TITLE : 愛慾・その妹
愛慾・その妹 武者小路実篤
愛慾・その妹
目次
愛慾
その妹
あとがき
愛慾
人物
野中英次 (二十九)
野中千代子(二十五)
野中信一 (三十六)
小野寺夫婦
第一幕
一 (英次の室、午後一時頃)
英 次 僕のことは安心してくれ給え。僕は自分のことは自分で考えたいのだから。
小野寺 君は短気なことはすまいね。
英 次 誰《だれ》が短気なことをするものか。僕はそんな人間に見えるかね。
小野寺 なんだか君は非常に淋《さび》しいように見える。
英 次 淋しくないとは云わないが、しかし今の世に生きて淋しくない人間がいるかね。暗《やみ》のなかに一人でおっぽり出されたような気のしない人間がいるかね。一体、今の人は何を信じたらいいのだ。しかし何も信じることが出来ないでも死ぬようなことはない。僕はまだ僕に見切りをつけないからね。これから何か面白いことをしようと思っているのだから。
小野寺 それをきいて僕も安心したよ。僕達は君の未来を信じているからね。君に今死なれることは僕達にはつらすぎるからね。
英 次 ありがとう。しかし僕は死にはしないよ。死ねれば楽かと思うが、中々この世に強い執着をもっている。何しても始まらない気もするが、何もしないでも始まらない。僕は今に君達によろこんでもらえるような仕事をするつもりだよ。
小野寺 是非やって見てくれたまえ。
英 次 出来るか、どうか。
小野寺 君なら出来ると思うね。
英 次 何か僕の内に生きたがっているものがあるから、僕はそれを生かすまでは死ねない。
小野寺 皆は君に感心しているよ。
英 次 そうかね。僕は皆に笑われていると思っているよ。
小野寺 わかる人にはわかる。
英 次 しかしわからない人が多いからね。そして僕自身だって自分の取っている態度がいいとばかりは思っていない。あまり意気地《いくじ》のなさすぎる話とも思うよ。怒るのが本当じゃないかとも思うのだ。それを怒らないのは意気地がないからとも思うよ。
小野寺 しかし皆は君を信じているからね。ただ君が淋しさの前に力をおとすことを恐れている。
英 次 それは大丈夫だ。僕だって他人の出ようで自分をまげようとは思わないよ。他人がどう出て来ても、自分を生かすこときり考えないよ。その点僕はエゴイストだよ。それは僕だって一時参ったよ。皆が感づく前に感づいていたからね。半信半疑ではあったがね。しかしその御かげで皆が感づいた時分には僕の度胸はきまっていたよ。そして物好きな奴《やつ》をよろこばすわけにはゆかなかった。僕はなお勇気を得たね。僕はなお決心したからね。そして僕は兄や妻にも同情している。無理はないと思っている。僕は独身の生活をしているつもりになればいいのだ。
小野寺 君の決心をきいてうれしく思ったよ。皆もさぞ安心するだろう。それでは失敬する。
英 次 それでは皆によろしく云ってくれたまえ。僕のことは心配しないでほしいってね。僕の気になることはただ兄に食わしてもらっていると云う点だ。その点で僕は兄に怒れないのだと思って皆に軽蔑《けいべつ》されているように僕はついひがむのだが、まあそう思いたい人にはそう思わしておく、事実、まあそうだからね。
小野寺 それでは失敬する。
英 次 又来たまえ。
小野寺 ありがとう。
(二人退場、英次まもなく登場、おちつかない形、信一登場)
信 一 英次、一寸《ちよつと》話したいことがあるのだ。
英 次 なんですか。兄さん。
信 一 千代子さんは何処《ど こ》にいるか、知っているなら教えてほしいのだがね。
英 次 千代子はお兄さんと一緒ではなかったのですか。
信 一 千代子さんは一昨日《おととい》一寸僕の所へ顔を見せたきりだ。
英 次 僕の処《ところ》へは一昨日から帰って来ません。お兄さんと一緒だと思っていましたよ。
信 一 千代子さんにへんな所はなかったかね。僕は心配しているのだよ。
英 次 僕は千代子の番人ではありませんからね。法律上では千代子の夫かも知れませんが、事実は千代子とは赤の他人ですからね。千代子のことは知りませんよ。
信 一 千代子はいつもお前のことをほめて話している。
英 次 千代子はお兄さんのことは僕の前ではほめたことはありませんよ。
信 一 そう一々皮肉には出ないでくれ、俺《おれ》がわるいのだから仕方がないが、今日《きよう》は俺は本当に心配しているのだ。
英 次 僕はお兄さんを尊敬してはいますが、お兄さんが策略をつかう人だと云うことを僕は知っているのですからね。僕はお兄さんの云うことを真正面には信じられないのです。たとえばです、角《かど》まで兄さんが千代子と来ていながら、お兄さんは今お兄さんが云ったようなことを平気で云える人だと僕には思えるのですから、僕は、お兄さんと一緒になって千代子のことは心配出来ません。
信 一 お前にそう言われても一言もないが、しかし千代子さんは。
英 次 千代子さんなぞとは云わないで下さい。尤《もつと》もさんをつけたければおつけになってもかまいませんが、わざとらしくなく云って下さい。僕は千代子をお兄さんの妻だと思っているのですからね。
信 一 それなら千代子さんの話はよそう。しかしお前は千代子さんのゆくえを本当に知らないのかね。何か恐ろしいことが何処かで行われたような気がして仕方がないのだ。今にも千代子さんが血みどろになって出て来はしまいかと思うのだ。
英 次 この縁の下からでもですか。
信 一 そうだと云わないが。
英 次 そうでないとも思えないのですか。
信 一 千代子はお前を恐れていたよ。
英 次 千代子の恐れていたのはお嫂《ねえ》さんです。
信 一 たづ子をお前は疑っているのか。
英 次 あなたのゆか下を疑ってはいませんよ。だがお兄さんが本気になって千代子のことを心配していらっしゃるのを見るのは僕には意外ですよ。僕は千代子なんかお兄さんにとっては十数人の女の一人にすぎないと思っていましたよ。
信 一 そんな男に見えるかね。
英 次 何しろお兄さんは一代の人気役者ですからね。女には不自由をなさったことはないでしょうからね。
信 一 僕は千代子さんが死にさえしなければいいのだ。
英 次 お兄さんは本当に千代子が死んだかも知れないと思っているのですか。誰かに殺されたとでも思っているのですか。
信 一 そうは思っていないよ。だが昨日へんな夢を見たのだ。
英 次 千代子のですか。僕は千代子はお兄さんと一緒だとばかり思っていたのですよ。
信 一 夢だと、千代子さんはお前に殺されたように云っていたよ。この室でね。
英 次 この室で殺そうと思ったことはありましたよ。だが殺すわけにはゆきませんでした。
信 一 夜中にお前が短刀を見つめていたのを千代子さんは見たと云っていたよ。
英 次 そんなこともあるかも知れません。しかし僕は千代子を全部的に愛することが出来るのです。千代子の欠点も皆。千代子はその時、その時で全部的に動いてしまうのですから、あいつが私を愛している時には、その心を疑うことは出来ないのですから。
信 一 たしかにあいつはお前を愛している。お前がもう少し厳重に見張っていてくれたら、こんなところにおちこまなくってもよかったのだといつか云っていたよ。
英 次 あいつはどんなことだって云いますよ。私が何度あいつに死ぬことをのぞまれたでしょう。女は後家《ごけ》になるまで楽が出来ないというのはあいつの口ぐせです。あいつは又お兄さんの死ぬことをのぞんでもいました。僕はあいつに殺されはしないかと思ったこともありましたよ。だがあいつは又気がよわいのですから、僕が一寸指に負傷でもすれば、まるで僕の生命にかかわるような大負傷をしたようにさわいで、そして泣いて心配してくれるのです。あいつは死ぬようなことは出来ませんよ。
信 一 だが誰かに殺されそうな気がすると云っていたよ。
英 次 それはあいつの自惚《うぬぼ》れです。そんな事が云ってみたいのがあいつのくせです。
信 一 それならお前はあいつが生きていると思っているのだね。
英 次 勿論《もちろん》、生きていると思いますよ。だが死んだってお兄さんは別に困りはなさらないのでしょう。
信 一 死なれては困るよ。お前は死なれてもいいのか。
英 次 死んでくれたら、それも反《かえ》っていいと思いますよ。ですが、僕にとってはともかくもあいつは唯一《ゆいいつ》の女です。浮気ものであっても。
信 一 お前の画を見せないか。
英 次 だめです。
信 一 だめでもいいから見せないか。
英 次 それなら見せますかね。
信 一 中々うまくなったね。
英 次 それはお世辞ですか。正直に云って下さい。
信 一 俺には画のことはわからないが、前よりうまくなったことだけは分る。
英 次 まあ、少しずつはうまくなるでしょうが、中々ものにならないものですね。
信 一 なんだってそうだよ。そうらくにものになるものじゃない。
英 次 最初の作から、何処かに天才のひらめきがなくってはものにならないと思いますね。お兄さんの始めの舞台を見た時から、僕は感心したものでしたよ。自分のものにはそんなひらめきがないように思うのですがね。
信 一 不意に出てくるものだね。お前はものになると思うね。
英 次 それは僕だってものにならないと思えば画はやりませんよ。僕は他のことにはなお望《のぞみ》がないのですから、画だけにかじりつくより仕方がないようなものですからね。しかし僕は自分がせむしに生まれたことを後悔はしていませんよ。それだけ僕は運命にハンブルになって、自分の仕事を一心にやってゆけばいいと思っていますよ。女のことなんか、僕は考えるだけでも身の程知らずと思っているのですよ。
信 一 そう云われると一言もないがね。
英 次 僕はお兄さんを一面憎んでいるかも知れませんが、しかし僕はお兄さんを天才として尊敬しているのですよ。お兄さんの芸は日本の傲《ほこ》りだと思って、よろこんでいるのですよ。その他の点は別としても、お兄さんの芸のますます進んでゆくのに感心しきっていますよ。
信 一 お前にそう言われると本当に嬉《うれ》しいよ。僕は世界の内ではお前の前だけ頭をさげたいのだ。
英 次 そんなことは云わないで下さい。お兄さんは空高くとんで下さい。女のことなんか気にしないでね。僕のことなんかも気にしないで下さい。僕は地にしがみついて何か其処《そ こ》からほり出して見るつもりです。
信 一 僕はお前を尊敬している。二人は一面敵かも知れないが、一面は実に尊敬しあう。この上ない兄弟だと思っている。
英 次 お兄さん、僕は一つの覚《さと》りをひらいているのですよ。他人は自由たらしめよ。よしそれが妻であっても、自分の自由になると思うな。自分の自由になるのは自分だけだ。それも許された小さい範囲内の話ですがね。僕はその範囲内で出来るだけ、立派な人間になるつもりですよ。僕の手を見て下さい。決して血によごれてはいません。僕は千代子も可哀そうな人間と思っているのですよ。お兄さんも、お嫂さんもね。人間と云うものは、そう出来ているのですからね。
信 一 そう云われると一言もないよ。
(外で誰か来た気はいする。英次ゆく。まもなく登場)
英 次 お兄さん一寸手つだって下さい。
信 一 なんだ。
英 次 面白いものを買ったのです。
信 一 そうか。
(二人退場、まもなく大きな支那《しな》カバンを二人で運んでくる)
信 一 ヘンなものを買ったね。
英 次 古道具屋の店さきにあったら不意に買いたくなったのです。買った後では後悔しましたがね。
信 一 随分大きいね。いくらした。
英 次 十三円でしたよ。
信 一 それはやすかったね。
英 次 お兄さんは芸だけは大事にして下さいよ。そして皆に純粋な芸術的なよろこびを知らしてやって下さい。僕は一人になって静かに画がかきたくなりました。
信 一 それなら又くるよ、今日は失敬する。
英 次 千代子の消息がわかったらすぐ知らせますよ。
信 一 生きていることだけでいいよ。
英 次 正直なことをおっしゃってもいいでしょう。お嫂さんによろしく。
(二人退場、まもなく英次登場)
英 次 俺は他人の出ようで自分の生命をあげさげはしないぞ。
(小野寺、登場)
小野寺 さっき手帳を忘れたのでとりにきたよ。
英 次 そうか。兄にあったか。
小野寺 あったよ。
英 次 君は兄を知らないのかね。
小野寺 君の兄さんは舞台で見ただけだ。
英 次 俺の兄弟とは思えないだろう。兄弟にもいろいろあるものだね。
小野寺 しかし何処か似ているよ。
英 次 口が似ているだろう。
小野寺 口が似ている。
英 次 兄は母に似ている。そして僕は父に似ている。その上に一人女の子があったが死んでしまった。僕はせむしでなかったら、もう少しのびのび育つことが出来たろう。そしたら兄にもっとよく似たかもしれないが、感じがまるでちがってしまった。よく父に兄は鶴《つる》に比較され、僕は蟇《がま》に比較されたよ。随分ひどい比較だが、あたっている。
小野寺 …………
英 次 返事が出来ないかね。あたっているからね。だが僕はそう云われてもあまり腹が立たず、ますます兄を崇拝したものだよ。子供の時はね。今になると僕には又僕のいいところがあると思っているがね。ただ他人に通じないだけの話だがね。しかしこんな僕に女難があるとしたら滑稽《こつけい》だろう。あるわけでもないが、僕は身の程を知れば幸福になれるのだよ。僕は僕に相当な仕事をしていればいい。僕にだって、僕相当な仕事はいくらでもある。
小野寺 …………
英 次 君は僕を同情しているかも知れないが、僕は一人で心のどかに画がかける、自分の心に感謝しているよ。僕はこれでも一方図抜けた呑気《のんき》ものらしいよ。誰《だれ》か来たらしい。
(英次退場、英次は常に千代子の帰りを人知れず待っている。まもなく登場)
英 次 だれもいなかった。僕は賢者には悲劇がないと云うことを聞いたことがあるが、自分も出来るだけ賢者になるつもりだ。虫のいい要求を出しさえしなければ悲劇は起らずにすむ。僕だってそうだよ。妻が僕に満足しないと云うのは当然すぎることだ。妻が僕の処《ところ》へ来た方がまちがいだ。だからそのまちがいからなおしてゆけばいいのだ。ところが僕は妻の美しい肉体に愛着を感じてしまった。其処で悲劇が起りたがるが、悟って見ればなんでもないことだ。何処《ど こ》に風が吹くと思えばそれでいいはずだ。だが中々口で云う程うまくゆかないがね。しかしいくらうまくゆかないからと云って、事実をまげるわけにはゆかない。僕は依然としてせむしで、依然として蟇だ。そして依然としてあまりさばけない、いや味な男だ。だが僕は画をかけば、僕のいい処が出てくると思うのだよ。僕だって人間だ、いいところは持っているからね。其処で僕は花や、果実を相手にしたり、山や水を相手にしていると心のどかに仕事が出来るのだ。だから僕は自分を不幸だとは思っていない。
小野寺 大きな支那カバンがあるね。どうしたのだ。さっきは気がつかなかった。
英 次 これか。気がつかないわけだよ。今来たのだ。昨夜ふと見つけて買いたくなったのだよ。今とどけて来たのだ。中々立派だろう。だが買ったあと何となくよけいなものを買ったと後悔したよ。誰か来たようだね。
小野寺 気のせいだよ。
英 次 そうかね。僕は妻が帰って来たのかと思ったよ。僕の兄は妻を僕が殺しはしないかと思って心配しているのだよ。一寸《ちよつと》無理もないところもあるが、僕だって一思いにやってやろうと思った事もまるでないとは云えないからね。だが人殺しするには、あとのことが目に浮びすぎるし、無理心中するには、自分に仕事がありすぎるからね。だが妻は僕に殺されるのを怖《こわ》がって逃げているのかも知れない。馬鹿な奴《やつ》だよ。だが自分の知らない内、夢遊病者にでもなって妻をやっつけて気がつかずにいるのかも知れないがね、それは冗談だよ。今に妻は帰って来るよ。だが僕は妻のことなんか何とも思っていないのだ。久しぶりに君と碁でもやろうかね。どんなに僕がおちついているか君に示して見よう。
(碁をやり出す)
二
(英次の室、妻千代子三味線《しやみせん》をひき、英次はうたをうたっている、小野寺登場)
英 次 よく来たね。妻は昨晩おそく帰って来たよ。矢張り自家《う ち》は忘れなかったと見える。
妻 小野寺さん、随分あなたに御心配をかけたそうですみませんでした。私はなんだか不意にうちへ帰るのが恐くなって箱根へ逃げていったのですが、金がなくなったので、まあ殺されたら殺された時と思って帰って来ましたら、主人がよろこんでくれたので、私は生きかえったような気がしましたよ。
英 次 俺も生きかえったような気がしたよ。首でもくくられちゃ寝ざめがわるいからね。そのかわりこいつがいると画がかけないので困るよ。
妻 たまに帰って来ると、すぐ画がかけないなんて云うのですからね。
小野寺 画なんかかけなくったっていいでしょう。
妻 私が生きていたのをよろこんでくれたかと思うと、すぐ又画がかけないが始まるのですよ。
英 次 何しろ朝から三味線をひき出すのだからね。
妻 三味線をひけとは誰がおっしゃったの。
英 次 そう云わすように持ちかけたのは誰かね。何しろ画ももう一息でものになろうと云うところなのでね。だが気持が呑気になってしまったので、今朝《け さ》、一寸やって見たが駄目になってしまった。
小野寺 その内には又うまくゆくよ。
英 次 又いつか逃げ出してくれるか。
妻 私はもう逃げはしなくってよ。いくら逃げてくれとおっしゃっても。
英 次 だれも逃げてくれなんて云わないよ。
妻 画が出来ないでもいいの。
英 次 又ちがう画が出来るさ。
妻 あなたは私が居ても居ないでも一向平気だからいやになるわ。
英 次 そんなことはないよ。だがお前を座敷に押し込むわけにもゆかないからな。
妻 押し込んで下さればいいのだわ。私のような人間はほったらかしておくと何するか自分でもわからないわ。
英 次 困った奴だな。自分で自分を制御することはお前には出来ないのだね。
妻 あっと思うと、もうすべっているのですから罪はないわ。
英 次 (怒らずに)馬鹿。
妻 私を座敷牢《ざしきろう》に押し込んで、御馳走《ごちそう》食わしてくださらない。そうすれば私は反《かえ》ってらくだわ。
英 次 それも三日とつづくまい。
妻 あなたの方がね。あなた酒上らない。
小野寺 僕はのめません。
英 次 トランプでもしようか。
小野寺 今日はよそう。もう一時間程するとゆかなければならない処があるから。
英 次 何処へゆくのだ。
小野寺 山田と約束してあるのだ。
英 次 山田って小説をかく奴か。
小野寺 そうだ。
英 次 君はあいつを知っているのか。
小野寺 知っている。
英 次 逢《あ》ったら敬意を示してくれ、僕はあいつのものをいつか一つよんで感心したことがあるよ。だがあんな処へゆくよりはうちにいろよ。今日はね。僕は何となく愉快なのだ。それに二人きりになるより三人がいいのだ。トランプやろう。
小野寺 山田と君の兄さんの芝居を見にゆく約束をしたのだ。
英 次 芝居にはまだ時間があるよ。山田は僕の兄貴のことを何か云っていたか。
小野寺 ほめていたよ。あの位あかるい人を見たことはないと云っていたよ。
英 次 そうか。兄は芸にかけては天才だ。女にかけてはならず者だが。人間と云う奴は不思議な同居人を二人持っているようなものだね。兄貴の芸は僕は誰にも負けずに讃美《さんび》するが、兄貴の品性はほめるわけにはゆかない。尤《もつと》もああ女にもてればああなるかも知れないがね。兄貴の内の愛すべきものを殺さずに、兄貴の内の憎むべき方面だけを殺すことが出来たなら、僕は兄貴の半分を殺してやるのだがね。
妻 そんな話はおやめなさいよ。
英 次 やめよう、やめよう。折角いい気持がこわれて馬鹿気ているからな。だが俺《おれ》の兄弟程、面白い兄弟はないだろうな。僕は子供の時から兄貴の讃美者だが、いつも兄貴を憎んではいたようだ、よそう、よそう。さむけがするよ。
妻 そこの戸が開いているからよ。本当にあなた身体《からだ》を大事にしなくては駄目よ。私はあなたが大事で大事で仕方がないわ。
英 次 それも本音でないとは云わないが、次ぎの瞬間には俺が生きていなければいいと思うのだろう。
妻 あなたの内には恐ろしく意地のいいところとわるいところとあるわ。
英 次 お前にはそう云うところはないかね。お前のことを思うと、大がいの人間はすてたものではないと思うよ。
妻 よくってよ。
英 次 わるくったって仕方がない。俺はお前が誰よりも可愛いが、誰よりも憎い。
妻 酔ったのじゃないの。
英 次 酔うものか。だがもう酒もなくなったね。
妻 あんまりのむといけないわ。
英 次 だがあと一合位のんだっていいだろう。一寸とって来てくれ。
妻 およしなさいよ。よした方がよくってよ。
英 次 そんなこと云わずにとってこいよ。今日は久しぶりだからね。
妻 そんならとってくるわ。(退場)
英 次 どうだい。あいつを見て君は悪人と思うかね。
小野寺 思わないよ。
英 次 善人じゃないが、悪人じゃない。僕はあいつを見ると自分が偽善者のような気がすることがある。あいつ位露骨に自分の心のままにふるまう奴はないからね。
小野寺 君は細君をもう少し束縛する方がいい。一人で歩かさずに、一緒に出あるくがいい。
英 次 このセムシじゃね。
小野寺 君位なら別に気がつく人はないよ。よしあってもかまわないじゃないか。
英 次 そんな事はどうでもいい。僕の不名誉にはならない。エソップもセムシだったそうだね。セムシを僕は恥とは思っていないよ。だが見ていいものじゃないが、しかし僕はあまり出歩くのは嫌《きら》いなのだ。又他人を束縛するのは嫌いだよ。僕は千代子を妻とはよんでいるが、妻だとは思っていない、友達だと思っている。妻だと思えば腹が立つことも、友達と思えば感謝出来る。僕は自分を一人ものと思っているよ。僕は自分の仕事を持っている人間だからその他のことは問題にしていない。
小野寺 それだって君の細君自身のために君は暴君になる必要がある。あの人は自分で自分を束縛することの出来ない人だ。
英 次 他人なら束縛出来ると云うのかい。
小野寺 たしかに君の細君は君に束縛されたがっている。
英 次 それも嘘《うそ》じゃあるまい。だが僕があいつを一度も束縛しなかったと思っているのかい。あいつは束縛されればおとなしくしていると思っているのかい。又僕を細君の番人そのものにしたいのかい。僕はもうそんなことはあきあきした。来るものは来るがいいし、去るものは去るがいい。
小野寺 それで君は満足しているのかい。
英 次 それで満足しなかったらどうすればいいのだ。
小野寺 しかし夫婦ってそんなものじゃないだろう。
英 次 人によるよ。一緒にいてお互に信じあえる夫婦。疑いたくも疑えない夫婦。たまにははなれてくれるといいと思ってもいつもくっついている細君をもつ夫。そんなものも世間にはいくらでもあるだろう。しかし僕はそれを羨《うらや》ましいとばかりは思わないよ。どっちもいいところと、わるいところとある。僕は他人は他人だと思っているよ。自分のわきに居たくない人間をわきに居させようとは思わない。
小野寺 本当にそう思ったことはないのかい。
英 次 君は察しがあまりよくないね。だが僕は自分の妻だって独立した一個の人間であることを疑うことは出来ないよ。ある程度の嫉妬《しつと》や、束縛や、いたわりあいは必要がないとは云わない。それ等《ら》をわるいとは思わないが、しかしお互に生きているのがいやになる程束縛する必要があるとは思わない。お互に嫉妬や、嫉妬されることや、束縛から解放されて、一人の人間の味を噛《か》みしめるのもわるいとは思わないよ。
小野寺 どっちにころんでもいいいのか。
英 次 そうだよ。本当にころがった者は起き上る時何か得をしているものだと云うのが僕の主義で、まちがいがないと思っている。僕は太平な夫婦生活を讃美するよ。だが特殊な自分の結婚もわるいとばかり思ってはいない。その内に面白味があるよ。帰って来たかな。ちがうらしい。もう帰って来そうなものだ。それとも又逃げたかな。
小野寺 逃げても平気かね。
英 次 平気でなければならないと云うことはない。平気でないから何か其処から美しいものが生まれると云うこともあるものだ。他の人が見たら僕程、あまい馬鹿者はないだろうと思うだろうな。だが僕には僕の生き方がある。逃げたら又あの画がつづけられる。わるくないなあと思っている。それにしてもおそいな。一寸見てくるよ。
小野寺 酒屋はそんなに近いのか。
英 次 すぐその角だよ。十間もあるまい。一寸見てくるよ。
(英次退場、まもなく登場)
英 次 兄貴と角で話していたよ。(無理に笑う)兄貴の奴、へんに心配しているのだよ。僕があいつを殺しはしないかと思っている。馬鹿な奴だよ。兄貴も、あいつには本気に参っているのかも知れない。馬鹿な奴だ。(無意識に酒をのもうとしてカラなのに気がつき)早く酒をとどけさせりゃいいのにな。自分で持って帰らなくったっていいのに。(間)僕の性質が君にのみこめるかね。浅ましい境遇にいて、おちつきはらっている気持がね。そう云っても君は信じまい。一つ三味線でもひいて一つ奥の手でもきかして上げようか。(三味線をとる)何をやろうかね。(何か唄《うた》いかける)
(千代子登場)
英 次 お待ち兼ねだ。
千代子 遅くなりました。一寸酒屋の上《かみ》さんに話しこまれたので。
英 次 そうか。それは運よくあえてよかったね。
千代子 あの酒屋のお上さんは中々器量よしですね。
英 次 そうかね。
千代子 何かやりましょうか。
英 次 やってもいいね。だが酒をのんでからにしよう。
小野寺 僕は今日はこれで失礼するよ。
英 次 もう少しいたまえ。もう十分、いやもう二十分程居たまえ。人間は時々二人きりになると危険な時もあるものだ。僕の気分がおちつくまでいたまえ。
千代子 気持がわるいの。
英 次 わるいこともないが、いいともゆかない。
千代子 それなら酒はおやめになった方がいいわ。
英 次 ともかくのもう。そして何か静かな気持のいい唄でもやって、小野寺君に聞いてもらおう。(酒をのみながら)英雄閑日月ありと云うが、僕には僕の心の修業がある。静かに、静かに、心のどかに、この一日をおくりたいものだ。
(三味線をとりあげ、ひき出す)
三
(夜、英次、千代子の姿を鉛筆ですけっちしている。千代子そばで着物をぬっている)
英 次 画をかく呼吸がのみこめて来たようだ。
千代子 それはよろしいね。
英 次 こんな天下泰平な日がつづくとは思わなかったよ。
千代子 私もすっかりおちつきましたわ。
英 次 あらしが過ぎたのだね。
千代子 本当ね。
英 次 もう嵐が来ないといい。
千代子 あなたもそう思っていらっしゃるの。
英 次 思っているよ。そして画もうまくゆきそうだ。これから画も売れ出すかも知れない。
千代子 売れたら、何か買って頂戴《ちようだい》ね。
英 次 買ってやるよ。だがいつのことか。
千代子 ですが、売れないでも、いい画が出来れば私うれしいのよ。
英 次 どうして。
千代子 でも、あなたの御機嫌《ごきげん》がよろしいもの。画が出来損《できそこな》うとすぐ癇《かん》が起りますからね。あなたの癇は本当に閉口よ。
英 次 もう、癇なんか起らないよ。俺も少しは利口になったよ。
千代子 本当に、あなたはこの頃おちついていらっしたわ。
英 次 人間は持っているものを一ぺん皆すててしまうと利口になるのだな。自棄《や け》を起しきりに出来ない人間はいろいろの目にあうのも悪いとばかりは云えない。
千代子 あなたにとってはなんでもいいのね。子供が出来ない、それもいいだろう。私が居なくなる、それもいいだろう。私が帰って来る、それもいいだろうでしょ。
英 次 そうなればいいと思っているのだよ。いろいろのことにぶつかるたびに自分の心が研《みが》かれてゆけばね。だが俺は癇持ちだからまだだめだよ。自分でどうすることも出来ない時がある。
千代子 あの時、あなたは本当に私を殺そうと思っていらっしたの。
英 次 かっとした時は何をし出かすか、俺の内には恐ろしい血が流れているのかも知れない。俺の大《おお》祖父《じ い》さんと云うのは自分の子供があんまり泣くと云って石の上にたたきつけて殺したと云う噂《うわさ》がある。本当かどうか知らないが、恐ろしい話だ。そしてあとでその子のことばかり云って泣いていたそうだ。実際その子を一番愛していたのだそうだが、話には少し誇張があると思うが、俺にもどうかするとその血が流れてはいないかと思うと怖《こわ》くなる。その血と戦うのが自分の一つの修養のような気がしている。
千代子 気ちがいの筋なのね。怖いわね。
英 次 だから僕の兄は僕を恐れ、僕は兄貴を恐れているのだ。
千代子 なんだか気味がわるくなりましたわ。
英 次 本当は今のはつくり話だよ。そんな奴《やつ》が先祖にいはしなかったかと一寸《ちよつと》思っただけだよ。だが気違いにどうしてもならないと云う人間はないように思うね。ただ気違いになりやすい人間と、なりにくい人間があるだけだね。
千代子 あなたは気違いになりやすいの。
英 次 俺のようなのは反ってならないと思うがどうかね。この前お前が目をさました時、短刀を見ていたと云うのは、お前を殺そうと思ってではなかったのだが何となく短刀が見たくなった。俺の内には矢張り武士の血がのこっていると見える。
千代子 いやな血がのこっているのね。
英 次 血のせいではないかも知れないよ。誰でも一寸夜半に短刀が見たくなると云うような気持は持っているものじゃないかね。
千代子 どうですかね。そんなことはないでしょ。
英 次 お前は夜中に鏡が見たいと云うようなことはないか。
千代子 夜中に鏡を見るのはなんだか怖いわ。
英 次 怖いからなお見たいと云うようなことは。
千代子 あなたと話していると世の中が何んだか凄《すご》くなってくるわ。
英 次 お前は幽霊と云うものを認めるかね。
千代子 そんなものはないものでしょ。
英 次 お前も人殺しはしたことはないと見えるね。
千代子 あなたは人殺しをしたことがあるの。
英 次 そんなことはないよ。だが人殺しをした人は幽霊の存在を信じるだろうと思うのだ。殺した人の姿が見えるだろうと思うのだ。壁を見ても天井を見ても、窓を見ても、その人の姿がまざまざと見えると思うのだよ。殺した時の姿がね。
千代子 気味がわるいわ。
英 次 だから人を殺さないものは仕合せだと云うのだよ。
千代子 死ぬってどんなものでしょうね。
英 次 深い眠りだね。さめない。
千代子 それなら悪くないものね。
英 次 死の恐怖さえなければね。それに死の苦痛も大変だと思うね。生命と云う奴は中々生きたがるものだから楽には死ねないね。
千代子 首しめられるのは楽ですってね。
英 次 女の肉づきのいい手で静かにしめられるのは楽かもしれないが、息の出来ないのは楽ではあるまい。
千代子 だが私の兄が柔道をやって、よく喉《のど》をしめられたそうですが、なれるといい気持になると云っていましたよ。
英 次 お前の兄は嘘《うそ》つきじゃないかね。
千代子 だってそれは本当だと思うわ。
英 次 嘘じゃないかも知れないが、本当とは思えない。呼吸が出来ないのが気持がいいとは思えない。鶏の首をしめるのだってもいいものじゃない。
千代子 見たことあって。
英 次 見たことはないがね。
千代子 あなたの話は、皆想像ね。
英 次 だがまちがっているとは思わない。何時かな。
千代子 八時よ。
英 次 まだ早いな。だが誰か来ると厄介《やつかい》だから、今日は早くねるかな。
千代子 ええ、寝ましょう。
英 次 お前のうしろに誰か居るよ。
千代子 あっ。
英 次 あはははは。
千代子 いやな方。びっくりしたわ。
英 次 あはははは。
千代子 あなたの後ろにだっているわ。
英 次 影法師だろう。
千代子 女らしくってよ。
英 次 背むしの女かね。
千代子 あなたは又そんなことをおっしゃる。
英 次 セムシと云う言葉をきくだけでもいやかね。
千代子 あなたのそんなことを云う気持がいやなのですよ。
英 次 いやかね。この姿の方は嫌《きら》いじゃないかね。
千代子 わざとそんな風をしなくったっていいわ。
英 次 したっていいだろう。俺にはお前のいやがるのが面白いのだよ。
千代子 いやなくせね。
英 次 毒蛇の感じもわるくないね。
千代子 私大嫌いよ。あなたのその趣味は。
英 次 そうかね。お前に似合わないね。俺は今晩、お前を殺してやる。
千代子 そんな冗談は云わないものですよ。
英 次 安心するがいい。殺すと云う時は殺さないからね。
千代子 殺さないと云う時は殺すの。
英 次 それはどうかわからないよ。
千代子 あなたは私をおどかすのね。
英 次 どうかね。明日の朝がくれば許してやるよ。
千代子 あなたのその目が私は怖いわ。
英 次 俺の背中が怖いと云う方が本当だろう。
千代子 もうそんな恰好《かつこう》するのはいやよ。
英 次 あはははは。お前の顔には死相があらわれているよ。
