苦い雨
樋口有介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)親子三人が安穏《あんのん》と暮らせるほど、
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三人|兄妹《きょうだい》ということか。
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くもり空と小雨の日がくり返されて、季節はあっさり梅雨に入ってしまう。悠長に窓をつたう雨滴、つぎめが五ミリはがれた壁紙、他人の汗がにおう電話の受話器。灰色にしか見えない北の丸公園の森も、空の低い位置に鬱陶しく押し込められている。人生をやめてしまおうとまでは思わないにしても、靴がぬれたり風呂場に黴がはえたり、これからはつまらないことで気の滅入る日がつづく。
デスクには刷りあがったばかりの『アースレポート』が積まれ、窓の雨を眺めながら、高梨は漫然と宛名ステッカーを貼りつづける。急いで発送するほどの雑誌ではないが、夜の八時まではこれで時間をつぶすことに決めていた。雨の二日酔いの土曜日の午後で、無理に女を呼び出す気分でもなし、昼間から酒を飲むほどのアルコール依存症でもない。窓の外には無気力に雨がふっていて、除湿にしているクーラーが狭い事務所に催眠術のような振動をひびかせる。
ドアがノックされ、返事をする間もなく、セーラー服にカーディガン姿の夏実がひょっこりと部屋に入ってきた。時間は午後の二時、夏実の高校は私立で、土曜休日は採用していなかった。
「シャツと靴下、着がえをもって来たよ」
勝手にデスクまで歩いてきて、雑誌の山から顎を突き出し、夏実が丸い目で高梨の手元をのぞき込んだ。
「下着はコンビニで買ってる、風呂もサウナに入ってるさ」
「そういうことしてると過労死するよ。パパぐらいの歳って、一番あぶないよ」
「今夜は帰るつもりだった、お母さんにも電話で言ってある」
「雑誌の発送までパパがやるなんて、中小企業のつらいところだね」
夏実が手さげ袋と学生鞄をソファに置き、色のうすい唇をとがらせて、同情もなくため息をつく。
「理想を実践してるんだ、俺はすべての社員に博愛の精神で接してる」
「二人だけの社員に?」
「博愛の精神は疲れるからな、二人もいればじゅうぶんさ」
高校生になったばかりの夏実に、中小企業と零細企業の区別がつかないのは当然のことだ。公称は一万部でも実売は三千部、そんな業界誌で親子三人が安穏《あんのん》と暮らせるほど、日本の経済も寛容ではない。情報の横流しもやるし、土地転がしの上前をはねることもある。バブルのころは公言できないほどの裏金もころがり込んだ。しかし沙希子と夏実が高梨の仕事をまともな『林業関係の業界誌』と信じていたとして、それで世間体と家族の経済が平和におさまれば、他人に文句を言われる筋合いもないだろう。
「おまえが会社に来るなんて、お母さんからは聞いてなかった」と、宛名リストのコピーを机に放り、タバコに火をつけて、高梨が言った。
「ママが忘れたんだよ。わたしが会社に来たら、パパ、困る?」
「顔ぐらいは洗っておいた」
「やーだ、顔も洗ってないの。本当は下着もかえてないんでしょう」
「昨夜は仕事が遅かった。そろそろパンツを買ってきて、髭を剃ろうと思っていた」
夏実が華奢な首をのばして、二重《ふたえ》の沙希子に似た目で高梨の顔を見おろし、唇の端を結んで、ぽんと肩を叩いてきた。
「やっぱりパパ、会社ではタバコを吸ってるんだね」
「原稿を書いたりしてると、つい、吸ってしまう」
「ママには内緒にしておくよ。わたしね、今日は昼食《おひる》を食べないで来たの」
「高い昼飯だな」
「嬉しいでしょう?」
「なにが」
「若い女の子とデートできて」
「若い女の子になんか不自由はしてない、お母さんには内緒だけどな」
眉をしかめてタバコの煙を眺めている夏実に、へたなウィンクを送り、灰皿でタバコをつぶして、高梨はゆっくりと腰をあげた。食事のあとで何をねだられるにせよ、十六歳の女の子が欲しがるものなど、たかが知れている。ダイヤの指輪が欲しいとか、夏休みにヨーロッパを一周したいとか言い出すのは、まだ先のことだ。
「雨、傘をさすほど降ってるのか」
「パパは要らないよ、どうせ服を着がえるんだから」
「俺は、まあ、そうだな」
「わたしは折りたたみ傘を持ってる」
「用心のいいところは母親似か」
高梨は窓から空気の色をたしかめ、タバコを上着のポケットに落として、ソファから夏実の学生鞄を取りあげた。表面には革の新しい光沢があり、手触りにも夏実の躰つきに似た、十六歳の固さが残っている。感傷にひたる趣味はないが、高梨と沙希子が知り合ったのも高校一年の春、三日ほど家に帰っていないせいか、鬱陶しい天気のせいか、妙なところで沙希子の顔が思い出される。二十六年前の沙希子も、今の夏実と同じように生意気な口のきき方をする、固くて清潔な印象の女の子だった。
「それじゃお嬢さん、気合いを入れてデートにまいりましょうか」
「顔も洗ってなくて、髭も剃ってなくて、よくデートする気になるね」
「俺のファンだと言って女子高校生からも手紙が来る」
「家ではラクダの腹巻をしていること、ちゃんと雑誌に書くべきだよ」
「腹巻をして暖房費を節約することが、森林資源の保護につながるんだ。夏になったらステテコをはいて団扇《うちわ》を使って、風鈴をぶら下げてホースで庭に水をまく。世界中の人間がそういう文化を取り入れれば、環境問題なんか簡単に解決するのにな」
「ねえパパ」
「なんだよ」
「疲れてない?」
「四十二年も生きていれば、少しは疲れるさ」
「働きすぎだと思うよ」
「言われなくても考えてる」
「過労死されると困るなあ」
「おまえが心配しなくてもいいんだ」
「わたしね、新しい父親に慣れるまで、時間がかかるの。パパとやったことをもう一度ほかの人とやるの、面倒くさいんだよね」
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神保町界隈は定食屋もあるし、ファーストフードも老舗の蕎麦屋も、学生向けの洋食屋も感謝したくなるほど並んでいる。夏実のねらいはもちろん、食堂のハンバーグランチではない。二、三カ月に一度ひょっこり顔を出すのは、自分の小遣いでは手に負えない社会見学が目的なのだ。沙希子には甘やかしすぎと言われても、夏実に食事や洋服をねだられて痛むほどの懐でもない。『子供というのは百パーセント甘やかして育てるべきもの』というのが、高梨の個人的な教育理論でもあった。
白山通りのアーケードを歩き、それから靖国通りに出て、二人が入ったのはビルの七階にある『竹風亭』という和風レストランだった。席は十席ほど、格式が高いのか気位が高いのか、夜には予約が必要という面倒な店だった。客は少なく、二人は竹の衝立《ついたて》で仕切られた窓から三番目の席に案内された。他の女なら洒落た気分にもなるだろうに、相手がセーラー服に学生鞄をかかえた夏実では、いくらなんでも色気がなさすぎる。
「このお店、前にも来たことがある。河豚《ふぐ》を食べたよ」
「今年の冬か、その前の冬だ」
「いつもこういうお店に来るね」
「おまえとだけ特別さ」
「ママは自然食のレストランしか入らないよ。わたしに言わせると、ママって少し、ケチだと思うな」
「お母さんは夏実の躰を心配してるんだ。俺だっておまえの躰は、心配だけどな」
子供のころの夏実は小児喘息で、沙希子が無農薬野菜に心酔したのは、それが原因だった。前の亭主が医者だった影響もあるのか、小児喘息は農薬や食品添加物によるアレルギーだと、沙希子はかたく信じている。スナック菓子やインスタント食品は人類の天敵、牛乳や卵も提携農家からの直送品を使っている。五年前、浦安に家を建ててからは、庭にヘチマやアロエを植えて天然の化粧水もつくるようになった。最近は紙パックや空き缶のリサイクル運動もやっていて、どこで覚えてきたのか、天ぷら油の残りから石鹸までつくってしまう。
夏実がステーキをコースで注文し、高梨のほうは牛のたたきともずく酢を注文して、やって来たビールを一人で勝手に飲みはじめた。昨夜のアルコールは頭に残っていたが、どうせ今夜も飲むわけだし、人生が終わるまでは肝臓も休めない宿命なのだろう。
「どうだ、学校も少しは慣れたか」と、タバコを我慢し、美味くもないビールを口に運んで、高梨が言った。
「友達はできたよ。東西線で通ってる子も多いの」と、沙希子に似ている広い額に、呑気な皺をつくって、夏実が答えた。「文芸部に入ろうと思ったけど、顧問の先生が厭《いや》なやつなの」
「詩とか小説とか、不健康なものには関わるな」
「でもパパとママは、高校の文芸部で知り合ったんでしょう?」
「それが失敗だった」
「それって」
「不健康な場所で知り合ったこと。テニス部か柔道部で知り合っていれば、あのまま結婚していたさ」
「そんなもんかな」
「そんなもんさ。おまえもクラブなら、運動部に入ったほうがいいな」
「わたしね、強い光に当たると湿疹ができるの。それに運動部は中学からやってる子ばっかり」
「軽くやればいいさ。バレーボール部の球ひろいとか、野球部の球ひろいとか」
「うちの高校、女子校だよ」
「うん?」
「野球部なんかないの」
「残念だったな。男の子のいない学校に、よく一時間もかけて通えるもんだ」
夏実の入った学校は市ヶ谷にある私立の女子高校、三年後にはエスカレータが四年制の大学にまで運んでくれる。浦安から学校まで一時間かかっても、高校の三年間を受験勉強で消耗するより、電車にのって社会見学をするほうが少しは意義もある。
料理が出てきて、夏実が竹の割り箸を使いはじめ、高梨は相変わらずビールを飲みながら、元気よく動く夏実の手元をいくらか自嘲的に眺めはじめた。知らない人間からは似た父娘《おやこ》と言われることもあるが、一緒に暮らすだけで顔が似てしまったら、遺伝子に対して失礼になる。
「学校もクラブも友達づき合いも、最初からあまり、頑張らないほうがいいな」と、皮膚のうすい夏実の頬を眺めながら、タバコの箱をポケットの中に押し返して、高梨が言った。
「分かってるよ、ママにも同じことを言われる。でもわたし、パパやママが思うほど躰は弱くないよ」
「環境が変わったときは神経が緊張する」
「自分ではわたし、順応性は高いほうだと思うけど」
「急ぐことはないという意味だ。急いで生きてもゆっくり生きても、最後にはちゃんと辻褄《つじつま》が合う」
「そんなものかなあ」
「そんなもんさ」
「やっぱりパパ、疲れてるんだよ。最近は休みの日も家にいない」
「仕事の都合で、たまたま、そうなってるだけさ」
「前はディズニーランドに行ったり、魚釣りにも連れていってくれた。うちの家庭って複雑だし、普通よりコミュニケーションが大事だと思うけどね」
ここ二、三年、夏実や沙希子と出歩くことが少なくなったことは、高梨も自覚している。事務所に泊まる回数も多くはなった。家に帰りたくない明確な理由があるわけでもないが、だれにだって家庭や人生に、ぼんやりした倦怠感を抱くことはある。モグラ叩き的な精神分析をやってみても、それで人生の閉塞感が解消されるものでもない。
「パパ、最近、ママと話をしている?」と、箸を口の前でとめ、額に大人っぽい皺をつくって、夏実が言った。
「家に帰れば、話ぐらいするさ」
「社会問題とか、人生の問題とか、真剣に話をする?」
「お母さんの意見は聞かなくても分かる、俺たちはおまえが生まれる前からのつき合いだ」
「甘いと思うな。話し合わなくて分かるほど、ママって純情じゃないと思う」
「なにか、おまえ、言いたいことがあるのか」
「そういう意味じゃないけど、パパとママ、最近コミュニケーションやってるのかなって、そう思っただけ」
夏実が箸を箸置きの上に戻し、目を伏せながら、口を尖らせて、昆布茶の入った湯呑をしゅっと啜りあげた。高梨にも夏実の言いたいことに、見当はつく。しかし沙希子とは高校時代からのつき合いで、結婚してからも十二年がたつ。今更むき[#「むき」に傍点]になってお互いの人生観を主張し合うほど、二人とも若くはないだろう。
「ママが考えていることとか、パパの仕事のこととか、やっぱりさ、話さなければ分からないと思うよ」
「大人同士の関係には距離が必要なこともあるさ」
「水臭いだけだよ。パパってママに対して、へんに水臭いときがある」
「人間としての、礼儀の問題だ」
「ママ、北海道の牧場のこと、パパに話した?」
「うん?」
「帯広の牧場のこと」
「叔父さんだか従兄弟《いとこ》だかがやってる、あの牧場のことか」
「ママの叔父さんが死んでね、だれも跡を継がないんだって。牧場を買ってくれる人を探してるんだって」
「それと、お母さんと、どういう関係があるんだ」
「牧場を買って自分でやりたいらしい。話したこと、ないでしょう?」
「話したことはないが、現実に、そんなこと、出来るわけがない」
「気持ちの問題だよ。牧場なんか出来ないこと、ママだって分かってる。だけど本当は牧場を買いたいと思ったり、田舎に住みたいと思ったりすること、パパに話してもいいと思うの。パパだってさ、仕事のこと、もう少し家で話すべきだよ」
「考えてはみるけどな」
「心配なんだよね。パパとママの仲が悪くなったら、わたし、安心してお嫁に行けないもの」
「好きな男でもできたのか」
「真面目な話だよ。ママは二度も結婚している、三度目になったら大変じゃない」
「おまえ、暇なんだな」
「どういう意味よ」
「夏実が思ってる以上に俺とお母さんは信頼し合っている。よけいな心配をしないで、おまえは早くいいボーイフレンドを見つけてこい」
唇を途中まで開き、頼りなく顎を突き出して、背中をのばしながら、夏実が喉のつまった咳をした。喘息が戻ってきたわけでもないだろうが、白い夏実の頬が怒ったように緊張して、高梨は半分だけ苦笑した。夏実だって今度の誕生日が来れば、もう十六歳、片思いをしているとかされているとか、どうせそれぐらいの事件は起こっている。
「お母さんと結婚するとき、ちゃんと約束した」と、グラスのビールを飲みほし、ポケットの中でタバコの箱をもてあびながら、高梨が言った。「夏実につらい思いをさせない。これ以上父親が変わるような目にはあわせない。人間だから気持ちの揺れはある。ストレスだってある。しかしそういうことのバランスを取りながら、大人は頑張って生きてるわけだ。妙な心配をしないで、おまえは明るく正しい女子高校生をやってればいい」
ボーイが夏実にデザートのアイスクリームを運んできて、高梨はコーヒーを注文し、深呼吸をしてから、タバコを取り出して火をつけた。
「べつにね、わたし、深刻になってるわけじゃないよ」と、抹茶のアイスクリームをスプーンにすくい、一つうなずいて、夏実が言った。「ただ、パパ、最近会社に泊まることが多いし、ママもへんに口やかましい。一度『教育的指導』をしておこうと思ったの」
「教育的指導をな。着がえの下着、おまえ、お母さんに内緒で持ってきたのか」
「内緒じゃない、言わなかっただけ。帰ってから言えばママも褒めてくれるよ」
「どうでもいいけど、せっかくの土曜日にご苦労なことだ」
「パパとママ、意外にむずかしい性格だしさ、わたしも苦労してるんだよ」
「若いときの苦労は報われる。もっともおまえは、今日報われたいわけだ」
「パパ、やっぱり、分かってた?」
「この前の日曜日、雨靴のことでお母さんともめていたろう」
「ちゃんと聞いてるんだね」
「家庭の中でどういう事件が進行中なのか、一応は観察してるさ」
「ママってずるいんだもの。自分では水玉の雨靴を買ったくせに、わたしには買ってくれないの」
「若い子が雨靴なんか履くのか」
「パパ、古いよ。今また可愛いのが流行ってるの。梅雨だってこれからずっとつづく。わたしね、今年の梅雨は水玉の雨靴でのり切りたいの」
「そこまでの決意があれば、梅雨でも大地震でも、なんでものり切れるな」
真面目な顔でうなずいた夏実に、高梨も真顔でうなずき返し、タバコとライターをポケットに戻して、ちょっと上着の襟をととのえた。財布は自慢するほどの景気でないにしても、水玉模様の雨靴で夏実が人生の破滅を回避できるとしたら、愚痴を言うほどの無駄づかいではない。どうせ夜までは暇だし、夏実と銀座のデパートをまわって歩くのも、二日酔いの頭にはちょうどいい。
コーヒーを飲みほし、立ちあがりながら窓の外を覗くと、霧雨は相変わらず中途半端にふりつづけていて、包み込むように、コンクリートの風景を濃く灰色にかすませていた。これから一カ月は、好きでも嫌いでも、逃げても逃げなくても、どうせこんな日ばかりがつづくことになる。
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『バイオル化学』の富塚吉太郎が神田の事務所に迎えのハイヤーを回してきたのは、高梨が洗面と着がえを済ませて外の雨を眺めていた、八時ちょうどだった。電話での富塚は「とりあえず大塚までおこし願いたい」と言ったが、用件が尋常なものでないことぐらい、聞かなくても分かっている。一年に一度ほど厚生省関係のパーティーで顔を合わせることはあっても、今の高梨とは目で挨拶し合う程度の間柄だ。その富塚が内密の相談、というからには、「女房の浮気相手を調べてくれ」とかいう呑気な話ではないだろう。高梨がバイオル化学をやめてから、もう十年がたつ。社長だった大野憲作が死んで以降、経営は長男の勝彦が引きつぎ、栃木支社長だった富塚も今は本社の総務部長におさまっている。
ハイヤーがついたのは春日通りを二十分ほど池袋方向に走った、新大塚の駅に近い混み合った住宅街で、料理屋でも待合《まちあい》でもなく、文京区側にある高層マンションの十一階だった。ドアには部屋の番号が表示されているだけ、入居者名や事業所名は見あたらず、企業が秘密の接待に使うプライベートクラブというやつらしかった。
背の高いミニスカートの女に出迎えられ、絨毯敷きの部屋に入っていくと、富塚吉太郎はソファに座って髪の短い女とブランデーのグラスをもてあそんでいた。女は二人とも金のかかった化粧をしていて、顔立ちも作り物のように整っていたが、水商売の女ではなさそうだった。
「やあ、高梨さん、お待ちしておりましたよ。お忙しいところをご苦労さんでしたな」
腰を途中まで浮かせ、半分白くなった頭を重そうにかしげて、手真似で富塚が向かいのソファをすすめてきた。歳は六十の手前、ゴルフ焼けした額には血圧の高そうな脂《あぶら》が浮き、首筋にもブランデーの赤黒い酔いが見えていた。
「たまにお見受けするようですが、高梨さんもお元気そうで何よりですわ。森林資源組合のスキャンダルをもみ消したの、高梨さんだそうですな。相変わらず鮮やかなお手並みだ」
「ただの噂ですよ、堅気のジャーナリストにとっては迷惑な話です」
髪の短い女からブランデーのグラスを受け取り、ソファの背にもたれながら、高梨は二人の女と部屋の装飾を、あらためて見くらべた。部屋にはつまらない風景画と薔薇の花が飾ってあるだけで、生活の匂いはなく、女たちの表情にも化粧以上の個性は感じられなかった。
「富塚さんのお仕事も、だいぶ派手になられたようだ」と、女たちの顔から富塚の顔に視線をもどし、ブランデーのグラスを透かして、高梨が言った。
「うちの会社も様子が変わりましてなあ、まっとうな企業努力だけでは苦しいんのですわ。ま、これもご時勢というやつです」
「業績は順調なはずでしょう、勝彦社長の活躍も耳に入っています」
「今後ともそう願いたいもんで……いえね、その件で、折り入って高梨さんにご相談があるんですわ」
軽く舌打ちをやり、ブランデーを飲みほしてから、目尻の皺を疲れたように深めて、富塚が二人の女に顎で合図をした。
「君たち、三十分ばかり、外でコーヒーでも飲んできてくれんかな。帰りにタバコを買ってきてくれ」
女たちがうなずいて立ちあがり、それぞれに無気力な会釈を送って、ソファのうしろをドアに歩いていった。二人とも街中なら人目を引きそうな女だったが、一晩ベッドをつき合うと言われても、食指の動くタイプではなかった。
「富塚さんも奇妙な金を動かすと、あとで困りませんか」と、女たちがドアの外に消えてから、勝手にブランデーを注ぎ足して、高梨が言った。
「承知はしておりますよ。ただ、まあ、勝彦さんと憲作氏とでは経営者としての格が違うんでね。学者や役人を手なづけんと、昔のように楽な商売はできんのです。憲作社長が五年長く生きていてくれたら、ここまで苦労はせんかったでしょうにな」
額の脂を手の甲でこすり、肩で大きく息をついてから、高梨の顔をのぞくように、富塚がソファの中で無様に尻を動かした。
「まあ、なんですわ、今さら高梨さんを呼び出せた義理ではないんだが、事情が事情なもんでね。ここは一つ、あたしの顔に免じてご容赦いただきたい」
こんなマンションに高梨を呼び出し、見え透いた泣きごとを言うからには、問題を抱えているのは富塚個人ではなく、共同体としてのバイオル化学だろう。バイオル化学の業績が悪化しようと、勝彦が失脚しようと、高梨としては嬉しくも悲しくもない。しかし当時、建設業界紙の記者で燻っていた高梨を秘書として拾ってくれた大野憲作に対しては、一応の義理がある。
「まったくねえ、あたしもいい加減くたびれちゃいるが、今さら手を引くわけにもいかんのでね。よくも悪くも、勝彦さんと心中せにゃならんのです」
「富塚さん、端的に願えませんか」
「まあ、ねえ、あれだけ働いてくれた高梨さんに、勝彦さんは退職金も出さなかった。力になれなかったあたしにも責任はあるが、勝彦さんの気持ちも分からなくはない。勝彦さんの社長就任を時期尚早と主張された急先鋒は、高梨さんでしたからな」
「ずいぶん端的なお話だ」
「皮肉をおっしゃいますな。や、ま、そういうことで、ねえ高梨さん、今回は勝彦さんとの行きがかりには目をつぶって、なんとかご協力をお願いしたい」
富塚が呼吸を整えるように、高梨の顔から視線をはずし、小さく鼻を鳴らしながら、膝の上に黒い革カバンを引きあげた。中から出てきたのは、厚さ一センチほどの、封をセロハンテープでとめた小型の茶封筒だった。
「お気には召さんでしょうが、高梨さんもお忙しい身ではあるし、これは一応、今夜のタクシー代というやつですわ。もちろん受取りなんぞ必要ありません」
「浦安まで百万もかかりませんがね」
「憲作社長に恩のあるあたしとしては、なんとしてもこの場をしのぎたい。役人や銀行屋に会社を食い物にされることも、なんとか防ぎたい」
「率直に言ってもらえませんか。具体的に、わたしに何をしろと」
「いや、それがどうにも、面倒な問題で、話をするだけでも気が重いんですが……」
頬の片側に力を入れ、うんざりしたように眉をしかめて、長く息を吐きながら、富塚が手のひらで額の脂をこすり取った。
「高梨さん、五年前の春に帝都銀行からバイオル化学にのり込んできた、棚畑啓一をご存知ですかな」
「いや……」
「最後は蒲田で支店長をやった男なんですがね、その棚畑が今、うちで常務をやっておるんですわ。こいつがどうも、銀行ぐるみで勝彦さんの追い落としを狙っている。うちとしてもバブル期に抱え込んだ不動産を持て余しておる実情で、ちょっとねえ、銀行とは喧嘩しにくいんですわ」
バイオル化学の主力商品は化粧クリームの『バイオル』、単品では大手化粧品メーカーの他商品をおさえ、二十年以上トップのシェアを守っている。メインバンクは帝都、東証の二部に上場していて、年間の総売上げは三百億弱といったところか。勝彦が社長になって以降はアスレチッククラブの経営や健康器具販売にも手を広げ、バブルの波にのって規模を拡大したという。富塚のいう『持て余している不動産』とは、そのころ買いあさった土地やビルのことだろう。
「しかし、富塚さん……」と、ブランデーを軽くなめ、首のうしろを指でもみながら、高梨が言った。「バイオル化学は大野の同族企業でしょう。持ち株だって一族が二割ちかくを占めてるはずだ」
「憲作社長がご存命なら銀行も手は出さんかったでしょうがな。ここへきてどうも、妙な噂が流れておるんです。つまり、あれなんですわ、例の、長倉圭子の問題が……」
「長倉圭子?」
「弱ったもんですわ。今更あの問題が持ちあがるとは、思ってもいなかった」
思わぬところで、思わぬ人間の口から長倉圭子の名前が飛び出し、高梨の背中にもふといやな予感が這いあがる。バイオル化学にとって、大野憲作の死に関わった人間にとって、長倉圭子という名前は、暗黙のタブーではなかったのか。
「十年前、高梨さんにも骨を折っていただいて、長倉圭子の件は片づいたはずなんですがな。最近どうも、棚畑サイドが彼女を抱き込んだらしいんですわ」
「棚畑サイドが、長倉圭子を、ね」
「これも不景気のせいでしょうかなあ。バイオル化学なんぞ、それほど甘い蜜とも思えんのですが」
世間的に憲作の死は、自宅での心臓発作ということになっている。しかし実際に発作を起こしたのは長倉圭子の部屋で、圭子から連絡を受けた高梨が遺体を杉並の屋敷まで運び、憲作夫人を説得して自宅での突然死という体裁をととのえた。当時生産部門の責任者だった勝彦は栃木の工場長、そのお守り役が栃木支社長の富塚だった。明け方に二人が東京に駆けつけたときには、社内向けにも業界向けにも、高梨が自宅での病死として処理を済ませたあとだった。
「それにね、高梨さん……」と、唸りながらブランデーをすすり、口の中で舌を鳴らして、富塚が言った。「棚畑サイドは、長倉圭子と勝彦さんの噂まで流しておる。あれだけの女ですから噂はどうにでも作れます。ですがいくら勝彦さんでも、憲作社長が囲っていた女に手は出しませんよ。彼女とは接触せんよう、あたしだって目を届かせていた」
「それなら間題はないでしょう」
「いやね、十年前の時点で、長倉圭子には銀座に店を持たせるということで決着しました。七丁目に『けいこ』を出させて、権利書も相手側に渡し、彼女からは『憲作社長の件については無関係』という念書も取りました。あのままバブルがつづいておったら問題はなかった。長倉圭子にも東横工業の横沢豊成がパトロンについて、いっときは豪勢な羽振りだった。ところが、ねえ、東横工業は例の事件で倒産する。横沢は詐欺で逮捕される。そんなことで『けいこ』の経営がうまく行かなくなった。聞くところによると、銀座の店も半年ほど前に閉めたということです。それがここへきて、突然棚畑サイドから長倉圭子の名前が出はじめた。バイオルもイメージ商品ですからな、スキャンダルは売上げにひびきますよ。役員会で長倉圭子にあること無いこと暴露されたら、勝負は決まったようなもんですがね」
息苦しそうに喉を鳴らし、肉の厚い手で顔をこすって、唸りながら、富塚が短い足を自棄《やけ》っぽく前に投げ出した。不良債権がらみで銀行から圧力をかけられ、長倉圭子に憲作の腹上死まで暴露されたら、富塚の台詞《せりふ》ではないが、たしかに勝負は決まったようなものだ。十年前に長倉圭子から念書は取ってあっても、念書の存在を勝彦の側から公表したら、それこそ事実を認めてしまう結果になる。
「勝彦社長と長倉圭子の関係ですが……」と、茶封筒の封をはがし、直接中の厚みをたしかめてから、タバコの箱に手をのばして、高梨が言った。「本当にただの噂ですかね」
「どういう意味でしょうな」
「訊いてみただけですよ」
「ご本人はそう断言しておられます」
「ご本人は、ね」
「どちらにしても証拠のない話ですわ」
「今まで約束を守っていた長倉圭子が、ここへきて、なぜ?」
「ですから、バブルがはじけて、銀座の店も閉めて……」
「金のため、ですか」
「ほかに理由でもありますか。人間は金のためなら親でも殺しますがね」
「そんなもんですかね」
「当然でしょうが、高梨さんだって……」
「帝都が本気で勝彦さんの追い出しを狙ってるという、具体的な証拠は?」
「はあ?」
「証券会社を使って、株の買い占めに動いてるとか」
「そこまではまだ、ねえ? そんなものがあればあなた、こちらだって対抗手段を見つけますがね。高梨さん、津坂くんのことは覚えておいでですか」
「例の、津坂文和?」
「あの津坂文和ですよ。あの男が最近、よく本社に出入りするんですわ。それも棚畑常務の部屋へね。子会社勤めの津坂と本社の常務に、業務上の接点なんぞありませんがね」
「津坂がまだバイオル化学にいたとは、知らなかった」
津坂文和はバイオル化学における生え抜きのエリート、三十代のなかばで開発部の部長におさまった男だ。憲作の時代に原料納入業者との派手なつき合いが問題になり、高梨が実態を調査した。受けていた接待は酒、女、ゴルフ、海外旅行と、笑えるほどの定番。民間企業だから収賄にはならないものの、目をつぶるには限度をこえていた。それも接待は津坂のほうが相手側に強要したという。高梨は事実を憲作に報告し、津坂は大野通商という健康食品関連の子会社に左遷された。津坂のような男がいまだに子会社で燻《くすぶ》っていたとは、正直、高梨は、思ってもいなかった。
「問題はですなあ、やはり長倉圭子なんですわ」と、ブランデーを呷《あお》り、口の端に粘っこい唾を光らせて、富塚が言った。「噂が耳に入ってから長倉圭子との接触をこころみました。ところが先ほども申しあげましたとおり、銀座の『けいこ』は半年ほど前に店を閉めておって、南青山の『サン青山』というマンションも引き払ってます。以降どこを探しても消息が掴めんのですよ……高梨さんに心当たりはございませんかな」
「わたしに?」
「ございませんか」
「どうして、わたしが……」
「や、まあ、なんですな、顔のお広い高梨さんのことで、もしかしたらと思ったまでですわ」
富塚がわざわざ神田の事務所にハイヤーをよこし、百万のタクシー代まで提供しようという意図は、そのあたりの思惑が理由なのか。なぜ富塚が『もしかしたら』と勘ぐったのか知らないが、いずれにせよ本気で長倉圭子の消息を追っていることに、嘘はないらしい。
「長倉圭子が姿を消しているのは、たしかにいやな雰囲気ですね」
「ただの噂でも社内は動揺しますがね」
「彼女の出身は山形県の鶴岡でしたか」
「十年前はあたし、栃木におりましたからな、長倉圭子のことは皆目分からんのです。高梨さんなら素姓やらなにやら、詳しいこともご存知でしょう」
「富塚さん……」
「はあ?」
「はっきりおっしゃったらいかがです?」
「なにをでしょうな」
「わたしと長倉圭子に、特別な関係があったような言い方だ」
「そう聞こえたのなら失礼。や、あたしはただ高梨さんに、大野側の人間として彼女に接触していただきたい。そのことの念を押しただけですよ」
富塚が高梨と長倉圭子の関係について、なにを知っているにせよ、そしてなにを期待しているにせよ、今の高梨に関心があるのは目の前に放り出されている、札束入りの茶封筒だけだった。今夜富塚から名前を聞くまで、高梨は長倉圭子の顔を、思い出しもしなかった。
十一年前に長倉圭子と大野憲作が知り合ったのは、銀座の『ラピス』という老舗のクラブだった。三度ほどかよって交渉が成立し、以降憲作が死ぬまでの一年間、高梨が知るかぎり憲作以外のパトロンは持たなかった。鶴岡から上京してエレクトーンの学校に入り、卒業後クラブでエレクトーンを弾いているうち、収入のいいホステスにトラバーユした。憲作と知り合ったラピスは二軒目の店で、そのころ二十六、七だったから、今でも四十にはなっていないはずだった。
「とにかくまず、長倉圭子を探せということですか……」と、封筒を上着の内ポケットに押し込んでから、タバコに火をつけ、口の中で欠伸《あくび》をかみ殺して、高梨が言った。
「高梨さんなら適任のはずです」
「わたしなら、ね」
「十年前の経緯《いきさつ》に関わってる人間は、あたしと勝彦さん以外、もう高梨さんしかおられない」
「長倉圭子と会えたとして、それに交渉が可能だったとして、只で済むとは思えませんが」
「そりゃあ、まあ、仕方ありませんかな。しかし相手が高梨さんということになれば、彼女も無茶な要求はせんでしょう。当方としては大いに期待しております」
「交渉が成立した場合、わたしにもボーナスが出る」
「そのことも考えておりますよ。なにぶんあたしは社内の根まわしで、手が放せん状況でしてな。頼みは高梨さんしかおられない」
「バブルさえ弾けなければ、お互い、無駄な気苦労はしなかったでしょうが」
「まったくですなあ。や、おっしゃるとおりだ。あたしとしては長倉圭子に錘《おもり》をつけて、海の底にでも沈めてやりたい心境ですわ」
錘をつけて海に沈めたいのは、圭子ではなくて勝彦のほうだったが、それを富塚に言っても仕方はない。社内での主導権争いに負ければ、放っておいても勝彦は海の底に沈むことになる。
ドアに音がして、二人の女が姿をあらわし、富塚が背筋をのばしながら、高梨に下手な目配せをした。高梨は慎重に上着のボタンをかけ、グラスに手をのばして、残っていたブランデーを軽く口に放り込んだ。部屋の中に強く香水の匂いがよみがえったが、こういう派手な女たちと富塚の組み合わせには、どこかやはり、違和感以上の滑稽さがあった。
「まあ、その、要するに、そういうことなんですわ」と、女からタバコの箱を受け取り、無骨な指で封を切りながら、富塚が言った。「話が決まったところで、今夜はゆっくりされたらいかがです? 彼女たちも時間があるということだし」
「遠慮しておきましょう。今日は昼間から、若い女の子とつき合いすぎた」
「はあ?」
「こちらの話です」
つけたばかりのタバコを灰皿でつぶし、立ちあがって、腰を浮かせかけた富塚に、高梨が軽く手をふった。
「高梨さんもまた、水臭くなられた」
「昔からそれほどのつき合いではないでしょう」
「や、それは、そうですが……」
「いく日か家に帰っていなくてね、女房から離婚されそうな雲行きです」
「仕方ありませんかな。まあ、ハイヤーは待たせてあります。銀座でも浦安でも、ご自由にお使いください」
富塚の言葉に、高梨は背中を向けたままうなずき、ミニスカートの女に送られて、部屋のドアを外側に押しあけた。どういう趣味で富塚がこんな場所を使っているにせよ、無理な営業はかならずバイオル化学の企業生命を脅かす。たとえ今度のトラブルを切り抜けたとしても、お守り役が動揺するようでは勝彦の立場も先が見えている。深入りはせず、傍観もせず、コンサルタントとして今度の問題を通りすぎる。結果的に税金のかからない金が転がり込めば、高梨にとって、特別に不都合な仕事ではないはずだった。
エレベータに乗り込んだ高梨の記憶に、この十年間忘れていた湿度の高い光景が、スポットライトを浴びて鮮やかによみがえる。ダブルベッドに仰臥した大野憲作の乱れた白髪、ソファに座ったまま表情を変えない長倉圭子、手のついていないオードブル皿に二つのワイングラス。部屋に飛び込んだとき高梨の肩は雨に濡れていて、そういえば憲作が圭子の部屋で息を引き取ったのも、十年前の、ちょうどこんな梅雨の日の夜中だった。
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うすい紅色の柘榴《ざくろ》の花が、明け方までふっていた雨の名残りで頼りなく霞んで見える。遠く魚市場の方向から澱んだクルマのエンジン音が聞こえ、塀の外を自転車がとおり、朝の遅いカラスが鳴きもせずに鉛色の空を横切っていく。柚子《ゆず》や柿や無花果《いちじく》の木が若い色の葉を気持ちよく開き、庭の西端には背の低い紫陽花《あじさい》が青く大輪の花を咲かせている。金柑《きんかん》や山椒《さんしょ》といった実用的な木々の片隅に、紫陽花の清潔な青がいじらしいほどの頑張りをみせている。庭を意識して眺めるのも久しぶりだが、いったいいつから、あんなところに紫陽花が植わっていたのだろう。
うしろで声がし、ふり返ると、腕を組んだ沙希子がダイニングテーブルの向こう側から、呆れたような顔で目を細めていた。いつの間にか水道もとまっていて、食器や調味料ケースには几帳面に白い布巾が掛かっていた。
「うん? なにか、言ったか」
「コーヒーのおかわり」
「そうか……もう一杯、もらおうかな」
口を結んでうなずき、流し台からガラスのポットを取りあげて、沙希子がソファの前にコーヒーを運んできた。家でコーヒーを飲むのは高梨一人だが、砂糖さえ入れなければ、そのことをタバコのように非難はされなかった。
モーニングカップにコーヒーを注ぎ、ソファの端に離れて座って、ジーパンの足を組み合わせながら、沙希子がわざとらしいため息をついた。
「柘榴も無花果も花のつきが悪いみたい、きっとお天気のせいね」
「梅雨だっていつかは終わる」
「今年の夏は休めるの」
「いつだって休んでるさ」
「そうではなくて、夏休みのことよ。一週間ぐらい欲しくない?」
「仕事の都合でどうなるか……」
「去年も休まなかった。お正月もあなたは九州、たまには実家にも行かないと、顔を忘れられてしまう」
「サラリーマンとはちがうさ」
「でも夏実ぐらい旅行に連れていって、あなたが思ってるよりむずかしい年頃なの」
「人間はいつだってむずかしい年頃だ」
「ねえあなた……」
「なんだよ」
「あなたに必要なのは理屈より休暇じゃない」
「考えてはみる」
「とにかく休みを取るように、努力だけはしてほしいわ」
沙希子の顎が尖って、目尻にこまかい皺がきざまれ、とぼけたような視線が高梨の顔からベランダの外へ、ゆっくりと流れていった。顎の線にまだゆるみはなく、二の腕にも文句を言うほどの脂肪はついていない。それでも手の甲の肌理《きめ》は粗くなっていて、土いじりをするせいか、指の先には小さなささくれが出来ている。結婚したころはセミロングにセットしていた髪も、知らない間に中学生のようなショートカットに変わってしまった。それらのすべてが高梨と暮らしたことの歴史ではあるが、沙希子がその歴史をどう受け入れているのか、気分の冷めたとき、ふと高梨は不安になる。
「なあ、あの紫陽花……」と、コーヒーのカップに口をつけ、沙希子の横顔に庭の端を透かして、高梨が言った。「あんなところに紫陽花が植わっていたか」
「一昨年《おととし》植えたでしょう。花の数は少なかったけど、去年も咲いたわ」
「木苺だとか無花果だとか、庭の木は生《な》り物だけだと思っていた」
「夏実がお友達の家からもらってきたの。西洋紫陽花ではなくて日本の固有種なの」
「紫陽花にも国産と舶来があるわけか」
「色が変化するのはハイドランジアという逆輸入紫陽花、日本の固有種は色変わりをしないのよ」
「紫陽花にもいろいろ、都合があるわけだ」
組んでいた足をおろし、ソファの背もたれから躰をはなして、沙希子が軽く、芝居がかった欠伸をした。
「ねえ、昨日は言わなかったけど……」と、腰をあげ、窓の前に歩いてから、視線だけを高梨に向けて、沙希子が言った。「夏実のこと、もっと慎重に扱ってくれないかしら。わたしはわたしなりに夏実のしつけを考えているの」
「夏実のしつけに関して、君の意見に口を挟んだことはない」
「あなたは勝手にあの子を甘やかす。あなたにねだれば何でも手に入るのって、あの子にとっていいことだと思えないわ」
「雨靴の一足や二足で、大げさに考えることはないさ」
「雨靴だけの問題ではないの。マウンテンバイクもCDプレーヤーも、わたしには一言も相談しなかった。買ってやるなとは言わないのよ、でもわたしの意見を聞いてからにしてほしい。このままでは夏実、愛情とお金が区別できない子になってしまう」
「頑張って早起きをするべきだったか」
「なんのこと?」
「夏実と一緒に出かければよかった」
「あなた……」
「君が心配するほど夏実は無自覚じゃない、チェックするだけがしつけでもないさ」
「それ、わたしが夏実に意地悪をしているという意味?」
「君は君の価値観で接する、俺も自分の立場で夏実とつき合う。余計な心配をする前に、君はもっと夏実を信頼するべきだ」
言葉を飲み込んで、唇の端に力を入れ、背筋をのばしながら、沙希子がダイニングの方向に憮然と歩いていった。
「あなたって、どうしていつも自分だけ正しいの。あなたの言い方って、まるでわたしのほうが継母みたいじゃない。わたしが一人だけ悪者みたい」
「俺は、べつに……」
「わたしの言ってること、そんなに非常識かしら。夏実に節度を教えることやあなたの躰を心配することが、そんなにいけないことなの」
「程度の問題さ。君が肩の力を抜いてくれれば、俺も夏実もいくらか気が楽になる」
「わたしが肩の力を抜くだけで問題が解決するわけ?」
「そういうことも、家庭の平和に、関係はあると思う」
「あなたが抜けというなら、肩の力ぐらいいつだって抜いてあげるわよ」
ダイニングのテーブルから手荒に椅子を引き出し、腰をおろして、いかにも肩の力を抜くように、沙希子が胸で大きく呼吸をした。その表情には高校時代の気の強さが残っていて、高梨の背中にも、瞬間せつない苦笑がよみがえる。校舎の廊下ですれ違ったときのへんに息苦しい思いも、十三年前、調布の駅で偶然うしろ姿を見かけたときの緊張も、記憶としてはしっかり頭に残っている。記憶の鮮やかさと現実のこの距離感が、蜃気楼のように、ときたま高梨を困惑させる。
「さて、そろそろ出かけるかな。今週はつまらない仕事で忙しくなるらしい」
ポロシャツの胸ポケットにタバコを探し、思い直して上着を取りあげ、くもり空を眺めながら、うんざりと高梨は腰をあげた。これ以上顔を合わせていても、沙希子の神経は尖るだけに決まっている。十二年も一緒に暮らせば倦怠や確執が顔を出すのは当然で、高梨と沙希子は、夏実のために、それを大人の責任として我慢すればいいだけのことだ。
「あなた、会社に洗濯物が溜まってるわね」と、椅子に固く座ったまま、両腕でテーブルに頬杖をついて、沙希子が言った。「コインランドリーで洗うようなこと、しないでちょうだいね。ああいう所って病原菌の棲処《すみか》なんだから」
「今日にでも持って帰るさ。重くて面倒だったら宅配便で送り返す」
「今夜は早く帰れるの」
「そのつもりでは、いる」
「靴はこげ茶のローファーを履いていって。防水スプレーをかけてあるわ」
「いやな天気がつづくもんだ。いっそのこと黒いゴム長でも履いていくか」
「それからね……」
「分かった。今度夏実のものを買うときは、君に相談する」
「そうじゃなくて、あなた、お父様の病院、お見舞いに行ったほうがよくない?」
「うん……」
「親戚の手前もあるし」
「時間があったら君が行ってくれ。俺は仕事で手が放せない。お袋にも電話でそう言ってある」
玄関の沓脱《くつぬぎ》に水玉模様の雨靴が二足並んでいる風景に、へんに感動しながら、靴箱からこげ茶のローファーを取り出し、高梨は上着を肩に担いで玄関に足をおろした。靴は気持ちよく乾いていて、時間は朝の十時で、家のローンもそれほど残ってはいない。いくらか機嫌は悪いらしいが、台所の椅子には初恋の女も座っている。この人生のどこに文句があるのかと言われても、高梨自身、とっさに答は思いつかない。不満など無くても、ただ天気が悪いだけで、人間は意味もなく憂鬱になることがある。
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神田の事務所についたのは十一時。三崎祥子がいれてくれた煎茶の湯呑を机に置き、濃いくもり空を窓の外に眺めながら、高梨はその日一本めのタバコに火をつけた。禁煙ぐらいいつでも出来るが、十六のとき初めてタバコを吸って以来、一度もその気になっていなかった。家でタバコを吸わない理由は夏実の喘息で、高梨の価値観に必然があるわけではない。タバコなんて、肺が腐って吸いたくても吸えなくなる日が、放っておいても、いつかはちゃんとやって来る。
三崎祥子はドアに背中を向けて机に座り、土曜日に高梨がやっていた封筒の宛名貼りを笑いながらつづけている。機嫌がよくても悪くても、祥子の顔はいつも笑っている。大学を出てから二年間証券会社に勤め、半年ほど前にジャーナリストを志して転職してきた。仕事の能力はともかく、顔だけは外交的で、高梨もいつかはまともな雑誌社に紹介しようと思っている。
もう一人、事務所には大塚信夫という三十前の男が勤めている。本人は作家志望だそうで、今日は農水省の外郭団体と商社の木材輸入部を取材しているという。どうせ夕方まで映画でも観てくるのだろうが、七月号の雑誌も刷りあがったし、あと二、三日は高梨もふくめて大した仕事があるわけではない。旧盆に向けての『夏期特集』も名刺広告を集めるための口実、そんなものは祥子にダイレクトメールを出させれば片がつく。
高梨はタバコを一本吸ってから、煎茶を半分ほど飲み、昨日連絡の取れなかった矢島孝之に電話を入れてみた。自宅も事務所も相変わらずの留守番電話で、また女と温泉にでも行ったのか。とりあえず長倉圭子を探すにしても、棚畑啓一や帝都銀行の動きぐらいは掴んでおきたい。銀行や企業の動向に関して、矢島の情報網はぜひとも必要だった。
「祥子ちゃん、大塚からはなん時ごろ電話が入った?」
タバコの箱を上着のポケットに押し込み、壁際に二つ並べてある紙袋のほうに歩きながら、宛名貼りをつづける三崎祥子を、ちょっと高梨がふり返った。
「十時ぐらいだったかな、午後にまた連絡を入れるそうです」
「今日は帰社不要と言ってやれ、そのかわり来月号の特集を頑張るようにってな。君にも八月号の記事は頑張ってもらう」
三崎祥子が糊のスティックを指先でつまんだまま、ピンク色の唇をとがらせ、高梨の顔を見あげて外交的に微笑んだ。今朝会社に来て最初に高梨が言った『来月の初めにはボーナスが出せる』という台詞が、今日の祥子の笑顔を特別に明るくしているようだった。
「俺も出かけて、もう会社には戻らない。矢島から電話があると思うから、今夜の七時、新宿の『秀川』で待つと伝えてくれ。君も雑誌の発送が終わったら引きあげてかまわない」
高梨は紙袋に押し込んである洗濯物の重さをたしかめ、ガムテープで口を塞いでから、二つの袋をまとめてソファに放り出した。洗濯物というのもよくここまで溜まるもので、いっそのこと事務所に洗濯機を備えつけるべきか。しかしそうやってベッドでも運び込めば、高梨が浦安の家に帰る理由は、ほとんどなくなってしまう。
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タバコ屋と八百屋をかねた雑貨屋で洗濯物を宅配便にし、高梨がタクシーで向かったのは、品川にある池上葉子のマンションだった。昔長倉圭子が勤めていた『ラピス』の経営者で、十年前に大野憲作が死んだとき、あと始末の都合で一度だけそのマンションを訪ねた覚えがある。あのころでも五十を過ぎていたから、今ではもう六十の先、旧財閥系の企業を多く客に持っていて、どこかの会長の愛人だったとか、戦前総理大臣をやったこともある政治家の隠し子だとか、いろんな噂のある銀座の名物ママだった。憲作が死んでから高梨はラピスに通わなくなったが、今でも現役として店に出ているらしく、電話の声だけはまだ三十代の若さだった。
八ツ山通りが北品川に入ったところで、道を旧ユーゴスラビア大使館の方向に曲がり、細い路地のつき当たりでタクシーをおりる。葉子ママの部屋は五階、セキュリティーシステムが完備しているわけではないが、広くて暗い大理石のロビーも鈍重なエレベータも、地価と風景に相応しい豪勢な風格を備えていた。賃貸マンションではなさそうだから、抵当に入っていなければ、これだけでも相当な財産になる。
出迎えた池上葉子は、白いルーズなパンツにビーズ刺繍のトレーナーを着て、一つに束ねたセット前の髪を長く胸の左側に流していた。顔にもていねいな化粧が施されていて、しかしファンデーションも口紅もアイシャドウも、残念ながら六十年ぶんの皺は隠していなかった。
「今朝は起きたときからいいことがある気がしていたの」と、キッチンからコーヒーを運んできて、カップを高梨の前に置きながら、艶のある笑うような声で、葉子ママが言った。「それにしてもあなた、ご無沙汰だったわねえ。いい男ってどうして薄情なのかしら」
「その節はご迷惑をおかけしました」と、カップを少しだけ手前に引き、テーブルの上にタバコとライターを重ねて、高梨が答えた。
「あれから十年でしょう、わたしもお婆さんになるはずだわ」
「お変わりなくて戸惑っていますよ」
「あなたの不実で女心をさそう話し方、十年前と変わっていないわ。バイオル化学はお辞めになったのよね」
「子飼いではなかったし」
「宮仕えに向くタイプではないのよ。見かけによらず、あなた、生まれついてのヤクザ体質なんでしょう」
池上葉子が足を組んでタバコに火をつけ、厚い化粧の下から、うかがう目つきで静かに高梨の顔を眺めてきた。
「で、十年ぶりにこんなお婆ちゃんを訪ねてきたのは、どういう心境? あなたたしか、今は林業関係の雑誌を出してらっしやるのよね。わたしに北海道の山林でも売りつけるおつもりかしら」
「雑誌にも山林にも、もちろん、関係はありません」と、コーヒーのカップに口をつけ、箱からタバコを抜き出しながら、高梨が言った。「長倉圭子の消息が分からないかと、相談に来ました」
「残念ねえ、この歳まで独身をとおしていたのが無駄になってしまったわ」
「実は……」
「慌てなくてもいいわよ、圭子のことぐらい覚えてる。本当はあなた、あのころ彼女と関係があったでしょう」
「わたしは仕事として、憲作氏との間を行き来しただけです」
「そうかしらね。余計な詮索はしないけど、あなた、圭子に対しては必要以上に冷たかった。殿方のああいう態度はくせものなのよ」
プロとしての葉子ママの観察力に、高梨もあえて、異議を唱えるつもりはない。富塚吉太郎も疑う素振りを見せていたが、証拠はないし、しょせんは十年も昔の話だ。
「当時のことですが……」と、長く煙を吹き、長倉圭子の記憶を遠くに眺めて、高梨が言った。「彼女が七丁目に店を出したときの経緯を、ご存知でしょうか」
「具体的に、という意味?」
「具体的にでも抽象的にでも」
「ホステスが突然店を出すときはいつだって経緯はあるものよ。わたしはそういうことの詮索はしない主義なの」
