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枯葉色グッドバイ
樋口有介
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カーテンを指先でおしのけ、外の雨を眺める。産業道路をはさんだ向こうに羽田空港の明かりが霞んでいる。雨はベランダの手すりを濡らし、物干しのラックには激しく雨滴が伝っている。
このまま部屋を抜け出そうかと、ふと弱気になる。覚悟は決めているはずなのに首筋が強張《こわば》り、ひどく咽《のど》が渇く。レインスーツの下には汗がにじんで、その汗がもう冷たくなっている。しばらく街灯にけぶる雨を眺め、やはりひき返せないことを、あらためて自分に言い聞かせる。
カーテンから指をはなし、軍手に被われた両指を屈伸させる。レインスーツのポケットに文化包丁の感触をたしかめ、部屋に首をめぐらす。六畳の洋室に二段ベッド、その下段にパジャマの足がとび出している。上段は空いていて、暗いアシストライトが部屋の壁をセピア色に染めあげる。
踵《きびす》を返し、ゴム底靴を窓からベッド傍《わき》に移す。少女は右足をべッド枠の外にはみ出させ、右腕も布団の外に投げ出している。襟元のボタンがはずれ、セピア色の照明に少女の細い首が艶《なまめ》かしい。半開きの唇からは気楽な寝息がもれて、サイドの髪は大人っぽく頬に乱れている。
ベッド傍に膝をかがめ、少女の寝息をうかがう。布団には花柄のカバーがかかり、その向こうの壁には月めくりのカレンダーが貼ってある。今日は五月十八日、五月二十一日の部分にハート形の印がついているのは、なんの理由だろう。
少女の寝息がとぎれ、咽に息を飲む声がわだかまる。見開かれた少女の目が、驚いたようにセピア色の闇を見つめる。少女が口を開くより一瞬早く、軍手の指を少女の咽首にかける。少女の足がベッドの枠を蹴り、腕がレインスーツの胸を突きあげる。布団の内から少女の体臭が拡散し、咽からひゅーっと、隙間《すきま》風に似た息がもれる。
少女が抗《あらが》っていたのは、せいぜい二分ほど。まず腕の力が抜け、足がベッドの下に落ち、白目で空を睨《にら》んだまま肩が枕の横にめり込む。叫びかけて思いとどまったような形の口から、舌の先がのぞく。その少女の口に顔を近づけ、呼吸の有無をたしかめる。もう少女に息はなく、そのときになってやっと、少女の首から軍手の指を離す。人間があまりにも簡単に死ぬ生き物であることに、ふと嫌悪と不安を感じる。
ベッドの枠につかまりながら、腰をあげ、呼吸をととのえる。掛け布団は足元に蹴とばされ、枕はよじれてパジャマの上着は少女の胸の下までめくれている。セピア色の照明に投げ出された少女の肢体に、怒りに似た欲望が湧く。軍手をはめたままの手で少女の目蓋《まぶた》をとじさせ、口の涎《よだれ》をぬぐう。それから右手の軍手をはずし、素手で少女の腹をなでる。少女の肌はなめらかで温かく、皮膚には汗の感触が残っている。
パジャマのパンツに指をかけたとき、部屋の外で物音がする。我に返り、急いで軍手をつける。全身の毛穴が粟立ち、ドアに歩きながら文化包丁をとり出す。包丁の刃にはタオルが巻かれていて、それをていねいに解く。包丁を順手に握り、タオルを二重巻きにして柄と拳《こぶし》を縛り合わせる。ヤクザ映画のビデオで覚えた方法で、こうしておけば包丁も手から離れない。すでに少女を殺してしまった以上、あとは成り行きに任せるしか仕方ない。
ドアの前に立ち、廊下の物音に耳を澄ませる。誰かがトイレにでも起きたのか、ダイニングのほうで足音がする。すぐにとび出して片づけてしまうか、それとも相手がベッドへ戻るのを待つか。
一度足音が消え、待つまでもなく、スリッパの足音が部屋に近づき始める。足音はドアの向こうでとまり、ノックの音がひびく。ノブが回って、ドアが外側に開かれる。中年の女が部屋に顔をのぞかせ、足が踏み込まれる。意識を集中し、冷静に、女の横顔に包丁をふりおろす。女が顔を向けて目を見開く。口も大きく開いたが、声は出さず、廊下の側によろける。片頬から血を飛ばしながら、女がいやいやをするように、顔の前で手をふる。その手を包丁で払い、刃先を胸に突きたてる。女が何か叫び、ダイニングのほうへ後ずさる。女の胸から包丁が抜け、レインスーツに血が噴きかかる。抜けた包丁を腰に構え、女の腹にタックルをくらわす。なんのつもりか、女が包丁の刃をにぎる。女の手から小指と薬指が離れ、床に落ちる。腹からも大量の血が噴き出し、傷口から排水口のような音がもれる。女はすぐ床にくずれ、背中を丸めてうずくまる。その女の後頭部に、力いっぱい包丁をふりおろす。がつっと、手にいやな衝撃が伝わる。
ダイニングをはさんだ向こうの部屋で、また物音がする。部屋から明かりがあふれ、レインスーツを血まみれに照らす。逆光が大きくゆれ、そのなかに人影が浮かぶ。思考の力は借りず、包丁をふりかざし、影に向かって突進する。ゴム底靴が床を鳴らし、ダイニングの椅子が膝に当たる。逆光の影に向かって包丁をふりかざしたまま、その影に倒れ込む。やっと事態に気づいたのか、影が中年男の声を発する。中年男が腕をふり、レインスーツの肩を押し退《の》ける。体勢をたてなおし、男の太股を包丁で突く。男がわめきながら、部屋の内に逃げる。包丁をふりたて、男を追う。蛍光灯の明かりに満たされた部屋に血しぶきが舞う。中年男が部屋の隅にうずくまり、頭を抱え込む。腕、肩、首筋、頭頂と、かまわず包丁をふりおろす。男がなにか言っているが、声は聞こえない。包丁をふるう度に筋肉の裂ける手応えがあり、骨の感触がかたく手のひらをしびれさせる。
男の体勢から防御の意図が消え、ごろんと床にころがる。男を馬乗りにまたぎ、首の後ろに包丁を突きたてる。ごりごりっと、刃先がぼんのくぼに沈む。男の背中に腰掛けたまま、しばらく深呼吸をくり返す。ドレッサーの鏡に血まみれのレインスーツが映り、突如吐き気に襲われる。それからまた深呼吸をくり返し、男の首から包丁を抜く。ふーん、二時四十八分かと、なんとなく壁の時計を眺める。濃紺のレインスーツは赤紫色に染まり、寝室からダイニングに向かって血が川のように流れている。包丁は真ん中あたりで刃が曲がり、刃こぼれも鋸《のこぎり》状に波をつくっている。切れ味の悪さには気づいていたが、千二百円の安物ではなく、三千五百円の出刃にすればよかったなと、少し反省する。
手を縛っていたタオルをほどき、包丁とタオルをベッドに放る。腰をあげ、ダイニングに歩きながら血に濡れた軍手をはずす。軍手を床に捨て、ポケットから新品の軍手をとり出して手につける。
ダイニングを横切り、廊下に倒れている中年女の死体をまたぐ。それから少女の部屋へ入り、壁のスイッチをまさぐる。夜が明けるまでにはあと二時間、その二時間の過ごし方を考えると、悪寒のような期待に、くらりと目まいを感じる。
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神を信じよ。
神を讃えよ。
罪人は悔い改めよ。
神を恐れよ。
神を讃えよ。
ハレルヤ。
ハレルヤ。
ハレルヤ。
スピーカーをとおして、そんな説教が一時間も流れている。途中にはギターの生演奏がはさまり、フォークロック風のリズムで賛美歌がうたわれる。噴水前広場には何百人もの人間がうずくまり、おとなしく説教や賛美歌を聞いている。群衆はすべてホームレス、若い牧師が「ハレルヤ」と腕をふるう度に、ホームレスたちもおとなしく腕をふりあげる。集会を主催しているのは『神の子の門』とかいう宗教団体で、説教や賛美歌を聞かせたあと、炊き出しと称する食糧配給をする。配給される食糧がいつも焼き肉弁当である理由は、『神の子の門』が韓国の教会だからだろう。
広場の喧騒から離れたベンチに腰掛け、椎葉明郎《しいばあきお》はペットボトルの焼酎をなめる。十一月の陽射しがレインコートの背中に心地よく、うっとりと欠伸《あくび》がもれる。牧師の説教は退屈で通俗、しかし弾き語りのボーカルは声が澄んでいて、化粧気のないロングヘアが遠目にも清々しい。食糧配給を待つホームレス以外にも見物人がとり囲み、代々木公園の噴水前広場には気だるい熱気があふれている。
咲き残ったバラのむこうからヤスオがやって来て、椎葉のとなりに座る。茶髪の頭にCDのヘッドホンをのせ、カーキ色のパーカーにジーンズとスニーカー、どこにでもいるアンチャンだが、ヤスオも一カ月前から代々木村の住人になっている。
「ねえねえ、椎葉さん……」リズムをとるように肩をゆすり、ヤスオが馬面《うまづら》の顎《あご》を間延びさせる。「あいつらが配る飯って、どうしていつも焼き肉なんすかねえ」
「おまえはどうして顔が長いんだ」
「えーえ?」
「そういうのを愚問というんだ」
「椎葉さんの言うこと、難しいや」
「ヤスオが難しいことを訊《き》くからさ」
「俺はね、なんで焼き肉弁当しか食わせてくれないのかって、それが……」
ヤスオがトウモロコシでも齧《かじ》るように、もごもごと爪をかむ。
『神の子の門』の宣伝が終わって、囲みがくずれる。うずくまっていたホームレスがゾンビのように立ちあがる。拡声器の声が列をつくれと命令し、弁当の配給がはじまる。一般の見物人も囲みをとき、遊歩道や芝生へ散りはじめる。
「俺、韓国のキリスト教なんて、嫌いっすよ」
椎葉は小型のペットボトルから焼酎をなめ、ふわっと欠伸をする。
「ヤスオが宗教に詳しいとは知らなかったな」
「だってアメリカのキリスト教なら、ハンバーガーとかフライドチキンとか、コーラだって配るじゃないすか」
「ロシアのキリスト教ならジャガ芋だけか」
「ジャガ芋だけ?」
「ホームレスにキャビアは配らないさ」
「それじゃイタリアのキリスト教だと、スパゲティーだけっすか」
「インドのキリスト教ならカレーだけだろうな」
「やっぱ、キリスト教も本場はアメリカっすよ。賛美歌だってラップでやるし、牧師もアメリカ人っすから」
ヤスオが口をだらりと開き、肩をゆすりながら前に身をのり出す。代々木公園を住居にするホームレスは四百人前後、そのほとんどはテント小屋付近にたむろし、炊き出しの列には並ばない。集まっているのは都内に分散して暮らす連中で、週に一度の給食を楽しみにやって来る。地元の住人が敬遠する理由は牧師の説教が高尚すぎるのと、毎度の焼き肉弁当に飽きたせいだろう。
散会した集団から小柄な女がせかせか歩いてきて、ベンチの前に足をとめる。女が焼き肉弁当のパックをヤスオにさし出す。
「ああ、母ちゃん、俺、いらねえよ」
灰色の皺《しわ》顔に表情もつくらず、女がヤスオに弁当のパックを突きつける。名前を小林さんといい、一カ月前に浅草から流れてきて、母子で公園に住みついた。浅草に住んでいたなら隅田川土手や上野公園のほうが近いだろうに、しかしホームレスにも居住地を自分で選ぶ権利はある。
小林さんに、ヤスオが手振りをまじえて顎をふる。
「母ちゃんな、たまには寿司でも食わせてくれよ。俺、焼き肉なんか飽きちまったよ」
なおもパックをさし出す母親を、ヤスオが肘《ひじ》で横につき放す。小林さんは一言も声を出さず、またせかせかとテント小屋のほうへ歩き去る。
椎葉はレインコートのポケットからタバコの吸止《すいさし》をとり出し、欠伸をかみ殺して、火をつける。
「おまえのお袋さん、物静かな人だな」
「あれね、頭がおかしいんす。親父が首を吊ってから、ずーっとあんな感じっすよ。でも前は口やかましい母ちゃんだったから、俺は今のほうが楽っす」
「この村の連中はみんな今のほうが楽さ」
「俺、前から渋谷に住みたかったんすよ。それで母ちゃんを連れて、こっちへ引っ越してきたわけ。やっぱ渋谷は女がいいし、街もお洒落《しやれ》っすから」
ヤスオがヘッドホンからの音楽に合わせるように、身をよじってリズムをとる。付近をうろつくときも腰でリズムをとっているが、ヤスオのプレーヤーは壊れている。
三口だけ吸ったタバコを足元にすて、椎葉はポケットから別の吸止をとり出す。広場に集まっていたホームレスはすでに四方に散り、歩道の縁石《えんせき》で弁当を開く者もいれば、公園からひきあげた者もいる。『神の子の門』もあと片付けをはじめ、演壇や横断幕を信者がマイクロバスに積み込んでいる。
「椎葉さん、ほらほら、見てくださいよ。噴水の横を歩いてるミニスカートの女……」爪をかみながら頭をふり、馬みたいな顔で、ヤスオが口の端に泡をにじませる。「ねえねえ、あの女、いい足してますよねえ。やっぱ女は渋谷が一番っすよ。くそっ、あんな若い女と一発、きつーくやりたいっすよ」
もごもご喋《しやべ》るヤスオを無視し、椎葉は腰をあげる。このベンチは一般人用で、住人がいつまでも占拠していてはルール違反になる。
ヤスオをベンチに残して、テントのある西門の方向へ歩きはじめる。ホームレスが住みついている『村』には三つの区分があり、最大のものは公園南通りに沿った柵の内側、それと同規模の集落が明治神宮との敷地を区切る正門横にあって、椎葉のテントは西門内の小集落にある。
陽射しのある芝生をさけ、公衆トイレの裏から林の暗処《くらみ》に入る。日陰の内は空気が冷たく、落ち葉の腐臭にのって細かい羽虫が飛んでいく。
ケヤキの大木の陰からマリさんが顔を出し、威嚇《いかく》的に笑いかける。もう何年か村に住んでいるオカマのホームレスで、歳は五十すぎ、ずんぐりとしたガニ股にサイズ二十八センチのハイヒール、髪はオカッパ風で鷲《わし》っ鼻《ぱな》の厚化粧、薄汚れたワンピースに毛皮のハーフコートを羽織っているところなんか、土建業者の仮装を思わせる。
「あーら椎葉ちゃん、もう教会の炊き出しは終わったわけ」
「韓国人は優しいよな」
「冗談じゃないわよう。あいつら、日本を焼き肉だらけにして、文化侵略を狙ってるんだから」
「本当かよ」
「そうよう、むかし豊臣秀吉に攻められたことまで、ずっと恨んでるのよう」
「奥の深い話だ」
「朝鮮戦争で得したのも日本だけだとかってね。あたしはまだ三十六だから、昔のことはよく知らないけど」
マリさんが三十六歳というのもすごい発言で、世間では犯罪の部類だろうが、村では誰も気にしない。住人のなかには天皇陛下のご落胤《らくいん》もいるし、織田信長の生まれ変わりもいる。椎葉を拾ってくれたトメさんなんか、イギリスに留学していたころ故ダイアナ妃と寝たことがあるという。
椎葉はポケットをまさぐり、ペットボトルをとり出して、残り少ない焼酎をなめる。
西門の方向へ歩きかけた椎葉の前に、マリさんがいかつい肩を割り込ませる。
「そんなことより、ねえねえ椎葉ちゃん、たまにはあたしと遊んでみない?」
「夢みたいだな」
「手なら三百円、口でやったら五百円、千円出してくれれば、もっとすっごい技を見せるけど」
「全財産が四十五円しかない」
「あら、やだーっ、ほーんと? 噂どおりの貧乏人なのねえ」
「正しいホームレスだろう」
「ばっかバカしい、声をかけただけ損しちゃったわよう。貧乏人のホームレスって、始末が悪いったらありゃしない」
椎葉はマリさんの傍《わき》をすり抜け、ペットボトルをポケットに戻して、歩きながら声をかける。
「マリさん、最近村に住みついたヤスオってやつ、知ってるか」
「知ってるわよう。馬が整形手術に失敗したような、長い顔の子でしょう」
「あいつがいい女と一発やりたいと言ってた」
「あーら、最初に言ってよう。ねえねえ、あたし、顔の長い男って好みなのよう。あの坊や、どこかで見かけた?」
「さっきまで噴水のそばにいた。キンタマが重すぎて、どうせまだ動けないさ」
マリさんの大型ハイヒールが、がしっとコンクリートを蹴り、野太いだみ声が椎葉の背中に追風をかける。
「だけど椎葉ちゃん、たまには髭《ひげ》ぐらい剃りなさいよう。それにその汚いレインコート、いい加減にしたら? 言いたくはないけど、あんた、まるでホームレスみたいじゃないのよう」
テント小屋へ向かって林を歩きながら、そういえばこのレインコートをいつから着ているのだろうと、ふと椎葉は自問する。明治神宮の北参道でトメさんに拾われてから、そろそろ一年、そのときはもう今のレインコートを着ていて、下はコーデュロイパンツにとっくりセーターだった。ズボンはそのままだが、セーターはTシャツと上着にかわり、靴はビジネスシューズから古い作業靴にかわっている。上着はオレンジ色でレインコートは黒、ズボンは焦げ茶色で作業靴は泥色、好意的に見ればレゲエ風のコーディネイトだろうが、なんのことはない、上着も靴もゴミ出し場から拾ってきただけのことなのだ。
サイクリングロードで一度林がとぎれ、それを越えると三十戸ほどの小集落が見えてくる。外装はすべて青いビニールシート張り、小窓のついたテントあり、センセイの家のように板戸に南京錠をつけたテントあり、周囲に鉢を並べて花を咲かせているテントもある。正門傍や公園南通り沿いより集落が小さいのは、縄張りが狭いからで、西門地区の住人は生活の糧を笹塚や下北沢方面に求めている。
椎葉は自分のテントに戻って、ロープに干してある下着とタオルをとり込み、思い出してとなりのテントをのぞく。トメさんのテントは四畳半ほどの大きさがあり、東と南に巻きあげ式の小窓がついている。今はたれ幕がさがり、薄暗いなかでトメさんが横になっている。枕元には焼酎のビンと赤飯弁当のパック、段ボール箱には衣類が几帳面に整理され、ラジカセから流れる女の声がやかましい。
トメさんが大儀そうに躰《からだ》をおこし、布団の上に胡坐《あぐら》をかく。風体はまるで布袋《ほてい》様、禿げあがった頭に二重顎の赤ら顔、重ね着したセーターの上にラクダの腹巻をまいて、肩から毛布をかぶっている。半白の眉毛は長く目尻にかぶさり、鼻からも白い鼻毛がのびている。もう十年もここにテントを張っているから、村では長老の部類だろう。
椎葉は出入り口に腰をおろし、ラジカセのスイッチを切る。
「オヤジさん、具合はどうだい」
「へっ、鬼だって霍乱《かくらん》するってから、俺も人間様だって証拠よう」
「焼酎が飲めれば全快かな」
「もう心配ねえ、今夜は仕事に出られらあ」
「助かった。金がなくてマリさんに貧乏人だと罵《ののし》られた」
「へっ、マリも落ちぶれたもんだぜ。あれでも昔は二丁目で幅きかせてたのによう。よりによっておめえに声かけるなんぞ、白内障でも患ったかあ」
トメさんがシジミのような目を見開いて、ごぼっと咳をする。肩の毛布がずれ、腹巻の太鼓腹が波をうつ。この二日間熱が出て腰が痛むとかで、トメさんは仕事を休んでいた。仕事は深夜から朝にかけての廃品回収業、リヤカーを押して住宅地のゴミ出し場を巡回し、家電品や家具やアルミ缶を回収する。椎葉はそのリヤカー押しやアルミ缶の踏みつぶしで手間賃をもらっているから、トメさんに仕事を休まれると、必然的に失職状態になる。
「それじゃオヤジさん、門が閉まる前にリヤカーを表に出しておくよ」
「そうしてくれや。明日の朝は資源ゴミの日だからよ、上原あたりで掘り出し物が見つかる気がすらい。なあ、俺の勘に、いつだって狂いはねえからなあ」
うんうんと二度うなずき、椎葉は勝手に、トメさんのビンから自分のペットボトルに焼酎を移す。トメさんは命の恩人で仕事の上司、テント小屋の世話もしてくれたから大家みたいなもので、金がないときは焼酎もただで飲ませてくれる。
「仕事に出るのは一時ごろかな」
「ああ、そんなとこだなあ」
「出掛けるときに声をかけてくれ、どうせテントで寝てるから」
「俺もまたひと寝入りすらあ。なあ椎葉よ、今時分こんだけ天気がいいと、明日の朝は冷えるかなあ」
トメさんに手をふり、腰をあげて、テント小屋の裏手にまわる。そこにはトメさんのリヤカー、センセイの台車、小林さんが持ってきた幌なしベビーカーが並んでいる。代々木公園はすべての門を午後七時で閉める建前になっていて、商売道具の出し入れはその時間を避けておこなわれる。
リヤカーのロープと幌を点検し、それを引いて西門から運び出す。通りをわたってリヤカーを代々木小公園側の植え込みに入れる。その場所は暗黙の了解で『トメさんのリヤカー置き場』になっているらしく、これまでリヤカーが持ち去られたことはない。一年前、北参道の植え込みで倒れているところを、椎葉もこのリヤカーで拾われたのだ。
リヤカーを始末し、テント村に戻る。ちょうど日溜まりになったテントの前でセンセイが新聞を読んでいる。名前は古川、書籍回収業の営業は夜中から朝まで、暇な時間はデッキチェアに胡坐をかいてずっと新聞を読んでいる。そのインテリぶりからセンセイと呼ばれるのではなく、センセイは四、五年前まで、本当に中学校の先生だったという。
センセイが顔の前から新聞をおろし、会釈で椎葉を呼び寄せる。黒縁のメガネが光ってうすい唇が酷薄そうに結ばれる。デッキチェアの傍《そば》には七輪が出され、アルマイトの鍋がかかっている。
「椎葉くん、さっきトメさんのテントをのぞいてみたら、まだ寝ていたねえ」
「オヤジさんはいつだって寝てます」
「あれは風邪じゃなくて肝臓だなあ。焼酎と残飯だけじゃ誰だって躰をこわす。少しは野菜を補給するように、君からも注意してやりたまえ」
「そうですね」
「私達は社会からも家族からも見放された除け者的存在だ。この不景気で失業者は三百五十万人、ホームレスだって三万人を超えてしまった。日本にいる不法滞在外国人は二十六万人、そのくせ国家はODAで毎年一兆円もの金を外国にばらまいている。犬や猫だって、椎葉くん、この国では合わせて千八百万匹も飼われてるんだよ」
ふーん、犬と猫が千八百万匹もいたら、毎日の食費が大変だろうなと思ったが、それがトメさんの風邪と、なんの関係がある。センセイは朝から晩まで新聞を読んでいるせいか、会話のなかにやたらと数字をはさみたがる。
NHK側通用門の方向から饅頭《まんじゆう》笠があらわれ、遊歩道のまん中を飄々《ひようひよう》と歩いてくる。時代劇に出てくる雲水のようないで立ちで、名前をスダくんといい、頭陀《ずだ》袋のなかには一冊の『マンガ般若心経入門』が入っている。
スダくんが足をとめて饅頭笠をはずし、挨拶もせずに七輪の鍋に鼻を寄せる。坊主頭に日灼け顔、額と目尻の皺は深いが、歳はまだ二十八だという。
「そうか、今日は焼き肉弁当の日か。あいつら、スポンサーに精肉業者でもつけてるんですかねえ」
「君たちなあ、日本の国はホームレスを見捨ててるんだ。我々に支援の手をさしのべてくれるなら、相手が韓国でもキリスト教でも構わんじゃないか……もっとも焼き肉より、私はスキヤキのほうが好きだがね」
センセイが鍋の蓋《ふた》をとって、むっつりとうなずき、オタマで鍋のなかを掻きまわす。椎葉もセンセイの意見に異論はないが、可能なら配給は、焼酎にしてもらいたい。
鍋に玉子を割り落とし、センセイが雑炊をどんぶりに盛る。椎葉にもスダくんにもすすめず、メガネを曇らせて雑炊をすすり始める。センセイは拾い集めた書籍を直接神田の古書店に売り、相当の利益があるというが、利益をホームレス仲間に還元することはない。テント小屋の出入り口には南京錠《ナンキンじよう》をかけ、噂ではホームレスを相手に高利貸しもするという。
「とにかくなあ君たち、日本における家庭での食品ロス率は七・七パーセント、外食産業では五・一パーセント。単純計算でも、日本は毎日一千万人ぶんの食糧を捨ててるということだよ。都内で出る生ゴミが毎日どれぐらいか、君たち知ってるかね」
椎葉は七輪の前から腰をあげ、ポケットから吸止をとり出して、火をつける。このタバコはただでどこででも手に入るが、みんな二口か三口で吸いきってしまう。
「知らなきゃ教えてやるが、千七百万トンだよ千七百万トン、この東京都内だけで、毎日それだけの生ゴミが出るんだ」
雑炊をすすりながら、センセイがひとりごとのように呟き、椎葉は「そりゃ良かった」と言って自分のテントへ歩きだす。千七百万トンという生ゴミがどれほどの量か知らないが、その何パーセントかはホームレスの食糧になる。
五、六歩あるいた椎葉の肘を、うしろからスダくんが引き止める。スダくんは頭陀袋の口を開いてみせ、脂ぎった日灼け顔で、にんまりと笑う。袋の底にはブランデーのナポレオンがラベルをのぞかせている。
「ちょっとしたご報謝でしてね。チーズとサラミもありますから、椎葉さん、一緒にどうです?」
「持つべきものは宗教家の友達だな。キリスト教でも仏教でも、宗教はみんな素晴らしい」
スダくんが会釈だけで奥のテントへ歩き、椎葉があとに従う。スダくんには酔っぱらうと他人に絡む癖があって、ホームレス仲間は一緒に飲みたがらない。ただ椎葉だけはスダくんのゴタクに頓着《とんじやく》せず、いつでも好きなだけ絡ませる。血管に適度のアルコールが流れていれば、椎葉には人間がすべて善人に思えてしまう。
スダくんのテントにつき、スダくんが饅頭笠を屋根のフックにかける。それから出入り口のシートを巻きあげ、内から段ボール箱をとり出す。その段ボール箱をテーブルがわりに据え、二人は向かい合って腰をおろす。日は落ちはじめたが空は明るく、林の枝をヒヨドリがわたっていく。
「最近目黒のほうへ行くことが多いんですけど……」
頭陀袋からブランデーのビンと紙袋をとり出し、スダくんが段ボール箱の上に置く。草地にしゃがんだ脛《すね》には脚絆《きやはん》が巻かれ、素足に藁草履《わらぞうり》をはいている。これで街角に立って般若心経を唱えるのだから、知らない人間は坊さんだと思い込む。多い日は五千円もお布施をもち帰ることがあり、ホームレスには珍しく、銀行に口座があるという。
「毎日のようにお布施をくれるオバサンがいるんです。旦那は商社マンで、一戸建ての家に住んでましてね。親の病気やら旦那の浮気やら、そのオバサンに相談されるんです。俺は愚痴《ぐち》を聞いてるだけなんだけど、ヘンに有り難がるから、サービスで除霊のお経を唱えてやります」
喋りながらスダくんは段ボール箱に湯呑をならべ、二つの湯呑におしげもなくナポレオンをつぐ。安焼酎でもブランデーでも酔いの気分は同じだが、久しぶりの甘い香りに、椎葉は思わず咽を鳴らす。
「偉いもんだ、スダくんは密教にも造詣があったのか」
「ハンニャハラミタをくり返すだけですよ。だけど不幸な人間には、みんな悪霊が憑《つ》いてるのは本当です」
「ふーん、それじゃこの村は、悪霊の巣だろうな」
「バカに悪霊は憑きません。ここの連中はみんな無能で無気力ですから、悪霊も呆れてます」
「まあ、おれも、そうは思うけど」
『ここの連中』のなかにはスダくんも椎葉も含まれているから、無能で無気力であることは間違いない。もし椎葉に悪霊が憑いているとしても、今ごろはどうせ地獄で酔いつぶれている。
「それでね、オバサンの家で除霊の儀式をしてたら、今日は突然泣きだして、服を脱ぎはじめたんです。俺も義務ですから、一発やって来ました」
「何事も仏のみ心だな」
「そうです。そこん家《ち》のサイドボードには、仏のみ心でナポレオンが置いてありました」
スダくんがくっと湯呑をあけ、ブランデーをつぎ足して紙袋を開く。サイドボードのナポレオンが仏のみ心なら、チーズとサラミが冷蔵庫に入っていたのも、やはり仏のみ心なのだろう。
椎葉はちびちびとブランデーをなめ、レインコートのポケットから吸止をとり出して、火をつける。チーズにもサラミにも食指は動かず、ブランデーの濃厚な香りだけが椎葉の嗅覚を刺激する。
「俺ねえ、椎葉さん……」またブランデーをあおり、すぐつぎ足して、スダくんが遠くの遊歩道に目を据える。「いつかは日本を脱出して、ラサに住もうと思ってるんです」
「ふーん、ラサって」
「チベットのラサですよ、ほら、前はダライ・ラマが住んでたところ」
「ああ、あのラサか」
「もう醜い日本にはうんざりです。日本は政治家も役人も腐ってます。いつだったか坊主でさえ、お賽銭を盗んだホームレスを殴り殺したでしょう。日本では仏教も金儲けしか考えない。日本人は全員が拝金主義者で、そのうちみんな地獄へ落ちるんです」
背筋を真っ直ぐにのばし、口調にも乱れはないが、どうやらスダくんの絡み癖が始まったらしい。椎葉は腕枕で横になり、スダくんの思想を頭の上に聞き流す。
「だからね、俺はラサにわたって出家して、反中国運動を組織するんです。チベットから中国を追い出して、ダライ・ラマをラサに連れ戻して、もう一度昔の仏教王国を再現するんです」
『マンガ般若心経入門』を一冊読んだだけで、そこまで高邁《こうまい》な思想にたどりつくのだから、スダくんは偉い。
「なあスダくん、チベットに焼酎はあるのかな」
「仏教は飲酒を否定しません」
「チベットへ脱出するとき、おれも連れていってくれるか。一度エベレストを見たいと思ってたんだ」
「寒いですよ」
「ああ、そういえば、そうだ」
「渡航費用は二十万です」
「高いなあ」
「パスポートは持ってますか」
「忘れてた。外国へ行くには、パスポートが必要だったか」
一年前まで、椎葉も新大久保でアパート暮らしをしていたから、それまでは住民票もあったろう。しかしトメさんに拾われた日からアパートへは帰らず、自分の人生から『社会』をしめ出した。安アパートの独り暮らしで家具にも衣類にも未練はなく、これまで思い出したこともない。椎葉の身分も今は、どうせ失踪人として処理されている。
「やっぱ、椎葉さん、必要なのは金なんですよ」背筋をのばしたまま、上体をゆらゆら揺らして、スダくんがブランデーをあおる。「ラサで百万もあれば、女を買っても十年は暮らせますよ」
「ぜひ中国を追い出して、理想の仏教王国を築いてくれ」
「革命が成功したら椎葉さんを国賓として招待します」
「スダくんは偉いなあ。この村で人生に目的をもったやつなんて、他にいないものな」
「この村だけじゃなく、日本人全体ですよ。みんな虚飾と贅沢《ぜいたく》に溺《おぼ》れて、人生の目的を見失ってます。俺、インドへも行ったことがあるけど、日本のホームレスは一般のインド人より贅沢をしてます。不景気だのリストラだのって騒ぎながら、しっかり酒は飲むし、女だって買ってやがる」
「さっきセンセイが言ってた、日本は毎日一千万人ぶんの食糧を捨ててるとか」
「そうそう、センセイが言うには、パチンコ屋の売り上げが毎年三十兆円だとか。援助交際にだって、五百七十億円もの金を使ってるそうです」
「そりゃあ、すごい」
「だって椎葉さん……」くいっとブランデーをあおり、肩をゆらしながら、スダくんが遠くの歩道に顎をつき出す。「見てくださいよ、あそこを歩いてる足の太い女子高校生」
「足が太くて背が低くて、尻の形が崩れてて首が短い女か」
「そうです。あの茶髪のルーズソックス、あのきたない女子高校生が一発三万円、となりの子はスタイルがいいから、五万です」
「妙に詳しいな」
「日本人はみんな病気です。女子高校生も政治家も役人も、みんなまとめて殺してやればいい。革命を起こして腐りきった人間を社会から一掃しなくちゃ、もう日本は滅亡です」
椎葉は躰の芯にまで酔いを感じはじめ、睡魔に身をゆだねたくなる。走っていって女子高校生を絞め殺すなら、どうかスダくん一人でやってもらいたい。
よっこらしょと腰をあげた椎葉を、スダくんが腕をのばして地面にひき戻す。もう目は完全に据わっていて、絡み癖も本物になっている。
「椎葉さん、どうしたんです。サラミとチーズ、食べてくださいよ。俺、この村の連中はみんな嫌いだけど、椎葉さんだけは尊敬してるんです」
「おれが一番怠け者で、一番無能だぞ」
「椎葉さんは超越してますよ。欲も色気も邪念もいっさい無し。なんか昔の遊行《ゆぎよう》僧みたいで、一緒にいると心が癒される感じです」
「ラサに仏教王国を再建したら、やっぱり招待してくれ」
「椎葉さんだけは国賓で招待します。だって、ねえ、センセイなんか、あんな偉そうな顔して、教え子の女子中学生を強姦したんですよ。それで学校をクビになって、新潟にも住めなくなったんだから」
「ふーん、センセイは新潟の人か」
「その強姦も三人だったとかで、刑務所に入ってたそうです。センセイのテントのなかって、見たことあります?」
「いつも鍵がかかってる」
「俺ね、ちょっと地面を掘って、裏から覗いたことがあるんです。そうしたら壁も天井もヘアヌードがびっしり、毛が生えてないような子のピンナップもあって、あれは犯罪者です」
スダくんが勢いよくブランデーをあおり、椎葉はちびちびと湯呑をなめる。日が沈みきって風も冷たくなったが、スダくんの怪気炎はとまらない。ラサにわたって革命を企てる自分と、地面を掘ってセンセイのテントを覗く自分を、スダくんは頭のどこに同居させているのだろう。
椎葉は段ボールの傍に足をのばし、肘枕をついて横になる。地面の冷たさが腹に伝わり、睡魔が意識の表面を出入りする。スダくんの社会批判もBGMとしては心地よく、死の淵が欠伸の口をひらいた錯覚に、椎葉は短く苦笑する。吹き抜ける風がケヤキの枝から枯れ葉を飛ばし、遊歩道を体育会系の集団がランニングで走り去る。
「なあスダくん、おれがここで眠ったら、トメさんにそう伝えてくれ」
「椎葉さん、ねえ椎葉さん」
「なんだよ」
「サラミとチーズ、食ってくださいよ。ブランデーだって半分以上も残ってます」
「うん、まあ」
「俺ね、見ててください。ラサにわたって革命を成功させて、それから日本に帰ってきて、この世の邪悪で醜いものは、ぜんぶ抹殺してやるんです。女子高校生も奇麗なのは生かしておくけど、汚いのは抹殺……だけどちょっと、迷うんですよねえ」
「なにが」
「美術部にいた村崎香澄ですよ。彼女を抹殺すべきかどうか。ねえ、どう思います?」
「汚ければ抹殺だな」
「奇麗なんですよ。小柄で色が白くて目が大きくて、笑った顔なんか、そりゃ可愛いんですから」
「それじゃ、生かしておこう」
「でもあいつ、サッカー部の坪井なんかと付合いやがって、俺のこと、シカトしたんですよ」
「つらいなあ」
「やっぱ、抹殺すべきですかね。本当は生かしておきたいけど、坪井なんかと……」
サラミもチーズもあるし、ブランデーは半分以上残ってる。村崎ナントカを抹殺するか生かしておくか、まあ、一人でゆっくり考えてくれと返事をしかけたとき、もう椎葉は眠っていた。
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フォルダーに綴じられたA4判のコピーが百八十七枚、それを三分の一ほど検証し、吹石夕子《ふきいしゆうこ》巡査部長は小さく背伸びをする。
大田区の本羽田にあるマンションで親子三人が惨殺されてから半年、事件発生当初は捜査員百人以上の体制で特別捜査本部が設置され、事件の解決は時間の問題と思われた。三人の殺害状況からは怨恨《えんこん》の可能性が高く、そうなれば犯人は家族全員か、あるいは三人のうちの誰かと利害関係がある。利害関係とは、金銭的な損得のみではなく、仕事上や日常での軋轢《あつれき》、あるいは過去における感情的な確執まで含まれる。それらをまとめて『顔見知りの犯行』と表現し、捜査はその線で進められる。通り魔や無作為の連続殺人犯とは異なるから、被害者の身辺捜査がそのまま犯人に辿りつく。加えて本件の場合、事件現場から凶器の文化包丁、軍手、ビニールのレインスーツ、タオルやゴム底靴など大量の遺留品が発見され、これらの入手ルートも特定は容易と思われた。
それが、ここまで膠着《こうちやく》するとは……吹石夕子はフォルダーの書類に目を落としたまま、タバコの箱から細いメンソールを抜く。タバコは一日十本と決めているのに、苛立《いらだ》ちと倦怠《けんたい》でつい量が多くなる。
半年前には多摩川署の特別捜査本部に百人以上もいた捜査員が、今はたったの十三人、場所も二階の大会議室から一階の刑事部屋へ移された。刑事課の刑事が執務する通称『刑事《デカ》溜まり』は小学校の講堂に似た殺風景さで、そこに強行犯罪班、窃盗犯罪班、知能犯罪班などのグループがそれぞれに机をまとめている。『羽田一家殺人事件特別捜査本部』も一応名称は存続し、刑事部屋の片隅にスチールの長机を並べている。主任は警視庁本庁から出張っている捜査一課の中村禄造警部、捜査員は本庁からの二人に夕子を含めた多摩川署の刑事課員が十人、チームがこんな小体制になったのは二週間前からのことだ。
事件の被害者である坂下吉成《さかしたよしなり》は四十二歳、妻|雅代《まさよ》は三十六歳、次女のいづみは今年中学生になったばかりの十二歳、もう一人|美亜《みあ》という娘がいるが、この十六歳の長女は事件当夜外泊していて災難をまぬがれた。
吉成はテレビや雑誌のCMを制作する会社の経営者で、当初の捜査は吉成の交遊関係を中心に進められた。共同経営者である神谷重之という男と確執はなかったか、『光企画』という制作会社の経営状況、クライアントや同業者との人間関係、社員やタレントプロダクションとのトラブルの有無、それらの検証には何十人もの捜査員が投入され、三年前に退社した元社員の素行まで調べあげた。しかし会社では神谷が営業方面の統括、吉成が立案制作方面と役割の分担があり、『光企画』設立から十四年、二人は公私共に良好な関係にあったという。吉成は職人|気質《かたぎ》の人間だったらしく、CMの制作に当たっては非妥協的な面もあったが、完成した作品の質の高さから業界関係者からも一定以上の評価をうけていた。吉成に怒鳴られて退社した若手社員も殺人に至るほどの恨みは抱いておらず、仕事の受注や経理状況も良好だった。
また妻の雅代のほうは、ボランティアで地域情報誌の編集に参加していて、この方面の捜査も同時に進行した。大田区の区議会議員が主宰する情報誌はスタッフ六人、すべてが主婦のボランティアで、区議会の報告や地域での催物案内、子育て問題や主婦の人生相談までを網羅したフリーペーパーだから、利益を追求する仕事ではなく、金銭的な利害もなかったらしい。人間関係でも主婦間の嫉妬や怨嗟《えんさ》の声は聞かれず、雅代自身も穏やかで節度のある性格だったという。しかしそれなら、犯人の目的は中学一年生のいづみだったのか。まだ小学生から中学生になったばかりの少女に、父母とともに殺されるほどの、どんなトラブルがあるというのか。
『顔見知りの犯行』説が頓挫し、捜査の方向は精神異常者による発作的犯行にシフト変更された。大田区を中心に、隣接区域での性犯罪前科者、精神病歴者に行動不審者、それらをすべてリストアップし、消去法で人数を百八十七人に絞り込んだ。制服組からも捜査員を補強し、百八十七人全員への事情調取をおこなった。百八十七人中十二人の人間にアリバイがなく、最後の一カ月はこの十二人に対する身辺調査に費やされた。
露出狂、覗き魔、下着泥棒、婦女暴行犯に動物虐待常習者、そんな連中を徹底的に調べあげたが、一人として重要容疑者は浮かばなかった。この間にも犯行現場付近での聞き込み、包丁やレインスーツの流通経路捜査はつづけられ、動員された警察官はのべ人数で一万人、事情聴取対象者も六百人を上まわった。その結果えられた結論は、犯行動機不明、容疑者像不明、事件の解決見通し不明という、みじめな現実だった。縮小された捜査本部員は今、現場付近での再度の聞き込み、遺留品のルート追跡、そしてリストアップした容疑者の再検討と、三方面からの捜査をつづけている。
どこかが間違ってるんだわ、と一人ごとを言い、タバコをつぶして、夕子はドアに近い自動給茶器に歩く。この給茶器は地域の防犯協会から寄付されたもので、水と茶葉の補給で一定量の茶が出る仕組みになっている。
かすかに色だけついた茶を湯呑に受け、自分の席に戻って、刑事部屋を見まわす。主任の中村警部は窓際のソファに陣取り、所轄の石丸課長と海釣りの話題に興じている。二人は警察学校が同期だとかで、どちらも階級は警部、ノンキャリアの叩きあげだからあと一年で定年になる。
ほかにも所轄の刑事が五、六人、自分のデスクで報告書を書いていたり、制服の婦人警官がコンピュータの操作をしていたり、部屋には緊張感も活気もない。夕子が再検討している容疑者リストだって、大田区を中心にした地域に限定されたもの。多摩川を渡ればとなりは神奈川県警の管轄で、もう警視庁の手は届かない。電車に乗れば一時間で千葉や埼玉からでも現場につくし、まして近くには羽田空港もある。北海道から飛行機でやって来て三人を殺し、また飛行機で帰っていくことだって、理屈ではたった四、五時間で可能なのだ。
タバコに手を出しかけ、自重し、夕子は染めていないショートヘアを指でかきまわす。それでもタバコに未練が残り、熱いだけの茶に口をつける。制服の婦人警官はなぜ茶葉の量をけちるのか。中村警部はなぜ坂下美亜の存在を軽視するのか。自分のマンションはなぜ排水口の音がひどいのか。まだ二十八歳だというのに、まったく、なぜ最近は化粧のりが悪いのか。
あれやこれや考え、夕子の思考はまた坂下美亜に戻ってしまう。事件発生当時、家族のなかで一人生き残った美亜に対して、もちろん形式的な捜査はおこなわれた。美亜は事件のあった五月十七日の夜半から、翌十八日にかけて男のアパートに泊まっている。その事実はアパートの借り主である加世田優也《かせだゆうや》、それに優也のガールフレンドだという大間幹江《おおまみきえ》も証言した。優也、幹江、美亜の三人は十八日午前二時ごろ、アパート近くのコンビニで目撃されているから、美亜が事件当夜、優也のアパートに泊まったことは事実だろう。また吉成と雅代の殺害手口、いづみへの死後暴行などを考え合わせると、美亜が三人の殺害犯人とは思えない。それでも夕子の気分にわだかまるのは、事情聴取の際に美亜が見せた、ふて腐れた目と不遜《ふそん》な落ち着きだった。
美亜は十六歳の高校二年生、在籍している私立高校への出席率は悪く、外泊も頻繁だったという。そんな女子高校生はどこにでもいるのだろうが、事件当夜の外泊は、本当に偶然だったのか。美亜、幹江、優也の交遊関係を調べていくと、不良の典型と思われる十人ほどの男女が浮上した。暴行、恐喝、万引き等でそれぞれに補導歴や逮捕歴があり、事件当夜のアリバイ不明者も多くいた。犯行の手口からも犯人は二十代から三十代前半と思われ、条件はそれらの人間に符合する。たとえ美亜に直接の関わりはないにしても、事件の遠い部分で何らかの役割を果たしているか、あるいは結果として犯人に関する情報、いわゆる『心当たり』というやつをもっている可能性はある。
夕子はその見解を主張し、実際に捜査も進めてみた。しかし捜査線上に目ぼしい容疑者は浮かばず、美亜も夕子に口を開かなかった。それにいくら素行不良とはいえ、美亜は両親と妹を殺害された被害者、警察としても強引な取り調べは憚《はばか》られる。結局事件発生から半年が経過し、捜査本部は極限にまで縮小され、吹石夕子巡査部長は極限にまでまずい茶を飲みながら、極限にまでタバコを我慢しているのだ。
ソファをとりまくアットホームな雰囲気に、夕子は湯呑の縁から眉をひそめる。たしかに坂下美亜に対する強制捜査は不可能だろうが、もう少し時間と、捜査員を投入できないものか。中村警部も一年後に定年をひかえ、事件の解決より、今は保身だけを人生の目的にしているように見える。被害者の遺族である十六歳の少女を権力で追い込み、しかも美亜が事件に無関係と証明されたら退官後の再就職は難しい。マスコミも「警察の横暴」と騒ぐだろうし、そうなれば退職時のインチキ昇進も怪しくなる。美亜をひきとった母親の実家も阿佐ヶ谷で大病院を経営していて、地元では名士だという。中村警部だけでなく、本庁の捜査一課だって被害者側の家族とはトラブルを望まない。そしてこのまま事件が迷宮入りしたら、本庁勤務を志向する夕子の希望も、完璧に霧散する。
制服の婦警が本庁からの事件連絡をプリントアウトし、ソファの黄昏《たそがれ》組へ届けにいく。夕子は茶を飲みほしてため息をつき、尖った顎を頬杖《ほおづえ》で支える。コンタクトレンズがずれているわけでもないのに、目蓋の内が少し痛む。バッグからコンタクト用の目薬をとり出し、目にさして、それからまた視線をフォルダーのリストに移す。レインスーツや包丁の流通ルートはいまだ判明せず、重要容疑者も浮かばない。坂下美亜だって事件に関係している確信はなく、今のところ変質者や前科者の再チェックしか術《すべ》はない。最初に絞り込んだ十二人以外に坂下一家と接点をもちそうな人間はいないか、容疑者の想定年齢を四十代や五十代にまで広げるか、それとも未成熟な少女にのみ性的な興味をもつ変質者を、もっと広範囲にリストアップしてみるか。
手元のフォルダーに影がさし、夕子が顔をあげる。横に立っていた中村警部は半白の髪に日灼けした皺顔で、白い紙をひらひらと振っている。背広の色は灰色とベージュ色の中間、ネクタイの柄は風呂敷と壁紙の中間、風貌《ふうぼう》は人間とミイラの中間と、この警部はずいぶん中間が好きらしい。
「吹石くん、ちょいといいかね」
「不倫のお誘いならお断りします」
「まあまあ、邪険にしなさんな。君にそんな怖い目で睨まれると、私は早く本庁へ帰りたくなるよ」
目尻の皺を深めて善良そうに笑い、本庁からの連絡書を夕子のデスクに放って、中村がとなりの椅子に腰をおろす。
「ほれ、そいつが我が東京の美しい現実だ。赤羽では信用金庫の現金輸送車が襲われた。犯人は四人組、奪われた現金は一億二千万、どうせヤクザと不良外国人のジョイントベンチャーだろうが、パチンコ屋からの集金だけで一億二千万なんて、ある所にはあるもんだなあ」
「盗まれなければ北朝鮮に不正送金されるお金です。送金が待ちきれなくて、スパイがやったのかも知れません」
「青梅ではクリーニング屋の店員が刃物をもって、饅頭屋に立てこもった。要求は『別れた女房に会わせろ』ということらしい」
「もっとまともな事件、ないんですかね」
「渋谷での女子高校生殺しがあるぞ。被害者は茶髪でルーズソックスで眉無しだそうだ」
「犯人の目的は社会浄化でしょう」
「私もそうは思うが、被害者の名前は大間幹江という。ほれ、大間幹江といったら、吹石くんの昔馴染みじゃなかったかね」
中村が皺深い目で夕子の顔をのぞき、夕子はその視線をはずして、デスクの連絡書をひき寄せる。「昔馴染み」とはがっかりするような冗談だが、それにしても『大間幹江』の名前がなんだって、こんなところに出てくるのか。幹江は葛飾の金町でスナックをやってる母親と二人暮らし、父親は幹江が小学校にあがる前に家出をし、最近は幹江本人もほとんど家に帰らない。半年前の事情聴取では葛飾区の都立高校に通っていると証言したが、それは「たまには顔を出す」のバカ女子高校生的レトリックだろう。
夕子は無意識に空の湯呑をとりあげ、連絡書に読みふける。本庁からの報告では「今朝の九時ごろ、通勤途中のサラリーマンが代々木小公園傍の植え込みで被害者を発見し、携帯電話で一一〇番通報。近くの富ケ谷交番からすぐに制服警官が駆けつけ、被害者の死亡を確認。被害者は都内金町に在住する女子高校生の大間幹江、同人の首に明瞭な扼殺痕《やくさつこん》が認められることから、殺人事件と断定し、急遽渋谷北署に特別捜査本部を設置した」と書いてある。
連絡書を睨みながら湯呑を口に運び、空であることに気づいて、夕子は舌打ちをする。
「これだけでは、どういうことか、状況が分かりません」
「当然だよ。遺体発見が午前九時なら、やっと現場検証も終わったころだ。検視解剖もこれからだろうし、分かっているのはこの事件が『殺し』ということだけさね。もっとも手口が扼殺なら、不良同士のケンカ殺人が濃厚だなあ」
扼殺とは首を直接指で絞め殺すこと、紐やロープを使った場合は絞殺という。
「中村さん、羽田の事件でも子供のいづみは扼殺でしたよ」
「両親を刺殺したあと、包丁がイカレて使えなかったんだろう」
「でも大間幹江は羽田事件で唯一生き残った坂下美亜の友達で、事件当夜もアリバイを証明した間柄です。美亜にしてみれば、半年のあいだに、家族と友達が四人も殺されたことになります」
「すごい偶然だよなあ」
「偶然なら偶然で、確かめる必要があります。年間に一千件しか発生しない殺人事件の二件に、坂下美亜と大間幹江が関わってるなんて、イヤな偶然です」
「ああいうコギャルはいつでも誰とでもトラブルを起こす。恐喝に万引きに仲間喧嘩に援助交際、下品な喋り方に不潔な茶髪、なあ、幹江が不良仲間に殺されたところで、私は不思議にも思わんよ」
「羽田の一家を殺した犯人が、幹江に特殊な殺意をもっていたと考えるのは、飛躍が過ぎますか」
「社会浄化目的説はもう棚上げかね」
「羽田の事件は手詰まりです。幹江の事件を調べる時間はありますよ」
「しかし、ナンだ、管轄外の事件ではあることだし……」
「警部、やらせてください」
「都合のいいときだけ警部にせんでくれ。どうせ陰じゃ、黄昏オヤジとか貶《けな》してるくせに」
「警部の人格と経験は、刑事の鑑《かがみ》と思って陰で手を合わせています。警視庁に奉職して六年、わたしが心から師と尊敬する刑事は、中村警部お一人です」
また中村がずるっと椅子をひき、タバコに火をつけて、肩をすくめながら電話に手をのばす。夕子は湯呑をもって椅子を立ち、ゆっくりと給茶器に歩く。幹江の事件が直接羽田の一家殺しに結びつくとは限らないが、雲間に射した光であることには違いない。これが突破口になって羽田の事件が解決されれば、夕子は功績を認められ、本庁刑事への道も可能性が開けてくる。結婚して子供をつくって郊外に家を建てて、などという娯楽は二の次、そんなもの、四十を過ぎてから幾らでも実現できる。
自分の湯呑と紙コップに茶をつぎ、長机に戻る。中村はまだ電話をかけていて、夕子は横に立ったまま一分ほど待つ。
中村が受話器を架台に放り、タバコの煙を長く天井に吹く。
「案の定、解剖はたった今始まったところらしいや。扼殺であることに間違いはないが、死亡推定時刻その他、詳しい状況は何も分かってない。しかしまあ、間違っても、自殺するようなタマじゃなかったようだ」
夕子は紙コップを中村の前に置きながら、半年前の大間幹江を思い出す。荒れた肌にファンデーションを厚く塗って、唇と爪は白、小太りの丸顔だが目だけは大きく、歯並びの悪い口でにやにやと笑う。生まれるとき脳味噌を忘れてきたような喋り方で、それでいて仕種《しぐさ》だけは色っぽい。死者に対する敬意は承知しているが、羽田の事件に関して何かを知っていたのなら、死ぬ前に話してくれればよかったのに。
中村がタバコをつぶし、紙コップをとりあげながら目尻の皺をひきのばす。
「向こうの所轄には本庁から笹野という警部が出張ってる。話は通しておいたが、私とちがって尻の穴の小さい男でねえ、いまだに女性の社会進出を認めておらんのだ」
「そうですか。それならわたしが指をつっ込んで、尻の穴を大きくしてあげましょうかね」
「いやあ、まあ、ナンだ……」
茶をまずそうにすすり、半白の髪を掻きまわして、中村が口をへの字に曲げる。中村だって羽田事件を解決させれば退職時昇進が有利になるだろうに、大事なのはやはり警察内部の秩序と、退職後の就職先らしい。
中村に頭をさげ、自分の席にまわって、夕子はデスクからタバコとショルダーバッグをとりあげる。バッグには化粧用具のほかに、手錠、警察手帳、替えの下着に都内の地図に携帯電話に文庫本の探偵小説に、ほとんど一泊ぶんの小物が収まっている。
「吹石くん、せっかくいれた茶を飲まんのかね」
「勾留者の自白剤にでも使ってください」
「最初に言っておくが、君以外に人員は割けんぞ。あとで泣きつかれても責任はもたん。まあ、時間だけはたっぷりあるから、トラブルを起こさん程度にくい下がってみることだなあ」
形だけ敬礼をし、ふり回すようにバッグを担いで、夕子は大股に歩きだす。パンプスの踵《かかと》が刑事部屋の床を高く鳴らし、遠い席の刑事やコンピュータ係の婦警が顔をあげる。しかし彼らの目が捉えたのは、突風のように部屋を出ていく、夕子の骨張ったうしろ姿だけだった。
新宿から甲州街道を西にくだり、山手通りを過ぎると郵便局の手前に渋谷北署のビルが見えてくる。個性があっては納税者に失礼だといわんばかりの灰色で、正門から玄関までには植え込みもなし。普通の所轄なら防犯協会からツツジの苗木ぐらい寄付されるのに、渋谷北署は地域住民との関係が疎遠なのだろう。
夕子は正門前でタクシーをおり、立ち番の警官に敬礼をして玄関を入る。多摩川署よりずいぶん規模の大きい所轄で、交通課と総合窓口のロビーには人があふれている。案内板を見るかぎり法律相談や犯罪被害者相談窓口も開かれていて、掲示板にはまだ『人間やめますか、覚醒剤やめますか』という古いポスターが貼ってある。
受付の婦人警官に指示され、二階の予備室に設置された『代々木公園女子高校生殺人事件特別捜査本部』へ向かう。遺体発見が今朝の九時なら、第一回の捜査会議が開かれるのは今夜遅くか、明日の朝、現在は捜査員も聞き込みや事件関係者への連絡に出払っている。
部屋のドア口には捜査本部の名称が白紙に筆書きされ、細長い空間にはすでに机や椅子、仮設の電話機やパソコン、ホワイトボードや書類用キャビネットが運び込まれている。机や電話機の数からみて、捜査本部の陣容は三十人前後だろう。
婦警や制服警官が立ち働くなか、私服は禿げ頭と中年男の二人だけ。二人は小さいソファに向かい合って座り、テーブルの書類をはさんで額を寄せている。夕子は二人の横まで歩いて姓名、所属、用件を告げる。中年男のほうが顔をあげ、額に皺をつくって、指でうしろのデスクをさし示す。その素振りから中年男が笹野警部で、夕子に対しては「そのへんに座ってちょっと待て」という意図らしい。
夕子は指示どおりソファから離れた席につき、小声で話し合う笹野と禿げ頭を観察する。笹野はまだ髪も黒くて歳は四十二、三、捜査一課の警部にしては繊細な風貌で、横顔も何やら苦み走っている。服装は焦げ茶のソフトスーツに茶系のネクタイ、靴もワイシャツも茶系で決めていて、その隙のなさすぎるコーディネイトに厭味がなくもない。捜査一課にキャリア警官はいないから、四十二、三で警部なら、いわゆる準キャリアだろう。警察官に正式な準キャリアというコースはないが、四年制大学を卒業し、巡査部長から、警部補、警部と昇進試験を順調にクリアする警官を、便宜上準キャリアと呼ぶ。警部から上には警視、警視正、警視長、警視監、警視総監などの階級があって、しかしノンキャリアが警視にまで昇進する例は、めったにない。一般の制服警官は定年まで勤めても巡査部長どまり、だから二十八歳で巡査部長の夕子は、まず準キャリアの部類だろう。ちなみにキャリア組は新卒で警部補に赴任し、半年後には警部に昇進する。
五分ほど待ち、禿げ頭が部屋を出ていって、笹野が夕子の待っている席に歩いてくる。座っていたときの印象よりは背が低く、中肉中背といったところか。夕子は名刺をとり出し、あらためて本庁の笹野警部に挨拶をする。
「中村さんから連絡を受けたよ。こっちの事件と羽田の事件に、関連があるとか?」
「関連の可能性への淡い望み、ですかね」
「うん、いい表現だ。どうも警官というのは文学的素養がなくて、直截《ちよくせつ》にしか物を言わない。殺人のことも犯罪芸術の一環という観点に立てば、大衆からも上品な支持を得られるはずなんだがね」
婦警にコーヒーを二つ言いつけ、デスクから椅子をひき出して、笹野が深く腰を落ちつける。言ってる意味は分からないが、少なくとも中村黄昏警部より教養はあるらしい。顔も苦み走ってるし、これで中村が言うほど尻の穴が小さくなければ、仕事も思っていたよりやりやすい。
「こっちとしてもまだ捜査を始めたばかりだ。被害者の大間幹江が羽田の事件に関係ありという、その根拠を聞かせてもらえるかな」
夕子がバッグからクリップでとめたメモ用紙をとり出し、笹野の前にすべらせる。そのメモは自分の捜査手帳から抜き書きしたもので、坂下美亜と大間幹江の関係、美亜や幹江と交遊のある不良連中の名前と連絡先が書いてある。説明の手間を省くため、電車のなかで作成してきたのだ。
「今回の被害者である幹江は、羽田事件で一人被害をまぬがれた坂下美亜の友人でした。美亜は事件当日、幹江と一緒に加世田優也のアパートに泊まっています。そのことは幹江と優也が証言していて、コンビニの店員も三人のアリバイを証言しています。ただこの連中には、そのメモに書いてあるとおりの不良仲間がいて、どうも素行がはっきりしません。その方面の捜査をやり直そうと思っていたところへ、今回の事件が起きました」
笹野がメモをていねいにめくり、うんうん、とうなずきながら目を通す。そのあいだに婦警がコーヒーを運んできたが、口をつけてみるとそれは、意外にも本物のドリップコーヒーだった。
メモを自分の手に収めたまま、カップをとりあげて、笹野がしゅっとコーヒーをすする。
「これは助かるな。うちも被害者の交遊関係を調べはじめたばかりでね、この連中のことは早速捜査員に連絡しよう」
「聞き込みの過程で羽田の事件を気にかけていただければ幸いです」
「それも徹底させるよ。羽田の事件が手詰まりなことは俺も聞いている。もし今度の殺しが半年前の事件に結びついたら、警察全体のヒットだ」
「そう仰有《おつしや》っていただけると、わたしも自分の指を汚さずに済みます」
「君の指を?」
「いえ、こっちの話です」
夕子はあわててコーヒーをすすり、椅子にかしこまって、ぺこりと頭をさげる。短い前髪が広い額にゆれ、冷淡に見える一重の切れ長の目に、一瞬無邪気な恥じらいが浮かぶ。
「大きなお世話だとは思うが……」
カップとメモ用紙を机に置き、上着のポケットからタバコをとり出して、笹野が火をつける。一般社会のオフィスはすでに禁煙が徹底されているらしいが、この業界だけはまだ戦後の高度成長期にある。
「そちらの捜査状況を聞かせてくれるかな。『顔見知り犯行説』は早々と放棄したんだったよね」
「三人の被害者を殺すほど憎んでる人間が、どうしても浮かびません。現在は変質者の洗い直しと、遺留品の流通ルート割り出しが本線です」
「うん、そうだった。犯人は大量の遺留品を残してたんだ」
「でも軍手は中国からの輸入品で、年間に二百万組も売られてます。レインスーツも中国製で、スーパーや作業用具店で大量販売されてるものです。凶器の包丁は国産でしたけど、これも安物で、メーカーでは年間に一万本以上出荷しています。タオルもゴム底靴も中国製ですけど、だからって犯人が中国人というわけでもなし、どこかの店でこれら五点を一括購入した人間でもあらわれないかぎり、遺留品からの犯人割り出しは不可能と思われます」
「そういう時期に坂下美亜と関係のある大間幹江の事件が起きた、ということだね」
「被害者には気の毒ですけど、いいときに死んでくれました。幹江殺しの犯人には感謝したいところです」
「顔に似合わず、君、怖いことを言うなあ」
タバコをぷかりと吹かし、たいして怖そうもなく、笹野がにやりと笑う。夕子だって自分の顔に愛嬌がないことぐらい、百も承知。ただよう煙に我慢しきれず、バッグからメンソールのタバコをとり出して火をつける。
タバコを二度深く吸い、気分を落ちつけてから、夕子が本題を切り出す。
「大間幹江は扼殺されたと聞きましたが、その方法に、特徴でもありましたか」
「特徴、というと」
「犯人は片手で幹江の首を絞めたのか、両手を使ったのか。両手だったら右手が上か、左手が上か。親指と人さし指の又で咽を絞めたのか、それとも親指で左右から咽仏を絞めつけたのか……羽田の事件では子供が扼殺されています。方法は馬乗りになって、両手で被害者の首を絞めたものと思われます。扼殺痕からは右手が上、つまり犯人は右利きだったと推定されます」
「うん、いや、こっちはまだ解剖の最中で、そこまで詳しくは分からない。ただ俺が現場を見たかぎりでは、扼殺痕はかなり乱れていた。顔や頭にも相当の打撲痕があって……」
途中で言葉を切り、タバコをくわえたまま、笹野が腰をあげて近くのキャビネットへ歩く。そこで引き出しをあけ、書類のフォルダーをとり出して元の椅子に戻ってくる。
「鑑識が撮影した現場の写真だ。口で説明されるより、自分で見たほうが早いだろう」
夕子はうなずいただけでフォルダーを受けとり、タバコをつぶしてファイルをひらく。冷静は装っているものの、内心はちょっとしたパニック、所轄の刑事課に抜擢されてからだってまだ一年半で、殺人事件も羽田の一家殺しが最初の事件なのだ。あのときは現場を一目見たとたんに貧血を起こし、ほかの刑事に廊下へ担ぎ出された。そして自慢ではないが、唐辛子だらけのまっ赤なキムチは、今でも食べられない。
と、そんな秘密は気配にも出さず、夕子はぱらりとファイルをめくる。すぐに遺体の写真があらわれ、食道に近いあたりの胃がざわりと騒ぎ、それでも我慢して写真を見つめる。頭から足先まで全体を納めた写真、それから手や肘や爪、足の裏、膝、首、額、側頭部など、打撲痕やすり傷、土の汚れや枯れ葉の付着した箇所がこまかく部分撮影されている。首を右にかたむけた横顔はたしかに大間幹江、髪は半年前よりも色が濃く、長さも肩の上まで届いている。唇は裂けて腫れあがり、頬と額に青黒い痣《あざ》がある。首には咽仏を中心にコイン大の圧痕が散らばり、爪痕も深く残っている。坂下いづみの首に見えた圧痕とは異なる気もするが、こちらは素手、向こうは軍手で、状況も違うし、被害者の体質や抵抗の度合いも違うだろう。
「解剖では犯人の利き手も確認させるが、どうかなあ、扼殺痕だけでは分からない場合もある。それに同じ右利きと判明したところで、同一犯とも断定しきれない」
「犯人が左利きと分かれば、少なくともこちらの事件は前進します」
「うん、それはそうだ」
「この写真では分かりませんけど、性的暴行の痕跡なんか、どうでしょう」
「やられてるよ」
「やっぱり」
「これも詳しくは解剖待ちだが、鑑識が被害者の股ぐらに鼻を近づけたら、臭ったそうだ」
「ああ、そうですか」
「俺が見た感じでも、たぶん、殺される直前にやられているな」
「被害者は、間違いなく、性交を?」
「あの鑑識さんはその方面のベテランでね、臭気《におい》には特別な才能があるんだ」
「殺されたあとの性交、という可能性は?」
「解剖でも済めば……そうか、そっちの事件では、そういうことなのか」
坂下いづみの遺体状況が思い出され、夕子の胃の内側に、不愉快な固まりが突きあげる。十二歳の少女は全裸にパジャマをむしり取られ、性器の粘膜が破れるほどの暴行を受けたあと、その性器にプラスチックの鉛筆ケースがつき立てられていた。解剖の結果では、それらはすべて死後の暴行だった。
「公表はしていませんが、女の子は死後にひどい性的な暴行を受けています。公表を控えた理由は裁判への考慮と、被害者や遺族への配慮です」
笹野が机にころがっていた鉛筆をとりあげ、首をかしげながら、こつこつと天板を叩く。
「吹石くん、死後暴行であっても、精液は採取されたんだろう」
「いえ、性器への集中的な虐待だけで、交接はされていません」
「とすると、性的に不能な野郎か、あるいは時間がなかったか……まさか、犯人が女ということはあるまい」
「ないと思います。思いますけど、とにかく犯人像が浮かびません。室内は荒らされてましたが、特別に目標をもって物色した様子ではないし、無くなっていたのは現金だけです。全部で十万円前後という金額は、夫婦が直前に使用したATMの記録から割り出しました。生き残った長女は両親がどれほどの現金をもっていたか、知らなかったそうです。そのほか腕時計や貴金属、ブランド品のバッグやキャッシュカードには手をつけていません。プロの物盗りのようでもあるし、怨恨での虐殺のようでもあるし、異常者の発作的犯行のようにも見えます。犯人を捕まえてみないかぎり、なにが目的だったのかは、見当もつきません」
「そうか、それなら中村さんが手こずるのも無理はないか。最近は動機も目的も不明な犯罪が多すぎる。たんに殺してみたかったから、たんに他人の物が欲しかったから、たんに刺激が欲しかったから……そういう連中に限って、まず自分が死んでみたいとは思わんものだ」
しばらく口をつぐみ、鉛筆の頭で机を叩いてから、笹野が思い出したように夕子の顔を見あげる。
「しかし吹石くん、こちらの事件では犯人がたっぷりオミヤゲを残してる。羽田の事件とは状況が異ならないか」
「そのあたりは、まだ……」
左手でカップをとりあげ、夕子は冷めたコーヒーに口をつける。多摩川署で大間幹江の事件を知ったのは、たった一時間半前、状況がどこまで異なるのか、そんなこと、分かるはずはない。
部屋に電話が鳴って、婦警が受け、テーブルの向こうから笹野にとり次ぐ。笹野が目の前の受話器をとりあげ、夕子はカップを口の前に構えたまま、現場写真のつづきに目をとおす。もう胃の不快感はおさまり、幹江の死顔にも冷静に向き合える。遠目の全体写真では右足の靴が脱げ、黒っぽいローファーが膝の横にころがっている。足首には短めの白いルーズソックス、チェックのミニスカートは尻の上までめくれ、ブレザーの下には紺のベストと臙脂《えんじ》色の蝶タイが見える。べつに特徴もない女子高校生の制服だが、痣だらけになった幹江の死顔とは、どこかに何か、違和感がある。
笹野が電話を終え、受話器を架台に戻して、新しいタバコに火をつける。
「解剖の中間報告だったよ。死亡推定時刻は遺体発見時より六時間前、つまり今日の午前三時前後ということだな。死因は予想どおり直接指で首を圧迫したことによる窒息死、ただ喉頭骨がつぶれて頸椎もずれてるというから、犯人は相当なバカ力で首を絞めたことになる。犯人の利き手についてはできるかぎりの特定を頼んだが、これはまだ分からない。それに案の定、被害者の膣からは大量の精液が採取された。これで犯人の血液型も判明するし、DNAの鑑定も可能になる。君には申し訳ないが、こっちは羽田の事件より単純そうだよ」
笹野の簡明な報告を聞きながら、幹江の遺体写真を眺め、この写真のどこに違和感があるのだろうと、夕子は憮然《ぶぜん》と自問する。
「犯行現場の代々木小公園というのは、代々木公園とは、違うんですか」
「代々木公園の西門から道路をはさんだ向かい側あたりに、ちょっとした空き地がある。テニスコートなんかもあって、その付近を俗に小公園と呼んでるんだ」
「目撃者は」
「出ていない。制服組からも応援を出して、一帯に聞き込みをかけてはいるがね。夜になるとクルマ以外に人通りのなくなる場所で、目撃者は出にくいだろう。ただ遺体の発見場所はホームレスのリヤカー置き場になっていたらしくて、そのホームレスの証言によると、午前一時半ごろまで現場に異常はなかったという」
「そんな時間に、ホームレスは、そこで何を?」
「俺に聞かれても困るよ。ホームレスが何を考えて何をするかは、あいつらにしか分からない。しかしこの事件、案外そのホームレスが幹江を襲って騒がれ、暴行して絞め殺したという構図かも知れない。精液の鑑定が出たら、まっ先にそいつを叩いてみるさ」
「そのホームレスが犯人だと、羽田の事件とは無関係になりますね」
「残念ながらそういうことだな」
「わたし、なにか……」
ファイルを閉じ、笹野にわたしかけ、夕子はまたそのファイルをひらく。さっきから気分にわだかまっていた違和感を、ふと曖昧《あいまい》な輪郭がとり囲む。
「笹野さん、幹江が通っていた都立の『金町実業高校』に、制服はなかったはずですが」
「うん? ほーう」
笹野が夕子からファイルを受けとり、顔を遠ざけながら写真を眺める。メガネはかけていないが四十は過ぎてるし、もう老眼が始まっているらしい。
「しかし、これは、制服だよなあ」
「金町実業高校に確認しましたか」
「いや、まだ……遺体の近くに被害者の手提げバッグが落ちていた。そのなかに学生証があって、身元はその学生証から割り出した。母親を呼んで身元確認もさせたが、制服のことまでは聞かなかった」
「夜中の三時に、そんな場所で、幹江は何をしていたんでしょう」
「交遊関係を調べればその理由も判明するはずだが……そうか、被害者の通っていた高校に、制服はなかったか」
「最近は都立でも生徒集めのために制服を導入する高校があります。わたしが幹江を事情聴取して以降に、制服をつくったかも知れません」
「女子高校生が制服を着てることに、不思議はないんだが、もしこれが本人のものでないとすると、どういうことなのかなあ」
坂下美亜の制服を思い出そうとしたが、夕子の記憶もそこまでは戻らない。しかし幹江の着ていた制服に何かの問題があったとしても、いずれは渋谷北署がつきとめる。指紋も精液もない羽田事件にくらべると、笹野の台詞《せりふ》ではないが、この幹江殺しがひどく単純な事件に思われてくる。
コーヒーがなくなり、笹野への質問も思いつかず、夕子は腰をあげることにする。
「笹野さん、現場を見せていただいて、よろしいでしょうか」
「自由にしたまえ。もっとも見たところで、ただ植え込みがあるだけだよ」
「代々木公園の、西門の近くですね」
「一応は立入禁止のテープが張ってある。現場検証が終わって警官も立たせてない。もし場所が分からなかったら、富ケ谷の交番で訊いてくれ」
「お手数をかけました。それに……」
「分かってる。もし羽田の事件とひっかかりが出てきたら、すぐ連絡するよ」
腰をあげた夕子に、笹野も席を立って手をふり、机から夕子のメモをとりあげる。
「これは預かっていいのかね」
「お使いください」
「本当に助かった。この事件がうまく片づいたら食事をおごろう。言い忘れてたが、俺はまだ独身でね」
笹野がメモをもって婦警のほうへ歩いていき、夕子はその素っ気ない背中に、ぺこりと頭をさげる。笹野は背中を向けたまま婦警に指示をはじめ、それを横目に捜査本部の部屋を出る。事件がうまく片づいたら食事をおごると言うが、うまく片づかなかったら、おごってくれないのか。それに笹野が独身かどうかなんて、夕子になんの関係がある。
中村よりは話の分かりそうなオヤジだと思っていたのに、最後はセクハラか。だけどべつに女刑事を差別してる雰囲気もなかったし、案外本気で、夕子のことを気に入ったのか。
桜田門の正面玄関がまたちらっと頭をかすめ、夕子はロビーへの階段を、とんとんと駆けおりた。
だいぶ日が陰って、イチョウの黄色い葉が無人のテニスコートに散っていく。
代々木公園の西門前でタクシーをおり、夕子は歩道から道の反対側を眺める。小公園の背後には細長いビルがひしめき、それぞれの窓が秋の色を深く反射する。ビルの向こうは段丘状の住宅地、そこに小さい空がのぞいて、風が吹くたびにイチョウやケヤキの枯れ葉が舞いあがる。
バッグから携帯地図をとりだし、位置を確かめる。タクシーで来た道をそのまま進むとNHKの裏門から渋谷の繁華街、代々木公園を横断した向こう側が原宿駅、すぐ近くに地下鉄の代々木公園駅があって、小公園の裏には小田急線の線路が走っている。ファッション関係のオフィスが多い一画で、渋谷の繁華街や原宿駅には歩いて二十分の距離にある。笹野警部は「夜は人通りがなくなる」と言ったが、今でもクルマが走る以外、歩道にはほとんど人影が見られない。
地図をバッグに戻し、道を反対側にわたる。車道側にイチョウの若い並木がつらなり、テニスコート側には桜やツツジの古木が繁っている。地形の都合で区画整理にとり残された一画という感じで、歩道の両側にも雑多な低木が植えられている。事件発覚時は警官やヤジウマでごった返したろうに、今は警視庁の黄色い『立入禁止』テープを年寄りが不思議そうに眺めていく。
夕子はバッグを肩に担ぎなおして、立入禁止場所の前に歩く。テープは差し渡し二十メートルほどに張りめぐらされ、右の端はガードレールに、左の端は桜の幹に結ばれている。立ち番の警官はおらず、保存域内をポテトチップスの空き袋がからからと出入りする。ヤツデの植え込みで歩道側から死角になっている場所があるから、幹江の遺体はその辺りにころがっていたのか。所轄で見た遺体写真が思い出され、ちょっと咽がかわく。ヤツデの根元には吹き溜まったイチョウの枯れ葉、地面に箸を刺したような窪みが見えるのは、現場写真用の標識跡だろう。木の枝葉に折れたあとはなく、地面にも特別な乱れはない。「幹江は相当なバカ力で首を絞められた」らしいから、ほとんど抵抗する余裕もなかったということか。
夕子は腕組みをして十分ほど現場を睨んでいたが、すでに鑑識が検証を済ませたことでもあるし、それにクルマや人も通る道端で、新たな手掛かりが発見できるはずもない。夕子が考えていたのは、夜中の三時なんて時間に、幹江はなんの理由があってこんな場所をうろついていたのか、ということだ。幹江のカレシだという加世田優也のアパートは三軒茶屋、それ以外の交遊関係でもこの付近に住んでいる人間はいなかった。半年たって新しい友達ができたのか、それともこの場所を通って、どこかへ向かう途中だったのか。幹江や坂下美亜のたむろしていたクラブは渋谷の道玄坂、幹江の足なら歩けば三十分近くもかかるだろう。夜中の三時では地下鉄もなく、タクシーを使うにしても幹江は女子高校生の制服姿、クラブには出入りできないから、仲間うちで仮装パーティーでもやっていたのか。
やっぱりね、当分は渋谷北署に任せるしかないわ、と一人ごとを言い、夕子はヤツデの植え込みを確認して渋谷方向へ歩きだす。幹江の足取りが掴めれば犯行現場がここである理由も判明し、そのことが犯人の特定にもつながっていく。
時間はそろそろ五時、三軒茶屋のアパートに加世田優也を訪ねてみようかと思ったが、優也がアパートにいるとは限らず、それにそっちの事情聴取も、やはり渋谷北署の仕事なのだ。
久しぶりに坂下美亜の様子を見てくるか、と考えながら、なんの気なしに後ろをふり返る。夕子の視界をリヤカーをひいたレインコート姿がかすめる。距離は五十メートルほど、男は『立入禁止』テープの前にリヤカーをとめ、ぼさぼさの髪を二、三度指でかきまわす。レインコートもズボンも薄汚れ、首のタオルからは五十メートルの距離を越えて汗が臭ってくる。
男が現場保存域のとなりにリヤカーを押し込み、酔っぱらったような足取りで道を反対側へわたり始める。笹野が言った「ホームレスのリヤカー置き場になっていた」という言葉と同時に、ある男の顔が思い出される。それは夕子が警察学校当時、逮捕術の教官として指導を受けた捜査一課の刑事で、柔剣道の有段者であるだけでなく、捜査員としても有能と評判の男だった。
まさかなあ、横顔とうしろ姿は似てるけど、あの椎葉さんがホームレスをやってるはずはないし……自問しているうちに、ホームレスは道をわたって西門に姿を消し、夕子の視界をタクシーや引っ越し屋のトラックが行き過ぎる。ホームレスの事情聴取も渋谷北署の仕事、そのホームレスが椎葉明郎に似ていたことは、ニコチン中毒の幻覚だろう。
夕子は冷たい風にパンツスーツの襟を立て、大股に地下鉄の駅へ向かい始める。十歩ほど渋谷方向へ歩き、そこでまた足をとめる。さっきのホームレスが椎葉であるはずはないが、椎葉が一年半前に警察をやめていることも、また事実なのだ。夕子が生活安全課から刑事課に抜擢され、そのことを本庁の椎葉に報告しようとしたとき、すでに椎葉は依願退職をしたあとだった。
バッカみたい、と呟《つぶや》き、夕子はタバコをとり出して火をつけ、風に向かって長く煙を吹きつける。一日十本の目標は明日からにしよう。さっきのホームレスが椎葉だったなんて、そんなこと、ぜったいにあるはずはない。
歩きだしながら、自分では気づかなかったが、夕子はなぜか怒っていた。
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寒さに強いからホームレスになるのか、ホームレス生活が寒さに強くするのか。どんよりとした曇り空でも住人のほとんどはテントを出て、木の根方や林の空き地でごろごろと寝そべっている。林の奥まったところでは四人の男がジャン卓をかこみ、そのすぐ横では酒盛りが始まっている。小林さんはせかせかとテントの周囲を歩きまわって、センセイはデッキチェアで新聞を広げている。湿度が高く、中央広場から枯れ芝臭がひんやりと流れ込む。
トメさんがよっこらしょと躰を起こして、椎葉の湯呑に焼酎をつぐ。
「だけど椎葉よう、日本の警察も目玉が腐ったなあ。女子高校生なんぞ殺すんはその辺の不良に決まってんのに、俺までひっぱるとはよう、あいつらまったく税金泥棒だあ。そのうちきっちり、警視総監にネジ込んでやるぜ」
一人ごとのように呟いて、トメさんがまた雑草の上に横たわる。昨日富ケ谷の交番に連行され、二時間も尋問されたことがよほど癇《かん》に触《さわ》ったらしい。そのせいで昨夜は仕事に出ず、今日も朝から焼酎を飲んでいる。「警視総監は大学の後輩」というのが昨夜からつづいている主張で、ちょっと電話を入れれば今にでも公用車で駆けつけるという。トメさんはイギリスにも留学していて、ジョン・レノンにギターを教えたのもトメさんなのだ。
椎葉はトメさんの繰り言に相づちを打ちながら、ひたすら焼酎で躰を温める。昨夜はトメさんが酔いつぶれ、仕方なく一人で仕事に出た。トメさんの助手をつとめて一年、笹塚、上原、下北沢とコースはすべて知っているはずなのに、収穫はこわれたラジカセと少量のアルミ缶だけ、トメさんの勘と経験には遠く及ばない。まだ体調も完全ではないらしく、それに歳も歳、このままトメさんが寝込んだら、椎葉も困ってしまう。命なんか惜しいとも思わないが、焼酎を飲めなくなるのは恐ろしい。そろそろホームレスとして自立するべきと思いながら、考えると疲れてしまう。
「なあトメさん、リヤカーの置き場所をかえないと、面倒にならないかな」
「構うことあるかよ。あすこは十年も俺の縄張りで、交番のオマワリだって知ってらあ。昨日のは刑事だか何だかって、この辺の歴史を知らねえバカ野郎よう。あんな税金泥棒は警視総監に言ってクビにしてやらあ」
「トメさん、税金を払ってたっけ」
「バカ言っちゃいけねえ。今は手元不如意ってやつだけど、俺は四十年もずっと税金を払ってきたんだ。税金を払うのは国民の義務だからよ、千葉でゴルフ場をやってたときなんか、年に二億も税金を払ってたぜ」
口だけはよく動くが、トメさんは腕枕で横になったまま、あまり焼酎も口に運ばない。でっぷりした赤ら顔に精気はなく、のびた鼻毛には鼻水がたまっている。本人は警視総監の先輩で留学経験もあり、外国航路の船長やらゴルフ場のオーナーをしていたというが、村の噂《うわさ》では若いころからの土木作業員だという。出身は沖縄で、日本中の飯場を渡り歩き、代々木公園に来る前は山谷で暮らしていた。結婚の経験もあるらしいが、椎葉はあえてトメさんの人生に立ち入らない。
