武田 泰淳
快楽
両国橋の、赤黒い鉄の板と、鉄の柱、組みあわされた鉄材のあいだを、電車が走りすぎる。ひろびろとした隅田川の水面と、うすにごりした川向うの空が、白っぽく光って、柳をむかえる。
ふくれあがるほど湛《たた》えられた河水は、しめった感じが少しもしない。はち切れんばかりの元気、灰色の殺気のようなものが、金属的に光る水面から、たちのぼっている。
秋葉原の駅の、あの上下三つのコンクリートの高々とした階層を持った、異様なホームで乗りかえをしたときから、いよいよ、またもや川向うへ行くのだという、気がまえで胸がはずむ。あんまり明るい気持ではないが、さればと言って、それほど暗く沈んだこころでもない。
「ともかく、おれは、坊主なんだ」
何百回、何千回となくくりかえしてきた、植物的なつぶやきが、川風に吹きさらされて、穂さきをなびかせる。何も、今さらのコトではないのだ。
だがやはり、目黒川に沿った、狭い谷間の樹々の緑にかこまれた寺に、くすぶっているときと、こうやって川向うの江東組の寺院へ出かけて行くときとでは、おなじつぶやきにも、ちがったゆらめきがあるのだ。
「ともかく、おれは、浄土宗の大寺のお坊っちゃんだ」
背広にソフトで、法衣と白足袋のふろしき包を、かかえて行くときもある。黒の改良服の上から、インバネスをひっかけて行くときもある。若い坊さんであることを恥ずかしがって、かくすようにして吊革《つりかわ》にぶらさがっているときもあり、きれいサッパリ「さあ、おれさまは坊主なんだ。どうとでもしてくれ」と、一分刈りの頭部に、念力《ねんりき》をこめて立っているときもあった。
両国の駅を降りて、国技館の円屋根《ドーム》の方へ歩いて行く。両国駅のホームは、風とおしがよくて、吹きさらし、吹きあげられる感じだ。そして、ホームに立つといつも目につくのは、四階建のホテルだった。
それほど堂々としたホテルでもなく、また、それほどチャチな安建築でもない。ホームの高さが、ちょうど四階の窓と向いあっている。午前の十時か、十一時、ホテルの窓はかたくとじられて、赤いカーテンがかかっている。たまたま開いている窓から、女中さんの、いやいやながらの後しまつの姿が見えることもある。窓の外へはみ出したカーテンだけが風にそよいで、室内の男女の姿は見えないこともある。どんな男女が、そこで、どんな楽しい一夜をすごしたのか、柳には想像もできない。「きっと、あそこの窓の内側には、今さっきまで、一組の男女がいたのだ。いや、まだあそこに現にいるのかもしれない」
俗悪でもなければ、上品でもない、赤みをおびたクリーム色の壁にはめこまれた、八つか十《とお》の小さな窓が、いつも柳に「おまえさんの知ったこっちゃないさ」と、冷たいそぶりを見せる。ホーム側は、ホテルにとっては明らかに裏側か横側かなのだから、路面には穢《きたな》いゴミ箱があり、あぶなっかしい非常|梯子《ばしご》があり、はげた壁があり、見られたくない側面だった。ことさら、見せつけたい意志などあるはずがないのに、「見せつけられた」ように感じるのは、柳の勝手だった。
一の橋、二の橋、三の橋と、順番に名のついた橋のうち、どの橋なのか、柳にはよくわからなかった。問屋の店や、倉庫や小工場の多い路を歩いて、二つばかり木橋をわたる。青黒い水は、よくもこれだけ人工的に染めたと、あきれるほど青黒い。そんな青黒い|もの《ヽヽ》の色は、いくら東京でも、このへんの河水のほかにお目にかかれない、毒薬じみた色なのだ。水の満ちひきは、かなりはげしいから、石垣や橋杭《はしぐい》、河底の泥と小石と汚物までが、この特別な河水の色と、そっくり同じに染められているのが、よく眼につくのである。
一週間に少くとも一回、多いときは三回も、西方寺から電話がかかる。
「明日は、十時と二時と二つ法事がございますから、また御めんどうでも、若先生に|わき《ヽヽ》導師をおねがいいたします」
光田の叔母の、ばかていねいで、いくらか浮きうきした声が、目黒の寺の電話口につたわってくる。
と言うことは、それだけ江東の寺院が、目黒の組寺《くみじ》にくらべ、景気がよい、いそがしいと言うことだ。なかでも西方寺の檀家《だんか》には、綿布の問屋、新薬の製造業、ミシン針の販売元など、急に金まわりのよくなった商人や工場主が多いので、叔母は自然と張りきらずにはいられないのだ。
冬でも、うすい浴衣一枚、チョンマゲをのせた|せきとり《ヽヽヽヽ》や、山賊あたまの|ふんどしかつぎ《ヽヽヽヽヽヽヽ》が、つまらなそうな顔つきで、すれちがう。横綱の住宅があり、相撲部屋の稽古場があるからだ。
赤煉瓦《あかれんが》の塀《へい》でかこまれた西方寺のぐるりは、すっかりアスファルトで鋪装《ほそう》され、左右にひらく西洋式の鉄柵《てつさく》の扉をひらいても、ほとんど石畳である。墓場くさい泥の匂いが、全くない。
もとは、この西方寺が「梁山泊《りようざんぱく》」と言われたものだ。水滸伝《すいこでん》の豪傑がたてこもった山寨《さんさい》のように、苦学生とも徒弟とも、玄関番とも居候ともつかぬ、坊さんのような書生ッポのような若者が、十人ちかくたむろしていた。
先代は女っ気なしの、独身の住職として、信者をあつめていた。男|世帯《じよたい》のあらあらしさと、家族ぬきの清潔さの入りまじったふんい気が、寺ぎらいの宗教ずきを満足させて、先代には熱心なファンがついていた。
そのあとを受けついだ、光田の叔母と、その若い息子、今の住職、つまり柳の従兄《いとこ》は、気骨《きぼね》のおれる立場にあるわけである。
「まえの先生が、なにしろえらすぎたから。先生とくらべられちゃ、誰だって見劣りがするさ」
「光田の奥さんなら、何をやらしたってまちがいないけどな。小《ち》っぽけな貧乏寺から、急に西方寺に入ったんじゃ、はじめは大へんだろう」
「まア、おれたちで、秀ちゃんを立てて行くようにしなくちゃな。秀ちゃんは、あれでクソ度胸があるから大丈夫だ」
「これからは何て言ったって、若いもんの世界だよ。組寺の年寄り連中がうるさいこと言ったら、おれたちが声援してやりゃいい」
江東組は、二十、三十の若い住職が多い。そのため、五十、六十の住職のそろった目黒から川向うへ行くと、のんびりとした活気が、いかにも現代風にみちみちている。
現代風《ヽヽヽ》と言ったところで、なにしろ僧侶《そうりよ》なのだから、現代風|そのまま《ヽヽヽヽ》と言うわけにはいかない。現代風になればなるほど、僧侶らしくなくなると言う、困った矛盾はハッキリしてくるわけであるが、ぬきがたい矛盾があって、世の中の変化につれて自分たちも変って行くわけにはいかないからこそ、かえって、「現代風」と言うものが、ほんの少し取り入れても目立つ事情もあった。
「現代好きの僧侶」と言うだけで、もう、おかしな話なのである。「現代」どころか、過去にしろ未来にしろ、「この世」「俗世間」「現世《げんせ》」が|好き《ヽヽ》なようでは、何もことさら僧侶になる必要はないわけだ。
しかし、いくらかくしたところで「現世が好き」という気持は、あらわれてしまう。どうせ、あらわれるものなら、何もビクビクしてかくそうとしたりしない方がいい。僧侶も職業の一種だ、と割り切ってしまえば、こういう主張もなりたつのかもしれない。現世と密着している自分たちの現状を、あっさりさらけ出して、こだわらない点で、江東組の若い連中は徹底していた。
したがって柳は、両国橋をわたって西方寺の玄関をあがり、川向うの坊さんの仲間入りするたびに「現世の快楽《けらく》とは、すさまじいもんだなア」と、感じるのだった。
「おれはまだ、快楽《けらく》について、知ってはいない。人間の快楽にかんするかぎり、おれはまだ一人前どころか、半人前にもなっていやしない。広大無辺な快楽の、ほんの一かけらの、またそのはじっこさえ味わわないうちから、快楽から解脱《げだつ》する任務をもつ、特別の人間になるなんて。まだすっかり生きてもいないうちに、生きることは空《むな》しいのだの、ばかばかしいのだと決定してしまうなんて、実際ヘンなことではあるが。ゴータマ・シッタルタという、三千年も昔のインドの王子はたしかに偉かった。彼の悟りによれば、いわゆる快楽なるものは、実は迷いや誤解にすぎないのであって、たのしくもなんともない。むしろそれは、人間をしばりつける重荷なのだ。釈尊はたしかに、徹底した、うそいつわりのない、気持のいい奴だったにちがいない。おれは、釈尊も法然上人《ほうねんしようにん》も好きだ。彼らのような人間がいてくれたと思うと、ホッとする。彼らの一生について、特にくわしく知っているわけではない。法然上人は、父親を殺されてもカタキを討たなかったそうだ。武士の子として、ずいぶん思いきった無抵抗主義者だ。とにかく、えばらないところがいい。宗教家のくせに、えばったり、押しつけてくるのは実際イヤなもんだ。さて、それにしても、今すぐ法然の教えにしたがうのは、むずかしいのだ。もう少し、待ってもらいたいのだ。もう少し、いろいろと体験したり、考えたりして……」
十畳、十二畳、十四畳の部屋を突っきり、廊下を折れまがって、奥へ入って行く。
秀雄は、いつも蒼白《あおじろ》い顔をしている。目鼻だちのととのった顔面も立派だし、頭部も男らしく大きく張っている。しかし柳はいつも、この従兄の顔を一目みると、すぐ「神経のイライラしている、不幸な青年」の感じをうける。
柳が到着すると、
「ああ、どうも御苦労さん」
と、うれしそうに迎えるが、秀雄の表情には、責任者の緊張、「めったなことで他人に気は許すまい」という警戒のようなものがただよっている。
「ああら、さっちゃん。どうも、たびたびすみません」
と、叔母は、柳をたのもしがっていた。彼女はさかんに、命令を下す。
「あ、Mさん、お塔婆の方はどうなの。大丈夫ね。ドッと来て、まごつかないようにね。それから、本堂の方の入口、ザッとでいいから雑巾かけておいて。え? どうして? またHは、今日にかぎって。だめよ、一時間ぐらい手つだってくれたって、いいでしょ。そりゃ、学校も大切だけどさ。今日の法事は、一週間もまえからTさんの番頭さんが来て、書生さんにもって、金一封おいてったじゃないの。宝屋さんは、よくして下さるんですから、それだけのことはしなくちゃね。もらうときばっかりニコニコして、勤めるところ勤めなくちゃ困るわよ。どうしても出かけなきゃ、ならないのかどうか、Mさん、Hさんにきいてちょうだい」
「いいじゃないか」
と、秀雄は不機嫌に言う。
「Hだって、用があるから出かけるんだろう。仕方ないじゃないか」
「そうかい。だけど、出かけるなら出かけるで、奥へ挨拶に来てくれなきゃ困るよ。フラッと出て行かれちまったんじゃ、書生さんのお弁当は何人前ですかって、番頭さんにきかれたって、答えられやしない」
「ハア、それじゃア、Hにもそのように申しましょう。その方がいいですよ。今日の法事は特別なんですから」
奥の間の入口、唐紙の向うの廊下に小腰をかがめた院代《いんだい》のMが、とりなすように言う。
「そうしてちょうだいよ」
「待てよ。Hは学校へやれよ」
と、カンシャクの青すじを額にあらわして、秀雄は母にさからうように言う。
「お母さんが、あんまり口やかましく言うから、いけないんだよ。だからみんな、動こうとしなくなるんだよ」
「わたしは、お寺のためを思ってやってるのよ。そりゃ、前の先生の時代には、みんなゴロゴロして、大言壮語してりゃよかったかも知れませんよ。豪傑きどり、国士きどりで、大きなこと言って遊んでたんでしょ。今は、そうはいきませんよ。役にもたたない書生さんを、おおぜい養っとくわけにいきませんよ。お寺やさんは、お寺やさんらしく、お檀家を大切にしてやってかなきゃならないのよ」
「ちがうよ。ぼくの言ってるのは、そんなこっちゃない。お母さんには、ぼくの気持がわからないんだ」
「ハイ、ハイ、そりゃ、このお寺は、方丈《ほうじよう》さん(光田の叔母は、自分のひとりっ児を、こう呼んでいる)のものですからね。方丈さんの方針どおり、やらなくちゃね。ハイ、それじゃ、Mさん。Hは学校へやってちょうだい。そのかわり、書生のお弁当は一つへりましたからって、番頭さんに、よく申し上げてね」
「ハイ、では、そのように」
院代は、唐紙をしめて立ち去る。
「さア、さア、目黒の若先生、コロンバンの洋菓子でもめしあがってちょうだい。早くから、すみません。コロンバンの奥さんが、特別にこしらえて下さったんですから、おいしいはずよ。ええと、ああ、そうだ。方丈さんの足袋がきていない」
と、叔母はいそがしく、ヨビリンを押す。
女中の松やが、北国育ちらしい、まっかな頬をしてあらわれる。
「足袋なら、持ってきておきましたけど」
「え? ああ、これか。これなの、これじゃしょうがないじゃないの。このあいだ買ったばかりの、どうしたの」
「あの、それだけしきゃ、ありませんけど」
「これは、ひどいわ、これじゃ、しょうがない。すまないけど、松さん、いそいで買ってきてよ。あなた、方丈さんの文数《もんすう》知ってるでしょ。ハハア、これじゃア、しょうがないや、なんぼなんでも」
叔母はクスクス笑いをしながら、いそがしく小銭を、女中さんにわたす。小寺から連れてきた女中だけが、ほんとに彼女の心の許せる、腹心の部下なのだ。可愛い秀雄をまもるためなら、江東組ぜんぶでも敵にまわす覚悟が、彼女にはあるのだ。
「深川の叔母さんは、まったくけなげだなア」
他人の心理を理解したり、他人の悩みに同情したりする能力が、いちじるしく欠けている柳も、そう感ぜずにはいられない。
秀雄の三つのとき、叔母の愛する夫は死んでいる。それ以来、貧乏寺で、夫の老父母と、残された愛児を守りそだててきた。毎年のように水害に遭い、関東大震災では、やっとのことで焼死をまぬがれている。
もしも秀雄の父と、結婚さえしなければ、こんな苦労はしないですんだ才女なのである。
「肺病やみで、弱いとわかってるのに、大さわぎして結婚するから、バカなのよ」
と、柳の母は、妹の不幸にあまり同情していない。
「秀雄さんのお父さんは、器用人でね。色白の美男子だしさ。ヴァイオリンもひけるし、芝居だってうまかったしね。ハムレットをやったりしたもんだから、あのひと、すっかりほれちまったんでしょ。そうでなきゃ、アメリカへ連れてって、勉強させたいというアメリカの未亡人もいたのよ。そうしてれば、今ごろは、女社長ぐらいになれてたのよ。バカなのよ」
柳の母は、そうやって「わたしは、なんて幸運なんだろう。これからさきも、運がいいにきまってるわ」と、現在を自慢し、未来をたしかめるために、妹の不幸を利用するのであった。
母も、叔母も、西洋人くさい美女として、少女時代から騒がれている。ただ、柳の母の方が背が高くて、可愛がられる性格だった。
「しかし、いずれにせよ、二人とも女性なんだからなア。女性がそんなに、寺の経営に|はば《ヽヽ》をきかすのは、ヘンなんじゃないかなア」
と、十九歳の柳は、どうしても考えずにいられない。
「ほんとは、女性が寺にいないことが、寺の清浄の証明みたいなもののはずなんだ。少くとも、明治初年までは、まちがいなく、そうだったんだ。明治政府が法律で、肉食妻帯をゆるしたから、寺に女がいて違法ということはない。しかし、それにしても、おシャカ様の教えの根本は、つまらない欲望からはなれろ、脱出せよということだった。女性というものが、男性より劣ったものだとか、わるい奴だとか、ぼくだって思ってやしない。しかし、女性が男性の欲望の対象、それも一ばん大物の対象であることはたしかなのだ。欲望があるからこそ、女性をそばにおきたいんだ。寺へ入れたいんだ。だから住職の妻が、かいがいしく立ちはたらいて、お檀家の世話をやいていると言っても、それは『欲望』が着物を着て、動きまわっているようなもんなんだ。それは、やっぱり何となく、恥ずかしいことなんじゃないだろうか。きれいな女、働きのある女、目立つ女であればあるほど、具合がわるいんじゃなかろうか。いくら善意と熱意で、寺のためにつくしても、男に欲望をおこさせる女が、寺にいることは、どこか根本のところで仏教精神に反するんじゃなかろうか」
そう感じている柳は、母や叔母との会話では、いいかげんな態度しかとれなくなる。さからう気も、共感するつもりも失せてしまう。
「ひとのほしがる物を、所有する者は、罰せらるべきである」
古代インドの集団生活で、仏教教団の長老たちが、きびしく弟子たちをいましめたのは、この戒律である。
盗人でも盗みたがらないほど、まずしい衣服。それが僧の着ることを許された、たった一つの衣である。少しでも良い布地、少しでも目をよろこばせる色、少しでも人の気をひく形をした法衣を、もつことは罪である。それも、着たきり一枚でなければならない。ほかの一枚を貯えること、それはもうそれだけで、俗世間に対する妥協であり、聖なる集団に対する裏切りなのである。
とすれば、ひとのほしがる美女を所有することは、どんな寛大な「長老」も大目にみることのできない、大罪ではないか。
俗世の快楽(カイラク)から脱け出すことが、仏弟子たるものの快楽(ケラク)である。
「身心快楽《しんじんけらく》にして、禅定《ぜんじよう》に入るがごとし」
と、教えられた、あの「けらく」とは、俗人の熱望する「カイラク」と、正反対のものなのである。「カイラク」をほしがる者は、永久に「けらく」を得ることができないのだ。カイラクの密林をさまよい歩くことが、もしも極楽への前進であるとしたら、おシャカ様は、なぜ別に、精神的|けらく《ヽヽヽ》のレールを、その密林に敷かせる必要があったのだろうか。仏教のレールを走る法の車のみが、救いの地に到達する「乗物」だと教えられているのに、車の窓の外の、欲望つまりはカイラクの花々に手をさしのべるとは、おかしい仕業ではないのか。
「宝屋の御隠居さまと旦那さまが、御挨拶したいと、申されていますが」
「ああ、そう、お早いのね」
と、叔母は急にいきいきと、腰をうかす。
「こっちはまだ、こんな恰好してるのに。松や、早くそこら片づけて。方丈さんは、よろしいのね、それで」
「よろしいのねッて、何がさ」
と、秀雄は、いそがしがる母を、わざとじらすように言う。
「いつだって、よろしいよ」
「そう、それならよろしいけど。このひと、かまわないタチだから困るのよ」
と、叔母は柳の方に言う。
しかし、叔母の言い方は、まちがっている。秀雄は若いに似あわず、気がつきすぎるほど、万事にソツのない若者なのだ。かまわないどころか、衣服のこと、金銭のこと、交際のことで抜け目など、ありっこない|やり《ヽヽ》手なのだ。叔母はそれを承知の上で、うちの息子は欲がなくて、飾り気がなくて、茫漠とした大人物だと言うように仕立てておきたいのだ。
やがて院代に案内されて、宝屋の老夫人と当主が、うやうやしく入ってくる。
「宝屋」は、当主の代になってから新薬を発売して、大もうけした金満家であるが、もともと三代も前から有名な質屋さんなのだ。
小柄で色黒の主人には、才気走ったところは一つもない。御隠居さまを大切にする、平凡な養子のように見える。
老夫人につづいて、宝屋の主人はもっと低く、畳にこすりつけんばかりに頭を下げる。
「まア、まア、どうぞ奥へお入りになって。そこじゃ、なんですから、どうぞこちらへ。これ、このあいだ寄附していただいたお座蒲団でございますから。それから、さきほどは、みなの者に一々御丁寧に下さって、おそれ入ります」
老夫人は、叔母の到れりつくせりの応対に、よく調子のあったうやうやしさで、塗り盆にのせた、お布施をさし出す。
白い上質の和紙で包んだお布施は、宝屋のお経料と塔婆料、親族たちの塔婆料、女中さんや爺やさんへの心づけ、わき導師(その一人は柳である)や、よその寺から来る坊さんたちへの特別の御出勤料、方丈さまとその御母堂さまへの、お土産の包み金などで、つみかさなって、こぼれ落ちそうになっている。
お布施の紙づつみは、信徒たちの心がまえを、いろいろとあらわしたものだ。茶色の封筒に、ペンで金額を書いたのもあり、あわてて鼻紙にくるんで、なかの紙幣がすけて見えるのもある。半紙をつかうのがふつうであるが、宝屋のは、トリノコという厚地の和紙を、作法どおりにたたんである。包装だけ立派で、中身の貧弱なのは、華族さまのお布施である。宝屋のは、中身も包装も申しぶんがない。筆の文字も、個性をむき出しにしない達筆である。
羽二重の白衣をきた秀雄は、するどい神経を、ひろいひたいにかくしている。秀雄だって、そんなにうやうやしくされるのは、恥ずかしい、気持のわるいことなのだ。しかし彼は、決してしりごみしたり、ソワソワしたりしない。
「こちらが、目黒の若先生ですの。ああ、御隠居さんは御存じでしたわね」
「ハイ、存じあげております」
と、老夫人は柳にも、丁寧に挨拶する。
「姉とは、何度もお会いになっておりますわね」
「ハイ。あちらさまも、ほんとに上品でお綺麗《きれい》で、お若くて。こんな立派な御子息が、おありになると、思われないくらいで。うちの者とも、よくおうわさしております」
「ええ、そうなんですの。子供みたいなところが、ありますでしょ。苦労しておりませんから、姉の方は。わたくしの方が、年上のようで」
「ハイ。こちらは、お母さまが菊五郎に似ていらっしゃるし、方丈さまは、羽左衛門がたでいらっしゃる。目黒様の方は、お母さまが羽左衛門がたで、御子息さんは菊五郎がたでいらっしゃる。ほんとに、いつもどちらさまも、ほれぼれさせていただいておりますです」
「まあ、まあ、とんでもございません」
「いいえ。ほんとでございます」
と、宝屋の主人が口ぞえする。
「母は、それもあって、お寺さんへ来るのを、なによりの楽しみにしております」
「まあ、まあ、大へんでございますね」
そのうちに、江東組の若い住職たちが駈けつけてくる。一日に、二つや三つの法事がない寺はないし、寺参りの時間はどこでもかち合うから、みんないそがしそうにしている。
「秀ちゃん、このあいだはどうもありがとう。たすかったよ。うるさい爺さんでね。おれの書いた字じゃ、墓へ彫れねえって言うんだ。おれにはよくわからないが、秀ちゃんの字は、とてもいいそうだ。爺さん、喜んでた」
彼らは、仲間同士では、わざと乱暴な言葉をつかう。
「あたりまえだよ。ポンちゃんの字は、ありゃ字なんてもんじゃない。絵だよ。あれじゃ、お墓がおどりだしちまう」
「人ぎきのわるいこと、言うなよ。おれだって、手のスジはいいんだぜ。なあ、秀ちゃん。おれ、こんど秀ちゃんの書道のお弟子になったんだ」
「むだだよ。時間つぶしだ」
「来年は、お前さん。おれだって上野の美術館の展覧会に出すよ。文句をえらべば、いいんだよ、文句を。時代ですよ。時代と言うものを考えなきゃいけませんよ。昨日のポンちゃんは、明日のポンちゃんにあらずさ。君子豹変《くんしひようへん》す、だよ」
「じゃあ、どんな文句を書けば、入選するのさ。テンショウコウダイジングウ(天照皇太神宮)かい。教育勅語かい」
「あんたね、今の時代をどういう時代だと思ってるの」
「そりゃ、もちろん、われらの時代だと思ってますよ」
「われらって、誰なのさ」
「われら、若者、青年の時代だよ」
「プフッ、あんた、それでも青年のつもりなの。いやらしいわね、ほんとに」
いらだたしげに、叔母が縁側のガラス戸をしめて廻っている。近くのガラス工場から、白いものはなんでも黒くする、ひどい煙がふきおろしてくるからだ。
「たしかに、文句は大切だよ」
と、秀雄は、掛合をやっている二人に言った。
「文天祥《ぶんてんしよう》の『正気の歌』を楷書《かいしよ》で出すと、かならず買って行く人があるからね」
「それみなさい。字ばかりうまくたって、だめなんですよ。字の表現する内容ですよ」
「じゃあ、南無阿弥陀仏か」
「そりゃ、だめ。それだったら、あんた、知恩院か増上寺の大僧正じゃなきゃ、通りませんよ」
「ナムアミダブツじゃ通らんかね、やっぱり。それじゃ、南無妙法蓮華経はどうなの。だめだろうな」
「ナムミョウホウレンゲキョウの方はね」
秀雄は、柳の顔をチラリとすばやく見やりながら、注意ぶかく言った。
「案外、買って行く人がいるんだな。軍人だとか、右翼なんかに、案外、人気があるんだから」
「ふうん、そうかなあ。なぜかなあ」
と、ポンちゃんは「坊や」のように邪気のない、大きな顔をかしげて言った。
「そうかなアって、あんた、わからないの」
と、もう一人が自信ありげに言った。
「仏敵退散でしょ、日蓮宗は。やっつけちまうんだよ、気に入らない奴は。敵を討つんだろ、ハッキリしてるんだよ。今の世の中は、ハッキリしてなきゃだめなんだ」
「ナムミョウホウレンゲキョウの方が、いいのかねエ」
と、ポンちゃんは腕ぐみをして、不安げにしている。
「ぼくらとしては、ナムアミダブツの方が正しいと思うけどね」
と、秀雄はしずかに言った。
「悪人でも、善人でも、金持でも貧乏人でも、のこらず極楽往生させる。えこひいきなしに、人間ぜんたいを救ってやる。日本人ばっかりじゃない。南洋の土人も、支那人もアメリカ人もロシア人も、ナムアミダブツと一声となえさえすれば救われる。この方が、たしかに正しいことは正しいんだ。だけど、軍人や右翼は、これじゃ困るんじゃないかな」
「……ふうん、なるほどねえ」
「な、そうなんだよ。仏教で世界じゅうを救おうなんて、お前さん、京都の大僧正だって、増上寺の管長さんだって思ってやしない。できっこないんだよ、そんなこと。そうだろう。アメリカ人やロシア人に、ナムアミダブツって言えったって言う方がむりだよ」
と、もう一人はポンちゃんに言ってきかせる。
「そりゃ、あんた、人間はぜんぶゴクラクへ行く。この考えの方が大きいよ。だけど日本人としてさ。日本がほかの国と戦争した場合だ。どうしたって、日本国を守らなきゃならない。日本人を勝たせなきゃならない。そうなれば、どうしたって蒙古《もうこ》を打ちはらったように、外から来る敵をやっつけなきゃならんだろう。そうなれば、人間は誰でも救われるからと言って、念仏ばかりしていればいいと言うわけにはいかんだろう」
「だけど、浄土宗の坊さんが、ナムミョウホウレンゲキョウって、今さら言えるのかい」
と、ポンちゃんは困ったように、よわよわしく言う。
「だから、お前さんはポンだって言われるんですよ」
「オイオイ、おれの強いの知らねえんだな。ポンちゃん、ポンちゃんて気やすそうに言うけどね。おれは、ポンに見せかけてるんだよ」
「わかった、わかった。誰も本気で、あんたがポンだなんて、思ってやしませんよ」
と、もう一人は|なじみ《ヽヽヽ》の芸者でもからかうように、肉づきのよいポンちゃんの肩をなでおろした。
「そうだよ。仏教は平等論だものな。他人を軽蔑《けいべつ》することなんか、ありえないよ」
と、秀雄は微笑しながら言った。
「われわれ、みんなの問題として言ってるんで、なにも、あんた一人を馬鹿にしてるんじゃない。救われるときは、あんたも秀ちゃんも、柳くんもみんな一緒に、救われなきゃな。ただ、認識不足じゃ困ると言ってるんだ。宗務所だって、管長さんだって、ニンシキフソクなんだと、おれは思ってるんだ。もう少ししっかりしないと、バスに乗りおくれるって言ってるんだ」
「ニンシキフソクか……」
秀雄はまた、柳にだけわかる眼つきで、柳の方をチラリと見た。
「だけどなあ」
と、ポンちゃんは自信なさそうに、さからった。
「右翼とか、左翼とか言ったって、今までみんな一網|だじん《ヽヽヽ》になってるじゃないか」
「……今まではな」
「おれは、やっぱり、お念仏やってお寺を守ってる方が無事だと思うよ。他のことに気イつかって、乗り出すよりはだな。まず、寺の仕事を満足にやるこった。寺を出るなら、別だよ。寺にいて寺で飯をくっている以上は、それだけの義務ははたさなきゃな。ええと、柳くんなんか、どう思う。ぼくらより若いんだから、何か考えてるんだろ」
ポンちゃんは、けむったそうな顔つきで、柳の方に向きなおった。
「ぼくはまだ坊さんの方は、小学一年生だからな。まだ、阿弥陀経をソラでおぼえられないんだから」
柳は実際のところ、袈裟《けさ》をかけても、裏がえしに引っかけて、ひきずって踏んづけてしまうような状態だった。
「増上寺の加行《けぎよう》のときは、だいぶあばれたってきいてるぜ」
「そう、そう。柳くんだろ、髪捨山で穴山と決闘したってのは」
「穴山と? そうとうなもんだな、奴とやりあうとは」
「穴山って言えば、奴こそ右翼の方で凄《すご》いんじゃないのかよ。そうだろ、君、知ってるだろ」
「そうだな、まあ、右翼と言うのかな」
と、柳はわざと、あいまいに答えていた。
本堂の方から、ゆっくりと大木魚を叩く音が陰にこもってひびいてきた。つづいて、熱心なお婆さん連中の叩く小さい木魚の、やや高めの音が、せわしなく鳴りはじめた。
「そろそろ、はじめますから、みなさん御支度を」
と、院代が知らせにくる。
柳にはまだ、みどり色の衣しか着る資格がない。柳のもらった「律師《りつし》」の位の下は、「権律師《ごんりつし》」だけである。
それだのに叔母は、
「目黒さんは、これを着てちょうだい」
と、紫の衣をさし出す。
「みどりで、いいじゃないですか」
「それじゃ、困るのよ。今日は、これ着ていただかないと」
「さっちん、紫衣《しえ》を着てくれよ。宝屋さんが、そうたのんで来たんだから」
と、荘厳な金襴《きんらん》の七条袈裟の紐《ひも》をむすびながら、秀雄が言いにくそうに言う。
律師の上に、僧都《そうず》と僧正《そうじよう》の位があり、そのおのおのが、また権、小、大の三つぐらいに分れている。紫色は、僧正の位にならないと、着てはいけないのである。紫色を着たくても、着られない住職は、「たま虫色」の衣を、法衣店に注文する。みどり色とも紫色ともつかぬ、あの幻怪な昆虫の甲の色で、それなら檀家は「紫衣をきて下さった」と満足するし、宗務所の規定にもそむかないからだ。
いつのまに来たのか、愛想のよい法衣店の主人が、秀雄のうしろに廻って、着つけを手つだっていた。歌舞伎役者の着つけに似て、「七条」ともなればむずかしいのである。
太いうち紐を象牙《ぞうげ》の輪にとおして、むすぶ。そのむすび方が、柳などにはとてもおぼえられない。ローマ法王の装束のように、ズシリと重く、金銀の織糸の光りかがやく「七条」は、よほど金持の檀家に寄進してもらわなければ、調達できない高価なものである。
「五条」の方は、横に長い長方形を、前うしろにたらし、肩から一本、帯をかけるだけ、それもホックどめであるから、不器用な柳でも気楽に着用できる。
「たいしたものでございますなア。今これだけのものは、いくらお金をお出しになっても、とてもできませんです。ハア」
重ね具合に気をくばりながら、衣屋は、感嘆したように指さきをすべらせている。
やけになって、ひっぱたくように、長廊下のはずれの大太鼓が鳴りわたる。
つづいて、半鐘。強くしたり、低めたり、速くしたり、ゆるめたり、鳴物のつづいているうちに、勢ぞろいした僧侶たちは、立ち上って輪をつくり、経文を口ずさみながら、順序正しく、廊下へ出てゆく。
中庭にとじこめられた、黒のエアデルテリアが、縁の下の支柱をかじったりしながら、すべり足ですすむ僧侶たちに、吠えかかる。性欲の吐けぐちのない飼犬は、白い牙《きば》をむき、桃色の歯ぐきをあらわし、せつなそうな呼吸で、狂ったように走ってくる。そして、とりすました僧侶の行列に、ガラス戸ごしに、いまいましそうに、おどりかかった。
中庭の樹々は、煤煙《ばいえん》をかぶって黒ずんでいた。青黒い池の水、池をかこむ岩、岩の上にのっかった亀の甲羅。すべては、黒く陰気に、くすんでいた。
玄関の方で、かすかに遠く、電話のベルがひびいていた。
「おれのところだな、きっと、そうだ」
と、柳は、穿《は》きつけない袴《はかま》のさばきに困りながら、秀雄のあとにつづいて行く。
柳の予感は、正しかった。
本堂からもどると、松やが、
「お経ちゅうに、柳さんに、電話が二本かかりました」
と、告げた。
一本は、目黒の寺から、もう一本は穴山からだった。
西方寺の電話は、ボックス式にドアをひらいて入る。
穴山の寺には、電話がない。柳は、送話器に目黒の寺の番号を言った。
女中の末子が向うの電話口に出た。声が、うわずっていた。受話器が手渡されたらしくて、執事の小谷の声にかわった。小谷の声も、妙によそよそしく緊張していた。
「何なんだい、用は?」
「今日はすぐ、まっすぐ帰ってきて下さい」
「だから、何なの? 用は」
「あの、ともかく、重要な用がありますから、どこへも廻らずに、まっすぐ目黒へ帰ってきて下さるように」
「ふうん……」
「いいですね、おねがいします」
「……ああ、いいよ」
警察だな、向うの電話口のそばに、目黒署の刑事がひかえているんだな、と柳は推察した。
「何なの、目黒からの電話。何かあったの」
甲冑《よろい》のようにこわばった、白地の袴をぬぎながら、秀雄は、声をひそめて柳にたずねた。
「うん、何かあったらしいよ。ぼくのことで」
「あんたのことで? ふうん」
警戒するように、秀雄は考えこんでいた。
叔母は、広間の客の接待でいそがしかったし、坊さんたちは、脱いだ物をとりまとめたりして、雑談にふけっていた。衣屋は、なめらかに喋《しやべ》りながら、お顧客《とくい》の僧侶たちの世話をやいて、器用に法衣や袈裟をたたんでいた。
「花電車にはおどろきました。当人は芸術だと言っておりますが、ほんとにバナナを切ったり、煙草を吸ったり、字まで書くんでございますから、ハア、たいしたもんです」
「どんな顔して見てたの、あんた」
「どんな顔と言って、この顔でございますけど」
江戸風のやさ男の法衣屋は、きまじめそうに「冒険」の報告をしている。
「花電車」は見たくないなア、と、柳は考えていた。その女性が自分の特技を「芸術」と称して自慢しているのは、それは職業人の誇りみたいなもので、けなげだし、元気がよくて、わるいことではないだろう。しかし、|それ《ヽヽ》を見に行くのが、どうして「快楽」なんだろうなア。見に行くのが悪いとは思わないが、どうしてそんな便所臭いような見世物を、見たい気持がわくんだろうかなア。性的に成熟すると、そういう気持が自然に発生するもんなのだろうか。
「このあいだ、つかまったね。リンチ共産党事件とか言って、新聞に出てたろ。あれ、アジトは目黒だったね……」
「……うん、そうだ。おれんちの寺から、そう遠くないところだ」
十七歳、十八歳と二年つづけて、柳は留置場入りをしていた。秀雄ばかりではなくて、目黒でも江東でも「柳のあとつぎは、困った奴だ」と、組寺の坊さん仲間に知れわたっていた。もし柳の寺が、地代のたんまり入る大寺でなかったら、また、柳の父が仏教大学の部長で、宗務所でも地方寺院でも、顔のきく宗団の大先輩でなかったら、当然、柳は坊さん仲間で爪《つま》はじきされたり、意地わるされたりするところだった。柳の母が、坊さん仲間に人気のある交際上手で、世間知らずのわがまま息子の失敗を、うまくかばってやらなかったら、誰だって柳の次男坊には、鼻もひっかけないところだった。そのへんの事情は、柳自身より秀雄の方がよく知っていて、柳の兄代りになって心配してくれている。その親切は、柳にもよくわかっているのだが、目黒からの電話を気にする秀雄の、蒼白いひたいや、彫りのふかい眼のあたりにあらわれた緊張は、柳の身の上を気づかうためばかりではなさそうだった。
「さっちん、また何か、やってるんじゃないのかね」
「いいや、何もやってないよ」
柳には、秀雄にウソをつく必要がなかった。
「おれはなんだか、さっちんがあの事件に、関係があるような気がするんだ」
「いいや、ぼくは今のところ、ほんとに何もやっていないからね。つかまる心配はないよ」
「そうかね、そんならいいけど」
「しかしね」
柳は、いかにも重大事件をうちあけるように、声をひそめた。
「どうも、さっきの電話の様子では、目黒署の奴が、今、うちに来てるらしいよ」
「…………」
秀雄は眉根をけわしくして、だまっていた。
「それで、君は、まっすぐ目黒へ帰るかね」
「ああ、だって逃げかくれする必要はないもの」
およそ逃げたり隠れたりするのが、下手くそな柳は、警察の眼から見れば「池に養《か》っている金魚」みたいなものに、ちがいなかった。それに柳には、中学時代から「ぼくは大海にうかんだボートのようなもんだ」という、たよりない感覚がつきまとって、何かまずい事がおきると、大きなうねりに身をまかせた小舟の動揺に甘えて、すましてしまうクセがあった。勇気も忍耐心もない柳が、いざとなるとわりあい平気でいられるのは、技巧的に、そういう「あなたまかせ」の放心状態を、つくりだすことができるからだった。そんなとき、柳はいつも、自分がまるで自分の意志でうごく「生物」ではなくて、何か大きなちからでうごかされる「物」そのものに、なってしまった気がするのだった。一青年として、そうなってしまうのは恥ずかしいことであった。だが、ある意味では「そうなってしまえば、もうしめたものだ」と考えるのだった。
「方丈さん、宝屋の若奥さまが、ちょっと」
と、叔母がサービスで酔ってしまったように、声をかけた。
「はい、はい、ただ今、そちらへ参ります」
「あの奥さん、きれいだね。西洋美人みたいだね」
なんの気なしに柳が言うと、秀雄はくすぐったそうに苦笑した。
「そうか。感じがいいからな。そうか、さっちんでも女に関心があるのかね」
「あることは、あるさ」
と、柳は顔に血をのぼらせながら、言った。
「だけど、あんまり女っ気のあるはなし、きかないからさ」
「つとめて、我慢することにしてるんだ」
「好きは、好きなんだろ」
「女のこと、よくわからないよ、まだ。だけど、どうなのかな。坊さんが女のこと、よく知ってるってのは、自慢にならないんじゃない?」
「……うん、そう」
「蔭でコソコソなら、ぼくにもできるけど。大っぴらというのは、何だかイヤだよ。だって、女のことのほかに、坊主と俗人を区別する方法がないだろ。坊主は坊主だからこそ、お布施がもらえるんで、坊主が俗人とおんなじになっちまったら、お布施をもらう権利がないじゃないか」
「ほんとに、我慢できてるのかい」
「ううん、できてない」
柳の|できてない《ヽヽヽヽヽ》の意味は、手淫《マス》を|かく《ヽヽ》ことについてであった。また、玉の井や、新宿に、酔っぱらったいきおいで、ほとんど無意識状態で突進することであった。それも一人では行けないで、穴山に同行してもらうことであった。そんな種類の肉欲の発散が、ほんものの恋愛とはまるでちがった、醜行為にすぎないと、柳は信じていた。もしも立派な(俗人)青年だったら、柳ぐらいの年齢で、美しい「恋」の相手を持っていないのは屈辱のはずだった。だけどその「美しい恋愛」すら、困ったことに仏教では、「みにくい執着」ということになるのだった。
「女に、好かれたことはあるだろ」
「さあ……」
と、柳は自信なさそうに答えた。
「好かれたい、好かれたいと、思ってはいるよ。少しは、好かれたこともあるかも知れない。だけど、好かれて|いい気《ヽヽヽ》になることは、反仏教的なことだからな」
「好かれたいけど、好かれることを拒否するか」
「だって、そうじゃないか。好きだとか、好かれるとか考えることが、そもそもいけないじゃないか。理論的には、人間の肉体はすべて醜骸にすぎないんだろ。仏教は、平等論だろ。男も女も、誰もかれも平等に視なくちゃ、いけないんだろ。そんなら、ある一人の女を好きになることは、平等論から言っても、いけないじゃないか」
「うん、そのとおり。しかし、いけない、いけないで通せると思ってる?」
「いや、思ってない」
「フフン」
秀雄は、年下の柳の正直さを可愛がるような、可哀そうがるような仕方で、かすかに笑った。
「宝屋の彼女は、君のこと好きなんだよ」
耳たぶに唇《くちびる》がふれそうなほど、秀雄の声は、柳の脳の中枢部にちかいところでささやかれ、電流のように二本の腕と一つの腹、一つの腰、二つの股《また》のわれ目までつらぬきとおった。
「……彼女《ヽヽ》って?」
と、わざとらしくききかえすのが、やっとだった。
「若奥さんさ。だけど、彼女だけじゃない。彼女の妹も、君が好きなんだよ……」
ああ、もうダメだと、柳は感じた。何がダメなのか、よくわからなかった。ともかくダメであって、そのダメの甘美さにしびれてしまいたい、一刻も早くしびれてしまいたいと思うのだった。
「君とぼくは宝屋さんで、東芳園の支那料理によばれてるんだけどね。どうする。目黒の方へすぐ帰らないと、まずいかな」
「……別に、まずいことはないだろうけど」
刑事たちが、もし柳を「大物」とにらんでいるのなら、西方寺まですぐ手配するはずだった。それでも、目黒へ帰れば、参考人として話をきく程度ではすまないで、一週間やそこら拘留されそうな予感もあった。帰宅をひきのばしたところで、和服のまま沼や池の、どろりとした水に漬るような、重くるしい気持のわるさにかわりはなかった。
「秀雄と目黒さんは、およばれで東芳園へ行かなくちゃなりませんけど。みなさんは、どうぞ御ゆっくり……」
と、次の間で、叔母が坊さんたちを接待している。
「方丈さん、早くしてちょうだい。お車が、待っているそうだから。さっちゃんも、一緒にね。ね、行ってちょうだいよ。あちらさんは、あなたのファンなんだから、ぜひとも行っていただかなくちゃ。おいしいわよ、あそこの支那料理。食べのこしたら、折詰にしてもらってきてちょうだい」
「まア、行けよ。行ってみろよ。行っても、別にどうということはないだろ」
秀雄はおそらく、女のことと警察のこと、二つにかけて言っているにちがいなかった。
(天国と地獄か。どっちが天国で、どっちが地獄なんだろう。畜生め)
玄関に出ると、宝屋の一族は礼儀ただしく、石畳の上で待ちうけていた。番頭が「ナンバンの車は」と、店の若い者を指図していた。若奥さんは両眼をかがやかして、スタート線上に立った選手のようだったし、妹さんの方は伏眼がちで、雨にうたれた白い花のように、しおたれて、なまめかしかった。
そういうときには、白足袋につっかける草履(と言っても、母が特別にあつらえた上物であるが)がすべって、困るのだった。はき物と足の裏が、別々のうごきをして、つんのめりそうになるのだ。
「ああ、おはき物が」
と、若奥さんが袖をひるがえすようにして、柳の足もとに駈けよってきたときは、白足袋は泥でよごれていた。
御隠居さんと主人が、まるで誘拐《ゆうかい》でもするように、両わきにつきそって、秀雄を自分たちの車にのせてしまう。柳は、若奥さんと妹さんにはさまれて、次の車に乗った。
柳には二人の女性の、めいめい好みのちがった香水と、白粉《おしろい》の匂いなど、嗅《か》ぎわけているゆとりはなかった。漢訳の仏典には「香油」という用語があって、インド古代の女性が、全身くまなく塗る化粧品の香気を想像させる。
車が走り出すにつれ、濃くなってくる東京女の、香水と白粉(たぶんクリームもまじっている)の匂いは、「香油」という古典的で、根源的な感じではなかった。
新婚の夜、おシャカ様をかき抱いた花嫁のお姫様は、はだかの肌に香りたかき油を塗っていたであろうし、王城を脱出して、悟りをひらくための苦行をつみ重ねていた「彼」の周辺に、猛獣毒蛇、暴風豪雨とつれだって来て「彼」をなやました魔女たちは、まるで肉体そのものの匂いのように、しみついた油の香りを、呼吸がとまるほど濃厚にただよわしたにちがいない。
宇宙にみなぎる魔女群団の「香油」のかおり。そして、全人類を救うための、一か八かの精神的な大賭博にたったひとりで身体《からだ》を張っている、大胆不敵な一個のインド男性。ああ、なんという雄大な構図であろうか。
車がゆれるたびに、右左どちらかの女性の、やわらかい、やわらかい衣服と、その下の肉が接近してくる。やわらかいもの、甘いもの、かるやかなもの、寄り添ってくるものに包まれている柳は、決して、古典的で根源的できびしいものと、向いあっているわけではなかった。彼にちょうど似つかわしいように、適度にうすめられた、軽薄な「モダン香油」に酔わされているだけであった。
「林|芙美子《ふみこ》さんが、今日のA新聞に書いていたの、お読みになった? あの方は、お坊さんが好きだったそうですよ」
「いいえ、読みません」
「久美ちゃん、読んだでしょう」
「ええ」
と、妹はかすれた声で、姉にこたえた。
「坊さんが好きですって、ばかばかしい」
「あら、どうして」
と、姉の方が白っぽい半襟《はんえり》の首をよせてくると、そちら側だけ柳の首は、こわばった。
「ヘンですよ、そんなの。おかしいですよ、そんなの」
「でも、林芙美子さんは、そう書いていらっしゃる。文学者ですもの、ウソはつかないでしょう。少女時代からずっと、今でも、若いお坊さんには、たまらない色気を感じるそうですよ」
「厭《いや》だなア。アイスクリームの天ぷらを、食べたがるひとだっていますけどね。いろんな物に食べあきてくれば、とんでもない物を食べてみようとする。それは、物好きで、そうなるだけですよ」
できるだけ憎ったらしいような、意地わるいようなことばを、むりに吐き出さないと、年上の女には馬鹿にされると考えて、わざと柳は、皮肉屋みたいにふるまおうとしていた。
「小説家って、無責任なこと書くから、大きらいだ」
車が急ターンして、柳の肩が左側の久美子の方へ押しつけられた。うす桃色の半襟の首が、びっくりするほど白く、よわよわしくよじれて、女がつめていた呼吸が、自分の体力で今にも、紅をぬった唇からほとばしりそうだと、彼は勝手に感じていた。若奥さんの片掌が、そのはずみに彼の右膝《みぎひざ》にかかった。
「それは目黒さんは、清浄潔白な方ですもの。林さんが何とおっしゃろうと、知らん顔して、うけつけないでしょうけど」
「いや、つまり、ぼくは……」
「若い坊さんを好きになるような女は、バカだと……」
「いいえ、ただ、彼女はなんにも知らないんです。坊さんのこと、知らないでいて、そんなこと言ってるだけで」
「坊さんの、どんなこと知らないと、おっしゃるの」
「坊さんの厭らしさですよ」
「さあ、どうかしら。林さんぐらいになれば、それくらいのこと知ってるでしょ」
「そんなら、どうして」
「厭らしい男は、どこにでもいますわ。お坊さんに限ったことじゃありません。でも、厭らしくないお坊さんだって、いることよ」
そう言われると、待っていましたとばかり嬉しがりそうになる、自分をうまく抑制することなど、柳にできるわけがなかった。
「いますかねえ。そんな偉い坊さんが。ぼくの知ってる坊さんにはいませんよ」
「スタンダールの『赤と黒』。あれに出てくるジュリアン・ソレルは、お坊さんだったでしょ。久美子も、私も、ジュリアン・ソレルが大好きなのよ。ねえ、久美子」
「ええ……」
柳は、まだスタンダールなど読んだこともなかった。
「勇敢な美青年でね。ずうずうしくて、抜け目がなくて、可愛らしいの」
「でも、それは、フランスの昔の話でしょう」
柳はそう答えながら、ずうずうしくて抜け目がない勇敢な美青年が、こういう女性には可愛らしいんだな、よくおぼえておこうと思っていた。
「そのソレルとかいう男は、女に好かれて、色々と冒険をやったりするんですか」
「ええ、そうなの」
「ああ、それじゃ、そういう男は、仏教で言う坊さんとは、ちがいますよ。そういうのは『坊さん』じゃありませんよ」
「でも、たしかに彼は、カトリックの坊さんだったのよ」
「それはただ、名前だけで、坊さんとは言われないなあ。それは、ただの美青年ですよ、きっと。ただの勇敢な男ですよ」
「でも、お坊さんだって男じゃありませんか」
車が急にブレーキをかけたので、両側の女の上半身は、力なく前へかたむいた。二つの花束が投げ出されたように、はなやかな色彩が、彼の丸坊主のあたまの周囲で入りみだれた。
「バカヤロウッ!」
自転車にまたがった男が、窓ごしに怒鳴っていた。職人風の中年男は、またがったまま自転車をかしがせて、車内をのぞきこんだ。
「自家用車だと思って、大きなツラしゃがって」
きたならしいセーターを着た男の顔は、陽やけと酒の酔いで、おそろしいほど赤くなっていた。
「気をつけろッ、バカヤロウ。道路はお前たちばっかりの、道路じゃねえんだぞ。のさばるな、こいつら。なんだ、男は坊主じゃねえか。え、ナマグサ坊主じゃねえか。なんだ、てめえはいい気になりゃあがって、妾《めかけ》だか芸者だか知らねえけど、両手に花とかかえこみゃがって。なんて、ザマだ」
男は、ウドン粉かセメントにまみれた、黒い大きな掌で、車の窓をドスドスと叩いた。
「また、女も女だ。坊主なんかにデレデレしゃがって、何がおもしれえんだよ」
いらだった運転手が警笛を鳴らすと、男は本気になって、両腕をつき出してきた。そのため、男の自転車は横だおしになって、こちらの車の横腹にぶつかった。男が運転台の窓に手をかけているので、少しばかり動いた車は、またとまった。人だかりがしていた。
暮れかかった空は、次第に赤く染まり、電柱や看板、家々の低い屋根や、まずしい木組が妙にハッキリと浮き出して見えた。そして十人ほどの男女の、表情や動作が、幻燈画や絵葉書のように、くまどり鮮かに一つ一つ、こちらに向って、一つの「意味」をつきつけていた。人々は一つの感情でかたまって、まるで一匹の生物のように見え、そのくせ、爺さんや子供までが、めいめいちがった明確な人物像となって、笑ったり、口笛を吹いたり、のぞきこんだりしていた。
「出るんじゃないよ。あなたが外へ出れば、うるさくなるから」
と、若夫人は運転手に命令していた。
頭の骨がきしみそうなくらい、柳の全身は恥ずかしさと怒りで、充満していた。「恥じて」の方は明らかであるが、「怒り」の方はどんな種類のものか、判断もつかなかった。中年男と、見物人に対する怒りでないことだけは、たしかだった。
若夫人が、ドアのノッブに手をかけているのがチラリと見えた。運転手や久美子のそぶりや気配も、チラリと感じられた。チラリチラリと断片的に感ぜられるものが、針のように柳をさして、いつのまにか若夫人を押しのけて、彼はドアの外へ下り立っていた。勇敢なフランス美青年のまねをしたいと、思っているわけではなかった。そんな、一人前の存在になれるなんて、夢にも思ってはいなかった。もっと動物的な、衝動的なちからに押しやられて、彼は身がまえている中年男と向きあっていた。
男は、ツバを吐きかけ、彼の改良服の胸にそれがくっついたらしかった。
外出に便利なように、日本の僧侶が工夫した黒い僧衣、それに、タクハツのズダ袋に似せて、わざと小布を縫いあわせてこしらえた小さな輪袈裟、その二つは、彼をとりかこんだ町の人々の衣服のどれよりも高価な、羽二重でできていた。
「いやらしいぞ。たまらないほど、いやらしいぞ。いやらしい、いやらしいことだぞ」
建築工事場で打ちおろされる、あの重い鉄の槌《つち》のようなものが、彼の胸に打ちおろされていて、その地ひびきが「いやらしいぞ」という大きな音で鳴りわたるので、人々のざわめきは耳に入らなかった。
「ナマグサ坊主!」
と、六歳ぐらいの男の子が叫んで、ツバを吐きかけた。痛快な冒険を楽しむように、また、棄てられた小猫をいじめるように、自信たっぷりに、男の子は彼をからかってやろうとしていた。それに対しても柳は、別段の感情がもてなかった。街頭にうずくまった乞食女と、全く同じような無表情が、一枚の皮となって彼の顔にへばりついてしまったようであった。
いつのまにそうしたのか自分でもわからないうちに、彼は、中年男の二つの手首を、自分の二つの掌でにぎりしめていた。肩の筋肉の盛りあがった、骨太の相手は、彼より少し背が高かった。労働できたえられた腕も、がっしりして筋ばっていた。穴山との決闘のほか、柳には喧嘩《けんか》の経験もなかった。「ボーズのケンカ」。それは、そうつぶやくだけでも吐き気をもよおすほど、厭らしさのきわみだった。したがって、そのときの彼が「喧嘩してやる」とか「腕力をふるって片づけてやる」とかいう、はなばなしい気分になっているはずはないのであった。むしろ「厭らしさ」の重い槌が打ちつづけているため、重くるしく石のように固まった彼の心が、底しれぬ下方へ落ちつづけて行くにつれ、思いもかけぬ腕力が、彼の腕に加わってくるのであった。
「こいつ、やる気か」
と、手首をつかまれた男は、ズボンの両脚に力をこめて押しかえそうとしていた。しかし柳は、グイグイと相手を押して行った。あのわけのわからぬ「怒り」が、彼自身も気がつかぬはたらきで、すっかり彼を無神経な、夢遊病者のような「化物」にしてしまっているのかも知れなかった。
彼の額が、まるで相撲の名人が頭突《ずつき》をくれるように、相手の鼻がしらにぶつかった。そのため相手は「こいつ、このクソ坊主」という怒号を中断され、一そうたじろいだ様子だった。相手が腰くだけして、姿勢をくずしたのは、溝《みぞ》に片脚をつっこんだためであった。
柳は、ゴム人形でも圧しつぶすように、男の身体をギュウッと押し下げた。やっとの思いで、手首を自由にした男は、すっかり坐りこまされたまま、おそろしい力で柳の腹部を殴った。いくつかのストレイトのうち、一本が、ものの見事に柳の股間《こかん》に入って、陰茎がはげしい痛みで燃え上ったかと思うと、下半身がしびれはじめた。
「ウッ」と、男がうめいたときにも、まだ柳は自分の両掌が、相手のたくましい首をしめているのに気がつかなかった。ただ彼にわかっているのは、今にも指の先からはがれそうなほど、そりくりかえって力をこめた彼の十個の爪が、まるで「厭らしさ」の代表選手、厭らしさの守り神みたいにして、弾力のある肉の厚みに喰いこんで行く感覚だけであった。
柳の後頭部が、ものすごく痛んだ。目がくらみそうなほどの痛みは、ますます彼の腕力を強くした。そこは、かつて穴山に蹄鉄《ていてつ》で殴られた場所だった。その傷のため、決闘の夜、柳は失神したのであった。
「お前さんは、今に、人殺しをするようになるよ」
決闘のあとで、穴山は柳にそうささやいた。「お前さんは、今に、人殺しをするようになるよ」その呪《のろ》いのような一句が、奇怪な怒りの壁の何枚もかさなった、はるか向うの奥の方で、きこえたようであった。
「ハイ、あとは私がいたしますから。どうぞ、車にお入りになって下さい」
老成した運転手の、彼をいたわるような声が耳もとできこえたが、その声は、あの暴風雨の夜の穴山の予言の声にくらべ、あまりにも事務的で、その場かぎりのようにきこえた。
「いやらしいなア。おれの存在、おれの生き方、おれの行動のすべてが、いやらしいなア。そのいやらしさのまんまんなかに、おれは、身うごきもならずに……」
彼は、自分の暴力の相手方がどうなっているのか、そんなことは一切、自分とは無関係だったことのようにして、今までのことを、もうすっかり忘れはてたような顔つきで、人の群のあいだをぬって、車の方へもどってきた。
車のドアをあけた若夫人が、彼の草履を手にして、待っていた。彼女は「どうもすみません。さア、どうぞお乗りになって」と、おちつきはらって、彼を車へ押し入れた。
「こわい顔をなさってる。とても、こわい顔だこと」
車が走り出すと、若奥さんは、今までより沈んだ声でつぶやいた。
左側の久美子は、ほんの一瞬、柳の手の上に自分の手をのせて、すぐはなした。
「こわかったわ、とてもこわかったわ」
すっかり真っ青になった柳の顔は、もみほぐしようもないほどこわばっていて、みっともない胴ぶるいがとまらなかった。
「あの男、すっかり参っちまって、動けなくなっていました」
と、運転手は愉快そうにしゃべっていた。
「たすかりましたよ。ああいうタチのわるいのは、どうも。どういうんでしょうかねえ、自分の方がわるいくせに」
「たすかったわ、ほんとに。目黒さんのおかげよ。久美子、お礼をおっしゃいよ」
「どうも、ほんとにありがとうございました。わたくし、こわくて、こわくて……」
怖《おそ》れのため涙ぐんでいるような妹の方が、姉よりもはしゃいだ声で言った。
十字路の四方、八方にも、さびしい坂の途中にも、にぎやかな駅前広場にも、それこそ「人民大衆」が、歩いたり立ちどまったりして、動きまわっていた。「人民大衆」という奴が、マーケットで買いものをしたり、飲食店に坐りこんだり、道路をあわてて横ぎったりして、宝屋の自家用車の走って行くさきざきに、むらがっていた。高校生の時からききおぼえた、この「人民大衆」という日本語は、寺の縁側で、のんきに日なたぼっこしていても、貧乏な家に短いお経をよみに行っても、柳を息ぐるしくさせるのであった。特にこうやって、乗りごこちのすばらしい高級車で、二人の美女にはさまれて、市内の雑沓《ざつとう》をくぐりぬけて行くときには、まるで空気までが、「人民大衆」のざわめきそのものと化したように、彼をおそってくるのである。
「こわいわね。ああいうひと」
「誰が? ああ、あの男。こわくもなんともないのよ、ああいうのは」
と、姉は妹に言いきかせていた。
「こわいのは、目黒さんの方よ。とても、きつい顔していらっしゃった。男らしい、いい顔つきをしていらっしゃった。けど、やっぱり男のこわさみたいなものが出ていて、わたくしドキリとした」
「人民大衆」と坊さんの問題について、大まじめで思いにふけっている柳には、せっかくの女たちの会話も耳に入らなかった。
「人民大衆の中に入って行かなければならんぞ」という、もっともらしい主張と「バカヤロウ! ナマグサ坊主!」という、自分自身の罵《ののし》りの声が、暖流と寒流のようにぶつかりあって、熱いとも冷たいともつかぬ身ぶるいが、とまらないのであった。
おまけに、もう少しで男一人をしめ殺しそうになった、自分の気ちがいじみた腕力が、悪魔に注射でもされてそうなったようで、ひどく気味わるい、病的なものに思われるのであった。
「あの男、どんな風になっていたの。ぼくは無我夢中だったから、どうなってるのかわからなかったけれど」
「死んだみたいにグッタリして、口からよだれを流していました」
「わるいことしちまったな」
「いいですよ。あのくらい。でももう少ししめてたら、気絶してたかもしれませんよ。柔道でもやったんですか」
「いいや、ただ夢中だったもんだから」
「花和尚《かおしよう》、魯智深《ろちしん》とかいう強い坊さんが、支那にいたじゃありませんか。それみたいでしたよ。たいした力ですよ。びっくりしました」
運転手は、すっかり感心したように言った。
柳のこころは、ますます暗くなった。
東芳園の大玄関には、紋つきやモーニングの男たち、裾模様の女たちがひしめきあっていた。秋のシーズンがはじまり、いそがしげな結婚式が何組もかさなっているらしく、僧衣の彼の、不吉な丸坊主をながめやって、ギョッとして眉をひそめる女もあった。
まばゆい電燈にてらされて、影一つない長い廊下を折れまがって、ふっくらした紅|絨氈《じゆうたん》をふんで行く。青錆《あおさび》のついた仏像、大輪の花や松の枝を活《い》けた大|花瓶《かびん》、太刀や槍や甲冑など、金にあかせて集めた骨董《こつとう》が、自慢そうに、ものものしく並べられた廊下には、奥まるにつれ、滝のおちる音、鯉のはねる音、人工の清流のせせらぎがきこえた。
「おばあさま、大へんだったのよ。こわくて、こわくて」
「どうしたの。おそくなって、心配していましたよ」
走りよってきた嫁の妹が、可愛らしくてたまらない御隠居さんは、差し出されたその手を膝の上でにぎりしめた。
大型の朱塗の丸テーブルを三つ、ゆったりとかこんだ宝屋の親族たちは、おくれて到着した女二人の報告で、しばらくは大さわぎだった。
御隠居さんの指図で、柳は彼女のテーブルに、また姉妹にはさまれて、坐らされた。
「それは、それは御苦労さまでございました」
とりわけ料理の皿をおく、廻転式の丸台の向うで、宝屋の主人が頭を下げていた。そのわきに、秀雄が、ほかの人たちとはまるでちがった、心配そうな表情で、柳を見まもっていた。
「けしからん奴ですな。どうも、このごろの連中には、三宝をうやまう信仰心がないから困る。人間、信仰心がなくなったら、何をやらかすか、わかったもんじゃありません」
「いや、われわれ坊さんの方も、昔とちがって、おどかされても仕方のないような所がありますからね」
と、秀雄は住職らしく、主人の相手をしていた。
新しい料理がはこばれてくるたびに、若奥さんは器用な手さばきで、柳の小皿へそれをとりわけた。鴨《かも》の肉に味噌をぬって、生ネギをそえ、うすいメリケン粉の皮に包んでくれたりする。うす白い皮のあいだで、新鮮なネギの細片と、あぶらののった鴨の肉が咬《か》み切られるとき、その歯ざわりが、なんとも言えぬ支那料理のうまさの頂点となって、柳をよろこばせた。まことに、その感覚こそ、反仏教的なものだと思いながら、野鳥の肉と野菜とメリケン粉のうす皮の重なった高価な食物を、丈夫な歯で咬み切って、味わっていると、「人民大衆」も、穴山の予言も忘れそうになるのであった。忘れるというよりも何よりも――塩かげんのいいアワビのスープ。青豆の緑と小エビの紅が、白っぽい汁の中に入りまじった、眼で見てもおいしそうな皿。「田鶏」とメニューにある食用蛙《しよくようがえる》の、魚とも鳥ともつかぬ絶妙な味。何日間、煮つめたのか脂身も赤肉もいいあんばいに香料がしみて、舌の先にのせると溶けそうな東坡肉、唇を焼きそうなくらい熱せられた、飴煮《あめに》の山芋を冷水につけると、パリパリと針か氷のような形になる贅沢《ぜいたく》なおもしろさ。よく揚げて、固い紙のようになった卵の皮の中で、とろりと軟い蟹《かに》の肉。それらを味わって、変幻きわまりない口食の「快楽」をむさぼろうが、むさぼるまいが、どっちみち「人民大衆」の奴はおれなんか相手にしやしない。禁欲しようが、しまいが、どうせ嫌われ者だという、あきらめのような無感覚状態が、いい匂いと甘い味にたすけられて、柳を支配するのであった。
また、不吉な予言と、病的な腕力にしたところで、何も好きこのんで自分は今のような自分になったわけではない。シャカにはシャカの運命があったように、おれにはおれの運命があるんだから、どうしようもないではないかという、底の浅いニヒリズムのおかげで、少し酒が入れば、苦にならなくなるのであった。
「昔からよく、華族さんのうちでは、誰か一人、娘さんを尼さんにしますね。あれは、やはり、経済的な事情もあったでしょうが、誰かひとり仏門に入っていると、安心だという考えからじゃありませんかね」
「しかし、どうですか」
と、秀雄は主人に、皮肉そうに答えていた。
「みなさんの中に、尼さんになりたい女の方はいますか」
「わたくし、ときどき、尼さんになりたいと思うことがありますわ」
若夫人は、夫の方へ視線を投げながら言った。
「そりゃ、ウソでしょう」
と、柳は、不必要なくらい力をこめて言った。
「あら、どうしてですの。わたくしだって、世をはかなむことがありますもの」
「しかし、奥さんが尼さんになったら、御主人がお困りでしょう」
秀雄が柳にかわって、柳の言いたいことを言ってくれた。
「いいえ、うちじゃ困りませんの。そうでしょう? あなた」
「尼さんになれたら、ほめてあげますよ」
「尼さんには、いつまでも年をとらないで、つやつやしてる人がいますわ。あなた、いつか、京都の尼さんで芸者よりきれいなひとがいるって、おっしゃってたじゃないの」
「あなたが尼さんになれば、私は棄てられたことになりますね」
「そうなりますわね」
「あなたが尼さんになるのは、かまいませんが、棄てられるのはイヤですよ」
年のちがった夫婦の、そういうやりとりは性愛の匂いがして、柳は気色がわるかった。
「昔はいろいろと、罪をかさねてお金持になったひとが、いましたからね」
と、御隠居さんが、何か想いに沈むようにして言った。
「財産のある旧家ともなれば、人に言えない暗いところは、つきものですからね。さればと言って、みんながみんな、お坊さんになってしまったのでは、商売が成り立ちません。それで、罪ほろぼしに、お寺まいりする。仏さまを大切にする。それでも足りなければ、娘をお坊さんの所へ嫁入りさせる。|お寺のひと《ヽヽヽヽヽ》にする。はたから見たら、おかしなことでも、そういうことをやるうちの当人にとっては、それがどうしても必要なことなんですからね」
「罪ほろぼしに、|お寺のひと《ヽヽヽヽヽ》に……」
秀雄は柳と眼を見あわせて、にがにがしげにつぶやいた。
柳は、手洗に行くため、席を立った。
「お手洗ですか、御案内しましょう」
と、若夫人が彼のあとにつきそい、久美子も姉につづいて、席を立った。
宝屋家の集りは、棟つづきの部屋のない離れだったので、手洗所のあたりはうすくらかった。
「さあ、そのお袈裟《けさ》をおあずかりいたしましょう。それをかけたまま、御不浄へお入りになってはいけません」
と、若夫人は白い手をさし出した。
光線のかげんで、人形の手のように白い手は、指の一本一本までが、踊りのそぶりにあった微妙な調子でさし出されていた。
柳は、輪袈裟を首からはずして、夫人にわたした。女二人を外にまたせて、手洗に入るのは、生れてはじめてだった。どうせ坊主になれば、大学生とはちがった、よじくれたような、尋常でない体験をつむのはわかりきっていたし、酔ってしまえば何となく「すべては許されてある」という気分になるのが、柳のくせであった。
ひらき戸をあけて出てくると、夫人ではなくて久美子が輪袈裟を手にして、待ちうけていた。
「さあ、さあ、おかけしてあげなさい」
と、夫人が口ぞえして、久美子が両腕をあげると、もあもあと袖口にかさなった華やかな色が眼の前にひろがり、つきたてのお餅のように女の湯気が鼻さきに立ちのぼったようであった。
夫人のかるやかなそぶりとちがって、肉づきのいい、やわらかい棒のように、久美子の両腕が柳の両頬をはさんだ恰好で、のろのろしていた。
「そう、そう」
と、柳の背後で夫人のささやきがきこえ、柳の腰に夫人の片手がまわってきた。夫人のもう一方の手は、久美子の腰にまわされているらしく、久美子はつんのめりそうな姿勢で、柳の胸と肩に、こわそうに両手を押しつけた。
「ほら、チャンスですよ。久美子さん、おそわったとおり眼をつぶって、口を前に出すようにして顔をあおむけて……」
初日の歌舞伎役者につけられた「黒ん坊」のように、夫人は向きあった二人の横手に顔をよせて、指導した。久美子は、教えられたとおりにした。
「はい、柳さん、どうぞ」
と、運命の女神に似た、どうしても抵抗できない(と言うより、この世に抵抗なるものは存在するはずがないと悟らせるような)、なんとも形容しがたいほど本質的になまめかしい声にさそわれて、柳はこれ以上の不器用はないといった具合に、接吻させられた。
一たん坊主になったからには、もはや良家の令嬢にキッスするなどということは、ありうべからざることと彼は信じていた。淫売はちがう。淫売なら、坊主を相手にしてもさしつかえない。金銭とりひきで成立する職業、それ専門の女となら、キッスも性交も、それほどの大罪ではない。しかし良家の令嬢ともなれば、彼女との恋愛は「愛情のとりひき」であるから、どう考えても、許すべからざる大罪になる。少くとも、愛情だけは神聖でなければならない。愛情を断絶するのが、一つの目標であるはずの僧侶のくせに、二十《はたち》前の柳は、やはりそう信じないわけにはいかなかったのである。
女の唇と、自分の支那料理くさい唇がふれ合っただけで、すっかり興奮してしまった彼は、たとえ一秒でも接吻をながびかせる気がまえはなかった。おまけに、彼の首すじには、夫人の可愛らしい口(いくら興奮していても、彼女の口の押しつけ方、よじれ方、すぼまり方が彼にはよくわかったのである)が、すこぶる技巧的かつ執念ぶかく吸いついていたのだから、なおさらのことであった。
手洗に入っているうちから、柳は、とても二人の女性には話せない、いやしい妄想《もうそう》にとりつかれていたのだった。いやしい妄想にとりつかれれば、とりつかれるほど、そんなものとは縁のないような顔をするのが、彼の職業には必要なことである上に、彼の性格として、お檀家《だんか》のひと(ことに女性)に、内心の醜態をさらけ出すことなど、死んでもできない相談であった。
それは、エロ雑誌で読んだ一場面であった。母娘《おやこ》ふたりぐらしの家庭に、書生として住みこんだ青年の話で、ふたりの女性にはさまれて、ふたりとも征服してしまう話であるため、聯想《れんそう》をさそわれたのである。その青年は、まず豪華な応接間で、うつくしい未亡人のからだを椅子にしばりつけてしまう。エロ雑誌の話の中で、はだかの女をしばる話が、柳は一ばん好きなので、この話からも強い印象をうけたのである。しばりつけてしまってから、はだかにしたか、はだかにしてからしばりつけたかは、忘れてしまっていたし、それはどちらでもよいことであった。(女体を自由自在にとりあつかったことなど、一度もない柳に、しばり方などわかるはずもなかった)。とにかく母親の方に対して勝手なふるまいにおよんでいる最中に、娘さんの方も二階から降りてきたのである。とんでもない恰好で、快楽にうめいている母の姿を目撃して、処女の娘さんは、恥ずかしくもあり、おそろしくもあり、困惑のあまり立ちすくんでいる。けしからん書生は、これさいわいと今度は、娘さんの方をピアノにしばりつけてしまう。可哀そうな乙女は、母親の見ているまえで裸にされ、おかされてしまう。未亡人の方は娘さんの不幸を悲しがるよりは、青年との快楽の分量を二分の一にへらされたことを、くやしがって泣きさけぶので、書生ッポは、またもや母親の方に向って行かなければならない。そのようにして青年は、椅子とピアノのあいだを忙しくも、往ったり来たりしなければならなくなったのである。
おそらくこの「エロ話」は、気の弱い学生が、どこかの家に下宿して、気のつよいそこの主婦と娘に、さんざんおどかされたり、意地わるされたりしたあげく、月謝の金に困ってエロ小説家の代筆でもして、でっちあげたものにちがいなかった。
「大丈夫よ。いそがなくても」
と、若奥さんはささやいた。
年長の彼女が平気なのはともかくとして、妹の方が逃げだしもせずに、柳と向きあったままでいられるのが不思議であった。久美子は、ばかばかしいほど真剣な顔つきで、今にも倒れそうになるくらい蒼白《あおじろ》くなっていた。ふるえているのかも、しれなかった。
「ぼくは、女をしばったりなんかしないぞ。いじめたりなんかしないぞ。奥さんの方はともかくとして、この久美子さんのような邪気のない少女を、どうしてしばったり、いじめたりできるもんか」
と、柳は考えていた。「しかし、だめなんだ。たとえしばったり、いじめたりしなくたって、だめなんだ。こんな所で、こんなことをやってることだけで、もうだめなんだ」
久美子が一歩ばかり後へさがったのは、奥さんがそうさせたからだった。姉がすばやく、大胆に接吻すると、柳の全身は口から火を吹きこまれたように、熱くなり、毒気にあてられたようにくらくらとした。そして、先刻と同じように、傷あとのついた後頭部が痛んだ。
奥さんの両腕をにぎって押しのけるとき、柳はまるで腕力のつよい男でも相手にするように、力をこめていた。そのとき、痛いほど自分を見つめている、久美子の両眼の異様な光に、柳は気がついた。発熱した病人か、思いつめた自殺者のように、気味のわるい、すごみのある眼つきで、彼女は姉の唇と舌がふれたあとの、柳の口を見つめていた。
柳がぼんやりしているあいだに、奥さんのハンカチーフが、彼の頬《ほ》っぺたと口をぬぐってくれた。
「さあ、あちらへ参りましょう。久美子さん、いいわね」
柳よりもっと、ぼんやりしている妹の、気をしっかりさせるように言ってから、奥さんは柳の腰を押した。その押し方が、いかにも手先のさばきの上手な、ねばっこい美女のちからを充分に発揮した押し方だった。
席にもどって、表情をうまくごまかす自信など、柳にはなかった。宝屋の主人と秀雄は、話に夢中になっていて、入ってきた三人の方を見なかったが、御隠居さんだけが、久美子の様子にそれとなく気をくばっていた。
その久美子でさえ、自分にくらべて、まるで廊下でのできごとは存在しなかったように、おちつきはらっているので、柳はおどろかされた。
「穴山の話をしていたんだ」
と、秀雄は柳に言った。
「奴は、活躍家だね。宝屋さんのお宅にも、よく出入りしているらしいよ」
「私のうちの方へは、あまり見えませんが、事務所の方へはちかごろよく見えます。おもしろい方で……」
「おもしろいですか」
と、柳は言った。
「さよう。なかなか、おもしろいお坊さん、かわったお坊さんです」
「穴山さん? ああ、知ってる、知ってる。目玉のギョロリとした、あんまり人相のよくない人ね」
と、若奥さんが言った。
「おもしろいと申すのは、つまり、仕事のできる男、世の中のうごきを見ぬいている男という意味です」
妻のことばには耳をかさずに、主人は言った。
「はじめは、仏教の社会事業団体の、慈善の仕事に、うちの薬をつかいたいから寄附してくれと、申しこんでこられた。うちの宣伝にもなることですし、数量もわずかですから、ひきうけました。そのうち、今度は三割引でよろしいからと言って、もっと大量に注文してきました。ははア、商売心のあるお坊さんだなと、わかりましたが、こちらも商売人ですから、よろしいとひきうける。ところが穴山さんという方は、お若いのに顔がひろい方で、今度は、私どもの薬を軍へ売りこんで下さると言いなさる」
「そうか、なるほど、軍部ですか」
と、秀雄は考えぶかそうにうなずいた。
「陸軍と申せば、大へんなお顧客《とくい》さんです。征露丸とか言って、あの消毒用の臭い胃腸薬。あんなものは気やすめみたいなもんで、もっといい薬がいくらでもできてます。ところが陸軍と申すところは、案外古くさくて、新薬を一向に採用しない。衛生材料|廠《しよう》がウンと言いさえすれば、あなた、何十万の軍人が一せいに使いはじめるわけですから、どこの会社でもねらっています。手づるさえあれば、どなたにでも、おすがり申したいところです。話をもちかけてくる仲介者も多いことですし、私もあまり穴山さんのお話には、のり気でなかったんだ。運動費として、多少の金はお出しした。しかし、私どもの胸の中では、まアまア棄て金をおめぐみしてやろうという考えでした。穴山さんは、あの通り人相がわるい。西方寺さんや目黒さんのように、私どもに直接関係のあるお寺さんでもない。相手がお坊さんですから、信用しないわけじゃありませんが、あてにはしてませんでした。ところが、どういう手をつかったのか知れないが、私どもの注射薬が一種類、それから内科用の医療器械が三種類パスしましてね」
「そうですか。そりゃ、よかったですね」
と、鼻白《はなじろ》んだように秀雄は言った。
「今どきの坊さんには、商人もかないません。穴山さんは、これから|のし《ヽヽ》ますね。まア、坊さんとして完成なさる方じゃないでしょうが、これから一応、なにかやるひとだ」
「わたしは信用できませんね。ああいうひとは」
と、御隠居さんが眉をしかめて言った。
「わたしはやはり、目黒さんや西方寺さんの方が好き」
「そりゃ、おばあさまのおっしゃるとおりです。私だって、穴山さんに極楽へやってもらおうとは思ってません」
「あなたは、ああいう男とウマが合うんじゃありませんか」
と、養子をきめつけるように、御隠居さんが言った。
「いや、ウマが合うかどうか。しかし、ああいう坊さん、政治的坊さん、経済的坊さんの気持はよくわかりますよ」
「そうでしょう。あんたとは、共通性があるんですよ」
色黒で、風采《ふうさい》のあがらない小男の主人は、かしこまって答えているが、その太い首すじや、油断のない眼つきには、老婆の言うように、穴山と似かよった「強さ」があると、柳も考えていた。
それにしても、穴山がこれほどまで宝屋の家庭に喰いこんでいようとは、柳にも意外だった。穴山はつねづね「坊さんは、どんな家庭の奥の間にも、ズカズカ入って行けるから有利なんだ。一たん信用されれば、医者とおなじことで、天下御免の自由出入ができるんだ」と、柳に語っていた。穴山の養育された寺は、目黒でも一ばん下級の貧乏寺であるから、ろくな檀家のあるはずはなかった。それ故、彼がよその寺の檀家の、めぼしい奴をねらうのは当然かもしれなかった。
「無神論なんてものは」と、彼は柳に言いきかせていた。
「あれは、意地っぱりのインテリの夢にすぎないんだ。今のところ、陸軍大将も社会主義者も、死ねば坊主を呼ばなきゃ、すまされないんだ。さんざん坊主をバカにして、軽蔑《けいべつ》しているくせに、いざ死んで、主人の身体がイヤな屍臭《ししゆう》をただよわすときになると、まわりの者はウロウロして、何となく極楽かどこかへやってもらいたくなるんだ。悲しいような、眠たいような、わけのわからないお経を読んでもらわないと、責任をはたさなかったようで不安なんだな。そこが、こっちのつけ目なんだ。|わけのわからない《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》所が、重要なんだ。死ぬってことが、だいたい、生きてる者には|わけのわからない《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》ことなんだから」
「だから、宗教は阿片なのか」
と、柳がまぜっかえすように言う。
「阿片になれれば、たいしたもんだ。ところが、今の宗務所や総本山の連中は、阿片の効力どころか、アスピリンのきき目さえ発揮できないんだ。あんな老人連中にまかせといたら、せっかくの阿片のお株を、マルクス主義にとられちまうぞ」
「だけど、マルクス主義は阿片じゃないだろう」
「そこがお前さんの、おめでたいところなんだ。なるほど、理論としては新しい経済学かもしれんよ。あれで、なかなかどうして、頭のいい予言かもしれん。だけど、ロシアにはレーニン廟《びよう》ってものがあるんだ。ありゃ、一体なんですか。レーニンの死骸、レーニンのミイラを行列つくって参拝してる。あれは一体、新しい経済学ですかね、あれこそ無知モウマイじゃないのか。死骸になれば、人間は腐るんだ。腐るのが自然の法則なのに、それを腐らせないで保存して、国民におがませる。このやり方を考えた奴は、おそらくローマ法王以上に悪がしこい奴じゃねえのかよ」
「ミイラを拝むのと、仏像を拝むのと、どこがちがう」
穴山などに言い負かされるのが厭《いや》さに、すっかり感情的になって、柳はなんでもかんでも反対したくなってくる。すると、いつでも物騒な緊張でつつまれている穴山の顔に、かすかに苦笑がうかび、けわしい眼のはしに、いくらか楽しげな、ゆとりのある光がやどるのだった。
「ミイラを拝むのと、仏像を拝むのと同じことだったら、柳、お前さんは困るだろ?」
穴山は、いがらっぽい男臭さのむんむんする顔を、柳の方へ近よせてくる。
「ところが、おれはかまわんのだ。お前さんは、立派な坊さんになりたがっている。いや、そうではないにしても、坊主であるあいだは少しでも仏教的に生きようと、試みている。だからお前さんは、どうにかして世のためになる坊主、人民大衆に愛される宗教家になりたいんだろう」
「そうとは、かぎらんよ」
「いや、そうなんだ。お前さんは、坊主のいやらしさを憎んでいる。きらっている。そして、社会主義運動の指導者と対等につきあいのできる、なんかしら現代的な青年になりたいんだ」
「そんなものには、おれはなれんよ」
「なれるか、なれないか、それは柳の気のもちようだ。ともかく柳は、なれたら、そうなりたいんだ。だからお前さんは、やたらに恥ずかしがったり、気をつかったりして、おれみたいに自由にふるまうことができないんだ」
「だって、ぼくは穴山みたいになりたいとは思わんからな。あんたは一体、なんになりたいんだい」
「おれは、もうなっているんだ」
「だから何にだ」
「強い男になっているんだ」
物騒な面がまえに似あわない、子供じみた返答に、柳は思わずプッと笑いを噴きだした。すると穴山は、たちまち不機嫌になり、陰気な顔をふくらませてしまったものだ。
「穴山は、強い男ですよ」
そのときの対話を思いだしながら、柳は主人に言った。
「彼は、それが自慢なんですから」
「そうかな。ああいうのが強いといえるかね。あれは、粗暴なだけじゃないか」
と、秀雄は気むずかしく、反対した。
「あら、柳さんだって、お強いわよ、ねえ」
と、若夫人は妹の顔をのぞきこむようにして、その手をにぎった。
「どうも目黒さんは、女連中に評判がいいようだね」
と、主人はこちらを見やったが、その眼の下が少し黒ずんで、四十男の疲れを示しているようであった。もしかしたら、廊下での若夫人の悪ふざけを、とっくに推察しているのかもしれなかった。
「今度、お二人で、熱海の方へ来ていただこうかしら。おばあさまが行っていらっしゃるときにでも」
「毎朝、起きぬけにお経を読んでいただけば、おばあさまも安心できていいかもしれないな」
夫妻が気をそろえたように、話しあうと、御隠居さんは、その気持を見ぬいたように、肩をすくめた。
「何もわたしをダシにつかわなくても、よろしいでしょう。わたしだって、そうそうお経ばかり聴いていたくなんぞ、ありゃしない」
老人のことばに調子を合せるように、ほかのテーブルの子供たちや女たちのあいだにも、にぎやかな笑い声が起った。
「いいとこですのよ。西方寺さんなんぞ、書道の方で大作などなさるときには、気が散らなくてよろしいでしょう。なにしろ、海っぷちの崖《がけ》の上でござんすからね」
「そうですか。ではいつか、柳くんと一緒にうかがおうかな」
と、秀雄は住職らしく、ソツのない受けこたえをしていた。
二間つづきの部屋の、床の間の電話がベルをならした。またもや、目黒の寺の執事から柳へ「まっすぐ帰ってきて下さい」という、催促だった。「うちのひとが、みなさん心配してますからね。まア、じらさないで帰ってきて下さいよ」
「帰るにきまってるじゃないか、ほかに行きどころがないんだもの」
わがまま坊ちゃんらしく、受話器をいいかげんに耳にあてがい、柳は気むずかしくしていた。
「ええ、そりゃわかってます。ぼくだって何も、いそがせたくありませんけど。奥さんの言いつけだから仕方ないんですよ」
「わかってるよ。あんまりしつっこく言うと、どこかへかくれちまうからな」
「……困りますよ、そんな」
柳の電話をおもしろがって、若夫人がそばへ寄ってきた。彼女はいたずらっぽく、しなやかな腰をひねって、耳をかたむけた。柳の指の上に彼女の指がからみついて、受話器が女の手にわたった。
「ハイ、ハイ、わたくし宝屋でございますが。私どもでおひきとめしていて、まことに申しわけありませんけど。もうしばらくして、お帰しいたしますから、どうぞお母様に御心配にならぬよう、おつたえねがいます」
若夫人と柳が席へもどると、またすぐ電話のベルが鳴った。立ち居のすばやい夫人が、するりと席を立って、足音もさせずに床の間へすべり寄った。
「ハア、ハア、柳さんね。そちらは? ハア、さようですか」
夫人は眉根をしかめて、柳を手まねきした。
「ハイ、ただ今、かわりますから」
受話器を柳に手わたすとき、夫人の眼つきは、警戒するように、やや険しくなった。電話は、穴山からだった。
目黒の坂上の喫茶店で待っているから、すっぽかさずに立ち寄れと、穴山は言った。どっちみち、お前さんは、俺の言うとおりにするんだと言いたげな、自信たっぷりの声であった。
「話があるんだ。来いよ。たいした話じゃない。俺にとっては、どうでもいい話なんだ」
と、流行歌の流れる中で穴山は言った。
「しかし、あんたにとっては、ためになる話なんだ。あんた、いつか、俺は苦労がしてみたい、苦労してみなけりゃ、自分というものがわからんと言ってただろ。苦労させてやるよ。もう沢山だと言いたくなるぐらい、させてやるからな。ともかく、来いよ」
「行くことは、行くよ。だけど、ぼく、今日は|うち《ヽヽ》に用事があるんだ」
「ああ、わかってる。どんな用事だか、こっちは知ってるんだ。だから、お前さんに話があるんだ」
先方は勢いよく、電話を切った。若夫人はまだ、床の間の前に坐ったままだった。
「ねえ、あなた、どうしてあんな男と仲良くするの」
低くこもるような、甘い声で彼女はささやいた。
「あの眼つき、ただ者じゃないわ。あなたのために、ならないと思うけど」
三つの円テーブルの視線が、こちらに集っているので、柳は夫人と口をききたくなかった。
「……あなたと穴山さんじゃ、人間がちがうのよ。生きてる目的も、ちがうでしょ」
「ちがいませんよ。どっちも坊主じゃないですか」
「だめよ、そんな言い方しちゃ」
宝屋の主人と久美子の視線を浴びるようにして、柳は席へもどった。
「穴山さんですか。お会いになったら、よろしくおつたえ下さい」
主人は夫人とはちがって、穴山に対する好意を見せていた。
「あれだけ才のある、役に立つ社員は|うち《ヽヽ》にいませんよ。何でも相談にのるからと、そうおつたえねがいます」
「いっそのこと、お宅の社員になさったらどうです。坊主にしとくのは、惜しいみたいだから」
と、秀雄は皮肉をこめて言った。
「もちろん、あちらさんさえその気なら、私どもの方はいつでも。非常時ともなれば、あたり前のサラリーマンじゃ、ものの役に立ちませんからね。坊さんだろうと神主だろうと、はたらきのある男なら、多少|くせ《ヽヽ》のある方でも、喜んでおむかえしますよ」
「そりゃ、そうだね。お前さんが第一、七くせも八くせもある男だものね」
と、御隠居さんが、たしなめるように言った。
約束の目黒の坂の上。そこは、目黒川をはさむ広い谷間から、いつもゆっくりと、あるいは急速に、大きな風が吹きあげていた。谷間は人家で埋められていたが、高く長い坂の上からの眺めは、広大な空のひろがりをいただいて、一たん降下して行った斜面が、はばひろい環状線道路の向う側でゆるやかに盛りあがり、平坦な市街地とはちがった「地勢」の変化、風景の目がわりがあって、そこに立つたびに柳を、何かしらせきたてるような作用があった。
そこからでも、遠く柳の寺の森、寺にかぶさるようなガスタンクの巨大な体躯《たいく》を見ることができた。森は、周囲の家並にせめたてられ、やっと生きのこったように、それでもかなりの大きさで、少し高みに浮きあがっていた。寺の建物は、もちろん見えない。
その、こんもりと樹々の茂った一角は、たしかに灰色で猥雑《わいざつ》な、単調きわまる家並のあいだに、わずかながら植物の生気、みどりの色彩をこもらせていた。だが柳の眼からすると、寺の背後の林の茂みは、まるで日本における仏教のように、次第に四囲の活気ある社会に浸蝕《しんしよく》され、やっと生きのびている意地きたなさのかたまりのように、眺められるのであった。かつて持っていた、みずみずしい緑色や、ムッとするほど発散する枝葉の生気を失って、煤煙《ばいえん》や人いきれでくすんでしまった、哀れな形骸のように。
寺院ばかりが「仏教」の象徴ではない。僧侶ばかりが、「仏教」の代表者ではない。仏教とはもっと広大無辺なものの上にひろがっている定理なのだと思おうとしても、ゲンに自分が、その「寺院」に住む「僧侶」であるからには、かえって自分こそ、そんなすばらしい「定理」にそむく者のように思われてくるのだった。
喫茶店では、電話できこえた同じ曲が、まだ鳴っていた。穴山は、ガラス越しに通行人の足ののぞける、街路よりの席で待っていた。金まわりがいいはずなのに、貧乏くさい和服の着流しだった。不良少年も女給も近寄りたがらぬ、物騒なつらがまえが、煙草のけむりの中で木彫りの像のように動かなかった。
「さっき電話口に出たのは、宝屋のワイフだな。あの女め……」
太い眉の下の穴山の大きな眼は、いつも何物かに対する憎悪で熱っぽくなっているか、それとも、何もかも厭になったような陰気な冷たさで沈んでいるのだった。
「あのワイフは、いつでも自分の色っぽさを男にみせびらかして、試そうとしていやがんだ。そうしないと、生きてるかいがないんだな」
「宝屋の主人は、君をだいぶ買ってるようだな」
「おやじか。おやじは悪くない。おやじは俺と似たようなもんだ。あのワイフは、ちがうんだ。華族の娘なんだそうだ。あの女には、興味がある」
「好きなのかい、君は、あの奥さんのこと」
「馬鹿野郎。おれが、女を好きになるはずがないじゃないか。男だって、女だって、おれは好きになんかなってやるものか。おれはただ、いつかきっと、あのワイフを裸にして泣かせてやろうと思ってるんだ。それだけさ」
ことさら意地わるいという意気ごんだ様子ではなく、自然にそうなると言ったむっつりした口調で、穴山はしゃべっていた。
「そんなことして、どうなるんだ。そんな、好きでもない女に、そんなことをして」
「そうしたいから、そうするんだ」
「好きでもないのにか」
「好きとか、好かれたとか、そんなベタベタしたことは、おれは嫌いだよ。第一、好きとか嫌いとかいうのが妄想じゃないのか」
「そうかな。ぼくはそう思わない」
「だって、そうだろ。おシャカ様によれば、人間は平等だということだ。平等な人間なら、あれが好き、これが嫌いというのはおかしいじゃないか。好き嫌いは、差別だ。差別があったら、平等じゃない。そうだろう。理窟《りくつ》に合ってるだろう。だからもし人間がほんとうに平等ならば、好き嫌いするのはまちがっている。好きになることそれ自体、まちがっている。好きも嫌いもなくならなきゃ、平等なんて成立するもんか」
「しかし、好き嫌いはなくならんよ」
「それじゃ、仏教は成立しないことになるぞ」
穴山は、悪相にも似あわぬ邪気のない笑いで、いかつい口もとをゆるめた。少女たちには厭らしい笑いに見えるかもしれないが、柳は「親友」の、その声のない笑いが好きであった。
「おれは別に、仏教を成立させるために生きてるわけじゃないんだから、そんなことはどうでもいいんだ。ただ、かりに仏教の教えが真理だとしたならば、という話だ。もしも仏教の平等論が正しいとすれば、おれもあんたも、あの女が好き、この女が嫌いと言ってはならんのだ。男にだって、好き嫌いの感情は、絶対に持っちゃならんのだ」
「そんなこと、できるかな」
「できるか、できないかはおれの知ったこっちゃない。ただもし仏教の平等論を正しいとするならば、好きなら好きで人類全体を好きにならなくちゃならない。少しは好きとか、たいして好きじゃないとか、そんな差別が一寸《ちよつと》でもあったら真理は崩壊するんだ。嫌いなら、嫌いでいい。そのかわり、あいつだけが嫌いと言うんじゃいけないんだ。嫌いとなったら、人類全体のこらず嫌いにならなくちゃいけないんだ。少しでも、好きな人間が残っていたんじゃいけないんだ。さもなきゃ、平等にならんものな。好きも嫌いも、要するに執着だろ。執着があったら、人間を平等にとりあつかえっこないんだ。もしも人間を平等にとりあつかえない仏教だったら、そんなものはインチキにすぎんのだ」
「では君は、あの奥さんを好きでも嫌いでもないと言うわけか」
「いいや、嫌いですね。好かんね、どうもああいう女は」
太い眉をねじ上げるようにして、穴山はビールのおかわりを注文した。柳は、ビールも飲まず煙草も吸わず、中学優等生のように坐っていた。
「彼女個人が嫌いなばかりじゃなくて、君は、人類全体が嫌いというわけなのかね」
「そうかも知れんよ。だがまだ、おれだって、そこまで行っちゃおらんよ。そのうち、そうなって見せてやる。しかし、お前さんとこの女中さん、あの小っぽけな女、あれは感心な奴だぞ」
と、穴山は声をひそめた。
「末子と言ったかな。あの小っちゃな女中さん、おれの寺へ駈けて来よってな。目黒署の刑事さんが三人も来て、お坊っちゃまの帰るのを待ちうけてます。どうしましょうと、泣きそうになっておれに相談するんだ。彼女、お前にほれてるのかも知れん」
「やっぱり、そうか」
「そうなんだ」
穴山は、愉快でたまらぬと言うように眼を細めて、柳を見つめた。
「赤い坊主というもんも、御時世だからあっていいんだよ」
と、穴山はからかうように言った。
「全然ないよりは、ある方が|まし《ヽヽ》かもしれんさ。赤と黒で、色どりもおもしろい。どうせ、そんな物はアブクみたいに消えちまうもんだが、この世の中に在るものは、みんな在るべくして在るんだから、在ったってどうと言うことはない。それに、お前さんなんか『赤』にでもならなきゃ、世の中のことがサッパリわからんのだから、なりたけりゃ、おなりなさい。永つづきしないことでも、やる方がやらないより、いくらかいいということもある」
「ぼくは、何もやっていないんだよ」
と、柳は、言いにくそうに言った。
「なんにもやっていないということは、言いわけにはならんのだ」
と、穴山は言った。
「人間、死にでもしないかぎり、なんにもやっていないと言う状態になるわけにはいかんのだ。動作にあらわさないでも、アタマの中で考えている以上、それは|やっている《ヽヽヽヽヽ》ことになるんだからな。お前さんのアタマの中ばかりじゃないよ。他人が見て、お前さんが|やっている《ヽヽヽヽヽ》ように見えれば、それはつまりお前さんが|やっている《ヽヽヽヽヽ》ことになるんだ。お前さんは、たった一人。他人は、無数なんだ。たった一人が、やっていないつもりでいたって、無数の奴が|やっている《ヽヽヽヽヽ》と決めてしまえば、それがすなわち、|やっている《ヽヽヽヽヽ》ことなんだ。お前さんにはまだまだ、自分のことも世間のことも、てんでわかっちゃいないんだ。だから、自分の考えていることが、そのまま相手に通じるなんて、およそばかばかしい夢にふけっていられるんだ」
「そうかなア」
柳には、穴山の言いきかせることを、まだ理解する能力がなかった。穴山より自分の方が、「真実」とか「真理」とか言うものに、近いところに立っているという独断を、柳はまだ棄ててはいなかった。
「おれに言わせれば、お前さんは」
穴山は、自分の視線を柳の二つの眼の奥底まで注ぎこむようにして、言った。
「いまのところ、仏教とは縁なき衆生なんだ。自分では、仏教がわかったような顔つきをしているが、およそ仏教とは正反対の状態にあるんだ」
「そんなこと言ったら、君だってそうじゃないか」
「これは、急にわかれと言ったって、お前さんにはムリだろうがね。わかりやすく言ってやれば、お前さんは、さっきおれの言った仏教の平等論をまるっきり感じとっていないんだぜ」
「そんなことあるもんか。ほかのことはともかくとして、ぼくは、人間は平等でなくちゃならんと信じてるつもりだよ。ぼくが、社会主義に興味をもった、そもそもの出発点が、不平等に対する反感からなんだもの」
「そうだろう。そう思ってるんだろう、可哀そうに。ところが、そのお前さんの立場こそ、不平等から逃げ出せない立場なんだ。第一、お前さんは、おれとお前さんがちがった種類の人種だと考えている。いいや、反対したってだめだ。いいわけは、意味をなさんのだ。そうなんだよ。お前さんには、宝屋のワイフの気持と自分の気持が、おんなじ人間の気持だなんて、考えてみることだってできていやしない。それどころか、お前んちの女中、あの末子の奴と、宝屋の上流ワイフとが平等に女であることだって、まだまだ悟っちゃいねえんだろう。あの色気たっぷりな美人ワイフ、その妹の久美子さん、あの生れたての赤ん坊みたいな女の子。それに、田舎者まるだしの女中の末子、お前さんを生んだお母さん。みんなそろって、人間の女であるという、ひろびろとした平等観を抱いたことなんか、お前さんにはただの一回もないはずだぞ。そりゃ、理窟の上では、自由、平等、博愛だろうさ。人民大衆の中に入って、人民大衆のために苦しんでいるつもりだろうさ。よく考えてみな。そもそも、おかしくないのかよ。自分がほんとに人民大衆だったら、なにもわざわざ、|その中へ入って行く《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》こたないはずだろう。おシャカ様の意見によれば、人間は生れながらにして、生・老・病・死の運命をになった平等な存在なんじゃないのか。|生れな《ヽヽヽ》|がらにして《ヽヽヽヽヽ》平等ならば、なにも平等、不平等とさわぐ必要はないわけだ。なにもお前さんみたいに、あわてて人民大衆だの、人間平等だのと駈け出すことは要らないんだ。|生れながらにして《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、というところが、まだお前さんには小指の先ほどものみこめていないんだよ」
「人間は|生れながらにして《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、平等じゃないよ。だから、これから、平等にしなくちゃならないんだ」
「これから? これからとは、いつからのことなんだ」
「これから先、ずうっとのことだ。そういう見込がなければ、社会改革も進歩もあるはずがないじゃないか」
穴山に圧迫されるのが厭なので、柳もビールを注文した。
「たしかにぼくは、穴山の言うとおり、すべての人間を平等に見る眼を持っちゃいない。女となれば、なおさらのことだ。だけど、ぼくは、ぼくが人間は平等になって行かなくちゃいけないと考えていることを、正しいと思っているよ」
「ふうん、平等になって行く? 一年たったら? 二年たったら? それとも、十年、二十年さきのことなのか」
穴山は、話の通じない相手にあきれはてたようにして、言った。
「二十年、三十年、五十年、お前さんはどうせ不平等のおかげでトクをしているんだから、いくらでも気ながにそう思っているがいい。おれは柳と正反対だ。おれは、人間は、生れながらにして平等な動物だと思っている。だから、せめておれの力の及ぶかぎり、不平等にしてやろうと思っているんだ」
「不平等にしてやる? そうかなあ。今の世の中は不平等なのに、その上また|不平等にしてやる《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》とは、どういうことなのかなア」
「|不平等にしてやる《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》ことは、簡単だよ。人間がふつうにふるまっていれば、それは自然自然と不平等にふるまっていることなんだからな。お前さんなんかも、いくら人間ぜんぶに平等にしてやるつもりでいたって、かならず不平等にしかしてやれないんだから。一寸、考えたってわかるこった。お前さんは、刑事に対してと、同志に対してと、平等におんなじ感情をいだくことができるかね。できっこないんだ。とびきり色っぽい二十女と、八十の皺《しわ》くちゃ婆さんとを、平等にあつかえるかね。感じのいい奴と、厭でたまらない奴がいるだろう。その|いる《ヽヽ》ってことが、そもそも平等になれていない証拠じゃないか」
「刑事」という言葉で、柳はたちまち自分の置かれている、不安でたよりない状態に呼びもどされた。
「話があるって、何なの。早くしてくれないかなア」
「そうだったな。まあ、どうせ君は今晩、留置場で泊ることになるんだから急ぐこたないだろう」
「そうはいかないよ。ぼくは君みたいに、強い男じゃないからな」
穴山は、片手をかすかに持ちあげ、うすぐらい店の奥の方をふり向いた。そして指さきを動かして、誰かに合図した。すると紺がすりを着た骨太の青年が、こちらの席の方へ近よってきた。
柳が「骨太」とすぐわかったのは、その美青年の色白の大きな顔が、骨ばっていたためでもあり、足腰のうごかし方が、柔道選手のように力がこもっていたからでもあった。もっこりと筋肉の盛りあがった感じの穴山とちがって、丈夫そうな骨ぐみの目立つ男だったのだ。だがやはりその青年には、どうしても「右翼分子」とは思えない、「左翼」くさいところがあった。
「これが柳くん。これが越後くんだ」
穴山が無愛想に紹介すると、青年は長髪のあたまを、柳は三分刈の丸坊主を、ほんの少しさげあった。二人は、初対面の相手の胸の中を、すばやく自分の懐中電燈で照し出し、分析するために、無言で眺めやった。
「こいつ、大学出だろうかな。それとも、労働者出身かな。一寸、あいまいだぞ」
と、柳は考えていた。
越後には、神経質なところは少しもなかった。むしろ、あまり計略や思想らしきものを感じさせない、あけっぴろげなところがあった。深刻な影などは、どこにも見えないで、平凡な元気のよさがみなぎっていた。どす黒さがないために「右翼」とは思えないにしても、「左翼」の鋭さがあるわけでもないのであった。
「出よう」
穴山は、そう言って立ちあがり、造花の葉っぱのようなゴムの木の葉を押しのけて、先に立った。
両側に飲食店の立ちならぶ、陸橋の附近からわずかに下ると、幅ひろい目黒の坂は、もうすっかり家並のないうす暗がりの空間の中に、芝居の花道のように、突き出した形でつづいているのだった。坂の途中の家は、みなこの花道の下に暗く沈んでいて、女学校の校庭までが、明るい花道の片側に客の顔もわからない桟敷のようにして、崖と樹々のはるか下にしずまりかえっていた。歩道も車道も、石やアスファルトやコンクリートで頑丈に固められていて、そのため両側の闇の底に寄り添っている木造の家々が、もろく、はかないものに見えるのだった。
坂を下って行く三人の青年のうち、一ばんのんきそうで、秘密の相談などと一ばん無関係そうに見えるのは、長髪を風になびかせた越後であった。彼は、すれちがう若い女があると、中学生のように眼をかがやかして眺め入ったりするのだった。
「あの男は、たいしてアタマのいい男じゃない。だが、根が馬鹿だから命令一つで、何でもやっちまう奴なんだ」
と、柳の耳に口をよせて、穴山がささやいた。
「何なんだい、奴は一体」
「もちろん左翼さ。アカのおたずねものさ。富山から逃げてきた男だ。おれとは同郷の百姓なんだ」
「ふうん、あれで農民なのかね。わからんもんだな」
「奴の親分が、目黒署につかまってるのさ。それで、あんたに用があると言うわけだ。おい、向う側へ渡って、右の路へ入れよ」
と、穴山は、先を歩いている越後に声をかけた。車道のアスファルトは、夜の光で、鉛筆の芯《しん》で光らせたように、なめらかに光っていた。共同便所の臭気のただよう一郭から小路へ折れると、片側は石垣のつづきだった。吹きさらしの、だだっぴろい目黒の坂の、どてっぱらから横に分岐した一本の腸《はらわた》のように、その細路は、ますます暗い谷間をくぐりぬけるようにして、奥まって行き、すすむにつれ人通りがとだえていた。
「あたま株が、そっくり検挙されちまったらしいんだ。だらしない話だが、根こそぎ引きぬかれて、あとは小物が少し残っただけらしいんだ」
柳には、穴山の言葉の一つ一つが、奇怪に感じられた。こうやって三人の男が、めいめいまるでちがった目的の下に、仲良さそうに歩いていることも、奇怪でならなかった。どういうわけで、よりによって、こんな奇妙な結びつき、わけのわからぬ関係ができてしまったんだろうか……。自分たち三人の身体が、うなぎ屋の店さきの桶《おけ》に投げこまれ、からみあったり、もぐりこんだりしている、あのヌメヌメと光る|うなぎ《ヽヽヽ》のように思われてくるのだった。
「ぼくに何か、連絡でもしてくれと言うのか」
「そうなんだ。別にむずかしい仕事じゃない。キャップだか委員長だか知らないが、その親分にちょっと連絡してもらいたいと言うわけだ」
「それは、できたら、してやってもいいよ。だけど、ぼくみたいな男にそんな重要なことたのんでいいのか。ぼくは別段、革命党のためにはたらいてるわけでもなしさ」
「だから、つごうがいいんだよ」
「まア、そうかもしれないが。君はまたどうして、こんなことに手を貸すのかね。おかしいんじゃないのか、そんなの」
「おれのことは、どうだっていいじゃないか」
生垣から路へ、しなだれかかる竹の葉をはらいのけて、穴山は乱暴に下駄を鳴らしていた。
「やってやれよ。窮鳥ふところに入らば、猟師もこれを殺さず、さ。な、人生、意気に感ずって言うこともあるじゃねえか。そのキャップとかいう奴は、生意気なことにまだ二十四、五らしいぞ。越後だって、お前さん、まだ二十一歳の青二才だよ。富山の農民組合にいて、傷害事件かなんかひきおこしてさ。それで東京へ来れば、もう一《い》っぱしの闘士みたいな面してるんだ。可愛いじゃないか。いい若いもんが、今どき何もウジウジしてるこたないさ。右翼も左翼も、ありゃしない。威勢のいい奴が、何かやらずにいられますかってんだ」
「ぼくは、威勢がよくないよ」
「ふうん、そうかね。いつかの頭の傷は、もう痛まないのか」
小学校や工業試験所の塀《へい》が、まるで監獄の塀のように、無愛想につづく路は、橋にかかる前から、泥くさい水の匂いが強まってくる。夜業にはげむ町工場から流れ出す汚水が、低い河底におちる音が、きこえはじめる。
「越後、いいのか。おれ一人にしゃべらせておいて」
「東京には綺麗《きれい》な女がたくさんいて、目がちらつくよ」
農村青年は、たくましい手をさし出して柳と握手した。
「東京の女同志だって、きれいすぎるよ。女の大学生なんて、まるで女優みたいだものな」
「お前さん、田舎から出てきて、うれしくてたまらんだろう。可哀そうに、その綺麗な女ッ子をたのしまないうちにつかまっちまうんだから」
「プチブルの女が、こんなに綺麗だとは思わなかったよ」
「用件は何なんですか。できることならやってあげてもいいが」
柳は、いらいらして来ていた。
「ぼく個人としては、どうでもいいことなんだ。許可なんかもらわなくても、こっちは、やりたいことは、やっちまうんだから。だけんど、規律だとか何だとか、うるさい奴がいてね。ちゃんとした命令がなければ、行動しちゃいけないとぬかすもんだから」
「では何か計画があって、それをやってよいかどうか、そのキャップとかいう人に聴いてくれと言うわけですか」
「そうだ、そうだ。そうなんだ」
と、農村青年は気楽そうに言った。その言い方は、軽薄とまで言えないにしろ、どことなく無神経、無責任な口ぶりのように、柳にはきこえた。
「ぼくだって東京へ出たばっかりで、こまかいことは知らないんだよ。ただ、|A作戦《ヽヽヽ》をやるところだったんだ。A作戦だよな。そういう計画が、やられるところだったんだ。それで、その仕事は、ぼくに向いていると言うわけだったんだ。荒っぽい方の仕事だもんだからな。で、ぼくはもちろん、やっちまうつもりだったんだよ。ところが、上部がみんなつかまっちまっただろう。だから、何かむずかしく考えて、戦術転換だとか、戦闘員の再検討、再調査だとか言いだして、うるさくなってくるだろ。そうなれば、実行するはずだった計画も、止《や》めにした方がよかアないかと言う意見も出てくるわさ。インテリと言う奴は、一応理窟をつけるからな。それも、一応だけだわさ。一応はともかく理窟をつけてから、行動するわな。それなんだな。だから、ぼく自身は許可があろうと、なかろうと、やることはやっちまうわけだから、問題にしちゃいないんだ。だから、こっちも一応、理窟屋さん連中の顔をたてて、許可を取ってからと言うことに決めたんさ。だから、柳さんか、あんたにはすまないが、A計画は、そうだA作戦か、Aでもいいさ、それをやってよろしいですか、どうですか、キャップに聴いてもらいたいんだ。Aというローマ字を、壁か空中か、どこかに指で書いてもいいさ。ただ『Aはどうする』と、連絡してもらえばいいわけさ。そうすれば、向うは首を横にふるか、たてにふるかするだろうさ。首をふらないで、だまってるかも知らないよ。そしたら、それはそれでいいのさ。と言うわけなんだ。これだって、穴山という、おせっかいな坊主がいてな。ぼくは穴山の寺に隠れてるから、穴山の言いつけも守らなきゃならんしな。こいつは悪い奴だけど、悪智慧《わるぢえ》はあるからね。まあ、穴山のすすめもあったわけよ。な、わかっただろう」
「わかった」
と、柳は答えた。
橋をわたると染物工場。木造の三階建の、化物屋敷のようにうらさびれた横手を曲ると、河沿いの路は二人肩をならべられないほどせばまって、凹凸のひどい泥路はつまずきそうになる。そのとなりは、製品の種類は不明だが、薬品でもつくっているらしい合成化学工場。気味のわるいほどあざやかな青白色の液体が、くらい電燈の下で、夜はなおさら鮮明に見え、地面にじかにならべた瓶《かめ》からたちのぼる湯気が、たまらない悪臭を流してよこす。その次は、砥石《といし》工場。かたい石材を削ったり磨いたりするグラインダーの、セセセシーンというかすかなひびきが、つたわってくる。
「話はわかったけれど、どういうんだろうな」
「どういうんだとは、何がさ」
と、穴山はおっかぶせるように、柳にききかえした。
「越後くんと君との関係さ。正反対の立場にいる二人がさ。どうしてそんなに気やすくつきあえるのかな」
「戦争がはじまるんだよ」
と、予言者ぶった口調で、穴山は言った。
「ここらの小っぽけな町工場まで、毎日のように夜業をやってるんだぞ。戦争だよ。そうなりゃ、右翼も左翼もあるもんか。なア、そうだろう」
と、穴山は、越後の首と肩を叩いた。
「戦争か。そうだ、その通りだ。だから、どっちみち、ぼくたちは死ぬことになる。だから、戦争を止めるためには、死ななくちゃならんわけだ。話は簡単なんだ。われら青年は、殺される前に死んでやるわ」
「まア、そう思って死ぬがいいさ」
と、穴山は、押しこくるようにして、もう一度、越後の首のあたりを叩いた。
二人にわかれた柳は、ガスタンクの下の路をいそいだ。タンクは、鈍くうなり声を発しているように思われた。寺の裏側の竹藪《たけやぶ》のあたりには、そんなはずはないのに、石炭ガスが重く沈んでいるように感ぜられた。
月の光は、坂のてっぺんにも、坂の途中にも、横にそれた小路にも照りわたっていたはずだった。ことに、水の匂いの立ちのぼる川と川岸、それをわたる橋の上に、蒼白《あおじろ》い光は降りそそいでいたはずだった。しかし柳は、ぼんやりと夜空のあかるさを感じとりながら、今まで、月の光を浴びているとか、星がかがやいているとか、はっきりと身にしみてはいなかった。落葉の匂いのただよう寺の裏手に歩み入ってから、はじめて今夜は、月のいい晩だと、あらためて思ったのだった。樹々の影の落ちた暗い裏路には、ところどころ枝葉をもれた月の光が、土を白く見せていた。竹藪の側の土は、やわらかく盛りあがって、落葉の厚みの下ではずむようだった。
納屋と井戸、炊事場と庫裡《くり》。いつもはほとんど出入りしない、風呂場の木戸をあけて、柳は家へ入った。
長い敷石をふんで、正面玄関から入れば、本堂につづく古い庫裡と、新しい母屋が左右に分れていて、庫裡のとっつきにいる女中の末子か、執事か爺やさんが、仕切戸をひらき板敷をおれ曲って、とんで出るのだった。敷石をふむ足音は、夜は遠く正門のあたりからきこえるし、昼間なら、生垣にそって歩いてくる姿が、母屋の廊下のガラス戸ごしに見えるはずだった。
洗面所の電燈のスイッチをひねり、母屋の廊下へ出ようとすると、そこに末子が立っていた。
「ああ、お坊ちゃん」
ハッと息をのみこみながら、彼女は言った。
「あのう、お知らせしようと思ったんですが……」
「ああ、わかってる、わかってる」
「わかっていらっしゃるんですか」
末子は小柄な身体を、なおのこと小さくちぢかめ、気づかわしげに声をひそめていた。
父や母や、召使たちの、自分に対する「心配」が、家の中一杯に詰っているようで、柳は気恥ずかしかった。そのまま二階の部屋へ上って行こうとして、彼は思いかえした。
「帰ってきたと言っといてくれよ。お風呂に入るから」
「ハイ」
「……なんだかヘンな具合だなア」と、着物を脱ぎながら、柳は思っていた。
風呂場の外では、執事と末子のひそひそばなしがきこえた。柳の母に知らせるため、走って行く、末子の足音もきこえた。
「いかがですか、お風呂のかげんは?」
焚口《たきぐち》で、薪を入れる音がして、いつのまに来たのか、爺やの声もきこえた。
「いいよ、あんまり燃さないでも。ああ、いい気持だア」
「さようですか。今夜は少し、冷えますようですから、お風呂はよろしいですな、ハア」
老人のしわがれ声のおわりの方は、ふくみ笑いがまじっていた。
「……どういうことなんだろうなア、こういう状態は。これは、くすぐったいような、チグハグな状態というもんじゃ、なかろうかなア」
母の注文で、寺では毎日、朝から風呂がわかしてあった。まだ若い柳には、入浴はむしろ、めんどうくさかった。
「うちじゃ、燃料は枯枝をもやすから、タダだろう。水だって、山の水を使うから、タダなんだよ。だから、お風呂も毎日入ってると、入りたくなくなるんだ。馬鹿げてるよ、毎日なんて」
柳は、そう言って秀雄に冷笑されたことがあった。
「もったいないことを言うな」
と、秀雄は、見さげはてたと言うようにして、柳を見つめたものだった。
しかし、留置場入りするとなれば、わざとおちつきはらった様子で、湯につかっていたくなる。
「ぼくの肉体も、すてたもんじゃないぞ」
温泉の風呂場に似せて、湯船は洗い場の下に沈むようにつくられてある。
わきの下の毛、腹の下の毛を、湯の中でなぶったり、両股《りようまた》をすぼめたり、ひらいたりして、柳は悠々と入浴を楽しむふりをしていた。
「今年の夏、茅《ち》ヶ崎《さき》の海岸に泊っていたとき、風呂からあがると漁師のおかみさんが、ニヤニヤ笑いながら、ぼくのおしりを眺めていたからな。女の眼から見れば、たまらなくいいところがあるのかも知れんぞ。だけど、青年が女に肉体を見せびらかすのは、よろしくない。そうやって、女に媚《こ》びたりするのは、実によくない。しかし、宝屋の若奥さんは、どうしてあんなことをしたんだろう。計略じゃないのかなア。本気だとしたら、すばらしいけれども、その『本気』の内容はうたがわしいなア。とにかく、姦通なんて穢《きたな》らしい。そんなことを、ぼくがするはずはない。それにしても、久美子さんも、やわらかそうで、コリコリと固みもある、可愛らしい脚をしているんだろうなア。しかしながら、僧侶の快楽《けらく》は、精神的なものであらねばならんのだ。とすれば、若夫人の寝室に入りこんだりするよりは、むしろ、留置場の苦難をみずからすすんで、えらぶべきではないか……」
「早くあがっていらっしゃい。何をやってるの」
柳の母の、とげとげしい声がきこえた。
「刑事さんを待たせといて、どうするつもり。早くあがってきなさい。親に心配かけて、何ですか」
「うん、知ってるんだよ」
「知ってるなら、早くさっさと、あがっていらっしゃい」
母は洗面所のガラス戸をしめ、浴室のガラス戸の外に立っていた。
「三人も来てるよ。刑事って案外、品がわるいね、奥さまは、お若くて綺麗でいらっしゃって、柳くんみたいな息子さんがある方とは見えませんだってさ。お世辞なんか言ってるふりして、そこら中しらべてるのよ」
「……ふうん」
「お湯なんか入らなくたって、いいじゃないの。早く出てきなさいよ。どうせ、向うへ行けば汚れちまうんだもの、つまらないよ」
風呂場でガラス戸越しにきくと、母親の声が妙にエロティックに感ぜられ、柳はそれが厭《いや》だった。母が湯船のところまで来て、平気で湯をくみだしたりされると、怒鳴りつけたくなる。母の体温や匂いが近よってくること、母の唇や母の舌、母のかくされた毛の部分を見ることも、身の毛のよだつことであった。中学でも、高校でも、遊びに来た友人が、みんな母をほめるので、それだけかえって母に接触するのがイヤなのであった。
「ねえ、どうしたの」
と、母がガラス戸をあけようとするので、
「ああ、出る、出る。出ますから」
と、彼はあわてて湯船から立ち上った。
「末子をよんで下さいよ」
「ええ? 末子をここへ? どうして、末子なんか。用があったら、わたしにたのめばいいじゃないか」
「いや、一寸《ちよつと》、たのみたいことがあるからさ」
「ふうん、そうなの。末子にできることなら、わたしにだってできそうなものなのに。末子なんかに頼んだりしたら、あの子、かえって|へま《ヽヽ》やりやしないのかい」
「たいしたこっちゃないんだ。ここへ、呼んでくれよ」
活気のこもった柳の肉体は、湯でのぼせあがって、ぶざまなくらい、汗をふき出した。母に裸を見せるのを、神経質にきらう彼は、女中に裸で向きあっても何も感じなかった。それだけ彼は、末子を一個の女性として、とりあつかっていないのだった。
警察へ着て行く、ふだん着の和服。その裾に、煙草とマッチをわからぬように縫いこんでもらうこと。
「ハイ。わかりました」
城中に忍びこむ、決死の女|隠密《おんみつ》のように、ひとこともききかえさずに、口をしっかりとむすび、眼をきつく光らせて、末子は柳の言いつけをききとった。タオルを腰にまいただけの柳は、安い香油の匂いのする末子の髪に、口をこすりつけるようにしてささやいたので、彼女はよけい、身体をひきしめなければならなかった。
三人の刑事にはさまれて、柳が寺の正門を出ると、せまい路の両側はもう寝しずまっていた。
若い刑事が「車をひろいましょうか」と言い、中年の刑事部長が「いいだろう、歩こう」と言った。太った部長の顔を、柳は知っていたが、ほかの二人は新しい係のようであった。
「右を向いても緑、左を向いても緑、あんないい所にいるのに、何が不平なんだ」
と、部長は、しんみりしたように言った。
「お父さんも、いいお父さんじゃないか。お母さんも、すてきな美人じゃないか。あんな景色のいい、ひろい家に住んでいて、あんなやさしい両親に育てられて、お経さえ読んでれば楽に暮せるのに、一体なにが不満なんだい」
そう思うのはムリがないと、柳は思っていた。小学校の卒業式のあと、担任の先生のうちに、みんなそろって挨拶に行った。その先生の住宅は、実にみすぼらしくて、その奥さんも、貧乏くさいお婆さんだったので、柳はびっくりもしたし、悲しい気持にもなった。その先生と、この部長は、話しぶりも太り方もそっくりだった。きっと、おんなじような、小っぽけな、陽あたりのわるい家に、この刑事も住んでいるんだろうな、と柳は想像した。もしも本物の「闘士」だったら、自分を捕え、自分を連行する特高刑事に対して、かぎりない怒りと憎しみをおぼえるはずだった。だが柳には、そんなはげしい感情は少しも燃えあがらないで、中年の刑事の世帯じみた述懐や教訓が、もっともと思われてくるのだった。
「お前、左肩をさげて歩くな」
新米らしい若い刑事は、犯人の特徴をたしかめるように、柳の少しうしろから言った。彼は、投げやりな中年の部長にくらべ、はりきって仕事にはげんでいるように見えた。
柳は、何を言われても、だまって歩いた。それは、反抗心や用心ぶかさから、沈黙を守ったのではなかった。彼には、ただ、自分を夜おそく、三人がかりで警察署まで連行する男たちが、現在の自分にくらべ、はるかに苦労の多い、真剣な「生活人」のように思われてならなかったのである。
おシャカ様にとっては、刑事も内務大臣も、憲兵隊長も天皇も、平等にうつろいやすき、あわれなる人間ども、つまり「衆生」にすぎないはずであった。「衆生」にすぎないからこそ、人間は平等なはずだった。たしかに、仏陀《ぶつだ》の大きな眼には、人間すべてが平等な生物に見えたにちがいなかった。柳には、そんな「眼」など持ちあわせがなかった。彼は決して、「平等論」で、刑事のことばを素直に聴いたりしたのではなかった。僧侶としての自分の生活のうしろめたさ、うしろ暗さが、あまりにも黒々と積もっていたので、刑事だってぼくよりは、まだまだまっとうな人民大衆の一員なんだぞと、感ぜずにはいられなかっただけの話だった。
「お前のお母さんなア。あれはたしかに美人だけどなア。ちょっと、とっつきにくいよ、あれは。もしかしたら、お前のお母さんは、士族なんじゃないか」
「そうです」
「そうだろう。どうも、そうだと思ったよ」
と、部長は満足したように、笑った。
「士族という奴はなア。どうも、へんなところがあるんだ。おれの署の、新しい特高の主任さんもな。士族なんだ。剣道はうまいんだがな。どうも、とっつきにくいところがある。なア、そうだろう」
部長は、今まで口をきかなかった、もう一人の部下に言った。
「そうですな。ぼくらには、部長さんの方が、あけっぴろげで親しみやすいな。どうも、あの主任さんは、冷たいところがある」
その部下は、部長の肩をもつようにして言った。
「そう思うだろう。それだのに、あの主任におべっかをつかう奴がいる。若いくせに、立身出世のためには上役にヘイコラする、妙な奴がいるもんだ」
部長は、どうやら張りきり屋の若い刑事に|あてつけ《ヽヽヽヽ》を言っているらしく、正直者の意地わるさのようなものを、むき出していた。
「おれはどうも、士族出の奴は虫が好かんよ」
若い刑事は、気まずそうに下を向いて歩いている。
「……人生はつらいなあ」と、柳は思っていた。どうしたって世の中で生きてくためには、せりあったり、喧嘩《けんか》したりして、やって行かなくちゃならないからなあ。もう頭の毛のうすくなった、おなかの出っぱった巡査部長が、自分の署の内情を、燈火の消えた夜の裏路をいそぎながら、ぶちまけたりする。その子供じみた競争心や、あせりが、月の光でうきあがった電柱や、ゴミ箱や、板塀のつづく空間ににじみ出し、ひびきわたるようであった。柳は、三人の刑事の心のうごきの一つ一つが、月あかりであからさまに、感じられてくるような気がした。
「なア、このあいだの捕物だって、おれ一人で二人いっぺんにつかまえたんだから。主任は命令を下しただけで、実際に格闘したのは、おれたちだ」
「あのときは、ほんとに、部長の強いのにおどろいたな」
「そうだろう。屋根からとびおりた所を、二人とも縛りあげたんだからな」
部長は気に入りの部下にだけ、愉快そうに話しかけた。仲間はずれにされた若い刑事は、用心ぶかく柳に寄り添っていた。
「士族は、神経ばかりピリピリさせて、ほんとに働いてるのは、おれたちなんだ。柳よ、しかし、お前のお母さんは、ほれぼれするような、綺麗な女だな。ああ? お前のおやじさんは、坊さんのくせに、あんな綺麗な女を女房にして、うまいことやったよ。うらやましいよ。柳なんかも今に、ああいう女を女房にして、おさまりかえって暮すようになるんだろう、畜生め」
「ぼくはダメだな。ぼくは綺麗な女房なんか、持てないな」
「なんだ、こいつ。へんな謙遜《けんそん》なんかしゃがって」
「おやじは、性質がいいから、うまいことができたんだ。ぼくは、そうはいかないよ」
「ハッハ。やっぱり、おやじがうまいことやったと思ってやがったんだな。ハッハ」
部長はすっかりおもしろがって、ぶあつい肩をゆすりあげるようにして笑ったが、若い刑事は、いまいましそうに眉をしかめて、柳を速く歩かせようとしていた。
四人は、警察署の裏口から、狭い階段を二階へ上った。
部長が警視庁へ電話すると、柳はすぐ階下へ降ろされた。
彼は見おぼえのある廊下をくぐりぬけ、見おぼえのある鉄の扉の前に立たされ、鼻おぼえのある臭気にむかえられて、留置場に入った。
「なんだ、坊さん、また来たのか」
見おぼえのある看守に、住所、姓名を告げて、彼は、毛布にくるまった留置人の身体で、足のふみ場もない扉へ押しこまれた。
深夜の新入りは、満員の房《ぼう》の先輩には迷惑なので、厭がったり、おどかしたりする声が、しばらく柳をつつんでいた。
番号札を掛けて看守が去ってしまうと、すぐさま「モクはあるか」「ヤスリは?」「ボウズは?」と、柳をせきたてる、かすれ声がほうぼうで起った。柳は、くさい男の手脚のよこに、やっと身体を横にしながら、袖口から襟《えり》、裾の方へと、着衣のはじっこを探った。機転のきく末子は、あんなに短い時間だったのに、実に注意ぶかく、しかも巧みに、マッチの軸を短く折り、マッチ箱の発火する木片をこまかくちぎり、ばらにした煙草と一緒に、念入りに縫いこんでおいてくれたのだった。
柳のお土産の配給がおわると、みんなは少しずつ身体をずらせて、どうやら柳が身体をまっすぐ伸ばせるすきまを、つくってくれた。
向い側の房の中で、大男が突っ立って、こちらを見ていた。タコ入道のように色つやよく、頭のはげあがった大男は、遠慮のない声で、こちらへ呼びかけた。
「おい、今、入ってきたあんちゃんよウ。お前さん、浄泉寺の坊ちゃんじゃありませんかい」
「ええ、そうです」
起きあがった柳は、金網ごしに、小さい声で答えた。
「そうか、やっぱり。おい、そっちの房の奴ども。今入って来たあんちゃんに、親切にしてやんなよ。決して、手荒な真似しちゃならねえぞ。わっしはね、浄泉寺の檀家総代の島崎ですよ。まあ、ここへ入ったら、わっしにまかしときなせえ」
「おい、島崎、しずかにしてくれよ」
うるさく鍵《かぎ》の音をさせて、看守が注意しにきた。
「おい、看守。大きな口をきくなよ。島崎大五郎には、五百人の乾児《こぶん》があるんだぞ」
「わかってるよ」
看守が大目に見ている所からすれば、大男は、そうとうの顔役らしかった。
「自慢じゃねえが、前科十八犯! 天涯無宿のバクチうちだ。頭山満《とうやまみつる》先生だって何だって、オウ島崎か、よく来た、ひさしぶりだったなアという、国粋会のチャキチャキなんだ。ざまア、見やがれ。おい、看守。今入ってきたあんちゃんは、おれの寺の住職の坊ちゃんだからな。ていねいにお世話してあげなよ。わかったな」
「早く寝ろよ。えらそうに言うな」
柳は、大男にはとりあわないことにした。彼は、埃《ほこり》っぽいくせに、垢《あか》や脂でしめっぽくなった古毛布の下で、房内をうかがった。思想犯か朝鮮人、それだけが信用のおける相手だった。
彼のとなりは、ニンニク臭い朝鮮の五十男だった。
その小柄な朝鮮人は、柳のお土産の配給にも、首をふってことわった、まじめそうな男だった。
彼は眠ったふりをしたまま、柳にささやきかけた。
「ワタシ、アナタ知ッテル。アナタ、ワタシノウチニ、オ経ヨミニキタ」
「え?」
向い側の島崎親分の呼びかけだけでも、柳はいいかげん、うるさくなっていた。それにまた、土方らしい朝鮮人までが?