千代子 あなたの顔には気違い相があらわれているわ。冗談はよしましょうね。冗談から駒《こま》が出ると大へんですからね。
英 次 さあおいで、今日はお前と俺の生死の戦いだ。
千代子 ゆくわ。死んだっていいわ。
(千代子英次にとびかかろうとする、幕)
第二幕
一 小野寺の室、西洋間
(小野寺、何かかきものをしている。細君芳子《よしこ》登場。花をもって来ていける)
小野寺 いい花があったね。
芳 子 あんまり綺麗《きれい》だったので買って来ました。
小野寺 本当に美しいね。矢張り秋の花は何処《ど こ》か秋らしいね。
芳 子 今日はいい天気ね。何処か散歩なさらない。
小野寺 行こうかね。
芳 子 私をつれていって下さる。
小野寺 それはつれてゆくよ。
芳 子 うれしいわ。何処へゆきましょう。
小野寺 何処へ行こう。
芳 子 何処へでもいいわ。あなたとなら。あなたは。
小野寺 俺も何処へでもいいよ。お前となら。
芳 子 まあ。
小野寺 こんな天気なら何処へ行ったって気持がいい。郊外に出さえすれば。
芳 子 本当ね。そんなら私、着物着かえてくるわ。
小野寺 そのままでいいよ。
芳 子 羽織だけかえてくるわ。(退場)
(まもなく芳子登場)
芳 子 それなら出かけましょう。誰かくると出かけられなくなると困りますから。
小野寺 それなら出かけよう。
女 中 郵便が参りました。
(小野寺うけとる、女中退場)
芳 子 何処から。
小野寺 野中からだ。
芳 子 なんて。
小野寺 こないだいった礼と、いたって無事だから安心してくれ、絵もかけるから安心してくれろと云って来た。
芳 子 それはよかったわね。野中さん夫婦は無事におさまるでしょうか。
小野寺 それはわからないね。
芳 子 私、野中さん気味がわるいわ。あなたの親友の悪口を云ってはすみませんが。
小野寺 気味の悪くない事もないな。あいつは随分いいところをもった男だが、少し趣味が病的だよ。なんだか不安心なところがある。あまり思いつめる質《たち》なのだね。
芳 子 ああ云う人は呑気《のんき》になれないものですかね。
小野寺 呑気に酒のんだり、三味線《しやみせん》をひいている時でも、何処か不気味だね。
芳 子 それではゆきましょう。
小野寺 行こう。だが一寸野中にハガキをかいてからにしよう。
芳 子 どなたもその間にいらっしゃらなければよろしいけど。
小野寺 来たって出かけるところだと云って断ればいい。
(女中登場)
女 中 野中さんと云う方がいらっしゃいまして一寸おさしつかえなかったら話したいとおっしゃいました。
小野寺 野中が来たのか。
女 中 いつもの野中さんとはちがいます。大へん立派な方です。
小野寺 それなら野中の兄さんが来たのだろう。お通ししてくれ。
女 中 はい。(退場)
芳 子 お通しするの。
小野寺 野中の兄さんじゃ仕方がない。
芳 子 私大嫌いよ、色魔なんか通さなければいいのに。
小野寺 なにわるい奴じゃないよ。
芳 子 それだって私大きらいだわ。
小野寺 嫌いで幸いだよ。
(二人笑う)
芳 子 まあひどい。(退場)
(信一女中につれられ登場。女中退場)
信 一 始めてお目にかかります。いつも弟が世話になりまして。
小野寺 いいえ、僕の方こそ、どうぞおかけ下さい。
信 一 僕は一寸急ぎますから、用事だけ単刀直入に云いますが、失礼な所や、聞き苦しい所がありましたら、許して下さい。
小野寺 どうぞ遠慮なく。
信 一 実は弟のことですがね。君も御存知の通りの人間で、僕は弟を誰《だれ》にもまけずに信用し、又尊敬すべき点は尊敬し、望みをおくべきところには望みをおいているのですが。
小野寺 本当に英次さんはすぐれた才をもった方として、僕達は尊敬しているのです。
信 一 ありがとう。兄としてああ云う弟をもっていることは一方傲《ほこ》りにしているのです。
小野寺 英次さんもあなたのことをいつも自慢していらっしゃいます。
信 一 恥かしい話です。僕は弟に天才的なところのあるのを認めて、それをどうかして生かしてやりたく思っているのです。しかし御存知のようにあいつは変りもので、一方非常にあかるい、すなおな気質を持ってはいるのですが、その反対の性質も強くもっているのです。その性質がこの頃、頭をもたげて来ているように思うのですが、どんなものでしょうかね。
小野寺 そう思えばそう思えないこともないと思いますが、今もハガキを戴《いただ》きましたが大へん気持がおちついて仕事も出来ると書いてありましたから。
信 一 そうですか。それを伺えば安心ですが、僕は弟の妻からへんな手紙を出しなに受けとったのです。それをうけとったので実は急にあなたの処《ところ》に伺うことにしたのですが、弟の妻から是非あなたにあって相談してくれとかいてありましたから。
小野寺 そう云っては失礼ですが、千代子さんのおっしゃる事はそのまま信じていいでしょうか。
信 一 あれはたしかに病的なところがあるかも知れませんが、しかし弟の妻の云うことも満更うそだとばかりは思えないのです。弟は妻と僕との間を疑っているようですが。又疑われても仕方がないと云えば云えないこともないのですが、弟の思っている程深入しているわけでもないのです。尤《もつと》もあの細君は僕に始め近づいて来、僕を愛したために弟も愛したと云ってもいいのかも知れません。僕は弟のことをあの人にほめて話しましたからね。今になって見るとそれがよくなかったのですね。あの人と弟の性質がどんなにこんがらかりあうか、僕は考えても見なかったのですし、考えようとも思わなかったのです。第一弟の妻になるなぞとも考えていなかったのです。しかし二人が夢中に結婚したがった時、僕は弟のためによろこんだものですがね。まあそんな話はすんだ話ですが。弟の妻の手紙には、どうも近い内に殺されそうな気がして仕方がないと云うのです。そして君と僕とで、どうか助けてほしいと云うのです。自分が死ねば弟だって一生を棒にふるにちがいないと云う意味のことがかいてありました。自分も死にたくはないが、逃げれば殺されそうだし、一緒にいても殺されそうだと云うのです。それに逃げることも出来ず、一緒にもいられない。どうしていいかわからないともかいてありました。
小野寺 それは嘘ではないかも知れません。こないだあった時はさとったようなことを云っていましたがね。坂をころがりおちたがっている大石を藁縄《わらなわ》でやっととめていると云う感じが何処かにしていました。
信 一 どうしたらいいかと道々考えたのですがね。転地でもしたらどうかと思うのですがね。あの家はよくないと思うのですよ。
小野寺 たしかにあの家はよくありませんね。
信 一 それに私の考では、弟の画が少し売れたりしだすと、又気分がかわるかと思うのですがね。金は僕が出してもいいのですが、君や僕が買わさしたとしたら反《かえ》って侮辱されたと思うでしょうからね。あれは同情されることを実に嫌っていますから。
小野寺 本当にあの意こ地なところが、英次さんのよくないくせですね。
信 一 あれがあるので生きてもゆけるし、仕事も出来るのでしょうが、困ったものですよ。
小野寺 転地すると云えば何処ですかね。
信 一 心あたりはないのですが、あかるい、眼界の広々した、つまらないことにこせこせしていられないような、そして誰にもきがねせずに、二人で日なたぼっこでも出来るような。
小野寺 そうですね。そしたらいいかも知れませんね。
信 一 葉山あたりはどうですかね。
小野寺 いいでしょう。
信 一 今度あったらおすすめ下さい。
小野寺 おすすめしましょう。しかしその前にいい家があるかどうか、さがして見ましょう。
信 一 お気の毒ですが、どうぞよろしく、私が暇な身体《からだ》ですと家位さがしにゆけるのですが、一寸今、忙しい最中で。
小野寺 こないだ芝居、拝見に上って感心しました。
信 一 いやどうも。
小野寺 画を買う方は僕の友達の山田次郎が買うかも知れません。
信 一 あの方、御存知なのですか。
小野寺 先日山田と芝居見物に行ったのでした。山田もほめていました。
信 一 あの方にほめられれば光栄です。いつかあの方のものをやりたく思っているのですが、お逢《あ》いでしたらよろしく。
小野寺 山田も、あなたにやって戴ければよろこぶでしょう。
信 一 弟のこと、何分よろしく願います。誠に申し兼ねますが早い程、結構なのです。もしものことがあってはとり返しがつきませんから。
小野寺 今日これから葉山へ行って見てもよろしい。
信 一 それではあまり……
小野寺 いや別に用はないのですから。
信 一 本当に感謝します、弟夫婦がおちついてくれないと僕もおちつけないのです。弟の妻の手紙を持っていますから、一度よんで戴きますか。
小野寺 かまいませんか。
信 一 あなたを僕は絶対に信用しますから。
(小野寺よむ)
小野寺 これは少しひどすぎますね。英次君も。
信 一 火と油と一緒になったようなものですからね。へんに執着する質《たち》が二人よったのですからね。それに私の家には気狂いすじがないことはないのです。この三代程は出ませんでしたが。
小野寺 英次さんはあんまり優しすぎるのですね。呑気《のんき》になれないのですね。
信 一 困ったものです。それは弟の妻の云うことには誇張はあると思いますが、夜なかに短刀を研《と》がれたりしたら、一寸ねむれませんからね。
小野寺 あんまりいい趣味じゃありませんね。今度短刀は僕がもらってくることにしましょう。
信 一 そうして下されば本当に僕も安心します。
小野寺 それではこれからすぐともかく葉山へ行って見ます。
信 一 本当になんとも御礼の申しようがありません。それではこれで失礼いたします。
小野寺 いずれ二三日の内に上ってお話します。うまくゆくことをのぞんでいます。
信 一 万事よろしく願います。さようなら。
小野寺 さよなら。
(二人退場、芳子登場かたづける。まもなく小野寺登場)
小野寺 これから葉山にゆくことになったよ。
芳 子 どうして。
小野寺 野中が今の家にいては碌《ろく》なことがないだろうと云うのでね。野中のために家をさがしてやろうと思っているのだ。
芳 子 まあ、それでは散歩はやめになったのね。つまらないわ。
小野寺 そのかわり葉山へつれていってやるよ。
芳 子 葉山へつれていって下さる。本当?
小野寺 久しぶりに海岸を歩こう。そして今夜は月がいいだろうから一緒に海岸へ出て月を見よう。
芳 子 それなら本当にうれしいわ。久しぶりに海を見ることが出来るのね。野中さん夫婦のなかは面白くないの。
小野寺 まあ、大したことはないと思うが細君が殺されそうに思うのだそうだよ。
芳 子 あの方は少しへんね。
小野寺 だが野中も一寸気味のわるいところがあるよ。
芳 子 一寸すごいのね。あんな方は執念深いでしょうね。
小野寺 よくわからないがね。あっさりしているとは云えまい。
芳 子 野中さん兄弟はまるで反対ね。
小野寺 だがあれで何処か似ているよ。野中がセムシでなかったら。
(女中登場)
女 中 野中さん御夫婦がいらっしゃいました。
小野寺 お通ししてくれ。
(女中退場)
小野寺 うわさをしていると影と云うが、何んだか気味がわるいね。野中が兄さんと逢わなければよかったが。
(小野寺夫婦迎いにゆき、二人をつれてくる)
小野寺 どうかおかけなさい。
英 次 それなら失礼して腰かけたらいいだろう。
芳 子 どうぞおかけなすって。
千代子 ありがとう。
(四人腰かける)
英 次 今、兄が来たろう。
千代子 嘘《うそ》ですわね。
英 次 合図はよせ。兄は君の所へよくくるのかい。
千代子 兄によく似た人が角《かど》をまがる後ろ姿を見て主人は兄だと云うのですが、私はそんなはずはないと云ったのです。
英 次 そんな云いわけはしないがいいよ。僕は兄と小野寺と仲よくなることを望んでいるのだ。兄が君の処へ来た用がなんだかも僕は大がいわかっている。だから遠慮なく云ってくれたまえ。兄は何しに来たのだか。
小野寺 君のことを心配して来られたのだ。
英 次 僕のことかい。まあそんなことはどっちでもいい。どんなことを心配していたのだ。
小野寺 君の兄さんは君がもっと明るい、気持のいい処に住むことを望んでいられたよ。
英 次 兄らしい考だね。そして君は賛成したのだろう。
小野寺 賛成したよ。
英 次 (冗談らしく、しかし皮肉に)それで僕達は何処ですめばいいと云うことになったのだ。
小野寺 葉山から三浦の方にかけて何処かいい処はないかと思ったのだよ。
英 次 志はうれしいが、僕は当分あの家からどかないつもりだよ。僕は引越は考えただけでも閉口だ。それに淋《さび》しい処へ行っていいかどうか。
小野寺 しかし東京をはなれるのも悪くはないと思うがね。
英 次 それなら君達こそ東京をはなれたらいいじゃないか。僕は東京をはなれたくはないのだ。また僕は兄にそんなことまで心配してもらいたくないのだ。僕は今の家で満足しているし、妻だってあの家は気に入っているわけだ。そうだろう。
千代子 あまり気に入ってもいませんわ。
英 次 葉山の方がいいのかい。近所に家もなく、泣いたりわめいたりしても聞き手のない所がいいのかい。
千代子 ですけど、明るい気持になれますわ。きっと。
英 次 僕は何と云ったってゆきたくない。お前一人でゆくなら勝手だが。
千代子 私一人で家なんかもてませんわ。
英 次 お前は持てるよ。
千代子 だって一人では、怖《こわ》いわ。
英 次 だが俺《おれ》と一緒にいるよりは怖かないだろう。千代子は僕を人殺しのように思っているのだからな。
千代子 まさか。
小野寺 君のそんな考え方はつまらないと思うね。
英 次 僕だっていいとは思っていないが、しかし僕は当分あの家から去りたくはない。
千代子 こないだ引越したいと云っていらっしったわ。
英 次 兄がどうしてそのことを知ったのだ。(急に何か思いついたようにおとなしく)お前が兄に手紙を出したのだね。
千代子 出しはしませんわ。
英 次 夫婦なかに秘密があるのを君の前で知らせるのは不愉快だから、そんな話はよそう。君だから別に知らせたって恥とは思っていないがね。僕は他人の秘密にはふれたくはないし、他人に嘘をつかせるように持ちかける自分の趣味をいいものとは思っていないのだが、白々しくやられるとつい皮肉に出たくなるのだよ。謹《つつし》もうとは思っているが。
小野寺 引越したいと云う話があるとは君の兄さんは云っていなかったよ。
英 次 君も嘘つき仲間かね。君の方が僕よりくわしいだろう。細君の心理を夫より他人の方が知っているということに、平気になりたいと僕は思っているのだよ。
小野寺 君の考え方は、君が普通の人より神経が発達しているからと思うが、あまりいいとは思わない。もう少し呑気になれないかね。
英 次 僕もなりたいと思っているのだよ。探偵の真似《まね》はいやだからね。君は境遇もいいが、昔からその点君に感心しているよ。君は気がついても気がつかない顔をしている。だから馬鹿な人間は君を馬鹿にして組みしやすく思っているが、しかし君をだませる人間は少いことを知らない。お世辞つかわれてよろこんだ顔して、相手の腹をのみこんですまして馬鹿にされている点に感心しているが、僕だって大がいの事には平気でいられるが夫婦となると、赤の他人のあつまりと思っても、つい要求が過大になるからね。君達の前だから、かくしてもおいつかないから云うが、僕は今後君の忠告を入れて何処へ出かけるのもなるべく二人で一緒に出かける事にしたよ。疑惑の入る余地をつくって、くるしむのは馬鹿気ているからね。
小野寺 僕は海岸へゆくのはわるくはないと思うがな。
英 次 僕は浪の音がひどいとねられない質《たち》なのだ。
小野寺 そうかね。僕は浪の音をきくと気持がいいがね。それなら山へ行ったらどうだ。
英 次 僕は淋しい処は嫌いなのだ。それに引越は厄介だよ。引越し好きの人の気持は僕にはわからない。
小野寺 そうかね。尤《もつと》も僕でも一寸《ちよつと》は何処かへ行こうとは思うが、この家から出たいとは思わないから。
英 次 兄はあの家にはいやな聯想《れんそう》をもっているらしい。あの僕の床下から血にそんだ千代子の死骸《しがい》が出て来た夢を見たのだそうだ。
千代子 いやよ。そんな話。
英 次 (冗談のように)あんまりいい夢じゃないが。そんなことが起らなければ僕もいいと思っているよ。
小野寺 そんな冗談はよくないね。
芳 子 冗談にもそんなことをおっしゃるのはよくないわ。
千代子 主人はあんなことを云って人をおどかすのがすきなのですよ。主人は今度兄をよんでこないだ買ったトランクを室において、そのトランクに兄をこしかけさして、そのトランクのなかには私の死骸が入っているような暗示を与えておいて、兄をおどかすことなんか想像してよろこんでいるのですよ。
芳 子 まあいやな方ね。
千代子 私はなんだかそんなことが本当に行われて、そして私の死骸が本当にトランクのなかに入れられているような気がすることがあるのですよ。
芳 子 まあ。
小野寺 それは本当によくない趣味だよ。
英 次 僕のなかには、兄に似て役者の血が流れているのかも知れない。
小野寺 活動にでもやったら面白いかも知れないが。
英 次 活動は僕は見たことがないよ。だがあの支那《しな》カバンに死骸が事実入っていないで、あのなかに酒や御馳走《ごちそう》でも入っていたら、一寸兄をおどかして兄がどんな表情をするか見るのもわるくないね。兄にとって芝居の時の参考にもなるからね。
小野寺 狂言《きようげん》としたら面白いかも知れない。
英 次 君も賛成するなら、一つ端役《はやく》をつとめないか。
小野寺 本当にやる気なら是非やめてほしいね。
英 次 まだ本式にやって見ようとは思わないがね。千代子、芳子さんにお願いして買い物に行くなら一緒にいって戴《いただ》いたらいいだろう。
芳 子 何処《ど こ》へいらっしゃるの。御一緒に参りましょう。
千代子 それでは失礼ですけど、おさしつかえがありませんでしたら、お伴《とも》さしていただきましょう。
小野寺 天気がいいからどこへでも行って来たらいいだろう。そして帰りに果物のいいのがあったら買って来てもらおう。
千代子 それでは失礼いたします。
芳 子 一寸行って参ります。
英 次 どうもありがとう。
(千代子、芳子退場)
英 次 僕はね、千代子がこの頃へんに可愛くなって来た。僕は今まで、あいつを愛することを恐れていた。愛すれば逃げられた時に困るからね。逃げられても困らない程度でとめておこうと思った。しかしこの二三日の内に不意にあいつをもうどうしても失いたくなく思うようになってしまった。僕は困っているのだ。
小野寺 困ることはないじゃないか。
英 次 いや、玉も下らないと思っている間はキズがそう気にならなかったが、玉を愛すれば愛するほどキズが気になり出した。僕はキズがあるから自分のものになったと云うことは百も承知しながら、そのキズがますます自分をくるしめるのだ。そして僕はこの頃今までよりも兄が憎く、その上に兄を恐れるようになった。兄はあいつのことを忘れていないのだ。あいつもまた兄を愛しているのだ。
小野寺 そんなことはないと思うね。
英 次 いや、たしかにそうなのだ。僕は二人の愛をうたがえないのだ。二人は僕にせかれるので、ますます愛してゆくのだ。そして妻も兄もそれを恐れながら、どうすることも出来ないのだ。妻は僕に殺されることを恐れているのは、僕から逃げよう、逃げようと思っているからに過ぎないのだ。兄はまたあいつの死ぬことばかり心配して、どんなことでもして、あいつを生かしたがっている。その気持が僕にわかりすぎるから、恐ろしいのだ。僕はあいつを失っていいのなら、何も問題は起らない。僕は断じてあいつを失いたくない。僕はこの頃すっかりおちつかなくなった。夜もあいつの逃げ出す夢を見てびっくりして目をさますことが何度あるか知れない。その時の気持のわるさと云ったらない。僕はとうとう地獄の人間になってしまった。一人ですがすがしくくらしたいと思っても、その力がなく、嫉妬《しつと》と憎悪《ぞうお》が時々僕の胸をはりさくように苦しめる。そしてどうする事も出来ないのだ。僕はおちつきがなく、とうとうあいつの看守人にまで堕落して、どうすることも出来なくなった。僕はこれにかつ方法はたった三つきりない。あいつを殺すか、兄を殺すか、自分を殺すかだ。僕は三つの内どれを撰《えら》ぶかね。僕が死ぬのが本当かも知れないが、僕が死んだら誰《だれ》が僕の仕事をする。僕は自分の仕事のために死ねない。兄を殺すことも考えるが、下手人が僕だと云うことはすぐわかるだろう。兄の行方《ゆくえ》がわからないでは誰もすませないからね。旅行していると云ってごまかすわけにはゆかない。僕は兄を殺して一生を棒にふる気はない。それならあいつを殺すより他仕方がないことになる。だがあいつを失わずにあいつを殺すことが出来ない。そしてあいつなしには僕は生きられなくなって来ている。僕はどうしたらいいか見当がつかないのだ。君にも見当がつくまいな。
小野寺 旅行したらどうだ。二人で。
英 次 同じことだよ。あいつが逃げることを信じている間は、いつかあいつは逃げる。それはまちがいのない事実だ。僕が殺してしまわない限りはね。僕はあいつを愛すれば愛する程あいつを信用する事が出来ないのだ。この気持は幸福な家庭や、貞淑な妻をもつ君にはわかるまい。いくら小説家でもね。僕は一瞬間でもあいつから目をはなす事が出来なくなった。少しの疑惑も僕は入る余地をつくりたくない。しかしあいつに嫌《きら》われたくもないから、手紙をかくぐらいの時間はぬすまれたかも知れない。あいつはすばしこいのだから、君は断じて兄とぐるになっては困る。君だけは僕は信じているのだからね。僕は疑惑を一番恐れる。疑惑は魔物だからね。正体をつかめない処にはいたる所に姿をあらわす奴《やつ》だからね。
(芳子千代子登場)
芳 子 唯今《ただいま》。
英 次 どうもありがとう。買いものはすんだかね。
千代子 すみました。
英 次 それなら失礼しようかね。
千代子 ええ。
芳 子 まあいいじゃありませんか。
英 次 これから又時々二人でよせて戴きます。
芳 子 どうぞ、又いらっして下さい。
千代子 ありがとう御座います。
英 次 それじゃ失敬する。
小野寺 そうかい。
(四人あいさつ退場。まもなく小野寺夫婦登場)
小野寺 本当に困ったものだな。
芳 子 千代子さんていい方ね。
小野寺 中々いい人だね。だが何処か運のわるそうなところがあるね。
芳 子 随分よわっていらっして、すぐ涙ぐんでいらっして困りましたわ。
小野寺 どうかしたいな。しかし他人の夫婦の間のことは手の出しようがないね。
芳 子 だまって見ているより他《ほか》仕方がありませんわね。
小野寺 お前はどう思う。野中が細君を殺すか、殺さないか。
芳 子 それはわかりませんわ。
小野寺 殺される前に逃げ出すか。逃げ出す前に殺されるか。俺にもわからない。
芳 子 平和におさまるわけにはゆかないのですかね。お二人ともいい方じゃありませんか。
小野寺 二人ともわるい奴じゃないが一寸困るね。ああ執着してはね。気がめいってしまった。散歩でもしよう。
芳 子 果物を買って帰って来ましたわ。
小野寺 帰ってから食うことにしよう。(退場しようとする)
――幕――
第三幕
一
(英次の室。英次画をかいている。千代子小説を読んでいたが、不意に泣く)
英 次 馬鹿。小説を読んでそんな大きな声出して泣く奴があるか。
千代子 だって悲しいのですもの。
英 次 身につまされたのだろう。
千代子 そうよ。身につまされましたの。
英 次 だから小説なんかよむなと云うのだ。
千代子 小説でもよまなければなお淋《さび》しくなりますわ。
英 次 何か働くといいのだ。
千代子 女中もおかずに働いているじゃありませんか。この上働いたって、金が出来るわけでもありませんし、さきにたのしみがあるわけでもありませんものね。
英 次 お前は子供が出来ないと云うのは本当かね。
千代子 医者はそう云いました。子宮がどうかしているって。子供が出来ない方が仕合せだと思っていますわ。
英 次 なぜだ。
千代子 子供がこの上出来たら私の身体《からだ》がつづきませんわ。
英 次 お前は死にたがっているのじゃないかね。
千代子 あなたは私が死ぬ方がいいのでしょ。
英 次 俺《おれ》の手から逃げられるよりはね。
千代子 私だって今のような生活を一生つづける位なら死んだ方がよろしいわ。
英 次 今に俺の画が売れるようになる。一つ二三百円にね。
千代子 一つ十円にだって売れる時は来ないと私は覚悟をもうきめていますから、そんなことをおっしゃったって信じません。
英 次 まあ見ているがいい。
千代子 それにいくら金持になったって、私はこんな生活はいやです。
英 次 それならどうしようと云うのだ。
千代子 ゆきたい所にもゆけないような。
英 次 お前が信じられないことをするからさ。
千代子 私はもうあなたの顔や姿を見て胸がわるくなりますわ。
英 次 とうとう本音をはいたね。
千代子 もうあなたなんか怖《こわ》かないのですもの。私は死んだ方がいいのです。こんないい天気にそとへも出られないで、こんな所にとじこもっている位なら。
英 次 お前は俺が早く死んでくれればと思っているのだろう。
千代子 まあそうね。私は自由にとび歩きたいのですよ。あなたが自由さえ下されば、私はあなたの所へ帰ってくるにきまっていますわ。ですがあなたのように私を殺すと云っておどかして私の自由をすっかり奪われてしまえば、私だっていつかとび出して見せると腹の底で思わないわけにはゆきませんわ。
英 次 何とでも云うがいいよ。蛇《へび》が見込んだ鼠《ねずみ》がどんな泣き声を出したって逃がしはしないぞ。
千代子 あなたは本当にひどい方ですね。
英 次 どっちがひどいのだ。
千代子 それは私がわるかったかも知れません。だが今はあなたの方がわるいのです。ずっとずっとわるいのです。私はあなたを憎悪しきっています。人を束縛するにも程があります。
英 次 俺が好んでお前を束縛していると思っているのか。俺の苦しい気持はお前だって知っているはずだ。
千代子 それを知っているので今まで我慢して来たのです。
英 次 もう我慢出来ないと云うのか。
千代子 私だって生きなければなりません。
英 次 俺を殺してもか。
千代子 あなたは死ぬような方じゃない。私を殺したってあなたは死ぬような方じゃない。あなたは心中なんか出来ない方です。私を殺すことは出来てもね。私の死ぬのを笑って見ることは出来てもね。
英 次 それはそうかも知れない。俺は今死んでは俺の仕事はものになることを誰にも示すことが出来ないからね。俺の仕事が後世にのこっても心ある人には笑われないだけにはしておきたいからな。
千代子 あなたは私を殺しても画がかければいいのでしょう。あなたはそう云う方です。
英 次 それはあたりまえのことだ。
千代子 なにがあたりまえです。くやしい。
英 次 泣けるだけ泣け、誰が同情してやるものか。
千代子 あなたに同情なんかしてもらいたくありません。私はもうあなたを私の夫だとは思っていません。あなたは暴君です。恐ろしい暴君です。
英 次 小説にそんなことでもかいてあるのか。
千代子 小説がなんです。私は出てゆきますから。
英 次 出る勇気があるなら出て見ろ。
千代子 出ますとも。
英 次 もう一ぺん云って見ろ。
千代子 何度でも云います。出ますとも。
英 次 よく云ったな。
(英次、千代子にとびかかろうとする。小野寺登場)
英 次 よく来たね。今(苦笑して)喧嘩《けんか》していたところだよ。誰かくればいいがと思っていたところだよ。
小野寺 夫婦喧嘩は犬も喰《く》わないと云うが、僕も喰いたくないよ。
英 次 まあいいよ。あんまり人を馬鹿にするから。
千代子 小野寺さん。きいて下さい。夫は私を朝から晩まで監視して、そして私に少しの自由も与えてくれないのです。夫にそんなことをする権利があるものなのですかね。妻の生きるよろこびを全部奪ってしまうような。そして自殺しないではいられないような目にあわせるような。
英 次 俺はお前をよろこばしたくどんなに思っているか、お前は知っているはずじゃないか。君だって知っていてくれるね。
小野寺 知っている。
英 次 それなのに、こいつは、こいつは僕を呪《のろ》っているのだ。そして僕と一緒にいる位なら死んだ方がいいと云うのだ。夫にとってこんな侮辱があるだろうか。(泣く)
千代子 私だってどんなにあなたを愛そうとしたでしょう。だが私にはその力はないのです。あなたの要求が無理すぎるのです。
英 次 それなら出てゆけ。
千代子 出てゆきますとも。
小野寺 奥さん、そんな馬鹿なことは云うものじゃありません。
千代子 それだって出てゆけと云うのですもの。私だってここで死ぬのはいやです。
英 次 僕だって男だ。出てゆけ。
小野寺 君もそんな馬鹿なことを云うものじゃない。千代子さんにゆくさきのないことは君だって知っているじゃないか。
英 次 ゆくさきはいくらだってある。もうゆくさきが出来ているから、俺に喧嘩をふっかけたのだよ。
千代子 そんなことはありません。私はゆくさきなんかなくたっていいのです。
英 次 ゆくさきの心あたりがなくってお前は出かけるかい。
千代子 あなただって、私にゆくさきがあったら出てゆけとはおっしゃらないでしょう。
(二人顔を見合せ苦笑する)
小野寺 だから夫婦喧嘩は犬も喰わないと云うのだよ。よかった。よかった。どっちがわるいのか知らないが、両方から折れるのだね。
英 次 誰が折れるものか。
千代子 私だって折れはしません。
小野寺 あはははは。面白い。もっと喧嘩したらいいだろう。
英 次 こんな余計なじゃま者が入ったから、僕は折れてもいいから、お茶でも入れておいで。
千代子 はい。
英 次 一昨晩菊を買って来たのを一つ見ようか。
小野寺 ああ。
(二人退場)
千代子 (独白)あああ。もう少しのところでのがれられるところを私はまたくもの巣にかかってしまった。
――幕――
二
(同じ室、数日後の午後、千代子一人で掃除している。英次入ってくる)
千代子 どうでした。
英 次 いやすばらしいものがあったよ。この頃は画かきになったことが時々心細くなったが、いいものを見ると矢張り画かきの仕事程たのしい、立派な仕事はないと思うね。僕は今日程、たのしく画を見たことはこの頃まるでなかった。支那《しな》には実にすぐれた画家がいると思うが、日本だって中々馬鹿に出来ない。今日二つ見た雪舟なぞはさすがにすぐれたものだった。雪舟でもあんないい画を見たのは始めてだった。金があったら買いたかった。あいつを買ってかけておいたら随分仕事に刺戟《しげき》が出来ると思った。兄貴が東京にいれば買うことをすすめるのだがな。北海道じゃ仕方がない。画かきはその人の本当の価値がすぐ世界的にわかるし、後の人にもわかって、少しのいつわりもゆるさないから気持がいい。画は言葉とちがって嘘《うそ》がつけないから気持がいい。留守に誰も来なかったか。
千代子 だれもいらっしゃいません。
英 次 俺は立派な画かきになりたい。山がかきたくなった。久しぶりに旅行して見たいな。金はいくらある。
千代子 三十円程、ためてあります。
英 次 感心だな。それとも逃げる用意かね。
千代子 もうあきらめましたわ。逃げてゆく処《ところ》もありませんものね。
英 次 その三十円をもらってもいいかね。
千代子 ええ。
英 次 それなら久しぶりで旅行して、山でもかきにゆくかな。
千代子 その方がおよろしいわ。身体のためにも。
英 次 留守はどうする。
千代子 留守は何とかやってゆきますわ。
英 次 それなら明日出かけるよ。
千代子 急ね。
英 次 善は急げと云うからね。これから一寸《ちよつと》小野寺の処へ行ってくるよ。そしてあいつに俺の元気な処を見せて、よろこばしてくる。
千代子 小野寺さん御安心なさるでしょう。私も小野寺さんの処に御一緒に行っていけなくって。
英 次 行こう。行こう。
千代子 ええ。
英 次 俺はそう柄にないことは考えずに、一心に画をかいてゆきたくなった。
千代子 あなたは本当に立派な画家になるわ。
英 次 大へんおだてるね。
千代子 (媚《こ》びるように)だって何となくそんな気がするのですよ。
(二人退場)
――幕――
三
(同、信一と千代子話している)
信 一 英次からたよりはまだありませんか。
千代子 ありません。
信 一 どうしているのでしょう。
千代子 いろいろ考えているのだと思います。私と本当に別れたがってもおりました。御仕事に夢中になっていらっしゃるのかも知れません。
信 一 それでは又来ます。
千代子 まだいいじゃありませんか。
信 一 僕はこの室であなたと二人きりでいるのはおちつかないのです。英次がいつ帰ってくるかわかりませんから。
千代子 大丈夫よ。主人は本当は病気しているのですから。
信 一 病気ですか。それであなたは見舞にゆかないのですか。
