風の日にララバイ
樋口有介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)諦《あきら》め悪く
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一瞬|怯《ひる》みかけたが、
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亜由子が『実験室』に入ってきたときも、おれはソファにひっくり返ったまま、べッドにもぐり込むべきかどうかまだ諦《あきら》め悪く迷いつづけていた。意思だけの問題でいうなら、もちろんおれの躰は前の晩からもうなん度もベッドに飛び込んではいたのだ。しかし現実には一晩中ソファにひっくり返って、おれはカーテンの外の明るさを浅い眠りの中で漫然と意識していたにすぎなかった。部屋の電気もつけっ放し。製図板のライトもつけっ放し。ウイスキーの蓋もあけっ放し。これじゃ金魚も眠れなかったろうとは思うが、幸い金魚は、亜由子のようにそのことを口に出して文句を言ったりはしなかった。
「お松さんが帰ってきたらぜったい言いつけてやる。風邪ひいたって、わたし看病なんかしてやらないもの」
時間は九時をすぎていて、堅気《かたぎ》の人間ならたしかに起き出しても罰《ばち》が当る時間ではない。そして運がいいのか悪いのか、世間では誰もおれのことを堅気だとは思っていない。そういう世間の評価に対しておれ自身|忸怩《じくじ》たる思いがなくもないが、だからって三十九年間もつき合っている自分の体質と、そうかんたんに別れられるものではない。
わざとらしく、音をたててカーテンを開けた亜由子に、顔を手で覆って、おれが言った。
「カーテン、閉めてくれないか。ベッドに入ってもう一眠りしたい」
「朝飯を食べてよ。食堂が片づかないわよ」
亜由子は最初からおれの意見は無視することに決めていたらしく、窓のところから製図板の前に場所を移して、不遜な目つきでライトのついたその製図板を、じろりと眺めおろした。
「今度は、なにを作るつもり?」
「おまえに言ってもわからないさ」
「わたしにわかるものなんか、今までだって作ったことないくせに」
喉《のど》が詰まって、一つ、おれが咳払いをした。
「その……煙草、取ってくれないか?」
亜由子が作業台の上から煙草の箱を抓《つま》みあげ、それをおれが横になっているソファのところまで、うさん臭そうな顔で運んできた。そして不器用な手つきで一本をふり出し、フィルターの部分をおれの口に捩《ね》じ込んで、眉をしかめながらライターにしゅっと火をつけた。
「台の上にあるこのごみ[#「ごみ」に傍点]が、材料?」と、横目でそっちのほうを睨みながら、口を曲げて、亜由子が言った。
ライターの火を煙草の先に受け取り、目を細めて、おれがうなずいた。
「頭を良くする機械とか、そういうもの?」
「そんな、ところかな」
「拷問にも使える?」
「完成してみないとなんとも言えないが、そういう用途も、あるかもしれない」
亜由子が切れ長の視線を、すーっと作業台のウイスキーの瓶に移し、生意気な顔で、ふんと一つ溜息をついた。それから亜由子は、その瓶を取りあげて壁の飾り棚に押し込み、戻ってきて、元の作業台に尻でひょいと飛びのった。
「それで、本当は、なにをする機械なのよ」
「本当にわからないんだ。ただ完成すればとんでもない大発明になる可能性は、ある」
おれは腕を伸ばして灰皿をまさぐり、仕方なく躰を起こして、ソファの背もたれに首のうしろを凭《もた》れさせた。
「いつだったか自転車とぶつかって頭を打ったことがあった。あのとき病院で脳波を調べられてな、それで閃《ひらめ》いたんだ」
かなりいや味に、亜由子が、ふんと鼻を鳴らした。
「つまりだな……」と、一瞬|怯《ひる》みかけたが、気合いを入れ直して、おれが言った。「思考というのは一種の電波だと考えられるわけだ。俗にいうところの虫の知らせとか、直感だとか予感だとか、そういったものもみんな電波だと考えれば話は非常にかんたんになる」
「どういうふうに、ひじょうに[#「ひじょうに」に傍点]、かんたんなの?」
「テレビのブースターを使って人間の脳波を増幅させてやる」
「それで?」
「うまくいけば、テーブルの上のコップぐらいは動かせるかもしれない」
作業台の上で、もぞもぞ尻を動かし、亜由子がふーっと頬をふくらませた。
「そんなもの、どこが大発明なのよ」
「それは、だから、用途は他にだって考えられるさ」
「動かしたコップを元に戻すとか?」
「おれの考えているのはもっと画期的なことだ。どういう種類の電波かは知らないが、電波だということは要するに実体だということだ。実体だということは人間の思考そのものを、面倒な手続きなしに他人の脳に送り込むことができる」
「コードレス電話みたい」
「おれはNTTなんか相手にしないんだ。つまりな、たとえば、誰か気が弱い男がいたとして、そいつは気が弱いから、惚れた女に直接自分の気持ちを伝えることができない。そういうときにこの機械が使える。この機械で自分の気持ちを直接相手の心に伝えることができる。手紙じゃないから証拠は残らないし、電話みたいに喋り方や声の善し悪しにも関係ない……なあ、画期的だと思わないか?」
亜由子が、鼻の先でおれの顔を眺めながら黙って作業台をおり、口の端に力を入れてソファを足下《あしもと》のほうに回り込んできた。
「朝飯、早く済ませてよね。コーヒーだって冷めちゃうよ」
「朝飯は、まさか、ベーコンエッグじゃないだろうな」
「ベーコンエッグよ、匂いがする?」
「昨日も一昨日も、ベーコンエッグだった」
「卵とベーコンを買いすぎたの。明日も明後日《あさって》も予定はベーコンエッグだわよ」
口を結んで、ドアに歩きかけた亜由子に、意を決して、おれが訊いた。
「それで、どう思うんだ? 今度の発明」
ドアのノブに手をかけ、躰を半分ほど部屋の外に出して、ゆっくりと亜由子がふり返った。
「そんなこと、本当に聞きたい?」
「まあ、一応……」
「たとえばね」と、じろりとおれの顔を見おろし、肩で小さく溜息をついて、ぷくっと亜由子が鼻の穴をふくらませた。「たとえば、誰か男の子がわたしにその機械を使ったとして、それでその男の子の気持ちがわたしに伝わったとしてね、だけどわたし、そんな機械を頭に載せてわたしの顔を見る男の子なんか、ぜったい好きにならないと思う」
亜由子がドアを閉め、あとに残ったのは、廊下を遠ざかっていくぱたぱたという強情そうなスリッパの音だけだった。おれはべッドにもぐり込む野心を亜由子に対する義理だけで抑え込み、煙草と電気を消して、ベーコンエッグと対決するために『寝室兼実験室』をあとにした。もしおれに親の敵《かたき》がいるとしたら、そいつはきっとベーコンエッグみたいな顔をしたやつに違いない。
おれが洗面を済ませ、食堂に入っていくと、亜由子はテーブルに肘をついて掌でコーヒーカップを包み、真剣な顔でテレビの『魔女っ子メグちゃん』に見入っていた。
「昨夜見た夢を、急に思い出した」と、テーブルの、亜由子の向かい側に座りながら、おれが言った。
「宇宙人が大勢ベーコンエッグ型のUFOに乗って、地球を侵略しに来たんだ」
わかってはいたが、当然、亜由子にはおれのその挨拶は無視された。
「風呂、つけておいてくれ」
「どうしてよ」
「朝飯を食ったら風呂に入って、やっぱり一寝入りする」
亜由子が顎をつき出しながら、それでも黙って風呂場に歩いていき、おれのほうはコーヒーを一口口に含んでから、ベーコンエッグの皿をえいっと手前に引き寄せた。おれがどんな悪いことをしたのかは知らないが、平凡な一般市民がなんの因果で朝からこうも毎日ベーコンエッグばかり食わなくてはならないのだ。
亜由子が戻ってきて、元の席に座りながら、首をかしげてちらっとおれに流し目をくれた。
「あとでいいから、印鑑《はんこう》を貸してくれないかなあ」
「実印は銀行の貸し金庫だ」
「ふつうの印鑑《はんこう》でいいの」
「お松さんに訊いてみないと、どこにあるのかわからないな」
「おばちゃんが帰ってきてからじゃ間に合わないんだもの」
「印鑑《はんこう》なんか、なんに使う?」
「学校に出す書類に押すの。無ければ、どこかで買ってもいいけど……」
テレビの漫画が終わって、リモコンで、亜由子がチャンネルをモーニングショーに切りかえた。
「高校に出す書類ね、父兄の職業欄、なんて書くの?」
「ふつうに書いたらいいんじゃないか?」
「無職なんて恰好悪いよ」
「だから、ふつうに書けばいいさ」
「中学のときは発明家って書いた。わたし先生に訊かれた。あなたのお父さんはなにを発明したのかって。わたし、それでずっと恥ずかしかった」
「おれは人に聞かれて恥ずかしいようなものは、なにも発明していない」
「わたしは恥ずかしいわよ。お父さんがバナナの自動皮剥き機を発明したなんて、友達にだって言えないよ」
「あれは成功だった」
「成功だったから恥ずかしいの。あんなにお金をかけてあんなに大袈裟な機械を作って、それで一本のバナナを剥くのに五分もかかったじゃない。バナナの皮なんて手で剥いたほうがずっと早いわよ」
「それは機械の問題じゃなくて人生観の問題だ。おれとしてはあの機械に満足している。あと百年もすれば世間のやつらもあれの価値を認めるようになるさ。偉大な発明ってのは、いつだってそういうもんだ」
そのとき、玄関のチャイムが鳴って、おれたちは同時に、ちょっと顔を見合わせた。
「化粧品のセールスマンでも来たか」
「朝の十時に?」
「パチンコ屋だって十時には開店する。もしNHKの集金人だったら水をぶっかけてやれ」
亜由子が椅子を立ち、朝シャンでもしたらしい髪をふわっと広げて、玄関のほうにぱたぱたとスリッパの音を響かせていった。
おれはベーコンエッグの皿を向こうに押しやってから、テーブルの下に目一杯脚を投げ出し、コーヒーを飲み干して、煙草に火をつけた。寝不足と昨夜のウイスキーのせいか目蓋を持ちあげておくだけでもかなりの努力が必要だった。
吸っていた煙草の長さが半分になったとき、亜由子が戻ってきて、廊下との境目から首だけをひょいと食堂の中に覗かせた。
「警察の人だって……」
「警察が化粧品を売りにきたのか?」
「お父さんに訊きたいことがあるって。なにか、へんなものを作った?」
「どこでばれた[#「ばれた」に傍点]のかな」
「やっぱりなにか作ったんだ?」
「家庭用日本酒醸造器ってのを、ちょっと、作ってみた」
怖い目でおれの顔を睨みつけ、むっと唸って、亜由子が顎ごと下唇をおれに向かってつき出した。
「それで、どうするのよ?」
「本当に警察なのか?」
「手帳を見せてくれた。渋谷中央署の刑事だって」
「ここは世田谷署の管轄だがな」
「知らないわよ。どうする? 逃げる?」
「くそっ」
煙草を灰皿でつぶし、覚悟を決めて、おれはポットのコーヒーを自分でカップに注ぎ足した。
「おれがデビッド・ジャンセンぐらいタフだったら、アフリカにだってシベリアにだって逃げてやるのにな」
「応接間に通す?」
「刑事なんかに応接間は見せない。おまえのベーコンエッグの匂いを嗅がせてやれば、それでじゅうぶんだ」
亜由子が頬をふくらませ、首を引っ込めて、またぱたぱたと玄関に歩いていった。朝っぱらから酒の密造ぐらいのことで善良な市民を急襲するとは、警察はいったい、どういう税金の使い方をしているのだ。
おれが注ぎ足したコーヒーを口の中で転がしているとき、亜由子が一人の、ずんぐりした男を連れて食堂に戻ってきた。歳はおれと同じぐらいで、身分証明書を持っていなければ暴力団だと言われたほうが納得できそうな、目つきの悪い硬そうな皮膚の男だった。
「お食事中に、申し訳ありませんな」と、食堂に入ったところで立ち止まり、じろりとテーブルの上に目をやってから、作ったような慇懃《いんぎん》さで、男が言った。
「情報、どこで洩れました?」
「なんのことです?」
「日本酒醸造器のことでしょう? 最初に言っておきますが、あれはまだ試作品の段階です」
男が、にやっと笑い、半分ほど白くなった頭を、困ったように少し右にかたむけた。
「新聞はまだお読みになっていないようですな。そういえば朝刊が新聞受けに入っていた」
「今日は新聞を読まない日です。親の遺言で毎月三のつく日は新聞を読まないことにしている」
男がまたにやりと笑い、おれの顔を細い目で眺め回してから、その視線をちらっと亜由子に走らせた。
「お嬢さんですか?」
「息子かと訊かれたことは一度もない」
「ちょっと、その……二人だけで話をしたいんですが」
「娘に聞かれて都合が悪いことなんかしていませんがね」
「そういう意味では、ないんですよ」
「自分の部屋に行きなさいよ」と、おれと刑事の顔を怒ったような目で見くらべながら、口を尖らせて、亜由子が言った。
「わたしは食堂を片づけるの。邪魔はしないでほしいわ」
男が目で、おれに亜由子の命令に従うように勧め、仕方なくおれは煙草とコーヒーのカップを持って実験室のほうへ歩きだした。男も黙っておれのあとについてきたが、いくら自分の家でも刑事に背中を見られながら歩くというのは、あまり気分のいいものではない。
部屋に入り、刑事をソファに座らせてから、自分では作業用の椅子に腰かけて、おれが言った。
「どうやら密造酒の話ではないようだ」
男は一度部屋の中を見回し、西側の壁に並んだ金魚の水槽にしばらく目を止めてから、まるで舞台の上で刑事の役を演じているような仕草で、ふとおれのほうに顔を向けた。
「昨夜の事件は、本当にご存知ないわけですな?」
「となりの家に原爆でも落ちましたか?」
「奥さんの実家からも、連絡はなかった?」
「家内はおりません」
「いや、失礼」
刑事は長居を決め込んだらしく、上着のポケットから煙草を取り出し、それに黄色い使い捨てライターで、しゅっと火をつけた。
「わたしが言ったのは離婚された奥さんのことです。本当に連絡は受けていないわけですね?」
「夫婦が別れるということは、お互いに連絡を取り合わなくなるということです」
「場合によりけりでしょう、お子さんがあって、特にどちらか一方が殺された場合は」
飲みかけのコーヒーが、喉の途中に引っかかったのは、おれの神経が無連慮におれの首を締めつけたせいだ。咳き込みそうになるのを我慢して、おれはわざとゆっくり、椅子の中に座り直した。
スリッパの音がして、亜由子が実験室に入ってきた。おれと刑事は亜由子が刑事のぶんのコーヒーを置いて部屋を出ていくまで、お互いに勝手な思惑の中にじっと閉じ籠もっていた。おれには刑事が言った言葉の意味も、刑事がおれを訪ねてきた理由も、完全に理解できていた。しかしもちろんそれは『殺された』という言葉の意味に限定しての理解では、あったが。
「このお屋敷に、お嬢さんとお二人でお募らしですか?」と、恐縮した様子もなく、当然のような顔でコーヒーに砂糖を入れながら、刑事が言った。
「ふだんは手伝いの婆さんが居るんですが、今は田舎に帰っています」
「その手伝いの方は、たしかお松さんと言いましたっけな」
返事をしかけて、途中でやめ、おれはスプーンでしつこくコーヒーを掻き回す刑事の横顔を、思わず十秒ほど見つめてしまった。最初にこの男がやって来たときから、なにかが、おかしいのだ。
分解していたジグソーパズルが、瞬間に動きだし、おれの記憶の中でかちっと音をたてて整列した。
「おまえ、正木か?」
相手はコーヒーを掻き回しながら、すでに頭の中で笑っていたらしく、顔をあげたときにはその細い目の周りが油っけのない太い皺でいっぱいになっていた。
「いつ気がつくかと思ってな、ずっと待っていた」
「やっぱり正木か。そんなふうに髪の毛の色を変えたら、おれでなくても気がつかないさ」
「目つきも悪くなったし、か?」
「おまえが警官になったことは知っていたが……なん年ぶりだ?」
「高校を出て以来だ。もう二十年になる。俺のほうも家の近くまで来て、相手がおまえだということをやっと思い出した。あの松江っておばちゃん、元気なのか?」
「いい加減くたびれてはいるか、頭だけは元気だ」
「よく草団子を食わせてもらった。手を洗わないと岡山弁で怒られたっけな」
正木はその太くて短い指で、コーヒーカップを取りあげ、顎を引いて、庭から射し込む光のほうにじっと視線を据えつけた。髪も半分以上は白くなり、首の周りにも肉がついて目つきも本人が言ったとおり鋭くはなっていたが、その丸い鼻や厚くて横に広い唇は、たしかに二十年前の正木耕市のものだった。
「旧交を温めるのは別の機会にして、とりあえず仕事をさせてもらう」と、口をつけたカップを小机の上に置き、ふり返って、正木が言った。「さっき奥さんが殺されたと聞いたとき、おまえ、驚かなかったようだな」
「驚いては、いたさ」
「そうは見えなかった」
「気でも失えばよかったか? 突然人相の悪い刑事がやって来て、五年前に別れた女房が殺されたと聞かされてもすぐに実感は湧かなかった。もちろん今だって実感は湧いていない。だいいち本当に志保美が殺されたとして、そのことがおれに、関係があるのか?」
「それを調べている。たとえおまえとは離婚していても奥さんがあの子の母親であることには、変わりあるまい?」
「つまり……」
椅子を立って、煙草に火をつけ、作業台の端に尻をのせて、おれは正面から正木と向かい合った。
「つまり、志保美が殺されたというのは、本当に本当のことなんだな?」
「俺だって佐原、草団子が懐かしくてやって来たわけじゃないぜ?」
「最初から説明してくれ。草団子はあとでおまえの家にでも届けさせるさ」
正木が鼻の頭に皺を寄せ、上着の内ポケットから黒表紙の手帳を取り出して、その太い首をもぞっと肩の中に埋め込んだ。
「奥さんがおまえと別れたあと青山に宝石店を出していたことは、知っているな?」
「誰かに、聞いたような気はする」
「誰にだ?」
「お松さんだったかも知れない。たぶんお松さんだろう」
「彼女が広尾のマンションに住んでいたことは?」
「いや」
「誰にも聞かなかったのか?」
「聞いていない」
「どうして?」
「知りたいとは思わなかった」
「どうして?」
「おれは自分の親が天国で今どんなところに住んでいるのかも知らない。おれが容疑者なのか?」
「子供と一緒に捨てられた元亭主が容疑者じゃなくて、誰が容疑者なんだ?」
細い目を精一杯見開いて、正木が、にやっと笑った。
「発見されたのはその広尾のマンションの台所だ。風呂あがりだったらしく、着ていたのはバスローブ一枚だけ。発見者は宝石店に勤めている南礼子という女なんだが、この女のことは?」
「いや」
「この女は奥さんの秘書のようなことをやっていたらしい。昨日《きのう》一日奥さんが店に現れず、連絡もよこさなかったので不審に思ってマンションまで出かけて行ったそうだ。これまで無断で休んだり連絡を入れなかったりということは一度もなかったらしくてな。そういう人だったのか?」
「かなり、几帳面ではあったろうな」
「店を閉めてからこの南礼子が広尾のマンションにタクシーを乗りつけたのが、昨夜の午後九時。外から見ると部屋に電気はついているのに呼び鈴を鳴らしても応答がない。おかしいと思って管理人にドアを開けさせてみると、奥さんが台所で殺されていたというわけだ」
「ドアの鍵は?」
「かかってはいたが、内側で押して外で閉めると自動的にロックされる、例のやつだ。ドアチェーンはかかっていなかった」
「最初から殺されたと言っているが、はっきりと断言できるのか?」
「右の脇腹を庖丁で一突きされていた。解剖の結果も出ている。その傷が致命傷で、死因は失血死だ」
「躊躇《ためら》い傷なんかは、どうだ?」
ほう、というような顔で、正木がおれのほうに鋭い流し目をくれた。
「ばかに詳しいじゃないか?」
「そのうち探偵小説でも書こうと思ってな」
「躊躇い傷は無かった。それとも、自殺について思い当たることでもあるのか?」
「一応訊いてみただけだ。性格的には自殺をするタイプではなかったと思う。五年ぐらいでそうは変わらないだろうしな」
正木が立ちあがり、手帳を開いたまま、壁際の水槽の前までふらっと歩いていった。
「部屋の中に、争ったような形跡は?」と、腰をかがめて、水槽を覗き込みはじめた正木に、おれが訊いた。
「いや」と、金魚の動きを目で追いながら、正木が答えた。「争った形跡もないし、室内が物色された形跡もない。現金、貴金属等にも手はつけられていない。南礼子にも調べさせたが、何かが無くなっている様子はないということだ」
「凶器に使われた庖丁ってのは、どんなものだ?」
「たぶん自分で使っていたやつだろう。ゾーリンゲンの先の尖ったやつで、死体のすぐそばに転がっていた」
「指紋は?」
「庖丁やドアの取っ手は拭いてあった。最近は素人でも指紋のことぐらいは知っている。部屋の中からはいくつか採取できたが、犯罪者リストに載っているものとは一致しなかった」
腰を伸ばして、ふと、正木がおれのほうをふり返った。
「なあ佐原、おまえ、一昨日《おととい》の夜十時から十二時まで、どこにいた?」
おれは腰かけていた作業台をおり、正木の横を通って申庭の前まで歩き、そのガラス戸を一杯に開け放った。
「それが、犯行時間か?」と、背中に正木の視線を感じながら、煙草の灰を下にはたいて、おれが訊いた。
「そういうことだ。司法解剖の結果、死亡推定時刻は四月一日午後十一時の、前後一時間。つまり一昨日の午後十時から十二時の間ということだ。奥さんが十時まで生きていたことはマンションの管理人が証言している。その時間にマンションの入り口で奥さんを見かけたそうだ……で、おまえは、どこにいた?」
「おれを本当に疑っているのか?」
「可能性があれば自分の親でも疑う。下司《げす》なことは承知だが、それが俺の商売さ」
煙草を庭に捨て、つづけて新しい煙草に火をつけてから、おれが言った。
「一昨日の晩は、八時ごろ駅前の鮨屋に行った」
「一人でか?」
「娘は出かけていた」
「店の名前は?」
「さくら寿司」
「そこにはなん時までいた?」
「九時ぐらいだと思う。帰ってきたらテレビで九時のニュースをやっていた」
「そのとき、娘さんは家にいたのか?」
「亜由子が帰ってきたのはそれから少したってからだ。たぶん、九時半ごろだろう」
「あとで娘さんに確かめたいんだがな」
「まあ……」
「あの子、いくつだ?」
「十五。今度高校に入る」
「すごい美人じゃないか」
「まだ子供だ」
「十五で一人前になる女はいくらでもいるさ。娘さんが出かけていた場所は?」
「映画にでも行ったんじゃないかな」
「そんな時間まで、いつも遊びに出ているのか?」
「春休みだし……正木、おまえ、娘まで疑っているのか?」
「習慣で訊いてみただけだ。俺にだってそれぐらいの常識はある。それで、それから先は?」
「娘のほうは風呂に入ったり、台所を片づけたりしていた。おれのほうは十時すぎにはこの部屋に入った」
「その時間以降、誰か訪ねてきたとか、電話がかかってきたとかは?」
「誰も来なかったし、電話もなかった」
「つまり十時以降、娘さんに知られないようにこの部屋から抜け出そうと思えば、できたわけだな?」
「残念ながらそういうことだ。アリバイがないと、おれが犯人にされるのか?」
正木が、面白くもなさそうにぐずっと鼻を鳴らし、なんのつもりでか、水槽のガラスを指の背でこつんと叩いた。
「おまえが最後に奥さんに会ったのは、いつだった?」
「五年前。彼女がこの家を出ていったときだ。五年前の五月だが、日にちは覚えていない」
「それ以降は会っていないのか?」
「会っていない」
「娘さんはどうだ? 奥さんとは会っていたか?」
「親子だから会うぐらいは会っていたろうな。娘は一々報告しないし、おれも訊いたことはない」
おれはガラス戸を開けたまま、部屋の申に戻り、元の椅子に腰をおろして、コーヒーの残りで軽く口を湿らせた。
「なあ正木……」と、水槽の前に立って、黒い手帳に視線を落としている正木に、おれが言った。
「娘に話を訊くの、ちょっと待ってもらえないか。やつは今度のことは知らないはずだし、一応おれの口から話してやりたい」
「娘さんが奥さんと会っていたとすれば、なにかを知っている可能性がある」
「それもおれが訊いてみる。娘が事件についてなにか知っていたらおれからおまえに連絡をする、そういうことにしてもらえないか。生意気な口はきくが、十五は十五だ」
水槽の前から、のっそりと戻ってきて、元のソファに正木がぐったりと腰をおろした。
「とりあえずは、そういうことにしてやってもいい。おまえのアリバイも証明はできんだろうしな」
開いた手帳のページをボールペンの頭で叩きながら、疲れたような顔で、正木が小さく欠伸《あくび》をした。
「ところで、奥さんに恨みを持っていたような人間に、心当たりはないか?」
「あれから五年がたってる」
「十年でも二十年でも他人をしつこく恨む人間はいるもんさ。心当たりは、ないか?」
「急に言われても、思い出せないな」
「男関係はどうだ? 離婚の原因には、そのへんの問題はなかったのか?」
「別れた時点ではそういう問題はなかった。もちろんおれが知らなかっただけということは、有り得る」
「性格的にはどうだった? あれだけの店をやっていたわけだから、内向的ということはなかったろうが……敵をつくりやすいタイプだったか、どうか」
「自分の思うとおりにならないと気が済まない部分はあった。そして実際、ほとんどは思うとおりにやっていた。彼女がなにかを決心したらふつうの人間ではとめられなかったろう」
「死顔《しにがお》を拝んだだけだが、こっちが恥ずかしくなるぐらいの美人だったぜ。ああいう顔でそういう性格の女ってのが、だいたいは問題を起こすもんだ」
「それは正木、警官としての感想か? それともただの皮肉か?」
正木が、その厚ぼったい目蓋をぱたっと閉じ、掌で、ごしっと顔をこすった。
「俺のただの僻《ひが》みってことも、あるかもしれんなあ」と、また小さく欠伸をして、正木が言った。
「見てくれ[#「見てくれ」に傍点]も頭のできも家の格も、昔から俺たちは勝負にはならなかった。俺があれだけの美人と結婚していたら、たぶん死んでも別れなかったろうしな。しかしそれはそれとして、今のこの状況は俺の専門だ。被害者の日常の癖や性格を知っておくと、意外なところで役に立つことがある。まあ俺の商売ということで、結婚や離婚の経緯《いきさつ》をちょいと聞かせてもらえんか」
おれはまた、コーヒーのカップに手を伸ばし、その苦味を口の中で確認してから、椅子の背に首のうしろを強くもたれさせた。窓からの風が作業台の上で関きっぱなしになっている探偵小説のページを、ぱらぱらとめくっていく。
「結婚も離婚も、特別の経緯があったわけじゃない」と、椅子に座ったまま、作業台の上に脚を投げ出して、おれが言った。「志保美とは大学で知り合って、卒業と同時に結婚した。おれは最初から大学に残るつもりだったから、結婚はいつしても同じだと思った」
「おまえが大学に残ったことは誰かに聞いた気はする。なにか、研究でもやっていたのか?」
「ずっと考古学をやっていた」
「今でもか?」
「今は、やめている。大学も五年前にやめた」
「おまえが大学をやめたことと離婚との間に、なにか関係があるのか?」
「離婚の理由は一般的に言うところの性格の不一致だ。おれから見ても、彼女は家に閉じ籠もって一生を終えられる人間ではなかった。それに志保美の親は最初からおれとの結婚には反対だった。今から考えれば、お互いに結婚するのが早すぎたのかもしれない」
「娘さんはどうしておまえのほうに残ったんだ?」
「志保美には母親よりも自由に仕事をする女が似合っていた。志保美自身そのことに気がついていたし、それにお松さんがなんとしても亜由子を手放さなかった」
ボールペンの頭で髪の毛の中を掻き回しながら、脚を組みかえて、正木が音をたてて長く息を吐いた。
「俺にはどっちみち金持ちの考えることはわからん……それで、奥さんと親しくしていた人間なんかは、どうだ? 親友とかそういうのは」
「最近のことは知らない。それにその、『奥さん』というのはやめてくれ」
それが刑事になってからの癖なのか、目を細めて、また正木がにやっと不愉快な笑い方をした。
「五年前までのことでいい。おまえが知っている範囲で被害者が一番親しくしていた人間は?」
「朝倉文子だろうな。彼女も大学が一緒だった。おれと志保美が結婚してからもよく家に遊びにきていた」
「住所は?」
「世田谷のどこかだったと思うが、実家は銀座で瑞宝堂という宝石店をやっている。志保美がおれと別れたあと宝石店を始めたのは、たぶん朝倉文子の関係からだろう。最近のことならおれなんかより朝倉文子が詳しいはずだ」
正木がまた音をたてて息を吸い込み、丸い鼻からそれを勢いよく吐き出して、首をふりながら、手帳とボールペンを上着の内ポケットにしまい込んだ。肉が被さってよくは見えなかったが、厚い目蓋の奥の細い目はだいぶ充血しているようだった。
「済まんが、コーヒーをもう一杯もらえんかな。昨日から寝ていないんだ」
「命が惜しくなければベーコンエッグを食わせてやってもいい」
「なんのことだ?」
「いや……」
おれは椅子を立って、インタホンで亜由子にコーヒーを頼み、それから冷蔵庫にしまってある金魚の餌を取り出して水槽の前に歩いていった。正木のほうはおれが開けたガラス戸の前に場所を移し、欠伸をしながら、一つ大きく背伸びをした。
「庭の様子が、変わったようだな」と、その庭に向かって、煙草の煙を吐きながら、正木が言った。
「塀の前にでっかい柿の木があったはずだ」
「いつだったか、台風で倒れてしまった」
「甘柿だったのになあ」
「おまえ、今どこに住んでるんだ?」
「品川の警察官舎さ。餓鬼が三人もいやがって、お愛想にも遊びに来いとは言えんところだ」
「勤めは渋谷だったよな」
「都内をあちこち回って三年前から渋谷の中央署にいる。この歳でやっと係長さ」
「警視とか警部とか、そういう肩書きもあるのか?」
「警部補だ。定年までに警部になれるかどうか、径しいもんだがな」
亜由子がやって来て、おれにも正木にも声はかけず、コーヒーを置いてそのまままた黙って部屋を出ていった。
正木はガラス戸の前から部屋の中に戻り、コーヒーのカップを受け皿ごと持って金魚に餌をやっているおれのうしろまで歩いてきた。
餌の瓶を持ったおれの手元を覗き込みながら、鼻を鳴らして、正木が言った。
「それ、生きているみたいだな」
「糸ミミズさ」
「金魚なんぞパンくずでも食わせておけばいいと思っていた」
「人間と同じだ。動物性蛋白質を生で取るのが躰には一番いい。金魚だって風邪をひいたり便秘になったり、神経質なやつはノイローゼになったりする。金魚のこと、なにか知っているか?」
「祖先が鮒《ふな》だったことぐらいだ」
「ここ五年ほど新種の研究をやってるんだが、どうも、うまくいかない」
正木が、ずるっとコーヒーをすすり、喉の具合でも悪いのか、小さく二、三度咳払いをした。
「知らないだろうが、一番左のやつが丹頂という種類だ。躰が白くて頭の上だけが赤くなっている。となりのやつは、知ってるよな」
「出目金だ」
「おれが作ろうとしているのは形が出目金で色が丹頂ってやつだ。成功したらデメタンと名づけようと思う」
また咳払いをして、なにか唸りながら、その濁った目で正木がぐるっと部屋の中を眺め回した。
「おまえ、大学をやめてから、ずっとこんなことをやってるのか?」
「ずっと[#「ずっと」に傍点]でもこんなこと[#「こんなこと」に傍点]だけでもないさ。水槽の上から水が落ちているだろう? これはおれが発明した水を濾過する装置だ。ふつうの濾過器はモーターで水を汲みあげるんだが、おれのはサイホンの原理を応用している。電気も食わないし音も静かだ」
「俺が訊いたのは、仕事のことだぜ?」
「だからこれが仕事さ。バナナの自動皮剥き機も発明したが、娘には気に入ってもらえなかった。それにちゃんと本も書いている」
「本を?」
「『ミミズの足の研究』って本、知らないか?」
「知らんなあ」
「二年前に出して、五千部ほど売れた」
正木が、咳払いの代わりに今度はふーんと唸り、首を細かくふりながらのっそりと作業台の前に歩いていった。
おれは金魚への餌やりを終わらせ、瓶に蓋をしてそれを冷蔵庫に戻し、正木のとなりに行って作業台に腰をおろした。
「どんな事情かは知らんが、おまえが大学をやめたとき、奥さんが誉めてくれたとは思えんな」
「拍手はしてくれなかったさ」
「資産家の一人息子で末は博士だか教授だかになれたかもしれんのに、そいつが地位も仕事も放り出して訳のわからん道楽に現《うつつ》を抜かしはしめた……俺がおまえの女房でも、やっぱりこの家は出ていったろうぜ」
「おれが自分の女房でもやっぱり出ていったな」
「贅沢な悩みだよなあ、おまえのも奥さんのも。人間その気になればどんなつまらんことにでも悩めるってわけだ」
「皮肉だったらおれを殺人犯で捕まえてから言えばいい」
「気にするな。歳のせいか寝不足をすると人間が愚痴っぽくなる。今日はもう引きあげたほうがよさそうだ」
コーヒーを飲み干して、カップを作業台に置き、上着の内ポケットから正木が剥き出しのまま一枚の名刺を取り出した。そしてそれをおれに渡し、一人で勝手にうなずきながらスリッパを引きずってドアに歩きだした。
「なにか思い出したら、連絡をくれ」と、廊下を、おれと並んで玄関に歩きながら、正木が言った。
「ただの勘だが、今度の事件は面倒なことになりそうな気がする。あっさりおまえが犯人というわけにも、いかんだろうしなあ」
玄関につき、形の崩れた黒い皮靴に足を入れてから、正木がおれをふり返った。
「今日はこのまま空け番になるが、緊急の場合は連絡が取れるようになっている。思い出したことや気がついたことがあったら、なんでもいい、さっきの名刺の番号に電話を入れてくれ。それから……娘さんに、コーヒーがうまかったってな」
正木がドアを開け、肩越しに手をふって、すっと玄関から消えていった。遅れて閉まってきたドアのカウベルが呑気そうな音でごろんと鳴り渡った。おれはドアに向かって一つ深呼吸をやり、自分の頬を掌でぴたっと叩いてからゆっくりと食堂に戻っていった。
食堂では亜由子が、テーブルから遠く離した椅子に浅く腰かけ、Gパンの上で薄い大判の雑誌を開いていた。テレビでは花見の場所取りをする光景が上野公園からの中継で流れていた。
特別に居間というものがないこの家では、しいて言えば、食堂がその用に当てられていた。ふだんならお松さんが家宝の漬物石みたいに自分の席に陣取り、テーブルや椅子や食器棚や、あるいはおれや亜由子の位置関係に微妙なバランスをあたえてくれているのだが、ここ三日ほどは食堂中の鍋や釜もどことなく居心地が悪そうだった。
「お風呂、入れるけど?」と、雑誌から顔をあげずに、髪を指で掻きあげながら、亜由子が言った。
「気分じゃなくなった」と、椅子に腰かけてから、おれが答えた。
「どうするのよ」
「おまえが入ればいい」
「わたしは夜のほうがいいの」
「それなら、火を止めておいてくれ」
投げ出していた脚を手前に引いて、もぞっと、亜由子が立ちあがった。その瞬間亜由子の脚の間から小さく畳まれた新聞が、ぱらっと音をたてて床にすべり落ちた。亜由子は反射的に手を伸ばしかけたが、そのまま新聞は拾わず、油が切れたゼンマイ人形のように、また元の椅子にすとんと腰を落とした。
おれの頭の中で、白い炎が、一瞬ぼわっと燃えあがった。それまでどこか現実感をもっていなかった志保美の死が、今はもう亜由子の目の中に決定的な事実となって映し出されているのだ。
「新聞、読んだのか?」
こっくんと、亜由子がうなずいた。
「新聞なんてふだんは嘘しか書かんくせにな」
「お父さん」
「ん?」
「お酒が飲みたいな」
「なんだと?」
「お父さんの部屋にある、あのウイスキーを飲ませてって言ったの」
「それは、だから、いいか亜由子……」
「飲ませてって言ったら飲ませてよ」
テーブルを両手でぴしりと叩き、食器棚に目を据えたまま、亜由子が、すっくと立ちあがった。
「お父さんが持ってきてくれないなら、わたしが自分で持ってくる」
「待て」
脳味噌と心臓が躰の中で位置を入れかえてはいたが、とにかく、おれが立ちあがった。
「とにかく座れ。とにかく、その、持ってくるから」
亜由子が鼻で息を吐きながら、むむっと椅子に座り込んだが、目はあいかわらず食器棚の取っ手を睨みつけたままだった。
「座っていろ。戻ってくるまで、とにかく座っていろ」
おれは二、三度亜由子に向かってうなずいただけで、うしろにさがり、あとはもう自分の部屋に脱兎《だっと》の突進を開始した。動転しているだけで、亜由子の気が狂ったわけではないのだ。今の亜由子が飲みたいというのなら、ウイスキーでもガソリンでも好きなものを飲ませてやればいい。
飾り棚からウイスキーの瓶をひったくり、おれが食堂に戻っていったときも、亜由子はまだ食器棚を睨みつけたまま口の端を強く結んで鼻で荒い呼吸をつづけていた。
おれは忍び足でテーブルをまわり、流しに歩いて、そこにあったグラスに五分の一ほどウイスキーをそそぎ込んだ。
水道の蛇口に手を仲ばしかけたおれに、『エクソシスト』に出てきた女の子のような声で、亜由子が言った。
「なにするのよ?」
「ちょっと、水でうすめる」
「余計なことしなくていいよ」
「じゃあ、まあ、氷でも入れるか」
「余計なことしなくていいって言ってるじゃないの」
亜由子がなにかに憑かれたように、表情のない目で立ちあがり、視線をおれの顔に据えて、じりっとにじり寄ってきた。
亜由子の差し出した手に、仕方なくおれがグラスを手渡した。
亜由子は三度ほど肩で息をし、目を見開いたまま、色のうすい唇の間にグラスのウイスキーを、ぽいと放り込んだ。
亜由子の鼻の穴が、一瞬ぴくっとふくらんだ。おれは息を止め、亜由子の細い喉をウイスキーが流れ落ちる瞬間を見逃すまいと、そこにじっと視線を据えつけた。
亜由子の呼吸が息の音が聞こえるほどに荒くなり、口の端がひきつって、小鼻が感電でもしたように激しく痙攣《けいれん》しはじめた。その亜由子の目がおれになにかを問いかけ、おれがそのほうに屈み込もうとしたとき、強いアルコールの雨がおれの顔にどっとふりかかった。咳といっしょに亜由子がウイスキーを叶き出したのだ。
見開いたままの亜由子の目に、信じられないほどの量の涙が、一気に湧きあがった。
おれの顎の下にシャンプーの匂いのする亜由子の頭が飛び込んできた。
「こんなの、ウイスキーじゃない」と、おれの背中でカーディガンを掴みながら、首をふって、亜由子が叫んだ。「なに飲ませたのよ。わたしになにを飲ませたのよ? わたしはウイスキーを飲ませてって言ったのに」
「わかった。わかったから……」
おれは震えている亜由子の背中に、腕をまわし、骨ばった肩を、強く自分の胸の中に抱き込んだ。亜由子は泣き声とも唸り声ともつかぬ声をはりあげ、おれのカーディガンを好きなようにひっぱって、涙と鼻水をおれのシャツで好きなように拭きまくった。
おれは亜由子の肩と背中を、当てもなくさすりながら、途方に暮れるしかない自分自身に言いようのない腹立たしさを感じていた。亜由子の中で爆発した悲しみをおれはおれ自身の悲しみとして受け止めてやることができないのだ。おれにできることは、ただ漫然と亜由子の背中をさすりながら亜由子自身の悲しみが亜由子自身の中で消耗してくれるのを、途方に暮れながら待っていることだけだった。
亜由子は、そうやって、三十分ちかくも泣きつづけていた。やがて肩の震えがおさまりだし、鼻水をすする音と深い呼吸の音だけが、おれの神経にも甘酸っぱい実感となって伝わりはじめた。
おれは亜由子の躰をすくいあげ、テーブルにのせて、亜由子の顎を自分の目の前にひょいとつまみあげた。
まだ涙の溜まっている恨めしそうな目で、亜由子が、しゅっと鼻水をすすった。おれは頬に貼りついた亜由子の髪を指でかき上げ、ティッシュを取って、顔中に洪水をもたらしているその涙と鼻水をていねいに拭きとってやった。
「ねえ」と、拗《す》ねた目でおれの顔を睨みながら、口を尖らせて、亜由子が言った。「さっきわたしに飲ませたの、なんだったのよ?」
「だから、ウイスキーさ」
「本当に?」
「テレビで訳のわからん小説家が宣伝してる、ちゃんとしたウイスキーだ」
「わたし、お父さんが作った唐辛子のジュースかと思った。あんなもの、本当に毎日飲んでるの?」
「心が少し病気のときはああいうものが効《き》くこともある。今のおまえには、まだあれは薬にはならないんだ」
鼻をひくつかせ、おれのシャツで顔を拭いてから、亜由子が、はっと叫び声をあげた。亜由子はそのまま駆け出していき、風呂場にとび込んで、しばらくすると真剣な顔で首をふりながら食堂に戻ってきた。
「お風呂のお湯でお茶がいれられるよ」
「どうせならおれはコーヒーがいい。さっきの刑事もおまえのコーヒーを褒めていた。それにおまえのことを、今までに見たこともない美人だってな」
亜由子が鼻を鳴らし、肩で大きく息をして、黙って流しの前に歩いていった。おれは床に落ちたままになっていた新聞を拾いあげ、椅子に腰をおろして、膝の上でその新聞を開いてみた。
志保美の記事が載っていたのは、社会面のかなり下のほうだった。それでも見出しは三段抜きでごていねいに顔写真まで載っていたが、記事の内容は正木がおれに話してくれたものと、ほとんど同じだった。
電話が鳴って、ふり返った亜由子を目で制し、歩いていっておれが受話器を取りあげた。相手は志保美の兄の、木崎周一だった。
「君に連絡すべきなのか、迷ったんだが……」と、低い、抑揚のない声で、木崎周一が言った。
「事件のことは知っているかね?」
「新聞を読みました。それに刑事もやって来ました」
「それじゃ、あゆちゃんにも?」
「風呂が沸きすぎたと怒っていますよ」
電話の中で、咳払いをし、木崎周一がつづけた。
「なにがどうなったのか、わたしにもさっぱりわからなくてね。とにかく新聞に書いてあるとおりらしいんだが、最近志保美はうちにも寄りつかなかったしな。君のほうでなにか……」
「あれ以来わたしたちは会っていません」
「わかってる。志保美もそうは言っていた。その、今朝遺体が警察から戻ってきてね。こういうことになってしまって、とにかく、葬式はうちのほうで出すしかなくなったんだ。君に来てくれというのも、その……」
「今夜が通夜ですか?」
「そうだ。葬式は明日十時から、菩提寺の妙庵寺でやることになってる」
「亜由子だけは行かせます、これからすぐに」
「君は?」
「わたしは……わたしは、志保美がわたしに会いたがるかどうか、今夜一晩考えてみます」
電話を切り、ふり返ったおれの目を、亜由子の目がまっすぐに覗き込んできた。
「コーヒー、はいったわ」
うなずいて、テーブルに戻り、亜由子のいれてくれたコーヒーを、おれが一口すすりあげた。
「木崎の伯父さん?」
「今夜が通夜だそうだ。高校の制服、できているのか?」
自分のコーヒーカップに向かって、亜由子が、こっくんとうなずいた。
「お母さんに見せてやるんだな」
亜由子の口がまた悲しい形に歪みかけたが、もう涙は出てこなかった。
「わたし、本当は、お母さんに会ってたの、お父さんには言わなかったけど」
「かまわんさ。親子なんだから」
「お母さん、お父さんのことをいい人だって。だけどお母さんにはお母さんの生き方があって、それはどうにもならないことなんだって……わたし、あの日もお母さんに会ったの」
「あの日?」
「新聞に出ていた、一昨日《おととい》の、あのお母さんが殺された日」
亜由子が鼻水まじりの溜息をつき、おれもなんとなく溜息がつきたくなって、テーブルに向かって一つ大きく息を吐き出した。
「一昨日おまえが帰ってきたのは、九時半ごろだった。つまり、それまでお母さんと会っていたということか?」
目の下を手の甲でこすって、亜由子が、小さくうなずいた。
「わたしが高校生になるお祝いをしてくれたの。お父さんも誘おうかって言ったら、顔を会わせるのは気まずいからって、それで、二人で夕飯を食べて、それで……」
亜由子がおれのほうに顎をつき出し、トレーナーの首に指を差し込んで、中から青い石のついた、細い銀色の鎖を取り出した。
「プレゼント。お母さんが自分でデザインしてくれたの。サファイアなんだって。サファイアって、わたしの誕生石なんだって」
「おれの誕生石はダイヤモンドだが、そのことは、なにも言ってなかったろうな」
亜由子が胸の前にその石をかざしたまま、気まずそうに、にっと笑った。
「光に透かすと中に星が出るの。スターサファイアっていって、珍しい石なんだって」
「高いのか?」
「訊かなかった。そんなこと、どうでもいいもの」
亜由子に言われなくても、おれにしたってそんなことはどうでもいいのだが、正木との約束上やはり一昨日の晩のことを尋ねないわけにはいかなかった。
「さっき来た刑事な」と、テーブルに肘をついて、コーヒーをすすってから、おれが言った。「あれ、高校の同級生だった。二十年もたっていて最初はわからなかったが、まあ、昔はけっこう仲がよかったやつだ。それで、おまえにも話を訊きたいと言ったんだが……」
「わたしならだいじょうぶだよ」
「おまえが大酒飲みだということが、ばれて[#「ばれ」に傍点]もか?」
「バナナの自動皮剥き機がばれ[#「ばれ」に傍点]るよりずっといいわ」
生意気に、涙で腫《は》れた目で、亜由子がにたっとウインクした。
「それで……」と、ウインクを返してから、おれが言った。「犯人のめぼし[#「めぼし」に傍点]とかってやつ、ぜんぜんついていないらしい。今のところ一番の容疑者はおれなんだそうだ」
テーブルについた腕に顎をのせて、上目使いに、亜由子がくすっと笑った。
「お父さんのお友達、本気で仕事をしてるのかなあ」
「本人は本気らしかった。昔から融通がきかないやつだったが、警官なんてあれぐらいでちょうどいいのさ。だけど、一応な、お母さんが本当に殺されたんだとしたら、やつに犯人を捕まえてもらわなくちゃならない。それで……」
「一昨日の晩のこと?」
「会ったのは、なん時ごろだ?」
「一昨日の晩、六時ごろ、わたしがお母さんのお店に行ったの。それで仕事が終わるのを待ってて、六時半ごろ二人でお店を出て、原宿まで歩いて、途中でワンピースを一つ買ってもらって……」
「おまえなあ、この前デパートに行って、おれにも洋服を買わせなかったか?」
「あのときはお父さんが気に入った服を着てやろうと思っただけよ。お父さん、あれが気に入ったじゃない?」
おれに向かって断定的にうなずいてみせ、亜由子が、頬杖を右の手から左の手にとりかえた。
「それからね、表参道ぞいにあるマルセイユっていうレストランに行って、海老《えび》と貝のフルコースを食べたの。お母さんが予約しておいてくれたの」
「今度のおまえの誕生日にはおれがマクドナルドを予約してやる。で、お母さん、なにか話したか? その、困ったことがあるみたいなこと」
「ぜんぜん。お母さん張り切っていた。今度丸越デパートにもテナントを出すんだって……お母さん、とっても奇麗だったのに」
亜由子の視線が、すーっとテーブルにさがり、睫毛《まつげ》が白い頬にかすかな影を震わせた。
「食事をして、それで、店を出たのはなん時ごろだった?」
「九時ちょっと前。お母さん、誰か人に会うと言ってた」
「その誰か、名前は聞かなかったか。男だとか、女だとか」
「聞かなかった。でもたぶん仕事の関係の人だと思う。お母さんは仕事のことしか話さなかったもの」
「店を出て、それから?」
「お母さんは店の前からタクシーに乗って、わたしは表参道から地下鉄に乗って、それで……」
「帰ってきたのが、九時半てわけか」
おれはコーヒーを飲み干し、煙草に火をつけて、亜由子の顔にかからないように、その煙を長くテレビの上に吐き出した。
志保美がおれと別れて以降、彼女なりに充実した人生をおくっていたことは、亜由子の話からもだいたいの想像はつく。その志保美がなぜ殺されなくてはならなかったのか。自分にも他人にも多少は強引なところがあったかも知れないが、彼女はけっして理屈のわからない女ではなかった。志保美を殺さなくてはならないほどの状況とは、犯人にとって、いったいどんなものだったのか。
立ちあがって、コーヒーのカップを片づけ始めた亜由子に、おれが言った。
「木崎の伯父さんの家、覚えているか?」
背中で、亜由子が小さくうなずいた。
「早く行ったほうがいい。お母さんがおまえを待ってる」
「カップを洗ってから行くよ」
「そんなもの燃えないごみで出しちまえばいいさ。早く風呂に入って、とびきりの美人になって、ついでに高校の制服をおれにも見せてみろ」
亜由子がまた背中でうなずき、それでも手は止めず、洗いおわったカップを水切りの上に並べながら首をかしげて軽くおれをふり返った。亜由子はそこで大きく息を吸い込み、鼻の穴をふくらませて、そのまま黙って風呂場のほうへ歩いていった。
おれの頭の中に、忘れていたテレビの音が急によみがえった。おれはリモコンに手を伸ばしてテレビのスイッチを切った。
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亜由子を送りだしたのは、十二時少し前だった。
おれは自分の部屋のベッドにひっくり返り、仮眠という無茶なこころみに挑戦していたが、新聞に載っていた志保美の写真はおれの努力など最初から受けつけてはくれなかった。なにか胸騒ぎのようなものが、金魚の水槽と機械のがらくたで溢れた部屋の中に、空気のひずみとなって目に見えない渦を巻いている。志保美は、この五年間、いったいどんな生活をしてきたのか。
おれと暮した十年間が志保美にとって不本意なものであったことは、五年前お互いに無理を承知で確認しあったことだった。しかしその十年間の中には、少なくとも殺人事件などという不可解な要素が入り込むすきは、一つも無かったはずだ。問題はこの、五年間なのだ。この五年間のどこかで志保美は被害者になる条件を背負い込み、そして犯人はこの五年間のどこかで志保美に殺意を抱き、そして一昨日の夜十時から十二時の間に実人生の中で殺人犯という衣裳をまとってしまったのだ。その志保美の死に、おれにも責任があると考えるのは意味のない感傷だろう。ただ志保美の娘である亜由子の人生には、まちがいなく、おれにも責任がある。
おれはべッドの中の平和を放棄し、風呂場に歩いて、火をつけ直してから湯船にどっぷりとつかり込んだ。寝不足の不快感とアルコールのだるさが、おれの皮膚からじんわりと流れだしていく。志保美と暮した十年間が、収縮し、ビデオテープの巻き戻しのように、おれの頭の中でからからと抒をたてて逆回りしていく。
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四月に入ったというのに、へんにうそ寒く、いつもなら満開のはずの桜も今年はまだ七分咲きにもなっていない。それでも羽根本公園あたりから飛んできたのか、蜆貝《しじみ》のような桜の花びらが風に舞ってアスファルトや街路樹の欅やブロック塀や家々の軒に、掃き残した紙吹雪のような白い点景をつくっている。
おれは梅ケ丘の駅から小田急線に乗り、下北沢で井の頭線に乗りかえて、渋谷に出た。
学生が春休みに入っているせいか、駅も駅の周辺も、あの酸っぱいような生臭いような、学生たちが集団で放つ独特の圧迫感は感じられなかった。そんなことにほっとすること自体、おれ自身歳をとったということなのか。
亜由子が、一昨日の晩志保美と別れたあと表参道から地下鉄に乗ったということは、志保美が出していた宝石店も青山通りに面したその辺りにあるということだ。以前お松さんから正確な場所を聞いたような気もするが、志保美の名前と一緒におれはその店の場所も自分の記憶から閉め出していた。今度の事件さえなかったらおれは青山通りをタクシーで通ることさえしなかったろう。
花曇りの、散歩に適した陽気ではなかったが、とりあえずおれは宮益坂を青山方面にのぼりはじめた’志保美の広が表参道駅より赤坂寄りにあるにせよ、渋谷寄りにあるにせよ、どっちみちおれは外苑前ぐらいまでは歩くつもりだった。亜由子が生まれる前、それはおれと志保美が好んで歩きまわった散歩道だったのだ。
青山通りは、十五年前と、ほとんど変わっていなかった。少なくとも原宿がこの十五年間で変わったほどには、変わってはいなかった。もちろんおれの知らないレストランやブティクやなにかのショールームのようなものはあちこち目につくが、郵便局も紀ノ国屋も青学の正門も、まるでおれの郷愁をくすぐろうとでもするように黙然と息をひそめていた。
表参道との交差点を赤坂側に渡り、ガソリンスタンドの看板が目に入ってくる、少し手前。なにか予感のようなものがおれの首筋をこわ張らせ、おれは歩調をゆるめて、通りに而した店々の看板を注意ぶかく目でなぞっていった。
全体にレンガ色の意匠を凝らしたコーヒーショップ。間口二メートルほどの小さな花屋。おれの記憶にもある毛皮店のショーウインド。そして、やはり、白いシャッターをおろした『ジュエル・青山』。記憶に間違いがなければ、昔ここはモントレイという洋菓子屋があったはずだ。
おれはその『ジュエル・青山』の前で足を止め、車道側に寄って、その店全体を自分の視角の中に流し込んでみた。通りに而して七、八メートルもシャッターがつづいているから、思っていたよりはずっと大きな店だ。おれの知らない五年間で志保美はこんな宝石店を経営するまでになっていたのか。妙な感慨と妙な不安が、車道を走るクルマの音と一緒におれの耳の奥を通り抜けていく。
おれはもともと、志保美の宝石店を探しだして思い出に浸りたいとか、五年間の空白を心の中で埋めてみたいとか、そんな破廉恥な感傷を抱いたわけではない。ただ眺めてみたかったのだ。五年間の志保美の生活。志保美の仕事。志保美が命をかけ、そしてその命を消していった志保美の城。それらをただ、十年以上夫婦として暮したことのある相棒として、通りすがりを気取ってちょっとだけ眺めてみようと思っただけなのだ。
『都合により、当分の間休業させていただきます。店主』
ガラスドア一枚ぶんほど開いたシャッターの横には、黒いマジックインキで書かれた半紙ほどの紙が貼ってある。最後の『……店主』というのは志保美のことなのに、もちろんその文字は志保美が書いたものではない。
おれはしばらくその貼り紙を眺めたあと、ぶ厚いガラスのドアを透かして、そっと店の中を覗いてみた。小さい照明はついているが、中に人の気配は感じられなかった。
ドアについているスチールパイプの取っ手を引くと、それが外側に開き、換気されていない空気がむっとおれの顔に押し寄せてきた。ドアの開閉を知らせる装置でもついているのか、陳列棚の奥の部屋から書類挟みを抱えた若い女が姿を現した。
女は二、三歩絨毯の上を歩き、ドアの内側につっ立っているおれに、黒縁の眼鏡をかけた不審そうな顔をこころもち左に傾《かし》げてみせた。
「ご覧のとおり、今日は休ませていただいておりますの」
ていねいではあるが、それははっきりと自分の意思を相手に伝えることのできる、プライドの高い女の喋り方だった。
女はブルーグレーのブラウスをベージュのタイトスーツで包み、書類挟みを胸の前に抱えて、また一歩おれのほうに近寄ってきた。髪を不自然なほど短く刈ってはいるが、顔立ちはこっちが恥ずかしくなるほどに整っている。
「店が休みなことは、承知しています」と、おれの目とほぼ同じ高さにある女の目に向かって、おれが言った。
「警察の方でしょうか?」
「警察は花見客の整理で忙しいんですよ」
おれは女から目を離し、三方の壁を取り囲んだ陳列棚と、その前にせり出したショーケースとをわざと時間をかけて眺めまわした。紺色の絨毯が敷かれたフロアのまん中には白いソファが置かれ、ショーケースの前にもところどころ白い小さな丸椅子が配置されている。客が時間をかけて品選びができるように、との配慮なのだろう。