「くそ、もうモズが鳴いてやがる。今年は冬が早えかなあ」
トメさんが腕枕のまま首をめぐらし、頭上に舌打ちをする。ホームレスが冬に強くても所詮はテント暮らし、雪や木枯らしの冷たさは身にしみる。
「椎葉よう、考えたらおめえも、もう一年だなあ。このままホームレスをつづける気かい」
「人間には天職があるさ」
「あんときよう、おめえを見っけたときゃあ、すぐ村を出てくと思ったがなあ」
「あのときはなぜおれを拾ったんだ」
「そりゃおめえ、廃品を拾うのは俺の仕事じゃねえか」
「ああ、廃品か」
「俺はおめえの名前しか知らねえ。生まれも育ちもこれまでのことも、知りてえとは思わねえ。だけど椎葉よう、おめえならまだ堅気に戻れるんじゃねえかい」
「堅気に戻ってもすることがないさ」
「あったけえ部屋でよう、デブの女房が屁えこいて、ガキがぴいぴい泣いてテレビでナイターなんか見て、そんな暮らしもいいもんだぜ」
「トメさん、子供がいるの」
「そんなものはいねえが、たまにゃ堅気の衆が羨ましくならい。人生の極意ってのは、ナンだなあ、やっぱし平凡ってやつだあ」
「今日はトメさん、哲学者だな」
「あんな若えオマワリにこづかれて、人間のくず扱いされちゃ、俺だって寒さが身にしみらあ。昨夜は久しぶりに沖縄の夢を見ちまった」
頭の上で灰色の鳥が鳴き、羽音を残して灰色の空に飛んでいく。椎葉は湯呑に焼酎をつぎたし、レインコートのポケットにタバコの吸止をさぐる。
「沖縄、か。冬でも暖かいんだろうな」
「正月でも二十度はあらあ。俺は本土へ来るまでセーターなんか見たこともなかった。どこで寝たって風邪もひかねえ。生まれたんは座間味って小せえ島だけど、一年中火炎樹が咲いててなあ、魚なんぞは素手で掴めて、バナナでもサトウキビでも食いたい放題よ。それに泡盛は本物だからよう、これがおめえ、うめえの何のって、東京で飲む焼酎なんぞは牛の小便だあ」
うんうんと相づちを打ち、タバコに火をつけて、椎葉は焼酎をなめる。本物の泡盛なんか飲んだことはなく、座間味も火炎樹も知らないが、頭には燃えるような赤い花と輝度の高い海が浮かんでいる。太陽を浴びて浜辺に寝そべり、サトウキビを齧《かじ》りながら本物の泡盛とやらを飲む。感動するほどのシミュレーションではなくても、寒いチベットよりはましだろう。
「トメさん、泡盛って、サトウキビからつくるのか」
「米だよ」
「ふーん、米か」
「だけど本土で食うようなジャポニカじゃねえぜ。タイあたりの連中が食ってるインデカ種ってやつだあ。うん、泡盛にゃインデカ種じゃなきゃいけねえわけよ。これがおめえ、うめえの何のって。俺たちが飲んでる焼酎なんざ、まるで赤ん坊のミルクだあ」
三口でタバコが終わり、椎葉は吸止を地面につぶして、思わず欠伸をする。頭のなかで沖縄の海が発光し、泡盛の空想が温かく血管を彷徨《ほうこう》する。
「座間味ってのは小せえ島でなあ。石垣や宮古より人が少なくて、そのかわり人情がいいやい。基地だの兵隊だのの騒ぎもねえし、魚もうめえしなあ」
「どこで寝ても風邪はひかないし、か」
「そうよ。バナナもパパイヤも食い放題、俺の生まれた島だからって言うわけじゃねえけど、あすこは楽園だあ」
「帰ればいいのに」
「そりゃあ、ダメだあ」
「どうして」
「島にゃ兄弟や親戚がいる」
「だから、帰ればいいじゃないか」
「兄弟や親戚がいるから帰れねえんだよ。そういう理屈が分からねえから、おめえは素人なんだあ」
トメさんが寝返りを打ち、椎葉に背中を向けて、ぽりぽりと尻をかく。林の奥でマージャンの連中が騒ぎ、小林さんがテントの前でギンナンの皮をむき始める。この季節は多くのホームレスがギンナン拾いの仕事につき、日に千円程度の現金をかせぐ。誰とも交流はないはずなのに、小林さんも生きる術《すべ》だけは身につけている。
林の奥からヤスオが歩いてきて、肩をふりながらとなりに腰をおろす。頭には相変わらず音の出ないヘッドホンをのせ、手には発泡スチロールの丼をのせている。
ギンナンの皮をむく母親のほうに首をのばしてから、ヤスオが丼を椎葉の前に置く。
「あっちでハト鍋をやっててね、椎葉さんへのオミヤゲっすよ」
「お袋にもっていけ」
「母ちゃんは、ハトは食わないっすから」
「上品な人だな」
「俺だってフライドチキンやバーガーのほうがいいっす。ハトの首を締めるところを見たら、やっぱ食えないっすよ」
「ヤスオは住む場所を間違えてる。人間の不幸は生きるべき場所で生きないことだ」
「椎葉さんの言うこと、いつも難しいや」
「おまえはモノを考えなくていいんだ。なにも考えなくていいから、お袋の仕事を手伝ってやれ」
「いやっすよ、ギンナンの皮って、臭くて」
「臭いホームレスが臭いギンナンの皮をむく……それが摂理だ」
「セツリって?」
「質問はやめてくれ。喋るだけなら疲れないけど、考えるのは面倒くさい」
椎葉は湯呑をとりあげて焼酎を飲み、ついでに丼からハトの肉をつまむ。ハトはホームレスの貴重なタンパク源で、パンくずとトンボ網でかんたんに調達できる。
「そろそろ脂がのってきたな。フグでも犬でも、美味いのはやっぱり冬場だ」
「俺ね椎葉さん、あっちで仕事に誘われたんすけど、どうしたらいいすかねえ」
「やればいいさ」
「場所は茨城っすよ」
「工事現場か」
「港で堤防をつくるとかって、日当は九千円だそうっす」
茨城の堤防工事で日当は九千円、その半分は食費や飯場の宿舎代としてピンハネされるから、手元には五千円も残らない。それでもこの不景気のなか、ヤスオぐらいの歳ならまだそんな仕事もまわってくる。
「ねえ椎葉さん、どうすかねえ、やったほうがいいすかねえ」
「勝手にするさ」
「堤防の工事現場って、大変そうっすよねえ」
「ゴミ箱漁りのほうが辛いと思う人間もいる」
「どうするかなあ。金は欲しいんだけど、二週間だからなあ。母ちゃんを二週間も、放っておけるかなあ」
ヤスオが爪をかみながら口をもごもごやり、母親のいるテントのほうに首をのばす。椎葉はポケットからまた吸止をとり出し、風をよけて火をつける。トメさんはいつの間にか眠ったらしく、沖縄の夢でも見ているのか、気楽なイビキが聞こえてくる。
「ねえねえ椎葉さん、それよか、あのことなんっすけどね」いつ母親のことを忘れたのか、ヤスオが長い顔を間延びさせて、にっと歯をむき出す。「あの話、椎葉さん、知ってますよねえ」
「マリさんが本当は宇宙人だという話か」
「そうじゃなくて、昨日の、ほら、あれっすよ。今日はみんなその話で持ちきりっす。なにしろ殺されたんが女子高校生っすから」
「誰がどこで殺されてもいいじゃないか」
「だけど、女子高校生っすよ」
「それがどうした」
「すごいっすよ。本物の女子高校生があんなところで殺されて、あっちやこっちに、本物の刑事が来てるんすから」
「場所がトメさんのリヤカー置き場というのは、ちょっとひどいかな。犯人が掴まったら損害賠償を請求しよう」
「噂だとね、犯人はこの村の誰かって話っすよ」
「犯人なんか分かってるさ」
「え、本当っすか」
「殺された女ってのは、やられてたんだろう」
「そうそう、なにしろすっ裸で大股開きで、あすこの毛が剃られてたって話っすから」
「この村でそんなことをする奴は、ヤスオしかいない」
「え、俺?」
「昨日トメさんは交番で、ずっとおまえのことを訊かれたそうだ。警察も犯人はおまえだと睨んでる」
「そ、そんなの、無茶っすよ」
「それならおまえ、あの夜の三時ごろ、アリバイはあるのか」
「夜中の三時なんて、寝てるに決まってるじゃないすか」
「ふーん、犯行時間は夜中の三時か。おまえが犯人だから、知ってるわけだ」
「ち、ち、違いますよ。今椎葉さんが、そう言ったんじゃないすか」
「おまえが自分のテントで寝ていたという証人は?」
「お袋がいますよ」
「お袋さんだって寝ていたさ。おまえはお袋さんの目を盗んで、そっとテントを抜け出した。一発やれる若い女はいないかと、その辺をうろついてたら、たまたまトメさんのリヤカー置き場に被害者が通りかかった。おまえは女を殴って気絶させ、すっ裸に剥いて、溜まってたナニをぶち込んで、そうしたら女が目を覚ました。騒がれるし顔は見られるし、そこでおまえは女の首を絞めて、殺してしまった……なあ、そうだろう」
ヤスオの長い顔が半分ほどに縮まり、ヘッドホンをのせた頭が瘧《おこり》のようにふるえだす。もごもご動く口には涎《よだれ》がにじんで、目が三白眼《さんぱくがん》につりあがる。
「だけど心配するな。おまえが素直に認めれば、こっちの損害賠償は放棄してやる」
「し、し、椎葉さん……」
「おまえも出来心だ。殺意はなかったと判断されれば、傷害致死罪で済む。殺人罪に問われたところで懲役十五年、案外テントより、刑務所のほうが暮らしやすいかもな」
ヤスオの口ににじんでいた涎が、すーっと膝に落ち、躰全体が激しく痙攣《けいれん》を始める。
「なあ、ヤスオ、自首したほうが身のためだぞ」
「お、お、お……」
ヤスオがバッタのように飛びあがり、涎をたらしたまま、きょろきょろと周囲を見まわす。ヘッドホンは頭のうしろにずれ、鼻の穴は馬のように開いている。
「お、お、俺じゃないっす。信じてくださいよ。俺じゃないっす、俺じゃないっすよ」
椎葉に向かって激しく首をふり、ヤスオがよろめきながら踵《きびす》を返す。歩いていくのは自分のテントではなく、噴水の方向、腰でリズムをとるパフォーマンスを忘れているから、相当の動揺だろう。殺されたのが女子高校生だろうと主婦だろうと、犯人がヤスオだろうとセンセイだろうと自分だろうと、そんなことはみんな、椎葉の知ったことではない。
椎葉は湯呑の焼酎を飲みほし、トメさんのとなりに、ごろんと横になる。ポケットにため込んだ吸止も残り少なくなり、全財産は三百七十円。強盗でもして一息つくかとも思うが、考えるだけでも面倒くさい。スダくんを真似て贋《にせ》坊主にでもなるか、猫の皮剥屋でもやるかギンナンでも拾うか。しかしそのどれもがやはり面倒くさく、もう生きていること自体が面倒くさい。
トメさんのイビキを聞いているうちに、椎葉も眠くなり、腕枕をして目を閉じる。モズが戻ってきて頭上で鳴き、マージャンの喚声が爆竹音のように響いてくる。
閉じた目蓋の裏に、また沖縄の海が広がる。
タバコを我慢しながら夕子はパソコンのキーボードを叩いている。打ち込んでいるのは坂下美亜に関する情報で、美亜のインデクスには生年月日や服装の好み、学業成績や友人関係などの雑多なデータが入っている。昨日あらたに集めた情報は、母方の実家にひき取られてから美亜が杉並区の私立高校に転校したこと、制服は新旧とも大間幹江の着ていたものとは異なること、美亜は新しい高校に馴染まず、阿佐ヶ谷の家にひきこもりがちらしいこと。遊び場所は渋谷から新宿にかわり、交遊関係も変わったこと。それらの事実は本人に質《ただ》したのではなく、学校関係者や友人たちから聞き出した。幹江事件との関連は渋谷北署の捜査員が調べるから、直接の接触は避けるべきだろう。
オペレーターの婦警から声がかかり、夕子にファクスの着信を告げる。夕子はパソコンをそのままに席を立ち、婦警のデスクへ歩く。『刑事《デカ》溜まり』は今日も閑散としていて、石丸課長と中村警部がそれぞれの席で茶を飲んでいる。
届いたファクスは渋谷北署で指揮をとっている笹野からのもので、内容は「司法解剖の結果、被害者の性交は生前のもの。残された精液の血液型はO型、扼殺痕から犯人の利き手を同定することは不可能。幹江の通っていた都立金町実業高校は制服を採用しておらず、現在制服の出所を調査中。また制服の襟に幹江本人のものとは異なるファンデーションが付着していたが、事件との関連性は不明。詳細は現場写真とともにパソコン送信するので、後程そちらでプリントアウトされたし」、そして最後は「幹江事件と羽田事件の関連性は、今のところ考えられない」というものだった。幹江の遺体が発見されてまだ一日、簡単に羽田事件との関連性は考えられない、とか決めつけられたら、堪《たま》ったもんじゃない。
夕子はファクスをもって中村の席へ歩き、用紙を中村の前に置く。
「中村さん、科学捜査研究所に、毛髪の照合を依頼してください」
中村がのんびりと顔をあげ、目尻の皺を呆れたように間延びさせる。ネクタイの柄は昨日と違うようだが、どこがどう違うのか、素人の夕子には分からない。
「ほうほう、代々木の事件では、犯人の精液が残ってるのか」
「幹江が生前に性交していれば、どこかに犯人の陰毛が残っている可能性もあります。精液だけでも羽田事件の毛髪とDNA比較ができます」
羽田の事件では、現場で家族四人のもの以外に五種類の毛髪が採集され、本庁の科学捜査研究所に保管されている。ただ毛髪は無関係なものも衣類等に付着して屋内に運ばれるから、一般に考えるほど犯人の特定材料にはなり得ない。
「こっちに残ってた五種類の毛髪、か。このどれかが幹江殺しの犯人と結びつけば、本件も一歩前進だなあ」
「ぜひ照合をお願いします」
「君に言われんでも鑑定させるが、期待は禁物だぞ。二つの事件は同じ殺人でも、手口がまるで違う。私の経験から言って、幹江殺しは場当たり的な衝動殺人だよ」
「同一犯人で、羽田事件では準備期間がじゅうぶんにあった。一方幹江のほうは準備の余裕がなかっただけ、とも考えられます。わたしには幹江の事件が、羽田の事件に関係しているとしか思えません」
「君の推理は耳にタコができるほど聞いてはいるが……」タバコをくわえて、火をつけ、中村が長々と煙を吐く。「坂下夫婦はそれぞれが三千万、合わせて六千万の生命保険に入っていた。夫婦といづみの三人が死ねば保険金はまるまる美亜の懐に入る。しかしなあ、いくら不良といってもたかが十六の小娘だ、保険金のために両親と妹を殺すかね」
「冗談半分に友達へ話したら、そのバカが本当にやってしまった。マンションの鍵が四本とも残っていた理由は、美亜が友達に鍵を使わせたからです」
「ピッキングに馴れた人間ならあんな鍵、十秒で開けられるよ」
「たんなる窃盗犯があれほどの凶行を?」
「いやあ、だからなあ、あれやこれや、どんなふうにも断定できんあたりが、本件の難しいところじゃないかね」
ファクスの紙をもてあそび、ぷかりとタバコを吹かして、中村が顔の皺を深くする。タバコなんか吸ってる暇があったら早く科研に連絡してくれ、と思いながら、夕子は自分の席へ歩く。椅子に腰をおろしかけ、思い出して、また中村のデスクに戻る。
「事件とは関係ないことですが、中村さん、以前本庁の一課にいらした椎葉警部補は、ご存じですよね」
鼻を鳴らしながら、中村がくわえタバコで夕子の顔を見あげる。昨日のネクタイは風呂敷と壁紙の中間のような柄だったが、そういえば今日は、手拭いと襖紙《ふすまがみ》の中間のような柄になっている。
「もちろん椎葉くんは知ってるが、突然、どうしたね」
「昨日お見かけした気がして……」
「君は椎葉くんと知り合いだったのか」
「警察学校時代に逮捕術の指導を受けました。所轄に配属されたあとも、二、三度研修でお目にかかりました」
「そうだそうだ、とにかく優秀な男で、事件の状況分析に独特の才能を持っていた。あいつがいてくれたら今回の事件も、もう目鼻がついていたかも知れんなあ」灰皿でタバコをつぶし、湯呑をとりあげて、中村が茶をすする。「それで、その椎葉くんを、見かけたって?」
「いえ、たぶん、人違いです。椎葉さんが警察をやめたのは、いつごろでしたか」
「もう二年か、一年半か……一課長もずいぶん慰留したんだが、本人も神経をやられたんだろう。カミソリのように切れる頭ってのは、脆《もろ》さが同居するものなのかねえ」
「退職の理由は部外秘ですか」
「依願退職だから秘密というほどのことはないが……君は、なぜ知りたいんだね」
「お世話になった方ですし、本庁の捜査一課を目指す警官なら、みんな目標としていた人です」
「ほうほう、私も若いころは警視庁のマーロン・ブランドと言われて、目標にされたんだがなあ」
「今でも中村さんは一課のブラッド・ピットと評判ですよ」
「なんだねその、ぶらぶらちょっと、というのは」
「アメリカの二枚目俳優です。それより、椎葉さんは、なぜ退職を?」
「うん、いやあ、たしかにあれは、気の毒な事故だった。あいつの神経がやられたのも、無理はなかったんだが」
また湯呑をすすり、新しいタバコをくわえて、中村がしばらく刑事部屋の四隅を眺める。刑事課長はソファで歓談をはじめ、婦警や刑事たちが声もなく部屋に出入りする。しかしいくらロートル警部でも、「ぶらぶらちょっと」はひどいだろう。
中村がタバコに火をつけ、一度煙を吹いて、夕子のほうに目を細める。
「不祥事ではあるが、椎葉くんの個人的な問題ではあるし、それぞれに家族もある。そういうことで事故は公表せず、処分もすべて一課の内部だけでおこなったんだ」
まったく、オヤジというのは、どうしてこう前置きが長いのか。事故や処分の顛末《てんまつ》が公表されていたら、夕子だって中村に聞きはしないのだ。
「椎葉くんもなあ、結婚して、子供もできて、大崎のほうに中古の家を買って、これからというときだった。好事魔《こうじま》多しというのはああいうことを言うのかねえ」
中村さん日が暮れます、という言葉を、夕子は奥歯で、ぐっとかみ殺す。
中村がゆっくりとタバコを吹かし、皺深い視線を天井のあたりに漂わす。
「たまたま非番の日でなあ、なんの用事か知らんが、やつが出掛けようとして、車庫からクルマをバックさせた。女房と二歳の娘が見送りに出ていたんだが、うっかり女房が娘の手を放してしまった。やつも女房に話しかけようとして、ちょっとバックミラーから目を離した。それがみんな、ほんの一瞬だったそうだ。女房の手を離れた娘がころんでクルマの下敷きになった。なにしろ二歳の子供だ、一週間も意識不明がつづいていたが、結局は助からなかったよ」
初めて殺人現場を見たときの貧血が、くらりと夕子の躰によみがえる。柔剣道の有段者で逮捕術の教官、ノンキャリアながら出世も順調で、殺人事件の捜査には独特の手腕を発揮した。結婚をし、子供ができ、中古ながら家も買った。そんな椎葉の人生に、ほんの一秒か二秒、運命が嫉妬の牙をむいたのか。順調すぎた人生のつけといっても、そのつけは、あまりにも大きすぎる。
「女房も大学時代の同級生とかで、美人だったがなあ。その事故があってから二カ月目に離婚しちまったよ。お互いに顔を合わせるのがつらかったんだろう。やつも業務上過失致死で一階級降格、停職のあと、一応は復帰したが仕事も上の空。俺なんかもとりあえずの休職をすすめてみたが、結局は辞表を出した。狂っちまった人生の歯車は、いくら椎葉くんでも、もう戻せなかったんだろう」
夕子は自分が、重心をデスクの角で支えていることに気づき、意識して床に足をふん張らせる。
「退職してから椎葉さんのことは、なにか?」
「知らんなあ。新宿の中国人クラブで用心棒のようなことをしてるとか噂があったが、確認はとれてない。頭のいい男だし、クソがつくほど生まじめな性格だった。今ごろは故郷にでも帰って、地道に暮らしてるかも知れんなあ」
「そうですか。それならやっぱり、人違いでしょうね」
半分は中村の言葉に期待し、半分は自分の懸念を確信しながら、夕子は席に戻る。それから湯呑をもって給茶器に歩き、茶葉をかえて濃い茶をいれてくる。茶を飲みながらパソコンの画面を睨み、意識を羽田事件に集中させる。『地取り』と呼ばれる現場付近の聞き込みでは、相変わらず新たな情報はなく、遺留品の線にも新事実は出てこない。せめて羽田事件と幹江殺しの犯人が同一とでも判明すれば、幹江の交遊関係から羽田事件への展開も開けていく。それまでは坂下美亜の尾行でも徹底させるか、だけど椎葉さんの事故もひどかったな、事故であることは確かだろうけど、椎葉さんが自分で娘をひき殺したわけだから、割り切れと言っても無理だろうし……頭のなかで思考が錯綜して、思わず手がタバコにのびる。ライターを握ったとき、「くそっ」という呟きが声に漏れたらしく、近くを通った刑事が口を開けて夕子の顔を見る。夕子はその刑事に首をふり、あきらめてタバコに火をつける。いっそのこと禁煙でもしてやるか、それとも逆に、二箱でも三箱でも、燻製になるまでタバコの煙に溺れてみるか。
夕子の指は知らぬ間に、キーボードの上で、SHIIBAAKIOと動いていた。
どんよりと曇った空に黄昏の気配が混じる。富ケ谷交差点に向かう車線はクルマが渋滞し、八幡神社の杜《もり》から冷たい風が流れ落ちる。地球の温暖化がいわれて久しいが、どうやら今年は、冬が早く来るらしい。
椎葉はリヤカーをひいて西門をくぐり、しばらくクルマの流れを眺める。七時になって閉まる門はせいぜい胸の高さ、人間はのり越えられるし、リヤカーだって無理をすればひき出せる。これまで考えたこともなかったが、朝晩出したり仕舞ったり、我ながらご苦労なことだ。今日だってトメさんが仕事に出るとは限らず、もし椎葉一人ではただの徘徊《はいかい》になる。それに十年間トメさんの縄張りと決まっていたヤツデの葉陰も、今は警察から地上げされている。
考えているうち、考えることが面倒くさくなって、リヤカーをひいて道をわたる。トメさんが仕事に出ると言いだせばそれまで、寝込んだままでもそれまで、地球が笑っても泣いても、みんなそれまでだ。
警視庁の『立入禁止』のテープを横目に見て、鼻を鳴らしたとき、前から歩いてきた男に肩をたたかれる。男はがっちりしたガニ股にジャンパーをはおり、紙袋をかかえて頭にタオルを巻いている。そのいかつい躰から、かすかにシャンプーや石鹸が匂う。
「なんだ、マリさんか。今日は男装の麗人に変装か」
「やーだ、銭湯へ行ってきたのよう。あんたのほうは相変わらず見苦しいわねえ。お風呂なんか入ること、あるわけ?」
「先月トメさんに連れていかれた」
「そんなことだからホームレスがバカにされるのよう。腐っても鯛、臭くても人間、ねえ、今度あたしが奢ってあげるから、一緒に銭湯へ行ってみない?」
「風呂に入ると風邪をひく体質でな。おれだって命は惜しいさ」
銭湯帰りだから、もちろん今日のマリさんはノーメイク。目も口も鼻も大振りで肉が厚く、人相は神社の仁王様を思わせる。ゴムサンダルにズボンにジャンパーに仁王顔、いくらマリさんが代々木公園のスターでも、女湯は無理なのだろう。
「だけど椎葉ちゃん、先日《こないだ》はほーんと、失礼しちゃったわよう」
今はごついだけのオッサンであることを忘れたのか、マリさんが腰と肩を、ヘンな形にくねらせる。
「ほらほら、先日の、馬が病院から逃げてきたような顔の子……」
「ああ、ヤスオか」
「そうそう。それでね、あんときあんたが言ったじゃない、彼があたしを探してるとか……行ってみたら噴水のところに座ってるから、あたしも遊んでやろうと思ったわけ。若い子はどうしても溜まってるし、あたしも挨拶代わりで、あそこを握ってやったのよう。そうしたら彼、どうしたと思う?」
「泡でも吹いて目を回したか」
「あら、あんた、見てたの」
「あいつも純情だからな。憧れの人に突然キンタマを握られたら、ショックさ」
「でもそのあとの言いぐさが憎らしいのよう。え? なんて言ったと思う、マリさんは死んだ親父に似てますだって」
「うん、感動的な場面だ」
「近くにいた女子高校生には笑われるし、ほーんとあたし、いい恥をかいたわよ」
マリさんが軍手のような手で頬をおさえ、肩をすくめて|しな《ヽヽ》をつくる。
「そういうことでね、どうでもいいけど、椎葉ちゃんも溜まったら声をかけてよう。ほかの男たちには内緒で、あたし、すっごいサービスをしちゃうから」
仁王様のような顔で閻魔様のようなウィンクを送り、マリさんが西門のほうに歩きかける。冥土のミヤゲにその「すごい技」とやらを見たい気もするが、そこまで度胸は決まらない。
マリさんが足をとめ、何やら唸りながら、立入禁止区域内に唾を吐く。テープの内側には女の子が入り込んでいて、ヤツデの植え込み前に小さい花束を置いている。短い髪を金色に染め、焦げ茶のカーゴパンツにベージュ色のウィンドブレーカーを着て、十一月だというのに毛糸のマフラーを巻いている。
マリさんがつかつかとテープに歩み寄り、またぺっと唾を吐く。
「何してるのよう。さっさと出てきて、自分たちの穴蔵に帰りなさいよう。ここはあんたらみたいな淫売が来るとこじゃないの。あんたたちのお陰で、善良なあたしたち、すっごい迷惑なんだから」
言葉遣いはオネエだが、風体はどう見ても飯場のオヤジふう、そんなマリさんに唾を吐かれて因縁をつけられたら、誰でも怖《お》じ気づく。渋谷方向から歩いてきたサラリーマンでさえ足をとめ、道をテニスコート側へかえていく。
少女が無表情に顔をあげ、ふて腐れたように肩をふって、ぶらりとマリさんに向かう。顔色は異様に白く、つり上がった感じの目に暗い情熱が見える。その場所で殺されたのは女子高校生だというし、献花に来たのなら被害者の身内か友達だろう。
「ふん、しおらしく花なんかもって来て、わざとらしいわねえ。犯人はどうせ不良仲間の誰かだって、警察が言ってたわよ」
テープを無言でくぐって来た少女が、ふり向きざま、突然、マリさんの脛《すね》を蹴る。そこまでの行為がまったくの無言で無表情、椎葉は少女の殺気に気づいていたが、マリさんにとっては青天の霹靂《へきれき》だったろう。不良に見えても相手は痩せっぽちの小娘、一方マリさんは頭にタオルを巻いた怪しいオヤジで、喧嘩を始めれば勝負は決まっている。マリさんがごつい腕をふり回せば、少女なんか道の向こうまで飛んでいく。
マリさんが紙袋をふりあげ、少女がマリさんの胸ぐらに掴みかかって、乱闘が始まるかと思った瞬間、マリさんが腰をくねらせて身をひるがえす。
「椎葉ちゃん、あんたも言ってやりなさいよう。こういう女狐が社会の癌なの、親の脛をかじって贅沢して、無責任で自分勝手で破廉恥で淫乱で、まったくもう、生まれついての淫売なんだから」
マリさんに淫売呼ばわりされたら少女も困るだろうが、背後に隠れられた椎葉も困ってしまう。呆れてばかばかしくて、椎葉はリヤカーを植え込みのほうに押しかける。
少女は何を思ったのか、拳を握って椎葉に突きかかる。椎葉に避ける気力はなく、避ける意思もなく、しかし身についた術が自然に拳をかわしてしまう。
少女がよろめき、目をつり上げて、強く唇をかむ。青白い顔に精気はなく、ただ神経質な怒りだけを椎葉に飛ばしてくる。
体勢をたてなおした少女が、また椎葉に突きかかる。椎葉は少女の拳を手刀で払い、手首を掴んで肘を背中の側にねじあげる。それでも少女は声を出さず、足をばたつかせて椎葉の膝を蹴ろうとする。椎葉は逮捕術の要領で少女を押しつぶし、マリさんに向かって顎《あご》をしゃくる。
「椎葉ちゃん、つよーい。そんなブス女、殺しちゃいなさいよう」
「マリさん、早く行ってくれ」
「どうしてよう、あたしにも殴らせてよう」
「面倒はごめんだ。それに酔ってるからいつまでも押さえておけない。マリさんが行かないなら、この子を放すぞ」
「あらあら、脅さないでよう。まったく椎葉ちゃん、あんたって、お金さえあればいい男なのに」
マリさんが仁王様のように見得を切り、紙袋を抱えなおして、そそくさと歩きだす。歩道の遠くには三、四人の通行人が足をとめ、にわかに始まった見せ物を呆然と眺めている。
マリさんが道を向こうにわたり始め、椎葉も息が切れて、少女の手を放す。
少女がシャクトリ虫のような恰好で腰をあげ、すっくと背をのばす。顔が白いのは化粧のせいではなく、尖った顎の先もかすかに震えている。
「警察や新聞記者がうろついて、ホームレス連中は気が立ってる。君もこの辺りには近寄るな」
少女に背を向け、リヤカーの引き棒に手をかけたとき、少女の回し蹴りが椎葉の腰を襲う。椎葉の本能がまたその攻撃を避け、椎葉はうんざりと、少女の頬を手で払う。
少女が鼻の穴をふくらませ、歯をむき出して、両の拳を椎葉の胸に打ちつける。しばらく少女に胸を打たせ、怒りもなく、椎葉は少女の肩を突く。少女がよろけて歩道の端に尻餅をつく。
「………」
歩道にうずくまった少女の、その無防備さに一瞬、椎葉の記憶が二年前の痛みを思い出す。
椎葉は首を横にふり、深呼吸で息をととのえ、リヤカーを立入禁止区域の横に放り込む。手が無意識にレインコートのポケットを探り、無意識に焼酎のボトルをとり出す。
「………」
来た道を戻りはじめ、見物人はもう目に入らず、つき飛ばした少女のことも忘れている。夕暮れ色に染まった空にイチョウの枯れ葉が舞い、排気ガスが汚れたレインコートを包み込む。
クルマの切れ目を待ちながら、ボトルをポケットにしまい、落ちているタバコの吸殻を拾う。代々木公園の森にはカラスが屍肉《しにく》を狙うように旋回し、はるか上空をヘリコプターが飛んでいく。自分が何のためにここに立っているのか、ふと意識が混濁する。
道をわたり切り、西門から公園内に入ってテントに戻る。しばらく焼酎を飲んでから七輪に火をおこし、ヤカンに水を汲んでくる。マリさんに言われたせいか頭が痒くなり、髪を洗う気分になっている。夏場なら公衆トイレの洗面台で水をかぶればいいが、もう水では冷たすぎる。銭湯に行く金はなし、とりあえず頭の痒みがおさまればそれでいい。
林の奥ではまだマージャンがつづいていて、たまにポンとかロンとかの蛮声が聞こえてくる。マージャンには金が賭けられ、負けが込んで村を逃げ出すホームレスもいる。公園南通り沿いにも正門傍にも、青空雀荘が常時五、六カ所は開かれている。
センセイの姿は見えないが、スダくんは托鉢《たくはつ》から帰っていて、テントの前で夕飯の支度を始めている。となりのテントからはラジカセの音楽が聞こえ、小林さんの七輪にも鍋がかかり、どこからかサンマを焼く煙が流れてくる。
湯がわき、トメさんのテントに洗面器を借りにいこうとしたとき、椎葉の視界をローヒールのパンプスが塞ぐ。パンプスの上にはツィードのパンツ、視線をあげると共布《ともぬの》のジャケットに革のショルダーバッグが見え、ジャケットの上には髪の短い卵形の顔がのっている。脂肪の薄い体型で背丈は百七十センチほど、ホームレス支援のボランティアにしては表情が硬く、服装も垢抜けている。
「椎葉さん、お久しぶりです」
胸騒ぎではないが、胸騒ぎの予感に似た風が、椎葉の躰をざわりと吹き抜ける。
「警察学校でお世話になった吹石夕子です。多摩川署に赴任してからも二、三度お目にかかってます。去年の春からは刑事課の強行班に配属され、今は羽田で起きた一家三人の殺人事件を担当しています」
七輪では湯が沸騰し、ヤカンの蓋がぱたぱたと音をたてる。椎葉は七輪からヤカンをおろし、ペットボトルをとり出して焼酎をなめる。
すすめもしないのに夕子が木の根方に腰をおろし、膝に腕をつっ張って、肩を尖らせる。
「シンプルで、閑静なお住まいですね」色の白い夕子の顔が逆上《のぼ》せたように上気し、夕闇のなかに耳が赤くなる。「退職なさったことは知ってましたけど、こんなところでお目にかかるとは、思いませんでした」
椎葉は首のタオルをはずして目脂《めやに》をこすり、また焼酎をなめて、タバコの吸止に火をつける。
「今、本庁から中村警部がうちの所轄に出張っています。椎葉さんのことは、中村さんから聞きました」
二口だけ黙ってタバコを吸い、椎葉が七輪の火に吸止を放る。
「さっき椎葉さんがモメていた女の子は、坂下美亜といって、羽田事件での生き残りです。わたしは彼女のあとを尾行していました。なぜさっき、美亜と椎葉さんがモメてたのか、理由を聞かせてもらえますか」
七輪にタバコのフィルターがいやな臭いで燃え、煙が椎葉のほうへ流れる。椎葉は手を七輪にかざし、こわばった指をもみほぐす。
「吹石くんといったか」
「あ、はい」
「失礼だけど、おれは君のことを覚えていない。それにご覧のとおりテレビもラジオもない暮らしで、新聞も読まない。あそこで女子高校生が殺されたことは知っているが、羽田の事件なんて、聞いたこともない」
「代々木公園で殺された大間幹江は、さっきの坂下美亜と交遊がありました。両親と妹が殺された日、美亜はたまたま幹江と一緒にいて、惨殺をまぬがれました。わたしはその『たまたま』が不審《おか》しいと思いますし、羽田の事件から半年後に幹江が殺されたことも、やっぱり不審しいと思います」
「君の勝手だ」
「はい?」
「君が何を不審しいと思うか、そんなことは君の勝手だ。おれは羽田の事件も大間幹江という女子高校生も知らない。聞き込みなら他でやってくれ」
「でも……」
「なあ、女刑事さん。こう見えてもおれは正統派のホームレスだ。警官と仲良しだと思われては、これから暮らしにくくなる」
「失礼しました。それならどこか別な場所でお話をうかがえますか」
「知らないと言ってるんだよ。たとえ知っていたところでおれには関係ない。ホームレスに慈悲をかけろとは言わないが、干渉もするな。要するに、放っておいてくれ、ということだ」
「でも、それでは、わたしの仕事が成り立ちません」
「ホームレスの生活が成り立たなくなることなんか、どうでもいいか」
「椎葉さん、ホームレスが、そんなに偉いんですか」
「ホームレスにも権利はあるさ」
「それなら義務もあるでしょう。椎葉さんが自分を拗《す》ねてるのか世間を拗ねてるのか、そんなことは知りません。でもこうやって生きてる限り、最低の義務は果たしてください」
レインコートのポケットをさぐっていた椎葉の手が、ゆっくりととり出され、口にタバコの吸止がはさまれる。その視線が夕子の顔をなぶるように上下し、髯だらけの頬に浅い笑いが浮かぶ。
「君の質問に答えれば最低の義務が果たせるのか」
「はい、一応は」
「簡単な義務だな。だけどさっきはおれがモメたんじゃない。街の不良娘とこの村の仲間が喧嘩を始めた。肩が触れただの目つきが悪いだの、バカはいつでもどこでも喧嘩をする。たまたまおれがあそこにいて、仲裁をしただけだ」
その経緯は夕子も見ていたから、状況は椎葉の言うとおりだろう。だがここで尻尾を巻いては女が廃《すた》るし、本庁への道も開けない。
「先日の女子高校生殺しは渋谷北署の管轄で、捜査の指揮は本庁の笹野警部がとっています。今のところ幹江殺しと羽田事件との接点は見つかりませんが、でも捜査がすすめば、二つの事件はどこかで関連が出てくるはずです」
「それなら早く署に帰って、書類整理でもすることだ」
「なぜです」
「今度の事件が君の事件と関連していれば、村のホームレスは全員が無関係だ。こんなところで聞き込みをしても時間の無駄だろう。それに管轄外の事件に口を出し過ぎると、君自身がつぶされる。警察は君が思ってるより縄張り意識の強い社会だ」
「わたしだって警察の閉鎖性は知ってます。それより椎葉さんご自身は、どうするんです?」
「おれが、なに」
「しばらくは捜査員が公園に出入りします。わたし以外にも誰か、椎葉さんに気づくかも知れません」
「それがどうした、ホームレスは犯罪者か」
「ここで暮らしてることをみんなに知られたら?」
「昨日も刑事が二人、地取りに来た。向こうも気づかなかったし、おれもそいつらを知らなかった。警視庁には五万人もの警官がいる、誰がおれなんかを気にするか」
椎葉が吸止を七輪に放って、欠伸《あくび》をしながらタオルで顔をこする。その風体は絵に描いたようなホームレス、動作も緩慢で表情にも覇気《はき》はない。夕子の知っていた清潔で快活な椎葉とは別人だから、中村や笹野でも気づかない可能性はある。リヤカーをひいたホームレスを椎葉と見破ったのは、たんに夕子の、女の勘だろう。
夕子は惨めな気分になって、バッグからメンソールのタバコをとり出し、火をつけて煙を深く吸う。すでに日が落ちて空気が藍灰色になり、散らばったテントがささやかな灯をともしている。カンテラあり、懐中電灯あり、蝋燭《ろうそく》あり、椎葉のように七輪だけの明かりもある。
「女刑事さん、体力に自信はあるか」
「なんの話です?」
「ここは遊歩道から離れている。暗くなってきたし、君が叫んでも助けは来ない」
「だから?」
「おれに君の貞操は保証できないということさ。それに悪いけど、君の貞操になんか興味もない。この村の連中は女に飢えてるから、ちょっと奥へ行けば、十人ぐらいすぐ襲いかかる」
煙にむせ、咳をしながら、夕子は携帯の灰皿でタバコをつぶす。火の消えた夕子のタバコを七輪越しに椎葉の手が奪いとる。椎葉はその吸止に火をつけ、煙を長く夕子の顔に飛ばす。
「メンソールか、やっぱり味が薄いな」
「椎葉さん、事件の解決に協力してもらえませんか」
「どうして」
「元は刑事でしょう。それも辣腕《らつわん》といわれた捜査一課のエースだったじゃないですか」
「君の質問には答えた、ホームレスとしての義務は果たしたぞ」
「あの家族が殺された現場を見ていたら、椎葉さんも許せないはずです。権利とか、義務とか、仕事とか、そういうこととは関係ありません」
「警視庁も人材が揃ってきて、ホームレス以外の都民は幸せだ」
「ホームレスになるということは、正義感を捨てることですか」
「ホームレスになるということは、人生のすべてを捨てることさ。その代わりにタバコや食い物を拾って歩く」
「そんな……」
「おれのことより君は自分の貞操を心配しろ。もっともその躰でホームレスの連中の心を癒してやるというなら、止めはしないけどな」
咽に怒りがこみ上げ、しかし言葉は出ず、夕子はバッグを抱えて腰をあげる。本当は怒るより泣きたいのだが、夕子の体質はなぜか、悲しいと顔と声が怒ってしまう。
「椎葉さん、お忙しいところを、お邪魔しました」
「最初から邪魔だと言ってる」
「このタバコ、よかったら吸ってください」
「できたら銭湯代も貸してくれるか。髪を洗おうと思って湯をわかしたが、君のお陰で気力が失せた」
夕子は立ったまま、五、六秒椎葉のぼさぼさ頭を見おろし、それから財布をさぐって五百円玉を見つけ出す。
夕子がタバコと五百円玉をさし出し、椎葉がそっぽを向いて受けとる。
「もう暗いから、正門側へは歩くな。西門から外へ出ればすぐ地下鉄の駅がある」
椎葉に頭をさげ、ふり返らず、夕子はまっすぐ西門へ歩きだす。歩幅が大きいのは元々の性格で、林の暗さやホームレスに怖じ気づいたわけではない。公園内でホームレスが女を襲う話なんか、聞いたことはなく、届け出があるとも聞いていない。貞操|云々《うんぬん》は椎葉のタワゴト、それに夕子は強行班の刑事で、一応は逮捕術も身につけている。
十メートルほどの所に遊歩道が見え、ほっと息をつく。肩からも力が抜け、自然に歩幅が小さくなる。
そのとき松の木の陰から、不意に幽霊のようなものが忍び出る。坊主頭にボロ布のようなものをまとい、手には長い棒をもっている。男が夕子の前に立ちふさがって、何やら唸り声をあげる。夕子は止まりそうになる心臓に活をいれ、男を迂回して足を速める。男の唸るお経のような文句が夕子の背中を追いかけ、思わず駆け足になる。夕子はそのまま小走りに駆けつづけ、西門と向こう側の通りが見えてきたところで、やっと歩幅をゆるめる。肩越しにふり返ってみたが、坊主頭の姿はなく、背後には暗い森が暗鬱に広がっている。
なぜこれほど公園が怖いのか。さっきの坊主頭だって、どうせ害のないホームレスに決まっている。場所は渋谷のど真ん中、まだ人も歩いているし、道路にはクルマが渋滞している。こんなところで襲われるはずはないのに、とは思ったが、大間幹江が襲われて殺されたのは、ここからせいぜい五十メートルほどの場所なのだ。
夕子はパンプスのかかとで歩道を蹴とばし、声に出して、くそっと悪態を吐きすてる。
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蒲田駅に近いワンルームマンションのベランダに、朝日が射してくる。環八や第一京浜からクルマの渋滞音が聞こえ、もう朝のラッシュが始まったらしい。
夕子がいくら正義の味方でも、二日酔いには敵《かな》わない。脳の前頭葉からはセロトニンが払底《ふつてい》し、躰中の血管を自殺願望が這いまわる。深酒をすると誰でも突発性の鬱病患者になってしまうが、くわえて今朝の夕子は突発性のヒステリー、頭痛や顔のむくみや朝の光に歯ぎしりをしながら悪態を吐きつづける。
昨夜は行きつけのスナックでクダを巻き、蒲田へ帰ってからは近所のカラオケ居酒屋で撃沈した。悲しくて惨めで人生そのものに腹が立って、これが飲まずにいられるか。酒に鬱憤《うつぷん》をはらすオヤジ連中を軽蔑しながら、気がついたら自分が同じ醜態を演じていたのだ。その事実にも腹が立ち、それよりなにより、服を着たままベッドに倒れている現実に、叫びたいほど腹が立つ。
部屋には電気がついたまま、服も着たままで化粧もしたまま、壁の時計は八時を過ぎていて、それでも地球は回っている。どうせ服を着てるならこのまま仕事に出掛けるか。そうは思ったがやはり二十八歳の独身女、昨日と同じ服では刑事部屋の婦警たちに、何を言われるか。それに期待はしていないが、こういう日に限って理想の男性にめぐり合う可能性も、なくはない。
夕子は布団をかぶったまま、「よっしゃ」と声を出し、イモ虫のようにベッドをころげ出る。それからバスルームへ歩いて湯をセットし、ツィードのパンツスーツを勢いよく脱ぎすてる。案の定顔はむくんで躰はだるく、アセトアルデヒドは撤退の気配も示さない。この二日酔いが沈静化するまで、今日は夕方まで地獄だろう。
狭いキッチンで湯をわかし、マグカップにコーヒーを落としながらミネラルウォーターで頭痛薬と胃薬を飲む。コーヒーが落ちてからマグカップとペットボトルをバスルームに運び、湯の温度を確かめる。まだ湯量は少なめで温度も低いが、下着をはぎ取って浴槽に身を沈める。コーヒーに口をつけ、ミネラルウォーターを飲みほし、思わず「うーい」と声をもらす。こんな生活をつづけていたら肌は荒れる一方、警察にろくな男はいないし、恋愛なんて夢の夢、たとえ本庁の捜査一課に抜擢されたところで、待っている道はオヤジギャルから行かず後家か。まったく、どうでもいいが、それにしても椎葉明郎は、何を考えているのだろう。いくら人生に絶望したからって、ホームレスにまでおちぶれる必要がどこにある。男の神経は女より脆弱《ぜいじやく》、ウィルスにもストレスにも弱いし、男が女に勝《まさ》っているのは筋肉の瞬発力だけ。そんなことは分かっているが、目の前にその弱さを披瀝《ひれき》されると、やはり憂鬱になる。
昨日の五百円で椎葉は銭湯に行ったろうか、と思いながら、夕子は浴槽から両腕をつき上げ、また「うーい」と背伸びをする。
案じていたとおりトメさんは仕事に出ず、椎葉も焼酎を飲んでうたた寝をして、気がついたら正午《ひる》をすぎていた。昨日とかわって陽射しは明るく、芝生広場のほうから子供の歓声が聞こえてくる。昼勤のホームレスは仕事に出掛け、夜勤のホームレスは洗濯や日向ぼっこにいそしみ、無職のホームレスも洗濯や日向ぼっこで暇をつぶしている。
昨日までは私服の警官が公園を歩きまわっていたが、今日はその姿もなく、ホームレス村には怠惰な日常が戻っている。もともとホームレスは存在自体が反社会的、山谷暴動の時代から警察との不仲はかわらず、女子高校生殺しについて何か見聞きしていたところで、口を開く人間はまずいない。警察もそのあたりの事情は承知しているから、公園での聞き込みを切り上げたのだろう。
椎葉はトメさんのテントをのぞき、呑気なイビキを確かめて公衆トイレへ向かう。椎葉のレインコートは夜も昼も兼用で、夏はオレンジ色の上着を脱ぎ、冬は上着の下にセーターを着る。今はまだセーターを着るほどではなく、暑さ寒さは首のタオルで調節する。
トイレで用を済まし、洗面台で顔と口を洗う。公園の管理事務所はトイレットペーパーを用意しているが、ホームレスは使わない。無節操に見えても公共物を不法占拠している身分だから、プロのホームレスは礼儀を心得ている。トメさんなんか公園内の清掃もするし、商売とはいいながら空き缶や空きビンも回収する。ルールを守らないのはリストラや倒産で転業した俄《にわか》ホームレスで、アマチュアは公共物を乱雑に使用し、ゴミや空き缶もまき散らす。三カ所ある集落からぽつんと離れてテントを張っているのはほとんど新米のホームレス、そんな連中も時間をかけて村に馴染んでいくか、あるいは知らぬ間に姿を消していく。
自分のテントに戻りかけ、方向をかえてセンセイのテントに向かう。センセイはテントの横に商売用の書籍を積みあげ、デッキチェアに腰掛けて新聞を開いている。七輪に雑炊用の鍋はなく、一個だけの植木鉢から黄色い菊が顔を出す。
「センセイ、例の薬湯ができてたら、飲ませてもらえませんか」
センセイがわざとらしくメガネをはずし、じろりと椎葉の顔を見あげる。銭湯へ通って髪も髭も始末しているから、一見は紳士風、服装を整えて外出すればホームレスとは分からない。スダくんと同様にセンセイにもどこか、ホームレスへの偏見がある。
デッキチェアから腰をあげ、テントの板戸をほんの少しだけ開けて、センセイがポットと湯呑をとり出す。板戸の隙間にヌードグラビアらしい色彩がのぞき、椎葉はスダくんの報告を確信する。「教え子の女子中学生を強姦して刑務所に入っていた」という証言も、にわかに信憑性《しんぴようせい》をもってくる。
センセイがポットから茶色い液体をつぎ、湯呑を椎葉に手わたす。手作りの健康茶だとかで、成分はヨモギやタンポポやその辺の雑草、センセイの説では健胃作用や免疫力向上に効果があるという。
「どうしたね、まだトメさんの風邪は治らないのかね」
「交番に連れていかれてプライドが傷ついたんですよ、トメさんも神経が繊細だから」
「酒の飲みすぎで神経なんか麻痺してるさ。そのうち私がドクダミ茶をつくってやるから、飲ませてやるといい」
「たまには焼酎以外の飲み物も、気分転換ですかね」
「とにかくあの事件は騒ぎだからなあ。とばっちりを恐れてこの公園からも何人か逃げ出したらしいぞ」
「ホームレスが安心して暮らせないなんて、いやな世の中だ」
「さっきはヤスオも出ていったよ。茨城のほうで働くとか言ってたが、どうかなあ。案外あいつあたりが犯人じゃないのかねえ」
離れたテントでは小林さんが出入り口の前にしゃがみ、ぼんやりと空を眺めている。ヤスオなんかいなくても暮らしには困らないだろうが、小林さんにすれば一応、息子が心の支えなのだろう。こんなふうに村の平和を乱されたら、マリさんが坂下美亜とかいう女の子に腹を立てるのも無理はない。
椎葉は青臭い健康茶に口をつけ、その苦みに眉をひそめる。こんなものを飲んで健康になったところで所詮はホームレス、将来に希望があるわけでもなく、誰が褒めてくれるわけでもない。
「センセイ、事件のことを新聞ではどう言ってます?」
「特別なことは言っておらんさ。都内の女子高校生というだけで名前も公表してない。写真も出なかったから、美人かブスかも分からんな」
「すっ裸で大股開きで下の毛が剃られてたとか」
「椎葉くん、そりゃ嘘だろう」
「どうして」
「新聞にはあの場所が犯行現場だと書いてあった。裸にするだけならともかく、毛まで剃るには時間がかかるよ。夜中では暗いし、道端でそこまではできんさ」
「そんなもんですかね」
「私も見物に行ってみたが、もう青いシートがかかっていた。新聞に『被害者は首を絞められていた』と書いてあるから、レイプぐらいはされたろうがね」
センセイが膝に新聞を広げながら唇を笑わせ、メガネ越しに椎葉の顔をのぞく。きれいになでつけた横分けの髪が一筋だけ乱れ、小さい黒目が銀色に光る。センセイの歳を五十過ぎと思っていたが、もしかしたら本当は、十歳以上若い可能性もある。
椎葉は湯呑を地面に置いて、レインコートのポケットをさぐり、メンソールのタバコをとり出して火をつける。
長いタバコを吹かす椎葉を、センセイが珍しそうな顔で眺める。
「どっちにしてもなあ、レイプなんて毎年何千件も発生している。問題はレイプや殺人ではなく、男をそういう衝動に追い込む社会構造にあるわけだよ。私は売春防止法なんか撤廃すべきだという意見だが、椎葉くんはどう思うね」
「さあ、難しい問題だ」
「売春防止法がなければ『売春』という犯罪自体がなくなる」
「人間も生まれなければ死にませんがね」
「いったい売春という商売に、男は毎年いくらの金を払ってると思う?」
「さあ」
「なんとねえ、いわゆるソープランドだけで、毎年九千五百億円だよ」
「はーあ」
「これにホテトルが千五百億円、ヘルスとイメクラで二千八百億円、女子中高校生の援助交際費が六百億円、外国女の売春が二百六十億円、全体ではなんと、一兆五千億近い金額だ。男は男だというだけで、毎年これだけの金を女に搾《しぼ》りとられてる」
センセイの口調に一見感情はなく、しかし目には冷たい光が宿って、薄い唇にも見えぬ程度の痙攣《けいれん》が走っている。センセイが女という存在を否定しているのか、売春というシステムを否定しているのか、聞いていても分からない。チンパンジーのメスだってバナナを媒介に売春をするというから、躰を売るのも買うのも、霊長類の性《さが》だろう。
椎葉は途中まで吸ったタバコの火を指でつぶし、そのままレインコートのポケットに戻す。最近は拾った吸止ばかり吸っているので、新品のタバコはどうも吸いにくい。
「ねえセンセイ、不祥事で免職になる警官は毎年四百五、六十人といいますが、教員なんか、どんなもんですかね」
センセイが一瞬言葉を呑み込み、咽仏を上下させて、新聞の向こうに表情を隠す。
「そりゃあ、警官より、教員のほうが人数も多いから……だがまあ、毎年二千人前後の教員が懲戒免職になっているよ。しかしそれだって椎葉くん、毎年一万六千件という外国人の窃盗や、九万人という暴力団の数からみれば、微々たるもんじゃないかね」
わざとらしく咳払いをし、新聞をめくって、センセイがメガネを顔の上に押しあげる。外国人による窃盗事件は毎年二万件弱、強盗や殺人で検挙される外国人も四百人以上になるが、今のところそれは、どうでもいい。
「羽田のほうで、半年ほど前……」ポケットからペットボトルをとり出し、残り少なくなった焼酎を、椎葉がちびりとなめる。「何か大きな事件があったらしいんですが、センセイ、ご存じですか」
「おうおう、一家三人が殺されて、当時は新聞も週刊誌も大騒ぎだったねえ」
センセイがほっとしたように肩の力を抜き、新聞をたたんで、サンダルの足を組む。
「だけど今ごろなんだね、たしかに当時は騒いだが、もう新聞に記事も出ないよ。あんな単純な事件で犯人が捕まらんとは、警察も堕落したなあ」
「そんなに、単純な?」
「そりゃそうだよ。犯人は凶器だとか着ていた雨ガッパとか、腐るほど遺留品を残してる。それに夫婦と中学生の娘をメッタ刺しだ。家族に恨みをもっている暴力的な変質者を捜し出せば、あんな事件は簡単に解決だ」
「はあ、なるほど」
「日本の警察は世界一優秀だなんて威張ってたのは、昔のことだねえ。今じゃ犯罪の検挙率も二十パーセントだよ。十の犯罪を二つしか解決できんなんて、まるで素人じゃないか」
センセイの指摘はそのとおり、しかし椎葉の記憶では警察の犯罪検挙率も、殺人事件に関してだけなら、まだ九十パーセントを超えている。
「だけど椎葉くん、あんな半年も前の事件が、どうかしたのかね」
「いえ、昨夜人を殺す夢を見ましてね、それがどうやら羽田の事件だったらしい」
「ほーう、夢をねえ」
「なにかの願望でしょうかね」
「人間は誰しも殺人願望をもってるが、しかし……」不意に言葉を呑み、センセイがメガネの奥の目を、粘っこく光らせる。「しかし、その、あれだ、ただ殺しただけで、女のほうはやらなかったのかね」
「その前に目が覚めました」
「何もせずにかね」
「夢の話ですよ」
「惜しかったなあ。たとえ夢の話でも、中学生の娘だけは、ぜったいやっておくべきだった」
センセイの咽仏が大きく動き、顎から耳への筋が、ひくひくと痙攣する。近くでは女子高校生が殺されたばかり、迂闊《うかつ》な発言は誤解をまねくだろうに、椎葉が相手で、つい気もゆるんだか。
椎葉が焼酎の残りを確かめ、ため息をついたとき、視界の遠くに女の影がゆれる。それは遊歩道よりいくらかテント村側、ケヤキやシイが林立するあたりで、チェックのスカートに濃いベージュ色のジャケット姿、肩には学生鞄のようなショルダーバッグをさげている。
「ふーん、ご苦労なことだ」
「何がだね」
「いえ、薬湯をごちそうさま。今度女を殺すときは、忘れずにやらせてもらいます」
腰をあげ、センセイに手をふって、椎葉は遊歩道のほうへ歩きだす。吹石夕子はケヤキの木陰から動かず、肩と首のふり方でへたな合図を送っている。テントまで来ないのは昨日の脅しに臆《おく》したのか、それとも椎葉の立場を考慮したのか。
五十歩ほど歩いて、ケヤキに寄りかかっている夕子と向かい合う。昨日より目がはれて顔色が悪く、短い髪も乱れている。躰つきは骨っぽくて長身、化粧の仕方では見られない顔でもないだろうに、少しばかり表情が固すぎる。昨日も名前までは思い出さなかったが、挑戦的な目つきと頑固そうな口の形に、見覚えはあったのだ。
「どうした、家へ寄ってくれればハト鍋をふるまうのに」
「ハト鍋?」
「ホームレスも意外に高級なものを食ってるだろう」
「どうせならカラスを食べてください。そうすればホームレスも、いくらか社会から感謝されます」
「うん、名案だ。今度の東京ホームレス会議では、ぜひ提案しよう」
夕子が腕を組んで鼻の穴をふくらませ、その強情そうな顔を眺めながら、椎葉は吸いかけのメンソールに火をつける。
「君の好意は嬉しいんだけどな。最近おれは、女に興味がない。だから女子高校生を襲って殺したのも、おれじゃない」
ケヤキの幹から背中を離し、腕組みをしたまま、夕子が椎葉のレインコートに鼻を近づける。
「椎葉さん、昨夜はちゃんと、銭湯へ行ったんですか」
「考えてるうちに面倒くさくなって、寝てしまった」
「そういうのは詐欺ですよ」
「あの五百円は借りただけだ。今度どこかで財布を拾ったら、かならず返す」
「それでは拾得物横領になります。昨日の五百円は寄付しますから、今夜は銭湯へ行ってください」
「吹石くんだったか?」
「はい」
「おれは、そんなに臭うか」
「カビと残飯と汗とアルコールがごちゃ混ぜになったような、絶望の臭いがします」
「ふーん、自分ではまるで臭わない。要するにおれは、環境への適応力が高いということだ」
「絶望に適応するなんて卑怯ですよ」
「やっぱり君は、おれに惚れてるな」
「冗談はやめてください。わたしは捜査への協力をお願いに来ただけです。たまたまとはいえ、椎葉さんは昨日、坂下美亜と接触しています。ですから羽田の一家殺しに関しても、もう事件の関係者なんです」
夕子が腕組みをといて、ぶらりと西門のほうへ歩き、椎葉もつられて歩きだす。美亜という女の子をつき飛ばしただけで、すでに事件の関係者というのは酷《ひど》い論法だが、昨日受けとった五百円はもう焼酎に化けている。
テント村が見えなくなる場所まで歩いてから、夕子が足をとめ、バッグを胸に抱えて肩を怒らせる。
「椎葉さん、今日は忙しいですか」
「ホームレスに『忙しいか』と訊くのは、失礼だぞ」
「アルバイトをしませんか」
「うん?」
「プライドも正義感もない椎葉さんに、善意は期待しません。そのかわり捜査に協力してくれたら、わたしがバイト料を払います。日当の相場って、いくらです?」
「さあ、まあ、東京ドームのチケット買いなら……」
タバコを足元に捨て、ポケットからペットボトルをとり出し、残りの焼酎を慎重になめる。歩道に尻餅をついた美亜という少女の目が、不意に脳裏をよぎる。胸騒ぎに似た悪寒が、ざわりと椎葉の背中を行き過ぎる。
「昨日も言ったが、事件にも、君の仕事にも、興味はない」
「日当はいくらですか」
「だから、なあ、おれの希望は死ぬまで焼酎を飲んでいたいという、それだけだ」
「東京ドームのチケット買いでは、いくら稼ぐんです?」
「うん、まあ、二千円だ」
「今は野球をやってませんよ」
「廃品回収を手伝ったり、猫の皮を剥いだり……」
「日当は二千円、一週間ぶんを前払い、経費は別に支給します」
「経費って」
「電車賃やバス代や銭湯の料金です」
「君なあ、いくらなんでも、それは、無茶だろう」
残っていた焼酎を一息に飲みほし、一歩さがって、椎葉は夕子の顔を見る。白かった顔には怒ったような赤みがさし、切れ長の目が異様に光っている。この女、性格の強引さは顔を見れば分かるが、頭はまともなのか。
「今すぐ決めろとは言いません。でもとりあえず、羽田の現場を見てください。椎葉さんの気が変わらなくても、今日の日当だけは払います」
一人で納得したように、夕子が強くうなずき、ショルダーバッグを椎葉の鼻先でふり回す。それから『まわれ右』をして肩を尖らせ、大股に西門へ歩きだす。椎葉はしばらく夕子のうしろ姿を見送り、空になった焼酎のボトルを目の高さにかざして、ちっと舌打ちをする。
現場なんか見たって捜査に協力する気にはならないだろうし、それに事件現場へ勝手に部外者を立ち入らせようなんて、刑事の常識としては問題外。無軌道なのか仕事に命を賭けているのか、しかし警視庁も、面倒な刑事を抱え込んだものだ。
西門前からタクシーに乗り、山手通りで目黒、五反田、大崎をすぎ、第一京浜を経由して産業道路に入る。京浜急行のガードをくぐればすぐ事件現場のマンションだが、運転手が窓を開けたのは椎葉の臭気が理由だろう。夕子だって電車を使えれば、無理にタクシーなんかには乗らなかった。
現場の『羽田パークライフ』というマンションは南北に長い四階建て、公団住宅ふうの外観に狭い駐車場、部屋は賃貸と分譲が半々ほどで、四〇二号室の坂下家は買い取りだという。
タクシーをおり、椎葉を従えてエレベータに向かう。部屋割りは一つの階に四、五世帯ずつ、ロビーは広くとってあり、住み込みの管理人室もおかれている。床は合成大理石で壁はコンクリートにペンキ塗り、玄関の内側にはステンレスの郵便受けが並んでいる。
エレベータを待っていた大柄な中学生が、火星人にでも出会ったような顔で夕子と椎葉を見る。椎葉は髭面の蓬髪《ほうはつ》にきたないレインコート、レインコートの下にはオレンジ色の上着がのぞき、首にタオルまで巻いている。火星人でも辟易《へきえき》しそうな風体で、加えてホームレス臭まで臭うから、少年はさかんに小鼻をひきつらせる。
扉が開き、三人が狭いエレベータに乗る。大柄な少年はコーナーの一角に身をすくめ、躰に不似合いな学生服を小刻みにゆすりつづける。顔はぶよっとした感じのニキビ面、しかし目に浮かんでいる表情は恐怖ではなく、どうやら嫌悪らしい。
エレベータがとまり、三人とも同じ四階でおりる。少年が二人のあとにつづき、四〇一号室の前に立ちどまって、四〇二号室の前に立った夕子と椎葉の気配をうかがう。夕子がバッグから警察手帳をとり出し、少年のほうにふりかざす。少年は無表情に二人を見くらべ、ドアを開けて自分の部屋に入る。「礼儀知らずのクソ餓鬼め」と吐きかけた悪態を、夕子は肩を怒らせただけで我慢する。公園のテント村なら違和感のない椎葉の風貌も、一般世間にひき出すと、なるほど、かなり異様なのだ。
ドアにわたされた『立入禁止』テープをとりはずし、所轄の保管室から持ち出してきた部屋の鍵で、ドアを開ける。カビと埃《ほこり》の臭気が堰《せき》を切ったように押し寄せ、夕子と椎葉の顔を同時にゆがませる。空気のなかには血液が酸化した生ぐさい錆《さび》臭も混じっている。
壁のスイッチを試してみたが、照明はつかず、夕子は靴のままダイニングを横切って、ベランダに面した窓とカーテンを開け放つ。床を現場保存用のビニールシートで被われた部屋に、新しい空気と乾いた陽射しが流れ込む。
ドアを閉め、夕子につづいて、椎葉がのっそりと部屋にあがり込む。
「吹石くん、今日の日当は前払いだよな」
人間が三人も殺された現場に立って、まず金のことを言いだすとは、どういう神経か。夕子はこみ上げる怒りを我慢し、財布から二枚の千円札をとり出して、椎葉にわたす。
椎葉が礼も言わず、受けとった札をズボンのポケットに押し込む。
「で、どうなんです?」
「なにが」
「この部屋の感想ですよ」
「三カ月ぐらいは閉め切りだったろうな」
「そんなことは分かってます」
「壁の模様は血痕だろう。こいつはまるで、花火だ」
「となりの寝室も血まみれでした。床だけは始末しましたけど、あとはそのままです。ご主人は寝室で、奥さんはダイニングの向こうの廊下で、中学生の娘は自分の部屋で、それぞれ刺殺と扼殺です」
「扼殺?」
「女の子だけは扼殺されて、死後に性的な暴行をうけています」
「ふーん、女の子一人だけは、扼殺なのか」
ダイニングセットから椅子をひき出し、深く腰をおろして、椎葉が首のタオルで顔をこする。ポケットのペットボトルが空になっていることが、椎葉には少し息苦しい。
「昨日も言ったが、事件のことは本当に知らない。とりあえず概要を話してみろ」
夕子も向かいの椅子をひき出し、腰をおろして膝にバッグをかかえる。
「殺されたのは坂下吉成、妻の雅代、次女のいづみの三人、犯行時間は五月十八日の午前三時前後、目撃者はおらず、近くで不審人物を見かけた人間も出てきません」
膝のバッグを開き、パソコンからプリントアウトしてきた捜査メモをとり出して、テーブルに置く。
「詳しいことはこのプリントにまとめてあります。それにこっちは、事件発見時の現場写真です」
プリントの束につづけて写真の入った茶封筒をとり出し、それもテーブルに置く。捜査記録の持ち出しはもちろん規則違反、しかしどっちにしろ捜査は手詰まり状態で、少しぐらいの逸脱に、何の意味がある。
「君なあ、部外者のおれを現場に入れること自体、内規違反だぞ。現場写真まで持ち出したことが中村さんに知れたら、訓戒か減俸だ」
「中村さんはもう黄昏《たそがれ》てます」
「ああ見えて意外に勘がいい」
「大丈夫です。わたしは悟られないし、椎葉さんが言うはずもありません。それに言ったところで、現職の刑事がホームレスの助手を雇ったなんて、誰も信じませんよ」
「おれは助手か」
「アルバイトですから仕方ないでしょう」
「まだひき受けると決めたわけじゃない」
「ですからこの部屋を見て、現場写真を見て、ちゃんと決めてください。そのために今日の日当も払ったんじゃないですか」
夕子が茶封筒を前に押し、椅子をずらして偉そうに足を組む。椎葉は封筒をひき寄せてなかの写真をとり出し、テーブルに並べる。写真はざっと五、六十枚、部屋の全体像から窓のカーテンや施錠の具合、椅子の倒れ方から床の血糊、遺留品の包丁やレインスーツ、靴、軍手、タオルと、形式どおりの仕事がされている。このアングルは鑑識課の鈴木が撮った写真だなと、椎葉の頭に要らぬ記憶がよみがえる。
写真が被害者の記録に移り、顔、折れ曲がった手足の角度、パジャマのめくれ方向からパジャマの裂け方と、綿密な映像があらわれる。しかしどれもがひたすら血だらけで、パジャマの柄どころか被害者の性別すら分からない。椎葉が腐るほど扱った殺人事件でも、これほど凄惨《せいさん》な現場はなかったろう。
写真が数葉になり、少女の裸身に変わる。肉のうすい皮膚にふくらみ始めた乳房、鎖骨や腕の内側の打撲痕、のけぞった首にはっきり残る指の跡、美亜とかいう姉に似た小作りで形のいい顔、これからいくらでも幸運が待っていたろうに、その奇麗な顔が白目をむいて、開けた口の奥で舌がひきつっている。そして何よりも見るに耐えないのは、アップになった股間につき立っている、鉛筆ケースの写真だった。陰部とその周囲の皮膚に無残な裂傷はあるが、血がほとんど見えないのは、これが死後の暴行であることを物語る。
椎葉は広げた写真を一つにまとめ、封筒に戻して、夕子のほうへ押し返す。夕子はいつの間にかタバコをとり出し、そっぽを向いてメンソールを吹かしている。強引で生意気で向こう見ずな暴走女でも、現場の具体的な情景は思い出したくないのだろう。
頭が痒くなり、指で掻きまわしながら、椎葉はのっそりと腰をあげる。昨夜はやはり頭を洗うべきだったな、と思いながら、ダイニングから夫婦の寝室へ向かう。この部屋も床はシートで被われているが、カーテンや壁にも血痕が黒く残り、化粧台の位置はずれて、ベッドまで曲がっている。現場検証は半年も前に終わっているから、証拠の見落としはないだろう。椎葉は窓の鍵を確かめただけで、ダイニングに戻る。
「たいして物色のあともないが、盗まれたものは?」
「夫婦の財布から現金がなくなっています。両方合わせて十万程度だったと思われますが、カードや貴金属に手はつけられていません」
夕子の返事を聞きながら、廊下の壁に散った血痕を確かめ、それからドアの開いている子供部屋をのぞく。木製の二段ベッドに二つの勉強机、チューリップの柄をプリントしたピンク色のカーテンと、丈の低い衣装ケース。この部屋は夫婦の寝室ほど乱れはなく、カビや血液の錆臭も臭わない。二段ベッドの上段は掛け布団がたたまれ、下段にだけ寝乱れのあとがある。下段ベッドの壁側に貼られたカレンダーは五月のままで、その二十一日の日付にはハート形の印がついている。いづみという少女に、何の予定があったのか知らないが、少女はこの三日前に死んでいる。
部屋の入り口まで来ていた夕子を、椎葉がふり返る。
「犯人の精液から、何か分かったか」
「精液は検出されていません」
「暴行されたのに、精液が出ない?」
「性器結合はされていないようです」
「それでもこの手の犯人は、指や器具で遺体を弄《もてあそ》びながらマスをかくもんだ。実際の交接より快感があるとかいってな」
「でも、鑑識は、発見していません」
「まさかコンドームを……」呟きながら窓に歩き、また鍵を確かめ、ドアのほうへひき返す。「窓の鍵は閉まっていたのか」
「ダイニングも含めて、窓の鍵はみんな内側から閉まっていました。犯人は玄関のドアから出入りしたと思われます」
「それなら顔見知りじゃないか」
「捜査も当初はその線で進められました。ですが殺された三人の日常に、怨恨の可能性は出てきません」
夕子の前をとおって、ダイニングに戻り、開いている窓からベランダに出る。ビルをいくつか挟んだ向こうに産業道路が走り、そのまた向こうに羽田空港の敷地が広がっている。離着陸の飛行機がトンボのように旋回しているが、音が聞こえないのは風向きのせいだろう。幅二メートルほどのベランダには洗濯の支柱やポールが日に晒され、柵側に並んだプランターは乾ききって、それぞれに何かの植物が枯れている。左隣のベランダとは薄いボードで仕切られ、右隣との境にはスチールの物置がおいてある。
うしろから夕子がやって来て、ベランダの柵に肘をかける。椎葉は羽田空港の空を眺めたまま、ポケットのなかで空のペットボトルをもてあそぶ。
「指紋なんか、出てないんだろうな」
「はい」
「マンションでの評判はどうだ、ピアノの音がどうだとか、ゴミの出し方がどうだとか、つまらん事でモメることがある」
「ぜんぶで二十世帯ほどですからね。念入りに聞き込みをしましたが、トラブルはありません」
「事件の発見者は?」
「正午すぎに帰って来た長女の美亜です。通報で警官が駆けつけたとき、本人はドアの外にしゃがんでいたそうです」
「犯行から発見までが十時間ちかく……致命的だな」
「夜中の三時で、それに雨が降っていました。目撃者がいないのも仕方ありません」
「亭主はどんな仕事をしていた」
「広告会社の共同経営者です。正午すぎまで出社せず、連絡もとれないことを社員も不審に思ったそうですが、家を訪ねる必要までは感じなかったと言います。いづみの学校でも同じで、担任の教師は放課後に来てみるつもりだったそうです」
「部屋の鍵は?」
「四人の家族が、それぞれ一個ずつ」
「管理人にも預けてあるだろう」
「この部屋は購入されたもので、鍵は預けてありません。四つのうち三つは現在警察で保管中、一つはまだ美亜がもってるはずです」
「事件当夜の鍵の状況は?」
「ご主人のぶんは本人のキーケース、奥さんのぶんはハンドバッグ、娘のぶんは勉強机の上」
「予備の鍵が一つぐらいあるはずだがな」
「美亜はなかったと証言しています」
「美亜が帰ってきたとき、ドアの錠はどうなっていた」
「開いていたそうです」
「鍵がかかっていなかった?」
「犯人は犯行後、靴を被害者のものと履きかえ、そのままドアから逃走したと思われます。ただそれがどんな靴だったか、父親が何足の靴を持っていたか、美亜は知らないと言ってます」
「不良の、親不孝娘……か」
ポケットをまさぐり、吸止をとり出して、火をつけながら物置の引き戸を開けてみる。上下二段に仕切られた物置には傘と新聞紙の束と植木鉢が収まっているだけで、たいしたものはない。そういえば部屋のなかも家具は少なく、2LDKの四人暮らしにしては見事に整頓されている。椎葉の別れた妻も片づけ好きだったことが、他人事のように、痛みもなく思い出される。
タバコを二口吸い、足元にすて、物置の戸を閉めてダイニングに戻る。椎葉のすてたタバコを夕子が拾って、自分の携帯灰皿に収める。今さら現場保存にも意味はないが、それでもここは夕子が管轄する、殺人現場なのだ。
「椎葉さん、感想はいかがです?」
椅子に座って欠伸をしている椎葉を、立ったまま夕子が見おろす。
「ひどい事件だな」
「それだけですか」
「二千円でどんな感想をもてばいい?」
「犯人の人物像ですよ。若いか中年か、顔見知りか流しか、怨恨か物盗りか、なにか閃《ひらめ》きませんか」
「少女の暴行だけなら性的異常者の犯行だ。ただそれにしては、両親の殺され方がひどすぎる」
「それぐらいわたしにも分かります」
「本命は両親か、あるいはそのどちらかか、娘のほうはついでだった可能性もある。事件発生当時、この付近の治安はどうだった。空き巣とか、強盗とか、これに似たような殺人とか」
「近くに羽田の飛行場がありますから、治安はいいほうです。パトロールの強化地域でもありますし、しばらく殺人事件もありません」
「単純な物盗りの、居直り的犯行ではない、ということだな」
「複雑なのか単純なのか、見当もつきません」
「鍵の件はどこまで裏がとってある」
「はい?」
「予備の鍵さ。娘が知らないだけで、両親のどちらかが何処かに預けていた可能性もある。それともドアの錠にピッキングのあとでも残っていたか」
「いえ、それは……」
「最近はピッキングの技術も向上している。一応分解して、なかの部品まで鑑識に再検査させるといい」
「はい」
「予備の鍵、という可能性も、もう一度洗いなおすんだな」
「分かりました。生き残った美亜もまだ何かを隠してる気がします。大間幹江の件もありますし、あの不良娘、なんとかひっぱたいてやりますよ」
現場写真の茶封筒をバッグに戻し、プリントを椎葉の前にすべらせて、夕子が肩で息をつく。「ひっぱたく」というのは言葉の綾だろうが、この気の強い女刑事なら実際に何をしでかすか、知れたものではない。
「とにかく椎葉さんは、その捜査資料に目を通してください。家族関係や被害者たちの交遊関係、これまでの捜査状況、それに念のため、幹江事件の関係書類も加えてあります」
椎葉はプリントに手をのばしかけ、その手をひっ込めて、首のタオルで顔をこする。
「こんなものを受けとったら、アルバイトを承知したことになる」
「いいじゃないですか。椎葉さんが暇なのは分かってます。ホームレスにだって気分転換は必要ですよ。バイト料も一週間ぶんを前払いしますから、頑張ってみてください」
自分で発言し、自分で勝手に承諾して、夕子がプリントの束を椎葉のポケットに押し込む。昨日のぶんを含めれば受けとった金はすでに二千五百円、椎葉もなんとなく、義理に縛られたような気分になってくる。
夕子が窓に歩いて鍵とカーテンを閉め、椎葉に手をふって、退室の意思表示をする。
「この部屋にいると気が滅入ります。そうでなくてもわたし、今日は二日酔いで、気分が悪いんです」
エレベータで一階におりてから、椎葉はマンション全体の間取りや階段の位置を確認し、ついでに四〇二号室の郵便受けをのぞいてみる。郵便物は転送の手続きがとってあるらしく、ダイレクトメールも見当たらない。中古でも二千五、六百万円の物件だろうに、一家三人が惨殺された部屋では、買い手も借り手もないだろう。
「昨日の美亜という子は、今どこに住んでるんだ」
玄関から産業道路の方向へ歩きながら、夕子がふんと鼻を鳴らす。
「母親の実家にひき取られました。そのこともお渡ししたプリントに書いてあります」
「君はあの子が嫌いらしいな」
「だって、強情で生意気で無礼なんですよ。警察が必死に犯人を探してるのに、協力の素振りもみせないんです」
「協力したくても、何も知らないとか」
「あり得ませんね。事件のあった夜にたまたま外泊していたなんて、どう考えても、やっぱり不自然です」
「その外泊で一緒だったのが、大間幹江……か」
吸止をとり出しかけ、足をとめて、椎葉が前方の小公園に顎をしゃくる。
「君、そこのベンチで、ちょっと待っててくれないか。十分で戻る。バイト料の持ち逃げなんかしないから、心配するな」
夕子の返事を待たず、椎葉が足早に歩きだし、公園をつっ切って産業道路の方向に姿を消していく。夕子は椎葉のあとからゆっくり公園へ入り、西日に炙《あぶ》られた木のベンチに腰をおろす。椎葉の用事ぐらい分かっていて、十分で戻ることも分かっている。タクシーをマンションに乗りつける前、産業道路にコンビニがあったことを、どうせ椎葉も覚えている。
緊張がゆるみ、二日酔いのだるさがよみがえって、夕子はふわっと欠伸をする。椎葉にはずいぶん強引な女と思われたかも知れないが、夕子にしてみれば精一杯のパフォーマンス、事件が袋小路に入って出口が見えない以上、これまでどおりの捜査では迷宮入りになる。幹江の事件からひょっこり糸口がつかめる期待はあっても、渋谷北署の仕事を漫然と待ってはいられない。椎葉を巻き込むのは一《いち》か八《ばち》かのバクチ、代々木公園で椎葉がホームレスをやっていたのも、小公園で幹江が殺されたのも一昨日あの場所でリヤカーを引く椎葉を見かけたのも、みんな天の配剤。ブランド品も買わず、男とデートもせず、それに来月はボーナスだって出る。椎葉へのアルバイト料ぐらい、もし必要なら、百万でも二百万でも払ってやる。
小春日和《こはるびより》の陽射しに夕子がまどろんでいたのは、三十分ほどか。
椎葉が片足を引きずるようにあらわれ、夕子のとなりに腰をおろす。手には白いビニール袋があって、もちろんペットボトルの形にふくらんでいる。
「そこのコンビニには酒がなくてなあ、向こうの酒屋まで行ってきた」
それが十分ではなく三十分であったことの言い訳なのだろうが、居眠りをしていた夕子にとっては、どうでもいいことだ。
「足、どうかしましたか」
「靴の紐が切れた。ゴミ捨て場で拾った靴だから、文句は言えんさ」
椎葉が袋からとり出したのは、二リットル入りの大型ペットボトル。醸造用アルコールを水で薄めただけの安物で、千百八十円と定価のシールが貼ってある。
大型ボトルから小型の携帯用ボトルに焼酎を移し、椎葉がちびりとなめて、長く息をつく。
「君も飲むか」
「いえ、結構です」
「彼氏と喧嘩でもしたか」
「はあ?」
「二日酔いは自棄《やけ》酒のせいだろう」
「もう治りました。それに男と喧嘩したぐらいで、わたしは自棄酒なんか飲みません」
「そうだな、そんな顔だ」
「どういう顔ですか」
「いや……歩きながらさっきの捜査記録を読んでみたが、死んだ女房の歳が、若すぎないか」
「満で三十六、生きていれば九月に三十七でした」
「亭主の歳は四十二だ」
「六歳ちがうぐらい、珍しくはないでしょう」
「長女の美亜が十六だから、雅代は二十歳で美亜を生んでいる。ヤンキーの姉ちゃんじゃあるまいし、ちょっと早い」
「そうですかねえ。わたしの友達でもそういう人はいますけど」
「雅代の実家は阿佐ヶ谷で大きい病院をやってる。二人の兄も医者らしいから、一応はインテリ家族だ。雅代だって大学ぐらい行ったろう」
「女子大を中退して吉成と結婚です。たぶんデキチャッタ結婚でしょう。相手に惚れていて子供も好きなら、仕方ないですよ」
「夫婦の仲は?」
「普通じゃないですか。近所でも仕事関係でも、悪かったという評判はありません」
「それでも娘は不良になる、か。なんの理由もなく子供が不良になる確率は、ゼロだぞ」
「本当ですか」
「どんなことにも理由はある。この事件の犯人にだって、やはり理由や動機はあるんだ。それが他人には分かりにくいだけのことさ」
焼酎のボトルをレインコートのポケットに収め、気持ちよさそうに背伸びをして、椎葉が近くのゴミかごへ歩く。しばらくゴミかごを掻きまわし、なかから折り詰めの箱をとり出す。いくらホームレスだからってここでゴミ漁《あさ》りをすることはないだろうにと、夕子は憮然《ぶぜん》として、赤面する。
夕子の癇癪玉《かんしやくだま》が破裂しかかったとき、椎葉が足を引きずりながら戻ってくる。手に持っているのは折り詰めにかかっていた紐だけで、どうやら酒のつまみを物色していたわけではないらしい。
元の場所に腰を落ちつけ、どこやらからとり出した小型ナイフで、椎葉が紐を五十センチほどの長さに切る。それから右足の靴を脱いで切れた靴紐を始末し、折り詰めの紐と替えはじめる。腹立たしいような悲しいような、うんざりしたような気分で、夕子は椎葉の手元から目をそらす。
「椎葉さんがこの事件を担当する刑事だとしたら……」バッグからメンソールのタバコをとり出し、火をつけて、煙を西日のほうに吹く。「捜査は、どこから手をつけますか」
「半年もすぎてる事件に、どこからも手のつけようはないさ」
「でも三人を殺した犯人は、今ごろアカンベエをしています」
「正義感の押しつけはやめてくれ」
「これはわたしの立場です」
「おれは殺された三人に義理はない。今日の日当をもらったから、日当ぶんの意見を言っただけだ」
紐をつけ終わり、汚い作業靴を右足に戻して、椎葉がとんと地面を蹴る。近くを這っていた蟻が足をとめ、迷惑そうに方向を変えていく。
夕子はバッグのなかで財布を開き、一万円札を二枚抜いて、椎葉の手に握らせる。
「これなら文句はないでしょう。明日から一週間分の日当が一万四千円、残りが経費です」