「憲作氏との関係は不問にするという条件で、バイオル化学が金を出しました。それだけで済めば問題はなかったのですが……」
「お待ちなさいな。高梨さん、あなた、大野とは縁を切ったはずでしょう。あなたと大野勝彦の関係ぐらい、わたしの耳にも入ってるわよ」
「今回の仕事は純粋なビジネスです」
「純粋なビジネス、か。相変わらず紋切り型にしか喋らない男ねえ。でも要するに、憲作社長への義理なんでしょう」
「それほど感傷的な人間では、ないはずですが」
「義理でもビジネスでも構わないけどね、わたしにはわたしの立場があるの。そのことを事前に承知していただきたいわ」
池上葉子が腕をのばして、灰皿にタバコの灰を落とし、欠伸を噛み殺すようにトレーナーの肩をふるわせた。現役で店に出ているということは、財界からの情報も入るし、政官界の動静に関しても現役ということだ。高梨にしてもこの類いの女を敵にまわすほど、世間知らずではない。
「ごめんなさいね。話の腰を折るつもりはなかったの。それで、圭子のことだったわね」と、口元に皮肉っぽい笑いを浮かべたまま、組んだ膝の上に頬杖をついて、葉子ママが言った。「あの子、やっぱり問題を起こしたの?」
「バブルの後遺症でしょうかね、バイオル化学の内部がもめているらしい」
「そのもめ事に彼女が?」
「勝彦社長の立場に問題があるようです」
「あなたもロマンチストねえ、大野勝彦なんか足を引っ張ってやったら?」
「これもビジネスです」
「いいのよ、やっぱり憲作社長への義理なんでしょう。古いタイプの経済ゴロって、わたしも嫌いではないわ」
「わたしは……」
「いいから先をつづけなさいな」
「帝都銀行から送り込まれた棚畑という男が、バイオル化学の経営権を狙ってるそうです。どこまで本気かは知りませんが、化粧品はイメージを売る商売ですからね、会社としてもトラブルは避けたいところだ」
「バイオル化学は大野の同族会社じゃないの。株だって二、三割は持ってるでしょう」
「憲作夫人は亡くなられたと聞きました。勝彦個人としては六パーセント程度でしょうか。金融機関が二五パーセント、浮動株が四〇パーセント近く……もちろん、わたしのいた当時の数字ですが」
「資本金はいかほどだったかしら」
「増資をしていなければ、七十億」
「だれかが株の買い占めにでも動いてるわけ?」
「その気配までは、ないようです」
「おかしいわねえ、銀行って大きい株は持てないはずでしょう」
「五パーセントルールというものがありますから、メインバンクの帝都でも四パーセント前後のはずです」
「それならどこに問題があるの、銀行や証券会社もお互いに牽制し合うはずだし」
「問題は勝彦さんの人格でしょうかね」
「二代目さんの人格……か。なるほどね、同族企業の強みでもあるし、弱みでもあるわけね」
「役員会で追い出しを決定すれば、とりあえず社長の首は切れます。ただ大株主として残る勝彦の発言権に、帝都がどう対処するつもりなのか……」
自分の死後、大野憲作がバイオル化学の経営を誰に任せるつもりだったのか、本当のところは分からない。勝彦を生前に後継として指名しなかったのは、非嫡出子だからというより、経営能力に疑問を持っていたからだろう。生産部門の責任者といえば聞こえはいいが、本社の経営中枢には最後まで関与させなかった。娘や娘婿が役員に名を連ねていても、実質的には憲作のワンマン経営、バイオル化学はもともと、栃木で靴クリームを製造していた町工場だった。
「棚畑さんというお名前は聞いたことがあるわ、昔本店の融資課にいた方かしら」
「最後は蒲田の支店長だったそうです」
「裏では大蔵省とか厚生省とか、お役人も絡んでるんじゃない?」
「それは、なにかは蠢《うごめ》いてるでしょうね。みんな金が詰まってきて出口を探している」
「下品なお話ねえ、昔はお役人も銀行家もそれなりのプライドを持っていたのに」
ラピスの主要な客筋は、旧財閥の商社系、ママの葉子にすれば利権漁りの官僚や拝金主義の銀行屋に侮蔑的な意識があってもおかしくはない。池上葉子の本音はともかく、そういう古風な価値観に、ちょっとだけ、高梨は期待したい気分だった。
「さっき、ママ……」と、タバコを灰皿でつぶし、池上葉子のすました顔に視線をやって、高梨が言った。「長倉圭子に関して『やっぱり問題を起こしたのか』とおっしゃいましたね。あれは、どういう意味です?」
「思ったとおりを言っただけ。憲作社長が彼女のパトロンになると申し出たとき、内心わたし、よせばいいのにと思ったわ。少なくとも彼に勧められる子ではなかったもの」
「あのときは、そうは、言わなかった」
「女の子の私生活に口は出さないわよ。それにあのタイプの子に魅力を感じるのって殿方の宿命じゃない。人間の宿命に一々意見を言ってたら、切りがないわ」
「長倉圭子は銀座の店も閉めてしまった。青山のマンションも引き払ったそうです。彼女の消息について、ご存知のことはありませんか」
「彼女が『けいこ』を閉めたの、いつごろだったかしら」
「半年ほど前と聞いています」
「もうそんなになるの、店を閉めるのは時間の問題という噂はあったわね。ホステスの使い方はへた、お客様の扱いも場末のキャバレー並み、それでも景気がよかったころは、ほら、なんていったかしら、あの泡風呂のマルチ商法で捕まった……」
「東横工業の、横沢豊成」
「そう、その横沢とか、あの類いの連中が出入りしてお金を回していたのね。でも東横工業は倒産でしょう、景気だってこのとおり。どうやって半年前まで持ちこたえたのか、そのほうが不思議なぐらいだわ」
「六本木か赤坂に新しい店を出したとか、田舎に帰ったとか、噂はありませんか」
「聞かないわねえ、池袋でも新宿でも東京で店を出せばわたしの耳には入るはず。結婚したり囲われたりしても、噂はちゃんと聞こえてくるものだしね」
「彼女の出身は鶴岡でしたよね」
「東北のどこかだった気はするけど」
「ラピスに入った経緯《いきさつ》は?」
「バーテンが六本木のクラブからスカウトしてきたの。気が強くて我儘な子だった、でもご年配には受けるタイプなのよ。ホステスの顔ぶれにも変化は必要だし」
「当時親しくしていたホステスとか……」
「協調的な子ではなかったから、親しい友達はいなかったわねえ。男性には受けるけど女性には好かれない、そういうタイプ、世間にはよくいるものよ」
「東横工業の横沢は、当時からの?」
「自分で店を出してからでしょう。ああいう怪しいお客様、うちとは縁がないもの。でも泡風呂であんなにお金を集めたなんて、いかにも時代だったわねえ」
タバコとライターをポケットに戻し、居心地の悪くなった背中に、高梨は軽く深呼吸の風を送ってやった。池上葉子が節操なく情報を流す女だったら、二十年も財界の裏側は歩いてこられない。銀座でしたたかに生き残った女と泡のように消えていった女と、違いはそのあたりにあるのだろう。そして高梨の勘が正しければ、高梨が長倉圭子を探して自分を訪ねてきたことを、葉子ママが他人に告げることはない。
「お邪魔しました、あまり長居をするとママに迷惑がかかりそうだ」と、ソファから腰をあげ、池上葉子の栗色に染めた髪に会釈しながら、高梨が言った。
「情報を持っていなければお婆ちゃんに用はないわけ?」と、微笑みながら立ちあがり、色っぽく首をのばして、葉子ママが言った。
「一人暮らしの女性の部屋が、どうも、苦手でしてね」
「純情なことを言わないで。あなたに泣かされた女の子の話、たくさん聞いてるわよ。由美香という子、覚えているでしょう」
「背の高い、目鼻立ちのはっきりした子だった」
「あの顔は整形なのよ。そんなことはどうでもいいけど、彼女、今赤坂でスナックをやってるわ。あなたも顔を出す義理ぐらい、あるんじゃないの」
「わたしは、ただ……」
「うちのお店にも新人が入ったから、たまには遊びにいらっしゃいな」
「ママの顔が見られただけで満足です。女房子供がいなければ、今すぐにでも結婚を申し込みますよ」
池上葉子が口元をおさえながら高梨の肩を叩き、水商売の形式どおり、腰を折ってドアの方向に促した。これで三十も若ければ怪しい雰囲気にもなるのだろうが、たとえ状況が許しても、今の高梨にはこういう女に手を出す勇気はない。火の怖さを知った人間は迂闊に火遊びはしなくなる。
「お役にはたてないと思うけど、圭子の消息はわたしも気にかけておく」
「憲作社長もわたしも、女を見る目がなかったらしい」
「女を見る目がないのは殿方の宿命なのよ、ですから水商売が成り立つの」
「肝に銘じておきます」
「高梨さん」
「はい?」
「でも水商売の女だって、それなりの意地は持ってるのよ」
「はい」
「本当のことを言うとね、お役人とか銀行屋さんとか、ああいうお金だけで動く連中、わたし、鳥肌が立つほど嫌いなの」
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池上葉子のマンションを出たのは、二時すこし前。雨も落ちる気配はなく、高梨は長倉圭子が半年前まで住んでいたという、南青山の『サン青山』にまわることにした。そんなところで圭子の消息が分かるとも思わなかったが、消えた人間を探すには消えた場所から手をつけるのが定石だった。
八ツ山通りでタクシーを拾い、桜田通りから外苑東通りを抜けて、高梨は南青山一丁目に出た。
近くに地下鉄の乃木坂駅がある住宅街のマンションは、狭い敷地に息苦しく突き出した八階建てで、芸能人や水商売の女が好みそうな、お洒落で豪華で軽薄な建物だった。出入り口はオートロック、暗証番号か室内からの了解がなければ、部外者は入れない仕組みになっている。
高梨は建物を外からしばらく見物したあと、出入り口の手前にある管理室の窓まで歩き、呑気な顔で様子をうかがっている若い男に、軽く声をかけた。
「おたく、このマンションの管理人?」
「管理会社から来てるんすけど、まあ、そういうことすね」
「以前ここに住んでいた人のことを聞きたい、君で分かるかな」
「どうかなあ、俺、このマンションにまわされてから、まだ半年すから」
「長倉圭子という人なんだが、銀座でクラブをやっていた……」
若い男がニキビの目立つ頬を、にやりと歪め、精気のない濁った目で陰気に高梨の顔を見返した。
「やっぱしね、あんた、警察の人?」
「警察ではないが、事情があって長倉さんを探している。彼女を知っていたのか」
「知ってたってほどじゃないすけど、挨拶ぐらいしましたよ。奇麗な人だったのに、やっぱ、面倒を起こしたんすかね」
「面倒を起こしたのか、これから起こすのか、俺もそれが知りたいもんだ」
高梨は男の脂っこいニキビ面を無視して、財布から二枚の千円札を抜き出し、男の胸ポケットに黙ってそれを押し込んだ。
「長倉さんが半年前に部屋を引き払ったことは、知っている」と、財布をズボンのポケットにもどし、玄関をとおる派手な服装の女を眺めながら、高梨が言った。「その引き払う前後の様子を、教えてもらえないか」
男がカウンターから肘を離し、制服らしい開襟シャツのボタンをかけ直しながら、目を細めて、小さく咳払いをした。
「前後の様子ったって、あれ、突然だったすよ。それに引き払ったのは二月の初めすから、まだ四カ月ぐらいっす」
「二月の初めに、どういうふうに引っ越したんだ」
「どういうって、そのね、突然運送屋がやって来て、トラックに荷物を積んで、それっきりす。あとで不動産屋に文句を言われたけど、そんなの、俺の責任じゃないすよ」
「不動産屋には連絡せずに引き払ったわけか」
「そうみたいすね、だけど俺の仕事は建物の管理と清掃の手配だけっす。契約がどうのこうの言われたって、俺にも会社にも関係ないすよ」
「不動産屋の名前は、なんていう」
「表参道駅のそばにある『セントラル住通』すよ」
「荷物を運び出すとき、長倉さんは立ち会ったんだろう」
「来ませんでしたよ。運送屋の人がなん人かと、あと、男の人が一人来ただけす」
「運送屋とその男だけで、勝手に?」
「そういうことすね、荷物をトラックに積んで出ていくまでに三十分もかからなかったなあ」
「しかし、長倉さんがいなければ、玄関のドアも開かないだろう」
「男の人が暗証番号を知ってたみたいすね。部屋のドアはカードキーになってるんすけど、それも男の人が持ってたみたいす」
「長倉さん本人がいなくて、勝手に荷物を運び出して、君はおかしいと思わなかったのか」
「男の人が最初に、不動産屋には連絡してあるって言ったから、俺としてはそうかなって思ったすよ。暗証番号を知ってて鍵も持ってれば、誰だってそう思うす」
こういう男に管理されるマンションも、管理を委託しなくてはならない不動産屋も、ずいぶん無茶な賭をしているものだ。男にしてみれば自分の生活とは無縁なこんな建物に、必要以上の愛着は持ちたくないのだろう。このマンションの部屋代だって、どうせ男の給料より高いに違いない。
「引っ越しのときに来た男だが……」と、タバコに火をつけ、クルマ寄せの隅に咲いた西洋タンポポを眺めながら、首筋の汗を手の甲でぬぐって、高梨が言った。「以前にも長倉さんを訪ねてきたことは、あったか」
「どうすかねえ。俺だって一日中見張ってるわけじゃないし、それに俺、人の顔を覚えるの、苦手なんすよ」
「どんな男だった? 人相とか、歳格好とか」
「中年の人だったすよ。普通の背広を着て髪がうすくて、サラリーマンみたいだったすけど、威張った感じでね、あんましいい感じじゃなかったす」
「長倉さんは引き払う前の日まで、部屋を使っていたのかな」
「覚えてないすねえ、そういやいく日か見かけなかったかなあ。あの人、新聞を取ってなかったすからね、郵便もめったに来なかった」
「引っ越した先は、当然、分からない?」
「分からないっす。不動産屋でも因ってたみたいすよ、うちの会社には関係ないすけど」
「荷物を運び出した運送屋は、覚えていないか」
「まるで駄目。俺、そういうの弱いんすよ。注意してれば覚えてなくもないすけど、あんときは普通の、ただの引っ越しだと思ったすからね。運送屋の名前なんか覚える義理はないっす」
うんざりしてきて、もう訊くこともなく、高梨はオートロックのドアと模造煉瓦の玄関を確認してから、男の濁った目に会釈をして道を乃木坂の方向に歩きはじめた。長倉圭子が荷物の搬出に立ち会わなかったというのは、いったい、どういうことなのか。最初から足跡を消す意図があったのか、それともそのとき、引っ越しに立ち会えないほど遠い場所にいただけなのか。
高梨は腕時計をのぞき、まだ時間があることを確かめて、表参道駅の近くだという『セントラル住通』まで足をのばすことにした。長倉圭子が意識して姿を隠したのか、誰かが足跡を消す工作をしたのか、それだけでも確認しておく必要がある。
地下鉄で表参道に向かい、青山通りとの交差点まで出て、交番で『セントラル住通』の所在を聞き、裏通りのその不動産屋を見つけるまで三十分もかからなかった。私鉄沿線なら不動産屋は駅前に集中しているはずなのに、場所が青山となると、さすがに表通りでは気が引けるのか。もっとも裏通りで不動産屋が商売になるだけ、まだ青山の需要も多いということか。
店にいたのは歳の分かりづらい陰気な女と、呆れるほど太った赤ら顔の、五十すぎの男だった。女は事務員らしく、応対に出て椅子をすすめてきたのは、太った赤ら顔の男のほうだった。
「まったくねえ、あの件に関しては、うちもほとほと手を焼きましたよ。女ってえのは見かけによらんもんですわ」
クーラーが効いているというのに、鼻の頭に汗を浮かべた顔を大げさに歪め、メガネをふきながら、書類挟みを開いて男が足を貧乏ゆすりさせた。
「前の月の部屋代が振り込まれなかったんで、おかしいとは思ったんですがね。敷金も取ってあるし連帯保証人もつけてある。そんでもって高をくくってたんですわ。まさかここまで、きれいに逃げられるとはねえ」
情報はなんでも引き出せそうな雰囲気で、手間は省けるが、男のほうも部屋代を踏み倒された鬱憤を、誰かに力一杯喋ってみたかったのだろう。きれいに逃げられた、というからには、男にしてもまだ長倉圭子の転居先を掴んでいないことになる。
「ずいぶん高そうなマンションですが、部屋代は何円《いくら》でした?」と、事務員が出してくれた麦茶をすすり、壁に貼ってある物件の案内用紙に目をやったまま、高梨が訊いた。
「管理費を入れて三十七万五千円ですか。いえね、部屋代の徴収はうちで請け負ってますから、催促はしたんです。ただ正月が挟まったり連絡が取れなかったりで、気がついたときは手遅れでした。このご時勢、簡単に次の借り手も見つからないしね。敷金を差し引いても五十万がところ損しましたっけ。家主に被《かぶ》せるわけにもいかず、けっきょく損金はうちで被りましたよ。奇麗な顔してて、女ってのは恐ろしいもんですよねえ」
「連帯保証人に、なぜ催促しなかったんです?」
「それがあんた、うっかりしてましたけど、あとで契約書を見てびっくりですわ。去年マルチ商法で捕まった会社、覚えてます? あそこの社長の……」
「横沢豊成」
「そう、なんとねえ、連帯保証人はその横沢豊成だったんですよ。契約のときは気づきもしなかったが、まさかマルチだの詐欺だので捕まってる男に、損金を請求するわけにもいかんでしょう」
「長倉さんはいつからあのマンションに住んでいました?」
「去年の今ごろ二回目の契約更新をしたから、五年になりますかね。おたくもあの女に、金でも貸してたわけですか」
「そんなところです。契約書とか証明書とか、残っていたら見せてもらえますか」
男が汗の臭気《におい》を飛ばしながら、忙しく書類挟みをめくり、メガネをかけなおして、耳障りな息と一緒に二枚の紙を高梨の前に滑らせた。一枚は契約書のコピーで、もう一枚は不動産屋への申し込み用紙だった。
「よかったらコピーして差しあげますよ。あの女が見つかるなら願ってもないことです。どんな事情があったか知らんけど、とっ捕まえて談判してやりたいもんですわ」
契約書には部屋代や使用条件などの、一般的な契約事項が羅列してあるだけだったが、申込書のほうには生年月日から本籍まで、長倉圭子の過去がほんのわずか顔を覗かせていた。五年前の時点で今の状況を考えていたはずもないから、生年月日や本籍まで嘘だとは思えない。圭子は昭和三十三年生まれの三十八歳。本籍は山形県鶴岡市大宝寺町一丁目。職業は飲食店経営。青山に越してくる前の住所は中野区弥生町。しかしこれも賃貸マンションだろうから、青山を引き払ったあと、また中野の弥生町に戻っていることはない。
コピーを取るほどでもなく、必要事項だけを手帳に書きとり、書類を男に戻して、礼を言って高梨は椅子から腰をあげた。圭子が見つかったら連絡をくれ、と男は言ったが、高梨の約束は口だけだった。圭子とかかわってたった五十万円の損なら、本人がどう思おうと、被害としては安いものだ。大野憲作が愛人契約を結んだときから、銀座にクラブを出させたときの費用まで、バイオル化学は圭子にどれほどの金をつぎ込んでいることか。
長倉圭子の隠れ方は、どうやら計画的なものらしい。一人だけの小細工でもなく、行方を探すのは、高梨が思っていたより面倒な仕事になりそうだった。だからといって空気に溶けたはずもないから、生きている限り居所は突きとめられる。世の中には信じられない存在の消し方をする人間もいるが、それは歴史的偶然か、政治的必然だろう。今回の場合は大野勝彦や棚畑啓一の思惑がどうであれ、しょせんは一企業の勢力争い、まして圭子のような女が半年も世間から隠れて暮らせるとも思えない。興信所を使って調べさせるか、高梨自身の足で探し出すか、どちらにせよ結果が出るのは時間の問題だった。その証拠に半日歩いただけで、高梨の手帳には圭子の実家の住所が、しっかりと記録されていた。
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『秀川』は靖国通りに面したビルの地下にある、狭い割烹料理屋だった。女将が高梨とは中学の同級生ということもあって、ふだんから応接間と事務所を兼ねたような使い方をしている。妻の沙希子以上に高梨の仕事を心得ている女だから、その日の雰囲気で勝手に応対の仕方も変えてくれる。亭主とはだいぶ前に別れていて、今は売れない舞台俳優と板橋のマンションで同棲しているという。
高梨は連絡をした矢島孝之があらわれるまで、襖《ふすま》で仕切られた奥の座敷におさまり、枝豆を肴に、酔わない程度のビールで三十分ほど時間をつぶしていた。
しばらくして矢島が顔を出し、額にうすく汗を光らせながら、プレスのきいたスーツで忙《せわ》しなく座敷にあがってきた。真夏でもネクタイをゆるめたことのない男で、それは仕事上の必然ではなく、女を信用させるためのちょっとしたコツなのだという。高梨が業界紙記者時代からの知り合いだが、当時は経済企画庁の外郭団体が発行している広報誌の編集委員だった。その後自分で経済情報誌を出し、しかし資金がつづかず、今は評論家という肩書きで不動産ブローカーのようなことをやっている。
「お宅の事務所にいる祥子ちゃんな、彼女、やっぱり俺に惚れてるぜ」と、料理を鴨しゃぶといさきの塩焼きに決めてから、膝をくずし、最初のビールをあおって、矢島が言った。「電話をかけたときの喜び方は、あれは間違いなく俺に惚れてる」
「どんな電話にも愛想よく応対しろと言ってあるんだ」
「いつか大手町で行き合ったことがあってな、とびきりの笑顔で声をかけてきた。惚れてもいない男に、女があんな笑顔をつくって見せるかよ」
女と博打《ばくち》以外自分に弱点はない、と広言している矢島孝之に、責任の所在はともかく、祥子の笑顔は少しばかり因果な偶然だ。最近どこかのホステスと同棲をはじめたはずだが、昨日から自宅も留守番電話になっていたところをみると、またなにかトラブルでも起こしたのかも知れない。
「機会があったら、まあ、ゆっくり口説いてみるさ」と、二つのグラスにビールを足してから、枝豆をつまみ、それを口に放り込んで、高梨が言った。「実は奇妙な仕事が入ってきてな、あんたにとっては得意な分野だ」
「例の種馬の輸入に関する、中央競馬会の造反事件か」
「あれは農水省が間に入って沙汰やみになった」
「それじゃなんだよ。めずらしく女の問題でも抱え込んだか」
「バイオル化学がらみの話だ、社内で勝彦の立場がまずくなってるらしい」
一瞬目を見開いてから、矢島がうすい唇を皮肉っぽく歪め、天井に向かって長く息を吹きつけた。
『得意の分野』と聞いて本職より賭け事や女が頭に浮かぶあたり、さすがに高梨とは、キャリアが違う。
「あの二代目も派手に動いたからなあ、バブルのつけでも回ってきたか」
「憲作氏の時代ともかかわる問題で、俺にも多少の因縁がある」
「ちょっと待てよ。まさかお前さん、勝彦のために働くつもりじゃあるまい。いくらなんでもそれじゃ人が良すぎる」
「誰のためということは、ない……」
「憲作への義理は果たしたろうよ。詳しいことは知らんけど、当時のトラブルは俺の耳にも入ってる。勝彦がピンチだというなら、うしろから尻でも蹴飛ばしてやれ」
手伝いの女の子が、卓に鴨しゃぶの支度をはじめ、それが終わるのを待ってから、ビールに口をつけて、高梨が言った。
「なあ矢島、半年ほど前まで銀座にあった『けいこ』という店、知ってるか」
「俺の縄張りからは外れてたな」
「ママをやってたのが長倉圭子という女で、死ぬ前の一年ほど憲作が面倒を見ていた。憲作の死後会社が金を出して七丁目に店を出させた。当然憲作との関係は口外しないという条件つき。ところが今になって圭子が、社内の反勝彦側に寝返ったという。その話が本物なら勝彦も冷汗ぐらいかくことになる」
「ゴシップとしちゃ面白いが、なあ?」
「なんだ」
「バイオル化学だって二部上場企業だろうよ、勝彦も一応はオーナー社長だし、それぐらいのことで……」
「実力で社長になったわけじゃない。子飼いの幹部にだって、勝彦をおもしろく思ってない連中はいる」
矢島が上目づかいに流し目を送り、ビールを口の前でとめたまま、わけ知り顔で、ふんと鼻を鳴らした。矢島にしてもバイオル化学や化粧品業界の内幕は、どうせ高梨以上に知りぬいている。
「それはともかく……」と、グラスを空け、手酌でビールを注ぎながら、矢島が言った。「そんな昔の経緯にこだわって、金になるのかよ」
「バイオル化学の富塚がタクシー代を持ってきた」
「ほおう」
「百万円ばかりな」
「勝彦も自分を安く見積もったなあ、今どき百万じゃ家出人も探せないぜ」
「仕事のあとでボーナスを出すという、どこまで本気かは知らないが」
鴨すきを小鉢に取り、酒を日本酒にかえてから、胡座を組みかえて、わざとらしく、矢島が咳払いをした。
「で、どういうことだ。俺の魅力で『けいこ』のママでも口説けという話か」
「場合によってはそういう技も頼む」
「残念だったな。俺は最近、女は二十五歳以下と決めてるんだ」
「矢島、帝都銀行からバイオル化学へのり込んだ棚畑啓一という男、知ってるか」
「棚畑……」
「今はバイオル化学で常務をやってる」
「そういやパーティーかなにかで、なん度か会ったかな」
「棚畑が銀行をバックに勝彦の追い出しを狙ってるそうだ」
「銀行を、バックに?」
「富塚はそう言ってるが」
「富塚がなあ、それが本当だとすると、帝都も二代目の馬鹿さ加減に、いよいよ愛想をつかしたというわけだ」
矢島が盃の酒をすすって、頬に太い皺を浮かべ、クーラーの風を透かすように、細く目を光らせた。大手の帝都銀行を舞台にどれほどの仕事が可能か、とりあえず計算でもしているような顔だった。
「これもバブルの後遺症かなあ。二代目の道楽が本社の経営を、だいぶ圧迫してるという噂だぜ」
「例のアスレチッククラブ、か」
「調子にのって手を広げすぎた。地道に化粧品を売ってりゃいいものを、あれじゃ銀行だって株主だっていい顔はせんだろうよ」
「バブル自体は、勝彦の責任じゃないさ」
「高梨、お前さん、本気で勝彦に肩入れする気なのか」
「道化であることは分かってる」
「それならどうして……」
「俺だって善人じゃないからな」
「どさくさに紛れて大野から昔の退職金を出させるとか?」
「それもあるが、しかしそれだけではない、なにか、いやな予感もする」
「どんな予感だよ」
「憲作氏が死んだあと、長倉圭子のパトロンについたのは東横工業の横沢豊成だという。横沢が捕まるまでに集めた金は釣三十億、そのほとんどが使途不明、政治家や役人にばら撒いたという噂もあったが、捕まったのは横沢一人。大騒ぎをしたわりには決着が簡単すぎる」
「そりゃ横沢が口をつぐんだのさ」
「なぜ口をつぐんだ?」
「刑期を終えてからまた一仕事するには、政治家に貸しをつくっておく必要がある。そんなこと詐欺師の常識だろう」
「それにしてもな、憲作や横沢と関係のあった女が、また奇妙なところで顔を出した。その長倉圭子が、どうも、故意に姿を隠しているらしい」
「いつもトラブルと一緒に登場する女……か。いい女にトラブルはつきものだがな」
「だから用心のために相手側の情報を仕入れておきたい。棚畑の周辺か帝都銀行か、ぼろ[#「ぼろ」に傍点]を出しそうな奴はいないか」
矢島が口をへの字にむすんで、呆れたようにため息をつき、ネクタイをゆるめながら、酒をぽいと口に放り込んだ。
「棚畑も、そりゃあ、支店長までやったエリートではあるが……」と、小さく舌打ちをして、肩をすくめながら、矢島が言った。「掘り起こせば女の一人や二人、出てくるかも知れんな。それにバブルの時代には、どうせ地あげ屋への不正融資にかかわっている」
「金、仕事、女、家族のトラブル、本人の病気。使えそうな情報ならなんでもいい。俺だって保険もかけずに火事場の見物には行きたくない」
「保険金だけ受け取って火事の見物には行かないという方法もあるぜ。俺に富塚からの百万を預けてくれれば、来週の前橋競輪で十倍にしてみせる」
「ただで働いてくれとは言ってないさ」
「おいおい、本当にお前さん、俺にやばい仕事をさせる気かよ」
「保険に使えそうな情報を仕入れてくれ、そう言ってるだけだ」
「俺は憶病で礼儀正しい経済評論家なんだぜ。自分より強いやつとは喧嘩しない主義なんだ」
「棚畑個人が相手なら構わないだろう。バイオル化学も無駄な不動産を抱えてるというし、横沢の集めた金も、まだどこかに眠ってるかも知れない」
矢島の皺のない額が鈍い色に光って、耳から首にかけての筋に、一瞬、緊張の気配が這いあがった。女や博打に対する執着は、金の臭気《におい》にも同様の臭覚を発揮するのだろう。
「なあ高梨、一億ばかりどかんと、大仕事にならんかなあ」
「博打と女をやめればあんたもビルが建つさ」
「冗談じゃないぜ。評論家として社会悪と対決するとき、財産があったら足手まといだろうよ。そんなことより、バイオル化学にいた津坂文和、例の件でいまだにお前さんを恨んでいるらしい」
「津坂……が?」
「十日ほど前に新橋の飲み屋で鉢合わせしてな。仕方なく一緒に飲んだが、そのときまだ昔の怨みごとを言ってた、そのうちお前さんに地獄を見せてやるとかな。本社のエリートからつまらん子会社に飛ばされて、やつの気持ちも、分からんではないが」
「義理がたい男だ」
「お前さんだって十年以上も昔の経緯にこだわってる。なあ、そもそも俺にはその律儀さが信じられん。憲作への義理といったって、たかが交通事故だろう。高梨が悪かったわけでもなし、死んだ秘書に運がなかっただけだ。憲作が死んだ秘書のかわりにお前さんをひろったことだって、たんなる年寄りの気まぐれじゃないか」
雨の交差点で高梨が交通事故を起こし、相手側が死んで、それがバイオル化学の社長秘書だと聞かされたのは、救急車で運ばれた病院でのことだった。いく日かして『生き残った君の運を買おう』と憲作に言い出されたとき、高梨は政治的陰謀まで疑ったものだ。実際にはもちろん、二流業界紙の記者なんか陰謀のほうが相手にしなかったが、三年後に高梨が自分の死のあと始末をする巡り合わせまで、もしかしたら憲作は、どこかで予感していたのかも知れない。
「それで、その結果が、こういうことかよ」と、魚の皿に箸を置き、タバコを口の端に押し込みながら、矢島が言った。「勝彦には会社を追い出される。女の問題で尻拭いまでやらされる。俺に言わせりゃ、憲作はお前さんにとって疫病神だと思うぜ」
「矢島が渋谷で暮らしていた女も疫病神だった」
矢島の尖った顎の先が、恥じ入るように引きしまり、結んだ唇のすきまから、タバコの煙が乱れながらにじみ出た。社会悪と対決するには、たしかに足枷《あしかせ》は少ないほうがいい。そういう崇高な理由で矢島は女房子供と別れたのだろうし、どんな女とも長つづきしない理由も、たぶん思想の問題なのだ。
「どうでもいいけどな。高梨、十年前のあれは本当のところ、どうなんだ?」
「十年前の、あれ?」
「噂があったじゃないか」
「どんな」
「今さらとぼけるなよ、あのとき憲作が死ななかったら勝彦は社長の椅子に座れなかった。業界では噂になったぜ、勝彦が一服盛ったとな」
いかにもありそうな噂で、そんな噂が流れたことは高梨も承知している。しかしあの夜勝彦が栃木にいたことや、憲作に心筋症の持病があったことは周知の事実なのだ。憲作の死は高梨が直接確認し、自宅では主治医にも検証させた。その主治医だって検死解剖の必要性など、気配にも出さなかった。
「矢島……」と、ジントニックのグラスをなめ、タバコの煙に矢島の顔を透かして、高梨が言った。「勝彦にそんな度胸がないことは、あんたも知ってるはずだ」
「お前さんも善人だよなあ、馬鹿でも意気地なしでも、腹がへれば餌に食いつくさ」
「あんたも見かけより暇らしい」
「だけど理屈としては、筋が通るじゃないか」
「俺だって心臓病については知識がある、憲作の発作で勉強したからな。だから結果はどうであれ、あのときの憲作の死に問題はないんだ」
「むき[#「むき」に傍点]になるなよ」
「しかし……」
「お前さんがそう言うなら、まあ、そういうことにしておくさ」
「そういうことにしておいてくれ」
「俺も女に指輪を贈るためには、馬券を買わにゃならんしなあ」
「馬券を買わずに指輪を買え」
「お前さんとは価値観がちがうさ。汗水たらした金で女の指輪なんか、買えるかよ」
「そんなもんかな」
「そんなもんだぜ。女に指輪を買うためには馬券を買う必要がある。馬券を買うためにはいやな仕事もする必要もある。どこが始めでどこが終わりなのか、最近俺にも、自分のアイデンティティーが分からなくなってきた」
空になったグラスに、高梨は氷とジンとトニックを足し、不愉快な胸に、ため息で風を通してやった。勝彦が憲作に一服盛ったという噂も、理屈としては面白いが、たかが化粧品会社の権力争いに殺すの殺されるのという話は、いくらなんでも大げさすぎる。そんな金や権力のために一々人を殺していたら、世界中が人殺しだらけになってしまう。
「なあ高梨、お前さん、今夜は暇なんだろうな」
「考え方の問題だ」
「それなら前向きに考えようぜ。なあ、お互いにいい仕事をするためには酒も必要、女も必要、ちょっとしたスリルも必要だ」
「そんなもんかな」
「考え方が前向きなら人生は開ける。人生が開ければオイシイ仕事も向こうから転がり込む。俺は自分の人生で、その理屈をちゃんと証明してきた」
今朝家を出るとき、高梨は沙希子に『早く帰れるはず』と言ってきた。しかしこうやって矢島と飲みはじめた以上、もう結果は分かっている。夜中までに帰れれば上出来、へたをすると今夜もまた、神田の事務所に泊まることになる。
「そうと決まったら、なあ、今夜はゆっくり打合せといこうぜ。池袋にいい店があるんだ。ママも年増の美人なんだが、娘がまたいい女でな、アルバイトで写真のモデルをやってるらしい。とにかく脚の長さが俺の腰ぐらいまでありやがって……」
なにが『そうと決まった』のか、決意のプロセスは不明瞭でも、矢島の目つきはきっぱりと高梨の依頼を受け入れていた。池袋の次には渋谷あたりにも『いい店』はあるはずで、これで今夜の事務所泊まりは決まったようなものだ。
高梨はジントニックを深く胃に流し入れ、タバコにも火をつけて、煙を長く天井に吹きつけた。十年という時間の向こう側に、長倉圭子の整った横顔が鮮やかな輪郭でよみがえり、蓋恥にみちた懐かしさが、じわりと血管を熱くする。あのとき高梨が深入りを避けた理由は、圭子に危険な匂いを感じたからで、その同じ危険な匂いが今は不思議に高梨を誘惑する。
前向きに考えただけで本当に人生が開けるのか、面倒な検証はあと回しにして、今夜は矢島の理論にのるのも悪くはない。アルコールが血管を拡げる音を躰の中に聞きながら、顔の前にわだかまるタバコの煙を、高梨は軽く手で払いのけた。
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上越新幹線を新潟で乗りつぎ、羽越本線で日本海側を北上しはじめると、波の低い鉛色の海が家並みの切れめから悄然と顔をのぞかせてくる。海にふる雨が水平線をけぶらし、漁師小屋や民家の瓦屋根を愛想のない灰色に染めあげる。電車の窓は並走するクルマを悠長に追い越し、短いトンネルを抜け、岩の多い海岸線と緑の深い内陸部を無感動に走り抜ける。梅雨が明ければ日本海側にも乾いた夏がやって来るのだろうが、今の灰色の風景からは、この海の気楽な夏は想像もむずかしい。
二日の間、高梨は港区の区役所や中央区の保健所をまわって歩き、長倉圭子の消息を漫然と追いかけてきた。銀座に出していた店の権利はビルの持ち主に返却ずみ、区役所にも転居先の届けはなく、書類だけなら今でも圭子は南青山のマンションに住んでいる。この四カ月の間、長倉圭子は、見事なまでに姿を消していた。圭子が鶴岡でどんな少女時代を過ごしたにしても、親兄弟が残っているなら、居所ぐらいは連絡してあるはずだ。富塚吉太郎がなんのつもりで今回の仕事を持ち込んだのか、圭子を探し出さなくては、とにかく、話は先にすすまない。
羽越本線『いなほ9号』が鶴岡についたのは、四時ちょうどで、駅前のロータリーも舗道も客待ちのタクシーも、気の毒なほど濃い雨の色に染まっていた。高梨も酒田や山形市までは来たことがあったが、鶴岡に立ち寄るのは初めてだった。駅前の人通りやビルの建ち方を眺めるかぎり、人口も十万を上まわってはいないだろう。どこにでもある寂れた地方都市、しかしこんな町からも圭子のような女が生まれ、老人臭ただよう夜の街を無邪気な気楽さで泳ぎまわる。
高梨はレインコートに折り畳み傘を持っただけの格好で、交番に寄り、大宝寺町一丁目の場所を聞いて駅前通りを東方向に歩きはじめた。最初の信号を右に曲がり、国道七号を十分ほど行くと、そのあたりが大宝寺町一丁目だった。通りの両側には木造の古い家並みとモルタルの低い商店がつらなり、活気は感じられないものの、生活の匂いはそれなりに煮詰まっている風景だった。
国道に出て十字路をそのまま進んでから、手帳にメモしてある所番地まで来て、高梨は荒物屋で所在を訊き、近所を二、三分歩きまわって『長倉』の表札を発見した。バス通りに面したその家は、以前は商売でもやっていたらしい造作だったが、閉め切ったガラス戸には厚いカーテンが引かれ、出入り口も路地を迂回した奥のほうに付いていた。路地の入口には色の薄い紫陽花が大きく花を咲かせていて、沙希子の解説を思い出しながら、しかしそれが西洋紫陽花なのか日本紫陽花なのか、区別はつかなかった。
格子にガラスの嵌まった引き戸の前で、高梨はレインコートを脱ぎ、呼び鈴もインタホンもないそのガラス戸を、そっと引き開けた。晴れていても日が射すとは思えない暗い玄関には紅花のドライフラワーが盛られ、外からの印象よりは柱の太い贅沢なつくりだった。今は寂れた田舎町のバス通りであっても、昔は近郊の村から買い物客がやって来る、相当の繁華街だったのかも知れない。
声をかけると、奥の暗処《くらみ》から品のいい年寄りがあらわれ、不審そうにメガネを光らせながら、上がり口で高梨のほうに腰を屈めてきた。七十にはなっていない歳格好から、それが圭子の母親らしかった。
「わたし、東京の、高梨といいます」と、内ポケットから名刺を取り出し、年寄りに渡しながら、高梨が言った。
名刺と高梨の顔をしばらく見くらべてから、指先でメガネの位置をなおし、ため息をつくように、母親が曖昧にうなずいた。
「圭子さんがいらっしゃれば、お目にかかりたいのですが」
「その、なんですがな、圭子は東京におるはずですが、どういうお話ですかの」
あらかじめ用意しておいた台詞ではあったが、高梨の口から出るときには、やはりあと味の悪いためらいを含んでいた。
「今度銀座に、新しく店を出すことになりましてね。その店を圭子さんに手伝っていただきたいと思います」
「はあ、そりゃまあ、ご苦労さまでございますなあ。皆さま方にご迷惑をおかけしておるようで、心苦しゅう思っておりますがの。じゃけんど圭子は、ここには帰りませんでなあ」
母親が板の間に膝をついて座り、勧められて、高梨も一段低い上がり口に腰をおろした。母親がどこまで圭子の消息を知っているのか、ここまでの気配では判断し切れなかった。
「わたしも業種のちがう仕事ですので、圭子さんのお力を借りられればと……連絡は、取れませんでしょうか」
「ありがたいお話ですがなあ、おたくさま、圭子とは以前からのお知り合いですかの」
「十年になりますか。銀座のお店に寄らせてもらう程度で、個人的に親しくしていたわけではありませんが」
「さようでございますか。圭子も人騒がせな娘で、お世話になりますなあ」
「知人に聞いた話では、圭子さん、青山のマンションも引き払ったそうですね」
「はあ、それが、どうしたもんですか、わたくしにも、訳が分かりませんでのう」
どこか高梨の母親を思い出させる口元が、固いものを噛んだように引き締まり、歳のわりには張りのある頬に、一瞬陰のような太い皺がきざまれた。顔を伏せていて目の動きは見えなかったが、上目蓋と細く描いた眉の間が、少しだけ震えたようだった。
「わたしとしては、是非とも、圭子さんにお目にかかりたい」と、母親の息づかいと指先の表情に注意を向けながら、高梨が言った。
「ご迷惑をかけますなあ。じゃけんどあの子、この正月から電話一つよこしませんでの。困ったもんだと思うとりますが」
「いらっしゃる場所が分からない?」
「気持ちのむずかしい子でしてなあ、東京に出てから、鶴岡にはよう帰らんですよ。わたくしとしても半分は諦めておりますがの」
「心当たりも……」
「なんせなあ、家には寄りつかん子で、東京でのことは分かりませんです。どんな暮らしをしておるんか、心配はしておりますがのう」
母親は喋りながら、膝の上に重ねた両手を忙しなくすり合せていたが、それが内心の動揺をまぎらわす仕種であることは、首筋や肩の緊張からも明白だった。娘からの音信が半年も不通だというのに、ただ心配しているだけの母親が、どこの世界にいるものか。
口を閉じてしまった母親に、もう対処の仕方が見つからず、レインコートをまとめて、仕方なく高梨は腰をあげた。
「もう一つ。さきほど『みなさま方に』と言われましたが、わたし以外にだれか?」
「はあ、一週間ばかし前でしたかのう、やはり東京からおみえでしたが」
「東京から……」
「昔の知り合いじゃおっしゃっとりました」
「名前は?」
「津坂さんいう方でございました」
「大野通商の、津坂文和?」
「さようおっしゃっとりましたのう」
「津坂が……」
「お知り合いでございますか」
「いや、以前圭子さんのお店で、顔を合わせた程度です……とにかく圭子さんから連絡があったら、わたしが訪ねてきたとお伝えください」
「ご迷惑をおかけしますのう。本当に我儘な子で、申しわけないことでございます」
板の間に膝を付いたままの母親に、高梨は深く頭をさげ、あいている引き戸から外に出て、大きく呼吸をした。こんな仕事で圭子を追いかける自分も情けないが、歳をとった母親にへたな嘘までつかせて、長倉圭子はいったい、なにを考えているのか。まして富塚の登場までがへたな芝居だったとなれば、もう迂闊には動けない。本当に棚畑が圭子を抱き込んでいるとすれば、津坂文和が圭子を探して鶴岡へ来るはずはない。東京へはとんぼ帰りのつもりだったのに、これでまた、今日も予定を変えることになる。
ズボンを紫陽花の露にぬらし、路地を表通りに抜け、しかしかまわず、高梨は来た道を駅の方向に引き返した。近くにはスナックがあって、料理屋の看板も見えている。酒を飲む必要も言い訳も、みんなそろっている。知らない町の知らないホテルで目覚めることに、高梨だって快感があるわけではない。成り行きに文句を言っても仕方ないが、母親が圭子の消息を隠しているなら、消息があることはたしかだろう。姿を隠している理由が、もし不動産屋の借金を踏み倒すだけのことだったら、圭子に会ったとき、思い切り横面をひっぱたいてやる。
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駅前のビジネスホテルに部屋をキープし、二時間ほど仮眠をとって、起き出したときにはもう七時半になっていた。窓の外は暗く、にじんだ街燈の光が黒い空気の中をぼんやりと連なっている。雨滴は舞っていないから、雨だけはやんでいるらしい。
高梨はホテルの浴衣をベッドに放り、コンビニで買ってきた下着に着がえてから、タバコに火をつけ、ついでに浦安の家に電話を入れた。沙希子に念を押されなくても、家庭には家庭のルールがあることぐらい、高梨もちゃんと心得ている。
しばらく呼び出し音が鳴ってから、突然受話器が外れ、沙希子の低い声が几帳面に聞こえてきた。この喋り方が夏実に似ているのか、夏実のほうが沙希子に似ているのか、電話の声を聞くたびにいつも高梨は苦笑する。
「今仕事で鶴岡に来ている、今夜は帰れなくなった」
「あら……」
「明日は帰れると思う。事情が変わったら、また電話をする」
「鶴岡ってどこだったかしら」
「山形」
「山梨?」
「山形県、東北の」
「遠いわねえ、今朝はそんなこと言わなかったのに」
「今日中に帰るつもりだった、一日予定が変わっただけさ」
「わたしね、今日お父様の病院に行ってきたわ」
「ああ、そう」
「いよいよですって。やっぱりあなたも行くべきじゃない?」
「お袋には会ったのか」
「お会いしてお話をうかがったの。お父様、この夏を越せればいいほうですって」
「暇になったら一度ぐらい顔を出す、お袋にもそう言ってある」
「お姉様は毎日みえるらしいわ」
「調布の家のことは、君が心配しなくていいんだ。とにかくそういうことで、今夜は帰れない」
「あなた?」
「なんだ」
「今日へんな電話があって、気持ちが悪いのよ」
「へんな電話?」
「無言電話。なにも言わないで、突然切ってしまうの」
この電話がつながるまで、いくらか時間がかかったのは、その無言電話が原因だったのか。間違い電話もいたずら電話も、東京ではよくあることで、気にしていたら電話なんか一生使えなくなる。
「問題はないだろう。またかかってきたら、君の無農薬クッキーをセールスしてやれ」
「冗談を言わないでよ。お昼から今まで、四回もかかってるの」
「昼から、四回……」
「いたずらにしても執拗でしょう」
「夏実に心当たりはないのか」
「あの子になんの心当たり?」
「最近男を捨てたとか、三角関係がこじれてるとか」
「高校の一年生よ、大人と同じに考えないでちょうだい」
「俺たちのころとは時代が違うさ。夏実にだって男の一人や二人、いて当然だ」
「品のない言い方をしないで。夏実に特別なボーイフレンドはいないわよ、母親には勘で分かるものなの。電話のことも訊いてみたけど、思い当たらないらしい。もしかして、あなたのほう?」
「俺の、なに」
「お仕事とか、それに……」
「それに?」
「分かってるじゃない。毎晩お酒を飲んでくるけど、まさか自動販売機のビールではないでしょう」
高梨だってもちろん、自分が清廉潔白だと、恥じもなく主張はしたくない。しかし無言電話で脅してくる女に心当たりはないし、しばらくは面倒な仕事にも手をつけていない。唯一可能性があるとすれば、今回の、バイオル化学のトラブルということになる。
「心配いらないさ、あぶない仕事はしていない。酒だってつき合いで飲むだけだ。電話はノイローゼの受験生か、テレクラへのかけ間違いだろう」
「そうは思うけど……」
「呼び出し音を消して機能を留守番にセットしておけばいい。明日は帰るから、つづいていたら俺がなんとかする。いたずら電話なんか気にするな。君が神経質になったら夏実だって余計な心配をする」
沙希子が送話口でうなずく気配がし、高梨は泊まっているホテル名と電話番号を伝え、もう一度心配無用とくり返して、電話を切った。無言電話もいたずら電話も、ふつうなら神経を病んだ人間の憂さばらし、そうは思いながら、長倉圭子を探し初めて三日目であるだけに、少しだけ高梨はいやな気分だった。矢島孝之はどこまで動いているのか。バイオル化学、帝都銀行、棚畑啓一、そしてその周辺のどこかへ、すでに接触している可能性はある。こちらの動きを相手側に知られることに、覚悟も必要だ。富塚吉太郎の思惑も不透明で、痛みだした胃を、思わず高梨は手でおさえ込んだ。長倉圭子はなぜ姿を隠しているのか。富塚や勝彦や棚畑啓一の動きは、たんに社内での勢力争いなのか。十年以上も高梨を恨んでいるという津坂文和は、どういう精神構造をしているのか。あの津坂なら無言電話をかけてくるぐらいの陰湿さは、たしかに、持ち合わせているかも知れないが。
高梨は小さいソファに腰かけたまま、タバコを一本吸い、意識を当面の問題に戻しながら、大きく背伸びをした。東京のことは帰ってから考えればいいし、鶴岡では鶴岡の仕事がある。確認し直すまでもなく、こんな遠くまで高梨も物見遊山にやって来たわけではないのだ。
レインコートを引っかけ、折り畳みの傘を持って、五分後にはホテルの部屋を出た。紫陽花の露で濡れたズボンは、そのときはまだ生乾きだった。
目に見えないほどの小雨はふっていたが、傘を差すほどでもなく、高梨はレインコートの肩を軽く濡らしながら、いくらか馴染んだ駅前を大宝寺町の方角へ歩いていった。夕方まで開いていた商店はシャッターをおろし、国道の方向に暗い街燈がほやけた輪をつらねている。
信号機のランプが縦に並んでいる交差点まで出て、国道を右に曲がり、長倉圭子の実家の前に来てから、高梨は足をとめてタバコに火をつけた。道路を挟んだ向かい側にスナックの看板があって、それから百メートルほど先には小料理屋の白い暖簾《のれん》が見えている。実家との距離はスナックのほうが近いが、百メートルぐらい離れたところで、噂話の質に変化はないだろう。酒の飲めそうな店はほかにもあるし、夜中まで飲む覚悟があれば、なんとか必要な情報は手に入る。タバコの煙を二、三回吐き出したときには、高梨の足はもう、小料理屋に向かって歩き出していた。
『いづめこ』というその料理屋は、カウンターに座敷テーブルが三つあるだけの、活気のある快く小さい店だった。わずらわしくない程度に客が入っていて、高梨はカウンターの奥に席をとり、ビールを注文して品書きに目を通しはじめた。憲作の秘書をしていたころはよく地方にも出かけたが、ここ十年ほど、東京を離れることは少なくなった。旅行が好きなわけでもなく、名所旧跡を見物して感動する体質でもない。東北だろうと九州だろうと人間の生き様は似たようなもので、魚がうまいとか酒がまずいとか、違いはその程度のことなのだ。
つきだし[#「つきだし」に傍点]に出てきたのは丼に山盛りの枝豆、そのボリュームに戸惑いながら、それでも高梨は白バイ貝とサザエの磯焼きを肴に、黙って店の庄内弁に聞き入っていた。カウンターでもテーブルでも話題の中心は枝豆の作柄で、梅雨あけ時期さえ狂わなければ、今年も豊作まちがいなしという。途方もないつきだしの量といい、話題に対する熱意といい、鶴岡の人間にとって枝豆の存在はなにか特殊な地位にあるらしかった。
三十分ほどでカウンターの客が帰り、手のすき始めた女将らしい女にビールを追加して、ついでに、高梨が言った。
「女将、この町の信号機、どうしてランプが縦に並んでるのかな」