「もしかして、社長の……」と、暗い照明に眼鏡を光らせながら、顎を引いて、女がおれの顔を覗き込んだ。
「もしかして、亜由子さんのお父様?」
「おれに似てるなんて間いたら、あいつが気を悪くするだろうな」
一瞬言葉を詰まらせたあと、女の口から軽い息がもれ、それと同時に、輪郭のはっきりした唇の間からきれいに揃った白い歯がにっとこぼれ出た。整いすぎてはいるか、けっして笑顔が似合わない顔ではなかった。
「なんとなく、そんな感じがしましたわ。亜由子さんから伺っていたとおりの方ですもの」
女が書類挟みで口元を隠し、目で笑ってから、ふと真顔になって深々とおれのほうに頭をさげた。
「このたびは、とんだことになってしまいました」
「いや……」
女のほうから切り出され、迷ったが、おれは黙って女の挨拶を受け入れることにした。この場でおれと志保美の関係を説明したところで、なんの意味がある。女も承知したうえでのおくやみ[#「おくやみ」に傍点]なのだ。
会釈でおれをソファに導きながら、女が言った。
「亜由子さん、どうしていらっしゃいます? ショックを受けられたと思いますけど」
「子供のわりには頑張っています。亜由子はこの店によく来ていたんでしょうかね」
「月に一度ほどおみえでした。わたくしもなん度か食事をご一緒させていただきました」
亜由子の言った『たまに』は、どうでもいいが、『月に一度も[#「も」に傍点]』という意昧だったのだ。当然そのことはお松さんも承知していたわけで、つまり二人が共謀しておれを疎外していたことになる。今作りかけている脳波増幅機が完成したら、まず最初にお松さんで実験しなくてはなるまい。
「お待ちいただけます? わたくし、この書類を片づけて参ります」
女がおれにソファをすすめ、自分はきびすを返して、出てきた奥の部屋に大股で歩いていった。歩き方まで訓練されているような、すきのない身のこなしだった。
女が部屋に消えたとたん、天井のシャンデリアに明かりがつき、壁際におしこめられていた陳列棚やガラスのショーケースがまるで息を吹き返したように、一斉に輝きはじめた。フロア全体が一つの宇宙船で、今にも空に向かって浮かびあがりそうな錯覚におそわれる。
おれがソファに腰かけ、シャンデリアの明るさに唖然としているところへ、女がガラスの盆にコーヒーカップを二つのせて足早に戻ってきた。
「申し遅れました」と、おれに名刺を差し出しながら、女が言った。「わたくし南礼子と申します。このお店をはじめる前から、社長にはお世話になっておりました」
その名刺はうすいグレーの地で、肩書は本店総支配人となっている。
「ブラックでよろしかったでしょうか」
おれがうなずくのを見て、南礼子という女も、口元をほころばせながら前の席に腰をおろした。ベージュのスカートからのびた膝から下が、驚くほど長い。
「志保美……彼女をマンションで発見したのは、あなただと聞きましたが」と、コーヒーカップを取りあげながら、おれが訊いた。
南礼子もカップに手をのばし、舌の先で、ちょっと唇をしめらせた。
「おかしいと思って、それで管理人にドアを開けさせました。でも実際あの光景を見たときには、わたしもう少しで気を失うところでしたわ。血の海って、ああいうことを言うんでしたのね……それですぐ警察に電話を入れました。刑事さんからお聞きになったでしょう?」
「死亡推定時刻は一昨日の夜、十時から十二時の間だそうです。あいにくその時刻わたしのアリバイが曖昧でしてね。容疑者としてはかなり有望だということです。そちらは、いかがです?」
コーヒーカップを手に持ったまま、眉間に皺をよせ、南礼子がおれにからかうような流し目を送ってきた。
「容疑者の可能性? それとも、アリバイのほうでしょうか?」
「自己紹介がわりに両方とも伺いたいもんですね」
歯を見せないで、にっと、南礼子が笑った。
「亜由子さんのお父様でなければ、今ごろこのコーヒーが佐原さんの顔にかかっていたところですわ」
「亜由子、わたしのことをなにか言っていましたか」
「歳のわりに口のきき方を知らない人だそうです。でも、悪気はないって」
「人間が素直すぎるとも言ったでしょう?」
「『この人、もしかしたら、本当は馬鹿なんじゃないか』って、たまにそう思うときもあるらしいですわよ」
「教育の成果です。亜由子にはものごとを客観的に観察するよう、ずっと教えてきました。で、どうなんです? 質問に対する答えは」
「容疑者の可能性は、もちろんゼロですわ」
コーヒーカップを下に置き、椅子に深く座りなおして、南礼子が顎をまっすぐおれのほうにつき出した。
「わたしは社長を尊敬しておりました。このお店だって社長がいなければこの先つづけられるかどうか、それさえわかりません。警察にもその事情はよくわかってもらえたと思います。アリバイのほうも一昨日は九時から十二時まで宝石デザイナーの方と渋谷のスナックで飲んでおりました。警察でももう調べているはずですわ。こんなところで、お気に召していただけますでしょうか?」
コーヒーを飲み干し、一度止めた息を、おれがふーっと大きく吐きだした。
「志保美を殺す動機もなく、アリバイも完璧だという人に会えて、わざわざ来た甲斐がありました。もしあなたが犯人だったらわたしは極度の女性不信に陥ってしまう」
おれを睨んでいた南礼子の目尻に、細かい皺が現れ、またかすかに白い歯が顔をのぞかせた。どこか作り物めいた表情の変化もこの女の中では見事なまでに統一がとれている。
「わたしはべつに、私立探偵の真似事をするつもりはないんです」と、取り出した煙草に火をつけ、その煙を軽く吐いてから、おれが言った。「ただ志保美がどうしてこんなことに巻き込まれたのか、わたしなりに答えを見つけてやりたい気がする。それに事件が長びくことは亜由子にとってもけっしていいことではない。知ってるでしょう? あいつ、今度高校に入るんです」
おれの顔を年上の女のような目つきで眺めながら、南礼子が、可笑《おか》しそうに小さく首をかたむけた。
「言われなくても、わたしに出来ることなら、もちろんなんでも協力いたしますわ」
「おれ……わたしにわからないのは、たった五年で彼女がどうやってここまで店を大きくしたのかということです。資金に問題はなかったにせよ宝石に関して志保美はずぶの素人だったはずだ。この業界ってのは、素人がかんたんに首をつっ込めるほど甘いものなのか、どうか……」
「おっしゃるとおりです。もちろん、一般的にはですけれども」
南礼子も煙草を取り出し、金色のダンヒルで、自分の煙草にしゅっと火をつけた。
「社長の場合は一種の天才だったと思います。この業界って、魑魅魍魎《ちみもうりょう》が仮面を彼って社交ダンスをしてるようなもんですもの。素人の方は近寄っただけでも毒気で殺されてしまいますわ」
「五年たって玄人《くろうと》になりかけた女も、やはり、殺されてしまった」
出しかけた言葉を、途中で飲み込み、南礼子が眉をしかめて、ふっと溜息をついた。
「最初にあなたが『この店をはじめる前から』と言ったのは、どういうことです? 志保美とは昔からの知り合いだったわけですか?」
「知り合ったのは、ちょうど五年前です。それまでわたし、大学を出てから三年間銀座の瑞宝堂に勤めておりました。ご存知でしょう? うちの社長と瑞宝堂の社長、大学時代からの友達なんです」
「朝倉……文子。彼女が、今は瑞宝堂の社長ですか?」
「三年前に先代の社長が亡くなられて、今の社長があとを引き継ぎました。でもそれまでも、銀座の本店は彼女が取り仕切っておりました」
「あなたの勤めていたその瑞宝堂に、五年前、わたしと別れた志保美が入った」
「社長は最初から独立するための勉強で瑞宝堂に入られました。瑞宝堂のほうもそれは承知しておりましたから、社長がこの業界に加わるために、全面的な協力をしてくれました。半年間でメーカーから卸《おろし》まで、主だったところはすべて抑えきったと思います」
「それで半年後に、志保美は独立した……あなたを引き抜いて」
「わたしはもともとデザイナー志望でしたの。でも一年で諦めました。自分の才能の限界がわかるぐらいにはわたしにも才能があったということでしょう。それからはずっと、営業をやっておりました。社長からお話があったとき、正直に言って少しは不安がありました。でも瑞宝堂で半年間一緒に仕事をしていて、社長には、この人に賭けてみたいと思わせる、なにかがあったんです。それでわたくし、社長に賭けてみました。わたしの賭けは成功でした、少なくとも、一昨日の夜までは」
南礼子の言葉に、志保美の顔を思い出しながら、煙草を灰皿でつぶして、おれが訊いた。
「志保美の独立までは認めていたとしても、あなたを引き抜くことについて、朝倉さんとの間に問題は起こらなかったのかな」
「あちらはあれだけの歴史のあるお店ですし、わたし一人が辞めたところで経営に支障があるということはなかったはずです。わたしにしても瑞宝堂にいるかぎり、できる仕事はたかが知れておりましたから」
「一緒にこの店を始めて、経営はすぐ軌道にのったわけですか?」
南礼子が、ゆっくりと足を組みかえ、切れ長の目をシャンデリアのあたりに、ぼんやりと漂わせた。
「今から考えれば、もしかしたら、あれは一種の奇跡だったのかも知れません。社長のアイディア、時代感覚、実務能力……最初のころ、わたくしだって戸惑うことばかりでしたもの。このお店の商品、ご覧になりました? すべて『ジュエル・青山』のオリジナルですわ。社長は宝石の流通機構を変えられたんです」
天井に漂っていた南礼子の視線が、おれの顔に戻り、黒目の中にシャンデリアの明かりを強く反射させた。
「テレビでうちの店のコマーシャルが流れていること、ご存知ありません?」
「さあ……」
「若い人の間ではもう定着していると思います。社長はイメージと名前を先行させました。それから宝石の値段を靴や洋服や日用品のレベルにまで引きさげたんです。ご覧になればわかりますけど、ここに並んでいる商品、どれも二、三万円のものが主流になっています。高くても五万円前後。もちろん財産としての価値はありませんが、宝石は宝石ですし、アクセサリーとしてデザイン的には自信をもってお薦めできます。宝石なんてもともと値段があってないようなものなんです。同じ一カラットのダイヤでも十万円のものもあれば五百万円のものもあります。でもダイヤはダイヤです。十万円のダイヤに鑑定書だってつけて差し上げられます。原宿で洋服を買った若い女の子たちが、ついでにうちの店に寄ってルビーのピアスを二万円で買っていきます。それもガラス玉や水晶に色をつけたものではなく、本物のルビーを、です。うちの店にくればそういった本物の宝石が、靴や洋服と同じ程度の値段でかんたんに手に入れることができるんです」
「カメラの安売屋みたいな感じが、しなくもないが」
「カメラとは、まるでちがいます。カメラはどんな店で買おうと、カメラはカメラなんです。でも宝石は夜店で買った宝石は夜店の宝石、高級店で買った宝石は高級な宝石。そういうことになるんです。『ジュエル・青山』はあくまでも高級宝石店です。お客様もそのイメージを買いにみえられます」
「つまり、仕事はかなり順調だったということですね」
「五年で、正確には四年半ですけど、小売り店の売上げではもう十本の指に入っております」
「この一店舗だけで?」
まさか、というように、眼鏡を外しながら、南礼子がにやっと笑った。
「地方のデパートに十店舗以上のテナントを入れております。本店を含めて従業員は五十名。下請けのデザイナーや工場まで入れると、『ジュエル・青山』の運営には百人以上の人間が参加しています。ですから……」
そのとき、通りに面したガラスドアが頼りなく間いて、髪をポニーテールに結った目の大きな娘が、不安そうな表情でひょいと顔をのぞかせた。
南礼子がおれに会釈を送り、立ちあがって、フロアをゆっくりと娘のほうに歩いていった。
「申し訳ありませんけど、今日はお休みなんですのよ」
「あの、わたし、沢村萌といいます」
娘は南礼子にぺこりとお辞儀をし、なんのつもりでか、ぼんやり眺めているおれにまで、目で微笑みかけながらぺこりと頭をさげてきた。
「今日の三時に、こちらの社長さんとお目にかかる約束をしてます」
南礼子が、ちらっとおれに流し目をくれ、それから片方の眉だけをあげて、不審そうに娘のほうをふり返った。
「どういう、ご用件でしょう?」
「わたし、大学で彫金の勉強をしてます。それで一か月ぐらい前、社長さんにネックレスのデザイン画を見ていただきました。そのとき試作品ができたらもってこいと言われて、それで一昨日電話したら今日の三時に店に来るようにと言われました」
自分の腕時計をのぞき込み、時間を確かめてから、娘が一つ、うんとうなずいた。
「ちょっと、早かったですか?」
「ちょっと遅すぎたんじゃない?」
「はい?」
「あなた、今朝新聞をお読みにならなかったの?」
「読みましたけど……なにか?」
「社長はお亡くなりになったの」
娘の唇が大きくめくれて、今にも笑いだしそうな目が、忙《せわ》しなくおれと南礼子の顔を往復した。
「残念だったわね」と、口の端に力を入れて、南礼子が言った。
「あの、じゃあ、わたしの試作品は?」
「それどころではないこと、おわかりにならない?」
「わかりますけど、あのう……」
「また機会があったら拝見しますわ。今日はとりこんでいますので、悪しからずね」
南礼子がドアを開け、謁見は打ち切りといった感じで、娘のほうに強く顎をつき出した。娘はまだなにか言いたそうな顔をしながらも、おれと南礼子にぺこりと頭をさげ、肩をすくめてひょいとドアを出ていった。青山通りを走るクルマの音が、その間だけやかましく店の中に流れ込んでいた。
「なんとなく、かわいそうな気がするな」と、首を小刻みにふりながら戻ってきた南礼子に、おれが言った。
「ああいう子たちに取りあっていたら、切りがありませんの。多いんですのよ、大学で彫金やデザインをやっていてすぐにでも一流のデザイナーになれると思ってるような子……人のことは、言えませんけどね」
そのまま南礼子はソファには座らず、奥のショーケースの前まで歩いて、唇を噛みながらそのケースをじっと覗き込んだ。
「それにしても、これから、どうなるんでしょう。このお店、せっかくここまでやってきたのに」
新しい煙草に火をつけ、たっぷりと南礼子の脚を鑑賞してから、おれが言った。
「あなたなら一人でもこの店をやっていけると思うけどな」
低い姿勢のまま、顔だけでふり返って、気怠そうに南礼子が微笑んだ。
「組織にはシンボルが必要ですわ。それも社長のような、強いカリスマ性をもったシンボルが」
「君のカリスマ性だって女房に逃げられた中年男には、じゅうぶん強烈だ」
「それ、冗談ですの?」
「冗談は相手を見て言うことにしている。亜由子に聞いていませんか。おれはいい女には冗談は言わない」
おれの顔を見おろしながら、絨毯の感触をたしかめるように戻ってきて、ソファに座る演技でもするように、南礼子がゆっくりと元の席に腰をおろした。
「たとえわたしがお店をつづけたいと思っても、わたしには経営権そのものがありません。持ち株は社長が六十パーセント。わたしが十パーセント。あとは……」
「木崎商事?」
「ええ。ですから、『ジュエル・青山』がこれからどうなるか、見当もつきません。帳簿だけは整理しておきますけど、先のことを考えるとわたくし、どうしても気が沈んでしまいます」
「丸越デパートにも、テナントを出す計画だったそうですね」
南礼子の視線が揺れながら跳ねあがり、そのまますっと、力なく奥のショーケースのほうに流れていった。
「丸越に入れるほどのネームバリューは、まだありませんわ。社長が生きていれば五年ぐらい先にはそういうことも可能だったかも知れませんけど。だいいち今度のことで、地方のテナントさえどうなるかわかりませんの。社長自身を失ったのと同時に、『ジュエル・青山』のイメージも失うことになるでしょう。新聞には店の名前は出ませんでしたけど、週刊誌は放っておいてくれませんものね。一週間後の週刊誌の見出し、今から目に浮かぶようですわ」
「志保美が、週刊誌に書かれて困るような生活をしていたということですか?」
「私生活のことまでは存じません。でも『仕事一筋だった有能な女性経営者』では、週刊誌は売れませんでしょう? 下品な読者が望んでいるとおりの、下品な記事を書くに決まってますわ、あることないこと」
週刊誌のことまでは考えていなかったが、たしかに、それは南礼子の言うとおりかもしれなかった。テレビでも面白半分にとりあげるかもしれないし、そうなった場合、亜由子の目からそれら一切を隠しとおすわけにもいくまい。事件の事実関係は、亜由子には理屈で納得してもらうより方法はない。
コーヒーを飲みほし、煙草をつぶして、おれが立ちあがった。
「今夜夕飯を誘っても、OKはしてもらえないだろうな」
南礼子も立ちあがって、パットの入った尖った肩を軽くすくめてみせた。
「帳簿を片づけたら、今夜は社長のお通夜に参ります。もちろんお食事の誘いを、わたくし、いつも断るわけではありませんわ」
シャンデリアを映している南礼子の目に、うなずいてみせ、そのままおれがドアのほうに歩きだし、 南礼子も黙ってあとについてきた。
自分でドアを開けてから、おれが言った。
「君にはこれからなん度も会うことになる予感がする。店のためにかおれ自身のためにかはわからないが、たぶん、そういうことになると思う」
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閉まったドアの形と、シャッターに書かれた『ジュエル・青山』という文字を頭に刻みつけて、おれはゆっくりと渋谷の方向に戻りはじめた。このまま志保美が住んでいたマンションがあるという広尾まで、散歩がてら足をのばしてみようと思ったのだ。
毛皮店の前をすぎ、花屋の前を通りこして、コーヒーショップの模造レンガで囲まれたウインドの前まできたとき、窓ぎわの席から、さっき志保美の店に顔をのぞかせた娘の姿が勝手におれの目に飛びこんできた。娘は手にコーヒーかなにかのカップを持ったまま、口を尖らせてテーブルの上で二つ折りにした新聞に視線を走らせていた。
ふと顔をあげ、歩きだそうとしたおれに、なにを思ったのか女の子がひらっと手をふってきた。おれは念のために一応うしろをふり返ってみたが、他に人はなく、青山通りにクルマの流れがつづいているだけだった。
もう一度窓に向き直ったおれに、女の子は額に皺ができるほど目を見開き、尖った鉛筆のような指が五本もついた手を、またひらっとふってみせた。
おれは思わず手をふり返し、なぜか次の瞬間、自分でもそのコーヒーショップに入ることに決めてしまった。女の子の仕草にどこかおれをほっとさせるものがあったのかもしれなかった。
店に入って、恐る恐る席についたおれに、女の子がポニーテールをふって大袈裟に顔をよせてきた。
「大変だったんですね、ちっとも知らなかった」
声をひそめてはいるか、目には強い好奇心が光っていて、それが素直な顔立ちに個性的な印象をあたえている。
「新聞なんてふつうこんなとこまで読みませんもんね。今わたし、ものすごくびっくりしてます」
ウエイトレスが来て、おれがコーヒーを注文するのを待ってから、また女の子が軽く唇を尖らせた。
「あの社長さん、こんなふうに亡くなって、まだ本当だと思えません。優しい人だったでしょう?」
「人類すべてに優しかったとしても……」と、ポケットに煙草をさぐりながら、女の子の目を見返して、おれが言った。
「殺される運命にある人間はいるさ。キリストがそうだった」
おれの台詞を無視し、窓の外に視線を移して、女の子が一つ小さく欠伸をした。
「なんか、がっかりしちゃった。もう会えないんですね、あの社長さん」
「君は、たしか、沢村……」
「萌です」
「それで彼女とは、どこで知り合ったんだ?」
「わたし、宝飾品工業会でやったコンテストで佳作になったんです。表彰式のとき社長さんがみえられて、それでたまたま持っていたネックレスのデザイン画を見ていただきました。そしたら、試作品をつくって持ってくるようにと言ってくれました」
「会ったのは、一度だけなわけか」
「ええ。でも、わたしものすごく感激しました。相手は『ジュエル・青山』の社長さんでしょう? その方が直接声をかけてくれて、わたしの作品を見てくれるって言うんですもの。本当言うとわたし、一週間ぐらいぼーっとしていました」
一人で勝手にうなずき、それからふくらませた頬を破裂させて、沢村萌が下からおれの顔を覗きこんだ。
「あのう、『ジュエル・青山』の方ですか?」
「ただの通りがかりだ。死んだ社長を昔ちょっと知っていただけさ」
「嘘みたい。それ、なんとなく嘘っぽいな」
「それって、どれ」
「通りがかりというのと、昔ちょっと知っていただけというの」
「彫金のほかに大学では心理学も習ってるのか」
「顔に書いてありますよ。ちょっとした知り合いでもないし、通りがかっただけでもないって」
「心理学者の宝石デザイナーとしては、おれの正体をどう読むのかな」
「それは……」
また頬をふくらませ、大きな目を上目遺いにつかいながら、沢村萌がじっとおれの顔に視線を据えつけた。
「警察の人では、ないですよね。家族の人でもないし、業界の人でもないし、だとすると、社長さんの不倫の相手かな」
注文したコーヒーがやってきて、おれは思わず笑い出しそうになった自分の顔を、ウェイトレスの腰の横に隠してごまかした。世の中には生まれつき憎めない性格の人間というのが、たぶんいるのだろう。
「かなりいい線を突いてるが、残念ながら、不倫はやらなかった」
「週刊誌の人とか、そういうのでもないでしょう?」
「世田谷で探偵事務所を開いているんだ。名前は、佐原っていう」
口笛でも吹きそうに、寄り目をつくって、沢村萌が小さく唇を丸めた。
「それじゃあ、今度の事件を調べてるわけですか?」
「一応、そのつもりだ」
「でも日本の私立探偵って、殺人事件の捜査はやらないんでしょう?」
「場合によりけりさ。今度の事件は、おれには特別なんだ」
「社長さんが佐原さんの初恋の人だったとか?」
「まあ、似たようなもんかな」
「ロマンチックじゃないですか。わたしそういうの、大好きです」
おれもロマンチックなことは嫌いではないが、志保美にとっても志保美を殺した犯人にとっても、今度の事件はロマンチックとはほど遠い。
コーヒーを一すすりし、新しい煙草に火をつけてから、生意気そうにつき出している沢村萌の鼻の頭を、おれが軽く睨みつけた。沢村萌はテーブルに両肘をつき、おれの威嚇など気にもせず、屈託のない顔でしきりにこちらの人品を値踏みしていた。この沢村萌という娘は相手をじろじろ見ることを許される、なにか特殊な才能を持っているのかもしれなかった。
「君はネックレスの試作品を持ってきたはずだったな」と、しばらく好きなようにおれの顔を眺めさせてから、煙草の煙をテーブルの下に吐いて、おれが言った。
首をかしげて、ほっと、沢村萌が溜息をついた。
「本当はわたし、けっこう落ち込んでます。わたしだってこれ、一生懸命つくったんです」
「見せてもらえるか?」
「佐原さん、宝石のこと、なにか知ってるんですか?」
「同じ一カラットのダイヤでも、十万円のものもあれば五百万円のものもある。もちろんどっちがどっちか、おれには区別はつかない」
首をかしげたまま、歯を見せて笑い、沢村萌が小さなバッグから掌にすっぽり入るほどの白いハンカチの包みを取り出した。
「あと二日早くできていれば、このネックレス、社長さんに見てもらえたんです」
手渡されたハンカチの中にあったのは、銀色の鎖の先にやはり銀色の台にのった、青くて小さい透きとおった石だった。宝石のこともネックレスのこともデザインのことも知らないが、それが今朝亜由子のトレーナーの首から出てきたものとそっくりなことぐらい、おれにも一目で判断はついた。
「スター……サファイアか」
内心の動揺はおさえたつもりだったが、鎖をつまんだ指先の表惰までごまかせたかどうかは、我ながらおれにも自信はなかった。
「けっこう詳しいじゃないですか」
「志保美……社長に、君が最初に見せたデザイン画は、これか?」
目を細めて笑い、沢村萌が、こっくんとうなずいた。
「社長さん、気に入ってくれました。石を支えている爪の形が素直でいいって」
この状況で、ここまで似ていれば、志保美が沢村萌のデザインを盗用したことを、否定してみても意味はない。しかし実際問題志保美にとって、こんな卵にもなっていないデザイナーの作品を盗用することに、どれだけの価値があったのか。
もちろん善意で考えれば、沢村萌のデザイン画を見たときからそれを亜由子の入学祝いにしようと決め、試作品が出来あがるのを待ちきれずに自分でつくってしまった、そう考えられなくはない。台の素直なデザインや石の透明感のある清潔さは、むしろそう考えたほうが自然だろう。だが、だからといって、志保美がこんな子供みたいな娘のデザインを無断で借用していいという理屈にはならない。逆に相手が子供であるからこそ、使う目的が亜由子の入学祝いであるからこそ、志保美としてはそのデザインに最低限の礼儀を払うべきではなかったのか。
「このネックレス、売るとしたら値段はいくらぐらいだろう」
沢村萌が、おれの手の中のネックレスに目を細め、それから片方の眉をあげて、にたっとウインクをした。
「二万円か、二百万円か、そんなところかなあ」
おれの困惑を読みとったのか、生意気そうに、沢村萌がふんと鼻を鳴らした。
「石が本物だとして、鎖と台が本物のプラチナだとして、わたしが有名な本物のデザイナーだとして、そしたらそのネックレスは二百万円。でもそれは台も鎖もただの銀。石もサファイアみたいに見えるけど、底に青い塗料を塗ったただのスター水晶。それにね、決定的なのは、製作者がまったく無名なただの彫金科の学生ってこと。だから、今のところ、そのネックレスはただの二万円」
沢村萌の目を覗き込んでいたおれの目を、鼻の頭に皺をよせて、今度は沢村萌が困ったような顔で覗き返した。化粧をしていないと思っていた沢村萌の顔から、かすかにファンデーションの匂いが伝わってきて、意味もなく、おれはたじろいだ。
「本当なんですよ。高いと思うかも知れないけど、材料費だけで本当に二万円かかっているんです」
「本物でなくても、君の才能がにじみ出てることはわかる。志保美が生きてたら君と専属契約を結んだと思う」
身をのり出していた沢村萌が、ぱたんと腰を引き、一瞬呆れたような目つきをして、おれのほうにちょっと顎をつき出した。
「この業界ってそんな甘いものじゃありません。知らないんですか?」
「君ほどには、知らない」
「デザイナーになるには大学を出て、最低でも十年はかかるんですよ。それも才能があって、ちゃんと努力して、ちゃんと運も良くてです。わたし社長さんに会えたからってすぐ自分がデザイナーになれると思ったわけじゃありません。ただあんな人と知り合いになれて、たまにいろんなことが相談できて、そんなふうになったらいいなって、そう思っただけです」
よくはわからないが、たぶん沢村萌は志保美に対して、宝塚の男役に抱くのに似た罪のない憧れを持っていたのだろう。その志保美が自分のデザインを勝手に使い、娘のためのネックレスをつくっていたと知ったら、沢村萌は、いったいどう思うか。
ハンカチと一緒にネックレスを下に置き、沢村萌のかたく結んだ唇を無意識に見つめながら、おれが言った。
「このネックレス、売ってもらえないかな」
しばらくどこかに耳を澄ましたあと、やっとおれの声が聞こえたというように、不思議そうな顔で沢村萌が大きく目を見開いた。
「ええと……なぜ?」
「記念に」
「なんの?」
「おれがあのとき、ちょうどあの店にいた偶然と、君が今日の三時に志保美と会う約束がしてあったことの偶然と、彼女が、君のこのネックレスを手にできなかったことの必然と、それらのことのすべての記念に」
舌の先で唇をなめ、掌でポニーテールのほつれを撫でつけてから、沢村萌が頼りなさそうな目で、ぷすっと頬を破裂させた。
「こんな物、関係ない人にはなんの価値もないと思うけどなあ」
「価値があるかないかは、おれが決めるさ」
「でも……」
ほんの二、三秒、沢村萌の視線がおれの顔の輪郭に沿って、ぼんやりと走り回った。
「本当に? いいんですか?」
「おれは君がいいかどうかを訊いてる」
次の瞬間、どこかに飛んでいくかと思うほど、沢村萌が椅子の中でぴょんととびあがった。
「いいのかな。あのね、本当言うと、すっごく助かるんです。彫全て道具だとか材料だとか、けっこうお金がかかるんですよ。この春休みだってわたし、ずっとロッテリアでアルパイトをやってました」
「今度ソープランドでアルバイトをすることになったら、また連絡してくれ」と、沢村萌の顔から視線を外し、財布を取り出しながら、おれが言った。「定価の二万円と、あとは君が有名になったときの、先行投資みたいなもんだ」
おれがテーブルに五枚の一万円札を置き、沢村萌が、ぴゅっと口笛を鳴らした。
ネックレスを取りあげ、ハンカチを返そうとしたおれに、沢村萌が言った。
「いいんです。そのハンカチ、サービスしときます」
おれがネックレスをハンカチで包みなおし、上着のポケットにしまい込むのを見て沢村萌も小さなパッグからもっと小さいピンク色の財布を取り出したが、その財布には亜由子の持ち物に見かけるのと同じ、緑色の蛙の顔がプリントしてあった。
財布をバッグに戻し、ふーっと溜息をついて、沢村萌がぺこりと頭をさげた。
「良かった。今日このままなにもいいことが無かったら、たぶんわたし落ち込んでいたと思います」
「君がなにかで落ち込むとしたら、それは社会のほうが悪いんだ」
沢村萌に会釈を送ってから、伝票をつまんで、ゆっくりとおれが立ちあがった。
「あ、わたしも行きます」
どこへ行くのかは知らないが、沢村萌も立ちあがり、肩紐のついた小さなパッグを胸の前にかかえて跳ねるようにおれのあとをついてきた。
おれがレジで金を払い、その開店の外で待っていた沢村萌が、出ていったおれに、またぺこりと頭をさげた。
「おばあちゃんがよく言ってます。『禍福はあざなえる縄のごとし』って。人生って、ぜったい悪いことだけがつづくものじゃないと思います。だから人生ってやめられないんですよねえ」
残念ながらおれは沢村萌のおばあちゃんが言う格言に、全面的に賛成する気にはならず、沢村萌を無視して黙って青山通りを渋谷の方向に歩きはじめた。
沢村萌もすぐに歩きだし、おれのとなりで、やけに背筋をのばして大股におれと歩調を合わせてきた。その歩き方は可笑しいぐらい真剣で、表情もなにか使命でももっているのかと思うほど、呆れるぐらい真剣だった。この娘はたぶん、こんなふうに、なんにでも真剣にとり組まないと気が済まない性格なのだろう。
「佐原さん、お花見、嫌いですか?」と、不意に、歩いていくおれの前に肩を割り込ませて、沢村萌が言った。
「昔から桜の木の下に立つと気が狂うことになっている。目眩《めまい》がして気が遠くなって、気がつくとすっ裸で踊ったりしてな」
ふーんと唸ったが、おれの特異体質についてはそれ以上言及せず、また正面を睨んで、ほっほっと沢村萌が歩きはじめた。歩くたびにポニーテールが揺れ、カーディガンの下で温められたコロンかなにかの匂いが、ほんのわずかだがおれの顔にまとわりついてくる。
表参道との交差点をすぎ、原宿の方向にも曲がらなかった沢村萌が、またひょいとおれの前に顔をつき出した。
「佐原さん、映画なんかは、好きですか?」
「君、子供のころ恐いおじさんに連れて行かれたことはなかったか?」
「子供のころから、わたしは人を見る目があるんです」
青学の手前で立ち止まり、ふり返った沢村萌に、おれが言った。
「じゃあな。映画は好きだけど、今日は用がある」
そこから広尾に行くとすれば、明治通りに出るよりも青学の手前を東京女学館のほうに向かうのが一番の近道だ。
おれと離れていた距離だけ戻ってきて、ぷくっと、沢村萌が鼻の穴をふくらませた。
「お仕事ですか?」
「そんなところだ」
「社長さんのマンションに行くわけですね?」
無意識に足をとめて、ふり返ったおれに、沢村萌がにっと笑いかけた。
「それぐらいわかります。でも心配してたんです。佐原さん、タクシー代がなくなったのかなって。探偵さんて貧乏ですものね」
「そりゃあ……」と喉につまった困惑を、咳払いと一緒に吐き出して、おれが言った。「探偵によりけりさ。ふだんおれは、その、大企業専門だから……それより、なんで君が彼女のマンションを知ってるんだ?」
「そんなことさっきの新聞に書いてありました。渋谷区広尾3の16の2、広尾ハイツ308」
なるほど、そういえば、そうなのだ。今朝おれが読んだ新聞にもその住所は出ていたし、おれ自身その住所を覚えていて、そこまで歩いてみようと思ったのだ。それにしても、この娘はなんで志保美の部屋番号まで暗記してしまったのか。
「わたし、夕方まで暇なんです」
「それは、よかった」
「社長さんのマンションを調べるんですよね」
「決めているわけじゃない」
「わたし、本物の探偵さんを見るの、生まれて初めてです」
「誰にだって生まれて初めてのことはあるさ」
「でもわたし、自分か探偵をやるなんて考えてもいませんでした。やっぱり今日はラッキーだったなあ。明日は夕方から家庭教師のアルバイトがあるんです」
どうも困った状況に陥っているらしかったが、それがどれぐらい困った状況なのか、なんとなく、おれは考えたい気分ではなかった。目だけを微笑ませている沢村萌の顔には最初からの決定事項だという深い確信と、自分の意思力に対するぜったいの自信が、無邪気にみなぎっていた。亜由子もそうだが、子供がこういう目つきになったときには、もうぜったいこっちの意見など聞いてはくれない。
諦めて、おれは沢村萌にうなずいてやり、沢村萌もうなずき返して、おれたちはまた肩を並べて青学の脇の道を広尾の方向に歩きはじめた。住所まで暗記したということは、たとえ一人でも沢村萌は事件現場の探険に出かけるつもりなのだ。夕方までは、どうせ暇なんだろうから。
青学の敷地を回り込み、首都高速の下をくぐると、住居表示はそこから広尾になった。道なりに歩けば東京女学館の北側に出る。
左に曲がると日赤、右に曲がると国学院というT字路にまで来たとき、沢村萌が塀の住所札を指さしてぽんとおれの背中をたたいてきた。それには緑色の鉄板に白い文字で『渋谷区広尾3の16』と書かれていた。学生の声も姿もない、クルマ二台がやっとすれちがえるほどの、古い住宅街の道だった。
おれたちは住所札のかかった塀に沿って、右に曲がり、ゆるい坂道を国学院の方向にくだりはじめた。桜の季節だというのにまだどこかで沈丁花が匂っていた。
そうやっていくらも歩かないうちに、住宅街の中に、不意にレンガ色の建物が現れた。おれの方向感覚が正しかったというよりは、たぶん沢村萌の運のほうが強かったのだろう。建物の入り口には『広尾ハイツ』と刻まれた銅板のレリーフが嵌《は》めこまれている。
おれはそこで立ち止まり、電柱に寄りかかって、上を見あげながらまた無自覚に煙草に火をつけた。このレンガ色の四階建ての建物が、おれと別れたあとの志保美が五年間一人で暮らしたマンションなのだ。今度の事件さえなければ、特別感慨を抱くこともないような、それは都会の住宅街のどこにでもあるありふれた瀟洒なマンションだった。この五年間、青山の店だけでなく、亜由子はこのマンションにも出入りしていたのだろうか。吸っている煙草の煙の中に嫉妬めいた感情の昂ぶりがまぎれ込んだが、それが亜由子に対する嫉妬なのか、志保美に対する嫉妬なのか、おれ自身はっきりと区別はできなかった。
「ねえ、始めないんですか?」と、おれの肩口から、マンションのほうを目だけで覗き込んで、沢村萌が言った。
「なにを?」と、おれが訊き返した。
「聞き込みですよ。一昨日《おととい》の夜怪しい人を見なかったかとか、社長さんの交友関係はどうだったかとか」
「そんなことは警察がやっているさ」
「それじゃあ、佐原さん、なにをしに来たんです?」
「青山の店からここまでの道順を確かめた」
呆れたように、眉をしかめて、沢村萌が大袈裟に肩をすくめた。
「わたし、今度の事件、仕事関係のトラブルだと思います」
「助手に雇った覚えは、ないんだがな」
「いいんです。まだサービスのつづきです」
「それで……」と、煙草を道に放って、一応、おれが訊いた。「なぜ『仕事関係のトラブル』だと思うんだ?」
「だって社長さんみたいな人、いくらでも男の人を選べるもの。愛情関係のもつれなんて考えられません」
「理屈どおりにいかないのが、男と女さ」
「でもちゃんと計算するのは女のほうです。相手の収入だとか地位だとか、自分とのつり合いだとか家の格式だとか。それで、意外と妥協はしないんです」
「参考には、させてもらう」
「それに業界のこと、わたしだっていくらかは知っています。社長さんは一種のヒロインでした。でもそういう人って反感をかうことも多いと思います。古い商売のやり方をしていて社長さんにお客を取られた人だって、ぜったいいると思います」
「噂があるのか?」
「直接は聞かないけど、あり得ると思いますよ。大いにあり得ます……ねえ?」
おれに聞かれてもわからないが、沢村萌は自分の推理に勝手に満足し、口を結んで、うむと深くうなずいた。この娘を雇って事件の捜査にあたらせたら、もしかしたら本当に犯人を見つけてしまうかもしれないなと、ついおれは本気で考えてしまった。そういえば今日は、寝不足の二日酔なのだ。
おれは寄りかかっていた電柱から、背中を離し、深呼吸をして、もう一度その四階建てのマンションを見あげてみた。入りロは道路に面して北側についているから、各部屋のベランダはそれぞれ南に向かっていることになる。建物の大きさからして、一つの階に十世帯とは入っていないだろう。狭い駐車場には五台の乗用車が停まっている。
駄目で元々と、いつの間にかそういう気分になっていて、それほど意識もせずに、おれはマンションの入口に向かって歩きはじめた。沢村萌の屈託のなさが伝染したのか、寝不足で自制心が麻痺していたのか、たぶんその両方だ。
『広尾ハイツ』というレリーフの嵌め込まれた入り口をくぐると、中は意外に広々としていて、明るい壁照明が三つと、左手の壁にはステンレスの郵便受けが整然と二列に並んでいた。
『管理人室』と札のかかった小窓の向こう側には紺の制服を着た男が、一人でポータブルテレビを見ながら暇そうに座っていた。沢村萌をうながして、おれはそのほうに歩いていった。
おれたちを見て、気のなさそうに窓を開け、男が半分ほど身をのり出した。七三に分けた髪をポマードかなにかで撫でつけた、五十年配の貧相な男だった。
「木崎さんの部屋、まだ警察が入っているのかな」と、威嚇にならない程度に、声をおさえて、おれが言った。
「そりゃあ、帰りましたがね」と、油気のない顔を怪訝そうに回してきて、管理人が答えた。「おたく、新聞社の人?」
「いや。木崎さんの身内みたいなもんだ。部屋に入りたいんだがな」
「誰も入れるなって言われてますけどねえ。いやね、その、警察から」
一万円札でも握らせれば、部屋の鍵ぐらい胃の中からでも吐き出しそうな男だったが、あとのことを考えて、おれはポケットから今朝正木が渡していった名刺を取り出した。
管理人に名刺を渡しながら、おれが言った。
「この人に電話して、佐原が部屋を見たがってると伝えてくれないか?」
名刺を受け取り、正木の肩書と名前に息を殺してから、管理人がバックのように電話にとびついた。そこで管理人は電話機に向かってくどくどとなにか話し、戻ってきて、顎の下ににじんだ汗を手の甲で拭きながら不安そうにそっと名刺を差し出した。
「今席を外されてるとかで、折り返しここに電話を下さるとのことです」
警察と聞いて急に言葉づかいを変えたところをみると、もしかしたらこの男も、臑《すね》に一つや二つの傷は持っているのかも知れない。
待つまでもなく、管理人室の電話が鳴り、男が電話機を持ってそれを窓のところまで運んできた。
今朝二十年ぶりに聞いた正木の声が、受話器の中でまた皮肉っぽくよみがえった。
「妙なところにいるそうじゃないか、え?」
「花見に出たついでに、ちょっと寄ってみたんだ」
くっくっと、小さく正木が笑った。
「ご隠居さんの散歩にしちゃ、えらく遠出したもんだな」
「ついでに事件現場の見物をやろうと思ってる」
「探偵小説を書くときの、参考にか?」
「そんなところだ」
少し間をおいてから、正木が言った。
「関係者以外は立ち入り禁止になっているんだ」
「採証が済んだことはわかってる。それにおれが関係者だと言ったのは、おまえのほうだ」
またしばらく間があってから、受話器の中で、正木が低く咳払いをした。
「現場の物には一切手を触れちゃいかん。それが条件だぜ」
「手を触れるつもりも証拠を隠すつもりもない。手懸りを掴んでおまえを警部にしてやろうと思っただけさ」
「わかった。管理人に代われ」
「その前に、今夜にでもちょっと会えないか?」
「銀座でおまえの奢りか?」
「渋谷の焼鳥屋で、おれの奢りだ」
「なにか……いや、俺のほうも都合はいい。七時でどうだ?」
「七時に、ハチ公前」
「ハチ公?」
呆れた声を出してから、ぐわっと、正木が大袈裟に吹き出した。
「知ってたか? 俺が今の女房と最初に待ち合わせしたのが渋谷のハチ公前だった。あそこは縁起が悪い。落ち合う場所はハチ公前じゃなくて、西武デパートの前がいい」
受話器を管理人に渡し、正木と話をさせてから、部屋の鍵を受け取っておれたちはエレベータに歩きだした。となりでは沢村萌が横目をつかって、一言ありそうな表情でしきりにおれの顔を観察していた。警察にまでコネがある探偵としてのおれの実力に、この宝石デザイナーの卵も改めて感激したらしかった。
志保美の部屋は三階の、廊下をつき当たった西の角部屋だった。その部屋に行きつくまでにドアの前を三つ通ったが、住人とは誰ともすれちがわなかった。
ドアを開け、壁のスイッチを押すと、まず狭い沓脱《くつぬ》ぎの天井に小さい明かりが一つ点灯した。部屋がばかに暗く見えるのは南側の窓全面に引かれたグレーの厚いカーテンのせいらしかった。
おれたちはそこに靴を脱いで、あがり込み、おれが窓に歩いてそのカーテンを半分だけ片側に押し開いた。うす曇りの光が射し込み、不意に内部の間取りが浮かびあがった。生活の中にまぎれ込む小物を一切拒否する努力をしていたような、間違いなくそれは『志保美の部屋』だった。
ろくに鳴りもしない口笛を吹いて、沢村萌が生意気そうな目で、ぐるっと壁を見まわした。
その八畳ほどの洋間は宝石店の気負い込んだ華やかさとは対照的に、絨毯もソファもサイドボードもすべてが落ち着いたモノトーンで配色されていて、志保美の外見からは質素すぎる印象かも知れないが、おれにとっては妙に懐かしい納得できる雰囲気だった。
「あそこですね」と、洋間につづくダイニングの床に、顎をしゃくって、沢村萌が言った。
そこには白いチョークで、祈れ曲がって倒れていたらしい人型のようなものが描かれていた。脇腹を一突き、というから、傷口を押さえて倒れ込み、志保美はそのままの態勢で失命したのだろう。ただ『あれこそ血の海』と南礼子が言った血痕だけは、ありがたいことに奇麗に拭き取られていて、白いチョークの線さえなければここで殺人が起こったことなど信じる気にはなれないほど清潔な部屋だった。
沢村萌がもぞもぞと動きだし、ダイニングとは反対側のドアを開けて、その中にひょいと首をつっ込んだ。
「ホテルの部屋みたい……」
そこは居間と同じ八畳ほどの洋間で、沢村萌の感想を間くまでもなく、ベッドとサイドテーブルと衣裳棚と仕事机が置かれただけの、意識的に生活の匂いを排除したような部屋だった。
おれはその部屋を覗いただけで、窓の前に歩き、ガラス戸を開けてそこからベランダにおりてみた。渋谷から世田谷にかけて住宅街の屋根がつづいているだけで、特別目立つような高い建物は見えなかった。
三階のこのベランダまで犯人がよじ登ってきたということが、はたして考えられるだろうか。よしんば不可能ではないにしても、それではある程度訓練された人間ということになる。だいいち発見される可能性は、知らん顔をしてマンションの玄関を通るよりも大きいだろう。志保美がバスローブ一枚で、しかも室内に争った形跡がなかったということは、たぶん犯人も無理やり外から侵入してきたわけではあるまい。風呂に入っている最中にやって来たにせよ、その人間を待たせて風呂に入ったにせよ、志保美の性格からしてよほど親しい人間でなかったら自分のそんな姿は見せなかったはずだ。やはり、男か。この五年間志保美に男ができなかったと考えるのは、たしかに無理がある。しかし沢村萌の台詞ではないが、痴情の果てに刃傷沙汰を起こすような男と志保美が関係をもったと考えることにも、やはり無理がある。自分にも他人にも、いくぶん病的なほどの潔癖さを要求する女だったではないか。
居間に戻り、ソファに腰かけたおれに、なにやら唸りながら寝室から出てきて、沢村萌が言った。
「さすがですね。洋服から下着まで、ぜんぶブランド品です」
「あまりいじくり回すと、あとで恐いおじさんに叱られるぞ」
「ちゃんと元に戻しました。男物のシャツとか靴下とか、ありませんでしたよ」
「気がつくやつならそれぐらいは始末するさ」
「でもやっぱり、特別な男の人はいなかったと思うな」
沢村萌はそのままダイニングに歩き、一々うなずきながら、今度は流しの引き出しや食器棚を名探偵よろしくていねいに検分してまわった。正木には手を触れるなと言われたが、どうせ現場写真も指紋も採ってあるわけだし、沢村萌を多少遊ばせたところで捜査に支障がでるとも思われなかった。
「やっぱりです。箸も茶碗もカップも、自分の物以外はぜんぶ来客用のセットです」と、流しの前でふり返って、沢村萌が言った。
「そういうことには気をつかわない女だった、少なくとも、おれが知っているかぎりは」
「そんなことはないです。女って好きな人ができたらモーニングカップとかスリッパとか、それぐらいは用意するもんですよ」
「男とは、いつも外で会っていた可能性もある」
「社長さんは離婚されていたんです。特別な人がいたとしたらいつも外で会う必要はないと思います」
もちろん理屈には合っているが、それにしても離婚のことまで知れ渡っているほど、志保美はこの業界での有名人だったのだろうか。
「君は志保美のこと、他になにを知ってる?」
「蛍華大の英文科をでて、二十三歳で結婚。五年前に離婚してすぐに『ジュエル・青山』を設立。去年の年商は推定三十億。これは小売店としては業界第八位の売りあげです。それから瑞宝堂の社長さんとは大学時代からの親友……宝石のPR雑誌に書いてありました」
なるほど、業界紙のない業界というのもないわけで、いくらかでも宝石と関わりのある人間ならそれぐらいは知っていて当然ということなのか。
「しかし、ふつうに考えて……」と、志保美と結婚していたことを忘れて、つい、おれが口をすべらせた。「あんないい女に、男がいなかったというのも腑に落ちないな」
「だからいいんですよ」と、戻ってきて、勝手におれのとなりに座りながら、沢村萌が言った。「社長さんみたいな奇麗な人が男には目もくれずに仕事一筋って、そういうところに憧れるんです。もしつまらない男がいて、それでこんなことになったとしたら、わたしなんか幻滅しちゃいます」
沢村萌を幻滅させてもかわいそうだが、だからといってもし本当に志保美が五年間仕事一筋に生きてきたとしたら、それはあまりにも渇きすぎている。離婚した女房に対して大きなお世話だと言ってしまえばそれまでだが、それなら今、おれがここでこうしていること自体が大きなお世話なのだ。
「現場検証は、お済みになりましたかね」
羨ましいぐらい身軽に腰をあげて、こっくんと沢村萌がうなずいた。
「佐原さんはなにか閃きました?」
「いや……」
「わたしは確信しました。今度の事件、ぜったいに仕事が絡んでいます。愛情のもつれじゃありません。社長さんの部屋を見てわたし、そのことを確信しました」
おれたちが一階に戻っていったときも、管理人はあいかわらず窓口の向こう側で、カウンターに肘をかけてポータブルテレビに見入っていた。人の出入りも少ないだろうし、この男にとってはこの時間が一番暇な時間帯なのかも知れなかった。
「木崎さんのこと、少し聞かせてもらいたいんだが」と、管理人に鍵を返しながら、おれが言った。
テレビのボリュームをさげ、まだおれの素性を警戒する目つきで、管理人が口の端にぎゅっと力を入れた。
「警察にはみんな話しましたがねえ」
「それと同じことを話せばいいんだから、楽なもんじゃないか」
おれは財布から一万円札を抜き出し、それを四つにたたんで、無表情に待っている管理人の胸ポケットに、ぽいと押し込んだ。
「おたく、この仕事はどれぐらいやってるんだ?」
「そりゃあ……」と、自分の胸ポケットを目の端で気にしながら、管理人が言った。「このマンションが出来た最初からですから、もう六年になりますかねえ」
「住み込みで?」
「家内と二人でお世話になってます」
「木崎さんが越してきたのは、五年前だったはずだが?」
「来月でちょうど五年ですよ」
「その間の木崎さんの暮らしぶりなんだが、なにか、変わったことに気がつかなかったかな」
「変わったことったって……」
煙草に火をつけ、一つ煙を吹いてから、なにか考えるような顔で管理人が灰皿を自分の前に引き寄せた。
「いえね、毎晩帰りが遅いんで、最初は夜の勤めかなって思ったんですよ。このマンションにもそういう人はおりますしね。それにしちゃずいぶん品のいい人だなって家内とも話してたんです。そしたらあんた、宝石店の女社長さんだっていうじゃありませんか。帰りも遅いわけですよ。一応契約じゃ十時までここのカーテンを開けとくことになってるんですが、木崎さんが十時前に帰られたってこと、ほとんどなかったんじゃないですかね」
「人はよく訪ねてきたか?」
「だってねえ、朝も九時ごろには出かけてましたし、休みで部屋にいるってこともまずない人でしたよ。それに夜の十時にはわたしらも奥に引きあげますから、それ以降のことは、なんともねえ……」
「しかし決まって訪ねてくる人がいたら、気がつくんじゃないのか? 木崎さんは五年も住んでいたんだ」
「そりゃあ、お店の方はね。髪の短いあの奇麗な人、あの人はたまにはみえてましたよ。なんたって目立つしね」
おれも煙草を取り出し、火をつけて、腰でカウンターに寄りかかった。
「男のほうはどうだった? 木崎さんの部屋に泊まっていくような、そういうやつはいなかったかな」
「わたしら入居者の素行を見張ってるわけじゃないんですよ。他の部屋の方に迷惑さえかけてもらわなきゃ、それでいいわけです。ただ木崎さんの場合、そんなことはなかったと思いますよ。いえね、本当に見張ってるわけじゃないんです。ただ男出入りのある方ってのは、なんとなくわかるじゃないですか。夜中が一人だったとしても、朝は二人だったりとかね」
「木崎さんの場合は、なかった?」
「警察にも訊かれて、家内とも話したんですが、木崎さんのところへ特定の男の人が訪ねてきたってことは、どうもねえ、なかったと思いますよ」
おれは口の中だけで、咳払いをやり、煙草をつづけて二口吸って、それを管理人の前の灰皿でもみ消した。
「女の子なんかは、どうかな、その、十五ぐらいの」
「木崎さんのところへですか?」
「髪を長くしてちょっと、木崎さんに感じの似た子なんだが」
「そんな子が来れば一目でわかりますよ。木崎さんに似てるといったら、すごい美人じゃないですか。そりゃお店のあの若い人も目立ちはしますけど、木崎さんにくらべたら……いえね、うちの娘なんかも最初にちょっと木崎さんを見かけてすっかりファンになりましてね。その娘が去年結婚したんですが、そのお祝いにって木崎さんから真珠のイヤリングをいただきました。ああいう方でしたから一見お高く止まってるふうに見えましたけど、実際は気さくでね、親切な人でしたよ」
気さくで親切。おれの知っている志保美とはどこかイメージが重ならないが、それも一人で生きた五年間に身につけた、志保美なりの処世術だったのかも知れない。となりでは沢村萌が手をうしろに組んで、一々うなずきながらおれたちの話にじっと聞き入っていた。
「ところで……」と、取り出したハンカチで額の汗を拭きながら、おれが言った。「一昨日の、事件のあった日、変わったこととか不審な人間を見たとか、そんなことはなかったかね」
「それも警察に言ったんですが……」と、つづけて二本目の煙草に火をつけて、管理人が答えた。
「変わったことがあればすぐに気がつきますし、怪しい人間といってもねえ……わたしもここでずっと見張ってるわけじゃないんですよ。トイレにだって行くし電話が鳴れば出にゃなりません。雑用だってけっこうありますしねえ」
「夜の十時に、木崎さんを見かけたのは確かなんだな」
「それは間違いありませんよ。ちょうどここの窓を閑めてカーテンを引こうとしたときでしたから」
「そのとき、木崎さんになにか変わった様子は?」
「変わった様子ったって……いくらか急いでる感じはしましたけど、他はべつに」
「木崎さんは急いで帰ってきたわけか」
「出て行ったんですよ」
「出て行った?」
「この前の坂を下ったところに深夜スーパーがありますからね。買い物にでも行ったんじゃないですか」
おれは一度入り口のほうをふり返り、すぐにまた、管理人に向きなおった。
「カーテンは、どういうふうに引くんだ?」
「そりゃあ、こんなふうに」
管理人が左から右にカーテンを引く真似をし、怪訝そうな顔で、小さくうなずいた。
おれは窓の端に躰をずらし、少し腰をかがめて、もう一度マンションの入り口にふり返ってみた。
「出ていくところだったら、この角度からではうしろ姿しか見えない。それともあの場所で木崎さんがふり返ったかなにか、したのか?」
「そりゃあ……」
管理人が忙しなく煙草を吸い、カウンターにこぼれた灰を、掌でさっと払い落とした。
「それぐらい一目見りゃわかりますよ。昼間着ていた服と同じでしたからね。あの日は四月一日でしょう? 部屋代とは別に管理費ってやつをね、本当は月末までに持ってきてもらうわけなんですが、木崎さん、先月は仕事で地方に行っておられたとかで、それであの日の正午《ひる》前、わざわざケーキと一緒に管理費を届けに来てくれたんです。そのときベージュ色ってんですか? もっと濃い辛子色ってのかな、とにかく高そうなコートを着てましてね。夜見かけたときだってそのコートでした。間違いないですよ。あれは木崎さんでした」
沢村萌が、急に大きなくしゃみをし、管理人がびくっと肩をちぢめた。
「それで、木崎さんが帰ってきたところは、見なかったんだな?」
「もちろんです」と、呆れた顔で沢村萌のほうに目をやりながら、口を歪めて、管理人が言った。
「マンションの管理人にだってプライベートな時間はありますからね。契約でだってちゃんとそういうふうになってるんです」
「契約を守るのは、いいことだ。で、木崎さんの部屋の契約は、どういうことになってる?」
「そこまでは知りませんよ。不動産屋にでも訊いてくださいな。警察からは手をつけるなって言われてますから、あたしとしては言われたとおりにしてるだけです」
「管理人は管理だけをするのが仕事ってわけだ。おたくの人生観は一応正解なんだろうな」
おれは頬をふくらませている沢村萌のカーディガンを、えいっと引っぱり、管理人に会釈をして、そのまま入り口に歩きだした。沢村萌はまだなにか物足りなさそうな顔をしていたが、おれとしてはこの五年間の志保美の日常を垣間見ただけで、ある程度満足だった。五年という時間は、けっして短くはないが、しかしおれが手をのばそうとして届かないほど長い時間でも、たぶん、ない。