「六千円も電車に乗ったらシベリアまで行ってしまう」
「どこへ行っても構いませんけど、お風呂には入ってください」
「うむ……」
椎葉がむっつりとうなずき、札をズボンのポケットにつっ込んで、大きく欠伸をする。風呂だけでなく、レインコートやオレンジ色のジャケットも一考願いたいが、それにしてもこの汚い作業靴は、いったいどんな人間が捨てたのだろう。
産業道路のほうから犬を連れたオバサンがやって来て、ベンチの二人を一瞥《いちべつ》し、逃げるように公園を去っていく。
「で、椎葉さん、捜査の方針は?」
「おれはただの助手だ」
「わたしは寛容で忍耐強い性格ですから、助手の意見も尊重します」
「レインスーツのサイズはL、靴は二十六・五センチ、一見犯人は大柄な男と思われるが、本当のところは分からない……亭主の靴のサイズは?」
「二十五・五センチです」
「犯人は小柄で、大サイズの遺留品はカムフラージュだった可能性もある。包丁や軍手の遺留品も大量生産の安物、これじゃ流通ルートはたどれない。そういうことをすべて考慮していたとすれば、犯行は計画的なものだった」
「はい」
「反面、強盗が居直っただけとも考えられる。夫婦の殺され方は残酷だが、あれは素人の手口だ。馴れた人間より素人のほうが、パニックを起こして無茶な殺し方をする。しかしそれでは、娘への暴行が説明できない」
「端的に言うと?」
「端的に言うと、分からん」
「わたしは美亜や幹江と交遊のある、不良の誰かではないかと思います」
「美亜がその誰かに部屋の鍵をわたし、両親の金を盗ませようとした。忍び込んだら見つかって騒がれ、パニックを起こして三人を殺した」
「保険金の件もあります」
「両親の保険金が合わせて六千万、妹も殺して、美亜が金を独り占めしようとした」
「筋は通るでしょう」
「君は刑事か、それともテレビドラマの脚本家か?」
「二日酔いですけど、ちゃんと刑事ですよ」
「それなら美亜の線は除外することだ。彼女が君の言うような冷血漢なら、友達の死んだ場所に花は供えない」
煙が咽にからまって、夕子はタバコを下にすて、パンプスの底で踏みつぶす。その吸止を椎葉が拾って、レインコートのポケットにしまう。
「椎葉さん」
「うん?」
「ああ、いえ、べつに……だからって美亜は、やっぱり重要な参考人です」
「それはそうだ」
「それは、そうなんです」
「犯人は美亜が留守と知っていたのか、知らないで押し入ったのか、そのへんもふくめて美亜の周辺を洗いなおす必要がある。とくに加世田というアンチャンは幹江とも深い関係だったというから、少なくとも幹江の件については、何かを知っている」
「お願いします」
「うん……おれが?」
「幹江殺しは渋谷北署の事件ですからね。わたしが出しゃばるわけにはいきません。優也の住所もさっきのプリントに書いてあります」
椎葉が髪を掻きまわし、ため息をついて、ポケットから小分けにした焼酎のボトルをとり出す。夕子の提案に反論しないところをみると、アルバイトを覚悟したらしく、口には苦っぽい笑いが浮かんでいる。
夕子は椎葉にタバコの箱をわたしかけ、思いなおしてバッグに収める。前金も払ったことだし、長いタバコが吸いたければ、自分で買えばいいのだ。
「幹江が着ていた制服のことも、向こうの捜査員が調べてるはずですから……」自分の名刺の裏にケイタイ番号を書きつけ、それに用意してきたプリペイドの携帯電話をそえて、夕子が椎葉の手に押し込む。「事件に進展があればその都度ご連絡します。椎葉さんのほうも何か分かったら、遠慮なく電話をください」
焼酎のボトルをポケットにしまい、わたされた携帯電話を、椎葉が顔をしかめて眺める。仕事と金を押しつけられ、その上ケイタイまでもたされたら、椎葉は堅気の人間になってしまう。
「わたしは自分の所轄へ戻りますけど、椎葉さんはどうします?」
「うん、まあ、銭湯へでも行くかな」
「それがいいですね。その臭気で聞き込みをしたら犯罪です。それに幹江の事件では向こうの刑事が動いてますから、遭遇には気をつけてください。お互いに肩身の狭い立場ですし、無用のトラブルは避けましょう」
夕子がすっくとベンチから腰をあげ、椎葉に手をふって産業道路のほうへ歩きだす。大股に歩いていくそのうしろ姿に、椎葉の頬がゆるむ。いくら教えても逮捕術のこつを飲み込めなかった不器用な小娘がようやく思い出され、思わず苦笑がこみ上げたのだ。あれから五、六年の時間がたち、夕子は警察学校を卒業して所轄に配属され、制服の婦人警官から刑事課の捜査員に抜擢された。椎葉のほうは職も家庭も放棄し、無為にホームレスをつづけている。自分が棄ててきた人生に未練はないが、夕子がまき散らす単純な正義感に、忘れていた良心が波をうつ。
椎葉は吸止に火をつけ、二口だけ吸って地面に放り、焼酎をとり出して咽に流す。ズボンのポケットには二万円以上の金、こんな大金は久しぶりで、トメさんに寿司でも買って帰ろうかなと、椎葉は背伸びをしながら、大きく欠伸をする。
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青空雀荘のとなりで青空自転車店が店を開いている。店主の東田というホームレスは以前自転車屋だったとかで、村内の修理流通はすべてこの男がまかなう。道端で廃品になっている自転車を再生し、仲間のホームレスに二千円前後で卸すこともあれば、タイヤのパンクも百円で修理する。今修理しているのは椎葉が持ち込んだボロ自転車で、椎葉はそれを昨夜、銭湯帰りに代々木八幡の駅前から調達してきた。後輪はパンクしてスポークは錆だらけ、荷カゴはひしゃげてライトも欠けているから、相当の期間雨ざらしになっていたものだろう。夕子に言わせれば『拾得物横領罪』だが、駅前の放置自転車を一台整理してやっただけ、警察も一般社会も、誰が文句を言うものか。
ポンだのチイだのの騒がしさを横目で眺めながら、椎葉はカシの根方でタバコを吹かす。東田は鼻唄まじりでタイヤのチューブを水にひたし、空気を送ってパンクの箇所を調べている。仕事は緩慢で表情もとぼしく、鼻唄も『街のサンドイッチマン』を果てしなくくり返す。この東田のほか、村には元電気の修理屋も元大工もいて、日常の便には事欠かない。
ふと東田が顔をあげ、ジャンパーの袖で鼻の頭をこする。
「椎葉さんよう、ライトも修理しておかねえと、オマワリに止められるぜ」
「うん、修理してくれ」
「今電気のつくやつがねえからよう、カッコだけでいいかい」
「オマワリに止められなければ何でもいい」
「鍵もぶっこわれてるから新しいのをつけてやらあ」
「動けば何でもいいさ。そんなママチャリで女をナンパするわけでも、ないからな」
タバコをすて、カシの幹に寄りかかって、椎葉は焼酎をなめる。久しぶりに風呂になんか入ったせいか躰がだるく、気分もぼんやりしている。皮膚もつっ張って奇妙に躰が軽いから、垢だけでも一キロはあったか。ふだんから下着だけは洗濯していたが、肝心の中身を洗わなかった。見栄も体裁もなく、女に性欲を感じることもなく、ただ時間が過ぎていくのを眺めている。これじゃまるでノラ犬だな、とは思うが、ノラ犬だって発情期にはメス犬に狂うだろう。
「前のタイヤはパンクじゃねえけど、ムシがいかれてらあ」
「ムシ?」
「空気弁のとこにつけるゴム管さあ。たかだか一センチぐれえのゴム管でも、これがいかれてると空気が抜けちまうんだ」
「ふーん、餅は餅屋で、自転車も奥が深いな。素人にできるのは人殺しぐらいか」
とろとろと眠くなり、カシの幹に寄りかかったまま、目をとじる。ポンだのロンだのの声に混じって、また『街のサンドイッチマン』が聞こえはじめる。このまま眠って二度と目が覚めなかったら、どんなに幸せか。目が覚めるからまた焼酎を飲まなくてはならず、焼酎を入手するためにリヤカーを押したりギンナンを拾ったり、どうでもいい殺人事件にも首をつながれる。人生から一切の束縛を排除する手段は、やはり死しかないのだろう。
「椎葉さん、パンクから何から、ぜんぶ修理して五百円だよ。それとサービスで、登録番号も削っといてやるからね」
下北沢へはリヤカーを押してまわるから、三軒茶屋まで自転車をこぐぐらい、何でもない。東海大学の横から駒場へ抜け、三宿、太子堂とそれぞれ住宅地の路地を通って、新玉川線の三軒茶屋駅前に出る。クルマばかり走る埃っぽい交差点をわたり、玉川通りからまた住宅街に入る。無個性な街路にアパートとマンションが混在し、猫もブロック塀の上を無個性に歩いていく。
椎葉はのんびりと自転車を乗りまわし、銀行の社宅と大型マンションの谷間に『玉川ハイツ』を見つける。木造モルタルの二階建て、外壁を白い新建材で被い、外見だけは若者好みに造ってある。こんなアパートのワンルームでも六、七万の家賃をとるから、椎葉でなくとも公園に住みたくなる。
自転車のサドルにまたがったまま、二階の窓を見あげ、夕子にわたされたケイタイで加世田優也の部屋を呼びだす。一回のコールでぶっきらぼうな若い男が出る。椎葉は声を聞いただけで電話を切り、自転車を外階段の傍《わき》にとめる。時間は午後の一時、夕子の資料で優也の仕事はゲームセンターの夜間店員と分かっている。
外階段をのぼり、五つ並んだドアの、一番奥のドアの前に立つ。チャイムがあって、そのボタンに指をかける。部屋の内で人の気配がし、すぐにドアが開く。チェーンを掛けていないところをみると、優也は友達でも待っていたか。
ドアの隙間に足をさし込み、部屋の薄暗がりに優也の顔を透かす。
「殺された大間幹江の身内だ、君に話を聞きたい」
小太りで肉の厚い優也の顔が、青くなって赤くなって、白くなる。電話の声はぶっきらぼうだったが表情は平凡で、どこにでもいる頭の悪いアンチャン、という印象を受ける。髪も黒くて短め、コーデュロイのパンツにとっくりセーターを着て、上にジャージのジャンパーを羽織っている。
「ええと、幹江の身内っていうと、つまり、あれですか」
「まあな、そんなようなもんだ。ここでもいいし外でもいい。とにかく君と話をしたい」
優也の言う「あれ」とは家出している幹江の父親という意味だろうが、椎葉の風体では年齢も分かるまい。相手が勘違いしてるなら説明の義理はなし、それにこんな若造、いざとなれば力ずくでも口を開かせてみせる。
優也が途方に暮れたような顔で身をひき、椎葉はドアを開けて沓脱《くつぬぎ》に入る。部屋は六畳ほどのワンルームでドアの横がキッチン、ベッドやテーブルやオーディオセットが押し込まれ、スチールラックの上にテレビがのっている。
部屋に上がっても仕方なく、椎葉は沓脱前の床に腰をおろす。
「警察にも調べられたろうから、幹江の事件は知ってるよな」
「ええと、ああ、はい」
「幹江を殺したのは君か」
「いえ、まさか、そんなこと……」
「正直に話さないと君も死ぬぞ。おれはご覧の通りの人間で、この世に未練はない。君の一人ぐらい、いつでも道連れにして死んでやれる」
優也の太った首が息を飲んで上下し、大きめの尻が部屋とキッチンの境に落ちる。いくら昨夜風呂に入ったとはいえ、風体は典型的なホームレス、そんな男に突然のり込まれてすごまれたら、誰でも混乱する。夕子の資料には「渋谷の不良」とあったが、見かけも態度も、それほど反社会的な性格ではないらしい。
ポケットから焼酎のボトルをとり出し、一口なめてから、タバコの吸止に火をつける。
「君が幹江を殺した犯人でないということは、証明できるのか」
「ええと、警察にアリバイとかいうのを聞かれて、それがあったから」
「ゲームセンターで働いていたか」
「そうじゃなくて、俺今、夜中はバイトで雑誌の配送をやってるんですよ。もうフリーターって時代でもないし、それで昼間は就職先を探してるんです。幹江ともずっと前に別れてるから、俺、今度のこととは、何も関係ないです」
「ずいぶん都合よく別れたな」
「だって、俺ももう、二十二だから」
「堅気の人生を始めるのに都合が悪くて、幹江を殺したんじゃないのか」
「冗談はやめてください。今も言ったけど、アリバイはバイト先の人が証明してくれてるんです」
「そんなことは調べれば分かる。幹江と君が本当に別れていたのか、まだ付合っていたのか、それも調べれば分かる。もしおれを騙《だま》したら、地獄の底まで追いかけるぞ」
優也が口を開きかけ、しかし言葉は出さず、床に胡坐《あぐら》をかいて座りなおす。細い目の目尻がひきつっているのは、恐怖のあらわれか、それとも居直りの前兆か。
椎葉は吸止をコンクリートの沓脱にすて、靴の底で踏みつぶす。
「まあいいさ。で、幹江と別れたというのは、いつごろのことだ」
「もう二カ月も前ですよ」
「理由は?」
「べつに……俺が勤めてたゲーセンで他の男といちゃいちゃしてたから、頭にきてね。それで別れたんです」
「トラブルはなかったのか」
「まるでないですよ。二、三度ケイタイにメールが入ったけど、こっちは送り返さなかった。俺ももう二十二だから、やっぱ、そろそろ真面目にならなきゃね」
「かんたんに真面目になれたり不良になれたり、いい世の中だ。それはそうと、幹江が殺されたとき女子高校の制服を着ていたというが、彼女は制服なんか持っていたのか」
「ああ、それも警察に訊かれたけど……」
優也が躰をひねって部屋の内から灰皿をひき出し、背中を丸めながらタバコに火をつける。その仕種には余裕が戻った感じがあり、細い目の内側に一瞬、ふてぶてしい光が走る。
タバコの煙を長く天井に吹かし、優也が膝を組みかえる。
「あんた、幹江の親父さんだなんて言ったけど、違うんじゃないの。あいつの親父なら五十に近いはずだもんね」
「そんなことはどうでもいい。制服のことを聞かせてくれ」
「だって……」
「訊かれたことに答えればいいんだ。それともおれと友達になって、これからも末永く付合いたいのか」
椎葉の顔をじろりと見おろし、鼻水をすすって、優也が長く煙を吐き出す。優也だって人生にあぶれた半端者だろうが、少なくとも椎葉ほど人生にあぶれたくはないだろう。
「まあね、あんたが誰だか知らないけど、俺は何も悪いことをしていない。知ってることは話してやるよ」
「幹江の制服のことだ」
「そうそう、だけどあいつの高校は都立だった。制服なんか持ってなかったし、俺も見たことはないよ」
「それが制服を着て夜中の三時に殺された、ヘンだと思わないか」
「思わないなあ。制服ってのは一種のファッションだからね、あいつも着てみたかったんじゃないの」
「殺された場所について思い当たることは?」
「それって、代々木公園の裏のほうだとか?」
「小公園の道端だ」
「そうなんだよねえ、警察にも訊かれたけど、あいつ、なんでそんな所へ行ったのかなあ。気まぐれな性格だったから、散歩にでも行ったのかなあ」
「おい、加世田……」ポケットから小型ナイフをとり出し、刃を開いてゆっくりと靴底の土をこする。「真面目に返事をしないと、怪我をするぞ」
「いえ、べつに、ただ心当たりはないって、そう言っただけですよ」
特別に慌てた様子もなく、優也の口調がまた慇懃《いんぎん》な感じに戻る。椎葉はたっぷりナイフを見せつけ、それからナイフをしまい、かわりに吸止をとり出して火をつける。
「本当に心当たりはないんだな」
「誓いますよ。あんな所に知り合いがいるなんて、聞いたこともない」
「別れてから幹江が送ってきたメールの、内容は?」
「元気かとか、今何してるかとか、そんなことですよ」
「そのメールに君は返事を打たなかった」
「そうです」
「トラブルに巻き込まれていた感じは?」
「なかったと思うけど、俺もあいつに未練はなかったから」
「幹江は殺される前に強姦されている。以前から彼女に付きまとってたやつとか、ストーカーみたいな男はいたか」
「そんなの、いるわけないでしょう」
「どうして」
「ストーカーなんて、無意味ですよ」
「なぜ」
「だって、誰にでもやらせる女だったから」
「たとえば」
「そりゃあ、あんただって、頼めばきっとやらせてくれましたよ」
「天使みたいな女だな」
「あいつのナニ好きは異常でしたからね。俺が付合ってた間だって、いつも誰かと隠れてやっていた。こっちも面倒くさいから言わなかっただけで、いい加減うんざりしてたんです。だからストーカーなんかいるはずはないし、幹江みたいな女を強姦するやつって、よっぽど物好きだと思いますよ」
「せっかくの天使を殺してしまって、犯人はたしかに、犯罪者だ」
吸止を沓脱にすて、椎葉はちっと舌を鳴らす。世間には百人以上の男と寝ている女子高校生もいるというし、一度のレイプで自殺を図る女もいる。どちらもそういう文化と体質なのだろうが、もし椎葉が幹江の父親だったら、この場で優也を殴り殺している。
「それはそうと、半年前にも、君はトラブルに巻き込まれたんだよな」
タバコを灰皿につぶしていた優也が顔をあげ、ちらっと椎葉を盗み見る。
「忘れたのか。美亜という女の子の、家族のことだ」
「あんた、誰なんです?」
「聞きたいのか」
「そりゃあ、まあ」
「残念だったな。おれも自分が誰であるのか考えてはいるが、いまだに分からない。だから他人にも教えられない」
優也が上目づかいでじっと椎葉の顔を見つめ、寒けでも感じたように、少し首筋をふるわせる。椎葉が優也の人格を訝《いぶか》っている以上に、優也のほうが椎葉を不気味に思っている。
「自分は何も悪いことをしていないと、さっき言ったよな」
「ええ、まあ」
「それならあの事件のことも話してくれ。それとも幹江に対しては悪いことをしていなくても、羽田の事件に関しては、何かやっているのか」
優也の手がまたタバコにのび、ライターに火がついて、煙が長く吹かれる。
「何もやってませんよ。ただ美亜を部屋に泊めたっていう、それだけのことです」
「そのせいで幹江が殺されたんじゃないのか」
「まさか。俺は本当に、ただ泊めただけですよ」
「どういうふうに、ただ泊めただけなんだ」
「どういうふうにって」
「君が誘ったのか、それとも美亜に頼まれたのか」
「そう言われてもねえ、あの日は俺のいたゲーセンで幹江と美亜が遊んでいて、俺は一時半に仕事が上がって、雨も降ってたし、遊びに行く所もなかったし、それじゃ俺の部屋へ帰って飲むかって、それだけのことですよ」
「渋谷からはタクシーで」
「ええ」
「君たち三人は、この近くのコンビニに寄って酒とスナック菓子を買ってる。コンビニに寄ったのが夜中の二時ごろ、それからまっすぐ部屋へ帰ったのか」
「ええ、まあ、そうなんですけど……」
タバコを指にはさんだまま、優也が目蓋の奥から椎葉の顔を見つめ、肩で大きく息をつく。
「あんた、まさか、警察の人じゃないですよねえ」
「警察におれほどお洒落な人間がいると思うか」
「いえ、だけど……」
「余計な詮索はするな、君だってまだ命は惜しいだろう」
「ああ、はい」
「で、美亜は前にもこの部屋へ泊まったことがあるのか」
「あのときが初めてでした」
「美亜と幹江はいつごろからの知り合いだ」
「詳しくは知らないけど、今年の初めぐらいからじゃないですか。コンビニの前とかに座ってて、ちょっと喋って友達になったとか言ってました」
「おれの知ってるかぎり、美亜のほうがずっと美人だ」
「まあ、そうですね」
「君も美亜に手を出したろう。君と幹江が別れたのは、美亜が原因じゃないのか」
「違いますよ。俺はただ、幹江のやつにうんざりしただけです」
「君は奇麗な女より汚い女のほうが好きなのか」
「そんなことないけど、美亜とは合わない感じがあって、ちょっと、そういう気にならないんです」
「どういうふうに合わない?」
「だって、あいつ、すごい根暗なんですよ。そりゃ顔は可愛いけど、ほとんど口もきかないし、ああいうのは苦手ですよ」
「それでも一度や二度は寝たか」
「寝てないです、本当ですよ。この部屋へ泊まったのだって、本当にあのときが初めてです。あれから部屋に来たこともないし、渋谷でも見かけなくなった。あの事件があって、どこかへ引っ越したとかで、幹江とも会わなくなったみたいです。俺と幹江が別れたあとでどうだったか、そこまでは知りませんけど」
「この部屋に泊まったとき、美亜の様子に変わったことは?」
「彼女はいつも変わってましたよ。むっつり黙ってて、面白いんだか面白くないんだか、笑うこともないですしね。なんか家でイヤなことがあるとか、幹江もそんなことを言ってました」
「家でイヤなこと……具体的には?」
「知りません。幹江も具体的になんか、聞いてなかったと思いますよ」
優也が真面目な顔でうなずき、タバコをつぶして鼻の下をこする。この男が美亜から部屋の鍵を受けとり、マンションに押し入って三人を惨殺したという可能性も推理としては成り立つが、果してどんなものか。犯行は優也と幹江と美亜の共同謀議、あるいは優也が美亜の鍵を盗んでの単独犯行、そのどれもが可能だが、それなら夫婦のどちらかが錯乱しての無理心中説だって可能になる。
椎葉は焼酎をとり出してちびりとなめ、惨劇の現場写真と椎葉に殴りかかった美亜の殺気だった目つきを、同時に思い出す。家庭での屈託が美亜の素行不良につながり、それがまたあの惨殺につながったのか。これが少年なら家族殺しの例はいくらでもあるし、その体力もある。しかしいくらキレたからといって、少女が親姉妹を惨殺した事例など、これまでにあったろうか。
「念をおして訊くが、コンビニからアパートへ帰ったあと、三人は一歩も外へ出なかったんだな」
「出ませんよ、雨が降ってたんだから」
「寝たのはなん時ごろだ」
「帰ってきて一、二時間は、テレビを見ながらダベってたんじゃないかな。俺と幹江はベッドに寝て、美亜には毛布を貸してやりましたよ」
「ベッドで、君と幹江はやったのか」
「そりゃあ、だって、あいつは好きだから」
「そのあいだ美亜は?」
「寝てたんじゃないですか、歯ぎしりみたいな音が聞こえてましたよ」
「美亜が部屋を抜け出した可能性は?」
「もし出ていったんなら、いくら俺でも気がつきますよ。それに正午ごろ起きたら、美亜はちゃんと部屋で寝ていました」
「そうか、君が礼儀正しい若者で、美亜も幸せだった。おれの友達で君ほど紳士的な男は、一人もいないからな」
優也がまた、分かったような顔でうなずき、椎葉はその肉厚顔を眺めながら、ゆっくりと腰をあげる。アルバイトの仕事始めとして優也に会ってはみたが、夕子が調べた以上の事実は見出せない。唯一の収穫は坂下の家族に何かのトラブルがあったらしいことだが、それだって性格の不一致とか価値観の不一致とか、どんな家族にも、多少のトラブルはつきまとう。椎葉だって、別れた女房が下着にまでアイロンをかける癖に、我慢できないほど苛立った覚えがある。
「とにかく、君の話が聞けて参考になった」
「はあ、どうも」
途中まで腰をあげ、中腰のまま、優也がぞんざいに頭をさげる。
「聞くのを忘れてたが、ゲーセンで幹江といちゃいちゃしていた男の名前は?」
「誰ってことじゃなく、あいつは気が向けば、どんな奴とでもいちゃいちゃしたんです。だから俺も頭に来て……」
「そうか、まあ、せいぜい頑張って、早く就職先を見つけることだ。社会なんか君が思ってるより、ずっと甘いけどな」
椎葉はドアのノブに手をかけ、立ちあがろうとする優也を、ちょっとふり返る。
「話したければ、誰に話してもいいぞ」
「はあ?」
「おれに会ったことを、さ。警察にでも友達にでも、誰に話してもいい。この不景気に就職先なんか探して歩くより、その辺の路地で刺し殺されたほうが、君だってずっと楽だろう」
のばしかけていた膝を、また中腰に戻し、一瞬考えてから優也が上半身を前にかがめる。その優也の表情を確認して、椎葉はドアを開け、外に出てドアを閉める。あんなアンチャンを脅しても意味はないが、椎葉があまり目立つのも夕子の不利益になる。あの押しつけがましさには辟易しても、一応は雇い主、一日二千円の日当もありがたい。これから冬が来てトメさんの働きもあてにならず、いくらホームレスだからって、多少の越冬資金は必要になる。
アパートの外階段をおりながら、肩をすくめて、椎葉はぽりぽりと頭を掻く。昨日洗ったばかりの頭がもう痒くなるのは、住みついているダニとノミとシラミが、反乱でも起こしたか。
「この大間幹江という被害者、交遊関係が広くてねえ。ケイタイのメモリーに三百以上の番号が登録されている。これだけの顔と名前、本当に覚えていたのかねえ」
「若い子はそんなもんです。名前を知ってるだけでもう友達なんです」
「親友、友達、知り合い、顔見知りと、俺たちの世代は区別したもんだが……だから君にもらった被害者の交遊関係リストが、非常に役だったよ」
笹野警部が苦み走った横顔を見せて、ぷかりとタバコをふかす。渋谷北署でも捜査員は出払い、閑散とした部屋に電話のコール音が鳴りひびく。
受話器をとった婦警をしばらく眺めてから、笹野が夕子に視線を戻す。
「しかし交遊関係から目ぼしい反応は出てこないんだ。残念ながら羽田事件との関連もなさそうだよ」
「こちらの毛髪とそちらの精液も比較させてもらいましたが、やはり関連はありません。幹江殺しは通り魔ですかね」
「捜査はその線に絞り込んでる。幸い被害者がつけていたプラスチックの髪止めから、本人のものではない指紋が出てきた。ちょっと不鮮明だが、右手の親指と中指らしい。暴行の際に犯人の指が触れたものだとすると、捜査もだいぶ進捗《しんちよく》する」
「その指紋に前科があればいただきですね」
「レイプ犯や婦女暴行犯には常習者が多いからなあ。たとえ前科がなくても、すぐ再犯で顔を出すさ」
「指紋の照合結果は、まだ?」
「鑑識さんが手こずってるんだよ。しかし今はコンピュータの時代だ。少しぐらい不鮮明でも、あと二、三日で結論は出るだろう」
「幹江が着ていた制服のことは?」
「うん、あれは横浜にある私立高校のものと判明した。まだ持ち主の特定はできんし、幹江がその制服を着ていた経緯も分からん。しかし髪止めから指紋が出てきたとなれば、事件はそっちから解決されるだろう」
「いずれにしても羽田の事件とは……」
とり出しかけていたタバコをバッグに押し戻し、夕子はスチールの椅子から腰をあげる。幹江の事件が早期解決らしいことに文句はないが、そうなると羽田の事件が、また遠いところへ行ってしまう。椎葉がいくら元敏腕刑事でも今は世を拗ねたホームレス、前渡しのアルバイト料も安焼酎に姿を変えて、結局それで、終わりではないのか。
「なんだ吹石くん、帰るのかね」
「はい、いろいろお手数をかけました」
「今日は俺も早上がりなんだ。新宿にベトナム料理のうまい店があるけど、付合わないか」
「いいですねえ。わたしもベトナムの生春巻きは大好物ですよ。でも残念ながら、ゲロが出るほど仕事が山積みです。わたしの応援に捜査員を増やすよう、笹野さんからも中村警部に談判してください」
口のなかで唸った笹野に、軽く頭をさげ、夕子はそそくさと捜査本部の部屋を出る。ベトナムの生春巻きに食指は動いても、笹野なんかに籠絡されたら女がすたってしまう。彼氏いない歴四年、準キャリアの巡査部長で多摩川署刑事課のエース、いつかは本庁捜査一課のエースになって、硬直した警察組織を内部から改革してみせる……と、頭のなかで大見得を切ってみても、現実はホームレスにまで期待する新米刑事、このままでは所轄に飼い殺されて、へたをすれば交通課や地域課への左遷も待っている。警察官の仕事に疑問を感じたことはないが、こんなふうに事件が行き詰まると、ふと愚痴を言ってみたくなる。
まあいいわ、まだ若いんだし、なるようになるわと、渋谷北署の玄関を出ながら、夕子は背伸びをして拳を空につきあげる。
都営住宅の外壁を西日が茜色に染めている。山手通りから外れた住宅街の空は乳色にかすみ、その下を破れたレースのような雲が薄く流れていく。
夕子は大崎の駅から三丁目の住宅街へ入り、人通りの少ない街路を戸越銀座の方向に歩いている。あと三日で十二月、歩いていれば寒さも感じないが、マンションの隙間からは冷たいビル風が吹き抜ける。民家の生け垣には山茶花《さざんか》の花が赤くのぞき、舗道の側溝にはイチョウの枯れ葉が吹き溜まる。
駅からの道を十五分ほど歩き、その道幅が少し広くなった右手に『大崎三丁目交番』の建物を見つける。腰ガラスのドアを開け、内に入ってデスクの警官に敬礼をする。
「ご苦労さまです。多摩川署刑事課の吹石巡査部長です」
マンガを読んでいた若い警官が腰をあげ、目を丸くして敬礼を返す。年齢は夕子と同じぐらい、スポーツ刈りの髪にニキビ跡の目立つ赤ら顔で、顎が小さくて耳が大きく、体格のわりに気弱な印象を受ける。高卒で警官になったとしたら勤続年数は夕子より上、しかし襟章はまだ平巡査だから、夕子とのあいだには二階級の差がある。
夕子は警察手帳を示して身分を証明し、巡査が書類の下にマンガを隠すのを待ってから、ガラスドアを閉めてデスク横の椅子に腰をおろす。
「忙しいところを恐縮ですが、こちらの巡回範囲にあった椎葉警部補のお宅のことで、情報をもらえればと思いまして」
「は、自分は大崎署地域課の吉野巡査であります」
「そうですか、よろしくお願いします」
壁の勤務表には花田信雄巡査長と吉野芳樹巡査の名前が見えるから、花田巡査長は奥で仮眠をとっているか、受け持ち区域のパトロールにでも出ているのだろう。
流しに立って茶をいれようとする吉野巡査を手で制し、夕子は膝に抱えたバッグに肘をかける。
「吉野さんはこの区域の受け持ちになって、どれほどですか」
「は、もう三年になります」
「それでは椎葉さんのことも、事故のこともご存じですね」
「存じております。なんともあの事故は、お気の毒でありました」
やはり居心地が悪いのか、吉野が席を立って流し台に場所を移し、急須の茶葉をとりかえて客用の湯呑を用意する。相手が女でも同年齢でも階級差は歴然、まして刑事課の私服刑事となればノンキャリアのエリートで、吉野巡査にしてみれば当然すぎる緊張がある。夕子も上司風は吹かせたくないが、私用での調査には警察の縦社会も便利なことがある。
「わたし、椎葉さんにはお世話になったのですが、最近まで事故のことを知りませんでした。警部補は警察をおやめになったというし、できたら事故の模様を聞かせてください」
遠回しながら『公用ではない』という事実を説明したわけだが、そんなことで巡査は巡査部長に逆らわない。夕子にしても椎葉の事故に疑いをもったわけではなく、大崎に寄ってみたのは気まぐれと、たんなるお節介なのだ。
自分の席に腰を落ちつけ、ニキビの浮いたせまい額に、吉野が暑そうにハンカチを押しつける。
「事故の模様と言われましても、お子さんは救急車で運ばれたあとでしてね。警部補も奥さんも病院へ行かれましたから、詳しい事情は分かりません。自分が警部補のお宅へ駆けつけたときには、車庫のコンクリートにほんのわずか血痕が残っているだけで、まさか死ぬほどの事故とは思いませんでした。お子さんが亡くなられたと知ったのは、それから一週間以上もあとのことでした」
吉野の説明は中村警部から聞いた顛末と同様で、事故自体に不審も疑問もない。被害者が二歳になったばかりの子供ではなく、大人だったら、足の骨折ぐらいで済んだ事故だったろう。
「椎葉警部補も奥さんも、本当にいい方でした。交番にもよく差し入れをしてくださいましたよ。死んだイズミちゃんという女の子も、赤ん坊のときに何度か抱かせてもらいました」
「死んだ女の子は、いづみ、ですか」
「はあ、和という字に泉と書きましてね、よく人形のように可愛いといいますが、あの子はお人形さんより可愛かったです」
「そうですか、女の子の名前が……」
咽が渇いて、夕子は目の前の茶に手をのばし、熱さもかまわず口に含む。胸の奥がもやもやと揺れ、自分の無神経さに、絶望的なほど腹が立つ。
「巡査部長は、今椎葉警部補がどうしておられるか、ご存じありませんか」
「いえ、警察をやめられたことしか……」
「奥さんなら何か知っていますかね」
「さあ」
「自分も気にはなっているんですが、顔を見てもお尋ねできなくて」
「顔を?」
「はあ、奥さんはまだ、元のお宅に住んでいますから」
「ああ、そうですか」
「一カ月ほど前に再婚されましてね、姓が細川にかわっています。そういう事情で、巡回にお邪魔しても警部補のことは伺いにくいんですよ」
吉野がまたハンカチで汗をふき、制服のぶ厚い胸で、細く息をつく。椎葉が警察をやめてから一年半、離婚はその前にしたらしいから、前妻の再婚も法律的に問題はない。それはそうだが、椎葉がホームレスにまで落ちぶれたというのに、依然として子供を死なせた家に住み、再婚までしたというのは、どういう神経の女なのだろう。
「奇麗な奥さんだし、今度の旦那さんも真面目そうな人でしてね。仕方ないとは思うんですが、ですからあの事故は、つくづく残念でした」
我慢できず、夕子はバッグからタバコをとり出し、火をつけて煙を吹く。躰中の毛穴がちくちくと痛み、なにやら耳鳴りがする。
「その細川という再婚相手、素性は?」
夕子の声に怒気があったらしく、吉野が目をしばたたいて、息を飲む。
「転入者の素性ぐらい調べてあるでしょう」
「は、一応は」
「連絡票台帳を見せてください。わたしも椎葉さんにお世話になった警官として、奥さんがどんな男と再婚したのか、個人的に気になります」
筋の通らない理屈ではあるが、警察官の論理なんて、どうせ世間の常識から外れている。吉野も夕子の要求を疑わず、壁のキャビネットに連絡票台帳を探しはじめる。この台帳は巡回記録簿ともいい、各住人の緊急時連絡先等を記録しているものと思われているが、実際は警察による国民管理の台帳なのだ。収録内容は家族構成、職業収入、その住民の思想傾向、精神障害による行動異常の有無、前科や他住民とのトラブル歴など、主に公安関係に有用なデータを揃えている。
羽田の事件でも初期捜査では周辺地域交番の台帳が使われ、素行不良者、異常行動者、暴力性癖者などが洗い出された。本人の知らないところで国民は警察に監視されているわけだが、その監視管理が徹底されていれば、もちろん犯罪なんか起こらないし、発生した犯罪もすみやかに解決される。
吉野がキャビネットから紐|綴《と》じのファイルをとり出し、『細川|幸佳《ゆきよし》』のページを開いて夕子の前にさし出す。表記欄での幸佳は東亜製薬勤務の三十八歳、一カ月前に椎葉慶子と結婚入籍して大崎六丁目に転入となっている。共産主義、反政府主義的傾向はなく、付近住民とのトラブルもなし。妻の慶子は再婚時に椎葉姓を名乗っているから、椎葉と離婚してからの一年半、姓を旧に復さなかったことになる。その慶子の職業はステンドグラスのデザイナー、カルチャーセンターで講師の経験もあるという。
ファイルを吉野に返し、最後の煙を長く吹いて、夕子はタバコをデスクの灰皿につぶす。
「椎葉さんと奥さんが大崎へ越してきたのは、吉野さんがこの交番を受け持つ前のことですか」
「そう聞いています」
「まだ家のローンが残っていたはずですが」
「さあ、そこまでは……」
「そうですよね。いくら地域課でも、ローンの残りまでは調べませんよね」
もうこの交番に用はなく、夕子は椅子から腰をあげ、バッグを腰の横に構えて吉野巡査に敬礼を送る。吉野も椅子を立って敬礼を返し、ほっとしたように口元をゆるめる。
「事件の捜査ではありませんから、気にしないでください」
「はあ、もしどこかで椎葉警部補に会われたら、自分がよろしく言っていたとお伝えください」
「分かりました。でもこの広い東京で、偶然椎葉さんに会うこともないでしょう」
茶の礼を言って、夕子はドアを開け、外に出て住宅街の空を見あげる。乳色の空に相変わらず薄雲が流れ、狭い道をクルマが大崎駅の方向へ走っていく。ローラーボードを抱えた子供が通り、自転車に乗った年寄りが通り、スーパーの袋をさげたオバサンが通る。どこにでもある無個性で長閑《のどか》な住宅街だが、子供の事故さえなければ椎葉も、スーパーの袋なんかさげて今でも夫人とこの道を歩いていたのだろう。
夕子は六丁目の空に西日の色を確認し、一度駅のほうをふり返って、ぷくっと鼻の穴をふくらます。慶子という夫人がステンドグラスのデザイナーだろうと、男好きだろうと無神経だろうと、そんなことは夫人の勝手、ビデオドラマのように時間を巻き戻せるはずもなく、夕子が感想を言う立場でもない。すべて仕方ないこととは思いながら、それでも治まらない怒りに、つい鼻息が荒くなる。
夕子は六丁目のほうに歩きかけて、踵を返し、駅のほうに足を向けてまた踵を返し、どうせついでだわと、一人ごとを言いながら六丁目に向かって歩きだす。椎葉の現住所と前住所を見くらべておけば、刑事として、何か後学の参考にはなるだろう。
交番近くの二又道を右に曲がり、しばらく戸越銀座の方向に歩く。一戸ごとの区画は悲しいほどつつましく、モルタルの二階建てや新建材の二階建てが無秩序に連なっている。戦前からの焼け残りかと思うほどの木造住宅もあり、一階部分を車庫にした模造レンガの三階建てもある。塀も大谷石やら青木の生け垣やらブロックやら、また塀などなく、玄関が直接道路につき出した家もある。
六丁目十一番地をすぎ、表札の名前が『石岡』『古谷』『江藤』とつづき、木の柵をアメリカ住宅風に白く塗った塀に『細川』の表札が見えてくる。両隣の家よりいくらか広い区画に板壁の二階建て、ベランダも窓枠もチョコレート色のペンキで仕上げられ、古い民家をカントリー風に改装した様子がうかがえる。敷地のどこにも車庫はなく、木製|門扉《もんぴ》の内側から咲き残りのバラがピンク色に顔を出す。
クルマがやっと一台通るほどの道に立ち、夕子は門扉の外から背伸びをするように、敷地の内をのぞく。一階の窓もフランス窓風に改装され、ベランダの柱にはハンギングの鉢がさがっている。庭には赤レンガを使った花壇が並び、端境期《はざかいき》のパンジーやゼラニウムが植わっている。フランス窓の前では男が黄菊の鉢をいじくっており、その横にジーンズとセーターの女がすらりと立っている。うつむき加減の首筋は優雅で繊細、ショートカットの髪を耳のうしろに流し、彫りの深い横顔で男に話しかけている。腰を抜かすほどの美人でもないが、くやしい程度には美人で、夕子は知らぬ間に、またぷくっと鼻の穴を開いてしまう。
夕子の視線に気づいたのか、鉢を手に持ったまま、男が門のほうへ顔をあげる。剃りあとの青い頬に茶色縁のメガネ、角張った顎に鼻梁《びりよう》の高い鼻が目立ち、短い髪の額はすでに後退をはじめている。
男が何か言い、女が夕子のほうに顔を向ける。それが椎葉の前妻である慶子、男が再婚相手の細川幸佳であることは聞かなくても分かっている。
知らん顔をして立ち去るか、罵詈雑言《ばりぞうごん》を吐いて逃げ出すか、判断に迷っている夕子の前に、慶子が首をかしげながら歩いてくる。不審そうな目のなかにも落ち着きがあり、唇はかすかに笑っている。
「なにか……」
「はい。わたくし、多摩川署刑事課の吹石と申します。仕事で近くへ来たもので、こちらで椎葉警部補の消息が分かれば、と思って伺いました」
慶子の唇から微笑みが消え、切れ長の奇麗な視線がうしろに巡る。風もないのにバラの花びらが舞い、ペンキ塗りの白い門扉にピンク色の染みをつける。
「吹石さん?」
「はい」
「戸越銀座へ買い物に行くけど、歩きながらでいいかしら」
「はい」
「ちょっと待ってね、今お財布を持ってくるわ」
慶子が確認するようにうなずき、一歩うしろ向きにさがって、ゆっくりと男のほうに踵を返す。三時を過ぎたばかりの時間になぜ会社員が家にいるのかと思ったら、今日のような日を世間では、土曜日という。
二言三言、男と話し、いったん家の中に入って、慶子がすぐに戻ってくる。足には安物のビニールサンダル、腕には藤蔓《ふじづる》で編んだ買い物カゴをかけている。
背中を向けて待っていた夕子に慶子が声をかけ、二人で池上線の戸越銀座駅の方向へ歩きだす。大崎六丁目は戸越一丁目と境を接し、大崎に歩いても戸越に歩いても駅への距離は変わらない。町名が戸越に変わっても町並に変化はなく、どこか下町風の住宅街が単調につづいていく。
腕組みをした肘の内に買い物カゴをひっかけ、二分ほど黙って歩いてから、慶子が横目で夕子の顔をうかがう。
「私が再婚したことは、交番でお聞きになったでしょう」
「一カ月前だとか……」
「入籍だけね、まだ式はあげてないの」
「そうですか」
「椎葉と別れてから警察の方と会うのは初めてよ。まさか私が彼の消息を訊かれるとは思わなかったわ」
慶子が口の端をひきしめ、奇麗な眉のあいだに薄い皺をきざむ。背は夕子と同じぐらいなのに、その低い声と成熟の匂いが夕子を圧迫する。
「吹石さん、彼の消息を、なぜ私が知っていると思ったの」
「わたしは刑事です。確信がなくても聞き込みはします」
「そうだったわね。椎葉もよく言っていたわ。百人でダメなら千人、千人でダメなら一万人、誰かが必ず何かを知っているって。でも私、彼が今どこにいて何をしているか、本当に知らないのよ」
前から三台の自転車が横並びにやって来て、蛇行しながら二人の横をかすめ過ぎる。その頭の悪そうな中学生を、夕子がくるりとふり返る。
「こら、君たち、一列に走りなさい」
三人の中学生は速度をゆるめず、なにか喚《わめ》きながら路地の向こうへ消えていく。
呆れた顔で立っている慶子に並びかけ、道を先に進みながら、夕子が慶子の足元に呟く。
「再婚されたことを、警部補のご家族は知っていますか」
「いたとしても連絡はしないわね。夫婦が離婚するということは、他人同士に戻ることですもの」
「いたとしても、というのは」
「知らなかった?」
「なにを……」
「彼は孤児なの。ご両親が早くに亡くなって、キリスト教系の養護施設で育ったのよ。子供のころから優秀だったから教育委員会と文部省から奨学金が出たの。でも大学時代は、ほとんど柔道とアルバイトばかりしていたわ」
買い物カゴを腰の前でゆすり、学生時代を思い出したように、慶子がくすっと笑う。
「彼ね、柔道のほかにテコンドーもやっていたの。知り合ったのはインド哲学の特別講義があったとき。知り合ってしばらくは、彼が体育会系の人だなんてまるで気づかなかった。だって彼、冗談が分かったんですもの」
はしたないことは承知で、夕子はバッグからタバコをとり出し、足をとめずに火をつける。こんなふうに歩きタバコをするのは十年ぶり、夕子も田舎の高校では、怖いお姉さんとして地元の不良から一目置かれた歴史があるのだ。
「そうですか、椎葉さんは、一人なんですか」
「函館に遠い親戚がいるらしいけど、顔を見たこともないらしいわ」
警察官の採用には身元の保証が必須条件だから、通常椎葉のようなケースは願書の段階で除外される。その椎葉が警視庁に採用された理由は、本人の優秀さに加え、大学や文部省の強力な推薦があったせいだろう。
「親も兄弟もいないとすると、もう椎葉さんのことは、誰も知らないんですね」
「あなたが知ってるんじゃない?」
「はあ?」
「私、そんな気がするけど」
「いえ、わたしは、仕事で近くに来て、ふと思い出しただけです」
慶子が歩く速度をゆるめながら、顔を夕子に向け、細い眉を皮肉っぽくひきあげる。大きめの瞳はやや色が薄く、唇にはからかうような笑みが浮かんでいる。
「椎葉の消息を知っているあなたが、私の再婚を聞いて因縁をつけにきた……最初にあなたの顔を見たとき、そんな感じがしたわ」
「誤解です」
「そうよね。私も彼が警察をやめたところまでは知っている、彼の部下だった人が連絡をくれたから。でもそれ以降は誰も彼のことを言ってこない。もう東京にいないのかも知れないわ」
「警察学校時代、椎葉さんはわたしの教官でした。刑事としても、ずっと目標にしていた方でした」
「優秀な刑事だったことも、ノンキャリアとしては昇進が早かったことも知っている。周囲からの期待に、彼も必死で応えようとしていた。辣腕で行動的で非情な面もあって、でもそれは警察官としての彼、私の主人だった椎葉は神経質でロマンチストで、どちらかというとシャイで、非社交的な性格だった」
「それに、子煩悩で?」
「それは、呆れるぐらいにね。その和泉を私が殺してしまった。彼が私を許せなかったのも、当然でしょうね」
ジーンズの膝を投げ出すように、慶子が大股に一歩あるき、肩をすくめてまた歩をゆるめる。夕子は咽にからまったタバコの煙を、ほっとアスファルトに吐きすてる。
「でも、あのことは、事故のはずです」
「それはそう。クルマを運転していたのは彼のほうだし、彼の不注意は事実、そして私が和泉の手を放してしまったことも事実。あのときは何が起きたのか一瞬理解できず、彼も私も、ただ顔を見あわせるだけだったわ」
「誰でも、不注意になることはあります」
「そんなことは分かってる。彼にも私にも分かってる。起こってはならない事故だったけど、どちらかだけに責任がある、ということではなかった。彼も私を庇《かば》ってくれて、私も彼を責めなかった。お互いがお互いを庇い合っていたのに、それでも心の奥では、やはり相手を許せなかった。理性や理屈なんて、いざとなれば、たいして意味のないものね」
慶子の声に抑揚はなく、表情にも落ち着きがあって、心の内にどんな屈託があるのか、夕子には読みとれない。お互いがお互いを庇い合い、お互いがお互いを許せず、そしてお互いが自分自身を許せない。それでも椎葉と慶子なら二人で人生をやり直せたろうに、とも思うが、二人の出した結論に口をはさむのは、僭越なだけだろう。
商店街の幟《のぼり》が見えだし、いくらか人通りも多くなって、空気のなかにざわざわとした人声が混じりはじめる。夕子は携帯の灰皿にタバコを始末し、ショルダーバッグを胸の前で抱きしめる。
「私が大崎の家に残ったのは……」買い物カゴをぶらりと振り、顎をあげて、慶子が商店街のほうに足を速める。「それが彼の希望だったから、途中で私との生活を放り出すのは自分の我儘《わがまま》だからって。彼は警察の退職金も置いていってくれた」
「わたしなら……」
「そんな家には暮らせない?」
「はい、たぶん」
「私もそう思った。和泉の死んだ家で、彼と離婚して、一人でなんか暮らせない……でもね、女って、けっこう図々しい生き物なのよ。その証拠に一年半も暮らして、私、再婚までしたんですもの」
慶子が買い物カゴを振りながら、夕子の顔をのぞき、眩《まぶ》しそうに目を細める。同意はしたくないが、反論する立場でもなく、夕子はショルダーバッグを腰の横に振りおろす。商店街のスピーカーが鶏肉の安売りを告げ、オバサンの自転車が子供を三人ものせて行き過ぎる。すでに左右を惣菜屋や瀬戸物屋に囲まれ、幟や広告幕が道の両側を隙間なく埋めている。この商店街をまっすぐいけば池上線の戸越銀座駅につきあたる。
和泉ちゃんのお墓は、と訊きかけ、言葉を呑み込んで、夕子は慶子に頭をさげる。
「わたしは池上線で署へ帰ります。突然お邪魔をして、失礼しました」
慶子がジーンズの膝をそろえ、買い物カゴを腕にかけ直す。
「吹石さん」
「はい」
「もし椎葉の消息が分かっても、教えに来てくれなくていいのよ」
「そうですね」
「今日は鶏肉が安いらしいから、チキングラタンでもつくろうかな」
薄い色の目で夕子の顔を見つめ、ふと視線をそらして、慶子があっさりと肉屋の店に歩きだす。通りかかったオヤジが慶子の横顔に見とれ、肉屋のアンチャンが陽気に声をかける。
「今夜はチキングラタン……か」
一人ごとを言って、夕子は踵を返し、賑わっている商店街を駅に向かって歩きだす。そういえば部屋のコーヒーが切れていたなと、歩きながらコーヒーショップを目で探す。ついでにコーヒーカップも替えてみるか、ダイエット用のノンカロリーシュガーも必要だし、買い置きのカップラーメンも無くなっている。冬用のコートも洗濯洗剤も必要、あれもこれもみんな必要で、たまには部屋の掃除もしなくてはならず、そんなこと、ああもう、考えるだけで面倒くさい。
百メートルほど歩き、コーヒー豆を売っている茶舗を見つけ、そのほうに向かいかけて足をとめる。茶舗の手前に紳士用品の店があり、道路の側にカーキ色の防寒ジャケットが吊ってある。来た道をふり返ってみたが、慶子の姿はなく、夕子はその防寒ジャケットを眺めながらしばらく考える。作業着風のデザインで定価は三千八百円、裏にはボアがついていて、ポケットもたくさん並んでいる。
夕子の頭にふと、菊の鉢をいじくっていたメガネ男の顔が浮かぶ。女が図々しい生き物であることは事実だが、するりと椎葉の人生と入れかわったあの男だって、じゅうぶんに図々しい。そして椎葉は気持ちが優しすぎ、それ以上に意気地がなさすぎる。
「まったく、あいつ、バカだわ」
一人ごとを言ったとき、夕子は三千八百円の防寒ジャケットを、しっかり握りしめていた。
人の出入りが少ないと思ったら、土曜日の午後は外来が休診なのだという。それでも駐車場には十台ほどのクルマがとまり、見舞い客らしい中年女が花束を手に玄関へ入っていく。看板の診療科目には『外科、内科、小児科、婦人科、整形外科、脳神経科』とあり、病院名も『医療法人・友愛会病院』となっている。院長の武造が坂下美亜をひきとった母方の祖父、病院の所在地は杉並区役所に近い青梅街道沿い、広い敷地に四階建てのビルを構えた総合病院で、三軒茶屋からは下北沢、明大前、和田堀公園から松ノ木八幡通りを抜け、ママチャリで一時間半の距離にある。
サドルにまたがったまま十分ほど病院の出入りを観察し、それから自転車をこぎ出して敷地を裏手にまわる。路地の病院側はブロック塀、反対側は民家やアパートがつづき、青梅街道から離れるとすぐにクルマの音も消えてしまう。かたむいた陽射しがまだら模様に舗道をそめ、民家のせまい庭に赤い三輪車が転がっていたりする。
ブロック塀沿いを百メートルほど奥に進むと、塀は直角に病院の裏側へまわり込む。その角から今度は苔むした大谷石の塀がつづき、路地を南側にめぐって白御影石の門柱につきあたる。青っぽい錬鉄の門扉はクルマの出入り用で、塀には木製の通用口が設けてある。屋敷は板壁と漆喰《しつくい》の洋館風二階建て、門からクルマ寄せまでの距離も五十メートルはあり、樹木の少ない庭に手入れされたサツキと棕櫚《しゆろ》が点々と植わっている。この庭ならホームレスのテントが五、六十も張れるだろうに、夕子の資料では美亜と家政婦をふくめた住人がたった七人、ずいぶん贅沢な暮らしだが、しかし岸本家は税金を払っている。
自転車をとめ、門から玄関を見渡せる位置に佇《たたず》んで、焼酎をなめる。せまい裏道だがたまにはクルマが通り、点在するアパートにも人が出入りする。どこか遠くのほうで犬が鳴き、空の遠くではカラスまで鳴きさわぐ。
椎葉は焼酎のボトルをレインコートのポケットに戻し、かわりにタバコの吸止をとり出す。屋敷は病院部分と住居部分を仕切ってあるが、昔は青梅街道からつづいた一区画の土地だったらしい。苔むした塀には歴史が感じられ、周囲の小住宅に対して画然とした威厳を放っている。当主の岸本武造は七十八歳、都の医師会会長や都議会議員もつとめたというから、戦後の成り上がりではないだろう。長男は現在友愛会病院副院長、次男はアメリカの医科大学研究員、長女で末子の雅代が羽田事件での被害者で、次男と雅代とのあいだには十歳の年齢差がある。母親は何年か前に病死し、武造も最近は体調を崩しているらしい。長男夫婦には医学部と歯学部に通う息子と娘があり、そこに事件後美亜が引き取られた。美亜は転校した高校になじまず、家にひきこもりがちというが、果して居心地は、どんなものか。
三口吸ってタバコを足元にすて、棕櫚の大木を透かして洋館を眺める。どうせ昔からの地主で地方名士の家柄、しかしそんな家からもバカや不良は生まれ、一族に恥をかかせて世間の顰蹙《ひんしゆく》を買う。二十歳で結婚して家を出た雅代が、この岸本家でどういうポジションにあったのか、夕子にあらためて調べさせる必要がある。
ネズミのような犬をつれたオバサンが通り、ブルドッグのような顔で椎葉の風体を睨んでいく。あと五分も立っていれば一一〇番通報されることに間違いなく、椎葉はポケットからケイタイをとり出し、岸本の家に電話を入れる。
四回のコールで、鼻炎を患っているような声の中年女が出る。
「たびたびお手数をかけます。こちら渋谷北署の刑事課です」
「はあ」
「美亜さんはご在宅でしょうか」
「え、あ、はあ」
「代々木小公園で起きた事件のことで、また美亜さんに尋ねたいことができました。これからそちらへお邪魔しますので、外出せんようお伝え願います」
「はあ、そういうことでしたら……」
「それでは三十分で伺います。どうかよろしく」
女の返事を待たず、電話を切り、ケイタイをポケットにしまう。それから自転車のスタンドをあげて道をひき返し、ブロック塀沿いを青梅街道まで戻る。街道を反対側にわたると閉店した自転車屋があり、その戸口に腰をおろす。青梅街道もくだり車線にクルマが多いのは、土曜日でみんな奥多摩へでも向かうのか。
焼酎をとり出して咽をうるおし、コンビニで買ってきた握り飯をほおばる。久しぶりに腹がへった気がするのは、めずらしく自転車に乗ったせいだろう。通行人は椎葉に視線を向けず、西日は穏やかで、うっかりすると欠伸が出てしまう。
十分ほどタバコを吹かし、眠気を我慢していた椎葉の視界に、ウィンドブレーカー姿の美亜が映る。時間を「三十分」と限定したからほぼ思惑どおり、いくら焼酎づけの頭でも、美亜が警察を避ける心理は推理できる。
路地から出てきた美亜が病院の正門前を歩き、信号をわたって阿佐ヶ谷駅の方向に足を向ける。椎葉も腰をあげ、自転車を残して美亜のあとを追う。
信号をわたった美亜は葉を落としたケヤキの並木を進み、行くあてもないのか、赤いスニーカーでふて腐れたように歩きつづける。短い髪は前と同じ淡い金色、ピンクのマフラーをうしろ縛りに巻いて、腰には大きめのヒップバッグを掛けている。
しばらく美亜のあとを歩いてから、足を速め、うしろからその肩に手をかける。美亜がつまずいたように足をとめ、白い顔を椎葉にふり向ける。こぢんまりしたその顔が子供っぽく戸惑っていたのは二、三秒、次の瞬間には目がつり上がり、頬骨のあたりがさっと赤くなる。
「覚えてくれていたとは、光栄だ」
美亜の上唇がめくれ、両の黒目がまん中に寄る。
「あの日以来君のことが忘れられなくてな、今でも毎晩夢に見るんだ」
憎らしそうにひきつった美亜の口から、くしゃみがもれる。
「どうした、警察が訪ねると聞いて、逃げ出して来たか」
美亜の黒目がせわしなく揺れ、薄い胸から耳障りな息がもれる。椎葉の言葉が理解できたらしく、右の拳が胸の前にふりあがる。椎葉は美亜の拳を手のひらで押さえ、挨拶がわりのしかめっ面をしてみせる。
「この前はちょっと手がすべった、怪我はなかったか」
「あんた……」
「なんだ」
「この汚い手、放してよ」
「昨日は風呂に入ったし、手だけはいつも洗ってる」
美亜の拳が少しゆるみ、その心の動きを確認して、椎葉は拳から手を放す。それでも美亜は上唇をめくれさせたまま、レイプ犯をさげすむような目で、じっと椎葉の顔を睨みつづける。
十秒ほど睨み合いがつづき、美亜の肩から力が抜け、つり上がっていた目が正しい位置におさまる。頬骨のあたりを染めていた上気も去り、顔が蝋のように白くなる。
肩で大きく息をつき、美亜が両手の指で髪をかきあげる。
「あんた、代々木公園に住んでる人でしょう」
「見破られたか、服装には気をつけてるんだけどな」
「なぜ、電話を?」
「猫を穴からおびき出すには餌がいる。おれは猫捕りの名人さ」
「あたしに因縁でもつけに来たの」
「まあ、似たようなもんだ」
「警察につき出すよ」
「警察から逃げたくせに、論理が矛盾するぞ」
「あたしの勝手だよ」
「大間幹江が殺されたことで、代々木公園の住民が迷惑している。おれも事件を早く片づけたいし、君も友達を殺したやつが憎いだろう。つまりおれたちは、利害の一致する運命共同体だ」
美亜の唇が動き、しかし言葉は出ず、その強情そうな目に困惑の色が浮かぶ。通行人が二人を避けるように行き過ぎ、駅からやって来たバスが陽射しを遮っていく。
今日は回し蹴りはないらしく、椎葉はレインコートのポケットから吸止をとり出し、風をよけて火をつける。
「どうだ、その辺に腰を落ちつけて、信頼関係を温めないか」
美亜の口からもれた音は、くしゃみか、咳払いか。近くにシャッターをおろした証券会社のビルがあり、一段の段差がついて西日があたっている。椎葉は十歩ほど歩いて段差の部分に腰をおろし、美亜に手招きをする。美亜がちょっと首をかしげ、それから口をとがらせて、赤いスニーカーをとぼとぼと運んでくる。椎葉と信頼関係なんか温めたくもないだろうが、逃げ出したところで行くあてもなし、椎葉の髭面も見かけより凶悪ではない、と判断したらしい。
椎葉のとなりに少し離れて座り、マフラーから顎の先をつき出して、美亜がまた髪をかきあげる。金色の髪が西日に光り、肩にケヤキの枯れ葉がふりかかる。
「ひとつ聞かせてよ」
「心配するな、おれに彼女はいない」
「あんたねえ……」
「君の家がどうして分かったのか」
「うん」
「君が坂下美亜という名前であることも知っている」
「どうして」
「むかし警官をやっていてな、調べることが得意なんだ」
「うっそーっ」
「警官をやってたようには見えないか」
「どう見てもホームレスだよ」
「転職しただけさ、生まれたときからホームレスだったわけじゃない。もっとも子供のころから、ホームレスの気持ちは分かったが」
タバコをすて、焼酎のボトルをとり出し、椎葉がちびりとなめる。いくら引き取られた先が母親の実家とはいえ、両親と妹を一度になくした美亜の心細さに想像はつく。髪を染めたり不登校になったり、その程度で我慢している美亜を、誰が責められるか。
「だけど、ねえ、元警官のホームレスって、仲間から苛められない?」
「江戸時代の牢屋じゃあるまいし……でも代々木公園の連中には内緒だぞ。警官嫌いはホームレスも不良女子高校生も変わらない」
「あたしは不良じゃないよ」
「ふーん、それは良かった」
「どうでもいいよ。どうせあんたも、人を見かけで決めるんでしょう」
「君もおれのことを見かけでホームレスと決めてる」
「だって、あんたは、ホームレスじゃない」
「うん、そういえばそうだ」
「ほかのホームレスはホームレスらしくしてないのに、あんた、ヘンだね」
「心貌合一《しんぼうごういつ》という思想があってな、見かけと中身が一致しないのは、他人に対して失礼になる」
「どういうことよ」
「もし堅気に見えるヤクザがいたら、他人はそのヤクザに対して、つい気を許してしまう。あとでヤクザと分かったときにはもう手遅れだ。だからヤクザはヤクザらしく見えないと、他人に対して失礼になる」
「ヘンな理屈だね」
「そうでもないだろう。バカのくせに利口ぶったり、利口なのにバカを装ったり、そういう人間は、下品じゃないか」
美亜が口を尖らせて鼻を鳴らし、呆れたように肩をすくめる。
「最初に聞いておきたいんだが……」少し鼻の先がしゃくれた美亜の横顔に、椎葉が短く息を吐く。「大間幹江の事件に、君自身、なにか関係しているのか」
口を開きかけたまま、美亜がバス通りの向こうに視線をただよわせて、そのまま一分ほど黙り込む。ケヤキの枯れ葉が肩から膝にすべり、スニーカーの爪先がメトロノームのようにゆれ動く。
「あたし……」
「うん」
「あたしと幹江のことが関係あるのか、考えても、まるで分からない」
青梅街道から『阿佐ヶ谷駅』標識のバスがやって来て、とろとろと向こう側の車線を去っていく。
「おれに任せてみないか」
「なにを」
「人間には自分で考えても分からないことがある。魚のことは魚屋に訊け、というだろう」
「あたし、魚は嫌い、生臭いから」
「警察のなかには君を疑ってる人間もいる。半年前の事件に関連あり、とかな」
「どうせあの女刑事でしょう。あいつ、陰険でしつこいんだから」
「大目にみてやれ。彼女も男がいなくてヒステリーなんだ」
「だって頭にくるんだよ。あたしのことを……」
美亜が前歯の先で下唇をかみ、眉間に皺をよせて、小さく咽を鳴らす。夕子にしたって美亜を犯人扱いしたわけでもないだろうが、女同士というのは一度感情がこじるれと、あとは闘魚のように相手を罵倒する。それにたしかに、あの吹石夕子巡査部長は顔に似合わず、独善的な部分がある。
「まあ、彼女にも悪気はない。刑事になったばかりで仕事に夢中なんだろう」
「あっちはただの仕事、でもあたしには、家族のことだよ」
「ただの仕事と割り切らなければ殺人事件は扱えない。熱い鍋を掴むには鍋掴みが必要だ。素手で掴んだほうが鍋の熱さは分かるが、それでは火傷してしまう。被害者側からは素手で鍋を掴めと強要され、犯人側からは余計なことをすると恨まれ、警官なんて、損な商売さ」
「それであんた、警察をやめたの」
「そんなところかな」
「ホームレスまでやらなくていいのに」
「家が要らない人間にはホームレスが一番いい。ホームレスというのは移動しない旅人みたいなもんだ」
「あたしも家なんか要らないけど」
「生きていくために家が必要な人間と、生きていくために家が邪魔な人間と、人生というのは色々さ」
「ねえ、あたしもホームレスになれるかなあ」
「誰もがなりたくないと思い、それでいて誰もがなれてしまう。そこがホームレスの面倒なところだな」
美亜を相手に、ホームレス論を闘わせたいわけではなく、これはただのイントロ、猫を穴からひき出すにはそれなりの餌が必要なのだ。
「どうだ、おれに任せる気になったか」
「そんなの、まだ分からないよ。名前だって知らないんだから」
「椎葉というんだが、ちょうど今名刺を切らしてる。しかしとりあえず、大間幹江のことを聞かせてくれ」
美亜がスニーカーの踵《かかと》を尻の下にひき込み、膝に肘を立てて頬杖をつく。椎葉にしたら幹江の事件もイントロ、情緒不安定な小娘を扱う場合は、こんなふうに、さまざまな餌が必要になる。
「幹江のことといっても……」頬杖をついたまま、鼻の先を上向けて美亜がくしゃみをする。「しばらく会ってなかったんだよ。二カ月ぐらい前に渋谷のマックで会って、それっきり。そうしたら警察が来て、いきなり殺されたとか言われて、びっくりした」
「それでもあの場所に花をもって行ったのは、親しかったからだろう」
「そうだろうね。そうじゃなくても人が死ぬって、大変だし」
「最後に会ったときは、特別な用でもあったのか」
「べつに……久しぶりに電話が来て、あたしもしばらく渋谷へ行ってなかったから、喋りたくなったの。だけど幹江と会うとあのことを思い出すし、あまりのらなかったな」
「彼女に変わった様子は?」
「家のこととかずっと喋ってた。お袋さんにまた男ができたとか、その男に女装趣味があるとか」
「二カ月前といえば加世田優也と別れた前後だ。加世田のことを何か言ってたか」
「あんた、そんなことまで知ってるの」
「ほんのサービスだ」
「ホームレスをやめて探偵でもやれば?」
「なあ、幹江は、加世田のことを?」
「言ってた。あの男、金もないくせに細かいことをくどくど言うから、うざったくなって別れたって」
「幹江は落ち込んでいなかったか」
「ぜんぜん。幹江ってそういうところは明るい子だったよ」
「加世田に言わせると男好きだったらしいが」
「見かけだよ。誰とでもすぐ友達になるから、そう見えたんじゃない?」
「見かけほど遊んではいなかった、か」
「考え方の問題だね。知ってる男の子が多ければ、遊んじゃうことも多くなるし」
「その遊んじゃった男のなかで、幹江とトラブったようなやつは?」
「知らない、本当だよ」
「一人や二人……」
「知らないってば。あたしね、男のことをつべこべ言うの、嫌いなの。男なんてどうせみんなやりたいだけ、みんな野蛮だよ」
「まあ、君の意見も正しいが……」
焼酎のボトルをもてあそび、居心地の悪い気分で美亜の横顔を確認する。男なんて確かにみんな野蛮だが、美亜の口調に含まれる非難は、少しばかり神経質すぎないか。少女期潔癖症なら髪をこんな色に染めるはずはなく、ホームレスと並んで道端にも座らない。夜遊びもしないだろうし、男のアパートでごろ寝をすることもないだろう。
「加世田は幹江と別れた原因を、君だと言ってたけどな」
美亜が右手の中指で鼻の頭をこすり、その指で顎のマフラーをひきおろす。
「君と寝たことを幹江に知られた。それで幹江が怒ったと」
「うっそーっ」
「加世田はそう言ってる」
「あいつ、狂ってるよ。あたしがあんなやつと、寝るわけないよ」
「寝たっておかしくはないだろう」
「それ以上言うと、あんた、殺すからね。あたしは加世田なんか大っ嫌いだし、そういう話も嫌いなの。あんなやつの言うことを信じるなんて、あんたも狂ってるよ」
口調だけでなく、目にも怒りがあり、目尻には涙さえ浮かんでいる。この嫌悪は加世田個人に向けられたものか、それとも男すべてに対するトラウマか。
椎葉はゆっくりと焼酎をなめ、時間をかせぐためにタバコの吸止をとり出して、火をつける。
「まあな、今度加世田に会ったら、君の代わりにあいつを殴っておこう」
「いいよ、バカなんか相手にしなくて。幹江も本当はあいつのことを嫌ってたんだから」
「そういう男ともセックスだけはする。幹江という子は、心が広かったんだな」
美亜の目から怒りの色が消え、頬に皮肉っぽい笑いが浮かぶ。感情を一瞬に入れかえる技術があるらしく、そして頭も悪くないらしい。加世田程度の男では確かに、美亜のような性格はもて余す。
「幹江のことで、もう一つ、気になることがあるんだが」
美亜がヒップバッグからタバコとライターをとり出し、口を尖らせて火をつける。
「彼女は殺されたとき、高校の制服を着ていたという」
「警察から聞いたよ」
「幹江の高校に制服はなかったろう」
「あたしも見たことはないな。誰かから借りたんだね」
「借りた理由に心当たりは?」
「ないよ。でも幹江が制服を羨ましがったことはある。あたしは制服なんか大っ嫌いだけど、好きな子もいるね。あれって、オヤジが制服好きなせいだよ」
「そのオヤジが好きな制服を着て、幹江はボランティアでもやってたかな」
「ふん」
「どうせそんなところか。あんな時間にあんな所を歩いていたのは、援助交際のためだ」
唇を丸めて長く煙を吹き、また美亜が、ふんと鼻を鳴らす。
「あたしは知らないけど、可能性はあるね」
「幹江という子を一言で表現すると?」
「そうだね、明るくて楽しいサカリのついたメス犬、かな」
「ふーん。しかしまあ、そのあたりは警察が調べる。おれとしては君が幹江の事件に無関係なら、それでいい」
「ホームレス仲間のためじゃなかったの」
「それもあるが、あの女刑事のヒステリーも治してやりたい。君だって彼女に付きまとわれたら人生が不自由だろう」
「あたしなんて最初から、ぜんぶのことが不自由だよ」
「最初から?」
「うん」
「羽田の事件以降、ではないのか」
「そんなこと……」
美亜が鼻の先を向こうに曲げ、タバコを足元に放って、スニーカーの踵で踏みつぶす。まだ半分も吸われていないそのタバコを拾い、椎葉がポケットにしまう。
「不景気が長いせいか、最近はみんな、タバコを根元まで吸いやがる。これからは女子高校生のあとを付いてまわろう」
口を半開きにしたまま、背中が痒くなったような顔で、美亜が顎先をマフラーにうずめる。なぜ美亜の人生が『最初からぜんぶ』不自由なのか、椎葉も今は問い詰めない。
「なあ、五月二十一日というのは、なんの日だ」
「え?」
「君の妹のカレンダーに印がついていた」
美亜の目が丸くなり、首がかたむいて、前髪が額に落ちる。
「あんた、あたしの家を見たの」
「あの女刑事に連れていかれた」
「勝手に入って、いいわけ?」
「警察の公認だ。もっとも彼女は一人で、全警察を代表してるらしいが」
体温でもあがったのか、美亜がマフラーの縛り目をゆるめ、息苦しそうに首をふる。あの殺人現場へ最初に足を踏み入れたのは美亜、警察が駆けつけたとき、美亜はドアの外でうずくまっていたという。見てはならぬものを見てしまった美亜の混乱は、他人の想像なんか、はるかに超えている。
「で、五月二十一日のことは?」
「テレビの公開コンサートだよ」
「ふーん」
「チケットが当たって、あいつ、バカみたいに喜んでた」
「そうか、好きな歌手でも出たか」
「あたしも付き添いで行く予定だった。だってあいつ、中学生だったから」
「妹とは仲がよかったらしいな」
「わがままで生意気だった」
「姉妹で性格が似たんだろう」
「でも、素直なところもあったし……」
スニーカーの先を見つめている美亜の目に、薄く涙がたまる。さっきの涙とは種類が異なり、唇もふるえている。美亜に必要なのは警察の追及ではなく、本来は専門家の、心理カウンセリングだろう。こんなふうに美亜を付けまわす夕子に、そして二千円の日当でアルバイトを引き受けてしまった自分に、椎葉は久しぶりの怒りを感じる。
「済まなかったな。あいにくハンカチを、家に忘れてきた」
美亜が膝に両手をかけ、きっぱりと腰をあげる。華奢な腰にヒップバッグがゆれ、ウィンドブレーカーが風をはらむ。
「あたし、行くわ」
「そうだな。行きたい所があるうちは、行ったほうがいい」
ウィンドブレーカーのポケットに両手をつっ込み、美亜がため息をつく。もう涙はなく、唇のふるえも治まっているが、頬は固くひきつっている。
「なあ、君と仲が悪かったのは、親父さんか?」
美亜の赤いスニーカーが、歩きかけてとまる。
「君が外で遊び歩いていた理由は、家族の誰かと仲が悪かったせいだろう」
肩だけは動いたが、顔は椎葉に向けず、美亜が歩道の日溜まりを駅のほうへ歩きだす。背中には椎葉に対する軽蔑があり、その感情を隠しきれない幼さがある。加世田優也の部屋で一瞬でも、美亜が家族を殺した可能性について考えた自分を、椎葉自身も軽蔑する。
遠くなる美亜の背中を眺めながら、椎葉はボトルのキャップを開け、多めの焼酎を咽に流す。バスがのろのろと美亜を追いかけ、新聞配達のバイクがケヤキの枯れ葉を舞いあげる。
美亜のうしろ姿が点景になり、椎葉は腰をあげる。酔いのつづく躰に陽射しが暖かく、アルコールがすべての風景に平和のベールをかけてしまう。
自転車を置いてきた場所へ戻りながら、道にタバコの吸殻を探す。吸殻も道に捨ててあればただのゴミ、それを椎葉が拾えばまだ価値のある吸止になる。
信号をわたってきた若い女が、小さく叫んで椎葉から遠ざかる。
「大きなお世話だ……」
交差点で吸殻を二つ拾い、歩きながら一本に火をつける。会ったこともないいづみという女の子の顔が、ふと頭に浮かぶ。その顔は美亜の顔が幼くなったもので、ちょっと生意気に、それでもはにかみながら椎葉に笑いかける。椎葉は首をふって幻覚を追い払い、煙を長く足元に吹く。
そういえば今日もトメさんは寝ていたなと、思考の方向を、椎葉は無理やり、現実の生活にひき戻す。
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澄んだ声の賛美歌がフォークロック風のリズムで流れてくる。うそ寒い曇り空でもホームレスたちは従順に、私語もなく噴水前広場にうずくまる。目当ては焚き出しの焼き肉弁当だが、なかには椎葉同様、少女の賛美歌ライブが楽しみな人間もいるだろう。少女の服装はセーターの上にジージャン、赤ん坊を抱くようにギターをかかえ、聴衆には視線を向けずに神の世界を讃えつづける。肩までのストレートヘアが七〇年代のフォーク歌手を思わせ、それが中年ホームレスの郷愁でも誘うのか。
少女のライブが終わり、いつもの若い韓国人牧師がマイクをとって説教を始める。「神の国は近い、罪人は悔い改めよ」「神はすべてを見ている、神は万能なり」ふーん、偉いもんだ。「神を恐れよ、神を讃えよ、神は万能なり」「ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ」
牧師が「ハレルヤ」と腕をつき上げ、何百人ものホームレスが気だるそうに腕をふる。臨時のテーブルにはすでに焼き肉弁当のパックが用意され、『神の子の門』信者たちも牧師のうしろに集まっている。説教を聞かなければ弁当を食べさせない、という神様も陰険な気はするが、ホームレスに忍耐と服従を教えるのも神の仕事なのだろう。
牧師が最後に「ハレルヤ」を絶叫し、焼き肉弁当の配給が始まる。ホームレスたちは従順に無気力に、夢遊病者のように列をつくりはじめる。
椎葉は噴水から離れたベンチに座って、ちびりと焼酎をなめる。空は雨が降りそうな灰色、ホームレス以外の見物人も少なく、花壇のバラも枯れきっている。少女のライブも終わったし、焼き肉弁当にも食指は動かず、椎葉はボトルをしまって腰をあげかける。
その椎葉の鼻先に、焼き肉弁当のパックがさし出される。目の前に立っていたのは説教を垂れていた若い牧師で、生まじめな表情に物静かな笑みを浮かべている。短い横分けの髪に角張った顎、金壺《かなつぼ》まなこで耳が小さく、薄い眉に鼻梁のへこんだ鼻がのっている。遠くからでは若く見えるが、実際は椎葉と同じほどの年齢か。
「あー、いかがですか、食事を召し上がりませんか」
流暢《りゆうちよう》な日本語だが、口調には韓国|訛《なま》りがあり、「ハレルヤ」を叫んでいたせいか声が嗄れている。
椎葉は首にタオルを巻きなおして寒さを防ぎ、あげかけていた腰をベンチに戻す。
「お気持ちだけで結構です。今は食欲がありません」
「でもどうぞ、お持ちなさい。味つけが濃くしてあるし、三日は腐りませんよ」
「はあ、しかし……」
「どうぞどうぞ、あなたが食べなければお仲間にやればいい。これもすべて神のお恵みです」
今日から十二月になったのも、天気が悪いのもバラの花が枯れたのも、みんな神のお恵み。しかしテントの前で一人ぼんやりしている小林さんの姿を思い出し、椎葉は弁当を受けとることにする。出稼ぎに行ったヤスオから音沙汰がないらしく、そうでなくとも小柄な小林さんが、最近はとくに小さく見える。
牧師が椎葉のとなりに腰をおろし、横から金壺まなこで笑いかける。
「どうしましたか。あなたのことは集会のたびにお見かけしますが、給食の列に並びませんね」
「最初のころ一度弁当をもらいました。もう一年も前ですが」
「あー、焼き肉が口に合いませんか」
「いえ、幸い命を繋げてますので、ほかの仲間に順番を譲ってます」
「それはそれはご奇特な。私としてはもっとたくさん食事を用意したいのですが、なにしろ貧乏教会ですのでね。今のところ一回に五百人分が限度なのですよ」
「牧師さんは、なぜホームレスの支援を? 韓国にホームレスはいないのですか」
「ホームレスはいますが、日本ほど多くはありせんね。まだ儒教の教えが残っていますし、家族の絆が強い国ですから」
「そうですか。家族の、ね」
「ホームレス問題は家族レス問題です。日本は金持ちの国になった代償に、家族をなくしてしまった。嘆かわしいことだと思いませんか」
椎葉はポケットをさぐって、タバコの吸止《すいさし》をとり出し、欠伸《あくび》をかみ殺して火をつける。牧師の問題意識も慈善活動も立派だとは思うが、主義の押しつけは煩《わずら》わしい。
牧師が角張った顎をひきしめ、慈愛に満ちた表情で椎葉の顔をのぞく。
「あー、どうですか。あなた、一度うちの教会へ来てみませんか。神の家族になれば人間同士の絆もとり戻せますよ」
「はあ、なるほど」
「教会といっても四谷の雑居ビルですがね。寝泊まりをする場所もあるし、仕事も見つけてさし上げる」
「なぜわたしを?」
「この一年ずっとあなたを見ていて、更生の余地がある人だと思ったのですよ。こう言っては失礼だが、ただ漫然と給食に並ぶ人達とは、どこか感じがちがいます」
「わたしはすでに、人生を放棄している」
「その放棄した人生を神の下《もと》でとり戻すのですよ。あなたはまだ若い、神はきっと、あなたをお救いくださる」
「神様の意見も聞いてください。わたしのような家族ができるのは、きっと迷惑だと仰有《おつしや》る」
弁当のパックをもって腰をあげ、一口吸って、椎葉はタバコを足元に放る。
「わたしが望んでいるのは神の慈悲ではなく、彼女の賛美歌です。これで手踊りでも付ければ、信者も増えると思いますがね」
金壺まなこを見開いた牧師を残し、椎葉はベンチの前から歩きだす。宗教で救われたい人間は救われればいいし、地獄へ落ちたい人間は落ちればいい。宗教の善意は否定しないけれど、宗教で人間を救えると思う無神経さには、腹が立つ。
今夜は寒くなりそうだし、焼酎でも補充するかと考えながら、池沿いの遊歩道に入る。
「椎葉さん、待ってくださいよ。どうしてケイタイの電源を切っておくんですか」
突然声をかけてきたのは吹石夕子、夕子はタイトスカートに辛子色のジャケットを着て、相変わらずのショルダーバッグに大きい紙袋をさげている。口はとがって少し鼻の穴が開き、このうすら寒い曇り空に顔を上気させている。
「なんだ、君、来てたのか」
「お友達との話が終わるのを待っていたんです」
「あれは韓国人の牧師だ。おれみたいな人間でも救われる価値があると錯覚している」
「救われればいいじゃないですか」
「冗談を言うな。キリストというのはいわば、二千年前のホームレスだ。他人に言われなくてもおれは神の道を実践している」
「そうですか。どうでもいいですけど、なぜケイタイを切っておくんです?」
「ホームレスに誰が電話をする」
「わたしは十回以上しましたよ」
「悪かったな。君にそこまで惚れられるとは、考えなかった」
夕子がわざとらしく咳払いをし、いっそう鼻の穴をふくらませて、うしろから椎葉の背中を突く。その力は強引で押しつけがましく、キリストという人間もたぶん、夕子に似た性格だったろう。
「それで、どうなんです? 少しは働いてくれたんですか」
「加世田優也と坂下美亜に会った。加世田はともかく、美亜のような子供を苛《いじ》めるのは、抵抗があった」
「それが仕事です。好きなことをするだけならただの趣味ですよ。わたしのほうも連絡事項がありますから、ちょっと付合ってください」
昼食でも奢《おご》る、と言いだすはずはなく、夕子が遊歩道を外れて池の岸に進み、そこのベンチに腰をおろす。椎葉も夕子のとなりに座って弁当のパックを置き、波もなく澱《よど》んだ池に息をつく。鉛色の湖面に灰色の鳥影が映り、ポテトチップスの空袋が綴《つづ》れ織り模様の波をたてていく。晴れていれば真冬でも暖かく感じる代々木公園も、今日はすべてが灰色で重苦しい。
「椎葉さん、またお風呂をさぼりましたね」
