないのは、よく心得ているんですから」
お化け団地は、このあと二度目の春を迎えたのだが、妙に空が煙るのである。春のせいだろうと思っていたが、どうも様子が違う。妙な匂いがすると言いだす人がいた。
「それが火葬場の煙だったのか」
「そうです。風向きが変ったんですねえ。冬のうちは風もあるし、戸も閉めてあるので気が付かなかったんですがね。去年だって、やはり煙は出ていたんでしょうが、あの頃は新しい団地に入居できることでもう夢中でしたしね。火葬場の煙突ですか。うちの窓からようく見えますよ。見にいらっしゃいよ。そろそろ、ヒメオオクサシデムシも元気になる頃だしね、シデムシちゃんのつくだ煮を御馳走《ごちそう》しますよ。今度の日曜、待っていますよ――」
小網敦は古袋でバスを降りた。霧のような雨が、朝から降り続いている。彼は辛抱強く歩いた。杉亭の言う程道は悪くなかったが、いくら歩いても団地が見えないのにはうんざりした。お化けの森の名残らしい立木が見え始めたとき、喪服を着た四、五人と擦れ違った。
道は低い灌木を通り抜ける。なだらかな上り坂になったところで、小網は遠くに若い女の姿を見た。遠くからもはっきりと目に付く、赤いスカートと、真っ白なセーターを着ている。女は道の傍に屈《かが》んで、何かを拾っているような恰好《かつこう》をしていた。小網が近付くと、女は立ち上って、足早に立ち去った。小網は女のいた場所に来て立ち止まった。別に変ったものはない。ただ黒い虫が、木の幹に数匹動いているばかりだ。小網はその一匹をつまみ上げた。虫は意外な力で足を動かし、彼の指を押しのけて、地に落ちていった。土の上で裏返った虫の腹が、黄色い色をしている。小網の指に、褐色のべたべたする液が残った。マイソウムシだな、と彼は思った。
雨は小降りになった。小網は傘を閉じたが、湿った空気で傘をさしているときよりも、身体が濡《ぬ》れるような気がした。人気《ひとけ》のない道を進むと、道の端に屈み込んでいる男に出会った。地面に三脚を立て、しきりに何かを覗《のぞ》き込んでいる。半開きの傘が足元に投げ出されていた。
たまたま、小網と目が会った。男は軽く会釈をした。その態度が、舞のように優雅で隙《すき》がなかった。男は再びカメラのファインダーに顔を寄せた。色が白く端麗な顔だちである。やや派手めの薄茶の背広に、細かい格子のネクタイ。服装に神経がゆき届いている。カメラの前に、マイソウムシの群れが見えた。
灌木の間を過ぎると、突然視界が開け、灰色の空の下に、四角い建物が見えた。建物は小網の方を向いて、きちんと二列に並んでいる。小網は立ち止まり、目を細くして建物を見た。手前の棟と、後の棟を重ね合わせて見えるように身体を動かす。二つの建物の垂直の稜《りよう》が、確かにぴったり合っていない。手前の棟が、ややのめるような角度で傾いているのが判《わか》る。
「しかし、ピサの斜塔ほどじゃない」
ふと気が付くと、小網の後を誰かが尾《つ》けてくる様子である。振り向くと、さっきの男がカメラを下げて歩いて来る。男は照れ臭そうに、咳《せき》ばらいなどした。
一号棟の真下に来て、小網は壁を見上げた。黒いしみが点々と無数にこびりついている。小網は郵便受けで、鳥尾杉亭の名を確かめてから、コンクリートの階段を登り始めた。彼の後にも足音がする。カメラの男も、同じ階段を登って来るようだ。
小網は一と息に三階まで登り、左側に杉亭の表札を見てブザーを押した。表札と並んで、三〇二号と部屋の番号が記されている。
ドアの左側にあるノブがかちりと動き、杉亭が顔を出した。
「やあ、課長、お待ちしていました」
小網の肩越しに、別な顔を見て、杉亭はけげんな顔になった。
「おや、亜《あ》さんも一緒でしたか」
「君の知り合いかね」
小網は口を尖《とが》らせた。
「別に一緒の積りじゃなかったんだが、この人が勝手に僕を尾けて来たんだ」
「僕も、気が付いたら気味が悪くなりまして、ちょうどこの方が通り掛ったもので、御一緒させてもらいました」
顔に似ず、臆病《おくびよう》だとみえる。
杉亭は、うふふと笑って、
「この人は黄戸《きど》さんの知り合いの方で、ヒメオオクサシデムシの生態を撮りたいというのです。亜?――」
「亜愛一郎です」
男は、朗らかに名乗った。
「そう、亜さん、傘は?」
「あ」
亜はぽっかりと口を開けて、
「わ、忘れて来ました」
と、言った。
玄関をあがると、腰高の洒落《しやれ》た障子がある。障子を開けるとダイニングキッチンになっている。ここは板敷で、冷蔵庫、洗濯機《せんたくき》、食卓などといったものが、どこの家庭とも同じように並んでいる。右側に流し台があり、ダイニングキッチンの突き当りに、もう一つ玄関と同じ腰高の障子があって、そこを開けると杉亭の部屋だ。
突き当りにステレオが置いてある。ステレオの両側に大小の本棚《ほんだな》が並び、日に焼けた茶色の本がぎっしり詰まっている。
杉亭の部屋に先客が一人いた。赤ら顔で肥《ふと》った、見るからに精悍《せいかん》そうな男である。「週刊人間」の編集者で、黄戸静夫《きどしずお》と言った。
「日当りだけはいいんですよ」
杉亭の妻、浩子《ひろこ》が茶菓子を運んで来て、南側のベランダを指してそう言った。瓜実顔《うりざねがお》の、いたずらっぽい顔をした美人だ。
「週刊人間」の黄戸静夫は、熱い茶を、まるで水でも飲むようにぐいと口に入れ、菓子を一度に三つも口に頬張《ほおば》り、ろくに噛《か》みもしないで飲み込むと、大きな声で早口に喋《しやべ》るのである。小網が今まで会った人間のうちで、最もせっかちな人種のようだった。
「たぬきの茂平のことですがねえ」
話題をあっちこっちに飛ばすのである。そう言うと、せかせかと煙草の煙を吹き出し、灰皿《はいざら》に揉《も》み消す。またたくうちに、灰皿が山になった。
「例のたぬきの茂平、ね。ほれ、お化け沼を埋めちまった奴さ。この団地の製作者だ。これがなかなか魅力のある男でね」
黄戸は向う見ずに茶を飲んでむせ返った。顔はじゃがいものようだが、頭の回転はすこぶる早そうだ。亜はカメラを黒い鞄《かばん》に入れようとしているが、鞄のファスナーが何かに絡みついて、無器用な手つきで金具をひねり廻している。小網は、この二人の取り合せが、まるで作り物の世界のように思えた。
「たぬきの茂平が面白くって調べてみたんだがねえ。彼の生まれは九州の宮前《みやまえ》市だ。もっとも当時は市でなくて、宮前村かなんかだったんだがね。小作人の五男坊で茂平。成長してから筆屋に奉公した。筆屋が初めての人生の出発点だったので、筆の毛からたぬきの渾名《あだな》が付いたという説があるが、無論こりゃあこじつけだ。筆屋には一と月もいなかった。本当は狸のように腹黒い男だった。筆屋に奉公はしたものの、ひどく無器用な男とみえてね、てんで勤まらずに東京に逃げ出して俥屋《くるまや》になる。それを手始めに、箱屋、靴下《くつした》の行商――まあ、こんなことはどうでもいいや。とに角、転々としているうちに、どういうわけか、古袋にあった旧家の娘と一緒になった。この娘はいまでも生きているが、無論娘じゃあない。通称たぬき婆《ばば》あで通っている。茂平はがらに似ずいい声で、歌が旨《うま》かったらしい。たぬき婆あは、この声に惚《ほ》れたという噂《うわさ》があるが、本当だろう。たぬきの茂平にしてみれば、これが運の付き始めという奴《やつ》さ。無器用だが向う見ずの男でね、命を的にして何でもやってしまう。古袋のやくざを配下にしてしまったときの話などは、映画を見てるより面白い」
玄関のブザーが鳴った。浩子が惜しそうな顔をして立ち上った。黄戸はかまわずに喋りまくる。
「とに角、しまいには議員にまで成り上った茂平だ。晩年には団地造りに血道をあげてね、この土地を引き潰《つぶ》して大団地を建設する夢を持つに至った。お山の大将になりたいのは、男の夢さ。だがたぬきの茂平の願望はもっと度の強いものだった。ここにスーパーマーケットを作り、学校を建設し、鉄道を引き、工場を誘致する。ゆくゆくは一国の統領にでもなりたかったんだろうがなあ。それがほんの一歩を踏み出しただけで、ころりと死んでしまった。そういう点じゃあ、非運な男でもあった」
黄戸はそう言うと、まるで自分が非運な男ででもあるかのように、天井を見上げて息を吐いた。けれども、たちまちもとの黄戸の顔に戻り、
「たぬきの茂平の誤算は、自分の本当の後継者を一人も作ろうとしなかったことだろう。いや、とに角、つっ走ることに一所懸命で、そんな余裕はなかったかもしれない。腹心の部下なるものは、茂平が死ぬと、どんどん寝返ってしまった。茂平が死んで残したものは、お化け団地の二棟と、反茂平派だけだったね。たぬき婆あは若い頃には鄙《ひな》には稀《まれ》な美人だったらしいが、今じゃあ半分|耄碌《もうろく》して、広い屋敷に寝たきりになっている。――そう、茂平は息子《むすこ》も一人残していた。だが、これが茂平に輪を掛けた向う見ずな男で、十四、五の時から、人殺しこそしないが賭博《とばく》はする、ゆすりはする、強姦《ごうかん》などで逮捕されかかったことも一度や二度じゃない。茂平は自分の芽が出かかった時だったから、まとまった金をやって、勘当同然、当人もこれ幸いと家を飛び出した。この男は茂平に似て、歌が旨いそうだ。よく音楽の好きな人間に悪い奴はいないと言うが、嘘《うそ》だね。おれは音楽好きの殺人犯を四十人も知っているよ。この男は茂平が死ぬと、たぬき婆あのところに、時々顔を出すようになったらしい。むろん、遺産が目当てなのさ。その男というのがほれ――」
黄戸は、太い指を天井に向けて立てた。
「この真上、四〇二号に住んでいるというんだから面白い。たぬき婆あの世話をしている家政婦がいる。口元にほくろのある、ちょっとした美人だが、茂平の息子はその女に手を出している形跡がある」
「その美人なら、同じところに住んでいるぞ」
杉亭も指を天井に向けて立てた。
「初めのうちは、階段で会っても知らん顔をしていたが、急にこの頃は、二毛《ふたげ》でございます。いつも宅がお世話になります。なんてね、もっとも僕はその宅の顔も見たことがないが」
「ほう、聞きしに勝る手早さであるなあ」
黄戸は、手帳を引っ張り出すと、せわしく頁《ページ》を繰って、
「二毛茂平の息子、二毛|敏胤《としたね》。ふうむ。たぬき婆あの家政婦は、佐久子《さくこ》と言う名だ」
その時、いきなり、部屋の障子が開いた。
「あらあ!」
陽気な、若い女性の、驚いた声がした。
ちょうど亜の、真後ろである。亜が、びくんと飛び上った。
赤いスカートと、真っ白なセーターを着た女性が、美しく目を開いている。形のよい口元に、ほくろが見えた。女はころころと笑って、
「ごめんなさい。間違えちゃったわ」
亜があわてて振り返り、坐《すわ》りなおして、女を見上げた形が、雨蛙《あまがえる》そっくりになった。
「あら、二毛さん、こっちよ」
浩子の声がした。黄戸はいきなりハンカチを丸めて口に押し込み、頬を脹《ふく》らせた。
「失礼しましたあ。私って、おっちょこちょいね!」
華やかな空気が、ふうっとダイニングキッチンの方に移って行った。亜は半開きのままになっている障子に、首を突っ込むようにして、女を見送っている。両手をしっかりと握りしめている。よほど驚いたのだろうか。
小網たちも、それにつられて女の後ろ姿を見た。ダイニングキッチンを通して、玄関の障子が見える。いま、浩子がその障子を開けたところだ。二毛佐久子は玄関に立つと、右手を伸して壁を撫《な》でるようなしぐさをした。浩子が後から手を伸して、左側にあるスイッチを押した。玄関が明るくなった。
「どうも有難う。お世話様でした」
二毛佐久子はこちらを向いた。年は二十三、四だろうか。中肉で切れの長い目に特徴があった。佐久子はすぐ後ろ向になって履物《はきもの》を突っかけながら、手を伸してドアの左側を撫《な》でるような恰好《かつこう》をした。浩子がドアを開けた。佐久子は西洋人のようにちょっと肩をすくめて、外に出て行った。
亜は佐久子の姿が見えなくなっても、四つん這《ば》いになったままである。浩子が居間に戻って来て、顔をゆがめた。笑い出しそうになるのを堪えているのだ。
「あら、ごめんなさいね。驚いたでしょ」
亜は坐り直り、ぼうっと息を吐いた。黄戸は口からハンカチをはき出して、そのままポケットにねじ込んだ。
「あの人、俺《おれ》の声を聞いたろうか」
「聞えなかったと思うわ」
浩子は、とうとう吹き出した。
「洗濯機を廻していたから。毀《こわ》れかかっているのよ。ほら、ひどい音がしているでしょう」
「それならよかった。もっとも嘘を言っていたわけじゃないから、聞かれたって、へっちゃらだがね」
黄戸は虚勢を張った。
「彼女、目でも悪いのかな。玄関で壁を撫でていたようだったが」
と、小網が言った。
「そんなことないわ」
浩子は手に持った小さな紙片をひらひらさせて答えた。
「目が悪い人だったら、こんな細かな字、読めやしないわ」
「何ですか、それは」
「ガス代の請求書。二毛さんは留守がちなので、今月から家《うち》で一緒に支払うように頼まれたの。銀行振込の手続がちょっと先になりそうなんです。ガス代は家の半分以下だわ。きっと外でお食事をすることが多いのね」
浩子は羨《うらや》ましそうな顔をした。
「女はすぐそれだ」
杉亭は陰気な声で言った。
「もっとも俺だってそうしたいがね。どうも同じ間取りの家に住んでいると、誰でも同じような生活がしたくなるようだ。気味の悪い話だが」
亜がのっそり立ち上り、玄関に歩いて行った。ドアを開けたり閉めたりする音が聞えてくる。
「どうしたんだろう」
杉亭が気にした。
「放っておいた方がいいよ。あいつ時々あんなことをする癖がある。でもね、あんな顔をしていて、案外頭の切れる男だ。腕っぷしも強いしね」
小網は、黄戸の価値判断の基準が、自分とはかなり違っていると思った。
「佐久子さんをお気に召したのかしら、目付きが変ってきているわよ」
浩子が小声で言った。
のっそりと部屋に戻って来た亜を見ると、白い目を出している。
「ほんとに変ってきている。玄関に何かあったかね?」
「いいや」
亜は夢でも見ているような声をした。
「何もありませんでした。でも奥さん、洗濯機の水が溢《あふ》れそうになっていますよ」
浩子はあわてて部屋を飛び出した。
「いつもああだ」
杉亭は憮然《ぶぜん》として言った。
「そうしちゃ、家が曲っているので、他の家より早く水が溢れるんだと理屈を並べるんだ」
「ところでだ、例のヒメオオクサシデムシの発生だが――」
黄戸がまた大きな声で喋りだした。
「いよいよお化け団地は、お化けの様相を呈してきましたよ、課長。もうつくづく住むのが嫌になりました」
あれから一と月経った、句会の帰りである。いつものバーで、小網敦は鳥尾杉亭の愚痴を聞いていた。
「ね、いい音が出ているでしょう」
マスターが目を細くしている。
「そうとも思えないぜ」
杉亭は渋い顔をしながら水割を飲んだ。
「それに、やけに針の音がするじゃないか」
「杉亭さんの耳はまるで駄目《だめ》なんだなあ。これは一九〇三年盤のシュゲットの〈トレミーより〉ですよ。この盤をこれだけの音にする人間は、他にゃいやしませんよ」
「ギムレット、お代り」
マスターは声のする方に歩いて行った。この日は先客があった。三角形の顔をした洋装の老婦人で、この曲も彼女のリクエストらしい。
「それで、お化け団地に何が起ったのだ?」
小網は声を低くして訊《き》いた。
「人殺し――です」
杉亭はもっと低い声で答えた。
「君の家の近くでかい?」
「うんと近くです」
「二毛敏胤でも殺されたか」
「いいえ、二毛敏胤も、佐久子夫人も生きてはいますがね。殺されたのは、二毛敏胤の向い側、四〇一号に住んでいた、底波友治《そこなみともじ》と言う男です。それにしても、僕の家の真上でなくて、まだ幸いでした。底波友治の真下の家――僕の向い側の三〇一号では、天井に血のしみが出たとか出ないとかで、大騒ぎをしています。佐久子夫人もとうとうおかしくなったらしく、お化け団地を引っ越すことに定《き》めたらしい」
「すると、刃物で殺《や》られたのか?」
「いや、締め殺された上に、頭を砕かれていました。四畳半の部屋が寝室になっています。もっとも、あの団地では、どこでも四畳半を寝室に使いますがね。そのダブルベッドの上で、こんな恰好になって――」
「見たな」
「見ちゃいました。ひどい臭いでしたよ。それでこの蒸し暑いというのに戸を閉め切って、一と月も誰も気が付かなかったんです。臭いのは、例の火葬場の煙のせいだと解釈していたんですね。でろでろに腐って、肌《はだ》の出ているところにはシデムシがべっとり食っ付いていて……うう、うう」
杉亭は、ぶるっと震えた。
「犯人は?」
「まだ挙がりません。屍体《したい》の見付かったのが二日前。殺されたのが一と月も前だというんですから、捜査もむずかしいでしょ。二日間というもの、刑事だか何だかが、一号棟に入りびたりで、やれ物音はしなかったかとか、怪しい人間を見なかったかとか、そりゃしつっこいもんです。家内などはすっかり怯《おび》えてしまって、買い物にも出るのを嫌がりましてね、この頃、おじやばかり食わされています」
「それは、気の毒だ」
「団地の連中は寄ると触わるとその話で持ちきりでね。滅多に外に出たこともない顔が見られるようになりましたよ。二毛敏胤にも出会いましたが、もっとたぬき面《づら》をした図太い男だと思っていたら、案外そうじゃなくって、陰気な悪党といった感じでした。それからへっへっ、佐久子さんとも親しく話ができるようになりましたしね」
「じゃあ、いいこともあったんだ」
「そういう点は良かったかもしれませんが、今度シデムシが増えだしたら、どうしましょう。あいつ、底波友治を食っちまったんだから」
「その底波友治と言うのは、どういう男だったんだ?」
底波友治、二十五、六、正確な年齢は不明。古袋にある小さな町工場に勤めていた。屍体《したい》の確認に来た工場主は、忙しいさなか、時間を潰《つぶ》させられたことが、ひどく不服そうだった。底波を雇い入れてから、まだ二た月にもならないと言う。履歴書の本籍を尋ねたが該当者《がいとうしや》は存在しなかった。団地の契約書には、妻の氏名も記載されていたが、誰も底波の妻を見た者がない。工場主の話では、時たま女の声の電話があったようだが、妻がいるとは言わなかった。部屋の中には、女が住んでいた形跡がない。
工場主の話では、あまり物を喋らぬ、目立たない男だったと言う。
「以前にもこういった質《たち》の男を使ったことがありますよ。大人《おとな》しい男でしたがね。あとで聞くと、実は指名手配されていた男でした。まさか、底波が殺されるとはねえ」
底波の方が殺したのだったら、話は判ると言ったそうだ。
交友関係もなし。自分のことを喋らない。話しても、嘘のことばかりである。あとで思い出すと、辻褄《つじつま》の合わぬことが多かった。底波が殺されたと思われる五月の初めの頃、底波は、一と月ばかり暇を下さいと工場主に言った。
「今の若い者は何を考えているか判りゃしない。勤め始めて一と月になるかならずで、こんなことを言い出す。私が叱《しか》ると、それ限《き》り来なくなった」
彼の書いた解雇通知の葉書が、郵便受に入れられたままになっているのが発見されている。
最初に、底波家がどうも変だと言いだしたのは、強養ミルクという牛乳屋だった。強養ミルクに、五月の初め頃、底波家から、当分留守になるから、牛乳を配達しないでおいてくれと言う電話があった。新聞販売所にも同じ頃電話があり、新聞の配達を一時中止するようにと申し入れてきた。強養ミルクの配達人は商売熱心な男で、何日間中止するのですかと、食い下って訊いた。底波は、一と月ばかりと答えたそうである。きっちり一と月後、強養ミルクは底波の家の様子を窺《うかが》いだした。
「何だか、ピンとくるものがありましたね」
強養ミルクの配達人は、方々で喋るのである。
「管理人のところに行って話すと、家賃も滞っているようで、不審に思いましてね。合鍵《あいかぎ》でドアを開けてみたんです」
このあと、管理人がそんな鍵を持っていて、しかも無断で他人の家に出入りするのは、もっての外だと、大分団地の住民が騒いだ。
屍体は普段着のままだった。少しばかり抵抗した形跡が残っていた。
部屋は、独り者らしい割にはきちんと整理されていた。洋服|箪笥《だんす》、テレビ、ステレオ、冷蔵庫、洗濯機、それに少しの衣類などである。ただそれらの物は、いずれも高級品であった。
「どうも、底波そのものが、偽名であるような気がしますよ」
と、杉亭が言った。
「彼は、自分の痕跡《こんせき》を隠そう隠そうとしているふうに見えます。きっと、過去に罪科があり、逃亡している男ですね。銀行強盗かなあ。きっと。ある日、仲間割れになりましてね。彼が殺されて、共犯者が逃げてゆく――」
「黄戸氏が喜びそうじゃないか」
「それです。あいつ、又来ることになっています。亜さんがもっとシデムシを撮りたいというんだそうですが、嘘ですよ。黄戸の腹の中には、もう大きな見出しが出来ているに違いありません。〈お化け団地の惨殺屍体〉けけけ、課長も家へいらっしゃいよ」
「そりゃねえ黄戸、止《よ》した方がいいぜ。悪いことは言わない」
杉亭はしきりに止めるのである。しかし黄戸静夫は、平気な顔で、ポケットから鍵の束をじゃらじゃら出して、一つ一つ杉亭のドアの鍵と見比べている。
「なあに、へっちゃらだよ。何も現場を荒そうというんじゃない。ちょっと一枚写真を写させてもらうだけさ。なあ、亜」
小網が見ていると、亜の顔色が青くなっている。
「僕はそんなつもりで来たんじゃありませんよ。ただもう一度、ヒメオオクサシデムシを――」
「クサムシなんざどうでもいいのさ。責任は俺《おれ》が持つ。へっちゃらさ」
「ちゃんと警察に届けて、許可を得てからにしたらどうかね」
小網は口だけでそう言った。本当は、黄戸が無断で四〇一号に侵入しようとするのを、わくわくしながら待っていた。
「俺は前科があるわけじゃないが、警察という奴、鬼門でね。一度警察の悪口を書かしてもらってからこっち、向うでも俺を目の仇《かたき》にするんだ」
黄戸は時計を見た。
「七時ちょっと過ぎだ。時刻もいいねえ。上の二毛御夫妻は在宅かね」
「留守よ。いつも二人が帰るのは、八時過ぎるわ」
浩子は目を輝かせて言う。
「まあ、いたところでへっちゃらだ。大きな音を出すわけじゃあない」
「どうしても行くと言うのなら、これ以上止めないがね。あんまり無茶はしないように」
杉亭がおろおろして言った。
「判っているよ。五分で済むことだ。君も一緒に来ないか」
「無論行きますよ。俺が行かないと、どんなことをするか判らないから」
「小網さんは、どうします」
小網は返事をする代りに、立ち上った。
「奥さんも行ってみますか」
「お前は止せよ」
杉亭は、あわてて手を振った。
「いやよ、自分だけいつも楽しんでさ」
小網は、前日杉亭が、家内はすっかり怯えていますと言ったのは、例の愚痴だったということが判った。
五人はそろりと杉亭の玄関を出た。黄戸が元気よく階段を駆《か》け上る。亜は下手な手真似《てまね》で「お先にどうぞ」と三人を先に立たせた。この男、自分は最後について来る気らしい。
小網が四階に着くと、黄戸はもう四〇一号のドアに取り付いて、手にした鍵の束から、一つ一つ鍵穴に差し込んでいる。なかなか旨く合わない。
「ねえ、大丈夫?」
と、浩子が覗《のぞ》き込む。
「しいっ」
と、杉亭。
「へっちゃらさ。家具を運び出しても気が付かれやしないよ」
だが、五分もすると、黄戸の額が汗で光ってきた。
「もう止《よ》そうよ」
亜の声である。亜は階段から半分首を出して覗いている。
しばらくは、錠の音が続いた。最後にかちりと音がして、ドアが開いた。
「さあ困った」
黄戸が立ち上り、大きな目をぎょろりとさせた。
「開くことは開いたが、鍵が抜けなくなっちゃった。無理をしたのが悪かった」
また屈み込んで、しきりに音を立てていたが、
「なあに、鍵なんぞ抜けなくったって、ドアは開いたんだから、へっちゃらだ。さあ、中に入ったり」
鍵穴の鍵をそのままにして、黄戸は真っ暗な部屋にすべり込んだ。
かちりと音がして玄関が明るくなった。黄戸が電灯のスイッチを入れたらしい。
「おい、大丈夫か?」
杉亭が息を飲んだ。
「へっちゃらだ。電気でもつけなけりゃあ、俺だって恐しくって、いられるものか。おい、亜あ。いるかあ? 逃げるんじゃないぞ」
四人は固まって玄関に入った。浩子が先頭だった。黄戸はもうダイニングキッチンに行って、電気をつけていた。
「玄関は閉めておいた方がよさそうだ。玄関の電気も消してくれ」
黄戸が指図した。
玄関が閉ると同時に、金属性の鋭い音がした。黄戸は飛び上った。
「どうした?」
「ドアを閉めたら、黄戸さんの鍵が落っこちたんです」
亜の声であった。
嫌な臭いがする。かびと腐った食物の混ったような臭いだ。ダイニングキッチンは、杉亭のところと同じ広さだが、妙にがらんとしている。
「あら、全自動洗濯機だわ。素敵ね!」
「欲しがるんじゃないぞ」
杉亭が言った。
「誰も、買ってくれと言ってやしないわ。でも、男の人の買物って、やっぱり駄目ね。この場所じゃ、排水口が右側にある洗濯機の方が、ホースを遠廻りしなくてもよかったのに」
「余計なことを喋るなよ」
黄戸は四畳半の襖《ふすま》を開けた。五人が中を覗く。ダブルベッドがすぐ目に付く。
「まあ、このダブルベッド素敵ね!」
「欲しがるんじゃないぞ」
また杉亭が言った。
「奥さん、シーツの上を見て御覧。ききき、血のしみですよ。おい亜、ここを頼む」
亜は、へっぴり腰をして、それでも、ぱっぱっと何回かフラッシュをたいた。
「これでおしまいさ。なあ杉亭、何でもないだろう。あとは帰るだけさ」
一番先に、現場を飛び出したのは亜である。ところが、その亜はキッチンに立つと動かなくなった。そうして何を思ったのか、洗濯機の蓋《ふた》を開けた。
「おい、触らない方がいいぜ」
杉亭があわてた。
「何かあるのか?」
黄戸が覗き込む、
「洗濯物が残っています」
亜は、一とかたまりの布を引き出した。
「そんな物、どうだっていいじゃないか。戻しておきなよ」
と杉亭が言う。
亜が布をちょっと振ると、ちゃらんと音がして、銀色の小さな物が、床に転げ落ちた。
「鍵だ!」
黄戸はそれを拾い上げた。
「何かのポケットに入っていたスペアキーだ。うは、天の助けだ」
「男って駄目ねえ。ポケットに鍵を入れたまま、洗濯機を廻したのねえ」
亜の姿が見えなくなった。居間の障子が開いている。杉亭があわてて後を追った。
部屋の窓にはカーテンが引いてある。窓は南側であり、窓の外は杉亭のところと同じように、ベランダになっているのだろう。部屋の東側の壁に、大きなステレオが目に付いた。
「まあ素敵なステレオだわ」
「欲しがるんじゃないぞ」
杉亭がわめいた。
亜はステレオの前に立って、首を傾《かし》げている。
「おい、もう帰るよ。いつまでもこんなところにいるのは嫌だよ」
杉亭は、いらいらした声になった。
亜は両手を握りしめている。よく見ると、震えてもいる。
「おい、そのステレオがどうかしたのか」
黄戸は亜の傍に寄った。他の四人も、ステレオの前に並んだ。
「ま、曲っています」
やっと、亜が声を出した。
「曲っている? 何だって曲っているんだ」
「いや、故意に曲げられているといった方がいいでしょう。――ほれ」
亜はステレオの上に煙草を置いた。煙草は、ころころと、窓の方に転がっていった。
「あたり前さ」
黄戸は、粗雑に言った。
「この建物が南に傾いているんだから」
「いや、それにしても、このステレオは曲り過ぎています」
「だが、それが何だって言うんだ」
「ちょっと手を貸して下さい」
「どうするんだ」
「持ち上げてみます」
「いい加減にしたらどうだ」
杉亭がそう言う間に、亜はステレオの左側を、うんと言って持ち上げた。
「小網さん、ステレオの足に嵌《は》められている、ゴムのキャップを外してみて下さい」
小網は手早く左側の足に付いているキャップを抜いて手に取った。
「キャップの中に何か詰っているでしょう」
亜はステレオから手を放した。
小網はキャップに指を突っ込んで、白いものを引き出した。
「何だ、そりゃ」
「紙が丸めて詰め込まれている」
浩子は興奮した。
「そこに、犯人の名前が書いてあるんだわ」
小網は注意深く紙を拡げた。
「強養ミルクの領収書だ」
「裏は?」
「何も書かれてはいませんよ」
小網はその紙を浩子に渡した。
「本当、ただの領収書だわ」
浩子は紙を透かして見た。
「あぶり出しかしら」
「いや、これには、犯人の名前など書かれてはいないのです」
亜は浩子の空想を押えるように手を振って、
「この紙はステレオを曲げるために、詰め込まれたものです」
「ステレオを曲げるって?」
「このステレオを裏向にして置きなおすと――つまりステレオの正面を壁に向けて置くようにすると、このステレオは地面とちょうど水平になるように、です」
杉亭は浩子から紙を引ったくると、元のようにキャップに詰め込み、
「おい、いつまで寝言みたいなことを言ってるんだ。そんな話は帰ってからにしたらどうだ」
「そうだ」
黄戸も落着かなくなり、
「とに角、写真を撮ったんだから、早く帰ろうよ」
先立ちでステレオの足にキャップを戻し、電気を消した。杉亭が先になって、玄関に集まる。
「忘れ物はないだろうなあ?」
杉亭はそう言うと、玄関に向いて、左手を伸して壁を撫でるようなしぐさをした。
かちりと音がして、玄関が明るくなった。亜がスイッチを押したのだ。杉亭は、呆然《ぼうぜん》として、化石のように動かなくなってしまった。
「――こりゃなぜなんだ? 俺は今、一と月前家に来た、佐久子夫人と同じことをした。それはどういう意味なんだ?」
「何だい。皆何だってわけのわからんことを言い始めたんだ。さあ、出よう」
黄戸は四人を四〇一号から追い出すと、電気を消して、玄関のドアを閉めた。ポケットから鍵を取り出して、錠に差し込もうとする――
「黄戸さん、その鍵は洗濯機の中にあった鍵ですか」
と亜が言った。
「そうだ、それがどうした」
「その鍵では、きっと合わないと思ったからです」
「馬鹿な。底波の鍵が、どうして底波のドアに合わないんだ」
黄戸は強情にも鍵穴にねじ込もうとするが、
「だめだ。畜生、こりゃどういうことだ?」
「この鍵は、恐らくは、四〇二号のものじゃないかと――」
黄戸は目をむき出し、いきなり後ろ向きになって、四〇二号のドアに鍵を差し込もうとする。
「いけないわ黄戸さん。他人の住んでいる家を開けるなんて」
「いや奥さん。ちょっと試してみるだけ」
言い終らぬうち、かちりと金属の音がした。
「開いた!」
皆、手品でも見ているような顔になった。
その時、階段を登って来る足音を聞いた。
「いけない、早く閉めろ」
黄戸は、すっかり逆上している。
「指が、動かなくなった!」
踊り場に、二つの人影が現れた。四つの目が、ぎらりと光った。
「お前たち、何だ?」
男が叫んだ。
「こ、今晩は」
と杉亭がおじぎをする。黄戸が、やっと錠を掛け終り、いま鍵穴から鍵を抜き取ったところだ。杉亭が身体で黄戸の姿を隠していたのだが、黄戸は手が震えて、鍵を床に落してしまった。その音が、五人の耳に、半鐘のように響き渡った。
「私の家に入ったんだわ!」
と女が叫んだ。
「飛んでもない。そんなことするもんですか。二毛さん」
だが、杉亭の嘘は見え透いている。言い訳なら、もっと旨くしそうなものだ。
「そうです。あなたたちの家には入りゃしませんよ」
亜が前に進むと、凜《りん》とした声で言った。
「この四〇二号はあなたたちの家じゃない。そうでしょう。底波友治さん」
雨の夜が静かに更けるのに、小網の興奮は治まらなかった。とりわけて、亜の衝撃はひどかったらしい。瘧《おこり》にでも罹《かか》ったように、全身が震えていたのである。浩子が出してくれたウイスキーの三杯目で、やっと震えだけは治まった。
もっとも、あのあと亜の奮闘がすさまじかった。逃げ出そうとする二人に組み掛って次々に投げ飛ばしたのである。小網も嫌いな方ではないので、わけもわからず格闘に参加した。浩子がどうしてもと言い張るので、亜の当て身で気絶している犯人を中心に、記念写真を撮った。亜は写真を撮り終えると我に返り、コンクリートの上に長々と寝てしまった。小網と黄戸とで、三階まで亜を運び込むのに骨を折った。警察官が来て、しどろもどろの亜から聞き取った犯人の行動を、順序よく説明すると次のようになる。
「底波友治の妻佐久子(恐らく内妻であろうと思われます)は、二毛茂平氏が死んだあと、二毛未亡人の家事をすべて切り盛りしていました。一方、二毛敏胤氏は、勘当同然に家を飛び出していたのですが、父親の茂平が死ぬと、未亡人のもとに、ちょいちょい姿を見せるようになりました。無論、恐《こわ》い親父《おやじ》が死んだので、母親から小遣いをせびるため、もう一つは、ゆくゆく全遺産を自分のものにしようという下心からです。当然佐久子と敏胤氏は知り合うようになります。二毛未亡人はすっかり耄碌《もうろく》しているので、佐久子の才覚で敏胤氏は金など得ていたものでしょう。佐久子はこの男の出現を心よく思っていなかったに違いありません。
「二人が同じ団地の、同じ階に住んでいたのは、偶然ではないような気がします。多分、佐久子がこの団地に住むことを勧めたものでしょう。この団地は転宅がはげしいようですし、昔の二毛茂平氏の関係者に手を廻せば、向い合わせの空室を確保することも容易だったと思います。その頃からすでに二毛敏胤氏を殺す気持があったのかもしれません。その動機というのはこうです。敏胤氏を殺し、自分の亭主底波友治を敏胤にさせてしまい、二毛家の遺産を頂戴《ちようだい》してしまおうと言うのです。佐久子は二毛家の遺産が、殺人を犯すにも足る額であることと、敏胤氏が早くから家を出たため、二毛家の関係者の中に、彼の顔を見知っている者がないことを知っていたからです。
「三月ばかり前から、計画は着実に実行されました。自分たちは底波という偽名(本名は知りません。あなた方がお調べになれば、すぐ判るでしょう)で四〇一号に入居する。底波友治は今までの勤めを止《や》め、新しい会社に入社します。架空の人物を作るためですから、本当の素姓などは絶対に喋りません。その他、古い付き合いには嘘の移転通知を出すなどの、自分を抹殺《まつさつ》する準備を整えます。
「佐久子は佐久子の方で敏胤の癖などを観察したり、友人関係を調べ上げます。友達といっても皆やくざで敏胤がいなくなっても気にも止めない人間ばかり。一番危険なのは母親ですが、これも耄碌して、佐久子の口一つでどうにでもなる。そして、これで大丈夫となったとき、自分は二毛の妻に変身してしまいます。変身といっても、この場合、整形手術をしたり、変相などしなくてもよいのでした。団地の住人にちょっと声を掛けたり、ガスの支払いをお願いすることなどで、自分が二毛の妻であることを、それとなく説明することができます。佐久子が住いを不便な四階にしたのも理由があります。三階から下の人たちは、佐久子が四階から降りて来たり、四階に登ったりはするが、実際に四〇二号に出入りするのを見た人は、誰もありませんでした」
小網は団地生活の奇妙さに、びっくりした。
「そして、犯行の直前、佐久子は牛乳や新聞の配達を断わります。更に佐久子は多くのヒメオオクサシデムシを採集したと思われます。犯行は四〇二号の敏胤氏のベッドの上で行われました。佐久子は初め淫乱《いんらん》な人妻の役を演じ、最後は夫と一緒に凶暴な殺人者に変じたのでしょう。そして、恐らくは夜、四〇二号の屍体と、全部の家具を四〇一号に運び込みます。更に、四〇一号の家具を四〇二号に移し、自分たちも四〇二号の人になったわけです。
「まさか、自分たちが殺した人間の、血だらけのベッドを使う程の度胸はなかった。また、敏胤の屍体だけを四〇一号に運んだのでは、妻帯者の家具と一人者の家具では様子が違います。細かく捜査されれば、当然指紋などから、家と屍体とが辻褄《つじつま》の合わないことが証明されてしまうでしょう。
「無論、二毛敏胤を証明するための印鑑、あらゆる証書、免許証などは手に入れてあります。四〇一号のドアを閉めて、あとはじっと待つのです。屍体が腐乱し、シデムシが食い、人相など判らなくなるのを待つのです。強養ミルクの配達人に屍体を発見されるのは予定外のことでした。彼らとしては、もう少し待ってから転居したかったに違いありません。しかし、そのために転居する口実が出来ました。これで僕の話は、皆終りです」
「おい、亜。もっと飲めよ」
黄戸は亜のコップに、どんどん杉亭のウイスキーを注いだ。黄戸の下心はよく判る。亜は警察官に、肝心なことを何一つ喋っていない。それを訊きただすため、自白剤代りに、ウイスキーを無闇《むやみ》に勧めているのだ。
「底波友治と、佐久子は大きな博打《ばくち》を打ったんだなあ。そしてこの賭《か》けは、警察の捜査をはぐらかし、完全に成功したように見えた。だがなあ、もし、彼らの犯罪が発覚するとすれば、遺産分配の段階で尻尾《しつぽ》を現すというのが普通だよ。底波夫婦の思ってもみなかったような、二毛敏胤をよく知っている人物が現れて、底波の陰謀を見破ってしまう。底波はそれで敗れるか、またはその人間も消してしまい、新たな証拠でも残して捕まってしまう。というのなら、話としても筋が通っている。ところが、君は犯罪の起る一と月も前から、底波夫婦に目を付けていたと思われる節があった。君が実際に佐久子と会った時間は、一分となかったはずだ。まして、一と言も言葉を交したわけじゃない。俺も一と月前のことを思い出しているが、どう考えても不可解だ。まるで君が読心術でも行ったとしか思えない。俺はそのところが訊きたいんだ」
亜も相当ウイスキーを飲んでいる。とろりとした目をして、
「話は警察官にした通りですよ。あれでいいでしょ。その他は、まるで詰まらない。とても週刊誌の種にはなりそうもないです」
「こいつ、酔っぱらって、話すのが無精《ぶしよう》になったな。でも、俺はどうしても聞きたいんだ」
黄戸は、どんと机を叩《たた》いた。亜はその見幕《けんまく》にびっくりし、真顔になると、ぼそぼそ話しだした。
「いくらなんでも、一と月前この部屋に、底波佐久子が飛び込んで来た、あの何秒かで、佐久子の犯罪計画がすっかり判ってしまったなんてことはあり得ません。ただ、初めて佐久子を見たとき、この人は大変な嘘を吐《つ》いているなと思っただけです。でも、彼女が、何のためにそんな嘘を吐いているのか、それが不思議だったのです。それから一と月というもの、あの光景を夢にまで見るようになって、すっかり閉口していたのです。ところが、今日、四〇一号でステレオを見た瞬間、何故《なぜ》、佐久子が嘘を吐いていたか、その謎《なぞ》がすっかり解けたのです」
小網は目を閉じた。あの日の佐久子の動作が全《すべ》て思い出せる。だが――
「佐久子が嘘を吐いた? どんな嘘を吐いたのだ?」
「――思い出して下さい。僕が初めて彼女に会ったのは、一と月前のこの部屋でした。佐久子は突然この部屋に飛び込んで来た。玄関の障子と間違えて、この障子を開けたのです。ただこれだけなら、僕はうっかり屋の四階の奥さんとして、その場で彼女のことは忘れていたに違いありません。ところが、彼女は、続けざまにあと二つもの間違いを起したのです。第一は、玄関のスイッチを、右側に探しました。だが、この家の玄関のスイッチは、壁の左側についていたのです。第二は、ドアのノブを今度は左側に探しました。だが、この家の玄関のドアは、右側に付いているのです。そのあと、奥さんに聞くと、彼女は四〇二号に住んでいる二毛佐久子だと言う。名前はとも角、彼女は、四〇二号ではなく、四〇一号に住んでいなければならなかったのです」
「どうして? 佐久子が部屋の番号札を胸に下げていたとでもいうのかね」
「胸の奥にその番号札を下げていたのです。彼女の三つの間違いは、四〇二号に住んでいる人が絶対にしない間違いだからです。こういう間違いをする人は、流し台の左側の障子を開けると玄関になっている家、玄関の電気のスイッチが右側にある家、ドアのノブが左側に付いている家に住んでいる人でなければなりません」
「家とはあべこべの間取りだ」
と杉亭が言った。
「でも、ドアのノブまであべこべだなんて、気味が悪いわ。一体そんな家、どこにあるの?」
と浩子が言った。
「この団地の、ちょうど半分の家庭が、そんな間取りの家に住んでいるのです」
亜は茫洋《ぼうよう》とした顔で言った。
「つまり、四〇一、三〇一、二〇一号といった、奇数号の家と、四〇二、三〇二などの、偶数号の家では、家の間取りが、鏡像関係にあるのです」
「鏡像関係?」
「トポロジイの科学では、互いに鏡影対称をなしているなどと言います。例えば、この家の玄関の前に家全体が映るような大きな鏡を立てたとする。鏡の中に写った家が三〇一号の間取りそのままなのですよ、ノブ一つまでがね。反対に三〇一号の家から見ると、杉亭さん一家は、鏡の中で生活しているように見えます。お化け団地に限らず、おおよその団地の、半分の所帯と他の半分の所帯は、いつでも鏡像の関係にあるのです」
小網はふと頬《ほお》をつねった。今、団地の一と部屋に坐《すわ》っている自分が、お伽話《とぎばなし》の中の世界で生活しているような錯覚におち、自分の存在が、あやふやなものに思えてきたからである。
「一本の階段を挟んで、左右の家は怖いくらいに逆さまです。奇数号の家の表札はドアの右側にありますが、偶数号の家では左側です。玄関のノブも、奇数号の家では右側についていますが、偶数号の家では左側にあります。玄関に入ると、下駄箱《げたばこ》、電気のスイッチ、傘立て、風呂場《ふろば》の入口……全部がまるであべこべの位置になっています。奇数号の家の生活に馴《な》れている人が、突然、偶数号の部屋に飛び込んだら、どうなりますか。当然、あの時の佐久子のように、いろいろな間違いを、つぎつぎに起すでしょう」
「現に僕が、今晩四〇一号で、玄関のスイッチを反対側の壁に探したのだ」
杉亭は唸《うな》り声をあげた。
「というわけで、佐久子が四〇一号に住んでいるべきなのに、どうして二毛敏胤の妻なのか、その理由が全く判りませんでした。ところが今晩、四〇一号で恐ろしいものを見付けたのです。曲った四〇一号の部屋の中に、もっと曲げられたステレオがあったのです。ステレオが曲っていたのは左側の足に嵌《は》められている、ゴムのキャップの中に、紙が詰め込まれていたためです。本当なら、右側の足を高くすれば、ステレオは水平になるはずなのに、この部屋に住んでいる人は、わざわざ左側の足を高くしたのですよ。僕は曲った部屋の中で、ステレオをもっと曲げようとした人の、奇怪な行動が気になりました。そして、ふとステレオの正面が壁に向くように置き直せば、ステレオは地面と水平になるだろうと考えました。奇妙な考えでした。スピーカーが壁に向き合うんですからね。確かそのとき杉亭さんも、いつまで寝言みたいなことを言っているんだと僕を叱《しか》りました。そのとたん、ステレオが曲げられていた理由が判ったのです。つまりあのステレオは、四〇一号の部屋でなく、偶数号の部屋に置けば、地面と水平になるのですよ。現に、この部屋にあるステレオを水平にしようと思ったら、四〇一号にあった通り、左側の足を、ちょっと高くすればいいのです」
浩子は恐ろしそうな顔をして、自分のステレオを見詰めた。