話し合ったわけではなく、しかし結局、おれたちはまた渋谷駅に向かって肩を並べて歩きはじめた。おれが黙っていたのは頭の中で志保美の五年間の生き様を組み立てなおそうとしていたからで、沢村萌が妙に無口だったのは、よくはわからないが、おれがタクシーを拾わないことに腹を立てたかなにかしていたのだろう。
渋谷駅につき、改札を通ったところで手をふった沢村萌を見送って、おれはそのまま西口に渡り、東急プラザの中にある紀伊國屋で七時近くまで時間つぶしをした。『夕方までではなく、本当は夜も暇なのだ』という沢村萌の一人言を、おれは本物の一人言として丁重に無視させてもらった。少なくともおれは今度の事件に、趣味や暇つぶしで首をつっ込んだわけではないのだ。
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それを見て、思わず笑ってしまったが、正木は本当にデパートのまん前につっ立っていた。着ている服も朝と同じで、紺の背広に臙脂《えんじ》のネクタイ、警察から支給でもされたようなトレンチコート、それに足には例の、あのくたびれた黒い皮靴を履いていた。本人はそれが目立たない服装だと思っているらしいが、待ち合わせの若い連中がみな正木から一定の距離をおいているところをみると、雰囲気にどこかヤクザ者と共通した反社会的な威圧感が漂っているのだろう。
「渋谷もいやな町になったもんだぜ。ずっと見ていたが、俺より歳を食ったやつは一人も通らなかった」
おれを見つけ、吸っていた煙草を下に捨ててから、照れたように、にやっと正木が笑った。
お互いに会釈だけして、歩きだし、道玄坂を交差点の手前まできたところで、ネオンと人の波を威嚇するように正木がぐるっと辺りを見まわした。
「佐原。行く店の心当たり、あるのか?」
「いや。渋谷には娘と買い物に来るぐらいだ」
「二十年ぶりということで変わった趣向の店に案内する。一応渋谷はおれの縄張りだしな」
正木が一人で、くっと笑い、ずんぐりした躰を引きずるように道玄坂を円山町の方向に歩きはじめた。官舎が品川で動めが渋谷なら、たしかに一帯は正木の縄張りなわけで、おれは黙ってあとについて行った。『変わった趣向』といったところで、まさかオカマバーやSMクラブということもあるまい。
道玄坂を途中までのぽり、人通りがいくらかまばらになった辺りで、路地を右に折れ、おれたちは小さな電気看板が密集した暗い一角に入っていった。昔はジャズ喫茶が集まっていた界隈だが、今ではそれがみなこぢんまりとしたバーやスナックに変わっている。
正木が『華夜」という電気看板の前で立ち止まり、一度それに顎をしゃくってから、狭いコンクリートの階段を重そうな足取りでのぼりはじめた。『変わった趣向』にいくらか緊張しながら、おれもそのあとについて行った。
入っていった店は、狭くて細長い、カウンターに丸椅子だけが並んだ殺風景な店だった。時間のせいか客はなく、カウンターの中にあまり若くない女が一人と、丸椅子にアルバイトらしい若い女が一人、ぽつんと座っているだけだった。それだけならどこにでもある、ちょっと場末の、常連客だけでもっているような小さなカウンターバーだった。
正木が言った『変わった趣向』とは、店のつくりでもなく、棚に並んだ酒の種類でもなく、カウンターの中にいたその女だった。おれは最初表の看板を『かや』と読むのかと思ったが、それが『かよ』であることに、すぐに気がついた。女はおれたちと高校で同級だった、小野寺香代だったのだ。
「二人して口を開けてるだけじゃ、商売にならんぜ」と、皮肉っぽく下唇をつき出しながら、カウンターの椅子を跨いで、正木が言った。
変わった趣向といえば、たしかに変わった趣向だが、今日のおれにこれは少しばかり変わりすぎている。
「佐原くん、元気そうね」と、正木のとなりに座ったおれに、おしぼり[#「おしぼり」に傍点]を渡しながら、つくったように落ち着いた声で、小野寺香代が言った。「正木くんも人が悪いじゃない。一番会いたくない人をこんなふうに連れてきて」
「一番会いたい人の間違いだろうよ。俺にはこういう気のきかせ方しかできんのさ」
「それにしても、久しぶりだ」と、頭の中で、いくつも深呼吸をしてから、どうにか、おれが言った。
「君がここで店を出してるとは、思ってもみなかった」
「わたしだって自分がこんなところでこんな商売をするなんて、思ってもみなかったわよ」
「取り込み中に、済まんがな」と、トレンチコートを脱ぎながら、大儀そうに、正木がカウンターにそのぶ厚い肩を割り込ませた。「とりあえず商売を始めてもらえんか? 俺だって一応は客なんだぜ」
小野寺香代が、おれに目で合図をし、酒棚に手をのばして、まだ半分以上残っている丸いウイスキーの瓶を取り上げた。その瓶には『正木』と書かれた小さいステッカーが貼ってあった。
店に新しい客が入ってきて、小野寺香代がまたおれに目で合図をし、ウイスキーの瓶を置いてその客のほうに移っていった。代わって若い女がカウンターの中にまわり込み、グラスとアイスピッチャーをおれたちの前に運んできた。
「こういう趣向は別の日にしてもらいたかったな」と、女がつくってくれた水割りを、ゆっくり口に運びながら、おれが言った。
「そうもいかんさ」と、一度舌を鳴らしてから、目尻に太い皺を刻んで、正木が答えた。「これも捜査のノウハウだ。敵に衝撃を与えて相手が混乱したすきに必要な情報を聞き出す。警察学校で一番最初に教わる、初歩的な心理学だ」
「探偵小説を害くときには悪徳警官でおまえを主人公にしてやるさ」
肉の厚い胡座《あぐら》をかいた鼻で、ふんと、正木が笑った。
「実はな、大きなお世話だとは思ったが、おまえが大学をやめた理由を調べさせてもらった」
「刑事ってのは……」
なにか固いものが喉にひっかかり、おれはそれを多めの水割りで、無理やり胃の奥に流し込んだ。
「非番でも休めないとは、因果な商売だな」
「個人的な興味ってやつさ。善良な市民にはそれなりのサービスもしなきゃならん」
「それで、誰に聞いた?」
「高校のときおまえと伸がよかった杉山秋雄。それからやつの紹介でテレビ局にいってる安田という男にも会った。おまえ、杉山とは今でもたまに飲むそうだな」
「この前会ったのはもう半年も前だ。それに五年前のことと、今度の事件とは関係ない」
「個人的な興味と言ったろうよ。それにおまえの身辺調査は被害者の身辺調査にだってつながる」
おれの身辺調査が、どういうふうに志保美の身辺調査につながるのかは知らないが、正木に対して隠し通さなくてはならない理由も、たしかにないのかもしれなかった。思い出して今更おれの胸が痛むということも、まあ、ない。
「おまえたちの世界じゃ、自分の研究を上役の教授に取りあげられるなんてこと、日常茶飯事だろうによ?」と、ウイスキーのグラスに、こつこつと歯を当てながら、正木が言った。
「研究の内容によりけりだ」
「一度だけ我慢すればすぐ助教授になれたそうじゃないか」
「それも研究の内容と、相手によりけりだな」
「要するに……」と、頬を掌でこすって、正木が口の端を、強く上にねじ曲げた。「つまらん正義感を出しておまえが勝手に尻をまくったわけだ。金の心配がなけりゃ、人間いくらでも正義感をふり回せるよなあ」
「今の台詞はおまえが昨夜徹夜だったということで、間かなかったことにする」
正木がウイスキーを飲み干し、空になったグラスを、黙って女のほうに押し出した。
「奥さんの身辺調査もだいぶ進んでいてな」と、注がれたグラスを面倒くさそうに手前に引いて、正木が言った。「実家の木崎商事ってのは、かなり大きい貿易会社じゃないか」
「大手とまではいかないが、インドから東南アジアにかけては大手と同じぐらいのシェアを持ってる」
「奥さんの資産、どれぐらいあったと思う?」
「知らないが、億単位だろうな」
「丸がもう一個だ。おまえと別れてすぐ父親が死んで、遺産を三人の兄妹《きょうだい》で分けたってことだ。ただほとんどが不動産や会社関係の資産だから、現金として持っていたわけじゃない」
「その代わり、『ジュエル・青山」には木崎商事から出資させていた。商売用の石も木崎商事のルートで調達していた……そんなところか?」
「炯眼《けいがん》と言いたいが、それぐらいは理屈で誰にでもわかる。それより、おまえのほう、なにか情報があったんじゃないのか? それで俺を呼び出したんだろうよ?」
おれも女に新しい水割りをつくってもらい、それで喉を湿らせてから、煙草に火をつけた。
「一昨日の晩志保美は娘と一緒に飯を食ったそうだ」
「奥さんが……」
「原宿のマルセイユという店だ。二人で娘が高校生になるお祝いをしたらしい。その店には九時までいて、志保美は誰かに会うと言って一人でタクシーで帰ったそうだ」
「その会う誰かっていうの、名前を聞いたのか?」
「聞かなかった。男か女かさえも聞かなかった。ただ娘が言うには、たぶん仕事で関係のある人間だろうってことだ。志保美は食事中ずっと仕事の話をしていたそうだ。人に会うというのもその中で出たらしい。おまえだって仕事関係のトラブルと踏んでるわけだろう?」
ぶ厚い顔の肉を、無理やり歪めて、にやっと正木が笑った。
「たとえばな、もしおまえが犯人だったとしたら、俺はどうなると思う? 容疑者とこんなふうに接触していたとなったら減給や停職じゃ済まんのだぜ。おまえがどう思ってるか知らんが、俺としたってこれは一種の賭だ。今度の事件は被害者の仕事がらみの線、もし外れたら一家五人で首を吊らにゃならん。刑事なんてのは馬鹿な商売でな、保険もかけないで欠陥車に乗ってるようなもんさ」
「おまえに首を吊られたら、悪徳警官のモデルがいなくなる」
正木と目が合い、お互い口の中だけで笑って、どちらからともなくちょっとグラスを持ちあげた。
「それでおまえが仕事がらみと睨んだ理由は、どういうことだ?」と、つきだし[#「つきだし」に傍点]の酢のものに怠《だる》そうに箸を動かして、正木が訊いた。
「広尾のマンションに行く前に青山の店に寄ってみた。宝石の小売り店としては奇跡的な成功だったらしい」
「南礼子に会ったわけだ」
「この五年間のことは、彼女が一番よく知っている」
「俺の苦手なタイプだが、苦手だからって犯人にしちまうわけにもいかんしなあ」
「急成長とか奇跡的成功とかってやつには、どこかに無理がある。喜ばないやつだっていたはずだ。それにたぶん、この五年間、志保美の頭には仕事のことしかなかったような気がする。部屋を見てそんな気がした」
「部屋に入ることを許可したのは、そのことをおまえの目で確かめてもらいたかったのさ」
グラスを下に置き、正木がその疲れたような顔を、肩ごとひょいとおれの前にまわしてきた。
「おまえ、明日の葬式はどうするんだ?」
「考えている。今朝からずっと考えていて、今もまだ考えている」
「俺としては……担当の刑事としては、おまえにぜひ葬式に出てもらいたい」
「参列者の首実検か?」
「仕事関係は南礼子に頼んである。もしおまえが気まずければクルマの中から参列者の顔だけ見てもらってもいい」
「目の前で葬式をやっているのに、顔を出さないわけにもいくまい?」
「そいつはおまえの勝手だ。どっちにしても犯人は被害者のごく近いところにいた人間のはずだ。多少時間はかかるかも知れんが、こういうケースでは犯人はかならず捕まる。あっちはアマで、こっちはプロだからな。もしおまえが犯人だったらそのことはよく覚えておいたほうがいい」
グラスを押し退け、カウンターにつかまって、正木がよっと立ちあがった。トイレにでも行くのかと思ったが、そうではなく、脱いであったトレンチコートを掴んで、その太い首でおれのほうに強くうなずいてきた。
「仕事を思い出した。それに俺がいたんじゃそっちの話も弾まんだろう。とにかく明日、お寺さんで待っている」
勝手にドアに向かって歩きだし、小野寺香代と目を合わせてから、正木が顔だけでぐっとおれをふり返った。
「今日の勘定はおまえ持ちだぜ? これぐらい奢っても供応罪にはならんから、安心して払っておけ」
肩でドアを押し、トレンチコートを背中にひっかけて、すっと正木が消えていった。
店の中の空気が、なぜか急に軽くなった。なぜか、そんな感じだった。ジャズのフュージョンが低く流れている。
若い女がまた水割りをつくってくれ、そのグラスを掌で包みながら、おれは頭の中で木崎の家の間取りを思い出していた。もうとっくに通夜は始まっている時間で、志保美の遺体は父親が使っていた八畳の和室にでも納められているのだろう。木崎周一と妹の工藤|都《みやこ》、それぞれの結婚相手やら親戚やらの間に挟まって、亜由子はいったい、どんな顔をして座っているのか。着替えの下着や洗面道具は持っていったのか。神経の具合いでもしかしたら、毎月のものがやってきてしまったりはしていないだろうか。
「なにか、食べるものをつくる?」
小野寺香代が、若い女と入れかわってカウンターの向こうからおれの顔を覗きこんだ。
「たいしたものはできないけど、わたし、オムレツが得意なのよ」
おれがうなずくのを見て、ちょっと唇を微笑ませ、小野寺香代がカウンターの奥に歩いていった。モスグリーンのニットシャツからのびた首筋は、いくぶん艶をなくしてはいたが、それでも無駄毛のない襟足とくずれていない顎の線はおれの記憶と重ねあわせてもまだじゅうぶん鑑賞に耐えるものだった。
小野寺香代が最初に言った『一番会いたくない人』とは、もちろん彼女なりのレトリックではあったのだろう。しかしおれにしたところで事前に正木から聞かされていれば、わざわざこんな日にこんな店にやってきたとは思えない。たまたま出席した結婚式の仲人の、その片方が小野寺香代であった、できれば、そんなふうに会いたかったものだ。
「正木くんとはどこで会ったの?」と、しばらくたってから、カウンターの奥で顔を半分だけおれに向けて、小野寺香代が言った。
「今朝、急に押しかけて来た」と、グラスの水滴を指の先で撫でながら、おれが答えた。「あんな頭になっていて、初めはやつだとわからなかった」
「なにか事件があったらしいわね、聞いてたわけではないけど」
できあがったオムレツをガラスの皿に盛りつけ、それをおれの前に運んできて、小野寺香代もカウンターの下から自分のグラスを取り出した。おれがそれに水割りをつくってやり、黙ったままおれたちは軽くグラスを重ね合わせた。
「正木、この店にはよく来るのか?」
眉をかすかに動かし、小野寺香代が曖昧に笑いながら、視線をおれのうしろの壁に漂わせた。
「週に一度ぐらいかしら。二、三年前この近くでばったり会ったの。まさかとぼけるわけにもいかないしね。佐原くんも、いろいろあったらしいわね」
「この歳まで生きていれば、誰だっていろいろあるさ」
「わたしもこの商売を始めて十年になるわ。ここに店を出してからだってもう五年」
「君が……」
「水商売をしてるとは、思わなかった? いいのよ、これでけっこう才能があるの」
「どこかの金持ちと結婚したって、誰かに聞いたけどな」
「お金持ちだってそのお金がなくなればただの貧乏人。おまけに勝手に自殺なんかされたら、残ったほうがたまったもんじゃないわ」
オムレツをおれに目ですすめ、片方の頬だけを笑わせてから、グラスを口に運んで、小野寺香代がふっと溜息をついた。
「佐原くん、どこかいいところのお嬢さんと結婚したって、わたしも誰かに聞いたわ。さっき正木くんと話していたの、その人のこと?」
「殺されたんだ。五年前に別れた女房が殺されて、おれになにか関係があると言われても、どう関係があるのか自分でもよくわからない」
「でもいいじゃない? 久しぶりに昔の友達と会って、こんなふうに飲みながらお互いの暗い過去を語り合うの。そういうのってとってもいいわよ。佐原くんだけ幸せにやってるなんて聞いたら、わたし、ここからあなたを追い出すと思うわ」
「幸せな客をいちいち追い出していたら、商売にならないさ」
「わたしが言ってるのは佐原くんのこと。あなただけは特別に、幸せになってほしくないの。わかる?」
小野寺香代に見つめられ、首筋にこわ張るものを感じたが、その動揺を顔に出さないぐらいにはおれもじゅうぶん歳をとっていた。
オムレツを黙って口に運んでから、おれが言った。
「うちにずっといるお松さんての、覚えてるか?」
「太ってて、恐そうなおばちゃんだったわね」
「甥の子供とかの結婚式で岡山に帰っていてな。おれは今毎日娘のベーコンエッグを食わされている。生きてるうちに君に会えて、運が良かった」
「佐原くんは、三人暮らし?」
「もう五年だ。お松さんがいなかったら娘は不良になっていたろう。おれに子供のことなんかわからないし、女の子のことは特にわからない」
「お嬢さん、いくつ?」
「十五。今度高校に入る。おれから見てもけっこうまともに育っている」
小野寺香代が顔を伏せ、グラスを揺すって、下を向いたままおれのほうに軽く眉をつりあげた。
「うちの娘も来年は大学よ。わたしたちが二人して自分たちの娘のことを話し合うなんて、あのころは思ってもみなかった。一つ恨みごとを言っていい?」
「この次にしてくれ。この次、おれがまたここに来てよければだけど」
小野寺香代がグラスの縁からしばらくおれの顔を眺め、それからほっと唇を尖らせて、黙っておれのグラスに自分のグラスを重ね合わせた。たんに昔の知り合いという以上の、妙な懐かしさが耳鳴りのようにおれの頭の中に湧きあがった。
この小野寺香代と、なぜ別れたのか。それは二十年の時間が記憶を曖昧にしたのではなく、二十年前のあの時点ですら、おれ自身はっきりとはわかっていなかったことなのだ。男と女は理由などなくても別れられる、たぶん、それが理由なのだろう。
「それで、奥さんの事件、面倒なことになるの?」と、少し首をかしげて、おれのグラスに新しい水割りをつくりながら、小野寺香代が言った。
「五年前に別れたから関係ないでは済まないらしい。少なくとも正木は、済まないと思ってる」
「正木くんて意外に執念ぶかいものね」
「それは、君に対してということ?」
「一つのことに執念ぶかい人は他のことにも執念ぶかいってこと。正木くんはただのお客さんだわ」
小野寺香代がおれの煙草の箱から黙って一本を抜き、黙って、おれがその煙草に火をつけてやった。
「大きなお世話でしょうけど、佐原くん、どうして奥さんと別れたの?」
「理由がなくて女と別れる男には、酒は飲ませないのか?」
「こういう店ではぴったりの話題だから、ただ訊いてみただけ」
「ただ、商売でな……」
小野寺香代がおれの顔を見おろし、灰皿で煙草をはたいてから、目の奥を一瞬きらっと光らせた。
「あなたが奥さんと別れた理由、教えてあげましょうか?」
「今さら聞いても参考にはならないさ」
「あなたはね」と、カウンターに肘をかけ、小野寺香代が、じっとおれの顔に視線をつきつけた。
「女好きのくせにそれでいて女に対して執着がないの。相手にとってそれがどれぐらい不安なことか、まるでわからない人なのよ」
「二十年前に君が同じことを言ったのを、今、急に思い出した」
「さっきの恨みごとをどうしても言ってみたかったの。わたしも意外と執念ぶかかったかな」
にっと目で笑い、気のせいか、小野寺香代が少し、目尻を赤らめた。
おれは煙草に火をつけ、思い出して、上着の内ポケットからネックレスの入った白いハンカチの包みを取り出した。
「娘さんに、これ、つけてもらえないかな。ちょっとした因縁でおれの娘もこれと同じデザインのネックレスをしている」
指先で鎖の部分をすくいあげ、顔の前で透かして、小野寺香代が困ったように首をかしげた。
「サファイアじゃない。本物?」
「水晶だそうだ。高いものじゃないから心配しなくてもいい。事情があっておれが持ってるわけにはいかないんだ」
おれは空になったハンカチをたたんで、ポケットにしまい、意識的に腕時計をのぞいてから、ネックレスとおれの顔を見くらべている小野寺香代に、軽く会釈をおくった。
「勘定だ。正木のつけ[#「つけ」に傍点]があったら一緒に払っておく」
小野寺香代が一度肩で息をし、ネックレスを自分の掌に落として、カウンターの下でなにやら伝票に書き込みを入れはじめた。
立って待っているおれに、顔をあげ、小野寺香代がすっとその伝票を差し出した。伝票には数字ではなく、懐かしい小野寺香代の字でこう書かれてあった。『あんたって本当に、いやーな奴』
そのままおれの顔は見ず、カウンターを出てきて、小野寺香代が黙っておれをドアに促した。
おれも黙って歩きだし、小野寺香代が開けて待っているドアから、外に出た。
一緒に階段をおりてきて、おりきったところで、小野寺香代が言った。
「本当はね、最初に佐原くんの顔を見たとき、どこかへ逃げ出したくなった。でもこの歳になって逃げるところなんて、どこにもないものね」
「しばらくは逃げないでもらいたいな。おれが今度、また店に来るときまでは」
小野寺香代が目だけで笑い、自分の躰に自分の両腕を巻きつけて、ちらっと空を見あげた。
「寒いわね……今年の春」
「高校を卒業した年の春は、もっと寒かった」
「その前の年は上野公園にお花見に行ったわ。覚えてる?」
「二人でビールを飲んで、酔っ払ったっけな」
「ああいう楽しいこと、もうないのよねえ」
「酔っ払うだけなら毎日でも酔っ払えるさ」
「佐原くん」
「ん?」
「ありがとう、ネックレス」
小野寺香代に、軽く手をふり、おれは入ってきた路地を一人で道玄坂のほうに歩きはじめた。途中一度ふり返ってみたが、小野寺香代は自分の躰を抱きしめたまま、そこに立って最後までおれを見送っているつもりらしかった。
おれは井の頭線と小田急線を乗り継いで、家に戻り、一人で風呂に入って一人でテレビを見て一人で寝酒を飲んで一人でベッドにもぐり込んだ。これから先亜由子やおれの生活がどう変わるのかはわからなかったが、少なくとも当分は素人《しろうと》探偵をつづけるより、他に方法はあるまい。
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人でなし[#「人でなし」に傍点]といわれても仕方はないが、おれは、けっこう熟睡して目を覚した。
天気はあいかわらずの花曇りで、今日が志保美の葬式の日だという実感は、なぜか不思議に湧いてはこなかった。
金魚に餌をやり、自分ではコーヒーだけ飲んで、おれはタクシーで等々力にある妙庵寺に向かった。こんなときお松さんがいてくれたらと思わなくもなかったが、お松さんがいたらいたで事はまた必要以上に面倒になる。おれが子供のころから家にいるくせに、なにしろ今では完全に『亜由子の味方』に成りさがっているのだ。二人して探偵ごっこでも始められたら、それこそ目も当てられたものではない。
十時を少し前、住宅街の路地をぬって、タクシーは妙庵寺の門前にすべり込んだ。たいして広くもない境内に門の外から本堂まで、黒い花輪がぎっしりとつづいていた。死に方が死に方だけに身内だけの人目を憚《はばか》る葬式かと思っていたが、木崎の立場としてはそうもいかなかったのだろう。それともこれは後々の商売を計算した南礼子の演出ということか。
記帳を済ませ、門をくぐったおれに、まるで地面から湧いてきたように正木がすっと身を寄せてきた。ネクタイだけは黒くなっていたが、背広は残念ながら昨日と同じくたびれた紺色のものだった。
「ほとんど顔は揃ったらしい」と、境内のあちこちに散らばった礼服の群れを、そのいや味な目つきでじろりと見まわしながら、正木が言った。「誰か顔に『自分が犯人です』と書いていてくれたら、助かるんだがなあ」
「来るだけは来たが、本当におれでは役にたたないぞ」
「捜査なんて役にたたんことの積み重ねさ。千軒聞き込みに歩いて、その中に役にたつ情報が一つもないことだってある。効率からいえばこの葬式ってやつはおれたちには天国みたいなもんだ」
ちらっと、正木が門の外に停まっている黒塗りの乗用車に視線を走らせた。ブロンズガラスで中は見えなかったが、ガラスの向こう側ではたぶん正木の部下かなにかがビデオカメラでも回しているのだろう。
「昨夜は早めに引き上げたそうだな」と、境内に視線をやったまま、正木が言った。
「おれにだって中年の分別はある」
「まだいるかと思って十一時ごろもう一度『華夜』に寄ってみた。当日の奥さんの足取り、おまえの言ったとおりだった。原宿のマルセイユって店では彼女は常連だったそうだ」
「なにか、新しいことでもわかったか?」
「それが、どうもなあ」
正木が、ふと眉をあげ、門をくぐってきた背広の男のほうへ、ほうっというように口を丸めた。
「珍しい客が来たもんだ。佐原、あの男、知っているか?」
その男は妙に色が黒く、額が禿げあがってはいたが、まだそれはどの歳のようには見えなかった。おれや正木よりも二つかこ石は歳下だろう。
「知らない顔だ」
「いわゆる退職警官てやつだ。実際はゲーム機業者から金を巻きあげて警察をくびになった男なんだが……奥さんの交友関係に相応《ふさわ》しいとは、思えんがなあ」
「宝石業界ってのは魑魅魍魎には住みやすい世界だそうだ。汚職警官にはぴったりさ」
「それにしても、やつは、ちょっと……」
「おまえ、瑞宝堂の朝倉文子には会ったのか?」
「いや。署の他の刑事を行かせた」
「本堂の前に男と二人で立ってるだろう。あの髪を上にあげた女だ」
「おまえの周りだけ、どうしてああいい女が多いんだろうなあ。そのうち俺の女房でも見物に来てみろ」
「あの朝倉文子のとなりに立っている男」と、正木の無駄口を聞き流して、おれが言った。「どこかで見た気がする。親戚でもないし志保美の友達でもないと思うが、やっぱりどこかで会ったことがある」
「辻村和郎という丸越デパートの企画部長さ。さっき木崎商事の社長に確かめた。木崎社長とは大学が同期だったそうだ。なにか、思いあたることがあるのか?」
「いや。南礼子は、あの男のことを知っていたか?」
「南礼子が知らなかったから木崎社長に確かめたのさ。それがどうした?」
「どうもしたわけじゃない。それで、朝倉文子が結婚しているかどうか、それぐらいは調べたんだろう?」
「聞き込みに行った刑事の話ではまだ独身《ひとり》だそうだ。ずっと父親の仕事を手伝っていて、父親の死んだあと店を彼女が引き継いだ。もったいない話だが結婚する暇がなかったらしい。男がいるかどうか、そこまでは調べてないがな」
正木が小さく首をふり、おれに目配せをして、小肥りの躰を引きずるように本堂のほうに歩いていった。いつの間にか焼香が始まっていて、正木は会葬者の表情でも観察するつもりなのだろう。
おれはそれまで立っていた桜の木の陰から離れ、ざわめきながら本堂に移動する人の流れとは逆に、門を出て受付けのところに歩いていった。
「さっき記帳をするとき、住所を間違えてしまった」と、一人残っていた若い女に、長テーブルの上を指しながら、おれが言った。
女は怪訝そうに顎を引いただけで、おれの言葉が理解できないとでもいうように、ぽかんと口を開いた。
「君、『ジュエル・青山』の人?」
女がうなずくのを見て、おれもうなずいてやり、それから女の前の芳名帳を勝手に自分の側に引き寄せた。
「おかしいな。間違えたと思ったが、やっぱり間違えていなかった」
開かれたままのその帳面には、おれのあとに一人だけ、男の名前と住所が記帳されていた。
『上条準次。豊島区北大塚3−25−2」
おれは手帳を出してその名前と住所を書き取り、芳名帳を女の前に戻して、お愛想に一つとっておきの笑顔を見せてやった。
「君は、本店に動めているのか?」
女が、まだ釈然としない顔で、こっくんとうなずいた。
「大変だったな、今度のこと」
「はあ……」
「心配はいらないさ。木崎商事がついてるから店のことは大丈夫だ」
境内に向かって歩きかけ、女の前に置かれている名刺受けに気がついて、ふとおれは中を覗き込んだ。世の中には意味もなく名刺をばら撒きたがる男がいるもので、どうやら上条準次もその内の一人らしかった。
おれはその名刺を黙ってつまみあげ、女にひらっとふって見せてから、ゆっくりと境内の中に引き返していった。
「東都信用調査・所長……か」
暗い本堂に読経の流れる中、焼香の列も、もう半分ほど終わりかけていた。祭壇を埋めつくした花の匂いと線香の匂いが混じりあって、そうでなくても陰気くさい今年の春を理不尽なほど湿気っぽく感じさせている。
おれは靴を脱いで、順番を待ちながら、本堂の奥に亜由子の姿を探してみた。亜由子は親族側に木崎周一と並んで正座し、背筋をのばして焼香客にその都度ていねいなお辞儀をくり返していた。となりに座った志保美の妹の工藤|都《みやこ》にもどことなく志保美に似た雰囲気はあったが、それとは一線を画している亜由子の存在感に、親馬鹿は承知で、ついおれはにんまりした。
おれの番がきて、焼香合の前に進み、引きのばされた写真の志保美とおれは五年ぶりに向かい合った。悲しみとか怒りとか哀惜とか、なにか特別な感情が湧いてくるかとも思ったが、おれの心電図の針はぴくりとも動かなかった。この五年の間に、おれが思っていた以上におれの中の志保美は他人に戻っていたということなのか。そしてそれは志保美にしても同じ理屈だったのだろうか。
木崎周一と目が合い、お互いに目礼して、ついでにおれはとなりの亜由子の顔を覗き込んだ。亜由子はおれの顔を見てほっとしたような溜息をつき、それから大丈夫だというように、一つ小さくうなずいてみせた。
おれはそのまま本堂をさがり、所在なく境内に散らばった弔問客の中に朝倉文子の姿を探してみた。朝倉文子は門の内側で、知らない二人の男と立ち話をしていた。境内を一渡り見まわしてみたが、正木の姿は見あたらなかった。
朝倉文子の立っているところに歩きかけたおれを、木崎周一が呼びとめた。
「来てもらえないと思っていた。とにかく、志保美も喜んでいると思う」
「亜由子の様子を見に来ただけです。昨夜《ゆうべ》寝小便をしなかったか、心配になりましてね」
「あゆちゃんは……いや、びっくりしたよ。志保美の若いときにそっくりだ」
もちろんそれは、木崎周一にしてみれば他意のない褒《ほ》め言葉だったのだろうが、おれとしてはそんな台詞に素直に礼を言う気にはならなかった。
「これから出棺なんだが、火葬場まで行ってもらえるかね」
「遠慮しますよ。火葬は身内だけでやるもんです」
「その、近くの料理屋に厄落としの席をつくってあるんだがね」
「厄落としの酒の肴にされるのも遠慮します」
木崎周一が苦笑し、大袈裟に本堂の奥をふり返って、そこで一つ忙《せわ》しなさそうな溜息をついた。
「出棺の用意をしなくちゃならん。明日、正午《ひる》前にでも会社に来てもらえんかな。いろいろ相談したいことがあるんだ」
おれの返事も待たずに、歩きだし、ふり返って、木崎周一が念をおすように強くうなずいた。
「明日の十一時に頼む。大事な相談なんだ、あゆちゃんのこともあるしね」
木崎周一が本堂の中に消え、おれが朝倉文子のほうに歩きだそうとしたとき、例の時代がかった霊柩車が門をくぐってそのまま本堂の前まで進んできた。
境内中の人間がまた本堂の前に集まりだし、仕方なくおれはうしろにさがって、建物に半分隠れる位置から志保美の出棺を見守ることにした。そして、志保美が灰になるのかと思った瞬間、なぜか突然、おれの胸に痛みに似た無念の気持ちが湧きおこった。おれが認めようと認めまいと、志保美がおれの人生に焼きつけていった存在感はたかが五年ぐらいの時間で消えるものではなかったのだ。
本堂の中がざわめき、それぞれ柩《ひつぎ》の端に手をかけた亜由子たちが現れて、人垣に見守られながら志保美を霊柩車まで運びはじめた。まだ咲きそろってもいない桜の花びらが境内を舞う風にのって派手な柩カバーの上にぱらぱらとふりそそぐ。
柩が霊柩車の中に納まり、つづけてやって来た五台のハイヤーに分乗して、身内の連中が境内を出発しはじめた。ハイヤーに乗り込む前に亜由子が目でおれを探したようだったが、亜由子の視線は本堂の陰のおれのところまでは届かなかった。
おれは本堂の柱に寄りかかったまま、煙草に火をつけ、門に向かって歩きはしめた人の流れを漫然と見送っていた。ところどころに立った木崎商事の社員らしい男が、弔問客を『厄落としの席』とやらに案内しているらしかった。
おれが目で追っていたのは、辻村和郎と並んで歩く朝倉文子のうしろ姿だった。そのうしろ姿に一瞬おれは志保美の影を見てしまったが、それはたんに、志保美の死で柄にもなくおれが感傷的になっていたから、というだけのことなのだろう。おれや志保美は二十年という時間を歳をとるためだけに使ってしまったが、しかし朝倉文子はその時間を拒否するように、内気な女子大生だったころの初々しさを今でもそのままうしろ姿の雰囲気に残していた。一見世間知らずに見えるこの朝倉文子が、今では瑞宝堂の社長におさまっているというのか。
それにしても朝倉文子は、なぜ亜由子たちと一緒に火葬場まで出向かないのだろう。大学時代からの友達で、誰からも親友と言われる間柄なら、友人代表として志保美が灰になるまで付き添うのが常識ではないのか。それともやはり志保美の独立の際、志保美と朝倉文子との間にはなんらかの確執が生じていたのだろうか。
おれは煙草をくわえたまま、歩きだし、少し急ぎ足で朝倉文子のあとを追いはじめた。田園都市線を走る電車の音が門のはるか遠くからかすかに響いてくる。
朝倉文子と二十メートルほどの距離になり、どこで声をかけようかと考えはじめたとき、おれの視界に、ふと一人の男のうしろ姿がまぎれ込んだ。それは上条準次とかいう、あの額の禿げあがった、ゲーム機業者から賄賂《わいろ》を取って警察をやめた興信所の男だった。上条準次はおれのほんのわずか前をいかにも境内の桜を楽しむといった風情で、のんびりと歩いていた。しかし実際にはこの男の神経が朝倉文子の背中に集中していることは、そのうしろ姿の緊張感にはっきりと表れていた。
突然、うしろから、誰かがおれの上着の裾を引っぱり、おれは足を止めて仕方なくその誰かをふり返った。黒いワンピースの肩に髪をたらして口をかたく結んでおれの顔を睨んでいるその女を、おれはとっさには思い出せなかった。
おれの顔を睨んだまま、その女が、なぜかぺろっと舌を出した。
「君……」
おれの口から煙草がこぼれ、礼服の襟を汚して足下《あしもと》の石畳の上をずいぶん遠くまでころがっていった。
「その、君、今日も暇だったのか?」
「ずっと暇ですよ、春休みですからね」
喪服だから当然といえば当然だが、昨日のGパンにカーディガン、ポニーテールといった雰囲気からは、それはまるで双子の品のいいほうの姉さんかと思うほどの、とんでもない変わりようだった。おれがとっさに沢村萌の顔を思い出せなかったのも、けっしておれの責任ではない。
「だけど、君、ここでなにをしているんだ?」
「お葬式に来たんです、決まってるじゃないですか」
「それは、わかってるが、しかし……」
「お香典て、三千円で良かったのかなあ」
「それは、まあ、気持ちの問題だ」
「あれから天変だったんですよ。電話帳を見たら佐原っていう名前、世田谷だけで二十五もあるんです。怒られました、私立探偵の佐原さんですかって訊いたら」
「二十五、ぜんぶか?」
「二十一です。四軒は留守でした。それで思い出して『ジュエル・青山』に電話をしたんです。あの女の人がまだいて今日のことを教えてくれました。佐原さんの正体も聞いちゃいましたよ」
「もしかしたら、君、探偵の天才かも知れないな」
おれの目の端には門の外で一つの乗用車に乗った朝倉文子と辻村和郎が、人の流れとは逆方向に走り去っていく瞬間が、かろうじて引っかかっていた。そして上条準次もそこで二人の乗ったクルマを見送り、ズボンのポケットに両手をつっ込んで、やはり人の流れとは逆方向に門の前から消えていった。厄落としの席につくほど三人の人生は暇ではないということか。
「本当に、そう思います?」と、沢村萌が、口を尖らせておれの顔を覗き込んだ。「わたし、本当に探偵に向いていると思います?」
「いい女に嘘は言わないさ」
「昨日は嘘を言いました、自分が私立探偵だって」
「昨日は二日酔いで、君の顔がよく見えなかったんだ」
おれは軽く沢村萌の肘に手をかけ、促して、人気《ひとけ》のなくなった境内を門の外に向かって歩きだした。ハイヒールのせいか昨日よりも背が高く、沢村萌のシャンプーの匂いがまともにおれの鼻の下を通りすぎた。その中には若い匂いではあるが、亜由子のそれとは遠ういくらか酸っぱいような匂いも混じっていた。
門から表の通りに出て、遠くなった最後の弔問客のうしろ姿を眺めながら、おれが言った。
「おれは家に帰って着がえをして、それから昼飯を食う。君は?」
「わたしは……」と、喪服を着ていることを忘れたように、にやっと笑って、沢村萌がこっくんとうなずいた。「佐原さんにおひる[#「おひる」に傍点]をご馳走してもらいます。だって、ねえ、捜査の打ち合わせだってありますもんねえ」
おれの意見を聞かずに沢打荷が歩きだし、けっきょくおれたちは目黒通りでタクシーを拾って、梅ケ丘のおれの家まで戻ることになった。煩わしいとは思いながらおれが沢村萌を放り出さなかったのは、たぶんおれの『中年男としての余裕』だけが理由ではなさそうだった。お松さんに知れたら、当然一言や二言のいやみ[#「いやみ」に傍点]では済むまい。
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沢村萌を食堂の椅子に座らせ、朝の飲み残しのコーヒーを出してごまかしてから、一度おれは着がえのために自分の部屋に引きあげた。久しぶりの礼服にネクタイという正装がおれの肩と神経に不愉快なしこりを残していた。沢村萌さえいなければ、このまますっ裸で走っていって風呂にでもとび込みたい気分だった。
普段着に着がえ、食堂に戻る前に、おれは妙庵寺で手に入れた名刺の番号に自分の部屋から電話を入れてみた。上条準次が戻っていないことはわかっていたが、電話だけでも、素性の察しぐらいはつく。
電話に出たのは、かすれた声の、歳も顔立ちも品性も想像しにくい、とりあえず女であることだけは間違いないだろうという感じの女だった。案の定上条準次は戻っていなかったが、三時に連絡がつくように頼み、おれは電話をきった。事務所の場所が神田の鍛冶町だというからどうせ貸し机と電話一本の半端商売だと思っていたが、電話の印象ではそれよりもいくらかはましな事務所らしかった。
食堂に戻って、まずおれが唖然としたのは、沢村萌のその決然たる勇姿だった。沢村萌はお松さんの白い割烹着を着て、腕まくりをし、おまけに給食当番のように頭に白いハンカチまで巻きつけていたのだ。沢村萌はコーヒーカップを洗っているのではなく、といだ米を電気釜にセットしていた。
「冷蔵庫の中、なんにもないんですね」と、怒ったように、流しの前からふり返って、沢村萌が言った。
「今、ちょっと、事情があってな」
「ベーコンエッグ、好きですか?」
「ん……」
「すぐできますよ。テレビでも見ていて下さい」
「昼飯、どこかで奢らせるつもりじゃなかったのか?」
「気が変わりました。わたし、味噌汁をつくるのが得意なんです」
本当ならここは一発上等な皮肉でも言うところだったが、なぜか、おれはおとなしく食堂の椅子に座り込んだ。昨日から感じていたことではあるが、この沢村萌という娘はおれにとってなんとなく手強い相手だった。
おれは放り出してあった新聞を拡げ、もう志保美の記事が載っていないことを確かめてから、脚を投げ出して、煙草に火をつけた。毎日毎日人が死に、毎日毎日政治家が賄賂を受けとり、世界中から共産主義国家が姿を消して、プロ野球が始まる。新聞の中の日常はそうやって走りつづけるが、志保美の日常は、もう走ってはいない。
「この台所、お嬢さんが片づけるんですか?」と、小さく鼻歌をうたいながら、そのままの調子で、沢村萌が言った。
「ここいく日かだけさ。ふだんは手伝いの婆さんがいる」
「社長さんにあんな大きい女の子がいたんですね。祭壇の前でセーラー服を着ていた子、お嬢さんでしょう?」
「志保美に似ていると言うのはやめてくれ。半分はおれが作った」
沢村萌が、肩越しにふり返り、唇をすぼめて、くすっと笑った。
「信じられませんね。だって佐原さんと社長さんが離婚する理由なんて、思いつかないもの」
「人それぞれに価値観はちがうさ。そのちがいに堪えられる人間もいれば、堪えられない人間もいる」
「お二人の場合はどちらが堪えられなかったんです?」
「おれのほうは人生は我慢だという、まあ、信念をもっている」
沢村萌がまた微笑み、ちょうどスイッチのおりた電気釜に向かって、ぴゅーっと口笛を鳴らした。それがおれの信念に感動したための口笛なのか、電気釜の努力に敬意を表した口笛なのか、なんとも判断はつかなかった。
沢村萌がテーブルに並べたのは、ベーコンエッグの皿と玉葱だけの味噌汁、それにそれぞれの箸と飯を盛った碗だけだった。品数が少ないのは沢村萌の責任ではなく、ベーコンエッグがおれにとって親の敵《かたき》であることも、やはり沢村萌の責任ではなかった。そのベーコンエッグにしたところで卵の形が崩れていないぶんだけ、どちらかといえば亜由子より沢村萌の勝ちと言っていい。
「君の歳、聞いたっけな」と、新聞をたたみ、義理で箸を使いながら、おれが訊いた。
「二十歳《はたち》です。今度三年です」
「家は、どこなんだ?」
「荻窪です。身元調べですか?」
「個人的な関心てやつさ。もう一つ、君がなんで今度の事件に首をつっ込みたがるのか、そのことにも関心がある」
味噌汁の椀から目だけをのぞかせて、一瞬、沢村萌が額に太い皺をつくった。
「ただの野次馬ですよ。わたしは社長さんに憧れていました」
おれの目からすっと視線をそらした沢村萌の顔を、しばらく黙って眺めてから、ベーコンエッグの皿を脇にどけて、おれが言った。
「そんな台詞じゃ大人はごまかせない。少なくともおれはごまかされないな」
沢村萌の眉がつりあがり、口元が引きしまって、そして数秒の沈黙のあと、その口からふっと小さい溜息がこぼれ出た。
「佐原さんて、けっこう恐いんですね」
「ただの野次馬は葬式にまで来ないさ。話す気があれば話せばいいし、いやなら無理には訊かないけどな」
「話さなかったら、相棒にはしてもらえないわけですか?」
「少なくとも助手に雇う気にはならないだろう」
沢村萌が舌の先で一度唇をなめ、視線を落としたまま軽くテーブルの上に身をのり出した。
「本当は、ずっと話そうと思っていました。でも昨日は佐原さんのことを知らなかったし、今日は、まだ身の上話なんかする気にはならなかったんです。言わないで済むんならこのまま黙っていようかなって。わたし、得意じゃないんです、『はい、ここで泣いてください』っていう話」
「君のキューが出るまでは、泣いたりはしない」
沢村萌の視線が、ゆっくりとあがってきて、その生意気そうな鼻の穴が、ぷくっとふくらんだ。
「佐原さんには関係のないことですけど……」と、肩にかかった髪を、両手で首のうしろにまとめながら、無表情な目で、沢村萌が言った。「五年前ダイヤモンドを使った詐欺事件があったの、覚えていますか?」
「どうだったか、いや、覚えていない」
「人造ダイヤを使った大がかりな詐欺事件でした。一種のねずみ講のようなものです。わたしの父、その詐欺にあって自殺をしたんです。わたしが高校一年の、夏休みでした」
なにか事情があることはわかっていたが、つまりは、そういうことだったのか。あんなガラス玉みたいな石ころのために、この沢村萌まで人生に屈託を背負い込んでいたというのか、それも本人の責任ではなく、まわりの大人の、勝手な欲望のせいで。沢村萌の顔に亜由子の顔が重なって、突然、どうにもおれはやりきれない気分になった。
「お父さんが詐欺にあった全額は?」と、それでも無理やり事務的な声を装って、おれが訊いた。
「二千万円。自殺するほどの金額ではないと思うでしょうけど、でもそれは、父の最後のお金だったんです。やっていた印刷会社が倒産して、そのあと母の実家の家まで抵当に入れて掻き集めた、本当に最後のお金でした。詐欺なんて引っかかるほうが悪いと言う人がいますけど、そういう考え方、わたし間違っていると思います。騙す人と騙される人ではやっぱり騙す人が悪いんです。騙されたいと思っている人なんか、誰もいないんです。父が馬鹿だったと言うのはかんたんですけど、でもわたしはその父の子供だし、父を騙した人たちのほうが頭が良くて偉かったなんて、そんなふうには思えません」
「五年前のその事件では、犯人は、捕まっているのか?」
「いいえ。ねずみ講をやっていた会が解散になって、それで終わりました。法律的には詐欺罪が成立しなかったんです。商法の改正も間に合いませんでした」
「おれにはよくわからないが、その人造ダィャってやつ、そんなに精巧なものなんだろうか」
「一目見ただけでは専門家にもわからないと思います。人造ダイヤといっても工業用につかう本物の合成ダイヤじゃなくて、ルビーやサファィアと同じ合成コランダムなんです……言ってること、わかります?」
「それが、どうもな」
「ダイヤが人工的に作れることは、知っていますか?」
「知ってるだけは、知ってる」
「ただダイヤの場合は粒が小さいし、不純物も多くて宝石としては使えないんです。でもルビーやサファイアは天然のものとまったく同じものを人工的に合成することができます。ルビーもサファイアも成分としては同じアルミニウムの酸化物で、だから鉱物名も同じコランダムなんです」
「よくわからないが、なんとか、理解はできる」
「ですから……」
肘で支えて、身をのり出し、言いかけて、沢村萌がふっと肩の力を抜いた。
「やめましょうね。佐原さんには興味ないことですよね」
「聞かせてくれないか。なにかの、参考になるかも知れない」
「ですから……」と、思いなおしたように、また肘で躰を支え直して、沢村萌が言った。「原料のアルミナの粉を二千度以上の高温で熱処理すると、天然のものと同じルビーやサファイアができてしまうんです。ルビーの赤を出すにはクロムを混ぜて、サファイアの青はチタンを混ぜて出します。無色のものはホワイトジルコンて呼ばれますけど、これをダイヤと同じブリリアンカットにすれば一般的にはもうダイヤと見分けはつきません。専門家にもわからないんですから、ふつうの人なんか、いくらでも騙せます」
「もしそうだとしたら、その事件は、やっぱり詐欺だったんじゃないのか?」
「会長という人は人造ダイヤだと断っていたというんです。でも組織の下ではそれを本物のダイヤとして売っていました。捕まったのはそういう人たちで、会長は脱税の罰金を払っただけで罪にはなりませんでした」
「その会長というのは、まさか……」
「いえ」と、俺の気持ちを察するように、沢村萌が強く、首を横にふった。「小川真也という人で、以前は宝石デザイナーだったそうです」
「それじゃあその五年前の事件と今度の志保美の事件と、どこで関係してるんだ?」
「わたしは今度の事件が五年前のことに関係があるとか、父の復讐をしたいとか、そんなふうに思ってるわけじゃないんです。ただこの五年間、ダイヤだとか宝石だとか、わたしなりに勉強もしたし、できれば父があんなことになってしまったダイヤと正面から取り組んでみたいなって、そう思っていました。『ジュエル・青山』の社長さんには、ですから、本気で憧れていたんです、いつか一緒に仕事ができるようになればいいなって。ただ……ただ今度のことで、一つ気になったのは、さっき言った小川真也という人、その人、ねずみ講の会を始める前は銀座の瑞宝堂に勤めていたんです。もちろんそんなこと、ただの偶然だとは思いますけど」
我慢できずに、煙草に火をつけ、おれは天井に向かって、ふーっとその煙を吐きだした。
「その小川という男と瑞宝堂は、事件に関してなにか直接的な関係があったんだろうか」
「事件の起きた一年前には、小川という人はもう瑞宝堂をやめていたということです。それ以上のことは、わかりません」
「君の親父さんの事件が、五年前の夏。志保美が瑞宝堂に入ったのが五年前の春。志保美と南礼子が『ジュエル・青山』をつくったのが、その年の秋。そして志保美が殺されたのが、三日前の夜中。なにか関係があるかも知れないが、まるで関係ないかも知れない。調べてみてもし関係がないとわかったら、君は、どうするんだ?」
「それならそれでいいんです。父の事件と社長さんの事件、本当は関係なんかしてもらいたくないんです」
「今度の事件が片づいたら、君はまた清く正しく学生生活をつづける。そのことが、約束できるか?」
おれの頬に、急に視線を戻して、沢村萌がこっくんとうなずいた。目にも光が戻ってきて、沢村萌本人よりもどちらかといえばおれのほうが救われた気分だった。
「君が泣けと言ってキューを出さなくて、助かった」
一瞬戸惑った顔をしたあと、歯を見せて笑い、沢村萌が頬杖の中からその尖った顎を、ぐっとおれのほうにつき出した。
「これで決まりですよね。ねえ?」
「そういうことに、なったらしいな」
「対等の相棒でいいですよ。助手だったら佐原さんがわたしにアルバイト料を払わなくちゃならないもの」
「おれは、必要経費は借しまない主義さ」
「本当にいいんです。昨日は助かったけど、わたし、佐原さんからお金を貰いたくないんです」
ベーコンエッグの皿を、手前に引き寄せ、それを心からつくづく眺めながら、おれが言った。
「いつかおれの娘に会う機会があったら、今の台詞、ぜひとも聞かせてやってもらいたいもんだ」
相棒だか助手だか知らないが、今度の事件に関して、とにかくおれと沢村萌との間には一種の契約のようなものが結ばれてしまったらしかった。もちろん沢村萌にギャグニーやレイシーのような本格的な調査をさせようとか、ミス・マープル的な神がかった推理を期待したとかいうわけではなかったが、少なくとも、宝石に関してはおれよりもいくらかは知識があるはずだし、だいいちおれの手の中から飛び出したらこの娘がなにをしでかすか、おれにはそっちのほうが心配だったのだ。
ベーコンエッグと味噌汁の昼飯を、奇跡的に平らげ、おれたちは揃って家を出た。家庭教師のアルバイトがあるという沢村萌とは新宿で別れ、おれは一人で神田に向かった。沢村萌の喪服とハイヒールは、言われなくてもわかっていたが、近所に住む同級生の姉さんからの借り物だということだった。
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上条準次の事務所は、神田駅の東口通りをいくらか岩本町側に入った、細長いビルの四階にあった。その辺りはみな同じような貸しビルが密集している地域で、となりとの境に二十センチも空間があれば思わず拍手したくなるほど驚異的に雑然とした一画だった。
それでも『東都信用調査』の入ったビルは、壁が剥げ落ちているわけでもなく、階段が歪んでいるわけでもなく、天井に雨漏りの抽象画がへばり付いているわけでもない、けっこうこざっぱり[#「こざっぱり」に傍点]した建物だった。どんな仕事をしているのかは知らないが、興信所というのもやり方次第ではそれなりに儲かる商売ということなのか。
ドアを開けると、五坪ほどのフロアに事務机が二つ置かれていて、その一つには髪を染めた歳のわかりにくい女が、やはり機嫌のわかりにくい顔で膝になにかの雑誌を開いていた。もう一つの机には上条準次が妙庵寺で見かけたときと同じ背広のまま、無表情に新聞に目を落としていた。さっきの電話で一応おれを待っていたわけなのだろうが、事務机が二つだけということは、『所長』の他に社員はこの女一人ということらしい。
「仕事のことで、相談があるんですがね」と、新聞を脇にどけ、立ち上がった上条準次に、おれが言った。「たいして時間はとらせないはずです」
上条準次が二度ほどうなずき、机をまわり込んできて、手で示しながらおれをガラスの衝立の陰に案内した。わざとらしく気難しい顔をしているのは、これがただの客商売とはちがうという威厳でもみせているつもりなのだろう。
「先ほど電話をいただいた方ですかな?」と、ソファに座ったおれに、名刺を差し出しながら、上条準次が言った。
すでに見なれた名刺ではあったが、おれは一応肩書に目を通すふりをし、その名刺をポケットにしまい込んだ。
「で、ご用件は?」
誰か適当な人間の素行調査でも依頼して、この男の仕事ぶりを観察する方法も考えなくはなかったが、たぶん、そこまでの礼儀が必要な相手でもないだろう。
「木崎志保美という女、当然ご存知だと思いますが……」
元警官という経験からか、上条準次の表情には、それとわかるほど特別に目立った変化は表れなかった。
「わたし、佐原といいますが、彼女からわたしのことを聞いていませんか」
上条準次の黄色く濁った目が、一度おれの顔をなぞり、節くれ立った指がポケットに煙草の箱かなにかを探りはじめた。おれの質問を否定しても肯定しても、どっちみち自分が志保美と知り合いであることを認めることになる。その結果として次にとるべき態度を、上条準次なりに考えているらしかった。
「木崎さんとは、どういうお知り合いなんです?」と、取り出した煙草に火をつけて、上条準次が訊いた。
「元亭主ですよ、五年前に離婚した」
ほう、というように、上条準次のねばっこい視線が、またおれの顔に戻ってきた。
「離婚したといっても娘が一人いましてね。たまには三人で飯ぐらいは食っていました。彼女は自分の仕事のことを話すのが好きな女だった」
観念したのか、煙草の煙を吹いて、上条準次がその薄くなった髪を、二度ばかり指で上に掻きあげた。
「それで、木崎さんの前のご主人が、いったいどんなご用なんです?」
「彼女が三日前の夜広尾のマンションで殺されたことは、ご存知でしょう?」
「新聞に出ていましたね。昨日の新聞でしたか」
「わたしがここへ来たのは、事件に関してあなたになにか心当たりがあるんじゃないかと思ったからです」
「あたしに?」
いくらも吸っていない煙草を、灰皿でつぶし、上条準次が黄色い目で、じろりとおれの顔を睨《ねめ》つけた。
「あたしに、なぜそんなことの心当たりがあるんです?」
言葉はていねいであったが、そのていねいさの中にはやくざ者や犯罪者を威嚇する、警官特有のあの下司な響きがこめられていた。
「あなたは『ジュエル・青山』の仕事をしていたわけでしょう。警察では、今度の事件は志保美の仕事に関係があると睨んでます。わたしも同じ意見でしてね。とすれば、裏の事情に詳しいあなたがなにかを知っていると考えるのが当然というわけです。そのなにかを敦えていただきたい。もちろん、ただでとは言いませんよ」
上条準次の肉のうすい頬が、誰かに抓られたように、ぴくっと引きつった。
「なにか考えちがいをしておられるようですな。うちはただの興信所でしてね。殺人事件などというぶっそうなことには関係しておらんのです。仕事といったら家出人捜しとか、浮気の調査とか、まあせいぜい企業の内部調査ぐらいで……」
「わたしはそれを聞きたいと言ってるんです」
ポケットから出した煙草に火をつけ、上条準次の顔に、おれがふーっと煙を吹きつけた。
そのとき、衝立の向こうから女がコーヒーを持ってきて、カップをおれと上条準次の間に放り出すように置いてまた衝立の向こう側に消えていった。そのコーヒーは砂糖とミルクのたっぷり入った、絵に描いたようなインスタントコーヒーだった。
コーヒーを一口すすっただけで、すぐ下に置き、おれが言った。
「志保美とは……『ジュエル・青山』とは、いつごろからのつき合いなんです?」
「それぐらい木崎さんからお聞きになってると思いますがね」
「あんたにある件を依頼したとは聞いたが、いつのことかまでは、聞かなかった」
「その、ある件とは?」
「訊いてるのはこっちのほうですよ」