「アナタ、浄泉寺ノ若イ方ノ坊サンダロ。アナタ、タダデ、ナムアミタプツノオ経、ヨンデクレタヨ。ワタシ、知ッテルヨ」
町内には貧乏人を世話する、方面委員という役があって、その係から柳の寺へも、読経をたのみにくることがある。金にこまらない柳は、お経料なしのお経を読みに行くのは、むしろ好むところだった。そう言えば、自由労働者の長屋へ行ったとき、ナムアミタプ、ナムアミタプと熱心に念仏する朝鮮人の土方がいて、柳はいぶかしく思ったものだった。
「思想犯の大物がいるだろ」
「イル」
「どこの房にいるんだ」
「ペンジョノ前ノ房ニイル」
「そうか、ありがとう」
房の入口に一ばんちかい柳は、またもや起き上った。
「すみませんが、小便がもりそうなんで」
彼は、できるだけ看守の感情を害さないように気をつかった。
「勝手なこと言って、すみませんが」
看守が監房の扉をあけると、冷たい風が吹き入った。冷めし草履をつっかけて、柳は便所の方へ歩いた。
「おい、柳。親の顔に泥を塗るようなまねはするなよ」
苦労人らしい看守の声を背にうけながら、彼は「便所《ペンジヨ》ノ前ノ房」の方を見ていた。その房には、あまりおおぜいの留置人が詰めこまれていないらしかった。そして、誰か一人の男の、うめき声が、そこからかすかに流れ出していた。
問題の房と便所にはさまれて、中庭に面する窓があった。毎朝、巡査たちが勢ぞろいして点呼をとる、その中庭から、たった一つの窓を通して、わずかに夜の明るみが見えた。砂利をしきつめた広場からは、警察犬のせわしない足音、くさりをひきずる音、ものがなしげな、そして猛々《たけだけ》しい怒りのこもったうなり声がきこえた。
便所と向いあった、その房は保護室のはずだった。そこだけは中に畳が敷かれ、鉄棒や鉄扉や金網のかわりに、頑丈な木製の格子がはめられてあった。
房内にも廊下にも、電燈はつけっぱなしになっているから、保護室に入れられている人物を、のぞけば見ることができた。
看守は、警棒であらあらしく格子を叩いた。
「宮口! 身から出た錆《さび》だぞ。苦しいか。苦しければ、さっさと白状しろ。音《ね》をあげるなんて、だらしないぞ」
その看守は、ロシア革命のパルチザンと鉄砲を撃ちあった、シベリア帰りだった。蒼白い顔をした彼は、妙にやさしい所のある、根は善良な男であった。それが、日本帝国や日本天皇に反抗する男女に対しては、たちまち悪鬼の如き形相を示すのだった。
「宮口! お前のような奴は、どうせ生きてシャバに出られるはずはないんだ。今まで生かしてもらっているのだって、天皇陛下のお情のおかげなんだぞ。大学で、お前は、何を勉強したんだ。あ? 何を勉強したんだよ。愛国心をベンキョウしなかったのか。おれなんか高等小学しか、出ていやしない。貧乏人の倅《せがれ》は、大学なんか卒業できないからな。それだって、おれは愛国心を持ってるんだぞ、あ?」
「おれのタオルをよこせ」
姿の見えない受難者の、かすれ声がきこえた。その「殉教者」は、あまりに格子戸に近いところに寝ころがっているため、柳には見ることができなかった。
「厭だよ」
「おれのタオルをよこせ」
「厭だったら、厭なんだ」
と、看守は左手にぶらさげた鍵の束を、にくらしそうに格子戸にぶつけた。
「おれのタオルをよこせ」
針のつかえたレコードがくりかえすように、姿の見えない男は、同じ音階で同じことばをくりかえした。
看守は、柳をせきたてて、ぐずぐずしないで用をすませろと、不機嫌に言った。だが、その言い方は、その「キャップ」を怒鳴りつける言い方にくらべれば、はるかに殺気が少かった。看守にとっては、柳は、たいした「反抗者」ではなく、ちょっと馬鹿な真似をした大寺のお坊ちゃんだった。「受難者」にも「殉教者」にもなれないことは、柳にとって歯がゆいことではあったが、また、けっこう、気が楽なことなのであった。
「彼」の要求している「タオル」は、特別に保管されている、新しいタオルなどであるわけがなかった。便所のガラス戸をひらくと、みどり色のペンキで塗られた壁。そこに打ちつけてある釘《くぎ》の列の、自分の番号の下にぶらさげてある、うす黒くなった布の小片にすぎないのだ。そんな小っぽけな、不衛生な布片などで、拷問の傷の痛みがとれるはずはないのであった。「彼」がタオルを要求しているのには、明らかに別の目的があるはずだった。それは、おそらく、この警察の、この房に「彼」が存在していて、その「彼」は、要求を棄てない政治犯であること。政治犯であるからには、新しく入ってきた「仲間」に自分の場所と状態を知らせ、連絡をしたがっていること。そういう暗号通信のつもりで、「タオル」を要求しているにちがいなかった。
用をすませた柳は、看守がほんの少し前に釘にひっかけた自分の手拭(それは、半分にちぎられていた)を手にして、ガラス戸を押した。
「ぼくのタオルを使ったら、どうですか。まだ新しいから」
柳がさし出したタオルを、看守はひったくった。柳の頬げたを殴りつけた看守の拳骨は、すばらしく固かった。殴られた経験の少い柳は、保護室の格子戸のところまで、だらしなくはねとばされた。
「こいつ、よけいなことしゃがって」
かすれ声の看守の怒号は、怒りを発しても、さして大きくはならずに、鍵束の音だけがはげしく鳴って、柳はまた二つ三つ殴られた。
「全くバカな奴だな、こいつは。全くバカで、どうしようもない奴だな、お前は」
ますます蒼白くなった看守の顔は、悪相にかわったわけではなくて、自分で自分の怒気をどうとりあつかってよいか、困っている様子だった。丸の内の交番の巡査は、学生時代の柳の長髪をひっつかんで、ひきずりまわしたけれども、丸坊主になった柳には、ひっつかむ髪がないのであった。
「このバカ息子は、親の心も知らないで。なんだろうか、こいつは全く、バカでバカで、とめどもないバカッタレだな」
看守は、柳のえりがみをとらえ、柳の房の方へ突きとばした。
鉄扉の上のブザーが鳴って、看守は柳などにかまっていられなかった。オハナ(バクチ)で挙げられた男女が、十人ばかり、シャバ(町)の空気をそっくり身につけて、ドヤドヤと入ってくる。その一人一人を始末して、めいめいの番号をつけ、めいめいの房へ区分けしなければならないのである。専門家と素人《しろうと》と入りまじったバクチの現行犯は、ふみこまれて逃げまどった興奮で、ざわめいているし、賭《か》けていた金額や、バクチ場の秘密など、取調べのまえに打ち合せることも多いので、まるで籠におしこまれた小鳥か、屠殺《とさつ》場の豚のように啼《な》いたり、わめいたりして、とてもうるさいのであった。
「ああ、そうだ。鼻をこすれば、花札という意味だっけな。オハナは、サイコロより罪がかるいんだ。それにしても、こんな空気の流通のわるい、暗いところで、こんな困った連中ばかりとりあつかって暮さなければならない看守なんて、いい商売じゃないな。まだまだ、坊主の方が、たとえ世間で馬鹿にされても、気が楽だな……」
寝つきのいい柳は、すぐ眠ってしまった。新入りのオハナの犯人に、頬っぺたや足指をふんづけられても、感じないくらい疲れていた。
次の朝、柳のとなりに坐っている朝鮮人が、赤いものを吐いた。交替した別の看守が、「血を吐きゃがったぞ」と騒いだけれども、それはジャミパンの赤色にすぎなかった。念仏ずきの朝鮮人は、どんなに叱られても、眼をつぶって「ナムアミタプ、ナムアミタプ」と、となえているだけであった。
脛《すね》にも腕にも、ほとんど毛らしいものの生えていない、朝鮮の土方は、白いスベスべした顔に笑いをうかべることもなく、いつでもまじめくさっているのだった。
「ミソ汁ハ、カラダニイイヨ。ミソ汁ノオカワリヲシナサイヨ」
朝鮮人は、柳をいたわるように、そう忠告する。朝鮮人と言えば、いつもいじめられ、のけものにされ、ワリ(損)を食っているはずであり、そのためトゲトゲしくなっているはずなのに、この中年男はどうして、こんなにやさしく、おとなしく、まるで悟りすました老僧のようにしていられるんだろうか、と柳は不思議だった。柳の知っている組寺の老僧は、もっと脂ぎったり、わざとらしくとりすましたりして、もっと欲がふかそうに見えていたのに。
柳のとりしらべは、おかしな具合にはじまった。と言うのは、目黒署でも本庁でも、別段はっきりした確証があって、拘引したわけではないからだった。柳が、「大物」のアジトへ、それと知らずにお経を読みに行ったのは事実だった。警察のとなりの葬儀屋が、密告しないでも、そんなことなら柳は、いつでも「自白」するつもりだった。葬儀屋のおやじさんにしたところで、「ああ、あそこなら浄泉寺の若いのに行ってもらいましたよ」と答えただけであって、とりわけ「密告」という下ごころも、なかったはずであった。昨夜あげられた十人のバクチ仲間には、なんと葬儀屋のおやじさんも入っていたのであるから、まことにからみあった、妙な「因縁」とは言えるにしろ、柳には、特におやじさんを怨む理由も、権利もなかったのである。
柳はただ、「アジト」の二階に安置された棺桶を前にして、一晩、念仏をとなえていただけであった。階下にたむろした、あまり人相のよくない青年たちが、どんな戦術、どんなテーゼについて討議していたのか、知るわけもなかった。写真を示されて、「こいつはいたか。こいつは、どうだった」と問いただされたところで、他人の顔をほとんど見つめない習慣の柳には、そんな記憶もなかった。
刑事たちの主張によれば、その寝棺(うすっぺらな板で、急ごしらえした、一ばん安い棺桶)の中でこわばっていた男が、たんに自然死で死んだのではなくて、殺されて死んだのだということであった。もし殺害されたのだと立証されれば、アジトにかくれていた青年たちは、たんなる政治犯ではなくて、私刑《リンチ》を加えて裏切者を殺した、殺人犯になるわけなのであった。
「お前は、殺された男のお経を読んだんだな。え? そうだろう。殺した男にたのまれて、殺しの現場で、お経を読んでいたんだな」
二人連れの刑事が、警視庁から出張してきて、柳をとりしらべた。一人は、リスのような男、一人は牛のような男であった。
「葬儀屋のおやじさんに頼まれて、ここへ、行ったことは行きましたがね。殺された男だか、どうだか、そんなことわかりませんよ」
「わからんことがあるか、わからんことが」
リスのような小男は、柳の腰をステッキの先で突ついた。
「坊さんは、死人には慣れてるはずじゃないか。病気で死んだか、殺されて死んだか、何もわからずに、お経を読むということはないだろう。ほかの者ならともかく、医者と坊主が、死人の状態については一ばん、よく知ってるはずじゃないか。誰でも死ぬときは、医者と坊主のやっかいになるんだ。しまいまで見とどけるのは、坊主なんだよ。あ、そう思わんのか。それとも、金さえもらえば、相手がどんな死に方をしたか、おかまいなしにお経を読んで、金だけもらって帰っちまうのか。ほかの坊主はそうかも知れんが、柳さんはそうじゃなかったな。お前さんは、良心的な、アカの坊主だからな。そういうことは、お前さんのアカの良心が許さんからな。あ、そうだろう?」
「わからんものは、わからんです。いくらきかれたって」
「ほらほらほら。だんだん、わからせてやるからな」
柳の首すじからステッキが突きとおり、正坐した足首のあたりまで、ひんやりと、とどいた。
「お前さんは、ぼんやりのバカじゃないんだからな。わからないはずはないんだ」
リスのような小男は、できるだけ肩を怒らせて、大きく見せようとしていた。
「赤には赤の匂いが、よくわかるはずだぞ。赤の連中が、わざわざ坊主を呼んで、お経を読ませたんだ。宗教ぎらいの連中が、坊主など呼んで、人目を忍んだアジトなどへ入れるということが、そもそも怪しいんだ。目的がなければ、呼ぶはずがない。カモフラージュが目的だ。そんなことは、子供でもわかってるこった」
ステッキに力がこもって、その先が、よじれた柳の二つの足首の間で、もぐりこむように動いた。
「何のためのカモフラージュだ。言わなくたって、わかってるこった。奴らは一晩じゅう、私刑《リンチ》のあとしまつの相談で、夜をあかしてるんだぞ。お前も、その相談を聴いただろう」
「聴きませんよ」
「聴かんことがあるか!」
牛のような男のステッキが、柳の首すじを殴った。柳は、木の棒で殴られたと言うよりは、タコの足か何かやわらかいものが急スピードで吸いついて、そこが焼けつくように熱くなった気がした。
「この男と、この男と、この男が三人がかりで殺したんだな」
「知りませんよ、そんなこと」
鼻さきにつきつけられた、三人の青年の写真に眺め入りながら、柳はそう答えた。
「この三人に、あのアジトでお前は会ってるな。会ってることは、たしかだな」
「知りませんよ。そんなこと」
「知らんことがあるか!」
二人の刑事は眼くばせしたり、うなずいたりして、柳の手首をしばりあげた。そして、彼の身体を横倒しに、畳の上にころがした。取調べ用の小部屋の外は、厚い板壁と、鉄棒のはまったガラス戸をとおして、通路のコンクリートをふみならす靴音が、たえずきこえていた。特に手ひどい調べ、秘密の調べのほかは、広間に並んだ机や椅子の列のあいだに坐らされ、犯人や警官がひっきりなしに出入りする中で、質問されたり、調書をとられたりするのだった。
坐り机一つきり置かれていない小部屋に三人きりでいると、ころがされた柳には、立ちはだかって自分を見下ろしている二人の男の、感情のうごきが、一つ一つわかるのだった。壁も畳も、人間の垢や脂でよごれ、密室の中は暗い、みじめな空気がただよっていた。男二人が、柳に劣らぬ不愉快な気持で、緊張しているのはあきらかだった。もしかしたら、柳よりもっと、暗い、厭な気持で一ぱいなのかもしれなかった。アジトでの変死者が、たしかに殺されたのだという証拠(それはまだ、つかまれていないにちがいなかった)を握ってこいと、上役からの厳命を受けて、二人は派遣されてきているはずだった。逮捕された政治犯のうち、誰か一人が「裏切者殺害」を自白していれば、何も柳など責める必要はないはずだった。それがないからこそ、きめ手にはならないにしろ、少くとも現場にいたからには、そのクソ坊主から何か一つ手がかりを叩き出してこいと、ぬきさしならぬ命令で、しばられているにちがいなかった。
「ほら、ほら、うそをついていいのか。仏さまは、うそつきがおきらいだぞ。うそをつくと、エンマ様に舌を引きぬかれるんだろ。おれたちも、仏教信者だぞ。うそをつく奴はきらいだぞ」
「うそなんか、ついてやしない」
「こいつ、生意気なことぬかして」
二人の手にした二本のステッキが、かわりばんこに、柳の腰と臀《しり》と脚を殴りつけた。殴られるたびに、柳の身体はちぢかまった。頭をなぐられたら、かなわんぞ。頭をなぐられて、馬鹿になるのは恐しいぞ。痛がりの柳が、あまり苦痛を感じないのは、恐怖でぼんやりしたためかも知れなかった。
「さあ、仏さまの罰があたったぞ。この生臭坊主め。仏罰だ。うけてみろ」
二人のステッキは、柳の腰や脛の骨をよけて、肉の部分ばかり殴っていた。それだけ二人は用心ぶかく、手心を加えているのだった。いくら殴られても、二人の刑事に対する憎しみが、柳にはわきあがらなかった。彼はたしかに、生臭坊主であった。「仏罰」があたっても、なんの不思議もない、インチキ坊主だった。もしかしたらほんとに、これは「仏罰」なのかも知れんぞという想いが、痛みを通り越して、しびれはじめた彼の下半身から、つたわってきた。
「仏罰はブツバチだ。知らんことは知らんぞ」
恐怖心を克服するには、「敵」に向って何でもいいから絶叫すればいいんだという忠告を、学生運動の指導者から、彼はきかされていた。息せききらせて、あまりにも熱心に自分を殴打している平凡な男二人を、彼はどうしても、「敵」とは感じられなかった。なんでもいいから絶叫すると言っても、そう、うまい文句が急に浮ぶはずがなかった。彼はむやみに、自分でも奇妙な、つじつまのあわぬ言葉を聴きぐるしく吐き出すより仕方なかった。
「ブツバチだ。ブツバチだ。仏罰があたったんだ」
と、彼は上半身をよじりながら、叫んだ。
「ぼくばかりじゃないぞ。君たちにもあたってるんだぞ」
ふんづけられた首が、ねじまがっている上に、舌も唇も乾ききっているため、声はまっすぐには出なかった。しかし、読経で訓練された声はかなり大きかった。それは、怒鳴りつける男二人の声より、もっと大きくきこえた。
「ブチバツだ。ブチバツだ。君たちには、ブチバツがあたってるんだ。ひとを殴るような人間には、みんなブツバチがあたってるんだ。仏罰はおそろしいぞ。仏罰は、逃げられんぞ。いくら殴ったって、だめだぞ。もうブツ、ブツ……」
牛のような男は、彼の首をつかまえて、壁の下までひきずって行った。そして今にも頭の鉢が割れそうなほど、柳の頭は壁にぶちあてられた。それから、自分の声も他人の声も、彼の耳にはきこえなくなった。それでも何かしら、言葉にならぬ言葉が、彼の口から、胃の中の臭い不消化物でも吐き出すように、吐き出された。
「ブツ、ブツ、ブツバチがあたってるぞ。痛ええ、痛ええぞう。ブツバチは痛ええぞう。君たちは、今、痛くなくたって、今に、痛くなるぞ。ぼくは、今、アッ、痛えぞう……」
彼は、抵抗するために叫んでいるのではなかった。自分の声で、相手に何か影響をあたえるなどという、ゆとりなどあるわけもなかった。眼をつぶったあと、瞼《まぶた》の下に、金色や赤色や褐色の砂の流れのようなものがのろのろと動いていて、そのほかは何も見えなかった。
彼の叫びを止めようとして、男の掌が彼の口をふさいだ。彼には、その掌に咬《か》みつこうとする意志はなかったが、いつのまにか彼の歯のあいだに、男の肉がはさまっていた。自分以外の何かが、自分とは無関係に、まるで自分を嘲笑《ちようしよう》するかのように、狂暴になり、兇悪になって行くのが、おぼろげに感じられた。また一方では、とても恥ずかしい状態に陥っていて、その状態はますますひどくなり、やがては豚だとかミミズだとか、何かしらそんな厭らしい生物に転化して行きそうな、やりきれない予感が、遠いところから近寄ってきた。また他の一方では、このような醜い状態は、前々から自分の運命に予定されていて、こうなるのがむしろ「正しい」状態なのだといったような想いが、ごくかすかにうかび上って、たちまち消えて行った。
牛のような男の両掌が、彼の首をしめていた。その手は、全く「仏の手」のように絶対的なちからで、彼をしめつけてきた。
反抗するといったわけではなく、彼はただ、手脚をジタバタさせた。もちろん苦しくてたまらないのであるが、生れてはじめて陥った事態なので、気が遠くなりそうな苦痛の中で、底知れぬ底の方へ落下して行くようでもあり、また、とんでもない高みに向って上昇して行くようだと、もうろうとして感じていたのだった。
「快楽《けらく》!」
ただたんなる苦痛のほかの、苦痛より目ざましいもの、或は苦痛よりもっと広く宇宙にひろがっているなにか。そんなものが、一閃《いつせん》する電光のように、感じられたことはたしかであった。それがはたして「快楽《けらく》」と呼べるものなのか、どうなのか、そう理窟《りくつ》ばって考えているひまなどはなかった。
「お手つだいしましょうか。しぶといようですな」
目黒署の、太った刑事部長が、小部屋に入ってきた。彼がもし入って来なかったら、柳はもう少し長いこと、しぼられたのかもしれなかった。
「坊主を殴るのは、いい気持がしないや。法界坊にたたられることもある」
リスのような男は、気まずそうに言って、ハンカチーフで汗をぬぐった。
「なあに、こんな奴、坊主なんかじゃありませんや。うんとしぼってやって下さい。交替しましょうか」
「いいでしょう。ゆっくりやりますから」
牛のような男も、握りしめていたステッキを、穢い品物でも投げ出すようにして、不機嫌に壁のすみにほうり出した。本庁の刑事たちの仲間入りできない部長は、口惜《くや》しそうにふくれつらをしていた。
留置場にもどると、看守は妙にいたわるように、柳をとりあつかった。
柳は、肉の脂っ気も弾力性もすっかり失った、枯木のように乾いた身体をこわばらせて、監房へもどった。早めの夕食の木箱が、彼の坐る場所に置かれてあった。密室での取調べの有様は、もうすっかり房内に知れわたっているらしく、みんなは興味ありげに、彼を見つめていた。木の椀に埃をうかべている湯をとりあげると、彼の手は見ぐるしくふるえた。短いように思われた取調べの時間は、かなり長かったらしく、夕方から夜へかけてのくつろぎのようなものが、房内をしずかにしていた。
「なめられないためには、最初がかんじんなんだ」
顔も手足も角ばった強盗が、先輩らしく言った。
「おれはここでも、いきなり灰皿をぶつけてやった」
強盗は、強姦の罪も重ねているので、十年ちかい刑を喰うことに決まっていた。そのため、スリやかっぱらい、不良少年や詐欺師は、みんなこの凄《すご》みのある強盗をおそれていた。
彼といくらか対等に、体験を語れるのは、三十数名の女性を海外へ売りとばした、誘拐《ゆうかい》犯人だけであった。
「音《ね》をあげる奴は、男じゃない。怒鳴るのはいい。兄《にい》ちゃん、音をあげないで怒鳴ったそうだな。そうしなくちゃいけない」
強盗が柳にそう言うと、みんなは感心したように柳を眺めた。しかし柳は、強盗の陽気なことばとは、遠いところで、自分ひとりの想いに沈んでいた。疲れきっている彼は、何もしゃべりたくなかった。空腹がひどいので、ふるえの止まらぬ手で、しきりに飯をほおばるばかりだった。それに、ニシンの煮つけが、すばらしくおいしかった。大根の漬けものの、小さな薄い二つのかけらも、のみ下すのが惜しいほどおいしかった。煮つけの甘さ、漬けものの酸っぱさを、口の中で、丁寧に咬みわけながら食べつづけた。第一回の取調べの終ったということが、それだけで、試験の終了した当日のように、柳を安心させていた。濃くなって行く不安は不安として、やはり「あとは眠ればいい、今日一日はおわった」という安心が、気持よく全身にひろがって行く。
「男は、やる者。女は、やられる者。そう昔ッからきまってるんだ。やる者は、やられる者じゃない。やる以上は、男らしくやらなくちゃいけない。なア、そうだろう、おやじ」
強盗は誘拐魔に、そう話しかけた。強盗は女の話になっても、蒼白《あおじろ》く殺気だっていた。それにひきかえ、強盗よりかっぷくの良い誘拐魔の方は、いつでも赤ら顔をニヤニヤさせていた。
「男らしいか、どうか、知らねえけど、女をやるほどいいこたないからな」
誘拐魔は、親分らしく答えていた。
「お前さん、売りとばす前にやるのかい」
「ああ、そりゃアやるな」
「キャアキャア泣くだろう」
「ああ、それがおもしれえんだ」
「畜生! 三十人か。うまいことやりゃがったな」
「|ただ《ヽヽ》だからな」
「|ただ《ヽヽ》はお互さまだけどよ」
強盗は、ユーモアとは無関係な、きびしい思いつめた表情をしていた。
「楽々とやるか、苦労してやるか。お前さんのは俺にくらべて、よっぽど楽らしいな」
「そうだとも。だから、やるんだアな」
「畜生め」
柳はまだ、自分が特高犯であるからには、強盗、強姦、誘拐の犯人たちより、自分の方が堕落していないと考えていた。強盗はともかくとして、女を強姦したり売りとばしたりするのは、非常によくないと考えていた。それ故、二人の会話に同調するようなそぶりは、見せたくなかった。
「男は、やる者。女は、やられる者。そうだとしたって、そう簡単なわけにゃいかねえからな」
強盗のそのつぶやきには、柳も賛成だった。男女間の問題を、|かんたん《ヽヽヽヽ》だなどと考えることは、禁欲をモットーとする僧侶として、許されることではない。
「モトは結局、やる者とやられる者が、この世の中にいるというだけの話じゃねえか。そうだろう。天皇陛下だって男だわな。皇后陛下だって女だわな。な、それだけは、まちがいねえんだ。そのあとが、むずかしいんだ」
「おい、おい、おれは不敬罪はいやだぜ」と、誘拐魔は、からかうように言った。
「おれだって、いやだよ。あんなバカバカしいものは、ありゃしない。なんか楽しんでから刑にされるなら、まだしもよ。なんにも楽しまねえで、ただ罰だけくらうなんて、バカバカしいったらありゃしない」
「不敬罪じゃなくたって、バカバカしいさ。誰もお前、宮中へ忍びこんで何かやろうなんて考えてる奴は、ありゃしねえ。たいしておもしろいことでもねえしな」
「そりゃそうだよ、なア。俺だって、天皇陛下や皇后陛下をどうするなんてことは、考えたこともないぜ。不敬罪ってのは、雲をつかむようだから、うっかりできねえんだ」
「伯爵夫人なんてのは、どうだい。やったこと、あるかい」
「よさそうだな。ないよ」
柳は、頭がくらくらして、目先に星がちらつくほど厭な気持になってきた。華族の家から嫁入りした、あのなまめかしい宝屋の若夫人の姿態が、想い出されてきたからだった。彼は第一、「やる」とか「やられる」とかいう日本語で、女性について話すのが好きでなかった。そういう表現で話しあうのが、穢《きたな》らしいことに思われた。人間はみんな穢らしいもの、というように徹底して考えることは、彼にはできなかった。またたとえ、穢らしいものであるにせよ、穢らしいものについて穢らしく語ることは、不必要なことだと思われた。もちろん彼には、そういう話し方をする強盗や誘拐魔を軽蔑《けいべつ》することなど、できはしなかった。彼らの会話の内容におどろいて、人間の生き方の豊富さを、あらためて大げさに考えたがる方だった。
それにしても「やる」「やられる」(それにちがいはないのだが)と、わざわざ自分の口から言うことは、うまくできなかった。そして、宝屋の姉妹のことが、荒れさわぐ記憶の海から、急にうかびあがってきたのは、その二つの言葉の釣針に釣られてであるとすれば、彼も男臭い二人の犯人と、同じ水に漬っているわけだった。
「何がおもしろいと言って、亭主を縛っておいて、その前で、女房をやるくらいおもしろいことはないんだ」
強盗は、角ばった両肩をすぼめながら、前にかたむけて、低い声でしゃべった。(会話は規則として、禁じられていた)
「ふううん……」
前かがみになっていた二、三人が、溜息《ためいき》をついた。
「亭主を縛るって、おじさん、何か刃物でおどかして縛るの」
不良少年は、参考になることを聴きとっておきたいらしかった。
「刃物でもいいだろう。だけど俺は、棒でひっぱたくことにしてるんだ」
「タタキ(強盗のこと)だからな」
「…………」
強盗は、軽口で話に口出しする奴を、きつい眼つきでにらんだ。
「……いきなり思いっきり、ひっぱたいちまうんだ。物が言えないくらい、殴りつけちまえば、あとは簡単だ。刃物は、罪が重くなる。死ぬような怪我をさせる。力のある者だったら、棒で殴るのがいいんだ。縛りあげちまえば、死んだみたいにおとなしくなる。それでも何か言うようだったら、口でも鼻でも、もっと殴ってやるんだ」
「女の方は、どうするんだ。女の方が騒ぐだろう」
「騒ぐもんかよ」
強盗は、考えこんだように、暗い眼つきになった。
「さわいだら、女の方も二つ三つ棒で殴ってやるさ。首をしめても、いい。そんな必要はないんだ。ガタガタふるえてるだけだ」
「いやがるだろう」
「殺すぞという顔つきをしてやれば、口がきけなくなって、ふるえてるだけだ。ふるえてるところを、やってやるんだ」
「いやがることは、いやがるだろうな。いや、いや、よして、おやめになって」
詐欺の犯人は、白い首をのばしながら言った。
「いやよ、いやよ」
「たすけてエ。いや、いや、そんなこと」
「いやッたら。いや、いや。いやだってば」
「よしてよ、アッ、アッ、いやよ、いやよ、ウッウーンか」
「いやあーん。いやあーん。ううん、いやあーん」
みんなは口々に、さわぎはじめた。なまあたたかいゴムの布のように、それらの騒ぎが柳を包んでくる。「いや」という女の叫びの、どうしようもない肉感的ななまめかしさが、彼をつかまえてしまう。「強姦には反対だ」と、言いださなければならないはずの、彼の口が、そのゴム布でおおわれ、口そのものまでが、ゴム状になってしまったような気持がする。腰と脚の痛みが、ひどくなってくる。その痛みと入りまじって、うまく調合された薬品の効き目となって、いやがる女の「いや」がしみわたってくる。その瞬間の強盗が、真に性の喜びに浸っていたとは、彼にはとても考えられない。だが、強盗者兼強姦者の、その瞬間の「感覚」が彼を圧迫してくる。と言うよりはむしろ、夫の眼前で犯されつつある妻の、その瞬間の存在の仕方のようなものが、宇宙のいかなる難問題にもまして、むずかしい、そのくせ、わけなく肉的に感じとられる難問題として、重たくのしかかってきた。
「ふるえてるさ。ふるえてるだけさ」
「そんな時でも、女は、よがるかな」
そう質問されると、強盗は眉根をしかめ、口をへしまげた。
「そうさな。シャツの上から背なかに爪をあてられたことがある」
「厭《いや》がってか。それとも、よがってか」
「…………」
「よがってだよな。きまってるものな」
重くるしい顔つきになって沈黙した強盗に代って、一人が、こびるように言った。
「女はあんまりよがると、爪でひっかくんだよな。おれも、そんな目に遭ったことがある」
「だけど、ほんとにおもしろいかな。顔も知らない女を、まっくらやみで」
「まっくらやみとは、かぎらないだろ。電気をつけて置けば」
「好きなことが、やりたいほうだい、やれるんだからな」
「そう度胸をきめれば、おかまいなしさな。なんでも自由にやれるわけだ」
「金はらって女郎を抱くこたあ、いりゃしない」
「あとくされも、ないしな」
みんなは興奮して、しゃべりあった。そのあいだ強盗は、みんなを軽蔑するようにして黙っていた。仏教信者の朝鮮人は、騒ぎには加わらなかった。彼は他人から話しかけられないかぎり、口をきかないのだった。電線どろぼうの疑いでつかまった、その朝鮮人は、白い塗料のはげた木彫りの仏像のように、ひっそりと坐っていた。彼のように、房内の雑談に無関心でいることは、柳にはできなかった。
「どうだい、お寺の坊ちゃん。こういう話は興味ないかい」
詐欺の男は、沈黙している柳に声をかけた。
「坊主のアレは、いいそうだな。やわらかくて強いそうだな」
「さあ、知らないな、そんなこと」
「知らないって、自分で持ってるじゃないか」
誘拐犯は、女の話をしたがらない柳を、くすぐるように言った。
「持ってるからには、使ってるんだろ。使ってみて、どうなんだい」
「どうということもないさ」
「どうということはない? そんなことないだろう」
「別に、どうということはない」
「そうか。それじゃまだ、お前さんは充分に使っていないんだよ」
誘拐犯の言葉に合せて、みんなは笑いどよめいた。看守が、警棒で金網を叩きにくると、みんなは起ち上って、積んである古毛布を敷きにかかった。
「首領」との連絡は、なかなかつかなかった。
便所へ行くときに必ず通る、保護室の前に立ちどまって、柳はいつも中の様子をうかがった。「キャップ」はたいがい、寝たきりになっていたが、時には起き上っていることもあった。特高の犯人と犯人とは、話をさせないように、看守がきびしく見張っていた。殴られることを覚悟すれば、短い会話のできないことはなかった。だが、もし柳が、何か特に「キャップ」に連絡したがっていることが知れれば、それが「キャップ」の迷惑になるかも知れないのである。それに向うは、柳などから「連絡」をうけることなど、予想していないにちがいなかった。
相手は、起き上っているときでも、こちらに背を向けたり、横顔を見せたりしていて、他の監房の者の通行を見つめていることが、ほとんどない。紅顔の美少年とは言えないにしろ、目鼻だちの大まかな、がっしりした肩つきの「キャップ」は、たしかに戦場でひけをとることのない、若武者ぶりを示していた。垢《あか》にまみれ、病人のように蒼ざめていても、石のように動揺しないたくましさが、チラリと眺めやるだけで見てとれる。
彼が通路の方を見ている瞬間をえらんで、柳は大きく「A」の字を、宙に描いて見せた。また、できるだけ声をひそめて、「Aをどうする。Aをやるのか、やらないのか」と、口早に話しかけたこともある。
柳からの、看守の眼と耳を用心した通信には、何の返事もなかった。柳からの「暗号」の意味が、相手に通じないはずはなかった。革命党の未来について、全責任を負っている男が、その秘密団体がこれからやろうとしている(或は中止しようとしている)計画について、忘れているはずはなかった。もしも「首領」が、A計画を断行するか、それとも阻止するかの決定を、一刻も早く外部に伝えなければ、彼らの非合法政党は、壊滅に向ってとめどもなく崩れて行くか、それとも再建に向って足ぶみしながら一歩前進するか、その重大な分れ路で盲目になり、あてのない闇の底へ落ちこんで行くのではないか。
ちかよせた柳の顔、ささやきかける柳の声に対して、若き「首領」は何の反応も示さなかった。もしかしたら、頭部を痛打されて、馬鹿になったのではなかろうかと、柳は思ったりした。それとも、穴山と越後が柳に打ち明けた「A作戦」なるものは、実在しない妄想《もうそう》にすぎなかったのではなかろうかと、疑ったりした。
苦痛があるために、快楽がある。快楽があればこそ、苦痛がある。そう教えさとすように、多くの罪ふかい男たちが入ってきては、出て行った。その男たちがたずさえてきて、残して行く、実社会の土埃は、流通のわるい留置場の空気をにごらせ、苦痛と快楽の微塵《みじん》となって、かがやいたり、鳴りわたったりして、柳の肌の周辺に漂うのだった。その息ぐるしい微塵を呼吸していると、柳は「坊主の自分だって、とにかく生きてはいるんだ」という、生き生きした満足を味わうのだった。
長いこと煮つめた上質の砂糖で、固められた、甘みの濃すぎる|羊かん《ヽヽヽ》か、魚のはらわたの紫色に溶けた、塩辛のよどみのようにして、時間はジリジリと延びつづいた。
一週間、たった。
「面会だよ、柳、出ろ」
シベリア帰りの看守が、房の扉の錠をはずした。
「署長室で面会だ」
看守がそう言うと、詐欺の男は「へえエ。それじゃ署長面会か。最高のあつかいだぞ」と、うらやましそうにつぶやいた。
外の日常生活が、いかににぎやかで、明るいものか、二週間ぶりで警察署の二階へ連れ出された柳は、まばゆいほどに感じた。
署長室と言っても、家具がいくらか贅沢《ぜいたく》なだけで、ほかの古びた事務室とかわりなかった。
司法主任に連れられてきた柳に向って、やり手の署長は、人のわるそうな笑い顔をした。
うしろむきに坐っていた、洋装の女が柳の方へ振りむいた。それは、宝屋の若夫人だった。
女の顔というものが、そんなにうす桃色に、はなやかに、そんなに吸いつけるように可愛らしく見えたことはなかった。そして、灰色のスーツにつつまれた、女の肉体が、そんなにも絶対的な美しさ(というより主張)をむき出しにして、眺められたことは、かつてなかった。
「宝屋の奥さんだ。おどろいたろう」
署長の言葉にはかかわりなしに、若夫人と柳は、しばらくのあいだ息をつめたまま、見つめあっていた。柳はすぐに眼を伏せて、彼女の横の椅子に廻って行ったから、見つめあったのはほんの一瞬のことだったかも知れない。しかし柳は、その一瞬だけで、留置場内で彼がせっかく身につけた、いろいろな想念が、一ぺんに洗い流されてしまうのを感じた。
署長室では、署内のざわめきも、街路のどよめきも、よくきこえた。柳と夫人の対面を、おもしろがっている署長の表情も、外界のざわめきとどよめきで活気づいた「社会人」の、それであった。
「品川の署長から、個人的にたのまれたから、特に面会を許したんだぞ。宝屋さんは、交番を寄附したり、消防団を援助したりして、品川では評判のいいおうちだ。まちがいのない方だから、信用して会わせるんだ」
「……しかし、どうして」
青ガラスの花瓶《かびん》には、秋の草花がいけられてあった。毎日とりかえるらしい生花の、葉にも花弁にも、水玉がわざとらしく光っていた。
「目黒のお寺におうかがいして、お母さまにたのまれてきました」
それは、表面上の口実にすぎない、と柳は思った。彼女はきっと、来たくてたまらなくなって来たんだ。そう思うことで、垢づいてつやのわるくなった皮膚が、もえ上りそうになる。
「よう来て下さった」
と、署長は口ぞえした。
「若いうちは、何かというと殺気だつばかりですからな。我々の言うことは、ききゃせんです。女の方《かた》から、やさしく言いきかせていただくのが一ばんです」
「別に、そんなつもりで参ったわけじゃありませんの。ただお母さまが、会ってきてくれと、おっしゃるもんですから」
彼女は、署長も警察も眼中にないような、冷静さで、おちつきはらっていた。
「柳の母親は、どうして面会に来ないんですかなあ。ふつうは母親が、誰より先にやってくるはずなんだが」
「それはいろいろ、おうちによって家風というものがおありでしょうから」
「そうですか。この前のときも、一回も署へ顔出ししていないという話だから、ずいぶん無関心な母親だなと思ったんですが。では、席をはずしますから、何か話してやって下さい」
署長の黒い制服が見えなくなると、柳はかえって気づまりになった。檀家《だんか》の前でとりすましている法衣の自分と、指紋をとられ、写真をとられ、番号までつけられた、この場の自分とのちがい。そのちがいのひどさが、自分の姿勢を二つに割ってしまって、一つの身体にまとめようがなくなっているのだった。
これは、具合がわるい。何とも具合がわるいと思いながら、一方では、タイトスカートに包まれた彼女の腰や足の方へ目が行きそうになるので、なおのこと困るのであった。
「ああ、そう、そう。剃刀《かみそり》を持ってくれば良かったのね。今度くるときは、持ってくるわ」
「いいですよ、そんな……」
「下着は持ってきたの。お宅のお母さまのそろえて下さったものと、わたくしの買ったものと、両方もってきたわ」
「そんなにたくさん持ってきて下さっても……」
「いいのよ。わたくし、こういうこと好きなんだから」
「しかし、どうして」
「穴山さんが電話してくれたのよ。あのひと、よく気のつく方《かた》ですからね」
「……しかし、どうも」
「こういう所は、万事顔をきかせなきゃ、ダメなのよ。顔さえきけばどうにでもなるのよ」
「特高は、そうはいかんですよ」
「特高関係だったら、立派なもんじゃないの。政治犯でしょ」
「いや、それが……」
自分の具合のわるさが、少しも相手に通じていないらしいので、柳はますます困るばかりだった。
「女は好きなひとのために尽すのが、好きなのよ」
「そんなこと言ったって……」
「久美子も心配してるのよ。食欲もなくなって、ぼんやりしてしまって、見ていられないわ」
「しかし、それは……。ぼくは、ただ」
彼女たち姉妹とは、自分はなんら特別に深い関係はないはずだと、言ってしまいたいのだが、それを言うことが、柳にはできなかった。つまり彼としては、この美しい姉妹と深い関係をもちたいという気持を、断ち切るわけにいかなかったのである。しかも柳の、女たちに対する気持には、英語で「アグリイ」(みにくい)という要素が、あんまり多すぎるので、「愛」とか「恋」とかいう言葉をベールか|かぶと《ヽヽヽ》のようにかぶって、勇みたつわけにもいかないのだった。
「こんな女が出てくるから、いけないんだ」と、相手に責任を転嫁して、どなりつけたくもなる。「彼女が来てくれなければ、ぼくの人生は灰色にちぢかまって、花ひらくこともありそうにないんだから」と、歓迎したくもなるのだった。
そして、何よりやりきれないのは、どうあっても仏教徒が排斥しなければならぬはずの「お化粧」というものが、とても魅力的で、抵抗しがたいものであることであった。
フランス式であるか、アメリカ式であるか、とにかく海外旅行の経験のある夫人の「お化粧」が、彼女をナマの人間、むき出しの人間、キのままの人間より、ずっと美麗に見せていることはまちがいなかった。
どんな微細な埃でも、すべり落ちるほど、肌をなめらかにするため、すりこみ、しみこませた乳液なのか。それとも、皮膚の複雑な凹凸をぼやかすために、ほんのりと刷《は》いた粉白粉《こなおしろい》なのか、その方の研究を積んでいない柳に、わかるはずもなかった。
「入ります」
ひげをはやした巡査が、勢いよくドアをあけた。署長に報告でもあって来たらしい彼は、めずらしい美女の来客に、びっくりして、目礼した。しかし、柳の存在に気づくと、ひどくいまいましそうに、にらみつけてからドアをしめた。
「わたくしが来たりすると、きまりがわるいんじゃないの。そうなんでしょう」
「ええ、まあ……」
「だけど、わたくしが来ること、厭ではないんでしょう」
「ええ、もちろん、それは……」
夫人の白い指は、紫ちりめんのふろしきを、ふざけるような動きで、折りたたんでいた。
「厭がられたりしたら、つらいわよ」
「いやがりません」
「いやがりはしないけど、警戒はなさってるのね」
「……ええ、そうです」
夫人は、柳のとなりの椅子に、腰をうつした。|腰をうつした《ヽヽヽヽヽヽ》と言うより仕方ないほど、彼女の下半身は、すばやく巧みに、移動したのである。長い二本の脚が、ほとんどくっつきあったままで、場所をかえることは、なかば折りまげられたままであるだけに、柳をひきつけた。彼女の脚のつけ根が、会話のあいだにこすりあい、彼女のくるぶしがハイヒールの上でよじれるのを、彼はたえず感じつづけていた。
「食物の方は、どうですの」
「腹はへりますが、飯はまずくはありませんよ」
「警察に入れている、お弁当やさんがあるという話をきいたから、わたくしさっき、頼んでおいたわ。特別弁当なら、少しはいいそうよ。差入れは、許されてるんでしょ」
「いや、それは止《や》めにして下さい」
「え? いけなかったかしら」
「ええ、自分だけ、上等弁当を食べるわけにはいきませんよ」
「ああ、そうなの」
「第一、飯はちっとも悪くないんですから。親分みたいな男は、上等弁当を食べてるけど、まわりは唾液《つば》をのみこんで見てるんだから。ぼくは、いやですよ」
「ああ、それじゃ、あなたのおっしゃるとおりにするわ。柳さんは、お固いおひとなんですものね」
女の手がのびてきて、彼の手の上にかぶさる。
「ぼくはちっとも、お固くなんかありませんよ。なんでもかんでも、ぼくのことわかったように言うの、いやですよ」
「わからないとこもあるわ。だけど、大体はわかってるつもりよ」
女の手がなでるのにまかせて、手をひっこめない方が、臆病でないことになるのかどうか、柳にはわからなかった。ただし、二人が手を重ねあっているところを、警察の人に見られたりするのは、たえがたかった。
「あなたが、わたくしのこと、どう思ってるかだって、わかってることよ。彼女は、有閑婦人で、プロレタリアの敵で、夫を裏切っている奸婦《かんぷ》で、おれのことなんかてんで理解できない女だ。彼女とつきあっていたら、とてもまともなお坊さんにはなれっこない。だから、おれは彼女を避けたいんだ。だが、しかし……」
彼女の眼から、やわらかみのある、平凡な光の波が消えうせていた。二つの眼の洞窟から、波一つない深海の底の、くらく動かないものが、あたりかまわず柳に向って、放射されているようだった。
「……だが、しかし、彼女に会わないでいることも、おれは欲しない。そうなんでしょ」
「そんな、小説みたいなこと」
「小説みたいであることが、何がはずかしいの。小説みたいであることだけが、美しいのよ」
「ちがいます」
「いいえ、ちがいません」
彼女は、声をたかめることもしないで、言った。
「わたくしは、みずみずしいものが好きなのよ。みずみずしいものだけが、好きなのよ。そのほかに、何があって」
「……いつまでも、みずみずしいものなんか、ありませんよ。みずみずしいということは、どんな物でもすぐ消えてしまうんだ」
「そうよ。諸行無常ですものね。だけど、だからこそ、みずみずしいものが美しいのよ」
「第一、ぼくは……」
「みずみずしいのよ、あなたは、わたくしにとって」
「みずみずしい坊主なんか、あるわけがない」
「あなたが御自分をどう考えていようと、そんなこと少しもかまわないの、わたくしは。どうとでも、好きなように考えていらっしゃい」
彼女の甘い言葉につられて、自分が「いい子」になりたがって行くのを、柳はとどめることができなかった。
「汚れものを、いただいて帰るわ。それ、脱ぎなさいよ」
夫人は、持参した下着を手にとって、立ち上った。
「向うへもどってから、着かえますよ」
「それじゃ、汚れものを持って帰られないから。ね。ここで、着がえた方がいいわよ」
帯がわりの紐《ひも》は、手ぬぐいを裂いてこしらえたものだった。首つりをふせぐため、切れやすい紐のほか、許されていない。その細い紐をほどいたりすれば、切れたり、つないだりしなければならないので、柳は、ほどかないままで、まず上半身をはだかにした。
彼は夫人に正面を見せないため、横向きになってはじめたのに、彼女はそちらへ廻ってきて、脱いだものをうけとり、着がえるものを手わたした。彼女があまりにも、ちかぢかと立っているので、彼の動作は不自由になり、細紐は切れてしまった。ズボン下とパンツを脱ぎすてるとき、彼の下半身が、彼女の眼の前に、すっかりむきだしになったのは、そのためであった。
彼の脚と|しり《ヽヽ》は、あざだらけになっていた。まだらな紫色が、ところどころ黒ずんでいて、ドロップの赤色のように、あざやかな血をにじみ出しているところもあった。入れずみをしたように、打ちきずのあとは、区切りもあきらかに青みがかっている上に、どんな入れずみにも見られないような、絶妙の色どりをなしているのだった。その複雑な紫色は、肉の固さとやわらかさを、ふつうの肉色よりも、もっとうまく表現しているのであった。フランスの有名な詩人は、地中海の港に沈んでいる、魚類の臓物《はらわた》の色どりを眺めながら、少年の夢をそだてたと言うけれども、柳は、はじめて自分の肉の色の急激な変化に気づいたとき、なんだか自分が偉くなったような気がしたのであった。
もちろん彼は、その紫色の入れずみに、夫人がキッスするなどとは、予想もしていなかった。だが、彼女の唇と舌が彼の傷あとを吸ったり、なめたりして、彼女の歯がかるく咬んだりしたとき、それほど驚かないですんだのは、自分でも、その刑罰の紫色に、かなり魅惑されていたからだった。
「女は、好きとなったら、なんでもする」と、詐欺の犯人は、なかば得意そうに、なかば考えこむようにして、柳に言ってきかせた。
「淋病になったとき、芸者が、口をあてて吸ってくれたことがあるんだ」
その言葉を思い出しても、柳はすぐさま、その芸者と、この夫人を、おんなじ女性として感じとったわけではなかった。そんなことをされながらでも、彼は宝屋夫人を、きたないことを平気でする女性とは、考えていなかったのだ。「すさまじいな。ものすごいな」とは考えても、やはりそうされることがうれしいので、そうされていたかった。彼があわてて前を合せて、うしろへさがったのは、署長の部屋で、そんな濡れ場を演ずるのは、いくらなんでも「いい気」になりすぎて、みっともないと思ったからにすぎなかった。
「ここを、どこだと思ってるんですか」
柳はわざと、眉根をしかめ、気むずかしそうに言った。
肉を吸ったあとの夫人の唇は、一そうなまめかしく息づいていた。両眼はかがやいて、鼻の孔もふくらむほど興奮しているらしいのに、彼女の顔はこわばっていた。
「阿難尊者のつもりなのね。そうなのね」
と、彼女は苦しげに言った。
「ばかばかしい、そんなこと」
「あなたが阿難で、わたくしが魔女だと、そう思ってるのね」
「そんなこと。いいかげんにして下さい。そんなのとは、ちがいますよ。いくらぼくが馬鹿でも、そんなにうぬぼれていやしない」
「いいわ、阿難にしてあげるから」
署長と司法主任が部屋に入ってきて、もつれあった会話はおわった。二人の中年男は、胸のわるくなるほど臭い、汚れものを包んでいる夫人の手つきを、皮肉そうにながめていた。
「久美子は、外で待ってるのよ。あんまり私たちに、心配をかけないようにしてね」
「そうだ、そうだ。あんまり宝屋さんに、心配かけない方がいい」
とりすました夫人の意中も知らずに、署長は厚みのある掌で、柳の肩をなでた。
夫人の香水や白粉の匂い、新鮮な外界の空気にふれたあとでは、房の中のよどんだ匂いが、彼には強く感じられた。生きている人間の、いやらしい匂い。死ぬにきまっている人間の匂い。屍《しかばね》を予想させる匂いなどが、壁にもたれて坐った彼のまわりに、うずまきながら、いそがしく往き来する。
「阿難だって、フン」
阿難尊者は、おシャカ様の弟子のなかでも、有名な美男子だった。インドの説話によれば、魔術つかいの女は、自分の娘が恋いこがれる、この美しい僧を、魔法でしばりつけ、自由にしようとしたのであった。
「阿難は魔女に、まどわされはしなかった。彼は、師の力にすがり、師の教えにそむかず、清浄潔白な弟子として、一生をおわった。阿難は、いやらしい匂いなど、あとには残さなかった。いや、待てよ。彼もおんなじ生身《なまみ》の人間だったのだから、肉の匂いはただよわせたはずだな。匂いのない生物なんか、あるはずはないんだから」
柳は、まあたらしい下着のすきまから立ちのぼる、自分にこびりついた体臭に酔うようにして、考えはじめる。
「彼は、鉱物のようにゴロンところがって存在していたわけではないんだ。食べたり、飲んだり、歩いたり、寝たりして暮していたんだ。女に好かれる、インド青年として、生きていたんだ。そして、死ぬときには苦しみ、死んだあとでは屍臭《ししゆう》を発散させながら、腐っていったんだ。とすれば……」
柳は、屍の匂いには慣れていた。赤ん坊の屍、お婆さんの屍、貧乏人の屍、金持の屍の匂いをかぎながら、お経をよんだ夜は多かった。花環の匂い、線香の匂い、香水の匂いと入りまじった、不思議な匂いは、生きていることのはかなさ、生きていることの有難さとなって、たびたび彼を包んでくれた。
「いやらしい匂い。人間であるからには、つきまとう匂いを、阿難だって身につけていたんだ。いや、あの偉大なる、おシャカ様だって、そうだったのではないか。ブッダが鳥、獣、虫類にまでとりまかれ、弟子たちの号泣の中で死んでいったとき、それは、すばらしい世界的な大往生をとげたのであったから、たんなる『死亡』ではなくて『ネハンに入られた』と言われる。だが、それはそのとおりだとしても、そのとき漂った匂いは、屍の匂いではなかったのだろうか。それが『ネハンの匂い、ニルバーナの香り』だとしても、やはり一種の悪臭がなかったと、言いきれはしない。とすれば、ブッダもまた、自分が生きているあいだに、人間の体臭のいやらしさを、胸いっぱい吸いこんでいられたのだ。そうでなければ、あの徹底した『さとり』に、ふみきれるはずがないではないか。肉体は『仮りのすがた』にすぎない。こわれやすく、くずれやすく、なんの価値もない形骸にすぎない。それに執着するのは、あまりにもおろかしい。そう、ブッダは説かれたのだ。みずみずしいだって? みずみずしい、肉体だって? それはつまり、変化しやすい肉体、むやみに変化してしまって、どうにもならない肉体ということではないか。肉体とは、生きているあいだもイヤな匂いを発散し、死んでからは、なおのこと吐気をもよおすような匂いをただよわす、なんともかんとも形容しがたい、奇妙なものなのだ」
せいぜい哲学的な気分におちいって、うれしくなっているのだ、「いい子」になろうとしているのだとは、感じていても、柳は、まじめくさって、そのように考えつづけていた。
「シキソクゼクウ(色即是空)。クウソクゼシキ(空即是色)。あの『色《しき》』という奴が、色欲ばかりを指すんではないことぐらい、ぼくだって知ってるさ。色とは、眼に見えるもののすべて、つまり『物質』のことなんだ。物質は、空《むな》しいんだ。なぜならば、物質は変化して、きわまるところを知らないからだ。その物質のうちで、いちばん手ぢかにあるのは、ほかならぬ肉体なんだ。だから、シキソクゼクウとは、深遠な哲理であるより先に、まず、のがれられない感覚的な真実なんだ。だが、待てよ。次につづいている『クウソクゼシキ』の方は、どうなんだい。空《くう》ハスナワチコレ色《しき》ナリ。クウクウと言って、クウがっていても、その黒々とした絶対の真実も、色あざやかなる物質界をはなれては、存在しえないということなんだ。そうだろう。そうなるだろう。うまく、二つの語句が、くっつくだろう。だが、それにしても、後の方の『空即是色』の方は、むずかしいなア。いろいろと、わかりにくいなア。せっかく、色ハ空ナリ、とわからせてくれたのに、またまた空ハ色ナリ、と逆もどりするみたいだからなア」
朝鮮人の人夫は、柳のかたわらで、ナムアミタプ、ナムアミタプとつぶやいている。それが蠅のうなりのように、うるさくきこえた。その朝鮮人の念仏に感心して、仏教について彼と語りあう気が、柳にはまるで起らなかった。
「……うるさいな。ともかくだ、このイヤな匂いを生み出す根源であるところウの、その肉体なるものが、かりそめにも美しいなどということは、許すべからざる誤りであり、迷いであらねばならないのだ。と、おシャカ様がおっしゃったのではなくて、この日本青年、ヤナギ私が、そう感じていなければならないんだ。色即是空のつぎに、空即是色がつづいているからと言って、それで安心してはならんのだ。一度安心してしまえば、あとは際限なく堕落してしまうからな。色即是空、シキソクゼクウと、たえず感得していれば、あらゆる苦痛にたええられるはずだ。苦痛が肉体の苦痛であるからには、そんなものは要するに『仮りの苦しみ』にすぎんからだ。もし明日あたり、あの牛のような男と、リスのような男がやってきて、拷問するようだったら、シキソクゼクウ戦術で対抗してやればいいんだ。痛がらせようとする二人の特高刑事の肉体が、消滅しやすき『いつわりの存在』にすぎないのと同様に、痛がるヤナギの肉体も、ただほんの一寸《ちよつと》のあいだ存在する醜骸にすぎないのであるからして、その痛みは、仮りのまぼろしであって、何らおそるるにはあたらんのだ。うまく、そういってくれればいいが。
いや、いや、汝《なんじ》ヤナギが色即是空にとりすがろうとするのは、そんな理由からではなかったはずだ。タカラヤ夫人、その妹のクミコ。この二人の女性の肉体とセックス結合したがっている自分。結合の成功うたがいなしとあてこんでいる自分を、とっちめるためではなかったのか。そうだ。そうである。まさに、その故にこそ、アンチテーゼ『空即是色』の誘惑がおそろしいのだ。彼女のなまめかしい化粧が、おそろしいのではない。化粧なんか、雨風にさらされ、冷たい汗と熱い汗にあえば、洗い去られてしまうじゃないか。やっぱり、彼女そのものの顔、彼女そのものの脚が、どう考えたって、いつわりの美しさをそなえていることが問題なんだ。たとえ、いつわりの幻にすぎないとしても、その幻が美しいということは、一体どうしたわけなんだろうか……」
「アノ、オタズネシマスデスガ」
と、朝鮮人の土方が、ききとりにくい声で話しかけた。
「ナムアミタプツハ、西洋ノ神サマト、チガッテイルノテショウカ」
「え?」
「アノ、ワタクシノ信ジテイマス、ナムアミタプツノ……」
「あのね。南無阿弥陀仏は、タプツじゃないんですよ。ダブツなんだ」
「アア、ソウデス、ソウデス。ナムアミタフツハ……」
「タフツじゃないんだ。ダブツなんですよ」
「アア、ソウデス、ソウデス。ナムアミタプツハ……」
「それが、どうしたと言うんですか」
「ナムアミタプツハ、誰デモ救ッテクレマスネエ」
「…………」
「善人デモ、悪人デモ、ナムアミタプツハ救ッテクレマスネエ」
「……ええ、そうですよ」
「ナムアミタプト、一ペン言イサエスレバ、ゴクラクヘ行ケルンデスネエ」
「……ええ、そうなってるはずですが」
「ナムアミタプト、言ウノハ、ヤサシイデスネエ。誰デモ、デキマスネエ。ダカラ、誰デモ極楽ヘ行ケマスヨ。ソウデショウネエ」
「……ええ」
「ミンナ、ゴクラクヘ行ケルトキマッテルンデショウ。ナムアミタプト、言イサエスレバネエ。アノ世ヘ行ケバ、コノ世デドンナニヒドイ目ニアッテモ、ゴクラクヘ行ケマスネエ。ソウダトスレバデスネエ、ドウシテ、地獄ガナクチャ、イケナインデスカ。地獄ハ、ナクテモ、イイジャナイデスカ」
「ええ、みんなが救われるとすれば、それは、地獄の必要はないわけですね」
「アノ世へ行ッテモ、マダ地獄ガアッタラ、ヒドスギルジャ、ナイデスカ」
「そうだなア。ひどすぎるかも知れないな」
「ヒドスギマスヨ。アンマリ、ヒドスギマスヨ」
朝鮮人は、首をふって悲しげに言った。
「地獄ナンカ、キライダナア。アンナモノ、ナクナレバイイノニ」
「地獄とは、この世の別名だという説もあるんだよ。この世はつまり、地獄だという……」
「ハア、ソウデスカ。コノ世ハ、地獄デスカラネエ。ダカラ、アノ世ハ、ドウシタッテ極楽ジャナクチャ、イケナイデスヨ。アノ世ダケハ、ゼンプ極楽ジャナクチャ、イケナイデス」
土方の質問にたじたじとなり、柳は、いいかげんに答えるより仕方なかった。地獄、極楽について、彼はそれほど深く考えたことがなかった。ことに、いくらかなりと社会主義かぶれした青年の常として、あの世の「ゴクラク」なるものは、無視したり軽蔑《けいべつ》したりしていたのだった。
「だけど、あんたはゴクラクへ行けそうじゃないか。そう、見えるよ」
「イヤ、イヤイヤ」
暗くしずんだ、おとなしい顔つきで、土方は言った。
「ゴクラクダケナラ、大丈夫《ダイシヨウプ》デスガ。地獄ガアルカラ、困ルンデスヨ」
よほど看守のきげんのいい時でなければ、長い会話はゆるされなかった。
たとえ、いくらでも好きなだけ話せと言われたところで、この仏教ずきの朝鮮人に、もっとうまい、もっと納得のいく話をしてやることなど、柳にはできそうになかった。それに、その朝鮮人の「身になってやる」には、柳の心配ごとが多すぎたのである。たとえ、その朝鮮人が、本ものの電線泥棒であろうが、なかろうが、そんなことに気をとられているひまもなかったのだ。
彼はまず、手洗に出されるたび、「A計画」は一体どうなんだと、保護室の方を注意している。その夜も、便所のガラス戸の前で、彼は保護室の方をうかがったが、宮口はあいかわらず、寝ころがったままであった。ぞろぞろと、だらしなくつながる仲間たちと、看守にせきたてられて、用をすまして、水道の蛇口のところへ来る。そのとき彼は「おれのタオルをよこせ」という、宮口のことばを想い出したのだった。
「おれのタオルをよこせ」
柳が検挙された夜、看守に向って宮口はたしかに三度、そうくりかえした。「おれのタオル」。そうだ。宮口は「おれのタオル」と、言ったのだ。どうして、そこに気がつかなかったのか。タオルや手拭やハンカチーフの切れはしが、うすぎたなく掛けならべてある、釘《くぎ》の列。宮口の番号の下の、雑巾のように黒くなった布を、柳は、まちがえたふりをして手にとった。
犯人たちを手洗に出すときは、看守は二人がかりで目をくばる。
どんなに冗談をとばし、どんなにくつろいでいても、決してゆだんすることのない四つの眼でも、ホンの一瞬間なら、ごまかすことができる。仲間の肩と背のうしろで、柳は灰色のタオルの小片に、眼を走らせる。あった! いつの間に、どこに匿《かく》した鉛筆でなぞったのか、そのよれよれの小布には、かすかながら鉛色の二つの文字を読みとることができた。
×、A。
これは、エックスとエーではなくて、バッ点とAなのだ。あきらかに「A」は、バッ点によって、否定されているのだ。つまり「A計画」を実行することは、許されないという、「キャップ」宮口の判断であり、指示であり、命令なのだ。
いじっているだけでも、しみついた汚れで指の先が色を変えてきそうな、小っぽけな布を、柳は釘にかけた。彼は、かすかに胴ぶるいした。留置場の光と闇、蜜柑色《みかんいろ》の電燈のあかるさや、ペンキ塗りの壁の線、ぬれているコンクリート床の足ざわりなどが、一つ一つあざやかな意味をもった存在となって、彼のぼんやりした頭をハッキリさせてくる。
「いよいよ、×Aときまったか。これだ、これだ。これなんだ。×、A。×、A。さあ、宮口とかいう男と、ぼくは結びついてしまったぞ。エンもユカリもなさそうだった闘士と、この坊主が、ぬきさしならぬ一点で、くっつきあったわい。畜生め!」
すっかり興奮して、柳は房へもどった。しかし、興奮はしたものの、具体的には、彼と宮口との関係は、ほんの一センチメートルも深くなったわけではなかった。あいかわらず、宮口の方から柳への、はたらきかけは何一つないばかりではなく、取調べのなくなった宮口は、石の面をかぶったような沈黙で、ますます自己の意志と感情を、あらわさなくなっていたからだ。
独房がわりの保護室に入れられた、「大物」の政治犯が、強い男であることは、知れわたっていた。おたがいに相手を、からかったり馬鹿にしたりする犯人たちも、その「大物」だけは、軽蔑したり無視したりすることができないのであった。犯人たちの中には、「政治」という方法で、自分の「理想」を追求しようなどと考えている男は、一人もなかったし、そもそも「理想」などというものが、自分の人生と関係がありそうだとは、思ってみたこともない連中ばかりだったから、「大物」の理想《ヽヽ》がどんなものであろうが、そんなことは知ったこっちゃなかったのである。にもかかわらず、どんな奴か正体はわからないにしろ、とにかくさんざんひどい目に遭って、死にかかりそうな状態に置かれながら、音《ね》もあげず、救いも求めず、たった一人でがんばっている、バカ強いしたたか者が、同じ留置場の中に|居やがる《ヽヽヽヽ》ことは、気になるらしいのであった。
「おんなじ学生でも、ずいぶんちがうもんさな」
と、強盗は批評した。
「ここらの学生たちは、みんなたいしたしろものじゃないが、あの『大物』は、少しちがっているな」
学生運動で挙げられてきた、高校生たちをないがしろにするように、強盗は言った。そう言われると、色白の学生たちは恥ずかしそうに、顔を見あわせた。
「奴は、牛みたいに、どっしりとかまえてるが、お前たちは鼠みたいに、チョロチョロしてる」
「へえ、あれも学生なんですか、あの保護室にいる男。そうは、見えないが」
米屋の小僧も、高校生たちを見下げたようにして言った。小僧は、米屋のおかみさんと密通したため、旦那さんに訴えられてつかまっているのだった。「姦通」という冒険をやってのけただけでも、なまっ白《ちろ》い、親がかりの学生より、自分の方が兄貴ぶんだと信じているのだった。
「大学生だろ。きまってるさ。大学にでも行かなきゃ、お前、思想だとかなんだとか、そんなつまらねえこと考えるはずがねえさ」
「そうだよなア。おかしくって。女に好かれた経験がないから、思想だとかに夢中になるんだよなア」
米屋の小僧は、そりくりかえって、学生たちを眺めまわした。
「いや、それはちがう。女に好かれるとかなんとか、それはちがう。それとぼくらの行動は、ちがってますよ」
学生の一人は、いかにも恵まれた家庭で大切にされた少年の正直さで、抗議する。
「あんた方は、なるほど、ぼくたちより人生体験は多いかもしれない。しかし、あなたがただって、プチブルなんだから、きっすいのプロレタリアートじゃないはずなんだ。だから、ぼくらをバカにする権利はないはずなんだ」
と、もう一人の学生が、学生服の胸を張って言う。
「エヘヘヘ。たいしたもんだよなア」
小僧は手を口にあてがって、笑い声をあげ、身体をゆすぶった。
「なに言ってやがんだい。女の味も知らねえで」
「知ってますよ」
「知ってるのか」
「知ってますとも」
と、学生は膝《ひざ》に力をこめて、負けずに身体をのり出してくる。
「それに、女を知ってるということで自慢するなんて、男として恥ずかしいことだと思いますが」
「女中か。それとも女学生か。でなきゃ、どこかの女給だろう。ざまあ見やがれ。お前たちが知ってるとぬかすほど、女なんて、カンタンなもんじゃないんだぜ」
「とにかく、そんな話はしたくないです」
「したくないか。したくなければ、しなくてもいい。どうせ、できっこないんだから。女に苦労をかけたこともなければ、女に苦労させられたこともない、そんな奴に、何がわかるもんかい」
「だまらねえか、米屋!」
と、強盗が言った。
「小物《こもの》は、小物。大物は、大物。ちがうんだよ、人間が。米屋は、小物だよ。だから、ここらの学生とちがってるわけじゃねえのさ」
「へえ、そうですか。そんなもんですかい」
と、小僧は首をすくめた。
柳には、「大物」に対する尊敬の念が、学生たちほど純粋なかたちで、あるわけではなかった。偉い、と思い、強いな、と思う。彼は彼なりに感心してはいても、そのそばから「一体この世の中に、そんなに偉い男、強い奴がいるもんだろうか」という反問が、わいてくるのだった。高校でも、大学でも、柳の友人には、そんなに「偉い男」「強い奴」はいなかったのである。自分とたいして違わぬ青年たちが、ほんのチョッピリの違いを目立たせようとして、競いあっているにすぎなかった。
高校生と、さして年のちがわない柳であるから、宮口という男が「神秘的な強者」のように、想われてきて、息ぐるしくなることもあった。しかし「まて、まて。宮口だって、これからさき、どう変らないものでもない。それに、我慢づよいことがわかったところで、あの男の性格が、ぜんぶわかったわけでもあるまい。そんなに理想的な、完全無欠の青年が生きているとしたら、第一、ぼくの生きがいというものが、なくなってしまうではないか。宮口だって、阿難尊者ではないし、ペテロやパウロで、あるわけもない。一体、彼は、死刑にならないとして、重ければ無期、かるくても十五年はとじこめられることになるのであるが、そのあいだ、彼の性欲をどうやって始末するつもりだろうか。青春のよろこびを、すっかり奪いさられて、なんの楽しみもない闇の中で、『理想』だけを栄養として生きのびることが、彼の『快楽』なのだろうか。いや、いや、どうだか。すぐに相手を買いかぶるのは、お坊ちゃんのクセであるから、お坊ちゃんであるボクは、警戒しなくてはならんぞ」と、自分に想いこませる。そう言いきかせながら、また「それにしても、彼は強いぞ」という判断が、のしかかって来て、嫉妬《しつと》のために目がくらみそうになるのであった。
「それにしても、Aは×なのだ。Aがバッ点であることを、どうやって穴山や越後に、知らせたものだろうか」
学生たちの一人なら、たのまれた連絡を、いいかげんにすっぽかすことはないと、柳は考える。しかし、彼の方でいくら彼らを信用したところで、彼らの方では、坊主などを信用できないことは、彼らの彼をながめる眼つきで、あきらかなことなのである。信用するも、しないも、それより先に「赤い坊主」などという、鳥とも獣ともつかぬコウモリよりもっとおかしな生物を、理解しようという心など、学生たちにありえないことは、当然すぎることなのである。
学生たちの表情をしらべたり、ささやきを耳に入れたりしないでも、柳には、自分に対する彼らの軽蔑の「内容」を、推しはかることができた。軽蔑されることを喜ぶほど、マゾヒズムめいた感覚はなかったにせよ、そのわかりきった軽蔑の「内容」は、とっくの昔に卒業していますわいと、たかをくくっているところもあった。強盗、スリ、詐欺、かっぱらい、不良少年、ゆすり、たかり、密通者、宿なし、気ちがい、それに朝鮮人。こういう連中には、不可解な暗黒がかぶさっていて、その生活的な内情の底を見ぬくことなど、柳にはできなかった。しかし、学生たちの精神的な「内情」については、うす皮一枚の下を、すぐさま見とおすことができそうだった。
拘留は、二十九日と言いわたされたものの、それだけで釈放されるかどうか、柳にはわからなかった。釈放されれば、越後にでも穴山にでも、連絡は自由になる。それまで、何もしないでいてよいのなら、ことは簡単だった。しかし、何もしないで放《ほ》ったらかしにしているのも、あまり不精で、ひっ腰がないような気がした。
柳が小ざかしい智慧《ちえ》をはたらかさないでも、彼の心配(それは、ほかの犯人たちの心配にくらべ、言うに足りぬものであった)は、穴山の出現で、手ばやく解決した。穴山はぬけぬけと、宝屋夫人と久美子のお供をして、警察署にあらわれたのだった。
夫人と面会してから、ちょうど一週間めの、吹き降りのはげしい日であった。
自家用車で来た、二人の女性は、雨にぬれしょぼれているわけではなかった。それでもやはり、穴山の寺へ廻ったりしているうちに、吹きつけられた雨粒が、髪の毛に光ったり、靴下にしみとおっていて、いかにもわざわざ、吹きつのる風雨をしのいでやって来た感じがした。
署長室ではなくて、だだっぴろい二階の事務室なので、二人の女性は、めずらしがる人々の視線にさらされ、話し声に洗われて坐っているわけであった。街路に面して、二階ぜんたいの幅でひろがっている窓(それはもちろん、いくつかの壁で分けられていたが)は、留置場から上ってきた柳の目には、雨の日にもかかわらず、まばゆいほど明るかった。空の暗さと雨の光をふくんだ、その青みがかった光線は、よく晴れた日の平凡な光線よりも、二階の人物たちの姿を、意味ふかく色あざやかにうつし出していた。
ことに、西洋中世のテンペラ画、あの線や濃淡のくっきりした泰西名画の童女でも、絵葉書にしたように、ひっそりと坐っている久美子の姿には、あらあらしくなり、鈍感になっている柳に身ぶるいをさせるようなものがあった。
緑色のレインコートは、キッチリとたたまれて、姿勢を正した久美子の膝の上に置かれてあった。彼女はできるだけ、人目をひかぬ服装をえらんで来たにはちがいなかった。しかしそれでも、灰色と白を織りまぜたセーターは、色がジミなだけに、かえって外国産の上質毛糸の弾力とはなやかさが、おずおずとちぢかめた彼女の上半身を、ひきたたせていた。赤い裏地のチラリと見える、白いゴム靴も、彼女の脚を可愛らしく見せていた。森の奥や、野原のはずれから、いきなりバス道路へとび出してきて、おそれのあまり足のすくんでしまった、山兎の赤ん坊。そういう風情は、おちつきはらった姉のかげにかくれるようにしているため、かえって好ましく、刺戟《しげき》的なのであった。
「可愛らしいということは、一体、どういうことなんだろうか。可愛らしさと、なまめかしさは、ちがっている。決して、おんなじものであるわけがない。だが……」
柳は、今にも鼻緒の切れそうな冷飯草履《ひやめしぞうり》の足を、椅子の下でうごかしながら、そう考えていた。よその方を見ないようにして、顔うつむいていた久美子が、彼があらわれたとたんに、ピクリと身うごきしたのを、彼は知っていた。おびえきっている彼女は、おびえながら、何とかして柳と話がしたいのにちがいなかった。話などできないでもいいから、「来ること」「見ること」だけでもいいから、どうしても、姉にくっついて来たかったにちがいなかった。
「だが、可愛らしさだって、女の可愛らしさであるからには、やっぱり|なまめかしさ《ヽヽヽヽヽヽ》の一種ではなかろうか。なまめかしさの方だって、|可愛らしさ《ヽヽヽヽヽ》と関係がないどころか、大いに関係があるらしいんだから、まして、美しいから可愛らしいのだとすれば、その可愛らしさは……」
帽子をかぶらない制服の警官や、私服の刑事たちが、机の列の向うから、こちらに注目している。書類を手にして、通りすがりに、立ちどまって見おろす者もある。
「……つまり、なまめかしさが性欲と、切っても切れないつながりがあるとすれば、可愛らしさだって、性欲ぬきで感ぜられるはずはない。つまり……。何が、|つまり《ヽヽヽ》だ。つまり、この久美子が可愛らしいというのはだ、ぼくの性欲のはたらきによって、そう思われるのであるからして、そう思うからには……」
「あまりたびたびでは、御迷惑かと思ったんですが。妹が一度ぜひ、お会いしたいと申すもんですから」
「お姉さま……」
と、消え入りそうな声で、久美子が言った。
「めったに来られない所なんだから、来た方がいいですよ」
僧服の袖口をまくりあげながら、穴山はのんきにかまえていた。|のんき《ヽヽヽ》にと言っても、大きな両眼は、かなりけわしく、油断なく光っていたのであるが。
太った部長は、夫人によりそうようにして腰をおろし、大きく股《また》をひらいて、四人を監視していた。力を入れてふんばった足は、ズボンもはち切れそうな肉づきで、元気をもてあましているように見えた。いまいましいような、うきうきしたような部長の感情が、中身がはりきったため色艶《いろつや》を増した二本のズボンから、柳の方へというよりは、二人の美女の方へエネルギーを発散しているようであった。
「どうだい、ここの警察は。中央とちがって、目黒は田舎だからな。ラクなんじゃないか。そう、うるさいこともなさそうだな」
「ああ、うるさくはないよ」
「なまいきを言うな」
と、部長は、穴山と柳の両方へあてつけて言った。
「お前たちは、やさしくすれば、すぐつけあがるんだ」
「やさしくして、おあげになった方がいいわ。出てからのこともありますし」
と、夫人は言った。
「ことにやさしくするというわけには、いかんですが」
夫人の流し眼をうけとめながら、部長は、話しにくそうにしていた。
「われわれは、別に、いじめるのが商売じゃないんだから。まともな人間にして、おかえしするつもりでいるんだから」
「いつごろ、かえしていただけますの」
「それは、今ここでは言えません」
部長は、夫人から顔をそむけて、咳《せき》ばらいした。
「柳は、まともな人間になりますかなア。とうぶんダメなんじゃないかな」
と、穴山は言った。
「そういうことは、坊さんより、こっちの方がよく知っとるんだよ」
「いいかげんにして、帰されたんじゃ、柳のためにもならないし。こいつの罪は、一体、なんなんです。なにか少しは、やってたんですか」
「君らは、そういうことをききに、来たんじゃないだろう。顔を見たいと言うから、会わせてやったんだ」
「穴山さん。さからわない方が、いいわよ。こちら、親切で言って下さっているんだから」
「別に、親切だということもないでしょう。どっちも規則で許された範囲で、やってることなんだから。どうなんだい、柳、ながびきそうなのか」
「……さあね。ながびくはずはないんだが」
柳は、部長に気がねしながら答えた。
そのとき部長がうなずいたのは、柳に対してではなかった。あの主任びいきの、はりきり屋の若い刑事に、向ってであった。若い刑事は、部長ひとりでは、穴山や柳が秘密の連絡でもやりはせぬかと、警戒していたのだった。というより彼は、犯人や面会人に対する、取扱いの手ぬるい部長をとがめるようにして、目鼻だちの若々しい顔を、とげとげしくしているのだった。うなずいた部長の許しを得て、若い刑事は、柳の横の椅子をきしませて坐った。
「警察は、お寺や幼稚園とは、ちがうんだからな。勝手な口のきき方をする奴の、相手になってやるわけにはいかんのだ」
と、彼は、穴山に突きかかるように言った。
「それは、そうだろうよ。こっちは坊主だからな。警察官のような口のきき方は、できないんだ」
「お前さんは、どこの坊主だ」
「大日本帝国の坊主だよ。ロシアかどこかの坊主のように見えるかね」
「坊主が女にくっついて、何しに来たんだ」
「目黒の警察が、どんなことをやらかしてるか、視察にきたんだ」
「誰がお前さんに、視察してくれと頼んだんだ」
「帝国陸軍だよ。憲兵隊だよ」
「何を言うか、こいつ」
「日本の特高警察は、世界一だと、君ら、考えてるんだろう。憲兵に言わせると、なっちょらんそうだぞ」
部長は、いきりたつ部下の肩を、かるくおさえた。部長は、出しゃばりの部下が形勢不利になるのを、楽しんでいるのだった。
「若い連中は、まだましだがね。署長という署長は、みんな既成政党の息がかかっていて、使いものにならんそうじゃないか。ここの署長は、どうなんだい。うまく立ちまわって、町の顔役とつながってるだけじゃないのか」
「よせよ、よさないか」
と、たまりかねた部長が言った。
「あの世のことは、ともかくとして。この世の秩序を守っているのは、われわれ警察官だ。警察がなかったら、どうなると思うね」
部長は、夫人の方を見つめ、久美子、穴山、柳と、順々にながめまわした。
「警察がなかったら、みんなが好きなことやり出して、社会秩序はたもたれなくなるんだよ。強姦したい奴は、強姦する。どろぼうしたい奴は、どろぼうする。火つけしたい奴は、火つけをする。そうなったら、どうするね。万事、強いものがちになって、弱いものを守ることはできなくなるぞ。それこそ、寺だって会社だって、いつ焼き打ちされたり、ぶっこわされたりするか、わかったもんじゃない。あんたたちの家庭や財産が安全でいられるのだって、警察のおかげなんだぜ。夜の目もねないで、安い月給でこきつかわれ、我々が不平も言わずに働いてるからこそ、どうやら無事にすんでるんだろ」
「恩知らずですよ。感謝の心が、まるでないんだ。自分たちが、おかげをこうむってるのを忘れて、文句ばかり言うんだ」
と、若い刑事はまだ、穴山をにらんでいた。
「弱いものを、守ってくれるのは有難いがね。強いものにシッポを振らないでいてくれると、もっと有難いんだ」
「一体、なんなんですか、こいつは。えらそうな口ばかりきくが」
いらだった若い刑事は、部長にたずねた。
「坊さんには、国粋主義が多いんだ。日蓮宗なんてのは、みんな日本主義だ」
「こいつ、日蓮宗ですか」
「どうだか知らんがね。右翼だよ。顔みりゃ、わかるだろ」
部長は、気ごころのわかった仲間同士のようにして、穴山の肩をなでた。
街路樹の立ちならぶ、はばひろい道路を風が通過すると、ちぎられた葉っぱが窓に吹きつけられた。もぎれた蝙蝠《こうもり》の翼のように、窓ガラスに貼《は》りついて音をたてる、大きな葉もあった。紙つぶてのように、突きあたって、はねかえる小さな葉もあった。うす墨を流したような空は、墨の色をかきあつめたように暗くなり、また、あかるくなった。そのあかるさは、おびやかすように白っぽく、室内をてらし出した。そのたびに、女二人の皮膚の色や、顔かたちが、美しさのおもむきを変えるのであった。
「久美子さん、こわがることはないのよ。わたくしたちは、何もわるいこと、していないんだから。この方たちだって、わたくしたちを、つかまえようとなさってるわけじゃないしね」
「ええ、わたくし、つかまってもかまいません」
姉の片手に肩を抱かれていた、久美子は、思いつめたように言った。
「……柳さんだって、つかまっていらっしゃるんだもの」
「あんたみたいなひとを、つかまえたら大へんだ。罪のない者を逮捕したりすれば、警察官も、罰せられることになってるんだから。それとも、そんな可愛い顔をしていて、お嬢さん、なんか罪でも犯しているのかね」
「ええ、わたくし……」
からかうようにする部長に、久美子は生まじめに答えた。
「わたくしだって、罪があります」
「ははア、どんな罪があるの」
「……人間はみんな、罪があります」
久美子がそう言うと、部長は椅子にのけぞって笑い出した。若い刑事は、軽蔑したように、プッと笑いの唾をとばした。
夫人は、柳の髭《ひげ》をそるため、剃刀《かみそり》もシャボンも、刷毛《はけ》もタオルも、みんなそろえて来ていた。西洋剃刀が、なめらかにすべるたび、夫人の肉のあたたかみが、柳の顔につたわってきた。夫人の膝のかたさが、彼の膝に、くすぐるようにさわった。夫人はゆっくりと、楽しむように、柳の向きをかえさせた。どちらを向いても、久美子の真剣な、すがりつくような視線が、姉の指さきを追ってきた。剃刀の光と冷たさ、刃ざわり、シャボンの泡《あわ》と香りの中で、柳は、手術か解剖でもされているような、あなたまかせの気分だった。
「ばかばかしいな。全く、ばかばかしいな。こんな奴の見張りをしているなんて」
と、若い刑事は舌うちした。
「柳の部屋を家宅捜索したら、お経の本のあいだに、エロ写真がはさんであった。あきれかえったよ、坊主のくせに。どういうつもりで、毎日生きてるんだろう」
若い刑事がそう言うと、柳は冷えてきた手脚の指のさきが、むずがゆくなり、二人の女性の顔が見ていられなかった。
「アメリカの映画雑誌かなんか、切りぬいて、大切そうにしまいこんでるんだ。お経の本のあいだに、はさんでるんだ。西洋の女の裸の写真でな。しばられたりして、苦しがってる所の写真やなんかなんだ」
「なんだ、西洋の女か。日本のはないのか」
「みんな、西洋の女ですよ。日本のはありません。よっぽど、西洋の女が好きなんだな」
「エロ写真って、男女おりかさなってる奴か」
「いや。そういうんじゃないんです。男はいなくて、女だけでね。その女が、ひとりで、しばられたりしてるだけでね」
「性交の写真じゃないんだな。それじゃ、なんでもないじゃないか。ただの裸の女の写真だろ」
「主任さんが、みんな机のひきだしに、しまってありますが。しかし、坊主のエロというのは、穢《きたな》らしいじゃないですか」
「うん、けしからんな。とっちめてやらなきゃ、いかんな」
柳は、部長と刑事の会話をふりはらうように、濡れタオルで顔をこすっていた。こすっても、こすっても、女二人の視線を防ぎとめることなど、できるわけがなかった。むしろ、こすればこするほど、夫人は、なまぐさいような色っぽさの増した眼つきで、久美子は、打ちくだかれまいと耐えしのんでいる眼つきで、柳を見つめるのだった。
「女の裸が好きなのは、仕方ないとして。しばられた女が好きなのは、困りますわね。悪趣味ですもの」
夫人は、片手をかかげるようにして、柳の頭にフケとり香水をふりかけていた。
「悪趣味というより、けちくさいんだ。ふんぎりがついていないんだ」
と、穴山は言った。
「坊主だって、女から生れたんだから、女が好きであって、かまうことはありゃしない。好きなら好きで、もっと正面から女と取組めばいいんだ。それを柳は、好きなような好きでないような、いいかげんなところでごまかしてるから、いけないんだ。見ちゃいられないんだ」
「ごまかしてるわけじゃないよ。迷ってるだけだよ」
と、柳は、夫人の手の下へ首をさし出したまま言った。かくしていたエロ写真の話まで出てしまっては、久美子さんに嫌われてしまったろうな。きらわれたくはないんだが。と、そのことが一身上の重大事件のように思われて、若い刑事や穴山のことばは、ほとんど柳の耳をす通りした。
「いい御身分だよ。迷ってりゃ、それですむんだから」
若い刑事は、にくらしくてたまらないように言った。彼は、苦学生の弟に学費をみついでやるため、好きでもない職務にはげんでいるのだった。したがって、彼が柳をにくらしがるのは、あたりまえなことなのであった。
「そうです。いい御身分です」
と、柳がつぶやくと、
「自分で言ってりゃ、世話はないや」
と、若い刑事は、ますます眉根をけわしくした。
「今日は、宮口の調べがあるんじゃないか。本庁から、連絡があっただろう」
と、部長が若い刑事に注意した。
「もうそろそろ、係が来るころじゃないのか」
「ハア。さっき、主任さんが署長室へ、その話で下りて行かれましたが」
「あの係は、おれたちがタッチするのを、いやがってるらしいからな。それで、つきあいにくいんだ。何もおれたちの方じゃあ、手柄を横取りしようなんて、思ってるわけじゃないけどさ。もう少し、協力をたのんできても、よかりそうなもんだ。主任さんも、もう少し、こっちの意見を主張すればいいんだ。逮捕したのはおれたちなんだから、取調べについても、遠慮なんかしないで、積極的に出なきゃいかんよ。君、一寸、下へ行って話の様子をきいてくれたまえ。あのアジト、あの殺人現場はともかく、おれたちの管轄区域内だろ。あそこを嗅《か》ぎつけたのも、あそこへ踏みこんだのも、第一線はおれたちなんだから。ぼんやり眺めてる手はないんだ。君、行ってきてくれ」
夫人は、黒塗りの重箱の蓋をあけて、みんなの前にさし出した。中トロのマグロのすしが、笹の葉をあしらわれて、みずみずしくつまっていた。
「ハイ。それから御道すじの警戒は、全員出動ですか? あと十分ぐらいで、出かけなきゃなりませんが」
「たいした用もないのに、こんな日に出かけないでくれれば、いいのになア。向うは御召車《おめしぐるま》があるからいいが、こっちは傘もさせやしない。全員で行かなきゃ、うるさいだろう」
タレのかかった、マグロの厚身の冷たさは、柳の口のなか一杯に、たまらないおいしさで、しみわたった。
「いかがです。おひとつ、どうぞ」
と重箱をまわされても、若い刑事はかたくなに首を振り、部長だけが、肉のたっぷりした掌をさし出した。
強風にあおられた広い二階には、いつのまにか警官の姿が、ほとんど見えなくなった。
「ここに入れられてりゃ、まずい物を少し食って、規則的な生活をするんだから、健康にいいぐらいなもんだよ。なア、柳」
「そうですわね。人相が少し悪くおなりだけど、かえって男らしくなったみたいですわ」
「そうだ。たしかに、眼《がん》の光がちがってきたぞ」
と、言いながら、穴山は部長と競争するようにして、スシをつまんだ。二人の指さきが、重箱の上でぶつかったりしても、二人とも平気だった。
階下へ行きかけた、若い刑事は、階段のそばで部長を手まねきした。
「もうじき、出かけなきゃならんから、面会はそれまでだぞ」
と、言い置いて、部長は席を起った。若い刑事は、こちらに注目したまま、部長の耳に何かささやいていた。
「Aはダメだそうだ。やっちゃ、いかんそうだ」
柳は、スシをつまむため、上半身を前へ伏せながら、穴山に告げた。
「Aか。そうか。わかった」
「カルピスとサイダーを用意してきましたけど。おのみになる?」
夫人は、男二人の会話を、自分の身体でかくすようにして、起ち上った。
「焼豚も、ハムもあるのよ。どしどし、召し上って下さらない?」
夫人は、ピクニックの主催者のように、包みをひらいたり、紙のコップと紙の皿をとり出したりして、まめまめしく立ちはたらいた。
席へもどった部長は、竹製のフォークまでそろえた御馳走を、あきれたように眺めやった。夫人は、おもしろがって魔法ビンの口をあけ、部長の鼻さきへ持って行った。そこからは、熱い紅茶の湯気と一緒に、ウイスキーの香がたちのぼった。
「やれやれ、あんたたちの贅沢《ぜいたく》は、これは一体どうしたことかな」
下の重箱の中には、大ぶりのハムや焼豚のほかに、濃紅の血の色を固めて、純白の脂身をちりばめた、イタリア風のソーセージや、勢いよくそりくりかえったセロリの茎が、これでもか、これでもかと訴えるように、詰められてあった。
「柳さん一人の、ためばかりじゃありませんのよ。みなさんで食べていただこうとして、持ってきましたのよ」
「とても一人で、こんなに食べられるもんじゃないさ」
反感を示すというよりは、もったいなくてたまらないという感じを、むき出しにして、部長は言った。
「金があるから、贅沢をする。それはそれで、あたりまえなこったけどな。あんた方はもう少し、社会というものを考えなくちゃいかんよ。立派な洋館かなんかに住んで、女中さんにとりまかれていたんじゃ、社会というもんはわからんからな。日本の社会がどうなっているか、警察にいるとよくわかるんだ」
「警察につとめなくても、それくらいのこと、わかるさ」
「いや、奥の奥のところはわからんさ」
「わかるよ。お経を読んで歩いてりゃ、いやでもわかるさ」
と、穴山は言った。
「わかってるとは見えんがね。わかってるなら、宗教家は何をやってるんだ。日本社会の現状が、もしわかってるなら、どうしてもっと熱心に救おうとしないんだ。宗教家がしっかりしてれば、もう少し社会の悪化は、救われてるはずじゃないか。君らが何もしないで暮してるから、悪いことのシリは、みんな警察へもちこまれるんだ。君らがヒマだから、おれたちが忙しくなるんだぞ」
「坊主がヒマとは、かぎらんよ。おれなんか忙しくて困ってるんだ」
「私利私欲のために、いそがしがったって、宗教家とは言えんからな」
「シリシヨクのない人間は、いないよ」
「そう、あきらめていいものなのか。そんなら、何のために寺があるんだ。何のために坊主がいるんだ。何のために仏教があるんだ」
「人間に私利私欲があるから、仏教があるんだよ」
「なんだって」
「そうなんだよ。人間という奴が悪い奴だから、仏教が生れたんだよ」
「悪いから悪いと、ほうっておいてすむものなのか」
夫人は、部長の片手にサイダーの紙コップを、もう一方に、ハムなど取りわけにした紙皿をもたせた。
久美子は、夫人から手わたされた紙コップを、ためらいがちに柳の方へさしだした。コップは、小きざみにふるえて、今にも彼女の手からおちそうだった。
「穴山さんをお叱りになるつもりじゃ、なかったんでしょ。わたくしをお叱りになるつもりだったんじゃ、ございませんの」
「叱るというわけじゃないが、とにかく贅沢が|これ見よがし《ヽヽヽヽヽヽ》になるのは、よくないと……」
「ええ。わたくし、いくら叱られてもダメなんですの。なおりませんのよ、心がけが。どなたに何を言われても、感じないタチなんでしょうね」
「ふうん、どうもそうらしいが。まあ、あんまりいい気になって、社会全体のことを考えないと、痛い目を見ることがありますからな」
「ええ。そうでしょうね。きっと、今にそうなると思いますわ」
「ふうん、きっと今にな、ふうん、なるほど」
部長は、大いそぎで御馳走を平らげはじめた。
「いいです、いいです。奥さんの心がけは、大いにいいです」
と、穴山は言った。
「反省したり、先のことを考えたり、そんなのは要するにつまらんこってす。ほかに何もできない連中が、そんなことやってウジウジしてるだけでね。そういうことは、老人にまかしときゃいい。生きてるということは、実行することです。そうでしょう。反省したり、批判したり、分析したり、研究したり。あれこれ比較したりね。あんなのはみんな、何一つ実行できない連中のごまかしですからね。痛い目をみるまでやらないでいて、どこに人生の楽しさがありますか。人間、どんなに用心ぶかくしたって、痛い目を見ないですむわけがない」
「この方、けしかけるのがお上手だから」
夫人は、指さきを巧みにつかって、ハンカチーフで口をぬぐった。
「まったくだ。よくない坊主だ」
さかんに食べいそぎながら、部長は言った。
「けしかけるのがお上手? そのとおりです。しかし、けしかけるだけの男は、政治家だってヤクザだって、すぐ化けの皮がはがれるからな。けしかけるだけの、行為の裏うちが当人にあって、はじめて、けしかけが力になるんだ。ただ、けしかけるだけなら、何もしないのと同じこった」
「すると貴公は、何かやるつもりなんだな」
「つもりじゃない。現にやってるんだ」
「そうか。では、そのうち、つかまえてやるよ」
「お前さんが逆立ちしたって、おれはつかまらんよ。柳とはちがうからな」
ゴム長靴、黒い合羽《かつぱ》、古い麦藁《むぎわら》帽子で変装した若い刑事が、足音あらくもどって来た。彼はすっかり、買い出しの魚屋さんか、駅で荷扱いする人夫のように見えた。
部長が、けわしい顔つきで起ち上ったのは、部下の呼び出しにこたえてではなかった。
彼が太い首をふり向けたのは、取調べの小部屋の方角だった。どこかで、ガラスの割れる音と、かすかな叫び声がきこえた。小部屋は、ここからでは見えなかった。留置場のま上にあたる小部屋には、別のせまい裏階段があり、それもここからは見えなかった。ここから見えるものは、人影のなくなった広間と、廊下、それに一般用の階段の降り口だけであった。つまり何も変った様子は、眼に入らないのに、柳にも、女たちにも、何かが突発したことが感じられた。
「宮口!」
部長がそう叫んで、いきなり眼前からかき消えるように、すっとんで行ったとき、おなじ叫びが柳の口の中でかすれていた。身をひるがえして走り出したのは、若い刑事の方がさきであった。
間のぬけたように、非常ベルが鳴りはじめた。走って行った二人の刑事は、かなりすばやく、抜け目ない動作をしていたはずであるが、見えなくなったあと、やはりどこか間のぬけたような空気をのこしていた。
「逃げた。逃げた」
小さい、小さい、小人のような掃除婦が、そう言いながら、廊下を走って広間に入ってきた。彼女は、柳たちの方を見つめたまま、しばらく突っ立っていてから、
「大へんだア、大へんだア。犯人が逃げたぞう。逃げたぞう」
と、地だんだを踏みながら、大声をあげた。掃除婦は、どこかへ茶を運ぶ途中だったらしく、アルミのお盆を、しっかりとかかえていた。お盆の上の茶碗をころげおちぬよう支えているため、彼女の恰好は、ぎごちなく見えた。肩をはった姿勢のまま、彼女は階段をかけおりて行った。
「逃げたか」
と、穴山はつぶやいた。そして、刑事たちの走って行った方向に、大股で歩いて行った。
夫人が、柳の左の手をにぎり、久美子が右側によりそって、立っていた。
夫人は、穴山の歩いて行く方向に、きつい眼をむけて、にぎった指さきに力をこめていたが、久美子は、そちらを見ようともしないで、ぼんやりと、柳の横にかくれるようにして、立っているだけであった。何もしないで立っているだけの久美子は、ぼんやりしているように見えても、実は、これ以上は緊張できないほど、緊張しているのにちがいなかった。
ほんの一瞬間ではあるが、その広い二階には、柳と女二人のほかに人影がいなくなった。
「宮口が逃げた? ほんとうだろうか。あんなに弱りきって、立つことも歩くこともできなかった宮口が、どうして、逃げることができたのだろうか」
もどかしいような、恥ずかしいような、さまざまな想いが柳の頭の中を、風雨に吹きちぎられた街路樹の葉っぱのように、かすめすぎた。
「逃げきれるだろうか。むずかしいだろう。裏階段のそばの窓から、とびおりて、屋根づたいに? むずかしいな。しかし、ともかく何とかして彼は、逃げだそうとした。一体、どうやって彼は、たとえ数分間でも、屈強な特高係の手から、逃げだすことができたのだろうか……」
「逃げられます。今なら、逃げられます……」
と、ききとれないほどの小声で、久美子がつぶやいた。夫人ではなくて、久美子がそのような、はげましのささやきを口にしようなどと、柳は夢にも思ってはいなかった。第一、彼には、逃げる意志など全くなかったのであった。
「…………」
「逃げようとすれば、きっと……」
厳重に監視されていた宮口が逃亡できたとすれば、その一瞬、ほうりっぱなしにされている柳が、脱出できないはずはなかった。久美子にすすめられても、逃げるための身うごき一つしようとしない柳は、つまりは逃げるだけの行為をしていないわけであった。男らしい行動をやってのけることのできる、強い奴ではなくて、逃げるだけの仕事もできない、弱い奴という証拠であった。どうやっても貫きとおしたい、ハッキリした目的がある男だったら、このチャンスをつかんで、一刻も早く自由の身になろうとするはずではないか。
「久美子は、このぼくが死刑にでもなるほどの大物だと、思っているのだろうか……」
しみわたってくる恥ずかしさの中で、柳の全身はこわばっていた。と同時に、むちゃな逃亡を敢えてやったのが自分ではなくて、宮口であった、という妙な安心感が、とろけるような甘さで彼のからだを包んでいた。
廊下のはずれに、部長の姿が、揺れながらあらわれた。気ちがいじみた怒りのため、部長は、腕や足の自由を失っているように見えた。僧衣の穴山とならんで走ってくるとき、二人は、|さかり《ヽヽヽ》のついた熊のように、どうしようもない活力でふくれあがっていた。警視庁の係が、二人とは正反対の、なさけない歩き方で、そのあとにつづいた。宮口に首をしめられて、気を失いかけた、その特高係は、口惜しさと恥ずかしさのため、もぎりとられてから時間のたちすぎた胡瓜《きゆうり》のように、しなびていた。
部長は、卓上の電話にとびついた。次から次へと附近の交番へ、指示をあたえていた。
「うまく逃げやがった」
と、穴山は言った。
「刑事の首をしめてから、逃げやがった。よくやったもんだ。逃げるということは、やさしいこっちゃない。えらい奴だ」
「一目でわかる。帯もなんにもしちゃいないんだ。はだしだよ。髪だってのびてるんだ。病人だ。顔がまっ青だから、すぐわかる。そうだ。着物だ。着物をぬいだとすりゃ、シャツだ。え? バカヤロウ。人相なんか、どうだっていい。怪しい奴は、ぜんぶつかまえるんだ。あたりまえだ。この雨の中を、はだしでウロウロしてる奴が、ほかにいると思うのか」
部長は、恐しい眼つきで柳の方をにらみながら、息づかいも苦しそうであった。
「もう一人の方は? あの若い刑事さんは?」
と、夫人は穴山にたずねた。
「あとを追っかけて、二階からとびおりたらしいんだ」
「逃げた人も、二階からとびおりたんですの」
「そうらしいんだ」
雨合羽をゴワゴワさせた巡査が、二人、駈けあがってきた。
「そいつを、その柳を留置場にもどしといてくれ」
とまどっている巡査の一人に、部長は命令した。
「そんな奴にかまってたもんだから、とんでもないことになった。早く、連れてって、ぶちこんどいてくれ」
殺気だったのは、部長ばかりではなく、二人の巡査もとまどいながら、ものものしい顔つきになっていた。
「宮口は、逃げられっこない。逃げられっこないが太い奴だ」
「こいつも、逃亡に関係があるんじゃないですか」
と、近よってきた巡査は、部長に言った。
「どうせ、そうだろう。どいつもこいつも、ロクな奴はいない」
首をしめられ、犯人をとり逃がした本庁の刑事を、部長は、憎らしさと軽蔑《けいべつ》の眼で見やった。
「あんたは休んどって下さい。われわれがすぐ、つかまえてあげます」
相手の答えを待たずに、部長は階段を駈けおりて行く。一人の巡査が、そのあとにつづいた。
「お前さんは、逃げたりしないで、ゆっくりとつかまっていろよ。逃げるだけの才覚も、ないだろうが」
と、穴山が柳に言った。
「ああ、ぼくは逃げないよ。逃げられないよ。逃げる理由がないんだから」
柳は、あまり元気のない声でこたえた。
「そうよ。逃げたりしない方が、よろしいわ。どっちみち、すぐ出られるんですもの」
と、あいかわらず眼つきをやわらげないで、夫人が言った。
「さあ、さあ、いつまでも女のそばに、でれでれしていないで、早く下へおりるんだ」
と、巡査が柳をせきたてた。
「逃げた人って、ほんとにどんな人かしら。すごい男がいるものね」
と、夫人は、考えに沈むようにして言った。
「柳さんは、どうして……」
と、久美子がつぶやいた。
「柳さんも、逃げればよかったのに……」
「どうも、いろいろありがとうございました」
そう言って、裏階段の方へ歩いて行くあいだ、久美子の最後のつぶやきが、柳のまわりにただよい、彼の耳たぶから脚の先まで、しみとおっていった。
「宮口は逃げた。ぼくは逃げなかった。宮口は逃げた。ぼくは……」
一つことを想いつづけながら、柳は自分の房へもどった。
「宮口は行動しつつある。ぼくは、行動していない。宮口は奮闘している。ぼくは、だらけたままでいる……」
その夜は、看守もすっかり手きびしくなって、会話はすべて禁じられた。監視する方も、される方も、カンがたかぶっていた。強盗は、不良少年の腕をねじあげて、もう少しでその骨をへし折りそうになった。不良少年が、強盗のしゃべった話の内容を、刑事に告げぐちしたためであった。
宮口が逃亡できたのに、自分にそれができないことで、強盗はいらだっているのだった。逃亡の意志のない小物たちも、何となく、興奮して、ジッとしていられなくなる。宮口が留置場へ連れもどされてこないかぎり、彼の逃亡はつづいているわけであった。カラになった保護室は、カラになっているだけで、そこにとじこめられていた一人の政治犯が、いま警察署の外の、風雨の中を走りぬけて行き、自由の世界で動きまわっている状態を想像させ、訴えかけてくるのだった。
「お前さんは、逃げないのかい」
詐欺の男が、柳をからかって言った。
「ああ」
柳はただ、困ったように答えるより仕方なかった。
朝鮮人の土方だけは、その日の事件にも、一向に反応を示さなかった。古毛布を房の上にひろげる時になって、彼は柳にささやいた。
「ニゲタッテ、ニゲラレルモンジャナイ」
男たちは、狭い場所で総立ちになり、毛布をひっぱりあったり、足の位置をうごかしたりしていた。柳には、朝鮮人のささやきの意味が、急にはわからなかった。
「あの男なら、逃げられるかもしれない」
「ニゲラレナイ」
「どうして」
廊下には、看守のあらあらしい声が、ひっきりなしに鳴りひびいていた。早く横にならないと、寝る姿勢がきゅうくつになるので、みんなはいそいでいた。柳と朝鮮人は、一ばんあとから横になったので、ほかの男の頭と足のあいだに、やっとのことで身体をおし入れた。たがいちがいに寝ている男の足が、柳と朝鮮人の顔のあいだに、はさまっていた。
「ニゲラレナイ。死ナナキャ、逃ゲラレナイ」
「…………」
「死ナナキャ、コノ世カラ逃ゲラレナイ」
自分自身に言いきかせるように、朝鮮人は、そうつぶやいた。
あいだの男が足をのばすたび、くさい足さきがほっぺたにぶつかるので、柳は、朝鮮人と反対の方へ顔をそむけなければならなかった。
この世から逃げられない? 死ななきゃ、この世から逃げられない? それは、そのとおりだ。しかし、と、柳は思いまどっていた。警察署から逃げ出すことと、この世から逃げ出すことと、どっちがむずかしいのだろうか。どっちも、むずかしいことだ。ぼくは、警察署からも、この世からも逃げ出すつもりはない。ぼくは、まだ若い。まだ、とうぶんは死にそうもない。死にたいと思ってもいない。死なないでいられることは、ありがたい、いい気持がすることであり、留置場から逃げ出さないですんでいることも、気がラクなことである。だが、そうやってウカウカと暮していることが、正しいであろうか。いや、ぼくが今考えようとしていることは、ぼくの生き方が正しいか、正しくないかといったような、問題じゃないらしいぞ。ぼくは今、こんなことを考えているんじゃないのか。あの宮口に、恋人がいるかどうか。あの男に好きな女が、いるかどうか。いるとしたら、どんな女か。そして、彼が一体どんな風に、その女を愛しているのか。彼はこれから、その女のところへ逃げこもうとしているのかもしれない。女に会いたくなって脱走したのでないことは、わかりきっているが、愛している女だとしたら、その女のことが忘れられなかったにちがいない。彼は、政治運動に熱中している。そのためには、死を覚悟しているにちがいない。彼は、イヤでもオウでも「この世」から離れなければならぬ、どたん場まで追いつめられているのだ。この世からオサラバすれば、彼の政治運動はそれっきりになる。中断される。消滅する。そして、彼は革命家でも、行動者でもない、ただたんなる無機物に化してしまう。それは何となく、たよりないような、はかないようなことだ。だが彼は、たとえ死んでも、やりたいことを、やりつづけようとしている。おシャカ様は、そのような「彼」に対して、どのような教えを垂れるべきであろうか。大いなる仏陀《ぶつだ》は、宮口の逃亡を、はたしてどんな路へみちびくのであろうか。宮口は、仏陀を拒否するだろう。しかし、仏陀が宮口を、拒否するはずはないだろうな。いや、いや、彼の心配など、してやる必要はない。彼どころではなく、このぼくは今の今、釈尊の教えとの関係は、どうなっているんだろうか。ええい、めんどうくさい。革命のことも、仏教のことも、忘れちまえ! しかし、そううまくは、いきそうにないぞ。この二つからだって、ぼくは、そうウマウマと逃げだすことはできんのだ。そうだ。それに「女」のこともあるし……。ウアア、大へんだ。とにかく、大へんなこった。大へんなこってはあるが、とにかく、ぼくは……。
蜜柑色の電燈の下で、身体をちぢかめながら、柳はたあいなく、眠りに入りはじめる。
柳は、自分の父と母が、自分のためにどんなに迷惑し、どんなになやんでいるか、一度も考えたことがなかった。別段、特別の不孝者でもない彼は、自分の両親が自分を守ってくれている、かけがえのない男女だということは、よく承知していた。彼にとっては、父も母も申し分のない、良い親であった。そうは承知していても、自分の現在の状態が、さほど両親をくるしめる不良行為だとは考えられなかった。と言うより、両親というものが、留置場で寝起きする彼の頭に、一向に浮びあがってこないのであった。
宮口の逃亡があってから、三日目に、柳の父が面会に来た。
仏教大学からの帰りに立ち寄った父は、やぼくさい背広を着ていた。服装ばかりではなくて、六十歳の柳の父は、どこから見ても、抜け目がないとか、やり手だとか、するどいとか、そういった風格とは正反対な、まじめなだけが|とりえ《ヽヽヽ》な、平凡人であった。口べたで、愛想がなくて、交際ぎらいな父は、警察署の人々の眼から見ても、一目で、この息子にはもったいない好人物の父親とわかるにちがいなかった。
面会には、目黒署の特高主任がつきそっていた。小柄な主任は、脂ぎった部長とはちがい、声も小さく、表情もひかえ目だった。太った部長は、とめどのない怒りで全身を、ますますふくれあがらせながら、逃亡した宮口を追跡して、町々を走りまわっていたし、はりきり屋の若い刑事は、宮口につづいて二階からとびおりたさい、足の骨を折って、入院中であった。
「どうもちかごろの学生は、字の書き方も知らないで……」
柳の父は、カーボン・ペーパーの上にかさねた半紙に鉄筆をひねくっている柳のかたわらで、主任に話しかけた。柳の調書は、何回書きなおしても、相手を満足させなかった。姓名、生年月日からはじまる、同じ文句を何度も書かせられる柳は、いいかげん、その仕事に飽きてしまっていた。それに、彼の漢字の画《かく》、タテの棒やヨコの棒を書く順序は、不思議にまちがっていた。書きおわってしまった一字一字は、別にまちがっていないのであるが、奇妙な手順で漢字を書いている息子の指さきを、父は、あきれかえったように見つめていた。
「……おやじの奴、何いってんだい。漢字の書きかたがまちがっていたって、そんなことは、要するに大問題じゃないじゃないか。そんな小っぽけなことが、どうして仏教や革命の大問題なんかと関係があるもんか」
柳は、いっぱしの闘士きどりで、せっかく面会にきてくれた父親を、軽蔑しようとしていた。
「……そんな小っぽけなことに気をつかっていたら、かんじんの大問題を忘れることになっちまうんだ」
自分に対する父の愛情が、なにげない様子をしている父の一挙一動から、まるで水のようにしみわたってくるので、柳はわざと、よそよそしい態度をせずにいられなかった。
「世の中の苦労をまるで知らない奴ですから、好き勝手なことばかりやりまして。厳重にとりしらべてやって下さい」
「ええ、ええ。お父さんの気持は、こちらでもよくわかって居りますから」
柳の父に好感をもっている主任は、父をなぐさめるように言った。
「思想犯が一人出ると、どちらの家庭でも親族でも、困るものですから。イヤなもんですよ、いろいろと気苦労ですからね。ことに柳さんのところは、職業が職業ですからね。なア、柳。こんないいお父さんを持っているんだから、お前も少し考えんといかんぞ。こちらで押収した証拠品というのは、秘密に発行されている新聞ぐらいなもので、たいした罪にはならないんですが、警視庁や検事局では、もっとほかの関係をとりしらべているもんですから。私の力では、どうにもならんのです」
「うちでは別に、どうでも坊さんになれと言ってるわけじゃありません。自分で選んだ職業なら、何でもやりたいことをやれと言ってるんです。しかしこのままじゃ、とても一人前に独立して食べて行けそうにもないし、だんだん破滅してしまうばかりですから。学問や研究をやるならやるで、法律にふれない範囲でやるつもりなら、それもいいと思ってます。幸いにして、勉強させる金はないことはないんですから、勉強だけしていてもかまわないんですが。社会科学の研究だって、当人がやりたいなら反対するつもりはなし。ただ、警察のやっかいになったりして、つらい目にあって、それを貫徹できるような男じゃないんですから、それで困るんです。迷惑をかけられるのは、親ですから我慢しますが、みすみすヘンな具合に破滅するのをだまっているわけにもいきませんし」
「ごもっともです。え、柳。こんな理解のあるお父さんなんて、めったにいるもんじゃないぞ。ここに入っていた思想犯の父親は、裁判長だったんですが、息子さんを日本刀でぶった斬るって騒いでましたからね。陸軍大将の息子もいるし、神主さんの息子もいるし。みんな父親は、不忠者、売国奴は死んじまえとか言って怒ってますよ。お坊さんというのは、やっぱり気がやさしいんですかねえ。こんな理解のあることを言う親ごさんは、あまりお目にかかりませんね。柳、どうなんだ。お父さんの気持が、君にはわからんのか」
「わかってますよ。いい親爺《おやじ》さんだと思っています」
柳は父親の、裏がえしをした上に色のかわった背広と、底のすりへった靴を見ていた。品物を大切にする柳の父は、靴の底もたいらにすりへらすのだった。柳は靴でも下駄でも、先だけ斜にへったり、カカトも後がゆがんだ形になってしまうのだが、父のは、修繕の必要がないように、形のととのったまま古びてくるのである。
「では、そんなに良くお父さんを理解しているのに、どうしてお父さんの顔に泥をぬるようなことをするんだ」
と、主任は言った。
「お父さんは、どこから見ても非のうちどころのない、立派な社会人だ。そのお父さんの心にそむくようなこと、そのお父さんに心配や迷惑をかけるようなことをどうしてするんだ」
「現在の寺院には、民衆を救う力なんかありません。看板だけは仏教ですが、中身が腐ってるんです。だからお寺にいて、お経さえ読んでいればいいというわけにはいきません。今の坊さんにくらべれば、社会主義者の方がずっと仏教的なんですから」
「こいつ。そんなこと、お父さんの前で言っていいのか」
主任は苦笑しながら、父親の方をふりむいた。柳の父は、苦しげにおしだまっていた。
「ぼくは寺に住んでますから、寺の内情はよく知ってます。外部からはわからないかも知れませんが、寺の内情は清浄なもんじゃありません。お布施をもらって食べている、ただの商売人と同じことです。精神的なことを口にしながら、精神的な問題とは無関係なんです」
「今ここで、寺の内情について言わなくてもいいだろう」
柳の父は、つらそうに低い声で言った。
「お前には自分の好きなことをやる、権利はあるだろう。しかし、お前にはお母さんを守って行く義務があるはずだ。俺が死んだらどうする。こんな状態じゃ、お前にはとても、お母さんのめんどうをみてはいかれんだろう。おれが心配してるのは、それだけだよ」
底意地のわるい、ゆがんだ笑いが、柳の口もとにたまった。自分でも、そんな無意味な意地わるさを、子として父に示すのはイヤなのであるが、どうしても、どす黒い笑いの滴が、よだれのように彼の口のはたをぬらすのであった。
――坊主が、女房のことをそんなに心配するなんて、おかしいじゃないか。心配してやらなくちゃならないのは、衆生ぜんぶのことじゃないか。……柳は、自分でも衆生ぜんぶのことを考えつづけることなど、とてもできはしないくせに、その場の父に対しては、そんなむずかしい責任を押しつけたくなってくる。結局それは、相手が父親なら大丈夫という、甘ったれにすぎないのであるが、やはり柳は、そんな感じが青年の反撥心だと考えたがるのであった。
「お母さんも、きれいな、しっかりした、いいお母さんだそうじゃないか。うちの部長刑事が、お寺でお母さんに会ったそうだが、精神的にも肉体的にも魅力のある女性だと、感心していたぞ。君のお父さんが、あんなすばらしい奥さんを持ってるのは、うらやましいと、うらやましがっていたぞ」
父は、さして深い底意もない主任の言葉に、顔をこわばらせてジッとしていた。そんな父の感じている息ぐるしさが、柳にものりうつってくる。
柳は、自分の両親を、性的にむすびついた一組の男女として考えることが、ほとんどなかった。中学でも高校でも、父や母をセックスをもつ男として女として、うわさする同級生がいた。そういう話は、きたならしい話、しなくてもいい話、自分とはエンもユカリもない話だと思い、そういう話が出ると、柳はすぐ席をはずしてよそへ行った。柳にとっては、お父さんはお父さん、お母さんはお母さん、別々の人間であって、それほど互に肉体的に密着している男女だとは、気がついていなかったし、そういう考え方そのものがイヤなのであった。「自分はお母さんの身体から生れた」ということについてさえ、つきつめて考えるのが苦痛であった。月経とか、女性の生殖器とか、そういう女体の根源にまつわることを、よくよく考えるなどということは、どうしてもきらいであった。十九歳にしては、その方面の知識が、はなはだしくおくれている柳には、男女のセックスの現実的、具体的な姿になると、毛虫かトカゲにでもさわるような、身ぶるいがした。まして父母のこととなれば、セックスと関係づけて、あれこれ考えることなど、気質からも体験からも、柳にはできっこないことなのであった。
したがって柳が、息ぐるしげに沈黙している父から感じとったものは、妻帯しているきまじめな僧侶が、俗人から自分の妻に対する意見をきかされる具合のわるさなのであった。ことに柳の父は、家族の前で、女性のなまめかしさやセックスに関する話は小指の先ほどもしない性格であったから、なおさらなのであった。お母さんを大好きな息子にかぎって、お父さんに嫉妬《しつと》するもんだという話を、文学好きな学友からきかされることもあった。だが、いくら反省しても柳は、自分がこの父親に嫉妬しているとは思われなかった。それほど母親が好きなわけでもなかった。自己のエゴイズムを美化する名手であり、自分が美女であり、愛される者であることを、たえず鼻の先にぶらさげている母よりは、たえず恥じ苦しんで、母からたよりない男と見なされている父の方が、柳には百倍も親しいものであった。
「お母さんが面会に来ないのは、来るのがめんどうだから来ないんじゃない。お前のことを怒って、来ないんでもない。おれに任せているから、来ないんだよ。ママ母でもなし、お前をきらってるわけでもなし、とても心配しているんだが、来ないでいるんだ」
「来ない方がいいんですよ」
柳は、汚れきった、すえた匂いのするハンカチーフを、ふところからとり出した。はな紙が自由に使用できないので、柳の一枚のハンカチーフは、はな汁にまみれ、その粘液に埃《ほこり》がたかり、黒やみどりの糊が一面にぬりたくられたようで、とり出す指さきもねばついた。父は上衣のポケットから、自分のハンカチーフをとり出して、柳にわたし、その汚れきった方をポケットにしまった。
「それより、お父さんに質問があるんですがね」
と、こっちの悪意に気がつかない父に、柳は言った。
「浄土宗では、ナムアミダブツと唱えさえすれば、救われるということになってますが。日本には浄土宗があるから、ナムアミダブツと唱える人もいる。その人たちが、ゴクラクへ行けるとする。しかし、日本以外の場所では、どういうことになってるんですか。日本のほかにも、人間はたくさん生きてるし、ナムアミダブツという日本語を知らない人々も、いくらでもいる。知らない人の方が圧倒的に多い。たとえば、ハワイや南洋の土人なんか。パラオやアンガウルなんか。そういう人たちも、死ぬときは死ぬ。毎日どんどん死んで行く。そういう人たちは、救われないことになるんでしょうか」
柳が、ハワイや、南方の委任統治の島々の土人を例にしたのは、浄土宗の布教機関が、そこに設けられているからだった。
「…………」
片耳が遠くなっている父は、耳に手をあてがい、前こごみになっていた。
「日本語を知ってる日本人だって、なかなかナムアミダブツは唱えませんから。まして、日本語を知らない、よその土地の人々が今後、何年たったらナムアミダブツを口にするか、わかったもんじゃありません。そのあいだにも、何十万、何百万という人間が、自然に死んで行く。ナムアミダブツの救いとは、全く無関係に死んで行く。たまたま日本に生れて、ナムアミダブツの教えを日本語でききとれた人はいいけれども、そうでないほかの人たちは、そんな言葉がこの世にあることも知らないまんま、死んで行かなくちゃならないわけでしょう。そこんところが、何となく、たよりないような、不合理なことのような気がするんですが……」
「うん、うん、そうか。そういうことは……」
父は、思いまどいながら、正直に答えようと努めていた。
「……それは、やはり、身ぢかな所からやって行くより仕方ないよ。何よりまず自分が……。自分がまず信じてからでないと。自分が信じて、だんだんと人にもすすめて行く……」
「しかし、それでは、日本語を知ってる日本人のなかの、ナムアミダブツを知ってる人だけが特別に、先にすくわれるということになるでしょう。それでは、不公平ということになりませんか。仏教は本来、平等に人を救うのがタテマエでしょう。救う、救われるということに、差別やわけへだてがあっては、ならんわけでしょう。運不運があって、運のいいものだけが救われるというのでは、おかしいじゃないですか」
「……そうだ。差別や、わけへだてがあってはならない。そういうものをなくすために、法然上人は、南無阿弥陀仏の救いを説かれたんだから。運、不運。ウン、フウンということが、あってはよくないことだ。だが、やはり、運不運ということは、あるんだな」
「ぼくの言うのは、現実社会の日常生活のなかの、ウンフウンじゃないんですよ。幸福になったり、不幸になったりする、地上的なウンフウンじゃないんですよ。救いにめぐりあうさいの、ウンフウンなんですよ。救いにめぐりあうのが不公平、不平等だとすれば、仏教は不公平、不平等だと考えてるわけですよ」
「うん、そうか。それは……。それは、救いにめぐりあうさいの、ウンフウンと言うものも、やはりあることはあるだろう」
「あるでしょう。たしかに、あるでしょう」
「……そこに、たしかに不公平、不平等があるかもしれない。しかし、だから、その不公平、不平等をできるだけ少くしようとして、努めるために、一ばん平凡で、一ばんわかりやすい念仏往生という考え方が、生れ……」
「生れました。一文不知《いちもんふち》の愚鈍《ぐどん》の身《み》になして、という考え方が生れた。それは、正しいかもしれませんよ。しかし、その一ばん平凡で、一ばんわかりやすい念仏往生だって、やっぱりナムアミダブツという日本語がわからなきゃ、わからない。ね、どうしたって、そういう理窟《りくつ》になるでしょう」
「うん、そう。だが、だからと言って、念仏が無意味だとは思えないな」
「日本が帝国主義的侵略で、アジア各地へのびて行く。そして、むりやりにでも、日本語を通用させ、ナムアミダブツをひろめる。そうでもしなきゃあ、とても念仏は、日本以外の土地の人々にひろまらんでしょう」
「……うん、それは。そのお前の考え方は、おれにも多少わかるさ。だけど、人間というものは、耳がつんぼなら、どんな声もきこえない。目が見えなければ、何も見えない。それは、何も宗教ばかりに限ったこっちゃ、ないだろう。キリスト教にしたって、ドイツ哲学にしたって、フランス文学にしたって、ロシアの思想にしたって、みんなはじめは、その国のことばで、日本人の中へ入ってきたんだ。それは何も、帝国主義的侵略とかの力によったわけではないだろう」
「いや、ぼくの言ってるのは、そう言うこっちゃないんだけどな。つまり、簡単に言えば、念仏だけが救いだって、考え方がおかしいということなんです。ナムアミダブツじゃなきゃ救われないという、考え方そのものが、世界中の人間を相手にしては、通用しそうもないということなんです」
主任は、父親に同情しながらも、息子の攻撃的な態度を、おもしろそうに観察していた。
「うん、それは……」
大きくしても、小さくしても、うまみのない自分の声をとりあつかいかねるようにして、父は言った。
「……その点は、おれだって苦しいよ。矛盾もあるし、不徹底でもある。大げさに、世界を相手どることも、むろん、できないし、身ぢかなところで自分自身のことだって、うまくいかない所もある。恥ずかしい所もあるさ。それを、ごまかそうとするつもりはないよ。ただ、今のおれとしては、お念仏が一ばん身に合っているんだ」
「そうかなあ。ほんとに、そうかなあ」
「よくないよ。今ここで、そう言うことを言って、おれを困らせるのは、よくないよ。お前の、そういうやり方は、どうもよくない」
「でも、ほんとのことを言ってるつもりなんだ」
「いや、お前の言い方は、わざとらしい感じがする」
息子をやっつける気配など少しもなしに、自分の胸の井戸に、小石を一つ一つ、しずかに落すような、ひかえ目な調子で、父親は言った。
「宝屋さんのうちの方や、穴山君も来てくれたらしいね。みんな心配してるんだから、そんなわざとらしい言い方なんか止《や》めて、もっと、すなおにならなくちゃいかんよ」
「ついこないだ、政治犯が一人、逃げたんですよ」
柳がそう言うと、主任は急に眼つきをけわしくした。
「その晩、おんなじ房の朝鮮人が、死ナナキャ、コノ世カラ逃ゲラレナイ、と言ってましたがね。ちょっと、感心しましたよ」
「朝鮮人も、いるのか」
「ええ、おとなしい男でね。念仏信者なんですよ」
「ふうん、そうか……」
暗くしかめられていた父の顔が、ほんの少し明るくなった。
「で、その朝鮮人は、何でつかまってるんだ」
「電線泥棒とかいう話ですがね」
それをきくと、また父の顔は暗くなった。
「最下低の貧乏人で、さきのあてのない朝鮮人ですからね。この世から逃げ出したくなるのは、ムリもないんですよ。いやなことばかりで、いいことは一つもないし、いじめられたり叱られたりしてるだけなんだから。だけど、生きてるかぎり、その厭《いや》なこの世から逃げ出せないんだから。この世におさらばしなきゃ、絶対に安楽の境界に入れないんだから、ですから、彼がゴクラクを好きになるのも、ふしぎはないんですがね」
「うん、そうだな」
「彼が生きてるうちに、朝鮮が独立でもすれば別ですが。今のところ、ダメらしいし。金もうけも下手くそで、革命運動にも参加できない。彼がこの世に絶望しているからこそ、ありありと、ゴクラクが目に見えてくるんでしょうね」
「うん、そうだな」
父の顔は、また少しく明るさをとりもどした。
「だけど、この世に絶望するってことは、なかなかできないんじゃないかな。ゼツボウした、ゼツボウしたと言ってても、どこかにまだ楽しみが残ってるもんだから。ほんとに、かけねなしで絶望した人が、ナムアミダブツと唱えるんなら、誰だってそれをとめることはできませんよ。だけど、ほんとに絶望もしていないのに、絶望したふりをして念仏を唱えるのはイヤらしいな。まして、絶望の点で、一ばん人よりはるかに浅い体験しかない坊さんが、自分より深い絶望をもつ人々に、説教したりなんかするのは、どう考えても妙ですよ。ウソですよ」
「柳、せっかくお父さんが来て下さったのに。論争みたいなことばかりするな」
と、主任が注意した。
柳の父の苦渋の色は、ますます濃くなった。口をとがらせて、何か言い出しそうにして、やめにした。かと言って黙っているわけにもいかなくて、口をもぐもぐさせた。父のハゲ頭は、わずかながら薄い毛をのこしていて、つやがなかった。
「……お前は、いいことを言ってるつもりだろうが、お前の言い方は、実に無責任だよ」
「そうですか」
「……人間は、いいことを言うよりも、いいことを実行する方が、尊いんだ。大きなことを言うより、小さくても実行する方が。お前のは、ただ……」
父も子も、それ以上、その場で語りあうことはできなかった。二人とも、気まずさの壁を貫き通して、あくまで議論するタチではなかったのである。
逮捕されてから、四十五日目に、柳は釈放された。
そのあいだ、逃亡した宮口は、まだつかまらなかった。
そのことは、何となく柳を愉快にした。
逃亡事件のあった直後、警視庁の二人の刑事、牛のような男とリスのような男が、柳のとりしらべをした。二回目の取調べは、宮口に対する憎悪が、柳にも向けられたかたちで、二人は性急になり、興奮して、手きびしくなっていた。柳の態度も、前にくらべて強硬になっていた。刑事たちに対する反感や憎しみが湧《わ》きあがらないのは、あいかわらずであったが、「宮口の奴に負けたくない」という、競争心が強く彼に作用していた。「ぼくだって、特高の首をしめて、警察の二階からとびおりて脱走することぐらい、できるはずだぞ」バケツの水の中に首を突っこまれたり、腕をねじあげられたり、下腹部をふんづけられたりしている最中に、柳はそう考えつづけた。ゴムの棒でなぐられるたびに「もっとなぐれ、もっとなぐれ」と、彼にふさわしくない、馬鹿元気がでてきた。
責めさいなまれるうちに、リンチ事件のあったアジトに読経に出向いた夜の記憶が、次第にハッキリとよみがえってきたのは事実だった。たしかに、宮口が現場にいて、柳と話をかわしたことも想い出されてきた。階下にたむろしていた青年たちの顔も、一つ一つ想い出されてきた。刑事のつきつける写真のなかにも、その顔がまじっていた。夜なかから夜あけまで連続した、苦痛の中で、かなりことこまかに(ことによったら、刑事たちの参考になるぐらい詳細に)、追及される事実が、想い出されてくるので、彼はかえって「もうこうなったら、一言だってしゃべってやるもんか」と、ムキになってくるのだった。二人の刑事は、決して強い男ではない。特別、問題にするに足りない男たちだ。それにひきかえ宮口は(また、穴山は)、強い男であるばかりでなく、どうしても、のちのち問題にしなければならない特殊な奴(奴ら)だ。そう感ぜずにいられない柳にとっては、「敵」はむしろ、宮口や穴山の方であるように思われてくるのだ。自分の肉体に密着し、自分の上にのしかかり、叫びながらおおいかぶさってくる二人の刑事は、遠くはなれた無縁の存在のように思われ、どこで何をやっているのか皆目不明な宮口や、どす黒い底をのぞかせる穴山の方が、自分のすぐ傍に立ち、自分を冷笑し、分析しつくしている「やっかいな相手」として、からみついてくるように思われてならないのだった。宮口や穴山が、これからさきの彼に、決定的な影響を及ぼしそうな作用(それが、打撃にしろ、はげましにしろ)をあたえるであろうという、予感はつよまるばかりだった。それだのに、彼自身の方から宮口や穴山に、一体どんな作用をおよぼしたらいいのか、見当もつかないのであった。
柳の調書には、宮口たちに不利な事実はもとより、「宮口」という名前すら書き記されていなかった。そのことは、釈放される柳を、少からず愉快にした。
街路樹はすっかり裸になり、街ゆく人々は、年の暮をむかえるべく、冬支度していそがしげに歩いていた。執事につきそわれて寺へ帰る柳には、ソンをしたとか、ひどい目に遭ったとかいう気持は少しもなかった。彼は、ただ、殺風景な冬景色でも、街の姿、住民の往来がすべて、色あざやかで、活力ゆたかで、生きがいある、なつかしい喜ばしいものに感ぜられた。人生の暗さとか、つらさとか言ったものは、まるで感ぜられずに、ただ、自由になった自分めがけて「人生のなまなましさ」が、いくらかウキウキした息づかいで、押しよせ、むらがり寄ってくるような気持だった。
「ぼくは、なんにもしていなかったんだ」
「へええ。なんにもしないで、こんなに長く」
警察署内の空気のものものしさに、うんざりした執事は、なるべく人眼につかない裏通りを、いそぎ足で歩いた。
「刑事って、いばってますねえ。あんな乱暴な口のきき方しなくても、よかりそうなもんだのに」
「何か言われたの」
「ええ、起《た》っても坐っても、どなりつけて叱りとばすんですからねえ。かなわないや」
「ああいう職業なんだよ」
「それにしても、おどかし方がひどすぎますよねえ」
執事は、誰かがあとをつけて来やしないかと、ふり向いてたしかめたりした。
父は、畠《はたけ》に出ていた。
江戸時代、いやもっと古い鎌倉時代をおもわせる黒塗りの門からつづく長い石畳は、一段たかい台地の下で、墓地への路と、庫裡《くり》への路とに分れる。さらに高くうずくまっている丘陵地の下、庫裡の屋根よりは高い台地のはずれに、父の好きな畠がつくられてあった。
自分のもとへもどってくる息子を迎えるのに、柳の父の一ばんいい方法は、まるで帰着の時間も知らないようにして、泥と汗にまみれ、農具を手にしていることなのだった。泥いじりに没頭して、ほかのことは忘れてしまうことであった。
小石まじりの固い地面を掘りくりかえす、鋤《すき》の刃の音を遠く耳にしたとき、柳にはそれがわかった。
母屋の方へは行かず、台地への斜面を彼は登った。古い麦藁《むぎわら》帽子をかたむけて、古いセーターと古いズボンで、丸っこい身体をたえまなくうごかしている父の姿が、眺められた。陽の光をさえぎる、樹木の多い丘は、畠地への風通しをわるくしていた。腐葉土をモッコではこび入れ、人糞《じんぷん》を何回も鋤き入れ、瓦の破片や、小石を根気よくふるい出す。それでもなお、なかなか土質の改善されない、畠には不向きな地面であった。
「バカバカしい。おやめなさいよ。野菜ならいくらでも、八百屋さんで売ってるわよ。くたびれるばっかりで、つまらないじゃないの」
今日もまた、舌打ちしてしゃべっている、母の声がきこえてくるようであった。
中庭の草むしりさえしようとしない母は、畠になど足をふみ入れようとしない。そんな母ばかりではなく、誰からも見られたくない、誰をも見たくないという気のくばりが、畠仕事に熱中する、父の肩つきにはみとめられた。このまま地面の下へ、もぐりこんでしまいたい、隠れてしまいたいとでも考えているみたいに、父はわき目もふらないでいた。
最後まで、みどりをそえていた大きな芋の葉、長い芋の茎も刈りとられたあとであった。
やがて泥をかぶった氷の歯をむき出す、勢いのよい霜柱を待つばかりの畠土は、ぶあいそうに灰色であった。
起ち上って、こちらを向いた父の眼には、どうしてもおさえることのできない、喜びのかがやきがあった。口もとも、ごくあいまいな笑いでゆるみそうになった。
「…………」
何を言ってもマがわるくて、鋤の柄の上にかさねた父の軍手には、モジモジした力がこもっていた。
「お母さんが、待ってるぞ。早く行ってやれ……」
よわよわしい、しゃがれ声で、父はつぶやいた。下ばたらきをしていた、仏教大学生は、顔一面をぬらした汗をぬぐって軽く頭をさげた。老人に似あわぬ労働好きの、おつきあいをさせられて、閉口している書生は、「どうして早く、仕事を止めにしないのかな」と、言いたげだった。
「ナカヨシ会の子供たちが、どうして先月も今月も、人形芝居やってくれんのかと、ききにきました」
社交ずきの仏教大学生は、いそいそした声で「お坊ちゃん」に、話しかけた。
「オルガンを買ったら、どうかと思いましてね。先生に申し上げてるんですが、なかなかお許しがないもんで。若先生が帰ってきたら、よく相談しようと思ってたんです」
台地の側と、母屋の側、二つの側の生垣にはさまれた石畳の上を、ころげるように駈けてくる女中の姿が見えた。
女中の末子は、立ちどまって、丁寧にお辞儀をした。
「おかえりなさいまし」
立ちすくんで、こちらを見つめ、ポッと頬を赤らめると、小柄な身をひるがえすように、玄関の方へ駈けもどった。玄関への石畳をふんで行くあいだに、母屋の廊下を走りぬけてくる足音がきこえた。
「あら、お帰りなさい。お母さまがおまちかねよ」
玄関のタタキより、三段たかい板の間に、宝屋の若夫人が立っていた。
うすくらがりの中に、形よく白足袋をそろえた夫人の和服は、めざめるばかりはなやかに見えた。シブ好みの和服の衣地、いぶしたような色地の重みのありそうな帯地、どれが何というキジなのか、柳にはわからなかった。こりにこった着物と帯と、そのほかの服飾品(オビドメとか、オビヒモとか、エリとかスソとか)が、まじりあってつくりだす色模様が、なんとも言われない、おちつきはらった美しさで、彼を迎えていた。
「ほんとに、しょうがない子だわ。みなさんに御心配ばかりかけて。ほんとに、どういうのかしら、この子は……」
夫人の肩ごしに、母が顔を見せた。
電話のベルが、まだ段をのぼらない柳の頭上で鳴った。檀家《だんか》の便利のため、寺の電話は、玄関のとっつきにあった。
「ハア、ハア、どなたですか。ハイ、ハイ」
警戒心でこわばった母の様子で、柳には、それが自分への電話だとわかった。
「ハイ。もどってはおりますが、ここしばらくは謹慎中でございますから。ハイ、どなたさまにも、お目にかからんことにしておりますので。ハイ。そうです」
母は、気むずかしく電話を切った。
「ゆだんもスキもありゃしない。もう、お仲間から、電話がかかってくるんだから」
「穴山君からじゃないの」
「ううん、ちがうのよ。朝鮮人みたいだったよ。クワバラ、クワバラ」
「ぼくの電話を勝手に切るのは、ひどいな」
「ひどいも何もあるもんですか。人がいいもんだから、みんなにだまされちまって。腹が立つったらありゃしない」
「お父さまは、おかえりのこと御存じなのかしら」
と、若夫人が母にたずねた。
「知ってますとも。あのひとがもう少し厳重に叱ってくれるといいんだけど。ダメなのよ、ほったらかしておくから」