「お客さん、東京の人なんかね」と、カウンターのとなりに座り、化粧をしていない顔に金歯を光らせて、女将が言った。「冬は雪がふりますでしょう、信号機も横についてたら潰れますがね」
「雪、か。そういうもんか。東京にいるとつい忘れてしまう」
「最近は少なくなったんよ。昔は二メートルや三メートル、簡単に積もったのになあ」
歳は三十をいくつかすぎたところ。顔は丸い童顔で、料理屋の女将より保育園の保母が似合いそうな女だった。カウンターの向こうではパンチパーマをかけた色の黒い男が料理をつくっていて、二人が夫婦であることは言葉のやり取りで分かっていた。カウンターにはもう一人、六十ぐらいの小柄な女が入っていたが、雰囲気はどちらかの母親という感じだった。
「お客さん、もう致道《ちどう》博物館は見られましたんね」と、高梨のコップにビールを注ぎながら、丸顔を陽気に笑わせて、女将が言った。
「夕方ついたばかりさ」
「観光の方じゃなかろうけど、致道博物館は行かれなさいね。近くに庄内神社や物産館もありますんよ」
「遠いのかな」
「歩けば三十分はかかりますなあ、タクシーなら十分で行きますがね」
「明日、時間があったら寄ってみる」
「それがいいわ。昔の民家から藩主様の御隠殿まで、庄内地方の歴史がぜんぶ見られますしな」
「この店、古いの」
「『いづめこ』は七年になりますなあ、その前は父ちゃんが魚屋をやっとりましたんよ。お客さん、鶴岡は初めてかね」
「町に寄るのは初めてだな。昔から住んでるなら、長倉さんのことは知っているわけだ」
女将が額に皺をつくって、目を丸くし、肩を奇妙に感激させながら、のんびりとコップにビールを注ぎたした。
「あれまあ、そうなん、お客さん、長倉さんの知り合いなんね」
「知り合いではないんだ。長倉のお嬢さんに結婚話があって、身元調査をしている」
離れた場所にいた年寄りが、カウンターの中で背中をのばし、目を細めながら座敷ワラシのように場所を移してきた。笑った顔が完璧に女将と似ていて、どちらの母親なのか、訊くのも憚られるほどだった。
「母ちゃん、長倉さんちの香澄ちゃん、もう結婚だとよ。まだ十九か二十歳じゃなかったんね」
「はあ高校を出て、二、三年はたつんでないかのう。東京の大学行っとる聞いたが、もう結婚かの」
「いや、たぶん、人違いだ。わたしが言ったのは圭子さんのことさ」
「あれまあ、圭子ちゃんの。そうかいね、しばらく顔を見んようじゃったが、元気でやっとりますかのう」
「そのようだね。結婚のために銀座の店も閉めている。わたしは相手方に依頼されて、長倉さんの家族構成を調査してるんだ」
「調査なあ、その、例の、興信所とか……」
「形式だよ。圭子さんが水商売をやっていたことは相手方も承知している。親戚にやくざはいないか、兄弟に警察沙汰を起こした人間はいないか、その程度のことさ。あとで分かるともめ事の種になるしな」
女将と母親が、お互いによく似た丸顔を見合わせ、感心したようにうなずいてから、二人同時に、短い顎を前に突き出した。
「圭子ちゃんもまあ、むずしいことのあった子じゃけんど、やっと結婚かの。繁子さんも一安心じゃが。圭子ちゃん、いくつんなったですかのう」
「三十八だと思いますね」
「そうかいのう。帰ってくる度に派手んなって、どうしたもんか思うとったが、結婚となりゃ落ち着きますでしょうの。お相手は、どういうお人かね」
「東京で印刷会社をやっている人さ。わたしの口からは、詳しくは言えない。それより……」
甘海老が出てきて、高梨はこの店に腰をすえることに決め、レインコートを脱いで、酒もビールから焼酎の梅割りに切りかえた。地酒でも飲めれば土地に対する親しみも感じるのだろうが、日本酒を飲んでしまうと、明日の躰がつらくなる。
「さっきのことだけど、圭子さんの兄弟か親戚で、問題になりそうな人はいないかな」
「そりゃお客さん、あの一家は出来がよくて有名ですがの」と、小柄な躰で背筋をのばし、カウンターの向こうから覗き込むように、母親が言った。「旦那さんは十年ほど前に亡くなりましたがの。酒田の市役所に出ておって、部長までされましたが。圭子ちゃんの上も湯野浜のホテルで支配人されてます。下の女の子も東京の大学に出ましての、どこじゃったか、有名な大学ですがの」
「圭子さんは、三人|兄妹《きょうだい》ということか。今鶴岡で暮らしているのは、お母さんと、兄さんの家族?」
「芳樹さんいう人でな、奥さんもまあ、よう出来た人ですわ。二人の子供も学校で優秀じゃいうことですがの」
「圭子さんが一人だけ、変わった生き方をしたわけだな。繁子さんというお母さんも心配したろうね」
「本当になあ。子供んときはおとなしくて、よう勉強のできた子じゃったが、顔がよすぎたんかのう。高校もたしか、途中で仙台のほうへ移ったんと違いましたかの」
「高校を、途中で、ね」
「詳しいことは知らんけど、むずかしい事でもあったんかのう。圭子ちゃん、このあたりじゃ美人で有名じゃったから」
「最近、彼女、実家に帰っていないのかな」
「どうですかのう。正月は見かけんかったが、去年の盆は香澄ちゃんと墓参りに来よったですがの。店のお客さんが花笠踊りで会うた言うとりましたな。あの二人が一緒におりゃ、ちょっと目立つでの」
「香澄ちゃんというのが、妹さん?」
「背の高い奇麗なお嬢さんでのう、勉強もよう出来て、東京の大学に行ったがね」
「東京のなんという大学だろう」
「なんじゃったか、有名な大学っちゅうことじゃったが、おめえ、覚えとるかの」
「分からんなあ。わたしら大学に縁がないもんね。そんなこと、長倉の奥さんに聞けば分かりましょうに」
明日になれば、今夜のことも、どうせ繁子という母親に伝わってしまう。集められる情報は今のうちに聞き出す必要がある。
「圭子さんが高校を途中で転校した理由は、やっぱり、男性問題なのかな」と、視線をカウンターから女将にうつし、母親の気配にも耳を澄まして、高梨が言った。
「田舎ですもんね、まわりのもんは噂するでしょうよ。でも本当はピアノの先生につくためとか、そういうことでしたがね」
「ピアノを習うために、仙台まで」
「奥さんの親戚がおったんでしょう、誰かそう言っとりましたなあ」
「鶴岡時代に親しくしていた友達は、どうかな。中学や高校の同級生とか、幼なじみとか」
「圭子さん、あたしより四級も上だったし、どんな人とつき合っておったか……母ちゃん、なあ、山王町の根本さんなんか、圭子さんの同級だったかね」
「ありゃおめえ、二中から鶴岡商業だがの。圭子ちゃんは三中から南高じゃから、つき合いはなかろうによ」
「それじゃ吉田の清美さんなんかどうなん。ほれ、あの人、いつだったか圭子さんと店に来てくれたがね」
「そうじゃのう。清美ちゃんは北高に行ったはずじゃが、中学は三中だったの。清美ちゃんなら圭子ちゃんのことも知っとるかの」
「清美さんという人は、今でも鶴岡におりますか」
「銀座通りに嫁に行きましたが。黒木屋ちゅう靴屋ですがの」
「銀座通り、というのは?」
「ずっと南の方でしての。昔からの商店街じゃが、今はあまり盛ってはおらんのう」
「銀座通りの黒木屋、ね」
「お客さん、さっきあたしが致道博物館言いましたでしょう。銀座通りはそこのすぐ近くですがね」
「博物館の近くなら、ついでに回ってもいいわけだ。古くて、雰囲気があって、なかなかいい町だ」
新しい梅割りが出てきて、テーブルの客も入れかわり、店にまた枝豆と花笠踊りの話題が圧倒的な迫力でよみがえった。長倉圭子の噂話にどれほど興味をひかれようと、女将や母親にとっては所詮一過性の娯楽なのだ。できれば高梨だって、枝豆を食ってビールを飲んで博物館を見物して、ついでに羽黒山でもまわって東京に帰りたい。奇妙に肌触りの懐かしいこんな町に、いつかそのうち、ぼんやり観光に来るのも悪くない。
カウンターに座っている必要もなくなり、残っていた梅割りが空くのを待ってから、高梨は女将と母親に声をかけて『いづめこ』を出た。雨足は思ったより強く、傘を差してまでバーを探す気にはならなかった。ホテルに戻ってシャワーを浴び、寝つけなかったらそのときはフロントで適当な店を教えてもらう。女の匂いが恋しいわけでもなく、田舎町の夜を探検して歩く好奇心もない。眠るのに必要な寝酒があれば、少なくとも今夜は、それでいい。
国道から駅前通りにつながる交差点まできて、高梨は信号機の縦に並んだランプに手をふり、無意識にため息をついた。『いづめこ』の母娘が思い出した長倉圭子と、高梨の知っていた長倉圭子と、どこか、なにかが違う。実家の雰囲気も母親の繁子の表情も、町の風景も雨の匂いも、なにもかも東京での圭子には似合わない。この町で高梨の頭が描ける少女時代の長倉圭子は、もの静かで清潔な、ピアノのうまい田舎町のお嬢さんだった。先入観で圭子を見ていただけなのか、それとも東京の夜が圭子を変えたのか。どちらにしても高梨は、簡単に結論を出す気分ではなくなっていた。
雨をよけてタバコに火をつけ、にじんだままつづく暗い街燈のつらなりを、高梨は傘の向こうに背伸びをして透かし見た。少女時代の圭子が不意に姿をあらわしそうな不安が、少しの間高梨の目を雨に固定させ、しかし暗い雨の中から歩いて来たのは汚れたズック靴を両手にぶらさげた、子供のころの高梨自身だった。
高梨はタバコを足元の側溝に捨て、もう一度信号機に手をふってから、舗道に流れる雨を靴の底で軽く蹴飛ばしてみた。冬にはこの信号機も雪に埋まってしまうという。こんな知らない町の熱い雨の中、一人で信号機に感心している自分が、高梨には可笑《おか》しくもあり、空しくもあった。
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目覚めたときホテルのカーテンが黄色く見えたのは、寝酒に飲んだジントニックの影響ではなく、窓に射している薄日のせいだった。外の気温は感じられなくても、カーテンの色と光の気配から、どうやら梅雨の晴れ間の蒸し暑い一日らしかった。高梨はチェックアウトタイムを十二時まで延長し、湯舟で躰のアルコールを抜き、紙袋をぶらさげてホテルの部屋を出た。沙希子への電話では無言電話も昨日で終わったという。外国人のかけ間違いか、回線の故障でもあったのだろう。東京にもどって矢島の報告も聞きたいところだが、なんとなく今日は、早く浦安の家に帰りたい。梅雨が明けたら、冗談ではなく、家族で夏休みをとるのも悪くない。
タクシーを乗りつけた銀座通りは、一方通行の両側にアーケードの商店街がつづく、整備された小ぎれいな一画だった。『昔からの商店街』というわりに建物は新しく、舗道には化粧煉瓦が埃もなく敷きつめられていた。その清潔な町並みに、買い物客の少ない明るい風景が、奇妙な倦怠をかもしだす。
均等に間口を区画された商店街に『黒木屋』を見つけ、高梨は下着とレインコートを詰めた紙袋をさげたまま、ドアを押して店に入っていった。商品はスニーカーや女物のサンダル、手前の棚には草履や下駄も並んでいて、靴屋というより、地方都市によくある雑多な履物屋のつくりだった。
声をかけると、奥から目の飛び出した太った女が顔をのぞかせ、エプロンで手のひらをこすりながらおっとりと近づいてきた。歳も四十前ではあるらしいが、長倉圭子の華やかさとは、どこまでも無縁だった。
「長倉圭子さんのお友達の、吉田清美さんにお目にかかりたい」と、相手の姓が変わっていることを承知で、女の表情を観察しながら、高梨が言った。
女が首をすくめてうなずき、しゃっくりでもするように、肉の厚い肩をぶるっと震わせた。これが高梨の来訪を予定しての表情なら、たいした演技力だ。
「東京で圭子さんに結婚の話があります。たんなる形式として、お友達の話をうかがいに来ました」
「東京から? そりゃまあご苦労さんですのう。んだば圭子ちゃんの結婚いうんは、初耳ですがのう」
「連絡は来ていませんか」
「聞いておらんのう。去年の盆に会ったとき、そんなこと言わんかったで」
「今年になってからの話です。そのうち連絡はあるでしょう。相手は印刷会社を経営している人で、圭子さんの経歴は承知しています。調べたところ家族や親戚に問題のある人もいないし、わたしとしても、この話はうまく決まってほしいと思います」
女が躰全体で息を吐き、折りたたみのスチール椅子を高梨にすすめて、自分は店舗との境の板の間に、よっこらしょと腰をおろした。目の飛び出し方や皮膚の厚みからいって、あまり健康な太り方とは思えなかった。
「大宝寺町にある『いづめこ』という料理屋は、ご存知ですか」と、紙袋をコンクリートの床に置き、咳払いを飲み込んで、高梨が言った。
「そりゃのう、近くに実家がありますで、たまには寄らせてもらいますがの」
「あの店であなたのことを聞きましてね、それでこうして、伺ったわけです」
「ご苦労なことでしたがのう、わたしが知っとるんは高校までで、東京でのことは分かりませんがの」
「圭子さんがどういう少女時代を過ごしたか、それをお聞きしたい。東京でのことは相手方も承知しています」
「圭子ちゃんの、その……」
「クラブに勤めていたことも、銀座で店をやっていたことも、すべてを承知で結婚したいということです」
女が飛び出している目を一層見開き、皮膚の黒ずんだ頬をゆがめて、肩で大きく息をついた。それが笑った表情なのか、怒った表情なのか、判断はできなかった。
「そういうことなら結構なお話ですよ。美人ちゅうのは縁遠いいうけど、はあ圭子ちゃんにも幸せんなってもらいたいがね」
怒ってはいないらしいが、女の表情は相変わらず不可解で、語尾の癖もやはり高梨の神経にはなじまなかった。長倉圭子も帰省時には、こんな方言で喋っていたのか。
「『いづめこ』の話では、子供のころの圭子さん、優秀だったそうですね」
「長倉の人はみんな優秀ですがね。兄妹三人とも南高での、芳樹さんなんぞ中学からずっと生徒会長でしたわ。んだばなんか、大学の受験に失敗しての、湯野浜んホテルに勤めなさって、それだがもう支配人ですがね」
「圭子さんは途中で、仙台に転校したんでしたね」
「わたしは北高でしたでの。詳しい事情は知らんけども、鶴岡じゃピアノが習えんいうことでしたの。ピアニストになりたいちゅう夢は子供んときから言うとりましたで」
「その後、エレクトーンに転向したわけですか」
「そうなんでしょうの、東京に行ってからのことは知りませんよ。水商売を始めたいうから、苦労はあったんでしょうよ。あんなに顔がよくても、芸術ちゅうもんは難しいんですかなあ」
口の中で、高梨は曖昧に返事をし、我慢していたタバコを取り出して、ゆっくりと火をつけた。子供のころは高梨だって野球選手を夢見ていた。詩人にもなりたかったし、画家にもなりたかった。長倉圭子がどこまで本気だったのか知らないが、そういえば圭子のピアノもエレクトーンも、高梨は一度も聴いていなかった。
「圭子さんの性格に関しては、どう思われます?」と、タバコの煙の中に少女時代の圭子を想像し、切ない親しみを感じながら、高梨が訊いた。
「それがなあ、小学校まではおとなしくて、クラスでも目立たん子でしたが。中学いって急に背がのびましての、びっくりするほど奇麗んなったがね。勉強は出来たし、友達にも親切じゃった。男子には人気がありましたのう。なんで水商売なんぞ始めたんか、聞いたときは信じられんでしたよ」
「圭子さん、鶴岡にはよく帰ってきましたか」
「盆暮れには来とったようですなあ。友達には会わんかったいいますが、あれだけの美人ですがね、町で見かけたいう話は聞きましたよ。いつも香澄ちゃんと一緒だったとかでの」
「いつも、香澄さんと、ね」
「誰に似たんでしょうの、香澄ちゃんも評判の美人ですがね。長倉のおばさんも若いころ奇麗じゃったいうから、おばさんに似たんかのう。顔がよくて頭がよくて、それでもの、人生ちゅうんは面倒なもんだがね」
「香澄さんは東京の大学でしたね」
「知っとりましょう、誠心女学院。誠心女学院の英文科いうたら立派なもんでしょうが。香澄ちゃんがいい大学に入って、圭子ちゃんも嬉しかったんでしょうの。あんときは東京から電話よこしましたがね」
「それが、去年の春?」
「そうですなあ」
「香澄さんは大学の二年生か、今どこに住んでいますかね」
「さあなあ、そこまでは聞いておらんですよ。圭子ちゃんに訊けば分かりますがのう」
「圭子さんの連絡先、ご存知ですか」
「当然ですがね、青山のなんとかいうマンションですよ。帳面を見れば電話番号も分かりますがの」
「南青山の『サン青山』?」
「サン青山いいましたかな。わたしも年賀状を出すんで、覚えておるんですわ」
連絡先と聞いて、高梨も一瞬張りきったが、圭子がこの女に現住所を教えていることなど、期待するほうが無理だった。圭子は予想以上の周到さで姿を隠している。去年の夏以降も鶴岡には帰っていない。それでも母親が言うほど疎遠だったわけではなく、盆と正月には律儀に帰省していた。たんに生まれた土地に対する愛着だったのか。それ以上に圭子を鶴岡に引きつける、ほかの理由でもあったのか。
高梨は差し出された灰皿でタバコを消し、椅子を立って紙袋を取りあげ、重そうに腰を浮かせた女に軽く会釈をした。これ以上歩きまわらなくても今夜には有名人になる。圭子がいないと分かった鶴岡に、もう滞在を延長する理由はなくなっていた。
「お邪魔しました。そのうち圭子さんから連絡があるでしょう。結婚のことは内聞にお願いします」
「ご苦労さまでしたなあ。圭子ちゃんもいよいよ幸せんなって、わたしもほっとしとりますで」
「市役所はどの方向ですか」
「南へくだって最初の信号を右に曲がれば、すぐですがね。お客さん、致道博物館はご覧になりましたかの」
「あいにく、忙しくて」
「市役所に行かれるなら博物館と庄内神社もまわればよろしいが。この地方の歴史がぜんぶ分かりますでなあ。近くの物産館でお土産もそろいますで、本当にまあ、東京からわざわざ、ご苦労さんでございましたがの」
ホテルのフロントでも勧められ、町でも料理屋でも、会う人間のすべてが『致道博物館に行け』と言う。しかし古民家や殿様の隠居所に興味はなく、教えられたとおり、高梨は銀座通りのアーケードを黒木屋から市役所へ直行することにした。日射しは人なつこい湿気をふくみ、閑散とした商店街を一時代昔の蒼い色に閉じ込めていた。買い物客がいるのは八百屋の店先だけで、舗道には茎についたままの枝豆が、それこそ感動するほど山積みになっていた。昨日の『いづめこ』では枝豆をダダチャ豆と呼んでいたが、ダダチャとは、どういう意味なのか。
高梨の背中をアイスキャンデー屋の自転車が通りすぎ、ふり返って、思わず高梨は赤面した。赤いのぼりを立て、鐘を鳴らして通りすぎるアイスキャンデー屋の幻覚を、高梨の衝動が無自覚に追いかける。背伸びをしても自転車は見当たらず、既視感に似た幻覚が糸を引きながら商店街に消えていく。湿度の高い温和な町並みが高梨を無力な少年に変え、静かな町の静かな人々の生活が、高梨に漠然と四十二年間の人生を疎《うと》ませる。
高梨はタバコを取り出し、そのタバコを捨て、このまま消滅してしまいたい欲求と一緒に、捨てたタバコを強く踏みつぶした。
市役所には五分でつき、住民課の窓口に長倉圭子の戸籍謄本を申請して、問題もなく、高梨はその謄本を手に入れた。使った名義は兄の長倉芳樹、印鑑は売店で買った三文判だった。
謄本の戸籍筆頭者は母親の繁子になっていて、それは父親の岳文が十年前に死亡除籍されていることが理由だった。謄本だから圭子の現住所の記載はなく、芳樹、圭子、香澄の生年月日を眺めているうち、もっと早く気づくべきだったそのことに、やっと高梨は思い当たった。四歳ちがいという芳樹と圭子の年齢差は順当だが、圭子と香澄の間にある十七年間は、姉妹として素直に納得できる時間ではなさそうだった。
長倉香澄の生年月日は、昭和五十一年五月二十三日。今年二十歳であることに間違いはない。謄本では同月二十六日、『父岳文により届出入籍』となっている。付帯事項は記されていないから、岳文は香澄を実子として届け出たことになる。しかしこのとき繁子の年齢は四十五歳で、本当に香澄を産めた年齢であったのか。四十を過ぎてから子供を産む女はいるにしても、すでに二人の子供がいる繁子が無理をして香澄を産まなくてはならない理由は、常識では思いつかない。昭和五十一年の芳樹もまだ二十一歳で、結婚して妻の康代を入籍させたのは七年もあとのことだ。圭子はこの年に十七歳、そしてなぜか、鶴岡から仙台に転校している。転校の理由がピアノの勉強にあったというのも、辻褄は合うが、その後圭子はエレクトーンに転向している。転向し、結局はそれも捨ててしまった。圭子のピアノに対する思い込みはどこまで本物だったのか。逆に圭子が鶴岡を離れた十七歳という年齢と、圭子と香澄の間にある十七年間の時間には、奇妙な一致がある。仮定の話として、戸籍上は妹になっている香澄が実は圭子の子供であると考えるのは、いくらなんでも、飛躍が過ぎるのだろうか。そして仮に、香澄が圭子の産んだ子供であるとして、だから、なんだというのか。
長倉圭子はどういう経緯で鶴岡を離れ、どういう思いで東京での二十年を過ごしてきたのか。記憶にある圭子と鶴岡で発見した圭子とは、まるで別人だった。そのことが今度の事件に、なにか関係でもあるというのか。圭子を見つけ出し、食事をして酒を飲んで昔話をして、お互いに目尻の皺を数え合う。高梨は決して、そんなことのために鶴岡までやって来たのではない。圭子に会い、富塚の意向を伝え、そして大野の側の人間としてバイオル化学問題を交渉する。建て前はその通りだが、この無様なまでの臭気を発している矛盾が、高梨の胃に潰瘍のような不愉快さを押しつける。
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飲み屋の女のいたずらか、世間知らずなOLの勘違いか、雑然とした仕事机の上に清楚なトルコ桔梗が一輪、ガラス瓶の中で頼りなく花を咲かせている。窓の外には今日もしつこく雨がふっていて、矢島の事務所がある麹町《こうじまち》も鬱陶しく灰色に汚れている。
「出身は長野県の佐久市で、昔は大きい造り酒屋だったらしい」と、缶ビールを顎の下に構えたまま、額に散った前髪を指先ですくいながら、矢島孝之が言った。「実家をついだのは棚畑の兄貴で、今はコンビニみたいな食料品屋をやっている」
富塚から話を持ち込まれてから、長倉圭子の所在が掴めないまま、もう一週間が過ぎていた。矢島の報告を聞く高梨の気分も、思わず手持ちぶさたになる。
「子供のころから近所でも評判の秀才でな。高校は長野の進学校を出て、あとは東大の経済学部から帝都へ総合職入行だ。融資や総務畑を歩いて支店長までやったが、性格的に小心なタイプで重役までは手が届かなかった。今は息のかかった若いやつに、女のほうを調べさせてる」
「女房に男がいるとか子供が暴走族だとか、生臭い話はないのか」と、回転椅子が軋《きし》る音を聞きながら、缶ビールのくもりを指でぬぐって、高梨が言った。
「嘘みたいに真面目な家族だぜ。子供は二人いるんだが、上はカリフォルニアの工科大学に留学中、下はお嬢さま大学で花嫁修業をやってる。女房もキリスト教系の慈善団体でボランティアに熱中してるし、いや味な家族じゃあるが、表面的には文句のつけようがない」
「一見健全な家族にかぎって、亭主に女装趣味があったり、子供が覚醒剤をやってたりするもんだがな」
「どうもなあ、必要があればそっちも調べちゃみるが……」
「銀行時代の不正融資とか」
「なんせ五年も前だ。それに総量規制がかかって以降は、銀行も慎重になっていた」
「棚畑の線は望みうす、か」
「動いても所詮は無駄な骨折りかも知れんな」
「あれはどうした、例の……」
「手はまわしてある、今日あたり誠心女学院の同窓会から返事が来るはずだ」
矢島が面倒くさそうにタバコをくわえ、ダンヒルのライターで火をつけながら、雨の見える窓から、ゆっくりと高梨へ視線をめぐらした。
「それより、なあ高梨、富塚とはどれぐらいのつき合いなんだ」
「どれぐらいって」
「素姓とか金まわりとか、分かってるのか」
「俺のいたころはずっと栃木だった、昔からの子飼いだと思うけどな」
「地元の信用金庫に勤めていて、なにかトラブったらしいぜ。それをどういう経緯でか憲作が拾ったということだ」
「信用金庫にいたことは聞いてる」
「どうもなあ、いい噂を聞かないんだ。顔に似合わずあの親爺、無茶なパフォーマンスが好きだってな」
「女……か」
「そっちも嫌いじゃないだろうが、問題は金さ」
「博打か」
「株も所詮は博打ということだ」
「株……」
「額は知らんが、相当な借金を抱え込んでるらしい」
「富塚が株で借金を、な。金も女も仕事も、たしかに、顔でやるわけじゃないが……」
高梨にしてもバイオル化学にいたのは、たかだか三年間、幹部社員や創業当時からの子飼いという人間も、素姓をすべて知っていたわけではない。まして当時から十年もたっていて、富塚吉太郎の噂なんか耳に届くはずもない。
「とにかくお前さん、人がいいからな。ぼんやりしてると足元をすくわれるぜ」
「俺の足元なんかすくって誰が得をする。それに足元をすくおうと狙ってるのは、こっちのほうだ」
咳払いをして、口の端で笑い、足を組みかえながら、矢島が気取った手つきで灰皿に腕をのばした。今日は最初から機嫌がよさそうだから、また競輪で穴でも当てたのだろう。
「なあ、富塚のことはともかく、東横工業が抱え込んだ金が、どうも見えないんだ」
「地検も追ったはずだがな」
「事件のあと管財人が入って、資産の処分をした。そのとき十二億ばかり足りなかった」
「天井裏にでも隠したか」
「証券や不動産に変えてれば、出てこないはずはない」
「あんたの得意な、裏情報は?」
「金塊にして山に埋めてるとか、新興宗教に寄付したとかな、噂だけなら腐るほどあるさ。銀座で飲み尽くしたという噂まである」
ライターで机をこつこつ叩き、額に大げさな皺をつくって、矢島がちっと舌打ちをした。ガラス瓶のトルコ桔梗が小さくゆらぎ、湿気っぽい空気の中を、まぎれ込んだ羽虫が煩わしく飛びまわる。
「あのころは悪玉善玉入り乱れて、楽しい商売をしてたよなあ」と、タバコの煙を長く吹き、遠くから高梨の顔を見おろして、矢島が言った。「今になるとあの時代も懐かしい気がするぜ」
「俺はずっと堅気のジャーナリストだ」
「よく言うよ、堅気のジャーナリストで浦安に家が建つか」
「あんたほど悪くはなかったさ」
「俺が何をした?」
「何をしたのかな。あの女房があっさり出てったぐらいだから、オカマと浮気でもしたか」
「高梨……」
「ともかく、富塚の周辺を、もう少し当たってくれないか」
「どうして」
「勘さ」
「若い女なら意欲もわくんだが……」
「あの親爺の言うことが、どうも信用できない。金に困ってるような男がなぜ百万もタクシー代を持ってきたのか」
「そりゃあ、二代目のお使いだろうよ」
「最初はそう思ったけどな」
「違うのか」
「十年も離れていればバイオル化学の内情も変わってる。それに勝彦が、俺に頭をさげてくるというのも、あいつらしくない」
「富塚が身銭を切ったか……」
「あるいはすでに棚畑側に寝返ってるか、な」
矢島が頬をさすりながら、口元をにがい形に笑わせ、汚れた天井を見あげて、音のない口笛を吐き出した。東横工業の横沢が金塊を山に埋めているという空想が、現実の問題として、頭に映像でも結んだような顔だった。
「バイオル化学のメインバンクは帝都銀行……」と、椅子の軋る音に眉をしかめながら、缶ビールの口をかたむけて、高梨が言った。「窓口は市ヶ谷支店だったはずだ。そのあたりに、トラブルはないのか」
「出入りしてるのは支店次長だがな、こいつは出世コースから外れたロートルだ」
「発信基地はもっと上?」
「本気でオーナー社長の追い出しを企むとすれば、支店次長じゃ役者が足りんよ」
「大口預金者の実績で銀行に圧力をかけられないか」
「お前さんの実績は知らんがな、俺のほうは万年残高不足だ。女子行員に手をまわしたぐらいじゃ、埒《らち》はあかんだろうしなあ」
矢島がうんざりした顔で鼻を曲げ、高梨のほうは缶でぬれた指先を、軽くハンカチにこすりつけた。東横工業の詐欺事件もバイオル化学のトラブルも、裏事情を知っている人間はいくらでもいるだろうが、必要なのは金に化ける証拠ということだ。
「なあ矢島、問題の周辺で、だれか山形に関係してる人間はいないかな」
「山形?」
「長倉圭子の出身が鶴岡なんだ」
「そう言われてもなあ、別れた女房の母親が酒田の出だったが……」
新しいタバコに火をつけ、雨の見える窓に向かって煙を吐いてから、背中をのばして、矢島が右に首をかたむけた。
「記憶ちがいかも知れんが、東横工業の横沢豊成、あいつは山形の出身じゃなかったかな。いつだったか経済誌のパブ記事で読んだ気がする」
「横沢豊成が山形……か」
「どの雑誌だったかは覚えていない。たしか、例の事件が摘発される直前のやつだ。得意げな顔でインチキなインタビューに答えてやがった。詐欺師にしては変わった経歴でな、向こうで高校の教師をやってたということだ」
「山形で、高校の、教師……まさかそれ、鶴岡じゃないだろうな」
「そこまで覚えてるかよ。山梨の記憶ちがいかも知れんし、具体的な場所までは載ってなかったと思うぜ」
そのとき、ドアに軽いノックの音がして、派手なブラウスを着た厚化粧の女が、部屋の様子を窺うように半分だけ肩をのぞかせた。矢島が表情をくずして立ちあがったところをみると、珍味売りや置き薬のセールスではなさそうだった。
「待っていたぜ。昼間から襲いはしないから、遠慮なく入ってくれ」
矢島がわざとらしい慇懃さで女をむかえ入れ、それまで座っていたソファをすすめて、自分はデスクの端に尻をひっかけた。話は中断させられたが、横沢に関してもバイオル化学に関しても、これ以上の進展はなさそうだった。
女が会釈をしながら歩いてきて、腰をおろす前に、高梨のほうに流し目と意味不明な含み笑いをおくってきた。歳は三十ちょっと、服装や頭のさげ方に、明らかな水商売の臭気がただよっている。
「彼女、恵比寿でスナックをやっててな。資金ぐりのことで俺が相談にのってる」
矢島本人に金があるはずもないから、どうせ金貸しかパトロン候補でも紹介するという、その種類の話なのだろう。
「これから出かけるんだが、お前さんにも会わせてやろうと思ってな。彼女、一年前まで銀座の『けいこ』に出ていたんだ」
ビールの缶が、高梨の手の中で軽く動揺し、ソファに尻を引きながら、高梨は思わず女の顔を見返した。銀座に出ていたならどこかで会っているにしても、頬骨の高い尖ったその顔に、義理にも見覚えはなかった。
女がハンドバッグから小型の名刺を取り出し、高梨に渡して、口元に誘うような含み笑いを浮かべてきた。商売で身につけた技術というより、生まれつきのそういう表情らしかった。名刺にある『松岡昇子』という名前にも、やはり高梨の記憶は動かなかった。
「彼女もな、圭子ママの消息は知らないらしいが……」と、デスクに腰かけたまま咳払いをし、ネクタイの位置を直しながら、矢島が言った。「なにかの参考になればと思って、それで寄ってもらった」
長倉圭子の居所を知らなければ、この類いの女に、とりあえず用はない。しかし今のところ圭子と接触のあった人間も、ほかには思い当たらない。一年前といえば、圭子が銀座の店を閉める半年前で、考え方によってはかなり最近まで圭子の身近にいたことになる。
「圭子ママの消息について、本当に、心当たりはありませんか」と、缶のビールを飲みほしてから、組んだ足を見せつけている松岡昇子に、自分の名刺を渡して、高梨が言った。
「昨日も矢島さんに訊かれたけど、ねえ、ママ、あれからプッツリなのよ。マンションの電話も切れてる、店にいた他の子たちも居所は知らないって」
「客ではどうかな、特に『けいこ』を贔屓《ひいき》にしていた客なんか」
「うちの店にも『けいこ』時代のお客さんは来るけど、やっぱり知らないと言うわね。圭子ママ、足を洗ったんじゃないかしら」
「彼女が足を洗う気配は、以前から?」
「特別にねえ……でも疲れたようなことは言ってたわ。あれで圭子ママ、意外にインテリ指向のところがあったから」
高梨の名刺を目でなん度か読み返し、ハンドバッグにしまってから、足を組みかえて、桧岡昇子が小さく欠伸をした。高梨も名刺をポケットにしまったものの、恵比寿にあるこのスナックに、無理やり通いたいとは思わなかった。
「店を閉めたのは、やっぱり、東横工業の事件が影響したんだろうか」
「そういう噂だったわね。パトロンは横沢さんだって、みんな思い込んでたらしいもの」
「みんな、思い込んで?」
「そこがねえ、わたしにもよく分からないのよ。たしかに横沢さん、普通のお客様ではなかった。でもみんなが言ってるような、ママのパトロンかというと、ねえ、本当のところ、どうだったのかしら」
松岡昇子がハンドバッグから直接タバコを抜き出し、目に含み笑いを浮かべたまま、ちらっと高梨の顔をうかがった。
「横沢さんのお陰で『けいこ』が繁盛していたことは、そりゃあね、間違いないと思うのよ。でもママと横沢さん、本当にそういう関係だったのかなあ」
「噂になっていたような、男と女の関係では、なかった?」
「それがはっきりしないのよ。わたしね、恵比寿に店を出すまで三年も『けいこ』にいたの。店ではだれよりも長かった。チーママもやってたのよ。それでもママと横沢さんができてたとは、なんとなく思えないの。そういう関係じゃなかったら、横沢さんがなぜあそこまで贔屓にしてくれたのか、その理由も分からないけど」
「本命のパトロンが他にいたかな」
「もしパトロンがいたとすれば、それは横沢さん以外にはありえないわよ」
「大野勝彦なんかどうだ、意外性があって面白いだろう」
「大野勝彦って?」
「バイオル化学の大野勝彦さ」
「あら、あの会社に、そんな名前の人がいるの」
「噂では社長をやってるらしい」
「ほーんと、お知り合いなら紹介してくれない?」
「名前も聞いてないか」
「知らないわねえ、バイオル化学のお客さんは富塚さんぐらい」
「富塚が……か」
「たいしたお客じゃなかった。たまに接待で使ってくれたけど、ほら、大学の先生やお役人の、ね」
「ほかにバイオル化学の人間は?」
「覚えてないなあ、富塚さんね、わたしのお客じゃなかったのよ。だからたまにヘルプでついただけ」
「棚畑とか津坂とかは?」
「初めて聞くお名前だわ。知ってれば恵比寿に店をオープンしたとき、ご案内状を差しあげてたわよ」
矢島がデスクの上で尻をずらし、口の端を皮肉っぽくゆがめながら、声を出さずに空咳をした。津坂文和はともかく、棚畑の名前ぐらいは、矢島も松岡昇子に確認してあるのだろう。
「でもさあ、考えたら失礼よねえ」と、尖った爪でネックレスをもてあそび、丸めた唇から短くタバコの煙を吐いて、松岡昇子が言った。「バイオルって、本当は靴のクリームなんでしょう」
「靴の革と人間の面《つら》の皮では、比べものにならないさ」
「なによそれ」
「先代社長がよく言ってた冗談」
「面の皮のほうが厚いって?」
「靴なんか二、三年しか耐《も》たないけど、面の皮はなん十年も頑張るからな」
憲作が靴クリームの成分にアリインとかいう物質を思いついたのは、戦争中に進軍したインドネシアだったという。現地の女が爪の保護にニンニクをすり込んでいて、それが直接のヒントだった。ただアリインは酵素と結合してアリシンになりやすく、結果ニンニク特有の臭気を発生してしまう。その酵素の不活性化に成功し、商品を靴クリームから化粧用クリームに転向させることに、たいした技術はいらなかった。バイオルが化粧用クリームとしてシェアを占められたのは、テレビのコマーシャルが功を奏したという、それだけの理由なのだ。
「君、最初に……」と、箱からタバコを抜き出し、指の先でもてあそんだまま、火をつけずに、高梨が言った。「彼女が店を閉めた理由について、意見がありそうだったな」
「そういう意味じゃないけどね。東横工業の問題だけというのは、もしかしたら、違うかなと思っただけ」
「違う、というのは?」
「意味はないわよ。横沢さんのことが影響してるとは思うけど、『けいこ』って、横沢さんだけでもってたわけじゃないもの。他の店のママ連中はね、そりゃあいろんなことを言ったわよ。でもあれ、半分は妬《ねた》みだと思うのよね。圭子ママって意外に商売はうまかったもの」
「横沢からの資金がなくても、店はやっていけたということか」
「噂と現実はちがうわよ」
「横沢が捕まったからといって、店を閉める必要は、なかった?」
「わたしがいたころまで、お客が減ったということはなかったわね」
「それならなぜ、彼女は店を閉めたんだろうな」
「知るはずないでしょう、聞こうと思ってもママと連絡が取れないんだもの」
「まあ、なあ、とにかく……」と、デスクから尻をおろし、ビールの空き缶をくずかごに放って、矢島が言った。「この話は最初から胡散《うさん》くさいということさ。だれがなにを企んでるのか、圭子ママに登場願わないと先に進まんかも知れないぜ」
矢島につられるように、松岡昇子も腰をあげ、ソファの横に出て、高梨のほうに誠意のない会釈をした。矢島がどういう種類の金を持ってくるにせよ、過去よりも現在のほうが、だれにとっても大事であることに変わりない。この場面に限っては、松岡昇子にとって、とりあえず高梨は用のない人間ということだ。
「まあ、そういうことだろうな」と、椅子を立ち、矢島と松岡昇子の間をドアに向かいながら、思い出して、高梨が訊いた。「圭子ママに子供がいるようなこと、君、聞いたことはないか」
「ママに?」
「なにかの拍子に、それらしいことを言ったとか」
「だって圭子ママ、結婚なんかしてないわよ」
「一人でも子供は産めるさ」
「そうかも知れないけど、ママからは聞かなかったわねえ。わたしのほうは子供なんか、二人もいるけどね」
笑いをこらえて口を結んでいる矢島に、高梨は軽く手をふり、うしろ手にドアを押して、事務所を出た。競輪にも競馬にも金はかかるし、酒にも女にもそれ以上の金はかかる。無駄金という考え方もあるだろうが、そんな無駄金で人生の空洞を埋めている矢島に、高梨はどこか、羨ましさを感じてしまう。それにしても矢島は、性懲りもなく、どこからああいう女を見つけてくるのだろう。
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思い出せないぐらい湿気っぽい日がつづいているが、今日の雨はここ二、三日とくらべると、少しばかり元気がいい。車道と歩道の境目では水溜まりに小癪《こしゃく》な跳ねをあげ、商店の庇《ひさし》にふりかかる雨もキャンバス地にぶつぶつと一人ごとを言わせている。こんな雨がいったい、どれぐらいつづくのか。夏実はこの季節を水玉の雨靴でのり切るという。そういえば来月には誕生日も待ち構えていて、専用のテレビゲーム機を買わされることになっていた。
ふりつづく雨の中、高梨は道端でタクシーを待つ気にもならず、麹町を地下鉄の駅まで歩いて有楽町線の東池袋に出た。昨日までは思い出しもしなかったが、最初の日に富塚から呼び出された場所が、突然気にかかり始めたのだ。秘密クラブや作り物のように派手な女たちと、似合いもしないのに、富塚吉太郎はどういうかかわり方をしているのか。
地下鉄の東池袋駅から五分ほどの場所に見つけたビルは、特徴のない灰色の外装で、運が悪ければ一日歩きまわっても見つからないような、見事なまでに変哲のない建物だった。入口にもロビーというほどの広さはなく、エレベータの横に各階の案内表示が無愛想に並んでいる。高梨はプレートの会社名をたしかめてから、やって来たエレベータで十一階まであがり、記憶を頼りに一一〇五室のチャイムに指をかけた。五秒ほど待ったが、返事はなく、もう一度チャイムを押して人の気配がないことを確認し、それから一階に戻って各階の案内表示を見直してみた。五階まではすべて企業や個人事務所名で埋まり、それ以上の階は無表示のものが多く、一一〇五室にも入室者の名前は記されていなかった。東京にはこんな得体の知れない部屋がうんざりするほどあって、普段は気にもならないのに、富塚の動きに疑問が出てきただけに、少し高梨は拘ってみたい気分だった。
高梨はビルの建物名と所番地を手帳に書き取り、ちょっと考えてから、ガラスドアの内側にある公衆電話でバイオル化学の総務部に電話を入れてみた。富塚は栃木支社に出張中とかで、支社にかけ直し、そこからまた宇都宮や足利の出張所にも電話をしたが、けっきょく富塚は捕まらなかった。
午後の三時という中途半端な時間で、気合いを入れれば豊島区の法務局ぐらいは調べられる。しかし今日は天気が気にくわないし、高梨は腹を決めて、そのまま調布にまわることにした。気はすすまなくても親子には親子の義理があり、高梨と暮らしている沙希子の立場にだって義理がある。高梨の実家も沙希子の実家も調布にあって、身内同士はそれぞれ、ときには顔を合わせることもあるという。
高梨は有楽町線で市ヶ谷まで戻り、新宿線から直通の京王線に乗って、調布に出た。一時間も電車に乗ればいつだって調布ぐらい帰れるが、帰るか帰らないかは、あくまでも天候の問題だった。
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いくらか小やみにはなっても、雨は目に見える量でふりつづく。北口の駅前にはタクシーが休みなく流れ込み、こんな天気だというのに、傘を差した買い物客がパルコと駅の間を忙しなく行き来する。調布がもつ田舎の匂いは昔のままで、駅をおりるたびに高梨は苦笑する。十三年前、偶然沙希子のうしろ姿を見かけたのもこの場所、あのとき沙希子はまだパルコのできていない西側の歩道を、夏実の手を取って甲州街道の方向に歩いていた。
沙希子が医者の息子と結婚したことは、高梨も聞いていた。夏実の手を引く横顔にも高校生のころとはちがう、疲労の陰が漂っていた。それでも高梨は息が苦しくなるほど緊張し、自分の十三年ぶんの未練に、腹が立つほど混乱した。無意識に沙希子のあとを追い、スーパーマーケットの前で無意識に声をかけた。パーラーで同じテーブルに座り、沙希子から離婚の事実を聞いたとき、前後の脈絡もなく、高梨は突然決意した。それから一年間、恥もなく沙希子を口説きつづけ、沙希子にもその両親にも、手当りしだい顰蹙《ひんしゅく》を買いつづけた。あのときなぜ沙希子が結婚を承諾したのか、本当は高梨にも、理由は分かっていなかった。
高梨がタクシーで向かったのは、多摩川原橋近くにある仁和会病院という私立の総合病院だった。一年前から入院と退院をくり返していた父親が、もう退院は不可能だという。病名は心筋梗塞、八十を過ぎている歳を考えれば老衰の部類で、見舞いたい相手ではなくても雨の日ばかりつづくと、だれだって感傷的になる瞬間はある。
受付で場所を聞き、長い廊下を五分ほど歩いてたどりついた病室は、別館の五階にある狭くて暗い一人部屋だった。新しくてうす汚れた部屋で、父親は衝立の陰にあお向けで横になっていた。タオルケットから外に出ている腕も顔も、屍《しかばね》のようにしなびきり、眠っているのか意識がないのか、目を閉じたまま口を半開きにあけている。入れ歯を外した口元には生気のない皺がきざまれ、頬の無精髭が蛍光灯の光で綿埃のように浮かんで見える。高梨は窓際の椅子に座っている母我に会釈をし、足音を立てないように、前まで歩いていった。
「仕事で近くに来たんで、ついでに寄ってみた」
腰をあげようとする母親を手で制して、傘を壁に立てかけ、半分ベッドのほうを眺めながら、高梨が言った。
「いよいよだってな」
母親が欠伸をしながら、読んでいた雑誌を小机の上に置き、肩でも凝ったように、肘を曲げて小さく背伸びをした。
「夏までどうかねえ、この梅雨が峠らしいよ。雨が病人に堪《こた》えるんだろうね」
「かあさん、ずっと付き添うのか」
「完全看護だもの、付き添いは要らないんだよ。世間体で顔を出してるだけ」
「姉さんは?」
「夕方には来るだろうよ、あの人は暇だしね。あんたは忙しいんだから、無理しなくてよかったのに」
治る病気ではないし、長くもたないことも分かっている。それでは父親について、母親となにを話せばいいのか。父親に関する話題を探すこと自体、もう高梨には苦痛だった。
「意識が戻ったら俺が来たことだけ、言っておいてくれ」
「相変わらず忙しそうじゃないか、元気でやってるのかい」
「なんとか食いつないでる」
「先日《こないだ》は沙希子さんに来てもらって、嬉しかったよ」
母親が立ちあがり、小机のセカンドバッグに腕をのばして、白髪まじりのおカッパをひょいとドアにふり向けた。
「外で一服しようかね。夕飯の時間まで、ここにいたって仕方ないからさ」
高梨は壁の傘を取って、一つうなずき、もうすっかり死んでいる父親の顔を、ベッドの上に無理やり正視した。血液型の理屈なんか理解できる人間ではなかったが、高梨が本能的に感じた違和感を、やはり父親のほうも感じていたのだろう。子供のころ意味もなく拳をふるわれた理由は、たぶんお互いが手探りで覗き合っていた、その違和感が原因だった。
「それでもね、たまには鰻《うなぎ》が食べたいなんて言うんだよ。なにを食べたって吐き出してしまうのに、まったく、最後まで面倒なことを言う人だよねえ」
病室を出てから、エレベータに戻る途中に自動販売機があって、缶コーヒーを二本買い、高梨と母親は、フロアのベンチに並んで腰をおろした。付添いや入院患者の息抜きの場所になっているらしく、なん人かベンチに座ってタバコを吹かしていた。
「あんたに生命保険の話をしたっけね」と、コーヒーの缶を膝に置き、セカンドバッグからタバコを取り出しながら、母親が言った。
「どうだかな、聞いてないだろう」
自分でもタバコを取り出し、病人が放っていた死臭の記憶に、うんざりしながら高梨も母親のライターで火をつけた。
「証書を整理してみたんだよ、死亡時の受取り額が三百万なんだって。今どき三百万じゃ葬式も出せないのにね」
「生きてるときから、当てにはしていなかった」
言葉を出してから、父親の死がすでに過去形になっていることに気づいて、タバコを吹かしながら、ふと高梨は苦笑した。言葉の中で死んでいるだけでなく、父親は高梨の気持ちの中で、ずっと死につづけていたのだ。
「まあね、年金をこそこそ貯めていて、銀行には一千万ぐらいあるらしいけど」
「かあさんが使えばいいさ、一千万の四分の一では姉さんも要らないだろう」
「海外旅行にでも行こうかねえ。躰が動くうちに世界一周をやってみたいもの」
タバコを灰皿でつぶし、缶コーヒーを半分ほど飲んで、手持ち無沙汰に、高梨は傘の先を床にすべらせた。酒でも飲んでいればともかく、素面《しらふ》で話をするには、父親の話題はあまりにも空しすぎる。
「長かったけどねえ、これでやっと、終わるんだねえ」と、気取った手つきでタバコを消し、爪先をそろえながら、白髪まじりのおカッパをゆすって、母親が言った。
高梨はコーヒーの残りを飲みほし、缶を足元に置いて、傘の先をまた遠くへすべらせた。母親の言いたいことに想像はつくが、取り合う気分にはならなかった。
「こんな場所でなんだけど、例のこと、いつかは片づけなくちゃね」
「聞いても仕方ないさ」
「だれが自分の父親か、知りたくないのかね」
「俺はあの人が父親でないというだけで、かあさんに感謝している」
「そんなものかねえ」
「そんなものさ。父親なんか誰だって、人生が変わるわけじゃない」
母親が年寄り斑の浮いた手で口を隠しながら、照れたように笑い、ハンカチを取り出して、額に浮いた汗をそっと押さえ込んだ。出来れば触れたくない話題なのだろうし、高梨にしたって、意地や感傷でこの問題を避けるわけではない。子供の人生にとって父親がどれほど無意味な存在であるか、高梨は自分の育ちと今の家庭生活で、ちゃんと証明している。
「昔から気むずしい子だったけど、四十を過ぎても変わらないねえ」
「姉さんによろしく言ってくれ」と、肩をすくめ、傘をステッキ代わりに立ちあがって、高梨が言った。「父娘《おやこ》なんだし、あとのことは頼むってな。いよいよのときは俺も顔ぐらいは出すさ」
「一週間か一カ月か、そんなものらしいよ。癌とちがって医者にも予想はむずかしいらしい」
「ああいう人は、しぶとく持ち直すかも知れない」
「どうだかねえ。早くけりをつけてもらって、ハワイにでも出かけたいけどね」
エレベータのほうに肩をまわしながら、傘の柄を持ちあげて、高梨がちょっと、母親に合図をした。ほかに話があるわけでもなく、高梨が父親を見舞ったのは、生活におけるたんなるセレモニーだった。母親はコーヒーの缶とセカンドバッグを膝にのせたまま、見送るそぶりをみせず、自動販売機と窓の中間に単調な視線を据えつづけていた。
高梨がエレベータに歩いて、乗り込み、一階へのボタンを押したとき、母親のおカッパ頭がかすかにゆれて、遠い空間を疲労した視線が無表情に届いてきた。なにか言いたいことがあったのか、意味のない身ぶりだったのか、閉まるドアで母親の表情は見えなかった。だれの人生にも死は公平にやって来るが、八十年もかかってやって来た父親の死は、高梨や母親にとって、本当の意味で、公平だったのだろうか。
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病院からタクシーを呼び、調布の駅に戻ってきたのは、雨の喧噪がつづく灰色の夕方だった。天気のせいか病人の死臭のせいか、首と背中のうしろが鬱陶しく重苦しい。気分も躰も疲れていて、歳のせいだと割り切りながら、意思力では解消しない澱《よどみ》が執拗に高梨の気分を滅入らせる。
雨に向かって舌打ちをやり、生欠伸をかみ殺しながら、高梨は駅から神田の事務所に電話を入れてみた。出たのは三崎祥子で、ふだんとは違う息づかいが、一瞬にして高梨にいやな予感を押しつけた。
「奥さまから電話があって、お嬢さんが交通事故にあったそうです」
「ん?」
「わたしも社長を探していろいろ電話をしていました」