「これも仕事のためだ。おれの頭は風呂に浸《つ》かると推理機能が停止する」
「言い訳は聞きませんよ。おわたしした経費には銭湯代も含まれてるんです」
「他人に迷惑をかけるわけじゃなし……」
「わたしは迷惑です。元の椎葉さんに戻れとは言いませんけど、せめてその垢染みた臭気だけは落としてください」
なにを怒っているのか、今日は最初から機嫌が悪いらしく、夕子の口調にヒステリックな刺《とげ》が感じられる。
「どうした、薬は飲んだか」
「なんの話です?」
「生理で苛々《いらいら》するんだろう。そういうときは我慢せず、精神安定剤を飲むといい」
「大きなお世話です。生理なんかじゃなくても、わたしは椎葉さんの顔を見ると苛々するんです」
「やっぱりおれに惚れてるな。自分で自分の気持ちを認めたくないから、神経が混乱するんだ」
「椎葉さんを雇ったのはわたしのほうです。冗談はいい加減にして、今度からはちゃんとケイタイの電源を入れておいてください」ぴしりと言い放ち、夕子が大きい紙袋をベンチにひきあげる。「働くには働く服装があります。そんな恰好では野良犬も顔をそむけます。いったいオレンジ色の上着なんて、どこから拾ってきたんですか」
夕子がとり出したのは戸越銀座で買った防寒ジャケット、カーキ色で裏には同色のボアがあり、胸と腰に二個ずつのポケットがついている。襟には折り畳みのフードが収まっていて、東京程度の冬なら何とかやり過ごせる。
「とにかく着替えてください。これでいくらか聞き込みも楽なはずです。問題は聞き込み相手に対する、礼儀ですからね」
「おいおい……」
「オイオイじゃないですよ。いいですからレインコートと上着を脱いでください。わたしの推理ではその二つが、臭気の元凶のはずなんです」
有無を言わせぬ、とはまさにこのこと、夕子は横から椎葉のレインコートをひっぱり、上着の襟にも手をかけて、母親が子供の衣服を脱がせるように、すぽっと上に持ちあげてしまう。椎葉が抵抗しなかったのは、抵抗するのが面倒くさかったから。衣装が替わったところでホームレスはホームレス、オレンジ色の上着だって意図的なコーディネイトではなく、それはそういう、神のお恵みだったのだ。
夕子が防寒ジャケットを椎葉の肩にかけ、無理やり袖を通させて、前襟を両側からかき合わせる。
「ほら、いいじゃないですか、この薄っぺらな上着より、ちゃんと暖かいでしょう」
「しかし、どうも、馴染まんなあ」
「当たり前です。初めて着たのに馴染むはずはありません」
「おれには、小さくないか」
「着ているうちに伸びます。それに椎葉さんの洋服なんて、世間は誰も気にしませんよ」
『問題は聞き込み相手に対する礼儀』といったさっきの発言とは、論理的に矛盾する気もするが、たしかに椎葉の服装なんか世間は気にしない。たとえこの防寒ジャケットのブランドがアルマーニだったところで、やはり気にする人間はいないだろう。
「やあ、たしかにこれは、暖かい」
「あくまでも仕事のためです。好意ではありませんから、誤解されては困ります」
「君もよく見れば美人なのに、話がくどいな」
「椎葉さんがセクハラ発言をするからですよ。それに|よく《ヽヽ》なんか見なくても、わたしは美人だと言われます」
「うん、そういうふうに価値観が多様なのは、まだ日本の社会が健全な証拠だ」
首をかしげた夕子を無視して、椎葉は脱がされたレインコートを肩に羽織り、首にもタオルを巻きなおす。
夕子が顔をしかめ、腰を浮かせながら、椎葉の風体を眺めまわす。
「椎葉さん、レインコートは必要ないでしょう」
「おれの全財産が入ってる。それにこのレインコートを着てないと、重心のバランスがとれない」
「それなら、首のタオルだけでも、やめられないんですか」
「首が寒いと風邪をひく体質でな。見かけによらず躰《からだ》が弱いんだ」
「わがままな性格ですねえ。そういう性格で、よくホームレスなんかやってられるもんですよ」
感心したのか、呆れたのか、夕子がため息をついて首をふり、紙袋からまた何かをとり出す。
「被ってみてください。これで少しは髪もごまかせますから」
渡されたのはハット形の黒い帽子で、椎葉はそれを人さし指でくるりと回し、諦めて頭にのせる。アルバイトに前渡し金に携帯電話にジャケット、すでにじゅうぶん束縛されていて、今さら帽子の一つぐらい、何を恐れることがある。
夕子が腰をのばして腕を組み、点検する目つきで椎葉のまわりを往復する。
「まあね、なんかヘンですけど、前よりは見られますよ」
「ファッションモデルにでも転職するか」
「せいぜい世間を拗《す》ねた売れないルポライターですね。これで髭を剃ってくれれば、ヤキトリ屋ぐらいは付合えますけど」
大仕事を果たしたように、夕子が腕をあげて背伸びをし、ターンをして元の場所に腰をおろす。椎葉は新しい繊維の匂いが嗅覚にめずらしく、帽子を目深にかぶって、ひっそりと深呼吸をする。結婚していたころは女房が用意してくれた新しい衣類に腕を通し、その繊維の匂いに、意味もなく幸せを感じたこともある。
「さて、ということで、これから本題に入ります」
夕子がバッグからメンソールのタバコをとり出し、火をつけて、煙を長く吹く。ジャケットや帽子のことはもう忘れたような顔で、目つきにも冷静さと強引さが戻っている。
「最初に羽田のマンションのことです。ドアの錠にはやはり、ピッキングの痕跡はないということです。合鍵も家族が使っていた四本以外、まだ見つかっていません。もしかしたら美亜が帰ってくるときのために、鍵をかけなかった可能性もあります」
目深にかぶっていた帽子を頭のうしろにずらし、椎葉は焼酎をとり出して、咽《のど》の渇きをうるおす。考えてもみなかったが、なるほど両親が美亜の帰りを待って、鍵をかけなかった可能性はある。
「それから、幹江殺しのほうですけど、これは幹江の髪留めから犯人のものとおぼしき指紋が出て、渋谷北署の捜査本部が重要参考人の指名手配をしました。ですから残念ながら、幹江の事件と羽田の事件とは無関係です」
「残念ながら、か。指名手配をしたということは、容疑者に前科があったわけだ」
「二年前に婦女暴行未遂で書類送検されています」
「指紋があったにしては、やけに手間取ったな」
「不鮮明な指紋で鑑識が苦労していたようです。でも向こうの事件はこれで解決です。二年前は未遂で終わったものが、今度は完遂で、しかも殺人です。精液のDNAが小林のものと一致すれば、証拠も完璧です」
「その容疑者は、小林というのか」
「はい。小林靖夫という名前で、今年の夏ごろまでは浅草に住んでいました。その後は一家で行方不明です。一家といっても父親は首吊り自殺をしていますから、実際は靖夫と母親の二人ですね。靖夫一人ならともかく、母親と一緒なら、居所はすぐ見つかるでしょう」
「それは、すぐ見つかるだろうな」
「容疑者は頭が少し弱いらしくて、逃げまわるだけの知能はないようです」
「うん、知能はなくて、顔は馬に似ている。ちょうどそういう小林という男が、おれの近くでテントを張っている。同じ見つかるにしても、少し早すぎたか」
夕子のタバコから灰が落ち、タイトスカートの膝にこぼれて、形を崩しながら下へ散っていく。
「椎葉さん、それ、本当ですか」
「母親と二人で、やはり浅草から流れてきた。親父さんも首吊り自殺をしてるというから、間違いないだろう」
夕子が放心したような顔で、二口タバコを吸い、指にタバコを挟んだまま、バッグから携帯電話をとり出す。
「どうするんだ」
「渋谷北署の笹野警部に連絡します」
「それは僭越だ」
「だって……」
「向こうの本部でも公園の地取りはしている。ヤスオの名前ぐらい、すぐに出てくるさ」
「そうだとしても、早いに越したことはありません」
「ヤスオは事件後すぐ公園を出ていって、今はお袋さんだけが残ってる。あの母親を責めてもヤスオの行方は知れないだろう」
「警官でなくても市民としての通報義務があります」
「それなら誰かにタレコミをさせればいい。君からの情報では笹野さんの顔が立たない。君があせらなくても、君の仕事ぶりは上が見ている」
夕子がケイタイを構えたまま椎葉の顔を睨み、肩で二、三度、浅く息をつく。新米刑事のころ功をあせって動きまわった記憶が、無自覚に椎葉を苦笑させる。
「それに、なあ、君の言ったとおり、ヤスオの知能は馬といい勝負だ。一人で逃げまわるほどの頭はないから、放っておいてもひょっこり帰ってくる。自棄《やけ》を起こして連続殺人に走るタイプでないことは、おれが保証する」
夕子の鼻が曲がり、顎がつんと突き出されて、ケイタイがバッグにしまわれる。
「まったく、警察の古い体質って、何とかならないんですかね」
「君が出世して改革すればいいさ」
「わたしなんか、しょせん歯車です」
「歯車がなければ機械は動かない。自分を社会の歯車と思うか、自分自身が社会だと思うか、その人間の好みだけどな」
「椎葉さんはさしずめ社会の老廃物ですか」
「うん、おれを拾ってくれた廃品回収のオヤジも、おれのことを道に落ちていたゴミだと思ったらしい」
「椎葉さんは……」
出かかった言葉を咳払いでごまかし、夕子は指のタバコを、強く携帯の灰皿に押しつける。意識を当面の事件に集中すべきなのに、頭にはつい大崎で会った、慶子の顔が浮かんでしまう。
「椎葉さん」
「なんだ」
「椎葉さんがプライドを棄てた理由は、絶望ですか」
「そうだろうな」
「でも、それは、甘えだと思います」
「反論はしない」
「そうやって、いつまで甘えをつづけるんです?」
「厳密にいうと甘えとプライドを棄てることとは、無関係だ。たしかにおれはプライドを棄てたが、それは棄てるべきプライドを捨てたという、それだけのことだ」
吸止に火をつけ、一口吸って地面にすて、残り少ない焼酎を咽に流す。焚き出しの終わった『神の子の門』グループが噴水前広場の片づけを始め、ホームレスたちも寒々と散っていく。なかには焼き肉弁当にありつけなかったホームレスもいるに違いなく、椎葉は無意識に、小柄な小林さんの姿を探してしまう。
「椎葉さん、その言い方では、質問の答えになっていませんよ」
「えーと、なんだっけ」
「世間を拗ねて、自分に甘えて、椎葉さんがいつまでこんな生活をつづけるのか」
「君にはそう見えるか」
「なにがです?」
「おれが世間を拗ねて、自分に甘えているように」
「だって、絶望してプライドを棄てたと言ったじゃないですか」
「おれがプライドを棄てたのは、プライドなんか棄てたほうがいいと判断したからだ。人間はプライドさえなければ、もっと簡単に、平和に生きられる」
「そんなのは逃避です。逃避で詭弁《きべん》です」
「君はなぜプライドにこだわる?」
「努力して向上して、人間らしく生きるためですよ」
「努力して向上しても、しょせんは歯車じゃなかったのか。一個の歯車になるためにプライドをもつというのは、あまりにも悲しい」
「だから、それが、詭弁なんです。心の健康な人間がプライドをもって生きるのは、理屈の要らない事実です」
「君の言うプライドとは無節操な自己肯定のことだろう。そんなプライドは人間の心を蝕《むしば》む癌細胞だ。人間はそういう安っぽいプライドがあるから悩み、諍《いさか》い、犯罪をおかして戦争をする。すべての人間がそんなプライドを棄てれば、世界は次の日から平和になる」
「ばかばかしくて……」
「おれも議論をしたいわけじゃない。君が質問をしたから答えただけさ。だけど堕落することと人生を諦めることとは、次元がちがう。自分に甘えてる人間に人生が諦められるかというと、そんなことはあり得ない」
議論をしたいわけじゃない、と言いながら、やっぱり議論をしているなと、椎葉は苦笑しながら焼酎をなめる。プライドや堕落についてふだんから考えているわけではないが、夕子の生まじめな詰問《きつもん》に出会うと、眠っている理屈癖が、つい目を醒ます。
夕子が苛立ちをしずめるようにまたタバコをくわえ、鼻をひくつかせながら、怖い顔で火をつける。こんな直情性格で正義感過多で、そのうち人生に疲れてしまわないだろうかと、椎葉は要らぬことを心配する。
大きく煙を吸い、大きく煙を吐いて、夕子が静かに首を横へふる。
「でも、要するに、幹江殺しの犯人が小林だと分かって、羽田事件は振り出しということです」
「いいさ。最初から坂下美亜は、どちらの事件とも無関係だ」
「でもあの不良は、やっぱり何かを知ってると思います」
「彼女、自分では不良じゃないと言ってる」
「外泊してふて腐れて夜遊びをするのを、わたしの常識では不良といいます」
「外泊癖は事実だろうが……」
椎葉は頭から帽子をとり、布のその固い肌触りを、洗濯でもするようにごしごしと揉《も》みほぐす。
「おれはやはり、被害者一家の家庭事情が気になるな」
いくらか落ちついたのか、ちょっと肩を落として、夕子が短くタバコを吸う。
「そのことは、本部でも調べたんですけどねえ」
「君の資料では坂下吉成にも雅代にも、浮気の兆候はない。仕事関係も近所付合いも常識の範囲だ。二人とも他人に恨まれる性格ではなく、目立ったトラブルもない。でも家族のあいだには、なにか、問題があったらしい」
「家庭に問題がなければ子供が不良になる確率はゼロ、ですか」
「それもあるが、美亜は幹江に、なにかを打ち明けていた。加世田の言うには、具体的な内容ではなかったらしいが」
「どんな家庭にも細かい感情の行き違いはありますけどね」
「細かいのか、大きいのか……」
椎葉は帽子を頭に戻し、ベンチに脱ぎすてた上着のポケットをさぐって、新聞紙の小さい包みをとり出す。
「君、これが、調べられるか」
「なんです?」
「美亜が吸ったタバコだ。唾液からDNAの鑑定ができると思う」
「なぜ……」
包みを受けとり、たたんである部分を開いて、夕子が吸殻に眉をひそめる。
「なぜだかおれにも理由は分からない。勘というのは嫌いだが、まあ、勘みたいなもんだ」
「具体的にはなにを調べるんです」
「坂下家の人間関係さ。監察医のところには殺された三人の生体見本が保管してあるはずだ。その三人のDNAと美亜のDNAを比較してほしい。それとも本部で、すでに検査済みか」
「そこまでは、してありません」
「どうせ捜査は行き詰まってる。たとえ無駄になっても君の給料はへらないさ」
夕子が灰皿にタバコをつぶし、ぷくっと頬をふくらませて、吸殻を包んだ新聞紙をバッグにしまう。
「君のほうでも吉成と雅代の結婚事情は調べてるよな」
「はい、一応は。吉成が勤めていた広告会社に雅代がアルバイトに行って、そこで知り合ったそうです」
「そのときの雅代は大学生だ。結婚がスムーズにいったとは思えないが」
「雅代の母親と二人の兄は猛反対でした。このことは雅代の長兄から聞きました」
「父親は?」
「特別に意見は言わなかったそうです。家庭内の問題より医師会や都議会の仕事を優先させる人だったようで」
「結婚したとき、雅代はもう美亜を身ごもっていた」
「そうらしいです」
「二人が結婚して、美亜が生まれて以降、兄弟や母親との関係は?」
「自然氷解でしょうね。もともと仲が悪かったわけでもなし、雅代も美亜を連れてよく実家へ帰っていたようです。赤ん坊ができてしまえば、そんなもんですよ」
「雅代という女も、特別に岸本家のもて余し者だったわけじゃない、か」
椎葉は脱いだ上着をぞんざいに丸め、紙袋に放り込んで、その上に弁当のパックを置く。もともとゴミすて場から拾ってきた洋服で、すでにじゅうぶんボロ布になっているが、こんな物でもこの村ではまだリサイクルの余地がある。
「なあ吹石くん」
「はい」
「君の物好きついでに、もう少しおれの勘に付合わないか」
「わたしは物好きで仕事をしているわけではありません」
「うん、悪かった」
「どうでもいいですけど、そんなこと、どうでもいいです」
「岸本家の財政状況は、調べてあるのか」
「いいえ、だって」
「そんなことが事件に関係あるとは思えない、か」
「中村さんの指示がありませんでした」
「他人のせいにするな。君は君の判断で仕事をすればいい」
「申し訳ありません」
「あの家のことは調べ直すべきだろう。病院なんか経営してると、意外に経済が破綻してることがある」
「もし経営が苦しかった場合は……」
「六千万ぐらいの保険金でも、咽から手が出るだろうな」
「ええと、まさか」
「保険金はいつおりた?」
「事件発生から二カ月後に」
「実際は美亜の後見人におりたわけだ。美亜の籍は岸本に移してあるのか」
「ええと、そのことも、すぐ調べます」
「坂下家のほうはどうだ、美亜を引き取るとは言い出さなかったのか」
「そのようです。なにしろ……」
「札付きの不良娘だから、な」
「はい。それに吉成の実家は岐阜県で、父親は退職した平凡なサラリーマンです。小さい建て売り住宅に長男夫婦と孫が同居していますから、美亜を引き取る余裕はなかったでしょう」
「神谷重之に会ってみたいが、無理だろうな」
「はい?」
「吉成の共同経営者だった神谷さ。この男からなら昔のことを、なにか聞けると思うんだが」
ボトルの底に残っていた焼酎を、きれいに飲みほし、髭にこぼれた雫《しずく》を首のタオルでぬぐう。街のチンピラなら路地で待ち伏せもできるが、相手が『光企画』とかいうCM制作会社の社長では、どうせ辻強盗に間違われる。
「そうですね。ここまできたら、わたしも椎葉さんの勘に付合いますよ」
夕子がまたバッグからケイタイをとり出し、メモリーのダイアルをクリックしはじめる。
「おいおい、待て」
「なんですか」
「神谷に電話してどうする」
「これから事情聴取に行くと伝えます」
「おれは自分の目で相手の反応を確かめたい」
「ですからわたしも付合います」
「君がおれに付合えるのはヤキトリ屋だけだろう」
「この際贅沢は言えませんよ」
「そういう意味ではなく、二人での聞き込みは、できない」
「わたしは見かけより忍耐力があります」
「君なあ、少しは自分の立場を考えろ。そんなことが中村さんに知れたら始末書だぞ。交通課に飛ばされてミニパトにでも乗りたいのか」
夕子の指がとまって、尖った顎に力が入り、丸い視線がガラス玉のように凍りつく。制服を着てミニパトカーに乗って、道路にチョークで印をつけている自分の姿が、その脳裏には、たぶんきっぱりと映っている。
「ええと、少なくとも今は、具合が悪いようです」
「当たり前だ、今でなくても具合は悪い」
「怒らないでくださいよ。椎葉さんを雇ってるのはわたしなんですから」
夕子がケイタイをバッグに戻し、肩をすくめて前髪をふり払う。それでも小鼻がひくひく動いているのは、まだ頭に企みがあるのだろう。
「分かりました。神谷の問題は善処します。あとで連絡しますから、今度こそケイタイを生かしておいてください」
すっくと腰をあげ、バッグを腰の横に構えて、夕子が一歩パンプスを遠ざける。
「ふーん、なるほど、見かけによらんなあ」
「忍耐力のことですか」
「いや、君の足のことだ。見かけによらず、いい足をしてると思ってな」
目から怒気を発したが、言葉は出さず、夕子がまた一歩ベンチから遠ざかる。
「雅代の親友とかいうのがいたら、それも調べてくれ。学生時代の、結婚当時の事情を知っていそうな人間だ」
夕子が口の形で了解を示し、頭をさげて噴水前広場のほうに歩きだす。痩せていて骨張った感じの躰つきだが、タイトスカートの足には適度の肉がついている。
「ヤスオは茨城の工事現場だ」
きれいな足をとめ、夕子が肩だけでふり返る。
「嘘か本当か、防波堤の工事に行くと言っていた。笹野さんの様子をみて、それとなく知らせてやるといい」
夕子がおどけたような敬礼をし、踵《きびす》を返して大股に歩きだす。そのタイトスカートから十センチほど太股がのぞき、椎葉は髭面を手でこすって、帽子の庇《ひさし》をさげる。この二年間無縁だった性欲が隙間風のように、曖昧に疼く。焼酎の酔いが切れかけたかなと、椎葉は自嘲と一緒に腰をあげる。夕子はもう遊歩道の遠くを歩いていて、まるで風を切る音が聞こえてきそうなほどの速さで遠ざかる。性格も暴走で足も暴走、性格が先なのか足の速さが先なのか、考えかけて、椎葉はほっと肩で息をつく。お仕着せの防寒ジャケットはまだ馴染まないが、それでも気のせいか、なんとなく暖かい。
帽子を頭のうしろにずらし、ベンチから紙袋をとりあげて、ゆっくりとテント村のほうへ向かう。夕子は椎葉の新しい扮装を「世間を拗ねた売れないルポライターぐらいには見える」と言ったが、まさかあの単純女、ホームレスより世間を拗ねた売れないルポライターのほうが偉いとでも、本気で思っているのか。
遊歩道を百メートルほど歩き、サイクリングロードを横切って西門の方向へ向かう。ビニールの青いテント村も灰色の空に押しつぶされ、ホームレスたちが三々五々、気だるくうずくまる。最近林の離れたところに増えた段ボール小屋は、会社をリストラされた俄《にわか》ホームレスだろう。今は毎日背広を着て就職活動に出掛けるが、彼らの気力がつづくのも半年、そのうち疲れて絶望して、ゾンビのように焚き出しの列に並ぶことになる。
椎葉は紙袋をぶらさげ、枯れ枝を踏んで、テント村のいちばん外れまで歩く。小柄な小林さんが小さくうずくまり、膝をかかえて北の空を見上げている。黒っぽいズボンに綿入れの半纏《はんてん》、頭から花柄のスカーフを巻いて、紙粘土でつくった老女人形のように見える。テント前の七輪には鍋もヤカンもかからず、火もおきていない。ギンナンの入っていたポリバケツも空っぽで、テントの内には寝乱れた毛布がのぞいている。
「小林さん、今日は焚き出しに並ばなかったね」
声をかけても小林さんは顔をあげず、背中を丸めていっそう膝をかかえ込む。顔はミイラ色でイタチかネズミのよう、躰からすっかり脂肪が抜けて、まだ動いているのが不思議なほどに感じられる。ヤスオが大柄で馬面なのは、首を吊った父親に似たのだろう。
「倅《せがれ》から何も言ってこないのかい」
小林さんの頭が少し動いたが、肯定か否定か、動作を見ても分からない。
「あいつも葉書ぐらい書けばいいのにな。渋谷区神園町という宛て名で、手紙も届くことがあるらしいよ」
神園町というのは明治神宮と代々木公園だけの町名で、正門横のホームレスに、嘘か本当か、以前その宛て先で手紙が届いたことがあるという。
「便りがないのが無事な便り、というから、そのうち帰ってくるさ。あまり心配しないほうがいい」
紙袋から焼き肉弁当のパックをとり出し、七輪の上に置く。ヤスオの逮捕が一日や二日遅れたところで状況は同じこと。連続殺人に走るタイプではなくても、ヤスオのような男は欲望でつい女を襲ってしまう。そういう体質は刑務所に入っても治らないが、しかしヤスオが世間から隔離されているあいだ、暴行を受ける女も幾人かは少なくなる。
「小林さん、飯だけは食ったほうがいいよ。その弁当、三日は腐らないらしいから」
また小林さんの頭が動いたが、やはり椎葉に顔を向けず、膝をかかえてじっと北の空を見上げてしまう。空は灰色でカラスも鳩も鳴かず、NHKのヘリコプターだけが我がもの顔で飛んでいく。
椎葉は紙袋をもってぶらりと歩きだし、自分のテントに向かう。珍しくトメさんとスダくんがセンセイのテントの前にいて、三人で七輪を囲んでいる。トメさんはダルマのように頭から布団をかぶり、スダくんは紺のスタジアムコートにくるまっている。
「スダくん、今日は仕事に出ないのか」
「風邪をひきました。熱があって躰がだるいんです。最近は目黒で、贅沢をしてるせいですかね」
スダくんが表情も変えずに坊主頭をなで、湯呑茶碗で焼酎を口に運ぶ。熱があって躰がだるくて、それでも焼酎は見事な早さで消えていく。湯呑茶碗はトメさんの前にもあり、傍のボトルも半分以下に減っている。
「椎葉くんなあ、今この二人にも話してたんだが、東京都はカラスを捕まえる木箱に、四千万円もの金をかけたらしいよ」
「金が余ってるんでしょう」
「それで捕まえたカラスは四百羽だよ。つまり一羽あたり十万円だ、そのへんに飛んでるカラスが一羽十万円だなんて、信じられるかね」
相変わらずデッキチェアに座ったまま、センセイが黒縁のメガネを顔の上に押しあげる。七輪には鍋がかかっていて、湯気が出て蓋がぱたぱたと動いている。湯気からは茸のような匂いがするが、まさか代々木公園で松茸が採れたわけでもないだろう。
トメさんが布団の下から目玉をぎょろつかせ、喘息《ぜんそく》を我慢するような息をする。
「椎葉よう、おめえ、ずいぶんめかし込んだなあ。どこかで銀行でも襲ったかよ」
「ファンだという女の差し入れでね。スダくんじゃないが、女にもてすぎる辛さがやっと分かった」
スダくんがにっと笑って鍋に顎をしゃくり、湯呑をもった手を椎葉にのばす。椎葉は腰をおろして湯呑を受けとり、半分ほど残っている焼酎を、ぐびりとあおる。
「昨日は目黒ですき焼き用の肉をもたせてくれました。それでみなさんにおすそ分けです」
「茸と野菜は私が調達してきたんだ。ちょっと初台の路地を歩けば、ほとんどの野菜は調達できるよ」
向こうでは何百人ものホームレスが焚き出しの列に並び、こっちでは三人のホームレスがすき焼きの鍋を囲んでいる。まだ社会復帰を目指して職安に通うホームレスもいれば、女子高校生を殺して警察に追われるホームレスもいる。
「それでなあ椎葉くん、カラスのことなんだが……」
センセイが立ちのぼる鍋の湯気に鼻をひくつかせ、薬湯が入った湯呑を口に運ぶ。椎葉は湯呑をスダくんに返し、トメさんの大型ペットボトルから自分の携帯用ボトルに焼酎を移す。
「カラスの捕獲箱に四千万もかけるなんて、愚の骨頂、税金の無駄遣いであるだけでなく、これはもう行政の犯罪だよ。そこで私は都庁に提案しようと思うんだ」
「はあ、そうですか」
「私の提案は単純にして明快、効果も百パーセント保証つきだよ」
「たいしたもんだ」
「つまりだね、東京にいる六千人のホームレスを、カラス捕獲の特別公務員に任命せよ、というものさ」
「なんと」
「これは名案だよ。東京のカラスは三万羽、ホームレスが六千人、一人のホームレスが五羽ずつカラスを捕まえれば、カラスなんか簡単に一掃できる」
「理屈としては正しい」
「ただ相手もカラスだからね、石を投げたって中《あた》るもんじゃない。そこでホームレスには空気銃を貸しあたえる。そうやってカラス一羽あたり千円の賞金をつけるんだ。カラスを一掃できて費用は三千万円、ホームレスの生活もうるおうから福祉にも貢献する。これぞまさしく、一石二鳥の名案ではないかね」
スダくんが鍋の蓋をとって箸を使い、発泡スチロールの丼に肉と野菜をとり分ける。スダくんも酒を過ごさなければ、こんなふうに如才なさと気配りを見せてくれる。
スダくんからすき焼きの丼を受けとり、椎葉は匂いを嗅いだだけで膝の横に置く。トメさんがくちゃくちゃと舌を動かし、センセイはメガネを曇らせて丼の汁をすする。背後の林では麻雀のパイがじゃらじゃら鳴り、どこへ行くのか、小林さんがせかせかと西門のほうへ歩いていく。
「ところで、センセイ……」小さく歩いていく小林さんのうしろ姿を眺めながら、椎葉は焼酎を口に含む。「例の女子高校生の事件で、新聞になにか書いてありますか」
センセイの箸がとまり、すき焼きの肉がゆっくりと飲み込まれる。
「ああ、あの女子高校生殺しかね。そういえば今日の朝刊には、なにも書かれてないなあ。冷凍庫殺人だの保険金殺人だのがつづいて、新聞も飽きたんだろう」
新聞が殺人事件に飽きるはずもないが、警察のリークが少ないのは事件が動いている証拠で、早ければ今夜にでもヤスオの身柄は拘束される。小林さんのテントには家宅捜索が入り、この村にもまたマスコミが押しかける。ヤスオの母親、そしてホームレスというだけで、マスコミは小柄な小林さんにも容赦なく襲いかかる。
スダくんが健啖《けんたん》家ぶりを示し、丼に肉と野菜を盛りあげる。
「椎葉さん、あの女子高校生、ニセモノだったって噂ですよ」
「ふーん、ニセモノ?」
「本当はプロの売春婦で、制服は商売用の衣装だったそうです。センセイも噂は聞いてるでしょう」
「そうかね、いや、知らんなあ」
「正門のほうのやつらが言ってました。歳も本当は二十五で、淋病と毛ジラミをもってたとか。それで一万円の料金を取ったそうですから、これは犯罪です」
トメさんが大欠伸をして腰をあげ、民謡踊りのように足をよろけさせる。
「椎葉よう、俺はひと寝入りすらい。酒と食い物はおめえが始末してくれや」
布団を被ったままよろりと歩きだし、トメさんが自分のテントに戻っていく。テレビの時代劇に見る牢名主のような恰好で、うしろ姿には貫禄がある。いざとなればこの貫禄で小林さんの一人ぐらい、どこかのテント村に避難させてくれるだろう。
スダくんがすき焼きを平らげ、丼に盛りなおして、湯呑茶碗にも焼酎をつぐ。
「だけどセンセイ、プロの女が女子高校生の制服で商売するなんて、詐欺だと思いませんか。売春婦にも倫理は必要なはずなのに」
「すべては売春防止法の弊害だなあ。あんな法律がなければ、本物の女子高校生だって五、六千円で買えるのに……しかしスダくん、その、あの女の子は、本当にニセモノだったのかね」
「そういう噂です。淋病と毛ジラミをうつされて、入院したやつもいるとか」
「淋病と毛ジラミぐらいで、入院を?」
「質が悪いんですよ。倫理観の欠如した売春婦の淋病は、遺伝子も悪性に変異するんです。淋病も毛ジラミもみんな悪性に変異して、けっきょく日本は滅亡するんです」
有意義な議論で、しかし建設的とはいえず、椎葉は焼酎を飲んでタバコに火をつける。幹江も歳を二十五に増やされ、淋病や毛ジラミをもたされては心外だろうが、ホームレスの噂なんてそんなもの。料金の一万円が安かったのか高かったのか、それは椎葉のアルバイト料との比較で結論が出る。
自分の食べ残しをトメさんの丼に移し、その丼と焼酎のボトルと紙袋をもって、椎葉は腰をあげる。
「久しぶりでいい肉を食わせてもらった、ご馳走さま」
二人には議論をつづけてもらうことにして、椎葉はトメさんのテントに歩く。トメさんはもう尻からテントにもぐり込み、横になって演歌のカセットテープをかけている。昨日椎葉が買ってきた稲荷寿司が半分以上も残り、みたらし団子のパックには蟻がたかっている。
椎葉は焼酎のボトルとすき焼きの丼をトメさんの枕元に置き、ラジカセの音量をさげる。
「なあオヤジさん、上野か新宿に、顔は利かないか。できれば横浜か川崎辺りがいいんだけど」
「そりゃおめえ、昔はいくつもキャバレーを持ってたから、どこだって俺の顔は利かあ。キャバレーったってキャバクラとかじゃなくて、ちゃんとオーケストラを入れたグランドキャバレーだぜ」
「ふーん、すごいな」
「おめえも堅気に働く気になったかや」
「しばらく隠れていられそうなテント村さ」
「そんなこたあ訳ねえが、なんだおめえ、ヤクザともめ事でも起こしたか」
「そんなんじゃないけどね。あとで世話になるかも知れないから、よろしく頼むよ」
「そういや、なんだか、ここんとこ毎日出掛けてるようだなあ」
「つまらないアルバイトだけど、面倒はなにもない。オヤジさんとリヤカーを引けるようになるまでの食いつなぎさ」
トメさんがもぞもぞと腹這いになり、すき焼きの丼と焼酎のボトルを遠ざけて、タバコに火をつける。
「それよりオヤジさん、本当はまだ、具合が悪いんじゃないのか」
「なんか、どうしたもんかよう、やけに背中が痛みやがって、天気が悪いせいかなあ」
「調子が戻るまで休めばいいさ。おれも少し稼ぎがあるから、しばらくは食いつなげる」
「へっ、おめえの世話なんか受けるか。俺がちょいと声をかけりゃあ、沖縄の県知事が飛行機で迎えにくらあ」
「まあな、心配はしてないけど、食いたいものがあったら言ってくれ。寒かったら毛布も調達してくる」
「バカ野郎、他人のことなんか構ってねえで、てめえの頭のハエを追いやがれ。いくらか稼ぎがあるからって、調子にのるんじゃねえよ」
「うん、悪かった。とにかく躰がよくなるまで休んでくれ。焼酎だけは切らさないようにしておくから」
トメさんが赤黒いダルマ顔を左右にふり、布団の下からラジカセに手をのばす。椎葉は音量を元に戻し、テントを這い出て自分のテントに向かう。トメさんは去年の冬も仕事を休みがちだったが、考えてみれば暑い沖縄生まれ、東京程度の冬でも寒さは苦手なのだろう。
自分のテントに戻り、ビニールの前垂れを払って、内から座布団がわりの段ボールをひき出す。それに腰掛けて紙袋の中身をあけ、ボロ上着のポケットをさぐる。出てきたのは缶切りがついた安物のアーミーナイフ、拾い物があったときに使うビニール袋と輪ゴム、夕子にわたされた携帯電話、なぜか捨てずにもっている運転免許証入りの財布。いまさらクルマなんか乗る気もないが、どこかで野垂れ死んだとき、名前ぐらい分からなくては警察が困るだろう。
雑物を新しい防寒ジャケットに移しおえたとき、スダくんがやって来て椎葉の前にしゃがむ。だいぶ顔が赤くなっているから、センセイとの議論が白熱でもしたか。
「ねえ椎葉さん、毎年東京で千二百人の独居老人が死ぬからって、俺になんの関係があるんですかねえ」
「おれたちもそのうち独居老人になるからだろう」
「それじゃスズメ蜂に刺されて、毎年四十人が死ぬってのは」
「さあなあ」
「家のなかで転がったり階段から落ちたり、そういうことで一万人も死ぬそうですよ。だからってそんなこと、俺には関係ないですよ」
スダくんが枯れ葉の上に胡坐《あぐら》をかき、スタジアムコートのジッパーを開いて、坊主頭を手でなでる。
椎葉はテントの内から買い置きの焼酎と湯呑茶碗をとり出し、二つの湯呑に焼酎をつぐ。その一つをスダくんがとりあげ、むっつりと背筋をのばす。椎葉も湯呑茶碗から焼酎をなめ、帽子をとって蓬髪《ほうはつ》をうしろになでつける。
「スダくん、さっきの噂のことだが……」
「毛ジラミでの入院の話は、冗談です」
「そうじゃなくて、ニセモノ女子高校生のことさ。かりにその女がプロだったとして、ホームレスを相手に商売をするものかな」
「そりゃあ、しますよ」
「誰が一万円も払う」
「この村には四百人もホームレスがいます。いつも乳母車に足の悪い犬をのっけてるオヤジなんか、一千万以上貯め込んでます」
「ふーん、革命の同志にほしいな」
「正門横の森口ってオヤジは、毎月二十万も年金をもらってます。博打の得意なやつもいるし、腎臓を半分売るやつもいる」
「偉いもんだ」
「だからね、相手がホームレスでも、商売をする女はいるわけですよ。金には名前が書いてありません」
スダくんがちっと舌打ちをして、焼酎を飲みほし、タコ坊主のように顔を赤くする。まだ絡み方が穏やかなのは風邪のせいか、酒が足りないせいか。
「しかし……」
「なんです?」
「いや……」
幹江があの日、あんな時間、何のためにこの付近をうろついていたのかという疑問に、警察は答えを出しているのだろうか。美亜の話から椎葉は援助交際と見当をつけ、幹江は近くのマンションにでも仕事に行く途中か、またはその帰りだろうと思っていたが、代々木公園自体が幹江の営業場所だったと考えるのは、少しばかり、突飛すぎるか。
「しかし、やっぱり、無理だな」
「だから何がです?」
「ニセモノがニセモノじゃなく、本物の女子高校生だとしたら、ホームレス相手でなくても商売になる」
「そりゃあ、本物ならね」
「いつかおれたちが二人で見た、足が太くて背が低くて、尻の形が崩れてて首が短い女子高校生でも三万円だ」
「スタイルのいいほうなら五万です」
「つまり女子高校生は、女子高校生というブランドだけで商売になる。夜中にホームレス村で店開きをする必要はない」
「分かりませんよ。女子高校生は女子高校生の数だけいるんだから。それにあそこで殺されたのはニセモノです。プロの女はなんでもやります。女子高校生も売春婦も、日本の女はもうみんな、倫理観が欠如してるんだ」
酔いがまわってきたのか、スダくんの目が据わり気味になり、口調が粘っこく辛辣《しんらつ》になる。酔って絡まなければ好青年なのだろうが、スダくんが本物の好青年なら、こんなところでホームレスはしていない。
「俺ね、椎葉さん……」椎葉の焼酎を勝手に湯呑へつぎ、スダくんが前かがみに顔を寄せる。「センセイのテントのなかを、ちらっと見たんですよ」
「たしかにヌードグラビアが貼ってあったな」
「ちがうちがう、そうじゃなくて、今日すき焼きの支度をしてるとき、ちらっと見えたわけ。そうしたらあれだけ貼ってあったグラビアが、きれいに剥がしてありました」
「部屋の模様替えか」
「椎葉さん、まさか人間性善説なんか、信じてるんですか」
「テント小屋でも部屋をきれいにするのはいいことだ」
「冗談じゃないですよ。センセイは教え子を三人も強姦して、刑務所に入ってた人ですよ。あんなグラビアを貼っておいたら警察に目をつけられる」
「ああ、そうか」
「あれは証拠隠しです。センセイは今度の売春婦殺しに、きっと関係しています。俺がニセモノのことを話したとき、とぼけようとしたのが証拠です。俺は最初から、センセイを怪しいと思ってたんだ」
スダくんの目に白目の部分が多くなって、肩が前後にゆれ、赤かった顔がいつの間にか青くなっている。これから延々と絡んでくるのだろうが、焼酎はたっぷりあることだし、スダくんのゴタクぐらい、昼寝をしながらでも聞いてやれる。
「そうか、スダくんはセンセイ犯人説だったのか」
「犯人とは言ってません。ただ怪しいって、そう言ってるだけです」
「怪しいだけならヤスオのほうが怪しいさ」
「ありゃあ、ダメです」
「どうして」
「あいつは金がないもの。売春婦は貧乏人を相手にしません」
「相手にしてくれないから、カッとなって襲ったともいえる。それにくらべてセンセイには金がある。襲わなくても金で話がつくだろう」
「椎葉さんねえ、金をもってるやつがどれぐらいケチか、知らないんですか。それに強姦の快感は金じゃ買えませんよ。強姦したり絞め殺したりって、金の問題じゃなく、もうそのこと自体に意味があるんです」
「スダくん、詳しいな」
「え?」
「強姦のメカニズムにさ」
「ああ、そりゃあ、テレビでやりますから」
「だけど被害者が強姦されていたことは、誰に聞いた?」
「はあ?」
「新聞で読んだか、ラジオのニュースででも聞いたか」
「ええと、ああ、誰だったか……やっぱ噂で、誰かが言ってたんじゃないですかね」
幹江事件のようなケースでは、被害者の人権と捜査上の必要から、暴行や強姦などの事実をマスコミに公表する例はない。知っているのは警察と一部の関係者のみ、そしてその関係者には、犯人も含まれる。
「椎葉さん、俺ねえ、今日はやっぱ、熱があるみたいです」
「寒くなってきたから、無理をしないで寝たほうがいい」
「そうしますよ。最近やっぱ、目黒での仕事が忙しすぎました。それに俺、仕事で薄着をしてるけど、本当は寒いのが苦手なんです」
湯呑茶碗を段ボールの端に置いて、スダくんがよろけもせずに腰をあげる。寒さが苦手なら酷寒のチベットで革命を起こすのは無理な気もするが、考えるだけなら、本人の勝手だろう。
スダくんが坊主頭を掻きながら自分のテントへ歩いていき、椎葉はそのうしろ姿を眺めながら、吸止のタバコに火をつける。スダくんも本当ならもっとクダを巻くだろうに、途中で切りあげたのはやはり、風邪のせいか。
椎葉は防寒ジャケットのポケットから輪ゴムをとり出し、乱れた髪をなでつけて、首のうしろで一つに束ねる。辻斬りに出掛ける素浪人のように見えるかも知れないが、人を殺さなくてもいいぶん、まだ江戸時代の貧乏浪人者よりは恵まれている。
センセイの犯罪歴が本当かどうか、調べさせる必要があるなと、タバコをつぶしながら、椎葉はポケットのケイタイに手をのばす。
右頬にできたニキビを無意識にいじくりながら、夕子はパソコンの画面にため息をつく。これまでに事情聴取をした事件関係者は約千二百人、いづみの同級生や中学校の教諭、吉成と仕事上で付合いのある人間から近所の主婦、吉成と雅代のそれぞれの家族、そういう被害者個々とつながる人間だけでも二百人を超えている。面接記録は担当した刑事から報告書が出され、捜査の参考になると思われる証言はメモとして残される。夕子はその報告書をパソコンにとり込み、吉成、雅代、いづみ、美亜と、坂下家の個人ごとに関係者を分類してきた。実家の人間や親戚などは四人の人間に共通し、大間幹江や加世田優也などは美亜個人の交遊関係に入る。
さっきから検索していたのは坂下雅代の項で、PTA関係者から地域情報誌の編集仲間まで三十七人、しかし不思議なのは、三十七人のなかに幼なじみや学生時代の友人が一人もいないことなのだ。地方出身者なら上京や進学を機に、古い友人関係が疎遠になることもある。しかし雅代は阿佐ヶ谷生まれの阿佐ヶ谷育ち、結婚と同時に羽田のマンションに移り、そこで新婚生活から死亡までの時間を過ごしている。結婚前からの友人も何人かいるのが普通だろうに、雅代の項を見るかぎり、一人もリストアップされていないのだ。
夕子はニキビをいじくっていた指をタバコの箱にのばし、一本を抜き出して、無自覚に火をつける。煙が肺にしみてから指のタバコに気づいたが、もう手遅れ、今日は朝から七本も吸っていて、一日十本の目標はまた明日からの課題になる。
見渡したが刑事部屋に中村の姿はなく、夕子は斜向《はすむ》かいの席にいた中年の刑事に声をかける。
「北野さん、坂下雅代の関係者に聞き込みをしたのは、本庁の人たちでしたっけ」
北野刑事がメガネをはずして日報書類の上に置き、節くれだった手でごしっと顔をこする。歳は四十二、三ですでに頭頂部がうすく、目にも老眼が始まっているらしい。多摩川署の刑事課ではベテランの捜査員だが、階級は夕子と同じ巡査部長、現在は現場付近の再調査を担当していて、夕子と刑事部屋で顔を合わせることは、ほとんどない。
寿司屋から調達してきたような大湯呑で茶をすすり、北野がまたごしっと顔をこする。
「その方面の聞き込みは私も手伝ったが、それがなにか?」
「いえ、雅代の関係者に古い付合いの人間がいないことが、気になりまして」
「ほーう、そうだったかなあ。被害者の日常を知っていそうな人間には、すべて聞き込みをしたはずだが」
「幼なじみや学生時代からの友人が、一人もいないようです」
「そりゃ吹石さん、家庭の主婦なんてものは、おおむね交遊範囲のせまいものだよ」
「はあ、そうですか」
「亭主のほうだって学生時代からの友人なんか、ほとんどいなかったんじゃないかな」
「過去の嫌いな夫婦だったんですかね」
「結婚して子供が生まれて時間がたてば、みんな現在の生活だけに追われていく。ま、独身の吹石さんには、まだ分からんだろうがなあ」
北野が落ちくぼんだ目で湯呑のなかをのぞき、夕子は最後の煙を長く吹いて、タバコを灰皿につぶす。もし夕子が二十歳で子供を生んでいれば、その子供は八歳、小学校の二年か三年で、たしかにPTAやら地域活動やら、子育てにともなう雑用を背負い込む。だからって夕子が学生時代の友達と音信不通になるのか、考えても分からない。いつまでも古い友人関係をひきずるか、それとも交遊範囲を現在の生活にだけ限定するか、どちらでもその人間の勝手で、どちらでも他人から非難されることではないのだろう。
「しかしねえ吹石さん、正直にいってこの事件、見通しは暗い気がするなあ。捜査本部を解散するわけにもいかんだろうが、私としては早く通常の仕事に戻りたいよ」
「最初から視点がずれていたんです。どういうふうにずれていたのか、分かりませんけど」
こういう捜査方針に対する非難は、席に中村警部がいないから可能な愚痴で、それぐらい夕子も北野も心得ている。
「当初はあれだけの遺留品があって、手口もド素人のもの、解決は時間の問題と思ったんだがねえ。現場付近の地取りをやり直してみると、どうも首をひねりたくなる」
「新しい聞き込みでも?」
「いやいや、事件の目撃者も不審者の目撃者も、相変わらず出てきてはいないよ。なにせ犯行時間の午前三時というのが、犯人にとって都合がよすぎる。あのマンションに朝刊が配達されるのは四時半、残業や酒を飲んで遅くなった人間でも、二時には帰ってくる。犯人はまるでそのことを知っていたように思えるんだ」
「朝刊の配達はあのマンションでなくても同じぐらいの時間です」
「まあ、それはそうなんだが」
「わたしがお酒を飲んで遅くなっても、やはり二時には帰ります」
「だからさ、犯人はどうも、そういうことをすべて計算していたんじゃないかねえ。一見支離滅裂で衝動的な犯行に見えても、実は用意周到だったと、そんな気がするなあ」
「それなら逆に犯人像を絞り込めませんか」
「本来ならそうなるべきさ。ところが被害者家族周辺にトラブルの種は一切ない。新興宗教に嵌《は》まってもいないし、浮気の兆候もない。まさかどっちかが北朝鮮のスパイとかで、裏で公安が関係してるとか、そんなこともなかろうしなあ」
北野が疲れたような顔で腰をあげ、湯呑をもって隅の給茶器に歩く。ベテランの北野も愚痴をこぼすぐらいだから、まさに捜査は手詰まり、こうなったら夕子にしても椎葉の勘に頼るしか仕方ない。しかしそれはそれとして『新潟で起きた中学教諭による女子生徒強姦事件』を調べろとは、なんの冗談か。
夕子はパソコンのスイッチを切り、タバコとライターをバッグにまとめて、ざっとデスクを整理する。恵山大学の法医学教室に依頼した美亜のタバコについては、二日後に結論が出る。それまでには誰か、雅代と吉成の家族以外に二人の結婚事情を知っている人間を探す必要がある。
さて、デカ溜まりにとぐろを巻いてくどくど、いくら愚痴を言っていても仕方ない。新潟県警にも連絡はしたし、念力ではDNAの鑑定書も出てこない。今日はこれから渋谷北署に出向き、それから早めに仕事をきりあげて、久しぶりに二千八百円の漢方薬エステにでも行ってみるか。
ゆっくり腰をあげ、「うん」と自分にうなずいてみせ、夕子は大きくショルダーバッグを振りまわす。
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昨日と似たような曇り空の下、椎葉は六本木通りの歩道にママチャリを走らせる。昨日は銭湯へ行って髭を剃って下着をかえて、今日は今日で首のタオルを新品にとりかえた。レインコートの下も新品の防寒ジャケットで、電車に乗って一般乗客から唾を吐かれることもないだろうが、それでも正しい社会生活を送っている人間たちと、必要以上の接触はもちたくない。
六本木通りから外苑東通りを右に曲がり、東京タワーを眺めながら西新橋に向かう。天気は悪くても気分はほろ酔い、適度な運動で躰は温まり、生きてることも満更ではないなと、ふと思ったりする。
桜田通りに近い西新橋に『光企画』の入っている新栄ビルを見つけ、自転車をおりる。付近は表通りも裏通りもオフィスビルだらけ、通行人も地味な背広姿が多く、たまに出前のバイクが行き過ぎる。路地には定食屋や喫茶店の看板がのぞき、その古いビルの一階にも豚カツ屋が入っている。椎葉の素性を夕子は「個人的に尊敬している犯罪研究家」と説明してあるらしいが、そんなインチキ臭い身分を、神谷重之という男は、本当に信じたのだろうか。
エレベータを待って四階へあがり、『光企画』とプレートの出ているドアを開ける。二十畳ほどのフロアには机や衝立《ついたて》が迷路のように並び、ポスターや雑誌の広告やCDジャケットらしいビラが壁にも衝立にも、まるでインテリアのように貼ってある。ドアの一番近いところにカーディガンを着た若い女がいて、じろりと椎葉の風体を値踏みする。
「椎葉といいます。神谷さんと、一時にお目にかかることになっている」
時間はすでに一時半近く、しかし女は壁の時計には目をやらず、訳知り顔でフロアを奥へ歩いていく。その方向には遮光ガラスをはめたドアがあって、神谷の執務室か、応接室のような場所だろう。
すぐに戻ってきた女が、身振りと表情で椎葉を奥のドアにうながす。椎葉は机と衝立の迷路を抜け、半分開いているドアから狭い部屋に入って、うしろ手にドアを閉める。内側はベージュ色の壁紙に簡単な応接セット、グレーのスチールデスクにスチールのキャビネットがあり、換気でも悪いのか、裏通りに面した窓が二十センチほど開けてある。
デスクからまわってきた神谷は四十のなかば、油っけのない髪を横分けにし、小太りの体躯をグレーのビジネススーツに包んでいる。CM制作会社の共同経営者、というから口髭でもはやしたにやけオヤジと予想していたが、神谷の風貌は一見、農林水産省あたりの下級役人を思わせる。
椎葉の風体を見ても表情を変えず、名刺をわたしながら、神谷が応接セットの椅子をすすめる。椎葉は帽子をとっただけで椅子に腰をおろし、途中で買ってきた新しいタバコの封を切る。勝手に「尊敬すべき犯罪研究家」なんかにされて、迷惑な話ではあるが、堅気の人間に対してはそれなりの礼儀が必要になる。夕子には面会中の焼酎も厳禁と、電話でくどいほど釘を刺されている。
「名刺を持ち歩く習慣がなくて、失礼します」神谷の名刺をレインコートのポケットにしまい、パッケージからタバコを抜き出して、さっそく火をつける。「吹石刑事とは古い付合いでしてね、彼女の困っている様子をみて、口を出す気になりました」
どこまで神谷が椎葉の身分を信じているのか、髪を束ねて髭を剃ったぐらいで、身についたホームレス村の臭気が、消えるものなのか。
「刑事さんのお話では、椎葉さんも以前は警察にお勤めだったとか」
「昔のことです。今は個人的に犯罪の構造を研究し、その方面の本を書いています」
カーキ色の防寒ジャケットで「世間を拗ねた売れないルポライター」に見えるらしいから、こういう場面はとりあえず、それで押し通すしか仕方ない。
さっきの女がコーヒーを二つ運んできて、それを置いて部屋を出ていく。
「それにしても、現職の刑事さんが民間の研究家に相談するということは、この事件、難しいんでしょうなあ」
神谷が額に太い皺をきざみながら、背中を丸めてタバコに火をつける。短い指はきれいに爪が切られ、その左手の薬指にはプラチナの結婚指輪が光っている。
「いえね、もう一カ月ほど前になるかな、私も事件の捜査はどうなってるのかと、警察に電話したんですよ。もちろん何も答えちゃくれなかったが、感じとして、難しい様子だった」
「地道に捜査はしてるんでしょうが、犯罪の多様性に捜査の手法が追いつかない。それが警察の現状です。昔のように、拷問や磔《はりつけ》獄門を復活させれば、話は簡単なんですがね」
冗談だと思ったのか、神谷が口を開けずに笑い、煙を短くテーブルに吐く。
「で、あの刑事さんが仰有るには、視点を変えてみる意味からも、椎葉さんに協力してくれと」
「彼女はわたしを買い被りすぎている。しかし捜査が膠着《こうちやく》してることも事実ですし、あらためて話をお聞かせください」
「協力は惜しみませんよ。私としても、なんとか早く事件を解決してもらいたい。正直に言って、あの事件が、仕事にもずいぶん影響してるんです」
神谷がタバコをはさんだ指でカップをとりあげ、額の皺を深くして、コーヒーをすする。小太りの顔は平凡で、表情も口調も平凡、しかしどんな平凡な人間も、状況によっては殺人者に変身する。
椎葉は焼酎を我慢するために、つづけてタバコを吸い、コーヒーにも口をつける。
「率直にうかがいますが、今、会社のほうは?」
「そりゃ坂下君が企画と現場を仕切ってたわけで、頓挫《とんざ》した仕事も多かった。若手が頑張ってくれて回復しちゃいますが、今年度の決算は赤字でしょうな」
「経営の権利はどうなりました」
「そのこともねえ、奥さんの実家と相談したいんだが、事件の片《かた》がつくまでは憚《はばか》られるわけですよ。今は生き残ったお嬢さんに坂下君の給料を払ってます。もちろんそれは、後見人の伯父さん宛に、ですが」
「神谷さんとしては、坂下氏ぶんの持ち株を買い取りたい?」
「当然でしょう。この会社は私と坂下君の二人で立ち上げた。その坂下君がいなくなって、あの女の子はまだ高校生、奥さんの実家からも経営に参加する人間は出てきません。会社を安定させるためにも、坂下君ぶんの三割を私が買い取り、残りを銀行や取引先に分担してもらうつもりです」
「つまり、現状に多少の混乱はあっても、長期的な見通しは順調だと」
「この業界では実績がありますしね、若手に有能なスタッフも揃ってる。私は営業専門ですが、将来的な受注動向にも自信はありますよ」
「会社が順調だったことは吹石刑事から聞いています。それを承知で念を押しますが、坂下氏に仕事関係のトラブルは、一切なかったと?」
「断言できますね。そりゃ彼には職人|気質《かたぎ》な面があって、クライアントと妥協をしなかった。でもそんなことは相手側も承知で、結果的にはいい仕事になるから、関係者はみんな納得していましたよ」
タバコを灰皿でつぶし、椅子に背中をあずけながら、神谷が油っけのない髪を指でかきあげる。会社の経理内容も坂下吉成の仕事ぶりも、みんな警察が調査済み、神谷の説明にも嘘はないだろう。しかし夕子にわたされた資料には、神谷と坂下が『光企画』を立ち上げた当時の状況について、なんの報告もされていない。
椎葉はレインコートのポケットで焼酎のボトルをもてあそび、酔いが切れそうな予感に、口のなかで欠伸をかみ殺す。
「神谷さん、お二人がこの会社を創業されて、何年になります?」
「ああ、ええと、十四年ほどになりますかな」
「創業の経緯をお聞きしたいが」
「そりゃあ、構いませんが……」
「一応の参考です。いわゆる、視点を変えてみる、ということでね」
「事件になんの関係があるのか、それはあなたが判断すればいい。創業の経緯といったところで、なにも特別なことはないんです」
神谷が受け皿の上でコーヒーのカップをまわし、椅子のなかで尻の位置をずらす。開いた窓から風が入ってきて、デスクの書類がひらりと床に落ちる。神谷がそれを拾ってデスクに戻し、文鎮がわりのメガネケースを書類の上に置く。神谷がそれら一連の動作を終わらせるあいだに、椎葉の咽にはコップ一杯ほどの焼酎が流れている。
元の椅子に座りなおし、神谷が慎重な動作で足を組む。
「私が食品メーカーの営業部にいて、坂下君が広告会社の企画部に勤めていた。最初に仕事をしたのはハーブキャンディーのテレビコマーシャルをつくったときです。私も営業の立場から企画に参加し、坂下君は総合ディレクターという立場だった。もう十五、六年も前のことですよ」
「別の会社に勤めていたお二人が、共同で会社を起こしたきっかけは?」
「そりゃあ、まだバブルが真っ最中のころで、新しい会社をつくれば、仕事はいくらでもあったから」
「それにしても、きっかけはあったでしょう」
「坂下君から誘われたんですよ」
「ほーう」
「彼の企画力は業界でも認められてましたが、営業というのはまた別でしてね。売り込みやクライアントの接待や人脈づくりや、そういう方面で私を見込んだんでしょうな」
「見込まれて、すぐOKを?」
「バブルのあの時代はそんなもんでした。それに私も、自分の会社をつくって思う存分に仕事をしたかった。出費比率は坂下君が六で私が四、しかし三つほど私が歳上ということもあって、社長には私が就任しました」
「失礼ですが、創業の資金は?」
「資本金は法定の一千万でしたがね、当面の運転資金として三千万ほど用意しました。私は錦糸町の自宅を銀行の抵当に入れましたよ」
「坂下氏のほうは?」
「奥さんの実家から融資されたとか」
「岸本家から」
「なにしろあれだけの資産家だ、娘婿のために一千万や二千万の金、いくらでも用意するんじゃないですか」
「まあ、そういうことも、あるでしょうかね」
当初用意した三千万の六割なら、吉成の出資分は千八百万。岸本の家ならそれぐらいの金はあるかも知れないが、吉成と雅代はその二年前に結婚して羽田のマンションを購入している。あのマンションはローンを組んでの買い取りなのか、それとも一時払いの買い取りなのか。かりに一時払いとして、その資金も雅代の実家から出たとしたら、雅代の父親は娘婿に相当額の出資をしたことになる。
「神谷さん、事件のあった、あのマンションのことですが……」
「それがですねえ、事件が起こってから初めて気づいたのですが、私、坂下君の家には一度も行ってないんですよ。彼のほうは何度か錦糸町の家へ寄ってるのに、考えたら、不思議なことがあるもんです」
「わたしも考えたら、別れた女房の実家に一度も顔を出していなかった」
「なにかの巡り合わせで、ついそういうことになったんでしょうな」
「羽田のマンションにローンが組まれていたかどうか、ご存じですか」
「さあ、しかし、ローンはなかったと思いますよ。坂下君にそういう支払いがあれば私の耳にも入ると思います」
「坂下家の経済状態なんかは?」
「彼の給料は大企業の部長クラスだったと、私に言えるのはその程度ですかね」
「なるほど」
「彼は仕事以外に趣味のない人間だった。たまに競馬をやってましたが、それだって社員が買う馬券に相乗りする程度、女性のいる店に飲みに行くことがあっても、みんな仕事上の付合いで、彼はいわゆる、仕事人間というやつでしたよ」
組んでいた足を上下に組みかえ、ネクタイの結び目をゆるめて、神谷が片頬をゆがめる。警察の事情聴取に、羽田の事件に関して「一切心当たりはない」と答えた信念に変わりはないらしく、表情にも平凡な苦渋が浮かんでいる。神谷の話を聞くかぎり、坂下家の三人が惨殺劇の被害者になる状況は、椎葉にも思い当たらない。それと同様に坂下家と岸本家の関係も、やはり頭には浮かばない。
椎葉はタバコとコーヒーで細胞の苛立ちをおさえ、意識を自分の疑問に集中する。
「神谷さんは、坂下氏の奥さんとは?」
「もちろん何度も会ってますよ。私の家内と四人で食事をしたこともあるし、正月なんか、二人で私の家に来たこともある」
「坂下氏ご夫婦の仲は、神谷さんから見て、どんな感じでした」
「普通というか、まあ、良かったんじゃないですかね。なにしろ奥さんはとびきりの美人だったし、結婚も大恋愛の末、と聞きました。私の家内があの奥さんほどの美人だったら、少なくとも私は、喧嘩なんかしませんな」
事件現場の写真とは別に、椎葉は夕子から雅代のスナップもわたされている。その写真を見るかぎり、整った顔立ちの小柄な女、という印象で、神谷が言うほどの美人とは思えない。それに椎葉の元妻は口笛を吹きたくなるほどの美人だったが、歯磨きチューブの搾り方や洗濯物の畳み方で、よくつまらない喧嘩をしたものだ。
「坂下氏の奥さんとは、会社を始める前からのお知り合いでしたか」
「いやいや、坂下君が結婚しているかどうか、それすらも知りませんでしたよ。なにしろそれまでは仕事だけの付合いでしたから」
「お嬢さんのことはどうです? とくに上の子は、あまり素行もよくないらしい。坂下氏が愚痴をこぼしたようなことは」
「聞かなかったですなあ。いやね、事件のあと警察やら週刊誌の記者やらの話から、ちょっとそんなことは感じました。でも事件前に坂下君が愚痴をこぼしたり、家庭にトラブルがあるような様子を見せたり、そんなことは一切なかった。もっとも下の子に関しては運動会がどうとか、父母会がどうとか、たまには話したことがありますが」
「上の美亜という子に関しては、会社で話したことがない?」
「どうもねえ、聞いたことはありませんな。仕事人間というのはとかく、家庭に仕事を持ち込まないし、家庭のことも職場には持ち込まない。私にしたところで家内がボランティアに凝ってるとか、倅が二年も大学を浪人したとか、会社で話したことはありませんしねえ」
神谷が組んでいた足を床に戻して、コーヒーを飲みほし、短い眉をゆがめて眉間に皺をつくる。
「ところで椎葉さん、納骨の件に関して、そちらで聞いていませんかね」
「納骨?」
「はあ、坂下君のご両親から相談されて、私も奥さんの実家に問い合わせたんですが、その後どうなったのか、連絡がないんですよ」
拡散しかけていた神経を「納骨」という言葉に戻し、椎葉はタバコに火をつけて、煙を長く天井に吹く。
「納骨のことは聞いていませんが、具体的には、どういうことでしょう」
「いや、それが……」
短い神谷の指が苛立ったように動き、眉間の皺が二、三度、寄ったり開いたりする。
「いやね、坂下君たちの葬儀は大田区の斎場でおこなわれまして、喪主は奥さんの父上が務められた。坂下君の家族は遠方でもあることだし、葬儀を岸本の家で仕切ったのは仕方ありません。ですが、四十九日をすぎたころ、坂下君の父上から電話がありまして……」
ちらっと椎葉の顔を見てから、神谷もタバコに火をつけ、腕を組んで椅子の背にもたれかかる。
「坂下君は、もちろん自分の墓など用意していなかった。だから三人の遺骨は岐阜にある坂下家の墓地に納めるのが、普通だと思いませんか」
「まあ、そうでしょうね」
「ところが岸本の家では、奥さんと娘さんの遺骨を坂下家にわたさないという」
「ほーう」
「坂下君だけ岐阜の墓へ、奥さんと娘さんは阿佐ヶ谷にある岸本家の墓へと、奥さんの父上はそういう意向だとか。しかしいくらなんでも、それでは非常識すぎる。立場上私が仲介の労をとりまして、もう一度両家で話し合うように、というところまで行ったのですが、その後どちらからも連絡がないんですよ。こういう問題は悪くすれば泥沼、私もいらぬお節介は焼くまいと、こちらからの連絡は控えていたんですが」
「岐阜の墓では遠すぎる、か。岸本側の気持ちも、分からなくはないが」
「それはそうですが、正式に結婚をした仲のいい夫婦ですよ。子供だって正式の子供で、死んだのだって……三人を同じ場所に葬るのが礼儀じゃないですか。残された人間の心情からいっても、それが常識ですよ」
神谷の平凡な顔に、平凡な怒りがみなぎり、少し呼吸が荒くなる。「四十九日をすぎたころ」というから、もう四カ月以上前。納骨の問題に決着がついているのかいないのか、事件に何らかの関係がある問題なのか、ここで考えていても分からない。それに神谷が坂下夫婦の結婚事情を知らないなら、これ以上の長居も必要はない。
椎葉はタバコとライターをレインコートのポケットに戻し、残りのコーヒーに口をつける。
「納骨の顛末、なにか分かったらご連絡しましょう」
「そう願えますかな。他家のことではありますが、私も気になりますので」
神谷にうなずいてみせ、腰をあげて、椎葉は軽く頭をさげる。
「お忙しいところをお邪魔しました。それからわたしがこちらへ伺ったこと、吹石刑事の名誉にも関わりますので、できればご内聞に」
神谷も腰をあげ、デスクの横へまわって、世馴れた営業マン風に深く腰を折る。この神谷との面会が中村警部に知られても、それは椎葉個人が勝手にやったこと、夕子はいっさい関係ないと不知《しら》を切りとおせば、状況はいくらでも乗り切れる。そんなことは分かっているが、夕子の経歴に疵《きず》をつけずに済めば、それに越したことはない。
遮光ガラスのドアを外へ出ながら、灰皿にたまった吸殻に強い未練を感じた自分に、椎葉はひっそりと苦笑する。
降るなら降ればいいものを、空は依怙地《いこじ》に雨を吐き出さない。イチョウの枯れ葉も陰気に身をちぢめ、クルマの排気ガスは低く街路にわだかまる。椎葉は六本木や青山の街角でたまに自転車をとめ、血管に焼酎を補給して体温を確保する。都内を移動するぐらいのことにベンツを駆る人間もいれば、焼酎をエネルギーにママチャリをこぐ人間もいる。
『光企画』からの帰りはコースを変更し、青山通りから表参道を抜けて代々木公園に戻る。寒空の下でも母親は子供を遊ばせ、学生たちは暇そうに散歩する。ホームレス村は正門横も公園南通り沿いも息をひそめ、徘徊する住人も見かけない。天気によって羽根をのばしたり蟄居《ちつきよ》したり、ホームレスの生活は自然のサイクルに順応する。
噴水前を迂回してサイクリングコース、それから林を踏み分けて公衆トイレの裏側に出る。自転車をテント村に押し、そしてその異様な光景に足をとめる。トメさんのテント前にセンセイがしゃがんでいることさえ珍しいのに、七輪を囲んだスダくんとトメさんのあいだに、金髪の女の子が膝を抱えているのだ。キルティングのタイトなジャケットにうしろ縛りのマフラー、デイパックを腰の横に置いて顔を仰向け、萎縮する様子もなく白い歯を見せている。度胸がいいのかバカなのか、それとも人生の辛さに耐えかねて、とうとう狂ったか。
四人の視線に迎えられ、自転車をとめて団欒《だんらん》の仲間に加わる。場所は美亜とスダくんのあいだ、美亜の尻には座布団がわりの段ボールが敷かれ、七輪では魚の干物が焙《あぶ》られている。トメさんは相変わらず頭から布団をかぶって、焼酎を手に布袋《ほてい》さま顔。センセイは気難しい顔でメガネを光らせているが、どうやら機嫌はいいらしい。プラスチックの大カゴにはカワハギやキンメダイの干物が並び、宴会はヘンに盛りあがっている。
「よう椎葉、どうも最近めかしてると思ったら、若え彼女ができてたんかあ」
「女には興味ないとか言って、椎葉さんも手が早いですねえ」
「ああ、ええと、なんの話だ」
「隠さなくていいですよ。もう美亜ちゃんに聞いてるんだから」
「ふーん、美亜ちゃんに、な」
「だけど椎葉さん、俺に言わせればこれは犯罪です。美亜ちゃんはこんなに可愛くて、それにまだ高校生なんですから」
いったい美亜が何をしに来たのか、ホームレス連中にどんな解説をしたのか、分かるようで分からない。美亜の手には酎ハイの缶が握られ、飲まないはずのセンセイまで同じ酎ハイの缶を握っている。干物のカゴは半分ほど片づいているから、宴会も今が佳境らしい。石膏像のように白い美亜の顔にもピンク色の酔いが浮いている。
スダくんから渡された湯呑を受けとり、焼酎を口に含んで、椎葉は美亜の膝を指で突く。
「この干物を?」
「うん」
「豪勢だな」
「親戚のどこかから送ってきたの」
「ふーん、いい親戚だ」
「ホームレスなんか誰にでもなれるって、あんたが言ったじゃない」
「だから?」
「見学に来たんだよ」
「手土産をもって、か」
「人付合いには礼儀が肝心だもの」
「見かけより大人じゃないか」
「それぐらいの気配り、常識だよ」
「なるほどな。今は不良やホームレスより、一般人のほうがずっと非常識だ。たぶんみんな政治が悪いんだろう」
スダくんが椎葉の湯呑に焼酎をつぎ、したり顔で一座を見まわす。
「俺たち、美亜ちゃんなら大歓迎だって、今みんなでホームレスの心得を教えていたんです」
ふーん、ホームレスへ落ちぶれるのに、『心得』なんてものが必要だったのか。
「だけど考えたら椎葉さんと暮らすわけだし、心得なんかあとで覚えられます。それより問題はテントです。テントだけはやっぱり、大きめの新婚用が必要です」
三十をすぎたホームレスと、ちゃんと家のある女子高校生がテントで新婚生活を始めるなどと、どういう思考経路で信じられるのか。あり得ないことはあり得ないという常識を、この連中は人生のどこに置いてきたのだろう。
「しかしなあ、椎葉くん……」センセイがちびりと酎ハイの缶をなめ、粘っこい目付きで椎葉と美亜の顔を見くらべる。「彼女のことをトメさんにも内緒にしてたとは、君も水臭い男だなあ」
「なんとなく、恥ずかしくてね」
「そうかも知れんが、トメさんは君の親代わりだろう。私らだって寝耳に水の話では、気持ちの準備ができんよ」
「はあ、申し訳ない」
「で、なんだなあ、つまり、いったい二人は、どこで知り合ったんだね」
「道ですれ違ってお互いに運命を感じました」
「ほーう、この世にはそんな運命があるものなのかね。一方では合意して金を払って、それでも淫行条例違反とやらで逮捕される人間もいる。椎葉くんの幸せに水をさすわけじゃないが、人生というのは、幸運ばかりつづくものじゃないよ。理不尽さこそが人生の本質というから、椎葉くんも用心することだなあ」
慇懃《いんぎん》な口調で話しながら、センセイの目はメガネの奥から執拗に美亜の顔をなめまわし、口の端には唾まで光らせる。女に点数の辛いスダくんも「美亜ちゃんなら大歓迎」というし、美亜にはなにか、ホームレスに好かれる波長があるらしい。
椎葉はレインコートのポケットから馴染みの吸止をとり出し、疲れた気分で火をつける。
「それで、この酎ハイは、センセイが?」
「そりゃ当然だよ。これだけの手土産に返礼をせんようでは、大人の常識が疑われるだろう」
「ふーん、大人の常識、ね」
トメさんが肩をゆすって咳をし、分厚く汚れた手で、ごしごしと顔をこする。
「だけど椎葉よ、おめえも所帯をもとうってんなら、ついでに足を洗っちゃどうだい。子供でもできて親がホームレスじゃ、肩身が狭かろうぜ」
「彼女は若いし、将来のことは時間をかけて相談するさ」
飽きないといえば飽きないが、本気で相手をしていると、ヘンに酔いがまわってくる。それにみんなの会話は聞こえているはずなのに、呑気な顔で酎ハイの缶を傾けている美亜の頭のなかは、どうなっているのだ。
「椎葉さん」
「だいじょうぶだ。結婚が正式に決まったら、スダくんには報告する」
「いえ、そうじゃなくて……」
スダくんがスタジアムコートの襟から首をのばし、腰を浮かせて西門の方向に顎をしゃくる。門とテント村のあいだには遊歩道の枝道があり、枝道とテント村の中間には、ぽつんと小林さんのテントが張られている。
枝道に三台の乗用車が入ってきて、道を塞ぐように停車する。清掃車と管理事務所のクルマを別にして、一般車両の公園内乗り入れは禁止されている。その一般車両が三台も入ってくれば、スダくんでなくても状況を不審に思う。
とまったクルマから十人ほどの男がおりたち、整然と小林さんのテントに歩きはじめる。男たちのうしろからは一人、制服を着た公園管理事務所の職員がついていく。林に点在するテント村がざわめいて、すでにスダくんとセンセイも腰をあげている。
「ほーう、あれは警察だなあ。警察があんなたくさん……なんとなんと、あれは小林さんのテントだよ」
センセイに実況中継されるまでもなく、男たちが警官であることは椎葉にも分かっている。男たちのなかには幹江が殺された直後、公園へ聞き込みに来た刑事の顔も混じっている。
林のなかにざわざわと人影が動き、小林さんのテントを遠巻きに囲みはじめる。小林さんはテントの前に小さくうずくまり、男たちになにか言われても、膝を抱えてただぼんやりと空を見あげている。ホームレスのテントを『家宅』というなら、ヤスオの件で小林さんのテントに、警察が家宅捜索をかけたことになる。
スダくんとセンセイがテント前を離れていき、椎葉はトメさんと美亜を残して公衆トイレのほうへ歩く。テント村の住人から姿が見えなくなる場所まで歩き、葉の落ちたケヤキを背に、ポケットからケイタイをとり出す。ダイアルメモリーでコールすると、すぐに夕子が出る。
「椎葉だ、今、話せるか」
「結婚の申し込みはお断りです」
「ヤスオのテントに家宅捜索が入った。あいつが捕まったのか」
「いえ、まだです。小林容疑者は茨城の飯場から逃亡したそうです」
「ヤスオは容疑者じゃなくて、重要参考人だろう。参考人の家にガサ入れはできないはずだ」
「飯場から逃げるとき備品のタオルを持ち出したとかで、逮捕状は『窃盗容疑』です」
「なーんだ、別件か」
「でも警察の動きを察知して逃亡したわけですから、小林の犯行は決まりですよ」
「うん、まあ」
「所持金はほとんど無かったようで、逮捕は時間の問題でしょうね」
「おとなしく捕まったほうが、本人のためなのに」
頭に音のでないヘッドホンをのせ、馬面の口をもぐもぐやりながら、ヤスオはどこを逃げまわっているのか。逃げきるだけの金も知能もなく、獣のように狩り立てられ、そのうちコンビニにでも押し入ってまた罪を重くする。
「もしもし、どうしました?」
「いや、やつが捕まるまで公園にも警察の見張りがついて、また面倒なことだ」
「それより椎葉さん、見つけましたよ」
「なにを」
「雅代が大学時代に親しくしていた人です。学籍簿を当たって何人かの同級生に連絡をとりました」
「褒めてやろうか」
「子供じゃありません。それでね、浅香沙也子という女性が一番親しかったとかで、彼女に連絡してみたら、今夜の八時以降なら会えるとのことでした」
「刑事という仕事も大変だ」
「椎葉さんも一緒ですよ」
「ああ、そうか」
「これまで警察の事情聴取を受けていない人ですから、二人で出向いてもだいじょうぶです」
「そんなもんかな」
「ええ、たぶん」
「場所は?」
「西武池袋線の石神井公園です。ですから今夜の八時、駅の改札口で待ち合わせましょう。ほかにもちょっと連絡がありますけど、どうせ夜には会うんですから、すべてはそのときに」
椎葉の返事を聞かず、夕子が電話を切り、椎葉もケイタイをポケットに戻す。相手の都合を確認しないで時間や待ち合わせ場所を決める夕子も失礼だが、考えたらホームレスに、どんな『都合』がある。
ため息をついた椎葉の目の前に、ケヤキの陰からひょっこりと金髪があらわれる。
「へーえ、あんた、ケイタイなんか持ってるの」
「軽薄な時代だからな」
「あたしは捨てちゃったよ。話したいやつなんか、一人もいないから」
「どうでもいいが……」ケヤキの幹から背中を離し、美亜の横にまわって、椎葉はテント村のほうへ顎をしゃくる。「もう始まってるか」
「なにが」
「あのテントから何か運び出してるだろう」
「うん。紙袋とか、段ボール箱とか」
「村の連中は?」
「集まってきて、みんなで見てる」
「天気も悪いことだし、ちょうどいい見せ物か」
美亜の背負っているデイパックに手をかけ、村とは反対の、噴水の方向へ歩きはじめる。ホームレスにはスダくんのような情報通もいるから、警察が小林さんのテントを家宅捜索した理由ぐらい、すぐに広まってしまう。
サイクリングコースを芝生広場側へわたり、林と広場の境界を歩いて池の縁に出る。以前にも夕子と腰をおろしたベンチがあって、そこに美亜を座らせ、椎葉も離れて腰をおろす。遠く噴水の向こうには造園業者が入り、遊歩道沿いの花壇に冬パンジーを植えている。
椎葉は吸止に火をつけ、ジャケットの一番ボタンを外して、首のタオルを寛《くつろ》げる。
「今日はどうした、また家が面白くないのか」
「あんなとこ、いつだって面白くないよ」
「学校へ行けば友達がいるだろう」
「みんなバカばっかり」
「街だって同じだ、大間幹江や加世田優也が利口とも思えない」
「あたしね、自分にホームレスができるか、見に来たんだよ」
「この前も言ったろう。その気になればホームレスなんか、誰にでもできる。面白半分で見学に来る場所じゃない」
「だけどあんたの仲間って、みんないい人じゃない。あたし、気に入ったな」
「冗談にも限度があるぞ」
「なんのこと」
「おれと暮らすとか、結婚するとか」
「からかっただけだよ」
「死にたくなければホームレスをからかうな。幹江だって面白半分にホームレスをからかうから、あんなふうに殺された」
美亜の口がなにか声を出し、しかし言葉にならないまま、顎がマフラーの上にのびあがる。上目蓋にはまだ酎ハイの赤みが残り、黒真珠のピアスが生意気な光を放ってくる。
「ええと、幹江は、ホームレスに殺されたの?」
「今警察が来ているテントの住人だ。ヤスオという若いやつで、別件で逮捕状がでたそうだ」
「分かりやすく言ってよ」
「どこが分かりにくい?」
「だって……」
「幹江はヤスオという若いホームレスに殺された。幹江の髪留めからヤスオの指紋がでた。ヤスオには婦女暴行の前科があって、事件のあと村から出ていった。茨城の工事現場にいたらしいが、警察に追われてそこからも逃げ出した。今日か明日か知らないが、捕まるのも時間の問題だ」
美亜の小さい口が、頬に皺が浮くほど強く結ばれ、見開いた目が疑問形で椎葉の顔をのぞき込む。椎葉はタバコの吸止を足元に捨て、作業靴の踵で踏みつぶす。
「幹江があの日のあの時間、この近くで何をしていたのかは知らない。コンビニのアルバイトでもないだろうが、そんなことはどうでもいい。とにかく公園の外でヤスオと出会い、声をかけたかかけられたか、誘ったか誘われたか……そのうち幹江が、ヤスオをからかうようなことでも言ったんだろう。バカはからかわれると本気で怒る。ヤスオはカッとなって幹江の首を絞め、幹江が死んだ。分かりにくいことなんか、何もないさ」
美亜が椎葉の顔を見つめていたのは、三分ほどか。そのうちふっと顎の力が抜け、スニーカーの足が地面をこすって、肩がベンチの背にもたれかかる。睫毛《まつげ》と唇は細かくふるえ、呼吸には動揺の翳《かげ》りが混じっている。
「君の言うとおり、ホームレスに芯からの悪人は少ない。でもみんな社会の底辺に押し込められて、どこかに心の屈折を抱えている。悪意のない冗談や揶揄《やゆ》でも、なにかのはずみで爆発することがある。君のホームレスに対する好意は感謝するが、遊び半分の接触は危険だ。特に君は、オヤジのホームレスに好かれるタイプらしいから」
「あんたも……」
「おれは女に興味がない」
「そうじゃなくて、あんたも危険なの」
「さあ、どうだかな」
「やっぱり、屈折してる?」
「君と同じ程度だろう。だけどおれは大人だし、心の屈折にも慣れている。君のように意味もなくふて腐れはしない」
美亜が顎の先をマフラーにうずめ、ジャケットのポケットからタバコとライターをとり出して、鼻を曲げながら火をつける。髪は金色だが口紅以外に化粧はなく、爪も短く切ってある。幹江への献花やホームレスに対する心遣いもあるのに、なぜ美亜に対して夕子は『不良娘』と先入観をもつのだろう。
しばらく黙ってタバコを吹かし、マフラーから顎をつき出して、美亜が額の髪を指でかきあげる。
「そうか、幹江を殺した犯人、分かったんだね」
「正確には容疑者だ」
「どっちでもいいよ」
「あとは君のほうだ。幹江の事件と羽田の事件が無関係であることは、もう吹石刑事も納得している」
「あの女刑事、バカだよ」
「この前も言ったが……」
「あんたも刑事だったから、あの女の味方なんだよ」
「彼女はマニュアルどおりに仕事をしている。他の刑事が担当したところで、結果は変わらないさ」
「最初にちゃんと教えてやったのに」
「なにを」
「犯人だよ」
「ああ、そう」
「あの女刑事、まるで本気にしないの。そのくせあたしのことばっかり付けまわして、頭にくるよ」
タバコを足元にすて、スニーカーの底で踏みつぶしながら、美亜が口を尖らせる。目には怒りの色が光り、耳たぶまで赤くなってくる。美亜が夕子にいだく不信は別として、「最初に犯人を教えた」ことなど資料にもなかったし、夕子の口からも聞いていない。それにもし美亜が犯人を知っているなら、羽田の事件なんか、もう半年前に解決している。