千代子 ゆきたくも金がありませんから。
信 一 金ならかしますよ。
千代子 本当は私も病人なのですよ。明後日まで、あなたが東京にいらっしゃる間。
信 一 それはよくありませんね。
千代子 それだって仕方がありませんわ。尤《もつと》もあなたが私にどうしても主人の処へゆけとおっしゃれば、私、死んでもゆきますけど。私だって生きているたのしみが少しはなくっては。私はもう主人のそばにいるのにはもう本当に閉口していますの。そう思うのは悪いと思うのですが、愛そうとすればする程、嫌気《いやけ》がさして来ますの。どうしたってもう辛抱は出来ませんのですが、何処《ど こ》もゆく処はありませんものね。それに殺し兼ねない様子を見せるのですから。あなたの兄弟でいながら、あなたとまるでちがって私に執着しきって下さるので、私はありがたいと思うのですが。
信 一 僕だってあなたを愛していなかったらこんなに苦労はしませんよ。今度の旅興業は随分あたって、次ぎ次ぎと申込みがあったのですが、あなたのことが気になって、やっと六日の暇をつくって帰って来たのです。これから又青森の方へ出直さなければならないので、皆私の帰ると云うのに反対だったのですが、私はそんな事はきくわけにはゆかなかったのです。
千代子 私が死んだら泣いて下さる。
信 一 僕はあなたを殺したくないのです。そのためにはどんなことでもします。
千代子 私はあなたと一緒に死ねたらとよく思うのですが、あなたはそんなことを考えたことはないでしょう。
信 一 僕はあなたと一緒に生きることは考えますが、死ぬことは考えたことはありません。
千代子 私は幸福に生きると云うことを考えたことはありません。もとはありましたけど。始めてあなたにお逢《あ》いした時はね。私はあんなに嬉《うれ》しいことはありませんでした。あれからいろいろのことが起りましたわね。
信 一 僕はあなたにあやまりたいことだらけです。
千代子 そんな事はありません。あなたが生きていらっしゃるので私は生きていられるのですから。それにここに来たのも、私が意気地《いくじ》がなかったからです。あなたの家庭と名誉と人気を気にして、私の愛したのはあなたの弟さんだと見せかけようとしたのがいけなかったのです。しかしすんだことは仕方がありませんわ。あなたは別としても、私達の不幸は虚偽な愛からうまれた結果にすぎないのです。狂言の仕損《しそこな》いです。誰もうらみようはないのですが。
信 一 もうそんな話はよしましょう。だが私はなんだかこの室はおちつかないのです。
千代子 あなたは気がよわいのね。あなたは幸福だからだわ。私は生きているのがつまりませんから、何も怖《こわ》いものはありませんわ。
信 一 英次の病気は大したことはないのですか。
千代子 ええ、大したことはないのです。私は二三日の内に病気がなおってゆけると思うと手紙を出しておきましたから安心ですわ。あなたが不意に帰っていらっしたことを聞いて私はどんなにうれしかったか。あなたにはおわかりにならないでしょう。何しろ私は監督づきであなたとはもう一生、お目にかかれないだろうと思っていました。
信 一 まだ私達は若いのですから。
千代子 だって私はなが生きは出来ないと思いますわ。今のままでは、主人が私が居なくっても生活が出来る時が来なければ私は本当に生きているのが、いやになりますわ。
信 一 英次はいい人間じゃありませんか。
千代子 私だってそれはよく知っていますわ。ですが人のわるいあなたのお顔を見ていると私は時間のたつのを忘れてしまうのに、あの方の顔や、すがたを見ると本当に身ぶるいしてしまいます。人間にとって何が不幸だと云って毛虫や蛇と同じ室にすむ程いやなものはないと思いますわ。私は二三月《つき》前まではそれ程にも思わなかったのですが、この頃は本当に顔見るだけでもさむ気がしてしまいますの。これは嘘ではないのです。わるいと思っているのですけど。主人のすることなすこと、又主人の云う一言一句私を病的に不愉快にしてしまうのです。どうしてですか、私にはわかりませんが。
信 一 それは困ったものですね。それが本当なら別れるより仕方がないでしょう。
千代子 私もそう思いますの。ですけど別れてどうしていいのか。
信 一 別れたさきのことは心配しないでもいいでしょう。しかし別れる時が心配ですね。
千代子 別れるだけなら私はどうにでもなると思うのです。
信 一 僕は弟がどんなによわるか、そのことを考えないわけにはゆきません。僕は弟を愛しています。自分は弟を苦しめすぎてそんなことを云うのは虫がよろしいがね。
千代子 主人はあなたの死ぬのをのぞんでいます。
信 一 それは本当ですか。
千代子 本当です。主人は三人の内誰か死ななければならない。そう云っています。そして第一にあなたの死ぬことをのぞんでいるのです。
信 一 それも無理はありません。だが僕は今死んでやるわけにはゆきませんよ。
千代子 主人は私の死骸《しがい》をこのカバンに入れたように見せかけてあなたをおどかすことをいつか真剣に考えていましたよ。そしてあなたが私をどの位愛しているか見たがっていました。
信 一 一種の復讐《ふくしゆう》でもしようというのでしょう。あいつならその狂言をうまくやりこなすでしょう。なんだか、不気味《ぶきみ》なところがありますからね。舞台の上でそんなところをあいつにやらしたら私よりもっとうまくやるだろうとよく考えたことがあります。
千代子 私は主人のことはすっかり忘れてしまいたいのです。
信 一 あなたは随分やせましたね。
千代子 みにくくなりましたわ。
信 一 あなたを僕は本当に幸福にしたかった。
千代子 主人もよくそう申します。
信 一 あなたこそ、弟のことを忘れることが出来ないのですね。
千代子 思いたくないと思うとなお思い出します。あの人が死んでくれたらと私はよく思います。しかしそう思えば思う程、あの人は丈夫になります。あんなに心《しん》の強い人は滅多にありませんね。呪《のろ》われても、呪われても生きかえってくるような方ね。時々気味がわるくなりますわ。あなたの弟さんにあんな方があるのは不思議ですね。
信 一 誰か来たのじゃありませんか。
千代子 鼠《ねずみ》の音ですわ。何も怖《こわ》いことはありませんわ。二人きりでお話出来る時がくるとは思いませんでしたわ。私の本当に心の底から凍りついていた淋《さび》しさが、だんだんとけて来ましたわ。人間はこんなにもうれしくしていられるのに、毎日々々、いやな思いして生きてゆかなければならないのでしょうか。
信 一 そんなことはありません。
千代子 私は地獄におちてもいいわ。あなたとなら。主人と一緒に極楽にいるよりどんなにいいでしょう。
信 一 そんなことは云うものではありませんよ。
千代子 いつまでもゆっくりしていていいのでしょ。私、お酒を買って来ますわ。
信 一 今日は早く帰りますよ。
千代子 そんなことは云わないで下さい。せめて今晩だけは私生命《いのち》の洗濯《せんたく》がしたいのですから。
信 一 何か、たしかに音がしましたよ。
千代子 大丈夫ですよ。鼠ですよ。あなたに似合わないのね。
信 一 僕は世界中で弟が怖いのですよ。あいつの顔を見ると、魂が凍りつきます。
千代子 私の魂はいつでも凍りついているわ。(笑う)
信 一 たまりませんね。
千代子 私を一緒に旅行につれていって下さらない。
信 一 弟はどうします。
千代子 主人は男ですから自分で生きてゆくでしょう。
信 一 それでも病気の時逃げるのはよくありませんよ。
千代子 今逃げなければ、逃げられませんわ。私だって死ぬのはいやですわ。今逃げなければ私はきっと殺されます。
信 一 …………
千代子 私は死んでもいいの。私はもう死にものぐるいですわ。私はもう死んでもここに居るのはいやです。私を助けて下さい。私を生かして下さい。どうぞ私を見殺しにしないで下さい。
(信一の膝《ひざ》に泣きふす)
信 一 そう泣かないだっていい。私もあなたを殺すわけにはゆかない。あなたの決心が強いなら私も覚悟をきめます。弟だってまさか死ぬようなことはしますまい。
千代子 ありがとう。ありがとう。それで私本当に生きかえりましたわ。それなら今日これから私、用意しますから、明日の朝さそいに来て頂戴《ちようだい》ね。それまでにあと始末しておきますわ。
信 一 承知しました。それなら今日はこれで帰ります。
千代子 それなら明日の朝九時頃きっと来て頂戴ね。
信 一 ええ、来ます。それでは又明日。
千代子 本当に私うれしいわ。今晩は私きっとねむれませんわ。それでは又明日ね。
信 一 それではさようなら。
千代子 それなら私も其処《そ こ》までゆくわ。
(二人退場。英次登場。支那《しな》カバンの上に腰かけ、気味のわるい笑いをする。千代子いそいそ登場。始め気がつかないがふと気がつき声をあげておどろく。辛うじて気絶せず、勇気を奮い起して戦いをいどむように口をきく)
千代子 いつお帰りになったの。
英 次 (つめたく)さっき。
千代子 (反《かえ》って度胸をすえ)御病気はどう。
英 次 お前の病気はどうだ。お前の病気が気になって無理して帰って来たのだ。
千代子 それはありがとう。
英 次 俺《おれ》が帰って来たのをうれしく思っているのかい。
千代子 そんなことは云わなくったってわかっていますわ。
英 次 どうわかっているのだ。
千代子 あなたのおよろしいように。
英 次 お前が病気だと云う電報を受けとってどんなに心配したか、俺はお前の病気がなおるようにどんなに神に祈ったか。そしてあんまり心配になったので無理して帰って来た。そして俺は何を見せられたのだ。
千代子 (冷静に)私だって生きたいのです。
英 次 俺を瞞《だま》しても生きたいのか。なぜ正直なことを云わないのだ。
千代子 正直なことを云って逃がして下さるとは思えませんからね。
英 次 それで兄をよんだのか。
千代子 それはちがいます。信一さんは私のことが心配になったので、不意に帰っていらっしゃったのです。ですがおそかれ早かれ私は今日のくるのを知っていました。又待っていました。
英 次 お前は私のことはなんとも思わないのだね。
千代子 あなたは一人で生きてゆける方です。
英 次 俺の病気の最中に逃げないでもいいじゃないか。
千代子 あなたの御病気もケ病だということは知っていました。
英 次 俺の病気はケ病じゃない。
千代子 それだって旅行が出来ないから来てくれとかいてあったのは嘘《うそ》じゃありませんか。
英 次 医者はじっとしてろと云ったのだ。だが俺はお前の病気だと云う電報を見たら、何んだかお前が死にはしないかと思ったのだ。
千代子 あなたが帰っていらっしゃらなければ、私は死ぬようなことはありません。
英 次 俺はお前が淋しく一人でねていると思ったのだ。
千代子 信一さんが帰っていらっしたことを、お友達からでも知らせてもらって帰っていらっしゃったのでしょう。
英 次 馬鹿! それは嘘だ。
千代子 あなたは私の死ぬことをのぞんでいらっしたくせして。(泣く)
英 次 勝手に泣け、泣いたって誰が同情してやるものか、俺にはお前の心はもうすっかりわかってしまった。
千代子 それなら綺麗《きれい》に別れることにしましょうね。
英 次 (言葉は冷たく)お前が兄と手を切ることが誓えるなら俺はわかれてやってもいい。
千代子 そんなさきのことはわかりませんわ。
(二人黙ってにらみ合う)
千代子 そんな顔したって、ちっとも怖かありませんわ。
英 次 (立ち上り)お前はどうしても俺からわかれる気なのだね。
千代子 それより他仕方はありませんわ。
英 次 俺がそれを許すと思っているのか。
千代子 許すも許さないもないわ。私はどうしたって出てゆくことにきめたのですから。
英 次 俺が承知しないでもか。
千代子 ええ。
英 次 出られるなら出て見るがいい。俺はお前を許せるだけ許そうと思ったが、そしてお前の気持を察してやれるだけ察してやるつもりだったが、もう俺もお前の侮辱に我慢が出来なくなった。
千代子 我慢が出来なければどうしようと云うの。私を殺そうというの。私を殺して生きてゆけると思っているの。牢屋《ろうや》に入ってもいいの。皆に笑われてもいいの。それとも無理心中でもしようと思っているの。私を殺したあとのことを考えても、私を殺そうと云うの。
英 次 …………
千代子 妻は夫のものなの。妻は夫の奴隷《どれい》で、夫が殺してもいいの。又夫が妻を箱のなかに押しこんで、逃げると殺すなどと云ってそれが夫の権利のように思っているの。私だってどの位あなたを愛したく思ったかわかりませんわ。ですけど、それは神様が許して下さらなかったので、私にはどうすることも出来なかったのです。私はそれを仕方がないと思っています。私はあなたに随分すまない気もしないことはありません。ですけど私は決心しました。それではこれからおいとまします。お身体《からだ》を大事にして下さい。
(千代子、静かに退場しようとする。その後ろ姿を憎悪の目で見おくっていた英次はとうとう辛抱が出来ずにとびかかる。気違いのように、なぐる。千代子も遂に抵抗する。その内に発狂したようになり、英次千代子の首をしめる。千代子死んでしまう。それでもまだしばらくしめながらへんな笑い声を出す。暫《しばら》くしてやっと立ち上る)
英 次 (死骸を見つめながら低い声で)俺のしたことはやむを得ないことだ。これより他《ほか》、どうすることも出来なかった。お前は殺される資格のある奴だ。誰も俺のしたことを尤《もつと》もと思うだろう。静かに死んでゆけ。
(英次はおちつかないように歩きながら、気違いのように頭をふったりたたいたりして、又死骸の前に立ちどまり、千代子の死に顔を見つめる。英次不意に泣き出す)
英 次 (低い声で)お前は不幸な、不幸な女だった。俺はどんなにお前を幸福にしてやりたかったか。だが俺には他にどうすることも出来なかった。南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》。々々々々々々……。
(急に英次は千代子の死骸にかじりつきなお一層泣き、顔を見、急に生きかえらしたく人工呼吸をやって見、ますますあわて出す)
――幕――
第四幕
一
(翌朝、同じ室、英次落ちつきを失って室のなかをうろつき、カバンの前へ来て頭を畳にすりつけるように御辞儀をしては、頭髪をかきむしったりする。外で信一の「千代子さん」と呼ぶ声がする。英次の態度急にかわりカバンの上に腰かける)
信 一 千代子さん(と、よびながら登場、英次と顔をあわせる)
(沈黙、お互に心をうかがう)
英 次 千代子は今朝《け さ》早く出かけました。お兄さんの処《ところ》へでもいったのかと思いましたよ。
(沈黙)
信 一 お前はいつ帰って来たのだ。
英 次 お兄さんはいつ帰って来たのです。
信 一 二三日前だ。
英 次 私は昨晩おそく帰って来ましたよ。お兄さんが東京にいらっしゃることは少しも知りませんでした。千代子は何も云いませんでしたから。
信 一 それで俺の処へ来たと思ったのかい。
英 次 お兄さんの声をきくとすぐそう思ったのです。千代子はゆきませんでしたか。
信 一 来なかったよ。
英 次 本当ですか。
信 一 来れば千代子さんなぞと呼びはしないだろう。
英 次 わざとお呼びになったのかと思ったですよ。
信 一 嘘つくのはお前の方が上手らしいな。
英 次 芝居することではお兄さんには叶《かな》いませんよ。
信 一 どうだかね。千代子は何時《い つ》頃出かけたのだ。
英 次 六時頃でしょう。
信 一 何んて云って出たのだ。
英 次 一寸《ちよつと》其処までゆくと云って出かけたまま、まだ帰って来ません。
信 一 それは本当かい。
英 次 どっちですかね。何しろ千代子は居ないのです。
信 一 そうか。(退場、まもなく登場)千代子の下駄があるよ。
英 次 他の下駄をはいて行ったのでしょう、まさか足袋《た び》裸足《はだし》では出かけないでしょうから。
信 一 お前は昨夜、ねなかったね。
英 次 僕は病気なのですよ。大したことはありませんが。
信 一 それはいけないね。
英 次 医者に旅行することは禁じられていたのですが、千代子から病気だという電報が来たのでびっくりして帰って来たのですが、反《かえ》って身体にはよかったようです。少しもわるくはならないようです。
信 一 千代子さんは病気だったのか。
英 次 お兄さんは御存知ないのですか、もう千代子は病気はいいそうで、今朝早くから起きてさむいのに外へ出てゆきましたから、そう悪いことはないのでしょう。
信 一 千代子さんはお前に殺されることを恐れていたよ。
英 次 自分に疚《やま》しいことがあるからでしょう。
信 一 お前は千代子さんをどんな人間と思うかね。
英 次 それはお兄さんに聞きたいところですね。しかしわるい女とは思っていません。あまり正直すぎる女とは思いますがね、人間はまだ正直になり過ぎてはいけないようですね。
信 一 おそすぎたかね。
英 次 何がです。
信 一 俺は千代子を生かしておきたかったのだよ。
英 次 千代子は死んでいませんよ。
信 一 (よろこんで)本当かね。まさか嘘はつくまいね。
英 次 あはははは。お兄さんは僕が千代子を殺したかと思っているのですか。
信 一 どうも俺にはそうとしか思えない。
英 次 あははは。お兄さんは千代子が僕に殺される資格があると思っているのですね。僕に人殺しが出来ると思っているのですか。僕は今日のような場面に何度も逢《あ》ったような気がしますよ。それにしても千代子の帰りはおそいですね。
信 一 喧嘩《けんか》でもして出て行ったのか。
英 次 少しは云いあいをしましたよ。僕が帰って来ても少しもよろこばないのですからね。反って迷惑そうな顔をしていましたからね。僕だって気持よくは思いませんでした。それでつい荒いことを云い、少しは手荒いことをしたのですが、いつものことですからその内帰ってくるとは思っているのです。
信 一 何処《ど こ》へ行ったか、あてはないのだね。
英 次 僕にはあてはありません。二三十円の金は持って行ったかも知れませんがね。どうせすぐ帰ってくるでしょう。
信 一 許してくれ、俺はお前が本当に殺したのかと思ったのだ。しかし千代子さんは生きていてくれたとは、ありがたい、俺はお前に心から礼を云うよ。俺はお前の顔を見た時、ぞっとしたよ。おそすぎたと思ったよ。どうしていいかわからなかった。
英 次 お兄さんは千代子を僕の手から奪おうと思っているのでしょ。
信 一 そんなことはない。僕は千代子さんを愛していないとは云わない。しかしそれ以上、千代子さんの死ぬことを恐れていたのだ。あんまり殺されそうなことばかり云ってくるのだからね。俺も気にならないわけにはゆかなかった。千代子さんをお前に世話したのは俺だから、俺に責任があるような気がするし、それにお前を人殺しにするのはいやだからね。人殺しになってはたまらないからね。お前がそんなことをする人間とは思わないが、さっきのお前の顔にはおどろいたよ。
英 次 だってお兄さんは、私の留守なのを知っていらっしゃるはずなのに、千代子の名を云って入っていらっしゃったのですからね。
信 一 わるかったよ。わるかったよ。昨夜なんだかいやな夢を見たのでね。夢は忘れてしまったがね。あんまり気になったので。
英 次 お兄さん。お兄さんは死にたいと思ったことはありませんか。
信 一 別にないね。
英 次 お兄さんは仕合せな方ですね。私なんかよく死にたいと思いますね。
信 一 死んではいけないよ。
英 次 お兄さんは私の死ぬことを望んだことはありませんか。
信 一 お前はどうだ。俺の死ぬことを望んだことがあるだろう。
英 次 御同様でしょうよ。お兄さん、死は一たいどんなものだと思っています。
信 一 死のことはよくわからないな。
英 次 死んでしまったら幸福でしょうか、不幸でしょうかね。
信 一 死んでしまったものは幸福だろうね。
英 次 どうしてです。
信 一 二度と死ななくてもいいからね。
英 次 お兄さんもそう思いますか、死んだものは幸福だってね。
信 一 だが人殺しがいいとか自殺がいいとか云うのじゃない。生きている間は死ぬのは嫌《きら》いなのは当然だからね。
英 次 だが死の関所をこしたものは平和だと思いますね。死んだものを生かすと云うことは、生きているものの執着としては尤もですが、死んだものにはありがためいわくですね。
信 一 だが生き返ってしまうと、又よろこぶのが人情だね。
英 次 それはもう生きてしまったからでしょ。死んでしまって生きかえらないものを時々僕は羨《うらや》ましく思いますよ。
信 一 千代子さんが帰って来たらしいね。
英 次 千代子に何か用があるのですか。
信 一 いや一寸帰って来たかと思ったのだ。
英 次 もうじき帰ってくるでしょう。九時頃に一寸用があるように云っていましたからね。
信 一 そうか。もうじき十時になるよ。
英 次 何処へ行ったのですかね。もうじき帰ってくるでしょう。
信 一 本当に千代子さんは生きているのだね。
英 次 お兄さんは疑い深いのですね。
信 一 お前の表情の内に、俺の腑《ふ》におちないものがあるからね。お前は正直もので、いつもお前の表情と、言葉とは一致していたが、今日のお前の表情は四分五裂している。
英 次 お兄さんに対する私の感情がどんなものか知らないからです。僕はお兄さんを憎んでいる。そのくせ愛している。軽蔑《けいべつ》しきっている。そのくせ尊敬しきっている。正直に云って僕はお兄さんの顔を見たくないのです。そのくせお兄さんのことが気になるのです。お兄さんがここにいることを僕は嫌っている。だがお兄さんがここから出てゆけば、千代子と何処かで逢いそうな気がしてお兄さんをいつまでもひきつけておきたいのです。僕の表情が一つでないのは当然です。私の留守にお兄さんはいそいで帰っていらっしゃったのですから。
信 一 お前が留守だと云うことは知らなかった。
英 次 本当ですか。
信 一 それは本当だよ。
英 次 でも僕の留守にここに上っていったことは事実でしょう。僕の留守を知ってここに上り込んで、僕の帰ってくるのを恐れていらっしたことはないと云えないでしょう。私はこんな空想をすると、身を八つざきにされるようですよ。男と女、夫婦、他の人の立ち入ることを絶対に嫌う気持、お兄さんはそう云う気持はおわかりにならないでしょう。泥棒猫のようにしのびこんで、あとで口をふさいでおけばいいと云う流儀は僕は嫌いなのです。ましてそれが血がつづいている人だとね、なお我慢が出来ないものです。僕は嫉妬《しつと》はいいものだとは思っていませんがね。肉親のそれも不具の弟に嫉妬させるのは罪が浅いとは云えませんね。ね、お兄さんはそうお思いになりませんか。僕は一度思いきっていろいろのことをお兄さんに云って見たかったのですよ。ですけれどはっきり証拠をつかんだと云うわけでもなかったのですし、そんなことを疑うのは男として恥ずべきことと思いますから、辛抱出来るだけ辛抱したのです。お兄さん、この僕の気持を、十二分に味《あじわ》って下さい。
信 一 …………
英 次 お兄さん。お兄さんは僕を人殺しと云いましたね。
信 一 そんなことは云わない。
英 次 さっきそうおっしゃいました!
信 一 人殺しはよくないと云っただけだ。
英 次 それなら姦通《かんつう》はいいのですか、姦通は。
信 一 よしてくれ。そんな風をして強迫するのは。
英 次 私が精神上にうけた苦痛にくらべれば、お兄さんの罰は重いとは云えませんよ。
信 一 なんとでも云うがいい。お前がそう云う態度に出るなら、俺も正直に云うよ。俺はお前に同情して千代子さんをお前にやったのだ。それが俺の一番のしくじりだったのだ。自分の愛している女を、愛していない男に世話した。それが俺の一番の罪だった。その他の罪はその結果にすぎない。お前はそれを知っていたはずだ。それでもお前は結婚したがったのだ。それがお前の罪であり、罰であったのだ。一人の男は二人の女を愛することはよくない。そのために愛しない男に世話した。二人の女を愛する方が罪が重いか、愛しない男に女を世話する罪が重いか、お前にはわかるかね。俺は道楽者かも知れない。しかし自分を愛しない女を自分のわきに監禁したことはない。それこそ一番男らしくないことだと思っているよ。
英 次 あははははは。理窟《りくつ》はどうでもつくものですね、しかし僕の妻は、僕を嫌いながら矢張り僕を愛していてくれたと思っていますよ。お兄さんがいくら何とおっしゃったってね。千代子は矢張り僕のものです。お兄さんのものではありません。
信 一 千代子さんを殺さない限りそんなことは出来ない。
英 次 それなら千代子を殺すばかりです。
信 一 千代子を殺す? そんな馬鹿があるか。千代子を殺したらお前だって生きてはいられないぞ。
英 次 余計なお世話です。僕は生きてゆきますよ。僕には大事な仕事がありますからね。
信 一 人殺しと云う名は、どの位恐ろしい名か知っているのか、その名が一生お前についてはなれないぞ。どんな時でも、一人いる所では殺された者が生きて来て、その人の目に姿を見せるだろう。そして全世界はその人に向って叫びかけるだろう。人殺し、人殺し、人殺しってね。(脅迫するように)人殺し、人殺し、人殺し、人殺しってね。人間の生命、それも若くって、生きたがっている生命を無理にたち切ったものは、一生呪《のろ》われるにちがいない。人殺し、人殺し、人殺しってね。
英 次 いくら呪われたってかまいません。僕は千代子をあなたにわたしません。
信 一 (静かに)お前は人殺しだね。お前は千代子をやっつけてしまったのだろう。
英 次 そんなことはありません。
信 一 それなら、そのカバンをあけてくれ。開《あ》けることは出来まい。
英 次 そんなおどしにはのらない。
信 一 それなら訴えてもいいか。
英 次 千代子が生きていたらどうしますかね。
信 一 そしたら、俺はお前になんでもやるよ。
英 次 いのちもですか。
信 一 千代子さんがそれでなければ生きてゆけないと云うなら生命でもやるよ。
英 次 そんなに千代子をお兄さんは愛しているのですか。
信 一 俺はどうしてか、あいつが可哀そうで仕方がないのだ。今死なしてはあんまり可哀そうだ。
英 次 でも死んでしまえば同じですよ。
信 一 英次、許してくれ、たのむ、あいつは生かしてやってくれ。僕はあいつに死なれては本当に困るのだ。
英 次 大丈夫です。殺すようなことはしませんから。
信 一 ありがとう。それをきいて安心したよ。それなら又あとでくるよ。
英 次 千代子にもしお逢いでしたら、私はもう怒ってはいないとそうおっしゃって下さい。そしてすぐ帰るようにそうおっしゃって下さい。
信 一 承知したよ。本当にお前に何と礼を云っていいかわからない。これで俺も安心して旅興行にも出られる。
英 次 いつ行くのですか。
信 一 明後日《あさつて》どうしてもゆかなければならない。
(信一退場、英次送ってゆく。英次登場)
英 次 ああ、つかれてしまった。もう何も考える力もない。(ぶっ倒れるようにねる)
二
(悪夢の場、うすぐらい塔の一室。英次、塔のなかに迷い込んでくる)
英 次 (あたりを注意しながら)ここまでくれば安心だ。(奥へ入ろうとする、扉《とびら》自《おの》ずとしまる。その扉に「人殺し」といたずらがきがしてあるのを見て、驚く)俺《おれ》はとうとう人殺しになってしまった。俺の一生には人殺しの焼印がつよくおされてしまって、いくらどうしても消すことが出来ないのだ。神様、神様、お許し下さい。お許し下さい。私の罪はどうしたら許して戴《いただ》けるのですか、ああこの手にあの時の触覚がくっついてはなれることが出来ない。(両腕をさする)許して下さい、許して下さい。あああ、どうしたらいいだろう。(兄の声聞える。人殺し、人殺し、人殺し。逃げようとするが、四方の扉がかたくとざして逃げ道がない)助けて下さい、助けて下さい!
(不意に扉あく、英次其処《そ こ》からのがれようとする。千代子真青《まつさお》な顔して其処に立っている)
英 次 (その前に跪《ひざまず》き)許して下さい。許して下さい。
千代子 英次さん。私は最後に私は矢張りあなたを愛していると云いたかったのよ。それなのにあなたは私の喉《のど》をしめて何も云わさなかったのね。私が云いたくって云いたくって仕方がなかったことをね。
英 次 許して下さい。許して下さい。
千代子 だっていくら私が許していると云いたくったって、あなたは私をしめて私に一ことも云わしては下さらなかったのね。
英 次 許して下さい。許して下さい。
千代子 さあ許してあげるわ。だから私についていらっしゃい。(手を出す)
英 次 いやです。いやです。僕は死にたくはないのです。
千代子 英次さん。私だって死にたくはなかったのよ。それなのにあなたは私を殺したのです。さあ一緒にいらっしゃい。私の気持わかるでしょ。
声 人殺し、人殺し、あはははは。
英 次 許して下さい、許して下さい。
(千代子、英次を引っぱりこもうとする、英次がのがれようとする。その争いの最中菊の花と紅葉《もみじ》が散ってくる)
小野寺の声 野中しっかりしっかり! 野中野中しっかり! しっかり!
(英次、千代子の手からやっとのがれる)
三
(英次の室、英次倒れたまま。信一と小野寺登場)
信 一 あっ。
小野寺 どうしたのです。
信 一 (英次のそばにかけよる)英次! 英次!
小野寺 どうしたのです。
信 一 大丈夫です。生きています。
(英次、うなされる)
信 一 英次! いや、英次はこのままにして今の内にカバンをしらべて見ましょう。千代子さんは僕の処へも、あなたの処にも来なかったとすると、どうも僕の恐れていたことが起ったとしか思えません。
小野寺 そんなことはないでしょう。
信 一 千代子さんは何かことがあったらあなたの所へゆくはずです。それがあなたの所へゆかないところを見ると、そして弟のさっきの表情とてりあわすと、百が百まで僕の想像はあたっています。
小野寺 それでもあなたをおどかすようなことを云っていました。
信 一 それは千代子さんから聞きました。しかしあれがもしおどしだったら、弟は役者として天才以上です。僕なんか足もとにも及びません。人間に、あんな狂言が出来ると思えません。カバンをあければ、十が十まで私の想像があたっています。思いきってあけて見ましょう。
小野寺 あけて見て何か他のものでも入っていたら。
信 一 そしたら私はどんなによろこぶでしょう。なんでもおごりますよ。僕は死んでもいいから、あいつは生かしておきたかったのです。しかし恐らく生きてはいません。
(カバンをあけようとする。あかない。中を注意して判断しようと思ってあけて見ようとする)
信 一 何処《ど こ》かにカギはありませんか。
小野寺 英次君が持っているのでしょう。
信 一 さがしてくれませんか。
小野寺 どうも気になります。
信 一 しかしもしこのなかに死骸《しがい》が入っていたら、このままでおくわけにはゆきません。どうにかしなければ、英次一人ではかつぎ出すことも出来ません。僕は英次の一生を人殺しとして葬りたくはありません。
小野寺 どうも気がひけますがさがして見ましょう。死骸が出てもあなたは英次君を憎みませんか。
信 一 それは憎みます。復讐《ふくしゆう》がしたくなるかも知れません。ですが、僕は死んでしまったものにとっては復讐は何にもならないことを知っています。それにエゴイストの話ですが、僕の名誉も重んじます。復讐する勇気はありません。もしものことがあれば弟だけでも助けてやります。
小野寺 それを聞いて安心しました。
信 一 あなたも矢張り、僕と同じ考えですか。このなかに死骸が入っているとあなたも思いますか。
小野寺 十が八までは思います。
信 一 十が八までですか、まだ望みがあると思っているのですか。
小野寺 ええ、僕はまだ望みをおいています。今にも千代子さんが帰ってくる。
信 一 千代子さんが帰ってくる。僕はもうそんな望みはすてています。カギはありませんか。
小野寺 ありました。右の手にちゃんと持っています。
信 一 持ったまま倒れているのですか。いよいよ望みはありませんね。
(英次うなされる)
小野寺 あの声をきくと望みがありませんね。
信 一 いよいよ恐れていたことが来たのですね。
小野寺 (カギを持ち)あなたがあけますか。
信 一 僕にはあける勇気はありません。どうかあけて下さい。
小野寺 僕だってそんな勇気はありません。
信 一 どうか、そんなことを云わないで。
小野寺 ともかくあけずにすませるわけにもゆきませんから、あけて笑い話ですめばよろしいが。
信 一 そんな希望のあることは云わないで下さい。
小野寺 (カギをあける)ふたをあけますよ。
信 一 まって下さい。私はとり乱したくはありませんから。(目をつむり祈る)どうか。
小野寺 (あけて)あっ!