「また、四〇一号に置いてあった洗濯機も、偶数号の台所に移せば、排水口のホースと、流し口がぴったりと合うのです。四〇一号に住んでいるべき佐久子が四〇二号にいる。四〇二に置けばちょうどよい家具類が四〇一にある。これらのことから、四〇一の人間と家具が、そっくり四〇二に移り、四〇二に住んでいた人間と家具が、すっかり四〇一号に移ったのではないかという考えが泛《うか》びました。それについて、思い当ることがあります。二人住んでいるはずの二毛家のガス代は、普通の二人の所帯の半分です」
酔っ払った亜の顔は、だらしのないものになっていた。
「僕の考えは、最後になって証明されました。四〇一号の洗濯機から出て来た鍵は、四〇一号のドアには使えず、四〇二号のドアとぴったり合ったからです。あとは自然に、四〇一号で殺されたのは、実は四〇二号に住んでいた二毛氏であり、いま四〇二号に住んでいるのは、四〇一号に住んでいた底波友治と佐久子であるという結論が引き出されたわけです」
翌朝、亜は鏡の前に、長い時間立っていた。出勤時間のせまっている小網は、いらいらして、亜がネクタイをしめ終るのを待っている。
「むずかしいものですね」
亜はネクタイをぐにゃぐにゃにして言った。
「?――」
「鏡の中で、自分のネクタイの結び目を、鏡影対称に作るのは、本当にむずかしい」
と、亜は溜《た》め息を吐《つ》いた。
第四話 掌上の黄金仮面
「いかがです、気狂《きちが》いじみた光景でしょう」
連れの男は、自慢でもするような口ぶりでそう言うと、藻湖《もこ》刑事の顔をうかがった。藻湖刑事は、陽焼《ひや》けした人の良さそうな丸い顔を、男の指差す方に向けて目を大きくした。「ほう」と低く言い、すぐに見世物小屋で奇妙な品物に見入るような顔になった。
「なるほど、噂《うわさ》には聞いていましたが、実際にこうして見ると、なかなか迫力がありますな」
連れの男は横に長い唇を笑ってみせた。サングラスをかけて長髪、都会で流行している黒いコートに片手を突っ込み、かなりの長身である。
「近くに寄って見ると、もっと凄《すご》いですよ」
秋の陽が落ちようとしている。落ち葉が道の上に長い影をつくった。秋の透きとおるような物淋《ものさび》しさが、この男の気取った態度と、変に似合っていた。
中央通りは西にまっすぐに延び、橙色《だいだいいろ》の夕日を照り返している。市になったばかりの羽並《はなみ》市は、道路こそ立派だが、両側の建物はどれも背が低い。南側は昔のままの家並で、古い街道の宿場の黒く重い家がかなり残っている。反対側は道路の拡張のため、古い家は取り毀《こわ》され、鮮かな色の新建材が、ぴかぴかと夕日を反射している。そのすぐ裏は田圃《たんぼ》で、刈り取りの済んだ田が、際限なく続いているのだ。
連れの男の言う気狂いじみた光景は、その道路の尽きるところに向い合っている。それは、秋空の下に、突兀《とつこつ》として聳《そび》えている黒い二つの巨大な建物であった。
北側にあるのは、薄物をまとった、女性の坐像《ざぞう》である。像はややうつむきかげん、右手を上に向けて、顎《あご》の下にあげている。
「高さ三十八・五メートル、幅は二十二・九六メートルあります。奈良《なら》の大仏さんの、倍以上の大きさです――」
連れの男は歩きながら説明した。
この像だけなら、巨大さが目を引いても、何も珍奇ではないのである。ところが、像の真ん前に、長方形の四角な箱が置かれているのだ。
「ほら、こうして横から見ると、女が行灯《あんどん》を覗《のぞ》き込んでいるように見えるでしょう。それに、あの腕の形が、まるで油でも舐《な》めているような形に見えるじゃありませんか。満月の夜、あの像が舌をぺろりと出して、にたりと笑うという伝説がすでに広まっています」
「行灯の油を舐める女――言われてみると、ぴったりそのままですな」
「言い出したのは、子供たちですよ。子供は行灯など見たこともないが、お化けの知識はむやみにあるもんですね」
大地の真ん中に、女が行灯の油を舐めている像を建てる人間はいない。二つの建物は、別々の意図の下に建てられたのである。あの像は、実は、弥勒菩薩像《みろくぼさつぞう》なのであり、四角な建物は普通のホテルに過ぎなかった。その弥勒菩薩が、なぜ行灯の油を舐める女になってしまったのか。
話は中枢新幹線が、田圃の真ん中に羽並駅を作ったことが、そもそもの起りであると、連れの男は説明する。
「当時、ずいぶん問題にされましたよ。中枢新幹線はいくつもの大きな市を素通りして、田圃の真ん中に止まったんですから。イナゴ新幹線などと言われてね。さらに不思議なのは、駅を中心にした土地がすでに向井《むかい》と千賀井《ちがい》の所有になっていたことです」
向井と千賀井は、共に建設、不動産、建材などのグループを持つ財閥である。すわ黒い霧と、野党がおっ取り刀になるのを、同じ程度の勢力を持つ向井と千賀井は共に一笑に付した。あんな土地に生じた利益など、わが社の業績からすれば鼻糞《はなくそ》にも足りませぬと言うのだ。
「まして中枢新幹線の駅の決定は、距離数分割方式によってなされたのではありませぬか」
確かにこの新幹線の新駅は、利害のごたごたに業《ごう》を煮やした実力者が、新幹線の全長に駅数を割った距離で、新駅を設立するという、野蛮ではあるが極めて公平な、距離数分割方式によって、決定したのである。このため一つの新駅などは、現に川の真上に建設されていた。
だが問題は解決されたとは言えない。駅数が向井と千賀井に洩《も》れていたのではないかという疑いも起った。だがこの疑惑もいつしか立ち消えになり、新市の槌音《つちおと》が羽並に響き始めたのである。
向井の土地に高い櫓《やぐら》が組み立てられた。ビルが建つものとばかり思っていた市民は、建物の形が定《き》まりかけたのを見て、びっくりした。それは巨大な鉄筋コンクリートの菩薩像であった。
弥勒菩薩は、釈迦《しやか》の説法を受けなかった衆生を救うために、未来に出現するとされている菩薩である。向井の会長は世界平安願望成就の祈願をこめて、この像を建立したと説明したが、本当の動機は少し違うところにあった。
菩薩像の製作者は、芸術院会員の仏師であったが、ある日、向井から一枚の古い写真を手渡された。それは数年前に死んだ、向井の妻の若い日の姿であった。
「この容顔を像に写して貰《もら》いたい」
と仏師は言い渡された。だが芸術家は、広隆寺《こうりゆうじ》の弥勒菩薩|半跏思惟像《はんかしいぞう》の、隠れたる狂信者であった。ややもすると、像の表情は広隆寺の弥勒菩薩に傾きがちであった。向井は執拗《しつよう》にだめを入れ続けた。ある日、芸術家は長いこと天を仰いでいたが、何かを叫ぶと、ごく短期間のうちに原像を仕上げ、外国に旅立ってしまった。
完成された像は広隆寺の弥勒菩薩より顴骨《けんこつ》が張り、少し出っ歯であった。だが向井は大いに満足した。羽並駅の前に像が完成すると大勢の僧侶《そうりよ》を集め、入魂《にゆうこん》式を盛大に開いた。菩薩は桜弥勒菩薩と命名された。桜とは無論、亡き妻の名であった。
新幹線からの眺《なが》めは、人目を奪うのに充分であった。乗客は窓越しに菩薩像を見ると羽並駅だと知り、羽並市に強い印象を残すようになった。だがそれは一年と続かなかった。
千賀井が菩薩像の真ん前の、自分の土地に杭《くい》を打ち込み、高い櫓が組み立てられると、もう駅からは菩薩像は見えなくなってしまった。誰《だれ》の目からも、千賀井が意識的に菩薩の目隠しを建てたと解釈されるのは当然である。千賀井の建築物は、今度は菩薩でも仁王でもなかった。ただの十五階建てのホテルに過ぎなかった。
「千賀井の広い土地、いくらでもホテルなど建てる場所には不自由しないにもかかわらず、選《え》りに選って、桜弥勒の鼻っ先に建てて、菩薩像を、行灯の油を舐める女に仕立てなくともよさそうなものですがね、千賀井にはそうしないではいられぬわけがありました」
連れの男は皮肉そうに笑った。
「ライバルの、意地ですか?」
藻湖刑事はサングラスの奥を覗《のぞ》くように、短い首を伸ばした。
「それもあります。ですが、桜という女性は、千賀井の妻になる女であった。それを横合いから、向井が奪ったのだと、千賀井は今でもそう思っているのです」
「それは本当の話なんですか?」
「噂ですがね。半分は当っているでしょう。もっとも、その前後に向井の事業に千賀井が水を差したとかで、その報復のために千賀井の女を奪ったとも言われています」
この二つの家の競争意識は、代々飽きることなく続き、例をあげればきりがない。そもそもの起りは、天明《てんめい》二年の正月、向井の先祖が、同じ材木問屋であった千賀井の先祖に、吉原の角海老《かどえび》で〈このたわけ〉と言ったことに、端を発していた。
藻湖刑事とその連れは、やがて菩薩像とホテルの間にたどり着いた。二つの建物を見上げると、連れの男が言ったとおり、この光景の異常さは、確かに気狂いじみていた。
片方には天を衝《つ》くような弥勒菩薩の坐像が、見る者におおいかぶさるような威圧を与える。そして像の正面には、ホテルの真っ白い壁が、夕日を受け、幾何学的なガラスの窓が、オプティカルアートを見るときのようなめまいを感じさせる。まるで自分がいきなり小さくされて、玩具箱《おもちやばこ》の中に転がされたような気がした。
ホテルの両側は商店街で、退社時刻も重なったのだろう。駅前らしい雑踏を帯びていた。
「藻湖さん、宿はどこです?」
連れの男がふと尋ねた。
「伊勢屋《いせや》ですが」
「そう、ひと晩奮発して、この千賀井ホテルに泊りなさいよ。妙な気分です。窓からこの菩薩が部屋を覗きます。部屋は高いほどよろしい」
「気味が悪くはありませんか?」
「新婚さんなどはね」
連れの男は、くすりと笑った。
「でも、今じゃ菩薩さんは、可哀相《かわいそう》に漫画になっちゃった。菩薩ひとつのときは、神々しさもありましたが、対照というのは、全く妙な作用をするものですね。肥った大きな女と、痩《や》せた小さな男、別々に見ていれば何ということはありませんが、一緒に並ぶと、それだけで恰好《かつこう》の漫才がひと組出来上る」
「ホテルの方は繁昌《はんじよう》しているのですか?」
「私の見るところ、まず赤字でしょうね。窓からあの菩薩に覗かれたら、気味の悪いことは確かです。菩薩の方もあのホテルのために、有難さなど消し飛んでしまった。もっとも、こんなことで驚く向井じゃありません。あの菩薩をいっそのこと遊園地にしてしまおうという企画もあります」
「遊園地に?」
「そう、人間は高い所が好きですからね。今でもそうした設備は少しあります。特別の信者のために、胎内巡りができるようになっています。まあ、今のところコンクリートの階段を登るだけですがね。でも階段で頭の上にも出られます。宝冠の上が展望台になっていますよ。それをもっと大掛かりにしてしまおうというわけですよ。台座をくり抜いて遊戯場や食堂を作る、展望台までエレベーターを通す……」
「上野《うえの》の西郷《さいごう》さんの銅像もそうなりましたよ。今じゃ食堂の上の西郷さんになってしまった」
「でもそうなるまでには、何十年もかかっているじゃありませんか。ところがこの菩薩は一年足らずだからすさまじい。そのうち宝冠の上で、極彩色の観覧車がぐるぐる廻《まわ》り始めるでしょう。まず、珍奇な話題になるには間違いありませんがね」
二人はホテルの前に立ち、菩薩に背を向けて、ホテルの廻転《かいてん》ドアを押そうとした。そのとき、藻湖刑事の顔に、何かがべたりと貼《は》り付いたのである。
「何だ、こりゃ?」
あわてて振り払ったものを、連れの男が拾いあげた。
「紙幣だ!」
それは一万円の紙幣の形をしていた。気が付くと、その他にも、二、三枚の紙幣がホテルの前に舞っている。
「あ!」
藻湖刑事は目をこすり、思わず声を出した。
「へえ?」
彼は変な声を耳にしたのを覚えている。それは、紙幣が散っているのに気づいた、驚きの声というより、間抜けな返事に近かった。声の方を見ると、一人の男が口を開けて、ぽかんと空を見ていた。藻湖刑事は歩道を振り返った。同じような紙が、あそこにここに舞い降りている。
歩道の流れが止まっていた。誰かが、凄《すご》い勢いで二人の傍を駆け抜けた。歩道の何人かが、車道に飛び出した。気のせいではなく、道にいる人間が増え始めている。
鞄《かばん》の置き引きの常習犯が、藻湖にこう言ったことがある。
「母なる大地は、時として紙幣を転がしておいてくれる。わたしのために――」
では父なる大空も、大地に負けぬ気になって、紙幣を撒《ま》きはじめたというのだろうか。
風はあまりない。紙幣の量は増えだした。人々の一つの目は紙幣を追い、もう一つの目は大空の一角にそそがれた。
何台かの自動車が、急ブレーキの音を立てた。クラクションが湧《わ》き起る。車道に立った人の群れは、車の流れを完全に止めてしまった。
――大量の紙幣は、桜弥勒菩薩の掌《てのひら》の中から溢《あふ》れ出しているのである。
菩薩の細い眸《ひとみ》はやさしく開き、やや出っ歯の口元には微笑が漂っている。夕日を受けた半面は、橙色がもう紫を帯びはじめ、くっきりと大空に浮び上った。
菩薩の右手は、掌を上にして顎の下あたりに曲げられているが、今、一人の人間が、その掌の一本の指の上に立って、奇妙な手つきで継続的に紙片を撒き散らしているのだった。その紙片は芝居に使う吹雪《ふぶき》に見えたが、地上に近づくと、それが紙幣の大きさになっていた。
藻湖刑事は不機嫌《ふきげん》になって空を見上げた。掌上の人間がひどく危険に思われたからだ。綱渡りと同じではないか。身体の均衡を失えば、真っ逆さまに墜落するだろう。それ以上に、掌上の人間の装束は異形《いぎよう》である。
「黄金仮面だ!」
群衆は口々に叫んでいた。
藻湖刑事は、辻褄《つじつま》の合わない、でたらめな夢を見ているような気がした。地面の上に、にょきりと菩薩が突き出ている。その前に四角なホテルが行灯の形になり、女が油を舐めているばか大きな世界が作られている。しかもその掌上に異常な装束と仮面をつけた人間が、紙幣をばら撒いているのだ。
金ぴかの光るマントに、つばの広いシルクハット。金色の髪の中から、嫌《いや》らしい顔が見えた。無表情の能面のような仮面で、目が細く高い鉤鼻《かぎばな》である。薄い唇を三日月形にぱくりと開け、声にならない笑いを立てている。それが菩薩の指の上をそろそろ歩きながら、奇妙に腕をねじ曲げて、紙幣を撒き続けている。
「黄金仮面?」
藻湖刑事は二、三歩後に退《さが》った。そのとたん、一人の男に突き当った。男は地面の上に転がり、ひえっというような声を立てた。
「あわてるんじゃない」
藻湖もよろめいて、腹だたしげに言った。彼は手にした一枚の紙幣を裏返して、のそのそ起きようとしている男の顔の前に差し出した。
「こんなもの、贋札《にせさつ》だ」
黄金仮面を見れば、掌上の人間の目的は、一目|瞭然《りようぜん》だった。黄金仮面の身体の前後には、プラカードが下がっていた。目の良い藻湖刑事には、その文字が読める。「バー黄金仮面近日開店」
紙幣の裏にも、同じ文字が見えるではないか。「この紙幣御持参の方にはビール一本無料進呈」
新手の宣伝だろうが、紙幣の出来工合《できぐあい》は、充分刑事犯を成立させる可能性があった。そのうえ、交通|攪乱《かくらん》さえ惹《ひ》き起している。
「いや、あわてなければ、変ってしまう」
転んだ男は、妙なことを口走って起き上った。空から降った紙幣が、木の葉にでも変るというのだろうか。欲に目が眩《くら》んで、この男の思考がでたらめになってしまったらしい。
「だから、これは宣伝用の贋札だよ」
藻湖刑事は、二、三枚の札のために、すっかり逆上した男を哀れに思って、大きな声で言った。だが、男は目の色を変えたままで、意外な返事が返って来た。
「お札なんぞ、馬に喰《く》わせちゃえ。雲が変ったら大変だ」
「クモ?」
藻湖刑事は、改めてその男を見なおした。男はあたふたと抱えていた黒い鞄《かばん》から機械を引っ張り出した。カメラを扱うには危っかしい手つきだったが、立ち上った姿を見ると、すっきりと上背《うわぜい》があり、服装もきちんとして、横顔は彫りが深かった。
うまくカメラにフィルムが入らない。鞄は地面に投げ出され、いろいろな小道具が飛び散っている。空を見上げると、今、菩薩の頭の真上に、ひょうたんの形をしたピンク色の雲がぽっかりと浮いていた。その雲を撮ろうというのだろうか。藻湖刑事には、菩薩の掌の上の、黄金仮面を撮ろうとしているようにも思えた。
「どうしましょう」
藻湖刑事の連れは、収拾のつかなくなった交通の乱れを見渡して言った。
「そうですな」
藻湖刑事の腹は定まっていた。
「すぐに交通課が飛んで来るでしょうよ。われわれの手では、どうすることもできませんからね、高波《たかなみ》刑事――」
二人の刑事は、二人組銀行強盗殺人犯、藤上万次《ふじがみまんじ》と、井筒友江《いづつともえ》の追跡を一時思い止まって、空を見上げていた。
三石《みついし》銀行西上野支店が、男女の二人組強盗に襲われたのは、十月二十五日閉店まぎわの、二時五十五分であった。この総被害額、九百八十二万七千五百円の強盗が成立したのは、犯人が被害額の五十倍にも当る、五億相当の紙幣の吹雪を、銀行内に吹き込んだためである。
犯人の用意した五億相当の紙幣とは、ざら紙に印刷された贋札であり、大半は新聞紙であった。この紙幣は、送風機によって、銀行内に化学消火液の泡《あわ》のように満たされた。あっという間だった。銀行員は手にした紙幣の束より、吹き込まれた札の分量に圧倒された。中には贋札の方を懸命に拾い集める行員もあったという。良貨は悪貨に駆逐され、真贋《しんがん》の区別があいまいになった。この現象が、銀行強盗の手口と気づくまでには、かなりの時間がかかった。そのどさくさにまぎれ、機敏な強盗はカウンターを乗り越え、わずかな紙幣(吹き込んだ紙幣に対して)の方を鷲掴《わしづか》みにして、用意した袋の中に押し込んだ。
拳銃《けんじゆう》が二発発射された。一発はガラスのドアを打ち抜き、一発は犯人に追い付こうとした警備員に命中した。行員のひるむすきに、犯人は外に待たせてあった車に飛び乗って逃走した。
銀行強盗が成立した条件には、他の盗難事件と同じように、犯人がいろいろな偶然に恵まれていたこともあった。その日が給料の支給される直前であったこと。柔道の有段者である命知らずの行員が、その日休暇を取っていたこと。ボクシングの大試合がこの日予定されていたこと。宝塚の千秋楽《せんしゆうらく》の日であったこと。銀行強盗の発生確率から言うと、もうそろそろこうした事件が成立していい時期であったこと、などである。
ただちに、三石銀行西上野支店強盗殺人事件捜査本部が設けられ、何人かの捜査官は、犯人の残した五億相当の紙幣を、しらみ潰《つぶ》しに調べ上げた。その結果、何枚かの紙幣から、印刷インクで残されたいくつかの指紋を検出することに成功した。
指紋はすぐ照合された。犯人には前科があり、その氏名はすぐに判明した。一人は藤上万次、二十四歳。強盗の前歴があり、印刷の技術を持っていた。残忍な性格を持ち、人を殺すことなど何とも思わないという。暴力団に関係し、拳銃の入手可能な環境にあった。強盗に使用された拳銃は、コルトBMスペシャルと思われる。
もう一人は、藤上万次の愛人で井筒友江。この方は、銀行前に待機していた車の中を目撃した通行人の証言によって断定された。十九歳、羽並市の出身である。小柄な娘だが、胆《きも》っ玉は相撲取りよりも太いと言われる。
藻湖刑事は、この強盗殺人事件の捜査官の一人であった。そしてたまたま、犯人の藤上万次とは面識があった。
「藤上と撃ち合いをせにゃならんかな」
嫌な予感がした。
藻湖刑事は、全国の警察でも、隠れることのない拳銃の名手であり、その腕は自他共に許していた。数年前、これも凶悪犯と撃ち合い、相手の銃口に自分の銃弾を撃ち込んだ芸は、今でも警察官たちの語り草になっている。ただ、彼は世の中に最も苦手とするものを二つ持っていて、それは試合と試験であった。この二つに出会うと、自分でも情けないほど、みじめな成績を残すのだ。そのために、オリンピック出場の機会をことごとく見送り、昇級の夢も片端から潰してきたのである。
事件の二日後の朝、捜査本部は二人組の犯人が、井筒友江の出身地である羽並市に立ち廻ったという情報を得た。情報には半ば疑問があり、半ば信憑性《しんぴようせい》があった。藻湖刑事は、捜査部長から、羽並市への出張を命じられた。悪い予感がしだいに現実になってゆくようであった。
その日のうち、藻湖刑事は、情報を提供した羽並市警察署に着いた。
「ちょうどよい、今、千賀井ホテルから犯人に似た二人が投宿しているという電話が入りました。私のかんでは眉《まゆ》つばものですがね、当ってみませんか」
担当の高波刑事は、藻湖刑事を見るなり、うむを言わさず命令するように言った。
それが、拳銃で有名な藻湖刑事だと知ると、掌を返したのである。浮かせた腰を下ろして、茶菓子などすすめ、
「〈ベレッタの嘆き〉を御覧になりましたか?」
と、銀行強盗とは、まるで関係のない話題を小声で持ち出した。〈ベレッタの嘆き〉とは、最近封切られたばかりの、主役が拳銃という、ガンマニアのための映画である。
「好きですねえ、ワルサーP38。誰が何と言っても……」
高波刑事は、藻湖が何にも言わないのにそう言い、変な腰つきをして歩くのであった。
今、黄金仮面を見上げる高波刑事の腰も、ちゃんと定まっている。彼は右手をゆっくり伸ばした。黄金仮面に照準をつけている形だ。
「先輩ならどうです」
高波刑事は藻湖を見て言った。
「――むずかしそうですな」
藻湖刑事は困ったような顔で後輩に答えた。
「二二口径のヘンメリーでもあれば……」
高波刑事は平気で物騒なことを言った。
藻湖刑事は遠くでばしっというような音を聞いた。
その瞬間、黄金仮面がぎくんと痙攣《けいれん》するように身体を動かした。
「あっ――」
誰かが叫んだ。
黄金仮面の姿がぐらりと崩れたのである。身をのけぞらせた黄金仮面の形は、アクロバットのような曲り方をした。そして、そのままの姿勢で前に倒れかかる。均衡が崩れ、黄金仮面はまるでスローモーションフィルムを見るように、両足を天に向けて墜落してきた。
シルクハットとかつらと仮面が一度にはね上った。それが、いきなり首が飛んだように見えた。すさまじい女性の悲鳴が聞えた。同時に身体から放れたプラカードが、空間をくの字に切りながら、主の後を追った。
その二つの品物より先に、サンドイッチの中身の男は、コンクリートの地面に、ぐしゃりというような音と一緒に、叩《たた》き付けられていた。
「電話をして来ます!」
高波刑事はそう言い残すと、ホテルの中に駆け込んだ。
藻湖刑事はシャッターの音に気が付いた。あたりを見廻《みまわ》し、カメラを空に向けていた男を見付けて、腕を取った。
「――捜査に協力をしていただきたい」
警察手帳を見た男の顔色が変った。
「ぼ、僕、何もしていません」
不良に因縁をつけられた、アベックの二枚目の顔になった。
「写真を撮っていただろう」
「雲を撮っていました」
「あの黄金仮面も撮ったはずだ」
「いや、あの人は入っていません。レ、レンズは望遠になっていますが、カメラを向けたときには、黄金仮面が落ちたあとでした。雲しか撮っていません。ト、トレミー氏瓢状雲《ひようじよううん》です」
「かかわり合いだ。迷惑でしょうが、フィルムは証拠として、提出していただく」
藻湖刑事は慇懃《いんぎん》無礼に、彼のカメラに手を掛けた。男はびくっとしてカメラを抱きしめる。
「何か見られては困るような物を撮ってあるのじゃなかろうな?」
「と、とんでもない。ただ、貴重なフィルムです。現像が失敗されでもすると、困るのです」
「充分注意しよう。明日署まで来ていただければ、カメラはお返しする」
「それでは預かり証を書いて下さい」
男は食い付くような顔で言った。臆病《おくびよう》なわりには、がっちりしたところもある男だ。
「名前は?」
「亜《あ》といいます」
「あ?」
藻湖はさっき妙なところで、この男が返事をしていたことを思い出した。
「希硫酸《きりゆうさん》の亜という字を書きます」
「まてよ、希硫酸に亜という字があったかな?」
「間違えました。亜硫酸の亜の字でした。亜愛一郎《ああいいちろう》――」
満足に学校を出ているのだろうか。
「ところで刑事さん、あの人はただ足を滑らして落ちただけなのに、どうして証拠のフィルムなどが必要なのですか? 過失を立証するためですか?」
名を名乗り終えると、亜は変に人なつっこく藻湖に聞いた。
「屍体《したい》を見りゃ、判るがな」
藻湖は声を低くした。
「教えてやろう。これは殺人だ。屍体の下から血が流れている。胸から出ているんだよ。それに――そこに落ちているプラカードに、銃痕《じゆうこん》のあるのが見えないかね?」
人間の冗談が過ぎると神が怒る。神は冗談などに怒らぬものとすれば、悪魔が嫉妬《しつと》するのだろうか。仮面を引き剥《は》がされた男は平凡な顔で、むしろまじめすぎるほどの表情になっていた。
金ぴかのマントから突き出された右手は、まだ残りの紙幣を握りしめている。身体の下の血溜《ちだま》りが拡《ひろ》がっていた。
屍体から離れたところに、黄金仮面の前後につけていた二枚のプラカードが寒々と転がっている。黒地に金の文字で「バー黄金仮面」と書かれた「仮」の字の真ん中に、無気味な穴が見えた。プラカードを身体に掛けたとき、ちょうど心臓の位置だ。
もう一つの遺品は、屍体の傍に落ちた、大きなシルクハットと黄色い毛糸で作られた毛髪をつけた仮面である。シルクハットと毛糸のかつらと仮面は、不細工に接着テープで貼《は》り合わされていた。墜《お》ちた男は、この首をすっぽりかぶっていたものと見える。
仮面は張り子に金色の塗料をぬりたくった、粗末な品である。かえって粗末なだけ、一層無気味さが漂うのだ。面の内側に、何か無理に引き剥《は》がしたような痕《あと》があり、白い下張りの紙が見えている。だが何のためにそうしたものかは判らない。シルクハットはボール紙で作られている。黄金仮面が金髪と見えたのは黄色い毛糸の束であった。
屍体の回りには三台のパトカーがエンジンを吹かしている。巡査と捜査官に追いまくられながら、人垣《ひとがき》はどんどん増えていく。死んだ本人もおそらく予測しなかった宣伝効果に違いない。
「拾ったのだから、私のものよ」
かん高い声がしている。三角形の顔をした洋装の老婦人が、拾い集めたちらしの紙幣をしっかり握りしめていて、没収しようとする係官と言い合っているのだ。手数のかかる野次馬《やじうま》は、相変らず後を絶たない。
野次馬といえば、カメラを押収された亜も野次馬の一人になっていて、しきりに屍体や仮面を覗き込んでいる。だが亜だけはどの警察官も咎《とが》めようとしない。押出しが立派で、観察する態度が妙に堂に入っているからであろう。だが、一度だけ白目を出した。シルクハットの内側を覗いたときで、さすが気味が悪かったのだろう。
「君はもう引き取ってよろしい」
藻湖刑事は亜に言った。
亜は片手を挙げて藻湖に敬礼すると、歩み去った。人混《ひとご》みに混《ま》ざるのかと思うとそうではない。パトカーに寄り掛って、今度は千賀井ホテルを見上げていた。
「銃創があります」
高波刑事は上司に報告した。
「銃創?」
捜査係長はむずかしい顔になった。
「盲管銃創でしょうな」
気のせいか、高波刑事のサングラスの奥が嬉《うれ》しそうである。
警察医は屍体をあおむけにした。金ぴかのマントが血で濡《ぬ》れている。マントにはプラカードと同じ穴が開いていた。
「銃声を聞いたか?」
藻湖と高波は顔を見合わせた。あれが銃声だとは断言できない。
「地上から狙撃《そげき》されたのではありません。銃創から推すと、小型の拳銃でしょう。地上から小型拳銃であの掌の上の人間の心臓を仕止めることは、まず不可能です」
「とすると?」
藻湖は空を見上げた。ふと亜の視線を辿《たど》ってみる。その視線がホテルの十二階の窓に行き当っているのを知って、はっとした。十二階の窓がぽっかり一つ開いているのである。菩薩の掌の、ちょうど真ん前の窓だ。
高層ビルの場合、窓は気密式で自由に開けられないが、石油危機が叫ばれて以来、外気の自然な空気を取り入れられるようにした設計が再び復活していた。千賀井ホテルも最新の流行による開閉の自由な窓が採用されていたが、今、菩薩の掌の正面にある窓だけが、開け放されていたのである。
藻湖の目が光り、高波がポケットから両手を出した。二人の刑事は打ち合わせでもしたように歩き出した。
千賀井ホテルの廻転《かいてん》ドアを押し、まっすぐにフロントに行き、警察手帳を見せる。
「お泊りでございますか?」
フロント係は待っていたようにそう言った。だがそれにかまっている暇はない。
「十二階の、正面から見て十一番目の部屋の番号は?」
「一二○九号でございます」
外の大騒ぎが、何でもなかったような雰囲気《ふんいき》だ。ビルが傾いても、傾きながら事務を続けている気だろう。
二人はエレベーターに飛び乗った。
「持っていますよ」
藻湖は高波に言った。無論、相手は拳銃をだ。高波はややふくらんだ胸に右手を当てた。
「で、しょ?」
「と、思いますな」
高波刑事はぽきぽき指の骨を鳴らせた。
十二階でドアが開いた。人気《ひとけ》のない、薄暗い廊下が続いている。二人はドアの番号を追った。
一二〇九号のドアの前で二人は立ち止まり、息を止めて、聞き耳を立てた。ドアの下の隙間《すきま》から、部屋の光が細い線になっている。部屋の中を歩き廻る音がする。
藻湖刑事はドアをノックした。高波は内ポケットに手を入れる。
「誰だ?」
ドアのすぐ向うで声がした。藻湖は声を変えた。
「電報でございます」
高波の口が開いた。ひどく古い手なので、呆《あき》れ返ったのだろう。
「何い?」
「電報でございます」
藻湖は強情を張った。
「電話で済ませりゃいい。気の利かねえ。――誰からだ?」
「ええと……」
藻湖が口ごもるのを、高波がきらりと拳銃をきらめかせ、藻湖の言葉を先取りした。
「井筒――友江さま」
「何だと?」
高波はわざと中の男の警戒心を誘ったのである。あとで聞くと、フェアな勝負がしたかったからだという。ドアがかちりと音がした。少し開いた隙間へ、高波の靴《くつ》の先がぐいと入った。
二発の銃声が、同時に響き渡った。
高波はすでに身をこごめていた。部屋の中から叫び声が起った。ドアががたんと開き、右腕を押えた若い男が転がり出した。高波ははね飛ばされた小さな拳銃を拾い上げ、自分の銃と見比べた。
「コルトBMスペシャル……」
いくつかのドアが開いて、恐怖の顔が覗いた。叫び声の混ざったわめきが起りかけている。高波刑事は男を部屋の中に蹴込《けこ》み、二人はドアを閉めた。
「藤上、世話を焼かせるな」
高波刑事は手錠を掛けた。手首の皮がむけている。藻湖は高波の腕に驚嘆した。藤上は絶望と憎悪の表情で、目をせわしく動かした。
「井筒友江はどこだ?」
「…………」
藤上は頬《ほお》を引きつらせただけだ。
「黄金仮面を撃ったのも、お前だろう」
「……俺《おれ》じゃねえ」
高波は藤上の顎に一発|食《くら》わした。藤上の態度は一層硬化した。
ドアの傍に二つのスーツケースが並んでいる。藤上の服装はきちんとしているし、部屋も片付いていた。逃走直前だったのだろう。
窓際に皺《しわ》くちゃになったマフラーが落ちていた。高波は身体をかがめて、マフラーを拾いあげた。マフラーに長い毛がからみついているのを、高波が指で引き出した。
「友江のだな?」
藤上はぷいと横を向いた。藻湖刑事は部屋を見廻し、浴室のドアを開けた。
タイルの上に、井筒友江の絞殺屍体が転がっていた。
本部に通報を終えると、高波刑事は正面の開けられたままになっている窓に近寄った。窓一杯に菩薩の身体が見える。高波刑事は何を思ったのか、自分の拳銃を菩薩の掌に向けて、一発打ち込んだ。続けて藤上のコルトと持ち替え、もう一発。
高波は少し考えてから、振り返った。
「――だめですよ」
自分の拳銃をコートの内ポケットに突っ込み、
「掌までほぼ三十メートル。このセコなコルトじゃ、むずかし過ぎる」
藻湖はコルトを受け取った。掌に乗せて銃身を見渡す。銃口が磨《す》り減って、錆《さび》も出ている。
「引き金にガタがきています」
高波は説明した。
藻湖は弾倉を開いた。弾倉には弾が一発残っている。藻湖は残っている弾を掌の上に落してみた。名の知れぬ銘柄である。二、三度弾倉に出し入れしてみる。銃とぴったり合っていない。
「この弾を選ぶとは、拳銃のことをよく知らない人とみえる」
「こいつらにはそんな神経はありゃしません。――試射してみますか?」
藻湖はちょっとためらった。
「かまやしませんよ。僕が責任を持ちます」
そう言われると、藻湖はその気になった。
藻湖は菩薩に向けて空撃ちをしてみた。高波の言うとおり、引き金はがたがたしている。
「自信は持てませんな」
弾を込め、慎重に銃口を菩薩の掌に向ける。そのまま引き金を引く。
菩薩の肩あたりに、ぱっと白いものが散った。弾道は大きく曲ったのである。
「ね――」
高波は藻湖の顔を見た。
「ひどい癖がありますな。右に大きく逸《そ》れました」
「でしょう」
「切れない菜っ切り庖丁《ぼうちよう》で、刺身《さしみ》を作るようなものです。いくら稽古《けいこ》をしてこの癖を飲み込んだとしても、この銃であの掌の上に立っている黄金仮面を撃ち落とすことは、絶対に不可能ですな――」
羽並署の刑事室の隅《すみ》で、藻湖刑事は、高波刑事と向き合って、朝からまずい茶を何杯も飲んでくさり切っていた。
どうもはっきりしないのである。サンドイッチマン殺害事件の方がだ。
三石銀行強盗殺人事件、及び井筒友江殺害事件の犯人は、藤上万次であることに動かなかった。証拠は千賀井ホテルの一二〇九号室からぞくぞく発見されている。銀行強盗に使われた拳銃、スーツケースの中からは、多額の現金。たまたま銀行に控えられていた紙幣番号が、スーツケースから発見された新券の一部に符合した。
井筒友江の殺害の動機だが、これもかなりはっきりしている。友江が睡眠薬をジュースに入れて、飲ませようとしたのを、藤上が感づいたのである。友江は藤上に寝こかしを食わせ、金の入ったスーツケースを持って、逃げる気だった。藤上は激怒し、その場で友江に組み付くと、女のマフラーで絞殺した。
逮捕された後の藤上はしぶとく、口を割らない。藤上はただ弁護士を付けろとだけ繰り返し、大鼾《おおいびき》をかいて寝てしまった。多少、友江から睡眠薬を飲まされていて、それが効いてきたものとみえる。捜査課は拳銃強盗の証拠を固めることに熱中した。捜査部長は状況から見て、藤上がサンドイッチマンも撃った点に懐疑的であった。
だが、藻湖と高波は、目撃者として、そうは思わない。被害者は菩薩の掌上で、ホテルを向いてちらしを撒いていたし、心臓の弾道も直角であった。弾道の直線上に、開け放たれた一二〇九号室の窓があったのである。けれども奇妙なことに、ホテルの宿泊者の誰もが、そのときの銃声を聞いていない。藤上の一発、刑事の三発の銃声では、震えあがった人たちがである。
「消音器を使用する手もある」
高波は部長に食い付いた。
「そんなもの、あの部屋にはなかったぞ」
部長は相手にしない。
「銃声を消す他の手段がありゃしませんか?」
高波は藻湖に助けを求めた。
「ないことはないが、そうすると別の証拠が残ることになりますな」
高波刑事が、むきになって部長に盾《たて》をつく原因があった。始末書を書かされたからだ。必要外に拳銃を乱射したというのである。
確かに高波はいい機会とばかり、はしゃぎ過ぎた点もなくはなかったが、乱射という言葉は穏当でない。その上、建造物破損をも問われた。
六連発のコルトBMスペシャルには弾丸は残っていなかった。二発は三石銀行内で、一発は高波刑事に目がけられて、もう二発は高波と藻湖が試射し、残りの一発はおそらくサンドイッチマンの心臓に入っているものだろう。弾はすでに摘出されているだろうが、鑑識の結果は、まだ出ていない。
「まぐれだったのだ」
高波刑事はしゃにむに言った。なにがなんでも、拳銃は一二○九号室の窓から発射されていなければ、辻褄《つじつま》が合わないのだ。
「まぐれ――ね。たった一発がですか?」
藻湖は疑わしそうな顔をした。
「あのときも言ったとおり、いくら稽古《けいこ》をしてあのコルトの癖を飲み込んだとしても、あの拳銃で菩薩の掌の上に立っている黄金仮面を撃ち落とすことは、絶対に不可能ですよ」
「そうなんだ」
高波は頭をかかえ、凄《すご》いことを言い出した。
「長い竿《さお》のようなものの先にコルトを結び、サンドイッチマンの胸に近付けて操作するというのはどうです?」
「竿などが見えましたか」
「いや、見えなかったが」
「それにしても、やはり竿などの証拠は残りますな」
「ええ、いっそ、見えないUFOにするか」
「見えないUFO?」
「藤上の奴《やつ》が見えない円盤に乗り、黄金仮面に近付く……」
藻湖刑事は気の毒になって返事もできず、高波を見詰めた。
被害者は梶葉三《かじようぞう》、タチバナ企画という小さな宣伝社に勤務する若い社員であり、年は二十三。タチバナ企画の社長は責任者として、すぐに警察に出頭を命じられた。
四十五、六の小柄で色の黒い、ずる賢そうな男である。梶葉三の行為について、誰も彼に弥勒菩薩の掌に乗れなどと強制した者はないと言い張った。
「そりゃ、いつも突飛《とつぴ》な行動をしろとは言ってあります。その効果いかんによっては、特別の手当を出しますよ。宣伝マンはアイデアが生命ですからね」
「宣伝マンと言ったって、高がびら配りじゃねえか」
始末書を取られたばかりの高波刑事が怒鳴《どな》った。タチバナ企画の社長は高波の勢いに驚き、実は梶から弥勒菩薩の掌の上に乗ったらどうかという案を受けたことを白状した。
「私はあまり賛成はできかねたのですが……」
「それみねえ。その顔じゃ一も二もなく賛成したろう」
梶は黄金仮面の扮装《ふんそう》を用意し、人の出盛る時刻を見計らって胎内にもぐり込んだのである。菩薩の後の台座の部分に、胎内に入る戸があった。信者の集まる定まった日以外、戸は閉められていたが、その戸には簡単な錠が掛っているだけである。梶はその錠をこじ開け、胎内の階段を登って、明り取り用の窓から、掌の上に這《は》い出したものと思われる。窓は天衣のひだとか、胸飾りの間に、目立たないように付けられてあった。
黄金仮面の面は、タチバナ企画の事務室に飾ってあったのを、梶が持ち出したのである。面はタチバナ企画の社長が、東北の温泉場で手に入れたという。土産物《みやげもの》の店で、民芸品と並んでいたのだ。
「面の裏に、何かを剥がしたような痕《あと》がある。知っているか?」
高波は男の前に仮面を突き出してみせた。
「さあ……」
彼は気味悪そうにその痕を見た。その顔には嘘《うそ》がないように見えた。
「梶葉三は高所作業の経験があったか?」
「高所作業――ですか」
「鳶《とび》とか、ビルの窓拭《まどふ》きなどだ」
「さあ、聞いたことがありません」
「山登りは?」
「登山は好きだったようです。いつか、どこかの岩壁を登攀《とうはん》したとか言って、女の子に自慢をしていたことがあります」
梶がちらしに紙幣を印刷していたことに、全く気づかなかったというのは嘘。高波はこの男を、別の刑事室に追い入れた。
亜という男から取り上げたフィルムは、その日のうちに現像された。だが、写っているのは、完全に雲だけ。
「愛敬《あいきよう》にひと齣《こま》ぐらい菩薩を撮っておいても、よさそうなものじゃねえか」
高波はぶつくさ言い、写真を机の上に投げ出した。同じ机の上には、黄金仮面とシルクハットも放り出されてある。
その黄金仮面を見て、「バー黄金仮面」のママが、さも怖ろしそうに、しなを作ったのである。
「もうオープンだというのに、こんな事件が起って、本当に困っているのよ。私って、こう見えても、意外にかつぎやなの。いっそ名前を替えてしまおうかしら。銀仮面でもいいのだけれど、そうすると、お店のインテリアもすっかり直さなければならないでしょ。クリスマスに間に合うかしら。ねえ、刑事さん、どうしましょう?」
必要以上に色っぽいのである。
「黄金仮面というと、確か小説の――」
藻湖刑事は子供の頃《ころ》、ひどく恐《こわ》い小説を読んだ記憶があった。
「そうなの。マルセルシュウォッブの小説からいただいたの」
「マルセル――?」
どうも記憶とは違うようだ。
「あら、御存知ありません? マルセルシュウォッブのルロワオマスクドール」
彼女はフランス語を綺麗《きれい》に発音すると、嫣然《えんぜん》と笑った。
結局、タチバナ企画には、普通のちらしを頼んだだけ。梶葉三とは、一面識もなかった。
「ねえ、刑事さん。うちがオープンしたら、ぜひお遊びにいらっしてよ。よくって? お待ちしているわ。うふ……」
彼女は最後にそう言うと、二人の刑事に流し目を送って帰って行った。あとに香水の匂《にお》いが、長いこと漂っていた。
このあと、千賀井ホテルの支配人、弥勒菩薩の下で、お札を売っていた老人などが部屋に現れたが、新しい事実は、何も証言されなかった。
藻湖と高波が、出涸《でが》らしの茶を飲んでいるところへ、婦人警官が現れた。婦人警官はなぜか、ちょっと赤くなっていた。
「亜という方がいらっしゃいました」
婦人警官は妙に女っぽい態度で言った。
「あ?」
「カメラを取りに来たのだそうですわ」
藻湖は婦人警官の顔を見て、亜の顔を思い出した。あの男を見て、彼女がぽっとなっているのなら不思議はないが、一度亜が転んだところを見せておいてやりたかった。
「雲の写真を撮っていた男ですよ」
藻湖は高波に説明した。
「こちらへ通して下さい」
婦人警官と入れ違いに、亜が部屋のドアを開けた。藻湖刑事は、ふと部屋がファンファーレに満ちたような錯覚に陥った。
くっきりと色が白く、鼻筋が通り、目が知的な憂いを湛《たた》えている。唇が赤く、人を引き込むような暖かさがあった。彼は鷹揚《おうよう》に部屋を見渡し、藻湖を見付けるとちょっと会釈してから、ゆったりと近寄って来た。
「いいお天気で」
どうもこの男、口をきき出すと場違いな感じになる。
亜は預かり証と引き替えに、カメラを渡されると、疑い深そうにカメラの隅々を検査し始めた。
「フィルムを出した以外、どこもいじっちゃいないよ」
藻湖は気分を悪くして言ったが、亜は長いことカメラを撫《な》でたり透したりし、やっと納得がいったらしくケースに収めると、一緒に渡されたネガを丹念に眺めだした。ネガを調べ終えて、大切に内ポケットに入れると、今度は大きく伸ばされた雲の写真を手に取って食い入るように見る。そのうち、亜の口元がにたにた笑い始めた。
「……写っていました。よかった。刑事さん喜んで下さい。ほら、トレミー氏、ひょう……ひょう……」
口に締りがなくなって、うまく喋《しやべ》れないでいる。ピンク色の瓢状雲《ひようじよううん》の写真に、頬ずりせんばかりである。
写真との対面が終ると、亜はいそいそと持ち物をまとめ、
「刑事さんも事件が解決されたそうで、おめでとうございます。今朝の新聞で読みました。僕の写真がお役に立たなくて、申し訳ない気もしますが、よろしいでしょう。それにしても、あの黄金仮面は災難でしたね。見られたと思ったのでしょうが。ではさよなら」
亜はにっこり一礼すると、椅子《いす》から立ち上った。藻湖は亜の最後の言葉を繰り返した。
――見られたと思ったのでしょうが――?