高梨が予定していたのは富塚吉太郎からの伝言か、長倉香澄に関する矢島からの情報で、夏実が交通事故にあうことなど、人生のどこにも、まるで予定していなかった。
頭から激しく血がひいていくのを感じながら、胃に込みあげてくる吐き気をこらえて、意識して冷静に、高梨が言った。
「つまり、その、どういうことだ」
「よく分かりませんけど、クルマにはねられて病院に運ばれたそうです」
「怪我の程度は?」
「命に別状はないとのことです」
「電話があったのはなん時だ」
「最初は四時ごろで、それから三十分ぐらい前にもう一度。大した怪我ではないから心配しないようにと」
下がりかけていた血が、いくらかまた頭に戻ってきて、高梨は送話口とは逆方向に、長く息を吐き出した。交通事故なんて毎日あきるほど発生するのに、実際に身近で起こると、恥じもなく慌ててしまう。
「命に別状はない、怪我の程度は軽いというのは、本当なんだな」
「奥さまがそうおっしゃってました」
「女房は病院に行ってるのか」
「入院なさるそうです。飯田橋の近くにある救急病院で、電話番号も聞いています」
高梨はポケットから取り出した手帳に、『高野外科』という病院名と電話番号を書き取り、度数切れの合図を発信しはじめた電話機に、急いで追加のテレホンカードを差し入れた。
「女房の、その、声の調子は、どんな感じだった?」
「病院からかけてきたときは落ち着いてたと思います」
「そう……か。まあ、とにかく俺も、病院にまわってみる」
「仕事のことはご心配なく。大塚さんとわたしで頑張ります。それからね、矢島さんから住所の連絡が入っています。『世田谷区代沢。二の二十一の六。メゾン松波三〇五』って、そう言えば分かるとのことでした」
「世田谷の、代沢か。分かった。俺も当分は身動きが取れない。雑誌のほうは君たちで頼む。ボーナスもはずむから、大塚にも頑張るように言ってくれ」
三崎祥子の返事を聞いてから、高梨は電話を切り、手帳のメモを確認して、電話機を離れながら力いっぱいタバコに火をつけた。禁煙ぐらいいつだって出来るが、だれがなんと言おうと、今はその時期ではない。夏実が交通事故で病院に担ぎ込まれたというのに、高梨がタバコをやめて、世界がどう変わるというのだ。
高梨は病院に電話したい気持ちをこらえて、自動券売機に歩き、都心までの切符を買ってそのまま上り線のホームに駆けあがった。もし予想以上の容態だったら、のんびり電車になんか乗っていられなくなる。自分の目で確認するまでの不安に耐えることのほうが、事実にうろたえるより、どれほど楽か知れたものではない。電車に乗っている間、高梨は意識して、稚拙な放心状態を保ちつづけた。
飯田橋には四十五分でつき、病院に電話をしてから実際に夏実の顔を見るまでには、一時間五分の時間が必要だった。夏実は四人部屋のドア側のベッドに躰を起こしていて、検査の都合でもあったのか、薄水色の病院着をきて額に大きな絆創膏を貼りつけていた。左の手首には厚く包帯が巻かれているから、怪我はそちらが本命なのだろう。
丸椅子には沙希子も座っていて、相変わらずのジーパンの足を、高梨に向かって気楽に組みかえてみせた。
「心配しなくてよかったのよ、会社の女の子にも言ったはずなのに」
「義理で、一応、寄ってみた」
食品添加物や残留農薬には神経質なくせに、肝心な部分で、沙希子は信じられないほど呑気になることがある。頭にCDプレーヤーのヘッドホンをのせた沙希子の表情に、高梨は怒りとも安堵ともつかない、不思議な感慨を感じてしまった。
傘をドアの横に放り出し、ベッドの鉄枠に腰で寄りかかりながら、気が抜ける思いで、高梨が言った。
「怪我の程度は、どうなんだ」
「大したことないのよ、転んだ拍子に手首を捻挫したらしいの」
「交通事故だと聞いたがな」
「それはそうだけど、直接クルマがぶつかったわけではないみたい。運動神経の鈍いところ、わたし似かも知れないわね」
ベッドの上で夏実が生意気な咳払いをし、高梨は息を殺して、沙希子には見えない角度から夏実の丸い目を睨みつけた。運動神経は高梨の責任ではないにしても、手首をくじかない転び方ぐらいは、いつかちゃんと教える必要がある。
「で、どうなんだ。手はまだ痛むのか」
夏実が頬をふくらませて、首を横にふり、その返事を引き取るように、沙希子が高梨のほうに腰を浮かせてきた。
「傘を差していたし、鞄も持ってたでしょう? それで転び方が悪かったらしいの」
「額の傷は残らないか」
「かすり傷ですって。病院が大げさなのよ、わたしならアロエかヨモギでも塗っておくところだわ」
「しかしそんなことで、なぜ入院が必要なんだ」
「精密検査をして様子を見るらしいの。せっかく救急車で運ばれたのに、入院もしなかったら病院に失礼じゃない」
「まあ、軽くて、なによりだった」と、それでもとにかく安心し、突然可笑しくなって、高梨が言った。「夏実にこれだけの怪我をさせたのは、戦車か、ダンプカーか」
「ふつうの乗用車らしいけど……ねえ?」
夏実が怒ったような顔でうなずき、ベッドの上に座り直して、ふわっと欠伸をした。
「失礼しちゃうよ、わたしが転んでもそのまま行っちゃうの。友達が追いかけたけど、まるで止まろうとしないの」
「質《たち》の悪い奴も多いからな。どうせすぐ捕まって、死刑になるさ」
「傘は折れちゃう、制服もどろんこ、頭に来ちゃうよね」
「ナンバーは見なかったのか」
「泥だらけだった。友達にも見えなかった。白いきれいなクルマだったのに、うしろだけ泥で汚れていたの」
いく日も雨がつづいていて、今日も夕方まで、たしかに雨足は強かった。しかし夏実がひかれそうになったのは、山道や無舗装の農道ではない。友達もいたというから学校帰りの市ヶ谷付近のはずで、だからこそ救急車も飯田橋の病院に運んだのだ。いくら雨がふっているからとはいえ、都内を走るクルマのナンバープレートが、そこまで泥で汚れるものなのか。
不意に耳鳴りといやな悪寒がよみがえり、夏実の気の強い丸い目を見おろしながら、高梨は両の拳を、そっとズボンのポケットに押し込んだ。
「夏実、クルマは、どういうふうに走ってきた?」
「知らないけど、音がして、ふり向いたらすぐうしろにいたの。避けようとしたら足がもつれちゃった」
「止まる気配もなくてか」
「失礼でしょう? ぶつからなくても、おりてきて謝るのが礼儀だよね」
「礼儀を知らんやつらだから、まあ、暴走族になるわけだ」
市ヶ谷なんていう場所で、それもまだ明るい時間に、まともな人間ならクルマで人をひき殺そうと考えない。常識的にはただの偶然で、夏実の怪我も自分で転がったものだ。しかしナンバープレートが数字も見えないほど汚れていた事実を、本当にたんなる偶然で済ませて、いいものか。なん日か前の無言電話が思い出され、高梨の胃が、にがく収縮する。
「どうしたの。あなたの顔色、夏実より悪いわよ」
「歩きまわって疲れたせいだ、天気が悪いと躰の調子も悪くなる。夏実の怪我が治ったら、三人でハワイにでも行くかな」
「ハワイよりわたし、ヨーロッパのほうがいいわ。東欧の田舎あたりをのんびり回ってみたい」
「パパ、わたしはアメリカがいいよ。サンフランシスコとかロスアンゼルスとか」
「ハワイだってアメリカじゃないの。わたしはああいう賑やかなところ、東京だけでじゅうぶんだわ」
「ママって感覚が年寄りくさいの。アメリカの西海岸のほうが、ぜったい面白いと思うよ」
「そういうことはあとでゆっくり議論してくれ」と、沙希子を元の椅子に座らせ、意識的にため息をついて、高梨が言った。「夏休みまでには時間がある。夏実は頑張って怪我を治すことだ」
これ以上病室にいると、内心の不安が顔に出てしまいそうで、高梨は沙希子から顔をそむけ、ついでに手をのばして、指先を夏実のふくらんだ頬に小さく突き立てた。
「まだ仕事が残ってるんだ。とにかく、軽い怪我でよかった」
「わたしもしばらくしたら帰ります。あなたのほう、遅くなりそう?」
「早くは、たぶん、帰れない。君は病院に泊まらないのか」
「それほどの重症ではないわ。明日の朝また迎えに来る、今夜はテレビで洋画劇場を観たいの」
「好きなようにしてくれ。帰りはタクシーでいいから、無理はしないように」
夏実に手をふり、沙希子にも会釈をして、高梨は腋の下に寒い汗を意識しながら、次の瞬間にはもう、不自然にならない程度の早足で病室を抜け出していた。クルマが実際に夏実をひく気はなかったにしても、万が一ということだって、ありえたではないか。この瞬間夏実が意識不明でベッドに横たわっている可能性だって、なくはなかった。のんびり長倉圭子を待っているだけでは、もう問題は解決しない。好きで関わった事件でもないのに、問題のほうが高梨に襲いかかってきた。そしてこの降りかかった火の粉の向こう側には、間違いなく、長倉圭子が隠れている。
外はすっかり暗くなっていたが、雨はやんでいて、しかし高梨が傘を病室に忘れてきたことに気づいたのは、病院前から拾ったタクシーの中だった。神田の事務所は蒸し暑く、紙とインクの匂いが充満し、空気の中にまだタバコの臭気が残っていた。大塚と祥子が引きあげてから、それほど時間はたっていないようだった。
高梨はクーラーを入れ直し、冷蔵庫から取り出した缶ビールを手に、腰をおろして仕事机に足を投げ出した。富塚吉太郎は依然として捕まらず、番号案内に問い合わせ、虎ノ門の大野通商に電話を入れてみた。応対には若い男が出て、営業部長の津坂文和は外出したまま帰社しないという。
高梨はちょっと迷ってから、電話帳で探した津坂の自宅に電話をし、女房から「遅くなっても帰宅だけはするはず」という返事を聞き出した。会社にも保谷の自宅にも、電話は本名でかけていた。今さら身分を隠す必要は感じなかったのだ。
時間はまだ八時。高梨は缶ビールを一本飲みほし、ロッカーから予備の靴を出してきて、ぬれた靴と靴下をそれぞれ新しいものに履きかえた。津坂が寄りそうな飲み屋も思い出せないし、親しくしている女も思い当たらない。昔一、二度どこかで飲んだ記憶はあっても、銀座だったのか新宿だったのか、場所も思い出せない。津坂とのつき合いなんてその程度のもので、今度の事件がなければ、顔も思い出すことのない男だった。
一人でビールを飲んでいる気にもならず、新宿の『秀川』あたりで時間をつぶそうかとも思ったが、葉子ママへの義理を思い出し、久しぶりに銀座へ出ることにした。夜中まではどこにいても、どうせ居心地は悪いだろう。一人では怒りばかりが膨脹する。酒で気を鎮めるのも安易な発想で、しかし今の問題にけり[#「けり」に傍点]がつくまではそれも仕方のないことだった。
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神田からタクシーで銀座に向かい、七丁目の一方通行ぞいに『ラピス』を見つけるまで、小雨の中、高梨は付近を五、六分歩きまわった。飲み屋の所在ぐらい記憶の底に焼きついているはずなのに、十年の時間はビルの外装を変えていて、街を歩く女たちの匂いも呆気なく若返らせていた。
エレベータで七階にあがっていった『ラピス』は、ボックスの配置こそ変わっていたが、バーテンのチョッキもシャンデリアも、ベージュ色を基調とした内装にも悠然と昔の雰囲気をとどめていた。フロアは奥の深い鉤型の設計で、憲作はカウンターとフロアが見渡せる、ちょうどコーナーのボックスを好んで座ったものだ。
高梨はボーイにレインコートをあずけ、ホステスの案内を断って、入口に近いカウンターに腰をおろした。客が入りはじめる時間らしく、ボックスの半分は絹地の背広とホステスの華やいだ衣装で埋まっていた。
バーテンにジントニックを注文したとき、コーナーの向こう側から和服姿の葉子ママがあらわれ、会釈をしながら軽い身のこなしで近づいてきた。
「相変わらず律儀な性格だわねえ。それとも高梨さん、社長にご用かしら」
「社長……」
「バイオル化学の二代目社長よ。さっきから厚生省のお役人とお見えになってるわ」
天気の悪い日は、どこをどう歩いても、不都合ばかりが付きまとう。高梨に引け目があるわけではないが、勝彦の名前を聞いただけで背中が不愉快になる。今度の件はバイオル化学側からの仕掛けであるはずなのに、顔を合わせることだけは、やはり避けたい気分だった。
「忘れていたが、今年はまだ厄年だった」と、バーテンからグラスを受け取り、タバコとライターをカウンターに放って、高梨が言った。「会いたい人間には会えないで、どうでもいい奴とだけ出くわす」
「あら、勝彦社長にもそう伝えてこようかしら」
「冗談ですよ、軽く飲んだら帰ります。勝彦さんに会ったらいやでも悪酔いする」
葉子ママがわけ知り顔の微笑みを浮かべ、高梨の腕を軽く叩いて、あとは黙ってフロアに衣《きぬ》ずれの音を引いていった。カウンターから勝彦の姿は見えないから、席はコーナーの向こう側なのだろう。憲作の時代からこの店が大野の縄張りであることに、今でも変わりはないらしい。
「高梨さんったら、ずいぶんのご無沙汰だったじゃない」
葉子ママと入れちがいにやって来たのは、小鼻の脇に小さい黒子《ほくろ》のあるホステスで、作ったような大きい目に、そういえば見覚えがないこともなかった。
「ええと……君、まだいたのか」
「ご挨拶ねえ。これでも勤続十二年で、東京都から表彰されたのよ」
「ママには若い子がたくさんいると言われたが、どうやら詐欺にかかったらしい」
歯を見せて笑った女の顔に、たしかに見覚えはあったが、名前までは出てこなかった。
「恵里子よ、ほら、いつも圭子のヘルプでついていた……覚えてない?」
「もちろん覚えてる、たしか、新劇をやってた子だ」
「あまりいい女になっていて、見ちがえたんでしょう」
「いい女になるために、女は生きているということかな」
ドレスや香水のブランドはともかく、本人が言うほど、画期的に変身したとも思えない。昔は同僚の話に相槌を打っているだけの、口数の少ないホステスだった。身ぶりも表情も派手にはなっていたが、しかしそのぶん、目尻には化粧でも隠しきれない小皺が浮かんでいた。当時なん度か、公演のチケットを押しつけられたのではなかったか。
「それにしても久しぶりねえ。高梨さん、あのまま『けいこ』に鞍がえしたわけ?」
「バイオル化学を追い出されて、銀座では飲めなくなっただけさ。君のほう、新劇はまだやってるのか」
「とっくにやめたわよ。三十までは頑張ってたけどね、世の中は甘くないって分かったの。けっきょく圭子みたいな生き方が正解だったのよね」
長倉圭子の話題にも、昔の話題にも、今は特に触れたいわけではなかった。しかし相手が当時からのホステスとなれば、昔話から入るのも仕方はない。どうせ時間つぶしに飲んでいる酒で、無駄話のついでに、圭子についてなにか思い出さないとも限らない。
「君が長倉圭子の消息を知ってると、助かるんだがな」と、恵里子という女からライターの火を受け取り、煙を長く吹いて、高梨が言った。
「へーえ、圭子を探してたのは高梨さんだったの」
「俺が、ということもない」
「ママからも訊かれたのよね。突然ママが圭子のことを言い出すなんて、おかしいと思ったわ」
「で、どうなんだ、『けいこ』を閉めて以降……」
「それがねえ、不思議なのよね。普通なら噂ぐらい伝わってくるはずなのに」
「ぷっつり、か」
「そういうこと。だけど高梨さん、圭子に会ってどうするのよ。十年前にあきらめた純愛をやり直したいわけ?」
「十年前にあきらめた、純愛?」
「あのころ銀座で評判だったわよ、現代版金色夜叉って。ねえ、憲作社長が死んだとき、高梨さんの力で『けいこ』を出させたんでしょう。それなのに圭子、東横工業の横沢なんかとできちゃって……」
まさか、あの件がそんな悲恋話になっているとは、思ってもいなかった。銀座の噂なんて所詮その程度のものだろうが、役まわりとしては圭子がお宮で、高梨が勘一か。話がそういうことであれば、しかし十年前の経緯を、圭子は本当に隠しつづけたことになる。
「彼女と横沢の関係は、有名ではあったわけか」
「それはそうよ。横沢社長のご執心、半端じゃなかったという噂。使ったお金も億の単位だったというし」
「勝彦さんでは勝負にならなかったかな」
「勝彦さんって、大野社長?」
「二代目も関心はあったらしい」
「そうなの。それ、圭子がお店を出してから?」
「そういう話だな」
「知らなかったなあ、社長の本命って万里花ちゃんだと思ってた」
「万里花ちゃん?」
「ちょっとだけラピスにいた子よ。帰国子女の子でね、英語ができるからって、大野社長が秘書にしてしまったの。今でも関係はつづいてるはず」
大野勝彦と圭子の関係について、内心高梨は、どこかで疑いつづけていた。富塚が否定しようと、十年間も無関係であったら、突然長倉圭子がバイオル化学にあらわれるはずがない。長倉圭子が棚畑側についたこと、バブルの煽《あお》りをくらったらしいこと、憲作との関係を暴露しようとしていること。それらはみんな富塚が言っただけのことで、今となってはすべてが眉唾、話をふり出しに戻す必要がある。しかしそれならなぜ圭子は姿を消したのか、なぜ富塚や津坂は圭子を探しているのか、そしてなぜ、高梨はこんな問題にかかわっているのか。
「なあ、君、バイオル化学の富塚さんも、この店に来るのか」
「以前はよく来たわねえ、最近は顔を見ないけど」
「最近、というのは?」
「今年になってからだから、半年か、そんなものかしらね」
「それまでは勝彦さんとよく来ていたわけだ」
「だからおかしいのよ。勝彦社長は今でも来てくれる、『けいこ』に通っていたという話も聞かない。高梨さん、さっきの話はどこから出たの」
「ちょっと、な……勝彦さん、今夜も来てるって?」
「お役人と広告会社の人とね、二人とも大学の同窓生らしいわ」
「いい友達がたくさんいて、彼も幸せだ」
「勝彦社長、大学は仙台だったのよね」
「どうだかな、地元の栃木じゃなかったか」
「仙台だわよ、広告会社の人も仙台だもの」
「勝彦の大学が、仙台……か」
「今でも冗談で言うわよ」
「なにを」
「憲作社長に嫌われて、ずっと東京へは呼ばれなかったって」
勝彦と憲作にどれほどの葛藤があったのか、実際に憲作が勝彦を嫌っていたのか、本当のところは、高梨にも分からない。しかし『子供にだけは恵まれなかった』という憲作の口癖は、どういう形にせよ、当然勝彦の耳にも入っている。
高梨がジントニックを追加し、恵里子のマティーニを注文したとき、覚悟はしていたが、コーナーの向こう側から、見覚えのある縁なしメガネがいくらか赤い顔で登場した。会いたくなければ早く帰ればよかったわけで、カウンターに残っていたこと自体、高梨に勝彦の顔を見ておきたい心理があったのだろう。
高梨に気づかないのか、勝彦が知らん顔で通りすぎ、ドアの向かい側にあるトイレに神経質そうな無表情さで消えていった。背広はグレーのダブルで、ネクタイも相変わらず細身のアイビーで決めていた。歳は高梨より二つほど下、髪も染めているように黒く、繊細な風貌も昔と変わってはいなかった。
待つまでもなく、トイレから出てきた勝彦がボーイからおしぼりを受け取り、リズムのない歩き方で高梨のうしろに近づいてきた。メガネの視線が高梨の顔に向いているから、気づいてはいたらしい。
「やあ、高梨さん。元気そうでなによりだ」と、端正な口元に皮肉な笑いをつくり、高梨の肩に手をのせて、勝彦が言った。「今は雑誌社の社長だって? 景気がよければ結構なことだよ」
「勝彦さんの活躍も聞いています」
「どうせ悪い噂だろうがね」
「札幌にオープンしたアスレチッククラブなんか、大きい仕事じゃないですか」
「細々とやってるだけさ。なにしろこの景気だもの、親父の会社なんか継がなければよかったよ」
勝彦が尖った鼻の先を笑わせたまま、縁なしのメガネを白く光らせ、持っていたおしぼりで額を軽く押さえ込んだ。昔から表情の読み取りにくい男で、メガネの奥でなにを考えているのか、今も曖昧にしか伝わってこない。
「先日、久しぶりに富塚さんとお会いしました」
「ほおう、富塚に……」
「お聞きになっていませんか」
「最近は勉強会なんかで、わたしも忙しいんだよ」
「そうですか。まあ、富塚さんも、張り切っておられた」
動かない目で高梨の顔を見おろしたまま、背広の袖口を直し、勝彦がちょっと、小鼻の脇をふるわせた。
「年寄りの冷や水というやつさ。隠居をすすめてはいるんだが、気だけは若いらしい」
「愛社精神ですかね」
「時代は変わってるんだ、それがあの男には理解できんのさ。まあとにかく、一度会社にでも顔を出してくれ。役に立てることがあれば相談にのろうじゃないか」
おしぼりをカウンターに放り、顎をしゃくって、あとは肩で高梨の視線をさえぎり、背筋をのばしながら勝彦が颯爽とフロアを歩いていった。用がないのはお互い様だが、長倉圭子の件が絡んでいるなら、気配ぐらいは示すべきではないか。今回の問題はやはり勝彦の知らない、富塚の個人プレーということか。
「高梨さんだから言うけどねえ、あの社長……」と、大きすぎるほどの目でへたなウインクをし、マティーニのグラスを口に運んで、恵里子が言った。「どうも好きになれないのよ。若いし、お金はあるし、いい男だとは思うんだけど」
「客の値踏みをしてたら、商売にならないだろう」
「商売のために値踏みをするの。わたしもね、やっぱり歳でしょう、そろそろ独立したいのよね」
「スポンサーが見つかったか」
「銀座にお店を出すとなったら今でも二千万はかかる。この不景気だもの、昔みたいにはいかないわよ。圭子はいいときに始めて、いいときにやめたと思うわ」
「さっきの話だが……」と、ジントニックで喉をしめらし、タバコの先に恵里子からの火を受けて、高梨が言った。「総務部長の富塚さんは、どうして店に来なくなったんだ」
「前は一人でもよく来て、女の子にチップなんか弾んでたのにね。やっぱり景気が悪いんじゃない」
「アスレチッククラブはともかく、バイオル自体は売れてるはずだがな」
「勝彦社長って好き嫌いが激しいから、なにかもめたのかも知れないわね」
「富塚が店に来なくなって、半年……か」
半年といえば長倉圭子が『けいこ』を閉めた時期と、なぜか一致している。偶然といえばそれまでだろうが、富塚の名前に見せた勝彦の反応は、少しばかり素っ気なさすぎる。富塚が栃木時代からのお守り役で、若い勝彦にはうとましく感じられるという、それだけのことなのか。
「君、なあ、富塚から長倉圭子の消息を訊かれなかったか」
「だって富塚さん、もう半年もお店に来てないのよ」
「半年前のことでもいいさ、彼女が『けいこ』を閉めた前後に」
「覚えがないなあ。いく日か前に葉子ママから訊かれて、そのとき不思議に思ったぐらいだもの」
「勝彦さんからも、当然、訊かれたことはない?」
「ないわよ、勝彦社長と圭子の噂だって初めて聞いたの」
十年も業界から遠ざかっていて、高梨の方向感覚にも錆《さび》が入ったか。富塚も勝彦も、長倉圭子を探すならまずラピスで消息をたずねる。高梨だって圭子を探すのに、最初に訪ねたのは葉子ママのマンションだった。あのときママがとぼけたとも思えないから、二人ともラピスでは圭子の話題に触れていないことになる。いったい富塚が高梨に言った状況は、どこまでが本物で、そして無言電話や夏実の事故が、この件とどういう関わりを持っているのか。
「ねえ、高梨さん……」と、カウンターに肘をかけ、手首のブレスレッドを滑らせながら、目に媚をつくって、恵里子が言った。「だれかスポンサーになってくれそうな人、知らないかなあ」
「金を借りたい奴ならいくらでも知ってる」
「パトロンでなくてもいいの。無利子で融資してくれるとか、そういう人」
「無利子で無担保で、か」
「担保は、だって、ねえ?」
「気持ちは分かるが、水商売って、そんなにいいものかな」
「わたしに何ができるのよ。今さらパチンコ屋には勤められない、サラリーマンとも結婚できないわ」
「君、故郷《くに》はどこだっけ」
「北海道、札幌からクルマで二時間も行ったところ。広くて、寒くて、あるのはトウモロコシとジャガ芋の畑だけ」
「俺の女房はそういう場所に住みたいと言う」
「知らないのよねえ、東京の人ってなにも分かってないの。わたしだって北海道で暮らせたら、無理に東京なんかへ出てこなかったわ」
もう十時をすぎていて、しかし今夜の予定を考えれば、あと一時間はねばりたい。そうは思いながら、勝彦と同じ空気を吸っている現実が、思わず高梨の酒をまずくする。
高梨は上着の内ポケットから名刺を取り出し、カウンターに置いて、代わりにタバコとライターをポケットに放り込んだ。
「請求書は会社に送ってくれ。それから、すすめはしないが、スポンサーとの仲介者ぐらいなら知らなくもない」
恵里子が名刺をつまみあげ、かんたんに目を通してから、椅子をおりて、高梨の肩にわざとらしく胸を近づけた。
「今度はお店のひける時間に、ゆっくり飲みに来てくれない」
「今度は勝彦のいないときに、な」
「融資の件はぜひお願い、条件がよかったらマージンを回してもいいから」
「俺としては君に、もう一度芝居のチケットを売りつけられたかった」
目蓋に皺をつくって、目を見開き、一瞬演技ではない困惑を浮かべてから、肩をまわして恵里子が大股にフロアを歩いていった。十年ぶりに会った高梨に頼ってみるほど、この女もスポンサー探しに必死なのだろう。融資を斡旋する義理はなくても、北海道の荒涼とした風景が頭に浮かんで、つい高梨もお節介心を起こしてしまった。事情があるにせよ、ないにせよ、生まれた土地で生きられるものなら、だれも好きで東京になんか出て来ないのだ。
椅子をおり、クロークでコートを受け取っているとき、奥から葉子ママと恵里子があらわれ、型どおり高梨をエレベータの前まで送ってきた。来たときは懐かしく思えた店の雰囲気にも、もう裏焼きの写真を見るような、居心地の悪い湿度がにおっていた。
「高梨さん、明日また、わたしのマンションに寄れるかしら」と、エレベータに乗り込んだ高梨に、半分だけ肩を中に入れて、葉子ママが言った。
口の形だけで、それと分かるように、高梨が了解の返事をした。
「それじゃ明日。この前と同じぐらいの時間に、ね」
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池袋線の普通電車で保谷についたのは、十二時少し前、一般的には夜中といわれる時間だった。こんな時間の電話が非常識であることぐらい、高梨だって承知はしていた。しかしそれをいえば無言電話やクルマでのひき逃げは、死刑にも等しい重罪ではないか。
電話に出たのは娘らしい若い女、津坂は帰っていなかったが、知らない人間からの電話にも不審は感じていない応対だった。高梨は詫びを言って電話を切り、時刻表を確認して、終電まで駅で津坂を待つことにした。以降はハイヤーかタクシーになるにしても、高梨にしたって神田の事務所まで、今夜はタクシーで帰ることになる。津坂ともめて警察の留置場に泊まる事態にでもなったら、それは、そのときのことだ。
十五分に一本ほどやって来るくだり電車を、二本やり過ごし、終電も近くなったとき、改札口から流れ出す人波の中にやっと津坂の顔があらわれた。高梨は声をかけずにあとを追い、駅前の道を北方向に歩きはじめた。電話帳で見た保谷市北町というのがどの辺りか知らないが、タクシー持ちの列に並ばないところをみると、家までの距離も遠くはなさそうだった。
十分ほどで商店街をすぎ、交差点を二つ渡ると、暗い街燈がつづく深い住宅街になる。ブロック塀が苔の臭気を吐き出し、クルマの音が遠くなり、人通りがとぎれ、高梨は小走りに近寄って、うしろから津坂の肩に手をかけた。
津坂がふり向き、次の瞬間なにを思ったのか、よろけるように頭を沈めて、真横に右の拳をふるってきた。用心はしていたはずなのに、それでも脇腹と腰に、高梨は二発ほどいやな衝撃を味わった。
高梨が右の肘と左の拳を津坂の顔に入れ、ブロック塀に相手の躰を突き飛ばして、それからしばらく、二人は黙って呼吸をととのえ合った。高梨が最後に他人の拳を受けたのは、高校生のころ、自分の拳が他人の骨を感じたのも、そのときが最後だった。決着がついたのか、津坂の反撃があるのか、拳の痛みだけでは分からなかった。怒りが和音のように次の怒りに共鳴し、羞恥心がその怒りを意気地もなく常識の側へ押し返す。せめぎ合い、見つめ合い、怒りと恥が混沌として体力の中に萎縮する。自覚を拒否しても高梨は酒びたりの中年男で、その理屈は津坂のほうも同様らしかった。
「俺に地獄を見せたいらしいから、こっちから挨拶に来た」と、声が出るようになってから、つかんでいた津坂のネクタイを放し、一歩だけうしろに下がって、高梨が言った。
「高梨……か。俺はまた、ヤクザのいやがらせかと思ったぜ」
街燈の下から路地にもつれこむ前に、津坂だって高梨の顔は確認したはず、だからこそ拳をふるってきたのではないか。ヤクザ者を相手に勝負になると思うほど、津坂も腕力に自信のある男ではないだろう。
「健康食品屋の営業も、ずいぶんやばい[#「やばい」に傍点]仕事らしいな」
「バブル以降、その、トラブルが多くて……」
「静かに挨拶もできないか」
「や、そういうわけでもないんだが、なんとなく今日は、気が立っていた」
気が立っているのは高梨のほうで、そのことの確認のために保谷まで出かけてきたのだ。津坂の拳が飛ばなくても高梨は手を出していたかも知れないが、そんなことはもう、どうでもいい。
「おまえも悪いんだぜ。暗い道でうしろから黙って手を出す人間が、どこの世界にいるんだよ」
「津坂さんの出方次第では刃物だってふりまわせるさ」
「冗談はやめてくれ。こんな場所で、こんな夜中に、いったいなんの用だ」
「用があるのそっちのはずだがな」
「なんだと?」
「十年もくすぶって、エリートも手の汚し方を覚えたか」
津坂が手のひらで鼻と頬をさすりながら、ネクタイをゆるめ、路地の出口にふらりと歩き出した。歩き方に力がないのは高梨の拳がきいたというより、息からにおってくる酒のせいらしかった。
「家に電話があったことは聞いた。だがこんなところで待ちぶせを受けるとは、思わなかった」
「残念だったな、俺は相手の人格に合わせて対応を変える主義だ」
「なんのことか分からん、そりゃあ十年前はごたごたしたさ。だけど子会社に飛ばされたのは俺のほうだ、おまえがなんで俺を付けまわす」
「とぼける余裕があるとは、津坂さんも人間が大きくなった」
「だから……」
「女房と娘には手を出すな」
「なんだと?」
「見かけより俺は家族思いなんだ」
「意味が、なんだか、さっぱり分からん」
「ルールはそっちが破った。俺も泥仕合なら負けない、そのことを言いにきたのさ」
足を踏み出したまま、立ちどまり、街燈の白い光に顔をさらして、津坂が操り人形のようにふり返った。
「なあ、高梨……」
「家族がいるのは俺だけじゃない、電話に出た女の子も可愛い年頃だろう」
「おい……」
「津坂さんがどうしても地獄を見たいなら、俺は喜んでつき合う」
「まあ、ちょっと、待てよ」
「あんたは『分かった』とだけ言えばいい。それでお互いの女房子供は、平和な日常をつづけられる」
「待てと言ってるじゃないか。まだ人も通る、近所の手前もある、頼むから冷静に話してくれ」
疲れているのか、脅えているのか、額に脂の浮いた津坂の顔に殺気はなく、直前まで高梨の神経に満ちていた怒りの抜け殻が、湿気っぽく空気の中に流れ出す。
「話は聞くよ、理由は知らないがとにかく話は聞く。家へ寄れと言いたいが、おまえもそういう心境ではないだろう」
津坂が会釈をして、来た道を駅の方向に戻り出し、高梨も手のひらに浮いた汗をズボンにこすりながら、ゆっくりと歩きはじめた。記憶にあった津坂よりも肩幅は貧弱で、頭も地肌がすけて見えるほど薄くなっている。四十五年も生きれば男はだれでも疲れるが、目の前の津坂の消耗を、高梨も他人事とは笑えなかった。
津坂は五分ほど黙ってぬれた舗道を歩き、交差点を右に折れ、看板だけが派手な店に黙って高梨を連れていった。カウンターに若い客が五、六人たまっていて、二人は一つだけある隅の椅子席にすわり、髪を染めた女がウイスキーのセットをしていくまで、お互いに憮然とタバコを吹かしていた。
「おまえとまた酒を欽むとは思わなかったが、これも因縁かな」と、勝手にグラスを取り、視線をふせたまま、津坂が言った。「高梨、今、どこに住んでるんだ」
「電話番号だけ調べて、住所は調べなかったか」
「弁解する気はない、しかし本当にわけが分からん。家族のことが出たから話を聞いちゃいるが、そうでなきゃ俺がおまえと酒を飲む義理はないんだぜ」
「俺も家族のことを言いに来ただけさ。今度また娘が蜂に刺されたら、お宅の娘も無事では暮らせない」
「言い掛かりだよ。状況に見当はつくが、俺になんの関係がある?」
「ああいう真似をするのは津坂さんしかいないと、失礼だが、確信させてもらった」
「なにかの事件に絡んで奥さんか子供が怪我をした、おまえは俺がやったと思い込んでいる。信用しない気持ちも分からんじゃないが、俺だってもう四十五だぜ。家には大学生と高校生の娘がいる。無茶をやったら自分の首を絞めちまう、それぐらいの分別はわきまえてるよ」
ロックのウイスキーに口をつけ、意識的に喉を焼いてから、首筋にわだかまっているいやな熱を、高梨は冷えたおしぼりで押さえ込んだ。
「自分で手を出さなくても、他人にやらせることは出来る」と、咳払いで喉の違和感を吐き出し、津坂の顔に目を細めて、高梨が言った。
「だから言ってるじゃないか、今の俺の仕事はおまえに関係はない。十年前の件でも遺恨は持っていない。どうして俺が、おまえの家族に手を出すんだよ」
「女房がなぜ無言電話のいやがらせを受けるのか、娘がなぜクルマにひかれそうになったのか、俺のほうも理由を聞きたいな」
津坂がグラスを口につけたまま、舌打ちをやり、肩の凝りでもほぐすように、ぐるっと首をまわした。
「他人のことは言えんが、おまえも面倒に首を突っ込んでるようだな」
「だから今、津坂さんと酒を飲んでる」
「いや味はいいんだ、状況を話してみろよ。話が見えなくちゃ俺だって返事の仕様がないだろう」
「俺を今度の仕事に引き入れたの、津坂さんじゃないのか」
「分からん男だぜ、話が見えないと言ってるじゃないか」
「あんた以外にだれが十年も俺を恨みつづける?」
「うん? ああ、矢島の報告か。なあ、そりゃ俺だって酒を飲んで愚痴ることはあるさ。だけどそれがどうした? サラリーマンが飲み屋で愚痴を言うのは仕事の一部じゃないか」
津坂の落ちくぼんだ目が、目蓋の内側で力なく振動し、尖った喉仏がためらうように盛りあがった。暗い路地で見せられた津坂の疲れた背中が、高梨の確信に気弱な動揺を与えてくる。津坂が十年間高梨を恨みつづけたことが事実だったとしても、十年たってから突然行動に出る必然は、どこにある。
「ちょうど一週間前、富塚が百万円のタクシー代をもってきた」と、津坂の目の動きを確認しながら、グラスの氷をゆすって、高梨が言った。「俺に長倉圭子を探せという、探したあとの処理までは、言わなかったが」
津坂の色の悪い目が一瞬動きをとめ、口の端がゆがんで、派手な柄のネクタイがだらりと背広の襟にこぼれ出た。
「あのたぬき親爺が、高梨に……」
「先刻ご承知だろう」
「俺が知るかよ。だいいち長倉圭子とおまえに、どんな関係がある?」
「俺が知るかよ」
「いや……それで、探したあとは?」
「聞いていない。富塚にとって圭子が初恋の相手だとか、そんなところだろう」
「まったく、あの親爺……」と、グラスを口に運んでから、肩で浅く息を吐いて、津坂が言った。「おまえ、そんな話を引き受けたのか」
「うちの会社にも社員がいてな、ボーナスを出す必要がある」
「悪いことは言わん、長倉圭子からは手を引け」
「さもないと家族が、か?」
「ヤクザじゃあるまいし……あ、やっと話が見えた。それでおまえ、俺を疑ったわけか」
津坂のグラスがとまって、こけた頬にうすい汗が流れ、小さい耳が右のほうだけ強く上に引きつった。津坂もバイオル化学にいたころは女子社員と噂になるほどの洒落者だったのに、今は靴の踵をすりへらし、灰色のズボンに折り目も見せていなかった。
「言っておくがな、おまえ自身ならともかく、俺は家族にまで手は出さないぜ」
「とりあえず……」
「なあ、高梨、おまえだって大野に追い出された人間だろう。今さら会社にかかわって、なんの得がある?」
「かかわる気はないんだ、面白そうだから見物をしている」
「やじ馬にもファールボールは当たるぜ」
「思ってもいなかった。脅迫を受けると、余計に興味がわく」
「いい加減にしろよ。俺ならいくら金を積まれたって、ぜったい大野のためには働かん」
自分が言った言葉の意味に気づいたのか、目をふせて足を組み、グラスを口に押しつけたまま、津坂が苛立たしそうに欠伸をした。左遷されても会社をやめず、勝彦からの給料で家族を養ってきた津坂の弁解としては、論理的に苦しすぎる。
「津坂さんにそこまで褒められたら、勝彦も本望だろうな」
「冗談じゃないんだ、このままではバイオル化学自体がはじけてしまう」
「俺は十年前からそう言ってた」
「バブルの時代はまだよかった。フィットネスクラブだのなんだの、十以上もつくってな、それなりにアブク銭を集めてた。だけど、なあ、時代は変わったじゃないか。今じゃクラブはぜんぶ赤字、抱え込んだ不動産も売れなくて、金利が本社の経営まで圧迫してる。ここでスキャンダルでも起こしたら、バイオル自体が売れなくなっちまう」
「津坂さん、そんなに優等生だったか」
「冗談じゃないんだぜ。あの二代目、性懲りもなく、まだ栃木にゴルフ場なんか造ろうとしてやがる。地元の村長やら代議士に金をばらまいて、地検に目をつけられた。あいつを始末しないと、子会社ぐるみ、まとめて倒産させられる」
津坂の言うことが本当だとしたら、もう勝彦個人の問題ではなく、バイオル化学全体の危機ということだ。火の粉の飛びそうな官僚や政治家だって、当然火種のほうを消そうとする。
「なあ津坂さん、あんたが棚畑をかつぎたい気持ちも、分からなくはない。だけどそのことと長倉圭子に、なんの関係がある?」
「そんなこと、俺が知るかよ」
「知らないわりには気合いが入ってる」
「大野なんかに深入りすると痛い目に合うぞと、昔のよしみで忠告しただけだ」
「長倉圭子にかかわると、勝彦にもかかわるのか」
「だからなあ、本当に俺は、なにも知らないんだ。俺なんかたかだか子会社の営業部長だぜ」
「その子会社の営業部長が、ずいぶんマメに動きまわるな」
「なんだと?」
「長倉圭子はなにを握ってるんだ」
「俺が……」
「知らないのか」
「さっきから言ってるじゃないか。俺はこういう面倒な時期に、面倒な奴とはかかわりたくない。おまえに首を突っ込んでもらいたくないんだよ」
津坂の言い方に裏があるにせよ、鶴岡まで出かけた理由がなんにせよ、勝彦からバイオル化学の経営権を取りあげるだけのことなら、高梨だって無理に妨害はしない。しかし役人や銀行がバイオル化学を食いつぶすことが目的なら、少し話はちがう。憲作への義理はともかく、泥棒に追い銭を与えることには、無性に腹が立つ。
「気分としては信用したくないが、お互いの立場だけは確認し合えた」と、ウイスキーの残りを口にほうり込み、津坂の額に浮いた汗を眺めながら、腰をあげて、高梨が言った。「それに二人とも、腕力が美しい歳でもなくなった」
津坂がしょぼついた目を見開き、欠伸を噛み殺すような顔で、椅子の背もたれに小さく肩を沈め込んだ。
「信じようと信じまいと、家族の件には関係ないぜ。おまえも富塚だの長倉圭子だの、やばい連中とは縁を切ることだ」
「その忠告も昔のよしみか」
「そういうことだ、高梨がどう横槍を入れたって、転がりはじめた岩はとまらない」
「岩を転がしているのが棚畑啓一や帝都銀行だから、か」
「ん、いや……」
「危ない橋はお互いさまだ。津坂さんも自分で転がしてる岩に、ひき殺されないようにな」
「え……」
「東横工業の事件が蒸し返されたら、尻に火がつく奴もいるだろう」
「どういう意味だよ」
「東横工業が売っていたのは泡風呂だ。バイオル化学の商売も化粧品から健康食品、そこへ長倉圭子が顔を出す。どこへどう金が動いたか、もう見当はついている」
「おい、おいおい……」
「津坂さんも娘が二人では、まだ金もかかるだろう」
「高梨、なにが言いたい?」
「この時代に失業したら津坂さんも、再就職が大変だということさ」
口を開きかけた津坂の視線を、肩でふり切り、狭いフロアをぬって、高梨はうしろを見ずに店を飛び出した。あんなはったりが津坂や棚畑に通用するとも思えないが、これ以上顔を合わせていたら、高梨のほうが弱みを晒してしまう。混沌とはしていても、構図はぼんやりと浮かびはじめた。どこかで一つ歯車が回り出せば、この状況にも論理的な秩序は見えてくる。その鍵が長倉圭子であることは、津坂も暗黙のうちに認めているのだ。
高梨はまた雨の落ちはじめた道を保谷の駅まで戻り、タクシーの順番待ちに並んで、それから三十分も雨の中に立っていた。事務所のソファで眠る気にならず、やって来たタクシーを浦安に向かわせ、シートの中でいつの間にか眠り込んだ。夢には包帯だらけの夏実が出てきて、その夏実に高梨は、すべもなく詫びを言いつづけていた。
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目蓋をかすめる部屋の明るさからして、どうせたいした天気ではない。ベッドのとなりに沙希子の体温はなく、台所からも床の響きは聞こえない。夏実のスリッパも音はなく、突然高梨は、額に絆創膏を貼った病院着姿の夏実を思い出す。
背中にいやな汗が噴き出し、まだベッドの固さを楽しみたい気分のまま、仕方なく高梨は人生のつづきを開始した。仕事にも地球の温暖化にもしつこい梅雨にも、津坂にも勝彦にも富塚にも長倉圭子にも、すべての対象に腹が立つ。たかが転んだだけで手首を捻挫した夏実にまで、高梨は思わず腹を立ててしまう。
「あら、あなた」
誰もいないと思っていたのに、居間のソファでは沙希子が新聞を広げていて、赤く塗った唇から高梨のほうへ、小さく八重歯をのぞかせた。化粧は久しぶりに鮮やかで、ベージュ色のブラウスに薄茶のスカートも、気楽にコーヒーを頼むには不似合いな装いだった。
「どうした、親父でも死んだか」と、脇腹が痛む理由を思い出しながら、寝室の前に立ちどまって、高梨が言った。
「なんのこと?」
「今日は雰囲気がちがう」
「夏実を迎えに行くだけよ、帰りに銀座でお食事をしてくるわ」
「夏実にはしばらく入院してもらうか」
「どうして」
「自分の女房が美人だったことを、久しぶりに思い出した」
台所に立とうする沙希子を目で制し、自分でコーヒーを注いでから、カップを持って高梨は沙希子の横に歩いていった。香水やオーデコロンは匂わなかったが、かすかに甘く、口紅の香りはするようだった。
「あなた、昨夜も遅かったの」と、新聞を静かにたたみ、横からコーヒーの色を非難するような目で、沙希子が言った。
「覚えてないのか」
「どうして」
「ベッドに入ったとき、君は俺に時間を訊いた」
「あら」
「三時を過ぎていた」
「そう……」
「雨はふってるかとも訊いた」
「ふっていたの?」
「やんでいた。だから俺は、やんでると答えた」
「覚えてないな、寝ぼけたのかな」
「寝ぼけてたとしたら、俺は幸せ者だ」と、沙希子のとなりに座り、欠伸をかみ殺して、高梨が言った。「少なくとも君は、ほかの男の名前は呼ばなかった」
笑いかけて、唇の手前で声をおさえ込み、口を半分開いたまま、沙希子が高梨の膝に手のひらを重ねてきた。
「昨日のことだけど……」
「うん」
「夏実の事故のこと、あなた、心当たりがあるんでしょう」
「俺が夏実をひき殺そうとしたとか」
「真面目に聞いてよ、病院でのあなた、様子がおかしかったわ」
新聞を取りあげ、パジャマの足を組んで、コーヒーカップの縁を、高梨はそっと唇に近づけた。
「あなたって気持ちが顔に出る性格なの。怒るとふだんより冷静な顔になる、ほかの人は誤魔化せてもわたしには通用しない」
「そうか、浮気をするときには、気をつける」
高梨の膝にのっていた沙希子の手が、瞬間拳に変わり、パジャマの太股を音が出るほど叩いていった。
「大事なことはいつもはぐらかすのね」
「本当に大事なことは相談する。それとも今、夫婦の危機なのか」
「夏実の怪我といやがらせ電話、関係あるんでしょう? ちゃんと説明してくれなければ夫婦の危機を宣言してあげるわ」
頭の芯につまっていた睡眠の残りかすが、心ならずも撤退準備をはじめ、ぞろぞろと高梨の背中を這いおりていく。高梨だって沙希子の洞察力に敬意は表したいが、だからって今の問題を、どう説明しろというのだ。
「俺が心配ないと言えば心配ない、一度でも間違ったことがあるか」
「そういう問題ではないのよ。あなたが間違っているとか、信用していないとか、そういう問題ではないの」
「それなら、どういう問題」
「話してほしいの。あなたが今なにを考えていて、わたしや夏実にどうして欲しいのか、それを言ってもらいたいの」
「君だって俺にすべてを話してはいない」
「あら?」
「君が言わないこともずい分ある」
「わたしがあなたに、どんな隠し事をしたのよ」
「北海道の牧場のことなんか、俺は一度も聞いていない」
「それは、だって……」
「叔父さんだか従兄弟だかの牧場を買って、君、自分でやりたいんだってな」
「それはね、そういう話があって、そういう生活ができたらとは思うわ。でもそれは思うだけのことよ」
「君がそう思ったことを、俺は一度も聞いていない」
「問題が違うでしょう、わたしが言ってるのは夢や空想のことではないの。あなたはそうやって、いつも問題をすりかえるのよ。今までは承知で騙《だま》されてきたけど、今度だけは自己主張するわ」
コーヒーの苦味が口に広がり、喉の浅い部分をざらついた感触が、ためらいながら滑っていく。沙希子や夏実に自分がなにをしたらいいのか、それはいつも考えている。しかし相手からなにをしてもらいたいか、そんなこと高梨は、考えたこともなかった。
「なにも気づかないふりをして、毎日笑顔であなたを送り出す。食事をつくって掃除をして、買い物をして洗濯をして、わたしに、それだけを期待しているの」
「君はヘチマで化粧水もつくれるし、西洋紫陽花と日本紫陽花の見分け方も知っている……冗談だ」
「わたしの顔を見てよ」
「君の顔は、化粧映えがするな」
「怒らせる気なの」
「もう怒ってるだろう」
「あなた……」
「いや、その、たしかに……」と、新聞を膝に置き、人生に半分だけ覚悟をさせて、高梨が言った。「夏実の怪我を見たとき、本当は、もしかしたらと思った」
「やっぱりそうじゃない。それで今度も、問題を一人で抱え込もうとしたのよね」
「そういう部分はあったが、あれは偶然だった。無言電話も夏実の事故も、調べてみたら仕事とは無関係、両方ともまったく、ただの偶然だ」
「本当に?」
「嘘は言わない。昨夜、雨の中を、俺がなんのためにうろついてたと思う? 自分にとってなにが大切かは分かってる。夏実の事故は思い過ごしだった。君にも心配をかけたが、なにも関係はなかった」
「あなた……」
「なんだよ」
「だから……」
「だから、どうした」
「あなたを信用していいの」
「君に言わないこともあるが、嘘も言わない」
「本当に信じていい?」
「俺が一度も浮気していないのと、同じぐらい信じていいさ」
沙希子が膝から下の足を、ふて腐れたように投げ出し、高梨の手からカップを奪って、しゅっとコーヒーをすすりあげた。
「わたし……」
「なんだ」
「昨夜ね、ブランデーを飲んだのよ。十二時には帰ると思ったのに、あなた、電話をくれないんだもの」
「それで寝ぼけたのか」
「でもほかの男の名前なんか、呼ばなかったでしょう」
「感謝してるさ」
「だからね……」
「分かってる、これからは電話も忘れない。君にはなんでも相談するし、約束も守る」
沙希子がまたコーヒーを口に含み、ショートカットの前髪を払って、横から睨むように高梨の顔をのぞき込んだ。高梨は沙希子から視線を外し、コーヒーのカップを取り戻して、残りを口に流し入れた。これで高梨がタバコを吸う罪を許してくれれば、朝の一時間が、もう少し快適になる。
「あら、もうこんな時間。夏実が病院で怒ってるわ」
夫婦の危機はとりあえず回避することに決めたらしく、膝をそろえて立ちあがり、スカートの裾を直しながら、沙希子がわざとらしくため息をついた。高梨の弁解を信じたわけでもないだろうが、暫定的に信じておくぐらいの愛情は、たぶん沙希子も持ち合わせている。
「夏実をな、自然食レストランではなく、たまにはフランス料理にでも連れて行け」と、玄関に歩きだした沙希子に、ソファに座ったまま、高梨が言った。
顎だけでふり返り、口の端を上に曲げて、腰に手を組みながら、沙希子が眉間に小さい縦皺をきざませた。
「わたしがケチだとか頭が古いとか、二人で悪口を言ってるわけ?」
「そこまでは、言ってない」
「子供にフランス料理なんか贅沢すぎる。あなたがサービス過剰なぶん、わたしがバランスを取ってるの」
「今日は、まあ、特別だ。俺もしばらくは忙しい。とにかく二人で、仲よくやってくれ」
沙希子が軽く立ちどまり、確認するようにうなずいてから、小さく手をふって、玄関の向こう側にふと顔を引っこめた。高梨が沙希子を見送ることなど、もうなん年もなかったことで、考えてみれば家に一人で残ること自体が稀なことだった。
高梨は玄関のカウベルが鳴りやむのを待ってから、空のカップを持って台所に行き、ポットのコーヒーを注ぎ足して、口をつけながらまた居間に戻ってきた。カップの縁には沙希子の赤い口紅が残り、そこに自分の唇を重ねる風景が、高梨にはへんに気恥ずかしい。沙希子の躰に性欲を感じないわけでもないのに、そういえばこの前セックスをしたのは、いつだったか。