「そうだよね。どうせあんたも、信じないんだよね」
「おれはなにも聞いていないぞ」
「話したら信じる?」
「話の内容次第だな」
「女刑事は信じなかったよ」
「彼女とおれは別だ。君もそう思うから、おれに会いに来たんだろう」
マフラーの端で美亜の口がとまり、鼻の頭に皺が寄って、目尻が右側だけつりあがる。鼻も口も小さい古風な顔に、目だけが不つり合いな光を放ってくる。
椎葉は美亜に踏みつぶされたタバコを拾い、フィルターの土を払って、ゆっくりと火をつける。レインコートのポケットにはまだパッケージのタバコが残っているが、不思議に吸止のほうが味がいい。
「で?」
「言っても信じないよ」
「勝手にするさ。無理に君の話を聞く義理はない」
「犯人は健司オジだよ」
「誰だって?」
「お袋の兄さんの健司オジ。ちゃんと教えてやったのに、あの女刑事、調べもしないんだから」
美亜の怒った目を眺めながら、椎葉は岸本家の家族構成を思い出す。雅代には健司と満男という二人の兄がいるが、次兄の満男はアメリカの大学にいて、長兄の健司が実家の友愛会病院を継いでいる。満男は事件当日もアメリカにいたから問題外、美亜の言う「健司オジ」とは、長兄の岸本健司のことだろう。
椎葉はフィルターぎりぎりまでタバコを吸い、また足元に放る。
「ふーん、犯人は、君の伯父さんだったのか」
「最初から分かってるのに、誰も信じない」
「伯父さんが犯人だという証拠があれば、誰でも信じるさ」
「証拠を探すのは警察の仕事じゃない」
「まあ、そうだな」
「健司オジはね、お袋を憎んでたの。岸本の家に恥をかかせたとかって、お袋とはずっと仲が悪かった」
「執念深い伯父さんだ」
「あたしが子供のころから、ずっとだよ。ねちねち陰険で、あたしのこともゴキブリみたいに見ているの」
「伯父さんが君をゴキブリのように見ていて、ほかの家族を殺した犯人なら、君の命も危ないだろう」
「そんなの、健司オジだって、自分の家であたしを殺すほどバカじゃないよ」
「ああ、なるほど」
「それに毎日あたしの顔を見ていれば、あいつだって罪の意識を感じてくる。お袋や妹を殺した証拠だって、いつか出てくるよ」
「もしそれが本当なら、やっぱり危険だ」
「警察がやらないからだよ。刑事なんてみんな間抜けだよ。あんただってあたしの話を信じないから、間抜けの仲間入りだよ」
美亜がくしゃみをして顎をマフラーにうずめ、苛立ったように髪を梳《す》きあげる。美亜の苛立ちは理解できるが、「犯人は健司オジ」という告発に、どれほどの妥当性があるのか。警察だって岸本の家庭事情は調べたろうし、夕子も健司の身辺は調べたろう。その結果『美亜の告発は根拠なし』と判断し、健司を捜査の対象から除外した。被害者や被害者の家族は事件にヒステリックな反応をするもので、犯人告発にも妄想的要素が多くなる。美亜のケースも勝手な思い込みだろうが、しかし極々《ごくごく》稀な例として、そんな思い込みが事件の本質を突くこともある。
椎葉は焼酎を口に含み、しばらく舌をしびれさせてから、くっと咽に流す。
「なあ、おれが君を信じたとしても、証拠がなくては、どうにもならない」
「証拠を見つけてよ」
「おれが?」
「元刑事なんだし」
「今はホームレスだ」
「あの女刑事のためには、事件を調べたじゃない」
「彼女には元同僚の義理がある」
「恋人だったとか?」
「まさか」
「それならあたしのために健司オジを捕まえてよ。あたし、お金を払うから」
「ふーん、君は金持ちか」
「今はない。でもそのうち、お金持ちになる。お袋たちの保険金が入るし、親父の会社から給料も来てる。あのマンションだっていつかは売れて、そうしたらそういうお金、ぜんぶあんたにあげる。だからあたしのために、みんなを殺した犯人を捕まえてよ」
口調に変化はないが、うつむいた美亜の目に涙があふれ、粒となってスニーカーへ落ちる。声を出さず、表情を変えず、美亜はただ涙を流しつづける。椎葉は首のタオルを外して美亜の膝に放り、帽子を脱いで吸止に火をつける。現職の刑事には日当二千円で雇われ、被害者の家族からは多額の報酬を提示され、世間は椎葉のことを、ポアロかホームズだとでも思っているのだろうか。
椎葉のタオルで涙を拭き、ついでに洟《はな》をかんで、美亜がタオルを放り返す。
「どうしたのよ」
「うん?」
「タオルが新しいじゃない」
「紳士の身だしなみさ」
「服も前と違うし、髭なんかも剃って、なんかヘンだね」
「ホームレス・ホームズだからな」
「なあに」
「こっちの話だ。だけど君のために働くとしたら、君もおれに協力する必要がある」
「なんでもするよ、あんたと寝てもいいよ」
「ああ、まあ、そのときはちゃんと、風呂に入ろう」
「これからお風呂に行く?」
「いやあ、どうもなあ、ホームレス生活が長いせいか、風呂に入ると風邪をひくんだ」
「いつでもいいよ。お風呂に入ったときは、そう言って」
「それはそれとして、君に訊きたいことがある」
「だいじょうぶ、バージンじゃないから」
「うん……」
「病気もないよ」
「あのなあ、そうじゃなくて、訊きたいのは事件の夜のことだ。君が外泊したのは、まったくの偶然か」
「そうだよ。遊んでいたら、帰るのが面倒になったの」
「家に電話をしたか」
「どうして」
「正しい女子高校生は親に連絡するもんだろう」
「あたし、正しくなんかないもの」
「だとしたら、ドアの鍵をかけずに、両親が君を待っていた可能性がある」
「そんなこと、ないね。あたしの帰りが遅くなっても、外に泊まっても、みんな鍵をかけて寝ちゃうよ。あたしは自分の鍵を持ってるもの」
「ドアチェーンはかけないのか」
「面倒くさいじゃない。インターホンがあるから、ヘンなやつはすぐ分かるし」
「それならやっぱり、家族の誰かが内からドアを開けて、犯人をなかに入れたことになる」
「だからね、健司オジが合鍵を持ってたんだよ。お袋とは兄妹《きようだい》なんだし、お袋はよく岸本の家に帰っていた。ちょっとお袋の目を盗んで鍵をつくるぐらい、簡単だよ」
「可能性としては、あるかな」
「もし健司オジが鍵を持っていたら、あいつが犯人だという証拠になる?」
「決め手としては弱いが、傍証にはなる」
「あたし、探してみるよ」
「無茶をするな。もし伯父さんが犯人なら、本当に君の身が危ない。おれを探偵に雇った以上、捜査はおれに任せろ」
「雇われることに決めた?」
「干物をもらった義理がある」
「あんた、ホモ?」
「自覚はないが」
「女嫌い?」
「どうだかな。焼酎を飲むと心が平和になって、雑念が消えてしまう。それでいつも焼酎を飲んでいるから、いつも雑念がない」
「あんたにとって女は、雑念なわけ?」
「おい」
「なあに」
「質問はおれがする。君はおとなしく協力して、おとなしく学校へ行けばいい。君がいつかホームレスになるとしても、人生には教養が必要だ」
美亜が鼻を鳴らしたとき、背後にハイヒールの音がして、黒い影がベンチの前にまわり込む。
「あーら椎葉ちゃん、最近どうして……」
盆踊りのような|しな《ヽヽ》をつくったのはマリさんで、マリさんは毛皮のコートに毛皮のショールを巻き、赤いフレアスカートを奇妙な形になびかせる。髪は赤茶色のオカッパでメイクはエジプト女王風、骨太のがっしりした躰を今日もサイズ二十八センチのハイヒールが支えている。手を盆踊りのように泳がせ、途中で言葉を呑んだ理由は、となりの美亜に気づいたからだろう。
濃いアイシャドウの下から仁王様のように美亜を見おろし、それからつんと顎をつき出して、言葉を呑んだままマリさんが遠ざかる。腰のふり方はモンローウォークを真似ているらしいが、椎葉の目には相撲取りが四股を踏んでいるようにしか映らない。
「ねえ、今の人、先日《こないだ》の人?」
「クリスマスにこの公園でホームレス祭りがあってな、仮装行列の練習さ」
「なんか、すごいね」
「人生は奥が深い。だからきみも学校へ通って、教養を身につけておけ」
ポケットをさぐって吸止をとり出し、火をつけて、長く煙を吹く。同じホームレスとしてマリさんの行く末は気になるが、椎葉が気にするのは僭越、無意味な人間が無意味な人間を心配して、なんの意味がある。
「ええと、なんの話だっけな」
「あんたがあたしに雇われたこと」
「ああ、そうだ。それでな、この前阿佐ヶ谷で会ったとき、君はおれの質問に答えなかった。まずあの答えから聞かせてくれ」
美亜のスニーカーがメトロノームのように動き、また右の目尻がつりあがる。
「なんの話か、覚えてないけど」
「君は家族の誰と仲が悪かったのか」
「知らない」
「協力を拒否するならおれも探偵をキャンセルする」
「だって、あたし、誰とも仲なんか悪くなかったよ」
「それならどうして不良の真似をしていた」
「あんたもほかの大人も、みんな大げさだよ。ちょっとお酒を飲んだり、友達のところへ泊まったり、それぐらい誰でもするじゃない。プチ家出で一週間ぐらい帰らない子、どこにでもいるよ」
「他人のことはいい。自分のことを話せ」
「誰とも仲は悪くなかった。親に細かいことを言われると頭にきたし、妹とも喧嘩をした。あたしは他人のことなんか言ってない。あんただって高校生のときは、親がうざったかったでしょう?」
「そういうことも、あったかな」
椎葉に|そういうこと《ヽヽヽヽヽヽ》はなかったが、経験のない歴史に、勝手な感想はもちたくない。美亜の家庭に特殊なトラブルがあったのか、それともどこにでもある親子や姉妹の平凡な確執だったのか、そんなことはそのうち、時間が教えてくれる。
椎葉は焼酎をなめ、アルコールで感情を消毒し、アルバイトの義務にだけ意識を集中させる。
「そうだ、そういえば、納骨の問題があったな」
美亜が尻の幅だけベンチの距離をつめ、椎葉の膝から帽子をつまんで、くるくると指でまわす。
「へーえ、この帽子、ギャップじゃない」
「キャップじゃない。どちらかといえばハットだ」
「ギャップというブランドだよ」
「うん? ああ、高いのか」
「そうでもない、三千円ぐらいかな」
「こんなものが三千円もするのか」
「安いほうだよ」
「三千円あればおれは一カ月も生きられる」
「お袋と妹は、阿佐ヶ谷のお寺に納めた」
「ふーん、そうか」
「親父は岐阜へ行った。岐阜の人たち、すごく怒ってた」
「君は?」
「あたしが、なに」
「怒らないのか」
「仕方ないよ。みんな大人たちが勝手に決めて、あたしには何もできない」
「そうか、そうだろうな」
「誰もあたしのことなんか考えていない。一人だけ殺されなかったから、ヘンな目で見るやつもいる。あたしもあのとき、死んでればよかったよ」
帽子を椎葉の膝に放って、スニーカーの踵で地面を突き、美亜がふて腐れたように腰をあげる。
「あたし、渋谷へ行くわ」
ぷいと歩きだし、五、六歩あるいてから、遊歩道の手前で足をとめる。
「決めたよ。あたしはあんたを探偵に雇った。だからお風呂に入ったら、いつでも言ってきて」
椎葉にへたなウィンクを送ってから、マフラーを首のうしろで締めなおし、美亜が少し猫背に歩きだす。噴水前広場に通じる遊歩道に入ってからはもうふり返らず、ポケットに両手を入れて曇り空にまぎれていく。繁華街ならどこでも見かける華奢《きやしや》な少女で、人目をひくほどの美人でもなく、個性といったら金色に染めた髪ぐらい。しかしその頼りなく小さい肩に、美亜は対処不可能なほど大きい荷物を背負っている。
椎葉は焼酎を口のなかで転がし、林に消えていく美亜のうしろ姿を見送ってから、帽子を頭にのせて欠伸をする。美亜の籍はどうなっているのか、羽田のマンションにローンは組まれていたのか、美亜が椎葉を探偵に雇ったというなら、尋ねる機会はいくらでもある。
もう一度大きく欠伸をし、降りそうで降らない曇り空を、ぼんやりと眺める。待ち合わせは夜の八時だというが、練馬区の石神井公園まで、自転車ではどれほどの時間がかかるだろう。
三時間はかかると思っていたが、走ってみれば何のことはない。夕暮れの代々木公園を出たのが五時、阿佐ヶ谷付近で日が暮れ、そこから中杉通り、早稲田通り、旧早稲田通りを抜けて下井草につくまでが二時間、下井草から石神井公園駅までは三十分もかからない。初めての場所でも道に迷わないのは、刑事時代に靴をすり減らした経験からだろう。
直接駅へは向かわず、酒屋とクリーニング屋との路地に自転車を放り込む。商店街ではクリスマスセールが始まっていて、ケーキ屋からはジングルベルが聞こえてくる。付近にひしめくのはコンビニにハンバーガーショップに薬の安売り屋にサラ金、刑事時代には気づかなかった東京という街の醜悪さに、椎葉はうんざりと欠伸をかみ殺す。
吸殻拾いで時間をつぶし、八時ちょうどに駅へつく。勤め人の帰宅時間なのか、改札からは繁華街並みの人間が吐き出されてくる。なかにはダウンジャケットも混じり、この連中は真冬になったら何を着るのだろうと、他人事ながら余計な心配をする。
五分と待たず、改札口に夕子があらわれる。今夜の夕子はまたツィードのパンツスーツ、ショルダーバッグをかかえて人混みを大股に分けてくる。短髪の小作りな顔が上気して見えるのは、電車が暑かったせいだろう。
椎葉に遠くから会釈を送り、人の流れに乗って夕子が駅舎の出口へ向かう。帰宅の勤め人を間に挟んだまま、椎葉があとにつづく。駅前広場に出たところで人混みがばらけ、足をとめた夕子と向かい合う。
「どちらかと言うとおれは、スカートのほうがいいな」
口を開きかけ、目を見開き、しかし息を大きく吸っただけで夕子が駅前交番へ歩く。椎葉は帰宅客の邪魔にならない場所に身を移し、壁に寄りかかって吸止に火をつける。バス溜まりには順番待ちの客が列をつくり、高校生がトイレ横の暗がりにたむろする。行き過ぎる人間が椎葉に目を向けないのは、帰宅を急いでいるのか、帽子と防寒ジャケットという変装が功を奏しているせいか。
すぐに交番から戻ってきて、夕子がバス溜まりの空を見あげる。
「もうすぐ降りだしますね」
「たぶんな」
「浅香沙也子はここから七、八分のアパートに住んでいます。交番の連絡票台帳には『会社員』となっていますけど、勤務先は高田馬場にある『早稲田教育出版』という教科書会社です。思想的な偏向はなく、家族は六歳の女の子が一人だけ。旦那さんはいないようですが、別居か離婚か死別か、そこまでは分かりません」
「吹石くん、訊くのを忘れていたが、君、階級は?」
「巡査部長です」
「ふーん、準キャリアか」
「椎葉さんほどのエリートではありませんよ」
「君の逮捕術は最低だったものな」
「覚えてるんですか」
「昨夜ふと思い出した。顔と名前は忘れていたが、君の足だけは覚えていた」
ガムでも吐くように咳払いをし、夕子が肩をまわして歩きだす。椎葉は口のなかで舌打ちをし、ゆっくりとあとを追う。
夕子のあとを歩いているうちに商店街を抜け、民家とアパートの混在した静かな区画に出る。白っぽい街灯が間延びした間隔で連なり、ブロック塀の隙間から団欒の明かりがもれてくる。たまには人が通り、夜泣きそばの軽トラックが行き過ぎる。
夕子が『パークハイツ』というアパートを見つけ、郵便受けを確認して一階の三号室へ歩く。インターホンに指をかけると女の声が応答し、すぐにドアが開く。
「昼間お電話した警視庁多摩川署の吹石です。こちらは椎葉です」
夕子が写真付きの身分証を示し、横目を使って椎葉を見る。椎葉のことを「同僚」と紹介したわけではないから、身分詐称にはならないが、相手の勝手な勘違いとうそぶくには質《たち》が悪いだろう。
浅香沙也子が疑う様子もなく、二人を内に招く。どこの所轄にも椎葉ほどむさ苦しい刑事はいないはずなのに、沙也子が不審に思わなかった理由は、昔はやった刑事ドラマの影響か。
通されたのは流し台のついた八畳ほどのダイニング、となりにも八畳ほどの和室があり、女の子が一人、こちらに背中を向けてテレビを見ている。沙也子は雅代と同級生だから三十六、七歳、セミロングの髪に少し茶をかけ、ジーパンとコットンセーターを清潔に着こなしている。顔は意志が強そうに頬骨が張り、目も大きくて鼻も尖っている。まるで似ていないが、沙也子の雰囲気にふと、椎葉は別れた妻を思い出す。
席についた二人に茶を出し、沙也子もテーブルの向かいに腰をおろす。沙也子への尋問は夕子の仕事で、椎葉は傍観を決める。
「夜分にお邪魔して申し訳ありません」
「こちらこそ。子供の生活を優先させたものですから」
和室の女の子はパジャマに綿入れ半纏、すでに夕飯も済み、風呂にも入っているらしい。
「失礼ですが……」
「四年前に離婚して私が一人で育てています。家庭の単位は子供と母親で、父親はただのお客さん、いいお客なら歓迎、悪いお客ならお断り」
「はあ、そうですか」
「電話で岸本雅代さんの件、と聞きましたけど、どういうことかしら。あのときも言いましたが、私、長い間会っていませんの。彼女の結婚式以来ですから、もう十六、七年になるかしら」
「事件のことはご存じですよね」
「ええ、でも雅代の姓が変わっていたことも忘れていました。テレビのニュースで彼女の顔を見たときも気づかなかった。大学時代の友人に言われて、初めて雅代だと分かったぐらい、それも事件があってから、二カ月ぐらいあとのことです」
「一応お訊きしますが、旧姓岸本雅代さんの事件に関して、浅香さんに、心当たりは?」
沙也子がテーブルの上で両手を広げ、肩と目の表情で、「とんでもない」と意思を示す。その仕種に節度のある知性が感じられ、椎葉は喫煙欲求を我慢しながら、沙也子と女の子の背中を見くらべる。
夕子が茶に口をつけ、テーブルに片肘をかけて、少し身をのり出す。
「大学時代に雅代さんが他人とトラブルを起こしたとか、ストーカーの被害にあったとか、そんな記憶はありますか」
「同級生の男の子が彼女につきまとったり、ちょっと仲のよくない子がいたり、それぐらいはあった気がします。でも私ですら結婚式以来、雅代には会わなかったから……」
「結婚式以来会わなくなったのには、理由が?」
「家庭をもって子供が生まれた相手を、食事には誘いにくいでしょう。そのうちこちらは就職活動で忙しくなる、向こうは向こうでなにかの事情ができてくる。最初のころは電話をかけたりもしましたけど、それも半年ぐらいでした」
「お二人は親友だった、と聞きましたが」
「他の同級生よりは親しかった、という意味ならね。私は地方出の学生であちらは旧家のお金持ち、同じレベルで付合っていたわけではありません」
「彼女と同じレベルで付合っていたお友達は?」
「いなかったと思います」
「それは、岸本さんに問題があったから?」
沙也子が肩をすくめて顔を上向け、広くもないダイニングの天井に、五、六秒視線をただよわす。
「頭のいい人で、性格的にも穏やかなほうだったけど、友達付合いはよくなかった。コンパにも出ようとしなかったし、クラブや同好会にも入らなかった。私なんか当時、コンパの女王といわれたのに」
「岸本さんは非社交的な性格だったと?」
「そうでもありません。彼女の志望はマスコミか広告関係でしたから、その方面のイベントには参加していました。ご主人と知り合ったのも、アルバイト先の広告会社ではなかったかしら」
「頭がよくて穏やかで、非社交的でもないのに友達付合いはよくなかった。岸本さんって、変わった性格の方でしたね」
「大学にはいろんな学生がいました。教授と心中未遂を起こした女の子、スーパーマーケットを恐喝して捕まった学生。だから人はそれぞれ、雅代だけが特別に変わってるとは思わなかったわ」
テレビを見ていた女の子が一瞬ふり向き、椎葉と目を合わせる。椎葉は口の形で挨拶を送り、ついでにウィンクをサービスする。女の子も知らない客に興味はあるらしいが、すぐ顔を戻してしまう。
夕子がまた茶をすすり、沙也子からは見えない角度で椎葉に目配せをする。「質問を代われ」という合図であると理解し、椎葉は居住まいを正す。
「雅代さんの結婚相手だった坂下氏のことを、浅香さんは、どれほどご存じですか」
「そういわれても……」沙也子の眉がバランスを崩し、セーターの肩が椅子の背にひかれる。「結婚式でお見かけしただけで、それ以外のことは知りません。雅代が結婚して大学を中退すると聞いたときも驚きました。雅代の家は旧家ですし、雅代自身、男性関係を拒否してる感じもありましたし」
「それまで坂下氏との関係を、彼女の口から聞いたことは?」
「一度もありません。雅代がなぜ私に打ち明けなかったのか、理由も分かりません。人はそれぞれ、中退も結婚も、事情があって雅代が選んだ道ですから、詮索は失礼だと思いました」
「あなたがそういう価値観をおもちだから、雅代さんも安心して友達になったんでしょうかね」
沙也子の眉が開いて、唇がかすかに微笑み、肩の線にくつろぎの気配があらわれる。顔の皮膚に年齢は見えても、世間ではまだ美人として通用するタイプだろう。
沙也子が席を立ってくれれば焼酎を補給できるのに、と思いながら、その機会のないまま、椎葉は茶に口をつける。
「他人が無用の詮索をしては相手に失礼になるが、詮索をしなくても、浅香さんだって、雅代さんの結婚を不審に思われたでしょう」
「思うだけは、ね」
「具体的にはどんなふうに?」
「そんなことが……」
「そのことが半年前の事件に関係あるかないか、今の時点では分かりません。しかしそれを聞くために今夜、わたし達が伺ったわけです」
口元はゆるめたが、沙也子はやはり席を立たず、興味深そうな視線を椎葉と夕子の顔にめぐらせる。
「結婚式に出席した雅代の友人は、私とあと二人だけ。新郎のほうは会社の同僚と上司が五人ほど。出席者のほとんどは親戚と親御さんの仕事関係者。式は一流のホテルであげましたけど、普通に考えれば不自然でした」
「すでに子供ができていたから、という理由では?」
「そういう結婚は珍しくないでしょう。逆に友達をたくさん呼んで、盛りあげるものではないかしら」
「結婚式は、盛りあがらなかった?」
「舞台で結婚式のお芝居をしているような感じ……うまくできたお芝居でしたけど、私には違和感がありました」
「それは、子供の父親が新郎ではない、という種類の違和感ですね」
沙也子の目が動揺もせず、静かに椎葉と夕子の顔を見くらべ、張り出した頬骨にかすかな赤みがさす。
「刑事さん、たとえ私がそう感じたとしても、それは私の邪推です」
「こちらはその邪推をお聞きしたい。女性の邪推は常に男の論理を凌駕《りようが》する」
ちょっと肩をすくめ、目尻の皺を深めて、沙也子が唇を笑わせる。
「私の邪推でいいと仰有るなら、それは、刑事さんの言われたとおりです」
「子供の父親は坂下氏でなく、しかし坂下氏はそれを承知で雅代さんと結婚した。子供の本当の父親は、誰なんでしょうね」
「仮定の設問に仮定の答えは出せません」
「仮定の設問だからこそ、仮定の答えを出しても、責任はない」
「私は勘をお話ししただけですわ」
「勘が勘として機能するには、それなりの理由がある。あなたが働かせた勘にも、その前提となる理由があるはず。そう考えるのはもちろん、わたしの勘ではありますが」
一度丸くなった沙也子の背中が、ゆっくりと椅子に伸び、好奇心の強そうな視線が恐れもなく椎葉の顔を上下する。テレビの音が大きくなった気がしたのは、何秒かつづいた静寂のせいだろう。
沙也子が自分の腕で自分の肩を抱き、右手を頬に押し当てて、目尻の皺を深くする。
「私、責任はとりませんけど、それで構いません?」
「責任はすべて吹石刑事がとります」
「………」
「岸本さんの家が箱根に別荘をお持ちということは、ご存じかしら」
「いえ」
「あのころはお持ちでしたの。私も何度か、雅代と一緒に泊めてもらいました」
「わたしも代々木公園に別荘を持っていますが、あなたは泊められない」
「はあ?」
「こっちの話です、で?」
「私と雅代の二人だけで泊まっているとき、お兄様が見えたことがあります。夜になってから、ご自分でクルマを運転なさって」
「不思議なこととも思えませんが」
「もちろんご自宅の別荘ですものね。部屋数に問題はありませんし、それだけなら不思議はありません。ですが、その夜中に、お兄様が雅代の部屋へ入るところを、私、偶然に見てしまいました。いくら仲のいい兄妹でも、大人になってから一緒の部屋に寝るというのは、ちょっと不思議でしょう」
夕子の手から湯呑がすべり、テーブルに茶がこぼれる。そのこぼれた茶に、慌てる様子もなく沙也子が布巾《ふきん》を使う。
「も、申し訳ありません」
「こんな戯言《たわごと》を聞けば、誰でも驚くわ」
「でも、そうだとすると……」
「私は不思議なものを見たと、そう言っただけ。私の勘はいつも外れますし、それに今回の事件とは、やはり関係ないと思います」
椎葉は左のポケットにタバコの吸止をもてあそび、右のポケットでは焼酎のボトルをもてあそび、頭のなかでは、別荘で沙也子が見たというその光景をもてあそぶ。もしそれが事実であったとしても、椎葉に感想を言う資格はなく、今回の事件にどう関連するものか、判断の材料にもなり得ない。雅代とその兄弟が寝たというだけなら、それこそ「人はそれぞれ」だ。
血の気のひいた夕子の顔色を確認し、椎葉は腰を浮かせて、辞去の支度をする。
「参考になりました。それでその夜に別荘へ来た兄弟とは、上のほうの?」
「兄と紹介されただけで、名前は聞かなかった気がします」
「年齢は?」
「ずいぶん歳上に見えました。あのとき、もう三十を過ぎていたのではないかしら」
「そのことがあったのは雅代さんが結婚する、どれほど前のことですか」
「三年生の夏休み……雅代が式をあげたのはその年の十月でした」
「二カ月か三カ月前、ですかね」
「そんなところでしょうね。でも私、寝ぼけて夢を見たのかも知れないし、いずれにしても責任はとれません。会社に吹石さんから電話があるまで、そんなこと、思い出しもしませんでした」
そのときは夕子も席を立っていて、この状況から早く逃げたいのか、バッグを小脇に、深々と頭をさげる。
「吹石くん」
「はい」
「名刺だ」
「あ、はい」
夕子がバッグから名刺をとり出し、沙也子に手わたす。
「今夜は有り難うございました。ほかにも思い出したことがありましたら、捜査本部にお電話をください。直接の担当は椎葉ではなく、わたくしですので、電話ではわたくしをご指名ください」
夕子の弁解をどう受けとったのか、表情には出さず、沙也子が靴をはく二人を見守る。靴紐を折り詰めの紐で間に合わせる刑事がこの日本にいるのだろうかと、今夜の沙也子は、ひどく悩むことだろう。
和室から椎葉のほうを眺めている女の子に手をふり、帽子を頭にのせて、椎葉はドアの外に夕子を押し出す。
「では失礼します。お話は、非常に参考になりました」
九時にはまだ間があり、雨は降りそうで降らず、住宅街には勤め人がぱらぱらと帰ってくる。
吐き気を我慢するような顔で歩いていた夕子が、信号で足をとめ、椎葉の肩越にうしろをふり返る。
「参りましたね」
「ちょっと歳を食ってるが、なかなかの美人だった」
「ほかのことは考えないんですか」
「君の足のことも考える」
「バイト代ぶんの仕事をしてくださいよ」
「君に雇われたが、人格まで売ったわけじゃない。今日は神谷に会って『光企画』の設立資金が岸本から出ていることも聞き出した。日当ぶんの仕事はしているさ」
夕子が鼻の穴をふくらませたとき、信号が変わり、二人は道を商店街のほうへわたる。すでに荒物屋や花屋はシャッターをおろし、薬屋の店先でも商品の片付けが始まっている。
「まったく、参りましたね」
「刑事という商売も大変だな」
「大変にしたのは椎葉さんですよ」
「気に入らなければクビにしてもいいぞ」
「わたしは逃げるのが嫌いです。生まれてから一度も、問題を避けて通ったことはありません」
「まあ、頑張ってくれ」
「そのへんで一杯やりますか」
「うん?」
「わたしの奢りです」
「状況を正しく判断できる女は、みんないい女だ」
「ホームレスに奢られるほど落ちぶれてはいませんからね。それにわたしだって、素面《しらふ》じゃ帰れませんよ」
夕子が歩きながらバッグを担ぎなおし、商店街の路地を二つほどのぞいて、三番目の路地を右に曲がる。そこはスナックや小料理屋の看板がわびしくかたまった一画で、ヤキトリ屋からも商売の煙が流れてくる。
二十メートルほど奥へ進み、赤提灯の出ている居酒屋をえらぶ。五、六人の客と壁の品書き、おろしニンニクや焼き魚の匂いとテレビのバラエティー、壁の真ん中には映画会社のスター・カレンダーが貼ってある。
カウンターの端に並んで腰掛け、二人は銘柄の出ていない『酒』を熱燗で注文する。椎葉にとって酒の種類なんか何でもよく、飲む場所も構わない。酒に場所や雰囲気が必要という飲み方は、もう二年前から忘れている。
燗がつくあいだ、夕子がしめサバと里芋煮を注文し、椎葉はカツオの塩辛だけに遠慮する。酒が来て夕子が二つのぐい呑につぎ分け、どちらからともなく盃を合わせる。
「でも椎葉さん、大げさではなく、ちょっと参りましたよ」
「彼女の思い過ごしかも知れないさ」
「浅香沙也子の勘は信用できる気がします。ああいう旧家って、内実はグロテスクなもんですから」
「結論を急ぐと火傷《やけど》をする」
「椎葉さんも雅代の結婚は不審《おか》しいと、最初に言ったじゃないですか」
「なにか理由があると思っただけさ。たしかに理由はあったらしいが、まだ事実は分かっていない。かりに浅香沙也子の勘が当たっていたとすると、逆に辻褄の合わないことが出てきてしまう」
久しぶりの熱燗を口のなかで転がし、椎葉はジャケットのボタンを外して体温を逃がす。
「君、事件の発生当初、美亜から『犯人は伯父の健司だ』と告発を受けなかったか」
夕子が盃を口の前に構えたまま、鼻を上向けて瞬きをする。一日の終わりのせいかファンデーションがはげ、目尻に細い皺が浮いて見える。
「そうですね。そういえば、そんなことがありましたかね」
「そのとき健司の身辺を洗わなかったのか」
「調べましたよ。でもただ仲が悪いというだけで、兄が妹を殺すはずはないでしょう。動機がまるでないし、事件当夜も夫婦で寝室を共にしていました」
「だから健司を捜査対象から除外した」
「ええ、その、間違ってましたか」
「どうだか知らんが、美亜は君に告発を無視されたと怒ってる。彼女に言わせると君もほかの刑事たちも、みんな無能だそうだ」
「あのくそガキ」
「だけどな、かりに雅代の相手が兄の健司だったとして、美亜の父親が健司だとすると、これは辻褄が合わない。健司は生前の雅代を家名を汚したとかいう理由で非難していたという。今も美亜を、ゴキブリのように扱うそうだ」
「実の子供だからこそ、嫌悪があるのでは?」
「まあ……」
「健司にとって雅代は妹であり、恋人であり、自分を捨ててほかの男と結婚した裏切り者。美亜は娘であり姪であり、自分を裏切った憎い女の子供……これはもう、気が狂いますね」
「そして羽田事件には狂気が感じられる」
「ということは、犯人は?」
「急ぐな、健司だって医者だ。十六年前に雅代の子供を始末できなかったとも思えないし、今になって突然気が狂うのも不審しい。それに雅代の結婚問題と今回の惨殺事件が関連しているのか、いないのか、まるで分からん」
注文した肴がカウンターに並びはじめ、腹も空いているのか、夕子が黙々と箸を使いだす。椎葉は酒を追加して塩辛をなめ、ポケットからとり出した吸止に火をつける。
「椎葉さん、雅代の相手は健司でなく、弟の満男という推理はどうですか」
「おれもそれを考えている」
「雅代と満男だって十歳ちがい、雅代が二十歳なら満男は三十です。それに今はアメリカですけど、十六年前は日本にいたかも知れません」
「調べれば分かるさ。しかし今回はアメリカにいたことが証明されている。昔妹と寝て子供をつくったというだけでは、犯罪にならない」
「雅代と満男の関係を健司が知って、頭に血がのぼったという構図は?」
「可能性はあるな」
「でも不思議ですよねえ。雅代だって白痴ではなし、兄弟の子供を生めばどんな事態になるか、分かったはずなのに」
「すべての状況が不自然すぎる。データがなくていじくる論理は、空論だ」
「明日になればDNAの鑑定が出ます。美亜と吉成の間に血のつながりがないと判明すれば、そのときが勝負です」
「過剰な期待は禁物だぞ。半年も膠着していた事件に風穴が見えただけのことだ。ヘタに騒いで結果が外れたら、君の立場が悪くなる」
「わたしの立場より被害者や家族の立場が優先です」
「おれにとっては君の立場だけが大事なんだ。坂下にも岸本にも義理はない。誰が死のうと殺されようと、正直に言って、痛くも痒くもない」
夕子の咽がつまり、小鼻がぴくっと動いたが、言葉のないまま盃が口に動く。化粧くずれのせいか横顔に疲労が見え、ショートヘアも前髪が乱れている。
「そういえば椎葉さん、さっき『光企画』の設立資金が岸本から出ている、と言いませんでしたか」
「坂下の分担金として二千万前後らしい」
「兄の健司から?」
「父親の武造だろうが、岸本家の資産状況は、どうなっている?」
「法務局で調べました。自宅部分の土地は約五百坪、坪単価を二百万で計算すると十億です。抵当権はついていませんから、資産としては優良です。株や国債や別荘なんかでも、五億程度にはなりそうです」
「病院のほうは?」
「そちらは医療法人になっていますが、実質的には岸本家の個人経営です。理事はすべて岸本の一族、銀行も経営には参加していませんから、経理状況は健全ですね。武造も健司も杉並区では毎年高額納税者に名を連ねてます」
「娘の亭主に二千万程度の資金提供をするのは、簡単か」
「羽田のマンションも結婚のとき、父親が買い与えたそうです」
「可愛い娘のためだ、それぐらい当然ともいえるし、逆にちょっとばかり過剰とも考えられる」
「坂下に弱みを握られていたとか、脅迫されていたとか」
「それでは夫婦仲が険悪になるだろう。吉成と雅代のあいだにトラブルの気配はなかったはずだ」
「美亜が協力してくれれば、もっと具体的なことが分かるのに」
「彼女に言わせると、家庭に問題はなかったそうだ」
「本当ですかね」
「一応は、な。おれも信じたわけじゃないが、今のところまだ、彼女の神経を刺激したくない。美亜はおれを探偵に雇うと言ってる」
夕子が盃を構えたまま、目を見開き、口を曖昧な形に笑わせる。
「もう無能な警察には任せられない、という意気込みらしいぞ」
「あのガキ、今度会ったら、ゲンコツですね」
「彼女の気持ちも考えてやれ。君は美亜に対して先入観をもちすぎる。最初から彼女の心を開かせていれば、もっと早く事件の構図が見えたかも知れない」
「だって……」
「美亜のことはおれに任せろ。彼女がどれほどの孤独に耐えているか、なんとなく、分かる気がする」
夕子の尖った肩が大きく上下し、額に前髪がたれる。目元にはいくらか酔いの赤みが広がり、顎のラインからも力が抜けている。
椎葉が空の徳利をふって熱燗を追加し、夕子が揚げ出し豆腐を注文する。すでに客が二組ほど入れかわり、テレビの番組もドラマに変わっている。
「いずれにしても、あの家には何かのトラブルがある。雅代といづみを岸本家の寺に入れ、吉成だけを岐阜へ納骨したそうだ」
「そうですか。わたしのチェックも、甘かったです」
「美亜の姓は坂下のままか」
「ええと、そのことも、すぐに調べます」
「健司や武造にも会ってみたいが、美亜の雇われ探偵という身分で、会えるものか……」
燗のついた徳利を受けとりながら、椎葉の目がテレビの画面にとどまる。
「吹石くん、見ろ」
「はあ」
二人が注視したのはドラマではなく、臨時ニュースのテロップ。「代々木公園で起きた女子高校生殺人事件の容疑者を、今夕茨城県で逮捕」と白い文字が淡々と流れ去る。飯場からは逃亡したものの県外へは出られず、バス停か電車の駅あたりで捕まったのだろう。名目はタオルの窃盗容疑のはずなのに、警察は幹江殺しの容疑者としてリークしている。立件に自信のある証拠で、ヤスオの名前が公表されるのも時間の問題、明日はテント村にも、マスコミが雲霞《うんか》のように押しかける。
夕子が椎葉に目で合図をし、バッグからケイタイをとり出して店を出る。椎葉は燗酒を盃につぎ、横目でテレビ画面を睨みつづける。同じテロップを二度流しただけで臨時ニュースが終わり、現実離れをした恋愛ドラマがオシャレにつづいていく。人間がどんな価値観をもっても構わないが、そのドラマは「愛が人生のすべてである」と本気で語っている。
五分もしないうちに夕子が戻ってきて、元の席に座る。
「捕まったのは……」椎葉に肩を触れさせ、夕子が腹話術のように言葉を出す。「茨城県の常陸太田だそうです。国道を東京方面へ歩いているところを県警のパトロールに発見されました。所持金は三百円ほどしかなく、東京まで歩いて帰るつもりだったようです」
「お袋にでも会いたかったかな」
「殺人容疑は認めていません。幹江なんか顔も見たことはない、と供述しているとか」
「警察は自信がありそうだ」
「DNAの鑑定は始めたばかりですが、血液型は一致しているようです。指紋もありますから容疑は動かないでしょう。明日には捜査本部のある渋谷北署に移送されるそうです」
「人間が愚かであることは、悲しいのかな、幸せなのかな」
「愚かでなくても悲劇は起こりますよ」
「うん、でもおれは、幹江に残っていた精液とヤスオのDNAは、一致しない気がする。それでも自供をとって、警察は強引に送検するだろうが」
「一致しないって、なぜ?」
「なんとなく、まあ、勘だ」
「あ、そういえば、忘れていました」
夕子がくいっと盃をあけ、目つきで椎葉に酌を要求する。ずいぶん偉そうな態度だが、情報も資金も帽子もジャケットも、すべて夕子の提供なのだ。
酌をした椎葉に、夕子も酌を返して、カウンターに浅く肘をかける。
「新潟の淫乱教師の件、向こうの県警から返事が来ましたよ。この五年間で懲戒免職をされた教師は約百五十人。そのなかに古川という名前の教師は一人だけです。淫行が発覚して処罰されたのが四年前、その当時古川は四十歳だったそうです」
「具体的にはどういう容疑で、処罰は?」
「女子高校生との援助交際です。ただこの男、相手を裸にして縛ったり、下の毛を剃って写真を撮ったり、やることが悪質だったとかで、女の子のほうが怖くなって訴えたことから事件が発覚しました。ほかにも余罪はあったらしいんですが、立件はできなかったそうです。勤めていた中学校はもちろん懲戒免職、刑事的には懲役二年半の執行猶予です」
「実刑は受けなかったのか」
「援助交際ですからね。たしかにこういう卑劣オヤジは許せませんけど、相手も相手、という部分はあります」
「古川に、家庭は?」
「奥さんに子供が二人、でも事件以降は離散して、誰がどこでどうしているのか、警察でも把握していません」
「女房子供のことは知らないが、古川自身の消息は分かってる」
「そうですか、どこですか」
「おれん家《ち》のとなりさ」
「はーあ」
「幹江の体内に残っていた精液は、もしかしたら、古川のものかも知れない」
「椎葉さん、そんなことになったら……」
「せっかちな女だな。君はなんでも結論を急ぎすぎる。殺人の時効は十五年であることを忘れるな。それに幹江の事件は、君の担当ではないだろう」
夕子の小鼻がひくひくと震え、口が尖って頬がふくれて、二十八歳の横顔に少女時代の残像がよぎる。よく見れば美人だが一見美人に見えないのは、出ぎみな歯と薄情そうな一重の目のせいだろう。椎葉は夕子のなかの少女と気分だけで乾杯し、タバコをつぶして盃に口をつける。燗酒のせいか血管を巡る血も熱をもち、躰も腹の内側から温かい。こういう酔い方で代々木公園まで自転車をこいだら、さぞ気分がいいに違いない。
夕子が首をまわして壁の時計を眺め、それから腕時計を目の高さにかかげて、時間を確認する。
「椎葉さん、わたし、これから渋谷北署へまわってみます」
「たまにはホストクラブへでもまわってみろ」
「警察はケチですから、経費が出ませんよ」
「美亜から探偵料をもらったらおれが招待しよう」
「期待してます。このお店の勘定は払っておきます。小林容疑者のことについて何か分かったら、また連絡します」
すっくと腰をあげ、バッグを肩にかけて、夕子がカウンターから離れる。レジに向かう夕子を眺めながら椎葉は箸をとり、食べ残された揚げ出し豆腐をつつく。せっかちで直情的な性格も悪くはないが、あれでは付合う男がたまらない。夕子から男の匂いは感じられないから、特定の相手はいないはず。足の形はけっこういいのに、残念だな、と椎葉は欠伸《あくび》半分に独言する。
夕子が目顔で別れを告げ、大股に店を出ていく。椎葉は揚げ出し豆腐を口に運び、残った酒を盃にあける。ヤスオのだらしない馬面が頭にうかび、胸騒ぎが神経の居心地を悪くする。幹江殺しの犯人はヤスオで間違いないと思うのに、センセイの経歴がどこかにひっかかる。何かを見落としている気はするのだが、しかしその何かとは、何なのか。
また客が入れかわり、テレビではもうニュースを流さず、椎葉は二十分ほどで腰をあげる。久しぶりの日本酒が躰を芯まで酔わせ、珍しく足がふらつく。寒いといっても生まれ育った函館ほどではなく、所詮は野宿に慣れたホームレス、代々木まで帰りつかなかったらガード下か軒下か、どこでも眠くなったところで眠ればいい。
店を出た椎葉の肩を小雨がぬらし、椎葉はレインコートの襟を立て、ボタンをかける。雨が降って気温もさがったはずなのに、それでも東京が温かく感じられるのは、熱燗の日本酒と、夕子にあてがわれた防寒ジャケットのせいだろう。
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晴れていることはテントの色を見れば分かる。垂れ幕の隙間からも細い光がさし込み、空気には枯れ草の匂いが混じっている。椎葉は寝返りをうって薄目を開け、拾い物の置き時計で時間を確かめる。すでに十時をすぎ、裏の林からは麻雀パイの音が聞こえてくる。
昨夜は夜中の一時にテントへ帰りつき、靴とレインコートを脱いだだけで毛布にもぐり込んだ。あれだけ酔って、それでも自転車をこぎつづけたらしいから、人間の帰巣《きそう》本能というのは恐ろしい。
買い置きのボトルから目醒ましの焼酎を飲み、垂れ幕からの陽射しを眺める。太陽だけはホームレスにも公平らしく、鬱病ぎみの神経に生きる気力を与えてくれる。生きる気力には義務がつきまとい、椎葉も洗面と洗濯の義務を思い出す。
首のタオルで顔の脂をこすったとき、上着のポケットでケイタイが鳴る。
「もしもし、分かった」
「何がですか」
「時間さ。おれは昨夜君に、モーニングコールを頼んだらしい」
「冗談はいいですから、目を醒ましてください」
「もう起きて洗濯を済ませたところだ」
「そうですか、偉いですね」
「君は彼氏にでも逃げられたか」
「冗談は……いえね、椎葉さんの勘が外れたので、そのことのお報《しら》せです」
電話の向こうで夕子がため息をつき、疲れたように欠伸をする。
「聞いてますか」
「欠伸をしたのは君のほうだ」
「あ、ええと、それでですね、幹江の体内に残っていた精液のDNAと、小林容疑者のDNAが一致しました。ですから、古川という淫乱教師は事件に無関係です」
「そうか……意外な気もするが、当然のような気もする」
「これで小林の犯行は決定です」
「やつが自供を?」
「いえ、相変わらず、幹江なんて女、顔も見たことはない、と言ってるそうです」
「やるとき幹江の顔にタオルを被せた、という意味かな」
「とにかく今日の夕方には、身柄が渋谷北署へ移送されます」
「マスコミには?」
「朝からテレビのニュースでやってますよ。名前も素性も公表済みです」
「ふーん、警察も大した自信だ」
垂れ幕の隙間から外を見ると、なるほどテント村をとり巻いてマスコミらしい人間がたむろし、遊歩道から西門のあたりが人声でざわついている。
「しばらくまた近所が騒がしい。面倒なことだ」
「椎葉さん、美亜のほうの鑑定結果も出ましたよ」
「そっちの勘も外れか」
「そっちは当たりです。わたしとしてはそっちさえ当たってくれれば、文句はありません」
「安い日当だろう」
「経費も払ってるし臨時の出費もあります。昨夜だってお酒を飲ませたじゃないですか」
「まあ……で?」
「第一染色体のMCT一一八型という部分で鑑定したそうですが、それによると妹のいづみは両親からそれぞれ同じイントロンを受け継いでいて、間違いなく二人の子供です。でも美亜に吉成のイントロンはありません。イントロンというのは……」
「それぐらい知ってる」
「失礼しました。ですから、要するに、吉成が美亜の父親でないことが証明されたわけです」
「証明はされたろうが、ただそれだけのことだ」
「遺伝子をバカにしちゃいけません。第一染色体は人間を四百六十五通りに分類できるそうなんですが、美亜の染色体からは、父親側にも母親側にも共通の塩基配列が見つかりました」
「つまり、そっちは、浅香沙也子の勘が当たったわけか」
「そういうことですね。雅代、健司、満男は両親から共通の塩基配列を受け継ぎます。美亜の染色体の、父親側にも、雅代のものと同じ塩基配列が見られたということは、かなりの確率で、美亜の父親は健司か満男です」
「予想はしてたが、面倒なことに変わりはない」
「ああいう金持ちの旧家って、やっぱりグロテスクなんですよ」
「自分の価値観で他人を非難するな。岸本の兄妹にだって、なにかの理由はある」
「理由があれば何をしてもいいんですか。兄も兄だけど、雅代も雅代じゃないですか。平気な顔でそういう子供を生んで、それを別な男に育てさせて、椎葉さんがなんと言おうと、そういうのは人間のすることじゃありませんよ」
「その問題での議論はパスする」
「椎葉さんは価値観が不健全です」
「価値観の健全なホームレスがどこにいる。しかし、まあ、今のこと、美亜には内緒だぞ」
「わたしにもそれぐらいの常識はあります」
「うん、で、満男のことは?」
「満男のなんですか」
「十六年前に、日本にいたかどうか」
「そんなこと、ぜんぶ一度には調べられませんよ。捜査本部には十三人しかいなくて、それにこのことは上に報告もできないんですから」
「なあ、吹石くん」
「なんですか」
「今日は早退して休んだらどうだ。天気もいいし、部屋を片づけたり洗濯をしたり、そんなことでもストレスはとれるぞ」
「大きなお世話です。わたしはストレスが好きなんです。この二十八年間、ずっとこうやって生きてきたんです」
「目尻の小皺には気をつけてくれ」
「はあ?」
「昨夜しみじみ君の横顔を見たら、目尻に小皺が目立っていた」
「電話を切ります」
「うん、ご苦労」
「美亜の籍はまだ坂下のままでした」
「そうか。しかし本当に……」
言い終わる前に電話が切れ、椎葉はほっと息を吐いて、ケイタイをポケットにしまう。昨夜の夕子は渋谷北署へ泊まったのかも知れないし、多摩川署へ戻ったにしても、家へは帰っていないだろう。その労をねぎらってやろうと思ったのに、その前に夕子はなぜか、いつも怒ってしまう。環境ホルモンは女性の生理を狂わすというから、あの歳で夕子も、更年期障害が始まっているのか。
椎葉はもう一口目醒ましの焼酎を飲み、テントを這いだして背伸びをする。外には思った以上のマスコミがいて、遊歩道沿いから赤松の根方から、テレビ局のカメラクルーが幾組も集まっている。なかにはインタビューに応じているホームレスもいて、今日のワイドショーはさぞ賑やかなことだろう。
体操がわりに二、三度背伸びをくり返し、洗面道具をもって公衆トイレに向かう。小林さんのテント前に小林さんの姿はなく、センセイやスダくんの姿も見られない。久しぶりの好天に仕事への意欲を燃やしたか、それとも近所のテント村へ情報収集に出掛けたか。
トイレと洗面を済ませてから、帰りに小林さんのテントへまわる。部外者たちの視線が遠くから椎葉の背中を追い、空気にも不愉快な刺《とげ》が混じっている。ヤスオが幹江を殺したところで母親は無関係、被害者への謝罪だか社会への謝罪だか、そんなことで小林さんを苛めることに、なんの意味がある。マスコミは報道の義務や視聴者の知る権利を主張するが、都立高校に籍をおく売春婦がホームレス村に籍をおくバカに殺されたという、そんな事件のどこから、一般大衆が人生の教訓を得られるのだ。
小林さんのテントに声をかけ、少し待ってから、たれ幕を指で退《の》ける。狭いテント内は几帳面に片づいていて、二人ぶんの毛布と布団が隅に畳まれている。なかに小林さんの姿はなく、大きめの段ボール箱が一つだけ、茶の間の膳のように置かれている。小林さんに身を寄せる親戚があるとも思えないから、すでに誰かが逃がしたか。それとも警察が事情聴取に連行したか。
背後に化粧品の匂いがして、ふり向いた椎葉に中年女がなれなれしく笑いかける。
「おたく、こちらの関係者?」
「おたく、テレビの人?」
「そうなの。もしこちらの関係者だったら、インタビューをしたいんだけど」
「小林ヤスオはどんな生活をしていたか。おとなしかったか凶暴だったか、普段から女を襲っていたのか、いつかはこんな事件を起こすと思っていたか……そんなところかな」
「ええ、そう、そんなところね。画面に顔は出さないから、話を聞かせてくれない? なにしろここの人たち、インタビューが難しいのよ。話を聞かせてくれたら謝礼を払うから」
「謝礼?」
「ええ、一万円よ」
「残念ながら……」女の傍をすり抜け、女のほうは見ず、椎葉は自分のテントに向かう。「関係者ではないし、それに小林ヤスオは、ただ悲しい人間だったという、それだけのことだ」
女を残してセンセイのテントへ歩き、錠前のかかった板戸を確かめる。七輪やデッキチェアは段ボール製の物置に始末され、横のビニールロープには洗濯物が干されている。他のテントでもちらほら洗濯物が広がり、椎葉も自分の義務を思い出す。
テントに戻り、洗面道具を片づけて、かわりにポリバケツと洗濯洗剤をひき出す。風呂なんかに入ったせいで洗濯物の量が多く、タオルやらパンツやらTシャツやら、今日は大仕事になる。
洗濯の前に一服し、焼酎も補給して、ちょっとトメさんのテントをのぞく。トメさんはうつ伏せになって布団をはねのけ、暑いはずもないのに、ズボンを二十センチほどずりさげている。
「オヤジさん、小林さんのことで、相談があるんだけどな」
「………」
「なにしろこの騒ぎだ。ほとぼりが冷めるまで、どこかへ避難させたい」
「………」
「オヤジさん、川崎か横浜辺りへ……」
普段ならイビキで返事をするはずのトメさんが、寝返りもうたず、首も動かさない。ラジカセは電池切れでとまっており、枕元では湯呑と焼酎のボトルが倒れている。
椎葉は一分ほどトメさんの禿げ頭を見つめ、それからサンダルを脱いで、ビニールシートの座敷にあがる。うつ伏せの肩をゆすってみたが、反応はなく、頸動脈に指をあてる。動脈にも反応はなく、椎葉はトメさんの腋の下と膝のあいだに両腕をさし込み、柔道の技でその巨体を上向ける。トメさんの顔は白目をむいて半眼閉じ、酒焼けした皮膚は青黒く鬱血し、口から胸にかけては嘔吐物の染みがはりついている。すでに死後硬直も始まっているが、しかしそれを承知で、椎葉はトメさんの心臓部分に耳をあてる。五秒、十秒、二十秒、それだけの時間を待ってから、諦め、躰を起こしてトメさんの横に胡坐をかく。頭部や胸部に外傷はなく、苦悶の残った表情と顔の鬱血からみて、死因は心臓の疾患だろう。
椎葉は倒れているボトルと湯呑をひき寄せ、たっぷりと焼酎をついで、半分ほどを一気に飲む。焼酎は味もなく咽を流れ、消毒液のように胃壁を焼く。躰の内に熱が広がるのを待ってから、焼酎でトメさんの顔を洗い、開いている目を閉じさせて、ずれているズボンを腹の上に戻す。
椎葉がケイタイをとり出し、一一九をプッシュしたのは、トメさんと二人で一時間ほど酒盛りをした、そのあとだった。
「もしもし、代々木公園内で急病人です。たぶん心臓発作です。場所は公園の西門からなかへ入って、公衆トイレの手前を右に曲がったホームレスのテント。うしろにケヤキの大木が二本並んでいるし、ほかのテントの倍ほどの大きさだから、すぐに分かります。病人の名前はトメさんという通称以外に、詳しいことは分かりません……わたし? いや、わたしはただの、通りがかりです」
『岸本満男様。
私、妹さんの事件を担当しております、多摩川署刑事課の吹石巡査部長です。事件発生から半年以上が経過し、未だ解決に至らぬ状況をお詫びし、かつ遺憾の意を申し上げます。
さて今回の用件は、美亜さんの出生問題に関して率直なご返答をいただきたく、失礼を承知でお尋ねすることです。
私どもの捜査過程において、被害者ご家族のDNA鑑定を試みましたところ、美亜さんの父親が故吉成氏ではなく、貴兄あるいは長兄の健司氏であるという確信に至りました。この問題はご当家内部の問題であり、今回の事件に関連をもつか否かの即断はできかねますが、事件解明には重要な要素と思われますので、あえてお尋ねする次第です。
以下質問事項を要約いたします。
美亜さんの父親は貴兄か健司氏か。
雅代さんはどのような事情で美亜さんを生む決心をし、かつ吉成氏と結婚したのか。
吉成氏はどこまで事情を知っていたのか。また吉成氏側から、岸本家へ金銭その他、何らかの要求がなされたか。
雅代さんの結婚、美亜さんの出産に関して、当時岸本家ではどのように対応したか。
以上の質問について、貴兄の率直なお答えを期待いたします。またこの問題に関しては極秘事項とし、秘密の厳守をお約束します。事件解決のため、妹さんご一家の霊を弔うためにも、ご不興はまげて、よろしくご協力くださいませ』
打ちおわったパソコンの画面を睨んだまま、夕子はもう三本もタバコを吸っている。十六年前、雅代と吉成が結婚した当時、満男が日本にいたかどうか。そんなことは外部からでも調べられるが、夕子に閃いたのは満男に対する、この直接の質問だった。なんといっても満男はアメリカ在住、被害者の身内ではあるけれど、遠くから客観的に状況をみられる立場にある。武造や健司、それ以外の家族では証言をこばむ問題でも、満男なら口を開く可能性がある。
しかしなあ、そうはいってもこの質問は「あんたと妹は近親相姦だったのか、あんたでなければあんたの兄貴か。こっちはDNAという証拠を握ってるんだぞ」と脅迫しているわけで、無礼というより、倫理を踏み外している。いくら警察だからって、殺人事件の捜査だからって、こんな問題で他人を追及する権利が、自分にあるのだろうか。それに満男がいくらアメリカ在住だからといって、自分や家族の秘密、美亜の出生に関する秘密は、やはり守り通そうとするのではないか。
文面は打ちおわったものの、送信すべきか否か、判断のつかないまま夕子は四本目のタバコに手をのばす。事件発生当時、岸本の家族についても当然身辺調査をおこない、その結果捜査の対象から除外した。警察の手抜き捜査とは思わないが、夫婦の結婚過程に問題があると思い至らなかったのは、やはり詰めの甘さだったろう。いずれにしても捜査は八方塞がり、今回の事件は、異常な結婚がもたらした異常な結果なのか、非情すぎることは承知で、満男にこの質問をぶつけるしか方法はないのか。
タバコの煙を長く吹き、夕子は腕を首のうしろにまわして、肩の筋肉をやわらげる。昨夜は明け方近くまで渋谷北署に詰め、多摩川署に戻ってから婦警更衣室のベンチで二時間ほど仮眠した。夜が明けてからは新潟県警やら恵山大学法医学教室への連絡、幹江事件での情報収集やら溜まっていた日報の整理やら、雑用に追いまくられたのだ。それなのにあのホームレスときたら、「満男の調査はまだか」なんて偉そうなことを言う。向こうはただ焼酎を飲んで『独特の勘』とやらを働かせているだけ、いくら気楽なアルバイトでも、少しは現役刑事の身になってもらいたい。それに目尻の小皺がどうとかなんて、まったく、あんたに言われる筋合いじゃないわよ。
「吹石くん、私はなにも言っとらんぞ」
「あ、いえ、その……」
「目尻の小皺がどうかしたかね」
「いえ、今のは、一人ごとです」
いつの間にかうしろに立っていた中村警部が、くわえタバコのまま、しょぼついた目で夕子のパソコンをのぞき込む。どうせ細かい文字は見えないはずで、夕子も慌てる必要はなく、短くなったタバコを灰皿につぶす。そのときになってやっと吸殻の本数に気づき、口のなかで思わず、ちっと舌打ちをする。
「おいおい、私がいくら黄昏警部でも、そう邪険にせんでくれよ」
「そういう意味では……その、申し訳ありません」
「君が疲れてるのはよく分かる。昨夜は渋谷の事件で大変だったらしいなあ」
「ただ結果を待っていただけです。容疑者は今夜にでも渋谷北署へ移送されるそうですから、それで向こうの事件は解決です」
「笹野くんが羨ましいなあ。こっちの事件でも指紋や精液が残っていて、そいつがまた前科者のリストと一致してくれるとか、そういう幸運はないものかね」
「愚痴はやめましょう。地道に捜査をしていれば幸運にもめぐり合います」
「君は若くて有能で、しかも男嫌いという才能がある。だけど私はもう来年が定年だよ。今度の事件でミソをつけるようだと、再就職もおぼつかん」
中村の定年と夕子の男嫌いに、なんの関係がある。それに『男嫌い』というのもまわりが勝手に言うだけで、夕子だって恋愛や結婚に夢はある。問題はこの警察に、夕子の夢をかなえる男がいないだけなのだ。
「おう、それはそうと……」夕子の灰皿でタバコをつぶし、ミイラと人間の中間のような顔から、中村がにやっと歯をむき出す。「笹野くんからも連絡があったが、吹石くん、向こうの事件に、すごい貢献をしたそうだなあ」
「さあ、どうですかね」
「謙遜せんでもいいよ。小林とかいう容疑者の潜伏先を、君が教えてやったそうじゃないか」
「たまたまですよ」
「たまたまそんな大ネタを、かね」
「代々木公園で休んでいて、たまたまホームレスの話が耳に入っただけです。地道に働いていれば、そういう幸運もあります」
「羨ましいなあ。笹野くんも羨ましいが、君も羨ましい。羨ましいついでにこっちの事件でも、なにか幸運を発揮できんかね」
「そんな簡単に……」
タバコの箱に手をのばしかけ、その手を途中でとめて、夕子はパソコンの画面を見つめる。椎葉には「自分の立場を大事にしろ」と言われ、夕子もそれぐらいは考えるが、今のところ羽田事件の突破口はこの『異常結婚問題』しかないのだ。
「中村さん」
「おう、犯人の名前でも閃いたかね」
「閃きかけました」
「また美亜という娘のことを……」
「岸本健司の身辺を、再調査したいと思います。捜査本部として、中村さんから、正式な指令を出していただけませんか」
「岸本健司……」
中村の皺深く落ちくぼんだ目に、なにかの光がざわめき、柄の分からないネクタイが貧相な胸で、ぶらりとゆれる。
「岸本健司といえば、坂下雅代の実兄ではないかね」
「はい」
「あのとき調べて、多少兄妹仲は悪かったが、事件当夜のアリバイを奥方が証言した」
「奥さんがご主人を庇《かば》った可能性もあります。それに夜中なら、こっそり家を抜け出すこともできます」
「だからといって被害者の実兄を……」
「健司は、たぶん、美亜の父親です」
「美亜……」
中村のネクタイが夕子の鼻先をかすめ、夕子はくしゃみをして、タバコに手をのばす。
「おいおいおい、吹石くん、それは君の、たんなる勘かね」
中村がとなりのデスクから椅子をひき出し、夕子のデスクに寄せて、前かがみに座り込む。まだ六十前だというのに、その背広から老人臭がにおう。夕子はタバコに火をつけ、煙を深く吸って、中村の老人臭を追い払う。
「ただの勘ではなく、DNAの鑑定結果です」
「分かるように説明してくれよ」
「ヤンキーの姉ちゃんじゃあるまいし、雅代のような家庭環境の女が、二十歳で子供なんか生むものでしょうか」
「うーむ、それは、状況によりけりだ」
「それならどんな状況にあったのか、そのことが知りたかったわけです。それで念のため、被害者一家のDNAを調べてみました。詳しいことは省きますけど、吉成と美亜に血縁関係はなく、可能性として美亜の父親は健司か弟の満男ということが分かりました」
「そりゃまた、吹石くん、本当かね」
「恵山大学の法医学教室から鑑定書が出ています」
「そんな鑑定書、私のところには届いてないぞ」
「わたしの独断です」
「うーむ」
「ですからあの被害者家族は、これまで警察が考えていたような健全で善良な一家ではなく、なんというか、ちょっと、異常な家族なわけです。その観点から事件の構図を考えると、どうしても雅代の兄弟が出てきます。弟の満男はアメリカ在住ですから、残るは健司だけ、事件の本質は健司と雅代の愛憎劇だった可能性があります」
中村の窪んだ眼窩《がんか》の奥で、目が動かなくなり、皮膚でも汗ばんだのか、ふとその老人臭が強くなる。
「吹石くん、君は自分の言ってることが、分かってるのかね」
「言ってるのはわたしではなく、遺伝子です」
「そういう議論は……しかしまあ、君の調べたことが正しいとする。そして兄の健司が事件に関わっていたとする。だがこのことの証明は難しいぞ。なにせ被害者だけでなく、生き残った美亜の人権問題も出てくる。あの小娘に出生の秘密を知らせずに、どうやって岸本の家族を調べるんだ」
「中村警部の経験に期待します」
「そうはいうが、もし美亜が事実を知ったら、彼女の人生は破壊されるぞ。君はあの小娘が嫌いらしいが、だからといって、子供に地獄を見せていい理屈にはならん」
「わたしに判断をする資格はありません」
「判断するのは私、か」
「捜査の責任者ですから。それともこの問題は、無かったことにしますか」
「できればそうしたいところだが……」
「ほかに糸口はありませんよ」
「しかし、外にもれたら大スキャンダルになるぞ。美亜個人にとってはもちろん、岸本の家族全員が世間のさらし者だ。あの病院だって、存続は難しくなるだろう」
「そのかわり事件をうまく収めれば、中村さんの再就職は安泰です」
「うむ?」
「岸本家では中村さんに感謝して、高給で警備主任に迎えるでしょう」
「うーむ、しかし、なあ?」
「かりに健司が犯人だとしても、表向きは一般的な精神錯乱で処理できます。そうすれば満男が帰国して院長の座につき、中村さんは高給取りの警備主任、万事まるく収まりますよ」
「そんなにうまく事が運ぶか……とはいうがまあ、これはたしかに、調べんわけにはいかん。どこで思いついたのか知らんが、君もとんだ情報をもって来てくれたなあ」
前にかがんでいた中村の背中が、ゆっくりとうしろに引かれ、その頬に皮肉っぽい笑いが戻る。夕子はタバコをつぶして湯呑をとりあげ、しゅっと茶をすする。椎葉には『軽率』と叱責されるかも知れないが、状況の打開にはこういう博打《ばくち》も仕方ない。中村に下駄の半分をあずけた以上、こうなったらもう、なるようになれ。
「吹石くん」
「はい」
「美亜の出生に関しては、当分二人だけの秘密にしておきたいなあ」
「わたしもそのつもりです」
「捜査員に箝口令《かんこうれい》をしいたところで、情報というやつは、どこかからもれる」
「はい」
「それでだ、君ならまず、どこから手をつけるね」
「健司のアリバイ崩しでしょう」
「具体的には?」
「阿佐ヶ谷の自宅付近と、羽田の現場付近にもう一度聞き込みをかけます。健司のクルマは調べれば分かります。まさかタクシーに乗ったはずはありませんから、漠然と聞き込みをかけるのではなく、車種を絞って調べれば結果が出るはず。特に重要なのは阿佐ヶ谷ですね、事件当夜の午前一時ごろ、あの家から出ていったクルマはなかったか、そして四時前後に帰ってきたクルマはなかったか。四時なら早い新聞配達が働いています。羽田のほうに目撃者がなくても、阿佐ヶ谷で出てくれば健司のアリバイは崩れます」
「うむ。ここの刑事課長に、また十人ほど応援を頼もう。たとえアリバイが崩れなくても、付近の聞き込みで圧力をかければ、向こうから動きだすかも知れん。捜査員たちにはたんに、健司の再調査ということにしておく」
中村が小さい目を鈍色《にびいろ》に光らせ、くたびれた背広の腰を、ゆらりともちあげる。友愛会病院への再就職を本気で考えたにせよ、刑事としての本分に目覚めたにせよ、そんなこと、夕子の知ったことではない。
「今日の夕方、とりあえず捜査員に招集をかけるがなあ」通路の側へあとずさり、上着のポケットからタバコをとり出しながら、中村が皺顔の目を細める。「君は夕方まで、どこかで休んできたらどうかね。日報なんかあと回しでいい、いくら若くても、男とは体力がちがうんだから」
中村が背中を向け、枯れ木が揺れるように、遠くのデスクにいる刑事課長のほうへ歩きだす。夕子は音に出して欠伸をし、椅子に座りなおして茶を飲みほす。中村に半分下駄をあずけたのは、やはりまずかったか。「美亜のことはおれに任せろ」といった椎葉の言葉を、もう少し尊重すべきだったか。
でもなあ、もうサイコロは振ってしまったし、今さら中村への提案はとり消せない。捜査のどこかで、けっきょく美亜も出生の秘密を知ることになるのか。その部分だけ隠して事件を解決できるのか。もし美亜が母親とその兄弟の子供であると知ったら、これからの美亜に、どんな人生が待っているのか。
まあね、たしかに軽率ではあったけど、振ってしまったサイコロは戻らない。美亜のことは美亜のこと、事件は事件、中村に言われたとおり、今日はこれから自分の部屋までタクシーを飛ばし、洗濯をして部屋でも片づけて、熱い風呂に入って夕方まで寝てやるか。そういえば電話で、椎葉もそんなことを言ってた気がするが、だけどなあ、他人にそこまで心配されるほど、目尻の小皺は、本当にふえているのかしら。
夕子はこめかみに当てた人さし指をくるくる回しながら、パソコンのアドレス帳に満男のメールアドレスを検索し、その部分をクリックして、慎重に『実行』キーをプッシュする。
友愛会病院の自転車置き場にママチャリをとめ、一口焼酎をなめる。傾きはじめた陽射しが玄関わきの植え込みを明るくし、葉を落とした桜がクルマ寄せにまで影をひく。外来診療は盛況らしく、自動ドアの玄関を患者たちが頻繁に出入りする。
椎葉は焼酎のボトルをレインコートのポケットに戻し、帽子の庇《ひさし》を深くして玄関に歩く。この直前に自宅側へ電話をし、副院長の在院は確かめてある。もし健司が面会に応じなかったら、面倒なことではあるが、また夕子に何かの口実を見つけさせることになる。
玄関からロビーに入り、待合室を抜けて正面のカウンターへ向かう。カウンターには『外来受付』『投薬』『料金精算』と三つの案内札が出ていて、椎葉は『外来受付』の若い女に声をかける。
「副院長の岸本健司先生にお目にかかりたい。妹さんの事件に関係した用件、と伝えてもらえば、時間をとってくれるはずだ」
受付の女が背中を突かれたように顔をあげ、メガネの向こうで目を見開く。
「あのう、ええと、そちら様は」
「名前は椎葉というんだが、言っても分からないさ。美亜さんに雇われた私立探偵とでも伝えてくれ」
女が椎葉の風体に見入っていたのは、十秒ほど。目深に被った帽子に汚いレインコート、また生えはじめた不精髭に首のタオルといういで立ちが、果して私立探偵に見えるものなのか。しかしどうやら「精神科の患者ではない」とだけは理解したようで、横目で椎葉の顔をうかがったまま女が内線電話をとりあげる。
「受付の斉藤です。今こちらに……」
「椎葉だ」
「ええと、チーバ様と仰有る……」
「椎葉、椎の木のシイに、葉っぱのバ」
「シイバ様と仰有る……」
「私立探偵」
「その、私立探偵の方がお見えになって、ええと、妹さんの件でお話があるとか」
「美亜さんに雇われた私立探偵だ」
「え、あ、その、美亜さんにお雇われになった私立探偵だとか……いえ、私にはそこまで……でも、ええ、はい、分かりました。ではそのように」
受話器をカウンターの下に戻し、女が大手術でも終わらせたように、ほっと息をつく。
「お待たせしました。シイバ様、一階のいちばん奥の、院長室までお越しください」
女に背を向け、女の視線に見送られて廊下を奥へ歩く。内科と整形外科の外来診療室、ナースセンター、配膳室、事務室を通りすぎ、つきあたりにある『院長室』のドアをノックする。男の声で返事があり、ドアを開けて内に入る。
院長室は十畳ほどの広さで絨毯《じゆうたん》敷き、壁の一面全体にマホガニーのキャビネットが据えてあり、ゴルフトロフィーや九谷焼の大壺や自然石の置物が並んでいる。その上の壁には額縁に収まった感謝状や種々の写真類、記念写真には何期か前の総理大臣が写っていて、白髪の老人と笑顔で握手を交わしている。副院長の健司は五十前後だから、老人は院長で父親の武造だろう。院長室を健司に明け渡し、武造の院長はすでに名目だけらしい。
椎葉にソファをすすめた健司はビヤ樽体型の赤ら顔、量の多い髪も半分ほど白く、締まりのない躰を糊のきいた白衣で包んでいる。目は他人を威嚇《いかく》するようなどんぐり眼《まなこ》で、黄色っぽい白目が何かの病気を思わせる。白衣の袖にのぞく手だけは繊細で小さく、その少女のような白い手と肉厚な赤ら顔に不気味な違和感がある。
向かいのソファに深々と座り、風体から相手の疾病《しつぺい》を見抜こうとするような目で、健司がじろじろと椎葉をねめまわす。
「私立探偵とはねえ、美亜も奇妙な人間を雇ったもんだ。それで、事務所はどこに構えているんだね」
「もぐりの探偵ですよ。多少裏側の社会に通じているので、地を這うように糊口《ここう》をしのいでいます」
「なるほど、そういうレインコートを着ていれば、地を這うのに便利だろうねえ。まあ、美亜のような娘とはお似合いだ」
通常なら名刺交換の場面なのだろうが、健司はその気配を見せず、もちろん椎葉にも名刺の用意はない。二度と会いたい男ではなく、そしてそれは、健司にしても同じ気持ちだろう。
「で、美亜に雇われたというが、具体的には何をするつもりだね」
「事件の解決です」
「そんなことは君、警察が一生懸命やってるよ。アメリカの探偵小説じゃあるまいし、素人が口を出す問題ではないだろう」
「事件が解決しては、都合がお悪い?」
「冗談はやめたまえ。私だって大事な妹と姪を殺されたんだ。あの事件では誰よりも心を痛めてるし、事件の解決が遅いことに苛立ってもいる。しかし最近はマスコミの騒ぎもおさまって、やっと我々の生活も落ちついた。こういうとき部外者に、つまらん騒ぎは起こされたくない。それぐらいの理屈は君にも分かるだろう」
健司が白衣のボタンを外して足を組み、上からのしかかるように、ぎょろりと椎葉の顔を見おろす。必要なら権力も金も使えるぞと、その肉厚顔が暗黙に物語る。
「ですが、副院長先生……」
茶やコーヒーが出る様子はなく、椎葉はパッケージ入りのタバコをとり出して、ゆっくりと火をつける。
「わたしとしても美亜さんに雇われた以上、調査の義務がある」
「私には君に義務があるとは思えんね。美亜は十六歳の高校生で、そういうことの契約には保護者の承認が必要だ。私が承認しないかぎり契約は成り立たず、したがって君にも義務は生じない」
「副院長先生が、彼女の保護者に?」
「言わずもがなだよ」
「そうですか。彼女の籍が今でも坂下のままだというのは、わたしの調査ミスですか」
「うん? いや、それは単に、まあ、手続き上のことだ」
「美亜さんは雇い主であると同時に、個人的な友人でもある。調査はわたしの彼女に対する友情です」
「変わり者同士、仲がよくて結構なことだ」
「籍のことは?」
「それは、だから、単に手続き上の問題だよ」
「事件から半年もたっています。それに吉成氏だけ岐阜へ納骨したということは、岸本家が坂下家との縁を切ったことになる。当然美亜さんの籍は、岸本家に入れるべきでしょう」
「そんなことは親父に聞きたまえ」
「と、いうと?」
「私としては美亜を養女にすることに、問題は感じてない。姪でもあるし、世間体からいってもそれが当然だ」
「そのことにお父上が反対を?」
「年寄りの妄執というのは、とかく手に負えんものでなあ。なにを考えているのか、私にも分からんよ。早く籍を決めてやらんと、美亜だって居心地が悪かろうに」
健司のぎょろりとした目に困惑の色が広がり、赤ら顔に一瞬、気弱そうな笑いが浮かぶ。「単に手続き上の問題」と言いながら、美亜の籍に関しては健司に、なんらかの弱みがある。
椎葉はタバコを灰皿につぶし、壁の写真を観察しながら、生欠伸をかみ殺す。
「端的にお訊きしますが、先生と雅代さんは彼女の生前、非常な不仲だったとか」
「いや、それは……」健司が首まわりの贅肉を波うたせ、腹を撫でながら足を組みかえる。「世間には仲のいい兄妹もいるし、仲の悪い兄妹もいる。そういうことはそれぞれ、家庭の事情によるものだよ」
「その家庭事情とは?」
「君には関係のないことだ。今度の事件にだって、もちろん関係はない」
「美亜さんは事件の犯人を、先生だと告発しています」
「な、なんだと?」
健司のぎょろ目が倍ほどの大きさにむき出され、赤ら顔にも赤みが増して、首の肉がふるえて呼吸が荒くなる。腹の前では小さい手が拳になり、白衣の肩がクジラのように盛りあがる。
椎葉に掴みかかるかと思った瞬間、健司の肩から力が抜け、顔から血の気がひいて、目の光も弱くなる。
「君なあ、そんな戯言《たわごと》を、信じたわけじゃあるまい?」
「さあ、どうですか」
「自分の姪を貶《おとし》めたくはないが、美亜は頭のネジが外れてるんだ。あの事件があったとき、私も警察に調べられた。その結果無関係であることは証明されてる。それを今さら美亜の告発がどうのこうの、君も見かけ以上に非常識な男だ」
「これも家庭の事情です」
「君の家庭なんか知らん。だが美亜の戯言を信じるなんて、いくらなんでも、大人げがなさすぎる」
「ロリコンなんですかね」
「ふん、なんだか知らんが、あの娘は子供のときから嘘つきなんだ。嘘つきで反抗的で無気力で、岸本家全体のもて余し者だ。うちの病院に精神科があれば、とっくに隔離入院させてるよ」
「彼女のその性格も、やはり家庭の事情でしょう」
「人間には知性も意志力もあるんだよ。不幸をすべて家庭環境のせいにするのは、負け犬の発想だ」
「わたしに言わせれば、それは、あなたの責任回避です」
「聞いたようなことを言うな。私の責任回避だと? 雅代だって名門出の医者と結婚できたのに、つまらん男を選んで岸本の家名に泥を塗った。それだって妹が幸せになるならと、精いっぱい我慢したんだ。美亜みたいな不良娘も、本当は坂下の家に押しつけたかった。それを親父のわがままをきいて家にひきとった。ここまで誠意を尽くしてる私の、どこが責任回避なんだね」
「あなたが美亜さんの幸せを考えないこと、世間体で他人を非難すること、大病院の院長室にビヤ樽のようにふんぞり返ってること、そういうことのすべてが、責任回避なんですよ」
健司の視線を手のひらで押し返し、椎葉は我慢していた焼酎をとり出して、咽に流す。健司の小さい手が白ネズミを連想させ、椎葉の胃を不愉快にする。
「椎葉くん、君は私に、言いがかりをつけに来たのか」
「単なる事件の調査です」
「それなら用は済んだろう。私から君に話すことなんか、なにもない」
「まだ答えを聞いていませんが」
「答え?」
「あなたが三人を殺した犯人なのか」
「おい、君、脅迫するというなら、警察を呼ぶぞ」
「あなたが犯人でなければ否定すればいい」
「ばかばかしくて、怒る気にもならんな」
「そうですかね。しかし美亜さんがあなたの子供だという事実は、笑って済まされない」
健司の腰が浮き、その開いた口に、舌の先が赤黒くのぞく。むき出した白目の部分には血管が走り、大きく吐いた息に口臭が強くなる。限度を超えた肥満体や血圧の高そうな顔色からして、この男は医者のくせに、健康の管理が悪いらしい。
「きさま、本当に、警察を呼ぶぞ」
「そうやって岸本家の恥を世間にさらしますか」
「名誉棄損で訴えてやる」
「穏便に済ませたくないというなら、勝手にすればいい」
「なんの証拠があって……」
「DNAですよ。美亜さんの遺伝子には近親交配の記録が残っている。わたしを名誉棄損で訴えれば、裁判の過程でDNAの再鑑定が必要になる。そうすれば彼女の父親があなたか、弟の満男さんか、いやでもはっきりする」
腹を押してやれば胃を吐き出しそうな顔のまま、健司の巨体がソファに崩れ、酸素でも不足しているように荒く息をあえがせる。心臓発作か脳溢血か、このまま死んでくれれば、美亜も幸せになるだろうに。
椎葉はレインコートのポケットに慣れた吸止を探し、とり出して、火をつける。飛びかかって健司の首を絞めてやりたい衝動を、タバコの煙でまぎらわす。
しばらく息をあえがせてから、健司が額を白衣の袖でぬぐい、居住まいを正して咳払いをする。
「君はなぜ、遺伝子なんか調べたんだね」
「もぐりでも一応は探偵です」
「本当に、調べたのか」
「人間を四百六十五通りに分類できる第一染色体のイントロンに、美亜さんは両親から岸本家に共通した塩基配列を受け継いでいる。かんたんに言えば……」
「いや、いや、分かった。それで……いくら払えば、手をひいてくれるんだね」
「さあ」
「百万か、二百万か?」
「わたしは美亜さんに雇われた探偵です。事件を解決したら、彼女の全財産をもらう約束になっている」
「ぐ、愚にもつかん」
「もちろんわたしはロリコンですから、彼女のためならただでも働く。とかく非常識な人間というのは、扱いにくいもんです」
「しかし、事実を公表すれば、美亜本人も破滅するんだぞ」
「あなたや岸本家が道連れなら本望でしょう」
「む、無茶を言わんでくれよ。私にもアメリカの弟にも、それぞれ家庭があって子供がいる。君は子供たちの将来まで葬ろうというのか」
「子供には、誰だって、幸せになってもらいたい。あなたたちの子供に権利があるように、美亜さんにも幸せになる権利がある」
「つまり、その、あれか?」
「あれでしょうね」
「つまり、私が美亜の権利を守ってやれば、事実の公表はしないと?」
「おたくの家庭事情なんか、わたしには他人事です。誰が誰と寝ようと、その結果誰の子供が生まれようと、知ったことじゃない。遺伝子という設計図によって生まれて来ても、生まれてしまったら、その人生はもう本人のものだ」