「ちょっと待てよ」
高波刑事が呼び止めた。藻湖と同じ疑問を持ったのだろう。
亜はびくんとして振り返った。
「忘れ物はありません。今、ネガもいただきました」
「いや、最後に変なことを言ったな。見られたと思った? 何をだ」
「いや、べ、別に。では――」
「待て待て。何か知っているな?」
「な、何も知りません」
「あくまで白《しら》を切ると、逮捕しなけりゃならねえ」
亜は飛び上り、急いで元の椅子に戻ると、カメラを抱いて小さく坐《すわ》り、上目遣《うわめづか》いに高波を見上げた。
「逮捕はごめんです。な、何を喋《しやべ》ったらいいのですか?」
「君は、見られたと思ったのでしょうがと言った。誰が、何を見たのだね」
藻湖刑事は亜に煙草をくわえさせ、火をつけてやった。亜は煙草にむせながら、小さな声で、
「ですから、黄金仮面で、強盗犯人の藤上という人を、です。――そのため、藤上は黄金仮面を撃ち落としたのではないのですか」
「そんなこと、新聞には出ていなかった」
「はあ、ではそれは僕の妄想《もうそう》だったのかもしれません」
藻湖はこの際、この男の寝言でも聞く気になった。
「妄想でもいいから、聞かせてくれないか。なぜ君が、藤上が黄金仮面を撃ったと考えるようになったのか」
「それは、あの……」
亜は机の上に転がっている黄金仮面をひょいと取り上げた。
「あのサンドイッチマンの頭が、長くなかったからです」
「梶の頭が長くない?」
亜はいきなりシルクハットを、ひょいとかぶった。藻湖は亜の黄金仮面に、にたりと笑われた。
「思ったとおりです。この大きなシルクハットはだぶだぶしていて、面の目の穴は、僕の鼻のところまで下がって、非常に外が見にくい」
亜の声は面に籠《こも》ってよけい低く聞えた。
亜は面を外すと、今度は藻湖の頭にいきなりかぶせた。
「いかがですか?」
亜の言うとおりである。顔の丸い藻湖の場合、面の目の穴からまるで外が見えなかった。
「どれ?」
高波刑事もサングラスを外して、面をかぶってみた。ふて腐れたような黄金仮面が出来上った。
「つまり、この面をつけて目の穴が自分の目と一致するような人は、とんでもなく長い顔の持ち主でなければなりませんね。あのサンドイッチマン――梶という名ですか、その梶さんの頭の形はどうでしたか?」
「平凡な男の顔だった」
「そうでしたね。この面については、まだ不思議な点があります」
亜は仮面を引っくり返し、裏向きにした。
「この裏に何かを剥がしたような痕がありますが、この面はもともと梶という人の物でしたか?」
「そうじゃない。タチバナ企画の事務所にあったのを、梶が持ち出したという。それまではこんな痕などなかったそうだ」
「すると、この奇妙な細工をしたのは、梶さんだと考えられますね」
「何の痕だと思うね?」
「おそらく、木のくわえが付いていたのを、梶さんが無理に剥がしたのでしょう」
「くわえ?」
高波刑事がぽきぽき指を鳴らした。それを見て亜は身を竦《すく》め、急に早口になった。
「――一体、人間が自分の顔に面を付けるためには、いくつかの方法がありますが、その種類は、そう多くはありません。片方は生身ですから、接着剤を塗ったり、釘《くぎ》を打ち込んだりするわけにはゆかぬからです。また人間の顔の真ん中に鼻があり、その下には口というように、大体似通った構造になっています。鼻の上に口のある人や、耳が顎《あご》の方にある人はいないので、人が面を付ける方法は、極めて限られています。もし、たこが面を作ったら、もっと変った面の付け方を考案するかもしれませんが」
「たこが面を?」
藻湖刑事は目を丸くした。
「で、人間が面を付けたり、外したりするのに容易で、安定した面の付け方の一つは、面の内側に突起を作り、面を付けるときは、これをくわえる方法があります。ところがこの面にはもともと、このくわえが作ってあったと思われるのに、梶さんはそれをわざわざ剥がしたのです。きっと何か気に入らないことがあったのでしょうが、彼は面を付けるのにこの方法はとりませんでした」
藻湖は亜の、人間の顔の構造と面に関する講義を、いままであまり使ったことのない脳の部分で聞いた。
「では次に、基本的なもう一つの面の付け方があります。これは面の両側に小さい穴を開け、これに紐《ひも》を通して、耳に掛ける方法ですが、この面の両側には、穴が開けられていますか?」
「穴はないね」
高波刑事は面をひねくり廻した。
「梶さんは面を付けるのに、なぜかこの方法もとりませんでした。梶さんのとった方法は、誰でもが思い付く常識的な方法ではなく、もっと手数の掛った、奇妙な付け方でした。あの人は、シルクハットに、接着テープで、面と毛糸で作ったかつらを一緒くたに貼り合わせたのです。しかも、不器用にね。普通の人だったら、決してこんな方法はとらなかったでしょう。第一、仕事が終ったとき、接着テープを剥がして面を元どおりにするのも容易じゃありません。われわれでしたら、まず紐《ひも》などで面を付け、かつらをかぶり、その上にシルクハットをかぶるのが普通のやり方でしょうね。ところが、梶さんはそうはしなかった」
「なぜだ?」
「――つまり、あの人には、面をくわえる口と、紐を掛けるための耳がなかった。また、面の穴から外を見るための目がなかったので、面の目の穴の位置を調節する必要もなかった」
「何だって? それじゃ、のっぺらぼうだ」
「そのとおり……いや、これは言い方が不充分でした。つまり、僕の言うのは、人間の後頭部には、面をつけるための、口も耳もない、のっぺらぼうだと言いたかったのです」
「当り前だ」
「その人間の、当り前な首の構造のために、あの人は苦心|惨憺《さんたん》したのです。梶さんは、自分の顔の後ろに、黄金仮面を付けようとしていたのですから――」
「顔の後ろだって?」
「そうなんです。あの人はあべこべに面を付けていたのです。金ぴかのマントは普通に着ていました。これも逆さに着れば申分なかったのでしょうが、多分着にくかったのですね。けれども身体の前後にプラカードを下げてしまえば、身体の前と後ろは見分けがつきにくくなってしまうでしょう。梶さんはかつらの毛の隙間《すきま》から外を透かして見ることができたので、面の目の位置には無頓着《むとんじやく》でした。
「梶さんはこのような恰好で、弥勒菩薩の掌の上に現れたのです。掌の上の黄金仮面は、正面を向いているように見えましたが、中身の梶さんは、われわれに背を向けていたのです。でも彼の二本の腕と指は裏返すことはできなかったので、ちらしを撒くときの手付きは、奇妙にねじ曲った動き方をしていました」
「なぜ梶はそんな馬鹿げたことをしたのだ?」
「僕は昨日、菩薩の指の上に立って、ちらしを撒いている黄金仮面を見たとき、これは偉いことをしているぞと思いました。絶壁の端に立っているようなものじゃありませんか。下を見れば目が眩《くら》むでしょう。まして反対側のホテルのガラス窓が夕陽を受けて、ぎらぎらしている。ただでさえ、幾何学的なホテルのガラス窓は、オプティカルアートを見るときと同じめまいを起させます。僕があの人と同じ場所に立たされたら、どうしましょう」
「君が自分で立つことを考えたのか?」
「はあ、ぼんやりと。――自分の目が眩まないためには、どうすればよいか。目をつぶってしまえば、ホテルの窓も下界も見えなくなるが、同時に自分の足元も見えなくなって、かえって危険です。――一つだけうまい方法がありました。後ろ向きになって、あの菩薩と向き合えば、安全ではありませんか。大きな掌のために、下界は見えません。手を伸ばせば菩薩の顎にも手が掛かるでしょう。絶壁に取り組んでいる登山家は、いつも山と向き合っています。山を背にして絶壁を登ったり降りたりする登山家は見たことがありませんからね。
「などと思いながら黄金仮面を見ていると、どうも手付きが怪しい。ははあ、僕の考えと同じことをしている。誰も同じ考えをするものだなと、僕は安心し、雲の方の撮影に取り掛ったわけです。ところが意外にも黄金仮面は、思ってもみない形で、墜落してしまいました。普通なら落ちることはないはずです。おかしいと思っていると、刑事さんから、黄金仮面は射殺されたのだと教えられました」
「すると、あの拳銃は?」
「そうです。弥勒菩薩の胎内から発射されたことは、すぐに判りました」
「胎内から――ね」
「黄金仮面が這《は》い出した、胸飾りの窓からでしょう。距離は五メートルもありません」
高波刑事は変にぐったりしていた。犯人の使用したコルトBMスペシャルは、二人の試発で、かなり大きく右に曲がる癖のあることが判っている。とすると犯人は黄金仮面の後ろ向きの心臓を狙《ねら》い、弾道が曲がっているために、かえって本当の心臓に命中したことになる。
「今朝の新聞を見ると、梶さんの殺された理由も判りました。銀行強盗の犯人、藤上は愛人の友江を千賀井ホテルの一二〇九号室で絞殺していたのです。おそらく開け放された、窓の傍《そば》でです。藤上は友江の息を止め、ふと窓から外を見る。その窓の外に、恐ろしい物を見たのです。目の前にある弥勒菩薩の掌の上で、奇怪な黄金仮面がにたにた笑いながら、窓の中を覗き込んで、紙幣を撒いているではありませんか。面というものは、見る人の心に不思議な作用をします。見る人の心が写って、そこに表情が生きているように感じられるものです。能の面は、一つの表情で、泣きも笑いもいたします。犯人の心には悪鬼が生じていたので、普通見ても気持の良くない黄金仮面が、悪魔に見えたのに違いありません。窓を覗いている黄金仮面は、陰険な目撃者として、藤上にこうささやきかけたでしょう。――うふふ、すっかり見てしまったよ。お前の金も俺のものだ。こうしてつかんで、撒いてやる……」
亜は両手で、遠慮がちに黄金仮面の手つきを真似《まね》た。
「藤上は慄然《りつぜん》としたことでしょう。彼は拳銃を持ってはいましたが、距離が遠すぎて、黄金仮面を撃ち落とす自信がありません。まして銃声がホテル内に響いたら、もっと危険でしょう。彼は大急ぎでホテルを出ました。黄金仮面を逃がしてはいけません。藤上は菩薩の下に駆け付けます。通行人は皆上を見上げて、右往左往していたので、彼に気づいた人は一人もありませんでした。彼は梶さんがこじ開けておいた台座の戸から胎内に入り、階段を駆け登って胸飾りの窓にたどり着きました。藤上の考えでは菩薩の胎内で、出会い頭に黄金仮面を撃ち倒すつもりでいたとも思われます。ところが、実際の黄金仮面は、何も見ていなかったのですから、呑気《のんき》にまだ紙幣を撒き続けていました。もし本当にあれを見たのなら、あわてて降りて来たところだったでしょう。
「藤上は菩薩の窓から、黄金仮面に狙《ねら》いを付けました。このとき、初めて黄金仮面は、自分に銃を向けている男に気が付いたのでしょうが、そのときはもう遅かったのです。梶さんは仮面とシルクハットを飛ばし、はずみでプラカードも身体を離れ、本来の自分の姿になって、地上に戻って来たのです。藤上はただちに胎内を脱出し、人混みに紛れてホテルに戻ります。あなたたちが、もうひと足遅かったら、藤上はホテルからも脱出していたでしょう」
「梶が一番貧乏|籤《くじ》を引いたのだな。彼は殺される必要がなかった……」
藻湖はさっきの亜の言葉を思い出した。
「あの黄金仮面は全く災難だった。見られたと思ったのだろうが――」
机の上の電話が鳴った。高波刑事が素早く受話器を取った。
「なに鑑識? ふん、もう結果は判っているよ……。そうだろうともさ」
高波刑事はふて腐れて受話器を置いた。
「鑑識の結果が出たってよ。梶の身体から取り出した銃弾は、犯人の持っていたコルトBMスペシャルから発砲されたものとおんなじだ……」
「おい待てよ」
帰ろうとした亜を高波刑事が引き止めた。
「まだ、何か?」
亜はへっぴり腰のまま二人の刑事の顔を見比べた。
藻湖刑事には高波の心が判るような気がした。亜のために、一泊の宿泊費を捜査費から出してやる気になったのだろう。
第五話 G線上の鼬《いたち》
「きつね屋」のいつもの席が空いていた。
まず腰を下ろし、帽子の雪を払う。雪はほとんど解けて、水になっていた。手袋を脱いで手を洗う。氷のような水が快い。
「雪になりましたねえ」
きつね屋のおかみが、浜岡孝二《はまおかこうじ》の前に、厚手の湯呑《ゆの》みを置いた。熱く濃い茶である。
「おしめり程度で止《や》んでくれると、助かりますがねえ」
おかみは盆を斜《はす》に持ちなおした。小柄で目が大きい、歯切れのよい言葉に愛敬《あいきよう》がある。浜岡孝二はゆっくり壁の献立表を見渡し、天ぷら定食を注文した。その文字だけ、太い字で書いてあったからである。磨《みが》き込んだ神棚《かみだな》の、注連縄《しめなわ》が青々としている。御幣も目に染みるほど白い。新しい年は、もうそこまできている。
時計を見る。
「十一時半《オンザールエドウミ》……」
浜岡の口から自然に言葉が流れる。機嫌《きげん》がよいのだ。たまたま客にしたフランス人の夫婦と喋《しやべ》り、ちょっとした観光案内をした。夫婦は浜岡が気に入って、別れるとき自分の鞄《かばん》から、コニャックを一本置いていった。マーテルの青ラベルだった。
浜岡の語学は、正式に習ったものではない。車を運転しながら、ラジオの講座で聞き覚えたのである。小さいときから、人の言葉の癖を取る才能があった。語学の成績はよかったが、会話だけ。読み書きとなると、まるで駄目《だめ》で、いつも教師が首を捻《ひね》って不思議がった。
フランスには特別の関心があった。仲のよかった幼馴染《おさななじ》みがパリに嫁いで行ってしまったからだ。顔に愁いのある美人だった。彼女を見送ってから、一、二年はぼんやりと過ごした。そして風の便りで、彼女が離婚し、独りで働いていることを知ってから、浜岡はパリに移住する決意を固めた。そのためには、身を粉にしても金を溜《た》めなければならないのだった。
浜岡はポケットから地図を取り出して、拡《ひろ》げた。地図の角は痛み、折れ目は薄くなっていた。日に何度も拡げて見るからだ。
――エトワール広場、凱旋門《がいせんもん》。まだパリの地を踏んだことはない。だが、一つ一つの道路、街角はもう目を閉じても迷うことはない。浜岡はいつの間にか、クリードラン通りをゆっくりドライブしていた。オーツスマン通りを行くと、右側にオペラ座が見え始める。――そう、今日はシャンティの森に足を延ばしたくなった。オペラ座の前を左折すると、サンラザール駅が見える。クリシー通りを北へ……
「ボンソワール――どうだい。相変らずだな」
浜岡が目を上げると、がっしりした身体つきの男が前に坐《すわ》っていた。
「やあ、金潟《かながた》さん。気が付かなかった――」
浜岡は地図を畳み、照れくさそうに笑った。
「遠慮するなよ。シャンゼリゼー通りも、雪だろうか?」
いかつい顔の割には、細い優しい目をしている。短く刈った髪に、白髪《しらが》が目立った。
浜岡と同じように、帽子をテーブルの下に突っ込み、手袋を脱ぐ。きつね屋のおかみが、金潟の前に湯呑みをそっと置いた。金潟はちょっとあたりを見廻《みまわ》してから、背を丸くして、半分ほどをごく静かに、しかもひと息に飲んだ。浜岡の茶とは、温度が違う。金潟はほっと息を吐き、湯呑みを大切そうに両手で押える。
「金潟さんも、相変らずだな」
すぐには返事ができない。喉《のど》の奥にまだ芳香が残っているからだ。
「――うまいな」
今度は金潟の方が照れくさそうに笑い、浜岡をちらりと見て言った。
おかみは金潟の傍《そば》を離れている。金潟の儀式がまだ終らないからだ。金潟は湯呑みを両手で弄《もてあそ》び、きっちり五分かけて飲み干す。その時間を見計らい、彼女はそっと傍に寄って、盆の上に空になった湯呑みを取り上げる。ここで金潟は煙草に火を付け、初めて背筋を伸ばし、壁の献立表を見渡して気に入ったものを誂《あつら》えるのである。それまではめったに口をきいたことがない。
「てんぷら定食――」
「あら、今日は気が合いますこと」
おかみは響のよい声で誂えを奥に通した。
きつね屋の料理はありふれたものばかりだ。ただ、裏道に車を置ける場所があった。だが、金潟が十一時前後になると、定《き》まってこの店に姿を見せるのは、おかみがいつも特製の「茶」を運んでくれるからである。
金潟が酔って事故を起したことは、一度もない。飲酒運転で捕まったこともない。金潟には特別な本能が具《そな》わっているらしい。酒を飲むと、交通巡査のいる道が判《わか》るという。万が一捕まったとしても、きつね屋の名は海老責《えびぜ》めに会っても口に出さないだろう。おかみもそれを固く信じているのである。金潟に言わせると、少量の酒は運動神経が機敏になり、注意力も増加するそうである。
「若いのによく稼《かせ》ぐって、会社じゃ評判がいいぜ」
金潟は世辞を言った。浜岡は大切そうに地図をポケットにしまった。
「若い人は羨《うらや》ましいな。夢があるからなあ。俺《おれ》だってよく働く方だが、好きなことをしようとするためじゃない。帰りゃ五人の子供が待っているんだ。金なんぞいくらあっても、片端から消えてしまうよ。どうだい、そうとう溜まったろう」
「金潟さんの思う程じゃありませんよ」
あとひと息なのである。だがこのことは誰《だれ》の前に出ても、おくびにも出さなかった。
金潟は別のテーブルから、油のしみの付いた新聞を取って拡げた。
「嫌《いや》なものが流行《はや》っているな」
浜岡はまだ夕刊を見ていなかった。
「また、タクシー強盗ですか?」
「うん。――ほう、昨夜はブラザータクシーがやられている」
二、三か月前から、質の悪いタクシー強盗が続出していた。被害は十件以上にものぼり、中の一件では犯人に抵抗したと思われる運転手が、ハンマーのようなもので撲殺されていた。強盗殺人事件である。手口はどれも同じであった。犯人は都心でタクシーを拾い、郊外に走らせる。人気《ひとけ》のない横道で止めさせると、いきなりハンマーや鉄パイプで後ろの席から襲いかかるのである。重傷が六人、殺人が一件。犯人は被害者を車から投げ出すと、被害者の車を使って逃走する。乗り捨てられた車からは、いずれも金品が奪われていた。犯人は学生風とも、ヒッピー風とも言われている。ある被害者の話では、俺は巨界党|荒鷲派《あらわしは》の一員であり、党資金調達のためだと、幕末の志士を真似《まね》た台詞《せりふ》を吐いて、嘯《うそぶ》いたという。ただし、警察の捜査では、巨界党の根城は突き止められたものの、十数人の党員は荒鷲派なるものについては、何一つ知るところがなかった。
事件は単純だが狂暴であった。ただ奇妙なことに、犯人像がすっきりと浮んでこない。被害者の犯人に関する証言が、まちまちだからだ。一人の印象では痩《や》せた男であり、他の証人は中肉だったと言う。髪が長かったとも、短かったとも言われる。ただし、犯人の手口はいずれも同じであるため、捜査本部では同一犯人の犯行とする思考を崩さなかった。
「いったい、どれほど、俺たちが稼ぐと思っているのだろう。頭のねえ畜生だ」
金潟が怒るのも無理はない。高の知れた金を盗《と》って、殺人罪を犯してもつまらぬだろうし、殺された方はもっと割が悪い。
「今日は何の日ですか?」
浜岡も強盗のことを思い出して、嫌な気分になって金潟に訊《き》いた。金潟も気が付いて、新聞をひっくり返した。
「――十二月二十八日、一白赤口《いつぱくしやつこう》、火曜日だ。――昨日は確か大安だったぞ」
タクシーの運転手は、自然に暦には敏感になる。大安の日には結婚式の客が多く、友引には葬礼の客が少ない。
タクシー強盗には妙な癖があった。迷信家らしいのである。四、九のつく日、十三日の金曜日、仏滅などは犯行が行われていなかった。このことを最初に見付けたのは週刊誌の記者で、その記事の見出しは「凶の吉日」とあった。
押し迫った年の瀬、強盗は今頃《いまごろ》、雪でタクシーの稼ぎが多いと睨《にら》んでいるかもしれない。犯人が学生やヒッピーだったら、当然ボーナスも出なかろう。暦によると強盗にとって悪い日ではない。今夜強盗が現れても不思議ではないのだ。
「つくづく、こんな日は休みたいよ。若い者はさっさと帰って行くぜ。だが六人も子供がいるとなあ――」
金潟は少し酔うと、子供の人数がだんだん多くなるのである。
金潟の前に定食が運ばれた。丼《どんぶり》の陰にさっきの湯呑みが新しく置きなおされている。ただし、これ以上はいくら手を合わせようが、おかみは取り合わないことになっている。
金潟の顔にちょっと赤みが差すと、言葉付きが元気を取り戻した。逞《たくま》しい身体には、その方がよく似合う。
「へん、ヒッピーだかヘッピーだか知らねえが、そんな奴《やつ》に負けてたまるかってんだ」
低く、どすの効いた声になった。
「仲間の仇討《あだうち》だ。反対に撲り倒してやらあ。正当防衛さ。殺したって、構わねえんだろう?」
「そりゃそうですがね。僕は強盗に会わない方に願いたいですよ」
「何でえ。だから今の若い奴はびったれだてんだ」
威勢はいいがときどき生まれ故郷の方言が出てしまう。
「金潟さん気を付けて下さいよ。命あっての物種《ものだね》ですよ」
「なんだ、といちがいると、命が惜しくなるものか」
「といち、って、何です?」
金潟は湯呑みの中の最後の一滴を、ちゅっと音をさせて吸い込んだ。
「アムラーって、ことよ」
浜岡は食事を済ませると、立ち上った。
二人の悪い予感は実現した。きつね屋で二人が別れてから、一時間半ほど経《た》ってからである。
小雪は降り続いている。寒くはない。車の上には薄く積もっていたが、車道に落ちた雪はすぐ消えていた。金潟の車はすぐ判った。フロントガラスの端に、黄色い猫の人形がぶら下っているからだ。
浜岡はきつね屋を出ると、すぐ客を拾い、新宿《しんじゆく》に向った。三角形の顔をした洋装の老婦人で、小さな銭入れをしっかり握りしめ、メーターが上るたびにびくびく身体を動かしていた。あとは酔客。年の暮の、例年毎の習いだ。浜岡は新宿、六本木《ろつぽんぎ》、銀座《ぎんざ》などの間を、かなりこまめに稼いだ。乗車拒否もいとわない。金を溜めるには溜めるだけのこともしなければならない。最後の客は西荻《にしおぎ》で拾った。
「水所《みどころ》まで、頼むよ」
水所というと、調布《ちようふ》の先になる。浜岡はハンドルの上に腕組をして考え込んだ。
客は酔っており、肥った初老の男である。強盗の憂はないが、もう十二時を過ぎている。メーターどおりの料金では面白味《おもしろみ》がない。客は浜岡の心を見抜いたのか、
「悪いようにはしない」
そう言うと、内ポケットから大きな財布《さいふ》を引き出した。浜岡は紙幣を見ながら、ドアを開けた。
浜岡は慎重に車を運転した。客は陽気で、軍歌を続けざまに歌った。ひと区切りつくと、今度は浜岡のつけていたFM放送に耳を傾け、ラジオとシャンソンを合唱した。「パリの屋根の下」「ラセーヌ」「トレミーより」「ブン」……
「おう、いいなあ」
彼は目を輝かせ、バブルトレミーは天才だと叫んだ。ラジオのシャンソンが終ると急に静かになった。浜岡がバックミラーを見ると、子供のような顔をして寝ていた。
下堀《しもぼり》有料道路を過ぎ、市道G号線に入ると、道はまっすぐになる。行き交う車もぐっと少ない。右側は畠《はたけ》が拡がり、畠の向うは多摩《たま》川の堤《つつみ》で、ときどき上を走る車のライトが小さく見える。左側はまばらな木が黒く立ち、規則的にG号線に交わる傍道は車の通行がないとみえどの道も白く雪が積もっている。
市道G号線のはずれに、市営水所団地の灯《ひ》が見え始める。団地の入口で浜岡は車を止め、客を起した。客は真っ赤なカーテンのかかった二階窓を指差し、あすこだと言った。
客は料金を払うと、まっしぐらに階段を駆け登った。赤い窓の奥から、きゃっきゃという女の嬌声《きようせい》が聞えた。女の声に交って、男が大声で「パリの屋根の下」を歌いだした。自分の住いではなさそうだ。娘とも違うようである。妾宅《しようたく》にしては大変|辺鄙《へんぴ》な団地というのがおかしい。運転をしていると、ときどき得体《えたい》の知れない客を乗せることがある。浜岡はしばらく、真っ赤な窓を見上げていた。
得体の知れない客といえば、水所団地を出かかったところで、彼の車に手を上げた男もその一人だった。
その男は奇妙なことに、雪の降る中をワイシャツ姿で颯爽《さつそう》と歩いていた。背の高い男で、小脇《こわき》に黒い物を抱えている。
車を止めるかなと思い、男の脇《わき》を徐行してみたが、その気はなさそうだった。だが通り過すと、その男はぼんやりと車を見送っていたが、いきなり片手を振り廻《まわ》して追い駆けてきたのである。足は物凄《ものすご》く速い男だ。どうやら、空車だと判断するまでに時間がかかったらしい。
行先を聞くと、浜岡の戻《もど》る方向である。今日は付きがいいなと思った。客は強盗の印象とは程遠い、意外に目鼻立ちの整った、貴公子とでも言いたい男で、シャツ姿で駆けて来たところは、逃げて来た間男《まおとこ》という役所《やくどころ》であった。彼は席に落着くと、抱えていた物を解き始めた。それとなく見ると、きちんと裏返しに畳まれた、黒に近い濃い焦げ茶の背広である。雪に濡《ぬ》らすのを恐れて、小さくして抱えていたものとみえる。背広を解きほぐすと、中から黒い鞄《かばん》が出てきた。客は鞄を傍に置き、服をきちんと着ると、ゆったりとシートに背をもたせた。
ラジオは中里《なかさと》ララの歌謡曲を流していた。少し錆《さび》のある声で流行曲「命知らずの恋」である。浜岡はふと金潟を思い出した。金潟は中里ララのファンだった。高音にかかると、特徴のあるかすれ声になって、そこが何とも言えないのだそうだ。金潟もどこかで「命知らずの恋」の特集を聞いているだろうか。
客もこの歌手が嫌《きら》いではないらしい。指が鞄の上でリズムを取り、口元にかすかな笑みが漂いだした。
※[#歌記号]どうしてあなた そこにいたの
ベニモクセイの香りのためね
どうしてあなた わたしを見たの
わたしの目元のほくろのせいね
どうしてあなた 語りかけたの
わたしの唇《くち》が震えたためね
どうしてあなた 淋《さび》しそうなの
月とワインとギターのせいね
命知らずになったわたしは
あなたの心を覗《のぞ》いたせいです
――市道G号線を中ほどまで来たときである。ヘッドライトの中に、突然人間が現れた。車に向って両手を高く上げている。
「命知らずめ!」
浜岡は思わず叫び、あわてて急ブレーキをかけた。浜岡の後ろでがたんと鈍い音がした。バックミラーを見ると、客がいなくなっている。気の毒に急ブレーキで、座席から転げ落ちたと見える。
車道に跳ね出した男は、ライトの中を飛び退《すさ》って、車の横に廻《まわ》ると窓ガラスを叩《たた》いた。浜岡がむっとして見ると、男はガラスに顔をすり寄せた。
「――金潟さんじゃありませんか」
浜岡がびっくりしてドアを開くと、雪と一緒に金潟が転がり込んだ。雪はみぞれに変っていた。顔が真っ青で、いつも細い目が、丸く恐怖にひきつった。
「どうしたんです?」
「やられた――」
金潟はごくんと喉《のど》を鳴らした。
「強盗?」
「そう、ひでえ目に遭った。は、浜岡君の車だとは思わなかった。助かった。す、捨てる神あれば拾う神ありだ……」
「怪我《けが》は?」
「ない。様子が怪しかったからね、気を付けていたんだ。奴《やつ》がスパナを振り上げたところで、車から跳び出した」
「そりゃ、よかった。追って来ませんでしたか?」
「振り返って見る閑《ひま》はなかったよ」
「どこでです?」
「G号線を水所に向って、左に入ったところ。すぐそこだ。畜生め――」
「行ってみましょうか」
浜岡はさっき金潟が若い奴はびったれだと言ったのを思い出した。
「いや、危険だから止《よ》した方がいい。それより、警察が先だ」
後になって判《わか》ったが、この処置は正しかった。
「下堀有料道路のトールゲイトまで出ないと、電話がないでしょう」
「そうだ。家をうろうろ探すより、その方が早い。頼むよ」
浜岡はバックミラーを見た。転がった客がのそのそ起き上っている。浜岡がギヤを入れると、客はすとんと座席に尻《しり》を落した。
「お客さん――」
浜岡はまた気の毒になって、客に声をかけた。
「お聞きのとおりです。これから警察に通報しなけりゃなりません。もしお急ぎでしたら、他の車にお乗り替え願えませんか」
「他の車――ですか」
客の顔も血の気が引いていた。見かけによらず、臆病《おくびよう》らしい。
「この時間、他の車など拾える当てなどありますか。もし車から出たところへ、その強盗が追って来たら、どうします。よろしいです。急ぎませんから、一緒にいさせて下さい」
「す、済みませんです」
金潟が後ろを向いて言った。
「で、そのメーターですが」
怖がっている割にしては、計算高いところもある。
「じゃ、これまでの分だけいただきます」
浜岡は金額を読んでからメーターを倒した。浜岡も商売は忘れていない。
「……ところで、弱ってるんだ」
金潟が浜岡に口を寄せた。
「――臭《にお》うか?」
浜岡は鼻を動かした。
「――ちょっと、ね」
「困った……」
それは困るのである。いつもなら警官を避けようとするのに、今は警官に会おうとしている。浜岡はフランス人から貰《もら》ったコニャックがあるのを思い出した。
「お客さん」
浜岡は大きな声を出した。
「いろいろなことを言って済みませんが、飲めますか?」
「水でも?」
怖ろしさでこちらの意味がすぐ飲み込めないらしい。
「水じゃありません。お酒ですよ」
「まあ、飲めないこともないでしょう」
他人事《ひとごと》のように答える。
「助かった。実はこの人が、少し前きつね屋でちょっと飲んでいるんです。万一警官の前で臭うと工合《ぐあい》が悪い。お客さん一杯やって、この人の隣で、酒臭くなっていてくれませんか」
「タクシーで一杯|奢《おご》られるのは、生れて初めてです」
「こちらもお客さんに奢るのは初めてです」
浜岡は座席の下からコニャックの瓶《びん》を取り出した。金潟が客に手渡す。
「肴《さかな》がなくて気の毒ですが」
「なに、何もなくとも、飲めるです」
客は栓《せん》を抜いて、いきなりラッパ飲みすると、むせ返った。
「こ、こりゃ何です?」
「コニャックです」
「そうでしょう。口の中が火のようになった」
「大丈夫ですか?」
「もう大丈夫。このところ、しばらく飲めませんでしたので。やあ、マーテルの青じゃありませんか」
客はそう言うと、続けて瓶に口を付けた。律義《りちぎ》な性格なのか、根っからの酒好きなのか、よく判らない。
車はすぐに下堀有料道路のゲイトに到着した。三、四分後、何台ものパトロールカーが、雪の中を忍者のように到着した。
「じゃ、早速現場に御案内願えませんか」
古びたコートを着た刑事だった。三日月形の顔が陽焼《ひや》けしている。目に凄味《すごみ》があるが、口のきき方は気味悪いほど、丁寧であった。
金潟が手短に事情を話すのを聞き終らぬうちに、そう言って浜岡の車に乗り込んだ。
金潟の隣に立って、コニャックを抱えながら、はあはあ息をしていた客も、急いで刑事の隣にすべり込む。刑事は不審げに客と酒瓶を見比べて、
「あなたは?」
「ぼ、僕は最初からこの車に乗っていた客です。お勤め御苦労さんです」
「さっきから、変にはあはあしていますね」
「――少し、風邪気味《かぜぎみ》でして。どうです、寒いですから一杯やりませんか?」
「大きに――いや、勤務中ですから遠慮します。で、あなた方三人が強盗に出会ったわけですか?」
金潟が振り返って答えた。
「いや、襲われたのは私だけです。別の車に乗っていたのです。新宿から乗せた若い男が、変な道で停車を命じました。おかしいと思っていると、バックミラーにその男がスパナを振り上げるのが見えました。私はそのまま車を捨てて逃げ出しました」
「そりゃ、とっさに敏捷《びんしよう》なことでした」
「G号線に飛び出し、向うから来た車に助けを求めました。それがたまたま、浜岡君の車だったのです」
「地獄に仏だったでしょう。その客を乗せるときは変だと思いませんでしたか」
「別に――交通安全の立て看板の傍に立って、手を上げていただけです」
「いや、その新宿から水所というと、ずいぶん遠乗りでしょう。タクシー強盗が頻発《ひんぱつ》しているのを承知の上でですか」
「そ、それは――あの男が最初に、チップをくれたものですから」
「なるほど。新手ですよ、そりゃ」
「まさかと思ったのです。私は子供が多いので、つい」
「なに、気にすることはありません。この御時勢ですから。で、男の顔は覚えておいでですか?」
「覚えています。私を狙《ねら》った目は、いたちみたいに陰険ですばしこかった――」
「そりゃ有難いですよ。今まで、はっきりした手配写真が出来ないで、困っていたところです。他に気づいた点は?」
「背広を着て、赤いネクタイをしていました。煙草をよく吸う男でした」
「観察が細かいですね」
「あ、浜岡君、ちょっとスピードを落としてくれないか」
市道G号線の中頃《なかごろ》にさしかかっていた。金潟は身を乗り出し、フロントガラスに顔を寄せて外を見守っている。七、八十メートルおきに左折する脇道《わきみち》があり、どの脇道も同じように雪が積もっている。そして、何本目かの脇道に近付くと、金潟は車を止めさせた。
「ここです――」
その道は、今までの脇道と同じような、平凡な道であったが、道の上には、くっきりと黒いタイヤの跡が残っていた。
「あなたの、車の跡ですね」
「そうです」
刑事は大きな懐中電灯を取り出すと、車のドアを開けさせた。酒瓶を抱えた客を外に押し出し、自分も外に出て、しきりにタイヤの跡を照らして見る。後続のパトカーも止まり、何人かの警察官も外に出て来た。
タイヤの跡に平行して、一組の足跡が見える。足跡は道の奥から続いているようだ。雪道の上はみぞれが降りかかり、足跡は崩れかけている。
「間違いありません。私の足跡です」
金潟がドアを開けて言った。
「この先、三、四百メートル先で襲われました」
「ゆっくり走らせてもらいましょう」
刑事は珍しそうにタイヤの跡を見ている客をうながし、車に乗りこんだ。
浜岡はタイヤの跡を追って車を左折させ、脇道に乗り入れた。そのままタイヤの跡を静かに追う。しばらく行くと、道の向うに、黒いものがヘッドライトの光の中に浮び上った。
「車が残っている!」
金潟が低く叫んだ。
「どうしましょう」
浜岡が刑事に訊いた。
「もう少し近付きましょう」
浜岡はヘッドライトを止まっている車に当てるようにして運転した。近付くにつれ、車の形ははっきりしてきたが、奇妙なことに向う向きになっている車の形が対称ではない。車の右側に何かが飛び出しているようだ。
「止めて――」
刑事の声の調子が変った。
「ライトは消さずに。金潟さん、車のナンバーが読めますか?」
「読めます」
「あなたの乗っていた車ですね」
「間違いありません」
「あなた方は、車から出ないように」
そう言い残して、刑事は車の外に出、後のパトカーに手を挙げる。
「まだ犯人が残っているのでしょうか」
浜岡は刑事の素振《そぶ》りに異常なものを感じて、窓ガラスを下げて外を窺《うかが》った。人の動きが慌《あわただ》しい。無線連絡の声がひっ切りなしに聞える。
「強盗の犯人なら、車の中に半分残っているようです」
後で客が言った。
「しかも、殺されて」
「まさか!」
金潟が大声を出した。
「殺されるのは俺《おれ》の方だった」
「でも、よく御覧なさい。車の右のドアが開いているでしょう。そして、車の中から引き摺《ず》り出されるようにして、頭を下にして転がっているのは、確かに男の人ですよ」
「そんなばかな!」
「ちょっと待って下さいよ」
客は持っていた黒い革を開けてカメラを取り出した。あまり器用そうでない手付きで、レンズを取り替える。交換が終ると、しきりにファインダーを覗《のぞ》いていたが、
「三百ミリの望遠ですから、顔の表情までよく見えますよ。確かに死んでいるようです。うはっ、ち、血が流れてる……」
客は戻しそうな顔になり、金潟にカメラを渡した。金潟もあわててファインダーを覗く。
「――そうだ。あの男だった。間違いはない。だが、どうして?」
浜岡も客のカメラで現場を見た。
車は浜岡のと同じで、紺色の車体の上に雪が積もっている。ルームランプはついたままで、車の中には人のいる気配がない。そして客の言ったとおり、右側の運転席のドアが大きく開かれ、男の上半身が転がり出ていた。頭部は血まみれで、長い髪がぼろ屑《くず》のようだ。鼻からも血が吹き出して、瞳孔《どうこう》が中央に寄っていた。ねじ曲った背中にみぞれが降りかかり、変った柄の赤いネクタイが投げ出された腕にからみ付いている。その腕の傍に太いスパナが転がっているのが見える。スパナの頭部は血のようなものがこびり付き、これが凶器と思われる。車の周囲にはいくつもの足跡が入り乱れていた。
「変だとは思いませんか?」
客がのろくさと言った。どうやら、酔いが廻ってきたようだ。
「車の回りにはいくつも足跡が見えるでしょう。けれども、車からG号線に出ている足跡は、一組よりありません」
「そうだ。あれは俺の足跡だが、それがどうかしましたか」
金潟が変な顔をして言った。
「よく考えて下さいよ。そうすると、あのタクシー強盗を殺した犯人は、この道の向う側から来て、向う側に逃げて行ったことになるでしょう。逃げるとすれば、G号線に出るのが近道ではありませんか。あの道に出てしまえば、足跡だって残さずに済みます」
「犯人に何かの都合があったのだろう。そんな犯人の心など判るわけはない」
「いや、僕は車の向う側に足跡やタイヤの跡があればということを言っているんです。ここからでは、車の向う側のことが判りませんからね。だが、車の向う側にも足跡はないかもしれない」
「ないとすると?」
「犯人は空中から飛んで来てあの強盗を殺し、また空中に飛び去ったのでない限り、強盗を殺すことができた人は――」
「俺しかいないじゃないか!」
金潟は客から自分の立場を教えられて、あわてだした。
「変なこといわないで下さいよ。俺はただ逃げ出しただけなんだ」
「でも警察は他に足跡がないとすると、あなたが逃げ出す前に強盗と争って――」
「嘘《うそ》だ!」
金潟は狼狽《ろうばい》しドアに手を掛けた。ドアの傍に、いつの間にか制服を着た警官が、ぴったりと付いていた。金潟はドアから手を放し、きょろきょろあたりを見廻した。
「気を落着けたらどうですか」
客が金潟にコニャックの瓶を差出した。
「もう車を運転することもなさそうだし、その方がきつね屋の酒の臭いも消えるし、飲酒運転で捕まることもなくなるでしょう」
だが、殺人容疑で捕まりそうではないか、と浜岡は思った。