「お父さまは、ああいう方だし。仏教学者でいらっしゃるから。そうガミガミおっしゃるはずないわよ。それが当然ですわよ」
「学者って、ダメね。奥さん、そう思わない? 実業家の方が、ずっとたよりになるじゃないの」
「そうかしらね」
二人の女は、柳を抱きかかえるようにして、浴室の方へ連れて行った。
母が、柳の背なかをこすっているあいだに、宝屋夫人は、柳のぬぎすてた衣服を、炊事場の大釜へ入れて煮ていた。
「末子さん。クレゾールは、あんまり入れすぎると、きれが弱るからね」
まるで自宅のようにして、指図する夫人の声が、浴室まできこえてきた。
「まあ、まあ、法界坊みたいに、穢《きたな》くなっちまって。みっともない。どうせやるなら、天一坊みたいに、ハデなことをおやりよ。痩《や》せちまって、苦労するばかりで、何にもならないことやるの、およしよ。つまらないじゃないの」
「お母さんみたいに、ハデなことばっかりねらったって、ダメなんだよ。人生は地味な苦労もしなくちゃな」
「だって、こんな目に遭ってたら、一生、ハデなことなんかできそうもないじゃないの。はたで見ていても、歯がゆくて、ばかばかしくて……」
「お母さんの満足する、ハデなことって一体どんなことなんだい。大臣や大将にでも、なれって言うのかい」
「息子のことは、母親が一ばんよく知ってますよ。なれっこないものに、なってくれなんて、誰も頼んでいやしない」
「でも、なれたら、大臣、大将になってもらいたいんだろう」
「なれっこないものに、ムリになれと言ったって、しょうがないでしょう」
洗えば洗うほど出てくる、柳の背なかの垢《あか》に、母親はあきれかえっていた。
「大臣、大将はダメだとしても、文学博士もあれば、代議士もあるよ。大僧正だって、いいわよ。小説家だって菊池寛先生ぐらいになれば、たいしたもんじゃないの。大金持にでもなってくれれば、何よりいいけど。あんたには店一つひらく才覚はないだろう。ひとかどのモノになってさえくれれば、お母さん、文句は言わないけど。だけど、お前さん、何にもなれそうもないんだもの。それじゃ、困るじゃないの」
白タイルの床にすえた、小さな腰かけに、好きかってな恰好で腰をおちつけ、自由に手脚をのばしたり、ちぢめたりして、柳は入浴をたのしんでいた。母がふんだんにあびせてくれる湯、あたたかく舞いあがる湯気、気持のよいシャボンの香りで、彼はすっかり満足していた。
「あんたが殴られたり、いじめられたりしたって、誰も感心したりしてくれる人、いやしない。少しでも、可哀そうがってくれるのは親だけよ」
いくら隠そうとしても、柳の肉の変色した部分が、母親の眼に入らぬわけにはいかなかった。傷あとなど、親に見られるのは、何よりイヤである柳も、裸であるからには、見られることを防ぐことはできなかった。
「そりゃあ、そうだよ」
母親の指さきを、くすぐったがりながら、柳は言った。
「可哀そうがられるはずはないさ。もともと、そんな資格がないんだもの。自分だって、感心していないんだから、他人が感心するわけがない」
「だから、もっと人から感心されるようなことを、おしよ」
「そうはいかないよ」
「どうして。どうして、そうはいかないのよ」
「だって、そうはうまくいかないよ。そう、人を感心させろと言ったって。第一、いいじゃないか。そう感心させなくたって」
「それじゃあ、男として生きがいがないじゃないの。|世すてびと《ヽヽヽヽヽ》なら、それでいいかもしれないよ。昔っから、風流人とか文人墨客とかさ、ああいう人はそれでいいかもしれないよ。あんたは、風流人でもなければ、文人墨客でもないじゃないか。そうだろう? 今から|世すてびと《ヽヽヽヽヽ》になって、どうするのさ」
「うん、それは、そうだけど。だけど、お母さん、坊主というものは|世すてびと《ヽヽヽヽヽ》じゃなくちゃ、いけないんだよ」
「そんなこと知ってますよ。ばかばかしい……」
母の声が、気まずくかすれたので、柳は、言わなければよかったと思った。「坊主の女房」であることが、イヤらしい矛盾であることは、今さら言うまでもないのであるから、母の傷口をわざわざ突っつくようなまねは、彼としてもしたくなかった。よくも坊さんの奥さんで、平気でいられますねと、黒い反問をあびせかけたくなっても、やはりそうはできなかった。母にしろ、父にしろ、彼に向ってほほえみかけてくる親の顔を、投げつけた墨やインクの色で汚したくはなかった。もうとっくの昔に、汚しはじめているにしても、彼が特に両親の顔を目がけて、投げつけたわけではなくて、いろいろの関係から曲りくねって、不本意ながらそうなったのだと、自分には思いこませていた。
「ぼくが|世すてびと《ヽヽヽヽヽ》に、なるつもりもないし、なれるはずもないけどさ。|世すてびと《ヽヽヽヽヽ》のこと考えたら、何もそうそう他人を感心させたがらなくたって、いいじゃないか」
「だめ、だめ。あんたのは要するに、怠け者なんだから。熊谷の蓮生坊《れんしようぼう》だって、文覚《もんがく》上人だって、もとはと言えばレッキとしたおさむらいですからね。武勇すぐれたおさむらいで、男としてやるだけのことは、やってのけた上で、世を棄ててるんですからね。最初っからダラダラと、だらしなくしていて何ができるもんですか。理窟を言わせれば、母さんなんか、まだまだ口で、あんたなんかに負けやしない……」
「……お母さんに、口で勝ったってしょうがないものな」
「勝てるもんですか」
「勝つ気が起らんよ」
「それより、ヘンな病気でもうつってるといけないから、前の方、よく洗っておおき」
サクランボ、ハタンキョウ、グミ、クワの実、ブドウ、イチゴ。それに、イチジクの紫色の表皮と、あお白い内皮、その中のいかにも肉らしい赤。赤系統の果実の色のようなものが、ところどころまじっている、自分の変色した肉の部分に、シャボンの白い泡をぬりたくる。母親がいなくなると、「前の方」を、シャボンの泡のなめらかさを通して、柳はゆっくりいじくりまわす。一本一本、独立していた陰毛を、かさね合せたり、こねくりかえしたりしていると、人間の肉のはざまに生えている、「毛」というものが、何とも言われぬ、特殊、特別、めずらしいものに思われてくる。手あらく撫《な》でてやると、ジャリリと音をたてて、「持主」に反抗するみたいに、白泡の下で黒光りしながら、団結しているらしい気配もあった。
「ヘンなものが、くっついているなア。なんだろう、この色は。したたか者のような、バカのような。この赤いような黒いような、ナマイキな色は、だまったまんま僕の両脚のあいだにはさまって、ジッとしているんだ」
よそよそしい観察と、言うに言われぬ親愛感で、貧血しそうなほどシンミリしながら、柳は、たった一本の短い肉の棒の弾力や固さを、今さらのようにたしかめていた。
「こいつが、ぼくの中心だなんてことが、ありうるだろうか。もし、ありとすれば、許すべからざることではなかろうか。こいつ、このやつ、何ですか、こんなもの。この偉そうにしている『股間《こかん》の隠者』が、わずか二、三寸、のびたりちぢんだりすることによって、何かしら正義や不正、善や悪、よろこびや悲しみが決定されるというようなことが、どうして是認できるであろうか。何千万年かの甲羅をかぶったような、このすさまじい色ときたら、一種の神秘であり、御託宣であるであろう。なまやさしい、軽薄なものと、ぼくだって考えはしない。考えはしないが、どうして、こ奴にそのような、まるで天皇ヘイカのような特権が許されてよいものか。このひとりよがりの、ケチくさい独裁者を、ていねいに洗ってやる必要など、ありはしないのだ。いくら洗ってやったところで、こいつの根性がなおるわけはないのである」
浄泉寺の開山、つまり第一代目の住職は、その点で徹底した男であった。彼は、自分にとって不必要なものは、必要がないと判断して、あとかたもなく焼きすてたのであった。そのような徹底した境地に入れない柳にとっては、結局のところ、無難なところでいじくりながら、批評を加えるのが、せいぜいであった。
「こいつを、ヌケヌケと生きながらえさせておいたのでは、すべての精神的なるものは昏冥《こんめい》におちいらざるを得ない。かと言って、このモノなしに発育した思想を、この世の男女が、どうして信用してくれるだろうか。だからこそ、この穢らしい棒が、まるで神か仏のように、絶対的な偉力をほこりながら、沈黙することによって、おびやかしつつ、爆発の機をねらっているのだ。どっちみち、俺のものだという、自信マンマンのこの顔つき(全く、これが奴の顔なんだから、たまったもんじゃない)で、俺だけは世界がどうなろうと、社会組織がどう変化しようと、のけものにされるどころか、ますます増大する価値によって、『生の中心』であることを立証しつづけるのだと、笑いながら主張している。ああ……」
嘲笑《ちようしよう》しようとするボーを、柳は股《また》のあいだにはさみ、密着させた両脚の下に隠してしまう。すると、団結した毛たちだけが、見えていて、ふくらみを増した|つけ根《ヽヽヽ》のところ以外、ナマイキな突出物が見えなくなった。
しかし、見えなくなったために、かえって柳の肉と「彼」とのつながりはハッキリしてきて、柳の精神までが、いちじるしくきゅうくつになった股のところで、「彼」に引っぱられているのを感ぜざるを得ないのであった。
「それにしても、この寺を開いた江戸時代の、その坊さんは、焼きすてたあとで、後悔しなかったろうか。いや、おそらく後悔なんかしなかったにちがいない。むしろ、焼けあとを眺めるたびに、彼の決意は新鮮なものになったにちがいない。たちまちのうちに、充血したり硬直したりして、前へ前へと突進したがるボーなどが、精神の絶対的自由にとって、何よりの邪魔物であることは、言うまでもないのであるから、それから解放された開祖上人が、ふるい起ったことは充分に想像されることだ。ぼくら、ふつうの『眼』しか持っていない俗人にとっては、焼けあとが、みにくくひきつれたり、ゆがんで変色したもののように映じるであろうが、より高級な『眼』の光をランランとかがやかしていた彼にとっては、あたかも永久不変の美と健康をほこっているかの如き、肉体の各部分が、そもそも仮りのモノ、腐れる運命によって縛られたモノ、美だの醜だのという偽りの判断をかもし出す拠りどころにすぎないのであったろう。他人の屍《しかばね》を見つめることによって、悟りを持続するなどという方法は生ぬるいはずであるから、自己のシカバネをありありと想いえがくために、焼け落ちた根源をあらかじめ用意しておいた方が、はるかに賢明だったにちがいない。ああ、それにしても……」
柳は、シャボンの泡でスベスベした二つの脚のつけ根を、ピッタリとくっつけあったまま、下半身をくねらせて、快感を味わっていた。
「ああ、それにしても、この快感は。これがうつろいやすき、不安定なもの、瞬時のまよいにすぎないにしても、何とコレがぼくに生きがいを感じさせることだろう。その|生きがい《ヽヽヽヽ》たるや、あさましい沈没であり、先の見えないひとりよがりであり、あまりにもケダモノそのものの血統にすぎないにしても。ハックション」
白い泡の魅力を、洗い流すのはいかにも惜しかったが、冷えてきた背なかと腹に、彼はあたたかい湯をかぶせた。
タタミ四枚ぶんの面積はある、おそろしく頑丈な角テーブルをはさんで、女二人はおしゃべりをしていた。二人の声は、それぞれちがった意味あいで、はずんでいた。会話のさいちゅうにも(いな、むしろ会話なればこそ)、二人の女は公然と若々しさを競っているのだった。
「うまい考えですわねえ。感心しますわ」
「ええ、そうなの。なかなかね」
と、宝屋夫人は言った。
「どなたも、長生きがしたいし、お金の方もほしいですものね」
「そうよ。長命貯金とは、いい考えですわよ。クスリを飲むたびに、お金がたまる。こんないいこと、ありませんもの」
「なんだか人様の欲望を、そのまま利用させていただくようで、あさましいみたいですけどね。まあ、あんまり上品な商売じゃありませんけど」
「あら、そんなことありませんわよ。人さまをお助けしながら、儲《もう》けさせてもらうんですもの」
と、母はムキになったような振りをして、言った。
「ニコニコ貯金というのが、ありますでしょう。あれに、主人は感心していましたんですが、自分でもやりたくなったんですね。今の社会では、産業資本より金融資本の方が、どうしても支配者になりやすいんだそうですの」
「ええ、ええ、それはそうでしょうとも」
経済界の知識のまるで欠乏している、柳の母は、あいまいに相槌《あいづち》をうっていた。隣の部屋で、末子の手を借りて着がえをしながら、「ヘヘエ。金融資本か。えらいこと知ってるな」と、柳はきき耳をすましている。
「ニコニコしながら、お金をためる。お金をためながら、ニコニコする。それはまあ、けっこうなお話ですけど。それだけじゃあ、まだ足りないと申しますのよ。ニコニコと暮しているだけじゃあ、それで果して長生きできるかどうか、きまったわけじゃない。もっとはっきり将来を保証するには、お金のほかに、おクスリの力が要る。おクスリと言ったって、いろいろございますでしょ。身体を丈夫にするばかりじゃなくて、御婦人の眼だとか鼻だとか、肌だとかを美しくするのだって、ございますでしょ。そのおクスリを毎月配達するのは、タカラヤ製薬でおひきうけして、貯金の方は第八銀行の方へ、おねがいする。どうでしょう、このプラン。奥さまなんか、どうお思いになる」
「うらやましいわ。お宅の御主人は。どんどん社会へ乗りだして、いらっしゃって。ほんと、うらやましいと思ってる」
「ですから、お寺さんがたにも、手伝っていただかないとね」
「ええ、ええ、それはもう。宝屋さんのことですもの」
お母さんの方が、どう見ても「おひとよし」だなと、柳は思っている。
「お手伝いは、喜んでさせていただきますけど、それは、どういう風に……」
鉄ムジと言うのか、茶ミジンと言うのか、柳自身には見当もつかない、ひどくゴワゴワした和服を着せられて、彼は客間へ入って行く。幅ひろのチリメンの帯は、何回腹をまいても、まだまききれないほど、長い奴だった。床の間には、白い冬の花と、温室《むろ》咲きの紅カーネーションが活けられてあった。たくましい樹木の枝に可憐についている、その冬の花の名も、彼には、わからなかった。ながいながい歳月に堪えてきた、その労苦と強靱《きようじん》さをほこるかのように、硬くねじまがった木材の性格をうまく利用した床柱。黒光りしている床柱の前に、彼は坐った。ねじまがっているのは、正面むきだけで、横がわは木質の硬度を示して、するどい直線に削りとられている、その床柱の工夫は、なかなか良いと、坐りながら彼は考えていた。
廊下にそって長くつづくガラス戸は、しめられてあったが、ガラス越しに、中庭の冬景色がながめられた。池の水は、樹々の茂みの影をうつして、澄んでいた。水は、黒く見えた。そのため、池をめぐって乾きはてている、さまざまの石は、白っぽく見えた。春から夏にかけて、水分をふくんで厚みをましていた庭苔《にわごけ》は、乾燥と寒さのため、地面をはなれて、そりくりかえっていた。
「おたずねしたいことが、ございますが」
と、夫人が柳に言った。
「仏教の方では、奇蹟《きせき》というものが、あるんですの?」
「…………」
母はもとより、柳にも、夫人がどうしてそんなことを言い出したのか、質問の意味そのものが、すぐにはわからなかった。
「キリスト教では、ありますでしょ。イエス様が第一、奇蹟を行いになったし。マリア様の像におねがいしたら、奇蹟があらわれたり。足なえが立って歩いたり、癩病《らいびよう》が全快したり。そういう奇蹟というものが、仏教では……」
「ないと思いますけど」
「ないこと、ないじゃないの」
と、母が、じれったそうに言った。
「いや、ないんですよ。おシャカ様の説かれた仏教には、奇蹟なんてものはありませんよ。あっちゃいけないんですよ」
「いけないこと、ないじゃないの。奇蹟はあってくれた方が、いいわよ」
と、母は熱心に言った。
「壼坂|霊験記《れいげんき》だってそうじゃないの。夫は妻をしたいつつ、妻は夫にしたわれつ、かんのん様のお力で、めくらの眼があいたじゃないの」
「いや、あれは……」
「赤ん坊のできないひとが、子授けのお地蔵さまにお参りしたりさ。みんな、奇蹟をあたえていただきたいからよ。おエンマ様にコンニャクをあげるの、あれは何だったけかな。胃病をなおすためだったかしら、アタマがよくなるためだったかしら」
「ウソをついても、舌を抜かれないためじゃないの。コンニャクってペロペロして、舌に似てるじゃないか」
「そうかもしれないね。ともかく拝んだり、お願いしたりして、何か効き目がなくちゃ、誰もわざわざそんなことするわけないじゃないの。奇蹟がほしいからですよ、みんな」
「もしも奇蹟がありうるとすれば、仏教の必要はなくなるよ」
「え? どうしてなの」
「もしも奇蹟がありうるとすれば、人間、百だって百五十だって、二百歳でも三百歳でも生きていられるはずだろ。また、たとえ死んだって、いくらでも生きかえることができるはずじゃないか。年とって、ヨボヨボになった腰まがりのお婆さんだって、薬師さまか観音さまでも拝めば、いつでも娘さんや、お嬢さんに生れかわることができるわけだもの。生老病死の四つの苦しみも、どこかへ消えてなくなっちまうんだろ。だからさ、何も仏教なんかなくなったって、さしつかえないじゃないか」
「さっちゃんて、すぐキョクタンなこと言うから厭よ。そりゃ、程度問題よ。あんたみたいな理窟ばったことばかり言ってたら、お寺は|もち《ヽヽ》ませんよ。一般の人は、そうそう、むずかしい理窟ばっかり、こねちゃいませんからね。お百姓だって、商人《あきんど》だって、みんな御利益《ごりやく》がほしいから、掌を合せて|すなお《ヽヽヽ》に拝んだりしてるのよ。その信心に水ブッかけるようなこと、言わない方がいいわよ。奇蹟がないなんて、そんなこと言ったら、お寺が困るわよ。ねえ、宝屋さん」
「だけど、奇蹟がないと悟った地点から、仏教は出発したんだからな。キセキにすがったりすれば、仏教のダラクどころか、仏教を裏切ることになるんだ」
「まあ、どうでしょう。偉そうな、このいい方。さっちゃんが、いくら偉そうなこと言ったって、わたし一向にピンと来ないわ」
「そりゃ、まあ、お母様の眼からごらんになれば、まだ|ぼんぼん《ヽヽヽヽ》で。お母様が生んであげなければ、存在できない人なんですから、そりゃ、どうしたって、自然そう見えるでしょうけど」
宝屋の若夫人は、注意ぶかく母子の議論をききとっていたのだった。利口そうな眼つきは、色気のある鋭さでかがやいていたし、油断のない口もとには、たえず愛想のよい微笑をたたえていた。だが、彼女が、いかにもおとなしやかに、していればいるほど、柳は彼女が、生き餌《え》をねらう猛禽《もうきん》類の冷静さで、翼をすぼめているように感じた。
「でも、長命貯金としましては、奇蹟がない方が、ありがたいんですわ」
「え? それはまた、どういうお話なの」
と、母は、あきれかえったように言った。
「ええ。人間の生命と、人間の財産が、ながつづきしない、消えやすいものだからこそ、長命貯金が必要になるんですもの。生命、財産が、諸行無常の嵐の中で、風前の燈火《ともしび》だからこそ、合理的な工夫が必要になるんですもの。奇蹟などにすがろうとしない、仏教的な精神こそ、まさに長命貯金の目標にピッタリなんですわ。おクスリは、人間の生命を守る、もっとも合理的な方法ですし。貯金は、人間の財産を守る、もっとも保証された方法ですし。奇蹟なんて、そんなあぶなっかしい、あてにならない救いを待つよりは、この二つの安全確実な方法をしっかり握っている方が、百倍も千倍も、たしかな生き方なんですものね」
「ハハア、なるほど。よく考えましたね。よくも、うまく考えたものですわ。ほんとに、そんならば、ごまかしなしで合理的に、お手伝いできると言うわけですのね」
「ええ、そうなりますんですの」
「寺院がそういう面で、お檀家さんのお役にたてるんでしたら、現代的で後腐れなくて、私どもも気分がひきたちますわよ、ほんとに」
「私はただ、こちらさんが長命貯金の寺院出張所になって下されば、それだけ、こちらへチョイチョイおうかがいする、口実ができるわけですから。それで、おすすめするだけなんですの」
柳には、はじめから、大まじめで金もうけの話などする夫人が、とても本気とは思えなかった。彼女が口もとから微笑を消し去って、暗い顔つきをするとき(そのときの夫人が、一ばん美しく見えた)、クスリ附きの貯金などという、いくらか浮き浮きした話題などとは、遠くはなれた地点に、彼女の想いの地下水が、流れついているにちがいなかった。
第一、どう頭をひねった所で、仏教と貯金がそんなに、原理的にスムーズに、結びつくとは考えられなかった。むしろ、蓄財こそ、仏教とは根本的に矛盾する行為のようにさえ、思われてならなかった。仏教教団に、「財」を寄進するのが、古代インドの長者たちの、最良、最善の行為とされた。「ザイ」をささげる、「ザイ」を棄てる、「ザイ」を布施すること。そのためには、たしかにあらかじめ蓄財がなされなければ、不可能だったのであろう。寺院や塔を建立するには、巨額の費用がかかるわけであるから、地上にそそり立つ寺院と塔のすべては、各時代の「長者」たちの、寄進と布施のおかげをこうむっている。いわば、ささげられた「チクザイ」の、象徴みたいなものだったのであろう。
しかし、それにしても「財をたくわえること」は、どうしたって、それによって現世の欲望にしがみつくことになるのであるから、あまり仏教的な方向とは判定できない。
「ダメですよ。仏教と貯金は、結びつけようとするのが、ムリな話ですよ」
「ほら、また、あんたは。ぶちこわしの意見をいう」
「だって、おかしな話だから、おかしいと言うんですよ」
ほんとのところ、柳にとっては「長命貯金」の一件など、どうなろうとかまったことではなかったのだ。もっと驚天動地の大事件が、日本の仏教界、いな日本国そのものに降りかかる予感が、彼の一分刈りの頭上に、おおいかぶさっていた。寺院経済、いな寺院の存在そのものを、根こそぎ揺さぶるものの地鳴りが、柳の耳にきこえていた。
宝屋夫人の耳にも、何かしら、柳のそれとは全くちがった地鳴りが、きこえているにちがいなかった。社会主義とか、革命運動とか、またはダラクしつつある仏教とか、日本帝国の運命とか、そういった種類のものでない、何かしら柳には理解できない、柳の知らない「地塊」の「うなり声」のようなものが、彼女の耳の底で鳴りつづけているために、彼女は|とっぴょうしもないような《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》行為が、やりたくなるのにちがいなかった。
「穴山さんて方には、おどろきますわね。もう、五十口も、貯金の口を集めて下さったんですのよ」
「へえ、そうですの。わたし、あのひと、人相がわるいから、あまり好かないけど」
と、母は、穴山に対する反感をありありと示して、言った。
「何だか、卑しい所がある人じゃありませんか。利用できるモノなら、なんでも利用してノシあがって行く、そういうタイプじゃありませんの」
「ええ、きっと、そうなんでしょうね」
と、夫人は、気のない返事をしていた。
「穴山君ですか。あれは、悪にもつよく、善にもつよい男じゃないのかなア」
「さっちゃんには、わからないかもしれないけどね。お母さんの勘は、いつでもピタリとあたるんですからね。ああいう男は、自分の目的のためには、他人の幸福をメチャクチャにしても、平気でいられるんだよ」
「うん、それは、わからないことないけどさ。幸福って、一体なんなんですかねえ。ささやかな幸福とか、片隅の幸福とか、よく言うけどさ。穴山みたいな男に、すぐさまメチャメチャにされちまうような幸福なんて、それでも『コウフク』と言えるのかなア」
スキヤキの炭火のため、部屋は、冬知らずのあたたかさだった。大皿に盛られた牛肉は、大の男五人でも、食べきれそうにない量であった。あざやかな皿の藍色《あいいろ》に、むごたらしいほどつりあった、肉の色。それは、殺された牛の肉というよりは、まだ生きている肉。牛の形を失ったかわりに、別の形に生れかわった、別の生物の一種のように見えた。霜ふり肉は、白をまじえた血の色であるのに、血なまぐさい感じはなくて、果実の赤のように、安全な|つや《ヽヽ》でかがやいていた。肉ずきの柳は、スキヤキに向いあうと、殺された牛のことなど忘れてしまう。燃えあがる歓喜とでも言った、肉のよろこびで充ちあふれて、たまらないおいしさで、我を忘れるのだった。
それに、庖丁《ほうちよう》の切れ味をしのばせる、ぶつ切りのネギ。冷たい水を浴びせ、ミソギでもやったあとのように、神秘的な白さでジッと身をよせあっている、ネギの山。うすぐろさのために、したたかもののように見えるシラタキの、ブリブリした感じ。焼豆腐の、やわらかい切口。ミリンと醤油の泡だってくる匂い。
「まだ、肉のなまぐささの、溶け失せないうちに。外がわだけ土色にかわって、少し赤みののこっているうちに。そう、そう。煮えすぎないところで、あんまり味のつきすぎないうちに……」
ネギを噛《か》み切ったあとでは、シラタキの舌ざわり。次は、おとなしい豆腐の歯ざわりと、しみこんだ肉汁の味。つづいて、脂の少い肉をひときれ、脂だらけの厚い肉をひときれ。そのあとで、白米の味を口の中で調合して……。
「まるで、コウフクそのもののようね」
柳の猛烈な食べぶりに、夫人は見とれていた。
「コウフク? ちがいますよ。ただ、うまいだけですよ」
一息ついた柳は、あつくてたまらない舌と唇を、息を吹いてさましていた。
「もうもう、肉が好きで、好きで。肉をたべなきゃ、生きていかれないみたいな人ですからね」
と、母は、うれしそうに笑っていた。
「お宅の先生は、お肉、召し上りますの」
「ええ、ええ。大好物。眼がない方ですの。昔は、書生ッポのころは、お豆腐と|うどん《ヽヽヽ》が、世の中で一ばん、おいしいものだと思ってたんですのよ。結婚したてのころは、困りましたわ。すぐ、豆腐買ってこい、うどん買ってこいでしょ。わたしはまた、二つとも大きらいですからね。今じゃア、スキヤキのあった翌朝《あくるあさ》は、昨日の肉のこってないかって、きくしまつですから。そのくせ、肉は高いから、贅沢《ぜいたく》だ。あんまり買うなって、言ってますけどね。ひとさまからもらった、お肉なら、文句言わずにムシャムシャ食べてますけど。あまり上等の肉を買うと『金《かね》グソたれるようなもんだ。バチがあたる』って、怒ってますけどね」
「金グソとは、うまい言葉ですわね。名古屋の方言でしょうか」
「どうせ、お百姓のことばですよ。怒るときには、名古屋弁がでるんですよ」
「お宅の先生でも、怒ることおありになるの」
「ありますとも。大ありよ。つまらないことでムカッ腹を立てては、後悔してますわ。怒るだけ、好人物なんですのよ」
ああ、ああ、これではダメだ。とてもダメだと、柳は、煮えかげんのいい松阪肉を一つまた一つとのみ下しながら、思いつづけていた。こんな調子では、うちのおやじさんが高僧になりきることなど、とてもムリな相談じゃないか。金グソとかいう名古屋弁が、どうとかしたんだって! ああ、ああ、なんたることだ。なんとか、もう少し、哲学的な深遠なことばでも、つぶやいたらどうなんですか。何です、金グソとは。金グソでも鉄グソでも、どのみち人間の肉体が排泄《はいせつ》するものは、不浄のものにきまってるじゃないですか。
眉の上、|ひたい《ヽヽヽ》のあたりからはじまって、咽喉《のど》もと、胸、はら、股にかけて、働いたあとの牛のように、牛の匂いのする汗がにじみ出してくる。
「まあ、まあ、大へんな汗ですこと」
母が炊事場へ去ったあと、夫人は柳のそばへよって、彼のひたいの汗を彼女のハンカチーフでぬぐった。
「警察の署長さんの部屋で、私のやったこと、まだおぼえていて?」
「…………」
「あなたの傷跡に、私が口をつけたこと、おぼえていて?」
「おぼえてるに、きまってるじゃないですか。あんなとき、あんな|みっともない《ヽヽヽヽヽヽ》ことして。忘れられるもんですか」
「|みっともない《ヽヽヽヽヽヽ》というのは、あなたが恥ずかしかったということなの?」
「…………」
「きっと、気味がわるかったんでしょうね」
「気味がわるいのとは、ちがいますよ」
「じゃあ、いやらしい、罪ふかいことだというのね」
「……まあ、ああいうことは」
「よくない、と言うのね。悪とか罪とかいったモノだと言うのね」
問いつめられると、柳は、息ぐるしくなってくる。
「ああいうことで、男が女を、非難したりできるもんではないですから。だから、つまり、|みっともない《ヽヽヽヽヽヽ》と言うよりほかに、言い方がないですから……」
「ああいう場所でなきゃあ、かまわないんでしょう?」
「…………」
「もしも、ああいう場所でなかったら、あなたは私がほしいでしょう。そうじゃないの?」
柳は、夫人のことばに返答することができなかった。夫人があまりにも鋭く、彼の内心のうごきを、はしばしまで見ぬいているからである。彼の方では、年上の女性の心理、ことに夫人のような、知能の発達した奥様の内心のうごきになど、ついていけるわけはなかった。それに彼は、やはり「若い坊主がものめずらしいから、口なおしみたいにして、ぼくを箸《はし》の先でつまんでいるんじゃなかろうか」という疑いと不安を、すてきれなかった。もう一つ、「姦通」という行為には、正面きった「悪」とか「罪」とかいう以外に、男らしくない、卑怯《ひきよう》な、コソコソした、元気ざかりの青年にふさわしくないものがふくまれているようで、厭《いや》なのであった。夫人に推察されたとおり、彼は、彼女がほしかった。「裸の彼女」と想像するだけで、もうあたりが今まで見たことのない「闇のかがやき」で、きらめき、波だち、うずまくような気持だった。だからと言って、女に甘ったれるということは、一個の男性として、武士の風上におけぬ、恥ずかしいことではないか。女をひっさらってきて、自由にするのなら、まだまだ責任と勇気を証明する点で、許されるかもしれない。だが、ずるずるべったりに、夫のある女の、ふところにしなだれかかるとなったら、その厭ったらしい安易な甘さで、男の口がひんまがらないだろうか。
廊下を折れまがってくる、末子の足おとがきこえた。メロンの皿をのせた、漆塗りの盆が、ガラス容器のふれあう音を、かすかにたてた。
夫人はすばやく、柳のそばをはなれたけれども、果実の皿を卓上にならべる末子のそぶりは、ぎごちなかった。末子は、室内の気配を察したらしかった。
「悪とか罪とかいうものを、そう簡単にきめることはできないでしょう」
その場をつくろうように、夫人は言った。それは、わざとらしくきこえた。末子にも、そうきこえたにちがいなかった。彼女は夫人の方を、白眼でチラリとにらんでから、部屋を出て行った。「この世に悪があるからこそ、仏様の救いが必要になるんじゃないのですか。悪がさかえて、悪がはびこればはびこるほど、仏様が、ありがたいものになるのじゃありませんの。悪が下火になり、悪が衰弱してくるにつれ、仏教も色あせてくるんじゃないのですか」
「それは、そうかもしれませんが」
「あなたがもし、少しでも仏教に身を入れて何かなさろうとなさるのなら、悪について研究なさる必要があると、私、思いますけど」
「ええ、それは、そうかもしれませんが」
「善」についてはもとよりのこと、「悪」のコトとなったら全く自信のない柳は、ことばを濁すより仕方なかった。「悪の研究」などは、自分には不向きなこと、専門外のこと、やっても成功おぼつかない、断崖《だんがい》のよじ登りであって、自分はせいぜい平らかな麓《ふもと》の方で、悪の山容を仰ぎ見ていれば|すむ《ヽヽ》と考えていた。
「どのみち、悪にぶつからずにはすみませんわよ」
熱をおびると、ますます澄んでくる両眼で、夫人は柳を見つめた。
「善人にしろ、悪人にしろ、悪にぶつからずにすまそうとしても、不可能ですわよ。よくて。よく、おぼえておおきなさい。悪の味をよくかみしめること。それでなきゃ、とても悟りはひらけないのよ。まず、悪を知ること。骨身にしみとおるまで、悪を知りつくすこと。悪のたのしみ、悪のはたらき、悪のすごみを、口からゲップが出るほど腹いっぱい食べつくすこと」
「ムリですよ。急に、そんなこと言われたって」
「ムリなことないのよ。ちっとも、ムリなことなんかありはしないのよ」
と、夫人は、冷静そのもののような口ぶりで言った。
「あなたにも、嫉妬心《しつとしん》はあるでしょ。あるにきまっているわね。私のことを例にとるのは、おかしいけれども、他の女の方を例にとれば、あたりさわりがあるでしょうから、私のこととして。もしもよ。もしも穴山さんが、あなたの眼の前で私を手ごめにするとしたら、あなた、どんな感じがします? 平気でいられますの」
「それは、もちろん、平気ではいられませんよ」
「あなたが、止めようとする。穴山さんが腕力をふるう。あなたも腕ずくで、始末をつけようとする。そうなったら、あなたはきっと、穴山さんを殴り殺してでも、私を救って下さると思いますけど。ねえ、そうじゃなくて」
「……それは、|その時《ヽヽヽ》にならなきゃ、わかりませんよ」
柳の舌は乾き、柳の咽喉《のど》は、いがらっぽくねばついていた。
「|その時《ヽヽヽ》は、いつでもやってくるのよ。何回でも、|その時《ヽヽヽ》がやってくるのよ」
「ぼくは、穴山を殺すのは厭ですよ。第一、ぼくが人殺しなんて……」
「誰も、殺してくれなんて、お頼みしてはいませんわ。私が申し上げているのは、柳さん。|その時《ヽヽヽ》に、あなたが、厭でも悪にぶつかるということですのよ。ですから、あなたには、仏教の真精神を味わうチャンスが、無数にあるということになるわけですのよ」
「…………」
「女は、私だけではありませんし。男は、穴山さんだけではありませんし。それに、悪は何も、男女関係だけにへばりついているわけではありませんし。あなたのお好きな、社会主義の運動にだって、革命党の組織にだって、いくらでも巣くっているんでしょうからね」
母は、表玄関の方に来客がある様子で、なかなか客間にもどらなかった。客は、借地人の男らしく、金銭の額を大声でしゃべるのが、遠くとぎれとぎれにきこえてきた。畠から帰ったはずの父も、女の客のある客間には、めったに姿を見せぬならわしであるから、この部屋に入ってくるはずはなかった。客間とは襖《ふすま》つづきの次の十畳間、それにつづく二つの部屋にも、誰もいなかった。夫人は起ち上って、廊下に面した障子をしめた。二段にかさなる丘は、高い樹々が多いから、夕暮れは早くくる。
夫人は、他人の家の勝手を知ったようすで、電燈のスイッチをひねった。炭火のガスの匂いが、肉のあぶらで光る柳の鼻を突いた。
夫人が寄り添ってくると、高価な衣類の冷たさ、それに包まれた彼女の膝《ひざ》のあたりの、ひきしまった肉の感じが、柳の膝につたわった。柳は、女の二つの膝、それにつながる二つの股《また》を自分の方へ、ひきよせた。柳の手さばきは、いかにも乱暴で、芸がなかった。彼はひたすら、年上の女にはたらきかけ、彼女の圧迫をはねのけることに熱中して、相手の感情がどうなろうと、かまってはいられなかった。そんなに大げさに、女の膝に手などかけないでも、やわらかく寄り添っている女に接吻することは、できるはずだった。白粉《おしろい》ののった白い顔、眉墨を刷《は》いた眉毛が、ちかぢかと迫ってきたときに、彼は眼をつぶって唇を押しつけた。女の唇は自由に、落ちつきはらってうごめいているが、彼の唇はただ|押しつけた《ヽヽヽヽヽ》という感じで、停止していた。彼の唇は、衝突して倒れた自転車の二つの車輪のように、からまわりしていた。唇を吸いつけたまま、女が巧みに上半身をうしろへ傾けたとき、彼はやっとのことで、彼女の身体を肩へまわした手で、ささえることができた。キッチリと折り曲げている女の、二本の脚の肉のきしみが、きこえるような気がした。しかし、そんなものがきこえるはずはなくて、にじりよった女の下半身の下で、畳や座蒲団が、かすかに音をたてたのにすぎなかった。
あんなにも邪気をふくんで輝いていた、女の二つの瞳《ひとみ》は、まぶたの下にかくれていた。とじられた女のまぶたは、なだらかなふくらみとなって、おとなしくしていた。そのおとなしさは、意外でもあったし、また、たまらなく可愛らしくもあった。彼がはなした唇めがけて、女の唇がせり上ってきた。そのとき、どちらの唇からともわからないが、なまぐさい牛の肉の匂いがただよった。
「愛して、私を愛して」
こんな姿勢のままで、よくもセリフのような声音で口がきけるものだと、柳が感心するほど、なまめかしい、正確な発音で女がつぶやいた。
「好きなのよ。ほんとに、好きなのよ」
「可愛い」
柳は両腕に力をこめ、女の息の根でもとめるように、女の肩をだきしめた。だが、それは、女を抱くというよりは、やっとのことで女にしがみついているような恰好だった。
二人が、はなればなれの席にもどって、坐りなおしたとき、宝屋夫人は言った。
「私は今、こんなことを考えているのよ」
彼女は、器用な手さばきで、襟《えり》もとの乱れをつくろっていた。
「あなたが今に、大きな悪にぶつかったとき、その現場にぜひとも居合せたいと、考えているのよ」
正月はぜひ、熱海の別荘へ来て、保養するようにと、夫人は、帰りしなに柳をさそった。柳には、保養の必要はなかった。若い彼の肉体は、留置場の規則的な生活のため、前よりもむしろ張りきっていた。
部屋へもどった柳の母は、まるで自分が招待でもされたような様子で、柳の熱海行きをすすめた。東京を少しでもはなれれば、息子と悪い仲間とのつきあいが切断されると考え、彼女は夫人の申出をよろこんでいた。
愛想《あいそ》よく「お母さまも、ぜひ」と、母にも同行をすすめている夫人が、実は、母につきそわれて柳が来たのでは、おもしろくないことは、ぼんやり者の柳にも、夫人の眼の色から察することができた。宝屋の若夫人の眼の色も、手つきも、足どりも、言葉づかいも、その日から母には解読することのできない暗号通信となって、柳の耳目にうつりつたわるようになったのである。
「久美子さんは、どうなさっていらっしゃるの。三味線は、もうすっかりお上手になったでしょうね。何をやっても、人なみすぐれたお嬢さんですものね」
「ええ、それが、あの子、ちかごろは」
夫人は、眼くばせするように、柳を見つめた。
「仏教の本ばかり読んでいますの」
「へええ。仏教の本を? めずらしいですわね。若い女の子さんが、仏教を。そうですの。はじめて、うかがいましたけど」
「何ですか、今、全集が出ておりますでしょう。南伝大蔵経《なんでんだいぞうきよう》とか言って、黒革の表紙に金文字で印刷した、厚い御本。あれは、なんでも漢訳の大蔵経とちがって、漢文ではないそうですのね。パーリ語の原典から現代の日本語に訳したものだそうで、あればかし読んでおりますんですよ」
「へええ、南伝。そうそう、うちでもとってたわね。さっちゃん、少し見ならいなさいよ。おえらいわ。そんなむずかしい本を、|しろと《ヽヽヽ》の方が。おどろきましたね」
「うん、あれにはお伽話《とぎばなし》のような、インドの説話も入ってるんだ」
と、柳は言った。
「ジャータカと言うんだ。本生譚《ほんしようたん》と言ってね。イソップよりおもしろいよ。象やライオンや、鳥や虫やね。動植物、なんでも出てくるんだよ。王様やお姫さまや、悪い女や、バラモンや夜叉《やしや》やいろいろ出てくるんだ。ジャータカならわかるかもしれないが、ほかの哲学論文みたいなもの、久美子さんにわかるかなあ。北方からシナに伝来したのが、漢訳の一切経なんだ。南伝の方は、南方からつたわった経典で、漢訳とはちがったものが入ってるんだ。むかしの日本の坊さんは、北方系の漢訳だけで勉強したんだよ。今の専門の仏教学者だって、南伝を読んでるものは、そうたくさんいやしないんだよ。あの全集は、活字が大きいから、よみやすいけど、久美子さんが、ほんとにあれを読んでるとは、ぼくには信じられないがな」
「ひとさまの御勉強にケチをつけること、ないじゃないの」
母親は、急に専門家ぶった口のきき方をする柳を、かるくたしなめた。
「それより少し、自分でも仏教を勉強した方がよろしいのよ」
「久美子の勉強と言ったところで、タカが知れていますけれど。とにかく、お花やお茶や、三味線もすっかりそっちのけで、そのナンデンばかり読んでおりますんですの」
「一体、仏教の全集の、どういうところがお好きなんでしょうかねえ」
柳の母は、不思議でたまらないらしく、そうたずねた。
「久美子が言うところによると、仏教では女性というものが、大へん罪ふかい者になっておりますそうなんですのね。私には、よくわかりませんけど、その女の罪の深さを書いてあるところに、あの子、興味がありますそうなんですのよ」
「へええ、それはまた、何ともはや……」
と、母はすこぶる気まずくなって、言った。
「仏教も、よろしいけど、女ばかり悪者に仕立てているところが、気に入りませんわ」
と、母は憤慨したように言った。
「女あっての男じゃありませんか」
「ええ、それはもう、お母様のおっしゃるとおりですけど。十八ぐらいのときは、女も男も、すぐ何にでも夢中になりますからね。それで、あの久美子がね。柳さんと、仏教問答をやりたいそうなんですの。そのこともありますので、このお正月は、ぜひとも柳さんに、熱海の方へおいでになっていただきたいの」
「問答をやるのは、禅宗なんだけどな。浄土宗では、問答はあまりやらないことになってるんだ」
「行っておあげなさいよ。久美子さんだって、問答の相手なしじゃねえ。お困りだわよ。ひとりで問答するわけにいきませんもの。ねえ、奥さま」
久美子との問答なら、やってもわるくはないと、柳は思った。およそ仏教的と名のつくものなら、なんにでも直面した方が、トクをするような気がする。だが久美子の精神のうしろには、宝屋夫人の、はなはだ反仏教的な肉体がひかえているのだった。
「ぼくはぼくで、至急に、考えをまとめたいことがありますからね。やるべきことは、やってからでないと、熱海へは行けるか、どうですか」
夫人が玄関の板の間を下りて、石畳の上に立ったとき、電話のベルが鳴った。
「西方寺さんじゃありませんの。きっと、秀雄さんよ」
すばやい夫人の勘は、見事にあたっていた。
冬に入ると、秀雄の声はかすれていた。咳《せき》もまじっている電話の声は、声だけで、胸のわるい秀雄の、神経質に蒼《あお》ざめた秀麗な顔つきを、受話器の向うにうかびあがらせた。
「彼は、どっちみち、早死するな。今から、こんな老人みたいな声を出していたんじゃあ……」
こちらの声が、妙にはずんで大きくなるのを止めながら、柳はそう思っていた。
「今、熱が八度ばかりあって、寝てるんだが、明日あたり目黒へ行くよ」
と、秀雄は、病人とすぐわかる声で言った。向うの電話口で、叔母がそばからささやく声がきこえた。
「病気なら、見舞に行くよ。わざわざ来てもらわなくても。こっちは、一寸《ちよつと》行って帰ってきただけなんだから。別に、どうということもないんだ」
「あんなこと言って。一寸行って帰ってきたなんて……」
と、柳の背後で母が、笑いながら言った。
石畳に立った夫人も、電話口の柳の声にきき入っていた。
「君に、読んでもらいたいものがあってね。それを持って行くよ」
「え? 読んでもらいたいって、何を」
「ぼくの書いたものなんだけどね。君に読んでもらって、意見をききたいと思ってさ」
「読むのはかまわんけどな。一体、何を書いたんです」
「うん、まあ、戯曲のようなもの……」
「ギキョク? 芝居ですか。芝居なんか、あんた書いたの。おどろいたなあ。よく、そんなひまがあったもんだ」
「うん、戯曲と言っても、まあ、仏教のこと書いたんだけどね」
「文学は、ニガ手だからなあ。それ、仏教劇なのか」
「……うん。つまり古代インドの教団のことを、戯曲風に書いたものなんだ」
「ふうん、古代インドか。いろいろと、みんな、やるもんだなあ」
「いろいろと、みんなって? 誰か何か書いてるのか」
「いや、そうじゃないけどね。十八ぐらいの女の人で、南伝大蔵経を読みふけっている人の話、さっききかされたばかりだからさ」
柳がそう言うと、母と夫人がふくみ笑いをした。
「南伝を読んでるって? ふうん、それは感心だな。ぼくの戯曲もな、その南伝の律《りつ》の部分をタネにしたもんなんだ。ともかく、読んでくれよ。明日あたり、行くから」
秀雄にかわって、電話に出た叔母が、なぐさめるような、いたわるような言葉を、なめらかにのべたててから、電話を切った。
二階二間が、柳の私室だった。東と南に縁側のあるひろい二階からは、三段になった丘の樹々の、黒いもりあがりがながめられた。
「労働僧だな。どうしたって、そのほかの形態は、これからさき、許されないな」
遠い丘のいただきの松が、寒い夜の風に鳴っていた。秋の嵐のたびに倒れて行く松は、まだまだ、目黒ではめずらしい林をのこしていた。のびるだけのびて、あぶなげに傾いている松の幹は、お互にふれあうようにして揺れうごいていた。|ふくろう《ヽヽヽヽ》が、松の枝のどよめきのあいだで、ゆっくりと鳴いた。
「労働僧か、乞食《こつじき》僧。労働者になるか、乞食になるか。その二つの路が、わずかに許された僧侶の生活態度ではないかな。労働者の中には、もちろん農民もふくめなくちゃならない。農業僧。それが、理想的なかたちかもしれんな。唐や宋の時代の『語録《ごろく》』をよむと、中世シナの禅宗の坊主は、耕作をやって自給自足していたらしいな。それでなきゃ、乞食して歩く放浪者だったのだ。北海道のトラピストでも、キリスト教の坊主は、キャベツをつくったり、牛を飼ったりして、農業にいそしんでるらしいからな。だが、しかし……」
柳は、よくノリのきいたシーツ、枕カバァ、軽くて温い純毛毛布の肌ざわりを楽しんだ。好き勝手に、手足をのばせるのは久しぶりなので、自分の肉体の活力を試すように、背泳のかたちで、彼は寝たまま体操をした。その次は、厚い羽蒲団をかかえこんで、腹を押しつけ、クロールのように手足をうごかした。
「しかし、仏教では、ことに古代インド、西域の沙漠《さばく》地帯、中世セイロン島にあっては、職業をもつこと、労働をすることが、教義に反することではなかったのかな。汗水たらした生産のよろこびと言うものが、彼らにとっては、棄て去るべき執着の念にすぎなかったのではないかな。労働すること、生産することぐらい、人間にとって生きがいのあることはなさそうなもんだけれども、聖なる彼らは、それを拒否したのではなかったかな。今でも、ビルマの坊主は何もしないで、ひたすら乞食によって暮しているらしいからな。あくせく働くことそれ自体、彼らにとっては破戒の行為らしいんだ。もしも『生』が、うつろいやすき、いつわりの実態にすぎないとすれば、『労働』も『生産』も、まるで影みたいに頼りない行動にすぎなくなるはずだからな。だが、ぼくは、そう思わんぞ。そうは思えないぞ」
タオルのパジャマの奥の、男根を敷蒲団にこすりつけながら、柳は考えつづけた。
「社会主義という奴が、あるからな。コレを一体、どうしたらいいんだ。五カ年計画とか、プロレタリアの祖国とか、要するに社会主義というのは、はたらくだけ働いて、生産を増加するのが目標らしいじゃないか。働カザルモノハ食ウベカラズ。能力ニ応ジテ各人カラ。欲望ニ応ジテ各人ヘ。労働ハ神聖ナリ。スタハノフ運動、労働英雄。つまるところ、労働すること、生産すること。それが中心になって、熱度を上昇させて、最大限に人間エネルギーを吐き出すことらしいじゃないか。だとすれば、労働を拒否して、社会主義国で生きてくことなんぞ、できるはずがないじゃないか。資本主義国だって、そうですよ。アメリカのホワイトカラー、サラリーマン諸君は、実によく働くそうですからね。そりゃもうキチンキチンと、時間一ぱいよくはたらいて、能率のいいことと言ったら、とても日本の坊さんなんか足もとにも及ばないそうですぜ。それを聞くと、ぼくなんかも、せめて一回ぐらい、現代紳士サラリーマンになって見たくなるんだ。ここらへんの町工場の労働者は、たいがい、ぼくより血色がわるい。門前のブリキ屋、自転車屋、裏の植木屋やガラス工場の職工など、脂ぎって太っている奴なんか、一人もいない。とても、生産のよろこびの面影はない。彼らにとって、労働は神聖どころか、苦役なのだ。ロードーすなわち過労プラス、栄養不良みたいなんだ。しかし、労働はしなきゃならんぞ、ロードーは。ぼくみたいな青年(栄養過剰の)にとっては、労働とは、身体をきたえること、要するに身体に|いい《ヽヽ》ことなんだ。労働の体験のない青年は、どんな秀才でも、どことなく宙ぶらりんな、いやらしい所があるからな。おれの学友の、あの文学青年や哲学青年、あるいは政治青年を見るがいい。口ばっかり達者で、手斧《ちような》もノコギリも、クワもカマもろくに使えやしないじゃないか。労働する坊主の方が、まだまだ労働しない大学生より、|まし《ヽヽ》かも知れんぞ。|まし《ヽヽ》と言ったところで、今のままでは、日本の坊主は|しょせん《ヽヽヽヽ》、旧時代の遺物、将来の発展性の全くない、屍体《したい》係にすぎんけれどな。……とにかく、乞食か労働者になるとして、はたして、どっちがむずかしいだろうか。乞食はどうも、青年にふさわしくないようだが、どんなものだろう。すると、労働者か。……」
忍び足で階段をのぼってくる、末子の足音がきこえた。
素足でも、足袋をはいても、末子はほとんど足音をたてなかった。柳の枕もとに彼女が腰をかがめると、赤いコール天の足袋の裏の、すえたような匂いがただよった。
熱い湯気のたちのぼる番茶、柳の好物の|あげせんべい《ヽヽヽヽヽヽ》を、彼女はさし出した。
「女中さんも、爺やさんも労働者だっけな。するとぼくは、労働者の御主人か……」
柳の寝床の頭の上には、四つ折りの屏風《びようぶ》が立てめぐらしてあった。屏風には、秀雄が苦心した、二千字ほどの楷書《かいしよ》の碑文の漢字が、息ぐるしいほど行儀ただしく並んでいた。一冬かかって、この唐代の碑文を書きあげたとき、秀雄は精も根もつきはてて卒倒したのだった。電燈の光でクリーム色に見える屏風の白紙に、動かない末子の影が、うつっていた。
「つかまるときに、煙草とマッチを縫いこんでくれて、ありがとう。おかげで、中の奴はよろこんでいたよ」
彼は腹ばいになって、油であげた塩|せんべい《ヽヽヽヽヽ》を、勢いよくかんでいた。
末子は膝を正して、うつむいていた。
「誰か来なかったかい。穴山か誰か」
「穴山さんには、若先生が今日おかえりになること、お知らせしておきました」
「そうか。何か言ってなかったか。穴山は」
「ハイ。穴山さんのお寺に、昨日の朝、行きましたら、これを渡してくれとたのまれました」
それは、お布施の金を包んだ半紙を、そのまま使った手紙だった。金だけ抜いたあと、またもとどおり折ってあるので、お布施の包みのように見えた。
[#1字下げ]「Aを中止するようEに知らせた。
[#1字下げ]EはどうしてもAをやりたいそうだ。
[#1字下げ]Mの意見にそむいてもやるそうだ。
[#1字下げ]もしもEがAをやればMが困ることになるのを知っているのだが、それでもEはAをやるつもりだ。
[#1字下げ]Aの内容はおれは知らんが大へんなことらしい。EがAをやることをMに知らせておいた方がいい。EとMの今の住所はおれは知らんが。つまりEとMは仲間割れしているのだ」
穴山の手紙は、鉛筆をのんきそうに走らせたものであった。
Eとは、目黒の坂の上で会った、農村青年、越後のことであった。Aとは、越後たちの計画している秘密の仕事のこと。Mとは、言うまでもなく、目黒署を脱走した宮口のことにちがいなかった。Eすなわち越後、Mすなわち宮口、この二人の非合法運動者がどこに潜伏しているのか、知るはずもない点では、柳も穴山と同じことであった。またMの部下(あるいは下級党員)たるEが、Mの命令にそむいて、Aなる計画を実行せんとしているにしても、それが、柳に何ら関係のある事態で、あるわけもなかった。まして柳には、越後の意図を宮口に通報する、義務などさらさらないのであった。
東京という都会が、どれほど無制限、かつ急速に膨脹しつつあるにしても、留置場を脱出した政治犯が、半年も逮捕されずにすむほど、広大無辺なひろさがあるわけではなかった。あの宮口が今まで、再検挙されずに逃げつづけていることが、すでに奇蹟なのであった。宮口だって、やがて自分を見舞う運命は百も承知の上で、敢えて脱走したにちがいなかった。彼の大胆な脱走の目的が、いろいろあったであろうが、A計画を中止させることが、その重要な一つであったことは、柳にも想像できた。だとすれば、A計画を|やみくも《ヽヽヽヽ》に敢行しようとする越後は、宮口にとって危険きわまりない「同志」ということになる。鉄の規律とやらを破りすてた、裏切者ということになる。穴山は「EとMは仲間割れ」と、簡単そうに書いているが、血で血を洗う内部闘争の一端を示すものであることは、まちがいないのである。
「非常時」という、ものものしい用語が流行しはじめていた。
「非常時」が、もし事実だとすれば、それはたんに、職業軍人、職業政治家、在郷軍人会や院外団の一スローガンにとどまるものでは、ないはずだった。資本家にとっても、工場労働者にとっても、農民にとっても、まごうかたなき同一の「非常時」であったばかりではなく、現在の政府をくつがえそうとする革命党にとっても、非常時なはずであった。いなむしろ、根こそぎ検挙をくりかえされ、組織らしい組織のなくなっている革命党こそ、あらゆる非常(時的)手段によらなければ、身うごきがとれなくなっているにちがいなかった。
宮口たちが、私刑《リンチ》によって同志(裏切者)を殺害したか、否か。それが、柳の取調べにあたった警視庁の特高たちの、何よりも自白させたい眼目であった。
「事実」を知らない柳には、自白したいにも「吐くコト」がなかった。
「もしかしたら、ぼくがお経を読みに行ったアジトで、宮口たちはほんとに、悽惨《せいさん》な私刑を実演したのかもしれないな。あの薄っぺらな板でこしらえた、寝棺によこたわっていた男こそ、もしかしたら、同志の手で絞殺された屍体だったのかもしれんぞ」
留置場の中で彼は、くりかえしそう想っていたのだった。
「非常手段」の中でも、もっとも非常なものは、殺人にちがいない。スパイ、プロヴァカートル、裏切者を自分たちの腕力と智力で、地上から抹殺《まつさつ》することにちがいなかった。組織を守るために、組織破壊者の息の根をとめてしまうこと、あの世へ送ってしまうこと。ほかならぬ宮口たちにとって、その非常行為が、不法行為とも、倫理道徳に反する大《だい》それた行為だとも、考えられていないことは、大いにありそうなことだったのだ。
だとすれば、「A」とは、彼らの新しい殺人計画であるのかも知れなかった。
爆破、焼打、襲撃、私刑、暗殺。何であるかは予測できないでも、血なまぐさい匂いは流れ寄ってくる。
越後が、血気にはやる小児病患者であるのかもしれない。宮口が、血気にはやる急進分子を統制する、正統な指導者なのかもしれない。しかし、いずれにしても、柳にはどうすることもできないのだし、どうするつもりもないのであった。
「穴山もバカだな。こんな手紙なんか書いて。直接、話しに来ればいいんだ」
「どこかへ旅行にいくとか、言ってましたけど」
坐りこんだ末子は、なかなか立ち去ろうとしなかった。
A、E、M、みんなローマ字の符号だ。越後や宮口の顔も見たし声もきいたが、彼らも彼らの計画も、ぼくにとっては無色透明の記号みたいに遠くはなれている、と柳は思っていた。
「誰も来なかったかい、ほんとに」
柳には、今のところローマ字符号にすぎない、EかMが、やがて自分に連絡をとりにやってくる予感があった。
「朝鮮人が一人きましたけど、台所口へ来て、また来るからと言いおいて、すぐ帰りました」
もはや用事のすんだはずの末子が、モンペの膝をそろえて枕もとにいるのは、柳には気づまりだった。可愛い女中さんに、すぐ手を出すのは、金持の坊ちゃんによくあることだ。よくあることを、自分もやるのは、つまらないこと、安易なことだと、柳は警戒していた。
「……あのオ」
と、末子は、言いにくそうに言った。
「……宝屋の奥さまは、悪い女だと思いますから、若先生はおちかづきにならない方がよいと思います」
「そうかな。どうして、悪い女だとわかるんだい」
「どうしても、良い女だとは思えません」
「そうか。注意してくれてありがとう。さあ、もう下へ行って寝た方がいいよ」
「ハイ」
赤くもえている桜炭、よくかきならされた石綿の灰、それに煮えたっている鉄瓶《てつびん》の湯。どれも今さらいじくる必要がないのに、末子は火箸を手にして、しばらく火鉢のそばにしゃがんでいてから、のろのろと二階から下りて行った。
次の朝、女中も書生も爺やも、寝しずまっているうちに、柳は起き出した。
鐘楼の横をのぼる墓地への路は、百段を越える石段のつながりだった。銀杏《いちよう》の大木は、もうすっかり葉を落して、灰色の裸木だった。栗や樫《かし》や柏《かしわ》、その他の闊葉樹《かつようじゆ》の葉が、いくら掃いても、毎朝、その石段をおおっていた。白く乾いた葉、黒くしまった葉、杉や松や檜《ひのき》のこまかい葉、手ごたえのある大きな葉を、力一ぱい掃きおとし、掃きあつめるのは、寒い朝でも肉体をほてらせて、気持がよかった。石段のてっぺんから、順々に、ていねいに掃いて行くのもおもしろいが、斜面の中段の広場をすっかりうずめた枯葉を、ナギナタでも振りまわすように竹箒《たけぼうき》を大きく使って、掃きよせるのも、地面と格闘しているようなおもしろみがあった。できるだけ腕をのばし、箒の半円を思いきりひろげると、掃きよせるというより、掃きのける感じで、茶褐や灰白や黒い落葉の層の下から地肌があらわれる。凹《へこ》んだ地面から、落葉を掃き出すには、箒を鋤《すき》のように縦にかまえて、はねかえすようにする。いいかげん落葉の小山が、方々に積みあがると、箒を熊手にかえて、もっと大きな山にまとめる。葉っぱの大山が腐蝕《ふしよく》してから、堆肥《たいひ》に利用するのは、柳の父の役目であった。
霧がはれて、朝の陽光が少しずつ、境内に射しはじめる。丘陵から遠い部分から、おずおずと冬の陽が明るい光を投げかける。林の茂る丘の半面は、まだまだ暗い冷たさの中に沈んでいる。
大きな物置小屋の建てられた、寺の裏庭は、早くから陽の光を浴びる。そこが、柳のお気に入りの「労働」の場所であった。
物置小屋の扉の掛金をはずし、農具の掛けならべてある奥から、柳がとり出すのは、木《こ》びき用の大のこぎり、ハンマーと鋼鉄のカスガイ、それから重いマキワリときまっていた。
一間ほどの長さに切られた赤松の太い丸木。これは、台にする木の株にしっかりとカスガイで打ちつけておかなければ、ノコギリをあてても転げまわって、仕事にならなかった。
なつかしい大ノコに、|目たて《ヽヽヽ》のヤスリをあてると、鰐《わに》の歯のような刃の一つ一つが、するどい光を放つ。幅のひろいノコの刃の横側に、チビ筆の先で油をくれてやる。虹色にたまった油の光は、鈍くトロリとしている。ヤスリで削られたばかりの刃の切れ目は、若々しく鋼《はがね》の白さでかがやいているが、四十度の角度でとりつけられた太い柄のあたりは、同じ鉄でも、年寄りくさく黒ずんでいた。
まず物置の横手に積まれた、薪の山を柳は見やった。残り少くなっていれば、わが家の燃料を生産し補給する喜びが、それだけふえるからだ。
木屑《きくず》でまみれた、しめっぽい古座蒲団を、椅子がわりの木の根っこの上に投げて、それに腰をすえる。
太い頑丈な木の枝を、ぶっちがいに二本打ちこんだ奴が、たがいに三尺ほどへだたって一組、彼の眼前にあった。あまり大物でない枯木は、その二つのぶっちがいの上に置いて、切りおとすのである。
松の大木ともなれば、そんな|ぶっちがい《ヽヽヽヽヽ》では役に立たなかった。電信柱の三倍の太さのある、まだ|生きている《ヽヽヽヽヽ》幹ならば、一間の長さの奴を、四つか五つに切り分けるのに、一時間ちかくかかることがある。ひねくれた節の多い奴ほど、短く切りおとしておかないと、マキワリで割るときに骨が折れるのだった。
その朝、朝食前に柳が片づけたのは、まだ青春の水っ気のたっぷりある幹が一本、もう一本は、老いさらばえて樹木の肉体の、解体しかかっている腐木だった。
二本とも同じように、松の幹のむくつけき皮をかぶっていた。まだ生きている奴の胴体は、手もとへ引くノコギリの刃の食いこむたびに、水分がほとばしるようであった。そして、樹木の粉が、こぼれおちるたびに、ヤニっぽい松の香りがただよった。その粉は、なまなましい肉色をおびていた。
松の肉は、次第にノコの刃を、両側からしめつけはじめる。すると柳は、木片のクサビを、細い切り口に打ちこむ。そして、こじあけられた創口《きずぐち》にさしこんだノコを、ひたすら前後に押しうごかす。ボートを漕《こ》ぐときのように、上半身を前へ倒しては、また後もどりさせる。原始時代の怪獣の鱗《うろこ》のように、灰色の厚い皮はまだ胴体にくっついたままだし、横たえられた胴体も、充実した肉の強さを誇るかのように、堂々としている。ノコの刃は、そ知らぬ顔つきで、柳にも松の幹にも勘づかれぬのろさで、喰い入って行く。地面にこぼれおちる、樹木の粉の肉色が、白っぽくなったり、濃くなったりする。それは、柳の眼には見えず、ノコの刃だけが知っている松の胴体の内部に、ヤニの塊りや、かくれた固い節、虫に食われたもろい組織があるからだった。カツオ節のように固く、乾いた血のような色をした粉もあった。黄色っぽくこぼれ落ちる、白墨のように|あっけない《ヽヽヽヽヽ》粉もあった。
裏庭に運ばれる前に、丘の中腹で切りそがれた松の枝。その枝の筋肉や骨は、まだ松の胴体の中にのこっていた。引きよせるノコの刃が、歯ぎしりに似た音をたてるのは、胴の肉に横ざまにかくされた、強靱《きようじん》な筋や頑固な骨に、さしかかったからだった。
ノコの位置が下へおりて行き、下側の肉と皮をわずかに残すまでで、切断をしないでおく。そして、二尺ほど横にずらして、また別の創口をつける。三本か四本、切断線が並んでから、丸木の向きをかえて、次々に切りはなす。今までは、もっともらしい幹の形を保っていた松は、もはやいくつかの肉の塊となって、バラバラに転がされる。柳は無言で腰をあげ、別の胴体をかかえあげる。
新しい肉の上をすべる、なめらかで調子のよいノコの刃音。すでに地面に転がされた、樹肉の断面には、美しい年輪があざやかに見える。メノウのように、肉に埋っていた節は、切口も紫ガラスのように光っている。
「ぼくの腕の筋肉は、たくましくなって行く。一時間ごとに、強く強くひきしまって行く……」
柳は、「三国志」の動乱時代の、一農民になったつもりで、豪傑修行を楽しんでいるのだった。「漢楚軍談《かんそぐんだん》」や「水滸伝《すいこでん》」。帝国文庫でよみふけったシナ大陸の、痛快きわまる武勇の物語。大蛇を斬り、犬の股肉《ももにく》や人肉マンジュウをむさぼりくらい、槍や矛を水車の如くふりまわし、強弓を満月の如くひきしぼり、ひっさらった大将を脇にはさんで圧しころし、敵に射られてハミ出した眼球を「もったいなし」と呑み下した、強い男たち。
関羽《かんう》や張飛《ちようひ》のような大豪ともなれば、腰のまわり、この松の幹の五倍ほどにふくれあがっていたのだ。英雄の耳たぶは、長くふっくらと垂れさがり、|ひげ《ヽヽ》は|ひげ《ヽヽ》で滝のように走り下って、膝の下の方は錦の袋でくるんでおかなければならなかったのだ。
ああ、ああ。あの花和尚《かおしよう》、魯智深《ろちしん》は、まるごと一匹の狗肉《くにく》と、桶《おけ》三杯の酒をくらって、大寺院の本堂にあばれこみ、あらゆる和尚どもと、あらゆる仏像、仏具、しまいには建物まで破壊しつくしたのではなかったか。
曹操《そうそう》にしろ、孫権《そんけん》にしろ、またかの劉備《りゆうび》にしろ、天下を三分して彼等の権力を確立するまでに、一体、どのくらいの数の男や女を殺したのだろうか。
「エイッ!」
相手が、腰よわの老木とあなどって、柳はノコをマキワリにかえた。
マキワリの硬木の柄は、柳と爺やの手脂で光っていた。老衰するにつれ、意地わるくなった腐木は、黄白色の粉を泡のように噴き出しながら、マキワリの刃をはねかえす。
「エイッ!」
「朝早くから、ご精が出ますな」
と、爺やが声をかけた。苦労しぬいた老大工の声には、かすかながら皮肉がこもっていた。
「おや、若旦那。ノコギリの目まで立てなさったか。へええ、これはなかなか……」
爺やは眼を細め、ノコギリの刃を専門家らしくしらべていた。
「ぼくの仕事は、菜っぱの肥料《こやし》でな。掛《か》け肥《ごえ》(声)ばかりなんだ」
柳は、留置場でおぼえてきたばかりの、俗語を使った。労働の専門家の眼で見られたのでは、自分の仕事ぶりが、いかにも素人《しろうと》くさい、バカバカしいものに思われたからだった。
「へええ。若旦那の仕事は、菜っぱの|こやし《ヽヽヽ》ですかな」
爺やはわざと、感心したように笑った。
爺やの首すじと手首には、腫物《はれもの》の膏薬《こうやく》が塗られてあった。赤黒く陽やけした皮膚には、ふかい皺《しわ》がより、膏薬の油が気味わるく光っていた。霜やけのひどい末子の手の甲にも、炭火の熱で溶かした黒い薬が、注ぎこまれていたが、それは彼女のけなげな働きぶりを示すようで、醜くはなかった。しかし、しなびた爺やの皮膚をテラテラと光らしている油薬は、老人の業病《ごうびよう》をむき出しているようで、母などは眉をしかめた。
「お金をあげるから、あんたは銭湯へ行ってきなさいよ」
爺やは、そんな風呂銭を節約して、酒屋のコップ酒をあおってくるのだった。
「生、老、病、死か」
と、ひそかに柳は思った。
「死の前には、老というモノがあるのだ。老いさらばえ、老い疲れ、老病にとりつかれるということがあるんだ。しかし、今は非常時だぞ。若者の命をあっけなく奪ってくれる、戦争と内乱の時代なんだ。ぼくがまさか、爺やの年まで、生きながらえることはあるまい……」
爺やは、屋根のつくろい、炊事場の改築、本棚や本箱のこまかい仕事でも、器用にやってのける名人だった。そんな大工の名人が、どうして寺の爺やさんにまで落ちぶれねばならなかったのか、柳には理解できなかった。
|いなせ《ヽヽヽ》な江戸ッ子の面影は、全く消え失せて、一人息子が西洋洗濯の店をひらくのを、唯一の楽しみにしていた。あとは柳や末子や書生たちの世間知らずを、冷笑するのが生きがいなのであった。
百姓の力仕事を軽蔑《けいべつ》する老大工は、柳の父の畠の手伝いなども、きらっていた。彼が尊敬しているのは、口八丁、手八丁の柳の母だけであった。
「行ってまいります」
仏教大学へ通う二人の書生が、駈け抜けて行く。
「そこら、うろうろしないで、早く帰って来いよ。旦那様の畠を、手伝わなくちゃ、いけねえからな」
と、爺やは書生の背なかに、いやみの声をかけた。
卒業すれば、地方寺院の住職になれる大学生たちが、爺やを無視しているのは言うまでもなかった。
末子が物干の柱にかける、長いサオを手にして柳におじぎした。末子の好きなニンニクが、竈《かまど》の灰の中でくすぶる匂いがした。
「くせえなあ。田舎者には、感じねえのかなあ」
と、爺やがつぶやいた。
「おれの|できもの《ヽヽヽヽ》が臭え臭えと騒いでるけど、ニンニクの方がよっぽど臭えや」
「爺やさん。まだ物干の柱、かえてくれないの。奥さまに叱られるわよ」
柱の一本は、サオを掛けわたすと、あぶなっかしく揺れた。
「わかってるよ。末子の奴、ちかごろ色気づきゃがって。何をやらかすか油断もスキもあったもんじゃない」
「爺やア」
と、便所の窓口から、柳の母のよく通る声がきこえた。
「あんた、まだ物干の柱とりかえないの。だめじゃないの。洗濯ものは毎日ほさなきゃならないんだから、すぐやってちょうだいよ。みんなが困るんだから」
「へい、へい、かしこまりました」
「うちにいい材木がなければ、サッサと買ってくればいいのよ。わかったでしょ」
「へい。わかりました。すぐいたしやすから」
柳は、みんなの言葉のやりとりに、追いたてられて二階へあがって行く。
「南伝《なんでん》か。とにかく少し読んでおかないと、久美子さんに会っても、秀雄が来ても、話にならないな」
浄泉寺には、「南伝」のほかに、漢訳の一切経が四組もそろっていた。
一ばん古く出版されたものほど、巻数は少いが、それでも一組の一切経を通読している僧侶は、現代日本に一人もあるまいと、柳は判断している。卍《まんじ》蔵経。これは、柳の父が書生のころに、ようやくの思いで買い入れたものだった。帙《ちつ》入りと言っても、薄板を両側にあてがって、数冊まとめて紐《ひも》でくくっただけで、飾りけは全くない。
陽あたりのいい、二階の南側に、つめこまれているので、紙の背はすっかり変色していた。いかにも素朴なつくりの「卍蔵経」は、父の刻苦勉励の想い出であろうし、本棚からとりだされることもなく、埃《ほこり》をかぶっている和とじ本の列は、柳にも多少の感慨をもよおさせた。
「読まれることもなく、忘れられた昔の知識の堆積《たいせき》!」
昔と言っても、明治に刊行された活字本が、昭和の現代とそう遠くへだたっているわけではなかった。けれども、二枚のうす板にはさまれ、紙の背に父の筆で、内容の部類分けを書きこまれ、おとなしく並んでいる「卍蔵経」が、おそらくこれから先も、熱っぽい研究者の眼にさらされることもなく、しまいこまれた仏教文献として、古びて行くであろうことは、まちがいなかった。太い老松の幹の、腐蝕した胴体ほどでないにしても、紙魚《しみ》にむしばまれた痕《あと》は、うす黄色い粉をこぼして、血のない血管のように見える。
朽ちた松の肉からは、ノコの歯先から、まるまると肥えた白い幼虫が落ちることがあった。もろい樹肉、死にかかった胴体の肉に、生みつけられた虫の卵は、幹の命が弱まるにつれ、成長したのであった。何の虫か親の名はわからない、カイコに似た幼虫は、まだゴムのように弾力に富む、白く長いかたまりにすぎなかったが、それでも腐蝕した老木にくらべ、「これから生きはじめるのだぞ」という、色つやがあった。
「蔵経」には、もちろん、そんな幼虫を育てる肉体はなかった。それはむしろ「精神の宝庫」でなければ、ならぬはずだった。
だが、それは使い物にならなくなり、河底の泥に埋まっている金庫のように、図体ばかり大きいのが、かえってみじめなのだった。
「読めば、いいことが印刷されてあるんだ」
ひなたぼっこで、あたたまりながら、柳は考える。
「法然がくりかえし読破した一切経は、この蔵経にくらべ、はるかに巻数が少かったのだろう。だが、智慧《ちえ》第一の法然坊はまっ正直に、|くりかえし《ヽヽヽヽヽ》読みつづけ、読みおわったのだ。そして、結局のところ、自分にとって千万巻の精神の宝庫が、無意味であったことを発見したのだ。法然の努力は、崇高なものだった。それが崇高なのは、全精力をかたむけ、すべてを棄てて、読破し研究した書物が、自分にとって何物をもあたえてくれないと、悟ったことなのだ。彼は決して、最初っから、どうせ無意味だなどとは考えていなかったのだ。彼は、誰よりも、一切経を信じていたのだ。彼は、ほかの誰よりも、すみずみまでよく理解し、中途で投げるようなことはしないで、困難な研究を続行したのだ。たしかに彼は、大蔵経の大海の中に沈みこみ、漂って、精神の緊張の波で自分自身を洗っていたのだ。ああ、あの時代、|あの人《ヽヽヽ》にとって『読みふける』ということが、何とすばらしい実験であり、試煉であったことか」
一階のトタン屋根の上に、執事の小谷がしゃがみこんでいた。彼はペンキをいれたブリキカンを手首にぶらさげ、器用に刷毛《はけ》をうごかしていた。新しく塗られた部分だけ、あざやかな茶褐色になっていた。塗って行くにつれ、彼はたえず位置を移動して、塗りたてのペンキから、両脚をずらさなければならなかった。
「どうも、|しろと《ヽヽヽ》じゃうまくいかねえな」
「小谷さん、うまくいく?」
玄関の前に立って、末子が小谷の方を見あげていた。
「ペンキ塗りは、あんがい疲れるな。手首がだるくなってきた」
「奥さまが、小谷はもの好きだ。ペンキ屋にたのめばいいのにって、おっしゃってたよ」
「なにごとも、経験だからな」
小谷は、自信のない笑いをうかべて、あぶなっかしくうずくまっていた。彼が動くたび、トタン屋根は不安定な音をたてた。
「小谷さんは、器用もんだからな。どうして、どうして、なんでもやっちまわア」
と、姿の見えぬ爺やのしゃがれ声が、きこえた。
「ひやかすなよ。こっちは冷汗かいて、やってるんだ」
小谷は苦笑しながら、窓ごしに柳の方を見た。
「ひやかすわけじゃねえよ。ただ、しろうとの塗ったペンキは、すぐはげちまうからな。それを心配してるだけさ」
と、爺やの、意地わるくかすれた笑声がきこえた。
「塗るのは、誰がやったって同じこったろ。むずかしいのはペンキの調合だよな。それさえうまくいきゃあ、誰が塗ったって、うまくいくはずじゃないか」
「まあ、二、三カ月たてばわかるこってさ。しろうとは、どうしたってペンキばかりやけに使って、|のび《ヽヽ》がわるいんだよ」
「チェッ、爺やの奴、すぐ|けち《ヽヽ》つけやがる」
小谷は、爺やにきこえないように、小さな声で言った。
とにかく、無関係なんだと、柳は思った。とにかく何て言ったって、小谷にとっても、爺やにとっても、末子にとっても、「大蔵経」は無関係なものなんだ。母にとってはむろんのこと、時によっては、有名な仏教学者である柳の父にとってさえ、存在を忘れられがちな洞窟《どうくつ》の秘宝なのだ。父のほかの男女は、みんな「たいした金目《かねめ》のものらしいぞ。たまにはハタキでもかけておこう」ぐらいにしか、大蔵経とのつきあいはないはずだった。
「大正新修大蔵経」「国訳一切経」。この二つは、今なお刊行が継続している大全集なので、「卍蔵経」のような、しみじみと古めかしい感じがしなかった。
特製本の「大正」は、藍《あい》いろのしっかりした帙で包まれていた。とびきり大判に、小さな活字がギッシリと詰めこまれ、帙をひらくと、新しい和紙と新しい印刷インキの匂いがただよった。
土地の値あがりがいちじるしく、檀家《だんか》の商人の財産が急速にふえつつある現在なので、金まわりのいい東京の寺院は、どこでも「大正」を予約していた。学問好きの僧侶は、ごくまれであるから、あらましは寺に重みをつけるため、あるいは出版関係者(それはいずれも僧門の学者だった)との義理で、買わされていた。毎月、かなりの金額を支払わされる住職の中には、宗務所にとられる宗費が、倍増したような気持になり、ふくれつらをする者もあった。
不信心な関東地方では、浄土宗の三部経を読んでくれと注文する客は、ほとんどなかった。「勤行式《ごんぎようしき》」と称する、小さな薄い、折りたたみ式の経本。それ一冊で、たいがいは用が足りた。儀式を荘厳にするためには、巻物にした「三部経」と、美しく表装された「アミダ経」一冊あれば、不自由はしなかった。
「勤行式」も巻物も、読みやすい大きな字で刷ってあるので、暗い蝋燭《ろうそく》のあかりで、眼のよわった老僧でも、読みたどることができた。経文のまだ暗記できていない、若い坊さんにとっても、それらの「現代的」経本は、ありがたい救いの手であった。
おおぜいで合唱しているうちは、二、三人のお経のまちがいは、専門家のほか感づかれなかった。たった一人の読経では、中途でつかえると、先にすすめなくなる場合があった。本堂の経机、朱塗、黒塗、金ピカさまざまの机にのせられた、簡便な「経本」は、儀式の安全を保証する道具にすぎなかった。
「大正新修大蔵経」を道具にする?
そんなことは、できる相談ではなかった。して見れば、いつのまにか現実ばなれした陶酔境へ、客をひきこんで行く読経の最高潮にあってさえ、柳たち僧侶はみんな「一切経」の千万分の一も、想いうかべているひまはないのであった。
「それにしても、やっぱり『大正』は、たいしたものだなあ」
と、柳は考えずにいられなかった。
敦煌《とんこう》の発掘からこの方、新しく発見された経典資料は数かぎりなかった。オックスフォード大学では、スタイン博士の持ち帰った貴重な品々の整理が、まだ終っていなかった。沙漠から、北京の学者や書店へ流れた資料も、小出しに公表されはじめていた。それらのうち、漢字の活字で印刷可能なものは、すべて収録しようと、「大正」の監修者は計画していた。今までに名の知れわたり、研究しつくされている経典でも、異なった版本の校合《きようごう》は、なみたいていの苦労ではないにちがいなかった。文献が多すぎるのである。西域の沙《すな》が、次から次へと吹きよせられ、やがて一つの町、二つの駐屯地をうずめつくすように、たくわえられ、受けつたえられる文献の、あまりの多量が、仏教学者の眼を血走らせ、現実と仏教のかかわりあいに、目をくばるゆとりをなくしてしまうのであった。最新の材料に没入し、考証に専心していれば、かんじんの仏教哲理を究明していられなくなる。浄土宗学の専門家は、ともすれば古代仏教、根本仏教を忘れがちになる。サンスクリット(梵語《ぼんご》)、パーリ語(サンスクリットよりいくらか新しい古代語)にくわしい学徒が、同時に、支那仏教に精通することは、ほとんど不可能にちかいのであった。
あまりの豊富さが、かえって絶望をさそうのである。
おまけに、そのほか、チベット語とビルマ語が、また別の一切経を生み出していた。
「彼はチベット版を持ってるぞ」
「ビルマ版が、うちの図書館にほしいんだが」
といった調子で、これらの異なった言語の蔵経を、日本ではたして、何人、いくつの大学、研究所が所有しているだろうか。とすれば、たとえ所有していても、それらを活用できる僧侶の数は、十本の指を折るまでもないのであった。
宝庫の奥から射しかける、智慧の光を浴びるより先に、宝庫そのものの巨大な暗さで、視力を失わねばならないのだ。
「どんなに良心的な、どれほど勉強好きの坊主だって、とてもムリなんだ」
柳は、|ひとごと《ヽヽヽヽ》のように、のんびりと考えつづけていた。
「よく考えてみると、これら幾組かの仏教大全集は、何とも気味のわるい怪物、とうてい征服できるはずのない魔物かもしれんぞ。だって、そうじゃないか。読めば読むほど、ちがった面相、ちがった叫び声、要するにそれぞれ異なった『仏教』が、あとからあとから餓鬼のごとく押しよせてきて、けなげな研究者の脳髄を食べつくそうとするんだ。日本の浄土宗にせよ、禅宗にせよ、この大蔵経の洪水の前では、ほんの一片の木ぎれのように、部分的な漂えるものなんだからな。『木ぎれ』と言ったところで、その一宗派だけでも『浄土宗全書』だの『法然上人全集』だの、これまた、そうとうの巻数が、押しあいへしあい待ちかまえているのだ。
すべてを棄て去るために、すべてを吸収し、すべてを身にまとう? まったく、おかしな話なのだ。『一切』とか『大蔵』とかいう言葉は、これで大丈夫という安心に浸らせてくれるどころか、むしろ反対に『おそろしい無限』をくりひろげて、眼をくらくらさせずにはおかないのだ。先祖代々、苦心さんたんして拡大し保存してきた貯水池の中で、子孫が溺《おぼ》れ死ぬようなものではないか」
江戸時代に創設された浄泉寺は、学問寺であった。つまり学問好きの僧侶たちが、全国から集ってきて、この律院で勉学にふけったのだ。檀家はなしの、仏教研究の道場であるから、布教もしないで、ひたすら読書し、もっぱら講義をきき、すぐれた著作を木版刷で刊行してさえいればよかったのである。
柳が「労働」の道具をしまっている、裏庭の物置には、今でもそれらの版木が積まれてあった。木活字を使う工夫もなかったのか、固い厚い板に、達筆の文字を彫りつけた版木は、いくらかそっくりかえったりしていて、かさばった厄介者と化していた。
「律院」というからには、むろん二食。朝は粥《かゆ》、午後はソバ粉の汁ぐらいで、すませていたにちがいなかった。
芝の増上寺の大僧正が、隠居する場所だったとも、言いつたえられている。隠居するにしても、全国の秀才を教育するともなれば、よほどの学僧でなければ、ここの住職、つまり研究所長はつとまらなかったにちがいない。
「おやじなら、まだまだ、ここの研究所長にふさわしい男かもしれんな」
と、柳は思った。
「そりゃあ、江戸時代の律僧《りつそう》とは、くらべものにならんさ。しかし、ぼくのおやじは『学問』、つまり一切経に対する|あこがれ《ヽヽヽヽ》、尊敬の念をもちつづけているからな。不徹底な学問僧である自分自身を、よく反省し、深く恥じているからな。その点では、増上寺の大僧正より、うちのおやじの方が、ぼくは好きなんだ。うまいことなんか、とてもできそうにない、ぼくのおやじは全くのところ、いい奴なんだ。大人物でなんか、あるわけがないさ。支配者になんかなれっこない、好人物にはすぎんけれども、ともかく『恥ずかしがっている』、あの素朴なところは、決して棄てたもんじゃないんだ。ぼくだって、ぼくのおやじの善良さを利用しようなんて、企んだことはないぞ。ぼくだって、とびきりの好人物なんだからな。無類のくすぐったがり屋のぼくが、父の好意につけこむはずがないじゃないか。
そうだ。『南伝』だっけな。秀雄君は『律部』をタネにして、芝居を書いたんだっけな。久美子さんは、どうせ『本生譚』、つまり仏教説話をよんでるんだろう」
その南伝大蔵経は、階下の父の書斎の前の廊下に、黒い背革に金文字をうたれて、並んでいた。柳は、階下へ行く。
四季咲きの椿《つばき》の花が、池の面に落ちた。鯉は、それだけでもおびえ、尾ひれを光らせて走った。一匹がもぐると、それにつられて他の魚も身をひるがえす。澄みきった冬の水は、赤と黒の入りみだれたあと、底の泥を煙がわくように浮きあがらせた。
三段がまえの丘の地脈、水脈が絶えることなくわき出させている「泉」。その豊富な泉は、学問僧を俗世からへだて守る、堀を、自由なかたちで学舎のまわりに掘りめぐらすのに役立ったのである。中庭の池はかつては、「心」の字のかたちを表現していたにちがいなかった。今では次第に埋められて、「心」のかたちは、一部分を残すのみになったが、それでも普通の料亭の池などにくらべれば、はるかにふくみの多い曲折を、庭木や羊歯《しだ》の茂みの蔭にかくしていた。
「水」は、それを眺めていれば「水想観」にふけることができる。「太陽」も「地面」も「死体」も、それぞれ修行する僧侶にとっては、想いをこらし、想いをふかめる手段であったはずだ。したがって、形おもしろい池の水は、決して風流心を満足させる「眼のたのしみ」ではなくて、「自然の文字」を借りて書かれた、深遠な経文であったのである。苛烈な太陽光線の、絶対にまちがいのない強力さについて。生物を載せている大地の表面と内部の巨大さについて。その堅固さと、変化について。また、生きとし生けるものすべての運命を象徴する屍《しかばね》を前にしては、永劫《えいごう》の流転と、一瞬の定着との対比について、さまざまな「想観」をこころみることができたはずだ。
浄泉寺の敷地を、泉のある台地にえらんだのは、おそらく「水想観」を身ぢかなものとして、とり入れ、押しひろげるためであったのであろう。
「今となっては、日想観も地想観もあったもんじゃない。つまるところ、人想観だけでゴチャゴチャやっているんだからな」
中庭に下りた父が、しゃがみこんで菊の鉢をいじくっていた。講義に出かける前の、寸時を惜しんで、大好きな植物を可愛がる父の背なかには、地面とは離れられない小作農の、しんぼう強さと非社交性がにじみ出ていた。
厚物咲や狂い咲の大輪の菊は、もはや茎の根本から切りとられていた。
花のない菊の根株には、わずかに枯れかかった葉が、数枚のこっていた。
来年の秋の、見事な開花にそなえるためには、もとの根株をわけるにしろ、新しい苗を挿《さ》すにしろ、今年の冬から用意しておかなければならない。
百鉢ほどが咲きそろうと、母は菊見の客を迎えようとして、はしゃぎだす。彼女はそのほかのときに、夫が菊づくりにどんなに苦心しようが、手つだうつもりはなかった。
「悪人も使いようですよ」
と、母は縁側から、庭の父に話しかけていた。
「金さえやれば、手のひらをかえすように、よく働く男ですから、いいかげんに手なずけておいた方がよござんすよ。昔はあれだって、おじいさんがお寺に地所を寄附したりしたこと、あるんでしょう。先代までは檀家総代で、寺にはつくしていたんですから。当人は、前科者で、やくざの親分でも、まア寺とは因縁のふかい男ですからね」
「おれは、誠意のない男はきらいだよ。他人に迷惑をかけて、平気な男はきらいなんだ」
父は、菊の鉢にかがみこんで、こちらを向こうとしなかった。
「私だって、きらいだわよ。ただ、きらいですまないから、うまくあしらっているだけで。これだけの大寺になれば、金をせびるダニはつきものですからね。そう思ってつき合ってれば、いいんですよ。少し悪《わる》でなければ、役に立たない世の中なんですもの」
「おれは、悪人は好かんよ。悪党とつきあうと、不愉快でたまらん」
「小谷だけじゃア、おどしがききませんよ。顔役の親分は、どうせうるさい男にきまってますけど、うるさいからこそ、借地人におどしがきくんじゃありませんか」
「悪党を使えば、こっちまで悪人になるんだ。それが、わからないのか」
「悪党をこわがってたら、何もできませんもの」
「こわがるんじゃない。きらいなんだ」
感情をたかぶらせた父は、息ぐるしそうに言った。
「でも、善人なおもて往生す、いわんや悪人をや、って言うじゃありませんか。法然上人は、斬り取り強盗の大親分でも、ナムアミダブツで救ってやったんでしょう。悪人、悪人て言うけれど、みんな簡単な人間ですわよ。金や女がほしくて、人をだましたり、人を殺したりするだけですもの。たいしたちがい、ありませんわ」
「悪人だって、改心すればいいが。あの男は……」
「では、改心させなさったら、よろしいのよ」
「…………」
父は、菊の名を書いた、小さな木の札を一つ一つ注意ぶかく、鉢の泥にさしこんでいた。根株だけのこした菊は、どれも同じように見えるから、そうしておかなければならなかった。
だまりこんだ父が、母に向って「あさましいことを言うな」と言いたいのは、わかりきっていた。だが、そう言えない父の息苦しさが、そ知らぬ顔で本棚の本をぬき出している柳には、痛いほど感じられた。
第一、父は母を熱愛していた。みじめなほど、罪ふかいほど、女である母に執着していた。叱りつけたあとで、母にふれたくなる父は、それだけでももう、自分がいやになるにちがいなかった。
第二に、父には「悪党」を改心させる力がなかった。悪人に接触して相手を変化させるより先に、悪人を避け、悪人に接近しないでいたいのだった。人間ぎらいが、どうやって人間を救うことができるだろうか。
第三に、「あさましいこと」を抜きにして、寺院の経済が成りたたないことを、父はよくわきまえていた。|あさましい《ヽヽヽヽヽ》ことをなくするために建てられた寺院を、現代風に維持するために、あさましい土台を固めねばならないのである。
かつての清浄な僧侶たち、律院の戒律を正しく守って、学問に専心できた学僧たちの真似をしたいと、父がどれほど願ったことであろうか。
だが、父が母を愛しはじめたときから、父の切なる願いは不可能になってしまったのだ。
「お前、宝屋さんの別荘へ行くつもりか」
と、父は柳にたずねた。そして、古びた銀時計を、古びたチョッキのポケットからとり出した。
「いや、まだ決めたわけじゃありません」
「そうか。あれ、もうこんな時間か。それじゃあ……」
やっと滑りこんで間に合ったり、一分でも遅刻したりするのが、何よりきらいな父は、いつでも不必要なくらい、早目に家を出るのだった。
「おれは熱海というところは、あまり好かんよ。ぜいたくで、ゴテゴテしてるばかりで。そんな別荘へ行くくらいなら、田舎の寺へ行かないか。田舎の寺へ行って、百姓の仕事でも見てきた方が、よっぽどタメになるよ」
「うん、ぼくも田舎へは行ってみたいんだ」
「読みたい本があったら、何でも買ってやるから。その本を持って、しばらく田舎へ行っていろよ」
「田舎って、どこですの。あんまり遠い所はやめにしてほしいわ」
と、母は不平そうに言った。
「伊豆だもの、熱海にもちかいんだ。別荘地なんかにいたって、社会のことは何もわかりゃしません。農村の苦労も、見させといたほうがいいんだよ」
「でも、どうなんでしょう。農村なんて一日いたら、たいくつしちまうんじゃありませんか」
「母さんは、すぐそういうことを言うからいけない」
「ぼくは、どこにいたって、たいくつなんかしやしないよ」
ふくれ面をする父と、つまらなそうな顔つきをする母をからかうように柳は言った。
第一巻、律蔵、一。
すべりのよい上質の洋紙、上等のクロースの固い表紙。ちょっと仏教書とは思えない一冊をかかえ、柳は陽あたりのよい本堂の縁側へ行く。
廂《ひさし》の木組には、水の波紋が光の模様となって、照りかえされていた。小さな滝の形で落ちている、上段の泉の水は、たえず水面をゆらめかしているので、頭上に映る光の紋や光の縞も、ゆらめいていた。
柱にも障子にも、壁にもゆらめいている、池の反射する日光を眺めているのが、柳は大好きだった。台地を切りそいで、一段ひくく壁のように突き立つ岩組にそって、池は本堂の東と北をめぐっていた。その岩組の上から、下の水面に向ってふりそそぐ日の光が、また上向きにはねかえって、廂の裏側に達しているので、そこに描き出される光のかたちと動きは、何かしら微妙なやわらかみと、不思議なあかるさを持っていた。
浅い池は、底まで透けて、長く大きいガラスの容器のように見えるところもあり、枯れ葉や朽ちた藻《も》でおおわれて黒ずんだところもあった。その水面のかすかなゆれ方や、水底に達する光のうつし出す、動かない底泥の実態(仏教語を使えば、実相《ヽヽ》)に眺め入っているだけでも、飽きることはない。更に、反射された光が、水の動きを光線の本性によって映し出すのであるから、水と光の両方に親しみ、その二つのふれあいに立ち会っていることになる。
「ぼくが今、こんな贅沢《ぜいたく》な楽しみにふけっていることは、誰も知らんだろうな」
誰にたのまれたわけでもなく、誰に見せようというわけでもなく、反射されたままに、古い建造物の一部をなめている光の舌を眺めていると、彼は自分が「自然」の意志、「自然」の秘密につつまれているような気がするのだった。
のびすぎないように、よく手入れされた|つつじ《ヽヽヽ》、|ふじ《ヽヽ》、|どうだん《ヽヽヽヽ》、|かえで《ヽヽヽ》が岩組の上に植えこまれていた。岩と岩のあいだにも、水しぶきや、水のしたたりを受けて、似あいの灌木《かんぼく》が突き出ていた。岩組の下には、滝の落口にも、池の隅にもさまざまな羊歯や、水草が水面に傾いているので、光の直射と反射は、なおのこと複雑になるのであった。
きびしい禁欲生活をつづけ、世の常の快楽をたちきっていた人々が、この「水と植物と岩と光」の一角を築いたとき、彼らのプランと指さきには、一種の欲望がこもっていはしなかったろうか。屋根を葺《ふ》くこと、壁を塗ること、材木を切り出すこと、およそ居住する場所一つつくるにさえ、厳重な戒律があったはずだ。もしも住家が、少しでも個人的な楽しみを保つために工夫されたら、それだけで「罪」のはずであった。まして「風流な庭」など、喜びいさんで造りあげることは、それだけでもう、教団の鉄の規律にそむくことにはならなかったのだろうか。
「宇宙にちらばった無数の星の、どれか一つは、今の今、爆発しているんだよ。わが若き友よ」
芝の増上寺の炊事場で、中国から留学してきた密海さんは、そう柳に語ったではないか。
して見れば、真の仏教徒にとって、自然は決して、眼を楽しませる風景でなどあるはずがなかった。なごやかにひろがり、ひそやかにうずくまる、美の一角でなどあってよいわけがないのであった。永久不変なるものは、何一つありはしない。ああ、「自然」でさえも。そう、ゴータマ・シッタルタは説かれたのではなかったか。
縁側の板は、いいあんばいに温まっていた。
水のゆらめき、光のゆらめきの中に、あお向けに寝ころがる。ここちよい水音を耳にしながら、重い本のページをめくる。
「ふふうん。今巻依用ノ底本ハ Hermann Oldenberg 刊行本(ロンドン、一八八一)ニシテ、兼ネテ暹羅《シヤム》版ヲ参照セリ、か。なるほど、たいしたもんだ」
仏典に出てくる言葉は、たった一つの名詞でも、むずかしく異様で、自分とはへだてられたもののように、柳には思われた。
「ええと、つまるところ、ここに紹介されておりまするのは、漢訳では、『広律』という奴でございまして。それは『四分律』六十巻、『五分律』三十巻、『十誦《じゆうじゆ》律』六十一巻、『摩訶僧祇律』(ええと、これはマカソウギリツと読むんだろうな)四十巻、および『根本説一切有部毘奈耶』(コンポンセツイッサイウブビナヤでしょうか)五十巻等の有部《うぶ》律、鼻奈耶《びなや》十巻である、か。おんなじビナヤでも『毘』と『鼻』と二つあるのは、どうなってるんだろうか。読むとなれば、まず最初に、経分別《きようふんべつ》からはじまることになるな。『キョウフンベツ』、パーリ語で言えば、スッタビバンガですぞ。これが、比丘《びく》さんたちに二百二十七条、比丘尼《びくに》さんたちに三百五十一条の戒を示していますね。ビクニさんの方が、条文の数が多くなっているところに、注意!
そら、比丘戒のとっぱなに、おっかないのが出てきましたぞ。
『波羅夷』。パライとは、何とおっかなそうな字がまえではないですか。パーラージイカ。この波羅夷を犯したら最後、ビクとしての資格を失い、僧伽《さんが》つまり教団から追放されてしまうんだからな、パーラージイカとは、|打ち破られたるもの《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、の意味だそうですね。打ち破られたら、仲間はずれ、村八分にされるのでありまするから、打ち破られるな、打ち破られまいと、必死にこころがけねばなりませんね。
ところが、そのチャンスがあまりにも豊富に、ぼくらを包んでいますね。全く、我らは、打ち破られるためにのみ、生きているように見えますわい。
第一波羅夷。
『――いずれの比丘といえども不浄法を行ぜば、波羅夷にして共住すべからざるものなり』
不浄法とは言うまでもなく、女犯《によぼん》のことである。大体、女というものが何千万年前に発生したものであるかは不明であるが、いずれにせよ仏教教団ができてからのち、誰かが最初に、この女犯パライをやってのけたんだろうな。犯人がないのに戒律が定められるはずはないから、とんでもない犯人が誰か一人出現したために、他の者をいましめるため、第一波羅夷は制定され、発布されたのであったにちがいない。
ほら、ここにハッキリ書いてあるじゃないか。
むかし、むかし、毘舎離《ヴエーサーリ》国の近くの迦蘭陀《カランダ》という村に、スディンナカランタカブッタという長者の子供がおりましたのじゃ。(どうも、この訳文は少し不親切みたいだな)。長者の子供、その名はスディンナカランタカブッタと書けばいいのにな。これでは、子供の父親、すなわち長者が、スディンナカランタカブッタであるように誤解されるぞ。で、そのスディンナがだ、たまたま大衆に囲繞《いによう》せられて坐し、説法したまえる世尊にお会いしたというわけなんだ。会わなければ、問題はなかったんだ、なまじ、世尊になんぞお目にかかっちまったから、タダですまなくなったんだ。ほら、お説教に感激したスディンナの奴は『さてさて、家になんぞ居たのでは、完全無欠にして清浄|無垢《むく》、みがかれたる真珠貝の如き梵行を修することは容易にあらず』なんて、言い出しましたぜ。『われ、よろしく髪髯《はつぜん》を剃除《ていじよ》して袈裟衣《けさぎぬ》を着し、家より出でて家なき身となるべきなり』か。
両親は、困ったろうな。
世尊だって、すぐさまお許しにはなりませんよ。『スディンナよ。如来《によらい》は父母に許されざるの子を出家せしめず』と、おっしゃった。
ぼくの両親がぼくに困り、宮口の両親が宮口に手を焼いてるのと、おんなじこった。宮口の奴こそ『家より出でて家なき身となるべきなり』そのものを、実行してるわけだからな。
彼はカランダ村に帰ると、さっそく父母に申しました。『父母よ。世尊の説示したまえる法を我が了解するが如くんば(全く、めんどうくさい訳文だな)、家に在りて住する者には、完全無欠にして清浄無垢、みがかれたる真珠貝の如き……』
両親は驚いたでしょうね。世尊も罪な説法をしたもんです。
『わがスディンナよ。汝《なんじ》は実にわれらが寵愛《ちようあい》する唯一人子にして、幸福に成長し安楽に育てられたり。スディンナよ。汝は苦の何物をも知らず。われらは死によりても汝と別るるを欲せず。いわんや生存せる汝の出家するをゆるさんや』
こうなると若い者は、すねたり、ごてついたりするからな。息子は、敷物もない地上に寝ころがった。『死か、しからずんば出家!』七日間の絶食。これが経文には、一日の食を取らず、二日の食も取らず、三日の食も取らず、四日の食も取らず、五日の……と、ゆっくり書いてあるよ。悟りをひらくためには、急ぐことはないからな。
『まあ、まあ、そんなところに寝ていないで、お立ちなさい。ね、食べたり飲んだりして、楽しんだらどうなの。楽しめることを楽しんで、福徳円満、あたりまえの人生を享楽するのが、どこがわるいの。出家するなんて、とんでもない』
二千年前のインドの父と母の、やさしい声がきこえてくるようだ。スディンナは、沈黙戦術。息子の親友を動員して説得にかかったが、彼はあいかわらずだまりこくっている。
世間なれした親友(つまりは穴山みたいな男だ)は、両親に言った。
『このままじゃ、スディンナ君は死にますよ。どうでしょう。ここのところは、一応、彼の願いをきいてやって、出家させてみたら。出家したって、死ぬわけじゃないですから、会うことは会えますよ。死んだら、元も子もありませんからね。どうせ、出家したって長つづきしないでしょうから、そうすりゃお宅に帰ってきますよ』
かくしてスディンナは、家なき身となることを許された。よろこび勇んで、世尊のお弟子となり修行に入る。いよいよ開始された修行と申すのは、まず阿蘭若《アランニヤ》住者。アランニャとは山林あるいは荒野のこと、人里はなれてそこに住む。乞食《こつじき》者、次第乞食者。糞掃衣《ふんぞうえ》者。乞食にも種類があるらしいが、要するに食をねだって歩く。糞掃衣者とは、便所掃除にふさわしい衣服を着用することかな。
ところが、あいにく移り住んだ地帯は、大飢饉《だいききん》となった。『白骨|狼藉《ろうぜき》』と書いてあるから、死屍《しし》るいるいの有様で、東北地方の冷害どころではなかったのだろう。作物は葉と茎ばかりで、実というものができない。これでは、施しものを食べて暮すわけにはいかないのである。
実際、ここん所は矛盾してるんじゃないかなあ。性欲だけ絶って、食欲の方はそのままにしておくのは。食べなければ、死ぬ。死ねば、修行も教団も仏教そのものもなくなる。だから、食べねばならぬ。理窟《りくつ》はそうかもしれないけれど、畠《はたけ》の農作物だって、俗人どもが汗水たらして作ってくれるからこそ、毎年収穫があって、そのおあまりがいただけるんだろう。修行はけっこうだけれども、どうも禁欲が片ちんばじゃないのかなあ。だから、ごらんなさい。一たん飢饉がくれば、乞食者も次第乞食者も、教団経済そのものが、あわてふためかなければならんじゃないですか。
『これはいかん』と、スディンナは考えた。この地方で乞食することは、もはや不可能である。ヴェーサーリに行けば、親類縁者もたくさんある。おまけにいずれも、金銀ゆたかな金持で、食物の貯えも腐るほどある。あそこへ行って彼等の援助を乞えば、悲鳴をあげている比丘仲間も、さぞやたすかることであろう」
「……乞食するには、下衣だけ身につけ、上衣と鉢を手にもって行く。今はたんなるお坊ちゃまではなく、いっぱしの長老となったスディンナを、ヴェーサーリの親戚《しんせき》たちが歓迎しないはずはない。
彼らはまず、六十大盤の供養食を彼にささげたんだ。一つの盤には、何人前が盛られてあったろうか。十人前とすれば、六百人の飢えたる比丘たちが、腹をみたすことができたはずだ。スディンナは、さぞかしお仲間のあいだで、男をあげたことであろう。さて彼は故郷の村で、『次第乞食』をしながら、父の家の方へ行く。
ちょうどその時、彼の生れた家の下女が、昨夜残った粥を棄てようとしていた。そこで、彼は『妹よ』と呼びかけましたよ。『若《も》しそを捨つべくんば、わが鉢中にうつせ』とな。廃物利用、ゴミタメあさりこそ、仏弟子の食生活に最もふさわしき行為であったろうからな。ぼんやり者の下女は、言われるままに、粥を鉢の中にあけてやりながら、ようやく御主人さまの令息であることに気がついた。
下女はすぐさま『どうやら若様らしい方が、さきほどここへ』と、スディンナの母に注進しました。
『え? 何ですって。それをだまって、お帰ししちまったのかい。まあ、まあ、あきれかえったひとだねえ。ほんとに若旦那に粥の残りなんかさしあげたんだったら、お前さん、クビですよ』
ぼくの母が、わが家の下女末子に対するが如く、彼の母は大げさに叫んだのであった。
彼の方は、どこかの家の壁にもたれて、粥をすすっていた。彼の父が通りかかって、びっくりして駈けよる。『なんだ、スディンナじゃないか。どうして、こんな所で。さあ、さあ、早く家へ来なさいよ』
かくて若き長老は、父の家に到った。しずかに、設けの座にすわる。『さあ、食べてくれ。お食べなさい』と、父はしきりに食をすすめた。
『止《や》みなん、居士《こじ》よ』と、息子は父に言った。居士とは、在家の有徳者のことだ。『われはすでに汝の家にて粥をもらいうけ、今日の食事をなしおわれり』
『そうか。では明日の食事は、ぜひともうちで』
息子は無言でうなずくと、座を立って去って行く。
母親の方は、明日の御馳走の支度で気ちがいじみてきた。まず地面を緑色の牛糞《ぎゆうふん》(そんな牛糞があるのか、どうか知らないけれども)で塗りつめた。そこへ金貨の山を一つ、金貨でない黄金の山を一つこしらえた。その二つの積重ねの大きさは、そのこちら側に立つ男が、向う側に立つ男に見えないくらい。その上をきらびやかな敷物でおおい、その中間に息子の座席をしつらえ、まわりは、これまたきらびやかな幕など張りめぐらした。
それから息子の嫁さんを呼び出して『あんたは、あの子の一ばん好きだった着物を着なさいよ』と、命令する。
翌朝はやく、スディンナはわが家に到り、席につく。父は得意げに、二つの金の山を息子に示した。
『これが、お前の母方から来た財産だよ。このほかに、父の財産、祖父の財産もあるんだよ。それがみんな、お前のものになるんだよ。どうかね。苦しい修行など止めにして、俗人にもどらないか。これだけの金があれば、教団に布施もできる。貧民も救える。そうやって功徳を積めば、不足はないはずじゃないか』
あっぱれな若き長老は、おもむろに答えましたね。
『父よ。われ、強いて努むるにあらず。難きを犯せるにもあらず。われ、よろこびて梵行を修せるなり』
もしも、かのしたたか者の脱走者、闘士宮口がスディンナだとしたら、どう答えたろうか。おそらく宮口なら『せっかくの父上の御厚意、ありがたくちょうだい致します』と答え、もらった財産をそっくり、革命党へ寄附したのではなかろうか。
父親は飽きることなく、口をすっぱくして息子をくどきましたよ。
『お前から、金をもらおうとしてるんじゃないんだよ。どうぞ、この金をもらってくれと頼んでいるんだ。じれったいな。どうして、やると言うのに取れないんだろうな』
『居士よ。お父さんよ。怒っちゃいけませんよ。もし怒らないなら、申し上げたいことがあります』
何事ならんと、父親はきき耳をすました。
『しからば、居士よ。卿《けい》は大きなる麻布の袋をおつくりなさい』
『おやすい御用じゃ』
『この金貨と黄金をその袋につめて、車で運びなさい』
『おやすい御用じゃ』
『そして、ガンジス河の流れに投じて、沈めなさい』
『エッ!』
『さすれば卿の身にある怖《おそ》れ、おどろき、心労のすべてが消え去ることでしょう』
『テヘヘヘ!』
長老スディンナの父は、はなはだ喜ばざりき。こういう息子は、今の法律では『禁治産者』とよばれ、危険人物とみなされている。
こうなっては、嫁さんの魅力を借りるより仕方ないと、父は考えた。美しきスディンナの妻は、義父に命ぜられたとおり、家出した夫の二本の足に、とりすがった。
『わが夫《きみ》よ。あなた、梵行を修めていらっしゃるのは、結局、天女を手に入れたいからじゃありませんの。一体、どんな綺麗《きれい》な天女なんでしょう。にくらしい!』
『妹よ。我は、天女のために梵行を修するにあらず』
『まあ。実の妻を、妹とおっしゃった。まあ、この私を妹などと。何とよそよそしい、冷たい、情しらずの……』
若き妻は、悶絶《もんぜつ》して床に倒れ伏しました。気絶した真似をしたのか、それとも真実卒倒したのか、ぼくには、女性のことはよくわからんなあ。
両親の計略を見ぬいたスディンナは、
『食を施して下さるとおっしゃるから、参ったのです。食べさせるつもりなら、さっさと食事を用意して下さい。いろいろと私を困惑させるのは、止めにして』
ずいぶん心臓のつよい、わがまま息子じゃないか。食べるものだけは、食べて帰るつもりなんだ。父と母はあわてて、とびきり上等の軟い食物、硬い食物を並べたて、充分に食べさせた。両親はまだ、あきらめたわけではないから、あの手、この手と工夫をこらす。
そのうち母親が(母親の方が頭の回転が速い点は、うちによく似ているわい)、うまい手を思いついた。
『ねえ、スディンナや。うちは今こそ、金がありあまるほどあるし、暮しの心配がないけどねえ。お前が続種《あとつぎ》を生んでくれないと、大へんなことになるんだよ。あとつぎのない家の財産は、リッチャヴィ王に没収されることになってるのよ。このままで、もしお父様がなくなってごらん。私は、無一文にならなきゃなりませんよ』
これは、スディンナの予想していなかった難題である。彼は何も、わざわざ自分の親や生家を不幸にするために、出家したわけではないのだ。
そこで彼は『その程度のことなら、してあげてもよろしい』と、答えた。
『え、それじゃ続種を生んでくれるかい』と、母親は喜びましたよ。
そのときのスディンナには、現在のぼくなどとちがって、妥協の精神、まあまあ、それで無事にすむならばという、いいかげんな心がまえなどありはしなかった。彼の先輩や師たちが、まだ波羅夷の戒律を確立しないで、各自の判断にまかせていたのがいけなかったのだ。ましてスディンナは、自己の欲望をとげるために、母の申出を利用し、うけ入れたのではない。相手の女性も、正式の妻である。いやいやの性交を一回だけすませてしまえば、あとは絶対に、女体にふれない覚悟もしている。たしかに、彼の胸中はそうだったと、察してやらなくてはなるまいな。もしそうじゃなかったら、もともと喰わせもののインチキ修行者だから、苦悩も戒律もあったものではあるまい。
母は息子の嫁に『汝、月の華起りて完《おわ》らば我に告ぐべし』と、申しわたしました。かしこまった嫁は、月の華が起って終了すると、そのむねを母に告げた。どうして、こういう生理学的な説明をしなければいけないのかな。ぼくは、好かんけどな。
母親は、美しい嫁に手を引かれて、大きな林の中に住むスディンナを訪れた。
自宅の寝室と、林の中の小屋と、どちらがこの奇妙な手つづきにとって、ふさわしかったか。スディンナには、秘密にする罪の意識はないのだから、どこでも早いところすましてしまえばいいわけだ。ぼくだったら、そうとう神経質に情況判断で迷ったであろうが。
彼は、未《いま》だ制戒せられざるが故に、その罪たるを知らずして、もとの妻と三度、不浄法を行ぜり、か。三度か。母の願いが達成されるよう、念入りにしたのかしら。
おそらく彼の性行為は、彼の一家の者のほか、誰にも知られなかったにちがいない。もしも相手が、同じ人間であったら。だが、当時は、神さま仏さまで、天地は充満していたのであるから、たちまち発見された。発見されたと言うのは、必ずしも正確な言い方ではない。というのは、地上に許すべからざる大罪が発生すると、天界の神(あるいは仏)のおしりが熱くなってきて、居ても立ってもいられなくなるそうであるから。
地居天という、感覚鋭敏な神さまが、まっさきに叫びだしたのであった。
『ああ、熱いぞう。熱いぞう。けがれなき、悪罪なき我らが僧衆のあいだに、スディンナカランタカブッタの奴のおかげで、けがれと悪罪が発生しましたぞう』
彼の叫喚をききつけた、他の連中、つまりは|※[#「りっしんべん+刀」]利天《トウリテン》、夜摩天《ヤマテン》、兜率天《トソツテン》、化楽天《ケラクテン》、他化自在天《タケジザイテン》などが一せいに『……発生しましたぞう』と、叫喚しはじめたのである。
これら宇宙をどよめかす絶叫の合唱は、下界の人間の耳には、きこえなかった。スディンナの妻は、ものの見事に男の子を生んだ。友人はその子に『続種』という、おめでたい名を附け、スディンナの妻には『続種母』、スディンナ自身には『続種父』という、あまりにも明々白々な名をくっつけた。
スディンナは、何となく気持がわるくなって来たのである。
『いや、これはまずいぞ。これは、ぼくにとって、まずいことだぞ。せっかく出家したのに、続種父などになってしまって、いいものだろうか。これでは完全無欠、清浄無垢なる梵行を修するどころの話じゃないじゃないか』
根が生まじめな男であるから、疑い、なやみ、後悔して痩《や》せおとろえ、四肢の肉がなくなったあとに動脈静脈、血管だけがむき出すことになった。
よく気のつく坊さん仲間が、彼のいちじるしい変化に気づかぬはずはなかった。
『どうしたの、あんた。前には顔の色も、肌の艶《つや》もあんなによくて、丈夫そうだったのに、今の衰弱はこりゃどうしたことですか。まさか修行するのが、いやになったわけじゃありますまいな』
『いや、いや。修行がいやになったのではありません。実は、私は私の妻と不浄法を行じましたので。そのため疑いと悩みと後悔が湧《わ》きおこって……』
『アリャリャリャ。同志スディンナよ。なんと、まあ。とんでもないことを、して下さった。えらいこっちゃ、これは。これで疑いと悩みと後悔が湧きおこらねば、おかしな話ですぞ。わが友よ。そもそも世尊が、さまざまな表現と伝達の工夫をこらして法を説きたもうのは、みなこれ欲を離れるがためで、欲と結びつくためではありませんのじゃ。解きはなたれるためであって、縛られるためではない。傲《おご》り高ぶりを破るため、渇をいやすため、愛を除くため、種を断つため、ネハンのために法を説かれたのでありまするぞ。君のやったことは、信仰の念を起させたり、信仰の念を固めたりすることではなくて、まだ信じていない者には不信をひきおこし、すでに信じている者をも転向させるようなことですぞ』
騒ぎたてる比丘たちの訴えをききおわって、世尊は『スディンナよ。汝はまことに汝の妻と不浄法を行ぜりや』と、たずねられた。
『まことなり、世尊よ』
『汝、愚かなる者よ。こは法にふさわしき行為にあらず。法にしたがう行為にあらず。威儀にあらず。沙門行《しやもんぎよう》にあらず。浄行にあらず。なすべからざる行為なり。愚人よ。われ種々の方便を以て、欲熱の静止を説きしにあらずや。愚人よ。むしろ怖るべき毒牙《どくが》の口中に男根を入るるも、女人の根中に入るることなかれ。むしろ燃えさかる火坑《かこう》中に男根を入るるも、女人の根中に入るることなかれ。おお、汝、愚かなる者よ。ここに汝は、実に実に、罪業、卑業、悪行、汚行、末水法(水で洗わねばすまぬような行為)、唯有二人成就法《ゆいうににんじようじゆほう》(たった二人でなければできぬ仕業)、隠処法(かくれた場所でなければできぬ仕業であろうか)をやってのけたのじゃ。汝こそは、あまた不善法の最初の犯行者、先駆者であるぞ。うんぬん』
うっかり親孝行をしたばっかりに、えらく叱責《しつせき》されてしまったものだなあ。原始仏教にあっては、孝行も忠義も、絶対的な倫理であるどころか、むしろ棄て去るべき執着、精神の自由を縛る欲の縄にすぎなかったんだからな。孝行という動機は、スディンナの罪を少しも軽くしてはくれなかったのだ。
とにかく、憲法第一条は、次の如く定められた。
『いずれの比丘といえども、不浄法を行ぜば、パライにして共住すべからざるものなり』
やれやれ、まことにまわりくどい物語の主人公となった、彼スディンナカランタカブッタは、恥をさらしたかわりに、戒律の経典に永久の名をとどめたのである。……」
丘の中段のあたりで、息せき切らした爺やさんの叫び声がきこえた。それは、墓地の塔婆や、林の枯枝をぬすみにくる、少年たちを追いはらうためだった。急斜面を駈けのぼっては、滑り下る悪童たちは、燃料を集めてこいと言う、親たちの命令もあるので、爺やさんなどをこわがるはずはなかった。それに、「盗む」ことは一種の冒険なのだから、おもしろくてたまらないにちがいなかった。
走りまわる子供たちの元気な足音にくらべ、爺やのかすれ声は、怨みがましく、のろくさくきこえた。
幼い盗人たちの、棄てぜりふじみた、からかいの言葉。逃げまわりながら投げる小石が、木の幹にあたる音。石の一つは、柳の眺め入っている池の上の、生垣まで飛んできて、枯草の茂みの中へ落ちた。
「どこの餓鬼だ。名を言え。先生に、そ言ってやるからな。畜生め。巡査に人相を言って、調べさせてやるからな」
貧乏な家々は、寺の正門の前にも、墓地の裏にも立ち並んでいたし、入れかわり立ちかわり、はるか遠くからやってくる少年もいるから、犯人がどこの家の子供なのか、知るすべはなかった。
毎年、柿の実が赤く色づくころになると、柳の母はヒステリカルになった。栗の木にのぼって、栗の実を竹ざおで落している爺やの足もとで、落ちてくるイガ栗をぬすんで逃げる子供もあった。銀杏《ぎんなん》の黄色い実が、黄色い葉の茂みからこぼれ落ちて、妙に人間臭い匂いをただよわす日には、高い高い梢《こずえ》に投げあげる子供たちの石つぶてが、あたりを騒がせ、あぶなくて近寄れないくらいだった。
「いっそのこと、実のなる木はぜんぶ切っちまったらどうかしら」
集団をなして攻めよせてくる「敵」に、すっかり興奮してしまうと、母はそう口走った。
「あんな奴らに、人形芝居なんか見せてやるの、およしよ。バカバカしい。ずうずうしいったらないんだから、ここらの子供たちは。帰ったあとでも、本堂が臭くて、臭くて。畳はよごすし……」
まったくのところ、浄泉寺の境内は、いい遊び場であるばかりではなく、一種の猟場だったのである。向うから攻めこんでくることはあっても、こっちから攻めよせて行くことはできない。それは、何故《なぜ》か。「要するに、こっちが所有する者だからだ」と、柳は考えていた。
仏教徒は、無所有でなければならない。無一物でなければならない。しかし今のところ、柳一家は、地所、建築物、果樹、その他の財産を所有している。して見れば、攻めこまれるのは致し方ないことではないか。
「いずれの比丘といえども、持ったならば、あるいは持とうとする意志を持ったならば、パライにして共住すべからざるものである」
この方が、第一条にふさわしいのではなかろうか。持ってさえいなければ、失う心配、奪われまいという警戒もいらないのだ。持っているから、いけないのだ。そうは思っても柳自身、秋まつりの夜など、群をなして襲撃してきた町の若い衆が、柿の木によじのぼり、枝ごと柿の実を奪略したりされると、ついつい怒鳴りつけずにはいられないのであった。果実を惜しむわけではなくて、果樹を育てた者の心づかいを無視する、無神経なやり方がシャクにさわるのであった。
そんなことで、一々腹を立てているようでは、僧侶の資格ゼロなのである。自分のための果樹など一本だって、所有してはならないはずなのだし、植物にしろ動物にしろ、物を産み出すものすべては、万人のものでなければならないはずなのだ。
「キミは誰のもの? ボクのものじゃないの」「そうよ。ワタシはアナタのものよ」などとささやきあって、ひしと抱きしめあうようなことは、愚人よ、もってのほかなのである。所有したがる心と、不浄法をやりたがる心は、直結しているのであって、もしも所有を全く棄てさることができるならば、その瞬間から、まさに男女の結合は無意味になりうるのである。所有の方にあきらめがつかない以上、不浄法もまた同様に、つきまとわずにはいられまい。「愛を除くため、種を断ずるため」に、仏法は説かれたという。ところが、種を断じてしまったら、子孫は絶えることになり、国民は減少して、はては皆無になり、国家も社会も存在できなくなる。したがって、この憲法第一条は、マルクス主義よりも、アナーキズムよりも、もっと激烈な危険思想をふくんでいるのではなかろうか。「生」が汚れの根源であり、無意味な幻影にすぎないとすれば、何のために人間どもを生かしておく必要があろうか。地球がカラッポになるまで、人間どもを早いところ極楽へ送りこんでしまえばいいではないか。
「徹底して考えていくと、おっかなくなるから、いいかげんにしておこう」
長い敷石をふんでくる、下駄の音が、本堂の玄関の方へ近づいてきた。
中年の女と、若い男であった。白い布でくるんだ骨壺《こつつぼ》をかかえているから、お経を頼みにきたお客さんにちがいなかった。
小柄なために、誰よりも身うごきのすばやい末子が、茶の間から取次に出てゆく。
湿気の多い本堂の畳は、いくら取りかえても、フワフワとたよりなかった。陽あたりのいい玄関の板敷は、一枚ずつお互にはがれそうに隙間があいていた。
「前にも一つ、お骨《こつ》をあずかっていただいている神田ですが」
「神田さん?」
檀家《だんか》以外の人、墓地を持たないで、お骨だけ寺におさめている、フリのお客であった。末子は、畳の間より二段ひくい、板の間に立っていた。柳は、畳の間に突っ立って、のぞいていた。
「お檀家の方ではありませんね」
末子は、寺の客のことについては、柳よりくわしかった。
「ええ、田舎の方にお寺はあるんですが、こちらにお骨をあずかっていただいています」
「どうぞ、おあがりになって。それで、そのお骨をまたおあずかりいたしますんですね」
「ええ、そうなんです」
中年の女は、言いにくそうに言った。
「そうしますと、このお骨のお経をおあげするわけですね。前のお骨のお経は、おあげしなくてよろしいんですね」
「いえ、それは、あの、両方の……」
「ハア、承知いたしました」
愛想のよい末子の言葉には、相手の心理を見ぬいている調子があった。盆暮のお附届もいたしますから、よろしくお願いしますと言い置いて、骨壺をあずけて帰る、しかしそれっきり、音さたなしになる人もあった。その中年女が、ややおずおずしているのは、前のお骨を置き去りにしたあとで、またもう一つ持ちこんできた心苦しさのためなのだった。
「どうぞ、おあがりになって、お待ち下さい」
いそいそした、色黒の婦人のあとから、血色のわるい青年が、ひどくつまらなそうなそぶりで、本堂の外陣《げじん》に坐った。
柳は、婦人のかかえてきた骨壺をうけとり、内陣《ないじん》の奥にすえた。木綿の白布の下で、白い骨壺はまだいくらか、火葬のぬくもりをもっていた。
「神田さんの、前のお骨、探してくれよ」
「ハイ、わかりました」
末子は玄関の次の間へ入って、事務用の机の引きだしをあけていた。
増加するばかりで、減る気配のない「あずかり骨」は、番号札(それは、ふつうの荷札だった)を附けられ、記帳されているはずだった。|はずだった《ヽヽヽヽヽ》というのは、帳簿の係の執事が、きわめていいかげんだったからだ。
死んでからの戒名だけ書きつけて、生きているあいだの姓名を忘れているのもあった。死亡の年月日、預け主の名前、預け入れの時など、どれか一つ書きもらしているのもあった。カンのいい執事は、自分の頭の中だけにしまっておいて、お骨の出し入れをすませていた。
今日は、その執事がいなかった。
「若先生、神田さんという名が、二つありますけど……」
「神田なんとか、名前がちがうだろう」
「それが、両方とも神田氏と書いてあるだけですの」
と、末子は、困ったように笑っていた。
「お骨をあずかった年月日は、書いてないのか」
「ええ」
「年齢は、どうなんだい。その死んだ人の」
「それもありません」
「男か女かも、書いてないのか」
「ええ。小谷さんて困りますわねえ。自分がいるときはいいですけど」
「番号はどうなんだい。それも附けてないのかい」
「一つの方は、三十八番で、もう一つは番号がありません」
「ふうん」
「いいですわ。何とかして探しますから」
「そうかい、頼むよ。ぼくじゃあ、わからんからね」
内陣の外側につづく部屋。金ピカの千手観音や、黒塗りの不動様、小型の仏像を安置した古い古い厨子《ずし》。それに、来たての女中さんなら気味わるがって近よれない、日本の坊さんの木彫り像。法衣をまとった木彫り像は、木肌も黒ずんでいる上に、埃《ほこり》をかぶっている。意志の強そうな頬の骨は、とがったり、かくばったりしていて、白い塗料は、火傷《やけど》の皮がはげるように、まだらに落ちている。ナマ身の人体とは異なり、屍体《したい》ともちがって、妙にしっかりと坐りこんだ木製の坊主は、柳の母親も「好かないわ。こんなの」と、相手にしないしろものだった。
六十箇を越える骨壺が、それらの仏像をならべ立てた、下の置き場所におさめられていた。
西洋館のカーテンにふさわしいような、花模様の幕をはね上げると、上下二段に仕切られた暗い置き場に、お骨たちは満員のありさまだった。
金襴《きんらん》にしきの布に包まれ、赤い紐《ひも》の房までつけられた、宝石箱のように小さな壺。白布も掛けずに、針金でしばりあげた大きな壺には、馬の骨でも入りそうだった。次から次へと押しこまれる仲間たちに押されて隅の方にちぢこまり、おまけに上からもう一つ、お仲間を載せられている壺もあった。
番号順に並べられたわけではなし、底を見せてかしいだり、鉢あわせに重ねられたのもあって、前の方を取り出してからでないと、奥の方の番号がわからないのである。
末子は壇の下へ頭をつっこんだり、顔を横向けにしたりした。髪のもとどりをつかんで武士の首でも吊《つ》り下げるようにして、一つ、また一つと取り出していた。
五年も動かさなかった壺などになると、黒カビでも生えたように、厚い埃をかぶっている。
「埋葬認可証は、お持ちになりましたか」
「ええ、あの、それは持ってまいりませんでしたが」
と、婦人は柳に答えた。
「お骨をおあずかりするときは、埋葬認可証を一緒に、おあずかりすることになっています」
「はあ、さようですか。実は、それを持ってまいりませんのですが」
「でも、埋めるわけではなくて、あずかってもらうだけなんですが、それでも要るんですか」
と、青年は口をとがらして言った。
「ええ、規則でそうなっているんです」
「そうでございますか。それは、困りましたわね。では、のちほどお届けすることにしまして」
「母さん。前のお骨の場合はどうだったの。お父さんのときさ。やっぱり、埋葬認可証を持ってきたのかい」
と、青年は、いらだたしげに言った。
「さあ、たぶん、持って来なかったように思うけど」
と、母親は困ったように、あいまいに言った。
末子はなかなか、「神田氏」の骨壺を探しあてられなかった。青年は、女中さんの困惑を皮肉な眼でながめやっていた。寺が預り品の整理を怠っていることが、一目で明らかだからだ。
「前の場合は、どうだったんですか。埋葬認可証をそちらで、受け取っていますか」
と、青年は柳にたずねた。
「調べてみます」
柳は、事務机の上の綴りこみをめくって見た。「神田秀一、三十一歳」というのが、一枚、綴り込まれてあった。この青年の父親にしては、若すぎていた。
「神田さんというのは、これ一枚ですが」
柳は、仕方なしに、それを二人の前にさし出した。
「ああ、ちがいますわねえ」
「これは、ほかの人のですよ。うちは神田円蔵ですからね」
冷笑した青年は、首を横に振った。
「前のとき、認可証なしで受け取っていただけたとすれば、今度も、そう願えるはずじゃありませんか」
「しかし、お骨をおあずかりするときは、認可証を受け取ることになっているんですがねえ」
「でも、神田円蔵の埋葬認可証は、こちらにないんでしょう。お骨の方も、なかなか見つからないようですねえ」
青年に問いつめられたかたちで、柳はだまっていた。
末子は、三十八番の札のついた骨壺を、やっと探し出した。
「これでしょうか」
額の汗をぬぐいながら、末子はそれを、首をのばした二人の客の前に置いた。壺をくるんだ白布には、何も書いてなかった。
「さあ、これでしょうかしら」
と、婦人は恐《こわ》いものを見るように、首をかしげていた。柳は白布をほどいたが、磁器の白い肌にも、文字一つ見えなかった。
柳は更に針金も、ほどいた。ほどくとき、中の骨片がザラリと音をたてたので、婦人は「アッ」と声をはなった。蓋をあけると、ほんのかすか、うす赤やうす灰の色をおびた骨片が、あっけなく入っていた。その上に、一枚の木札(それは、貧しい葬式の日、棺の上に位牌《いはい》がわりに飾られてあったものだろう)が置かれてあった。木札には、ひどくまずい字で「神田秀一之霊」と、記されてある。たぶん、カルシュウムとか石灰とかの匂いなのだろう。焼かれてから年月を経た、人骨の匂いがただよった。
「これは、ちがいますな」
蓋をしめて、針金を掛けるとき、不器用な柳は、うまくいかなかった。火葬場の人夫は、電気ガマの燃える音を背にして、事務的に縛ってから、器用に結び目をつくるのだが。
青年は、ますます軽蔑《けいべつ》の念をむき出して、口をへしまげた。母親の方は、ハンケチを口にあてがい、長いため息をついた。全く、誰だって、一人の男の白骨がこんな具合に、泥か砂のように手がるくあつかわれるのを目撃しては、ため息がつきたくなるにちがいなかった。
「やっぱり、ちがいますですか」
「うん。これじゃないよ」
「それじゃ、物置の方にあるかもしれませんから」
末子は、かがめていた腰を上げて、本堂裏の廊下の方へ去った。
「物置か」
と、青年は吐き出すように言った。
「ええと。新しいお骨は、神田何とおっしゃいますか。神田円一郎さん? はあ、そうですか」
柳は、一たん安置した骨壺を、またかかえてきて、白布の上にチビ筆を走らせた。うすい木綿の布は、墨をにじませて、書きにくかった。
「これの兄にあたりますの。うちでは、お父さんも長男も、胸をわるくして、次々と死にますので、今では、これ一人がたよりでしてね。これが出世してお金ができるようになりましたら、お寺の方へも、御迷惑をおかけしないですむと思いますですが」
「いいえ。お寺は、それが仕事ですから。別に迷惑ということはありませんよ。いくつでも、お骨ならおあずかりしますから」
柳がそう言うと、病弱な感じの青年は、いやそうな顔つきをした。この次には、あんたのお骨をあずかりますという意味にもとれるのだから、青年が厭《いや》がるのは当然だった。
物置の奥で、ハタキをかけたり、息を吹きつけたりする音がきこえた。「若先生に、恥をかかしては」とあせる、末子が、吊り下げたものを落したり、立てかけたものを倒したりしている様子が、客にも柳にも手にとるようにわかった。
「何でしたら、よろしいんですの。今日もってきた長男のお骨だけ、拝んでいただければ」
「だって、母さん。よく探せば、あるはずだもの。せっかく来たんだから、ついでにおやじの骨も、拝んでもらった方がいいよ。あずかってもらった物が、なくなるわけがないんだから」
「いや、なくなるはずは……」
と、自信なげに答える柳に、おっかぶせるようにして、
「そうでしょう。なくなってたら、問題ですからねえ」
と、青年は眼つきをするどくしていた。
埃の入った眼を、しばたたきながら、顔をまっ赤にした末子がもどってきた。彼女は、さきほど持ち出した骨壺と、大きさも古さも寸分ちがわない、別の壺をぶらさげていた。
「……これじゃないかしらと、思いますが」
と、さし出す末子の手もとを、二人の客は疑わしげに見つめた。その壺の白布にも、のっぺりと白い肌にも、何も書かれていなかった。
「何も書いてないようですね」
と、青年は気むずかしく、膝《ひざ》をのり出している。
「また、蓋をあけて、その中を見るんでしょうか」
と、婦人は迷惑そうに、眉をしかめた。
またもや無造作に、柳は針金をほどく。そして、またもや乾きはてた骨片の、ずれる音。無機物と化した骨片が、ふれ合うと、生きていたころの運命や性格とは無関係に、どの壺の中でも、全くかわりない音を立てるばかりだった。
カマの熱と、取り分け箸《ばし》の先で、崩れこわれ、磁器の穴に封じこめられた骨にくらべ、その上に載っている、小さく折りたたまれた紙片の方が、まだしも「生きている」ように見うけられた。埋葬認可証には、まだ役割がのこされているが、骨はもはや行き場所に迷う、やっかいものに過ぎないのだ。
「ああ、神田円蔵さん、四十九歳。これですね」
柳のさし出す認可証を、受け取ろうとはせずに、婦人は恐しげにのぞきこんだ。
「ああ、これが、お父さんの骨、ほんとに……」
婦人は、口にあてがっていたハンケチで、眼のあたりをぬぐった。
「まちがいありませんね」
「ハア、骨壺には見おぼえがありませんけど、認可証にそう書いてありますなら……」
「よかったですわね。見つかって、ほんとに」
と、末子が柳のうしろでつぶやいた。
青年は気まずく、おしだまっていた。何かしら黒い怒りと不満が、彼の、まっすぐ立てた痩せた背すじ、きっちり折っている細い両脚の、とがった膝がしらに、こもっていた。
柳は「神田円蔵」の骨をくるんだ布に、死亡者に関する必要事項を書きしるした。チビ筆の先は、すす埃にまみれた。
「預け主の名前は、何と書きましょうか」
「さあ、どうしましょうかしら。私の名前にしましょうかしら、それとも、これの名前にしておきましょうか」
あわれな母親が問いかけるように、振り向くと、父親と長兄を失った次男は、そっぽを向いた。
「息子さんのお名前は?」
「神田円次と申します」
と、母親が代って答えた。
母子ふたりの暮しの貧しさは、着ふるした和服にも、黄ばんだ皮膚の色にもしみついていた。
亡父の骨はもとより、死んだばかりの長男の骨をひきとりに来るあては、神田家にはなさそうだった。病身の次男が、半坪の墓地を買い入れる金をかせぎ出すのは、まれな幸運にめぐりあうか、それとも「悪いこと」でもしないかぎり、できない相談であろう。
柳は黒い法衣と、柿渋色の袈裟《けさ》、庫裡《くり》の衣桁《いこう》にひっかけてある奴を、すばやく身にまとう。歩きながら紐をむすんで、本堂へもどってくる。
「お骨とは、何ものなのか。死んで焼かれた、人間の骨とは、一体なにを意味するのか。蒼白《あおじろ》く色あせ、カラカラに乾いた骨の破片が、やっかいな手続をふんで、なおもまだ地上に保存されている意味は、全くのところ、何なのだろうか」
重々しくひびく鉦《かね》を、彼はできるだけ、おごそかに叩く。色とりどりの、ちりめんの布を縫いあわせ、ふっくらと綿の入った「蒲団」の上で、鹿革を張った太い撞木《しゆもく》にふれて、江戸時代に鋳られた鉦が、深く沈んだ音をひろげる。
「がああんがあ しんじょう にょうこうろう」
そこで、一打ち。「願わくは、わがこころ、香炉のごとく清浄ならんことを」
冬の陽光《ひかり》のあかるい障子をへだてて、小鳥のさえずりがきこえた。
客あしらいの上手な末子が、かしこまって首を垂れた婦人のかたわらに、手あぶりの火鉢をはこんでくる。
二つ並んだ白い壺は、ゆらめく蝋燭《ろうそく》の光で、いくらか赤みをおびている。朱と金と黒、色あざやかなウルシ塗りの壇は、よく磨きこまれ、両側に垂れた支那風の幢《まく》の錦の色にはさまれて、東洋の封建時代の、いかめしさを保っている。
天井から下げられた天蓋《てんがい》は、こまやかに細工された金色の飾りを、四方にたらしている。
ミガキ粉でこすった、真鍮《しんちゆう》の蝋燭立も、よく輝いている。木を刻んだ蓮の花は、金粉でまぶされ、金属とはちがった、にぶい光を放っている。
「……にょうぜえ があもん いちじい ぶつざい しゃあええこく」
かくの如く我聞く、一時、仏、舎衛国にありて……。
阿弥陀経は、極楽の光栄と荘厳を、次第にくわしく、ありありと写し出し、説ききかせて行く。ああ、なんとたくさんの仏たちが、そこに勢ぞろいしていることだろうか。そして、それらの輝くばかりの仏たちが、なんと数かぎりない象徴と、叡智《えいち》と、救いを身につけて、死者を待ちうけていることだろうか。
なごやかなゴクラクの光。さわやかなゴクラクの風。とほうもなく立派な、ゴクラクの大建築!