インスタントコーヒーを、旨《うま》そうにすすり、しばらくカップを弄《もてあそ》んでから、上条準次が口の中でちっと舌打ちをした。
「そりゃまあ、木崎さんから仕事をもらっていたのは事実ですがね。あたしだって信用商売だ。依頼人の秘密をぺらぺら喋るわけにはいきませんやね」
「その依頼を死んだ元女房に代わっておれが引き継ごうと言ってる。それ相応の謝礼を払ってさ。無茶な申し出ではないと思うがね。それに警察がやって来れば、どっちみちあんたは喋らなくちゃならない」
「警察ねえ……」
上条準次の黄色く濁った目に、一瞬、ちらっと殺気のような光が走った。
「警察はたしかに市民の味方だ。警察が信じられるんなら、おたくも安心して事件を任せておけばいい」
正木がどういう形で上条準次に接触するかは知らないが、この男の経歴や、今『警察』にみせたあからさまな憎悪からして、素直に取り調べに応じるとも思えない。警察の機構を知りつくしているぶんだけ、人殺しや強盗よりも性《たち》が悪いということか。
「あんたが商売だというなら、なおのこと客は大事にすべきだ」と、煙草の煙の中から上条準次の顔色をうかがって、おれが言った。
「お客様は神様さね。その信念があるから、あたしも食っていられる」
「今度の事件に関してだけ、特別宗旨がえをしたってわけか?」
ハイライトの箱を手の中でいじくり、なにか考えるような顔でしばらくそれを眺めてから、思い出したように、ふと上条準次が眉をつりあげた。
「佐原さんといいましたっけね。おたく、やっぱり勘違いしてますよ。あたしが木崎さんから受けていたのはただの信用調査だ。事件にはなんの関係もない」
「朝倉文子の、どんな信用を調査していたんだ?」
下からおれの顔をのぞき込んで、口の端を歪め、上条準次がくっと笑った。
「おたくの話、さっぱり見えてきませんな。なんです? その朝倉文子ってのは」
「瑞宝堂の朝倉文子さ。志保美はあんたに朝倉文子についてなにか調査を依頼したはずだ。結果が出ているなら志保美に代わっておれがその報告を聞こう」
「それを勘違いだと言ってるんだよ。あたしは朝倉文子なんて女は知らない。木崎さんからもらった仕事は宝石ブローカーとやらの信用調査と、あとは自分とこの店員の素行調査だけなんでね。警察にだってそれ以上のことは言えないし、おたくが金を積んだって結果は同じさ。うちはまっとうな興信所だ。超能力を使って仕事をしてるわけじゃない」
「金額次第では、超能力も使うんじゃないのか?」
「とんでもない」
上条準次が、濁った目とこけた頬を、同時ににやっと笑わせた。
「仕事は地道にやるのが一番ですよ。地道にこつこつと、自分の足で家出人を探したりばか娘の素行を調べたりね。あたしも賭事はやるけど、仕事に賭はもち込まない。まあ、あたしなりの人生哲学ですな」
賄賂を取って警察をくびになった男の人生哲学としては、かなり立派なものではあるが、こういう男の哲学はどうせ二重構造にも三重構造にもなっている。上条準次がなにを狙っているのかは知らないが、今のところおれに協力を申し出る意思だけはなさそうだ。状況が変われば哲学も変わるわけだが、ただ今のおれは、残念ながら、上条準次の哲学を変えてやるだけの切り札は持ちあわせていなかった。
ポケットから手帳を取り出し、自分の電話番号を書きつけて、そのページを千切りながら、おれが立ちあがった。
「あんたは自分の才能を、過小評価しているな」と、電話番号を書いた紙を上条準次に渡しながら、おれが言った。「あんたは超能力も使えるし、一発逆転の大|博打《ばくち》もうてる。今狙ってる大穴が外れたらその番号に電話をしてくれ」
座ったまま、皮肉っぽい顔で紙切れを眺めている上条準次をそのままにして、おれは衝立をまわり、机に頬杖をついている女に、お世辞のつもりでちょっと手をふった。
面倒臭そうに顔をあげて、女が、ちらっとおれに流し目を送ってきた。
「おたくの会社、客にはいつもあのコーヒーを出すのか?」
「今日は特別サービスだわよ」
「おれの腹具合が悪いこと、どうしてわかった?」
「なんのこと?」
「こんなところに勤めてるより、あのコーヒーを便秘の特効薬だといって売り出したら、次の日にあんたは大金持ちになれる」
口を開けかけた女に、また手をふり、ドアを押して、おれは外に出た。
「どうも、お邪魔さま」
特別あてもなかったが、映画を見る気にもならず、おれは地下鉄で銀座に出てみることにした。妙庵寺で声をかけそびれた朝倉文子の姿がなんとなく気持ちにわだかまりをつくっていたが、自分が大きな顔で朝倉文子に会える立場でないことぐらい、おれにだってちゃんとわかっていた。
三年前から朝倉文子が社長になっているという瑞宝堂は、地下鉄の銀座駅から並木通りに出て、それをいくらか京橋寄りに歩いた、道の南側にあった。十六年前、志保美との結婚指輪を買ったのは、考えてみればその瑞宝堂だった。おれの指輪はまだ部屋のどこかの引き出しに眠っているはずだが、志保美のほうは、いったいあの指輪をどう始末したのだろう。家を出ていくとき叩きつけられた覚えもないから、一応結婚したことの記念に持っていったのか。それともおれには内緒で亜由子かお松さんにでも渡していったのか。
店の前にくるまでに、すっかり思い出していたが、瑞宝堂は志保美の『ジュエル・青山』とは雰囲気も店構えも、なにもかもが対照的な宝石店だった。青山と銀座という立地条件のちがいもあるだろうが、まずはその歴史がちがう。社長も朝倉文子で三代目になったはずで、建物自体は灰色の石づくり、ショーウインドが道ぞいにせり出しているわけでもなく、もちろん派手な看板やネオンサインがついているわけでもない。古めかしいといえば古めかしいし、排他的といえば排他的だが、宝石なんて元々が貧乏人と金持ちを区別するための小道具でしかないのだ。
おれが、少し黄色っぽいシャンデリアに照らされた店内に入っていくと、中には四人ほどの女店員がいて、他に客はなく、みながみな静かに微笑みながらおれに軽い会釈を送ってきた。これが老舗の貫禄というやつなのだろう、客は獲物ではないという教育が、女店員にまで徹底されているらしかった。
二階に事務所と応接室があることは知っていたので、女店員の一人のところまで歩いていって、おれが訊いた。
「朝倉社長は、戻られていますか?」
「はあ……」
「木崎さんの葬式に行かれたはずだが」
「失礼ですが、どちら様でございましょう?」
「佐原といって、社長とは昔からの知り合いなんだ。戻っていたらお目にかかりたいと伝えてくれませんか」
女店員が軽くうなずいて、奥のカウンターに歩いていき、そこで内線電話を取りあげるのを確かめてから、おれはズボンのポケットに両手をつっ込んでぶらぶらと近くのショーケースを覗き込みはじめた。『ジュエル・青山』よりも品数自体は少なかったが、定価札の数字はどれも丸の数が一つずつ違っていて、気のせいか、指輪にもネックレスにもそれなりの気品らしきものが感じられる。しかしそれが素人目の錯覚なのか、それとも品質自体の問題なのか、もちろんおれなんかにはわかるはずもなかった。
電話をかけにいった女店員が、戻ってきて、微笑みながら、おれのほうに慇懃に頭をさげてきた。
「社長の帰社は夕方になったと、先程電話が入ったとのことでございます」
朝倉文子がおれを避ける理由もなくはないが、志保美が死んだこの状況からして、たぶん居留守をつかっているわけではないだろう。
「おたくもデパートにはテナントを入れてるんだろうな?」と、一度うなずいてやってから、躰の前で手を組み合わせた女店員に、おれが訊いた。
「当店は戦前から丸越デパートに出店しております」
「丸越……丸越の、その、銀座の本店に?」
「本店ももちろんですが、都内五か所の支店と、それから資本提携しております地方デパートの十三か所、すべてでございます」
「丸越の宝石売り場は、つまり、瑞宝堂さんが独占的に入っているということか」
「なにしろ戦前からのおつき合いなものですから」
戦前からということは、瑞宝堂の歴史の、その最初からということだ。
「おたく、夜はなん時までやっています?」
「こちらの本店は八時まで営業しております」
「朝倉さんは間違いなくお帰りになるんだね?」
「そのように、承っております」
おれは、ちらっと自分の腕時計を眺めてから、もう一度店の中を見まわし、女店員に礼を言って、そのまま店を出た。
瑞宝堂は丸越系列十九のデパートの、そのすべてにテナントを入れているのだ。いくら瑞宝堂が老舗で、業界では大手だといっても、その経営はかなりの部分丸越に依存しているのではないだろうか。だとすれば、最後に志保美が亜由子に会った日、近ぢか『ジュエル・青山』を丸越に入れると言ったのは、どういう意味なのだろう。瑞宝堂がそうかんたんに丸越を明け渡すとも思えないし、南礼子ではないが『ジュエル・青山』自体、まだまだ瑞宝堂に取って代われるほどの格式はもっていないはずだ。亜由子の入学祝いのつもりで志保美がちょっとばかり見栄を張ってみせたということなのか。しかしそれでは、上条準次の存在が、どうにも説明しきれない。
無意識のうちに、おれの足は並木通りから中央通りに向かっていて、気がついたときには中央通りの歩道側にぱっくり口を開けている、丸越デパートの正面玄関までやってきていた。時間もあることだし、社会見学のつもりで、おれはそのデパートに入っていった。
デパートなんていうものに縁がなくなってから、もう五年がたつ。志保美と別れる前は一応盆暮の買い物につき合ったし、一年になん着か背広もあつらえていた。考えてみればここ五年間、おれは一着も新しい背広はつくっていなかった。背広を着て出かけるような場所がなくなったせいもあるが、今のおれはお松さんが気まぐれに買ってくる洋服を気まぐれに着込んでいるにすぎない。志保美と別れて以降、おれにとって洋服だの身のまわりの品だのというのは、その程度の意味しかなくなってしまったのだ。
貴金属売り揚が、どこのデパートでもだいたい最上階の一階下あたりにある理由は、おれにはよくわからない。値段の高い物は高い場所に置いたほうが箔がつくということなのか。それともたんに、需要の多い順番から下のフロアを占めていくということなのか。二階や三階はかならず女客相手のスペースだから、まあ、あとのほうだろう。
おれはエスカレータを乗りつぎ、遅い午後のデパートの賑わいを見物しながら、ゆっくりと七階まであがっていった。案の定八階は食堂と催事場で、そっちはかなり混み合っているようだったが、呉服売り場と貴金属売り場だけが入った七階はこれが同じデパートの中かと思うほどの人気《ひとけ》のなさだった。デパートにおける貴金属売り場の売りあげは、割り合いとしては、いったいどれぐらいのものなのだろう。
丸越本店の貴金属売り場は、エスカレータをおりていった右側半分の、そのフロア全体を占めていた。落ち着いた照明の中に客の数よりも多い制服の店員が、手持ち無沙汰をまぎらわしきれないような顔で茫然とちらばっている。こういうことに興味がなかったら、これが丸越自体の出店ではなく外部業者のテナントだなどとは考えもしなかったろう。事実レジのある中央カウンターの上には、『銀座瑞宝堂』と書かれた小さな金属プレートが置かれている。
おれはしばらく、当てもなく絨毯敷きのフロアを歩きまわったあと、ネックレスの並んだショーケースの前で足を止めて、ぼんやりと中を覗き込んでみた。そこは青だの赤だの縞模様だの、石のペンダントつきネックレスが陳列されている一角だった。中には亜由子の首からさがっていたものと似たような石もあって、その値段に、思わずおれは頭の中で唸り声をあげてしまった。おれの目が乱視でなければ、そこに並んでいる丸の数は、百二十万ということになる。
「よろしければ、お出しいたしましょうか?」
いつやってきたのかは知らないが、ケースの向こうに三十ぐらいの背の低い男が立っていて、ばかていねいな口調でおれに話しかけてきた。
おれの唸り声を肯定の返事と勘違いでもしたのか、腰を屈めて、男がショーケースの中からいくつかのネックレスを取り出しはじめた。
「贈り物でございますか?」
「まあ、そんなところだ」
「お相手の方の、ご年齢は?」
「十五」
「は?」
「この夏で十六になる」
男もいい加減鼻白んだろうが、おれだって亜由子のネックレスの値段を想像すれば、いい加減ばかばかしくなる。
「子供の玩具にはちょっと高すぎるかな」
「それはまあ、いろいろ考え方もございましょうし……」
「この青いの、スターサファイア?」
「いえ、こちらはスターではございませんが、当店がスリランカから直輸入いたしました、天然の高級サファイアでございます」
「サファイアとかルビーとか、今じゃ人工的に作れるそうだな」
「そういう石も、最近ではたしかに、かなり出まわってはおりますね」
「人工の石と天然の石と、どうやって見わけるんだね?」
「それは……」
「専門家でも見わけは難しい、たしか、そう聞いたな」
「ですから、それは信用のおけるお店で信用のおける品物をお求めになっていただくのが一番かと存じます。当店の場合は権威ある専門家の鑑定書と、当店独自の保証書をともにお付けしてご利用いただいております」
「要するに、素人は店を信用するしかないって、そういうことだ」
「さようでございますね。一般の方がこういった品物をお求めになる場合は、一にも二にも、そのお店の信用ということでございます」
「その信用を戦前から守ってるんだから、瑞宝堂さんもたいしたもんだ」
無神経な目つきでこっちの風体を値踏みしている店員の視線を、意識的に押し返して、おれが言った。
「先代のおたくの社長とは、ちょっと親しくしていた。今は文子さんが社長になったのかな」
男の目つきが変わり、顎の筋肉から、見ているおれが聡ずかしくなるぐらい、ふっと力が抜けていった。
「さようでございますか。お客さま、社長のお知り合いでございましたか」
「文子さんもたいへんだろう。商売に向くタイプとも思えないから……君、瑞宝堂には長いのか?」
「お世話になって、七年になります」
「それじゃ南くんや小川くんも知ってるわけだ?」
「南さん? お客さま、南さんまでご存知でしたか」
「彼女、青山に新しい店を出したそうじゃないか」
「うかがってはおります。なんですか、あちらはだいぶ派手におやりのようで」
「小川くんなんかは、今はどうしてるんだろうな」
「小川と申しますと、あのデザイナーだった、小川でございますか?」
「やつもばかなことをしたもんだ。先代も小川くんの腕は買っていたはずだがな。君、やつの消息は知らないか?」
「さあ……」
男が、首をひねって、口の端を皮肉っぽく、にっと笑わせた。
「存じませんですねえ。一度あのような事件を起こしますと、この業界では……」
「生きていけない、か?」
「まあ、まともな仕事はできませんでしょうねえ。なにしろ商品以上に信用を売る商売でございますから」
「なかなか、面倒そうな商売だ」
この店員相手に、これ以上の時間つぶしが意味のあることとも思えなかったので、別れの挨拶がわりに、並んだネックレスに向かって、ちょっとおれは手をふった。
「ところで……」と、ネックレスをショーケースに戻しはじめた男に、ただの思いつきで、おれが訊いた。「南くんのところの社長が殺された件、当然、業界でも話題になっているんだろうな」
「事件が事件でございますから、そりゃまあ、噂はいろいろ飛び交っておりますねえ」
ネックレスをしまい込む手を、途中で止め、目を細めながら、ケースの向こう側から男がそっと顔を近づけてきた。ただ商売が暇だからというより、この男自身たんに口を動かすことに生きがいを見出すタイプらしかった。
「お客さま、『ジュエル・青山』の社長、ご存じでございましたか?」
「いや、新聞で見ただけだ」
「さようでございますか。実は殺されましたあの社長、ほんの半年ほどでございましたが、青山に店を出す前に当店におったんでございます。わたくしなどもまあ、多少おつき合いがございましたほうで……」
「なかなか、いい女だったらしい」
「そりゃもう、いえね、うちの社長も宝石業界のマドンナとか言われておるんですが、なにしろお客さま、あちらは業界のダイアナでございましたからねえ。そう言われるだけのことはございましたし、ファンも多かったとは思うんですが、そのぶんなんと申しますか……おわかりでございましょう?」
「敵も多かった?」
「噂でございますよ。ただの噂でございますけど、ご商売のほう、だいぶ強引だったとうかがっております」
「たとえば?」
「そりゃまあ、たとえば、メーカーさんなんかにはあまり評判はよろしくなかったでしょうねえ」
「指輪やネックレスに、メーカーなんてのがあるのか?」
「ございますとも。一般の方はご存知ないかもしれませんが、ふつうに出まわっておる貴金属類、あれ、ほとんどメーカーから出ておる品物なんでございます。当店のような大手小売り店でもオリジナルは全商品の半分といったところでございましょうか。すべてオリジナルではリスクが大きすぎますし、それになんといっても貴金属の大手メーカーはみんな時計屋さんなんでございますよ。今でもそうでございますが、時計と宝石っていうの、一種のつきもの[#「つきもの」に傍点]みたいな考え方がございましてね。それを木崎の社長さまはご商売の最初からメーカーを締め出されてしまわれたんです。そのくせ地方のテナントで時計が必要なところにだけは、時計だけを強引に納めさせたりいたしまして、メーカーとしては当然面白くないというところでございましょうねえ」
「しかし、そんな商売のやり方で、よくあそこまで店を大きくできたもんだな」
「そこなんでございますよ。そこでいろいろ噂が飛び交うわけでございます。やれ石はぜんぶビルマからの密輸ものだとか、若手作家のデザインを盗用したとか工場の支払いを踏み倒したとか……とにかく、あまりかんばしい噂はございませんですねえ。口の悪いブローカーの中には、今度の事件、遅すぎたぐらいだとか申す者もおるほどで……」
「殺された彼女も、ずいぶん、恨まれたもんだ」
「なんと申しましても五年であれだけの店にしてしまわれたわけですから、多少の無理はございましたでしょうねえ」
「多少の無理が、あの結果だったわけか。文子さんなんかは今度のこと、どう思ってるんだろうな」
「どう、と申しますと?」
「強力な商売|敵《がたき》がいなくなって、ほっとしているのかな」
「それはございませんですよ。あちらさまもだいぶ手広くはおやりでしたが、もともと当店などとは扱う商品が異なりますし、客層そのものがちがっております。一概に宝石と申しましてもぴん[#「ぴん」に傍点]からきり[#「きり」に傍点]までございましてね。それに、これはみなさんご存じのことでございますが、あちらの社長さまとうちの社長、学生時代からの親友なんでございます。木崎の社長さまが青山に店を出されるにつきましても、うちの社長がだいぶ力を貸したと聞いております」
「しかし南くんを引き技かれたのは、文子さんとしても痛かった」
「それは、まあ、あのときは私も意外な気はいたしましたが、どっちみち上のすることは私どもには関係ございませんからね。あのことで特別問題があったということも聞いておりませんし、円満退社だったんじゃございませんかねえ」
「君なんかは、『ジュエル・青山』の社長を、個人的にはどう思ってた?」
「個人的にと、申されましてもねえ。いえね、あの方は最初から一般社員とは別な形で入ってこられましたから、個人的にどうこういうほどのおつき合いではなかったんでございますよ。ただこの売り場にも、研修というんですか? まあ、そんなようなことで一週間ほど出ておったことがございまして、あの方が売り場におりますと、なんと申しますか、売り場全体が華やかな雰囲気になるとでもいうんでしょうか、ですから個人的には、私など、あの方の成功はなんとなく納得できていたんでございます。個人的には、ですから、今回のこと、非常に残念ではございます」
店員がへんに神妙な顔で、一人で勝手にうなずき、なにやら首をふりながら深く腕組みをした。志保美がこの売り場に立ってふりまいた華やかな雰囲気とやらが、この男の記憶になんらかの衝撃を与えてしまったらしかった。
ふと思い出したように、ネックレスをケースにしまい込む作業に戻って、それからまたその手を止め、自分の手の中の青いサファイアをじっと見つめながら、一人言のように、店員が言った。
「個人的には、そりゃあもう、非常に残念でございますよ。いい女ってのはどうしてこう、みんなすぐいなくなっちまうんでございましょうねえ」
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真冬の一時期にくらべると、日も長くはなったが、それでも五時をすぎると空気の匂いが夜の気配に追いたてられ、人の動きにもクルマの流れにも四月の夕方らしいそれなりの気忙しさが混りはじめる。
おれはデパートを出て、晴海通りをまた並木通りの瑞宝堂に向かって、ゆっくりと戻りはじめた。『社長の帰社は夕方になる』と女店員が言った夕方とは、具体的になん時のことかわからなかったが、五時をすぎていれば一般的には夕方と考えて悪いことはあるまい。
二十分ほどで、瑞宝堂につき、おれが中に入っていくと、昼間の女店員がおれの顔を覚えていて、会釈をしただけですぐにカウンターから内線を繋いでくれた。おれはしばらくの間勝手にショーケースを覗き込みながら、ぶらぶらと店の中を歩き回っていた。
二階からおりてきた朝倉文子は、昼間の喪服をパステルグリーンのバンツスーツに着がえ、結いあげていた髪も肩のうしろに無造作に流していた。志保美も他人には若く見えたかもしれないが、朝倉文子もやはりもうすぐ四十になろうという女には、どうしても見えなかった。表情や雰囲気にまだ女学生の青臭さと傲慢さのようなものが残っている。
おれの前まで歩いてきて、目を困ったように笑わせながら、朝倉文子が、浅く会釈を送ってきた。
「お久しぶり。元気そうだわね」
「女房に捨てられたからって、悲観して自殺する性格じゃないんだ」
「昼間お寺であなたには気がついたけど、声をかけそびれたの」
「お互いさまさ。君のそばに行こうとするとなんとなく邪魔が入った。おれたち二人の宿命かもしれないな」
口の端に皺《しわ》をつくり、なにか言いかけて、朝倉文子がその視線をぐるっと店の中に一巡りさせた。
「ちょっと待ってもらえる? すぐ戻るわ。コーヒーでも飲みながらゆっくり話したいものね」
一度二階に消え、戻ってきて、朝倉文子がおれを連れていったのは、並木通りを挟んで瑞宝堂とは向かい側にある、天井の高い落ち着いた喫茶店だった。音楽もジャズのスタンダードを、会話の邪魔にならない程度に低く流している。
「なんと言っていいかわからなくて、本当は、今でも言葉を考えているの」
中二階の、吹き抜け側に手摺りの付いた席に座り、二人ぶんのコーヒーを注文してから、煙草に火をつけて、朝倉文子が言った。
「わたしから佐原くんにおくやみ[#「おくやみ」に傍点]を言うのも、へんなものでしょう」
「なにもかもへんさ」と、ジャケットのボタンを外しながら、自分でも煙草を取り出して、おれが言った。「こんなことになったのも、おれがこんなふうに君に会いに来るのも。ただ亜由子のことがあるし、事件には早く片をつけたい」
「亜由子ちゃん、大きくなったわね。もう高校生?」
「今年からだ。事件の夜もそのお祝いに志保美と飯を食ったらしい。おれのほうは五年間、一度も志保美には会っていなかった」
「けっこう薄情なのよね、あなたも、志保美も」
うすくアイシャドーを塗った目を、軽くまばたきさせ、右側に八重歯の覗く小さめの口で、朝倉文子がにっと笑った。
「殺人事件だということは、犯人がいるわけさ」と、自分でも煙草に火をつけて、おれが言った。
「元夫婦の義理でその犯人を見つけてやりたい。君が思っているほど薄情じゃないんだ」
「わたしになにかお手伝いができるの?」
「志保美のことを教えてもらえればいい。君は彼女の親友だったし、最近のことは君が一番詳しいはずだ」
唇を丸め、ふーっと煙を吐いてから、髪を指で掻きあげて、朝倉文子が言った。
「警察の人にも言ったけど、最近仕事以外でのつき合いはなかったの。お互い忙しかったし」
「君が親父さんの跡を継いだことは、知っている」
「父は三年前に死んだの。でもうちは昔からの社員がいるし、わたしの仕事はお得意さまのご機嫌をとってまわることぐらい……志保美のほうは、大変だったでしょうけどね」
「最初はどういうことだったんだ? 志保美は最初から自分で宝石店を始めるつもりで君の店に勤めたのか?」
「志保美をこの業界に入れたのは、父だったの」
「親父さんが……」
「知ってるでしょう? 志保美、学生のころからずっと父のお気に入りだった。志保美が男の子だったらというのが死ぬまで父の口癖だった。志保美が男の子だったら、わたしと結婚させて店を継がせるのにって、最後までそんなことを言っていたわ」
コーヒーが運ばれてきて、朝倉文子が黙ってカップを取りあげ、おれも自分の側にそのカップを引き寄せた。
「だから、五年前……」と、コーヒーに口をつけてから、視線をおれの顔に戻して、朝倉文子が言った。「志保美と佐原くんがああいうこと[#「ああいうこと」に傍点]になったとき、へんな言い方だけど、一番喜んだのはわたしの父だった。父はわたしと志保美と、二人で瑞宝堂をやらせたかったのね。だからそのつもりで仕事を教えたのよ」
「ところが志保美は最初から独立するつもりだった?」
「結果的には、そういうことなんでしょうね」
「つまり、志保美の独立はすんなり決まったわけではなかったんだ?」
「それはまた別の問題よ。彼女が青山に店を出すことについては、父もわたしも全面的に協力したわ。父も志保美がどこまでできるかやらせてみようと思ったのね。失敗したらまた瑞宝堂に戻ってくればいいって、内心では、そう思っていたんじゃないかしら」
「ところが失敗するどころか、志保美はへんなふうに成功してしまった」
「才能があったのよ、たぶん。ああいうやり方をするとは、わたしも父も思ってはいなかったけど」
「君や親父さんにとっては、志保美のやり方は面白くなかったろうな」
「というより、わたしたちには考えつかなかった。でも、だからって、そのことに文句を言うつもりはないし志保美に対して個人的に反感をもったとか、そういうことはなかったわ。わたしなんか感心したぐらい。なるほどなあ、こういうやり方も、あるんだなあって」
「そのこういうやり方[#「こういうやり方」に傍点]のせいで、志保美はだいぶ、敵をつくったらしい」
「いろいろ言う人はいたでしょうね。でも実際のところはわからないわ。新しいものにアレルギーを起こすのはべつにこの業界だけではないもの。それに仕入れや流通って、けっきょくはその店のノウハウなの。そこで敵をつくることもあれば逆に味方をつくることもあるわけ。志保美の店がどういうシステムを採っていたか、外側からではわからないわ」
「そのへんの事情は南礼子に訊くしかないってことか」
朝倉文子が、眉をあげて額に皺をつくり、唇に力を入れて、ちらっとおれの顔を窺った。
「彼女には、当然会ったわけね?」
「昨日、青山の店でな」
「なにか言っていた?」
「これから店がどうなるのか、心配はしていた」
ゆっくりとコーヒーを飲み、新しい煙草に火をつけてから、また脚を組みかえて、ふっと朝倉文子が溜息をついた。
「今度会ったら、せいぜい頑張るように言ってほしいわね」
「はっきり言って、南礼子のことで君と志保美との間に確執があったんじゃないのか?」
少し間をおき、長く煙草の煙を吐いてしばらく自分の吐いたその煙を眺めてから、朝倉文子がゆっくりと顔を上げた。
「言ってる意味が、わからないけど?」
「あれだけの女だし、仕事もできるに違いない。その南礼子を志保美は瑞宝堂から引き抜いてしまった。君としては、面白くなかったと思うけどな」
「関係ないわね。佐原くんだって組織というものがどういうものか、知っているでしょう? 南礼子はもちろん優秀ではあったけど、彼女が抜けたぐらいでどうにかなるほど、瑞宝堂は小さくないの。それにあれは父が了解してのことだし、わたしがとやかく言う問題ではなかったわ」
「しかし南礼子がいなかったら、志保美だってあそこまでの仕事はできなかったはずだ」
「それは、あちらの問題だわ。それに死んだ志保美には悪いけど、いくら頑張っても『ジュエル・青山』が瑞宝堂に追いつくなんてこと、できなかったと思うわ。扱う商品が違うし客層も違うの。うちの店を利用するようなお客さまは保守的なのよ。この業界は歴史とか伝統とかが、まだまだ幅をきかせているの」
「その歴史と伝統ってやつを、志保美はひっくり返そうとした……」
「そこまでは、どうかしらね」
「もし『ジュエル・青山』が丸越に入ったら、現実にそうなった可能性も、あったろうな」
朝倉文子の指の間から、煙草の灰がこぼれ、それがパステルグリーンのスラックスの膝をかすめて、ふわりと床に落ちていった。
軽く膝を払い、煙草を灰皿でつぶしてから、八重歯を見せて、朝倉文子が言った。
「そんな話、どこから出てきたの? 今も言ったけど、この業界はあなたが考えているよりずっと保守的なの。南礼子がなにを言ったか知らないけど、百年かかっても『ジュエル・青山』は丸越になんか入れないわ。これからのこともあるでしょうから、佐原くん、彼女にはじゅうぶん気をつけることね。志保美もやり手だったけど南礼子はそれ以上かもしれないわよ」
「忠告は、肝に銘じておくさ」と、朝倉文子の視線を、わざと外して、おれが言った。「ところで五年ほど前、ダイヤモンドを使ったねずみ講事件があったの、覚えているか?」
「そんな事件があったような気はするわね。まだ五年しかたっていないかしら? ずいぶん昔のような気がするけど……そのねずみ講事件が、なにか?」
「主犯だった小川真也って男、君の店にいたそうじゃないか」
「どこで聞いたのか知らないけど、それが今度の事件と、なにか関係があるの?」
「あるかもしれないし、ないかもしれない。ただ小川のことを聞かせてくれれば、おれとしてはいくらかは業界の勉強になる」
「業界といってもあの事件はわたしたちがやっているような、正規の商売とはなんの関係もないの。いつだってあるでしょう? 国債だとか金相場だとかを使った詐欺事件。それがたまたま、ダイヤモンドだったというだけのことよ」
「小川真也も、たまたま、君のところの社員だっただけということか」
「佐原くん、わたしにいいがかりを付けてるみたいね」
目を細めて、朝倉文子が口の端を、にやっと笑わせた。
「あの事件の一年前には、父は小川をくびにしているの。やめた社員のことまでいちいち責任はとれないでしょう?」
「君の親父さんが小川をくびにした理由は?」
「佐原くんには関係ないわよ」
「業界の勉強さ。それに関係があるかないかは、こっちで決める」
「あなたって……」
細めていた目を、ふと見開き、そのいくらか色素のうすい目で、朝倉文子がじっとおれの顔をのぞき込んだ。
「変わらないわね。一見優しそうでフェミニストに見えるけど、本質的には他人をぜったい自分の世界に入れようとしないの」
「同じことを昨夜《ゆうべ》もある女に言われた」と、自分の指で、首のうしろの筋を強く押しながら、おれが言った。「つまり君もその女も、子供のころから男を見る目があったということさ」
おれは左の肘をソファの背もたれにかけ、反対の腕をコーヒーのカップにのばして、音をたてないようにそのカップを自分の側に引き寄せた。
「志保美に自分勝手な部分があったことは認める。それ以上におれが自分勝手だったことも認める。それは承知で、やっばり、今度のことだけは君に協力してもらいたい、お互い大人の分別をもった昔からの友達として……」
「昔のままねえ。それで誰からも憎まれないんだから、幸せな人よね」
朝倉文子がライターを取りあげ、煙草はくわえずに、そのライターの火を、三度ばかりしゅっしゅっと空焚きした。
「父が小川をくびにした理由は、商品の横流し……」と、うすい銀色のライターを、指の先でもてあそびながら、そのライターに話しかけるような口調で、朝倉文子が言った。「商品の横流しというよりは、正確にはデザインの横流しかな。小川って腕は良かったけど、性格的には要するに遊びで身を持ち崩すタイプだった。飲む打つ買うというけど、小川の場合は賭博だった」
「具体的には、どういうことなんだ?」
「小川は瑞宝堂の専属デザイナーだったの。父も腕は買ってたし、業界での評判も良かったわ。だから瑞宝堂のオリジナルはほとんど小川がやるようになっていたの。オリジナルだから、品数は限定されているのに、それがどういうわけかうちの店で売った以外の『瑞宝堂オリジナル』が出回るようになったの。この業界って狭いから、ルートをたどるのはかんたんだった。金に困った小川が自分でコピーをつくって売り捌《さば》いていたのよ」
「君の親父さんにくびにされたということは、一種の業界追放だったわけだよな」
「ルールがあるわけではないけど、小川を使うところは、なかったでしょうね」
「で、小川は仕方なく新手を考えた?」
「そういうことだと思うわ。でもくどいようだけど、あの事件、本当にうちとは関係ないの。ただの身持ちの悪い詐欺師が欲に目が眩んだ亡者たちからあぶく銭をかすめ取ったというだけのこと。うちとも関係ないし、この業界ともダイヤモンドとも、なんの関係もないことなのよ」
「あの事件では自殺した人間まで出ている」
「そういう人も、いたかもしれないわね。でも自殺する人間なんて、どんなつまらないことでも自殺するものだわ。特別あの事件に限ったことではないと思うけど?」
「そうだったかな」
「そういうものよ。世間とか人間とか、みんなそういうものでしょう?」
「おれが言ったのは、君が、そういう女だったかなという意味……」
朝倉文子が、ふと言葉を飲み込み、コップの水に手をのばして、その水で輪郭のはっきりしたうすめの唇を、ちょっと湿らせた。
「変わったのは、志保美だけではなかったらしい」と、妙に表情のない、妙に動かない朝倉文子の目を見つめながら、おれが言った。
手の中のライターに目をすえたまま、一度深く息を吐いてから、口の端に力を入れて、朝倉文子がおれの顔を見あげてきた。
「この歳になって、会社を背負って、いつまでもお嬢さまでいるわけにはいかないの。わたしも志保美もあなたのように人生を放り出すわけにはいかなかったの。それに今度の志保美のことで、いくらか、気が立っているのかもしれない」
「おれが責任を取れるのは、君には悪いけど、亜由子に対してだけだ」
「そういう意味じゃないのよ。そういう意味で言ったんではないの。ただ佐原くんとは、人生観もおかれている立場も違うというだけのこと。女にとって五年という時間、短いようで、案外長いものなのよ」
「小川のことを、聞かせてくれ」と、自分の頭の中から、無理やり五年の時間を閉め出して、おれが言った。「今どうしているか、なにか、心当たりはないか?」
ゆっくりとおれの顔から視線を外して、朝倉文子が、肩をすくめるように軽く首を右にかたむけた。
「噂でも、なんでもいいんだ」
「ブローカーみたいなこと、やってると聞いたような気はするけど……」
「ブローカーというのは、宝石のブローカーか?」
「ええ。でもそれ、表に出てくるような品物じゃなくて、裏で流れて裏で処理されるような、そういう品物だと思うわ。表の業界では小川は生きていけないはずだもの」
「住所なんかは?」
「うちに勤めていたころは笹塚のマンションだったけど、もう六年も前の話よ」
「家族は、いたのかな?」
「小川の出身は京都だったと思うわ。京都には今でも親か兄弟はいるでしょうね。東京では一人暮らしだった。もっとも女性関係のほうは、だいぶ派手だったらしいわ」
「特別親しかった女、覚えていないか」
「そこまでは……」
唇をすぼめ、一度眉の間に皺を寄せてから、今度はその眉を持ちあげて、朝倉文子が軽く鼻を鳴らした。
「麻生ミキという女優、佐原くん、知ってる?」
「麻生……いや」
「そうでしょうね。女優といってもテレビになん度かちょい役で出た程度で、ふつうの人は名前までは知らないでしょうね。小川はその麻生ミキという女優とつき合っていたことがあるわ。なにかのパーティーのときに連れてきて、小川が自慢そうに紹介したのを覚えてる。わたしが知っているのは、それぐらいかな」
朝倉文子がシガレットケースとライターをハンドバッグにしまい、膝を揃えて、椅子の中に浅く座りなおした。そろそろ瑞宝堂に戻る時間だという意味なのだろう。
おれは上条準次の名前を切り出してみようかとも思ったが、一瞬考えて、やめることにした。上条という警官くずれの探偵がなにを調べていたのかは知らないが、直接朝倉文子に接触していることは、まずありえない。
「近いうち、亜由子ちゃんと三人で食事でもしない?」と、ハンドバッグを胸の前に引き寄せながら、腰を浮かせて、朝倉文子が言った。「こんなことになってしまったけど、志保美と一番縁が深かったのは、けっきょくわたしたち三人ということですものね」
朝倉文子より先におれが伝票をつまみあげ、そのまま、おれも立ちあがった。別れた亭主と残していった子供と、結果的に裏切ることになった親友との三人が終わってみたら自分の一番縁の深い人間だった。その構図が志保美の人生を象徴しているような気がしなくもなかったが、おれにしたところで、他人の人生に口を出せるほど高級な生き方をしているわけではない。
おれの頭に、家族の団欒《だんらん》として、おれと亜由子と朝倉文子の三人で食事をしている光景が、ふと浮かびあがった。人生のある時点でボタンさえかけ違えていなければ、その光景が今の現実になっていた可能性だってじゅうぶん考えられたのだ。しかし一度かけ間違えたボタンをかけ直すには、おれはあまりにも歳をとりすぎていたし、朝倉文子のほうも、たぶん少しばかり歳をとりすぎている。
他人の朝倉文子と肩を並べて、おれはその店を出た。
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いくら葬式で疲れたといっても、たった一日で亜由子がこんなに老けてしまうはずはない。帰っていったおれの顔を食堂の食器棚の前からじろりと見あげてきたのは、なぜか、お松さんだった。
お松さんはそれがもうほとんど制服になっている白い割烹着に、おかっぱみたいにした白い髪の横を赤いヘアピンで正め、いつもどおりテーブルに両肘づきでテレビの歌番組に見入っていた。近所にさえおれたちを親子だと思っている人間がいるぐらいで、当のおれ自身、人生の大半をそういう錯覚のまま過ごしてきてしまったのだ。
「こんな日に、どこほっつき歩いてましたんね?」と、リモコンでちょんちょんとテレビのボリュームをさげ、またじろりとおれの顔を見あげて、お松さんが言った。
「ちょっと、用があって、その……亜由子は?」
「とっくにおやすみですがね。まったくもう、いくつになったらそういう病気、治りますん?」
「お松さん、まだしばらく岡山にいるはずだったろう?」
「岡山にだって新聞ぐらいございますわな。え? なんで電話してきませんでしたん? 甥っこんとこの電話番号、ちゃんと教えときましたでしょうが」
「せっかく田舎に帰っているのに、こんなことで心配かけちゃ、悪いと思ってさ」
「どこがこんなこと[#「こんなこと」に傍点]ですの。帰ってみたらまあ、あーちゃんが一人でぽつんとテレビなんか見てらっして……立っとらんと、とにかくそこにお座りなさいまし」
完璧に気はすすまなかったが、こうなったら逃げ場はないので、観念を決めて、おれは一番ドアに近いところの椅子にそっと腰をおろした。
「ええですか、この際ですから、はっきり言うときますけどな……」と、煙草を取り出したおれに向かって、くしゃっと瞬きをしてから、お松さんが言った。「そりゃ坊っちゃんと奥様は離婚なすってもうお他人様ですわ。でもあーちゃんは別なんでっせえ。なんだかんだ言うてもこの世でたった一人の母と娘ですがな。そのお母様をお亡くしんなってあーちゃんがどれぐらい悲しんでらっしゃるか、ちっとは坊っちゃんかてお考えなさいましな」
「もちろん、考えてはいるさ」
「考えていませんがね。考えてらしたら、なんでこんな時間までふらふらしてましたん? 今日はふつうの日とは違いますがね。天涯孤独のあーちゃんをほったらかして、坊っちゃん、あんさんそれでも人の子の親と言えますか?」
「ちょっと、大袈裟じゃないか?」
「どこが大袈裟です。ついでだから言わせてもらいますけど、坊っちゃん、あんさんかてもう四十なんでっせえ」
「三十九だ」
「似たようなもんですがな。昔でいうたら四十一の前厄でっしゃろ。なあ? いい加減に堅気のお仕事、お始めなさいましね。そりゃわたし、坊っちゃんのご気性はよーく存じてます。ですけど世の中には世間体ちゅうもんがございますでしょう? さっきあーちゃんも言ってましたがね、坊っちゃんがいつまでも不良中年やってらして、娘として世間様に顔向けできんと」
「亜由子が、そんなことを言ったのか?」
「そりゃ、言い方はちごうとりましたけど、意味はそういう意味でしたがね。それにな、坊っちゃん、わたしかてそうです。わたしかてそろそろお迎え[#「お迎え」に傍点]が来ますでしょうが? あの世で旦那様や奥様にどういう顔してお目にかかりますん? 旦那様に『旬介は元気にやっとるか』と訊かれて、『へえ。なんや知りませんけど、大学おやめんなって今は金魚飼うとります』なんてご返事、できますかいな。そうでしょうが? なあ坊っちゃん、ちっとはあの世でのわたしの立場、お考え下さいましな」
どうも、年寄りというのはすぐ発想が天国に飛躍するが、おれだってあの世でのお松さんの立場が気にならないわけではない。しかし今回の事件とおれの人生観とは、本質的にはなんの関係もない。もちろんお松さんはそういう理屈が通じる相手では、ぜったいにないのだが。
おれは煙草に火をつけ、煙の中にお松さんの妙に皺の少ない顔を透かして、一度、頭の中で小さく溜息をついた。
「なあお松さん、亜由子、志保美とはよく会っていたらしいな」
「なんの、ことですね?」
「とぼけなくてもいいさ。知っていてお松さんはおれに隠していたわけだ?」
「それは、その、なんですがな、いろいろ、人間には立場ちゅうもんがありますがね」
「亜由子と二人で要するにおれを仲間外れにしていたんだよな」
「そりゃ坊っちゃん、そりゃあ、あんさんの僻《ひが》みってもんでっせえ」
「僻んで悪いか? おれだって亜由子の父親なんだろうよ」
「ですからな、そのことをさい前からずっと言っとりますんです。坊っちゃんがふらふらしてなさるから、あんな気色《きしょく》悪い人かて家の周りをうろつくんですがね」
「なんの、ことだ?」
「ですから……」と、椅子の中で尻をもぞもぞやり、おかっぱ頭をふって、お松さんが肘ごと躰をテーブルにのり出した。「へんな、気味の悪いお人がな、家の周りをうろうろしておるんです。こういうときこそ坊っちゃんは戸主らしく、きちんとしてもらわんと困る言うとりますんです」
「その、へんなやつってのは、いつからうろうろしてるんだ?」
「そりゃあ、わたしが夕方帰ってきましたとき、門の前に立っとりましたんです。そんときはすぐどこぞへ行きよりましたけど、さい前戸じまりしよう思うて玄関に出てみましたら、またおったんですがな。なんや、気色の悪いお人でしたがね」
「そいつは、がっちりしていて、髪の毛が半分ぐらい白いやつか?」
「ちがいます。痩せておって、色が黒うて、なんや髪の毛のうすいお人でした」
痩せて、色が黒く、髪の毛がうすい男ということなら、今度の事件に関係しては警官くずれのあの上条準次しか考えられない。おれの電話番号からこの家の所在をつきとめることぐらい、上条ならかんたんにできるだろうが、しかしなんだって上条がこんなところをうろつかなくてはならないのだ。おれが考えていた以上に、あの上条は事件の核心に近い場所にいるということなのか。それともたんになにか金儲けの糸口でも掴むためにおれの素性を確認しているだけのことなのか。
「まあ、いいさ」と、煙草をつぶして、頭に深呼吸をさせながら、よっとおれは立ちあがった。「風呂に入ってから軽く一杯やりたいな。ベーコンエッグ以外なら肴はなんでもいい」
幸いお松さんの追及の手はそれ以上のびず、それをいいことに、おれはさっさと実験室に引きあげた。お松さんが帰って来てくれてベーコンエッグからは解放されるだろうが、面倒のほうは間違いなく、二倍にはなる。
おれはお松さんが片づけてくれていた自分の部屋で上着を脱ぎ、住所録を出してきて、テレビ局に勤めている安田の家に電話を入れてみた。安田はまだ帰っていなかったが、女房に連絡をとってくれるように頼み、電話を切って、おれは金魚の餌やりをしてからまた食堂に戻っていった。
おれが食堂の椅子に腰かけ、お松さんが風呂の湯加減を見にいっている間に、電話が鳴って、出てみると相手はテレビ局の安田だった。
「どうした? おまえの娘、やっとテレビに出す気になったか?」と、ざわついている電話の向こうから、妙にのんびりした声で、安田が言った。「今のは冗談だ。志保美さん、大変なことになったらしいな」
「どういうふうに大度なのか、おれ自身にはよくわからない」
「昨日会社に刑事が来ておまえと彼女のことをしつこく訊いていった。正木とかいう目つきの悪いやつだった」
「その刑事は高校のときの同級生さ。おれを志保美殺しの犯人にしたがっている」
一瞬言葉を切ったが、すぐに咳払いをし、のんびりした声に忙しげな気配を響かせて、安田が言った。
「で、女房に聞いたが、急用ってのはどういうことだ?」
「麻生ミキという女の住所、調べてもらいたいんだ」
「麻生……なんだそれ?」
「テレビになん度か出たことがある、女優だそうだ。調べられるか?」
「女優なら、わからんことはないだろうが……」
「ぜひ頼む。借りはあとで返す」
「そりゃいいが、今くだらんバラエティー番組の録画どりが始まるところでな、連絡は夜中になるかもしれんぞ」
「なん時でもかまわない。どうせ夜は遅いほうだ」
「それじゃ、まあ……なあ佐原、冗談はともかく、亜由子ちゃん、本当にテレビに出す気はないのか」
「ない。テレビにもラジオにも、それから週刊誌にもな」
「なんのことだ?」
「こっちの話だ。とにかく女の名前は麻生ミキだ。なんとか、今夜中に頼む」
「今夜中にな。そっちももう一度考え直してくれ。おまえさえその気になれば、一か月でぜったいアイドルにしてみせるから」
おれは二言三言、適当に返事をし、電話を切ってから、その電話機に向かってちっと舌打ちをした。亜由子をテレビに出してなにをさせようというのだ。テレビどころか、本当は家からだって一歩も外には出したくないぐらいなのだ。
おれが椅子に戻ろうとしたとたんに、また電話が鳴って、取りあげた受話器の中から顔を思い出しただけでも不愉快になる、あの少し甲高い上条準次の声が聞こえてきた。人生においてできればこういう種類の人間と関係は持ちたくなかったが、今のこの状況ではそれを言っても仕方はない。
「今、お宅の近くに来ておりましてね、ちょいと、お目にかかりたいと思うわけですよ」と、無理やり抑揚を抑えたような声で、低く、上条準次が言った。
「一発逆転の大穴を、狙う気になったわけか?」
「とんでもありませんや。ただのビジネスです。佐原さんがお帰りになったあと、ふと売りたい在庫があったことを思い出しましてね、それで声をかけてみたわけです。今駅前の『酔連』てスナックにおるんですが、そちら、出てこられます?」
「出ていったほうが、おれのためだということだろう?」
「昼間例の品物を買いたいと言ったのは、そっちのほうですぜ?」
「いくらなんだ?」
「とりあえず十万ほど用意していただければ、それでけっこうですよ」
おれは、十分で行くと返事をし、自分の部屋に戻って上着と財布を引っつかみ、お松さんにはすぐ帰ると言い置いてそのまま家を飛び出した。おれの素性を調べてから情報を売る気になったということは、見かけによらず上条準次も慎重な性格だということか。それともそれぐらいの慎重さがなければ、ああいう裏の商売は成り立たないということか。おれもこれから先それなりの気合いを入れないとこの類いの連中とはつき合いきれないのかもしれない。
地元で飲む習慣がなかったので、『酔連』というスナックに入ったことはなかったが、上条準次はその二つあるボックス席のドア側のソファに座り、カウンターに背を向けて、うす暗い照明の中で膝にぶ厚い漫画の雑誌を開いていた。テーブルにはビールの瓶と、半分ほど空いているビールグラスとが置かれていた。
おれの顔を認め、勝手にビールを追加してから、漫画雑誌をぱたんと放って、向かいの席に座ったおれに上条が疲れたような笑いを送ってきた。
「可愛いお嬢さんだ。『ジュエル・青山』の社長にあんな大きい女の子がいたとは、知りませんでしたよ」
それがおれに対してなにか釘を剌すための台詞なのか、ただの挨拶なのかはわからなかったが、どっちみちおれの身辺は一通り調べたという上条準次なりの状況説明ではあるのだろう。
「昼間からだいぶ家の周りを歩き回ったらしいな」
「とんでもありませんや。たまたま近くを通りがかって、それでたまたま昼間のことを思い出しただけですよ。犬も歩けばなんとかってやつです」
「前置きは切りあげて、志保美が君に依頼した調査の内容を聞かせてもらおうじゃないか」
やってきたビールを、自分のグラスに注ぎ足し、おれのグラスにも注いでから、軽く欠伸をして、上条準次が言った。
「最初に断っておきますが、あたしは木崎さんから朝倉文子なんて女のことは聞いちゃいませんよ。だから昼間事務所であんたからそれを言われたとき、あたしとしてもなんのことか見当がつかなかったわけです」
「朝倉文子のことじゃないとすると、志保美はいったい、君になにを依頼したんだ?」
「あたしが木崎さんに依頼されたのは辻村和郎って男の身辺調査です。買ってもらいたいのは、だから当然そっちのほうの情報です」
妙庵寺で上条準次を見かけたとき、上条は朝倉文子のうしろに張りついていたから、おれは上条のマークしている相手を勝手に朝倉文子だと決めつけていたのだ。しかし考えてみれば、朝倉文子のとなりには辻村和郎がいたわけで、上条の狙いが辻村和郎であったとしても、理屈としては筋が通る。
「あたしの売りたい情報が辻村のことでも、定価の十万円は変わりませんよ。そのこと、約束してもらいたいんですがね」
「君の言うことが信用できるという、保証は?」
「そんなこと、あたしの知ったことじゃありませんやね。どうします? 奥さんがあたしに依頼して、それであたしが調べた内容、十万円でお買いになりますかね」
この上条準次は、『自分のことはぜったいに信用するな』と顔に書いて歩いているような男だが、それでももしかしたら話の中に事件を解く糸口につながる内容が、出てこないとも限らない。信用するかしないかは別にして、話を聞くだけは、聞かなくてはなるまい。
おれは財布から、一万円札を十枚抜き出し、それを半分に折って上条準次の前にそっと滑らせた。上条は札の一枚一枚をていねいに数え、上着の内ポケットにつっ込んでから、たいして厚くなったとも思えないその膨らみを、ポケットの上からぽんぽんと叩いてみせた。
「友好的な商談の成立ってのは、なん度味わってもいいもんですな」と、ビールを飲み手し、また自分でグラスに注ぎ足しながら、上条準次が言った。
「おれのほうは早く商談を終わらせて、寝酒でもやりたいもんだ」
「そう邪険にしなさんなって。あたしみたいな人間も知り合っておくと便利なことがあるもんですよ。奥さんだってそれでずっと重宝していたんだから」
「いつごろから、君は、志保美の仕事をしていたんだ?」
「最初からですよ。あの業界、動く金がでかいですからね。社員に商品でも持ち逃げされたら会社なんか一発でつぶれまさあね」
「つまり、最初から、社員の身元調査や取引先の信用調査を、君がやっていたということか?」
「そういうことです。奥さんにはご贔屓《ひいき》にしてもらいました。ですからね、あたしがこうやってあんたに情報を売るのも、こいつは一種の思返しってやつですよ。他人様の信用を調べるにはこっちの信用も大事にせにゃならんということです」
商売上の必要からとはいえ、志保美が五年間も上条のような男と係わってきたということに、どこか納得できない部分はあったが、しかしそれだけ、宝石業界に群がる人間の体質が複雑だということなのだろう。周りに集まる人間たちをうまく捌《さば》ききれると、ほんの少しだけ、志保美は自分の能力を過信したのかもしれない。
「で、君は、丸越と辻村和郎について、どんなことを調べたんだ?」
「丸越ってのは、まあ……」と、煙草に火をつけ、煙を長く天井に吐いてから、また欠伸をして、上条準次が言った。「ご承知のとおり店の基礎は江戸時代の呉服屋なんですがね、そういう店のご多分にもれず、典型的な同族会社なんです。資本金は三百億円。株式の六割は一族の保有で、あとの四割は共栄と帝都の銀行が半分ずつ。店舗数は銀座の本店の他に都内に五か所。大阪に一店。その他地方のデパートにも十二、三のところに資本を入れているようです。最近は新興のデパートに押されぎみとはいえ、なんせデパートとしては老舗ですから、経営自体は堅実だということですよ」
「それぐらいのことは、君に教えられなくても、業界関係の雑誌かなにかに書いてあるさ」
「こいつは本題に入る前の、ただのイントロってやつです。業界関係の雑誌には内部の経営権争いまでは書いてありませんやね」
「同族会社で経営権争いがあることだって、ある意味では常識だ」
「問題はその争い方でしょうよ。あたしだってがせ[#「がせ」に傍点]情報《ねた》を金にしようというんじゃない。誰と誰がどういうふうに争っているか、それぐらいは調べてあります」
気を悪くしたふうもなく、無表情に煙草を吹かして、軽く舌打ちをしてから、上条がつづけた。
「経営陣は会長派と社長派の、まっ二つでしてね。この会長と社長ってのは従兄弟《いとこ》同士で、それぞれに自分の身内から次の社長を出したいわけですよ。社長のほうには息子で営業部長をやってるのがいるんだが、こいつがどうも、あまり社内での評判がよろしくない。一方会長のほうには男の子供はいなくて、娘の婿ってのが、例の辻村和郎なんですよ。こっちは相当なやり手という評判で、現会長が社長時代その手腕を見込んで娘を嫁がせたってことです。けっきょく次期社長はその二人のどちらかということなんだが、一長一短で、かんたんに納まりそうもないってのが、まあ、業界筋の観測ってところです」
「仕事はできるが、辻村和郎には、一族の出身ではないという弱味があるわけだ」と、自分のビールに形だけ口をつけ、視線を店の出口に向けたままの上条に、おれが言った。「企画部長なら、商品の仕入れやなにかは辻村が握っているんだろうな」
「商品の仕入れだけじゃなくてデパートでやるなんとかフェアみたいの、あれの権限もみんな辻村にあってね、仕事の手腕では今のところ、企画部長の辻村が営業部長ってのを大きく引き離しているわけです」
「辻村和郎の経歴なんかも、わかっているのか?」
煙草の火を、訳註でしつこく潰し、残っていたビールを飲み干して、あい変わらずおれとは視線を合わせずに上条がふーっと長く息を吐いた。
「出身は福島県の、郡山《こおりやま》の近くにある三春って小さい町だそうですよ。実家は町の電気屋なんだが、辻村はそこの次男坊でね、子供のときからかなりの秀才だったらしいや。地元の高校を卒業したあと、東西大学の経済学部に入って首席に近い成績で卒業したってことです。木崎商事の社長とは、大学が一緒だったそうじゃないですか」