信 一 矢張り、矢張り、本当でしたね。ああああこんな、こんな目を見ようとは。(泣き出す)不幸な奴《やつ》だ。本当に本当に不幸な奴です。弟も馬鹿すぎます。だがこれも皆僕がわるかったのです。僕はどうしていいかわかりません。(泣く)仕方がありません。すんだことです。とり返しのつかないことが出来たものです。生きかえる見込はないでしょうね。
小野寺 (目をしらべたり、他をしらべたりしていたが)ありません。もうお死にになってから十時間以上たっているでしょう。
信 一 馬鹿です。馬鹿です。まさかこんな馬鹿なことはしまいと思っていました。ですがやむを得ません。私達は生きてゆかなければなりませんから。(死骸に礼拝する。死骸の前に両手をついてお辞儀する)許してくれ。千代子さん。あなたをこんな目にあわした、不甲斐《ふがい》ない私を。(泣く)
小野寺 それならふたをしますよ。
信 一 どうか。
小野寺 どうしましょうかね。
信 一 これは僕がもらってゆきます。
小野寺 大丈夫ですか。
信 一 大丈夫です。僕にはいろいろの仲間がいます。英次のことはあなたにお任せします。自動車をよんで来ますから。
(退場)
小野寺 あああ。こんなことが前世に起ったことがありそうだ。今の時代の話ではなさそうだ。千代子さん。千代子さん。皆を皆を、許してやって下さい。そしてどうすることも出来なかった私達を許して下さい。
(英次うなされる)
小野寺 英次君! 英次君。
(額にさわって見、おどろいて蒲団《ふとん》を出して来て、きせ、水をくんで来て頭をひやす。信一、菊の花と紅葉したもみじの枝をもって登場、黙ってカバンのふたを開け、花と葉でうずめ、黙祷《もくとう》し、カバンのふたをし、かぎをかけ)
信 一 さあ、やって来て手つだってくれたまえ。
(男二人登場)
男 このカバンだ。
(男黙ってカバンを運んで退場)
信 一 熱がありますか。
小野寺 随分高いようです。
信 一 それなら僕の友人に信用の出来る医者がいますから電話をかけましょう。何でもうちあけて安心な男です。弟は大馬鹿者ですが、生かしてやりたく思います。よろしく願います。
小野寺 出来るだけはやります。(看病しながら)
信 一 それを伺って安心しました。それでは失礼します。
(二人丁寧にあいさつする。信一退場)
(英次うなされる)
小野寺 しっかり、しっかり、気をたしかに。
英 次 (やっと半ば目をさまし)ああ小野寺、来てくれたのか。(カバンのなくなったのに気がつき)カバンは、カバンはどうした。
小野寺 君の兄さんがあとしまつをつけてくれることになって持っていった。死骸のことは安心するがいい。
英 次 君はみんな知ったのか。
(小野寺、合点して見せる)
英 次 それで君は僕をすてないのか。
小野寺 ますます捨てない。
(二人顔を見あわせる)
英 次 ありがとう。
(英次泣き出す)
――幕――
その妹
この一篇を亡《な》き姉に捧《ささ》ぐ
登場人物
野村広次(盲目、二十八歳)
静子 (広次の妹)
西島 (三十三歳)
芳子《よしこ》 (西島の妻)
高峰 (二十七歳)
綾子《あやこ》 (高峰の妻)
小間使《こまづかい》、女中、老婆、古本屋
時 現代(冬)
第一幕
広次の室
(広次机の前に坐って、手さぐりで何かかいている、静子登場)
広 次 静ちゃん。
静 子 ええ。
広 次 手紙が来たようだね。
静 子 そうですか。一寸《ちよつと》見て来ましょう。
(静子退場、まもなく登場)
広 次 来ていなかったかい。
静 子 叔母さんの処《ところ》へ手紙が来ただけです。
広 次 そうかい。どうして来ないのだろう。
静 子 本当に。もういくら何んでも来そうなものですね。
広 次 つまらないので返事をよこす気がしないのかも知れないね。
静 子 そんなことはありませんわ。旅行でもしていらっしゃるのでしょう。
広 次 それならいいけど。僕にはそうは思えないよ。
静 子 きっと御らんになればおよこしになってよ。
広 次 あの人の処にはいろいろの人の処から見てくれと云って可なり原稿がゆくらしいから。いつでもとりっぱなしにして読まないかも知れないね。読めば何んとか云って来そうなものだがね。お前の手紙はいくら何んでも読みそうなものだがね。
静 子 きっと今に来ますよ。待っている内は中々来ないものですね。一寸忘れている時に来るものですわね。
広 次 忘れる暇は一寸なさそうだからな。
静 子 それでも今日は来ると思いますわ。
広 次 昨日も静ちゃんはそう云ったよ。一昨日もそう云ったよ。
静 子 本当にハガキ一つでも下さればいいのにね。
広 次 自分の価値を他人の手に任せているような気がして心細くって仕方がないよ。送らなければよかったのだ。
静 子 そんなことをおっしゃっていたらきりがありませんわ。私はきっと今にいい御返事があると思いますわ。あの方があれをよんで感心なさらないわけはないと思いますわ。万一感心なさらなくったって厚意をお持ちにならないわけはありませんわ。あの方はお兄さんの名を御存じなわけなのですもの。
広 次 それはもう忘れているよ。もう四五年前の話だからね。
静 子 それでもお兄さんの画をあんなにお賞《ほ》めになったのですもの、そうしてお兄さんが戦争で盲目におなりになった時あの方一人、簡単でしたけれど惜しいことをしたとお書きになりましたわ。
広 次 あれからもう三年になる。あの人は今では他の人を賞めている。
静 子 それでもお兄さんのことを忘れてはいらっしゃらなくってよ。きっと。
広 次 目さえちゃんとしていれば、俺《おれ》は今時分皆を驚かすような画をかいているのだが、高峰なんかに負けてはいないのだが、しかしそんな話はよそうね。俺にはお前がいる。そうして俺は新しい仕事を始めた。そうしてその仕事がものになることをやっと感じて来た。
静 子 そうそ。高峰さんと云えば、こないだ綾子さんにお目にかかりましたわ。
広 次 何処《ど こ》で。
静 子 通りで、赤ちゃんを抱いていらっしゃいましたわ。丸髷《まるまげ》に結っていらっしゃいましたわ。
広 次 高峰も一緒かい。
静 子 いいえ。
広 次 話したかい。
静 子 はい。お兄さんのことを聞いていらっしゃいましたわ。
広 次 なぜ、だまっていたのだい。
静 子 忘れていましたの。
広 次 高峰のことを云うのを恐れたのだろう。(間)綾子さんの顔はまだこんな顔をしているかい。
(鉛筆で簡単にかいた女の顔を見せる)
静 子 よく似ていますわ。何時《い つ》おかきになったの。
広 次 今さっきだ。お前の顔もかいたよ。
静 子 よく似ていますわ。
広 次 お前はこの時まだ十五だった。もう随分ちがっただろう。
静 子 それ程ちがいませんわ。
広 次 これは俺の自画像だ。まだ目がある時だ。
静 子 どうしてかけますの。
広 次 ちゃんと頭にしまってあるからね。はっきり目に見えるよ。色つやもわかる。光線の工合もわかるのだよ。だけどこれ以上はかけないのだ。これだって目や口が何処についているかわからない気がする。
静 子 ちゃんとかけていますよ。
広 次 しかしこれじゃものにならないから仕方がない。だけどもうあきらめているよ。三年たったのだからね。お前を随分泣かせたね。俺も泣いたけど。もうそう癇癪《かんしやく》は起らなくなった。いくら起したって疲れきるより仕方がないのだからね。それに今では叔父《お じ》さんの処に厄介になっているのだから、そう癇癪を起すわけにもゆかないからね。しかしそれが反《かえ》ってよかったのだ。俺はもう本当に目のことはあきらめた。それに新しい仕事が出来かけて来たからね。西島君からあの作をほめてさえくれば、俺は嬉《うれ》しいのだ。俺だってかき足りないことは知っているがまだ初歩だからね。その内にものになることさえはっきりわかればそれでいいのだ。俺は一人前の人間じゃないのだから何よりも根気が大事だからね。
静 子 本当に私、いい御返事があるといいと思って祈っておりますのよ。
広 次 馬鹿! しかし祈りたくもなるね。俺がどうしてこう意気地《いくじ》がないのかと自分でも不思議だよ。今度のが駄目だと云われたって失望はしないよ。何んと云っても今となってはこの仕事にかじりつくより仕方がないのだからね。だけど希望だけは見せてもらいたい気もするよ。俺の内にあるものは何時かきっとこの世に出るとは思うけど、もう待ちどおしいよ。皆が仕事をしだして世間が活気づいているらしいからね。本当にうっかりしてはいられないよ。叔父さんや叔母《お ば》さんだって親切にはして下さるけど、どうしたって食客《いそうろう》だからね。癈兵《はいへい》の金だって知れたものだからね。他人に慈善事業をさして生きてゆくのはたまらないからね。それにお前だって肩身がせまくって叔父さんが嫁《ゆ》けと云う処へゆかなければならないからね。俺の自由もお前の自由も、俺の仕事の成功するかしないかで、きまるのだからね。そう思うと俺はもうじっとしていられないよ。その内にお前も俺からひきさかれてつれてゆかれそうな気がして仕方がない。それさえなければ俺はこんなにまであせらないかも知れない。俺は自分の画が世間から賞められ出した時も、これで自由が得られるようになるかも知れないと、それを一番喜んだのだった。今の時代には生活の安定を得なければ自由は得られないからね。
静 子 私どうしたってお兄さんのわきを離れはしませんわ。きっと今にお兄さんの仕事は私を幸福にして下さると思いますわ。私はそれを疑ったことは御座いませんわ。それは一日でも早い方がよう御座いますが、私急ぎはしませんわ。私安心して待っていますわ。(何か思いついて)それはそうとしてお兄さん。私今日へんなことを聞きましたのよ。
広 次 へんなこととはなんだ?
静 子 お怒《おこ》りになってはいやよ。お兄さんは今朝《け さ》小間使の手をお握りになって?
広 次 誰《だれ》がそう云った?
静 子 叔母さんが見ていらっしたのですって。なぜそんなみっともないことをして下さったの?
広 次 わるかったよ。俺は女の顔や姿や手や足を見ることが出来ないのでね。一寸さわって見たかったのだよ。たださわって見ればよかったのだ。心のなかのことは知らないけど。さわるぐらいなことは盲目の俺には許されていていいと思ったのだよ。叔母さんが見ていると云うことは知らなかったのだよ。
静 子 御飯たきなんかも笑っていましたわ。叔母さんは小間使に「怖《こわ》かったろう」とおっしゃいましたよ。
広 次 そうか。仕方がない。
静 子 叔母さんは、もう小間使に、人がいない時にお兄さんのそばにゆくとあぶないから、行くなとおっしゃいましたわ。
広 次 そうか。仕方がない。
静 子 仕方がない、ではありませんよ。本当に見っともない。私聞いていて顔から火が出るような気がしましたわ。
広 次 許しておくれ。
静 子 口惜《く や》しいとはお思いにならなくって。
広 次 思う資格も今はないからね。
静 子 本当にしっかりして頂戴《ちようだい》よ。
広 次 するよ。俺はさっき新しい仕事を考えていた。お前が今暇なら一寸かいて貰《もら》いたい。
静 子 ええ。書きますわ。(机のわきによる、広次座をゆずる)
広 次 いいかい。
静 子 はい。
広 次 今度は俺が演説しているところだよ。いいか俺がある会場で演説をしているのだ。
静 子 ええ。ようございますよ。
広 次 いいかい。本当に演説をしているようにして云うよ。
静 子 はい。
広 次 始めるよ。(立ち上り)笑ってはいけないよ。
静 子 笑うもんですか。
広 次 本当に笑う暇はないね。俺達は死にもの狂いにならなければならないのだ。少しぐらい書きおとしがあってもあとでなおせるから聞きなおさずに書いておくれ。
静 子 はい。
広 次 本当にはじめるよ。(演説をするように、しかし筆記出来るようにゆっくりしゃべる)私は盲目です、戦争で盲目になったのです。こう云えば諸君は死ななかったのを幸《さいわい》に思えとおっしゃるかも知れません。たしかに私は死ななかったことを幸と思っています。しかし私にとって目を失うことは少しつらすぎます。(広「書けたかい」静「はい」)諸君はそんなことは云わないでもわかっていると、お思いになるかも知れません。しかし私にとって目を失うことは、諸君の察して下さるよりもつらいことだったのです。諸君。私は画家だったのです。どうせ下手《へ ぼ》画かきだと諸君はお思いになるでしょう。どうせ目がわるくなくとも大した仕事はしないにきまっているとおっしゃるでしょう。それを考えると私は口惜《く や》し涙をこぼします。(広「書けたかい」静「はい」)私はそうでないと云う証拠をあげることは出来ません。又私は今後そうでないことをお知らせすることは許されない身の上です。私は諸君に何と思われても私は黙ってそれを受け入れなければならないのです。(広「書けたかい」静「はい」)諸君にとっては私が盲目になったのは何事でもありません。日本にとっても何事でもありません。第一私の生きていることが諸君にとって何になりましょう。私は戦争で死んだところが諸君はいささかも痛痒《つうよう》を感じられないでしょう。(広「書けたかい」静「はい」)諸君はいかなる天才の若死をも心から痛むことをされないでしょう。まして私のようなものが、死のうが生きようが、盲目になろうがなるまいが、諸君にとっては何事でもないでしょう。私から泣言を聞かされるのさえ、不快に思われるでしょう。(「書けたかい」「はい」)それを私は決して無理だとは申しません。決してそれを不当だとは申しません。しかしそれだけ私にとっては淋《さび》しい気がいたします。今は少しあきらめています。しかしあきらめるまでは一通りのことではありませんでした。(「書けたかい」「はい」)永遠に私の目は開きません。諸君の顔を見ることは出来ません。想像はします、しかし心細い気がします。見たいものばかりです。私がよし画かきでなかったにしろ私は盲目になったことを悲しみます。不自由です、他人に迷惑を与えます、一人前《いちにんまえ》ではなくなります、見たいものが見えません。よみたいものがよめません。(「書けたかい」「はい」)私の世界は手にさわるものと、耳に聞えるものと、香《にお》いのするものとです。そうしてその度《たび》に見たいと思います。大事なものが一つかけているような気がします。そうして私の希望はそれの為《ため》にすべてこわされました。(「書けたかい」「はい」)私は画かきです。私の希望は画をかくことによってのみ満たされると思っていたのです。私の運命は私の画が進歩する事によって開けてゆくと思っていたのです。私は今でも目の前に自分のかきたいと思う幻をはっきり見ることがあります。夢の内には美しい色と形とを見ます。しかし私はそれをかくことは出来ません。(「書けたかい」「はい」)私の五六年の苦心はもう一歩と云う時に消えてしまいました。もうとり返すことが出来ないのです。他の人は知りません、私と私の唯一の妹は泣きました。何度泣きましたでしょう。互に抱きあって泣きました。口惜しいのです。なさけないのです。もうあらゆる希望はなくなったのです。絶望です。私は召集される前に一つの画をかいておりました。妹が立っている姿です。諸君はどうせ碌《ろく》な画ではなかったとお思いになるでしょう。(間「書けたかい」「はい」)そう思われても、私はどうすることも出来ないのでしょう、この目がどうしても開いてくれないように。諸君よ、仮りに仮りに私を有望な画家だったと思って下さい。そうしてどうかそれを疑わないで下さい。どうせどうせ私の画はまだものにはなっていなかったでしょう。しかしもう一歩進めば、ものになるところだったと思って下さい。少くも私はその仕事をしていた時、自分の未来に希望を認めていたと思って下さい。(「書けたかい」「はい」)私はその画を描きながら妹に云いました。俺は勝つよ、きっと勝つよ、俺の運命もお前の運命もひらけるよ、俺の画かきになったことを叔父さんも喜んでくれるだろう、叔母さんも軽蔑《けいべつ》はしないだろう。二人はいつまでも叔父さんの家の食客になっている必要はないのだ。幸運は私達を待ってくれるのだ。俺はそれを今感じている、目の前に勝利の幻を見ている。もう少しの辛抱だ。私は本当にそう思ったのです。私は自覚を得つつあったのです。そうして妹も私のその言葉を信じていてくれたのです。妹ばかりではありません、友もそれを信じてくれました。(「書けたかい」間「はい」)ある展覧会に出した私の画は私の尊敬する批評家から可なり程度の高い賞《ほ》め言葉すらもらったのです。こう云っても、諸君は知れたものだとお思いになるでしょう。しかし仮りに私を有望な人間だと思って下さい。有望な人間がもう一歩と云う勝利の自覚を得た時召集されて、戦争に行って盲目になって帰って来たと思って下さい。それはあり得ないことではないでしょう。(間)諸君はその人に同情することを禁じないでしょう。しかし私がその人だと云えば、諸君は自惚《うぬぼ》れていると思われるでしょう、私は情けない気がします。しかしさけることの出来ない運命を呪《のろ》ってばかりもいられません。私は画がもう二三日で出来上ると思った時に召集されたのです。私はその場合召集されるのはいやでした。しかし私は抵抗することは出来ません。妹は泣きました。私も泣きました。しかし私は戦争にゆかなければならなかったのです。(「書けたかい」「はい」)私は戦争へゆきました。私は大の非戦論者でした。人を殺すことは嫌《きら》いな男です。又人に殺されることはこの上なく嫌いな男です。私は国家が戦争をしたことにも不服だったのです、私は友とその話をしていました。私は兵隊にとられた為に、少し進歩がおくれたのです。そうしてそれをやっととりもどしたと思う時に戦にとられたのです。(「書けたかい」「はい」)戦争にゆきました。鉄砲もうちました。憐《あわ》れな敵の軍事探偵を銃殺する群にも入りました。私は心のなかで謝罪し、その人の為に祈りながら、そうしてねらいをはずしましたが、私はその人の生命をたすけることも、死の恐怖からゆるめることも出来ませんでした。私はなぜあんなことをしなければならなかったのでしょう。今でもその人の顔が目に浮びます。何かの力が私にそれをさしたのです。何んの力か私は知りません。私はそれに抵抗することが出来なかったのです。自分の死ぬのが怖かったからでしょうか。それだけだったでしょうか。
静 子 そんなに早くかけませんわ。
(小間使登場)
小間使 静子さま。奥さまが一寸《ちよつと》。
静 子 すぐ参りますと云って下さい。
小間使 はい。
(小間使退場)
静 子 一寸行って来ますよ。
広 次 行っておいで。
(静子退場、広次鉛筆をとりあげ字を書こうとして自棄《や け》をおこし)
広 次 あああ。(仰向けにたおれる。暫《しばら》く沈黙)
(小間使登場。広次起きる)
小間使 お客さまがいらっしゃいました。
広 次 誰?
小間使 西島さまとかおっしゃいました。
広 次 なに? 西島? すぐここにお通ししてくれ、きたない処《ところ》ですがと云って。そうして静子に西島さんが来たと云っておくれ。
小間使 はい。
(女中退場。広次一寸黙祷《もくとう》する)
(西島小間使に案内されて登場)
小間使 どうぞお敷きになって。(座蒲団《ざぶとん》をすすめる)
西 島 ありがとう。
小間使 いらっしゃいました。
広 次 よく来て下さいました。
西 島 どういたしまして。(二人挨拶《あいさつ》する、一寸沈黙)もっと早く御返事すればよかったのですが、昨日まで一寸旅行していましたので失礼いたしました。今朝お作を拝見しましたので早速手紙を書こうかと思いましたが、それよりお目にかかった方が話がよくわかるように思いましたので来ました。お宅はお近いのですから。
広 次 どうもありがとう。
西 島 お作はいいものだと思いました。君でなければかけないと思います。まだ書きたりない処はあるでしょうが、君の心の苦しみがよく出ていると思いました。君は君の血や涙や君の全生活を作の内にしぼりだすことの出来る少数な人の一人と思いました。君の画をこの前拝見した時もそう云う気がしましたが、今度君のお書きになったものを見て矢張りああ云う画をかいた方の作だと思いました。私は同情はぬきますが御不自由なのによくあれだけかけたと思いました。
広 次 ものになっているでしょうか。
西 島 なっていると思います。まだむらな処がないとは云えませんかもしれませんが、何しろ君の心の苦しみがよく出ています。さぞ苦しかったろうと思われます。
広 次 本当にもう少しで自殺しようかと思いました。生きているのが不思議なようです。戦争で死ななかったのも不思議ですけど、盲目になってから自殺しなかったのも不思議です。妹が居てくれたからです。私がどんなにみじめに生きていても、妹は私の生きていることを喜んでくれました。そうして私の死ぬことを望んではくれませんでした。私がどんなに癇癪を起しても妹は私を憎んではくれませんでした。私は他人《ひ と》手《で》を借りないでは生きてゆかれない人間になりました。今から盲目の字をならう気もしませんし、ならったってそれを目あきの宇になおすのには他人手を借りなければなりません。本をよむのでも盲目の本と云うものには碌《ろく》な本はないと思いますからね。矢張り読んでもらわなければなりません。その癖私の頭はへんに頑固《がんこ》に出来ていますので、自分のよみたいものきり読めない質《たち》なのです。それに自分の生きていることが他人に迷惑をかけることになるのですから、気がひけていけません。幸い妹が居てくれるので助かっています。もし妹が居ませんでしたら、私は生きていることに希望は爪《つめ》の垢《あか》程ももつことは出来なかったでしょう。
西 島 本当に御同情します。本当に随分苦しかったでしょう。
広 次 何しろ一人前の人間になるのが大変な努力なのですからね。塙保己一《はなわほきいち》なぞと云う人のことがこの頃よく考えられます。まるで忘れていたものですが。そうして慰められています。馬琴だとかミルトンだとかも盲目になって、自分のかきたいものを口述したそうですが、齢《とし》とって仕事をし上げて皆から尊敬されたあとで盲目になったのですからそう慰めにはなりませんが、ヘレン・ケラーのような人のことを考えると鼓舞してくれます。盲目になってしまった以上、今更不平を云っても始まりませんから、どうかして盲目でも出来る仕事で、自分の運命を切り開いてゆきたいと思います。根気では他人に負けない心算《つもり》です。死ぬ覚悟は出来ています。どうにかしてものになろうと思っています。なりたいと思っているのです。ですが、自分ではまだよくわからないのです。画の方だと、少しはわかってくれたのですが、画も五六年はわかりませんでした。やっとわかりかけた時に目をやられたのですから、少し可哀そうな気もします。今だって頭の内には時々画が出来ることがあるのです。夢のなかでよく画をかいている夢を見て目を覚《さ》まして怒鳴ることもあります。あの小説の内にもかきましたが、聾で作曲は出来ても、盲目で画はかけない気がします。色をつかわない簡単な画ならかけてもいいと思うことがありますが、思うようにはゆきません。それでも時々こんな画を退屈まぎれにかいて見ることもあります。自分には見えませんが。(さっきの画を見せる)
西 島 これは自画像ですね。
広 次 ええ。まだ目のあいている時のです。目に未練があるわけではないのですが、と云って、ないことはありませんが、目がつぶれてからの自分の顔は見えませんからね。
西 島 ああ。これは高峰の細君ですね。
広 次 わかりますか。
西 島 よく似ています。
広 次 もう子供が出来たそうですね。
西 島 ええ。
広 次 随分変ったでしょう。
西 島 いいえ。そう変ってはいません。これは妹さんのですね。
広 次 そうです。
西 島 これによく似た貴君のおかきになった油画をもっています。
広 次 そうですか。
西 島 高峰の細君からもらったのです。
広 次 今見たらたまらない画でしょう。
西 島 そんなことはありません。今でもいい画だと思っています。
広 次 せめてもう十年も画がかけたらと時々思わないことはありません。しかしもうあきらめてはいます。
西 島 あの小説にかいてありましたが、画は大概お破りになりましたか。
広 次 ええ。大概小刀で切りさいてしまいました。
西 島 あすこを読んだ時、惜しい気がしました。
広 次 その方の未練はありません。あんなものが残ってくれたって何んにもなりませんからね。どっちにしろ知れたものですからね。(間)それから少しあつかましい気もしますけど、私のものを貴君の雑誌にのせて戴《いただ》くわけにはゆかないでしょうか。
西 島 私一人の考《かんがえ》ではおのせしたいと思いますが、私一人の考でもゆきませんから。
広 次 無理にとは申せませんけど、よかったら載せて戴けるとありがたいのです。
西 島 なるべく載せるように骨折って見ましょう。しかしあの作一つでそう反響を得ることは出来ないでしょう。
広 次 それは私も知っています。
(静子お茶と菓子をもって登場)
広 次 静子かい。
静 子 はい。
広 次 妹です。
静 子 よくいらっしゃって下さいました。
西 島 始めて。
(二人挨拶する。静子お茶をついですすめる)
静 子 よく来て下さいました、(間)御返事がないので兄は心配しておりました。
西 島 旅行をしておりましたので、今朝拝見しましたので早速お伺いしたのでした。
静 子 兄のものはどうですか。
西 島 いいものだと思いました。
静 子 それは本当で御座いますか。
西 島 お世辞は申しません。
静 子 出して戴けますか。
西 島 友と相談して見ましょう。
静 子 あなたお一人のお考ではどうお思いになりますの。あなたお一人のお考でどうにでもなるのでは御座いませんの。
西 島 そうもゆきません。
静 子 それでもあなたが是非出そうとお思いになれば、ゆかないことはないのでしょ。
広 次 静ちゃん!
静 子 それでも私、今出すとおっしゃって戴かないともう出して戴けないような気がするのですもの。
広 次 そんな勝手なことを云うものではないよ。
静 子 私はいいものだと伺った以上は日参をしてでも出して戴きますわ。皆さんはあんな盲目に何が出来ると云っていらっしゃいますわ。それに私一寸《ちよつと》心配なことも御座いますのよ。二人が気兼ねして一寸の時間をぬすんでやっと書き上げたものが、西島さんのお考一つでどうにでもなるのだと思うと、私おすがりしたい気もしますわ。それも物になっていない物なら仕方がありませんけど。
広 次 黙っておいで。西島さんの方にもいろいろ御都合がおありになるだろうし、あの作は出したってどうせ思うような反響があるわけもないからね。それに私達の仕事はゆっくりするより仕方がないからね。
静 子 お兄さん。そんな呑気《のんき》なことを云ってはいられませんのよ。私、もしかしたら近い内におよめにゆかなければならないかも知れませんのよ。
広 次 そんなことが。
静 子 それでも叔母さんがそうおっしゃいましたわ、叔父さんが大変お世話になっている方の息子さんが私を是非もらいたいとおっしゃるのですって。叔母さんは喜んでいらっしゃいましたわ。私のことを果報者だとおっしゃいましたわ。
広 次 静ちゃん。お前はゆく気があるのかい。
静 子 いいえ。私はお兄さんのわきを今はなれることは出来ませんとそう申しましたの。お兄さんのお仕事の手だすけをしなければなりませんからとそう申しましたの。
広 次 そうしたら。
静 子 とも倒れになるようなことはよせとそうおっしゃいましたわ。(忍び泣く。暫く沈黙)
広 次 お前は本当にゆきたくないのか。俺《おれ》のことを思ってくれるのは嬉《うれ》しいけれど、俺は俺で又どうにかするだろう。俺の仕事は気永《きなが》な仕事だ。どうにかするだろう。お前は俺の犠牲にならない方がいい。
静 子 本当に私はゆきたくは御座いませんの。お兄さんのお傍《そば》にいたいの。
広 次 (嬉しさをかくしきれず)それは本当か。そうしてお前は何と返事をしたのだ?
静 子 もう二三年待って戴きたいと申しましたの!
広 次 そうしたら?
静 子 待てばきっと結婚するかとおっしゃったの。
広 次 お前は何と言った?
静 子 それはわかりませんわ、と申しましたの。
広 次 そうしたら。
静 子 そうしたら大変お怒りになって、先様にそんな御返事が出来ますか、とおっしゃいますの。それで私はそれならお断りして下さいと申しましたの。そうしたら叔母さまは本当にお怒りになりましたの。そうしてそんな御返事が出来ますか、そうしてもし叔父さまがそれで免職をされたらどうしますとおっしゃるの。
広 次 お前どうした。
静 子 そんなことはあるわけはありませんわと申しましたの。
広 次 うん。
静 子 そうしたら叔母さんは、いいえそうにきまっていますとおっしゃるの。
広 次 それから。
静 子 私、泣いてしまいましたの。
広 次 (歎息をつく)あああ。
静 子 叔母さんは自分の娘だったらこんな気ずいな真似《まね》はさせないとおっしゃいましたわ。
西 島 失礼ですがその話の方のお名前を聞かして戴くことが出来ますか。
静 子 相川とおっしゃるのです。
西 島 相川三郎と云う方では御座いませんか。
静 子 そうで御座います。御存知でいらっしゃいますか。
西 島 その人なら知っています。
広 次 どんな人ですか。
西 島 正直に云いますと、僕より六つ下の級にいた人でよくない噂《うわさ》で退校された人です。
静 子 そんな風評は存じています。叔父さんがよく悪口《わるくち》を云っていらっしゃいました。相川さまも三郎さまにはお困りでいらっしゃると申していました。
広 次 そんな人の処へゆけと叔母さんが云うのか。
静 子 さもなければ私のようなものを相川さまでもらいたいとはおっしゃりはしませんわ。
広 次 よし。それならどうしてもいってはいけないよ。
静 子 それでももし叔父さまが免職をさせられたら。
広 次 そんな不当なことで免職になったって。
静 子 それでもその時私達はどうして生きていられますの。
広 次 そんな話はもうよそう。(西島に)いやなお話ばかりおきかせしました。こんな話はお聞かせしたくはなかったのですが。
西 島 いいえ。ちっとも。
静 子 兄の小説は出してはいただけませんでしょうか。
西 島 出しましょう。原稿はお返ししようと思って持って参りましたが、それならば戴いてゆきます。
静 子 失礼なことばかり申しました。御作をよく拝見しておりましたので、もうよく知っていて下さる方のような気がしますもので、私の方ばかりで存じていると云うことをつい忘れますので。
西 島 いいえ。私の方でも野村さんのことは勿論《もちろん》、あなたのことも存じています。野村さんのおかきになった貴方《あなた》の肖像は私の室にかかっております。
静 子 まあ! 兄のかいた画をかけていて下さるのですか。
西 島 ええかけています。高峰の細君からもらったのです。
静 子 高峰さんの綾子《あやこ》さんはよくいらっしゃいますか。
西 島 ええ。妻とも友達なので。
静 子 お逢いになったらよろしくおっしゃって下さい。
広 次 高峰君にあったら僕からもよろしく云ったとおっしゃって下さい。もう少し元気になったらお目にかかりたいと思っているとおっしゃって下さい。今まだ画の話をするのがつらい気がしますから。
西 島 そう申しましょう。それなら失礼します。それからこんなことを申すのも変ですが、御入用の節は余分のことは出来ませんが、どうか御遠慮なく。
広 次 ありがとう。又よかったらこんな処《ところ》ですが、どうか。
西 島 ありがとう。私の処にもおいで下さい。少しは蓄音器のいい盤も御座いますから。
広 次 ありがとう。
静 子 今日来て下さったのでどんなにか兄が喜んだで御座いましょう。どうか又おこりなくおいで下さい。
西 島 ありがとう。
広 次 お送りして上げておくれ。
静 子 はい。
西 島 さよなら。
広 次 さよなら。
(西島と静子退場。静子登場)
広 次 帰ったかい。
静 子 お帰りになりました。お兄さんのお作がいいと云うことを聞いて私本当に安心しましたわ。
広 次 そうかい。俺は西島君があの小説を出すようになった動機が少し気に入らないのだよ。しかし今そんなことを云っている時でもないが。西島君はお前がたのんだから出す気がしたのだ。お前が醜かったら西島君は僕の小説を出すとは云わなかったろう。
静 子 お兄さんはすぐそんな厭味《いやみ》なことをお考えになるのね。
広 次 しかしそんなことはどうでもいい。結婚の話と云うのは本当なのかい。
静 子 本当ですとも。
広 次 そうして何時《い つ》までに返事をすればいいのだ。
静 子 早い程いいのだそうです。もう向うではくるものにきめていらっしゃるのだそうです。是非くれ、不服はないだろうね、とおっしゃったのだそうです。
広 次 そんな馬鹿なことが。
静 子 それでも相川さまはそれは頑固な方なのですってね。自分の云い出したことは理でも非でも通そうと云う方ですってね。少《すくな》くも下なものに対しては。そうして叔父《お じ》さまが本人に聞いて見ますとおっしゃったら、君の処の食客《いそうろう》じゃないか、本人に相談をする必要が何処にあるのだ、それとも君は三郎に不服があるのか、とおっしゃったそうです。
広 次 叔父さんはどうしたのだ。
静 子 叔父さんはそれでもはっきりした返事はなさらなかったのだそうです。すると君の処にいる娘をどうしてもくれなければ、その結果はどうなるか君は知っているだろうね。君は働きがあるから僕の会社でつかっていると思っているのか、まあ考えておいてもらいたい。とそう云ったそうです。
広 次 そんなことを云ったのか。なぜさっき其処《そ こ》まで云わなかったのだ。そうすれば少しは金のさいかくをしてもらって最後の決心をしなければならなかった。
静 子 最後の決心とは。
広 次 二人で何処かで家をもつのだ。
静 子 そんなことは出来ませんわ。
広 次 それならお前はどうする心算《つもり》だ。
静 子 どうしていいかまるでわかりませんの。お兄さんは私がいなくなったらどうなさって。
広 次 お前はゆく気があるのか。
静 子 お兄さんは。
広 次 俺はゆくことには断じて反対だ。しかし俺には不服を云う資格はない。
静 子 私だってそうですわ。
広 次 お前は俺がいなかったらすぐ承知をするだろう。
静 子 それは承知するかも知れませんわ。私一人さえハイと云えばそれでいいのですからね。
広 次 だけど俺がいる。俺の仕事がある。承知してはいけないよ。
静 子 はい。
広 次 今、お前がいなくなったら俺の希望は消えてしまうよ。もう一歩と云うところだからね。お前がどうしてもゆきたいと云う処なら俺はあきらめるかも知れない。だが今度のことはお前も不服なのだからね。お前の本心は叔父《お じ》さん一家の犠牲になりたくないのだろう。
静 子 はい。本当は。
広 次 俺の犠牲になってくれる方を喜んでくれるだろう。俺は無理なことは云わないつもりだ。お前の一生を犠牲にしようとも思わない。俺はお前の為《ため》にも仕事をしたいと思っているのだ。お前を喜ばしてやりたいと心の底では思っているのだ。この三四年の間お前にかけた苦労は非常だった。俺はそれを自分の仕事で酬《むく》いたく思っていたのだ。そうしてその希望がかすかではあるが見えて来たと思っていたのだ。俺はそれを喜んでいたのだ。俺は自分の為にも仕事の成功を願っている。しかしお前の為にも願っていた。お前ここにおいで! お前には本当に苦労をかけた。そう何時までも苦労はかけない。俺も男だ。(静子の目に指をさわり)お前は泣いているのか。今は泣く時ではない。心を鬼にする時だ。
静 子 それでも免職になったら叔父さまもお可哀《かわい》そうですわ。本当にいい方なのですもの。
広 次 そうか。矢張りお前はゆきたいのだな。ゆきたければゆきたいと云え。
静 子 お兄さん。何をおっしゃるの?(泣く)
広 次 ゆきたくないのか。それなら泣くことはないじゃないか。力のない意気地《いくじ》なしと、不正な人間の犠牲になっては馬鹿気ているよ。
静 子 それでもお兄さん、叔父さんが免職になったら、どうして食ってゆくお心算《つもり》。
広 次 二人だけならどうにかやってゆける。西島さえ本気に力を入れてくれればどうにかなるにちがいない。しかし一体相川はなぜそんなにお前をもらいたがるのだ。お前は相川に逢《あ》ったことがあるのか。
静 子 ええ。十日程前に電車でお目にかかりましたの。叔母さんのお伴して電車にのりましたら、三郎さんがお友達と御一緒にいらしったのです。
広 次 敬語なんかつかうのはよせ、馬鹿! それで。
静 子 お怒りになってはいやですよ。それで叔母《お ば》さんが丁寧に御挨拶《ごあいさつ》をなさって私をこれは私の家に厄介になっております姪《めい》で御座います、御見知りを願いますとおっしゃったの!