「そういうことなら、椎葉さん、私はこの場で約束する。一日も早く美亜を私の籍に入れ、彼女が成人して自分の生き方を選ぶまで、どんな面倒でもみる。口さがない世間の雑音からも私が守ってやろう。日本に住みたくないというなら、アメリカでもヨーロッパでも、好きなところに留学させる。それからもちろん、君への謝礼も考える。美亜にとっても君にとっても、これ以上の条件はないだろう」
「要するに……」
「話はここまでだ。椎葉さん、誰が誰の子供であろうと、そんなことは他人に関係ない。君がこれ以上のトラブルを起こそうというなら、私にも覚悟があるぞ」
「わたしを殺すと」
「岸本の家は守るだけの価値があると、そういう意味だよ」
「そうですか。守る家のない人間には見当もつかないが、そちらにはそちらの事情がある。せいぜい頑張ってもらいましょうか」
火のついたままの吸止を灰皿に放り、帽子を被りなおして、椎葉は腰をあげる。岸本家の誰に恨みがあるわけではなく、誰を破滅させたいとも思わない。健司が椎葉にとって不愉快な人間だからといって、この世に不愉快な人間なんか、腐るほどいる。
「お邪魔をしました。これからも事件の調査はつづけますが、先生に毒を盛られないよう、わたしも気をつけますよ」
座ったままの健司を残して、絨毯の上を歩き、ドアを押して院長室を出る。美亜の告発が的を射ているのかどうか、健司の顔を見ただけでは分からない。しかし医者でありながら自分の健康を管理できない人間には、自分の狂気を管理できない可能性もある。
廊下をロビーに歩きながら、椎葉はちびりと焼酎を飲み、清潔な白衣で行きすぎる若い看護婦を眺める。看護婦は若くて健康的でそこそこに美しく、人間の死を悪意もなく否定する。こんな病院で儀式的な死を迎える人間もいれば、ビニールテントの下で誰にも知られず、ただ野たれ死ぬ人間もいる。
さっきより日はいくらか傾き、青梅街道のクルマも多くなって、玄関前では桜の影も長くなる。椎葉は大きく背伸びをして吸止に火をつけ、くわえタバコで自転車置き場へ歩く。背中や腋の下が痒いのは院長室の暖房がきいていたせいで、やたら風呂なんかに入るから眠っていた皮膚ダニも目を覚ます。なんの因果でこんな探偵稼業を始めたのか、素直にリヤカーを引いていればよかったものを、しかしトメさんがいなくなった今、どうやって来年の春を迎えるか。
タバコを足元にすてた椎葉の目に、美亜の姿がまぎれ込む。美亜は建物とブロック塀のあいだから顔を出し、金髪の頭をかしげながら小走りに歩いてくる。黒い丸首セーターにストレートのジーンズ、顔は相変わらず青白く、知らなければ白人の小学生が走ってくるように見える。
椎葉の目の前で素足のゴムサンダルを停止させ、美亜が五回ほど、うすい胸で深呼吸をする。たいした運動量でもないだろうに、普段の生活が不健康なのだろう。
「ふーん、奇妙なところから出てきたな」
「裏に通用口があるんだよ」
「君の部屋からおれが見えたのか」
「健司オジが電話してきた」
「ああ、そうか」
「椎葉というやつを探偵に雇ったのかって」
「それで?」
「言ってやったよ。警察がバカだから、犯人はあたしが探すってね」
「伯父さんは怒ったろう」
「あいつはいつも怒ってるよ。怒ればあたしが言うことを聞くと思って、感性が下品なんだよ」
「君も若いのに、苦労が多くて大変だ」
「家族が一度に殺されたんだもの、それぐらい仕方ないよ。だけどあんた……」
椎葉の胸に華奢な肩を寄せ、指で前髪をかきあげながら、美亜が生意気な形に顎を尖らせる。
「本当にあたしの味方なんだね。嘘をつかない大人なんて、初めて会ったよ」
「君の魅力には逆らえないさ」
「あんたが約束を守ったから、あたしも約束を守る」
「うん? ああ、だけど今日も、風呂には入ってない」
「それはあとでいいよ」
「まあ、そうだな」
「健司オジは、なんだって」
「自分は犯人じゃないってさ」
「あいつ、嘘つきなんだよ」
「伯父さんも君に対して同じ意見をもっている」
「あんた、どっちの味方なのよ」
「君の味方でなければ伯父さんに会うと思うか」
「だって……」
「伯父さんだって背中に『私は殺人犯です』と書いた看板は背負ってない。おれも超能力者ではないし、一度顔を見ただけでは分からない」
「やっぱりあたしの言うこと、信じてない」
「一人の人間を殺人犯として告発するには、礼儀が必要だ。そいつが自分の敵でも、いやな奴でも、人生に対しては礼儀を払う必要がある。おれを探偵に雇ったのなら、おれのルールに従え」
「なんか……」
「なんだ」
「雇ったのはあたしなのに、あんたのほうが偉そうに言うなんて、なんかヘンだよ」
「問題は愛と信頼さ。おれは君を信じてるし、犯人は必ず見つける。つべこべ言わずに、お祖父《じい》さんのウィスキーでも飲ませてくれ」
美亜がシャックリを思いとどまったような顔で肩をすくめ、目で椎葉を促しながら、ゴムサンダルの向きを変える。
「ねえ、そういえば幹江を殺したやつも、捕まったね」
椎葉は美亜に肩を並べ、帽子の下でうなずく。
「新聞に出てるか」
「テレビでもやってるよ。ワイドショーなんか大騒ぎ、あんたのテントも映ってた」
「東京で一番の高級住宅地だ。あれで家賃がただなんて、信じられないだろう」
「あたしに言わせれば趣味が悪いよ」
「今日は洗濯物を干したからな」
「ちがうよ、テントの色だよ」
「ふーん、どうして」
「場所とテントの青い色が似合わない。モスグリーンとか枯れ葉色とかにすれば、お洒落になるのに」
「テントの色までは気がつかなかった。今度ホームレスの全体集会があったとき、おれが環境委員として提案しよう」
ワイドショーのリポーターやテレビクルーや、制服警官や救急車のサイレンや、そんなものがずいぶん昔のことのように、椎葉の記憶をかすめ去る。
「君が昨日村に来たとき、布袋《ほてい》様みたいなオヤジがいたろう」
「うん、先祖は琉球の王様だって」
「それは……とにかくあのオヤジが今朝、死んだ」
「うっそーっ」
「おれが自分で確かめた」
「だって、でも、どうして?」
「心臓発作だろうが、発作というより、前から悪かったのかも知れない。ホームレスが一人死んだからって、君には関係ないけどな」
美亜が一瞬足をとめ、しかし何も言わず、またふて腐れたように歩きだす。ビルの隙間から細い西日がとどき、美亜の首筋にビーズのネックレスを光らせる。
「ねえ、ホームレスって、死んだらどうなるの」
「東大病院で解剖の実験に使われる」
「それから?」
「谷中の無縁墓地に葬られる」
「可哀そうだね」
「可哀そうだな」
「祖先は琉球の王様なのに」
「あのオヤジも本当は、沖縄へ帰りたがっていた。でも家族がいるから、帰れなかったらしい」
ブロック塀と建物のあいだを通りすぎ、敷地の裏手に出る。屋敷部分と病院の敷地もブロック塀で区切られ、そこに一カ所、白い鉄の門扉が嵌まっている。健司たち病院の関係者は普段、この通用口から自宅と病院を行き来するのだろう。
美亜が先に立って敷地を自宅側へ入り、裏庭から玄関へまわる。二階建ての古風な洋館は羽目板にペンキが塗られ、正門側から見えない部分にはアルミサッシが嵌まっている。通常の二階家より屋根が高く、敷地の西角には屋根だけのオープンガレージが見える。四、五台は駐車できそうなスペースに、今は白いベンツが一台だけとまっている。
樫材の重いドアを開け、うそ寒い玄関に入る。高い天井に広い沓脱《くつぬぎ》、あがり框《かまち》にはペルシャ絨毯が敷かれ、スリッパ立てには十足ほどの冬用スリッパが並んでいる。
美亜が黄色いスリッパに足を入れ、椎葉に客用のスリッパをあてがう。椎葉の脱いだ作業靴はまるで汚物のようで、椎葉自身、思わず苦笑する。美亜も椎葉の靴に目をやったが、コメントはせず、薄暗い廊下を奥へ向かう。家政婦も含めて七人の人間が暮らしているはずなのに、屋敷に人の気配はなく、家事の物音も聞こえない。あがり框のすぐ左手にはソファを配した客間、廊下のつきあたりが二階への階段で、その手前にダイニングルームや使用人部屋があるらしい。
「誰もいないよ。吉田さんはお使いに行った」
「吉田さん?」
「家政婦の人」
「ああ、そうか」
「志津子オバは旅行」
「ふーん」
「秀一と美奈は学校だけど、どうせ帰りは遅くなる」
「お祖父さんは?」
「書斎、まだ生きてればね」
階段をのぼりきったところに二坪ほどの踊り場があり、その横にトイレと洗面所、廊下は東から西につづいていて、両側に五つのドアが並んでいる。階下にも相当の部屋数があるから、その気になれば二、三十人は暮らせる間取りだろう。堅板の廊下は顔が映るほど磨き込まれ、漆喰《しつくい》の壁には富士山の風景画が飾ってある。
美亜が廊下をつきあたりまで歩き、ジーンズのポケットから小さい鍵束をとり出す。そのドアには真鍮《しんちゆう》色の南京錠がついていて、薄暗い廊下に不似合いな光を放っている。他のドアに錠や鍵穴は見えないから、南京錠は美亜個人の主義だろう。引き取った小娘がこんなふうに露骨な拒否感を示せば、健司でなくても罵ってみたくなる。
南京錠を外し、掛け金をどけて、美亜がドアを内側に押し開ける。
「入っていいよ。あたしはお酒をもってくる」
椎葉の尻をドアの内に押し、美亜が階段のほうへスリッパを鳴らしていく。椎葉は戸口に立ってしばらく部屋を見わたし、床に胡坐をかいて吸止をくわえる。廃校の教室を思わせる広い部屋にはスチールのベッドが一つだけ、嵌め込み式の木製ロッカーがあって、あとはテレビやプラスチックケースが壁側に積んである。半年も暮らせばもう少し生活感が出そうなものを、これではトメさんのテントと変わらない。美亜が手土産をもって代々木公園を見学に来たのは、気分としては本気だったのか。
古い木の床に灰皿を探していた椎葉の目が、座卓の上に色彩の氾濫を見る。座卓自体は合板の安物だが、その上にのっている一メートル四方ほどの厚板には、クズ宝石をばらまいたような光が溢れている。
椎葉は座卓の下から吸殻のたまった灰皿をひき出し、吸殻を自分のポケットに始末して、吸止の火を灰皿につぶす。
「ふーん、なるほど」
厚板にちりばめられた色彩の氾濫を眺め、思わず一人ごとをいう。青、赤、黄、白にピンクに黒に乳灰色に、それら細かいビーズ玉で表現されているのは、家と牧場とそれをとり巻く川や森の風景。山小屋ふうの家の屋根は赤と茶のビーズが配色され、家のポーチ、牛囲いの柵、その横を流れる小川から森の木々や草花、くわえて牛やアヒルやトラクターまでが指先ほどの大きさで立体造形されている。それらすべてが細かいビーズの組み合わせで、小さい西窓から射す光に魔法のような色彩をきらめかす。見ているだけで目まいがしそうだが、しかしその風景のなかに、人物は見当たらない。
廊下に足音がして、美亜が部屋に入ってくる。手にはオールドパーのボトルとクリスタルのグラス、それにサラミソーセージが一本握られている。
椎葉のとなりに膝を崩し、美亜が床にもってきた物を置く。
「これでいい?」
「うん、ホステスも美人だし、勘定が高そうだな」
「ぜんぶ飲んでいいよ」
「お祖父さんはまだ生きてたか」
「生きてたよ。書斎で本を読んでる。病気になってからは書斎で寝てるんだけどね」
美亜がボトルのキャップをまわし、グラスに溢れるほどウィスキーをつぐ。スダくんにナポレオンをふるまわれたときも感動したが、この琥珀色とこうばしい匂いはいつもながら心の平和を約束する。夕子には居酒屋で接待されるし、毎日こんな贅沢ができるならアルバイト探偵も、悪くない。
グラスをとりあげ、咽と食道をたっぷり焼いてから、椎葉は帽子を脱いで首のタオルをゆるめる。
「なあ、お祖父さんは、どこが悪いんだ」
「老衰だよ、もう七十八だから」
「七十八でも元気な年寄りはいるさ」
「肝臓とか腎臓とか、よくは知らない」
「あの事件が起こるまでは元気だったろう」
「お祖父ちゃんはお袋の味方だったから、ショックを受けたんだね。あたしだって一カ月ぐらい、ご飯が食べられなかった」
「そういうことなら、この家にも君の味方がいるわけだ。健司伯父さんも君に対して責任をもつと言っていた。君もそろそろ、ふて腐れるのはやめたほうがいいな」
美亜がどこかからタバコをとり出し、火をつけて西日のほうに煙を吐く。仕種も横顔もかたくなで生意気で、夕子を含めた周囲の人間が反感を抱くのも、客観的には仕方ない。しかし代々木のテント村では、肴の干物を炙りながら、美亜もホームレス相手に寛いだ表情を見せていた。
椎葉はウィスキーを静かに味わい、美亜の白い横顔とビーズのオブジェを見くらべる。この牧場風景に人物が配置されるのは、いつのことだろう。
「しかし、まあ、君にも取り柄があることが分かって、よかった」
美亜の左目と左眉がゆがんで、鼻の先が含羞《はにか》んだようにうごめく。
「ビーズなんて刺繍にだけ使うものだと思っていた」
「タペストリーなんかも作れるよ。でもこういうフィギュアはあたしが考えたの」
「君は天才だ、おれは目がまわるけど」
「あんたは酔っぱらってるんだよ。これだけ作るのにビーズを一万個も使った」
「バカな友達と遊ぶよりはいい趣味だ」
「みんなは根暗とか言うけどね」
「天才はみんな根暗さ。天才の友達は自分の才能だけ、他人と付合わないで生きられれば、本当はそれが、いちばん美しい」
美亜がぷかりとタバコを吹かし、口だけで笑いながら前髪をかきあげる。
「あんたって変わってるね。あんたみたいな大人、初めて見たよ」
「君に雇われるぐらいだ、どうせ正常じゃないさ。それより事件のこと、話していいか」
「それがあんたの仕事だものね」
椎葉は舌の先にウィスキーをころがし、尻をずらしてベッドの枠に凭《もた》れかかる。
「分からないのは、犯人は結局、誰を殺したかったのか、ということだ。健司伯父さんが君のお袋さんを憎んでいたとしたら、お袋さんだけ殺せばいい。それに伯父さんは医者だ、毒殺の方法はいくらでも考えられる」
「そんなの、ダメだよ」
「どうして」
「お袋だけ殺せばすぐ健司オジだと分かる。薬なんか使ったら尚更だよ」
「カムフラージュにしてはやり過ぎだと思うけどな」
「健司オジならそれぐらいする。あいつ陰険で、しつこい性格だから」
「だけど伯父さんはあの体格だ。靴は二十六センチか、それ以上だろう。犯人が残したゴム底靴もサイズは二十六・五センチ、一見合うように見えるが、犯人は親父さんの靴をはいて逃亡している。親父さんの靴では小さすぎるんだよな」
「相手は人殺しだよ。そんなとき一センチぐらい、気にしないよ。それにサンダルなら小さくても平気じゃない」
「サンダルが無くなっていたのか」
「知らない、見てないもの」
「現場検証で見たろう。なにか無くなっていないか、部屋の様子に不審《おか》しいところはないか」
「見てないよ、見られるはずないよ。あの日ドアを開けたら、すぐあのことが分かった。ケイタイで警察へは電話したけど、もう部屋には入れなかった」
「遺体を片づけたあとでも部屋を見てないのか」
「あれからすぐこの家に来て、必要なものはみんな新しく買った。マンションからはなにも持ち出してないし、なにも欲しいと思わない」
「それなら、現場検証に立ち会ったのは?」
「お祖父ちゃん」
「そうか、君は事件以降、マンションに入っていないのか」
警察も美亜の心情を考慮したのだろうが、たった一人の生き残りに部屋を検証させていないのは、考慮が過ぎる。普段同居していない祖父に部屋を見せたところで、家具や小物の位置、カーテンの閉まり具合や冷蔵庫の中身など、分かるはずはない。
椎葉はウィスキーの残りをあおり、ボトルからつぎ足して、サラミのパッケージを歯でかみ切る。
「君なあ、明日にでも、現場に付合わないか」
「現場って」
「羽田のマンション」
「いやだよ」
「どうして」
「怖いし、それに、思い出すのもいや」
「事件を解決させたくないのか」
「だからね、そういうのは探偵の仕事だよ。そのためにあんたを雇ったんじゃない」
「君は偉そうに言うが、おれは手付金ももらってないぞ」
「いいよ、お風呂に入ってなくても、我慢するよ」
「いや、そういうことではなく、おれが探偵をやるには君の協力が必要だ。おれは基本に戻って、もう一度現場検証をやってみたい」
「あたし……」
「手付金は要らないから、協力しろ」
「あたし、やっぱり、できない。あの部屋へ入ったら気を失う。そういうこと、考えただけでも貧血が起きる」
美亜がタバコをつぶして、ウィスキーのグラスをとりあげ、椎葉から顔をそむける。椎葉はサラミをかじりながらビーズのオブジェを眺め、マンションの間取りや夕子に見せられた現場写真を思い出す。位置を変えたベッドやダイニングテーブル、壁の染みや開いたままの部屋のドア、黴《かび》臭い空気に床に敷いたビニールシート、たしかに人間が三人も惨殺された事件現場ではあるが、それ以外にも何か、椎葉の気分にひっかかる。
美亜がひと口ウィスキーをなめ、眉をゆがめてグラスをつき返す。
「あたし、ビールか酎ハイのほうがいいわ」
「明日、マンションに付合え」
「いや」
「犯人を見つけるためだぞ」
「犯人は健司オジだよ」
「だとしても、証拠がいる」
「あんたが見つけて。お金はあとで払う。それにあの部屋に証拠があったら、もう警察が見つけてる。あたしが見たってなにも分からない。あたしね、白状すると、臆病なんだよ」
まったく、依怙地で生意気でふて腐れていて臆病で、もし可能であるなら、親の顔が見てみたい。
美亜から渡されたグラスで咽をしめらせ、椎葉はサラミの残りと帽子を、レインコートのポケットにつっ込む。
「マンションのことは今夜、寝ながらでも考えろ。おれはお祖父さんが死なないうちに、ちょっと会っておこう」
ベッドの枠から背中を離し、腰をあげて、椎葉は小さく欠伸をする。美亜も欠伸の真似をして腰をのばし、椎葉の先に立って部屋を出る。家人が出払っているなら必要ないだろうに、美亜は閉めたドアにまた南京錠をかけてしまう。鍵が必要なのはドアではなく、美亜の心であることを、この家の何人の人間が分かっているのか。
二階の廊下を歩いて階段をおり、ダイニングルームの向かいにあるドアをノックして、美亜が先に部屋へ入る。玄関からはいちばん奥まった位置にある部屋は、広さが美亜の部屋と同じほど。廊下側の壁全体が書架になっていて、厚い背表紙がぎっしりと並んでいる。東の壁際には病院から運んできたようなベッドがあり、南の庭に面した窓際にはリクライニングの安楽椅子が据えてある。岸本武造はウールのガウンにくるまって安楽椅子に腰を落ちつけ、老眼鏡をかけて膝に単行本を開いている。オールバックの白髪は院長室で見た写真と同じだが、顔は注射器で体液を抜きとったかと思うほど痩せこけ、眼窩と頬骨と鼻梁《びりよう》の細い鼻が土気色につき出している。
美亜が安楽椅子に近寄って背凭《せもた》れに手をかけ、武造の注意をドアのほうへ促す。
「お祖父ちゃん、友達の椎葉さんだよ。椎葉さんは有名な私立探偵で、お袋たちを殺した犯人を捕まえてくれるの」
武造がメガネを外して本の上に置き、着ぶくれたガウンの下から尖った顎をふり向ける。髪も眉も白いが、髭は剃ってあり、落ちくぼんだ目にはまだ精気の名残が見えている。
「ほーう、有名な私立探偵とねえ、美亜も偉い友達をもったもんだ」
椎葉の顔をじろりと眺め、口元をゆがめて、武造が椅子のなかで座りなおす。
「お祖父ちゃん、なにか飲む?」
「うむ、紅茶をいれてくれ。吉田さんが出掛けたようだから、少しブランデーをたらしてな」
美亜が安楽椅子から離れて椎葉の前を通り、ドアを開けたままダイニングのほうへ歩いていく。椎葉は部屋の隅にあった木の椅子をひき出し、サイドテーブルの横に据えて腰をおろす。武造との距離は三メートルほど、その頭越しに芝生の枯れた庭が見わたせる。花壇も植え込みも見えない庭に、どこかからイチョウの枯れ葉が舞い落ちる。
椎葉の顔をしばらく眺めてから、武造がメガネと本をサイドテーブルに戻す。本のタイトルは『仏教の死生観』、その他にもテーブルには『浄土思想の源流』と『釈迦の歩いた道』という二冊の本が置かれている。
「失礼ですが……」本から武造の顔に視線を戻し、椎葉が会釈を送る。「お躰は、どこが?」
「病名としては大腸癌だがね、膵臓も肝臓も腎臓も、要するに全身の機能低下だよ。俗に言う老衰というやつだな」
「ご自分の病院に入られては?」
「冗談はやめたまえ。友愛会病院なんかへ入院したら、一年もつところが半年で死んでしまう」
「そんなもんですかね」
「あそこはヤブ医者の集まりでなあ。使ってる薬もすべて二級品、看護婦は過重労働で薬価差益は暴力バー並み、そんなところになぜ毎日患者が押しかけるのか、不思議でならんよ」
「知り合いには遠慮しろと伝えます」
「ぜひそうしたまえ。もともと病気は病院なんかで治らんものだ。病気になるのも病気を治すのも人間の意志力、二十歳でも四十歳でも寿命がくれば人間は死ぬ。移植治療も遺伝子操作も、所詮は医療業界側の道楽なんだからね」
「肝に銘じましょう」
「生まれた瞬間に死という業病を抱え込むくせに、その死が間近に迫るまで死を認めようとせん。人間とはなんと、愚かな生き物ではないかね」
武造が皺だらけの目で椎葉の顔をのぞき、昔は端正だったと思える口元から、精巧な入れ歯をこぼれさせる。多汗質の健司とは体質が異なるらしく、骨格にもほっそりとした品がある。
「ひとつ聞かせてもらえますか」
「私の寿命はよくもって、あと一年だよ」
「それなら尚更、美亜さんの籍を坂下のままにしておく理由を、お訊きしたい」
「大きなお世話だと思うがね」
「わたしも同意見です」
「それなら……いや、まあ、美亜も知ってることで、要するに私は、美亜を自分の養女にしたい。上の倅は上の倅で、自分の養女にしたい……なかなか意見の調整がつかんのだよ」
「どちらでも似たようなものでしょう」
「似たようなものではあるが、二億五千万ほどは違いがある」
「はあ?」
「私の遺産だよ」
「あ、はあ」
「美亜を養女にすれば長男のとり分は雅代の分を合わせて、四分の三。しかし美亜が私の養女になると、長男には四分の一しか入らなくなる」
「なるほど」
「誰に似たのか、上の倅は金に汚い性格でなあ、このぶんでは遺言書で指定しておかんと、財産はみんなあいつにのっ取られる」
ドアのほうに音がし、美亜がマグカップを持って椎葉の前をよこぎる。美亜は片手にウィスキーを満たしたグラスも持っていて、それぞれを椎葉と武造の前に置く。
武造が震える手でマグカップをとりあげ、飴玉を飲み込むように、ゆっくりと咽仏を上下させる。半年前は現場検証にも立ち会えるほど矍鑠《かくしやく》とした老人だったろうに、今は紅茶を最後まで飲みきれるか、それすらも疑わしい。この衰弱現象は武造が解説したとおり、すでに生きる意志を喪失した証拠なのだろう。
椎葉はウィスキーのグラスをつまみあげ、美亜に目配せをする。
「ふーん、今度はバーボンか。見かけよりこの家は待遇がいいな」
「お酒なんかいくらでもあるよ、お祖父ちゃんが飲まなくなったから」
「部屋も空いてるようだし、下宿でもさせてもらうか」
「健司オジに殺されるよ」
「冗談だ。お祖父さんと話があるから、君は上の部屋で天才をつづけてくれ」
美亜が咳払いのように鼻を鳴らし、武造と椎葉の顔を見くらべてから、ぷいと歩きだす。椎葉はバーボンを口に含み、美亜が部屋を出てドアが閉まるまでテーブルの本を眺めつづける。死に理屈の衣を着せながら、武造にもまだ、悟りへの葛藤があるのだろう。
「椎葉さんとやら……」
枯れ木のような手でマグカップを包んだまま、武造がガウンの襟から顎をつき出す。
「美亜の相手をしてくれることには感謝するが、犯人がどうとか、事件がどうとか、要らぬお節介はやめてくれんかね」
「そうですね。それでは事件から、手をひきましょう」
椎葉の抵抗を予想していたのか、武造の眉がかすかにつり上がる。
「さっき健司氏にもお目にかかったが、やはり手をひけと言われた。岸本家の方々は、よほど事件の解決を望まないらしい」
「いやいや、誤解をせんでくれたまえ。私だって娘や孫を殺した犯人は憎い、一日も早く捕まってほしいと思う。だが週刊誌的な興味本位は困るのだよ。美亜にはもともと心に不安定な部分がある。そこへもってきてあの事件だ、学校へも行かんし、最近は部屋に閉じこもってる。そういう美亜をこれ以上混乱させたくない。私が長生きできるならまだしも、私が死んだあと、美亜にどうやって生きていけと言うんだね」
「彼女はあなたが仰有るほど不安定ではないし、見かけほどの不良でもない。わたしに言わせれば気丈なほど、必死に現実と向き合っている」
「そう言ってくれるのは椎葉さんぐらいだ。健司のやつなんか、外国へ追い払えとまで言う。美亜の将来を考えると、私は、死んでも死に切れん」
「最初に言っておきますが……」バーボンを口のなかでころがし、くっとあおって、椎葉が武造の目を見つめる。「美亜さんが吉成氏の子供でないことは、調べがついています」
「うむ?」
「DNAを鑑定した結果、美亜さんの父親は健司氏か満男氏の可能性が高いという。わたしの推理では、たぶん満男氏でしょう。そのことはあなたも健司氏も、ご存じだったはずだ」
武造の手のなかでマグカップがふるえ、眼窩から眼球がとび出し、うしろから頭をはたかれたように、白髪がひくひくとゆれ動く。
「倫理的な問題に興味はありません。しかし美亜さんが満男氏と雅代さんの子供である事実には、やはり問題がある。あなたは満男氏をアメリカへやり、二人の関係を清算させた。親として当然の措置でしょうが、わたしに理解できないのは、雅代さんがなぜ美亜さんを生んだのか、ということです。その時点で始末しておけば、ここまでのトラブルは起こらなかった」
武造の言葉を待ったが、その乾いた唇はかたくなにひき締まり、頬をひきつらせるだけで、鉛色の視線がじっと椎葉の目を睨み返す。
「不可解なことはまだある。満男氏と雅代さんの関係は仕方ないとしても、吉成氏はなぜ、身ごもっている雅代さんと結婚したのか。吉成氏は美亜さんの父親を知っていたのか、またあなたは、すべてを承知だったくせに、なぜ雅代さんを吉成氏に押しつけたのか。マンションや事業資金の援助は善意だったのか、取引だったのか、そのあたりを率直に、お聞かせ願いたい」
屋敷のどこかで物音がし、武造の手と頬の痙攣が、ぴたりととまる。それから武造は無表情にカップを口に運び、時間をかけて、なめるように紅茶を飲みつづける。
「要するに……」
「椎葉さん、答えは、愛だよ」
「はあ?」
「私の口からはそれしか言えん。誰にも悪意はないんだ。雅代にも吉成くんにも、満男にも健司にも、悪意はなかった。誰にも悪意はなかったのに、悲劇は、起きてしまう。雅代は本当に、可哀そうな娘だった」
武造がカップを膝におろし、痩せた首を向こうにまわして、枯れ芝だけの窓に向かい合う。もう庭に西日はなく、ガラス窓を通して石焼き芋の売り声が聞こえてくる。
五分ほど待ったが、武造は凍りついたように動かず、諦めて椎葉は腰をあげる。
「失礼しました。ゆっくりお休みください」
武造の白髪がゆれ、嗚咽《おえつ》を飲み込むような息の音が、耳障りに響きわたる。どうも部屋が暑いと思ったら、安楽椅子の向こう側に、赤々と電気ストーブがついている。
武造の萎縮しきったうしろ姿に、椎葉はふと、悪い予感を覚える。
「まさか……」
武造の呼吸音を不愉快に聞きながら、椎葉はドアまで歩いて、把手《とつて》に手をかける。不安は形にならず、しかしその不安に押されてドアを開け、廊下に出てドアを閉める。
「まさか、しかし……」
一人ごとを言いながら玄関へ歩き、思い出して、廊下の奥をふり返る。ダイニングにも階段にも美亜の姿はなく、椎葉はそのまま靴に足を入れ、気配を殺して玄関を出る。夕子と美亜にひき込まれ、うっかり事件に関わったが、所詮はいらぬお節介だったらしい。椎葉の日常は社会正義から遠く離れ、焼酎を飲むことだけが目標だった。一つの事件を解決したところでまた殺人はくり返され、悲嘆と絶望は永遠に連鎖する。そんなこと、最初から承知していたはずなのに、夕子と出会って刑事根性が顔を出した。たんなるアルバイト、焼酎を買うための方便、その割り切りがいつから、他人への感情移入に変わっていたのか。
屋敷の裏手を通用口にまわり、門扉から病院側の敷地へ入る。そこで足をとめ、吸止に火をつけて古い洋館を見あげる。ペンキ塗りの羽目板にアルミサッシだけが真新しく、その不調和が逆に、屋敷の崩壊を連想させる。こんな家は早く崩壊し、岸本の一族が滅亡すれば、美亜の人生も自由になる。
「しかし、まあ、所詮は他人事だ」
吸止を足元にすて、レインコートのポケットに焼酎をさぐりながら、自転車置き場へ歩く。トメさんの遺体はいつ焼かれるのか、小林さんの身の振り方をどうするのか、そうでなくても考えることは、腐るほどある。
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ちょうどセンセイのテント前が日溜まりになっていて、椎葉はスダくんと並んで段ボールの上、センセイもいつもどおりデッキチェアに胡坐をかいている。昨夜は付近のホームレスが十人ほど集まり、トメさんのテントで酒盛りをくりひろげた。主役の欠けた通夜ではあったが、たいして陰気にもならず、ラジカセで沖縄民謡を流しながら朝まで飲み明かしたのだ。スダくんも飲み疲れて托鉢には出ず、今は三人ともぼんやりトメさんのテントを眺めている。
トメさんのテントでは区役所からやって来た福祉課の職員が二人、しばらく前からなかの荷物をかきまわしている。林の奥では青空雀荘も開店し、そして今日はマスコミも姿を消している。小林さんはテントの前で小さく空を見あげ、トメさんの死もヤスオの事件も、ただ平和な小春日和が被っている。
三十分ほどテントを調べていた職員が、公園の管理人を先頭に椎葉たちのほうへ歩いてくる。管理人は顔見知りの中年男、あとの二人は背広に区役所のジャンパーを羽織っている。
「やあセンセイ、どうもいけないねえ。古い銀行の通帳も健康保険証も、何もないんだよ。トメさんの出身が沖縄というのは、本当なのかね」
管理人は気軽にしゃがみ込んだが、区役所の職員はうしろに立ったまま。あまり近寄るとホームレスが伝染《うつ》るとでも思っているらしい。
センセイがわざとらしく新聞を開き、メガネを椎葉のほうに光らせる。
「本人がそう言ってたから、そうじゃないのかねえ。詳しいことは椎葉くんに聞いてくれたまえよ」
「それじゃ椎葉さん、あんたなにか、知ってないか」
「出身は沖縄の座間味とかいう島ですよ。向こうには兄弟も親戚もいるらしい」
「座間味ねえ、それじゃ……」
一人の職員が管理人にうしろから葉書を手わたし、それを管理人が椎葉にわたす。
「その葉書が見つかったんだが、差出人の住所が書いてない。どうやらトメさんの名字は、仲間というらしいんだがね」
葉書の宛て名は『仲間富吉様』、住所は『台東区橋場一丁目、満月荘内』とあるから、山谷の簡易旅館だろう。文面は「公子も哲夫も高校を卒業し、それぞれ本島に就職しました。昔のことは水に流しますから、兄さんも一度、ぜひ島へ帰ってきてください。清子おばあも待ってます。光恵」というもの。消印にはかろうじて『座間味』という文字が読みとれ、日付は十二年前の五月十九日になっている。トメさんも十二年前までは山谷の簡易旅館に寝泊まりし、たまには故郷との音信もあったのだろう。ただ名前をトミキチと読むのかトメキチと読むのか、文面からは分からない。周囲からトミさんと呼ばれていたものがいつの間にかトメさんとなり、そのことを本人も気にしなくなったのか。一緒に暮らしたこの一年、トメさんの名字が仲間であることを、椎葉ですら知らなかった。
「消印は沖縄の座間味局になっている。小さい島らしいから、探せば光恵という妹も見つかるでしょう」
葉書をレインコートのポケットにしまった椎葉に、管理人も職員たちも文句は言わず、ため息をつき合う。
「そうかね、座間味か。一応役所のほうから連絡をとってみよう。この妹が遺骨をひき取りに来てくれれば、助かるんだがねえ」
「椎葉さん、それから、テントのことなんだが……」
管理人が膝をのばし、呆れたような顔で、二、三度足を屈伸させる。
「トメさんのテントをみんなで始末してもらいたいんだ。管理事務所のほうでやると、区へ認可の申請を出さねばならんのでね、なにかと面倒なんだよ」
「責任をもちましょう」
「うん、一週間ほどで片づけてくれるか。金目のものは何もないから、ゴミで出してくれてかまわないよ」
管理人が椎葉とセンセイに会釈をし、うしろの職員と言葉を交わして、それぞれ西門とNHK側通用門のほうへ別れていく。
その三人が視界から消えるのを待つように、スダくんがむっくりと頭を起こす。
「ふん、金目のものが何もないなんて、役人ってのは世間知らずですよねえ」
センセイが顔の前に新聞を構えたまま、メガネに冷たい色を浮かべる。
「一番の値打ちものはリヤカーだな。売れば五千円ぐらいになるだろうが、椎葉くんがトメさんの仕事を継ぐとなると、こりゃ椎葉くんの物だ」
「テントのシートだって高いですよ。今はホームレスの志願者が多いから、畳一枚ぶんが五百円で売れます。トメさんのテントは二十枚も使ってあるから、それだけでも一万円だ」
「あとはラジカセに鍋釜布団をばら売りして、二千円というところかなあ。金はトメさんと昵懇《じつこん》だったよしみで、私ら三人の分配にしよう」
昵懇だったよしみと金の分配と、どういう関係があるのか知らないが、センセイがそう言うなら、椎葉にも異論はない。
「あ、そうだ、忘れてたけど椎葉さん、アミちゃんのことはどうするんです?」
「うん?」
「一緒に暮らすならトメさんのテントが広いですよ」
「彼女の名前は美亜だ」
「そうでしたっけ。俺、酔っぱらってて、まだ頭が痛いや」
「彼女とおれは結婚も同棲もしない。君達は子供に揶揄《からか》われたんだ」
「なーんだ、そうですか」
「椎葉くん、そうすると、なにかね、君と彼女がナニをした関係というのも、ありゃ嘘かね」
「彼女の冗談です」
「惜しいなあ、椎葉くん、そりゃ惜しい」
「考え方の問題でしょう」
「君の情熱が足らんのじゃないかね。私には向こうも、その気があるように見えたがなあ」
「相手は十六です」
「だから惜しいんだよ。最近は女子高校生でも肌が汚れてる。美亜ちゃんの肌になら、私は十万でも払う」
「センセイ……」欠伸をかみ殺し、レインコートのポケットから吸止をとり出して、椎葉は火をつける。「大間幹江には何円《いくら》払ったんです?」
「おお?」
「門の外で殺された女子高校生ですよ。殺したのはヤスオでしょうが、客はセンセイだった。彼女はあの夜、そのためにここへ来たんでしょう」
向こうを向いていたスダくんが、拳で頭を叩きながら、ごろりと寝返りを打つ。そのスダくんを横目で見ながら、センセイが新聞で口を隠す。
「なんだ椎葉くん、知っていたのか」
「状況から推理したまでです。幹江が用もないのに、あんな時間、この辺をぶらぶらするはずがない」
「そうなんだよねえ。私も面倒はご免なので黙ってたが、ありゃ正真正銘、そういう女子高校生だったよ」
声が届くはずもないのに、センセイが小林さんのテントに視線を送り、デッキチェアを三十センチほど椎葉のほうへひき寄せる。
「いつだったかスダくんが、彼女はプロで歳も二十五だとか言ったろう。あのときは私も腹が立ってね、なにしろ幹江という子、最初のときに学生証を見せてくれたんだよ。そうじゃなきゃあの程度の女に、八千円も払うもんかね」
「幹江の値段は八千円ですか」
「高いだろう。女子高校生でなきゃこっちが金をもらいたいぐらいのご面相なのに、なんと言い値は二万円だよ。そういう無神経な女だから、ヤスオもカッとなったんだろうなあ」
センセイが尻の下から折り畳まれた新聞をとり出し、それを広げて、スダくんの鼻先につきつける。
「どうだねスダくん、こりゃ昨日の朝刊だよ。事件も解決したとあって、彼女の名前と写真がのっている。記事にはちゃんと歳も書いてあるだろう。私も金をドブに捨てたのじゃないと分かって、ほっとしてるんだ」
開かれた新聞は社会面のトップ、見出しではヤスオを真犯人とにおわせ、顔写真の馬面さえ不気味な凶悪さをにじませる。記事には移送の途中らしい写真もそえられ、「決め手は遺留品のDNA」と苦しい小見出しがついている。幹江の強姦は公表しなくても、記事と見出しの構成で事件の概要を知らせる仕組みなのだろう。
「しかしなあ、テレビというのも薄情じゃないかね。昨日はあれほど押しかけたのに、今日はぱったりだ。これじゃ幹江という女子高校生も浮かばれんなあ」
なめるような目で新聞を読んでいたスダくんが、また拳で坊主頭を叩いて、ゲップを吐く。
「ねえセンセイ、遺留品のDNAってのは、やっぱ精液のことですか」
「常識で考えたまえよ」
「だけど、それじゃなぜ、センセイのDNAが出ないんです?」
「最近のギャルはみんな病気もちだ。私がそのあたりを抜かると思うかね」
「ああ、コンドームですか」
「ヤスオも気の毒になあ。刑務所へ入って病気までもらっていたら、泣きっ面に蜂だなあ」
「所詮は八千円の女なのにねえ。俺は死んだ女の子より、ヤスオのほうが可哀そうになってきた」
二万円の言い値を八千円に値切ったり、殺人事件の被害者より加害者に同情したり、センセイやスダくんの常識は、分かるようで分からない。もっと分からないのは幹江の行動で、そんなに値切られてまでホームレス相手に商売をする必要が、どこにあったのか。
椎葉はつづけて吸止に火をつけ、夕日に染まりかけているヤスオのテントと、ネズミのようにうずくまっている小林さんを見くらべる。幹江がいくら八千円の女でも、殺人は殺人、殺意の有無が考慮されたところで、ヤスオも十二、三年の懲役刑は受けるだろう。
「ですがセンセイ……」吸止を空き地の遠くへ放り、椎葉は焼酎をとり出して、咽《のど》に流す。「幹江とはどこで知り合ったんです? まさかケイタイの出会い系サイトでもないでしょう」
「そりゃ椎葉くん、向こうから声をかけてきたんだよ」
「はーあ」
「ありゃいつだったか、夏の終わりぐらいだったかね。私が仕事に出ようとしたとき、西門の外で声をかけてきた女がいた。高校生の制服は着ていたが、なにせ夜中ではあるし、化粧も濃かった。私が信じられんと言うと、彼女が学生証を見せおった。そういうことで私も、つい食指が動いたわけだよ」
「食指が動いて、二万円を八千円に値切ったわけですか」
「交渉は一時間ほどつづいたなあ。彼女も酔っていた感じで、交渉やかけひきを楽しんでいたよ。それでやっとOKが出て、小公園の公衆トイレでいたしたわけだ」
「センセイはよくコンドームを持っていましたね」
「そりゃ向こうが持っていた。下の毛なんかも短く刈っておって、そのあたりの礼儀はわきまえていた」
「ヤスオは生で出してるけど」
「バカは焦るからなあ。性欲も馬なりに溜まってたんだろう。しかし幹江という子も深窓の令嬢ではなし、素直にやらせてやれば、殺されることもなかったろうになあ」
センセイがスダくんの手から新聞をとり上げ、またていねいに畳んで、尻の下に隠す。人生の記念品にでもするつもりだろうが、ここまで女子高校生ブランドにこだわるセンセイも、心に病気をもっている。
焼酎を咽に流し、自分のテントでひと眠りしようかと考えたとき、椎葉の頭にセンセイの発言がよみがえる。
「センセイ、初めて幹江に声をかけられたのは、夏の終わりですか」
「そうだよ」
「具体的にはいつごろ」
「ありゃ書籍の回収が不調だった時期だから、八月の末か九月の初めか、そんなところだな」
「八月の末か九月の初め……」
幹江がセンセイに声をかけたのは、いずれにしても三カ月ほど前、しかし加世田優也と幹江が別れたのは二カ月前で、加世田は幹江が代々木公園付近に出没する理由も、制服の件も知らないと言っている。
「幹江が初めて声をかけてきたとき、制服を着ていたわけですね」
「制服を着てなきゃ私も食指を動かさん。だが椎葉くん、私は彼女に金を払って正当にいたしただけで、事件とは無関係だよ。痛くもない腹を探られてはつまらんから、これまで黙っていたんだ。犯人もヤスオと決まったわけだし、もうあんな女のことは忘れようじゃないかね」
幹江のことなんかどうでもいいし、センセイに言われなくても、どうせ明日には忘れている。しかし幹江の制服が商売用のコスチュームで、しかも三カ月以前から着用していたとすれば、加世田が知らなかったはずはない。羽田の事件には関係ないにしても、あの加世田優也は幹江の売春に、ちゃんと関わっている。
椎葉は焼酎のボトルにキャップをし、レインコートのポケットに戻して、もぞりと腰をあげる。
「どうも昨日から飲み疲れだ、テントでひと眠りしますよ。トメさんの荷物のことは、センセイが仕切ってください」
「それは任せてもらおう。スダくんはビニールシートを五百円というが、私なら六百円で売ってみせる。これから冬場に入って、需要も多くなるからなあ」
センセイとスダくんに手をふり、重心の狂いを意識しながら、自分のテントへ向かう。村を構成するテントは建築現場の埃|避《よ》けを流用したもので、その明るいブルーは、たしかに森の風景と似合わない。モスグリーンか枯れ葉色なら周囲の色彩にもなじみ、美亜の言うとおり、お洒落な感じにもなるのだろう。
日本中のホームレス村がお洒落になった風景を想像し、歩きながら首をふって、椎葉は苦笑をかみ殺す。
昼間晴れたぶんだけ、夜になると気温が低くなる。椎葉は三軒茶屋のビル陰に自転車をとめ、人けのない路地を『玉川ハイツ』に向かう。間延びした間隔で白い街灯が並び、マンションと民家の隙間が二十日ばかりの月をのぞかせる。十二時をすぎてクルマも通らず、夜中のビル風が椎葉のレインコートをはためかす。
五分ほどで『玉川ハイツ』につき、階段下から二階の部屋を見あげる。加世田の部屋は二階の一番奥、立っている場所からは左端の位置にあり、その手摺りつきの窓に明かりはない。夜中はバイトと言っていたが、いずれにしても朝までには帰ってくる。
足音をしのばせて階段をのぼり、外廊下をつきあたりまで進む。チャイムを押してみたが、応答はなく、外廊下の手摺りから隣家との隙間をたしかめる。そこは一メートルほどの間隔で二階建ての民家があり、敷地をブロック塀で仕切ってある。民家には玄関と二階の窓に明かりが見えるが、窓には厚くカーテンがひかれ、表の路地側はビルの裏壁になっている。
椎葉は二、三分人の気配に意識を集中し、素早く手摺りをのり越える。手摺りの継ぎ目が軋《きし》んだだけで他に音はなく、足が簡単にブロック塀へとどく。左腕を水平にのばすと指先がアパート側の壁に触れ、綱渡りの要領でブロック塀の上を歩く。そのまま塀上を歩くとアパートの表側に出て、しばらくまた人の気配をうかがう。アパートも二部屋に明かりはあるが、人声もテレビの音も聞こえない。椎葉の服装は黒っぽいレインコートに黒い帽子、うずくまっていれば風と同じ程度にしか目立たない。
駅の方向から歩いてきた女を一人やり過ごし、加世田の部屋にとりつく。手摺りの下枠に手をかけて躰をひきあげ、片足を手摺りの上枠にかける。足に力を入れると上体がもちあがり、手摺りに腰掛けた恰好になる。そこで焼酎を一口なめ、レインコートのポケットから小型ナイフをとり出す。アルミサッシの内鍵はどこでも似たようなもの、その近くにナイフの刃先をさし込んでガラスを割れば、アパートの窓は簡単に開く。
首に巻いていたタオルを外し、手を切らない用心をする。ナイフの刃をひき出し、それでも念のため、窓を押してみる。腹立たしいことに鍵はかけてなく、窓が横に開く。部屋が二階であることに安心しているのか、それとも性格的に、ずぼらなのか。もっともこんなアパートに侵入したところで、盗るものがないことぐらい、プロの泥棒なら一目で見抜いてしまう。
開いた窓から身をすべり込ませ、窓を閉めて、ベッドと小テーブルの間に膝を折る。この侵入に気づかれた様子はなく、それでも十分ほどは息を殺して、人間の気配を断つ。年間に四十二万件もの窃盗事件があるというのに、戸締りに対する無頓着さは日本人の民族的体質なのだろう。
しばらくすると暗闇に目がなれ、ビデオデッキのタイマーランプを頼りに、近くから灰皿を見つけ出す。靴は履いたままだが非は加世田にあり、あとで警察に訴えるというなら、好きにすればいい。椎葉は吸止をとり出して火をつけ、二口吸ってから、今度は焼酎で咽をうるおす。
居眠りでもしながら加世田の帰りを待つか、と思ったときケイタイが鳴り、防寒ジャケットのポケットから電話機をとり出す。
「どうした、女のひとり寝が寂しくて、おれの声が聞きたくなったか」
「椎葉さん、眠そうな声ですね」
「今は大きい声を出せない場所にいる」
「泥棒ですか」
「似たようなもんだ」
「お金に困ってるなら、そう言えばいいじゃないですか」
「いや、似たようなものではあるが、泥棒じゃない。加世田に貸したものを返してもらおうと思って、やつの帰りを待っている」
「加世田というと……」
「大間幹江の彼氏だった加世田優也さ」
「貸したものって」
「義理というか、礼儀というか、まあ、そんなようなもんだ。羽田の事件とは関係ないけどな」
夕子がちょっと言葉を飲み、それから短く咽を鳴らして、くぐもった声を出す。
「椎葉さんには自重しろと言われましたけど……わたし、美亜の出生の件を、中村警部に打ち明けました」
「ふーん」
「健司を重要容疑者として、アリバイの再調査を始めました」
「もう少し待てと言ったはずだぞ」
「でもこれしか、突破口がないんです」
「おまえ、バカか」
「だって……」
「早く訂正しろ。今すぐ中村さんに連絡して、健司を捜査対象から外すんだ」
「健司が怪しいことは椎葉さんも認めたじゃないですか」
「認めたわけじゃない、可能性があると言っただけだ。その可能性も、今はゼロに近い。考え方の方向が出発時点で一ミリほどずれていた。たった一ミリでも歩きつづければ、最後は別な場所へ行ってしまう」
「なにを言ってるのか……」
「分からなくてもいい。とにかく健司を、早く容疑者から外せ。さもないと本当に、君はミニパトだぞ」
思わず腹が立って、椎葉は電話を切り、ケイタイをポケットに戻す。トメさんの通夜にかまけて夕子への連絡を忘れていた、そういう自分にも腹が立ち、走り出したら止まらない夕子の性格にも腹が立つ。
タバコと焼酎で気をしずめ、朝まで待つ覚悟を決めたとき、ドアの外に足音と鍵束の音がする。椎葉は焼酎のキャップを閉めてポケットに押し込み、左の片膝立てで次の行動を身構える。
闇のなかでドアノブが回り、ドアが開いて、外の冷気が部屋の空気をかきまわす。つづいて沓脱《くつぬぎ》に人影が浮かび、その影がすぐに部屋へ入ってくる。電気がついたのと椎葉の膝がのびたのは、ほとんど同時、フェイクレザーのコートを着た加世田がベッドの上に投げ出され、カエルのような声を出す。
「迂闊な野郎だな。部屋にタバコの匂いがこもってるときは、用心するもんだ」
加世田の小太りの白い顔が、じわりと青くなり、見開いた目に恐怖と怒気が浮かぶ。次の瞬間、加世田が体型に似合わぬ敏捷《びんしよう》さでとび起き、頭から椎葉の腹に突進する。椎葉は加世田の頭突きを肘打ちで払いのけ、腹に膝蹴りを入れて、肝臓のあたりに手刀をふりおろす。加世田がテーブルの上に倒れ、テレビがラックから落ちて、灰皿が沓脱のほうへ転がる。
椎葉は加世田の腰を膝でおさえ、その太い首を柔道の送り襟締めという技で締めあげる。
「なあ、加世田、おれを騙したら、地獄の底まで追いかけると言ったろう」
「ぐ、ぐ、ぐ……」
「どうした、あと二十秒もすれば意識がなくなる。おまえを殺すぐらい簡単だぞ」
加世田が椎葉の下で手足をばたつかせ、言葉にならない声を出す。椎葉はわざと技をゆるめ、少しのあいだ加世田に呼吸をさせる。
加世田が声を出しかけたとき、また締め技に力を入れ、両肘を梃子《てこ》がわりに使う。送り襟締めがここまで決まれば柔道の有段者でも逃れる術はなく、失神して、いわゆる『落ちる』状態になる。そしてそのまま落としつづければ、人間は一分で死んでしまう。
「なあ、このままおまえが死ねば、幹江も浮かばれる。死にたかったら指で丸をつくってみろ」
「ぐ、ぐ……」
「どうした、親指と人さし指で丸をつくったら、あと十秒で死ねるぞ」
「あう、あう、あ……」
「おまえでも死にたくないのか。人間のクズにしては、贅沢な性格だな」
梃子にしていた肘を加世田の背中から外し、ついでに膝をどかして、加世田の躰をカーペットに転がす。小太りの色白顔も鬱血して青黒く、目、鼻、口からはそれぞれ涙と鼻水と涎が流れている。酔いのせいか、しばらく柔道から離れていたせいか、椎葉の手加減も狂っていたらしい。
椎葉は尻をずらして灰皿に手をのばし、部屋と台所の境に腰を落ちつける。加世田のほうはぐったりと手足を投げ出し、地獄でも見てきたような顔で天井を凝視する。冗談ではなく、あのまま殺してしまったほうが加世田にとっても社会にとっても、いくらか意義はあったろう。
十分ほど荒い呼吸をつづけ、生きていることを自覚できたのか、加世田が躰を起こす。
「おれはおまえの顔なんか二度も見たくはなかった。それだけは理解してくれ」
「どうやって、この部屋に?」
「そんなことより、おれが待っていた理由は、分かるよな」
加世田が首を横にふりかけ、動作を中止して、指を自分の額に這わせる。左の眉上が腫れているのは、椎葉の肘打ちが適切だったことを物語る。明日になれば顔の半面が腫れあがり、四、五日は加世田の人相も変わっている。
「おまえを生かしておいたのは口をきかせるためだ。喋らなかったり、また嘘をついたら、もう就職の心配はなくなる」
加世田がうなずくのを待ってから、椎葉は吸止に火をつけ、抱えた膝に頬杖をつく。汚い作業靴に汚いレインコート、暗色の帽子を目深に被ってうずくまっている姿は、幽鬼か悪魔のように見えるだろう。
「この前はとぼけたが、おまえは幹江の商売を知っていたよな」
「ええ、その、商売というのも、ヘンだけど」
「幹江をプロの売春婦にしたのは、おまえだろう」
「そう言われても……」
「いつから客をとらせていた?」
「いえね、そうじゃなくて、あいつのナニ好きは本物なんですよ。だから金が必要なとき、俺がゲーセンの客を紹介してやったんです。放っておいてもただでやっちゃうわけだから、どうせなら金をもらったほうがいいじゃないですか」
「趣味と実益、か」
「そうそう、ただで股なんか開くのは、無駄マンだから」
「バーカ、公衆便所はただが原則だ。有料にしたところで、料金は便所番のおまえにもっていかれる。そのうち幹江も、便所番なんか不要だと気づく。二人の別れた理由は、そういうことだろう」
「なんていうか……」
「それが実態だ」
「なんていうか、そうなんですかね」
「そうなんだよ。だけどおれが聞きたいのは、幹江が着ていた制服のことだ。あの制服はどこから調達してきた?」
「ゲーセンに来てた客の、友達から」
「おまえが?」
「ええ、だってあの学校の制服、オヤジ連中に人気があるんですよ。幹江のグレードもあがるし、制服フェチの客もいるから」
「最初に制服を着せたのは、いつだ」
「六月か、七月。夏用の制服はブラウスとスカートだけで、オヤジに人気もないし、幹江も喜ばなかった」
「殺されたとき着ていた制服は、おまえが調達したものに間違いないか」
「警察で写真を見せられたから、間違いないっす」
「幹江が代々木公園の付近をうろついていた理由も、知っていたよな」
「そりゃあね。だけど二カ月前に別れていたのは本当だし、関わりになるのは、俺だってご免ですよ」
「便所番をクビにされた恨みもあったし、な」
「俺に言わせりゃ、あんなの、自業自得です。俺が選んだ客とだけやってりゃよかったのに、幹江のやつ、勝手に仕事を始めやがって、そのせいで殺されたんです」
「幹江がホームレスを客にしていたことも知っていたか」
「だからね、そういうことだって俺、頭に来たんですよ。俺が紹介する客なら一万五千とか二万とか、ちゃんとした金がとれるんです。それなのに幹江のやつ、ボランティアだとかいって、誰にでも安くやらせやがって……」
加世田が額の腫れを触りながら、ちっと舌打ちをし、肉厚の頬を狸のようにふくらませる。幹江本人の資質もあったろうが、それをプロの売春婦に仕立てたのは加世田、二人で別な生き方も探せたろうに、こんな男に理屈を言っても仕方ない。バカも自分のバカに気づかなければ、最後まで自分を利口だと信じて生きていける。
椎葉は怒る気力もなく、腰をあげ、帽子を阿弥陀に被りなおす。問題は幹江の制服着用期間だけで、事件の直前に他人から借用したものでないと確認されれば、それでいい。
「なあ加世田、おまえもまさか、三度もおれに会いたくはないだろう」
加世田が意気込んで身をのり出し、こわれたバネ人形のように、何度も首をたてにふる。
椎葉は帽子の庇で加世田に会釈をし、踵を返して、台所から沓脱へ歩く。靴を履いたままだったから便利なもの、そのままドアを押して外廊下に進み、ふり返らずにドアを閉める。幹江の事件なんかこのまま終わらせてやればいいものを、テントの前で小さくうずくまっている小林さんを見ると、ヤスオの存在にも多少の意味を思ってしまう。
アパートの外階段をおりきり、駅のほうへ歩きかけたとき、防寒ジャケットのポケットでまたケイタイが鳴る。他人の歩き電話には嫌悪を感じるが、人通りもないことだし、椎葉はあきらめて電話に出る。
「健司の件、中村さんに報告したか」
「まだです」
「君が勝手に判断し、勝手によけいな捜査を始めた。どうしてもミニパトに乗りたいならとめないが、今ならまだ間に合う」
「理由がなくては、わたしだって取り消しはできませんよ」
「理由はあとで言う。まずは健司を容疑者から外すことだ」
「あとではなく、今聞かせてください」
「込みいっていて電話では話しにくい」
「それなら直接うかがいます。わたしも今夜の仕事は終わりましたから」
「そうはいっても……君、今、どこだ」
「三軒茶屋です」
「ふーん、うん?」
「今、椎葉さんの後ろを歩いてますよ。加世田の住所を椎葉さんに教えたのはわたしですからね。あのあと阿佐ヶ谷からタクシーに乗って、たった今ついたところです」
夜明けまで何時間もないのに、店には四、五人の客がいる。みな横文字商売らしい若い連中で、カップルは一組だけ。男も女もそれぞれ広いカウンターに散らばり、なにが面白いのか、ぽつねんと酒を飲んでいる。
夕子が椎葉を連れていったのは、玉川通り沿いにあるビルの三階。もし『ヤキトリバー』というカテゴリーがあるならそんな感じで、内装はコンクリートの打ちっぱなし、セピア色の照明に厚板のカウンター、カフェバー風にジャズまで流れている。椎葉には不似合いな雰囲気だが、帽子やレインコートや首に巻いたタオルが、椎葉の職業をファッション関係に見せなくもない。夕子もオフの日にはボーイフレンドと、こんな洒落た店で年増ギャルをやるのだろう。
カウンターの端に隠れるように座り、ヤキトリセットを注文して、夕子が秋田の銘柄酒を冷やで選ぶ。ブラウスの襟が少し乱れ、髪は埃っぽく首にはりついている。
「最初に質問しますけど……」
二合入りのデキャンタから酒をつぎ分け、夕子が怒ったような目で声をひそめる。
「こんな時間、加世田なんかに、なんの用があったんです?」
「他人を騙すと痛い目にあうことを教えてきた」
「暴力をふるったんですか」
「適切な措置だった」
「トラブルを起こしたら自分が困るんですよ」
「君に雇われたこと自体がトラブルさ」
「わたしは……まあいいです。それで加世田への用は?」
「幹江の制服」
「はあ?」
「あの制服を幹江が、いつから着ていたのか。たまたま事件の夜に友達から借りたものなら、問題はなかった。だが幹江は、もう夏ごろからあの制服を着ていた」
「なんの話です?」
「君からわたされた捜査資料に、幹江の制服には幹江のものではないファンデーションが付着していた、と書いてあった」
「そうでしたかね」
「直前に幹江が誰かの制服を借りたのなら、そのファンデーションは貸した女の子のものだろう。しかし幹江はもう四、五カ月あの制服を着ていた。何度かクリーニングをしたろうから、前の持ち主のファンデーションが残っていたはずはない。ファンデーションぐらい満員の電車でも付くだろうが、そういう可能性は、この際除外する」
「椎葉さん……」ガラスの猪口《ちよこ》を口紅のはげた唇に運び、夕子が目尻で椎葉の顔を睨む。「幹江の事件は小林容疑者が逮捕されて、解決したんですよ。遺留品のDNAが決定的な証拠です」
「ヤスオが自白でもしたか」
「相変わらず、幹江なんか顔も見たことはないと喚いてるそうです。でも顔を見たことのない相手に、どうやって精液を入れるんです?」
「バカの執念というのは、面倒なもんだ」
「執念だけでそんなことはできません」
「ヤスオは不知《しら》を切ることで自分を守ろうとしている。あの晩幹江とやったことを白状すると、殺人の罪を着せられると思い込んでる。白状しなければもっと不利になることが、あいつの頭では理解できない」
店の暖房で皮膚が温かくなり、椎葉は防寒ジャケットのボタンを外して、首のタオルをゆるめる。
「なあ、幹江の下の毛は、カットしてあったろう」
「そんなこと、知りませんよ」
「カットしてあったんだ。幹江はこの夏ごろから公園付近に出没し、ホームレス相手に売春をやっていた。本当に金が欲しかったのか、汚いオヤジと寝ることに快感があったのか、幹江の心は分からない。しかし古川という教師崩れも幹江を買っていて、幹江は下の毛を刈っていたという。幹江が殺された翌日、ヤスオも自慢そうに毛のことを話していたから、やつが幹江とやったことは間違いない。髪留めの指紋や精液まで残しておいて、それでも不知を切ろうとするところが、やつの哀れさだ」
夕子が膝のバッグからメンソールのタバコをとり出し、椎葉の顔に目を細めながら、黙って火をつける。
椎葉はこくのある吟醸酒に舌鼓《したつづみ》をうち、夕子が投げかける無言の問いに、ひっそりと肩をすくめる。
「半分はおれの責任だが、笹野さんも結論を急ぎすぎた」
「要するに、犯人は小林ではないと?」
「やつは幹江とやっただけだろう。ヤスオだって千円ぐらいの金はもっていた」
「でも、千円で?」
「幹江の言い値は二万円だったが、古川は八千円に値切っている。交渉次第では千円か二千円にもさがったろう。あるいはある程度、ヤスオの強制だったかも知れない。だがともかく、幹江を殺すまではしなかった」
「その、根拠は?」
「君はヤスオに接見したか」
「いいえ、わたしの管轄ではありませんから」
「それなら明日にでも、渋谷北署へ見物に行ってみろ。やつはトウモロコシをかじるみたいに、いつも爪をかんでいる。おれも羽田事件に気をとられて、そのことを忘れていた」
夕子が二つの猪口に酒をつぎ足し、ほんのりと酔いのまわった目で、椎葉の顔をのぞく。
「幹江の写真さ」
「はあ?」
「現場で撮られた遺体の写真だ。首に指の圧迫痕が残っていたが、爪の跡も残っていた。ヤスオは両手とも、指を食いちぎるほど爪をかんでいる。そのことはおれが断言するし、ほかのホームレスも知っている。幹江の首を絞めたのは、もっと爪の長い野郎だ」
夕子が椎葉の顔を見つめたまま、気が抜けたような息をつき、手酌で二杯ほど酒を流し込む。
「困りましたねえ。もうマスコミを騒がせたあとですし、簡単にはとり消せませんよ」
「君の責任じゃないさ」
「でも小林の逃亡先を笹野さんに教えたのは、わたしです」
「君は警官としての責任を果たしただけだ。笹野さんのほうは、始末書ぐらいじゃ済まないだろうが」
「幹江の足取り捜査を、徹底させるべきでしたね」
「それに、地取りとな。幹江の髪留めからヤスオの指紋が出て、喜びすぎた。笹野さんも切れる人ではあるが、調子にのりすぎる部分がある……君もせいぜい、気をつけることだ」
なにか言いかけたが、言葉は出さず、夕子がまた手酌で酒をあおる。
「ヤスオの爪のことはそれとなく、笹野さんに気づかせてやれ。ひと騒動は起こるだろうが、このままヤスオを犯人にするわけにもいかない。本当はあんなバカ、十年ほど刑務所へ入れておいたほうが、社会のためにはなるんだろうが」
注文したヤキトリがカウンターに並びはじめ、夕子が不機嫌な声で酒を追加する。
「君なあ」
「分かりましたよ。小林容疑者のことはわたしが責任をもちます。笹野さんと同様、自分がお調子者であることも反省します。でも羽田事件のことは、どうなんです。突然健司を捜査対象から外せと言われても、納得できませんよ」
「美人のキャリアウーマンに、自棄《やけ》酒は似合わないぞ」
「わたしの顔は、よーく見なければ美人には見えません」
「謙遜するな」
「そう言ったのは椎葉さんですよ」
「まさか」
「言いました。わたしは細かいことを、きっちり覚えてる性格なんです」
「君の顔は長く見ていても飽きない。美人にも種類があるという意味だろう」
「言い訳はいいです。どうせわたしは……いえね、ですから、問題は羽田事件です。健司を犯人と断定したわけじゃないですけど、重要容疑者であることに、変わりはないでしょう?」
「君が勝手に重要容疑者にした。おれの印象では、可能性は一パーセントもない」
「だって……」
「一言で説明するのは難しいが、おれの勘に狂いはないだろう。いずれにしても気が重くて、面倒な状況だ」
新しい酒が来て、椎葉が二つの猪口につぎ分け、視線で夕子の苛立ちを牽制する。こういう興奮性格にはカルシウムが有効で、いつか財布でも拾ったら、夕子にカルシウムのサプリメントをプレゼントしてやろう。
「おれもな、昨日……正確には一昨日だが、阿佐ヶ谷へ押しかけて、健司と武造に会ってみた」吸止をとり出して火をつけ、椎葉が煙を短く、カウンターの向こうに吹く。「君は美亜の父親を健司と満男の、どちらだと思う?」
「健司じゃないですかね。異常性格だから雅代とも関係をもったし、今回の犯行にエスカレートした気がします」
「おれは満男の可能性が高いと思う。というより、まず満男で間違いはない。だからこそ岸本の家では、満男と雅代をひき離すために、満男をアメリカに送り出した。二人の仲を清算させるための、家族ぐるみの手段だった気がする」
「言われてみれば、わたしも、そんな気はしますけど」
「だとしたら健司だって、最初から雅代と満男の関係は知っていた。最近になって弟と妹の関係を知り、突如激怒して犯行に及んだとは考えにくい。それにあの男は医者というより、小心な中小企業の経営者タイプだ。行動の基準は金の損得、スキャンダルが病院経営に不利なことは知っている。妹一家を殺して、一時的に財産の取り分がふえたにしても、長い目でみれば病院のほうが儲かる。あの男はちゃんと、そういう計算をする性格だ」
「でも満男は事件当時アメリカにいて、向こうの領事館にも確認させています」
「問題はつまり、そこなんだが……」
タバコの火を灰皿につぶし、酒を深く胃の底に流して、椎葉は額の汗を拭う。皮膚が奇妙に暑いのは、暖房や酒のせいだけではないだろう。
「君は最近、武造に会っているか」
「いえ」
「半年前は会ってるよな」
「事情聴取をしましたし、現場検証にも立ち会ってもらいました」
「その当時は、どんな様子だった」
「もちろん動揺や混乱は見られました。でも捜査には協力的で、気丈な性格という印象でしたね」
「体力的には?」
「お歳のわりには矍鑠《かくしやく》とした感じでした」
「それが今は痩せ衰えて、ほとんど寝たきりらしい。大腸癌がすすんで寿命も一年ほどだという」
「病気がちで病院経営から離れたことは聞いてましたが、そこまでとは、知りませんでした」
「つまりな、今の武造からは想像もできないが、半年前なら、包丁を振りまわす体力も、子供の首を締める体力も気力も、ちゃんとあったわけさ」
夕子の猪口がカウンターに音をたて、ヤキトリの串が宙に浮いたまま、細かく上下する。風もないのに夕子の前髪がゆれ、眉が大きくつり上がる。
「椎葉さん、正気ですか?」
「武造と同じ程度にはな」
「でも、あのお歳で、それに雅代の父親ですよ」
「健司だって雅代の兄弟だ。健司を容疑者にあげるぐらいなら、武造の可能性を考えても、おかしくはない」
「いくらなんでも……」
「癌というのは突然に発症はしない。武造は半年前に、自分の病気に気づいた。そして恢復《かいふく》不可能と知ったとき、その決心をしたに違いない」
「極端すぎますよ。誰が考えても、それは、無理です」
「そこが捜査の盲点さ。誰も武造を疑わなかったからこそ、ここまで膠着《こうちやく》したんだろう。武造という年寄りは宗教的な、なにか信念のようなものにとり憑かれている。自分の命が残り少ないことを知って、あの男は岸本家の禍根を断とうとした。基本的には、そういうことだと思う」
夕子が新しいヤキトリに手をのばし、鼻の穴をひくつかせながら、黙って口に運ぶ。
「ああいう旧家で、名門で資産家で、たしかに君の言うとおり、発想がグロテスクなのかもしれない。武造は将来にわたる岸本家のスキャンダルを、自分の手で清算しようとした。本人は利害や打算ではないと信じてるだろうが、所詮は岸本の家というエゴイズムだ」
夕子は黙々とヤキトリを頬張り、視線を正面の壁に据えて、黙々と猪口を口に運びつづける。
「もちろんこれは、あの古い屋敷と武造という人間から受けた、おれの印象だ。まるで見当違いという可能性も、なくはない」
「いやですねえ」
「ん?」
「椎葉さんの勘って、意外に当たりますからねえ」
「美亜がひとり生き残ったのは、おれの調べたかぎり、本当にただの偶然だった。あの夜マンションに帰っていれば、間違いなく殺されていた。武造がいちばん抹殺したかったのは、兄妹のあいだに生まれてしまった、美亜だったはずだ」
夕子の咽がくっと音を出し、その咽音をごまかそうとするように、猪口がせわしなく口に運ばれる。
「ただ惨殺のあと、生き残った美亜の顔を見れば、武造だって正気に戻る。もともと憎かった孫や娘ではなし、後悔や絶望が武造のなかで錯綜した。事件のあとで急に武造が衰弱したのは、三人を殺したことの後悔と、美亜を殺せなかったことの後悔が、重なった結果だろう」
「だとすると、あのう……」
「自分が死ぬ前に、武造がもう一度美亜の抹殺を試みる可能性は、ある」
「………」
「しかしあの体力で、直接の行動は無理だろう。毒殺なら簡単だが、それでは自分の犯行が見え透いてしまう。羽田事件との関連も世間に知れるだろうし、そのあたりを武造がどう判断するか、おれには、見当もつかん」
また酒がなくなり、夕子がため息をつきながら、同じ銘柄を追加する。顔からは最初の赤みも消えているから、意外に酒の強い体質なのだろう。
「わたしね、椎葉さん」
「なんだ」
「刑事課に配属されてから、殺人事件はこれが初めてなんです」
「はりきり方を見れば分かるさ」
「被害者も加害者も女性が増えてるし、男性刑事だけに捜査は任せられないとか、生意気なことを考えてたんです」
「考え方は正しい」
「でもお調子者だし、浅はかで思慮に欠けてるし、それに岸本の家族が持ってるようなグロテスクさには、神経がついていきません。やっぱりわたしには、ミニパトが似合ってますかね」
「正直に言うけどな」
「はい」
「君はおれの新米時代よりも優秀だ。おれは自分の勘に頼るだけで、地道な捜査が苦手だった。君は粘り強いし、行動力もあるし、それに美亜の交遊関係に着目したところなんか、事件に対するセンスもいい。もう少し経験をつめば、本庁の一課でも通用する」
「どうしたんです、今夜は優しいじゃないですか」
「バイト料をもらって、制服を支給されて酒も飲まされて、おれだってお世辞ぐらいは言う」
「そうですか、お世辞ですか」
「お世辞を言いたくなるほど、君が優秀だということだ。今夜の君は疲れてる。疲れると思考がうしろ向きになって、気分も僻《ひが》みっぽくなる。もっとも疲れてる君のほうが、おれには美人に見えるけどな」
夕子が肩をすくめて笑い、首をかしげながら、やって来た新しい酒を椎葉の猪口につぐ。その長い指は華奢で骨が細く、夕子がこれからの半生を殺人事件のなかで生きるのかと思うと、他人事ながら、椎葉も憂鬱になる。
「でも椎葉さん、羽田の事件が椎葉さんの考えどおりだとすると、面倒ですねえ」
椎葉は猪口に口をつけ、首筋ににじんでいる汗に、タオルを押しあてる。
「まったくな。現場の遺留品を武造が買いそろえたという証拠でも出ないかぎり、立件は難しい。たとえ立件できたところで武造の寿命は一年、裁判の前には死んでしまう。それに自分が捜査対象にあがったと知っただけで、あの男なら死を選ぶだろう。残るのは岸本家のスキャンダルだけ、美亜も出生の秘密を知るだろうし、誰にとっても、なんの益もない。殺人自体が許せないとかいう正義感とは、別の次元だ」
「だからといって放っておけば、武造が美亜を道連れにする可能性もあります」
「美亜を、アメリカに住んでる満男に引き取らせるか。それが満男の義務だろうが、警官の君が事件の関係者と、そこまで特殊な接触をもつことは許されない。それに……」咽をとおった日本酒が胃にわだかまり、椎葉はレインコートのポケットに吸止を探す。「済まん、タバコのストックが切れた、一本くれ」
夕子がタバコの箱をカウンターに滑らせ、そこから一本を抜いて、椎葉が火をつける。
「それに、なんですか」
「うん、君の顔を見ているうちに、自信がなくなってきた」
「はあ?」
「君の顔を見るまで、自分の推理には百パーセントの確信があった。それが今、ちょっと揺らいでる」
「わたしの顔が間抜けだからですか」
「おれが言ってるのは、調子に乗りすぎることの危険性だ。ジグソーパズルがあまりにも巧く嵌まって、おれもちょっと、調子に乗りすぎたかも知れない。人生と同じで、順調すぎる理屈には落とし穴がある」
夕子の口にもタバコがくわえられ、細い煙がそっけなく椎葉の鼻先をかすめ去る。
「たとえば、あれですかね、犯人が武造では、手口が残虐すぎるとか」
「それに関しては美亜が推理している。薬品での殺害では、すぐ病院の関係者だと知れてしまう」
「いづみへの暴行は?」
「人間の頭というのは、パニックを起こすとどんなことでも仕出かす。あの異常な状況下で武造はいづみに性的な興奮を感じた。そしてあそこまでの暴行をしておきながら、射精の能力自体は枯渇していた……極端すぎるか?」
「不愉快すぎますね」
「しかし、理屈としては筋が通るだろう。実際の犯行がおれの言ったとおりだったとしても、理屈としては問題ない。理屈として問題はないが、いやな感じは残る」
「懐疑主義者ですねえ。とりあえず理屈として筋が通れば、わたしなんか、飛びあがって喜びます」
「そうやって飛びあがって、着地してみたら地獄だったりする。もちろん君の人生には、関係ないけどな」
夕子が咳払いをして、つけたばかりのタバコを消し、つまみ上げたヤキトリを歯でしごく。
「たった一度ぐらい……」
「一度ぐらいの失敗なら、起きあがって、飛び直せばいいか」
「椎葉さんなら飛び直せます」
「なんの話だ」
「べつに……ただの、言葉のあやですよ」
椎葉は三口だけ吸ったタバコを灰皿につぶし、それを夕子の吸殻と一緒に、ポケットへしまう。「もう一つ気になるのは……」デキャンタの酒を自分で猪口につぎ、口に運んで、椎葉はため息をつく。「事件のあと、現場検証に、美亜を立ち会わせなかったことだ。立ち会わせたのが武造というのは、二重の失敗だった気がする」
「結果論です。あの時点で美亜を立ち会わせるのは、心情的に無理だったと思います」
「中村さんの心情的に、だろう」
「ほかの捜査員からも異論は出ませんでした」
「おれが捜査に加わっていたら、美亜が泣こうが喚こうが、首を掴んででも現場へ連れていった。今回の捜査本部は、その出足から歯車が狂っていた」
「歯車は、たしかに……」
「君は現場の部屋を見て、なにか感じなかったか」
「ああいう現場は、初めてでしたから」
「なにかが不審《おか》しいんだ。この前からずっと考えてるんだが、なにが不審しいのか、おれにも分からない。美亜をあの部屋へ連れていければ、ヒントぐらいは出るんだろうがな」
酒がなくなり、夕子に顔をのぞかれて、椎葉は首を横にふる。あと二、三時間で夜は明け、ちょっとした仮眠のあと、夕子にはまた明日の仕事が待っている。
「せっかく事件の糸口が掴めて、九分どおり解決へ近づいたはずなのに、結局このまま、傍観なんですかね。二、三日病欠をして、温泉にでも行きたい気分ですよ」
「その前に明日の朝一で、健司犯人説をとり消しておけ。自棄を起こして自分のキャリアに疵《きず》をつけても、意味はない。自分の立場を守ることも大人の分別だ」
「椎葉さんに大人の分別を教えられるとは、思いませんでしたよ」
夕子が自分の猪口を空け、つまんだタバコの箱を、椎葉のポケットに押し込む。今夜の夕子が奇妙に美しく見えるのは、店の暗い照明が目尻の小皺を隠すせいだろう。
椎葉は食べ残しのヤキトリを紙ナプキンに包み、ポケットに入れて、首のタオルを巻きなおす。
「忘れていたが、一つ頼まれてくれるか」
「経費の追加ですか」
「公務員の給料がさがる時代に、そんな贅沢は言わない」
「大丈夫です。温泉に行くときは誘ってあげます」
「昨日……もう一昨日だが、世話になったホームレスが死んでな。仲間富吉という名前で、おれにとっては親父みたいな男だった」
「はあ」
「死因に不審なところはない。ただホームレスの遺体は、東大の医学部で解剖の実験に使われて、あとは谷中の無縁墓地に葬られる」
「知りませんでした」
「普通の人間は誰だって知らないさ。しかし富吉には、沖縄に家族がいるらしい。生きてるときそのオヤジは、家族がいるから沖縄へは帰れないと言っていた。詳しい事情は知らないが、人間にはそれぞれ、なにかの事情はある。だがどんな事情があるにせよ、死んだあとぐらい、人間には家族の墓に葬られる権利がある」
「はい」
「いつ富吉が火葬されるか、遺骨がどう処分されるか、そのことが分かったら、おれに教えてくれ」
「分かりました、仲間富吉ですね」
「みんなにはトメさんと呼ばれていた。布袋様みたいに太ったオヤジで、歳は六十ぐらいだったろう」
夕子がうなずいて、スツールから腰をおろし、バッグをもってレジへ歩く。椎葉も二十秒ほど遅れて腰をあげ、勘定を済ませた夕子と一緒に店を出る。椎葉との飲食が捜査活動費で落ちるはずもなく、あげくに捜査もいきづまって、夕子としても気が滅入ることだろう。この埋め合わせは事件の解決しかないが、武造の生命に限界がある現状で、どんな手段が考えられるのか。
エレベータで一階におり、玉川通りの車道側へ歩いて、夕子が足をとめる。
「椎葉さん、タクシー代、もってます?」
「まさか」
バッグを開けようとする夕子の肘を、上から椎葉が押さえる。
「これ以上君から金はもらえない。若い娘が、つまらないことに気を使うな」
「でも……それなら、わたしの部屋へ、泊まりますか」
「まさか」
渋谷方向から空車タクシーが来て、椎葉が車道に手をふる。タクシーが速度をゆるめ、二人の横にとまる。
「君に雇われたときから、仕事用に自家用車を調達した」
「はあ?」
「今夜だって、ちゃんとこの近くに停めてある」
タクシーのドアが開き、椎葉が夕子の肩を、ドアの内に押す。
「とにかく明日の朝、健司の犯人説だけはとり下げろ。君がミニパトの婦警になったら、おれにもアルバイトがまわって来なくなる」
タクシーと夕子に背を向け、歩きだしながら、椎葉は防寒ジャケットのボタンをかける。首のタオルも巻きなおし、帽子も深く耳にかぶせる。今年の冬が奇妙に暖かく感じられるのは、やはり裏にボアがついた、この防寒ジャケットのせいだろう。
椎葉が自転車を見つけるのに、それから十分も付近を歩きまわったのは、思っていたより深い酔いのせいだった。
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新聞で顔写真は見ていたが、なるほどこれは馬面だ。頬骨から顎先までの長さが額の四倍ほどもあり、口が大きくて歯が出ていて目が小さい。どういう遺伝子を配合したらこんな顔ができあがるのか、呆れるというより、感心してしまう。
夕子は渋谷北署第一取調室のドア前に立って、覗き窓から小林靖夫の顔を眺めている。スチールの角机の二方から二人の刑事が囲み、もう一人が、小林のななめ後方の壁際に立っている。椅子に座った小林は昂然《こうぜん》とするでもなく、悄然《しようぜん》とするでもなく、途方に暮れたような顔で机に目を落としている。茨城から移送されて四日目、相変わらず幹江との接触は認めないという。
小林の右隣の刑事が机を叩き、肘で小林の肩をつく。小林は首を横にふるだけで口を開かず、無気力に歯をむき出す。それが刑事たちを愚弄《ぐろう》した顔に見えるのか、後方の刑事が横から小林の髪を掴む。防音装置で声は聞こえないが、刑事たちが怒号を発していることは明白、にやにや笑っているように見える小林もすすり泣きを漏らしている。
夕子は覗き窓から部屋内を眺めたまま、緊張と嫌悪感で、思わず手のひらの汗を握りしめる。刑事たちの行為は『取り調べ』という名目での集団リンチ、こんな暴力を三日連続でくり返されたら、無実の人間でも罪を認めてしまう。しかもこのリンチ的取り調べを、法律では二十一日間も認めている。
刑事たちの暴行が中断され、休憩と懐柔をかねて、小林にタバコがさし出される。小林はタバコに反応せず、長い顎を胸にうずめ、椅子に背中を丸めて両手を口にあてがう。そのポーズを椎葉は「トウモロコシをかじるみたいに」と言ったが、夕子には萎縮した馬が餌のニンジンに安らぎを求める悲哀のように見える。遠目にもすべての爪はかみ切られ、こんな指で首を絞めても、皮膚に爪痕は残らない。
夕子は暗澹《あんたん》とした気分でドア前を離れ、三階から二階におりて、『代々木公園女子高校生殺人事件特別捜査本部』と貼り紙のある予備室の前に立つ。ドアは開いていて、五、六人の私服刑事が一つのデスクで談笑し、制服の婦警もパソコンデスクの前で週刊誌を広げている。
部屋へ入る気にはならず、ドアの外に立ったまま、笹野の視線が巡るのを待つ。すぐに私服刑事のなかから笹野が顔をあげ、男たちを残して夕子のほうへ歩いてくる。今日も茶系のソフトスーツに濃いベージュ色のワイシャツ、口元には渋みのある笑みを浮かべている。