金潟は太い腕を出してコニャックを受け取ると、瓶に口を付けた。
車を遠巻きにしていた警察官たちは、車外の現場検分が終ったと見え、一斉《いつせい》に車に近寄ると全《すべ》てのドアを開け放した。
「中には誰も隠れていません」
と、客が言った。
屍体が検査され、車のトランクが開けられた。トランクの中が丹念に調べられる。
「キイは車に残していたんだ。何だってあんな所まで覗かなきゃならないんだ」
理由は誰にも判る。金潟の容疑が濃厚になったためだろう。
車の傍に立っていた警察官が、浜岡に車を道の傍に寄せるように命じた。浜岡が車を移動させると、後から来た黒い車が傍を通り抜けて、被害車の傍に止まった。ドアが開いて、中から腹の突き出た大男が現れた。それが車からはみ出したように見えた。
捜査官たちが大男の前に立って、熱心に何かを説明している。浜岡の車に乗っていた、三日月形の刑事の顔も見える。
「金潟さん?」
制服の警官が車の中を覗き込んだ。
「ちょっと出ていただきます」
金潟がしぶしぶ胴体を動かした。続いて浜岡も出ようとすると、警官は押し止めて、ドアを閉めた。
金潟は引き立てられるように、大男の前に連れ出された。何かを尋ねられ、手振りを交えて何かを説明している。そのうち、白い息が荒くなり、身振りが激昂《げつこう》してくるのが判る。
「変な雲行きになりそうだ」
浜岡は眉《まゆ》をひそめた。
「あの様子だと、車から出ている足跡は、金潟さんのだけらしい」
「そう、余分な足跡はなさそうです」
客の息はコニャックの臭いがした。浜岡の顔に、きつね屋での威勢のよい金潟の姿が、ちらりと浮んだ。
金潟はしきりに足元を見ている。警官たちが足跡を見比べているのだ。大男が何かを言う。金潟はしきりに首を振る。
「捕まりそうです」
客が言ったとたん、二人の制服の警官が、金潟の両腕を捕えた。金潟も大柄だ。腕を振り解《ほど》いて、大男に食ってかかる。だがたちまち警官に組み伏せられた。
パトカーに連行される金潟は、浜岡の車の傍を通りかかると、地団駄《じだんだ》して、
「俺じゃない、浜岡君、何か言ってくれ」
と、叫んだ。
浜岡がドアを開けようとするのを、別の警官が押し止める。
「助けてくれ!」
金潟はパトカーに押し込まれるとき、悲鳴に近い声を出した。その声を残して、パトカーは走り去った。
浜岡の車に大男が近付き、訊《き》きたいことがあると言った。浜岡は急いで外に出た。
「金潟さんが、何をしたというのですか」
浜岡は大男に詰問した。
「参考人として、もっと精《くわ》しい事情を聞かせてもらうため、御同行願いましたよ。この雪の中じゃ、お気の毒でしょう」
聞き取りにくいほど、細い声である。
「無理に逮捕された感じでしたよ」
「そりゃ思い過ごしでしょう。逮捕状のない限り、簡単に逮捕などできませんです」
そのとき、新しい車の音が聞えた。大男の傍にいた三日月形の刑事が目ざとく見付けて、
「部長、車の中がよろしいです」
「ほう、もう新聞社の方ですね。相変らず、お早いですな。では呉沢《くれさわ》君も御一緒に――」
二人とも、じれったくなるような言葉遣いだが、態度は有無を言わさなかった。二人は浜岡の車にかなりずうずうしく押入った。大男の部長の身体で、後部|座席《ざせき》にいた客が、潰《つぶ》されそうになった。
「あなたは?」
部長は客の顔と酒瓶を見比べた。
「僕はたまたま、この車に乗っていた、客です」
客は瓶に口をつけ、ひと口飲んでは、はあはあと言った。もう金潟がいなくなっていることを、忘れているのだろうか。
「おいしいでしょう」
部長はしきりに鼻を動かした。
「一杯やりませんか」
「こりゃ有難い。何しろ外は寒くってね」
部長は瓶を受け取り、ラベルを読んで首を傾《かし》げていたが、いきなり瓶に口を付け、ぐいと飲んだ。
「――こりゃ本物だ。呉沢君も検査してみますか?」
「む、無論です。私もさっきから気にかかっていました。マーテルの青だなんて」
二人の「検査」でコニャックが大分減った。客がはらはらしているが、返す気配はない。部長は客の手を退《の》けて、
「あなたの、お名前は?」
「あ」
「あ?」
「亜鉛の亜です」
「そりゃおかしい。ただ亜というのはないでしょう。あいさんとかあおさんなら話は判ります」
「ただ亜ではいけませんか?」
「いけなくはないが、妙でしょう。あいさんならよろしい」
「愛とも言います」
「それごらんなさい。私の言うとおりでしょう。ところであいさん」
「あい」
「警官をからかうものじゃありませんよ。あなたはどこでこの車を拾いましたか」
「水所《みどころ》団地の傍です」
「この夜更けにどうしました」
「水所団地の友達のところで飲み過ぎて遅くなりました」
平気で嘘を言う。
部長はコニャックを飲み、運転席の写真と浜岡の顔を見比べていたが、
「浜岡さん、あなたがG号線を走っていると、金潟さんが車の前に飛び出して、助けを求めたと聞きましたが、それに間違いはありませんか」
「そのとおりです」
「どの辺でしょう?」
「この近所だったと思います」
「どんな様子でした、金潟さんは?」
「いきなりヘッドライトの中に人間が現れ、手を振りました。急ブレーキをかけると、運転席の窓に飛び付きました。それが金潟さんだったのです。タクシー強盗にやられたと叫ぶので、そのまま車に乗せて下堀《しもぼり》有料道路のゲイトまで走ったのです」
「その間、金潟さんは何か喋《しやべ》りましたか?」
「客が暗い道で停車を命じるので、おかしいと思っていると、いきなりスパナを振り上げたので、そのまま逃げ出したと話しました」
「その他には?」
「ひどく興奮しているようで、多くは話しませんでした」
「少し酒臭かったようですが――」
「あれは、このお客さんが、落着くように一杯飲ませてやったのです」
「普段はどうです?」
「飲酒運転で捕まったことは一度もありません」
「でも捕まらないだけかもしれませんよ」
「金潟さんは酒好きですが、飲んで運転するということなどはないでしょう」
「性格はどうです。大分、腕っぷしが強そうですが、酔うと気が大きくなるとか――」
「それは誰でもそうでしょう。でも金潟さんは乱暴なことなど、しやしませんよ。真面目《まじめ》人です。家に帰ると子供が五人もいます」
「五人もですか。とすると、自分の身を守るにも必死になりますね」
「彼が、強盗を反対に殺したとでも言うのですか?」
「状況を考えるとね。よろしいですか、よくお聞きなさいよ。金潟さんの車の中には屍体《したい》が一つあった。あなたも見たとおりです。車の中には屍体だけで誰もいない。トランクの中も開けて見たのですよ。そして、この道には、あの車のタイヤの跡と、車から出た金潟さんの足跡だけしか残っていませんでした。結論は、誰が考えても同じです。強盗を殺したのは、あの足跡を残した人物です」
「……だが、あの足跡は半分解けかかっていて不明瞭《ふめいりよう》じゃありませんか。金潟さんの足跡とは言い切れない」
「ほう、では金潟さんは足跡も付けずにG号線まで鳥のように飛んで行ったとでも言うのですか」
「…………」
「友情はよろしいが、下手《へた》な庇《かば》い方はしない方がよろしい。その上、金潟さんの息は、確かにコニャックの臭いもしましたが、日本酒の臭いもしていたのですよ。私は酒にはちょっとうるさい方でしてね」
「現金は?」
「手が付けられずに残っていました」
「メーターは?」
「毀《こわ》れていました。多分、凶行のときに受けたのでしょう。他に御質問は? なければ、これからの言葉には充分注意して下さい。重要な証言になりますから。嘘などおつきにならぬがおためでしょう。で、ゲイトに着くまで、本当に金潟さんは何も言わなかったのですか? 私が強盗を撲《なぐ》り倒したなどと」
「――そんなことは聞きませんでした」
「あいさんと言いましたね。あなたは?」
部長はコニャックを口飲みし、太い手で瓶の口をぐいと拭《ふ》いてから亜に返した。
「――ぼ、僕も聞いていません」
「あなたまで、義理を立てることはないでしょう」
部長はポケットから銀のシガレットケースを取り出すと、蓋《ふた》を開けて亜の前に差し出した。白い煙草がきちんと並んでいる。亜は指を伸ばして、中頃《なかごろ》の一本を抜き取って口にくわえた。部長がライターを取り出す。
「おや、どうしました」
亜が白い眼《め》を出して、倒れそうになったのである。部長が腕を伸ばした。
「つまり――この道は」
亜は坐《すわ》りなおすと、煙草を捻《ひね》り廻した。
「それは道じゃありません。煙草でしょう」
煙草も判らぬほど、急に酔いが廻ったのだろうか。
「それに――なぜ強盗がきつねのようでなく、いたちみたいに陰険だったのですか?」
「なんですって?」
「ちょっと見て来ます」
亜はいきなりドアを開けて外によろめき出た。
「どこへ行きます!」
部長は追おうとして狭い座席でもがいた。車体がぐらぐら揺れる。
「この道の入口です」
「行ってどうするんです」
「いたちの足跡を見付けなければ――」
部長と呉沢刑事は顔を見合わせた。
「何があるかしれませんが、行ってみましょう。私はもともと酔払いの頭の働きを、そう低くは評価しないんです」
浜岡も続いて外に出た。証人としては当然何かを思い当ることがあるかもしれない。
道は自動車と、警察官、報道記者やカメラマン、それにいつもの精力的な野次馬などで真昼のような騒がしさである。制服の警察官が道を開け、四人を通した。ライトがつき、アイモが廻る。警察官の間でとろんとした顔の亜が犯人だと思ったのだろう。早呑《はやの》み込みをして罵声《ばせい》を飛ばす者もあり、中里ララの「命知らずの恋」を歌っている者もある。
G号線に突き当ったところで、亜は地面に積もった雪の上を、一心に見渡した。
懐中電灯を持った呉沢刑事に、あすこを照らせ、ここを向けろと注文する。
「あまり電灯を動かさないように。目がちかちかするじゃありませんか」
「目がちかちかするのは、酒のせいでしょう」
呉沢刑事は頬《ほお》を脹《ふく》らして、
「いったい、何があるんですか」
「ところが、何もないのです」
「ない?」
「石もないし枝もない。何もないから奇妙なのです」
亜は酒の瓶で、楽団の指揮をするように動かした。
「強盗はどうしてこの道を選んだのでしょう?」
「人気《ひとけ》のない道だったからでしょうね」
「人気のない道は、他にいくらでもあります。なのに、何もないこの道をどうして曲がる気になったのですか?」
部長の目が、きらりと光った。亜はみぞれの中をG号線に出、水所に向って歩き出した。三人は異様な気分に襲われ、無言で亜の後について行く。
次の脇道に出ると、亜は足を止めた。だがこの道には亜の捜すものは何もない。解けかかった雪の道が続くだけである。亜はその道を横に見て、先を急ぐ。
そして、二番目の脇道に近付く。亜は道の入口に立ち、ちょっとあたりを見廻したが、いきなり踊り上った。
「あ、ありました!」
「何が見付かりました?」
「いたちの足跡です」
道と平行に、雪の上を点々と続く、黒い小さな跡が見えた。足跡の主はG号線を横切って、この道に飛び込んで来たようだった。
「動物らしい足跡は確かのようだが、犬や猫じゃいけないのですか?」
「きつねでも、むじなでもいけないのです。どうしてもいたちなのです」
部長は無理に逆らおうとはしなかった。道の上に、もっと興味深い跡が残されていたからである。その一つはタイヤの跡で、都合四本が地面に印されてあった。もう一つは道の向うから出て来た人間の一組の足跡――
「これが本当の、金潟さんの足跡です」
亜は酒瓶で足跡を示した。
「――そして、このタイヤの跡は、金潟さんの車が、この道に入り、また出て行ったときの跡でしょう」
「とすると?」
「そうです。この道の向うに、本当のタクシー強盗の現場があるのです」
「では金潟さんは、やはり――」
浜岡は思わず大声になった。
「そう、本当の被害者だったのです」
みぞれが強くなった。雪と足跡は、しだいに薄くなってゆく。部長の太鼓腹が波を打った。
「金潟さんが犯人でないとすると、本当の犯人は?」
亜は瓶の底の、最後のコニャックを飲み干していた。
「犯人は髪の短い、痩せたヒッピー風の男でしょう。もし、彼が鼻唄《はなうた》でも歌っているとすると、それは中里ララの〈命知らずの恋〉のような気がします」
背筋はまっすぐに伸びているが、上体はリサジューの曲線でも描くように揺れている。ひどく言葉がのろいのは、もう呂律《ろれつ》が廻らなくなっている証拠だ。刑事部屋の暖かさで、指の先まで酔いが廻っているようだ。
部長は大きなコップで、亜に何杯も水を飲ませた。亜はすなおな酔払いらしく、出されるだけの大量の水を次々に飲み込んだ。
部長と呉沢刑事、それに浜岡と金潟が、亜を見守っている。亜の話は往《い》ったり来たりしていたが、部長が少し強い言葉を出すと、話に筋道が立つようになった。
「――僕は一連のタクシー強盗の手口を、新聞で読んで知っていました。その手口は野蕃《やばん》な方法でした。強盗はどこでもいい、人気のない道にタクシーを止めさせ、いきなり後からハンマーなどで襲いかかるというものです。今夜の現場も、市道G号線付近が、その適当な土地だったのでしょう。ところが僕が気にかかったのは、強盗がなぜあの脇道を選んだか、でした。強盗がもし下見をしていたにしろ、なぜあの道が選ばれたか、それが僕にとって興味のある問題でした。刑事さんも覚えているでしょう。僕たちは一緒に金潟さんの案内で、強盗に襲われた現場へ赴いたのです。金潟さんは現場に戻るのに、一所懸命自分のタイヤの跡を捜していました。それも当然、G号線は直線であり、ほぼ七、八十メートルおきに直角に交わる細い枝道がありますが、そのどの道も同じように白い雪をかむり、心覚えとなるような目印が何もなかったからです。そんな特徴のない脇道が続く中を、強盗はなぜこの道を選んだのでしょう?」
「あいさん、それはさっきも言ったとおり、人気のない道なら、どれでもよかったのでしょう。強盗は適当に一つの道をでたらめに定《き》め、そこを左折させればよかった」
「でたらめに――ですか。ところが、人間というものは、面白いことに、全くでたらめに一つの物を選ぶことができにくい性格を持っているものです。例えば人はよく散歩しますが、どの道を歩いてもよさそうなはずなのに、いつも散歩の道というのは、だいたい定まってしまうものです。銀行預金の、現金引き出しカードの、わずかな暗号数字を定めるときも、でたらめな数字を選定する人は少ない。自分の生年月日や、電話番号をよりどころにするため、頭のよい犯人に暗号数字を簡単に推理されてしまうことがあります。僕は指名手配された殺人犯人のことを知っていますが、彼は全国いくらでも逃げるところがあるにもかかわらず、事もあろうに、一番危険な愛人の生地を選んで逃げていました……」
部長はシガレットケースを開き、亜の前に差し出した。亜はそれを見ると、目を丸くした。
「そ、そのシガレットケースが、僕の思考を動かすきっかけになりました」
「別に何ということのない、当り前なケースですがね」
部長はケースを透かして見た。
「さっきも、このようにして煙草を勧められました。煙草はケースの中にきっちり詰まっていた。僕は何気なくその中の一本に触れたのですが、ふと、どうしてこの一本を選んだのかが気になりました」
「あいさんは、でたらめに一本抜いたのじゃなかったのですか?」
「と思いましたが、よく考えるとそうじゃなかった。あの一本は他の煙草より、ちょっと手前にずれていたのでした。一本だけ不揃《ふぞろ》いで、目に立ったのでしょう。何気なく手を伸ばしたときには、無意識のようにそれを選んでいました。とたんに、ケースの中の煙草の列が、何本もの白い道に見えてしまったのです」
浜岡はきつね屋で地図を拡げ、パリの市街をドライブしていたことを思い出した。そうなのである。自分はなぜオーツスマン通りを左に曲がろうとしたのだろうか。あの時、右にオペラ座を見ていたのである。オペラ座が目に泛《うか》んだため、ふとスピードをゆるめて左折し、シャンティの森に足を延ばす気になったのではないか。オペラ座を見るという、ちょっとしたきっかけがなかったら、オーツスマン通りを曲がろうとはしなかった筈《はず》である。
――そして浜岡がきつね屋の壁に並んでいる献立表の中から、天ぷら定食を選んだのも、その文字が特に太く書かれてあったためである。つまり亜が部長のシガレットケースの中から、一本の煙草を無意識のようで実は自分に気づかぬほどの、わずかな理由のもとに選び出した心と同じであった。
浜岡はふと中里ララの歌を思い出した。――どうしてあなた わたしを見たの わたしの目元のほくろのせいね――
彼女にほくろがなかったら、目立たない女の子だったのではないだろうか。――どうしてあなた そこにいたの。でたらめに歩いていたわけではない。ベニモクセイの香りに誘われて、そこに立っていたのである……
亜は大きなげっぷを一つして、
「このように、人はでたらめに物を選ぶことが不得意なものです。例えば鼻唄ですが、何千という歌を知っている人でも、無意識に口に出して歌う歌は、でたらめに選択されたようで、そうではない。その朝、放送で聞いて、記憶に残っている歌であるとか、鼻唄が出る直前に耳にして、強い印象を受けた歌でありましょう」
「金潟さんが強盗に襲われたころ、ラジオは中里ララの〈命知らずの恋〉の特集を放送していました。金潟さんもあの番組を聞いていたでしょう」
浜岡の言葉に、金潟はびっくりした表情になった。
「そうだ。俺も〈命知らずの恋〉を聞いていた――」
「それで、犯人も鼻唄で〈命知らずの恋〉を歌っていたのですか」
「手間が省けて、大助かりでしたよ」
呉沢刑事は揉《も》み手をして言った。亜は煙草の煙を長く吐いて、
「僕の友達に、ネクタイを買う気でデパートに行ったところ、ネクタイ売場に並べられた膨大な量に目が眩《くら》んで、何も買わずに帰って来た人がいました。ところで、殺された強盗の服装を見ると、洒落《しやれ》た赤いネクタイなどしていて、自分で選んで求めた服装に思われました。こういう人は、でたらめに物を選ぶことが、普通の人よりもできにくいと思われます。その証拠には、彼は犯行日を選ぶにも四、九のつく日、仏滅の日などを避けているではありませんか。どの日でもよさそうに思われる結婚式の日取りのようにね」
「ですから、あの強盗が、なぜこの道を選んだかに僕は興味を持ちました。僕はもう一度G号線にまで出て、精《くわ》しく道の状態を見廻しました。ところが他の道に比べ、あの道に特徴のあるところは何一つ見当たりませんでした。目に立つ物は何でもよかったのです。ちょっと目立ったとか、大きく突き出ている木の枝の一本もあればよかった。それもないとすると、本当は、強盗が指定した道は、別の道じゃなかったのだろうかという疑いが起ったわけです」
「君は案外|強情《ごうじよう》な考えをする男ですね」
部長が感心して言った。
「ところで、金潟さん、もう一度あの男が、なぜあの道を曲がろうと言いだしたのかを思い出せませんか?」
金潟はしきりに首を傾《かし》げた。
「強盗の衝撃が強かったですからね。こうじゃありませんか。――車の前をいたちが横切ったのでしょう」
金潟はぽかんとして亜を見ていたが、急にはっとして、
「そうです。お客さんの言うとおり、あすこを左折する直前、ヘッドライトの中を、右から左へいたちが通り抜けたのです。私が思わずブレーキを踏むと、あの男も見ていたのでしょう、〈畜生、いたちめ〉と言い、すぐその道を左折するように指示したのです。でもお客さんはなぜそんなことを知っているんです?」
「あなたは強盗を形容するのに〈いたちみたいに陰険ですばしっこかった〉と表現したじゃありませんか。普通なら、いたちよりもきつねを連想する方が自然じゃありませんか。〈きつねのように陰険ですばしっこかった〉などがね。ましてあなたは、ちょっと前にきつね屋という食堂で食事をして一杯――いや、食事をしていました。きつねの記憶が新しいはずなのに、なぜいたちでなければならなかったか。この時も僕は鼻唄を歌うときの気持を思い出しましたよ。金潟さんはきっと、強盗に襲われる少し前に、いたちが車の前を横切るのでも見たのではないか、と」
「お婆さんが私に教えてくれたことがありました」
大きな部長が言った。
「いたちの道切りと言って、いたちが人の前を横切ると、不吉な前兆があると言うのです。あの男はそんな俗信を気にしたのでしょうかね」
「日を気にするほどの男ですからね。若い人ほど迷信深いのが多いのには意外ですよ」
呉沢刑事も相槌《あいづち》を打つ。
「金潟さんの車の前をいたちが横切ったのではないかという考えが起きたときには、金潟さんはもうパトカーで行ってしまった後で、本人に聞くこともできませんでした。いたちが横切ったのなら、足跡が残っているはずです。何台もの車で雪は踏み潰されていましたが、全てのいたちの足跡を踏み潰すなどということは考えられません。どこかに残っているはずですが、それが見当りません。こうして、強盗が指定した道は、別の道に違いないという確信が、ますます深まりました」
「お客さんがそのことに気が付くのに、あと十分も遅かったら、あのみぞれで、全ての雪と足跡はすっかり消えてしまったでしょう」
そうなれば金潟の逮捕も目に見えている。浜岡は金潟の顔を見なおして、身震いを感じた。
「それが犯人の付け目でもありました。おそらく犯人は、タクシー強盗の共犯を、あの男に強制され続けていることに、嫌悪《けんお》を感じていたのでしょう。あるいは分け前を独り占めにしたかったのか、または思想を束縛されるのが恐ろしかったのかもしれませんが」
「その、ほぼ全部だった。あの男から逃れるには、こうするより他なかったのだと告白しています。本当は気の弱い男なのです」
部長がそう教えた。
「犯人は金潟さんが逃げ去ったのを見て、車から外に出ます。そうして、雪がみぞれに変りだし、警察がこの現場に到着するまでは雪は消えないが、少したつと雪が解けてしまう状態であることを知ると、犯人にむらむらと一つの考えが起ったのです。あの男から逃げ出す方法です。あの男を殺して、その犯行を見知らぬタクシーの運転手に押し付けてしまう……」
「で、あいさんが強盗は二人組だと考えたのは、やはり金潟さんが、犯人はよく煙草を吸う男だったと証言するのを聞いたからですか? あれはきっと、二人分の吹かす煙だったろうと」
「それもあります。ですが、報道によると、一連のタクシー強盗の被害者たちの犯人に関する証言がまちまちだということが、前から気になっていました。一人の人は痩せた男だと言い、他の人は中肉だったと言っています。髪が長かったとも短かったとも言われているではありませんか。僕は犯人が二人組で、役目を交替に勤めていたら、この証言も納得できるなと思っていたところだったのです」
二人掛りでは敵《かな》わないと浜岡は思った。まして被害者は素手なのである。殺された運転手は、おそらく犯人を一人だと思って抵抗したのだろう。
「彼らの手口はこうです。まず、夜中、都心でタクシーを止め、一人が乗車するとき、運転手が気付かぬように、もう一人の共犯者を、座席の下にすべり込ませてしまう。この方法はいろいろあるでしょうが、今夜の場合だと、もう一人は交通安全の立て看板の後ろに隠れていて、赤いネクタイの男が金潟さんの注意を、不相応なチップの方に引き付けた隙《すき》に、車の中に入り込んだものと思われます。今まで、誰もこの手口に気づかなかったのは不思議なようですが、二人の演技がよほど巧みに行われていたのですね。運転手の注意を他の方向に引き付ける役、後の座席にもぐり込む役は、さっきも言ったとおり、交替で行われていたようです。そのため、警察でははっきりとした犯人の手配写真を作ることができませんでした。
「こうして車に乗り込んだ二人は、人通りのない、暗い道で車を止めさせ、いきなり凶行に及ぶのです。もし運転手が反抗したら、二人掛りで襲いかかる。多くの犯行の中で、今夜は最も楽だったかもしれません。運転手はスパナを見ただけで逃げてしまったからです。共犯者は座席の下から身を起し、外を見る。ところが、解けかかった雪の上に残された、金潟さんの足跡を見ているうちに、自分が赤いネクタイの男から逃れる方法を思い付いたのです。いつもこのことが頭の中にあったのでしょう。犯人は凶暴で厄介《やつかい》な主犯を殺し、その罪を金潟さんになすり付けてしまう計画を、実行に移しました。
「犯人は仕事が一段落し、現金を奪う方に気がいっている主犯の後ろに廻り、用意してあった自分の凶器で殴打します。主犯はそのまま昏倒《こんとう》したでしょう。次に犯人はメーターも毀《こわ》してしまう。車をもう少し走らせる必要があったからです。万一、金潟さんがメーターを覚えていると都合が悪い。犯人は金潟さんの車を運転し、市道G号線に出ると、二、三百メートルばかり下堀有料道路に向って車を走らせます。適当なところでUターンをし、今度は反対に水所に向う。けれども、また現場に戻るのではありません。現場から二つほど手前の傍道を左折し、現場とほぼ同じ距離を進んだところで車を止めます」
「左側の道には、どれも記憶に残るようなものは何もなかった。俺は自分の車の跡を見付けて辿《たど》るしか現場に戻るてだてがなかった」
金潟は角張った顔を歪《ゆが》めた。
「金潟さんの見付けたタイヤの跡は、実は犯人が付けたものでした。あと、犯人は被害者を車から蹴転《けころ》がし、そこがタクシー強盗の現場らしく見せるのが仕事でした。被害者の凶器は始末し、自分の凶器を転がしておく。指紋は消したかどうかは知りませんが」
「今や常識でね。指紋は消してありましたが、犯人が吸ったと思われる煙草の吸殻《すいがら》は車の中に残されていました。有力な証拠品となるでしょう」
呉沢刑事がまた揉み手をした。
「最後に犯人は、自分の足跡を残してG号線に出て、逃げてしまえばよかった。警察の到着までにはその足跡がみぞれで消えかかり、金潟さんのものか犯人のものか見分けが付かなくなることは計算に入れてありました。そして現場検証の済む頃には、本当の現場の雪も消えてしまうこともです……」
呉沢刑事が受話器を置いた。
「部長、犯人は自白なさったそうです」
「おお、そうですか」
部長は椅子をきしませて立ち上った。そして鼻唄交りで部屋から出て行った。その歌が中里ララの〈命知らずの恋〉であることは、浜岡が耳をそばだてなくとも、すぐに判った。
第六話 掘出された童話
もりのさる おまつり の
やまみち ほい やまなみ よお
おさるがね くさはらを はねだし はしるよ
あの つずみふえ
ひょるるり ぽんぽうん ぴぴ とぴい とね
もりのさる まってた あきぞらの
やまのおく やまびこの
たのし いな もりのさる
さあみんな おおいみな ささあつま れよ おお
もりのさる ゆめにも おまつり みていたよ
こすずめも たぬきよ さあ きみたちも
ねずみ もぐら むじな ねこ
たぬき がね いいあたま ひねるよ
さ むじなよ もりのさる
のはらや みちべを あるくより
おいらが どろんと きりんに ばけるから
みな しっかり のるのさ
ドロロロ ロロロン つかまれよ そら のるぜ
あののはら あのぬまを
とぶよう めがまわる やのよう
せなかから もりのさる するりと おちたぞ
たいへん むじなも そらおちる
うは なむさん こねずみ どすん
きあ それおちる うは あは
おおいみな みな おるか
だめだなあ たぬめは あほくさい
おまえはね まず だめなのさ
まぬけさ あわてめ どあほう
へい それならば かってに のるくさ さるとゆけ
ぱぱ ぱっ たぬきはさ
ぴかぴかの ゆうほお なの
まるいめを する みなに
もりのさる はげまして
もおすぐよ さみな
どたぬきの ゆうほお なんかは だめ
ゆくのよ みなよ
やあ ほお
ちがおどる おみこし とおるよ
おどるのよ はながさ はちまきも
みよ どんどこ ぴいぴい どんぴいぴ
かっぽれよ おかめの てがおどる
まめ すしおそば てんぷらよ
めを まわせ おみきだ さあみんな
さけは うまいな おみき こぼすなと やあ
もりのさる おみきも がばがば のんだね
ほおがあか
さるまね おどる ほい
さるおどり うまいのよ
てとあしを おにあわせ めはなも うごく
あき やまみち かったぞ たけぶえ
ためしよ ふいてみた
ぼ ぼぼ おさるさん
おやこれ へんだぞ めのよう
このあな めのよう にらむわな
もりのさる あまりに みょうで そのあなに
おれ ささのは なすると
ああらまあ きゆるふえ
たぬきがね しっぽだす
あきれた また はめられ たぬきにね
さるはね よる みたゆめ かっぽ れの ゆめ
一荷聡司《いちにさとし》は、面白《おもしろ》い玩具《おもちや》に出会った。
それは透明なガラスで作られた、綺麗《きれい》な正方形の小箱で、ガラスの中央に銀色の髑髏《どくろ》が笑っていた。その小箱を、机の上に置いて見ていると、だんだん髑髏の形が崩れだす。みるみる顔の表情が悲しそうになり、口もへの字になって、しまいにはガラスの中に溶けるように髑髏の形が消失してしまうのだ。
奇蹟《きせき》に会った、と一荷聡司は思った。小箱にいくら目を近付けても、髑髏の影はない。正方形のガラスは美しく、正確に光を通しているだけだ。
口髭《くちひげ》を生やした若い店員が、一荷の顔を見て満足そうに笑うと、その小箱を取りあげて、お呪《まじな》いでも掛けるように軽く振ってから、机の上に置きなおした。――妖《あや》しくも、髑髏はガラスの箱の中に元の姿を現した。物の気が寄って髑髏の形を作りあげているようだった。じっと見ているうちに、銀色の髑髏は再び崩壊しはじめ、泡《あわ》のように消えてゆく――
一荷聡司は玩具好きである。特に普通の玩具に、もう一次元加えられたものが好きだ。例えば人形ならただ飾って眺《なが》めるだけのものでなく、動いたり変身するようなものでなければならない。からくり人形、びっくり箱、メカニックバンク、パズル、奇術材料――一荷の蒐《あつ》めた玩具は一《ひ》と間《ま》を埋め尽している。アトリエが欲しいな。とりあえず、今の一荷はそれが夢だ。アトリエに蒐集品《しゆうしゆうひん》をきちんと整理し、自分はその真ん中に机を置いて、それらを眺めながら仕事をすれば、傑作が続々|描《か》けるような気がする。
「消えるドクロ」というのがその玩具の名だった。今まで彼の買い込んだ玩具の中には、消える物も数多くある。消えるケーン、ミルクの消滅、消えるハンカチーフ、消えるコイン、鳩《はと》の消失――だが、その多くは販売店員の手から一荷の手に移ると、どうも上手《うま》く消えないのだ。ハンカチーフは秘密の隠れ場所からすぐ尻尾《しつぽ》を出すし、ミルクはこぼれ易《やす》い。その度《たび》に、一荷はハンカチーフやミルク自体が消えるようになっていないから駄目《だめ》なのだとぶつぶつ言った。
だが「消えるドクロ」はそのような玩具とは違っているように思えた。一荷はガラスの小箱を手に取った。髑髏は一荷の手の中でも、確実に姿を現し、そして消えていった。一荷はどきどきしながら、あわてて「消えるドクロ」を三個買った。一つは大切に保存しておくため。二つ目は分解して奇蹟を解剖するため。三つ目は誰《だれ》かに見せびらかすために、である。
一荷はポケットを脹《ふく》らませて店を出た。街には北風が吹き抜けている。一荷はオーバーの襟《えり》を立てたが心は浮き浮きしていた。すぐ誰かに見せてやらなければならない。一荷は乾いた街を見た。そうだ、青蘭社《せいらんしや》が近くにある。あの編集部に寄ってみよう。
青蘭社は個人出版専門の、小さな出版社であった。世間には自費で自分の書物を出版しようとする人が、意外に多くいる。青蘭社はその中でも、特に豪華本を作ることで、業者の間では有名であった。政治家は自分の伝記を記者に書かせて出版した。うっかり豪商になってしまった詩人、社長の椅子《いす》に坐《すわ》らせられてしまった文学青年たちが、本気で詩集や創作集や画集を出版し、昔の夢を実現させていた。中には自分のヌード写真集を出版させる若い女性の変り種もあって、青蘭社は着実な業績をあげていた。当り前な話だが、返本のないのも自慢の一つだ。
一荷は青蘭社の依頼で、何冊かの本に表紙を描いている。この中堅の童画家の、夢のある画風が、青蘭社の得意筋に、人気があったのである。最近の仕事では、実業界で、相当有名な人物が、どうしたはずみか童話を作り出した。作品は原稿用紙にして四、五枚のものだったが、一荷が十数枚の画を描いて、立派な絵本になった。一荷はこの仕事の出来が気に入ったので、千部止まりの個人出版になるのが、惜しいような気もした。だが、普通の仕事の何倍もの稿料を貰《もら》っていたので、そんな贅沢《ぜいたく》は言えなかった。
中華大飯店のビル。その建物の裏側に、ペンキのはげたエレベーターがある。一荷はエレベーターのボタンを押した。エレベーターの中は枯草の匂《にお》いがしていた。五階の一角に青蘭社があった。編集部は、部屋というより倉庫に近かった。堆《うずたか》い本と、段ボール、荷造り機が狭い部屋にごたごたと集まっている。
隅《すみ》の机の奥に、赤い目をした男が新聞を読んでいた。磯明《いそあき》という青蘭社の編集長である。磯明は一荷に気が付くと、新聞を畳んだ。机の上は書物や書類が一杯積み上げられている。磯明は引き出しをがたがた言わせて、ウイスキーの瓶《びん》を取り出し、机の上にあった湯呑《ゆの》みに、無造作に注《つ》ぐと、一荷に差し出した。そしてまた引き出しをがたがた言わせて瓶を蔵《しま》った。その震動で、書類の一と山の半分が床に滑り落ちた。
「冷えますね。このところ。先生、気を付けなくっちゃいけませんよ。今年の風邪《かぜ》は目に来るんです。ほら」
磯明はべっかんこうをして見せた。
「ほう、目にね。俺《おれ》はまた編集長、腐りかけたかと思った」
若い社員がコップに水を入れて持って来た。一荷はウイスキーを飲んでからコップに口をつけた。
「誰かいるのかい?」
一荷は応接室のドアが半開きになっているのに気が付いた。
「亜《あ》さんが来てます」
「ほう――亜がね。珍しいの」
一荷は湯呑みとコップを持って、応接室を覗《のぞ》いた。応接室は個人の注文主が多いという関係で、狭いながらも小ざっぱりしていた。ガラス戸の付いた棚《たな》には青蘭社の出版物が、きちんと並べられ、テーブルには花が生けられている。
ソファに行儀よく腰掛けた男が、大きな本を一心に読んでいた。色の白い、きりっとした眉目《びもく》の好男子である。一荷に全然気が付かない。一荷はそれを見ると、むらむらとこの男をソファから飛び上らせてみたくなった。その方法は簡単だ。一荷は大きく息を吸いこんで、
「ああ!」
と、言った。
男は本からゆっくりと一荷に視線を移すと、本を閉じてから、一荷の思ったとおり、ソファからぴょんと飛び上った。一荷は多少外れている彼の動作を、よく知っていた。
「相変らずだな、写真屋」
亜は真新しい背広に、きちんと蝶《ちよう》タイをしめている。どう見ても写真に撮られる姿だが、彼は撮る側だ。それも泥《どろ》んこになって撮りまくる報道カメラマンの派手な仕事ではなく、雲やゾウリムシなどを面白《おもしろ》がって撮っている。といって科学に打ち込むという風でもなければ、写真一と筋というのでもない。いまだに自分が何をやったら一番よいのか、判《わか》らないでいるようだ。大げさに言うと、人間になってしまったことに、おろおろしている感じで、一荷は亜のそんなところが変に気に入っていた。亜とは植物の資料を集めたりして、何度か一緒に仕事をしている。あるとき一荷は亜がいつでもきちんとした身なりをしているのに気が付いて質問すると、かえって不思議そうに一荷の顔を見て、
「汚い恰好《かつこう》で撮影したのでは、自然に対して失礼に当るでしょ」
と、答えた。
亜は何分もかかって落着きを取り戻して、
「やあ、一荷の先生でしたか。あまり大きな声をするので火事かと思いました」
「亜に一荷の先生と言われると、歩き出したくなるぞ。そののの字は取って貰《もら》いたいね。今、もっとびっくりさせてやるぞ。おい、編集長もしけた顔をしていないで、ここへ来てみろよ」
「また、珍品が手に入ったようですね」
磯明編集長と、三人の社員が応接室にはいって来て、一荷を取り囲んだ。
一荷はポケットから取り出した紙包を、慎重に開いた。ガラスの小箱に埋まった銀色の髑髏が、そっと机の上に置かれた。
「触るんじゃないぞ。見るだけだ。見ているうちに、信じられない奇蹟《きせき》が起る――」
一荷は満ち足りた顔で、五人の顔を見渡した。箱の中の奇蹟はもう見ないでも判る。髑髏は煙のように消えてしまうのだ。五人の目玉が気のせいか飛び出して来た。
「ありゃ」
磯明が声をあげた。
「どうじゃ、素晴《すば》らしかろう。ガラスの箱には出口がない。完全に閉ざされているのだ。誰もあの髑髏を抜き取ることは出来ない」
亜が目を白くすると、上体が倒れかかった。
「おい、どうした。亜、びっくりし過ぎたのか」
一荷は湯呑みのウイスキーを亜に飲ませた。亜はむせ返り、普通の目に戻《もど》った。
「ショックでした」
「そうだろうな。まだ続きがある。腹に力を入れて見ろよ」
一荷は箱を取りあげると、さっき口髭を生やした玩具屋の店員の通りに、お呪《まじな》いを掛けてから、箱を机の上に戻した。髑髏は甦《よみが》えっていた。磯明が思わず手を伸ばそうとする。一荷はあわてて小箱をポケットに蔵《しま》い込んだ。
「これでおしまい。欲しがってもやらんぞ。どこに売っているかも教えない。誰にもこんな奇蹟をされてたまるものか」
「どうせ、輸入品でしょうが」
磯明編集長がふてくされて言った。
一荷は机の上に転がっている「消えるドクロ」がはいっていたボール箱を取りあげて、ひねくり廻《まわ》した。一荷の顔に笑みが拡がった。箱の隅に Originated by T.Awasaka と印刷された小さな文字を見付けたからだ。
「うふ。編集長、見ろや。これは我国のオリジナルだ。だいたい我らの先祖は遊ぶことを愛し、凄《すご》い伝統を持っているのだぞ。時計の技術を教えられると、江戸時代の人はただちにからくり人形を創《つく》り出した。火薬の製造法が輸入されると、人たちは鉄砲なんぞ作るより、花火を創り出すのに夢中になった。世界最大の花火はこうして出来上った。どおん、玉屋あ――」
一荷の演説はおおむね、しまりがない。社員たちは応接室を出て、持ち場に戻ってしまった。
「どうした、亜。まだ驚いているのか。腰でも抜かしたか」