辻村が東西大学で、志保美の兄の木崎周一と同窓だったなら、おれが妙庵寺で辻村を見かけたとき前にどこかで会ったような気がしたのは、志保美との結婚式に辻村が出席していたという、それぐらいの関係はあったのかもしれない。しかしもし、辻村と木崎の家がそこまで親しかったのなら、志保美はなぜ上条を雇って辻村の経歴を調べさせなくてはならなかったのだろう。兄の木崎周一に一言訊けば、それで済むことではないか。
「その、奥さんの兄さんがやってる木崎商事……」と、店に入ってきた女の客を、値踏みするような目でちらちらと眺めながら、上条準次が言った。「あそこと丸越デパート、ここ十年ほどつき合いが深いらしくてね。東南アジアの物産展なんかをやるとき、かならず木崎商事が入るわけ。今じゃ丸越ブランドのアパレルなんか、タイとかマレーシアで木崎商事が代理生産してるって話ですよ」
木崎商事と辻村和郎の関係がもしそこまで親密だったとしたら、志保美が『丸越にテナントを入れる』と言った件についても、まるで可能性のない話ではない。しかし辻村和郎にとって、ただ木崎商事と関係が深いというだけで老舗の瑞宝堂を追い出してまで志保美に義理を立てる必要が、あったのか、どうか。いくら次期社長候補だといっても、自分の一存で戦前から関係のある瑞宝堂を、かんたんに入れかえられるものなのだろうか。
「志保美は、君に、本当にそんなことの調査を依頼したのか?」と、とぼけたような顔で、また煙草を吹かし始めた上条準次に、座り直して、おれが訊いた。
「あたしだってこれで信用商売ですよ」
「今言ったことは、当然、志保美には報告したんだろうな?」
「当然ね、当然、きれいさっぱり報告済みですよ」
「つまり、同じ商品を君はおれと志保美に二度売りつけたわけだ」
「そいつは考え方の問題でしょうよ。著作権だって媒体が違えば、なん度だって金になる」
「君はその報告を、いつ志保美にしたんだ?」
「いつ?」
「だから、死ぬ直前か、それともずっと前か……」
「そりゃあ、あれは、たしか、奥さんが死ぬ、一週間ほど前でしたっけ」
「南礼子なんかは、どうだ?」
「なんです?」
「南礼子の素性さ。店員の身元調査だって君の仕事だったろう」
上条準次が初めておれの顔に視線を据え、ゆっくり鼻を曲げて、大袈裟に、ちっと舌打ちをした。
「それがなんだっていうんです?あたしは死んだ奥さんのために善意であんたに情報を提供しているんだ」
「君の善意が、信用できるといいんだがな」
「信用するかしないかは、そっちの勝手さあ。あたしが奥さんに頼まれたのは辻村和郎の素行調査で、南礼子なんて女のことなんか知ったことじゃないんだよ」
「はっきり言って、君が今おれに提供した程度の情報なら、たとえ君が汚職で警察をくびになるほど有能な探偵じゃなくても、かんたんに調べられたろうさ」
上条準次の手が、さっとテーブルに伸び、グラスを握ったその手がおれの顔を狙うように、かたかたと細かく震えだした。
おれは震えつづける上条の手を見つめたまま、煙草を取り出し、火をつけてから、煙を一つふっと短く吐き出してやった。
「渡した金を返せとか、そんなけちなことは言わない」と、視線を上条の手から、その黒ずんだ顔にあげて、おれが言った。「君と知り合いになっておくと便利なことがあるぐらいのことはおれにだってわかっている。どんな仕事にも、手つけ金は必要な世の中だ」
上条準次の手が、擦っていたグラスから離れ、テーブルの下に隠れていって、そこでなにやらごそごそと動きはじめた。掌の汗をズボンにでも擦りつけているのだろう。
「学者くずれの変わり者にしちゃ、けっこう話がわかるじゃないか、え? 先生よう」
「すべての学問は、けっきょくは『人間とはなにか』につながるもんさ」
「そんなもんかねえ。それじゃあたしも、これからせいぜいその学問とやらをさせてもらいましょうよ」
立ちあがり、ズボンのポケットに両手をつっ込んで、一度店の奥に目をやってから、上条準次が顎をひいてま上からおれの顔を覗き込んだ。
「今日のところは、商品も売り切れってやつです。また面白い品物が入ったら改めてご連絡しますよ」
「君の努力には期待するとして、家にはもう近づかないでもらいたいな。難しい歳ごろの娘と、難しい歳ごろの年寄りがいるんだ」
ふんと鼻で笑い、一歩通路側に出てから、ふりかえって、上条準次がちょっとおれに顎をしゃくった。
「これから友好的な取り引きをお願いするとして、こいつはサービスで教えるんですがね、木崎商事の経営、だいぶ苦しいって噂ですぜ。東南アジア方面にも大手の商社が食い込んできて、あちこちで苦戦してるってね。例のほら、フィリピンの政変、あれがけっこうこたえたらしいや」
「倒産の噂でも、あるのか?」
「そこまでは知らないよ。ただ大手の商事会社で吸収に動いているところ、いくつかあるって話さ。大手でも東南アジアに弱いところ、木崎商事のコネクションは喉から手が出るほど欲しいやね。今のところは、まあ、みんなただの噂ってやつですけどね」
上条準次が、こけた頬でにやっと笑い、伝票には見向きもせずに軽く手をふってドアに歩いていった。おれにしても今日は上条にこれ以上つき合う気力はなく、煙草をつぶして、残っていたビールをえいっと喉に流し込んだ。どこまで信じていいのかはわからなかったが、上条準次が今度の事件と、それから志保美の人生の周りでなんらかの動きをしていたことは、まず間違いない。おれにしてみても邪魔さえされなければ、これから先上条がどんな動きをしようとそんなことは大した問題ではない。必要なことはおれ自身が、より多くの情報を収集し、その情報を整理して答えを正解の方向に持っていくことだろう。しかしそれには、まだやはり、情報の絶対量が少なすぎる。
おれがそのあと、すぐ『酔連』を出て家に帰り、風呂に入ってから岡山土産の『桃太郎漬』とかいう蕪《かぶ》の漬物でウイスキーをちびちびやり始めてからも、なかなか安田からの電話はかかってはこなかった。やっと電話がきたのは、もう二時に近い時間で、おれが自分の部屋に引きあげてテレビの深夜映画を見ながら、ウイスキーのつづきをやっているときだった。
その報告では、麻生ミキの住所は乃木神社近くのマンションだったが、ここ三年ほどテレビからも映画からも仕事の口は一切かかっていないという。安田が最後に、また亜由子の件を蒸し返してきて、酔った勢いでおれは悪態と一緒に受話器を思いきり下に叩きつけてやった。亜由子をテレビなんかに出すぐらいなら、おれが自分で出ていって一発裸踊りでも見せてやろうじゃないか。
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お松さんが帰ってきて、『家庭を取り仕切ってやる』という亜由子の決意が鈍ったのか、それともまだ葬式の後遺症が残っているのか、おれが食堂に顔を出したときも亜由子はパジャマのまま、肩に黄色いカーディガンを羽織ってぼんやりとテレビのモーニングショーに見入っていた。目がなんとなく腫れぼったく見えるのは、昨夜一晩泣きつづけたせいではなく、昨夜一晩眠りつづけたせいだろう。
「お松さん、あとでいいから、作業台の上のがらくたを片づけてくれないか」と、おれの前にコーヒーを運んできて、食堂の指定席に腰をおろしたお松さんに、新聞を引き寄せながら、おれが言った。
「ほたら坊っちゃん、堅気さんになる決心、しましたんかいね」
「それほど、大袈裟な問題じゃないさ」
「わたしが昨日言うたこと、聞いてくれましたんと違いますん?」
「あの発明だけ、ただ中止するだけだ」
「坊っちゃんが途中でなにかをおやめんなるのはいつものことですがね。わたしはこの際、人生とはなにかちゅうこと、坊っちゃんに本気で考えてほしい思うんですわ」
「それは、そのうち、ゆっくり考える」
「ゆっくり考えておる間なんぞありゃしませんがね。昨日も言いましたけど、なあ? あんさんかてもう四十でっせえ」
「三十九さ」
「そやからなあ……」
「お松さん、朝だけな、今だけでいいから、ちょっとだけおれを平和にしておいてくれ」
亜由子が、顔をテレビに向けたまま、首をかしげてちらっとおれに流し目を送ってきた。
「あの発明、お父さん、やめちゃうの?」
「考えてみたらおまえの言うとおりだった。もしおれの惚れた女があの機械を頭にのせてじっとおれの顔を見たら、おれとしてもやっばり気持ち悪いと思うんだ」
「わたしはバナナの皮剥き機より、いいと思うけどなあ」
「でも、あの機械が完成した場合な、自衛隊のばかどもが戦争を起こす可能性がある。おれはノーベルみたいに人殺しの道具を発明してまで名は残したくない」
亜由子が流し目のまま、にやっと笑ったが、その目つきにいつもの強情さが見られないのは、やはり眠りすぎて目が腫れているから、というだけの理由ではなさそうだった。
「なあ亜由子、その、花見にでも、行ってみるか。ついでに上野の動物園に行ってパンダを見てきてもいい」
「わたし、そんな気分じゃないよ」
「映画なんかはどうだ。今なにか、面白い映画はやっていないのか」
「そんなふうに気を使わなくてもいいの」
お松さんが、ふんふんと言いながらなにやら目配せを送ってきたが、おれにしたって、こういう場合はやたら亜由子の神経に障らないほうがいいことぐらい、ちゃんとわかっている。しかしわかったからといって、おれは亜由子の父親で、亜由子はおれの娘なのだ。
「その、なあ……」と、コーヒーをすすり、煙草に火をつけてから、おれが言った。「高校の入学式、いつだったっけ?」
「今度の日曜日」
「印鑑《はんこう》がどうとか言ってたやつ、あれは、どうした?」
「おばちゃんに出してもらった」
「あと、なにか、準備しておくことはないのか?」
「ぜんぶ出来てる」
「その……」
またお松さんが、意味ありげにふんふんと鼻を鳴らしたが、今度も、おれはそれを丁重に無視させてもらった。
「亜由子、こういうときは、無理やり頑張らなくてもいいんだぞ。どんな我儘でも許されるときが、人間にはちゃんとあるもんだ」
「お父さんの考えすぎだよ。わたし、大丈夫だからさ」
「坊っちゃんなあ、あんさんに出来るこというたら……」と、鼻を鳴らすだけでは飽き足らなくなったのか、おかっぱの頭をおれのほうに突きだして、お松さんが言った。「坊っちゃんに出来るこというたら、真人間にならはってあーちゃんの入学式を立派にお勤めんなることですがね。それが人の道ちゅうもんですがね」
今度の日曜日までに、真人間[#「真人間」に傍点]になるというのはとうてい無理な話だが、たしかに亜由子の入学式ぐらいはおれも恥を忍んで出席しなくてはなるまい。中学の卒業式はお松さんに任せて気がつきもしなかったが、もしかしたら亜由子の入学式や卒業式は、これまではおれに内緒で志保美が出ていたのかもしれない。今度の高校の入学式になってお松さんが急におれの責任を言い出したのは、たぶん、そういうことなのだろう。
まあ、いいか、と、頭の中で一人言を言って、コーヒーを飲み干し、お松さんと亜由子の顔を見くらべながら、おれが立ちあがった。
「ちょっと、出かけてくる」
「朝飯、召し上がりませんの?」
「外で適当に食うさ。お松さん、片づけるのは作業台の上のやつだけで、他のものには手をつけるなよな」
「お帰りは?」
「知るもんか。今日は一日、ずっと外で、『人生とはなにか』を考えてやる」
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木崎商事の本社ビルは、新橋駅のすぐ西側にある。おれが私鉄とJRを乗りついで新橋の木崎商事に着いたのは、昨日妙庵寺で木崎周一に指定された、十一時ちょうどだった。
おれは一階の受付けで面会の確認をし、そのままエレベータで七階の社長室まであがっていった。こんなことでまた木崎商事の社長室にやって来ようとは、この五年間おれは考えたこともなかったが、志保美の存在が死んだ今になっておれの人生の中で急に膨脹でもはじめたような気分だった。
以前は志保美の父親だった社長室の主は、もちろん木崎周一に変わっていた。そんなことは意外でもなんでもなかったが、秘書に通されておれが驚いたのは、社長室のそのゆったりしたソファの一番端に、うす茶色のスーツを着た南礼子が浅く腰をおろしていたことだった。
「わざわざ足を運んでもらって、済まなかったね」
窓を背にした、マホガニーのデスクの前からソファのほうに歩いてきて、木崎周一が身ぶりでおれにそのソファをすすめてきた。おれは南礼子に会釈だけ送り、そのまま向かいのソファに深く腰をおろした。
「家のほうに来てもらっても、いろいろ、ごたついてるもんでね」と、自分でも一人がけのソファに座って、おれの顔を度の強い眼鏡の奥でじっと眺めながら、木崎周一が言った。「南くんとは、もう面識があるそうじゃないか?」
「今まで面識を持たなかったことを、悔やんでいるところです」
頬に皺を刻んで、疲れたように笑い、ポケットから取り出した煙草に、木崎周一がしゅっと火をつけた。
「突然こういうことになって君にとっても迷惑だろうが、あゆちゃんのこともあるし、まあ、いろいろ協力してもらいたいんだ」
「亜由子に関することだけは、協力します」
「そう紋切り型にならんでくれよ。人間一人……君にとっては十年間一緒に暮らした女だし、あゆちゃんの母親でもあるし、わたしにとっても可愛い妹だった、その志保美が死んだわけだ。多少の不都合が起きるのは、我慢してくれたまえ」
「多少の不都合はいつだって我慢しています」
長く煙を吐き、ちらっと南礼子の顔に視線をやってから、口もとを歪めて、木崎周一が困ったような笑い顔をつくった。
「最初に片づけたいのは、やっばり金の問題さ。青山の店のこともあるので、南くんにも同席してもらった」
そのことにおれに意見があるはずもないので、黙って、おれは先をうながした。
「君も知ってるとおり、君と志保美がああいうこと[#「ああいうこと」に傍点]になってから、すぐ親父が亡くなってね、財産も兄妹で三等分したわけさ。詳しい内訳はあとで弁護士から報告させるが、今志保美のぶんとして残っているのは軽井沢にある別荘の共同所有権と、木崎商事の持ち株と、世田谷の屋敷に対する三分の一の権利と、まあ、そんなところだ。親父が持っていた動産や生命保険でおりた現金などは、その時点でもう分けてある。説明するまでもないが、残りの諸権利は民法上自動的にあゆちゃんに移行する。あゆちゃんが成人するまでの後見人は、当然、君ということだ」
「要するに、いくらになるわけですか?」
「世田谷の家は、公示価格で十二億五千万といったところだろう」
「会社の持ち株は?」
「全株式の十五パーセントぐらいになる。評価額はだいたい十五億といったところかな。屋敷の権利のほうはわたしが個人として『ジュエル・青山』に出資することで、段階的に相殺《そうさい》する約束になっていた。問題は株だが、なにしろこんなことになるとは思わなかったんで、当分はお互いが持ち合ったまま、という話になっていた。しかし現実問題、あゆちゃんのものということになるとどう処分するかはあゆちゃんの勝手、つまりは、君の勝手ということになる。それで、相談というか、はっきり言うと、要するにお願いしたいわけさ」
「株には手をつけるな、そういうことですね」
「十五パーセントもの株が一度に市場に出回ったら、うちの株は大暴落だよ。そんなことをしても誰が利益を受けるわけでもない。うちはもともと個人企業だからね、銀行に押さえられても困る。ゆくゆくは会社で買い戻すにしても、資金のめど[#「めど」に傍点]がつくまで時間をもらいたいんだ。君と志保美とは他人に戻ったかもしれないが、あゆちゃんは立派な木崎家の血縁だ。そのへんのところを、なんとか考慮してもらえないかね」
「今すぐ、結論を出せというわけですか?」
「そうしてくれると、わたしとしては助かる」
秘書が入ってきて、おれの前にレモンの輪切りと角砂糖がのった紅茶を置いていき、おれはそれを受け皿ごと引き寄せ、しばらく、そのレモンと角砂糖を入れた紅茶をスプーンで黙ってかき回していた。
「株主総会は、来月ですか?」と紅茶の中から出したスプーンの凸面に、南礼子の歪んだ姿を映しながら、木崎周一に、おれが訊いた。
「総会は六月に予定している」
「そのときの事業報告と決算報告を見てから、ということでいかがですか? 今すぐ決めろと言われても、返事はできない。もっとも特別に問題がないかぎり、わたしとしては株に手をつける必要はないわけです。志保美が生きていても、たぶん同じ結論だったでしょう」
吸っていた煙草の煙を、長く吐いて、一つ、木崎周一がうんとうなずいた。
「君のことだ。無茶は言わないと思っていたよ。突然で準備はできていないが、来週中には弁護士から君のところへ連絡させよう。それから青山の店のことなんだが……」
それまで脚を組んでいた南礼子が、その脚をおろし、膝ごと、まっ直ぐおれのほうに向きなおった。
「こちらも、まだ整理がついているわけではありませんが」と、意識的にか、無意識的にか、その長い脚をたっぷりおれに見せつけながら、南礼子が言った。「会社としての資産は本社や地方のテナントに置いてある貴金属類で、そのすべてということになります。でも先日も申しましたように、この仕事での本当の資産はあくまでも信用と名前です。それは単純に金額には置きかえられません」
「青山の店舗自体は、賃貸物件ですね?」
南礼子が、眉をあげてうなずき、それを見てから、おれがつづけた。
「純資産としては、どれぐらいになります?」
「それは、すべての在庫を店頭価格どおりに売却した場合、七十億ほどにはなると思います。でももし閉店とか倒産とかで無理やり処分した場合は、その三分の一か五分の一程度にまでさがってしまうかもしれません。額面どおりの売却ができたとしても、銀行からの借入金を差し引くと一億五千万円ほどのマイナスになってしまいます」
「それぐらいのマイナスは、木崎商事に引き受けさせればいい」
「ええ、でも……」と、また脚を組み、舌の先でちょっと唇をなめてから、南礼子が言った。「社長は会社を受け取り人にした生命保険に入っておりました。ですから最悪の場合でも、一億程度の現金が残る可能性はあるんです」
考えてもみなかったが、おれだって亜由子のために保険に入っているぐらいだから、志保美が会社を受け取り人にした保険に入っていることは、当然といえば当然だ。
「保険金は、いくらですか」
「十億です。税金対策として始めたことでした」
「今、南くんが言ったように……」と、新しい煙草に火をつけ、自分の手で自分の首のうしろを揉みながら、木崎周一が言った。「この時点であの店を閉めても、誰一人として経済的な恩恵を受ける者はいないと、そういうことさ」
「しかし志保美が死んで、将来的には苦しいわけでしょう?」
「それは、わたくしも覚悟しています」と、強く顎を引いて、膝ごと南礼子がおれのほうに身をのり出した。「でも、こで店を投げ出してしまったら、今まで社長がされてきた努力がぜんぶ無駄になってしまいます。店の商品についている値段は、商品そのものの値段ではなく、社長やわたしや従業員すべての努力の値段なんです」
南礼子の言いたいことは、最初からわかっている。南礼子としてはなんとしても青山のあの店をつづけたいということなのだ。
「まあ、そういうことなんだ」と、南礼子の台詞を代弁するように、灰皿で煙草の灰をはたきながら、木崎周一が言った。「このことは志保美の兄である、わたしの希望でもある。妹がせっかくあそこまでにした店をこういう形で閉めてしまうのは、なんとしても忍びない。目をつぶって、ここは一つ、南くんに任せてやってもらえないかね」
「宝石業界のことも、あの店の営業内容も経理内容も、わたしにはまったくわからない。判断の基準がないものについては、考えようがありません」
「だから南くんを信用して、任せてくれないかと言ってるんだ」
「宝石のことも知らないが、わたしは南さんのことも知らないんですよ」
南礼子が、また膝をのり出しかけたが、それを目で制して、おれが言った。
「勘違いしてもらっては、困るんだ。志保美の財産はおれのものではなく、亜由子のものです。後見人は被後見人の不利益を承知でその財産を処分することはできない。法律でもそうなっているし、そんな法律がなくてもおれは亜由子の不利益になることはしない。これは商売の問題ではなく、親としての単純な道徳の問題です」
木崎周一が、二つばかり咳をしてから、煙草の火種を、ぎゅっと灰皿に押しつけた。
「それじゃ旬介くんは、どういう形になればあの店の継続を認めるんだね」
「その判断自体を、保留したいと言ってるんです」
「君みたいな呑気な身分とちがって、わたしや南くんは、大袈裟に言えば一刻一秒を勝負しているんだがね」
「その皮肉は五年前にも聞きました」
「しかし……」
急に口もとを緊張させ、膝をつっ張って、木崎周一がソファに深く座り直した。
「しかし、もしあのとき君が、その、君が大学にとどまってさえいれば、今度のことだって起こらなかったんじゃないかね」
「それは人間も生まれなければ死ぬこともないという理屈と一緒です」
「しかし志保美の人生にも木崎商事の経営にも、影響があったことは事実だ」
「わたしが責任を感じていることと、わたしが責任を取ることとは別の問題ですよ。五年前わたしたちが別れるようにし向けたのは、その額に入ってる、あなたたちの親父さんだった。あなたも親父さんもわたしと志保美が結婚することには最初から反対だった。親もわからない、どこの馬の骨とも知れない男に志保美を渡したくはなかった」
「それは、しかし、ただの単純な親心というやつだ」
「だからそれとこれとは話が別だということです。わたしも志保美も最後は自分で判断したわけです。わたしは過ぎたことを言ってるんじゃない。現在のことと、それから、これからのことを言ってるだけです」
「佐原さんは、具体的に、それではどうしたいとおっしゃるわけですか?」と、横から、おれの神経に釘を刺すような口調で、南礼子が言った。「要するに『ジュエル・青山』の件に関しては、わたくしが信用できないとおっしゃるわけですか?」
「そう取ってもらっても、かまわない」
一息ついて、レモンの浮いた紅茶に口をつけてから、おれが言った。
「知らない人間に対して最初から自分のことを信用しろと言うことが無茶なことぐらい、君にだってわかるだろう? それに一番の問題は、今度の事件がどういう形で解決するのかということです。その解決の仕方によっては店を閉めるとかつづけるとか、そんな悠長なことでは済まなくなる可能性だってある」
「おっしゃる意味が、わかりませんけど?」
「もちろん、おれにもわからない。つまり青山の店に関しては、事件が解決するまではすべてを保留にする。今のこの状況ではそれしか方法はない。今それ以上の判断をしろと言われても、おれには、なんとも答えられないということです」
のり出していた南礼子の肩が、ソファの背もたれに引かれていき、脚を組みかえる瞬間のストッキングが、さらっと乾いた音をたてた。
「一度になにもかも決めろというのは、たしかに、無理だったかもしれないな」と、また自分の手で自分の首のうしろを揉みながら、溜息をついて、木崎周一が言った。「株の件ではこっちが時間をもらった。青山の店に関しては旬介くんのほうに時間をやろうじゃないか」
カップを受け皿に戻し、一呼吸おいてから、二人の視線を外して、おれが立ちあがった。
「すべては時間の問題です。その時間も、もう待てないほど長くはないということでしょう」
「旬介くん……」
「はい?」
「いや、その、納骨の日にちは、また改めて連絡する。あゆちゃんと一緒に君にも出席してもらいたいもんだ」
「それまでに今度の事件が片づいていれば、ね」
「親父も志保美も死んでしまった。君にもわだかまり[#「わだかまり」に傍点]はあるかもしれないが、あゆちゃんはわたしの姪だ。うちの子供や都《みやこ》の子供はあゆちゃんの従姉妹《いとこ》だよ。以前のように、親戚づき合いといきたいもんだね」
「亜由子次第です」と、ドアに向かって、ゆっくり絨毯の上を歩いてから、おれが言った。「あとはお松さんでしょう。お松さんのほうがもしかしたら亜由子よりは手強いかもしれない」
肩を引いて、また疲れたように笑い、ソファから腰を上げずに、木崎周一がひょいとおれに手をふってきた。
「忘れていたが、今朝警察から連絡があってね、志保美のマンションはもう片づけてもいいそうだ」
「事件から、四日しかたっていないのに?」
「殺人事件と断定されているし、現場保存の必要もないらしいんだ。どうするかね、うちのほうでやらせようかね」
「それも亜由子に試いてみます。あいつのことだから、自分でやると言いだすでしょうがね」
南礼子の視線を感じながら、おれはドアを開け、そのまま秘書の部屋を通って七階の廊下に出た。ここまでくればたしかに、すべてはもう時間の問題なのだ。事件の決着の仕方いかんでは親戚づき合いどころの話ではなくなる。
廊下の、ちょうどまん中あたりにあるエレベータの前まで歩いて、おれがくだりのボタンを押したとき、社長室のドアから顔をのぞかせた南礼子が手を鉢の前で組み合わせたまま小走りに駆け寄ってきた。
「先ほどは、失礼いたしました」と、その息がかかるところまで、おれに近づいてきて、南礼子が言った。「わたくし、自分のことしか考えなくて、佐原さんには不愉快な思いをさせてしまいました」
「お互いさまです」と、間ぢかに迫った南礼子の背の高さに、いくらか気圧されながら、おれが答えた。「五年前の話が出ておれもちょっと、神経質になってしまった」
「考えてみれば佐原さんのおっしゃるとおりでした。見ず知らずの人間になん億ものお金を任せてくれなんて、言い出すほうが無神経でしたわ」
「そういう意味では、なかった」
「今晩、お暇がございます?」
「ん?」
「いえ、わたくし、佐原さんにこの五年間の帳簿を見ていただきたいんです。『ジュエル・青山』がどういうふうに成長してきて、今後どれぐらいの可能性があるか、それをご自分の目で確かめていただきたいの。わたくし今日もこれからお店に行っております。夕方にでも、青山のほうにおこしいただけませんかしら?」
「それは、もちろん、かまわないが」
エレベータが来て、ドアが開き、おれが一人だけ中に乗り込んだ。
「お待ちしています」と、一階のボタンを押したおれに、ドアの外に立ったまま、南礼子が言った。
「それに先日のご返事も、まだ申しあげておりませんでしたものね」
「この前の、なんだったかな?」
ドアが閉まり始め、南礼子の姿が消え去る瞬間、その落ち着いた声と目だけの微笑みが香水の匂いと一緒に、ふとエレベータの中に流れ込んできた。
「先日食事にお誘いいただいた、そのことのご返事ですわ」
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麻生ミキのマンションは、千代田線の乃木坂駅から赤坂方面に少し歩いた、小学校の北どなりにあった。安田からは電話番号も聞いていたが、電話をかけてから出向くほどおれの間も抜けてはいなかった。正木が連絡なしにおれのところにやって来たのは、その目で直接おれの反応を確かめたかったからだ。麻生ミキが現在小川真也とどういう関係になっているのかは知らないが、それはやはり、おれ自身が直接自分の目で確かめてみる必要がある。
マンションというには、だいぶくたびれてはいたが、それでもエレベータはちゃんとついていて、おれはその建物と同じくらいくたびれたエレベータで五〇八号室という麻生ミキの部屋まであがっていった。
たぶん覗き穴からこっちの風体でも値踏みしていたのだろう、おれがチャイムを押してだいぶ時間がたってからドアを開けたのは、白いネグリジェに薄物のガウンを羽織った、髪を妙な色に染めた三十すぎの女だった。麻生ミキの部屋だからその女が麻生ミキなのだろうが、正直言って、おれはこんな女優には記憶の予感すら感じなかった。
「関東テレビの安田さんに紹介されました……いや、やっばり、テレビで見るより本物のほうがずっと美人だ」
麻生ミキは、最初からなにか勘違いしたらしく、小皺の目立つ目尻をにたっと歪めて、その仕草でおれをドアの内側に誘い込んだ。
「ごめんなさいね、起きたばっかりなのよ。こういうお仕事って、どうしても夜が遅くなってしまうのよねえ」
「女優のネグリジェ姿を見たと言って、あとで友達に自慢しますよ」
粒の小さい歯を見せて、大袈裟に笑い、首をかしげながら、麻生ミキがちょっとおれの顔を覗き込んだ。
「ええと、お名前、伺っていたかしら?」
「佐原といって、安田とは昔からの友達です」
「もちろん、それで、お仕事の話よね?」
「仕事の話でなければこんな早くから有名人を襲ったりはしないさ」
「もしかして……」と、寝起きのわりには、しっかり化粧のしてある二重の目を見開いて、麻生ミキが言った。「それ、テレビのほうのお話?」
「そういうわけではないんだ」
「ちがうの。そう? そうよねえ。だってあたし、テレビのほうのお仕事、ここ半年ぐらいみんな断ってるものね。やっばり宝石のほうの話よねえ」
麻生ミキには申し訳ないが、おれ自身話の切り出しかたを考えていたところに向こうから宝石の話題を持ち出してくれたということは、結果はもう半分以上見えたということだ。しかし麻生ミキがやっている『宝石のほうの仕事』というのは、いったいどんなものだろう。
「とにかく、ねえ、おあがりんなってよ。ちょうどコーヒーを入れようと思ってたの。注文はゆっくり伺うわ。手持ちのもので気にいらなければどんなものでも取り寄せられるから」
嘘をついた覚えはないが、麻生ミキは最初から勘違いしているわけだし、案内されるままに、おれは黙って部屋にあがり込んだ。話のだいたいの雰囲気からしてたぶんおれに盗品の指輪かなにかを売りつけるつもりなのだろう。この麻生ミキという女が今でもどこかで小川真也とつながっている可能性は、じゅうぶんにある。
おれが通されたのは、畳にカーペットを敷いた六畳ぐらいの狭い部屋だった。麻生ミキはおれを背の低いソファに座らせ、自分では台所でコーヒーメーカーをセットしてから、もう一つの寝室らしい部屋に入っていってそこでネグリジェを黒いスラックスと黒ラメのセーターに着替えてきた。スタイルは一応のものだったが、尻のあたりの肉がたるんでいる感じで、最初は三十を過ぎただけかと思った年齢ももしかしたらもう四十に近くなっているのかもしれなかった。
「佐原さん、でしたっけ?」と、台所で、食器の音をがちゃがちゃやりながら、ふり返って、麻生ミキが言った。「関東テレビでやってる『ウィークエンド・ミステリー』であたしが不倫相手の上司に殺される役やったの、ご覧になった?」
「ドラマは、あまり見ないんだ」
「そう? そうよねえ。男の人って、ああいうのはあんまり見ないのよねえ。それにあれ、ナイターの裏番組だったしねえ。視聴率もよくなかったらしいわ」
「いつごろの、番組かな」
「あれは、そうねえ、もう、ちょっと前になるわねえ。それでそのときの役がね、やり手の上役と不倫して、その上役のためにライバルのスキャンダルを流したり会社の機密を盗んだり、そのあげく知りすぎたからって相手の男に殺されちゃう役なの。ばかばかしいでしょう? だけどそのときの芝居が受けて、あたしのとこにくる仕事ってそういう役ばっかし。それでね、いい加減うんざりして、あたしつまらない仕事はみんな断ってるのよ。それにテレビって拘束時間が長いわりにギャラが安いのね。あんなものに無理して出たがる人の気持ち、ぜんぜんわかんないわ。あたしはとにかく、今はいい仕事だけを選んでやるようにしてるの」
落ちきったコーヒーを受け皿つきの二つのカップに分け、それをガラスのテーブルに運んできてから、麻生ミキも躰をひねっておれの横に腰をおろした。
「佐原さん、先日《こないだ》水沼麗子が主演でやった看護婦もの、ご覧になった?」
「いや……」
「彼女ね、いろんなことがあって、けっきょく看護婦から大病院の院長夫人におさまる役なんだけど、あのドラマで彼女が使った指輪、あたしが売ってやったのよ。テレビや映画で使うアクセサリーってそのへんで売ってる安物じゃ個性が出ないのね。それでいろんな女優があたしに相談するわけよ。水沼麗子もそうだけど、あと浜圭子とか渡辺のぞみとか、彼女たちがテレビで使ってるアクセサリー、あれぜんぶあたしが売ってやってるの」
「おれも、ちょっと、売ってもらいたいものがあるんだ」
「なんでも揃うわよ。指輪でもネックレスでも、それともなにか特殊な石でも探してるわけ?」
「おれが探してるのは、小川真也の住所さ」
受け皿の上で、麻生ミキのカップがかたっと動き、狭い部屋の空気が、一瞬ぎしっと音をたてた。
「冗談じゃないわよ。なに言ってるのあんた。最初に、だって、仕事の話だって言ったじゃない?」
「だから、これが、仕事の話さ」
「どこが仕事の話よ。あたしは女優なのよ。あんたそんなことでここへ来たの? あたしは一般の人間にそんなことで会ってる暇はないのよ。サインが欲しいんなら、最初からそう言えぱよかったじゃない?」
「おれにとっては君のサインより、小川の住所のほうが価値がある」
「だから……」
「仕事の話だと言ったろう? 君が情報を売って、おれが金を払う。宝石を売るのも小川の住所を売るのも、君にとっては変わりはないはずだ」
「あんた……」
ソファに座りなおし、おれの顔に目を据えたまま、コーヒーのカップを自分の前に引き寄せて、麻生ミキがしゅっと鼻水をすすった。
「警察の人じゃないし、新聞とか週刊誌とか、そっちの関係?」
「どっちでもないが、君に迷惑のかかる関係ではない。小川のことを喋るだけなら仕入れ原価だって只じゃないか」
コーヒーを口に運び、しばらく窓の外に視線を流してから、鼻で息をついて、麻生ミキがその肉のたるんだ顎をゆっくりとおれにふり向けた。
「それでいったい、あんた、いくら出すわけよ」
「ものの値段はその品物によりけりさ」
「だけどあたし、小川の住所なんて、知らないけどなあ」
「コーヒー代だけ置いてさっさと帰れという意味か?」
「そういう意味じゃないのよ。小川に住所なんて高級なものはないだろうって、そう言ってるの」
「君の売ってる宝石類は、小川から仕入れているんだろう?」
「そりゃあ、たまによ。だけどそれは適当なものが入ったとき、向こうから勝手に持ってくるの。今あの人、インドだとか東南アジアだとかで安物の石を仕入れて、それを自分で田舎の宝石屋に売り歩いてるの。東京にいるときはどこか、女のところにでも転がり込むんじゃない?」
「ここには、いつ転がり込むんだ?」
「ばかにしないでよ。そんな関係、とっくに終わってるわよ」
「君は帯どめも扱っているか?」
「なんのこと?」
「いや、扱っていれば、家にいる年寄りに買っていこうと思っただけさ」
小川真也との縁も切れていて、住所も連絡先もわからないとなれば、おれはこのマンションにコーヒーを飲みに来ただけということになる。昨夜二時まで安田の電話を待っていて、これがまったくの無駄足だったということか。正木がいつも不機嫌で、いつも疲れきった顔をしているのは、こういう毎日のくり返しが原因なのだろう。
それでも気を取り直して、コーヒーに口をつけてから、おれが訊いた。
「五年前の、人造ダイヤを使った詐欺事件は、もちろん覚えてるよな?」
「やっぱり、そうよねえ」と、ピンク色に塗った唇を、舌の先でちらっとなめて、麻生ミキが言った。
「小川に用がある人なんてどうせあの関係だとは思っていたわよ。あんた、佐原さんだっけ? あんたもやっぱり小川に金を騙しとられた口?」
「その関係者みたいなもんだ」
「だけどあれ、もうずいぶん昔の話じゃない?」
「たったの五年前さ。君もあの事件には関係していたのか?」
「あたしなんか友達にいくらか売りさばいただけ。警察に呼ばれたけど罪にはならなかったしね。だいいち資金を回収する前に話がばれ[#「ばれ」に傍点]て、こっちだっていい迷惑だったわよ」
「小川は、事件の一年前に瑞宝堂をくびになっていたんだよな?」
「使い込みだか横流しだか、そんなことだったと思うわよ。デザイナーとしての腕は良かったのにねえ。金回りもよかったし、有名人にも顔が利いたし、そうじゃなきゃあたしだってあんなやつとはつき合わなかったわよ」
「博打が、好きだったらしいな」
「そりゃもう、競輪競馬から麻雀花札、なんでもござれよ。最後には花札で大きい負けをつくって、今だってたぶん筋者[#「筋者」に傍点]に追われてるはず。そういうやつだもの、住所なんて高級なもの、あるはずないのよ」
「君は瑞宝堂の朝倉文子は知っているか?」
「知っているというほどじゃないけど、なにかのパーティーで小川に紹介されたことはあったわ」
「彼女について、小川はなにか言わなかったかな」
「なにかって?」
「たとえば、男関係のことなんか」
尻をずらして、脚を組みかえ、意味があるのかないのか、麻生ミキがピンク色に塗った爪先を足首ごと一度、ぐるっと回転させた。
「どこか躰でも悪いんじゃないかって、そんなことを言ったことはあった」
「つまり……」
「もちろん、あっち[#「あっち」に傍点]のほうよ。あの顔であのスタイルで、男にぜんぜん興味を示さないんだって。だけどそれ、あたし、小川の負け惜しみだったと思うわよ。あいつのことだものあわよくばってちょっかいでも出したんじゃないの? それでまるで相手にされなかったから僻《ひが》みでそんなこと言ったんだと思うわ」
「見かけよりは仕事のできる女らしい」
「それは小川も言ってた。今彼女、瑞宝堂の社長になってるのよ。一見マスコットみたいな感じだけど実務能力はちゃんとあるらしいわ」
「小川がくびになったあと木崎志保美という女が瑞宝堂に入った。そのことは、聞いていないかな」
「木崎……それ、もしかして『ジュエル・青山』の社長のこと?」
「名前ぐらいは知ってる、か?」
「だって、新聞に出てたじゃない。その人、殺されたのよねえ。そりゃあね、あたしだって宝石を扱ってるもの、前から名前ぐらいは知ってたわよ。そうなの? あの人瑞宝堂にいたの?」
「小川から聞いたことは、ないんだな?」
「あるわけないでしょう? 小川が瑞宝堂をくびになってすぐ、あたしたちもうそういう[#「そういう」に傍点]関係じゃなくなったんだもの」
「南礼子なんて名前は、どうだ? こっちのほうは瑞宝堂で小川と一緒だったはずだ」
テーブルの上の煙草にのばしかけた麻生ミキの手が、一度そこで止まり、尖った爪の先がそのガラス板の上でこつんと音をたてた。
「あんた、ばかにいろんなこと、知ってるじゃない?」と、抜き出したメンソールの煙草に、使い捨てのライターで火をつけてから、麻生ミキが言った。「あの女、まさかまだ瑞宝堂にいるんじゃないんでしょう?」
「瑞宝堂にはいない。木崎志保美が瑞宝堂から独立するとき、南礼子を引き抜いている」
「引き抜いて? 『ジュエル・青山』に? そんなこと、あるわけないじゃない」
「どうして?」
「だって、そんなこと、小川じゃないけど、あの女だってもうこの業界じゃまともな仕事はできないはずだもの」
おれの口から、また「どうして?」という質問が飛び出しそうになったが、なんとか深呼吸をして、取り出した煙草におれはゆっくりと火をつけた。
「たしかに、言われてみれば、妙な話だ」と、一生けんめい目を見開いて、目尻の皺をのばしている麻生ミキに、おれが言った。「南礼子がその詐欺事件に関係していたとすれば、この業界からは当然抹殺されているはずなのにな」
「そうでしょう? そりゃあ彼女の名前は表には出なかったけど、裏で小川と組んでいたの、あの女なんだもの。そんなことぐらい瑞宝堂だって知っていたはずよねえ?」
「当然、知っては、いたろうな」
なんとなく、背中が寒くなって、おれは灰皿で煙草を消し、掌ににじんできた汗をそっとズボンの尻で拭き取った。
「しかし、彼女の名前、なぜ表に出なかったんだ?」
「知らないけど、瑞宝堂が抑えたんじゃない? 小川だって問題になったのは脱税だけで、詐欺のほうは不起訴だったもの。だから南礼子だって法律的には無罪なわけよ。でも瑞宝堂みたいなところ、一度問題を起こした人間を置いておくはずはないの。あたしみたいなアルバイトだって信用がなくなればもうそれで終わりなんだから。先日《こないだ》殺された本崎って人、そのこと、知らなかったのかしらねえ」
「南礼子のこと、小川は、他になにか言っていたか?」
「別に……出身が、たまたま同じ京都だってことぐらい」
「それで?」
「それだけよ。ああいう目から鼻に抜けるタイプ、男としてはちょっかいを出しづらいわよ」
麻生ミキの言う意味はわかるし、南礼子自身自分がそういうタイプであることだって、否定はしないだろう。しかしあの詐欺事件に南礼子が関係していたということは、いったい、どういうことなのか。麻生ミキではないが、そのことを朝倉文子が知らなかったはずはないし、志保美にしても片腕に使っていたほどの人間の素性を知らなかったとは考えられない。理屈からいって朝倉文子も志保美も、詐欺事件のことは当然知っていた。そしてあの詐欺事件に南礼子が関係していたことも、やはり当然知っていたはずだ。志保美は、なぜわざわざ南礼子なんかを引き抜いたのか。だいいち朝倉文子は、昨日、なぜそのことをおれに言わなかったのか。
「念を押すけど、小川の住所も連絡先も、本当に知らないんだな」
「知ってたら最初から言ってるわ。調子ばっかり良くて、あたし、あんなやつにぜんぜん義理はないんだから」
「今度小川から連絡があったら、おれのところに知らせてくれ」
おれは手帳を取り出し、そこに電話番号を書きつけ、そのページを千切って、財布から出した三枚の一万円札と一緒にテーブルの上を麻生ミキの前に滑らせた。
「珊瑚の帯どめなんかも入ったら連絡してくれ。年寄りのくせにうちの婆さん、妙に赤い色が好きなんだ」
麻生ミキが、目だけで礼の数をかぞえ、メモにもちらっと視線をやってから尖った指先で前髪をばさっと掻きあげた。
「佐原さん、あんた、本当はどういう素性の人?」
「言ったとおりさ。五年前のねずみ講事件で人生が狂ってしまった人間の関係者だ」
立ちあがって、ドアに歩きはじめたおれに、うしろから麻生ミキが声をかけた。
「安田さんの友達だっていうの、あれも、嘘だったの?」
「嘘なんか一つも言っていない。この住所だって安田から聞いて来たんだ」
「安田さんに会ったら、あたしのこと、よろしく言ってくれる? あたしあの人ともしばらく仕事してないのよ」
「靴べら、ないのか?」
「なあに?」
「いや……」
無理やり靴に足をつっ込み、腰をのばしてから、おれのすぐうしろで口をひきつらせて笑っている麻生ミキに、おれが言った。
「会ったら、一応、言っておくさ」
「今度はいつ会うの?」
「近いうちに飯でも食うかもしれない」
「あの人、けっこういいドラマ作るのよね」
「昨日はくだらんバラエティーを作ってた」
「バラエティーでもいいの。専門的に見ると、バラエティーのほうも案外いいセンスしてるのよ。あたし今フリーでやってるから、暇なときここへ電話するように言ってくれない? そのうち一緒に食事でもしましょうって」
おれは本当は、返事をするのも苦しかったが、一応うなずいて、おまけににっこりと笑顔まで返してやった。基本的におれの体質が女に甘いということもあったが、麻生ミキもそれなりにやはり一生けんめい生きてはいるのだろう。こういう女がこういう形で一生けんめい生きなくてはならないというのが、これが東京という街のつらいところだ。
この季節にしては、ばかに天気がいい。昨日まで七、八分だった桜も今日のこの陽射しでいやでも満開になる。もちろん満開になったらなったで、どうせまた雨がふったり風が吹いたりはするのだろうが。
おれは麻生ミキのマンションから外苑東通りまで歩き、通りに面した明るい喫茶店に入って、空っぽの腹のためにサンドイッチとトマトジュースを注文した。それからしばらく新聞を読み、ふと思い出して渋谷中央署の正木に電話を入れてみた。正木はいなかったが、ポケットベルで連絡がとれるらしく、五分後には正木のほうから喫茶店に電話をかけてきた。
「こう夜の誘いが多いと、女房におまえとの仲を径しまれるかも知れないぜ」と、抑揚のない低い声で、面白くもなさそうに、まず、正木が言った。
「南礼子のことなんだが、警察では、どれぐらい調べたんだ?」
「なんだと?」
「南礼子のことさ。いったい警察が彼女のことをどこまで調べたのか、それを訊きたいんだ」
「言ってる意味が、よくわからんなあ」
「わからなくてもいいから、とにかく教えてくれ」
むっと唸り、煙草に火でもつけたのか、電話の中で正木が長く息を吐いた。
「南礼子は被害者に一番近い人間だし、なんといっても死体の第一発見者だ。その意味での常識的な捜査はちゃんとやってある」
「彼女が五年前、ダイヤを使ったねずみ講事件に関係していたことも、調べてあるのか?」
「ダイヤを使ったねずみ講事件?」
「模造ダイヤを使った、一種の詐欺事件さ」
「たしか、本庁の二課で扱った事件だ。それが今度の事件と、なにか関係があるのか?」
「表面には出なかったが、南礼子はその事件で主犯的な役割をしていたらしい。ただ事件そのものには詐欺罪は成り立たなかった。法律的には益罪だったが、被害者の中には自殺した人間もいる」
「しかし……」
「それが今度の事件と直接関係があるかどうか、それはわからない。しかし宝石業界ってのは、一度問題を起こした人間が大手を振って歩けるほど広い業界じゃない。殺された志保美は南礼子の過去を承知で使っていたはずだ。それ自体不自然だし、その不自然な『ジュエル・青山』が五年であそこまで大きくなったことは、もっと不自然だ」
「しかし、なあ佐原、南礼子には立派すぎるほどのアリバイがあるんだぜ?」
「宝石デザイナーと、渋谷のスナックで飲んでいたことは、聞いた」
「うちの刑事が相手の男からちゃんと裏を取ってある。それともおまえ、南礼子を犯人にしたい理由でもあるのか?」
「その宝石デザイナーというの、男だったのか……」
「男で悪いか。南礼子は独《ひと》り者だ。どこでどういう男とつき合ったって俺たちが文句を言う筋合いはないぜ。もっともその小川ってデザイナーとは、完全に仕事上のつき合いではあるらしい」
「小川……」
飛んできた矢が、左の耳から右の耳に突き抜けていったように、おれの頭に一瞬、ぴりっという痛みが走った。小川なんてそのへんにいくらでも転がっている名前だし、宝石デザイナーにだって小川という名前の男は、いくらだっているだろう。
「正木、その小川っていうの、小川真也じゃないだろうな?」
「小川真也じゃ、悪いのか?」
「小川……真也なのか?」
「たしか、そうだったと思うぞ」
手帳でも取り出しているのか、受話器の中でごそごそと音がし、しばらく間があってから、受話器の中にまた正木の低い声が聞こえてきた。
「やっばり小川真也だ。大小の小に三本川。真実の真に百円なりの也。この小川真也ってのが、どうかしたのか?」
どうかしたどころの話ではないが、おれの驚きなど、この呑気な顔をしたピンクの電話機はけっして正木のところにまで伝えてはくれまい。
「佐原、なあ、この小川真也が、いったいどうしたんだよ?」
「どうしたのかは、そっちで調べてくれ」と、受話器を持ちかえて、掌の汗を上着の前でこすってから、おれが答えた。「おまえが忘れているのも無理はないんだが、さっき言った詐欺事件の主犯が、つまり、小川真也なんだ」
受話器に、正木が耳を澄ます気配が伝わってきて、頭の整理のために、おれも二、三秒黙って深く呼吸をつづけていた。
「たしかに、妙な話では、ある……」と、その渋い表情がおれの目にも浮かぶような声で、正木が言った。「その五年前の詐欺事件に関係した二人が、あの日、あの事件があった時間に、たまたま二人で飲んでいて、それで一方が一方のアリバイを証明[#「証明」に傍点]している。世の中にはそれぐらいの偶然も、まあ、なくはないだろうが……」
「裏を取ったということは、小川真也の居どころ、わかってるわけだよな?」
「そりゃあ、そうだろうな」
「店のほうはどうした? 二人が飲んでいたその店、確認は取ったのか?」
「俺が自分で当たったわけじゃない。俺だって一人でこの事件を担当しているんじゃないんだ。本庁からは一課の警部が出張《でば》っているし、専従で十人以上の刑事が動員されている。人殺しだって毎日毎日、これでもかってほど起きやがる」
「愚痴は今度『華夜』ででもゆっくり聞いてやるさ」
「なあ佐原、最初の日に言わなかったか? 殺人事件においては犯人はアマチュアで、こっちはプロだって。難しそうに見えてもこういう事件は最後には間違いなく解決するもんだ」
「おれはその解決を急いでもらおうと思っただけさ」
正木が、またむっと唸り、それからしばらく黙ったあと、小さく舌打ちをして受話器になにかこつんという音を響かせた。
「南礼子は調べなおすし、それからその小川真也って野郎のことも調べる。関係者のご協力には警察を代表して精一杯礼を言わせてもらうさ……用は、そんなところか?」
「そんなところだ」
「なにかわかったら連絡してやる。おまえのほうはせいぜい面白い探偵小説の構想でも練っていてくれ」
おれは、上条準次に対しては警察がどういう対処をしているか、そのことも訊いてみたかったが、正木の声の不機嫌さについ質問をためらった。それに訊いたところで、具体的な捜査の内容までは教えてくれるはずはない。
おれは電話を切り、元の席に戻って、サンドイッチとトマトジュースを平らげてから、その店を出た。今夜『ジュエル・青山』に南礼子を訪ねるにしても、その前におれ自身気持ちの準備だけはしておく必要がある。
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改めて眺めてみても、瑞宝堂にはやはり高級な宝石を扱うに相応しい、それなりの雰囲気とそれなりの貫禄がある。そこに伝統というやつの意味があるのだろうが、要するにそれは代々の経営者なり従業員なりの、毎日の営業努力の積み重ねなのだ。新しいアイディアや新しい経営方針もけっこうだが、新しさを追いかけるだけの発想には、基本的にどこか無理がある。志保美だってそれぐらい知らないはずはなかったろうが、一度レールの上を走り出してしまった列車は、志保美個人の思惑ではもうどうにも止まらなくなっていたのだろう。
おれが瑞宝常に入っていくと、朝倉文子は店に出ていて、奥のカウンターの前で金髪の大女と立ち話をしていた。その会話は英語ではなく、フランス語だったが、おれにわかったのはそれが『たぶんフランス語だろう』というだけのことだった。
しばらくして、その大女を送り出し、おれが立っているショーケースの前まで歩いてきて、なにが可笑《おか》しいのか、からかうような目で朝倉文子がくすっと笑った。
「佐原くん、急に宝石に興味を待ったみたいね。自分で『ジュエル・青山』を経営する気にでもなったの?」
「それもいいかも知れないな。お松さんにも堅気になれと言われる」
「協力するわよ? 冗談ではなくね」
「冗談さ。宝石は売るより、好きな女に買ってやるほうが性に合ってる」
朝倉文子が、またくすっと笑って、店の中を見回しながら髪をふわっとうしろにふり払った。
「二階に来ないこと? 今はわたし、お店を空けられないの」
「宝石が眩しくて目が痛くなっていたところだ」
口をすぼめながら、今度は目だけを笑わせ、うなずいて朝倉文子が先に立って店の奥に歩きはじめた。黙っておれもそのあとについて行った。
朝倉文子がおれを連れていったのは、二階の、社長室と応接室を兼ねているらしい十畳ほどの部屋だった。以前にもこの部屋には来たような気はするが、覚えているのは部屋の位置だけで、絨毯も壁もソファも、グリーンの濃淡で統一された内装は朝倉文子の代になってから改装されたものらしかった。朝倉文子は昨日もモスグリーンのパンツスーツを着ていたから、最近ではこの色が彼女の趣味なのだろう。
「午前中また警察の人が来て、妙なことを聞いていったわ」と、向かい合ってソファに腰をおろしてから、無邪気な好奇心を表情にあらわして、朝倉文子が言った。「志保美が殺されたときのアリバイ、わたしにあるかって訊くの。そんなこと訊かれても困ってしまうわよねえ」
「殺人事件のアリバイなんて、急に訊かれれば誰だって困るさ」
おれは座ったソファの固さになんとなく違和感を感じながら、煙草を取り出して、それに火をつけた。
「警察はそのことでまだおれを疑っている」
「佐原くんには、アリバイがないの?」
「志保美が殺されると知っていれば適当に考えておいたのにな」
「あなたはそれぐらい困らされても、当然な人だものね。わたしは警察を応援してやろうかな」
朝倉文子が、目尻に皺をつくってくすっと笑い、右の口端からまた白い八重歯を一本こぼれさせた。昨日も感じたことだが、それが年齢の落ち着きというやつなのか、躰つきの少女っぽさにくらべると表情のほうにはすべてに快い余裕がある。
「君はそれで、アリバイはクリアしたのか?」
「わたしは普段の心がけがいいの。佐原くんとは違うわ。あの日はわたし、十時半には家に帰っていたの。家の人間も家政婦もみんなが証人……十時には、志保美はまだ生きていたらしいものね」
店の制服を着た女の子が木の盆にのせた煎茶を運んできて、湯呑をおれと朝倉文子の前に一つずつ置き、ていねいにお辞儀をして部屋をさがっていった。
「今度の事件には、おれもへんに気合いが入っている」と、女の子がドアを閉めきるのを待ってから、灰皿で煙草をつぶして、おれが言った。「南礼子の素性が妙なところから耳に入ってしまった」
朝倉文子が眉をしかめて、湯呑に腕を伸ばし、それを口の前に運んでから、静かに光る目でじっとおれの顔を覗き込んだ。
「彼女が例のねずみ講事件に関係していたこと、昨日、君はなぜ言わなかった?」
一口すすった湯呑を、茶托《ちゃたく》に戻し、腕を組んで、朝倉文子がゆっくりとソファの背もたれに寄りかかった。
「それは、余計なことは言わないのがこの業界のしきたりだもの。それに一応、南礼子に注意するようにとは言ったはずよ」
「どういうふうに注意するのか、おれはそれが聞きたかったな」
「そんなことまで佐原くんに言う必要はないわ。わたしには瑞宝堂を守る責任があるの」
「おれにだって亜由子のために、今度の事件にけり[#「けり」に傍点]をつける責任がある。それにねずみ講事件のことはもう警察にも話してしまった」
朝倉文子が、口の端を結んで小さく首をふり、深く息を吸い込んで、その息を肩でふーっと長く吐き出した。
「二十年たっても、佐原くんて、いつまでも面倒な人よねえ」
「他人に迷惑がかからないように、ひっそりと暮らしてはいるつもりさ」
「その、あのことはね、瑞宝堂としては世間に知られたくないの。小川真也は一年も前に店をやめていた人間だから、無関係ということで押し通せる。でも南礼子のことはそういうわけにはいかないわ。あんな詐欺事件にうちの社員が関係していたとなったら、瑞宝堂の信用問題なのよ」
「それならそんな南礼子を、志保美はなぜ引き抜いたんだ? 志保美だって南礼子のやったことを知らなかったわけじゃないだろう?」
「あれは、だから、そういう意味の引き抜きではなかったのよ。南礼子が佐原くんにどう言ったのかは知らない。でも現実は、彼女はただ志保美に拾われただけなの。うちとしても表沙汰にはしたくなかったし、志保美としても仕事のできる人間はほしかった。わたしは反対だったけど、志保美は自分ならうまく使うといって聞かなかった。けっきょくは、わたしが心配したとおりになってしまったわ」
「君、今自分が言った言葉の意味、わかっているよな」