高梨はタバコを吸いたくなった自分に、教育的指導をあたえ、コーヒーを飲みほしてから、バスルームに歩いて熱いシャワーに飛び込んだ。脇腹に青い痣ができているのは、津坂のパンチも思ったより威力があったということだ。沙希子にはしら[#「しら」に傍点]を切ったが、無言電話や当て逃げは、やはり高梨の責任だろう。とにかくこの仕事には早くけりをつけ、場合によっては途中で手を引くことも考える。多少の意地はあっても、そんなものに沙希子や夏実を巻き込むほどの価値はない。こだわるほどの意地があれば、高梨も最初から、こんな半端な生き方はしていない。
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めずらしく薄日が射している日で、高梨はシャワーのあと神田の事務所に欠勤の連絡を入れ、汗がひくのを待ってから、上着をつかんで浦安の家を出た。富塚を捕まえたかったが、連絡がとれず、その本音を暴くにも材料が不足している。長倉圭子が登場して展開が変わればともかく、勝手に出てきてくれるのをのんびりと待ってはいられない。記憶にあった長倉圭子と鶴岡で発見した長倉圭子との乖離《かいり》が、なぜか今度の仕事に罪の意識を呼び起こす。隠れる理由があって隠れている人間を、無理やり捜し出して、その結果にだれが、どう責任をとるのか。頭の中で悔恨や自己嫌悪が渦をまいても、しかし長倉圭子には、やはり会う必要がある。
寝不足と二日酔いと厭世観の中、それでも葉子ママとの約束は覚えていた。高梨は東西線を日本橋で浅草線に乗りかえて、あとは五反田からタクシーで北品川に出た。葉子ママも高梨の律儀さに感激して、まさか昼飯に呼んでみただけ、ということはないだろう。
前と同じように広い大理石のロビーからエレベータであがっていくと、池上葉子がピンク色のホームドレスで迎えてくれ、奇妙な緊張を感じながら、高梨はまたリビングのソファに渡をおろした。部屋には相変わらず強い香水が匂い、薄日がカーテンに光の色をつけ、開けはなった窓からは若葉の影が濃く流れ込んでいた。
「あなた、昨夜、恵理子からお金の話をされたでしょう」と、紅茶のカップを持ってきて、向かいのソファに座り、ホームドレスの下で足を組みながら、葉子ママが言った。「困っているのよ、近いうちお店を辞めてもらうことになるわ」
「彼女も独立するのに早すぎる歳ではない」
「人がいいわねえ、わたしはあなたの単純なところ、昔から好きではあったけれど」
会釈で高梨に紅茶をすすめ、目尻の皺を笑わせながら、艶のない二の腕を池上葉子が軽く手のひらで包み込んだ。
「恵理子は悪い男にかかわって、お金に困ってるだけのこと。高梨さんって意外に女を見る目がないのねえ」
「生まれつきの体質なんでしょう」
「やさしいのは結構だけど、深入りはしないでね。いい大人に尻拭いはしてあげられないわ」
恵理子に深入りする気はなかったし、出来ても矢島を紹介するぐらいのことだ。しかし独立の話が嘘だとまでは、やはり疑っていなかった。ここまで女に甘い性格を、高梨はだれから受けついだのか。
「男と女って、ねえ、いくつになっても面倒なものよねえ」
「ママに言われると実感がわきます」
「あなた、圭子のことは、まだ探していらっしゃる?」
「それは別な理由です」
「理由なんかどうでもいいのよ、でも不思議で仕方ないの。わたしも調べてみたけど、圭子の消息はどうしても分からない。なんとなくいやな予感がするわ」
「まさか……」
「死んでいるとは思わないけど、難しいことにはなっている気がする」
「東横工業の横沢がからめば、いやでも難しくなります」
「それは、そうだわね」
「勝彦さんも難しいらしい」
「あなたも難しいわけ?」
「わたしのほうは成り行きです。難しい場所には、金の臭気《におい》も強く匂う」
池上葉子が笑いをこらえて唇をすぼめ、胸の前に流した髪に指をかけて、上目づかいに高梨の顔をうかがった。六十をすぎた女に見つめられても、条件反射で、つい高梨は緊張してしまう。
「男と女の問題はあなたに任せるとして……」と、静かに肩を沈め、テーブルの下から螺鈿《らでん》細工の文箱《ふばこ》を取り出して、葉子ママが言った。「こんなものが手に入ったのよ。もちろんただの、偶然ですけれどね」
ママが文箱から取り出したのは、ホチキスでとめた三枚のコピー用紙で、内容の予感に、高梨は無自覚に唾を飲んだ。池上葉子はその用紙を高梨にわたし、自分はソファに背中を引いて、あとは興味もなさそうな顔で紅茶のカップを口に運んでいった。
コピーの用紙は帝都銀行市ヶ谷支店のもので、三枚とも笑えるほどご丁寧に『極秘』のゴム印が押してあった。それが『大野通商』に対する貸付の内部資料であることは、いくら高梨が素人でも、一目で判断できる。
「わたしが持っていても意味はないの、読み方も分からないし使い方も分からない。あなたにはどうかしら、なにかのお役に立つのかしら?」
こんなものが偶然手に入るはずはないし、池上葉子に意味が分からないはずもない。そういえばママと噂のあった財界の大物というのは、帝都グループ系の人間ではなかったか。系列企業の中に派閥争いのあることは承知しているが、これはどこまで、高梨に対する友情なのか。
コピーの内容は、去年の二月に帝都銀行市ヶ谷支店が大野通商に融資した資金の明細で、総額は十億という金額になっている。帝都はバイオル化学のメインバンク、大野通商はバイオル化学の百パーセント子会社、一見融資の方向に筋は通っていても、大野通商の運転資金ならバイオル化学へ融資するのが理屈だろう。大野通商の業務は中国や東南アジアからの食品原材料輸入、それをローヤルゼリーカプセルや健康茶などに加工して国内販売している。年商もたかだか二億前後、銀行から十億もの融資を受けるほどの、どんな仕事があるというのか。担保も大野通商の営業権で、バブルの時代ならともかく、そんなものにどれほどの価値がある。リストには銀行の支店長から担当役員、借り手側である大野通商社長と名前がならび、大野通商の社長は借入金に個人保証までおこなっている。その社長の名前はバイオル化学の常務である、棚畑啓一だった。
高梨は鳥肌の浮いている背中を、ソファの背もたれで暖め、ついでにぬるくなった紅茶で胃の内側も暖めた。この内部資料が池上葉子の善意か友情であったとしても、具体的には、高梨に、どういう使い方を望んでいるのか。
「気に入ったら高梨さん、お持ちになって結構なのよ」と、肩の方向をベランダに向け、眉を片方だけ持ちあげて、葉子ママが言った。
「ママに、迷惑が、かからなければいいが……」
「わたしが帝都の株でも貯め込んでるとお思い?」
「使い方によっては、トラブルになるかも知れない」
「見くびってはいけないわ。そんな紙切れぐらいで帝都が潰れるもんですか。せいぜい役員のだれかが、責任を取って辞職する程度のことでしょう」
「そのだれかが辞めても、ママとしては、まったく困らない?」
「そう、困らないの、まったくね」
タバコに火をつけたくなったが、我慢し、コピーの内容をもう一度たしかめてから、それを四つに折って高梨は上着のポケットにしまい込んだ。どれほどの思惑があるにせよ、池上葉子が棚畑啓一やその取り巻きを快く思っていないことだけは、素直に信じたい。女に甘い高梨の体質が裏目に出たら、それはそのときのことだ。
「この仕事が片づいたら、ママをディズニーランドに誘いますよ」と、腰をあげ、葉子ママに深く頭をさげて、高梨が言った。
「それ、デートのお申し込みかしら」
「アリスのティーパーティーにでも乗って、二人でアイスコーンを食べましょう」
「本気にするわよ」
「本気にしてもらえれば光栄です、今から覚悟を決めてください」
「デートねえ……そんな言葉、しばらく聞かなかったわねえ」
肘かけを支えに、鷹揚に立ちあがり、ベランダの向こうに視線を移しながら、くすっと葉子ママが笑った。
「今日はお天気がよくて結構なこと。そういえばディズニーランドなんて、わたし、誘われたこともなかったわ」
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もう正午《ひる》をずいぶん過ぎていて、駅前の雑踏には饐《す》えたような日が射し、不快指数を無視した若い女が無表情に足を引きずっていく。高梨にも学生のころ、下北沢でデートらし一いことをした記憶はある。沙希子ではなかったはずだが、相手は思い出せなかった。通りすぎてきた女たちに感傷を覚えるには、東京という街は少しだけ、女の数が多すぎる。
高梨は駅前の町名案内を確認してから、商店街を代沢方向に歩き、十五分で代沢二丁目に行きついた。『メゾン松波』というマンションを見つけるまでに、それからまた十分ほど付近を歩きまわった。見つけた建物は北側に外廊下の見える高級アパートのような外観で、三階建ての南向きに同じ形の窓が並び、どの窓にも機能の怪しげな細い金属の手摺りが渡されていた。ドアの並び方からは1LDKがせいぜい、それでも手摺りの横にはすべてエアコンの室外機がついていて、二十歳の女子大生が住むには、腹が立つほど贅沢なアパートだった。
階段の上がり口にステンレスの郵便受けが見え、高梨はその前に行って三〇五に『長倉』の名前を確認し、通りに戻って下から三階の東角を見あげてみた。どの階にも四号室はなく、ドアの配列ではその東角が長倉香澄の部屋であるはずだった。カーテンは開いているものの、窓ガラスの反射で天井は覗けず、エアコンの室外機を見ても使用非使用の確認はできなかった。平日の昼過ぎでもあるし、常識的には、女子大生は大学で午後の授業に取り組んでいる。
高梨は一瞬、長倉圭子がこのアパートで香澄と同居している可能性を考え、しかしすぐその想定を撒回した。半年前まで高級クラブを経営していたような女が、ここまで質素な生活に入るとは思えない。圭子の外見からいっても、この小ぎれいで安っぽいアパートでは存在がはみ出してしまう。
専門の尾行でもつけるか、それとも室内に盗聴機を仕掛けるか、なにか手を打つ必要があると考えはじめたとき、窓に人影が動いて、とっさに高梨は電柱の陰に身をひそませた。
見ていると、人影が動いたのは窓にカーテンを引くためで、窓ガラスの反射が濃いグリーンでしめ出され、高梨は腋の下に汗を感じながら場所を郵便受けが見渡せるブロック塀の角に移動させた。カーテンを引いて眠るならともかく、水商売の女だって起き出す時間だ。昨夜はコンパかデートで夜更かしをして、これから午後の授業に出かけるのだろう。あと三年で夏実も似たような女子大生を始めるのかと思うと、意味もなく高梨は切ない気分だった。
高梨がブロック塀の角に身を隠してから、五分で階段に黄色いパンプスがあらわれ、次の瞬間にはチェックのシガレットパンツと白い半袖のカットソーが、息を飲むほど颯爽と登場した。背の高い、顎の線の奇麗な女の子で、肩には青いコットンセーターとベージュ色のショルダーバッグが掛かっていた。髪は肩の線より少しだけ長く、エスニック柄のヘアバンドでアクセントがつけてあった。横顔と鼻の形から、一目で長倉香澄と判断がつき、女の子が三〇五の郵便受けを覗いて、もう疑う必要はなくなった。鶴岡のだれかが「二人とも美人で評判」と言ったが、清潔感と脚の長さが上まわるぶん、勝負は香澄の勝ち、という印象だった。鶴岡で居心地のいい育ち方をしたわけでもないだろうに、香澄の屈託のない身のこなしが、いくらか高梨の気分をなごませた。
香澄が膝の伸びた歩き方で駅の方向に歩き出し、前後の行動を決められないまま、高梨も三十メートルほどの距離から跡を追いはじめた。尾行なら専門の人間に任せるべきだが、香澄の予想以上の存在感に、高梨の足が喜んで引かれていくようだった。学校に出るのか友達を訪ねるのか、しばらく尾行をつづけて、その間に次の手段を考えればいい。アパートも見つけ、存在も確認した。もう長倉圭子が高梨の手から零《こぼ》れ出す心配はない。ここでへたに香澄を追いつめれば、圭子にも必要以上の警戒心を起こさせる。拷問にかけて圭子の居所を聞き出せるならともかく、どういう形で香澄と圭子が接触するか、遠巻きに見守るより方法はない。圭子の母親や鶴岡での感触から、香澄が圭子と連絡を取り合う関係であることを、高梨は百パーセント確信していた。
香澄が向かったのは下北沢の駅で、定期を使って改札をくぐっていき、高梨はそのうしろ姿を目の端に入れたまま、JR乗り入れの切符を買って香澄のあとから小田急線のホームにのぼっていった。誠心女学院は御茶の水にあるから、新宿経由で御茶の水に向かうのだろう。香澄が大学に行くなら尾行をつづけても仕方ないが、雨もふっていないことだし、もうしばらく高梨は様子を見ることにした。学校の門を入るところまで見極めて、それから先は、高梨は高梨の仕事に戻ればいい。
混んでいないのぼりの普通電車が来て、香澄が乗り込み、高梨も一つとなりの乗降口に駆け込んで、そのまま新宿まで香澄のうしろ姿を観察しつづけた。尾行を警戒されない限り、人間のあふれる東京では簡単に人間のあとをついて行ける。たとえ見失っても、次の手段はいくらでもある。単純に考えれば盗聴機で、しかし役人や政治家ならともかく、相手が女子大生では罪の意識が引っかかる。尾行だけで長倉圭子に行きつくものか、香澄が大学の門をくぐるまでには、高梨も腹をくくらなくてはならない。
電車が新宿につき、香澄が連絡通路からJRのホームに入っていって、高梨は落胆しながらも予定どおり、中央線の快速で御茶の水までつき合うことにした。神田の事務所にまわって雑誌のすすみ具合をチェックするか、富塚を探して次の手段を考えるか、雑用は気が滅入るほどあっても、すべては日が暮れてからの仕事だった。
電車が四谷、飯田橋とすすみ、御茶の水に近づいてきたとき、香澄の前に座っていた中年男が席を立って、意外なことに、あいたその席に香澄がすました顔で腰をおろした。慌てたのは高梨のほうで、乗り込んでくる人間にまぎれながら、思わず座席の香澄をふり返った。香澄はそろえた膝にショルダーバッグをかさね、背筋をのばした固い座り方で、まっすぐ前を見つめている。尾行に気づかれたとも思えないが、それでは御茶の水でおりずに、どこへ行こうというのだ。大学の所在地を御茶の水だと思っていたのは、高梨の記憶違いだったのか。東京の郊外に別校舎をつくる大学も多いから、誠心女学院も千葉か神奈川に分校舎があるのか。どちらにしても状況は予想はずれで、高梨にしてもこのまま探偵をつづけるしか仕方ない。香澄の生活習慣を窺うだけでも、今のこの尾行が、まるで無意味ということはない。
終点の東京駅まで中央線に乗り、ホームを移って、香澄が乗ったのは熱海止まりの東海道本線普通電車だった。まさか熱海で温泉に入るつもりでもないだろうが、分校舎が戸塚か藤沢あたりにあることは考えられる。授業をさぼって横浜で買い物をするか、途中駅の友達を訪ねるのか、そういう可能性もある。こうなったら覚悟を決めて、最後まで香澄とつき合うべきだろう。尾行そのものに罪の意識は感じても、香澄の清楚なうしろ姿を眺めつづけることに、高梨にも初恋のときめきに似た心地よさがあった。
どこまで電車に乗るのか。席についてからの香澄はカバーのかかった単行本を開き、高梨はななめうしろの遠い座席から、落ち着いてその横顔を観察することができた。顔立ちは圭子に似ていて、化粧や表情のつくり方でいくらでも派手になる女の子だ。価値観が潔癖なのか、服装にも態度にも、意識的に目立つのを控えている印象があった。相対的にすべてのバランスが完璧で、こういう美意識は是非とも夏実に見習わせたい。
川崎、横浜、藤沢が過ぎ、どこまで行くのか気をもみ始めたとき、電車が茅ヶ崎のホームでスピードを落として、本を閉じた香澄が近くの乗降口に歩いていった。東京で東海道線に乗ってからちょうど一時間、通勤が可能な距離ではあっても、茅ヶ崎まで来るとやはり東京を遠く離れた気分になる。高梨の家だって区分的には千葉県だが、浦安と茅ヶ崎では空気に混じる埃の臭気が違いすぎる。
香澄が改札を外に出ることは分かっていたので、高梨はホームの人間を迂回し、料金の追加分を精算して先に改札を出た。尾行に気づいているなら他の行動をとるはずだが、女子中学生のうしろから、香澄は相変わらず軽快な歩き方で改札に向かってきた。その香澄も精算窓口で追加料金を払ったから、茅ヶ崎に大学の分校舎があるわけではないらしかった。
時間は二時を過ぎていた。うす曇りでも熱気と湿度は執拗で、電車をおりたとたん、高梨の背中にはもう脂っぽい汗が噴き出していた。ふつうに考えれば、香澄はサーファーでもやっているボーイフレンドに会うことになる。いい歳をして他人のデートを見物するのも馬鹿ばかしいが、考えてみれば、尾行自体が馬鹿ばかしいのだ。自己嫌悪におちいっても意味はないし、するべきことを淡々と消化するのも、大人の分別だろう。
柱の陰からまた香澄の尾行を開始し、一瞬混乱したのは、南口に出た香澄がタクシーで駅前から走り出したことだった。距離を置いていたので、香澄との間に客が入り、高梨がタクシーに乗ったのは香澄が出発してから一分以上が過ぎていた。駅前から広い通りに出て、香澄の乗ったタクシーを見つけるまで、五分ほど高梨はクーラーの効いた車内で冷汗をかきつづけた。香澄の清潔感が高梨の目を楽しませるとはいえ、明日からはやはり、尾行は専門の人間に任せるべきかも知れない。
とりあえず運転手に一万円札を渡し、怪しまれない程度の距離を保って、あとは十分ほど知らない道を市街地から郊外へ、高梨は漫然とタクシーに乗っていた。空の開け具合から向かっているのは海の方向らしかった。
前のタクシーがスピードを落としはじめ、ウインカーを点滅させながら、車線もない細い道の片側にゆっくりとクルマを停めていった。付近はまだ空地の多い新興の住宅街で、高梨は自分のタクシーで前のクルマを追い越し、脇道の後部座席から本道がのぞける場所にクルマを停車させた。相手が意識しているなら、これぐらいの尾行は簡単に巻いてしまう。しかしタクシーをおりた香澄は、景色にも周囲にもまるで無関心だった。
香澄が入っていったのは、化粧ブロックの塀を高くめぐらした簡素な平屋建てで、木戸風の門も新しくはなく、塀を越すほどの高い庭木も植わっていなかった。目的地がその家であることに間違いなく、方策も考えてはいなかったが、高梨は運転手に礼を言ってタクシーをおりることにした。梅雨の晴れ間は久しぶりで、空気にはかすかに海の匂いが混じっている。たまにはこんな郊外で深呼吸するのも気分がいい。今の仕事に入る前から動き通し、きっぱりした休みなど、高梨はもう一カ月以上取っていなかった。
歩道のない舗装路を、香澄が消えていった家のほうに歩き出し、突然気がついて、高梨は自分の間抜けさに慌ててタクシーに引き返した。運転手はエンジンをふかして走り出すところだった。窓を叩いてドアを開かせ、直前まで納まっていた後部座席に、舌打ちをしながら転がり込んだ。香澄が乗ってきたタクシーは走り出す気配を見せず、停車ランプを点滅させたまま家の前に停まりつづけている。運転手が休息を取るつもりなら、どこか日陰に場所を移す。ついた時間差からは向こうが先に発車しなくてはならない。その場所に停まっているのは、クルマの故障か客待ちの都合ということで、こういう先読みができないところが、素人探偵の限界かも知れない。
高梨がクーラーの効いたシートに納まり、運転手と一緒にタバコを吸っていたのは、それから十分ほどだった。自分の判断を怪しみ出したとき、木戸風の門が開いて、次の瞬間、大人気もなく、高梨は声を出して座席の背に頭を打ちつけてしまった。十年ぶりとはいえ、香澄と一緒にタクシーに乗り込んだのは、間違えようもない長倉圭子だった。あまりにも呆気ない圭子の登場に、高梨の血圧も中途半端に戸惑ったが、香澄の尾行をはじめたその日に圭子にまで行きつくとは、思ってもいなかった。神経は混乱したり喜んだりしても、長倉圭子を発見した事実に変わりはない。今まで埋めてきたのは外堀ばかり、しかしこれで、やっと問題の核心に入っていけるのだ。
銀座でクラブを出していた圭子が、いくら湘南とはいえ、こんな田舎でなにをしているのか。なぜこんな方法で姿を隠さなくてはならないのか。東横工業の横沢と棚畑啓一との関係に、圭子はなにか、特別な役割を果たしているのか。富塚吉太郎も津坂文和も、長倉圭子という名前になぜあれほど過剰な反応を示すのか。事実関係のすべてに解答が出るのも、ここまで来たら、もう時間の問題だった。
圭子と香澄を乗せたタクシーがうしろを通りすぎ、高梨は運転手にチップを追加して、来たときと同じようにタクシーでの尾行を再開した。運転手は三十すぎの無口な男で、金のせいか信念のせいか、高梨の指示に最後まで詮索はしてこなかった。
タクシーが向かったのは、海との位置関係からは大磯の方向らしく、茅ヶ崎の駅か繁華街に出ると思っていた予想は、簡単に外れてしまった。どこへ行こうと住所は押さえたのだ。香澄の存在も手の内に入れた。あとはいかに圭子と接触するか、顔を合わせたとき自分がどういう表情をつくればいいのか、尾行をつづけながら高梨が考えていたのは、そのことだけだった。タクシーは湘南道路を十分ほど西にくだり、三差路の交差点を右に曲がって、いくらも進まないうちにまた左に折れ、突き当たりの広い敷地に静かに滑り込んでいった。門をくぐりながらプレートを見ると、それは『開明大学付属茅ヶ崎病院』となっていた。建物も白いコンクリートの五階建て、病院らしい無機質な印象ではあるが、長倉圭子は、なんの用事で大学の付属病院などにやって来たのか。こういうところは政治家や企業家の雲隠れ入院も多い。しかし香澄がわざわざ東京からやって来たとなると、たんなる見舞い程度のことではないだろう。
高梨は玄関前でおりたタクシーを、今度は素直に帰し、自動ドアに消えた二人のあとから時間をずらして中に入っていった。病院というのはどこでも同じで、内装に感激するほどの意匠はなく、床も壁もひたすらコンクリートで殺風景に固めてあった。
二人は外来の受付にとどまっていて、窓口で二、三分、なにかの手続きをやっていた。高梨は広い待合室のベンチに患者や付添いにまぎれて腰をおろし、二人のうしろ姿を、距離をおいて観察しはじめた。背丈は頭半分ほど香澄のほうが高く、姿勢も毅然としていたが、首筋から鼻にかけての線は知らない人間でも血縁と分かるほど、見事に相似形だった。圭子もまだ三十八歳、一応は女盛りだろう。しかし高梨が不可解だったのは、立ち姿やベンチに座るまでのぎこちなさで、昔は胃が痛くなるほど鮮やかだった圭子のイメージが、いくら待っても戻ってこないことだった。袖無しのワンピースにレースのカーディガンという、その簡素すぎる衣装のせいか、クラブを経営していた気苦労のせいか、それとも今度の問題に関係した、なにかの鬱屈のせいか。
病院に来て、外来の窓口で受付をしたわけだから、常識的に見舞いではない。患者が香澄だったら、わざわざ東京から出向くこともないだろう。状況的には圭子のほうに疾患があるはずだが、風邪とか食あたりとか、はたして、その程度の疾病なのだろうか。会話が弾んでいるようには見えない二人のうしろ姿に、理由もなく、高梨の背中には寒気に似た苛立ちが走ってくる。
しばらくして、待合室に呼び出しのアナウンスが流れ、香澄と圭子が肩を並べるように、淡々と東廊下へ入っていった。高梨は不自然にならない程度の時間に腰をあげ、遠くに二人のうしろ姿を見ながら、廊下を静かに歩いていった。二人は五十メートルほど廊下を奥に進み、途中のドアを香澄が開けて、圭子から先に部屋の中に姿を消していった。高梨もドアの前まで行って標識を確かめてみたが、そこには『第三内科』と担当医師らしい『石橋』という名札が出ているだけで、診療内容が分かる表示は見当たらなかった。
ドアを入っていくわけにもいかず、高梨は待合室に引き返し、受付からは遠いベンチに背中を向けて腰をおろした。患者も付添いも職員のだれも、高梨のことなんか怪しみもしなかった。それでも圭子と出合い頭に顔を合わせる心配は、なくもない。十年も会っていなくて、突然高梨の顔を思い出すとも思えないが、水商売の中には、客の顔や名前に恐ろしいほどの記憶力を発揮する女がいる。圭子と向かい合う必要があることは分かっていても、それをどういう設定にするか、高梨にはまだ判断がついていなかった。
座っている圭子も、廊下を歩いていく圭子も、どこか、なにかが不自然すぎる。思いがけず圭子を見つけて、高梨の混乱が収まっていないだけのことなのか。ここが病院で、圭子が病気らしいことへの躊躇なのか。香澄と圭子の若さに無残なほどの差があることへの、たんなる感傷なのか。圭子のうしろ姿が主張しているあの疲労感が、高梨の思い過ごしであってくれれば、いくらか気も楽になるのだが。
三十分もベンチに座っていたろうか。東廊下から浮きあがるように二人が顔を出し、圭子だけがベンチに腰をおろして、香澄は一人で投薬と支払いの窓口に歩いていった。圭子と背中合わせのベンチに場所を移そうかとも考えたが、女が持っている独特の勘を警戒して、高梨はしばらく自重することにした。やっと歯車が回り出したのに、ここで躓《つまず》いたら、状況の解明にいらぬ時間がかかってしまう。
窓口で精算を済ませた香澄が、微笑みながら戻ってきて、立ちあがった圭子と言葉を交わしながら、肩を並べて玄関ホールに歩き出した。圭子に昔の不遜な印象がないぶん、どう見てもそれは、お互いを気づかう仲のいい姉妹といった感じだった。事情はどうであれ、高梨が介入することは、二人の関係に余計な波風をたてはしまいか。香澄の育った環境に想像はつくし、圭子の香澄への思いも理解できる。このまま二人に静かな生活を送らせてやって、どこが悪いのか。
見守る中、圭子と香澄は自動ドアから外に出ていき、客待ちのタクシーに乗り込んで、赤いカンナが目立つ敷地から呆気なく姿を消していった。高梨はタクシーが見えなくなるまでドアの内側に立ち、それから外に出て、押し寄せる湿度に腹を立てながら重い気分でタバコに火をつけた。二人が買い物にまわるのか、どこかで食事でもするのか、いずれにせよ圭子は茅ヶ崎の家に帰っていく。これ以上の尾行に意味はないし、今日はもう、高梨の気分もいやがっている。
額ににじんできた汗を手の甲でふき、タバコをコンクリートの上に弾いて、高梨はタクシーのほうへぶらりと歩いていった。反省や後悔や疑問は、いくらでもあった。今回の仕事も終結に向かっていた。関係している大人は仕方ないとして、香澄という女の子だけは、できれば、事件に巻き込まずに済ませたい。
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茅ヶ崎の駅に戻ってから、高梨が電話をしたのは浦安の自宅だった。沙希子が出て、夏実と一緒に銀座から帰ったところだという。夏実も明日は学校に出られるらしく、二人に関してはとりあえず、これ以上の問題はなさそうだった。
電話を神田の事務所にまわすと、矢島と津坂から伝言が入っていて、矢島の伝言は『今夜高梨に会わせたい人間がいる』、津坂の用件は『また自分から電話をする』というものだった。高梨は矢島が祥子に伝えたスナックの電話番号を書きとり、雑誌の進捗状況を訊いてから、手帳をしまって、シャツの背中に風を通してやった。矢島がだれを連れてくるにせよ、夜中まで酒を飲むことは決まったようなもので、これで今夜も、また家に帰れない。もう一つの用件も気にはなったが、名乗っての電話なら、昨日までのいやがらせも津坂ではなかったということか。
東京についたのはまだ明るさの残る午後六時、矢島が待っている六本木のスナックに出かける時間でもなく、東京駅にいるついでに、高梨は丸の内線で赤坂にまわることにした。勝彦には一応『会社に顔を出してみろ』と言われているし、富塚のほうは居留守だろう。二人に会えなかったとしても、社員の顔色を見れば会社の内情に察しはつく。バイオル化学のトラブルに関わる以上、社内の雰囲気も見学しておきたかった。
地下鉄でまわったのは赤坂見附駅、退社時間のせいか人の流れが逆方向で、急ぎ足で歩くOLの衣装にはもう、バブル期の華やかさは感じられなかった。役人がいくら景気回復を保証しても、日本中があぶく銭で窒息したような景気は、二度とやって来ない。
駅前の道を外堀通りの方向に歩き、テレビ局へ向かう道を曲がって、しばらく行くと高梨が三年間かよった『赤坂大野ビル』が見えてくる。研究開発部門は憲作の時代に大宮へ移転しているから、本社に残っているのは営業と管理部門だけだった。この十年間足を運んでいなくても、会社が移転していないことは高梨も承知している。今の仕事をつづけるかぎり、赤坂や永田町と縁が切れることはないだろう。
受付を無視してエレベータに歩き、総務部のある五階にあがっていくと、知らない男とスーツを着た若い女が残っている以外、蕎麦《そば》屋の出前も来客も、活気らしいものはなにも見当たらなかった。昔とちがってファクスやパソコンの横溢はあるものの、呆気にとられたのは内装を含めた雰囲気の変わりようだった。カーテンや壁紙は軟弱な花柄で統一され、製品のポスターと一緒に、壁にはローランサンの女性画までかかっている。勝彦の趣味であることは明白で、これで憲作も、迂闊には化けて出られない。
女が腰をあげ、意味の分からない笑みを浮かべながら、派手な化粧でデスクを高梨のほうにまわってきた。歳は三十前らしく、考えなくとも知らない女であることは分かっていた。
「昨夜偶然、銀座でおたくの社長に行き合った、喉が乾いたらコーヒーを飲みに来いと誘われてね」
「こちらは総務部でございますが……」
「知ってるさ、君だって社長とコーヒーなんか飲みたくないだろう」
「はあ?」
「十年というのは、君が思うよりずっと長い時間だ」
「はあ」
「あの絵、本物かな」
「そう聞いておりますが」
「会社もずいぶん明るくなった」
「お客様、ご用件は……」
「昔この会社に勤めていたんだ、勝彦社長に追い出されたけどな」
「失礼ですが……」
「失礼はお互いさまだ。俺の機嫌が悪いのは、君の責任じゃないのにな」
そのとき、奥の部屋に通じるドアが開いて、じゅうぶんすぎるほど禿げた赤ら顔が、ひょっこりと姿をあらわした。富塚のほうも意外だったらしく、高梨の顔を見て、一瞬ドアを閉めかけたほどだった。
「あ、あ、やあ、高梨さん。それならそうと、電話をくださればよかったのに」
それならそうと、高梨はなん度も電話をしていた。その電話で捕まらないから、わざわざ出向いてきたのだ。高梨が富塚を探していたことぐらい、高梨より富塚のほうがよく知っていたはずではないか。
「ちょうどよかった、連絡をせにゃならんと思っとりました。いやあ、久しぶりに今日は暑いですなあ。下の喫茶店で、冷たいものでもご一緒しましょうかね」
高梨の返事をまたず、富塚がフロアを横切っていき、出入り口のドアを押して、せかすように高梨をうながした。高梨のほうはもう少し社内を観察したかったが、廊下のへんな明るさや軽薄な装飾からして、それほど寛《くつろ》げる雰囲気とも思えなかった。少なくとも憲作の時代に、エレベータ前の灰皿が吸い殻で溢れているような現象は、一度もないはずだった。
富塚が高梨を連れていったのは、ビルのとなりにある『風林』という喫茶店だった。メニューのケースもガラスの灰皿もシャンデリアの埃も、十年前と不気味なほど変わっていなかった。バイオル化学には感じなかった郷愁を、喫茶店のテーブルと椅子に、つい高梨は感じてしまう。
「本当なら夕飯でもご一緒したいところですが、あたしこれから、野暮用がありましてなあ」と、ビールが来てから、二つのコップに注ぎ分け、赤く充血した目をしばたいて、富塚が言った。「で、わざわざのお越しは例の件、進展でもございましたかな」
「難しい仕事だということが、しっかり分かりました」と、胃に鋭い不愉快さを感じながら、それでもビールに口をつけて、高梨が言った。
「もう、長倉圭子には……」
「不思議なことがあるものです、あれだけ派手な女がまるで姿をあらわさない」
「と、おっしゃると?」
「生きてるのか死んでるのか、それさえ分からないということです」
富塚の赤い首に、太い皺が波うち、汗もふき出して、一瞬、胸の苦しさでも我慢するような顔になった。血圧が高いことは皮膚を見れば分かるが、それにしても目の充血といい大量の汗といい、どこか体調でも悪いのか。
「調べられるところは調べました。親しい人間にも連絡は取っていない、鶴岡の実家にも帰っていない。わたしには荷が重かったようだ」
「高梨さんでも、やはり、いけませんか」
「興信所に任せたらいかがです、生きていれば一週間で見つけますよ」
「それは、しかし、興信所なんぞを使えば、どこで話が漏れるか知れたもんじゃない」
「もう話は漏れています」
「はあ?」
「あの隠れ方はプロの手口です、わたしの出る幕ではなかった」
「しかし……」
「最初からご存知でしょう」
「いや、その、おっしゃる意味が、分かりませんな」
「彼女の寝返る意思が本物なら、見つけたところで、手の打ちようはない」
「そこを、だから、あんたにお願いしたんだ。あんたなら長倉圭子の一人ぐらい、どうにでも操れるはずじゃないか」
突然口調が変わったことに、富塚自身気がついたのか、ビールを口に運んで、肉の厚い肩を、ゆっくりとソファの背にもたれさせた。
「その、まあ、勝彦社長にも困ったもんですわ。もう少し真剣に、社内の体制固めをしてくれんと……」
「昨夜ラピスで、勝彦社長に会いましたがね」
「お、ほおう?」
「役人や広告屋と一緒だった」
「そりゃあ、なんというか、人脈を広げておくのも、通常の営業活動ですがね」
「営業活動も目立ちすぎると顰蹙を買う」
「や、憲作社長の時代とは……」
「勝彦さんもずいぶん火の粉をまき散らしてるらしい、今までよく本社が燃えなかったものだ」
「高梨さん、なにがおっしゃりたい?」
「長倉圭子を抱き込まなくても、川はもう棚畑側に流れている」
「なにを、そんな……」
「噂ですがね、久しぶりに動いてみると、いやな噂ばかり耳に入ります」
頬の肉をふるわせて、富塚が唾を飲み、もうなん度も使ったおしぼりで、首から上の汗をしつこくふき取った。
「どうでもいい噂は耳に入るのに、肝心な噂は聞こえない。銀座というのは不思議なところです」
「そういうことも、まあ、ありましょうな」
「当然聞こえていいはずの噂……つまり長倉圭子が店を閉めた理由については、まるで聞こえてこない。『けいこ』の経営が苦しかったと話したのは、富塚さんでしたね」
富塚が顎の肉を引きしめ、おしぼりを膝の前にとめたまま、充血した色の悪い目を茫然と高梨の顔にすえつけた。最初に感じた胃の不愉快さが戻ってきて、腕を組む仕草で、高梨はそっと自分の腹を抱え込んだ。
「芝居もアクションが大きすぎると、悪目立ちをするもんです」
「おっしゃる意味、さっぱり分かりませんな」
「東横工業が倒産したあとも、『けいこ』は意外にはやっていた。だから棚畑側に寝返って、憲作社長との件を暴露する必要もない」
「銀座の女どもが裏の事情なんぞ、知るわきゃないよ。銀座の噂とあたしの話を、君はどちらを信じるんだね」
「どちらを信じるか……彼女たちの嘘は、単純なぶん、騙されても腹は立たないが」
「なにが言いたいんだ、え? 高梨さん、あんたはなにが言いたい」
「寝返ってるのは長倉圭子ではなく、富塚さんという考え方も成り立つ」
「じゃ、じゃ、邪推にも、程があるぞ」
「あなたは株でずいぶんな借金を抱えている。勝彦の立場より、本来なら自分の首を心配するはずだ」
「それとこれと……」
「話が違いますか」
「違う、違う、断じて違うぞ。借金のことなんぞ、言われる筋合いはない。あんたは黙って自分の仕事をしてればいい」
「狙いはなんです? わたしに彼女を見つけられないことは、分かってたはずだ」
「言い掛かりをつけるのか。せっかく楽な仕事をまわしてやったのに、どの面さげてここへ来た」
「わたしの役割を聞きたい。富塚さんがわたしに割り振った役を、わたしはこなしていますかね」
「君は……」
「出演料が百万の役者では、期待もしてなかったか」
「強請《ゆす》るのかね。君にこれ以上金をせびる、どんな資格がある……えらそうな顔して、昔の女も探せんくせに」
「昔の女……ね」
「とぼけなくてもいい。憲作が囲ってたころから、おまえは圭子とできていた。俺の目を節穴と思うのか」
「節穴ではないでしょう」
「そーら見ろ、痛いところを突かれたな」
「節穴ではないが、借金で曇っている」
「お、お、俺の……」
「富塚さん、血圧があがりますよ」
「お、大きなお世話だ」
「わたしはクビ、ですか」
「もう貴様に用はない。俺は最初から、貴様なんぞに期待していなかった」
「出演料ぶんの芝居はしたはずですがね」
「貴様が、なにをしたって?」
「棚畑サイドに波風を立てた、その波風が津波になったら、どちらが飲み込まれるか、わたしには見当もつきませんが」
富塚が指をふるわせながら、突然伝票をつかみ、乱暴に席を立って、走るようにレジへ歩きだした。
「富塚さん……」と、ウエイターの視線を横顔に受けながら、座ったまま、高梨が言った。「ボーナスはご破算ですか」
「高梨、これ以上俺をこけ[#「こけ」に傍点]にすると、ただじゃ済まさんぞ。女房子供が無事なだけ、ありがたいと思いやがれ」
釣り銭も受けとらず、富塚が唐突に店を出ていき、高梨は肩にたまっていた疲労で、意気地もなくソファに沈み込んだ。背中にはいやな悪寒が走り、乾きはじめた汗がシャツの生地を重く肌に貼りつけていた。この疲労が一過性の脱力感なのか、人生そのものの澱みなのか、少なくとも今は、考えたくなかった。
高梨は瓶に残っていたビールを、ゆっくりコップに注ぎ、タバコに火をつけて、煙を深く肺の底に流し入れた。客のいない喫茶店はBGMだけがやかましく、大型のクーラーがざわざわと乾いた風を運んでくる。テーブルには富塚が忘れていったタバコの箱がころがり、泡の消えた飲み残しのビールが不愉快に鎮座している。
不意に吐き気に襲われ、高梨はおしぼりで口を押さえ、つけたばかりのタバコを慌てて灰皿に突き立てた。夏休みの旅行はヨーロッパの田舎なのか、アメリカの西海岸なのか。しかしハワイという高梨の提案は、いつ却下されてしまったのだろう。
胃の不快感をビールで飲みくだし、シャンデリアの埃を眺めながら、額に浮いている冷たい汗を、高梨は強く手の甲でふき取った。いつ暇になるか知らないが、今度暇になったら、この胃は一度医者にみせる必要がある。
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時間は七時を過ぎたばかりで、暗くなったが涼しくはなく、高梨はタクシーで神田の事務所に帰ることにした。サウナか銭湯で汗を流したくても、そこまでの時間はなかった。夏が来るたびに事務所へシャワーを設置しようと考え、秋になると忘れてしまう。マンションにでも移転すれば済むのだろうが、『アースレポート』に将来の展望がないことは分かっている。それでは自分の人生に展望があるのか、考えると、高梨はつい笑ってしまう。
タクシーを神保町でおり、白山通りの洋品店で白いカッターシャツと下着を買って、事務所に戻ったときは八時になっていた。大塚と祥子の姿はなく、高梨は二人の机で原稿をチェックし、割り付け表を確認してから、広告の入稿予定リストにも目を通した。だれが必要としている雑誌でもなく、人類の平和に役立つ記事ものっていない。大新聞も人気雑誌も理屈は同じと思いながら、居直り切れないジレンマが、憮然と高梨の肩に手をかける。
高梨は一とおり雑誌の点検をしてから、着ていた服を脱ぎ、洗面所に行って頭に水をかぶりはじめた。いつも祥子に非難される行状ではあっても、これぐらいは社長の特権と認めてもらいたい。事務所で高梨の持っている特権なんか、洗面所で頭を洗うこととソファで眠ることだけなのだ。
タオルを首にかけ、すっ裸のサンダル履きで部屋に戻ったとき、電話が鳴って、高梨は思わず壁の時計に目をやった。夏実と沙希子の顔が思い出され、いやな予感はしたが、出てみると相手は津坂文和だった。昼間も電話をしてきたらしいから、まさか高梨に再挑戦を試みる、という申し出でもないだろう。
「お宅に電話したら、どうせ今夜も帰らないということだった。高梨、美人の奥さんを淋しがらせるもんじゃないぜ」
「俺の女房が美人だということ、よく知ってるな」
「からむなよ、大事な用でおまえを探してたんだ」
「こっちには家族の問題以外、津坂さんに用はない」
「邪険にしなさんな、おまえのお陰で俺は目の下に青タンをつくってる」
「自分の生き方を反省することだな」
「口の減らない野郎だ……それはそれとして、なあ、ちょっと顔を貸してくれないか。棚畑常務がおまえに挨拶したいそうだ」
「棚畑が、俺に?」
「時間は取らせない、今うちの会社に来ている。とにかく顔を出してくれよ。悪い話じゃない、昨夜の礼をするつもりもない。ここはお互い、大人のビジネスと割り切ろうじゃないか」
津坂に言われなくても、バイオル化学との関係なんか、高梨だって大人のビジネスと割り切りたい。しかし棚畑啓一がわざわざ高梨を呼び出すというのは、どういう成り行きか。こちらの動きを牽制するだけなら、それこそ津坂でも使って女房子供にゆさぶりをかければいい。棚畑から見れば高梨なんか屑みたいな人間のはずで、その屑と正面から向かい合う気になったのは、昨夜のはったりが予想以上に効いたということか。
「なあ、そういうことだ。神田から虎ノ門なら十分もかからない。常務は忙しい時間をわざわざ割いてくれる、それも高梨にいい話のためにだぜ」
「津坂さんがそこまで俺のことを心配してくれるとは、思ってもみなかった」
「昔のよしみというやつさ。どうだ、十分で来られるか」
「今はすっ裸だ」
「なんだと?」
「三十分はかかるという意味さ」
「まあ、とにかく、急いで顔を出してくれ。正面玄関は閉まっている。西側の通用口に守衛がいるから、そこで大野通商の社長室を呼び出せばいい。お互い早くけりをつけて、さっぱりした生活を送ろうじゃないか」
どういう意味かは分からなかったが、とりあえず分かったと返事をして、高梨と津坂は、同時に電話を切った。十時には矢島が待っている六本木にまわるとしても、電話の様子からはそこまで時間のかかる用件でもなさそうだった。高梨を袋叩きにしようとか、この世から遠慮させようというなら、虎ノ門の会社に呼び出しはしない。用件はともかく、とにかく無傷で帰れることだけは確かだろう。
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虎ノ門の平和会館ビルの西側通用口で、制服の守衛に取り次ぎをたのみ、エレベータで八階まであがっていくと、意外にも出口で津坂が高梨を待ち構えていた。二人は気まずい会釈をし合ってから、絨毯敷きの長い廊下を黙って大野通商の社長室まで歩いていった。津坂の左目の下には笑えないほどの青痣があり、頬のこけた顔は昨夜以上に疲れた表情だった。
部屋にいたのは棚畑一人だけ、ほかに社員の姿はなく、社長デスクの向こうから撫でつけた銀髪が鷹揚に高梨を出迎えてきた。六十は過ぎているはずなのに、姿勢はよく、サイドベンツに仕立てた銀鼠色の背広を端正に着こんでいた。どこかで見た顔ではあったが、言葉を交わしたことはないはずだった。
「うん、君が高梨くんですか。噂はよく耳に入りますよ。君をバイオル化学から追い出すなんて、若社長も人を見る目がなかったわけだ」
力のある肩で冷淡に笑い、細身の躰を勢いよくソファにあずけて、棚畑が遠く目を細めてきた。
「人を見る目があったから、追い出したのかも知れませんがね」
「ビジネスは結果論ですよ。経営者は結果を出さなければ無能と言われる、しかし残念なことに、無能な経営者が好結果を出した例など、これまでに見たこともない」
言い方は抽象的であっても、要するに勝彦の人格や経営能力を、とりあえず非難してみたということだ。こちらから帝都銀行の話題を持ち出してやってもいいが、うっかり手の内を明かすと、どこに地獄が待っているか、知れたものではない。
「わざわざ君に出向いてもらったのは、実は、相談がありましてね。今すぐ返事をくれとは言いませんが、どうですか、バイオル化学に戻る気はありませんか」
「わたしが、バイオル化学に?」
「君と津坂くんとの経緯は知ってます、彼もそれで冷や飯を食ったらしい。しかしそろそろ本社に戻そうと思うんですよ。君たち二人が手打ちをしてくれると、会社としては非常にありがたい」
どうでもいいが、よくもそんな口実を思いついたもので、敵を懐柔したり脅迫したり、ビジネスとはそうやって結果を出していくものなのか。
「なあ高梨、おまえにとっても悪い話じゃないだろう」と、壁際に立ったまま、上目づかいに腕を組んで、津坂が言った。「今みたいな半端仕事、いつまでも続きはしないぜ。常務は本社で部長待遇のポストを用意している。おまえの奥方だって喜ぶんじゃないのか」
「そこまで心配されるとありがたくて涙が出るな。しかし勝彦さんがそんな話を聞いたら、驚いて腰を抜かす」
棚畑啓一がゆったりと足を組んで、中指の先で眉をさすり、頭の中で自分の言葉を納得するように、深くうなずいた。
「高梨くん、もちろん今の話は、現社長退陣後、という条件ではありますよ」
「そんな架空の話を、信じろと?」
「架空の話ではないんだ、確定的な想定未来というやつです。今の状況は君にも分かってるはずでしょう」
「どうですかね、わたしはバイオル化学と十年間も無縁だった」
「君はその空白を埋めるために調査をした、ねえ、私の倅がアメリカにいることや、娘の大学までね」
「ちょっとしたサービスです」
「君の努力を買いますよ。いや、バイオル化学としては、ぜひとも欲しい人材だ」
棚畑が反動をつけて腰をあげ、デスクの前に歩いてから、紙の包みをつかんでまた元のソファに戻ってきた。包みの幅や厚さから、聞かなくても中身に想像はつく。この場面で石鹸を渡すぐらいのユーモアがあれば、高梨も少しは棚畑を評価してやれる。
「これは、世間で言うところの、いわゆる支度金というやつですよ。他意はないから安心して受け取りたまえ」
「架空の就職に実物の支度金……難しい選択だ」
「君に損はないはずですがね」
「気持ちには準備が必要です」
「高梨くん、支度金というのは準備のために使う金ですよ」
「準備だけで終わる可能性が、大いにある。勝彦だって素直に城は渡さない。常務の側にも、少しは弱みがある」
「ほーう?」
「ビジネスは、所詮、結果論ですが」
包みをテーブルに置いた棚畑の手が、しばらくその場でとまり、甘ったるい整髪料の臭気が強く高梨の鼻を通りすぎた。物腰は慇懃で、表情に凄味はなかったが、目はうすい目蓋の下で冷静に動いていた。
「高梨……」と、壁から背中を放し、確認するようにソファの向こう側へ歩いて、津坂が言った。「常務の弱みというのは、なんのことだ?」
「一般論さ。喧嘩はどちらが強いかではなく、どちらが弱いかで決まることもある」
「おまえ、なんのことを言ってる?」
「大野通商はバイオル化学の百パーセント子会社だ」
「それがどうした」
「本社を通さずに、帝都から怪しい金が流れたという噂がある」
「怪しい金?」
「限りなく無担保融資にちかい、使い途の分からない金だという」
「はったりをかますな」
「ただの噂さ」
「いい加減なこと言いやがって、俺がいつまでも我慢すると思うなよ」
「やめたまえ」
「しかし常務……」
「津坂くん、君は感情的になりすぎるな。高梨くんに悪気はないんだよ。彼はただ一般論として、私らに忠告してるだけだろう」
言葉は津坂に向けているはずなのに、棚畑の視線は正面から高梨の顔を捕らえていて、その淡々とした冷静さが、高梨には少し不気味だった。『小心で重役までは手が届かなかった』という矢島の棚畑に対する人物評は、どこまで的を射ているものか。
「まあ、いいじゃないか。高梨くんも大野側で働くというわけじゃなし……」と、上着のポケットからタバコを取り出し、火をつけてから煙を長く吐いて、棚畑が言った。「ところで君、富塚の件は承知しているのかね」
「借金、ですか」
「金を借りること自体に問題はない、借金なんか返せばいいだけのことだ。しかし富塚は返却もせず、そのうえ会社の金にまで手をつけた。二千万ですよ、半端な金額ではないと思いませんか」
「会社の金を、二千万……」
「裏献金用にプールした金だから、告訴する訳にはいかない。それでも立派な背任横領でしょう。そんな人間を、いつまで自由にさせておくんです」
「それは、会社の、内部問題です」
「もちろん内部問題ですよ。その内部問題に大野はまるで手をつけない。いくら先代からの子飼いでも、ものには限度がある」
津坂が棚畑の背後で髪の毛をかきあげ、青痣の目立つ顔をゆがめて、首をふりながら苦しそうな息をついた。棚畑の吐く煙がクーラーの風に流され、密閉された絨毯敷きの部屋に、無意味な友好が飛びまわる。
高梨の頭には、病院の暗い廊下に消えていく長倉圭子のうしろ姿や、タクシーに乗り込むときの華奢な肩が思い出されたが、状況との整合性は、まるで理解していなかった。
「棚畑さん、肚《はら》を割れとは、言わないが……」と、ポケットにタバコを探し、胃の痛みに指先をためらわせながら、高梨が言った。「バイオル化学の将来に関しては、どういう構図を考えています?」
「将来の構図……と、いうと?」
「勝彦の代表権をはずすという、それだけのことですか」
「誰にだって会社の私物化は許されませんよ。彼を放置しておけば、バイオル化学の分解は避けられない」
「善意だけ、ですか」
「私も今は企業家です、会社の崩壊阻止に努力するのは当然じゃないですか。大野をはずして経営の健全化をはかる、それが関係者の総意ですよ」
「関係者の、ね。その中心が帝都銀行?」
「あくまでも関係者全員の、です」
「あなたの言葉では『経営の健全化』になるが、要するに役員を帝都が占めるということでしょう。そうなれば配転もリストラも、帝都の思うままだ」