「ほんとうに腰が抜けそうになりましたよ。いきなり謎《なぞ》が解けたので」
「なんだとお? 〈消えるドクロ〉の謎が解けたのか」
「――それも、あります」
「本当か、おい、それは」
一荷はあわてて応接室のドアをぴったり閉めた。
「編集長、おい鍵《かぎ》だ。他の人間に聞かれては大変だ」
「大丈夫ですよ。青蘭社にはそんなことで立ち聞きをするような物好きは一人もいませんよ」
「それならいいが。おい亜、教えろよ」
「何をですか?」
「こいつ、呆《とぼ》けるなよ。今〈消えるドクロ〉の謎が解けたと言ったじゃないか」
「その方なら、教えないこともありません」
一荷は煙草を一本抜き取って、亜の口に押し込み火を付けてやった。
「あのガラスの箱は、ガラスで出来ております」
「そんなこと、当り前だ」
「ちょっと待って下さいよ。先生はいつも先を急ぐんだから。ガラスの箱は箱でも、実は箱の真ん中が、髑髏の形にくり抜いてあります」
「馬鹿言うな。ガラスがいくら透明でも、箱の中が髑髏の形にくりぬいてあれば、外から見えないはずはない」
「それは当然見えます。くり抜かれた髑髏の穴に、空気が入っていればね。なぜなら、ガラスと空気とでは、光の屈折率が違うからです。ですがくり抜かれた髑髏の穴に空気でなく、ガラスと同じ屈折率を持っている液体――例えばテトラクロロエチレンのような物質を入れるとどうなるでしょう。光学的に言うとガラスの中にガラスが埋め込まれた状態になる。光は屈折することなく、髑髏の穴を通り抜けるので、ガラスの穴は全く見えなくなってしまいます。この玩具は、その原理を応用したのですよ。ガラスの箱の中は、髑髏の形にくり抜かれてある。それから、ガラスと同じ屈折率を持った液体に、アルミ粉のような、銀色に光る粉を混ぜたものを、髑髏の穴に満たして、口を塞《ふさ》げば〈消えるドクロ〉が出来上ります。つまり、ガラス箱を軽く振ってやると、銀色の金属が液体の中に拡散されますから、髑髏は姿を現すでしょうし、静かに置いておくと、金属は下に沈むので、髑髏は最後には全く消えてしまうのです」
「こりゃ参ったな」
一荷は呆《あき》れたように亜の顔を見た。
「お前は下らんことをよく知っている男だ」
「僕はまた、妙なことを考え出す人がいるものだと感心しました」
亜は、今まで読んでいた本を、そっとソファの上に置いた。それはまるで、一荷の視線から外すような動作に見えた。
「おい、その本は〈もりのさる おまつり の〉じゃないか?」
「そ、そうです」
亜は妙にびくっとした声をした。
「どうも変だな。俺が入って来たとき、お前が本を読んでいる目付きは尋常じゃなかったぞ」
一荷はソファの上の本を手に取って、ページを繰った。A4判の重い絵本である。厚手の特殊なケント紙を使い、普通の印刷では珍しい濃《こく》のある色が出ている。
「もりのさる おまつり の」池本銃吉《いけもとじゆうきち》作、一荷聡司画。当然のことながら、一荷の名の方が小さく印刷されている。だが、実際は一荷の作品といってもいいのだ。出版されたのは、前の年の秋だった。まだ記憶に新しい。一荷は仮名で書かれた文章を読み返した。確かに文章はぎくしゃくしたところもあり、不適当な用語も目に付く。だが一荷は、その文章を拙《つたな》さというより、素人《しろうと》らしい奔放なよさと理解し、それなりに一種の味を持っていると解釈していた。
「どうも怪しい」
一荷は絵本と亜を見比べた。
「何か気になったことでもあるのか?」
「いや、その、ちょっと、青蘭社でも誤植をすることがあるのか、と」
「誤植?」
「いや、亜さん、さっきも話したように、ありゃ誤植じゃないんだ。もともと誤字なんだ。最後のページを見てごらん。小さく〈原文のまま〉としてあるだろう」
磯明編集長が不愉快そうな顔をした。
「誤字だと? 俺は確か原稿を読んでいる。誤字があったなどとは気が付かなかったぞ」
「先生は手縒《てより》君の清書した原稿を読んだのでしょう。手縒君は誤字をすっかり訂正したのです」
「それなのに、どうして誤字のまま印刷してしまったのですか? 第一節の三行目がすでに違いますね。〈あの つずみふえ〉とあるのは、〈あの つづみふえ〉が正しいのでしょう」
「いやあ、この作者の池銃は、噂《うわさ》では相当|頑固《がんこ》な爺《じい》さんだとは聞いていたが、真逆《まさか》あれほど凄《すご》いとは思わなかった。自分の行動は、全《すべ》て正しいと信じている。いくら誤字を指摘しても駄目《だめ》。俺には自分の文法があると言い張り、一歩も譲らなかった」
「だいたい、その池本銃吉というのは、何なのだい?」
「あれ、先生知らなかったんですか。ほら、池銃の創立者ですよ」
「池銃――ね」
実業界に暗い一荷も「株式会社池銃」という名は耳にしたことがある。確かストロングガン式ブラウン管という特殊ブラウン管を作り出し、業界を席巻していた。
「実はここにある〈もりのさる おまつり の〉は正確には二版なんですよ」
「ほう、増刷したのか?」
「いや、初版は手縒君の原稿通り、誤字はすっかり直して印刷したのです。ところがあの爺さん、自分の字と違うとかんかんになって怒り、結局全部刷り直したんです」
「わざわざ誤字に直して刷り直した?」
一荷は口を開けた。
「私だって、こんな無茶な話は聞いたこともない。もっとも池本銃吉という男を、よく知らなかった点じゃ、こっちにも落度があったがね。彼から原稿を受け取ったとき、この文章の一字一句違えちゃならぬと言い渡された。それがこちらの常識とは違っていた。無論文章に変なところもあったが直してはいない。だが誤字は正してやるのが親切だし、こちらの常識だよね。だが池本銃吉にはそれが通用しなかった。わしの書いた原稿とは、字が違うところがある。刷り直せと言うんだ。あんな男に使われている人間につくづく同情するよ。原稿を直した手縒君だって相当腹を立てたが、結局改刷した費用は全額あちらさんで負担することで話はついた。会社としては儲《もう》かったわけだが、今みたいにうっかり者の読者は誤植だろうと思うし、あんな仕事は二度としたくないね」
「自分で費用を出してまで誤字を押し通すとは、桁《けた》が違ってるな」
「でしょう。そのくらいだから、出版には熱心でした。使われている細ゴジの活字も、彼が選択したものです」
「池本銃吉は童話を作るのが趣味なのか?」
「それが変ですねえ。手縒君の話だと文学的教養はゼロに近い。原稿の書き方もよく知らないんで私が教えたんです。子供は大嫌《だいきら》い。それがなんで童話など出版する気になったか」
「そういえば、さっきから物足らないと思っていたんだ。手縒《てより》めん子の姿が見えないが、休暇かい?」
「手縒君なら、去年で辞めましたよ」
「辞めた?」
亜が首をひねった。
「知らなかったぞ。俺に相談もなくか――」
一荷に言わせると、手縒|志野《しの》は青蘭社の看板娘であった。頭が切れて竹久夢二《たけひさゆめじ》好みの顔立ち。しかも男にも負けない行動力を持っていた。手縒り木綿《もめん》の逞《たくま》しさがあり、一荷はめん子と呼びならわしてよく飲みにも連れて行った。編集部がいつになく乱雑になっているのは、その志野がいなくなったからに違いない。
「編集長、喧嘩《けんか》か」
「嫌だな先生、そんな顔で見ないで下さいよ。突然でしたが、喧嘩なんかじゃありません。彼女、小さなスナックを開店したんです。行く行くは自由な時間を作り、文学に打ち込みたいと言うんです。三、四日前私も彼女の店に顔を出しましたよ。例によって張り切っています。店の名は〈シルキー〉」
「めん子め、シルキーだと。優雅な生活設計だと言いたいが、何だか俺は気に入らんぞ。めん子、いつからそんな計画を立てていたのだろう」
「知りませんねえ。今度に限り、立ち入ったことは、何も話してくれませんでした」
「で、場所はどこだ?」
一荷は手帖《てちよう》にシルキーの所と電話番号を書き取った。いつの間にか、亜も手帖を開いて鉛筆を走らせている。一荷が覗くと亜は急いで手帖を閉じたが、そのページに「もりのさる おまつり の」の全文が写し取られているのが見えた。
「じゃあ、僕これで……」
亜はそそくさと立ち上った。
「待てよ。一緒に飯でも食おうよ」
「いや、これから図書館で調べ物があるんです。閉館になってしまうと困るので、またお会いします」
一荷は亜の後姿を見送った。亜が何かを企んでいる気配がする。一荷は「もりのさる おまつり の」を開いた。何度見ても同じである。誤字の外にはとり立てて変なところはない。
「池本銃吉という男は、いくつになった?」
「七十六歳。でも青年と同じ心臓を持っているそうです。彼の主治医は盛栄堂医院の院長ですが、そこの医者が太鼓判を押したらしい。池本銃吉は会って見ると、一見小柄で大人《おとな》しそうな印象を受けますが、白い眉《まゆ》の奥にある目が、話しているうちに光り出しましてね、気色《きしよく》の悪いったらない」
「池銃はいつ創立したのだ?」
「さてね。私はそんな事には全然興味がないんだ。それにしても先生に池銃のことを聞かれるとは意外ですね」
そうだ。池銃のことなら「週刊人間」の黄戸静夫《きどしずお》に聞いた方が早い。最近あの週刊誌で池銃のことを扱っていたのを、ぼんやり覚えている。一荷はまだ名の売れなかった頃《ころ》、人間社発行の肉体小説に、下手《へた》な挿画《さしえ》を描いたことがあった。
「俺、帰るよ」
「もうですか。どうも変だな。今日来る客は」
「妙な風邪を移されでもすると嫌だから、帰る」
人間社の編集部は修道院のように清冽《せいれつ》だった。これで週刊誌が毎週出版されるのかと思えるほど、紙というものが極端に少ない。部屋は暖かく、クリーム色の壁に、蛍光灯《けいこうとう》が明るい。「うんと速く動いている機械を見たことがありますか? 非常に静かな音で、どの部分をとって見ても美しく無駄《むだ》のない形になっています」これが黄戸静夫の持論だ。だが当人の言葉と行動は静かだとは言い難かった。黄戸はぴかぴかの大きなステンレス製の机の向うにいた。机の上には四角な機械が置いてあるだけで、一枚の紙も置かれていない。黄戸の机の前に坐《すわ》っている男の背が見えた。亜だった。
「おや、先生、久し振りです」
亜はひょっくり立って頭を下げた。
「相変らずだな、写真屋」
一荷は苦い顔をした。
「ここを図書館というのか」
「いや、図書館の用事はもう済ませてしまいました」
「それにしても早過ぎやしないか」
「先生は歩いて来たんでしょう。僕はタクシーを使いましたよ」
「お前がタクシーを使うとは、よほど緊急なのだな」
「珍しい人の来るのはいいんですがね。先生どんな仕事です」
黄戸がせかせか煙草に火を付けて叫んだ。
「別に仕事じゃあない」
「今日、俺はすごく忙しいんだ」
「判っているさ。何も邪魔しようと思って来たんじゃない。亜の話が済めば、俺も帰る」
「気に触ったら、御免なさいよ。でも本当に忙しいんだ」
「だから勝手に喋《しやべ》れと言っている」
黄戸はけたたましく煙草を吸って、灰皿《はいざら》の山に突っ込むと、亜に向って、
「で、池銃の〈詫寿《たじゆ》の祝《いわい》〉だが……」
「タジュの祝いた何だ」
「先生は口を出さない約束でしょう」
「だが俺はすでに足を半分突っ込んでいるんだ。これは特種《とくだね》だ。気に入らなかったら〈女性人間〉に売ってしまう」
「〈女性人間〉? 聞かない週刊誌だ」
「ありそうな名じゃないか」
「驚いたな。いつから先生はレポーターになったんです」
「今や多角経営の時代だぞ。人間社もいつまでもエロの紙屑《かみくず》ばかり作らず、世に残るような画集でも出したらどうだ」
「お説教が始まりますか。でもそんな意見は年中|嬶《かか》あに言われて耳たこですから、へっちゃらだ。仕方がない、ざっと説明しますとね、詫寿の祝というのは池銃の発明で、詫《わ》びる寿《とし》と書いて詫寿。詫という字の偏《へん》は〈言〉で画の数が七画です。旁《つくり》の〈宅〉は六画。従って、詫の字には七と六という数が含まれている。詫寿とは、七十六歳のことである」
「ふん。下手糞《へたくそ》なこじつけだな。七十六なら詫でなくともいくらでも目出度《めでた》い字があると思うが、なぜ詫だ」
「そのとき池銃は数えの七十六歳。喜寿の祝をしようと言いだしたのは池銃の家来たちです。池銃は無論、言下に反対したね。これまで還暦だとか古稀《こき》なども依怙地《いこじ》に行わなかったので、無理もない。もっとも一人|息子《むすこ》の結婚披露さえ、頑《がん》としてしなかったという前科もあります。とに角、人が右と言えば左と言う激烈なる頑迷爺《がんめいじじ》いなんですが、このときはいかなる心境に立ち至ったものか、一度は反対したものの、祝だったらやって貰《もら》おうと言い出した。ただし、七十七で喜寿などという代物《しろもの》は嫌だ。わしは今年七十六だ。詫の字だ。詫寿を祝って貰おう。詫寿? と家来が恐る恐る尋ねる。そうさ、詫寿知らないか。知りませぬ。知らぬはずじゃ、詫寿とはわしの発明じゃ。かんらかんら……」
黄戸は池銃になったような気持で笑った。社員がまた始まったという顔で黄戸を見る。黄戸はえへんと言って声を低くした。
「この詫寿の祝は、去年の十一月、帝国ホテル鳳輦《ほうれん》の間で盛大に行われました。参加者千名。政界、財界、実業界の大物がぞろりと揃《そろ》って、そりゃ壮観でした。俺も取材に行って、確か一六五号に――ちょっと待って下さいよ」
黄戸は机の上にある機械のボタンをいくつか押した。黄色いランプが付き、しばらくすると機械から「週刊人間」の一六五号がぴょんと飛び出した。黄戸は「週刊人間」のページをぱらぱら繰った。
「そのときの池銃の挨拶《あいさつ》が、これまでの池銃らしくなかった。しおらしいと言うのか殊勝と言うのか、わしは七十六になった現在、過去を想《おも》い返すことが多くなった。毎晩いろいろな夢を見る。それも昔の夢がほとんどである。振り返ると、自分は世間に対し、迷惑ばかり掛けて来たようだ。――こりゃ本当だね。今の池銃をあれだけにするまでの、彼の悪どさと言ったら誰でも顔を背《そむ》けたくなるもの。もっとも、当人にしてみればその殊勝さは口先だけのもので、腹の中じゃどう思っているのか誰も判らない。池銃は言葉を続ける。――わしは過去の一つ一つを反省している。その一つ一つが慙愧《ざんき》に堪えない。たまたまわしは来年七十七だ。多くの人たちから、喜寿を祝って下さるという話が出ている。とんでもない。今のわしは、喜ぶなどという心境にはとてもなっていられない。世間に詫びる気持で一杯になっている。詫びる年、そうだ。わしは皆にこう言った。詫寿の祝だったら、その用意がある。わしは詫びるべきだ。詫びて許しを乞《こ》う。そして――」
「今まで儲《もう》けた半分ぐらいは、孤児院などに寄付でもしようと言ったか」
「とんでもない。口ばっかりさね。盛大な割には料理だってけちっていたよ。あれじゃ、祝儀でかえって儲かったんじゃないかという噂《うわさ》まで聞いたよ。だが、意外だったのは、引出物《ひきでもの》に立派な本を出したことだ。それが池銃自身で書いた童話だというんだから、ますますもって狐《きつね》にでもつままれたような気分になった。一荷先生が画を描いた〈もりのさる おまつり の〉がその本です。先生、いい絵だった。感動しました」
「だからお前はいつまでエロ本を――」
「判りましたよ。そう大きな声でエロ本エロ本と言わないで下さいよ。皆の耳に入ると気を悪くする。文章の方はぎごちなかったが、あれ本当に池銃が書いたものですか」
「そうだ」
「相当金が掛っていますよ。あんな妙な童話に、あれだけ金を掛けるというのは、どういう気なんでしょう」
「人間の行動は、理屈じゃ計れんことがあるさ。おそらく今おまえが考えている金額の倍は掛ったのを知っているんだ」
「へえ? そりゃどういうことです」
「黄戸さん、忙しいんでしょう」
亜が一荷の口を止めるように言った。
「そうだ。俺は忙しいんだ」
「もう一つだけ教えて下さい。池本銃吉の二度目の妻はどこから貰ったのですか?」
「二度目の妻だと? 初耳だね。ちょっと待てよ」
黄戸はまた機械のボタンをいくつも押した。今度は赤いランプが付き、しばらくすると何やらコピーされた紙片が飛び出し、ランプが消えた。黄戸はその紙を手にした。
「うん、池本銃吉、愛知県|阿賀野《あがの》郡|糸香《しか》というところで産まれている。知っているか? 糸香」
「知りません」
「俺も知らない。小さな漁村らしいな。漁師の六男。電信士の資格を得て漁船に乗る。おう、二十三歳で結婚している。対手《あいて》の女性は二十二歳。同じ糸香の出身だ。八年後に離婚した。名前は北村志乃《きたむらしの》――」
「めん子と同じ名だ!」
一荷はいきなり叫んだ。亜もあわてて黄戸の手元を覗《のぞ》き込む。
「でも先生、文字が違っています」
「字が違っているだと?」
「めん子って誰です?」
「誰だっていいだろう。そんなことよりどうして池銃は離婚したのだ」
黄戸は変な顔で一荷を見ていたが、再び紙片に視線を戻した。
「おや?」
「どうかしましたか」
「志乃は蒸発したんだな、こりゃ。行方不明のための離婚だ。なるほど亜の言う通り。今の細君は二度目だよ。川端由子《かわはたよしこ》。親父は村会議員だ。池本銃吉、三十九で村会議員になっている。義父のあとを襲《つ》いだんだな。四十一歳で川端電器店を拡張し、株式会社池銃創立。あとはとんとん拍子だ。参議院当選三回。男の子が一人――」
亜が立ち上った。
「おい、どこへ行く」
一荷が叫んだ。
「嫌だなあ、先生。はばかりですよ」
黄戸は二人の顔を見比べた。
「何だか臭い仲だ」
一荷はむっつりしてポケットに手を突っ込んだ。手に「消えるドクロ」が触った。
「いい物を見せてやる。だが、書くんじゃないぞ」
黄戸はたちまち「消えるドクロ」に夢中になった。しまいには編集部中が興奮した。だが誰も亜のようにからくりを見破る者はなかった。一荷はいい気持になっていた。
「先生、もっと何かありませんか?」
「お前忙しいんだろ」
「そうだ。俺は忙しかったんだ。困るな先生、仕事の邪魔をしちゃ。それにしても、長いな」
「何が?」
「亜ですよ」
「しまった」
一荷は立ち上った。
「――撒《ま》かれた」
一分後、一荷はシルキーに車を走らせていた。
シルキーは小さいながら、なかなか魅力のあるスナックだった。ルイ王朝風のロココ趣味は志野の好みに違いない。調度品も豪華で凝ったものが揃《そろ》えられている。
落着いた照明の中に一人の客が、紙袋を抱えて、カウンターに坐っていた。亜だった。
「おや先生、久し振りです」
亜はひょっくり立って頭を下げた。
「相変らずだな。写真屋」
一荷はにやりと笑った。
「えらく寒い日ですね。何を差し上げましょう」
髪の長い、薄い唇をしたバーテンがぺらぺらした調子で話し掛けた。
「お前は何を注文した」
一荷は亜に訊《き》いた。亜の前には水が置いてあるだけだ。着いて間もないのに違いない。
「コーヒーです」
「じゃ俺も」
「かしこまりました」
「新しい店だそうですね」
「そうです。一月一日、大安吉日の日にオープンしました。以後|御贔屓《ごひいき》に願います」
「開店ともなると、めん子も日を気にするようになるのかの」
「めん子――さんですか?」
「志野のことさ」
「失礼しました。ママとはお知り合いでしたか」
「なるほど、ママか。そのママはいるかい?」
「それが――いま入院しています」
「開店早々病気になったか。運が悪いな。どんな工合《ぐあい》だ」
「虫《ちゆう》――何といいましたか。早い話が盲腸です」
「遅い話なら虫垂炎だろう」
「一昨日、手術が済みまして、経過は順調のようです」
「そりゃよかった。病院はどこだね。見舞いに行ってやろうかな」
「そうしてやって下さいよ。大喜びするでしょうから。私も午前中行って来ましたが、すっかり元気になって、今頃はきっと退屈しているでしょう。病院は盛栄堂医院――」
「ほう。超一流の医院じゃないか」
「そうです。まずホテル並みですね。豪華なバスルームは部屋に付いているし、看護婦も粒選りの美人が揃っています。もっとも医者の腕前だけは見えませんが」
「池銃の紹介だろう」
「おや、お客さんも池銃を御存知ですか。偉い人が知り合いにいるとお得ですね」
バーテンは二人の前にコーヒーを並べた。
亜はさっきからバーテンの後の棚の隅を見詰めている。一荷も気になっているのだ。その棚には「もりのさる おまつり の」が立て掛けられてあった。その本がなかったら、気が付かなかったかもしれない。本の陰に隠れでもするように、握り拳《こぶし》ほどの大きさの、黒い塊りが二つ置かれていた。ロココ風のスナックの装飾にふさわしくない汚らしいような物だった。
一荷はふいに寒気がしてきた。その一つの塊りは、だんだん髑髏に見えだしたからだ。
「そりゃ、何だい?」
バーテンはちょっと後を向き、何でもない口調で、
「何だかママが大切にしている物ですよ。わたしの守護神だとか言って。あまり気味のよい物じゃありませんが」
「髑髏じゃないか。人間の上顎《うわあご》のあたりだ。ほら、歯も見えている――」
「作り物でしょ。今じゃもっとよく出来た玩具も売っていますよ。こっちの方は片眼の髑髏」
なるほど、もう一つは塊りに穴が一つ開いている。
「あの方は錆《さ》びてぼろぼろになった斧《おの》でしょう」
亜がそう判定した。
「ほら、あの穴に柄《え》を差したところを想像してごらんなさい」
「そうだ。斧だ」
「こちらの方は、そう言えば鉄みたいに重いですよ。触ってみますか?」
バーテンは無造作にそう言った。
「い、いいよ。亜、お前どうする」
「僕も遠慮します。それよりも、あの新聞の綴《と》じ込みの方が気になります」
同じ棚に丸められた新聞の綴じ込みが突っ込まれていた。
「これですか。阿賀野日報です。ママが購読しているんです」
「阿賀野日報ね。めん子の故郷は北だったが」
「池銃の故郷の新聞です」
と亜が教えた。
「ママはずい分昔の阿賀野日報も集めていますよ。ここには今年の分しかありませんが、お読みになりますか?」
新聞なら気味の悪いことはない。一荷は手を伸ばした。別に目を引くような記事は見付からない。産業道路の用地買収がはかどらないとか、祥桂寺《しようけいじ》に猿が迷いこんだとか、地元|糸香《しか》の力士が幕内に入幕したとか、地方のゴシップが珍しいだけだ。
新聞を返して一荷は立ち上った。
「おい、めん子を見舞いに行こう。逃げるんじゃないぞ」
二人は盛栄堂医院のぴかぴかのエレベーターで九階に登った。南側の一室、淡いグリーンの部屋に、大きな純白のベッドの中で、手縒志野《てよりしの》は本を読んでいた。志野は二人の姿を見ると嬉《うれ》しそうな顔になった。
「あら、一荷先生。亜君も。意外だわ」
「どうだい。気分は」
「有難う。すっかりいいの。もうどんどん歩けるわ。明後日《あさつて》退院ですって」
「そりゃいい。だが俺の方こそ意外だったぞ。青蘭社を辞めたんだってなあ。ちっとも知らなかった。水臭いぞ」
「ごめんなさい。急に思い立ったんです。落着いたら、皆さんに集まって頂こうと思っていたところなのよ」
「なかなか豪華なスナックじゃないか」
「あら、来て頂いたのね。嬉しいわ」
「そこでこの病院を教わったのさ」
「そうだったの。治ったらまたちょいちょい寄ってね」
「昔描いた、めん子の好きそうな油絵があるんだ。祝いにあれを上げよう。〈もりのさる〉が最後の仕事になったなあ。思い出すよ」
一荷は志野の表情を見た。だが志野の笑みは消えなかった。少し痩《や》せたかな?
「池銃には手古摺《てこず》ったらしいな」
「何のこと?」
「〈もりのさる〉は刷り直したそうじゃないか。初めて磯明《いそあき》君から聞いた」
「あら、あのこと」
志野は朗らかに笑った。
「池銃は自分のうろたえぶりを私に見せたくなかっただけなの」
「池銃がうろたえた?」
「そうなの。私が刷り上った本を池銃に持って行ったわ。初対面でした。私が名を言い、名刺を出すと、彼の顔が変ったわ。ひどいあわて方で、自分に言い聞かすように〈でも、字が違っている〉とうめいた」
「字が違っている――?」
「きっと私の名が池銃の知っている誰かと同じだったのでしょう。池銃はそのあと、自分のうろたえぶりを隠すように本を開くと、すぐに〈字が違っている〉と怒鳴《どな》ったわ」
「?――」
「結局、自分の本心を〈もりのさる〉に転嫁しただけなの。池銃の家来も同席していたことだしね。でも自分のうろたえぶりを糊塗《こと》するために〈もりのさる〉の改刷費用を負担するというのは、矢張り大物じゃなくって?」
「ほう、そういうわけだったのか。だがシルキーには妙な物があったぞ。ありゃ何だい。ほら〈もりのさる〉と並んでいた――」
志野の口がふと引きつった。
「――何でもないわ」
「おかしいぞ、めん子。何かがあったのだな。だいたい本で知り合っただけの池本銃吉が、こんな病院を世話すること自体、不自然じゃないか」
「あいつ、そんなことも喋ったのね。でも今は何も言えません。悪いことじゃないのよ」
「手縒さん、阿賀野日報には何か面白《おもしろ》い記事でもあるのですか?」
「亜!」
志野は悲しそうに言った。
「判ったわ。二人ともここへ来たのは、見舞いなんかじゃないのね。わたしから何かを聞き出すためだったのね。だったら、駄目よ。わたしは喋れないのよ。お願いだからそっとして置いて頂戴《ちようだい》。あなたたちが何を考えようと自由だけれど」
そのときチャイムの音がした。
「面会時間は終ったわ」
志野は冷たく言った。
「おいめん子。そう怒るなよ。俺たちはただめん子の心配をしているだけなんだ。君の行動が、今までになく危なっかしいような気がする。その――」
ドアがノックされ、看護婦が入って来た。バーテンが言っていたとおりの、化粧の濃い美人だ。看護婦の後から、若い医者がついて来た。背の高い、目つきのよくない男だった。医者は無言で二人をじろりと見た。
「それじゃ――元気でな」
二人は曖昧《あいまい》な挨拶《あいさつ》をして、病室を出た。
外はすっかり暗くなった。風がますます強くなっている。
「面白くねえぞ」
一荷は亜を睨《にら》むように言った。
「めん子の奴《やつ》、あの態度は何だ。それにお前もだ。これからどうする?」
「僕、帰ります」
「嘘《うそ》を吐《つ》け。どうも帰るような顔をしとらんぞ」
「じゃあ、どうします」
「お前のあとをついて、どこへでも行く」
「困るなあ」
「お前、新しい紙袋を持っているな。人間社ではそんな物は持っていなかった。何を買ったんだ」
「ち、地図です」
「ははあ、糸香の地図だな」
「さすが――先生は偉い」
「讃《ほ》められても喜ばんぞ。糸香に行く気か」
「ご明察です。明日にでも行く気です」
「よし、俺も行く――と言いたいところだが、ちょいと困った。明日と明後日は童画家集団の新年会が箱根であるんだ。俺は幹事の一人なんだ。その後で一緒に行こう」
「僕はいつでもいいんです」
「いや、待った。お前も新年会に出席しろ」
「僕は画家じゃありませんよ」
「そんなことはどうでもいい。俺が会費を払う」
「有難うございます」
「とりあえず、今晩は俺の家で泊れ」
「そうします」
「それから――ちょっと待て」
一荷は目の前にあった玩具店にはいり、玩具の手錠を買った。
「これは玩具には違いないが、当座の役には立つ」
「そんなもの、どうするんです」
「お前が隠しごとをするので、俺も意地になった。今晩この手錠をお前と俺の足に掛けて、寝る」
「冗談でしょう」
「俺は本気だ。お前、今日二度も俺を撒《ま》いたじゃないか」
「以前は、もっと素直《すなお》な人だったのに……」
「これも皆、お前のせいなんだ。それとも全部喋ってしまうか。めん子が何をしたか。お前はこれから何をする気か」
「実は、そんなに何もかも知っているわけではないのですよ。ただ今日、偶然に〈もりのさる〉を読み、ちょっとあることに気付いたものですから、池銃のことを知ってみたくなっただけです」
「そうか。じゃその気の付いたことというのを話して貰おう」
彼は無理やり亜を自分の家に連れ込んだ。
早速〈もりのさる おまつり の〉を引っ張り出して読み始める。
「先生、実はこの本の中には、暗号が隠されていると思うんです」
亜は声を低くしてそう言った。
「暗号だと?」
一荷の目が輝きだした。
「本当か。そりゃ凄《すご》いぞ。どこにだ。背の中か? 絵の中にでも隠しインクが?」
「いいえ。背の中でも絵の中でもありません。池銃の書いた文章そのものが暗号になっているんです」
「あの童話が暗号?」
「そうなんです。今日僕は、たまたま青蘭社の応接室で、ぼんやり〈もりのさる〉を見ていました。すると、この本に誤植のあるのに気が付いたのです。おかしいな。字数も少ない、豪華本に誤植がある。そう僕が言うと、磯明編集長が驚くべきことを言ったのです。ありゃ誤植じゃないんだ。もともと誤字なんだ。その誤字を訂正して本を作ったら作者の池本銃吉は、わしの書いた原稿と字が違うところがある。原文のまま刷り直せと言う。改刷した費用は全額自分が負担してまで、自分の主張を押し通した。そして〈もりのさる〉は誤字に直して、改刷したというのです。それを聞いて、僕の頭はくらくらしました。編集長はそれを池銃の頑迷さだと解釈していたようですが、僕には納得できなかった。何故《なぜ》、池銃はそれまでしても自分の文字にこだわるのか。聞けば自分の文章の一字一句に絶大な自信を持つほど文学に打ち込んでいるわけではない。反対に原稿の書き方を、磯明さんに習うほどです。僕はその原因をいろいろ考えあぐねましたが、その奇矯《ききよう》な固執を綺麗に説明できるのはただ一つ。それは、あの文章は表面に現れた童話とは別の意味を含んでいるのだ。つまり、一字でも変えられたら、第二の表現が意味をなさなくなる。自分が本当に言いたい目的を失ってしまうからである――」
「暗号文だからだな」
「そうです。あの文章には、他の意味がこめられているに違いない。そう思って読み返すと、あの文章のぎごちなさは、下手《へた》な俳句や和歌、七五調、回文、いろは歌などと、一脈通じるものを感じませんか?」
「つまり、ある法則でがんじがらめになっている文章なのだ」
「そうです。池銃にとっては正確な文章である〈つづみふえ〉でなく、どうしても〈つずみふえ〉にする必要があったんです」
「ううむ。で、その暗号文は何なのだ。暗号文というと、宝の隠し場所でも記してあるのか? めん子はそれを解読したのか?」
亜は済まなそうに首を振った。
「手縒さんはあの暗号文には全然気付いていません。ただ単純に、池銃が自分のうろたえぶりを隠すために〈もりのさる〉の字が違っているなどと言いがかりを付けたものと信じているようでした」
「じゃあ、あの予想以上に贅沢《ぜいたく》なスナックは?」
「別な角度から宝物を捜したのでしょう。暗号には気付かなかった代り、自分と呼び名が同じだけで、ああも池銃を驚かせた〈しの〉とは何者だろう。池銃の身元を調べれば、彼の初婚の女の名が志乃であることが判る。しかも彼女は蒸発している……」
「そしてめん子は、当時の阿賀野日報を蒐《あつ》めていたわけだ」
「暗号に気付けば、古い新聞など必要ではないでしょう」
「お前はその暗号を解読したのか?」
「いや、その、別に……」
「おい、呆《とぼ》けるなよ。正直に言え」
「そりゃ困りますよ。僕もまだどんな宝物か知らないんですが、先生に教えては、宝が半分になってしまう」
「半分になってもいいじゃないか。俺は大した欲は出さん。小さなアトリエが欲しいだけだ」
「僕は35ミリの映画撮影機が欲しいんです」
「そんなら頼まん。俺のアトリエは俺の頭からしぼり出す」
「それがいいでしょう」
「お前、案外冷たいことを言うな。よし、お前に解けて、俺に解けないことがあるものか。なになに、やまみち ほい やまなみ よお――か。ううむ」
一荷は頭を抱え込んだ。
「――そうだ。俺は一杯やった方が頭がよく動くんだ」
一杯が二杯。最後には、ヘベれけになった。
「俺の天才は別のところにあるんだ。何がやまみちほいだ。いや、朝の風の中ならなんとかなりそうだ。今夜は早く寝よう」
そうして、どうしても亜と寝ると言い出した。
「何を変な顔をしている。いいから早く床《とこ》をのべろ」
一荷の妻は二人の顔を見比べた。
「馬鹿。妙な気を廻すな。二十年連れ添っていて、俺の趣味も判らねえのか」
「でも、あなた、変に物好きなところがあるから――」
「うるさい。金儲《かねもう》けだ。アトリエだ。アトリエほいだ」
一荷は本当に亜の足と自分の足に玩具の手錠を掛けた。鍵《かぎ》をどうするのかと見ていると、紐《ひも》を取り出して自分の陰茎に結び付けると、安心したのか、頭の疲れが出たのか、すぐに大鼾《おおいびき》をかきはじめた。亜は寝られない。一荷の股《また》ぐらから鍵を取り出し、鍵を外してから、眠りについた。
童画家集団の新年会では、一荷と亜の二人連れは、嫌でも人目に付いた。二人の手首が手錠で繋《つな》がっていたからだ。湯にはいるのも一緒、便所も一緒だ。
「一荷さん。今日は何の趣向です」
珍しがって、皆が訊《き》く。
「宝探しだ。探偵《たんてい》ごっこだ」
一荷は満足げである。
「大分、宣伝したな。これじゃ寝ごかしを食っても、きっと誰かが見付けて、教えてくれるに違いない。我ながら名案だ」
「何が名案ですか。とても素面《しらふ》じゃやっていられませんよ。お酒下さい」
「いいぞ。うんと飲め。前祝いだ。さけようまいな。おみきこぼすな、だあ」
亜は酔うと、調子に乗り、自分も罪人のような顔をした。一荷を旦那《だんな》、旦那と呼ぶ。
「旦那、煙草を下さい」
「旦那、おしっこです」
しまいには一荷の方が飽きてしまい、二日目は早く目が覚め、亜の傍から逃げ出して、湯に漬《つ》かっていると、いつの間にか亜も風呂場《ふろば》に裸で駆け込んで来て、
「こら、一荷、御用だ。神妙にしろ」
と手錠を振り廻す。こうなったら逆らっても駄目だ。
「旦那、決してお手向いは致しませぬ」
一荷は手を差し出した。一荷もやけになり、その日も酒びたりになった。
一荷がとろとろしていると、誰かが噂をしているのが耳に入る。
「今日の一荷は何だか変だ。半分は本気のような点が見える」
「それにやまのさるがどうしたとかいう変な歌を歌い続けている。いよいよこれかな」
これというのは目を閉じていても判る。頭の上を指でぐるりと輪を描いているのだろう。
「やまのさるじゃねえぞ。もりのさるだ」
一荷は目を開いて訂正した。
一荷の友達は、顔を見合わせて、どこかへ行ってしまった。
「亜、起きろ。暗号が解けかかったぞ」
「そ、そりゃ本当ですか」
亜は残念そうな声を出した。
「そうだ。気が付いたぞ。なぜやまのさるじゃなく、もりのさるなんだ。なぜもりでなければならなかったのだ」
「もう、一と息――」
「――う。そのあとが判らない。なぜ、ドロロロ ロロロンなんだ。なぜそこだけが片仮名なんだ。それなら、なぜヒョルルリ ポンポウンじゃいけないのだ。ええい、池銃めが」
というわけで、一荷にとってこの新年会は目茶目茶なものになった。
翌日早朝、二人は熱海から東海道線を西に向った。
「先生、目が赤いですよ。風邪じゃありませんか?」
さすがに亜もぐったりしている。
「風邪なもんか。少し飲み過ぎたようだった。俺も年かな。嫌になっちゃう」
府参《ふざん》で府館《ふかん》線に乗り継ぐ。揺れのひどい電車で、山間を縫うように走る。三つの駅弁を二人は分けて食べた。府参で弁当を二つ買ったら、売店の女の子が亜の顔を見るなり、真っ赤になって三つの弁当を亜に押し付けたのである。駅と駅との間隔が短く、電車は木の隙間《すきま》をごろごろ動いては、すぐ止まる。弁当を食べ終った一荷は、いつの間にか寝こんでしまった。
目を覚ますと、電車は海岸を走っていた。電車の振動は、相変らずごろごろした調子だ。隣を見ると、亜がいない。一荷は、はっとしたが、いなかったのではない。亜は紙袋を抱えたまま、座席の上に横倒しになって寝ていたのだ。一荷は亜の紙袋に手を掛けた。
「だめですよ。先生」
亜がぼんやり目を開けた。
「どこまで乗って行くんだ」
「双宿《もろじゆく》というところまでです。いまどこですか?」
「新袋《あらぶくろ》という駅を過ぎたところだ」
一荷は不機嫌《ふきげん》に言った。
「じゃあ、もうそろそろ着きそうです」
亜は紙袋をごそごそ開けて、地図を取り出した。
「双宿からバスが出ます。バスで三十分くらいでしょうか、糸香という土地は」
「海岸なのか」
「そうです、そこから二キロほど奥にはいると、糸香神社という社があるはずです。糸香神社の後には、森がある」
一荷はだんだん目が覚めてきた。
「その森に宝があるのだな」
亜は悪人めいた顔をして頷《うなず》いた。
双宿で降りると、潮風が強く顔に当った。電車は五、六人の乗客を双宿に残すと、海岸をそれて山の中にはいって行った。
バスは一時間に一台。それでも電車との連絡がとれているものとみえ、四、五人の乗客を乗せると、すぐに動き出した。
岩の多い海岸である。海は空の色を写しているように灰色にくすぶり、岩の影は黒かった。
糸香でバスを降りたのは、一荷と亜の二人だけだった。二人は海岸を背にして歩きだした。
「糸香神社の森を少うしばかり、ほじくり返すようになるでしょう。もし人に見咎《みとが》められるようなときには、こうしましょう。先生は考古学者。あの森に興味ある遺跡が発見された、とか何とか言う」
「俺は考古学のコの字も知らないぞ」
「どうせ対手《あいて》は素人《しろうと》に決まっています。適当にあしらえばよろしい。先生の顔は考古学者でも不自然じゃありません」
「この顔が、か。それなら、お前は何だ?」
「カメラを持っていれば、ぴったり写真家でしたがねえ」
「カメラを持っていたところで、何が写真家のものか」
「それでは、先生の有能なる助手」
「どうも役柄ではないが仕方がないだろう。いい男なんてものは、弁当を買う以外、あまり役に立たねえもんだ」
道は小さな古い町にはいった。亜は雑貨屋を見付けると、スコップを手に入れた。雑貨屋の主人は赤ん坊を背負っていた。ついでに糸香神社を訊くとすぐに判る。雑貨屋の裏の田圃《たんぼ》を抜けたところだ。
糸香神社は、黒く大きな古い建物であった。黒い鳥居には大きなひびが入って、ひびの中に黄色いキノコのようなものが見える。神楽堂《かぐらどう》は半分傾き、剥《は》がれかかった千社札が風に動いている。右側に大きな藤棚《ふじだな》があり、苔《こけ》の生えた根の奇異な曲線が、今にも動き出しそうであった。藤棚の奥にある平屋が、神官の住いなのだろう。一荷が半分落胆したのは、糸香神社には森と呼べそうなものがなかったことだ。神社の後ろには何本かの杉が、寒々と立っているばかりである。