金、銀、サンゴ、ルリ、ハリ。ありとあらゆる宝石、宝玉の巨大な集積にとりかこまれ、ゴクラクの池は、どんなに美しいさざ波をたてていることだろうか。
だが、浄泉寺の本堂は、さむざむとしていた。二つの貧しい骨壺が、安置されているため、よけい寒々としていた。
青年は苦しげに咳《せき》をした。そのたび母親は、気づかわしげに息子を見守った。
「この青年が、ゴクラクを信ずるだろうか。とても、とても……」
体験できなかったことを、想像するのは、むずかしいことだ。地上の豊富さを味わえなかった男が、どうしてあの世の豊富さを、思いえがくことができるだろうか。
「だがなあ。この二人のお客さんにこそ、ゴクラクが必要なんじゃないのかなあ。だって、この母子がこれから先も、地上の楽しみを充分に享《う》けることなんぞ、ありっこないんだからなあ」
フグの腹より、もっとふくらんだ木魚の胴は、あの世へ誘うお経にふさわしく、かるがるしくない音で鳴った。清水の落ちる音も、リズミカルにきこえた。
阿弥陀経がすむと、次は念仏。この方は、フセ金《がね》を細い木の棒で叩くのが、伴奏だった。T字型の棒は、「鬼の念仏」のザレ絵(大津絵)で、法衣の袖をたくしあげた赤鬼が、持って歩いているものだった。たいらに伏せた円盤状の金属は、おどろくほど高い音をたてた。T字型の横の棒は、両端とも叩かれつづけて、むくれあがり、そそけだっていた。
「お焼香を、どうぞ」
と、柳は客をうながした。
母親の方が、着物の前の合せ目を気にしながら、すすみ出た。
香炉の灰に埋められ、消えかかっていた炭火のかけらから、香のけむりと匂いが立ちのぼった。婦人は、つまんだ香を額の上まで持ちあげてから、三回ほど火の上にこぼした。彼女が、何ものに向って、何を念じているのやら、柳にはわからなかった。不幸のうちに死んだ夫と長男に、のこされた母子の幸福を、ねがっているのかも知れなかった。それとも、二つの人骨に向って、どうぞお先に安らかに往生して下さいと、たのんでいるのかも知れなかった。或は、それとも、胸にこみあげてくる悲しみだけは、切実なホンモノではあっても、拝む対象がニセモノであるのか、どうなのか一切不明のまま、昔からのしきたり通りに、ひたすら掌を合せているだけなのか。
「さあ、あなたも」
席にもどった母親は、息子をせきたてた。息子は、起ち上ろうとしなかった。彼は、合掌もしないで、首をあおむけ、必死になって肉のうすい臀《しり》を座蒲団にくっつけていた。「おれは焼香なんか、したくないんだ」という、反抗の想いが、彼の意地を張った苦しげな顔つきに、あらわれていた。
「早く、お焼香をしていらっしゃいよ」
母親は、二度ほど息子をうながした。その度に青年は、ますますかたくなに首すじをそらして、我慢していた。
会葬者の焼香がおわるまで、フセ金を叩きつづけるならわしだった。柳は、ときどき二人の客の方を見やっては、叩きつづけた。
「おお、罪ふかきスディンナカランタカブッタよ。君がもしぼくだったら、こんな場合、どうしたろうか。君は、フセ金も木魚も叩きはしなかった。君には、檀家とのつきあいなんか、なかったんだからな。第一、君には、お骨をあずかって、番号札をくっつけ、出したり入れたりするビジネスなんか、ありはしなかったんだからな……」
レーニンは、アメリカ式ビジネス精神を、吸収することを、新政府の指導者、新官僚にすすめたそうだ。して見れば、仏教界が事務の達人を養成する必要も、あるのかもしれんなと、柳は思った。村長、町会議員、代議士にまで進出する坊主もあるくらいだからな。だけど、世尊は、あらゆる|地上の事務《ヽヽヽヽヽ》は空《むな》しいと、説かれたのではなかったかな。もしそうなら、事務の下手なことは、むしろ仏教的なことかも知れんぞ。彼の手は、彼の考えとは無関係に、フセ金の棒をはなし、鉦の撞木をにぎった。
読経のおわる前から、婦人は懐中をさぐって、お布施の包みをとり出していた。彼女は帯のあいだから財布を抜き出して、いそいで開いた半紙の包みの中へ、お金を入れ足しているのだった。一人分のつもりで来たのに、二つの骨を拝んでもらったので、礼金もふやさねば悪いと、むりをしているにちがいなかった。
母親の気弱な配慮が、厭でたまらない次男は、鉦の音が鳴りおわらぬうちに、起ち上っていた。
穢《きたな》らしい場所から逃げ出すようにして、青年は、玄関に脱いだ下駄を、あらあらしくつっかけていた。母親は、何度も頭を下げてから、あわてて息子のあとを追った。足早な息子にとりすがるようにして、彼女の足もとは乱れていた。
「おれは、きらいなんだ」
遠ざかって行く青年の、腹だたしげな声が、玄関で見送る柳の、人一倍敏感な耳にきこえてくる。
「若い坊主なんて、死んじまえばいいんだ。若いくせに、悟りすましたような面しゃがって!」
「……お前、そんな」
「寺なんか、みんな、焼けてなくなっちまえばいいんだ! そうすりゃ奴らだって、人間の苦しみがわかるんだ」
柳のかたわらに立っていた末子は、柳の顔を見ないようにして、ひっそりと茶の間へ去った。
「神田円蔵」の埋葬認可証を綴《と》じこもうとして、柳は、インクの変色した書きこみに目を走らせていた。
「死因。変死。自殺」とあった。
そうだったのか。柳は、布施の包みをひらいて、その金額の半分を末子の前にさし出した。
「あら、よろしいんですのよ。若先生、そんな」
「だって、末子が探してくれなきゃ、神田のお骨は見つからなかったじゃないか」
「奥さまに、叱られますわ」
「だまってりゃ、いいじゃないか」
「そうですか。では、いただきます」
末子は、妙に色っぽい眼つきで、柳の方を見やりながら、霜やけでふくれた掌の中へ、札《さつ》をしまいこんだ。
死因、変死、自殺。あの青年の父親は、自殺したのだ。もしかしたら、と柳は思った。もしかしたら、今日あずかった、あの新入りのお骨のモトの身体、あの青年の兄も、自殺したのではなかろうか。二人つづいた変死者だと知られたくないために、埋葬認可証を、わざと持参しなかったのではあるまいか。
秀雄が訪ねて来てくれるまでの、数時間、柳はかなり淋しい、ひとりぼっちの気持に沈んでいた。
神田円次とよぶ、貧しい一青年に、こっぴどい悪口を言われたことも、胸にこたえていた。だが、どこの家へお経を読みに行っても、誰か一人は、睨《にら》んだり、舌打ちしたりして、坊主に対するむき出しの反感を示すのがふつうであるから、一々気にしてなどいられはしない。
ただ柳を暗く緊張させたのは、「若き坊主」に対する青年の反感が、漠然とした気まぐれではなくて、彼の全人生にこびりついて離れない、怒りと不満から発生していることであった。
神田青年の父と兄は、自殺したのだった。だんだんと澱《よど》み溜《たま》ってくる苦悩の下で、あえぎあえぎ生きつづけたあげく、この社会、この地上の生存、この自分自身が何とも厭でたまらなくなり、このまま生きているより、死んだ方が|まし《ヽヽ》と決断して、死んだのだった。
ぼくの父、ぼくの兄さんが、救いようのない貧困の中で、あれほど苦しみ、あれほど身もだえして死んで行ったのに、この血色のいい青春坊主は、ぬくぬくとゴクラクを讃《たた》えて生きのびているではないか。濁世を厭がり、みにくい此岸《しがん》から、うつくしき彼岸《ひがん》へ渡れと説きすすめている渡し守、船頭その人が、めったなことではくたばりそうにない、丈夫すぎて無神経な面で、鉦や木魚を叩いているではないか。
あの青年は、そう思ったのだ。そして、そう思った病身の青年に、反対することなど、柳にはできそうもないのであった。
秀雄の来る前に、もう一組、二人連れの客があった。町内の方面委員と、町会の役員だった。二人づれの男が来れば、死人の出た家からの使者か、警察の刑事にきまっていた。方面委員が来るのは、遺族のちからでは葬式をやれない口であった。
世間ずれした二人の中年男は、「こういう場合、町内の規定で、お寺さんへのお布施は、ほんのわずかしか出せませんが」と、わびるように言った。
「メリヤス工場に通っていた女で、身寄りの者と言えば、あとにのこった十《とお》になる女の子だけですからな」
柳は、ホトケさん(死者)の住所と、読経の時間をききとって、二人を帰した。
「寒くなると、死人がふえるな」
と、彼は末子に言った。
「ええ、二《につ》、八《ぱち》が一ばん忙しいって、小谷さんが言ってましたです」
寒さ、暑さの最もはげしい、二月、八月に、弱っていた病人は大量に死ぬのである。
浄泉寺にくらべ、西方寺の檀家数は、五倍ほどである。したがって、土曜、日曜、祭日には、住職の秀雄は外出ができない。人間は、土、日、旗日にばかり死亡するわけではないが、一周忌、三回忌などの法事となれば、死者の|つごう《ヽヽヽ》よりは、生きている人々の|つごう《ヽヽヽ》を考慮しなければならないからだ。
年のわりに老成している秀雄は、その日、とりわけ|ふけて《ヽヽヽ》見えた。神田青年とくらべれば、経済的には、はるかに恵まれているはずなのに、秀雄の表情からは、あの貧乏青年と全く同様に、人生の喜びの色や匂いが、ほとんど消え失せていた。
胸にわだかまるなやみを、熱っぽく吐き出したりする、子供じみた騒がしさとは、秀雄は無縁だった。玉の井や新宿の手っとり早い、女遊びは、馬鹿にして、一流の料亭や待合の女主人と顔なじみになり、しかも柳などには、その気配も察せられないところがあった。書道のほかに、謡曲や、仕舞、小唄の三味線まで弾いたが、いずれもつまらなそうに始めて、たちまち上達した。
二人は、長い石段を登って、墓地の方へ歩いて行った。
「インテリは、消炭《けしずみ》みたいに、燃えやすいが消えやすいと、よく言うね。さっちんはどうなんだい」
と、秀雄は言った。
「そうかなあ。ぼくは、よくわからんけど。一体、ぼくがインテリなんだか、どうだかねえ。それも、あやしいもんだろう。だけど、消炭と言われると厭だな。消炭みたいな人間なんて、いるものかねえ」
「さっちんが消炭だとは、思わないがね。どっちかと言えば、燃えやすい方じゃないのかな」
「うん、ぼくは君とちがって、|ませた《ヽヽヽ》方じゃないからな」
石段を登りきると、檀家総代の墓が、小型の砲台のように高台の一角を占めていた。花崗岩《かこうがん》の石の柵《さく》は、どの一本もガッシリと太く、その一本だけで一個の墓石がつくれそうであった。そこからは、目黒川をはさんで、電車の走る向う側の高台まで、家々の屋根がすっかり見わたせた。
ふつうの墓の二十倍の面積を、高々と石で組みあげた、その堅固な「突角陣地」は、墓地の掃除にくたびれた柳が、いつも腰をおろす休憩所でもあった。白と黒と灰色の、冷たい石造のトリデは、攻めよせてくる町々の騒音や、東京湾に注ぐ水路を通って吹きわたってくる、冬の風をゆったりと受けとめていた。軒を接して、平伏したような低い屋根の下のどこかで、大正琴を弾いていた。その音が足もとから、かすかに哀れげにきこえてきた。
柳は、墓石の下の段の正面に腰をおろした。和服の秀雄は、立ったままで話した。
二人は、自分たちの日常生活とは、まるで無関係なことのようにして、古い古い異国の「戒律」の話をした。それが、秀雄の「戯曲」の内容をなしていたからである。
「古い昔の話、どうせ他人の話だと思って読んでいれば、実におもしろいんだ。あれが自分のことだとなったら、やりきれんからな」と、読んだばかりの「比丘戒《びくかい》篇一、波羅夷《パライ》」を想いだしながら柳は言った。
「戒律というもんは、どこかおかしな所があるよ。仏教ばっかりじゃない。戒律となれば、みんなそうなるんだ。だけど、戒律も馬鹿にできないんだよ。戒律にあてはめてみると、人間の行為のおかしさが、はっきりしてくるからな」
と、秀雄は憂鬱そうに言った。
「人間の女と不浄法を行ずるのが悪ければ、サルのメスと不浄法を行ずるのは、悪いにきまってるじゃないか。それだのに、わざわざ猿の実例が挙げてあるぜ。全く、どうかと思うな」
柳は、秀雄とちがって、愉快そうな大声でしゃべった。
「猿の奴が愛されてると思って、相手の比丘の所へやってきてさ。淫相を示すんだろう。シッポをもちあげたりしてさ。比丘の方でも、自分の食物を一食だけ減らして、愛人の猿にやったりしてるんだ。ほんとに、そんなことやったんだろうか。いくら何だって、猿とさ。いけないか、いけなくないか、常識で考えたって、わかりそうなもんだ。その実例をあげて、『いずれの比丘といえども、不浄法を行ぜば、たとい畜生と為《な》すとも波羅夷にして共住すべからざるものなり』と、わざわざ別に法律を一条、つくってるんだからな。そんなこと言ってたら、魚ともいけません、鳥ともいけませんと、一々、戒を殖やさなくちゃならないじゃないか」
「うん、そうなるんだ」
と、秀雄はあいかわらず、沈んだ顔つきをしていた。
「不浄法の戒律の中で、一ばん興味のあるのは、快感を感じたかどうかで、罪が決まるということなんだ。快感を感じたら、罰される。快感を感じなければ、許される。そうだろう」
「そう、そう」
と、柳は知ったかぶりして、うなずいた。
「男の生支を、女の生支の中へ入れれば、たとえ胡麻粒《ごまつぶ》一つほどの、ほんの少し入れても『行ずる』ことになる。パライになる。女には三つの入口があり、その三つのどれに入れても、罪になる。三つというのは、大便道と小便道と口である。これは、まぎらわしいところがなくて、はっきりしているね。しかし、規則によれば、男の生支を砂の中へ入れたり、泥の中に突っこんだりして、快楽を楽しんでもいけないことになっている。つまり、対象は何であれ、快感を感じるか、どうかという点が重大なんだな。水浴がすんだあとで、裸のまま、風に生支をなぶらせて、河岸に坐っている。その時に、相手は風にすぎないんだが、それで淫心をおこしたら、罪になるわけだからね」
あまりくわしく説明されると、柳は息ぐるしくなってくる。
「男の生支が作用を起すのは、五つの原因によるんだね。あたりまえの欲情によるほかに、大便、小便のさい。それから風に吹かれて、またはウッチャーリンガ虫に咬《か》まれて。五つとは書いてあるけど、無数の原因があるだろうね。たとえば、林の中の涼しい樹蔭で、比丘が寝ているとする。暑いところだから、下半身を裸にしている。そこへ町や村の女がやってきて、彼の下半身の上に坐りこむ。つまり生支の上にまたがって、随意きままなことをして立ち去る。それでも、その比丘が、全く無意識、無抵抗で、快感など感じはしなかったとすれば、罪は犯さないことになるんだ。覚楽《かくらく》するか、しないか。そこが、分れ目なんだ」
「覚楽したとか、しないとか言っても、その分れ目はむずかしいだろうなあ」
と、柳は、たよりなげに言った。
「覚楽するにしたって、まず入時に覚楽することもあるだろう。入りおわりて、覚楽することもある。停住して、覚楽することもあるしね。出時に、覚楽することもあるわけだ。その、いずれの時によっても覚楽しなければ、パライにはならないんだな。そのかわり、四つの過程のどれか一つで、覚楽したとすれば、パライにならざるを得ないんだ」
自分の従兄《いとこ》が、「入る」だの「出る」だのという言葉を、使用するのを聴いているのは、柳には気持がわるかった。「生支」に関する話など、彼は少しもしたくなかった。だが秀雄の冷静な話しぶりには、猥談《わいだん》の気配など全くなくて、むしろ、きまじめな論理の網の目が、こっちを包みこんでくるようなので、柳はおとなしく聴き入っているより、仕方なかった。
「ああ、ああ、全くイヤになるなあ」
と、柳は言わずにいられなかった。
「泥だとか、砂だとか、風だとかさ。ウッチャーリンガ虫だとかさ。大便とか小便とか。そんなものまでが、みんなパライの原因になるんだとしたら、宇宙そのものが、戒律で充満してふくれあがってるみたいじゃないか」
「そうなんだ。そうなってるんだよ」
と、秀雄はしずかに言った。
「そこまで考えをひろげることは、容易なことじゃない。だから、人間の女に限って、この問題を考えても、さしつかえはないんだ。人間の女だけでも、実にさまざまなことを仕掛けてくるもんだからな」
「……ふうん、たぶん、そうだろうな」
「君には、まだ人間の女のことは、まるきしわかってはいないだろうが。河岸や林の奥で寝ころがって、風にさらしていても、牛飼いの女がソレをめがけてやってくる。精舎の講堂の中で、休んでいても、僧園を見学する女が、やってくる。彼の知らないまに、彼の生支を好きなように活用して、淫楽にふけり『ああ、これぞ実に最上の丈夫なり』などと、感嘆して香華をささげて、帰って行く。信心ぶかい女の中には、『不浄法を施すものは、最上の布施をほどこすものなり』と信じこんでいる女も、いるんだよ。そんな女は『尊者、来れ、不浄法を行ぜん』と、好意から呼びかけてくるだろう。比丘の方では『いけません。妹よ、とんでもない』と答えるだろう。そうすると彼女は『胸にさわるだけなら、よろしいじゃありませんの』と言うわけだ。女の胸に関する規定が、まだ公布されていないとすれば、よかろうということになる。『さあ、尊きお方さま。おへそに、おさわり下さい。お腹《なか》のふちに、腰に、首に、耳の孔に、せめて指のあいだにでも触れてごらんなさいまし』。しまいには、『わたくしの手の中で、精液をおもらしなさいまし。そうすれば、罪を犯さないですみますわ』と言いだすんだ。手の中ならいいだろうと考えて、泄《も》らしでもしたら、どうなると思う。波羅夷にはならないが、僧残《そうざん》の罪を犯すことになる。そんな場合に、たった一つ安全無比な防衛手段は、|快感を感じないこと《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》だけなんだ。
覚楽しさえしなければ、許されるんだ。
比丘が比丘尼と不浄法を行じても、快感を感じなければ、罪にはならないんだ」
「エッ、何だって」
「たとえば、強盗だとか、無頼漢だとかが、比丘、比丘尼の一団をつかまえて、何かおもしろいことをしようと考えるね。何がおもしろいと言って、比丘と比丘尼を性交させて見物することに及ぶものはない。そこで、性交しなければ殺すぞ、と命令する。そこで性交した比丘が覚楽したとすれば、言うまでもなくパライだ。しかし、覚楽さえしなければ、不犯《ふぼん》として許されるんだ」
「……ふうん、だけど、そんなこと、実際」
「強盗とか無頼漢だとか、言うけどね。インドの古代には、なかなか考えぶかい奴も、いたんだね。人の心臓を取って、神にささげる盗賊もいたそうだよ。そういう賊は、無防備の比丘を襲って、殺したあげく、心臓を取るわけなんだが。比丘を殺せば大罪になることは、承知しているんだな。だからまず、比丘に戒を破らせてから、殺すわけだ。まず彼らは、比丘を女性と性交させ、比丘としての資格を失わせてから、安心して殺したそうだね。そんな場合、ほかに女がいなければ、比丘尼をあてがったことも、大いにありうるわけじゃないか。性交をした比丘は、殺されて死んだ。性交された比丘尼の方は、どうなると思う? 彼女は、理由は何であれ、清浄なる仲間と、不浄法を行じたことは明らかだろう。その彼女が今後、教団にとどまることを許されるか、否か。それは、彼女がその瞬間に、快感を感じたかどうかに、かかっているわけなんだ」
「……感じたか、否かねえ。しかし、それは、あんまり」
「あんまり、どうなんだね。……」
「感じたか、どうかと言っても、あいまいな場合もあるだろうし。尼さんの場合なんか、なんだか、むごたらしいみたいな話だしな」
「しかし、感覚ぐらい明確なものは、ないはずだろう。理窟抜きで、感じるものなんだから」
「うん、それはそうだけど……。なるほど、感じたか、感じなかったかねえ」
「感覚を問題にして、裁くことが、むごたらしいと言うのかね」
「うん、むごたらしいのは、仕方ないとは思うけどさ」
柳は、講談雑誌やオール読物などで、「あわや落花狼藉《らつかろうぜき》」という挿絵《さしえ》を見るのが好きだった。美しいお姫様や町娘が、悪侍や籠カキなどに乱暴される、むごたらしい場面を見せられると、強く刺戟《しげき》された。だが、それにしても、重大な戒律の第一条に、「快感」という生理的な肉の感覚が顔を出しているのは、いかにも危っかしい思いつき、あまりにも直接的で、おかしいような気がしたのだった。
「快感というのは、イイ気持ということだろう。つまり、イイ気持がしたか、どうか。そういうことだろう」
「そうだよ」
と、秀雄は冷たく答えた。
「イイ気持がしては、いけないわけだ。イイ気持がしなければ、いいわけだ」
「そうだよ」
「どうせ、そうでしょうよ」
「え?」
「ああ、イイ気持、イイ気持。そう感じたら、罪なんだよな。そりゃ、そうだろうさ。イイ気持がイイとなったら、何も出家したり、解脱《げだつ》したりする必要はないわけだからな。だからどうしたって、イイ気持はワルイ気持であらねばならないんだ」
「そう」
「イイ気持をワルイ気持だと、感じるその気持。ああ、それは全く、|たいした気持《ヽヽヽヽヽヽ》にはちがいないだろうさ」
「そうだよ」
「しかし。しかしだよ。イイ気持がぜんぶ反仏教的なものだとしたら……」
「困るかね」
「困るより何より、うまくいくだろうか」
「何がだね。何が、うまくいかなそうだと言うのかね」
「うん、まあ、その仏教がさ。いや或は、人間がさ。人間あっての仏教がさ。それで、うまくいくだろうか」
「|うまくいく《ヽヽヽヽヽ》というのは、どういうこと」
「うん、つまり、それでモツだろうかということさ」
「モツか、モタナイか。うまくいくか、いかないか。そんなことは、あんまり心配してやる必要は、ないんじゃない?」
「それは、どういう……」
「人間という奴はね。かならず、|うまくモツように《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》工夫するものだからさ。自分の生き方、考え方が、どんな矛盾をさらけ出しても、何とかうまくモタせて、何とか生きのびさせて行くものだからな」
風は寒いが、午後の陽はまだ暖かだった。高い松の梢《こずえ》は、こすれあいながら、ときどき鳴っていた。
「もしかしたら、仏教においては」
と、冷たい風から蒼白い顔をそむけながら、秀雄は言った。
「すべてのことは、許されてあるのかも知れないんだ。何をやっても、さしつかえないと、説いているのかも知れないんだ」
「?……」
「すべての快感、すべての覚楽、すべてのイイ気持を否定する。これは、これ以上あり得ないほど厳格な規定だ。生きていることの感覚的事実を、すっかり否定することだからね。しかし、この厳格きわまる戒律の裏には、星も空気もない虚空のようなものが、ポッカリと大きな穴をあけていはしないだろうか。もし『生』にまつわる、すべての存在、行為、感情が無意味だとすれば、逆に言えば、あらゆる存在、あらゆる行為、あらゆる感情は、それが無意味であるがために、かえって全面的に許されていることになりはしないだろうか」
「わからんよ、ぼくには」
迷惑させられたように、柳は首を振った。
「もしも、快感が無意味であり、むしろ悪だとすれば、家庭も、民族も、国家も、それから君の愛好している社会主義も、無意味であり、むしろ悪にすぎなくなる。これは、容易に認めにくい真理ではあるが、戒律の第一条、パライを認めるからには、どうしてもそうなってくるんだ。一たん、この真理(これがホンモノの真理であろうが、なかろうが、ぼくの知ったこっちゃないが)を認めたとすれば、快感が無意味であるのと全く同様に、地上の倫理道徳、それこそ善いこと、あっぱれなこと、けなげな努力、めざましい奮闘のすべてが無意味であると、まあ、考えざるを得なくなってくる。どうせ、万事が無意味であると決まったんなら、何をやろうと、何をしでかそうと、同じこと。つまり、|すべては許されてある《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ということに、なるじゃないか」
「それじゃ、ニヒリズムじゃないか」
「そう、そうなんだ。さっちんは、仏教をできるものなら、社会主義化そうと考えているのかも知れないがね。未来へ向う流行の正義と、仏教の末法《まつぽう》観を、何とかして妥協させ、結びつけて、うまくモタせるのもおもしろいかもしれない。それはそれで、別に反対はしないよ。しかし、仏教のニヒリズムには、どうしてどうして底深い魅惑があって、これまた棄てがたいものなんだよ」
「深いニヒリズムなら、いいのかもしれないが、軽薄なニヒリズムっていうのは、どうも虫が好かないなあ。一ばんとっつきやすくて、一ばん使いやすいからなあ」
「そりゃ、そうだな。これがニヒリズムでございって具合に、見せびらかしたりするのはね。第一、ニヒリズムってものは、本来おそろしい物なんだから。とっつきやすいとか、使いやすいってもんじゃないしな」
「すると、仏教のある一面は、すごく恐しいものってことに、なるんだね」
「そうだよ」
「ふうん、そうか。恐しいもの……」
墓地を通りぬける人の気配に、柳は、斜めうしろをふり向いた。
寺の境内は、人通りの少い便利な近道として、利用されていた。夕暮まえは、買物に行くおかみさんたちも、石段を上り下りして、通りぬけて行く。
「ところで、ぼくの戯曲だが、それは森の中で強姦された美しい比丘尼をヒロインにしている」と、秀雄は話しつづけた。「幕があくと、彼女を裁くために開かれた教団の法廷の場面だ。教団の長老は、あまり気が進まないが、教団員たちの要請によって裁判が開かれている。はたして彼女が覚楽したか、しなかったか。それが彼女の有罪か否かを決定する大切なところである。『汝《なんじ》は強盗に強姦されたとき、覚楽をなしたか』『いいえ』『しかし、それをどうやって汝は証明することができるか』『私は、たしかに覚楽いたしませんでした』『だが、汝は何かを感じたであろう。何も感じないわけはない』『はい。感じました。しかし、感じたのは楽ではありません』『汝が、男と交接するのは、はじめてだとすれば、汝が感じたものが、楽なりや非楽なりや、どうして決定することができるか。それ故、汝が感じたとすれば、それは楽であるとせねばならぬ』彼女が覚楽したか否か、彼女自身にさえ、わからないかもしれない。まして裁判官たる長老には、彼女の告白が真実なりや否や、それを決定することはできない。強姦はすでに森の中で実行され、すでに完了している。それと同時に森の中での彼女の感覚も消え失せている。それ故、法廷で彼女の罪を決定するためには、再び森の中の出来事を実演してみねばならない。わざわざ、そのようなことを実演するのは、教団にあるまじきしきたりである。だが、教団を守り、堅固清浄なる掟《おきて》を保ちつづけるためには、再演することが、どうしても必要になる。戒律を一度でもいい加減にすませることは、今後、それが無限にくずれてゆくことを意味する。教団員は長老に、それを行うことを要求する。パライによって犯人を追放するためには、パライか否かを立証してみせなければならない。だが、彼女が法廷で選ばれた男を相手に強姦され、それによって覚楽しなかったところで、第一回(森の中)のとき、覚楽しなかったという証明にはならない。また、法廷で覚楽したとしても、森の中で覚楽したという証明にはならない。また、その上に困ったことには、森の中で覚楽しなかった彼女が、法廷で、真実、覚楽し、それを教団員の前で告白したとすれば、今度は、新しい罪(再演しなければ存在しなかった罪)を現実に犯させることになる。今や、彼女がはじめて味わうことになった快感は、この法廷を開いた全教団員によって与えられることになる。しからば、全教団員もパライの罪によって追放されることになりはしないか。また、次のような厄介な難題にも直面する。彼女が森の中でも法廷においても、実は覚楽しているにもかかわらず、あくまで『私は覚楽しません』とシラをきったならばどうなるか。あるいは三回、四回と試みて、その結果をみようとしても、最後まで彼女がいつわりをいって真実を語らなかったならば……。ついには何十回、何百回ののちに、彼女は真実を語るをまたずして死にいたるであろう。しかも男性の教団員のすべては、比丘尼の性感覚について、全く無知なはずである。したがって、その無知なる男性は、彼女の供述なしには何事も決定できないのである。長老は戒律に忠実なるがために、大いに迷わなければならない。『もし、試すことができないならば、試さないまま、彼女を追放しよう。長老よ』と、教団の全員は主張する。『その方が試さないまま彼女を教団にとどめおくより賢い方法である』試験を行って失敗する危険を避けるため、長老もついに彼女に追放を申し渡す。覚楽しなかった(あるいは覚楽しなかったと称する)比丘尼は教団を呪《のろ》っていう。『覚楽せざるわれを、覚楽したりとなすはいつわりなり。いつわりを口実として、非覚楽者を追放する教団は、いつわりの教団なり。われは別に一個の教団をつくらん。そは、強盗に強姦されるも、まことに覚楽せざる比丘尼の教団なり』かくの如くにして、非覚楽派の教団が、もとの教団から分裂し独立したという話である。それが教団の歴史において分派なるものが成立した最初のことである」
「……それで幕なのか」
「それで幕だよ」
「……一体、何が言いたかったのだ。おもしろい。たしかにこっけいで、おもしろくできている。だが、何を言いたくて」
「いかなる教団にも、分派が生ずる。しかも、妙な具合にしてそれが生ずるのだ」
「そんな妙な具合にして、分派というものは発生するものなのかな」
「いかにも妙に思われるのだが、決して妙ではないのだ。いかなる理由でも教団分裂の理由にはなり得るのだ。しかも、その理由たるや、どんなにはたから見て、こっけいな、愚劣な理由に見えようとも、当人たちにとっては、深刻にして必死のものなのだ。あらゆる人間集団は、その保持を計るためには、とんでもない掟をつくりだすものだ。掟に背くものは集団から追放される。しかし、その掟がやがては集団を分裂崩壊させるもとになるのだ」
「……君の言ってるのは、仏教教団に限った話ではないな。政党とか国家とか、いろいろな人間集団の全部について」
「そう。すべての人間集団についてだよ。仏教教団は、それらの集団の一部にすぎないし、その発生と発展、分裂と崩壊において、すべての人間集団と同じ運命をたどることになるのだからね」
秀雄は、のぞきこむようにして、柳の顔を見やった。
「だから、ぼくの言いたいのは、わが宗門のことばかりではない。君のいくらか関係のあるらしい革命党とやらいうものとも、これは大いに関係があるんだ。そして、そこに発生したもめごと、分裂さわぎ、党内の激しい争いというものが、いつのまにか自分自身にも作用してくるということだ。実にくだらない、そのくせ、むごたらしい必死の争いというやつがね」
二人の会話している大きな墓の隣は、もっとひろい華族の墓であった。今は落ちぶれた華族の墓所は、墓石こそみすぼらしく崩れかけているが、小さな家なら三軒ほど建てられそうな、坪数を占めていた。荒れはてた地面には、枯草が倒れ伏している。足音は、その枯草をふんで近づいたのだった。
朽ちかしいではいるが、竹垣をめぐらしたその方角から、あたりまえの通行人が来るはずはなかった。
土方、人足、自由労働者。そういった、印ばんてんの若い男だった。
二人のいるのに気づいた男は、すばやい動作で、地下足袋の足をとめ、顔をそむけた。
「××さん」
と、柳が思わず呼びかけると、彼は口をへしまげて、鋭い眼つきを、なおさらするどくした。
彼は、あの張りきり屋の、若い刑事だった。変装していても、緊張しきっている姿で、柳はすぐさま、そう見破ったのだ。刑事は、片脚を歩きにくそうにしている。それは、逃亡した宮口につづいて、警察署の二階から飛び下りたさいの傷が、まだ全快していない証拠だった。
「××さん。柳ですよ」
「わかってるよ。忘れやしない」
油断もスキもない青年刑事は、柳のことなどかまわずに、秀雄の全身を、なめまわすようなやり方で、見調べていた。
「君たちは、こんな所で、何の相談をしていたんだ。人に隠れて、こんな所でコソコソと、どんな相談をしていたんだ」
「ただ、話し合っていただけですよ」
「だから、何の話をしていたんだ」
「イイ気持の話ですよ」
「何い!」
「イイ気持は、ワルイ気持であらねばならぬという、お話をしていたんです」
「ごまかすな、こいつら、墓地なら安全だと思いやがって」
「脚は折れたんですか」
「よけいなこと、きくな。それより、そっちの男は誰なんだ」
「西方寺の御住職ですよ」
「ふうん、そうか。住職か」
「宮口ですね。宮口を追っかけているんですね」
そう言われると、若い刑事は、ますますいらだった様子だった。
「お前と宮口が連絡があることは、こっちでもよくわかってるんだ」
「ありませんよ、そんなもの」
「ウソをつけ! もし宮口が一週間以内に逮捕されなかったら、お前をまた、しょっ引いて行くから、そのつもりでいろよ」
「厭《いや》ですよ、そんなの」
「厭だったら、おれたちに協力しろよ。悪いようにはしないから」
「密告なんかしたら、おシャカ様に叱られますよ」
淋しげに色あせていた秀雄の口もとに、ゆるやかな微笑がひろがっていた。
「何を笑ってるか、こいつ」
それを見とがめた刑事は、とげとげしく秀雄に突っかかっていった。
「どのみち宮口の奴は、浄泉寺に立ちまわってくる。奴をかくまってくれる所なんぞ、他にあるわけがない。そうだ。拘留中にお前の所へやってきた、あの坊主。あのずうずうしい、右翼の坊主。あれ、何て言ったっけな」
「穴山ですか」
「そう、穴山だったか。あん畜生も、多少からんでいるんじゃないかな。ともかくな、柳、お前は二六時ちゅう監視されているんだからな。そのつもりでいろよ」
「わかってますよ」
「君らは、|イイ気持の話《ヽヽヽヽヽヽ》をしていたんだって! いいかげん、おれたちをバカにしていろよ。バカにする奴らは、それだけの報いを受けるんだからな」
「知ってますよ、そんなこと」
痛い片足を引きずって、長い石段を下りて行く刑事のうしろ姿には、脱走した政治犯人に対する憎悪の念が、背なか一ぱいに貼《は》りついていた。爺やさんが落葉を焼く煙が、石段を横ぎって流れていた。舞いあがり、うすれひろがる煙の下を駈け下りて行くとき、彼の頭上には、枯葉が舞い下りていた。そして、うす青い煙に見えかくれしながら、遠ざかる青年刑事は、まるで自分の「憎悪」を陣羽織か経|かたびら《ヽヽヽヽ》のように着こんで、歩いて行くように見えたのだった。そんな彼が、自分たち二人より、はるかに孤独な、不遇の青年のように柳の目にはうつった。
「警察は君を、泳がせているのかも知れないな」
と、秀雄はしずかに言った。
「釣りのウキのように、魚が近づいてくるのを見きわめるために、泳がせておこうとして、釈放したのかも知れないな」
「いやだなあ。ぼくはウキなのかい。釣針じゃないんだね」
二人は、まばらな敷石をふんで、裏路の方へ、墓地を通りぬけて行く。
墓石の前に据えられた、石の花立や石の水入れからは、腐った水の匂いがした。竹筒の花入れは、多くは石よりも、もっと古びて見えた。青々とした新しい竹筒に、まだしおれない生花が挿してあるのもあった。そんな場所だけは、花の色が目ざめるほど美しくて、わざとらしい感じがした。薬草のようにひからびて、醜く横にされた枯れ花や、黒く変色したシキビの枝もあった。燃えつきないで消えた線香は、赤い包紙がやぶれて、散乱していた。泥色をしながら、まだ泥になりきれない線香は、一本ずつに分れて、青苔《あおごけ》の生えた石や、そのすきまに意地きたなく落ちていた。朝、掃ききよめた地面は、もう新しい落葉でおおわれていた。
墓石の一ぽん、一ぽんは石だった。やわらかい石、固い石、大きい石材、小さい石材と種類はちがっていても、要するに石にすぎなかった。そんな、きまりきった事実が、例によって柳の頭を、ものめずらしい新鮮な発見のようにして通りすぎた。石にはどれも、戒名や俗名が彫りつけてあった。だが柳は、ほとんど、それらの|埋められた男女《ヽヽヽヽヽヽヽ》の顔も一生も知らなかった。知りたくもなかった。石は、いつも立ち並んでいた。横にされ、積み重ねられた石の群もあった。そして、それらの石にはさまれた狭い路を、自分が今、折れまがって歩いて行く。そのことがいかにも不思議な、悪夢のように鮮明で、しかも消えやすい画面でも見るかの如く感ぜられるのだった。
裏路は、ガスタンクをとりかこむ、深い林につづいていた。クヌギ、クリ、カシワ、カエデの落葉をふんで、二人はその林に入った。
「快感だって。快感があったかなかったかによって、罪がきまるのだって。……それに、仏教というものは、恐しいものだそうだな」
林の中に坐ると、ふくれあがったタンクの赤黒い胴体は、見えなかった。丈夫な笹の葉を背なかに感じながら、柳はぼんやりと、そう考えていた。
「片方は、何をやっても、いけない。片方は、何をやっても、すべては許されてある。この二つは、実は、正反対の考え方ではなくてね。案外、同じようなものなのかも知れないんだ」
「そこが、ぼくにはどうも、よくわからないんだよ。第一、|すべては許されてある《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》なんてことが、許されるかね」
柳にはまだ、秀雄が一体なにを語りたいのか、わからなかった。
「なるほど仏教がニヒリズムだとすりゃあ、そりゃ理窟の上では、すべては許されてある、何をやろうと結局おんなじこったということに、なるかも知れないよ。だけど、実際生活で、そんなことできっこないだろう。パライ的な戒律はないにしたところで、法律もあれば、常識もある。人情もあれば、あたりまえの暮しの手つづきということもある。ニヒリズムをつきつめて行けば、早いところ自分を消滅させてしまえば、いいことになるんじゃないのか。自己|抹殺《まつさつ》が、一ばん徹底したニヒリズムの結論じゃないのか。ぼくは、自己消滅や、自己抹殺はイヤだなあ」
「そう、そう。そうだろうね」
と、秀雄は少しもかわらぬ、ゆっくりした調子で言った。
「なにしろ、みんな、生きてくのに忙しいんだからね。徹底したニヒリズムなんて、実際生活では、存在できるはずがないんだ。だからその意味では、仏教のある一面は、現実社会には、とうてい存在できっこないと、いうことにもなるんだ。にもかかわらず、仏教のふくんでいるニヒリズムが、ときどきぼくらを襲ってくるんだよ。フイッと隙間風のように、冷たい肌ざわりで、何をやったって同じこった、何をやろうと、すべては許されてある、という考えが吹きこんでくることがあるもんだ。『どうせ死んじまうんだから』というような、ヤケクソの気持からではなくてだよ。ただフッと、瞬間的に、現実のさまざまな色彩が、何かしら奇怪な、たった一つのぼやけた色に見えてくることがあるもんだよ。今までは確実きわまりない、しっかりした仕組であり、ゆるぎない組織であり、永久不変のカラクリのように感じられていたものが、急に、ほんのつまらないオモチャの仕掛のように、思われてくるもんなんだね。そういう感じは、長くはつづきはしない。そういう感じのまんま、働いたり、愛しあったりすることなんぞ、できるはずはないんだからね。だから、それがほんの一瞬しかつづかないことは、当然なんだよ。だけど、時たま、思いがけない具合にして、|その感じ《ヽヽヽヽ》がやってくる。まるで、あの世か、別の遊星からでもやってくるようにして、やってくるものなんだ。フサギの虫だとか、『ああ、おもしろくねえなア』というつぶやき。いろいろと実生活で壁にぶつかり、仕事や恋愛がうまくいかなかったりすると、暗い気分になる。それもニヒリズムのきざしには、ちがいない。だけど、ぼくの今言ってる『その感じ』は、それとちがって、たとえ万事がうまく行っても、時たま襲来してくる、気味のわるい感じのことなんだよ。そう。それは|気味のわるい《ヽヽヽヽヽ》としか、言いようのないものなんだね。だって、そうだろう。人間にとって、すべては許されてある、何をやらかそうとさしつかえない、よろしい、という『感じ』ぐらい、気味のわるいものはないはずだからね。東西南北、上下四方、どちらに向っても無限に自由に動くことが、許されてあるような空間、たとえばヌラリとした水中に投げ出されたと考えてごらん。その絶対自由の運動場では、自分の身体の骨組や、筋肉のつきぐあい、神経の配置までが、すっかり無意味で、矛盾したものであると、感ぜざるを得ないはずだからね」
気味がわるくなってきたのは、話を聴かされている柳自身だった。彼は、秀雄の秀麗な横顔を、うす気味のわるいものでも見るようにして、ぬすみ見ずにはいられなかった。
「ぼくは、むずかしいことを考えるのは、苦手なんだ」
柳は、寝ころがって、頭上にかぶさる林の枝葉を眺めていた。彼は、セーターとズボンにこびりついた枯葉や草の実を、むしりとっていた。彼の想像では、秀雄ではなくて、宝屋の姉妹のどちらか一人と、この林で寝そべっていた方が、ずっと楽しいのだった。
「仏教がニヒリズムで、あろうがなかろうが、ぼくの知ったこっちゃないんだ。ただ、ぼくはね、今の仏教が、もう少し役に立つものであって欲しいだけなんだ。もう少し、人間の心に、触れるものであってもらいたいと、考えているだけなんだ」
「そうか。そうだろうな」
和服の秀雄は、寝ころがることはしないで、枯葉の敷物の上に腰をおちつけたままでいた。
「いや、待てよ。ほんとは、そうじゃないのかも知れない」
と、柳は言いなおした。
「ほんとは、仏教なんか、あきらめているのかも知れない。とっくの昔に、アカの他人になってるのかも知れない。ブッキョウという名詞まで、きらいになっているのかも知れない。世界中のどんな人間よりも、仏教の坊主がイヤでイヤでたまらないのかも知れない。早いところ、みんな棄てちまって、サバサバした気分になっちまいたいのかも知れない」
「そうして、自分ひとりだけ、イイ子になろうとしてるんだな」
「そう。自分ひとりだけ、何とかしてイイ子になろうとしているんだろうな、きっと」
「いいさ。それだって」
と、秀雄はなだめるように言った。
「よくはないさ。よくはないけど、ぼくの心がどうしても、そうなっていくんだよ」
二人がだまりこんでいると、落葉樹の枯葉が、まるで神経質な男の呼吸のように、二人のまわりで鳴りさわいだ。
「ぼくは、自分が坊主であるあいだは、坊主の悪口は言いたくないんだ。ぼくが寺に住んでいるあいだは、寺院に矢を向ける言葉は吐きたくないんだ」
と、柳は言った。
「ぼくの知ってる、建築学科の助手がいるんだ。そいつは、寺の息子なんだ。寺の金で大学を卒業し、卒業したあと、大学に残って研究をつづけているんだ。もちろん、大学の助手の給料なんて、あってもなくても同じようなものなんだから、結局、彼の父である坊主から、金をもらって暮しているわけなんだ。もちろん、彼は、仏教や寺院を軽蔑《けいべつ》しているんだ。それはそれで、当然のことなんだから、かまいはしないんだ。ところが彼の研究ばかりでなく、彼の食費、彼の交際費、彼の衣服、すべては、彼のけがらわしいと思っている寺院の経済から融通されたものなんだ。彼は、そんなことはオクビにも出さずに、最新式のコンクリート建築、ホテルや劇場やアパートの設計をやっているんだ。寺ですって? あんなものは旧式で時代おくれで、未来の生活とは何の関係もありゃしません。彼は、そう言ってモダン紳士、進歩的知識人の自由と誇りを楽しんでいるんだ。その彼がだぜ、その卑しむべき坊主から、家賃まで支払ってもらっているくせに、そんなことはまるで当然の権利のようにふるまって、自分だけはその仏教的汚濁から脱け出して、清浄ケッパクな人間のような顔つきをしているんだ。卑しいのは、一体、どっちだというんだ。ぼくは、そういうふうには、なりたくない」
宝屋別荘は、熱海海岸の崖《がけ》の上に、石垣にかこまれて立っていた。
バス道路から別荘まで、右左に折れ曲って下る、急な坂道には、車のすべりを止める、小さな切石がしきつめられてあった。坂の両側の、大小さまざまな別荘は、いずれも頑丈な石垣の上に乗っていた。とりわけ道のはずれの宝屋別荘は、明るい海の眺めを、ひとり占めにして、ハサミで切り取りでもするかのように、高い石垣の灰色のワクをめぐらしていた。
傾斜のはげしい、海への道に沿って、海に近いほど石垣は高くなり、石垣の上の土手、土手に茂る若い小松や、ふとぶとしい老松も、背たけを伸して、海の風に鳴っていた。
表門も、裏門も、あまり目だたない、くぐり戸が、風雅にとりつけられてあった。この二つの入口は、ともに石段をのぼる地勢で、石段の先には、さまざまに工夫《くふう》をこらした敷石の小路がつづいている。三段に分けられた地形の、上の表口からは石の小路を降り、下の裏口からはおなじく石の小路を登らねばならない。したがって、庭そのものに石の配置が少いにかかわらず、この別荘は、どうしても「石の邸宅」のおもむきがあった。
「行った方がいいか。行かない方がいいか」
熱海までの列車の中で、冬の陽にかがやく海岸線をながめやりながら、柳は、何度も考えまどっていた。三等車を下りて、駅の階段を人ごみにもまれている時にも、まだふんぎりのつかない気持だった。あわただしい足どりで、指定の旅館へいそぐ、|団体さん《ヽヽヽヽ》の男たちは、もう酔いどれていた。駅前には、旅館の客引きや、出迎えの者が、旗を立て、のぼりをかかげ、仲間の誰よりも早く、「相手」を見つけ出そうとして、顔を突き出していた。
「ぼくは、もう決まっていますから」
と、旅館の客引きの接近をさけながら、柳は、宝屋夫人の姿を探し求めていた。
「伊豆山のタカラヤ別荘」
と告げれば、タクシーの運転手は、すぐさま彼を案内してくれるはずだった。
別荘へ行くことが、あの美しい、危険な夫人に会いに行くことであることは、どう弁解しようもなかった。
「だが、ぼくが会いたいのは、奥さんの方じゃないんだ。奥さんの妹さんの、久美子さんの方なんだ。それも別に、色だの恋だののためじゃなくて、あの仏教好きの少女と、仏教問答をするためなんだ」
と、柳はくりかえし、自分自身に言いきかせていた。
暮から正月にかけて、毎年、宝屋の女たちは、あたたかい伊豆山ですごすならわしだった。したがって、熱海に来ることは、つまるところ、自分を待ちうけている姉妹に世話されるために来ることに、まちがいなかった。
「……だが、それにしても、ぼくは風景が好きなんだし、新しい風景を見るためだったら、どこへでも行きたがるタチなんだし、とりわけ海ときたら、たまらなく好きなんだから、女たちとのつきあいは、いいかげんにすませておいて、海辺の風景だけを相手にしていたって一向にさしつかえはないはずなんだ」
と、彼は、にがにがしい想いを咬《か》みしめていた。
「そりゃあ、もちろん、いくら招待されたからと言って、若い坊主がぬけぬけと、金持の別荘の温泉につかりにくるなんて、おかしな話なんだ。芝の増上寺や、京都の知恩院の大僧正、枯れきって人間ばなれしている(実際は、そうではなかろうが)老僧だったら、信仰あつき檀信徒《だんしんと》の、たっての願いによって|おでかけになる《ヽヽヽヽヽヽヽ》のもよろしかろう。しかし、ぼくの場合は要するに、自分の思想と矛盾した、奇妙な、あつかいにくい状態の中へ入って行くことになるわけなんだ。自分を困惑させ、分裂させ、自分自身を裏切るために、わざわざ出かけて来たようなものではないか。だが、待てよ。そう臆病になる必要も、ないではないか。臆病になり、警戒心でちぢかまることが、仏教だとなったら、それはそれでつまらないことだ。まあまあ、地上の豪華とか贅沢《ぜいたく》とか、優雅とか豊富とか、そう言ったものだって、諸行無常の一つの存在形式なんだから、きたならしい貧民窟に入って行くのが許されるなら、こっちの金持階級の温室の方へ入って行くことだって、許されるはずではないか。プロレタリアとブルジョア、この二階級のどっちへ鼻さきをつっこんだにしろ、坊主が『異形の者』であることにかわりはないんだ。どっちの側からも、特殊あつかいされ、内心できらわれているのは、わかりきっているのだ。なんだか、自分の行為に、つごうのよい理窟をくっつけているようで、恐縮ではあるにしても……」
柳は、できるだけ坊主らしく見えないように、新調の背広を着こんでいた。
そのため、出迎えの宝屋夫人が自分を見のがしてしまうのではないかと、気づかったが、夫人は、皮肉そうに輝く眼で、すぐさま彼を人混みの中から選び出した。
みやげ物屋に三方をかこまれた、駅前の広場にひろがって行く、客たちにまじって、いかにも別荘の住人らしく、おちついている夫人の物腰は、目立っていた。それは、モノゴシの「腰」という字が、十九歳の柳の眼の中で、小さな火花を放ちそうなほど、あざやかな印象だった。中年婦人の、あまり肉づきの良すぎる腰は、彼を圧迫するはずであったが、身うごきのすばやい、宝屋夫人の腰つきは、和服に包まれていると、ほんものの裸より、もっと裸の美しさを示しているように感じられた。
「お父さまは、あなたが、こちらへ来るの、反対じゃなかったの」
「……よく、わかりましたね、そんなこと」
「ああ、やっぱり、そうだったのね。そうだと思っていたわ」
車の中でも、夫人の腰は、ひかえ目に器用に動いていた。
「でも、どうして、そんなことまで……」
「柳さんのお父さまは、とてもまじめな方ですもの。あんなまじめな方は、私どもの商売人仲間には、ひとりもいないわよ。お坊さんの仲間でも、ああいう、きまじめな方はめずらしいんじゃないの」
「そうです」
「わたくし、いつも、あなたのお父さんとお母さん、お二人の男女の組み合せはおもしろいなと思っているの」
「……そうですかね」
柳には、その意味がまるでわからなかった。彼は、まだ一度も、自分の両親のあいだがらを、男女関係として考えたことはなかった。そう考えまいと努めたわけではなくて、自然と彼は、その方面ではぼんやりしていたのだった。
車は、干魚《ひもの》の匂いのする路を、有名なホテルのある別荘街の方へ、すべりおりて行く。
「一つだけ、お願いしたいことがあるの。……久美子ね。わたくし、あの子のことが心配で」
「…………」
「ああ、考えこんでばかりいたんじゃあ、今に、気ちがいにでもなるんじゃないかと、思って……」
「久美子さんが? まさか……」
「いいえ。ほんとうなのよ。冗談じゃなく、わたくし心配してるの」
「そんな風に見えませんけどね」
「そう? もっとも、あなたはあんまり他人《ひと》さまのことに、気がつく方じゃないから……」
「考えこむって、何を一体」
「仏教のことよ。仏教のことばっかり、考えつめているのよ」
「ああ、仏教のことですか。それだったら何も……」
柳は、期待はずれがしたように、かすかに笑った。
「仏教のことを考えつめて、気ちがいになるくらいだったら、たいしたものですけど。そんな話は、きいたことがありませんよ」
「そうかしら。でも、穴山さんの意見によると、仏教ってモノは、なかなかどうして危険な思想のようなお話よ。そうじゃありませんの?」
「まあ、それは……。一ぱんの信者が考えているのとはちがって、ニヒリズムとか何とか、色々まじっていますからね。そりゃあ、安全第一という思想じゃないでしょうけど。穴山は、ひとをおどかすのが、好きなタチだからなあ」
深遠な仏教の哲理とか、発狂という決定的な現象について、語るにはふさわしくないように、柳の声音は、軽々しくはずんでいた。恥ずかしいと思っても、夫人と片膝《かたひざ》をふれあいながら、未知の世界へ入りこんで行くので、そうなるのを防ぐことはできなかった。
表口には、別荘の爺やさん、石畳をふんで行くと、二階家の前に女中さん、さらに石段を下りて中門をくぐると、ばあやさんが出迎え、母屋の玄関には、留守をあずかる中年婦人が待ちかまえていた。
「お風呂が近いから、こちらがよろしいと思って」
と、夫人が案内したのは、海鳴りが迫っている、二間つづきの部屋であった。
細い竹や、花をつけた椿《つばき》の植えこみの先に、松の巨木がすさまじく突き立っていた。庭から海への急傾斜が、数段に分れた石垣で支えられ、その段地のそれぞれに、「おどろおどろしい」感じで、立ちはだかっている松の群のため、古い城郭の突端にでも、坐らされているような気がした。
あまりとりすましていても、いけないし、かと言って、あまりくだけた態度も禁物だった。自分でもイヤなのであるが、檀信徒に接する職業がら、柳には、そんなことに気をくばるくせが、いつのまにか附いていた。
「仏間《ぶつま》は、どちらでしょうか」
と、柳がたずねると、夫人はくすぐったそうな微笑をうかべた。
「仏間は、向うの二階家の方にありますけど。それ、お母様に言いつかって、いらっしゃったんでしょう」
その通りであった。法衣も数珠も、用意してきてあった。
「いずれ、お経はゆっくりあげていただきますわ。うちの母がこちらへ参ってからで、けっこうですけど。ああ、それから……」
女中さんは、久美子さまが、海の方へ降りているむねを、夫人に報告した。柳は、いそいそする夫人に、せきたてられ、浴衣に丹前を重ね、何か知らぬが重みのある鉄色の羽織まで着せられた。
「あら、あら。羽織の紐《ひも》もロクに結べない方ですのね」
彼女は、そんな世話まで焼いた。
夕陽が、落ちかかっていた。遠くバス道路を越してつらなる丘の、冬の山にしては青みの濃い茂みが、黒ずむにつれ、空はうす赤く染められて、明るさを増した。天然の石のかたちをそろえた石段を、くだる。石垣の下の小路は、もはや暗くなりかけていた。松の列のあいだから見える海は、ひとしお明るかった。案内をことわったので、裏口の木戸から、石畳の歩道へ出ようか、それとも、松の枝の下にあぶなっかしく下る、泥の路をえらぼうか、柳はとまどっていた。木戸に掛けられた、二つの錠は、あけにくかった。清潔な灰白色の歩道へ出ると、まず目に入るのは、西洋中世のお城のように、塔をいただく、石づくりの別荘だった。大蔵大臣のもちものである、その「城」は、歩道と同じように、灰白色にしずまりかえっていた。大臣は、つい最近、暗殺されたばかりだった。そのせいか、ポオの怪奇小説の舞台にも似た、その大きな邸宅は、淋しく、冷たく、くすんでいた。
一人の通行者も、なかった。どこの別荘の窓からも、のぞいている人の眼はなかった。かなりはなれたホテルの、芝生にも部屋部屋にも、人影がなかった。ホテルの灰白色の煙突からは、かすかな煙がながれて、美しい空を濁していた。宝屋の畠が、海のへりに、白っぽく乾いていた。スイートピーや、里芋や、他の草花が、枯れたまま風にそよいでいる。冬の菜とネギの茎のみどりは、あざやかだった。そして、海は少しの荒々しさもなく、のびやかにひろがっていた。それは、たしかに、暖かそうな、おだやかな海面だった。
だが、崖のへりに、久美子のうしろ姿を見かけたとき、彼は、一種の寒気をおぼえた。
畠地は、十五メートルほどの、切り立った石垣の上にあった。そこは二方を切石のへりで、ふちどられているので、海の色とは直線で分けられているのだった。
その直線すれすれに、今にも崖下に落下せんばかりにして、久美子はうずくまっていた。
砂利や枯草をふむ足音も、ひそやかに、彼は近づいて行った。大声でもあげれば、少女の可愛らしい肉体が、もろくも、彼の眼前から消え失せそうに思われたからだ。
彼が崖のへりに立ったとき、彼女は、ゆっくりと振り向いた。なごやかな海の、ゆったりしたうねりを背景にして、少女の、よくととのった顔つきは、固く、きびしく見えた。
黄色いスカーフでくるんだ頭部も、かがめた腰も、ひざの上に重ねた両手も、いつもより小さく、小さく見えた。
「自殺」という不吉なことばが、柳の胸をかすめたのは、とめどもなくひきしまって、若々しい想いが、ガラスか水晶の角度のように、むき出しになっている、少女の表情のためばかりではなかった。
足下の崖の高さ。海底の大石をも透かしている、よく澄んだ淡青色の水。岩のとげとげしさは、まるでなくて、白い貝殻を附けて、ルイルイと重なっている丸石。大島が見えないほどかすんでいる空は、はてしもない高みまで、かがやいているし、海は海で、崖下から沖へかけて、次第に濃青色の厚みをまして、かぎりなくひろがっている。少女と自分のたたずんでいる、庭下駄の下の地面まで、危っかしい泥土の一角として、ゆらぎ出しそうに思われる。それらすべてが、溶けあって、その不安を感じさせたのである。
「コンニチハ」
と、言いかけるより仕方なかった。
「よく、いらっして下さったわね。昨日、お電話があってから、ずうっと楽しみにしていましたの」
気がねなしの、彼女の話しぶりには、いくら考え深そうにしていても、年寄りくさい所はなかった。
「ここは、いいなあ。ここで一日中、日なたぼっこしていたいなあ」
「ええ。ここに一人っきりでいると……」
「いつも、ここで、一人っきりで?」
「ええ、そうよ。ここに一人でいるの好きよ。柳さんも、こういう所、お好き?」
「もちろんですよ」
「そう。そんなら、よかったわね」
少女は、できるだけこだわらずに話そうとしていて、やはり横顔には、理解しがたい淋しさがただよっていた。女の髪の匂いが、あたたかい風にさそわれ、柳の首すじのあたりへただよう。それは彼女の姉とはちがって、小学生の体臭のように、きなくさかった。
「姉が、お出迎えに行ったでしょ?」
「ええ、そうです」
「あのひと、昨日から、大騒ぎだったから。……私、こんなにうまく、柳さんとお話ができると、思っていなかったわ」
「ぼくだって、そうですよ。心配だったんですよ」
「……心配だなんて、そんなこと。柳さんは、もう、悟っていらっしゃるんでしょ」
「そうじゃありませんよ」
「でも、私、そう信じてる」
あお向いて白い首すじをのぞかせ、ふっくらしたセーターの中で、身体《からだ》をちぢかめるとき、久美子にも、姉と同じような、なまめかしさがあった。それが、柳を当惑させた。たとえ少女でも、なまめかしさを感じさせる相手と、仏教問答をするなんてことが、一体、今の柳にできることだろうか。
「やってるそうですね、仏教を……」
久美子は、恥ずかしそうに、だまっていた。
「……姉が、何か申し上げたのね」
「ききましたよ。偉いですよ」
「……あの音、何だかわかる? ヘンな音がきこえるでしょう」
キイキイと、歯の浮くような音が、崖下からきこえていた。それは、丸石に附着した、ノリか他の海藻《かいそう》を、漁婦たちが削りおとす音であった。黒白だんだらの石と、白いしぶきをあげる海水の色に、まるで保護色の動物のように、溶けあっているので、彼女たちの仕事ぶりは、急には気づかれなかった。かさねた古着物に、すっかり着ぶくれ、ゴム長で腰まで漬かりながら、漁婦たちは、背なかを丸めていた。鎌や、小刀や、貝殻を手にして、石から石へ移動しながら、はたらきつづけていた。あまりトクになりそうにない、苦しげな労働だった。
「あんなことして、大へんだなあ。もうかるのかしら」
「毎日、やっているのよ」
柳は、またしても、階級対立とか、剰余価値とか、社会革命とか、そういう物々しいコトバを思い出さずには、いられなかった。いくら思い出したって、無意味なことは、わかりきっていた。だが、せっかくの温泉別天地に来てまで、そんなことを想い出して、わざと自分をいじめてやりたい気持も、あるのであった。留置場で知りあった、あの大物の宮口や、朝鮮人の土方は、今、何をやって忙しげに活動しているのだろうか。
「久美子さんは、ほんとに仏教がおもしろいんですか」
「よく、わかりませんけど。でも、仏教のこと考えると、ほかのことはみんな、つまらなくなるようで」
「そうかなあ。久美子さんみたいな、若い女のひとが、そんな気持になるって、どういうことなのかなあ」
「ですから、私、わからないの。わからないけど、ただ、考えずにいられないだけよ」
「うん、考えずにいられないってことは、たしかにいいことのはずなんですよ。仏教徒なら、仏教のこと考えると、ほかのことがつまらなくなるようじゃなきゃ、いけないわけなんだ。ほかのことは、無意味だと説くのが、そもそも仏教であるわけなんだから。ぼくら坊主なんて、なおさら、そうでなくちゃ、いけないんですよ。ところが、実際は、そうじゃない」
柳は、不必要に熱してくるようであった。
「そこが、苦しい。いや、苦しいなら、まだいい方なんだが。苦しみもしないで、すむようになってくるんですよ。だから、ぼくは、あなたが、そういう精神状態にあるってことに、反対はしません。反対どころか、大いに激励しなくちゃならないところなんだ。でも、何だか、ぼくは不安ですね。久美子さんが、仏教のおかげで、深い考えに沈みこんでいる。そうして、ある種の結果に到達する。そのことにぼくは、何だか責任が取りきれないような気がするんだ。ぼくに責任なんか、取ってもらわなくたって、あなたは、あなたの考えに沈んでいらっしゃれば、いいわけだ。だけど、それにしても、ぼくは……」
「ええ、わかっています」
と、少女は答えた。
「そんな風に言っていただけるひと、柳さんのほかにいないわ。私、だから、うれしいのよ」
「うれしいですって!」
と、柳は言った。
「うれしいとか、うれしくないとか言うこととは、全くちがった(不吉な、とは言えなかった)、香《かん》ばしくない予感があって、ぼくは言ってるんです」
二人が起ち上ると、下手の旅館の方で、にぎやかな客たちの笑声が起った。冬の海でキモだめしをしようと、駈けおりてくる、パンツ一つの男もあった。
「そんなに、急に、何もかもおっしゃらなくても」
漁をおわった船は、熱海より西よりの港へ、いそいで行く。夜の漁へ出る船団は、青黒い水のスジを引いて、東の方へすすんで行く。潜水艦か、水雷艇か、いつのまにか鉄の船が三隻、碇泊《ていはく》していた。そして、その甲板では、発火信号が、陸に向って明滅した。あたりかまわぬ、するどい汽笛が、ひびきわたる。熱海の街々にも、燈火がきらめきはじめた。レコード音楽が、海軍も戦争も知らぬげに、ながれてくる。
「……お嬢さまの、ホトケいじり」
「いや、ちがうんです。そうではなくて……」
柳は、具合わるくなって、新しい庭下駄のさばきも不自由になっていた。
「あなたが、あんまり真剣だから、だから」
「柳さんが、信用なさらなくても、私の方は柳さんを信じているんですから、何を言われても、私、かまいません」
「ぼくには、言うことなんか、ありゃしないんだけど、ただ」
「仏教は、ありがたいわ、底がふかいみたいで。柳さん、そうお思いにならない? 久美子は、ときどきこう考えるの。おシャカ様は、よくも、おそろしいことをお考えになりました。それは、それは、おそろしいことを……」
と、彼女は、つぶやいた。
二人が、裏口の木戸のあたりまで近寄ると、宝屋夫人の白い浴衣が、夕顔の花のように立っていた。
柳に対する久美子の接近の仕方は、たしかに精神的なものであった。
精神的な深さが、自分の中に在って、それに結びつこうとして、この美少女が自分に近づいた。自分には、それだけの心の魅力があったなどとは、柳にはどうしても信じられなかった。しかし、こちらはともかく、向うの気持が、そのように恋愛とか肉欲とか言った、息ぐるしい路ではなくて、もう少し理解しにくい、なまなましくない天空か谷底から舞いおりるか、湧《わ》きあがってきているかのように思われた。それは、ありがたいことであり、気楽なことであり、久美子とのつきあいで自分が、兄さんぶったり、先輩ぶることはあり得ても、いやらしい事態の中へひきずりこまれないですむという、予想はあった。
男女共学の小学生のように、こだわりなく、ぎごちない所もなく自由に女性と交際できることを、柳はどれほど望んだことであろう。
だが、女という女の顔を熟視することもせず、女性との会話も極度に避ける習慣の彼には、女とのつきあいの「こだわりのなさ」など、望めるものではなかった。それに、もともと「精神的なもの」に、それほど信用を置いているわけでもない彼にして見れば、いかに精神的らしい美少女に出遇《であ》ったところで、うまく「心の友情」が結べるとは思えなかった。久美子に対してさえ(夫人に対してと同様)、その心より先にまず、肉の美しさというものが匂ってきてしまって、例によって壁をつくるか、いっそのこと壁をぶちやぶるかといういらだちが、つきまとっていた。
それ故、彼は、久美子と夫人が待ちうけている食堂に入って行ったとき、先ほどの少女の「おシャカ様は、ほんとに恐しいことをお考えなさった」という、不吉なつぶやきなどは忘れてしまって、ひたすら二人の姉妹の美しさに驚いてばかりいたのだった。
香水線香をくゆらしていることは、柳の母が寺で愛用しているので、すぐにわかった。人糞《じんぷん》の肥料を撒《ま》きちらした畠から、もどってきた父にあてつけるようにして、柳の母は、赤、緑、黒など色のちがった短い香水線香を、何本ももやすならわしだった。
きらびやかな和服など、好きそうもない久美子が、色どりのコッテリした、ごたいそうな着物に着かえているのは、姉の命令でそうしているにちがいなかった。若い妹に、そういうキメコミ人形のような衣地を何枚も重ねさせてしまえば、姉の方の、自由で単調な洋装が、きわだつのはわかりきっていた。ワンピース、ツウピースの区別もつかぬ柳にも、夫人の肉体をピッタリと包んで、胴体の線を明らかにしている、黒地の毛織物が、イギリスかどこかで特別につくられた、よく伸びちぢみする布地だとは察せられた。
「伊達《だて》のうす着」と称して、おしゃれ好きの東京女が、冬でも風邪をひきそうな服装を好むことは、母のいでたちから、柳も知らされていた。
襟元《えりもと》までキッチリした、夫人の「西洋式うす着」は、肌もあらわというドレスとは正反対だった。そのためかえって、肘《ひじ》から先の腕の白さや、充分にしめつけている毛織地の下の、両脚の長さや、腰のふくらみを突きつけるのだった。
大きな、厚いガラス戸の外に、嵐でもビクともしない板戸をたてめぐらした、食堂では、波の音もかすかである。
「もう、仏教問答、はじめたらしいわね。あんな寒い崖っぷちで、どんなお話をしていらっしたの」
柳も久美子も、だまって顔を見あわせていた。
「いつまでも、久美子みたいな気持でいられればいいんだけど。なかなか、そうはいかないから」
見た眼に綺麗《きれい》な、|こった《ヽヽヽ》日本料理は、あまり工夫をこらされ過ぎて、舌ざわりは冷たかった。
「宝屋の家系も、昔っから、並たいていじゃない罪は重ねていますけど。でも、久美子だけは、それとは無関係に、きれいな心で育っているのよ。それだけは、たしかなの。……でも、どうなのかしら。きれいな心で育っただけで、仏教がわかるものなのかしら」
「……仏教の話は、にがてだなあ」
「いいじゃありませんの。他に、お説教をきかせる人が、いるわけじゃなし。わたしたち二人だけですもの。どんなこと、おっしゃったって平気よ」
運ばれてきた吸物の椀や、紅白の刺身の鉢をすすめながら、夫人は、さりげなく言った。しかし、その口調には、計画をもった人の気のくばりが感じられた。
「困るんだなあ、ぼくは。ぼくは、とにかく……」
「それは、困らないはずは、ないでしょうけど」
と、夫人はいくらか悪戯《いたずら》っぽい微笑を、口紅の塗り方のうまい、唇のあたりにうかべた。
「まじめなお坊さんなら、ことに若いお坊さんなら、色々とお困りにならないはずはありませんもの」
「ええ、……つまり、棄てるってことが、どうしてもできないわけです。すべて、棄てるってことが、仏教の根本なんだけど、それができないから困るんですよ」
お人形のような和服を着せられながら、自分を包んでいる派手な服装とは、まるで無関係のようにして、彼を見つめている淋しそうな久美子がいるだけに、柳はなおさら話しにくかった。
「何もかもお棄てにならなくちゃ、ならないわけですのね」
「ええ、まあ……」
「そんなこと、誰にだって、できるこっちゃありませんわ」
姉の断言が、あまりハッキリしているので、久美子は、かすかに身ぶるいした様子だった。
「すっかり棄てたり、断ち切ったりできないからと言って、何も恥ずかしがることはありませんわ。人間に、そんなことできるわけがないわ。浄土宗や真宗では、昔っから、そうなっているんじゃないんですの」
夫人の言い方には、勢いこんだ節はなくて、自信を以て説ききかせているようだった。
「でも、やっぱり、覚悟だけは、棄てきるということになっていなくちゃ。それじゃなければ、万事ずるずるべったりと言った具合に、なりますからね。できる、できないは別にして、窮極の目標は、そこにあるんじゃないですか」
と、柳が答えると、久美子はかすかに、首をうなずかせたように思われた。
「そうねえ。それは、それでよろしいけど」
夫人は、反対の口調ではなく、むしろ子供たちをあやすように言った。
「でも、棄てきってしまって、一体、あとに何が残るのかしら。石や灰のようなものしか残らないんじゃ、つまらないじゃないの。それじゃ、仏教というものは、つまらないものと言うことになるんじゃないの?」
「つまらないことないわ。極楽というものが残るんですもの」
「ゴクラク?」
「そうよ」
久美子の言い方があまりに冷静で思いつめた口調なので今度は柳と夫人が驚かされた。ことに「専門家」のはずの柳は、いきなり胸元に、冷たい刃でもおしあてられた気がした。
「……ゴクラクねえ。極楽を持ち出されちゃ、私も参るわよ」
と、鼻白んだ夫人はそれでも妹をいたわるように言った。
「久美子なら、ほんとに極楽へ行けそうだものねえ」
「それは、そうよ。久美子、極楽が好きですもの。好きということが、大切よ。ほんとに好きでなければ、極楽へは行けないわ」
「いつのまに、どうしてそんなに、好きになったのかしら。この世が厭《いや》になるような苦労、なんにもしていないのに」
「どうしてだか、自分でよく考えたことありませんけど。でも、好きなのよ。極楽が好きということが、生きている人間にとって、いいことだか悪いことだかも、よくわからないの。それが、ただ善いことだとも、言いきれないわよ。こわいような、恐しいような所もあるでしょ。極楽が好きで、そのことばかり考えていることは、普通でないような気持もするし。……でも、やっぱり極楽があってくれないと、私は厭なの。もしなかったら、大へんなの……」
「あるわよ。大丈夫よ。あなたが、そうまで言うからには、極楽はきっとあるわよ」
と、姉は熱心に妹の表情を見守っていた。
「……そうね。極楽はどうしたって、なければならないものなのね。極楽がないのに、色々と棄てたりするはずがないんですもの。そのかわり極楽があるからには、何を棄ててもいいのよ。何もかも棄ててしまっていいはずなのよ」
「何もかも?……」
と、姉は、気づかわしげに言った。
「そうなのよ。何もかもよ。それこそ、すっかり、根こそぎ何もかもよ」
久美子は、あいかわらず落ちつきはらっていたが、眼の色や声音には、何かの想いに酔ったような所もあった。
「でも、好きなものを棄てることはつらいなあ。ことに、私なぞにとっては……」
「そうなのよ。お姉さまのおっしゃる通りなのよ。好きなものを棄てるのは、つらいことなのよ。もしも私が、お姉さまや柳さんに、二度と会えないことにでもなったら、私だって気が狂いそうになるわ。気が狂いそうになることは、凄《すご》いことよ。むろん、そうなのよ。でも、いくら気が狂いそうになるほど、凄いことでも、ウソのことは、ウソなんですわ」
「ウソだなんて、そんな……」
と、姉は眉をしかめて、つぶやいた。
「ウソというのは、虚仮《こけ》ということよ。仮りのもの、いつわりのものと言うことよ。まちがいなく存在しているように見えて、実は、迷いの眼に映った影みたいなものと言うことよ。もしも、極楽が実在するとすれば、他のものはすべて実在しないことになるのよ」
「確に、理窟では、久美子さんの言う通りなんだけど……」
まずい、とまどった言い方だと承知しながらも、柳はそう言わずにいられなかった。
「他のものはすべて実在しないなんてことを、確信するのはむずかしいですよ。それが確信できれば、極楽はありありと眼に見えてくるはずだけど。ぼくなんかは、どうしても、この世の魅力というものの方が、ありありと眼に入ってきて、どうにもならないんですよ」
彼が「この世の魅力」という言葉を使ったあと、夫人の大きな二つの眼は、はげしい輝きをました。それに気づいた柳は、それだけでもう頬も首すじも熱くなってきた。
「ぼくが、この世の魅力というのは、何も、性欲とか食欲とか言ったものに関係したことだけじゃありません。精神的なものもふくめて言ってるんです」
「わかっていますわよ」
と、夫人は落ちつきはらって言った。
「女のことしか考えていないような青年は、私だって軽蔑しますもの」
久美子は、唇を咬みしめるようにして、ジッと姉の顔を見すえていた。まるで、姉を敵視しているような、かなり青ざめた、きびしい顔つきであった。
「社会主義とか、立身出世とか、戦争とか、若い男の人には色々おありでしょうからね」
「……お姉さまは、柳さんの『この世の魅力』の、第一番目と自分で思っていらっしゃるのよ」
と、久美子は、低い声で、ハッキリと言った。
「おやおや。そうかしら。私、そんなにうぬぼれているつもりはないけれど」
夫人は、しなやかに席を起って、なめらかに受けながしたが、柳は身体を固くしているばかりだった。
「お姉さまの魅力は、いつわりの中のいつわり、虚仮《こけ》の中の虚仮なのよ。柳さんにとってばかりじゃありません。お姉さま自身にとっても、そうなのよ」
あいかわらず澄んだ声ではあったが、必死の想いがこめられているような声であった。
「私、柳さんを、お姉さまから守ります」
「どうぞ。お好きなように」
と、夫人は言った。
「久美子は仏教を持っているけど、私は、そんなもの持っていないんですもの。かないっこありませんけど」
守る? 守られる? 一体、どうやって、こんな年端もいかない少女が、ぼくを守るつもりなんだ。ばかばかしい、と柳は思った。第一、「守ってあげる」と言うのは、姉さんとあなたの関係を監視する、ひっつき合わないように邪魔をしてあげます、という意味ではないか。
「仏教のちからで、守ってさしあげます」きびしい眼つきで、少女が睨《にら》みすえているのは、憎しみのためばかりではなく(或は、憎しみのためだからこそ)、まさしく情熱のせいなのにちがいなかった。
「仏教で守ると言ったって……」
柳は、久美子の視線を避けながら言った。
「守って下さるとか、なんとか。そんなことは、ぼく、いやですよ」
「いやでも、仕方がありません」
「そうよ、ね。柳さんが、いくらいやがったって、久美子がそのつもりなんだから」
と、夫人は妹の情熱(つまりは憎しみ)の炎に、油をそそぐように、やわらかく言った。
「私がお姉さまを、憎んでいるなんて、お思いにならないでいただきたいの」
二本の|おさげ《ヽヽヽ》に編んでいた、ゆたかな黒髪が、ほどかれて、思いつめた顔から、やさしげな肩まで流れ下っているので、少女の表情は、神がかりの巫女《みこ》のそれに似かよっていた。そして、遠く、何かしら眼に見えぬモノを見つめるような眼つきも、怪しくかすんで来ているようだった。
「仏教では、ひとを憎むことは、大きな罪ですから。もしお姉さまを憎むようだったら、私はすぐさま罰せられますわ。もしも、少しでも私の感情に、やきもちとか、競争心がまじっていたら、もうそれで私の考えは、不浄なもの、みにくいものになってしまいますから。もちろん、私は、罪の深い女ですわ。それはそれは、おそろしいほど救いのない女ですわ。その私が、他人を責めたり、憎んだりすることなど、できるわけがないんですの。ですから、その私が、ましてお姉さまを……」
「久美子には、罪なんてありませんよ。罪のことなんか、あなたはまだまだ考える必要ありません」
「……さあ、それはお姉さまの考えちがいじゃありませんの。発心《ほつしん》するということは、自分の罪を自覚するということですもの。そういう自覚には、若いとか年寄りとか、年齢の別なんてありませんわ。その証拠には、お姉さまが男好きの女であるように、私だって、男好きの女なんですもの」
「あら、そう? それじゃ困るじゃないの。それじゃ、あなたには私を批判する資格がなくなるわけね」
「ええ、そうよ。批判なんかしませんわ」
「だけど、あなたは、眼を光らせて監視するわけでしょう」
「…………」
言い争ってもムダだという様子で、少女は悲しげに口をつぐんだ。悲しげではあるが、少女のわがまま、意地っぱりのようなものが、眼の光にも口もとにもあらわれていて、可愛らしかった。
「そういう話は、久美子さんにふさわしくないように思いますよ。久美子さんが、そういう話をするのは、おかしいですよ」
沈黙した少女の助太刀をするように、柳は言った。
「おかしくても、かまいません。どんな人間だって、人間なら、おかしなもののはずですから」
「そういう言い方をするから、なおさら|おかしい《ヽヽヽヽ》と言われるのよ」
と、姉は、妹の答えにおっかぶせるように言った。
「あなたは、私が、柳さんを誘惑すると思っているのね」
「ええ、そう。だって、そうにきまっていますもの」
「そして、柳さんについては、どう考えているの? 柳さんも、私に誘惑されそうになっていると、あなた、思ってるんでしょう」
「ええ、そうよ」
「だったら、柳さんは、他の女の人にも誘惑されるわけよ。私だけに眼を光らせて、私だけを防いだって、なんにもならないじゃないの」
「ああ、やめて下さい。やめて下さい。そんな話……」
と、柳は、叫び出さずにいられなかった。二人の美女にはさまれ、奪いあいされて「色男」ぶるのは、いくら彼でも恥ずかしかったからである。
「誘惑されるとか、防いでくれるとか、そんな風に、ぼくの意志を無視して、勝手にきめられるなんて、イヤですよ」
柳は、そのとき、盲腸炎の手術をされたさいの、友人の異常な感覚を想い出していた。メスを当ていいように、下腹部の毛を剃《そ》り落されるとき、友人は、自分の意志とは無関係に、自分の眼で目撃することもできないうちに、医師と看護婦の手で、彼と彼女の前に、路傍の雑草のように生えている、友人の「所有物」が、きわめて無造作に刈りとられて行くことに、たまらない悲哀、屈辱、そしてバカバカしさを感じたそうであった。今までは隠されていた、自分だけしかさわることのできなかった、肉体の芝生を、いきなり、どの部分を、何平方センチメートル消滅させてしまうか決定する、外部の(ハサミかカミソリの)力と無神経さに、腹が立ってきたという話だった。
この甘ったるい息ぐるしさ、くすぐったいような厭らしさは、柳が、黒大理石の湯船に全身を沈めてからも、なおつづいていた。よく選ばれた、かがやくばかりの石材の黒さが、豪華ではあるが、けばけばしくない、冷たい威厳も貯えていて、その黒にかこまれていると、自分の肉体が、いつもより白く、なまめかしく見えるのだった。
湯船からあふれ出た、澄みきった、あたたかい水は、おなじ黒い石の面を、彼の首の高さで流れていた。そのため、黒い光が、首の上と下で、水の内と外で、きらめいている。熱湯も、冷水も、湯船の底にちかい小さな孔から、自由に入れることができた。充たされているとは思えぬほど、温泉の湯が澄んでいるため、その見えない「充実」の中へ、更に、もっと熱い湯や、冷たい水を流入させると、不思議な感覚をおぼえるのだった。底の方から流入する熱湯も、冷水も、同じ「見えない流れ」なので、流れこんでいると感じるのは、視力のためではなくて、裸の脚や股《もも》の皮膚の感じなのである。熱くしたり、冷たくしたり、流入する液体を交替させ、そこへ自分の裸の各部分をさし向け、ちがった感覚を味わうのは、それだけでも楽しくなるのであるが、そうやっていると、例の甘ったるい息苦しさと、くすぐったいような厭らしさが、ますますひどくなるのである。
眼には見えないが、肌には感じられる、湯の性格の変化を享楽していると、湯の中でいくらか歪《ゆが》んで見える自分の肉体も、工夫によっては、「性格の変化」をゆらめかせることが、可能なような気がしてくる。
久美子から、あんなにまで「仏教的」な攻撃をかけられた直後だから、柳だって、湯の中の自分の肉と骨を、仏教的に観察しようと努めてみる。腰を、ねじる。両脚を、のばす。二本そろえてから、横に曲げる。股を、きつく、すぼめる。片腕だけ、湯船の外に出して、脇の下の毛をのぞき見る。湯の浮力を利用して、よじりながら全身を、水面まで上昇させる。
「ふうん、いい身体をしているなあ!」
と、自己満足したら、絶対に仏教にそむくことになるのは、わかりきっていた。仏教的《ヽヽヽ》になるためには、肉体の各部分を、まず「自分」という統一体ではなくて、バラバラの物体として観察しなければならない。そうだ。どうして、人間は、こんな脚を、二本、持っていなければならないのか。そもそも持つように、なったのか。ダーウィンの進化論によればだ。毛におおわれたサルから、毛のすくない人間に進化したからと言って、さほど驚くにはあたらない。しかし、鳥類というものが、ヘビやトカゲの爬虫類《はちゆうるい》から発達してできたものだと考えると、気味がわるいな。たしかに、毛をむしりとられたニワトリの、あの細くクネクネした首のあたりは、亀やマムシの首のあたりにそっくりではないか。
どうして、足が八本に分裂したタコが醜悪で、美女(楊貴妃にしろ、クレオパトラにしろ)のハダカの二本の脚が美しいということが、許されるのか。
この貴重な、黒大理石の長方形の湯船が、実は、エジプト古代の王様の棺であると想像してみよう。そうすれば、湯気はゆらめき立っているし、乾いた屍臭《ししゆう》もただよっていないが、ぼくはさしずめミイラ、生けるミイラということになるだろう。女の肌の匂いが魅力的で、屍臭がイヤな匂いだという判断が、そもそも迷いにすぎないんだから。
手の指が六本の幼児を見ると、ぼくだって身ぶるいするが、それは習慣で、そう感ずるだけなのであって、宝屋夫人が、すんなりした二本の脚を所有していることが、誇らしいという証拠は、どこにもないではないか。それはただ、彼女が二本に生れつき、みんなも二本しか持っていないし、もしも三本だったら奇怪だという、自分勝手な感覚から脱出できないだけの話ではないか。
どこの、どなた様が一体、「美」なんてものを保証して下さる、「美の審判官」であらせられるのか!
だが、待てよ。そうすると「仏教」は、人間世界の「美」を、嘲笑《ちようしよう》する教えということになるのかな。いや、おシャカ様は、まさか嘲笑はなさらなかったろう。しかし「批判」はした、いや、見抜いていられたのだ。そこでだ。もし「美」が無意味だとすると、「善」や「正義」の方も、あぶなっかしくなってくるのではあるまいか。
「おそろしいことを!」と、久美子さんは言っていたな。もし、美ばかりでなく、善も正義も意味がないとなったら、たしかに怖《おそろ》しいことだからな。おそろしい? そうか。おそろしい? ほんとうに、ソレは「おそろしいコト」なのだろうか。仁義道徳、人道主義、美しい心、正しい行い、それらが全部、結局は有っても無くても、かまわないということになったら? いや、そこまで思いすごすことはあるまい。だって仏典には、「諸悪莫作《しよあくばくさ》」、悪いことをしてはいけませんと、ちゃんと示されているんだから。しかし、待てよ。「諸行無常《しよぎようむじよう》」というのは、|すべての物《ヽヽヽヽヽ》は変化するという教えなんだぞ。すべての物、なんだぞ。だとすれば、「悪」ばかりじゃなくて、「善」だって、変化するモノに|過ぎない《ヽヽヽヽ》じゃないか。|過ぎない《ヽヽヽヽ》というのは、つまるところ、たよりないものであるという意味だろう。|たよりない《ヽヽヽヽヽ》というのは、また、いつ消滅するかわからない、否むしろ、消滅するに決まっている性格、運命ということじゃないのか。
それにしても、「どうせ死ぬんだから」という考え方は、いやらしいな。どうしても、いやらしいな。「どうせ」とタンカを切るところが、くせものだな。弱虫の強がり、怠けものの言いわけみたいだな。やけくその鉄火気分というのは、悟りとはちがうからな。「どうせ死ぬんだから、どうにでもなれ!」という悲鳴は、仏教的な精神状態ではないだろうな。仏教的な? ふうん、仏教的なか。だが一体、仏教的な精神状態とは、どんなものなんだい。無我の境地とか、いろいろ言うけれども。どうも、どんな「境地」でも、そもそも「境地」というのがあてにならないよ。疑わしいよ……。
廊下を鳴らすスリッパの音。重いガラス戸が、しずかにあけられた。しずかにとは言っても、重い、しっかりした木組の戸であるから、あける音は、湯船の中ばかりではなく、廊下の向うの方角にもひびくはずだった。忍び足という、内密な足音でもなかった。
浴室の内側の、もう一枚別のガラス戸は、厚いスリガラスだった。しかし、脱衣所は電燈で明るいから、入って来た人の衣服の色が、おぼろげにわかる。
夫人ではなくて、久美子だと見てとって、柳は安心と失望を感じた。だが脱衣所は、洗面所も兼ねているが、もう一つ別に、その種の設備はあるはずだから、特別の用事でもなければ、女性がそこへ入ってくるはずはなかった。東京からの電話なら、すぐ戸の向うで女中さんが、声をかけるはずだ。
久美子の和服の彩りが、ゆらめいていた。彼が入浴中のことは、男物のスリッパが、第二のガラス戸の外側にそろえてあるから、戸をあけずとも明白だし、脱衣所の棚を見るまでもない。着衣が脱ぎ落されるにつれ、スリガラス越しに、少し白くぼやけて、彩りが変化して、行く。浴室の天井には、巧妙にしつらえた通風口があるから、湯気はほとんど漂っていなかった。
柳は自分の眼つきが、決闘でもするときのように、険悪になって行くのをおぼえる。性的な興奮など起らずに、ひたすら対抗する気がまえで、相手をやっつけてやる名文句を探そうとする。沈黙戦術で、相手を石か木のように無視して、すれちがいに出て行くか。しかし、逃げるのは厭だった。さればと言って、遠慮なく侵入してくる少女の裸身を、正面から見つめてやるのも厭であった。そんなことで動揺して、まごつく所を見せたくもなかった。
ガラスを透して、すっかり白一色を見せ、裸になった久美子は、しばらく立っていた。
穴山だったら、こんな場合「さあ、どうぞ」と、自分の手で戸をあけてやるのだろうか。
久美子が戸をあけ、黒く光る石の床に歩み入る瞬間、柳は、横を向いていた。しかし、立ったまま身うごきしなくなった彼女を、見ずにいられなかったのは、自分の方が年長者であるからには、見てやるか、話しかけてやるか、何かしなければならないと思ったからだった。
彼女は、まっすぐに向けた、大きな眼で、彼の視線をうけとめていた。大胆とか、ふてぶてしいとかいう感じではなくて、真剣な、命令するようでもあり、命令されたがっているようでもあり、一種異様な眼つきで、まるで、自分の視線一本で、やっと直立した肉体を支えているみたいに、彼を見つめていた。
彼女が湯船の傍に、倒れるようにしゃがんでから、脚をのばして湯につかった瞬間、彼は、湯船の外へ出た。彼女の片膝が、自分の眼の前で曲げられたとき、彼は彼女の肉体の細部を、見つめようとはしなかったし、事実、そんなにくわしく見てとったわけではなかったが、たしかに、眼のくらむほど美しいものの接近に圧倒された感じで、「ああ、これが久美子さんでなくて、新宿の花街の娼婦だったらなあ」と、思ったのだった。
「……私が来たのは、あなたのためよ。私のためではないのよ」
あらかじめ予習してきた問題に、答えるように、やや機械的な口調で、彼女は言う。
「……いろいろと、考えつくしてから、こうするのが一ばん良いと思ったからよ」
「恋愛でも何でもないくせに、そんな……」
柳は、彼女に背を向け、怒ったように言った。シャボンを使わずに、乱暴にタオルで下半身をこすったのは、シャボンの泡《あわ》のなめらかさが、股のあいだに性欲をそそるからであった。
「恋愛でなくては、いけないの?」
「そんな、慈善みたいな」
「そんなら、恋愛だと思えばいいわ」
「だって、恋愛だったら、肉欲ですよ」
「だって、柳さんには、肉欲がおありでしょ?」
「肉欲なんか、いくらだってあるさ。あるからと言って、それが何ですか!」
「慈善じゃありません。あなたを救おうだなんて、そんな……。私はただ、あなたには私が必要かしらと、思っただけよ。あなたに、きらわれていないことは、知っていたし……」
「きらいなんかじゃありませんよ。きらいになるほど、君のこと知ってもいやしない」
このまま彼女の方はふり向かずに、出て行くつもりで、起ち上ろうとする柳の耳に、久美子のすすり泣きの声がきこえた。それは、男なら誰でも可哀そうに思わずにいられない、女らしい、やさしげな声であった。たとえ、裸同士で滑稽だとしても、泣いている美少女を見すてて置くよりは、何とか始末した方が、「兄さん」らしくもあり、またコトによったら「男」らしくもあると、柳は自分に言いきかせた。
彼は、溺《おぼ》れかかった幼児を救うため、急流を渡る勢で、水音すさまじく、湯の中にうずくまった彼女に近よった。
女同士、男同士なら何でもないことが、男女間では意味がありすぎて、態度がぎごちなくなる、その不自由さを股間《こかん》に感得しながら、柳は、彼女の傍に坐った。少女の隣に坐ったとは言うものの、湯の浮力というものがある上に、色欲の「色《しき》」の字が視覚に関係している関係もあって、自分のも女性のも、共にハダカ(つまりは色)が、まる見えに見えてしまっているのであるから、「坐る」の意味も、便利なような不便なような、明確な感覚と、あいまいな酩酊《めいてい》がミックスされたようで、肉体ばかりでなく、精神までがあっけなく浮き上りそうなのであった。おまけに、老人でもない、十九の彼は、なが湯はきらいなのであるから、立ったままの方が助かるのであるが、やはり湯の中に沈んでいないと、相手をおどかすようで、気になるのであった。
「泣かないで、泣かないで。どうして泣くのかなあ」
久美子の首が、横ざまに彼の胸にもたれかかり、彼女の女くさい髪がこすりつけられたとき、彼はもう少しで身体を離れさせたいのを、やっと我慢していた。彼女のすすり泣きは、つづいていた。
「泣くくらいなら、はじめっから入って来なければいいんだ。あなたの仏教のために、お湯に入って来たんだとしても、男の入っているお湯に女が入りにきたのに、かわりはないんだもの。なにしろ、何と言ったって……」
彼が言葉を中断したのは、お湯の中で彼女の右手が、彼の左手をにぎりしめたからだった。
「……私は、悪いこころじゃなくて。私はただ、おシャカ様の教えを守って……」
しゃくり泣きながらの、美少女の告白が、ウソいつわりの言いわけでないことは、彼にもわかっていた。しかし、こんな具合にして湯に漬かった二人の状態が「仏教的なもの」とは、考えられないし、たとえ彼女が聖女だとしたところで、魔女と同じ作用を自分に及ぼすと、予想しないわけにはいかなかった。
自由な方の彼の手は、いつのまにか、久美子の頭部を、しずかになでさすっていた。それは、小学三年生のとき、悪童にいじめられた女の同級生(三年までは男女共学であった)をなぐさめるため、髪の毛をなでてやると泣き止《や》んだ記憶が、はたらいていたのであるが。
だが、まずいことに(或は、感嘆すべきことに)、久美子の乳房は、ギリシアの愛の女神のように、立派に盛り上っていた。
「……私が悪い女で、私が悪いことをしていると思ったら、私をぶってもいいわ。私をぶっても、あなたは、おシャカ様に背くことにはならないのよ。私が、そうしてもらいたいんですから。私を抱いて下さって、好きなようになさっても、あなたの罪にはならないのよ。私は、仏教のために、そうされたがっているんですもの……」
「仏教の話なんか、こんな所でダメです」
「ダメじゃありません」
「ダメにきまってるじゃないか。バカだな、君は」
「バカでもかまいません。でも、私には信念があります」
泣き止んだあと、泣きぬれて輝いてる彼女の両眼には、明らかに「信念」の電圧が高まっているにちがいないが、こらえきれないほど骨のズイまで湯の熱気でほてってしまっている柳には、少女の電圧が何ヴォルトだろうと、かまったことではなかった。
「偉いよ。信念があるなんて、偉いことです。バカと言ったのは、失言だ」
「いつまでも、そんな口先ばかりのこと、おっしゃっていないで。あなたのなさりたいことを、なぜなさらないの」
「ぼくの|なさりたいこと《ヽヽヽヽヽヽヽ》、知っているわけですね」
「……ええ。男のしたいこと、きまっているんでしょう」
「|なさりたいこと《ヽヽヽヽヽヽヽ》を、ぼくが……」
「ええ。……私にだったら、どんなことをなさっても、大丈夫ですから」
はるか下方の海面から、崖《がけ》の松をくぐりぬけてきた風にあおられ、浴室の外の竹の葉が、板戸をこすっていた。
柳は、彼女の手をもぎはなし、折りまげた自分の両脚のひざがしらを、しっかりかかえこんだ。自分の腕で、自分の下半身を縛りつけでもしないかぎり、恰好のつかないことになりそうだった。だが、自分の腕と脚の筋骨が密着して、両側から力がこもると、かえって彼の肉欲は、四肢に充満してきた。
「そんなこと、なさってもダメよ」
淋しげな、低い声で、彼女はささやいている。もちろん、誇らしげではなかったし、誘惑をつよめるためでもなかった。まるで、さからいがたい「仏教の哲理」を教えさとすように、しずかな声であった。
こんな場合、いくら精神的な女性だとしても、女の方だけが仏教的で、男の方だけが非仏教的だという事態が、許されるのだろうか。いくらなんでも、そんな不公平なんて、あるもんじゃない。だとすれば、彼自身が肉欲のために、「仏教」なんか忘れかかっているのと同様、久美子だって「肉教の哲理」から、逃れられるはずはないぞ。
いや、待てよ。折り曲げた両脚を、ますます強く下腹部に押しつけながら、彼は、むりやり考えらしきものを絞り出そうと努めた。いや、もし肉や肉欲が存在しなかったら、仏教なんか生れなかったはずなんだから、肉や肉欲を充分に感得することも、仏教的なんじゃないのかな。さて、その感得の仕方はだな……。
「女」のやわらかい、香ぐわしい(と形容すべきか)両腕の肉が、彼の首をとりかこんだ。それにつれて「女」(つまり、久美子という個人名を失った)の腰が少し浮くようにして、彼の方に向きをかえ、まっ白な二本の太ももが、くっつきあったかたちで、彼の脚先のところへ廻ってきた。
「こいつめ! 大人の真似がしたいんだな。そんな奴は痛い目にあわせてやるからな」
彼は、そう叫ぶかわりに、彼女の胸のふくらみに、爪を立てるほどの力で、片手をあてがい、乱暴に乳房の一つをひっつかんだ。少女は(その瞬間、女は「少女」にもどっていた)、眼をつぶり、やや蒼《あお》ざめた顔をあおむけ、痛さをこらえていた。彼の片手が彼女の腰にまわり、おどろくほど成熟した肉(と錯覚した)の一部を、つねりひねると、彼女の眉はピクリと動き、彼女の顔はもっとあおむけになった。
「|なさりたい《ヽヽヽヽヽ》ことを、|なされたい《ヽヽヽヽヽ》んだったら、痛くされたって仕方があるもんか」
ジャンヌ・ダルクのような「聖処女」だったら、たとえ火あぶりの極刑に遭わされようと、恍惚《こうこつ》として苦痛に耐えるにちがいなかった。
彼が半分、自分の顔を湯に沈めて、久美子の乳首をかんだのは、歯ざわりの良さを楽しむためではなくて、いじめてやる、ひどいお仕置きに遭わせてやるためだった。
献身者、殉難者、けなげな犠牲者ぶっている少女を、そうやって崩壊させてやるためだった。彼が(女を殴ったりするのは、死ぬまでやるまいと誓っている彼が)、いくら押しひらいたり、押しつけたり、つかんだり、ひねったりしたところで、彼のやることには限度があった。柳は、美少女の首をしめることまでしたが、両手には、それほど力をこめることができなかった。
第一、ほんの一分か二分、少女の肉を「虐待」しただけで、彼は、うんざりするほど、|精神的に《ヽヽヽ》疲れてしまう。おまけに、たったそれだけの行為をやるだけでも、自分が、ダイバダッタ(シャカの敵)にさえ軽蔑《けいべつ》される化物にでも変化するような、おびえがあった。
「かまわないのよ。どんなことを、されたって……」
痛みをこらえて、そうつぶやく久美子には、たしかに容易なことでは乱されない意志があるようだった。だが、彼の方には、バカバカしい怒気に似た衝動があるだけだった。
「君は、どうして、こんな……」
「いいの。あなたが、お苦しみになることは、ないの。久美子は、悪い女じゃありません。だから、安心なさってよろしいの……仏教のこと考えて、仏教のためだと考えて」
手術台で、医師のメスに全身を任せている患者。寝床に入るまえに、お母さん(この場合は、お父さん)の手で、寝巻に着かえさせてもらっている幼女。そのような無防備な、何もかにも信じきったような顔つきと姿態が、どう見ても彼の眼には美しいため、いじめている最中に、すでに、可愛がりたい欲望が盛り上ってくる。
「君の方が、恋愛も肉欲も感じていないのに、こんなことするのいやだ」
「……いやがらないで」
「いやがってるんじゃないよ。いやがりたいんだよ」
およそ熟練とか、器用とかいうものとかけはなれた二つの肉体が、何を目的にするのか不明なまま、からみあった。ぶざまな、その状態は、湯の中という特殊条件のため、具合のわるさを加えているので、柳は、快楽を味わうより先に、泣きたいほどの恥ずかしさで一杯であった。具合のわるさを、久美子の方も感じていることは、いかにもさばきにくそうな手脚の動きで、明らかであった。それが手にとるように(事実、手にとっているわけであるが)わかるため、性急になっていいのか、それとも、加減を見てゆっくりした方がいいのか、わからなくなるのであった。
頭上で、ベルが鳴った。
浴室から女中部屋へ、廊下から浴室へ、ベルの通信ができるようになっている。
「お姉さまだわ」
久美子が、彼の肩にしがみついたまま、ささやいた。
二回目のベルが鳴りひびくより前に、柳は、少女の肉体をもぎはなした。突きはなされた少女の眼には、怨めしげな、と言うよりむしろ、敵意と失望の色がきらめいた。その一瞬、姉に対する憎しみではなくて、柳に対する憎しみが、燃え上ったのかも知れなかった。
「入りますよ」
と、声をかけて、宝屋夫人は第一のガラス戸をあけた。
「久美子さんも、一緒なのね。いいのよ。別に、用があって呼びにきたわけじゃないから。よかったら、私も入らせていただくわ」
夫人の呼びかけは、いつもと少しも変らぬ、うきうきした声であった。
「だまっていらっしゃい。なんにも、言わないで」
と、少女は柳の耳の孔に、あたたかい息を吹き入れて、ささやく。
「三人一緒に、お風呂に入れるなんて、めったにないことですもの。おあがりにならないで、二人とも、待っていてちょうだい」
柳は、湯音をさせて起ち上った。
「だめよ。意地わるをしちゃ。二人だけで仲良くしたら、私、うらむわよ。三人の方が二人より、もっとたのしいわよ。ね、今すぐ入りますから、待っていて」
「シイッ。なんにも言わないで。だまって……」
おなじく起ち上った少女は、しつっこく命令する。
彼は、うなずきながら、無言で湯船を出る。
そして、非情な正確な直線をつなぎあわせた、黒く冷たい石の床の上に、すわりこむ。
夫人の肉体をしめつけている、女性用の衣服が、ガラス戸の向うで、一枚一枚、もぎ落されて行く気配を感ずる。
「今夜は、冷えこむわ。ゆっくり、あったまらなくちゃ」
夫人の事務的な声は、息をひそめた二人の心理を無視して、なめらかにつづく。
「二人とも、なんにもおっしゃらないのね。そんなに、仲良くしてるの。ああ、うらやましい。早く私も、お仲間入りさせてもらわなくちゃ、損してしまうわね」
久美子と柳が、顔を見合せてから、柳の方だけ視線をそらす。久美子は、柳が出て行こうとしないのを見とどけると、決意めいたもので、むずかしい顔つきになり、ふたたび湯に沈んだ。
久美子は、怒りの感情ひとつで、姉に対抗することができる。宝屋夫人は、妹に対しても、柳に対しても、男なれした(或は女なれした)態度で、からかうようにして、未熟な心理を支配することができる。しかし、柳には、そのような便利な対抗手段がなかった。手段(武装)がないからには、おなじ裸の三人の中でも、とりわけ彼が「はだか」なわけであった。おかしな話であるが、柳は、二重の「はだか」を着こんで、着ぶくれしてしまっているから、なおさら、寒いような、暑いような混乱に責められるのであった。つまるところ、彼の裸身は、アフリカの人喰人種のように、自信にみちた「はだか」ではなかった。さればと言って、円盤や投槍を投げようとする、ギリシアの男性彫刻の如く、ある一つの目的に向って、神経と筋肉を集中させている、おもむきもなかった。
中学生のころ、太平洋岸の土用波の、白い歯をむいた、黒みがかった青の中へとびこんだり、灼《や》けつく砂の中へ全身をねじりこむようにして、寝そべったりした。そのとき、自分の裸体は、突進する者、激突する者の「はだか」だった。
今、女ふたりに挟《はさ》まれた、彼の裸は、彼の内部でたるんでいた。しりごみする裸、一つの肉体の団結にまとまりそうもない、分裂した諸弱小国の「はだか」だった。
純白のタオルを前にあてがって、ガラス戸のこちら側に立ったとき、夫人の両眼は、そんな彼の「はだか」に吸いよせられ、熱っぽく|輝いた《ヽヽヽ》。まったく「輝いた」としか言いようのないほど、強い意志と情熱で、光っていた。
したがって夫人の表情は、「何喰わぬ顔つき」と、言った種類のモノではなかった。湯でぬれた石の床に、すべらないようにするための、足指のふまえ方や、一歩ふみ出すにも、自然とねじれる両脚のつけ根の作用など、すべて、みずから楽しみ、みずから見せたがっているにちがいなかった。
「久美子さん。仏教のお話は、もうすんだの?」
しゃがんだ自分の身体に、湯を浴びせかけながら、夫人は言った。
「いいえ。まだよ」
「ああ、それじゃ、私が来ては邪魔だったの?」
「そうよ。邪魔ですわ。よくも、こんな意地わるが、おできになるのね」
三千の美姫を後宮にはべらせたと言われる、秦《しん》の始皇帝とか、トルコのサルタンなんて男は、一体どんな心理状態だったんだろうか、と柳は思う。数を割引きして、五百人、五十人の女としたところで、その種の「快楽」とは、人生にあって何を意味するのだろうか。
とにかく、たった一人の女と複数の女(二人でもだ)とでは、根本的に異なった情況が出現する(すでに、出現してしまった)のだ。たとえばアインシュタイン博士の相対性原理とかが、新しい四次元の物理学で、古い固定した物理学をすっかり動揺させ、変形させてしまったように、女が複数となれば、単数の場合の「物理学」は、もはや通用しなくなるのだ。
女の唇が二つ、別々に女の脚が四本、女の髪の毛が二束、女の背なかが二枚、女の呼吸と叫びが二つの方角から迫ってくるとして、そこに尋常の倫理(いや、快楽でさえ)が存在を許されるのか、どうか。
ことに、地球上の「美」の中で、もしかしたら柳の最も愛好しているらしい、女の脚の美が、もしも何十本、何百本の勢ぞろいだったら、かえって無意味な肉の白い洪水、滝となって、眼をつぶれば、しぶきを浴びるだけで、そう神経をつかれさせずにすむかも知れないが、四本だけ、つまり二組だけの女の脚なるものには、何かしら頑固な対立や、歯の浮くようなきしみ合いがあって、息苦しくなるのではあるまいか……。
だとすれば、この憎らしいほど美しい四本の足を、別々に縛りあげてしまわないかぎり(縛れば、肉に喰い入る縄やヒモのくびれで、ますます可愛らしくなるにちがいないにしても)、とても精神の自由も、肉体の行動性も発揮できそうにないのである。
おびえたように、寄せかけてきた少女の、やわらかい肉をかかえこんだとき、柳が「快楽」など感じられないのは、言うまでもなかった。
少女の押しつけてきた唇を、自分の唇で押しかえしたときにも、キッスとは何という荷厄介な、あるいは口さきだけの、小鳥と小鳥のクチバシの突っつき合いよりも、不自然きわまるものだろうかと感じられた。それに、彼の態度はすこぶる乱暴で、やさしみに欠けていた。
「やってるわね。いろいろと」
夫人の口からなめらかにもれてきた、「やってるわね」と言うことばほど、柳を気落ちさせ、憤慨させたものはなかった。彼は、その瞬間、まさしく、首狩りの夜襲に出た土人の如く、猛《たけ》りくるいたくなった。「やってる」とは、何ゴトであるかという、屈辱の念。しかも「やってる」以外の何物でもないという灼けつくような自覚で、彼は、野蛮になるより仕方ないのであった。
「いくら、やろうとしたって、うまくいくはずがないわよ」
と、夫人は、悠々と湯につかりながら言った。
「そんなことしたって、あなた方、ちっとも楽しくないはずよ。止めた方がいいわ」
「えらそうなこと、言わないで下さい。何て言ったって、男の方が強いんですから」
湯船を出た柳は、水道栓をひねった。冷水をかぶるつもりで、ひねった蛇口からは、熱湯がほとばしり出た。あわてて、別の蛇口の下に湯桶《ゆおけ》をあてがい、二、三杯の水を自分に浴びせかけた。
「そうよ。柳さんは、お姉さまのモノじゃありませんもの」
「では、誰のモノなの?」
「世界のモノよ。おシャカ様だって、誰のモノでもない、世界のモノですもの」
うわあ、ものすごいことになって来たぞ。このぼくは、世界人類のモノ、仏陀《ぶつだ》クラスの宝モノなのか。では、その種の世界的な、衆生《しゆじよう》の共有物なる、すばらしき男子は何をやらかしたらよいと言うのか。片ひざ立てて、水だらけになって思案している、柳の頭に、その瞬間「A計画」という、三つの文字がきらめいた。もともと複数の裸女に対抗するための、その場かぎりの思案にすぎないのであるから、流動する五色の泥沙《でいさ》が、行先も定まらないまま移動しているかたちで、その表面に「きらめいた」とは言っても、金属板に刻まれた明確な文字のようにではなく、ただほんの一瞬、「A計画」という言葉が、光の断片として、かすめすぎたのだった。Aにせよ、Bにせよ、察知しがたい秘密計画なるものに、好奇心が燃えたちはするものの、結局は、自分個人とは全く無関係に熟したり、変更されたり、進行したりしている或る種の行動については、ほとんど全く忘れかけていたのに、たとえ光の断片が泥沙の表面をかすめすぎたにすぎないとしても、それが念頭に浮んだのは、「A計画」なるものが男性的な企てにちがいないという予感が、あったればこそであった。柳は、自分が真に「男らしい男だ」という、幸福な実感を味わったことは、一回もなかった。けれども、この地上には「男らしい男」が生きており、そういう男たちには、まだ見ぬ先からあこがれたがる自分を、まちがっていると考えたこともなかった。勇気、決断、剛直、不屈、弱キヲタスケテ強キヲクジク。雄大なる目的のためには、死を怖れざる男児の気概。つまりは、女々しさとは正反対の男らしさがなければ、男女両性に対して恥ずかしい。乱暴や粗野は、もちろん仏教的でないから拒否すべきだが、男らしさなら、仏教と無関係であるはずがない。ただし(ここまではいいのだが)、ただし、女性との性関係において「男らしさ」は、どのような恰好を保っていたらよろしいのか。接吻にせよ、性交にせよ、まず女性を満足させることが「男らしさ」であるにしても、満足させるために「男らしさ」を失ってしまうような事態が発生しても、それでもなお「男らしい」のだろうか。女に甘い、女に参ってしまう、女に屈服する、女にすがりつく、女に甘える、女の言いなりになる。そうすれば、女が満足してくれるにちがいないにしても、そのような女性奉仕だけで、男性主張が満足できるはずがないではないか。
「ぼくは、いやだぞ。ぼくは、いやだぞ」
冷水を浴びすぎて、冷えきった下半身を、固くひきしめながら、柳は声にならぬ声で叫びつづける。
「水を浴びるのは、止めてちょうだい。女性に対して失礼よ。しぶきがかかって、冷たいわよ」
「いいわよ。久美子も、柳さんと一緒に、水を浴びるわ」
姉に対して、あてつけがましく水を浴びはじめた少女と並んで、彼は、水浴びをつづける気になれなかった。彼は、裸女(すなわち仏敵)の魅力に挑戦するみたいにして、夫人の身体すれすれに、湯につかった。
「逃げないのは、おえらいわ」
「ぼくは、我慢してるんです」
「そうよ。我慢しなくちゃ、いけないわ。人間は、我慢していくうちに、えらくなるのよ」
「こういう我慢は、むだだと思いますか」
夫人の片腕が、彼の肩にまわされた。まるで安楽椅子の腕にもたせかけるように、こだわりなく自然に、彼女の腕は、彼の筋肉の上に乗ったのである。
「むだをしないで、生きていかれるつもりなの? そうはいかないわよ。だって、人間は、むだをしつづけているあいだに、いつのまにか歳をとって、死んでくんですもの。おシャカ様のおっしゃってることだって、結局、人生はむだの連続だということじゃありませんの。むだだからこそ、お救いが必要になるんじゃないの?」
「ちがいます!」
と、叫んだのは、柳ではなかった。湯しぶきをあげて、湯船にとびこんできた久美子であった。
柳の上半身は、夫人の肉に、柳の下半身は、久美子の肉にはさまれていた。植物の吐き出す酸素で、密閉された温室の空気が、こもったり、むされたりするように、肉の温室、肉のガラス張りが、彼をとりかこんでいた。
頭上のベルが鳴った。息のつまりそうなほど、甘ったるさの濃くなった、浴室の空気を、うすめるようにして、金属とゴム皮の金属がふれあう音が、鳴りひびいた。
「奥さま。失礼いたします」
第一のガラス戸をあけた、留守居役の中年女の声が、礼儀正しくきこえた。
「近くが火事のようでございますので。お知らせいたします」
「はい、わかりました。すぐ出ますから」
夫人は、態度を一変して、事務達者な支配人のようになった。
「では、おねがいいたします。なにぶんにも寒うございますので、お風邪をおひきにならぬよう、注意なさって……」
ガラス戸は、ものしずかにしめられた。
火事だって? 火事なら、|失礼いたします《ヽヽヽヽヽヽヽ》も、|お風邪をおひきに《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》もあったもんじゃないじゃないか。脱衣所に走りこんだのは、あわてた柳が先頭だった。
二人の女性の、ゆっくりさ加減は、常識を絶していた。
「お姉さまの考えは、まちがっていますわ……」という久美子のつぶやきを、うしろに聴き流し、柳は、ぬれた身体に浴衣一枚ひっかけて、廊下に走り出た。
あけはなたれた玄関の向うで、石畳の路が、うす赤らんでいた。崖を吹き上ってくる、大幅な風のうなりにつれ、物の焼けはじける音がした。煙の匂いが、流れてくる。
「こちらでございます」
中年女は、防火頭巾もかいがいしく、柳を手まねきした。
庭下駄をふみしめ、石の段を駈けおりる。
「火事は、どこなんです」
火の粉が、光りながら、海へ下る路を舞いおちていた。赤い光の破片は、松や竹の黒い影をくぐりぬけ、たえまなく吹き上げられる。火矢や、火のツブテのように、まっすぐ疾走する光もあった。
「あの、こちらでございます」
「そっちは、海じゃないか」
「はい。さようです。海が火事でございます」
夕暮れどき、久美子が立ちすくんでいた、あの崖上の畑のあたりには、煙と火の粉が渦まいては、ゆらぎのぼり、吹きはらわれては、噴き上っていた。なまめかしくも猛々しく、ちぎれとぶ白煙の幕と、焔《ほのお》の尖端《せんたん》は、まさしく宝屋別荘の方角をめざしていた。
数軒の旅館と別荘が、共同のゴミ棄て場にしている、崖下の一角に火が発したのである。ゴミとはいえ、庭の手入れのあと、樹木の枝を気まえよく投げ重ね、木箱や紙屑《かみくず》、燃えやすい品物が山をなしている。漁船の油でも、流れついたのか。それとも、棄てられた石油かガソリンの罐《かん》が、火を呼んだのか。ただごとならぬ火勢は、遠くひろがる海の黒と、白波の歯のかがやきを背にして、何ものかを呪《のろ》い、襲い、ねらっているかのように見えた。
「こんなところに、突っ立ってたってしょうがない。それより、家の方を守らなくちゃ」
「はい、そのように、お願いいたします」
火光に照らされ、うかびあがった中年女の横顔は、微笑をただよわせているように見える。
「油断してたら、すぐ燃えつくよ。屋根にあがって、見張らなくちゃ……」
「はい、梯子《はしご》その他、用意はしてございますから。御安心なすって」
煙に追われて、折れ曲る石の路をかけ登る。
「風呂場の屋根が、一ばん登りやすいんでございますの。ですから、そこから梯子へ……」
「風呂場ってのは、さっき|ぼくら《ヽヽヽ》(ラと言うとき、柳の舌先はしびれた)が入っていた、あの温泉の屋根のこと?」
「さようでございます。あの、実はうちの旦那さまが、先ほどから、あそこへお上りになっていらっしゃいますから」
「さきほどから?……」
「ええ、もう、だいぶ前からでございます。では、バケツをお持ちになって、どうぞ……」
「ああ、寒い。大丈夫かしら。ずいぶん火の粉が来るようだけど」
セーターの夫人の肩が、すりよって来た。
「御主人が、来ていらっしゃったんですか」
「そうらしいわ」
「奥さんは、御存じだったんですか」
「うん、電話はかかって来ていましたから。でも、何時に来るか、知らなかったのよ」
水をみたした大型のバケツを両手にさげ、しなう梯子をのぼる、柳の浴衣は前がはだけて、両脚が吹きさらしに、むき出される。
「奥さんは登らないで、いいですよ。すごい風だ。一たん燃えうつったら、こんなことやってもむだですがね」
「だから、さきほど、人間てものはむだなことばかりするもんだと、申し上げたのよ」
冷然たる夫人のことばが、あぶなっかしい彼の足もとを、一そうゆるがした。
浴室の屋根の上に立った、宝屋の主人は、小柄の男だった。小柄であるのは、かねて柳も見知っていたが、火光に照らされて、明るくなったかと思うと、いきなり黒い闇におおわれる、突風にあおられた屋根の高みの上では、ことさら侏儒《しゆじゆ》(こびと)のように、背たけがちぢまって見えた。油絵の中の人物のように、赤く彩られては、たちまち影絵の黒一色に変る、その小男が、テコでも動かないほど力強い人物に見えたのは、あながち、そのときの柳の、受け身な心理状態のためばかりではなかった。たしかに、この主人のガッシリした肩や、たくましい腰つきには、相手を威圧する力がこもっていた。「屋根裏の散歩者」。江戸川乱歩の怪奇ものに登場する|のぞき《ヽヽヽ》男と似たような立場にいるくせに、そんな好色的な気配は全くなかった。
はるか右手には、安ものの宝石を連ねた首飾りのように、熱海の町の弓なりに曲った海岸線が、きらめいていた。町のざわめきが、全くきこえないで、点々として輝いている町の燈は、宝屋別荘をおびやかしている火の粉や煙とは、全く無関係に、ひたすら静まりかえっていた。
そして、よく見きわめることはできなかったにせよ、屋根の上に立つ主人の表情と姿勢には、動揺している柳の心理状態や、不安をよぶあたりの光景とは、全く無関係に、静まりかえり、おちつきはらった「安定」があるようであった。
「せっかく来ていただいたのに、お騒がせして……」
と、主人は、ほとんど柳の方など見ないで言った。それは、まるで柳が浴室の屋根にのぼり、自分の傍に立つことを、あらかじめ知っていて、順序にしたがって話しているにすぎない様子だった。
「先代の西方寺さん、あなたの伯父さんは、ここがお好きでしてね。よく来て下さったものですが。あなたは、おはじめてでしたね」
「ええ、そうです……」
「いや、火事のことは心配なさらないで。よくあることですから。あなたの伯父さんがお泊りになった晩にも、火事がありましたしね」主人は手にした|はたき《ヽヽヽ》で、火の粉をはらう仕種《しぐさ》をした。「実際、あなたの伯父さんは、偉い方でした。人気がありました。それは、学者としても、世界的に有名な第一流の方だったでしょうが、気っぷが良かったんですよ。全く、子供みたいに無邪気で、気持のいい人でした。それに、男っぷりが良くて、一生、独身で通されたんですから。信者ができるのも、当然でした。うちの母なども、すっかりほれこんでしまいましたよ。西洋人みたいに色が白くて、お顔も立派でした。本堂に出られても、堂々として、厳格そのもののようですが、それでいて、西洋紳士のように、ハイカラなところがあったんですから。あんな方は、もうこれからも、めったにあらわれるものじゃありません。火事があったとき、あなたの伯父さんも、今のあなたみたいに、この屋根に駈けあがっていらっしゃったんですよ。浴衣の尻をはしょった恰好は、今でもおぼえていますが、いかにも江戸っ子の、いなせな職人と言った、スカッとしたもんでした。そうそう、今あなたの立っている場所に、そんな具合にして、風に吹かれて立っていなさった。……」
「……すると、御主人はそのときも、うちの伯父と一緒に、ここに……」
「そう、そう。そうでした。まさに今とおんなじに、海哲先生と私が、ここに立っていたんですよ」
「……そうすると、そのとき……」
「え? そのとき、何ですって?」
主人は、首をかしげ、耳に手をあてがって問いただした。
「……すると、伯父も、そのとき、この下のお風呂に入っていて……」
「ええ、そうですよ。カラスの行水みたいに、入ったかと思うと、すぐとび出してくる海哲先生でしたけど。温泉は、お好きでしたからね。私は、チラッと拝見しただけですが、先生の肉体は、男でもほれぼれするみたいでしたでしょう? それにやっぱり、ホンモノの童貞でいらっしゃったんですからね」
「……ええ、そう言われていますけど」
「童貞ですよ。死ぬまで、童貞でいらっしゃった」
いつのまにか、宝屋の主人の顔が、柳の顔のそばに、今にもくっつきそうに近よっていた。それは、渋紙色の、くすんだ色をした顔だった。
「童貞を通されたから、偉かったと申し上げているんじゃありません。しかし、何と言っても、一生、女にふれないということは、大へんなことです。不犯《ふぼん》ということは、すごいことです。決して、病身でも片輪でもない、立派な体格をした偉丈夫だったんですからね。意志がお強かったと、言うだけじゃなしに、やはり常人とはちがった、我々には及びがたいところが……」
「……ええ。若いころは、相当なやんだりしたと思いますが」
「おなやみになった? そうでしょうか。お若いころ、そう、今のあなたぐらいの年齢で、ドイツへ留学なさった。そのころ、おなやみがあったか、どうか」
主人の眼は、注意ぶかく柳の横顔を見守っていた。厚いまぶたの下で、その両眼は、あまり鋭そうには見えなかった。しかし柳は、主人の視線が、太陽光線を集めて紙片を焼く、子供の手にしたレンズのように、自分の頬をこがすのを感じた。
「おなやみになった。そうかも知れません。だが、なやんで、御自分を高めなさった。そうですよ。なやんで卑しくなるのが、凡人。なやんで偉くおなりになるのが、先生のような非凡人」
「……海哲さんが、ほんとうに非凡人だったか、どうか」
「非凡人です。大体のところ、女でなやめば、男は卑しくなります。めいめい、胸に手をあてて考えてみれば、すぐわかるこってす」
火勢が弱まったので、屋根の上はくらくなる。主人にうながされ、柳は梯子《はしご》をおりる。主人は、いそいそと彼を、広い応接間のある母屋ではなくて、少しはなれた別棟の二階家の方へ案内する。敷石をふみ、石段をのぼり、庭下駄をひきずって歩いて行くあいだ、柳は、未《いま》だに理解しにくい宝屋の主人の、隠された意志の縄に、逃れがたくひきずられて行くような気がした。
トゲのある青灰色の、剣のような葉をそりくりかえらせた、南国風の植物の株が、黄いろい芝生のはずれに、並んでいた。その向うに、風の凪《な》いできた、黒い海がひろがり、そして、星の河をちりばめた黒い空の壁が、高々と突き立っていた。
古風な二階家の階下の一室には、秘密くさい金屏風《きんびようぶ》が、たてめぐらされてあった。そこにも浴室があって、あふれ流れる湯の音がしていた。
そして柳の眼をおどろかしたのは、廊下にも部屋にも積まれた、おびただしい古銭の箱であった。赤錆《あかさ》びたもの、青銅色のもの、鉄のもの、銀のもの、黄金のもの。大切そうに額にして貼《は》りつけられたもの。無造作に投げ入れられ、こぼれ落ちているもの。さまざまな金属の貨幣が、陳列されたり、しまいこまれたり、散らばったりしていた。木箱やブリキ箱、陶器や袋などに、ギッシリ詰めこまれた貨幣たちは、「銭《ぜに》」という執念のこもった、色と匂いで、沈黙したままざわめいているように感ぜられた。
「先々代から、集めはじめたもんですから。今度いつか、うちの『銭幣館』へも、御案内しますよ。集めだしたら、きりのないものでしてね」
と、主人は、つまらなそうに語った。
今の社会に通用できない、「たからもの」と化した、古い古い貨幣、世界各国の手垢《てあか》でよごれた「ゼニ」が、一つの家庭の内部に秘蔵され、置き場もないほど、溜《たま》りに溜っている光景は、美しい眺めというよりは、むしろ、空おそろしい、寒々としたものであった。
「宝屋は別段、日本有数の金満家とか、実業家だとか、言うわけじゃありませんがね。古銭に関するかぎり、三井にも三菱にも負けやしません」
腰のひくい、昔風の商人を絵にしたような主人であるが、酒も煙草ものまなかった。朱ぬりの机をさしはさんで、向いあって坐ると、大学の総長か、本山の大僧正にも似た、厳格な気配が太い眉の下にみなぎっていた。五十男とのながばなしなど、若い柳はきらいだった。まして、浴室でのできごとのあとで、夫人の夫と面談することなど、たまらない苦痛だった。しかし一方では、妖刀《ようとう》の鞘《さや》をはらって、ことさら冷たい刃にさわってみたい誘惑にもかられていた。
「ええい。こうなったら、事件の核心とかいう奴にぶつかるまで、いつまでもつきあっていてやれ。この小男が、あのなまめかしい夫人の肉体を所有している、当の御主人とはなあ。ぼくには、もちろん、この人を軽蔑《けいべつ》する資格なんかありゃしない。それどころか、偉そうな大商人として、尊敬したいくらいだ。それにしても、この人と、あの華麗な女性とが、どうして……。いや、それよりも、どうして一体、この自分は、この一家とこうまで親密なあいだがらになってしまったんだろうか。親密? そうじゃないか。そうより言いようがないじゃないか。親密になればなるほど、ぼく自身は、何となく混乱して卑しくなるにしてもだ。何もぼくの方から計画して、親密になったんじゃないぞ。ただ、いつのまにか、足をすべらして穴に落ちこむようにして、親密になっただけなんだ。こんな具合にして、宝屋の女や男と親密になるなんてことは、実に奇妙な、あぶなっかしいことじゃないか。冒険なら冒険で勇ましいが、これは、このぼくの状態は、決してそんなキコエのいいもんじゃないし……」
こんなに完全に、一人の男に支配されかかっている経験は、警察の留置場の中でだって、ありはしなかったんだぞと、くやしくもなった。相手が特高の刑事なら、たとえ「お前は卑しい奴だぞ」と怒鳴られても、たいして手ごたえはなかった。だが先刻、吹きさらしの屋根の上で、この小男が「卑しい」ということばを、低い声でつぶやいただけで、柳は骨身にこたえていたのだった。そして、いまいましくも不思議なことではあるが、この五十男と向いあっていると、温泉につかった二人の女の裸身が、|あのとき《ヽヽヽヽ》よりも、はるかに、なまなましく、したわしいものとして、心によみがえってくるのだった。
「そのうち、穴山さんもここへ来て下さるはずです。あなたが、たいくつをなさるといけないと思って、お呼びしてあるんです。もっともこれは、妻の考えですが」
柳が、用心ぶかく、だまっているので、主人は、
「その方が、よろしかったんでしょうな。こっちで、勝手に決めさせていただいたことですが」
と、たずねた。
「……ぼくは、まだ来たばかりで、たいくつしていませんけど。穴山君が来てくれれば、それは」
「そうですか。それは、よかった」
「穴山君は、この別荘へ、よく来るんでしょうか」
「ええ、ええ。あの方は、ああいう気サクな人ですから、ちょいちょい見えてるようですよ。こちらで、お呼びしないでも、好きなときに来ていらっしゃるようですから」
と、主人は愛想よく言った。
「穴山さんには、長命貯金のことなどで、お世話になっていますし。それに、あの通り軍部に顔のきく人ですから、いろいろと相談に乗ってもらっているんです。この穴山さんと、西方寺の秀雄さん。このお二方が、浄土宗門の二人の偉材だと、私はにらんでいますが、どうでしょうか」
「はあ、しかし、穴山君と秀雄君とは、まるで月とスッポンみたいに」
「ちがっています。穴山さんは、なにしろ野蛮で、炭火のようにカッカともえさかっていなさる。西方寺の御住職は、氷のはりつめた池の、底の底みたいに冷たく静まりかえっていなさる」
そのときになって、やっと柳は、宝屋の主人が自分の丹前より、はるかに質素な和服を貧乏たらしく着こんでいるのに気がついた。
「柳さん。あなたは、世にもめずらしい二人の畏友《いゆう》に、はさまれたもんですよ。穴山さんと、秀雄さん。しかも、あの御二人は、この上もなく、あなたを愛していらっしゃる」
「え? 愛しているですって。そんな……」
「ああ、わかっています。承知しています。男に愛されているなんて言われて、気持がわるくなる、その気持は、私にだってよくわかりますよ。だが、愛されているんだから、しょうがないでしょう」
「それは、ちがいますよ。二人とも、ぼくよりうわ手の男ですけど」
「あなたが、ちがうとおっしゃるなら、それはそれでよろしい。しかし、色々とうかがっていますからね。穴山さんは、髪捨山であなたと決闘して、蹄鉄《ていてつ》であなたの頭を殴りつけたそうですね。あの男のことですから、これからだって、あなたを死ぬまで殴ることだって、やりかねませんね。いや、あっぱれなことです。男同士なら、そこまでやらなくちゃ。まあ、穴山さんは、どちらかと言えば私どもに近い人種ですから、偉ものは偉もので、すぐ察しがつきますがね。秀雄先生の方は、これは別ものですな。あの方と、あなたは、従兄弟《いとこ》同士のことではありなさるし、よく話しあっていなさる様子ですが、御二人がどんな話をなさっているのか、私どもには見当もつきませんな」
「秀雄君とは、よく話をしますが、そう興味をもたれるほど、内容のある話じゃありません。……それより、御主人は、どうしてそんなことに」
「仏教のためですよ。みんな、仏教のことから、来てるんですよ」
と言われると、柳の困惑は、ますます濃くなるばかりだった。
宝屋の一家が、老祖母をはじめとして、異様なほど信心ぶかいことは、「お寺さん」にとって有難いことであった。老祖母さまの信仰が、極楽と直結する浄土宗門の、きわめて正統的な、まちがいのないものであることは、そう決めておいてよいにしても、久美子の「仏教」のこと、それにこの主人の「仏教」のこととなると、有難がってはいられないで、かえって、うす気味わるくなるのであった。仏教なんか早くオサラバして、どこかもっと明るい自由の天地へ脱出したいと願っている柳にしてみれば、なおさら、色黒の主人が紫色の厚い唇《くちびる》から吐き出す「仏教」が、こっちの身にまといつくように感ぜられた。
「あなたは、お坊さんだが、仏教を馬鹿にしていなさる。私は、そう見ていますが、どうですか」
「ええ、それは……」
「あなたには、もしかしたら、仏教なんか必要ないかも知れませんわ。しかし、私どもには必要なんでして」
いきなり槍でも突き出すように、言い出したあと、主人は太い首すじに力をこめ、自分の感情をおさえている様子だった。
「私どもと言うのは、私個人のことばかりじゃありません。これはもう、宝屋の初代、つまりは先々代さんの昔から、きまっていることなので。現在の私夫婦は、夫婦養子ですから、二人とも宝屋の御先祖さまと、血のつながりはありません。女房の方は、あれでも公卿《くぎよう》華族の子孫ですから、代々商売人だった宝屋とは、まるきり人種がちがっているとして、私は、先々代さんとは同じ村の出なのですから、女房よりは、いくらか宝屋さんの血すじに近いわけです。ことに、M県のM村の住民には、特別の仲間をなしている家々があって、まあ、先々代さんと私とは、その特別の仲間の出身なのですから、直接血のつながりがなくても、商売にせよ結婚にせよ、いろいろと因縁のふかい間柄だったのです。ながいこと世間から爪《つま》はじきされ、のけものにされてきた特殊の人々と言えば、M県には多いことですし、すぐお気づきになるでしょう」
なるべく下うつむいて、主人の顔を見ないようにしている柳にも、主人の表情ににじみ出てくる苦渋の色を、よみとることができた。
「先々代さんが、薬屋をはじめたのは中年以後のことで、元来のなりわいは皮革業でした。それも靴をつくるとか、革細工をするとか言うより以前の、もっとナマの動物の皮、肉、内臓、骨をとりあつかう職業が専門で。あなたも、社会主義かぶれしていなさるそうだから、御存じだと思うが、例の明治の大逆事件……」
主人は、しばらく口をつぐんで、柳にウイスキーをすすめた。銀のさかずきを口にあてがうとき、柳の手は少しふるえていた。
「おそれおおくも天皇さまの御命をねらったという、あの大逆事件の仲間には、三人のお坊さんが加わっていたそうですね」
「いや、それは知りませんでした」
「御存じない? さようですか。私どものM村の寺の住職が、そのけしからぬお仲間の一人だったそうで。三人のうち一人は、禅宗の坊主、あとの二人が浄土真宗の坊主。M村のお坊さんは、他力本願の真宗、ナムアミダブツで極楽往生できるという、その方のお坊さんでした。村が貧乏村ですから、寺も貧乏寺。養鶏をやったり、役場の手つだいをして、やっと暮せる程度のお寺さんでしたが、どうしたことか、その若い住職が、無政府共産という、おそろしい思想にとりつかれたんですね。なにしろ日露戦役の勇士たちの、戦勝記念碑を建てることにさえ反対したというぐらいですから、骨のズイまで、その種の危険思想がしみとおっていたんでしょう。村人の言いつたえによると、大へんやさしげな男で、とてもそんな大逆を企てそうにない病弱の美青年だったそうです。そやつが、そんな大それた陰謀に加担した、そもそもの原因はと言えば、M村の特殊部落、つまりは我々仲間の貧しい連中に、お説教をしてまわり、みじめな生活に同情したためだと言うのですから、その事件の発表のあったあと、村人はふるえ上ったそうですよ。禅宗でも真宗でも、管長さまが、すぐさま、あわてて宮内省におわびの言上をして、加担した坊主たちを破門したという話ですが、そうでもしないかぎり、申しわけが立つはずがありませんからな」
「……それで、その坊さんたちは死刑になったんでしょうか」
「禅宗の坊主は、死刑。ナムアミダブツの方は、二人とも終身懲役。終身の方は、一人は獄中で自殺。もう一人は病死。あんな騒ぎを起した坊主が仏教界に生れたことは、お寺さんだって想い出すのもイヤでしょうし、我々信者としても、ハタ迷惑な話ですから、知っていても口に出しはしません。もっともM村の、その気ちがい住職は、獄中で転向して、革命運動とゴクラク往生の矛盾を、しきりに訴えたそうですが。いくら転向したって、今どきとはちがい、罪を許されるはずはないし、なやみ苦しんだあげくのはてに、肉体も神経も衰弱して死んだそうです」
「……そうですかあ」
「そうなんですよ。なぜ、こんなお話を、わざわざ申し上げるかと言えば……。まだお若いあなたを、なやましてやろうという意地わるの気持も、あることはあるんだが。また、お宅のお父さんから、頼まれていることもある。だがやはり、これは『仏教』そのもののことから来てるんですよ」
そう語りかける主人の両眼は、何かしら秘密めいた作用、魔術師か催眠術師の頭脳のはたらきで、かがやいているように見える。
「禅宗の坊主の方は、さすが自力をたのむ宗派だったせいか、おッそろしく頑強で、負けん気の男だったらしくてね。幸徳秋水とかいう大先生より、はるかに落ちつきはらって殺されたそうですがね。M村の坊さんの方は、根がやさしい好人物だったらしくて、わるく言えば女々しく、よく言えば人情もろく、なやみが果てしなくてね。要するに、彼のなやんだのは、人間平等論と仏教の問題だったようですよ」
「人間平等論……」
「そう。人間がもともと、平等なものであるのはわかりきっている。こう主張するのが、仏教でござんしょう。人間はあくまで平等で|あらねばならぬ《ヽヽヽヽヽヽヽ》。だから、不平等を排して戦わ|ねばならぬ《ヽヽヽヽヽ》と主張するのが、社会主義でござんしょう。転向したとは言っても、M村の、その住職さんだって、死ぬまで人間平等論は、棄てませんでした。これまで棄てられてしまったんじゃあ、M村の部落民も、彼に裏切られたことになります。大事件の直後だって、この坊さんに対する部落民の信頼は、少しも消えやしなかったんですから。ゲンに、うちの先々代様は、ひきとり手のない大逆坊主の死骸を、刑務所まで行って、受けとっていなさるんですから」
「すると、そのお坊さんの悩みと言うのは?」
「さよう。簡単に言ってしまえば、結局のところ、自分は小っぽけな、みじめな、弱い、醜い人間にすぎないと悟ったことなんですね。革命家とか、政治運動者という者は、それぞれ強い人間、えらばれた人間として行動するもんです。その坊さんだって、政治に反抗して決死の計画に参加したからには、やはり、その最中は、自分を強い、えらばれた人間だと信じて、やっていたにちがいありません。浄土宗の教えでは、人間という奴は|すべて《ヽヽヽ》(いいですか、|すべて《ヽヽヽ》ですよ)、小っぽけな、みじめな、弱い、醜いモノにすぎないという立場に立って、だからこそ人間ハ平等デアルと説くはずなんだが、冒険をやってる最中には、そのかんじんの真理を忘れてしまう。忘れなきゃ、行動できないでしょうからね。部落の衆を救うためには、人間に差別はない、人間はおしなべて救われがたい存在なんだから、人間のあいだに上下|貴賤《きせん》の区別なんて、あるもんじゃないと、お説教する。特殊あつかいされて苦しんでいるお仲間にとって、これくらい有難いお教えはありませんよ。ですから、宝屋の先々代さまにとって、仏教は必要欠くべからざるタカラだったんです。ところが、そのお説教をした当のお坊さんは、もう一歩すすんで(実は、当人がそう思っただけなんですが)、決定的な政治行動にふみこむ。強者として突進する。えらばれた者として、先頭に立つ。すると、その瞬間、御当人は、あのへりくだった、あるいは徹底した人間平等論から、ずりおちてしまう。ふみはずしてしまう。弱い、みじめな、小っぽけな、みぐるしい存在であるという、本来の立場をはなれてしまう。つかまって牢屋《ろうや》に入れられ、ハッと気がつき、やっと本来の立場を想いおこす。そこで、悩みがおきる」
「待って下さい。しかし、別の禅宗のお坊さんは、死刑になっても、死ぬまで迷わなかったんじゃないんですか」
「笑って冗談を言いながら、死刑台に登ったそうです。だが、あなたはね……」
と、主人は、いくらか柳をあわれむように、ゆっくりと言った。
「あなたも、私も、死刑場で笑って死ねるような人間でしょうかね。私は、死刑なぞマッピラですよ。死刑になって喜んでるなんてのは、傲慢《ごうまん》のあらわれですからね。私の判断によれば、柳さん。あんたという人は、M村の住職さんみたいに、死んでも死にきれずに、迷いつづける方なんですよ。迷うことを、はずかしがる必要はありませんよ。もっとも、あんまり自慢にもなりませんがね」
「ぼくは、ともかく、まだ……」
「まだ、なんにもしでかしては、いらっしゃらない?……それが、一時のがれの言いわけだとは、思いませんがね。しかし、どうなんですかな。問題は、政治ばかりじゃありませんからな。オンナどものことについても、問題はおなじことで……」
そのとき、夫人の笑い声がきこえたので、主人は口をつぐんだ。入口のガラス戸をあける前から母屋からの細路に、鳴りわたっていた彼女の笑い声は、まことにホドのよい、巧妙で人工的な声であった。
「柳さんは、人気者ね。今度は主人につかまったのね。目黒へ帰るまでには、見ちがえるように利口になっているでしょうよ」
主人と柳の対坐した部屋の、障子をあけて顔を見せたとき、夫人の姿勢は決して、だらしないものではなかった。服装にも、表情にも、乱れなど少しもなかったし、どんな気むずかしい客でもケチをつけられない、こまやかな神経のくばりが、全身に行きわたっていた。
それだのに、柳が夫人の笑い声を「許しがたいほど、なまめかしい」と聴きとったのは、彼女が背後に、穴山を附きしたがえて来たからであった。
「穴山なんかより、ぼくの方が、まだしも夫人に愛される資格があるはずなのに。どうして彼女は、穴山なんかと親しくなる必要があるんだ」
という、うぬぼれと競争心が、四角ばって坐った柳の腰を浮きあがらせた。穴山が出現するまでの柳は、決して、是が非でも夫人に熱愛されたいなどと、あせったりしてはいなかった。むしろ、夫人との関係をあいまいにして、女性関係以外の人生問題について探求したい気持であった。それだのに、
「柳も、とうとうここへやって来たか」
という、ずぶとい穴山の声が耳に入ったとたん、柳は、嫉妬心《しつとしん》と憎悪の念でもえあがったのだった。
「|とうとう《ヽヽヽヽ》なんて、大げさね」
と、夫人は言った。
「いや。|とうとう《ヽヽヽヽ》ですよ。|とうとう《ヽヽヽヽ》にちがいありませんよ」
穴山はそう言って、弟をからかう兄のように、立ったまま柳を見下ろした。
「留置場なんかへ、何回入ったって、ちっとも自慢になりませんよ。しかし、ここへ来れば、いい勉強になるから、|とうとう《ヽヽヽヽ》なんですよ」
「|とうとう《ヽヽヽヽ》ですかな」
いくらか暗い表情ではあるが、主人もおもしろそうにして柳を見つめた。
「いい勉強になるって、どんな御勉強なの?」
「もちろん、女性の魅力にどう対応するかということですよ。彼がここへやってきたのは、奥さんの魅力に、ひかれたにきまってるんだから」
と、穴山は答えながら、夫人の肩さきに手をふれた。肩を叩くというほどではなく、わずかにふれただけなのは、かえって穴山の夫人に対する濃厚な欲情を示すようで、柳を息ぐるしくさせた。
「おれだって、ここへ来るのは、そのためなんだ。温泉へつかるだけなら、宿屋へ行った方が、気づまりでなくていい。お檀家《だんか》の別荘なんかに、タダで泊めてもらって、いい気持になるのは、欲のつっぱった大僧正みたいで、もともときらいなんだ」