棚畑がまた指先で眉をさすり、口元を引きしめながら、足を組んだまま灰皿に腕をのばした。緊張しているのは顎の形だけで、動かない目は、相変わらず冷静だった。
「仮に、ですね、将来そういう可能性があったとして……」と、火種をていねいにつぶし、ゆっくりと肩を戻して、棚畑が言った。「だれか不都合と思う人間がおりますか。本社と子会社で従業員が六百人、それだけの人間がバイオル化学の仕事で生活しているわけです。たとえトップは変わっても、一般社員の生活は保障される。最優先すべきは社員の生活でしょう。大野と富塚は、それら社員たちの生活を破壊しようとしている」
「所詮は……」
「なんです?」
「いや……」
「所詮は銀行屋の打算、ですか」
「そうは言わないが……」
「君のような一匹狼には納得しにくい理屈ですかね。ですが事実は事実、人間は混乱より、安定を求めるものですよ」
タバコを取り出しかけ、それをポケットに戻し、肩の疲れを、高梨は欠伸の真似で追い払った。筋のとおりすぎる理屈に反発を感じながら、自分も理屈の中に埋没しかかっている現実に、高梨の皮膚が、無自覚な鳥肌を浮かべてくる。
「帝都から奇妙な金が動いたのも、一般社員のためですか」
「君ねえ、そんな噂、どこで聞き込んだのかね。噂だけでビジネスが成り立つほど、この世界は甘くないんですよ」
「噂だけなら……ね」
「まさか……」
「まあ、その、就職の件は……」と、金の包みを押し返し、わざと腕時計を覗いてから、立ちあがって、高梨が言った。「考えておく、ということにしましょうか。最近雨ばかりつづいて、わたしの価値観にも黴が生えている」
「高梨、おまえ、常務の話を断る気か」と、絨毯の上をすべるように移動し、ドアとの間に立ちふさがって、津坂が言った。
「考えておくと言ったろう。俺は津坂さんのように、簡単には目の前の餌に飛びつかない」
「なんだと?」
「食いついていい餌かどうか、考えたいということさ」
「そんな口をきけた立場かよ。おまえの会社を叩きつぶすぐらい、わけはないんだぜ」
「試したらいいさ。津坂さんも棚畑さんも、かすり傷ぐらい受けるかも知れない」
「本気でおまえ……」
「やめませんか。津坂くん、君も状況を考えたまえ。今日のところはとにかく、高梨くんの顔を立てようじゃないか。突然仕事を変えろと言われても、彼にだって考える時間が必要だろう」
「おっしゃるとおり。見かけよりわたしは、慎重な性格です」
「気が済むまで考えたらいい。わたしは君の能力を買っています。それに自分で言うように、君がもし見かけより慎重な性格なら、今のトラブルからは手を引くことだ。火事場見物で火傷をするのは、愚か者のすることですよ」
「忠告は肝に銘じます。火事のほうがわたしを追わないかぎり、だれの家が焼けようと、関係ないですからね」
津坂が横に不穏な動きをしたが、無視してフロアを歩き、絨毯の深さに呆れながら、高梨はドアを開けて部屋を出た。津坂も外までは追ってこず、人気《ひとけ》のない長い廊下を、高梨は気分だけ急いでエレベータに引き返した。クーラーの効いた部屋にいたわりに、背中がへんに汗っぽく、胃の不快さも変わらなかった。理屈はどうでも、鞭を打たれ、飴をしゃぶらされ、そうやって人間は体制に従属していく。沙希子と夏実の顔が目に浮かび、自分の目に浮かんだその二人に向かって、エレベータを待ちながら、高梨は小さく肩をすくめてみせた。
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タクシーはいくらでも走っていたが、少しだけ人混みにまぎれたい気分で、虎ノ門から地下鉄に乗り、高梨は銀座線と日比谷線で六本木に出た。時間はちゃんと十時になっていて、『エンジェル』というその店まで、高梨は外苑東通りの路地を六本木通りに並行する方向に入っていった。店に矢島の顔はなく、高梨は知らない店の知らない女を相手に、二十分ほどビールで時間をつぶしていた。素人らしいホステスが四、五人いるから、スナックというよりクラブなのだろうが、そんなことを区別することに、もちろん意味はない。
女子大生だという女の子の話を、いい加減に聞いているうち、矢島があらわれ、ボックス席をつめて、高梨もビールをジントニックに切りかえた。強い酒を飲みたがっていた神経を、高梨なりに我慢していたのだ。
矢島が連れてきたのは長い脚にミニスカートをはいた若い女、パーマをかけたロングヘアに胸の開いたブラウスという、指をさしたくなるほどのボディコン娘だった。どこかで見たような顔ではあったが、『どこかで見たかな』というだけが特徴の、猫ほどにも個性のない顔だった。
「富塚の周囲をうろついてるうち、偶然ミナちゃんと知り合ってな。高梨も彼女には会ってるはずだ」と、水割りのグラスをゆっくり構え、皮肉っぽい目で高梨の顔を眺めながら、矢島が言った。
わざわざ高梨に会わせようというのだから、ミナという女も事件のどこかには関係している。そう思うとなおさら、高梨の記憶は怪しくなる。銀座のクラブに出ていた子か、銀行のキャンペンガールでもやっていた女か。
「こんな奇麗な子に会えるのは、映画かテレビの中だけのはずだが……」と、ミナの小作りな顔を興もなく観察し、口にジントニックをほうり込んで、高梨が言った。
「やだあ、新大塚で会ったじゃない。十日ぐらい前、ほら、富塚さんのお客さんで」
「新大塚で、富塚……」
「二人で難しそうな話をしてたでしょ、わたしなんかタバコ買いに行かされちゃって、ねえ」
ミニスカートの長すぎるほどの脚が、突然思い出され、頭の中で、高梨はちっと舌打ちをした。こういう派手な女と富塚が結びつかないからこそ、富塚の名前が出て、瞬間に記憶がよみがえったのだ。言われてみればたしかに、あの部屋で富塚のとなりに座っていた女ではなく、高梨をドアまで出迎えた印象のうすいほうの女だった。どこで見つけてくるのか、女に関してだけは、どうも矢島には特殊な才能がある。
「そうか、あのときの彼女か。また君に会えるとは思わなかった」
「連絡くれればよかったのに、あの日だって本当は朝までOKだったのよ。そういうことになったら、そういうことになる約束だったの」
「惜しいことをした。富塚とはどうも、最初から意思の疎通が悪かった」
矢島が喉をつめて、鼻で笑い、水割りのグラスをゆすって、足を組みながら高梨のほうに身をのり出した。
「ミナちゃんはモデルなんだけどな、千駄ヶ谷のクラブでアルバイトをやってる。店のママもモデルあがりで、女の子もみんなモデルかタレントの卵だ」
「モデルもタレントも、卵は本業よりバイトが忙しいか」
「そういうことさ。ミナちゃんには俺がプロダクションを紹介することになって、さっき仮契約を済ませてきた。もう千駄ヶ谷の店に義理はないそうだ」
そういう手回しのいいところも、昔から矢島の特技で、アルバイト先に義理がなくなればミナの口だって軽くなる。もともと義理にこだわるタイプとも思えないが、矢島の紹介したプロダクションがどこまで面倒をみるのか、ミナにどれだけの仕事ができるのか、そんなこと、高梨が心配することではない。
高梨は店の女の子にジントニックを追加させ、炭酸とアルコールの刺激を舌の先で味わいながら、また痛み出した胃をそっと手のひらで押さえ込んだ。神経と胃の関係ぐらい最初から承知しているが、しかし知ったからって、それで圧迫感が解消するわけでもない。
「なあ、君……」と、ミナの凹凸のない脚を感動もなく眺めながら、濃いめのジントニックを喉に通して、高梨が言った。「この前の夜は残念だったが、そうなったときはそうなるようにと、だれに言われた?」
「あの部屋を接待に使うときはそういう決まりなのよ。月に一、二回、そっちのバイトもまわってくるの」
「アルバイト科は店から?」
「渡してくれるのはママだけど払うのはクライアント、決まってるじゃない」
「つまりな、千駄ヶ谷の店は接待班を貸し出す、仕出し屋というわけだ」と、肩をソファの背もたれに引き、片頬を笑わせて、矢島が言った。「役人やら大使館筋への需要が多くて、企業も重宝してるらしいぜ」
「古い手を使うもんだ」
「待合や料亭だって理屈は同じさ。手段は古くても効果は変わらない、役人と商人の腐れ縁は日本の伝統文化だ」
なにを考えているのか、矢島の台詞に真面目な顔でうなずいたミナに、半分呆れながら、高梨が訊いた。
「富塚はいつから接待班を利用している?」
「知らないけど、もうずっと前らしいわよ。最初は後藤さんの紹介だって。後藤さんて、ほら、政治家先生の秘書をやってる人。富塚さんも去年ぐらいまでは羽振りがよくてさ、女の子にもチップを弾んでたのよね。それでサワ子ちゃんを気に入って……サワ子ちゃんて、あのときのもう一人の子。でね、サワ子ちゃんにお店を持たせるなんて言って、サワ子ちゃんも歳だしさあ、彼女あれでもう二十七なのよ。モデルとしたら限界だし、それで富塚さんの世話になったのよね。それで……」
「大野勝彦も店に出入りしてるか」
「大野勝彦って?」
「そういう名前のやつがいるんだ」
「へええ、そうだった? ぜんぜん知らない。ねえ、それでね、いつだったかな、高梨さんと会った少しあと、サワ子ちゃんは富塚さんと別れたのよ。富塚さん、まるでお金がないんだって」
「大野勝彦のことは、本当に知らないのか」
「知らないなあ。あ、富塚さんが勤めてる会社の社長さんだっけ」
このミナちゃんという女に、とぼける必要も能力もないとすれば、接待班の利用は富塚の個人的趣味ということになる。勝彦も勝彦、富塚も富塚、それでも日本の経済は、そんな裏技で仕事が回っている。
「ねえ、まったくねえ、富塚さんてさ、サワ子ちゃんにお店を持たせるどころか、もうマンション代も払えないんだって」
「俺も富塚の金まわりは、裏金融の知り合いに当たってみた」と、面白くもなさそうに背広の糸くずをつまみ、それを灰皿に落として、矢島が言った。「一時は株であぶく銭をつかんだが、明光社グループや大阪パルプの仕手戦にのって、四、五千万の借金を砲えたらしい。気の良さそうな親爺なのに、人は見かけによらんもんだ」
「気の良さそうな親爺がもっと大技を使ったらしい」
「大技……」
「使い込みだ」
「会社の金を?」
「ちょっと二千万ばかりな。裏献金用の資金で、バイオル化学としても騒げないという」
「しかし、そいつは……」
矢島が眉間に皺をつくって、ネクタイの結び目に手をやり、鼻を曲げながら、遠くから高梨の顔に目を細めた。
「いくら騒げない金でも、放っとく会社がどこにあるよ」
「約一社、赤坂に」
「バイオル化学の役員はみんな仏様か」
「棚畑サイドは突きあげてるさ、勝彦が一人で頑張る構図だろう」
「分からんなあ、いくら昔からのお守り役でも、そこまで庇うかよ。自分で自分の首を絞めるようなもんだぜ。それとも勝彦のバカ、死期を悟って自棄をおこしたか……」
となりの女が、高梨に新しいグラスを渡し、くわえたタバコにも、目立たない仕草で火を差しだした。マニキュアのない女の子の指が意外に清潔で、火を受けながら、つい高梨はその指を見つめてしまった。
「で、ミカちゃん……」と、向かいの女に視線を移し、煙を短く吹いて、高梨が言った。「十日前のことは、富塚個人の接待か」
「やだあ、わたしの名前、ミナなんだけどなあ」
「ああ、そう、それで……」
「だってね、あの日は臨時のバイトだったのよ。富塚さんが直接店に来て、ママに言ったらしいの。店の女の子がみんなあっちのバイトやるわけじゃないし、わたしもサワ子ちゃんに頼まれて、仕方なく引き受けたの」
こういう顔のこういう喋り方の女が、戦略的に偽情報を流すとしたら、とてもではないが高梨に真偽は見抜けない。あの日の高梨への接触は、やはり富塚の個人プレーなのか。高梨を道化に仕立てて棚畑サイドにゆさぶりをかける、それだけのことという理屈も成り立つが、それだけのことにしてはやはり、金も手間もかけすぎている。富塚が高梨に渡した百万のタクシー代は、だれのポケットから出たものなのか。
「ねえ、高梨さんてさあ、血液型、A型でしょ」と、足をわざとらしく組みかえ、視線を気だるく横に流しながら、ミナが言った。
「AB型には間違われない」
「慎重で気配りがあって、典型的なA型だもんね」
「A型だといえば四割は当たるさ」
「そうでもないのよ、千駄ヶ谷の店なんかAB型が三人もいるの。わたしの友達なんかB型ばっかり。ねえ、わたし、なに型だと思う」
「ちょっと見はB型だけと、意外にA型かな」
「当たっちゃった。A型の人ってさ、自分と同じタイプは勘で分かるんだって。わたしも人には派手に見られるけど、本当は慎重で、気が小さくて淋しがりやさんなのよね」
ジンのアルコールがやっと血管を巡りだし、鬱屈の虫を慰め、高梨の気分を逃避的な方向に追いはじめる。目の前のミナの脚も気楽に性欲をかきたて、女子大生の指は赤面するほど品がいい。矢島の馴染みにしては店の雰囲気も落ち着いているし、バーテンも若いくせに、ジンとトニックの割合を心得ている。面倒な理屈を言わずにこのまま酒を飲んだら、沙希子か夏実か神様か、だれか高梨に罰《ばち》を当てるだろうか。
「なあ高梨、今日仕入れた情報では、勝彦もいよいよアウトらしいぞ」
「うん……」
「知ってるのか」
「時間の問題ではあるだろうな」
「子飼いの役員もなん人か棚畑の側にまわったらしい、沈む船からはネズミだって逃げ出すというからな。それにもっと面白いのは、大手のフェミナ化粧品が、バイオルの吸収に動いてるという話だ」
「フェミナ……か」
「バイオル化学も経営にがた[#「がた」に傍点]はきちゃいるが、商品の知名度には利用価値がある。狙ってる大手は他にもあるだろうがなあ」
フェミナ化粧品といえば業界の最大手、従業員数も資本金もバイオル化学の十倍に近いはずで、年間売上だって五千億は超えている。そんなフェミナも単品の化粧クリームだけはバイオルに届かず、憲作の時代から吸収合併の話は、なん度かくすぶっていた。
「そういう噂も、昔からなん度かは、あったが……」と、タバコの煙をグラスの中に吹き、女の子の指の美しさに気分をまぎらわせて、高梨が言った。「なにか、タイミングがよすぎるな」
「しかし今回は案外、本物かも知れんぜ。いいタイミングをフェミナの側が演出したとも考えられる」
「フェミナがタイミングを、な」
「帝都がバイオルの主導権を握ったところで、なあ、どうせ五パーセント以上の株は買い占められない。それならいっそのこと……」
「業績の悪い子会社のおまけつきで?」
「や、まあ、フェミナも、おまけは要らんだろうが」
「タイミングはいいとも、悪いとも考えられる」
「だけど帝都は三洋銀行とも接近してるという噂だぜ、三洋銀行はフェミナのメインバンクだ……もちろん、その噂と今回の事件に関係があるのか、俺にも見当はつかんけどな」
矢島がタバコの煙を天井に吐いて、足を組みかえ、水割りのグラスを透かすように、上目づかいで高梨の顔をうかがった。
「ところで、なあ高梨、今やってる仕事のチーム、上出来だと思わないか」
「うん……」
「俺の人脈だって馬鹿にできないだろう」
「そう思うから仕事を頼んだ」
「だからよ、今回だけじゃなく、一つの組織にしてみちゃどうだよ。でかい仕事もこなせる気がするぜ」
「考え方としては、面白いかな」
「そうだろう。表向きは政財界相手にインサイド情報誌を出しておいて、仕事によっちゃ情報だけの売り買いもする」
「懲りない男だ」
「今までは自分が中心で失敗した。スポンサーは集まるんだが、俺にはどうも、地道な折衝能力ってやつが足りないらしい。お前さんと組めば経営者連中への信用も高まる、うまくいけば大当たりするかも知れんぜ」
「気力が、な」
「ないとは言わせない」
「今はあっても、つづくかどうかな」
「つづくに決まってるさ。なあ、本気で考えてみろよ。俺たちもそろそろ、一発でかい花火を打ちあげようじゃないか」
花火のイメージに釣られたわけでもないだろうに、そういえば今朝、葉子ママから帝都の内部文書を受け取っていたことを、やっと高梨は思い出した。池上葉子の思惑も想像できるし、使い方によっては、それこそこれは『でかい花火』になる。
高梨はグラスをあおるついでに、ポケットからコピーの用紙を取り出し、それを矢島の顔を見ながら、軽く突き出した。
「ねえ、高梨さんてさ、もしかして蟹座じゃなあい」
「うん?」
「星座の話よ。喋り方を聞いてると、蟹座の気がするけどなあ」
「蟹座は内気で慎重で、淋しがりやさんだからか」
「わたしは雄羊座だけど、雄羊座と蟹座って相性がいいのよ。高梨さんの喋り方ってうちの父に似てるの。それでね、うちのお父さんて蟹座なのよ」
「君、モデルより占い師になったほうがいいな」
「おい、高梨、こいつは……」と、ソファに座り直し、目の中心を鈍く照明に光らせて、矢島が言った。「こいつはまた、奇妙なものを手に入れたなあ。場合によっちゃ帝都の上のほうが、なん人か首を切られるぜ」
コピーに書かれている内容については、矢島のほうが本職で、それが大野通商に対する無担保融資に近いことは、高梨が説明するまでもない。そして当然、高梨たちに公表を控える義務のないことも、矢島のほうが知り抜いている。
「高梨、お前さんもついに、頭取秘書をレイプしたか」
「そんなところだ」
「こいつはでかいぜ。一千万や二千万では済まないかも知れん」
「大野通商あたりが十億もの金を、なんに使ったのかな」
「そりゃあ、なあ、勝彦の不動産漁りだろうよ」
「可能性はあるが……」
「あいつはバブル景気が終わったことに、まだ気がついてないんだぜ。このざま[#「ざま」に傍点]じゃ役員だって寝返りたくなる」
「勝彦が使ったとは限らない、なにしろ棚畑の個人保証だ。あの男が勝手に動かしたとも考えられる」
「しかし棚畑みたいに堅い男が、そういう個人プレーをやるもんかな」
「富塚だって使い込みをする時代だ」
「それはまあ、そうだが」
「いやな世の中だな」
「そのお陰で俺たちにも仕事がまわってくる。どっちにしてもいよいよ、話が面白くなってきたじゃないか」
「俺はどうも、なんとなく、気がのらない」
「それはないだろうよ、この話はもともと高梨がもってきた仕事だぜ。たった今チームを組むと言ったろう」
「言ったかな」
「言ったろうよ、でかい花火を、ドカンと打ちあげると」
「高梨さんってば、ねえ、当たってるでしょう」
「うん?」
「今の話」
「なんの話だっけ」
「星座の話よ、高梨さんは蟹座じゃないかって。わたし子供のときから、霊感みたいなものが強いのよね。新大塚で会ったときだって、あ、高梨さんとはもう一度会うなって、そういう予感がしたもの」
顔も覚えていなくて、ミナの血液型にも星座にも興味はないのだから、高梨のほうは霊感なんか感じていない。同時に感じなければ霊感もただの神経衰弱であるところが、男と女の、難しい部分だ。
「なあ、こういうのを縁というんだぜ。俺たちがミナちゃんと知り合ったのも、仕事でチームを組んだのもみんな縁だ」
「懲りないやつ」
「とにかく任せておけって。ここまで尻尾をつかんだら、少なくとも帝都は逃がさない。俺も久しぶりに大穴が当たる予感がする」
いつの間にか空になっていたグラスを、となりの女が新しい酒につくりかえ、強張《こわば》っていた背中をのばしながら、高梨は一つため息をついた。
「高梨、どうしたんだよ」
「なにが」
「今日はばかに元気がないぜ」
「矢島の顔を見てると、つい憂鬱になる」
「どういう意味だよ」
「この世に疲れない男もいるのかと思うと、人生が空しくなるんだろうな」
ミナの脚は作り物のように長く、女子大生の指は毛穴が見えないほど美しい。それらの事実を客観的に観察し、その客観的事実が自分の人生とは無縁であることに、なぜか高梨は、それほどの苛立ちは感じなかった。
「陰気な顔するなよ。これで天気でもよくなれば、俺たちのチームに敵はない」
「なにかが……」
「なんだよ」
「なにかが……な」
「だからなんだよ」
「いや、ちょっと、疲れただけだろう」
「なんせこれだけの材料だ、目をつぶっててもいい仕事ができるぜ。高級マンションの一つや二つ、帝都からどーんと吐き出させようじゃないか……なあ、高梨先生よ」
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頬に当たっているシーツの肌触りが、今までに経験のない感触であることを、高梨はしばらく前から意識していた。胃の不快さも酒のせいであることは分かっていて、それでもベッドにうつ伏せになっている状況が、どうにも理解できない。部屋には人の気配があり、空気の匂いから女であることも分かっている。遠くないところからはクルマの走行音、たまに建築工事でもやっているような、金属的なひびきも伝わってくる。胃は洗濯したいほど不愉快で、頭は殺してやりたいほど痛く、しかしこれが誰のベッドなのか、なかなか記憶は戻ってこなかった。
目を開けたのと同時に、空気が動いて、白いポロシャツの女が目を細めて高梨の顔をのぞき込んだ。記憶が回転しはじめ、その顔が六本木のクラブにいた女の子だと分かったとき、ほんの少しだけ、高梨は救われた気分だった。まったく知らない女だったら酒をやめなくてはならないし、相手がミナだったら、自分の美意識が信じられなくなる。タオルケットの下でパンツをはいていない状況を考えると、美意識だけにはまだ、健全な部分が残っているらしい。
「お早うございます、目、さめました?」
「目だけはな。頭はまだ、さめてない」
「近くでビルの工事をやってるから、うるさいでしょう」
「自分の頭のほうがずっとうるさい。耳の奥で、蝉が百匹も鳴いている」
「飲みましたからね、ボトルにしたら一本ちかく飲んだと思いますよ」
「反省はするんだが、夜になると、次の日にまた反省すればいいと思ってしまう」
部屋はワンルームマンションのようで、しかし息苦しいほど狭いわけではなく、無地のカーテンとベージュ色のカーペットが四角い空間を清潔に包んでいる。クーラーも効いていて、シーツの肌触りと化粧品の匂いが高梨に自己嫌悪を押しつける。酒の量にも反省の必要はあるが、自分がパンツをはいていないこの状況は、ただ反省するだけでは、済まないかも知れない。
「コーヒーかウーロン茶か、飲みます?」
「水を、できたら……」
「ミネラル、買ってないですよ」
「水道の水でじゅうぶんだ、なければ下水の水でもいい」
唇だけで笑って、女の子が躰を起こし、ジーパンの腰高な足で流しからコップを運んできた。頭をあげると頭痛は完璧に本物で、よくここまでの深酒をしたものだと、高梨は自分の宿命に苦い笑いを感じてしまう。そういえば昨夜、十二時すぎまで六本木にいてから、矢島とミナとこの女の子と、西麻布の焼肉屋にくり出したのだ。そこでも韓国焼酎を飲んで、それからまたミナの馴染みとかいうカラオケバーに転戦した。三時か四時にはタクシーに乗った気もするが、以降の記憶は驚くほど穴をあけている。ふだんならそれでも、目をさましたときにはちゃんと事務所のソファに転がっていて、だいたいは祥子の笑った顔で起こされる。今日だけ手順が狂っているのは、この女の子が特別だったのか、高梨の心理状態が特別だったのか、それとも人生が、ただ狂っただけなのか。
「シャツと下着、洗っておきました。もう乾いてます。わたし、学校に行きますから、鍵は郵便受けに入れてください」
「君、学生だったっけ。今なん時だろう」
「もうすぐ十二時です。ここを出て右に行くと早稲田通りに出ます。そこから高田馬場駅まで、歩いて十五分です」
「その、昨夜のことだけどな……」と、タオルケットの位置を意識し、水を半分ほど飲んでから、高梨が言った。「タクシーに乗ったことは覚えてる。それから先が、ちょっとな」
「タクシーに乗ってから、高梨さん、どうしてもシャワーを浴びたいって」
「ああ、そう」
「どうしてもシャワーを浴びたい、事務所にシャワーをつけなかったのは人生における最大の失敗だって」
「うん……」
「躰が腐ってしまう、シャワーを浴びないと心も人生も腐ってしまう……ずっとそう言ってました」
「自分で思ってるより、酒癖が悪いらしい」
「そうでもないですよ、酔っぱらいのおじさんにしては、おとなしいほうでした」
「君に……」
「あ、それ、大丈夫です」
「それは、大丈夫だったか」
「一人でシャワーを浴びて、一人で寝てしまいました」
女の子が少し歯を見せて、呆れたように笑い、立ちあがりながら、テーブルの上にキーホルダーのない鍵と白いメモ用紙をすべらせた。指は長くて素直で清潔で、昨夜『大丈夫だった』ことに対して、安堵と後悔のどちらを感じているのか、一瞬高梨は絶句した。
「わたし、夕方までは帰れませんけど、ゆっくり寝てていいですよ」と、青いバッグとブックバンドでとめた本を取りあげ、高梨のほうに首をかしげて、女の子が言った。「洗濯機の上にタオルと歯ブラシが出してあります。服はぜんぶテーブルの下です。冷蔵庫にウーロン茶が入ってます。それから……」
ドアを開け、躰を外に出してから、女の子が肩と首だけを、爪先立ちでベッドのほうにふり向けた。
「わたし、血液型はB型で星座は蠍座です。蟹座と雄羊座の相性がいいっていうの、あれ、嘘だと思いますよ」
ドアが呆気なく閉まって、クルマの音が小さくなり、高梨はコップを持ったまま、ベッドの下に力一杯|崩折《くずお》れた。嬉しくて惨めで死にたいほどの頭痛で、それでも意識は冷静に人生を見つめている。自分が善人でないことぐらい、他人に指摘されなくても、ちゃんと思い出せるのだ。
高梨はそのままの形で五分ほどカーペットに頭を押しつけ、それから気力をだまして、なんとか冷蔵庫の前まで転がっていった。四十も過ぎた男がすっ裸で女の子の部屋を転がる光景は、たとえ映画であっても、沙希子や夏実には見せられない。
冷蔵庫からウーロン茶のペットボトルを取り出し、コップに移して、時間をかけて飲んでいるうち、高梨の頭も今の時間が昨日のつづきであることを、どうにか自覚しはじめた。高梨は膝立ちになって深呼吸をし、頭の芯に振動を感じながら、思い切って腰をあげてみた。これぐらいの二日酔いは以前にいくらでも経験があって、恢復能力が落ちたとはいえ、いつかは躰が解決してくれる。自分を甘やかしたら、自分を律する人間は、この世に一人もいなくなる。
高梨は部屋の中を慎重に歩いて、バスルームのドアを開け、洗い場におりてシャワーの下にひざまずいた。ゆるんだ躰と寝ぼけた神経には水でじゅうぶんで、背中に寒気が走ってくるまでひたすら水をかぶりつづけた。知らない部屋の知らないバスルームに罪悪感は感じても、思考回路だけは徐々に、確実に正気を取り戻してくる。
頭の芯が完全に冷えて、嘔吐感もうすらぎ、それでも歯ブラシは使う気にはならず、高梨は腰にバスタオルを巻いて部屋に戻ってきた。テーブルの下には衣類がていねいに畳まれていて、それを引き出し、上着のポケットにタバコを探してみた。タバコはつぶれたパッケージの中に、二本だけ残っていた。その一本に火をつけ、洗濯されているパンツと靴下とカッターシャツに、高梨はなんとなく頭をさげた。薄物とはいえこれを乾かすには、乾燥機にでもかけたのだろう。
高梨はタバコを一本吸ってから、冷え切った躰に服を着させ、時間を気にしながら部屋の片づけを開始した。コップを洗って水切りに出し、ベッドをととのえ、タオルを洗濯機に放り込む。灰皿とタバコの吸い殻を始末し、窓の鍵を調べ、それから最後に、クーラーのスイッチを切った。テーブルにはドアの鍵と小さいメモ用紙がかさねてあって、メモには『浅野やよい』という女の子の名前と、部屋の電話番号が書かれていた。
高梨はメモ用紙をズボンのポケットに入れ、上着をつかんでもう一度部屋を点検し、ドアを外に出て使った鍵を郵便受けに放り込んだ。頭痛は相変わらずで、吐き気もおさまらず、空気も濁って天気も怪しかった。それでも気分がどこか浮き立ってくるのは、だれにも自慢できない、男の性《さが》というやつか。
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マンションのある路地から早稲田通りに出ると、クルマの流れの中に『高田馬場駅行き』のバスがあって、高梨が立っているのはどうやら、早稲田通りと明治通りの交差点近くらしかった。街の雰囲気は神田に似ており、道の両側に古本屋が点在し、学生街の雑踏が車道や歩道に飽きもせず広がっていた。梅雨の雲はいつでも雨をふらせる意気込みで、しかし時間は一時前だから、茅ヶ崎ぐらい夕方までには往復できる。自分がずるずると無害な中年男になることに、高梨にはまだ、躊躇《ためらい》があった。
高田馬場方向に歩き出し、タバコの自動販売機を探しはじめたとき、目の端を古書店がかすめて、突然高梨は矢島からの情報を思い出した。横沢豊成のインタビュー記事がのっているという、財界の御用雑誌のことだ。チョウチン記事を専門にしている財界誌はタレントの写真集ほどもあるが、主だったところは『政経文化』『財界公論』『経済世界』の三誌だろう。横沢が逮捕される直前ということは、去年の五月か六月に出た雑誌のはずで、これだけの古書店街ならどこかに一冊ぐらいは残っている。案の定高梨は、大した苦労もせず、三軒めの店でその雑誌を発見した。横沢のインタビューがのっていたのは『財界公論』の五月号だった。定価は二千五百円、古本屋での売値は百五十円だった。
高梨はその雑誌を上着と一緒にかかえ、高田馬場駅まで歩き、途中スピード印刷の名刺屋で『長倉芳樹』名の名刺を調達した。高田馬場からはJRで新宿に向かい、あとは中央線経由で東海道本線という、昨日と同じコースだった。
東海道本線のボックス席に腰を落ちつけ、雑誌を開くと、インタビュー記事は巻末の特集で、タイトルは『高校教師から転身、異色の実業家』というものだった。内容のほとんどは泡風呂の健康に対する効用と、将来の事業展望。横沢が目指すのは高齢化社会を視野に入れた総合健康産業なのだという。本人の写真も大きくのっていて、ソフトウェーブさせた長めの髪に黒縁眼鏡をかけ、マルチ屋には珍しいインテリ臭のある風貌だった。生まれは昭和十八年、山形大学の教育学部を卒業後、地元の高校でしばらく歴史の教師をしていた。『地元』というのが具体的にはどこで、『しばらく』というのがなん年間なのか、記事では意識的にぼかしている感じだった。上京して知人の通販業に入り『東横工業』として独立したのは十年前、途中どこかで離婚も経験している。現在服役中という経歴まで合わせて、五十年の人生としてはかなりドラマチックなものだ。しかしなぜ横沢が高校教師をやめたのか、なぜ離婚したのか、上京の経緯はどんなものだったのか、記事からはなにも読み取れなかった。その過程が長倉圭子の変遷と重なるとしたら、圭子の転校や香澄の出産と交錯するとしたら、このパズルは、少しばかり、うまく嵌まりすぎる。
雑誌にはほかにも、経済学者の景気予測や会社紹介の記事が氾濫していたが、高梨はインタビューのページだけを切り離して上着のポケットにしまい込んだ。面倒な詮索はご免で、他人の秘密に介入する体力もなく、しかし事件の結論を見極めたいという意地だけが、茫然と高梨を茅ヶ崎まで運んでいく。
茅ヶ崎の駅につき、タクシーで向かったのは、昨日長倉圭子が診察室に消えた『開明大学付属茅ヶ崎病院』だった。圭子の人生に直面する覚悟はできたものの、香澄と言葉を交わすときの仕種やうしろ姿に、なにか釈然としない不満が残っていた。風邪か食中毒だったら、それでも構わない。しかしわだかまりを抱えたまま圭子の家を訪ねる気には、どうしてもならなかった。
受付の事務員に高田馬場で作った名刺を渡し、『妹の病状について担当の医師にお目にかかりたい』と申し込んで、高梨が待合室のベンチに座っていたのは、それから三十分だった。鶴岡の住所も電話番号もでたらめ、調べられたらそれで終わりだが、そのときはそのときで、また別の方法を考えればいい。こういう状況では身元の詮索を受けないというのが、経験と勘からの確信ではあった。
アナウンスが『長倉芳樹』を呼び出し、怠《だる》い躰を意識的に緊張させ、東廊下から第三内科のドアに高梨は長倉芳樹として歩いていった。診察室は衝立で仕切られた横長の矩形で、二、三人の看護婦が暇そうに歩きまわり、スチールデスクの前には糊の抜けた白衣を着た男が憂鬱な顔で座っていた。デスクの上には受付で渡した名刺が置かれているから、それが圭子の担当医師なのだろう。診察室まで呼び入れたのは、名刺の内容を信じたからで、疑っているならとっくに警備員が駆けつけている。
時間をかけても意味はなく、挨拶をし、すすめられた椅子に座ってから、つくりものの実直さで高梨が話を切り出した。
「これから鶴岡に帰るのですが、妹の様子が気になります。本人は詳しいことを言いません。先生にぜひ、お話をうかがいたい」
医者が律儀な目つきで名刺と高梨の顔を見くらべ、うなずいたつもりなのか、顎の筋を神経質に引きつらせた。家庭の事情までは知らなくても、圭子の出身が鶴岡であることは心得ている顔だった。
「本人はただの過労だと言い張ります。しかしわたしには、それだけとは思えないのです」
「患者さんの秘密を医者が申しあげるわけには、いかないのですがねえ」
「承知はしております、ですがわたしも母親も住所は山形県の鶴岡です。いざというとき、簡単には駆けつけられません。若いころから苦労した妹です。そのぶん気も強いのですが、離れていると心配になりましてね。もし本人が言うより難しい病気で、わたしに出来ることがあればと、無理を承知でうかがうわけです」
「下の妹さんから聞いていませんかね。彼女は診察にも付き添ってきますから、すべてをご存知のはずですが」
「それが、少し、事情がありまして……」
話がここまで来れば、圭子の病気が風邪や腹痛でないことは、もう明白だった。逆にこのまま引き下がるかどうかは、判断がむずかしい。素姓を疑われるのも面倒だし、病気の種類を見極めることに意味があるのか、そのことにも確信はない。
「身内の恥で恐縮ですが、先生は下の妹が圭子の子供であることを、ご存知でしょうか」
「そう、いや……うすうすは、まあ、気づいておりましたが」
「戸籍の上では妹ということにしてあります。ですが香澄は、圭子が高校生のときに産んだ子供です。そういうこともあって、二人とも鶴岡の実家には迷惑をかけまいとしています。わたしとしては、それも不憫ですし、なおさら妹の力になりたいと思っています」
医者が長く息を吐いたのは、欠伸をするためではなく、圭子や香澄の身の上に感動したための、嘆息のようだった。
「そうですな、わたしも妹さんの事情を知らないわけではない。身内の方ならお話ししたほうが、いいかも知れませんな」
医者の口元がゆっくりと引きしまり、肘掛けつきの回転椅子が軋んで、殺風景な診察室に一瞬いやな沈黙が広がった。高梨は意味もなく逃げ出したい衝動に襲われ、自分が意気地のない人間であったことを、突然認識した。詐欺師やヤクザ者との葛藤には免疫があっても、個人の繊細な不幸には、柄にもなく怖じけづく。
「妹さんの病名はアイゼンメンゲル症候群というものです、ご存知でしょうかな」
「アイゼン……」
「先天性の心疾患でして、心房中隔欠損症ともいわれます。妹さんのケースは、右心房圧の上昇がみられる、いわゆる右左短絡血流症ということです」
「つまり……」
「かなり難しい心疾患で、日常生活での無理は避けなくてはなりません」
死んだ大野憲作が慢性の心筋症だったこともあって、心疾患に関しては、高梨にもいくらか知識はある。しかしアイゼンメンゲル症候群などという病名は、まるで初耳だった。狭心症や心筋梗塞ならともかく、心房中隔欠損症とかいう病気には、なにもイメージが湧いてこなかった。
「見た目には、その、重症のようには、思えないのですが」
「それがこの病気の難しいところです。発病時には軽症のように見えても、症状は確実に進行します。妹さんのケースは手術もむずかしく、強心剤のジギタリスなどで対症療法をほどこすしか、今のところ方法はありません」
「ジギタリス、ですか」
「名前だけはご存知でしょう」
「はあ……それで、恢復の可能性は」
「肺感染症や感染性心内膜炎など、合併症も心配されます」
「つまり……」
「完全治療は、困難ということですな」
「しかし、くどいようですが、わたしの見た目には……」
「意志力の強い方なんですな、これまでよく我慢してきたものですよ。ずいぶん前から、自覚症状はあったはずですがね」
まさか、その病気が移ったわけでもないだろうに、躰の力がだらしなく抜けて、高梨自身、近くのベッドにでも崩れ落ちたい気分だった。先天的な心疾患ということは、要するにそれは、長倉圭子の宿命ということではないか。三十八歳の若さで、ただ萎縮していくだけの生命を、圭子はこれからどういう意志力で見つめつづけるのか。
「この病気は、病気そのものよりも患者さんの気持ちが問題でしてね。その意味でご家族の協力が必要になります、そう判断してわたしも今お話ししたわけですよ」
医者の言葉が二日酔いと一緒に頭痛の振幅を大きくし、消毒液となにかの薬品の臭気が、高梨の胃に無慈悲な鈍痛を走らせる。神経がなぜここまで圭子の病気に同調するのか、理由は、もちろん明白だった。
口を閉じてしまった医者に、高梨は礼と別れの挨拶をし、躰に力の入らないまま、診察室を出た。二日酔いの治療でもしてもらいたかったが、高梨の胃と神経を攻め立てているのは、アルコールの毒素ではない。今のジレンマからどうやって抜け出すか、考えて答えの出る問題なら、いくらだって考えてやる。医者が言った「ずいぶん前から自覚症状があったはず」というのは、いったいいつのことなのか。十年前はすでに発症していて、強心剤のジギタリスを服用していたのか。憲作の持病であった肥大型閉塞性心筋症に、ジギタリスはたしか、逆作用をおよぼすのではなかったか。
タクシーを圭子の家の前でおりたときには、雨がふりだしていて、住宅街の舗装路は黒く色を変え、雨の匂いと雑草の匂いが一面に濃く流れはじめていた。木戸ふうの門からは化粧ブロックの塀がつづき、木の門柱には『佐藤』という地味な表札が掛かっていた。目立たない場所に通話用のインタホンがあり、特別に人目を避けた風情でもなく、それでも通りからは建物の屋根しか覗けない構造だった。隠れるなら都会の雑踏の中、という常識もあるが、それは圭子の体調が許さないのだろう。
高梨は感情に蓋をして、インタホンのブザーを押し、応答があるまでの十秒間を、粒の小さい雨にひたすら肩をぬらしていた。居留守を使われたら仕方ないし、門前払いを食わされてもそれまで。しかし自分のためにも圭子のためにも、この鬱屈はふり払う必要がある。
女の声がし、高梨が名前を言って、それから門の内側に人の気配がするまで、今度は三十秒ほどの時間を待たされた。内側から門の鍵を外したのは、家政婦でも香澄でもなく、本人の長倉圭子だった。圭子が五メートルほどの敷石を玄関の向こうに引きかえし、高梨も門を閉めて、雨の中を敷石づたいに歩いていった。気まずい瞬間を短い時間で済ませてくれた雨に、内心高梨は感謝した。
「雨、よくふるわね、散歩にも出られないわ」
高梨は声を出すことを忘れていて、廊下にあがった圭子のほうが、切れ長の目で率直に高梨の目をのぞいてきた。
「この季節に傘を持たずに出歩くの、高梨さんらしいじゃない」
「昨夜傘のない場所で寝てしまった……それにしても、久しぶりだ」
高梨が十年ぶりだから、相手も十年ぶりであることに変わりはない。そのわりに圭子の表情も口調も、高梨が来ることを承知していたような、不思議なほど落ち着いたものだった。
「近くを通りがかって、昔話でもする気になったの?」と、身ぶりで高梨をうながし、上がり口にスリッパを揃えながら、首をかしげて、圭子が言った。「いつかは来ると思っていた。待ちくたびれて、わたし、退屈してしまったわ」
返事の仕様もなく、とにかく高梨は靴を脱ぎ、圭子のあとについて玄関から居間に入っていった。廊下の奥にはほかの部屋もあったが、人の気配はなく、玄関に香澄の赤いパンプスも見当たらなかった。躰の動きも昨日ほど不自然ではないから、当分は一人暮らしも可能なのだろう。
通された和室は、植木の少ない殺風景な庭に面していて、開け放った引き戸の向こうには縁側と雨と雑草と、ひょろ長い泰山木が恥じらうように息をひそめていた。クーラーや扇風機がないのは体調との関係か、洋風の食器棚にスタンドピアノという調度も、この家の性格からは仕方ないことだった。
圭子がバスタオルを持ってきて、高梨に手渡し、高梨はそのタオルを使いながら、上着を脱いで座布団に腰を落ちつけた。和室に洋風の調度は不似合いでも、部屋そのものは整理されていて、この清潔感と整理の几帳面さは高梨の知らない長倉圭子だった。昔の挑戦的な表情も残っているのは唇の形だけ、低くて冷静な声も淡白な視線も、やはり高梨の知らない圭子だった。印象がここまで変わったのは、高梨が圭子の過去を理解しはじめたから、というだけの理由ではなさそうだった。
圭子がテーブルにカップやティーポットを並べはじめ、ガラスの小鉢を差し出しながら、今まで我慢していたように、くすっと肩を笑わせた。
「どうしたのよ、わたしが落ちぶれていて、びっくりした?」
「堅気の主婦も似合うのかと、認識をあらためていた」
「このクッキー、自分で焼いたの。暇を持て余すのもいいことだわね」
「俺の女房は化粧水や石鹸までつくる、暇だからという理由ではないらしいが」
さっきまであれほど不愉快だった胃が、いくらか機嫌をなおし、高梨は注がれたジャスミンティーの香りを深く胸の内に吸い込んだ。小粒のクッキーは表面に砂糖の照りが浮かんでいて、沙希子のつくる無農薬野菜クッキーと、大した違いはなさそうだった。
「君に会いたくて、ずっと探していた」と、タオルをテーブルの脇に置き、ジャスミンティーのカップを引き寄せて、高梨が言った。
「その言葉、どういう意味に聞いたらいいのかしら」
「素直に受け取ってくれ、俺は君に金を貸してるわけじゃない」
「そうよね、忘れていたわ。貸してるのはわたしのほうだった」
「うん?」
「最後のお食事、お勘定はわたしが払ったこと、覚えていないのね」
圭子がテーブルに肘をかけて、膝をくずし、ブラウスの白い襟を合わせながら、少し唇を笑わせた。
「高梨さんが鶴岡へ行ったことは、母から聞いたわ」
「そうだろうな」
「予感はしていた、でも本当に見つかるとは思わなかった」
「連絡をくれればよかった、食事の利子ぐらいは払ったのに」
「わざと残しておいたのよ、預金通帳が空っぽでは心細いから」
「埋め合わせはできる気がする」
「そのうちたっぷりね。高梨さん、今から覚悟しておいて」
カップの握りに指をかけたまま、圭子が口をすぼめ、うす化粧の平らな頬に、浅い笑窪《えくぼ》をきざませた。
「高梨さんの気持ちも、知らなくはなかった」と、まつ毛を困ったようにふるわせ、視線を外の雨に移して、圭子が言った。「苦労せずに男から金を巻きあげる女、そのお金で銀座に店まで出した女……ねえ?」
「どうせアブク銭だ、俺にも世間にも関係はない」
「いいのよ、あなたは気持ちが顔に出るタイプだから」
「そんなに俺、芸がないか」
「奥様にも言われるでしょう」
「女房の勘だけ、特別だと思ってたが」
「正直な男ねえ。そこまで善人で、よく業界誌なんかやってられるわ」
「その……タバコ、吸ってもいいか」
圭子が細い顎でうなずき、食器棚から銀色の灰皿を取り出して、黙ってティーカップの横に差し出した。圭子にタバコを吸う習慣があったのか、覚えてはいないが、灰皿に使用のあとは見られなかった。
「東京で、トラブルがあって……」と、タバコに火をつけてから、煙を圭子の顔に届かない角度に吹いて、高梨が言った。「君の意見を聞きたかった」
圭子の口元がゆるんで、うすく口紅を塗った唇から、粒のそろった前歯がかすかにこぼれ出た。
「高梨さん、わたしね、体調をくずしているの。面倒な話はもち込まないでね」
「銀座の店は……」
「いいときに閉めたでしょう?」
「まあ、そうだな」
「噂の内容には見当がつく、でもなにを言われても構わないの」
「やっぱり……」
「疲れただけのことよ。バブルに乗ったり飲み込まれたり、そういう毎日にも飽きたの。あなたの言うとおり、銀座で動くお金なんてみんなアブク銭。昔はお金に貴賤はないと思ってたけど、最近ね、なにか違う気がする」
「金に貴賤が、か」
「あなたも耳が痛いでしょう」
「君に言われると、余計にな」
「お金にはみんな経歴が書いてあるの。どういう経緯でその人に渡り、どういう理由で手を離れていったか、それぞれの人生がみんなお金に書き込まれているのよね」
圭子が肩の向きをかえて、高梨の背中から庭の雨をのぞきあげ、額に皺を寄せて小さくため息をついた。庭の隅には紫陽花が濃く花を咲かせていて、紫もそこまで深くなれば、そろそろ季節も終わりだろう。
「バイオル化学とか、東横工業とか、そのあたりの話でしょう」と、壁に背中をもたれさせ、雨に視線をやったまま、圭子が言った。
「俺も本当は、どうでもいいんだ」
「それなら、なぜ?」
「言ったら笑われる」
「奥様と別れてわたしに結婚を申し込むとか?」
「近いかな。ここ十日ほど、女房のことより君のことを考える時間のほうが多かった」
「大人になったのねえ、高梨さん、何歳《いくつ》だっけ」
「四十二」
「四十二……か。そうか、あれから十年か。わたしが疲れても不思議はなかったわね」
「それでも、来たからには……」と、タバコを灰皿につぶし、紅茶のカップを手のひらにのせて、高梨が言った。「一応は聞いて帰りたい、今度の件には女房と子供が巻き込まれた」
圭子の細い眉が、片方だけ山型につりあがり、庭の雨を映した切れ長の目が、静かに高梨の顔を見つめてきた。
「ご家族が、なにか?」
「いやがらせの電話を受けたり、クルマをぶつけられたり」
「まさか……」
「思い過ごしならいいが、たぶん、そうではないだろう」
「いやなお話ね」
「きっかけはバイオル化学の富塚だ。あいつが君を探せといって、俺のところに百万の金をもってきた」
「まあ……」
「常務の棚畑が勝彦はずしを狙ってるという。富塚の見解では、君は棚畑側の人間で、憲作氏との関係を暴露するということだった」
「高梨さん、信じたの」
「十年もたてば変わる人間もいるしな、最初はどちらとも判断はつかなかった」
「今は?」
「君は金に困ってないし、バイオル化学を棚畑に売り渡すつもりもない」
「銀座のお店に一度でも来ていれば、それぐらい調べなくても分かったのに」
「あのときは、お互いに、けじめが必要だった」
「それはそうね……で、富塚さんは?」
「俺に君を説得しろという、勝彦を助けるために」
「勝彦さんを、ね」
「構図は見えてきたけどな、勝彦が飛ばされれば富塚自身がアウトになる。バイオル化学は、今、ちょっとした経営危機状態だ」
「飽きることを知らない人たち」
「男には、仕事以外に、道楽がない」
「高梨さんも?」
「うん……」
「バイオル化学のトラブルは知ってる、勝彦さんの評判もね。でもわたしには関係ないことよ。社長が誰になろうと、どうでもいいことだわ」
「それでも君は人気者だ、棚畑サイドもラブコールを送ってくる」
「あら、そうなの」
「お袋さんから聞いてないか」
「そういえば、誰かが……」
「大野通商の津坂文和」
「そんな人が鶴岡に来たとは聞いたけど、心当たりはないわ」
「津坂は棚畑の指示で、勝彦の排除を狙ってる」
「聞いたこともない名前よ」
「昔は本社のエリートだった」
「富塚さんも棚畑さんも、それから高梨さんもね、みんな勘違いしているわ。わたしはバイオル化学のトラブルに興味はないし、どちらの側にもついていない、ただ静かに暮らしたいだけのこと。十年前のことだって、今さら蒸し返してお金にしようと思うほど、落ちぶれてはいないわ」
圭子の視線が呆れたように戻ってきて、色のうすい目が高梨の表情をさぐり、その間だけ、雨の音も縁側には届かなかった。海が近いせいか、雨の遠い空を、トンビが黒く飛んでいく。
「ねえ、一つ、訊いていいかしら」と、紅茶のカップに口をつけ、雨音に耳を澄ますような顔で、圭子が言った。「高梨さん、この家、どうやって見つけたの」
「それは、ちょっと、技を使った」
「技……」
「妹さんを尾行した」
「香澄を……」
「奇麗な子だ。津坂も鶴岡まで行ったらしいが、市役所へはまわらなかった」
「……」
「俺だって昔は業界紙の記者で、今もインチキな雑誌をやってる……他人の戸籍謄本を手に入れるぐらい、わけはない」
「……」
「あんな奇麗な子をつまらないトラブルには、巻き込みたくないな」
圭子の唇が、歯痛を堪えるように引きしまり、半袖のブラウスからのびた白い腕に、産毛が寒く浮きあがった。雨空からの明かりが圭子の頬に陰をつくり、素足の足の指が、畳の目に沿ってひっそりと屈伸する。
高梨は新しいタバコに火をつけ、煙を縁側の外に飛ばして、圭子の顔は見ずに、上着のポケットから雑誌の切取りを抜き出した。
「こんなものを読んでしまった。横沢さんも泡風呂屋にしては、珍しい経歴だ」
カップに口をつけたまま、圭子がうすい胸を静かにふくらませ、呼吸をととのえるように高梨の手元へ目を細めた。
「懐かしいわねえ、そんな記事が出たの、ずいぶん昔の気がするわ」
「たかだか一年だけどな」
「横沢が怒っていた、千部も定価で押しつけられたって。経済誌って体のいい経済ゴロなのよね」
「俺に人のことは言えない」
「『アースレポート』も読んだことがある、あれも詐欺みたいなものでしょう」
「この世で詐欺じゃない商売は『女』だけだ」
「高梨さんの哲学ね、十年間まるで進歩してないけど」
「記事のこと……」
「彼が高校のときに、わたしの担任だったか?」
「担任だったのか」
「調べれば分かるでしょう」
「興信所を使うと金がかかる」
「わたしにはお金をかける価値がない、という意味かしら」
「同じ金なら君とのデート資金にまわすさ」
「ふざけると奥様に言いつけるわよ」
「十年前、君が女房に言いつけてたら、俺たちの人生も変わっていたろうにな」