角の丸くなった賽銭箱《さいせんばこ》の前で、洋装の小柄な老婦人が手を合わせていた。二人は神社の後ろに廻った。杉の後ろには赤い土が掘り起こされ、ところどころに砂利の山が見える。
「道路が敷かれるんですね」
亜があたりを見廻した。
「俺たちも道路でも掘ろうと言うのか」
杉の木の下で、強度の眼鏡をかけた、もんぺ姿の男が杉の落枝を拾っていた。
「ちょっとお尋ねしたいことがあります」
亜が声を掛けた。
もんぺ姿の男は、やっこらしょと腰を伸した。白髪《しらが》混りの髪が短く、同じ長さの無精髭《ぶしようひげ》が生えていた。
「糸香神社の森というのは?」
「ごらんの通り」
男はレンズの奥の目をしばたたかせた。
「すっかり風通しがようなりましたよ。道路を敷くのだそうですな。わずか残っていた杉も片端から引き抜かれて、あのざまじゃ。その上、この先の用地買収の見通しが付かぬとか何とか言いよって、工事は途中で放ったらかしじゃ。もう三月もああしてある。風が吹けば土は舞うし……」
男の呪詛《じゆそ》はいつまでも続く。
「ところで、神主さんはご在宅でしょうか」
亜が訊いた。
「ご在宅ですとも。――わしがお尋ねの宮司、千野義麿《ちのよしまろ》です」
「これは――」
亜が困ったように一荷を見た。一荷は彼が神官なら、亜も学者の助手でも大丈夫だろうと思った。一荷は一歩前に出た。
「これは、失礼致しました。私、古代史を研究しておりまする一荷聡司という者であります。先日糸香神社の森に古代の土器が発見されたというのを、青蘭社刊行の〈古代古史〉で知り、研究のためやって参りました。少々土など掘るかもしれませぬが、学問のため。決してご迷惑はお掛けしませぬ」
「ほほう」
レンズの奥の目が大きくなった。
「著者はどなたですな?」
「著者?」
「〈古代古史〉のですよ」
「――き、黄戸静夫《きどしずお》著〈古代古史〉」
「聞かぬお名前ですな。新進の研究家でしょうか」
「そ、そうでありましょうな」
「青蘭社というのも聞かぬ出版社ですな。わしも古代史には古くから関心を寄せておりますよ。在野のアマチュアに過ぎませんが、多少の研究も発表したことがあります。お話の様子ではどうやら中央では新しい波が起こりつつあるらしい。お話をお聞かせ願えませんか。よろしかったら拙宅へでも……」
「こりゃ、やばい」
亜がささやいた。
「在野のアマチュアというのは、専門家より専門的な研究をしている人が多い」
「ど、どうすりゃいい」
「誤魔化《ごまか》すんです」
「俺は嘘《うそ》が下手だ」
「じゃ呆《とぼ》けますか」
「そ、その青蘭社というのは、創立したての歴史専門の書店で――」
「そりゃおかしい。どんな書店でも歴史専門となると、まっ先にわしのところに挨拶状が来るわけじゃ。中央の先生方はわしの名をその書店に紹介しないはずがない。――ははあ、あなたもあの口でしょう」
「あの口?」
「最近も同じようなことを言って、スコップを担いで来た女性がいました。その女性の古代史の知識は、あなたたちより多少ましでしたが、矢張りシルキー社と言って尻尾《しつぽ》を出した」
「めん子だ!」
一荷が叫んだ。
「そんな名でした。そう、磯明《いそあき》めん子――偽名ではなかったかな」
「偽名――には違いないが」
「お友達の名を借用したわけじゃな。めん子の知り合いだとすると、あの穴を教えるわけにはゆかん。あの女は盗みよったからじゃ」
「盗んだ?」
「祥桂寺から髑髏と、あの穴から朽ちた斧をじゃ」
「そ、それをもう少し、精《くわ》しくお話しねがえませんか」
「わしは人の心を疑うことが嫌いじゃ。もし、あなたたちが邪悪な心を捨てると誓うなら、お話ししてもよい」
「お前どうする」
亜は片目を閉じた。
「ち、誓います」
「よろしい。十月も末でしたか。一人の女性が尋ねて来た。それが今言った磯明めん子という子で、あなたたちと同じようなことを言い、すぐ尻尾を出しよった。よくわけを聞くと、こうじゃ。最近、阿賀野日報に面白い記事が出ているのを見付けた。糸香神社の森、森と言ってもすでに森の名残りに過ぎなくなっていたが、その森に新しい道路が建設される。つまりこのことじゃな」
千野神官は砂利の山を指差した。
「その工事の途中でシャベルカーが土中から、一体の人骨を掘り起こした。骨は女性で、歯の摩滅状態から推定すると二十五歳前後。頭骨が陥没しているところを見ると、恐らくは殺された上、埋められたものじゃ。だが、骨は四十年以上昔のものだと言う。〈四十年以前の完全犯罪〉これが阿賀野日報の見出しじゃった。めん子は自分は〈週刊人間〉という週刊誌のレポーターであると、正直に自分を名乗り、本当はその記事の取材に来たのであるが、とかく不吉な話でいきなり切り出しては敬遠されると思い、心になく考古学の調査などと偽ったのだと、詫《わ》びおった」
「あいつ、やはり一枚|上手《うわて》だ」
一荷はつぶやいた。
「めん子はその骨はどこにあるかと訊いた。わしは、いずれ埋葬されることになろうが、一時祥桂寺の位牌堂《いはいどう》に安置されてあると答えた。めん子はまた、骨の出た場所を知りたがった。その穴は、幸いそのままになっていた。あの骨を掘り起した工事人が、得体の判らぬ病に罹《かか》り、誰もあとを続けようとする者がない。工事は中断されたからじゃ」
「工事人が、病に?」
亜が怖ろしそうな顔をした。
「なんの、口実じゃ。土地買収がうまくゆかぬので、役人どもの責任逃れの、下手《へた》な口実に違いないわい。従って骨の出た穴はそのままになっておった」
「めん子はその穴を掘ったのですか?」
「半日掘っておったようじゃ。そして、めん子は凶器を見付けた――」
「凶器――」
「さよう。同じ穴から、めん子は朽ちた斧《おの》を掘り出した。あの頭骨の損傷はその斧によってなされたものに違いはない。めん子はその斧を頭骨のある祥桂寺に納めなければならぬと言い、斧を持って祥桂寺に行った」
「ところが、納めるどころか、反対に頭骨の方も持ち出したというのですね」
「左様。何のためにあんな物を盗みよったか、わけが判らん。放っとくわけにもゆかぬ。〈週刊人間〉に連絡すると、当社には該当《がいとう》する人物はおらんと言う返事じゃ。あなたらは彼女の一味と睨《にら》んでおる。めん子とやらの居所を知っておるか」
「ちょっと待って下さい。わたしたちは決して一味なんかじゃないんです。で、被害届は?」
「盗《と》られたものはしゃれこうべでも、無論届は出した。だが今日取り下げた」
「取り下げた?」
「骨と斧が戻って来たからじゃ」
「それは?」
「今朝、ラジオ体操で祥桂寺の円定《えんじよう》君に会うと、いきなり妙な話を聞かされた。昨夜、祥桂寺の本堂をこじ開け、盗賊が侵入した跡を見付けた。だが妙な賊で、持ち出した物は何一つない。その賊はただ、めん子の持ち出した骨と斧を返しに来ただけじゃった」
「骨と斧が、返されていた」
「そのとおり。元の納骨堂に、きちんと並べられてな」
「大変だ!」
亜が目をむき出した。
「彼女の守護神が返されるとは、と、とんでもない。電話だ。で、電話貸して下さい」
「だめじゃ」
いきなり錯乱状態に落ち入った亜を、千野神官は、はったと見据《みす》えた。
「あなたらの心に穢《けが》れが見えておる。すぐわたしが穢れを祓《はら》って進ぜよう。それまで電話に手を付けることはまかりならぬ」
「おう、シルキーか?」
一荷は上《うわ》ずった声で言った。亜がすっかり転倒しているので、自分も平気な気持ではいられなかった。
「そうです」
聞き覚えのある声がした。亜は受話器に顔を寄せて聞き耳を立てている。
「俺は一荷だ。覚えているか。三日前、店に行った一荷聡司」
「はあ、覚えていますよ」
男の声は妙に陰気だ。一荷は不吉な予感がした。
「め――志野はどうしたかね。退院したか?」
「それが――亡くなりました」
「死んだ? いつだ?」
「先生が見舞いに行かれた、次の日の夜中でした」
「なんで、死んだのだ」
「経過は順調だったのです。退院するばかりだったのです。ところがあの晩、腸閉塞を起して、夜、亡くなりました。思ってもみなかったことでした」
「病院にいながら、何だって死んだんだ」
「知りません。わたしはいま帰ってきたばかりですから」
「――糸香からか」
「…………」
「おい、まだ切るな。お前、祥桂寺へ行ったか?」
「は? いいえ……」
「心配するな。秘密は守る。あの骨と斧を祥桂寺に戻したのはお前だろう」
「――そうです。ママに頼まれたのです。わたしが駆け付けたのは、二度目の手術を受ける直前でした。ママは真っ青になって、骨と斧を祥桂寺に戻すように私に頼むのです。私は気持が悪かったのですが、ママがあまり真剣になるので」
「そうか。あとが大変だろうが、頑張《がんば》れよ。俺も店に寄ってみる」
一荷は電話を切った。亜はぼんやりしてしまった。
「こりゃ、どういうわけだ。めん子が死ぬなどとは――」
「先生、もうだめです。暗号を解いた手縒さんが死ぬとは、思わなかった。僕は諦《あきら》めました。写真機は思い切りましたから、先生もアトリエは諦めてください」
「そりゃ話によっては諦めもしようが、亜が解いた暗号を――」
「暗号とな」
千野神官のレンズがまた輝いてきた。
「どんな暗号です。わしは謎を解くのが好きで古代史を研究するようになりましたのじゃ。暗号の蒐集も趣味の一つでしてな。ぜひその暗号が知りたい」
「どうしよう」
「とんでもない先生。本当のことなどこの人に教えられますか」
千野神官は二人の傍ににじり寄る。
「教えなければ帰すわけにはゆかぬ。誓って秘密はお守りする――」
そのとき、玄関が開いて、かん高い声が響いた。
「お願いです。お願い――」
千野神官は玄関の襖《ふすま》を開いた。玄関に、三角形の顔をした洋装の老婦人が、小銭入れをしっかり握りしめて立っていた。
「お願いです。済みません私、間違えてお金を賽銭箱の中に入れてしまいましたの。返して下さいな」
「ほう、おいくらですな」
「五円」
「五円? おいくつ?」
「一つ」
「一つ?」
「一つでも大切な五円玉ですの。その五円玉には穴が二つも開いているんです」
「穴が二つ?」
「世界でも類のない、珍品中の珍品ですわ。ああ、どうしましょう」
「それは大変じゃ」
千野神官はしゃっきりと立ち上った。
「それは大変です」
亜も立ち上った。すぐ一荷に耳を寄せて、
「この隙《すき》に、逃げるんです」
「だが、その五円玉も見たい」
「そんなこと言っていられますか」
四人は賽銭箱の前に立った。千野神官が賽銭箱の中を覗いている隙に、二人は駆《か》け出した。
「いかん、おい、待て」
追おうとするのを、老婦人が胸倉を捕える。
「あの五円をどうする気? 自分の物にする気でしょう。泥棒《どろぼう》……」
バスは出たばかりであった。次のバスまでには一時間もある。
「追って来るだろうか」
一荷は、はあはあ言った。
「追って来ます。蒐集家ですもの」
二人は草叢《くさむら》に身体を隠した。果たして、十五分もすると、亜の置いて来たスコップを担いで千野神官が現れた。しばらくはバスの時刻表と懐中時計を見比べていたが、やがて諦めたのか、スコップを担いで帰って行った。
「気の毒だが、仕方のないことです」
亜はそっと言った。
「俺は本名を名乗ってしまった。いずれ見出されるだろう」
「そのときまでに、僕が別の暗号を作っておきますよ」
「そうしてやってくれ」
二人は草叢から這《は》い出して、道を渡り、砂地に腰を下ろした。
「疲れたな」
「疲れました。それに、寒い」
一荷は亜が抱えている封筒に目をやった。
「もう誰もいない。すっかり話してもいいだろう」
海からの風が強い。空は相変らず灰色のままだ。遠くに船の形をした岩が見える。見ているうちに、船の形をした岩ではなく、本物の船だということが判ってきた。浜に引き上げられた廃船だろうが、傍に岩があるので、初めは岩に見えていたものらしい。
「まず、僕が池本銃吉の作った暗号を解読したことから話すのが順序でしょう」
亜は締りのない声を出した。
「そうだ、それが最初だ」
「前にも話したとおり、池本銃吉が、折角出来上った〈もりのさる〉を刷り直させた。自分の原稿に対する異常な執着が、かえって僕にその文章に疑いを抱かせる結果を生じたのです。あの文章には、何か別の意味が隠されてはいないだろうか。そうした目であの文章を読み直してみると、怪しい点が、次々に目に付きます。先生もそのことは、とうに気付いているでしょう。〈やまのさる〉でなく、なぜ〈もりのさる〉なのか。狸《たぬき》の化けるときだけなぜ〈ドロロロ ロロロン〉と片仮名を使ったのか……」
亜はポケットから手帖を取り出して開いた。そのページには「もりのさる」の全文が書き移されてあった。
「〈もりのさる〉はどうやら暗号臭い。では、どんな暗号なのか。それは〈もりのさる〉が曲りなりにも文章を構成しているので、その範囲はかなり限られてきます。例えば一つの文字が他の文字に置き換えられているような暗号では、とても文章などを綴《つづ》ることはできません」
「何字かずつ、特定の数を飛び越して読むというのはどうだ」
「それはすでに先生が試験済みではありませんか」
「そうだ。幼稚な方法だな」
「僕は他の考えで池銃はそんな暗号は作るまいと考えました。池銃は吝嗇《りんしよく》だというではありませんか。吝嗇な人は文章の間に、無駄な字を差し込むような暗号は作るまいと考えました」
「そりゃあ、考え過ぎではないか」
「そうかもしれませんが、人間というのは案外持っている体質外のことが行えないものですよ」
「では、特定のコードや乱数表を使ってでもいるか。俺は以前そんなことを本で読んだことがある」
「それは特定の人間に暗号を送る場合でしょう。ところが池銃は不特定な多数に〈もりのさる〉を配っているのですよ。池銃は暗号文の内容は、誰にも知られてはならないのでした。ですが、絶対に解くことの出来ない暗号文では自分の目的を達することも出来なかったのです」
「とすると、もう俺には判らない」
「あの文章をよく読むのです。そうすれば自然に解け出します」
「俺は暗誦《あんしよう》するほど読んだぞ。〈やまみち ほい やまなみ よお〉」
「それがいけない。先生は調子のよいところだけ覚えているのでしょう。僕は反対に調子の悪いところ、不自然なところに注意したのです。調子の悪いところ、不自然なところは池銃がうんうん苦しんでいるところですよ。どうしてもそれ以上よくすることが出来ず、池銃が諦めて妥協してしまった部分です。僕は最初にそんなところを探しました。そこから秘密がほぐれ出すと思ったからです」
「誤字もそうだったんだな。あの個所では、正しい字が使えなかったんだ」
「〈もりのさる〉にはすっかり調べると、誤字が四つもありました。ですが誤字だけ見ていても暗号は解けませんでした。僕はもう一度全体を見渡しました。すると、調子の悪いところは、文章の分ち書きが変なのだと気が付いたわけです」
「文章の分ち書き?」
「そうです。幼児の本のほとんどが分ち書きではありませんか。句読点がなく、文章はブロックにまとまって印刷されてある。その分ち書きに注意すると、誤字以上に不自然な個所が多くありました。先生ごらんなさい」
亜は手帖を示した。〈もりのさる〉の写しにいくつかの傍線が引かれてあった。
「ほら、二節の二行目〈ささあつま れよ〉とある分ち書きは妙ではありませんか。本当なら分けずに〈ささあつまれよ〉と書くのが普通でしょう」
「なぜ、分けて書かなきゃならないんだ」
「分けて書かないと、七字の集合になるからだと思います。この文章には、六字以上のブロックは一つもありません」
「そう言やあそうだ。それも手掛りなのだな」
「まだ他にも怪しいところがあります。六節の六行目〈ぱぱ ぱっ〉は〈ぱぱぱっ〉が当然でしょう。反対に分ち書きをした方がよさそうなのに、ブロックになってしまった個所もあります。七節の五行目〈まめ すしおそば〉は〈まめ すし おそば〉の方が判り易《やす》い。もう一つ、最後の行〈かっぽ れの ゆめ〉は〈かっぽれの ゆめ〉としなければならないでしょう。現に、七節四行目ではちゃんと〈かっぽれよ〉と書いてあるではありませんか」
「だんだん判って来たぞ。この暗号は文字のブロックに重要な意味があるんだ」
「そうです。僕は〈もりのさる〉に分ち書きに怪しい個所を見付けたとき、この暗号の主題が判りました。――分ち書きをされた文字の集合が、別の仮名文字の一つに対応しているに違いない。五字以下の文字――いやこの場合記号といった方が判り易い。五個以下の記号の集りが、一つの文字を現しているようなものは?」
「――う」
「池本銃吉の社名と、彼の経歴を思い出して下さい」
「池本銃吉。若い頃、漁船の電信士だった」
一荷は自分の言葉で飛び上った。
「判った。無線電信だ。モールス信号!」
「そのとおり。だが本当はこれから先が、難しかったのですよ。では、いろは四十八文字のうちどの仮名がトンで、どの仮名がツーなのか」
「そう言やあそうだ。いろはのいの字がトンなのかツーなのかが問題だ。待てよ。こういうのはどうだ。いの字がトンならろの字がツー、はの字がトン。つまり交互にトンツーが当てられている」
「それなら、二字ずつが交互になっていることも考えられますよ。三字ずつであるかもしれない。またいろはの二十四番までがトンでそれ以下がツーになっている可能性もある」
「片っ端から当ててみたらどうだ」
「先生、せっかちの割には気の遠くなるような話を平気で言うね」
「そんなに大変なのか」
「そりゃそうです。第一いろは順でないかもしれませんよ。あいうえお順かも判らない」
「だったら、あ行がトンなら、か行がツーという工合だ。わけなさそうじゃないか」
「飛んでもない。とりな順ならどうします」
「何だその、とりな順というのは」
「とりなくこゑす ゆめさませ みよ あけわたる ひんがしを――明治に万朝報《よろずちようほう》が懸賞募集したとき一等になった〈いろは歌〉です。当時の万朝報は、とりな順を採用していたそうですよ。他にも〈あめつち〉という古いいろは歌も有名です」
「お前は俺を困らすようなことばかり言っては喜んでいる」
「別に困らすために言うのじゃありません。いろは四十八の仮名を二た通りに分類する方法は、無限にあると言いたかったのです」
「それではこの暗号は解けないじゃないか」
「ところが解けるのです。何度も言うように、この文章の不自然な個所をよく見るのです。今度は誤字に登場してもらいましょう」
「池銃が死守した誤字だな」
「いいですか。さっきこの文章にはいくつかの誤字があると言いましたが、それを拾い出してみましょう。一つ、第一節の三行目〈つずみふえ〉は〈つづみふえ〉が正しい。二つ、六節五行目〈のるくさ さるとゆけ〉は〈のろくさ〉でなければならない。三つ、六節七行目〈ぴかぴかの ゆうほお〉はぴかぴかのUFOですから〈ゆうほう〉が正しい。四つ、十節八行目〈ああらまあ きゆるふえ〉は〈きえるふえ〉が正解です」
亜はマッチ棒を取り出して、砂の上にいくつかの仮名文字を書いた。
(正)づろうえ
↑↑↑↑
↓↓↓↓
(誤)ずるおゆ
「もう、なぜ池銃がつづみと書くところを、つずみと書いたか、お判りでしょう。例えばづの字がトンであるとすると、ずの字がツーだからですよ。この場合モールス信号からは、その部分はどうしてもツーが必要であった。つまり、つとず、ろとる、うとお、えとゆの間には相対的な関係がなければならない」
「ううむ」
「唸《うな》りましたね、先生。ところが、その関係の意味を僕に教えてくれたのは、他ならぬ一荷先生でした」
「俺が? いつ、どこでだ」
「三日前、青蘭社の応接室で、でした」
「あのとき、俺は〈消えるドクロ〉を皆に見せていた」
「そうでした。先生は〈消えるドクロ〉に驚いている皆の顔を見て満足そうでした。あのときの先生の言葉を忘れることが出来ません。〈ガラスの箱には出口がない。完全に閉ざされているのだ。誰もあの髑髏を抜き取ることは出来ない〉」
そうだ。その言葉を聞いて亜は白目を出して倒れそうになったのだ。一荷は湯呑みのウイスキーを亜に飲ませた。亜は落着くと、いきなり謎が解けたので腰が抜けそうになったと答えた。一荷はあわてて「消えるドクロ」の謎が解けたのかと聞いた。亜の返事は今思うと変だ。亜は「それも、あります」と答えた。あのとき、亜は暗号を解き、「消えるドクロ」の謎も解いてしまったに違いない。
「〈完全に閉ざされているのだ〉その言葉を聞いたとたん、素晴らしい仮名文字の分類に気が付きました。平仮名には閉曲線を持っていない仮名と、閉曲線を持っている仮名に分類することが出来る。――開いている仮名と、閉ざされた空間を持っている仮名……」
「閉ざされた仮名だと?」
「位相数学――トポロジィの世界では、閉曲線を持っていない曲線と、閉曲線を持っている曲線とは大きく分類されています。仮名文字の位相数学的分類とは、何と合理的で、視覚的な方法ではありませんか」
亜は砂の上の字を一つずつ差し示した。一荷は文字の閉曲線を見ているうちに、五円玉の穴を思い出していた。
「づ、ろ、う、え、はいずれも閉曲線を持っていないでしょう。それに対し、ず、る、お、ゆ、の文字にはどれも閉曲線がありますね。前者の仲間は、いろにへとちりをわかたれそつら……の仮名群であり、後者の仲間は、はほぬるよねなむゐのおまあ……の仮名群であります。これで狸《たぬき》の化けるときだけ、片仮名を使った意味もはっきりしましたね。池銃は開かれた〈ろ〉の字ではなく、どうしても閉ざされた〈ロ〉の字が必要だったのです。磯明編集長の話では、池銃は本に使用される活字には奇妙に神経質で、あの活字は自分で選んだものだと言うことです。その理由も判りますね。活字によっては、本来閉曲線を持っていない、や、も、わ、ふ、などの字が、筆の勢いのために閉曲線を生じてしまうことがあるからです。この分類に気が付いた後は簡単でした。僕は図書館でモールス信号の記号を調べ、それによって新しく文字を並べ替えてゆけばよいのでした。閉じている仮名は|・《トン》、開いている仮名ならきっと|――《ツウ》でしょう。そして、その通りでした」
亜は旅行中手放さなかった紙封筒をごそごそ言わせて、一枚の紙片を取り出した。拡げるとモールス記号と文字が書き留められていた。
「お前は新年会の間中、俺を追い掛けて、手錠を掛けた。あれは俺にこっそりと、その袋の中を見られるのが嫌だったんだな」
「そりゃそうです。先生から暗号を解く楽しみを奪いたくなかった」
「変な理由を付けるな。まあそれはどうでもいい。早く解いた暗号を見せてみろ」
「そうします。まず題名です」
「題名も暗号なのか?」
「そうです。〈もりのさる おまつり の〉の最初の仮名もは開かれている仮名ですからツー。りも開かれているからツー。のは閉曲線があるのでトン。このようにして題名を信号に置き書えると、|もりのさる《ツーツートツート》 |おまつり《トトツーツー》 |の《ト》――となります。言葉に直すと、し、の、へ……」
亜は一荷の顔を見た。
「し、の、へ? おう、志乃へ――だ」
「そう、この暗号は、池銃の蒸発した初めの妻、志乃へ宛《あ》てたものだったのです」
一荷の身体が固くなった。頭の中でめまいを感じた。そのめまいは「消えるドクロ」の秘密が明かされたときに似ていたが、もっと強烈であった。
「そ、そして、全文は?」
一荷は食い付きそうな顔になった。亜は一荷の血相にびっくりしたのか、身体を小さくすると、紙袋の中に顔を突っ込み、別の紙片を取り出すと、急いで一荷に差し出した。
「これが全文です。句読点だけは、僕が付けておきました」
一荷はひったくるようにして、その紙片を読んだ。寒さにかかわらず、一荷は全身に汗をかいた。
しのヘ
まいばん、しのがゆめで、わたしをせめる。
わたしもとしだ。
しののせめにたえられない。
わたしは、むかしのつみを、ここでこくはくしよう。
四五ねんまえ、しのをころしたのは、わたしだ。
どうきは、二どめのつま、よしこのざいさんが、どうしても、ほしかったからだ。
しのは、おのでころし、しかじんじゃのもりにうめた。
しのに、つみはない。
ゆるしてくれ。
いまここにすべてをこくはくし、しののめいふくとゆるしをいのるばかりだ。
「――池本銃吉の詫寿《たじゆ》の祝は、偽らざる〈詫の祝〉だったのです」
一荷は暢気《のんき》な童話の後から泛《うか》び上って来た、異様な告白文に驚愕《きようがく》していたので、返す言葉も知らなかった。
「毎晩志乃が私を責める。私も年だ。志乃の責めに堪えられない――。あの頑固な池銃が、突然昔の罪に責め苛《さい》なまされる身になったのは何故でしょう。池銃は阿賀野日報のあの記事を読んだからです。四十年以前の完全犯罪。自分が殺害して埋めた志乃が、掘り起されたのですよ。そして怖ろしいことに、骨を掘り起した工事人までが、得体の知れぬ病に罹《かか》ったと伝えられている。池銃は毎晩悪夢に襲われるようになりました。頑固な人間は一度思い詰めるとなかなかその中から逃れることが出来難い。そうです。私も年だ。志乃の責めに堪えられない――
「志乃から逃げる道は唯《ただ》一つ。自分の罪を全《すべ》て告白し、罰を受ける。だがそれは死よりも恐ろしいことでした。そして池銃は最後に一つの告白の方法を思い付きます。それは誰もが告白であることに気付かれぬ告白の方法でした。つまり、暗号で事実を書き、多くの人に配る。読む人はそれが告白文であるとは気付かない、だが、池銃にとっては、罪を告白し、志乃に詫びることには違いない。〈もりのさる おまつり の〉はこうした意図のもとに作り出されたのです。詫寿の祝は池銃の考えどおり、盛大に行われることになりました。その日、彼は本当に志乃に詫び続けようとしていたに違いありません。
「ところが、池銃の思ってもみなかったことが起こりました。完成した本を届けに来た女性が志野と名乗ったのです。池銃の驚きは、志乃が生まれ変って現れたのと同じききめがあったでしょう。その上〈もりのさる〉は原文のままでなく、書き改めて印刷されてありました。誤字は正しい字に直り、分ち書きも、読み易く改められていた。これでは肝心な暗号文が成立しなくなってしまう。池銃は驚き怖れ、頑として刷り直しを命じました。
「考えてみれば非常識きわまる池銃の申し出でしたが、手縒《てより》さんは心の動揺を隠すための池銃の言いがかりだと解釈したので〈もりのさる〉が暗号文であることには気付きませんでした。手縒さんはただし、あれほど池銃を驚かせた〈しの〉という名に興味を持ち、池銃の経歴を調べ上げ、北村志乃という女性を探り出しました。彼女は続けて阿賀野日報を蒐《あつ》め、池銃と関係のありそうな事件をしらみ潰《つぶ》しに調査したのでしょう」
「暗号には気付かなかったが、行動力に物を言わせたのだな」
「そして手縒さんは最後に阿賀野日報の記事から糸香神社の森に出向いて行き、四十年前の殺人事件の凶器と思われる斧を掘り起しました。更に祥桂寺から話題の骨を持ち出しました。手縒さんが、この二つの遺品が志乃や池銃と関係があるという確信をもっていたかどうかは判りませんが、池銃はこれを前にして蒼《あお》くなったでしょう。手縒志野との不思議な名の暗号、その彼女が骨を持って現れたのです。池銃はまさか事実を手縒さんに告白したとは考えられませんが、彼女の小さな望みを聴く代りに、骨と斧を彼女に持たせて、志乃の冥福《めいふく》を祈るように依頼したのでしょう。彼女がスナックを手に入れたのなら、暗号を解いた僕も、糸香神社でその土でも持って行けば、一荷さんのアトリエと僕の写真機ぐらいは、池銃が提供しても不思議はないと思ったのですよ」
「千野神官に話せなかったわけだ。お前は俺に池銃を脅迫させようとしたのか」
「と、とんでもない。志乃の冥福を祈る人が、一人でも多ければ、それだけ池銃の心も軽くなろうと思っただけです」
「お前は単純な思考をする男でもあるんだ」
「でも、糸香神社の森を掘る前に、骨が祥桂寺に戻ったということを知って、本当に助かった。もし僕たちが手縒さんと同じことをしていたら――」
「めん子と同じ運命を辿《たど》ったと言うのだろう。めん子は池銃の息の掛った医者の手で、口を塞《ふさ》がれた」
亜は首を横に振った。
「いや僕はそんなスリラーみたいなことは考えていません。もし手縒さんが池銃に殺されたのなら、骨を掘り起した工事人が病気になったのをどう解釈しますか?」
「あれは千野神官の言う通りさ。工事の進行が思わしく進まぬ役人たちの責任逃れの口実さ。それとも、もっと深い意味でもあると言うのか」
「もしかすると、池銃は手縒さんに、スナックと志乃の骨と斧と、あと一つもっと怖《こわ》い物も押し付けてしまったような気がしてならないのです」
何日か過ぎてから、朝早く一荷のところへ亜から電話が掛って来た。
「先生、僕の言った方が正しかったですよ。新聞をごらんになりましたか?」
「まだだ」
「池銃が死にました。死因は心筋梗塞《しんきんこうそく》です」
「――死んだか。あいつは青年のような心臓を持っていると、自慢していたそうじゃないか。だが偶然さ。道路工事人が病になったのも、めん子が死んだのも、池銃が死んだのも、全て偶然の重なりに過ぎない」
「そうでしょうとも」
亜の声は聞き取れる程低くなっていた。
「――なんだ、お前は、志乃の死霊が、また池銃のもとに戻ったのだと言いたいのか」
電話の向うで、亜の声が震えているのが判った。
「――先生、そんな恐ろしいこと、よく平気で口に出して言えますね……」
第七話 ホロボの神
桟橋《さんばし》に舟が着いた。
真っ白な漁船で、船首に濃艶《のうえん》な人魚の像がつけられている。現地人の船員は、皆陽気だ。口笛を吹き、大声で歌を唄《うた》う。褐色《かつしよく》の肌《はだ》が光り、豊かな筋肉が躍動する。派手な原色のシャツは、熱帯の青い空と、澄み切った空気に鮮やかに浮びあがった。
栄養が行き届いている、と中神康吉《なかがみやすきち》は思った。自分はどうだったろう。わずかなイモと青アズキ、芹《せり》に似た野生の草。地獄草子に出てくる人物そのままに痩《や》せ、目ばかりがぎらぎら光って、摩《す》り切れるばかりの軍服は、垢《あか》と泥《どろ》とで見る影もなかった。あの期間、一度でも今見るような青い空を見たことがあっただろうか。いくらホロボ島でも、年がら年中雲の中にあったわけではあるまい。だが、中神の記憶では、ホロボ島の印象は黒に近い灰色の世界でしかなかった。
熱帯の空の下は、矢張り、鮮明な色彩と、朗らかな表情と、食い足りた身体がふさわしい。それに比べ、自分は実に虚《むな》しく、つまらぬ時期を過ごしたものだ。
中神はそっと自分のまわりを見渡した。中神と同じ被害者が思い思いに船を見ている。遺骨収集団のうち、中神と生死を共にした仲間はわずか十人足らず。皆、年を取り、気魄《きはく》が衰えた。団長の大和田《おおわだ》元中尉だけが変らない。昔と同じ冗談を言っては、皆を笑わせていた。もっとも、中神より十五歳も年下だ。あとは、ホロボ島を初めて見る遺族と、報道員たち。
見知らぬ一団もいる。同じ船に乗る気らしいが、どうせ他の島へ廻《まわ》る観光団だろう。
中神康吉が召集されたのは、B29が本土空襲を始めた頃《ころ》だった。すでに、戦局が大きく傾きだしたのは、民間にあった中神でも推察することができた。中神は文具商だった。三人の子供を持ち、その頃すでに初老と言っていい年だった。中神は補充兵としての召集教育を受けた。召集された仲間は、いずれも家族を持っている中年の男か、虚弱な体格の持ち主ばかりだった。戦闘に勝とうとする覇気《はき》に乏しく、家族だけが気がかりだった。中神たち脆弱《ぜいじやく》兵隊は、苛烈《かれつ》な教練に明け暮れ、ほぼ発狂状態にある上官から、しごきにしごき抜かれた。
間もなく、教育召集は、臨時召集に切り替った。そして、南方行きが決ったとき、もう駄目《だめ》だと観念したのは、中神一人だけではなかった。全員顔を見合わせて蒼《あお》ざめたものだ。
すでにサイパン島は玉砕し、テニヤン、グァムヘも、米軍は上陸を開始していた。空襲は日ごとに激しさを加え、当時の戦況は、軍部さえ隠しおおうべくもない状態だった。そうした戦争のたけなわでの南方行きは、死刑の宣告と同じ意味を持っていたのである。
中神は太平洋上の、名も知らぬ島へ、僻地独立守備隊の補充兵として、門司港から輸送船に詰め込まれた。手渡された三八式歩兵銃は照星が曲り、物の役に立つとは思えなかった。つまり、中神たちは、ただの頭数の一人にすぎなかった。
これから、どんな島に送られ、どんな戦いをするのかも判《わか》らない。自分がどんな立場を占めるのかも知らされない。劣弱な一兵卒は、ただ命じられた場所に行き、命じられたとおりの任務を全うしなければならなかった。その命じられる中には、勿論《もちろん》死も交っていた。戦後になってから、数多く書かれた戦史を読んで、中神はおぼろげながら自分の位置がやっと判ったほどで、インパール作戦、サイパン作戦を知ると、今こうしていられるのは、奇蹟《きせき》に近い気がするのだ。いずれにしろ、中神は、第一〇八師団配下第イ二二|聯隊《れんたい》の一員、いや、一部品として南下した。
現在、中神はこの島へ、六、七時間足らずで飛んで来たのだ。あと、ホロボ島へは漁船で三、四時間。まるで夢のようだ。当時は輸送船の底、中神たち部品はかいこ棚《だな》と呼ばれる船底に押し込められ、シラミと汗に苦しみながら、二十日間も揺られ続けた。しかも、熱帯に入ると間もなく、中神たち五隻の輸送船団は、戦闘機の大襲撃に会った。
結局、補充船団のうち、貨物船、護衛駆逐艦は全滅。中神の乗った大昭丸《たいしようまる》は、船尾に魚雷を受けて大破し、半数の兵隊が戦死した。あっという間の出来事だった。中神が初めて経験した大戦争だったが、戦争全史のうちでは最も穏やかな一幕だったらしく、戦後になって米公刊戦史、モリソンの「海戦史」を繰っても見当らなかった。
大昭丸は奇蹟的に沈没を免かれたが、航行は困難を極めた。船足を軽くするため、戦死者は無論、多くの荷物や、兵器まで放棄しなければならなかった。大昭丸は半分沈没の状態で、近くに見えた小さな島の沖合にたどり着いた。その島がホロボ島だった。
島に上陸した隊は、ただちに再編成されたものの、軍隊にはなくてならぬ、無線機の破損は決定的だった。無論、食糧や兵器もわずかだ。
組成された隊の隊長は大和田少尉。幹部候補生出の士官だった。あとで知ったのだが、幹部候補生のうちでも、乙種。いわゆる乙幹《おつかん》というので、少壮気鋭の模範甲種に対して、乙種は落ちこぼれであり、あぶれものの不良だった。だが、人間的には奥行が深い。その大和田が隊長だったから、この軍隊が生き残ったと言っていいだろう。
生存者は集められ、ホロボ島(そのとき、まだホロボという名は知らなかった)独立守備歩兵隊大和田隊として、僻地守備の任務を全うすることとなったのだ。
隊員は百五十名足らず。それもたちまち百人は減った。ほとんどが中神と同じ一兵卒で、隊長となった大和田のほか、主となるのは通信兵の原浜軍曹《はらはまぐんそう》。軍医の酒井《さかい》中尉ぐらいだった。
大和田隊長は幹候生くずれであり、将校には珍しい物判りのよい人物で、兵隊に人望があった。
新兵たちに最も忌《い》み嫌《きら》われたのが、通信兵の原浜だった。通信学校を卒業した古参軍曹で、実戦の経験を鼻にかけて、要領のわるい兵卒をいじめ抜いた。それでいて、抜け目はなく、大和田隊長に取り入る態度は、目にあまるものがあった。
軍医の酒井は、髭《ひげ》の濃い、獰猛《どうもう》な顔立ちだ。だが、ホロボ島に上陸後、何人もの負傷者に輸血をして、たちまち猿のようにしぼんでしまった。
それから、気の遠くなるほど長い年月が経《た》った。敵の姿は、一隻の船はおろか、一機の飛行機の影すら見えなかった。敵の姿が見えぬばかりか、味方のいる気配もない。島は異様なほど平穏な日々を繰り返したが、兵隊たちは、それぞれ、疫病や、食糧や、高温と湿度、最後に自分との戦いを際限もなく強制され続けた。かえって敵の襲撃を受けていた方が、どれほど楽だろうと考えるほどだった。
戦いなき戦いの虚無感。自分がこんな目に逢《あ》わなければならなくなったばかばかしさ。だが、中神は幸運にも、最後には絶望していた故郷の土を踏むことができた。それを知らずに死んで行った、多くの兵隊の遺恨は、祈るぐらいでは消えはしないだろう。
原浜軍曹の場合は、最もみじめで哀れだった。
最後の日、ホロボ島は米軍の迫撃砲撃を受けた。独立守備隊は抗すべくもなく、全員投降した。もともと、柔軟な思考を持つ大和田隊長に、特に降伏を強く勧告したのは、原浜軍曹だった。日頃の言動からすれば、意外な建言だが、中神はすでに軍曹の精神的な緊張が持ちこたえられなくなったのだろうと思った。そのうえ、生への執着が人並はずれて強固だったのは、死に際《ぎわ》に判った。強制収容所を出て、本土に向う送還船の中だった。原浜軍曹は急性虫垂炎を発病した。大昭丸よりまだひどい船中は、原浜を救うものは何一つない。原浜は断末魔にも死ねないと乱れ、傍にいた者は肌に粟立《あわだ》つのを覚えた。息の絶えた原浜は、そのまま海に投げ込まれた。原浜がもっと大悪人であってくれたら――中神はそう思った。守備隊が投降する大分前から、原浜の態度は人間的な暖かさを取り戻《もど》していたからだった。
中神は白い漁船を見ながら、なんとなく腹立たしくなっていた。ホロボ島に行っても、原浜の骨だけは拾うことはできない。その魂は、永遠に熱帯の海に迷うことになるのだろうか。
中神はふと、骨が、とか骨は、と言う言葉を聞いた。
声のする方を見ると、四、五人の男が輪になって談笑していた。遺骨収集団の仲間ではない。派手なシャツを着た壮年の一団で、その大きい体躯《たいく》に、中神は軽い反感を覚えた。
――餓えたことのない年代だ。
中でも、一番若い男は、すっきりと背が高く、端麗な顔立ちで、特に眉《まゆ》の下にある骨の形と、長い眉の知的な釣《つ》り合いが目に立った。白茶のブレザーに赤いネクタイを締め、肩から高価そうなカメラを下げていた。一見して金持の観光客らしく、自分たちの苦難の上に築かれた平和の中で、のほほんと物見遊山《ものみゆさん》に歩く姿が気に入らなかった。その口から、不運な戦友を骨呼ばわりされる覚えはなかった。
「失礼ですが……」
中神は若い男の傍《そば》に寄った。男は人なつっこい笑みを見せた。
「余計な差し出口かもしれませんが、骨ということはないでしょう。日本語には、ちゃんと遺骨という言葉があります」