「どうだったね、取り調べというより、馬の調教風景のようだろう」
「調教が過酷すぎませんかね」
「そりゃ仕方ないよ。あの馬は性格が悪い上に反抗的ときてる。バカな馬をしつけるには鞭が必要なもんさ」
「でも……」
「心配無用、小林はホームレスで婦女暴行の前科もある。殴ろうが蹴ろうが、世間の同情は集まらん。女子高校生を暴行して絞め殺すような野郎に、礼儀や同情は無用なんだ」
笹野が夕子の表情をうかがいながら、上着のポケットをさぐり、タバコをとり出して火をつける。
「それにしても吹石くんには、本当に世話になった。小林をこれだけ早く検挙できたのは、君のお陰だ」
「差し出がましかったことを、今は反省しています」
「いやいや、他の刑事と違って、俺は縄張り意識なんかもってないよ。事件をすみやかに解決して社会不安をとり除く、それが警察官としての本懐だ」
「ご立派だと思います」
「その、まあ……ところで吹石くん、今夜あたり、暇はないかなあ」
「ありません」
「明日は?」
「こちらの事件は片づきませんから」
「たまには息抜きをしたまえ。いつか言ったベトナム料理なんか、どうかなあ」
「笹野警部……」バッグを開いて携帯用の灰皿をとり出し、夕子が笹野の胸につきつける。「警部は小林容疑者に爪をかむ癖があることを、ご存じでしたか」
夕子の灰皿にタバコの灰を落としながら、笹野が渋く、眉間に皺を寄せる。
「そういえばあの野郎、馬みたいに、いつも口をもぐもぐやってるなあ」
「爪をかんでるんです」
「ほーう、そうかね」
「取調室の覗き窓から見ただけでも、彼の指にほとんど爪はありません」
「一種の精神障害だろうな。目をチックさせたり子供がタオルの端をかみつづけたり、あれと同じことだよ。そうやって心理的パニックを誤魔化すわけだ」
「あれほど深く爪をかむのは、逮捕のパニックだけとは思えません」
「もともと頭に異常があるから、女なんか襲ったわけさ。やつの頭が以前からパニックを起こしてたとしても、不思議はないなあ」
「でも、あの指では、幹江の首に爪痕は残せませんよ。幹江の遺体写真には、それぞれの指に明瞭な爪痕が残っています」
笹野の息がつまり、タバコの灰が灰皿からずれて、ぽとりと床に落ちる。
「いやあ、しかし、吹石くん……」
「これがどういうことなのか、わたしには見当もつきません。小林にいつから爪をかむ癖があったのか、それも分かりません。ただこの事件は世間も注目していますし、小林に自白を強要するような手法では、あとで面倒が起こると思います」
「しかし、精液も残っていて、DNAの鑑定結果もある」
「セックスと殺しが結びつくとは限りませんよ」
「吹石くん、君は俺の事件に、因縁をつけに来たのか」
「そう思いますか」
「ほかにどう思える。小林は前科者で粗暴で女に飢えていて、しかも反社会的なホームレスだぞ。精液や指紋の物証も完璧で、当日のアリバイもない。これほど単純で明快な事件が、どこにあるというんだ」
「それなら、爪は?」
「あれは逮捕以降にやつが始めたことだ。事件以前にそんな癖があったことなど、誰も知らん」
「そうですかね」
「かりに母親がなにか証言したとしても、裁判に影響は出ない」
「幹江がホームレス相手の売春婦だったとしたら、精液だって、怪しいもんです」
「大間幹江は現役の女子高校生だぞ。そりゃ援助交際ぐらいはやったろうが、不潔で貧乏なホームレスを相手に、まさか売春はやらんよ」
「人間がなにを考えてなにをするか、そんなこと、他人には分かりません」
「君も依怙地な性格だなあ。たとえ君の言うとおり、小林が無実で、犯人は別にいたとする。しかしだからって、なんだというんだね。ホームレスのことなんか世間は誰も気にしない。ああいう連中は一人でも多く刑務所に隔離したほうがそれだけ世間のためになる。警察として社会正義を貫くためには、多少の強引さは許されるもんだ」
笹野がタバコをつぶそうとする手から、灰皿を遠のけ、夕子はバッグへしまう。
「わたしは小林の爪に気づいたので、そのことを申し上げただけです」
「そうかね。それなら俺も、一応は聞いておくよ」
「大嫌いです」
「なんだと?」
「笹野さんのことではありません。この前は好物だと言いましたけど、ベトナム料理の生春巻きなんか、本当は、嫌いだという意味です」
部屋の内から歩いてきた制服警官をやり過ごし、夕子は笹野に頭をさげる。そしてそのまま廊下を進み、ふり返らずに階段をおりる。これで本庁への道も頓挫だろうが、笹野の尻の穴なんか広げていたら、指がきれいになる暇もありゃしない。それに癪にさわる事実ではあるけれど、今は所轄の刑事課でさえ荷が重いのだ。
たとえミニパトに乗るようなことになったとしても、そのときはそのとき。駐車違反のクルマにチョークを塗りたくって、世のため人のため、この東京から駐車違反車を一掃してやろう。
正午を過ぎたあたりからテントの解体が始まっている。天気は昨日からつづく小春日和、モズがやけに高い声で鳴き、散歩の幼稚園児が遊歩道に列をつくっていく。
トメさんのテントを解体しているのは、センセイに雇われた三人のホームレス。すでにテントの形はなく、六畳ほどの空間に青いビニールシートが矩形《くけい》に広がっている。衣類や雑品は昨日のうちに完売したらしく、その方面におけるセンセイの手腕には恐れ入る。残るは高値が予想されるビニールシートで、今も新参のホームレスが遠くから作業を見守っている。
「こらこら、国谷くん、シートのつなぎ目をひっ張ったら、破けるじゃないか。なに? 君の指なんか千切れたって構わないよ。君の指よりはシートのほうが高いんだから。とにかく一枚一枚きれいにはがして、それが済んだら水で洗うんだ。バケツは椎葉くんのテントにも、スダくんのテントにもある。もし破れ目があったら私に言ってくれ。接着剤もガムテープも用意してあるから、すぐ新品同様に繕える。おいおい、こら、奥河内、土足でシートの上を歩きまわるな。貸した金の利息も払えんくせに、くわえタバコで仕事をするなんて、君の態度は十年も早いぞ」
同じホームレスでありながら、センセイのように指図をするホームレスもいれば、諾々《だくだく》と指図に従うホームレスもいる。人間には常に体質的なポジションがあり、政治家も警官もサラリーマンもホームレスも、それぞれの業界でそれぞれのポジションを占めていく。養護施設でも学校でも警視庁でも家庭でも、椎葉に『よそ者』というポジションしか与えられなかった理由は、椎葉の体質が『よそ者』だったせいだろう。
スダくんのテントに饅頭笠は見えず、奥の林からはポンとかチーとか、相変わらず気楽な声が聞こえてくる。日溜まりでは小林さんが小さくうずくまり、芝生広場のほうでは子供の歓声がこだまする。テレビではまだ幹江の事件を騒いでいるらしいが、テント村にマスコミは姿を見せず、警官の監視もなくなっている。トメさんのテントが畳まれた以外、冬の陽射しもモズの鳴き声も、すべてが去年と同じ風景をくり返す。
椎葉は松の根方から腰をあげ、ポケットに焼酎のボトルをさぐりながら、芝生広場の方向へ歩く。サイクリングロードと遊歩道を横切り、広場の端に出る。さっきの幼稚園児が輪になってちらばり、若い女教諭を中心に歌をうたっている。だだっ広い芝生広場に木陰はなく、何組かの子供連れも日向でピクニックシートを広げている。椎葉は広場の縁を半周ほど歩き、池に面したいつものベンチに腰をおろす。気分としては仕事をやり残していても、もう羽田事件の構図は見えている。武造の有罪を承知で事件を迷宮に押し込むか、岸本家の崩壊を承知ですべてをさらけ出すか、この世にもし神がいるなら、是非そっちで決めてもらいたい。
背中にうらうらとした陽射しを受け、焼酎をなめて、吸止に火をつける。こんな水溜まりのような池でもカルガモが泳ぎ、イチョウの枯れ葉が金色の斑紋をきらめかす。椎葉はベンチの背もたれに頭をあずけ、襲ってくる睡魔に身をまかせる。
十分ほどまどろんだとき、椎葉の前を人の気配がよぎる。目を開けると制服を着た女子高校生が立っていて、薄べったいカバンを揺らしながら椎葉の顔をのぞいている。
「うん? ああ、君か」
美亜だって女子高校生だから、制服にも不思議はないはずなのに、なぜかそのことを忘れていた。チェックのミニスカートに紺のブレザーと紺のハイソックス、ベージュ色のカーディガンを羽織ってマフラーは相変わらずのうしろ縛り、池の照り返しが頬の産毛を金色に光らせる。
「あのオジさんのテント、なくなってるね」
「死んだ人間にテントは要らないさ」
「お墓、決まったの」
「いや」
「谷中だっけ」
「たぶんな」
「決まったらお墓参りに行こうね」
もう一度ぶらりとカバンをふり、椎葉のとなりに腰をおろして、美亜がスカートの裾をひっ張る。小柄なわりに足は長く、華奢《きやしや》な膝も蝋《ろう》のように光っている。
椎葉は身を起こして座りなおし、欠伸をして吸止に火をつける。
「学校へ行ってきたのか」
「うん。でもつまらないから、早引けしちゃった」
「おれも人生がつまらなくて、早引けしてるんだ」
「ねえ、この前は、なぜ黙って帰ったの」
「君の顔を見たら別れが辛くなったさ」
「ふん、お風呂も入らないくせに」
「度胸がなくてな、十万円の女には手が出ない」
「なんの話?」
「ただの寝言だ。だけど君、あまりテント村へは近寄るな。悪気はなくても、ホームレスには節操のないやつが多い。それに酔ってるときも多いから、なにが起こるか分からない」
「平気だよ。あたし、処女じゃないし」
「幹江だって処女ではなかった。男と寝たことがあるとかないとか、そんなことは問題じゃない。意味もなく躰を汚しても、それはただ、無意味に汚れるだけだ」
「あんた、普通に喋れないの」
「うん、だからまあ、自分の行動には、責任をもてということさ」
タバコを足元に捨て、椎葉は帽子の下に指を入れて、痒くなった頭をかく。そういえばまたしばらく風呂に入らないから、髭も濃くなって汗も匂うだろう。まだ夕子からの経費も残っているし、今夜あたりは銭湯へ行ってみるか。
美亜が顎をマフラーにうずめ、金色の前髪に指を絡めながら、小さくくしゃみをする。
「あたしね、幹江を殺したやつの顔、テレビで見たよ。にやにや笑って白目を出して、気持ち悪い顔だった。あんなやつにやられて殺されて、幹江が可哀そうだよ」
「顔と頭が悪いというだけで、あいつも損な人生だ」
「ああいう男は根性も悪いよ。ぜったい死刑だよね」
「残念だけど、幹江を殺した犯人は、ヤスオじゃない」
美亜の目が丸くつり上がり、膝が動いて、椎葉の膝を突く。
「だってテレビでは、あいつが犯人だと言ってるよ」
「警察もたまには間違うさ。本当はたまにでも間違っちゃいけないのが、警察なんだけどな」
「それなら幹江は、誰が殺したのよ」
「さあな。羽田の事件では君に雇われたが、幹江の事件では誰にも雇われていない。幹江を殺したのが誰かなんて、おれの知ったことじゃない」
「いやーな性格だね」
「君と気が合うだろう」
「あたしは幹江を殺した犯人も捕まえてほしい。幹江はあたしの友達だった。親友ではなかったけど、気持ちのやさしい子だったし、幹江といると、なんとなくほっとした」
「しかし……」美亜の視線から顔をそむけ、首のタオルをゆるめて、椎葉は焼酎を咽に流す。「君、幹江がホームレス相手に売春をしていたことは、知っていたか」
美亜の膝がまた椎葉の膝を突き、その小さい口がゆがんで、上唇がめくれる。
「いくら幹江でも、そこまではしないよ」
「していたんだ、加世田が証言した。あの制服も商売用に加世田が調達した。加世田のほうは金のある客をとらせようとしたらしいが、なぜか幹江は、安い金でホームレスとやり始めた。もっともそれは夏以降のことだから、君が知らなくても無理はない」
「幹江が……」
「ホームレスにとって彼女は、天使だったわけさ」
「幹江が、売春か。信じたくないけど、幹江らしいといえば幹江らしいかな。でもそれって、たぶんお金のためじゃないよ。たぶん幹江は、ホームレスの人が好きだったんだよ」
「やっぱり彼女は、天使だった」
「幹江のお父さん、上野でホームレスをやってるの。いつか上野で見かけて、びっくりしたって」
美亜がマフラーから顎の先をのぞかせ、背中をベンチにひいて、ほっとため息をつく。幹江の家は葛飾区の金町、父親は行方不明だったというが、上野で見かけたというなら事実だろう。その結果幹江がホームレスに親しみを感じたのか、ホームレスを嫌悪したのか、実際の心理は分からない。しかし女子高校生がホームレス相手に売春をはじめた心の奥には、どこかに父親の存在があったのだろう。
「だけどさ、やっぱり幹江は可哀そうだよ。あいつが犯人じゃないとしたら、あんたが真犯人を捕まえてよ」
「また探偵料が高くなるぞ」
「いくらでも払うよ、もっとずっと、後だけど」
「期待している。君に探偵料をもらったら、枯れ葉色のビニールシートをつくって、おれが日本中のホームレス村をお洒落にしてみせる」
美亜がローファーの先をメトロノームのようにゆすり、尖った顎で、くすっと笑う。両親の保険金も武造の遺産も、それらはすべて美亜が成人して以降のこと。現状では親戚の家に身を寄せる、孤児の女子高校生でしかない。
「幹江の事件は、放っておいても、そのうち決着がつく。問題は君のほうだろう」
「あたしはホームレスになって、あんたと暮らしてもいいよ」
「アメリカの伯父さんと暮らせ」
「どうして」
「日本を離れればいやなことが忘れられる」
「満男オジなんて、よく知らないもの。それにあたし、英語が喋れない」
「髪は金色だ」
「あんた、無責任だよ。ちゃんと健司オジを捕まえてよ」
「健司伯父さんは、犯人じゃない気がする」
「健司オジは悪者だよ」
「たとえ悪者で、君を苛《いじ》めていたとしても、それだけで殺人犯人にはできない。あの伯父さんは意外に、気が小さいだけなんだろう」
美亜のローファーがゆれ、腰がベンチから離れて、西日のなかに金髪が光る。
「ねえ」
「なんだ」
「うん……」
ぷいと顔をそむけ、少し池のほうへ歩いてから、顔をそむけたまま戻ってきて、美亜がまたベンチに腰をおろす。
「あたしのこと、おかしいと思う?」
「一般の人間がホームレスを差別する程度には、差別されるだろうな」
「普通に喋りなよ」
「うん、まあ、おれは、おかしいとは思わない」
「でも健司オジは、あたしのこと、化け物だって言う」
「怖いぐらい美人だという意味だろう」
「ちがうよ。中学のとき、健司オジがお袋に話してた。お正月に阿佐ヶ谷の家に行って、そのとき食堂で二人が喧嘩したの。ほかには誰もいなかったけど、声が廊下まで聞こえた。健司オジはお袋に『あんな化け物を生んでおきながら、生意気なことを言うな』とか、そんなことを怒鳴ってた」
「兄妹喧嘩というのは……」
「あれはそういう喧嘩じゃないよ。健司オジはずっとお袋を嫌ってた。いづみが生まれたときはあたしも病院へ行った。いづみは普通の赤ん坊だった。だから健司オジが言った化け物は、あたしのことなんだよ」
「伯父さん殺してやろう」
「あたしね、お風呂に入って、何度も自分の躰を調べたよ。でもおかしいところなんか、どこにもないの。ちゃんと毛も生えてるし、生理もあった。男の子とだって寝てみた。すごく痛くて、血も出た。だからどうして自分が化け物なのか、あたし、ずっと考えてた」
まっすぐ池を見つめている美亜の目から、透明な涙が流れ、頬を伝ってマフラーに吸い込まれる。静かな涙に狂気の気配はなく、声にも乱れはない。美亜にどこかおかしい部分があるとすれば、それは健気《けなげ》すぎるほどの、この我慢強さだろう。
「あたしだってね、バカじゃないよ。それまでは思わなかったけど、でも考えたら、親父とあたし、似ていないことに気がついた。いづみには目の感じとか頭の形とか、親父に似てるところがあった。だけどあたしは、なにも似ていない」
椎葉は首のタオルをはずし、美亜の顔に押しつけて、多めの焼酎を飲む。美亜の出生は椎葉の推理どおりだろうが、しかし美亜の人生に関しては、健司に責任をとらせる必要がある。
「それでね、子供のころのことを思い出してみると、親父って、やさしくはしてくれたけど、どこか、あたしに遠慮していた。血液型はお袋がOで親父がB、いづみがOであたしがBだから、それだけじゃ分からない。でもあたし、親父が本当の父親じゃないことは、ちゃんと知ってる」
美亜が椎葉のタオルで涙を押さえ、そのタオルを目の高さにかざして、じっと睨む。
「あんた、このタオル、いつ洗ったの」
「さあな」
「なんか、ヤキトリ臭いよ」
「贅沢を言うな」
「ハンカチぐらい持ちなよ」
タオルを椎葉の膝に放り、手の甲で頬をぬぐって、美亜が指先で前髪をかきあげる。
「だけどね、そんなこと聞いたら、親父もお袋も可哀そうだし、いつかは自然に分かるだろうと思ってたら、二人とも、死んじゃった」
椎葉は膝のタオルを首に巻きなおし、美亜の肩に腕をまわして、腕に力をいれる。
「親父さんとお袋さんを、恨むな」
「恨んでないよ。ただ、寂しいだけ」
「もし君の言うとおり、遺伝子的父親が別にいたとしても、それは、それだけのことだ。親というのは君が生まれてくるための、きっかけでしかない。きっかけなんか両親でも、他人でも、試験管でも、なんでもいい。生まれてしまった以上、君の人生は、君のものだ」
美亜がしばらく息をとめ、それから長く息を吐いて、小さくうなずく。
「ある意味では君に遺伝子をくれた男に、感謝するべきだ。女は環境だけじゃ、美人にならないからな」
「誰も恨んでない。お袋にも親父にも、それからその男にも、事情があったんだよ。でもその事情が、今度の事件に関係してたら……」
「それはだいじょうぶだ」
「どうして」
「おれは君専属の探偵だ。すべての経験とすべての勘を働かせて、保証する」
「それなら、犯人は?」
「殺人事件の解決には時間がかかることもある。五年か十年か、十五年の時効期間以降か、あるいは君の人生が終わるころになって、やっと事実が分かるとか……問題は事件を解決させることより、君が幸せになることだ」
「あたしは、どうやったら、幸せになれるの」
「それがな、ホームレスのおれにとっては、いちばん難しい質問さ」
美亜の肩をたたいて、椎葉は少し躰を離し、額の汗にそっとタオルを押しつける。満男や武造に関する推理を話すわけにもいかず、それでも現時点で、とりあえず美亜を納得させる方便など、何かあるのだろうか。一人の少女に幸せを見つけてやることは、殺人事件を解決させるより難しい。面倒なことではあるが、こんなジレンマを、なんの因果で背負い込んだのか。
椎葉が背伸びをすると、美亜も真似をして背伸びをし、椎葉が吸止をくわえると、美亜もカバンからタバコをとり出して火をつける。遠くの芝生では幼稚園児が騒ぎ、目の前の池ではカルガモの番《つがい》がたわむれる。陽射しは穏やかで風はなく、こんな風景を見ていると、美亜の出生もその家族の死も、そして椎葉自身がホームレスであることも、すべてが嘘のように思えてくる。
人間の幸せとはなにか……もう何年も考えることのなかった命題を、小春日和につられて、つい椎葉は考える。
給茶器からうすい茶をいれてきて、夕子はデスクの椅子に腰をおろす。刑事部屋に中村の姿はなく、所轄の刑事が五、六人、それぞれの部署でデスクワークをつづけている。中村に対して『健司犯人説』をとり下げてはみたものの、根拠の弁明はできなかった。健司を重要容疑者に祭りあげたことだってもともとは自棄っぱち、だからその翻意は自棄の上塗りで、夕子としては立場も気分もどん底、しかし捜査本部としてもほかに事態打開の方向は見当たらず、中村は岸本家周辺の聞き込みを継続させている。茶をすすってタバコを吸ってまた茶をすすり、パソコンの画面を睨みながら、夕子は早くこの状況を清算しなくてはと、また無意識にタバコの火をつける。
画面に表示されているのは岸本満男からの返信メールで、夕子はもう一時間もその文章を睨んでいるのだ。
『吹石巡査部長様。
諸般の事情により、ご返事が遅れたことをお詫びいたします。かつ妹一家の事件に関する皆様のご努力に、改めてお礼を申し上げます。
あの事件から半年、今回吹石様から突然のメールをいただき、驚くとともに、非常な困惑を覚えた次第です。あれやこれや思い悩み、失礼ながら黙殺させていただこうかと考えていた矢先に、兄の健司、また父の武造からつづけて連絡が入り、このご返事を決心いたしました。小生の苦衷《くちゆう》も、なにとぞご理解くださいませ。
さて、半年前の事件発生当時、帰国した小生と父、兄の三人は、事件の経過がどうあろうと、この家族の秘密だけは世間に曝《さら》すまいと、かたく誓い合いました。身内を殺された家族のくせに勝手すぎるだろう、との非難は甘受いたしますが、生き残った美亜のため、また岸本家や坂下家の名誉のためにも、他の選択肢はなかったのです。しかしながら先日、父と兄の元に「椎葉」と名乗る正体不明の男があらわれ、岸本家の秘密(ご指摘のとおり、美亜の出生に関するものですが)を種に脅迫めいた言動をおこなったと聞かされ、すでにこの事実が外部に漏れている以上、もう吹石様のお力にすがるより方策はないと判断いたしました。身勝手は重々承知しておりますが、美亜のためにも、また余命いくばくもない父のためにも、特段のご配慮をお願いする次第です。
先日ご質問いただいた件につきまして、恥を承知で、お答えさせていただきます。
先ず問題の、美亜の父親は誰か、ということですが、これは小生たち兄妹の父、「武造である」としか申し上げようがありません。この事実を知っているのは亡くなった母を含めて、岸本家の人間だけだったはず。父親が武造で母親が雅代ですから、美亜は父娘のあいだに生まれた子供であり、このことは世間にも、まして美亜本人にも、決して知らせることのできない秘密でした。もともと妹の雅代は父母にとって晩年の子供、仕事以外に趣味のなかった武造も、雅代に関しては俗に言う「目に入れても痛くない」という溺愛《できあい》ぶりだったのです。小生も健司も歳の離れた妹ということで、兄妹というより、愛玩物のように扱ってまいりました。それだけなら問題のない家族であったものを、武造は娘離れをせず、雅代も父親離れをせず、雅代が高校生になるまで二人で風呂に入るような日常、さすがに母親も健司も行き過ぎを指摘しましたが、世間にはそんな父娘関係もあると聞きますし、精神医学的な生理プログラムでは、近親相姦を回避するシステム(血縁関係があってもなくても、子供時代から親しく接してきた男女間に恋愛感情は発生しない)が確立しておりますので、小生など、一過性の甘え現象と楽観しておりました。
しかしそうやって時間がすぎ、十七年前の秋に雅代が妊娠し、その相手が武造と知れたときの混乱を、どうぞお察しくださいませ。妹が大学生で妊娠したことさえ憚られるのに、その相手が実の父親であることなど、古代の王族ではあるまいし、断じて認めるわけには参りません。母、兄、小生は、どんなことがあっても秘密裡に処理すべきと、父と妹に申し入れました。まさか武造と雅代が子供の出生を望むことなど、思いも及びませんでした。家族の困惑、混乱、疑心暗鬼や絶望など、説明してもご理解はいただけないと思います。小生など雅代の旅行先まで乗り込み、何度徹夜で説得を試みたことか。兄と二人で妹を手術台に縛りつけ、無理やり堕胎手術をやってしまおうと、何度相談したことか。しかし小生たちには直接の行為に出る勇気はなく、妹と父の頑《かたくな》さに戸惑うばかり。妹は死んでも子供を生むと主張し、父も雅代との子供を強く望む始末、小生たちはそれを狂気と罵り、妹と父は愛だと主張し、母などは心臓の発作で落命の寸前にまで至りました。
そんな混乱のなか、またここに、坂下吉成氏が登場しました。吉成さんは雅代がアルバイトをしていた会社の上司であり、以前から雅代に好意を寄せ、それまでにも家で食事をしていくような関係にありました。吉成さんの雅代に対する好意は家族の誰もが気づいていましたが、雅代には武造との関係があり、吉成さんに対してはボーイフレンドという以上の感情はなかったようです。そんなときに発覚したのが雅代の妊娠で、家族の混乱ぶりから吉成さんが察したのか、あるいは雅代が打ち明けたのか、吉成さんも父と妹の関係を知るに至ったのです。
事態が急変したのは、このときからでした。吉成さんが雅代の妊娠を承知で、結婚を申し込んできたのです。小生たちは驚くやら呆れるやら、言葉も出ないあり様でした。しかしそれ以上の驚きは、吉成さんの申し入れを、雅代が受け入れたことでした。多少の心理学をかじっている小生にしても、すでに理解の及ぶ範囲ではなく、ただ唖然《あぜん》とするより術《すべ》のない状況でした。
吉成さんは小生の家族を前に、「愛した女性に連れ子があったからといって、その女性に対する愛は変わらない。すでに生まれている子供も、これから生まれてくる子供も、所詮は同じ連れ子、子供の父親が誰かは問題ではないし、雅代への愛も変わらない。この結婚を認めてくれれば、雅代も子供も幸せにする自信がある」と断言しました。
これら一連の経緯がいかに不可解なものであるか、他人から見れば破廉恥《はれんち》で常軌を逸したものと映るか、小生も承知しております。しかしながらこれが十七年前に発生した岸本家の秘密であり、岸本家がくだした結論でもありました。いかに一般社会の常識から逸脱していようと、あの時点では雅代と吉成さんとの結婚を認め、子供を二人の子供として育ててもらうことが、唯一の解決方法と判断したのです。
そしてその結果と十七年間の経過は、すでに警察がお調べになったとおりです。幸い美亜に近親交配による障害は発生せず、出生の秘密が他人に知れることもなく、また雅代と武造の関係も清算され、坂下の家族は世間並みの幸せを保って参りました。妹一家に対する経済的援助は当然のことであり、吉成さんから要請されたことなど、一度もありません。あれほど複雑な結婚事情でありながら、雅代と吉成さんの夫婦仲も良好で、小生も十七年前の事情など、忘れておる始末でした。そんな折りに発生した今回の事件は、まさに青天《せいてん》の霹靂《へきれき》、驚愕と困惑以外の、何ものでもありません。
吹石様のお問い合わせでは、十七年前の事情が今回の事件に影響していると疑っておられるご様子、しかし小生が申し上げたいのは、いかに結婚事情が複雑で不可解なものであろうと、妹一家にあのような事件に巻き込まれる要素はなく、相応に幸せな暮らしをしていた事実です。兄の健司など、酔いに任せて妹の過去を非難することもあったと聞きますが、あのトラブルが穏便に収まっている現状は認めていたはずであり、父の武造にしても、妹とその家族の幸せを一番に願っていた人間です。小生たち一家が恐れていたのは、不測の事態で昔の秘密が公になること、また「椎葉」のようなヤクザ者の出没なのです。小生が今回吹石様のご質問にお答えする理由は、ひとえにそのことの懸念であり、警察のお力による情報規制を、切にお願いする次第です。
小生や兄健司の苦悩、父武造の病状や姪美亜の将来をご考慮いただき、この問題に関する特別なお計らいを、恥を忍んでお願い申し上げます。
様々勝手で利己的なお願いばかり、しかし小生など遠いアメリカで暮らし、いたずらに気をもむことしかできぬ現状、今後事件に何らかの進展がありましたら、お手数ですが、またお知らせくださいますよう、重ねてお願い申し上げます』
いつか指のタバコが短くなっていて、夕子は灰皿にタバコをつぶし、深くため息をつく。岸本満男には半年前に会っていて、その細身の体躯とキザな口髭から、冷酷な学者的印象を受けていた。この文章にしても、本当は妹の雅代と関係をもっておきながら、すべての罪を死に瀕した父親に着せてしまおうという欺瞞ではないか、とも疑ってみたが、どう読んでも正直な、切々たる心情の吐露としか思えない。この期《ご》に及んで悪あがきをする性格とも見えず、ここに書いてある「美亜の父親は武造」という告白は、やはり事実だろう。この文章には信憑性《しんぴようせい》があり、だとすれば健司や武造が羽田の一家を殺すはずはなく、「死期の迫った武造が岸本家の禍根を断とうとした」という椎葉の推理も、全面的に的外れ。「理屈として筋が通っているからこそ、いやな感じが残る」という懸念のほうが、残念ながら、当たってしまったのだ。
それにしてもなあ、美亜の父親を健司か満男と思い込み、武造である可能性を、なぜ考えなかったのか。お調子者の夕子だけならまだしも、あの椎葉まで武造の可能性を考えなかったのだから、この問題はもう、夕子の手に余る。善か悪か妥当か不当か、美談か醜聞か狂気か愛か、そんなことはもう、とっくに夕子の守備範囲を超えている。
また無意識にタバコを抜き出し、そのタバコを睨みつけて、夕子はちっと舌打ちをする。タバコは一日十本などという規制は、いつ誰が決めたのだ。このメールを読みはじめたときからだって、もう五本も吸っていて、今日はどうせ一箱を超えてしまう。タバコも事件もすべてが手に負えず、目尻の小皺も足の魚の目も、なにもかも気にくわない。いっそのこと警察なんかやめて、椎葉のテントにでも転がり込んでやるか。
タバコに火をつけたとき、バッグのなかでケイタイが鳴り、くわえタバコで電話をとる。
「おう、今どこにいる?」
「所轄です」
「ふーん、暇なのか」
「忙しすぎて目がまわって、一休みしていたところです」
「ちょうどおれのことを考えてたんじゃないのか」
「そんな、べつに……」
「冗談だよ。それより、外に出られるか」
「はい、わたしも今……」
「今、坂下美亜と一緒なんだ」
「はあ、そうですか」
「彼女が現場検証に同意してくれた。今さら現場を見せても、意味はないかも知れないが、少なくともおれの気分に決着はつく」
「ああ、ええと、そうですね」
「だから検証に、君も立ち会ってくれ。美亜くんにタクシー代を借りるから、三十分もあればつくだろう」
「ええと、椎葉さん、自家用車は?」
「あいにく荷台がついてなくてな。それにおれの自家用車では、羽田まで三時間はかかってしまう」
「そんなことだと思ってましたよ」
「とにかく部屋の鍵を用意して、この前の、あの公園のベンチで待っていてくれ。それからくれぐれも、顔を合わせたとき、美人同士で喧嘩をしないように」
一方的に電話が切れ、夕子もケイタイをバッグに戻して、まだ火のついていたタバコを、大きく吸う。それからそのタバコを消し、口の前に手のひらを広げて、はっと息を吐く。さっき電話を受けたとき、自分の口臭がにおった気がしたのは、ちょっとばかり意識過剰だったか。歯は食事のたびに磨いているし、虫歯もないし歯槽膿漏《しそうのうろう》もない。しかし口臭はストレスでも強くなるというから、ケアに越したことはないだろう。やっぱりタバコもへらさなくちゃなと、夕子は湯呑の茶を飲みほし、パソコンのプリンターに印刷用の紙をセットする。
所轄を出る前に洗面所にこもり、歯を磨いて化粧を直して短い髪にブラシをかけて、そんなことに二十分もついやした。それでも羽田の小公園には椎葉たちより先につき、夕子はベンチに腰をおろして資料の現場写真に目をとおす。床の血糊を抽象画のように踏み荒らすゴム底の靴跡、花火のように散った壁の血痕、ダイニングルームの倒れた椅子に混乱した夫婦の寝室、それにくらべていづみが殺された子供部屋の、なんと整然としていることか。少女二人の部屋だから、カーテンはピンク色のイチゴ模様で壁にはアニメのポスター、勉強机にもマンガや文房具が散らばっているが、衣類や小物に散乱はない。ほかの部屋も本来は整然と片づいていたはずで、子供たちも親の几帳面さを受け継いだものだろう。岸本満男からのメールを読んでいる夕子には、結婚以降の坂下夫婦に殺人事件の被害者になる要素があったとは思えず、何度現場検証をくり返したところで、新たな手掛かりが見つかるとも思えない。椎葉の勘だって『武造犯人説』が外れたように、「なにか事件現場がひっかかる」という勘も、どうせ焼酎の幻覚に決まっている。大間幹江が殺されて事件が動きだし、岸本家の秘密が明らかになったといっても、それはそれだけのこと、椎葉と出会う以前より、羽田事件はいっそうの迷宮に入っている。
タバコをとり出しかけ、その欲求を我慢したとき、産業道路のほうから椎葉と美亜があらわれる。椎葉は冗談にもならないほど昨日と同じ衣装、うしろから歩いてくる美亜は清潔そうな制服を着て、薄い学生カバンを膝の前にさげている。金色に近い茶髪にも違和感はないが、うしろ縛りに巻いたマフラーが、どうにも生意気に見える。
ベンチから腰をあげた夕子に、椎葉が手をふり、美亜がむっつりとうなずく。夕子は肩をすくめて歩きだし、椎葉がとなりにやって来るまで、意識的に歩幅を狭くする。
レインコートのポケットに両手を入れたまま、帽子の庇をすかして、椎葉が夕子の顔をのぞく。
「ふーん、今日はずいぶん、化粧が濃いじゃないか」
「紫外線よけのファンデーションです」
「女も歳をとると小道具に金がかかるな」
「どうせ素面《すつぴん》では、女子高校生に敵《かな》いませんよ」
「小皺も肌のくすみも、人生の哀感がにじみ出て、お洒落だぞ」
「そんなもの、にじませたくありません」
「年齢の澱《おり》は天国への通行証、無駄な抵抗はせず、運命に身を任せることだ」
運命に身を任せて椎葉のようにホームレスへ落ちぶれるのか、と反論したかったが、美亜の視線が気になって、夕子は言葉を呑む。その表情は事件直後よりもいくらか穏やか、しかし目つきは相変わらず挑戦的で、そのくせ椎葉に寄り添うような歩き方には、ヘンな媚《こび》がある。椎葉もまさか、こんな小娘に手を付けてはいないだろうが、大間幹江の例もあるし、男と女のことなんか、なにがあるか分からない。それに認めたくはないけれど、美亜の透き通るような白い顔にはシミも皺も見られない。
「椎葉さん、昨夜はいろいろ、有り難うございました」
「うん? なんだっけ」
「わたしも久しぶりに気分よく酔えましたよ」
「あれだけ暗い店なら、おれのホームレスもバレなかったろうな」
「今度は代官山のフランス料理にでも行きましょうかね」
「どうせ君の金だ。フランス料理でもホストクラブでも、好きなところへ行けばいい」
まったく、アルバイト料から防寒ジャケットから飲み屋の払いから、これだけ誠意を尽くしてるというのに、椎葉という男は、礼儀を知らないのか。それでも美亜の目尻を一瞬、キッとつり上がらせてやったから、まあいいか。
マンションの入り口まで歩いて、そこで美亜の足がとまり、膝のカバンが胸の前に抱きなおされる。その美亜の肩に、椎葉がうしろから腕をまわす。
「初体験と同じでな、やらなくちゃ先へ進まない。初めてのことってのは、なんでも痛いもんさ」
夕子への対応にくらべ、ずいぶん親切な扱いだが、現場検証を女の子の初体験に比喩するレトリックは、どんなものだろう。
美亜が深呼吸のように息をつき、マフラーに顎の先をうずめて、エレベータへ向かう。夕子と椎葉も広いロビーを横切っていき、エレベータに乗り込む。前回は大柄な中学生が一緒だったが、今日はほかの住人もなく、三人は四階まであがってエレベータをおりる。夕子を先頭に廊下を進み、警察の黄色い『立入禁止』テープを外して、四〇二号室のドアを開ける。
「吹石くん、先に入ってリビングの窓を開けてくれ」
咳払いだけで対応し、夕子は沓脱からビニールシートの敷きつめられた床を歩いて、リビングのカーテンと窓を開ける。西日がななめに射してダイニングテーブルを明るくし、こもっていた空気をベランダからの風がかきまわす。羽田空港の上空では今日も飛行機が旋回し、産業道路からはかすかにクルマの音が聞こえてくる。
椎葉に肩を抱かれ、初めてスケート靴をはいた子供のような歩き方で、美亜が部屋に入ってくる。もともと白い美亜の顔が、今は蒼白、唇の端は細かくふるえ、黒目がちの瞳孔もガラス玉のように開いている。美亜の目は部屋の内に向かわず、そのままリビングを横切って、窓からベランダに出る。カバンが床に落ち、美亜の肘がベランダの柵にかかる。夕子は何秒か美亜のうしろ姿を眺めてから、ダイニングの椅子に腰をおろした椎葉に、目で指令をあおぐ。椎葉は首を横にふっただけで、帽子をうしろにずらし、レインコートのポケットから焼酎のボトルをとり出す。
「半年も待ったんだ、今さら急ぐことはないさ」
いくら小癪で生意気な性格でも、ここは両親と妹が惨殺された現場、そして十六年間生まれ育った家庭であり、愛着や拒否反応や憎悪や悲しみや、どれほどの思いが美亜のなかで錯綜しているか、夕子にも想像はつく。いつか椎葉に指摘されたとおり、美亜に対しては、素行の悪い不良少女という先入観をもちすぎていた。
焼酎を咽に流し、ほっと息をついた椎葉に、夕子がプリントアウトしてきた岸本満男のメールを渡す。
二枚の紙にプリントされたメールを、椎葉が黙って読みはじめる。一度は剃られた不精髭も元に戻り、頬がこけて顔色が悪く、目も鷹のように落ちくぼんでいる。ジャケットがオレンジ色からカーキ色に変わったから、いくらか違和感はないものの、汚いレインコートと片足を折り詰めの紐で間に合わせたドタ靴と、こういう人物を客観的に眺めたら、誰も友達になりたいとは思わない。
椎葉が二枚のプリントを、三度ほどていねいに読み返し、ちょっと鼻を曲げてから、紙をたたんでポケットにしまう。
「ふーん、おれは所詮、アル中のホームレスだったらしい」
「でも推理は、わたしから見ても、正しかったと思います」
「推理だけでは意味のないことも証明された」
「椎葉さんが超能力者でないことが分かって、わたしは安心しましたけどね」
「君には無駄な出費をさせたようだ、率直に謝る」
「ある意味ではよかったと思うけど……」
ベランダのほうにさりげなく視線を送り、夕子が眉の形で、椎葉に同意を求める。
「椎葉さんの推理通りだったら、いくらなんでも、ねえ?」
「愛……か。あの年寄りも『すべては愛のせい』とか言ってたが、愛というのも、罪なもんだ」
椎葉が遠くを眺めるような目で、しばらく美亜のうしろ姿を見つめ、それからまた焼酎をとり出して、ぐびりと飲む。祖父や伯父が犯人ではないと知れたところで、両親と妹が惨殺された事実は変わらず、美亜の出生にも秘密はつきまとう。
吸止を一本吸ってから、椎葉が腰をあげ、床に落ちた美亜のカバンを拾ってベランダに出る。美亜がふり向き、椎葉の首から勝手にタオルをたくし出して、しゅんと洟《はな》をかむ。その行為に、夕子の美亜に対する同情が、激しく壊れる。
「椎葉さん、彼女に、部屋を見せてやってください」
「分かってる。美亜くんもやっと、その気になったところだ」
椎葉に促されて美亜が部屋に戻り、夕子と椎葉の顔を見くらべながら、小さく洟をすする。ベランダでひっそりと泣いていた事情は分かるが、だからって椎葉のタオルで洟をかむ必要が、どこにある。
「あたし、見たって、なにも分からないよ」
「気持ちを落ちつけて半年前のことを思い出すんだ。もしなにも思い出せなくても、君のせいじゃない。ただちょっとでも不審《おか》しいこと、君の記憶と変わっていることがあったら、教えてくれ」
椎葉が美亜の肩を抱いて夫婦の寝室に歩いていき、夕子も椅子を立って、あとにつづく。いくら女子高校生で、心が動揺してるからって、椎葉がいちいちその肩に腕をまわす必要が、どこにある。
「まず衣装ロッカーを見てくれ。親父さんの洋服がなくなっていないか、家族以外には知らない貴重品があったかどうか、そのことも思い出せ」
美亜が作り付けのロッカーを開き、ハンガーにかかっているワンピースや背広を、真剣な目で眺めはじめる。
「警察から聞いてるだろうが、親父さんとお袋さんの財布から、十万円前後の現金がなくなっていた。二人が普段持っていた現金は、そんなもんか」
「うん、たぶん」
「ほかにお袋さんのヘソクリとか、タンス預金とかは」
「知らない。でも、なかったと思うよ」
「貴重品はどうだ。警察の調べでは、貴金属に手はついてないという」
美亜がロッカーの前から化粧台へ場所を移し、順番に引き出しを開け、口のなかで何か言いながら、またその引き出しを閉める。
「結婚指輪もあるし、お袋が通販で買ったダイアモンドもある。それから洋服もね、シャツは分からないけど、背広はみんな揃ってる。親父はネクタイを十三本持ってて、それもなくなってない」
「よく覚えてるじゃないか」
「あたし、勉強は嫌いだけど、物覚えはいいんだよ」
「本当は頭がいいんだろう。勉強なんかその気になれば、いくらでもできるさ」
「椎葉さん」
「なんだ」
「いえ、わたし、向こうの部屋でタバコを吸ってます」
二人を夫婦の寝室に残し、リビングに戻って、夕子は椅子に座ってタバコに火をつける。夕子に対しては目尻の小皺にまでイチャモンをつけるくせに、美亜にはその勉強嫌いにまでお世辞を言う。女に興味のないような顔をしていながら、もしかしたら椎葉は、ロリコンなのか。
夕子のタバコが半分の長さになったころ、二人が寝室から出てきて、今度は沓脱に歩く。沓脱の一面全体は天井までの靴箱、美亜がその扉を開き、椎葉が美亜のうしろに立つ。
「特に親父さんの靴を思い出してくれ。おれには最初から、どうも靴のことがひっかかる」
美亜が靴箱の前にしゃがみ込み、その美亜を残して、椎葉がダイニングテーブルに戻ってくる。そして夕子が携帯の灰皿につぶしたタバコを、腰をおろしながら、ひょいとつまみ上げる。
「今日もメンソールか。こういうタバコは、どうも苦手だ」
「自分のタバコを吸えばいいでしょう」
「そうは言うが、二センチ以上残ってるタバコを放置すると、良心がとがめる」
「わたしをバカにして苛めても、良心はとがめないんですか」
「おれが、いつ」
「バカにしてますよ。歳がどうとか小皺がどうとか……わたし、化粧が濃いなんて言われたのは、生まれて初めてです」
「そういう意味じゃなくて、それはつまり、あれだ」
「どれですか」
「つまり、昨夜はあれだけ働いて、朝まで酒を飲んで、それでも今日は凛々《りり》しく仕事に励んでいる。さすが刑事課に抜擢されるほどの準キャリアだと、尊敬の念を新たにした」
「椎葉さんは尊敬してる女性に、ホストクラブへ行けと言うんですか」
「まあ、どんな人間にも、気分転換は必要だ」
「椎葉さんには禁酒が必要です。一度でいいですから、酔っていないとき、人生についての本音をお聞きしたいもんです」
夕子の小鼻がひくひく動き、目蓋の上が少し赤くなって、口がへの字に曲がる。
「あんたたち……」
靴箱の前にしゃがんだまま、前髪をかきあげて、美亜がマフラーから顎をつき出す。
「ごちゃごちゃ言うの、やめてくれない? あたし今、気持ちを集中させてるんだから」
口を開きかけた夕子が、鼻の穴をふくらませて言葉を呑み、胸の前で腕を組む。椎葉は夕子から徴収したメンソールのタバコに火をつけ、天井に向かってひとつ、ふっと煙を吹く。
美亜が腰をあげ、ふて腐れたように二、三歩あるいて、近くの壁に寄りかかる。
「黒と茶の革靴があわせて六足、ウォーキングシューズが二足、ビニールサンダルが一足、これでぜんぶだと思う。いちばん下の段に古い靴がもう一足あった気もするけど、前に捨てたかどうかは、思い出せない」
「犯人だってわざわざ、捨てるような靴は選ばないさ。やっぱり親父さんの靴は、なくなってないんだろう」
「椎葉さん、なぜそれほど、靴にこだわるんです?」
「犯人像というか、犯人の思考システムというか、最初からどうも、それが分からないんだ」
フィルターのつけ根まで吸って、椎葉がタバコを消し、首のタオルで顔をこする。夕子はあわててハンカチをとり出し、椎葉の手に押しつける。
「なんだ」
「洟をかまれたタオルなんて、汚いですよ」
「ふーん、そういう考え方もあるな」
興味もなさそうにハンカチを眺め、軽く頬をこすってから、椎葉がハンカチをレインコートのポケットに入れる。ハンカチの一枚ぐらいでケチなことは言いたくないが、しかしこの男はなぜ、なんでもかんでも、ポケットにしまうのか。
「ええと、それで、靴が、どうしたんです?」
「美亜くん、親父さんの身長は、いくつだった?」
「百七十」
「身長が百七十センチなら、靴のサイズは二十五・五で妥当だろう。それにくらべて犯人が残していった靴は二十六・五、レインスーツのサイズからも、もし偽装でなければ、犯人は大柄な男だ。そしてこの犯人は逃走のために、わざわざ予備の靴を用意してきたことになる。おれも腐るほど事件を扱ったが、こんなケースで、履き替えの靴を用意していた犯人なんて、見たことはない」
「はあ、そうですか」
「これがナガシの犯行でないとすれば、犯人は被害者の顔見知りか、少なくとも被害者を知っている男だろう。吉成氏の身長も知っていたはずだし、靴のサイズが自分と違うことも分かっていた。それなのになぜ、靴の問題を無視したんだ」
「やっぱり、予備の靴ですかね」
「あるいは裸足で逃げたか、な」
「裸足で……いくら夜中でも、裸足というのは、まずいですよ」
「タオルや軍手は、たぶん予備を持ってきた。凶器もレインスーツも、手掛かりを掴まれないように注意している。しかし靴だけは、犯人の計算からもれていたような気がする」
「とすると、犯人像は?」
「それが分かれば苦労するか。しかしこの事件を解決したら、おれは美亜くんから莫大な探偵料をもらえる。その暁には君に、百枚ほどティファニーのハンカチをプレゼントしよう」
椎葉が椅子を立って、美亜のほうへ歩き、美亜を促して子供部屋へ入っていく。岸本満男のメールで落胆するかと思ったら、椎葉は自分の『武造犯人説』が外れたことを喜んでいるらしい。夕子にしたって、この事件が美亜の出生と無関係に起きたものなら、母親と祖父の関係も、両親の結婚事情も、美亜に告げる義務がなくなってくる。
夕子はダイニングテーブルに頬杖をつき、本当にティファニーでハンカチなんか売ってるのだろうかと、ぼんやり考える。ボーナスが出ればニューヨークぐらい行けるし、ギリシャやローマの古代遺跡ツアーも可能になる。そうはいっても冬休みはせいぜい五日、刑事課の新米にそれ以上の休暇は望めない。一人で温泉へ行っても意味はなく、ブランド品漁りにも趣味はない。手取り六十万のボーナスは外貨預金か財形貯蓄か。椎葉が心を入れかえるというなら、アパートの権利金ぐらい貸してやってもいいが、本人にホームレスをやめるつもりはないらしい。なんでもポケットに入る古いレインコートと、畳二枚分のビニールテントと、不思議に椎葉の人生は、それで充足しているように見える。
子供部屋に入った二人が、いつまでも戻らず、むっとして夕子は椅子を立つ。そしてリビングから子供部屋の戸口をのぞき、その異様な光景に、唖然と足をとめる。床の上には三十枚ほどの下着が並べられ、椎葉と美亜がその下着をはさんで、まるでカルタ試合の選手のように対峙《たいじ》しているのだ。下着はもちろん女子用のショーツ、花柄もあればフリルつきもあり、その方面に趣味のある男には、堪らない眺めだろう。
「椎葉さん……」
「黙ってろ。今彼女が、思い出してるところだ」
「あ、はあ」
「それにしてもなあ、こんなもので人生を狂わす男もいるわけだから、女のパンティーというのは、偉いもんだ」
椎葉が腰をあげ、美亜のうしろをまわって、忍び足で歩いてくる。美亜は並んだ下着の前に正座ですわりつづけ、なにやら唸《うな》りながら、膝に両腕をつっ張っている。表情にふて腐れた感じはなく、白い顔には上気の赤みが浮かんでいる。
椎葉が目の動きで夕子を誘い、二人はリビングに戻って、元の椅子に腰をおろす。
「あの下着は、要するに、あれですか」
「パンティーが盗られてるかどうか、祖父さんが見ても分からないさ」
「でも、半年も前ですよ。盗られていても、思い出せないでしょう」
「君は自分のパンティーが盗まれて、気づかないのか」
「それは、そのときなら、気づきますよ」
「そのとき彼女に調べさせなかったのが、捜査本部の間違いだ。今さら言っても仕方ないが、今は彼女の記憶力に期待しよう」
「椎葉さん」
「うん?」
「武造氏が犯人でなくて、嬉しそうですね」
「彼女の人生そのものは変わらないだろうが、地獄と奈落ぐらいの差はある。吉成が自分の父親でないことだけは、前から気づいていたらしいが」
「それで、不良に?」
「あの歳ごろは両親の仲が悪いだけで家に寄りつかなくなる」
「あの秘密は……」
「それは大人たちが隠しとおしたはずだ。吉成も美亜に優しかったようだが、実の父親とは、どこか雰囲気が違ってしまう。そういう不安定な環境で美亜程度の不良なら、可愛いもんじゃないか」
「特に椎葉さんには、可愛く見えるようですけどね」
「君なあ、今日は、どうした」
「どうもしませんよ。女は肌がくすんだり目尻の小皺がふえただけで、機嫌が悪くなるんです」
「昨夜の君は女っぽくて、情緒があって、魅力的だったぞ」
「店が暗かったせいでしょう。どうせ昼間は、見られない顔ですよ」
椎葉が咳き込んで、タオルで口を被ったとき、美亜がリビングへ戻ってくる。美亜はテーブルに近寄らず、子供部屋側の壁に肩で寄りかかる。
「みんな調べた。みんな思い出した。白いのとピンク色のとヒマワリの刺繍がついたのと、三枚がなくなっている」
「三十枚のうちの三枚じゃ、他人が見ても分からなかったはずだ。吹石くん、洗濯機にも下着は残っていたろう」
「はい。男物が一枚に、女物が二枚、署に帰ってリストと写真を照合すれば、もっとはっきりします」
「いづみくんが当日はいていた下着は、別に保管してあるよな」
「はい」
「美亜くん、あの日君がはいていた下着は、数から除外してあるか」
「当然だよ」
「吹石くんは署に帰ってから、洗濯機の二枚といづみくんの着用分を調べてみろ。そのうちの一枚はお袋さんのものだ。だから理屈では、白とピンクとヒマワリ模様のうち、どれか一枚が消えているはずだ」
「たぶんヒマワリのやつだね」
「高かったのか」
「いづみが一番気に入ってたやつ。あいつ、あたしの下着を勝手にはくから、あたしも勝手に使って、そのうちみんな二人で使うようになったの。でもヒマワリのやつだけは貸さなかった。洗濯も自分で手洗いしたし、いづみの勝負パンツだった」
「吹石くん、チェックしておけ」
「はい」
「これまでに、君たちの下着が盗まれるようなことは?」
「ここは四階だよ」
「そういうことの専門家は、他人には理解できないような努力をするという」
「バカみたい、欲しければやるのに」
「無くなったことは?」
「干してるとき風で飛んだり、古くなったやつをお袋が勝手に捨てたり、それぐらいはあったよ。お袋ってきれい好きでね、古くなったあたしたちの下着、勝手に捨てちゃうの。あたしもいづみも気に入ってたやつを捨てられて、喧嘩したことがあった」
「それはいつごろだ」
「いつって」
「お袋さんが君たちの下着を勝手に捨てて、喧嘩をした時期さ」
「そんなこと……」
美亜が壁から肩を離し、指先でマフラーをひきおろして、首をかしげる。
「だからね、お袋はきれい好きだったから、そういうことは、よくあったよ」
「君が子供のころからか」
「そんなこともないけど」
「思い出せ」
「だって……」
ぶらりと歩いてきて、美亜が椎葉の肩に手をかけ、ななめ上から夕子の顔を見おろす。顔ぐらいいくら見おろされても構わないが、しかしこの小娘は下着の件を思い出すぐらいのことで、なぜ椎葉の肩に手をかけるのだ。
「そうだね、あの事件の前には、何度かつづけてあった気がする」
「それは、捨てられても仕方ないほど、古いやつか」
「お袋の基準ではね。お袋は食器でも洋服でも、使わなくなった物はなんでも片づけちゃう。親父のゴルフクラブも捨てちゃって、あのときは一カ月ぐらい喧嘩してたよ」
部屋を見るかぎり、雅代が整頓好きな性格だったことは分かるが、学生時代の靴すら捨てられない夕子には、その潔癖さも限度を超えている。地域情報誌活動や近所の聞き込みでは知ることができなかった雅代の一面だろうが、美亜が最初から協力してくれたら、坂下家の家庭事情や雅代の性格ぐらい、夕子にだって調べられたのだ。
椎葉がのっそりと腰をあげ、窓際へ歩いて、ずれていた帽子を被りなおす。
「吹石くん、この近所に下着ドロの常習者はいないか、あるいはそういう事件が起きていないか、もう一度調べなおせ。それに遺留品のゴム底靴、まさかとは思うが、二足まとめて買った人間がいれば、店員の記憶にも残っている可能性がある」
「はい」
「それともう一つ、いづみくんの周辺調査が、不徹底だった気がする。痴漢とかストーカーとか、それほど明確な事例でなくてもいい。ほんの些細なこと、いづみくんに対して少しでも不審しい態度をとっていた男はいないか、友達と学校関係者に再度の聞き込みだ。半年たって忘れることもあるが、半年が過ぎたからこそ、思い出すこともある。人間の記憶回路というのは、意外に時間とは無関係に働くものだ」
この事件の本質を両親の殺害ではなく、いづみへの暴行と判断したらしいが、それだって椎葉のただの勘、下着の一枚ぐらい、なにかの具合でどこかにまぎれ込むことはある。そうはいっても岸本家の線が白紙に戻った以上、夕子としてはまた、椎葉の勘に頼るより仕方ない。雅代の出産年齢だけで岸本家の秘密にたどりついた椎葉の勘は、警察官として、やはり尊敬に値する。
椎葉がガラス戸を半分まで閉め、その窓をまた開いて、ベランダに足を進める。そこで椎葉は上下左右を確認し、ベランダに向かって右側にあるスチールの物置に歩く。物置には幾つかの植木鉢と新聞紙の束、それに傘しか入っていないことは夕子も知っている。椎葉も前回検証したはずで、そんな物置、こういう古いマンションなら多くの家が使っている。
椎葉が物置の戸を開け、しばらくなかを眺めてから、帽子を阿弥陀にして部屋に戻ってくる。
「椎葉さん、今日のところは引き上げましょうか」
「………」
なぜか夕子の提言を無視して、椎葉がリビングを横切る。それからなにも言わず、ふり向きもせず、玄関ドアを押して外に出ていってしまう。夕子と美亜は思わず顔を見合わせ、それぞれに肩をすくめて、首をひねる。さてはアル中の発作でも起きたのか、それとも椎葉には、これまで隠していた奇行癖があったのか。
二分ほどで戻ってくると、椎葉はまたベランダに直進し、何度か物置の戸を開け閉めしてから、くるりと部屋の内へ向きなおる。逆光のなかでその髭面がゆがみ、レインコートのシルエットが悪魔のようにふくらんで、目が怖いほどの光を放ってくる。
「吹石くん、これは、へたをしたら、中村さんの首がとぶぞ」
「はあ?」
「物置だよ」
「あ、はあ」
「おれにしても最初から、それぐらい気づくべきだった」
「ええと……」
「美亜くん、あの物置は、事件の直前に買ったものだろう」
「うん、たぶん」
「お袋さんはなにか言ってたか」
「あたし、あのころ、家へ帰らないことが多かったから」
「椎葉さん、物置が、なにか?」
「これから話す。しかしとにかく、君はすぐ署へ帰って、捜査員を総動員するんだ。いくらおれがアル中のヤクザ者でも、今度ばかりは間違わない」
「はあ」
「だいじょうぶだ。もう君に恥はかかせない。だから吹石くん、事件が解決したら、おれに枯れ葉色のテントをプレゼントしてくれ」
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12
秋霖《しゆうりん》に似た雨が三日もつづいて、椎葉たちのテント村も喪中並みに息をひそめている。冬場のホームレスの最大の娯楽は日向ぼっこ、それがこの三日は洗濯も虫干しもならず、住人はひたすらテント内に蟄居《ちつきよ》する。食糧はボランティアの恵みやコンビニの廃棄食品で賄えるものの、酒やタバコは自助努力、椎葉にしてもシケモクの供給が中断され、不本意ながら新モクで急場をしのいでいる。いつもなら一週間分ぐらいの吸止ストックがあるのに、夕子や美亜のトラブルに巻き込まれて、つい本業を怠っていたのだ。
椎葉はテントの出入り口カバーを巻きあげ、腹這いになって外の雨を眺める。テントの奥には焼酎の大型ペットボトルが二本、ズボンのポケットにはまだ二千円の金がある。節約すれば一カ月は暮らせる金だが、最近は銭湯へ行く贅沢を覚えたせいか、そのぶんだけ金づかいが荒くなっている。もうトメさんには頼れず、探偵のアルバイトがいつまでもつづくはずはなく、そろそろ気分を切りかえて、リヤカーをひく準備を始めるか。
雨はずいぶん小やみになって、遊歩道も公衆トイレも遠い明治神宮の森も、すべてが薄い乳色にもやっている。散歩しか人生に目的のない年寄り以外、公園内に人影はなく、目に見えぬ高処《たかみ》でモズが鳴きさわぐ。
靄《もや》のなかに一瞬、真っ赤なパラソルが浮かぶ。パラソルの下は毛皮のコートにガニ股のハイヒール、その異様な物体が幻のように、すっと裏の林へ消えていく。椎葉は腹這いのままタバコに火をつけ、大きく欠伸をして、ヤカンの口から汲みおきの水を飲む。
防寒ジャケットのポケットでケイタイが鳴り、寝返りを打って、電話をとり出す。
「椎葉さん、当たりでしたよ。あの物置は多摩川沿いにあるホームセンターで買われた物でした。店に記録があって、配達したのが事件の五日前、二人の配送係もマンションのことを思い出してくれました。その二人がベランダまで運び、雅代に指示されてあの場所に設置したそうです」
「そのホームセンターで、レインスーツやゴム底靴も扱っていたか」
「扱っていたのは靴だけです。今年の初めに中国から十ダースほど仕入れたそうですが、もう在庫はありません。調べて分かりましたけど、あんな靴を一度に二、三足も買う人が、けっこういるんですよ。プレゼントにもらっても嬉しくないでしょうし、なんに使うんでしょうかね」
「みんなが殺人に使うわけでもないだろうが、問題は、やつの素行だ」
「二人一組で四チーム、この三日間、一瞬も目を離していません。でも今のところゲームセンターにたむろするぐらいで、拘引するほどの材料はないようです」
「おれも別件は趣味じゃないが、今度ばかりは君も目をつぶれ」
「覚悟は決めています。わたしが物置の件をもち出したとき、中村さんもほかの捜査員も、最初は鼻で笑いました。でも椎葉さんに言われたとおりの解説をしたら、みんなが耳を貸してくれたんです。こうなったら椎葉さんと一蓮托生、わたしも辞表をデスクに入れてあります」
「吹石くん、君の頭にブレーキはかからないのか」
「はあ?」
「おれなんかと蓮《はす》の上にのって、どうする。こっちはもう落ちていく場所はない。君はやっと私服になったばかりで、刑事人生はこれからだろう。こんな事件でいちいち辞表を書いてたら、日本から警官が一人もいなくなる」
「椎葉さんに言われたくありません」
「それなら言われないように頭を冷やせ。暴走と情熱は別のものだ。飛びあがりすぎると着地したとき足を傷めることを、いつも忘れるな」
「わたしだってもう、二十八ですよ」
「顔を見れば分かる」
「いえ、ですから、子供じゃないという意味です」
「なんでもいいから、辞表はすぐ始末しろ。そんなことより警察の動きをやつに気づかれないよう、注意することだ。天気も悪いし、長丁場になるかも知れないから、君も躰に気をつけてな」
「椎葉さん」
「なんだ」
「ええと、あの……」
「用がなければ切るぞ」
「ですから、ええと、あれです」
「便秘か」
「はい?」
「冗談だ」
「ええと、あれです、仲間富吉という人のことで、連絡が入りました」
「なーんだ、早く言え」
「だって……」
ちょっと言葉がとぎれ、鼻を鳴らすような、咳払いをするような音が聞こえたあと、また夕子の声がよみがえる。
「行政解剖の結果、死因は多発性血脈瘤による心不全だったそうです。そのほかに肝臓癌と脳腫瘍と腎臓結石が見つかっています」
「欲張りなオヤジだ」
「出身は沖縄の座間味という島で間違いないようですが、妹さんは三年前に死んでいて、島には甥と何人かの親戚が残ってるだけでした」
「そうか、清子おばあも死んでるか」
「はあ?」
「こっちの話だ、それで」
「二、三日中に火葬されることに決まりましたが、甥は遺骨を引き取りに来ないそうです。甥という人は区役所に、遺骨を宅配便で送れと言ってきたとか」
「遺骨を、宅配便でな」
「区役所ではそういう訳にもいかないらしく、規定通り谷中の無縁墓地に埋葬するそうです」
「分かった。忙しいときに手間をかけて、済まん」
「それじゃ事件のほう、進展したらまたご連絡します。椎葉さんも少しだけ、お酒を控えてくださいね」
電話が切れ、ケイタイをポケットに戻し、椎葉は控えるように言われたばかりの焼酎を、ぐびりと咽に流す。人生に倦《う》んでも生理現象だけは意欲的、仕方なくサンダルに足を入れ、傘がわりの帽子を頭にのせる。それからテントを這い出し、霧雨に向かって背伸びをする。ずいぶん眠ったようだがまだ午後の二時、トイレと洗面を済ませてから神経に焼酎を補給すれば、素性の知れないヤクザ者らしく、岸本健司を脅しに行くぐらいの気力は湧くだろう。
雨の様子を見ながら公衆トイレに歩き、躰を軽くして洗面を済ませる。昨夜はまた銭湯へ行ってしまったからポリバケツに洗濯物が山積み、早く雨があがってくれないと、殺人事件の捜査どころではなくなってくる。
洗面を済ませてトイレを出たとき、女子用のトイレからマリさんがあらわれて、椎葉の前に立つ。毛皮の下はピンク色のワンピースに金ラメのハイヒール、左腕に白いハンドバッグと赤いパラソルをひっかけ、隈取《くまど》りのような化粧で笑いかける。コートの肩には雨粒が光り、サイズ二十八センチのハイヒールも泥で汚れている。
「あーら椎葉ちゃん、今ごろお目覚め? 最近金まわりがいいような噂だけど、どうしたのよう、ゴミ捨て場でダイアモンドでも拾ったわけ?」
「トメさんの遺産が三千円も入って、当分は遊んで暮らせる」
「やだーっ、たった三千円? あのオヤジ、皇室の血筋だとか毛沢東の隠し子だとか、いつも言ってたじゃない。テントの下に小金を貯めた壺が埋まってるとか、みんな噂してたわよう」
マリさんが奇妙な形に肩をくねらせて、かつかつと、ハイヒールを椎葉の前に寄せる。赤茶色に染めたオカッパの髪が乱れ、頭頂部に染料落ちの白髪が見える。
「だけど、ねえ椎葉ちゃん、三千円もあるんなら、どーお? 二千円出してくれたら死んでもいいってぐらい、すっごい技をみせてあげるけど」
「すごい技は千円だったろう」
「それは普通のスペシャルよう、二千円の技は超秘技のデリシャススペシャルなんだから、地獄でも極楽でも、もう好きなところへ連れてってやるわよう」
「足が震えてきた」
「そうそう、だから思い切って、躰じゅうを震わせるのよう。お金は天下のまわりもの、この村に住んでてあたしの技を知らなくちゃ、あんたも肩身が狭いでしょう」
マリさんがまた一歩足を進め、腰を椎葉の太股に押しつけて、下からぱっちりと目を見開く。鬼瓦にファンデーションやアイシャドウを塗りたくって、その上にまたペンキのスプレーを吹きかけたような顔だが、ぱっちりしたどんぐり眼には、意外な愛嬌がある。
「しかし、今日は起き抜けだし、遠慮しておこう」
「やだーっ、この臆病者」
「トメさんの喪も明けてないし」
「それじゃどーお? トメオヤジの追悼記念で、普通のスペシャルは」
「正直に言うとここ二、三日、下痢ぎみなんだ」
「情けない男ねえ。女のあたしにここまで言わせて、それであんた、恥ずかしくないわけ?」
「反省する、子供のころから美人恐怖症でな。だからマリさんにここまで近寄られると、熱が出てしまう」
椎葉はマリさんの額に人さし指をあてがい、距離を腕の長さまで押し返す。マリさんが腰をくねらせ、毛皮で盛りあがった肩ごしに椎葉の顔を睨む。
「この意気地なし。いろいろゴタクを並べて、結局あんた、ケチなんじゃないの」
「うん、金もないし勇気もない。生きる気力もないくせに、地獄を見る覚悟もない。もしホームレスのモデルコンテストがあれば、おれが一等賞だ」
公衆トイレの庇から足を踏み出し、松の枝からしたたる雨粒に、椎葉は顔をゆがめる。阿佐ヶ谷へ出向くにしても自転車は使えそうになく、億劫なことではあるが、やはりバスに乗るしか仕方ない。
マリさんがパラソルを赤く開き、ハイヒールを芝生広場のほうへ進めかける。
「マリさん」
「あーら、なによう、口でやる五百円のコースでも、試す気になった?」
足をとめたマリさんの前に、椎葉は一歩だけ距離をつめる。
「もし気が向いたら、警察へ行ってくれないか」
マリさんの赤いパラソルが頭の横にかたむき、アイシャドウとつけ睫毛《まつげ》が、ひっ張られたようにつり上がる。
「どうしたのよう。トメのオヤジ、死んでからもなにか、トラブッてるわけ?」
「トラブルはマリさん自身さ。つまらないことでもめるより、自分で片を付けたほうが楽だろう」
「なんの話よう、貧乏が頭にのぼって、ヘンな夢でも見たんじゃないの」
「マリさんよりヤスオのほうが、刑務所は似合うけどさ。あんなバカにも母親がいる」
マリさんのハイヒールが一歩前に動き、それからすぐ、二歩遠ざかる。
「冗談じゃないわよう。あんた、本当に頭がいかれちゃったわけ?」
「西門の外で大間幹江という女子高校生を殺したのは、マリさんだろう」
「いったい、なにを……」
「殺意があったのか、カッとして首を絞めたら死んでしまったのか、それは知らない。だけどマリさんが本気で首を絞めれば、女子高校生の一人ぐらい、簡単に殺せる」
「このか弱いあたしに向かって、失礼な……」
「坂下美亜という女の子は覚えてるよな」
「なんですって?」
「いつか銭湯の帰りに、あの殺人現場でマリさんともめた女の子さ」
「名前なんか知らないわよ」
「もちろん名前までは知らなかった。だけどあの坂下美亜は、大間幹江の友達だ」
「それがどうしたの。友達だからあんな所へ、花を持ってきたんでしょう」
「美亜はマリさんが罵ったような、淫売ではなかったぞ」
「椎葉ちゃんねえ、もしかしたらあんた、冗談じゃなく、ボケでも始まったわけ?」
マリさんがパラソルを頭の上に構えなおし、一メートルほど松の根方へあとずさる。毛皮を羽織ってパラソルをさして足をガニ股に開いた立ち姿は、歌舞伎の舞台で見得を切る白浪のように見える。
椎葉はレインコートのポケットから焼酎のボトルをとり出し、軽く唇を湿らす。
「なあマリさん、あのときマリさんは、坂下美亜を『淫売』と罵った。おれも気にしなかったし、幹江殺しの犯人がヤスオでないと分かるまで、あの言葉の意味を、考えはしなかった」
「べつに……」
「とっさに出た言葉で、意味はないか。だけどマリさんは幹江の友達である美亜を、とっさに淫売だと思い込んだ。それは大間幹江が淫売だったことを、知っていたからだ。淫売の友達なら美亜も淫売に違いない……だからマリさんはあのとき、美亜に対してあれほどの怒りを感じた。そのことに気づかなかったおれも、間抜けだった」
マリさんが肩で松の幹に寄りかかり、パラソルがコートの裾のほうへさがって、頭が後ろへのけぞる。太い首に皺だらけの皮膚がたるみ出し、顔と首との境目にファンデーションの塗り跡が地割れのような筋を見せる。
マリさんの視線が戻ってきて、アイシャドウとつけ睫毛で強調された目蓋が、文楽人形のように開閉する。
「椎葉ちゃん、あんたが昔刑事だったって噂、本当だったみたいねえ」
「隠してたわけじゃない。これまで訊かれなかっただけさ」
「ホームレスに落ちぶれても刑事は刑事、やっぱし正義感とかいうやつを振りまわしたいわけ?」
「おれは、犯人なんか、誰でもかまわない。ヤスオは女に暴行癖があるし、本来はこのまま刑務所へ入れておくべきだろう。ただヤスオにはお袋さんがいる。あんなバカでも、母親というのは、倅の身が心配なものらしい」
「それじゃあたしのほうは、どうなのよう。刑務所なんて野獣の集団もいいところ、この若い身空で、獣たちの餌食になれっていうわけ」
「逆に考えれば、いいお客さんだ」
「そんな……」
「飢えた何百人もの男がマリさんをとり囲んで、みんなが熱いラブコールを送ってくる。考えただけでも鳥肌が立たないか」
「そう、まあ、そういうことも……」
「みんながマリさんのすごい技を見たくて、寝る間もないほど行列をつくるんだぞ。こんな雨のなか、おれみたいな貧乏人に営業をかける必要もないし、布団も食事も娯楽もある。刑務所だって金次第では、酒もタバコも手に入る。金は男たちがいくらでも貢ぐから、マリさんは女王様だ」
「あらーっ、椎葉ちゃんに言われると、それもよく思えるわねえ」
「それだけの美貌とそれだけの技があるマリさんが、こんな公園でうずもれるのは、おれとしても悔しい」
「うまいこと言うじゃないのよう。椎葉ちゃん、本当はあんた、女たらしじゃないの」
マリさんがパラソルを肩の上にさし直し、ガニ股のモンローウォークで、しゃなりと前に出る。
「だけど椎葉ちゃん、あたしがあの小娘を殺した証拠なんか、どこにもないでしょう。淫売とか売女《ばいた》とか、お前の母さん出べそとか、女同士の喧嘩って、そういうことを言うのよう」
「おれもあのときは、そう思ったけどな」
「要するに刑務所へ入るかどうかは、あたしの勝手よねえ」
「そうでもないんだ。証拠がないかぎり、おれもマリさんに、警察へ行けとはすすめない」
「だって……」
近寄ろうとするマリさんを手で制し、その手の人さし指を、椎葉が二、三度、ひょこひょこと屈伸させる。
「この指先にはマリさんのファンデーションがついてる。殺された大間幹江の制服にも、幹江のものではないファンデーションが残っていた。二つのファンデーションを比較すれば、百パーセント、同じものになるだろう」
「あ……」
「男を相手に商売をしていた幹江の制服に、女のファンデーションがつくのは不審《おか》しい。しかし顔にファンデーションを塗るのが女だけでないと分かれば、答えは簡単さ。マリさん、幹江がこの近くで商売を始めたことを、いつから知っていたんだ」
マリさんが太い首をふるわせて、大きく息を飲み、毛皮の襟を色っぽくかき合わせる。
「椎葉ちゃんね、あの女、殺されても仕方ないことをしてたのよう。淫売のくせに淫売の仁義を守らないなんて、許せると思う?」
「幹江には幹江の事情があったらしいが」
「どんな事情なのよう。十六、七の小娘が、お金に困るはずないでしょう。風俗でも援助交際でも、どこかで勝手にやればいいのよう。それをあたしの縄張りにまで割り込んできて、誰に聞いたって、あっちのほうが悪いんだわよ」
「要するに、前から知ってたわけか」
「だって椎葉ちゃん、以前はあたしの技に泣いて喜んでた連中が、夏過ぎたあたりから、みんなシカトするのよう。そうなりゃ誰だって不審しいと思うわよ」
「あの夜の経緯は?」
「そんなもの、あるもんですか。たまたま小公園の公衆トイレ近くで、センセイと小娘を見かけたのよう。そりゃ若くて女子高校生の制服を着てて、一応はコギャル風だったけど、顔なんかまるで田舎のお地蔵さん、肌はぼろぼろで背だってちんちくりん、あんな小娘を買うのは、お金をドブに捨てるようなもんだわよ」
「うん、まあ、それで?」
「それでもなにも、トイレの横の植え込みで二人がごそごそ始めたから、そっと近寄ってみただけ。そうしたらセンセイが、一生懸命値切ってるじゃない。その値切ってる金額を聞いて、あたしもう、血の道があがっちゃったわ。センセイは馴染みだからとか何とか言って、八千円を五千円に値切ってたのよ」
その場面を思い出して呼吸でも苦しくなったのか、マリさんがパラソルを構えた肩で、ぜいぜいと息をつく。目がむき出されて鼻が獅子のようにふくらみ、口の端には涎がにじみ出る。
「ねえ椎葉ちゃん、頭に来るでしょう。あたしはこの道一筋四十年、ずっとこの仕事でご飯を食べてるのよ。そのあたしが千円で性愛の奥義を見せてるのに、あっちはただ若いってだけで五千円、そんなの、不公平だわよ」
「マリさんが怒るのも無理はない」
「そうなのよう。それにもっと頭に来たのは、値切れなかったセンセイが、にやにや顔で八千円も払ったことなの。八千円よ八千円、そりゃあね、あたしの若いころなんか、一晩で十万も払った男がいたわよ。でも今はこの不景気だし、あたしもいくらか歳をとったしね、もう昔みたいに高飛車なことは言わないけど、だけどあんな小娘にセンセイが八千円も払うところを見たら、もうあたし、情けなくて、涙が出ちゃったわよ」
マリさんのどんぐり眼から、本当に涙があふれ、厚塗りしたファンデーションに筋をひいて流れだす。
ハンドバッグからとり出したハンカチで、マリさんがていねいに頬をおさえ、諦めたように首を横にふる。
「そりゃあね、あたしだってあんな小娘、殺そうとまでは思わなかったわよ。二、三発ひっぱたいて腹に蹴りでもいれてやれば、あたしの縄張りから出ていくと思ったの。だからトイレで二人がやり終わるのを待って、小娘のあとをつけてったわけ。それでセンセイの姿が見えなくなったと思ったら、今度は別の植え込みからあの馬面が出てきたのよう。この村の連中って、貧乏で下品でスケベで、いったいみんな、どういう神経してるのかしら」
ホームレス連中の神経に対して、コメントはなく、椎葉は焼酎をなめながらマリさんの話を促す。
「本当に頭に来たのは、だからそのことなのよう。あの馬が小娘に声をかけて、ねちねちいちゃいちゃ、三十分も口説いてるの。あたしは車道側から二人の後ろへ行って、話を聞いてやった。お金があるとかないとか、そんな話だったけど、そうしたら最後はどうしたと思う? あの小娘、千円でOKしちゃったのよ。あんな小便ギャルでも女は女、若くて女子高校生の制服を着てて、それで千円なんかで売られちゃったら、あたしの商売はどうなるのよ」
「千円は、いくらなんでも安すぎる」
「そうでしょう? それにあの馬、いつだったかあたしが声をかけたときは、泡を吹いて逃げ出したのよ。そんなやつが小娘とやりたいために、三十分もかけて口説いてるの。あたしなんか目まいがして寒けがして、もう頭のなかが真っ白。椎葉ちゃんならこういう女心、分かってくれるわよねえ」
「おれも分かるし、警察の連中も、みんな分かってくれるさ」
「そうでしょう? あたし、ぜんぜん悪くないでしょう? あたしは四十年も、ずっとこの仕事一筋で生きてきたのよ。それをあそこまで顔に泥を塗られたら、黙ってられないでしょう? だから小娘と馬が終わるのを待って、小娘が一人になってから、思い切って殺《や》っちゃったわけ。そりゃあの場所がたまたまトメオヤジのリヤカー置き場で、あんたたちには迷惑をかけたけど、悪気はなかったの。椎葉ちゃんまさか、そんなことで怒っちゃいないわよねえ」
椎葉は返事のかわりに、小さく肩をすくめ、もう一口焼酎をなめてから、ボトルをポケットに戻す。マリさんの年齢は公称で三十六、それでいて四十年もこの仕事一筋というのは、どういう計算なのだろう。
「なあ、今はヤスオが捕まってるが、警察もそのうち、やつが犯人でないことに気づく。あとで捕まるより、マリさんが自分で出頭したほうが、警察での待遇がよくなるぞ」
「分かってるわよう。悪いのはあの小娘のほうなんだし、あたしに罪はないんだから」
「刑務所に暖房は期待できないが、それは公園のテントでも同じだ。少なくとも衣食住は保証されて、週に一回、風呂にも入れる」
「あんたもくどいわねえ。あたしも覚悟を決めたんだから、このまま警察へタクシーを乗りつけてやるわよう」
マリさんが奇妙な威厳を見せて、太い首でうなずき、パラソルの柄を肩に、椎葉のほうへにじり寄る。
「椎葉ちゃん、まさかタバコは、持ってないでしょう」
「それが、どういうわけか……」
椎葉はレインコートのポケットからタバコのパッケージをとり出し、ボックスの蓋を開いて、マリさんの前にさし出す。マリさんが一本を抜いて口にくわえ、別の二本を一本ずつ両耳の上にはさみ込む。
椎葉のライターから火を吸いとり、パラソルをくるっと回して、マリさんが長く煙を吹く。
「本当を言うとねえ、今年の冬は寒くなりそうだし、あたしもなんか、躰がきつくなってたのよう」
「女王様には宮殿が必要だ」
「ねえ椎葉ちゃん、しばらくお別れなんだから、どーお? 最後にあたしのすっごい技、味わってみない?」
「いやあ、まあ……」
「あーら、最後なんだし、ただでサービスするわよう」
「マリさんの技を知ってしまうと、別れが辛くなる。ここは大人同士、プラトニックで我慢しておくさ」
「口のうまい男ねえ。これでお金さえあれば、ほーんと椎葉ちゃん、いい男なのに」
マリさんが椎葉を迂回するように、半身《はんみ》に構えて位置を入れかえ、モンローウォークで遊歩道のほうへ歩き出す。
立って見送る椎葉を、マリさんがパラソルごとふり返る。
「だけど警察って、どこの警察へ行けばいいわけ?」
「渋谷北署、初台の先の甲州街道沿いにある」
「椎葉ちゃん、あたしのテントは知ってたっけ」
「人に聞けば分かる」
「あたしのテントさあ、けっこう家財道具があるのよう。テントごと売れば一万円ぐらいになると思うけど、あれ、処分してくれないかしら」
「センセイに任せよう」
「それでもいいけど、それでね、そのお金で新しい下着を買って、留置場へ差し入れしてくれる? まさかあたしが、男物のサルマタは穿《は》けないでしょう」
椎葉は手をふって了解の合図を送り、松の枝からこぼれる雨粒に、ひっそりと顔をしかめる。警察がマリさんに女物の下着を認めるはずはなく、しかしそんなこと、ここで議論しても仕方ない。
「マリさん、タクシー代は、あるのか」
「なに言ってるのよう。それぐらい警察が払うに、決まってるじゃない」
「うん、それもそうだ」
「椎葉ちゃんもしっかり働かないと、本物のホームレスになっちゃうわよ。そうじゃなくてもあんた、まるでホームレスみたいなんだから」
マリさんがまた大きく、ぷかりとタバコを吹かし、しっかりしたガニ股で西門のほうへ歩きだす。毛皮の背中で赤いパラソルが回り、コートの裾にピンク色のワンピースが波をうつ。霧雨がマリさんのうしろ姿を乳色に包みはじめ、パラソルの赤い色が雨ににじんで、舗装された遊歩道にしばらく、ハイヒールの音がつづいていく。
椎葉は欠伸と背伸びをくり返し、帽子の庇にたまった雨粒を払いながら、自分のテントに向かう。幹江には幹江の屈託があり、マリさんにはマリさんの因縁があり、美亜には美亜の宿命がある。人の業は無神経に、誰の日常にも顔を出したがる。