圭子の薄情そうな唇が、あきらめたように笑い、スカートから覗いている華奢な膝小僧に、ためらいがちな赤みが這いあがった。顔とは不似合いに色の濃い圭子の乳輪が、圭子の体温と一緒に、ゆらりと高梨の記憶によみがえる。
「高梨さんがなにを想像しても、それはあなたの勝手……」と、体重を腕で支え、膝を隠すように座りなおして、圭子が言った。「でも香澄にだけは関わらないで。あなたにそんな資格はないはず、わたしの言う意味、分かるわね」
「事実関係を確認したかった、それだけだ」
「昔から面倒な男だったけど、あなた、無神経ではなかったわ」
「利子は、払うさ」
「そうしてほしいわね。香澄に関わらないだけでいいの……どう? 安い利子じゃない」
「それで帳消し、か。もしかしたら俺の貸しのほうが、大きいかも知れないが」
開きかけた圭子の口が、そのまま言葉を飲み込み、見開いたまつ毛の先に、一瞬不安そうな陰が横切った。
「こんな綱渡りを、君、いつまでつづけるんだ?」
圭子の肉のうすい尖った肩が、閉鎖的に緊張し、ティーカップにかけた指も色をなくして、薬指の指輪が受け皿にこまかく金属的な音をひびかせた。庭の泰山木がゆれ、まだらな鳥が一羽、羽音もたてずに雨の中を飛んでいく。
「高梨さん、悪いけど、帰っていただけない」
「意地なのか、それとも……」
「最初に言ったはず。わたしね、あなたが思うより、体調が悪いの」
「俺は……」
「今ごろ干渉しても遅いのよ、十年前でも、もちろん遅かった。あなたはわたしにとって、いつでも遅い人なの」
「いつから……」
「え」
「君の病気は、いつから……」
圭子の指先は、相変わらず白く震え、暗く光る視線は高梨の背中よりもずっと遠く、庭の紫陽花か、雑草のあたりに固定されていた。唇は蝋人形のように結ばれ、血の気のない頬は影をつくらず、眉も顎も、もう動く意思をなくしていた。
「利子……か。最後の食事の利子が、こんなに高いとは、思わなかった」
それから高梨は、五分ほど必死に言葉を探してみたが、躰の中に耳を澄ましても、わき起こるのは疲労の予感と、胃の不快感だけだった。
背中が痛み、心が疲れ、高梨は腰をあげて、暗い廊下を黙って玄関に向かいはじめた。圭子の顔は上を向かず、カップを固くにぎった指も、庭に向けた視線も、最後まで高梨の存在を拒否しつづけた。廊下や玄関には黴の臭気があふれ、香澄の清潔感と圭子の屈折が混乱し、高梨の腋の下に、後悔をともなった寒い汗を流れさす。
玄関を出たところで、タバコに火をつけてみたが、雨の粒は意外に大きく、門に行きつくまでに火は消えていた。高梨が傘を持っていないのは昨日雨がふらなかったから、そして今朝目の覚めた場所が知らない女の部屋だったという、それだけの理由だった。
場所は神奈川県の茅ヶ崎、空地の残る田舎の住宅街で、頼んでも私鉄や地下鉄は走っていない。バス通りに出るまで二十分かかり、そこからバス停までまた十分歩く。実際に駅行きのバスに乗るまでには、さらに十五分の時間が必要だった。高梨は覚悟を決めて濡れつづけ、駅についたときには、ほとんどプールに落ちた野良犬の風体だった。浅野やよいという女の子は『昨夜は大丈夫だった』と証言したが、それなら女子大生の部屋に泊まったぐらいのことで、なぜここまでの罰を受けるのか。
のぼりの東海道線が来るまでに三十分もあり、高梨は昨日と同じ公衆電話から神田の事務所に電話を入れてみた。六時をまわっているから、うっかりすると祥子も事務所を引きあげてしまう。
入っていた連絡は矢島からの一件、内容は『麹町の事務所に電話をしろ』というものだった。昨夜の矢島があれからどこへ行ったにせよ、飲んだ酒の量を考えると、事務所に出ているだけでも立派なものだ。
高梨は手帳で番号を確認し、ためらいを自覚しながら、それでも急いで矢島の事務所に連絡をした。背中にへんな寒気を感じるのは、もちろん雨のせいで、こんな濡れ方をして気分がいいはずもない。
「ああ、高梨か、あとで詳しく話すけどな……」と、たっぷり間を置き、受話器の中で低く唸って、矢島が言った。「昨夜の件、融資担当の副頭取というやつを攻めてみた。明日さっそく席を設けるとさ。今夜あたり帝都は大騒ぎだろう、感触は上々だぜ。睨んだとおり、久しぶりにでかい仕事ができそうだ」
「あれだけ飲んで、矢島、タフだな」
「俺の人生は仕事一筋さ。たっぷりいい話を聞かせてやるからせいぜい期待してくれ。それよりお前さん、富塚吉太郎のこと、知ってるか」
「だいたいはな」
「そうか、知ってたか」
「あいつの頭は錯乱してる」
「まったくな、しかしあそこまでおかしいとは思わなかった。俺もたった今ミナから連絡を受けたところだ」
「ん?」
「知らないのか」
「その……」
「なんだ、聞いてないのか」
「いいから話せよ」
「刃傷《にんじょう》沙汰だとさ」
「刃傷……」
「あの親爺、サワ子とかいう女を相手に、包丁を振りまわしたらしいぜ」
高梨の背中に、本物の寒気が押しよせ、肩から首のうしろまで、屈託のある痛みが這いあがった。高梨の濡れた躰が、死の臭気に対して、自覚もなく敏感に反応する。
「矢島、そのニュースは、確かなんだろうな」
「ミナは直接警察から聞いたらしい」
「サワ子は、死んだのか」
「重症だが命はとりとめた」
「状況は?」
「詳しくは分からんよ。なんでも女の部屋でもめて、大立ち回りだったと」
「申しわけないが、事件の経緯を確認してくれないか。俺は今離れた場所にいて、帰るまでに時間がかかる」
「そりゃあ、構わんがな」
「二時間で帰れると思う」
「二時間……か」
「とにかく、見当がついたら、神田の事務所に電話をくれ」
矢島の返事を聞き、同時に電話を切って、高梨はテレホンカードと手帳を上着のポケットに戻し、這いあがる悪寒を肩をふって追い払った。報告を聞くまで結論は出せないにしても、今の話が矢島の冗談ということはないだろう。現場はサワ子の部屋、昨日のミナとかいう女の話を思い出すと、状況に疑いはない。富塚は借金を抱え、会社の金に手をつけ、立場も宙に浮き、そして頼みの勝彦はすでに死に体なのだ。富塚が殺したかったのは、サワ子なのか、バイオル化学なのか、富塚自身だったのか。すべては富塚本人の責任で、しかし勝彦がもう少しまともな人間だったら、ここまでの醜態には至らなかった。
高梨は構内に戻って時刻表を確認し、電車を一本やり過ごすことに決めて、とにかく濡れた服を着がえることにした。駅に隣接してショッピングビルはあるし、高梨の服なんか、どうせ綿のチノパンツとカッターシャツに決まっている。今夜も家に帰れないだろうから、ついでに下着も買う必要がある。バイオル化学からは手を引こうと決めていたのに、疲れた情熱が、高梨をいやいや、お節介な世界に引き戻す。
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神田の事務所に戻ってきたときは、九時をすぎていて、皮肉なことに、事務所についたとたん雨はやんでしまった。六月も終わるというのに、ふったりやんだり、いつまでこんな天気がつづくのか。ここまで毎日濃い湿度に取り囲まれていたら、梅雨が明ける前に躰が腐ってしまう。酒からの恢復力も低下し、他人との関わりにも疲労を感じて、気力も思考力も衰えはじめている。世の中にはいくらでも暇な人間がいるだろうに、高梨の周りだけ、なぜここまで屈折した人生が集まるのだろう。
高梨は沙希子との約束どおり、家に電話を入れ、それからテレビをつけて濡れた靴を予備の靴にはきかえた。上着もハンガーにかけ、ロッカーからは乾いたジャケットも取り出した。夏でも上着を持ち歩くのは、ポケットが小物入れになるからで、それがショルダーバッグやセカンドバッグに対するささやかな抵抗だった。高梨は禁煙運動にも抵抗しているし、夫婦の危機にも抵抗している。躰が汗臭くなることにも、無難な中年男になることにも必死に抵抗している。しかし「だからどうした」と言われれば、それは、それだけのことだった。
テレビでは九時からのニュースがつづいていたが、富塚の事件は報道されず、決心して、高梨はバイオル化学本社に電話を入れてみた。古参の幹部がトラブルを起こせば、会社としてなにか対応はしているはずだった。しかしいくら呼び出しても応答はなく、一度切った電話を栃木の支社にかけ直した。電話には知らない声の男が出て、富塚の件だけは確認できたものの、それ以上の状況は聞き出せなかった。それから住所録を取り出し、杉並の大野家にも電話を入れてみた。栃木|訛《なまり》で話す中年女は要領をえず、勝彦の所在も分からなかった。今の勝彦にどんな取巻きがいるにせよ、対応を間違えば失脚するまでに、もう役員会なんか要らなくなる。
電話が鳴って、矢島が疲れを知らない声を出し、その矢島と三十分後に新宿の『秀川』で落ち合うことにした。今さらバイオル化学の行く末に興味はないが、富塚が錯乱するまでの過程は、礼儀としても把握する必要があった。
秀川には高梨のほうが先につき、カウンターで煮魚を注文してから、女将を相手にビールで時間をつぶしはじめた。今朝起きたときは今日も酒を飲むことなど、考えもしなかった。暗くなり、雨があがって服を着がえると、また一口の酒が恋しくなる。心の隙間に少しだけ酒を満たし、それでどうにか一日の区切りをつけようとする。夏休みの旅行は東欧でもアメリカでも構わないが、アラブだけは、なんとか避けて通りたい。
いくらもしないうちに矢島が顔を出し、女将と席を入れ代わって、高梨が注いだビールを声も出さずに飲みほした。
「警視庁の記者クラブと所轄の青山署を当たってみた。サワ子も一時は危なかったが、今は容体も安定している」
空になったグラスに自分でビールを注ぎ、皺のない額をうんざりしたように光らせて、矢島がへたなウインクをした。
「ただ大野勝彦がな、記者クラブに馬鹿な圧力をかけてきたそうだ」
「会社の名前を伏せるように、か」
「なあ、圧力なんかかけなくても、新聞に会社の名前まで出るもんか。勝彦もいよいよ、頭に血がのぼったということさ」
矢島が尖った鼻を不遜に笑わせ、長い指で怠《だる》そうにビールを運びながら、呆れたように目を見開いた。
「しかし富塚も忙しい男だぜ。あの親爺、なにを勘違いしたのか……似合いもせんバブルに踊りやがって、そのあげくが、このざまだもんなあ」
「人のことは言えないさ」
「だから余計に腹が立つんだ。堅気は堅気で、地道に生きてりゃよかったものをよ」
「矢島、昨夜の酒が残ってるのか」
「俺にはあの親爺の気持ちがな、分からんでもないんだ」
「いつかの女とまずったとか……」
「真面目な話だぜ。富塚だってふつうの男だ、金をにぎって権力をにぎって、一生に一度ぐらいはいい女とだって寝てみたい。そういう当たり前すぎるところが、空しいわけだよなあ」
矢島が高梨にビールをすすめ、カウンターに焼き物を注文してから、肩をすくめて、気取った手つきでタバコに火をつけた。高梨は黙ってグラスを口に運び、矢島のめずらしく屈託のある横顔を眺めながら、頭の中でため息をついた。富塚の事件がどこに飛び火し、バイオル化学や長倉圭子に、どんな影響をおよぼすのか。週刊誌が騒ぎ出せば徒労に終わるにせよ、せめて香澄という女の子ぐらいは、このトラブルから遠ざけたい。
「とにかく、富塚の状況を、聞かせてくれ」と、生欠伸をかみ殺し、意識的に視線を店のカレンダーにやって、高梨が言った。
「現場は女のマンション、場所は神宮前、相手は昨夜ミナが言ったサワ子という女だ。記者クラブのやつが被害者の顔を確認してな、それがなあ、モデルみたいにいい女だそうだ」
「原因は当然、別ればなしか」
「金だけのつながりだものな。サワ子にしてみたら金のない富塚なんか、ただの生ゴミだろう。今日の昼ごろ、富塚が突然マンションにやって来た。女は寝てたそうだ。それを叩き起こして、別れるの別れないの、死ぬの生きるのともめたらしい。サワ子は『死ぬなら一人で死ね』とか言って、部屋を出かかった。その背中を富塚がうしろから包丁で突き刺した。それでもサワ子は部屋から飛び出し、通行人に助けられた。警察が駆けつけたとき、富塚は逃げもせず、包丁をにぎったまま台所に座っていたとさ」
ワンルームマンションの寝乱れたベッド、床に散った化粧品やビールの空き缶、開いたままのドアにクーラーの振動音、そんな中に包丁をにぎりしめた富塚吉太郎が、じっと座り込んでいる。ずんぐりした赤ら顔からも血の気がひき、禿げ頭からねばっこい汗だけが、じわりと流れ落ちる。そんな光景が生々しく頭に浮かんだが、富塚の目がなにを見つめているのか、高梨には想像もつかなかった。
「傷害至傷か、殺人未遂か……」
「逃亡はしなかったからな。たいした罪にはならんだろうけど、それでも実刑はくらうさ」
「完全にアウト、か」
「あの親爺、六十に近かったろう」
「そんなとこかな」
「六十にもなってなあ、仕事も地位もぜんぶお釈迦だ。バブルのせいと言ったって、だれも同情はしてくれん」
男が中年であることに、金も地位も名誉もないことに、世間はもともと、だれも同情はしてくれない。加えて女に捨てられての刃傷沙汰となれば、世間からは気楽に抹殺される。サワ子を刺した時点で、富塚が自己の抹殺まで望んだとしても、これからの人生の中で、狂気は簡単に正気へ戻ってしまう。
「俺もなあ、ヤクザ者同士の切った張ったには、慣れちゃいるが……」と、ビールのグラスを持ったまま、長くタバコの煙を吹いて、矢島が言った。「どうも素人の刃傷沙汰には、気が滅入る」
「意外に純情なんだな」
「他人事じゃないんだぜ、特に女とのトラブルは綱渡りだ」
「これから身を慎むか」
「できりゃ苦労はせんさ。なあ高梨、俺はいつまで、女の尻を追いかけりゃいいんだろうな」
「四十年以上もわずらった病気だ、簡単に治るかよ」
「治らんかなあ。このまま綱渡りの人生をつづけて、女の尻を追いかけて、そのうちどこかで野たれ死にか。覚悟はしちゃいるが、考えると気が滅入るぜ」
矢島のような前向きな男でも、四十を過ぎて天気の悪い日がつづくと、思わず疲れることはあるのだろう。富塚の事件は矢島にとって他人事ではなく、そして目の前に迫ってくる人生の下り坂は、高梨にとっても、他人事ではない。
「それより昨日は、気にもならなかったが……」と、おしぼりで額の脂をふき、焼き魚に箸をのばして、矢島が言った。「大野通商に流れた十億の動きがなあ、あれがどうにも、見当がつかん。考えてみたら奇妙な金だよなあ」
「帝都側は一席もうけるんだろう」
「それは約束させた」
「それならうしろ暗い金であることに、変わりはないさ」
「問題はそこだ、なあ、あの十億が限りなく無担保融資に近いことは、帝都だってしら[#「しら」に傍点]は切れん。だけど相手もプロだろうよ、すでに貸し金は回収済みとか、どうせ言い逃れをしてくる。俺としては凄味をきかせる意味で、大野側の使い途に見当をつけておきたい」
「バイオル化学の年度末決算は?」
「本業の化粧品は安定してるさ。お荷物はアスレチックだのなんだの、勝彦の道楽だけだろう」
「どういう形にしろ、そのへんに絡むんだろうな。矢島の情報網を駆使すればすぐに顔を出す」
「臭《にお》うんだよなあ、棚畑が個人的にポケットへ入れたにしちゃ、金額が大きすぎる。大野通商が融資に見合う仕事をした気配もない。大野通商をトンネルにして、東横工業にでも金を流したというストーリーなら、俺としては、非常に面白い」
矢島の目尻に太い皺が浮かんで、箸が宙にとまり、高梨の返事を誘うように、背広の肩が丸くカウンターにかぶさった。店には気の毒なほど客がなく、女将が観ているレジ横のポータブルテレビが、単調にトレンディードラマの台詞をまき散らす。
「なあ、高梨、もう一度頭取秘書でも、たぶらかせないかよ」
「天使の気まぐれにも限度があるさ」
「ファインプレーは打ち止め、か」
「ここから先は矢島の仕事だ」
「俺も目いっぱい気合いを入れちゃいるが……長倉圭子のほうは、どうなった?」
「うん……」
「まだ顔を出さんのか」
「俺の勘では、東京には、いない気がするな」
「本命はあの女かも知れんぜ。今度の事件、考えたら、長倉圭子は奇妙なところにばかり顔を出す。あの女がしっかり、でかいネタを握ってるんじゃないのかよ」
ビールを口に運び、時間をかけてタバコに火をつけてから、手のひらににじんでいる汗を、高梨はそっと上着の袖にこすりつけた。棚畑啓一も長倉圭子の存在に関心を持っていること、圭子の名前に見せる富塚吉太郎の異常な反応、それらの気配で、事件に対する圭子の関与が尋常でないことぐらい、高梨にも想像はつく。今度の問題は表面的にはバイオル化学のお家騒動、しかし裏側には十年前からの経緯を引きずっている。その核心をどこまで世間に曝していいものか、長倉圭子は高梨に、具体的には、どんな役割を期待しているのか。
「まあ、どっちにしても、富塚のご乱心でバイオル化学も先は見えたけどな」
「憲作氏の判断が、正しかったわけさ」と、煙を短く自分の膝に吐き、ビールのグラスに長倉圭子の白い顔を透かして、高梨が言った。「憲作が間違ったのは、死んだ時期だけだ」
「地道に化粧品だけで攻めてりゃあ、バイオルも中堅の優良企業だったのになあ」
「ワンマン経営の宿命だ、後継者がこけると企業そのものがこけてしまう」
「そういえば高梨、昨日言ったフェミナの件な、あれがちょっと……」
「うん?」
「あれは、やっぱり、生臭いぜ」
「株でも動いてるか」
「今は静かなんだ、今は静かなんだが、去年の今ごろ、奇妙な動きをしたことがある。もともとバイオルの株なんか、それほど動くもんじゃないだろうよ。それが去年の六月、毎日じりじり上げて、千七百円前後だった株が、結局は千九百円近くにまでなった」
「二百円……」
「一カ月で二百円だぜ。目立たないように、いくつかの証券会社が薄く広く買い集めたということさ。ところが七月五日になって、突然また元の千七百円に戻してしまった」
「動いた株数は?」
「分からん」
「利ざやを稼いだやつは?」
「それも分からん。もちろん証券会社は手数料を稼いだろうが、意図した仕手戦ではなかったろう」
「要するに、なんだよ」
「それがなあ、俺にもよく分からんけど、一応去年の新聞を調べてみた。公定歩合の変動があったわけでもなし、ほかの株が動いた気配もないんだ」
「七月五日と言ったか」
「そういうことだ」
「矢島……」
「お前さんでも覚えてるだろう」
「たしか、東横工業の横沢が捕まったのが、七月四日だった」
「奇妙な偶然だよなあ、どこでどう繋がってるのか、しかしこういう偶然は金になるぜ。横沢の金が証券会社に流れたとすれば、帝都とは別口でもう一仕事できるわけだ」
「懲りないやつ……」
「俺たちにも運がまわってきた、なあ、今度のチームは運も味方している。高梨、こいつはぜったい大仕事になる。どかんと一発、でかい花火が打ちあげられる気がするぜ」
矢島がビールを飲みほし、タコ刺と冷や酒を追加して、高梨のほうはタバコを消し、天井に向かってほっとため息をついた。無方向に散っていたジグソーパズルのチップが、今や騒然と活動を開始し、高梨の頭の中で、完成に向かって慌ただしく隊列をととのえる。香澄に対する長倉圭子の過剰反応は、高梨を翻弄するための、水商売で身につけた日常の演技だったのか。東横工業の横沢が山形の高校で教師をやっていた偶然と、大野勝彦が仙台で大学生活を送った偶然と、長倉圭子の人生には、どちらがより、大きな意味を持つのだろう。
「高梨、どうした、今夜はジントニックに変えないのかよ」
「ちょっと、用があるんだ」
「水臭いこと言うなよ、帝都対策にだって時間はかかるぜ。それとも……」
「ちょっと、な」
「なんだよ」
「だから、ちょっとさ」
「お前さん、まさか、昨夜の子と?」
「そんなところだ」
「こいつはまた青天の霹靂……いや、梅雨空のまっ赤な太陽か」
「俺だってたまには甘い夢を見るさ」
「そりゃそうだろうが……」
「富塚も横沢も棚畑も勝彦も、津坂も矢島も俺も、男は中年になると、夢と承知でみんな甘い夢を見る」
「そりゃあ、まあ、そうだろうが」
「女房には内緒だぞ」
「おい……高梨、本気かよ」
「本気で悪いか」
「おい……」
「いくら本気でも、夢は夢だ」
「その、まあ、俺に人のことは言えんけどな」
「すべては行き掛かりさ。俺の責任ではないが、関わった以上は結論を出す義務がある」
「女……か。高梨も地獄を覗いてみりゃ、少しは俺の苦しみが分かるかも知れんな」
「そういうことで、とにかく明日は頑張ってくれ」
「お前さんは?」
「大きい芝居は矢島に任せるさ、俺はこつこつ裏方に徹する」
「しかしこの仕事は、お前さんの仕掛けだぜ」
「相手だってプロだろう、こっちも最初から手の内は、明かさないほうがいい」
「そういう考え方もあるが……」
「頑張ってくれ。世の中には主役が似合う人間と、似合わない人間がいる」
「まったくなあ、目の前に大金がぶら下がってるのに、水臭い男だぜ。慣れない火遊びで火傷をせんよう、まあ、せいぜい気をつけることだな」
時間は十一時、高梨は矢島の『帝都から大金を引き出す件に関する綿密な構想』にしばらく耳をかたむけ、その矢島を残して、一人で店を出た。坂道を一気にころがり落ちるのか、意地をはって少し足を踏んばってみせるのか。同じ人生の下り坂ではあっても、どういうかたちで坂道に対処するのか、高梨に見えないのは、その自分のスタイルだけだった。
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京王線を明大前で乗りつぎ、井の頭線で永福町に出たのは、十二時に少し余裕のある時間だった。こんな時間でも私鉄はラッシュなみの混み方で、永福町の駅からは背広もブラウスもジーパンも、変わる日付に追われながら黙々と吐き出されていく。憲作の時代は毎日のように使った駅だが、高梨がこの駅と無縁になってから、もう十年がたつ。
高梨は拡散していく人波にまぎれ、永福通りを下高井戸の方向へ、屈託を抱えたまま歩きはじめた。憲作夫人が死んでいることも、勝彦が屋敷に移ったことも、業界の噂で知っていた。十年ぶりに向かう家が勝彦の縄張りである事実が、こだわりなどなくても、高梨の胃をへんに不愉快にする。
永福通りを十分ほど南にくだり、永福寺の方向とは反対の路地を右に曲がると、二、三分で大谷石の塀がとぎれ、そこで高梨は足をとめた。昔は木の門扉にくぐり戸が付いていたはずだが、今は黒い鉄の門扉が偉そうに石柱を塞いでいる。電話でも確認し、表札も『大野』と出ているから、それが大野の屋敷であることに間違いはない。
高梨は蛾や羽虫が飛び交う白い街燈の下で、タバコを一本|空吹《からぶ》かしし、それを靴の底でつぶしてから、ゆっくりとインタホンに指をかけた。一分ほどボタンを押しつづけ、切りかわりの音が聞こえた瞬間、相手より先に高梨が言った。
「昔お世話になった高梨です。役員会の件で社長にお目にかかりたい。もし今わたしに会わなければ、確実に代表権を失うとお伝えください」
勝彦が家にいるという確信はなかったし、インタホンを受けた相手も分からなかった。しかしこれだけ脅してやれば、なんらかの反応は返ってくる。勝彦が留守でも出先に連絡ぐらいは入れるだろう。
三分ほど間隔があき、インタホンに女の声が聞こえて、それから間もなく、鉄扉が開いて中年の女が高梨を屋敷に迎え入れた。応対に栃木訛があったから、地元で調達してきた新しい家政婦なのだろう。勝彦の女房は栃木で手広く商売をしている不動産屋の娘、海外旅行とブランド漁りだけを楽しみにしている女で、こんな時間に客を門まで出迎えるはずはない。憲作も『勝彦の育て方を失敗した』と愚痴を言ったが、息子の嫁まで失敗したのだから、今のこの結果はあの時点で予想されていたことだった。
家政婦が高梨を通したのは、昔憲作が書斎に使っていた二十畳の洋室で、勝彦は肘かけつきのソファにパジャマ姿で座り、サイドテーブルに銀製の水割り道具を叩き売りのように並べていた。クーラーも効いているのに、皮膚のうすい顔にはウイスキーの赤みがにじみ、メガネの奥の目も黄土色に濁っていた。改めて観察すると、前髪の生えぎわがいくらか怪しくなり、固く結んだ口のまわりも無数の皺に取り囲まれていた。秘書ぐらい付き添っているかと思ったが、テーブルのグラスは勝彦が使っている、江戸切り子の一つだけだった。
「今ごろは会社かと思いましたが、念のために寄ってみました」と、家政婦が運んできたグラスで水割りをつくり、一人で乾杯をして、高梨が言った。「マスコミが詰めかけていないのは、さすが勝彦さんの政治力だ」
勝彦が口を結んだまま、グラスの氷をゆすり、メガネの縁をかたむけて、濁った目で冷たく高梨の顔をうかがった。
「富塚さんはお気の毒でした。会社も勝彦さんも、これからが大変でしょう」
「どういうことだ、え? こんな時間に、わざわざ富塚の話をしに来たのかよ」
「富塚さんの事件を話し合うのに、勝彦さんほど相応しい相手はいない」
「親父の代から面倒を見てやったのに、あいつ、恩をあだで返しやがった。それに俺はおまえに『勝彦さん』呼ばわりされる覚えはない」
「失礼しました。それでは社長、富塚さんの問題について、じっくり話し合いましょうか」
勝彦のメガネがいやな色に反射し、部屋の空気にクーラーの音とはちがう、家具の乾いた音が重なった。サイドボードに飾られた薔薇の赤が、奇妙に卑猥で、ローランサンの絵と並べられた政治家との記念写真が、明るい色の壁に滑稽な汚点を主張する。
「代表権の話というから、この部屋に通してやった。ほかの用だったら帰ってくれ」
昼間は圭子の家から追い出され、今また勝彦に帰れと言われて、自慢ではないが、高梨の人気もずいぶん落ちたものだ。
「富塚さんの事件、そのうち週刊誌が動きはじめます。新聞やテレビは控えても、週刊誌には会社名が出てしまう。対処の方法、考えておられますか」
「うちの会社とは無関係だ。富塚は一週間前クビにした、警察にもそう言ってある」
「昨日バイオル化学にうかがったときは、そうも見えなかった」
「あいつはクビにしたんだ。富塚なんて男は会社にも俺個人にも、いっさい関係ない。週刊誌が書きたてたら告訴してやる。俺のために働く代議士だって、いくらでもいる」
「金で買った太鼓持ちは音の出る太鼓しか叩きませんよ」
「なんだと?」
「呑気に酒を飲んでる場合ではないという、そういうことです」
「貴様、どの面《つら》さげてここへ来やがった?」
「社長も上場企業のオーナーなら、言葉づかいに気をつけたらいかがです」
グラスを握った勝彦の指先が、蠢くようにふるえだし、つき出た喉仏が息苦しそうに、音をたてて上下した。分けていたはずの髪も耳の横に跳ねあがり、こめかみには綿埃のようなふけが浮いていた。
「みんな、すべて、貴様のせいだ」と、グラスを構えたまま眉間をふるわせ、鼻を耳障りに鳴らして、勝彦が言った。「無能呼ばわりしやがって、あのときも貴様は、役員を煽《あお》って俺を会社から締め出そうとした」
「後悔しています。あのときもう少し、頑張っておけばよかった」
「この詐欺師野郎め」
「壁のローランサンが泣きますよ」
「これ以上言いがかりをつけると、警察に訴えるぞ。裏でこそこそ動きやがって、貴様だって叩けば埃が出る身じゃないか」
濃い水割りを舌の上でころがし、突然の絶望に苦笑しながら、首をふって、高梨は深くソファに沈み込んだ。クーラーの風が窓のカーテンをたわめ、勝彦のメガネを透かして、ゴルフのトロフィーが醜く形をゆがめてくる。
「とにかく富塚さんには、早く手を打つべきだ。傷口にはだれでも薬をぬる」
「くどいんだよ。あいつのことはもういい、用がないなら帰ってくれ」
「じっくり話そうと言ったはずだ」
「こっちに話はない」
「息のかかった弁護士がいるでしょう」
「女とのトラブルに会社がなんの関係がある。弁護士なんかやれば、恥の上塗りをするだけだ」
「それでもあと始末は必要です」
「貴様の説教はいらん。富塚も刑務所で、たっぷり頭を冷やせばいいんだ」
「ついでに勝彦さんも頭を冷やしますか」
「高梨、貴様、なにが言いたいんだよ」
「放っておけば富塚は喋ってしまう、だから弁護士をやって釘を刺させろと、そう言ってる」
「おまえ……」
「富塚に弱みを握られてるんでしょう」
「俺が、なんの……」
「弱みがあるから、勝彦さんも今まで富塚を追い出せなかった。二千万も使い込んだ社員をかばう経営者が、どこの世界にいるんです? 富塚や長倉圭子と、あんたは一生泥の舟に乗りつづける」
勝彦のつりあがった目が、メガネの向こうで陰湿に見開かれ、上目蓋にチックのような痙攣が気弱に走りさる。
「憲作氏が生きてたらあんたを社長の椅子には座らせなかった。それを一番よく知っていたのは、勝彦さん自身だ」
「なんのことか、見当もつかんな」
「今から考えれば長倉圭子に店を出させる過程が、スムーズすぎた……ねえ?」
「だから、どうした」
「富塚もずいぶん素早く動いた、憲作氏のあと始末をしたわたしを、すっぽり外してね」
「あれは親子の問題だ」
「親子だから、憲作氏が死ぬことを知ってたわけですか」
「なんだと?」
「予定どおりに憲作氏が死んだから、予定どおり圭子に店を出させた」
「他人の貴様に関係あるか。俺は親父の恥を世間に晒したくなかった、それだけのことだ」
「そこまで手配したくせに、あんたは銀座の『けいこ』に一度も顔を出していない。圭子と勝彦さんの関係はきれいすぎる……つまり、作ったようにきれいな関係は、逆にうしろ暗いということです」
勝彦の上体がゆがんで、肘が波打ち、静止画像のような背景から、高梨に向かって江戸切り子のグラスが青く飛びかかった。高梨が身をかわし、グラスが壁に砕け、そして次の瞬間、高梨のアッパーカットが勝彦の首を、ソファの背もたれに呆気なく弾き飛ばしていた。
「泥の舟でも一度乗ったからには、最後まで漕ぎつづけることだ」
「証拠なんか……証拠は、どこにある」
「富塚が喋れば供述が証拠になるさ、あんたはどうせ会社から追い出される。社会的な立場の弱くなった人間に、警察は容赦をしない」
ソファに投げ出されたまま、勝彦の首は動かず、腕も口も動かず、見開いた目も動かず、ただよだれが一筋、乾いた顎にナメクジのような光を浮かべていた。
「富塚の事件には勝彦さんにも責任がある。あそこまで錯乱する前に、手を打つべきだった」
「だからどうなんだよ。今さらもう手遅れだ。何もかも、みんな手遅れだ」
喉仏を見せて、勝彦が荒く息を吸い込み、手の甲で口をぬぐいながら、上目づかいに高梨の顔を盗み見た。高梨は椅子の肘かけで重心を矯正し、テーブルから壁にまでつづくウイスキーのしみに、漫然と目をやった。飛び散ったグラスの破片がシャンデリアに青く光り、壁の絵やサイドボードの薔薇の花が、耳鳴りのように視界を彷徨する。
「なあ、高梨……」と、乱れた髪を指で梳《す》き、ソファに座りなおして、勝彦が言った。「俺だって一生懸命やった、親父に負けない経営者になろうと思った。業界のことも勉強した。だけど誰も、俺のことを評価してくれない。銀行までフェミナとぐるになって、バイオルに乗っ取りをかけてきやがった」
「それぐらいの動きは憲作氏の時代からありましたよ」
「常務の棚畑は、最初から会社をフェミナへ売り渡すつもりだった」
「勝彦さんにだって打つ手はあった」
「今さら遅いんだよ、俺だって精一杯やった。会社のために一生懸命働いた。それが、バブルが弾けやがって、あげくの果ては富塚にまで裏切られた。俺はもう終わりだ。殴ろうと蹴ろうと、週刊誌にスキャンダルを流そうと、好きなようにやってくれ」
この空しさが、どこから湧き起こるのか。頭の中で怒りと絶望がいやな音で共鳴し、爆発しそうな高梨の神経に無気力な腐臭を吹きかける。高梨は返事をすることもできず、笑うこともできず、ふるえる勝彦の指先を、息をとめて眺めていた。
「親父は最後まで俺を認めなかった、ずっと俺のことを嫌っていた。俺は一度でいいから、親父に褒めてもらいたかった。あんたに分かるか。俺の気持ちが、おまえなんかに分かるかよ」
「今ごろ地獄で褒めてるでしょう。勝彦さんに父親を殺す度胸があるとは、憲作氏も思ってはいなかった」
「俺は一生懸命やった、一生懸命仕事をした。それをあの親父は、ずっと俺のことを馬鹿にしつづけた」
「父親と息子なんて、どこだって、そんなもんだ」
「あいつは、あの親父は……」
「勝彦さんに会社経営は向かなかった、それだけのことです」
「さっき女房の実家から、娘を引き取ると言ってきやがった。人間にも運にも天にも、ぜんぶに俺は見放された」
高梨はもう、勝彦を相手にする気にならず、残っていた水割りを口にほうり込んで、ゆっくりと腰をあげた。誰のどこの歯車が、どんなふうに狂っていたのか、想像しただけでも背中が寒くなる。
「とにかく今すぐ、富塚に弁護士をつけてやることだ」と、痛みだした拳をズボンのポケットに隠し、頭の中に酔いと怒りを確認しながら、それでも呼吸をととのえて、高梨が言った。「手段はどうであれ、動機がどうであれ、富塚も一応、あんたの側で動いていた」
「おまえ、俺に、哀れみをかけるのか」
「あんたのことなんかどうでも構わない。ただ長倉圭子には、静かな生活を送らせたい」
勝彦がメガネを光らせ、ウイスキーの瓶に手をのばして、肩で息をつきながら、赤い顔と赤い目を、無気力に持ちあげた。
「勝彦さん、一つ教えてくれ」
「……」
「俺に接触する資金として、富塚に金を渡したか」
「俺が? 俺が、なんでおまえなんかに金を出す?」
「念のために訊いてみただけさ」
「高梨……」
「善意ではないんだ、俺は義理にも、あんたに好意は感じない」
「勝手にしろ」
「ただ富塚には早く弁護士をつけて、少なくても十年前の件に関しては、口を開かせないことだ。富塚とあんたと長倉圭子、その三人が口をつぐめば、どこからも証拠は出てこない」
「哀れみなんか要らないんだよ」
「やり直せばいいじゃないか、ねえ勝彦さん」
「しかし……」
「もともとバイオル化学は、栃木で靴クリームを作っていた」
「……」
「富塚の刑期が終わったら、栃木に帰って、また二人で靴クリームを作ればいい……それだけのことですよ」
口を開きかけた勝彦の視線を、高梨は肩でさえぎり、そのままドアを押して、書斎を出た。
見送られず、玄関から門に歩き、屋敷の門を閉めながら、高梨は頭に浮かんだ夏実の顔に、長倉香澄の清潔なうしろ姿を、そっと重ね合わせた。
タバコを取り出し、火をつけ、ついでに高梨は、口の中で、ちっと舌打ちをした。
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のぼり電車は終わっているはずだが、駅まで戻ればタクシーは残っている。井の頭通りなら都心へ向かうタクシーも流している。酒を飲んで鎮まる神経でもないだろうに、このまま朝を迎えたら、明日一日が今日以上に辛くなる。タクシーをつかまえて新宿にでも飛ばし、あとは朝まで、躰が諦めるまで酒を飲む。二日酔いになることは分かっていて、しかしそれでも肝臓が頑張ることは、これまでの人生がちゃんと証明している。
駅よりだいぶ手前に公衆電話があって、ボックスがふりまく蛍光灯の明るさが、鬱屈した高梨の背中に、ふと怒りをよみがえらせた。ドアを開いて受話器を取り、津坂の家に番号をプッシュする衝動を、もう高梨は抑えなかった。みじめに永福町でタクシーを探す人間もいれば、女のマンションで包丁を振りまわす人間もいる。寝ているところを電話で起こされるぐらい、相対的には平和な日常だった。
十回ほどコール音がひびき、諦めない決心をかためたとき、受話器が外され、相手が高梨であることを予感したのか、不機嫌な声で津坂本人が応答に出た。
「これから新宿に出てこいと言ったら、津坂さん、断るか」と、電話ボックスのドアを足で開けたまま、痛む拳を腋の下にはさんで、高梨が言った。
「どうした、スペースシャトルでも新宿に落ちてくるか」
「似たような話さ、実は、昨日の件を考えようと思ってな。あんたも俺からの連絡を待っていたはずだ」
「高梨が、バイオル化学に……」
「そっちは遠慮しておくよ、俺にとって赤坂は方角が悪い。引き受けるのは常務が言った、もう一つの件だ」
五、六秒、公衆電話の受話器が黙り込み、永福通りを走るクルマのヘッドライトがガラスドアに反射して、夜の空気をプロパンくさい排気音が攪拌した。
「常務の言ったもう一つの件というのは、ええと、なんだっけな」
「津坂さん、酔っぱらってるのか」
「酒は入っているが、頭は働いてるさ。昨日の話は、正直なところ、俺にはよく見えていなかった」
「それなら棚畑に伝言をしてくれ、躰は売らないが商品は売ってやると。そう言えば分かるはずだ」
「それだけか」
「それだけだ、料金は一千万。耳を揃えて払ってくれれば、きれいさっぱり売り払ってやる」
「しかし、高梨、急に一千万といっても……」
「話が見えないなら、津坂さんは伝言だけすればいい」
「しかし……」
「俺のほうも急いでる、返事は明日中にするよう伝えてくれ」
「無茶を言うなよ。いくら常務でも、突然そんな金が揃えられるかよ」
「昨日の茶封筒、中身は千円札か」
「ん……」
「厚さからして三百万はあったはずだ」
「そうかも知れんが……」
「あんたが心配する必要はない。よくても悪くても、津坂さんの責任ではないさ」
「おまえ、なにを企んでる?」
「通常のビジネスをしようというだけだ、俺は空手形は受け取らない」
「高梨……」
「間違いなく伝えてくれ、料金は一千万、返事は明日いっぱい。明日中に返事がなかったら、交渉はキャンセルする。その場合は俺も、資料を金にかえる別な方法を考える」
また二、三秒間があってから、受話器に不愉快なため息が聞こえ、舌打ちの音と一緒に、津坂の低い声が聞こえてきた。
「よくは分からんが、それなら、伝えるだけは伝える。常務を相手に博打をうつとは、おまえも無茶をやるもんだ」
「サラリーマンには向かない人材だろう」
「どうだか知らんが、あまり高く飛びあがると、着地したときに足の骨を折るぜ」
「肝に銘じておくさ。それから……津坂さん、富塚のことは知ってるか」
「報告は入っている、女の部屋で恥をさらしたそうだな。当分週刊誌がうるさい、あの親爺にも困ったもんだ。対応を間違うと会社自体が恥をかく」
「恥だけで済めば安いもんさ」
「なんだと?」
「棚畑常務にはよろしく伝えてくれ、くれぐれも、対応を間違わないように」
そのまま津坂が黙り込み、高梨にももう用はなく、電話を切り、胃の内側に苦い不安を抱えたまま、また駅の方向に歩き出した。津坂に言われなくても、これが博打であることは分かっている。博打であるからには負ける可能性もある。もしこの賭に負けたら、夏実や長倉香澄の平和な生活が、次の日には簡単に姿を消してしまう。
タバコに火をつけ、煙を夜の空に向かって吐き出したとき、ポケットに入れた指に違和感が生じ、苦笑をこらえながら、高梨は舗道に立ちどまった。それは浅野やよいという女の子がよこしたメモ用紙で、茅ヶ崎でズボンを穿きかえたとき、迷いながらも新しいポケットに移してしまったのだ。
高梨は火をつけたばかりのタバコを、指で遠くへ弾き、手のひらにメモ用紙をまるめて、ライターで火をつけた。紙がしけっぽく燃えあがり、手の脂が焦げ、皮膚の焼ける臭気が高梨の絶望を気楽に否定する。父親に意味もなくタバコの火を押しつけられた子供の日の困惑が、今ごろになって、また高梨の感傷を苦くする。
突然、激しく胃が痛んで、津波のように高梨の常識を蹂躙し、唖然とする高梨の肩を重く舗道におしつぶした。圧力に抵抗したのは高梨の意識だけで、膝は激痛に屈伏し、みぞおちを両手で抱え込んだまま、高梨は意気地もなく道端にかがみ込んだ。貧血が脳の雑音を透明に凝固させ、痛む胃に対する愛着が高梨の生命力を、笑いながら激励する。嘔吐と激痛と怒りが目に涙をにじませ、舗道にかがみ込んだまま、ほんの二、三分、高梨は人生を放棄する陶酔に酔いしれていた。
クルマがなん台か通りすぎ、胃の痛みが引き潮のように通りすぎ、高梨は習慣としての希望に支えられ、感傷をふり切って、ゆっくりと腰をあげた。タクシーは見当たらず、手のひらにこびりついているメモ用紙の灰を払い、高梨は冷静に永福町の駅に向かいはじめた。いくら胃が痛んでも、酒を飲まずに過ごすには、東京の夜は少しだけ長すぎる。生きていくことが情熱なのか、ただの惰性なのか、覚悟を決めて、いつかは結論を出す必要がある。
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クルマの遠い音とか、クーラーの微妙な振動とか、それが眠りを覚まさない限り、ひじょうに心地よい。眠りにはレム睡眠とノンレム睡眠というやつがあるらしいが、本当はもう一つ、自分の眠りを意識しながら眠っている、催眠状態に似た眠りがある。躰は眠っていて、外部の音は聞こえていて、しかも自分の意思で妄想の方向をコントロールできる。直前まで見ていた夢のつづきに戻りたいと思えば、その中にも入っていける。そういう睡眠状態を学問的にどういうにせよ、起き出す必要のない時間を夢の中で過ごすことに、とりあえず罪のない平安を感じてしまう。それがたとえ事務所のソファの上であっても、高梨はその平安が、嫌いではなかった。
相変わらず躰に酒は残っているが、仕事もほとんど片づき、今日は夕方まで惰眠を貪れる。昨日は昼から銀行をまわって金をかき集め、祥子と大塚に約束のボーナスを支給した。夕方には矢島の事務所で最終の打合せをし、暗くなってからは二人で恵比寿と銀座と池袋をはしご[#「はしご」に傍点]した。事務所のソファに倒れ込んだのは朝の四時、矢島の『仕事』はまずまず順調だそうで、嘘だか本当だか、飲んでいる間じゅう高梨に莫大なボーナスを約束しつづけた。事務所用に新しいマンションも買ってくれるそうだし、夏には高梨の家族をハワイの別荘に招待してくれるという。金は帝都銀行から引き出し、その資金を競輪で十倍に増やすという構想は、酔っている間だけ、なぜか、非常に説得力のある提言だった。
ドアが開き、しかし高梨の目は開かず、意識的な眠りの中で『ハワイの別荘』を鮮明に描写していた。赤い夕日にそよぐ椰子、ヨットにビールに脚の長いビキニの女達、連想がそこで停滞してしまうのは、高梨の精神が貧しいからだろう。
足音がソファの前でとまり、女の匂いが鼻をかすめて、仕方なく、高梨は貪っていた眠りを意識の外側に開放した。
「ん、なーんだ、おまえか」
「別な女の人だと思ったの」
「今ダイアナ妃とデートしていた」
「幸せな人だね。パパみたいな歳になっても、そんな夢を見るわけ」
「お母さんには内緒だ、事務所に泊まるときは『いつも君のことを夢に見る』と言ってある」
学校の帰りらしく、夏実は夏用のセーラー服に学生鞄を持ち、左手の怪我のせいか、背中に紺色のデイパックを背負っていた。そういえば今日は土曜日で、この前夏実がひょっこり事務所に顔を出したのも、二週間前の土曜日だった。
時間は午後の二時、個人的には起きても起きなくても、どうでもいい時間だった。それでも高梨は頭に気合いを入れ、欠伸をしながらソファに身を起こした。二日酔いも大したことはなく、髭でも剃って顔を洗えば、じゅうぶん通常の社会生活に入っていける。
夏実が鞄をソファに置き、右手でデイパックの肩紐を外して、ぎこちなくバッグと躰を分離させた。まだ捻挫した左手は使えず、義理にも優雅な身のこなしとはいえなかった。
「どうだ、手はまだ痛むか」と、自分のデスクに歩き、タバコに火をつけてから、欠伸のついでに、高梨が言った。
「大したことない。お医者がね、若いからすぐ治りますって」
「今日は、小遣いか」
「着がえを持ってきたの、ママから言われたの。放っておくとパパ、安い下着をたくさん買うでしょう」
「今夜は帰ったのにな」
「ママ、最近苛々してるし、わたしに文句ばっかり言う」
「女の人には躰の都合がある……まあ、知ってるか」
「ママって更年期なのかなあ」
「俺の知るかぎり、そういうことはないと思うが」
夏実がバッグから紙袋を取り出して、サイドテーブルに置き、生意気な格好でソファに尻をおろした。背丈はじゅうぶん伸びているのに、躰全体の肉づきが華奢で、どうも女の色気がただよわない。子供のときの喘息が女性ホルモンを疎外しているとか、もしかしたら、そういう理由があるのかも知れない。
「パパ、今日から七月になったの、分かってる?」
「そうか、梅雨も早く終わってほしいな」
「そういうことじゃないよ、わたしの誕生日」
「うん、なんとかいうゲーム機だ」
「心配だなあ。最近パパ、家でもぼんやりしてる」
「忙しかっただけさ。仕事は片づいた、誕生日も夏休みの旅行も忘れてない。明日だって、おまえとディズニーランドに行こうと思っていた」
「あ、残念なの」
「どうして」
「もうすぐ期末試験でしょう、勉強しないとやばいんだよ」
「私立でか」
「私立のほうが大変なの。ふだんの成績が悪いと、大学にも推薦されないよ」
「そんなもんかな。まあ、勉強も、しないよりはしたほうがいい」
タバコをつぶし、それからサイドテーブルの紙袋を取りあげ、中を確かめてから、紙袋を持って高梨は洗面所に歩いていった。明日のディズニーランドは遠慮しても、どうせ今日の昼飯は予定している。夏実の期待に応えるためには、高梨も形だけは紳士に変身する必要がある。着がえを持ってきたのがそのための深慮遠謀とは言わないが、今日から七月と聞いて、高梨の気分も少しだけ夏用に変身したようだった。
洗面所で髭をそり、歯をみがいて、頭と顔を洗って着がえを済ませるまで、かかった時間は十五分だった。戻っていくと、夏実は高梨のデスクに場所を移していて、なにやら真剣な顔で机の上を片づけていた。
「男の人って、どうして片づけが下手なのかなあ」と、丸い目を少し寄り目にさせ、生意気に顎の先を尖らせて、夏実が言った。
「片づけはうまいんだがな、やらないだけだ」
「パパなんて一人で暮らせないと思うよ。もう少しママのこと、大事にすればいいのに」
「おまえが思ってるよりは、大事にしてる」
「そうかなあ、パパたち最近もめたでしょう」
「そういう覚えは、ない」
「嘘が下手なんだから。パパって気持ちが顔に出るの、今も誤魔化そうと思って、努力してるでしょう」
母娘だから、夏実と沙希子が似てしまうのは、誰の責任でもない。しかし今の夏実のせりふは、前にも沙希子から聞いた気がする。沙希子からも聞いたし、そういえば、長倉圭子にも指摘されたのではなかったか。
「パパたちのもめ事って、わたしの怪我のこと?」
「もめ事はないと言ったろう、お母さんがなにか言ったか」
「ママは言わない。あの人、結構しぶといもの。だけど雰囲気で分かるの。悪いのはクルマのほうなのに、わたしがぼんやりしてるからだって」
「おまえも運動したほうがいいと、そういう意味だろう」
「突然機嫌が悪くなったり、黙り込んだりさ。四十もすぎちゃって、むずかしい歳ごろなのかなあ」
「天気が自律神経にこたえるのさ。お母さんの調子、いつも夏にはよくなる」
「パパは相変わらず家に帰らない、わたし、今度だけは心配なんだよ」
椅子をデスクから離して、夏実が立ちあがり、首をかしげながら、部屋をまわってソファの横まで歩いてきた。夏実なりに高梨と沙希子の関係を心配する気持ちも、高梨だって、理解できなくはない。
「ねえパパ、夏休みの旅行のことだけど」と、うしろにまわって腰でソファに寄りかかり、高梨の濡れた髪にタオルを被せながら、夏実が言った。「わたし、北海道でもいいと思うの。帯広のさ、ママの叔父さんがやってた牧場」
「アメリカの西海岸じゃないのか。お母さんもヨーロッパの田舎がいいと言ってた」
「ママはパパと一緒ならどこでもいいの、熱海の温泉だって喜ぶよ」
「夏休みに、わざわざ北海道へか」
「ママが一番行きたがっているの、北海道だよ。ママの夢って、トラクターに乗ってトウモロコシやジャガイモの収穫をすることだって」
「それは牧場じゃなくて、農場だ」
「似たようなもんだよ、トウモロコシのとなりで牛や羊を飼えばいい」
「そのこと、おまえ、お母さんと相談したのか」
「ママはトウモロコシとジャガイモとカボチャを植えて、牛と羊と馬とカモを飼いたいんだって。鶏は顔が怖いから、好きじゃないって」
「そういうことではなくて、つまり、夏休みの旅行のことだ」
「だからね、一度みんなで帯広の牧場に行ってみない。ママ、喜ぶと思うな。それでパパも気に入ったら牧場を買えばいいの」
「おまえはどうする、牧場《まきば》の少女になるのか」
「わたしは朝早く起きるの、苦手だもの」
「一人で東京に残るのか」
「学校は調布の家から通える、春休みと夏休みだけ北海道で暮らすの。友達も連れて行ける。馬にも乗れて、海も近いでしょう。いい環境だと思うよ」
「お母さんがトラクターに乗って、俺が牛の乳をしぼって、おまえは春休みと夏休みだけ友達と遊びに来るわけか」
「冬は寒いものね。わたし、寒いのも苦手なの」
「おまえにだけ都合のいい話だな」
「そうかなあ、そういう生活ってママの理想だよ。毎日パパといられるし、夫婦のコミュニケーションも完璧だと思うけどな」
夏実が高梨の髪をかき分け、地肌に指を這わせて、頂点のあたりにふーっと息を吹きかけた。指先の肌触りや呼吸のリズムは、高梨の頭に白髪でも探している感じだった。
「コミュニケーションは出来るだろうが……」と、ゴムサンダルを床に滑らせ、ため息を胸の奥にしまって、高梨が言った。「牧場なんかで暮らしたら、すぐ話すことがなくなってしまう」
「お天気のこととか、野菜のこととか、内容はなんでもいいの。相手の体温みたいなものを感じられれば、女はそれで幸せになれるの」
「おまえ、そういう考え方、古いんじゃないか」
「パパって女の本質が分かってないよ。パパはいつも理屈を言う、女には理屈じゃない愛が必要なんだよ」
「暇になったらゆっくり考えてやる」
「北海道で考えればいいよ、そうしたらわたし、誕生日のプレゼントは白い馬がいいな。馬に乗れば運動になる、転んでも捻挫しなくなるよ。北海道に住めばいいことばっかり」