柳とおなじ丹前の腕をまくりあげ、穴山は骨太の両手の力をためすようにした。あたたかい夜にむされ、体内にみちた活気の、やり場に困っている様子であった。
「ここへ来る目的は、もう一つある。言うまでもなく、宝屋さんの財力さ。本願寺を見ろ。東京でも京都でも、組織的に金をあつめる方法の近代化していること、とてもわが宗派のおよぶところじゃない。大体、徳川家の菩提寺《ぼだいじ》。政府に保護される、お声がかりになったおかげで、わが宗の首脳部はアタマのはたらきが鈍ってしまったんだ。なるほど、世間に名の知れた仏教学者を、次から次へ送り出した点は、浄土宗は偉いよ。だけど、学者だけで教団が維持されたり、発展したりするもんじゃない。梵語《ぼんご》(サンスクリット)の辞典を完成して、ドイツ、イギリスの学者をおどろかす、世界的な言語学者になる。それは、それで、大いに国威を発揚し、坊主のアタマの優秀さを、日本政府に認めさす点で、効果がある。宗門出身の学者たちの、個人的な名声や業績だって、おれはバカにしていやせんよ。それだって、いくらでも束にして活用できる。しかし、とにかく、タンなる学者という奴は、モノの役に立たんのだよ。いざとなると、オダオダしやがって、案外ちっぽけな執着にしがみついてさ。カネはなし、度胸はなし、決断力もなし、宣伝力もなし、責任をもって臨機応変、事態を処して行くなんてことが、できたためしがありゃしない。……」
柳は「厭《いや》だな」と思った。一宗門の行政の話など、彼は聴きたくはなかった。浄土教団の将来について、具体的に論ずることにも、全く興味がなかった。
「柳のような、理想主義者に言わせれば、教団の組織も、寺院の経済も、仏教そのものとは関係ない。もっと深遠な、根本原理こそ重大だということになるんだろうが」
穴山は、柳の心理を見ぬいたように言った。
「おれに言わせれば、大体それが、甘ったれたインテリ仏教徒の卵の考え方なんだ。今の仏教から、教団と寺院を取ってしまってみろ。何が残る? 何も残りゃせんよ。だったら、おれたち若い連中が、教団と寺院から役にたたん老人連中はおっぱらって、もうちっと骨のあるものにすべきだ。今のままだったら、総本山と末寺の関係は、ただ宗費を納めたり、取りたてたりな。御十夜の授戒のときに、地方寺院が中央の大僧正さまのおでましをねがったり、要するに、学階でも教階でも、地位の階段を上げたり、上げられたりする仕掛にすぎないじゃないか。しかも、その階段や梯子たるや、きしんだり、ゆがんだりして、今にもこわれかかっている」
「まあ、まあ、そういう重大なお話でしたら、お二階の方がよろしいわよ」
と、夫人が言った。
「そうだな。二階の方がゆっくりして、いいだろう」
と、主人もすすめた。
「穴山の考えは、わかってるよ。君は、教団の組織を、陸軍の軍隊みたいにしたいんだろ」
と、柳は言った。
「たっぷりした予算を組んで、厳格な訓練をして、命令一下、総動員できるような、機動部隊をつくり出したいんだろう」
「規律のない組織は、組織じゃない。烏合《うごう》の衆だ。昔ながらの|しきたり《ヽヽヽヽ》なんて奴は、あてにならない」
穴山は、階段をのぼりながらも、話を止《や》めなかった。
「機動性のない集団は、腐って行く。運動しない手脚は、衰弱する一方なんだ。そりゃ、|しきたり《ヽヽヽヽ》を守って、おとなしくしていたって、どうやら生きのびることはできるさ。徳川三百年、明治、大正、昭和と、そうやって切りぬけてきた、宗団の指導者だって、バカだったわけじゃないさ。どうして、どうして、自己保存のうまい利口者だったんだ。しかし、今度は、そうはいかんぞ。そう、うまくはいかんぞ」
「なるほど。今度はそういきませんかな」
主人は、二階の板戸を押しやりながら、若い二人の議論をからかうように言った。板戸をくり入れると、部屋の二方から、月光の明るさが射し入る。冬でも生きのこった蚊を防ぐため、とりはずしてない網戸をすかして、夏蜜柑《なつみかん》の葉が、青々と光って見えた。レモンの樹もまじえた、夏蜜柑の樹の植えこみは、いかにも暖気と日光にめぐまれているらしい、健康な茂みをつくっていた。
「あら、よろしいのよ、柳さん。やらしておきなさい。うちの主人は働き者ですから、なんでも自分でやらないと、気がすまないのよ」
主人に手つだおうとする柳に、夫人は声をかけ、床の間の生花など、手なおししていた。腰を落した夫人の、脚のかたちが、男たちの固くるしい談論を冷笑するように、美しかった。憎らしいほど美しいモノが、男三人にはさまれて、自分の眼先にちらつくのは、柳にとってつらいことであった。
「むずかしいお話が、おありのようですから、女は、失礼しましょう」
「いや、いや。奥さんが居て下さらないと、話に身が入りませんよ」
「でも、お邪魔でしょう?」
「いや、いや。とんでもない。我々をここへ呼んで下さったのは、奥さんなんですから、客を接待する責任があるはずだ」
と、穴山は、強引に言った。
「久美子なら、仏教のお話に、お相手できるでしょうけど、私ではね」
「久美子さん、もちろん、けっこう。お呼びして下さい。おれが、仏教の真髄を、とっくりと教えてあげます。こんな柳なんかと、ボソボソ問答していたって、何もわかりゃせんです。かの少女は、実に優秀な素質を持っている。それに、放《ほ》っておくのは、もったいないような美少女である。だけど、柳みたいな未熟者と、陰気な問答をしていたら、今に、毒にもクスリにもならない社会主義運動にひっぱりこまれるか、それとも、悲観して自殺してしまうか、どっちかです。仏教なんてものは、そんなもんじゃない。愉快も、愉快、大愉快なモノなんだから。さあ、呼んできて下さい。それから、奥さんも、絶対逃げちゃいけませんぞ」
「よせよ。もう晩《おそ》いじゃないか」
「つまらんことを言うな」
と、柳を叱りつける穴山は、大きな暗い眼に、異常な光を宿していた。
「生死の大問題を論ずるのに、晩いも早いもあるものか。お前さんが、いいかげんにあしらっていると、彼女、ほんとに自殺するかもわからんのだぜ」
「ぼくは、久美子さんを、いいかげんにあしらってなんか、いやしないよ。そういうやり方は、きらいなんだから」
「そうよ。柳さんは、まじめな方《かた》ですものね」
と、夫人は、柳に加勢するように言った。
「それに、あの子。柳さんが好きで、穴山さんを嫌っているんですもの」
「ああ、ああ、実に嘆かわしいことだ」
腕ぐみして首をひねる、穴山の口ぶりには、おどけた気分のほかに、一種の感慨がこもっていた。
「あれほど優れた仏教愛好者でも、女性となると、男性の外面にとらわれて、男性の本質を見ぬく力を失ってしまうとはなあ。いや、それどころか、そもそも、男性の外面についてだって、彼女たちの判断は、まちがっている。好きとか、嫌いとか、まるで公正無比な審判官みたいな、口のきき方をするが、一体、若い女どもの批評眼に、どれほどの権威があると言うんだ。バカの一つおぼえみたいに、世間なみの好き嫌いで、これが美男ときまりきったように言いなさるが、そういう安易な判断こそ、もっとも非仏教的なるモノじゃないか。柳のどこが、好きだと言うのかなあ。女の取扱いさえ知らん、インポみたいな男じゃないですか。奥さんは、柳のことを『まじめな方』とおっしゃいますがね。こんなのは、まだまだ『まじめ』のうちに入りませんよ。何事も、中途はんぱにすませているから、どうにかボロを出さないで、すんでるだけの話でね。何事も仕でかせない男の、どこが『男』なんですか」
「そうね。柳さんには、たしかに中途はんぱな所が、おありなさる……」
と、夫人は意味ありげに言った。
「さよう。女どもの批評眼が、あてにならんという御意見には、わたくしも賛成だ」
と、主人が、落ちつきはらって言った。
「しかし、なんでしょう。仏教では、男女の愛情というものが、もともと|迷い《ヽヽ》にすぎないと説かれているのですから、何も今さら、腹を立てるにもおよびますまい」
「えらい。お偉いですぞ。そのとおり。まず、女どもの、男性評価を無視する。それが、仏教の第一歩ですわい。女どもの意見に、一喜一憂しているようでは、なんの仏教徒、なんのナムアミダブツですか」
「でも、人間、迷いがなくなったら、やることありますかしら」
夫人は、席を起って、階段の降り口の方へ行く。妻のあとから、主人も階段を下りて行った。
「いい女だな」
二人きりになると、穴山は、重くるしくつぶやいた。
「おれは、女郎も芸者も買った。ダンサーも女優も女給も、未亡人も寝たことがある。しかし、彼女は格がちがう」
「よせよ。彼女の話をするのは、よせよ。ぼくは君と、女の話はしたくないんだ」
「そうか。君はそれほど、彼女を神聖視しているのか」
「神聖視なんか、していやしないさ。だけど、とにかく君と彼女について話するのは、厭なんだ。第一、坊主どうしで、女の話するなんて、不潔じゃないか。そう思わないのか」
「そう思って、どうするんだい」
と、穴山は笑い出した。
「どうするも、こうするもないさ。厭だから、厭だと言ってるんだ」
「話すのが厭なら、だまっていろよ。聴きたくなければ、聴かなくてもいいが、おれは、しゃべるからな」
早起きの柳は、湯づかれのせいもあって、眠くなりはじめていた。だが彼は、穴山が、
「この世を、どう見るか。と言うより、むしろ、この世がどんな風に見えているか。という問題について、よくよく考えてみる必要がありゃしないか」
と、発言しだすと、やはり耳をそばだてずにはいられなかった。
「この世を、|どう見るか《ヽヽヽヽヽ》より先に、まず、|どう見えているか《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》。お前さんの眼に、どう見えているか。他人が、どう見ているかじゃなくてだな。|お前さん自身に《ヽヽヽヽヽヽヽ》、|どう見えているか《ヽヽヽヽヽヽヽ》が、大切なんだぜ」
「わかってるよ。そんなこと」
「わかってるって? ウソをつけ。わかってなんか、いやしないじゃないか。|あの世《ヽヽヽ》のことを、きいてるんじゃないぞ。|この世《ヽヽヽ》が、お前さんの眼に、どんなモノとしてうつっているのかね」
「ぼくだって、二つの眼があるからには、見えているさ。|この世《ヽヽヽ》に生きているんだもの。盲じゃないかぎり、見えているはずじゃないか。君と、かわりありゃしないさ」
「ふうん。おれと、かわりがないんだって? そうかな。まさか、そう思っているわけじゃないだろう。おれとは、まるでちがったモノとして、|この世が見えている《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》と、お前さん、信じこんでいるじゃないか。第一、お前さんは、自分とおれが別の人種だと、考えているじゃないか。そのお前さんの眼に、おれとおんなじ『この世』がうつっているとしたら、少しおかしくはないのか」
「少しは、ちがっているさ」
「|少しは《ヽヽヽ》、だって? そう、遠慮するなよ」
穴山は興に乗って、たくましい膝《ひざ》がしらを、強く叩いた。
「|この世《ヽヽヽ》に住んでいる人間の、半分は女なんだ。それは、認めるだろう」
「ああ、認めるよ」
「その半分が、君の眼には、何だかモヤモヤと、わけのわからないものとして、うつっているんだ。それも、認めるだろ?」
「ああ、そうだよ」
「だから、君の眼にうつっているのは、丸い地球ぜんぶではないわけだ。この世の半分、つまり、西瓜《すいか》を割った片っ方しか、眼に入っておらんのだよ」
「でも、ぼくは女を見てるよ。熱心に見てるよ」
「女の、どこを見てるのかね」
「顔も見てるし、脚も見てるし……」
「いや、いや。君は、見ちゃおらんのだ。スリガラスを透して、夜の景色でも眺めてるみたいに、ぼんやりと眼にうつってるものを、『女』だと想っているだけなんだ」
「ぼくは、|ぼんやりと想っている《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》方が、好きなんだ。手術台に向った外科のお医者さんみたいに、何でも微に入り細にわたって、すっかり|見る《ヽヽ》なんてことは、厭なんだよ」
「そうか。それじゃ君には、仏教の真髄に到達することは、永久にできないぞ。|慈眼にして衆生を看る《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、と言うだろう。あの『慈眼』という奴は、決して、ぼんやりかすんだ眼というわけじゃないんだぞ。外科の医者なんかより、千倍も万倍も、モノを見きわめる冷徹な眼という意味なんだぜ。万事あいまいに、おだやかに、おめでたく、事なかれ主義ですませてしまおうというのが『慈眼』なんかで、あるはずがないじゃないか。見ぬいたり、見きわめたりする『眼』という奴は、どうせ多少とも残酷なものなんだ。そのくらいのことが、わからない君じゃないだろう」
「うん。慈悲の眼が、残酷な眼であるという、その考え方はおもしろいと思うよ」
と、柳は言った。そう言ったとき、彼は「ぼくは今、自分でもよくわからないくせに、わかっているようにして、しゃべっているぞ。これは、実際恥ずかしいな」と、思いつづけていたのだった。
「それは、それでいいとして、ぼくが、女のひとのことを、|ぼんやり想っていた方が好きだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》というのは、何も、自分が慈眼でもって、女を見ているんだと言うつもりはないんだよ。ただ、その方が何となく、好きなだけで、『慈眼』によって看たいから、そうしているというわけじゃないよ。外科医さんみたいなやり方で、見たくないと言うのは、感覚的に、そうなっているだけの話なんだからな。慈悲の眼で衆生が見られるようになれれば、うれしいさ。だけど、それができないということは、君だって、ぼくだって同じことさ。だから、ぼくは正直に、言ってるじゃないか。ぼくが|熱心に女を見ている《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、と言ってるじゃないか。そうだろう。だから、そのことで、君が何もとやかく、大げさな議論を吹っかける必要はないじゃないか」
「こいつめ!」
と、穴山は、苦笑した。その苦笑には、柳に対する、兄さんぶった友情がにじみ出ていた。
「君はさっき、宝屋の奥さんのことを、|いい女だ《ヽヽヽヽ》、と言ったね」
柳は、追い討ちをかけるように言った。
「それは、どういう意味なんだい? |いい《ヽヽ》と言うのは、何が|いい《ヽヽ》のかね」
「お前さんだって、|いい《ヽヽ》と思ってるじゃないか」
「うん。だから、その|いい《ヽヽ》は、どういうところなんだ」
「この野郎、なんだか、カサにかかって来やがったな」
「その|いい《ヽヽ》は、おそらく……。多分、彼女が、西洋美人に似ているからじゃないのかな。白色人種の裸体美人。そう言ったおもむきが、彼女にあるから、それで……」
「なるほど。そうか。おれは白人は、白系ロシアの女しか知らん。あの奥さんが、西洋美人に似ていることは、たしかだな。おれは、国粋主義のつもりだったが、君に言われてみると、彼女に関するかぎり、西洋美人、そうかも知れない」
「それ見ろ。穴山はまるで、地球丸ごと全部、残酷なる慈眼で、見きわめてるようなこと言うが、白人の女については、何も知らんじゃないか」
厭だな、厭だな、厭な会話に入りつつあるな、と感じながら、柳の舌はなめらかになった。
「君の感じが、どんなものか知らないけれど、ぼくは、あの奥さんが|いい《ヽヽ》と思う、ぼくの感じの中に、彼女が西洋美人に似ているということが入っていると思うと、イヤになるんだ。とても、イヤな感じがするんだ」
「イヤというのは、何が厭なんだ」
「彼女を|いい《ヽヽ》と思う、自分の、その感じ方がイヤなんだ」
吐き出すように言う柳には、一つの想い出があったのだ。それは、想い出などという、まとまったものではなくて、ほんの一瞬の印象にすぎなかったが、夏の海岸での光景だったせいか、強烈に焼きつけられて、消えないであった。海の匂いのする別荘などに来ると、殊に、その強烈な印象がよみがえってくるのだった。
それは、柳がはじめて、海水を浴びた、小学五年生の夏の、白昼のことであった。英語とドイツ語の区別のつかない、小学生の彼が、どうして、その金髪の美少女をドイツの子供と考えたのか、それは未だにわからなかった。
砂浜には、よしず張りの茶店が、数軒ならび、氷水や、ゆで小豆や西瓜などが売られている、平凡な海水浴場であった。しかし、田舎の小川でしか泳いだ経験のない彼にとっては、巨大な海面のひろがりも、波のうねりも、砂の熱さも、すべてが驚異であった。海水の塩からさも、まばゆい太陽のきらめきも、砂の手ざわり足ざわりも、この世のものとは思われない、すばらしさだった。自由と活力にあふれた、空と水と風の新しい世界に、満足し、疲れ果て、少年の彼は洗い場の方へ歩いて行った。洗い場には、水道の蛇口が一本、なんの飾りもなく突っ立っていた。漁村の男の子たちが、そのまわりで騒いでいた。蒼白《あおじろ》い彼とはくらべものにならない、村の悪童たちは、まっ黒に陽やけして、肉づきのよい身体《からだ》を、こすりつけたり、もみあったりしていた。海水にも、砂浜にもなれきってしまった、本物の海の児たちの、健康そのものの動作には、彼を後《しり》ごみさせるものがあった。そのとき、ドイツの少女が出現したのだった。海風に金髪をなびかせ、少女にしては、実にしっかりした足どりで、小さな女の兵士のように、少女は悪童たちの肉の壁を突きぬけてきた。可愛らしい首をまっすぐに立て、何のためらいもなく、きまじめな顔つきで、蛇口の方へ、少女は歩みよった。あばれまわっている男の子たちには、全く眼もくれず、ぶつかりそうになる肩や手足をはらいのけて、少女は、その水道が自分のためにだけ存在していると、信じきっているかのように、近寄ったのだ。
少女は水着ではなくて、フワフワと風にうかぶ、うすい空色の服を身につけていた。そして、水道の水を頭からかぶっている、一人の日本の漁村の男の子の肩を、ちょっと指さきで突っついて、わきへよけさせ、自分は蛇口の下に置かれた丸石の上に、片足をのせたのだった。柳が未だに忘れられない、|強い印象《ヽヽヽヽ》というのは、そのさいの、白色の少女の態度と表情であった。天使のような、その美しいヨーロッパ種の少女、彼と年齢のちがわない白い女の子は、完全に、日本の男の子の存在を無視していた。漁村の悪童たちはもとより、柳をも、犬の子のように軽蔑している、傲慢さがあった。野蛮な異人種の、男の子たちに対する警戒心や、緊張さえ、彼女はまるで示さないのであった。そんなものの存在は、彼女とは何の関係もなく、いわば砂浜にころがっている大石や小石が、邪魔になるように、邪魔になるだけだといった様子だった。
そして、柳をおどろかせたのは、蛙《かえる》のように光る肌をした、漁村の男の子たちの態度であった。彼らは、あっけにとられ、手も足も出ない始末だった。彼らは、悪罵《あくば》一つ投げつけることもできず、ただ、こわばった表情で、傍若無人の白い少女の、やり口を見守っているだけであった。その彼らは、さっき柳が、大波の泡《あわ》にまかれて沈みかかっていたときには、「おもしれえや。死んじまえ、死んじまえ」と、高らかに叫んだ連中であったのに。
白色人種の横暴を、憤慨するなどという、「愛国心」は、小学生の柳にはなかった。彼が、自分たちの存在を無視してはばからない、金髪の少女に対して抱いた感情は、決して憎しみではなかった。しかし何かしら、アバラ骨がよじれそうな、せつなさが彼を襲ったのだった。蛇口の下の丸石の上に置かれた、少女の長い足は美しかった。子供ごころにも、それは、天使とかいうものの附属品の如く、貴重きわまるものに思われたのだ。海辺の、はげしい光と風と匂いの中で、自分と、自分のあこがれる物とのあいだの距離と断絶が、目がくらむような明確さで、感じとられた。彼がもし、その金髪の少女を、憎んだり、排撃することができたら、どんなに良かったであろう。また、その少女が自分たちに示した「無視」と、同等の「無視」を投げかえすことができたら、どんなにか良かったことであろう。だが、口惜《くや》しいことに、彼には、それができなかった。美少女は、彼ら少年たちを後にして、立ち去った。その彼女には、誇らしげなそぶりを見せつける必要さえなかったのだ。彼女は、ただたんに、自然に、いつもどおりに振舞っただけなのであった。そのあまりの自然さが、少年の彼にとって「屈辱」と感じられたことほど、いまいましい現実があるだろうか。彼は、そのドイツ少女の、笑顔にも笑い声にも、接したわけではなかった。それどころか、声すらききはしなかった。それだのに彼は、彼女の遠くはなれ去ったあと、彼女の高らかな、楽しげな笑い声をきいたような気がしたのだ。その、|ドイツ語か英語の笑い声《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》は、あきらかに、彼女と同人種の、白い少年に向って、親しげに発せられたものにちがいなかった。歓喜にみちあふれた、その可愛らしい笑い声は、女の子と男の子のあいだに流れる、肉の水しぶきであり、また、まばゆい火花にちがいなかった。そして彼自身に向っては、決して浴びせかけられることのない水しぶきであり、決して火焔《かえん》の光をあげることのない火花なのであった。彼女が自信ありげな足どりで、くぐりぬけ、そして消え去った黒松の林は、たちまちにくにくしげな黒さで、暗くなっていった。
柳は、そのときの、絶望的な印象を、穴山に物語るつもりはなかった。鼻つきあわせて向いあっている、この屈強で傲慢な男のどこかに、まだ二十年にしかならぬ人生のどこかで、その種の「屈辱」が、刻みつけられていないはずはなかったからである。穴山の猛《たけ》だけしい国粋主義や、東洋風の豪傑趣味が、何かしら、そのような執念と反感に根ざしていないと、誰が保証できるだろうか。
「西洋美人に、それほど神経をつかうようじゃあ、お前さんも案外、国粋主義なんじゃないのか」
と、穴山は言った。
「第三インター(ナショナル・コングレス)とか、コミンテルンとか、万国の労働者よ団結せよとか、言ってもな。やっぱりどこかに民族主義が、くっついているんじゃないのか。宝屋の奥さんについて話をするだけで、もう西洋美人が出てくるんだからな。だから、お前さんはソレにこだわっているんだよ」
「たしかに、こだわっているよ。こだわらずにいられないんだから、仕方ないよ」
「こだわっていれば、きゅうくつで苦しいだろう」
「ああ、苦しいよ」
と、柳は答えた。
「こだわらずに、すむ方法を教えてやろうか」
テーブルの上に置いた柳の手を、にぎろうとして伸ばされてきた穴山の手から、柳は自分の手をわきへよけた。
「方法は簡単だ。西洋だろうが、東洋だろうが、かまったこっちゃない。女という女を、さっきの残酷な慈悲の眼で見ぬいてしまうことだ。見ぬいて、見きわめてしまわないかぎり、こっちがやられてしまうんだ。な、勝負には、先手を打たなきゃならない」
「ぼくは別に、勝負なんかしたくないよ。君は、若い将校たちの影響をうけているから、言うことが大げさだよ。右翼というのは、すぐ眼をつりあげて、眼を血走らせるから、きらいだよ。少数精鋭主義も、いいかも知れないけどさ。自分たちだけで、一国の運命をひきずって行って、他の人はみんな、だらしない非国民みたいにやっつけるというのは、心が狭いよ」
「年寄りみたいなことを、言うなよ」
と、穴山は言った。
「お前さんは、まだ若いんだぜ。青年なんだよ。冒険がしたくないのかな。え? 冒険ができるから、青春は楽しいんだぜ。女や政治がおもしろいのは、それに向って全身的な冒険ができるからじゃないのか。うじうじと、煮えたんだか煮えないんだか、わからないような生き方をしていて、何が青春なんだい」
「だけどなあ……」
と、柳は、困惑して、口ごもった。
「坊主の青春なんて、一体、なんなんだい? 青春を抹殺《まつさつ》することが、坊主の出発点じゃないのか。どう考えても、坊主が青春をたたえるのは、おかしいんじゃないのかなあ」
「……今、おれは、とてもうまい一句が浮んだんだ。あんまり、うますぎるから、言いたくないくらいだ」
穴山は、悪戯《いたずら》ずきの若者らしく、両眼を、どす黒く輝かしながら言った。
「言えよ。何なんだい?」
「うん。……坊主が、青春をたたえるんじゃない。青春が、坊主をたたえるんだ」
「……気持のわるい名句だな。そんな気持のわるいの、通用しないよ」
「何も、気持わるがることないさ」
「青春が坊主をたたえる、わけがないじゃないか」
「だから、こっちで、たたえさせてやるんだよ」
石畳をふむ、庭下駄の音がしていた。階下のガラス戸をあける、しずかな音もきこえた。女らしいスリッパの足音が、階段をのぼってくる。
障子がひらくと、久美子が立っていた。そして、彼女の顔は、今までとはまるでちがったものに見えた。
久美子の顔つきに、思いつめたところのあるのは、いつもの通りだった。だが、今の彼女の表情には、その他に、怒りのようなものがみなぎっていた。いかにも子供じみた怒気が、しつけの良い少女の顔に、あまりとげとげしさは無しに浮んでいたとしても、今までの柳だったら、女の顔を見つめるのを極度に避ける方だったから、気がつくはずはなかった。すばやく、それに気づいたのは、今しがた穴山から吹きこまれた「御説教」で、|女を見ない《ヽヽヽヽヽ》、|女を知らないものは《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|結局のところ人間を見ない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|人間を知らないものである《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》から、真の仏教徒とは言えないという主張にとりつかれたためにちがいなかった。
「おや、おや。久美子さんは今日は、何か怒っているような顔つきをしているな」
と、穴山が言った。
女に対して遠慮がちな柳とはちがい、穴山はぶしつけに|見る《ヽヽ》たちであったし、それに粗暴の性格のように見えて、実は穴山には、なかなか細かに神経のはたらく所があるのだった。
「怒っている。よろしい。怒っているのは、つまり何かしら純粋な考えをもっている証拠だ。純粋な少女が怒るタネなら、|この世《ヽヽヽ》には、いくらでもころがっていますからな。怒りなさい。怒って下さい。この世は、あまりにも汚濁にみちている。人間が|この世《ヽヽヽ》に生きているということは、要するに、この汚濁とつきあうということなんですからな。水を飲む、空気を吸う、笑う、泣く、歩く、立つ、すべてはこの汚濁なしにはすまされないんですからな。だから、たとえ他のモノは何一つなくなったところで、怒るタネだけは死ぬまで尽きやしないんですからな。たとえ、無一文、孤立無援、天涯孤独、誰からも相手にされなくなったところで、怒るタネだけは海の水よりもタップリと貯えられているんですからな。有難いこってす。ところで、久美子さん、あんたは何に怒っているの?」
久美子は、だまっていた。テーブルに向って坐った正しい姿勢は崩さなかったが、穴山がしゃべるたび、|この世の汚濁の気《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》から身をよけるようにする、気配があった。
「わかっていますよ。何から何まで、拙僧には、あなたの心の隅々に至るまで、わかっていますぞ」
久美子から柳に、視線を横にずらしてくる穴山の両眼にも、何やら「怒り」らしいものが、黒く燃えあがっているように、柳には感ぜられた。
「察するところ、久美子さん、あんたは男について怒っていらっしゃる。いやいや、自分では、そう思っていないかも知れない。だが、|怒る《ヽヽ》とは、そもそも|執着している《ヽヽヽヽヽヽ》証拠なんだ。執着も何もしていないモノについて、怒れるほど人間なんてものは、進歩した動物ではありませんぞ。全くのところ、人間の男、オスどもなんてものについては、いくら怒ったって怒りきれるもんじゃありませんわい。困ったシロモノ、きれいさっぱり絶滅したくなるくらい厭ったらしい奴どもですわい。だが、言いにくい話ではあるけれども、女から、この男どもに対する執着をとり去ったら、はて何が残るもんでしょうかな」
「私、穴山さんと、お話したくありません」
と、久美子は言った。
「まあ、いいでしょう。人間の人間に対する感情ぐらい、あてにならないものはないんだから。久美子さんの方で、お話がしたくなくても、わしの方では話がしたいんですわい」
「ききたくありません」
「恋は女の命です。このあいだ映画館の看板に、こんな文句が書いてあった」
穴山は、久美子の反感には、おかまいなしに言った。
「恋ハ女ノ命デス。仏教ハ私ノ命デス。この二つが、あんたの場合、うまい具合に融けあっている。昭和十年代の日本の少女に、こんな実例が発生するなんて、おシャカ様でも気がつかなかったことなんだ。ふつうだったら、恋ハ女ノ命デスなんていう、バカバカしい女の文句ぐらい、厭なものはないし、また有難いものはないんだが、久美子さんが、もしそう信じているとすれば、わしは、あながち反対はしませんぞ。あんたが、『女の命』と『仏教』を、なんともかんとも言いようがないくらい、見事に密着させてしまったことは、まことにたぐいまれなる、得がたい実例なんですからな。犠牲になる。身を棄てて、犠牲になる。恋のため、仏教のため、自らすすんで、よろこんで、身も命も投げすてる。おそらく、そう思いつめていらっしゃる久美子さんの心には、美しいマコトがこもっているにちがいない。ね、そんなことぐらい、いくらあんたに嫌われたって、わしにもわかるんだ。むかし、むかし、インドの森の中に一匹のウサギが住んでいた。有名な話ですから、もちろん、あんたも御存じでしょう。このウサギの住む森の中へ、ある日、おシャカ様が迷いこんでいらっしゃった。食物はなし、疲れはてて弱っていらっしゃる。そこで森の動物たちは……」
「あれは、おシャカ様じゃありません。仙人です」
「……よろしい。誰でも、よろしいから、おききなさい。そこで森のけものたちは、おシャカ様にさしあげるもの、聖者に供養《くよう》するものをめいめい探し出してくることにした。利口なキツネやオオカミ、サルやトラは森の木の実や湖の魚や色々と持ってくる。焚火《たきび》をたいて、湯をわかしたりして、歓迎する奴もいる。どんどん御馳走があつまってくるのに、ウサギさんだけは何一つ、さしあげるものがない。これは、きまじめなウサギさんにとって、堪えられないことだった。思いあまったあげく、彼女は燃えさかる焚火のほのおの中に、わが身を投げ入れ、みずから焼肉と化して、供養の誠をつくしたと言うわけだ。そこで、おシャカ様は『他のどのけものよりも、ウサギこそあっぱれなものじゃ』と、おほめになり、ウサギ嬢を昇天させて、月世界へ送りとどけた。月の中に、今でもウサギの影がうかぶのは、このためである。久美子さん、わしのにらんだ所によれば、あんたはこのウサギになりたいんだ。純粋|無垢《むく》といおうか、わき目もふらぬといおうか、このウサちゃんのような行為がやりたいんだ。たった一回でもいいから(もっとも、一度焼肉と化すれば、二度とはできないから)、ウサ公的な美しい行為がやりたい。たしかに、それができれば、おシャカ様ならずとも『あっぱれなものじゃ』と、感嘆せざるを得ないでしょう。今、あんたがこの部屋に入ってきたときの顔つきは、まさに、パチパチと枯枝のはじける音、ゴオゴオと燃えさかる焔《ほのお》の色、その焚火に見入って、今にも投身しようとする直前の、ウサギさんの顔つきにそっくりでしたからな。美しい行為! そうです。美しい行為にあこがれるのは、青春の特権ですわい。あんたの眼から見たら、厭ったらしい中年男のように見えるか知らんが、ボクだって、まだ、あんたよりたった四歳年長の若者ですぞ。何も老人ぶって、美しい行為に冷水をぶっかけるつもりはありません。ただ、わしが心配なのは、あんたの投身する焚火が、一体、どんな種類の火焔であるか。また、あんたが、そもそも誰に供養しようとして、焼肉になる決心をされるかと言うことですわい。もちろん、ウサギ嬢は、月世界へ昇天できると保証されたから、火の中に身を投じたわけじゃない。やむにやまれぬ気持から、そうせずにいられなかっただけの話だ。そうですとも。彼女の前には、飢え疲れたおシャカ様が、坐っていらっしゃった。また、燃えさかる焚火が、疑うべくもなく、ハッキリと彼女の眼にうつっていた。おシャカ様のために、この焚火の中へ身を投げ入れる。そのほかのことなんか、何一つ考える必要はなかったわけだ。ああ、何というハッキリした道が、そのウサギ嬢の前に横たわっていたことだろうか。たった一本の残された道。そこに、彼女は踏み入ればよかったんです。踏み入ることは、むずかしい。しかし、一たん踏み入ろうと決意さえすれば、道はハッキリとあった。ありました。実に、実に、苦しい道、せまい道にせよ、とにかく道があったことは、彼女にとって何とすばらしいことだったろうか。しかも、その道は、まちがいなく美しい行為へみちびく『道』なんですからね。ところで、あんたの『道』は、どこの月世界へ通じているんだい。スッキリした一本の道が、あんたの可愛い眼に見えているのかね。あんたはただ、思いつめていさえすれば、『道』は|そこに在る《ヽヽヽヽヽ》と、錯覚しているだけじゃないのか。自殺するか、尼さんになるか。それとも、何かわからんが無鉄砲なことでもしでかすか。……」
「どうして穴山さんは、そんなに、私のことばかりおっしゃるの? 私、穴山さんに心配などしていただかなくても、よろしいのに」
「穴山の言い方は、久美子さんをいじめてるみたいで、おかしいぞ」
と、柳は言った。可憐で善意な少女に、面と向って「自殺うんぬん」と、残酷な言葉を吐きかける穴山に、腹も立っていた。
「おれは、一人の美少女が無意味に破滅しかかっているのを、見るに見かねて、おせっかいをしているだけの話さ」
「久美子さんは、破滅なんかしやしないよ」
「お世辞みたいなこと、言うなよ」
と、穴山は言った。
「……宮口が、今どこにいるか、おれは知ってるんだ」
「……そうか。しかし」
柳にとって、目黒署を脱走した革命党の「大物」、東京の警察官たちが、血まなこになって行方を探している、若き非合法運動の指導者の居場所を、ほかならぬ穴山が知っているということは、なみなみならぬ驚きであった。「宮口」という名をささやかれただけでも、耳鳴りがするほどショックをうける。だが、それよりも何よりも、およそ、右翼にせよ左翼にせよ、はげしい政治運動などには何のかかわりもない久美子の居る席で、全く不用意に、いきなり重大な「犯罪者」「おたずねもの」の名を口にする、穴山の無神経さに、あきれかえったのである。
「その話は、よせよ。ここで今、宮口の話をするのはよせよ」
と、注意しながら、久美子の横顔を眺めやると、彼女は彼女で、今までの無表情とは打って変り、両眼をかがやかせて、きき耳をすましている様子なので、柳はそれにも驚かずにはいられなかった。
「久美子さんの前で、宮口の話を遠慮する必要はないじゃないか。あのどしゃ降りの雨の日、宮口が逃亡したとき、ここの奥さんも、久美子さんも、柳に面会に行って、目黒署の二階にいたはずなんだからな」
「うん。居たことは、居たさ。しかし君、そんな話を今ここで、久美子さんに……」
「そんな話を、久美子さんにしてあげる必要が、あるんだよ。ありすぎるほど、あるから、話そうとしてるんだよ」
「ええ、そうよ。あの警察の二階から飛び下りて、逃げだした方のお話でしょ? あの方のことだったら、ぜひおききしたいわ」
「ほら、見ろ。彼女は興味があるんだよ」
「うん、しかしなあ」
と、柳はやはり、少女を前に置いて「宮口」の話をする穴山に不満だった。宮口逃亡のニュースは、新聞紙上でも写真入りで、おもしろおかしく取り上げられていたし、たとえ現場に居合せなかったとしても、一般市民として、久美子がそれに興味をもつのは、ありうることであった。しかし、両眼をかがやかし、上半身を穴山の方へ乗り出すようにする久美子には、理解しがたい、異常な情熱のようなものがこもっていて、それが意外でもあり、不安にもなるのだった。
「お前さんだって、宮口がどこにかくれているかということに、関心がないわけじゃないだろう」
と、穴山は柳に言った。
「お前さんには、宮口の運命を、とことんまで見つめる責任があるはずだぞ。柳にとっては、宮口は、ただたんに同じ留置場につかまっていただけという男じゃない。宮口に同情する。宮口に、心をひかれる。いや、宮口がもう一度逮捕されるのを、防ぎたい、食いとめたいという気持だって、お前さんにはあるはずだからな。要するに宮口と柳との関係は、徹底した男と、不徹底な男の関係なんだ。そうだろう。お前さんにとって、奴は、強い強い男なんだ。(おれは、ちっとも、奴をそうは思わんがね)。おれもあの時、あの警察の二階に居たんだが、たしかに、刑事どもの鼻をあかして、誰の助けも借りずに脱走できたのは、そうとうの奴だと思っている。おれのにらんだ所では、現今の日本の特高警察力の充実ぶりから判断して、奴の逃走期間は、長くてせいぜい五、六カ月のもんだろう。それも、潜伏のための好条件が、すっかり揃《そろ》ってもの話だ」
「……あの方は、きっと」
と、久美子が、ききとれないほどの小声でささやいたので、穴山は「え?」と、ききかえした。
「あの方は、きっとウサギのような方なんだわ。さっきの穴山さんのお話にあった、焚火の中へ身を投げ入れる、あのウサギのような方なんだわ」
「奴が、ウサギ? あれは、トラみたいな男さ」
「いいえ。ウサギさんです。死んでから月世界へ昇天する、あのウサギさんなんですわ」
と、久美子は、声こそ高めないが、信じこんだ者の一念で言った。
「死んでから、月世界へ? ふうん……」
と、穴山は言葉を濁して、しばらく黙っていた。
「久美子さんが、ウサギだと言う意味はわかるけれども。あの男が、月世界へ昇天するウサギとは、ぼくには思えないな」
と、柳は言った。
「まあ、奴がやがて昇天するウサギであろうが、なかろうが、おれはかまわんよ。ウサギだろうが、トラだろうが、|死ねば《ヽヽヽ》どっちみち、人間世界以外のどっかへ行っちまうんだからな。月世界へでも、地獄へでも行けばいいさ。だが、それは、|死ねば《ヽヽヽ》の話だぞ。今ここで問題にしているのは、|死ぬ前の奴《ヽヽヽヽヽ》のことなんだ。|死ぬ前の奴《ヽヽヽヽヽ》と、おれたちの関係のことなんだ。昇天するには、燃えさかる焚火にとびこまなくちゃならない。とびこんで焼け死んだからこそ、あのウサギは伝説のウサギになり得たんだ。おシャカ様へ供養するための、焼肉と化したからこそ、月世界へ昇天という段どりがついたんだろ。今のところ、まだまだ、おとなしく宮口が焼肉になるかどうかは予想できんのだ。ジュウジュウと油のしたたる、おいしそうな焼肉に、宮口をしてしまった方がよろしいか、どうか。そうして、奴をさっさと昇天させてしまった方が、よろしいのか、どうか。つまり、まだまだ|死ぬ前の奴《ヽヽヽヽヽ》である宮口を、死なしてしまった方がよろしいか、それとも、もう少し生きながらえさせておいた方が、よろしいか」
「彼を生かして置くとか、死なせるとか。そんなこと、我々が自由にできるはずがないじゃないか。彼について、ここで、そんな話するのが、そもそも自分勝手じゃないのかい」
「ところが、それができるんだ。他の連中にはできない。しかし、我々には、それができるんだよ」
「なぜ、できるんだ」
「なぜかだって? 先《ま》ず第一に、おれは『宮口』がどこに居るか、知っている。第二に、『宮口』は、おれたちの援助がなければ、明日にだって、つかまってしまうかもわからんからだ」
「宮口さんは、どこかにかくれていらっしゃるの」
と、久美子が熱心に(と言うよりは、必死にと言うべきか)穴山にたずねたとき、柳は、急に輪郭の鮮明になった闇《やみ》が、自分の周囲からしめつけてくるように感じた。一歩も二歩も先まわりした穴山が、計画的にくりひろげた「闇」に、柳自身も久美子も、すっぽりとはまりこんで行くような思いがした。投身自殺したウサギの伝説などわざわざ持ち出した下心が、実は、宮口と久美子を結びつけようとする計略にちがいないと、さとらざるを得なかったのである。もちろん、なぜ穴山が、こんな奇妙な取り合せを成就しようと念願したのか、柳には見当もつかなかったけれども。そして、こんなにまで「宮口」なる人物に興味を抱く久美子が、ひどく危っかしい大事件にまきこまれそうな、あわれな幼女のように思われたばかりでなく、そんなにまで彼女を興奮させる魅力をもつ「宮口」に、嫉妬《しつと》めいたイヤな感じまでおぼえはじめていたのだった。
それに、めんどうくさがりの柳にとって、何より困ったことに、もし穴山が逃亡者のかくれ場所をつきとめているとすれば、どうしたって柳も、それを対岸の火災視して傍観しているわけにはいかなくなり、なんとか態度を決定して、行動に移らねばならぬ羽目に陥る。そんな切迫した状態が、よろこばしい冒険と言うよりは、厭でも直面せねばならぬ試煉のように感じられ、ズシリと重い荷をかつがされる不安をおぼえたのである。
伊豆山の漁村。それは、宝屋別荘の建つ高級別荘地からは、徒歩で二十分はかかる、入江の一隅にあった。太平洋に突き出した、いくつかの岬《みさき》(その中には、岩石のかたまりのような、小さな出っぱりもある)と、岩壁のはざまに喰い入った入江が、犬の歯なみのように並んで、その一つの岬のはずれにある宝屋の別荘からは、別の二つの岬にかくされて、伊豆山の漁村は眺められなかった。崖《がけ》の中腹の畠地《はたち》に、久美子と共に立ちすくんでいたとき、はるかかなたに、波しぶきをあびている、赤みがかった大岩が、柳の眼に入っていた。その大岩の、こちら側にも、向う側にも、建ちかかった一軒の別荘のほかには、人家らしいものは見えなかった。入り組んだ海岸線に、青い海水の広大さに抵抗するように、赤黒い一角を守っている、その大岩は、まるで自分の力で、白い水しぶきを噴いているように見えた。みじめったらしい家並などとは、全く無関係に、岸と海とがジカに向いあっている、その海岸線は、別荘の住人にとっては、まことにすばらしい風景であった。柳自身にしたところで、宝屋の客になってから、|その時《ヽヽヽ》まで、なまぐさい漁村や、なまぐさい漁民のことなど、忘れはてていたのだった。
|その時《ヽヽヽ》とは、穴山の口から、逃亡者宮口が、その漁村のどこかに匿《かく》れひそんでいるときかされた瞬間のことである。
漁村とは言っても、密集した中小の旅館群と、漁師の家とが、せまい浜べに雑居して、なまぐさい港町を形成している。|なまぐさい《ヽヽヽヽヽ》と、何回も形容したのは、魚族の臭気が実際に、その一帯に充満しているからではあるが、また穴山が、柳に語った、次のような言葉のせいでもあった。
――あんまり立派でもないが、部屋数だけはたくさんある温泉旅館の、たくさんある窓々に燈火《あかり》がついているんだ。どの部屋にも、男と女が泊っているわけだ。土曜、日曜の晩ともなれば、しずまりかえったまま、どの貧弱な日本式建物たちも、丸々と性欲でふくらんでいるように見えるんだ。まあ、客の半数ぐらいは、新婚旅行の若い連中なんだろうが。なまぐさいぞ。精液の匂いがなまぐさいとか、なんとか。そんな、けちくさい生理学的なことを言ってるんじゃない。ただただ、ひたすら|なまぐさい《ヽヽヽヽヽ》んだからなあ。一せいに輝いたり、消されたりしている、そのおびただしい燈火の奴が、実に実になまぐせえんだよ」
なまぐさい物なら、何でも好きな筈の穴山であるからして、別段神経質に、嘆かわしいと言ったあんばいに、語ったのではなかった。悪がしこいくせに、妙に無邪気なところのある穴山は、ただ愉快そうに、そう言っただけであった。
だが、穴山にさそわれた柳と久美子が、次の次の日の、朝はやくその漁村へ出かけたとき、柳は、いろいろの意味で、その|なまぐささ《ヽヽヽヽヽ》を味わったのである。
「宮口みたいな男。つまり、世界一の警察力を誇る、わが日本帝国において、先の見込のない地下運動に没頭している連中にとって、一番必要な人間は、どんな人間だと思う?」
穴山は、その夜、柳ではなくて、久美子をしっかりと見すえながら言った。
「金持のシンパ(同情者)か……」
「カネのあるシンパサイザーは、必要だな。これは、おれたち右翼だって、そうなんだから。非合法の組織が、他人のカネを|あて《ヽヽ》にせずにできるわけはない。また不思議なことに、右にせよ左にせよ、危険な政治運動には、かならずカネを出したがる、……お仲間にはならないがカネだけは出したがる奴らが、出てくるのは有難いものなんだ。だが、結局、それだけじゃ足りないよ。宮口たち、逃げまわって匿れている奴らには、どうしてももう一つ別の種類の人間が必要なんだ。それは、女だ」
「女?……」
「そうだ。女だ。それも、ありきたりの穢《きたな》っこい女じゃいけない。もちろん、美女の方がいいことは、きまっているが、ただの美女じゃダメなんだ」
と、穴山はますます強い視線で、久美子を射すくめるようにして、言った。
「気品のある女。育ちのいい女。上流階級に生れて、男の使用人もたくさん使って、下層階級の男なんか、男とも考えないような女。しかも、若い魅力ある女性が必要なんだ。帝政ロシアのテロリストの仲間には、貴族出身の美女が、掃いて棄てるほど集っていたそうだが。残念至極の次第ではあるが、おれたち右翼は、こういう種類の女性にはエンがないらしい。また、おれたちは、何もわざわざ、かよわき女どもに助けてもらうほど、意気地のない男でもねえからな。今、一ばん左翼学生の多い学校は、どこだと思う。東京と京都の帝国大学。次は、学習院だ。これは憲兵司令部できいた話だから、たしかなんだが、シンパのカネが一ばん集められてる学校は、学習院。しかも、華族や資本家の家庭の、女子学生が革命党の資金源なんだそうだ。『ニホンの民衆は、しいたげられていて、お可哀そうだわ』『戦争の危機が迫っているんですもの。どうしたって私たち、抵抗しなきゃなりませんわよ』って言うようなわけなんだろうが。宮口たちは、カネの関係だけで、彼女たちを手なずけているわけじゃねえんだぜ。畜生め! おれたちや警官諸君は、百姓や貧乏人の生れが多いんだ。だから、気品のある美女、金のありあまった上流階級のお嬢さんや、若奥様がニガテなんだ。彼女たちを、憎んではいるだろうさ。だけど、女に甘いのは男の共通性だし、それにやはり、どこか一般女性とちがった、とびぬけて綺麗《きれい》な女となれば、どうしたって、お手やわらかにならざるを得ないんだ。今まで刑事がつかまえた左翼のハウスキーパーには、もったいないような(刑事さんにとっても、我々にとってもだ)|いい女《ヽヽヽ》がいるそうだよ。バーやカフェーや料亭にも、一目ぼれするような女は、いくらでもいるさ。だが、たんに肉感的に、いい女だというだけじゃいけないそうだな。そりゃ、肉体美人だって、それはそれで、大した役割をはたすことができるだろうが、やっぱり精神的な気高さみたいなものがあるとだな。そうすると、しびれるような作用をもたらすらしいんだな。おれは、|精神的な気高さ《ヽヽヽヽヽヽヽ》なんてものを、ちっとも信用しちゃおらんよ。みんなニセモノだからな。|気高さ《ヽヽヽ》なんて、口にするだけでくすぐったいよ。だけど、一生かかって、せいぜい二人か三人、身のほどにあった女に愛されるか(憎まれるか)がせいぜいの男どもにとっては、この種の女性のききめが、実に麻薬みたいにあるらしいんだな。だから『ハウスキーパー』なるものには、ただ地下組織の男どもを世話する献身的な女同志とか、主義に殉ずるけなげな派出婦人とか言う以外にだ、一種特別(奴らに言わせれば、階級社会の暗さと狭さと息ぐるしさを、肉体的にうけとめている)の、|美的な匂い《ヽヽヽヽヽ》がするものだそうだ。そう言えばお妾《めかけ》さんだって、階級社会の暗さと狭さと息ぐるしさを、ほかでもない肉体的にうけとめて、大いに秘密くさい妾宅《しようたく》の美的な匂いを発散させているわけだが。だが、彼女たちハウスキーパーは、いわば敵と味方と両方から、その魅力ある肉体に槍をうける、十字架上の白衣のキリスト教女みたいに、精神的《ヽヽヽ》と言うよりほか言いようのないような、女性美を誇らしげに立証するものだそうで、緊張しきった彼女たちの肉のもだえぐらいエロなものは、犯罪者を多数手がけている専門家にも、ちょっと見つからんそうだ。彼女たちにとって、その冒険的実践が、かけがえのない快楽であるように、つかまえる刑事諸君にとっても、彼女たちの存在を発見し、手どりにし、いじめることが何よりの快楽になるわけだな……」
「快楽だって?……」
「そうだ。快楽じゃないか」
「快楽というのは、言いすぎじゃないのかな」
「そんなことないさ」
久美子がかすかに身ぶるいするのが、眠気をましてきた柳にも感じられた。その身ぶるいは、もしかしたらすでにもう、その「快楽」なるものに、とりつかれている証拠なのかも知れなかった。
「ハウスキーパーは、身を犠牲にして、ひどい苦痛を堪えしのばなきゃならない。それでも……」
「それが、彼女たちにとっては快楽なんだ」
と、穴山は言った。
「だが、それは普通の、いわゆる快楽じゃないだろう。むしろ、快楽を棄てることじゃないのか」
「普通のだろうが、特別のだろうが、快楽にちがいがあるものか。快楽を棄てる(実際は、棄ててなんかいやしないが)ことが、快楽なんだ」
「それはまあ、そういう快楽が、人間世界に必ず存在しなくちゃならんはずだけどな。それがつまり……」
仏教的な快楽だと、言いそえたいのを、柳は止めにした。もしも彼がそう発言すれば、まるで久美子にハウスキーパー志願をすすめるようなものだと、気遣われたからである。
「とにかく、伊豆山へ釣りに行こう。三人で行こう。久美子さんは、魚釣りはきらいですか」
「私、子供のときから魚釣り、やったことありませんけど。でも、伊豆山へは行きたいの」
と、久美子は、はずんだ声で穴山に答えた。
「よろしい。行きましょう。宮口に会いに行くと考えると、話がむずかしくなるんだ。ただ行って、船を出して、魚釣りをすればいいんだ。そうすりゃあ、偶然、そこに宮口の奴がいることになるんだ」
「私、殺生はいやですから、お魚は釣りません。でも、あの方にはお会いしたいわ」
次の日、まる一日、穴山は別荘から姿をくらましていた。その日のうちに、穴山が、どのような連絡方法で、誰と下相談したものやら、柳には知るすべがなかった。宝屋の主人は、朝はやく東京の会社へもどって行った。帰りしなに食堂で会った柳に、主人は「久美子のことは、よろしくお頼みします」と語った。「ぼくには、その力がありません」と、柳は答えた。「よろしくと頼まれたって、ぼくには、あの方を指導する力なんかありませんから」
庭の芝生は、露で光っていた。芝生のはずれに、庭の面積を区切って首飾りのように植えられた、小松の緑はあざやかだった。朝露にぬれた庭石は、色を増していた。乾いているときは、枯木よりもなお「死」を思わせる冬の石たちは、水分を吸い、朝日の熱をあび、いきいきとよみがえっていた。永遠の「死」から、ほんのしばらく復活して、身体ぜんたいで目ざめているように、青と白の石質を明らかにしている、なめらかな石もあった。
「久美子は、もしかしたら、可哀そうな目に遭うかもしれません。あの子が、ひどい目に遭うのは、柳さんだって厭でしょうね」
「ええ……」
「あの子を指導するのは、誰にだってむずかしい。とても不可能なこってしょう。しかし、見守っていて下さい。あの子があんたを頼りにしていることを、忘れないでいてやって下さい」
「はい、見守っているということでしたら」
ほかの別荘の飼犬が一匹、臆病な眼つきをして、芝生を横ぎって行く。先代の主人の遺言で、切りのこしてある、なかば枯れたクヌギの枝から、最後の枯葉が舞いおちていた。
「約束して下さるね」
「……はい。約束します」
主人は、先々代と先代と、二つ並んだ写真の前に、線香の火をともした。ガラス戸がとざされているので、線香の煙はゆっくりと、たゆたっていた。
「できるだけ長く、泊って行って下さい。釣り舟なら、いつでも支度してあげます。すぐここの崖の下に、船着場がありますから」
「ええ、船は好きですから」
と、答えながら、柳は、すべてを洗い流し、何もかにも一点に集結して流れて行く、運命の河のようなものを感じた。その「河」の流れに乗って、流されて行く方角が、彼にはすこぶる不安だった。堕落だろうか、進歩だろうか。堕落にきまっているさ。いや、そう言い棄ててしまうのは、彼には不愉快だった。
午後に、小雨があり、晴れ上ると大きな虹が、海面にかかった。それは、赤みがかった大岩の彼方《かなた》、伊豆山の漁村の方向に、二重にかすんで架けられた。そして七色の空の橋が消えると、燃えるような夕焼が来た。
その日の昼食も夕食も、夫人と久美子は、食堂に姿を見せていなかった。ホテルに重要な、商売上の客があり、二人そろって接待に出向いているという話だった。日本陸軍の衛生部に取り入り、国際的な規模で輸出額を増しつつある宝屋薬品は、薬の本場ドイツでさえ名を高めているというから、熱海の別荘には内外の客が出入りし、はなやかな二人の美女は、主人の命令で、絶えず歓迎に動員されているにちがいなかった。つまり柳や穴山のように、気のおけないかわりに、さして重要でない泊り客のほかに、会社にとって大切な来客が詰めかけて、美しい姉妹を、そのあいだ独占しているわけであった。
「奥さまからのお言いつけで、このおクスリを召し上っておいていただきたいということで。それから、これは久美子さまが、横浜のシナ人からいただいた珍しいお酒だそうで。これも、よろしかったらお飲みになっていただきたいという、お話で。お二人様からそうお伝えねがいたいと、特に申しわたされて居りますので……」
留守番の中年婦人は、礼儀正しく、二つの品を食堂で、柳の食卓の上に置いた。
「お二人は、柳さまのことでは、格別に気をつかっていらっしゃる御様子ですから。お気持がわるくなかったら、両方ともぜひ召し上った方がよろしいと存じます……」
「そうですか。では、いただきます」
檀家《だんか》まわりの時のクセが出て、柳は腰を前にかがめた。それに、しっかり者の中年婦人には、常に、とても|かなわない《ヽヽヽヽヽ》ものを感じるので、できるだけ接触を避けるようにした。ことに、その冷静な中年婦人は、冷静さを押しつけないで、ひかえ目にしているので、なおさら「この人はきっと、苦労しぬいた偉い女なんだな」と、不必要に恐れ入るのだった。
手にとった二つの品は、毒虫か玩具《おもちや》のように、特殊の色彩をしていた。薬は、金糸銀糸もあざやかな、錦の袋におさめられ、朱の房まで附けられていた。酒の壺は、厚みのある黒い土器で、寸のつまった丸い腹が、塗料で光っていた。そして、その丈夫そうな壺の胴には、黒い文字を木版ずりにした赤い紙が貼《は》ってあった。おまけに、腹の裏側には、久美子の文字を記した紙片まで、貼りつけてあった。
――山西省の虎の骨のお酒。これを飲むと、虎のように強くなれます。阿難尊者さまへ。
こまかい万年筆の文字を読みとっている柳を、留守居役の婦人は、興味ぶかそうに見守っていた。
婦人が入ってくる前から、柳は、自分一人にまかせられたスキヤキ鍋の取扱いで、いらいらしていたのだった。熱した鉄鍋に脂身を押しつけ、充分に油を敷いたつもりでも、牛肉はすぐに鉄板にこびりついた。鍋は鉄製ではなく、新しい合成金属らしく、勝手がちがっていた。醤油を入れすぎて、塩辛くなると、砂糖をぶちこんで、塩味をうすめた。そうすると、甘ったるくなるので、あらためて水と醤油を加え、ネギと白菜と焼豆腐を山盛りにすると、また泡立った煮汁がふきこぼれてきた。万事ものごとは、あわててはダメだ、人間はどうせ一度は死ぬんだからと、悟りすまそうとしても、次第に濃厚になり、濁りに濁ってくる汁は、怪動物の血液のようになり、赤鉄色をした糸ゴンニャクをすすりあげると、それがまた毒針のように、のどを刺すのだった。煮えすぎたネギは、どうせ私が悪いんですと言いたげに、赤黒くとろけてしまい、入れたばかりのネギは、青白く反抗的で、食えるものなら食ってみろと、嘲笑《ちようしよう》していた。肉は肉で、あんまり仲間を積み重ねられ、戦場の屍《しかばね》のように、あなたまかせの意地わるさで、食べても食べても、とりかたづけられるはずはなかった。
「おクスリの方も、御覧になっては、いかがでしょうか」
立ち去る気配のない中年婦人は、礼儀正しく柳を催促する。
錦の小袋の中身は、勤行《ごんぎよう》用の折りたたみ本にでも使いそうな、黄色の厚紙に包まれ、老人向きの秘薬なのか、「神薬」という二字が、御たいそうに銀砂を散らした表面にみとめられた。それをひらくと、一粒ずつ桃色の薄紙にくるんだ、金色の丸薬が、十粒ほど入っていた。
「これをぼくが? これ、お年寄りの飲むものじゃないのかな」
「さあ、大へん珍しいおクスリだそうで。お忘れになるといけませんから、今、お飲みになった方がおよろしいと思います」
「今ですか。酒を飲んでいても、かまわないんですか」
「それは、アルコール分と一緒の方が、ききめがよろしいのです。お水をおもちしますから」
コップの水が、運ばれてくる。彼は、勇気のある所を示すため、三粒も飲みこむ。彼女は、野蛮な人喰い土人の儀式を調査研究する、白い探検家のようにして、彼の動作をのぞきこむ。そして、黒い壺の口に貼られた、赤い封印をはがし、栓のまわりの蝋《ろう》をこそぎおとす。固く詰められた栓は、コルクではなく、白く固い木製だった。酒は、失敗したスキヤキの煮汁そっくりの色をしている。小さな盃に注ぐと、獣の骨か、薬草の匂いか、いがらっぽい臭気が鼻をつく。
「多少は、飲みにくいか知れませんですが、どうぞ、お飲みになって下さい」
「平気ですよ、こんなもの」
「あなた様のおためばかりではなく、宝屋のためになると思って、お飲み下さいまし」
二杯たてつづけに飲み干したあと、彼は、口内の呪《のろ》いを浄《きよ》めるようにして、コップの水を飲んだ。
女の肩つきも、腰つきも、がっしりしていた。正式の帯をしめ、足袋をキッチリとはいているため、留守居役をまかせられた、中年女のしっかりさかげんが、よけい彼に迫ってくる。地味な和服の黒さも、魔法つかいの服のように、意味ありげに見えてくる。
「宝屋のお家《うち》には、あなた様のお力が必要なのでございます」
と、黒い服の女は言った。
「ぼくに、お力なんかありゃしません」
「あるのでございます」
「……あるわけがないよ」
食卓をまわって少しずつ位置を変え、腰を下ろそうとしない女に、柳は反抗したくなっていた。
「あなた様のお力をお借りしないと、宝屋のお家《うち》は大へんなことになります」
「……ぼくは、ただ二、三日、ここに泊めてもらってる、お客じゃないか。しかも坊主なんだ。へんなことを、言わないでくれよ」
「宝屋のお家のために、申し上げなくちゃなりません」
「申し上げるのは、あなたの自由ですが、宝屋さんには、立派な御主人がいるじゃないですか。何も、心配する必要なんかありゃしない」
彼女は、太い眉の下で、きびしい眼つきをして、首を横にふった。宝屋家には、先々代の開業する当初から、一つの言いつたえ、「予言」があるのだ、と彼女は語った。有名な卜師《うらない》が、亀の甲を焼き、その裂け目を丁寧に調べてうらなった所によると、宝屋は、三代目に至って滅亡するという、まことに不吉な判断が出た。その破滅を救う道は、仏教を信奉することであるが、それもただのやり方では、効き目がうすい。子歳《ねどし》うまれの母から生れた、子歳うまれの、若い僧侶と、ちかづきになることによって、救われる可能性がある、と言う。まず、そういう生れの坊さんを一人、発見すること。そして、「彼」を大切にし、宝屋一家が「彼」と|密接な関係をむすぶ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》こと。
「…………」
柳の母も、柳自身も子歳の生れであった。
「すると……」
「ハイ。さようでございます」
とまどった彼のつぶやきを待たないで、彼女は、なめらかに言った。
すると、すべては、きわめて計画的だったことになる。もしかしたら、その予言、すなわち家訓を守っていた宝屋の主人、あるいは宝屋の「お祖母《ばあ》さま」は、柳が柳の母から生れたときから、彼に眼をつけていたのかも知れないではないか。柳自身の方は今の今、黒服の女から知らされるまで、そんな事情は全く知らなかったのに、ずうっと以前から、宝屋一家の眼は、彼の一身に注がれ、彼ら一家の手は、彼の周辺からはたらきかけていたことになる。まるで陰謀でもめぐらすようにして、彼を手なずけ、彼をちやほやし、彼の生存状態を観察し、彼をみちびきよせ、ついには熱海の別荘へまで連れこんだわけではないか。
何という、ばかばかしい話。何という、気持のわるい不意打ちだろうか。そんな無意味な「計画」に、家族総がかりで。……総がかり? そうではないか。お祖母さまや、当代の主人ばかりではない。夫人や久美子までが、その「計画」に参加しているではないか。あのなまめかしい姉妹までが、参加している? そうだとも。いまいましい話であるが、そうではないか。彼女たちが彼に接近し、親しく話しかけ、笑いかけ、やさしいそぶりや、熱っぽい態度を見せたのは、みんなそのためだったのではないか。そのくだらない卜師の、何の根拠もない予言を、後生大事に抱きかかえ、宝屋の三代目を「破滅」から救いたいという、自己保存の本能に駆られて、ただそのためだけに、彼の一身を蜜のような親切で、べたつかせたのではないか。もしも彼が、子歳生れの母をもつ、子歳生れの坊主でなかったら、彼らは、鼻水一つひっかけなかったかも知れないではないか。
今さっき彼に飲ませた、あの貴重な丸薬と舶来酒だって、柳の一人前の人格に対してではなくて、ただただ「二重の子歳の若僧」を、自分たち一家と|密接な関係《ヽヽヽヽヽ》におとしいれたい一念で、用意されたのではないか。
怒りとはちがった、一種の悲痛の想いが、一すじの火線となって噴きあがった。その(大げさに言えば)地獄の焔めいた火の矢は、これまで、宝屋一家と彼とのあいだに発生した、さまざまの結びつきの闇を突っ走り、その火光で、あのとき夫人は、また、あのとき久美子はという情景が、一挙にうかびあがってくるのを、彼はおぼえた。
「……たしかに、ぼくは。たしかに、ぼくは子歳の生れで、ぼくの母も子歳の生れです」
彼は、声の高まりを、やっとのことで抑えつけねばならなかった。
「あなた様の伯父さまも、子歳の生れでございましたんですね」
「伯父が?」
「お母様のお兄《あにい》様。あのドイツへ永いこと留学なさった、偉いお坊さまで」
「ああッ」と、彼は息をのむようにした。「そうだったのか」
「そして、その伯父様のお母様、つまり、あなたのお母様のお母様も、子歳のお生れだったんだそうでございますね。ですから、あなたの伯父様も、あなた様と同じように、宝屋を守って下さるはずの、予言のお坊さまでいらっしゃったんでございます……」
「それで、伯父もこの別荘へ?」
「ハイ」
と、うなずく女の表情には、いくらか気の毒がっているような、また別に、すがりつくような想いがこもっていた。
夕食をはじめる前から、夕焼は消えていた。庭の芝生、クヌギの幹、小松の茂みも暗がりに沈んでいた。海鳴りは、しずまっていた。そして、締めきったガラス戸には、食堂の内部、つまりは驚かされた「彼」と、驚かした「彼女」の姿が、具合わるそうにうつし出されていた。しかし、なぜ、今までこの事情を秘密にしていた、一家族の中の誰でもなく、この留守居役の婦人が、今夜になってから、突然、こんなにすらすらと話しはじめたのだろうか。
食卓をはなれ、彼は庭に近いソファーの方に歩いて行く。すると、じゅうたんに落ちた彼の影までが、彼の意志とは全く無関係に彼にくっついてくる。そのあたりまえの現象までが、その不快な因縁物語と同じに、今あたらしく彼にこびりついてくるように感ぜられた。
秘薬と、中華奥地の酒。その二つの効き目で、彼の鼓動ははやまってくる。夫人のクスリと、久美子の酒。それは二つとも、永年にわたって貯えられた、「家訓」の予言にしたがう「謀略」の、もっとも新しい触手として、彼の血液の中へ、今、しみこんでくる。彼は、吐き気をおぼえた。あの美しい姉妹は、ホテルの大ホールで(白人か黄色人か知らないが)、実業方面の大物のとりもちをして笑いさざめきながら、「もう効き目があらわれたかしら、柳さんに」と、眼顔でささやきあっているかも知れないではないか。
そうだったのか。「お知り合いになる」だって! 「密接な関係」だって! 「宝屋を守って下さる」だって!
「お気持でも、おわるい?」
と、女が気づかわしげに問いかけるほど、柳の眉根のあたりは、暗く険悪になっていた。
「なんだか、さっき飲まされたモノの効き目が、すごくなってきたから。少し外へ出て、風にあたってきます」
「お散歩ですか。それでしたら、ホテルまでお歩きになって、あそこのお風呂に入ってくるとよろしゅうございます。そうなさいまし。あのホテルは、ここが満員になると、いつでもうちのお客様を泊めてもらっていますし、うちの湯が止ったときにも、ホテルの湯を使わせてもらっている仲ですから」
柳はソファーから、あらあらしく起ち上り、黙りこくって玄関の方へ進んだ。彼は、子歳プラス子歳の坊主(いや、よくもよくも見つけ出された、得がたいネドシの三位一体《さんみいつたい》)として、玄関の庭下駄をつっかけた。
石畳と石段を鳴りひびかせる下駄の音は、彼の足の裏から、なんにも気がつかなかった彼の愚かさ、いい気持になっていた恥ずかしさを、ピリピリと伝えてきた。
中年女は、よくもそんなに早く支度できたと思われるほど、ぬけ目なく、湯上りタオルを手にして、彼のあとを追っかけてきた。
灰色の隣家の灰色のコンクリート塀《べい》の上で、青みのうすれた灰色の竹の葉がそよいでいた。海も空も、シャボテンのたくましい爪までが、灰色だった。おそらくは、二つの贈り物の効き目のせいであろうが、それらの灰色の形、灰色の線が、酔を発した柳の眼には、輝きながらクッキリと印象づけられるのであった。彼の酔眼は、平常のときより、はるかに明るく見ひらかれているにちがいなかった。熱しているはずの眼のすみずみが、涼しく、濁りなく、すべてのモノを見ぬく力を、発揮しはじめたように思われる。
「どうぞ、これを」
女のさし出す、黒、赤、黄、白だんだらの大型タオルと、西洋モノらしき化粧|石鹸《せつけん》を、何のためらいもなく、彼はうけとった。|ためらう《ヽヽヽヽ》などという感情は、きれいサッパリ消え失せていた。
「とても大きな、お風呂でございますから。泳ぎもできますし。それに、あなた様がいらっしゃれば、お二人もきっとお喜びになると思います」
「そうですか。よろしい、喜ばせてあげます」
別荘の石段を駈け下りると、灰色に輝く石の坂道が、正直そうに、まちかまえている。すばらしい速度で、彼は石の敷きつめられた坂を登って行く。灰色の戸を締めきった、泊り客のない別荘の、生気のない門や塀や屋根。それらも、生気のないままで、一つ一つ、特別の輝きを発しているではないか。
春だったら、花吹雪のめざましい、古い古い桜の木も、ちぢかんだように、黒く淋しげに立ち並んでいる。醜い幹は執念ぶかく、ゴツゴツしているし、冬の風に折れるのを嫌っている、黒い骨のような枝からは、枯葉が、真冬だというのに散りおちてくる。神社のある丘の茂みも、樹木の種類など区別することなく、黒いかたまりとなって、坂のとっつきに立ちふさがっている。いいではないか。枯葉には、赤いのもあり、黒いのもある。いいではないか。秋になって、青々した葉っぱが枯れしぼんで、落っこちる。そればっかりが、諸行無常なんてモノではないんだ。諸行無常ノ鐘ノ声、なんて何を淋しがっていやがるんだ。仏教? そうですよ。仏教を知っているから、ぼくは宝屋一家に迎え入れられたんで、ございましょうか。冗談いっちゃいけない。御主人は、仏教を信仰していなさる。久美子さまは。あの純真|無垢《むく》のようによそおっていなさる、カグヤ姫のようなタオヤメは、仏典をよみふけっていなさる。いいではないか。たとえだ。たとえ、ネドシのネドシのネドシづくしの馬鹿野郎にこだわって、いろいろと御親切をつくして下さったからと言って、それが厭らしい計略であり、仏教とはエンもユカリもないと申せましょうか。仏教なんて、そんなせまっくるしいモンじゃありませんからな。すべてを支配する法則。よかろうが悪かろうが、みんなひっくるめて支配していなさる法則、宇宙の原理が、ブッキョウじゃないんですかな。ですから、ネドシ生れとなれば、ネドシ生れとして、その法則におとなしく、したがわざるを得ない? そうかな。一寸《ちよつと》、ちがうんじゃねえのかな。彼女と彼女、実にうつくしい二人の姉妹について、そう簡単に、ぼくは怨んだり離れたりできませんよ。「家訓」はどうあろうと、「予言」はどうあろうと。また、宝屋の破滅を救わんとする美女の犠牲心が、どれほど神さま、仏さまを感服させるような、誠実無比の行為として表現されたとしてもですよ。大日本帝国は滅亡する、と宮口たちは予言している。だとしたら、宝屋一家が滅亡したって、何ということはないじゃないか。大日本帝国が亡びれば、宝屋薬品も亡びる。そうだろう。そうだのに、いくらネドシ生れのぼくだって、大日本帝国を破滅から救い出すなんてことが、そもそもできると思ってるんだろうか。
下駄の片方が転がって行くほどひどく、彼の足は、石畳の突出部にぶちあたった。右脚の親指の爪が、なかばはがれて、血が下駄をぬらしていた。不思議なことに、痛みは感じなかった。そのくせ、彼はホテルに向って、急な坂を、片脚ひきずって降りていた。登りつめて左へ折れ、また降りて行くその道は、コンクリートかアスファルトか、夜目にも白くかわいていた。
下足番らしい中年男が、掃いていたホウキの手をやすめて、のめりそうになって降りてくる彼を見つめていた。ホテルにもかかわらず、古風なハッピなど着たその男は、明らかに警戒の眼つきで、彼をにらんでいた。それは、彼の下駄の音が、あまりにはげしかったからであるが、彼は自分が粗暴になり、野蛮になっていることに、少しも気づいていなかった。
古風なホテルの玄関は、人影もなくしずまりかえっていた。案内も乞わずに、スリッパを履こうとする彼の背なかに、「どなたですか」という、彼を嫌っているらしい下足番の声がきこえた。
左手のフロントから、白服のボーイと、取締役らしき若い女性が、すべるように出てきた。
「どなたなんです」と、もう一度、下足番の声が迫ってきたが、彼はだまって突っ立っていた。
白服のボーイも、けげんそうに、ホテルの浴衣でない別の浴衣に、ホテルの丹前でない別の丹前をひっかけた、坊主頭の若い男を眺めていた。
「どちらさんでしょうか」と、ボーイも彼を嫌っているらしい声で、問いかけてきた。しかし、彼は、あいかわらずだまっていた。
「ああ、さっき宝屋別荘から電話があったわ。うちのお風呂を召しにいらっしゃったんでしょう」
と、若い女支配人は、気のきいているらしい、歯切れのいい声で言った。
柳は、一国の経済をあずかる大蔵大臣のように、おうようにうなずいて、口はきかなかった。
「宝屋さんのお客か」と、下足番は、ますますひどく嫌ってきたらしい声を吐きかけた。
「だまっていなさったんじゃあ、わけがわからねえ」
「あのお、A号のお風呂がいいわ。鍵《かぎ》がかかってるから、あけてちょうだい。あそこ、ひろくて気持がいいから。ああ、それとも宝屋の奥さまと久美子さまに、お知らせしてからにしましょうか」
彼は無言で、首を横にふった。
「それでは、お風呂に先に?」
彼はうなずいて、勝手に歩き出した。
「お名前ぐらい、うかがっといた方がいいんじゃないですか」
と、心配そうなボーイさんは、女支配人に注意していた。
「ネドシ生れの、十九歳」
と言って、彼は右手へ折れる廊下を、どんどん歩いて行った。
温泉の浴場に、鍵などあることを、彼は知らなかった。客が、風呂場にくる。するとわざわざ鍵を用い、まだ誰も入っていない新湯《あらゆ》であることを証明し、特別優遇の意を示すために、そうするらしかった。
湯番の男が、湯かげんを見る音がしていた。ギリシア式、ローマ式、とにかく古代の南部ヨーロッパ風とでも言うのだろうか、クリーム色の石材や、白いタイル、白い柱を巧みにあしらい、明るい西洋風の趣きを見せた、立派な風呂場だった。円型の湯船の中央に、これも西洋彫刻らしき獅子の頭があり、その口から湯が流れおちていた。おまけに片隅には、女神ヴィナスでも誕生しそうな、大きな人造の貝殻が、ジュピター大神の食卓にでものりそうな純白の大皿のかたちで、しつらえられ、そこにも澄んだ湯が、貝の汁のように噴き出していた。
彼は、もうろうたる状態におちいっているわけではなかった。むしろ、今までかつてなかったほど、彼の視力は強められ、風物はすべて何の気がかりもなく、美しく、力づよく輝いているように感ぜられた。散歩にとび出したときから、「諸行無常だな」と、彼は思っていた。その「諸行無常」とは、たよりなくフワフワと、雲の如くうかんだり、流れに流れて消え去って行く、あてどないモノではなかった。それとは反対に、何かしら充実して、宇宙一杯に満遍なく行きわたり、押せども突けども、ビクともしない、堅固な「実体」のようなものであるらしかった。寒天かゼリーのように固まった、とてつもなく大きな透明な「実体」の中に、彼は一つの粒の如く、入りこんでいるのらしかった。その「諸行無常」の|にこごり《ヽヽヽヽ》の中に、ほとんど肉眼では見えない粒として存在している「彼」は、その中で溶けながれて吸収されてしまおうと、また、その寒天状の成分を吸いよせ、いつのまにか一粒の形に成ったとしても、いずれにしても御安泰であるようなのであった。
そんなにまで彼が、はじめての場所で悠然とかまえてしまったのは、もちろん宝屋の姉妹の「贈り物」のせいであったが、それでも彼は、そんな精神状態が、他人よりいくらかマシな悟りに達した|しるし《ヽヽヽ》だと思った。
そのとき、色の白い二人の男がガラス戸をひらいて入ってきた。あぶなっかしそうな足どりの二人は、彼とおなじく、その風呂ははじめてらしかった。蒼白《あおじろ》いほど白い、その二人は西洋人であった。混浴の大きな湯船が、そもそもはじめてらしく、そのため長身の二人の腰つきは、とまどっていた。
彼らは、首だけ湯の上に出してうずくまっている柳から、もっとも距離を置いて、ちょうど向う正面に、仲良く、寄り添うようにして湯に漬かった。
「ニッポンノ、仏教ノ、僧侶ダロウ」
と、ドイツ語で一人が言った。坊主頭なら、軍人や高校生だってそうなのだから、うまく言いあてたものであった。
柳の高校のドイツ語教師が、若き、桃色の血色をしたチャキチャキのナチ党員であった。もしかしたら、この二人も、ドイツ帝国の新興政党にぞくするものかも知れぬと、彼は思った。それに、向うだけが、こちらの正体を見破っているのでは、おもしろくなかった。
「ドイッチュ・ナチヨナーレ・ゾチアリスムス」
ドイツ国家社会主義、のつもりで、そういう「ドイツ語」を彼は発音した。声は、ガラス張りの天井に打ちかえされ、よくひびいた。二人は、顔をよせ合って、何かささやいている。奴らは、やさしそうな、上品ぶった顔つきだが、その青い眼は鷲《わし》など猛禽《もうきん》類の眼に似ているわい、と彼は考えていた。この二人は、ドイツ国の製薬会社から、つい最近、日本へ派遣されてきた社員かもしれない。このうち一人は、医学博士かも知れない、などと彼は想像をたくましくした。そうだ。宝屋の女性二人が、接待に出向いている「大切なお客さん」というのは、この二人の大きな裸の男かもしれんぞ、と彼は断定した。
そこで彼は「ドイツ製薬会社、バイエル」という言葉を、ドイツ語で発音した。ドイツの会社なら、クルップ製鉄とか、バイエルのアスピリンとか、その程度の知識しか彼にはもちあわせがなかった。
彼は急に、二人の異国人に親しみを感じて、起ち上り、湯をかきわけて、そっちへ近づこうとした。すると、湯の壁にさからった、彼の右足の親指の爪が、今にもはがれそうになった。
彼は、乱暴な湯の音をほとばしらせ、湯船から跳び上った。水道栓の蛇口の下に、あぐらをかき、血の流れる親指をしらべた。爪はもはや、彼の肉身の一部ではなくて、よそからくっついている、白い石灰質の|ヘラ《ヽヽ》の如きものに見える。水道の栓をひねり、水洗いしながら、彼は、その死にかかった|ヘラ《ヽヽ》を引きぬいた。爪をはがされたあとの足指は、貝殻からむき出された、ムキ身のように、弱々しく無防備だった。そこへ彼は、蛇口一ぱいの太い水の線を浴びせかけた。「いくじなしめ! ツメがないと、すぐこんなにやわらかくなる」
茹《ゆ》だったり、冷やされたりして驚いている桃色の指を、本気になって彼は叱りつけた。
ドイツ男に見せるために、彼はそうしたのではなかった。だが、ドイツ人は、彼の行為を、注意ぶかく見てとっていた。
年上の方の男の、するどい眼は、実験用動物をいじくる医師のように、冷たく光っていた。それは明らかに、東洋の君子国の住民など、商売のため以外には、人間として取扱ってやるまいと決意している、純粋ゲルマン民族の征服者じみた眼つきだった。黄禍論。黄色人種の進出が、ヨーロッパ人にとって最大の危険だと最初に主張したのは、バイエル・アスピリンの祖国だったな……。
柳はわざと、二人ならんだ外国人の、すぐそばへすべりこんだ。怒ったような彼の視線から、すぐさまそらした、若い方の男の眼つきには、野蛮人は相手にすまいという、利口なすばやさがあった。
彼などかまいつけない態度で、二人は陽気にしゃべりはじめた。「シェーネ・メトヒェン」「シェーネ・フラウ」などと、彼らは笑ったり、身体をよじったりして、話しあった。
きれいなお嬢さん。きれいな奥さん。「ヤパーニッシェ」という形容詞がきこえたからには、日本女について、くすぐったい話をしているにちがいない。だとすれば、どうしたって、宝屋夫人と久美子のことを話しあっているにちがいない。もちろん、彼女たちのガイスト(精神)のことについてでは、あるまい。肉体についてだな……。
「タカラヤ」という声が、甘ったるく脂ぎってきこえたとたんに、彼は、
「同性愛。ドイツの二人の同性愛の男。同性愛」
と、「ドイツ語」で叫んでいた。そんなドイツ語など、知っているはずはないのに、これ以上正確なドイツ語があるもんかという自信を以て、彼は発音していた。
二人の会話は、たちまち中止された。
年上の男が、いかめしく起ち上り、「ナイン(否)!」と、命令するように言った。
「ニヒト・ナイン」
(否ではないぞ)の意味で、彼は言いかえして、やはり起ち上った。
日本の高校生は、おとなしすぎる、とドイツ語教師は、学生たちをからかった。「電車ニノッテモ、コウヤッテ下ヲ向イテ、手ヲヒザノ上ニオイテ、本ヲ読ンデイマス」その青年ナチス党員は、柔道の練習をして、日本の酔漢を路上で投げとばしたことを、自慢にしていた。もしそうであるならば、こちらも、また……。
「失礼ナマネヲスルト許シマセンゾ」
そうドイツ語で言って、彼の肩先を白人は突くようにして、押しのけた。かなりの腕力だった。柳はよろめいて、湯の中に坐りこんだ。いくらいかめしい、文明国の大男でも、まる出しの裸では、ブヨブヨした肉のかたまりにすぎなかった。それに、泳ぎ好きの柳は、水中の格闘なら、日本青年が、欧米人にも中国人にも、負けるはずのないことを承知していた。
彼はゆっくりと、毛ぶかい足首をにぎりしめ、引っぱった。大男は、たあいなく、あおむけにひっくりかえった。彼の後頭部が、ドスッと湯船のふちで、音をたてた。
それから、中腰になって、若い方の大男につかみかかった。白い肉の股《また》ぐら深く、柳の手は入りこんだ。そして、自分の腕を上向きにねじりあげ、両脚を相手の両脚にからみつかせた。この方も、あっけなく後向きに打ち倒された。
あくまで水中に居なくては、いけない。空気に身体をさらしたら、負けだぞ。その戦術で、彼はたたかった。自分でも湯の中にもぐりながら、相手の二人をもぐらせることは、たやすかった。どうしてこんなに、おれの身体は自由自在に動きまわるんだろうか。それにひきかえ、筋肉たくましい「奴ら」の、手足のうごきの何とぎごちなく、こわばっていることよ。白い肉と黄色い肉は、ぶつかりあっても、なめらかだった。すべすべと、なめらかであることが、まことに彼にとって有利だった。相手が、彼をガッシリとかかえこむことなど、できる相談ではなかった。二つの白い肉体と、一つの黄色い肉体が、どちらがどちらとも見当や区別がつかなくなるくらい、彼は愉快に活動した。これこそ、諸行無常だ。なぜならば、この充実した活力の中で、すべてのものは無限に変化しつつ、しかも無限に静止しているからだ。もみあったり、打ちあったりしても、結局は、エネルギー不滅の法則にしたがって、すべてはもとのままである。もとのままではあるが、しかも、永遠の変化は、止《や》むことなくつづいているのであった。
「日本の女性が、いかにキレイナオ嬢サンであるか、いかにキレイナ奥サンであるか、思いしらせてやるからな」
湯船のふちに太い腕をかけ、起ち上ろうとする。すると、彼は拳固をかためて、カナテコの上の鉄板のように、白い手のひらを殴りつけ、赤毛の頭を湯の中に沈めてやった。赤い海藻《かいそう》のように、相手の髪の毛が水中でゆらめいている。それでも、まだ手をはなさないでいる。もう一人の男が、ようやくのことで直立の姿勢にもどると、彼は両腕をひろげ、山猿のように白い首めがけて、とびかかる。そして、相手と一緒に横だおしに湯の底へ沈む。沈めばこっちのものだから、両脚で相手の腹部を胴ジメにして、いつまでも沈んでいてやる。そうしてから、太い首をひきずりあげ、もう一度底ふかく沈めてやる。或は湯船のへりに、その薬学知識のみちた頭部をこすりつけてやる。相手がよろめきながら、湯から脱け出そうとする。もう一本、もう一本と、やわらかそうな下腹部めがけ、斜めから突きをくれてやる。何よりもまず、あの青く冷たい、ゲルマン鷲の眼をつぶしてやることだ。手のひらの横側の固さを、うまく使って、曲げたひじをいきなりのばし、彼らの眼を切ってやろうとする。自分の鼻の孔にも、硫黄くさい湯が、細いゴムホースとなって入ってくる。だが、相手は咽喉《のど》の奥まで、もっと太い湯の管を押しこまれている。
背泳のかたちで、顔を彼らの方へ向けたまま、彼ははなれて行く。三人とも、うなり声を発しているはずだったが、声高く叫んだりしてはいなかった。もしも年上の男が、湯桶《ゆおけ》など投げつけたりしなかったら、湯番と下足番が、あわててガラス戸をあけたりしなかったであろう。彼は湯桶を振りかぶって、少し柳に近づこうとしたが、途中で止めて、投げることにしたのだ。楕円《だえん》形の桶が、うまく直線に飛来するはずはなかったが、それでも相当のスピードで、桶は柳の横顔を、かすめすぎた。桶はタイルの床に一はねしてから、人造貝殻にぶちあたり、さらにガラス戸に突きあたった。ぼくは桶なんか、投げんぞ。物をこわすのは、厭だからな……。柳はできるだけ湯しぶきをあげ、クロールのかたちで年上の男に向って突進した。首を湯に突き入れたままだから、男たちが何をやっているか、わかりはしない。西洋人の足が、彼の胸のあたりを蹴《け》あげたらしかったが、とにかく柳は、再び白い肉体のどこかを、自分の手でつかまえることができた。そのとたんに、彼の顔面が、今まで経験したことのない強いパンチをくらい、眼が見えなくなった。五、六回なぐられつづけ、彼は湯の中でもがいた。若い方は、平和主義者らしく、ほとんど手出しをしていないらしかった。白い男は二人とも、サッと湯船からあがった。柳も別の方向から、タイルの床にはいあがった。あたりは、彼の貧血した眼に、白い微塵《みじん》のきらめく、ぼんやりした空間として映った。若い方が、年寄りの方の後頭部を、しらべたり、なでたりしていた。それは、母親の急病を心配する、少女のようなやさしさだった。やっぱり、同性愛じゃないか、と、柳は上半身だけ、ボクシングのかまえで、すべる足をふみこたえながら、二人の方へ歩いて行く。
年長の男も、ボクシングじみた長い両手を、交互にくり出している。
諸行無常は、くたびれるな……。柳は呼吸をととのえて、待っている。向うも、諸行無常のくたびれ方で突っ立ったまま、攻撃してこない。
パンツなしのボクシング、ふんどしなしの相撲、ことに中世騎士の馬上試合が全裸だったら、息をのむ迫力も、けなげな武者ぶりも消滅し、悲惨な滑稽さがただようだろう。そんな滑稽さの感覚が、相互ににらみあった三人のあいだに、生れかかったとき、女性(もちろん宝屋夫人)のはなやかで、遠慮のない声がきこえ、湯番と下足番が浴場に走りこんできたのだった。
「だから、さいしょっから、わっしは言ってたんだ」
と、下足番は柳の方に白眼を向け、いまいましげに言った。
「素姓の知れねい若い客には、注意しろって、ソ言ってたんだ」
「もう終ったらしいじゃないの。騒ぐことないわよ」
ガラス戸から首を出した日本婦人の視線に、恐縮して、二人の白人は立ち姿を横むきにした。
「オール・ライト。オール・ライト。モウオワリマシタ」
と、年長の白人は、困ったように英語で言った。
「オール・ライトって言ったって、よ。あちらさんは二人がかりで、日本男児の方は一人っきりだもんな」
と、湯番の若い男は、柳に向って笑顔を示した。
「ミナサン、オ怪我ハナカッタノ?」
と、夫人は、流暢《りゆうちよう》な英語で外人客に話しかけ、
「柳さん、だめじゃないの。早く上っていらっしゃいよ。あなた、鼻血が出てる。おクスリが効くのはいいけど、こんなことで効かせちゃだめよ」
と、柳を招きよせる「マネキネコ」のような手つきをした。
「ママサン、ワタクシ、頭ガ痛イデス」
「ハイ、ハイ、ワカリマシタ。大きなずうたいして、痛いもないもんだわ。あんた方、何をグズグズしてるのよ。早く外人さんを御案内して、身体ふいてさしあげなさいよ。それから、アイスコーヒー。わかってるじゃないの。冷たい風にあててから、食堂へお連れするのよ」
ドイツ人が先に、貴重な骨董品《こつとうひん》のように連れ出され、あとに夫人と柳がのこった。マッサージでもするように、夫人は、彼の全身を大きなタオルでふいてくれた。どんな女性からも、死ぬまで接吻されることがあるまいと思っていた、彼の肉体の一部を、彼女がなまあたたかい口にふくんだとき、彼はさすがに緊張したけれども、おれの緊張なんかは、この雄大なる諸行無常氏の緊張にくらべれば、ほんの小さい小さい、粒のまた小ツブのキンチョウにすぎないんだと、彼はあいかわらず自分に言いきかせていた。それにしても、よくもこんなことができるものだな。たとえ、その行為によって、ぼくが喜ぶのがわかりきっているにしても……。彼が見下ろしている、夫人の髪の毛は実に入念に形をととのえ、さわるのがもったいない美術品のように見えた。そして彼女の|うなじ《ヽヽヽ》(首と呼ぶより、そう呼びたくなる)は、上品に、まじめそうに、白く静かだったので、彼女の口の微妙な動きが、なおさらちぐはぐの感じをあたえた。柳が「アアッ」と小さな叫び声を発してから、彼女はようやく身体を起した。
彼女の顔が彼の顔と同じ高さに達したとき、彼は眼をつぶりたくなった。その瞬間の自分の感情を見られるのもイヤだったし、また女の顔つきの変化を眼にするのもイヤだった。口紅の色がうすれ、形のいい唇が、そのためいくらか、ぼやけた線になり、彼女の口は、今おわったばかりの行為の熱気をおびて、かすかにひらいていた。やさしさと言うよりは、何となく|必死の想い《ヽヽヽヽヽ》をこめたような、それでいて少しおびえているような、彼女の立派な二つの眼は、見るのがつらくなるほど輝きを増していた。悪辣《あくらつ》な計略などどこにもない、放心したような顔つきではあるが、かすかに光る鼻の下のウブ毛の尖端《せんたん》までが、一つの情感に向って息づいているような、男なら誰だって拒否することなどできそうもない「訴え」で、装われていた。
「あなただけによ……」
にじんだ口紅の、わずかにはみ出している口で、彼女はささやいた。
「こんなこと、あなたにだけするのよ。よく、おぼえておいて……」
彼女は、支那服を着ていた。そのため、彼女の首すじが、特に上品に見えたんだな、と彼ははじめて気がついた。夫人が、彼の前にまわり姿勢を低くするときにも、身を起すときにも、何となくきゅうくつそうに見えたのは、そのためだった。
ダリアの花などに見うける、黒みがかった赤、それが模様のある上質の絹地のため、暗く沈んだ色のようでいて、布の表から、裏から明るい火光が、もえあがったり、うつり気の火花がきらめいたりする感じだった。
しかし、いかに美麗な支那服姿が好ましいものだったにせよ、彼は、今の彼女の口で接吻されるのは避けたかった。入浴をすましたあとであったにせよ、彼は自分の肉体の一部が、やはり穢《きたな》らしいものに思われ、その「一部」と自分の口が直結するのを好まなかった。そもそも肉体は、これ不浄であり、不浄なるものは、おしなべて空なりと観ずるなれば、その肉体のどの部分をとって見たにせよ、これが「空」であり、あれが「不空」であるという、区別など存在するわけはないのである。肉体に関するかぎり、そのどの部分も平等に不浄であり、上下の差別はあるはずがない。あそこが好き、ここがきらい、そのような差別感こそ、「空観」に達し得ない、あやまった見解、つまりは執着なのである。そうではあるが、やはりその、夫人の口によってふくまれた「一部」が、特別に不浄なりと(少くとも、彼女の口にその不浄がのりうつったと)、そのような分別心、地上世俗の常識からのがれられないままで、彼は、何をふくむにせよ、ふくまないにせよ、結局もとから不浄であるはずの女の口から、自分の不浄の口をよけたのであった。
汗は、とめどもなく流れつづけた。殴られた部分は、痛みを増しつつある。青年にありがちの、軽薄な強がりのせいで、彼は一種の空《むな》しき爽快《そうかい》さを味わっている。不浄と不浄とが、十分間ほど格闘したところで、真の爽快さなど生ずるはずはないのに、彼は「奴らをやっつけてやった」という誇り(つまりは迷い)で、力づよくなっていた。
「今夜は、ここでお泊りよ。三階の一号室。わかった?」
「わかりました」
「わたくし、今晩は、一晩中なの」
「……何がですか」
「さっきのお二人。それから、香港の支那さんが一人。シンガポールのインド人が一人」
「やっぱり、バイエルだな」
「え? みなさん、南方拡大会議なのよ。今に日本が南方か南洋かを、支配するそうよ。だから、あの方たちは、うちと手をにぎっておきたいらしいのね」
「そうですか。宝屋さんて、えらい勢力なんだな」
「善人の『生』も不浄なりや?」「しかり」
そんな仏典の文句が、柳の汗だらけの額をかすめすぎる。
「向うから、頭を下げて……」
「宝屋薬品に、下げたわけじゃないわよ。陸軍によ、もちろん」
……「悪人の『生』も不浄なりや?」「しかり」。「善人の『生』も、悪人の『生』も不浄なりや?」「しかり」……。
同じ口が、どうしてそんなに、理知的にしゃべれるかと思うくらい、夫人の口ぶりは機敏だった。
「陸軍、きらいなんでしょ?」
「うん、……きらいって言ったって」
「戦争、反対なんでしょう?」
「…………」
「戦争がはじまると、薬は売れるのよ。はじまらなくても売れるけど、はじまるとケタがちがうのよ。だから問題は、誰が何を、確実な方法で、どこに売るかということなのよ」
「戦争か……」
「ドイツのベルリン。これは、戦争をしたがっている。それにはオカネが要る。香港の華僑《かきよう》。これは、愛国者。インド大商人は、シンガポール英領根拠地から来た。これは、まるっきりの商売人。わかるでしょ?」
「わかりません」
「そうね。あとで話してあげる」
「宝屋さんが、どうぞ三代目でつぶれませんように」
「……きいたのね。あなた、どうもコチッと固まってると思ったわ。でも、わたくしの恋愛は、ネドシとは関係ないわよ。信じてよ……」
彼は、かたくなに首を横にふりつづけた。何回も、つづけて、だんだんつよく……。
「もう、いいわよ。首振るのおやめなさい」
彼女は、インド産らしい香料のにおいをのこして、出て行った。インドは、仏教の原産地だぞ。それなのに、こんなに快楽的な香料を輸出して、どうするつもりなんだ。その甘ったるい、しびれるような香気をかぎながら、涼しく風を切って出て行った夫人が、可愛らしい桃色の支那靴を履いていたのを、柳は見とどけていた。
体重を量る機械に乗ると、足の裏に、黒く塗られた鉄板が冷たく感ぜられ、ゴトリと音をたてて下った。針がまわったが、目盛りを見るつもりはなかった。二つの大鏡の中で、脱衣場の内部も、少しひらいた窓の外の光景も、絵にかいたようにくっきりしていた。彼の「生支」(南伝大蔵経の或る巻では、肉体の「一部」を、そのような漢訳語であらわしていた)の上の黒い毛も、明るい画面にくっついていた。
戦争だって? もう、とっくの昔に始まっているではないか。戦死者の遺骨が、白布でくるんだ木箱に容れられ、遺族の胸にかかえられ、東京駅に何回も到着したではないか。もう何回も、ぼくはそれを出むかえて、プラットフォームで読経したではないか。そして送り届けた原隊の兵営の門をくぐるとき、きまって衛兵のササゲ銃《つつ》の敬礼をうけたではないか、戦争を防止する? そう、宮口たちは主張し、宣伝している。だが、彼らがやっているのは「反対」であって、「防ぐこと」ではないのではなかろうか。「反対」することは、もちろん、男らしい命がけの仕事だ。勇気ある反対は防止の、一つの方法にはちがいない。だがもし本当に防止するのだったら、反対だけですませて、言いわけがたつのだろうか。
食堂へ通ずる廊下のあたりで、ドイツ人の笑い声が元気よくきこえていた。それにまじって、宝屋夫人の愛想のいい声もきこえた。
……「不善人と不悪人の生は不浄なりや」。「しかり」。「善人の死は不浄なりや」。「しかり」。「悪人の死は不浄なりや」。「しかり」。「善人と悪人の死は不浄なりや」。「しかり」。「不善人と不悪人の死は不浄なりや」。「しかり」。「すべての生と死は不浄なりや」。「しかり」……。「すべての生と死の不浄を観ずれば、空観に達することありや」。「しかり」。「すべての生と死の不浄を観ぜざれば、空観に達することなきや」。「しかり」……。
……「宝屋夫人は不浄なりや」
彼は勝手に、自論師と他論師の問答をつくり出して、あまり瞑想《めいそう》的でもなく、汗のひくまで突っ立っていた。
「しかり」。「久美子は不浄なりや」。「しか……」
久美子が相手だったら、とてもこんな初歩的な「論事」(論争による正しき教えの審判)では、すまされないはずだった。
「論事」(カター※[#「ワに濁点」]ットゥ)、上下二冊は、「南伝大蔵経」の中でも、特に難解な部類にぞくする。柳が、こんなしちめんどうくさい書物を読んだりしたのは、このパーリ語テキストを訳出した二人の佐藤氏(M・佐藤、R・佐藤)の二組の結婚の媒妁《ばいしやく》をしたのが、柳の父母だったからだ。柳自身も、両佐藤氏と夏の海岸や冬の山村へ旅行する仲間だったし、「論事」の訳がいよいよ完成して、出版されるさいには、第一冊の校正の手つだいまでさせられたからである。宗門の秀才中の秀才なる両佐藤氏にしてみれば、柳みたいな仏教学とはエンのない若僧とつきあうのは、時間のムダ、不愉快な仕事にはちがいなかったが、恩師、兼媒妁人のもてあましている極道息子ではあり、柳の両親、とくに口上手な柳の母にたのまれてイヤとは言えず、教育し善導するために、しぶしぶ面倒を見てやっていたのであるが。
柳の校正はきわめて、無責任で、そのため第一冊の責任者M・佐藤氏は、つらい想いを忍ばねばならなかった。「校正でも、やらしてやってくれないか」という、柳の父の頼みさえなかったら、柳よりもっとましな助手はいくらでもいたはずであるから。
そもそも、この「カター※[#「ワに濁点」]ットゥ」なるものは、「南伝の阿育《アシヨーカ》王下の第三|結集《けいじゆう》を記す史伝は一致して、阿育王仏教入信の後、仏教内に異説生じ、仏教外の邪説|亦《また》仏教に混入せるを以て、王は自ら目※[#「牛+建」]連帝須(モッガリプッタ・ティッサ)を師として仏陀《ぶつだ》の正説を学び知り、阿育園に比丘僧伽《びくさんが》を招集、その所説を親判し以て僧伽を浄化し終り、正統比丘六十万人を以て大布薩《だいふさつ》をなし、其《そ》の席上目※[#「牛+建」]連帝須をして如来建立の論母と理趣に依って、正統派五百の経と非正統派五百の経を説き、論母を分別しつつ当代並びに後代に発生すべき邪説を圧潰《あつかい》すべき論事の論(カター※[#「ワに濁点」]ットゥ・パッカランニヤム)を説かしめた」ものなのである。
|ものなのである《ヽヽヽヽヽヽヽ》と解説したところで、読者にはさっぱり興味がないであろうし、この長篇「快楽」の発展において、「カター※[#「ワに濁点」]ットゥ」の紹介が、果してどこまで必要であるか、筆者にも予測できないにせよ、柳の如き寺門の青年が、厚くして固き仏教学の扉に頭を打ちあて、はねかえされたさいの痛みを伝えるには、ほんのあらましだけでも触れておいた方がよいかも知れない。
正統伝説によれば、「論事」の成立は、仏滅二百十八年になる。この「仏滅」が、容易に解決できるわけのない年代であるにせよ。ところが、この大論争記録の内容には、阿育王以後になってから出来上った安達派の四宗や(古代インド語を漢字に改めた固有名詞のややこしさには、柳青年ならずとも読者諸君がさだめし舌打ちしたくなるであろうが)、北道派、方広部の議論がまじっており、特に第一|品《ぽん》から犢子《とくし》、正量《しようりよう》、安達など諸派の所説にふれ、かつ北伝で言う|大天の五事真妄《ヽヽヽヽヽヽ》の問題をとりあつかっている点から見て、分派分派と、反対派が輩出してからの作品ということになる。次に「島王統史」「大王統史」によると、セイロンの※[#「ワに濁点」]ッダガーマニー王のときに、三蔵および義疏《ぎしよ》が、今までは口伝で伝えられていたのを書写して大寺に安置した、と言われる。この「三蔵」は、「論事」をふくむ三蔵と考えられるので、そこから推定すれば、西紀前七十八年には「論事」が存在していたと考えてさしつかえない。いろいろと検討した結果、「論事」は阿育王以後、紀元前二世紀末までのあいだに成立していたのである。
おまけに、M・佐藤、R・佐藤の両学士が、巴利《パーリ》聖典出版協会本を底本にし、シャム版を参照にして訳出したのは、覚音(ブッダ・ゴーサ)の註釈つきの「論事」であった。A・D五世紀前半の学者、ブッダ・ゴーサの註釈には、当時生きのこっていた部派として、正量、有部《うぶ》、|※[#「奚+隹」]胤《けいいん》、賢冑《けんちゆう》、北道、方広、安達四派であり、現在形の動詞で指摘されている部派は犢子、大衆、迦葉遺《かしようい》であり、そのほかに化地《けじ》、説因《せついん》という二つのパルタイも附け加えてある。
わざわざ筆者が、かくも無意味な固有名詞で、読者をイヤがらせるのは、柳青年のイヤがり方を実感していただくためのみならず、カミユとサルトルの論争、中国とユーゴのスターリニズム論争、アメリカ合衆国内の二大政党の論争、その他、現在形の動詞で指摘されている、すべての論争の立役者、あるいはその分派の分派のまた分派の論者の固有名詞が、やがて百年、千年ののちには、柳ならびに読者をイヤがらせている過去の固有名詞と全くおんなじに、厄介物としてイヤがられるにきまっているからである。はなばなしい理論闘争、血で血を洗う分派のたたかいは、すべてやがては、|大天の五事真妄の問題《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》などという、雲とも霧ともつかぬ水蒸気となって、はるか彼方《かなた》の遠景の中へたゆたい去り、そして、胸に焼きつくほど鮮明必至だった部派の名も、「犢子」とか「迦葉遺」とか「賢冑」とかいう、奇怪にもものものしい古語として残るにすぎなくなるであろうからなのだ。
おお、この悠久なる理論の争いよ。そして、それを溶かしさる悠久なる忘却よ。そして、更に、忘却されかかっても、まだ見えかくれして何事かを語りかけてくる、この異様なる固有名詞の連続よ……。シャカがいた。キリストがいた。モハメッドがいた。老子がいた。荘子がいた。孔子がいた。マルクスがいた。悠久の深淵の暗く遠い底にうごめく、煙の如き「実存」のゆらめきの裡《うち》に、それらの固有名詞が、わずかに、ようやくのことで生きのこり、しがみつき、そして、もっと小さい、小さい哀れな分派たちが教祖の影の分裂した尖端で、固有名詞の密度さえ保つこともできぬまま、煙のくねりのように、一瞬、身をくねらせて、消えて行き、消えて行きつつある……。神も、それをとどめることはできない。
まあ、まあ、あまり大げさに「悠久」「悠久」と書きつけていたところで、小説の細部(ディテール)は、一行も進みはしない。
ともかく、柳は、「論事」なるものを読みはじめたが、それはまるで犬が星を見るみたいに、たよりない読み方であった。そのような厭《いや》がりながらの古典づきあいしかしなかったればこそ、ホテルの浴場の脱衣室で、あのようないいかげんな問答を、風に吹かれ汗をさましながら、自分勝手につくり出していたのである。
本物の「カター※[#「ワに濁点」]ットゥ」は、「かの世尊、応供、正自覚者に帰命す」と前置きして、「大品」「第一章、補特伽羅論」にはじまる。
まず、しょっぱなから、この補特伽羅なる珍しい単語に、カタカナもひら仮名もルビがふってないから、何と発音するのかわからない。巻末の索引をめくってみると、補特伽羅の原語は puggala とあるが、これまたプッガラとよむのか、プトガラとよむのか、それがわからない。そこでとりあえずプトガラと読むことに決めて、覚音の註をよむと、「|※[#「玄+玄」]《ここ》に補特伽羅とは、我・有情・命者なり」と記されてある。
「我」「有情」「命者」のワレは、よくわかる(常識的に)としても、その「我」と同じものとして附着している、この「有情」と「命者」という二つの奴は何なんだろうか。
まあ、そこはすっとばして、第一節、「堕負《だふ》第一」の問答は、(自)補特伽羅は諦義《たいぎ》・勝義に依りて得らるゝや。(他)然り。……
(自)とは、正しき我が党の師。(他)とは、許すべからざる分派、外道《げどう》であるとして、この(自)と(他)の両先生が一体、何をそんなにおごそかに論争を開始されたのか、柳には、とても推察できなかった。
正統を厳守して異論を排撃する、尊敬すべき自論師は、とにかく「プトガラは諦義・勝義に依って得られると、お前さん、本気で思いこんでいるんですか」と、意地のわるい質問を発しなさった。|意地のわるい《ヽヽヽヽヽ》と言うのは、こちらは、とっくの昔に「プトガラは在る」という相手方の邪執、妄念《もうねん》、錯誤を承知しているにちがいないからだ。要するに、プトガラ論者という連中がいたらしいのである。その連中は、「プトガラは有るよ。有るにきまってるじゃないか。なかったら一体、どうなるんだい」と、信じてゆずらなかったらしいのである。
プトガラだか、プッガラだか、有情だか命者だか知らないけれど、そんなものが有るにせよ、無いにせよ、また有る方が勝とうが、無い方が負けようが、もともと(自)と(他)の論争が開始されなくたって一向に痛痒《つうよう》を感じない柳にとって、この古き問答を理解するために努力することが、すなわち痛であり痒であり、苦痛であったにちがいない。
――補特伽羅は諦義・勝義に依りて得らるゝや
さあ、得らるるでしょうか。得られないでしょうか。しかし、待って下さい。この「諦義」「勝義」を、註でしらべて見ますから。「諦義とは幻影《まぼろし》、陽炎《かげろふ》等の如く無実体のものに依つて考ふべからざるもの、実在物なり」。「勝義とは伝説に依つて考ふべからざる最上物なり」
註をよむと、かえってわからなくなってくる柳は、そうかい、実在物かい。最上物かい。その実在物と最上物に依って(この|依って《ヽヽヽ》というコトバが第一あいまいで、気にくわない)プトガラが得られますかな……。と、もう研究心は冷えて、青春の感能は停止し、プトガラ皆無の人間みたいに、|自分が《ヽヽヽ》思われてきたにちがいない。(もっとも、この「自分」というのが、我・有情・命者であるからには、つまるところプトガラなのであるから、自論師によれば、そんなものは存在しないことになるのであろうか)
さて、まあ、柳が理解できる、できないにおかまいなしに(他)は、「然り」と答えましたぞ。すると、わが党の理論的指導者は、ハッシとばかり第二の矢を発しましたぞ。
(自) 諦義・勝義なるプトガラが、その故に、諦義・勝義によりて得らるるや。
(他) 実に、かく言うべからず。
(自) 汝《なんじ》は堕負《だふ》をみとむべし。もし「プトガラは諦義・勝義によりて得らる」とせんか、それに由って実に汝よ、「諦義・勝義なるプトガラが、その故に、諦義・勝義によりて得らる」と言うべし。ここに汝の言うが如くんば、実に、「プトガラは諦義・勝義によりて得らる」とは言うべきも、「諦義・勝義なるプトガラが、その故に、諦義・勝義によりて得らる」とは言うべからずとす。(こんな考え方は)邪なり――。
しかし、たいしたもんだなあ、とは柳も感心せざるを得ない。イエス・キリストの生れたもう、ずうっと昔に、六十万人のインド坊主が独裁王の大集会に招集され、こんな論理学的な議論をつづけていたとはなあ。
しかし、それにしても、「汝は堕負をみとむべし」とは、どこかで聴いたような文句だなあ。「さあ、どうだ。参ったか」「どうかね。君の主張は根本的にアヤマリじゃないのかね」「われわれによって、被告の思想的誤りは、もはや明白となった」「なんという、気の毒なまちがいの中に、あなたは永いあいだ、おちこんでいたものだろうか」「さあ、てめえが悪いとわかったら、さっさと消えてなくなれえ!」
「汝は堕負をみとむべし」と宣告されて、黙ってるわけはなし、「邪なり」ときめつけられれば、外道のレッテルを貼《は》られてしまうのだし、他論師だって反撃にうつって、一歩も退こうとはしないから、論争はとめどもない長さでつづいて行く。
もしも柳が、世俗的|快楽《かいらく》にまどわされた凡人ではなくて、真の快楽《けらく》を求める「正自覚者」の弟子であったなら、この「論争」の中から、昭和十年代の日本現代思想の、さまざまな分派の論争と酷似した発想法を汲《く》みとって、「そうだったのか。なるほど、今も昔も、論争者の頭のはたらきは、さしてちがっていないな」と悟ることができたであろう。
ところが柳は「戦争がはじまるぞ」とか、「ああ、女の裸の脚はいいな」とか、「宮口の奴、どこにかくれているのか」とか、そのような邪執《ヽヽ》をすてきれずに堕負《ヽヽ》の生を生きていたのだから、せっかくの宝の山に入りながら、手を空しくして引きかえした次第だった。
(自) 宮口にプトガラありや。
(他) しかり。
(自) 宮口のプトガラは、諦義・勝義なりや。
(他) しかり。
(自) 宮口のプトガラは、宮口のプトガラによりて得られたるや。
(他) 実にかく言うべからず。
(自) 同じプトガラが、この世界より彼の世界へ、彼の世界よりこの世界へ転生するや。
(他) しかり。
(自) 何人にても、人たり終りて夜叉《やしや》となり、餓鬼となり、地獄となり、畜生趣となり、駱駝《らくだ》となり、野猪《やちよ》となり、水牛となるや。
(他) しかり。
(自) 同じプトガラがこの世界より彼の世界へ、彼の世界よりこの世界へ転生するや。
(他) しかり。
(自) 手切断者は手切断者となり、足切断者は足切断者となり、手足切断者は手足切断者となり、耳切断者・鼻切断者・耳鼻切断者・指切断者・母指切断者・筋切断者・片曲手・蛇頭手・瘡病《そうびよう》・皮膚病・病・肺病・癲癇《てんかん》・駱駝・牛・驢馬《ろば》・野猪・水牛は水牛となり、宮口は宮口となるや。
(他) 実にかく言うべからず。
(自) プトガラは、諦義・勝義によりて得らるるや。
(他) しかり。
(自) 婆夷羅《バジラー》比丘尼は魔波旬にかく言いたるにあらずや。
「如何《いかん》すれぞ有情《プトガラ》と、汝は主張する。
魔よ、汝は今、(邪)見に堕せり。
そはただ諸行の聚《しゆう》なり。
ここに、有情は得らるるなし。
あたかも、諸支の集められたるが
『車あり』と呼ばるる如く、
かくの如くに諸|蘊《うん》のある時に
『有情あり』と認めらるるなり。
げに苦のみぞ起り、
停りまた消ゆる。
苦の外に起るなく
苦の外に滅するなし」と。
かかる経ありや。
(他) しかり。
(自) それによって実に、「プトガラは諦義・勝義によりて得らる」と言うべからず。
(自) (にもかかわらず)、宮口にプトガラありや。
(他) しかり。
(自) 宮口のプトガラは、諦義・勝義によりて得らるるや。
(他) (何回、問いただされようと)しかり。……
このようにして、高級なる仏教パズルを楽しむことだって、できたはずではあるが、柳はその種の哲学者ぶった思索がニガ手であった。西方寺の秀雄だったら、宮口たちを相手に、そのような論争を堂々と展開できたであろうが。
とにかく、筆者の公平な眼で観察するに、柳青年は、この小説に登場してからこの方、今の今まで、またこれから先もずうっと、一種の無意識的なプトガラ論者なのではあるまいか。
なぜならば、彼は三階の一号室への、赤い絨氈《じゆうたん》をふみしめながら、あいかわらず「ぼくだって」「ぼくこそ」「ぼくが」「ぼくは」「ぼくに」「ぼくの」と、我、有情、命者にしがみついて、一センチ、一ミリも離れまいとしていたからだ。
洋間と日本間を無理に結婚させたような、不安定な感じをあたえる、大きな部屋であった。支那風な感じもただよっているのは、固い木質の家具が、明るくひろいフランス式の窓にそぐわない、黒っぽい重々しさで置かれてあるからであった。日光の東照宮からでも盗んできたのでないかと思われる、極彩色の欄間が、一個所だけはめこまれていた。その白、青、赤の塗料の色は、少しはげかかっていた。その江戸時代の細工物と一緒に、おびただしい瓢箪《ひようたん》(これも徳川時代の)が、天井から下げられてあった。茶褐色にツヤの出ている|ひょうたん
しかし、現代の東京の寺院に生れた柳にとっては、ちぐはぐな施設、ちぐはぐな日常こそ、あたりまえなものであったから、別に一号室の内部に、おどろきも感心もしなかった。
ダブルベッドにぶっ倒れているあいだ、柳のプトガラ(あるいはヤナギという名をもつプトガラ)が、はたして存在していたか、いなかったか。寝つきのいい彼は、まことにここちよい眠りのふところへ入って行った。
女の悲鳴に眼をさまされたときも、彼のプトガラは、細菌を培養した寒天のように、うす白く濁ったままであった。
彼の眠りこけているあいだに、そこには、いやでも彼のプトガラが、カッカッと燃えあがらずにはすまされない、一つの光景が展開されていたのだった。
眠りからさめたばかりの柳は、あまりにも好色的な気分のまま、自分がベッドにのめりこんだため、その悪夢の連続が、今眼前につづいているのかと疑ったくらいだ。
もっとも、宝屋夫人の薬を服用した彼の眠りが、そもそも異常だったのだから、彼の眼ざめが異常だったにしても、不思議はないのであるが。
「ヘビでも、タコでもありゃしない」
という、穴山の声がきこえた。
ヘビは蛇、タコは蛸と、二つの動物の名として耳の底に判断がかたまることもなしに、意味のない声として、それがきこえた。
「いくら、かわった恰好を見せようったって、そうはいかないんだ。人間の女には、人間の骨があるからな。だから、女がどんな恰好して見せたって、きまりきっているんだ」
|ふんどし《ヽヽヽヽ》をキリリとしめた、裸の穴山は、肉《しし》むらのあらわな仁王様のように突っ立っていた。彼の毛深い、黒い両脚の下には、宝屋夫人の白い裸体が倒れ伏していた。六尺|ふんどし《ヽヽヽヽ》のしめ方も知らない柳には、こちらに尻を見せた、穴山の黒い肉をしめあげ、黒い肉のはざまにくいこんでいる、純白の綿布の縄が、まず彼のかすんだ眼を打ってくる想いがした。
夫人の方も、すっかり裸というわけではなかった。
昭和十年代の日本では、まだビキニ・スタイルの水着は販売されていなかった。柳の常ひごろの妄想では、黒い縄か黒いヒモでしめあげられた白い女の肉体が、最上のものであった。その最上のものの、まさしく完璧《かんぺき》な表現として、夫人はそこにころがっていた。自分の眼前に展開されている「現実」が、夢のつづきにすぎないように感じられたのは、あまりにも願いどおりな「女」の姿態が、ちょうどうまい具合に、彼の手のとどくところに置かれていたからだった。
「あんたなんか、今ここで、死んじまったって、どうということはないんだ。死のうが生きようが、日本の歴史はビクともしやしないんだぞ」
穴山は、夫人の裸をふんづけていた。ふんづけているばかりでなく、自分の足を好きなように動かし、相手の肉をふみにじっていた。その、いじめられている肉は、彼女の腰、下腹部、尻のあたりだった。白い尻のわれ目が、彼の足の下で、少しひらきかげんになるとき、白い皮膚とは少しちがった色が、奥の方からむき出されてくる。
「おれさまが、こんなことやってやるのは、あんたが綺麗《きれい》な女だからじゃないんだぞ。あんたが可愛いからじゃないんだぞ。こいつめ!」
柳はまだ、向う向きの穴山の顔を見ることができなかった。兇悪《きようあく》、あるいは狂暴な顔つきになっているはずだった。ただ、柳の耳に入ってくる穴山の声は、楽しげでもなし、猛《たけ》りくるっているようでもなし、一種異様な重々しいものだった。
「……まだ、まだ、これぐらいでは、あんたが色気ちがいであるなんてことだって、おれは認めてやるわけにはいかんからな。こんなことでは、まだまだほんの、奥さまのお楽しみの程度だぞ。新宿にも玉の井にも、いや、それどころか町の商店のおかみさんにだって、ほんものの色気ちがいがたくさんいて、その一人にだって、あんたはかないっこありゃしないんだからな」
まだ眠気からさめきらず、事態をすっかりのみこむわけにいかない柳にも、穴山の一言一句が、毒々しい一打ち一打ちとして、胸にこたえてきて、息ぐるしさが増して行った。妄想の中の「縛られた女」を愛好しているとは言うものの、もともと柳は、自分自身の手で女をいじめるのがきらいなのであるから、宝屋夫人の肉体が|いじめられている《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》のに、すぐさま好感をもつわけにはいかなかった。女いじめは、弱い者いじめであるという倫理感からはなれられない上に、いじめられているのが夫人であり、いじめているのが穴山であるという「現実」は、とても厭なことなのであった。
「どっちみち、この後で殺されるはずはないと、わかっているもんで、あんたは何をされたって平気だよな。どっちみち……」
魚河岸《うおがし》にころがされた、マグロをさばく若い衆のように、穴山は夫人の身体をひっくりかえした。
「要するに、こんなものはだ……」
と、穴山は、あおむけになった夫人の、胸の上に片足をのせた。夫人の両手首は、黒い紐《ひも》で結びあわされているから、上向き下向きの別なく、ひっくりかえされるのは苦痛にちがいなかった。苦痛にちがいないくせに、たえず夫人は自分の肉体を、のばしたり、ちぢかめたりしているため、彼女の身体の各部分、とりわけ二つの乳房は、大きくなったり、小さくなったりして、体積が不明に見えるのであった。
「……こんなものは、要するに、いくら綺麗でいくら可愛らしくても、よくあるモノにすぎんのだ。よくあるモノにすぎんけれども、男のほしがるモノであることはまちがいない。おれにとっても、ほしいモノであるんだ。だが、たとえおれにとって、たまらなくほしいモノであったにせよだ。おれのほしがっているモノが、おれ様を少しでも支配しようとしやがったら、許すわけにはいかんのだ」
穴山は、手にしたステッキの先を、夫人の首の下にあてがい、彼女の顔をあおむけさせた。彼女の眼は固くとじられていたが、口紅のなまなましい彼女の口は、丸くひらかれていた。気むずかしく一文字に結ばれた口、元気よいおしゃべりで開閉するさいにも、夫人の口は美しかったが、かすかにあえぐため、丸い形にひらかれた彼女の口こそ、まことに美しいものであった。
柳は、エロ・グロ研究雑誌の読者として、マゾヒズム、サディズム等の単語は知っていた。だが、この瞬間の夫人と穴山の関係がどうなっているのか、どこまでが同意された、なれあいの性行為であり、どこまでが男女めいめい勝手の不本意な動作なのであるか、全く理解できなかった。そのように理解できない状態で、この場の光景を見守っているのは、たんに不愉快であるのみならず、はなはだしく不安なことであった。たとえ、穴山と夫人がしめし合せた「芝居」だったにせよ、そんな「芝居」を幕の途中から、急に見せつけられるのが不安だったし、第一、ほかならぬ自分が、そんな舞台の見物人として、何の相談もなしに突然えらばれ、見やすい座席にすわらされることが不安なのであった。その上、柳には、この「芝居」が脚本どおりに、なめらかに進行しているとは、とても考えられなかったので、なおさら不安なのであった。たとえば、何の理由もなしに、どこの国家のどんな権力者の手先ともわからぬ者に、説明ぬきで連行され、どんな場所とも不明なまま、暗い密室へ投げこまれてしまった不安。いくらか、それに似かよった不安であった。
いじめている穴山が、楽しんで自発的にそうやっているのか。それとも、お役目で仕方なしにそうやっているのか。いじめられている夫人が、真に苦しがって身体をくねらせているのか。それとも、すべて技巧的に演技しているのか。ゆとりのある成熟した性行為の体験のない柳には、それを見きわめようとする好奇心さえ湧かなかった。
「何をやってるんだい。やめろよ」
自分でも気恥ずかしくなるほど、緊張しきった声で、柳はそう言った。
「子供はすっこんでろ。子供は口出しするんじゃねえ」
起き上った柳を軽蔑《けいべつ》しきった穴山の顔(それは、殺人でもしかねまじき顔だった)が、こちらに振りむけられたとき、柳は、怒りのため我を忘れそうになっていた。もちろん、夫人に同情する騎士的精神で怒ったのではなくて、穴山と夫人があまりにも「大人」であり、口惜しくも彼自身があまりにも「子供」であるからして、濃厚にして充実した「大人」の世界から無視され、のけ者にされていること。それが、恥ずかしさと怒りで彼をもえあがらせた次第だった。
「やめろよ。やめるんだ」
柳は、ステッキをにぎりしめた穴山の手首をつかんだ。穴山は、柳の手をわけなく振りはらった。
「お前なんかに、何ができるんだ。腰ぬけのひょろひょろ野郎め!」
穴山は、夫人の裸体を中に置いて、柳とは反対の側に廻って行く。柔道の選手が、自分より弱い相手と少し距離をおいて、動きまわる自信満々の姿だった。
いくつあるのかわからぬほど、広い部屋の上下四方に装置された照明のうち、ほんの二つか三つの電燈が消されずにあった。密林の高みから下った、奇怪な植物の果実か花房に似て、天井から吊《つ》り下げられた無数の|ひょうたん《ヽヽヽヽヽ》は、黒い影の重なりとなって、おびやかすように垂れ下っていた。夫人と穴山の裸身をとりまいている、室内の光と影は、どことなく陰惨で、また妙にはなやかであった。その不自然な光線に照らされた、二人の皮膚の色は、明治の画家、黒田清輝の人物像の、古風で不思議な彩りに似ていた。
「子供は、おとなしく見ているんだ。見たいだろう。自分ができないことを、他人がやってくれるのを、子供は見たいだろう。いくらでも、見せてやるよ。ほら、こういう具合に、女は殴ってやるものなんだ」
穴山は、わざわざ見せつけるように高く振り上げたステッキを、打ちおろした。ステッキは木の枝でもなく、竹製でもなく、ゴムの管をかぶせた特殊の品物らしかった。その黒い、よくしなう、むしろ「鞭《むち》」と言った方がふさわしい細身のステッキは、タコの脚とか、鼠のしっぽとか、その種の動物性の弾力をもっていた。
夫人は悲鳴をあげ、ゆるく折り曲げていた両脚を、もっと強く折り曲げて引きよせた。その悲鳴は、苦痛を訴える肉の声にはちがいないが、それほどおびえきった、かすれ声ではなかった。女の声のなまめかしさを、充分にふくんで、適度(こういう発声に、適度があるかないかは別として)の高さの声だった。
両股《りようまた》をすぼめ、キッチリと固く合せるようにして、上半身をよじった姿勢で、引きよせられ、折りまげられた二本の白い脚には、もちろん力がこもっていた。キュッと力をこめて引きしめられているため、白い肉で包まれた骨の固さが、各部分にあらわれ、そのため肉はますます白く見えた。むりなほど折り曲げられた、脚の上半と下半の肉が、両方から引張るため、丸い可愛らしい膝小僧《ひざこぞう》は、やさしい丸いかたちではなくて、角ばった骨のかたちを突き出していた。そりくりかえった足の裏には、皺《しわ》がよっていた。ことに、足首のあたりに必死の力がこめられていて、足首の下の外側の骨(女の脚に、そんなモノがあることなど、いつも気づきはしないのだが)が、まるで無くてはならぬ飾りの輪の一環か、足かせにはめられた宝石のように、はっきりと見えていた。
光線と姿勢のかげんで、下半身が照らし出されるとき、夫人の顔は、うす闇の中に沈んでいた。沈んでいるとは言っても、夕ぐれどきの遠い夕顔の花のように、うかびあがってはいるのだった。もちろん、人間の美女の顔であるからには、夏の海の別荘の生垣に、白くおぼろげに浮んでいると言った、ロマンチックな安心のできる点景でなどあるわけはなくて、今すぐにでも静止した闇の底から、もっとも動物的な主張を以て、立ち向ってきそうな、息ぐるしさをひそめているのだったが。
「おれと一緒になって始めれば、気がらくになるぞ。だまって見てたら、苦しくなるばっかりだぞ」
「いやだ」
「いやだろうさ」
「いやだ。いやだ」
「いやならば、どうするんだ」
そう言って自分を見つめる穴山が、鋼鉄製の男のように、ゆるぎなく強い動物に見える。それにひきくらべ、柳には自分が豆腐ででもつくられた、弱い存在に感じられてくる。
「お前は、宝屋の奥さんを愛している」
「…………」
「愛」とか何とかいう、そんな立派な、上品な言葉が平気でとび出してくる「現場」か、どうか。考えるだけでも、嘔気《はきけ》がする気持になっている柳にはおかまいなしに、穴山は言う。
「……奥さんも、お前を愛している。愛していらっしゃる」
「ちがうぞ」
「フフン」穴山は、かすかに気味わるく笑った。
「ちがうのか。ちがうなら、ちがわないようにしてやろうと言うんだ」
穴山は、倒れている夫人の頭部を前にして、しゃがみこんだ。穴山の筋骨たくましい腰と脚は、赤黒く光線をうけて、地獄をえがいた絵巻物の鬼を思わせた。
穴山は両掌で、眼をとじている夫人の顔(と言うより、人形の胴体と不安定にくっついている、人形の首のように見えたのだが)をもちあげ、彼女の唇に接吻した。接吻とは言っても、それは、焼けつく水田や乾田のひろがりのなかで、咽喉《のど》のかわいた百姓男が、西瓜《すいか》をぶちわり、その一片にかぶりついて甘い汁をすするような動作であった。きわめて、わざとらしい動作ではあっても、そんな不自然な動作を見せつけられるのは、柳にはたまらなかった。
「いくら吸ったって、おれにはうまくもなんともありゃしないんだぞ」
毒々しい口、と穴山の口が見えたのは、接吻のあとの彼の唇が、厭らしくぬれて光っていたからだった。穴山の口が夫人の口にかぶさったとき、夫人の肉体の一部が、たしかにひきつれたり、ふるえたりしているのを、柳は見てとっていたのだ。
「やめないなら、ぼくは出て行くぞ」
と、柳が叫ぶとすぐ、
「行かないで……」
という、夫人の声がきこえた。
「わたしを助けて……」
上半身を起し、こちらに向けた彼女の顔には、みだらな感じは全くなかった。もの狂わしいような、神聖なような、たとえば泰西名画の中の、神の声を慕って地上の処刑に堪えている聖女のような(柳は決して、彼女を聖女だなどと考えはしなかったが)、異常ではあるが厭らしくない表情であった。おまけに、手首をしばられたまま、身を乗り出しているので、うしろに廻された両腕のため、やわらかい肩のかたちが明確になり、そのかたちは苦しげで、なまめかしい上に、前側の二つの肉の盛り上りが、ますますなまなましくなっているので、美しい犠牲者の感じをあたえる。無理してまっすぐに立てた首の線も、きびしくなり、大きく見ひらかれた彼女の両眼は、柳のあらゆる感情を吸い取ってしまいそうな深い二つの孔、一撃で柳を撃ちつらぬく二つの輝く銃口のようになり、彼はとてもそれから逃れられそうにないのであった。
「出て行けば、お前さんは卑怯者《ひきようもの》になるんだぜ。奥さまは、助けてとおっしゃっている。助けないで、いいのかね」
「……だから、やめろと言ってるじゃないか」
「おれは、やめる時が来れば、やめるんだ」
穴山は、起きかかった彼女の首に右腕をまわし、彼女を再び引き倒した。そのため彼女の二本の脚は、ゾッとするほど肉体の奥底までさらけ出すかたちで、撥《は》ねあげられた。
柳がつかまえようとすると、穴山は脚の位置をすばやくずらして、それを防いだ。鬼ごっこの真似ごとは厭だし、さればと言って棄てておけば卑怯者になりそうなので、柳は中途はんぱな腰つきになりそうだった。
「助けたければ、助けさせてやるよ。おれは、しばらくどいていてやってもいいんだ。ほら……」
穴山は、夫人の身体から少しはなれ、紫檀《したん》の椅子に腰をおろし、拾い上げたステッキの握りの上に両掌をかさねた。
飼主が犬や猫をじらすのに、よく、犬猫の好物の餌《えさ》を投げあたえ、それを自由にさせておいてから、また悪戯《いたずら》することがある。穴山の態度は、それに似ていた。
「柳さん、はやく助けて。ひどいわよ、助けてくれないなんて……」
夫人の声には、こういう場面を目撃されて恥ずかしがっている風情《ふぜい》は、少しもなかった。かと言って、恥ずかしがる段階はとっくに通り越して、せっぱつまっているという様子でもなかった。だが、とにかく、その声には柳の全身をしびれさす作用があり、柳は、穴山の手ばなした彼女の身体のそばへ寄った。彼女の身体の、どこをどうしたら「助ける」ことになるのか、不明であるが、とりあえず彼女の手首をしばっている黒い紐をほどきにかかる。すると、穴山のステッキが柳の首すじを打ちすえてきた。ステッキは次に、柳の右耳を横なぐりに殴りつけてきて、柳の耳は、しばらくきこえなくなった。柳には、穴山がたとえ無類の乱暴者であっても、アタマのわるい殺人鬼などではなくて、アタマのいい悪人(あるいは豪傑)だと、よくわかっていた。悪質の親友にせよ、親友は親友だからという安心があった。したがって、二、三回殴ればそれでおしまいにするだろうと、予測していた。予測どおり、穴山のステッキは動かなくなった。
夫人が、うわさに聴く南米の密林に棲《す》む、自分で蔓《つる》をうごかす植物のように、腕をのばして柳の首にまきつけたとき、柳を襲ったのは何よりもまず「恥ずかしい!」という気持であった。そんな行為をする夫人が、厭らしいとは少しも感じられなかったが、そうやっている自分、そうやって穴山に見つめられ、見ぬかれている自分こそ、地上でもっとも恥ずかしい存在のように思われたのだった。
「ああ、燕雀《エンジヤク》イズクンゾ鴻鵠《コウコク》ノ志ヲ知ランヤ……」
という、東洋豪傑ぶった穴山の声が、おぼろげにきこえたとき、柳の口には夫人の口がおしつけられ、口ばかりでなく彼の全身に、裸の女性のなまぐさい湿気が侵入してきたのだった。
「ああ、哀れなる燕雀よ。みにくきものこそ美しく、美しきものこそ、げにみにくきものなるかな」
穴山は、尊大にそう言いおわると、ふたたび鞭を鳴らした。ステッキは、夫人の背なかに打ちおろされた。うめき声を発して、のけぞらせる夫人の背中には、二つの肩の骨のあいだに凹《くぼ》みができて、その凹みのため彼女の肉は、だらしない丸みではなくて、機敏な美しさで動くのであった。それに、背なかの動きは胸の動きであり、彼女の乳房が、まるで悪魔の武器のように、柳の胸に攻めよせてくる。柳は、穴山の鞭打ちから「女」を守ってやるため、どうしても彼女をかかえこまねばならない。サンドウィッチの二つのパンのように、ぴったりと合わさるべく、夫人の肉はますます柳の肉に密着してくる。
「ああ、おれ様が何という馬鹿馬鹿しい役目をひきうけたか。おシャカ様でも御存知あるまい。牧師さま、曰《いわ》く。汝ハ彼女ヲ妻トシテ永遠ニ愛シマスカ。アナタハ彼ヲ夫トシテ永遠ニ愛シマスカ。ヨロシイ。デハ、ウェディング・リングヲハメテヤリナサイ。アアメン。畜生め!」
起ち上った穴山は、柳の腰を蹴《け》りつけた。そのため柳は、夫人の身体の上に倒れかかった。
柳にとって、目を開こうが、目をとじようが、すべては暗かった。輝くばかりの暗さが、どこまでその暗さの濃度を増して行くか予想もつかないほど、彼の上にのしかかっていた。そして困ったことに、もしかしたら、その瞬間、彼はその暗さを「熱愛」しているのかもしれなかった。
そんな、|つくられた《ヽヽヽヽヽ》状態におかれた、柳本人にとっては、何をやろうが、すべて不本意、不満足なのはきまりきっていた。穴山や夫人の欲望を満足させてやるつもりなど、少しもありはしなかった。さればと言って、彼と彼女の欲望に反抗し、それに水をぶっかけ消滅させてやるという、つよい意志もはたらかなかった。
その上、柳には、「こんな場面を久美子さんにだけは見られたくないな」という、愚にもつかぬ見栄も棄てきれないでいた。宝屋の夫人と穴山の方は、そんな見栄だけは、とっくに棄て去っているにちがいないのに、自分だけがソレにこだわっている。それが実に、我ながらふんぎりのつかぬ腰抜野郎に思われて、厭なのであった。
「やれやれ。お前さんもやっぱり、男のはしくれではあるらしいな。なんとかかんとか理窟《りくつ》言ったって、だいぶ、もよおして来てるじゃないか」
お白洲《しらす》に土下座させた町人の、縄じりをつかんだ江戸幕府の捕方《とりかた》のように、穴山は柳の背後にまわってきた。
「もよおして来てる」「さかりがつく」「発情する」などという言葉を、柳はきらいだった。そういう種類の言葉を、ことに女性の前で吐きかけられるのは、お正月の羽根つきゲームで、墨を顔に塗られるのと同じような、侮辱を感じた。
「お前さんの|せがれ《ヽヽヽ》は、お前さんの自由にならぬ。さあ、さあ、どうしたらよかんべい」
穴山は、柳の不自由さを冷笑して、見世物小屋の前の、客呼び男のような、すれっからしの厭な調子で叫んでいる。
「せがれ」という日本語を、生殖器の意味で用いるのも、身ぶるいするほど卑俗な工夫だと、柳は思っていた。小学生のとき、立川文庫という小型の講談本で、この文字にぶつかったときにも、子供心に「わざとらしくて、厭らしい。自分のものなのに、他人みたいに言うのはおかしい」と感じていた。家族の一員を、なぜ男の肉体の一部の呼び名にするのか、少年の彼には理解できなかったが、理解できるようになってからも、そういう呼び方に不愉快を感じていた。
「|せがれ《ヽヽヽ》の乱暴を取締れない男は、善人か悪人か」
と、穴山はなおも、わけのわからぬことを意味ありげに言った。
「乱暴をはたらいてくれない|せがれ《ヽヽヽ》は、何のたしにもならない。取締る必要のない|せがれ《ヽヽヽ》は、死人も同然だ。立派な息子を持った父親はしあわせだと言うが、取締れないほど立派すぎる|せがれ《ヽヽヽ》を持った父親は、はたしてしあわせかどうか。男子の生殖器を『せがれ』と呼びならわす、我らの習慣に、汝ヤナギよ、よくよく心しなければならぬ。汝の文化人趣味、インテリ意識からすれば、野卑そのものときこえるであろう、この呼び名には、実に深遠なる意義がこめられているのである」
「君の言うことは、下品だぞ。やることも言うことも、みんな下品だぞ」
と、柳は反抗的に叫びはしたものの、では上品な言い方、下品なやり方がどんなものか、相手に見本を示すわけにはいかないのであった。
「……よろしい。たとえ君がわしを『下品』と罵《ののし》ったからと言って、わしは君に、上品な|せがれ《ヽヽヽ》と下品な|せがれ《ヽヽヽ》の区別を質問して、お前さんを困らせるような真似はしまい。お前さんの|せがれ《ヽヽヽ》が硬直しきっている最中に、こんな意地わるな質問をしたってはじまるまい。硬直せる奴と、硬直せざる奴の上品、下品についても今新しく論ずることを止《や》めにしよう。仏教における上品《じようぼん》と下品《げぼん》なるものは、悟りの位階を明示するものであって、決して感覚的なえこひいきではない。修行の結果、上品位《じようぼんい》を獲得せる羅漢の|せがれ《ヽヽヽ》が、どのような上品《じようぼん》性をあらわすか、不肖穴山、いまだつまびらかにしておらんが。目下のところ、充血して猛烈に活動したがっている貴公の|せがれ《ヽヽヽ》と、その暴徒を取締ろうとして、りきんでいる警視総監、あるいは憲兵隊長のごとき父親の対立関係が問題なのだ。父は、わが息子を愛す。息子は、はたして、わが父を愛するや。おお、|せがれ《ヽヽヽ》、でかしたぞ。そちは天晴れ、君に忠、親に孝。仁義礼智信、かねそなえた若者よ。と、親父さまはしきりと息子をほめたがるが、|せがれ《ヽヽヽ》の方は国家の大事、お家の盛衰におかまいなく、ただむやみと娘さがしに熱心で、さがしあてれば、これぞ絶対の正義なりとゴシゴシ行動するだけではないか。その行動たるや、もののあわれも、サビ、ワビ、シオリもそっちのけの機械的な運動にすぎんというのに。|せがれ《ヽヽヽ》の喜びは、父の喜び。|せがれ《ヽヽヽ》の働きは、すなわち父の働き。|せがれ《ヽヽヽ》の幸福は、とりもなおさず親父さまの幸福。おシャカ様の父親、イエス・キリストの父親のほかには、わが息子を崇拝する父親はめったにないにしても、たいがいの父親は、|せがれ《ヽヽヽ》を溺愛《できあい》するものだ。たとえ、腹立ちまぎれに勘当したりしても、後悔するのがおちだからな。ところで、|せがれ《ヽヽヽ》の父親は、あくせく働いて立身出世し、あるいは失敗し没落する。事業を成功させ、財産をふやし、社会的な信用を固める奴もあれば、|せがれ《ヽヽヽ》同様に変りばえのしない毎日を送って、日蔭者の一生のおわりに衰えはてて、くたばる奴もあるのだ。たとえ父上が、ノーベル賞級の物理学者として、宇宙の原理の探究に没入し、円熟し、ついに新発見に立ち到ったにしたって、不肖の|せがれ《ヽヽヽ》は、あいかわらず|せがれ《ヽヽヽ》でありつづけて、昔ながらの|せがれ《ヽヽヽ》ぶりから一歩も前進しやしないんだからな。ところが、この|せがれ《ヽヽヽ》が父親を生むのだ。ただただ、この|せがれ《ヽヽヽ》の奴だけが、新しい父親を生むことができるのだ。|せがれ《ヽヽヽ》がなければ人間の男性は、永久に父親ではありえない。いやいや、エイエイとして築きあげた人類の叡智《えいち》、文化の結晶は、この奇妙な肉棒に支えられなければ一本立ちすることも、永つづきすることも不可能だったんだ。この無意識な、まるで良心も反省もない奇怪な肉棒が、棒から棒へと受けわたしてくれなければ、人類の幸福も不幸も、はじめっから存在してくれはしなかったというわけだ」
穴山は、手にしたゴム皮ステッキを、再び鳴らした。
「宿屋さん、芸者衆、金融業者などの家なんかで、この|せがれ《ヽヽヽ》の肖像、つまりは人工の肉棒を紫の幕をかかげてお祭りしている、新興宗教の信者もあるくらいだ。元金が利子を生み、利子が元金をふとらせるとすれば、これほどおめでたいことはないにせよ、婦人信者たちには、打算のほかに、感覚的な願いをこめているフシもある。打算と感覚をこねあわせて、神秘の柱をこねあげる婦人信者たちの智慧《ちえ》を、頭のわるい日本の共産主義者たちも、ちったあ学んだらよかるべえと言うのだ。いいかね。千九百何年テーゼとか称して、海外の『祖国』から密輸入された紙っ切れを、真剣に討議するのは、いじましいことではあるが、その前に彼らはまず医者と坊主を動員して、総理大臣、大蔵大臣、外務大臣、宮内大臣、陸海軍大将、貴族、華族、大実業家の|せがれ《ヽヽヽ》の肖像を撮影し、それを日本の貧民の|せがれ《ヽヽヽ》の肖像と並べて焼き増しして配布すればよろしいのだ。大懸賞が流行しているさいだから、説明ぬきの写真入りビラを流して、1、2、3、4、どれが誰さんの|せがれ《ヽヽヽ》だか当てさせてみるのもよろしかろう。奴らの最近のテーゼとやらでは、封建主義的権威の打倒を第一目標としているらしいが、そんなにものものしく討議決定したところで、せいぜい非合法新聞に下手くそな漫画を掲載するぐらいで、何一つできたためしがない。おれたちは今後大いに権威を利用するつもりだから、奴らのだらしなさは有難いにはちがいないが、それにしても敵ながら腑甲斐《ふがい》ない奴らだ。彼らだってめいめい、自分の|せがれ《ヽヽヽ》を一本ずつ所有して大切に保存しているはずなのに、日本資本主義発達史ばかり研究(あれが研究と言えるならばだが)して、一向に|せがれ《ヽヽヽ》の社会性や革命性を応用したがらんのだからな。もっとも、彼らが新興宗教の智慧を拝借しないでいるには、用心ぶかい理窟もあることはある。と言うのは、もし写真戦術をつきつめて行けば、彼らは彼らの『祖国』ロシアの偉大なる指導者たちの|せがれ《ヽヽヽ》たちにも、カメラを向けねばならなくなるからだ。そして、その結果、彼らが打倒したがっている目標のソレと、彼らのあがめ奉っている大先輩のソレとが、寸分ちがわぬ姿かたちをしているに過ぎないとなったら、せっかくの努力も水の泡《あわ》、国際的、国内的な面目は丸つぶれになるだろうからな。そうなればきっと、『いや、実はあれは、ほんとうの|せがれ《ヽヽヽ》の写真でなくて、別人の……』だとか、『歪曲《わいきよく》された、デマゴーグ製作の写真を信ずるな』だとか、『写真は撮影するものの主体性によって、どうにも変化する頼りない危険性がある……』とか議論しはじめて、彼らの党は分裂したり、再分裂したり、てんやわんやの騒ぎになるだろうからな」