「べつに、いえ、そういう意味では、ないのよ。具体的には本当に、なにも知らないの。ただ南礼子がいつまでもあのままで我慢しているなんて、わたしには信じられなかった。志保美はたしかに『ジュエル・青山』のシンボルだったし、志保美のアイディアが成功したことも間違いではないと思う。でも実務面の仕事はぜんぶ南礼子がやっていたはず。志保美にはアイディアも行動力もあったけど、細かい計算や地道な裏方は苦手だった。裏方は南礼子がやっていたの。でも南礼子って、いつまでも裏方だけで我慢できる性格ではないのよ。それは、わたしが一番よく知っているわ」
朝倉文子の言わんとしていることは、もちろん、おれにも理解はできていた。南礼子は志保美が無理やり瑞宝堂から引き抜いた人間ではなく、いわばねずみ講事件の秘密を守ることを条件に瑞宝堂から『ジュエル・青山』にトレードされた人間なのだ。だとすれば、南礼子がいくら仕事ができたとしても、志保美が生きているかぎり一生頭を抑えられつづけることになる。だからといって『ジュエル・青山』を離れては、南礼子はこの宝石業界で生きていくこともできないのだ。そして朝倉文子に言われるまでもなく、おれ自身の印象としても南礼子はそういう人生が我慢できる女ではない。
「彼女、最初は、宝石デザイナーを志望して業界に入ってきたらしいな」と、腕を組んだまま、覗き込むようにおれの顔を眺めている朝倉文子に、おれが言った。
「ある意味ではよくいるタイプなのね」と、奇麗にそろった眉を呆れたような形に歪めて、朝倉文子が答えた。「生れは京都の、田辺とかいう小さい田舎町らしいわ。実家は材木屋だったけどその材木屋は彼女が中学生のときに倒産して、お金には苦労したみたい。それでご多分にもれず、華やかな世界に憧《あこが》れてこの業界に入ってきたわけ。でもこの業界が華やかに見えるのは扱う商品が華やかなだけで、商売そのものはお煎餅を売ったり野菜を売ったりするのと同じことなのよ。若い人って、そういう理屈がなかなか理解できないらしいわ」
「小川真也とは、具体的にはどういう関係だったんだろう?」
「そこまでは知らない。小川も生まれは京都だし、南礼子も最初はデザイナー志望だったからそのへんで親しくなったんでしょうね。彼女はうちに来てすぐ営業にまわしたけど、品物を鑑《み》るセンスは良かったの。死んだ父もゆくゆくは幹部にと思っていたらしいから、あの事件で父がどれだけ傷ついたか、思い出しただけでもわたし、気が遠くなりそう」
「志保美はその南礼子の協力で、とにかく青山の店をあそこまで大きくしてしまったわけだ」
「毒がへんなところで予想外の効《き》き方をしただけのことよ」
「毒も使い用では、薬になるさ」
「でもやっばり、毒は毒でしょう? 間違えないで完璧に使いこなせる人間なんて、そういるものではないわ」
朝倉文子が、ふと立ちあがり、部屋の奥に歩いて大型の仕事机の上から煙草と銀色のライターを持って戻ってきた。
元の場所に座って煙草に火をつけた朝倉文子に、煎茶の湯呑を取りあげながら、おれが言った。
「肝腎なことで、もう一つ君に教えてもらいたいことがある」
「わたしが今まで結婚しなかったのは、もちろん、佐原くんの責任よ」
「おれはお松さんが結婚しないことにだって責任を取るさ。だけど今君に訊きたいのは、瑞宝堂と『ジュエル・青山』と丸越が、実際にはどういう関係だったのかということだ」
「それは、だから、なにも関係はないって、昨日もちゃんと言ったじゃないの」
「昨日は久しぶりにおれに会って、君は少し緊張していたと思うな」
「佐原くん、その病気、まだ治っていないみたいね」
「それは君の誤解さ」
「そうかしら。昔からあなた、世界中の女はぜんぶ自分のものだと思うへんな病気があったじゃないの」
「それが誤解なんだ。昔から君はおれのことをまるで理解していない。おれのは病気じゃなくて、生まれつきのそういう体質なんだ」
煙草の煙を、むせたように吐き出し、灰皿の中で火をつぶしてから、顔をあげてまた朝倉文子が白い八重歯をこぼれさせた。
「志保美も困った性格だったけど、あなたって、ぜったい志保美より救われないと思うわ」
「おれは志保美が丸越にどういうふうに働きかけていたのか、それが知りたい」
「昨日も言ったとおり、勝手に志保美が丸越に食い込もうとしていただけよ」
「おれだって十年以上志保美と暮らした。彼女の性格は知っている。志保美が目算もなく丸越に当たっていただけだとは、どうしても考えられない」
「それは……」と、並木通りに面した窓の向こうに、ゆっくりと視線を移し、おれに横顔を向けたまま、朝倉文子が言った。「木崎商事を通して、圧力は、かけていたらしいわ」
「辻村和郎の私生活を興信所を使って調べさせたり、な」
朝倉文子の視線が、飛ぶように戻ってきて、おれの顔にその黒目の大きい目の焦点が、きっちりと結ばれた。
「辻村さんを、興信所を使って?」
「知らなかったのか?」
「知らなかった。志保美、そこまでやっていたの。でもそれ……」
「志保美が、ではなく、実際は南礼子がやっていた可能性も、なくはない。でもその探偵は、おれには志保美に雇われたと言ってる」
「わたしには志保美がそこまでやっていたとは思えないけどな」
湯呑の茶を飲み干し、ソファに座り直してから、朝倉文子の顔を覗き込んで、おれが言った。
「もう、教えてくれないか。志保美は死んだわけだし、おれが君にとって無害な人間であることはわかっているはずだ」
「あなたが……」
「『ジュエル・青山』と丸越の話は、実際はどこまで進んでいたんだ?」
「佐原くんがどういうふうに無害なのか、それはわたしにはわからないわ。でもあなたの言うとおり、志保美が死んであの話が流れてしまったことは事実だわね」
「『ジュエル・青山』はやっばり、丸越に入ることになっていたのか?」
「新宿の一店舗だけ。そういうことだったらしいわ」
「君としては、当然反対だったよな」
「それは、そうよ。いくら志保美が親友でも、仕事の話は別の問題。丸越の内部にもテナント同士を競合させるべきだという意見はあったの。辻村さんとしても内部の意見をすべて無視するわけにはいかなかった。でも、それも、志保美がこういうことになってすべて白紙に戻ったわ。そのことは辻村さんとももう確認し合っているの」
昨日志保美の葬式があった妙庵寺から、火葬場には行かず、朝倉文子と辻村和郎が一緒に姿を消したのは、そのへんに事情があったのだろう。そこで二人の間にどういう取り引きがあったのかは知らないが、今の朝倉文子にとっては、残念ながら親友の死よりも瑞宝堂の経営に価値観の重点がある。人間が大人になるということは、そういうことだ。そして志保美が亜由子に言った「『ジュエル・青山』を丸越に入れることになった」という言葉も、たしかに、「丸越のすべてに」と解釈しなくてはならない理由は、なにもない。新宿の一店舗だけなら、木崎商事と辻村和郎の関係からも、志保美が丸越にテナントを入れる可能性はあったのかも知れない。しかし話がそこまで具体的に進んでいたとしたら、南礼子は、おれにそのことをなぜあそこまで強く否定したのか。志保美が南礼子には相談せず一人で勝手にその話を進めていたということが、実際問題あり得るだろうか。
おれはテーブルに置いていた自分の煙草を、ポケットにしまい、朝倉文子に会釈をしてから、ゆっくりと立ちあがった。
「どうでもいいけど、このソファ、おれにはちょっと固い気がするな」
朝倉文子も立ちあがり、目だけを静かに笑わせて、首筋の髪を指で軽くうしろにふり払った。
「ソファはわたしが社長になってから変えたの。仕事だけのお客様に長居なんかしてもらいたくないものね」
「その経営方針には、賛成だ」
「でも佐原くんが毎日来るつもりなら、もう一度変えてあげてもいいかな」
「四十年間座りつづけた自分の価値観は、かんたんには変えられないもんさ」
ドアに歩きはじめたおれに、その場所に立ったまま、なんのつもりでか、朝倉文子がひゅっと口笛を鳴らした。
「あなたを見てると自分がもうすぐ四十になること、つい忘れてしまいそう」
「同じことを今おれも言おうとした」と、立ち止まらずに、一度だけ朝倉文子をふり返って、おれが言った。「だからなおさら、君が今でも独身《ひとり》でいる理由がわからないんだ」
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四月に入ったといっても、午後も六時になるとそれなりに夕暮れは色を濃くしてくる。おれが並木通りの画廊に三十分ほど引っかかってから、銀座線で表参道に出たのは、あと瞬《まばた》きをいくつかすればすっかり暗くなるその直前の時間だった。
沢村萌と初めて会ったコーヒーショップにも、花屋にも毛皮店にもそれぞれに小さい電気看板がともり、そしてそれぞれの店内からはそれぞれの明りが、青山通りに面した舗道にそれぞれの意匠をこらして滲み出していた。志保美が生きていれば、今ごろは『ジュエル・青山』のショーウインドからもあの派手なシャンデリアがスピルバーグの『未知との遭遇』のように、圧倒的な迫力でこぼれ出していただろうに。
おれが一昨日《おととい》と同じように、ガラスドア一枚ぶんだけ開いたシャッターから中に入っていくと、明りがついた奥の部屋から南礼子が顔を覗かせ、黒縁の眼鏡を外しながらフロアを半分ほどおれのほうに近寄ってきた。
「このままお待ちいただけます? すぐ片づけて参りますわ」
それが、すぐ帳簿を持ってくるという意昧なのか、すぐ食事に出かけようという意昧なのかはわからなかったが、あとのほうだと勝手に判断して、おれは黙ってうなずいた。南礼子もうなずき返し、奇麗にターンしてモデルのような歩き方でまた奥の部屋に姿を消していった。
待つまでもなく、奥の部屋の明りが消え、茶封筒を胸の前に抱えた南礼子がうす明りの中を大股に歩いてきた。そして今度はドアの前まで進んできて、おれを促すように会釈をし、ドアを押して表の通りに進み出た。
「ごめんなさい。荷物、ちょっと持っていただけます?」
おれに茶封筒を渡し、ガラスドアに鍵をかけ、それからシャッターをおろしてそのシャッターにも鍵をかけ、使った鍵をハンドバッグに戻してから、うしろにただつっ立っていたおれに向き直って、ふっと南礼子が肩で息をついた。
「お待たせしました。少し歩きますけど、かまいませんでしょう?」
「このへんの店はあまり知らないんだ」
南礼子がちょっと口を尖らせ、顎を引きながら、おれの顔を見つめた目をにっと笑わせた。
「言わなかったかしら。わたくし近くにマンションを借りていますの。お店の原簿も部屋に置いてあります。佐原さんに帳簿を見ていただいている間に、食事はわたくしがお作りしますわ。これでも昔料理学校に通ったことがあるんです」
南礼子と『料理学校』という組み合わせが、なんとなく不似合いなイメージでおれの頭の中を飛び回っていたが、その南礼子のマンションは、『ジュエル・青山』から十分ほど青山通りを北に歩いた、外苑西通り近くの細い道ぞいにあった。志保美のマンションより部屋敷は多そうだったが、そのぶん外観も殺風景で、出入り口に管理入室も置かれていなかった。それでもこの場所でそれなりのマンションということになれば、五万や十万という家賃では済むまい。
南礼子の部屋は、エレベータで四階にあがった、内廊下の途中にあった。もともとは二間つづきだったらしいが中間の仕切りは取り払われ、奥の部屋に置かれたベッドは人間の背丈ほどのスクリーンでその半分以上が隠れる配置になっていた。衣裳ロッカーもサイドボードも配色は落ち着いていて、部屋を広く感じさせるためにか、家具のすべてが全体に低い位置に納められていた。そのどこにも乱雑な感じはなく、そしてなぜか、男の気配も感じられない。
籐《とう》で編んだ敷物の上に置いた寄せ木合板の丸テーブルの前におれを座らせ、台所から缶ビールを持ってきて、そのビールをグラスに注ぎながら、南礼子が言った。
「狭い部屋でびっくりされたでしょう? わたしが一人で頑張ってみても、しょせんこの程度のものですわ」
「この程度まで頑張れれば、東京では成功と言われるさ。志保美の部屋だって似たようなものだった」
南礼子が唇を結びながらビールの缶をテーブルに置き、そのまま膝を回して、サイドボードの上から黒い厚紙の表紙で綴じられた薄手のノートを取りあげた。
「これ、ご覧になっていただけます? 五年ぶんの収支決算書と出納表ですの。わたくしはあちらで食事の支度をいたします」
もともとおれは、数字に強い質《たち》ではないし、企業の帳簿なんてこれまでに見たこともなかったが、今のこの状況では目を通すふりぐらいは義理にでもしなくてはならない。南礼子にしてもおれにその真似ぐらいはしてもらわないと、これから先話の進めようはないだろう。
南礼子が立ちあがり、スーツの上着をカーディガンに着がえて、台所で料理の支度に取りかかった。おれのほうも帳簿をテーブルに開き、ビールのコップを片手に一応数字の点検らしきものを開始した。決算書なんてどうせ数字の辻褄合わせに決まっているし、どこかに細工があったとしても、素人のおれなんかに見破れるはずはない。おれにわかるのは、『ジュエル・青山』の資本金がいくらで、銀行からいくら借りていて、毎年毎年いくら仕入れていくら売り、工場やコマーシャル代や従業員の賃金にいくら支払っているのか、ということぐらいだった。それだって丸の数を右から一々数えなければそれが十万だか一千万だか、すぐには読み取れない程度に情けないものだった。
しかしそれでも、帳簿の項目と右の数字を時間をかけて眺めるうち、同じ項目の数字が年を追うごとに増えつづけ、最初の年と去年の決算期とではその金額がほぼ二十倍に膨脹していることが、おれにもなんとか理解できるようになった。つまり仕入れの金額も二十倍なら、売上も二十倍。それに反して銀行からの借入金は減っていき、宣伝費やら人件費やらは売上の急激な伸びに比べれば、せいぜい二倍から五倍程度の増加にしかなっていない。それらの数字の動きがなにを示しているか、いくらおれが数字に弱くても、常識で判断できる。『ジュエル・青山』がこの五年間で急激に成長し、収支も急激に黒字側に突入したということだ。この数字に嘘がなければ、南礼子でなくても『ジュエル・青山』をこのまま解散させる気にはならないだろう。
おれが苦戦しながら帳簿を眺めていたのは、三十分か、長くても四十分だった。その間にビールは空になっていて、テーブルの上にも、南礼子が支度をした料理がそのテーブルを押しつぶすほどの勢いで猛然と並べられはじめていた。志保美も家にいる間はほとんど料理をしない女だったが、気まぐれでたまに始めると、こんなふうに宴会に仕出せるほどの料理を作ったものだ。
「訊くのを忘れていたけど、君にとって今日は、なにかの記念日なのか」と、閉じた書類を脇に置き、改めてテーブルの上を眺めながら、本心から感激して、おれが言った。
「今日はただの、通常のおもてなしですわ。でも将来わたしにとって今日が特別な記念日になる可能性は、あるでしょうけどね」
「帳簿を見たかぎりでは、おれたちがこのまま二度と会わなくなる必然性は、たしかに、ない気がする」
南礼子が、テーブルの向こう側に正座をし、ワインの栓を抜いて、二つ並べたグラスにその赤ワインを注ぎ入れた。ラベルはジュヴレ・シャンベルタンの八十五年物だった。
「最初にお断りしておきますけど、わたくし、自分の手料理で佐原さんを買収する気なんか、ぜんぜんありませんわよ。仕事のことは正当に判断していただければ、それでけっこうです。でもお互い知らない同士では、その仕事の話だって先に進みませんものね」
南礼子がグラスを取りあげ、おれもグラスに手を伸ばして、テーブルの両側からおれたちは軽くグラスを重ね合わせた。おれ自身自分の常識にはずっと目をつぶらせていたが、たとえ仕事絡みだとしても、今のこの状況が尋常なものでないことぐらいちゃんと理解できていた。しかし思惑は思惑、礼儀は礼儀なのだ。アスパラガスと鳥肉の中華ふうサラダ。平目のホワイトソース煮。牛肉とチーズの挟み揚げ。それから八十五年物のジュヴレ・シャンベルタン。これらの料理を、南礼子はけっして有り合わせの材料で作ったわけではない。いつかは本題に入らなくてはならないにしても、できれば、おれだって、このままいつまでも曖昧な時間を引きずっていたい。
「君、志保美が亜由子の入学祝いに作ったペンダントは、知っているか?」と、フォークを使いはじめた南礼子に、自分も皿の上に両手を動かしながら、おれが言った。
「サファイアが、亜由子ちゃんの誕生石なんですってね」
「子供のくせに女は女だというところが、なんとなく憎らしい」
「わたしたちの商売はそれで成り立つんですわ」
「あれは、いくらぐらいのものかな、もし、その、『ジュエル・青山』で売るとしたら」
フォークを使っていた手を止め、ワインに口をつけてから、視線を横に流して、南礼子が軽く上唇をめくりあげた。
「あんなものは、うちのお店では売りませんわ」
「あんなもの?」
「もし定価をつけるとしたら百万では済みませんもの。もしあのペンダントをお店で売るとしたら、『ジュエル・青山』の営業方針そのものを変えなくてはなりません」
その言い方自体は、もちろん南礼子が意識して大袈裟にしたものではあるが、しかしそれだけ、たぶん志保美もあのペンダントには特別の意義を持たせていたということなのだろう。
「志保美は、亜由子に、ペンダントのデザインは自分でやったと言ったらしい。本当に志保美が、自分でやったんだろうか」
「社長がスケッチをされているところを、わたしもなん度か拝見しましたけど」
「あれに似たペンダントを前にも見た気がするんだ」
「それは、だって、あの石はスターサファイアですもの。カットの方式が決まっておりますから、台のデザインもパターン的には似たようなものになってしまいます。一般のアクセサリーと違ってあのペンダントは石自体に価値がありますのよ。デザインは、それのつけ足しのようなものですわ」
沢村萌に対するおれの罪の意識が、南礼子のその言葉で軽くなるとは思わないが、しかし亜由子のためにも志保美が意図的に沢村萌のデザインを盗んだのでないことは、なんとか信じてやりたい。
「デザイナー志望だった君から見て、あのペンダントのデザイン、どう思う?」
「佐原さんはご不満なんですの?」
「そういうわけではない。ただ専門家としての君の意見を、聞きたいだけだ」
「わたしも出来あがったときに拝見しました。清潔で、いいデザインだと思いましたわ。細工もお店で売るものよりずっとていねいにしてありました」
おれがワインを飲み干し、南礼子が長い腕を伸ばして、空になったおれのグラスにたっぷりとワインを注ぎ足してくれた。
「最初に君に会ったときから、そのことが不思議で仕方なかった。君ならデザイナーとしてだってじゅうぶんやっていけたはずだ。なぜ、かんたんに諦めたんだ?」
「それは……」と、皿の上にフォークを浮かせたまま、小さく息を吸い込んで、南礼子が言った。
「それは、はっきり言って、お金の問題ですわ。わたしがあのままデザインに拘《こだわ》りつづけていたら、今でもわたし、まだ四畳半一間のアパート暮らしだったでしょうから」
「そういう人生だって、悪くはないと思うけどな」
「でも佐原さんは、そういう人生をおやりになったこと、ないでしょう?」
「おれは、運が良かった」
「そうなんですわ。佐原さんも亜由子ちゃんも、亡くなった社長も、みなさん運のいい人たちですものね。わたしはべつに、そのことを僻んでいるわけではありませんけど」
おれがこれまでの人生で、一度でも金に困ったことがあるかといえば、それは、もちろんない。金のないことの惨めさがわかるのかと問い詰められれば、それにも答えようはない。人生に対してはそれぞれの立場で、それぞれの状況でそれぞれの価値観で生きていくより仕方がないと、その程度の屁理屈で逃げを打つより他に方法はない。しかしだからといって、金のために自分の目標を投げ出す人生観に、拍手をして賛成する気にもならない。
南礼子が、そのまま黙り込み、二人してしばらく黙ったままフォークとナイフを動かしてから、またワインに戻って、おれが言った。
「君、生まれは、京都だったよな」
「やっと身元調べに入っていただけますのね」と、上目づかいにおれの顔を覗き込みながら、フォークを下において、南礼子が唇をちょっと皮肉っぽい形に笑わせた。
「おれが帳簿なんか見てもわからないことは、君も知っていたはずだ。おれが『ジュエル・青山』を君に任せるかどうかは、帳簿の数字でではなく、君そのもので判断したい」
「そのために、わたしも、今日このお部屋に佐原さんをお招きしたんですわ。お店をわたしに任せていただけるかどうか、いえ、佐原さんのパートナーとしてわたしが相応しい女かどうか、それをご自身で確かめていただきたいの」
南礼子が、自分の前の皿を脇に退け、膝を崩して、空になっていた二つのグラスにゆっくりとワインを注ぎ足した。
南礼子に仄《ほの》めかされるまでもなく、おれにしても男と女が理解し合う一番の近道がどんなものであるのか、知らないわけではない。相手が南礼子であれば結果的にそれが出口のない迷路であったとしても、とりあえずその近道を進んでみたいと思う気持ちに、変わりがあるわけでもない。
「初めて会った日、『君にはこれからなん度も会う気がする』と言ったけど、あれが、当たってしまったらしい」と、煙草に火をつけて、テーブルの端からガラスの灰皿を引き寄せながら、おれが言った。「あのときはただの、個人的な、希望的観測というやつだった」
「個人的な希望的観測は、わたしだっていたしましたわ」
言葉など本当はもうなにも要らないはずだが、残念ながらおれと南礼子の関係においては、おれと南礼子との間にあるすべての問題を全面的に言葉で埋め尽くさなくてはならない。
「もし志保美がああいう死に方でなかったら、おれたちの関係は変わっていたかもしれないな」
「どういう、ことでしょうか」と、グラスの縁に唇を押しつけたまま、切れ長の目を見開いて、南礼子がおれの顔を覗き込んだ。
「もし志保美の死に方がもっと普通のものだったら、君にこんな面倒なことをしてもらわなくてもおれは黙ってあの店を君に任せていた。それから先おれたちがどんな関係になったとしても、それは男と女の、当たり前のただの関係になっていたはずだ」
「でもそれは、わたしたちの責任ではないでしょう?」
「それを、おれは、確認したい」
煙草をつぶし、残っていたグラスのワインを一息にあおってから、おれの目を見つめたままの南礼子に、おれが言った。
「君が五年前に係わったねずみ講事件のことを、おれに、話してくれないか」
南礼子が、おれに向けていた目を大きく見開き、しばらく息を止めてから、その止めていた息を肺が空になるかと思うほど、ふーっと長く吐き出した。
「瑞宝堂の社長に、お聞きになったのね」
「彼女が自分から喋ったわけでは、ない」
「佐原さんがわたしの出身を京都だと言ったときから、もしかしたらとは思っていたわ。わたしは自分の故郷《くに》のことなんか、あなたには一度も話さなかったもの」
「朝倉文子はそのことは隠そうとしていた。君は知らなかったかも知れないが、おれと朝倉文子は大学時代からの知り合いだ。大学でおれと志保美が知り合ったのも、もともとは朝倉文子の紹介だった」
「社長は、佐原さんのことは、あまり話さなかったから……」
「志保美が別れた亭主のことをぐずぐず言う女でないことは、おれが一番よく知っている。君のことは朝倉文子から、おれが無理やり聞き出した。志保美がああいう死に方をした以上、そこを避けて通るわけにはいかないんだ」
「避けて通れるものなら、わたしは避けて通りたかった。できれば佐原さんには、知られたくなかった」
「ねずみ講事件では君は加害者だ。被害者の中には自殺した人間もいる。刑事的に君の責任がどういうものかは知らない。でもおれには、君に責任がないとは、どうしても思えない」
「他人を自殺に追い込んだことがあるような人間には、青山のお店は、任せられない?」
「あれは、おれの店ではなく、母親としての志保美が亜由子に残した人生の記念だ。亜由子にはまだ人間の汚《きたな》い部分は見せたくはない」
「わたしが汚《よご》れていないなんて、そんなことは言わないわ。でもそういう汚《きたな》い人間を使って社長は『ジュエル・青山』を大きくしたのよ。世の中が奇麗ごとだけでは済まないことを、社長はちゃんと知っている人だった」
「志保美とおれは、人生観がちょっとだけ違う。そのちょっとの違いは最後まで埋められなかった。おれ個人としては、君については、もちろん残念だとは思う」
「わたしがなんであの事件に関係したのか、その理由を聞いてもくれないのね」
「金の必要な理由は、誰にだってあるさ」
「貧乏人の悪あがきは自分には関係ないというわけ? わたしはあのとき、弟の心臓手術のためにどうしても一千万のお金が必要だった。瑞宝堂も銀行もサラ金もそんなお金は貸してくれなかった。躰を売ろうとだって思った。でも、どうしても、それだけはできなかった」
「そのときできなかったことを、今はおれに対してしようとした」
「それは、問題がちがうわ」
「弟のためにもできなかったことを、今はなぜする気になった? 君が今度に限ってそこまでしなくてはならない特別な理由というのは、いったい、なんだっていうんだ」
南礼子が、また息を止め、座ったまま躰をうしろに引いて、おれを見くだすような目でふっと短く息をついた。
「佐原さん、あなた、そんなふうに考えていたの? 一度悪いことをした人間はどこまでも悪いことをしつづけて、最後は人まで殺すと、そんなふうに思っていたの?」
「おれは、ただ、訊きたいだけだ。志保美を誰が殺したのか、それを君の口から聞きたい」
「社長があなたと暮らせなくなった理由が、わたしにもわかってきたわ。あなたは中学生がそのまま大人になったような、よく言えば純粋だけど、一般的にはただの世間知らずというやつよ」
「おれは世間のことを知りたいわけじゃない。志保美を殺した犯人を知りたいだけさ」
「目の前のこのわたしが犯人だと、あなた、最初からそう決めつけているじゃないの」
「それが理屈としては、一番筋が通る」
「そんな筋、勝手に通さないでほしいわ。最初の日にも言ったでしょう? わたしにはちゃんとしたアリバイがあるの」
「そのアリバイ証人が小川真也だというのは、どう考えても出来すぎている」
「そんなことまで……」
南礼子が、唾を飲み込み、またうしろにさがって、くっと咳払いをした。
「よく調べたと言いたいけど、佐原さんの考えていること、みんな見当ちがいだわ。わたしには社長を殺す動機がないし、殺したという証拠だってなにもないじゃないの」
「君は志保美が邪魔だった。『ジュエル・青山』がいくら大きくなっても、いくら有名になっても、あのねずみ講事件があるかぎり君は志保美の陰から抜け出られない。君がどんなに有能で実質的に君の力であの店が運営されているとしても、成功の華やかな部分はぜんぶ志保美に持っていかれる。君には、それが我慢できなかった」
「それが証拠なの? たとえ今言ったことがぜんぶ当たっていたとしても、そんなもの、証拠でもなんでもないわ。そんなことで勝手にわたしを殺人犯人にしないでほしいわ」
「君を犯人にするかどうかは警察の仕事だ。おれはただ『ジュエル・青山』に関して、君の希望にはそえないと言っているだけのことだ」
「そんな、勝手なこと……」
声を、低くかすれさせ、膝でテーブルの前まで戻ってきて、南礼子が強くおれの顔を睨みつけた。
「そんな勝手なことは、誰にもさせないわ。わたしは、あのお店を、誰にもわたしから取りあげさせたりはしない」
おれは煙草の箱を上着のポケットに戻し、座布団がわりのクッションから、両腕を使って尻を半分ほどドアの側に滑り出させた。
「うまい料理だった。できれば別な環境で、別な情況で食わせてもらいたかった」
「わたしは誰にもわたしから『ジュエル・青山』を取りあげさせないと、そう言ったのよ」
「『ジュエル・青山』自体がなくなってしまえば、誰も君から取りあげることはできないさ」
立ちあがって、南礼子に会釈をし、その整いすぎた白い顔に目をやったまま、一歩だけ、おれがうしろに脚を引いた。
「急がなくてもいいのよ」
「夜遊びをすると、うちの婆さんに怒られるんだ」
「誰もわたしから『ジュエル・青山』を取りあげられない理由、聞きたくないの?」
「そんなもの……」
「亜由子ちゃんに知られたら、困るでしょう? 自分の母親が宝石の密輸をやっていたなんてこと」
半分歩きかけていたが、思わず立ち止まり、思わず、おれは横の壁に肩で寄りかかった。
「いくら志保美でも、そこまで、やるはずはない」
「そうかしら? 社長は利益をあげるためならどんな手段でも使ったわ。わたしを仕事のパートナーに選んだことからだって、それはわかるはずよ」
「宝石なんか、木崎商事のルートからいくらだって入ってきたはずだ」
「だから佐原さん、世間知らずなのよ。その木崎商事の経営が苦しいこと、まるで知らないじゃない」
「それは……」
「フィリピンの政変があったとき、旧政権側のために大量の宝石を持ち出したの、誰だと思う? その宝石をクリーニングして市場でお金に換えたのは、誰? あなたお得意の理屈では、そういうこと、ぜんぶ筋が通るんじゃないの?」
木崎商事の経営が苦しいことは、昨夜上条準次も言っていたことだ。その理由がフィリピンの政変にあったらしいことも昨夜聞いたとおりだ。木崎商事が政変前の内政に深く係わっていたことだって、有り得なくはない。その木崎商事の木崎周一は志保美にとっては実の兄であり、木崎家は志保美の実家なのだ。だから理屈では、たしかに、そういう筋は通る。
「非常に面白い話だが、残念ながら志保美がその密輸に関係していたという、証拠はない」
なんとか、脚に力を入れ、遥かかなたに思えるドアの前まで、おれが一生けんめい歩きだした。
「証拠がないのはお互い様」と、立ちあがっただけで、その場所からは動かずに、南礼子が言った。
「証拠はなくてもわたしはそのことをぜんぶ知っているわ。警察に喋ることもマスコミに喋ることもできる。亜由子ちゃんの耳にだって入れることができるわ」
「亜由子は志保美の死だって我慢した。それぐらいのことは、やつはいつだってちゃんと我慢するさ」
「十五の女の子に? 母親が殺されただけでも週刊誌沙汰なのに、その母親と伯父が密輸までやっていた。そんな事実を無理やり亜由子ちゃんに我慢させる必要が、どこにあるの?」
「取り引き……か?」
「正当なビジネスよ。わたしはただ、『ジュエル・青山』の経営権がほしいだけ。あの店を誰にも渡さないという、その保証がほしいだけなの。亜由子ちゃんにもあなたにも、なに一つ損はないはずでしょう?」
「すぐ返事をするには、おれには、取り引きの額面が大きすぎるな」と、靴を履いてから、うしろ手にドアのノブを握って、立っている南礼子を見あげながら、おれが言った。
「考える時間は差しあげます。わたくし、パートナーに対しては誠意をもって対応することにしているの」
「あの勘がこんなふうに当たるとは、思ってもいなかった」
「勘?」
「だから、『君にはこれからなん度も会う気がする』と言った、あの勘さ」
ドアを開き、肩から外に出ようとしたおれに、テーブルを半分回ってきて、南礼子が言った。
「佐原さん、あなた、本当にそう思っていた?」
「勘が当たったことか?」
「そうではなくて、わたしが、ただそれだけ[#「それだけ」に傍点]のために部屋を片づけたりお料理を作ったり、そんなことをしたと、さっき、本気で思ったのか、どうか……」
返事をしかけたが、頭の中の言葉が声にならず、おれは潤んだ目でおれの顔を見つめている南礼子に会釈だけして、そのまま外に出てドアを閉めた。南礼子のその言葉の意味を冷静に考えるには、今はあまりにも体調が悪すぎる。おれ自身の混乱を処理するだけでおれだって精一杯になることはあるのだ。しかしそれにしても、南礼子がここまでいい女である必要が、いったいどこにあるのだろう。
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お松さんに、人相の悪いお友達がお見えです、と言われて起こされたのは、八時をまだいくらもすぎていない時間だった。『人相が悪い』というだけで相手が誰なのかはわかったが、正木がまたもやなんだってこんな時間にやって来たのかは、もちろん見当もつかなかった。この前のおれの冗談を本気にして、まさか本当に亜由子のベーコンエッグを食いに来たわけでもあるまい。
おれがパジャマにカーディガンを羽織って玄関脇のせまい応接間に入っていくと、正木は広いほうのソファに胡座《あぐら》をかいて座り、お松さんに注文でもつけたのか、コーヒーを目の前に置いて例の細い目でぼんやりと煙草を吹かしていた。
「歳をとると、朝が早くなるらしいな」と、自分でも煙草を取り出しながら、正木の前のソファに座って、おれが言った。
目をしょぼつかせ、吸っていた煙草を灰皿でつぶして、一つ正木が欠伸をした。
「岡山のおぱちゃん、帰ってるじゃないか?」
「呼びもしないのに勝手に帰ってきた。おれの油を絞ることに生きがいを感じてるらしい。おまえのこと、気がついたか?」
「へんな顔はしていたが、どうだかな」
コーヒーのカップを取りあげ、ずるっと一口すすってから、そのカップを膝の上に置いたまま、正木が低い姿勢で身をのり出した。
「どうも……また面倒が持ちあがった」
「警察でもくびになったか?」
「上条準次が、殺されたんだ」
ライターはつけたものの、その火を煙草に移すのも忘れて、しばらく、おれはべっとり脂《あぶら》の浮いた正木の四角い顔を意味もなく眺めていた。
「上条準次って、あの、上条準次か?」と、やっと思い出して、煙草に火をつけてから、おれが訊いた。
「もちろんあの[#「あの」に傍点]上条準次さ。ゲーム機業者から賄賂を取って、警察をくびになって、それでおまえの奥方の事件でなにやらごそごそ動いていた、あの上条準次が殺されたんだ。なあ? 面倒になったと思わないか?」
面倒になったことは、たしかに面倒にはなったのだろうが、それでは具体的にどこがどういうふうに面倒になったのか、その時点でおれに判断できるはずもなかった。
「どうも、ぴんとこないな。いつ、どこで、誰に?」
「司法解剖は済んでいないが、遺体の状況からして殺されたのは昨夜の十二時前後だろう。発見された場所は春日通りから護国寺のほうに入った、狭い路地の入り口だ。朝早くごみを出しにきた近所の婆さんが見つけて警察に通報した。地元の所轄から本部に連絡が入って、その連絡がうちの署にも回ってきたというわけだ」
痰《たん》がからむような音をたてて、溜息をつき、新しい煙に火をつけてから、正木がつづけた。
「最初はその婆さん、酔っ払いが寝ているのかと思って箒《ほうき》でつついてみたらしい。もちろん目なんか醒ますはずはなかった。細いロープのようなもので首を絞められていたんだ。それから、最後のその誰にという質問な、実はその答えをおまえに聞こうと思って、朝っばらからこうやってお邪魔したわけさ」
正木がなにを考えているのかは知らないが、おれが上条準次を殺した犯人の名前を知っているはずはないし、正木にしたって、本当におれからそんなことを聞き出せると思っているわけでもあるまい。
「被害者のポケットには電話番号をメモした紙切れが入っていた。その電話番号はおまえんところの番号だった。このなぞなぞ[#「なぞなぞ」に傍点]、筋が通るようにうまいこと説明してくれんか」
なるほど、悪意があったのか無かったのか、上条は死ぬ間際までしっかりおれとの『友好的な取り引き関係』を覚えていたということか。おれのほうはとっくに上条のことなんか忘れていたが、その上条も殺されたとなれば、いや殺されたからこそ、もう一度志保美の事件に帰ってきてもらわなくてはならない。
「なぞなぞでもないし、通すほどの筋もない」と、頭の中で日にちを整理しながら、おれが言った。
「そのメモはおれが書いて、おれが上条に渡した」
正木の太い眉が、顔の中の独立した生き物のように大きく動き、細い目の間から濁った光がきらっと流れ出た。
「ずいぶん派手に動いてくれたな。電話番号のメモを残して、ついでに首まで絞めてやったわけか?」
「首なんかに興味はなかったさ。志保美がやつになんの調査を依頼していたのか、それが聞きたくて神田の事務所に寄ってみただけだ」
「本気で探偵の真似ごとをしろなんて、言った覚えはないぞ?」
「あれは、まあ、ちょっとしたサービスだった」
「そのサービスが上条準次を殺させたのかもしれないんだぜ。最悪の場合には捜査妨害という罪にだってなる。俺にしたって奥さんの件に関して上条にはじゅうぶん興味を持っていた。ただ相手が相手だし、もう少し泳がせてみようと思っていたんだが……」
ドアにノックの音がして、お松さんがコーヒーカップを持ってひょこひょこと部屋に入ってきた。
おれの前にそのモーニングカップを置いてから、胡散《うさん》臭そうな顔でおれと正木の顔を見くらべはじめたお松さんに、おれが訊いた。
「お松さん、こいつの顔、覚えていないか?」
「それですがな……」と、木の盆を割烹着の腹に押しつけて、お松さんがよっこらしょと腰を伸ばした。「最初にお見うけして、どこぞで会うた方やなとは思ったんですがね。どこでお会いしましたですかいなあ」
「高校のころよく遊びに来ていた、正木じゃないか」
「正木さん? そういや、へえへえ、そういやたしかにあの柿泥棒の正木さんですがね。いやあ、そうですかいな。あの柿泥棒の正木さん……それにしてもなんや、難しそうなお顔んなって、今でもそっち[#「そっち」に傍点]の筋のお仕事ですかいね?」
「正木は今、刑事をやっている」
「刑事さんいいましたら、泥棒さんを捕まえなさるほうですがね。そうですかいな。柿泥棒やってらして、今は刑事さんにおなりですのん。そりゃあまあ、ぼっけえようございましたわなあ」
「正木は志保美の事件を捜査しているんだ」
「正木さんが? そりゃまあ、とんだことですわなあ。それでなんですかいね、犯人ちゅうの、捕まりましたんかいね?」
「それが、なかなか……」と、急にコーヒーが渋くなったような顔で、一口しゅっとすすってから、正木が答えた。
「そやかてあれからもう四日もたちますやないの。ぼやぼやしてましたら犯人に香港たらハワイたらに高飛びされまっせえ?」
「今のところ、その心配は、ないようです」
「なに言うてますの。そげな呑気なこというとるからグリコの犯人かて捕まらんですがね。悪いことしよった人間ちゅうのんは、みんな香港たらハワイたらに高飛びするもんですがね」
「お松さん……」と、コーヒーで喉の通りをよくしてから、呼吸を見計らって、おれが言った。「亜由子、もう起きてるのか?」
「とっくにお起きですがね。とっくにお起きんなって、朝ご飯を召しあがっとりますがね」
「正木、朝|飯《めし》は?」
「駅のスタンドでドーナツを食ってきた」
「そういうことだ。おれはあとで食うから、取りあえず正木にコーヒーのおかわりを頼む」
まだなにか意見はありそうだったが、おかっぱの髪を細かくふっただけで、それでも黙ってお松さんは部屋を出ていった。正木が昔柿泥棒であった経歴は、もう十秒で、亜由子に報告される。
「あのおばちゃん、いくつになったんだ?」と、疲れた顔を隠そうともせず、お松さんが出ていったあとのドアをしばらく睨んでから、正木が言った。
「七十四か五か、そんなとこだ」
「死ぬまでこの家で頑張るつもりなのか?」
「そうらしい。岡山にはお松さん名義の田畑《でんぱた》があって、甥というのが帰って来るようには言ってくるんだが……田舎は嫌いなんだとさ。おれの娘とムーミンとかのコンサートに行きやがる」
「なんだ、それ」
「そういう歌手がいるんだ」
くっと咽《のど》を鳴らし、一つ煙を吐いてから、ちらっと、正木がおれの顔をうかがった。
「それ、ユーミンとちがうのか?」
「ムーミンさ」
「ムーミンていうのは、たしか漫画のカバだったと思うぜ? うちの餓鬼がよくテレビで見ていた」
「よくは知らないが……まあ、おれとしてもお松さんにいなくなられると、困ることは困る」
そのお松さんが、別のカップに正木のコーヒーを持ってきて、今度はおとなしくカップを取りかえただけで部屋を出ていった。
「それで、泳がせておいたら、お目当ての獲物が他のやつに捕まってしまったわけか」と、正木が新しいコーヒーに口をつけるのを待ってから、おれが言った。
「先を越されたことは、俺だって認めてるさ」と、一つ鼻で唸って、正木が言った。「一応訊くが、おまえ、昨夜の十二時前後、どこにいた?」
それが、正木が今おれの目の前に座っていることの理由であるわけで、おれとしては怒る必要も、呆れる必要もない。
「昨夜は十時から十二時まで食堂でお松さんと一緒にいた。なあ正木、上条はなんだって護国寺のそばなんかで殺されたんだ?」
「他の場所で殺されてあそこに捨てられただけさ。あの辺り、東京のど真ん中のくせに夜になるとほとんど人通りがなくなる。クルマで春日通りを運んできて、人目を見はからってごみ捨て場に放り出した、どうせそんなところだ。それよりも今度のことでは、一つ、妙なことがある」
正木が細い目を無理やりこじ開け、コーヒーをすすりながら、顎を引いて下からおれの顔を覗き込んだ。
「上条は口の中に、なにか宝石のようなものをくわえ込んでいた」
「宝石……」
「立ち会った本庁の検死官が発見したんだ。まだ鑑定はしていないが、たぶんダイヤだろうってことだ」
「上条が、口に、ダイヤを……つまり、どういうことだ?」
「どういうことか、それがわかれば事件は解決だ。上条だって元は警官だ。そのダイヤがやつなりのダイイングメッセージだったのかも知れん」
「あの上条が、ダイイング、メッセージなあ」
おれがよく読む探偵小説なんかには、被害者が死に際にそんなメッセージを残すこともあるが、しかしそれはあくまでも小説の中での話だ。実際に人間が死に直面した場合、そんな都合よくダイイングメッセージなんてものを、残すかどうか。もちろん今回は正木の言うとおり、上条準次が元は警官だったという特別な条件はあるだろうが。
「やっこさんも汚職警官にしちゃ、洒落《しゃれ》たことをしたもんだ」と、コーヒーのカップをテーブルに置き、唇を歪めて煙草の煙を短く吐いてから、正木が言った。「しかしこれで一つだけはっきりしたことがある。上条の事件とおまえの奥さんの事件とが、完璧につながっているということさ。上条は他にもやばいことに首をつっ込んでいたろうが、宝石だのダイヤだの、そうなんにでも絡むもんじゃない。上条の事件も当然うちの署にできている『女性宝石商殺害事件特別捜査本部』で扱うことになる」
おれや亜由子や、その他志保美と係わったそれぞれの人間にとっては、それぞれに感慨のある志保美の死ではあっても、警察にとってはたった一行で表現できるただの日常でしかないのだ。もちろんそのことになにか因縁をつけようとは思わないが、それにしても自分が『女性宝石商殺害事件特別捜査本部』なんて田舎芝居の主役であると知ったら、志保美はいったい、どんな顔をするだろう。
「それで、おまえが上条に会ったときのことなんだが、奥さんの事件についてやつからなにか聞き出せたのか?」
「おれの手に負える相手では、なかった」
上条が一昨日の夜、わざわざおれを呼び出して十万円の商売をしていったことは、おれだって覚えている。しかし丸越の件はともかく、木崎商事の件についてはまだ正木に話すわけにはいかない。南礼子は『正当なビジネス』と言ったが、あれが一種の脅迫であったことは、おれが一番よく知っている。志保美や木崎周一がフィリピンの政変に関係して本当に宝石の密輸をやっていたのかどうか、そのことのほうが今では志保美の死そのものよりもずっと問題なのだ。あれが事実だとしたら、相手がいくら正木でも握り潰してはくれないだろう。
「おまえ、まさか、なにか隠しちゃおらんだろうな」と、ソファにふん反り返って、目を細めながら、面倒臭そうに正木が言った。
「上条からは本当になにも聞けなかった。ああいう連中は最初からおまえに任せておけばよかった」
「今の台詞《せりふ》を忘れるんじゃないぜ。相手はもう二人も殺している。こういうやつらは三人殺すも四人殺すも同じだと考えたがる。事件には、これ以上首をつっ込むな」
「最初におれを事件に巻き込んだのは、おまえのほうだ」
「俺は事件の関係者としてのおまえに一般的な意味での協力を期待しただけだ。自分でなにかを調べろなんて、一言も言ってないぞ」
「南礼子がねずみ講事件に関係していた情報はおれが提供した」
「あれは……」
目を細めたまま、小さく欠伸をして、肩の凝りでもほぐすように正木が首をぐるっと一回転させた。
「あんなものは立場上たまたまおまえが早かっただけだ。警察だっていつかは掴んでいたさ」
「小川真也の証言は、調べ直したのか?」
「言われなくてもやっている。おまえが考えているより警察の捜査ってのは時間がかかるもんなんだ」
「さっきの、『上条の事件と志保美の事件とは完璧につながっている』と言ったのは、要するに、犯人は同一人物だという意味だよな」
「断定したわけでは、ない」
「仮にな、もし同一人物だとして、上条の首をロープで絞めるなんてこと、女にできるものか?」
「その気になれば男でも女でも人間てのは信じられないことをやる。自分の首を自分で絞めて自殺したやつだっているんだ」
「しかし上条はあの若さで、しかも元警官だ。女に首を絞められて殺されるようなやつだったとも思えないない」
「おまえ、本気で探偵小説を書くつもりか?」
「後学のためさ。どんなことでも知っておけばなにかの役に立つもんだ」
躰を起こして、コーヒーをすすり、煙草に火をつけてから、またふっと正木が欠伸をした。
「まあ、たしかに、女にだってロープで男の首を絞めるぐらい、できんことはない。夫婦喧嘩のすえに女房が炬燵《こたつ》のコードで亨王の首を絞めたなんて事件も、なん件かはある。ただそういう場合は亭主が寝込んでいたとか泥酔していたとか、女房がとんでもない大女だったとか、特別の条件がつくもんだ」
「上条は酒を飲んでいなかったのか?」
「さっきも言ったが、司法解剖の結果はまだ出ていない」
「上条殺しが男だとすれば、志保美を殺したのも男だということになる」
「だからな、事件自体に関連性があるからって、犯人が同一人物だとは限らんのさ。だいいち人を殺すのに一人でやらなくてはいかんという決まりは、どこにもないわけだ」
正木が、肉のたっぷりついた頬でにやっと笑い、火をつけたばかりの煙草を灰皿でつぶして、自分の両手をぱたんと膝にふりおろした。
「まあ、そういうことだ。探偵小説のようにはいかんが、警察もそれなりには頑張ってるってことさ」
よっと声を出して立ちあがり、おれに会釈をしてから、例のトレンチコートを掴んで正木がのっそりとドアに歩き出した。
そのドアの前で立ち止まり、ふり返って、正木が言った。
「具体的には言えんが、捜査ももう大詰めにきている。冗談じゃなく、これ以上事件に首をつっ込むのはやめておけ。おまえが三人目の被害者になることは構わんが、そうなると俺がお松さんに殺されちまう。それにしても佐原、今度の事件、おまえが犯人であってくれればみんな丸く納まるのになあ」
正木の台詞ではないが、上条と志保美を殺した犯人がおれであれば、警察にとってこんな楽な仕事はない。それは南礼子や木崎周一にとっても、たぶん都合のいい結果だろう。しかしおれは、おれ自身のためにも亜由子のためにもぜったい犯人になんかなってやらないし、このまま黙って事件から手を引いてもやらない。正木の口ぶりでは警察はもう犯人の目星をつけているらしいが、おれにだって事件の構図ぐらいぼんやりと見えてきているのだ。ただ事件に対する係わり方が、おれと警察では基本的に質が違う。警察にとっては犯人さえ捕まれば、それで事件は終わる。しかしおれにとっての事件は、犯人がわかったあとのその事後処理の問題まで含まれる。そのためには事件の事実関係をおれ自身の目でしっかりと確認しておく必要がある。三十九年間の人生をおれがずっと逃げつづけてきたとも思わないが、だからって躰を張って正面から対処してきたわけでもない。ぼーっと佇《たたず》んでいるうちに、状況のほうが自然に流れていった。それがおれの人生だったのだろうし、これからだってその形が本質的に変わるわけでもない。しかしどんな間接けな人生にも、ここ一発という踏ん張りどころは、間違いなくやってくる。
おれが応接間で、煙草を一本吸ってから食堂に行ってみると、テーブルにはもう鮭の切り身と大根の味噌汁と納豆と沢庵の古漬が、まるで旅館のセットメニューのように整然と陳列されていた。そのセットメニューの中には当然お松さんも含まれていて、お松さんは例の指定席で、なにやら鼻歌をうたいながら一生けんめい新聞に見入っていた。
「柿泥棒の正木さん、お帰りんなりましたんかいね」
「柿泥棒じゃなくても、用が済めば帰るさ」
「そやけど心配ですなあ。あげなお人に志保美さまを殺した犯人、捕まえられますんかいなあ」
おれはお松さんのその懸念には返事をせず、椅子に座って、応接間から持ってきたコーヒーカップをお松さんが開いている新聞の前に、そっと差し出した。
「コーヒーを、もう一杯くれ」
「なに言うてますの。朝飯、さっさと召しあがりなさいましね」
「昨夜飲みすぎて、まだその気分にならないんだ」
「坊っちゃんの飲みすぎなんぞ毎度のことですがね。そやからこそ、きちんと朝飯を召しあがらんといけんのですわ」
なんとなく、反論するのも面倒臭くて、おれはとりあえずコーヒーを諦め、テーブルに並んでいる朝飯のラインナップを改めて眺め直してみた。鮭も納豆も亜由子のベーコンエッグよりはいくらかおれの人生観に合っているが、それでも積極的に襲いかかってやるほどの献立ではない。
「まったくなあ、坊っちゃん。あんさんももう四十なんですなあ」と、老眼鏡をかけた目で新聞とおれの顔を見くらべながら、妙な感慨をこめて、お松さんが言った。「味噌汁、冷めてしまいますがね」
「四十じゃなくても味噌汁は冷めるさ」
「理屈をお言いなさるなね。あないお飲みんなったら次の日がしんどい[#「しんどい」に傍点]っくらいおわかりでしょうが。それに志保美さまのこともありますし、ちっとは坊っちゃん、あんさんも人の子の親ちゅう自覚を持たないけません」
「お松さんなあ、おれ今、そういう難しい問題を考える気分じゃないんだ」
「坊っちゃんの気分なんぞどうでもよろしいがね。わたしかてあんさんの極楽とんぼ[#「極楽とんぼ」に傍点]が簡単になおるとは思うてません。そやけど、坊っちゃんにはあーちゃんを立派な大人に育てんならん義務があります。高校生ちゅうたらすぐ大学生におなりんなって、そしたらもうそのあとは花嫁さんですがね。坊っちゃんのせいであーちゃんの縁談が壊れなさったら、どうなさるおつもりですの?」
「ずいぶん、先の話だ」
「なに言うてますの。五年や十年、あっという間に過ぎますがね。わたしかてもうお迎えが近いんでっせえ? あんさん、わたしにあーちゃんの花嫁姿見せんとあの世へ行け言いなさるんですか?」
「味噌汁」
「なんですて?」
「味噌汁を、温めてくれないか?」
お松さんが、老眼鏡の向こうからじろりとおれの顔を睨み、それからなんだか知らないが、なにやら唸りながら汁椀を引ったくってとことこと流しのほうに歩いていった。
「それで、亜由子は、どうしてる?」と、鮭の切り身に箸をのぱしながら、流しの前に立ったお松さんのうしろ姿に、おれが訊いた。
「とっくに支度なすって、ご自分のお部屋でお待ちですがね」
「なんの仕度だ?」
「覚えておりませんの? 昨夜坊っちゃん、今日ご一緒に志保美さまのマンション行かれて、なんや片づけごとをする言うとりましたでしょうが?」
「そう……だったか?」
白い割烹着の背中を、くるっとおれに回して、しゃっくりでもするようにお松さんが強く瞬きをした。
「そんなもん、木崎のほうでいっくらでもやりますでしょうになあ」
「そうも、いかないさ。だいいち昨夜、亜由子も自分でやりたいと言ったんだ」
「ですけどなあ、わたしに言わせりゃあ、そりゃあちょっと木崎の勝手ちゅうもんでございますわなあ」
「おれがうちのほうでやると言ってきたんだ。お松さんに片づけろと言ってるわけじゃない」
「わたしはべつに、そういう意味で言うたんとは、ちがいますがね」
お松さんが、新しく盛りつけた味噌汁と飯碗を持ってきて、それをおれの前に置き、またとことこテーブルを回って自分の席に戻っていった。
「それで、なんですかいな、その……」と、椅子の上に正座をして座り、赤いヘアピンで止めたおかっぱ頭をテーブルの上につき出して、お松さんが言った。
「志保美さまがあげなことになられまして、青山のお店、どないなりますん?」
「どうにもならないさ。志保美と一緒に志保美の店もなくなる。最初からそういうふうにできているんだ」
「坊っちゃんがご自分でおやりになるちゅうこと、でけませんの?」
「おれが、どうして宝石なんか売らなくちゃならない?」
「そんなもん毎日毎日金魚にミミズさん食べさせてるより、ずっと世間体がいいですがね」
「おれは、世間体のために、生きてるんじゃない」
「坊っちゃんなあ、あんさん……」
「三十九だ。四十にはなっていないさ」
「わからんお人ですなあ。そりゃなあ、坊っちゃんはそれでよろしいでっせえ。そやけど世間ちゅうのんはそげな甘いもんとちがいます。みなさん毎日毎日額に汗して働いておりますでしょうが。それが人間の道ちゅうもんですがね。あんさんみたいな生き方しとったら、そのうち必ずお天道様の罰《ばち》が当たります。わたしはそのことを心配しとるんですわ」
おれは、かなりうんざりしながら、それでも味噌汁の椀を引き寄せ、箸で大根を脇に寄せてその熱い汁をずずっとすすりあげた。ウイスキーで荒れた食道の中を味噌汁が小さい爆発をくり返しながら、みしみしと通りすぎていく。
「そうや、なあ? そしたら、そうしましょ?」と、急にテーブルに身をのり出し、不気味な目つきで、お松さんが言った。
「なにが?」と、大根を飲みくだして、ついでに、おれが訊いてやった。
「そやから、とりあえずわたしがやるんですがね」
「なにを?」
「『ジェール・青山』をですがね」
口の中に残っていた味噌汁が喉に引っかかって、思わず、おれが咳き込んだ。
「お松さん、その、やると言っても、町内会でどぶ掃除をやるのと、わけがちがうんだぞ?」
「わかっとりますがね。どぶ掃除もようせん坊っちゃんがなにをお言いです。わたしかて女子《おなご》のはしくれです。志保美さまにできなさったこと、わたしにできんことありませんがね」
「理屈は、まあ、そういうことだ」
「わたしはなにもなあ、青山たらいう所でちゃらちゃらしとうて言うとるのとちがいます。坊っちゃんのためですがな。あんさんをきちっと社長にお迎えして、わたしは支配人ちゅうことでよろしゅございます。なあ、わたしかてもう七十五ですがね、ここいらでぱーっと死に花咲かせて、あの世へ行ったら旦那さまや奥さまに気持ちようご挨拶しとうございます。坊っちゃんもようよう堅気さんになられて、あーちゃんも奇麗な花嫁さんにしてさしあげました、なあ? わたしかて胸はってそげなご挨拶しとうございますがね」
「気持ちは、わからないことは、ない」
「そうしますと、なんですかいな、わたしもやっぱ、あのイッブニングドレスとかちゅうもん、着ないけませんでしょうなあ」
「なにを着ても、罪にはならないけどな」
「ドレスたらいうの、つくるんに時間かかりますかいなあ」
「そういうことも含めて、もっとゆっくり考えたほうがいいな。店の品物も腐って売れなくなるわけじゃないんだ」