京浜急行の蒲田駅に近い路地の入り口で、北野刑事は二時間もタバコを吹かしている。繁華街の通りをはさんだ斜向《はすむ》かいには『パラダイス』というゲームセンターがあり、北野の目はそのガラスドアから離れない。たまにビルの外壁を背にしゃがむこともあるが、これぐらいの張り込みは楽なもの、橋爪という若い刑事と組んでこの三日間、北野は川尻豊の尾行をつづけている。
耳にはさんだイヤホーンに、多摩堤通りで待機しているバックアップ車両から無線が入る。
「こちら舟越、そちらの様子、如何ですか」
北野がズボンのベルトにつけた携帯無線機をとりあげ、送話口を口にあてる。
「まだ動きはないよ。いま橋爪くんがなかの様子を見に行った。昨日と同じで、夕方には家へ帰るんだろう」
「ご苦労さまです。北野さん、コーヒーでもさし入れましょうか」
「気を遣わんでくれ。こっちはあと二時間で交代だ。それに対象《おきやく》さんが警戒してるわけでもなし、こんな尾行は楽なもんさ」
「そうですか。今本部から連絡が入って、母親の前の亭主ってのが見つかったそうです。群馬県の高崎に住んでるとかで、遠藤さんと黒沼くんが高崎に向かいました」
「五年前に離婚した亭主じゃ、ろくな証言も出んだろうがなあ。まあ外堀は埋めるに越したことはない。なにせこの魚をとり逃がしたら、俺たちはみんな本部長戒告だ」
「そういうことですかね。とにかく動きがあったら連絡してください。こっちもあと一時間で、徳永さんたちと交代になります」
交信を終了させ、無線機を腰のベルトに戻して、北野はまた新しいタバコに火をつける。最近はデカ部屋でもタバコを吸わない刑事がふえているが、張り込みやら尾行やら徹夜での待機やら、この仕事はやたら忍耐を強いられる。タバコでも吸わなくては時間と鬱屈をもてあまし、果ては定年までに自分は警部補へ昇進できるのだろうかと、つまらぬことまで考える。
北野がタバコを足元に捨てたとき、ゲームセンターから橋爪刑事が出てきて、繁華街の通りを路地のほうへわたってくる。歳は三十二で階級は巡査長、銀行員のような背広に雨除けのウィンドブレーカーを着て、顔に縁無しのメガネを光らせる。去年二人目の子供が生まれたというが、ニキビの目立つ丸顔にはまだ子供っぽさが残っている。
橋爪が北野の傘に肩を並べ、ゲームセンターのドアへ顎をしゃくる。
「相変わらずゲーム機にしがみついてますよ。俺もゲームは嫌いじゃないけど、あいつのは限度を超えてる」
「うちの倅《せがれ》なんかも部屋に閉じこもって、飯も食わないことがあるなあ」
「でもそれは自分の家でしょう。奴さんだって家にゲーム機ぐらい、持ってるだろうに」
「ああいう連中は心も孤独なもんさ。ゲーム自体は一人の世界でも、結局は同じような仲間が欲しいんだろう」
「あれだけの図体をしてて、柔道とか野球とか、やらないんですかね」
「汗を流すことは恰好悪いのさ。警察だってエリートはみんな、勉強ばかりしてきたお坊ちゃんじゃないかね」
北野は足に屈伸運動をさせて、そのまま霧雨のなかにしゃがみ込み、路地風をよけながらタバコに火をつける。ノンキャリアの警官はほとんどが体育会系の人間で、筆記試験は苦手な体質にできている。そこに吹石夕子のような一流大学出身者がまぎれ込めば、昇進試験で差が出るのは当然のことだ。
「ですがねえ、北野さん……」橋爪も北野のとなりにしゃがみ、外したメガネをハンカチで拭きはじめる。「そりゃ確かに奴さんは根暗っぽいけど、それだけで犯人と決めつけるのは、どんなもんですかねえ。学校でもトラブルは起こしてないし、マンションでの評判も悪くないでしょう」
「あいつが粗暴だったり異常行動の評判があったら、俺たちも見逃さなかったさ」
「ですが、ちょっと……」
「吹石刑事が物置のことを言いだしたとき、最初は俺も眉に唾をつけたよ。だがありゃあ、意外に的を射ていた。現場のマンションも再検証してみたが、吹石くんの言うとおり、あの物置は不審《おか》しい。事件直後の混乱で俺たちは誰も、気づかなかったわけさ」
現場のマンションはリビングも夫婦の寝室も廊下も、いわゆる血の海、テーブルや椅子なども散乱状態で、すべてが事件の惨劇を物語っていた。しかしもし事件の混乱がなければ、という観点から再検証してみると、夕子の指摘どおり、それぞれの部屋は几帳面に整理され、タンスの衣類に乱れはなく、小物類も収納ボックスに整然と収まって、玄関もトイレも台所も、塵ひとつ見えないほど片付いていた。冷蔵庫の現場写真にも無駄な食品はなく、それに生き残った娘の証言では、母親は異常なほど整理好きだったという。そういう被害者の性格と整理された部屋の様子に比較して、ベランダの物置はたしかに、バランスを欠いている。物置に始末するほどの雑物はなく、物置のなかにも植木鉢と新聞紙と傘しか入っていなかった。
一般のマンションと同様、現場のベランダも隣家とのあいだは薄いボードで仕切ってある。火事などの非常時にはそのボードを蹴破って避難する。消防法ではこの避難口を物置等で塞ぐことを禁止しているが、古いマンションや家族数の多い場合、ベランダをつい物置き場に使ってしまう。それが日常茶飯事だからこそ、捜査員の誰もが現場の物置を見逃したのだ。
「なあ橋爪くん、坂下の奥さんは整理好きで几帳面で、物置なんか必要としていなかった。そのことは素直に認めようじゃないかね」
「はあ、それは、そうなんですが」
「それに物置の位置にだって疑問がある。物置は窓からベランダに向かって右の位置、だが坂下の家からみれば、エレベータやマンションの階段はやはりベランダの右側だ。あんなところに物置を置けば、坂下家は緊急時の退路を自分で塞いだことになる。人間というのは本能的に、自分の安全だけは守ろうとするものだよ」
「たまたま、ということも考えられます」
「ベランダの左側も同じように空いてるんだから、やはりあれは、故意に右側を選んだものさ」
「吹石さんの推理を全面的に認めるわけですか」
「遺留品の靴の件もあるし、俺は彼女が正しいと思うなあ。ただ半年もたって突然吹石くんの推理が冴えはじめた理由は、分からんがね」
靴の件とは、夕子が捜査員を前に披露した、遺留品のゴム底靴、レインスーツ、そして雨との関係を分析した推理のことだ。夕子の言うには「当夜の雨こそ事件を不可解なものにした元凶であり、被害者と警察にとっては恨みの雨、犯人にとってはまさに恵みの雨」ということらしい。
その要点はまず、犯人はなんのためにレインスーツを着てきたのか、ということだ。雨の日にレインスーツを着るのは当たり前、しかしそれならなぜ犯人は、犯行後そのレインスーツを脱ぎ捨てていったのか。雨のためのレインスーツなら靴もゴム長靴が妥当、だが実際は安物のズック靴で、雨に対応したものではない。もともと犯人は雨なんか考えておらず、レインスーツは返り血を避けるためだけに用意したもの、そしてその目的を果たしたからこそ、凶器の包丁も含めて、靴もレインスーツも軍手もタオルも、すべて遺棄していったのではないか。
事件当夜に雨の降ったのが偶然で、犯人も雨を考慮していなかったとすれば、逆にレインスーツが不自然になってくる。いくら夜中とはいえ、晴れた日にレインスーツを着てうろついていれば、かえって人目をひく。犯人もそれぐらい承知していたはずで、しかしレインスーツを着て怪しまれないことも知っていた。それは犯人が「レインスーツを着て外を歩く必要のなかった人間」という考え方が可能となり、靴の遺棄もそれで説明がつく。
犯人は予備の靴など用意していなかった。吉成の靴も奪わなかった。犯人は裸足で逃げ出した。そして逃げ帰った場所はマンションの外ではなく、雅代がベランダを物置で塞いだ、右隣の部屋だった。
「かなり突飛で、うがち過ぎの気はしたがなあ、聞いているうちに吹石くんの説明が、なるほどと思えてきたよ。マンション付近に変質者の出没もなく、下着泥棒すら出ていない。被害者の交遊関係にトラブルの種もないし、そうなると彼女の推理は、かなりの妥当性をもってくる」
橋爪がメガネを顔に戻して、頭を掻きながら口の端をゆがめる。
「だけど北野さん、物置が右隣の家との行き来を遮断するためというなら、前からトラブルがあったわけでしょう。そんな話は地取り捜査のとき、一つも出てきませんでしたよ」
「捜査の不徹底を指摘されても、仕方ないなあ」
「そうですかね。奴さんがベランダを乗り越えて坂下の娘を覗きに来たとか、下着を盗んだとか、そんなことがあれば女房が騒ぐでしょう。亭主にも話すはずだし、川尻の家にだって文句を言いに行く」
「俺に言われても分からんよ。なぜ女房が騒がなかったのか、あるいは亭主には話していたかも知れんが、今になってはそれも分からん。いずれにしてもベランダのあの場所に物置を置くことによって、雅代は川尻豊に警告を送った。相手が中学生のことではあるし……物置の幅は一メートル、まさか川尻がそれまで乗り越えるとは、女房だって考えなかった」
「雅代という奥さんの温情が、かえって仇《あだ》になったと?」
「分からんよ。具体的な事実関係は、まだなにも分からん」
「吹石刑事の説明では、現場への侵入経路がはっきりしません。ベランダ側の窓は内側からぜんぶ鍵がかかってたんだから」
「その部分は俺も、まあ、納得はできんがなあ」
薄くなりかけた頭頂部を指先で確認し、左右の髪を真ん中に寄せながら、北野は口のなかで舌打ちをする。実際はすでに、夕子の見解を妥当と認めているのだが、階級でも捜査でも夕子に先を越されている橋爪の気持ちも、分からなくはない。
「しかし橋爪くん、この段階でなにもかも完璧という訳にはいかんさ。生き残った娘の証言では、マンションの四階でもあるし、窓の鍵はかけないことが多かったという。俺のうちも公団住宅の三階だが、考えたらベランダの窓なんか、いつも鍵はかけないからなあ」
「つまり奴さんはマンションの右隣からベランダ伝いに侵入し、鍵のかかっていない窓から部屋へ入って窓の鍵をかけ、犯行後は玄関ドアから出て自分の家へ戻った。だからこの犯行に玄関の鍵は必要なかった……ちょっとばかり、単純すぎませんかねえ」
「単純すぎるとは思うが、大方そんなところが正解だろうよ。あまりにも単純すぎたから、俺たちもうっかりしたんだろう」
タバコの火種をていねいにつぶし、濡れた舗道をせわしなく歩く黒アリを眺めながら、北野は拳で自分の肩をたたく。橋爪が夕子の推理にこころみる反論は、反論のための反論、それでは自分の見解を示せと言われたら、橋爪も言葉はないだろう。
「いずれにしても橋爪くん、俺たちは事件を解決させれば、それでいいんじゃないのかね。吹石くんの推理がすべて正解だったら、めでたいことだと思うがなあ」
膝に屈伸をさせ、躰を起こして、北野はまた拳で肩をたたく。最近奇妙に左の肩が凝るのは、肝臓でも弱っているのだろうか。
橋爪がとなりに腰をあげて、北野の肩ごしにゲームセンターのドアを眺めたまま、少し身をかがめる。
「そういえば北野さん、代々木の女子高校生殺しを担当してる笹野警部から、中村さんがねじ込まれたこと、知ってます?」
「聞いてはいるよ」
「俺、ちょうどデカ部屋にいたんですけど、中村さんが困ってましたよ。電話で一時間も苦情を言われたようです」
「あっちの被害者が坂下美亜の知り合いだったとかで、吹石くんが渋谷北署へ出入りしてたそうだ。彼女のことだから、何か出しゃばったんだろう」
「犯人はホームレスじゃないとか、そんなことを言ってきたとか。彼女の非常識にも呆れますよねえ。あそこまで見え見えの事件にケチをつけられたら、笹野さんじゃなくても怒りますよ。他人の縄張りを荒らさないのが、警察社会の不文律なんですから」
「俺も新聞で読むだけだが、あの事件は、あれで決まりのはずだがなあ」
「誰がみたってあれで決まりですよ。たとえ自白がとれなくても、送検すれば有罪は確実です。そんな事件にケチをつけて、本庁の警部を怒らせるなんて、吹石さんもいい度胸だ」
「うん、まあ……」
背広のポケットからタバコをとり出し、火をつけながら、無骨な手で、北野はごしっと顔をこする。
「俺も一度笹野さんと仕事をしたことがあるが、なかなか粘着質な人だった」
「へたをすると吹石さんが、左遷とか」
「そこまでは……だけどこっちの事件では、吹石くんの勘が当たりそうだ」
「偶然ですよ。そんな偶然は二度もつづきませんよ」
「分からんぞ。なんだか知らんが、最近の彼女を見てると、どうも神がかり的な感じがする。もし代々木の事件でも吹石くんの勘が当たったら、大ごとだ」
「そりゃまあ、ね」
「こっちの事件はまだマスコミに公表していない。たとえ目星が外れたところで、内部の処理で済む。だが向こうはあれだけ情報をリークして、犯人はホームレスだと騒ぎたてた。これでもし|こけ《ヽヽ》たら、笹野さんも奥多摩あたりの駐在所へ飛ばされる」
「だけど、まさか、ねえ」
「もちろんそんなことはなかろうが、さわらぬ神に祟りなし。君も吹石くんには、近寄らんほうが身のためだな」
北野がタバコを深く吸い、左右の髪を頭頂部に寄せ集めたとき、ゲームセンターのドアが開いて、内側から大柄な川尻豊が顔を出す。まだ中学三年のくせに背丈は百八十センチ近く、太っているわけではないが体型の全体に、締まりがない。グレーの制服も借りてきた変装用衣装のようで、存在そのものがすべて、どことなくちぐはぐな印象をうける。
北野はタバコを下に捨て、傘で通りの向こうを指し示す。橋爪が北野の背後へ隠れるように位置をかえ、指先でメガネを押しあげる。
「どうですかね、おとなしく家へ帰るんですかね」
北野はうなずいただけで腰の無線機をとりあげ、送話器のスイッチを入れる。
「こちら北野、バックアップの舟越くん、どうぞ」
「はい、こちら舟越」
「今|対象《おきやく》さんが動きだした。とりあえず京浜急行の蒲田駅に向かっているが、まだ行き先は不明。もうしばらく現状位置で待機されたし」
「了解。バックアップ車、そちらからの指示があるまで、現状位置で待機します」
「なあ舟越くん」
「はあ」
「この兄ちゃん、たまには同級生の女の子とデートでもすりゃいいのに、図体ばかりでかくて、悲しい野郎だなあ」
青梅街道のバス停から友愛会病院の玄関までは二百メートルほど。椎葉のレインコートはセカンドバッグにも風除けにもなるが、こういう霧雨の日にこそ本来の機能を発揮する。加えて帽子をかぶって首にタオルまで巻いていれば、多少の雨など考慮外。作業靴もこびりついた泥汚れが防水効果を高め、焼酎の酔いも雨の憂鬱をまぎらわす。
予備に持ってきたタオルで肩と帽子の雨を払い、自動ドアの玄関から病院内へ足をすすめる。雨の日の遅い午後でも待合室は盛況で、白衣の看護婦や病院職員が颯爽《さつそう》とフロアを闊歩《かつぽう》する。ヤブ医者の集団でも暴力バー並みの薬価差益でも、病院とは病気を治す場所であると、まだ多くの日本人が信じている。
外来の受付には前回と異なる中年女がいたが、声をかけず、内廊下を奥へ向かう。健司の在院は美亜に確かめさせてあり、ナースセンターや事務室の前を通りすぎて、つきあたりの院長室まで歩く。
ドアをノックすると、前回と同じ声で応答があり、ドアを開けて部屋に入る。前回と異なるのは椎葉が受付を通さなかったことと、岸本家の歴史をすでに承知していることだった。
唖然とした顔の健司に会釈を送り、絨毯の上を歩いてソファに腰をおろす。健司が自分のデスクに座ったまま、たるんだ目蓋の内から椎葉の顔を睨みつける。
「君……椎葉さんだったか、まあとにかく、突然押しかけられては、困るじゃないか」
「アポイントをとったところで、あなたが困ることに変わりはない」
「私には仕事があるし、これからすぐ、医師会の会合にも出掛けにゃならん」
「せいぜい五分か十分ですよ。わたしもこんな病院に長居をすると、病気になってしまう」
「しかし、礼儀を知らんにも、程があるぞ」
「素性の知れないヤクザ者に礼儀を期待する副院長先生は、世間を知らなすぎる」
健司が口を開けたまま、ぎょろりと目玉をむき出し、頭から水をかけられたような顔で黙り込む。アメリカの満男に報告した自分の台詞をそのまま椎葉に返されたら、健司でなくとも不気味に思うだろう。
デスクの椅子から腰をあげ、咳払いをしながら歩いてきて、健司が向かいのソファに腰をおろす。
「その、なんだ、正直なところ、君の本当の素性は、どういうことなんだね」
「この前も言ったし、美亜さんからも聞いたでしょう」
「そりゃ美亜にも問いただしたが、あの子は私になんか、なにも言わん」
「まさかホームレスだとも言えないでしょうしね」
「ホームレス?」
「信じられませんか」
「ばかばかしい。まあ、素性を明かしたくない事情があるというなら、無理には聞くまい。しかし私への用は、この前で済んだはずだ。美亜の将来も約束したし、養女の件も、ちゃんと話をすすめている」
「話をすすめられては困るので、あらためて今日、お願いにあがったわけです」
健司の反応を確かめながら、椎葉はパッケージのタバコをとり出し、足を組んで火をつける。
「前回、あのあと、お父上にお目にかかった。お父上は美亜さんを、自分の養女として籍に入れたいと仰有る」
「それは年寄りの妄執だと、この前も言っただろう。死にかけの年寄りが高校生を養女にして、何ができるというんだね。年齢からも世間体からも、私の籍に入れるのが常識じゃないか」
「年齢も世間的な倫理観も無視したのが、今の結果でしょう。しかしお父上が自分の娘を自分の籍に入れたいと思うのは、ある意味で、当然だ」
「う、いや……」
糊のきいた健司の白衣が、ぱりっと音をたて、ビヤ樽型にふくらんだ腹がソファの背もたれに、しぼむように引かれる。とび出した目はせわしなく宙にただよい、ワイシャツの襟からはみ出した首の肉も、細かく震えだす。
「し、椎葉さん、今のは、どういう意味かね」
「言葉どおりの意味ですよ。わたしは世間的な倫理観なんかに、興味はない。それでもお父上の心情は理解できる」
「どこで、どうやって、そのことを?」
「医者と同じで、わたしにも職業上の秘守義務がある」
「しかし……」
「公表はしませんよ。もちろん先生がお父上の主張を認め、美亜さんをお父上の養女にする件を了承すれば、という条件つきです。手続き自体は簡単なはず、一週間以内にその手続きを終了させていただきたい」
「無茶な……」
「雅代さんに渡るはずだった遺産までご自分の懐へ入れようとする先生のほうが、無茶だと思いますがね」
「私は……」
「美亜さんをご自分の籍に入れてしまえば、あとあと彼女の権利を排除する細工も可能になる。先生だって痛くもない腹をさぐられては、面子《メンツ》に関わる」
健司の肩が前にかたむき、膝に置かれた白くて小さい手が、うっすらとピンク色に染まる。呼吸の音は気管から直接もれてくるようで、赤ら顔の額にも濃い脂汗がにじんでくる。椎葉の条件をうまく回避すれば、遺産の額が何億か変わってくるのだから、その脂汗も無理はない。
「一週間待ちましょう。岸本家の戸籍を調べるぐらいは簡単です。一週間後に、美亜さんがお父上の養女として入籍されていなかったら、すべてを公表します。そのころには羽田事件の犯人も逮捕されているでしょうから、これは、とんでもないスキャンダルになる」
健司の両手が同時にもちあがり、その手のひらが椎葉に向かって、子供のいやいやのように揺れ動く。ぎょろりとした目はほとんど虚ろで、口の端がかすかな痙攣をくり返す。
五分ほど黙り込み、それからやっと、死人が生き返ったように顔をあげて、健司が耳障りな息をつく。
「まったく、君のやってることは、恐喝だぞ」
「否定はしませんがね。しかし先生もわたしの条件を、拒否できないはずだ」
「それは、まあ、仕方ない」
「光企画から吉成氏の給料分として振り込まれている金も、美亜さんの口座に移してもらえますよね」
「う、う、うむ」
「不幸な姪から部屋代や食費を徴収するというのも、世間体が悪すぎる」
「私に、そんなつもりは、ない。子供に余計な金を持たせるのは……両親の保険金だって、立場上、管理しているだけのことなんだ」
「もちろん信じていますよ。先生が名誉を重んじる方でなければ、これだけの大病院は維持できない。美亜さんもいい伯父さんをもって、幸せなことです」
これ以上相手の顔を見たくないのは、健司も同じだろう。椎葉は腰をあげて帽子の位置をなおし、足の裏に絨毯の感触を確かめる。四分の三から四分の一にへったところで、武造の遺産は億単位、病院の売り上げだって毎年何億かにはなるだろう。それでも金が好きな人間というのは、どうしようもなく金が好きなものなのだ。
「期限は一週間、それだけ守っていただければ、もうお目にはかからない」
「し、椎葉さん」
「はい」
「さっき、そのころには羽田事件の犯人も逮捕されている、と言ったが、あれは、本当かね」
「日にちの保証はできません」
「しかし……」
「しかし、事件は大詰めです。解決は時間の問題でしょう。あの事件は実に、お気の毒なことでした」
健司の反応は見ず、椎葉は絨毯を歩き、ドアを開けて外に出る。一つだけ心に残るのは雅代といづみの遺骨のこと、坂下家の墓への分骨を要求しようかとも思ったが、そこまでの介入は僭越、美亜が大人になれば自分の価値観で判断するだろうし、すでに母親と妹がこの世にいない以上、骨はただの骨なのだ。
相変わらず盛況のロビーを横切り、玄関を出て建物を横手にまわる。通用口の門扉から岸本家側の敷地へ入ってみたが、前に来たときよりも空気が冷たく感じるのは、やまない霧雨と、少しだけすすんだ季節のせいだろう。
裏庭を屋敷の正面へ向かうと、玄関から若い女が出てきて、椎葉の風体に驚いたのか、一瞬足をとめる。背が高くて痩せ型でちょっとした美人だが、目のぎょろりとした感じが健司の血を思わせる。女はそのぎょろりとした目で二、三秒椎葉の顔を見つめ、しかし言葉は出さず、ベンツとワーゲンがとまっているガレージのほうへ歩いていく。
椎葉は女がワーゲンのドアを開けるまで見送り、それから玄関ポーチにあがってドア横のチャイムを押す。すぐ中年女の声で返事があり、椎葉が名前を告げると、声が美亜に変わる。
「ドアは開いてるよ、入っていいよ」
椎葉はドアを開け、広い沓脱に入って、重くて湿った空気に顔をしかめる。空気のなかには化粧品の残り香がただよい、上がり口には黒い室内履きが脱ぎ散らかされている。
廊下の奥から美亜が顔を出し、だぶだぶのワークパンツでスリッパを鳴らして来る。ダイニングの戸口にもエプロン掛けの中年女が顔を出したが、大病院の副院長夫人には見えないから、これは家政婦だろう。
「健司オジ、いた?」
「うん、非常に有意義な会談だった」
「あいつ、最近やさしくなって、気持ち悪いんだよ」
「君の可愛さが分かったんだろう。身内同士が信頼の絆で結ばれるのは、いいことさ」
「バカみたい」
「君もいい加減に、ふて腐れるのはやめろ。泣いても怒っても人生の仕組みは変わらない」
美亜がトレーナーの裾をひっぱりながら、ふんと鼻を鳴らして、ふて腐れたように口をとがらせる。
「上がりなよ。どうせお酒、飲みたいんでしょう」
「それがおれの役得だ。こんな高級クラブへ来られるのも、最後だろうしな」
椎葉は作業靴を脱いで、美亜が用意した客用スリッパに足を入れ、廊下を美亜のあとにつづく。家政婦はダイニングに戻っていて、相変わらず屋敷内に人声は聞こえない。美亜がこの家に馴染めるのか、一人でマンション暮らしでも始めるのかアメリカあたりに留学するのか、最後まで見届けたい気がするのは、ただの感傷だろう。
「二階へ上がってて。すぐ行くから」
美亜がダイニングへスリッパを鳴らしていき、椎葉は一人で階段をのぼる。この階段にも化粧品の残り香があって、さっきワーゲンに乗り込んだ健司の娘らしい女は、たぶん嗅覚と人格に欠陥がある。
二階のトイレを使ってから、廊下を歩いて奥の部屋にすすむ。南京錠は相変わらず頑固で挑戦的、真鍮の金色が美亜の髪色を思わせ、外部と内部との番兵を連想させる。美亜は自分の心を、いつまで番兵に守らせるのだろう。
階段に足音がして、美亜が四角い木の盆をかかえて姿を見せる。盆にはグラスとバーボンと氷入れとカマボコの小皿がのっている。今日は家政婦が仕事をしたらしいから、武造と家政婦の中年女と、少なくとも二人は、美亜の味方がいる。
運んできた盆を椎葉にもたせ、美亜が鍵を使って南京錠を開ける。内部にはなんの変化もなく、殺風景な部屋にスイッチの入った電気ストーブがオレンジ色の熱を放射する。ビーズアートの制作中だったらしく、床にはニッパーや鋏《はさみ》や接着剤の入ったプラスチックケースが散らばっている。作業台の上の牧場風景に牛の数がふえただけで、まだ人物は見当たらない。
床の小物類を素足の先で始末し、そこに盆を置いて、美亜が電気ストーブの横に座る。椎葉もベッドを背に胡坐をかき、座卓の下から吸殻のあふれた灰皿をひき出す。その一本を残して、吸殻をレインコートのポケットにしまい、残した一本に火をつける。美亜がストーブの横から、そんな椎葉の様子を意見のありそうな目で見つめてくる。
「雨が降るとタバコに不自由してな、今日のおれは運がいい」
美亜が鼻を曲げてグラスに氷をセットし、バーボンをついで椎葉の前に置く。それからワークパンツのポケットをまさぐって酎ハイの缶をとり出し、プルトップの栓を抜いて、ちびりと口をつける。
「ねえ、あいつ、まだ捕まらないよ。警察は何をしてるのよ」
「そのこと、誰かに言ったか」
「言わない、約束だもの」
「それが正解だ。警察から連絡が来るまで、君はおとなしく芸術をしていればいい」
「だって、あんたも女刑事も、すぐ捕まるって言ったじゃない」
「一日で片付くこともあるし、一週間かかることもある。殺人事件はビーズ細工とはちがうさ」
「あたし、落ちつかなくて、学校へも行けないよ」
「もともと行ってないだろう」
「気分の問題だよ。早く終わってくれないと、夜だっていやな夢ばっかり見る」
川尻豊という隣家の中学生に、暴力的傾向や動物への虐待癖があれば、警察も身柄の拘束が容易になる。しかし豊は大柄のわりにクラスでも目立たない存在らしく、町内では礼儀正しい少年と評判もいい。美亜も豊と言葉を交わしたことはないというし、川尻家の家族構成も知らないという。捜査がこれ以上停滞するようなら、椎葉が豊を暴力沙汰に巻き込み、そのトラブルのなかで突破口を見つけるより仕方ない。
「あの川尻という家族は、三年前に越してきたんだよな」
「そう、あたしが中学生のとき」
「君の家族と、本当にトラブルはなかったのか」
「まるで知らない。マンションの廊下で顔ぐらい合わせたけど、それだけだよ。マンションのほかの人達だって、みんな同じだよ」
「昔の凶悪事件にはみんな因果関係があったが、最近の事件は分かりにくい。警察の捜査手法が時代についていけないせいだろう」
「理屈はいいから、早く捕まえてよ。あたし、あいつのこと、めちゃくちゃに殴ってやりたい」
「君がヒステリーを起こすと面倒になる。ここまで来たら吹石くんに任せておけ。いよいよ埒《らち》があかなかったら、そのときはおれが、何とかする」
「何とかって?」
「可愛い依頼人のために人生を賭けるという意味さ。これ以上落ちるところはないし、おれの人生なんか、安いもんだ」
吸止の火を灰皿につぶし、グラスをとりあげて、椎葉はバーボンの香ばしさを味わう。バーボンなんてアメリカではもともと焼酎のようなもの、本来は高級な酒ではないはずなのに、その深い琥珀《こはく》色に、思わず頬がゆるむ。もし刑務所へ酒の差し入れが許されるなら、椎葉は美亜のかわりに川尻豊を殺してやってもいい。豊を殺してマリさんと同房になり、刑務所のなかでマリさんのポンびき役をつとめる。そんな余生も椎葉には、似合わなくもない。
美亜が缶の端に口をつけたまま、椎葉のほうに膝をすすめ、首にかけたタオルのあたりに鼻を寄せる。
「珍しいね、お風呂の匂いがするよ」
「雨の匂いさ」
「ちがうよ。ちゃんと石鹸の匂いがする」
「タオルが洗ってあるせいだろう」
「髭も剃ってあるじゃない。あたし、あの不精髭、好きだけどね」
床の上に膝を投げ出し、酎ハイを少し咽に流して、美亜がカマボコに楊枝をつき立てる。部屋は黄昏どきのように薄暗く、電気ストーブの光だけが美亜の顔を明るくする。椎葉には空気がいくらか暑く感じられ、防寒ジャケットのボタンを外して、首のタオルをゆるめる。
「そういえば、幹江殺しの容疑者が、今日警察へ出頭したぞ」
美亜がカマボコの切れはしを口にはさんだまま、丸い目を椎葉の鼻先につきつける。
「容疑者って、犯人のこと?」
「似たようなもんだ」
「あたしも知ってる人?」
「二度、会ってる。一度は幹江の死んだ場所で喧嘩をしたとき。もう一度は、オカマに変身してるとき」
美亜が顔を椎葉の顔に寄せたまま、もぐもぐとカマボコを咀嚼《そしやく》する。黒目がちの目が左右に振動し、鼻からの息が椎葉の唇をかすめる。
「そうなの、あの人」
「明日の朝はまた、テレビと新聞が大変だ。もっとも裏づけ捜査という名目で、幾日か事実を隠しておくかも知れないが」
「でも、どうして、あの人が?」
「女としてのプライドだろう」
「幹江のプライド?」
「マリさん……おれも本名を知らなかったが、とにかくあの人と幹江が、商売上のトラブルを起こした。もともとあの付近はあの人の縄張りで、そこへ幹江が割り込んだ。君と付合いがなくなって以降、幹江は本格的に売春の商売を始めていた。ただそのやり方と場所が、ルール違反だったらしい」
カマボコを飲みくだし、椎葉の肩に手をかけて、美亜が何度か、大きく息をつく。目はうるんでいるが涙は出ず、目蓋に少しだけ赤みがさす。
「人間なんて、そんなことで、殺されちゃうんだね」
「病気でも交通事故でも、死は死なのにな」
「そんなふうに割り切れないよ。あんたは心が冷たいんだよ」
「うん、おれは酒のせいで、心が麻痺してるんだ」
椎葉はバーボンを飲みほし、氷は入れず、バーボンだけをグラスに足す。幹江の死に怒りや悲しみを感じるのは、幹江の側に立っての感慨、マリさんの側に立てばそれなりの正当性は生まれてくる。問題はマリさんの側に立つ人間が、マリさん一人しかいないことだ。
「さっき健司伯父さんと話したが……」
バーボンをすすり、グラスの縁に美亜の白い顔をすかして、椎葉は帽子を頭のうしろにずらす。
「伯父さんは、君がお祖父さんの籍に入ることを承知した。一週間以内に手続きをとるそうだ」
「健司オジの言うことなんか、信用できないよ」
「今度は信用していいさ。羽田の事件も解決するし、伯父さんも人間的に成長したらしい。ただ君には大きい財産が入るし、両親の保険金や、親父さんの会社にだって権利がある。できれば個人的に、弁護士を雇ったほうがいいな」
「そんなこと、あんたがやってよ」
「おれは心が冷たいホームレスだ」
「でも、いろんなことを知ってるし、あたしにも嘘をつかなかった。あたしにはあんた以外に、信用できる大人がいないんだよ」
「寂しい人生だ」
「あたしの後見人になって、ちゃんと仕事をすれば、ホームレスもやめられるよ」
「おれの夢は枯れ葉色のテントに住むことで、ホームレスをやめることじゃない」
「そんなの、言い訳だよ」
「おれにはおれの生き方がある」
「あんたはあたしより、あの女刑事が好きなんだよ」
「ホームレスなんかに惚れられたら、女刑事が迷惑するさ」
「ふん、やっぱりね」
「おれはどんな相手でも、他人の人生に深入りしたくない。それだけのことだ」
「あんたは嘘つきじゃないけど、意気地なしだよ。本当はあたしと寝るのが、怖いくせに」
美亜が椎葉の手からグラスをひったくり、レインコートの襟をつかんで、正面から膝にまたがる。美亜の唇が椎葉の唇に重なり、カマボコ味の舌がさし込まれる。その吐息には大人の生臭さがあり、舌と唇には赤ん坊が母親の乳房に吸いつくような必死さがある。美亜の匂いと皮膚のやわらかさが、椎葉の記憶に、ふと死なせた娘の質感を思い出させる。
椎葉は顔に乱れる美亜の髪をうしろに撫でつけ、顔を両手ではさんで、その小さい鼻の頭に、軽くキスをする。
「よかった、あんた、インポじゃないんだね」
美亜が左手を椎葉の首にかけたまま、右手で椎葉の股間をさぐる。
「だいじょうぶ。あたしと寝ても、女刑事には言わないから」
椎葉は美亜を膝にのせたまま、腰をあげ、その軽くて乳臭い躰を、ぽいとベッドに放り出す。それから床に置かれているバーボンのグラスを拾いあげ、盆をまたいで作業台側の床に腰をおろす。
「どうしたのよ、おいでよ」
「おれの価値観では、酒とセックスの快楽は同居しないんだ」
「だって、立ってたじゃない」
「君みたいな美人とキスをして、立たない男はいないさ」
「それならやろうよ。あたし、けっこう上手だよ」
「そういう技はあと何年かして、人生に勝負を賭けるときに使え。安売りをしなくても、君はちゃんと幸せになれる」
椎葉は濃度の高いバーボンを深々と味わい、額の汗をタオルでぬぐう。美亜に対して性欲を感じた自分が滑稽でもあり、微笑ましくもあり、ばかばかしくもある。
椎葉の視界を黒い影がよぎり、本能が椎葉の腕に、その影を払わせる。払われた枕が床に転がり、壁際に積まれたプラスチックケースを倒す。ケースからは美亜の下着とマンガ本がこぼれ出す。
ベッドの上に胡坐をかいた美亜の目から、激しく涙があふれる。
「やっぱりあたし、化け物なんだ」
「うん?」
「あたしが化け物だから、あんた、やりたくないんでしょう」
「雨が降ると頭のネジが狂うのか」
「あんたは知ってるんだよ。あたしの父親って、健司オジでしょう。あたしはお袋と健司オジのあいだに生まれた化け物だから、あんたは、気持ち悪いんだよ」
美亜の目からは粒になって涙がこぼれ、トレーナーの胸に不定形なしみをつける。声は洞窟の奥から叫んでいるようで、淡々と流れる涙とは不気味な非対照がある。涙に嗚咽は混じらず、顔もゆがまず、唇だけがかすかな震えを見せている。
椎葉は口のなかでバーボンを転がし、くっと咽に流して、首の汗にタオルを押しつける。
「なるほどな、そういう妄想をもつ姪なら、伯父さんに嫌われても当然だ」
「妄想じゃないよ。お袋と健司オジは、昔からヘンなんだよ。仲が悪いくせに、こそこそなにか話したり、ああいうのって、普通じゃないよ。健司オジはあたしが自分の子供だと知ってたから、化け物と言ったんだよ」
「そのことはこの前に話して、解決してるだろう」
「してない、あんたは誤魔化してる。あたしがただ知らない男の子供なら、ちゃんと寝るはずじゃない。あたしが化け物だから、あんたはイヤなんだよ」
「君がおれの娘なら、パンツを脱がして尻を叩くところだ」
「いいよ、見たければ見せるよ。あたし、化け物かも知れないけど、躰は普通なんだから」
美亜が腕をおろしてトレーナーの裾をつかみ、蜜柑の皮でもむくように、すぽっとトレーナーを脱ぐ。意外に豊かな胸にブラジャーはなく、色のうすい乳輪に大豆粒ほどの乳首がのっている。肌は顔の色と同じほど青白く、十万円の値段をつけたセンセイの価値観が正当か否か、椎葉はつまらないことを考える。
美亜がワークパンツのベルトに手をかけ、その美亜に、椎葉が床の枕を投げつける。
「おれに尻を叩かれたら、痛いぞ。真っ赤に腫れあがって、一週間は小便も出なくなる」
美亜の手がためらい、涙のとまった上目づかいの視線が、憎らしそうに椎葉の顔を射る。金色の髪が頬と額に乱れ、白くて肉のうすい肩が威嚇的に上下する。
「今まで言わなかったが、本当は君の遺伝子を調べてある。伯父さんが君の父親だなんて、ばかばかしくて、笑う気にもなれない」
上目づかいの美亜の視線が、徐々に力をなくし、肩の動きがとまって、下唇が前歯に噛まれる。椎葉はバーボンを飲みほしてグラスにつぎ足し、レインコートのポケットからとり出した吸止に、黙って火をつける。
「遺伝子を調べたって、それ、どういうことよ」
「そういうことで、ほかに意味はない」
「いつ調べたの」
「君と二度目に会ったとき、タバコの吸殻を失敬した。君の唾液と家族の遺伝子をくらべるぐらい、簡単だ」
「でも、どうして」
「おれは君専属の探偵だ。雇い主へのサービスは当然さ」
「今まで、なぜ言わなかったのよ」
「調べてはみたが、無意味だったから。君が感じていたとおり、たしかに親父さんは、君の父親ではなかった。だけど君の遺伝子に近親交配の記録はなかった。お袋さんはなにかの理由で、ただ君の父親と結婚できなかったという、それだけのことだ」
タバコを二口だけ吸って、椎葉は火を消し、グラスをとりあげてバーボンをなめる。いつもの安焼酎よりアルコールの濃度が高く、椎葉の重心が不安定に乱れはじめる。
「あたし、あんたの言うこと、信じていいの」
「おれを信じなかったら、信用できる大人は一人もいなくなるぞ」
「本当にあたしの父親って、どこかの知らない人?」
「遺伝子は嘘をつかない」
「保証する?」
「君みたいな美人を騙すほど、おれは世間を拗ねていない」
「ちゃんと保証する?」
「うん、保証する」
「そうなの。あんなふうに考えたの、みんなあたしの、妄想だったの」
自分に言い聞かせるように、美亜が何度かうなずき、乱れた髪を頭のうしろに撫でつけてから、その手で乳房をおおう。美亜の金髪が北欧の少女ポルノを連想させ、椎葉の下半身を滑稽にうずかせる。
「あたしね、そのことだけが心配だったの」
「最初に言えばよかったな。つまらないことを心配させて、悪かった」
「あんたの言うとおりだった。親なんて、あたしが生まれてくるための、ただのきっかけだよね。父親が健司オジでさえなければ、あたし、誰だっていいんだよ」
「君の父親という人は、たぶん死んでると思う。そういうことをすべて承知で、親父さんはお袋さんと結婚したわけだ。親父さんが君になにも言わなかったのなら、伯父さんもお祖父さんも、お袋さんの相手は知らなかったはずだ。昔のことだし、その相手も死んでるとしたら、もう調べても分からない」
「いいよ、健司オジでなければ、父親なんて、試験管でもかまわないよ」
「美人で頭がよくて、いい子だ。おれがホームレスでなければ、結婚を申し込むのにな」
「ふん、本当はやっぱり、あの女刑事が好きなくせに」
美亜が脱ぎ捨てたトレーナーをひき寄せ、もぞもぞと頭にかぶって、深くため息をつく。いずれまた父親の問題にこだわりが出るにしても、そのころには美亜もどうせ、理性で処理できる年齢になっている。
「さて、悪酔いしないうちに、今日はひきあげよう」グラスに残ったバーボンをあおり、ゆれる重心を意識しながら、椎葉は腰をあげる。「とにかく羽田の事件も、時間の問題だ。すべてが片づいたら、弁護士の件も、ゆっくり考えればいいさ」
美亜がベッドからおりてきて、椎葉のレインコートをまさぐるように、腰に腕をまわす。美亜の体臭が酸っぱく匂い、椎葉の動揺が胸の内で増幅する。
「お祖父さん、まだ生きてるか」
こっくんと、椎葉の顎の下で、美亜がうなずく。
「挨拶をして帰ろう。おれもホームレスにしては、礼儀正しい性格だから」美亜の肩を遠ざけ、また鼻の頭にキスをして、椎葉はドアへ歩く。「君はしばらくここにいてくれ。まだ目が腫れてるし、顔も汚れてる。おれが君をいじめたなんて、お祖父さんに誤解されたくないからな」
美亜がふて腐れた目つきをして、ベッドにダイブし、椎葉はそれを確かめて部屋を出る。バーボンの酔いは懸念するほどでもなく、まだ常識も頭の隅に鎮座する。美亜と寝たところで罪の意識も感じないだろうが、十六年しか生きていない子供の躰を、無理に汚すことはない。美亜の人生は始まったばかり、今ここで汚さなくても人間なんか誰でも、生きていれば自然に汚れていく。
二階廊下から階段をおり、書斎の前に歩いて、ドアをノックする。しばらく待ったが返事はなく、ドアを開けて部屋に入る。武造は今日もガウンにくるまって安楽椅子におさまり、うつむき加減の顔を窓のほうに向けている。膝には膝掛けと開いたままの本が置かれ、雨の窓にはイチョウの枯れ葉が一枚、押し花のように貼りついている。
武造が顔をあげず、椎葉は足音をしのばせて安楽椅子の横へ歩く。武造の顔からは老眼鏡が落ちかけ、口が半分ほど開いて、ミイラのような頭が椅子の背に小さくもたれている。死んでから幾日かすぎた骸《なきがら》のようにも見えるが、息はしている。ここまで来れば死も眠りも似たようなもの、次の瞬間に心臓がとまったところで、本人に後悔はないだろう。
椎葉は武造の寝顔を五分ほど眺め、それから膝の本をテーブルに移して、外したメガネを本の上にかさねる。本のタイトルは『地獄という場所とその思想』とあるから、武造も地獄へ落ちる前に現地の予備知識を、仕入れるつもりか。
武造の首を絞めてやりたい衝動に逆らえず、椎葉の手がその首にのびる。皺だらけの皮膚は乾いて冷たく、頸動脈からは脈拍も伝わらない。トンボを捻りつぶすほどの力で武造の存在は無になり、美亜はこの家と血の束縛から解放される。
武造の口がもぐもぐ動き、秀でた鼻に鼻水がにじむ。椎葉は手をひっこめてレインコートのポケットに隔離し、目蓋の痙攣を我慢して、ドアへ戻る。美亜の籍が決着するまでは武造の生にも意味があり、そして経緯はどうあろうとも、武造の美亜に対する愛は変わらない。愛が人間行為すべての免罪符になるものかどうか、そんなことは地獄で武造が、自分で確かめればいい。不愉快な事実ではあるが武造と雅代と吉成と、その三人が幸せでなかったなどと、誰に分かるのだ。
書斎を出たところでダイニングの家政婦と目が合ったが、黙礼だけ交わして、玄関へ向かう。作業靴に足を入れ、玄関ドアを外に出たところで、ポケットのケイタイが鳴る。
「もしもし、椎葉さん、たったいま川尻豊の身柄を確保しました」
「ふーん、よかったな」
「蒲田の駅ビルにあるCDショップで、豊がCDを万引きしたんです。彼を尾行していた捜査員が現行犯逮捕して、蒲田中央署の少年課に連行しました。これから万引きの余罪捜査という名目で、地裁へ家宅捜索の令状を要求します。ご心配をかけましたが、今夜中には、すべて決着すると思いますよ」
人通りのない公園の傍道《わきみち》に三台の警察車両が縦列している。前の二台はともに白っぽい乗用車、うしろの一台はロングのワンボックスカーで、三台とも遮光ガラスとカーテンで内部は窺《うかが》えない。もっとも時間は午後の七時をすぎ、産業道路への出口に街灯がけぶっている以外、付近に照明も見られない。十分ほど前に宅配ピザのバイクが往復し、今は勤め帰りのサラリーマンが傘をさして行き過ぎる。
先頭車両の運転席に座っている橋爪刑事が、メガネを押しあげながら助手席とうしろの座席を見くらべる。助手席の北野刑事は窓を全開にしてタバコを吹かし、うしろの吹石夕子は身じろぎもせずにマンションの方向を睨んでいる。
「だけど、遅いですよねえ。倅が万引きなんかで捕まったら、普通の親はもっと慌てるもんじゃないですか」
橋爪の言葉に夕子は反応せず、北野だけがタバコの煙を窓の外に吐く。
「親が普通なら倅も万引きはせんし、人も殺さんよ。高崎での聞き込みでは、女房と前の亭主ってのは、相当にもめたそうじゃないか」
北野と橋爪が川尻豊の身柄を拘束したのが、午後の四時すぎ。豊は電車に乗らず、駅ビルのなかにあるCDショップをぶらついて、二枚のCDアルバムを万引きした。北野と橋爪は豊が店の外に出たところで身柄をおさえ、店員に商品を確認させてから、豊を蒲田中央署に連行した。CDショップでの万引きなんかいくらでもあることで、本来なら事務所での訓戒か、悪くても交番へ連行して始末書を作成する程度。相手が未成年なら書類送検もおこなわれず、万引きが前科になることもない。だから今回の拘束は異例中の異例で、手続き上もまず多摩川署の署長から蒲田中央署の署長に連絡させ、事情説明と連行の了解を求めねばならなかった。羽田事件の管轄は多摩川署でも、万引きは蒲田中央署の管轄内で、警察社会では手続き上の遺漏は許されない。豊の身柄は現在でも蒲田中央署の少年課に拘束してあり、家宅捜索の令状も蒲田中央署宛に発行されている。たとえ名目だけであっても、家宅捜索には蒲田中央署の刑事も立ち会う仕組みになっている。
北野が火のついたままのタバコを公園の植え込みに投げ、両手を頭のうしろに組み合わせる。家宅捜索の責任者は豊の身柄を確保した北野、それ以外に多摩川署の捜査本部から夕子を含めて九人、蒲田中央署から一人、計十一人の刑事が三台のクルマに待機する。
「けっきょく、あれなんですかねえ、豊も新しい父親と反りが合わなかったとか、そんなことでもあったんですかねえ」
「みんな何か、問題はあるんだろうよ。家庭に問題のある人間がすべて犯罪者になるわけじゃないが、犯罪を犯した人間にはすべて、家庭や育った環境に問題がある。豊だって両親が離婚しなけりゃ、このマンションに越してくることもなかったろうしなあ」
判明している豊の家庭環境は、四十歳の母親と三十六歳の継父との三人暮らし。母親の良子は保険の外交員で、昌宏という継父は川崎にある私立大学の事務局に勤めている。群馬県の高崎へ聞き込みに行った捜査員の報告によると、良子の前夫は畠山孝幸といい、今は高崎にあるファミリーレストランチェーンの支配人をやっている。離婚前は江東区にある都営アパートに住んでいたそうで、離婚の原因は良子の浮気だという。その浮気相手が昌宏だったのか、あるいは離婚後に昌宏と知り合ったのか、畠山には分からない。息子の豊についても「昔からおとなしい子供だった」というだけで、たいして愛着はないらしい。良子の再婚は知り合い経由で聞いてはいたものの、相手の名前も、羽田のマンションに暮らしていることも知らなかった。畠山にも今は新しい家庭があり、「良子にも豊にも余計な関わりは持ちたくない」という。
クルマの運転席側に足音がして、窓がこつこつと叩かれる。橋爪が窓を開け、その窓に舟越刑事が顔をのぞかせる。
「やっと今、亭主のクルマが帰ってきました。女房も一緒です。連絡をとり合って、どこかで待ち合わせをしたらしいですね」
北野が「よし」と返事をし、助手席側の窓を閉める。「うしろの連中にも声をかけてくれ。面倒な小細工はいらん。所詮はせまいマンションだ、さっと行って、さっと片づけようじゃないかね」
舟越がうしろの車両へ歩いていき、橋爪と北野と夕子がクルマをおりる。雨は降っているが傘をさすほどではなく、後方車両からおりてきた刑事たちも傘は広げない。家宅捜索の手順も捜査本部で打ち合わせ済み、名目は『万引きの余罪捜査』でも、実際は殺人事件の証拠探しに目的がある。ヒマワリの刺繍があるといういづみの下着は坂下家に見当たらず、美亜の証言では、それ以外にも豊は坂下姉妹の下着を盗んでいた可能性がある。たとえ直接の物証でなくとも、軍手やタオルの遺留品と同類の製品、あるいは遺留品を購入したときのレシートや、犯行をにおわす日記ないしメモ類、そんなものがどれか一つでも見つかれば、隣家三人の惨殺事件容疑者として、豊に対する本格的な追及が開始される。
北野を先頭に、蒲田中央署の刑事を最後尾に、十一人の捜査員がマンションの玄関へ向かう。エレベータの定員は八人、北野や夕子たちがエレベータに乗り、若手の三人が階段を使う。四階の階段前で全員が顔をそろえ、橋爪が四〇一号室のインターホンを押す。すぐに応答があり、痩せて背の高い男がドアを開ける。その骨張った感じの顔は蒼白、薄い唇はかたく結ばれ、広い額のこめかみにはミミズのような血管が浮いている。
「電話でご連絡しましたとおり、余罪捜査のため、息子さんの部屋を家宅捜索させていただきます」
北野が川尻昌宏に裁判所の執行令状を示し、昌宏がその令状を、しつこいほどの時間をかけて読む。まだ背広を着たままでネクタイにも乱れはなく、横分けの髪には神経質な櫛目《くしめ》が入っている。
昌宏が納得したように二度うなずき、躰を部屋の内にひく。十一人の捜査員は手袋をはめながらリビングへ進み、昌宏の案内で右手の部屋へ向かう。リビングには夕子一人が残り、壁を背に呆然と立っている中年女と向かい合う。女はぽっちゃりした躰にツィードのスーツを着込み、化粧見本のような顔を赤く染めた髪で包んでいる。本人は否定したいだろうが、肉の厚い皮膚と大振りの目鼻だちが、いやでも豊の母親だと告げてくる。
良子が一歩前に踏み出し、化粧品の匂いを飛ばしながら、深々と頭をさげる。
「このたびはとんだお手数をかけまして、申し訳ございません」
「いえ、一応の形式ですから、ご心配なく」
「それで、豊は今……」
「蒲田中央署でお預かりしています。余罪がなくて、初犯であることが判明すればすぐに帰されます」
「私が警察へ出向いては、いけないのでしょうか」
「必要もないでしょう。捜索もすぐに終わりますから、このままお待ちください」
昌宏が右側の部屋から戻ってきて、フェイクレザーのソファに腰をおろす。間取りは隣家と同じなのにやたら調度が多く、ソファやキャビネットや大画面テレビが家具屋の倉庫を思わせる。天井の蛍光灯は苛立つほど明るく、それでいて部屋の空気を薄暗く感じるのは、夕子の先入観か。
良子がソファの端に浅く腰かけ、夕子にも身振りで前のソファをすすめる。夕子はゆっくりとソファに腰をおろし、長ソファの両端に離れている中年夫婦を見くらべる。昌宏は長身で顔だちも整っているが、印象としては全体に安っぽい。良子のほうは厚化粧にグッチの腕時計をはめ、肉付きのいい指にも大粒の指輪を光らせる。
「ええと、刑事さん……」
昌宏がガラスのテーブルからタバコとライターをとりあげ、夕子と視線を合わせずに、火をつける。
「豊が捕まったのはCDの万引きでしょう。そりゃ万引きは悪いことだろうけど、こういう捜査は、ちょっと大げさじゃないですか」
「運が悪かったとしか申し上げられません」
「と、言うと?」
「たしかに普通では、こういう捜査はいたしません。ですが今、蒲田の繁華街では青少年の万引き事件が多発しておりまして、本庁から特別警戒態勢をとるようにとの指令が出ております。しばらくすると冬休みにも入りますし、警察は集中捜査をおこなっています」
「つまり、なんですか、豊は、見せしめのような……」
「お気の毒ですが、そういう意味合いも含まれます」
昌宏が横を向いて煙を吐き、なんとなくほっとしたような顔で、良子に視線を向ける。良子は昌宏の視線を受けず、小太りの上半身を夕子のほうにかたむける。
「刑事さん、このこと、豊の学校には知らされるんでしょうか」
「さっきも申しましたように、初犯で余罪がなければ始末書で済みます」
「学校とご近所には、知られたくありませんの。あの子も魔がさしたんだと思いますわ。おとなしくて素直な性格で、これまで親に迷惑をかけたことはございませんのよ。あの年頃って、ねえ、みんな心が不安定なものですから」
「そうですね。誘惑の多い時代ですし、お子さんの教育にはこれまで以上の注意が必要でしょう」
夕子はタバコの欲求を我慢し、良子へ会釈を送って腰をあげる。
豊の部屋に捜査員の話し声はなく、夕子は開いているドアから部屋へ入って、北野のとなりに立つ。部屋の位置関係からは壁の向こうが坂下家の子供部屋、声までは聞こえないにしても、壁を通して物音ぐらいは伝わってくる。コンクリートの壁一枚の向こう側に坂下姉妹が暮らしていれば、十五歳の豊にとってはたしかに、過酷な環境ではある。部屋にあるのはベッドと勉強机と本箱とテレビ、ゲーム機の操作盤やCDのコンポも散らばっていて、壁にはアイドルのポスターも貼ってある。広さ六畳ほどの部屋に十一人もの捜査員が詰めているわりに、作業は黙々と、私語もなくつづけられる。
戸口の横に立って捜索を見守っていた北野が、ズボンのポケットに両手を入れたまま、首を横にふる。
「どうも、いけないようだなあ」
「豊は警察の動きに気づかなかったはずです。気づいていれば万引きなんてヘマはやりません。女の子の下着は、かならず見つかります」
「俺もそう願うがね。なにせたったこれだけの部屋だ、すべてひっくり返したところで十分もかからんよ」
北野に解説されるまでもなく、この狭い部屋に作業をつづける捜査員は九人、すでにベッドや布団の点検は終了し、机の引き出しにも三人の捜査員がとり組んでいる。汚職事件や経済事犯とは異なるから、証拠品の押収物はたかが知れている。それでもノートや書籍類やビデオテープの押収品だけで、すでに三つの段ボール箱が埋まっている。
「うまく下着が出てくれりゃいいが、ノートやビデオだけだと分析に二、三日はかかるなあ。万引きぐらいのことで、そうは豊も勾留しておけん」
「でもこの部屋は、なにか臭います」
「この部屋というか、この家というか、俺にもなにかイヤな感じがするなあ。あっちの部屋にいる二人、ありゃいわゆる仮面夫婦だよ」
「はあ、そうですか」
「亭主のほうは必死にヒステリーを我慢している。女房のほうは、まあ、倅を心配もしてるんだろうが、一番の心配は世間体だなあ。それに俺の目に狂いがなけりゃ、女房には外に別の男がいる感じだ」
ちらっと夫婦を見ただけで、そこまで見抜くとはさすがベテラン刑事、しかしそれが当たっているか、ただの野次馬的感想か、本当のことは分からない。いずれにしても今回の事件に直接の関係はなく、夕子は捜査員のあいだを縫って窓際へ歩く。これだけの人間が働いている場所で夕子なんかが手を出したら、かえって迷惑、おとなしく先輩刑事たちの仕事を見守るのが正解なのだ。
「橋爪さん、この窓の鍵は、最初から開いてたんでしょうか」
橋爪が壁のポスターをめくっていた手をとめ、メガネを夕子のほうに光らせる。
「うん、カーテンも鍵も、みんな開いてたよ」
「そうですか。マンションの四階だと、そんなもんなんですかね」
夕子は鍵のかかっていない窓をひき開け、小雨にうたれるベランダから、遠く羽田空港の上空に目を向ける。赤と黄色の航行ランプがUFOのように点滅し、空港施設の照明が東の雨空を幻想的に染めあげる。事件があった半年前の夜も雨が降っていて、こんな美しい景色のなか、豊は隣家に侵入して坂下の家を地獄に変えたのだ。
窓から外を見あげている夕子の肩に、うしろから北野が手をかける。
「吹石さん、下着はどうも、無理らしいなあ」
「でも……」
「見たまえよ、これだけの人員でロッカーの天井まで捜索した。下着はおろか、女物のハンカチ一枚出てこない」
「そんなはずは、ないと思いますが」
「事件直後なら出てきたかも知れんが、半年もたってはねえ」
「豊が処分したと?」
「あんな顔して、あのガキ、意外に用心深いのかも知れんよ」
「でも、椎葉……」
「あーあ?」
「|しばらく《ヽヽヽヽ》、様子を見るしか、ないでしょうか」
「そういうことかなあ。なーに、ノートや本の類はぜんぶ押さえた。子供ってのは無意識のうちに、どこかへ本音を落書きするもんだよ。これから時間をかけて調べれば、きっとなにか出てくる。万引きという尻尾もつかんだし、そこからもじわりと攻められる」
「犯人は豊だと確信できますか」
「俺は最初から、吹石さんの勘に賭けてるんだ。現場を再検証してみればほかの理屈は考えられん。それは中村警部も同意見だし、証拠は下着だけとは限らない。勝負はこれからじゃないかね」
北野が部屋の戸口に戻りながら、無骨な指で薄い頭頂部に横髪を寄せあつめる。捜査員も部屋の片付けを始めていて、そのうちの三人は押収品のリスト作成にかかっている。捜索そのものより書類の作成に時間がかかるのは、他の警察事務と同じことだ。家出人捜査でも容疑者の尋問でも、警官の労働時間は半分以上が書類の作成についやされる。
捜査員が段ボール箱の搬出を始め、夕子は窓を閉めて、部屋の内に向きなおる。先輩刑事たちの仕事に意見を言う立場にはなく、少女の下着が発見されなかったというなら、それは事実だろう。「豊の最終目的はいづみだったに違いなく、いづみ関連の品はかならず隠匿されている」と言った椎葉の勘も、また空振りか。豊の存在を割り出した推理は炯眼《けいがん》だったにしても、捜査自体はこれから地道に、粛々《しゆくしゆく》と続行するしか仕方ない。
最後の捜査員が部屋から出ていき、夕子もあとにつづく。リビングでは北野が昌宏に押収品の預かり書を渡しており、夕子はそれを横目で眺めながら玄関へ歩く。刑事たちはすでに廊下へ出払い、開いたドアから段ボール箱を運ぶ足音が聞こえてくる。
踵の低いパンプスに足を入れかけ、ふと夕子は、靴箱の扉に目をとめる。
「川尻さん、この靴箱、ちょっと開けさせていただきます」
北野が夕子の横へ歩いてきて、預かり書を持ったままの昌宏もあとについて来る。北野は「なるほど」という顔で眉をもちあげ、昌宏のほうは眉間に皺をきざんでいる。
夕子が観音開きの扉を開け、北野もうしろから中をのぞき込む。作りつけの靴箱は坂下家のものと同じ大きさで、一メートルほどの幅が人の背丈までつづいている。並んでいる靴の三分の二は女物、ハイヒールにショートブーツにミュールにウォーキング、その上下に男物の革靴と運動靴がちらほら収まっている。夕子はその男物の靴を一足ずつひき出し、遺留品のゴム底靴と同品か、あるいは類似形状の靴はないかと点検する。もし同じ靴があったら豊の犯行は決定的、類似品でも追及の手掛かりにはなる。
七足の男靴をすべて点検し、しかし遺留品と似たような靴はなく、夕子は失望を隠して腰をあげる。
「いったいどういうことです? 豊が靴まで万引きしたと、そういうことですか」
「可能性を調べるのが警察の仕事ですから」
「ご苦労さまです。豊が帰ったらみなさんにご迷惑をかけたことを、きつく言い聞かせますよ」
昌宏の口調は落ちついていて、こめかみの血管もうすくなり、顔色にも血の気が戻っている。
「息子さんの靴を、一足お預かりできますか」
「はあ、それは、構いませんが」
「念のためです。余罪の疑いはすべて晴らしたほうが、ご家族も安心でしょう」
夕子がサイズ二十六・五のスニーカーをとりあげ、豊のものであることを昌宏に目で確認する。それからそのスニーカーを北野にわたし、昌宏から預かり書を受けとって品目欄に追加をする。遺留品の靴内に犯人の足|脂《あぶら》が残っていれば、豊の足脂との比較が可能になる。科研の分析でそれが同一人のものと判定できるかどうか、望みは薄いだろうが、夕子には落ちつきはらった昌宏の口調が腹立たしい。
「お邪魔しました。これから手続きを済ませますので、息子さんはすぐに帰されます」
北野が先にドアを出て、夕子は追加記入の終わった預かり書を昌宏に返す。その書類を手渡した瞬間、うすくて端正な昌宏の唇が、奇妙な形に曲がる。
「なにか?」
「いや、刑事さんたちのお仕事も大変だと思いましてね。まったくうちの倅には、困ったもんですよ」
北野がおさえているドアを、一歩だけ踏み出し、夕子の足がとまる。預かり書を返したあの瞬間、昌宏はなぜ、唇を曲げたのか。あの唇の形は嘲笑か軽蔑か、家宅捜索が簡単に終わったことの安堵なのか、それとも夕子たち刑事の仕事に対する、内心での反感か。最初『この捜査は万引き犯罪への見せしめ』と夕子に確認して、昌宏はなぜ、あんなふうに、ほっとした様子を見せたのか。
ぴりっと、電気のような刺激が夕子の背筋を走り、夕子の足がドア内へひき返す。
「北野さん、みんなを、呼び戻してください」
「おーお?」
「わたし、執念深くて、諦めの悪い性格なんです」
「うん、いやあ、俺は、尊敬はしてるがねえ」
「お願いします。橋爪さんたちを呼び戻して、もうしばらく川尻さんにご迷惑をかけましょう」
夕子がふり返り、昌宏の顔を、正面から見すえる。
「川尻さん、捜査に万全を期すため、ご夫婦の寝室も捜索させていただきます」
「ええ?」
「念のためですよ」
「い、いくらなんでも、そんな……」
「令状は川尻家全体に有効です」
「む、無茶な……」
昌宏が口渇病のように息を飲み、語尾が鼻にひっかかって、震えながら消えていく。
「わたしは心残りがあると便秘になるんです。新米刑事を助けると思って、どうかご協力ください」
「だ、だめだ、そんなことは、だめだ」
「令状には強制力があります。川尻さんに、拒否はできないんですよ」
夕子を見返す昌宏の目が、ゆらりと、焦点を乱す。こめかみに膨れた血管が、ぴくぴくと痙攣を始める。手のなかで預かり書の紙が震え、歯がガラスをすり合わせるような、いやな音をたてる。
夕子の耳元で、髪を頭頂部にかき寄せながら、北野がささやく。
「吹石さん、本心から俺は、君を尊敬するなあ」
昌宏が床に崩れたのは、北野がエレベータ前の刑事たちに大声で呼びかけた、その直後だった。
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13
神の国は近い。
神は私達と共にある。
神の喜ぶことをなせ。
罪人は悔い改めよ。
神を恐れよ。
ハレルヤ。
ハレルヤ。
ハレルヤ。
風は冷たいが、陽射しは明るい。
若い牧師が「ハレルヤ」と腕をふるう度に噴水前広場にうずくまった何百人ものホームレスが、同じく「ハレルヤ」と腕をあげる。牧師が立つ演台の背後ではケヤキが葉を落としきり、こちら側の花壇では冬パンジーがまばらな花を咲かせている。コンクリートも冷たいだろうに、給食待ちのホームレス達は諾々と座りつづける。
牧師が説教を終わらせ、演台に髪の長い女が立つ。女はジージャンの上下にギターをかかえ、カントリーウェスタンだかフォークだかロックだか、そんな感じで賛美歌をうたい始める。肩でリズムをとるホームレスもあり、腕組みをしてうつむくだけのホームレスもいる。噴水前広場がいくらか狭くなったように感じるのは、ホームレスがそれぞれに着ぶくれたせいだろう。
美亜は学生カバンを、椎葉は骨壺の入った木箱を、夕子はショルダーバッグをそれぞれ膝にのせ、ベンチに並んでフォークロック風の賛美歌に聞き入っている。椎葉の膝にある仲間富吉の遺骨は、夕子が保証人になって区役所から請け出したもの。木箱を包んでいる布はただの白木綿で、椎葉はその木箱に片肘の頬杖をつき、帽子の下からじっと賛美歌女を見つめている。羽田事件が決着してテレビや新聞は大騒ぎなのに、椎葉にとってはすでに他人事らしい。
夕子は寝不足の目を携帯のウエットティシューでおさえ、足を組みかえて欠伸をかみ殺す。川尻夫婦の寝室でヒマワリ刺繍のショーツを発見してからの三日間、何時間の睡眠がとれたろう。昌宏はビデオテープのケースに四枚の女性下着を隠していた。下着はどれも美亜といづみのものだった。テープケースにはティシューに包んだ数本の陰毛もあり、分析の結果いづみのものと判明した。昌宏はクルマのトランクにもビデオテープを隠していた。テープには死後のいづみに性的暴行をくわえている場面が撮られていた。
昌宏の身柄拘束から多摩川署への連行、裁判所への逮捕状請求から署内での逮捕と、すべてはその夜のうちに終了した。昌宏も取り調べに抵抗せず、犯行の動機や事件当夜の状況を、映画のストーリーを説明するような口調で供述した。昌宏はこれまでにもベランダ越しに坂下家側へ侵入し、下着の窃盗と覗きをくり返していた。下着はただの紛失と思わせるため、盗むのは月に一枚程度。覗きや窃盗には細心の注意を払い、誰にも気づかれていない自信をもっていた。
破綻は凶行の一週間前に来た。留守と確信して侵入したベランダの窓越しに、雅代と顔を合わせたのだ。逃げ帰りはしたが、以降は毎日がパニックだった。家族へ話されるか、警察へは通報されるのか、近所に知れるのか勤め先に知れるのか、雅代はなんのために物置でベランダを塞いだのか。そういった毎日の疑心暗鬼が、突如怒りとして爆発した。自分を苦しめる元凶は坂下の家族だと思い込み、一家皆殺しを決意した。事件当夜に雨が降ったことも、美亜がひとり生き残ったことも、ただの偶然だったという。
川尻良子は亭主の犯行を知っていたのか、昌宏はレインスーツや包丁をいつどこで入手したのか、警察はまだそれらの周辺捜査をつづけている。しかし犯人が犯行に至るまでの経緯、動機や侵入経路や犯行状況や逃走経路など、すべては椎葉の推理どおりだった。犯人の『昌宏』という名前を『豊』に間違えたことだって、椎葉の責任とは言い切れない。もし最初から椎葉が捜査に加わっていたら、これぐらいの事件、解決までに一カ月も要さなかったろう。
賛美歌女が仕事を終わらせ、給食の合図があって、ホームレス達がざわつく。何百人もの人間がもぞもぞと腰をあげ、広場の空気が和む。スピーカーが配給台へ列をつくれと指令し、一般の見物人が散りはじめる。
夕子が椎葉に話しかけようとしたとき、林のほうからやって来た自転車が、ベンチの前にとまる。自転車は薄汚いママチャリ、サドルには小柄な中年男がまたがり、荷台にはプラスチックのビールケースが縛ってある。
男がサドルからおり、椎葉に向かって手をふる。椎葉が骨箱を抱えて腰をあげる。
「椎葉さん、やっぱり荷台をつけないと、このケースがのらなかったよ」
「そうか、仕方ないよな」
「チェーンと車軸には油をくれといた」
「うん、ありがとう」
「だけど、なんだなあ、本当にこれで、沖縄まで行くんかい」
「自転車が壊れなければな」
「そりゃ大丈夫だと思うけど、時間がかかるなあ」
「時間なんかいくらでもある。逆に言うとおれには、時間しかないんだけどさ」
椎葉が帽子の下で苦笑を隠し、ビールケースの縁をこつこつと叩く。いで立ちは帽子に首タオルにレインコートに汚い作業靴、近所をうろつくついでに沖縄まで、自転車に乗ってトメさんの遺骨を届けに行くという。テントは今朝のうちにひき払い、荷物もベンチ前の紙袋にまとめてある。全財産がデパートの紙袋一つだけという椎葉の人生が、夕子には腹立たしくもあり、羨ましくもある。
椎葉が骨箱をビールケースに納め、男に二個の百円玉をわたす。男が鼻唄で『街のサンドイッチマン』を歌いながら、林のほうへ戻っていく。
美亜が腰をあげ、制服のミニスカートをひらめかして、自転車のサドルをぽんと叩く。
「あんた、本当に行っちゃうんだね」
「あのオヤジも故郷に帰りたがっていた。何があったか知らないが、親戚も骨にまで文句は言わないさ」
「だけどさあ、沖縄なんて、遠いよ」
「そのかわり温かくて、バナナでもサトウキビでも食い放題らしい。野宿をしても風邪をひかないし、魚も手掴み。そういうところなら働かなくて済むだろう」
「東京にいたって働かないくせに」
「うん、そういえばそうだ」
「沖縄へ行くにしてもさあ、船とか飛行機とか、乗る気にならない?」
「人間は見かけと中身との一致が大事なんだ」
「いつか言ってた、合コンは辛抱だとかってやつ?」
「心貌合一《しんぼうごういつ》だ、ホームレスが飛行機になんか乗ったら、神様に怒られる。ホームレスはホームレスらしく、金持ちの美少女は金持ちの美少女らしく、みんなが自分の生き方を守れば、世界はすぐ平和になる」
「普通に喋りなよ」
「だから、まあ、そういうことさ」
椎葉が戻ってきて、ベンチに腰をおろし、タバコの吸止に火をつける。椎葉が行くと言うからには行くのだろうが、こんなママチャリで沖縄まで行ってしまおうという発想が、まだ夕子には信じられない。安焼酎の飲み過ぎで常識がパンクしたのか、もともと常識の欠如した精神構造だから、こういう人生を選んだのか。
「椎葉さん、資金は大丈夫ですか」
「なぜか最近、おれは金持ちでなあ。テントとリヤカーを始末したら六千五百円にもなった」
「はあ、そうですか」
「今は日本じゅう、どこにでもコンビニがある。コンビニにはゴミ捨て場があって、道にはタバコが落ちている。日本という国はホームレスのために出来てるようなもんさ」
「お酒は困るでしょう」
「問題はそれだ。だが朝から晩まで自転車をこいでれば、酒の量もへるだろう。これからはホームレスも、健康に気をつけなくちゃな」
椎葉がタバコを足元に捨て、美亜がそのタバコを踏んでベンチに戻る。広場の向こうでは弁当の配給がすすみ、ホームレスの何人かがNHK側の通用門を去っていく。陽射しのなかに綿毛のような物が浮いて見えるのは、死にそこないの蚊か、冬を越す羽虫だろう。
美亜が膝を椎葉の膝にすり寄せ、椎葉の腕に、なれなれしく手を絡める。
「それで、沖縄へは、いつごろ着くわけ」
「一カ月や二カ月は、かかるかもな」
「あたし、遊びに行くよ」
「着いたら絵葉書を出そう」
「沖縄なんて初めてだよ。中学の修学旅行が沖縄だったけど、あたしはシカトしたから」
「座間味という島らしいが、場所は分からない。あとで地図を調べてみろ」
「楽しみだね。一生懸命自転車をこいで、早く着くといいね」
まったく、いちゃいちゃぐずぐず、この小娘はどうでもいいことで、なにを遊んでいるのだ。椎葉も椎葉、美亜なんかに腕を絡ませておかず、夕子にやさしい言葉の一つもかけ、それからちゃんと、絵葉書も書くと約束すべきではないか。
「あ、忘れていた」
椎葉が防寒ジャケットの胸ポケットをさぐって、とり出したケイタイを夕子に手わたす。
「もう要らないだろう。こんなものでお互いを監視し合う人間関係は、虚しいもんだ」
ケイタイはプリペイドで、どうせすぐに使用限度切れ。夕子にしても椎葉にケイタイを持たれたままでは、今ごろどこで野垂れ死んでいるかと、毎日気になって仕方ない。それにこのケイタイはあくまでも仕事の方便で、椎葉を監視する意図など、これっぱかしも無かったのだ。
夕子の左側からせかせかとした足音が聞こえ、しなびたように小柄な女が、黙って椎葉の前に立つ。女の背丈は座っている椎葉と同じほど、弁当のパックを椎葉の胸先につきつけ、なにやら無言で訴えはじめる。
「いや、小林さん、おれは要らないよ」
椎葉が弁当のパックを指で押し返し、片方の手を横にふる。
「朝飯を食ったばかりで、腹がいっぱいなんだ。焼き肉は三日ぐらい腐らないそうだから、小林さんがあとで食べればいいよ」
椎葉の言葉を聞いても、小柄な女は弁当のパックを掲げつづけ、しきりにネズミ人形のような会釈をくり返す。耳が聞こえないのか、聞こえても言葉が理解できないのか、とにかくよほど椎葉に、弁当を渡したいらしい。
「気持ちは嬉しいけどさ。本当はおれ、焼き肉が苦手なんだよ。小林さんが自分でもらった弁当だから、自分で食えばいいさ」
まだ弁当をすすめようとする女の背後に、のっそりと黒い影が立つ。影には長すぎる顔とフリースのジャンパーが付随し、頭には汚い茶髪とヘッドホンがのっている。にやにや笑っているように見えるのは口に締まりがないせいで、間延びした顎に吹き出物あとが痛々しい。
「母ちゃん、椎葉さんは酒しか飲まないんだよ。弁当は俺が食うから、テントへ持ってけよ」
小柄な女が無表情に肩をすくめ、それでも馬面に小突かれて、せかせかと池の方向へ歩きだす。
「椎葉さん、こっちの彼女、友達っすか」
「ヤスオ、涎《よだれ》がたれてるぞ」
「嘘っすよ。俺、涎なんかたらさないっすよ」
ヤスオが腰でリズムをとりながら、にやにや顔で、じっと制服の美亜を見つめる。夕子もヤスオなんかに見つめられたくはないが、ここまで無視されると、ちょっと腹が立つ。
「ねえねえ椎葉さん、紹介してくださいよう」
「おまえ、懲りないやつだな」
「だって俺、何にもやってないっすもん」
「ばーか、やったから精液が出たんじゃないか」
「あれ、椎葉さん、知ってたんすか」
「おまえが女を千円に値切ったことも知ってるぞ。おまえのしたことなんか、みんな神様から聞いてる」
「ほ、本当っすか。どうして神様は、俺のことを見てるんす」
「人間はみんな神の子だ。同じ子供なら、神様だってバカな子供が可愛いさ」
「へーえ、そういうもんすかね」
「おまえは前にも女を襲ってる。警察に記録があるのは一度だけだが、神様はそれ以外にも、見たと言ってる」
「え、そ、そんなことまで」
「おまえなんか刑務所へ入れておこうと思ったらしいが、お袋さんが可哀そうだから、出したんだそうだ。だから神様に感謝して、女には二度と近寄るな」
ヤスオが口をもぐもぐ動かして、美亜の前から足を遠ざけ、親に叱られた子供のように爪を噛む。冤罪で逮捕され、警察でも苛められたろうに、ヤスオが神を畏《おそ》れているのは、どうせ三日ぐらいだろう。
「だからな、ヤスオ、しばらくは女のことなんか考えないで、お袋さんに孝行をしろ。それにこっちにいる怖い顔をした女の人は、刑事さんだぞ」
ヤスオの口から、がくんと下顎がたれさがり、腰だけが先に池のほうへ逃げはじめる。その腰を足が追いかけ、ヘタな阿波踊りのような歩き方で、一気に遠ざかる。
美亜が金髪をのけ反らせて、朗らかに笑う。
「可哀そうだよ。あんた、意地悪だね」
「あれだけ言っても、あいつはすぐ忘れる。今度なにかで捕まったら自分たちのミスを棚にあげて、警察はあいつに恨みを晴らそうとする。あれでもまだ脅しが足りないぐらいさ」
「椎葉さん、わたしの顔のどこが……」
「冗談だ、気にするな」
「気にはしませんけど、椎葉さんが意地悪だという彼女の意見には、わたしも賛成です」
椎葉が帽子を深く被りなおし、首のタオルを襟内に押し込んで、防寒ジャケットの第一ボタンをしめる。
「さて、これ以上人気が落ちないうちに、出掛けるかな」
「椎葉さん」
「うん?」
「本当に……」
「なにが」
「いえ、ちょっと、その、靴を脱いでください」
「裸足では自転車がこぎにくい」
「いいですから、つべこべ言わずに、早く脱いでくださいよ」
「うん、君の顔は、やっぱり怖いな」
肩をすくめたが、それでも椎葉は履き古しの作業靴を脱ぎ、靴下だけになった足をベンチの端にひっかける。夕子は椎葉の靴を自分の前に移し、汚い靴紐と折り詰めの紐とを手早く抜きとる。それからバッグを開けて一組の靴紐をとり出し、一足の靴を新しい紐で編みあげる。汚物のような靴に紐の新しさが目立ち、たんにゴミを白い紐で結んだだけ、という感じが、なくもない。
「紐が切れてチェーンに絡まったら、危ないですからね。やたらな所で転ぶとほかのクルマが迷惑します」
夕子が椎葉の前に靴をそろえ、椎葉が足をおろす。広場の向こうでは弁当の配給が終わったらしく、ホームレス達が四方に散らばっていく。主催者側もマイクロバスに片付けを始めていて、日溜まりで弁当を広げるホームレスもあり、カップ酒をまわし飲みするグループもあり、ただ所在なく座っているホームレスもいる。
椎葉が靴の紐を調節し、腰をあげて、二、三度足踏みをする。
「それじゃ吹石くん、元気でな」
「え、あ、はい」
「美亜くんは弁護士を必要としている。君が相談にのってくれ」
「ああ、はい」
足元の紙袋を自転車のビールケースに放り込んで、椎葉がサドルにまたがる。酒屋のオヤジが近所へ配達に出るような風情ではあるが、このまま走り出して、椎葉は沖縄まで行くという。夕子にはまだ実感がわかず、こういう理解できないことを平気でする男に対して、憎しみまで感じてしまう。
夕子と美亜が並んで腰をあげ、椎葉が手もふらず、自転車をこぎ出す。声をかけようとしたが言葉を思いつかず、立ちつくす夕子の目のなかで、ママチャリに乗った椎葉のうしろ姿が見るみる遠くなる。やさしい言葉もかけず、遊びに来いとも言わず、どうしてあの男は、こんな簡単に、親しい人間を捨てられるのだろう。
椎葉の自転車がホームレス達のあいだをくぐり抜け、マイクロバスの横を通り、通用門をくぐって、呆気なく消えていく。夕子は唇だけで、グッドバイと呟く。一度ぐらいふり返っても罰は当たらないだろうに、まったくあいつ、バカだわ。
夕子は一気に疲れ、ベンチに座り込んで、さっきひき抜いた靴紐と折り詰めの紐を、えいと投げ捨てる。今日は署に帰って送検書類の作成をしなくてはならないが、明日から思い切って、三日ぐらい休んでやるか。
美亜がベンチからカバンをとりあげ、ミニスカートの前で、ぶらりと振る。
「あいつ、行っちゃったね」
「言われなくても分かるわ」
「横浜ぐらいまで行って帰ってくるよ」
「帰ってくるもんですか。彼はそういう性格よ」
「それなら沖縄へ遊びに行けばいいよ」
「わたしは誘われてないわ」
「あんた、僻《ひが》んでるの」
「誰が……」
夕子はバッグからタバコをとり出し、火をつけて、長く煙を吹く。今日はこれが何本目になるのか、もう考えるのも面倒くさい。天気はいいし、風は冷たいが、このままベンチで昼寝をしたら、いくらか疲れもとれるだろうか。
「弁護士、紹介してよね」
「ええ?」
「あいつが言ってたでしょう」
「ああ、そうね、でも少し待って。わたし今、くたくたなの」
「歳のせいだね」
「大きなお世話よ」
「あいつ、あんたのこと、ちょっとだけ好きだよ」
「ええと、なに?」
「椎葉だよ。あいつがあんたのこと、ちょっとだけ好きだって」
「ああ、そう」
「嬉しい?」
「誰が……」
「でもあんたじゃ勝負にならないね」
「なんの話よ」
「あたし、あと三年半したら、すっごいお金持ちになるの」
「よかったわね」
「あんたは三年半もしたら、すっごいオバさんだよ」
「あなたねえ、学校へ行かないと、逮捕するわよ」
「いやーな性格だね。あんたがそういう性格だから、椎葉が逃げちゃうんだよ」
またぶらりとカバンを振り、一度夕子の前を往復して、美亜が陽射しに目を細める。顔には皺もホクロもニキビもなく、毛穴すら見られない。十六と二十八だから歳はちょうど一回り、夕子が十六のときもこれほど奇麗な肌ではなかったから、これは美亜の体質だろう。しかし美亜の表情から半年前の屈託が消えているのは、体質の問題ではない。
「分かったわ。仕事で知り合った有能な弁護士がいるから、明日紹介してあげる」
「うん、それでいいよ」
「だから今日は学校へ行きなさい。わたしはもう少し、ここで休んでいくわ」
「そういうオバさん臭いこと言ってるから、もてないんだよ」
「ありがとう。ボーナスが出たら十万円のエステコースにかよって、ナンパと結婚を一緒に決めてみせるわ」
「椎葉が言ってたとおりだね」
「なにを」
「あんたには男がいないから、ヒステリーなんだって」
夕子はタバコを下に捨て、パンプスの踵で、むむむっと踏みつぶす。バッグに携帯の灰皿があることは分かっているが、刑事だからって、こんなとき、灰皿なんか使っていられるか。
「あんた、ラーメン食べない?」
「なんですって」
「代々木八幡においしいラーメン屋があるの、あたしがおごるよ」
「誰が……」
「刑事なんて、どうせ貧乏だもんね。でも今度のこと、本当に、色々ありがとう」
単行本 二〇〇三年十月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成十八年十月十日刊