「君は左翼の悪口ばっかり言うが、右翼の方がもっといやらしいぞ」
「右翼? そうだ。そのとおりだ。だが、おれ様の生きているあいだ、右翼は成長株だ。ぐんぐん昇りつづける。何故かと言うと右翼には、国際性がないからだ。いいかね。|ある《ヽヽヽ》からではなくて、|ない《ヽヽヽ》からだ。いくら商売下手の日本政府だって、国外の買い手が商売繁昌のため大切なお客さんだというくらい、百も承知だが、国際性のない方向へ踏みきったのは、バカと見せかけて、案外、国民心理をつかんでるのかも知れんのだ。そのへんの勘所《かんどころ》は、へっぴり腰の国際平和主義者には、わかりっこあるまいが。それはまあ、どっちだっていいとして、重大なのは親父の方ではなくて、|せがれ《ヽヽヽ》の話なんだ。ほんとうに国際性のあるのは、右翼でも左翼でもなくて、実は|せがれ《ヽヽヽ》なんだからな」
「……右翼でも左翼でもなくて、せ……」
「そうなんだ。お前さんが只今、たった一本もてあましていなさる、その肉棒こそ国際性の根源なんだ。|せがれ《ヽヽヽ》様こそ、世界人類のインターナショナリズムを保証できる、ただ一つのつっかえ棒、魔法の杖《つえ》というわけだ。親父どもにくらべれば、|せがれ《ヽヽヽ》どもはあれでも、根っからの平和主義者と言えるだろう。口から泡や唾液《だえき》を噴いて論戦し、身体髪膚《しんたいはつぷ》から血を流しあって争闘する親父さまたちに、くらべればな。泡や血も、ほんのたまには噴くことがあるか知れんが、|せがれ《ヽヽヽ》と|せがれ《ヽヽヽ》が組打ちして、相手の息の根をとめたという話は、寡聞にして未《いま》だ聞いておらんからのう」
「……ぼくは、豪傑ぶった口のきき方をする奴は信用しないよ。古くさいみたいで、きらいだよ」
宝屋夫人の肌が自分の肌から離れて行くのを感じながら、柳は言いかえした。いつ果てるとも知らぬ穴山の長談義に迷惑しているのは、柳よりむしろ、裸の肌をさらした夫人の方であるにちがいなかった。柳に向って黒雲の如く噴き出され、おおいかぶさってくる穴山の長広舌は、あでやかな夫人の白い裸身や、彼女のなまめかしい興奮を無視して続いていた。さっきから穴山の濫用し濫発している「せがれ」という日本語が、情熱に燃えたがっている女性、恋愛に没入したがっている女性にとって、肌と肌のあいだにグイと刺しこまれる、冷たい金属的な棒のような隔離作用をしていることは明らかであった。十九歳の柳は、脂ぎった中年婦人たちが膝《ひざ》つきあわせて笑いあう、あの好色ばなしが何より嫌いだったし、もしもその種の好色趣味をむき出してきたら、彼の好きな宝屋夫人をも嫌悪したはずだった。もしかしたら穴山は、夫人の肉体と柳の肉体とを、むりやり結合させたがっている振りをして、実は、巧みに反撥させ、分離させようと企んでいるのかも知れなかった。自分の肌と夫人の肌のあいだに、すき間ができて、女の肉の軟い温《ぬく》みのかわりに、事務的な、あるいはあまりに自然そのものの空気が流れ入ったとき、柳は一瞬、どうなっているのかよく観察していないにせよ、とにかく|しどけない《ヽヽヽヽヽ》恰好のまま男の身体を手ばなして、別の場所へ移ろうとする彼女に、一種のしおらしさ、弱さ、女らしさのようなものを感じた。
ヌルヌルと光るカタツムリの触角を突ついてやると、とても人間の真似のできないほどの速さと、柔かさでひっこめる。そんな具合にして、夫人は、その場から身体をひっこめたのであった。ひっこめるとは言っても、貝殻の中に、すっぽりちぢかめるわけにはいかないので、暗くなっている部屋の隅の大型ベッドの方へ去ったのであった。
「奥さまは、逃げて行きなさった。おれの毒舌の、あまりの穢《きたな》らしさを浴びせかけられ、せっかくのロマンチックの情熱まで汚《けが》されなさったので、逃げて行きなさった」
退却した夫人に追い討ちをかけるように、穴山は言った。防禦《ぼうぎよ》の姿勢でベッドに横たわった夫人の両眼は、うすくらがりの中でも光っていた。それは、相当の敵意にもえて、相手を射すくめ、射返そうとする力のこもった眼であった。
「世の中には、どうしたって女には愛されっこのない男がいるもんだわ。肉体的にも、精神的にも、女から見てどうしたって|むさくるしい《ヽヽヽヽヽヽ》男がいるもんだわ」
「おれが、それなんだね」
「そうよ」
夫人の声には必死の想いがこもっていたが、穴山の声は、舌なめずりするような、邪悪な喜びでみちあふれていた。
「この世には、誰だって許しがたいような、兇悪犯人がいるもんだよ。どう考えたって、この地上に生きていてもらいたくないような、狂暴無類の、強盗強姦殺人犯がいるもんだよ。ところが、その男にさえ、かならず一人や二人の情婦がひっついているもんなんだ」
「…………」
「金のためだろうか。性欲のためだろうか。その男と瓜《うり》二つの兇悪性のためだろうか。どうして、どうして。そんな簡単なものじゃありゃしない。どうせ救われっこのない、その憎まれ者の男女一組のあいだを結びつけた、ゴムノリみたいなねばっこい物は何だろうか。それは、ロミオとジュリエットさん。例のけだかい貴公子と貴婦人を結びつけたものと、何のかわりもありゃしないんだ。なーんの変りもありゃしないんだ」
「出て行けよ。穴山、出て行けよ。もし出て行かなければ、ぼくは君をしめ殺すぞ」
柳は、両手をのばせば相手の首にとどくところまで接近し、正面から穴山と向いあった。穴山は、身がまえもしないで、両手を下げたゴリラのように突っ立っていた。
「おれは、出て行くところなんだ。夜明けまで、あと一時間だ。おれが出て行ったあと、お前が何をやるか、おれにはよくわかっているからな。お前が何をやるかではないんだ。おれが、お前に何をやらせるかが、ちゃんと決ってしまっているからな。おれが出て行ったあとで、お前は、おれがお前にやらせたかったことをやるだろう。いいや、そうじゃねえか。お前に絶対にやらせたくなかったことをやるだろう。そう言っといた方が、効果的かも知れんしな。まあ、いいさ。つまりお前さんは、おれがやりたかったことを、そっくりそのまま実演することになるだろう。そう言っちまうと、お前さんがおれの真似をするようで、気落ちしてやりにくくなるか。そうだ。要するにお前さんは、おれのよりよき代理人として、おれの意志とは無関係に性的行為をなすであろう、か。おれを、しめ殺す? できれば、それに越したことはないだろうが。だが、お前さんは、女のために人殺しのできる男じゃないよ。他の何かのため、例えば、わけのわからぬ宇宙的な好奇心とか言ったもののために、人を殺すことはあるかも知れんがな」
別段意気ごみもせず、穴山がそう言ったとき、さまざまの厭らしい行為、憎たらしい発言にもかかわらず、彼のたくましい面つきには、ひどく淋しげな、暗い影がただよっていた。穴山は、椅子の上に丸めてあった浴衣を手にとると、思い切りよく部屋を出て行った。
穴山のあとにつづいて、なぜ柳も同じように部屋を出て行こうとしなかったのだろうか。もしも部屋にとどまっていれば、穴山の予言が的中するのは、わかりきった話だというのに。
柳は、夫人を怨んでいた。怨む権利もないのに、怨んでいた。少しの男らしさもない、全くねじくれた気持で、何かしら夫人の心を傷つけてやる言葉を吐きかけ、できれば、穴山とはちがった、あからさまに残酷ではない手段で、いじめるとまでいかないでも、一打ち加えたくなっていた。自由自在にふるまって立ち去った穴山に対する嫉妬心《しつとしん》と、自分の態度のすべてを夫人に見聞きされてしまった恥ずかしさ。それに、穴山などを部屋に引き入れ、自分の心をすっかり動転させてしまった夫人の、わけのわからない心理などに逆上してしまっていた。そして何より悪いことには、今まで支配していた穴山の居なくなった室内で、裸の夫人の魅力が、部屋一杯の大きさでひろがってきて、大きな毛皮の外套《がいとう》のように、柳をつつみこんでしまったのである。
「ここへ来て。はやく、ここへ来て……」
と、夫人がささやいたとき、柳は「ぼくは、そこへ行けた義理《ヽヽ》ではないぞ」と考えていた。その義理《ヽヽ》とは、どんな種類のものか彼には判断もつかなかったが、スリッパの脱げた足の裏が絨氈《じゆうたん》をふんで行くとき、自分の足の指、一本一本の歪《ゆが》んだ形が、気味わるいほど感じとれるような、「義理のわるい」精神状態であった。
「わたしだけ裸で、あなたが裸でないなんて、ずるいわ。はやく、あなたも裸になって……」
その声は、特別甘えたり、ねばりついたりする声ではなかった。それどころか、その声をきいただけで、彼の目には、夫人の姿勢が清潔な、好ましいもの、厭らしいしめっぽさのない、綺麗に乾いた純白のものに見えてきたのだった。
「好きなのよ。あなたを、好きなのよ。あなたを好きだということのほか、何もかも忘れさせて……」
夫人の訴え(それが技巧的なものか、単純なものか、彼にわかるはずはなかった)が、耳に入ったとたんに、彼が彼女に「何もかも忘れさせる」どころか、彼自身が何もかも忘れそうになっていた。
「何をしても、いいのよ。ひどいこと、してもいいのよ。あなたなら……」
一体、何をすればいいのか。平凡に、きわめて手ぎわわるく彼女に抱きつき、平凡な中でも平凡な動作を、手ぎわの悪さの標本みたいにして、どうにかやってのける以外に、彼に何ができるのか。
汗みどろになって労働する肉体。人間の生きて行くために必要な食物や衣料や家屋を生産しようとして、力をつくす筋肉。それを柳は、すばらしいものだと思っていた。はたらきつづける健康な肉体を、無意味な、下賤《げせん》な、仮りのもの、空《むな》しいものだなどとは、とても考えられなかった。そこまで「空」をつきつめて行かなければ、「仏道」に到着することはできないという予感はあっても、そう考えるのが、たまらなく厭であった。病気や老衰とはエンもユカリもない、強健な肉体をめぐまれた若者なら誰でもそうであるように、武者修行やアフリカ探検、未開の荒野や密林に斧《おの》をふるう開墾、敵の前線をくぐりぬける斥候にあこがれる一種の肉体|礼讃《らいさん》、活力崇拝があった。むずかしい仕事をやってのける、たくましい肉と骨こそ、男子の生きがいを立証してくれる目印のはずだった。
夫人と抱きあった柳の肉体には、そんな誇らしいもの、すばらしいもの、建設的なものは何もなかった。くすぐったいとか、あったかいとか、やわらかいとか、しめつけられるとか、のしかかるとか、おしつけるとか、おさえつけるとか、いろいろの感覚的事実は次から次へ発生して、けっこうその連続だけで柳は興奮してしまったのであるが、それはモノを産みだす人間の肉体の真剣な努力とはちがっていた。畠《はたけ》の泥ふかく鍬《くわ》を掘りさげる農夫、高々とそそり立つ樹木の幹に手斧《ちような》を打ちこむ樵夫《きこり》、まっ赤に焼けた鉄を打つ鍛冶屋《かじや》の肉体のうごきとはちがっていた。はたらけばはたらくほど、産み出されてくるものが増してくる、それらの筋肉労働の喜びとは全く質のちがった熱中が、そこにはあった。
もちろん、彼も夫人も真剣ではあった。ばかばかしいほど必死になって、自分たちの欲望を満足させるために、自分たちの裸の肉体をはたらかせた。しかし、彼の肉体のはたらきには、真夏の太陽の下でノコギリを引いて薪をつくるとき、真冬の朝風に吹かれて寺の裏の畠で鍬をふるうときの爽快《そうかい》さはなかった。いつもは全く労働作業に使用していない、肉体の一部を、あたかも耕作用のスキや、鉄をきたえるハンマーの如くはたらかせるわけであって、それはそれで自然な行為にはちがいないにしても、その他の全身のからみあいというものは、たんなるスポーツやふざけあいともちがい、未熟練者の柳には、どんな製品が生れてくるのか不明な、勝手のちがった機械と取組む想いだった。第一、彼には、そのさいの快感あるいは快楽が、これ以上明確なものはないはずなのに、何となく無限に近づいては行くが、なかなか到着できない山頂のように思われた。火花のように鮮明なくせに、黒雲のようにとらえどころのない、ふかいふかい地底へ向って|上昇して《ヽヽヽヽ》行くわけであって、たしかに目標はハッキリしすぎるほどハッキリしているくせに、水泳やスキーともちがい、一般の筋肉労働ともちがって、ややこしい柔軟な逆転のようなものが、頭脳をバカにしてしまうようなのであった。
仏教で言う「色即是空《しきそくぜくう》」の「色《しき》」とは、むずかしく言えば「物質」みたいな物理学的な用語になるが、要するに目で|見えるもの《ヽヽヽヽヽ》、或は目で|見ること《ヽヽヽヽ》なのだと、柳は解釈していた。見えるもの、見ることが、すなわち「色《しき》」または「色《いろ》」のはじまり、つまりは「好色《こうしよく》」の出発点である。色のほかに、香、味、触の感覚があるにしても、まず色が手っとりばやい第一歩なのだ。彼の目に|見える《ヽヽヽ》夫人の肉体は、たしかに|見ること《ヽヽヽヽ》によって、彼に快感をあたえた。恥ずかしがりの彼には、女の全身をしげしげと見つめることはできなかったにせよ、彼女の裸身の部分部分を、瞬間瞬間に見て楽しかったのは明らかである。香、味、触の方も「色」と一緒くたになってやってきたにはちがいないが、やはり「色」すなわち「見る」こと「見える」ことが、尖兵《せんぺい》となり部隊長となって他の感覚どもを誘導し指揮したのであった。「女を|見て《ヽヽ》喜んだりしたら姦通したも同然じゃ」と、イエス・キリスト様が人々に忠告なさった話を、柳はキリスト教の友人からきかされていた。「ずいぶん、手ひどい言い方だなア」と、そのとき眉をしかめたものであったが、よくよく考えて見れば、おシャカ様とキリスト様は同じことをいましめていらっしゃったわけだ。柳の方では、とっくの昔にこの二人の聖者、二人の予言者の存在を忘れ去っていたにしても、お二人の方は「色」の教訓を伝達しようとして、カズならぬ彼の身の上を見守っていて下さったわけなのである。
「色《しき》」感覚、「色《しき》」行為において熟練者である夫人が、見えること、見られること、見せつけることの技巧において完全無比だった、否、あまりに完全無比でありすぎたために、柳当人は手のほどこしようのない、つまり喜んでいいのか悲しんでいいのか、ただただ呆然自失していたのであった。次の「香《こう》」においても、おそらく夫人は脂肪の香《か》その他、化粧品の良い匂いばかりでなく、あらゆる肉体そのものの香気を発散させていたにちがいなかった。第三の「味《み》」となれば、これはどうしたって柳の方で、舌や唇を用いて積極的に味わわなければ感覚できないものであった。柳だって、そうとう積極的に行動したにはちがいないけれども、色《しき》、香《こう》、味《み》、触《そく》と区別して享楽するゆとりがないからには、果してどんな味がしたかなどと記憶にのこるはずもないのであった。それに、女体の味が甘いとか辛いとか言っても、糖分の多少によって判別すべき「味《み》」ではないのであって、とにかく「味があった」という以外に、精密な表現を許さないのである。であるからして結局は「触《そく》」が重大問題になるわけであって、やがて東の空が明るくなりかかっている午前四時半に、柳がもっとも熱中したのはその方面であったろう。
「あなた、強いわね」という夫人のささやきが、触行為における彼の熱中ぶりを証明している。爪のはがれている親指の痛みが、かえって彼を、そんな痛覚を忘れさせる別の感覚への没入に誘ったという事態が、あったかも知れない。
宝屋の別荘から伊豆山の船着場までは、坂道を登りつめ、崖《がけ》の上の海岸道路へ出て、十五分ほど歩いてからまた海へ向って降りねばならない。自動車を呼ばなかったのは、穴山の提案であった。柳の坊主頭にソフトをかぶせ、背広を着せたのも、穴山の指図であった。穴山自身は、坊主頭に手拭いを鉢巻にし、色黒のどてら姿は、漁師そっくりであった。海側の大旅館は、冬の樹々の茂みの向うにかくれ、道路からでは建物の屋根も見えなかった。門だけは、まばらに並んでいるが、めいめいが私設の通路で海べりまで客を奥ぶかく引き入れる、広大な敷地をもっているため、宿泊客の声も全くきこえない。久美子は、できるだけ目立たない洋装の上に、うす茶色のレインコートを着ていた。夫人との肉体交渉のあった直後に、久美子と顔をあわせたり、肩をならべて歩いたり、話をかわしたりするのが、柳は息ぐるしかった。敏感な美少女は、彼の肉体にまといついた、どんなかすかな生臭さも、かぎとってしまうにちがいなかった。一月の朝風の冷たさのため、彼女の顔は蒼白《あおじろ》くこわばっていた。その緊張しきった蒼白さには、たんに海風の寒さをこらえている以外の意味がこもっているのは、わかりきった話だった。「これから逃亡犯人に会いに行く」という、小冒険のための緊張だけだったら問題はなかった。だが少女の顔つきが、やや年寄りくさく沈んで見えるのは、何か別種の絶望と向いあってしまって、その結果、骨まで冷えてしまっているためと見うけられるのであった。久美子は、これも穴山の指示によって、漁場の女のはきそうな、黒いゴム長靴をひきずっていた。そのため、彼女の足がおくれがちになるので、穴山はしいて足を速めようとはしなかった。穴山とも久美子とも、口をききたくない恥ずかしさに包まれた柳の方が、ついつい急ぎ足になる。
「彼女とのことは、忘れてしまえ。何もたいしたこっちゃないんだ」
久美子には聴きとれない声で、穴山は言った。
「あれは、悪くない女だ。それだけだ。だから何も、あれについて考えることなんてありゃしない」
海はまだ、輝きわたるほど明るくはなかった。空からも陸からも、まだ晴れわたらない水蒸気の幕が灰白色にせり上り、たれ下っていた。それにしても、崖上の道からはるか下方にひろがる海面は、うす白いもやの彼方に限りなくひろがっていて、柳には自身の小っぽけな生臭さを悲しむ、ぼんやりした気だるさを感じさせた。その気だるさの中で、柳の想いは、宝屋の姉妹二人の両方へ、朝もやが二つに裂けて流れ分れるように、漂いはなれて行っては、また一つになった。
「……私のことについて、あなたは何も責任を感じたりする必要ないのよ。私は、真剣だけど。何もあなたまで私みたいに、真剣にならなくてもいいのよ」と、夫人は最後にささやいたけれども、柳の肉体にも精神にも、「責任」の|しみ《ヽヽ》がぬぐいがたく附着していた。また一方では「久美子のことをよろしく頼みますよ」という、宝屋の主人の声が彼の耳の底に消えやらずに残っていた。おくれがちの久美子が、時たま柳と肩をならべると、きびしい眼つきで彼の横顔を見やった。柳の欲望の灰は、まだぬくめられていた。責めるような久美子の視線をうければ、さめるはずの余熱は、かえってあおられて赤い燃えのこりを光らせた。今までは、淋しげな少女の肉体としてしか眺めていなかったのに、今朝はいつのまにか、姉さんの肉体とくらべ見る眼ができてしまっていた。そういう厭らしい、燃えくすぶる残り火のほてりが、彼を一そう恥ずかしがらせた。おまけに、その恥ずかしさの壁を一枚破ってしまえば、性の快楽の園《その》は、とてつもなくひろがりそうな予感さえした。その恥しらずの予感が、彼はきらいだった。
煙草屋も、そば屋も、まだ店をしめていた。海上の雲の色は、さまざまに変りはじめていた。太陽の金色の光線を、やっとのことで防ぎとめている雲の群は、もはや支えきれない味方の陣地の動揺をあわただしく示しているかのようだった。漁夫たちの掛声が、遠い海面にたゆたっていた。雲の層はうすれ、雲の形はみだれ、雲の陣地はその端の方から、敗北を恥じるように、うす赤く染められた。
「若いうちの苦労は、身のためになるんだ。やれるだけの苦労は、自分の方からすすんでやっておくべきです」
と、穴山は久美子に言いきかせた。
「……ええ。私も、そう思っていますけど。何を、どうしたらいいのか、自分でもわからないので」
「そうですか。その覚悟なら、けっこうです。まあ、まかしておきなさい。あなたの気持は、よくわかっているつもりです。言うなれば、あなたは浮世を棄てて、尼寺にでも入ってしまいたい気持でいらっしゃる。早いところ、尼さんにでもなって、仏道修行に没入したくなっていらっしゃる。ねえ、久美子さん、そうでしょう」
「……ええ」
と、久美子は素直に、また、ためらいがちに答えた。
「……尼さんになると、まだ決めてしまったわけではありませんけど」
彼女はそうつぶやいて、柳の方を、ややうらめしげな眼つきで見やった。
「そう、そう。そうですとも。仏教をやるつもりで尼さんになるなんて、それくらいバカバカしい話はありませんよ。仏教と尼さんなんて、何の関係もありゃしないんだから。若いうちから、あんなものになっちまったら、この人生のなみなみならぬ価値を、何一つ味わうことなく終ってしまうんですからね。人生の価値のわからん女に、仏教がわかってたまるもんですか。なあ、そうだろう、柳」
「…………」
「柳は、お前、久美子さんが尼さんになるのに、反対だろう? え?」
「うん、反対だよ」
「そうだろう。尼さんになら、いつだってなれる。何もいそいで、あんなつまらん者になる必要はありゃしない。おれは、坊主の女房になった尼さんを知ってるがね。髪をのばして、普通の女にもどって、お寺のかみさんにおさまっているんだが、その厭ッたらしいこと。何ともかんとも言いようのない、ゲロの出そうな奴なんだ。冷たいような、権力好きなような、口達者で助平ッたらしくて、欲ばかり突っぱりゃがって、箸《はし》にも棒にもかからん救いがたい存在だったよ。久美子さんは、どっちへ転んだって、そんな女になる気づかいがないにしてもだな。まあ、尼さんだけは、おすすめできない。願い下げにしてもらいたいよ。第一、もったいないと、おれは思うよ。たぐいまれなる美女というものは、つまるところ、あらゆる可能性をはらんでいる生物ということだ。あらゆる可能性とは、言いかえれば、あらゆる苦労、あらゆる快楽が可能であるということなんだ。その可能性を充分に生かしきってこそ、美女の美女たる生きがいがあるわけだ」
「……ぼくはね」
と、柳は、穴山の話をさえぎらずにはいられなかった。
「ぼくは、久美子さんが尼さんになるのは、むろん反対だよ。だけど、久美子さんが君の指図にしたがって行動するのも、反対なんだよ」
「おれはただ、久美子さんを宮口という男に紹介するだけの話だ。美しい少女と強い男を、ただたんに知り合いにさせてやるだけのこった。結びつきのきっかけをつくるだけの話で、何も指図はしていやしない」
「しているよ」
「そうか」
と、穴山は考えぶかげに、大きな眼で柳を見つめた。
「もしも宮口が、久美子さんにとって強烈な魅力のある男だったら、彼女は当然、宮口にひきつけられるだろうな。ひきつけられて、危険なハウスキーパーの役でも、ひきうけることになるかもしれんな。だが、もしも柳の方が、宮口より魅力のある男だったら、彼女は宮口の方へは行かないで、柳の傍にとどまることになるだろうな。いずれにしても、おれは指図なんかしやしない。せっかくの可能性が立ち消えにならんように、お膳立てをしてやるだけのことなんだからな」
三人が右へ折れ、急な坂道をくだるころ、道も山も海も、すっかり明るく輝きはじめていた。坂の両側の溝《みぞ》には、湯のけむりが立ちのぼっていた。急傾斜の片側の溝は、小川の幅をなして、清流をまじえた流し湯が、走り下っていた。小さな家々の家並としめっぽい崖にはさまれた坂の道の、たくましく枝をはった古木の下あたりは急に暗くなり、走り下る温い水の音がはげしくなった。小川の川底には、藻《も》とも苔《こけ》ともつかぬ緑がゆらめき、黒く光る小石の上には落葉が散り敷いていた。
「越後は、簡単な男だ。あの程度なら一目みて、お見通《みとおし》のできる奴らだ。だが、宮口となると、そうはいかんぞ。おれにはまだ、宮口が一体どんな人物だか、うまくつかめんのだ」
「そうかなあ。なぜだい。宮口は、目的のはっきりした男じゃないか。彼くらい意志と行動の、はっきりしている男はいないじゃないか。わからんのは、むしろぼくたちの方じゃないのか」
「いいや」
と、穴山は暗く沈んだ声で言った。
「少くとも彼は、越後たちのように簡単な男じゃない。また、君の考えているような『男』でもない」
「……ぼくはただ、宮口は偉い奴だと思っているよ」
「偉い奴? そう。一種の|えら者《ヽヽヽ》ではある。日本の国家権力と真っ正面からたたかう、秘密集団の若き指導者。不屈の戦士と言ったところだからな」
「それだけで、充分じゃないか。それだけの大仕事ができる青年が、日本に何人いる?」
「|えら者《ヽヽヽ》という奴は、かならずどこか、うさんくさい所があるもんなんだ」
坂を降りきると、狭い船着場。その手前の大きな共同風呂にも、その時刻では風呂桶《ふろおけ》の音はしていない。コンクリートと天然石でかためた、その一角は、魚類の匂いでなまぐさかった。短い突堤には、くぐりぬけるのがむずかしいほど、網が干されてあった。うねりのある青い海面にくらべ、しずかな小さな港の水は緑色がかっていた。艪《ろ》をつかう和船のほかに、船の腹の高い漁船もあった。それらの遠出のできる大型の船には、焼き玉エンジンが附けられてあった。
人待ち顔の老人が、こちらに注意していた。背のひくい老人は、色あせた藍色《あいいろ》の半纏《はんてん》の背をかがめ、寒そうに立っていた。
「今日は良さそうだな。釣れそうだな」
と、穴山が気さくに声をかけた。
「釣れるも釣れねえも、お客の腕次第だからねえ。こっちの知ったこっちゃねえわさ」
と、老漁師は、もやい綱をほどきにかかった。
突堤と直角にのびている狭い浜辺は、岩場だった。突き出した小さな岬《みさき》(まあ、土手と言ったところだった)にさえぎられ、浜はすぐ行きどまりである。黄色がかった、うす茶色の岩壁の上に、樹木の枝がかぶさっていて、その下が岩にかこまれた温泉だった。波をかぶれば、すぐ塩水で洗い流されそうな、あぶなっかしい湯のたまり場は、ぬるぬるする湯の垢《あか》と、海の苔におおわれていた。船からあがるが早いか、湯にとびこんだ漁師の若者が二人、赤ふんどし一つで立っていた。彼らは、何も言わずに久美子を眺めていたが、久美子はそちらを見ないようにしていた。
「どうして、もっと早く来ねえんだ。こう遅くなっちゃ、魚はかからねえよ」
老漁夫は、三人の乗船をせきたてた。柳は、岸壁から船へ乗りうつる久美子に、手を貸してやった。姉にくらべ、妹の手は肉づきがうすく、乾いていた。老人が、焼き玉エンジンをかけると、船板は小きざみにふるえた。どこに腰をおろしていいか、とまどっている久美子に「どこでもいいから坐りな。立ってると、よろけるぞ」と、老人は注意した。
彼らのあとから乗りこんできた、若い漁夫が宮口だとは、柳ははじめ気がつかなかった。誰にも声をかけず、竿《さお》をあやつって岸壁から船をはなす宮口は、船板をふむ足さばきもたしかだった。他の船のあいだをすりぬけるため、彼は何度も竿をもちかえては、船のへさきやともへ走りまわった。
高い陸地から見下ろした海面は、波一つなく静まって見えたのに、船をゆすりあげる波のしぶきが、へさきを白くしていた。船はまっすぐ沖へ向って、フルスピードで走った。かがやきわたる海面の照りかえしで、船内の人物の姿かたちは、地上にいるときより明確だった。穴山は、へさきより一段ひくい板の間の中央に腰をおちつけ、「青年漁夫」の動作を、注意ぶかく見守っていた。宮口と穴山は、まだどちらからも、声をかけていなかった。久美子と柳は左右に分れ、斜めに船ばたから、遠ざかって行く陸地の方を見ていた。よく陽をうけた丘陵地は、上部には蜜柑畠《みかんばたけ》や松林の緑がかぶさり、その緑もまだらにはげて赤土をむき出していた。海べりの石垣は細い帯となってつづき、帯が切れると大岩の群が突き立っていた。陸をはなれるにつれ、黒みを増した海水は、光りながら盛りあがった。
宮口は船板をもちあげ、釣縄をとり出した。大きな釣針のついた縄は、長かった。宮口は長さをはかって、その一本の端を久美子に持たせた。小魚の形に似たウキがついていて、餌は附けなかった。やりようがわからなくて困っている久美子にかわり、宮口は勢よく釣縄を投げた。船べりから三メートルほど彼方で、ウキは釣られた魚のように、水にさからって跳ねあがった。宮口は、別の一本を柳にあてがった。はるか彼方の水の下で、細縄は、大魚でもかかったように、柳の指をひっぱった。手首にからめておかないと、縄が取られそうだった。船は、左へ旋回してすすんだ。「釣れると困るわ。私、釣れない方がいいわ」と、おそろしそうに久美子はささやき、それでも一生懸命、細い手先に力をこめていた。
留置場で柳の見た宮口の顔は、髭《ひげ》も穢らしく生えていたし、黄色くむくんでいた。たくましい骨格はわかっても、老人くさい、病人じみた囚人にすぎなかった。まばゆい海上の光線にさらされた今朝の宮口は、まるでちがって、青年らしい精気にみちていた。しかも年少の橋本左内(維新の志士)が、何よりきらったという「稚気」「乳くささ」「子供じみたあぶなっかしさ」が、漁師に姿をかえた宮口には全くなかった。軽はずみな、乳児臭をおびた柳にとって、自分と二、三歳しかちがわない青年が、そのように老成しきっているのが、おどろきでもあり、ねたましくもあった。
穴山が宮口を紹介するまで、久美子はその「青年漁夫」が、問題の逃亡犯人だとは全く気がついていない様子だった。彼女は同舟の男たちの誰の心理ともかけはなれた、自分ひとりの放心の海中へ、三メートルも先の釣糸のオモリのように沈みこんでいたのだった。
宮口は、在郷軍人でも愛用しそうな、軍隊式のカーキ色のズボン、カーキ色のシャツを着ていた。ズボンもシャツも風雨にさらされ、色あせている上に、うす黒く垢づいていた。そしてその服装は、変装とか思いつきとか言う感じでなくて、まるで宮口の皮膚が宮口の肉にへばりついているように、よく似合っていた。彼は、客に傭《やと》われた本物の漁夫のように、船の速度につれピンと張りつめた三本の釣縄を監視していた。
「かかってるよ」と、彼は久美子に注意した。
「え?」と、おびえたように振りかえって、彼女は自分の釣糸を宮口の方へ差し出した。宮口は彼女のわきへ、身をこごめて、縄をすばやくたぐった。船はたえず方向をかえながら、速度をゆるめなかった。海鳥の群れている方角へ突っこむため、老人は舵柄《かじづか》を手放せない。金属的な光沢をおびた波を切り裂いて、ウキが船ばたに近づいてくる。宮口の手で釣りあげられたソウダガツオが、固い魚体を船板にぶつけると、久美子は起き上って、身をよけるようにした。銀灰色にかがやく、青黒い魚が跳ねて足もとへ寄ると、彼女はゴム長靴を横へずらした。宮口が大型の針をもぎはなすと、魚のヒレのあたりから、鮮血がにじみ出し、久美子は視線をそらせた。
「なんだ。尼さんが一ばんさきに魚を釣ったじゃないか」
穴山は、愉快でたまらぬように大声で言った。彼は釣縄の先を足の下にふまえ、一升びんの酒を揺れるコップに注いでいた。彼はコップの酒を老人に手わたし、自分も別のコップで酒をあおった。スピードを増す船脚の力で、群れている魚の一匹をひっかける、その手荒い簡単な「釣り方」が、穴山の気に入っている様子だった。
「宝屋の久美子さんは、君が逃げ出した日に警察署に来てたんだ。あの大雨の日に、柳君の見舞に姉さんと一緒に行っていたんだ。だから、君とは因縁があるわけなんだ」と、穴山は宮口に言った。宮口は、七厘の炭に石油をふりまき、火を起していた。御飯を炊くらしく、小さな釜《かま》で白米もといでいた。
「おれは信用のならん坊主だが、柳と久美子さんは信用していい人間だ。……」
「いや、君も信用しているよ」と、宮口は無愛想に言った。
「だが、おれは革命党は大きらいだぜ」
「わかっている。だが、約束したら、頼まれた仕事は必ずやってくれる男だろう。……ほら、またかかっている。引いてごらん。今度の方が大きいかも知れんよ」
と、宮口は久美子に声をかけた。
「……私、お魚なんか釣りたくないわ。逃がすことはできないの?」と、彼女は弱々しく言ったまま、釣縄をたぐりよせようとはしなかった。柳は、宮口に対する嫉妬《しつと》も手つだって、自分の縄を船ばたに巻きつけ、久美子のそばへ寄った。柳に縄をわたすとき、はじめて安心したように彼女の表情がほころびたので、柳はうれしかった。魚の手ごたえなどまるで感触できないのに、波にさからう縄の引力は相当なので、柳は興味ふかくたぐりよせた。黄色っぽい魚の腹が、たわむれるように上下する海水にゆらめいて浮び上った。
「やあ、やあ、シイラだぞ」と、柳の背後で老人が叫んだ。さっきのカツオの二倍はある、いくらか平べったい魚が、なまぐさい海水をはねとばしながら、柳の胸にぶちあたった。
「でけえわや。でけえわや。煮魚にするとうめえぞ」と、客をあやすように老人は、しわがれ声で言った。黒光りする青魚の青みの下に、黄色っぽい腹部があり、青と黄のあいだに、青黒いまだらのある、その成熟したシイラを、久美子は気味わるげに見つめた。
「私、もう釣らないわ」と、彼女は眉をひそめて言った。「……海の中で楽しく泳いでいるお魚を、針でひっかけて釣るなんて、私、きらいよ」
「あんたが釣ったんじゃないよ。船が走りまわってるあいだに、偶然、針が魚にひっかかったんだよ」と、穴山は、おびえる少女をおもしろがって言った。
「ちがうのよ。だって縄をにぎってたのは私ですもの。私の罪なのよ」
「それは……」と、柳は言いかけて止めにした。殺生は、仏門の戒《かい》の中でも重大な罪である。中学生のころ、手にとまって血を吸う藪蚊《やぶか》をたたきつぶそうか、どうしようか迷ったことのある自分の過去を、柳は想い出した。江戸時代の律院《りついん》(律宗《りつしゆう》でない浄土宗にも厳格に規律を守る寺があり、柳の住む寺もかつてはその一つだった)では、熱い湯を庭へ投げすてることも禁ぜられていた。地面の虫類を無意味に殺すことになるからだった。徹底した不|殺生戒《せつしようかい》など保てるはずはないと、たかをくくってしまった現在の柳も、いざ少女に言われると、ギクリとするものが残っていた。釣りあげたばかりのカツオを、早くブツ切りにして醤油に漬けてたべたいな、と彼はさっきから唾をのみ下していた。庭の松を枯らす、蟻《あり》の侵蝕《しんしよく》をふせぐため、アリ滅《メツ》などという薬を松の根元に注入したりしている柳は、律院の戒などとは、千里もはなれた地点に落ちてしまっていた。「アリが多すぎるぞ。どうしてこんなに、アリが居なくちゃならないんだ」見はらしの良い宝屋別荘の庭の芝生に寝そべったとき、冬にもかかわらず、密生した芝の剛毛の下からうごめき出しては這《は》いまわるアリ族のおびただしさを、にくらしがったりしていたのだった。
宮口は、魚を釣りたがらない少女の様子を、落ちつきはらった大きな眼で、よくよく観察していた。
「おかしな魚だな。シイラと言うのかね。見たことも聞いたこともないぞ」
自分でも一尾釣りあげた魚を満足そうにたしかめながら、穴山は上機嫌だった。
「夏のシイラはまずいけどな。冬のシイラは、うめえもんだ」
二杯目のコップに舌鼓を打ちながら、老漁師も機嫌よく言った。
「おらは、シイラ取りの源助と言われてるだ。シイラしか取れねえ、漁の下手な漁師と言うわけだ。シイラとは、そう言ったもんだ」
「この爺さんは、女の話のほかは興味ない人なんだ。何をしゃべっても、さしつかえないよ」
と、柳たちを見まわしながら、宮口が言った。
「正直に言うが、ぼくが穴山君から提供して欲しいのは武器だ。たいした武器じゃない。それも、ほんの少量でよろしい。これは今のところ右翼関係から手に入れるのが早途《はやみち》だ。武装|蜂起《ほうき》とか暴動とか、そういう景気のいい計画は、こちらにはない。我々の一部にそういう動きがあっても、それは本筋ではない。我々は分裂している。中央部からして、とめどもなく乱れている。誰を信頼し、どの命令にしたがっていいのか、わずかの行動のはしばしまで、混乱しているのが大部分だ。新聞その他の報道に、悪意はあっても、報道そのものは概して正確である。まあ、それは諸君には関係がない。ぼくは、いずれにしても我々の党だけが、戦争に反対できる唯一の党であると信じている。その信念さえゆるがなければ、分裂や混乱がいくらはげしくなろうと、恐れるにはあたらない。諸君に、我々と同じ信念を持ってもらいたいなどと、ぼくは諸君に押しつけるつもりはない。ヨゼフ・スターリンは、神学校を卒業しようとした。かつてのギリシア正教の聖職者から、ロシア革命への参加者を少しは出したのも事実だ。だが、ぼくは大体において、日本の僧侶を信用していない。おそらくすべての仏教僧侶が、変革より保守をのぞんでいると見なしていいだろう。穴山君や柳君も、例外だとは思っていない。越後が穴山君を、ぼくに紹介した。柳君とは、たまたま同じ留置場で暮した。それだけの関係にすぎない。越後は危険な冒険主義者だが、今のところ裏切者だという証拠はない。彼のやりたがっているA計画に、ぼくは反対だった。今でも、そういうアナーキストの匂いのする企てには、すべてぼくは反対だ。たのみがいある組合一つ組織するための、執念ぶかい努力にくらべ、英雄主義的な瞬間的な冒険は、常にあまりにも安易なものだからだ。我々は、緊急大会をひらかねばならない。全国からの同志諸君の代表を一カ所に集めて、大会をひらき、しっかりした方針を決定せねばならない。どこに真の指導部の正しき方針があるか、それをできるだけ綿密、かつ正確に決定しなければならない。うそいつわりのない所、大会ぬきでA計画を防ぎ止める力は、ぼく自身にもない」
「君自身にも、君の党とかを統一する力がないわけだね」
と、穴山が意地わるく言った。
「そうだ。残念ながら、ない」
「すると、あんたの仲間うちでは、一部の青年少壮将校が、陸軍大臣や軍令部総長や参謀総長の宮の意志に反して暴走してしまう危険があるわけだな」
「そうだ」
「では、右翼の連中と何のちがいもないわけだな」
「そう思いたければ、そう思ってもいい」
「別に思いたくはないが、常識で考えてそう思うより仕方ないから、そう言ったまでなんだ。宮口君の党が、戦争に反対できる唯一の党だって、君はそう言ったっけな。しかし君らの御先祖様のレーニン君は、たしかこんなことを言ってたんじゃねえのか。帝国主義諸国は、かならず戦争をおっぱじめる。資本の蓄積がたっぷりと出来あがり、独占資本の支配が決定的になるのが帝国主義的段階であり、その段階をとことんまで登りつめれば、世界大戦はどうしたってボッパツせずにはいない。そのボッパツが革命を生みだすんだと、そう言っていたんじゃねえのかな。戦争あっての、革命なんだろ。大戦争がおっぱじまってくれないことには、いくら宣伝工作に身を入れても、革命なんざ起きるもんじゃねえと、レーニン君は言ってるんじゃないのかよ。だったら、どうして君ら、戦争反対なんかやるのかよ。むしろ戦争をあおった方が、目的を達成する近途《ちかみち》じゃねえのかよ。戦争に反対できる唯一の党だなんて威張っていないで、戦争を促進できる唯一の党になっちまった方が、権力奪取とかを、実現できるわけじゃないのかよ。日本にしろ、他の国にしろ、戦争で滅茶滅茶になる。負けたか勝ったかわからないくらい、両方が滅茶滅茶になる。そのあとで、その滅茶滅茶のおかげで権力の移行が起きる。権力者が交替する。君らが権力の座につく。(そんなこと百年たってもありっこないにしてもだ)。君らが労農党や社会大衆党に、いくら巧妙にもぐりこんで、議会主義者らしい戦術をやって見せたところで、今の情勢で、平穏無事な議会への進出なんか、君らが信用していないぐらいのことは、誰にだってわかってるんだ。敗戦で日本の上下が滅茶滅茶にでもならないかぎり、地下の|もぐら《ヽヽヽ》が陽の目を見て、象みたいに歩きだせるなんてことが、ありっこないじゃないか。君たち|もぐら《ヽヽヽ》を象類にまで変種させてくれる、たった一つの太陽光源は、ほかならぬ戦争なんだ。何かほかのありがたい光源なんか、どこを探したってありゃしない……」
柳は、二本の釣縄を手もとにひきよせていた。船はまた大きく旋回して、別の海鳥の群れさわいでいる一角へ突きすすんだ。海の鳥は、どんなに高まる三角波のてっぺんにも、かるがると浮んでいた。スピードをゆるめて飛翔《ひしよう》してきて、獲物を重そうにくわえあげる鳥もあった。「釣れるなら、カツオの方がいいな。シイラは、たいしたものじゃないらしいから」柳の手に移されてから、久美子の縄にも魚がかからなくなった。穴山と宮口の討論は、柳にとってあまりに政治的、あまりに大問題でありすぎた。日本政府の各大臣の名を、どうしても記憶できない柳は、また、左右を問わず日本の各政党の構成メンバーや、その主義主張に興味を抱いたこともなかった。柳の父は、政治家と名のつくあらゆる男たちを嫌っていたし、家庭内で「政治」に関する話など交されたこともない。柳が宮口に魅力を感じたのは、彼が「強い青年」であるからであって、彼が政治家の卵であるためではなかった。「泳ぎたいな。泳ぎなら負けないぞ」と、彼は思っていた。船の底をくぐりぬけ、向う側へイルカのように躍り出たり、呼吸が詰る寸前まで海底ふかくもぐって大石を持ちあげたりする。青みがかった海水の、半透明なガラス箱の中を、地上では不可能な姿態で、もぐり抜けて行くとき、自分の肌色までが水棲《すいせい》動物に似てくる、あの感じ……。
「……戦死する兵士は、みんな労働者・農民の出身だ。もしも彼らを戦場へ駆りたてたら、労働者・農民の党ではなくなる」
出刃庖丁《でばぼうちよう》を船板にあてがい、宮口はカツオの刺身をこしらえていた。こりこりと弾力のある赤い肉は、無造作に厚く切られている。
「君らの党が、労働者・農民の党? ほんとうに、そうなのかね」と、穴山は問いかえした。「なるほど、君らの理論上のたてまえは、そうなくちゃならんだろう。だが、君らが望んでいるのは、実は天下を取ることじゃないのかね。まず権力を握って、日本を支配する、そうして、君らのいわゆる『労農兵ソヴィエット』を樹立する。第一、君らは『政治家』であって、労働者・農民そのものじゃありゃしない。職工は工場で機械をうごかす。百姓は田や畠で、米や麦をつくる。君らは、何をつくり、何をうごかすのかね。人民大衆の心に革命精神を植えつけ、反抗運動に向って彼らをうごかす。それだけの役目じゃないのかね」
「ソウダガツオは、カツオよりまずいがね。釣りたてはうまいよ」
赤い塗りのはげた、埃《ほこり》くさい箸を宮口は、みんなにくばった。湯気の噴き出した釜の蓋をあけ、茶碗も五人前とりだした。
「ぼくを怒らせようとしても、だめだよ。そんなことで、ぼくは怒らんから」
刺身は御飯と一緒じゃなくちゃ、うまくないな。柳は大丼《おおどんぶり》にたっぷり注がれた醤油に、カツオの肉の一片をひたした。生醤油の香りと、冷たい歯ざわりで、魚肉はなめらかに彼の咽喉《のど》をすべりおちた。何という、おいしさ……。
「久美子さんは、食べられないだろう」
「私、なんにも食べたくありません」
と、久美子は低い声で穴山に答えた。彼女は柳よりはるかに熱心に、男二人の議論に耳をすましていた。宮口は老人に命令して、船を岸ちかく引き返させ、人家の見えぬ入江に碇泊《ていはく》させた。
「じゃあ、岸寄りをやるかな」
やっと舵柄から手の放せた老人は、仲間入りして、うれしそうに坐りこんだ。老漁夫は、三杯目の酒をゆっくり味わいながら、指でつまんだ魚の肉を、歯のない口に入れた。「坊さんが魚釣りするのは、おら反対だよ」眼じりに深い皺《しわ》をよせながら、彼は岸寄りの釣りの支度にかかっていた。「魚を釣ったり、女房をもらったりしちゃ、坊さんとは言えなかんべ。そんだったら、最初っから坊主になどならなきゃいいだ」
ひっかけ釣りの縄を三本とも巻きおわり、細切りのイカを手釣りの糸の針のさきに刺して、老人は柳と穴山にもたせた。宮口は、炊きあがった釜をまん中に持ち出し、自分だけ先に、白く湯気をたてる茶碗をかかえこんだ。釣りはそっちのけで、柳もすぐ、すばらしい味のする白米をたべはじめた。
「おじいさんは、女の話だけが好きなんだって?」
「ああ、そうさ」
と、穴山を子供あつかいにして、老人はうなずいた。
「ついこないだ、吉原へ行ってきた。チンボにも、楽しみをさせてやらなくちゃいけないよ。自分だけ楽しんでないで、たまにはチンボにも、いい思いをさせてやらなくちゃいけねえからな」
「ずいぶん、親切なんだな」
「そりゃそうだろ、お前さん。チンボだって女だって、親切にしてやらないで黙っているもんかい。男は、言うだけのこたあしてやらなくちゃあ。偉そうなこと言うだけで、ゼニも酒もよこさない奴を、誰がお客さんだとたてまつるものかよ」
柳の餌《えさ》は、ピクリともしないうちに喰いとられていた。いつ魚が寄ったのか、はなれたのか、柳の指さきには、何回イカを針に刺しても感応がなかった。穴山の釣りあげたのは、小さなフグだった。フグは船板にころがされて、ミイミイと啼《な》いた。そして、みるみる腹をふくらませた。
「おらの同志《ヽヽ》の婆さんが、いつも言ってたよ。間男《まおとこ》するぐれえ、おもしろいことはこの世の中にねえとさ」
「おじいさんの同志?」
「そうさ。お前さんがたみたいに、革命とか政治というものばっかに、同志があるわけのもんじゃねえよ。女の道にこそ、同志があるのさよ。お前らの年ごろじゃ、まだまだ色の道の同志になんざなれるもんじゃねえ」
「緊急大会を招集するために、どうしても必要なのは、金と武器のほかにもう一つ、女性の連絡員だ」
と、宮口は、老人をかまいつけないで言った。
「それも前歴のない、この分野で新顔の女性でなくちゃいけない。できるだけ闘士らしくない、左翼くさくない、できれば美女がほしいんだ」
老人が「間男」という言葉を口にしたとたんに、柳は、うす黄色いフグの腹のように、自分の頭が恥ずかしさでふくらんで行く気持だった。
「それだったら、この女《ひと》にかぎるよ。美少女だし、金もうんとある」
と、穴山は、久美子と柳を見つめながら言った。
「ぼくは、しかし心配だな。そういうやり方で久美子さんを……」
と、柳は言わずにいられなかった。
「いきなり彼女を、そういうはげしい運動の中へ引きずり入れて、彼女が一体どうなるのか、保証があるのかね」
「保証とは、どういう意味かね」と、宮口はききかえした。「ぼくらは別に、誘拐《ゆうかい》するわけでも、そそのかすわけでもない。ぼくらの行動に賛成して献身してくれる、若い女性を求めているわけだからね」
「献身して、その結果、どうなるのかな」
「君は、一、二回留置場入りしたぐらいで、おじけづいているから、そういう言い方をするんだろ。この女《ひと》は、尼さんになりたがっているとかいう話だね。穴山君からは、そう聴いている。世捨て人になる気持、慈悲心や罪悪観をつきつめて行って、ぼくらの考えと一致する場合もありうるだろう。日本の民衆を幸福にするために努力する、純真な青年男女なら、この目的に反対なはずはないからね」
「それは、もちろん、そうなんだが、しかし」
と、柳は口ごもりながら言った。
「裏切りとか、スパイとか、私刑《リンチ》とか、そういう血なまぐさいことに……」
「血なまぐさい?」
宮口の太い眉の下で、両眼が大きく見ひらかれた。
「血なまぐさいのは、戦争と弾圧だよ。我々は少しも血なまぐさいことをやってはおらんよ。射殺されたり、いじめ殺されたり、獄中でむりやり自然死《ヽヽヽ》させられたりしてるのは、常に我々だよ」
「だからさ」と、柳は、言いにくいのを我慢して言った。「だからぼくは彼女を、そういう目に遭わせたくないよ」
「……たしかに、つらい目には遭うよ。つらい目に遭わせたくない、遭いたくないと言うなら、やめてもらった方がいい。今、来てもらえれば、大助かりなんだが。それは、こっちの都合だけの話だからね」
「柳の言うのは、つらい目というより、無意味なことをやらせたくないという意味じゃないのか」と、穴山が言った。
「いや、無意味とは……」
「無意味でないはずだが、やってもらった人の心掛次第では、無意味になることもあるな」と、宮口は言った。
老人が釣り上げた|ほうぼう《ヽヽヽヽ》は、とげとげしいヒレを羽翼《はね》のようにひろげていた。赤みの多い褐色の骨ばった体が、青や紫に光って見えた。少しずつ大きさのちがう|ほうぼう《ヽヽヽヽ》を三匹、老人は息つくひまもなく釣りあげた。
「きっと親子か兄弟だわ。きっと、そうよ」と、久美子はつぶやいた。
「久美子さん、どうするかね。柳は反対らしいが」と、穴山がたずねた。
「……私、いつ死んだっていいんですもの。つらい目に遭うのは、別にかまわないわ」
「こういう良い娘を一人もったら、親は一生安楽に暮せるわさ」と、老人は、咳《せき》まじりのしわがれ声で言った。「もっとも、死なれちまったら玉《たま》なしだけどよ」
「これからすぐ、宮口さんに附いて行くつもりよ。家を出るときから、そう決めてきたんです」
「つかまっても、起訴保留か執行猶予だな」
起ち上った穴山は、太い腰にゆるんでいる帯を結び直した。
船が港に近づいて行くあいだ、柳は、自分のふんぎりのわるさが、たまらなく不満だった。宮口に附きしたがって行こうとする、久美子の冒険心が不安なのなら、なぜもっと強硬に反対しないのか。むごたらしい闘争の世界に向って出発しようとする美少女を、だまって見送ってしまうのは、つまるところ、みすみす悲運にみまわれようとする彼女を、少しも守ってやろうとしない怠慢ではないのか。ハウスキーパーという女性の「仕事」が、戦争を目前にひかえた日本の人民の幸福のために、欠くべからざる犠牲であると、柳自身が信じているならまだしものこと、そこまで割りきって判断できない彼が、自分だけは冒険をやらずにいて、彼女だけにそれを強いるのはおかしいではないか。「ぼくには、革命党と行動を共にするだけの、勇気も実行力もないから、危険な仕事に近づきたくないんだ」と、告白したところで、それだけでは彼の精神状態を語りつくしたことにはならない。そう告げるだけで、彼女を自分から突きはなしたら、それはそれでウソを言うことになる。宮口の決意は、徹底している。うらやましいぐらい、ゆるぎなく徹底している。徹底できることは、男らしい。その宮口に反対できる力など、柳にはもちあわせがない。おそらく、宮口は社会を変えるであろう。柳は、どう変えたらいいのかさえ見当がついてはいない。宮口は、久美子をほしいと言う。私利私欲のためではなく、革命党の目的のためにほしいと言う。その要求に反対することは、何となく年寄りくさい、現状維持のいやらしさを示すことのように思われる。年寄りくさい現状維持派になることは、柳だってイヤなのだ。今までの柳の観察によれば、どう考えたって宮口が「悪人」だとは思われない。正義のために命がけでたたかっている青年を、おなじ青年である柳がどうして非難することができるか。だが……。だが、ぼくは、宮口君も好きだし、久美子さんも好きだ。だが、実際のところ、宮口君のハウスキーパーになって久美子さんが、ぼくとは関係のない、ある別のはげしい世界の中へ溶け入り消え去ることが、ぼくは好きでない。はなはだしく、好きでない。だったら、どうして彼女に止《や》めて下さいよと頼めないのだ? だって、何を理由にして彼女の決心をひるがえさせたらいいのか。あぶないから止めろよ、などと、そんな|じじむさい《ヽヽヽヽヽ》ことが、いい若い者に言えますか。では「久美子さん、ぼくは、あなたを愛しているから、そのぼくのために宮口と行動を共にするのは止めて下さい」とでも哀願しろと言うのか。とんでもない。たしかに彼女がひどい目に遭うのは防ぎたいが、それは「愛」のためではなくて、同情のためなんだ。第一、おシャカ様は「愛とは迷いであり、錯覚である」と、教えているじゃないか。何も、自己弁護のために、仏陀《ぶつだ》までひきあいに出さなくてもいいが、とにかくカアーッとなって、宮口から彼女をもぎはなそうとしない自分は、冷血動物だからだろうか。いやいや、そうまで卑下する必要はないぞ。いろいろと事情がからみあって、そうなっているんだからな……。
「柳さん」と、彼に呼びかけた久美子の両眼は、あいかわらず濁りがなく清潔だった。だが、その可憐な眼の底には、今まで見たことのない焔《ほのお》がかがやいていて、柳を圧迫した。
「私がつらい想いをしなくちゃならなくなる、そう思って柳さんは反対なさる。それは、ありがたいんですけど」
と、久美子は言った。
「私だって、柳さんとはなれて、知らない人たちの仲間入りするのは、つらいのよ。でも、どっちみち、私は、出家《ヽヽ》しなくちゃならないのよ。家庭や家族をはなれて、どこか別の集団に入らなくちゃならないのよ。おシャカ様やお弟子たちが、両親や妻子を棄て、名誉も財産もおきざりにして、新しい僧伽《さんが》にお入りになった、そのまねをしなくちゃならないのよ。革命党には、鉄の規律とかいうものがあって、お仲間の生活を厳重にしばるという話ですけど、それだって、初期仏教教団の戒律にくらべれば、さほどのことはないんじゃないでしょうか」
「それは、そうだろうけれど」と、柳は言った。「一体、あなたは、革命とか革命党とかいうもの、どんなものだか知ってるのかな」
「よくは、知らないわ」
「知らないでいて、いきなり……」
「いいのよ、それで」
「よくはないよ。出家《ヽヽ》したいから、革命党に入る。しかし、その正体についてまるで知っちゃいない。そんなのは、困るじゃないか」
「いいえ、いいの。それで、少しも困らないのよ」
弟をいたわる姉のように、久美子は、やさしく言って微笑した。
「困らないというのは、自分が死のうとどうしようと、かまわないという意味なんだろう?」
「わかっています。私のこと、ほんとうに心配して下さっているのは、柳さんだけだということ、私、よく知っています」
「いや、それほど……」
柳がうっかり、そう口をすべらすと、一升びんを手にした穴山は笑い声をたてた。
「おい、柳さんよ。日本の革命や革命党の正体が何であるかなんてことは、お前さん、責任者の宮口くんだって、わかってやしねえよ。やってる当人たちがわかっちゃいねえんだから、久美子さんなんかに、死ぬまでわかる気づかいないさ」
玉突台に張られたビロードのような、みどりの苔をつけた四角い岩。灰白色や桃色の貝殻でおおわれて乾いた岩。そして、海藻《かいそう》や貝殻をしずめた澄んだ港内の水。その一つ一つが、痛いほどくっきりと、柳の眼にうつった。
「柳君と穴山君は、ここで降りてもらうよ」
岸壁にとびうつった宮口は、船をひきよせながら言った。
「久美子さんは、もしぼくと一緒に来るつもりなら、このまま船に乗っててもらおう」
「私、降りませんから」
彼女は、起ち上りでもしたら連れ去られると恐れているかのように、かたくなに坐ったままでいた。
柳は意地きたなく、まだ船を降りずにいた。老人は宮口の耳に口をよせ、何かささやいていた。
「降りたくなければ、降りなくてもいいよ。そのかわり、今後、ぼくの命令で動いてもらわなくちゃならんよ」
追い討ちをかけるように、宮口はきびしく柳に言った。
「柳さんは降りた方がいいわ。私は、そう思うわ」という、久美子には、もはや巫女《みこ》のような自信と威厳がそなわっていた。その「自信」と「威厳」なんか、お嬢さんの思いあがりだとけなすことはできるが、柳はやはり、別れぎわの彼女の姿勢を、清潔なものだと感ぜずにはいられなかった。
船着場には、旅館の|どてら《ヽヽヽ》を着た、若い男女が、ものめずらしげに海岸風景を楽しみながら歩いていた。新婚の一夜を明かしたらしい一組の、女の方が滑りやすい岩場をとび歩くのを、夫の方は気むずかしげに眺めていた。パパだ、ママだと、呼びかわす、温泉客の子供たちの、はしゃいだ声も遠くきこえた。
穴山は、バケツに投げ入れた魚を、老人から受けとった。硬直した魚たちは、たけだけしく光って、重みを増したように見えた。冬の空は、ますます晴れわたって、岩も樹々も海面もかがやいていた。真昼の明るさの下で、なまぐさい漁場の匂いは、古い毒薬のように濃くなっていた。
「さようなら」という、久美子の別れの挨拶に、いやでも送り出されるようにして、柳は岸壁に登った。
彼自身は、どうしても素直に「さようなら」と、口に出すことができなかった。
「ぐずぐずするなよ。恋人じゃあるまいし。柳の恋人は、ほかにいるんだろ」
冷笑する穴山の声に応じて、船上の久美子が、きつく眉をひそめて、柳の顔を見つめた。
「わたくし……」と、つぶやいて彼女は起ちあがった。向きをかえたため、彼女の顔の半面は真っ白に陽の光をうけ、その頬はかすかに赤みをおびた。
「私がもどってくるまで、柳さんは、うちの別荘にいらっしゃらない方がいいと思います」
「あとのことは、おれにまかしておけよ。柳のことも、あんたの姉さんのことも、おれがうまくとりはからってやるさ」
「姉さんのことなんか、私、どうなってもかまいませんけど……」
と、久美子は、穴山に抵抗するように言った。
「でも、柳さんのことは、私、穴山さんにまかせておけませんから……」
「ああ、ああ、いいともさ。たんと心配してやりなさいよ」
穴山は、今日の獲物をバケツからつかみ出しては、ためつすがめつして楽しんでいた。
「しかし、当分は宮口の命令にしたがって、任務にはげみなさいよ。困ったことが起きたら、いつでも皆で助けに行ってあげるよ」
「コガネフグはうめえから、棄てるんじゃねえぞ」
手ばなをかみながら、老人は穴山に注意していた。「ハラワタもうめえからな。棄てちゃもってえねえぞ。船宿のばあさんに、料理してもらえや」
船着場の左右から、坂道の上の方へ配られる宮口の、警戒の眼つきからしても、柳たちの永居は無用であった。老人は、おもしろくもなさそうにエンジンをかけた。船は、かなり無理な折れ曲り方で、他の船のあいだをくぐりぬけ、港外へ出て行った。まるで小っぽけな荷物が、置き忘れられているように、うずくまった久美子の姿は、みるみる遠ざかって行った。
トタンぶきの釣り船屋の店さきの溝《みぞ》には、湯気をたてて流れおちる水音がはげしかった。道路をへだてた向い側は、一段高い石垣が暗く立ちはだかり、人家はなかった。太り肉《じし》の婆さんが、穴山のわたした魚類を、刃さばきもすばやく作ってくれた。桃色の袋や紫色の管のような、フグの臓物も空カンに盛ってくれた。腹を裂かれた魚を洗い流す、水道の音がほとばしった。とりだした内臓《わた》をピシャリと叩きつける、威勢のいい音もきこえた。
歌舞伎の老名優によく似た、顔の大きい釣り宿の主人は、店先に立って空模様を仰いでいた。それは、もはや人生の終りにきて、あとは静かに最期のときを待ちうけているような、落ちつきはらった恰好だった。
「あの爺さんは、おもしろい男だな」
注文したビールを飲みながら、穴山は老主人に話しかけた。「あれじゃ、お客に人気があるだろう」
「そうね。あの年じゃ、もう漁には出られねえからね。お客の相手をするだけが、せいぜいだね」
半日ぶんの釣り船のカネを、老主人は穴山から受けとり、のろのろと釣り銭をかぞえていた。
「シイラは、フライにするといいよ。フグは、どうする。やっぱり持って行きなさるか」
と、婆さんは炊事場から、前掛でぬれ手をふきながらもどってきた。
「あの爺さんは、フグ好きでね。フグとなったら目がないから、これ喰いたかったんじゃなかろうか」
「そうかい。それじゃ、フグはあの爺さんにやってくれよ」
穴山は火鉢に手をかざして、畳の上にひろげた新聞に目を落していた。
「ああ、そうしてもらえれば功徳になるよ。喜ぶわさ」
穴山は、見ていた新聞を柳にわたした。その新聞の三面のトップには、関西地区で検挙された革命党員の写真が、ずらりと並んでいた。殺気だった顔、痩《や》せおとろえた顔、ぼんやりかすんでいる顔、陰気な顔が気味わるくそろっているので、柳は暗い気持になった。それらは、いかにも犯罪者らしく、普通人とはちがった特殊の人間たちのごとく撮影され、印刷されてあった。姓名をしるした布や番号札を、胸にさげさせられた顔もあった。若い女の写真もあった。
「また、えらくたくさんつかまったな。みんな人相がわるいよ。女までまじってるだからな。女のくせして、おそろしいこった」
釣り船屋の主人は、おとなしくつぶやいて、煙管《キセル》の|きざみ《ヽヽヽ》をつめかえていた。
「つかまって、いじめられれば、人相もわるくなるわさ。金持の娘で仲間入りしてたのも、あるそうだからな。可哀そうなような気もするわさ」
婆さんは爺さんの肩に、半纏《はんてん》を掛けてやって、しばらく夫の顔をながめていた。その老妻はその年になっても未《いま》だに、この老夫をひどく好いているらしいなと、柳は考えていた。
久美子の失踪《しつそう》事件について、宝屋一家は、ふつうの家庭のように騒ぎ立てることをしなかった。久美子自身の置手紙もあり、自殺の怖《おそ》れのないことも明らかだった。彼女が「行方不明」になった地点に、柳と穴山が居あわせたことは、二人が打ち明けたことで、家族たちには知らされていた。しかも二人は、口をそろえて、久美子が何の目的で、どこへ雲がくれしたかわからないと主張したので、宝屋の主人も夫人も、それ以上問いただすわけにいかなかった。もしも「居あわせた」のが柳一人だけだったら、ウソをつくのが何より下手な彼は、おそらく久美子の失踪の真相を、ありのままに告白したくなったにちがいない。夫人とのコトが発生したあと、ひきつづいて久美子の思いがけぬ決意。いずれにしても、宝屋一家に対する彼の不義理は、とりかえしのつかぬ事態に立ち到っていた。彼は、あわただしい逃亡、見ぐるしい脱出の想いで、東京へ帰った。
目黒の寺の境内の地面は、霜柱で盛りあがっていた。それは黒い土のくちびるから露《あらわ》れた、白い歯のように光っていた。凍った歯並みで押しあげられた泥は、正門から本堂へ続く、長い敷石の道よりも、高まって、下駄の歯はすぐに泥で重くなった。敷石のない通路には、爺やさんが米や炭の俵蓆《たわらむしろ》を敷きつらねたが、それもすぐ泥にまみれて、用をなさなかった。
寺の門前の、今にも倒れそうなトタンぶきの家々には、不景気の暗い影がおおいかぶさっていた。ブリキ屋、自転車屋、豆腐屋、精進あげ屋、石屋、畳屋、ガス会社の長屋、メリヤス工場の女工たちに二階を貸している煙草屋。それらの小さな小さな住居の主人も主婦も子供も、みんな血色わるく、声をとがらせ、たえずいらいらと殺気だっては、眼を光らせていた。くさく汚れた他人の靴を修理していた若い靴屋は、町の女にさわがれる美男子だったのに、自殺した。古着類を売りさばくため、地方まわりをしている小男の奥さんは、のっぺりした隣家の主人と姦通していた。寺への地代を滞納する家は増すばかりで、泣きおとしで半年も一年もぐずついている人がいるかと思えば、酒気をおびて怒鳴りこんでくる人もあった。
それらの貧しい人々の眼が、いらいらと光って、寺内の住人に向けられるとき、「大地主の坊主どもの一家が、今日もまた遊びくらしている」と、差別と敵意で黒みがかっているのはあたりまえの話だった。
柳の父が、本郷の小寺から、目黒の大寺へ移ったのは、目黒の方の先代の住職がこしらえた、莫大な借金を整理するためであった。寺の周辺に、人家がふえてくるまでは、大きな地所ばかりかかえていても、貧乏寺にすぎなかった。今は中目黒とよばれるその一角が、もとは「田道《でんどう》」という、田舎くさい名を持っていたことを想起すれば、当時の淋しい光景がうかびあがる。それが先代の住職のころから、急に地代収入がふえはじめ、子供時代には芋のズイキが御馳走だったという住職は、たちまち有頂天になり、五反田の遊び場で、もちつけぬ金を費消するようになった。はては本堂再建の名義で、売りはらった地所の金を、女遊びにつかいはたし、材木屋や建築業者、檀家《だんか》総代に責めたてられ、刑事問題をひきおこした。そのやっかいな後始末を、宗務所から依頼された柳の父は、読書と菊づくりの他に趣味のない、人間ぎらいに近い人物であった。もともと江戸時代には、学問好きの僧侶を収容する「律院」なのだから、ろくな檀家があるはずはなし、借金の元金はおろか、利子を支払うためにも、地代の取立てを厳重にするより方法がなかった。かつては名僧の輩出した、|ゆいしょ《ヽヽヽヽ》ある古寺を、つぶしたくないという願いはあったにせよ、現実に、寺の経済をまかなうためには、多数の借地人から金を集めねばならない。
もとより柳の父には、地代を「不正所得」とするような、社会主義思想など、もちあわせがなかった。しかしながら、すべてを棄てて、出家したブッダの教えを反省すれば、僧侶が金銭にこだわるのは、どう考えても僧侶らしくないことになるはずだった。組寺の坊さんたちの集りに、酒が出るのさえ眉をしかめる柳の父には、僧侶の暮しは、ふつうの俗人とはちがったものでなければならぬという、昔ながらの決心は残っていたはずであった。明治初年の廃仏毀釈《はいぶつきしやく》運動で、全滅の危機にさらされた仏教寺院が、やがて肉食妻帯をゆるす政府の法令に守られ、息を吹きかえす過程の中で、小作農の次男に生れた柳の父は、学問したいばっかりに、農村寺院の小僧さんになった。あこがれの東京へ出て、仏教大学の学部長におさまった彼は、一応は彼の目的をつらぬくことができた。だが彼は、たんなる宗教学者ではなくて、浄土宗門の一僧侶なのであった。自分および自分の周囲の仲間たちの、日常生活をかえりみて、にがにがしく思わない日は、一日もなかったにちがいないのである。「もしかしたら、|このような《ヽヽヽヽヽ》僧侶である、そのことが、釈尊を裏切っているのではあるまいか……」彼は、そう想いつづけたのかも知れなかった。
きまじめで、口下手な彼は、ますます黙りこくって、寺の裏の畠《はたけ》で、ひとりぼっちの時間をすごそうとする。だが、檀信徒や借地人はおろか、柳や柳の母さえ、彼の苦しい胸のうちを察してやろうとはしないのであった。
彼はいつでも、|困っていた《ヽヽヽヽヽ》。彼がもしも、妻や子供を熱愛していなかったら、それほど困らなかったかも知れない。しかし、彼は熱愛していた上に、その表現方法が、お話にならぬくらい下手だったから、なおさら困らねばならなかった。
「地代の取立てなんか、専門家にまかせちまえばいいのよ」
困っている夫の心理など、推察できない柳の母は、めんどう臭そうに言った。
「一割もやれば、のこらず取立ててくれるわよ。そういう事務所の人にたのんでもいいし。島崎にたのんだって、大喜びでやってくれるわよ。そりゃあ島崎は、バクチうちの大悪だけど、金さえやれば、けっこう役に立つのよ。親分一つ、お寺のために頼みますと、言ってごらんなさい。前科十八犯て威張ってるんですもの。大がいの奴はふるえあがって、滞納なんかしやしません。蛇《じや》の道はヘビよ。ずうずうしい奴の首根っこおさえるには、ワルの力を借りなくちゃ」
このような非仏教的な、しかしながら積極的な母の発言に対し、今さら原始仏教の教えから説明してかかることが、柳の父にできたであろうか。父は、ふくれっ面をして、だまりこむ。遺骨が「凱旋《がいせん》」するたびに行われる目黒区の区民葬、各宗派の坊さんが勢ぞろいする「合同葬」がある日など、朝からだまりこんで、とりわけ不機嫌なのだった。区の仏教会長は、葬儀の導師として、表白《ひようびやく》を読みあげねばならぬ。だが彼の声音はきわめて低く小さく、とてもオントロウロウというわけにはいかなかったし、活気にみちた老僧、青年僧の座談に仲間入りして、指導者らしくふるまうなどは、彼のもっともきらう所であった。
「久美子さんのこと、あなた、何か知ってるんじゃないの?」
執事の小谷の包んだ袈裟《けさ》が気に入らず、柳の母は、何回も|たんす《ヽヽヽ》のひき出しをあけて、別の品をとり出していた。身を飾ることのきらいな夫に、威厳と品位をつけさせるため、母は口|喧嘩《げんか》までして、世話をやかずにいられなかった。
「あなたを誰よりたよりにしてた久美子さんなんだから、あなたには何か話してるはずでしょ。宝屋の奥さんからも、あなたの口からきき出してくれと、わたし頼まれてるのよ」
「知ってたとしても、言えないな。そんなこと」
「知ってるのね」
「知りゃしないよ」
「知ってたら、教えてちょうだい。知ってるのに知らん顔してて、そのため宝屋さんとのあいだがまずいことになったら、どうするの」
「まずいことになったって、仕方ないじゃないか」
「まあ、そんなこと言って。宝屋さんの御一家が、御主人でも奥さんでも、どのくらいあなたのこと想ってて下さるか、わかってるくせに……」
「わかってるさ。わかってるから、どうだと言うんだい。ぼくが、宝屋の養子になるわけじゃあるまいし」
はめにくい白足袋のコハゼをはめ、はきにくい袴《はかま》をはくだけでも、柳はいいかげんうんざりしていた。
「私が宝屋の奥さんに、顔向けができなくなるようなことだけは、しないでちょうだいね」
「お母さんは、どうしてそんなに、あの奥さんに気がねするんだい。そうそう宝屋さんとぼくを結びつけるの、やめにしてくれよ。大体、坊主が大金持に結びつきたがるのが、まちがってる」
「あなたは何も知らないのよ、世の中のことを」
「お母さんより、知ってるさ」
「二、三回留置場へ入ったぐらいで、何がわかるもんかね」
「宝屋の別荘へなど、行かなきゃよかったんだ」
と、父は苦笑しながら、母に反抗する息子に加勢するように言った。
「金持の別荘へ行くなんて、おれも好かんよ」
「行く行かないの、問題じゃありませんよ」
母はいそがしげに、父にかわって白絹の襟巻《えりまき》(冬場は老僧が、法衣の下にそれを着ける)の襟もとを合わせてやったり、履物は何を出せ、香盒《こうごう》(香の容器)は忘れないかと、執事に命令していた。
「宝屋さんには、いろいろお世話になってるし、これからだって、おつきあいしてかなきゃならないお家なんだから、それを、あちらさんの名誉を汚すようなこと、この子にさせられませんよ」
「だから、おれが、伊豆の寺へやっちまえと言っただろ。田舎の百姓にまじって暮してれば、少しは落ちつきが出てくるんだ」
「だめですよ。遠くへやっちまえば、もうここへ帰ってこなくなっちまいますよ」
三人そろって出かけるのだから、柳は気がらくであった。合同葬の読経《どきよう》は、「般若心経《はんにやしんぎよう》」と「観音経|普門品《ふもんぼん》」にきまっていた。めいめい主義主張のちがっているはずの、仏教各派にとって、いわば最大公約数、あたりさわりのない経文《きようもん》なので、この二つがえらばれてあった。鎌倉時代の宗祖たちのように、互に他宗派を非難攻撃して、相手を理論的に克服しなければ、自宗派の確立はできないというような、そんなクソまじめな態度は、どの坊さんももっていなかった。みんな愛想よく、大陸の戦場から「帰還」したばかりの白骨を拝むために、集ってきては、仲むつまじく、にぎやかに数時間をすごすのであった。戦死者の慰霊祭に一役買っているからには、区民のために奉仕していることになるのだから、無用の長物でない証明にもなって、みんな別々の法衣に包まれながら、一せいに活気づいているのである。(|別々の法衣《ヽヽヽヽヽ》という意味は、たとえば浄土宗では最高位の大僧正でなければ着用できない、ヒ〈赤色〉の衣が、日蓮宗では最下級でも着られることだ)
迎えの車は、輜重《しちよう》部隊の下士官が運転して来た。色黒の聯隊長《れんたいちよう》は、出世のおくれているらしい小男だった。
「区役所の車より、うちの車の方が、時間が正確ですからな」
威張った気風の全くない聯隊長は、老僧を尊敬する態度で、別世界の宗教者の取扱いになれぬ様子で言った。
「今日の戦死者の、姓名、生年月日、死亡した地名、場所ですな。それから戦死した日附はここに書いてあります」
あらかじめ用意された「表白《ひようびやく》」の文句に、柳の父は、それらを附け加えねばならなかった。
「ゆっくりでいいぞ。まだ時間はある」
と、彼は運転手に命令して、憂鬱そうに町の景色をながめていた。
「憲兵は来るんだな」
「ハイッ。憲兵隊からと、それから警察署の特高係が警戒にくることになっとります」
と、正面を向いたまま下士官は答えた。
「……今朝、日曜外出のさい、衛門のそばでアカの奴らが、妙なものを兵隊に配ったもんでね」
と、隊長は、柳の父に説明していた。
「ビラかなんかですか」
と、せきこんでたずねる執事を、隊長は「いいや、ビラじゃないんだが」と、うさんくさそうににらみつけた。
「マッチですよ。女の裸の絵をレッテルにしたマッチなんだが、中に戦争反対の宣伝を印刷した紙切れが入ってる。見たところ、ふつうのマッチなんだが……」
「マッチをね。ふうん」
と、柳の父はおどろきながら、ひかえ目に柳の方を見やった。
女の裸の絵をレッテルにしたマッチだって? と、柳は、黒い改良服のナフタリンの匂いをかぎながら考えていた。宮口の仲間だな。仲間ではあるけれども、宮口じゃなかろう。宮口は、そんな下っ端じゃなくて、もっと奥深い中央部にいて、もっと高級な計略をめぐらしているんだろう。いくら「革命」のためだと言って、女の裸の絵を反戦運動に利用するなんて、そんな小細工、そんな妥協的な戦術を彼がつかうはずはないからな。目黒の輜重隊の中に、革命分子がいることは、たしかだな。さもなければ、ただ漠然と目黒の営門をねらってくるわけはないだろう。左翼の一派がエログロ雑誌社を経営して、その稼《かせ》ぎを革命党にみついでいるという記事を、新聞で見たっけな。その雑誌には、珍しい写真がのっていたので、ぼくも買って読んだな。エログロをたのしみながら、革命党の手だすけをすることになるから、その雑誌を愛読するのは、ほめられてもいい行為になる? いくらなんでも、そんなことはありえないぞ。第一、エログロ雑誌の発行を資金源にするなんて、そんなのは不良少年や中年バカ男のしそうな卑劣な仕事じゃないか。宮口なら、それに反対するだろう。ぼくは、エログロが好きだ。しかし、宮口が、宮口までがエログロを好きになったりしたら、困るじゃないか。宮口だけは、エログロとは全然無関係な、立派な男だと、ぼくは信じている。革命党の指導者は、初期の仏教教団の指導者に劣らぬほど、精神堅固な男じゃなくちゃならんはずだ。古巣の中で坊主は、精神的にダラクした。しかしながら、新しい巣に生れた宮口たちはダラクしてはおらんはずだ。レッテルはおかしな絵でも、中身が「反戦」なら、それはそれで、エログロ雑誌よりはよろしいにしても、そのマッチを配っていたのは、もしかしたら女給に化けた女同志?……まさか、久美子さんじゃあるまいな。
「そういうマッチを渡しにくるのは、男ですか、女ですか」
と、柳は隊長にたずねた。
「……男と女だったな。おい、そうだろう」
と、隊長は下士官にたずねた。
「ハイッ。そうであります。若い男と若い女が、組になってやっておったそうだります」
もっと質問したがっている息子を、柳の父は、渋い表情でたしなめた。
隊長にも下士官にも、宣伝者に対する憎悪の念は、あらわれていなかった。宣伝効果などありっこないと、軽くあしらっていて、事務的な対策をめんどうくさがっている様子だった。
「女が、あんなことやるとはな。どんな女がやってたのか」
「ハイッ。若い女だったと、第二中隊第三小隊の兵が報告しておりますが……」
「若いのは、わかっとる。若い、どんな女だったかときいとるんだ」
「ハイッ。……誰でも好きになるような、可愛い顔をした若い女だったそうだります。甘ったるいカフェの女給とはちがって、甘ったるくないが、しかしタマシイを吸いよせられるような美人だったそうだります」
「タマシイを吸いよせられるような? これですからな。だから困るんです」
隊長は、苦笑でゆがんだ顔を、柳の父の方にふり向けた。
「若い奴らは、女のこととなったら、すぐ眼がくらんでしまって。ほかのことでは命令をよく守って、立派な兵である奴らが、女にだけはからきし意気地がないですわ。性欲の問題だけは、別なんですな。内務班でいくら厳重にとりしまっても、一たん外出したら処置なしですから。どうですか、御住職。仏教の方で、お坊さんの口から、何か奴らに教えていただくわけにいかんですかねえ。合同葬の方では、いつもお世話になってますが、兵の教育方面でも、協力していただけませんか」
「……お役にたつことなら、できるだけのことはしますが。坊さんの説教を兵隊さんがきいてくれますかな」
柳の父は、自信なさそうに言いしぶっていた。
「そりゃあ、だって、御住職は仏教大学の教授をやっていらっしゃるし。学生に仏教の講義をしていられる方《かた》でしょう。そんじょそこらの生臭《なまぐさ》坊主、あれはいけませんよ。酒のんだり女買ったりしてる坊主じゃ困りますがね。それから、若い坊さんは、こう言っちゃなんだが、信用できんですな。だが、御住職ぐらいの年齢で、修行を積んでいられれば、奴らだって、お話をうかがって感得する所ありますよ。性欲のおそろしさ、女性のおそろしさ、その一点だけ強調して下さっても結構だし、生死の重大問題について、グッと根本を説き明かして下さってもいいし。こういう非常時には、お坊さんもお寺にひきこもっていないで、聯隊へでも駆逐艦へでも、どしどし出かけて下さってですな、兵の精神指導を分担していただきたいですな」
「……もちろん、責任は感じておるんですが。仏教学生に講義するように、兵士諸君に話すわけにいかんですし。また、仏教と軍隊を結びつけて考えるのが、うまく……」
と、正直に口ごもっている父を、なぐさめるように隊長は「わかってます。わかってます」と言った。
「仏教と軍隊を、うまく結びつけるとなれば、そうそう簡単にはいかんでしょう。殺生戒《せつしようかい》とかなんとか、いろいろあるでしょうから。日本の軍隊は、日本国の敵を撃滅しなくちゃならん。ゲキメツするためには、敵を殺さにゃならん。殺したくなくても、相手の出方次第では、どうでも殺してやらねばならなくなります。そういう任務をあたえられた日本軍の兵士の、心がまえの問題です。その心がまえをどうするか。もちろん、軍人にたまわりたる御勅諭。これを読んで、これを守っていればまちがいない。我々には、それ以外に、別の心がまえは必要ない。それはそうなんだが、死ぬるか生きるか、殺すか殺されるか。戦場での実戦には、若い兵にとって様々のなやみがある。上官に教えられただけでは、なかなか解決できない難問がある。その点は、やはり宗教家の方が専門家であられるのだから、そこはこの心がまえで行け、ここはこの悟りでぶつかれと、専門家の立場から教育することができるはずだ。げんに、戦死したあとのおとむらいは、我々の手にあまるから、みなさんがたにお願いしてる。死んでからばかりじゃなくてですな。白骨になってからの兵ばかりでなくて、ナマ身で生きている兵に……」
低い家並にはさまれた、細い路を車はゆっくりと走った。軍用自動車の通行に、あわてて店さきの自転車をひっこめる男もいた。軍人と坊さんの相乗した車を、めずらしがる、顔のよごれた幼児もいた。
「お父さんの若いころは、坊さんは軍隊に入らなくてよかったんじゃないの?」
「……明治の末までは、兵隊の数も少かったからな」
と、父は、息子の突然の質問を迷惑がっていた。
「すると、御住職は兵役免除だったわけですか」
と、隊長は不満そうに言った。
「……ええ、とにかく兵隊にはとられなかった」
「そういう制度でしたかなあ、あのころは」
「制度というわけじゃなかったろうが、兵隊の数が少かったからね。我々の仲間で、軍隊に入ったものは、ほとんどいない」
しめっぽい裏路をぬけて、車は左へ折れ、明るく幅ひろい坂道をのぼった。坂をのぼりきると、江戸時代から有名な大寺、U寺があった。数万坪の宅地を所有するU寺は、金まわりがよいため、広大な境内は、樹木の手入れ、敷石の整備もゆきとどいている。柳の寺とちがい、起伏一つない平地の正面に、横に長い本堂の瓦屋根が、灰黒色にかぶさっていた。|かぶさっていた《ヽヽヽヽヽヽヽ》と言うのは、威厳のある寺の大屋根が、本堂そのものにくらべ、不つりあいに面積が大きいからだった。美術史家などに批評させれば、日本寺院の屋根の勾配《こうばい》、つまり、おびただしいイラカのつくりなす斜面がすばらしいらしいのであるが、柳はいつも重くるしい、不必要な「帽子」を感ずるばかりだった。屋根の鳩も、可愛らしい鳥というよりは、ツキモノの飾りのように見えた。集っている人物たちの顔ぶれも、いつもながらのものであった。
区会議長は、U寺の檀家総代で、寺の地代収入を自分の選挙費用にあてていた。U寺の住職は、酒好きの好人物で、その檀家総代の意のままにうごいていた。区会議長がU寺を私有し、その財産を自由にしていることは、非難する人もあったから、U寺の住職は、たえずおびえた顔つきをしていた。仏教大学の恩師であった柳の父は、彼にとって、ことに苦手なので、父の前では顔も上げないようにしていた。他人には傲慢《ごうまん》な区会議長も、柳の父を大切に取扱い、仏教大学生への奨学金も、U寺と自分の名で、柳の父の手をへて支給することにしていた。政治的な野心も能力もない柳の父は、誰にも害をあたえない「良い人」であることは保証つきなので、その信用を、U寺の実力者たちは利用しているのだった。
米の飯は一粒も口にしないU寺の住職は、「酒はやめなくちゃいかんよ」と、柳の父にたしなめられると、朝酒でほてった顔を恥ずかしそうに伏せて「ハア、ハア」とかしこまっていた。フロックコートに身をかためた区会議長は、馬喰《ばくろう》あがりとは思えない、威厳をそなえて、だらしないU寺の住職を冷笑するように見守っていた。自分の弱さをむきだしにしたその住職を、柳はさほど軽蔑《けいべつ》してはいなかった。だが、仏教機関を占有し利用している、その区会議長は大きらいだった。東京の浄土宗内でも重要な位置をしめる、U寺の経済が、そんな政界のボス、信仰とはエンのない俗物中の俗物の手にまかせられているのが、たまらなく腹だたしかった。住職とは、ホトケの弟子ではないか。ホトケに対して忠誠を誓った仏弟子が、どうして、たかが区長や区会議長の支配の下に屈しなければならないのか。そう考えるだけでも、柳は、現在の寺院ならびに住職に、絶望せずにいられなかった。
警察署長も、来ていた。葬儀屋も、法衣店主も手つだいに来ていた。署長は、柳が検挙されたときと、おなじ人物だった。執事の小谷は、顔見知りの葬儀屋やコロモ屋を発見すると、急に元気づいて、その方面の景気、不景気の話を、クロウトらしくしゃべりはじめた。「今日の花環は、そっくりお前さんの店に下げわたしてもらうのか」「いいキレがあるんだが、白地だから、黒く染めてもらって、仕立上げるとすると、どのくらいかかるものか」そういう会話を耳にしても、憂鬱にならないスレッカラシに、柳はなりかかっていた。ひかえ室にたむろした組寺の僧侶の中には、学問ずきの青年もいた。彼らは、この合同葬の雰囲気《ふんいき》が、自分たちの求めている「仏教」とは無関係な、奇妙な停滞であり、救いようのない沈澱《ちんでん》だとよく承知していて、その場かぎりのおつきあいが、一刻も早く終ってしまえばいいと、そればかり待っているのだった。
「仏教機関、仏教施設にまつわる、すべてのものは不合理で、不必要だ」そう考えながら、柳は改良服を脱ぎ、法衣に着かえた。
柳が留置場で「世話」になった看守も、軍服を着て、葬儀の式に参列していた。勲章を胸にさげた看守は、警察署のくらい地下室にいるときより、はるかに立派に見えた。軍曹にすぎないけれども、戦功を樹てた先輩として、輜重隊の在郷軍人のあいだでは顔がうれているらしく、自分より年下の町内の者と、落ちつきはらって語りあっていた。
「おお、君かあ。お父さんのお供で来たのかね」
いくらかまぶしそうな眼つきで、彼は、光沢のある緑の法衣に包まれた柳を見つめた。
「まじめに、お寺にいるらしいじゃないか。つまらん考えもって、寺をとび出すより、その方がいいよ。うん、立派な坊さまだよ、そうやってると」
「好きでやってるわけじゃないですよ。仕方なくなんだ」
「君は、そういう……。よくないよ、その考えは。第一、ホトケ様に対して、もったいないじゃないか。お父さんに心配かけるのは、やめなさい。あんないいお父さんに、君みたいな困った子供ができてさ」
年寄りくさいコト、言いやがって。仏様みたいに、良い人ぶりやがって、と柳は、ことさら乱暴に法衣の袖口をクシャクシャとたくしあげる。思想善導なら、高等学校の主任教授だけで、もうたくさんだよ。その口ヒゲはやした主任教授の小男が、家庭パーティをひらいて生徒を招待したときだって、ぼくは欠席してやったんだ。留置人を怒鳴りつけたり、殴り倒したりしない、おだやかな看守さんだってことは、ぼくだって認めるけどさ。何も、ぼくに説教する資格が、彼にあるわけじゃあるまい。ぼくは、警察署長だって、検事だって裁判長だって、司法大臣だって尊敬なんかしてやりゃしないんだぞ。まして、部下の部下の、また部下のあんたなんか、ちっともおっかなくないんだぞ。などと威張ってみたところで、柳の白衣も法衣も白足袋も、そういう性急な憤慨にはふさわしくない、ぎごちなくフワついた感じで、彼の身体をとりかこんでいて、具合がわるいのであった。
眼つきのやさしい大柄な看守の傍へ、眼つきのするどい若い特高係が、すばしこい足どりで近寄ってきた。
「油断しちゃだめだよ、こいつに」と、特高刑事は、看守の好人物ぶりを冷笑するように言った。
「おとなしそうに坊さんに化けてるけど、中身がアカなんだから。少し甘い顔みせると、すぐやり出すんだ。なあ、柳。お前んとこの寺は、いつでも我々が見張ってるんだからな。ごまかしたって、そうはいかないんだぞ」
「ごまかすって、何をごまかすのさ」
「ごまかしてるじゃないか。何もかも。お前の毎日毎日の行動そのものが、ぜんぶ我々の眼をごまかそうと企んでるじゃないか」
「よしなさいよ、こんな場所で」と、看守は、とりなすように言った。
「戦死者のため、お経を読みにきてるんだから、今の柳君は坊さんだよ。そう、裏の裏までカンぐるこたないさ。悪いことやったら、そのときは、つかまえればいいんだ」
「宮口のことがあるからさ。だから、こいつから眼が放せないんだ」
私服の刑事は、新調の背広の埃《ほこり》を、神経質にはたいている。
「宮口? 逃げた奴か。あれと柳君が何か関係があったのか」
「臭いんだよ。おれは、そうにらんでるんだ。調書には何も出ていないがね。こいつら、仲間どうし、すぐに連絡しやがるからさ」
「ぼくをつかまえたかったら、いつでもつかまえなさいよ。留置場に入るのは、いい修行になるもの」
「修行になるか。そうかも知れない」と、看守はのんきそうに笑い出した。
「おれは憎いよ。宮口とか柳とか、こういう連中が憎くてたまらんよ」
若い刑事は、額の堅さや腕の力づよさをむき出すように、全身をひきしめ、真剣になって言った。
「この連中は、おれたち地方の百姓出身の者の、苦しみなんか何も知っちゃおらんよ。生活費や教育費の心配も何もしやがらないで、ヌクヌクと育ってきやがったんだ。それが急に正義漢ぶって、社会主義だの革命だのと、わらわせるなって言うんだ。まじめな仕事で汗一つ流すこともせずに、いい気になりゃがって宣伝する、|せんどう《ヽヽヽヽ》する。こういう奴らに日本を引きずりまわされて、たまるかって言うんだ」
本堂へ通ずる長い廊下を、走りまわる執事の姿が、庭石や植えこみの向うに見えていた。柳を探しまわって、あわてているにちがいなかった。僧侶たちの集合の合図、大太鼓が腹にこたえるひびきで、鳴りわたった。境内にちらばっていた参列者たちが、本堂の正面へ四方から流れよって行く。礼儀正しく、とりすまして、ゆっくり移動する人の群の中に、柳は、久美子によく似た少女をチラリと見たような気がした。僧侶の控え室にいそいでいる柳には、それが久美子か否かたしかめるひまはなかった。伊豆山の港で別れた久美子が、遠からぬうちに自分の前に出現するだろうという予感に、彼はたえずつきまとわれていた。彼女はかならず、救《たす》けを求めに、自分のもとへ駈けつけてくる。いよいよ困れば、かならず自分のところへという、妙な自信が彼にはあった。
「穴山の奴、今日もまた来ていやがらない」
執事は、父のあとにつきしたがいながら、柳にささやいた。
「奴は軍部にとり入って、すっかり自信つけちまって、仲間をバカにしてるんだからな。いつも合同葬をすっぽかして、どこかでホラ吹いてるんだ。困っちまう」
執事は、同じ組の貧乏寺で養われた、自分より年下の穴山が、寺院仲間の外の世界で、急にのしあがって来たのに反感を抱いていた。増上寺や知恩院も、そのうちおれの命令一つでうごかして見せると、豪語している穴山が、合同葬になど参列しているひまのないことは、わかりきっていた。
その日は柳にとって、めずらしく多忙な一日だった。西方寺の秀雄が中耳炎で入院していて、午後は、その手術の立会人にならねばならない。夜に入ってからは、生活保護をうけていた女工さんの屍《しかばね》のそばで、通夜をせねばならぬ予定があった。手術と読経のあいだに、もし時間があれば、本郷東大前の喫茶店にあつまる、高校同窓生の会合にも、出席したかった。
御茶ノ水の駅にちかい、耳鼻|咽喉《いんこう》科の病院へ、合同葬をすましたその足で、彼はまわった。もちろん、一目で坊さんとわかる、黒い改良服のままであった。
一日に一回、鼻や耳の手術をしないと機嫌がわるいと言われる、腕自慢の院長は、「坊さんが立会人になるのは、はじめてだよ」と、柳を見て笑った。よく暖められた病室のベッドのまわりは、西方寺の檀家から贈られた、花の鉢や果実の籠でうまっていた。その中で、ひときわ立派な竜舌蘭の鉢植えは、宝屋から届けられたものであった。急を要する患者が、もう一人あって、秀雄の手術までには、まだ間《ま》があった。
氷枕の上に頭をのせた秀雄は、右耳を冷していた氷嚢《ひようのう》をはずして、柳と語りあった。「手術すればなおっちまうんだから。好きなだけしゃべってよろしい」と、院長は保証してくれた。そんな保証がなくても、若い二人は、どうせ医師や看護婦の注意など聴き入れるはずはなかった。
「君が来たら電話してくれと、宝屋の奥さんに頼まれてるんだ」
秀雄は看護婦を呼んで、夫人の出席しているお茶の会に電話をかけさせた。「会がおわり次第、こちらにお見えになるそうです」受話器をおろした看護婦は、そう報告して病室を出て行った。
「奥さんも、手術の立会に来るの?」
「いいや。そうじゃない。君に話があるから来るのさ」
もしも柳が、伊豆山の別荘で発生した、すべての事件を語るとなれば、相手は秀雄のほかにあるはずがなかった。
だが「タカラヤ」という言葉をきかされただけで、自分の声がうわずってくるように思われる柳には、とても夫人との情事を打ち明ける気持がなかった。また、久美子の行方不明については、真相を語るのが苦痛ではなかったが、こんな場所で話すのはふさわしくなかった。
「宝屋の奥さんを、どう思うかね」
ときどき耳の激痛におそわれるらしく、秀雄は、白い顔をますます白く緊張させていた。
「久美子さんの気持なら、すっかりわかるんだが。あの奥さんの気持は、ぼくにはまるでわからない。大体、ぼくには年上の人の気持は、女でも男でもわからないんだ。ことに、あの人は魔物みたいに思われるよ」
「人間に、魔物なんているもんじゃないよ。人間はどんな人間でも、人間にすぎないんだ。人間は人間であるからには、きまりきったモノなんだ。ことに、あの奥さんは、ぼくにはひどくわかりやすい女の人のように思われるね」
「うん。ぼくは女の学問はしていないから、何も主張はしないよ。試験をうければ、ゼロにきまってるんだから、答案なんか出したくないさ。ただ、あの人が魔物のように思われる、あの人と会うと、魔物におそいかかられるような気持がするというだけなんだ」
「……あの人と君のあいだに、何かあったんだね」
「……いや」
ひろい窓からは、ニコライ堂の石造建築が上半部だけ眺められた。灰色のドームや灰色の壁が、日本式の家屋の群の上に、それこそ上品な「魔物」の棲家《すみか》のように浮びあがっていた。
「彼女がこの部屋に見舞にきて、君の話をしたときに、ぼくにはすぐ察しがついたよ」
「あの人がぼくについて、何か話したの?」
「別に何も、変ったことを話しはしないさ。新しい恋愛をはじめた女は、きまってああいう眼つきをするものなんだ」
「恋愛だって?」と、柳は、腹だたしげに言った。「恋愛なんかじゃあるものか。あの人のアレは……」
「アレは?」と、秀雄は静かに問いかえした。
「男に対する、あの人の行為は、恋愛でなんかないと思うな。アレは、何かしら別のモノなんだ」
「では、君は? 君の場合は、どうなのかね」
「ぼくの場合は……。ぼくの場合だって、おそらく恋愛なんかじゃありゃしない」
「あの人は、苦しんでいるよ。苦しんでいるにちがいないと、ぼくは想像するよ」
「君は、なんにも知っちゃいないんだ。苦しんでるなんて、君は何も知らないから、そんなばかばかしいこと言うんだ」
「いいや、ちがうよ」と、秀雄は、死にかかった予言者のように、つぶやいた。
「君だって、苦しんでいるんだろ。あの人のことについて」
「苦しんでなんかいるもんか。もし、少しでも苦しんでいるとして、それは恋愛のためなんかじゃないぞ」
柳は椅子から起ち上り、またまずい坐り方で腰を下ろした。
「どうして君は、そんなに恋愛をいやがるんだ。何も恥ずかしがるこたないじゃないか」
「ちがうんだったら。恋愛をいやがってなんぞいやしないよ。彼女のことは、恋愛なんかじゃないと言ってるんだよ」
「君は自分が恋愛はできないと考えているんだな」
階段を上ってくる看護婦のスリッパの音が聞えても、二人は遠慮せずにしゃべりつづけた。
「こんな状態で、恋愛なんかおかしくって。ちがった状態におかれれば、僕だって恋愛ができるかもしれんさ。だが、今のままじゃあ、どうしたって、できっこないんだ」
「君の状態は、それほど他人とちがった特別の状態でありはしないよ。君がただ、そう思いつめているだけの話なんだ」
「……とにかく、恋愛は駄目だ。僕のやりたいこと、やらねばならぬことは、何かほかのことなんだ。何をやらかしたらいいか、自分でもよく分らないが、とにかく、それは、恋愛じゃないはずなんだ」
秀雄がかすかにのどの奥で笑ったように、柳には感じられた。咳《せき》をとめるために、むせ返ったのかもしれなかった。
「今の状態のまま、今の今、君には恋愛ができているんだよ。別の状態なんて、永久に来る気遣いはないよ。誰だって、あそこまで歩いてゆけば、と考えているものだ。ところが、そこまで歩いてゆくと、何の変りもない場所だと分り、もっと向うの方に、大切な地点があるような気がしてくる。またそこまで歩いてゆく。行ってみると、やはり同じことだ」
「僕はそんな風に考えたくないね。誰が何といおうと、恋愛は駄目だ。彼女も駄目だ」
室内の、花と果実の匂いが強まってきて、坂道を走り下る市内電車の、車輪のキシミが遠く聞えた。
「あの奥さんを、我々と少しもちがわぬ一個の人間だと考えられるようにならなくてはいけないよ。あの人一人をも理解することができないような君だったら、どうして日本の民衆の心を理解することができるかしら。君は日本の民衆がどうなってもいいと考えているのなら、話は別だが。しかし君は、日本の民衆全体の心に、じかに接触できる坊主になりたがっている。そうなんだろう。それが、君のいわゆる状態《ヽヽ》というやつなんだろう」
秀雄は、青白い指先を動かして、枕許《まくらもと》の氷嚢をまさぐった。柳は立ち上って、秀雄の右の耳に、氷嚢をあてがってやった。発熱のため、却《かえ》って澄みきったような秀雄の両眼は、柳の心を、自分にしばりつけるように見上げていた。やがて秀雄の体は、手術室に移された。院長は、腕をふるうのが愉快でたまらない様子で、自分の両手をごしごしと洗い、リングに上る拳闘選手のように、ゴム手袋をはめた。マスクをはめると、院長の両眼はますます愉快そうに輝き、注射器をつまみ上げたり、患者の耳の奥をのぞきこんだりする態度も、いかにも楽しげであった。看護婦の手渡すメスや鋏《はさみ》の冷たい光が、彼をいよいよ活気づけるように見えた。目くるめくような早さで、医師のたくみな手さばきはつづき、やがて、耳の骨部を彫るノミの音が聞えはじめた。一打ちする毎に、秀雄は眉のあたりをしかめた。いつのまにか、宝屋夫人が柳のかたわらに立っていた。そして彼女の右手が柳の左手をにぎりしめた。ノミが一打ちされ、秀雄の苦痛が激しくなるにつれ、彼女の手は柳の手を一段と強くにぎりしめてきた。
かつて、伯父の死体が伯父の遺言により、解剖されたときには、柳は最後まで冷静に見守ることができた。大学の解剖室で、外科の主任教授の執刀でおこなわれた、その解剖には、柳の父のほか三名の男が目撃者になったのであるが、柳だけが無神経に、無表情に立ち会うことができた。「ぼくは、何でも平気だぞ」という、少年の強がりで、自慢のタネにしたい気持が柳にはあった。しかし、自慢だけではなしに、もしも仏教的な考え方を押しつめて行けば、眼前に切り裂かれ、断ちわられ、脳髄や内臓をバラバラにされ、取り出されている伯父の肉体は、(生きているときから)形骸にすぎないのであるから、その解剖の光景について動揺したりするのは非仏教的なはずであった。むしろ、腹部の白い脂肪層が、じゅうたんのようにはがされ、ゴム管のような大腸がシュッとしごかれて、残存しているガスが吐き出されるのを、よくよく目撃することこそ、仏教的な眼をやしなうことなのだった。ゴム管をふくらませていたガスの匂いは、肉や骨の匂いよりはるかに濃厚で、それだけはるかに象徴的な暗示として、室内にみちひろがっていた。「まずい説教は、わざとらしいばかりでいやらしい。だが、名手の解剖はすばやくて見事だし、いやらしくない。百の説教より、一つの解剖の方が、悟りに至る近道ではなかろうか」地下の解剖室のコンクリートの床には、陰気な水が流れっぱなしだったし、大学の構内ははげしい雨で煙っていたが、あかるい太陽光線を浴びるかのように、そのような感じが彼の全身にしみわたったのだった。
今、夫人のやわらかい掌に、自分の掌をつつみこまれたまま、頭部を手術されている秀雄の苦痛を見つづけている柳を、あの屍体《したい》置場でうけたショックと同じものが襲っていた。だが、そのショックには、あの時と全く別種類の感覚が、つけ加えられていた。屍と化した伯父が解剖台に横たえられ、さっさと取扱われる物体にすぎないと見てとったときにも、彼には「自分は生きている」という感慨が、なまなましくよみがえってきた。美しい夫人の身体と接触して立っている彼にも、その種のなまなましい感慨が、汗のようにこびりついてきた。だが、あの時の感覚の、きれいさっぱりした明確さにくらべ、今の彼の感覚は、二重性をおびて濁っていた。今の彼は、愛される者、愛する者というほど一定した状態にあるのではなくて、女性の傍にひっついている男性として、秀雄の苦痛を見守りながら「自分は生きている」と感じているのだった。その感覚は、たしかになまなましく、明確なのであるが、それを受けとめている彼の精神状態が、あいまいで厭《いや》らしいのであった。あのときには「ここから仏教が出発する」と、すなおに直感することができた。だが、夫人の指の一本一本の力の入れ方を、こまかに感じとっている今の彼には、とてもそんな、すなおな直感は許されなかった。ただ彼にわかっていることは、こんな奇妙な状態、解決できそうにない濁った感情でも、たしかに仏教的な悟りに関係しているのだという、予感だけであった。いや、むしろ「いやだなあ。こんなにして立っているのは、いやだなあ」という、否定的な感じが、あまりにも強烈だったので、かえってあの解剖室での、仏教的な直感を思い出したのかもしれなかった。それに、自分のにしろ、他人のにしろ、苦痛が仏教的思考の出発点であり、この世の人間の苦痛なくしては、仏教もまた存在できないという先入主が、彼の頭にわだかまっていて、医師のノミの一打ちごとに眉をしかめる秀雄の苦痛、自分にとっては何モノでもないが、秀雄にとっては抜きさしならぬ苦痛から、そのような感慨がわきあがってきたのかも知れなかった。
「局部麻酔だけね。お強いわ、秀雄さん」と、宝屋の夫人はささやいた。
痛みをこらえているため、秀雄の両眼には、怒りの光のようなものがこもっていた。その、いらだたしそうに光る眼が、人間の弱さと強さの入りまじった、肉でできた銃眼のように、柳たちの方へ向けられるときがあった。そんなとき、愛想よく同情を示すため、夫人はかすかに身じろぎした。敏感な彼女が、どんなに顔の表情をこまやかに変えているか、柳には見ないでもわかっていた。
繃帯《ほうたい》で頭部をぐるぐる巻きにされた秀雄が、病室へもどされるまでに、一時間以上かかっていた。手術後は、絶対安静を要するので、夫人と柳は、すぐ病室をはなれた。帰りしなに、院長は、土産物をもらったお礼のことばを夫人に述べた。気のきいた、金目の品ばかりでなく、夫人の美貌が気に入っていることを、手術をおわって、ますます血色のよい院長の、愉快そうな態度が示していた。
夫人は待たせておいた車をかえして、柳と連れ立って歩いた。柳は、なかばやけくそになって歩いていた。黒い改良服のまま、僧侶であることをむき出しにして歩いているとき、彼はいつでも街の空気を突き破って行くような、抵抗を感じていた。美しく着飾った女性と肩をならべて歩いて行くため、その抵抗は二重になっていた。道ゆく人々の、冷笑や嘲笑《ちようしよう》のこもった視線をはねのけているあいだに、まともな社会の街並をつつんでいる「空気」そのものが、ぶあつい壁となって、一歩ふみ出すごとに、彼の全身にぶちあたってくる気がした。聖橋《ひじりばし》は、掘割か河か知らぬが青黒い水をはるか下に見下ろして、高々と架っていた。きり立った崖《がけ》にへばりついた小屋からは、放浪者とも乞食ともつかぬ人間が、斜面へ出てきてはまたもぐりこんでいた。その小屋のもっと下には、汚物を運ぶ船が、のろのろとうごいていた。その船の上で、長い竿《さお》(か棒)を両手でかかえこんで、船を移動させるため歩いている船頭も、小屋の住人に負けない、うすぎたない恰好をしていた。「もしも坊主がほんものの仏弟子になりたいのだったら、あの小屋に住む、あの船で暮している、乞食か放浪者みたいな極貧者にならなくちゃならんのだ」と、柳は考えるのだが、実際のところ、そうなりたくはないのだった。崖の腹には、路上から投げおろされた紙くずや鉄くずが、投げおろされた順序がわかるように、下へ下へと積みかさなっていた。
「会いたいとなったら、女は何を利用してでも会いにくるものなのよ」
と、夫人は言った。「私が何も、秀雄さんの手術の立会人になる必要なんかありはしないでしょ。耳の手術は、手術の中でも、とても痛いものだそうですものね。痛がっている秀雄さんを、利用するのはわるいにきまっているけれども、どうしても病院であなたに会いたかったから、私、きたのよ。あなたの方は、あそこで私に会おうなんて、思っていなかったでしょうけど」
彼女の両脚、右の足、左の足がかわりばんこに前へふみ出される。その二本の脚の肉が、そのたびに彼女の着物の下でこすれあっている、などと考えている柳には、すなおな会話などできるはずがなかった。
「あなたは、私に会いたいと思っていらっしゃらなかった?」
「……ぼくはもう、わるいことやりたくないんですよ」
「……わるいことをね」
「ええ。そうですよ。わるいことをやるのは、よくないですからね」
「でも、私は、わるいことをやりたいの。あなただって、きっとそうだと思うけど」
「わるいことが好きになることだって、ありますよ。だけど、好きだからと言っても、わるいことはわるいことですよ」
「では、好きになったのね。わるいことでも、好きにはなったのね」
「わるいことは、きらいです。ただ、ぼくは、あなた……」
「わるいことを、おやりになりたくない。けれど、|私とのこと《ヽヽヽヽヽ》は好き?」
「恥ずかしいという気持が、まず第一ですから」
「私だって、恥ずかしがっているのよ。そうでないと思ったら、大まちがいよ。恥ずかしくて、わるいことでも、それでも私は、それをやりたいの」
「あの晩……、ぼくが、うれしがったのは事実です。正直に言って、あなたとのことが好きだったんです。好きだったけれども、恥ずかしいんです。恥ずかしく感じたことは、わるいことです」
「そう。あなたを恥ずかしがらせたのは、私のせいよ。でも、恥ずかしがらせたからと言って、それで私が悪い女ということにはならないでしょ」
本郷三丁目の停留所へ近づいて行くあいだ、ひろい路の両側には人通りが少かった。向う側の歩道をいそぎ足で歩いて行く、学生服の同窓生の姿が、柳の眼に入っていた。まともな向学心にもえ、まともな大学生の誇りをもち、まともな黒い学生服を着こんでいる彼は、柳と同じ会合の場所に向って歩いているにちがいなかった。学生相手の喫茶店、飯屋、古本屋、文房具店、洋服屋、帽子屋、医療機械店のしずかに立ち並ぶ大学街。江戸時代の大名の権威をしのばせる赤門、金ピカの官僚の育成地を象徴する近代式の正門。長くつづく赤煉瓦の低い塀《へい》と、樹々の茂み。かつての柳の同窓生の、学生ズボンと革靴の足は、その街路を、いかにも自分たちの通行すべき当然の路として、気がねなくふみしめて歩いていた。おそらく彼も、教授たちの講義を軽蔑し、ヒヤリと冷たい研究室を敬遠し、「帝国大学が何だというんだ。ばかばかしい」という、若者らしい反抗心と、投げやりの気分で、大学生らしくない大学生である自分を感じながら歩いているにちがいなかった。しかし、歩きにくい僧衣、大学街にはどうしたって融《と》けこめない旧式僧侶の姿で、おまけに、なまぐさい宝屋夫人に附きそわれて歩いて行く柳の眼からすれば、彼はあきらかに立派な大学生であった。たとえ彼がほしがらないでも、彼が大学を卒業するからには、免状と学士号をもらい、一人前の社会人としての出発を保証されるであろうことは、まちがいのない所だ。たとえ、彼が大学構内の、いくらかアカデミックで閑静で特殊すぎる空気をきらい、構外の庶民的な、いくらかだらしなく、あさましい雑然たる光景の方を愛しているにしたって、やはり柳の眼からすれば、彼は帝国大学という、何かしらいかめしい、格式ばった「権威」のおすそわけにあずかって歩いているように見えるのだ。今の柳は、大学にも大学生にも、反感など抱いていないし、大学に残った同窓生をうらやましいとも思ってはいない。彼らは彼らであり、彼は彼であり、彼らに彼の実情を理解してもらいたいなどと考えたこともありはしない。高校の同窓会でもなければ、彼らすべてのことを忘れ去っていても、柳にはさしつかえないのだ。柳のおそれているのは「衆生」であって、同窓生たちでも大学生諸君でもないはずではないか。柳には、別段帝国大学を拒否するという決意も覚悟もあるわけではないが、それでも、こうして久しぶりに、昔なつかしい大学街で、かつての仲間を見つけると「そうそう。別世界に住んでいるんだからな」という想いがわきあがってくるだけの話だった。
「……恥ずかしがる気持。わるいと思う気持。それがあって、またもう一つ、うれしくてたまらない感じがあるでしょう。そうじゃない?」
向う側を歩いている大学生は、こちら側をながめ、夫人と柳の二人づれに注目した。だが、その坊主が同窓生とはわからなかったらしく、彼は前かがみの速度で歩み去った。
「でも、そういう気持の中で、一ばん強い気持は、うれしくてたまらない感じとちがうの? 私は今、恥ずかしいとも悪いとも思っていないの。だって、こうしているのが、うれしいんですもの」
冬の午後の明るい光線の下で、夫人の顔だちはとりわけ凹凸の線が明確に見えた。鼻すじはますます高く、眼はますます大きく見ひらかれ、唇の色はますますあざやかだった。そして顔の色の白さが、いつもよりはるかに複雑で微妙な魅力をおびていた。顔の部分だけでも、それだけ複雑で微妙な魅力をあらわにしているのだから、全身の白い皮膚がどれほどの複雑さ、微妙さでいきづいているか、それを考えると街頭の光景がたちまち消えうせ、寝室の暗さがそこら一面に舞いおりてくるように思われ、柳の眼さきはくらくらとした。まるで世界中で、女といえば夫人ひとりのように感ぜられてくる、この自分の異常な精神状態ぐらい、迷いも迷い、悟りとは千万里もへだたった悪状態はないんだぞ、と言いきかせても、暗い密室の快楽の後味の方が、もっと大きい怒濤《どとう》のうねりとなって、彼をおし包んできた。
「肉をはなれて、心はないのよ。人間の肉体をもっていなければ、人間と言われないでしょう。だから、人間の肉のよろこびが、人間の心のよろこびであっても、不思議はないわけじゃないの」
「肉のことは、わかっていますよ、ぼくだって。肉のない人間なんて、ありっこないんだから。肉がなかったら、第一、歩くこともできやしない」
と、柳は、怒気をふくんだ声で言った。
「そんなことは、今さら言わなくたっていいことですよ。人間は肉だらけ、肉のかたまり。だからこそ、何も肉を自慢にするこたないじゃないですか。肉の欲がうれしいからと言って、何もそれをわざわざ主張する必要なんかないでしょう」
「主張なんか、していないの、私は。私はただ、あなたの肉とあなたの心が好きなのよ。そして、あなたも私の肉と私の心を、好きになってくれているだろうと考えているだけ……」
「久美子さんのことは、心配していないんですか」
と、柳は、彼女の話題をかえさせるために言った。
「心配はしています」と、夫人は眉のあたりに、強い意志を示しながら言った。
「でも、あの子はあの子で、自分の好きなことをやっていますし、私は私で、自分の好きなことをやっているわけですからね。好きなことやれるのが幸福だとすれば、あの子も幸福なはずですわ。あの子について、私が考えていることは……」
十字路の交番と巡査。交番の横の小さな寺。その奥の古くから有名なソバ屋。その隣の貧弱な市場。だんだん数を増してくる大学生たち。「あの子より私の方が、ずっとあなたにちかい女になったということ。久美子は、あなたから遠い所へ、どんどん突っ走ってしまって、私はどんどん、あなたの中へ入りこんでいっているということ……」
下宿へいそぐ若々しい学生たちは、いくらか驚きをふくんだ興味をそそられた眼つきで、すれちがいざまに夫人を見つめ、市場の買物をすませた主婦や娘たちは、男の眼をひくあでやかな女に、突っかかるような、はげしい視線をあびせかける。
「久美子さんが、ぼくから遠い所へはなれて行った。それはそうでしょうが、しかし、ぼくはかえって、そのために、久美子さんに近づいた気がしてるんです」
夫人に対する通行人の眼の色、視線の意味は、それぞれちがっているが、柳に対する他人の眼つきは一定しているのだ。「女と並んであるいている厭らしい坊主!」まず、坊主が教育者ぶってのさばり出すと、次に威張りだすのは軍人ども。そして戦争がやってくるんだと、えらい評論家がどこかで書いていたっけな。「よう。柳じゃないか」と、背の高い大学生が彼の肩をたたく。「こいつ、いつのまにかすっかり坊主になってしまいやがって」他の通行人とちがい、その背の高い学生の眼は、旧友をなつかしがる単純な喜悦の色でかがやいているだけだ。たとえ、こちらが忘れかかっている相手だとしても、そうまでなつかしがられるのは、柳にとってうれしいことだ。
「よく、おれだとわかったな」「そうだよ。お前、前は、もしゃもしゃと長い髪の毛してただろう。ふうん。これはこれで、よく似合ってる」「そうか。似合ってるか」「うん、全く」と、学生は声高く笑い出しながら、柳の連れのことなどかまわずに、小わきにかかえるといった形で、自分の方へ柳をひきよせた。「なあ、おれたちは仲間だ。だが、君の連れている女は、仲間じゃない」と、言いたげな態度だった。
別れぎわの夫人の顔は、夕焼けの色をおびて白くはなやかであったが、淋しさが夕もやのように漂っていた。彼女は、二人の青年のあとにつきしたがい、大学正門前を左へ折れ、消費組合のある細道まで歩いてきたのだった。とっつきに神社のある、その学生街の細道には、学生運動のシンパ(同情者)のマダムの経営する喫茶店があり、その店の前まで、柳たちの同窓会にはエンもユカリもない彼女が、のけ者にされたまま、無言で歩いてきたのだった。急に学生気分をとりもどした柳は、男くさい仲間の方へグイとひきよせられ、まるで見ず知らずの他人のように冷たく、彼女を突きはなして平気だった。
銀色のお盆にコーヒー・カップをのせた、マダムの妹が、柳の異様な姿をみとめると「あら、いらっしゃい」とお辞儀をして、クスリと笑った。今にも折れそうにきしむ、うす板の階段をふんで、屋根裏部屋のような二階にあがる。
「消費組合は、合法的な施設なんだ。そうだろう。学生なら誰でも出入りをゆるされた、公開された場所なんだ。謄写印刷の機械もある。それを君らが利用するのは、さしつかえないさ。だがなあ……」
ここだけは安全地帯だというつもりで、学生たちは大声あげてしゃべっている。危険があれば階下から知らせがあるから、そうやっているのだとしても、たとえ危険が到来したからといって、彼らは声をひくめるのがきらいなのだ。
「あと始末のわるいのは、困るね。刷ったビラは、一枚のこらず始末してくれるだけの注意はしてもらいたいよ。消費組合は、学生にやすい品物を売るのが目的なんだ。ずうっと長つづきをさせなきゃならない機関なんだ。もちろん、モップル(救援会)やA(アンチ・ミリタリズム、反戦グループ)の連中が来たって、かまいやしないさ。ちょっとした相談ごとに利用してもらっても、かまわんさ。だけど、その連中の不注意のために、組合が閉鎖されるのは困るんだ。甘ったれるのは、やめてくれと言うんだ。だらしなく利用して、あと知らん顔してるのがいやなんだ。合法と非合法の区別ぐらい、ハッキリしておけと言いたいんだ。消費組合は合法団体だからラクだ、安全だと、頭からバカにしたようにぬかしてな。さんざん無責任に、場所をつかいあらして、あとでつかまると、『ビラは、消費組合で刷った』『会合は、消費組合でやった』と白状して、出てくるんだ。個人の家でやったことまで、消費組合でやったとぬかして、しゃあしゃあと出てきやがるんだ。そのたんびに、こっちは一週間か十日、本富士(署)へぶちこまれる。つかまるのは、おたがいさまだからかまわんよ。だけど、おれたちは消費組合を守って行かなきゃならんのだ」
「おい、これ、柳だぞ。わかるか」
「え?」と、消費組合の男は、あきれ顔でこちらを見つめた。
「こいつ、こんな恰好しやがって、女まで連れて歩いてやがったんだ」と、背の高い学生は、愉快でたまらぬように言った。
「なあんだい、これは。なるほど、柳だな」消費組合は、長い顔の下半分だけ笑い、両眼には、きつい警戒の念をあらわしている。
「変装か、カモフラージュのつもりなのか。こいつ」
「そうじゃないよ。これがぼくの制服だよ」
「お前、本気で坊主になってるのか」
「ああ、そうだよ」
「ふうん。木魚たたいて、お経よんで、お布施もらって、ナンマイダ、ナンマイダ。あれをお前さん、ほんとにやってるのか」
「うん、そうだ。あれをやってる」
同窓生たちは、いずれも柳より二つか三つ年長だったし、彼らはいつも彼を「赤ちゃん」あつかいしていた。学生生活を早いところ打ちきりにした男が、柳のほかにもう一人来ていた。土木工事の自由労働者に変身した、その柔道部の男は、「地下」の土建組合に入っていた。古背広の上衣に、巻ゲートル姿のその大男は、まっくろに陽やけして、学生出身とは見えなかった。工事現場の、泥くさく熱っぽい匂いを、そのまま身につけてきた男は、おちつきはらった態度が宮口に似ていた。同人雑誌に新式の小説を発表している男。やっと学生街に流行しだしたダンスの、教習所へ通う男も来ていた。ヴァィオリンのケース持参の、音楽美学の学生もいたし、日本史を勉強している朝鮮青年もいた。
「石坂洋次郎とかいう奴。あいつの『風俗』というの、なかなかいいぞ」「小説を書く奴はいいな。一ついいもの書けば認められるからな。翻訳や評論じゃ、そうはいかんからな」「石坂洋次郎? 先月あたりから書いてる奴か。甘いんじゃねえのか」「いや、『風俗』は甘くないよ。あれなら、新進作家と称していいさ」文学好きは、そんな話をしていた。
左翼好きは、本富士の飯は丸の内よりまずい、しかしながら本富士では房内で鼻紙をもたせてくれるからいい等と、留置場入りの自慢話をしていた。「あのなあ、監獄に入ってる奴に葉書出すの、おれ頼まれたんだけど。あれ、葉書出しても大丈夫かなあ。M(モップル)の奴が、刑務所の名と犠牲者の名を教えてくれて、何でもいい、元気のつくようなこと書いて送れと言ってきたんだがなあ」「こっちの名は、出たらめでいいんだろう。どうってこと、ないじゃねえか」「だけどさあ。メーデーは盛大でしたって書きゃ、向うで没書になって渡されないだろう」「そんなの、お前、五月のお祭りは実ににぎやかでした、と書いてやりゃいいじゃねえかよ」
工事人夫は、がっしりした胸の前に牛飯《ぎゆうめし》の丼《どんぶり》をかかえこんで、むさぼるように白米のかたまりをのみこんでいた。そして、ときどき柳の方へ視線をむけた。そのギュウメシは、どこかの料理屋の冷えた残飯をもらいうけ、飯屋のおやじがふかしなおした上に、おかみさんが牛肉の煮汁をぶっかけたものであった。学生時代の柳は、金がなくなると、いつも、そのとびきりやすいギュウメシを食べることにしていた。肉のミはほとんど見かけないが、肉の匂いのする煮汁だけでも充分にうまかったのだ。厚みのある丼の重みが、さまざまのカンパで金を吸いとられ、街頭連絡で埃まみれに疲れきっていた当時の柳には、夜半にかけこむ焼|とり《ヽヽ》の店の豚の臓物とおなじく、たのもしくおもわれていたのだ。焼とり屋の脂ぎったおかみににらまれながら、油で汚れた板の腰かけにしゃがんでたべた、あの白くて歯ぎれのわるい、ゴムみたいなモツ。赤くてやわらかくて臭みのある、もう一つのモツ。それらすべてと、彼は何と遠くはなれさったことだろう。
「ギュウメシも出前があるのか。ぼくも一つ、たべたいな」と、彼がつぶやくと、工事人夫は太い首をねじむけて、こちらに、あまり愛想のよくない微笑をなげてから、柳にかわって「あいつにも、これ一つ、たのんでやれ」と、マダムの妹に命令した。
「あら柳さん。お坊さんのくせに、ギュウなんか食べていいの」と、おもしろがった少女は柳のそばに寄り添って立っていた。
「どうせ、ナマぐさ坊主だよ。でなきゃあ、こんな所へ来るかよ」と、背の高い学生が、長いテーブルの向うはじから叫んでいる。
「……おれたち消費組合のものは、第二無新(無産者新聞)が、突如として『革命』という名前にかわってさ。それで、すぐさま党の大衆化ができるという、そういう考え方は信用しないんだな」と、消費組合は、あきずに自分の解説をつづけている。「そうだろう。おれは、もう三年も地みちに組合でがんばってる。それだのに、いきなり共青へ入ったような青二才がさ。おれの許可ももらわずに、おれん所でガリ版を刷って、そこら一面紙クズをちらかして帰っちまう。このあいだ来た新入生なんか、赤い紙と黄色い紙を紙屋から買ってきやがってさ。しかも、本富士署のすぐそばの紙屋で、ビラの大きさに切らせてさ。それを、おれたちの二階にもちこんで、それの刷りぞこないを、平気で裏のクズ箱にすてて行ったんだぜ。そのビラの文句が、とても文科の学生が書いたと思えないような、気持のわるくなりそうな、いいかげんな文章でさ……」
集ってきた学生たちには、陰気なの、痩《や》せ細ったの、カネに困ってるの、病身なのもいた。だが彼らは、柳がお経をたのまれて行く貧乏な家の人々とは、どこかちがっていた。死人の出た貧乏人の家では、どうしようもないノリかニカワみたいな暗さ、身のちぢみそうな貧乏くささが漂っていたが、学生たちには、それがなかった。彼らには、どこかにスベスベした新鮮なもの、これから芽をふきそうな余力、すばやい神経のはたらき、ツヤ、光があった。
「Oは自殺した。柳、知ってるか」と、工事人夫は、柳にたずねた。
「知ってるよ。鉄道自殺したんだろ」
「そうだ。あれの原因は何かね。新聞では、どこかの細君と恋愛して、世をはかなんで死んだと書いてあったが。あれは、そればかりじゃないだろう。やっぱり、Oが検挙されて、それから脱落した、そのこともあったんだろう」
「トルストイのアンナ・カレニナを懐中にして、飛びこんだという話だな」と、背の高い学生が、首をこちらにのばして言った。「あいつ、そんなに文学好きな、気のよわい男のように見えなかったがな。おれは、木刀もったあいつに、寮で殴られかかったこともあったくらいだからな」
「Oのお経を読んでやったかい、柳」と、おとなしい音楽美学が、小さな声で言った。
「いいや。読んでやらないよ。友達のお経なんか読むのいやだからな」
「お前は、そういう奴だ」と、消費組合が言うと、みんなは笑いどよめいた。
「柳はそのほかに、死ぬ前のOのこと知らんのか」と、工事人夫は、ゆっくりと目標を定めるようにして柳にたずねる。
「ぼくは、第二無新の配布係をしていたころ、あいつに新聞を買わせて、月額五十銭もらったことがあるよ。そしたら、『五十銭じゃたかいぞ』と、Oは不平を言ってたけどな」
「検挙されてから、Oに会ってなかったのか」
「ああ、会ってないよ」と、柳はめんどうくさげに、工事人夫に答える。
「Oが死ぬとは、ぼくも思ってなかった。だけど死ぬものは、死ぬんだよ。自殺した者がなぜ自殺したか、そういう理由なんか、ぼくは知りたくないからな」
「柳は、そうだろうさ。死人ばかり取扱ってるんだから」と、背の高い学生が言うと、またもや笑声が起ったが、工事人夫と消費組合は笑わなかった。
「ひとの女房と恋愛するというのは、西洋の小説なんかじゃ、よくあることだけどさ。実際は、厄介な憂鬱なことじゃないのかなあ」と、音楽美学は、ものうげに、かつ臆病そうに言った。「Oじゃなくても、そういう恋愛をすれば、死にたくなっても仕方ないんじゃないのかなあ」
「そうすると、つまり、柳みたいに政治も女も棄てて、寺にこもっているのが安全ということになるのかなあ」ダンス場通いの英文科の秀才は、ため息をつきながら言った。
「いいや、そうでもなかろうさ」と、工事人夫は、男らしい大きな眼で、何か探り出そうとするかのように、柳を見つめた。その男の、床屋の剃刀《かみそり》が生えぎわを青くそりあげた、たくましい首すじが、妙にエロティックに柳には感ぜられた。
「Oの奴が自殺した原因は、色ごとではなかったのかい。思想的ななやみのためだったのかい」
と、音楽美学は、眠そうな顔つきで言った。
「アンナ・カレニナは鉄道自殺しているからな。だから、Oがアンナ・カレニナの本を懐中にして、おんなじ鉄道自殺したとすれば、アンナ・カレニナの影響をうけていたことになるな」
「Oに一体、そんな深刻な思想的なやみがあったのかよ。第一、思想的なやみって一体なんなんだい」
と、背の高い学生が、馬鹿にしたように言った。
「Oは左翼運動から脱落して、転向したのかもしれんけどさ。脱落する奴や転向する奴は、くさるほどいるけれど、そのために自殺したって例は、あんまりきかねえな」
「自殺した奴の悪口を、あとから言うのはよくないよ。自殺した者は、とにもかくにもハッキリと自殺してるんだもの」
と、英文学は、女性のような美しい口もとで言った。
「自殺しない我々は、たしかに自殺していないけれど、それはそれだけの話だもの。自殺した方のことは、理解できないはずなんだから、理解できないでいて、とやかく言うのは、文学的じゃないよ」
「英文学的な意味で文学的でないからと言って、それがわるいことなのかよ」と、背の高い学生が、長い両手をテーブルにのばし、もみあわせるようにして反対する。
「おれはただ、Oの自殺が感覚的に、それほどのことと感じられんから、それを言ってるんだ」
「Oは、もともと破滅型じゃなかったのかい」と、消費組合が言う。「破滅型は、革命運動や政治行動において、もっとも取扱いにくい連中なんだ。ああいう、燃えやすくして消えやすい手合が、獅子《しし》身中の虫なんじゃないかな。パッと一時的に燃えあがったとき、やることは派手なんだが、あとには何も残らない。あとに何も残らないで平気でいられるというのは、冒険主義という奴じゃないのかな」
「消費組合は、いつまでも残りつづけると言うわけか」
陽気な皮肉を言ってのける背の高い学生を、工事人夫は陰気な眼つきでながめていた。男らしい大きな両眼が、どろっとした暗さをおびているのは、彼があきらかに、ここに出席している同窓生の誰一人をも信用していない、軽蔑《けいべつ》している、否むしろ無視している証拠だった。「こいつは、妙に傲慢《ごうまん》な男だな」と、柳は柳で工事人夫を見守っている。「みんなをバカにしている。自分だけが真実の底にまで降りて行き、地面に両脚をつけている。そう言いたげな顔つきだな。それは、そうなるだろうさ。プロレタリア独裁を目ざす革命運動なら、自分がプロレタリアにならないかぎり、話にならんからな。しかし、彼の陽やけした、たくましい首すじが、おれにエロティックに見えるというのは、どういうわけなんだ……」
「おれは、柳君に質問したいんだが」と、工事人夫が言い出したとき、「ほら、おいでなすった」と感じた柳は、気むずかしい檀家をはじめて訪問するときの、どうにでもなるがいいさ、どうせ文句はつけられるんだと、シリをまくったような気持であった。
「頭を剃《す》ろうと、仏門に帰依《きえ》しようと、それは自由だから一向にかまわんがね。だが、どう生活が変化しようと、柳君には責任というものがあるはずだからな」
「Oの自殺のことか」と、背の高い学生が、柳を弁護するように言った。
「いや、柳君自身の過去についてだよ。彼の過去について、彼の責任はあるはずなんだ」
筋骨すぐれた工事人夫には、一座を威圧できる風格が充分にあった。音楽美学や英文学には、工事人夫の重々しい自信が、やりきれないのであったが、それを軽視するわけにもいかない状態が、彼らの学生らしく神経のこまかい鼻つきに、あらわれている。
「どうして、柳にだけ過去の責任を問わなきゃならんのかね」
「それは、おれが柳君に興味をもっているからだよ」と、工事人夫は、背の高い学生を抑えつけるように、言う。
「柳君には悪いがね。あまりおれが感心できない男としての、柳君に興味があるんだよ。変り身が速すぎる男を、おれは大体、好かんのだが。それにしても、大学をフイにしているからには、ただたんに仏教に逃避するという以外の、何かしらの根拠があるはずだ。彼にはないかも知れんが、あって欲しいと、おれは望んでいるわけだ」
「ぼくのうちが寺でなかったら、ぼくが坊主になるはずはないだろう」と、柳は答える。「そういう考えが、ぼくに生れないからな」
「そうか。そういうわけか。そう言ってしまって、すましていられる柳とは、おれは思わんがね」
工事人夫の言葉は、中学生の頬っぺたのニキビ、靴ばきの足の指のウオの目をほじくり出すようにして、何かを柳からほじくり出したがっている。それが柳には、大体はわかっている。しかし、大体ではない所の、学生生活とは全くちがった肉体労働者になったモト学生の、校内とは別の街頭なり職場なりから獲得した、そいつの熱気なり冷気なりは、柳自身も知りたいところなのだ。こいつ、この三鎌《みかま》という奴は、少くとも高校時代から、三回以上は検挙されている男だろう。すこぶる頑強な男であることは、まちがいなかろう。あの宮口は、こいつの仲間、こいつの上位の指導者だろう。宮口とは、何となく、少し、いやかなりちがう種類の男かな。同じ地下組織にぞくしている、この三鎌と宮口は、同じ大学出身者(いや、中退者)のはずなのだから、あの農民出身の越後などとは別種の人間であってさしつかえないわけだが、学生出身と一口に称しても、内部事情はややこしく分裂したり、反撥したり、あるいは人間どうしの性格的な根本のくいちがいがあったりして、むずかしい問題が発生しているのかも知れないなあ。世の中は複雑だなあ、と、柳はむずがゆくなる思いで、沈黙している。
「三鎌さんは柳さんに、いやにからみますね。そんなに親しい仲でも、ありそうにないのに」
と、音楽美学は、柳に同情したように、ぼんやりした調子で言う。それを相手にせずに、「労働者」三鎌は、「君は、テク(科学技術部)には、ぞくしていなかったのか」と、柳にたずねる。
「テク」が「テクニック」の略であることは、学生左翼なら誰でも知っていた。たとえば、ある大がかりな秘密会議をひらく。「大物」を集結させるための資金あつめ。自動車の手配(そのためには、タクシー会社を経営する方法もある)。旅館か別荘か、安全な場所を選定する任務。親の遺産をそっくり注ぎこみ、飛行練習場と、練習機を手に入れ、お役に立てようとした志願者さえいる。それに、地下の印刷所。これは、技手や技師、理工科出身のインテリの得意の分野だ。なかでも最も、秘密くさくて危険なのは、軍隊にもぐりこみ、大演習や動員、新兵器や軍艦の使用目的を探知せんとする「軍事テク」だ。およそ、その種の「技術的」な工作が、粗雑な失敗の多い「お坊ちゃん」の柳に、できるはずがないではないか。警察の調査を命ぜられた、ある学生は「警察新聞」を定期購読して研究したのはいいが、誌上の若い警官諸氏の論争によみふけって、「警官でもなかなかどうして、進歩的な意見を吐く男がいるぜ」などと感心しているうちに、自分と同年輩の警察官にとらまえられたりしていた。革命党の中枢部(それがどんなものかは、伝説にちかい情報しか受けとっていない柳などに、推察すべくもなかったが)に直結している、つまり直属している機関には、その下部の方に案外に金持の子弟が多く立ちはたらいていて、ロシア語や英語の文献から、よその国の革命党の、秘密運動の巧妙なやり口を研究し報告し、あるいはモスクワや上海《シヤンハイ》から帰国した実践の先輩から、豊富で具体的な智慧《ちえ》をさずけてもらって、それを「上級者」の活動の資料として提供しているという、うわさであった。
探偵小説でも読みあさるようにして、その種の奇怪な秘密行動のうわさ話をきくのは、|面白がり《ヽヽヽ》の柳は好きではあったけれども、自分がおよそそう言った「冒険」に不適当な人間であることも、よく承知していた。したがって今、三鎌が、このような同窓会の席上で、秘密の闇にかくれた「テク」について不用意に発言するのが、いくら不用意な柳にも、いぶかしく思われたのだった。
「知らないよ、ぼくは」
「そうかな。関係あるように想像されるんだが」と、三鎌は、押しづよく言う。
「ぼくは、今、坊主なんだ。なんにも、やっちゃいないよ」
「坊主、坊主と、そう矢を防ぐ盾のように持ち出すなよ。おなじ坊主だって、我々の運動に関係していた奴は、他の坊主とはちがうはずだ。ことに柳は、いくら坊主になったからと言って、過去の責任から逃れられるはずがないからな」
「どう言おうと、三鎌の勝手だがね。ぼくは今、坊主だ。そのほかに、言うことないよ」
「三鎌、お前、柳の最近の行動について、何か知ってるのか。知ってるなら知ってるで、その攻撃の根拠をあきらかにして、話してくれよ。それでないと、君の言ってることは、思わせぶりな、押しつけがましいコトのようにきこえるぜ」
と、背の高い学生が言った。
「君らは、行動をしていない。行動していない連中には、今さら文句をつけてもつまらんよ。柳には、まだいくらか行動の匂いがする。だから、念のためにききただしただけさ」
「ぼくは何も、行動なんかしとらんよ。匂いがしてるとすりゃ、死人か線香の匂いぐらいだろう」
工事人夫は、実に暗い暗い眼つきで、柳を見守りつづけている。それはもう、教室や喫茶店にたむろする学生の眼つきではない。また、よく街頭で見かける、一般の労働者の眼つきでもない。赤ん坊の|うんこ《ヽヽヽ》だらけの、三畳の貸間からとび出して行き、どこかでお経の金を十銭借りてくる、今にも死にそうなほど、栄養不良のおかみさんだって、こんなに疑りぶかい、暗澹《あんたん》たる眼つきをしていない。未来の明るい社会を建設するための、かがやく正義と真理で武装しているはずの「前衛」が、どうしてこんな特高刑事に似かよった、どす黒い眼つきをしていなければならぬのか、柳にはわからない。
人間を人間あつかいしない当局の弾圧で、再建しても再建しても、イモ蔓《づる》式に検挙され、留置場や監獄で、むごたらしくいじめころがされる危険に、たえずおびやかされているうえに、「内部分裂」とか言って、ひっきりなしに裏切者、プロヴァカートル(挑撥者《ちようはつしや》)、送りこまれたスパイ、「革命的」反対派、少数派、小児病患者、冒険主義者、日和見《ひよりみ》主義者、改良主義者、教条主義者、あるいは自発的な意志にもとづく二重スパイになやまされて、眠るひまもなく疲れきっているため、ああいう険悪な、絶望的な眼つきになるのだろうか。宮口は、こんな眼つきをしていなかった。宮口のも、きびしい眼つきにはちがいないが、三鎌の眼つきの、ねばっこい暗さはなかった。一体、いつのまに三鎌は、こういう眼つきになったのだろうか。自由労働者、土建労働者は割合と公開的なデモやストライキで、一ばん開放的な労働運動を堂々とやっているはずなのだから、「テク」の連中より明るい日光を、充分に吸収しているはずなのであるが。ギュウギュウに圧迫されて、ひしゃげた眼つきと言うよりは、支配者になろうとする強い欲望で、まっ黒になった眼つきとでも言うのだろうか。
「柳の匂いは、死人や線香の匂いばかりじゃないらしいぞ」
と、背の高い学生は、緊張した空気をもみほぐすように言った。
「白粉《おしろい》や香水の匂いも、くっついてるんじゃねえのか。女の肉の匂いがさ。さっき連れてあるいてた女、あれは相当の美女だったぞ。おれは、ああいうタイプの女、好きだよ」
「ぼくは、女の話をするのは、きらいだよ」
「柳には、血の匂いもくっついているのさ」と、工事人夫は、またもや不吉な、暗いことばを投げかける。
「三鎌さんは、どうなの?」と、英文学が、やさしい、神経のこまかい声でたずねた。「工事場とか飯場《はんば》とか、ああいう所ではよく大喧嘩して、斬ったりはったりして血を流すじゃないの。それから……」と、英文学は少し言いよどんでいた。「それから、リンチとか革命裁判とか言って、よく仲間うちで凄《すご》いことやるんじゃないの?」
「ブル新(聞)が、我々のことについて良く書くはずがないよ。検挙された同志の写真を見てみろ。みんな気ちがいじみた兇悪犯人みたいな面にされてる。今にも、人をとって食いそうな、悪相にされてる。だから、奴らのデッチあげた、我々のリンチ事件なるものだって、そういう毒々しいペンキで塗りたくってあるんだ」
三鎌の眼には、重く沈んだ暗さのほかに、にくしみと軽蔑が、石炭の断面のように黒く光っていた。
「君らは、そういうデッチ上げた印象に、だまされているだけなんだ。だまされて、よろこんでいるだけなんだ」
「……よろこんでなんか、いやしないよ」と、音楽美学が、おそるおそる反対した。
「いいや。よろこんでいるのさ。喜んでいないつもりでいるが、実は、無意識的に喜んでいるんだ。傍観者という奴は、いつだって実行者の失敗や欠陥を発見しては、ゾクゾクするほど、うれしがりたがっている奴らなんだ」
「そうかなあ。ぼくらは、君らの失敗や欠陥を発見して、うれしがっているのかなあ。そんなことはないよ。それは、ちがうなあ」と、英文学も音楽美学に味方した。「それよりむしろ、せっかく同情しよう、理解しようとしているぼくらを、シャット・アウトするような暗い、血なまぐさいものが、そっちにあるからこそ、近づきがたくなってるんじゃないのかなあ」
「おれたちは、暗くも血なまぐさくもありはしないさ。現実を暗く血なまぐさくしてるのは、おれたちの『敵』なんだ。その『敵』は、自分たちのつくり出した暗さ、血なまぐささを、おれたちに押しつけようとしている。おまけに、君ら傍観者たちは、うまうまと『敵』のテにひっかかって、『敵』のつくり出したイメージ通りに、ぼくら実行者を眺めるような眼鏡をかけられてしまっているわけさ」
「三鎌さんの言うことが、わからなくはないんだよ」と、弱々しそうな英文学も、なかなかしぶとかった。「ただ、理窟《りくつ》でなしにさ。人間を見る君らの眼が、どうも大ざっぱすぎるように感ぜられるんだよ。|感じ《ヽヽ》なんかをもち出せば、また文学至上主義者とか、非科学的とか言われちまうだろうけどさ。行動することが、いいことであるのはきまりきってるよ。行動してみなけりゃ、わからないことが沢山あるさ。それは、ぼくらだって認めてるよ。だから、いくらぼくら(文学愛好者)だって、君らが行動している|その事《ヽヽヽ》を非難なんかしてやしない。時によると、同情したり、感心したりすることだってあるよ。ただし、どうしても肌あいのちがいを感ずるんだよ。三鎌さんたちは、自分の生き方を正しいと思って、そうやっているんだろうけど、ぼくらは何も『自分ノ生キ方ハ正シイ』なんて思っちゃいないのさ。自分は正しいと信じて疑わない君らを、自分は正しいと信じてなんかいないぼくらが攻撃する権利はないさ。だから、三鎌さんの失敗と欠陥を、ここで論じようなんて、そんなつもりはないよ。そんな暇があったら、ダンスのステップでも習っていたいんだから。だけど、どう言うのかなあ。三鎌さんが『敵』や『傍観者』を攻撃する、そのやり方が、なんだか肌あいのちがいを感じさせるんだなあ」
「攻撃好きだから、攻撃してるんじゃないぜ。攻撃せざるを得ないから、敢えて攻撃してるんだ」
「うん、それは、わかっているんだけど、どうもね……」
「いいや、わかっちゃおらんよ」
工事人夫は、英文学の頭蓋骨《ずがいこつ》でも咬《か》みくだきそうな、自信を以て言った。
「君らは、わかるのが怕《こわ》いから、わかろうとしないんだ。頭のいい君らに、わからぬはずはないんだが。わかるのを怕がって、わかろうとしない奴に、わからせようとしたって逃げられちまうのは、当然だろうが」