高梨に酒や都会のネオンが放棄できるなら、トラクターへの感情移入が可能なら、幸せになる方法はいくらでもある。理屈を離れた愛に人生を埋没させられるなら、神経だってここまで無為に胃壁を冒さない。
「北海道の件はあとで考えるとして、なあ、昼飯に行くか」
「残念でした、今日は早く帰るよ。期末試験の勉強をするの」
「最初にそう言えばよかった」
「最初に言ったじゃない、今日は着がえを持ってきただけ」
「そうか……寝ぼけていた」
頭のタオルを首までおろし、濡れた髪をうしろに撫でつけ、ついでに高梨は、肩に置かれた夏実の右手を、ぽんと叩いてやった。夏実の名案も検討する価値はあるのだろうが、人生のスタンスを冷静に考察するには、それに相応しい環境も必要だ。
夏実がソファを高梨の前にまわり、鼻と口を大きく曲げて、紺色のバッグに腕をのばした。高梨は夏実の肩にバッグをのせ、デスクの端に腰をかけながら、軽くタバコに火をつけた。食事や買い物に行かないなら、時間はずいぶん中途半端、髭を剃って頭まで洗って、もう一度ソファで眠り直すわけにもいかない。夏実が着がえを持ってきたことに文句はないが、手持ち無沙汰に過ごすこれからの時間を思うと、なんとなく気分が重くなる。
夏実が歯を見せずに、顎を尖らせて笑い、スキップを踏むように、一歩だけうしろに飛びのいた。
「ママがね、洗濯物はすぐ宅配便で送りなさいって。食事には野菜を多くとって、お酒も飲みすぎないようにって」
「言いつけはいつだって守ってる」
「わたしの誕生日も忘れないこと」
「みんな忘れない。そのうちおまえには白い馬、お母さんにはでかいトラクターを買ってやるさ」
デイパックの背中をのばし、顎だけでうなずいてから、偉そうにドアを押して、手をふりながら夏実が事務所を出ていった。傘を持っていないから雨ではないらしいが、肩の凝り具合からして、どうせ碌《ろく》な天気ではない。
高梨は夏実の姿が消えてから、三十分ほど事務所で時間を過ごし、覚悟を決めて街に出ることにした。寿司でも腹に入れ、それからテレビゲームというのがどんな敵か、偵察をする。洗濯物はまとめて宅配便に出し、時間があれば本屋に寄って、帯広が北海道のどの辺りか地図で見当をつける。土曜の遅い午後を一人で健全に過ごそうという自分が、高梨には滑稽でもあり、自慢でもあった。
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見わたしたところ、カウンターにはちゃんと客が入っている。『秀川』は女性誌のグルメページを騒がす店ではなく、大企業が接待に使う高級料亭でもない。サラリーマンが三々五々身銭で酒を飲む店だから、景気の影響は銀座や赤坂ほどではないはずなのに、それでも官官接待の自粛が商売にこたえる、と一応女将は愚痴を言う。
高梨は襖で仕切られた座敷に席をとり、津坂があらわれるまでの十五分ほどを、一本のビールで所在なく時間をつぶしていた。クーラーの風が北海道の冷気を連想させ、高梨の目に果てしないトウモロコシ畑を映し出す。躰は乾燥した透明な光を恋しがり、牧草の上を転げまわる皮膚の感触がグラスをにぎった指先に、奇妙な実感で這いあがる。しかし次の瞬間にはもう、腹についた贅肉の現実が、高梨の口に自嘲の笑いを押しあげてしまう。
津坂が店の気配をうかがうように、疲れた目で顔を出し、カウンターを迂回して直接奥の座敷にあがってきた。茶系の夏背広に趣味の悪いネクタイは男が社会の中に身をひそませる、一種の擬態なのだろう。今夜は右手に白いビニール袋をさげていて、その袋からは新聞紙の文字が透け見えていた。
袋をテーブルの脇に置き、おしぼりで顔の汗を拭きながら、津坂がわざとらしく、大きな咳払いをした。
「よくは知らんが……」と、女将にビールを注文してから、息苦しそうに上着を脱いで、津坂が言った。「おまえもぼろい[#「ぼろい」に傍点]商売をやるもんだぜ。そのうちいつか、塀の向こう側に落ちるんじゃないのか」
「一人では落ちないさ、落ちたら津坂さんに助け舟を出してもらう」
「分からんなあ、さっぱり分からん。常務が本当に金を用意するとは、思ってもいなかった」
女将がビールとジントニックを運んできて、その間だけ話を中断し、最初のビールを飲みほしてから、津坂がつづけた。
「まあ、とにかく、常務は高梨に任せるということだった。バブルのころは怪しい金も動いたらしいが、もう片づいたと思ってた」
「バブルがはじけて顔を出すスキャンダルもある……津坂さん、長倉圭子のことは、どれぐらい知ってる?」
「七丁目の店には一度だけ行ったことがある。お高く止まっていて、いやな女だった」
「向こうも品のない紳士は嫌いだろう」
「よく言うぜ。東横工業の横沢をパトロンにしておきながら、ほかにも男と関係があったそうだ。あの女が愛想をふりまいたのは地あげ屋とか詐欺師とか、アブク銭をにぎった連中だけさ。金を積めばだれとでも寝るという噂だった」
「津坂さんもためしに金を積んでみるか」
「頼まれてもごめんだぜ。あの女はいわゆる、さげまんというやつさ」
「本人が聞いたら気を悪くする」
「おまえも知ってるだろう、憲作社長も東横工業の横沢も、あの女と関係した男はみんな地獄を見てる。世の中には男の運を食いつくす女というのが、実際にいるもんだ」
「あんたも物好きな男だな」
「なんだと」
「そういう長倉圭子に鶴岡までわざわざ会いに行った」
津坂の右の眉がつりあがり、口の端が曲がって、汗っぽい吐息が、長く吐き出された。
「あれは、その、出張のついでだ」
「どうせ棚畑の命令で、な」
「だから、それが、どうしたよ」
「棚畑が長倉圭子にどんな用があるのか、知りたいもんだ」
「俺だって知りたいさ。だけど俺は、主義として、余計な詮索はしない」
「棚畑と横沢のつながりは?」
「いや……なあ高梨、なにが言いたいんだよ」
「津坂さんがどこまで知ってるのか、確信がない」
「最初から言ってるだろうよ、俺も今は常務の下で動いちゃいるが、それはみんな会社のためだ。裏で何が起こってようと俺には関係ないことだ」
「なにも知らないでそこまで動ける津坂さんも、考え方によっては、いい度胸だな」
焼き物と煮物が来て、ビールを追加し、津坂のグラスを満たしてやってから、高梨は黙ってタバコに火をつけた。津坂が棚畑啓一の腹心であることは、今日金を運んできたことでも証明される。しかし帝都からの融資や棚畑の思惑に、どこまで具体的な関与をしているのか。
「津坂さんも大野通商の営業部長、当然東横工業の横沢は、知ってたよな」
「そりゃあ、まあ、面識ぐらいあったさ」と、グラスを口に当てたまま、疲れたように目を閉じて、津坂が言った。「だけど仕事じゃ関わってないぜ。うちは地道な健康食品会社だ、ああいう大博打には手を出さない。そのお陰で俺の立場も安泰だったわけさ」
「安泰なら結構だが」
「どうかしたか」
「棚畑の動きをおかしいと思ったことは?」
「そりゃあ、なあ」
「勝彦を追い出すためには荒技《あらわざ》も仕方ないか」
「だって、あいつを野放しにしておいたら、会社がつぶれてしまう」
「それと長倉圭子や横沢豊成に、どんな関係がある?」
「詳しいことは知らん、なにか、個人的な因縁でもあるんじゃないのか」
「個人的な因縁、な」
「俺はサラリーマンだぜ。上役が女を探せと言えば探す、金を運べと言えば運ぶさ。おまえみたいな極楽トンボとちがって、こっちはきれい事を言える立場じゃないんだ」
閉じていた津坂の目が、一瞬見開かれ、色の悪い頬に赤みがさして、唇が半開きのまま気まずそうに固定された。
「高梨、横沢が、なにか……」
「塀から出てきたあと、どうするのかと思っただけだ」
「そりゃあ、ああいう奴のことだ、どこかに金ぐらい隠してるだろうよ」
「金塊を山の中に埋めてるとか」
「ああ、そんな噂もあったかな」
「大野通商に投資したとか?」
「冗談を言うなよ。そんな金が流れてたら、とっくに地検が入ってるさ」
「知ってるのは長倉圭子だけかな」
「うん、いや、なるほど……」
「だから棚畑も彼女を追いかけている」
「どうして」
「だれだって金は欲しいだろう」
「しかしなあ、高梨、それなら尚更、俺たちには関係ない話だぜ。上ではどこの世界だって危ない金が動いてる。その金で太る奴もいれば塀の向こうに転がる奴もいる。俺も子会社で冷や飯を食ったが、その間に得た教訓はな、火事は消防署に任せておけってことだ」
「津坂さん、変わったな」
「おまえには分からんさ、サラリーマンにはサラリーマンの哲学がある。踏まれても蹴られても、とにかく定年まで生き延びることだ。定年まで生き延びたら、あとはお国がちゃんと面倒をみてくれる」
「今回は最後の賭け、か」
「うん、いや……」
津坂が困惑した視線を、遠慮っぽく高梨の顔にすえ、鼻で呼吸をしながら、ゆっくりとビールを飲みほした。沙希子や夏実が言うとおり、気持ちが顔に出やすいタイプなら、高梨のはったりなんか、もう津坂に見抜かれている。
「ま、いずれにしても、こんな役目は次の人事までだ」と、肩の凝りをほぐすように、大きく首をまわして、津坂が言った。「俺としては正直、早く片づいてもらいたいよ」
「富塚の件はどうなってる?」
「どうだか……」
「会社も大変だろう」
「勝彦が弁護士をつけたという噂もあるが、今さら手遅れだ。あの親爺も都合のいいとき、都合のいいトラブルを起こしてくれたぜ」
「会社の恥だけで済めば、な」
「そういうことだ……さて、なあ高梨、金は持ってきたわけだし、そろそろ常務への土産、預かろうじゃないか」
箸を投げ出した津坂に、高梨は目だけでうなずき、内ポケットから茶封筒を取り出して、ひらりと津坂の膝に飛ばしてやった。中身はもちろん帝都関係のコピーだが、高梨のほうが全面的に棚畑を欺くわけではない。深くたどれば東横工業の詐欺事件にまで行きつくことは、棚畑啓一が一番よく知っている。
「なんだか知らんが、こんなものが一千万なあ」と、封筒の口に指を入れ、コピー用紙を引き出しながら、鼻を鳴らして、津坂が言った。
「津坂さん、それの内容、知ってるのか」
「俺がどうして」
「念のために訊いてみた」
「知るわけないだろう、知っちゃいないが、子供の使いじゃあるまいし……」
「子供の使いでいたほうが安全な場合もあるさ」
用紙を開きかけていた津坂の手が、途中でとまり、肩に力が入って、疲れた目に寒そうな困惑が浮きあがった。
「おいおい、あまり、脅かさんでくれよ」
「津坂さんに借りがあったことを思い出した」
「俺に?」
「最初の夜のことは、あれは、こっちの勘違いだった」
「あんなこと、今さら……」
「棚畑という舟がどこまで安全か、確信があるのか。今舟に乗ってしまったら、沈むまで降りられないぞ」
汗でも噴き出したのか、津坂が手の甲で顎の下をぬぐい、切りあげたはずのビールを注ぎ足して、一息に飲みほした。倫理や正義にこだわる男でなくても、家へ帰れば津坂だって、たぶん善良な父親なのだ。
「俺のほうは、もう、覚悟を決めている」と、ズボンの膝で手のひらの汗をふき、ジンの匂いに神経をさまして、高梨が言った。「もともと堅気ではないしな。その気になればトラックでもタクシーでも、なんでも転がせる」
「保谷でおまえの顔を見たときから、いやな予感は、していたが……」
「あんたは十年も子会社で我慢していた、俺もあんたに偏見をもっていた。だけど津坂さんに博打は似合わない。人間はだれでも、見かけとは違うもんだ」
「子会社で十年……」
「本社に戻れなくても、耳をふさいでいれば、失業の心配はない」
「高梨……」
「電話で、津坂さん、言ったろう」
「うん?」
「高く飛びあがりすぎると、着地したときに足の骨を折る」
落ちくぼんだ津坂の目が、しばらく高梨の顔にとまり、それから肩が波打って、手のコピー用紙が開かれないまま、茶封筒の中にすっと押し込まれた。
「まったく、おまえが顔を出したときから、いやな予感がしていた」
「これからのトラブルにはもっといやな予感がする」
「……」
「火事は消防署に任せておけ」
「……」
「なあ、津坂さん?」
「や、その、俺はなにも聞かなかったことにする。封筒の中は見てない、おまえの言うことは分からん、常務の思惑も知らん。俺には娘が二人いて、まだたっぷり家のローンが残っている」
最後のビールを飲みほし、ちらっと高梨の顔に視線を向けてから、上着を乱暴につかんで、津坂が出口のほうへ後ずさった。
「とにかく、それじゃ、そういうことだ。これから役人の接待があるんで、先に帰る。渡すものは渡した、受け取るものは受け取った。あとのことは高梨サイドでやってくれ。今度の問題については、俺は一切関知しない」
そのまま背中をまわし、座敷の襖をあけて、言葉も会釈もかけず、肩をすぼめて津坂が戸口に消えていった。これ以上関係を持ちたくないのは高梨も同様、しかし本当に縁が切れるかは、また別な問題だった。
津坂の気配が店から消え去るまで、高梨はその場所で呼吸をととのえ、おしぼりで額のあぶら汗をぬぐい、それからビニール袋をつかんで、ゆっくりと腰をあげた。
カウンターの客は三人ほど、若い板前が焼き場で竹串をつかい、女将がレジの横で頭の禿げた客にビールを注いでいる。その女将に目で合図をし、電話でハイヤーを靖国通りに呼んでから、高梨は直前まで使っていたとなりの座敷の戸を、静かに引きあけた。
狭い部屋は冷房が効きすぎ、仕方なかったとはいえ、閉めきりでいた自分の迂闊さを、高梨は激しく反省した。グラスに注いだビールにも、テーブルに並べた料理にも、長倉圭子はまるで手をつけていなかった。
「クルマが来るので、しばらく待ってくれ」と、部屋に入ってクーラーを切り、圭子の向かい側に座って、高梨が言った。
うなずきもせず、返事もせず、襖からの風に救われたように、圭子が細い顎を店の雑音にふり向けた。
「よかったわね、わたしに深入りしなくて」と、手の甲に顎をのせながら、無表情に視線を戻して、圭子が言った。「わたし、さげまんらしいから」
「そんなことまで、聞こえたか」
「わざと聞かせたくせに」
「津坂があそこまで言うとは、思わなかった」
圭子が唇をうすく笑わせ、スーツの肘に手のひらを重ねながら、背中をのばして、ちょっと膝をくずした。
「悪い男ね、あなたがこれほど悪人とは思わなかったわ」
「半分は君の責任だ、君に関わると男はみんな錯乱する」
「男の人は錯乱が好きなのよ。心の中では錯乱を望んでるものなの、平凡であることに罪の意識を感じてるみたい」
頬でも暖まったのか、圭子がかすかに首をかしげ、切れ長の目尻をゆがめて、ほっと息をついた。その目に自嘲の気配はなく、怒りも嘲笑も諦念も、感情らしいものはなにも見えなかった。
「高梨さん、知っていた?」
「うん?」
「わたしの兄が茅ヶ崎の病院を訪ねたこと」
「いや……」
「彼、昔からお節介な男だったわ」
「奇麗すぎる妹を持つと、兄妹《きょうだい》として、心配なんだろうな」
「責任を取らないお節介はただのエゴイズムよ。今度会ったとき、きつく言ってやらなくてはね」
高梨は喉の乾きを我慢しきれず、圭子のグラスを取って、ぬるいビールを急いで喉に流し入れた。
「君には、どうも、最初からふり回された……」と、圭子の左手の指に視線を固定し、わきあがる自己嫌悪に蓋をして、高梨が言った。「富塚がもってきた金の出所が、まさか君とは、な」
圭子が小さく唇をかみ、膝の上で手のひらを重ねながら、華奢な顎を静かに胸の側へ引き寄せた。セットされた髪が額の前でゆれ、うすい耳たぶで真珠のイヤリングが、冷たい色に輝いた。
「勝彦が渡すはずはない、棚畑でもなかった。もちろん富塚に身銭を切るほどの余裕はなかった」
「彼には三百万渡したの、あとの二百万、どこへ行ったのかしら」
「どうせ裏金融の利子にでも消えたさ、今度のトラブルで、富塚も自己破産ができる」
「みんな無駄になってしまった」
「なぜ最初から、俺に言わなかった?」
「わたしが勝彦さんの力になってくれと言ったら、高梨さん、動いてくれたの」
「それは……」
「わたしがあなたに頼む理由だって、説明できなかったわ」
「それでも自分の名前を出せば俺が動くという、確信があった?」
「あったわよ」
「ああ、そう」
「あなたはそういう人だもの」
「……」
「お嬢さんのことは謝る、でもわたし、富塚さんがそこまでするとは、思わなかった」
「富塚が君に泣きつき、金を出させ、その一部を俺にまわした。そのくせあいつは俺に、百万以上の活躍を期待した」
「分かってはいたけど、みんな、遅すぎたのよね」
「まだ棚畑の件が残ってるさ」
「それは、だって……」
圭子の繊細な尖った肩が、すぼまるように輪郭をくずし、首筋の疲れた色の皮膚に、青く血管が浮きあがった。視線はしっかり高梨の顔を捕らえていたが、その目に疲労以外の意味は読み取れなかった。
「だって、わたしに、何ができるの」
「やり方しだいさ」
「わたしにそんな気力は、残ってない」
「仕掛けたのはフェミナ化粧品、そのフェミナに帝都や棚畑が乗っかった……横沢にも役割があったよな」
「知ってるなら、それでいいじゃない」
「君の口から聞きたいんだ。フェミナが欲しいのは『バイオル』だけ、赤字のアスレチッククラブやお荷物の子会社に用はない。子会社は横沢が買い取る約束だったのか」
「そうらしいわね」
「しかし銀行は天下の帝都、怪しげな泡風呂屋に、直接十億の融資はできない」
「所詮は帳簿上のことよ」
「十億は東横工業への持参金、それで誰の手も汚れないはずだった……直前に横沢が、捕まらなければな」
圭子の長い指が筋を浮かべてそり返り、瞬間に力をなくして、あとはしぼむように、ふるえながら手のひらに包まれた。
「君と勝彦のことは……」
圭子が一度あげた視線を、すぐ自分の膝に戻し、蝋細工のような白い頬に、かたくなな陰りをただよわせた。高梨は言葉をつづける気にならず、閉じてしまった圭子の手と、皿と箸置とテーブルの染みを、黙って見つめていた。
「彼ね、あれでも昔は、素敵に見えたのよ」と、両手をテーブルの下に隠し、やはり表情のない口調で、圭子が言った。「大学生で、お金持ちで、赤いスポーツカーに乗っていたわ。田舎の女子高校生なんか、簡単にのぼせてしまう」
「確信はなかった、君と勝彦のことは、考えたくもなかった」
「あのままあなたが香澄の父親を横沢と思い込んでくれたら、わたしとしては、それでよかった」
「やつの大学は仙台、その期間は君も仙台にいた……偶然とは思ったけど、偶然でないほうが、すべての事実に理屈が合う」
「彼も同じ先生にピアノを習っていたの」
「勝彦が、ピアノを、な」
「腕はわたしから見ても、褒められなかったけどね」
「香澄さんは……」
高梨の顔に昂然と視線を戻し、眉をしかめながらテーブルに指をかけて、高梨の顔を見つめたたまま、ゆっくりと圭子が微笑んだ。
「香澄の父親は香澄が産まれる前に死んでいるわ。子供にとって死んだほうがいい父親なんて、いくらでもいるじゃない」
「それは、そうだ」
「高梨さんのことだから、鶴岡までは行くと思った。でも香澄のことまで知られるとは思わなかったわ」
高梨はまたビールで唇の渇きをいやし、圭子の視線を避けるためだけに、タバコに火をつけた。勝彦がすでに存在していないという仮定は、香澄や圭子にだけでなく、勝彦本人にとっても幸いだろう。
「だいたいの構図は分かってる」と、部屋の外に煙を吹き、カッターシャツの襟を広げて、高梨が言った。「責任は取れないけど、できれば、確認させてほしい」
「さっきも言ったでしょう」
「うん?」
「責任を取らないお節介は、ただのエゴイズムだって」
「君にだって予感はあったはずだ」
「なんのこと?」
「俺を事件に巻き込もうと決めたのは、君のほうだから」
「そうだったわね、茅ヶ崎の家であなたの顔を見たときから、こうなることに、予感はあったかも知れない」
「最初は金のためかと思った。どういう経緯でか勝彦が君に泣きついた。君が憲作氏にジギタリスを飲ませる、勝彦がバイオル化学の社長におさまる、君が銀座に『けいこ』を出す。そして富塚が、どこかでその仕組みを感づく、ただそれだけのことだと思った。俺には関係ないし、関係があっても証明はできない。富塚さえ狂わなければ、この事件から手を引こうと思っていた」
圭子が左の肘をテーブルにかけ、高梨が使ったグラスに手をのばして、ビールを一口だけ、うすく唇に流し込んだ。白い頬にも血の気がよみがえり、目にもいくらか、気の強い光が戻っていた。
「一つだけ、聞いておきたい……」
圭子の唇がわずかに引きしまり、問い返すような視線が、軽く高梨の顔をうかがった。
「憲作は君と勝彦の関係を、知っていたのか」
「知っていたわよ」
「知っていて、君と……」
「わたしと、なに?」
「つまり……」
「昔から鈍感な男だったけど、あなた、相変わらずねえ」
唇を引きしめたまま、圭子が膝の位置をかえ、肩までの髪を頬にかけたまま、感動のない目で、じっと高梨の顔を見おろした。
「憲作はわたしの生活を心配しただけ。わたしがお料理をつくって、二人で少しお酒を飲んで、いつもそれだけ」
「しかし……」
「そうでなかったら、あのとき、わたしがあなたと寝たと思う?」
「……」
「困った男ねえ、あなたと暮らしてくれる奥様に、感謝しなくてはね」
「その……」
「まだわたしに、貸しがある?」
「君は、どうして、憲作を……」
「勝彦さんは社長の器ではなかった、憲作も後継にしないと決めていた。でも勝彦さんはどうしても社長の椅子に座りたかった。わたしには彼の希望をかなえてやる義理があった、それだけのことよ」
「それだけのこと……か」
「あなたには分からない、勝彦さんにも分からなかった。憲作にとって勝彦さんでも自分の子供、親は子供を嫌っても、憎みはしないものだわ。その理屈が最後まで彼には分からなかったのね」
しばらく高梨の顔を覗いてから、ふと圭子が視線をはずし、座りなおして、膝の上に浅く青いハンドバッグを抱えあげた。
「わたし、帰っていいのかしら」
「そのためにクルマを呼んである」
「これからどうなるか、あなたには分かっているの」
「分かってるさ」
「そうなの」
「勝彦は代表権を失って、富塚は刑務所で頭を冷やす。そして君は、予定どおり静かな生活をつづける」
「それだけ?」
「たぶんな」
「フェミナのほうは?」
「役人とか銀行とか大企業とか、どうも俺とは、相性が悪い」
「高梨さん……」
「気はすすまないが、君が持ってる物を使って、もう一仕事するしかないだろう。棚畑や帝都にだけいい目を見せるのは、やっぱり腹が立つ」
一つ肩をすくめて、呆れたように笑い、高梨の顔に目を細めながら、圭子がゆっくりと腰をあげた。
「またあなたに借りができたみたいね」
「鈍感で悪人というイメージを変えてくれれば、俺は、それでいいさ」
圭子が座敷口に進んで、青いハイヒールに足を入れ、表情を変えず、毅然と出口に向かいはじめた。高梨はビニール袋を取りあげ、店のサンダルをつっかけて、ふり向かずに歩く圭子のあとから急いで階段をのぼっていった。
階段が呆気なく靖国通りに投げ出され、クルマの喧噪がふくれあがり、排気ガスの混じった暗い空気が、圭子と高梨を慈悲もなく建物側に押し返す。
「新宿っていやな街だわ、わたし、この街だけは好きになれなかった」
ハイヤーはもう車線の端に横づけされていて、運転手もドアの前で待ち構えていたが、その五メートルほどの距離を、高梨の足は、どうしても進んでいかなかった。
「あなたと難しい関係にならなくて、本当によかった」と、顎で会釈をし、ハイヤーのほうに歩きながら、圭子が言った。
高梨も仕方なく、目だけで相づちを打ち、人混みをぬって車道側に渡っていった。パールブルーのスーツを着た圭子は、男たちが足をとめるほど鮮やかで、いくら圭子が嫌っても、その鮮やかさは新宿の夜の雑踏に、目眩《めまい》がするほど美しかった。
運転手が後部のドアを開き、圭子が足をとめて、ハイヒールの踵をずらしながら、肩で高梨をふり返った。
「高梨さん、これ以上わたしの人生には、入ってこないでね。悪い男ではないけど、あなたはわたしを疲れさせるわ」
唇を淡々と動かす圭子の目に、感情のゆれはなく、悲愴感も後悔も軽蔑も、情熱はなにも感じられなかった。小さい圭子の顔を潤んだネオンが囲み、クルマのヘッドライトが緩慢に流れて、場違いなほど爽やかな風が、慇懃に圭子の前髪を乱していく。
「君には迷惑をかけない」
「香澄に届けさせるわ」
「うん?」
「横沢から預かっている物、それでいいわけでしょう?」
「うん」
「わたしが持ってること、どうして分かったの」
「棚畑だって懸念があったから君を探していた。十億は大野通商経由で東横工業に渡り、棚畑はきれいな『バイオル』だけを持ってフェミナに鞍替えする……話がうますぎるよな」
「女には鈍感なくせに」
「その書類は棚畑と横沢の間に帝都が入った、子会社の売買契約書か」
「ただの念書、法的にどれほどの効力があるのか、わたしには分からないわ」
「まあ、棚畑の背任ぐらいは立証できる……だけど、なぜなんだ?」
「え」
「勝彦に渡せば、もしかしたら、やつの首が繋がったかも知れない」
圭子が靖国通りの逆光の中で、うっすらと笑い、腰を屈めて、背中からハイヤーの後部座席に沈み込んだ。高梨は運転手を制して、車道に踏み出し、圭子の横に、ぽいとビニール袋をほうり込んだ。
「餞別《せんべつ》だ」
「相変わらずの気取り屋ねえ」
「横沢の金なんか、どうせ残ってないだろう」
「彼の財産は会社とマンションだけ、集めたお金は政治家とお役人に吸い上げられたわ。それぐらいの理屈、なぜみんな分からないのかしら」
「君自身は青山の不動産屋に借りがある」
「あら」
「五十万ほどらしいが」
「だって……」
「君の責任ではないんだ、富塚が、踏み倒した」
口を結んだまま、圭子が歯を見せずに笑い、寒そうに腕を組んで、シートに深く寄りかかった。
「わたしね、鶴岡に帰って子供にピアノを教えて暮らすわ。絵葉書ぐらい出すけど、高梨さん、遊びには来ないでね」
高梨が言葉を探している間に、圭子がドアを閉め、高梨の視界を黒いハイヤーが、フラッシャーをつけて冷静に通りへまぎれていった。クルマが走り出す間際も、走り出してからも、圭子は一度もうしろをふり返らなかった。
高梨はハイヤーが明治通りをこえ、テールランプが視界から消えるまで、しばらく歩道の縁石に立ちつづけた。人声やクラクションや拡声器の音が、不意によみがえり、高梨の重心を紙くずのようにゆすりはじめる。
ポケットからタバコを取り出し、くわえようとしたとき、若い男の肩がタバコを飛ばして、意外に遠く、歩道のまん中あたりまで転がしていった。高梨は自分のタバコが他人の足で踏まれていく様子を、感動もなく眺め、躰の向きを変えて秀川の階投をおりはじめた。膝に力はなく、重心にも血管にも力はなく、ゴムサンダルの底が不安定に、淡々とコンクリートの階段を踏んでいく。店内からタバコの臭気が押しよせ、埃と黴と酒の匂いが、ゆらめきながら高梨の皮膚に襲いかかる。目の前が白くなり、階段の壁にもたれて、埃と黴と酒の匂いに、高梨は怒りもなく悪態を吐きかけた。
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ハイドランジアとかいう西洋紫陽花が、道路側に一輪だけ青い花を咲かせている。湿度は高く、紫陽花は青く、重い空気の中を白い蛾が優雅に飛んでいく。浦安に家を建てたときも高梨の貢献は金の工面だけ、設計も施工もすべて沙希子の弟にまかせてしまった。五十坪しかない敷地をどう細工したところで、たかは知れていた。出来あがった建物はひたすら無難な二階建てで、住み心地がいいとも、悪いとも思わない。せまい庭には不思議なバランスで生《な》り物の木が植えられ、五年たった今、塀の内側をへたな果樹園のような風景に仕立てている。今は夏蜜柑が困るほど道路にはみ出しているが、この夏蜜柑はしばらくすると、無農薬ジャムと草木染めの材料になる。
二階の東側の部屋にはカーテン越しに白っぽい照明が映っていて、期末試験をひかえた夏実の奮闘が間接的にこぼれ出している。五年前は小学生だったものが、なぜかもう高校生になってしまった。高梨はめずらしく乾いている門扉をあけ、玄関から居間に進んで、ガラス戸をいっぱいに引き放った。夏実も沙希子も起きていて、その二人の顔が目の前にない環境が、なんとなく悲しい気分だった。
高梨は脱いだ上着をソファに放り、物音が聞こえるバスルームに、だらしなくスリッパを引きずっていった。脱衣場には沙希子のジーパンと半袖のカットソーが脱がれていて、壁のフックにはバスタオルとタオル地のバスローブが掛けてあった。
声をかけてから、アルミサッシのドアを開けると、髪を洗っていた沙希子が、うしろ向きにひらりとシャンプーの手をふってきた。肩も背中も湯気の中でなめらかに濡れ、その背中をシャンプーの泡が豊満に流れていく。昔より腰まわりが膨らんでみえるのは、角度のせいではなく、湯気の反射でもなく、高梨と暮らした時間のせいだった。
「あなたがこんなに早く帰るなんて、思っていなかったの」
「ゆっくり入ってくれ。君の風呂を覗けるのは、俺の特権だ」
「今夜も酔ってるの」
「いや……中途半端な時間に帰ってきて、自分が困っている」
沙希子の濡れた肌に未練を感じながら、苦笑と一緒にドアを閉め、ダイニングに戻って、高梨は冷蔵庫からビールの小瓶を取り出した。網戸から入ってくる空気は久しぶりに夏の感触で、高梨はビールを片手に居間に歩いていった。
電話が鳴り、一瞬迷ったが、出てみると相手は高梨の母親だった。ざわついた背景音の向こうから、低い声でなにか囁きつづける。母親が送話口を手でおおっている風景が、高梨には目に見えるようだった。
「へーえ、あんたもたまには、早く帰るんだね」
「夜警じゃないからな……かあさん、最初はなんと言った?」
「十時二十三分」
「もう十時五十三分だ」
「そうじゃないよ、ご臨終の時間。あの人がとうとう逝《い》ったんだよ」
忘れていたが、そういえば高梨の人生にも、そういうことはあったのだ。軽蔑と無感動と苛立たしさと、他の感情を探してみても、躰の中には、なにも見えなかった。
「相変わらず忙しそうだね」
「今は、ちょっと、な」
「葬儀屋は手配したよ、通夜は明日で、葬式は明後日《あさって》になるかねえ」
「葬式なんか、やるんだ」
「世間体があるもの」
「かあさんも大変だな」
「登美子と旦那が仕切ってくれる、あの二人は騒ぎが好きだからね。沙希子さんの実家は、どうする?」
「通夜は明日か」
「明日が仏滅で明後日が大安、縁起がよくて結構なことだよ」
「明日の朝、俺から電話をしておく。沙希子の実家も事情は知ってるわけだしな」
「あんたはどうなのかね、仕事が忙しいのは分かるけど」
「明日、顔ぐらい出すさ」
「明日かい……」
「今夜は忙しいんだ」
「明日でもいいけど、世間体もあることだしね」
「かあさん……」
「ええ?」
「無理をしないで、疲れたら、寝たほうがいいぞ」
「分かってるよ。でも最後の一仕事だから精いっぱい愛想をふりまくつもり。それじゃ、とにかくそういうことで、連絡だけしておくよ」
母親が電話を切って、高梨も受話器を置き、息苦しさに、思わず深呼吸をした。胸の動悸と背中の悪寒に気がついたのは、息を吐き出し終わった、その瞬間だった。にぎっているビールの小瓶が大瓶以上に重く感じられ、ベランダからの風がへんに生臭く、体重を支えている膝にも不可解な寒気が走っていた。
突然耳が熱くなり、頭からは血の気がひき、襲ってきた吐き気に、高梨は必死にトイレへ駆け込んだ。我慢がきいたのは、そこまでだった。便器を見たとたん、もう、胃が一気に痙攣を開始した。嘔吐物が堰《せき》を切って食道を逆流し、胃液が喉の浅い部分をいやな臭気で焼いていく。涙と鼻水の洪水が高梨の観察力を停止させ、分かっていたのは、嘔吐物の中に、大量の黒い血が混じっていることだけだった。
安らぎのようなもの、人なみに躰が反乱を起こした安堵感のようなものが、虚勢をしりぞけ、高梨はトイレにうずくまって、便器を抱えたまま嘔吐感に身を任せつづけた。その時間が五分だったのか、十分だったのか、確かめる気にはならなかった。
胃の痙攣が徐々に力をなくし、高梨はトイレットペーパーで血洟をかんでから、立ちあがり、トマトケチャップのような汚物が便器に吸い込まれていく様子を、無感動に眺めやった。目は直前の一メートルほどしか見えず、貧血と目眩は依然として執拗だった。
とびちった血と嘔吐物をペーパーで拭き、二度目の水を流し、戻ってきた意地に押されて、高梨はトイレを出た。全身が軽くなったような、忘れていた血液があわてて血管をめぐりだしたような、熱くて頼りない気分だった。喉に胃液の違和感が残っている以外には、頭も心臓もしぶとく動いていた。
ダイニングに戻り、バスローブ姿で腕を組んでいる沙希子に、空のビール瓶を蹴飛ばしながら、高梨が言った。
「ビールを、こぼしてしまった」
「あなた……」
「天気が悪いせいだ」
「顔色はもっと悪いわ」
「床を拭かなくてはいけない、雑巾、どこにある」
流しに踏み出した高梨の腕を、横から沙希子の手がつかみ、湯気の匂いと一緒に高梨の前にまわってきた。
「床はわたしが拭きます。あなた、気分が悪いの」
「たまには、気分ぐらい悪くなる」
「ふだんとは違うわ、横になる? お医者を呼びましょうか」
「ただ吐いただけだ。もう少しビールを飲んで、あとは胃薬を飲めばいい」
沙希子の腕をふり切り、洗面所に歩いて手と顔を洗い、うがいをして鼻水をかみ、首にタオルを掛けてダイニングに戻る。沙希子はもう床を拭きおわっていて、腕組みをしながら腰でテーブルに寄りかかっていた。
高梨は沙希子の視線に見守られながら、冷蔵庫に歩き、ドアを開けて、またビールの小瓶を取り出した。耳鳴りと貧血はつづいていたが、自分がまっすぐ歩いていることに自信はあった。胃の中に異物が残っていないことにも、喉が胃液で焼けていることにも、ちゃんと自覚はあった。とりあえず生きていればいいという瞬間が、誰にだって、たまにはある。
「あなた、そういうことをしてると、死ぬわよ」と、居間に歩く高梨を目で追いながら、抑揚のない声で、沙希子が言った。
「摂生《せっせい》はしている、君が思うほど俺は破滅型の人間ではない」
ソファに腰をおろし、ビールを口に含んでみたが、胃が受けつけず、高梨はリモコンでテレビのスイッチを入れ、サイドテーブルに長く足を投げ出した。テレビではスポーツニュースをやっていて、しかし画面も音も、高梨には遠い世界のことだった。
沙希子が正面にまわってきて、バスローブのポケットに両手を入れながら、左の肩を高梨の前に突き出した。
「この前の約束、破るのね」
「この前の、なんの約束だ」
「隠し事をしない約束、困ったことがあれば打ち明ける約束、問題を一人で抱え込まない約束」
「つい言いそびれた、それだけのことだ」
酸っぱいビールを無理に飲みくだし、胃のうしろをクッションで押しながら、高梨がソファの中にずり下がった。
「夏実に誕生日のプレゼントをねだられた、そのことを君に、言わなかった」
沙希子が目の前に迫ってきて、気づいたときには、高梨の手から、ビールの小瓶が敢然と姿を消していた。石鹸の残り香が高梨の顔をおおい、沙希子の視線が高梨の耳をふさいで、不安な空間に、神経が、一気に舞いあがった。
「ビールを返してくれ」
「バカな人、子供より始末が悪いわ」
「ビールを返してくれ、俺は一口だけビールが飲みたい。この家で俺は、ビールも自由に飲めないのか」
「あなたのビールだから? あなたが自分で買ったビールだから? 躰を壊すのもわたしを困らせるのも、みんなあなたの自由だから? あなたはこの十二年間、わたしの気持ちを一度も考えたことがない」
沙希子が腕を突き出し、ビール瓶を高梨に見せつけ、三度ほど呼吸をしてから、視線を高梨の顔にすえたまま、瓶の口を下にかたむけた。黄色いビールが冷たく高梨の胸を流れ、シャツににじんで、泡と染みがズボンの腰に冷たく拡がっていく。
「俺が、おまえのために……」
沙希子の頭がゆれ、高梨の腕を割って、濡れた髪が高梨の顎の下に、重くくずれ込む。ビールの冷たさに沙希子の体温が重なり、形も決まらないまま二人の躰がぶざまにもつれ合った。高梨のシャツをにぎりしめる沙希子の指が、可笑しいほど力強い。
「あなたがわたしのために、人生を狂わせたの? わたしや夏実がいるから、仕方なく働いているの。あなた、そういう人ではなかったでしょう」
ソファのどこかからビール瓶がころげ出し、床の上をずいぶん遠くまで、音もなく転がっていく。高梨と沙希子のどちらが悲しいのか、区別はつかなかった。しかし沙希子がここまで力の強い女だったと、今までなぜ、高梨は気づかなかったのだろう。
「あなたが無理をしてることは分かっている。あなたはわたしとの結婚を後悔しているの」
「そんなもの、していない」
「誤魔化さなくていいの、自分に嘘を言わなくていいの、あなたはずっと後悔している。夏実の父親になってしまったことがあなたには負担なの」
「それは、違う。俺が後悔していないことは君が一番よく知ってる。君以外の女を愛したことは一度もない。夏実のことも、ずっと愛している」
「あなたは、あなたが……」
バスローブの肩がゆれ、沙希子の顔が高梨の胸から離れて、音のない空間が、高梨と沙希子の間に苦しいほどの距離で拡がっていく。沙希子の目は開いたまま涙をため、頬と鼻の先には、湯あがりのせいではない、気の強い赤みが射していた。
「あなたはなん度もわたしを愛してると言った。調布で会ったときから、結婚するまで、結婚してからも、あなたはいつも、愛してると言いつづけた。でもあなたが一度でも訊いた? 愛してるかとわたしに訊いた? 十二年間、あなたは一度も訊かなかった」
「俺は、でも、君を愛している」
「一方的に愛せばいいの? わたしが仕方なく、子連れの三十女だから仕方なくあなたと結婚したと思ったの? わたしが自分を安売りしたと、あなた、そう思ったの?」
「俺の気持ちが、君には、分かっていない」
「分かっているわ、あなたの気持ちはずっと分かっている。わたしを愛していて、夏実も愛してることは分かっている。分かってないのはあなたのほうなの。わたしも夏実も、あなたに負けないぐらいあなたを愛しているの」
沙希子の手が高梨の膝にとどき、手のひらの重みが強引に高梨を浸食して、意地でとどめていた高梨の涙を、簡単に目の外側へ解放する。
「あなたの気持ちも夏実に対するあなたの遠慮も、わたしにはみんな分かってる」と、高梨の肩に腕をまわし、指先に力を入れながら、沙希子が言った。「でも、もう、いいでしょう、気は済んだでしょう。あなたが我儘を言ってもだれも責めないわ。思いどおりにすればいいの、わたしを怒っていいの、なぜ夏実を生んだのか、なぜあなたを待たなかったのか。わたしのことを、男を見る目のない馬鹿な女と罵《ののし》っていいの。あなたに遠慮をされると、わたしも、自分がどうしていいのか分からなくなる」
「自信が持てない、なぜ君に対して自信がないのか、自分でも分からない」
「わたしも自信はないのよ、あなたと暮らすうちに不安のほうが大きくなった。あなたは今からでもやり直せる、若い女の子とでも結婚できる」
「気持ちは変わってない、高校生のときから今まで、君に対する気持ちは変わっていない」
「それならあなたの勝ちでしょう、わたしはあのころより、たくさんあなたを愛してるわ。今はあなたより、わたしのほうがあなたに惚れているの」
沙希子の手のひらがずれて、高梨の腰にまわり、力強かった腕に十二年間なじんだ、無邪気な気弱さが戻ってくる。バスローブからのぞく胸も汗ばんでいて、ビールと石鹸の匂いが突然ソファをおおいはじめる。胃の痛みも不快感も、知らぬ間に逃げ出し、伝わるのは沙希子の皮膚の柔らかさと、静かな息づかいだけだった。高梨は沙希子の涙を唇で吸い、肩に腕をまわして、躰ごと、すっぽりと膝の上に抱えあげた。腰まわりの肉づきも、首筋や目尻の皺も、なにもかも、気が遠くなるほど愛しく感じられる。
「シャワーを浴びなくては……」と、沙希子の乱れた髪をかきあげ、上気している頬を両手で挟んで、鼻の先に額をあてながら、高梨が言った。「シャワーを浴びてから、どちらがたくさん惚れているか、もう一度議論をやりなおす」
「あなたの気持ちが楽になれば、わたしの気持ちも楽になる」
「特別なことはないんだ、歯車がずれて、心棒がすり減っている。でも君がそばにいてくれたら、すべてをやり直せる」
沙希子の匂いを躰から遠ざけ、ごろりとソファを離れて、高梨は濡れたシャツとズボンのベルトを、手荒く腹から引き剥がした。
「天気がよくなれば、みんな元に戻るさ」と、短く天井に息を吹き、風呂場に歩きながら、高梨が言った。「今年は夏休みを取る。空気が乾いていて、光が眩しくて、酒の匂いがしない土地へ行く」
脱衣所についたときには、もうズボンを脱ぎ終わっていて、高梨はまとめた服を洗濯かごに放り、風呂場のドアを開け、シャワーを捻ってタイルの床に座り込んだ。流れ出した湯に枯れ草の匂いが混入し、子供のころに遊んだ多摩川の土手や深大寺の雑踏が、記憶の中を脈絡もなく通りすぎる。家に母親が帰らない日の心細さ、十円玉を握りしめてアイスキャンデー屋の自転車を追いかけた埃の舞う畑道、父親の顔色をうかがうだけの無口で貧相な食卓、ひたすら友達が来ないことを願った長屋住まい、どうでもいいそれらの記憶が、交錯し、積み重なり、四十二歳の高梨を泣き虫で神経質な、気の弱い子供へと追い立てる。肥厚《ひこう》しているはずの悲しみが、日向の匂いのするシャワーの湯に、年齢を逆に回してさらさらと溶けていく。
ドアが開いて、白い裸の足がタイルの模様をふさぎ、湯気を乱しながら、長い指が乱暴に高梨の髪をすくいあげる。沙希子の膝が高梨の背中に触れ、シャワーの勢いが弱められて、沙希子の熱い胸がうしろから高梨の両肩を抱え込む。その腕の安心感が高梨の泣き虫をなぐさめ、眠りの中にいるような、心だけが昇華していくような、華奢な浮遊感を提供する。自己嫌悪と充足感と、その両方が高梨のもので、極端の両側から二つの良心が、じっと高梨を観察する。
沙希子が手のひらにシャンプーを受け、低く鼻唄を歌いながら、無邪気に高梨の髪を掻きまわす。重く甘ったるい泡が高梨の視覚を遮断し、鼻と口が沙希子の乳房に塞がれて、知らぬ間に高梨は、沙希子の捕虜になる。自由が奪われることに、これからも奪われつづけることに、陶然と高梨は抵抗を放棄する。
沙希子がなにか言い、顔をあげた高梨に、シャワーのしぶきがなめらかに襲いかかる。
「子供をつくりましょう」
「うん?」
「子供よ」
「夏実が、まだ、起きている」
「そういう意味ではないの、本当の子供のこと。あなたが決めてくれればいいわ」
「しかし……」
「夏実に遠慮はいらない、あの子はそういうことに無神経だから」
「しかし……」
「あなたはお父様と違うでしょう、立場は似ていても愛情の形は別でしょう」
「そういうことではなく、つまり、あれだ」
「なあに」
「だって……」
「わたしは大丈夫よ」
「しかし……」
「自信はある、お医者も保証している。あなたの憶病が治ればみんなが幸せになれる、家族の理屈は単純なものなのよ」
沙希子の指が高梨の耳をふさぎ、頭をシャワーの湯が流れて、それが沙希子の体温なのか、湯の温かみなのか、区別が、ひどく曖昧になる。後悔はどこかに残っていても、沙希子の指が強引な柔らかさで高梨を安心感に導いていく。沙希子が、高梨の知らない、大きくて温かくて力の強い生き物だったことに、戸惑いながら、高梨は羞恥もなく順化する。
高梨の頭にまた子供のころの記憶がよみがえり、もつれ合いながら、保育園での学芸会や桜の木の赤い毛虫を映し出す。場面が日の当たる縁側に変わり、枯れ草の丹前にくるまれた高梨が、平和な不安を感じながら母親の膝に抱かれている。それが生まれて半年めの記憶であること、そしてそれ以前の記憶にさかのぼれる予感も、余裕も、高梨はちゃんと感じている。
記憶の中で、立ちどまり、テープを逆に回して、高梨は安心した速度で自分の成長を眺めはじめる。沙希子の指が高梨の首と背中をまさぐり、高梨は沙希子の腰に腕をまわして、頬を乳房に押しつける。多摩川の土手を夏実が白い馬で疾走し、北海道の草原で、高梨がアイスキャンデー屋の自転車を追いかける。
「なあに」
「うん?」
「今、なにか言った?」
「子供のころのことを、思い出していた」
「どんなこと?」
「忘れた」
「あなた、白髪がふえたみたい」
「俺の白髪は君がふやした、君の小皺は俺がふやした……お互いさまだ」
沙希子がシャワーをとめ、ドアをあけて、高梨の背中にぴしりと手のひらの音をひびかせる。高梨は脱衣所に追い立てられ、躰に巻きつくバスタオルに、喜んで身をまかせる。沙希子の腕はおかしいほど力強く、高梨はどこまでも無力で、子供の自分を、高梨は意識して現在の時間に引き戻す。乾いたタオルが皮膚に心地よく、沙希子の強引さが遠慮もなく神経を休ませる。
バスローブを羽織って、沙希子が脱衣所を出てゆき、高梨も腰にバスタオルを巻きながら、濡れた足で居間に戻っていった。テレビでは相変わらずスポーツニュースをやっていて、今夜もプロ野球の視聴率がサッカーを上まわったという。
「ええと、なにを話してたっけな」
「とぼけても無駄よ」
「君の小皺のことだっけ」
「訂正なんか認めない……あなた、飲むなら牛乳にしなさいね」
「そうだったよな、子供のころは君のほうが、偉かったよな」
ソファに座っている沙希子から、距離をおいたまま、高梨はわだかまっている胃を、ちょっとゆすってみた。頭の中心で針のようなものが揺れているが、胃も肺も位置は正常で、呼吸も脈も、とりあえずは動いているようだった。床のビール瓶はなくなっているから、バスルームへ来る前に沙希子が片づけたのだろう。
高梨は腕をのばして、ソファの背もたれから上着を取りあげ、ポケットにタバコとライターをまさぐった。便器にあふれるほど血を吐いたくせに、タバコや酒に、まだ懲りない未練が残っていた。
「君、タバコを吸っていいかな」
「困った人……」
「やっぱり、まずいか」
「そうではないの。そんなこと、訊かなくてもいいという意味なの」
沙希子がソファを立ち、バスローブの襟を合わせながら、ガラス戸に歩いて網戸を一杯に引き払った。大きい風が渡ってきて、沙希子の髪を吹き抜け、高梨の鼻にまた懐かしい枯れ草の匂いを飛ばしてきた。沙希子のくるぶしは逞しく体重を支え、ふくらはぎには素直な形に筋肉が盛りあがっていた。
高梨は部屋の中でタバコに火をつけ、スリッパをゆすっている沙希子のうしろに、くわえタバコで近づいた。
「久しぶりね、タバコの匂いをかぐの……」
「今夜だけ我慢してくれ」
「わたし、やめろとは言わなかったわ」
「うん……」
「夏実の喘息を心配して、あなたが勝手にやめたんじゃない」
「そうだったかな、昔のことで忘れてしまった」
沙希子の視線の先には夜の庭があり、部屋の明かりに色の濃い紫陽花が、くっきりと浮きあがっている。圭子の茅ヶ崎の庭にも、鶴岡の実家にも大株の紫陽花が植わっていたが、あれだけの枝ぶりになるのに、この家の紫陽花は、どれだけの時間がかかるのか。紫陽花の鮮やかな色に、ふと長倉香澄の清潔な横顔が思い出され、雑踏にまぎれいく圭子の華奢な肩が思い出され、沙希子には見えない角度で、高梨は小さく、首を横にふった。
「夏実、まだ起きてるかな」と、胃に痛みの名残りを感じながら、飛んできた羽虫に煙を吹いて、高梨が言った。
「頑張っているみたいね。高校のころ、あなた、あんなに勉強した?」
「俺はしなかった、勉強は君のほうができていた……そのせいだろうな」
「なんのこと」
「今でも君に頭があがらない理由さ」
口を結んだまま沙希子が頬で笑い、高梨の指からタバコを抜いて、唇を丸めながら、気取った手つきで空吹かしさせた。
「わたし、あなたが思ってるより不良だったのよ。タバコも夏実ができて、やめただけ」
「騙されたな、いい家のお嬢さんには、不良が多い」
「あなたが勝手に騙されたの」
「そうだったかな」
「あなたはなんでも勝手に決めるのよね」
「済まないが、夏実に支度をさせてくれ」
「支度って」
「お袋から電話があった、親父が死んだそうだ」
「あら?」
「三十分前か、四十分前か……」
「どうして言わなかったのよ」
「言おうと思っていて、忘れてしまった」
「困った人……」
「いいだろう?」
「なにが」
「一緒に、調布へ、さ」
「あなたって、本当に、困った人……」
沙希子が肩でため息をつき、タバコを高梨の手に戻してから、階段にバスローブの裾を忙しなく乱していった。そういえば沙希子はスポーツも得意だったはずで、夏実の運動神経がにぶいのは、やはり相手のせいだろう。
高梨は短くなっているタバコを一口吸い、火のついたまま、塀の外へ大きく弾き飛ばした。それからサンダルを突っかけて庭におり、紫陽花の若い花を一輪、茎の途中から折り取った。しばらく帰っていないが、調布の家に紫陽花は咲いていないはずだった。
階段にスリッパの音が戻ってきて、部屋の中に確固とした存在感がふくらみ、その圧力を背中に感じながら、また一本、高梨はタバコに火をつけた。錯覚か、視力のせいか、空にはめずらしく星のまたたきが覗いていた。街燈のまわりを線香花火のように羽虫が飛び、植え込みのどこか、足元の近くから、なにか虫の音も聞こえていた。かさなった枝葉を風が重くゆらし、青草と海の匂いが混沌と高梨の耳を吹き抜ける。
居間には白く蛍光灯の光があふれ、テレビからはニュースを読むアナウンサーの声が平和な音量で流れてくる。どこかに脆《もろ》さを感じる平和ではあっても、夏実や沙希子の存在感が不安を相殺し、気弱な高梨を無自覚に勇気づける。
高梨は手折った紫陽花をバスタオルにはさみ、白い馬にのってトウモロコシ畑を疾走する夏実に、そしてトラクターの上から呑気に手をふってくる沙希子に、牛の乳をしぼりながら、気恥ずかしく手をふり返した。
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底本
単行本 日本経済新聞社刊
一九九六年九月一七日 第一刷