男は一瞬ぽかんとして中神を見た。何秒か後、男はやっと中神の非難の意味が判ったらしい。聡明《そうめい》そうな割には、神経の伝達が、そう早いとも思えない。
「――気が付きませんでした。全く無神経な言葉を使いました。これからは、気を付けましょう」
物判りはいい。だが、中神はまだ不満だった。昔の男は、こんなに早く自己の非を認めないものだった。
若い男は、また話に戻った。中神はそっと聞き耳を立てた。
「……それでね、先生、そのブラキオサウルスの遺骨ですが、トレミー隊の発見したのは、どの部分の遺骨でしたか?」
中神はこの話に違和感を覚えた。どうやら、間違いを犯しているのは自分の方らしい。
話し掛けられた大柄な中年の男は、ちらちら中神の方を気にしながら答えている。
「そう、トレミー隊の発表では、そのほ……遺骨は頸骨《けいこつ》第八番目のもので……」
中神はちょっと赤くなった。
「あなたたちの骨というのは、ブラ……」
若い男は気の毒そうな顔になった。
「そう、ブラキオサウルス。中世代にこの地球上に生棲《せいそく》していた、巨竜の一種です」
「中世代というと?」
「今から、二億年から、七千万年前の時代でしょう」
中神は思わず息をのんだ。
「どうやら私は勘違いをしたようです。あなたたちが、てっきり戦死者の遺骨の話をしているのだと思ってしまいました」
「なあに、気になさらんで下さい」
若い男に、先生と呼ばれていた大柄な男が言った。
「存じておりますよ。あなたたちは、戦争中の僚友の遺骨を収集しにいらっしゃる。御苦労なことです。私たちも同じホロボ島へ向かうのですが、こちらは一億年も前の骨を収集しようというわけです」
一億年に比べれば、たった三、四十年のことは、一瞬の時間にも満たないのではないか。中神は急に自分が塵《ちり》のように小さくなるのを感じた。やがて、ごみほどの人生に、憎悪だの怨恨《えんこん》だのは無意味に思えてきた。原浜軍曹の執念だって、一億年もの前には、どうすることも出来まい。
中神はふっと視界が開けるのを覚えた。今まで、あまりにも過去に拘泥《こうでい》しすぎていたようだった。遺骨収集団が結成されてからは、なおのことだ。そのため、青い空や、逞《たくま》しい身体を見ても、反感を覚え、ちょっとした他人の言葉の端にも、目くじらを立てるようになったのだ。
その一団は、学術調査団のグループなのだろう。若い男のカメラを見ただけで、すぐ観光団だと判断したことも、固く狭い思考によるものだった。中神は汗顔の思いでグループの傍を離れた。
甲板に狭い歩み板が渡される。遺骨収集団は、三角形の顔をした洋装の老婦人を先頭にして、順々に船に移った。学術調査団の方は最後になったが、背の高い若い男の渡り方は見物《みもの》だった。見かけによらず、運動神経の方が駄目《だめ》らしく、両手を鳥の羽根のように伸ばして必要以上に腰を後に引いた。つまり、へっぴり腰で、水中に落ちなかったのが不思議なほどだった。
「ああ、ヨシキリザメがいるんだぞ」
仲間に言われると、みるみる顔に血の気が引いてゆくのが判る。
若い男は必死だった。だが、普段の顔が整っているため、顔が緊張に歪《ゆが》むと、必死というより、呆《とぼ》けている表情に見えた。男が船内に転がり込んで、カメラを抱き締めると、思わず甲板から喝采《かつさい》が上った。
中神も顔をほころばせた。同時にこの男に感謝の念がわいた。
空気は澄んで爽《さわ》やかだった。南の海の色は美しかった。船員たちの筋肉も頼もしく思えた。そう、ブラキオサウルスの骨を捜す学術隊の成功を祈ることにしよう。
中神は甲板に立って、海を見続けた。船室に入る気はしなかった。何十年ぶりかで見るホロボ島に、不思議な懐しさを覚えた。当時と比べ、開発が進んでいるだろうが、守備隊の基地も変っただろう。ホロボ島の原住民たちは……ヤーマが生きていれば、もう酋長《しゆうちよう》となっている年だ。
「失礼します。お話しをしてもよろしいですか?」
中神が振り返ると、学術調査団の若い男と、体格のいい「先生」が立っていた。
「なにか?」
先生は丁寧に話した。二人は名刺を差し出すと、
「失礼ですが、あなたはホロボ島で生活をしていらっしゃった経験がおありなのですね?」
「そう、戦時中のことです。でも、生活といえるかどうか。あまりひどい状態でしたから」
「御苦労をなさったようですね。その間、ホロボ島の原住民との接触はおありでしたか」
「おっしゃるとおり、あの森林の中では、互いに共存してゆかなければなりませんでしたから」
先生の顔が明るくなった。
「その人たちのことが知りたかったのです。一説によると、ひどい狂暴な連中で、人を殺して食う習慣があるとか」
「とんでもない」
中神は即座に否定した。
「どこでお聞きか知りませんが、それは全く違います。ホロボの原住民は背が低く、文化こそ低いが、皆温厚な性格を持っています。わずかばかりの農業と、あとは狩猟と採集で生活していました。狩猟といっても、弓や矢はほとんど使わない。たまに原始的な罠《わな》を仕掛けることがありますが……」
中神はシャツの袖《そで》をまくって、左の腕を出して見せた。腕に深い傷痕《きずあと》が残っていた。
「知らずに、その罠の中へ腕を入れてしまった痕です。原始的な仕掛けのために、それが人工の罠だとは見分けがつかなかったのでした」
先生は気の毒そうに腕の傷を見た。中神はすぐに袖を下げた。自慢するわけではないが、何人にこの傷を見せただろうか。
「では、ホロボの原住民が人を捕って食うなどということは嘘《うそ》なわけですね」
「大嘘でしょう。心根《こころね》もやさしいところがあります。実際私たちは、その酋長も知っていたのですが、その酋長は自分の妻が死ぬと、悲痛のあまり、自殺してしまったほどです」
「――自殺を?」
先生が目を丸くした。
「自殺は、文明人の特徴だと思っていましたが、未開民族も自殺などすることがあるんですか」
「私は民族学のことなどよく知りません。しかし、あれは断じて自殺でした。酋長の妻の屍体《したい》は民族のきまりによって、部落の中央にしつらえた祠堂《しどう》の中に収められていました。そのまわりには何十人もの土民が囲んでいたわけです。酋長は一人でその祠堂の中に入ったわけです。しばらくすると、拳銃《けんじゆう》の音がして――」
「酋長は拳銃を持っていたのですか?」
「あとで調べると、その拳銃は私たち部隊の隊長の持ち物だということが判りました。つまり、その拳銃は何等《なんら》かの方法で、酋長が盗んでおいたのでしょう。祠堂を開けると、酋長はその拳銃で眉間《みけん》を撃ち抜いていました。堂の中には酋長の妻の屍体があるばかりです。未開の民族が自殺をするものかしないものか、私には判りませんが、この状況では、誰が見ても、酋長が自殺をしたとしか、考えられないでしょう。土民の魔法で妻の屍体が起き上り、酋長を撃ったとでも考えない限り」
若い方の男が、目をぱちぱちさせた。口の中で何やらもぐもぐ言う。その声が少し大きくなって、
「……僕はこんなことを聞いたことがあるんですが、未開の民族は死者を敬い崇《あが》めるなどという考えはないんだそうです。死者はひたすら怖《おそ》れられ、忌避されると言います。これは熱帯地方の屍体が、常に感染的な細菌や毒性を持つからで、屍体を忌避するのは長い間に、自然が教えた習慣なのでしょう。ある部族では、屍体に触れた者は、定められた長い期間、独りになって誰にも近付くことを許されません。死者の食器、衣類はただちに破壊され、焼却されます。未開の民族は、これほど死者を忌み嫌います。にもかかわらず、その酋長が妻であっても死んだ人のいる堂に入ってゆくというのは、どうも……」
この男は自分の言うことを信じない様子である。だが、子供が物に不思議がるのに似て、不快な気はしなかった。中神は議論をする調子でなく喋《しやべ》った。
「酋長は自分の妻を愛していたんですよ。彼女がいなければ、一日も生きてゆくことが出来なかった。一種の心中だと思いますね。それとも、こんな考えは、文明人だけの思想だと思いますか?」
「そうです!」
若い男があまりはっきりしているので、中神の方があっけに取られた。
「人が死んで、神や仏になったり、死後は美しいという考えは、未開の人にとっては信じられない思想です。人は死ぬと、悪霊になるという考えが普通だからです。死者は、生者の不注意や手抜かりによって、死に至らしめられたと考えるのです。なぜ自分を殺したのだという怨念《おんねん》を持っているのです。特に愛する者の死は、生者の怠慢の罪の意識が強められますから、その自責が強迫感となって、死者の霊が、死に追いやった生者に対し、悪心を抱いていると疑いません。従って、死者の埋葬は、長い期間を置かないのが通例です。埋葬が済むと、部落の周りに茨《いばら》をめぐらして、死者の霊を近付けさせまいとする種族さえあります。更に、死者の名を呼ぶことすら禁じる種族もいます。これは死者の霊が復帰することを怖れるからです。そのため、死者の名を変えてしまう習慣が出来た例もあります。死んでから坊さんが付けてくれる戒名も、もとはそんな意味があったのかもしれませんね」
「では、あの酋長の死は、どう解釈したらいいのでしょう」
その男がどんなに不審がろうと、あのときの状態は、完全に自殺だった。自分の目でそれを見た中神は、その男に、これは矢張り自殺としか考えられないと言わせる自信があった。わざとそう問い返し、ふとこの男の困る顔が見たくなった。
「そ、それですから、もう少しその状態を精《くわ》しくお話し願えませんか。ホロボ島の原住民の習俗を知るのにも、いい参考になると思うんです」
先生の方も、興味深そうにうなずいた。
「よろしいです。すっかりお話ししましょう。ホロボ島に着くまで、充分に時間がありますから」
中神は甲板に置いてあるデッキチェアに二人をうながした。
ホロボ島での経験は、何十、いや何百遍となくいろいろな人に語ってきた。孫などは、また戦争の話? などと、すでに辟易《へきえき》するようになった。話は筋道を立てて、いくらでも喋ることが出来る。特に今日は対手《あいて》が望んでいるのだ。そう、あれは……
ホロボ島は、式根島《しきねじま》ぐらいの大きさの珊瑚島《さんごとう》である。
その当時、全くの未開の地で、八割から九割は、マングローブや、ヤシ、シダなどの森林だった。中神はとりわけ、濃緑色のアカシヤの喬木《きようぼく》が印象に残っている。木の高さは、十メートル以上になることがあった。
島には猛獣類はいない。従って小動物の種類は多く、特に下等な原猿類である、シシバナザルやテングザルは、原住民の蛋白源《たんぱくげん》になっているようだ。一と足密林に踏み込むと、濃緑の臭いが、強いなまぐささで襲いかかり、九〇パーセントを越す湿度で、息苦しくなる。数十歩でたちまち暗くなり、森の中は毒蛇やサソリ、マラリア蚊《か》や、ツェツェ蠅《ばえ》がうようよしているのだ。夜になると、森の中から、カッコウの声が聞える。その声は夜に餌《えさ》を猟《あさ》って動く、大きなトカゲの鳴き声だった。湿地帯には、ほの白く光る巨大な花が咲いた。疫病に罹《かか》った屍体の肌のような斑点《はんてん》のある花で、腐肉の臭いを発し、大きな蠅を集めていた。
兵隊たちは、まず皮膚をやられた。堪えられぬかゆみと、それが収まると激しい痛みが襲い、赤く脹《ふく》れた患部から、おびただしい膿《うみ》がほとばしった。
「その痕がまだ残っています」
中神はズボンの裾《すそ》をたぐり上げて、二人に見せた。脛《すね》の一部が白っぽく光り、その囲りにひきつれができていた。
続いて、悪い病が流行《はや》った。高熱を発し、何日も下痢《げり》が続くと、脱水状態となり、必ず死が待っていた。マラリヤとも違うようだった。兵隊たちは絶えずキニーネを服用していたが、体力のあるなしにかかわらず、死んでゆく者は籤《くじ》を引き当てるようにして、発病した。
ホロボ島守備隊の基地は、海岸に近い、密林を背にした場所に置かれた。朽ち果てた灰色の教会が見付かったからだ。部隊はその建物に手を入れて、本部とした。教会は百年以上も前の建物と推定され、スペインの宣教師が住んでいたと思われる跡が残っていた。中神は帰国してから知ったのだが、昔、このあたりの島々を、回教徒モロ族が荒し廻っていたことがあったようだ。原住民を拉致《らち》しては、奴隷として売り飛ばしていた。ホロボ島の教会も、海賊に亡ぼされたのだろうか。宣教師は布教途上で病死でもしたのだろうか。
中神たちはその教会を中心に、木を切り開いて兵舎を建築した。兵舎といっても、伐《き》り取った丸太を蔓《つる》で結び、草で屋根をふいて、床を一尺ほど上げ、その上に毛布を敷いただけだった。そこに一班の十二、三人がごろ寝をするのだが、夜、灯《あか》りを消すと、顔や身体の上に、ばさりと蛇やサソリが落ちてきた。枕元《まくらもと》には餌を求めるイモリが這《は》い廻った。
中神たちがホロボ島にたどり着いたときは、雨季に当っていたようである。本土からの気候の変化は不運だった。雨季の海には粘りがあった。水の色の変化も激しく、いつも黒い縞《しま》が沖にあって、時としてそれが急な速度で動いた。海面が銀や緑、稀《まれ》にはくすんだ赤味を帯びることがある。だが、長くは続かない。海底から不健康な黄色い水が湧《わ》き上るからである。雲の形も、中神が見たこともない色と形をしていた。おおむね雲は黒く、べっとりと不規則な形で空にこびり付くのだ。
食糧はすぐに欠乏した。兵隊は森を伐り開いて、わずかな畠《はたけ》を作り、穀物を作り始めたが、それが実るまでは、木の実や草の根、猿やネズミ、オタマジャクシなどを捕えて食物にした。半年もすると、半分の兵隊は暑さと湿度と栄養失調、疫病で死んでいった。屍体は海の見える台地に埋葬したが、その労力も一と通りではなかった。
突然に銃を、自分の額や心臓に当てて、引き金を引く兵隊があった。何人もが続けて死んだため、大和田隊長は兵隊の銃を取りあげてしまった。それでも死ぬ者は後を絶たなかった。
何人かの兵隊は、密林に入ったまま、二度と姿を現さなかった。密林内の一人歩きは禁じられていたにかかわらず、魅せられたように暗闇《くらやみ》に吸い込まれてゆくのだ。密林の中は死が待っている。底なしの湿地が至るところに潜んでいるし、ヒルの雨が降る。だが、そんなことに関係なく、密林に入った兵隊は、すぐ首でもくくってしまうのだろう。
門司《もじ》を出港した三個中隊のうち、ホロボ島に漂着した兵隊は百五十人、後日米軍に収容され、本土に生還した者は、四十人になっていた。
死ぬ者が死んでしまうと、残りの兵隊は、滅多に死ななくなった。彼らはただ生き抜くことに全力を尽くした。
戦争の中にありながら、一人の敵も見ず、一発の銃声も聞かぬ日々が続いたが、ある日、一機のB24偵察機《ていさつき》が、かなりの低飛行をしてきたのに驚かされた。偵察機は操縦士の顔も見える高さで、何枚かのビラを落して去った。その紙には、日本は無条件降伏したことが印刷されてあった。大和田隊長は一枚残らず集めさせて焼却した。偵察機はそれ以来、姿を現さなかった。
戦争らしい刺戟《しげき》のあった日は、その時だけである。空虚な日々は、退屈でもあった。そうしたときに、何人かの兵隊は、ホロボ島の原住民に興味を持った。
最初見かけた原住民は、ホロボ島に上陸して間もない頃、兵隊たちの上陸を、空《うつ》ろな目で見ていた娘だった。背が低く、腰まである髪は、植物の蔓《つる》ででも束ねてあるのだろう。首筋が太く、肌は紫がかった茶色で、ただ人間らしいところは、胸に二つのふくらみがあるだけだった。
「あ! 女だ」
何人かが気付くと、女はすぐ植物の中に姿を消してしまった。
その後も、ときおり人影を見た。いずれも背の低い、裸の土民で、じっと兵隊をうかがっていた。まるで澱《よど》んだ空気から産み落されたような黒い影で、兵隊が銃を構えると、すうっと森の中に消えてしまった。
「土民に危害を加えてはいかん」
と、大和田隊長が厳命した。
「彼らには我々を襲うような気配は見えない。無益な敵を作ってはならない。とりわけて、女には手を出すな」
人影の立ち去った跡には、必ず奇妙な物が残されていた。土に突き立てられた木の棒である。そして、木の根元には、約束のように小さな石が二つ置かれてあった。
隊長の言葉は正しかった。原住民の部落があるとして、どのくらいの住民がいるか判らない。武器も不明だし、毒矢などを上手《じようず》に使うかもしれない。兵隊の弾丸には限りがあり、まして脆弱《ぜいじやく》部隊だ。自分たちは無害だという態度を示すに越したことはなく、下手《へた》に扱えば、毒蛇や疫病より恐ろしい対手になるか判らないのだ。
幸いなことに、原住民は部隊に危害を加えるようなことはなかった。むしろ反対に、部隊に不穏な動きがないかを、向うの方から偵察に来るらしかった。
ある日、軍医の酒井が、遠くで様子をうかがっている一人の土民と、しきりに手振りで話し掛けていた。顔形から推すと、十二、三の子供と思われる。
「うちの坊主も、あのくらいの年なんだ」
と、酒井が言った。
その子供は、基地の囲りに、ときどき姿を現すようになった。
酒井はハーモニカを吹いた。軽いリズミカルな曲を流すと、土民の子供はびっくりしたように動かなくなった。翌日の同じ頃、その子供は同じ場所に現れた。酒井は根気よくハーモニカを吹いた。子供の目に警戒がなくなると、酒井は輪ゴムを投げ与えた。それがきっかけになり、酒井は子供を手なずけることに成功したようだった。
マッチ、ライター、石油、懐中電灯――酒井はそうした小道具を使って、いかにも芝居気たっぷりに、子供の前で魔法を行い、目を丸くする子供を見ては楽しんだ。
「あいつの名はヤーマって言うんだ」
酒井は言葉も通じるようになった。
「目はケテー、手はアイロ、女はカリだ」
片言《かたこと》が判るようになると、酒井は数を聞き出した。
「彼らには三以上の数がないらしい」
酒井は興味深そうに言った。
「数がない、と言うより、三以上の数の必要がないんだろう。三以上の数は、全部〈たくさん〉で済んでしまう。彼らの文化はその程度に低いんだが、それはかえって幸せなことなんだな」
原住民の農業といっても、原始的な小規模なものらしい。あとは密林から木の実を採ってくる。たまに中神がかかった罠を仕掛けるぐらいで、毒矢や武器などの必要もないようだった。そんな生活は、兵隊にとって、天国にも思えた。
島は一年を通じて、大体同じような季節、日照時間もほぼ一定している。従って、住民たちは、年月や季節にも無頓着《むとんじやく》で、日が上れば起き、日が暮れれば寝るという生活だ。というような暮しには、人の物を盗むという概念も芽ばえないらしい。無論、その罪悪感も持っていないことは、ヤーマが酒井の手袋を面白《おもしろ》がって持ち出したときに判った。
酒井がヤーマを咎《とが》めると、ヤーマは「置き替えた」だけだと言い張った。
「結局、彼らの中に盗人なんかいないんだ。盗むという言葉すらない。面白いなあ。ラテン語でも、〈盗む〉と〈置き替える〉という語源は同じなんだ」
土民の立ち去った後に残されていた、土に突き立てられた棒の意味も、ヤーマによって判った。
「あれは、彼らの〈神〉だったんだ」
と、酒井は説明した。
「彼らは地面に棒を立て、その根元に小さな石を二つ置いたとき、そこに神が宿ると信じているらしい。彼らの神は、神秘にして不可解なもの、魔力さえ備えている全能なものの表徴なんだ。その神を祀《まつ》ることにより、全能な神は、自分たちを守ってくれるという信仰がある」
酒井はその棒を「ホロボの神」と呼んだ。
原住民は島の山岳地帯に部落を作っていた。島は山岳部の方が住み易く、外敵からの守りにも強いからだろう。後日、中神は部落の中心に祭られた、ホロボの神の本体を見た。大して大きくはない、丸い柱だった。柱には稚拙《ちせつ》な彩色が施されていた。白と黄は岩を崩して粉にした顔料。赤や青は一定の植物の葉や実から、特殊な方法で加工されるらしい。
「彼らは植物を見分ける才能、それを加工する時期を知る勘が、大変すぐれている。俺《おれ》たちが同じようにやっても、果して同じ染料が出来るかどうか、怪しいもんだ」
と、酒井が感嘆した。
民族の中心であるホロボの神は、最高の技術によって作り出されたものだが、普通に作られるホロボの神は、手の混《こ》んだ彩色の必要もなく、簡単に作ることができる。棒と石さえあれば、土民たちはいつでも即座にホロボの神を作ってしまう。
例えば、森の中で迷ったときなどは、木の枝を折って、地面に立てる。その下に石を置くとホロボの神になる。彼らはその神が道を教えてくれると信じている。疫病が流行《はや》ると、部落の周囲にたくさんのホロボの神を立てる。こうしておくと、疫病はそれより内に入ることができず、部落は安泰になるのだ。
土民の立ち去った後に、ホロボの神が残されていたというのは、ある日突然海から現れた奇妙な人間が、そこから奥に入って来られなくするための呪《まじな》いなのであった。
「ホロボの神とは、ねえ」
傍で聞いていた原浜軍曹が感心したように言った。大体、物に感心したりすることのない男だったが、無線機の修復に明け暮れた揚句《あげく》、どうやらそれも不可能と諦《あきら》めたものか、ここのところ、すっかり元気を失っていた。柔弱な一兵卒に対する、原浜の暴威は、多分に無線技士という支えによったものだが、その支えを失っては、去勢されたも同じことだったろう。
以来、原浜軍曹は、自分の三八式歩兵銃の手入れに余念がなくなった。彼の銃は一兵卒の持つかたな銃と違い、高性能が自慢だった。原浜は自分の銃をヤーマにも自慢げに見せていた。
「これは、俺の神様だ」
と原浜は言った。
ヤーマはもう少しのことには驚かなくなっていた。原浜は自分の神の威力を誇示するように立ち上った。
原浜は木の枝にいるテングザルに狙《ねら》いを付けて、引き金を引いた。テングザルは木の枝から地面に落ちた。二発目は狙いが外れた。テングザルは再び木に駆け上って、見えなくなってしまった。
「何でえ、音に驚いただけか。猿鍋《さるなべ》にありつけそこなった」
原浜はつまらなそうに言ったが、これにはヤーマもびっくりしたようだった。
音に驚いたのはヤーマやテングザルだけではなかった。大和田隊長も音を聞きつけ、顔色を変えて飛び出して来た。
「無暗《むやみ》に発砲してはいかん。流れ弾が土民にでも当ったら、どうするのだ」
原浜は小さく舌打ちをしただけだった。
ヤーマが怪我をして来たことがあった。鋭い木のとげに腕を刺したのだ。酒井軍医は傷口を消毒し、薬を付けてやって帰した。二、三日するとヤーマが基地に来て、父が礼に来たいと言っていると告げた。
「驚いたな。よく聞くと、ヤーマの親父《おやじ》は、部落の酋長だと。ちょっとした親善外交だが、大和田隊長は何と言うか」
大和田隊長は苦い顔をしただけだった。乙幹出の隊長は、外交だの儀礼だのが性に合わないたちだった。
だが、ホロボの酋長は、ヤーマの言うとおりに、正装し、四、五人の部下とともに部隊に現れた。
ホロボ族はいずれも背が低く、老《ふ》け顔である。酋長は腰蓑《こしみの》をまとい、鳥の羽根を無秩序に集めて作ったと思われるような、びらびらした羽織のようなものを着ていた。一人は女性で、酋長の妻だった。酒井の通訳によると、彼女は部落の祭司でもあるらしい。祭司といっても、巫女《みこ》、霊媒、祈祷師《きとうし》、魔術師など、そういった超能力に関する全《すべ》ての役を兼ねているようだった。そう言われると、白く塗られている、どことなくのっぺりとした、無表情な顔が無気味である。祭司の腰蓑の間に、きらきらしたものが見えた。銀の十字架だった。
「キリスト教徒であるわけがない。きっと、昔教会から〈置き替え〉たものだろう」
と、酒井が言った。
骸骨《がいこつ》のように痩せた老人が一人、酋長と祭司の傍に付いている。歩き方を見ると、余程《よほど》の年齢かと思われる。酋長の家老のような役なのだろう。
あとは、裸の若者が二人、両手に何やら抱え込んでいた。
酋長が胸をそらせるようにして、儀式張った口調で何やらわけのわからぬことを言い、酒井がそれを適当にあしらい、大和田が「遠路、御苦労である」と言うと、酋長は若者に持たせた品物を置いて帰って行った。
「向うさんでも、気味が悪いに違いありませんね」
と、酒井が隊長に言った。
「ヤーマがわれわれのことを大袈裟《おおげさ》に吹聴《ふいちよう》したんでしょう。とんでもない魔術使いの連中がいるとね。こんな連中に攻められでもしたら敵《かな》わない。今のうちに友好的なところを見せる気だったんですね」
酋長の置いていった品物は、猿の肉と果物、それに獣の皮で作った袋に入れた、奇妙な液体。
「おっ! 酒らしいぞ」
隊長が鼻を動かしたが、ひどい臭いが部隊に流れた。
「とても飲めたもんじゃなかった」
と、酒井があとで言ったが、本当だったようだ。多少とも飲めるものだったら、その後もヤーマに言って届けさせていただろう。
ヤーマが部隊に駆け込んで来て、酋長の妻である祭司の様子が変だから、すぐ来てくれと、助けを求めたのは、それから二、三日たった日のことだ。
大和田隊長は、酒井が部落に行くことに、賛成はしなかった。酒井はヤーマに自分の息子のような愛情を持っていた。酒井の熱意が大和田隊長を動かした。酒井と多少言葉が判るようになっていた原浜軍曹、それに比較的体力のあった中神が、密林を抜けて、原住民の部落に行くことになった。
ホロボ族は、島のほぼ中央の、山岳地帯に生活していた。ヤーマは本能とも言うべき、的確な方向感覚で、身軽に森の中を進んだ。それに続く三人は、どうしても遅れがちになった。ほぼ一時間後、時間的には、意外に短い道のりだったが、部落に着いたとき、中神は口もきけないほど息が荒くなっていた。
木と草で囲われた祭司の黒い小屋に、彼女の屍体があった。彼女はすでに息が絶えていた。
「脳溢血《のういつけつ》の徴候が見えているな」
屍体を検査した酒井が言った。
「だが、脳溢血をホロボ語では、何と言うか?」
酋長はすでに妻の死を観念していたようである。酒井の片言に、いちいち頷《うなず》いて、悲痛の顔をくしゃくしゃにしながら、例の儀礼的な言葉を繰り返した。
部落の中央にある祭司の小屋は祠堂でもあるようだ。祠《ほこら》といっても、丸太と草で作られたものだ。作り方は中神の兵舎とあまり変らない。ただ、この祠はずっと小さくて古く、黒光りのする柱に、部族の霊気が凝集しているかと思われる。暗い奥を覗《のぞ》くと、中央にホロボの神が祀《まつ》られてあった。
ホロボの神は、思ったより小さく、高さが三十センチ足らずだが、独得の色彩に覚えがあった。酋長が正装のとき着た衣装と、色彩感覚に共通したものがあった。
部落の中にいると、何人もの視線を感じた。物蔭《ものかげ》などから、土民たちがこちらを窺《うかが》っているのだろう。あまりいい気分ではない。三人は祭司の死を見とどけると、早々帰途についた。
二、三日は何事もなく過ぎた。ヤーマも姿を見せなかった。祭司の葬儀が行われているだろう。だが、それを見届ける体力も好奇心もなかった。それよりも、兵隊たちの持物が一斉《いつせい》に点検されたことの方が気がかりだった。
「誰かが、大和田隊長の拳銃を盗んだらしい」
誰からともなく、噂《うわさ》が広まった。中神がそっと酒井に尋ねると、その噂は本当だった。
「ヤーマが置き替えたのではないといいが」
酒井は沈痛な表情で言った。酒井の銃は無事だった。
大和田隊長の拳銃が盗まれた翌日の夕暮、ヤーマがまた駆け込んで来て、今度は酋長が変なのだと告げた。
「酋長が祭司の屍体と祠に籠《こも》ったきり、出て来ないのだと言う」
と、酒井がいった。
「余程の愛妻家なんだろう」
原浜軍曹が変な笑い方をした。
「そうじゃない。熱帯地方の未開民族の、死に対するタブウは、我々が考えている以上に厳しいものがある。屍体を見る畏《おそ》れは、特に強いのが普通だ」
屍体がそれがたとえ酋長であれ、祭司であれ、不浄なものであると言う。屍体に触れた者は、死に穢《けが》された者であり、何か月も部族との交流を絶たれることもあるそうだ。
「行ってみますか?」
と、中神は言った。だが、あたりはすでに暮れようとしていた。
「夜明けを待ちましょうよ。今夜、急にどうということもないだろう」
原浜の言い出すまでもなく、誰も夜の密林に踏み込めるものではなかった。
日の出を待って部落に行くことになり、ヤーマはその夜、部隊の兵舎に寝かせた。
翌日、ヤーマを先頭にして、酒井と原浜と中神が部落に着くと、中央の祠堂は、萱《かや》に似た草で編んだ簾《すだれ》を四方に深く下ろしていた。異様なほど、ぽつんとした感じだった。中に祭司の屍体があるのを知っているだけに気味が悪かった。酋長は何をしたというのだろう。祠堂の周囲には、何人もの土民があぐらで坐《すわ》り、低い声で何やら唱え続けている。
「酋長はどうした?」
酒井が顔見知りの古老を見付けると、ヤーマと傍に寄った。
「祠堂に籠ったきり、一度も姿を現さない」
小さな老人の目は、おどおどしていた。
「一と晩中、こうしていたのか?」
酒井はあたりの土民を見廻して訊《き》いた。
「そうだ。酋長の命令だ」
それにしては、祠堂の静かさが尋常ではなかった。酋長は屍体に対する忌避を忘れ、何をしているのだろう。
「祠堂に異常はなかったか?」
しわがれた老人の声は、極めて聞き取り難い。酒井はしきりにヤーマの助けを借りた。
「最後に酋長が入ってから、堂には誰も出入りしなかった。簾が動いたこともなかった。ただ……」
老人は顔を引きつらせた。
「ただ?」
「一度だけ、堂の中から酋長が祭司を呼ぶ声が聞え、続いて大きな音がした」
「祭司を呼ぶ声。それに、大きな音?」
中神は息をのんだ。
「どんな音だ?」
「雷に似た音。今まで、あんな音は聞いたことがない。悪魔の音だ」
「それは、いつ頃だ?」
時刻など老人に訊いても無駄《むだ》だろう、と中神は思った。
「太陽が上るのと、同時だった」
「それから、祠堂はどうなった?」
「どうもしない。あのとおりのままだ」
「出た者は? 入った者は」
「誰もいない。虫一匹、出入りしなかった」
どう考えても、堂の中には異常なことが起っているとしか思えない。中を調べたいとヤーマに言うと、ヤーマは老人に伝えたが、老人は中を見ぬのが酋長の命令だと言い張って、その説得に手間取った。最後に長いこと考えた末、しぶしぶ立ち上った。
老人は祠堂に向って、何やら声を掛けた。堂は老人の声を飲み込んだまま、何の応答もなかった。
老人は堂の段を登り、恐る恐る簾を上げて中を覗《のぞ》いた。次の瞬間、老人は「うっ」というような声を立てると、段の下に転がり落ちた。
酒井は堂に登り、簾を大きく巻き上げた。
暗くとも、中の様子は、一と目で見渡せる。生きているものの気配は、何一つなかった。
「ホロボの神がなくなっている!」
と、酒井は低い声で叫んだ。
中神も堂の中を見て、真っ先に気付いたのだ。奥の祭壇の上には、祀られているはずのホロボの神が取り去られていた。そして、その前に、信じ難い光景が見えた。
空になった祭壇の前に、二つの屍体が転がっていたのだ。
その一つは、盛装した、酋長の姿であることは、すぐに判った。酋長の額の中央に、明らかな銃創があった。額の半分が吹き飛び、傷口から吹き出した血は、まだ乾いていなかった。
もう一つの屍体は祭司だった。祭司の屍体は、酋長の上に折り重なっていたが、すでに皮膚の色が変っていた。しかも、その両手には、二、三日前に紛失した大和田隊長の拳銃が、しっかりと握られていたのだ。
「屍体が、酋長を撃ち殺した!」
中神は思わず叫んだ。
妖術《ようじゆつ》によって呼び起された祭司の屍体が、拳銃を握って、酋長を撃ったとしか考えられない。中神は未開民族の得体の知れない魔術が、祠堂の中にうようよしているのを感じた。
「そんな馬鹿《ばか》な!」
酒井は歯をむいた。
「それなら、誰が酋長を撃ったのですか? この小屋の中には、生きている者はいないじゃありませんか。ホロボ族は、夜通し堂の廻りを囲んでいたといいます。堂には酋長以外、入った人間も、出た人間もいなかったはずです」
酒井は堂の中に入って、二つの屍体を調べた。
「信じられないことだが、こうだ。酋長は祭司の屍体に拳銃を握らせ、銃口を自分の額に当てて、屍体の指と一緒に、引き金を引いたんだ」
「心中でしょうね。酋長は一人になった淋《さび》しさに堪えられなかった」
と、原浜が言った。
「心中だと?」
酒井の目に、当惑の色が漂った。
「心中――そう。ここに現れた事実は、確かに自殺以外は考えられない」
「軍医殿も、酋長の自殺を認められたのです」
と、中神が言った。
「中神さん、軍医殿はもう止《よ》しましょう、さっきも頼んだじゃないか」
酒井は照れたように笑った。
「でも、癖ですから、馴《な》れるまではかんべんしてやって下さい」
中神の話の途中で、甲板で海を見ていた酒井元軍医が、三人の話に加わったのだ。そのため、事件の細部が、より明確になった。
酒井の記憶は確かだった。祠堂に入った酒井は、死の状態に疑わしいところは何も発見されなかったと言った。
「従って、どうしても、酋長は自殺したのだと考えざるを得なかった」
「というわけです」
中神は前に坐っている学術調査団の二人を見て言った。
「未開民族が自殺などするのは不合理でもなんでも、私たちは現に、未開民族の酋長が自殺をしたところを、この目で見ているわけなのです」
「なるほど」
じっと話をきいていた先生は深くうなずいて、
「いや、なかなか興味深いお話をうかがいました。全く世の中には、思いも付かないことがあるもんですね。大変、勉強になりましたよ」
中神は隣の男を注意していた。この男は中神が話をしている間、身動きもせず話に聞き入っていた。俊秀な学生が講義に傾聴している姿だが、中神はこの男が桟橋で、へっぴり腰になったところを見ている。頭脳の中身の方に疑いを持っていたので、実際、今の話が理解できたかと懸念している。先生のように率直に感想の出ないところをみると、目を開けたまま、居眠りをしているのではないかとも思えた。
男と目が合うと、彼はにわかに落着かない態度に変って、あちこちのポケットに手を突っ込む、隣にいる先生が気をきかして煙草を差出してやる。男はぺこりと頭を下げ、実に無器用な手つきで煙草に火をつけた。
「あの……」
煙がまだ喉《のど》にあるうち喋ろうとするものだから、すぐにむせ返る。
「何ですか?」
中神は笑いを殺して男を見た。
「酋長の自殺に、何か不審な点でもありましたか?」
男はあわてて手を振った。
「いや、不審だなどと、とんでもない」
そう、不審のあるわけはないのだ。
「……ただ、通信士の軍曹、なんと言いましたか、そう原浜軍曹。その方は遺骨収集団に入っていらっしゃいますか?」
中神はこの質問の真意がつかみかねた。中神は首を傾《かし》げて、
「いや、入ってはおりません。なぜなら、原浜軍曹は帰国する送還船の中で、死亡したからです」
「死亡――そ、その死因は?」
「盲腸をこじらせたのです。船には医療の設備が不充分でした。気の毒でしたが」
「そして、その遺体は?」
「……水葬にされました。髪を残して……」
急に、男が白い目を出した。
「どうしました。気分でも?」
男は二、三度まばたきをして、
「いや、もう大丈夫。あまり勿体《もつたい》なく思ったものですから……」
「勿体ない? 軍曹の屍体がですか?」
「いや、その。屍体の中にあったもの。きっと、軍曹の腸の中には、高価な宝石が入っていたのじゃないか、という気がしたものですから」
「高価な宝石?」
中神はこの男、完全に居眠りをしていたなと思った。寝呆《ねぼ》けた頭脳でなければ、こんなとんちんかんを喋り出すわけがない。中神は皮肉に笑って、
「つまり、原浜軍曹はその宝石とやらをいつも持っていて、占領軍の目を逃れるために、飲み込んでいたというのですか」
「そうなんです。それが腸に炎症を起す原因になったのではないかと……」
「待って下さいよ。原浜軍曹はその宝石を戦場に持ち歩いていたということになりますが――」
「いや、軍曹は、あの島でその宝石を手に入れたわけです」
「手に入れた……どこからです?」
「無論、ホロボの神からです」
とすると、まるで寝ていたわけでもなさそうだ。中神はふと、この男の話に興味を覚えた。
「立派な仏像には、大きく高価な宝石が象嵌《ぞうがん》されているのと同じで、部族の中心である、祠堂に祀られてあったホロボの神には、美しい石が収められていたと思います。ホロボ族の間に、代々伝わってきた石か、あるいは、スペインの教会から〈置き替え〉られた石か、どちらかでしょうが、後者の可能性の方が強いようですね。現に、祭司の腰に飾られていた十字架――あれは教会から〈置き替え〉た品に違いありません」
中神は思わず身を乗りだした。
「すると、ホロボの神を祠堂から盗んだのは、原浜軍曹だったのですか?」
「そう。原浜軍曹には、まだ怪しい点があります。いわゆる鬼の軍曹だった彼が、帰還する以前には、すっかり人情味のある軍曹に変ってしまった。なぜだか判りますか?」
「さあ――」
「僕の考えでは、隊の無線機は、一部修復していたのではないか。そして、どこかの無線を傍受して、戦争の終ったことを、知ってしまった。原浜軍曹は、もはや、軍曹も新兵もなくなったことが判り、兵隊の報復を恐れて軟化したのではないか……」
「こりゃ、恐れ入った」
酒井が大きな声を出した。中神もびっくりした。
「君の言うとおりだ。無線機は、確かに一部修復されていた。従って、終戦は早くから判っていた。ただし、それを知っていたのは、隊長はじめ、ごく一部だった。中神たちには知らせていない。隊の混乱を恐れたからだ。済まなかったと思うが、仕方がなかった」
中神は憮然《ぶぜん》として腕を組んだ。だからこそ、敵の襲撃に会うと、大和田隊長は、無抵抗のまま、降伏したのだ。
「原浜軍曹は、兵隊が送還されるのは、時間の問題であることを知っていました。自分はまる裸で帰国するだろう。本土も同じ状態に違いあるまい。そんなとき、目の前に何やら美しい宝石を見たとき、わけもなく自分の手に入れたくなった気持も、判るような気がします」
「すると、ホロボの酋長を殺したのは?」
「無論、原浜軍曹の仕業《しわざ》でした」
船が揺れている。
中神は船に酔ったことはなかった。大昭丸ではほとんどの兵隊が船酔いに苦しんだが、中神は平常だった。送還船のときも同じだった。だが、この日は軽いめまいを感じている。若い男の、途方もない思考が原因のようだった。彼はホロボの酋長を殺したのは、原浜軍曹だと断定した。だが、どうして酋長を殺すことが出来たのだ?