そのとき、電話が鳴って、お松さんがむっとうなずき、椅子をおりてとことこと電話の前に歩いていった。
お松さんはそこで受話器を取りあげ、二言三言なにか返事をしてから、受話器を持ったままひょいとおれに顎をしゃくってみた。
「坊っちゃんにです。なんや知らん、若い女子《おなご》さんですがね」
おれがそこまで歩き、電話を代わると、『なんや知らん若い女子さん』は沢村萌だった。もともと妙に勘のいい子だが、いつもこんなふうに危機を救ってくれるならおれは沢村萌と結婚してやってもいい。
「昨夜はどこに行ってたんですか? 帰ってきたら電話をくれるようにって、わたし、さっきのおばあちゃんにちゃんと伝言しておきました」
「そう……か?」
「そうですよ。聞きませんでした?」
「たぶん、おれが、酔っ払っていたせいだ」
おれが、ちらっとお松さんのほうを見ると、お松さんはまた椅子の上に正座をし直して、鼻歌をうたうようなとぼけた顔で新聞の上に屈み込もうとしていた。どうせ耳は、じっとこっちの様子を窺っているのだ。
「佐原さん、まだ酔ってるんですか?」
「いや、ちょっと前に、ものすごくはっきり目が覚めた」
「今日、会えますか?」
「君となら毎日夢で会ってもいいな」
「佐原さんの言い方、本当はわたし傷つくんですよ」
「悪気があるわけでは、ない」
「一時でどうですか?」
「なにが?」
「だから、デートですよ」
おれは、柄にもなくちょっと耳が赤くなる気がしたが、そこは長年の実績で、背中の妙なくすぐったさを深呼吸一つだけでやりすごした。
「わたし、用があってこれから上野に出かけます。一時に例の場所なんかどうです?」
「例の場所?」
「西郷さんの、銅像の前」
たしかに、おれにしても、この三日間わけもわからずに走りつづけてこのあたりで一度神経を休ませてやりたい状況ではあった。沢村萌がなぜおれの神経を休めてくれるのかは、あまり深く考える気分ではなかった。それにうっかりしていたが、今回の事件には沢村萌もおれと同じ程度に首をつっ込んでいるわけで、上条準次が殺された今、おれ自身はともかく、沢村萌のほうはもう事件から切り離してやる必要がある。正木が言う三人めの被害者が、おれではなく沢村萌になってしまう可能性が、まるでないわけではない。
おれは受話器を握りなおし、お松さんには背中を向けて、また一つ、ふっと深呼吸をした。
「わかった。一時に、西郷さんの銅像の前」
「わたし、お昼食《ひる》は食べないで行きます」
「おれのほうはなんとか朝飯もパスして行く」
「それからね、わたしのこと、さっきのおばあちゃんにちゃんと言ってやってください。わたしの名前は沢村みゃあ[#「みゃあ」に傍点]じゃなくて、沢村萌だって」
おれは、送話器に向かってきっぱりとうなずいてやり、それから電話を切って、お松さんが座っているテーブルの前へゆっくりと戻っていった。
「お松さん、今の女の子、昨夜も電話をしてきたそうだな」
「はあ、そうでしたかいなあ……」と、鼻の下にずりさげた老眼鏡の向こうから、妙にぱっちりと目を見開いて、お松さんが言った。「わたしはまた、坊っちゃんが水商売の女子《おなご》さんにでも追いかけられとるんか思いましたんですがね。そうでなかったら、そりゃあまあ、けっこうなことではございます」
「たとえ、その、そうだったとしても……」
「そげなことより、着物ちゅう考えもありますわなあ」
「なんの話だよ」
「そやから、私が『ジェール・青山』で着るお衣裳のことですがね。イッブニングドレスたらいうもんより、わたし、どちらか言うたら着物のほうが自信ありますんです。坊っちゃんかてそう思いますでしょうが?」
うーむとは唸ってみたが、もちろん、おれの口からなにか具体的な言葉が飛び出すとは、おれ自身完璧に信じてはいなかった。
「お松さんなあ、ちょっと相談があるんだ」と、元の椅子に座り、形だけ箸を取りあげて、おれが言った。「志保美のマンション、亜由子と一緒にお松さんが行ってくれないか」
新聞をめくっていた手を、途中でとめて、じろりとお松さんがおれの顔を窺ってきた。
「昨夜は坊っちゃんが、ご自分で行かれる言いましたがね」
「大事な用ができてしまった」
「なんですね、その大事なご用て」
「事件に関係した、大事な用さ」
「大事なご用で出かけられるんに、なんで坊っちゃんがにやにやされますの?」
「おれはぜったい、にやにやなんかしていない。志保美と『ジュエル・青山』に関係した、本当に大事な用なんだ」
椅子の上に正座をしたまま、お松さんが背筋を仲ばし、おかっぱの髪をふって、くしゃっと瞬きをした。
「そりゃまあ、坊っちゃんが人の道さえ踏み外さなんだら、どういうご用で出かけられようとわたしは構いませんけどなあ」
「約束する。ぜったい人の道は踏み外さない。だから、とにかく、今日はそういうことにしてくれ」
「そやけど志保美さまのマンション片づける言うたかて、どないしますの?」
「だから木崎の家に形見わけするものとか、お松さんや亜由子が自分で持っていたいものとか、それから使いたいものとか、そういうものだけを持ってくればいい。家具やいらないものほとりあえず貸し倉庫に預けておく。倉庫と掃除の手配は、あとでおれがする」
「ほたら要するに、要るもんと要らんもん、分けたらいいわけですな」
「そういうことだ」
「志保美さまも亡くなられたあとまで、ずいぷんと面倒なお人ですなあ」
それぐらいのこと、お松さんにとってたいした面倒ではないはずだったが、お松さんにしても亜由子を置いて家を出ていった志保美に対して、一言ぐらい皮肉を言ってみたかったのだろう。
おれは箸を使って味噌汁と鮭の切り身だけを片づけ、納豆と漬け物には手をつけずに、灰皿を引き寄せて煙草に火をつけた。
「考えてみましたら、まあ、坊っちゃんもまだ三十九でしたわなあ」と、新聞の上に頬杖をつき、こぢんまりとした鼻の穴をおれのほうに向けて、にやっと、お松さんが笑った。
「だから、なんだよ。かぞえなら四十一だろうよ」
「そやけど四十一ゆうたらまだ青年ちゅうやつですがね。人の道さえ踏み外さなんだら、女子《おなご》さんに興味を持たれても、そりゃまあ、けっこうなことですわなあ」
おれは煙草の煙を、ふーっと吹き出し、頭の中でちっと舌打ちをした。なにを考えているのか知らないが、まったく、困った婆さんだ。
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東京というところは、実際に自分の足で歩いてみるとそれほど広い町ではない。もちろん八丈島や奥多摩までふくめれば話は別だが、おれが自分の家から神田に出るについても、歩く時間を入れてさえ一時間しかかからなかった。上野に出る前に神田に寄ったとしてもたいして回り道になるわけではない。
『東都信用調査』には、一昨日《おととい》と同じ髪を染めた女が、一昨日と同じ机に座って一昨日と同じように歳のわかりづらい顔で、膝になにかの雑誌を開いていた。これで上条準次がもう一つの机に座っていれば、空気の臭気《におい》までまったく一昨日と同じ風景になるはずだった。
雑誌から目をあげ、きたない色に染めた髪を指先でかきあげながら、気怠《けだる》そうに、女がおれに向かって顎をしゃくってきた。
「あんた、今日もまたお腹《なか》のぐあいが悪くなったの?」
おれは一昨日の帰りぎわの冗談を心から後悔したが、あのときはこの女とこんなふうに対決する心構えがなかったのだから、今さら後悔しても始まらない。
「昨夜も一昨日の夜も、つづけてあのコーヒーを夢にみた」
「あたしだって本気で考えちゃったわよ。それで本気でトラバーユしようかと思ったら……あんた、うちのあれ[#「あれ」に傍点]が死んだこと、知ってんの?」
「護国寺の近くで、殺されたそうだ」
へええ、というようにおれの顔に流し目をくれ、雑誌を前に押しやって、女が椅子ごとくるっとこちらに向きなおった。
「殺《や》ったの、まさかあんたじゃないわよねえ?」
「おれはそんなことに自分の人生は使わない」
「だけどまだ新聞にも出ていないし、あたしだって刑事に教えられて初めて知ったんよ。それともあんた、新聞記者かなにか?」
「今はおたくと同業だ」
「同業って?」
「アルバイトで、ちょっと私立探偵をやってる」
女がまた、へええという顔で立ちあがり、神経痛でも患らっているのか、へんな横歩きでもぞもぞっと流しの前に歩いていった。
「そうは見えないけど、なんだっていいわよね。どっちみちあたしには関係ないんだから」
流しの前に立って、水道で手を洗い、壁にかかっているタオルでその手を拭きながら、ちらっと女がおれに流し目を送ってきた。
「あんた、コーヒー飲んでみる?」
「いや」
「ウーロン茶もあるけど?」
「今日は腹の調子はいいんだ。もう警察は来たのか?」
「朝一番で来てあの人の机をかき回していったわよ。ソープランドのマッチしか入っていなかったけどね。あたしも知らなかったからさあ、急に殺されたなんて言われて、どうしていいかわかんないのよ。やっばしこの事務所、終わりなんかしらねえ」
断わったはずのウーロン茶を、女がティーバッグでいれ、それを手で掴んでおれのところまで運んできた。おれは一応それを受け取り、部屋を横切って上条準次の机に軽く腰で寄りかかった。
「おたく、ここにはどれぐらい勤めてるんだ?」と、自分のコーヒーを用意し始めた女に、おれが訊いた。
「二年っくらいかしらねえ。だけど最近じゃ給料もよこさないし、あたし別な仕事をみっけようと思ってたんよ。どうせ殺されるんなら、あたしが仕事をみっけてからにしてくれればよかったんにねえ」
「上条にも都合はあったさ」
「あんなやつに都合なんかあるわけないじゃない。あたしだって子供の面倒みてくれるって言うからキャバレーやめたんよ。給料の他にアパート代も出してくれるとかね。子供も小学校んなったし、いつまでキャバレーでもないし、そうじゃなかったら最初からあんなやつの世話にはなんなかったわよ」
「おたくは、つまり、上条とはそういう[#「そういう」に傍点]関係だったわけか」
流しのほうを向いたまま、顔をのけぞらして、女がふんと鼻を鳴らした。
「関係なんてほど高級なもんじゃないの。安い給料で電話番させられて、部屋に泊まられて飲み食いされて、そろそろお金でももらって別れようかなと思ってたら、まあ、こういうこと[#「こういうこと」に傍点]なわけよ。あたしって昔から男運が悪いんよねえ」
「上条には、家族はいたのか?」
「大塚のアパートに奥さんと子供と、それから奥さんのお母さんてのがいるわ。だけど自分の家になんかほとんど帰らなかったんじゃない?」
「遊び歩けるほど金回りは良かったわけだ」
「それは、どうかしらねえ」
コーヒーを入れた花柄のカップを、指にひっかけ、また癖のある歩き方で女がよろよろと机のうしろに回り込んだ。
「ここ半年っくらい、お札の顔なんか碌に拝んでいなかったわよ」と、スチールの椅子に座って、ずるっとコーヒーをすすってから、女が言った。「今度のはでっかい仕事だとか、いくら儲かるとか、いつもそればっかし。二年間それでずーっと騙されつづけたんだわ」
「最近もまた、でかい仕事にかかっていたのか?」
「話だけはいつでもでかいの。今度のは百万になるとか三百万はくだらないだとか……最近もそんなようなことは言ってたわ。どうせいつもの、はったり[#「はったり」に傍点]だとは思うけどね」
「帳簿とか調査の記録とかは、警察が持っていったろうな」
「もって行ったけど、かんじんなことなんかなにも載っちゃいないわよ。あの人昔警官やってたからさ、あぶない話はみんな自分の頭の中にしまっていたわ」
「『ジュエル・青山』という宝石店の名前、やつの口から聞いたことはないかな」
「宝石店ねえ……」
女が、またずるっとコーヒーをすすり、下目蓋のたるんだ目で、ちらっとおれの顔を窺った。
「宝石なんて高級なもの、あの人に関係あったとは思えないわねえ」
「丸越デパートの話は?」
「丸越の、なによ」
「辻村和郎という名前を、聞いたことはないか?」
「あたしね、裏の仕事のこと、本当になにも知らないの。あたしが知ってるのは浮気調査の仕事と家出人探しのことだけ」
「仕事の内容は知らなくても、人の名前は覚えているかもしれない」と、財布から一万円札を二枚抜きだして、それを女が座っている机の上に置きながら、おれが言った。「覚えている名前があったら、覚えていると言うだけでいい」
女がコーヒーのカップを置いて札を手前に引き寄せ、なにか咳払いのようなものをしながら、その札を素早くブラウスの胸ポケットにしまい込んだ。
「辻村和郎」
ちょっと考えるような顔はしたが、すぐに視線をあげて、女が強く首を横にふった。
「木崎志保美」
「さあ……」
「木崎周一」
「ないと、思うけど?」
「朝倉文子」
「聞いたことないわね」
「それじゃ、南礼子」
女の視線が、きょろきょろと横に動き、それが壁のあたりを一回りして、最後にまたおれの顔の上でぴたっと静止した。
「南礼子の名前は、聞いたことがあるわけか?」
「いつだったか、電話をしてきた人じゃないかな。下のほうの名前は言わなかったけど、たしかその人南って言ったわ」
「それは、いつごろのことだ?」
「一週間ぐらい前。あたしが電話を受けて、上条に取りついだの」
「上条はそのとき、電話でなにを話した?」
「そんなこと知らないわよ。あの人用心深くてさあ、あたしがいるところじゃかんじんなことはなにも喋らなかったわ」
「南礼子から電話があったのは、その一回だけか?」
「あたしが受けたのは、その一回だけ」
「他の名前は本当に聞いたことはないんだな」
「あたしなんか上条にも警察にも義理はないんよ。知ってることがあればみんな喋るわよ」
「その、この前おれが来た日……」と、女の視線を外して、部屋の中を見回してから、おれが言った。
「あのあと、上条はおれのことをなにか言っていたか?」
「カモがネギを背負《しょ》って来やがった……あたしじゃないわよ、上条が一人言でそんなことを言っただけ」
「カモが、ネギをなあ……それで昨日は、上条はどうしていた?」
「朝ちょっと顔を出したけど、それっきり。あんときも今度の仕事はでかいなんて言ってたけど、そりゃでかいわよねえ、自分が殺されちゃったんだから」
おれは手に持っていたウーロン茶の湯呑を、机の上に置き、女にうなずいてから、一歩ドアの側に足を踏みだした。
「おたくの男運が悪いの、もしかしたら、その髪形のせいじゃないのかな」
「わかってるわよ。だけどあたし、右の耳の上に五百円玉っくらいの禿があんの。これはこれで仕方ないわけよ」
「まあ、その、なかなか、人生ってのは難しいもんだ」
部屋を横切り、ドアの前まで歩いたおれに、のっそりと立ちあがって、女が言った。
「あたし、これからどうしたらいいと思う?」
「他人のそういう哲学的な問題には、おれは立ち入らないことにしているんだ」
「事務所の敷金、あたしが家主から貰ってもかまわないわよねえ?」
「たぶんな。ただどっちみち、上条の家族が出てくる前に片づけたほうがいい。法律はいつも弱い女の味方ってわけじゃないんだから」
おれはうしろ手にドアを開け、躰を外に運んで、またうしろ手にドアを閉めた。どんな人間の人生も、人生ってやつはとにかく面倒にできているものだ。
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世間はたしかに、桜見物の時節ではある。街の中でもコンクリートだらけの妙なところに桜が一本植わっていて、ふと気がつくとそれが満開だったりもする。おれだって亜由子が小学生のころまでは一緒に羽根木公園にも出かけたし、お松さんと三人で靖国神社まで足を仲ばしたこともある。特別に桜が好きということもないし、特別に嫌いということもない。ここなん年かおれが花見をしていない理由は、一緒に花なんか見たいと思う人間がいなかったからだ。
おれは、タクシーには乗らず、地下鉄で神田から上野に出た。自分のそんな状況がなんとなく気恥ずかしかったが、『女子大生とのデート』にはぜったいに電車で行くべきなのだ。季節のせいか、街の中にも電車の中にも新入社員の新しい背広が目立つ。
おれも学生のころは、もちろん、なん度かハチ公の前で待ち合わせをしたことはあった。しかし上野の西郷さんの銅像の前というのは、さすがに生まれて初めての経験だ。最近のことはよく知らないが、沢村萌が『例の場所』と言ったぐらいだから、今若い連中の間では『西郷さんの銅像の前』というのが待ち合わせの流行《トレンド》かもしれない。沢村萌は、本当にその銅像のまん前に立っていた。
肩に大きなバッグを担いだ沢村萌が大股におれのほうに歩いてきて、下からおれの顔を覗き込むように、くすっと笑いかけた。
「佐原さん、なにかいやなこと、あったんですか?」
「どうして?」
「だってへんなふうに怖い顔をしています」
「慣れていないだけさ」
「なんに?」
「君みたいな若い子と、西郷さんの前でデートをすることに」
沢村萌が、くっと噴き出し、ポニーテールを大きくふって、口を尖らせながらあっぱれな寄り目をつくってみせた。
「わたしだって慣れていませんよ、男の人を自分からデートにさそうなんてこと」
「うちの婆さんには人の道を踏み外すなと念を押された」
おれが沢村萌のGジャンの肘に手をかけ、都立美術館の方向に、おれたちはゆっくりと歩き始めた。ここまで来たら一応桜を見て、それからどこかで飯を食えばいい。
「わたしね、高校一年まで、浅草に住んでいました」と、両側を満開の桜に囲まれた公園の中の道を、最初に会った日と同じように背筋を伸ばして歩きながら、沢村萌が言った。
「菊屋橋の近くです。知っています?」
「本願寺のそばかな」
「もうちょっと上野寄り。だから三社祭りとかほおずき市とか、毎年行っていました。お花見はもちろん上野公園です。今はどこにも行かないけど、でもお花見とかお祭りの時期になるとやっぱりそわそわしてきます」
「今は、誰と一緒に住んでいるんだ?」
「祖父母と、弟です。弟は今度高校二年です。けっこう難しい年ごろです」
「弟がいるようには、見えないな」
「そうですか? 他人《ひと》にはしっかりしていると言われますけどね」
母親は、と訊きそうになって、言葉をどうにか頭の中で止め、おれは軽く深呼吸をした。母親が狂ったとか駆け落ちしたとか自殺したとか、そんなことは大きなお世話なのだ。
「そうだ、思い出した」と、おれより一歩前に出て、そのまま横向きにスキップを踏みながら、沢村萌が言った。「『ミミズの足の研究』という本を書いた佐原旬介って、もしかしたら、佐原さんのことですか?」
突然その話が出てくるとは思わなかったので、一瞬、おれの足がもつれそうになった。
「あの本、知っているのか?」
「知っていますよ。古本屋で二百五十円で売っていました」
「定価は、二千五百円だった」
「本当ですか?」
「本当さ。二千五百円で五千部ほど売れたらしい」
「そうじゃなくて、あの有名な佐原旬介が、本当に佐原さんなのかということ」
一度だけ出した本が五千部しか売れなかった人間が、有名であるはずもないが、それがおれの本であることだけは間違いないので、うんとおれがうなずいた。
「やっぱり。わたしそれを訊こうと思って昨夜電話をしたんです。あれが佐原さんの本なら、買って読まなくちゃならないもの」
「若い子が読んでも面白い本じゃないさ」
「だってあれ、なにかのパロディーでしょう?」
「真面目にミミズの足を研究した本だ」
「真面目に?」
「真面目にさ」
「ミミズの足の、なにを真面目に研究したんですか?」
「だから、なぜミミズに足が無いのか、もともとあったものが無くなったのか、それとももともと無くて、これから生えてくる可能性があるのか、どうか……」
「真面目に?」
「真面目にさ」
「それで、どうなんですか? ミミズの足は、無くなったのか、これから生えてくるのか」
「理屈の上では、これから生えてくる可能性は、ある」
「ミミズに、足が生えるんですか?」
「かぎ虫というある種のミミズにはちゃんと足が生えている」
「ミミズに、足が……」
「しかし今いるミミズには、残念ながら、足は生えない」
「生える可能性があるって、今言いましたよ」
「理屈の上では、たしかに生える。ただそれはミミズだって足があったほうが歩きやすいだろうという、そういう理屈の上でのことだ」
横向きに歩いていた脚を、ぴたりと止め、ふーんと唸ってから、バッグを担ぎ直してまた沢村萌が寄り目をつくった。
「わたし、一度訊こうと思っていたけど、佐原さんてふだんはなにをしている人ですか?」
「ふだんは、まあ、いろいろ研究したり、いろいろ社会に貢献するようなものを、作ったりしている」
「科学者ですか?」
「一種の、そうとも言えるな」
「すごいですね。ぜんぜんそういうふうに見えないところが、ものすごくすごいです。今までにどんなものを作りました?」
「たとえば、その、自分で木に登っていって、柿をもいでくる機械とか……」
「すごい」
「そう思うか?」
「思いますよ。だってそれ、ロボット工学じゃないですか」
「それの、応用みたいなものではあるな」
「それから?」
「それから、バナナに関係した機械も作ったが、これは、まだ世間に公表する段階ではない」
「世の中っていろんなお仕事があるもんですねえ」
「他人に話せないこともあるし、それに社会的な偏見もある。特に自分の娘に理解してもらえないときは、なんとなく空《むな》しい気分にもなる」
沢村萌が、うんとうなずき、腕を組んで、大きく息を吸いながら鉄柵の手摺にひょいと尻をのっけた。
「おれも、一つ訊こうと思っていた」と、自分でも鉄柵の沢村萌のとなりに尻をのせて、おれが言った。「そのでかいバッグ、なにが入っているんだ?」
「稽古着です」
「エアロビクスとか、ジャズダンスとか?」
「少林寺拳法です」
「ん?」
「少林寺拳法、知りませんか?」
「いや、知っては、いる」
「上野に道場があるんです。午前中、わたしそこで稽古をしてきました」
今度は、おれのほうがふーんと唸り、少し尻をずらして、遠くの桜を真剣な目で眺めている沢村萌の横顔を、思わずじっと見つめてしまった。最初からかなり変わった子だとは思っていたが、やはり、かなり変わっている。おれがうっかり『人の道』を踏み外しそうになっても、たぶん少林寺拳法がそれを防いでくれるだろう。
「食事をする前に、君に、報告することがあるんだ」と、横顔の、沢村萌の生意気そうな鼻の頭を眺めたまま、煙草に火をつけて、おれが言った。「今度の事件に関係して、もう一人別な人間が殺された」
沢村萌の躰が手摺の上でふらっと傾き、あわてておれはGジャンの背中に腕を回した。
「もう一人、別な人間?」
「君の知らないやつだ。上条準次という、汚職で警察をくびになって興信所をやっていた男。そいつは志保美に雇われて丸越デパートや志保美の実家を調べていたらしい。その中でなにか、犯人につながる手がかりを掴んだのかもしれない」
「その人が、殺されたわけですか?」
「昨日の夜中ごろだ」
沢村萌が肩で息をつき、またポニーテールを揺すって、口を尖らせながらおれの顔を覗き込んだ。
「その犯人も、まだ捕まっていないわけですよね」
「捕まっていない。上条は口の中にダイヤをくわえていた。だから二つの事件は無関係では有り得ない。志保美を殺した犯人と上条を殺した犯人とは、たぶん同一人物だろう」
「心当たりが、あるんですか?」
「見当が、ついていないことは、ないんだが……」
火をつけたばかりの煙草を足下《あしもと》に捨て、それを靴の底で踏みつぶしてから、尻をずらして、おれが言った。
「君、五年前のねずみ講事件に南礼子が関係していたことは、知っていたか?」
「南礼子って?」
「君と初めて会った日、『ジュエル・青山』にいた、あの背の高い女」
沢村萌が、頬をふくらませてふーっと息を吐き、目を見開いて、小さく首を横にふった。
「あの事件、主犯はもちろん小川真也だったが、南礼子も深く係わっていた。瑞宝堂もそのことは知っていたし、志保美も知っていた。『ジュエル・青山』がいくら大きくなっても、志保美が生きているかぎり南礼子は志保美の陰から抜け出られない。『ジュエル・青山』があそこまで成功するとは志保美も朝倉文子も、それから南礼子も、たぶん誰も信じてはいなかった。あれは一種の、奇跡のようなものだった。しかし実際に奇跡が起こってしまうと、その結果を南礼子は自分のものにしたくなった」
「南さんが、社長さんを、殺した?」
「証拠はない。それに志保美の場合は刺殺だったが、上条の場合は絞殺だった。女が一人で元警官を絞め殺せるかどうか……どっちにしても、まだ結論が出ているわけじゃない。だからおれと君の相棒契約は、一応、解消ということになる」
「そんなの、おかしいじゃないですか。結論が出ていなければ捜査も契約も継続のはずです」
「そういうわけにはいかないんだ。犯人だって必死になっている。これから先は警察に任せたほうがいい」
「わたし、そんなの、面白くないです」
「殺人事件なんて誰だって面白くないさ」
「わたしは遊び半分で犯人を捜したいわけじゃないです」
「犯人だって遊び半分で二人も殺していない。三人めを殺すときだって、遊び半分にはやらない。その三人めが、もし君になったら、おれは……」
沢村萌の躰が、またふらっと傾き、おれがまたGジャンの袖を掴んでその躰を手摺のまん中に引き戻した。
「君、もしかして、血圧が低くないか?」
「測ったことはないけど、血圧は、たぶん、ふつうです……佐原さん?」
「なんだ?」
「ヤキソバ、食べます?」
「ん?」
「わたし、買ってきます」
おれが返事をする間も、財布を取り出す間もなく、沢村萌がバッグを置いて駆けだし、慣れた走り方でまっすぐ屋台のほうにすっ飛んでいった。ここまで歩いてくる間にヤキソバ屋の屋台はしっかりチェックしてあったのだろう。
いくらもしないうちに、発泡スチロールのパックを二つ持って戻ってきて、一個をおれに渡し、尻を元の手摺の上に乗せなおしてから、なんの意味でか、沢村萌が一つうんとうなずいた。
「二つとも大盛にしました。青海苔はかけなかったけど、いいですよね」
「おれは青海苔は苦手だ」
「そうでしょう? わたしも青海苔は苦手です。その代わり生姜をサービスさせました。ヤキソバって紅生姜がたっぷりないとおいしくないですよねえ」
沢村萌が、うんうんと自分でうなずきながら割り箸を使い始め、仕方なくおれもパックを開いて、間違いなく大盛で間違いなく紅生姜サービスのヤキソバを、ずるずるとすすり始めた。そのヤキソバの上にも、風に飛ばされた桜の花びらがぽとりぽとりと降りそそぐ。
席取りをしている花見客のざわめきが、不意に、驚くほど近くから聞こえだす。
「私立探偵は、それじゃ、もうやめるわけですか」と、口をもぐもぐやりながら、背筋をまっすぐに伸ばして、一人言のように、沢村萌が言った。
「一応は、そういうことだな」
「仕方ないですよね。日本の私立探偵は警察にはかなわないですものね」
「担当の刑事が偶然高校のときの友達だった。そいつの口ぶりでは、警察も犯人を割り出しているらしい。近いうちに、事件は解決する」
「南さんが……あの、そうすると、青山のお店はどうなるんですか?」
「おれも考えているが……君、やってみるか?」
「なにを?」
「だから、『ジュエル・青山』を」
沢村萌の躰が、またふらっと傾いたが、今度はおれの手を煩わすこともなくなんとか自力で体勢を整えた。血圧が低いわけでもなく、運動神経が鈍いわけでもないらしいから、要するに、必要以上に動揺しやすい性格ということなのか。
「佐原さん、わたしがヤキソバを食べているとき、冗談は言わないでください」
「ヤキソバと冗談と、どういう関係がある?」
「ヤキソバって咳き込むと鼻に入るじゃないですか」
口に物を入れたまま咳き込むとたしかに鼻に回ることもあるが、しかしそれは、なにもヤキソバに限ったことではないだろう。
「冗談で言ったわけじゃないさ」と、まっすぐ前を見つめて、怒ったような顔でヤキソバを頬張りつづけている沢村萌に、おれが言った。「誰かがやらなければ、あの店は自然消滅する」
「それなら誰かにやらせればいいんです」
「だから君がやればいい」
「そういう無茶なこと、よく平気で考えますね」
「たいして無茶だとも思わないけどな」
「わたしはただの彫金科の学生です」
「それでも専門家だ。少なくともうちの婆さんよりは」
おれは空になったヤキソバのパックを、下に置き、また煙草を取り出して、それに火をつけた。
「君、『ジュエル・青山』で扱っていた石に密輸品があるという噂、聞いたことはないか?」
沢村萌が横目でおれの顔を見あげ、そのまま自分でも空パックを下に置いて、くっと小さく喉を鳴らした。
「佐原さんて、どうしてそういう無茶なことを平気で言うんですか?」
「やっぱり無茶か?」
「無茶ですよ。そんなこと、誰が言ったんです?」
「業界での噂だそうだ」
「石なんか密輸して、社長さん、なにをしたわけですか?」
「なにをしたか、それをおれが君に訊いている」
鼻を曲げておれの顔を睨みつけ、肩で大きく息をしてから、ぷすっと、沢村萌が唇を鳴らした。
「佐原さんて、意外と常識がないんですね」
「おれの娘も君と同じ意見を持っているらしい」
「石なんか密輸しても得はないんです。特別に価値のある宝石以外はアクセサリーの値段はデザインとお店の格で決まるんです。石自体の原価は世界中みんな同じです。わざわざ密輸なんかする必要、どこにもないじゃないですか」
「たとえば、どこかの国で政変があって、亡命した人間が財産である宝石類を国外に持ち出したとする。その宝石は当然公には処分できない。いわゆるクリーニングというやつで、裏で処分するとしたら、どうする?」
「それは、オーストリアかスイスか、あの辺で処分します。向こうにはそういう組織があるそうです」
「日本では、できないのか?」
「できないと思いますよ。有名な宝石は日本ではすぐリストに載ってしまいます。もしデザインを変えたら宝石自体の価値がさがりますしね。佐原さん、社長さんがそんなことをしたと、本気で思っているわけですか?」
「ただの、噂だ」
「ただの噂と社長さんを、どっちを信じるんですか?」
「君が怒ることじゃない」
「怒ってなんかいませんよ。佐原さんの非常識に呆れているだけです」
「可能性の問題として、ちょっと、訊いてみただけだ」
「だから非常識なんです。考えたらいいじゃないですか。ふつうのやり方であそこまで成功した社長さんが、どうしてそんな危ないことしなくちゃいけないんですか。そういうことは、ちゃんと常識で考えてください」
「やっぱり君、怒っていないか?」
「怒っていません」
「目が寄り目になっている」
「わたしの目は生まれつき、こういう形なんです」
沢村萌が、腕をつっ張って手摺から飛びおり、おれの前に回ってきて、そこでなにやらむぐっと唸り声をあげた。一瞬おれは少林寺拳法の秘術でも使われるのかと思ったが、沢村萌はただ屈み込んで、下に置いてあった荷物をひょいと肩に担ぎあげただけだった。
「食事に行きます。もちろん佐原さんの奢りです」
「食事……」
「昼食《おひる》は食べないでおくって、電話で言ったじゃないですか」
「今の、ヤキソバは?」
「あれは前菜です。せっかく上野に来たんだから、わたし、湯島まで出て『江知勝』のすき焼きがいいです」
また屈み込み、二つの空パックを拾いあげて、おれには見向きもせず、沢村萌が来た道を大股に戻り始めた。おれ自身はなんとなく混乱していたが、それでも手摺から飛びおり、とにかく沢村萌のあとを追うことにした。まさか湯島まで歩くつもりではないだろうが、そんなことを訊けばどうせ『歩く』と言い張るに決まっているので、おれはしばらく、黙って沢村萌のうしろを歩きつづけた。花見客のざわめきが、ものすごい速さで背中から離れていく。
沢村萌のうしろ姿を眺めながら、忘れていたそのことを、ふとおれは思い出した。
志保美はたしかに、一般的な意味では我儘だったかもしれないし、自分の人生にも他人の人生にも多少強引な部分が、なくはなかった。しかしだからといって常識からはみ出すほど無茶な性格だったわけでもない。沢村萌に言われるまでもなく、志保美は見かけよりも常識のある女だった。まともな仕事であそこまで成功した志保美がわざわざ密輸に手を出す必要は、常識的には、やはり考えられない。南礼子の言葉を信じるか、志保美と暮らした十年以上の時間を信じるか。それがたんにおれの思い込みだけであったとしても、おれは最初から志保美を信じるべきだったのかもしれない。亜由子のためにも志保美は密輸になんか係わっていなかったと、最初からおれは信じてやるべきだったのだ。
沢村萌が、立ち止まり、ふり返って、近づいていったおれの顔を覗き込みながら、屈託のない目つきでにやっと笑いかけた。
「いいお天気です、ねえ?」
「今日は、朝から、天気はよかった」
「散歩にちょうどいいです。佐原さんもそう思うでしょう? わたしもそう思います。こういう日は湯島まで、ぜったいに歩くべきだと思います」
いやな予感はけっきょく当たってしまい、そこからおれは、本当に湯島まで歩かされる結果になった。朝から少林寺拳法の稽古をしてきた割りに沢村萌には疲れという思想はないらしく、『江知勝』で取った三人前のすき焼きも、沢村萌がほとんど一人で平らげた。それを歳の差だとは思いたくなかったが、おれが高校を卒業した年に沢村萌が生れたことを考えれば、そこに歳の差があることは、なんとも仕方ない事実だった。
そして、お松さんには胸を張って報告できるが、おれは最後まで『人の道』は踏み外さなかった。飯を食ったあと湯島から渋谷に出て映画を見たが、おれは沢村萌の手さえ握らなかったのだ。
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「やっぱり、逃げ出したほうがいいのかしらね」
「逃げ出す場所なんかないはずだろう?」
「その気になれば人間なんてどこにでも逃げられるわ。それがべつに、この世である必要もないんだし」
小野寺香代のその台詞は、もちろん三日前のつづきでのたとえ話ではあったが、どこか別の場所に別な人生があったかも知れないと思うのは、四十に近い人間にとっての最大公約数的な感慨だろう。過ぎた青春はいつだって懐しいが、しかしあんな青春は二度とくり返したくないと思う恨みも、まちがいなく、おれの中にはある。
「正木くん、それにしても遅いじゃない?」と、酒瓶の間の小さな置き時計に、ちらっとふり返って、小野寺香代が言った。「十時って、そう言ったわよねえ?」
「ああいう仕事は時間どおりには終わらないさ。泥棒も人殺しも警官の都合を考えて仕事をするわけじゃない」
おれが渋谷の駅で沢村萌と別れて、『華夜』にやってきてから、もう二時間がたっている。店についてすぐ渋谷中央署に電話を入れ、正木と待ち合わせたのが、十時。それからおれはカウンターの一番端の席で一人でずっとうすい水割りを飲みつづけていた。この前とちがって店はほぼ満席で、そのぶん小野寺香代に相手にされないことが、いくらかおれの気分を楽なものにしてくれていた。
ドアが開き、正木が例のトレンチコートに臙脂色のネクタイという制服で、のっそりと姿を現した。正木はそのまま客の背中を避けながら、おれのところまで歩いてきて、小野寺香代が無理やりつくった席にむっつりと這いあがってきた。
「一度、訊こうと思っていたことがある」と、カウンターに片方の肘をつき、コートのポケットから煙草の箱を取り出した正木に、おれが言った。「おまえ、夏になったらどういう服を着るんだ?」
「女房が半袖のシャツを買ってくるさ。それが、どうかしたか?」
「いや、夏まで、おれたちの友情をつづけたいもんだ」
この前もいた若い女が、カウンターの向こうから正木に水割りのグラスを差し出し、それを受け取って、正木がグラスにごろんと水の音を響かせた。
グラスを口に運んでから、おれのほうに鼻を曲げて、正木が言った。
「電話では聞かなかったが、おまえ、例の情報をどこで手にいれたんだ?」
「例の、なんの情報だ?」
「だから例のあれ[#「あれ」に傍点]さ。それで俺を呼び出したんだろうよ」
「おれは南礼子のことで、今朝おまえに言い忘れたことがあっただけだ」
「俺の言ったのも、南礼子のことさ」
「南礼子がどうかしたのか?」
「捜査本部に引っぱった。今日の夕方だ」
手にしていたおれのグラスが、カウンターの上で勝手に音をたてたが、中の水割りがこぼれ出すほどに揺れたわけではなかった。正木の言葉は唐突ではあったが、状況自体はおれ自身どこか頭の中で予想していたことでもあった。
「つまり、けっきょく、犯人は南礼子だったわけだな」
「本部長はそういうふうにみている。状況的にも妥当な線ではある。ただ、今のところ、まだ殺人容疑で逮捕したわけじゃない。逮捕理由は業務上横領容疑だ」
「言ってる意味が、よくわからないな」
「佐原。警察だって、おまえが犯人を見つけてくれるのをただ見物していたわけじゃないんだぜ。関係者の身辺調査はきっちりとやっていたさ。南礼子の暮らしが収入以上に派手だったこともちゃんと掴んでいた。あの女、店の品物を横流ししていたらしい。しかしそのルートがおまえから小川真也の名前を聞くまでは出てこなかった。その名前が出てきて、パズルもぴったり嵌《は》まったわけだ。帳簿も今専門家がチェックしている。そっちのほうからも横流しの事実は立証できるはずだ。あとは事件当夜のアリバイさえ崩せれば、一応解決ということになる」
「要するに、別件逮補か」
「自白が取れれぱすぐ殺人容疑に切りかえるさ。動機は奥さんに横流しの事実をつきとめられたから、それでじゅうぶんだ。しかしその動機ってのも状況証拠であることには変わりはない。物証は出にくいだろうから、警察としてはどうしても自白を取りたい」
「それなら上条殺しはどうなる? 南礼子に上条を殺さなくてはならない、どんな動機があるんだ?」
「そいつはわからん。わがらんが、奥さんが南礼子の不正をつきとめるのに上条を使ったことはじゅうぶん考えられる。上条なら自分の掴んだねた[#「ねた」に傍点]で南礼子を強請《ゆす》るくらい、朝飯前だったはずだ。上条自身奥さん殺しの犯人を南礼子だと目星をつけていた。だからこそ、あのダイイングメッセージになったわけだ」
あの[#「あの」に傍点]ダイイングメッセージというのが、上条準次が口にくわえていたダイヤであることはすぐに思いついたが、しかしそれがどういうふうに直接南礼子につながるのか、瞬間には、おれには判断はつかなかった。
「探偵小説を書くときの参考に、わかりやすく説明してもらえないか」と、べっとりと脂《あぶら》の浮いた正木の横顔を、背中を引いてグラスの縁から眺めながら、おれが言った。
ふんと鼻を鳴らしてから、水割りを半分ほどあおって、正木が答えた。
「あのダイヤ、専門家に鑑定させたら、いわゆるホワイトジルコンとかいう人造ダイヤだった。つまり……」
「つまり、小川真也と南礼子が詐欺事件のときに使った、人造ダイヤということか」
「その人造ダイヤを死んだ上条が口にくわえていたんだ。上条なりに最後は警官だったころの意地を見せたわけさ。直接の証拠にはならんが、上条が南礼子を名指ししたことはまず間違いはない」
「上条が名指しした相手は小川真也だという可能性も、なくはないだろう?」
正木が、グラスに残っていた水割りを一気に飲み干し、ふーっと息を吐いてから、その厚い下唇をむっとカウンターにつき出した。
「小川真也には、どうも、先を越されたらしいんだ」
「先を越された?」
「逃げられたってことさ。昨日おまえと電話で話したあと、すぐ本庁の二課に問い合わせてみた。やつの経歴はおまえの言うとおりだった。警察ってのは案外縄張りのうるさいところでな、自分の縄張り以外の事件には手は出せんし、そのぶん興味も持っていない。捜査本部じゃ誰も小川真也とねずみ講事件を結びつけられなかった」
「それで、逃げられたというのは、どういうことだ?」
「だからな、小川真也から事情聴取した刑事によると、やつは向こうから出頭して南礼子のアリバイを証明していったらしいんだ。それで昨日やつから聞いていた住所に刑事をやってみたら、その住所は自宅じゃなくて女のマンションだった。いたのは女だけで、小川真也はその前に荷物をまとめて姿をくらましていた。女にも行き先は言ってない。ああいう人種は妙に勘がはたらくところがあるから、こっちの動きを感じて先手を打ったってことだろう」
「しかし小川真也が逃げたのに、なぜ南礼子は逃げなかったのかな」
「そんなこと俺が知るかよ。警察の捜査にたか[#「たか」に傍点]をくくっていたのかもしれんし……俺個人としちゃ、本当言うと南礼子はもう少し泳がせてみたかった。だが本庁の警部ってのがどうしても南礼子を引っぱれと言う。上条準次のことでも先を越されたし、小川真也にも逃げられた。これ以上後手を踏むわけにはいかんってことさ」
「今の口ぶりからすると、南礼子はまだ喋っていないということか?」
「腹の据わった女だ。あの女が手強いことは最初からわかってる。だいたいからして一度居直ると男よりは女のほうが質《たち》は悪い。ただ青山のあの店は言ってみれば宝の山みたいなもんだ。お松さんの言い種《ぐさ》じゃないが、金めの物を持たれて外国にでも逃げられたら、それこそ捜査本部全員で首をくくらにゃならん。ここまできたら南礼子にはどんなことがあっても口を割ってもらうさ」
「別件逮捕でそこまでやるのは、ちょっと無茶じゃないのか」
「いろいろ考え方はある。警察のやり方が非難されていることも知ってる。しかし相手は強盗や人殺しなんだぜ? ふつうの人間とは訳がちがう。『いかがですか? あなた、おやりになりましたか?』じゃ犯人は口を割らんさ」
「そのくせ政治家や権力者には、拘置所でもホテルなみの接待をしてな」
「佐原……」
「いや、今言ったことは、忘れてくれ」
「おまえの言いたいことはわかる。俺だって警察そのものに疑問を感じることもあるし、自分のやってることをきたない[#「きたない」に傍点]と思うことだってある。しかしやり方は汚くても、犯罪を犯したやつを放っておくわけにはいかんじゃないか」
「おれは、その、もう少しはっきりした証拠がほしいと思っただけだ」
「だから自白を取るんだ。俺だってさっきも言ったが、本当はもう少し泳がせて状況証拠を固めたかった。だけど捜査ってのは俺一人でやるわけじゃない。上のほうから南礼子を引っぱれと言われりゃ引っぱらにゃならんし、自白を取れと言われりゃ自白を取らにゃならん。だいたい世間のやつら、動機だとか証拠だとか煩《うるさ》いことを言いやがるが、今どき気のきいた犯人は現場に証拠なんか残しちゃいかんのさ。おまえの女房が殺《や》られた現場だって犯人はちゃんと指紋を拭いていった。そういうもんさ。だから状況証拠を集めて犯人に自白を迫る。それが悪いと言われても、俺一人でどうにかなる問題じゃないんだ」
「正木……」
「なんだ?」
「そんなに、むき[#「むき」に傍点]にならなくてもいい」
返事をしかけて、言葉を飲み込み、ふーっと息を吐いてから、正木が使い捨ての赤いライターで、しゅっと煙草に火をつけた。
「まあ、たしかに……」と、一口めの煙を遠くの酒棚にまで長く吐いて、正木が言った。「ここんところほとんど寝ていなかったし、それに南礼子が口を割りそうもないんで、気が立っているのかもしれん」
「おれにしたって南礼子が怪しいとは、思っていたさ」と、正木と同じように煙草に火をつけてから、おれが言った。「ただどう言ったものか、実感がもう一つ、ちゃんと湧いてこない」
「そんなもんさ。堅気の人間にとっちゃ身内や親しい人間が殺されるなんてことは、めったにあることじゃない。実感なんて湧いてこないのがふつうなんだ」
「南礼子の、上条殺しでのアリバイは、どうなっている?」
「部屋にいたとさ。一人で酒を飲んで、十二時には寝たと言ってる」
「九時まではおれと一緒だったと言わなかったか?」
正木が片方の眉をあげ、カウンターに肘をかけて、ちらっとおれの顔を窺った。
「それが、どうした?」
「おれは昨日、九時までは南礼子と一緒に彼女の部屋にいた」
「だからどうしたんだよ。上条が殺されたのはそれより三時間もあとだ。おまえが南礼子の部屋でなにをやっていたのかは知らんが、どっちみちアリバイにはならんじゃないか」
それは、たしかに正木の言うとおりかもしれないが、昨夜の南礼子が本当にあれから上条準次を殺しに出かけたと考えることに、なにか素直にはうなずけないものがある。それとも上条のほうが、青山のあの部屋に押しかけたのか。『東都信用調査』の女は南礼子の名前を覚えていたぐらいだから、南礼子と上条準次になんらかのつながりがあったことだけは、間違いないだろうが。
「南礼子は、本当に、まだなにも喋っていないんだな」
「南礼子に喋られると、なにか都合の悪いことでもあるのか?」
「そういうわけではない。ただ上条は、志保美が上条にやらせていた仕事の内容をおれに十万で売っていった。その内容と南礼子がどうつながるのか、一息判断がつかない」
「今朝は、おまえ、そんなことは言わなかったぜ?」
「おまえだって今日南礼子を逮捕することは言わなかった」
「おれとおまえでは立場がちがう。過ぎたことはくどくは言わんが、それで、上条はおまえにどんな情報《ねた》を売ったんだ?」
「志保美は上条に、辻村和郎の身辺調査を依頼していたそうだ」
正木の握っていたグラスが、かちんと氷の音を響かせ、頬が痙攣でもおこしたように、くっと引きつった。
「おまえ、探偵小説を書くのは諦めたほうがよさそうだな」
「現実のほうが、小説より面白いか?」
「そうは言わんが、それぐらいの情報なら俺はロハででも提供できる。おまえは上条に食い逃げされたんだよ」
「ある程度は、もちろん、覚悟していた」
「辻村の事情聴取ぐらい警察はちゃんとやっているさ。それに木崎周一の事情聴取もだ。おまえみたいに呑気なやつなら、たしかに金魚の品種改良で一生を終えられるかもしれんなあ」
「はっきり言ってくれ。あとでおまえの家に春物の背広を届けてやる」
「つまりな、辻村は大学のとき、中学生だった奥さんを見染めてそれ以来ずっと奥さんにのぼせていたわけさ。おまえと奥さんが別れて一番喜んだのは、丸越デパートの辻村和郎だった」
「志保美はおれと別れたあと、辻村とつき合っていたのか?」
「そこまでは知らん。しかし木崎商事と丸越の関係からして、だいたいの想像はつくじゃないか」
「それならなぜ志保美は上条を使って辻村の身辺なんか調べさせたりした? 木崎の社長に聞いてもいいし、辻村本人からだって聞けたはずだ」
「だから食い逃げだと言ったろうよ。口から出まかせの情報で上条がおまえから金を捲きあげただけのことだ。素人が中途半端に首をつっ込むから、そういう結果になる」
「カモネギ、か」
「なんだ?」
「いや、こっちの話だ」
上条本人に『カモがネギを背負ってきた』と言われたぐらいだから、正木の言うとおり、やはり上条がおれに売った情報は完全ながせ[#「がせ」に傍点]であったのか。おれだって最初から上条を信用していたわけではないし、その情報自体に価値を持たせていたわけでもない。それどころか上条を雇っていたのが志保美ではなく、南礼子だったということだって、考えられなくはない。上条がおれに言ったことはぜんぶ出鱈目《でたらめ》、だから南礼子が言った密輸の件も出鱈目、そういう可能性も、なくはない。
「とにかく今度の事件には、一応の結論が出たわけさ」と、カウンターに背中をかぶせ、新しい煙草に火をつけてから、小さく欠伸をして、正木が言った。「おまえにはいろいろ協力をしてもらったが、これからの作業は完璧に警察の仕事だ。おまえは……」
「金魚の品種改良か?」
「わかっていればいいんだ。小川真也も全国手配したし、そのうち網に引っかかる。南礼子も時間はかかるかもしれんが、必ず落としてみせる。おまえにできることは今回の事件を一日も早く忘れることだけだ」
「テレビドラマで刑事が最後に言う、決まり文句みたいだな」
「二十年のキャリアから出る、これ以上はないという決まり文句さ。警察に解決できんことはちゃんと時間が解決してくれる。世の中ってのはそういうふうにできているもんだ」
正木が空になったグラスをカウンターの奥に滑らせ、若い女がそれに氷とウイスキーとミネラルウォーターを注ぎ足した。
「ありがたく、拝聴だけはしておくさ」
カウンターの端に両手を引っかけ、煙草をくわえたまま、よっとおれが立ちあがった。
小野寺香代が店の一番遠くから、背伸びをするような恰好でおれのほうに顔を向けた。
「おれのすることは、もう一つあるんだ」と、丸椅子に座ったまま、目蓋の被さった目でおれの顔を見あげた正木に、おれが言った。「事件の結末を娘に説明する必要がある。殺人事件そのものよりもおれにはそっちのほうが大事件さ」
ドアに向かって歩きだし、そして歩き出してすぐ、おれはそのことに気がついた。おれはもう三時間もずっとこの店で飲みつづけていたのだ。
世界を頭の中で回らせながら、たぶん、おれは、ぶつぶつと一人言を言っていた。おれには無関係に志保美が殺され、おれには無関係に警察が南礼子を捕えてしまった。毎日毎日見たくもない他人の人生を覗き込んで、今度の事件は、おれにとっていったいなんの意味があったというのだ。
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頭の中で、世界がざわざわと音を立てている。それが窓の外を吹く風の音であることは知っていたが、前の晩のウイスキーがその風と一緒になって頭の中でやはりざわざわと騒ぎつづけている。毎朝今日こそは酒を飲むまいと決心しても、夜になるとその決心はあっけなく次の日に持ち越される。酒の他に楽しみがないとは言わないが、酒の他に愚痴を言う相手がいないという人生も、我ながら、なんとも困ったものだ。
部屋に入ってきたのがお松さんではなくて亜由子だとわかったのは、さすがに親子の絆というやつだろう。おれは壁のほうを向いて目をつぶっていたし、亜由子だって声をかけてきたわけではない。それでも気配というか、息づかいというか、なにか亜由子の出す電波のようなものは直接おれの神経回路に入ってくる。もっとも今部屋に入ってきたのがお松さんであっても、亜由子であっても、おれをベッドから追い出しに来たことには変わりないだろうが。
窓のカーテンを勢いよく開け、スリッパを鳴らして、亜由子がぱたぱたとおれのベッドに近づいてきた。その勢いからしてすぐなにか言ってくるだろうと待ち構えていたが、ベッドの端に立ったまま、亜由子はなかなか話しかけてこなかった。
「風が、強いらしいな」と、根負けをして、仕方なく、おれのほうが先に口を開いた。「今、なん時だ?」
「九時」
「起きてもいいし、起きなくてもいい時間だ」
本来ならそこで当然ひどくごもっともな反論が展開されるはずなのだが、どうも今日は、最初から調子がちがう。
「お父さん、昨夜もお酒、飲んできた?」
「つき合いで仕方なく飲んだだけだ。本当は酒なんか飲まずに、早く帰ってくるつもりだった」
「わたし、なんとなく、心配だなあ」
冗談ではなく、おれもなんとなく心配になって、えいっと目を開き、ベッドの上に、えいっと起きあがってやった。
「亜由子……」
「コーヒー、飲む?」
「そりゃあ、飲みたいさ」
「持ってこようか?」
「そりゃあ、持ってきてもらえば、嬉しいさ」
亜由子がおれの顔を見おろしたまま、ふっと溜息をつき、自分で勝手にうなずきながら、そのままスリッパを鳴らしてぱたぱたと部屋を出ていった。
おれはなんともぎこちない気分で、それでもベッドから抜け出し、煙草をくわえながら亜由子がカーテンを開けた窓の前までふらふらと歩いていった。頭の中にも窓の外にも、強い風がざわざわと吹き狂っている。羽根木公園から運ばれて来るらしいうすい色の桜の花びらが、庭の上の高い空をなん枚も紙吹雪のように飛ばされていく。今日のこの風で、東京の桜も終わりになるのかもしれない。
亜由子が、モーニングカップを手に戻ってきて、それをおれに渡し、Gパンの小さい尻でひょいと作業台に飛びのった。
「おまえ、入学式は、いつだっけな」
「明日」
「明日?」
「今日は土曜日だもの」
「今日が土曜日なら、明日は日曜日だな」
「今度の日曜日が入学式だって、前から言っていたよ」
「そういえば、そうだ。それで、仕度はいいんだよな」
「したくは大丈夫」
「時間は?」
「一時から」
「おれはなにを着て行けばいいんだ?」
「ふつうの背広でいいよ。お父さんが高校に入るわけじゃ、ないんだものさ」
おれは、窓を少し開けて煙草の灰を落とし、コーヒーに口をつけてから、ふり帰って、その窓枠に肩で寄りかかった。
「昨夜はおまえが寝ていて、言えなかったんだ」
一瞬の間のあと、亜由子が下唇に力を入れ、小さく、こっくんとうなずいた。
「お母さんを殺した犯人が、捕まったらしい」
「今朝、おばちゃんから聞いた」
「いろいろ難しいことがあって、誰がどういう事情でどういうふうに悪かったとか、かんたんには言えないんだ」
「そういうこと、あまり難しく考える必要、ないと思うけどね」
「難しく考えているわけでは、ないさ」
「お父さん、いろんなこと難しく考えすぎると思うよ。仕方ないことってぐずぐず考えてもやっぱり仕方ないわよ」
「そう、思うか?」
「そう思うな」
「おまえがそう思うなら、おれも、そう思う」
亜由子が、本心からそう[#「そう」に傍点]思っているかどうかは知らないが、今ここで事件経過の説明を求められても、おれのほうにはまだ気持ちの準備ができていない。たぶん亜由子も、親子の義理でおれのその混乱を感じ取っているのだろう。
「わたし、思うんだけどね」と、作業台から飛びおり、窓の前まで歩いてきて外の風に目をやりながら、亜由子が言った。「人間なんていつ死ぬかわからないし、お父さん、大丈夫なのかなあ」
「おれは、とりあえず、死ぬ予定はないな」
「そうじゃなくて、おばちゃんがいなくなったりわたしが家を出ていったりしたら、お父さん、一人でちゃんと生きていけるのかなあ」
「それは、しかし、先の話だ」
「でもわたしだって、いつかはこの家、出ていくんだよ」
「だからそういうことは、そのときになったら考えればいいさ」
「わたしね、そのときになって急に考えても遅いと思うの」
「おまえのほうが難しく考えてるじゃないか」
「そうじゃないの。難しく考えてるんじゃないよ。お父さんがね、一人で大丈夫なのかなあって、ちょっと、そう思っただけ」
おれは、煙草を窓の外に捨て、亜由子の肩を自分の脇の下に抱え込んで、その肉の薄い鼻の頭を指で思いきり捻りあげてやった。
「見かけによらず、おれはちゃんと自立しているんだ」と、おれの腕をすり抜け、また作業台に飛びのった亜由子に、立ったまま、おれが言った。「おまえは自分のことだけを考えればいい。大人の問題は大人がちゃんと考える」
「中年男の自立って、けっこう難しいと思うけどなあ」
「難しくてもなんでも、やるときはやるさ」
「意地なんか張らなくていいのになあ」
「意地なんか……」
「お父さん、見かけによらず落ち込むタイプだからさ、ちょっと心配しただけだよ」
どうも、形勢としてはあまりおれに分がないらしく、おれは反撃を諦め、部屋の中に戻ってコーヒーを飲み干してから、新しい煙草に火をつけて製図板の横の椅子に腰をおろした。
「それで、おまえのほう、昨日はどうした?」と、水槽の濾過装置の具合いを横目で確かめながら、作業台の上の亜由子に、おれが言った。「お母さんのマンション、片づいたのか?」
「必要なものだけは持ってきた」
「あとは貸倉庫に預けるぞ」
「それは、いいけど……」
作業台の上から、肩ごとふり返り、首をかしげて、亜由子がぷくっと頬をふくらませた。