「……そりゃ、ぼくは留置場や刑務所に入るのは怕いよ。厭だな。御免こうむるな。しかし、プチブルは臆病だから何もできないなんて言う、言い方はきらいだな。それに、三鎌に感ずる肌あいのちがいは、たんにぼくの検挙や入獄に対する恐怖心のためばかりじゃないよ。恐怖心が消滅したって、やっぱり感ずるちがいだろうしな」
「安全無事な地帯に腰をすえて、せいぜい高級なる英文学でも、研究しているがいいさ」
黒くたくましい手首の腕時計を、するどい眼でチラリと見てから、三鎌は起ち上った。
「象牙《ぞうげ》の塔にとじこもって、研究室の副手から助手、助手から講師、講師から助教授、助教授から教授へ上って行く。そのあいだに、文学青年むきの気のきいた文芸評論を書きなぐって、いくらかの名声をせしめる。金持の、きれいな奥さんをもらう。いいだろう。やりたければ、そうやるがいいのさ」
と、三鎌は、英文学をおびやかすように言った。
「しかし、戦争というものがあるぜ。もう、はじまっているぜ。赤紙がくる。赤い召集令状が一枚、ある晴れた朝に君の幸福な家へ配達されてくる。それで、君の夢は|おじゃん《ヽヽヽヽ》になる。そのとたんに、君は高級なる英文学者ではなくなり、帝国主義戦争に駆りだされた、あわれなる一匹の羊にされるんだ。君は厭でも、繊細な感情ゆたかな、ヒューマニスティックな文学研究者の座から引きおろされ、たちまち、汗と血と泥にまみれた犬、人殺し常習の犬にされちまうんだぜ。まあ、ダンスの新しいステップでも研究しながら、|その時《ヽヽヽ》を待っているがいいさ」
そして工事人夫は、おしまいに柳を見すえながら「おれは、柳に、ちかいうちにまた、どこかで会うような気がするよ」という棄てぜりふを吐いて、力のこもった足どりで立ち去った。
英文学は、フウーッと息を吐き出して、首を横に振った。やれやれ、これで助かったという気分が、音楽美学の顔つきにもあらわれていた。三鎌と一緒に階段を降りて行った消費組合が、他の者には不明な相談を何かすませて、ふたたび階段を上ってくるまで、同窓生たちは、三鎌のかもし出した不安な空気から解放された気やすさで、笑いさざめいていた。
「おいおい、柳、お前……」と、陽気な背の高い学生は、あいかわらずこだわりなく、愉快そうではあるが、何かしら重大なことでも想いめぐらしている様子で、柳に話しかけてきた。
「お前は悟りすましたように、そうやって坐りこんでいるけどな。三鎌は、お前さんがお目あてで、この会に出席したらしいぞ。おれは、そう思うな。奴はお前さんを、好きではないらしいが、少くとも奴はお前さんに近づこうとして、今日ここへ顔を出したんだぜ」
もしも秀雄の手術が長びけば、柳は、同窓会に出席できないはずだった。もしも、宝屋夫人の肉体の魅力が、その日のその時刻に、もう少し強かったら、やはり柳は参会できなかったにちがいない。そんな|あて《ヽヽ》にならぬ柳一人を目標にして、あの多忙なはずの三鎌が同窓会に顔出しするなどとは、柳には考えられないことであった。
「大戦争が起きたら困ることは、何も三鎌に説教されなくたって、わかってるのになあ」
と、音楽美学は、うんざりしたように言った。
「モーツァルトもドビュッシーも聴けなくなって、ミリタリー・マーチだけになっちまうのは、ぼくらだって厭にきまってるのになあ」
「軍人が威張りかえって、世の中が殺伐になる。それは、ぼくだって厭だよ」と、英文学は言った。「だからと言って、それに反対する三鎌君たちの革命グループが、威張ったり殺伐になったりすれば、その方も厭になるんだよ」
「あの男は別に、それほど殺伐じゃないだろう」と、消費組合は好人物らしく、ゆっくりと反対した。「はげしい肉体労働をやってる男が、本ばかり読んでる男とちがっている、少し荒々しく見えたからって、それは殺伐とはちがうだろう。柳、どう思う?」
「うん。彼が我々とちがった特別の人間とは、思わないね……」
ただし、あの暗さ、あれは青年として異常じゃなかろうかなと、柳は判断していた。
「彼はとにかく、実行している。ぼくは、実行してなんかいない。だから、ぼくは彼のこと、とやかく言いたくないよ」
今の柳には、潜伏中の久美子のことのみ、しきりに思われた。宮口や三鎌たち、非合法運動の男たちにとりまかれて暮している、久美子の身におそいかかっているにちがいない、さまざまの危険が、同窓会の席をはなれようとする彼の全身に、痛いように感ぜられてきたのだった。
その夜の八時、メリヤス女工の通夜に出かけると、柳はもはや、数時間前の同窓会の学生気分を忘れていた。その理由は、簡単であった。通夜の読経をする長屋の狭い二階の小部屋には、屍体《したい》が横たわっているのに、喫茶店の二階の同窓会の席上には、屍体など存在していなかったからにすぎないのである。
本郷の学生街とはまるでちがった、救いようのない、しめっぽい暗さの中に、その女工の屍《しかばね》は置かれてあった。階下の家主そのものが、家主らしからぬ貧乏世帯で、とても家の所有者とは言えない、落ちつきのない状態なのであるから、その二階(つまり屋根裏部屋)を借りうけていた女工の屍は、「安置」などという取扱いをうけられるはずはなく、片よせられた、片づけられたといったあんばいに、ただ置かれてあるだけであった。頭のつっかえる、抜け穴をくぐるように無理な階段を五、六段のぼると、室内には三人の男が腰をかがめて立ちはたらいていて、それだけでもう、|ほとけ様《ヽヽヽヽ》をふんづけそうなほど、室内は人間の身体で一杯になっていた。階段があまりにも狭すぎるので、棺は、棺の形のままでは運びあげることができないので、うすい板をバラバラのまま持ちこみ、それを棺の形に打ちつけている最中であった。
男たちは、葬儀屋ではなかった。町内の親切者が、棺材を買いととのえて、世話をしているのだった。死者には小学生の妹が一人あるきりで、その妹は階下の出入口で、しょんぼりと、穢《きたな》い和服姿で立ちすくんでいた。親類も、工場の仲間も、誰一人として顔を見せていない通夜の部屋に、喪主などという者も居るわけがなかった。もし、喪主が居るとすれば、それはうすぐらい門口に、誰からもかまいつけられないで、おびえながら立っている、女の子の他にあるはずがなかった。
三人の男たちが動きまわり、頭や腕が電燈にふれるたび、室内の光線はゆらぐので、まるで部屋全体が、光と闇を左右に傾けたり、天井と床を押し上げ押し下げたりして揺れているみたいだった。
「持ちあげててくれ、電燈を。手くらがりになって、仕事ができやしねえ。あ、お寺さんが来て下さった。おい、お前、場所を少しあけてあげなよ」
一人が柳に向ってかるく首をさげると、もう一人も首の手拭をはずして挨拶した。
柳の足は、まだ階段の最上段と次の段にかかっていて、彼の頭部は男たちの腰の高さに在った。うっかり彼の手をかけた壁は、板ばりがむき出すほどはげ落ちていて、めくれた壁紙や新聞紙のすきまから、壁泥がこぼれおちた。
「入ってもらうにしたって、これじゃ、お前、坐る場所がねえよ」
「下で待っててもらったら、どうなんだい。早いとこ棺へ入れちまえば、何とかなるけどよ」
「入れちまおうよ。どうせ、あとで蓋を釘《くぎ》づけにするんだから、底が少しぐらいガタついてても、入れちまえばいいんだ」
「入れるか」
「入れれば、納棺だろ。ねえ、坊《ぼん》さん。棺に入れちまえば、どんな棺だって納棺ですわなあ」
「ええ……」と答えて、柳は低い位置から中をのぞきこむ。
「おれは、お前、区役所の兵事係だぜ。徴兵検査と召集令状の事務をやってりゃいいのにさ。こんな世話までするこたないんだぜ、ほんとは」
「なにごとも、選挙のためなんだろ、お前さんは。お前の兄貴の豆腐屋は、町会議員に立候補してるじゃねえか」
「そうだよ。いつも落選してるけどな。お前んとこは親戚《しんせき》が多いから、そのうち当選するだろうさ」
「何てたって、土地に親類が多いのは強みだあ」
「それに、区役所に勤めてるってのが、強いわさ。兵事係なんて言えば、このせつ神様あつかいで、若い奴らに拝みたてまつられらあ」
「馬鹿言うなよ。おれが決めて、赤紙や青紙出してるわけじゃあるまいし」
「だけどとにかく、お前さんの手を通じて、赤紙が来るんだろ。そうすりゃ何てたって、お前さんの所が関所じゃねえか」
「だから、それがちがうんだったら。おれはただ、区役所の机の上で命令を受領して、兵事関係の事務を取扱ってるだけさ。おれには何も、権力なんてありゃしない」
「じゃあ、おれが足の方を持つから……」
三人の男の身体がかさばっていて、遺体は見えないが、男たちの掛声や動作で、「彼女」が、棺の方へ運ばれていることが、柳にはわかった。
「なんだ、これは。軽いも軽い、子供みたいじゃないか」
もはや痛がりもしない、不平不満をのべもしない、小柄の屍を、二人の男が、まだ感覚のある人体を取扱うような親切さで、棺の中へおろした。貧弱な、うす板の棺が、さほど居ごこちが悪くもなさそうなほど、女の屍は痩せて小さかった。白木の板は、まあたらしい白さで、木の香もしているのに、納棺された当人の方は、とっくの昔にしなび古びて、色も香もなくなっていた。その顔は、生きているうちから、はなやかな生気など失っていて、死んだからと言って、生前とさして変ってはいないぞと言いたげに、蒼《あお》ざめていた。
「それにしたって、工場の仲間が一人ぐらい来てもよさそうなものなのにな」
「それが、だめなんだよ。あのメリヤス工場、ストライキやってただろう。あのとき、この女は、スト破りとか言って仲間入りしなかったんだそうだ。裏切者になったんだそうだ」
「この女に、何ができるって言うんだよ。裏切りかなんか知らねえけどさ。お前、この女はメリヤスのシャツにボタンをつける仕事、工場から帰っても内職でやってただろう。そんとき見たけど、幽霊みたいに痩せちまって、貝殻のボタンを一つ一つ、気ちがいみたいになってシャツの胸に縫いつけていただけだよ。善いも悪いも、あったもんじゃねえさ。生きてるうちから、死んでるみたいな女だったからな。善いこともできなかったかも知れないが、悪いことなんかできるわけねえじゃねえか」
「だから、おれは、この女のこと何も知っちゃいないよ。あの工場に通ってる女に、そんな話をきいただけだよ」
男たちの服装も、葬式に参加するための礼服ではなかった。カーキ色のズボンに、紺色の足袋とか、ふだん着のセーターに鳥打帽をかぶったりしていた。それでも男たちの簡単な服装には、棺の中の女の和服より活気があった。着ふるして、たった一枚大切に売りのこしていた年代モノの着物は、古道具屋の店さきにさらされた、雛人形《ひなにんぎよう》の厚地の着衣ににて陰気だった。御大層な紋様のため、なおさらみじめだった。
「お坊さん。この手は、組みあわせた方がいいんじゃないかね。どうなんですか。この手は胸の上で、拝むような恰好で、組みあわせてやった方がいいんじゃないですか」
「あんまり屍体にさわらない方がいいぞ。人間は死ぬと、毒が出るって言うからな。シドクとか言う毒が出るって言うからな」
「これじゃあ、だって。恰好がつかねえぞ。ねえ、坊さん、どうなんです」
何もしないで突っ立っている柳を、とがめるように一人が言った。
「そうだな。素人《しろうと》がやるより、専門家に始末してもらった方がいいな」
と、もう一人も、うながすように柳を見つめた。
柳は坊主のくせに、その日まで、まだ死人の手にさわった経験がなかった。他人の手にさわるのは(相手が女の場合)、生きている人の手でも彼はきらいだった。しかし柳は、その道の熟練者のふりをして、棺の中の女の腕を折りまげ、彼女の胸の前で合掌のかたちに彼女の二つの掌を合わせた。死者の手は冷たく、取扱いにくかったが、それでもまだ骨が鳴るほどこわばってはいなかった。「ぼくが今考えているのは、通夜の読経がすむまで、僧侶らしい様子を保っていることだけだ。専門の僧侶の、『死』について心得ているらしき、あらゆる落ちつきはらった態度を示そうとすることだ。けっして、『死者』のこと、根本的な『死』そのものを考えてなどいやしない。ただただ、死者の前で、死者の周辺の人々に、自分を僧侶らしく見せることだけに注意をくばっているんだ。それは、まちがいだ。みにくい、世俗的な心がまえだ。だが、どうしてもぼくは、そうなってしまうんだ……」どこに坐ろうかと四囲を見まわしながら、柳はそう思っている。
柳は自分の手首にかけた数珠を、死体の手にかけてやろうかと考えたがやめにした。いくらお坊ちゃんの柳でも、それはあまりにもわざとらしい行為のように思われたからだ。ほんの、ときたま、衝動的にやる慈善行為が、役にたたない愚行であり、表面をつくろう偽善であることは、わかりきっていた。数珠ばかりでなく、彼の身につけている白衣や、黒衣をすっかりぬぎすてて、棺の中へ納め、名も知らぬ女の屍を飾ってやることも、彼には出来る。そうやれば、手伝いの三人の男たちが、感心して「いい坊さんだ」と、ほめてくれることも分っている。息子の服装にやかましい柳の母親が、もっと上等な白衣と黒衣を新調してくれることも、分りきっている。柳が、この通夜をひきうけたとき、柳の母は反対した。「つまらないから、そんなところへ行くのはおやめ。執事か、ほかの坊さんをやっておけばいいんだよ。何も貴方が行く必要はありゃしない。大寺のあとつぎは、それだけの格を保つようにしなけりゃいけないよ。わたしはもともと、貴方が仲よし子供会をやるのにも反対です。貧乏人の子供は臭くてかなわない。貧乏人は子供でも、お寺を利用することばかり考えて、恩義など少しも感じやしないのだから馬鹿馬鹿しい」と、たしなめたものだった。それでも、万事によく気のつく柳の母は、彼に線香とろうそくを持たせた。どうせ、貧乏長屋には、その用意がないという母の予測は正しかった。彼がろうそくと線香をとりだして、火をつけると、「ああ、そうそう忘れてた」と、男の一人が恥ずかしそうに言った。
出来るだけ、太い威厳のある声で、念仏を唱えはじめながら、「どなたか、お待ちになる人がいるんですか。すぐお経をはじめてもいいんですか」と、柳はたずねた。
「さあねえ。別に来る人もないらしいよ。家族ってったって、妹の女の子が一人だけなんだから。あの子をよんでくるか」
「そうさなあ。姉さんのおとむらいだから、よんでくるのが当然だけど、あの女の子、この女が死んじまってから、こわがって近よってこねえんだ。無理もねえやなあ。姉さんといったって、こうなっちまっちゃあ、口もきかねえし、起き上りもしねえし、幽霊みてえに気持がわるいからなあ」
「ともかく、おれ、下へ行ってよんでくるよ。来たくないというなら、仕方ないけどよ」
男の一人が、階段をきしませておりて行ったが、女の子は上ってこない。柳は、出勤用の鉦《かね》をならして、読経をはじめた。
「ナムアミタプの朝鮮人が来てるだがなあ。あげてやるか」と、階下へおりた一人が、階段のくらやみの中から、声をかけた。
「ナムアミタプのやつ、また来たか。あいつ、長屋の葬式となると、どこへでも来やがるからなあ。折角来たものを追いかえすわけにもゆかねえだろう。あげてやりなよ」
男たちの会話を耳にした柳は、少からず緊張した。ナムアミタプの朝鮮人。それは、目黒署の地下の留置場で、彼が知り合った、あの朝鮮人にちがいないからだ。柳には、あの念仏好きの朝鮮人が、ただ者でないという予感がつきまとっていた。もしかしたら、あのみすぼらしい朝鮮人は、目黒署から脱走した宮口と、特殊の関係があるかもしれないのだ。「ナムアミタプ、ナムアミタプ」と、朝鮮人独特の発音で念仏しながら、せまく暗い階段をふみしめてくる「彼」の足音がきこえた。
ナムアミタプの朝鮮人は、木魚を小脇にかかえていた。それは、念仏講のおばあさんたちが、本堂に集るとき、寺で用意しておく、ありふれた小さな木魚だった。しかし、小柄の朝鮮人がかかえこんでいると、その古びた木魚も、大きな貴重品のようにみえた。木魚のすわりをよくするための木魚のふとん(蓮の花型にぬいつけた布に綿がいれてある)が、赤、緑、黄、桃と色あざやかなので、朝鮮人そのものよりも木魚の方が目立つぐらいだった。留置場で会ったときの朴《ぼく》は、女房に差し入れしてもらった白麻の朝鮮服など着て、いかにも朝鮮人らしかったが、その夜の彼は、あたりまえの日本の貧乏人と少しも変らない、うす汚れたセーターとズボンの姿であった。警察に検挙された理由は、電線泥棒であったが、柳は彼から「泥棒」という感じを少しもうけていなかった。ことに、哀れな女工の通夜にわざわざやってきた朴には、いかにも念仏教徒らしい生真面目さがあって、彼がきてくれたために、通夜の気分はいくらかほんものになったような気がする。
手伝いの三人の男は、階下へ下りてしまったきり上ってこないので、階上には柳と朴と二人きりだった。同じ念仏を唱えていても、朴と柳とでは千里も隔った場所にいるにちがいなかった。柳はべつだん朝鮮人を軽蔑してはいなかったが、朴に対して尊敬の念を抱くわけにはいかなかった。柳の高校の同級生にも朝鮮人がいて、その男は知能もすぐれ、しかも柔道の有段者だった。その朝鮮人学生には、何かしら目ざましい未来が待ちうけているように思われたが、威厳のない小男の朴には、一生みじめな暮しの中で消滅してゆく気配があった。朴は柳には何も話しかけずに、ひたすら死者を弔うために仏の名を唱えつづけた。柳が六時礼讃を出来るだけゆっくりとした節まわしで誦《ず》する間は、朴は沈黙していた。
階下が急ににぎやかになってきたのは、酔った町会議員がきたからだった。いつのまにか、朴が柳の背後ににじりよっていて、にんにくと汗の匂いがただよってきた。
「……宮口ニアウカネ。宮口トアンタノシッテイル娘サンガ、アンタニアイタガッテイル。アウ必要ガアルソウダ……」
朴は木魚を叩く手を休めなかった。
「宮口ト娘サンハ、ドウシテモアンタニアワナケレバナラナイソウダ。アンタニハ、ドウシテモアウ責任ガアルソウダ。モシモ二人ニアンタガアワナケレバ、アンタハ二人ノ敵ニナルソウダ」
柳がふりむいてたしかめると、朴は留置場にいたときとそっくりの、木像のような無表情であった。
「君はぼくのことを……」と、柳が問いただしても、朴の表情には変化がみとめられなかった。
「アンタノオ寺ヲ一日ニ一回グライ通リヌケル。アンタハオ寺デヨク働イテイルネ。大キナ木ヲ大キナノコギリデ切ッテイルナ。マキワリモヨクシテイルナ。アンタノコトハ、ヨク知ッテイルヨ。ツリガネ堂ヤ本堂ノマワリ、オ墓ノ石段モヨク掃除シテイルナ。和尚《おしよう》サント畠《はたけ》ヲタガヤシテ野菜ヲ作ッテイルナ。アノオ寺デハアンタト和尚サンガ、一バン働キ者ダナ。オ正月デモ木ヲ切ッテイタカラ、アノ若イ坊サンハキット、金ヲノコスゼ。ト、魚ヤサンガイッテイタカラナ。オ寺ノ奥サンハキレイナ顔ヲシテイルガ、チットモ働カナイナ。オ寺ノ奥サンハアンタノオカアサンダガ、貧乏人ガキライダナ。オレハナンデモ知ッテイルダロウ」
「宮口と久美子さんに、ぼくが責任があるって? そんなことはないと思うが。むこうでそう言っても、ぼくはそう思わんよ。第一、君を信用していいかどうかも、ぼくには分らんしね。宮口は君については、ぼくに何も話していないからね。君は組織の人間かもしれないが、ぼくはそうではない。かりに二人とも組織の人間だとしたところで、君が今日ここで、いきなりぼくに連絡するというのは、どういうことなのかね」
「ポクヲウタガッテモカマワナイヨ。宮口ト娘サンニアッテモライサエスレバイインダ。アンタハ宮口モ娘サンモ好キナンダロ。好キダッタラアエバイイジャナイカ。モシ、アイニユカナケレバ、永久ニアウコトハデキナクナルカモシレナイヨ」
「ぼくは革命党員ではないからね。義務とか任務とかいう意味で、あの二人に会いにゆくつもりはないよ。個人的にあの二人は好きなだけなんだ」
「好キナラバタスケナケレバイケナイヨ。モシタスケナケレバ、好キトイウノハウソデショ」
「たすけることが、ぼくに出来るというのかね。たすけられれば、たすけたいにしても、たすけることは出来ないと思うね」
「アンタガカナラズキテクレルト、二人トモイッテイルヨ。二人トモアンタヲ絶対ニ信ジテイルカラネ」
「二人とも?」
「二人トモダヨ」
「二人ともというのは、つまり二人は一緒のところにいるというわけだね」
朴は無表情のまま、柳をしばらく見つめていた。無表情とはいっても、朴のとぼけたような顔つきには「二人」の現状について推察しようとする、柳の心中を鋭く見ぬいているようなところがあった。
「宮口モ好キ、娘サンモ好キトイッテモ、アンタノソノ好キニハチガイガアルダロウ。ソコマデハポクハ考エル必要ガナイ。ポクニトッテハ宮口モ娘サンモ同志ナンダカラ。アンタトチガッテ、ポクハ同志トシテノ彼ト彼女ヲ守リタインダ。アンタノ感情ノコトハヨクワカラナイ。ワカッテイルノハ組織ノ中ノアノ二人ヲ守ルタメニ、ドウシテモアンタヲ働カス必要ガアルトイウコトダケダ。アシタノ朝六時、アンタノオ寺ノツリガネ堂ノ下デマッテイル」
階下では、酒に乱れた男たちの声が高まっていた。
「坊さんを呼んでこいや」という声も聞えた。柳が朴に返事を与えないうちに、区役所の兵事係が彼を呼びにきた。
階下の部屋の中央には、羽織はかまの男があぐらをかいていた。柳が留置場入りをしていたときに、警察の二階で会ったことのある町会議員だった。警察にきた朝も、その町会議員は羽織はかまを着用し、酔っていた。「親父の顔に泥をぬるな。アカの奴らは皆、ぶったぎってやる」と、酒くさい顔を柳の顔にこすりつけるようにするので、特高刑事も「またはじまった」といいたげに苦笑していた。その夜の町会議員は、あぐらの膝《ひざ》に日本刀を横たえていた。「これはお前、満洲でチャンコロを叩ききった刀だぞ」と、彼は説明していた。「大勢かたまりあってるなかに、ウォーといって斬りこんでゆくんだ。そこが大和魂だからな。何人かかってこようと怖《おそ》れるもんじゃない。ウォーといって斬りまくるんだ」手伝いの男たちは、戦場の経験がないらしく、あまり信用しない様子で首をかしげたり、取り敢えず議員さんの話をおもしろがっているふりをしていた。
「ふぬけや腰ぬけにはわからんよ」と言って、彼は柳の方をにらみつけた。
「ことにアカのやつには、この大丈夫の気持がわかるはずがない」彼は黒鞘《くろざや》の日本刀を握りしめ、気合をかけて引き抜いた。
「ダダダダダアーッと満洲の黄塵《こうじん》をけたてて突っこむ」と、彼が日本刀をつきだすと、男たちはしりごみした。「相手を人間だと思っちゃいかん。要するに敵なんだ。日本国の敵は人間じゃない。けだものだ。けだものを斬る。けだものが人間にかなうわけがない。逃がしてなるものかと斬る。刃向ってくるやつもあるが、斬り倒す。斬り倒すことが大慈悲の精神だ。そこはやっぱり日蓮宗でなくちゃならんのだ。浄土宗のように、おたすけ下さいと念仏となえてるようなやつらには、この精神がわからんのだ。この精神がわからんやつはすぐ、アカに誘惑されるんじゃ」町会議員は上半身を前だおしにし、自分の太い首をねじあげるようにして、柳の顔をもう一度にらんだ。
板戸を締めきった細い廊下には、ちぢくれた盆栽や、小さなサボテン、安もののオモトの鉢が置かれてあった。家主の老人が育てあげた、色つやのわるい植物たちは、生きたがっていないのに、むりやりに生かされて困っているように見えた。長屋の向う側には、鍍金《めつき》工場と塗装工場が、双生児のように寄り添っていた。工場とは呼べそうにない、物置のような二つの小工場からは、せわしない夜業の音がひびき、ときどき蒼白い閃光《せんこう》がほとばしった。頼りなげな、その作業の閃光は、長屋の低い、まばらな板塀《いたべい》をくぐりぬけてくるとき、長屋ぜんたいを馬鹿にし、おびやかすようにまばゆかった。カリン糖の紙袋をかかえた、女工の妹は、片隅に立ちすくんで、こわそうに男たちを眺めていた。その女の子は、実にのろのろと、あまりおいしそうでもなく、黒砂糖でかためられた菓子を一つずつ口にはこんでいた。ほかに何もすることがないので、ただ口をうごかしているのだという様子だった。ガツガツしていないのが可愛らしかったが、それは疲れと淋しさのため、何も感じなくなり、泥色の菓子に味覚ぬきですがりついている姿だった。
「……同じ仏教でありながら、一つ宗派が他の宗派をむやみに攻撃するのは、まちがっていると思います」
「真の仏法は一つしかありゃせんよ。日蓮上人は、そうおっしゃっている」
柳の反論で怒気をました町会議員は、鞘におさめた日本刀を膝のわきに横たえた。
「他宗派がすべて邪教であると見やぶりなさったから、日蓮上人は敢然立って攻撃なさったのだ。ごまかしの仏教、腰ぬけの仏教が大きな顔してのさばっているのを、見るに見かねてナムミョウホウレンゲキョウの御題目をかかげなさったのだ。そのおかげで、元の大軍が襲来した、あの元寇《げんこう》の役《えき》に日本国はすくわれたんだ。もしも日蓮上人が国を守るために起ちあがらないで、ごまかし仏教、腰ぬけ仏教の坊主どもに日本をまかしておったら、日本はとっくの昔に元や蒙古《もうこ》の属国になり、おれたちはみなチャンチャン坊主の奴隷になっていたはずだ」
「ぼくは法然上人が好きです。しかし、だからといって日蓮上人を口穢く攻撃しようとは思わない」
「法然が好き? 法然がなぜ好きなんだ」
「うちの父が法然を好きだからですよ」
「何だ。それだけの話か」
「うちの父は、めったなことで人間を好きにならない男です。その父が好きになった坊さんですから、まちがいないと思いますよ」
「法然流に念仏を唱えて、おたすけ下さいと涙を流しているやつらは、みんな無間地獄に落ちるのだと、日蓮様はおっしゃっている。第一、ナムアミダブツで日本の敵を破ることが出来ると思っているのか。善人も悪人もナムアミダブツで極楽往生できるというのなら、どうして日本の敵というものがあり得るんだ。日本国民の敵、日本軍の敵もナムアミダブツで極楽往生できるときまっているなら、むこうは敵でも何でもないことになる。敵と味方、味噌とクソを一緒くたにして、ナムアミダブツだ、往生安楽国だ、ありがたやありがたやと言ってすましていられたら、日本国も日本陸軍も消え失せてしまう。そういう考え方が売国奴だというんだ。だから浄土宗は売国奴の仏教だ。もしも日本国中が浄土宗を信仰したら、日本国はたちまち外国に征服されてしまうんだ。だから、おれたちはこうやってナムミョウホウレンゲキョウで敵をうち破る覚悟をかためているんだ。敵を撃滅する力のない宗教が何の役に立つ! 国民の戦闘意欲をうばい、元気はつらつたる日本精神を衰弱させる張本人はナムアミダブツだ。敵軍が博多湾に上陸した。ハイ、ナムアミダブツ。敵軍が大阪に侵入した。ハイハイ、ナムアミダブツ。敵軍が東京の女子供を皆殺しにしようとしている。ハイハイ、ナムアミダブツ。極楽へまいりましょう。みんな仲よく西方浄土へまいりましょう。それでいいのか。それでいいというのか。それでも一人前のおチンチンのある日本男児だといえるのか。おい、どうなんだ。返答によっては容赦せんぞ」と、町会議員は日本刀をひきよせる。
「敵というのは何ですか。あなたが敵、敵という、そのテキがわからないなあ」
「わからない? テキがわからない?」
「そのテキは人間ですか」
「あったりまえじゃねえか。ノミやシラミがテキであるもんか」
「もしも敵が人間であるとすれば、われわれと同じものですね。ノミやシラミなら人間とはちがっている。しかし、人間と人間がそんなにちがっているものですかね」
「おれとお前は、天と地のちがいだ。おれは愛国者、お前は売国奴だ。お前は日本の警察にぶちこまれなければすまされない、獅子身中の虫だ。おれは日本国の天皇陛下の忠誠無比の臣民だ。この国を愛する草莽《そうもう》の民と、外国に内通するアカ坊主と一緒くたにされてたまるか。おれは、おれの町内にお前のようなアカ坊主が平気な顔して住みこんでいるのが、くやしくてたまらん。とっとと出ていってもらいたい。おれは責任ある町会議員として、全町民に代ってそれを要求する」
女工の妹は、町会議員の大議論にはかかわりなく、あいかわらず、カリン糖の黒砂糖を泥の汁のように口のヘリにたらしながら、ほかの誰よりもニヒリスティックな眼の色で、その場の光景を眺めている。身寄りのない女の子にとっては、浄土宗も日蓮宗も問題にはならないのだ。血なまぐさい戦闘が、アジアの一角でとめどもなく広がりつつあることも、少女は知らないのだ。日本仏教のどの宗派が、どの宗派のどの理論が、貧乏な姉の死後に取り残された、貧乏な妹の生活を保証してくれるというのか。すべてはあまりにも無意味だ、と柳は思う。町会議員の議論をうちまかすことは、彼にも出来そうだった。しかし、うちまかしたところでどうなるというのだ。
柳には、この町会議員が憎らしくもなければ、恐しくもない。彼にどんなに批判されようと、自分にはどこかに抜け道があって、救われるという自信がある。その抜け道とは何か。宮口の党の方針にしたがって行動することは、今の柳は欲していない。法然の教えを現代化して布教に専心するつもりもない。彼の「抜け道」とは、いわば、彼の未来が彼自身にとって、全く見きわめがたいという、そのことにすぎないのだ。
「火事だな」と、誰かがつぶやいた。すると、町会議員は今までの議論を忘れたように、聴き耳をすました。町会議員にとって、火事見舞はもっとも有効な宣伝行為だからだ。
柳は、黒鞘の日本刀に見とれていた。たぶん古刀と言うのだろう。戦国時代の武士たちが、命がけの野戦でふりまわしても、充分に信頼できそうな、重々しい堅固なつくりが柳の気に入った。先刻チラリと眼にしただけだが、ぶあつい刃の光も軽薄ではなかった。古刀を手にした古武士の姿を、柳はきらいではなかった。展覧会の日本画や、歌舞伎の舞台で見ても、それは立派だった。だが、日本刀を自慢にする町会議員は、どうひいき目に見ても立派ではなかった。大言壮語する男の卑しさ。それは本来、古武士の愛用した古刀とは、無縁のはずであった。その卑しさが、その町会議員からは匂ってくる。いさぎよい若武者の、初陣で奮戦して、ついにはなばなしく散りうせる。その見事な最期が若い柳にとって、魅力的でないはずはなかった。しかし、それは文芸部員の寮へ殴りこみをかける、剣道部員のあの荒々しさとはちがっているのだ、と柳は思う。日本刀で、腹一文字にかききる。それは、誰にでもできる仕業《しわざ》ではなかろう。日本刀で敵を斬りたおす。それだって、むずかしい冒険にちがいない。だが、今の今、このような状態(それがどのような全貌をもった状態かは、柳にも見きわめがつかないが)の下で「日本刀」、剣、ツルギを意味ありげにひねくりまわすことによって、自己の主張の純粋らしさを誇る、そのやり方は卑しいではないか。単純な人間が単純に、「剣」を愛する。そう言って、すましてしまえる問題ではないではないか。その単純そうな外見の下には、町会議員の票あつめのための、卑しい複雑さがかくされているではないか。
「日蓮宗が元寇の役のさい、日本を救ったんですか。ぼくは、そうは思いませんね」
「では、何が救ったんだ」
「武装した日本の民衆の、武力抗争が救ったんだと思いますよ」
「バカヤロウ!」
「それと颱風《たいふう》が、日本を救ったんですよ」
「おれは警察署長からたのまれているんだ。思想犯を監視するように、くれぐれも依頼されているんだ。お前のことは、特高によくよく報告しておいてやるよ。浄土宗の坊主にはアカが多いから、注意しなくちゃいかんと、忠告しておいてやるよ。お前ばっかりじゃない。お前の親父だって怪しいもんだ」
「ぼくの父について、とやかく悪口を言うことは許さんぞ」と、柳は片膝を立てた。「ぼくの父は、君なんかより十倍も百倍も立派な人間なんだ」
「そのうち、親子もろともひっくくってやる。息子のアカを許しておく親父は、つまるところアカじゃねえか」
「二階ニアガリマショウ。マダオ経ハオワッテイナインデショウ」
と、朴の低い声が、かなり重々しい命令のように、柳のほてった耳にきこえた。
柳が寺にもどると、母は外出していた。長い廊下のはずれにある四畳半のこたつに、父は背中を丸めていた。息子の顔を見るたびに、無表情な父の顔は喜びのためにゆるんだ。あまり大きくない父の眼は一瞬、輝くようにさえ思えた。柳はいつもそのような父の表情の変化を眺めるたびに「自分がもし子供をこしらえて、その子供の顔をみるたびに、あんなに嬉しそうな顔つきをすることができるだろうか。おそらくできないだろう」と、いくらかくすぐったい思いがするのであった。
「御苦労さん」と、父はほとんど気恥ずかしいような微笑を浮べて、通夜をすませてきた柳をねぎらう。それは、まだ一人前の僧侶になりきれていない息子が、ともかく一仕事すませてきた、それが息子のよい体験になるであろうという親心をむきだしにしていて、その父の喜び方があまりにも単純すぎるように柳には思われる。
「女工さんが死んじまって、残っているのは小さな妹だけなんだ。ああいう貧乏人のところでお経を読むのは、金持の大きなうちでお経を読むのより気持がいいな。お布施は貰わないで帰ってきた」
「うまくお通夜ができたか」と、父は眼を細めながら楽しそうに言った。母の好みのこたつ蒲団は寺にふさわしからぬ、ひどく派手な色模様なので、好人物そのもののような父の顔は、かえって爺むさく見えた。四畳半の次がリノリューム張りの四畳で、そこには誰もひかないピアノが据えられてあった。父はいつもそのピアノを背にして、気むずかしい面持で机に向っていた。檀家、借地人、寺院財産その他に関する書類が、それぞれのひき出し別にキチンと整理されて納められている書類|箪笥《だんす》があり、比較宗教学や浄土教史からサー・アウレル・スタインの「セリンディア」「インナーモスト・エイシア」まで、ぎっしりつまった書棚があった。その机の前で父はいやでいやでたまらぬ寺の雑務を我慢してつづけ、それがすむと息もしないようにして書物に読みふけっていた。そのような父の姿は社交好きの母とは無関係の人間のように見えたが、実は父は母の動静が絶えず気にかかっているのであった。いつも留守番をさせられるのは父の方なので、なおさら父は遠くなりかけている耳をすましていなければならなかった。「父は、あまり母を愛しすぎているな」と柳は思っていた。すべてを捨てさるのが仏教の本義であるからには、そのように母に対して細かく心を配り、いわば母に執着している父の態度は坊さんらしくないとさえ、柳は思った。母の帰宅が遅くなれば、すぐ心配するのは思いやりの深い、誠実な夫の証拠であるにしろ、もう少し投げやりにしておいてもよかろうと考え、そんな父を哀れに思うこともあった。
「おかあさんはさっき、西方寺へ出かけていったよ。こんなに遅くなってから出かけなくてもいいのに。困ったもんだ」と、父がつぶやいたとき、柳はまた始まったなと思った。
「よせというのに出かけていった。大した用事もないのに、どうしてあんなに行きたがるのかな」
柳はろくに返事もせずに、朝鮮人、朴との約束を思い出していた。父と母の関係が少しばかり悪化しようがどうしようが、柳にとってはかまったことではなかった。両親の口げんかのどちらにも味方するはずがないし、妙に仲よくされでもしたら、かえって気持わるくなるばかりであった。小学生の頃、両親が父の故郷へ旅行したことがあった。帰京した次の朝、両親の寝室からは、柳の聞き馴れない母のはしゃぎ声が聞えた。幼年の柳が両親の寝室へ入ると、母は寝床にねそべったまま、サイダーを飲んでいた。しかも、サイダーを入れたコップには生卵が入っていて、母が箸《はし》でかきまわすと、みるみる白い泡があふれた。母はおいしそうに半分ほど飲み干してから、「おいしいからお飲み」と、柳にコップを渡した。質素な柳の家庭では、そのような飲み物は見たことのないぜいたくなものであった。それはおいしい、生臭い飲み物であった。そして、その朝の両親の寝室には、おいしい生臭い匂いが満ちているように柳には感じられた。しかも、いつもいかめしい顔つきをしていた壮年の父が、その匂いの中で、母と馴れ合って、すっかりくつろいでいるようなのが、柳には不満だった。珍しい飲み物を与えられたのは、父と母の間に、旅行中に急に増してきたらしい親愛の情をごまかすため、と彼には思われた。十歳を過ぎたばかりの柳は、寝呆《ねぼ》けまなこで両親のそばへ慕い寄っただけであるが、そのとき彼は、父も母もいつもとは違ったみにくい奇妙な奴らのように感ぜられた。決して大びらにふざけたことのない父が「死ぬ、死ぬ」と柳には全く理解できない言葉を口にして膝を叩くと、母はなまめかしいように上半身をくねらせて「そんなこと言って、駄目よ」といい、恥ずかしそうに枕の上に顔を伏せた。とにかく、それは柳にとって不愉快きわまる印象であった。自分の知らない間に、二人がしめし合せて、うまいことをやっているという推測と反感が、幼い彼の頬を平手打ちになぐりつけたようであった。
もう一つ、柳の脳裡《のうり》に刻みつけられた小事件が、両親の間に同じころ発生した。前の事件が夏だったとすれば、それは二、三カ月経った秋のことにちがいない。父のもとへは仏教大学の学生たちが、絶えず訪ねてきていた。その学生たちのなかで、幼年の柳にも忘れられない美青年の学生があった。歌舞伎の女形のような目鼻だちの整った、抜けるように色の白いその学生は、高価な和服を着てしなやかに父の書斎に入ってきた。その学生が彼の母に附き添われて、改まった行儀作法で父の前にかしこまっていた。客が帰ったあと、しばらくして、父はいきなり客が持参した土産物のりんごを投げちらした。立派な大人である父が、そんな子供じみた馬鹿馬鹿しい怒り方をするとは、柳にも予想外であった。りんごが部屋から縁側へ、縁側から庭へ転げ落ちてゆくとき、居合わせた母の妹が「あらあらあら」と、取りなすように笑ったが、母の方は蒼白《そうはく》になった顔をこわばらせているばかりだった。幼年の柳には、父と母の感情のもつれなど、推察すべくもなかったが、それでも、やはり、父の激怒の原因が、あの女形のような美青年と関係があるらしいと推察できた。
宮口の所属する革命党の活動、戦争にむかって追いやられて行く日本の政治情勢に気をとられている現在の柳は、かつての幼年時代のように、父と母との関係を生臭い男女のもめごととして観察するゆとりはなかった。父も母もやがては滅亡すべき、ある種の旧時代の一員にすぎない、救いようのない没落を前にした旧時代の遺物なのであるから、たとえ肉親であっても、それに対して熟慮しているひまなどないぞというのが、柳の心境だった。
「お母さんには、軽率なところがあるからね。それで心配なんだ。好きなことをやるのは、いいんだが、後先考えずに他人の迷惑を考えずにやるのが困る。ことに困るのは、自分がお寺に住んでいる人間だということを、忘れていることだよ。お寺に住んでいられるのは、ホトケ様のおかげなんだ。|おかげ《ヽヽヽ》という言葉がわるければ、ホトケ様と無関係ではいられない。仏教を中心として生きて行かなければおかしいという反省がなければ、一日もすまされないはずなんだ」
そんな固いこと言ったって、今の世の中では通用するもんですか、という母のよく透《とお》る声が父のききとりにくい声の裏側から、ひびいてくるように柳は思う。母の可愛がっている雌猫《めすねこ》が、父の存在など無視した態度で、こたつ蒲団に寝そべったり、歩きまわったりしている。暮しのくるしい小作農たちは、口ベらしのため子供までよそへあずけるくらいだから、猫や犬を飼うことを好まない。その習慣を幼年時代から身につけた父には、猫や犬を飼うこと、愛撫《あいぶ》することをいやがる気風がしみついていた。母が猫に、高価な食物をあたえると、父は厭《いや》な顔をした。使用人に対する愛情がさほどないくせに、猫にばかり親切をつくす母の不平等心に、父が怒りを感ずるのは、柳にも理解できた。だが、猫や犬を叱りつけたり、はらいのけたりする父の態度には、ほとんど生理的な嫌悪の念がむき出しになっていて、柳はおどろかされた。「正直者はムカッ腹を立てる」という批評は、父にピッタリだった。だが、菊の花や里芋、胡瓜《きゆうり》やカボチャにあれほどこまやかな世話をつくす父が、猫や犬の「心理」を全く理解してやろうとしないのは、柳に理解できぬことであった。
「あすの朝早く西方寺へ迎えに行ってくれないかな」
「どうしてですか。何か用があるんですか」
「さっき、叔母さんから、お母さんが向うへついてから腹痛《はらいた》になって寝込んでいるという電話があったんでな……」と父は恥ずかしそうに言いしぶっていた。家庭内の瑣事《さじ》を息子に打ちあけるとき、父はいつもひどく遠慮して言いしぶるので、柳は気の毒になる。
「行くのは何でもないですが、電話で様子が分らないのですか。また、例によって大したことはないと思うのですが」
「……いや、それが、叔母さんの話だと二、三日向うで静養したいといっているのだ。だからお前に行ってもらって様子を見てきてもらいたいのだ」
「叔母さんと二人で遊びまわりたいので、そんなこといってるんじゃないですか。末子がいるから、お母さんなんか一週間や十日いなくてもかまわないじゃないですか」
「お前はそういう簡単そうないい方をするがね。そういうもんじゃない」
「あすの午後ではどうですか。朝早く、僕は友だちのところへ見舞に行かなければならないんで」
柳は朴との約束をどうしても破りたくなかった。母の腹痛はどうせ口実にすぎないが、久美子と宮口の彼に対する申出は、重大な危機を物語っていると思われたからだ。
「なるべく早く行ってもらいたいんだが」と、父はなおも遠慮がちに言いつづけた。父自身で出かけようとしないのが、柳にはいじらしく思われた。
長い廊下を元気のよい小走りの足音が近づいてきて、末子が障子をあけた。盆にのせた二つの椀にはお汁粉の湯気がたちのぼっていた。「故郷《くに》から届いた小豆で作りました。若先生はお好きでないかしれませんが」と、彼女は溢《あふ》れんばかりの愛嬌《あいきよう》笑いをしながら、こたつの上に椀をのせた。紫蘇《しそ》の実の味噌漬を盛った小皿も、気を利かせて添えてあった。
「奥様は今夜はあちらでお泊りでしょうか」
父が不機嫌に横を向いて返事をしないので、柳は代って「うん、今夜は帰らない。あしたも帰らない。あさっても帰らないかもしれない」と、投げやりに答えると、末子は「はあ、さようですか」と手で口をかくして、しのび笑いをした。小柄な末子の、いかにも敏捷《びんしよう》そうな小さな顔の、小さな両眼は、主人の家庭のどんな小さな風波をも見逃さない、ほとんど邪悪なまでな利口さで輝いている。
父はまずそうに椀の汁粉をすすり、湯気でむせかえって、苦しげに咳《せき》ばらいをした。すると耳の敏感な猫は、首をもちあげて警戒するように父の方を見つめた。
「奥様が家をおあけになると、大先生がお淋しゅうございますね。奥様がいらっしゃらないと、お寺はまるで火が消えたようでございますから」
「よけいなことは言わんでもいい」と、父は叱りつけるように言った。
猫はしっぽをたてて、末子の方へ近よった。そして、彼女の霜やけのわれ目が赤いすじをひらいている手に、首をこすりつけた。母が留守の際は、猫の「御飯」をこしらえるのは末子の役目なので、猫はよくそれを知っていた。
「はいはい。お猫ちゃん、お腹が空いたの。あげますよ。おいしい御飯をあげますよ」と、彼女は幼稚園の女先生のように、とりすまして猫に言いきかせた。柳たちの目の届かぬ炊事場の隅で、末子はどんなに邪慳《じやけん》に「お猫さん」を取扱うか、柳はよく知っていた。猫自身も、それを身に沁《し》みて承知しているのだが、母のいない今は、末子に甘えるより他に方法はないのである。
「先ほど、宝屋の奥様から若先生にお電話がございました」
「ふうん、そうか」と、柳が何喰わぬ顔でつぶやくと、末子の表情に微妙な変化があり、障子を締めて彼女が立ち去ったあとでも、その微妙な変化の手応えが柳の胸に残った。
暗い廊下を二回ほど折れ曲って、階段の冷たい板をふみしめて行く間、柳の肉体の感じていたのは、自分に電話をかけてきた宝屋夫人の肌のやわらかさと体温であった。六畳と十畳の二階の二間は、もちろん冷えきっていた。若い柳には東京の寒さなど、ものの数ではなかった。寝間着に着替えるのが面倒臭いので、ラクダのシャツとズボン下のまま、ふとんの中にもぐりこむ。東京風の掛蒲団は、着物のように両袖のある|かいまき《ヽヽヽヽ》で、首すじの寒くないように、枕の上に襟《えり》まき(肩蒲団)がひろげてある。母や末子は湯たんぽまで入れたがったが、活気の強い柳には、そんなものは邪魔になるので断っていた。申し分のない暖かさの中で、手足を伸ばしながら、柳は古代インドの教団内部における、若い僧侶たちの性欲のことを考える。河の砂の中に陰茎を挿入《そうにゆう》して罰せられた僧侶がいる。人間の女性と性交してはいけないといましめられ、猿や羊の雌と性交してもよろしくないのでしょうかと、伺いをたてた坊さんもいる。仰向《あおむ》けに寝るか、横向けに寝るか、寝る際の両腕の位置は、どこが適当であるか、それらの規則のすべては性欲を抑制するための工夫であった。河の砂に挿入するのは悪いと決定されたとしても、まだまだ、木の幹の穴や、岩のわれ目など、挿入すべき対象は沢山あるのだから、それらすべてを禁止しようとする長老の苦心は、並大抵のものではなかったにちがいない。第一、河のほとり、大樹の下で仰臥《ぎようが》している青年僧侶の男根が、河の風や、森の風でなぶられたとき、彼自身の禁欲的意志にかかわらず、彼が夢の中で、或いは、もうろうたる無意識状態のまま、快感を覚えたとすれば、それは罪になるであろうか。柳の片手はひとりでに自分の陰毛をまさぐった。それは全く、馬鹿馬鹿しいほど、たくましい茂みであった。そんなものが自分の下腹部に存在していることが、正しいことであるか、否か、考えるよりもまえに、その茂みが間違いなくそこに発育してしまったということの方が、やりきれない驚きを彼に与える。一体、あの宝屋夫人は、この彼の黒々と光る茂みに対して、どのような感情を抱いたのか、どのような感情を抱いたにせよ、それが高貴なものであるはずはないではないか。それと同様に、彼自身が宝屋夫人の肉体の部分的なふくらみや凹《へこ》みに対して、燃えさかる欲望を感じたとして、それが高貴なるものであるはずがないではないか。高貴なるものを柳は求める。西洋文学では、恋愛は高貴なるものとされているらしい。しかし、今の彼にはそれを信ずることはできない。陰毛と陰毛がこすり合うことが、どうして高貴なるものであり得ようか。宝屋夫人が欲しいと彼はのぞむ。今の今、抱きしめたいと狂わしいほどのぞむ。まるで快楽の宝庫が、彼女の肉体の中にしまいこまれているように思われて、彼の想像力は限りなくふくれ上る。彼の腕、彼の指、彼の腰、彼の脚が動くたびに、彼女が感覚するであろう、あらゆる喜びが、まだ彼の知りつくさないまま、無限にしまいこまれていることを、彼は感ずる。彼女がしまいこんでいる快楽の要素を、すべて引き出してしまわないうちは、人生の味は感得できないでいるのではないか。彼女はまるで、彼にとって全人生の探究の入口として待ち受けているようではないか。おお、それだのに、どうしておれは彼女からの電話を拒否しなければならないのか。彼は蒲団の中に身を入れてくる彼女を感ずる。いや、そうではない。電話一本でつながっている、遠く彼方にかくれている宝屋夫人の欲望を、彼は自分の中につくり上げる。明日の朝は朴と会合し、久美子と宮口のかくれ家に行かねばならない。久美子と宮口に逢いたいという欲望と、夫人の肉体を抱きたいという欲望が、彼の中で何の矛盾もなく、とけ合い、燃え上ってくるのを覚える。ああ、人生とは青年にとって、何と突入するに足る深い深い輝かしき闇であろうか。彼は寝返りをうち、自分の腹を蒲団にこすりつける。自分の健康ではちきれんばかりの手足を、好き勝手にのばしたり、ちぢめたりする。「もしかしたら、仏教は唯物論なのかもしれない。物の絶対性を否定する唯物論なのかもしれない。もしも、そのような徹底した、オール否定の唯物論でないとしたら、どうしてシャカはあれほど、いさぎよく肉体を否定し得たであろうか」それにしても、どうして宝屋夫人の赤い唇のあの赤さが、当り前の赤さとちがって、意味あるもののように思われるのか。彼女の肉が、彼の肉を喜んでいるという、とるに足らぬ小事実が、どうして彼の全身をしびれさせるほどの重大現象であるのか。柳は足のかかとで敷蒲団をける。けんかでもするように、掛蒲団を両腕ではねのける。しかし、彼が自分の手や足の力を感じとる激しさにつれ、夫人に対する欲望が激しくなってくる。
追いつめられるということが、どんなものか、柳はまだわからなかった。宮口たちが追いつめられているのは想像できたが、宮口たちのおちいっている状態について、具体的に、こまかに想像することなどできはしなかった。「追いつめられれば、人間、なんでもやるからな」と、穴山はかつて冷笑しながら言った。「革命党の奴らは、追いつめられている。だから何をしでかすかわかったもんじゃない」追いつめられている? ほんとうに、そうなんだろうか。つかまったり投獄されている数は、おびただしい。壊滅だ、根こそぎだと新聞はたえず報道している。だが柳の入手した地下印刷所の新聞は、いつもすこぶる元気のよい調子で、自分たちの闘争の勝利をほこらしげに語っていた。
ほかのどこでも、お目にかかれない激しい言葉を書きつらねた、それらの秘密の読みものを、息をひそめて読みふけることには、性欲に似た刺戟《しげき》があった。たとえば、それは手淫に似た行為であった。柳にとっては性欲はすべて曲りくねった奇妙な形で、ほんの時たましか発散することができない。つまり、政治好きでもなし、政治的行動に突入しているわけでもない柳が、それらの政治的な文書に興味を持つのは、女体に接触しないで性的行為をとげるのと同一であった。柳の父は、明治の維新政府の大官連中を、一人として尊敬していなかったし、およそ政治家と名のつくものは、大臣、代議士その他、すべて軽蔑《けいべつ》していた男であるから、父の口から政治議論を聞いたことは一回もなかった。その影響をうけた柳が、現在の政党、たとえば政友会、民政党にどんな政見の違いがあるのか、どちらが内閣を組織すれば、日本の政策はどう変って行くものか、一切知らなかった。また、それらの大勢力に反対する、少数の革新派の名前と綱領(それは目まぐるしいほど、絶えず変っているらしかったが)についても、ほとんど無知であった。無知のままで革命党の秘密出版物がたまらない刺戟になるというのは、つまるところ、性的知識が驚くほど不足しているまま、性の刺戟を求めているのと、何の変りもなかった。
鐘楼の石積みの土台の周囲には、ほかの工事に使う予定だった切り石が積まれてあった。その三角形の切り石の隙間に、秘密の出版物が差し込まれてあった。柳が留置場で知り合った男たちの誰か、或いは高校時代の仲間で、革命運動を続けている友人の誰かが、柳の関心を知っていて、黙ってそこに投入しておくのに違いなかった。毎朝かならず境内の掃除をする柳は、切り石と切り石の間の隙間を、のぞきこめばいいわけだった。一カ月も中断されて、また急に連続的に入手できたりして、きわめて不規則な配達のされ方ではあったが、柳が封筒に入れた金を、その場所に挿入しておくと、次の朝はなくなっていた。たとえば、美貌の女学生に、また今朝も逢えるかと期待して、登校の時間を早めたり、遅らせたりする不良学生のいじらしい心理にそれは通じていた。
宝屋夫人に対する性欲に悶《もだ》えながら、柳は鴨居《かもい》に隠しておいた革命党の新聞を、ひきずり出して読もうとする。鴨居にたまっている、うす白い埃《ほこり》は、紙質のわるい新聞にこびりついている。柳は、陰毛や男根をまさぐった手で、その出版物を枕の傍にひろげる。そして、その鴨居の埃にまみれた指で、またもや陰毛や男根をまさぐる。それは、まったく革命党の行動とも、仏教的な精進とも、何の関《かかわ》りもない行為であった。彼が寝床の中で、そのような刺戟を自分一人で楽しんでいたところで、戦争反対の実践運動や仏教界の革新が、一センチメートルも前進するわけではなかった。それどころか、相手側は両方とも、そのような彼のみにくい執着を迷惑がり、そばへなど寄ってくれるな、けがらわしいと、身を避けるにちがいなかった。しかし彼は物欲しげに、まるでエログロ雑誌を盗み読みするようにして、政治的な秘密出版物を読みあさる。柳は例えば「日本の情勢と日本革命党の任務」と称する長い長い論文のようなものには興味がなかった。ロシア版カー・イー紙、一九三二年第八―九号、三月二十日号巻頭論文は「国際革命党指導部の集合的意見」として、日本の革命党が重要視し「我々はこの意見を広く大衆の中へ、実践的活動の活溌《かつぱつ》化として持ち込まねばならぬ。それが我々に課せられた任務である」と書きそえて、特別号の四面全部を使用して発表したものであった。おそらく宮口たちは、国外からの、この貴重な助言を何回もくり返し検討し、バイブルや経典の聖句のように頭の中に叩き込んだであろうが、暖かい寝床の中にねそべって妄想《もうそう》に耽《ふけ》る柳にとっては、それは長ったらしい文章にすぎなかった。「日本に於《おい》ては全農家(三、八三六、○○○戸)の七割が、一ヘクター(約一町二十五歩―訳者)以下の土地を耕す無力な貧農経営である」というような文章は、柳の性欲的な刺戟剤にはならなかった。また、一八九七年に、モーターを有する工場が、二、九一〇であり、一九二六年には、それが三七、一四一となり、一方、一八九七年にモーターを有せざる工場が、四、三七七であり、それが一九二六年には一一、二五三になったというような表の数字を眺めていても、少しも深刻な事態が感得できないで面倒くさくなってしまうのであった。しかし「軍艦に赤旗の飜へるのも近いぞ!」などと、|!《ヽ》の活字が黒々と印刷されているのを見ると、胸がしめつけられて両股《りようまた》の間に力が入り、思わず下腹部を敷蒲団にこすりつけたくなってくる。「軍艦に赤旗が? そんなことってあるもんだろうか。あるな。書いてあるんだから、あったな。あったらしいな。あったとしたら、とてつもない大事件だ。凄《すご》いような、びっくりするような、エログロ写真より、もっと強烈な迫力だな」と考えて、そこの部分を読んでみる。「いくら奴等が俺達に強制的に軍服を着せ、同志打ちさせようと企んでも兵士水兵は不満で一杯だ。俺達は横須賀軍港の労働者だ。三・一五には断然水兵の兄弟×人と腕を組んで『俺達の前衛を釈放しろ!』『軍法会議の等級差別待遇をやめろ!』『軍法会議反対だ!』と、五分間デモを鎮守府×××で敢行した。俺達××人は『革命』の歌の覚えてゐる所だけ、デツカイ声で歌ひながら床板を踏みならしてやつた。俺達はメーデーにはもつとうんとデモに動員し奴等がクロガネ(鋼鉄)の城砦《じようさい》だなんて威張つてゐる横須賀に日本革命党の赤旗をなびかせようと腕にヨリをかけて働き出した(横須賀軍港××工場通信員発)」すごいな、すごいなと、柳は思う。思うだけであって、ブリキの破片が空中に飛び散り、その金属的な光の一つが自分の肌につきささってくるようであるだけで、反戦運動が成功するなどとは少しも考えていない。小さく折りたたんだ他の新聞をひろげて読む。新聞の日附などはどうでもよいのである。何かしら、性的刺戟をそそるような活字の羅列を見つけて、それに眼をそそいでいればいいのだ。あったぞ。今度は陸軍か。よくもこんなにすごい大胆なことをやってのけるものだ。「白テロの嵐を衝いて 群馬の同志反戦を闘ふ」か。群馬県になど行ったことはない。「『白テロ』という字は、ほかの字より少し大きくなっていて、最新式のような感じがするな」柳は読む。
「二月下旬宇都宮第十四師団に動員令下るや高崎十五|聯隊《れんたい》の出兵に対する反戦のデモビラ等の活動が頻《しき》りに行はれ、これに恐怖した資本家地主共は、二月二十七日全県下に亙《わた》り突如大弾圧を下して革命的労働者農民約七十名を奪ひ去つたことは既報したが、勇敢なる群馬の同志達は、革命的労働者を先頭にこの白テロの真只中をくぐつて出兵前後三日三晩に亙り反戦のビラを撒布《さんぷ》し、官犬の派出所にまでも貼《は》り巡らしたのだ!」
つづいて、また大活字の小見出しだ。おもしろそうに見出しの活字を大きくしてあるところは、ブル新とかいう普通の新聞と同じだな。おや、ますます凄いことが書いてあるぞ。これが読まずにいられようか。柳は読みつづける。無責任に、ひたすら無責任に読みつづける。
「十五聯隊の兵士大挙して将校宿舎を襲ひ一名を狂人にす」ここまでが大きな活字だ。
「この死を恐れざる同志達の果敢な活動の結果、三月八日の夜、第二次出兵を知つた十五聯隊の兵士達は、大挙して将校連の兵営内宿舎を襲ひ内部に乱入したが、この物凄い勢ひに恐れをなした将校共は日頃の威厳にも似ず悲鳴を挙げて狂奔し二階から飛下りて大怪我をし、その中一名は遂に発狂した。憲兵隊官憲は弾圧に狂奔してゐるが反対闘争は益々《ますます》強力に押し進められてゐる。見よ! その結果、第十四師団では去る四月六日附『初年兵の第一期教育|概《おほむ》ね終了せるにつき』なる名の下に予後備兵中内地に勤務せる古年次の兵三千名の召集を解除したのだ」
勇敢というのか、無鉄砲というのか、とにかくとても不可能なような行動がどうして発生するのだろうか。敢行できるのだろうか。やむにやまれぬ状態に追いこまれれば、できるのだろうか。その、やむにやまれぬ状態から、柳は遠くはなれている。どの古新聞にも、上部の欄外には、星のマークをつけて「万国の労働者団結せよ!」と印刷されてある。ガリ版刷りの古新聞は左横書きで、ロシア語の「万国の労働者団結せよ!」も上に重ね合せて刷りこまれてある。活版刷りの古新聞には、右横書きでロシア文字なしで刷ってある。「万国の」という部分を「世界の」と解釈し、「平等に」とつけ加えれば、「一切衆生あまねく」という、仏教用語に似かよっている。しかし柳は「労働者」ではない。いくら彼が寺の畠で、彼の父のやり方を真似て、鋤《すき》や鍬《くわ》をつかい、里イモや枝マメやナスビやキュウリを育てたとしても、彼はとうてい労働者、農民であるはずがない。日本の労働者でありえない彼が「万国の労働者」と団結できるはずがない。労働者は、労働しなければ生きていかれないから、労働者なのだ。彼は、労働などしないでも楽にくらしていける。すこぶる不熱心にお経を読んで歩くだけで、地主、兼僧侶の恵まれた子供である彼は、工場のストライキや小作騒動と無関係に生きていかれる。日本に革命が起らないかぎり、柳の恵まれた、特権的な状態は、大海の荒波にもまれても無事にのこっている小島のように、しっかりと残りとどまっていて、それにしがみついていさえすれば、柳の生活は保証されている。陽あたりのいい小島の浜べに寝そべっているか、それとも大海の荒波に身を投げ入れて冒険するか、そのどちらをえらぶかという贅沢《ぜいたく》な自由が、彼には許されている。塩からい波にもまれて苦しくなり、もとの安全な浜べへひきかえして休息する自由までが許されてある。そのとろけんばかりの甘ったるい自由と、これらの必死の絶体絶命の闘争記録がうまく結びつくはずはないではないか。しかし、柳は、読みつづける。
女中の末子が、あついお茶と、柳の大好きなアゲ煎餅《せんべい》を持ってきてくれる。彼は、秘密出版物を蒲団の下にかくして「ありがとう」と言いさえすればいいのだ。狐色に揚った煎餅は、若い歯に気持よく噛《か》みくだかれて、香ばしい油の匂いがひろがる。「それにしても、どうしてこんなに革命党内の主要な人物が除名されたり、排撃されたりしているのだろうか」と、柳は、そのことに強い刺戟を感じながらも、うまく理解することができない。「除名広告」というのがある。それには、こう印刷されている。「関本一男(竹中又は川崎)は左記に示す彼自身の上申書に於て明白なる如く、我々の同志を階級的|仇敵《きゆうてき》の手に売渡したるものとして我党組織より除名す。年月日。日本革命党中央委員会」いやだろうなあ、と柳は思う。こうなってしまったら、恥ずかしくて苦しくて、生きているのもいやになるだろうなあ、と柳は思う。この「除名広告」のあとには、関本の上申書も印刷されてある。上申書には敗北した哀れな男の、いいわけがましい文句が書きつらねてある。「僕が敗北したのは主として母に対する愛着からであつた。小さい時から母一人子一人で育ち、ひどく『お母さん子』であつたが、何時《いつ》までたつてもその弱点は消えないから、闘争の間で矯正しなければならぬと思ひ、思ひ切つて仕事を始めたのであつた。併《しか》し今となつて見ると、永い闘争の間にもその弱点は消えず、こんな破綻《はたん》をもたらしてしまつたのである。僕の家には財産はない(中略)僕の投獄は実家を持たぬ老母の路頭に迷ふ結果を生み出すだらう」しかし、いくら彼が、そんな弁明をしたところで、許されるはずはないのだ。弁明すればするほど、手ひどく批判されるのは、分りきった話だ。中央委員会は、関本の上申の文章のすぐあとに、まるで小ねずみをとりひしぐ大猫のような勢で、批判を書き添えている。「三百万の失業者、それに数倍するその家族は、資本主義制度なるが故に、警察的軍事的天皇制なるが故に餓死に迫つてゐるのだ。そしてプロレタリアと貧農の真実の利益を代表して闘争せる階級的戦士は、全国の牢獄《ろうごく》に数千となく呻吟《しんぎん》してゐるのだ。年老いた父母、幼い子供達を飢ゑさせない様な社会を建設する為に、我々の全てが決死的に闘争してゐるのだ――編輯《へんしゆう》局」いやだなあ、こうなりたくないなあ、と柳は思う。しかし、関本とかいう男(彼は、おそらく柳と大して年齢の違わない若者であろう)が、そうなってしまったのは疑いようがない。その若者は、まさか自分が、そのような除名者、裏切者になろうとして革命党に入党したわけではあるまい。しかし、彼は明らかにそうなってしまったのだ。そうなってしまったことを、いくら消し去ろう、忘れようとしても不可能だ。彼、関本は、苦しまぎれに、まるで泣き叫ぶようにして上申を続けている。彼は「現在の僕は、ただ僕の党に対する裏切りと同志に対する不信を恥ぢてゐる」と書き記している。だが、その彼の訴えを、刃物で打ち切るようにして編輯局は「そんなことがどうなるといふのだ」と批判している。よろよろとよろめいて、悲鳴をあげたあげく、除名された彼は神経衰弱にかかってしまったことまで告白しながら、次のように書く。「死んで詫《わ》びようかとも思つたが、母のことを考へたり、それが党にとつて何にもならないことを考へれば実行出来ない。唯僕の罪をつぐなふには、もう一度コムニストになつて闘争することだといふ結論に達した。併し今直ちに積極的な闘争に飛び込むことは、以上の弱点をもつ僕には自信がない。けれどもとにかく近き将来には立ち直るだらう。そして僕の犯した罪の万分の一をつぐなふため粉骨砕身することをちかふ」ああ、しかし、駄目なのだ。ますます、まずいことになるのだ。編輯局は、彼がようやくのことで息せききらせて書き記したとたんに、たちまち、横手で彼のよじれた口を張り倒し、次のように書くからだ。「彼、関本は甘いセンチメンタルからして同志を売つたのだ。我々の全ては言葉通り死を決して活動してゐるのだ。如何《いか》なる誘惑、如何なる事情があらうとも敵に同志を売り渡すが如き行為は断じて許すべからざる行為である。彼が実質上スパイになつた後で如何に『粉骨砕身する』ことを誓つた所で犯した罪の万分の一も償ふことは出来ないのだ」いくら粉骨砕身したところで、もはや、誰も認めてくれはしないのだ。粉骨砕身すると誓うことが、そもそも怪しい、卑怯《ひきよう》ないい逃れに過ぎないと見抜かれてしまうのだ。この関本という男が、可哀そうな衆生の一員である、と考える余裕が柳にはない。柳のただひたすら感覚するのは、こうなったらいやだなあ、という気分、気分というよりは、射精に似た、ひどく肉感的な何ものかなのだ。「革命」の読者には、女性も沢山いるだろうから、関本は自分の除名広告を、それらの女たちにも読まれてしまうわけだ。いや、「革命」の読者に女性がいるばかりではない。同じ新聞の第三面には、細木正子という女が「ファシストのクーデターに対し、プロレタリ・農民は断乎《だんこ》として闘争せよ!」という大論文を執筆しているではないか。これが、もし、女に化けた男の変名だとしても、投書欄にかかげられた「組合婦人部の工場内の仕事に就て」を書いた望月桂子なる女は、ほんものの女ではなかろうか。だとすれば、今の今、あの宝屋の久美子さんも? 柳は手足をできるだけ伸して、まるで、ハリツケにでもかかったような硬直状態で天井をにらむ。彼の男根は、すでに硬直している。その硬直が政治的な硬直であるはずはなかろう。だが、革命党の新聞を深夜に読みふけることと、彼の男根の硬直が因縁があることは、疑いようがない。すべての「因縁」を解きあかして下さったおシャカ様も、法然上人も、まさか、このような奇妙な因縁までは予測なさらなかったであろう。「階級敵に降《くだ》つた前納善四郎を除名せよ」と、××工場細胞の一労働者が書いている。つづいて「党の公判闘を擁護しろ! 前納善四郎を排撃しろ!」と、東京在住の一被告が書いている。「『同志』前納の裏切的声明を駁《ばく》す」というのが、続きもので載っている。「はげしいものだな」と、柳は背すじが寒くなるほど感心する。はげしくやらなければ、|しめし《ヽヽヽ》がつかないで敵に負けてしまうから、そうやるのだとしても、それにしても続きものまで載せて、攻撃の手をゆるめないとは、はげしいものだな。おまけに秘密印刷所は次から次に潰《つぶ》され、刷り上ったとたんに全部数を奪われて、読者の手には一枚も渡らないという例もあるそうではないか。それにしても、こういう危険な新聞を、どこで、誰が、どんな風にして印刷しているのであろうか。編輯長や、編輯局員の名前も秘密、編輯室の地点も秘密、原稿も秘密に集めなければならない。印刷代金も秘密に集めなければならない。配達も秘密に行わなければならない。売上げの代金も秘密に集めなければならない。顔も名前も住所も秘密の連中が掴《つか》まっても掴まっても、飽きもせず、こりもせず、すべてが秘密のヴェールにおおわれた、これらの出版物を発行しつづけているのだ。基金カンパニアの成績報告が発表されている。それを読んでも、どんな顔つきの、どんな性格の男女が、苦しい生活の中から乏しい金を提供しているのか、想像が出来ない。「金額 ○・一五 四名 ×ガラス工細」とある。四人で十五銭の金を集めたらしい。つづいて「○・二六 三名 ××バス××車庫。○・八七 五名 ××紡績工細。一・二五 五名 ××鉄争議団。○・六二 東京城西地区××工細。○・四五 二名 大阪××工場有志。○・三七 三名 国鉄××車庫。○・二六 八名 ××ゴム工場」とある。八名で二十六銭か。ゴム工場といえば、柳の寺の附近にも煙突から臭い煙を出すゴム工場がある。そこの職工たちかもしれない。金額の多いのは、多分インテリだろう。「三・○○ 無名氏。○・五〇 上田生。○・五〇 洗足NTI生。一〇・○○ 牛込THD生。一〇・○○ 牛込THD生扱、P読者十人。一〇・○○ ×生。一〇・二五 東大。一六・五〇 東大」こんなこと、いくら読んでいても限りがない。しかし、何となく人情が移って、柳は読みつづける。大へんだなあ。ともかく大へんなことが行われているなあ。「印刷工の妻」というのもある。「シンパサイザー」というのもある。「四谷のレーニン」というのもある。「東京府下×川村」というのもある。「×高左翼組織再建委員会」というのもある。「一女学生 原豊子」というのもある。「株屋事務員 井上清子」というのもある。「千代子」の次に「八千代子」というのがある。「ピアトニキA」というのもある。「紅葉会」「あけぼの会」がある。「レッドポスター」がある。五銭出している「マルクス」もいる。
ねむい眼をこすりつづけて、柳は読みつづける。そして、またもや「凄い記事」を発見する。それは、プロヴァカートル(超スパイ)松原に関する記事である。ただのスパイではないのだ。超スパイだそうだ。スパイについても、まったく無知である柳は「超スパイとは凄いなあ」と、二つの膝《ひざ》がしらを痛いほど毛布にこすりつけながら読みつづける。面白くてこたえられない、という自分の感じ方は、きわめて反動的な感覚だとは分っていても、彼にはやはり、その種の記事が性的なショックと同じ強烈さで、全身に沁《し》みわたってくるのを防ぐことはできない。「超スパイともなれば、誰だってなれるという生やさしい存在ではないだろうな。ただたんに、脱落したとか裏切ったとか言うだけで『超』にはなれないからな」と、柳は思う。「穴山のような奴かな。きっと、そうだな。穴山だったら、ひょっとしたら自らすすんで、そんな大それた役割をひきうけるかも知れんな。奴なら、やってのけることができるかも知れんな。ぼくには到底、そんな『超』的な奴の心理なんか、わかりっこありゃしない。わかりたくもない。そんな奴には(たとえ超《ヽ》でなくて、あたりまえのスパイだって)近寄りたくない。大体、革命党そのものが秘密も秘密、地下も地下、陽のあたらぬ底の方で動いているはずなのに、またその党内に、党員たちが知らぬまに、もっと深い、もっと黒い秘密が生きて動いていたというのは、どういうことなんだろうか。おそろしいような気持がするが、おそろしいより先に、何が何だかわからないモノに突きあたったような気持がするな。救いがたいほど奇怪な人物、奇妙な男で『彼』はあったのだろうか。今のところ、厭な感じで一ぱいで、その正体をつきとめたいとも思わないし、つきとめられるはずはないにしても、その奇怪奇妙な奴がたしかに居たということは気にかかるな。『革命』紙上で、松原は正体を暴露され、徹底的に裁かれている。彼が超スパイであったことは見事に発見され、永久に記録にとどめられた。しかし、それにしても『彼《ヽ》』|が居たこと《ヽヽヽヽヽ》、この奇妙な事実はいくら暴露され裁かれても、なんだか妙にずうずうしく消え去らないで、こっちに迫ってくるな。穴山はぼくのきらいな男だが、それでも彼はイヤに濃厚な存在となって、ぼくにつきまとっている。それと同じように、このみんながきらっているにちがいない松原とかいう奴は、どろどろと濃厚な液体か、悪臭を放つガスのようにねばりついたり、充満しているみたいだな。たった一人で、十倍にも百倍にもうすめられても、まだ濃厚さを失わない毒物のようにしてな。いくらこっちが厭だ、きらいだと叫んでも、その濃厚な奴は居るな。しかも、ものすごく多方面に活躍して、多くの部下を駆使していたらしいから、善人と思われていた彼が悪人の彼であることを立証するためには、大へんな努力が必要だったらしいな。なにしろ、貴重な紙面を四面ぜんぶ使っても、告発はまだ不充分に見えるほどだからな」
約束の朝、朴は鐘楼の下に姿を見せなかった。したがってその日、柳は、久美子と宮口に会うことができなかった。柳の方から朴に連絡することは、できなかった。朴の住所を柳は知らなかったし、たとえ知っていたとしても、こちらから約束なしに連絡に出かけることは、朴にとって迷惑なこと、危険なことかも知れないからだ。「久美子さんと宮口君に、今日会えないからと言って、それがどうなんだ」柳は、鐘楼のまわりの枯葉を竹ぼうきで掃きよせながら、ことさらそう自分に言いきかせて、気持をしずめようとしていた。正門からつづく長い敷石の路、小さな借家の家並に通じている細く折れ曲った路、墓地へのぼるための石段の路、冬枯れの畠地《はたち》の霜どけの路、さらに竹藪《たけやぶ》のある寺の裏庭へ行く路、そのどの方角から朴がやってくるか、柳は、八方へ眼をくばって緊張していなければならなかった。鐘楼の両側にそそり立つ、メス、オス二本の銀杏《いちよう》の大木の葉は、とっくに落ちつくしている。だが、高い梢《こずえ》から落ちてきて、附近の子供たちに拾いつくされないで、どこか眼につかぬ隅で腐り、地面に浸《し》み入った|ぎんなん《ヽヽヽヽ》の実の、あの動物的な強いにおいが、漂っている。黄色く熟《う》れて、水気たっぷりな|ぎんなん《ヽヽヽヽ》の実は、性欲をそそるような、不思議なにおいを発散するばかりでなく、果肉をのぞき去って、中の核を洗い出すため、桶《おけ》の水につけたりすれば、水洗いする手が、たちまち荒れるほど、精気とアクのはげしいものである。死んだはずの|ぎんなん《ヽヽヽヽ》の実は、いまだに植物の性欲をおもわせる。また、しめった枯葉、腐れかかった落葉の匂いにも、若々しい葉とはちがった体臭に似たものがあって、柳の気持をいらだたせる。すべては、腐る。動物も植物も、腐れては、泥土に吸収される。そして、消えてしまう。腐りきるまでに発散するにおい。それが執念ぶかく、なまぐさいのだ。腐りはてて、土にとけ入り消え失せてしまうこと。それが、もはや土と同じ色に変りかかって、まだ葉っぱらしき体面を保っている、枯葉、落葉の「救い」なのだ。変化の極限まで行きついて、無に帰してしまう。それから土中の栄養分として、新しい植物たちの根に吸いあげられる。おそらく、キリスト教でいう「復活」「よみがえり」とは、そんなようなことかも知れんぞ。
いつまで待っても、朴はあらわれない。鐘楼のまわりを掃きおわって、柳は竹ぼうきに力をこめ、石段を登りつめ、てっぺんから下へ掃きおろして行く。急な斜面の林は、幹のあいだから朝の光を射しかける。日の光は、美しい。日の光に照らされた泥の地面や、白く乾いた石段も美しい。そして、あたたかい。あたたかく美しいものが、柳は好きだ。日向《ひなた》ぼっこに手脚をのばして、ぼんやりと時をすごすのも、彼は好きだ。だが、今朝の彼は、ぼんやりと時をすごす楽しさを味わうことができない。「こうやって、朴という小男なんか待っているのは、ことによったら、おそろしく馬鹿げたことかも知れんぞ。全く、これ以上あほらしいことはないほどの、無駄な|ひとり《ヽヽヽ》相撲かもしれんぞ」柳は、この広大な寺の境内、土地の高低や林のつらなりのどこかで、彼を監視しているかも知れない、警察の眼を予想しながら、そう思う。ことに、あの仕事熱心な若い特高刑事は、いつだって柳の行動に注目しているにちがいないのだ。「なにしろ、よく考えて見れば、まるで雲をつかむような話なんだからな。それは、もちろん朴や宮口や久美子さんが、この世に生きていることは疑いようがないさ。この三人とも、一つ陣営の仲間として働いているらしいことも、疑いないだろう。三人の顔も心も、大体は知っている。しかし、ぼく自身が、はたしてどこまでこの三人に密着しているかとなると、はなはだあぶなっかしいものなんだ。しばらく離れていれば、彼ら三人のことをすっかり忘れてしまうこともありうるんだ。彼らの方から何かしら連絡したり、はたらきかけてこないかぎり、ぼくは全く何もやろうとしない、一寸《ちよつと》だって動かないでいるにちがいないのだ」
「お坊ちゃま、御精が出ますな」と、寺の爺やさんが薄ら笑いしながら通りすぎる。爺やさんにとって、あまり早くから立ち働く若だんなは迷惑な話なのだ。爺やさんが立ち止って、鼻汁を手の甲で押えるとき、首すじに塗った膏薬《こうやく》の匂いが鼻をつく。老人性の腫物《できもの》が体中にふき出している老人は、その臭さのために柳の母から嫌われている。「一切の衆生は平等に救われねばならない」という仏教の定理を、何よりも大切にしている柳ではあるが、それでも、この爺様がもうじき死ぬのではないだろうかと、冷たく考えるのを止めることはできない。
「あんまり坊ちゃんが早くから働かれると、こちとら怠けてるようで、具合がわるいや。われわれ、年をとるてえと、からきし体が利きませんや。いくら強気でいても、体が利かねえのは、どうしようもねえ。それでも、わっしゃあ、小谷や書生たちには負けませんや。駄目だねえ。小谷や書生は。掃除や薪わりは、あいつらがやりゃあいいんだ。小谷ときたら、執事風を吹かせやがって、まるで自分一人、寺をとりしきってるみたいでさあ。要領がよくて、大奥様には気に入られていますけどね。地代のとりたてやなんかで、結構うまい汁を吸っているんでさあ。大先生はまるきし仏様みたいな人だし、大奥様だって、しっかり者ではいらっしゃるが世間知らずでさあ。これだけの大寺ですからねえ。借地一つ、墓地一つ、売買するんだって執事のふところには金は入ってきますからね。正直者には向かない世の中でさあ」
小柄ではあるが骨太の爺やの手のしわ、顔のしわはたくましく、それは世間知らずの柳を圧倒する。
「それに、末子のやつも女中のくせに奥様ぶりやがって、こちとら年寄りを馬鹿にするし、時によると猫を叱るようにして、わっしを叱りつけますしねえ。こちとらは、書生だろうが執事だろうが女中だろうが、皆、たかが知れた若いやつらだと思って我慢していますがねえ。まったく見ちゃあいられねえわ。若だんなが真面目なお人だということは、よく分っていやす。しかし、真面目だけじゃあ、世の中はどうにもならねえや。女道楽もせず、手なぐさみもせず、何だか知らねえが、朝から晩までむずかしそうな本を読んでいなさるねえ。勉強はいいでさあ。坊様《ぼんさん》が勉強しなさるのは結構なことでさあ。しかし、正直なところ、坊様《ぼんさん》が警察に掴まるのは感心したこととはいえねえなあ。苦労を知らねえ坊ちゃんてものは、すぐだまされっからなあ。すぐにアカの方から誘いにくるさな。アカに入って得をするなら、それも悪かあねえですよ。しかし、どうなんですい? 末は大僧正になること間違いなしのお坊ちゃんなんかが、アカの仲間入りして、それで得をすることがありますかねえ。こちとら貧乏人は、アカだろうがクロだろうが、得になるものなら何でも結構ですよ。好き嫌いなんかありゃあしねえ。ただし、馬鹿馬鹿しいことだけはやりたくないねえ。わっしだって若いときは女も買ったし、バクチもうった。好きなことはやりたい放題やって今の有様だ。後悔なんかしちゃあいませんよ。腫物《できもの》だらけの年寄りになって、いつ、くっ死《ち》んだって香奠《こうでん》も集まらないような身の上だが、それはそれでいいでさあ。だが若だんな……」と、老人は寺の名の入った印半纏《しるしばんてん》をはね上げ、カーキ色のズボンのポケットから煙草をとり出す。柳は朴がどこかの地点に現れて、今、自分に近よってきたら具合がわるいな、と心配する。
「坊様《ぼんさん》は坊様、職工は職工でさあ。何もぼんさんが職工の真似をしなさる必要はねえでしょ。浄泉寺の身代が、そっくり若先生のものになるんだ。何もあたふたする必要はありゃあしねえ。近頃のぼんさんなら、昔と違って、そうそう窮屈に考えねえでもいいわけだ。大人しくしていなさりさえすれば、一生安楽に暮せまさあ。そして好きな本を読んで、好きな女、たとえばでさあ、大奥様のような器量よしをお嫁にお貰いになって、それですました顔して暮していなされば、誰も文句をいうやつはありませんやあ。警察の旦那がたにタテをついて、どうなるというんです」
「爺やのいうことは、よく分るよ。それがあんたの長い体験から出てきた忠告だということもよく分る」柳は、視線を遠くへ走らせながら、老人の気持に逆らわないようにいう。
「それはあんたの意見だ。しかし、ひょっとしたら、ひょっとしたらだよ。僕の母の意見も入っているんじゃないかね。いや、それだけじゃない。もしかしたら、君は警察の特高刑事から何か言いきかされているんじゃないのかね。言いきかされていたからといって、僕は君を決してとがめはしないよ。僕の行動について、特高刑事に報告したって、僕は決して君を恨みはしない。僕は自分を決していい人間だなどと考えていやしないんだ。海のものとも山のものともつかない、危っかしい若いもんだと思っているんだ。だから、あんたに何といわれようと、僕は決して反対しないよ。あんたが考えている以上に、僕は悪い男かもしれないんだ。僕が今、何をたくらんでいるか、すっかり爺やさんに分ってしまったら、大へんなことになるよ。きっとあんたは僕の顔にツバをはきかけたくなるかもしれないよ」
「へええ。そんなものですかねえ。だが、冗談いっちゃいけねえと申し上げたくなるねえ。若だんなが、そんな大それた悪事をしでかせる大悪人だとはねえ。おヘソが茶をわかすねえ。おかしくって」
爺やは、せせら笑ったが、その苦笑は柳が身ぶるいしたくなるほど、冷たく陰気なものであった。
「どんないい女とだって、若だんなならおつき合いができるじゃねえか。たとえば、うちのお檀家じゃねえけどさ。あの宝屋の若奥さん、あれなんざあ、めったにないしろものですぜ」と、爺やは急に意味ありげに言って、柳を眺めやった。
「わっしなんざあ、死ぬまで指も握られねえようなしろものでさあ。そういっちゃ何だが、若だんなだって浄泉寺という大寺のレッキとした跡取り息子でいなさるから、ああした上玉におじぎをされたり、はき物まで揃《そろ》えてもらっていられるんだ。わっしゃあ、ちゃんと、この眼で見ているんだ。あんたの草履を、あのきれいな奥さんが白い指先でキチンと揃えて、あんたの足もとに置いたのをさ。そういうことが当り前のことだと思っているとしたら大間違いですぜ。わっしゃあ、一晩でいいから、あの奥さんと寝てみたいと思っているくらいだ。ところが向うは、紙に包んだ一円札を『爺やさん、どうもお世話様』と、お手ずから下さるばかりなのさ。とても対等な人間のつき合いなんかできるもんじゃありゃしない。そこへいくと若だんななんざあ、お経を一つ読んだあとで、ねんごろにもてなされることだってあるはずでがんしょ。向うも満更、気がなさそうでもねえからな」
柳の顔に血が上ってくる。何から何まで知りつくしているような爺やの言葉は、彼の体を金《かな》しばりにする。
「そういうことを言うもんじゃないよ。そんな言い方はよくないよ」
「よくなかろうとどうだろうと、わっしゃあ、正直にそう申しているだけでさあ。それはそうと、久美子さん、あの奥さんの妹さんはどうなさったのかなあ。近頃はあまりお見えにならないようですが。もとはよく電話で若先生と話なんぞしていなさったんじゃあないですか。久美子さんも、なかなかどうしていい女ですぜ。あれは今に、姉さん以上の上玉になりまさあ。こちらへいらっしゃるとき、歩いてくる足さばきなど拝見すると、今が色気のつきはじめですな。これからどんな大物になるか、先が楽しみというもんでさあ。つい此《こ》の間も華族のお嬢様が、運転手と手に手を取って家出をしなさったという話が新聞に出ていたっけが、あんまり久しく顔をお見せにならないと、わっしまでが気がかりになりやすよ」
美しい宝屋の姉妹を、爺やが二つの女体として、舌なめずりせんばかりにして観察している。男の欲望のメスで分析している、ということが、柳はいやだった。しかも、柳と姉妹の関係を、かなり正確に見ぬいていることが、なおさら厭であった。そして、久美子の行方不明事件と、宮口の潜伏行動が結びついていることまで、警察が嗅《か》ぎつけていて、その線をたどって宮口を逮捕するために、柳の日常を見張っているのではないかという不安までがつのってくるのであった。「こちらへいらっしゃるとき、歩いてくる足さばきなど拝見すると、今が色気のつきはじめで」というコトバは、老人の体臭と膏薬の匂いの入りまじった男の欲望をあらわすにすぎないとしても、「近頃はあまりお見えにならないようですが」とか「あんまり久しく顔をお見せにならないと、わっしまでが気がかりになりやすよ」というコトバの裏には、特高刑事の入智慧《いれぢえ》が感ぜられるのであった。
もしも、柳の日常に対する監視の網の目が張りめぐらされているとしたら、刑事たちにとって、この位たやすい仕事はないはずであった。いつも同じ場所にとどまっていて、逃げも隠れもできない柳を見張るのは、池の鯉を捕えるより簡単なはずであった。一体、どの刑事が、どこで、どんな姿をして彼を見張っているのか、柳には勿論《もちろん》見当もつかなかった。目黒署の特高係なら、柳の方でも顔を知っていた。小柄の特高主任は、いかにも旧士族の出らしく、剣道が自慢だった。仕事熱心の若い刑事は、とびきり上等の背広を着込んで、銀行員のように綺麗《きれい》に髪の毛をなでつけているにちがいない。シベリアでロシア革命分子のパルチザンと戦い、日本帝国と日本天皇に刃向うすべてのものを悪鬼と見なす留置場の看守、彼も最近は刑事に転進したという話だ。警視庁の特高の一人はリスのような男、一人は牛のような男だった。特高主任の反対派である肥った刑事部長は、手柄をたてて主任に昇格するため、さかんに活躍しているにちがいない。柳は、それらの人々を悪人だと感じたことは一度もなかった。もちろん自分の「敵」だと考えたこともなかった。彼らは彼を「にらんでいる」男たちであり、彼は彼らに「にらまれている」男であるにすぎなかった。ただ、もしも見張られているのが事実だとすれば、それらの特高関係の人々に、彼は、すっかりとりまかれているはずであった。つまり、それらの活動的な警察の人々と、寺で暮す彼との間には、密接な網の目の関係があって、それは、まだまだ断ち切られないどころか、ますます厳重にひきしめられているはずである。
次の朝も、約束の場所に朴は現れなかった。
柳は父の依頼を果すため、西方寺へ赴いた。母は両国駅のプラットフォームでつまずき、膝頭を痛めたことを理由にして、浄泉寺へ戻りたがらなかった。西方寺の叔母も彼女の姉を自分の傍へとどめておきたいので「他のところにいるわけじゃあるまいし、私のところで寝ているんだから、何も心配なさらなくてもよろしいと、お父さんに貴方《あなた》からおっしゃって下さい」と、とりなし顔に言った。叔母はいそいそと柳を出迎え、柳の大好物のレンガ亭のトンカツを御馳走した。「宝屋の奥さんが、もうじき見えるはずだから、ゆっくり遊んでいらっしゃいよ」と、柳をひきとめた。母も「そうよ。お父さんは泥いじりをしていれば機嫌がいいんだから、放っておけばいいのよ。わたしは草むしりや泥いじりは苦手ですからね。小谷や爺やや書生に手伝わせればいいのよ。貴方にゆっくりしていってもらった方が、わたしもいいわ」と、のんびりした顔つきで、帰宅する気配を示さなかった。柳の留守中に朴からの電話連絡があることは、充分に想像された。朴からではなくて、久美子、或いは宮口の代理者の誰かが電話をかけてくることもありそうであった。したがって柳は、一刻も早く目黒へ帰りたかった。だが、同時に彼は、西方寺を訪れてくる宝屋夫人と、ほんのしばらくでもいいから、面談したい気持をも捨てきれなかった。彼女が果して、目新しい洋装に身を飾ってくるか、それとも着馴れた和服姿で現れるか、そんなつまらないことにも、たまらない興味が湧《わ》いてくる。
「宝屋の若奥様がいらっしゃいました」と、西方寺の小僧が奥座敷に知らせにきたとき、柳は母にも叔母にも知られないようにひそかに緊張した。
どんな映画女優よりも上品で最新式の洋装の宝屋夫人は、奥座敷に足をふみいれ、そこに柳が坐っているのを発見すると、臆面のないほど明るい表情に変った。
「さっき、目黒へお電話したら、西方寺へいらっしゃってるときいたもんだから、お会いできるとは分っていましたけど」
一度坐った彼女は、すぐさま持参した生花の束を抱えて立ち上り、「うちのおばあちゃんのお言いつけですから、これを先ず本尊様にお供えしてこなくては」といって、柳の方を見つめた。彼女が踊りの手つきのようにして、色鮮かな花束を抱え上げる姿は、あまりにも芝居がかっているので、柳は少し厭気《いやけ》がさした。「あんまり仕種《しぐさ》がうますぎるなあ。あの死んだメリヤス工場の女工の妹は、仕種も何もなくて、貧乏にまみれ、馬鹿みたいになっていたが、あの感じは悪くなかったなあ。あの、みじめな少女に比べ、宝屋の奥さんは十倍も百倍も魅力的ではあるが、やはり、あんまり仕種がうますぎるのは、わざとらしいなあ」と思っていた。
「宝屋のお祖母様は何でもよくお気がつきになって。それじゃ、私が本堂へ御一緒してお花をおいけしましょうか。本当に立派なお花ですこと」と叔母が立ち上りかけると、夫人は「いいえ、私一人で結構です。それとも男の方がついてきて下されば」と言って、又もや柳をうながした。
「その位のことなら、あんただって手伝ってあげられるでしょう。いっておあげなさいよ」と、母も口添えした。柳は止むなく夫人のあとに従って、本堂へ通ずる長い廊下をふんで行く。
「久美子から頼まれたことがあるのよ。それもあるから、是非とも今日、貴方にお会いしたかったのよ」と、夫人は柳の耳に口を寄せてささやく。
「久美子さんから?」
「そうよ。お金のことなの。貴方に二千円お渡ししておいてほしいという電話があったのよ」
「ぼくに二千円?」
「貴方に渡しておいてくれというからには、貴方の手から、あの子が何処《どこ》かで渡してもらいたがっているからでしょう。こんな話が貴方の方にも連絡があったんじゃないの」
「ええ。はっきりしたことは分りませんがね。久美子さんが、ぼくに会いたがっているということは、ある方面から聞き知っています。ある方面といっても、漠然たるものですが。二日前に会う予定だったのですが、それが未《いま》だにうまくゆかなくて」
二人は肩を並べて廊下のはずれの階段を上り、本堂の外陣《げじん》へ入る。
「二千円というのは別に大した額じゃありませんよ。しかし、私もお金にはシブイ方のたちですから、いくら久美子の頼みでも、貴方が仲介者になっていなかったら持ち出すつもりはなかったのよ。貴方が受け取って久美子に渡す。そこに私は意味があるのよ。久美子は貴方を信頼している。私は貴方が好きです。久美子ほど貴方を信頼しているわけではないけれど、好きは好きなんだから、わずか二千円で貴方と私の関係が深くなれば、それでいいのよ。分るでしょ。私の気持は」
「苦手なんだ。お金のことは。ことに二千円なんていうのは大金だと思いますからね……」と、柳は言いしぶった。柳が言いしぶり、宝屋の姉妹と自分の間に二千円という金銭が介在することに、たまらない不安を覚えたのには理由があった。それは、彼が前々日の晩に読み耽った「革命」の記事の中のプロヴァカートル松原の事件に関《かかわ》りがあるからであった。革命党内の恐るべき怪人物マツバラが除名され、放逐された原因の一つとして、彼マツバラが某個人から受け取った二千円の金の使いみちが重大視されているからであった。金額もそっくり同じの二千円!
記憶力のあまりよくない柳も、その部分はかなりくわしく覚えこんでいる。松原は党に対して二千円に関する清算書を報告し「革命」はそれを全文公表している。米が一升いくらか、一カ月の水道、ガス、電気の料金がどれほどのものか、少しも知らない柳にとっては、金銭上の清算書なるものの真偽のほどは、分析できない。ことに革命党員の日常生活が、どのような経費によってまかなわれているのか、革命党員にとって、どのような収支決算が正しいものなのか、一切不明な柳なのであるから、その清算報告書から、直ちに松原をプロヴァカートルと決定する根拠を見出すことはできなかった。彼の心にひっかかるのは、二千円という金額、ならびにプロヴァカートルという、まるで闇の結晶である存在にすぎない。
松原の清算報告書には、次のように記されている。
「一九三一年五月前後、二千五百円の金を個人として受取る。協議会責任者へも此の内約半額を渡す。
金の主要な使途は
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一、生活費|並《ならび》に活動費、二、同志の生活費並に活動費の補助、三、組織費、その内容は大体次の如くなる。
一、日本電気本部常任山田及びその家内達に神田|万世《まんせい》橋附近に一戸建の家を借りて貰つて(この敷金だけを私の手から支出)住む、金額約五十円余。この家で生活費として他に金額、約五六十円は支給してゐると思ふ。
二、見苦しい服装のまゝでゐる日電の同志二名と、私自身服装をトヽノヘた費用約百五六十円。
三、其の他日常の活動費。
四、日本電気活動費、生活費の補助は随時なすと同時に一人宛約十円以上の金額を二、三回宛四名余の者に支給してゐた。
五、組織費としては、機関紙の印刷代二回、オルガナイザーの派遣費の一部補助、その他日電出版物の費用等に用ひられた。
六、私の家内に約三百円の金を渡して置き別居してゐた。
私と共に検挙される時この金額二百円余になつてゐた。
七、私の所持してゐた金額は四百円余。
八、以上の使途と最後の項目の合計金額六百円余が検挙当時の所持金である。
九、この金は検挙と同時に没収された。勿論この理由は何一つ官憲の口から語られなかつたが、強てこちらから詰問したら、刑務所にでも送つたら払下げてやると嘲笑《ちようしよう》し乍《なが》ら答へた。
一〇、約二ヶ月余留置場に留《とど》められ、二十九日の拘留の三度目に入ると同時に本庁に廻された。これ以前から心臓狭心症に三度余倒る。築地病院へ廻され、こゝを十余日経て逃げる。
一一、直に『某氏』宅に落着き、事情を話しカクしてもらひ、同時に家内を郷里に帰し金を工面して来る。
一二、検挙当時の金は、現在でも官憲が保管してゐる。病院の費用として多分入院と同時に一百円余りは病院に渡してあつたと思ふ。
[#ここで字下げ終わり]
右相違ない事を労働者の良心に誓ひ得る」
柳には「革命」紙上の告発が、とうてい出たら目のものだとは思われなかった。しかし又、松原の提出した、かなり詳細な計算書きが、ただそれだけ読んだのでは嘘をついていると判定する自信もなかった。「面倒くさいことになっているなあ。とにかく、やりきれないほど面倒くさくて、考えれば考えるほど頭がクラクラしてくるような事件だなあ」と、彼は思い悩むだけである。とにかく全協(非合法の労働組合)の指導部が、ほとんど破壊されつくしたのは、松原のスパイ行為のおかげだそうであった。破壊された中央部の機関というのは、
(1) 国鉄委員会(全員)
(2) 常任機関の中心
(3) 機関紙部の中心
(4) 財政部
(5) アジプロ部の中心
などであるそうであった。この五つの機関が、どんな働きをしているか、秘密の内情を推察できるはずもなかったが、いずれにせよ「中心部」とか「全員」とかいう単語が使用されているからには、松原たった一人の反逆行為のために、恐しく大きな被害が発生したことだけは疑いようもなかった。しかも、革命党が、よくよくの決断力によって、彼を除名し、放逐するまで、党の指導下にあるはずの全協の幹部が、ほとんど皆、松原を信頼し、松原を弁護し、あくまで松原の指導の下に服従しようとしていたというのだから、柳には、ますます分らなくなる。(一)「決定」から、(十)「結び」まで十章に分けられた、長い長い文章には、さらに細かく(イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ)などと局部的な追及がつみ重ねられ、「日電内紛問題と彼れ」「党員排撃の先頭に立てる彼れ」「国鉄委員会の破壊と彼れ」「全協指導部の検挙と彼れ」「規約の作製に就て」「ボス的人事行政に就て」「メーデー闘争に就て」「査問を拒否せんとする彼れの態度」「党を組合から孤立させ組織を破壊せんとした彼れ」「全協の変化と党の破壊の企てに就て」「監房内に於《お》ける彼れの行動」「彼れの私生活」が、びっしりと続いている。そのなかで一ばん分り易く、柳にとって刺戟《しげき》的なのは「、彼れの私生活」の部分である。(「彼れ」と「れ」がくっついているところも柳には珍しかった)
「彼れは極く最近、全協内の一同志の紹介で或る専門部に使ふことになつて採用した一婦人に対して、正式に結婚を申し込み、此の婦人が彼に細君のあるのを知らないのを幸ひ執拗《しつよう》につきまとひ、最後には組織の名と常任の地位を利用して、彼女の住居を強制的に説明させ、翌日早速押しかけて行つて、許すべからざることを決行した」
革命党と非合法労働組合とのむずかしい関係については、うまく理解できない柳ではあるが「許すべからざることを決行した」の、|許すべからざる《ヽヽヽヽヽヽヽ》が、無理やりの男女関係であること位は想像できたし、いやしくも革命党の一員、しかも指導部の一員が(柳はもちろん、革命党の一員ではないけれども、それでも無理やりはいけないと判断している)女同志の意志をふみにじって、好きなようにふるまったということは、けしからんと判断することができる。もしも、久美子が「彼れら」の仲間入りをして、東京のどこかに潜伏中でなかったら、柳はさほど「許すべからざる」に関心を抱かなかったにちがいない。しかし、指導部の一員が、機関紙に公表されるほどまでに「許すべからざる」を実行しているとすれば、久美子の身の上にも、そのような運命が迫っている、いや、もうとっくの昔に、そのような運命に遭遇してしまっているのではないか。革命党に対しては、何らの悪意も抱いていない柳であったから、そのような超スパイの「決行」とやらについても、それは自分の閉じ込められている檻《おり》の中に、たまたま投げ込まれてきた白兎にむかって、よだれを流さんばかりにしている虎やライオンのような形では想像されていなかった。「決行」という言葉自体がこっけいなほど、男女関係なるものは柳の想像するより、はるかに自由気ままなものであり、「鉄の規律」にもおかまいなく、水が地面にしみこむようにして、きわめて自然にとり行われるものかもしれなかった。だが、若き仏教徒の一員として、柳はそのような|水が地面にしみこむようにして《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|きわめて自然にとり行われている《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》男女関係なるものについて、抵抗を感ぜずにはいられないのだった。
このような男女間のささやかな「決行」は、松原の犯した全|叛逆罪《はんぎやくざい》、超スパイの大罪の中では、ほんの小さなあやまちに属する種類のものであった。彼がもし、国鉄や地下鉄、日電その他の大きな職場闘争において、プロヴァカートルとして立ちはたらかないで、おとなしく革命党の指令を守っていたのなら、もしかしたらたんなる「誤り」として、黙過されたかもしれないものであった。男女関係なるものが、きわめて|自然にとり行われているもの《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》だとすれば、松原が女同志に触発された性欲も、また「自然」なものであり、それが組織の破壊と結びつかないかぎり「許された行為」となり得たかもしれないのであった。
金粉で塗られた木製の蓮の花、それよりもやや大きい鉄製の黒い蓮の花が一対ずつ、そのほか普通の陶器の花瓶《かびん》に盛られた生花が、柳の胸の高さに、ところ狭しと並べられてある。金色にかがやく木の花、黒色のいかめしい鉄の花が無愛想ではあるが、しっかりと長もちしているのにくらべ、みずみずしい本物の花々は、いかにも弱々しく寄り添っている。蝋燭《ろうそく》を立てる燭台《しよくだい》も、真鍮《しんちゆう》製は金色に光り、鉄製は黒々と塗られて、たとえ本堂が焼け失せても生き残りそうなほど頑丈なつくりである。花瓶や燭台をのせている壇そのものが、猫の足に似て丸みのある脚部や、朱色でふちどられた黒く厚い板が、金《かね》のかかった重々しさなので、なおさら、生きている植物の葉や茎や花は、あざやかで繊細であるため、かえって枯れやすく腐りやすいものに見える。
「久美子さんも、大へんだな」
「あら、そうかしら。自分の好きなこと、やってるんですもの。当人は別に、大へんということないじゃないの」
夫人は、重い花瓶の一つを持ち上げる。ボケの花の、たくましい枝を中心に、カーネーションその他温室咲きの花々を盛りあげた、そのギッシリと詰められた植物の高さと重みで、持ちあげたとたんに花瓶は平衡を失って、傾きかかる。力をそえようとして伸した柳の手は、冷たい花瓶の腹の上で、夫人の手とふれあった。指さきの接触だけでも、柳には、まだこだわる気持が消えなかった。夫人の手にかすかにさわっただけで、夫人の肉体を知らなかった前よりかえって強烈な感覚が、痛みに似たものとなって彼の指さきを焦がした。夫人の肉体を知っているはずなのに、「知っている」とは、とても思えなかった。
金持の檀家の誰かが供えた生花の束を、夫人は無造作にひきぬいた。すると、花の美しさにかかわらず、花瓶の水の厭な匂いが、花の茎の束から水滴となってしたたり、あたりにただよった。茎の下の部分に附いたまま、花瓶の水に突き入れられていた葉は、ちぢかまって変色していた。
「いずれにしても、久美子は有利なのよ。これから有利になるときなのよ。今も、もちろん、あの子にとって有利なのよ」
柳は、まだ少しも衰えを示していない花々を棄てるのは、惜しいと思う。誰かがささげた供花を勝手に移し去るのも、具合わるいことと思う。しかし、宝屋夫人には、全くその種の気がねはなかった。
「今が一ばん良いときなのよ、久美子は。人間、誰だって今死んじゃ惜しいようなときがあるものよ。彼女、今それなのよ。誰にも好かれて、誰にも惜しまれる。女が女としての価値を、自覚しはじめるときなのよ」
「だから、心配じゃないんですか」
「心配はしてるわよ。姉妹《きようだい》ですもの。だけど別に、心配してやる必要もないのよね」
夜学へ通う書生たちは、玄関に近い大きな書生部屋にたむろしていた。彼らの一人が本堂へくるには、長い廊下をふんでこなければならない。したがって、その足音が聞えない限り、本堂の内陣は密室も同然であった。
「久美子の年頃は、男の苦労をすればするだけ、女の美しさがましてくるものなのよ。わたしの眼からすれば、あの子が革命党の仲間入りをしたということは、つまり、男の苦労をはじめたということにすぎないのよ。いいかえれば、こうなるわね。久美子は女の美しさを、ますます身につけるために、家出をして政治運動などに首をつっこみ、逃げまわったり、いじめられたりしていることになるのよ。彼女にとっては、今の苦労は美容術なのよ」
「美容術だなんて、そんなバカな。革命党の非合法運動なんて、そんな生やさしいものじゃありません。あなたは久美子さんの決心を甘くみているんだ。また、地下運動の激しさや、きびしさ、当局の弾圧のものすごさを甘くみているんだ。あなたの考えている男の苦労というものは、それはそれで楽しくて、女の人がきれいになる原因かもしれませんが、久美子さんの場合は、まるで違うと思います。栄養不良や、過度の緊張、投獄や拷問が待ちかまえていて、それで美容術になりますかね。それに聞くところによると、ハウスキーパーというものは、はじめっから人柱や犠牲《いけにえ》と同じことで、地下運動のために精神も肉体もすっかり捧《ささ》げているということですから。精神も肉体も公けの目的のために捧げているのですから、女の美しさも何もしぼりつくされて、あとかたもなくなるのではありませんかね。美容術とは、およそ反対のもののように思われますが」
「いずれ、あなたは久美子にお会いになるんだから、わたしのいうことが嘘かまことか、お分りになるわよ」と、夫人は自信あり気に言った。
内陣の裏側は金色、朱色、黒色、生木《なまき》の位牌《いはい》にとりまかれていた。小さな仏像をいれた古い厨子《ずし》もあった。ひきとりてのない塔婆《とうば》の束もたてかけてある。芝居小屋の楽屋か奈落のように、暗く、にぎやかで、チグハグな品物に満ちた一隅である。色のあせかかった造花の花輪、おりたたまれた紫色の幕、脚のとれた経机などがつみ重ねられている、その一隅に夫人は歩み入った。
「柳さんとお近づきになってから、久美子はたしかに女らしい美しさをましました。それは姉のわたしが見ていても、ハッとするような変化でした。ですから、家出したあとで、あの子があなた以外の男たちを知るようになれば、わたしもあなたもびっくりするような変化を見せるのは当り前でしょう。しかも、その変化をわたしは、美しくなる変化だと予想しているわけよ。その方が柳さんだって嬉しいでしょう。あなたの同情している革命運動が女を美しくさせる運動だとすれば、結構な話じゃないですか」
「反対です。ぼくはどうしても、あなたのいうことに反対です」と柳は言った。
「革命運動が女を美しくさせる運動だなどということは、ドイツのマルクスも、ロシアのレーニンも言っていないはずです。帝政ロシアのアナーキスト、テロリストの仲間には、貴族の美少女が参加していたという話はきいています。多分、精神も肉体も立派な、美しい少女たちだったんでしょう。しかし、テロリストの運動は、一瞬にして爆発し、一瞬にして消え去るものです。ロシアの皇帝や警視総監、陸軍大臣の暗殺を企て、爆弾を抱いて馬車の下にとび込めばいいのです。決死的な計画を実行するために、一瞬、身を投げ出すだけでいいのです。ですから、ロシアの無政府主義的テロリストの美少女は、美少女のまま死ぬことが出来たでしょう。しかし、今の革命党のやり方は、全く違っています。長い長い、いつ果てるとも知れない地下運動の中で、もぐらのように暮していなければならないのです。その暗い、息苦しい地下生活と、地上の牢獄《ろうごく》で与えられる苦悩とによって、いかなる美少女も、美少女のまま、生きながらえることは出来ないのではないでしょうか」
「柳さんは、宗教や政治のことには、おくわしいけれども、女の美しさについては、盲《めくら》も同然なのよ。大体、あなたは女の美しさからは眼をそらし、固く眼をつぶって、何とかして動揺をまぬがれようとしていなさったじゃありませんか。あなたは女人往生には絶対反対の方なのよ。あなたの胸の中では、罪と女はしっかりと結びついていなさる。女を深く深く知ろうとする努力を少しもなさろうとはしない。あなただって女が好きなのよ。好きではあるけれども、仏教学を研究するように、それを研究しようとはなさらない。おっかなびっくり手出しをしても、すぐに自分の穴の中に逃げ込もうとなさる。そして、女の美しさとは別のところで、それとは全く無関係に自分の理想を追究しようとなさっている。私は、あなたが女を知っている百倍も千倍も男を知っていますよ。ですから、今の今、久美子をとりまいている革命党の男たちが、どんな種類の男どもであるかということも、あなたよりもよく分っていますよ。あなたが胸に抱いている理想的な男なんか、そんな男どもの中にいるわけがありません。おそらく、大部分のやつらは、うちの亭主よりも下の男だと私は見ています。そんな大した男が右翼にも左翼にも、ごろごろ転がっているはずがありませんからね。今のところ、右翼よりは左翼の方に、いくらかましな男がいるかもしれませんね。しかし、それも、|いくらか《ヽヽヽヽ》というだけの話ではないの? あの穴山さんね。あれぐらいの男だって、右翼にも左翼にも、そんなにいるわけはないでしょう。ほら、あなたは穴山の話をすると、すぐいやな顔をなさるわね」
たしかに夫人のいうように、柳は「穴山」の名を聞くと、胸が重苦しくなった。夫人は白い半紙にくるんだ二千円を柳に手渡した。文字こそ記されていないが、お布施の紙の包み方と同じなので、柳は気になった。
「どうせ、また、あとを欲しがるでしょうけれど。そうしたら、また、あなたのお手をわずらわしますからね。いくらあったって、足りない仲間でしょうから。ただ心配なのは金を渡す役をおおせつかったあなたが、つかまりやしないかということなのよ。どっちみち久美子は近いうちにつかまりますわ。つかまらずにすむはずはありませんもの」
「いや、それが、つかまるだけならいいんですが」
「そうね。つかまるだけなら、別にどうということもありませんからね」と、夫人は考え深い顔つきになった。その横顔に本堂の裏手から射しこむ、わずかな陽の光が、そこだけ金色の縞の目になったように明るく射しかけた。夫人が首を動かすにつれ、その光の縞が彼女の首すじや胸もとに移動して、彼女の肉の線を浮きたたせた。穴山の名を聞かされてから、柳は強く夫人の美しい肉体の圧力を受けはじめていた。穴山だったら、こんな場所でも好き勝手に夫人の体を抱き寄せたり、押しころばしたり、果ては蹴《け》っとばしたりするだろう。穴山には、それが出来る。柳には出来ない。では、結局、穴山の勝ちということになるのだろうか。女の肉体から圧力を感ずるなどというのが、そもそもだらしないではないか。それは、要するに、何かに気がねした見栄で用心深くなり、こちらがこわばっているだけではないか。
本堂の裏側の空地を走りまわるエアデルテリアの足音が聞えた。さかりのついた寺の飼犬のあえぎは、走りまわる距離がますにつれ、激しくなる。夫人の唇が柳の頸《くび》に押しつけられた。そして、エアデルテリアの疾走に歩調を合わせるようにして、柳の頸から顔にかけて、素早く移動した。「あなたの頸が好きよ」と、夫人はささやいた。「……頸が好きだなんて馬鹿馬鹿しい」と柳は思っていた。「……天下の重大事件を話し合っている最中に、クビだなんて」
「宝屋の御主人は、久美子さんの失踪《しつそう》について、どう考えていらっしゃるんですか」とたずねる柳の声は、わざとらしく上ずっているので、柳自身もうんざりした。「驚いたり、あわてたりはなさらないでしょうが、やはり、宝屋家として心配なさっているんじゃないでしょうか」
「こういう時に、そういうことを言うのね。急に主人の話を持ち出すのはおかしいじゃないの。言いたくないことをわざと言っているようでおかしいわよ。姦通罪とか何とか、そんなことでしたら心配することはありませんよ。うちの主人は、わたしが誰を好きになろうと訴えたりなんかはしませんからね。ことに柳さんだったら、憎んだり恨んだりもしませんよ。きっと。こわがる必要は少しもないのよ」
「こわがる?……」と、柳は自尊心を傷つけられたように言い返した。「こわがってなどいやしません」
「では、どうして急に主人のことなど言いだすの」
「それは、つまり、久美子さんの必要な金、これから、どの位必要になるか、ふつうのサラリーマンなどではとても出せない多額の金を出してくれるのは、宝屋の御主人ですからね。ですから御主人が久美子さんの今度の行動をどう思っていらっしゃるか、それが知りたいんですよ。久美子さんが今度参加した仲間は、資本主義や資本家には反対する連中ですよ。富み栄えている大金持の支配をくつがえそうとしている連中ですよ。今の久美子さんにとっては、お宅の御主人は敵にあたるわけですね。久美子さんに敵だと思われて、宝屋の御主人、つまり、あなたの夫がどう考えているか。それは、ぼくばかりでなくて久美子さんも知りたいところではないでしょうか」
「その点は、私も主人も同じ考えなのよ。久美子や、そのお仲間がいくら暴れたところで、日本の社会組織を変革することなんて出来るはずがありませんもの。やりたいだけやらしておいたって、それで宝屋薬品の全経済がてんぷくさせられるなんて、ありっこないんですもの。ですから主人は、いくら久美子や、そのお仲間が、敵だ敵だと騒ぎたてたところで、いっこうに感じないでしょうよ。ことに主人は、久美子のことを単なる女以外の何者かだと思っているんですよ」
「単なる女以外の何者か……」
「そうなのよ。ああいう世間ずれした経済人というものは、案外、女以外の女、たとえばマリア様や観音菩薩《かんのんぼさつ》みたいなものを欲しがるのよ。あの人の眼から見たら、世間の若い男のやつらなんて、チリアクタみたいにつまらないものなのよ。大きなことをいう大学生、働き好きの若手社員、そんなやつらは、いくらでも支配できるのよ。だけど、何かしら自分の支配できない不思議な存在、まあ、たとえば久美子のような女がいてくれて、こっちの自由にならないと、それがかえって嬉しいのよ。革命党の指導者が、どんな階級の、どんな身分の、どんな貧乏ぐらしからのし上ったかは知らないけれど、うちの主人から見れば、貧乏ぐらし、貧困の屈辱、小作人、農奴、農業労働者、あぶれ者の苦しみを味わっている点では、自分の方が一段上だと信じて疑わないのよ。だから、あの人は、革命党の指導者なんかには、ハナもひっかけないわ。貧乏人の悪さ、ズルさ、欲の深さについては、とっくの昔に知りつくしているんですからね。だけど、やっぱり、どんな強欲非道のようにみえる実業家だって、どこかでマリア様や観音菩薩を欲しがっているのよ。わたしは姉として妹をマリア様や観音菩薩と考えていやしませんよ。どっちみち、久美子だって、わたしと同じ女なんだもの。そうそう大した代物であるわけがありませんからね。だけど、うちの主人がわたしを見る眼と久美子を見る眼とは全く違っているのよ。だって、私はあの人の女房だし、久美子は、あの人の手のふれられない何者かなんだから。だから金はいくらでも出すわよ。久美子がどんな目的でその金を使おうが、あの人はかまったことじゃない。好きなだけ使わせて喜んでもらえば、それでいいのよ。いいえ、そうじゃないわね。喜んでもらわなくたってかまわないのよ。お賽銭《さいせん》をあげたり、お布施を出したりするようにして、ともかく、あの子に金をつぎこみたいのよ。その場合のうちの主人の純粋さといったら、それは革命党のシンパサイザーになって、おっかなびっくりカンパの金を出す教授や学生なんかより、ずっとずっと、立派なものだと、わたしは思っていますよ。だから何もあなたなんかが、主人の気持をとやかく推測する必要はないのよ。うちの主人には久美子が絶対必要なのよ。あの人は、マルクスやレーニンの主義も知らないし、日本革命党がどうなろうと知ったことじゃない。しかし、久美子に対する、あの人の純粋な気持は、革命党員が革命党の鉄の規律に服従するより、もっと厳格なものなのよ。二千円が何ですか。二千万円がなんですか」
「……御主人はそんなに久美子さんを……」
「そうよ。あの男は、どうしてどうして大したものよ」
「そうですか」と、柳は夫人から身を引くようにして腕を組んだ。
「恋愛なんて、みんな馬鹿馬鹿しいものなのよ。冷静に科学的に考えれば、男が女の美に、女が男の美に惚《ほ》れこむということは、錯覚にすぎないわけでしょう。仏教的にはそういう理窟《りくつ》になるでしょう。おシャカ様は、たしかにそう考えていられたにちがいないわ。もし、そうだとすれば、男と女の間にある愛情は、すべて錯覚であり、迷いであるということになるのだから、うちの主人が久美子を神聖視したって、責めるわけにはいかないのよ。わたしにしてみれば錯覚も結構、迷いも結構なのよ。この相手と見込んだところで、その相手の内容も外見も、どんどん変っていくでしょう。変られてびっくりする女もいるかもしれないけれど、わたしなんか、はじめっから男は変るものだと考えているから、かまわないのよ。絶対不変の恋愛なんか、ありっこないからこそ、かえって、どんな妙な恋愛でも恋愛として許されることになるでしょう。ですから恋愛には、よそ様の批判は一切不必要。あたりかまわないで差支《さしつか》えないということになるわけでしょう」
夫人はあたりかまわない大胆さで、柳の体にまといつく。彼女の両眼は輝きを増して、魔術でもかけるような強い視線が、柳の肌に穴をあけそうなほど集中的にそそがれる。いくら、あたりかまわないからといっても、柳には本堂の裏側などを「恋愛」の場所にすることは、どうしても不愉快であった。位牌や、塔婆や、厨子や、花輪に見つめられているというこだわりのほかに「坊主に恋愛は許されない」という実感がますます強くなってくるからであった。「小人、閑居シテ不善ヲナス」という中国古典の言葉も、まだ忘れられなかった。彼はすでに、熱海のホテルの一夜で、仏教僧侶としての戒律を破りすてたはずではあるが、彼が寺院生活から脱出しない限り、依然として、その戒律は彼をしばっているはずであった。その破戒行為が一度ですむとは、彼も考えてはいなかった。しかし、破戒が罪であるという決定的な教えは疑うことができなかった。柳は夫人の抱擁から脱《のが》れようとする自分のもがき方が、見るに耐えぬほどみにくいもの、虚栄と偽善の現れだとは分っていたが、それでも何とかしてその場をきりぬけたかった。
「もしも、恋愛が罪だとしたら、人間が生きている、そのことが罪になるわよ。そうじゃないの」
「そうです。そうですが、しかし……」と、柳はできるだけ気むずかしく言った。「生きていること、そのことが罪。これは、あんまり恐しすぎることで、ぼくだって、そう考えたくありませんよ。その考えを持ちつづけることは誰にだってむずかしいことですからね。ですけど、あの、熱海のホテルのことは、あれは恋愛といえるんでしょうか。ぼくには、どうもそれが……」
大小さまざまな香炉の灰に、長短さまざまの線香が、燃えのこって立っていた。みどり色や茶色の、ふつうの線香のほかに、甘みの濃い香水線香の匂いもまじっている。柳の母の好きな、その香水線香は、ぬい針ほどの短さのものが、紫、桃、白、黄、黒と色を組み合せて、銀座の文房具店で売られていた。化粧品をおもわせる、その贅沢《ぜいたく》な匂いより、もっと強烈なのは、もっと高価な香木の匂いだった。昆布の断片に似て、こまかく切断されたインド渡来の香木は、火に落すとジュッと油の泡《あわ》を噴く。威儀を重んずる老僧たちや、富裕な老婆たちは、携帯用の小さな香箱の中から、その香をつまみ出しては、ゆっくりと合掌する。念入りに工夫をこらした、それらの「仏教的」匂いには、死や死後の世界がむすびついている。だが、柳に寄り添っている夫人の肌から発散する、香水や白粉《おしろい》の匂いには、それ以外のなまなましさがあって、線香や香木の匂いと似かよってはいても、調和しない。「地獄に、もしも独特の匂いがあるとすれば、それは糞尿《ふんによう》や屍《しかばね》の、自然の匂いではないのかもしれないな。それは今ぼくが嗅《か》いでいる、このようなわざとらしい、つくられた匂いなのかもしれないな」と、柳は思う。地獄のにおい、極楽のにおい、男のにおい、女のにおい、花のにおい、動物のにおい、鉱物のにおい、むせかえるにおい、うっとりするにおい。垢《あか》や汗や精液やワキガのにおい……。もしかしたら、と柳は思う。もしかしたら、この逃れようもなく絶対的な「ニオイ」の正体を知りつくすことは、つまりは、人間のふれてはいけない恐るべき「真実」に直面することなのかも知れない。たとえば、エホバの顔をひと目見た者は死ぬという、あの旧約聖書の教えのように、「ニオイの顔」を見たものは、そのとたんに破滅しなければならない、と言ったような、そういう身の毛のよだつような黒い真理が、どこかにかくされているのかもしれないな……。
そうだ。匂いや色や形というものが、この世に存在しているということ、そのことがそのまま、地獄の存在を立証しているのかもしれないではないか。だとすれば、極楽の状態を説明するために、すばらしい匂いや、美しい色や、完全無欠の形など持ち出してくるのが、そもそもおかしくはないだろうか。,全角Oが「水」だとして、Hは水素、Oは酸素だから、地獄にも極楽にも、「水」があるとするなら、Hの匂い、Oの匂いは、どちらにもあることになる。一体、酸素や水素のニオイ(どんな匂いか知らないが)は、ジゴク的なものかゴクラク的なものか。こんな問題(?)を考えるなんて、これは宮口たちに言わせれば、封建的、ブルジョア的、軍事独裁的、半殖民地的、日和見的、反革命的、要するにバカな奴のバカな妄想《もうそう》だということになるであろうが、それにしても、ニオイの絶対性ということに、今ぼくが着眼した、気がついたということは、何となくイイ気持らしいな。この発見は、秀雄君にだけは話しておかなくちゃ。あいつは、ぼくよりも何かにつけて深い考えを抱いていて、そのとっておきの考えの倉庫のひんやりと落ちついた空気の中で、ぼくをいくらか見下したようにして、ニヤニヤしながら見つめているらしいからな。穴山? ああ、あいつは自分だけは厭なニオイを好きなだけ発散し、ただよわして他人の息をつまらせながら、自分の方からは他人のニオイなんか(たとえジゴク的ニオイだろうが、ゴクラク的ニオイだろうが)、てんで嗅ごうとはしやがらないんだ。
まあ、四分五裂のそのような断片的な考えに心をまかせながら、柳はいつのまにか、夫人の身体を固く、不器用に抱きしめていた。ただジッと抱きしめていたのではなくて、彼女の肉体の各部分をもみしだくようにして、こねくりまわしていたのである。
犬は、こちらに向って吠えたてた。本堂の土台は高く、裏庭とは壁でへだてられているから、エアデルテリアには、もちろん内部の二人の人間の姿は、見えるはずがなかった。しかし犬は明らかに、抱きあっている二人の人間めがけて、吠えたてているにちがいなかった。彼エアデルテリアにとって我慢のならないほど、憎らしい二つの肉体と、その二つの置かれてある憎らしい状態に向って、人間には及びもつかないニオイ感覚、あるいはオト感覚によって、攻撃をかけてきているのだった。
秀雄は、耳鼻|咽喉《いんこう》科の医院から、大病院の内科へ移されていた。宝屋の主人が特に秀雄の病弱を心配して、このさい徹底的に治療してもらいたいと申し入れたからだ。「私どもの祖先の霊をお守りして下さる方、やがては私ども自身の骨をおあずけする御住職の、お体にもしものことがあっては大へんですから」と、主人は親切すぎるほど、万事手ぬかりなく、病院との交渉、医師の選択などやってくれる。「宝屋さんにおまかせしておけば、私の方は何より安心ですから」と口では言うものの、西方寺の叔母にとっては、ひとり息子の不在が、不安でならなかった。もしも秀雄の入院が長びくようにでもなれば、相談役には柳の父がひかえてはいるが、実際に住職がわりの仕事を気がるに頼めるのは、秀雄の従弟の柳の他にはなかった。組寺の僧侶たちは住所も近いし、老僧も青年僧も電話一本で彼女の力になってはくれても、あまり自分の寺の経済に立入ってもらっては、実権をうばわれそうで、それも不安なのである。その点、寺務に不熱心な素人《しろと》坊主の柳の方が、かえって後くされなく、扱いやすいにちがいなかった。
「目黒の先生が来て下されば、信用のある学者ですもの。西方寺のお檀家の方々だって、そりゃあ喜んで下さるけれど、大先生をそうそう度々、呼び出すわけにもいかないでしょう。ですから、私、ついつい心やすだてに、さっちゃんをお願いしたくなるのよ」
負けん気の叔母は、その日も、胸中の心細さをかくして、若やいだ口調で言った。
「お年寄りの方々には、さっちゃんは人気がありますしね。それに、秀雄と仲良しで、親類どうしだということも、皆さん御存知ですから。やはり、組寺の坊さんよりも、安心して親身になりますから」
「そう、そう。そりゃ、そうですわよ」
と、宝屋夫人は、本堂の片隅での抱擁のことなど忘れはてた様子で言った。
「お寺まいりは、一種のお楽しみですもの。楽しませてあげなきゃいけませんよ。こちらの御住職だって、結婚なさったりしたらガッカリするお婆さん連は、たくさんいますよ」
「ホトケ様は、鎌倉の大仏さまでも、どこの仏像でも、みんな美男子ですものね」
と、母も言う。
「顔がなければ、別ですけどね。お顔があるからには、女好きのする顔の方がいいわよね。拝む対象ですもの。拝む対象は、美しくなければ」
「でも、どうかなあ。仏教でいう|美しい《ヽヽヽ》ってことは、顔が美しいっていう、そういうものかなあ。ちがうんじゃないかな」
「また、すぐそんな屁理窟《へりくつ》言い出す」と、母は息子をからかうように言った。
「穢《きたな》い顔したアミダ様や、観音菩薩なんてあるかしら。あっても、誰も拝みやしないわ」
「そうですわね。美しい精神をあらわしているんだから、美しい顔をしていなくちゃね」と、叔母も言った。「何もわざわざ、厭らしいお顔につくることはありませんもの」
「うん、だからさ。だから、ぼくはどうも、仏像に顔があるってことが、そもそも疑問なんだ」
「え? 仏像に顔があることがですって。それじゃ、首なしのホトケさまが、よろしいの?」と、夫人が大げさにおどろいて見せたので、母も叔母も、しめしあわせたように笑った。
「いや、そうじゃなくてさ。仏教では、ふつうの意味の美とか醜とかの差別をぶち破るのがたてまえでしょう。美男も美女も、醜骸にすぎない、不浄にすぎない、苦と無常のかたまりにすぎないと説くわけでしょう。だったら、どうして仏像だけが美男子じゃなくちゃならないんです」
「ほら、ほら。また、はじまりました。このひとのアマノジャクが」
と、母は息子の子供らしさを楽しむように言った。
「ぼくは、ああいうのが厭なんだ。京都や奈良の仏像の美しさを、ほめたたえる美術評論家や、文芸批評家がいるでしょう。幽玄とか荘厳とか優雅だとかさ。まるでウットリしちまって、ほめたたえるんだ。ちかごろでは、仏教学者だって、彼らとおんなじに、ただすばらしいとか、たとえようもないとか有難がっていれば、安全だし評判もおちないですむと思ってるんだ。白鳳《はくほう》がどうの、天平《てんぴよう》がどうの、そんなこたあ、どうだっていいんだ。拝みたい者は、拝めばいい。美しいと思うんなら、そう思えばいい。だけど、相手は仏像ですよ。仏教の象徴的表現ですよ。根本は、仏教にあるのであって、仏像はその一端にすぎないんだ。木像は木でできている。赤銅や青銅の仏像の実体は、それらの金属にすぎないんだ」
「あら、ちがうわよ、それは。ただの木や金属だったら、誰も拝みやしない。そういう風に彫刻したり鋳上げてあるから、拝むのよ」と、三人の女の一人が言ったが、誰がそれを言ったのか、柳はききわけようとはしなかった。それは、本堂裏での恥ずかしさを早いところ消そうとして、あわてているためでもあった。
「材料のことは、やめにしましょう。材料のことにこだわると、唯物論者だと言われるから。ぼくは何も、意地わるや、アマノジャクで言ってるわけじゃない。ぼくの言いたいのは、なぜ仏像の顔が、ふつうの意味の美男子でなくちゃならないかということです。おシャカ様が、万人に秀でた美男の王子だった。そりゃ、その通りでしょう。しかし、彼は美男と王子の特権を両方とも棄てたんでしょう。そういう世俗の有利な条件はすべて空《むな》しいと悟って、棄て去ってしまった。そのかわり、この世は不浄と苦と無常にすぎないという、真理を手に入れなさった。この世が不浄と苦と無常のほかに何物もない場所だと悟ったからには、そこには『美』などというものも存在しているはずがない。美が存在しないからには、美男も美顔も実在しないことになるわけだ。源信の『往生要集』は、まずはじめに八大地獄のおそろしさを紹介する。ええと、等活地獄か。黒縄《こくじよう》地獄、衆合地獄、それから叫喚地獄、大叫喚地獄、焦熱地獄、大焦熱地獄、阿鼻地獄とね。よくも似たような地獄の有様を、次から次へと八つも、ありありと想いうかべられたと想うほど、くわしく描き出しているんだ」
「あら、地獄って一つかと思っていたら、八つもあるの。知らなかった。トーカツとかコクジョーとかって、何なのよ。きかせてちょうだい」と、宝屋夫人は、わざと興味をおぼえた様子をして言った。
「ぼくだって、よく知りませんよ。地獄のことなんか。等活というのは、共ニ生キルの意味なんでしょう。なにしろトーカツ地獄に落ちた罪人は、共に生きながら、たがいにいつも敵愾心《てきがいしん》をいだいているらしいんだ。そして、お互に出会ったりすると、まるで猟師が鹿でも見つけたようにして、すぐさま鉄みたいな爪でひっかきあい、傷つけあうんですよ。そうして、あんまりひっかいて、おたがい様に血も肉もなくなって骨だけになっちまう。もちろん、地獄だから鬼がいて、罪人どもは刀や杖《つえ》や棒で、やっつけられてバラバラにされてしまうんだ。おまけに、涼しい風が吹いてくると、また活きかえって、もう一度おなじような苦しみをうける。またバラバラにされて、また活きかえって、また苦しみをうける。それが無限につづいていくわけですよ。この等活地獄には、四つの門があって、その入口がまた凄《すご》いんですからね。その入口に十六の特別製の責め場があるから、たまらない。その第一は『屎泥処《しでいしよ》』と言う。どろどろに煮えたった、糞《くそ》の海ですな。熱いも熱い上に、その味はすこぶるにがい。また、その泥の中には、ダイヤモンドみたいに堅いくちばしをもった虫がウヨウヨ充満している。熱い、くさい、にがい泥の中でもがいていると、その虫たちが一せいにたかってきて、皮をやぶり、肉にもぐりこみ、骨の髄まで吸ってしまう。こういうのは、ぼくはわかるんですよ。地獄の描写が、なぜこんなに詳しいかということは、読んでて『そうだろうなあ』と思って、少しもおかしく感じないんです。関東大震災のとき、被服廠《ひふくしよう》あとへ逃げこんで焼け死んだこのあたりの人とか、炭坑の爆発で生き埋めになって、助け手もなくて地下のくらやみで死んだ人とか、みんなこういう苦しみをうけてるんですから」
「そう、そう。あの大震災のときは、ほんとにそうだったわ。私も秀雄ももう少しで、被服廠あとへ逃げこもうとして、止《や》めにして河の方へ逃げて助かったんですから」と、叔母は、想い出すのも厭のように眉をひそめている。
「恐るべき苦しみの方は、よく理解できるんですよ。どんなに大げさに表現されていても、ありうることだと納得できるんです。地獄界ばかりじゃなしに、人間界の苦しみの所も、源信の言う通りだと思いますよ。たしかに病院の解剖室や屍体《したい》置場で、死んだ人間の内臓のさらけ出されてる所を見せられれば、仏教信者じゃなくたって、人間の肉体は不浄だとわかりますよ。どろどろに熱せられたクソの海というのは、胃と腸だと考えたっていいわけだし。それから、ダイヤモンドみたいに堅いくちばしをもった虫が、一ぱいつまっているという説だって、医学上おかしな意見じゃないし。源信は『僧伽《さんが》|※[#「口+宅のつくり」]《だ》経』というお経を引用して、こう言ってますがね。まず八万の穴に寄生している虫の群が、たえず人間の身体を喰いあらしている。これは『大宝積《たいほうしやく》経』に書かれてある。『僧伽※[#「口+宅のつくり」]経』になると、更に一歩すすんで、臨終のときに、この虫たちがどんな活動をするか、説明してますよ。人が死にかかってくると、そこに巣くっていた虫たちが、これは大へんと驚きあわてて、たがいに喰いあいをはじめる。人間の苦痛も、それにつれてひどいことになるから、枕もとにつめかけた親族たちは、見ていられないほどになる。虫の喰いあいが進行して、最後に生きのこるのは、たったの二匹。この二匹がたたかうこと七日七夜。やがて一匹が絶命して、もう一匹の虫だけが生きのこる。その勝ちのこったチャンピオン虫の名を御存知ですか。……それは、蛆《うじ》である」
柳が得意そうに、女たちを見まわすと、母と叔母は、ききたくないという顔つきを示しているが、宝屋夫人の顔だけは、むしろ興奮してはればれとしていた。
「ね、こういう不浄論には、反対できないでしょう。よくよく考えてみれば、そうなんだから。地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天。この六道《ろくどう》の救いがたい状態は、『往生要集』の説くとおりですよ。ところが極楽世界の描写になってくると、疑問続出してきますよ。この救いがたい六道の状態は、日常眼にしているところだから、いくらでも実感できる。だが、ゴクラクは、その反対物です。この世では絶対に目撃できない、ありうべからざる状態、申しぶんなく素晴しい状態なんですからね。絶対の美、絶対の安楽、そんなものはぼくらの周囲にありっこない。つまり、|ありっこないモノが極楽なんです《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。ありっこないモノ、ありっこない場所を願い求めるのが『往生安楽国《おうじようあんらくこく》』なんです。ありうるものは、すべて醜く、すべて苦にみち、すべて無常なんだから、どうしたってありっこないものを求めざるを得ない。そこまでは、いいんです。ところが、このありっこないモノを描写するとなると、どうしてもありうる事物を応用して、形容しなくちゃならないでしょう。そこで、どうしても感覚的に矛盾がでてきますよ。たとえば、極楽の宮殿は金、銀、ルリ、ハリ、サンゴでできている。黄金の池の底には白銀の砂がしかれ、白銀の池の底には黄金の砂が、水晶の池の底には瑠璃《るり》の砂が、瑠璃の池の底には水晶の砂がしかれ、珊瑚《さんご》、琥珀《こはく》、|※[#「石+車」]《しや》|※[#「石+渠」]《こ》(貝ですな)、瑪瑙《めのう》、真珠、赤銅などなどの砂。七つの宝でつくった五百億の宮殿や楼閣がある。しかも、その高さや広さは、見る人の心のままにかわることができる。七重の欄干《てすり》や百億の幢《はた》には珠の飾りが垂れ、宝石づくりの幡《のぼり》や蓋《かさ》がかかっている。天人のかなでる伎楽《ぎがく》がきこえる。池一面の宝の華で、青い蓮には青い光、黄色い蓮には、黄色い光、赤い蓮にも白い蓮にもそれぞれの光がきらめいて、そよ風が吹きわたると葉の色と光がみだれうごく。まあ、そんな具合で、形容しだしたらきりがありませんよね。眼をおおわんばかりの醜悪と恐怖を何代も何代もにわたって見せつけられた者なら、自然自然と、眼をうたがうばかりの美と安楽の世界を想像したくなる。それは、きわめて当然なことです。ただし困ったことに、いくら想像して、ありありと描いて見せたところで、その形容につかう材料は、ぼくらの知っている物質ばかりなんだ。まことに残念で、はがゆいことながら、大体、言葉や文字そのものがそんな風に、この世にふさわしくできているんだから仕方ないんですよ。ゴクラクは、なければならない。そして、死ぬことによってゴクラクへ到達しなければならない。それに反対する必要はないんです。問題なのは、その極楽の内容を説ききかせる方法ですよ。醜いものを醜いものとして、信じさせるのはやさしい。しかし、美しい美しいと、美しいモノをつくりあげて見せるのは、むずかしい事なんですよ。だから、仏像がなぜ美男子じゃなくちゃならないかという、疑問がわいてくるんですよ」
「そんなことお説教したら、お檀家の方々、びっくりしちまうわ」と、柳の母は苦笑した。
「わたくし、びっくりしませんわ。うっとりと聴きほれますわよ」と、宝屋夫人は言った。
「極楽の中心は、言うまでもなくホトケ様です。極楽が美しいからには、その中心的存在は、とりわけ美しくなくちゃならない。そこで、源信は『観察《かんざつ》』という行為をすすめます。ホトケ様の相好《そうごう》、すなわちお姿を観察する。想いうかべて、見きわめる。まずはじめに華座《けざ》、ホトケ様の坐る場所を思いうかべて、見きわめる。存在するためには、どうしたって場所が必要なんだから、その土台をはっきりと隅々まで想像できなければ、不安定になる。ある一つの、とてつもなく立派で巨大な蓮華《れんげ》が咲いているという想いをいだきなさい。八万四千の花びらのある蓮華ですぞ。その一つ一つの花びらには、百億の摩尼《まに》の珠玉が飾りとなって照りはえている。このハスの花や葉の小さいものでも、その広さは二百五十|由旬《ゆじゆん》もあるのだから、全体は地球より大きいかもしれない。この恐るべきハナの土台には、宝石まばゆき幢《はた》が樹っているが、その幢が百千万億の須弥山《しゆみせん》をあつめたようだと言うのだから、やっぱり全体はどうも地球より大きいらしい。そして、幢より大きな幕もかけられていて、それには五百億の飾りの宝石がきらめいていて、その宝の珠の一つ一つから八万四千の光が発していて、その光の一つ一つの光線が、またまた八万四千の金色の輝きを放ち、それがみなちがった様相を示している。あるいはダイヤモンドの台形をなし、あるいは真珠の網となり、あるいは色とりどりの華の雲となってみちひろがる。かくして、存在する偉大なるモノの位置と規模が、はっきりと決定しますと、次に、相好の個別的観想に入ります。偉大なるモノの実体は何であるか。そびえ立つ、そのお姿はどのようなものであらねばならぬでありましょうか」
「お茶をどうぞ」と、叔母は宝屋夫人に茶菓をすすめた。
「ホトケの尊《たつと》い相好の第一は、肉髻《にくけい》、つまり頭のてっぺんにある肉の隆起です。ただし、これはぼくら凡人には見えないそうです。まるで天蓋《てんがい》のように、高くひいでて円くホトケ様の頭上にかかっている。第二が、頭髪。これは八万四千本の髪の毛で、みんな上向きになびきになびいて、右まきに渦巻いています。紺青色に密生して、抜け落ちもしなければ、もつれ乱れることもない。香りも豊かで清潔で、細く軟かであります」
「そんな|おぐし《ヽヽヽ》だったら、ほんとによろしいこと」と叔母がつぶやく。
「耳。耳は言うまでもなく厚くて広くて、耳たぶは長い。額。額はもちろん、広くて威厳があり平らかである。顔。顔は円満、光沢ありて柔和そのもの。端正にして清くはれやかなること秋の月のよう。眉のあいだには、白毫《びやくごう》というものがある。まあ、ともかく(忘れてしまったが)大へんな量り知れない価値のある部分があるのだと、思えばいいでしょう。第八が睫毛《まつげ》。第九が眼。第十が鼻。みんな、とてもとても、立派なことはきまりきっている。第十一に、唇。唇の色は……」
柳は、宝屋夫人の唇の感触を想いだしながら、ヤケになったように言う。
「唇の色は、えも言われぬ快感をあたえる紅色で、まるで頻婆《ぴんば》の実のよう。上下の唇がたがいに秤《はかり》のように釣りあっていて、おごそかにうるわしい。全く、きりがありゃしない。つづいて、歯と舌と咽喉《のど》と首と、脇の下と両臂《りようひじ》と……。ああ、それから第二十四の指。この指と指とのあいだには、おどろくなかれ雁《がん》の王のように、金色の膜が張られてある。水かきでしょうね、きっと。世のひとびとを救いあげ、抱きとるためには、水かきがあった方が便利ですから、この相好が選ばれた。……」
「あら、そうだったの。水かきのあるホトケ様って、私まだ拝んだことないけど」と、母は口に手をあてがって笑った。
「みんな意味があるのよね。相好の一つ一つに有難い意味があるから、そういう風に想像するんですわよね」
柳の意見の破壊性を押しとどめるように、叔母は言った。
「それから、どうなるんですの」と、宝屋夫人は柳の顔を下から見上げるようにして、先をせきたてた。
「それからですか。それから……もうぼくは先を言いたくないな」
「言いなさいよ。せっかく宝屋さんがききたがっていらっしゃるんだから」と、母がすすめる。