「しかし、盗むといっても、対手《あいて》は部族の支えである神様。滅多なことで、手を掛けることは出来ない。そこで軍曹は、祭司の死を利用することを思い付いたのです」
若い男は、悪いことを教えでもするように、背を丸めて話した。
「軍曹は酒井軍医と中神さんとで、祭司の死を見とどけた後、一計を案じて、独り部落に行き、酋長と会って、まず、ホロボの神を交換することに成功しました」
「交換した? 対手は神様じゃありませんか。何と交換するのです」
「原浜軍曹の神と、です」
「軍曹の神?」
「文明の国の全能の神――拳銃と、です」
「拳銃が、神?」
「そうです。原浜軍曹にかぎらず、銃は一種のお守りだったでしょう。一方、ホロボの神は、ホロボ族を守護する、シンボルでした。また、軍曹はホロボの神が、性のシンボルであることにも気付いたようです」
「性のシンボル?」
「そう、ホロボの神は、男性の性器にそっくりだと思いませんか?」
「男性性器に……」
「未開の民族には、性器を守りのシンボルとする風習がよく見られます。九千年も前に、ビロウの木を男性性器のシンボルとした信仰があったそうです。女性性器をシンボルとしたのではコヤス貝信仰。縄文《じようもん》中期には、男性をシンボライズした石の棒などが発見されています。これは古代や未開民族に限った話ではありません。大黒天《だいこくてん》は男性の象徴と言われますし、性器を祀る神社は数え切れないほどあります。アメリカでも男性を型どった、ギズモと呼ばれる一種のお守りもある。現にこの船のステムヘッドに、魅惑的な裸女の像がかかげられていますが、あれも性を象徴としたお守りの一つとして考えられるでしょう」
「それで、軍曹の神とは?」
「ビロウの木、石棒、矢、槍《やり》などは男性性器に象徴されると、心理学者は言います。そして、無論、拳銃もです。ホロボの神を信仰する酋長は、ホロボの神と同じ男性性器の象徴である、軍曹の神に対して、いささかの疑いも挟《はさ》まなかったわけです。軍曹は自分の歩兵銃は使わず、隊長の拳銃を盗み出した。その理由の一つは、銃身の長い銃では、酋長を殺すのに工合《ぐあい》が悪かったからです」
「そのところが、よく判らない。君は最初から、酋長を殺したのは軍曹だと言っていますが、銃声は日の出とともに起ったのです。その頃、軍曹はまだ部隊の中にいたのですよ。私たちと一緒に」
「そのとおりです。ですが、軍曹はある機略を用意していた」
「――こうでしょう」
中神は昔そんな小説を読んだことがあった。
「軍曹はずっと以前に酋長を殺していたのでしょう。軍曹は酋長を殺し、祠堂を出る前に、何か細工をしておいた。日の登る時刻に、大きな音の出る仕掛けです」
「しかし、そりゃ変だ」
と、酒井が言った。
「酋長の屍体は、死んでから何時間もたってはいなかった。血もまだ乾いてはいなかったんだ。それに、私は祠堂の中をすっかり調べた。もし、そんな仕掛けの跡があったら、一番先に目に付いたはずだ。それよりも……」
酒井は若い男に言った。
「未開民族は屍体に対して、強い恐れを持っているのが普通なんだ。それなのに、酋長がずっと祭司と祠堂に籠っていたということが怪しい」
「祭司が、まだ生きていた、としたらどうでしょう」
若い男は平然と言った。
「そんな馬鹿な。あの屍体は、明らかに――」
「そうです。軍医殿の目に狂いはありませんでした。ただ、原浜軍曹から、祭司は死んでいるのではない。そのうちに生き返ると言われ、酋長がそれを真に受けていたとしたら、どうでしょう」
「そんなことを信じる奴《やつ》なんか、いるもんか。いくら未開民族だって、あの祭司を見れば一と目で死んでいるのが判る。それだったら、私は土民の魔法で祭司が起き上り、酋長を撃ち殺した方を信じたいね」
「そう、そうなのです。僕たちから見れば、彼らはいかにも奇怪な呪術《じゆじゆつ》を行う能力があるように見えるじゃありませんか。反対に、彼らの目からは、僻地守備隊は何に見えるでしょうか。まさか文化の発達した民族だとは思わないでしょうね。いきなり海の向うから現れて、得体の知れないことばかりしている人間、というより、どんな不思議なことでも、易々《やすやす》とやってのける、奇怪な魔術師の集団なのでした。とりわけて、酒井さんは酋長の息子ヤーマに、さまざまな術を使って見せました。酒井さんは小さな棒の先へ、たちどころに火を付ける術を知っていました。小さな光る箱の中には、いつでも火が入っていて、好きなときに取り出すことも出来ました。また酒井さんが呪文を唱えると、水が燃え出すではありませんか。――そして、もう一人の魔術師、原浜軍曹の持っている神様は、生きたものを、殺すことも、生き返らせることも可能な、超能力を持つ神なのでした……」
「生きたものを、殺すことも、生き返らせることも可能だと?」
「いつか原浜軍曹は、木の上のテングザルを、歩兵銃で撃ち落とすところを、ヤーマに見せたことがあったでしょう」
「弾はテングザルをかすめただけだった」
「でも、ヤーマは軍曹の神の一声でサルが死に、二声めで生き返ったと見ていたわけです。そういったさまざまな奇蹟は、すぐに酋長の耳に入ったでしょう。酋長は魔術師たちに、敬意のしるしとして、はるばる部隊を訪れたりしました。その酋長ですから、自分の妻が死んだとき、当然、あの魔術師たちなら、祭司を生き返らせる術を知っているに違いない、と考えたのでしょう。むしろ酋長の方から、軍曹に、助けを求めたのではないでしょうか。軍曹はその機会を利用したのだ」
「われわれはヤーマの傷を治してやったこともある。呪術医《ウイツチドクター》でもあったのだ」
「軍曹の診断は、多分こうだったでしょう。祭司はまだ死んだのではない。何かの祟《たた》りを受けて息が止まり、そのまま放置すれば、本当の死がやって来る。自分はその祟りを遠ざけ、死を追いやる呪術を知っている。そのためには、自分の神を使わなければならない。二つの神が寄って、争うことがあっては一大事だから、ホロボの神と自分の神は、一時置き替えなければならない。酋長は軍曹に同意し、ホロボの神は軍曹の手に入りました。そして、軍曹は恐ろしい呪術を伝授したのです。祭司が倒れて三日目、日の出とともに、軍曹の神を病人の手に握らせ、呪術者の額に当てがって、病人の名を呼びながら、引き金を引くのだ――とです」
「そして、酋長は教えられたとおりの呪術を行った……」
「酋長は自分の妻が立ち上るという奇蹟が起るのを、信じて疑わなかった。小さな棒の先に、火が生じる奇蹟と同じように……」
「知らぬことは恐ろしい――」
中神は言いかけて、はっと思った。自分は反対に、ホロボ族の文化の最先端である罠を知らなかったために、大きな傷を作ってしまったのだ。自分は銃を知らない人間を笑うことが出来ないのだった。
甲板の上にざわめきが起っていた。
「ホロボ島が見えはじめた!」
大和田元隊長の興奮した声だった。酒井も大和田の隣に立って、感慨深そうに水平線の一点に釘付《くぎづ》けになった。
中神は椅子《いす》から立ち上る前に、さっき受け取った二枚の名刺を、もう一度取り出して、見直さなければならないと思った。
貰《もら》ったときには、ろくに気にもしていなかったのだが、若い男の方の名前を、どうしても知りたくなったからである。
第八話 黒い霧
金堀《かなぼり》商店街は、まだ眠りの中にあった。
信号機がおざなりに点滅し、思い出したように、車が通りすぎる。狭い道をバスが分け入り、買物客がひしめく金堀通りしか知らない匡子《きようこ》にとっては、嘘《うそ》のような静かさである。
金堀通りは、真っすぐ南に伸び、商店街の上を、東西にレンガ色の陸橋が跨《また》いでいる。陸橋の上を、白っぽくなった空を背景にして、四角い市電が、軽い音をたてて走っていた。
匡子は時計を見た。――五時十分。基木町《もときちよう》を出た始発電車であろう。電車は陸橋を渡ってから、梅津《うめづ》に向うのである。ついさっきまで、匡子が騒いでいた、温泉街だ。
梅津は古い小さな温泉郷で、世間から取り残されたような町が、わずかに命脈を保っているのは、風俗営業の取り締りが緩やかな点であった。温泉には名所名物がない代りに、夜通しのクラブやバー、飲食店が何軒もあった。この、少しばかり不衛生で、自堕落で、不健康な雰囲気《ふんいき》、狭く曲った道幅、古い家並《やなみ》にけばけばしく塗りたてられ、しかも禿《は》げかかった色彩、ものうげな女たちに、昔ながらの歓楽街の、かけがえのない臭いを見出して、わざわざ遠くから来るファンも多くいるのである。
市電が陸橋を通りすぎると、電車の後を追うように、小柄な女性が大きな犬を連れて、散歩している姿が見える。オレンジ色のスカートが、朝の風に軽くはためいていた。
その風が雲を吹き払って、久し振りの晴天になりそうだった。梅雨《つゆ》が明ければ、もう夏である。
――佐藤看七《さとうかんしち》の言うとおりになった。
と匡子は感心した。
匡子がその男の、名まで覚えているのは、佐藤が会う女性会う女性に名刺を配り、彼女も一枚|貰《もら》っていたからである。遠くから来た客ではなかった。
梅津山気象台予報員佐藤看七――中年の大きな身体の男だった。眉《まゆ》の太いのが特徴だが、それでいてのっぺりした感じの顔だ。
「佐藤って姓はありふれているが、看七という名は珍しいでしょう。忘れちゃ駄目《だめ》なのよ。看七っつぁんですよ。今頃《いまごろ》は、看七っつぁん……」
「まあ、売り込みがお上手《じようず》ですこと」
同僚の朱実《あけみ》が名刺を見て言った。ただし、彼女には芝居の洒落《しやれ》が通じなかった。
「あら、気象台の方なのね」
「そうです。ついでに明日の天気を予報いたしましょう。発達中の低気圧が沿海州中部を東北東に進み、父島《ちちじま》の東に中心を持つ高気圧が日本の南海上に張り出すため、南東の風がやや強く、久し振りの晴天が望めそうです……」
初夏の風は爽《さわ》やかであったが、匡子の頭の中は、重く疲れていた。
佐藤看七の悪ふざけがひどく、夜中じゅう付き合わされた匡子は、へとへとになってしまったのである。
佐藤看七が一人で店に現れたときは、午前三時を廻《まわ》っていた。ビールを一、二杯飲むと、看七はカーネーションの造花を取り出して見せた。意外にいい香水がついている。匡子が匂《にお》いをかごうとすると、花の芯《しん》から、ぴゅっと水が飛び出した。匡子はむせ返り、看七はけたけたと笑った。
「嫌《いや》な奴《やつ》ね。飲んでいないのよ。それで、酔った振りをしている」
看七が手洗いに立ったあと、朱実が匡子にささやいた。朱実の言うとおり、看七は酔ってはいなかった。酔っていないにもかかわらず、看七の悪ふざけは度が過ぎた。
三十分もたった頃《ころ》、看七は何を思ったのか、いきなり衣服を脱ぎ捨て、素っ裸になって舞台に踊り出した。舞台は香嵐《こうらん》らん子の歌の最中であった。香嵐らん子は悲鳴を上げて楽屋に逃げ込み、楽団は曲をハーレムノクターンに切り替え、照明係はライトにピンクの色をかけた。
とっさの出来事で、ボーイはテーブルクロスをつかんで看七を追い掛けた。看七は舞台の隅《すみ》で、何枚ものテーブルクロスで取り押えられた。
「男の裸は、なぜいけねえんだ」
看七は使い古しの台詞《せりふ》を言い、匡子たちはしぶしぶおかしそうな顔を作った。
「君みたいな、やさしい子が好きだなあ」
看七は目を白黒して言った。朱実がネクタイを力まかせに締めていたのだ。
「今晩誘っていいかい?」
「もう、朝よ」
「じゃあ、今朝誘っていいかい」
「本当? うれしいわあ。匡子も一緒にね」
「――いいよ。人数が多いほど、都合《つごう》がいいんだわあ」
朱実は四、五人の同僚に声を掛けた。看七は彼女たちをバーに連れて行った。この店では、女性たちが急にいなくなったり、ふいに現れたりするのは日常茶飯のことになっていた。
バーでも看七はあまり飲まず、無理にすすめるとグラスを床に落したりした。それがわざとであることは、匡子の目にも判った。
「お金持そうにも見えないしね。公金でも横領したのかしら?」
匡子はそっと朱実に言った。
「さあ――」
朱実はカクテルを無造作に飲み干して、
「違うでしょ。気象台にお金があるなどという話はあまり聞かないもの。悪いことが出来るとすれば、収賄ね」
「収賄?」
「業者から頼まれて、嘘《うそ》の天気予報を流すの。明日は雨ですって」
「どんな業者?」
「定《きま》っているじゃない。傘屋《かさや》の業界よ」
「傘屋が――ね」
「そんなこと、どうでもいいじゃない。いいから、うんと飲んで、うんと食べてやろうよ」
それから、鮨屋《すしや》に行った。看七がトンカツの鮨を握れなどと騒いでいる間、匡子たちはアワビやウニなどを、腹一杯詰め込んだ。
鮨屋を出ると、看七はホテルに行って麻雀《マージヤン》をやろうと言い出した。今までの調子だと、どんな麻雀になるか想像もつかない。人数が多いのを幸いに、匡子だけが逃げ出した。
いい気になって飲んだ酒が、看七の馬鹿騒ぎと一緒に、後味悪くまだ残っているようだった。匡子はチューインガムを口に放り込んだ。
そのとき、商店街の向うから、一人の男が駆けてくるのに気が付いた。この商店街でよく見かける顔で、ランニングシャツに黄色いトレーニングパンツをはいている。男は規則正しいリズムで匡子の傍《そば》を通り抜けたが、その顔を見て、思わず目を疑った。
もともと色の黒い男だったが、鼻の下に、一文字の真っ黒な棒があったからだ。墨で横なぐりに書いた髭《ひげ》のようだった。だが、男は匡子の視線にも知らん顔で、空の一点を見ながら駆け去ってしまった。
見送った視線を商店街に戻すと、今度は新聞配達の自転車が、凄《すご》い速さでやって来て、あっという間に匡子の傍を通り過ぎた。新聞配達は、物に怯《おび》えたような顔になっていた。
「何かあったのかな――」
匡子は商店街をすかして見た。――尋常でない何かが起っていた。
ちょうど陸橋の真下あたりの路上に、黒い煙が立ち籠《こ》めていたのである。
「――火事?」
匡子は足を早めた。
だが、火事にしては火の手が見えないし、煙の舞い方もおかしい。煙は空に吹き上げるのではなく、ただむくむくと大きくなっている。
「――爆発?」
それにしては爆音が聞えなかった。
黒い煙は風に乗って匡子の方に近付いて来た。匡子は思わず足を止めた。
煙からはじき出されたように、一人の男が飛び出した。
片手を振り廻《まわ》し、走るリズムは狂っていたが、足は呆《あき》れるぐらいに速かった。
「何か、あったの?」
匡子は思わず声を掛けた。
男はどきんとした調子で足を止めた。近寄ると、すらりと背が高く、彫の深い顔立ちだったが、顔色が病人のような、不健康な青黒さである。
「わ、判《わか》りません、どうなっているのか」
男ははあはあしながら言った。
「いきなり、黒い霧が襲いかかって来たんです」
男は拳《こぶし》で額をこすった。すると、額に一本の黒い棒が描かれた。
「あら!」
匡子は目を丸くして男の顔を見た。マラソンの男の鼻の下の棒と同じ色であった。
「どうしたんです? 僕の顔に墨でも付いているんですか」
「そうよ」
匡子はコンパクトを開けて、男の顔に向けた。
「やあ!」
男は鏡の中をまじまじと見ながら、指で鼻の下をこすった。すると鼻の下に黒い棒が出来た。今度は頬《ほお》に丸を描いてみる。同じように、黒い丸が頬に書けた。どうやら、物事を納得するまでには、時間をかけていろいろ実験してみる癖があるらしい。
「ここいら辺に玩具屋《おもちやや》はありませんか?」
男はコンパクトを匡子に返して言った。
「どうして?」
「羽子板でも持っていなければ、納まらない顔になった」
匡子は気の毒そうな顔で男を見た。だが心の中ではひいひい笑っていた。商売柄、どんな顔も出来るのだ。男は匡子の心を見透すように、彼女の顔をじっと見ていたが、
「でも、あなたも面白《おもしろ》がってばかりはいられませんよ。あなただって、もはや被害者のようです」
匡子はあわててコンパクトを開き、額をこすってみた。額に黒い棒が一本出来た。
そのとき、道の左側にある金物屋の二階の雨戸が、がたがたといって動いた。戸が細目に開き、その隙間《すきま》から平べったい顔が覗《のぞ》いた。どこかで見たことのある男だった。男は路上の二人を見下ろし、次に陸橋の方を見た。
「や、畜生、またやりやがったな」
雨戸が手荒く閉り、すぐ金物屋の店のシャッターが開いた。初めに平べったい顔の男がシャッターをくぐって、向い側の店の横に入って行った。
「思い出した。あの人、豆腐屋《とうふや》さんだったわ」
匡子は男の後姿を見て言った。
「さすが。豆腐屋さんだけに、朝が早い」
背の高い男が感心した。
「ところが違うのね」
「違うって?」
「最近じゃタイマーをセットしておけば、自然にお豆腐が出来てしまうんですって。いつか、そう言って自慢していた。お蔭《かげ》で朝寝ができるってね」
「豆腐屋さんが金物屋さんから出て来るとは、妙です」
金物屋のシャッターから出て来たのは一人だけではなかった。あと四、五人が、こそこそと、商店街のあちこちに消えて行った。最後に出て来た男が「畜生、またカーボンだ」と捨て台詞を残したのを耳にして、匡子ははっとした。
「思い出した。あれ、カーボンの霧だわ」
「カーボン?」
背の高い男は、陸橋の方を見た。
「一と月前だったかしら。この通りに運送車がいくつもの紙袋を落して行ったわ。一と袋が二十キロもある紙袋だった。それを後続の車が次々に轢《ひ》いて行った。袋が破れて、中から黒い煙が立ち登ったわ。袋の中は粉末のカーボンだったの。両側の商店街は、あっという間に、真っ黒になってしまった――」
「そりゃ、大変です。どうしました?」
「どうすることも出来なかったらしいわ。カーボンはまるで煙でしょう。その日も今日みたいに風があった。カーボンは風に乗って、どんな隙間からも侵入したわ。街中の人の顔は真っ黒け。顔だけならまだいいの。商品は売り物にならなくなるし、その角《かど》の料亭《りようてい》〈伊豆政《いずまさ》〉では座敷の畳を百枚も取り替えたそうよ。カーボンは掃除機も通り抜けてしまう。路上のカーボンは結局水で洗い流すより他、手がなかったわ。家に入ったカーボンを、雑巾《ぞうきん》で拭《ふ》き取るのに、まる一週間もかかった――」
「災難はどこにあるか判らない。こうしていたら、肺の中まで真っ黒になってしまう。すぐ逃げましょう」
「私は逃げないわ」
匡子は道を踏みしめた。
「どうしてですか?」
「これは公害だわ。賠償金を貰《もら》うわ。衣料代、入浴代、美容料代も、ね」
「誰《だれ》から?」
「商店街からでも、運送店からでも、厚生省からでも、カーボンメーカーからでも、取れるところからなら、どこからでもよくはない? とにかく、被害証明書を貰わなければ、帰れません。あなたも、ここにいた方がいいわよ」
「そ、そうしましょう」
男はぐいと鼻の下をこすった。
「そんな証明は出せませんよ。とに角、お引き取りください」
金堀商店街の派出所から出て来た、島中《しまなか》巡査は、断乎《だんこ》として言った。髭《ひげ》の剃《そ》り跡の青々とした、大きな男であった。
匡子は島中巡査を知っていた。以前、夜中に痴漢に追いかけられ、助けて貰ったことがあったのだ。あのときの島中巡査は、匡子に大変やさしくしてくれた。多分、人目がなかったからであろう。
「これは公害だわ。被害者証明をすぐ出すべきだわ」
島中巡査のよそよそしさが気に入らなかったので、匡子は後へ引かなかった。
「ところが違うのです。先月の前例では、交通違反という解釈がなされています」
「交通違反?」
「そうです。カーボンを落した人間は、荷物転落防止義務を規定した道交法七一条四項に違反しています」
「その犯人は、捕《つかま》ったの?」
「いや、まだ逮捕されません」
「カーボンの袋を見れば、製造元が判るでしょう。製造元が判れば、それを買って、この商店街を通った車はすぐ突き止められるじゃないの」
「理屈はそうですがね。製造元は大手のカーボンメーカーで、出荷量が膨大でした。流通ルートを照合しましたが、これという販売先は突き止められませんでした。運送会社は下請が多く……」
「メーカーが自分の得意先を庇《かば》っているんだわ。大きな事件でないから、そんな悠長《ゆうちよう》なことを言っているのでしょう」
「そんなことはありません」
「証明書が出せないのなら、被害に会った人の名ぐらい覚えておくべきだわ」
「存じておりますよ。お嬢さん。玉葉匡子《たまばきようこ》さんでしたね」
島中巡査は匡子の名を言うとき、ちょっと赤い顔になった。匡子はそれを見て満足し、意地を通すのを断念した。
「ぼ、僕の名も覚えておいてください。亜《あ》と申します」
二人の様子を見ていた背の高い男が口を出した。島中巡査は不機嫌《ふきげん》な顔に戻《もど》った。
「あ?」
亜は黒い掌の上に、黒い指で亜という字を書いて見せた。
「忘れそうになったら、字引きの最初のページを見て下さい。亜米利加《アメリカ》の亜という字が見えるでしょう。亜愛一郎《ああいいちろう》」
「亜愛一郎ね。多分、忘れられないだろうな」
「有難うございます」
「タケル君も覚えておいて頂戴《ちようだい》」
かん高い声がし、匡子が振り向くと、三角形の顔をした小柄な洋装の老婦人が、自分の連れている、大きな黒いブルドッグを指差していた。
島中巡査は犬の大きさにちょっとたじろいだ。
「うちのタケル君、とっても敏感なの。ショックで病気にでもなったらどうしましょう」
ブルドッグは、うううと唸《うな》った。
「それにしても、すばらしい黒犬ですね」
うっかりした島中巡査の言葉に、老婦人は猛《たけ》り狂った。
「タケル君は黒犬じゃないのよ。この商店街を通って来たら、黒犬になっちゃったのよ。タケル君の自慢のヘアを可哀相《かあいそう》だとは思わない!」
金堀商店街にパトカーが到着し、続いて市の撒水車《さんすいしや》が現れた。
撒水車は道路に放射状に散ったカーボンを流しにかかった。水の勢いでカーボンはまた煙になった。
「そっと流すんだ。乱暴しちゃいかん」
島中巡査が、てきぱきと指示し、勇敢にもいくつかのカーボンの袋を拾い集めた。巡査はむせ返り、またたく間に全身がブルドッグと同じ色になった。
匡子は島中巡査の奮闘ぶりは、自分の視線があるからなのだなと思い、悪い気はしなかった。
匡子が気が付くと、亜と名乗った男が、ぼんやり空を見上げている。すでにネクタイを解き、背広をきちんと裏返しに畳んで、小さくして抱えていた。さっきまで、カーボンから逃れようか、それとも黒い街の成り行きを見届けようかと思い惑っている風であったが、結局好奇心に勝てず、服だけは汚すまいとして、こうした姿が出来上ったのであろう。匡子は見かけだけが俊敏そうなこの男に、ふと興味を覚えた。
「何を見ているの?」
匡子の声に、亜は心を見抜かれたように、ぎくりとして、
「いや、あの袋は、どうも空から降って来たもののようです」
「空から?」
「道の上に散っているカーボンの跡を見て下さい。放射状になっているでしょう。もし、自動車に轢かれて、カーボンが袋から飛び出したのなら、こんな形にはならないはずです」
「本当だわ。――まるで空から落ちて来たみたいに見えるわ」
「空からですって?」
傍を通りかかった島中巡査が聞き咎《とが》めた。
「空に運送車が通りますか?」
「空なら、輸送機だわ」
「いや、空からといっても、そんな遠くからではないでしょう。すぐそこに、陸橋が見えますよ」
亜の差す方を見ると、カーボンの散った道の、ちょうど真上が陸橋になっていた。
「――それに、あの紙袋を見ると、針金で縛《しば》ってあったようですね。針金が袋に巻かれた上、五十センチも余分が飛び出しているでしょう。その切り口の工合《ぐあい》も怪しくありませんか。ペンチで切ったのでも、折り切ったのでもなさそうです。ほら、切り口が平ったくなっているでしょう」
あわてて島中巡査が、袋に巻き付けられた針金の端を見ると、亜の言うとおり、小さなしゃもじのようになっていた。
「と、いうことは?」
島中巡査は、亜を見詰めた。真っ黒い顔の中から、ぎょろりと目が光った。
亜は陸橋を見上げた。市電がごとごとと音を立てて通り過ぎてゆく。
「あの電車の、鉄の車輪で轢《ひ》き潰《つぶ》されると、針金はこんな形になるでしょう」
巡査はぱんと手を叩《たた》いた。両手からぱんと黒い粉が散った。彼は無言で走り出した。商店街を曲ると、陸橋に登る階段がある。匡子と亜も巡査の後に続いた。
陸橋は十年ばかり前に改築されたものだ。古い市電は取り外されることになっていたが、新しい市長は市電マニアだった。市電は命脈を保ち、陸橋の片端に単線で残されていた。
島中巡査の期待したものは、すぐに見付かった。カーボン袋の落ちていた金堀通りの真上、市電の軌道の間に、ごく原始的な仕掛けの跡が残っていたのである。
二本のレールの間のアスファルトに、深く打ち込まれた釘《くぎ》があった。釘の頭には、カーボンの袋に結び付けられていた針金と同じものが巻き付けられてあった。その針金の先は、レールの上でカーボンの袋にあったのと同じように、平《たいら》に潰されていた。
「――運送車が過《あやま》って落して行ったものではない。これは計画的な犯行だ」
匡子にもその仕掛けは判った。市電のレールの間に釘を打ち込み、その頭に針金を巻き付ける。針金は一本のレールを跨《また》いで、陸橋の端に出す。針金の端にはいくつかのカーボンの袋がくくり付けられてあるのだ。市電の始発が陸橋を通り過ぎると、針金はレールと車輪の間で轢き切られ、カーボンの袋は金堀商店街の真ん中に落ちてゆく――
「一と月前のカーボン騒ぎのときも、こんな仕掛けがありましたか?」
と亜が訊《き》いた。
「あのときも、袋は私が調べたのだ。だが、こんな細工はなかったぞ」
陸橋の上から見下すと、商店街のほとんどが飛び起きて、真っ黒な顔で金堀通りを右往左往していた。色とりどりのバケツが行き交い、道路は水で黒く光った。
島中巡査は呆然《ぼうぜん》と針金の先を見据《みす》えた。
「しかし、一体、なんのために、こんなことをしたのだ!」
「判っているじゃない。自分の金儲《かねもう》けのためよ」
島中巡査を捕えて、わめいているのは料亭伊豆政のおかみだった。
「黒川《くろかわ》畳店のおやじの仕業《しわざ》だわ。島中さんも畳屋の高慢な顔を知っているでしょう。私と小学校の同級だったけれど、いつもクロ、クロって呼ばれていたわ」
「人間は顔や氏名では判断は出来ませんよ」
巡査の表情は黒くて判らなかったが、きっと困り果てた顔になっているのだろう。
「そりゃそうでしょうが、あいつはこの前のときも大儲けしたじゃない? 私のところじゃ、百畳の畳を入れ替えたのよ。それなのに、一銭だって負けようとしなかった。人の災難に付け込む奴《やつ》よ。畳を入れ替えたのは私のところばかりじゃないわ。クロは思わぬ金儲けをしたんだ。その味をしめたんだわ」
「何か証拠がありますか?」
「風向きをごらんなさい。南風でしょう。自分の家は風上に当っているわ。風向きまであいつはちゃんと心得ていたのよ。それに毎朝クロは街中をうろうろしているんですってね?」
「黒川さんは、毎朝マラソンを日課にしているんです」
「へん、なにがマラソンのものですか。聞いて呆《あき》れるわ。マラソンの途中でカーボンを撒き散らしたのに違いないわ」
「クロが、どうしただと?」
声のする方を匡子が見ると、黒く汚れた帽子に前掛をした男が、物凄《ものすご》い顔で立ち上っていた。アンドレ洋菓子店の主人であった。両袖《そで》をまくり上げ、太い右腕に大きなデコレーションケーキを持っていた。
「道にススを撒いたのは、クロの奴だわ」
「うぬ――」
手に持ったデコレーションケーキが、ぶるぶると震えた。
「夜明しで五十のケーキを作りあげたところなんだ。今気が付いたら、全部がこのざまだ」
彼はケーキを皆に示した。真っ白なクリームの上に、黒い雪が降ったようだった。
「クロが戻って来たわ」
伊豆政のおかみが商店街の入口を指差した。黄色いトレーニングパンツが規則正しいリズムで近付いて来た。
「畜生、覚えていろよ」
アンドレの主人は道の傍に寄った。黄色いトレーニングパンツは、街中の騒ぎに全然目もくれず、空の一点を見詰めたまま、道の真ん中を駆けて来る。
匡子は息を飲んだ。アンドレの主人の太い右腕が大きく後に引かれたと思うと、充分に弾みをつけられたケーキが、うなりを生じて飛んで来た。
だが、ケーキはわずかに黒川の頭をかすめただけで飛び去った。
ちょうど、向い側の豆腐屋の戸が開き、平べったい顔が隙間《すきま》から覗《のぞ》いたところであった。黒川の頭をかすめたケーキは、豆腐屋の顔にもろにぶつかって、砕けた。豆腐屋は家の中に転がり込んだ。
「クロ、待て!」
伊豆政のおかみが叫んだ。黒川はぴたりと足を止め、きょとんとした顔で声のする方を見た。
「何ですか、お政《まさ》さん」
黒川は顔も変えずに言った。
「朝のマラソンは、爽やかでしょう」
「お政さんも明日から駆けてみなさい」
一度店に入ったアンドレの主人は、両手に一つずつケーキをのせて現れた。
「クロちゃん。あっちを御覧!」
伊豆政のおかみは洋菓子店を指差した。黒川が振返る。とたんに一つのケーキが飛んで来た。黒川は二発目も無事だった。とっさに頭をひっ込めたからだ。その二発目は、黒川の後にいた伊豆政のおかみの顔に命中した。
「アンドレのどじめ」
伊豆政のおかみがわめいた。
だが続いて繰り出された三発目は、黒川の顔の真ん中へ、確実に炸裂《さくれつ》していた。
「天誅《てんちゆう》だ、思い知ったか」
アンドレの主人は、昂然《こうぜん》として胸をそらせた。
その顔へ、空中から飛んで来た灰色の物がぶち当った。アンドレの主人は舌を出して口の囲《まわ》りを舐《な》めた。
「豆腐だ……」
アンドレの主人はうめいた。
「やる気だな豆腐屋め。こっちには、まだ四十七個も残っているんだ」
匡子が振り返ると、クリームでパックした男が、バケツの中から四角い物をつかんでは放り投げていた。
「機械の畜生、すすが入ったら止まるがいいじゃねえか。せっせと灰色の豆腐を作り出しやがった。機械なんて、不便なもんだ。ツキがハシったと思やウチアゲにされるし……」
島中巡査は豆腐屋の前に立ちはだかった。
「いい加減にしないか、豆腐屋。馬鹿な真似《まね》は止《よ》せ」
「そこを退いて下さいよ、お巡りさん。ついでながら、金物屋にも少々恨みがあるんだ」
豆腐屋はクリームの中から、血走った目をむいた。
「お前、また金物屋たちと悪戯《いたずら》をしていたんだな」
「ご冗談でしょう。あれ以来、ふっつり……」
「嘘を吐《つ》け。機械を入れたのは、手なぐさみの時間が欲しかったんだな」
「余計な内政干渉だ」
豆腐屋は、いきなりバケツに手を突っ込むと、灰色の豆腐をつかんで、巡査の顔になすり付けた。
「うっ――公務執行妨害」
そのとき、けたたましいクラクションと共に、商店街へ一台の車が疾走して来た。車の後にはかまぼこ型のタンクがあり、タンクには市のマークが印されてあった。タンクの後には、太いホースがとぐろを巻いている。
バキュームカーは、いくつものバケツをはねとばし轢き潰しながら、パトカーと撒水車《さんすいしや》の間を轟音《ごうおん》とともにくね廻った。
匡子は運転台の男が、アンドレの主人のような狂暴な顔で、ハンドルにしがみ付いているのを見た。バキュームカーが撒水車の横をすれすれに通り抜けたときだった。どうしたわけか、運転台にケーキが飛び込み、運転手の横顔にぶち当った。
急ブレーキの音と一緒に車が止まり、半面クリームに飾られた運転手が降りて来た。運転手の別の方の半面は、笑っているように見えた。彼はゆっくりと車の後に廻ると、ホースに手をかけた。
「ど、どうしようというのでしょう」
亜が背広を胸に抱きしめて、震えていた。
「判っているじゃない。あいつ、最も恐ろしいことをしようとしている――」
「やるんなら、やれ!」
アンドレの主人は完全に逆上していた。
二発目のケーキが運転手の顎《あご》に飛んだ。もう駄目だ、と匡子は観念した。だが、奇蹟《きせき》が起った。運転手はホースにかけた手をのろのろと引っ込めると、運転台に戻った。そして、バキュームカーは狂ったように商店街を駆け去った。
車を見送っていた匡子の顔が衝撃を受け、クリームの甘い匂いに包まれて、真っ暗になった。
それからは無我夢中であった。匡子はやぶれかぶれになり、洋菓子店と豆腐屋の間を往復して戦闘に加わった。街中にケーキと豆腐が飛び交い、初め黒くなった人々の顔は、今度は端から白く塗り替えられていった。
いや、一人だけまだ黒い顔を保っている男がいた。亜だった。彼は鳥のような身軽さと、ボクサーのような運動神経で、右に左にケーキと豆腐を退《さ》けていた。だが、最後にはアンドレの主人に見付かってしまった。
「やあ、あいつだけがまだ無傷だ」
デコレーションケーキを投げ尽したアンドレの主人は、チョコレートケーキをつかみ出していた。
「この、気狂《きちが》い――」
チョコレートケーキに反動をつけている腕に、アンドレの妻が取りすがった。
「チョコレートケーキなら多少黒くなったって、売り物になるでしょう」
「うるさい、お前は黙っていろ!」
アンドレの主人は一発目のケーキを妻の口に押し込み、二発目を亜にめがけた。
亜はちょうど生揚《なまあ》げに足を取られ、滑っていた。飛んで来たチョコレートケーキを退けることは不可能であった。恐怖で大きく開かれた口の中へ、まともにケーキが炸裂した。亜はしっかり背広を抱いたまま、スローモーションの映画を見るように道の上に仆《たお》れ、動かなくなった。
仮面を外した人間が踊りを忘れるのと同じで、ケーキと豆腐とすすを洗い流した金堀町の人たちは、いずれも狐《きつね》が落ちたように、大人《おとな》しくなってしまった。
警察署のシャワー室は汚く、男臭かったが、ないよりはましだった。女性の特権で、匡子が最初にシャワーを使えたのは有難かった。伊豆政のおかみ、島中巡査、アンドレの主人、黒川、豆腐屋、亜、金物屋たちが、次々と文字通りの湯上りの顔で、取調べ室に姿を現し、ぐったりとした顔で木製のベンチに腰を下ろした。
コンクリートむき出しの、変に細長い部屋で、ステンレスの机が一つ置いてあった。取調べには島中巡査と、坊主頭で紺の背広を着た警察官が当った。坊主頭の警察官は、もっさりとした顔だったが、顔に似ずてきぱきと調書を取り進めた。
このときも匡子は一番初めだった。匡子が護送車に詰め込まれたのは、匡子の投げたケーキの一発が、確かに島中巡査の胸に当ったと、パトカーの警官が証言したからだ。
「島中さん、私がケーキを投げるようなことなど、したかしら?」
匡子はやさしい目で島中巡査を見詰めた。匡子はパンケーキを塗り、ルージュを濃く塗りなおしていた。
「この人ではないでしょう。玉葉さんは、ただ被害者でした」
島中巡査は、濡《ぬ》れている匡子の髪を、まぶしそうに見て言った。
坊主頭は上目遣《うわめづか》いに湯上りの巡査と匡子を見比べ、うふふと笑って、君はもういいよと言った。匡子は安心し、一服つけたかったところだが、我慢することにした。
何人目かの調べの最中、部屋のドアが開いて、獰猛《どうもう》な顔の男が入って来た。どこかで見たことのある顔であった。
坊主頭がその男の顔を見て、
「おい、お前は隣の部屋だ」
とうながした。
男はのろのろとした態度で部屋を出て行った。そのとたん、匡子の記憶が甦《よみがえ》った。
「バキュームカーの運転手だわ!」
匡子の声で、金堀商店街の人たちがびっくりした。
「奴《やつ》、どうしたんです?」
島中巡査が坊主頭に訊いた。
「基木町《もときちよう》でダンプの運転手と喧嘩《けんか》をしたのさ」
坊主頭は気さくに、商店街の人たちにも聞えるように説明した。
「喧嘩もいいが、することに事を欠いてね、タンクの中のものを、全部街中にぶちまけて、逃走中だった。基木町の方は真っ黄色だ。つい今しがた、非常線に引っかかったのさ。悪い事件は重なり勝《がち》だ。それも、似たようなのが、ね」
「奴なら、金堀通りを抜けてゆきましたよ」
「ほう――そりゃ」
坊主頭が目を丸くした。
「奴も確か二発のケーキを食らっています。もし、奴が基木町で喧嘩などしていなかったら――」
匡子は身震いした。彼がホースに手を掛け、それを断念した理由も明らかになった。彼の武器はすでに空っぽになっていたからなのだ。
「金堀商店街の皆さんは、幸運であったわけですな」
と、坊主頭が言った。
調べが亜の番になった。すすを洗い落した亜の顔は、ほんのりと桜色になり、匡子が思わず息を飲むほどであった。なかんずく、射通すような深い眸《ひとみ》が匡子をはっとさせ、坊主頭が君はもういいよと言っても、亜のいる部屋から離れ難い気持になっていたのである。
だが亜は警官の前に立つと、すっかり落着かなくなり、後姿を見てもおどおどしていることがよく判った。前に警察で悪いことがあったのではないかと匡子は気になった。
亜は盛んに「もういいでしょう。帰らせて下さい」と小声で繰り返した。そんな態度や彼の名前が坊主頭に不審の念を抱かせたらしい。
「前科《まえ》があるのじゃないかね?」
詰問した。
「あ、ありません」
亜は狼狽《ろうばい》していた。
「警察の人と知り合いがあります。僕のことをお聞きになってもよろしいです」
言い訳だとしたら、何て下手《へた》な嘘だと匡子は思った。
「ほう、警察ね? どこの人かな?」
「羽田警察署の宮前刑事――」
「羽田署? そんな署は、ないぞ」
「間違えました。宮前市、宮前警察署の羽田刑事です」
間違えを指摘されて、亜はすっかりしどろもどろになった。
「そんな人、知らん」
「では、右腕山《みぎうでやま》の近くの署で、髭《ひげ》さん」
「髭?」
「髭とは通称のようでした。本名は判りません」
「話にならん」
「では西|上野《うえの》署の藻湖《もこ》刑事」
「藻湖さん? 拳銃《けんじゆう》の藻湖刑事か?」
「そ、そうです」
坊主頭は島中巡査に目配せをした。巡査は部屋を出て行った。亜は額の汗を拭いた。
「それから、下堀署の呉沢《くれさわ》刑事。もっともあの人は、僕のことを〈あい〉としか呼びませんが」
「もう、いいよ」
坊主頭は苦い顔をした。
島中巡査が部屋に戻って来た。巡査は何故か納得のゆかない顔になっていた。
「確かに、藻湖刑事は亜愛一郎《ああいいちろう》を知っていました。しかし――」
「しかし?」
坊主頭は亜の顔を見た。
「藻湖刑事は照合が済むと、私にこんな注意をしました。――妙な事件でも起きているのなら、亜さんの意見をぜひ聞いておくべきだ、と」
「この人の意見?」
坊主頭も納得のゆかない表情になった。
「藻湖刑事は前に妙な事件を、この人のヒントで解決したことがあったそうです」
「そりゃ面白《おもしろ》い。お素人《しろうと》さんの探偵《たんてい》ですか」
彼の言葉には、明らかに軽蔑《けいべつ》の色が漂っていた。安心しかけた亜の顔が、またこわばった。
「探偵? 探偵など飛んでもない。そんな覚えはありません。嘘でないことが判ったら、帰らせて下さい」
「まあ、お待ちなさい」
坊主頭はにこにこして、亜を椅子《いす》に坐《すわ》らせ、煙草に火を付けてやった。亜は一と口吸うと、心細い咳《せき》をした。
「さあ、君の御意見を伺いましょうか?」
「ど、どんな意見です?」
「さっき、島中君から聞きましたよ。あのカーボンの袋は、自動車などが落して行ったものではない。誰かがわざわざ陸橋に吊《つる》し、一番電車が針金を切って、金堀通りに落すように企んだものである。あなたの観察眼は、なかなか大したものじゃありませんか。で、まず、そんな仕掛けを作って、金堀商店街を真っ黒にしたのは、誰かという点をお聞きしたいのですがね」
「それは――」
匡子は亜が可哀相になった。亜はまるで自分が犯人のように、小さくなってしまったからだ。
「それは?」
「それは――金堀商店街に恨みを持っている人、ということを考えますと――」
「なるほど。常識的なお考えです」
坊主頭は満足そうな顔をして、商店街の人たちを見渡した。
「皆さん、この方はこうした意見を持っていらっしゃる。商店街全部に恨みを抱いている者は誰か、心当りはありませんか?」
「とんでもない」
金物屋が大きな声を出した。
「私たち商店街は、どこよりも安く、親切に、明るくということをモットーにしているんです。誰にでも聞いてごらんなさい。お客様たちは、皆満足していますよ。商店街全部に恨みなどと、冗談言っちゃいけません」
「ですから、それはあるまいと言おうとしたのです」
亜が浮き腰で弁明した。
「次に、街が黒くなると、誰が利益を受けるか、ということを考えますと――」
「この前の騒ぎでは、畳屋が儲《もう》かったということを言う人がいました。伊豆政のおかみさんでしたか」
島中巡査が口を出した。
「私が、クロちゃんのことを?」
伊豆政のおかみは、あわてて手を振った。
「違うわ。あのときは、つい、かっとしただけなの。心にもないこと言っちゃった。クロちゃん、ごめんよ」
「判りゃいいのさ」
黒川は胸を張って言った。
「いや、それもあるまいと思ったのです」
亜は少し早口になって、
「また、犯人は趣味であの街を黒くしたのではないかとも思ったのですが、これも違ったようでした」
「趣味、というと、愉快犯のことですかね」
「そう、ですがもっと具体的に、例えば洋菓子屋さんの主人はデコレーションケーキを投げる趣味を持っていたので、事故と見せかけてケーキを黒くした、というような」
「なぜ黒くしなきゃならない」
「それは、売り物では、洋菓子屋さんの奥さんが怒り出すでしょうからね。しかし、あのとき、洋菓子屋さんが自分の奥さんの顔にチョコレートケーキを塗り込んだのを見て、僕の考えが変りました。洋菓子屋さんは奥さんに気兼ねをしない人です。ケーキを投げたくなったら、どんなときでもケーキだって投げるでしょう。そのために、街中を黒くするような細工は作らないでしょうね」
「そうさ。俺はアンドレの主人なんだからな。店の物は、全部|俺《おれ》の物だ」
洋菓子屋は、太い腕を組みなおした。
「つまり、商店街を黒くした犯人は、怨恨《えんこん》や、金銭的な利益や、狂人じみた趣味のために、カーボンを撒いたのではないと考えます」
「そりゃ、どういうことだね」
「この事件には、時間が重要な意味を持っているからなのです」
「時間――とね」
坊主頭がふいに真顔《まがお》になった。
「さっきも言ったとおり、街をすすだらけにするため、犯人は簡単でしたが細工をしています。陸橋にカーボンの袋を吊《つる》し、一番電車が針金を切って下の道に落すような仕掛けがそれです。なぜ、犯人はこんなことをしたのでしょう。ただ街中をカーボンで黒くするだけなら、カーボンの袋をそっと道に置いて、通行の車が袋を轢《ひ》くのを待っているだけでよかったではありませんか。ところが、この犯人は幼稚ではあるが、奇妙な仕掛けを考え出したのです」
「なぜだ?」
「市電の始発が基木町を出るのが、五時きっかり。あの陸橋の上を通るのが、五時十分頃でしょう。犯人は五時十分に金堀商店街ヘカーボンの袋を落したかったからです」
「ということは」
「街中が黒くなり、そのために利益を受けることがあっても、犯人は畳屋さんか風呂《ふろ》屋さんでないことが判るでしょう。畳屋さんなら、こんな時刻でなく、発見が遅くなって被害が増える真夜中にしたでしょう。動機が怨恨の場合もです。また風呂屋さんでしたら、当然開店まぎわを狙《ねら》うでしょう。狂人なら、これはもう何時でも関係ない。あの時刻には……」
「そうだ、金物屋の二階で、何人か集まっていたな」
島中巡査が金物屋に向いた。
「あの時間、一番いい成績だったのは、誰だね?」
「勝っていた奴が、勝ち逃げをするために、すすを撒いたんですかい?」
金物屋が呆《あき》れたように言った。
「その考えは無理ですよ」
亜が島中巡査を制した。
「そのためには、自分の家まで被害を受けるではありませんか。それに、五時十分に自分が大勝するのを、何時間も前から判るはずがありません。犯人は金堀商店街に五時十分にカーボンを撒く、よっぽど重大な動機を持っていたのでしょう」
「その動機とは?」
坊主頭は何とも言えない複雑な表情になっていた。
「まあ、例えばの話ですが、犯人が殺人を犯し、その罪を逃れるためだったら、街の一つや二つを黒くすることも考えられます」
「殺人だと? なぜ殺人だ」
「被害者が解剖されなければならないからです。盗難や傷害事件では、被害者が解剖にされることはないでしょう」
「君は何か冗談でも言っているのかね? あの商店街で、これまで殺人事件が起きたという話は聞いていない」
「冗談などではありません。ただあなたがカーボン事件について、何か意見を聞くといわれましたから、僕は犯人が自分の殺人を隠蔽《いんぺい》するために、商店街にカーボンを撒いたのではないかという意見を述べているだけです」
「うむ――その意見を続けてくれ。もっと精《くわ》しく、ね」
「金堀商店街はあまり大きくない商店街です。通りに面した建物は、だいたい二、三階の建物で、下は商店の経営、上は貸アパートになっている家が多くありますね」
「俺のところもそうだし、隣の果物屋も上がアパートだ」
と、アンドレの主人が言った。亜はちょっと考えてから、
「そう。洋菓子屋さんと、果物屋さんは金堀通りの西側でしたね。ということは、今朝は南東の風が吹いていたので、カーボンの被害を一番ひどく受けた場所でしょう。通りに面したアパート、三階ではなく、多分二階でしょうが、窓も少し開けられているかもしれません」
「窓が? なぜだ」
「カーボンが入り易《やす》くしておくためです。その一室で、他殺|屍体《したい》が発見された、とします」
「他殺屍体だと? そりゃ、どういうことだ」
いつの間にか、坊主頭が赤味を帯びていた。
「もう少し話の続きを聞いてください。アパートの一室から屍体が発見され、それが変死体であるとすれば、当然屍体は解剖されるでしょう。すると、注意深い医者は屍体から、特殊なものを発見いたします」
「それは、何だ?」
「鼻腔《びくう》や肺の中から、カーボンの粉末が発見されるのですよ。その報告を受けた経験豊かな捜査官は、この屍体について、どういうことを考えるでしょうか?」
「――言っている意味が、よく判らない」
「むずかしく考える必要はないと思います。検屍の結果から、犯行のあったのは、街中がカーボンで真っ黒になった五時十分以降であるという結論が生まれるでしょう。五時十分ごろには、被害者はまだ生きていて、カーボンで汚れた空気を吸っていたからです」
「そりゃ、そうだ」
「そこが犯人の思う壺《つぼ》だと思います」
「何だと」
坊主頭がますます赤くなった。
「何人かの容疑者が捜査線上にのぼるでしょうが、殆《ほとん》どの人がその時刻にはアリバイがない。大方《おおかた》の人はその時間にはまだ眠っていますものね。五時十分から一時間か二時間までの間、あなたは自分のアリバイを証明出来ますか?」
「……私には、アリバイがない」
「そうでしょう。ところが本当の犯人は、その時間に確乎《かつこ》としたアリバイを持っているのです。そのアリバイを作るために、犯人が金堀商店街をすすだらけにしたというのなら、話はよく判るのです」
「私には判らない……」
坊主頭の声が小さくなった。
「つまり被害者は五時十分以前に殺されていたのです。従って犯人は五時十分以降には、鉄の如《ごと》きアリバイを作ることが出来た」
「屍体は息をしないぞ。それが五時十分以降の街の空気を吸っていたというのは、おかしいじゃないか」
「いや、犯人は街中がすすになる以前に、同じカーボンを被害者に吸わせて、殺害したのですよ」
「犯人はどんな方法でカーボンを吸わせたのだ?」
匡子は実際に殺人事件が発生し、その容疑者が出揃《でそろ》った席上での捜査会議を見ているような錯覚に陥っていた。犯人は追い詰められ、その手口は暴露されてゆく……
「――これもただの想像ですが、花の匂《にお》いを嗅《か》ごうとして顔を近寄せると、水が飛び出す玩具《おもちや》が流行《はや》っているでしょう。犯人はその玩具を利用したとは考えられませんか。水の代わりにカーボンの粉を仕込んでおくのですよ。仕掛けの単純な点は、カーボンの袋を金堀通りに落した手口と、似ているでしょう。いや、もっと荒っぽく、カーボンを入れたビニール袋を用意し、いきなり被害者の頭にかぶせたのかもしれない」
「声を立てられるぞ」
「そんなときは、あらかじめ睡眠薬を一服盛っておくというのはどうです」
「ううむ……」
「被害者は、一と月前のカーボン事件を犯人に喋《しやべ》ったことがあるのです。ひどい目に遭った。肺の中まで真っ黒になった、などとね。被害者に殺意を持っていた犯人は、そこで一つの策略を思い付いたわけです。犯人は一と月前の天候を調べます。カーボンの量、落ちていた位置、風向きなどを知り、被害者の部屋へ、大量にカーボンが入り込む日を定め、凶行に及んだわけです。無論、五時十分より以前の時刻にです。自分は現場を離れ、陸橋の上に細工を施し、金堀通りを去ってしまいます。あとは自分のアリバイを作り出すだけです。だが、そんな時間、友達などを起せば却《かえ》って怪しまれる種を作ることにもなりかねない。そう、手っ取り早い方法がありました。夜通し営業をしているクラブやバーなどで、目立つような遊びをしていたかもしれませんよ。酔った振りをして、会う人ごとに自分の名刺をばらまいたり――」
匡子ははっとして叫んだ。
「裸になって、ステージに駆け上るとかね!」
「――そりゃ奇抜です」
亜が感心した。匡子が続けた。
「ホステスを何人も連れてバーに行き、いくつもグラスを落したり、鮨屋でトンカツの鮨を握れと騒いだり……」
「夜の明ける頃は?」
「無論、ホテルで麻雀《マージヤン》などを始めているんだわ」
その後の言葉は、心の中で言った。――今頃は、看七っつぁん……
「島中巡査、金堀派出所から電話が掛っています」
部屋の戸が開いて、若い警察官が島中に言った。
用件は何分もかからなかった。だが部屋に戻って来た巡査の表情には、ただならぬものがあった。
「――派出所に戻らなければならなくなりました。それから、誰か一課の方の協力が必要になると思いますが――」
「何かあったのかね?」
坊主頭は寒気におそわれたような顔になった。
「派出所からの電話は、商店街の西側にあるアパートの管理人から依頼があったのだそうです。二階の部屋のドアが朝から閉ったままである。合い鍵《かぎ》で部屋を開けたいが、立ち会いに来て欲しいと……」
「半日ぐらい開かないだけなのに、なぜ騒ぐんだ?」
「管理人のところへ、電話が掛って来たそうです。彼女の友人ということで、無断で欠勤したことのない人だから、間違いでもあったのではないか、と」
「その人、気象台の人じゃない?」
と、匡子が言った。島中巡査は、びくっと身体を動かした。
「あなた、どうしてそれを?」
匡子も亜の真似がしたくなった。彼女は部屋の全員がよく聞き取れるように、はっきりと発音した。
「簡単なことだわ。犯行の日を選ぶのに風の状態などがよく判っていたとすると、気象のことに精しい人じゃないかと、ちょっと気が付いただけなのよ……」
角川文庫『亜愛一郎の狼狽』昭和60年3月10日初版発行