広 次 それでお前は丁寧にお辞儀をしたのか。顔を赤くして。(間)それが気に入ったのだ。
静 子 それからもっといやなことが御座いますの。
広 次 なんだ。
静 子 私、一昨日《おととい》叔父さんの御伴をして相川さんの所へ参りましたの。
広 次 なぜ行ったのだ?
静 子 私、何にも知らなかったのです。ただ叔父さんの御伴をして行ったのです。行く時叔母さんが何時《い つ》になく御機嫌《ごきげん》がよくって、着物のことやお化粧のことをやかましくおっしゃるので変だとは思ったのですが、私のことでしたから、別に気にもかけずに御伴して行ったのです。途中まで行くと叔父さんが一寸《ちよつと》相川さまの処へおよりしようとおっしゃるのです。私は何気なくついてゆきましたの。立派なお家《うち》でしたわ。いい趣味の家とは思いませんでしたが、如何《い か》にも金がかかったと云うお家《うち》でしたわ。
広 次 そうして相川のお父さんやお母さんにもあって丁寧にお辞儀をしたのだろう。
静 子 ええ。しましたの。
広 次 馬鹿!
静 子 しかしそれだけならまだいいのです。もっとずっとひどいことが御座いました。今になってはっきりわかります。
広 次 どうしたのだ?
静 子 湯に入れとおっしゃったのです。
広 次 それは本当か。そうしてお前は入ったのか。
静 子 叔父さまも是非入れて戴《いただ》くといい、結構なお湯だからとおっしゃったのです。
広 次 それでお前は入ったのか。
静 子 はい。
広 次 一人でか。
(静子泣く)
広 次 泣いていてはわからないじゃないか。誰《だれ》と入ったのだ。
静 子 あとで奥様が入っていらっしゃいましたの!
広 次 馬鹿! 馬鹿! お前は恥知らずだ!
静 子 そうして私が湯から出ました時、其処に三郎さまが何気なく立っていらっしゃいました。
広 次 お前はどうしたか。
静 子 私は、まさか故意《わ ざ》とだとは思いませんでした。あっと申しました。その時三郎さんはあわててお逃げになりました。
広 次 そうしてお前は御かげでいい気持になりましたと云って礼を云って帰って来たのか。
静 子 はい。
広 次 俺《おれ》が盲目にならなかったらそんなことはさせなかった。俺が西洋に生れていたら三郎と決闘してやる。ただはおかない。泣かないでもいい。策略にかかったのだ。それを聞いたら俺はなお承知は出来ない。皆ぐるだ。もしお前が相川の処へ行くならその前にこの俺を殺してくれ。あんまりだ。あんまりだ。
静 子 それでも私よりももっと可哀そうな女がいくらでもありますわ。
広 次 俺は恥知らずにはなれない。いい。其処までしてくれたのは俺達にとって仕合《しあわせ》だった。何時《い つ》までも負けてはいないぞ。俺だって男だ。画にかけては天才だとまで云われた人間だ。石にかみついたって負けてはいない。行こう。行こう。
静 子 何処《ど こ》へ。
広 次 西島君の処だ。
静 子 何しに?
広 次 お前も来い。
静 子 何しに。
広 次 お前は黙って叔父さんのお伴をするのじゃないか。黙って俺のあとをついておいで。
静 子 はい。
(二人退場)
――幕――
第二幕
西島の室
(二階。書棚《しよだな》あり。蓄音器あり。壁に画がかけてある。西島、帽子をかぶったまま登場、帽子を畳の上になげる。芳子《よしこ》登場)
芳 子 おかえり遊ばせ。どうでした。
西 島 行ってよかった。いろいろのことを考えさせられた。
芳 子 目はまるでお見えにならないの?
西 島 そうだ。
芳 子 随分御不自由でしょうね。
西 島 ただの人間だって目が見えなくなってはたまらない.まして画かきだったのだからね。
芳 子 もう画はかけませんわね。
西 島 それはかけないさ。
芳 子 あなたがいらしったので喜んでいらしって?
西 島 喜んでいた。しかしそれどころではないのだ。
芳 子 何かあったのですか。
西 島 ああ妹に縁談が起っているのだ。
芳 子 妹さんがいなくなったら不自由でしょうね。
西 島 それはどうすることも出来ないだろう。筆記する人をやとうことも出来ないだろうし、読んでほしい本をよんでもらうことも出来ないからね。
芳 子 妹さんはこの画に似ていますか。
西 島 これよりは大人《おとな》らしくなっているが、よく似ている。
芳 子 それでは綺麗《きれい》でしょうね。
西 島 まあ綺麗な方だ。
芳 子 それでは行った甲斐《かい》がありましたね。
西 島 馬鹿!
芳 子 ですが、およめにゆくのではお困りでしょ。
西 島 それがどんな処へゆくのだと思っている。先日芝居の帰りに電車にのった時、俺の前に酒に酔って居眠りしている奴《やつ》がいたろう。いやな顔した。
芳 子 道楽者らしい。
西 島 俺が相川三郎と云うのらくらものだと云ったろう。
芳 子 ええ。
西 島 その人の処へゆくかも知れないのだ。
芳 子 どうしてです。
西 島 あいつのお父さんのやっている会社に、野村の叔父さんが出ているのだ。野村の叔父さんと云うのはあんまり働きのない奴らしいのだ。それで相川のおぼしめしにそむくと、職を失うかも知れないのだ。それで是非野村の妹を相川の三郎にやりたく思っているらしいのだ。
芳 子 野村さんはそれを承知なさっているのですか。
西 島 承知はしないさ。いくら盲目になったって、野村は男だからね。だけどしまいには承知しなければならないだろうと思うのだ。野村は叔父の処《ところ》に半分食客《いそうろう》になっているのだからね。
芳 子 野村さんのお父さんやお母さんは?
西 島 もう両方ともいないのだ。
芳 子 それでは随分お困りでしょうね。
西 島 お前が野村の妹だったら相川の処へゆくかえ?
芳 子 あんな人の処はまっぴらですわ。見たところから浅薄な顔しているのですもの、それにあんな下品な顔は閉口ですわ。
西 島 お前がもしあの人にどうしてもゆかなければならなかったらどうする?
芳 子 逃げますわ。
西 島 俺は道々考えた。あんな男の細君になるよりは淫売婦《いんばいふ》になる方がいいと思ったよ。まだ自由があるからね。ああ云う奴と一生一緒にいると云うことはたまらないことだ。
芳 子 本当にそうですよ。
西 島 野村の妹もとんでもない奴に見こまれたものだ。
芳 子 どうにかならないでしょうか。あの人を見なければそうも思いませんが。少し御気の毒ですわね。
西 島 野村が目をあいていたらどうにか出来たろう。しかしどうせゆくものなら目が見えない方が野村にとって仕合《しあわせ》かも知れない。
芳 子 妹さんはお気の毒ですわ。どうにかならないでしょうか。
西 島 矢張りまだ金の世の中だからね。それに野村の妹のような位置が一番いけないのだ。もっと貧乏していればまだどうにかなるのだ。しかし野村の位置ではむずかしい。叔父さんに働きがあったとしても職を失ったら一寸めんくらうだろう。まして働きがないのだからね。
芳 子 随分お気の毒ね。
西 島 俺は道々どうしたらいいかと考えたよ。しかし俺には考えられなくなった。野村は金をとることは一寸出来ないからね。叔父さんが職を失ったら、それも自分の妹の為《ため》に職を失ったのだからね。もう叔父さんの世話にはなっていられないからね。金がなければ今の世には生きてゆかれないからね。
芳 子 それではどうしても相川と云う人の妻にならなければならないでしょうか。
西 島 まあ、暫《しばら》くあいまいにしておくより仕方がないね。その内に野村が少しでも有名になれば、又どうにかならないと云うこともないからね。しかしそれもあてにならない話だが。俺は野村の処へ行って野村が目の不自由なことばかりに拘泥して、目さえあれば目さえあればと思っているのを見て自分に目のあるのを今更に勿体《もつたい》なく思ったよ。そうして野村の兄妹が金の為に苦しんでいるのを見ては、なお自分がすまなく思ったよ。本当に野村は運のわるい奴だ。そうしてその運ととっくみあいをしている野村の有様を見ると悲壮な感じがする。勝たしてやりたいと云う気がする。
芳 子 本当に勝たして上げたい気がしますわね。
西 島 この小説にもかいてある様に、実際画をかいている夢を見て泣いたり、癇癪《かんしやく》を起したりしたらしい。どうかして起き上ろう起き上ろうとしているらしい、それにくらべると俺なんか勿体《もつたい》ない程運がいい。俺の境遇にいて何かしなければ余程の馬鹿だ。俺はいい土地におちた種だ。そうして最も静かに、誰《だれ》に頭をおさえられることなく生長して来た。野村はその反対だ。少し芽を出しかけるとすぐ運命にたたきつけられた。画がものになりかけた瞬間に戦争にとられて盲目になった。やっと文学をやりだして、希望が少し見えだした時に妹を奪われかけている。あんまりいい目をもちすぎたので恨まれたように、今度はあんまりいい妹をもっていたので恨まれたのだ。
芳 子 原稿は持って帰っていらしったの。
西 島 ああ。今度雑誌に出すことにしたのだ。野村の妹が是非出してほしいように云ったので。
芳 子 本当に出してお上げなさいよ。
西 島 だけど出したって反響はないよ。そればかりではない。きっと悪口を云われるにきまっている。何時《い つ》になったら原稿でくらせるようになるかわからない。野村はこれから随分苦しまなければならない。
芳 子 何をしても随分大変ですわね。
西 島 当人になれば又決心がちがうだろうが、はたで見ると心配なものだ。
芳 子 誰かいらっしゃいましたわ。
西 島 高峰夫婦が来たのだろう。
芳 子 (窓からそとを見)そうですよ。
西 島 くるだろうと思っていた。(窓にゆき声かける)おい。
(二人退場、間もなく西島と高峰二人登場)
西 島 君がくるだろうと思っていた。
高 峰 旅行はどうだった。
西 島 別に面白いこともなかった。それより今日面白い人にあった。
高 峰 誰に?
西 島 野村に。
高 峰 野村? 盲目の?
西 島 ああ。
高 峰 どうして?
西 島 昨日遅く帰って来たので今朝《け さ》、不在《る す》に来た手紙を見ていたのだ。すると女の手の手紙があるのだ。見ると野村広次拝とかいてあるのだ。僕ははっとした。野村の妹がかいたのだなと思ったのだ。僕はすぐ封をあけてよんだら簡単に小説をかいたから見てくれ、もし雑誌にのせて戴《いただ》けるとありがたいとかいてあるのだ。僕はおどろいてすぐ小説をよんで見た。野村の妹がかいたにちがいない。綺麗に清書してあった。僕はよんで泣いてしまった。
高 峰 よくかけているかい。
西 島 まだむらはあるけれど、野村の気持はよくわかる。自分のことがかいてあるのだ。妹の大きい画をかいている時に召集されたことや、盲目になって家に帰って来て、癇癪《かんしやく》を起して画をやぶくことや、妹達にどなりつけることや。絶望して死にかけることなぞが書いてあった。君のことも少しかいてあった。
高 峰 なんて?
西 島 君がいい画をかいたと云うことを聞いて心細く思うことがかいてあった。
高 峰 綾子のことは?
西 島 別に君の細君のことはかいてなかった。しかし細君の簡単な画をかいていたっけ。
高 峰 画をかいていた?
西 島 どうせ目が見えないのだから簡単な画きりかけないらしいが、自分の顔や、妹の顔もかいてあったっけ。目やなんかの位置が少し狂ってはいたが、中々似ていた。
高 峰 妹は中々綺麗になったろう。
西 島 ああ。随分綺麗になっている、身なりはかまわないけれども。
高 峰 あのくらい綺麗な女は珍らしいだろう。
西 島 この画によく似ている。本当に美しい。それに処女らしい清さがある。
高 峰 何処にいるのだい。
西 島 五六町はなれた処だ。
高 峰 どうりで何時《い つ》か妻がこの近処であったと云っていたっけ。
西 島 そうだ。君によろしくと云っていたっけ。君に逢《あ》いたいけれど、逢うのは矢張り恐ろしいようなことを云っていたっけ。画の話をされるのが恐ろしいようなことを云っていたっけ。
高 峰 それはそうだろう。盲目になることは考えるだけでも恐ろしいからね。僕達の世界は半ば以上目の世界だからね。色や光が見えなかったらたまらない。
西 島 ミケルアンジェロやレムブラントの画も見るわけにはゆかない。僕のかくものを妹がよんで聞かせるらしいが、天才の作品を讃美している処をよむ時は妹の人も苦しいだろう。
高 峰 ここにある、これ等の画が見えないのだからね。そうして自分のかいたものをもう見ることが出来ないのだからね。あいつは特別に美しい目をもった男だった。俺の妻なんかはよくそれを云って惜しがっていた。不幸な奴と云うものはあるものだね。
西 島 だけど野村だから起き上って来たのだね。
高 峰 そうだ。あいつは実際意志の強い、負け嫌《ぎら》いな男だからね。あのくらい負け嫌いな男は珍らしいだろう。徴兵にとられて出て来た時の勉強と来たら大したものだった。何時行っても画をかいていた。俺は画かきだ。画さえかけばいいのだ。しじゅうあいつはそう云っていた。そのくせ人が一寸《ちよつと》でも悪口云うとすぐ喰《く》ってかかった。一寸でも黙ってはいられなかった。目さえやられなければ今時分可なりの仕事をしていたろう。僕も絶えず野村に刺戟《しげき》をされたろう。今の僕より大きい仕事を少しはしていたかも知れない。思えば戦争と云う奴は恐ろしい。
西 島 しかし野村の不幸はそればかりではないのだよ。今また大きい不幸が野村の兄妹を目がけておちかけているのだ。僕はそれで随分いろいろのことを考えさせられた。
高 峰 どんなことが起りかけているのだ。
西 島 野村の妹を相川三郎と云う奴がもらいたがっているのだ。
高 峰 相川でもらいたがるのなら野村の叔父さんは大喜びだろう。
西 島 三郎と云う人を知ってるかい。
高 峰 知らない。
西 島 本当ののらくらものなのだ。手くせがわるいと云うので学校を逐《お》い出された奴なのだ。こないだ電車でのりあわせたが、誇張なしに見ていると胸がわるくなった。精神が少しも顔面に生きていないのだからね。
高 峰 そんな奴が野村の妹をもらいたいと云うのか。
西 島 そうだ。恐ろしい侮辱だ。
高 峰 世間にはそんなことが沢山あるだろうね。
西 島 それはあるだろう。しかし両方知っているだけに僕は今更に恐ろしい気がした。それに野村だって今妹を奪われるのはどんなに苦しいか知れやしない。妹がいればこそ仕事が出来るのだからね。実際野村も云っていたが、妹がいるので生きていられたようなものだ。それに今度の小説だって妹がいたから書けたのだ。それに妹がいなくなったらどんなに不自由かわかりはしない。野村にとって妹は目であり、杖であり、唯一の相談相手であり、唯一の喜びと悲しみを別つものだ。
高 峰 野村はその話を聞いてどうしたのだ。
西 島 どうしたか、僕のいる時野村の妹がその話を聞いて来たのだ。そうしてそのことを云ったのだ。野村は随分おどろいたらしい。しかし妹がゆきたい処ならゆけと云っていた。しかし相手がいやな人間だと聞いた時、決してゆくなと云った。しかし叔父さんが免職された時のことを考えさせられた時、野村は目に涙をためて黙っていた。
高 峰 さぞつらかったろう。今の世は実際金の世の中だ。金がなければどうすることも出来ない。
西 島 本当だ。僕も今更に金の力と云うものの馬鹿に出来ないことを知った。どうにかなると云ったって、どうにもならないのだからね。野村も自分は一人まえの人間じゃない、他人に慈善事業をさせて生きてゆかなければならないのだからたまらないと云っていたが、実際そうだ。この問題がもう二三年あとに起ったならばまだどうにかしようがあったろう。今起ったのは少し無慈悲だ。
高 峰 だけど、もう少し前に起ったらもっと可哀そうだった。
西 島 僕はこう云うことも考えているのだ。僕が偶然行っている時にこの話が起ったのだろう。それは野村の運命に僕が手をさえなければならないからではないかと思ったのだ。いくら考えても僕はあの妹を相川にやるのは不服なのだ。僕が知らなければいい。知っていながら見す見す野村の妹を相川にやるのはあまり意気地《いくじ》がなさ過ぎるような気もするのだ。僕ももう三十三だ。二三年前の僕ではない。どうかすれば金がとれないこともない。僕は助けられるものなら助けてやりたいと云う気もしているのだ。
高 峰 本当に助けられるものなら助けてやるといいのだ。
西 島 ところがいろいろ考えたが考えれば考える程心細くなって来た。僕は兄から毎月五十円もらってくらしているのだ。僕は時々金もうけをするけれど、それは一カ月苦しんでやっと三十九円六十銭なのだ。そうしてとった金はマイナスの方に消えてしまうのだ。僕の処へでも時々金の無心を云って来る人がある。僕は五円以上人にやれたことは殆《ほと》んどない、そうして五円でも人にやると月末にきっと五円ぐらい金に困るのだ。僕は死にもの狂いになればどうにかなると云う気のする時もあるが。今は死にもの狂いになってもどうにもならない気がする。いやな人間にでも頭をさげてゆけばどうにかなるものかも知れない。しかしそれは耐えられない。僕は文壇にでも少しは名が知れてからもう五年になるが、そうして自分は決して怠《なま》けた心算《つもり》はないが、それでさえ金とはこんなに縁がないのだ。だから人を二人養うと云うことはとても出来ない。又野村がこれから文学で食ってゆくと云うことはなお望めないことだ。僕は残念だけれど、これは救われないと思った。矢張りしまいには野村の妹は相川の処へ自分から進んでゆくことになると思った。野村自身の為にもそうしなければならないときっと妹は思うにちがいないと思った。そう思うことは耐えられない侮辱だ。僕は相川の奴が思うようになると思っているだけでも癪《しやく》にさわるのだ。まして事実思うようになるのはたまらない。それが野村のような天才とまで云われた、しかも美しい清い妹なのだから。
高 峰 本当にどうかしてやりたいね。さもないと野村はあんまり可哀そうだ。
(芳子登場)
西 島 何か用か。
芳 子 蓄音器をやってはいけなくって?
西 島 やってもいい。
芳 子 ここでやってもよくって? 下にもってゆくのは厄介ですから。
(高峰に)
西 島 いいね?
高 峰 僕も聞きたいと思っているのだ。
西 島 いいよ。
芳 子 はい。(退場)
西 島 何しろ金の力と云うものがそう云う所まで跋扈《ばつこ》するのは癪にさわるよ。人の一生に無遠慮にさわってくるのだからね。
高 峰 本当だ。
西 島 本当にどうにかしてやりたい気がするよ。どうにもならないと云うことがはがゆくって仕方がない。どうにもならないと云うのは云いわけのような気もする。
(西島の妻、高峰の細君「綾子」登場)
綾 子 野村さんにお逢いになりましたって?
西 島 ええ。
綾 子 野村さんは本当にお気の毒ですね。
西 島 本当に気の毒です。
綾 子 静子さんもお気の毒ですね。
西 島 本当です。
綾 子 運のいい方は何処までも運がおよろしいし、運のおわるい方は本当に何処までも運がわるいのですね。
西 島 本当にそうです。野村君も目さえわるくなければ、運のいい人間になれたのでしょうが。
高 峰 しかし野村だから其処《そ こ》まで来られたのなら今に起き上るだろう。
綾 子 小説が御座いますの。
西 島 ええあります。今度雑誌に出そうかと思っているのです。
(原稿を綾子に渡す。綾子ひろい読みする)
(芳子、蓄音器をよくしながら)
芳 子 何をしましょう。
綾 子 何んでも。本当にお気の毒ね。
高 峰 読むのはよせよ。
綾 子 静子さんに縁談がおありになるのですって。
西 島 ええ。
綾 子 相手の方が面白くない方なのですって。
西 島 ええ。
芳 子 何をしましょう。
綾 子 何んでも。
(女中登場)
女 中 盲目の方が美しい女の方といらっしゃいました。
西 島 名は何と云った。
女 中 野村とかおっしゃいました。
西 島 野村が来たのだ。ここに通していいかい。
高 峰 野村さえよければ。しかし用じゃないか。
西 島 聞いて見よう。
綾 子 梯子段《はしごだん》をお上りになるのは厄介でしょう。
(西島と芳子退場)
高 峰 随分野村に逢うのは久しぶりだ。
綾 子 本当でございますね。
高 峰 戦争にゆく前に逢ったきりだ。その後向うからも音さたがなかったから。(間)お前は。
綾 子 私も。一度逢いにゆきましたら、誰にも逢いたくないとおっしゃって、その内に黙って故郷にいらしってしまったので。
高 峰 お前は野村を愛したことはないのかい。
綾 子 いいえ。
高 峰 厚意は持っていたのだろう。
綾 子 それは厚意は持っておりましたわ。
高 峰 野村が目さえわるくなかったら、お前は野村の妻になったろう。
綾 子 そんなことはありませんわ。
高 峰 あてになるものか。
綾 子 野村さんは私のことなんかなんとも思っていませんわ。
高 峰 お前の方は思っていたのかい。
綾 子 私の方も思ってはしませんわ。
高 峰 野村はお前を思っていたかも知れないよ。
綾 子 そんなことはありませんわ。
高 峰 しかし野村は今でもお前の顔をかいているそうだよ。
綾 子 そんなこと。画なんかかけるわけはありませんわ。
高 峰 だけど西島はそう云っていたよ。又簡単な画なら盲でもかけるよ。
(梯子段を人があがる音がする。二人沈黙する。西島をさきに、静子に手をひかれて広次登場。女中座蒲団《ざぶとん》を持って来る)
静 子 お兄さま。高峰さんと綾子さんですよ。
広 次 暫《しばら》く。
高 峰 暫く。
(四人がお辞儀する)
広 次 高峰君とは随分暫くお目にかかりませんでしたね。お噂《うわさ》はよくうかがっておりました。
高 峰 小説をおかきになったそうですね。
広 次 どうせ恥かしいものです。新まいですからね。
綾 子 静子さん。先日は失礼しました。
静 子 私こそ。あんまり思いがけない処でお目にかかりましたもので。
(西島の妻、座蒲団とお茶を持ってくる)
芳 子 私はまだ故郷にいらっしゃるのかと思っていました。
静 子 父がなくなりましたもので、去年上京いたしたのですが。兄が何処《ど こ》にも知らせてはいけないと申しますので。
芳 子 蓄音器をいたしましょうか。
西 島 野村君はどうです?
広 次 聞かして戴《いただ》きましょう。
西 島 御用は?
広 次 あとで一寸。
高 峰 もしなんなら僕達は下へゆくよ。
広 次 いえ。君ならいて下さってもかまいません。しかし蓄音器をきかして戴きましょう。
静 子 お兄さん、それでもあんまりおそくなりますと。
広 次 まだいいよ。お前のようにこわがったらきりはないよ。
西 島 それなら蓄音器は又今度にしましょう。
広 次 いいえ。どうかやって下さい。
芳 子 それなら高峰さんのお好きなのをやりますよ。
高 峰 ええ。
(蓄音器をする。西洋の唄《うた》。芳子と高峰一緒にうたう)
芳 子 うらもやりましょうか。
西 島 よせよ。
芳 子 はい。
西 島 お前下へ行くといい。
綾 子 私も下へまいりましょう。
広 次 どうぞここにいらしって下さい。皆さんに御相談したいのですから。
西 島 あれから叔父《お じ》さんから又お話があったのですか。
広 次 いいえ。別に。
西 島 私がお伺いした話だけは、高峰君なんかにお話ししました。かまわないだろうと思いましたので。
広 次 そうですか、かまいません。実はその事で急にもっとお話ししたいことが出来たのでした。聞けば聞く程相川のやり方が腹が立つのです。人を人とも思わないやり方なのです。それで私は心から腹を立てたのですが、何しろごまめの歯ぎしりで、何にも役に立たないのです。自分の腑甲斐《ふがい》ないことばかりが目立つのです。どうしていいか自分にはわからなくなったのです。厭味《いやみ》ではなしに私のような人間は何されても黙っていなければならない人間かとよく思います。私は盲目になってから癇癪《かんしやく》も強くなったかも知れませんが、忍耐がなお強くなったと思っています。その必要があったからです。私は翼を折られた鳥です。いくらどんな目にあっても、恥かしめられても飛ぶことは出来ません。ただ黙って運命に手向うだけです。死ななかったのが不思議だったのですから、それで不服も云えないかも知れません。私はよく自分に「お前は死んだはずの人間だ。生きているのを勿体《もつたい》ないと思え。そうして忍耐せよ」そう申します。それが私にとっては美徳ではないのです。力がないくせに悲壮の感じを味わいたいからです。そうして自分を慰めたいからです。今度のことも考えれば考える程私は不服の云えない人間です。歯ぎしりしながらそれも仕方がない、と云って泣きね入りするべき人間です。そのことは重々知っている心算《つもり》です。それにもかかわらず私は今度のことは黙って見のがしすることが出来ないのです。妹が可哀そうです。そうして自分が可哀そうです。(間)尤《もつと》も自分の可哀そうなだけならば私は辛抱が出来る心算です。又時によっては立派に辛抱してお目にかける心算です。しかし今度のことはたえられません。西島君がおかえりになってから妹からいろいろのことを聞きました。相川のやり方がひどいのです。妹が。
静 子 お兄さん。あのことは、だまっていて。
広 次 いいじゃないか。云わなければ話がわからない。
静 子 それでもあのことだけは。
広 次 黙っておいで。妹が叔母《お ば》と一緒に十日程前に電車にのったら、相川にあったのだそうです。そうして叔母に紹介されたのだそうです。そうして一昨日《おととい》叔父が妹をだまして相川の処へつれて行ったのだそうです。
静 子 叔父さまがだましたと云う程ではありませんわ。
広 次 だましたのと同じじゃないか。黙ってお前をつれて出かけて途中で相川の処へ行こうなぞと云ったのは。そうして妹を相川の処へつれて行ったのです。そうして妹は相川のお父さんにもお母さんにもあったのです。そうして。
静 子 お兄さん。
広 次 一生のことだよ。(間)そうして湯に入れとすすめられたのです。そうして湯に入っていると相川のお母さんが湯に入って来たのだそうです。相川のお母さんはもと玄人《くろうと》だったそうで、女中と一緒に風呂に入るような人なのだそうです。つまり妹は体《てい》のいい体格検査をされたようなものなのです。そうして。
静 子 お兄さん。本当にお兄さん。
広 次 黙っておいでと云ったら。そうして妹が風呂から出ましたら、其処《そ こ》に相川三郎が立っていたのだそうです。妹は馬鹿ですから、故意だとは思わなかったのだそうです。私はそれを聞いてからもう我慢が出来ませんでした。さもなくとも我慢は出来ないのですけど。皆ぐるなのです。私達を馬鹿にしきっているのです。
高 峰 (独言《ひとりごと》のように)それは我慢出来ないのがあたりまえだ。
綾 子 あんまりですわ。
芳 子 本当に。
西 島 許せないことだ。
広 次 私はそれを聞いた時、こう云う時西洋人は決闘するのだと思いました。又私は相川の体格検査をしてやりたいと思いました。しかしどんなにされても私達はどうすることも出来ない気がするのです。
西 島 癈兵《はいへい》の金は。
広 次 それは叔父の手に任せてあるのです、私の実印も、叔父に任せてあるのです。そうしてこの縁をこわせば私達は叔父の家にはいられません。
西 島 (一寸沈黙)かまわないでしょう。お出なさい。少しの金ならば当分どうにかなるでしょう。その先はその先です。きっと餓《う》え死《じ》にはさせません。
広 次 それでも。
西 島 そんなことを云っている時ではないでしょう?
綾 子 叔父さま達はどうなさるでしょう?