「……あまりホトケの肉体について、くわしく言いすぎることは。ホトケの身体の皮膚、つまり肌や胴体についてまで、くわしく描写することは……」
「くわしいほど、よろしいじゃないの。そのために観察《かんざつ》とやらをすすめるんじゃありませんの」
と、宝屋夫人は言う。
「……こういうことは、やり出したら止められない。次はどう次はどうと、無限にくわしくなっちまうんですよ」と、柳は言いよどんだ。
「ホトケは、人間じゃないはずなんだ。人間であってはならない、人間以上、人間とはかけはなれた最上位者じゃなくちゃならないはずなんだ。それだのに、人間の肉体の各部分と同じように、ホトケの眼、耳、鼻、口と解説したり、想像したりして行くことは、どうしてもヘンなんだ。ヘンなことになりかねないんだ」
「でも、くわしく説明して下さった方が、一般の人にはわかりやすいんじゃないの」と、叔母が言った。
「……わかりやすすぎるんだ。悪い意味で、わかりやすくなってしまうから困るんだ……たとえば」と、柳はまたもや、言葉をとぎらせた。
「たとえば、第三十四には、ホトケの性器について説明してあります。如来の性器はかくれていて、満月のように平らかである。金色の光があること、あたかも太陽の如く、またダイヤモンド製の器みたいに清浄、内も外も清浄だと書いてあります。清浄。そりゃあそうでしょう。清浄でなかったら、おかしなことですから。しかし、どうしてわざわざ、そんなことまで観察し、想像しなくちゃいけないんですか。太陽の如く光りかがやき、満月のように平らかであり、かくれていて清浄である。だから、どうしたというんですか。仏のセイキということを思うということが、そもそも矛盾じゃないんですか」
「だって、あるものは考えなくちゃならないじゃないの」と、母はクスクス笑いをした。
「いや、あるなしの問題じゃないじゃないか。いくら清浄でダイヤモンドみたいだと形容したところで、セイキはセイキなんだから、どうしてそれを持ち出すかということなんだ」
「だって、それはホトケ様はわたしたち人間とはちがうもの。恥ずかしがることも何もないわけよ」と、母はすました顔で言った。
「恥ずかしがる? いや、そんなこっちゃないんだ。第一、ホトケ様が恥ずかしがるわけがないんだから。こっちの方、拝む方、観察する方の話なんだ。源信の親切ごころは、よくわかるよ。とかく、そういう部分について興味をもつ信者がいるとして、彼らの迷いをさまさせるため、そこまで考えてやっておく。土台や顔や髪の毛の話をはじめたからには、そこまで前もって説明しておいてやらないと、不満に思う奴、疑う奴がいるから、源信は徹底して、そこまでやってくれた。それはわかるけれども、無理だなあとぼくは思うんだ。どうしたって、そこの所は何とか解決しなくちゃならない大問題であって、それを抜きにしてほおかぶりはできないにしては、ぼくはやはり無理だ、厭だなと思わずにいられないんだ」
柳は、自分の性器(それを彼はきらいだった)のことまで想いうかべながら、だだをこねるようにして主張せずにはいられなかった。――何てまあ、くだらないおしゃべりをすることになったもんだと、舌打ちしたい恥ずかしさにつつまれながら、だんだん逆上したように、とめどなくなってくるのだった。
「だから、ホトケの相好を観察する場合に、はじめっからホトケの顔やなんか想像しない方がよかったんだ。ホトケの肉体を想像するとなると、どうしても人間の肉体と結びつける考えがわいてきちまうから、したがってセイキうんぬんまで話がきてしまうんだ。だから、仏像を荘厳無比の美男子に見たてるという、そのやり方が怪しいものだということになるじゃないか」
「だって、顔のないホトケ様なんて、考えられて?」と、母は相変らず、息子の珍説などに少しの動揺も示さなかった。
「ともかく、あまり難しいお話したら、お檀家の人にきらわれるばかりよ」
「そうね。学者仲間とか専門家どうしの場合は別ですけど。そこまで突っこんだお話は、町家の人々にはわからないでしょうから」と、叔母もひかえ目に言った。あけっぴろげな母の会話にくらべ、叔母の態度は注意ぶかく緊張していた。
「私は、とてもおもしろくうかがったわ。こういうお話は、普通のお坊さんはなさらないから。私も興味しんしんでしたけど、もしうちの久美子だったら、もっと熱心にこの議論に聴きいったでしょうよ」
と、夫人が言うと、叔母は眉のあいだをくもらせて、暗い表情になった。宝屋一家にもしもの事でもあったら、西方寺の経済に大きくひびいてくるからである。
「……そう。久美子さまね。あの方は仏教の方はおくわしいから。でも、どうでしょうかね。今のお話のようなことは」
行方不明の令嬢について、その姉の前で語ることは、さしひかえねばならないので、叔母は気がねしたように声をひそめている。
「今のお話のようなことって、性器のことですの。それだったら久美子は平気じゃないかしら。あの子は何だか哲学者みたいに、ひどく達観しちまってるのよ。だから、私、今度のことでも、あまり心配していませんの」
宝屋夫人は、寺を守る未亡人の緊張を冷笑するように言った。
「さきほど、穴山さんから電話がありましたんですけど、三十分ほどしてから、もう一回電話してもらうように、そう言っておきました」
西方寺の叔母は、少しよそよそしい横顔を見せながら、柳に言った。格の低い貧乏寺の養子として育ち、あばれ者できこえている穴山を、叔母はひどく軽蔑《けいべつ》もし、嫌っていたから、穴山の話になると表情がこわばるのである。彼女は、いつも、穴山と柳のつきあいを断ち切ろうとつとめていた。宗門にも社会にも、一定の秩序があり、その伝統的な秩序をむやみに打ち破ろうとする連中を敬遠したがる点で、姉(柳の母)と妹は共通していた。
「宝屋さんのお花を生けに本堂へ行っているんですから、何も穴山の電話なんかで、お邪魔することありませんもの」
「……じゃあ、ぼくらが本堂にいるあいだに、穴山から電話があったんですか」
「ええ、そうよ」
何もさわぐことないじゃないのと言いたげに、叔母はすました顔つきで、茶道具をそろえていた。
「そうよ。穴山からの電話なんか、とりつがなくたっていいわ。どうせ、酒か女か喧嘩《けんか》か、ろくでもない事に、うちのをひきずりこむ相談にきまってるもの」
のんきに、そう言ってのける母が、穴山と宝屋夫人の肉体関係を知らずにいることは、わかりきっていた。「穴山」ときいた瞬間から、宝屋夫人の眼の色は、するどさを増していた。冷静そのものの彼女の外面にもかかわらず、彼女の身体の奥底で、何かしらうごめくものがあった、と柳は推定せずにはいられなかった。
「あの男、下品だし野蛮だし。あんまり子供の時分から苦労しすぎると、人間どうしても、ああいう風にギスギスしてくるのよ」
「宗門を改革するのも、けっこうですけど。それは、古いお坊さんの生活を批判したがる、若いお坊さんの気持もわかることは、わかりますけど……」
叔母は、姉よりは、やわらかい口調で言った。
「でも、やり方というものがありますわよね。今まであったものを、ただ乱暴にぶちこわす。今まで偉いお坊様だと思われていた宗門の中枢部の方々のねうちを引き下げて|0《ゼロ》にして、その後釜に自分たちが坐りこんで、新しい権力者みたいに自分たちがなる……。そういうのは、どうしても卑しいやり方のようですわね」
「ぼくは本当のこと言ったら、宗門がどうなろうと、かまったこっちゃないんだ。第一、宗門のこと考えてると、ジメジメしてきて、せまい考えがますます狭くなるみたいでイヤなんだ」
「柳さんは、何も考えなくてよろしいのよ。なまじっか考えたり苦しんだりしないで、もう少しのびのびと楽しく暮した方がよろしいのよ」
そう言うとき、宝屋夫人がスカートの腰をひねるようにして、前こごみになったので、横ずわりした美しい両脚が巧みにずらされ、肉色の靴下につつまれたふくらはぎ、かかと、足の裏の一部の丸みが、ゆがんだり伸ばされたりして、それを見る柳の胸は息苦しくなる。この彼女の全身を、丸裸のまま縛りつけたのは、ほかならぬ穴山ではないか。
「宝屋の奥様だって、穴山はおきらいでしょ」
「ええ、ええ、それはもう、こちらの秀雄様や柳さんにくらべたら、月とスッポンですわね」
と夫人が答えてくれたので、姉妹二人はすっかり安心して、表情がゆるやかになった。
「荒々しいばかりで、礼儀をわきまえないし。なんだか臭いみたいで、むしゃっこいし」
と、母は調子づいて言う。
「不潔な男という感じですわね。ああいうのは、おそろしいわよ」
「おそろしいとは、私、思いませんけど」
と、夫人はしずかに叔母に反対した。
「別に、おそろしいとは感じませんわ。だって、私、インド人、香港《ホンコン》中華人、ドイツ人と、相当アクの強い連中とつきあっていますでしょ。ですからね。それに、大体、宝屋の御先祖だって、並ひととおりの、おとなしい人物ではなかったでしょうし。主人の先々代様だって、一揆《いつき》だとか打ちこわしだとか、焼打ち、請願、なぐりこみ、騒動なら何でもござれの相当の代物だったようですから。ですから、穴山さん如き、如きと申しちゃ失礼ですけど、あのテの方は珍しくも何ともありませんのよ。何かやらかす男というものは、どっちみち、アッサリと上品なだけのタイプと言うわけにはいきませんもの」
「でも、穴山って奴は、若いくせにヘンに暗くて、どす黒くて、ずうずうしい所があるでしょう。ああいうの、わたし好かないわ」
と、母は、夫人の批評を手ぬるがるように、あけすけな口調で言った。
「たとえ、宗門の権力を全部一手ににぎったところで、そんな権力なんて、吹けば飛ぶようなもんですからね。穴山が、その種の権力のために暗躍しようが、どうしようが、ぼくには興味ないなあ」
「だったら、どんな権力だったら、柳さん、興味がおありなの?」
と、夫人がたずねる。
「いいや、ぼくは、権力なんかにまるで興味がありませんよ。坊主が権力をほしがるのが、どだいおかしいじゃないですか。この世の権力はすべて空しいと、おシャカ様は口がすっぱくなるほど説いていられるんじゃありませんか。何もかも棄ててしまったはずの宗教団体が、権力だけは温存したいというのは、理窟に合いませんよ」
「でも、カトリック教団は権力を重んじますわよ。ヨーロッパの町を少し歩けば、すぐわかることよ。法王は、地球上のあらゆる王者を支配する精神上の王者ですもの」と、夫人は言う。
「権力はどうか知りませんけど、権威というものはやはり大切じゃないの」と、叔母が言う。「仏教を守るためには、それだけの権威を保っていなければ、だらしなくなるもの」
「その権威というのが、ぼくはわからないんだ。いかにも有難そうに、意味ありげに、いかめしくとりつくろうことですか。それだったら、仏教でも何でもない。世俗の権威とかわりありゃしない。権威も権力もみんなゼロなんだと否定しなけりゃあ、仏教の独自性も何も消え失せてしまう。だから教団の中から、あらゆる権威や権力の残りかすを追い出し、掃ききよめてこそ、どうやら仏教徒の集団らしき雰囲気《ふんいき》が生れてくるんだ。チョットでも権威や権力を棄てきれない、権威主義や権力主義が顔を出したら、もうおしまいなんだ。それはもう、おおらかな絶対平等主義にそむいて、狭く醜い地上の組織や順序の真似をすることになるんだ。だから、緋《ひ》の衣《ころも》だ、紫衣《しえ》だ、大僧正だ、総本山の総元締だと、軍人みたいに位階勲等をつけるのが、そもそも大まちがいなんだ。乞食なら乞食らしくすればいいんだ。我々坊主は本来もともとが、乞食であると自覚していなくちゃならんはずでしょう。布施にすがって生きているんだから、立派な乞食ですよ。農民でも労働者でもありゃしない。乞食が偉そうに権力者ぶったって、どうなるもんでもありゃしない。偉そうなもの、もったいぶったもの、肩いからせたもの、金ピカのもの、たてまつられたもの、特別待遇のもの、そんなもの全部が虚仮《こけ》であり、錯覚であり、空《くう》の空なるものだとハッキリ示すことこそ仏教的な態度なんです。ほんの一センチでも一ミリでも、そんないつわりの重大性に色目をつかったら、その瞬間に仏教は仏教でなくなるはずなんです」
「偉そうなこと言っちゃって……」
と、母は、自分のハラを痛めた子供の大言壮語をあぶなっかしがり、おかしがって苦笑する。
「さっちゃんには、わたしやお父さんの苦労がてんでわかっちゃいないんだから」
「そうねえ。無欲とか無所得の心とか言ったって、やはりしっかりした地盤とか役割とかがなくちゃあ、お寺だってやっていけませんものねえ」
寺院の経営で苦労しぬいている叔母も、若者の議論をくすぐったそうに、かつ憐れむように聴き流していた。
「何と言ったって、お寺というものがなかったら、今まで仏教だって続いてこられたはずがありませんもの。お檀家を大切にして、お寺を守る。それがまず第一の勤めよ。そのためには、こちらに、やはりそれだけの権威というものが、どうしたって必要ですわよね」
柳様に電話ですと、書生の一人が告げに来た。
「穴山かしら。きっとそうよ」と、叔母が、すばやいまなざしで書生を見やった。三人の女の、ねばっこい視線に送られて、柳は玄関の方へ、長い廊下をふんで行く。
電話室の扉をひらいて、受話器を耳にあてがうと、久美子の声がきこえた。病者か老女に似たかすれ声は、とても若い女性のものとは思われないが、落ちつきはらった冷静な口調は、予言者かロボットの声のように、柳の耳につたわった。
「……すぐお寺を出て、一ノ橋に向って歩いて下さい」
「え?」
「一ノ橋に向って歩いて下さい」
まるで録音された声のように、久美子の声は何の感情も示さずにひびいた。
「わかりました。それで、ただぼくが普通に歩いて行けばいいのかい?」
「歩いて来てくださればよろしいのよ。ただし、今すぐ……」
「今すぐ行きます」
煉瓦|塀《べい》にはさまれた鉄柵《てつさく》の門を出る。春ちかい風が、運河地帯をなまあたたかく吹きわたっている。背広で来たから、いいようなものの、法衣姿だったら目立って仕方あるまい。中小企業の店、問屋の倉庫、青黒い河水の入りくんだそのあたりの午後は、人通りが少かった。材木屋の店先からは、材木のにおい、シャツ問屋の店先からは、安シャツにつけた糊《のり》の匂いがただよってくる。小型トラックに積みこむため、若い工員が担った長い鉄線の束は、黒くしない揺れて、柳の顔すれすれに廻されてくる。ボール箱や木箱を積みあげたり、積みおろしたりしている血色のわるい店員たち。二人漫才《ににんまんざい》でもやるようにして立ち話しているエプロン姿の主婦。買物に出歩く若い女たち。誰もが不機嫌そうで、いらだっていた。そして、誰もが柳の方を、うさんくさそうににらんでいた。にらむがいいさ。にらみたいだけにらむがいいさ。にらまれるのは、死刑になるより、ましなんだ。こっちは、死刑にされたってかまわない位の気持なんだぞ。宮口なんぞは、どっちみち死刑になるにきまっているんだ。「エサ、つり具」の看板。その次は、軍手と白衣の看板が並んでいる。足袋、靴下、タオル、火気厳禁と大げさな赤い文字の傍には、ペンキ入りのドラムカンが、ひっそりととりまとめられている。駄菓子屋の暗い小さな店の奥では、青いゴム風船と赤いゴム風船が、そこだけ馬鹿に明るく光っている。低い家並の向うに、国技館の丸屋根が、灰色にそびえている。灰色に乾いた道路の片側には、コンクリート管が灰色に乾いている。塩原橋を渡る。潮は満ちているのだろうか、干《ひ》いているのだろうか。あくまで黒い河の面は、静かになめらかに揺れ動いている。直線に続く石垣の影は、揺れ動いて凸凹の激しい峰の影のように見える。立ち止っていると、河の匂いが濃くなってくる。職工は職工らしく生きている。それは正しい。商店の店員は店員らしく生きている。それは正しい。貧乏な下町のおかみさんは、おかみさんらしく生きている。それは正しい。だが、坊主はどのようにして生きたら、坊主らしく生きられるのか。坊主が坊主らしく生きている。それが正しいといえるだろうか。久美子は正しく生きている。そうだ。彼女は今の僕に比べたら、数百倍も正しく生きているのだ。今こそ僕は、彼女の健気《けなげ》な正しさを信ずることができる。彼女は行動している。意志と情熱によって行動している。僕は安全だが、彼女は危険だ。ああ、何という違いが、僕と彼女との間にあることだろうか。西方寺の奥の間に残してきた女どもは、いきなり飛び出してきた僕のことを話し合って騒いでいるだろうが、あんな奴らは放っておけ。うす曇りした江東の空は、とめ度もなく広がっている。ま新しい紫色のふとんを積んだ三輪車が止っている。ふとんの上に積んだ白いカバーをかけた枕が一つ転げおちたから、運搬の小僧さんが、あわてて拾い上げているのだ。十四、五歳の小僧さんは怒ったような顔つきで、枕についた土ほこりを払っている。ああ、何と、その小僧さんは一所懸命に働き、一所懸命に怒り、一所懸命に生きていることだろうか。柳は自分が坊主であることを忘れて歩いて行く。いや、彼は、坊主であることを忘れるために歩いて行く。「穴山は、きっと長老をそそのかして、緊急大集会を開く手はずをととのえたんだな。奴はその大集会で、一挙にして宗門の権力を手に入れるつもりなんだ。奴には陸軍という後だてがあるからな。ウジウジした長老どもを押えつけるためには、彼が怒号するだけで充分なんだ。だが、それが成功したからといって、どうなるんだ」柳は歩いて行く。灰白色の制服を身につけた中年男が、倉庫の前で心配そうにヒソヒソ話をしている。きっと、あの会社は明日にもつぶれそうなんだ。あんなに青白い心配そうな顔つきをして、これからずーっと生きて行かなければならないんだ。久美子や宮口の秘密運動が成功したところで、とてもあの男たちまで救い上げることはできないんだ。黒い河の水に浮んで、黒いスリッパが流れて行く。針金でつなぎとめた丸木にも河の水そっくりな真っ黒い色がしみついている。河の水が黒い限り、河の中のものは、みんな黒いのだ。黒い水の中で黒いものが、いつまでも浮んだり、沈んだり、流れたりしているのだ。それは、きまりきったことなのだ。ああ、何という、きまりきったことの絶対性だろうか。柳は歩いて行く。黒い黒い、きまりきった絶対性が、どうして、こんなに静かに、そこら一面に広がっているのだろうか。諸行無常はどこに行ったのか。黒い黒い、きまりきった絶対性が、つまるところ諸行無常なのだろうか。そんな馬鹿なはずはあるまい。柳は、いくらか夢遊病者のようになって歩いて行く。
久美子が肩を並べて歩き出すまで、柳は彼女の姿に気がつかなかった。彼女は、彼の背後か、横側か、どこか、小路から現れて、無言で彼に寄り添って、いつのまにか歩いていたのである。
「黙って、そのまま歩いて」という声が聞えたときにも、彼は出来るだけ横見をしないようにして、正面を見つめたままでいたから、彼女がどんな服装をしているかも、急には分らなかった。
「……そのまま歩いて、右へ曲るのよ」
柳は一刻も早く、久美子の顔や服装の変化を見たかったが、首すじをこわばらせて機械で動く人形のように、真直ぐに歩いて行く。あんまり真直ぐ歩きすぎたので、道路を横ぎるとき、自転車にぶつかりそうになる。暗い横町へまぎれこんだとき、柳はあわてて「お金、持ってきてやったぞ。今、渡そうか。それとも……」と、言いはじめると、せま苦しく建ち並んだ長屋の二階から「イヨオッ。うまくやってやがる」という、若い男の声が降ってきた。いつもの柳だったら、すぐに立ち止って、相手をにらみつけるのであるが、そんなことをすれば久美子に叱られると考え、我慢して大人しく歩いて行く。
「そうね。お金は頂いておきます」と答えたとき、柳は、はじめて彼女の全身を目撃することが出来た。そして、彼が何よりも正直に直感したのは「駄目だなあ。いくら貧乏人に化けたって、これじゃあ、駄目だなあ」ということであった。「第一、あんまりきれいすぎる。西方寺で会ったときより、熱海で会ったときより、もっときれいに見える。貧乏人の恰好をすると、かえって、ますますきれいに見えるんだから困ったもんだなあ」洗いざらした木綿の絣《かすり》の和服の上に、緑色の上っぱりをつけていることはたしかだった。町工場の職工の若いおかみさん。そういった|貧乏くたい《ヽヽヽヽヽ》服装をねらっているにちがいない。女中さんにしても、長屋の娘さんの和服にしても、もう少しふくれ上ったところがあり、暮らしの苦しさが、だらしなくにじみ出しているものであるが、久美子の服装には、そのような生活臭が少くて、どう見ても、すっきりしているのであった。金の包みを受け取るときの、彼女の指先は黒く汚れていた。汚れてはいても、かえって白さが目立つような汚れ方で、その指の動かし方にも、お茶や生花のけいこで鍛えた、上品な素早さがあった。たしかに、彼女の横顔は変化していた。眼つきは鋭くなり、髪の毛のつやは消え、首すじなどには垢《あか》もたまっていそうで、全体にやせ衰えた感じがある。しっとりしたうるおいがなくなり、カサカサに乾いた感じがある。何事か思いつめていて、精神を一点に集中しているので、あたりかまわず孤立している風情は、昔からのことであった。その一つの点が、仏教から社会主義運動へ移されているとはいえ、一本気に思いつめている表情や態度に変りがあったわけではない。その|変りがない《ヽヽヽヽヽ》ということが「痛々しいなあ」という感じで、柳の胸をつく。だからといって「これでは駄目だなあ。そぐわないなあ」という感じも、同時に強く迫ってくる。「刑事でなくたって、普通の町の人だって、これではおかしいと、すぐ分ってしまう」売れ残ったおでんを煮なおす匂い、お灸《きゆう》やさんのもぐさの匂い、腐りかかった畳や板の匂い、まるで意地悪するために出っぱらせてあるような敷石。それらを通り抜けて、二人は何度も路を曲った。
「……大丈夫なのかなあ、君は。健康だとか何だとかさあ。君の意志はゆるみはしないだろうけど、どうなってるのかなあ、一体」
「私は明日死んでもかまわないの。ですから御心配なく」
「心配もしているけれど。ぼくは何も久美子さんのこと知らないのだから。ぼくには何も、君の行動について質問する権利はないよ。でも、やはり知りたいとは思うんだ。それも、ただ単に好奇心ばかりじゃなくてさ。久美子さんという人は、ぼくにとって大切な存在だと思うからさ。色恋とか男女関係とかいう以外に、まじめに物を考える仲間としてだね。君たちの運動に無理に首をつっこもうとするつもりではなくてもだね。君という人間が、今どうなっているのか、それを知りたがっているぼくの気持は分るだろ」
「ええ。分っています」
「……仏教というものがここにある。革命党の秘密運動というものがここにある。それは分りすぎるほど分っていることなんだが、ところで、その細かい具体的な事実については、なかなか分りはしないんだ。仏教教団の内部事情については、ぼくも多少は知っている。しかし、革命党の内部事情については、ほとんど全く知らないんだ。今のぼくにとっては、少しは知っている教団のことよりも、まるで知らない秘密運動のことのほうに興味があるんだ」
「党について、党員以外の方に話すことは禁じられています。党員同士の間でも、必要のない限り、余計なおしゃべりは許されていません。まして私は、まだ党員になどなれるはずはありませんし。ですから……」
方向感覚がにぶくて、すぐに町名や道筋をまちがえる柳は、二人がどの方角に向って、どこを歩いているのか、すでにわからなくなりかけていた。彼女(重大な使命をおびているらしき、けなげにして可憐《かれん》な、美しきハウスキーパー)と肩をならべて歩いている柳が感じつづけていることは、ただ「東京の下町と簡単そうに言うけれども、これは実にひろい、混み入った地帯だなあ。そして、ここに住んでいる人間がまた実に多種多様で、とても数えきれないほどの職業や家庭事情を身につけて、それぞれ一人前に独立して充満しているなあ」という、ことだけなのであった。とにかく、河ちかいその地区は、むやみやたらとゴチャゴチャしていて、それが一種の苛烈、悽惨《せいさん》なおもむきをあらわしていた。平凡無事であればあるほど、何となく異様に不安になり、殺気だってきそうな、エネルギッシュな灰白色や茶褐色がたまりにたまっている土地なのであった。
「いや。いいんだ。いいんですよ。あなたの口から、何も特別のコトを聴き出さなくたっていいんですよ」
彼は自分の不注意や|ぶしつけ《ヽヽヽヽ》さを、いそいでぬぐい去るようにして言った。
「いや、むしろ、うっかり聴き出さないほうがいいくらいなんだ」
「私は柳さんを信じています」
「いや、いいんですよ。信じてくれなくたって、かまいやしないんですよ」
「私は、私たちの党を信じています。愛しています。……だけど、私は柳さんも信じています」
「あなたのお仲間を信じるのは美しいことですから、それはそれで結構ですが。ぼくのほうは信じられると困るなあ。全然ちがった人種なんだからなあ。たのむから信じないでいて下さい。それより、宮口は? 彼は今、あなたと一緒なんですか」
「…………」
「いや、いけなかったな。そんなことを聞くことは許されないわけだからな」
久美子は、重そうな風呂敷包みを持つ手を右から左に持ちかえた。おそらく、それもカモフラージュのためなのだろう。風呂敷の包みからは、大根やにんじん、野菜の類が顔を出していた。
「……何か話をするとなると、どうしても鉄の規律にふれてしまうから困るな。君の指は黒くなっているけれども、工場にでもつとめているのかな。ぼくの聞きたいことは勝手に聞くから、答えられないことは答えなくてよろしいよ」
「私の指が? ああ、これは……」と、彼女は自分の指先を調べながら言った。「これは靴墨よ。洗ってもなかなか落ちないのね」
「ふうん。すると君は靴屋さんでもやっているのかな」
「いいえ。ちがうのよ。事務所では、いつでも私が皆さんの靴を磨いてあげる役ですから」
「事務所? ふうん、久美子さんは事務所につとめているんですか。事務所につとめて靴を磨いているとすると、女の小使さんですか」
「さあ、何というのかしら。仲間の皆さんが事務所の奥で会議をはじめると、一人一人靴を磨いてさし上げるんです。事務所とはいっても、もちろん、仲間が集るための、店の事務所ですから。建築業ということになっています」
「ま、待って下さい。そんな秘密のことまで教えてくれないでいいんですよ」
「かまいませんの。相手が柳さんですから」と、久美子は冷静に言った。柳は、どこかの小さなビルの中に、土木建築の看板をかかげ、革命党員が日夜出入りしている偽装アジトを想像する。表面は平凡な事務所らしく見せかけ、設計用の大机や椅子が並べられ、青写真などしまいこむ書類棚も揃《そろ》えられていることだろう。しかし、そこには特高警察からつけねらわれている「危険人物」ばかりが寄り集っているのだ。おおよその想像はつくにしても、そんな場所で、ほかならぬ久美子が、会議中の|偉い同志たち《ヽヽヽヽヽヽ》の靴を磨かせられているというのは、どういう仕組みなのか。いくら偉くたって、靴ぐらい自分で磨いたってよかりそうなものなのに。
「靴を磨くんですか? そうして、あなたのお仲間は自分たちの会議を続けながら、あなたに靴を磨かせているわけですか。平気な顔をして足を投げ出して磨かせているわけですね」
「ええ、一ばん偉い人から順々に磨いてさし上げます」
「しかし、それはどうなのかなあ。いくら偉いとか、順々にとかいったって、同志は皆平等なんじゃないんですか。それだのに、あなただけが靴磨きにまわって、そんな役を引き受けさせられているというのは、どういうことなんですか」
「その点については、柳さんには同志たちのやり方について批判する資格はありません」と、彼女は斬りつけるように語調を鋭くして言った。
「ああ、それは勿論《もちろん》そうですよ。ぼくには批判する資格なんかありゃしない。ただ何となく、あなたが気の毒に思われたから言っただけだ。そりゃあ、秘密運動をして、泥だらけになった同志の靴を、紳士風にピカピカに磨き上げることだって、必要欠くべからざる革命的な行動の一つでしょうからね。あんまり汚れた靴の連中ばかり集っていたのでは、すぐさま、バレてしまいますからね。ただ、ぼくは、その磨かせ方、磨き方が、何となく不平等だから言ったんです」
「私を気の毒だなどとは思わないで下さい。私がこんなに柳さんを信じているのだから、柳さんのほうでも、私の意志を信じて下さい」
「それで、あなたは宮口君の靴も磨くわけですね。いや、こういう質問もいけなかったかな」
「どうして柳さんは、そんなに靴のことにこだわるの」と、彼女はやさしく彼をあわれむように言った。
「靴のことというより、ぼくの言いたいのは、平等ということについてですよ。階級を絶滅するために奮闘している革命党の組織が、平等でないはずはないでしょ。ぼくだって靴ぐらい自分で磨きますよ。どうも何だか、その事務所の様子はおかしいなあ」
「あなたのおっしゃりたいのは、ブルジョア的な平等主義のことでしょう。それは私たちの行動とは関係ありませんよ」と、彼女は小学生を教える女先生のように言った。「宮口氏と建築事務所との関係は、今申し上げるわけにはまいりません。それよりも、あなたは……宮口さんが好きなんでしょう? 柳さんは」
「そうです。ぼくは宮口が好きです」
「やっぱり、そうだったのね。嬉しいわ、柳さんが彼を好きでいてくれて」
そういう彼女の口調、或いは態度が、あまりにも晴れ晴れとしているのが、柳には不満だった。自分に対する久美子の信頼が、彼にとって嬉しくないはずがなかった。だが、宮口に対する柳の信頼の念を確め得たことによって、それほどまで嬉しがる久美子の気持は、宮口に対する柳の敬愛の念を通して、自分の柳に対する敬愛の念を高めているような節があって、柳は気持が悪くなるのであった。
「柳さんのおっしゃる人間平等論が、もし絶対的なものであるなら、あらゆる革命的な行動というものは、出来なくなりますわよ。そうではありませんの」
「いや、そんなことはありませんよ。平等主義にもとづかない革命なんて、意味がありませんからね。革命を望むものは、皆、平等をめざしているはずですからね」
「私の申し上げているのは、革命的実践において、あなたのおっしゃるような平等論は、通用しにくくなるということなんです。もしも、そのような、万事おだやかに納まるような平等論に従っていたら、強力な革命行動は消滅してしまわなければならなくなる。そのことを申し上げているのです。たとえば、革命党の内部に潜入して、党の組織を破壊するために大活躍をするプロヴァカートルがいたとしますね。もしも、彼の策略によって、全組織が崩壊する直前にあったとしたら、私たちは、彼を抹殺《まつさつ》しなくてはなりません。たとえ、どのような道徳的な責任を追及されようと、彼をのめのめと地上に生かしておくわけにはいきません。彼の裏切りを許した瞬間に、私たちも裏切者に転落しなければなりません。あなた方のブルジョア平等主義によれば、彼も一個の人間であり、私たちと少しも変らぬ、哀れなる人類の一員なのです。ですから、柳さんの意見によれば、彼を殺すことは絶対に許されない。多分、そういうことになるでしょう。ちがいますか」
「……うん、そうかもしれない」
「しかし、私たちは、彼を殺さなければなりません」
「殺す? 殺すですって。|あなたが彼を殺すんですか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
「ええ、そうです。殺さなければならないんです」
すごいことを考えているんですねえと、言いたくなるのを、柳はやっと我慢した。そのような断言をする彼女が、彼にとっては、ますます、痛ましくも可憐な美しい被害者と思われてくるのであった。またもや、水の匂いが濃くなる。広々とした大川の水面を渡る風が近づいてきた。うす白い水の反射が、二人の上にかぶさってくる。
「こんなことを話し合っていていいのかなあ。あなたも宮口君も、とても忙しいはずなんだが」
「柳さんのお話ばかり伺っていて、私の方から申し上げるべきことは、何もまだ。宮口氏から柳さんへの伝言も、まだお伝えしていないのです。姉からのお金を受け取るだけでしたら、何も私が来るまでもなかったのです」
「あなたが人を殺す? もしも、そうなったら、ぼくはあなたのために何をしたらいいのだろうか」
「柳さんだって」と、彼女が言ったとき、川の方角から汽笛の音が聞えた。音に色があるはずはないが、それは悲痛な灰色のもつれ合った閃光《せんこう》として聞えた。「柳さんだって、人を殺すことはあり得ますわよ。そのことについては、私はもう、ずーっと前から考えつくしています。私がそのとき、やれることは、柳さんの身代りになって死ぬことなのよ」またもや、汽笛が聞えた。今度のは、疲れきった老牛が一仕事終ったあとで、やれやれ、世の中がいやになったなあ、と訴えるような、低くぼやけた声であった。
「では、もう一つ伺いますが、宮口からの伝言は、あとでお聞きするとして。今の久美子さんにとって、仏教というものはどうなっているんでしょうか。あなたが偉い同志たちの靴を磨く。あなたが同志の組織を破壊しようとする裏切者を殺す。そうした場合、あなたの頭の中で仏教はどうなっているのでしょうか」
「私は今、仏教の中にいるのよ。今まで、かつてなかったほど、仏教そのものの中に入っているのよ」と、彼女は声を低く押し殺してはいるが、ほとんど叫ばんばかりの興奮ぶりで言った。「私が、どれほど今、仏教の真理に近づきつつあるか。あなたには想像もつかないくらいよ。だから私は嬉しいのよ」
「自己犠牲という点では、そうかもしれないんだが……」と、柳はふくれっ面で言った。「だけど君は、宮口たちの仲間入りしてから、まだほんの数カ月しか経っていないじゃないか。それは、あんまり早すぎる結論じゃないのかね」
「悟りに達するのに、早すぎるということはありません」
「悟りと言うのかなあ、そういうの。それは、一寸《ちよつと》した|感じ《ヽヽ》にすぎないんじゃないかな」
「柳さんはね、久美子を世間知らずのお嬢さんだと思っているのね」
「うん、そう思っているよ」
「たとえお嬢さんでも、やれる事はやれるのよ。世間知らずだからこそ、できる事だってあるはずですもの。おシャカ様が王宮を脱け出したとき、あの方こそ、世間知らずのお坊ちゃんだったのではないの?」
まだ逮捕されたことのない久美子の名が、警察のブラックリストにのっているはずはなかった。宮口その他の「前科者」とはちがい、彼女個人に対しては、尾行がつけられている心配はないはずだった。目黒署の特高の眼の届かない範囲内では、柳も彼女と同様、安全であった。まだ、指紋も写真もとられていない久美子は、何ら、秘密組織と関係のない柳と歩いていたところで、誰も彼ら二人を取調べるはずはなかった。柳はただ、彼女の緊張ぶりにそそのかされて緊張しているにすぎなかった。それでなかったら、いくら無神経な柳でも、このような会話を彼女と交すはずはなかったにちがいない。彼女は絶えず、周囲に警戒しながら歩いていた。川沿いの小公園のベンチに腰を下ろしたときも、いつでも走り出そうと身がまえている様子だった。彼女の疲労のはなはだしさは、柳にも分っていた。地下に潜った、或るプロレタリア作家は、茄子《なす》の塩漬けばかり食べて、栄養不良のまま活躍を続けていたという話であるが、彼女の栄養不良も、日毎夜毎に激しくなっているにちがいなかった。白くも黒くもなれない都会の泥。百姓の耕す畠《はたけ》の土とちがって、何も生み出せなくなっている泥らしくない泥。やっとのことで空地の形を保っているのは、やがてはアスファルトやコンクリートの下にかくされてしまう泥。その感じのよくない泥が、彼と彼女の足もとにあった。そういう泥には、たいがい、みじめな草が生えているものだ。いったん、都会の泥となってしまったからには、ふつうの泥、田舎の泥に還るわけはないのであるから、柳の短靴と、久美子の下駄の下の土は、永久にそうやって、ねばりついているのである。久美子が美貌の少女であることは、分りきった話であるが、柳はどうしても彼女からは、宝屋夫人から感ずる肉体的魅力を感ずることができないので、わざと足もとの泥に対してまで、そんな「哲学」じみた考えを作りあげたくなるのであった。
「馬鹿馬鹿しいみたいだなあ。こんな具合に二人でベンチに坐って。恋人でもないのに」
「あら、私たちは恋人なのよ」と、彼女はすました顔で言った。「仏教的な恋人なのよ。そうにきまっているわ。もしそうでなかったら、こうして歩いたり、話したり、坐ったりしていても意味がないわ」
|仏教的な恋人《ヽヽヽヽヽヽ》――という、聞き馴れない言葉だけは、柳の耳にはっきりと聞きとれた。彼女の心理状態については、ますます理解しにくくなっていた。
「宮口君からの伝言というのは何ですか」と、彼はたずねた。
「|仏教的な恋人《ヽヽヽヽヽヽ》の意味は、おたずねにならなくていいの」
そう言う久美子は、淋しげな微笑さえうかべて落ちつきはらっていた。そんな問題、革命党の秘密運動とは何のかかわりもない、そんな小市民的な私事について、この少女は微笑などうかべていていいのだろうか。
「そんなものは、ありっこないですよ。仏教的な恋人だなんて、そんなものは。キリスト教なら、キリスト教的愛人というものは有りうるかもしれない。しかし、仏教では……」
「あり得ないわけですわね。ですから、私たちは、それをつくり出さなくてはならないのよ」
「|私たち《ヽヽヽ》ですって。君とぼくがソレを?」
「そうなのよ。柳さんと久美子が、ソレの最初の一組にならなければならないのよ」
「だめです、そんな。あなたにはできるかも知れないが、ぼくにはとてもだめですよ」
柳はベンチから立ち上ると、彼のズボンの下から、ほこりが舞い上った。そして、彼の足の横を吹き抜ける風が、丸められた紙屑《かみくず》を転ばして行く。
「ああ、ああ。あなたという人は、全く、何から何まで考えつくしているような顔つきをしていますね。仏教的な恋人の最初の一組。よくもよくも、そんなものを考えついたものですね」と、柳は腹立たしげに言って、ベンチの後に廻り、彼女の細い首すじをにらみつけた。それは、堅い信念や、強烈な意志を支えて行くには、あまりにも弱々しすぎる首すじであった。
「革命党の組織の中の、革命的な恋人、赤い恋人。それだけだって大へんな役割なんだ。それだのに、その上あなたは、仏教的な恋人の役割まで引き受けるつもりなんですか。とても出来る相談じゃありゃしない。どうしたって出来っこのない無謀な企てだ。そんな考えは、要するに卵の皮よりもっと薄い、いつでもぶちこわされる妄想《もうそう》にすぎないんだ。どうして、そんなことがあなたに出来るはずがありますか。これからアジトに帰れば、もしかしたら特高にすぐ踏みこまれて、掴《つか》まってしまうかもしれないあなたなんだ。第一、あなたたちの鉄の規律のもとでは、恋人などというものが許されているんですか。ハウスキーパーというものがある。あなたもその一人でしょう。しかし、それは男性の闘士を安全に守るための道具にすぎないんです。もちろん、それは自発的な生き生きとした道具ではあるけれども、いくらあなたが優秀な道具だとしても、道具に恋人たる権利が許されるだろうか。駄目です。駄目です。あなたのその考えは、どうしたって実現出来っこない願いなんですよ」
「いいえ、出来ます。私がもうそう決心してしまったからには出来るのです」
「しかし、その仏教的な恋人同士の相手はぼくなんですか。ぼくはあなたが、もちろん好きですよ。けれども、ぼくは、どうしたって仏教的な恋人などになれるわけがありませんよ」
「いいえ」と、彼女は静かに言った。「あなたが何も心配なさることはありませんのよ。あなたが何もなさらなくても、私たちはもう、仏教的な恋人になってしまっているんですから」
「なってるなら、なってるでいいですよ。あなたの考えに反対することなど、出来るはずがありませんからね。そうでしょう。だって、空気にむかって唾を吐きかけたところで、それは反対することにはなりませんからね」
と、柳は言わずにいられなかった。柳は彼女を軽蔑してなどいなかった。もしも柳も久美子も、世のいわゆる「普通」の、まともな状態にあるとして、見合結婚でもするとなれば、彼女こそ彼を幸福にしてくれる可能性のある少女だと考えていた。その種の「幸福」なるものが、自分にはやってくるはずはないと覚悟しているにしても、やはり久美子が、彼の大好きな女性であることはまちがいなかった。それだのに、会話をはじめるが早いか、二人のあいだには妙に黒い霧や、冷たい火焔《かえん》が噴き出して来て、彼自身の言葉の調子まで狂ってくるのだった。彼女の、きわめて暗示的な言葉が、思いあがった、大げさな|ほのめかし《ヽヽヽヽヽ》に聞えてきたり、また、思いもかけぬ貴重な真理の結晶のようにきらめく想いがして、柳は混乱もし、いらだったりもするのだった。
「……社会主義のためにたたかうのも、仏教のためにたたかうのも、おなじことじゃありませんの」と、彼女が自信ありげにつぶやいたとき、柳の背すじには、毛虫に這《は》いまわられたときの悪寒が走った。|たたかう《ヽヽヽヽ》という言葉、ことにこの言葉が美少女の口からもれたことが、彼には身ぶるいするほどイヤなのだった。|たたかう《ヽヽヽヽ》? たたかうだって? 彼女はたしかに、|たたかっている《ヽヽヽヽヽヽヽ》のかも知れないさ。だが、どうもこの言葉は、ナマ煮えの芋みたいに口の中でゴワゴワするじゃないか。おまけに、仏教と社会主義をそうそう簡単に結びつけたり比較したりする、そのやり方は何とも、いいかげんな甘ったれたものではあるまいか。ぼくにだって、彼女と全く同様に、その傾向がありすぎるほどあるにしてもだ。柳だって「仏教」について、「社会主義」について、しゃべりたい衝動に駆られることが多い。しかし、いつもしゃべり終ったあとで、たまらない恥ずかしさで、頭をかかえたくなるのだ。この美少女は、どうして彼のように、頭をかかえたくなるような恥ずかしさに襲われることなしに、すました顔をしていられるのか……。
「仏教と社会主義が、一つものだったら、どんなにいいだろうかなあ、とぼくだって考えますよ」と、彼は出来るだけ平静を乱さないようにして言った。「いや、その二つが全く別ものだとしても、いくらかでもその二つを近づけることが出来たら、ありがたいんだがなあ、と思いますよ。ぼくだって或る時期は、過去の仏教は、その真理性において、現在ならびに未来の社会主義に一致できると考えたことがあります。出来るだけ、そういう考えに没入しようとしたこともあります。今だってぼくの内部で、その考えは燃えくすぶっていると言えるでしょう。しかし、秀雄君の影響をうけたせいかもしれないが(たしかに彼は仏教哲理の研究において、ぼくよりも数歩先まで進んでいますからね)、仏教と社会主義は、ますますぼくの頭の中で分れ去っていくんです。戦闘的無神論者同盟とか、新興仏教青年運動とか、いろいろ出てきてますよ。戦闘的無神論者同盟は、レーニンの説いた『宗教は阿片なり』を信奉して、教団のみならず、宗教そのものをも攻撃している団体です。それが一方にある。もう一つの新興仏青の方は、ともかく仏教教団を改革して、いくらかでも社会主義的理想に近づけようとしている。どっちが正しいのか、ぼくには断定できない。しかし、彼らが両方とも、ふつうの坊主よりも、まじめなことは疑いない。優秀な日本の仏教学者に比べ、彼らの理論的根拠は、すこぶる薄弱である。しかし、少くとも彼らは、生まのままの現代人として、現代に生きようとしている。ある瞬間にはぼくだって、今のままの仏教教団だけだったら、消滅してしまったってかまわないと思うこともあるよ。だが、仏教と仏教教団は、全く二つのちがったものなんだ。それにぼくには、どうしたって僧侶であるぼくの父を信頼したい気持がある。ぼくは正直のところ、ほかの男の誰よりもぼくの父が好きなんだ。世間的な能力とか、官学的な学識とか、そういったものじゃなくて、ぼくの父はたしかにいい人間なんだ。ぼくはいつも父のことを考える。また一方では苦闘しつつある社会主義者たちのことを考える。その二つの生き方は、なかなかうまく結びつかない。いや、絶対に結びつくはずがないんだ。久美子さんが仏教のためにたたかうのと、社会主義のためにたたかうのとは同じことだとおっしゃる。しかし、今のぼくには、はい、そうですとお答えすることは、絶対に出来ないんだ。あなたがいい加減なおしゃべりをする女学生ではないことをぼくは承知しています。あなたの悲劇的な運命が時々刻々と迫ってきていることは、ぼくはよく直感しています。だからこそ、なおさら、いい加減な答えが出来ないんだ。たしかに、眼前に敵がいる以上、その敵とたたかわなければならない。だから、あなたと、あなたのお仲間はたたかっている。ぼく自身は、|たたかう《ヽヽヽヽ》という言葉が、どうにも好きになれないから、使いたくないんだが、あなたが使うからぼくも使わせてもらうとして、その|たたかう《ヽヽヽヽ》ということは、一体どういうことなんだろうか……」
「それは、たたかってみなければ分らないのよ」と、彼女は言った。「宮口氏の知りたがっているのは、仏教教団と右翼勢力との接近についてなのです。彼の説によれば、日本の仏教教団は、右へも左へも、あらゆる権力によって動かされやすいということです。戦争反対へも戦争参加へも、権力の動き方次第によっては、たやすく傾いてゆくものだそうです。仏敵という言葉が昔からありますが、どこに、その仏敵を発見するか。それは、いつも臨機応変に、教団の安全を保持するために、決定されるらしいのです。仏敵をどこに発見するかによって、教団の反動化と革命化が決定されるのです。宮口氏が穴山さんに注目しているのも、いつ、その決定がなされるか、その決定がどの方角に向いているか、それを誰よりも早く知りたいためなのです。仏教教団における非合理的な国家主義の上昇の速度と、軍部ならびに、それに支配される政府内部における非合理的な国家主義の上昇の速度とは、ぴったりと一致しているのです。したがって、穴山さんの行動は海面の下の魚の行動を知るための、|うき《ヽヽ》の役割を果しているわけです。私にはよく分りませんが、革命党の一部が右翼団体に接近するのは、武器を入手するための必要からでもあるらしい。しかし、一方では釣り糸の先で動揺している、|うき《ヽヽ》の上下運動を見きわめるためでもあるらしいのです。仏教教団において、右翼分子の独裁が、いつ成功し、いつ確立されるか、それは当然、宮口氏の知りたいところなのでしょう」
「それをぼくの口から報告してもらいたいわけですね、彼は。そんな報告ならするのはわけはないが、しかし、今のぼくにとっては、教団の右翼化も左翼化もまるで興味がないんだがなあ。だって、それらの表面的な教団の変化は、真の仏教とは何の関係もないんですからねえ。どっちに転んだって、仏教徒の集団が、あなたがたの役に立つことはありっこないと思いますがねえ」
「でも、柳さんだって、日本の仏教教団が、日本軍部の侵略戦争を正しいと宣伝する方向へ傾いて行くのを喜んでいられますか。それを黙って見逃していられますか」
「君は、そうやってぼくを、追いつめてくるつもりなのかね。それは、だめだよ」と、柳は、年長者らしいゆとりを示して言った。だが実のところ、彼女に問いつめられた彼は胸苦しかった。
「ぼくは、久美子さんも好きだし、宮口君も好きだ。だが君らの大親分の命令は、絶対にききたくないんだからな。それだけは言っとくけど」
「大親分ですって? 何のこと、それは?」
彼女もベンチから起ち上り、二人はまた並んで歩き出す。
「名前は何だか知らないさ。実の姓名も、役柄の名も知らないさ。多分、中央執行委員長とか、最高幹部会議長とか、そんな名前をもった偉い偉い最高責任者のこった。どうやってぼくが、その隠れたる最高責任者の偉さ、絶対性を信用したらいいんだい? 顔も見たことがない、声もきいたことがない、経歴も性格もまるで知らない一人の男の命令を、どうやったら信用できるのかね。もしもだよ、もしも、その『彼』がプロヴァカートルだったら、どうする? 全組織を『敵』に売りわたすために、特高組織から送りこまれた超スパイだったら、どうなるのかね。『革命』という新聞には現に、毎号のようにしてスパイ某、潜入し暗躍した恐るべき裏切者ナニガシをキュウダンする記事の載っていないことがないじゃないか。中央委員の中にさえ、|そういう好ましからざる人物が居たということを《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ハッキリ印刷しているじゃないか。かつて|居た《ヽヽ》とすれば、今も|居る《ヽヽ》かもしれないと、ぼくが考えるのは被害妄想のせいだろうか。被害妄想であってくれれば、それに越したことはないさ」
柳がチラリと横目でながめやった久美子の横顔は、蒼白《あおじろ》くこわばっていた。誰だって青年ならキッスしたくなるほど可愛らしい唇も、色を失っているように見えた。
「ぼくは何も、君を苦しめるため、君に意地わるするために、こんな厭《いや》らしい話をしているんじゃないよ。また、君からの要求をはねつけるために、特に言いのがれを持ち出したわけでもない。ぼくが久美子さんが好きなのは、秘密運動にとびこんでいる今の状態のままでも、好きだという意味で好きなんだからね。だけど、君に会うと、何もかにも話したくなってくるから話しているだけなんだ」
「信ずるか、信じないか。それは、どちらでも許されることです。私は、信ずるほうなのです。信ずるということが、ただそれだけが、私の性格に合っているんですから。それはもう、私の運命として決っていることなのですから……」
電車線路が近づくにつれ、夕暮れどきのざわめきが高まってくる。線路に沿って、カーキ色の兵士たちの行列が続いている。先頭の下士官に急《せ》きたてられた一個分隊が通りすぎると、またつぎの分隊が歩いてくる。カーキ色の軍服は、胸も腕も汗がにじみ出して黒みがかっている。激しい訓練のあとで兵舎へ急ぐ兵士たちは、みな、今にも倒れそうに疲れきっていた。彼らの身につけた完全軍装の重みが、見物する者の背中に感じられてくるような重い足どりである。乱れがちになる兵士たちの歩調を早めるため、指揮者は絶えず声をからして叫んでいる。あまりにも弱りこんでいる兵士たちを、人目にさらすのが辛いので、下士官や将校は、殊さら威厳を作って猛々《たけだけ》しくなっているのだった。「近よらないほうがいいよ。しばらく待っていよう」と、柳が久美子に注意したのは、彼女が隊列の切れ目をねらって線路を横ぎろうとしたからだった。突然、平凡な市民の耳を驚かす、特別製の怒号が起った。長い長い隊列がいつまでも続くので、待ちきれなくなった一人の痩《や》せた男が、向う側につっ切ろうとしたのだった。サラリーマン風の貧相な男は、伍長か軍曹か分らないが、とにかく究竟《くつきよう》な下士官に胸ぐらをとられて、手足をふり動かしていた。いかにも、力の弱そうな、その男の腕の先で、彼のカバンが今にも落ちそうにゆすぶられていた。「この野郎。隊列を乱すことは許さんぞ」と、殺気立った下士官は、彼を横側にひきずり出して、なぐりつけた。その間も兵士たちの汗臭い集団は、そのほうをチラリとも見ようとはせず、黙々と歩いていた。見物人のざわめきが納まって、その下士官の殺気だけがふくれあがり、兵士たちの靴音がつみ重なるようにして聞え、その静けさの中で、何十人、何百人もの兵士たちの汗の匂いが、あたりにただよった。やがて、下士官につきとばされた痩せた男は、あっけなくよろめいて、まるで引き抜かれた案山子《かかし》のように線路の上に倒れた。「疲れきっているんだ。怒るよりどうしようもないほど疲れきっているんだ。荒々しくどなりたてでもしなければいられないほど、疲れきっているんだ」と、柳は思った。線路に転がっていた男は、やっとのことで立ち上ると、細いズボンの足をふんばって、過ぎ去って行く兵士たちの方へ、体をねじむけた。その男は重々しく威厳のある部隊の行進、ならびに自分をやっつけた下士官に対する恐怖心などは、少しも見せていなかった。その男の青ざめた小っぽけな顔は、ただ一つ、限りない憎しみで燃え上っているように見えた。彼もまた、彼をつきとばした下士官と同じように、怒るより仕方がないために、怒っているにちがいなかった。
柳は自分に寄り添っている久美子の横顔を見た。見なくても分っていることだが、線の鮮明な彫りの深い彼女の横顔もまた、怒りにこわばっていた。
「まるで冬瓜船《とうがんぶね》がついたようだ」
柳の母方の祖母は、柳の母にむかって、そのような下品な言葉を教えてくれたそうである。坊さんの頭を、南瓜《かぼちや》でもなく、西瓜《すいか》でもなく、冬瓜と形容したところに、この言葉の妙味があるのであろう。柳の母も、柳に、その言葉を教えてくれて、坊さんの大集会を批評するときは、きまって「まるで冬瓜船がついたようだ」と形容しては、くすくす笑いをするのであった。柳自身は、この言葉は、あまり好きではなかった。ことに母の口から、それを聞かされるのは好きでなかった。冬瓜船に積み上げられた一個の冬瓜の丸頭と同棲《どうせい》しているくせに、そのような言葉をもてあそんで喜んでいるのは、どうにも不可解であった。柳の母は、冬瓜(ほんものの)の吸物は大好物で、ときどき柳はおつき合いをさせられるのであるが、味もなく歯ごたえもなく、ただ青臭く透きとおっていて、いくらダシがきいていても、柳は、その吸物の味を好まなかった。それを考えると、ますます祖母ならびに母の愛好する、その形容を、自分は絶対に使いたくないと思うのであった。
しかしながら、三月の末日、芝の大本山において催された、緊急大集会に参加したとき、こころならずも、その形容句を思い出して、ゾッとしたのであった。とくに指令されたとおり、東京市内の同宗の全僧侶たちは、老幼の別なく、青々と剃《そ》り上げた丸頭を春風にさらして、続々とつめかけてきたからである。栄養のよくまわった二つの大頭の間にはさまれて、力なく揺れている老僧の丸頭もあった。宗門内には、柳には、とうてい探り出すことのできない小さな派閥があって、その派閥によって結びつけられた、形のよい丸頭や、形の悪い丸頭が、今にもぶつかりそうに、くっつきあって、秘密のささやきを交わしているし、その敵である別の小派閥の、別の丸い頭たちは、仲よさそうに寄り集って、少しそれた方向へむかって行くのであった。これも特別に指令された如く、彼らはすべて黒一色の衣を着用していた。坊さんは、かならずしも常に坊さんらしい服装や表情をしているわけではなかった。その日の黒一色に身をかため、青々とした頭をそろえた彼らは、それ故、ことさら「坊さんらしく」見えたはずであった。本山という根拠地、精神の本源の一点に集中すべく、いつもとはちがった、いかにも「坊さんらしき」心がまえで、つめかけてくる。いくらか殺気を帯びたと形容したくなるほどの緊張が、その行列のあたりにただよっていた。もちろん、広やかな本山の境内は、軍律きびしき兵営とは異なっていて、どこかに、のびやかなゆとりがある。集合を急ぐ僧侶たちの中には(いや、実は大部分がそうなのかもしれないが)、本山の緊急命令とは称しても、実は大僧正そのものが、そのような厳格な命令を発したがっているのではなく、ただ、時代に順応して、とりあえず号令一下の姿勢を示しただけであるから、ともかく、大人しく命令に従って、せいぜい一、二時間の集会におつき合いすればよいと考えているものも多いにちがいなかった。自分の寺へ戻れば、又、元通りの少しも変らぬ寺院生活が送られることは保証されている。奉行所に呼び出されて、青銅の踏み絵を踏まされた、かつてのキリシタンの怯《おび》えは僧侶たちにはない。誰も彼らに転向、ころびを強いているわけではない。どうせ訓示は、非常時に際会して、わが宗の僧侶は、ますます奮励努力せよという程度だと予想される。とりわけ、京都から東京へ移ってきたばかりの、本山の管長は、きわめて温厚な人物で、猛々しくもなければ、神経質でもない。京都の尼寺の信用を一手に握っている管長様は、尼寺の貯えた金力の後押しもあるし、財政的な面で、東京の小寺院をしぼりとるはずもない。又、たとえ非常時にふさわしい、宗教宣伝計画のために、多少の寄附を要求されたところで、土地持ちの寺方《てらがた》は、いずれも地代や家賃の収入が倍加しているのだから、少しも心配はない。世人を怖《おそ》れおののかせている軍部内の青年将校たちも、今のところ、明治維新のさいとはちがって、寺院をうちこわして、神道を国教にせよと主張しているわけではない。むしろ、戦死者の合同葬などにおいて、僧侶を活用し、檀信徒《だんしんと》を通じて軍の意図を滲透《しんとう》させようとしているのであるから、何もあわてることはない。そのような安心があるため、老僧も若僧も、どこやらピクニックやお花見に集った安らぎとはしゃぎ方があるのであった。
宗団内における長老めいた父の地位のおかげで、若いにもかかわらず、柳には顔見知りが多かった。寺院の娘と、寺院の息子の結婚には、しばしば話に乗って世話をする母が、寺院仲間の血縁関係にもくわしいので、柳はいつのまにか、それら多くの僧侶たちの私生活についてもくわしくなっていた。事情通になっていたとはいえ、別に柳は、それらの「事情」を温かいヒューマニズムらしき関心で考えつくしていたわけではなかった。いや、大体、彼には、父や母にしろ、自分自身にしろ、その他の坊さん諸君についても、深い人間論によって解釈することなど出来はしないのであった。彼はただ「ああ、この坊さんは財政方面の手腕がある人なんだな。ああ、この坊さんは、あの坊さんと仲が悪いんだな。この坊さんの兄弟は、今どことどこの県で住職をしているんだな」などと、ほんの瞬間的に感じとるだけであった。この坊さんは、無尽の金を使い込んで責めたてられ、朝から酒を飲んでいるところへ、ぼくが父の使いで手紙を持って行ったんだっけなあ。この坊さんは若い頃は白樺《しらかば》派の作家などにあこがれて、文才もあったのだが、今はあきらめて幼稚園の事業に専心しているのだなあ。そして、その坊さんの奥さんは観音菩薩《かんのんぼさつ》のようなきれいな顔をしていたっけなあ。だけど、その観音菩薩のような顔をした奥さんの妹さんは、交番のお巡りさんに惚《ほ》れこんで家出をしてしまったという話であるが、今はどうなっているのかなあ。あの年とった柿渋のような色をした田舎者臭い坊さんは、節約家で有名なはずだったんだ。あんまり物を大切にしたために、鼠のウンコを浜納豆とまちがえて食べてしまったのだ。しかも、間の悪いことに、その鼠は猫イラズを食べた鼠だったので、そのウンコを浜納豆とまちがえた坊さんは、七転八倒の苦しみをして転げまわったので、その奥さんは朝早く父のもとへ駈けこんできて、大変です、大変ですと騒いだのであったなあ。しかし、猫イラズの毒にもへこたれなかったその坊さんは、寺院の経営が大変上手だったので、大変な財産家になり、男の子がないので娘さんに養子をもらったのであるが、その養子に自分の苦心して溜《た》めこんだ財宝を渡すのが、いかにも口惜《くや》しいので、そのため、猫イラズを呑みこんだ時より、もっと激しい苦しみを味わわねばならなかったんだなあ。そう、そう、あの坊さんは、静寛院宮奉讃会の会長だったなあ。何しろ京都の天皇家の娘さま和宮《かずのみや》は、むくつけき関東武者の子孫、江戸の公方様《くぼうさま》のお嫁さんになってしまったんだからなあ。どうして、我が宗の僧侶がその奉讃会をやらなければならないのか分らないけれども、とにかく、このあまり繊細でもなさそうな、いや、むしろ、きわめて無神経なじじむさい田舎坊主のような男が、和宮様の木目込《きめこみ》人形を寄附者に配ったりして、一生かかって、その哀れなる皇女のためにほめたたえる会を発展させようとしているところは、何ともすさまじいが、皇女に関するホウサン会なのだから、必ず成功するにちがいはなかろうけれども、今は亡き、美しき皇女様は、はたしてこのような坊主をお好み給うたであろうか。みんな偉い先輩なんだ。したたか者のベテランなんだ。柳には彼らを軽蔑《けいべつ》する権利などあるはずはない。ただ、柳はこの馳《は》せ参じてくる冬瓜頭の間でもまれながら、その異様な集団の流れの中に、仏教を発見することができそうにもないのであった。柳自身がまず誰よりも非仏教的な人間であることは分りきっているのであるから、先輩や同輩をないがしろにしたり、鼻でせせら笑ったりするつもりはない。ただ、彼にとって問題なのは、この集団の流れの中の、どこに仏教を発見したらよろしいのかということだけなのであった。なだらかな斜面をのぼりつめたあたりで、大殿《だいでん》でうち鳴らす太鼓の音がドウンドウンと響きをこもらせている。
管長とは学生時代からの親友であり、学問の方は不得意だった管長の勉強の指導者でもあった柳の父は、柳よりも一足先に管長の部屋へ来ていた。「あんたのおとうさんには、昔ずい分叱られたもんだ。おとうさんの方は学問好きだったが、わしは勉強は嫌いだったからな」と、管長は柳に語った。そう語るとき、人並すぐれた大入道である管長は、体格に似合わぬ恥ずかしそうな苦笑を浮べた。おだやかに安定した京都から、関東の空ッ風のすさまじい東京(それは勿論、僧侶の気風のことであるが)に移り住んだとなれば、好人物の管長には不安の絶えまがないので、ついつい柳の父を頼りにするのであった。柳は、この管長を特別偉い僧侶とは見ていなかったが、少くとも独身を通した律僧である点が気に入っていた。生臭ものを口にしない好人物であるから、大いに政治力を発揮して、宗団の勢力を拡張することなど、彼に出来るはずはない。しかし、考えようによっては、教団の最上層部に政治力の充分な、鋭い長老を頂いた方がよいのか、それとも欲のない、ぼんやりした消極的な人物を置いた方がよろしいのか、それは、そう簡単に決定出来ることではなかった。
いくつかの暗い控えの間を通りこした奥の間で、大僧正は父と向い合って坐っていた。父から、そこへ来るように、言いつけられていた柳は、その奥の間へ無遠慮に入って行った。女っ気のない大寺院の奥の間は、清潔に整頓されているとはいっても、どことなく埃《ほこり》臭く投げやりなところがあった。
「東京のうどんはまずいな。豆腐もまずい」
「うん」
「中村屋が心配して、いろいろ精進料理を届けてくれるけどな。どうも東京のものは、妙な味がするな」
「うん」柳の父は、ひたすら「うん」と答えるばかりであった。
「どうも、この本山は殺風景だな。もう少し寺をきれいに出来ないものかな」
「うん」
「中村屋がかくまっているインドの志士のボースという男、あれは偉いやつかね」
「うん」
「中村屋では、あんたの女房の兄さんを、むやみと尊敬しておったけれど。あれも独身で通したからな。だが、あれはボースを英国の官憲から守ってやったりしたハイカラな男だったからな。それに女好きのする美男子だったし、サンスクリットもやったし、ドイツ語もペラペラだし、わしとはちがうんだ。同じ独身僧だから、おれを尊敬してくれるのはありがたいけれど、わしは学問が出来んからな」
「うん」
「おまけに、あの中村屋はタダのパン屋じゃないぜ。あすこのおかみさんは黒光女史とかいって女豪傑だそうだ。とても、ああいう偉い女は、わしには扱いきれんよ。わしが大僧正になって本山の管長になるぐらいなら、大鳥(柳の父の姓)がそうなればよかったんだ」
「うん。おれはいやだよ」
「いやだよと言ってすましていられるからいいよ。おれだって田舎にひっこんで百姓をやって暮したいさ。こんなところにいて何がおもしろいんだ」
「うん、おもしろくはないだろう。こんなところにいたんでは」
「まったく気づまりだよ。大鳥はいいな」
「うん、いいこともないよ。目黒の寺だって気づまりは同じことだ」
「大鳥の奥さんは美人で社交好きだからな。だが、ああいう人がそばについていてくれれば、よく気がついて何でもやってくれるだろうから、淋しいこともないだろう」
「うん、便利だが、うるさいこともあるさ」
「この息子は頭は良いそうだが、アカで掴まったりして困ったものだな。大人しくしていられんのかな。頭が良くて元気のいい若いやつは、すぐおれたちを批判したがるな。おれなどは頭が悪いから、すぐに批判されやすいらしいな。穴山なども、年中おれのところへ来て、おれを叱ったり、そそのかしたりしているんだ」
「うん、穴山がよく来るか」
「来るも来るも、青年将校のパリパリをつれてきおって、おれをおどかしよるよ。何といっても今は軍人の世の中だからなあ」
「うん、そうらしいな」
「大鳥は何でも、うんうんだな。大鳥みたいに、そう、うんうんばっかり言っていられんよ。ともかく攻め寄せてくるからな」
「うん、攻め寄せてくるか」
「攻め寄せてくるもくるも、あんまり攻め寄せられるから、今日みたいな非常集会をやらなくちゃならんのさ」
「やればどうにかなるのか。どうにもならんだろ」
「どうにもならんけれど、やらなければならんほど攻め寄せてくるのさ。わしのところへ攻め寄せてきたところで、何も効果はないと思うんだが」
「うん、そうだな」
「大僧正などというものは、こういう世俗のこともやらなければすまんのかな」肥り過ぎた大男の管長は、脇の下に手をさし入れて、くたびれたように言う。それは、まったく、管長などになって困ってしまい、その困った状態から死ぬまで脱出できないので、好きな親友にだけ打ち明けて、やっと息抜きしている様子だった。
その管長の正直な態度にくらべても、父の方が、もっと素朴で飾り気がなく見える。自然に見える。それが柳には、たまらなくうれしかった。
この二人の長老は、自分をことさら良く見せようとはしていなかった。他人に対して、威張ることもなかった。炭火の入れてない、大きな木製の角火鉢があり、貧弱な書棚には、書物のかわりに、信徒のとどけて来た菓子|おり《ヽヽ》や、漬物の小樽《こだる》などが無造作に置かれてあり、この二人の大先輩は、これから催されようとしている、いくらか政治的な意味をおびた大集会を前にして、いかにも無防備であった。
彼らの教団にとって、このような長老は必要欠くべからざる人物であることはまちがいないが、彼らの教団を、「非常時」と呼ばれる新しい時代の、はげしい潮流の中で巧妙に運営して行くのは、この二人の長老ではない。管長は、仏教学の研究を早くから棄てたが、そのかわりに女人を絶っている。柳の父は女人を絶つことができなかったが、学問のほうは棄てないできた。二人とも「悪事」など出来っこのない、まじめ一方の僧侶であることにおいて、教団の内外で信頼を得ているが、つまり教団の精神的な守備、目だたない内心の武装においては役立っているが、今ごろ流行《はやり》の「国民精神総動員」的な、看板文字の明確な強化政策を、教団の方針として早いところ樹立するような才覚はない。その程度のことは、本山の奥の間の床のゆるんだ古畳に坐っているだけで、血のめぐりのわるい柳にもわかっている。
二人とも、若い柳にとっては何らの威圧を感じさせない、あつかいやすい先輩であり、それ故、たよりないと言えば、たしかにたよりないのである。しかしながら、いやらしい所がないということが、まず何よりも僧侶の資格であるとするならば、この二人には明らかに、その資格があった。
二人ともお説教は下手であった。信徒を増大するため、日本国中、いや、ハワイや南洋諸島にいたるまで布教師を派遣し、ナムアミダブツの教えを普及させるために、どこまでエネルギーを結集しようと決意しているのか、怪しいものである。それらのはなばなしい前進や強化は、やりての中堅僧に任せきりにして、自分たちは、いくらかでも昔ながらの坊さんらしさを守り通すことで満足しているのかもしれなかった。あまりにも宗門の拡張のための宣伝に熱中することは、卑しさを増すことになり、その卑しさを嫌うとなれば、どうしても消極的になるにちがいなかった。その「卑しさ」の中に、広大な民衆の救いのための、止《や》むに止まれぬ必要悪を認めるならば、当然、二人とても宗団の指導者として、その「卑しさ」を無視するどころか、むしろ、それを活力とする責任を引き受けねばならぬはずであった。そのためには、一種のあくどさともいうべき執拗《しつよう》さを持ち続けねばならぬはずであるが、あいにく二人とも、そのような生臭い意欲からは、なるべく身を遠ざけたがっているのである。
「菊の方はどうかね」と、管長がたずねれば、柳の父は「なかなか、うまくいかんよ」と答える。「菊の方も新しい品種が続々と出るようだな」「うん、新しい品種が出ている。おれはそんなに色々な種類は作っていないが」「菊作りは花を咲かせるのが目的にはちがいないが、咲いてしまえば、それまでということがあるが、一年中、土をいじっている、そのことが楽しみらしいな」「うん、そうだ。土をいじっているのは好きだからな。ともかく、黙って一人でやっていればいいのだ。花が咲いて人に見せるといったって、どこのどいつに見せたらいいのか分らんよ。いい花だとほめられたところで、どうにもならんわ。作る者は作っていればいいのだ。作り出したものを見せて、人からほめられて嬉しいと思う者もあるかもしれないが、おれは別にそんなつもりはない。特別上等な花が咲かなくてもかまわんよ。一年中、何かしら花を育てるために手を働かしていれば、それで気がすむんだ」
そこで二人の会話がとだえて、つまらなそうに向い合っているだけだ。
「面倒臭いな。だが、少しは辛抱しなくちゃならん」と、一人がつぶやき、
「そうだ。辛抱しなくちゃならん。面倒臭いけれども」と、もう一人が答える。
「お前さんの、この息子。これはどうするつもりだ。早いところ、いい嫁さんでも貰ってやったらどうか」
「これは、駄目だよ。今のところ、どうにもならん。無理ばかりしていて、すこぶる不注意な男だ」と、柳の父は言う。「おれは何も、こいつに注文はつけておらん。まともな人間になってくれさえすれば、それでいい。坊主にならなくたって、いっこうに差支えない。坊主、ことに近頃の坊主などがまともな人間だとは、おれは考えておらんよ。好きなことをやるのはいい。だが、不注意で無責任な人間になったら困るだろう。口先だけで実のない人間は、おれは嫌いだ。言行一致ということがある。こいつに実力があって、何かやるのは結構なことだ。だが、実力などは一つもありはせん。第一、辛抱の心がない。地道な仕事の有難味が少しも分っておらんのだ」
柳は自分に対する父の愛情を痛いほど感ずる。感じてはいるが、さて、どういう行動をやったらいいのか、彼には少しも分らない。暗い廊下のはずれでは、信者の持参したらしい鳥籠の中で、きれいな鳥のさえずりが聞える。
「そうかね。おれには大そういい息子のように見えるが。おれも一人欲しかったんだ。どうせ、若い者は危っかしいものなんだ。そのうち何かやらかしそうな男に見えるがの」
「何をやらかそうと、まともな人間にならなければ何もならん」
「徴兵検査を受ければ甲種合格はまちがいなかろう」
「うん、兵隊にでもなって、少し手きびしくやられれば、いくらかものになるかもしれんが」
「大鳥もわしも兵隊にとられたことはないからの。兵隊とはどんなものだろうかの。兵隊にとられれば人間がよくなるものだろうかの」
「……西郷隆盛は偉い男だったという話だ。おれは政治家は嫌いだから、西郷さんが偉い男だったと考えたくない。だが、おれの子供時代の村では、西郷どんが一番という評判だった。西郷は兵隊だったのか。兵隊というものとは少しちがうな。ともかく、おれの好きなのは法然上人だけだ。好きな男がそんなに沢山いる必要はない」
「今の若いやつらに、お前さんのようなことを言って、それで通じるかの」
「うん、通じないだろう」
「今年の秋は、この息子をつれて京都にやってこんかな。大鳥の生んだ子供だからかもしれないが、おれはこの息子が好きだよ。京都にもいいところが沢山ある。育ちのいい娘も沢山おる。この息子なら、おれがいい嫁さんを世話してあげるよ」
「うん、これは、そううまくいく男じゃない。実に危っかしい男なんだ」
大殿《だいでん》に上る階段の下では、三人の下足番が僧侶たちの履物の整理をしている。本山の名を白く染めぬいた紺の|ハッピ《ヽヽヽ》を着せられた下足番たちは、無愛想に気むずかしく、草履や下駄を受けとっては、木の札を渡したり、結びつけたりしている。
大殿一杯に坊さんたちは平等に、つまり位階の区別なく、到着順に坐りこんでいる。檀信徒ぬきで、専門の僧職者だけが、そのように平等に坐りこんでいる光景は、加行《けぎよう》の期間中でもなければ見られるものではなかった。内陣の彼方は、高々とかかげられた燈明の火色が明らかなほど薄暗くかすんで、念仏の声がすでに満ちていた。自分はこれだけの信仰を持っているぞと、仲間より先に声を押出す念仏もあり、そのような、意志をむきだしにした仲間の勢に気押されて、あるいは、その仲間の声におくれては、とり残されると気づかって唱和する念仏の声もあった。高らかに歌うような声自慢の声もあり、信念の深さは声音のよしあしとは無関係だといわんばかりに、低く自分一人でつぶやく声もあった。又は「開始の命令もないのに、そうあわてることもないさ」と、仲間同士の世間話をやめない声もあった。
「こういう場所で念仏するのは気が楽だな」と、柳は思った。一つの小さな家庭の中で、夕食のさいなど、いきなり天皇陛下万歳と叫ぶのは気恥ずかしいにしても、元旦の朝、宮城前の広場などで、絶えまない参列者と一緒になって、天皇陛下万歳と叫ぶのは気が楽である。それと同じような心理的現象が、この大殿の内部でも発生しているにちがいなかった。一人のこらずがナムアミダブツと唱えはじめているとすれば、その合唱の中では、唱えない者の方が異常に感じられてくる。それに、ナムアミダブツという呼びかけ(あるいはスローガン)には、あまりにも単純すぎて神秘的なところがあり、何者にむかって呼びかけているかが、明確すぎるようでいて、実は無限の多様性があり、六字の名号に固まっているようでいて、そのくせ、どんな解釈でも許されるような広さを漂わせている。「おれはこのつもりで念仏しているんだ。おれの隣で声高らかに唱えている坊主の念仏と、内容はまるでちがっていてもかまいはしないんだ。おれの唱えている念仏の内容が、相手に理解されなくたって、ちっともかまいはしないんだ。ともかく、ナムアミダブツと口に出していさえすれば、それですむんだ」調子を合わせるつもりはなくても、調子が自然に合ってきて、ただ繰り返してさえいればいいのである。仏敵必殺の殺気をこめてナムアミダブツ、戦争絶対反対のひそかな願をかけてナムアミダブツ、一宗の繁栄と寺院の無事安泰をのぞんでナムアミダブツ、あるいは、徹底したニヒリズムによって、人類全滅のあとの荒涼たる地球の姿の中に、一切平等の極楽を夢に描いてナムアミダブツ、その何《いず》れのナムアミダブツも許されていいはずであった。自己の性欲の、あまりの強大さを驚き悲しみながらナムアミダブツ、女房にひきくらべて、自己の性欲の間に合わなくなっていることを、ひたすら恐れながらナムアミダブツ、植物(庭木や盆栽、菊の花やシャボテン)を愛好し、それらに害のある虫類や微生物を呪《のろ》いながらナムアミダブツ。「うちの犬は可愛いな。隣の犬は何て憎らしいんだろう。あの顔つきも吠え方も、どうしたって好きになれるもんか。猫が嫌いだという男がいるが、どうして猫が嫌いという、そういう感じが生れてくるんだろう。猫は可愛い。サカリがついて屋根の上で騒ぎまわったりする時はうるさいが、静かに日向《ひなた》ぼっこして寝入っている有様は、仏様に近いではないか」などと思いめぐらしながらナムアミダブツ……。
柳は強精剤を飲みすぎて眠たくなったような気分で、ナムアミダブツの密林のざわめきの中に身を沈めている。
……ナムアミダブツという象徴的な言葉は「万国の労働者、団結せよ」「一億|総蹶起《そうけつき》」という言葉よりも抵抗なく口から洩れる、いいやすい言葉にはちがいなかった。あまりにも昔から言い古された言葉であるために、現在この時の社会情勢の中で、一体どんな意味に変りはてているのかは、さっぱり分らないにしても、とにかく何らかの救いを求めて発せられる、煮つめられた「声」なのだ。あまりにも多種多様な願をこめられた「声」であるため、めったには聞けない専門家の大集団の合唱の中に身を浸していると、柳には、ますます象徴的な言葉から発生する、あまりにも生ま生ましい現実的な欲望にもみにもまれて、訳が分らなくなってくるのであった。もしも、この場に久美子が居合わせたら「プロヴァカートルを党内から抹殺《まつさつ》せよ。まず何よりも先に、彼《ヽ》を消し去れ」と願いながら、ナムアミダブツと唱和するだろう。では柳はどのような目的にむかって、ナムアミダブツを発声すればいいのか。そして、穴山は?……
六字の名号を呼びかける声の波は、突然静まった。
開始された儀式には、平常と変ったところはなかった。極楽をほめたたえる阿弥陀《あみだ》経が例によって読誦される。
穴山が、大殿を埋めつくしている集団の、どこにひそんでいるのか、柳には見当もつかなかった。読経の終ったあとで、管長は、はなはだ精彩のない訓示を垂れたにすぎなかった。彼はただ、非常時(この単語を使用するとき、彼は大へん恥ずかしそうであったが)に際して、わが宗の僧侶は恥ずかしからぬ生活を送らねばならぬ、と主張した。大僧正に代って、宗務所を切れ味よく取り捌《さば》いていると称せられる、小柄の執事長が立って発言した。彼の主張は次の通りであった。宗祖法然上人様のお教えが正しいことは申すまでもない。日本国民にとって、これほどすぐれた教えが衰滅するというような事態が到来するということはあり得ない。今後ますます、この教えは日本国民の間に広がって行き、確立されることはまちがいない。ただし、わが宗の僧侶としては、この日本歴史始まって以来の非常時(執事長は、この言葉を使用するのに少しも恥ずかしがってはいなかった)にあっては、特別の覚悟を要することは申すまでもない。わが宗の中枢機関、すなわち、わが宗務所としては、早くから世俗の勢力に唆《そその》かされるまでもなく、その点をよく承知しておる。ただし、宗内の青年諸君の中には、われわれ以上に愛国の熱情に燃え、わが宗祖法然上人の教えを新しき方面にむかって発揚せんとしていることを聞き知っている。わが東京宗務所においては、管長|猊下《げいか》ならびに有識者の間において、これらの青年僧侶諸君の若々しき意見をも大いに尊重する心がまえであるからして、およそ、わが宗門の真精神を新時代に適する如く、目ざまし、ふるい立たせる意見主張があるならば、われわれとしては当然それを受けいれ、よきものはこれを採用し、悪しきものはこれを斥《しりぞ》けねばならぬであろう。最前列の方から「穴山」「穴山」という声が聞えた。
憎たらしいほどがっちりした穴山の上半身が、影絵となって浮び上った。彼はあらかじめ発言しやすい最前列に坐りこんでいたのであった。彼から遠く離れている柳には、穴山の表情はつかみにくかった。
「今日の緊急大集会を開催されました管長猊下、ならびに宗務所の指導部各位に深く感謝いたします」と、穴山は言った。柳の周囲には「穴山が何故?」というささやきも起っていた。
「くどいことを申し上げているひまはありません。われわれ宗内の青年僧侶が、もっとも憂慮している事態を一つだけ申し上げます。それは、わが宗祖、法然上人は、わが日本国が外敵によって亡ぼされることをお許しになるかどうか、わが浄土宗は、わが日本帝国の危急存亡の時にあたって、国を守るためのもっとも有力な精神的武器とならないですまされるかどうか。ただ、この一点だけであります」
大殿の四隅からざわめきが起った。ふんぎりのつかない粘っこいささやきであった。それには穴山に対する反感もこもっていた。又、このような形式で宗門の集会が進行することに対する不満もこもっていた。緊張があたりにみなぎり、大殿の内部はいくらか暗さを増したように思えた。
「わが宗を愛することと、わが国を愛することの間に、少しも喰いちがいがあってはなりません。もしも、一分一厘でも喰いちがいがあるとしたら、われわれは、ただちにそれを反省し、改めねばなりません。もしも、われわれが愛する日本という国家が滅亡しても、わが宗が生きのびられるというような卑劣な考えが、わが宗内に存在しているとするならば、そのような思想の保持者は、今この場で害虫として駆除し去らなければなりません。そのような優柔不断の僧侶がいたとするならば、それは単に、わが日本国にとって危険であるばかりでなく、わが宗にとって許すべからざる危険な人物ではありませんか」
「わが宗には、そんな危険な人物はおらんぞ」「そんな売国奴がどこにいるんだ」という叫びが、あいまいで不満な声のどよめきの中で混り合って聞えた。「おかしなことをいう奴だ」という老僧のしゃがれ声も混っていた。
「法然上人はもっとも優秀な、もっとも純粋な日本人であらせられた。日本の民衆の苦悩を、もっともよく理解して下さった日本の偉人である。日本の民衆、いや日本国民の精神と肉体の安全をしっかりと守って下さるために、わが開祖お上人様は奮励努力なされた。そのたっとき宗門の末孫として、わが宗の僧侶は何をなすべきか。国あっての国民である。国を守るための宗教、それのみが真の宗教である。まず愛国者であり、しかも宗教者であることのみが、われらの念願である。全国民、火の玉となって建国の精神を守りぬこうとしている現代日本にあって、愛国心なき僧侶は、僧侶といえるであろうか。わが宗の青年グループにおいては、つねに数年前から新興諸宗教の教団内部に潜入し、その実情をくまなく調査しております。彼らの教義は、はなはだ非合理的であって、何ら恐れるにはあたりません。ただし、恐るべきは、その愛国心であります。たとえ、わが宗がいかに優れた教理を持ち、いかに優れた指導者を持っていても、もしも愛国心において、これら新興教団のやからに一歩遅れをとっていたとするならば、その前途はまさに危ぶまれねばなりません。わが宗には幸いにして徳行を以て知られたる名僧、学識豊かなる大仏教学者、教団経済を磐石《ばんじやく》の安きに置く経営の達人に事欠きません。だが、しかし、その徳行と学識と経営の才を何れの方向にむかって発揮せんとするのか、それはただ愛国、ただただ愛国の一途にむかってであります」
柳にはもう聞く必要はなかった。穴山の言葉は、ただ単に耳触りな雑音として柳の耳に聞えた。穴山の発言通りに一宗の動向が移り行くことは分りきっていた。穴山はただ、その動かしがたい潮流の代弁者であるにすぎなかった。柳は穴山の発言には何らの興味をも抱き得ないが、そのような発言をしている穴山自身が、その裏側でどのような欲望を持ち、又どのようにして、その欲望を実現させて行くか。その戦略の一つ一つが知りたいということだけであった。
秀雄の入院は、ながびいていた。「もしかしたら、秀雄君はこのまま退院できずに、この病院からあの病院へと移って行って、しまいには死んでしまうのかも知れない。しまいにはという、その最期の時間は、そう先のことではないのかも知れない」と、柳は考えていた。
秀雄が死んだら、はなはだしく悲しむであろうという予想が、柳にはなかった。両親についても、友人や女たちについても、死なれたら、ひどい打撃を受けるであろうとは、とても想像できなかった。彼や彼女たちが、この地上から消え失せてしまっても、さしたる違いもなく彼自身は生き続けてゆくにちがいないと思われた。蒲団の上に横たえられ、白い布をかけられた死体、棺の中に窮屈そうに納められた死体、特等の電気がまの中で燃えつづける死体、つまり他人の「死」には、お通夜や告別式、火葬場などで、いくらでもお目にかかっているのに、「死」そのものにつきまとう感情について反省してみたことはなかった。達観してそうなっているのではなく、無神経のため、そうなっているのであった。その無神経さは、自分と関係のある人間たちは、彼らが生きている間だけのつき合いで、死んでしまえば無に帰するのだから「無」を相手どっていても仕方がないという、そのような判断からきたものではなかった。柳の父が「実に危っかしい男なんだ」と批評した如く、あまり先のことは考えずに、自分の生と死についても、何をどう守り育て、何をどう選んだり拒否したりするか、決めないでいても、いつのまにか朝が来て夜になるといった状態で、それでも何となく「俺は生きているんだ」と感じられているので、それだけで充分だったのである。彼も時々「空《くう》」について考えることはあった。仏教の様々な議論の中でも「空」の議論は彼の性分に合っていた。生も「空」である。死も「空」であると考えつめていくと、大胆不敵になれるようなのでいい気持だった。だが困ったことには、もしも一切皆空であるとするならば、仏教そのものも、又、空の空なるものとなってしまうのではないかという結論に到達して、面倒くさくなってしまうのであった。又、たとえば父と母、友人と友人が激しく口論などはじめたとき「すべては空だときまっているのに、何をガヤガヤ騒いでいるんだ」と、かたわらから批判するのは、たやすいのであるけれども、いざ自分のこととなると、三度の食事や、女の美醜についても、いちいち気がかりになって、とても「空」どころではないのであった。しかし、とにかく彼は二十歳の男性としては、いくらか「空」の方に傾いている青年だったかもしれない。まことに信用できない、危っかしい「空」にはちがいないが、とにかく何かしら「空らしきもの」が、絶えず彼に向って呼びかけていた。そして彼の場合、どこかに「空だから、どっちへ転んでも駄目なんだ」という声よりは「空だから、どっちに転んでも大丈夫なんだ」という声の方が、絶えまなく聞えているのであった。
なま暖かく埃くさい桜の季節が去って、梅雨の日が近づきつつあった。
柳の父は、ますます畠仕事に励んでいる。砂利の多い土地は、いくら掘り下げ、いくら土をふるいわけても、いい畠にはならなかった。用心深い柳の父が、枯草や枯葉を積み重ね、人肥をしみこませて腐らせておいた堆肥《たいひ》をモッコに入れて柳はかついだ。百姓仕事の経験のない柳でも、体力の衰えはじめている父にくらべれば、足腰はたしかだった。赤っぽい砂利土に、モッコの泥を投げ入れると、黒く湿った堆肥の色は、いかにも頼もしかった。野菜畑のサクを切るとき、柳のやり方では、すぐに線が曲ってしまう。刃の長い鍬《くわ》を父が手に持つと、サクは真直ぐに、ほとんど芸術的といってよいほどに見事に切れる。その代り一時間も経てば、父の方は息切れがしてきて一休みしたがるが、柳の方は少しも疲れずに、ますます愉快に働きたくなるのである。草をむしるにも、泥をほぐすにも、土地の高低をならすにも、柳はすこぶるいい加減であるのに、父はまるで生きものを可愛がるようにして仕事を進める。そんなとき柳は、わざと意地わるく、こんな風に思ってやるのだった。「インド古代の仏教教団では、僧侶が労働に従事することも禁止されていたのではなかったかな。禁止した教団もあり、そうでない教団もあったにしても、ともかく肉体労働をそれほど重要視した様子はないな。それは、もちろん、林をきり開いたり、土盛りをしたり、小屋を建てたりはしただろう。しかし、農業をやることを、それほどの喜びとしたらしくはないな。というのは、生そのものが無意味な虚仮《こけ》であるとするならば、生命を保持するための労働が神聖であるわけはないからな。少くとも、生産第一主義ということはあるはずがないな。生産をほめたたえ、生めよ殖やせよと主張することは、人間を生み出すことにおいても、食物を生み出すことにおいても、仮りの営みにすぎないのであるから、原始教団が、その労働ならびに生産に熱中したはずがない。農業にしろ、手工業にしろ、それに執着することが、そもそも間違いのはずだったんだ。こだわったり、しがみついたりすることが迷いであるとするならば、生産第一主義だって迷いの一種にすぎないんだからなあ。困ることだな。これは全く困ることなんですよ。帝国主義にとっても、社会主義にとっても、生産に励むことは尊重されています。大いに推奨されていますよ。生産そのものが迷いであり、虚仮であり、空の空なるものであるなどと言い出したら、右翼からも左翼からも袋だたきにあってしまう。しかし、初期仏教の根本精神からいえば、生み出すことは、どうしたって無意味のはずなんだ。困るなあ。困りますよ。たくましき、肉体労働万歳! というわけにはいかないはずなんだ。そうなれば、労働ならびに生産を空なりとする仏教は、わが大日本帝国においても、労働者の祖国ソ聯《れん》においても、西部活劇のアメリカ合衆国においても、危険きわまりない最悪の思想となるにちがいない。建設したり、発展したり、繁栄したり、強大化したりする、そのことが全く無意味であるときめつけられては、どこの指導者だって国民だって怒り出すにちがいないからなあ」そこで彼はズボンの腰を砂利の山の上に落ちつけ、自分の健康な肌に流れる汗を、いい気分でぬぐいとる。ほてった肌を撫《な》でながら涼しい風が吹きぬけてゆく。爺やや書生さんや執事などに手助けしてもらわないで、柳と二人きりで泥いじりしているのが、柳の父は一ばん好きなのである。柳がどんなに怠けたり、気をそらしたりしていても、柳が自分のそばで、自分と同じ仕事に参加しているだけで、父は嬉しいのだ。それに百姓仕事を教えてやることによって、危っかしくて見ていられない息子の性格を、いくらかでも改善してやる可能性があるため、父は嬉しくてたまらないのだ。
「……ええと、つまり、今のぼくにとって考えなければならないのは、仏教と社会主義の問題かな。考えなくたってかまやしないんだが、考えるだけなら考えたってさしつかえもないわけだ。今年のミミズは馬鹿に太っていやがるな。頭の先からしっぽの終りまで、全く同じ赤黒いようなぷりぷりしたこのミミズというやつは、あまりにも簡単で丈夫そうで、生きものの最下級のような恰好をしているけれど、かえってそのために、|複雑なるもの《ヽヽヽヽヽヽ》に対する批判者になっているのかもしれんぞ。ミミズか。ミミズのやつが、ちゃんとこうやって生きているんだからなあ。ミミズの生き方について何か語ってくれた仏教説話はあったかなあ。古代インドにもミミズはいたんだろうか。ミミズ一族は生産もしないし、建設もしないで、ひたすら空《くう》みたいにして生きてきたんだから、ミミズこそ仏教的なのかもしれんなあ。いやいや、今のところ、そこまで飛躍する必要はないだろう。やはり話を|複雑なるもの《ヽヽヽヽヽヽ》の方に戻すとして、働く意欲、建設する意欲に水をぶっかけるということは、世界各国で許されていないだろう。だからといって、世界各国で仏教は否定されてはいない。そこんところは、わりあいにうまくいっているわけだな。ミミズの革命があり得ないとすれば、仏教的革命もあり得ないかな。待てよ。そうそうミミズを引き合いに出すことはないんだ。ぼくの未熟なる青春の感覚からいって、やっぱり革命ということは、素晴しいことに思えるなあ。宮口や久美子やその一党は、なかなか素晴しきことを企てているように思われる。企てているから素晴しいというよりは、少くとも素晴しいことが地上に存在すると信じきっていることが素晴しいのであろう。そのような彼と彼女たちの情熱的な行動に水をぶっかけることが、仏教徒として正しいか否か。いや、仏教徒などと大げさなことをいわないで、この半僧半俗の柳自身にとって、ぬるぬるしたミミズの冷っこい液を塗りつけることが、果して出来るだろうか……」
小学生の頃、柳はミミズを握るのが恐《こわ》かった。友だちと二人で、ミミズの握り比べをやって、勝つことは勝っても非常な我慢を要した。今となっては、ミミズを握りしめても、どうということはないが、蛇を手のひらの中で丸めこむことは出来そうにもなかった。人類は、かつて巨大な蛇類によっておびやかされ、その記憶が現在でも消え去らないために、蛇嫌いが存在するのだと、高校の同窓生と話し合ったことがある。「長いものが恐いのかな」「そんなことはないだろう。幽霊は長くないじゃないか」などと、真剣に話し合ったものだ。うまい具合に腐蝕《ふしよく》して、肥料にはもってこいになった枯葉や枯草の間から転がり出てきたミミズは、たしかに元気一杯だった。紫がかった薄モモ色の全身に、薄白い輪がいくつもあって、感情なんかありそうにないのに、まるで恐怖心に駆られたようにして、縮んだり、のけぞったりして跳ねまわると、その輪と輪の間隔が、のびたり縮んだりするのである。人間から見て馬鹿馬鹿しく下等なゴム状の動物にはちがいないが、しかし、やはり、こういう恰好でこういう動きをしながら、厳として地球上で生きていけるのだから、それはそれで厳粛な意義を持っているらしい。柳は「ミミズのように生きてゆかれたらいいだろうなあ」とは考えなかった。「ミミズと人間に何のちがいもありはしないんだ」とも思いもしなかった。ただ、今、自分がミミズを眺めていて、少しは考えの幅が広められたかなと感じているだけであった。釈尊が、今まさに息を引きとろうとしている「涅槃図《ねはんず》」には、ありとあらゆる生きものが寄り集って嘆き悲しんでいる。あの仲間としてミミズは描きこまれていただろうか。古代インドにミミズがいたか、いなかったか、仏教生物学は、まだそこまで研究していないようだ。研究していないとすれば、それは恐るべき怠慢かもしれんぞ。
女中の末子の小さい姿が、畠の裏道の竹藪《たけやぶ》のかげから転がるようにして現れた。
「地所割りのことで××さんがお見えになっています。小谷さんが出かけているので」と、息せききらした末子は、困ったように言った。
「小谷の奴、どこへ行った。あいつ近頃出歩いてばかりいる。寺の仕事はろくにせんじゃないか。何やっているんだ」
「さあ、どこへいらっしゃったんでしょうか」と、末子は心得顔に苦笑している。利口な末子は、小谷の行先など、百も承知しているのであるが、わざと黙っているのである。年寄りの御住職様などに、近頃の世の中のことなど、分りっこはないと承知していて、落ちつき払って苦笑しているのである。
「××と○○の地所の境界をきめるという話は、今日だということは分っていたはずじゃないか。出かけるなら地所割りが済んでから行けばいいんだ」と、柳の父は不機嫌そうに口をとんがらしている。
「若旦那様ではいかがでしょうか」
「お前、場所知っているか」
「知りませんよ」
「あすこでしたら、私が御案内いたします」
末子は貸地のことなら、執事の次にくわしいのである。
「そうだな。すまんがお前に行ってきてもらおうか」と、父は柳にすまなそうに言う。
柳は高台の畠地《はたち》から、坂道を走り下りて、井戸端で足を洗っていると、父も気落ちしたような顔つきで、しぶしぶと戻ってきた。例によって、父は二本の鍬と一本の鋤《すき》の泥を、まず、どぶの水でへぎ落し、それに手押しの井戸の水をかけて、きれいに洗っている。風呂場の木戸から母が顔を出し「ふうん、さっちゃんが行くの。それなら着替えて行かなきゃ駄目よ。そんな恰好で行ったら馬鹿にされるからね」と、素早く注意する。
「そうよ。うちは地所で食べているんだもの。地所の掛合いが第一ですよ。泥いじりなんかつまらないわ。一体、茄子《なす》やきゅうりがいくらするというのよ。坪一円の値上げをしたって、茄子やきゅうりなんか、蔵一杯買えるわよ」と、口早にしゃべりつづける。父は不愉快を我慢して、たらいの中の井戸水に両足をつけている。
母の声を聞いて、物置から膝《ひざ》の木屑《きくず》を払いながら、爺やさんが出てくる。「奥様、こんな具合でいかがでござんしょうか」と、老人は母の注文でこしらえていた木箱をかかえてくる。
「ああ、ずい分しっかり出来たわねえ。ニスも塗るの?」
「はあ、ニスを塗りましょうか。それとも白いままにしておいた方がよろしいかと考えていますんで」
「ああ、ずいぶん立派ねえ」と、母は笑い出しながら、「これじゃあ、御殿でも使えそうだわ。たっぷりしていていいわねえ。これなら何でも入るわ」
「さようで。たっぷりした方がよろしいと思いまして」と、爺やは愛想笑いをしながら、母一人を相手取って話しかける。御主人様の方は手間賃をはずんでくれるわけじゃあなし、ただ奥様だけを相手取っていれば、損はないのである。泥いじりを軽蔑している大工上りの爺やは、住職の畠仕事を手伝うことは、ほとんどなかった。その爺やも、借地人との掛合い、地境《じざかい》のもめごととなると、まるで意気地がない。つまり、一生貧乏を脱けきれなかった彼にとり、家賃は取り立てられるものであり、地所は自分とはエンのない、他人の所有権を見せつけられるものにすぎないのだから、地代を納めさせるという地主側の仕事は、苦手なのだった。
黒の改良服に着がえた柳は、石段をのぼり、墓地をぬけ、小柄の末子を息せききらせるほどの速足で歩いて行く。地所の面積を量るための巻尺は、命令されないでも末子が持参している。彼は、父が最近、測量士に頼んでつくりなおしてもらった、新しい地図|帖《ちよう》のうち、必要な番地の部分だけ手にしている。まるで経本のような絹地の表紙をつけて、折りたたまれた地面図には、紫色の謄写インキで多数の直線が交錯し、こまかな坪数の数字、何番地の何号という不等形の地劃《ちかく》、隣地との関係、道路の幅などが記載されている。赤、黄、緑と、うすい水彩絵具で分りやすく色わけまでしてあるが、方向感覚のない上に、所有地なるものに興味のない柳には、子供のいたずら描きの三角や四角に等しいものだった。
――地面を掘って行って、金鉱や鉄鉱を掘り出す。それがカネになるなら、労働の報酬として話はわかるんだが、ただ、地所を持っていて、それから地代が生れてくるというのは、どういうわけなんだろうな。地面とは、要するにジメンにすぎないんだからな。昔っから、地球が宇宙の一点に存在するようになってからこのかた、ずうっと地面はおとなしく、存在していただけなんだからな」と、考えながら、柳は、石畳や小石に下駄を突っかけそうにして歩いて行く。
――百姓が苦心して、荒地をきりひらく。ただの山地や原野を耕して、作物のできる田や畠にかえて行く。その労苦のおかげで、彼らがその肥沃《ひよく》な土地の所有者になる。そして、所有権を主張する。それなら筋みちが通っている。だけど、ここらの宅地というものは、どうなんだろうか。殊に、寺の所有地というものの性格は、百姓の生産用の私有地とはわけがちがうだろう。お檀家が寺院に寄附し、菩提寺《ぼだいじ》の維持をたすけてくれるために、親切にも名義を書きかえてくれただけのものだ。おまけに、もともと寺院の建立されたころには多くは買い手のない無用の土地だったんだ。それがいつのまにか、交通が発達し、住民が増加し、誰がどう決めたとわかりもしないで地代の金額というものが、明確らしき数字としてうかびあがってきたんだ。いくらむずかしい理窟《りくつ》を並べたてたところで、地面とは要するに一種の空間にすぎないんだ。おシャカ様が弟子たちを引きつれて棲《す》まわれていた祇園精舎《ぎおんしようじや》は、おそらく地代など要求されるはずのない、なるべく都市経済からはなれた淋しい場所だったにちがいない。おシャカ様や、その弟子の尊者や阿羅漢たちが、地代を支払ったかどうかは別として、あの方々が自己の教団の所有地から地代収益をあげたなどということが、そもそも想像できるだろうか。『地代ですって。それは一体どういうことですか』と、古代の聖者たちは煩悶《はんもん》されたにちがいない。何故ならば、彼らは無所得の心をもって出家されたからだ。所有なるものを、すべて拒否して、あらゆる地上の利益なるものを捨て去ることを望まれたのであるから、一瞬といえども『地代』という単語が、彼らの頭脳をかすめすぎたはずはない。有島武郎という文学者は、北海道の大農場の土地を、すべて雇用者に分け与えたという話であるが、分け与えたということは、すでに私有していたことなのだから、そのような美挙も古代の聖者たちにとっては、理解に苦しむ事態だったにちがいない……」
「お寺が地所から金を取るなんておかしいな」と、柳は末子に言う。
「え?」と、それだけで、もう末子はおもしろそうに笑い出す。「地所が沢山あれば、地代が沢山入るからよろしゅうございます。近頃は一坪だって大変な騒ぎでございますからね」
「おかしいよ。どう考えてもおかしいよ」
「おかしくても、たんとお金が入った方がよろしゅうございますよ。お金ほど有難いものはございませんからね」
「でも、お寺は仏教のためのお寺なんだからなあ」
「お寺ぐらい、いいものはございませんよ。きれいな衣をきて、三十分か一時間、お経をあげるだけでお金がもらえます。その上、地所が沢山ありますから地代も入ります」
「それじゃあ、末子はお寺のお嫁さんになるか」
「でも出来ませんもの。私どもはお寺のお嫁さんになれれば大喜びでございますけど」
二人は新しく鋪装《ほそう》された、明るいアスファルトの坂道を下って行く。下り終って上りにかかると「あそこでございます」と、案内役の末子が指さす。人通りの跡絶《とだ》えた住宅地にしゃがみこんでいた二人の男が、こちらを向いて立ち上る。「ああ、浄泉寺さんがいらしった」と、中年の男がこちらを見ている。地境を決定するための縄が地面に密着してのびていて、そのはしに別の男がいる。その男が「地主さんに立ち会ってもらわないとね。立ち会って見てもらえば、それでいいんですが」
柳は言われた通りに、ただ見ているだけである。何がどうなっているのやら、少しも理解することが出来ないまま見ていると、斜面のアスファルト道路には、まばゆいほどの明るい陽射しが、のんびりと射しかけている。
「これでいいのか」「いいんだよ。問題はないんだ」「まあ、浄泉寺さんに見ていただこう」
柳にはまだ、どこに立って、どの方角を見張ったらいいのか分らない。
「若旦那様、あすこにいらっしゃって、こっちの方をごらんにならなければいけません」と、末子が気をきかせて注意する。柳は指さされた地点に立って、無責任に眺める。杭《くい》と杭の間に一本の線が通っているだけの光景だ。巻尺も地図帖も活用するひまがない。ともかく、あたりには五月末の風が滞りなく吹きわたり、板塀《いたべい》や石垣からのぞいた若々しい緑が、気持よくそよいでいる。
「見ましたよ。見ています」と、柳は恥ずかしいように言う。
「坊さんに見てもらって、それでいいとなればいいわけだな」「よろしいですか。見てくれましたか」
「ええ、見ています」と、柳は答えて、雀だか、つばめだか知らないが、電線の上で鳴き交す小鳥たちの方を見ている。
「つまり、地主さんの立会いはこれで済んだわけだな」「そういうことになるかな」
地境を決める隣同士には、別にもめごとの緊張はなくて、ただ、このあぶなっかしい「立会い」が形式的にすんでしまえば、それでいいのであった。乳母車を押した若い主婦が、杭の傍に立つ男の傍へ来て、「あら、そう」とうなずいて、僧形の柳の方を、ものめずらしそうに見つめている。その主婦は末子とは顔見知りらしく「あら、こんちは」と挨拶して、「ああ、これがこの女中さんの御主人なのか」と、またもや飽きずに、柳を観察している。坂道の片側は数段ひくく落ちこんでいて、その低地をうずめた家々の瓦屋根は銀灰色にかがやき、トタン屋根はペンキやコールタールの塗料を光らせていて、屋根と屋根とが連なっているだけで、住民の姿はすっかりその下にかくされて、ひたすら静まりかえっている。明るすぎるほど明るい、あまりにもひっそりして異様なほどの、その町の一角に立っていると、柳は、ひっそりと明るい光景の中で、自分というものが、あいまいに濁ったかたまり、にじんだ|しみ《ヽヽ》の一点のように思われてくる。乳母車の上で、白い帽子を深くかぶされた赤ん坊の頭のあたりで、セルロイド製の風車が、赤と青の羽根を光らせて、これまたひっそりと明るく廻っている。セルロイド製品の赤色と青色は、こんな風に色を決めてしまってさしつかえないのかなと、心配になるほどの明るい単純な原色で、かすかにキリキリと音させながら、風の言うとおりに、少し止まっては、またまわりはじめる。
「ハイ、ここに捺《お》しますんですか。ハイ」と、末子が寺の判こを書類に得意げに捺している声がきこえる。「ああ、少し曲りまして。申しわけありません、ハイ」
借地人の男たちは、柳ではなくて浄泉寺の女中さんの方が(チビではあるが)しっかり者であると見ぬいたため、彼女のまわりに寄り添って、柳を相手にしなくなる。とりわけ一人の男は、借地人であるとともに檀家でもあるらしく、自分の墓の裏手にゴミを棄てられて困っているが、何とかしてくれぬかと末子に相談している。「ああ、馬場のそばの、新しくできた墓地でございますね。ハイ、あそこは近所のかたがよくゴミを棄てますんで、見まわっては掃除するようにしておりますんですが、見てないスキに棄てますもので、困っております。爺やさんにも、よく申しつけておきますですから、ハイ」
「おれの知合いで、墓地を買いたい奴がいるんだがね。うちの墓のとなり、まだあいてたね。あれ、売ってもらえるのかしら。小谷さんか、お寺の執事さん、あの毎月地代を集めにくる人に、ちょっと話はしといたんだが。そういう話は、小谷さんにすればいいの。それとも、直接うかがって、住職さんに話すのかな」
「ハイ、それは……」
と、末子は、責任者ぶるのを遠慮して、柳の方を見るようにする。
「一坪でいいんですがね」と、男も末子にまねて、柳の方を見るようにする。小谷の発案で拡張された新墓地の、どこがふさがっていて、どこがあいているのか、柳には少しもわからない。
――人間は(檀家であろうと、なかろうと)冬でも夏でも、次から次へと、たえまなしに死んで行くんだから、順番に埋めていたら、いくら墓地があったって足りるわけがないんだ。あとから入ろうとしても、前に埋められた奴が場所をふさいでいるし、五軒ぶん拡張したって、十人も二十人もドサッと死んでくるんだからな」と、柳はぼんやり考えている。
――いっそのこと、墓地なんか全廃して、でかい無縁塔を一つ、ぶっ立てればいいんだ。そして、その塔の地下室に、ザラザラッとお骨を投げこめばいいんだ。そのお骨も、すぐ一ぱいになるにきまっているから、形式的に、ほんの一つかみだけ、投入口から投げ入れるようにすればいいんだ。そうして、一ぱいになったら、全部|掻《か》き出してカラにして、また投げ入れたい者に、投げこませるようにしてやればいいんだ。一切皆空だというのに、どうしてお骨だけをむやみに大切にするんだろう。無差別平等がたてまえなんだから、おれの墓地、われの墓石《はかいし》、ぼくの御先祖の御遺体とわけへだてするのが、そもそも怪《け》しからんではないか……」
……ザラザラッと。ザラザラッと。
空は全く、鯉のぼりでも日の丸の旗でも、アドバルーンでも、はためくもの、ひらめくもの、うかびあがるものなら何でもいらっしゃいと言いたげに、青々と晴れわたっている。ザラザラッと。ザラザラッと。そんな不吉な物音は、どこからもきこえてこない。柳と末子は、また坂道を下り、坂道を上って寺へ戻る。
「宝屋の久美子様は、近頃こちらへお見えになりませんね」
「うん」
「先日、私、中目黒の市場で久美子様をお見かけしましたけれど」
「ふうん、そうかい」と、柳はわざと、そ知らぬ顔をしている。
「八百屋ものなどの買物をしていらっしゃいましたけれど。何だか、すっかり御様子が変ってしまって」
末子が宝屋の一家全員の情勢を、よく承知しており、ことに久美子のことなら、柳の父や母よりもくわしいことは分りきっていた。末子は恐らく、久美子の身の上に対する柳の心理のアヤも、残るくまなく読みとっているにちがいなかった。
「先日っていつさ。ふうん、二、三日前か」
「むこうでは私にお気づきにならないようでしたから、声もおかけしませんでしたけれど。なんだか、貧乏人のように疲れきっている御様子で、それに、とても宝屋のお嬢さんとはお見うけできないような、ひどい恰好をしていらっしゃいました。それから、男の人とお連れだったようで……」
「ふうん」
どんな男かと柳が聞きただすのを待っている様子であったが、柳はもちろん用心深くしていた。女中の口から久美子の話が出たとたんに、ひっそりと静まりかえった明るい道の風景は、たちまち暗く、ざわめいてくるのだった。
「その連れの男というのは、みすぼらしい朝鮮人なんでございますよ。いつか若先生のお留守に勝手口に訪ねてきたことのある、まるでコソ泥みたいな朝鮮人なので、私、びっくりいたしましたわ」
「ふうん、そうかねえ。あの人は何をやっているのかなあ」
「奥様は朝鮮人が何よりもお嫌いですから、その時も私、すぐさま追い返しましたんでございますけど」
「朝鮮人がぼくを訪ねて? ちっとも知らなかった。君はぼくに言わなかったじゃないか」
「ええ、奥様が、そのことは若先生に黙っていろとおっしゃいましたので」
「よく久美子さんだということが分ったね。末子は他人のことによく気がつく方らしいね。そんなに様子が変ってしまっているというのに」
「それは、あんなお綺麗《きれい》なお嬢様、めったにいらっしゃいませんよ」と言うときの末子の声には、隠そうとしても隠しきれない、宝屋家の令嬢に対する憎しみがこもっていた。末子には、チャンスさえあれば、うっかり者の「若先生」に忠告したいことが山ほどあるのであろう。二人きりになると、そのため、急におしゃべりが倍加するのである。
「宝屋の奥さんと、宝屋の久美子さんは、どっちが美人かね」と、柳は言った。
「どちらも、お綺麗でお綺麗で、とても」と、末子は、いくらか冷笑的に、かつ口惜しそうに言う。「宝屋の奥様の方は、あんまりお綺麗なので恐しくなるほどでしたが、でも本当は、久美子様の方が恐しいように思われてきました」
「あの奥さんに恐しいようなところがあるのは、ぼくも認めるがね。久美子さんの方は、まだ、ほんの子供じゃないか。末子よりも三つぐらい、下だろう。それを恐しいというのは、どういう意味なんだ。ぼくはお前の方が、よっぽど恐しい女のように思うがね」
末子がしばらく黙っているので、柳がのぞいてみると、彼女の顔は、すこぶる赤くなっていた。
「久美子さんは、たしかに、ひどく苦しい目に遭っているんだとおもうよ。彼女に、もしものことがあれば、ぼくはたすけたいと思うんだが、末子はどうかね。あの人に困った事件が発生して救いをもとめてきたら、たすけてくれるかね」
「……ええ、それは、もちろん、末子に出来ますことならば何でもいたします。若先生の御命令でしたら、私はどんなことでも……」
末子の声は泣いているように、かすかに乱れていた。
この小説には、ただの一回しか顔を出していないで、読者の中には、その名も忘れた方も多いであろう人物、柳の同級生の三鎌、また富山の農民運動から、東京の地下運動にとびこんできた越後。この二人の青年が一組となって、柳を訪ねてきたのは、その日の夕暮れどきであった。越後からの電話で、この「危険人物」の来訪は、あらかじめ承知していたが、その連れが、工事人夫の仲間入りをして、自由労働者の非合法組織の指導者になっている三鎌であろうとは、柳には想像もできなかった。おまけに、久しぶりで柳の前に出現した二人は、初対面のときとは服装も態度も、まるで相違しているし、越後も三鎌も、お互の名前を呼び合うときに、「越後」「三鎌」などという柳の知っている名前とは別の名を使用しているので、柳のとまどいは二重になった。
目黒の坂上で穴山に紹介されて逢ったときの越後は、大都会にまぎれこんだばかりの農村青年の気負いが全身に溢《あふ》れていて、いかにも泥臭かった。手首、足首のたくましさは、注意すれば農村青年のそれと分るのだが、サラリーマン風に頭もきれいになでつけ、真新しい背広を着こなしている、その日の越後は、別人のように都会風になっていた。眼光だけは鋭さをまして、どんな情勢の変化にも、すぐさま対応できそうな表情と動作の素早さは、特高刑事ならば、すぐさま見破られるほど明確ではあったが、むき出しの泥臭さは巧みに消し去られていた。また、同窓会で逢ったさいの三鎌は、工事現場の熱気を、そのまま持ちこんだような、土方スタイルであったが、今日の彼は私立大学の右翼学生のように、羽織はかまの出《い》で立ちであった。彼らは例によって、電話で通知してきた時刻とは五分とは違わない正確さで到着した。二人が町工場の並ぶ細い道を通り、寺の裏庭へ通ずる竹藪の繁みを抜けて現れるのを、柳は物置小屋の前で待ち受けていればよいのであった。寺の爺やさんにも女中にも書生にも気づかれずに、その指定した場所に二人は来たのだった。
「あんまりいい場所ではないが、仕方なかろう」
三鎌は柳を軽蔑《けいべつ》するような、威圧するような眼つきで見つめ、枯れた芭蕉《ばしよう》の葉や、同じ高さで立ち並ぶ地境の榎《えのき》の列を、疑わしげに眺めまわしていた。
「分ってる、分ってる。ほんの二、三日だ」
越後の方は、まるで警戒心などは示さずに、きわめて無造作に「荷物」を湿った地面の上におろした。「下調べはしておいたが、東京には珍しい寺だな。××(三鎌の別名)は来たことないのか」
「××(越後の別名)がきめたことだ。責任はそっちにあるんだ。おれはもともと、柳の力を借りるのは反対だったんだからな。こんなものは、どこか林の中か、畠の隅にでも転がしておけばよかったんだ。おれは柳なんか、てんで信用しちゃおらんからな」
「分ってる、分ってる。お前さんはいつでもおれに反対するんだ」
「おれの反対しているのはお前ばっかりじゃねえさ」と、三鎌は不機嫌に言った。
この男は、いつも不機嫌なんだな。三鎌が上機嫌になる日なんかあるんだろうか。彼らの革命が成功した日にだって、三鎌は依然として不機嫌なんじゃなかろうかと、柳は思う。
「お前さんは人間嫌いとちがうのか」と、物置の錠を調べながら越後が言っても、三鎌は冷笑したまま、査問するようにして無言で柳を見つめている。三人は薄暗い物置の内部へ入る。床のない物置には、泥の匂いがこもり、中身のない樽《たる》や桶《おけ》にしみついたカビ臭い匂いがまじりあっている。柳の父の集めた農具がかけ並べてあるのを、越後は興味深げに眺めやっている。
「信用しても信用しなくても、同じことじゃあねえのかなあ」越後は重い「荷物」を奥の方へひきずり入れながら、古道具類を、まるで自分の品物のようにとりかたづけている。
「だから、おれは信用しない方をとるんだ」
小さな明りとりのほか、窓らしきもののない物置の内部で、三鎌の声は高くなる。
「信用していないわりには、よくやるな」
「信用はしていないさ。誰も彼も、おれは信用してはいないよ。しかし、命令は忠実に実行するさ」
「信用もしていないのに、命令を実行して、どうするつもりだ。労働者を信用して、インテリを信用しないというのなら話が分るんだが。お前さんのは、全部すっかり信用しないというんだから」
「そうさ。学者や坊主……。こんな奴らを信用する馬鹿はどこにもあるまいが。労働者農民という奴が、またさっぱり信用がならねえんだ。今続出しているスパイたちのことを考えてみろ。インテリよりはむしろ、労働者連中の方が危っかしいものなんだぜ」
「どうかね、柳さん。こいつの言っていることは。信用とか不信用とか、仏教の方では一体どうなっているんだい」と、越後はおどけたように言う。
「……仏教の方では、人間というものはすべて救いがたいものだというふうになっているらしいよ」
越後は突然、ふき出すように愉快げに笑い出すが、三鎌の方は、ますます意地わるそうに表情をこわばらせている。
「お前さんがどうして、おれたちの仲間になったか、不思議に思うよ」と越後が言うと、三鎌は、まるで全身を鉄板にして、相手の言葉をはね返すように、「おれだって、お前がどうしておれの同志なのか、わけが分らんよ」と答える。
高々と積みあげられた素焼きの菊の大鉢、近頃は品不足になったタイヤ型の満洲の大豆粕《だいずかす》、むしろやゴザや古畳、その奥の方へ越後は貴重な「荷物」をかくした。機関銃か、爆薬か、それとも秘密印刷用の活字か、柳には見当もつかない。
もともと二人は、法事の相談で寺へ来た信徒としてカモフラージュしているのであるから、柳はとりあえず二人を本堂の方へ案内する。耳の遠い柳の父は、奥の間で読書しているし、書生たちは書生部屋にとじこもり、爺やさんはデキモノのかゆみを忘れようと、一杯ひっかけに酒屋へ出かけ、執事の小谷は葬儀屋からの呼び出しで、麻雀《マージヤン》のメンバーに加わっているから、この怪しい客の品定めをするのは、女中の末子のほかにない。
「ここの畳はバカに柔かいな」と、越後が遠慮なく批評する如く、二方を池で囲まれた本堂の畳は、何回とりかえても湿気ですぐ腐った。まだ戸をたてない廊下からは、岩壁に水の落ちる音がしていた。浅い水に鯉のはねる音もした。そして五月の夕風が楓《かえで》や柿の葉をならして、たてめぐらした障子の隙間をくぐりぬけてくる。
「君たちは結局、金の苦労で奔走しているようだな」黒の改良服に着替えた柳は、朱塗りの経机の上で香をくゆらしながら、坊さんらしく膝を折って言った。香をたくための経机の正面には導師の坐る台座の上に、色鮮かな錦の蒲団が据えられ、その先に金色に輝く四本の燭台《しよくだい》に炎がゆらめいている。
「よく知っているな」
「そうさ。傍観者というものは、案外よく知っていやがるのさ。よく知っていやがるくせに無責任でいられる奴が一ばん嫌いだよ」と、三鎌は越後の声におっかぶせるようにして言う。
「カネのいらない社会を作るための運動に、沢山の金がいるというのは困ったこったなあ」と、柳はことさら三鎌の反撥を引き出すように言う。「仏教の既成教団の方が、君らより金の集め方がうまいんじゃないかな」
「そうか。それが言いたかったのか、柳は」はかまの下であぐらをかいた三鎌は、かつての同窓会で、柳がエロティックと感じた太い首を真っ直ぐにたてながら、本堂の正面に燈明に照らされて浮び上る、人間の三倍大の阿弥陀仏像をにらみ返すようにしていた。
「おれたちのやり方が、既成教団の金集めに比べ、まずいか、うまいか、それは問わないとして、ともかくシンパたちは、おれたちに金をさし出す。まるで極楽行きの切符を買うか、それとも罪|滅《ほろぼ》しの免罪符を手に入れたがっているようにして、あわてふためいてカンパの金をさし出す。奴らは金をさし出してしまえば、それでホッとするのだ。金を出すか出さないか、それが奴らにとっては、手足がふるえるほどの大事件なんだ。江戸時代の百姓|一揆《いつき》なんかで、嘆願の直訴状を出すだろう。そのさい、直訴状に署名するかしないかが、あいまいな協力者たちにとっては、生きるか死ぬかの大問題なんだ。ハリツケにされたり、一家皆殺しにあったりするのは、直訴状を肌身につけて大名行列にとびこむ指導者だけなんだが、それでも署名することによって、実際行動に参加したようなつもりになっている臆病者どもにとっては、署名することだけが免罪符なんだ。それと同じことで、カンパに金を出す連中は、いくら恐れおののいて、大決断で出しやがったところで、要するにそれは金を出したにすぎないんだ。だからおれは、いくらヒューマニスティックな面つきをしていやがっても、シンパサイザーという奴には、少しも同情してなどやらんのだ。奴らは行動したくないからこそ、金や同情をさし出すにすぎないんだ。行動しないで危険から避けられるものなら、恐れ奉って、おれたちに金を献上し奉るにちがいないんだ。もちろん、おれたちはいくらでも極楽行きの切符は売ってやるよ。しかし、そんなものでパスできる極楽の入口なんてありっこないということが、奴らには分らんのだ」
「……それらの署名やカンパが、全く無力な偽の極楽の入口にすぎないにしても。……しかし、やはり、それは君らにとって必要なものなんじゃないだろうか」
「そうだ。必要だ。必要なんだ。だが、だからといって、奴らがおれたちとは全く別ものの臆病者であるという事実に変りはないんだ」
「エヘン、エヘン」と、越後は芝居気たっぷりに咳払《せきばら》いした。
「分ってる、分ってる。で、君は資金部なり、特殊技術部なり、そういう特殊部門に参加している仲間たちについては、どう考えているのかね。全国大会のための資金を集め、秘密出版物印刷のための地下印刷所をこしらえる、大切な大衆組織の公開運動から隔離されて、全く別種な闇の中の行動に熱中しなければならない少数グループに対して、君はどう考えているのかね。革命家なら誰だって、労働者・農民の、嘘偽りのない生活の中に浸って、白日の下で行動したいだろう。生きている労農大衆の生き生きとした活気を全身に浴びて、彼らの先頭に立ちたいだろう。だが、資金部や特殊技術部は、これらの労農大衆の熱気とかけはなれた地点で、いわば、地下の湿気と冷気の中でもぐら暮しをせねばいかんのだ。しかも、そういう持ち場が好きとか嫌いとか、そういう個人感情は絶対許されはしないのだ」
「だまれよ、××。そんな話を大っぴらに、こんな場所でしゃべることは、許されんぞ」
三鎌は茶の間との仕切りをしている、四枚のふすまの方に気をくばりながら言う。玄関の間をへだてた茶の間では、若先生の「お客さま」の様子をうかがう、末子の気配があるからだった。
「第一、柳にそんなことを言ったって始まらない。おまけに金粉塗りの偶像の前で、そんな話をするのが、大体、喜劇にすぎんよ」
茶の間のふすまを、そろそろと明けて、末子が黒塗りの盆で、お茶を運んでくる。「まあまあ、座蒲団もおしきにならないで。さあ、どうぞどうぞ」と、彼女はいそいそと座蒲団を男たちの尻の後におしつける。男たちはしぶしぶと腰を持ち上げて、座蒲団を尻の下にすべりこませる。彼女は用意してきた濡布巾で、経机の上のチリをぬぐったり、畳の上の埃を清めたりして、出来るだけ長く、その場に居合せようとつとめている。「お線香をお上げしましょうか」「いや、いいよ。ぼくが自分でやるから」と、柳が彼女を追い払おうとする。「戸はお締めしなくてよろしいでしょうか」「いいよ」「さようでございますか。それでは」と、万事心得たようにして、末子は茶の間へひき下ろうとする。
「可愛い女中さんだな。あんた、どこの生れ? 東北じゃないのかね」と、越後が愛想よく問いかけると、末子は含み笑いをしながら、「はい、福島の田舎の生れでございます」と答えて、小さな体に|しな《ヽヽ》をつけるようにして立ち上る。
「彼女は労働者・農民の一人だよ。だが、彼女は君らのことを嫌っているらしいよ」と、柳はまたもや三鎌の神経を苛《いら》だたせるようなことを言ってのける。「彼女は君らの仲間には鼻もひっかけないが、坊主の嫁さんになりたがっているんだ」
三鎌はいまいましげに舌打ちをした。
「そりゃあ、日本の農村には寺の嫁さんになって楽をしたがっている女はいくらでもいるさ。働いても働いても、食うや食わずでいるよりも、その方が楽だからな」と、越後は気楽そうに茶の間の方を眺めている。「柳君は、ああいう働き者の美少女にかしずかれて、世話をされているんだから、結構な御身分じゃないか」
「三鎌君たちの仲間にも、ハウスキーパーとか、女工の同志とか、いろいろ女がいるんだろうが、三鎌はそれらの女たちに対して、どういう考えを持っているのかね」
「女か」と、三鎌は食べたくない料理を口一杯ほおばったようにして、吐き出すように言う。「女と言っても、いろいろあるが。ハウスキーパーというもの、あれは、おれは好かんよ。華族や金持、いわゆる上層階級の子女が、われわれの運動にとびこんできて、ハウスキーパーになる。警察の目をごまかすためには女連れの方が都合がいいから、そういうことになったんだろうが、あれはよくない。女という奴は、もっとも悪質ないざこざの原因になるし、それにインテリの女性という奴は一時的な頭の働きはすこぶるよろしいが、どっちみち観念的にしか労働者・農民を愛せるはずがないからな。名誉心や競争心は人一倍激しいから、ある程度は身命をなげうって加勢してくれるようなんだが、いざとなると本性を暴露して、ものの役には立たんものなんだ」
「それはお前さんが女が好きでたまらないから、逆にそんな言い方をするんじゃないのか」と、越後は言う。
「ハウスキーパーというものは無意味、あるいは有害であると三鎌は言いたいのかね」
「要するに、おれは、男でも女でも信用できない奴らを信用したくないというだけなんだ」と、唾でも吐きかけるように、三鎌は柳に答える。「今まで公表されたところによると、女のスパイは我が党内にはもぐりこんでいない。中央委員になった女もいないくらいだから、当然、大物の女スパイも発生するはずはないんだが。だが、ハウスキーパーのおかげで堕落した幹部は少くないように思うね」
「では君たちもまた、昔の坊主のように、女性全体を拒否すればいいわけなんだが、そんなことが君らに出来るかね」
「よしてくれよ、そんな話は。女っ気抜きの社会主義や共産主義なんて、おれはごめんだぜ」と、越後は柳と三鎌の会話をまぜかえすように言う。「ハウスキーパーだろうが、女大学生だろうが、おれは女とみたら甘くやさしくしてやるさ。女の身で革命運動にとびこんでくるのは、それだけで涙ぐましい感心な行為だからな。可愛がってやらないという法はねえわけだ」
越後は立ち上って、茶の間の方へ歩いて行く。そして、ふすまを明ける前に、こちらをふりむき、「おれは百姓の出だから、福島生れの可愛い女中さんには特に興味があるよ。少し田舎の話でも聞かせてもらってくるかな」
越後が茶の間に入って、ふすまを締めると、三鎌は、「下らんことをやる男だ。あんな調子で警察につかまったら、白色テロにどこまで耐えられるのか。あれでも富山の農民組合では一番しっかりした男だったというんだからな」
茶の間からは、末子の礼儀正しいような、くすぐったがるような笑い声が聞えてくる。
「プロレタリア文学の秀才だと言われる奴が書いた短篇小説を読んで、おれは呆《あき》れかえった。その短篇には、すこぶる女性的魅力を有する一人のハウスキーパーが出てくる。そのハウスキーパーを使っている男は、もちろん革命党員だ。しかも、きわめて律儀な道徳主義者で、女同志の手も握らない潔癖な男なんだ。ところが、彼と連絡を保っている別の同志は労働者出身で、熊のようなむくつけき男になっている。或る夜、その熊男が男同志の留守の部屋に入りこんできて、その美貌の女同志を強姦するという話なんだ。いかにもありそうな話のようにして書いてあるのさ。つまり、その秀才作家に言わせれば、革命運動にあっては、男女関係の道徳は厳しくあらねばならないし、熊男の行動は、もっとも憎むべき破壊行為、裏切り行為なんだというわけなんだろう。ともかく革命党員の間における強姦行為というものを、ひどく重大な問題として取扱っていることは間違いない。だが、おれに言わせれば、そのプロレタリア作家は、横町の隠居が熊サン、八サンを相手にして、お説教をしているのと、何の違いはありはしないんだ。彼の頭の中には、おそらく理想的な清浄|無垢《むく》の女同志のイメージが温存されていて、それを汚されてはたまらないという、ケチな根性がひそんでいるんだ。そういう小心者の神経過敏をぶっつぶすことこそ、プロレタリア文学者の任務のはずなのに、奴は一ばん頭の悪い修身の教師のような考えを、プロ派らしき絵具でいろどっているにすぎんのだ。猛《たけ》り狂って強姦する熊男もいるだろうし、キャアキャアと悲鳴をあげて強姦されるハウスキーパーもいるだろうさ。それが一体どうだというんだ」
柳には、しきりに宮口と同棲《どうせい》している久美子の身の上が思い出される。
「君はそういうが、君らの間では、いわゆる道徳は、かなり厳格に守られているように思うがね」
「ふうん、柳はそう思うか。それは坊主よりはいくらかましかもしれん。しかし、道徳とは一体何なのだ。道徳とは臆病者の世間に対する気兼ねにすぎないのか。あるいは、それさえ守っていれば万事うまくいくという保身術なのか」三鎌は、はかまの裾をまくり上げ、毛脛《けずね》をむき出して足首をもんだり、叩いたりしている。
三鎌は暗さを増した縁側に出て、腕組みをして坐りこむ。味方の男も女も信用出来ないという書生っぽじみた三鎌の後姿には、一種の淋しさがただよっている。年齢はまだ柳より三つ年上というだけなのに、中年者の陰鬱が、いつのまにか逞《たくま》しい背中にしみついていて、不吉な運命さえ予感させるのである。柳自身だって、陰気臭い本堂に坐っているのが、自分にふさわしいあり方とは考えていないのに、三鎌なら当然じめじめとしめっぽい封建的で閉鎖的な雰囲気《ふんいき》として、毛嫌いするはずの寺院の本堂の縁側の一角が、その場合の三鎌には、まことにあてはまった場所のように柳には感ぜられてならなかった。三鎌はつつじや楓や羊歯《しだ》の茂みにかこまれた岩壁のはざまから落下し、苔《こけ》むした岩にあたって両側の岩壁の突起部を濡らしている水音に、しばらく耳を澄ましているらしかった。あたりが静まりかえってきているので、水音は意味ありげに何かを訴えるように響いていたのだった。
「柳はおそらく、おれなどは仏教とは縁もゆかりもない人間だと思っているだろうな」そう言って、三鎌は何か呪《のろ》いでもこもっているような暗い大きな眼を柳の方にむけた。「おれと仏教、そんなことは柳はチラリとも考えたことはあるまいな」
「そう、たしかに考えたことはないよ。君と仏教などと、そんなことは。しかし、ぼくが真の仏教者だったら、もちろん、それは考えなくてはならないことだったんだ。だって、仏教とは、あらゆる人間に平等に関係することによって、仏教であり得るんだから。だから当然それは……」
「だから当然それは考えられなければならなかった。しかし、柳には考えられなかったし、考えようともしなかった」
「そうなんだ。その通りだ」
「だが、しかし、柳だって、おれが何かの事件で死んだと聞いた途端には、君のいわゆる仏教的な感じというやつで、ぼくの死を感じとるんだろうな」
「君が死ぬ? そうだね。もし君が死んだとしたら、たしかに仏教的な感情の中で君の死を受けとるだろうな。だが正直いって、君が今の君のような生き方で生きつづけている間、なかなかそれを仏教的な感じで受け入れることは出来ないだろうな。それではいけない。それは間違っている。そう、ぼくは思うんだが。なかなかそこまで包容力が大きくなれないのさ。われわれ全部の生は、すべて浅ましい生なんだ。浅ましいからには、生そのままで、すでに仏教の定理の下にあるはずなんだ。あるはずなんだが、なかなかどうして、それを実感として定着することが出来にくいんだ。君もぼくも仏教の定理の中に包まれている。間違いなく包まれていなければならないはずなんだ。だが、感覚的には三鎌君が反仏教的な人間であると感じられる時もあるんだ」
「そうだろ。そうだろうとおれは思っている。仏教の定理とは全く無関係のようでいても、あらゆる人間は仏教に関係づけられている。それでなければ仏教の存在価値はないわけだからな。それは革命にとっても同じことなんだ。あらゆる人間は、革命的マルキシズムに関係づけられていなければならない。たった一人でも関係づけられていないとすれば、その革命は不完全なものなのだ。たとえ、反革命的、あるいは革命のカの字も知らない馬鹿者がいたとしても、それは革命の定理の中に包含されていなければならない一員なのだ。そのような純粋革命について考えることは、今の段階では、はなはだむずかしい。ことに日本の革命党の内部事情において、それはほとんど不可能なのだ。だが、理想としてそれはあり得る。理想としては、それは絶対にあらねばならないのだ」
柳の耳の奥底でも、柳の胸の内側から手足の指の先端にまで、規則正しいようで乱れている水の落下音がしみとおってくる。
「すべての人類に余すところなく分け与えられた仏教的な運命、それが、ぼくは欲しいのだ」
「すべての人類に余すところなく分け与えられた革命の運命、それが、おれは欲しいのだ」と、三鎌は暗い暗い声音でつぶやく。「もしも革命が局部的なうごめきや、異常な個人的な夢や、熱狂的なグループの偏執であったなら、それは人類の革命ではあり得ない。そして、もし革命がそのようなものであったなら、そのために命を捨てるのは、ヤクザの喧嘩《けんか》で犬死するのと、何の変りもありはしないのだ」
「だが、そのような純粋無垢な理想的な革命というものは、この地上に存在し得るものだろうか」
三鎌はかすかに奇怪なかすれ笑い、たとえば幽霊の咳ばらいのようなものを洩らしたようであった。茶の間では末子のくすぐったくからみつくような笑いと、越後のあけっぴろげな笑いが、からみ合って高まっていた。
「理想的な革命なんていうものは、存在する気遣いはない。おれは人間不信の革命希望者だが、決してそのことを自慢にしているわけじゃないんだ。人間不信のまま、革命運動に突入することは、明らかに滑稽な悲劇にすぎんよ。みじめな喜劇といってもよい。だが、おれは生を燃焼させるなら、その救いようのない暗黒の矛盾こそ、似つかわしいカマドだと思っているんだ」
「……A計画のことを、ぼくは少し聞いているんだが。もしかして君は……」
三鎌は沈黙していた。右翼青年ふうに和服をまとった三鎌の全身には、その瞬間、強い強い若者の力がみなぎってきているように柳には思われた。
「君らの仲間の内部には、下っ端の方ではなくて、上層部の中央委員のあたりにまでスパイがもぐりこんでいることを、君らの機関紙は報道しているね。『革命』という新聞で、ぼくはそれを読んだよ。君らのあらゆる計画にスパイ指導の危険性があるとするならば、A計画にだって、もちろん、それはあり得るはずだな。そんなことは素人《しろうと》のぼくが考える先に、君が何十回も考えぬいたことだろうけどな。それでも君はA計画をやる。やりぬくだろうと、ぼくは想像する。君の人間不信は、君の革命行動を決して押しとどめはしない。仏教の場合は、人間不信の念がそのまま回心につながっている。不信が深まれば深まるほど、おそらく信仰は深まるのだろう。だが君らの場合、人間不信と革命行動が、そんな具合にうまくつながり得るのだろうか」
三鎌は重苦しくおし黙ったまま、もとの座蒲団の上にあぐらをかいた。
「おれはおれの人間不信の念が揺ぎなく続いてくれることを望んでいる。しかし、これは実に困難な仕事なんだ。人間不信のその不信の対象の中におれも入れなければならないのだからな。革命を信じて、革命党万歳を叫んで、支配階級の銃弾にあたって倒れる。それはそれでやりやすいことだ。しかし、人間不信のまま、不完全な革命のために死ぬこと、それがむずかしいのだ。だが、それをやらなければならないと、おれは決心している」
「どうして、それをやらなければならないのだろうか」と、たずねるとき、柳の声は頼りなくかすれていた。
「……どうして、それをやらなければならないのか。それに答えることは、今のおれには出来ない。しかし、どんなに無意味な馬鹿馬鹿しいことに思われようと、それをやらなければならないんだ」
「だから、どうしてそれを……」
「それに対する答えは、たった一つだ。そのような行動を敢えてする(愚かしい)人間が、決して絶えることはないという事実だけなんだ。彼らは理窟は言わない。誰も彼らの味方をする者はない。彼らの真実性を保証するものは何もない。しかし、彼らはそれをやる。そして死ぬ。それだけが柳の疑問に対する証明なのだ。彼らが馬鹿であるか、利口であるか、それを判断する法廷はどこにもない。だが、彼らはそれをやらずにはいられない。何故か。一体、何故彼らはそのような無意味に近い行為をせねばならないのか。人間全体に対して、それほどまでに不信の念を抱いている彼らが、そのような信用ならぬ行為を、敢えてせねばならないのは何故なのか。それについては歴史家の解説も、道徳家の賞讃も、文学者の理解力も、そんなものは何一つ必要がないのだ。彼らは(おれたちは)それをやる。それだけが、ギリギリのところ存在する、たった一つの事実なんだ。君と話しているうちに、おれには次第にそれがはっきりと掴《つか》めてきたんだ」
よろめき出すといった形で、酔っぱらったように越後が茶の間から出てきた。
「君らは何をしんみり話し合っているのだ。まるで恋人みたいに」と、越後は上気して赤らんだ顔で言った。「さっき柳君は、金の集め方がうまいとかまずいとかしゃべっていたっけな。そうだ、たしかに、左翼も右翼も金の集め方は、坊主衆よりまずい。まずいということは、しかし愉快なことなんだぜ、柳君」
と、越後は柳のそばにドサリと腰を落し、柳の肩をかかえこんだ。
「おれは穴山の友だちだから、右翼団体の動向にもくわしいんだ。将校くずれの右翼団員が、あるとき穴山に語ったそうだ。彼は日本銀行の建物を見下ろす、あるビルの屋上に上ったそうだ。彼は日本銀行という、日本の金貨と銀貨と銅貨と紙幣の総元締である、中央銀行を見下ろしながら、機関銃三|梃《ちよう》あれば、あの金をそっくり頂戴できるんだがなあと豪語したそうだ。それは決して単なる大言壮語ではなくて、陸軍省を奪いとって、錦旗革命を実行しようとする右翼青年将校が、彼らのプランの中に現実的に組み入れている計画の中の一つなんだそうだ。奴らが計画し、成功することを、われわれが先に実行しても、少しも差しつかえはないはずなんだ。右翼の奴らにうまい汁を吸われることを妨げるためにも、われわれが日本の民衆のために、それを先取りして敢行しても、一向に差しつかえないという話なんだ」
そう叫んで、つつ立っている越後の農村青年らしき立ち姿を、三鎌は、ほとんど絶望的と称してよいくらいの暗澹《あんたん》たる眼《まな》ざしで見つめているのだった。
[#改段]
あとがき
この小説は、雑誌『新潮』に昭和三十五年一月号から三十九年十二月号にいたるまで、四十五回にわたって連載したものである。
主人公柳は、若き仏教僧侶として絶えず恥ずかしさ、強がり、自己弁明にとらわれながら行動するが、同時にきわめて無反省、無意識的な状態にとどまっている。
彼の青春の欲望は、一般青年のそれと同じところもあり、特別な存在条件を強いられる僧侶としての特殊なものもある。彼は教団の分裂抗争にも巻きこまれるし、革命団体の分裂抗争にも巻きこまれる。二方面の集団は、深い闇のうちにその真実をかくしている。
際限もなく広がったテーマのため、次第に作者自身が追いつめられ、また四十五回という長期連載の積み重なった疲労のため、中断せざるを得なかったが、この主題は昨年来とみに重要性を増したので、私は現在脳血栓のため療養中であるが、病気が恢復《かいふく》次第、改めて稿を続けたいと思っている。
昭和四十七年十月
[#地付き]著者しるす