「それがね、わたしが一番欲しいものが見つからないの」
「お母さんの写真か?」
「そうじゃなくて、お母さんが最後の日に着ていたジャスパー・コンランのコート」
「なんだそれ?」
「そういうブランドの春物のコートだよ。警察が持っていったのかなあ」
「そんなことは、ないと思うけどな」
「わたし、あれ、どうしても欲しいな。お母さんが最後に着ていたやつだし、わたしあのコートを一番よく覚えてるんだもの」
「ちゃんと探したのか?」
「ぜんぶ探した。でも見つからないの」
「志保美が最後の日に着ていた、春物の、コート……」
おれの指から、火がついたままの煙草がすっと零《こぼ》れ落ち、パジャマの膝を汚して作業台の下にくるくると転がっていった。
おれはほとんど無意識に屈み込み、四つん這いで煙草を捨ってから、やはり無意識に起きあがって、その煙草の火を作業台の上の灰皿に強くこすりつけた。
「その、お母さんが着ていたコートというのは、どんなやつだ?」
「だから、ジャスパー・コンランの……」
「洋服屋の名前なんかどうでもいい。色は? 形は?」
「絹の厚い生地で、細い襟で、辛子色のコート」
「そのコートが、本当に、見つからないんだな?」
「ベッドの下まで探したよ」
「最後の日、おまえと別れてタクシーに乗ったとき、お母さんは間違いなくそのコートを着ていたのか?」
「そう言ってるじゃない。お母さんが最後に着ていたコートだから、わたし、形見に欲しいんだもの」
おれは、火の消えきった煙草をまだ灰皿の中で潰しつづけている自分に、そのときやっと気がつき、煙草から指を離して、うしろ向きにベッドの端までさがっていった。
「お父さん、どうかした? 具合が悪い?」
「いや……」
「顔色が悪いみたい」
「大丈夫だ。昨夜飲みすぎただけだ。食堂でいいからコーヒーをもう一杯用意してくれ」
亜由子が怪訝そうな顔をしながらも、作業台から尻をおろし、髪をふってぱたぱたとドアのほうに歩きだした。
その背中に、ベッドに座り込みながら、おれが言った。
「それからお松さんにな、おれはすぐ出かけるから、朝飯は要らないと言ってくれ」
亜由子の出ていったあとの部屋で、おれはそのままベッドにひっくり返り、いくらか悪寒を感じながらしばらく天井の木目をぼんやりと眺めていた。頭の中でざわざわ吹く風はあい変わらずだったが、特別体調が悪くなったわけではなく、おれなりに途中で投げ出しかけていたバズルの再検証を始めただけのことだった。
昨日『華夜』でおれと正木が答えを出したように、パズルの出来あがりが南礼子であったとしても、論理的にはなにも矛盾はないのだ。動機もじゅうぶんにあるし、アリバイを証明した小川真也はすでに逃亡をはかっている。上条準次に脅迫を受け、小川真也と南礼子が共謀で上条を殺したと考えるのも、論理的にはやはり問題はない。それでは、問題はどこにあるのか。問題は、論理的にはなにも問題がないということ、実際に南礼子が志保美や上条を殺したということとは、まったく別問題だということではないのか。
おれは、横になっていたソファからどうにか躰を起こし、電話に歩いて、とにかくその電話口に渋谷中央署の正木を呼び出した。
正木につながり、その不機嫌な声が聞こえてくるのを待ってから、呼吸を整えて、おれが言った。
「南礼子、頑張っているらしいな」
「どうしてわかる?」
「南礼子が自白しないからおまえだってそこにへばりついている」
「それは覚悟の上だ。あの女が手強いことは最初からわかっている。しかしこっちはあと二十日も留《と》めておけるんだ」
「別件逮捕で、また週刊誌に叩かれるな」
「かまうもんか。本件で吐かせちまえばあとはどうにでも処理できるさ」
「吐かなかったら、どうするんだ?」
「なあ佐原、相手は素人なんだぜ? いくら強情でも二十日もあればきれいに吐くさ。決まってるじゃないか」
「おれは自白しないほうに賭けてもいいな。彼女はそんなことで自白するタイプじゃない」
一瞬、言葉を切り、おれの耳に呼吸の音をたっぷり聞かせてから、唸るような声で、正木が言った。
「おまえ、なんの用で電話なんかしてきたんだ?」
「だから南礼子が自白しないことを、おまえに教えてやろうと思ったのさ」
「佐原……」
「おれたちはとんでもない勘違いをしていた」
「俺たち?」
「おれとおまえと、それからその電話のそばにいる刑事さんたち、全員という意味だ」
「言いたいことがあればはっきり言えよ」
「おれたちが勘違いしていたことはまず間違いない。おれはその勘違いをおまえにだけ教えてやりたい。おれがこの前言ったこと、覚えているか?」
「おまえが前に言った、なんだ?」
「一昨日《おととい》おれがおまえに電話をしたとき、おれは、犯人を見つけておまえを警部にしてやると言った」
「だからそれが、なんだって言うんだよ」
「正木、上条は、殺されたときに酒を飲んでいたか?」
「飲んでいたさ。ほとんど酩酊だった」
「それは解剖してわかったんだよな」
「だから……」
「上条だって警官をやっていたんだ。自分がそんな死に方をすれば解剖されることぐらい、知っていたはずじゃないか」
「結論だけ早く言っちまえ」
「上条はなぜダイヤを飲み込まなかったのか。なぜ口の中に止めておいたのか。ダイイングメッセージなら当然飲み込んだはずだろう。どっちみち解剖で取り出されるとしたら、口の中より胃の中のほうがずっと安全じゃないか」
電話の中で、正木が完全に黙り込み、しばらくその荒っぽい呼吸の音に耳を澄ませてから、おれが言った。
「正木、その前に、上条準次の経歴で一つだけ調べてもらいたいことがある……」
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ここまできたら、たぶん、急ぐ必要はない。急ぐ必要もないし、慌てる必要もない。急いでも慌ててもいけないことはおれ自身が一番よく知っている。正木に対しての義理だけでいっても、おれは今急いではいけない。おれは私鉄とJRを乗り継いで、新橋に出た。
受付けの女の子を無視しておれがあがっていったのは、七階にある木崎商事の社長室だった。連絡もせず、受付けも通さずに現れたおれに秘書だけは怪訝な顔をしたが、当の木崎周一は驚いた様子もなく、自分の机に座ったまま黙っておれを社長室に迎え入れた。
「わたしが今日ここに来ること、知っていたような顔ですね」と、勝手にソファに座って、上着のポケットから煙草の箱を取り出しながら、おれが言った。
「企業の経営者というのはいつも最悪の事態を予想しているものさ」と、自分の机から動こうともせず、椅子の背にふんぞり返って、木崎周一が答えた。
「わたしはあなたにとって最悪の事態ということですか?」
「君はわたしにとっては、いつだって最悪の事態じゃないか」
秘書がこの前と同じように、また紅茶を運んできて、その秘書がいなくなるのを待ってから、おれが言った。
「南礼子が逮捕されたこと、誰に聞いたんです?」
「それぐらいの情報はどこからでも入る。無駄に政治献金をばら撒いてるわけじゃないんだ」
「もう手は打ったと、そういうことですか?」
「会社のために打てる手はぜんぶ打つ。それが経営者の貴任なんでね」
「あなた個人のためと言ってくれたほうが、わたしの気は休まります」
おれは煙草に火をつけ、紅茶をすすってから、尻をずらして、木崎周一が座っている机に躰ごと正面から顔を向けた。
「で、この始末は、どういうふうにつけるつもりです?」
「今言ったじゃないか。打つ手はぜんぶ打った。南くんがあんなことをしでかして、わたしだって迷惑をしているんだよ」
「しかし南礼子にあんなこと[#「あんなこと」に傍点]をさせたのは、あなたじゃないですか」
木崎周一が、ざっと椅子を軋らせ、机に躰を引きつけてふんと鼻を鳴らした。
「馬鹿なことを言うもんじゃない。妹の志保美を、なぜわたしが南くんに殺させなくちゃいけない?」
「あなたはフィリピンから持ち込んだ宝石を南礼子に処分させた。そのことを志保美に気づかれて、あなたたちは共謀して志保美を殺した」
「わたしが志保美の事件に関係ないことは警察が証明してくれる。嘘だと思うなら、わたしが犯人だと警察に訴え出たらいい」
「南礼子は、あなたにとっては所詮トカゲの尻尾だったわけですか」
「わたしは志保美を殺していない。南くんが殺したことだって知らなかった。知っていたらわたしだって青山の店を南くんに任せる気にはならなかった」
「宝石の件はどうです? あなたがあの政変に関係して旧政権側の財産処分に手を貸したことは事実でしょう。その手段としてあなたは南礼子を使った。そのことは認めるんですか?」
木崎周一が煙草に火をつけ、また躰を椅子の背にあずけて、吸い込んだ煙をふーっと長く部屋の中に吐き出した。
「だから、その件に関しては、打つ手はぜんぶ打ったと言ってるじゃないか」
つまり木崎周一は、政府筋のしかるべきところに手を回し、宝石の件に関しては不問に付すというなんらかの確約を得ているということか。木崎周一が言ったように企業は伊達や酔狂で政治家に金を注ぎ込んでいるわけではないし、おれにしたって木崎周一がいくら政治家に金をばら撒こうと、外国の政変に紛れてその財産処分に手を貸そうと、そんなことに関心があるわけではない。おれに関心があるのは、ただ一つ、志保美がその密輸事件に関係を持っていたかどうか、ということだけなのだ。
「そろそろ、はっきりさせましょう」と、煙草をもみ消し、紅茶を半分ほどすすってから、まっすぐ木崎周一の顔を見つめて、おれが言った。「あなたは志保美を殺していない。誰が殺したのかも知らない。そこまではいいでしょう。わたしが知りたいのは、志保美が、その密輸事件にどういう係わり方をしていたのかということです」
「今更そんなことを知って、どうするんだね。志保美も死んでしまったし、その志保美を殺した南礼子も捕まっている」
「わたしには亜由子に説明をする義務がある。今すぐにではなくても、亜由子が真相を知りたいと言い出したとき自分の母親がどういう女であったのか、わたしはそれを説明してやらなくてはならない。たとえ志保美があなたの汚い仕事に手を貸していたとしても、わたしはそれを亜由子に話します。亜由子も理解するはずだと、信じています」
木崎周一が、火がついたままの煙草を灰皿に放り込み、椅子ごと躰をうしろに引いて、おれの視線を外すように九十度ほどその椅子を回転させた。
「うるわしい親子愛というのも、わたしだって嫌いなわけではないんだ」と、横顔をおれに向けたまま、視線を窓のほうに据えて、木崎周一が言った。「しかし志保美の件に関しては、君が心配することはなにもない。君だって彼女の性格は知っているはずだ。例の財産処分に関しては志保美を通さず、最初から南くんに手伝わせた」
「志保美は無関係だったと、断言できるわけですか?」
「わたしが断言するわけではない。事実として、志保美はあの件とは無関係だったというだけだ」
「南礼子はそうは言わなかった。こういう状況になった以上、警察にもそうは言わないでしょう」
「南くんが警察になんと言おうが、そんなことは問題ではないんだよ。南くんは志保美殺しの容疑で逮捕された。財産処分の件は、今度の事件とはなんの関係もない。わたしにも会社にも、君にもあゆちゃんにも、南くんが志保美を殺したことについてはなんの責任もない。わたしや君や、それから志保美が考えていた以上に南くんが野心家だった、それだけのことだ」
木崎周一のその台詞が、どこまで信じられるか、おれにしても確信がもてたわけではない。しかし木崎周一がそう言い張り、宝石の密輸事件はこの世に存在しなかったという形式《かたち》で処分されているとすれば、その結果をおれや亜由子が受け入れて悪い理由は、どこにもない。木崎周一にとって志保美は実の妹であり、亜由子は実の姪なのだ。そうでなくとも血縁の少ない亜由子から実の伯父や実の従姉妹を取り上げる権利が、おれにあるとも思えない。
「あなたが例の密輸事件をどう処理したのかは知らない」と、紅茶を飲み干して、新しい煙草に火をつけてから、おれが言った。「志保美が事件とは無関係だったという言葉も、一応信じさせてもらう。しかしそれならなぜ、あなたは上条とかいう警官くずれの探偵に金を払ったんです? 上条は宝石の件であなたや南礼子を強請《ゆす》っていたはずだ。裏から手を回して片のついている事件に、どうして金を払う必要があったのか……」
「君のそういう単純さが、羨ましくないことも、ないんだがね」
木崎周一が部屋の中に椅子を回してきて、太い縦皺が入った頬を、皮肉っぽくにやっと笑わせた。
「あんな探偵に強請られたところで、たしかに、わたしとしては痛くも痒くもなかったさ。だけど旬介くん、十万や二十万のはした金なら、一応あの類《たぐ》いの男の口を塞ぐのも企業としては当然のことじゃないか。そういう裏の金だって最初から会社の経理には組み込まれている。君がどう思おうと、企業というのはそういうもんだ」
「上条への金の受け渡しは、南礼子にやらせていた……そういうことですね?」
「そんなことにまでわたしが自分の手を汚す必要が、どこにある?」
これだけ手を汚しておきながら、まだ自分の手は汚れていないと思い込んでいる木崎周一の神経は理解できなかったが、そんなことを今更おれが不思議がっても仕方はない。それよりも問題は、これで南礼子と上条準次の接点が証明され、その繋がり方もはっきりしたということなのだ。
「最後にもう一つ」と、立ちあがり、火のついた煙草を持ったまま、木崎周一が座っている机の前まで歩いて、おれが言った。「志保美と丸越の辻村和郎の関係について、具体的に聞かせてもらいたい。わたしと一緒になる前から志保美と辻村は関係があったのか、それともわたしたちが離婚したあと、二人になんらかの関係が出来あがったのか」
「わたしのほうにも、一つ確認しておきたいことがある」と、おれから距離を取るように、また椅子をうしろに引いて、木崎周一が言った。「わたしが君の質問に素直に答えているのは、わたしが君に好意を持っているからではない。会社の株をあゆちゃんのぶんとして君に押さえられているからだ。そうでなかったらわたしは最初から君をこの部屋から追い出していた。追い出しもせず、理不尽な質問にもちゃんと答えてやっている。そのわたしの真意は理解してもらえると、そういう了解の仕方でいいわけだね?」
おれが木崎周一と睨み合っていたのは、ほんの二、三秒だった。木崎周一の言った言葉の意味は、情報を提供する代わりに亜由子の持ち株には手をつけるなということで、本当はおれだってそんな約束はしてやりたくなかったが、逆に言えばおれにも今すぐあの株を処分しなくてはならない理由は、なにもないのだ。
おれは、聞き耳を立てるような顔でおれの目を覗き込んでいる木崎周一に、うなずいてやり、ついでに机の灰皿で煙草の火をつぶしてから、そのばかでかいマホガニーの机に、腰で軽く寄りかかった。
「どうなんです? 志保美と辻村は、いつからそういう関係になっていたんです?」
「正直に言って、それは、わたしにもわからない」と、おれの目を見つめたまま、小さく溜息をついて、木崎周一が言った。「もちろん志保美に対する辻村の気持ちは、わたしだって学生のときから知っていた。辻村にも打ち明けられたし、辻村が直接志保美に打ち明けたことも、志保美から聞いたことがある。しかしそれは志保美が高校生のときの話だ。なん度かデートぐらいはしたろうが、二人が具体的な関係を持ったということは、ぜったいにない。君と結婚してからのことは、もちろんわたしよりは君のほうがよく知っている」
「問題はわたしと別れたあとの、五年間ということですか」
「問題があればの話さ。まさか君が、別れた女房の男関係にそこまで関心を持つとは思わなかった」
「わたしが関心を持っているのは、どういう経緯《いきさつ》で『ジュエル・青山』が丸越に出店することになったのか、ということです。話がそこまでいっていたことは知っていたでしょう? あなたの仕事にとっても、志保美と辻村が接近することは都合がよかったはずだ」
「旬介くん……」
木崎周一が、引いていた椅子を元に戻し、机に片肘をついて、ふーっと長く息を吐き出した。
「君の言いたいことは、わかる。君は志保美が辻村の気持ちを利用して青山の店を丸越に入れようとしたと疑っている。状況的にはそう考えるのも無理はないし、知らん人間は誰だってそう考える。君の言うとおり、志保美と辻村が親しくなってくれればわたしの商売にも都合はいい。辻村にだって当然下心はあったろう。志保美にだって、まるでそういう計算がなかったとは思わない。しかし辻村と志保美が具体的な関係を持つとしても、それは先の話だった。先の話として二人に暗黙の了解があったのか、なかったのか、あるいは辻村だけがあると思っていたのか、それは正直なところわたしにはわからない。今更辻村に訊こうとも思わない。ただ一つだけ言えることは、どっちにしても青山の店のことは志保美から辻村に持ちかけた話ではなかったということだ。君が志保美の性格を知っているように、わたしだって志保美の性格は知っている。我儘で強引で、気も強かったが、そのぶん妙に正義感の強いところがあった。自分が卑屈になるのも不正な手段を使うのも嫌いだった。子供のときから、志保美は、そういう意味ではプライドの高い女だった」
おれは、気がついたときにはもう机から離れていて、厚い絨毯の敷かれたフロアのまん中あたりで、ほとんど肩越しに木崎周一の台詞に聞き入っていた。おれと別れたあとの志保美が、どんな男とどんな関係を持とうと知ったことではないとは思いながら、やはり頭のどこかでそれを気にしている自分が、自分自身で滑稽でもあり、苦しくもあった。事件の真相を知るのは亜由子のためだと言いながら、結局はおれの、志保美に対する未練でしかなかったのかもしれない。
「旬介くん」と、ドアに歩き始めたおれに、立ちあがって、机の向こう側から木崎周一が声をかけた。
「すべてを水に流せとは言わん。しかし人間、いつまでも子供のままでいるわけにはいかないという理屈を、少しは理解してもいいんじゃないのか? 君自身のためにも、あゆちゃんのためにも」
「前厄だそうですよ」
「なんだって?」
「お松さんです。まん[#「まん」に傍点]で三十九でもかぞえ[#「かぞえ」に傍点]では四十一の前厄だそうです。そういえば今年は、初詣に行くのを忘れていた……」
おれは秘書室に通じるドアのノブに手をかけ、そのドアを開けて、あとはもう黙って外に出た。うしろで木崎周一がまだなにか言っていたが、ふり返ってわざわざ確かめる気にもならなかった。四十年も生きてきて子供のままでいられる人間なんて、いったいどこの世界にいるというのだ。おれにしても志保美にしても朝倉文子にしても、もうじゅうぶんすぎるほど歳をとってしまったではないか。
木崎商事を出ておれが向かったのは、広尾にある志保美のマンションだった。
おれが新橋の駅からマンションの入り口にタクシーを乗りつけると、最初の日にもいた管理人が、管理人室に座ってやはり最初の日と同じようにじっとポータブルテレビに見入っていた。人間にはそれぞれ人生のスタイルを自分で決定する権利があるとすれば、この管理人も、管理人室にただじっと座って時間を消耗させるというこのスタイルを、自分自身で決定したことになる。
近づいていって、身ぶりでテレビの音量をさげさせてから、窓を開けた管理人に、おれが言った。
「昨日は娘と婆さんが世話になったと思う」
おれの顔を覚えていたのか、それともこの前おれが渡した一万円札を覚えていたのか、管理人が納得したように、くしゃっと目尻に皺を寄せた。
「一日《ついたち》の夜のことを、もう一度確認したいんだ」
「木崎さんの殺されなすった、あの夜のことですかね」
「あの一日の夜、十時ごろ、おたくが木崎さんをこの玄関で見たというのは、本当に間違いないんだよな」
「そのことはこの前だって言いましたがねえ」と、油っけのない貧相な顔に、怪訝そうな表情を浮かべて、管理人が答えた。
「そのとき見たのは辛子色のコートを着て玄関を出ていく木崎さんのうしろ姿だけだったことも、やっぱり間違いはない?」
「ですからね……」
「たとえば……」と、煙草を取り出して、火をつけ、管理人にも一本すすめてから、おれが言った。
「たとえば、そのコートを着ていたのが木崎さんではなく、木崎さんの店のあの若い女だったとしたら、おたくには見分けがついたかな」
「そりゃあ、わかるんじゃないですかねえ。あの人は木崎さんとはタイプが違うし、だいいち歩き方とか背の高さとか、そういうやつが違うじゃないですか」
「似たような背恰好で、たとえば、それが男だったとしたら?」
「そいつもまずわかりますでしょうなあ。いえね、あたし、こう見えても昔どさ回りで役者をやってたことがあるんですよ。女形《おやま》もずいぶん見ましたけど、男と女じゃ、やっぱり躰の線てやつが違いますがね」
「もしそれが女で、しかも背恰好も肉づきも木崎さんに似ていたとしたら、どうだ、見分けはつかなかったんじゃないか?」
「ですから、そりゃあ、あのとき木崎さんが着ていたコートは昼間管理費を持ってきたときと同じもので、ですから、あれは間違いなく木崎さんなんですよ」
「間違いなく、な? つまり、おたくが言ってるのは、そのときその女は間違いなく木崎さんのコートを着ていた、そういうことだろう?」
管理人が、くしゃくしゃと目を瞬かせ、口を間いたまま、突然|惚《ぼ》けに襲われてしまったような顔で喉仏をごろんと一往復させた。
「不動産屋は、知っているよな?」
「へ?」
「このマンションを周旋している、不動産屋さ」
「そりゃあ、ええ、まあ、知ってはいますがね」
おれはポケットから手帳を取り出し、一枚を千切ってそこに自分の名前と電話番号を書きつけ、また一万円札を添えて、それを唖然とした目でしきりに玄関の入り口を眺めている管理人の手に、そっと押し込んだ。
「その不動産屋に連絡して貸し倉庫の手配をさせてほしい。今部屋に残っているものはぜんぶ倉庫に預ける。掃除も代行業者に任せる。それが終わったら、一切の清算はおれのほうでやる」
管理人がまた目をしょぼつかせ、それでもおれの言ったことだけはなんとか理解できたらしく、椅子に座り込みながら、ひょいと首を前につき出した。
「一つ、訊いてもいいかな」
「へ?」
「昨日婆さんと一緒に来た女の子、今までに見たことはないか?」
「見たことは、なかったと思いますよ。なんですか、木崎さんのお嬢さんだとかいうことで」
昨日おれがお松さんと亜由子をこのマンションに来させることについて、おれはお松さんにも亜由子にも一言も場所の説明はしなかったはずだ。それでも二人はちゃんとやって来たわけで、だから少なくとも亜由子のほうだけは以前にもこのマンションに来ていたことになる。今更そのことを僻むつもりもないが、要するに、この男の管理能力と記憶力はその程度のものなのだ。
あと始末の念を押し、札を言って、おれはそのマンションを出た。
朝飯を食わずに家を出てきたものの、時間だけは、まだ腐るほどある。おれの人生にはいつだって時間は腐るほどあったが、今日の、このなん時間かだけは特別に時間があることに腹が立つ。『人生は死ぬまでの瑕つぶしだ』と言ったのはどこかの馬鹿な小説家で、おれもその意見にある程度は賛成するが、しかし死ぬまでの暇はつぶせても、目の前のこの暇だけはどうにもつぶしきれない。
おれが瑞宝堂に行ったのは日比谷の映画館街で洋画のロードショーを見て、二時間も時間をつぶした、そのあとだった。
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こう毎日のように顔を出せば、店員だっていい加減人の顔は覚える。おれが瑞宝堂に入っていくと、最初の日にもいた女店員が内線で階上に連絡をとってくれ、案内も受けずにおれはそのまま二階の社長室にあがっていった。
朝倉文子はソファではなく、仕事机の向こう側に座って、眼鏡をかけた生真面目な顔でなにかの書類に目を通していた。うすいブルーのブラウスに白いジャケットが、朝倉文子の小さい横顔を妙に子供っぽく見せている。
「五分ほど待ってもらえる? この書類だけ見てしまうから」と、椅子に座ったまま、視線だけをおれに向けて、朝倉文子が言った。
「仕事の邪魔はしないさ。足が勝手に君のところへ歩いてきただけだ」
おれは一昨日《おととい》と同じソファの、同じ場所に座り、煙草に火をつけて、視線を書類に戻した朝倉文子の端整な横顔を遠くからぼんやりと眺め始めた。
その独身の理由を訊けば、どうせ『仕事が忙しいから』と答えるに決まっている。しかし忙しい仕事を持っていても結婚ぐらいしている女は、いくらだっている。それとも宝石というのは、女にとって家庭や結婚を犠牲にするだけの価値のあるとんでもない化け物だとでもいうのだろうか。
制服を着た女店員が、社長室に二人ぶんの紅茶を運んできて、それを合図のように、朝倉文子が書類を閉じておれのほうに歩いてきた。
「待たせたわね」と、眼鏡を外しながら、おれの向かい側に座り、軽く溜息をついて、朝倉文子が言った。「今の季節はメーカーや問屋の見本市が一番多いときなの。わたしとしても流行だけはチェックしておく必要があるのよ」
「君にこれほど仕事が似合うとは、あのころは誰も思わなかったろうな」
「あのころは父も元気だったし、わたしもお嬢さま気分が抜けなかったものね」
「今だってそのまま、いくらでもお嬢さまで通用するさ」
紅茶のカップを取りあげ、くすっと笑って、おれの顔に焦点を合わせながら朝倉文子がその色のうすい目を大きく見開いた。
「可笑《おか》しいわね、佐原くんのその言い方、本当に昔と変わらないわ」
「昔のほうがもう少し品は良かったさ」
「そう? それじゃ昔、わたしと志保美を二股かけたの、あれは下品じゃなかったの?」
「あれは、そういうつもりでは、なかった」
「わたしが知らないと思っていた?」
「あれはだから、おれとしても、難しい問題だったんだ」
「難しい問題からいつもかんたんに逃げられて、幸せな性格よねえ」
おれは、おれの顔を無邪気に覗き込む朝倉文子の視線を避け、紅茶のカップに手を伸ばして、それをスプーンで掻き回しながら受け皿ごと自分の膝に引き寄せた。
「あれから時間もたったし、志保美もいなくなった」と、紅茶を一口口に含み、カップを受け皿に戻してから、おれが言った。「君が知らなかったことで、一つだけおれは君に告白することがあるんだ」
「そんな告白、こういうムードのない部屋でしても、いいのかしら?」
「おれの決意の問題さ。この決意をするのに今朝から五時間もかかっている。君、おれがずっと君に劣等感を持っていたこと、知っていたか?」
「佐原くんが?」
「おれは初めて君に会ったときから、ずっと劣等感を持ちつづけていた」
朝倉文子が、紅茶のカップを静かにテーブルに置き、静かに煙草を抜き出して、銀色のライターで静かに火をつけた。
「それが、佐原くんの告白?」
「自分の劣等感を直接相手に打ち明けるなんてこと、おれは今まで一度もしたことはなかった」
「佐原くんが佐原の家の養子だという、あのこと?」
「そんな問題じゃない。そんなことは、おれは子供のときから自分で訓練をしている。おれが君に持っていた劣等感は、男として君に感じた純粋な劣等感さ」
「そういう難しい話、今どうしてもしたいわけ?」
「おれは五時間もかかって決意した。君にだって話を聞くぐらいの義理はあるだろう」
「義理でそんな話を聞いても、わたしには理解できないと思うけどな」
「理解できるさ。どんな難しい話だって君ならかんたんに理解できる。大学のときも成績は君のほうがずっと上だった」
「そんなことが、劣等感?」
「いや、そんなことはもちろんたいした問題じゃない。おれが君に対して持っていた劣等感は、君が、最初から最後まで、一度も本気でおれに惚れてくれなかったことさ」
ふっと、短く煙を吐き、火をつけたばかりの煙草を、朝倉文子が首をかしげながらまっすぐ灰皿の上に突き立てた。
「佐原くん、お互い大人になっていて、よかったと思わない?」
「お互い大人になったからこういう告白もできる」
「もう少し若かったら、わたし本気で怒っていたわね」
「そんなことはないさ。これがたとえ二十年前でも、君はぜったい本気では怒らなかった」
「だっていつも二股かけていたの、佐原くんのほうじゃない。志保美の前にだって一人いたはずでしょう」
「だから、それは、自信がなかったからさ。おれは君に対していつも自信がなかった。おれたちはなん度もデートした。それでもおれには、君が本当はなにを考えているのか、最後までわからなかった」
「佐原くんのほうがそれを言うの、そんなの、勝手すぎるわよ」
「おれが志保美とつき合いはじめたころ、一度だけ君に訊いたことがある。覚えているよな?」
朝倉文子が、視線をあげずに脚を組んで、そのまま軽くソファの肘かけに左の腕をもたれさせた。
「おれは君に、本当にそれ[#「それ」に傍点]でいいのかと訊いた。君は、なにも答えてくれなかった」
「それは、佐原くんの、勘違いだわ」と、さげたままの視線を、小刻みに窓のほうにふって、朝倉文子が言った。「自信がなかったのはわたしのほうだった。わたしとつき合っていても、佐原くんはいつも横目で他の女の人を見ていた。佐原くんが本気でわたしのことを好きなのか、わたしのほうが、自信がなかったのよ」
「その言い訳は君が二十年も前から用意していたものだ」
「どういう、意味?」
「意味は、そういう意味さ。君はおれとつき合っている間も、その言い訳をずっと頭の中で用意しつづけていた。今度の志保美のことがなければ、おれだってたぶんその言葉を信じていたろうな」
脚を組んだまま、煙草の箱に手を伸ばし、一本を抜き出して、朝倉文子がそれにまた銀色のライターで、しゅっと火をつけた。
「志保美の事件で、佐原くん、混乱しているんだわね」
「おれは冷静になっただけさ。冷静になって、おれはおれたちの二十年間を考え直してみた。君がなぜ一度もおれに心を開かなかったのか。志保美がおれたちの間に現れたとき、君はなぜあそこまで無関心だったのか。おれと志保美が結婚してからも、君はなぜおれたちの家に遊びにこられたのか。おれとはつき合わなくなったあと、君はなぜ志保美とだけつき合いつづけていたのか。それはおれが君に対して魅力のない人間だったからだと、おれはずっとそう思っていた。その劣等感をずっと持ちつづけていた。それが、本当はそうではなかったことに、志保美が死んでからやっと気がついた」
「世界中で誰か一人でも佐原くんを好きにならない女がいたとしたら、それは女のほうが悪いわけ?」
「そう考えたら、下品すぎるか?」
「下品だとは思わないけど、幸せな性格だとは思うわね」
「おれは世界中の女のことではなく、特別な、君という女について言ったつもりだ。君もいつか言ったじゃないか、君の死んだ親父さんは、もし志保美が男だったら、君と志保美を結婚させていたかもしれないと」
朝倉文子が、ソファの肘かけから腕を外し、組んでいた脚も解いて、指に煙草を挟んだまま黙って仕事机のほうに歩きだした。
「散歩の途中に寄っただけなら、佐原くん、そろそろ帰ってもらえない?」と、机の向こう側まで歩いてから、そこの椅子に座り、煙草を灰皿の上に突き立てて、朝倉文子が言った。「わたしも昔とは立場が違うの。いつまでも暇な人の相手はしていられないわ」
「おれだってこれが最後でなければ、長居はしないさ」
「最後? これが?」
「おれたちがこういうふうに会うのはこれが最後という意味。君にだって、もうわかっているはずだ」
朝倉文子の色の薄い目が深い部分できらっと光り、形のいい唇の端が、頬の動きにつられてくっと引きつった。
「志保美が死んだことは、もちろん残念だ。しかしそれ以上に、志保美を殺した犯人が君であったことが、おれには残念で仕方がない」
ほんの一瞬、空気の中に、なにか硝子が亀裂《ひび》われるときのような、ぴーんという音が鳴り渡った。しかしそれはたぶん朝倉文子の座っている椅子が軋《きし》んだか、おれの神経がおれの耳の中で軋んだか、どうせ、そんなところだ。
朝倉文子の唇がかすかに震え、しばらくたってから、その口の右端から白い八重歯が、ゆっくりとこぼれ出た。
「佐原くんが、いつかはそんなことを言い出すような気はしていたわ。あなたは昔から人騒がせな人だった。でもさっきも言ったように、そういうあなたの冗談につき合えるほど今のわたしは暇ではないの」
「おれのほうも君が思っているほど暇じゃない。君だって冗談で、志保美と上条準次を殺したわけではないだろう」
「本気? 佐原くん、本気でそんなことを言ってるの?」
「これがなにかの、悪い冗談であってほしいとは思うさ」
「佐原くんが今日が最後だと言うのなら、わたしのほうは、それで構わないけど?」
「最後にしたくなくても、間違いなくおれたちは、これが最後だ」
おれは、そこでまた紅茶のカップを口に運び、乾いた唇に湿り気を与えてやってから、レモンの輪切りを口に含んで乾いた神経にも無理やりの余裕を与えてやった。
「おれも初めのころはうしろ姿でよく君と志保美を間違えたもんだ」と、レモンの輪切りを飲みくだしてから、ソファの中に座り直して、おれが言った。「君は一日《ついたち》の夜、十時に、志保美のマンションから出ていくところを管理人に見られている。ただそのときは君が志保美のコートを着ていたので、管理人は君を志保美だと思い込んでしまった。そのこと自体はまったくの偶然だった。君だってあの日志保美を殺そうと思ってマンションに行ったわけではない。その証拠に志保美を刺した庖丁は志保美が自分で使っていたものだった。君たちの間に口論があったのか、なかったのか、それは知らない。しかしとにかく、君があの庖丁で志保美を刺し殺した。返り血を浴びた君はそのまま帰るわけにもいかず、ちょうど部屋にあった志保美のコートを着て帰った。それだけのことだった。君が志保美のコートを着て帰ったのも偶然だったし、玄関で管理人がそれを見たのも、やはりただの偶然だった。なにもかも君にとっては都合のいい偶然が重なったわけで、それだけで済めば、もしかしたら君が犯人だとは誰も気づかなかったかもしれない」
「悪い冗談もこれまでにたくさん聞いたけど、今佐原くんが言った冗談、その中でも最低だわ」
「冗談だとしたら最低さ。事実だったとしても、やはり最低だろう。しかし志保美が殺された時間が十時以降だという前提があったからこそ、十時半という君のアリバイが成立したんだ。もし志保美が十時より前に死んでいたとしたら、基本的に君のアリパイは、意味がなくなる」
「そういうのは冗談ではなく、言いがかりというの。たとえわたしにアリバイがなかったとしても、あの日あの時間にアリバイがない人間なんて、いくらだっているじゃないの」
「いくらでもいるが、志保美を殺す動機のあった人間は、それほどいるわけじゃない」
「動機? わたしに? わたしが志保美を殺す、どんな動機があるっていうの? わたしと志保美は二十年もずっと親友だったのよ。志保美が青山に店を出すときだって、わたしは出来るかぎりの協力をした。それぐらいのこと、佐原くんだって知っているはずじゃない」
「君が志保美とつき合っていたのは、本当にただ親友としてだったのか?」
口を開きかけ、しかし言葉は出さずに、目の強い光だけを、机の向こう側から朝倉文子がじっとおれの顔に送ってきた。
「君のそういう体質を、たぶん、志保美は知らなかったはずだ」と、ズボンの膝に、掌の汗を半分無意識でこすりつけながら、おれが言った。「志保美は君をふつうの意味での親友だと思っていた。君にしても本質的に男を好きになれない自分の体質を、他人に気づかれるようなことはしなかったはずだ。おれも気づかなかったし、志保美も気づかなかった。君は二十年間、志保美に対する感情を『親友』という言葉の中に押し込みつづけてきた。その君の理性が、あの日、壊れてしまった」
おれは自分が座っていることに我慢ができなくなって、立ちあがり、絨毯の上を並木通りに面している窓の前まで、ゆっくりと歩いていった。
「直接のきっかけは、もちろん、丸越の中で『ジュエル・青山』が瑞宝堂に代わりかけたことだった」と、窓の外の、並木通りに目をやったまま、おれが言った。「君はおれに、丸越の件では志保美が辻村和郎に働きかけたと言った。しかし実際は辻村のほうが志保美を追いかけていたんだ。辻村は志保美がまだ中学生だったころから、ずっと志保美に片思いをつづけていた。世の中には一人の女にへんな執着を持つ男がいる。辻村はそういうタイプだ。辻村は木崎商事との取り引きも絡めて志保美に関係を迫ったのかもしれない。その中には当然、『ジュエル・青山』を丸越に入れる条件も含まれていた。志保美がその話を受け入れたのか、実際に辻村との関係がどこまで進んでいたのか、そんなことは知らないし知りたくもない。しかし丸越において『ジュエル・青山』が瑞宝堂に取って代わる方向だけは、どうしようもない事実になっていた。君がそれを知ったのは、もちろん、上条準次を使って調べさせたからだ」
おれはそこで一度言葉を切り、朝倉文子の気配に耳を澄ませてみたが、朝倉文子は机に片肘をついて座ったまま、無表情にただ目の前の空間を見つめているだけだった。
「あの日、あの部屋で、君と志保美の間にどういうやり取りがあったのか、だいたいの想像はつく」と、勝手に窓を開け、部屋の中に外の空気を通して、おれが言った。「あの日君は上条が調べた報告書をつきつけて、志保美に丸越の件は諦めるように迫った。君はその証拠を、丸越の社長派に渡すことだってできる。そうすれば辻村も失脚するし、志保美もスキャンダルに巻き込まれる。君もそれぐらいのことは志保美に言ったろう。志保美はどういう反応をした? おれも志保美の性格は知っている。けっして優しい女ではなかったが、他人に卑怯な真似をすることだけはなかった。そのぶん逆に他人が自分に卑怯な行為をすることも許さなかった。志保美だって瑞宝堂が君にとってどれぐらい大事なものか、わかってはいたと思う。君と志保美が冷静に話し合えば、もう少し時間をかけていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。ただ君には時間がなかった。君はどんなことをしても丸越を手放すわけにはいかなかった。その瑞宝堂の危機が、君の理性を破壊してしまった。君は二十年間隠しつづけてきた志保美への気持ちを、あの日、ついに、志保美にぶつけてしまった。そのとき志保美がどういう反応をしたか、君になにを言ったか、そのこともおれには想像がつく。そして最後には君が我慢しきれなくなった状況も、やはり、おれには想像がつく」
「佐原くん、窓、閉めてくれない?」
朝倉文子が不意に立ちあがり、視線を外したまま、表情は変えずにゆっくりとおれのとなりに歩いてきた。
おれは開けたばかりの窓を閉め、おれと並んで下の通りを眺めはじめた朝倉文子の横顔を、横目で、ちょっと盗み見た。化粧が濃いわけでもないのに、その顔には染みも皺もなく、蝋細工のような皮膚になにか感情の影が現れているわけでもなかった。この整いすぎるほど整った奇麗な顔に、昔からなん人の男たちが意味のない憬れを持ったことか。
「大きなお世話だろうけど、最後だと思って、もう少し我慢してくれ」と、乱れていない朝倉文子の静かな呼吸の音を聞きながら、窓の外に目をやったまま、おれが言った。「君が志保美を殺してしまったことは、あれは、ある意味では一種の不可抗力だった。しかし上条準次まで殺したのは、少しやりすぎだった」
朝倉文子は、それでも口は開かず、なにを見ているのか、表情のない視線をただじっと窓の外に注いでいるだけだった。
「上条がなにを考え、どういう動きをしているのか、おれには最後までわからなかった。その理由は上条がなにか特別なことを考えていたわけでもなく、特別な動きをしていたわけでもなかったからだ。やつはただ今度の事件に関係していた人間全員から、少しずつ金をせびり取っていただけのことだった。マルコスの財産処分に係わった木崎周一からも威《おど》し取ったし、それに手を貸した南礼子からも巻きあげた。おれにだって、やつはどうでもいい情報を十万円で売りつけた。でも上条の本命は、あくまでも君だった。君が上条を雇って志保美と辻村の関係を調べさせていた以上、上条でなくても志保美を殺した犯人の見当はつく。上条が君に要求した金額は、おれや、南礼子や木崎周一に要求した金額とは桁が違っていたはずだ。たとえ一度金を払ったとしても、上条は死ぬまで君につきまとう。君にはそんなことは我慢できなかった。君は上条に酒を飲ませて、絞め殺し、死んだ上条の口にダイヤを一粒押し込んだ。それが人造ダイヤだとわかれば容疑はその人造ダイヤで五年前に詐欺事件を起こした、南礼子に向く。あの前の日、おれがここへ来たとき、おれは南礼子が詐欺事件に関係していた事実を警察に伝えてあると君に話してしまった。志保美を殺したときのような偶然を、君は二度も信じる気にはならなかった。君は偶然が期待できずに、つい細工に走ってしまった。君にだってその細工の下手さ加減はわかっていたはずだが、それでもやはり、なにかの細工をしなければ君は不安で仕方がなかった」
おれの頭の中に詰まっていた台詞は、そこで種切れになり、おれは軽く深呼吸をして、朝倉文子の顔は見ずに一歩だけうしろに退いた。
「あなたって、本当に、昔から困った人だった」
溜息のように、長く息を吐いてから、顎だけをおれのほうに回して、いつの間にか表情の戻っていた目で朝倉文子が下からじっとおれの額を覗き込んだ。
「佐原くん、今まで一人でも、誰か女の人を幸せにしたことが、あった?」
「そういう余裕は、おれには、なかったかもしれない」
「志保美も言っていたわね」
「志保美が?」
「十年以上あなたと暮らしたけど、最後まであなたのことは理解できなかったって」
「志保美が生きていれば、おれのほうもお互いさまだと言ってやったさ」
「一つだけ、訊いていい?」
それには答えず、朝倉文子の顔から視線を外して、黙って、おれがうなずいた。
「佐原くん、最初にわたしたちが知り合ったころ、どうして無理にでもわたしを奪おうとしなかったの?」
「急には、返事を、思いつかないな」
「わたしが少しおかしいこと、やっぱり、感じていた?」
「考えたこともなかった。おれはただこの女とは遊ぷだけのつき合いはしてはいけないと、そう思っていただけだ」
くすっと、八重歯を見せて笑い、また窓の外に視線をもっていって、頬にかかった髪を朝倉文子が指の先で軽く上に掻きあげた。
「お互いばかばかしい勘違いを、二十年もつづけていたのかしら」
「あのときおれが無理やり君を奪っていたら、人生が、変わっていたと思うか?」
「そんなことはないわ。そんなことはないけど、でも今よりはあなたのことを素直に恨めたかもしれない。志保美を恨むより佐原くんを恨むほうが、わたしにとっては、ずっと楽だったかもしれない」
おれは、一応朝倉文子にうなずいてやり、絨毯の上を少しうしろにさがって、それから向きを変え、窓の前に朝倉文子を残したままドアに向かってそっと歩き出した。
「風が、強いわね」と、窓の外に顔を向けたまま、腕を組んで自分自身に言い聞かせるように、朝倉文子が言った。「銀座のこんなところにまで桜の花が飛んでくることが、わたし、子供のころからずっと不思議だったわ」
並木通りの舗道を、今にも雨を降らせそうな重い風が埃を舞いあげながら新橋の方向に吹き抜けていく。
おれが端宝堂の建物を出て、有楽町に歩くか中央通りに歩くか、一瞬考えているとき、八重洲の方角から白と焦げ茶の二台の乗用車が風に吹かれるように近づいてきて、おれの立っている歩道側にばらばらに駐車してきた。
二台のクルマからは、背の高さがみな同じような、それぞれ二人ずつの男がおりてきた。その先頭にたって歩いてきたのはトレンチコートの胸元から臙脂色のネクタイをはみ出させた、正木耕市だった。
おれのすぐ前まで歩いてきて、そこで今度は端宝堂のドアとおれの顔を見くらべながら、うんざりしたように、正木が言った。
「おまえ、よっぽど警察の先を越さんと気が済まない性格らしいな?」
「これでも映画まで見て時間をつぶしたんだ」
「朝倉文子、いるのか?」
「二階の社長室だ」
正木が他の三人に顎をしゃくり、三人はうなずいただけで、一言も喋らずにつづけて端宝堂の中に入っていった。
「おまえのほうは、どうした?」と、男たちのうしろ姿を横目で追っていた正木に、おれが訊いた。
「辛子色のコートは出てこなかった。そんなもの、六日もあれば誰だって処分するさ」
目を端宝堂のドアに向けたまま、トレンチコートのポケットに両手をつっ込んで、正木が、しゅっと鼻水をすすった。
「ただ家政婦の証言では、一日の夜十時半、帰宅したとき朝倉文子は間違いなく明るい辛子色のコートを着ていたそうだ」
「現物が出てこないと、証拠としては弱いんだろうな」
「朝倉文子が美人だろうが金持ちだろうが、手加減はせんさ。問題は自白だ。おまえや世間がなんと言おうと自白さえ取れればこっちのもんだ」
「彼女のクルマから、靴の泥とか上条の髪の毛とか、出てきたのか?」
「そういうことを調べるには最低でも一日かかる。車内クリーニングがしてあれば、なにも出てこないことだってある。しかし警察の記録にはおまえが言ったとおり、現役時代すでに上条が朝倉文子と接触していた記録が残っていた。四年ほど前端宝堂のショーケースが破られて宝石がなん点か強奪された事件があった。犯人はすぐ捕まったが、上条はその事件を担当した警官の一人だった」
舌打ちをして、喉をしぼり、自分の足下に向かって、正木がぺっと痰を吐いた。
「それから、ついさっき、小川真也の身柄も広島県警が拘束した。やつが言うには逃亡を謀《はか》ったのではなく、あの地方の宝石店にアクセサリーのセールスに出ただけだそうだ。南礼子と二人で『ジュエル・青山』の商品に手をつけていたことは認めたが、殺人のほうは否認している。一日の夜彼女と酒を飲んだという証言も嘘ではないらしい。もちろん今となっちゃ、そんなことはどうでもいいけどな。これでおまえが事件に首をつっ込みつづける理由は、どこにもなくなったわけだ」
「善良な一般市民がこれ以上警察にサービスしたら、具合が悪いか?」
「サービスは俺たちのほうでやってるさ。こっちはそれで食ってる。善良な一般市民はせいぜい消費税に反対して、暇があったら不倫にでも励めばいいんだ」
正木が、ぷいっと瑞宝堂のほうに歩きだし、そしてそこで立ち止まってしばらくおれに背中を見せてから、なにか口の中で呟きながらまたおれの前に引き返してきた。
「一応、これ、返しておくぜ」
その正木の、トレンチコートのポケットから出てきた手に握られていたのは、おれが『華夜』に最初に行った夜小野寺香代に渡した、あの水晶のペンダントだった。
「意外かもしれんが、つまり、そういうことだ。二十年もたって香代もいい加減おまえのことは忘れていると思ったが、どうも、俺が甘かったらしいや」
おれはそのペンダントを、黙って正木の手から受け取り、ハンカチには包まず、剥き出しのままズボンのポケットにしまい込んだ。確かめたわけではなかったが鎖が切れて水晶がネックレスから外れていることぐらい、おれにも一目で判断はついていた。
「おまえから見れば下司《げす》かもしれんがな」と、目蓋のたれさがった目の奥を、濁った色に光らせて、正木が言った。「新宿で香代がやくざと事を起こしたときから、俺はずっとやつの面倒をみている。今更おまえにあの女を渡すわけにいかないんだ。あいつに惚れて自分のものにするまで、俺には二十年もかかった。たとえ自分の首が飛んでも香代だけはおまえに渡さん」
四角い顎を、なん度か勝手にうなずかせて、うしろ向きに歩きながら正木がそのぶ厚い手を、ひょいとおれのほうに持ちあげた。
「それからおまえがいい気にならんように、一つだけ言っておく。警官てのは人殺しの一人や二人捕まえたからってすぐ警部になれるわけじゃないんだ。警察も世の中もおまえが考えているほど甘いもんじゃない。おまえはせいぜい探偵小説の構想でも練って、あとは自分の娘が不良にならんように毎日子守歌でもうたっていればいいんだ」
正木がそこで、くるっと背中を回し、あとは一度もふり返らずにドアを押してそのままのっそりと瑞宝堂の中に姿を消していった。
おれはそこに立って古い真鍮《しんちゅう》のドアが閉まりきるのを待ったあと、一つだけ深呼吸をし、行く先も決めないまま並木通りを常に向かって歩き始めた。もうしばらくそこに立っていれば正木たちと一緒に朝倉文子が建物から現れる光景に出合ったろうが、そんなものを黙って見ているような資格は、おれにはない。正面からの風がおれの顔を吹きさらし、音を立ててうしろに飛んでいく。たとえ雨が降らなくてもこの風で東京の桜は確実に散りきる。
正直なところ、おれはなにも考えてはいなかった。ただまっ白な頭を疲れた肩にのせて、風の強い舗道をぼんやりとあてもなく歩いているだけだった。正木も小野寺香代も、南礼子も朝倉文子もそれから死んだ志保美も、みんな手もふらずにおれの人生から消えていく。誰一人としておれをふり返らないのは、おれが誰一人として呼び止める努力をしなかったからだろう。おれ自身その人生のあり方を納得しているわけではないが、納得しないままつづけていくのが人生であることも、やはりおれは納得している。
明日は、亜由子の入学式か。事件の混乱でおれは亜由子の入学祝いをまだなにも考えていなかった。今朝の亜由子の台詞ではないが、亜由子だっていつかはおれの人生から消えていく。おれの宿命としての人生のかたちは、そのときもやはりただ黙ってそれを見送るしかないということだろうか。しかし、それにしても、ふつうの父親というのは、娘への入学祝いにいったいどんなものを用意してやるのだろう。
行く先を決めかね、おれがぼんやりつっ立っていたのは、並木通りが晴海通りにつき当たるその五丁目側だった。
そのときうしろから、おれはなにか妙な力に、上着の裾をちょんちょんと引っぱられた。その引っぱられ方にかすかな記憶はあったものの、あまりにもの意外さに、おれの常識は一瞬ふり返ってみるだけの勇気もおこさせなかった。
ふり返らなかったおれの代わりに、おれの前に回り込んできたのは、やはり沢村萌だった。
「どうしました? むずかしい顔してるじゃないですか」
「君、いったい、どこから出てきたんだ?」
「瑞宝堂からですよ。わたしが瑞宝堂にいたこと、知りませんでした?」
その沢村萌の笑顔に、おれは本心からとんでもなく感激はしたが、だからってもちろん沢村萌が瑞宝堂にいたことも知らなかったし、おれのあとを尾行《つけ》ていたことなんて、もっと知らなかった。
「今日瑞宝堂に行ったのは、ただの偶然か?」
「必然的な偶然です。佐原さんの顔だって最初から観察していたし、最後に刑事さんが来たところも見ていました」
その言葉の意味は、おれが朝倉文子を訪ねていった状況も正木たちが瑞宝堂にやってきた理由も、だいたいは理解しているということなのだろう。おれのことはともかく正木たちの風体からその職業を見抜いたとすれば、冗談ではなく、この子はもしかしたら本当に探偵の天才なのかもしれなかった。
「その必然的な偶然てやつを、よかったら、教えてくれないか?」と、ズボンのポケットの中で、切れたネックレスの鎖を指にからませながら、おれが言った。
「敵状視察です。決まってるじゃないですか」と、風の中でポニーテールをふって、沢村萌が答えた。
「瑞宝堂の、なにが敵なんだ?」
「わたしが『ジュエル・青山』をやるとしたら、最初の敵は瑞宝堂です。佐原さん、昨日わたしに言ったこと、忘れました?」
冗談で言ったのか本気で言ったのか、そのときの気分は覚えてはいなかったが、昨日おれが沢村萌に「君が『ジュエル・青山』をやればいい」と言ったことだけは、おれもきっぱりと思い出した。
「思い出しました?」
「思い出すことは、思い出した」
「考えてみたら意外にいいアイディアです」
「しかし君、昨日はできないと言ったはずだ」
「一晩眠れば考えは変わります。人間てそういうものですよ」
「おれは、一晩寝たぐらいじゃ、そこまで考えは変わらないな」
「どういう意味ですか?」
「特別な意味はないさ」
「昨日わたしに言ったこと、あれ、冗談ですか?」
「いや……完全に冗談だったわけでは、ない」
そのとき、突然おれの頭に、いっぶにんぐ[#「いっぶにんぐ」に傍点]ドレスを着たお松さんとポニーテールをふって歩き回る沢村萌が二人で『ジュエル・青山』に君臨しているものすごい光景が、ぱっと浮かびあがった。その頭の中の光景におれの美意識が特別な拒否反応を示さなかったのは、おれが疲れているからでも、自棄《やけ》をおこしているからでもなかった。なんの根拠もなかったが、冗談ではなく、おれはそれもいいかもしれないとけっこう本気で思い始めていた。少なくとも亜由子が自分の意思で自分の財産を管理できる年齢になるまでは、冗談ではなく、けっこうそれはいいアイディアであるかも知れない。
「明日は娘の入学式なんだ」と、信号が青に変わった横断歩道を、沢村萌を促して歩き出しながら、おれが言った。「娘への入学祝いを、やっと思いついた」
沢村萌が、スキップをふむようにおれの前に回り、そのままうしろ向きに歩きながら、首をかしげておれの顔を覗き込んだ。
「娘の入学祝いには、家庭教師をプレゼントする」
「もしかしたら、それ、わたしのことですか?」
「あの店もやってもらうが、君には娘の家庭教師もやってもらいたい」
「わたし、高校生を教えられるほど頭はよくないですよ」
「君は少林寺拳法を教えてくれればいいだけさ」
おれの顔を覗き込んでいた沢村萌の頬が、ぷくっとふくらみ、その瞬間黒目がぎゅっとまん中に寄り集まった。
「それからもう一つ、娘には君のその寄り目も教えてやってもらいたい」
立ち止まった沢村萌が、大袈裟な身ぶりでおれの胸に突き[#「突き」に傍点]を入れる真似をしてみせたが、その拳はおれの上着をかすめたところで、ぴたっと静止した。見かけよりもずっと沢村萌は少林寺拳法の達人なのかも知れなかった。
おれは取り出しかけていたネックレスをズボンのポケットに戻し、沢村萌のポニーテールをつまんで、晴海通りをまた築地の方向に歩きはじめた。ネックレスの問題は亜由子と沢村萌が知り合いになれば二人でなんとでも解決してくれる。ネックレスの問題だけでなく、人生のどんな問題も、この二人ならきっとうまく解決してくれるにちがいない。
「佐原さん」
「ん?」
「風が強いですね」
「そう、だな」
「桜も今日で終わりです」
「たぶんな」
「ヤキソバ、食べますか」
「またヤキソバか?」
「オデンでもいいですよ」
「まさか千鳥ヶ淵まで歩いて……」
言いかけて、しまったと思ったが、もう後悔をしても遅かった。来た道をふり返った沢村萌がおれの腕を引っぱり、視線を戻してきて、案の定にやっと不気味な笑い方をした。二日酔いで寝不足で、それに今日はおれにとってはとんでもない一日だったと愚痴を言うのはかんたんだったが、思い直して、おれは沢村萌に負けないぐらい不気味ににやっと笑い返した。千鳥ヶ淵まで歩いて桜を見てオデンを食うぐらい、おれにだってできないことはないのだ。今更誰も褒めてはくれないだろうが、いつもうしろを向いていた人生のかたちをちょっとだけ前に向けてやったところで、恥ずかしいことはなにもないではないか。
気がついたときには、おれはもう完璧に『人の道』を踏み外し、沢村萌の手を握って来た道を有楽町の方向に戻りはじめていた。
東京の桜はたしかに今日で散りきるだろうが、同じ桜は、来年もまた咲く。
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底本
単行本 徳間書店刊
一九九〇年一〇月三一日 第一刷