西 島 二月《ふたつき》三月《みつき》返事をまってもらうことは出来るでしょう。断りきるとどんな邪魔をされるかわかりませんから。野村君の仕事を一先《ま》ず完成するのを口実にして二月か三月家出をしたらいいでしょう。そうすれば叔母さんはぬけめなくうまいことを云ってくれるでしょう。その間に免職されればそれまでです。反《かえ》っていいかも知れません。さもなくもその内に野村君の仕事も少しは目鼻が出来るかも知れません。その時になって断然たる処置をとっても遅くはないと思います。返事を急ぐ必要はないかと思います。
静 子 お兄さん。それなら西島さんのおっしゃる通りにいたしましょうか。
広 次 …………
静 子 私、それが一番いいかと思いますわ。
広 次 それでもあまり虫がよすぎるからね。
静 子 それでもそれより他、仕方がありませんわ。
西 島 金の方の心配ならおよしなさい。明後日までに三十円だけはつくりましょう。君のかいた小説の原稿料としてとって下さい。
広 次 それでもあんまりですから。
静 子 お兄さんは急に元気がおなくなりになったのね。三十円はいりませんわね。
高 峰 本当にそうしたらいいでしょう。私もいざと云う時には出来るだけお手つだいします。
広 次 それでも虫がよすぎるから。
静 子 それでもお兄さんはその心算《つもり》でいらしったのでしょ。
西 島 それとも外にいいお考があれば、御遠慮なく云って下さい。
広 次 いいえ、それで不服があるのではないのです。なんだか金の無心に来たような気がして気がとがめるのです。
西 島 それならそうしましょう。
静 子 十五円もつくって戴けばさしあたりよろしいわね。
西 島 それならば明後日までに二十円だけつくりましょう。その内に又十円だけつくりましょう。決して御心配はいりません。
広 次 それでも戴くわけはないのですから。
静 子 それは戴くわけはありませんけど。
西 島 ありますよ。それで君達が相川の手からはなれることが出来れば、私はどんなに嬉《うれ》しいかわからないのです。お話を伺うと、貴女《あなた》がいらっしゃらないからと云って叔父さんが免職されるようなことはないと思います。
高 峰 それはきっとそんなことはないね。叔母さんはしっかりものだからね。
広 次 僕もそうも思うのです。しかし相川の親爺《おやじ》が親爺だから。しかし僕は叔父の一家のことはかまわないと思うのです。僕は叔父のことをかまっていられる人間でもありませんし、叔父もきっとぐるだと思いますから勝手にしろと云う気はあるのです。
西 島 本当にそうだ。君の叔父さんは君の犠牲にしてもいい方のような気がする。君の方が犠牲になる必要はない。
静 子 それでもお子さんなんかも御座いますから。
広 次 可愛気《かわいげ》のない子じゃないか。俺《おれ》が盲目だと思って人の前にそっと来て不意に耳のわきでラッパをふいたり、人が見えないと思って、赤んべーをしたり、なぐる真似《まね》をしたりひどい時には小便をひっかける真似までする。話にならない。
静 子 それでも子供が二人よれば仕方がありませんわ。悪気じゃないのですもの。
広 次 悪気じゃなくってもいい気はしないよ。どうせ碌《ろく》な者にはならないよ。犠牲になるような代物《しろもの》ではない。
高 峰 それはかまう必要はないね。
芳 子 本当にありませんわ。
綾 子 静子さんはあんまりお優しいからいけないのですよ。
静 子 あんまり優しくもありませんわ。それなら、おいとまいたしましょうか。
広 次 ああ。
西 島 もっと居たっていいのだろう。
広 次 もっと蓄音器でも聞いて行こうか。
西 島 よければきいてゆきませんか。
静 子 折角ですが又今度にいたしましょうね。
広 次 高峰君は今日赤ちゃんをつれてこなかったのですか。
高 峰 今日はおいて来ました。
広 次 今度家をもったらどうか君も来てください。
高 峰 ありがとう。
静 子 綾子さんもね。どうぞ。
綾 子 ありがとう。是非上ります。
広 次 それならさよなら。
静 子 大変お邪魔をしました。
西 島 それなら明後日又来てくれ給え。
広 次 ありがとう。
皆 さよなら。
(静子、広次の手をとり、あとの人皆送る。暫らくして西島、高峰両夫婦室に帰る)
西 島 随分同情をするだろう。
高 峰 本当にたまらないね。
綾 子 静子さんはお気の毒ですね。始終涙ぐんでいらっしゃいましたわね。
芳 子 本当に妹さんはお美しい方ですね。
高 峰 それにしても相川のやり方はひどいね。
西 島 悪気じゃないのだろうけど、たまらない。まるでわかっていないのだ。
高 峰 何んでも勝手になると思っているのだね。そうして自分の方のことだけ考えているのだね。
西 島 本当に相川の体格検査もしてやるといいのだ。きっと花柳病になって、まだなおっていないにちがいない。考えれば恐ろしい。先日俺は病院に入っている友達を訪問したら、「いたいよう、いたいよう」と子供のような叫び声が聞えるのだ。なんだと聞いたら、梅毒患者で夜も昼もうなっているのだと云っていた。始めの夜なんかその声を聞いたらねられなかったと云っていたっけ。そのあとで又行ったらもう声が聞えなかった。死んじゃったのだと云っていた。六〇六号ももうきかないのだそうだ。金持の子なんだそうだがね。あんな目にあう人間は滅多にないのだろうけど。ありふれていると云うことであんまり馬鹿には出来ないからね。相川の方こそ体格検査をしてやるといいのだ。しかしそんなことをしてくれと云えば、叔父さんは免職されるにきまっている。考えれば考える程、野村の叔父は相川の奴隷《どれい》のようなものだね。どんな無理でも聞かなければならないのだ。
高 峰 ありがたがって聞いているのだろう。
西 島 それはそうかも知れない。その犠牲になってはたまらない。
芳 子 本当に。お気の毒ですね。
綾 子 本当に。しかし西島さんがああ云ってお上げになったので御安心なさったでしょう。
西 島 俺は早く仕事がしたい。金の力をかりるのはいやだ。しかし金持になりたいとも時々は思う。金でもって悪勢力に勝つことは出来ないことは知っている。今更に釈迦《しやか》や耶蘇《やそ》の道は実に本当な道だったとも思う。しかし自分なんかまだ、今の世では金の力を要求することがある。そうしてその方では殆《ほと》んど無能力者だからね。
高 峰 本当に僕達の仕事は、金には縁はないね。アトリエ一つまだ建てることが出来ないのだ。
綾 子 もうお暇《いとま》しましょうか。子供が泣いていはしないかと気になりますと、泣き声が聞えるような気がしますわ。
高 峰 それなら行こう。
西 島 又来たまえ。
高 峰 ありがとう。君もその内に来たまえ。
西 島 近い内にゆく。画も見たいから。
綾 子 その時、あなたもよかったらきっといらっしゃいね。
芳 子 ありがとう。きっとゆきます。
皆 さよなら。
(四人退場、まもなく西島と芳子登場)
芳 子 (蓄音器をかたづけながら)広次さんの妹さんは随分美しい方ね。
西 島 ああ。
芳 子 さっきそんなにも美しくないようなことをおっしゃった癖して。(間)明後日までに二十円をどうしておつくりになる心算。
西 島 うちにいくらある。
芳 子 二三円きりありませんわ。
西 島 郵便局には?
芳 子 十円きり。
西 島 それでは今月はどうする心算なのだい。
芳 子 来月分を拝借しようと思っていましたの。それより仕方がありませんわ。貴夫《あなた》はちっともかまわないのですから。
西 島 どうにかなるよ。
芳 子 明後日までに三十円つくるようなことをおっしゃいましたが、お出来になるお心算だったの。
西 島 出来なかったら本を売る心算だったのだ。この本でも皆売れば二三百円にはなるよ。
芳 子 皆、お売りになるおつもり。
西 島 そうでもないけど。いざとなれば売ってもいいと思っているよ。本は買える時に買えばいい。どうせそう読めはしないのだから。
芳 子 いつまでお世話なさるお心算なの。
西 島 必要がなくなるまでだ。
芳 子 そんな呑気《のんき》なことをおっしゃっては困りますよ。私にばかり心配かけて。私は夜も碌《ろく》に眠れませんわ。昨晩だって、私は自分のもっている着物をならべて見て、皆三四年前につくった着物で、一つも着られる着物がないので泣いている夢を見ましたわ。
西 島 そんな贅沢《ぜいたく》なことを云ったって仕方がないよ。
芳 子 贅沢ではありませんよ。本当に一つも着物がつくれないのですもの。すまして外をあるくことの出来る着物はありませんわ。皆古いはやりばかりですわ。
西 島 そんな呑気なことが云っていられるかい。
芳 子 あなたは野村さんの妹さんが綺麗《きれい》なものでそんなことをおっしゃるのですわ。
西 島 そんなことはないよ。
芳 子 きっと貴夫はあの方があんなにかがやくように美しくなかったら、金なんかつくろうとはおっしゃりません。
西 島 黙らないか。
芳 子 本を皆お売りになるといいわ。
西 島 売らなければならない時がくれば、売るとも。
芳 子 野村さんの妹さんは貴夫の顔ばかり見てあなたには何んでも云えると思っていらっしゃるのですわ。そうして貴夫にあまえているのですわ。今日初めてお逢《あ》いになったのに。
西 島 お前は同情しないのかい。
芳 子 同情しますわ。ですけど貴夫があんまり同情なさるのですもの。きっと私がいなかったらいいと思っていらっしゃると思ったら腹が立って来ましたわ。
西 島 そんな事があるものか。お前は野村の話を聞いても、俺のすることがまちがっていると思うのかい。お前を餓《う》え死《じに》させるような真似《まね》をしてまで俺は野村兄妹を助けようと思っていると思うのかい。着物なんかどうだっていい。着物のことなんか考える余裕があるなら、野村のことを考えてやるがいい。俺一人の答えでどうでもなるのじゃないか。お前は自分のこときり考えていない。野村の妹が相川の処へ行ってもいい。いけばいい気味だぐらい思っているのだろう。
芳 子 そんなことはありませんわ。ですけど、あんまり美しすぎますわ。心配になりますわ。
西 島 大丈夫だよ。
芳 子 それに一月や二月のことじゃありませんからね。私、心配ですわ。貴夫は少しもかせごうとなさらないし。
西 島 俺はどんなことがあったって、餓え死にさしてもらえないことを知っているからな。お前だって、お前の実家がお前を餓え死にさせやしない。俺達は自分のことを心配しなくっていい人間だ。
芳 子 私はそのことばかりを心配してやしませんよ。
西 島 お前は俺を信用出来ないのかい。
芳 子 今は出来たって、あとで出来ない時が来そうな気がしますわ。それに毎月金をつくるのは大変ですわ。本がなくなるのも淋《さび》しいわ。
西 島 それなら俺は野村に、妹を相川にやるより仕方がないと云えばいいのかい。馬鹿。
(本をとってたたきつける。お客がいた時ののみかけのお茶がこぼれる。瞬間沈黙)
西 島 茶をふけ!
(芳子不平そうな顔し涙ぐむ、しかし従順にお茶をふく)
――幕――
第三幕
広次の借間
(二階、至って粗末、天井低し。広次一人で気をむさくささせている。そうかと思うと耳に注意をあつめている。間もなく静子登場)
広 次 どうだったい。雑誌は出ていたかい。
静 子 ええ。二つ三つ出ておりました。
広 次 俺《おれ》のものの評は出ていたかい。
静 子 いいえ。
広 次 出ていなかったのかい。
静 子 はい。
広 次 矢張り西島の云った通り反響はなかったかな。
静 子 まだ出ない雑誌もありますから。
広 次 俺は矢張り空想家だ、あの小説が出たら、何処《ど こ》からか手紙がくるかと思っていた。又誰《だれ》かが俺をたずねて来はしないかと思っていた。もう世間では俺の名は忘れているのがあたりまえだ。覚えていると思うのが虫がいいのだ。
静 子 それでもお兄さんのいらっしゃる処《ところ》がわからないのですから仕方がありませんわ。
広 次 本屋か、西島の処へ手紙をよこしそうなものだと思っていたのだ。俺はあの作が不滅なものとは決して思っていない。しかしどうかしたら俺の運命をもう少しは切り開いてくれるかと思っていた。しかしそれは虫がいいのだ。
静 子 なんでも気永《きなが》におやりにならなければ。
広 次 俺達は気永にやっていられる身分ではないよ。俺達はそう何時《い つ》までも西島の世話にばかりはなってはいられない。
静 子 そんなことをおっしゃったって仕方がありませんわ。西島さんはお兄さんがそう思って無理をなさることを心配していらっしゃいますわ。
広 次 西島はその心算《つもり》だろう。しかしそれで安心はしていられないからね。
静 子 それはそうですわ。ですけどお兄さんはこの頃少しあせりすぎていらっしゃるような気がして。
広 次 あせらないではいられないからさ。俺はもう一日でも早く安心がしたいのだ。俺はものになる人間だと云うことをしっかりつかみたいのだ。俺は西島に世話になる甲斐《かい》のある人間だと云うことを知りたいのだ。さもなければこんな生活をしているのは男として恥ずべきことだ。あんまり虫がよすぎる。
静 子 西島さんはお兄さんの心をよく御存知ですから、やきもきなさることはありませんわ。それより頭でもおこわしになったらそれこそ大変ですよ。
広 次 俺の頭はそんなことでは参りはしないよ。大概の修業はつんでいるからね。俺の頭は苦しむことには馴《な》れている。
静 子 それでもこの頃は夜も碌《ろく》におねにならないでしょ。
広 次 それ程のことはないよ。しかし少し寝不足かも知れない。お前も寝たりないのだろう。
静 子 私は平気ですよ。私は頭はつかいませんから。私は利口になる必要がないのですもの。
広 次 お前はどうしてそう野心がないのだろう。
静 子 私の希望は皆、お兄さんが一人で背負って下さるのですもの。
広 次 (皮肉らしく)たよりになる兄だからな。
静 子 私、本当にたよりにして安心してますわ。
広 次 俺はこの頃、自分が少したよりにならなくなっている。
静 子 そんな心細いこと。
広 次 俺はお前が留守の間いろいろのことを考えた。俺は本当に心細くなった。俺は西島に手紙を書こうかと思った。俺は昨日お前に俺のかいた小説をよみなおしてもらったね。あの時以来、俺は希望をとり返すことが出来ないでいる。もっと書けているとばかり思っていたのだ。ところがまるでかけていない。あんなことで何時になったら、俺の仕事に目鼻が出来るかわからない。叔父さんの家にいる間時間さえ俺のものだったらと思っていた。しかし今は時間は俺のものになったが、俺の仕事は少しもはかどらない。
静 子 それでもここにいらっしゃってから二つおかきになりましたわ。
広 次 あんなものはかいた部類に入らない。
静 子 それでも西島さんも、高峰さんもお賞《ほ》めになりましたわ。
広 次 それは俺に厚意があるからさ。俺に希望が与えたいからさ。
静 子 そんなことはありませんわ。私も本当にいいものだと思いますわ。
広 次 駄目だ。俺の運命を切りひらいてくれる力のない作が何になる。皆腹の底で俺を盲目だと思うのであんなものを賞めるのだ。厚意は嬉《うれ》しくないことはない。しかし厚意を喜ぶ理由は今はない。
静 子 西島さんになんと云う手紙をおかきになるつもり?
広 次 俺は本当のことを聞かしてもらいたいのだ。それから俺は金をとる道をさがしてもらいたいのだ。
静 子 なんで金をとるお心算なの?
広 次 俺はそれを何度と云うことなく考えた。俺は商売しようかとも思った。何かつまらない話でも書かしてもらおうかと考えた。しかし本当云うと、俺は何にもいい考は浮ばなかった。
静 子 矢張りそんな迷いを起さずに、今の仕事をしていらっしゃるより仕方がありませんわ。その内にうまい話があるかも知れませんわ。
広 次 俺もそう思っていた。誰かうまい話をもってくる人がありそうなものだとも思った。ところがない、あれば隣りの婆さんが何処からか聞いて来た話のようなものだ。
静 子 もうおよしなさいよ。あの話。
広 次 相川の話よりは不愉快じゃなかった。実際いやな奴《やつ》の妻になるより妾《めかけ》になる方がいい。
静 子 いやなこってすわ。
広 次 今に芸者になれ、女郎になれ、プロスティチュートになれなぞと云ってくる奴があるだろう。
静 子 いやな方ね。本当に。
広 次 あはははは。情けないと云うより滑稽《こつけい》だ。俺は昨晩思ったよ。今にお前は内証で夜はかせぎ、昼は俺の仕事を助けるようになるかも知れないと。
静 子 お兄さん。およしなさいよ。そんな話。
広 次 それでも相川の妻になるよりはいい。
静 子 相川の妻になると誰も云いませんわ。
広 次 お前の心の内で一滴でも相川の妻に思いきってなろうかしらんと思う心があったら承知しないよ。
静 子 ありませんわ。
広 次 なければいい。
静 子 お兄さんは本当に変に疑い深いのね。
広 次 盲目になると人間は疑い深くなるよ。お前の顔が見えないと、殊《こと》にお前の目が見えないと、お前の心のあり場所が不安心でいけないことがある。どうも耳へ入るものだけでは信用が出来ないからね。怒ってはいやだよ。俺は先日《こないだ》からこう思っている。もしかしたら俺のかいたものにたいして恐ろしい悪口が何処かに出てはしないかと思った。それをお前が知っていながら俺にかくしているのではないかと思った。今日もそんな気がした。お前が何も出ていないと云った時、俺は腹の底に力がなくなった。他人の悪口では俺はへこたれきりはしない。しかし盲目のかなしさに、いろいろの空想が浮ぶ。そうして浮んだ空想は消えない。お前がそうでないと云っても、女々《めめ》しい愛から黙っていてお前一人が心をいためてはしないかと思うのだよ。この頃お前の事を思うとなんだか淋しいよ。お前の泣いている姿ばかりが目の前にちらつくよ。俺も淋しいが、お前はなお淋しくはないかと思うよ。
静 子 そんなことはありませんよ。お兄さん。私は段々希望をはっきりもって来ましたわ。そうしてこの頃嬉しいのですよ。
広 次 お前の手はこの頃水仕事をするのでこわくなったね。
静 子 いいじゃありませんか。
広 次 お前の手の美しさは俺を喜ばしていた。目の見える間は勿論《もちろん》。目が見えなくなってからも。その美が段々こわれて行く気がする。
静 子 指なんかどうなったってよろしいわ。
広 次 それはなったっていいけど、惜しい気もするよ。
静 子 ちっとも惜しかありませんわ。それよりお兄さんは少し神経衰弱におなりになったのね。寝不足がいけないのですわ。少しおやすみになったらどう。
広 次 そうだな。寝たら少し元気になるかも知れない。俺も元気にするから、お前も元気におしよ。
静 子 ええ。私は元気にしていますから。本当にお兄さんも元気にして頂戴《ちようだい》よ。お兄さんがいやなことをおっしゃると私も心細くなりますわ。本当に安心して、自分の仕事をしていらっしゃればいいのですわ。
広 次 どっちにしろ、それより外に道のひらけようがないのだ。安心おし、きっとものにするから。実際西島は俺の心を知っている。俺がいい気になって西島の世話になっていないことを知っててくれるから安心は安心だ。
静 子 蒲団《ふとん》を敷きましょうね。
広 次 ああ。
(静子、粗末な蒲団を敷く)
静 子 敷きましたわ。
(広次、手さぐりで、ねる)
静 子 お寒くなくって?
広 次 ああ、寒くはないよ。
(一寸沈黙)
広 次 静ちゃん。
静 子 ええ。
広 次 何している?
静 子 何にも。
広 次 何か考えている?
静 子 何にも。
広 次 叔父《お じ》さんのうちのことを時々考えるかい。
静 子 時々は考えますわ。
広 次 しかし出たことは後悔しないかい。
静 子 後悔しませんわ。
広 次 今静ちゃんは西島が来るかも知れないと思ってはしなかったかい。
静 子 どうしてわかるの。
広 次 俺もくるかと思ったからさ。
静 子 お兄さんは綾子さんを恋したことがおありになって?
広 次 どうして不意にそんなことを云うのだい。
静 子 私はこの頃時々そうではないかと思いますのよ。
広 次 正直に云えばおもったことはある。そうして今でも思っていると云っても嘘《うそ》じゃない。
静 子 矢張りそう? こないだ綾子さんにあってどうお思いになって?
広 次 嬉しかったよ。もっと逢っていたい気もしたよ。
静 子 あとで随分お苦しかったでしょ。
広 次 馴《な》れているからね。
静 子 あの晩、一晩お泣きになっていらっしゃったわね。
広 次 ああ。いろいろのことが考えられたのだ。お前も泣いていたろう。
静 子 はい。お兄さんがなんとなくお気の毒な気がしましたので。西島さんのお宅にゆくといろいろのものがありましたから。
広 次 そうしてそれが俺に見えないからか。
静 子 一緒にお話が出来ないので。
広 次 二人はあの日帰って来て殆《ほと》んど何も饒舌《しやべ》らなかったね。
静 子 本当に。
広 次 俺達は淋しいね。
(沈黙。二人のすすりなく声がかすかにする)
広 次 この淋しさから何か生まれなければあんまり悲惨だ。
(沈黙)
広 次 静ちゃん。枕元へおいで。さあ、
(広次右の手を出す。静子両手で大事そうにそれをさする)
広 次 俺の一生の仕事はお前にささげるよ。
静 子 そんなことを云うとお兄さんの奥さんになる方がお気の毒ですわ。
広 次 俺の妻になるような奴がいたら。どうせその女は幸福《しあわせ》じゃない。
静 子 そんなことはありませんわ。
(沈黙)
静 子 お兄さん。
広 次 もう黙ってておくれ、眠られそうだから。
静 子 はい。
(沈黙)
静 子 お兄さん。(返事がない)もうお寝《やすみ》になったの?
(静子室をかたづける。婆さん登場)
婆 お客さんです。
静 子 そうお。お通しして下さい。
婆 はい。(退場)
(静子少しして迎えにゆく。西島登場)
静 子 今さっき、おいでになるかも知れないと兄とお噂《うわさ》しておりましたのです。
西 島 野村君は、何処かおわるいのではないのですか。
静 子 いいえ。昨晩少しも寝ませんでしたのでたった今昼寝したのです。(広次の方を向いて)お兄さん。西島さんが。(起そうとする)
西 島 もっと寝さしておいておあげなさい。
静 子 それでもあんまり失礼ですから。
西 島 僕はかまいません。どうせ今日は暇なのですから。雑誌屋へ一寸《ちよつと》よりましたら。……
(静子口に指をあてる)
静 子 (小声で)あのことはまだ兄には申してないのです。
西 島 (小声)そうですか。
(二人障子をあけて外を見ながら)
静 子 兄は反響がないので気をくさらしておりました。
西 島 そうですか。
静 子 (少し小声で)云おうかとも思いましたのですが。あんまりひどい批評ですから。
西 島 腹が立ったでしょう。
静 子 もう少しで本屋で泣くところでした。あんまりですから。あんなことを云われたって大丈夫、兄のものはいいものですわね。
西 島 大丈夫です。誰だってあの位の悪口は云われるものです。心細く思っていらっしゃるといけないと思って上ったのです。
静 子 ありがとう御座います。あなたの雑誌を兄のものが汚《けが》したように書いてありましたわね。なぜあんなくだらないものを平気で出したのだろう、出すものも出すものだ、載せるものも載せるものだとかいてありましたわね。
西 島 馬鹿ですよ。野村君のような人があると云うことが考えられないもので、つくりものだ、誇張だ、素人《しろうと》まるだしのセンチメンタルのものだと云ったのです。あすこに出ている、実感がわからなかったのです。生きる苦しさが感じられないのです。しかしどんな悪口を云われたって安心です。云うものは亡《ほろ》びますが、云われるものは勝ちます。
静 子 それでもこの前新聞に出ていた評と同じようなことが書いてありましたので、なお心細い気がしました。
西 島 安心です。私なんかも随分いやな評をされたことがあります。四五人に同じような悪評をされたのです。文学はやめるがいいと云われたばかりではなく、下等な、強がりな、見得坊な、浅薄な、新しがりに思われたのです。しかし批評された私はまあ下り坂にもならず、どっちかと云えば勝利の道を歩いています。批評した奴は皆滅亡してしまいました。二三年前までは少しはうろついていましたが。
静 子 本当にあなたがそんな悪口を云われたのですか。
西 島 ええ。「小さき超人」と云う小説でした。
静 子 あれがですか。私はあれを兄によんで聞かせて二人で泣きましたわ。いいものだと兄は感心しきっておりましたわ。
西 島 批評家は頭から本ものを見ると疑ってかかるのです。そんなにいいものがこの世にころがっているわけはないと頭からきめてかかっているのですからたまりません。
静 子 あなたのお話を伺って安心しましたわ。兄はこの頃しきりにあせっております。
西 島 それはさぞおあせりになるでしょう。しかし気永にやるより仕方がありません。二三年は反響がない覚悟でなければ。
静 子 兄は、あなたのお世話になっているのをしきりに気にしております。
西 島 それはいけません。充分なことは出来ませんけど、そのことは安心して下さい。
静 子 私はあなたにおすがりして親舟に乗っているような気でおりますのですけど。
西 島 あんまりいい親舟でもありませんけど。この室《へや》はおうるさくはありませんか。
静 子 いいえ。
西 島 もっといい室がありそうなものですが。
静 子 兄は、ここがやすかったので気に入ったのです。私も気に入ったのです。ここからあなたのお家《うち》の屋根が一寸見えます。
西 島 そうですか。
静 子 あすこの二階家のうしろに一寸屋根が見えますね。
西 島 ええ。
静 子 あれがあなたのお家です。
西 島 本当にそうですね。あの二階家が僕の家のすぐ向うにある家です。
静 子 私は、来た時からそうではないかと思っていましたが、二三日前に本当にそうだと云うことを知りました。
西 島 よくわかりましたね。
静 子 それはわかりますわ。
西 島 ここは中々見はらしがよろしいね。
静 子 ええ。(一寸沈黙)もう兄を起しましょうか。
西 島 僕はかまいません。
静 子 本当に、いろいろお世話になりましたわね。
西 島 いいえ。
静 子 兄も、早くいいものをかいて、あなたの御信用に背《そむ》かないことがしたいと、申していましたわ。
西 島 そうですか。
静 子 あなたは鴨居《かもい》に頭がおとどきになりますわね。
西 島 ええ。髪毛で鴨居の掃除が出来ます。
静 子 本当にね。あの時、あなたが来て下さらなかったら、私達は今時分どうしているだろうとよく考えますわ。
西 島 本当にあの日あなたの処へ行ったのは偶然とは思えない気がします。
静 子 私、どうかして兄を安心させたいと思いますの。兄はあせっていますし、自分について少し疑い出しています。本当に心細いらしい時があります。私も時々本当に心細くなる時が御座います。兄がものになってくれたらどんなに嬉しいだろうとよく思います。
西 島 大丈夫だと思います。
静 子 あなたは私達に金をくださる為《ため》に本をお売りになるようなことはないでしょうね。
西 島 なぜです。
静 子 私はそれが一寸気になっているのです。
西 島 どうしてです。
静 子 始めて上った時に見覚えていました本が、つぎに上りましたら見つかりませんでしたから。
西 島 誰《だれ》か持っていったのでしょう。
静 子 それならよう御座いますけれど、永い間のことですから御無理をなさると困りますよ。
西 島 大丈夫です。なが年の功で、働けば金がとれるのですから。
静 子 早く兄もそうなるといいと思いますの。(間)あなたの家には大変御本がおありになりますが、あんなに勉強しないと、いいものが書けないと云うことはないでしょうね。
西 島 そんなことは決してありません。私だって読んだ本はあの内の十分の一もありません。そうして読んでもすぐ忘れてしまいます。
静 子 兄は少しは横文字も出来たのですけれど。
西 島 出来ないでも大丈夫です。
静 子 あなたは私達をあわれんで、そんなことをおっしゃるのではないでしょうね。
西 島 私は有望でない人が文学をやる事には同情しません。
静 子 あなたは私に同情して下さるのではないでしょうね。失礼なことを申しますけど。
西 島 貴女《あなた》がいなくってもお兄さんを信用するには変りはありません。
静 子 私はあなたを信用しておりますわ。
西 島 どうか信用して下さい。
静 子 私は兄が可哀そうで仕方がありません。あなたも、高峰さんも立派にやっていらっしゃるのに。高峰さんの綾子《あやこ》さんをかいた画は随分評判で御座いましたわね。
西 島 ええ。
静 子 今、高峰さんは綾子さんの裸体画をかいていらっしゃるのですって?
西 島 ええ。
広 次 それは本当かい。
静 子 (おどろき)いつお目ざめになったの。
広 次 たった今だ。
静 子 西島さんがいらっしゃっていますよ。
広 次 よく来てくださいました。ちっとも知りませんで、失礼しました。なぜお前は知らせなかったのだ。
静 子 よくねていらっしゃるのですもの。今の話を聞いていらっしたの。
広 次 夢のように聞いていた。
静 子 いやな方ね。ぬすみ聞きして。
広 次 つい聞いたのだよ。(起きる)蒲団をかたづけておくれ。
静 子 はい。
広 次 今日は、君が来て下さるかと思っていたのです。
西 島 そうですか。
広 次 雑誌は何時頃出来ますか。
西 島 明日頃でしょう。
広 次 私のものを又出しても不服を云う人はありませんか。
西 島 ええありません。この前のは皆賞《ほ》めていました。
広 次 世間では何とも云わないそうですね。
西 島 ええ。
広 次 それがあたりまえですが。淋《さび》しい気もします。
西 島 反響がまるでないと思う時に、ぼつぼつ反響のあるものです。
広 次 君はどうでしたか。
西 島 少しほめられだしたのは三年のちでした、世間で存在を認めだしたのは五年目でした。もっと早い人もありますけれど。それは先輩に認められた人に限るようです。今の先輩に認められるようでは心細い気がします。どうしても後輩に認められるようなゆき方をするものは二三年は辛抱しなければならないでしょう。苦しいこともあるでしょうけれど、辛抱が必要です。
広 次 私は辛抱にかけては人にまけない心算でしたが、この頃はへんにあせっていけません。お茶をおくれ。
静 子 はい。まだ西島さんにもお茶もあげませんでしたわね。御免あそばせ。
広 次 お菓子でも買っておいで。
静 子 はい。
西 島 それには及びません。
広 次 買っておいで。
西 島 (遠慮するように)本当に……
静 子 (笑いながら)お兄さん。私今気がつきましたわ。お兄さんはお気がつかないの。
広 次 なんだ。
静 子 お菓子を買うお金は誰から戴《いただ》いたの。
広 次 それだっていいじゃないか。俺の処にあるものは一つ残らず西島君に買って戴いたようなものだ。今更それを可笑《お か》しがる程のことじゃないじゃないか。
静 子 それでも、西島さんが遠慮なさって、お兄さんが買えとおっしゃるのが可笑しいわ。
広 次 馬鹿。黙っておいで!
静 子 はい。(蟇口《がまぐち》をさがす)
広 次 少し遠くへ行って、いいのを買っておいで!
静 子 はい。(退場)
広 次 (沈黙。小声で)妹は行きましたか。
西 島 ええ。いらっしゃいました。
広 次 許して下さい。実は私はまだすっかり寝てはいなかったのです。うとうととはしていましたが、そうしてお話を残らず聞いたのです。
西 島 残らず。
広 次 ええ。残らず聞きました。盲目になってから疑い深くなりました。妹が私を起しましたけれど。その起しかたは、私の寝ていることを望むような起しかたの気がしたのです。そうしてあなたの御返事も、私の寝ているのを幸に思っていらっしゃるように思えたのです。それで私もそう思われていたいような気がしたのです。どうか怒らないで下さい。私達兄妹が互に信用していないようなのも不快に思わないで下さい。
西 島 不快に思いたくも思えません。
広 次 私にはこの頃いろいろのことが考えられるのです。私はこの頃本当に心細くなって来ました。悪口を云われるのが心細いのではありません。尤《もつと》も心細くないこともありませんけれど、それはどうにでもなります。いつまでも負けてはいません。私は心細いのはいつまでもあなたのお世話になっていなければならないことです。
西 島 そのことなら安心して下さい。
広 次 本当にそれでいろいろ御迷惑をかけていることと思います。それに私はへんなことを聞きました。気にすることではないのです。ですが今に御迷惑をかけはしないかと思うのです。妹はそのことを知っているか、知っていないか知りません。
西 島 何です?
広 次 あなたが聞いたらおどろきになるようなことです。
西 島 なんです。
広 次 近処の噂《うわさ》だと、妹をあなたの妾《めかけ》だと云うのです。
西 島 えっ。そんな。
広 次 随分馬鹿にした噂です。私はそれを聞いてあなたにすまないと思いました。
西 島 僕にすまないことはありませんけれど。随分ひどいことをいうものですね。さぞ腹が立ったでしょう。
広 次 私は一月ぶり位に湯に行って、その話を一寸聞いたのです。私の耳は他人《ひ と》よりはよく聞えます。小声だったのですが、聞えたのです。私はかっとして、身ぶるいがしました。其処《そ こ》にたおれるかと思いました。
西 島 御尤です。
広 次 私は帰ってから、すぐあなたの所へ手紙を出して、あなたのお世話になることをお断りしようかと思ったのです。そんな噂をたてられて、それが新聞にでも出たら、さぞ御迷惑だろうと思いました。又奥様も、さぞ腹をお立てになるだろうと思いました。私はどうなってもいいから御断りしなければならないと思ったのです。ですが考えている内にお断りしたあとのみじめさが目に浮んだのです。そうなれば妹はきっと相川の処へゆくでしょう。私にはそれは又堪《た》えられないのです。
西 島 それなら私さえ来なければいいでしょう。私があんまり何度も来たものでそんな噂が立ったのでしょう。そんな噂が立つと知っていたらそんなに来なかったのでしょうが。
広 次 あなたが来て下さらなかったら、私は勿論、妹も淋しがるでしょう。どうして私はこう不運なのかと情けなくなります。私はどうせものにならない人間なのではないかと思いました。私は生きていても死んでも同じ人間ではないのかと思いました。そんなことはない、そんなことはない、私は自分に何度もそういって自分を慰めます。しかしそれはただ慰めにすぎないのではないかと思います。自分はどうなってもいい。ただ妹が可哀そうだと思います。二三日前です、妹が歩いていましたら隣りの婆さんが或《あ》る人に頼まれたのだと云って、月五十円位で妾にならないかとすすめられたそうです。妹は可笑しくって腹も立たなかったと申しました。しかし妹の泣いていることは私には感じられました。恐ろしい侮辱です。
西 島 ここはきっと処《ところ》がいけないのです。何処かへ引越したらいいでしょう。
広 次 そうも思って見ました。ですけれど私の心細いのは、そういう噂ばかりから来るのではないと思うのです。この様子でゆけば、二月たっても、三月たっても、私は決心がつかなくなるばかりです。私にはいろいろ恐ろしい空想さえ浮びます。進むことも退くことも出来ない時が来そうな気がします。現在私は事実を正視することが出来ないような気持になっています。どうにかなるという気持は今はしません。私は本当に臆病《おくびよう》ものになりました。
西 島 心配しないで下さい。僕の方はどうにかなると思います。そうしてここへはなるべく来ないようにします。淋しかったらどうか、君の方から来て下さい。
広 次 ありがとう。(間)私は時々どうしてこう運命にいじめられるのかと思います。私より運のわるい人はあるでしょう。しかし私は随分運命には従順なつもりなのです。そうして出来るだけのことをやっている心算《つもり》なのですが、いざという時になると何時も思いもかけない、不幸が起って来ます。そうして私に致命傷を与えようとします、これでもか、これでもか、これでもまだくたばらないのか、運命はそんなことを囁《ささや》いて嘲笑《あざわら》っている気がします。きっと今に何か起って来そうな気がします。そうして私を世話する人間も運命から睨《にら》まれているような気がします。そうして運命はあなたから私をひきさきそうな気がします。
西 島 私は大丈夫だと思います。
広 次 あなたは大丈夫でしょうが、奥さんが。
西 島 …………
広 次 妹が帰って来ました。昔の運命劇にありますように、私の一家は何かに呪《のろ》われている気さえします。そんなこともないでしょうが。
(静子登場)
静 子 唯今《ただいま》。
広 次 早かったね。
(静子菓子を紙にのせて出す)
静 子 そうお。それなら又何処か散歩して来ましょうか。なんだか西島さんがお帰りになりそうな気がしましたので。
広 次 散歩してこないでもいいよ。(西島に)私は先日妹にイフィゲニエの訳をよんでもらって、自分の家にもあんな呪いがありはしないかとさえ思いました。それとも、私が今度出した小説にあります通り、敵の探偵を殺したのが祟《たた》っているのかと思いました。他の人は殺した瞬間に致命傷は受けなかったでしょうが、私はその瞬間には致命傷を自分が受けたような気がしました。そうして私の一生は狂い出すかも知れないと思いました。私が盲目になったのはそれからまもなくでした。見てはならないことを見たのかと思いました。まだ碌《ろく》に戦争もしない内でしたからなお気がとがめたのかも知れません。
静 子 お兄さん。それは神経ですよ。そんなことはあるわけはありませんわ。お兄さんの運命はきっと今にひらけますよ。私はそれを疑いませんわ。もう一息と云う処に来ていらっしゃると思いますわ。
広 次 生意気なことをいうな。お前にはそんなことがわかるものか。
静 子 わかりますわ。ね、西島さん。
広 次 俺《おれ》だって、もろくは負けはしないよ。俺だってお前が俺を信用する以上に俺を信用しているよ。「今に見ろ」という気はたえずしている。石にかみついてもと云う気もたえずしている。しかし俺には俺を十重《とえ》二十重《はたえ》にとりかこむ見えない禍《わざわい》があるのだ。俺はそれを感じている。
静 子 私、その見えない禍をとってあげますわ。
広 次 お前にとれるかい。
静 子 とれますわ。昔からそういう禍をとるのは女のつとめですわ。イフィゲニエがそうですわ、橘姫《たちばなひめ》だってそうですわ、私だってそれが出来ないことはありませんわ。
広 次 お前は何を考えているのだ?
静 子 (笑いながら)何んでもありませんの。ただふと私にそう云うことが出来そうな気がしましたの。
広 次 それなら早く禍をとってくれ。
静 子 そんなにせいたって駄目ですわ。西島さん。時がありますわね。いざという時が。
広 次 お前は相川の妻になってはいけないよ。
静 子 誰がなるものですか。(西島に)ね。(間)兄はこの頃よく不意にお前、相川の妻になってはいけないよ、どうしても相川の妻になってはいけないよと申しますの。本当にどうかしておりますの。(気をかえたように)お兄さん。今日も隣りの婆さんが私に妾《めかけ》になる気はないか、月六十円でと申しましたわ。二三日前からくらべると十円あがりましたわね。
広 次 又、そんなことを云ったか?
静 子 本当にうす気味のわるい世の中ね。
西 島 本当に引越したらどうです。
静 子 引越したくはありませんわね。お兄さん。私、金で私が自由になると思っている人が出れば出る程面白いと思いますわ。何時か西島さんがおっしゃったように金で自由にならない女のいることを知らせてやりたいのですよ。私、もっともっと侮辱されて見たいのですよ。私、きっとかちますわ。そうしてそう云う奴《やつ》をじりじりさせてやりますわ。
広 次 お前は何と返事したのだ。
静 子 よく考えておきますとそう云ってやりましたわ。そうしたらもっと詳しく話そうとするので、閉口しましたわ。なんでもさきの男というのが四十幾つとか云うのですって。本当に面白いことがありますわね。今にどんなことを云ってくるか知れやしませんわ。
広 次 お前はどうかしているね。
静 子 どうかしないではいられませんわ。私、本当はもっと可笑しなことを聞きましたの。
広 次 なんだ。
静 子 西島さんは耳を押えていて頂戴《ちようだい》よ。聞かないふりをして頂戴よ。隣りの婆さんは、今の旦那《だんな》からはいくら貰っていると申しましたわ。
西 島 (立ち上り)僕は帰ります!
静 子 なぜ? お怒りになったの。
西 島 いいえ、怒りはしません。が、頭痛がしますから。
静 子 そうですか。それでは又ね。
西 島 ありがとう。さよなら。
静 子 さよなら。
広 次 さよなら。
(静子送ろうとする)
西 島 どうか送らないで下さい。
静 子 (小声で)お怒りになっていらっしゃるの。
西 島 いいえ。ただ急に一人になりたくなったのです。
(二人ふと手を握りあう)
静 子 (小声で)近い内に二人だけでお話したいと思いますが、御都合のいい時をお知らせ下さい。
西 島 (小声で)お知らせしましょう。(普通の声で)さよなら。
静 子 さよなら。
広 次 さよなら。
(西島退場。一寸沈黙)
広 次 なぜお前はあんなものの云い方をするのだい。
静 子 それでも、それでも、気が狂いそうだったのですもの。あんまりですわ。(泣く、広次も涙ぐむ)
――幕――
第四幕
西島の室
(第二幕に同じ、ただ本棚《ほんだな》に白い布がかぶせてある)
西 島 皆でいくらになります。
古本屋 皆で二十円五十銭です。
西 島 そうですか。(本棚をしらべて三四の本の選択に迷ったあとで大きい本一冊とる)これを加えるといくらになります。
古本屋 いくらの本ですか。
西 島 十円の本だったと思います、書いてあるでしょう。
古本屋 (本をしらべ)ええ書いてあります。十円です。四円にいただきましょう。
西 島 (又一冊を出してくる)これは二円の本です。
古本屋 それなら八十銭に戴いておきましょう。
西 島 全体で二十五円三十銭になりますね。
古本屋 ええそうです。
西 島 それなら今日はそれだけにしましょう。
古本屋 ありがとうございました。
(蟇口《がまぐち》を出し金をとり出し勘定する)
(女中登場)
女 中 高峰さんがいらっしゃいました。
西 島 お通ししてくれ。
女 中 はい。(退場)
古本屋 それならばこれで二十五円と三十銭で御座います。
西 島 たしかに。
古本屋 (本をつつみ)それならば本を戴いてゆきます。
西 島 どうか。
(高峰登場、会釈して古本屋退場)
西 島 (坐ったまま)失敬。
高 峰 (坐りかけながら)失敬。
西 島 暫《しば》らく逢《あ》わなかったね。こないだ不在《る す》に来てくれたそうだけれど失敬した。明日頃でも行こうかと思っていた。
高 峰 昨日あたり君がくるかと思っていた。病気かしらんと思っていた。
西 島 病気ではなかったのだけど、この頃は身体《からだ》がへんにつかれて出不精になった。
高 峰 何かやっているかい。
西 島 金もうけに小説を書いて見ようと思ったけれど、しくじってしまった。頭がつかれているので。この頃は夜がよく眠れないのだ。
高 峰 それはいけないね。
西 島 君はあれは出来たかい。
高 峰 出来た。気持よくいった。近い内に見に来てくれたまえ。
西 島 是非行こう。(時計をみる)
高 峰 何処《ど こ》かへゆくのかい。
西 島 いいや。人がくるのだ。
高 峰 僕がいてもいいのかい。
西 島 二時にくる約束だから。
高 峰 今何時だい。
西 島 一時一寸《ちよつと》すぎだ。
高 峰 それなら僕は一寸いて失敬しよう。
西 島 失敬だけど、一寸二人だけで相談がしたいと云うのだから、今晩か明日の朝ゆくよ。
高 峰 野村にこの頃逢ったかい。
西 島 ああ、三四日前に逢った。
高 峰 どうしている。
西 島 相変らずよわっている。あいつのことを考えると、どうしたらいいのかまるでわからなくなる。
高 峰 今度の小説は面白かったね。野村でなければ書けないね。
西 島 ああ、君はそのことを書いてやったかい。
高 峰 まだ書いてやらない。
西 島 書いてやると喜ぶだろう、自分の力について随分疑っているらしいのだ。
高 峰 目が見えなくっては自分で字が書けないので困るだろう。夜中に書きたくなっても妹を起すわけにもゆかないだろうし。妹は飯の用意なんかもしなければならないだろうし。
西 島 なにしろ目をやられてはたまらない。なおしたい処も碌《ろく》になおせないだろうし、読みなおすのも厄介だし、妹に知られたくないことは書けないし、いろいろ僕達にはわからない苦しみがあるだろう。
高 峰 野村の書いたものにはそれが何処となく出ていて、それに打ち克《か》とう、打ち克とうとしている処が、悲壮な感じを与えるね。生きることは苦しいとゴオホが云ったそうだが、野村なんかも本当の意味で生きることを苦しんでいるのだから、それが何処ともなく出ているね。時々はいたましい感じがする。
西 島 本当に逢えば逢う程気の毒な気がする。見ていても苦しい。本人はさぞ苦しいだろうと思うよ。それにひどい処に住んでいるのだろう。いろいろ噂《うわさ》を立てられているらしいのだ。それがまた、たまらない噂なのだ。
高 峰 それは近所の噂の種になるだろうね。何しろ盲目と美しい娘とだからね。
西 島 それに貧乏なくらしをしているのだろう。それだものだからへんな誘惑を受けるらしいのだ、静さんなんかお妾《めかけ》さんになったらどうだと勧める人がいるのだそうだよ。随分馬鹿にしているね。
高 峰 それはたまらないね。
西 島 又見そめた奴でもいるのだろう。しかしそれもいいが、もっとひどい噂さえあるのだ。僕が何度も行ったもので、僕を静さんの旦那だと近処では思っているのだそうだ。僕より他《ほか》の人はめったに行かないからね。
高 峰 僕もゆきたくは思っているのだけど、淋《さび》しさを与えそうな気がしてゆかないのだ。
西 島 僕はそう云う噂をたてられるのを困りはしないけど、二人に気の毒で仕方がない。それで僕はもう暫《しばら》く行くのをやめようと思っているのだ。二人は又そのことが新聞にでも出ると大変だと云っているのだ、出ないとは限らないからね。僕はその話を野村から聞いておどろいていた。すると買いものに出かけた、静さんもそれを聞いて来たのだ。僕はそれを聞いて座にいたたまれない気がした。僕はすぐ立ち上って野村の処を辞して一人何処と云うことはなしに歩きまわった。泣きたいような気がしたのだ。恐ろしいことが近づいて来たような気がしたのだ。かくすのもいやだから白状するがね。今日二時からくると云うのは野村の妹なのだ。二人で相談したいことがあると云うのだ。僕はこの頃野村の運命には自分は手をさえることが出来ない人間のような気がするのだ。
高 峰 僕の画が若《も》しかしたら売れるかも知れないのだ。そうしたら半分野村に送りたいと思っているのだ。
西 島 今は金の方のことはどうでもなるのだ。正直に云うと僕は金の心配は自分一人だけでしたいとさえ思っているのだ、こう云えば君には恐ろしい事が近づいていることがわかるだろう、一言で云うと僕は久しぶりで又恋と云うことを知ったのだ。
高 峰 …………
西 島 恐ろしいことだ。そうしてこの恐ろしいことから恐ろしいことが生まれそうな気がするのだ。僕は近い内に、妻と遠い、遠い処へ旅行しようかと思っているのだ。僕はその為《ため》にも金もうけをしようかと思っているのだ。しかし僕の一番恐れるのはそのことではない。そのことならば僕さえ辛抱していればいいのだ。そのくらいなことが出来ないことはない。恐ろしいのは野村の妹が自分からすすんで相川の妻になりそうな気がするのだ。そう思うのは僕ばかりじゃない。野村もそれを恐れているらしい。しかしもっと恐ろしいのは自分の心の内のあるものと、野村の心の内のあるものが、それを望んでいることだ。そうして野村の妹がそれを感じていることだ。
高 峰 …………
西 島 恐ろしいだろう。僕はこの頃それで少しもおちつかないのだ。
高 峰 僕にはよく君の云う意味がわからない。
西 島 簡単に云うと、僕には野村の兄妹《きようだい》を養う力が今になくなりそうなのだ。半年ぐらいはやりくりがつくかも知れない。しかしそれ以上やりくりはつかないだろう。僕は今までに金のとれる口は皆自分の方からこわしてしまった。原稿料の値上げをせまったり、尊敬が足りないとおこったりして、そうして僕はこの頃、創作をやりかけるとしくじってばかりいるのだ。僕も野村も今に自分を生かす為には犠牲者を要求するのだ。それは二人の女の内の誰かだ。僕の妻か。野村の妹かだ。そうしてそのことを野村の妹は感じているのだ。
高 峰 恐ろしいね。
西 島 僕は第三者の救いをたのもうかと思った。僕はいろいろの人を頭に描いた。だが僕はいい人も見つからなかったし、その上にいい人を見つけたくもなかったのだ。僕は自分をこんなに恐ろしい人間だとは思わなかった。僕は静さんに最後の手段としてよき夫を世話しようかと思った。いい人が見つからなかった。そうして自分は見つからないことに凱歌《がいか》を上げた。(時計を見る)ああもうじき二時だ。今日は僕の失礼を許してくれたまえ。僕の頭はどうかしている。君と其処まで散歩をしよう。
(無言で二人退場。女中登場。あとかたづけをする、暫くして)
女 中 はい。(返事をして下へゆく)
(静子女中と登場)
女 中 じき帰っていらっしゃいます。貴女《あなた》がいらっしたら待ってて戴《いただ》きたいとおっしゃいました。高峰さまがいらっしゃったので送っていらっしゃいました。
静 子 そうですか。西島さまと高峰さまによく似た方が角《かど》をおまがりになるところを見ましたっけ。矢張りそうで御座いましたのですね。
女 中 きっとそうで御座いましょう。(座蒲団《ざぶとん》をすすめ)どうぞお敷きになって。
静 子 ありがとう。
(女中退場、静子おちつかないように歩きまわる。そっと自分の肖像画の前に立ちどまる。足音がするので本棚の処にゆき、たれてある布をあけて見つめる。女中お茶を持ってくる)
静 子 又古本をお売りになったの?
女 中 ええ、さっき古本屋が来まして、こんなに本をもってゆきました。
静 子 そうですか。勿体《もつたい》ない。
(女中お茶をついですすめる)
静 子 ありがとう。奥さまは?
女 中 実家へいらっしゃいました。
静 子 そうですか。
女 中 きっと旦那《だんな》さまはもう帰っていらっしゃるでしょう。
(女中退場、静子障子をあけ外を見たが、耐えきれずにしのび泣く。急に気をとりなおし、涙をふく。まもなく西島登場)
西 島 どうも失礼しました。(駆けて来たらしく息がせわしい)
静 子 たった今上ったところです。
西 島 そうですか。
静 子 高峰さんがいらっしたのですって?
西 島 ええ。
静 子 いついらっしたの。
西 島 一時頃でした。
静 子 早くお帰りになったのね。
西 島 帰ってもらったのです。
静 子 私がくるからとおっしゃって?
西 島 ええ。
静 子 あなたは正直な方ね。
西 島 それでも相手が高峰ですからね。かくすのは気がひけます。
静 子 先日は失礼しました。
西 島 僕の方こそ。
静 子 あとで兄におこられましたわ。
西 島 おかくしになったので。
静 子 何を?
西 島 雑誌に評が出ていたことや何んかを。
静 子 いいえ。まだ兄は知りませんですよ。
西 島 いいえ、御存知ですよ。こないだ二人で話したことを野村君は皆聞いていらっしたのですよ。
静 子 皆? 私には聞かないふりしておりますよ。私もそうかとも思いましたわ。あとで。
西 島 野村君は元気ですか。
静 子 何んだか淋しがっています。頭をこわしたらしいのです。
西 島 それは御心配ですね。あんまり無理をなさるから。
静 子 本当に。ですが無理もしたくなるでしょう。あなたも今日は神経質な顔をしていらっしてね。
西 島 そうですか、僕はわりに元気です。
(風が少しふきこむ)
西 島 寒くはありませんか。
静 子 いいえ、別に。
西 島 障子をしめてよろしいか。
静 子 ええ。兄は今日私があなたの所へ上るのを心配しておりました。
西 島 なぜです。(障子しめに立ちながら)
静 子 なぜですか、私にもよくはわかりませんの。兄はこの頃よく私のことを心配しますの。病気になってはいけないよ。やけを起してはいけないよ。思いきったことをしてはいけないよ、と申しますの。私が兄について心配することを兄は私について心配しますの。
西 島 本当にあなたはやけを起したくはなりませんか。
静 子 ならないことも御座いませんが。出来るだけ辛抱したいと思っておりますの。
西 島 本当に辛抱してください。
静 子 ですけど随分長い辛抱ですわね。そうしてあなたに御迷惑をかける辛抱ですわね。
西 島 僕はちっとも迷惑はうけません。
静 子 本がある間は、でしょ。そうして本がある間ももうじきですわね。あなたはこの頃少しもお金をおとりにならないのですね。
西 島 とる必要がありませんから。
静 子 (無理にほほえみながら)とれないからでは御座いませんの。本が段々なくなっては奥さまもお淋しいでしょうね。
西 島 本はあなたが思ってる程なくなってはしません。
静 子 私はもうだまされている顔はいたしませんわ。本当の事をおっしゃって下さったっていいでしょう。
西 島 どうか心配しないで下さい。この上あなたに心配かけたくはないのですから。
静 子 そんなことおっしゃると皮肉に聞えますよ。
西 島 (立ち上り歩きまわる)決して皮肉ではありません。
静 子 (西島の方を見ず、坐ったまま)なぜあなたは私の事をそんなにまで心配して下さるの。
西 島 失礼かも知れませんが、あまりお気の毒に存じますから。
(沈黙)
静 子 本当のことをおっしゃって下さい。私はどうしましたら一番いいので御座いましょう。どんな残酷なことでもよろしいからおっしゃって下さいな。
西 島 今のままにしていらっしゃるのが一番いいと思います。
静 子 本当にそうお思いになるの? どうか本当のことをおっしゃって下さいな。私どんなことを云って下さっても嬉《うれ》しいのですから。
西 島 …………
静 子 おっしゃることがお出来になりませんの。
西 島 どうか今のままにしていて下さい。
静 子 今のままにしていても決して恐ろしいことは起りませんの?
西 島 どうか今のままにしていて下さい。つらいこともあるでしょうが。
静 子 恐ろしいことが未来に待っておりませんでしたら、私、今のままを幸福と思っていますわ。ですけれど私にはいろいろのことが私達を待っているような気がしますわ。
西 島 どんな所でどんな幸福が待ちぶせしているかわかりません。今のままより仕方がないでしょう。今までのようにしていて下されば僕はよろこんで出来るだけのことはします。
静 子 それを私は恐れておりましたのですわ。私はあなたに出来るだけのことはして戴きたくはなかったのです。ただ余分だけで助けて戴けるものなら助けて戴きたいと思ったのです。それに恐ろしい噂《うわさ》が奥様に聞えましたら、奥様もいい気はなさらないでしょう。私達の為にあなたは共倒れになってもいいと云う気を起していらっしゃいます。私にはそれがよくわかって参りました、それが何より恐ろしいのです。本当のことをおっしゃって下さい。今の内にどうにかしなければならないのでしょ。
西 島 そんなことはないと思います。その内に道が開けるだろうと思います。
静 子 私にはそうは思えませんわ。今にとり返しがつかなくはならないでしょうか。本当のことをおっしゃって下さい。私は決心しなければならない気がするのです。
西 島 もう少し辛抱して下さい。
静 子 辛抱ならいくらでもいたしますわ。ですがこのままで行ったら恐ろしいのでしょ。
西 島 …………
静 子 きっと私、今にあの噂が新聞に出るかと思いますわ。兄ではありませんけど、私達は本当に災いにとりかこまれている気がしますわ。私達は本当に心細う御座いますの。あなたも、もう私の処へは来て下さらないでしょう。あの噂が奥さまの耳に入ったら、私ももう上れませんわ。本当に私はどうしたらいいのでしょう。
西 島 あなたは私が世話する力もないのに余計なことを云って、あなた達を苦しめたとは思いませんか。
静 子 決してそんなことは思いませんわ。
西 島 私もあんな噂をたてられた今、お世話するのが心苦しい気もします。ですが、よかったらどうか世話さして下さいませんか。世話することを許して下さったらどんなに嬉しいでしょう。
静 子 あなたは、あのいやな噂を奥さまにお話しになって? そうして私達を世話する事を奥さまは喜んでいらっしゃいますの。今日《きよう》本をお売りになったことは奥さまは御存知なの? そうして私が今日一人で上ることを奥様は御存知なの?
西 島 …………
静 子 かくしていらっしゃるのでしょう。(間)奥さまは私を憎んでいらっしゃるでしょ。
西 島 そんなことはありません。
静 子 あなたはなぜ本当のことをおっしゃって下さいませんの。私を信用して下さらないの。私は本当にどうしたらいいのでしょ。あなたはそれを知っていらっしゃるのでしょ。知っていらっしゃるならおっしゃって下さいな。相川の処へゆけとおっしゃっても私はお恨みはいたしませんわ。
西 島 あなたはもう私の世話になるのはいやなのですか。そうしてお兄さんはどうなさります。
静 子 本当にこの頃のようでしたら。
西 島 あなたは僕に力がないのをびっくりしたのでしょ。
静 子 そんなことはありませんわ。ですけれど私の思っているよりは、(微笑《ほほえ》み)金持ではおありにならないのね。
西 島 僕はまだ捨て身にはなりません。まだ力を出しきりはしません。金だってまだとれる余裕があります。
静 子 それならなぜ本をお売りになるの。
西 島 一番簡単ですから。そうしてなくなってもちっとも仕事に差支《さしつか》えがないのですから。
静 子 本を書いた方がそんなことを聞いたら怒るでしょうね。
西 島 怒りはしません。
静 子 へんなことを聞きますが、あなたは兄の為に金を出して下さるの? 私の為に金を出して下さるの?
西 島 両方です。
静 子 私、もっとさきが聞きたい気もしますけど、本当は聞いてはいけないことですわね。ですが、兄はものになりますわね。
西 島 あなたさえわきに居れば。
静 子 私がいなくったってものになるでしょ。もし筆記する人がいましたら。妻の代理をつとめるいい人がおりましたら。
西 島 万一、そう云う人がいましたら。
静 子 あなたは私がいる為に兄を有望だとおっしゃるのではありませんわね。
西 島 決してそんなことはありません。
静 子 私が居なくっても金を出して下さいますか。
西 島 あなたがいないとは。
静 子 仮定で御座いますわ。
西 島 あなたが兄をたのむと一ことおっしゃったら。
静 子 そう申しませんでしたら。
西 島 …………
静 子 御免遊ばせ。
西 島 (ふところから紙づつみを出し)これだけ今日持って帰って下さい。
(蛇足。以上西島の会話は立ったり坐ったりして話されたものと思って下さい。静子は火鉢《ひばち》によって火箸《ひばし》をいじりながら独言するように云っていると思って下さい。今西島は又立って歩いていると思って下さい)
静 子 (受けとり)ありがとう御座います。(それを見ず自分のわきにおく)
(沈黙)
静 子 私、こうやっていますと、本当に気が落着きますの。御邪魔にはなりませんわね。
西 島 なりません。
静 子 奥さまは何時お帰りになるの。
西 島 夕方でしょう。
静 子 朝からいらっしたの。
西 島 ええ、十一時頃でした。
静 子 それならもうお帰りになるかも知れませんわね。
西 島 大丈夫です。
静 子 それでもお留守に上ってお留守に帰るのは変で御座いますわね。
西 島 それでも留守に来て、留守に帰ることがあるのですから仕方がありません。
静 子 私は本当にどうしたらいいのでしょう。
西 島 (歩きまわっていたが、充血した目をして、静子に近づき)すべて僕にまかせて下さい。(静子の肩に手をかけ、接吻《せつぷん》しようとする)
静 子 (驚いて立ち上り)何をなさるの。
西 島 …………
静 子 あなたは矢張り私を妾《めかけ》にしようと思っていらっしゃるのね。本当に恐ろしい方ですわ。
西 島 (良心に恥じて)許して下さい。許して下さい。決してそう云う心算《つもり》ではなかったのです。
静 子 どっちにしろ、同じことですわ、私帰りますわ。
西 島 怒っていらっしゃるの。
静 子 怒ってはしませんわ。ですけど悲しい気がしますわ。
西 島 本当にもう決してしません。許して下さい。一言《ひとこと》許すと云って下さい。本当にとりかえしのつかないことをしました。
静 子 障子をあけて下さい。
西 島 はい。(障子をあける)
(沈黙)
静 子 明日の午後二時に来て下さい。
西 島 上ってもよろしいのですか。
静 子 二時よりあまり早くってはいけません。二時よりあまりおそくってもいけません。
西 島 ええ。時計を見てちゃんとその時分に上ります。
静 子 うちの前に立ち止っていらっしたり、うちの前を行ったり来たりなさっては困りますよ。
西 島 しません。
静 子 それならお暇《いとま》します。
西 島 これをもって帰って下さいませんか。
静 子 いりません。
西 島 どうしても許して下さらないのですか。
(静子黙って金をとる)
西 島 (嬉しそうに)許して下さったのですね。
(静子西島の手を握り)
静 子 私を憎まないで頂戴《ちようだい》よ。(急に身を転じ俯向《うつむ》く)さよなら。
西 島 又あした。
静 子 (退場しながら)きっと二時ですよ。
西 島 ええ。
(西島送ってゆく。まもなく西島登場。障子の処から静子の後姿を見送り、障子をしめ溜息《ためいき》をつき、机の上にうつぶす。暫《しば》らくして)
西 島 おい。
外 はい。
(女中登場)
西 島 かたづけてくれ。
女 中 はい。
(女中かたづけて退場)
西 島 (独言)ああ俺は馬鹿だ、馬鹿だ。思いちがいしていた。(髪毛をかきむしり)許して下さい。彼女の運命に狂いがないように。(沈黙、不意に頭をかきむしる。不意にやめる。芳子《よしこ》登場)
芳 子 唯今《ただいま》。
西 島 大変早かったね。
芳 子 ですけど丁度いい時に帰って来たのでしょ。
西 島 何を云うのだい。
芳 子 もっと早かったらお怒りになるでしょ。
西 島 …………
芳 子 今まで、誰《だれ》がこの室で貴夫《あなた》とさし向いになっていたか知っていますよ。
西 島 それが何んだ。
芳 子 それだって私の留守に、すましてここへ上げるなんて。貴夫は今日私が実家へゆくかと何度も念を押しになったわね。私の留守にわざとお呼びになったのではなくって。そうでしょ。
西 島 相談があったのだ。
芳 子 私が居てはいけない御相談。
西 島 お前がいれば野村の妹は遠慮するからね。
芳 子 おかしな方ですわね。
西 島 何が。
芳 子 静子さんのことだとすぐお怒りになるのね。
西 島 お前が角《かど》のあるものの云い方をするからさ。
芳 子 それでも女は女同士で相談するのがあたりまえですわ。
西 島 女が女同士相談が出来るかい。まして細君になっている女と。
芳 子 細君のある男の方と話するのがなお可笑《お か》しいわ。へんな噂があるって実家の父や母は心配しておりましたわ。
西 島 どう云う噂だ。
芳 子 云うとお怒りになるから云いませんわ。
西 島 野村の妹が俺の妾だと云う噂だろう。誰に聞いたのだ。
芳 子 御存知なの? 知ってて静子さんも貴夫も平気なの。
西 島 噂がなんだ。
芳 子 外の噂とはちがいますわ。
西 島 お前は誰に聞いたのだ。
芳 子 そんな噂と云うものはすぐ伝わるものですわ。実家の知っている人があの近処に住んでおりますのですよ。貴夫と静子さんが一緒に歩いているのを見たと云っていましたわ。私弁解しましたら笑われましたわ。
西 島 笑う奴《やつ》は笑うがいいさ。
芳 子 静子さんは貴夫の思っているような方ではなくってよ。静子さんは嘘《うそ》つきですよ。
西 島 何が?
芳 子 叔父さんの家には足ぶみもしないとおっしゃっていらっしゃいましたわね。
西 島 それが嘘だと云うのかい。
芳 子 嘘ですわ。
西 島 証拠があるのかい。
芳 子 ちゃんと見ましたわ。
西 島 本当に見たのかい。
芳 子 そんなことを嘘はつきませんわ。
西 島 何時《い つ》見たのだい。
芳 子 たった今!
西 島 今? とうとう行ったか。
芳 子 ちゃんと入るところを見ましたわ。今までだって何度もいらっしゃったに違いありませんわ。
西 島 本当に見たのだね。
芳 子 ええ。
西 島 …………
芳 子 そら。御覧あそばせ。
西 島 黙れ! 野村の妹は相川の妻になることにきめたのだ。
芳 子 私きっとそうだろうと思いましたわ。
西 島 お前にわかるかい。たった今きめたのだ。この俺《おれ》がきめさしたのだ。野村の妹は俺のたよりにならないことを知ったのだ。俺の最も恐れていたことが起ったのだ。お前はそれを見て黙っていたのかい。
芳 子 それだって走《か》けていってとめることも出来ないじゃありませんか。貴夫これからすぐ行って、とめていらっしゃればいいわ。(本棚《ほんだな》のそばに行って本棚を見る)本をお売りになったのね。
西 島 売った。
芳 子 いくらお売りになったの。
西 島 二十五円だ。
芳 子 そのお金をどうなさって?
西 島 皆野村の妹にやった。
芳 子 まあ。うちはどうなさるお心算。
西 島 お前の方はどうだった。
芳 子 だめでしたわ。
西 島 どうにかなる。
芳 子 うちなんかどうなったっていいのでしょ。私なんかどうなったっていいのでしょ。私なんか心配して死んでしまう方がいいのでしょ。噂は矢張り本当なのですね。(泣く)
西 島 嘘だ。明日になれば皆わかる。お前は野村の妹には感謝していいのだよ。万事過ぎた!
芳 子 (ヒステリー的に? 静子の肖像を見て)この額を外《はず》して頂戴。
西 島 外そう。(額をはずす)俺はこれから一寸散歩してくるよ。(退場)
――幕――
第五幕
広次の室 (三幕と同じ)
(広次、一人で静子の帰りの遅いのをまちかねている。電燈がぼんやりついている。足音する)
広 次 静ちゃんかい。
静 子 はい。(登場)唯今。(お辞儀をする)
広 次 何をぐずぐずしていたのだ。俺が一人でいればどのくらい不自由だと云うことはお前は知っているのだろう。それなのに今日は何時《い つ》もに似あわずゆっくりのそっと帰って来たのだね。
静 子 これでも急いで帰って来ましたのよ。
広 次 そんな嘘ついたって駄目だよ。目がなくったって耳があるからね。急いで帰って来た奴とゆっくり帰って来た奴の呼吸の違いぐらいはわかるからね。それに今日は何時もに似合わず足音が低かったよ。まるで泥棒見たいにそうっとあがって来た。俺に逢《あ》うのが恐《こわ》いような歩き方をしている。
静 子 そんなことはありませんわ。
広 次 金をもらって来たか。
静 子 はい。二十五円だけ戴《いただ》いて来ましたわ。
広 次 そんなにもらって来たのか、払わなければならないものは払っておけ。
静 子 はい。
広 次 お前は俺の時間を尊敬しなければいけないよ。お前の留守にどんな事があって俺に書きたいものが出来るかも知れないからね。用がすんだらさっさと帰って来てくれないと困るよ。
静 子 はい。
広 次 それは遊んでくるのもいいさ。たまだから。だけど、俺達はまだそんな呑気《のんき》なことを云っていられる人間じゃないのだからね。それは帰りたくないこともあろう。俺の顔ばかり見ていても面白くはないだろうから。
静 子 そんなことはありませんわ。
広 次 そんなら何をぐずぐずしていたのだ。俺は何度癇癪《かんしやく》を起そうとしたか知れやしない。俺はそれをじっとこらえてお前の帰るのをおとなしく待っていたのだ。無理はない、無理はないと思っていたのだ。だけど四時がうってもまだ帰って来ない。きっともうじき五時だろう。俺は心細い気がして来た。お前まで俺を馬鹿にしていると思って来た。俺はお前に馬鹿にされたって苦情は云わない。俺はお前の運命を兄らしく荷《にな》うことも出来なければ、お前を幸福にすることも出来ないのだから。お前はこんな兄をもったことを後悔するのも尤《もつとも》だと思っている。
静 子 何をおっしゃるの。お兄さん。
広 次 俺は本当のことを云っているのだ。
静 子 それが本当のことですって。私はお兄さんを軽蔑《けいべつ》したことがありまして。
広 次 軽蔑している! お前は俺が世間から悪口を云われた時、黙っていた。云えば俺が絶望するとでも思ったのだろう。お前じゃあるまいし、俺は自分の力を知っているよ。西島に聞かなくったって知っている。お前は俺を憐《あわ》れんでいるのだ。
静 子 そうじゃありませんわ。お兄さんがあまりあせっていらっしゃるので、お知らせする気がしなかったのですわ。
広 次 そうだろう。それで、俺が寝たふりしていると西島に、本当に兄はものになりましょうか、なんて聞く気になるのだろう。俺は目が見えないだってお前の心はわかっているよ。
静 子 そんなに憎まれ口がおっしゃりたければおっしゃるといいわ。
広 次 俺は憎まれ口を云ってはしないよ。俺はお前にも苦情の云えない人間だ。俺は世界中の皆に軽蔑されていい人間なのだ。俺は自分一人では生きてゆけない人間だからね。
静 子 ひがんでいらっしゃるのですわ。
広 次 ひがますようなことを誰がしたのだ?
静 子 誰もしませんわ。
広 次 お前は本当に俺を馬鹿にするね。(机の上のインキ壺《つぼ》をいきなり妹にぶつける。インキ壺こわれる)
静 子 (泣き声)何をなさるの。
広 次 お前が俺を馬鹿にするからさ。いくら盲目になったって、俺は俺だ。それが腹が立つなら、出て行ってくれ。
静 子 (インキ壺のこわれを集め、インキをふきながら)お兄さんにはどうして私の心がおわかりになりませんの。(泣く)
広 次 泣くがいい。そんな声におどかされないよ。お前はどんなことをしたって俺はお前に怒る資格がないと思っているのだろう。それはそうだろう。だけど、俺にだって意地はあるからね。居たくなかったら出て行ってもらおう。
(静子むせびなく。広次びっくりしてそばにより)
広 次 もう泣かなくっていい。本当に俺は腹立ちまぎれに云いすぎた。許してくれ。ね。お前の心はわかっている。ただ俺は、お前についていろいろ心配なことが心に浮んだのだ。途中で負傷しやしないか、悪者にどうかされやしないか、お前は心細くってやけを起しはしないか、とかいろいろのことを考えていたのだ。其処《そ こ》へお前がのこっと帰って来たのだ。俺は安心したと共に腹が立って来たのだ。実はさっきから書いてもらいたいものがあったのだ。それでなおお前の帰るのを待っていたのだ。さあ機嫌《きげん》をなおしておくれ。お前がどのくらい俺の事を思っていてくれるかと云うことは俺だって知っているのだ。許してくれ、悪かった。
静 子 (やっと泣きやみ)お書きになりたいものがあるのですって。
広 次 ああ、しかしいい。
静 子 書きますわ。
広 次 書けるかい。
静 子 書けますわ。
広 次 それなら書いてもらおうかね。飯を食ってからでもいいけど。
静 子 まだ四時半ですよ。書きますわ。(机に向い鉛筆で)さあ、云って頂戴。
広 次 いいか。
静 子 はい。
広 次 AとBの会話だからね。
静 子 はい。
広 次 「お前はどうして食っているのだ」「或《あ》る人に食わしてもらっているのだ」「ある人と云うのはお前の身内のものか」「友達だ」「友達はどうしてお前を食わす気になったのだ」「俺に同情したのだ」「どうして同情したのだ」書けたかい。
静 子 はい。
広 次 「どうして同情したのだ」「妹がいやな男と結婚をしなければならなかったからだ。その結婚をやぶる為には俺は妹と一緒に食客《いそうろう》になっている家を出なければならなかったのだ」「それならその友は君に同情したのか、君の妹に同情したのか」書けたね。
静 子 はい。
広 次 「両方だ」「両方か、俺にはそうは思えない。君の妹は美しいのだろう」「美しいのだ」
静 子 そんなことを書くのはいやですわ。
広 次 書け! 本当のことだから書け。出す出さないは別だ。
静 子 …………
広 次 お前は俺の云うことさえ書けばいいのだ。手が頭に苦情を云う奴があるか。書け!
静 子 はい。
広 次 「それならば両方ではあるまい」「その男は僕の仕事も信用している。そうして妻をもっている」「その男は非常な金持か」「そうではない」「その男の名はCと云うのだろう」「そうだ」「世間では君の妹をその妾《めかけ》だといっている」
静 子 なんの為にそんなことをお書きになるの。西島さんにあてつけているような気がしますわ。
広 次 黙って書け。俺は解決しなければならない問題にぶつかっているのだ。俺は今までそれにさわらないようにしていた。しかしいつまでもそんなことはしてはいられない。俺はこの問題と何処までとっくめるかを、自分で知らなければならない。書けた具合で見せなければそれでいい。書くのがいやなのか。
静 子 いいえ。書きますわ。
広 次 「……妾だと云っている」「世間が何と云っても恐れない」「しかし君の妹の縁談はそれでこわれはしないか」「こわれればなおいい」「しかしいい縁談があった時こわれたら困るだろう」「世間の噂《うわさ》を恐れる奴にいい奴はない」「それでもその噂が本当らしい時には誰もいい気がしないからね。一体妻をもつ男が若い女と友達になると云うことは許せないことなのだ」「Cはあたりまえの人間ではない」「君はCを信用し過ぎている」書けたかい。
静 子 はい。
広 次 「妹もそんな人間ではない」「君は妹を信用しすぎているな。今は信用していいだろう。しかし長い月日の内にはどうかな。君がCの位置にいたらどうだ。少くもCの家庭を乱すようなことはないか。君は黙っているね」
静 子 お兄さん私頭痛がして来ましたわ。
広 次 もう少しだ。これからが大事なのだ。これからが問題なのだ。書けるだろう。
静 子 書きます。
広 次 「……君は黙っているね。返事が出来ないのだろう。Cの家庭はたしかに君達の為に乱されているよ。そのくらいなことは小説家でない僕だってわかることだ。疑いと云うものはどんな処だって入るからな。又今後のことを人間は心配する動物だからな」B怒鳴る。「どうすればいいのだ」「君は自分の力で食ってゆけないのか」「ゆけない。俺は盲目だからな。それも俄《にわか》めくらだ」「君はどうしていいか知らないのだね」「知らないのだ」「妹を金持と結婚させるのだな」「馬鹿!」「それならCの世話になるのか。そうしてその内に何処からか牡丹餅《ぼたもち》の落ちてくるのを待っているのだね。その内にひどいめにあうことはないか」「俺は苦しい、俺の理想は俺が早く自分の仕事をある処まで仕上げることだ」
静 子 そんなに早くおっしゃっちゃ書けませんわ。
広 次 お前は泣いているね。俺達は泣いていられる身分かい。俺達は死にもの狂いにならなければならない時じゃないか。しおれている時じゃない。戦争に出て、敵にとり囲まれたと云って泣いている奴があるか。いいか。
静 子 はい。
広 次 「俺は苦しい。俺の理想は早く自分の仕事で食えるようになる事だ。自分の力で自分達の運命を荷えるようになることだ」「お前にはそれが出来るか」「出来ないことはないと思う」「本当にか」「俺だって男だ。そうして妹がいる。俺は死にもの狂いだ。もう一歩と云う処にいてくたばりきるような男ではない。侮辱と誤解は俺を淋《さび》しくする。俺の書いたものは恐ろしい悪口を云われた。救われないもののように云われた。だが俺はそれでくたばりきって、最初の一念を通さないような男ではない」「君の妹は?」「妹だって俺の妹だ。金の為《ため》に、いやな男に一生を売るような女じゃない」
(静子声出して泣く)
広 次 なぜ泣くのだ。泣くことはないじゃないか。俺を憐れむのか。俺は憐れまれたくない。泣く奴があるか。書け。
静 子 は、はい。
広 次 「妹だって俺の妹だ。金の為にいやな男に一生を売るような女ではない。およそそれは卑しいことだ。淫売婦《いんばいふ》になることは一瞬間を売ることなら、妻になることは一生を売ることだ。それはこの上なく恥ずべきことだ。妹はそんな妹ではない」なぜそんなに泣くのだ。黙っていてはわからないじゃないか。お前は矢張り俺が心配していたように下等な心をもっていたのだな。それで疚《やま》しいのだな。まさか叔父《お じ》さんの処へ行きはしまいね。(間)なぜ黙っているのだ。
静 子 は、はい。
広 次 行ったのか。
静 子 …………
広 次 行かないのか。
静 子 はい。
広 次 行かなければいい。俺は今日お前の帰りがおそいのでお前のことを思っていたら、お前の姿が目に浮んだ。それはうつむいてしおれて、死ににでもゆく人のような恰好《かつこう》をして道側をのこのこ歩いて行く姿だった。そうしてそのお前は何処に入ったと思う。西島の処ではなくて叔父さんの処だった。まさか行きはしまいな。行ったら承知しないよ。お前の位置の苦しいことは知っている。お前は時々相川の処へ思いきってゆきたくなりはしないかと俺はそれを恐れているのだ。俺も男だ。お前も俺の妹だ。思っても腹の立つ、相川の処へゆく気は起すなよ。苦しいことは沢山あるだろう。しかしとりかえしのつかないことをしてはいけないよ。何といったって俺のことを思ってくれるのはお前ばかりだ。お前のことを思うと力がわくのだ。俺は時々癇癪《かんしやく》も起す。つまらぬことでお前を泣かすこともする。俺は他の人には自分の憂《う》さをもらすことが出来ないのだからね。さあ泣くのはよしておくれ、お前が泣くと俺まで心細くなる。それは実際泣きたくなることもあるだろう。俺でさえ時々どうしていいかまるでわからない時がある。西島がいてくれなかったら実際どうすることも出来ない。西島は俺の心を知っている。西島に世話になるのは心苦しいが、酉島だから一方安心もする。西島が何かに書いていたが、ドーミエはコローの世話になって、コローにだからこそ世話になっても気がとがめないと云ったそうだが、俺も西島だから安心してたよれるのだ。いやな噂が立ったからと云って、西島は世間の噂にまけるような男ではないからね。そうしてその内には俺にも力が出来るからね。心配することはないよ。
静 子 お兄さん。
広 次 なんだ?
静 子 西島さんはそう金持ではありませんのよ。
広 次 それでも、毎月二十円の金ならどうにかなるだろう。
静 子 そうもゆきませんのよ。西島さんは私達に下さる金をつくる為に本を片端から売っていらっしゃるのよ。
広 次 それは本当かい。
静 子 本当ですわ。
広 次 そうか。
静 子 本当に私はどうしていいかわかりませんわ。
広 次 …………
(婆さん、登場)
婆 西島さんがいらっしゃいました。
広 次 西島が来た? お前は西島の処へ行ったのだろう。
静 子 え。西島さんがいらっしゃるわけはありませんわ。誰《だれ》かのまちがいじゃなくって。
婆 いいえ。西島さまです。
広 次 お通しして下さい。
(婆さん退場)
広 次 何の用で今時分来たのだろう。
静 子 本当に変ですわ。
(西島登場)
広 次 よく来て下さいました。
西 島 一寸《ちよつと》、散歩のついでにおよりしましたのです。
広 次 さっきは妹が出まして。
西 島 どういたしまして。(静子の方を向き)さっきは失礼しました。
(静子、顔をそむける)
西 島 君と二人だけで一寸お話したいことがあるのですが。
広 次 それなら静ちゃん、下へいっておいで。
静 子 はい。(黙って退場しようとする)
西 島 (小声で)怒っていらっしゃる。
静 子 (小声で)なぜ約束をおたがえになったの。
西 島 (小声で)余程今日は御遠慮しようかと思ったのですが、まだ貴女《あなた》はお留守かと思って。
静 子 留守のわけはないじゃありませんか。
西 島 私の処の帰りに何処かへおよりになったでしょ。
静 子 (びっくりする、しかしそれをごまかし)いいえ、何処にもよりませんでしたわ。
西 島 それは本当ですか。それなら私の妻が見ちがえたのかも知れません。
広 次 何です?
静 子 なんでもないです。
広 次 早く下へおいで。
静 子 もう私下にはゆきませんわ。
広 次 なぜだ。
静 子 だって、西島さんがどんなことをおっしゃるかわかりませんもの。
広 次 下へおいで。
静 子 (小声で)そのことをおっしゃっては承知しませんよ。
西 島 (小声で)それなら矢張り本当なのですね。
静 子 (小声で)余計なお世話ですわ。あなたは明日の午後二時前にはいらっしゃらない御約束じゃありませんか。
西 島 それでも。
静 子 (小声で)あなたは、私をいじめる為にいらっしたの。余計なことをおっしゃったら、私、一生お恨みしますよ。本当に今日いらっしゃるのは少しあつかましくってよ。
広 次 何をぐずぐずしているのだ。
(静子拝む真似《まね》をし)
静 子 ね。
(広次沈黙。静子、沈黙を守るしるしに口に指をあて、形で念を押す)
広 次 早くゆけ。
(静子、又口を指にあて、拝む真似をして退場。沈黙、広次は何か考えながらじっと坐っている。西島は立ちながら考えている。二人の目に涙がやどる)
広 次 西島さん。本当ですか。
西 島 何がです。
広 次 妹が叔父の処へ寄ったと云うのは。
西 島 よくは知りませんが。
広 次 妹はあなたの処に何時までいました。
西 島 三時頃でしたろう。もっと早かったかも知れません。一時間はいらっしゃいませんでした。
広 次 そうですか。私は又君の処に妹はゆっくりしていたのかと思いました。
西 島 もっと早くお伺いしたかったのですが、明日の二時に上るお約束をさっきしましたので。その時、お妹さんは二時前に来ては困るとおっしゃったので、この前を一度通りながら三十分程歩いて来ました。それでもとうとうお寄りしないではいられなかったのです。そのくせ私は何と君に云っていいか知らないのです。
広 次 …………
西 島 今日お妹さんが叔父さんの処にお寄りにならなかったにしろ、その内、お妹さんは叔父さんの処へいらっしゃる決心だと思うのです。私はそのことを今日お話している内に感じました。そのくせどうすることも出来なかったのです。今のままにしていて下さい、今のままにしていて下さいと私は云ったのですが、お妹さんには、それが不安で仕方がないらしいのです。何しろいろいろのことが起って来て、それが一つになって、妹さんを。
広 次 そうです、そうです。本当にそうです。私もそれを恐れていたのです。今日一人でいて今更にどうすることも出来ないことを感じたのです。私はどうかしてその恐ろしいことに勝とうと思いました。あんまり侮辱ですからね。私だって男です。盲目ですけど男です。たった一人の妹をこんなにまで思ってどうすることも出来ないのは残念です。侮辱です。そのくせどうすることも出来ないのですからね。私は相川と云う人間がそんなに恐ろしくない人間ではないかと時々思って見ます。しかし私は人のことを思うとすぐその容貌《ようぼう》が目に浮びます。それは事実あり得ない程醜いものに浮びます。それに相川のやり方は今思っても侮辱です。人を馬鹿にしています。私は相川の子を妹に生ますのはいやです。そうしてそんなにまで思っているものに妹をやるのは相川にたいしたって罪のような気がします。恐ろしい侮辱です。私はその侮辱をだまって受けなければならない人間でしょうか。私はそんなに賤《いや》しい人間でしょうか。私はそんな不浄なことをしなければ生きてゆかれない人間なのでしょうか。私の仕事はそんな不正なことをしなければ出来ないのでしょうか。私の仕事は妹を幸福にする仕事ではなくって、妹を不浄なものにしなければ出来ない仕事なのでしょうか。思えば思う程たまりません。私は目のいい時に、よくたまらない人間の顔を見ました。それは生々した所のない、美しい所の少しもない、ふやけた顔です。神経のない愛のない顔です。
西 島 それでもそんな男ならば妹さんを愛しはしないでしょう。
広 次 そうも思わないことはありません。しかし私は今度の結婚は相川よりも叔母《お ば》が進んでいるのだときめています。妹でも相川の処へやらなければ叔父の家はどうなるかわかりません。叔父の位置はあぶないのですから。叔父は働きのないくせに少し余計金をとっています。従ってつッかい棒がいるのです。それには妹が入用なのです。今度のことは向うがたってほしがっているよりも、叔母がたってやりたがっているのです。そうして叔父もその気になったのです。私達は叔父の犠牲になる必要は断じてありません。尤《もつと》も妹はそれを知っていながらも、無理はないと云っていました。妹は叔父と私との仲たがいを黙って恐れているのです。妹は癈兵《はいへい》の金をほしがっているのです。私は癈兵の金もあまり気持のいい金とは思っていないのです。私は好んで戦争へ行ったのではありません。又私はまだ自分を癈人だとは思っていませんから。
西 島 …………
広 次 ですけど、ですけど、そんな強いことを云ってもなにになるでしょう。実力は癈人と同じことです。私は虫のいいことを云っていながら、何をする力もないのです。妹を怒ったり、泣かしたり、いじめたり、するより外何にも出来ないのです。そうして癇癪を起すより外、力がないのです。私は時々生きてゆく資格のない人間ではないかと思います。少くも現代は私の生きてゆくことは望みません。それは私に力があり過ぎるからではなく、無さ過ぎるからです。自分ながら発狂しないのが不思議な時があります。
西 島 妹さんはそれを心配していらっしゃいました。
広 次 そうでしょう。妹の心はわかります。それだけ可哀《かわい》そうです。それだけはがゆいのです。妹は下で心配しているでしょう。私は自分達程不幸な人間はないとは云いません。私は自分を不幸な人間とはまだ云いたくありません。私はいくら運命にたたきつけられたって、生きている間は、こうやってこの世に坐っています。そうしてあわよくば起き上ってやろうと思っています。私はその時、妹と一緒に起き上ってやろうと思いました。二人で苦しんで来たのです。もし得られるものならば勝利も二人で喜びたかったのです。今までの妹の私に対する愛や、私の為の苦しみは、どんなものでしょう。どんな酬《むく》いをもってもそれを報いることは出来ません。それなのに、私は今それをこんな風に報いなければならないのでしょうか。私はどうすることも出来ないのでしょうか。私が死ねば妹が幸福になるなら死んでやりたい位に思わないことはないのです。それなのに、どうすることも出来ないのです。こんな意気地《いくじ》のないことがあるでしょうか。こんなはがゆいことがあるでしょうか。
西 島 どうか僕に任せて下さい。
広 次 それは妹が承知しませんでしょう。
西 島 (心に恥じる)…………
広 次 時々、どうでも勝手になれと云う気がします。私は何事も与えられることは耐えなければならない人間です。(間)妹の泣き声が聞えやしませんか。
西 島 いいえ。私には聞えません。君には聞えますか。
広 次 耳のせいかも知れません。さっきから泣かしてばかりいたのです。逃げ路《みち》のない所に逐《お》いこんでおいて、それで泣かしてばかりいたのですから妹もたまりません。何しろ十重《とえ》二十重《はたえ》にとり囲む災を一刀両断しないではいられない気持になりながらどうすることも出来ないので、それが癇癪になってもらす所がないので妹の上にばかりもらすのですから、妹もたまりません。
(静子、静かに音をさせずに登場、そうして西島を見て淋しく微笑《ほほえ》む)
広 次 其処《そ こ》にいるのは静ちゃんかい。
静 子 ええ、そうよ。
広 次 なぜ上って来たのだ?
静 子 それでも下にいると淋しいのですもの。お兄さんに怒られても上の方がよろしいわ。
広 次 お前は叔父さんの処へ行ったのだろう。
静 子 いいえ。誰がそんなことを云いましたの。
広 次 本当に寄らなかったのかい。西島さんの処には三時まできりいなかったのだろう。
静 子 よくは知りませんけれど、そんなものだったかも知れませんわ。
広 次 お前の帰って来たのは四時半だったろう。その間一時間半は何処にいたのだい。
静 子 私、ただ歩いていましたの。
広 次 本当かい。
静 子 明日まではそうしておいて頂戴《ちようだい》ね。西島さん、私一生恨みますよ。あなたはいいお考があっていらっして下さったの。それとも私をいじめるためにいらっしたの。
広 次 何を云うのだ。お前、矢張り本当なのだね。
静 子 知りませんわ。
広 次 お前は何故《な ぜ》俺に黙っていったのだい。
静 子 自殺する人は、黙って自殺してもいいと思いますわ。自殺しろとはどんな方でもおっしゃるわけにはゆきませんものね。西島さんだって私を助けることがお出来になりもしないくせして、お出来になるような顔していらっしゃるのですもの。
西 島 許して下さい。
広 次 静ちゃん何を云うのだい。あんなにお世話になっていながら。
静 子 それだって私の心を御存知のくせして、さっき知らん顔していらしって、今になってすましてお兄さんの処へ相談しにいらっしゃるのがおかしいわ。
西 島 明日が待てなかったのです。まさか私の所の帰りにおよりになるとは思わなかったのです。そんなにあてつけなことをして下さらないでもいいと思っています。
静 子 あてつけではありませんよ。私は今日はお暇乞《いとまご》い見たいなつもりで上ったのです。皆さんは見たがらないことを私は見ましたわ。私は私が一日でも早く自分のゆきつく処へゆきつかないと、どんなことが起るかちゃんと知っていますわ。私のしたことは恥知らずですわ。私、往来を歩くのでも小さくなっていましたわ。私程賤《いや》しい女はないような気がしましたわ。ですが、仕方がありませんわ。お兄さん、お腹《なか》が立つならどうぞ、私を打《ぶ》って頂戴、お蹴《け》りになってもよくってよ。ですけど、私を妹だとは思って頂戴。私お兄さんの傲《ほこり》をきずつけることを思うとたまりませんわ。私が一人賤しいのですわ。私は一生を売ったのですわ。私愛していない、寧《むし》ろ憎んでいる人に一生を売ったのですわ。私のしたことはどんな女だって恥じますわ。ですけど私は悲しくはありませんの。私は生きていて、お兄さんの仕事を見ることが出来るのですもの。お兄さんはいくら私を賤しんだり、憎んだりして下さったって私は、蔭《かげ》でお兄さんの為に祈っていますわ。
広 次 俺《おれ》の世話を誰がするのだ。
静 子 お兄さんに手を握られた小間使がしますわ。
広 次 承知したのか。
静 子 喜んでいましたわ。叔父さんも叔母さんも喜んでいらっしゃいましたわ。皆喜んでいましたわ。そうして私を賤しんでは下さいませんでしたわ。私は賤しんでくださってもかまわないと思う方《かた》には賤しまれませんでしたわ。西島さんもう帰って頂戴ね。明日は来てくださらなくってもよろしいわ。
(西島、黙って帰ろうとする)
静 子 お帰りになるの。私を軽蔑《けいべつ》していらっしゃるの。私のわきにいるのはもうおいやなの。
西 島 そんなことはありません。私はあなたの前には罪人です。あなたが帰れとおっしゃれば帰ります。(居残る)
静 子 あなたはちっとも私にわるいことをなさらなかったじゃありませんか。あなたはいつでも私に力を与えて下さいましたわ。私は御恩は忘れはいたしませんわ。あなたは余計なことをしたとお思いになるでしょう。ですけれど私はどんなに嬉《うれ》しかったか知れませんわ。これから今までよりも兄の友達になって下さいますわね。本当は今日来て下さった方がよかったかも知れませんわ。明日あなたがいらっしゃる時分には私はいなかったかも知れませんわ。私、兄に置手紙して明日逃げようかと思ったのですわ。そうしてあなたに来て戴くのは、ただ私の置手紙を読んで下さる為でしたわ。あなたにも手紙を書いておくつもりでしたの。そうしてあなたがここに来て下さっている時分に私は何をしているか、御存知? その時分は叔父さんにつれられて相川さんの処へ行っていますわ。
広 次 それは本当かい。
静 子 九分通り本当なの。今晩叔父さんが相川さんの処へいらっしゃるの。
広 次 お前はそんな約束までして来たのかい。
静 子 それでもおせきになるのですもの。
西 島 私に来いとおっしゃった時は、もうそれがわかっていたのですか。
静 子 まさか相川の処へゆくとまでは思いませんでしたけれど、叔父の処へは行っている心算《つもり》でしたわ。そうしてお兄さんのお許しを得てから帰って来ようと思いましたわ。明日小間使をつれて来ますわ。あの子はいい娘《こ》ですわ。それに字も書けますわ。そうして可哀そうな娘《こ》ですわ。私いなくなるまでにきっとよくしこみますわ。
広 次 静ちゃん。俺は強いことを云ったけれど、お前の決心をかえるだけの力のないことを許しておくれ。俺はこうやってがんばっているだけだ。俺には力はないのだ。お前のすることは、いいことかわるいことか俺は知らない。だが俺はどうしろとも云えないのだ。恐ろしいことは遂に来た。俺はどうしていいかわからない。反対していいか、賛成していいかそれもわからない。その力もない。
静 子 お兄さん、許して下さって。やっぱり妹だと思って下さって。
西 島 僕は失礼します。
静 子 お怒りになっていらっしゃるの。
西 島 怒るどころですか。恥かしい気がするのです。私は本当にあなた達にすまない気がするのです。私はまだどうかなると思わないことはありませんが、それは自分の良心に対する云いわけにすぎないでしょう。
静 子 西島さん。本当に、あなたの処へ行った帰りに叔父の処へ行ったことを許して下さいね。私、叔父の家を出て、こうしていたのを無意味とは思いませんわ。あなたの沢山の本を売らしてそんなことを云うのはすみませんけれど、あなたには仕事はありますわね。ある偉い詩人が恋が報いられないことを感謝して、詩が書けると云ったそうですわね。私、理窟《りくつ》では一番あなたに済まない気がいたしますのよ。ですが、あなたは大概のことには負けない方ですわね。私がそんなことを思うだけでも生意気の気がしますわ。又何時《い つ》かお目にかかれますわね。私御恩は嬉しく思い出しますわ。
西 島 ありがとう。野村君。それなら又。
広 次 それならば又。どうか。
西 島 ありがとう。さよなら。
広 次 さよなら。
(行こうとしてふりかえる、静子と手を握る)
西 島 (小声で)どうか許して下さい。
静 子 (小声で)許すことはありませんわ。
西 島 (小声で)気になって仕方がないのです。
静 子 気にしないで下さい。私、御親切を嬉しく思っているのですから。
西 島 それなら又何時か。
静 子 え。奥さまによろしく。
(西島退場、静子送ろうとする)
西 島 (辞退するように)どうか。
(二人退場。静子まもなく登場)
(沈黙)
静 子 怒っていらっしゃるの。
広 次 怒ってはいない。
静 子 許して下さって。
広 次 許す力も、反対する力もない。
静 子 私の心はわかって下さいますわね。
広 次 わかる。
静 子 私のしたことは悪いことでしょうか。
広 次 知らない。俺はどうしていいのかわからない。お前をとりかこんでいる災をとりのぞいてやりたい。だがその力はない。力がないですましているのをすまなく思う。だがこの目では仕方がない。身体《からだ》を大事にしておくれ。僕の仕事もその内には目鼻がつくだろう。
静 子 あせらないで頂戴ね。私生きて見られるのだと思うと嬉しくってよ。
広 次 俺はあせらない。
静 子 泣いてはいやですよ。
広 次 俺はこんなにまでしなければ生きてゆかれない人間か。そう思うと情けないよ。
静 子 …………
広 次 俺は力がほしい。
――幕――
あとがき
僕のかいた脚本で、現代物と言っていいものの内で、一番世間で問題にされたのは『その妹』と『愛慾』であろう。『その妹』は僕の二十九歳の時の作、昔風に言えば三十歳の一月にかいたものだから、もう三十七年前の作である。当時僕は鵠沼《くげぬま》の東屋《あずまや》に行って、其処《そ こ》で前年の十二月末からかき出し、一月何日かにかき上げた。自分でもかいている内、よく泣いた。一体僕は子供の時から泣きみそだったが、この作と、小説ではあるが『愛と死』をかいた時程、涙を流してかいたことはなかった。
自分では『その妹』のあるところは、あまり好きではない、気になるところがある。しかし其処を書きなおすと、作品が弱くなると思うので、かきなおす気にはならない。少し刺戟《しげき》の強すぎる、これでもか、これでもか、と言うところがあると思うが、かいた時の情熱を尊重して、書きなおさないことにした。一時、書きなおさないと出版出来ない時があったので、気になっているところも少しなおしたいと思ってやって見たが、どうもぴったりしないので事情が変ったのを幸い原形に戻した。全部自分で気に入っているわけではないが、これをかいた時の情熱、若さと言ってもいい、二度とくり返せるものではないと思うのでその時の情熱の赴《おもむ》くままにすることにした。
この作は『白樺』に出したもので、たのまれてかいたものでなく、かきたくなってかいたものと思っている。勿論《もちろん》この作にはきまったモデルはない。しかし木下尚江《きのしたなおえ》の話をききに行った時、飛び入りに盲目の人が喋《しやべ》ったのを聞いて感動を受けた事があったが、それがかく時に思い出されたのは事実だ。又ヘッベルの『マリア・マグダレナ』の芝居を見た時の印象からいくらか影響を受けたのも事実だ。
又その時分生活に困っている人で原稿を見てくれと言って来た人があったのも事実だが、あとは想像だ。天才のある画家が、戦争で盲目になったことを想像すれば、自ずとこう言う筋が浮んでくるのは僕には当然に思われる。
『愛慾』の方はなぜこう言うものをかいたか、僕はもう忘れている、四十位の時の作で『改造』にたのまれてかいたものだ。始め「人殺し」の場があるので一寸《ちよつと》かきたくなかったのだが、他にいい材料がないのに〆切《しめきり》がちかづくので仕方がなしにかいた。これは大震災後で、僕の兄の家が焼けたので、僕の母が牛込《うしごめ》の知人の家を借りて住んでいた、その家でかいた。宮崎県の新しき村に住んでいた時分のことで、東京に出て母の家に住んでいる時、もうじき新しき村に帰るので、それまでに何かかかなければならないので、思いきって「人殺し」のあるものをかいたわけだ。かき出したらわりに筆がすすみ、帰る日は夜中に起きてかいた。そして一先《ひとま》ずかき上げてから、京都にゆく途中で最後のところを少しなおすことにして、『改造』に手紙をかいたことを覚えている。その手紙は奈良の志賀の家だったように覚えているが、或《あるい》は京都の友人の家からだったかも知れない。
出て評判になり、芝居に友田恭助、山本安英《やすえ》(後で田村秋子)にやられてなお評判になったわけだ。それで僕の芝居ではこの二つが特に有名になったわけである。
この作品は昭和二十六年十一月新潮文庫版が刊行された。
本作品中、今日の観点からみると差別的ととられかねない表現が散見しますが、作品自体のもつ文学性ならびに芸術性、また著者がすでに故人であるという事情に鑑み、原文どおりとしました。
(編集部)
Shincho Online Books for T-Time
愛慾・その妹
発行 2003年2月7日
著者 武者小路実篤
発行者 佐藤隆信
発行所 株式会社新潮社
〒162-8711 東京都新宿区矢来町71
e-mail: old-info@shinchosha.co.jp
URL: http://www.webshincho.com
ISBN4-10-861253-1 C0893
(C) Mushak冕isaneatsukai 1951, Coded in Japan