彼女はたぶん魔法を使う
樋口有介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)霞《かす》んで見える。
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)直接|柚木《ゆずき》さんから
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七月も末だというのに、やけに雨の日がつづく。
雨粒の浮いている窓ガラスの向こうに、後楽園のスカイフラワーが紙風船のように霞《かす》んで見える。ジェットコースターやらサーカストレインやら、それからバイキングなんとかやら、どう考えても悪魔が作ったとしか思えないそれらの乗り物に、俺はもう半日もつき合わされていたのだ。
加奈子は、ハンバーガーとフレンチフライとマックシェイクを一列に並べ、それを代わり番こに口に運びながら、ときたまちらっと窓の外に視線を走らせていた。出てきたばかりの遊園地に、まだ未練が抜けきっていない表情だ。
「塾のこと、いつお母さんに話すんだ」
「そのうち、わかるもの、自然に」と、マックシェイクのストローを、上唇にひっかけたまま、加奈子が答えた。
「そういうことは、きちんとしておいたほうがいいな」
「ママ、怒るもの。そうでしょう?」
「塾に行きたいと言ったの、おまえのほうだったろうに」
生《なま》意《い》気《き》な鼻の曲げ方をして、ずるっと、加奈子がストローをすすった。
「パパから、言ってくれないかなあ」
「俺の口出しすることでは、ないさ」
「子供の教育のことだよ。パパにだって責任、あると思うけどな」
「その、パパっていうの、やめろと言ったじゃないか」
空になった煙草の箱を握りつぶして、俺は新しいパッケージの封を切り、一本を取り出して、それに火をつけた。
加奈子が四年生になる前の春休み、そのときはまだ『パパ』などという上品な呼び方はしていなかったはずだ。一緒に暮した七年間、俺は一度もそんな呼び方はさせなかったし、知子にだってそれだけは守らせていた。加奈子の養育権が知子にある今、知子が自分のことをママと呼ばせようがマリア様と呼ばせようが、そんなこと知ったことではない。ただ俺のほうはあくまでも『お父さん』でいたかったし、『パパ』などという破廉恥《はれんち》な生き物には、金輪際《こんりんざい》なりたいと思わなかった。
「塾に行かないで、それで、どこに行ってるんだ」と、とりあえず話題を戻して、また、俺が訊いた。
「友達の家。勉強したり、漫画を読んだり」
「いつから」
「一ヵ月くらい」
加奈子の頭の上に煙を吹き、灰皿で煙草をはたいてから、ついでに、俺はちょっとコーラで口を湿らせた。
「塾、なんでいやなんだ」
「だって……」
「俺だって勉強は嫌いだった。でも嫌いなら嫌いで、お母さんには言ったほうがいいな」
「そういうことじゃないの」
ストローで紙のコップをつつきながら、ちらっと、加奈子が俺の顔色をうかがった。
「あのね、勉強がね、いやなんじゃないの……そういうんじゃないよ」
「塾でなにかあったのか」
ストローをいじくったまま、こっくんと加奈子がうなずいた。
「お母さんには、言えないことか?」
前よりは少し小さく、また、こっくんと加奈子がうなずいた。
俺は煙草を灰皿でもみ消し、躰を椅子の背にあずけて、一つ、溜息をついた。
加奈子がこの秋で十歳になることぐらい、俺だってちゃんと覚えている。ただ十歳の少女がなにを考え、人生においてどんな問題を抱えているかということになると、俺には見当もつかない。だいたい一緒に暮らしていたときでさえ碌に相手をしてやれなかった娘なのだ。今さら母親に話せないような秘密を打ち明けてもらっても、俺のほうが困ってしまう。父親としての俺の能力を見限ったからこそ、知子は俺と別れて暮らす生活を選んだわけだし、俺自身知子のその判断は正しかったと確信している。加奈子だって、たぶん、子供心に両親の出した人道的な結論を納得しているはずなのだ。
「パパに言っても、仕方ないんだよね」と、ハンバーガーを見つめたまま、そのハンバーガーに語りかけるように、加奈子が言った。
仕方がないことは加奈子以上にわかってはいたが、親子の義理で、一応、俺が訊いた。
「一応、その、言ってみたらどうだ」
「だって……」
「ものは試しってことも、ある」
諦めたのか、決心したのか、ぷくっと、加奈子が頬をふくらませた。
「塾のね、先生がね、わたしの頭を撫《な》でるの」
一瞬、頭の中がまっ白になったが、次の瞬間には、俺にもどうにか加奈子の言った言葉の意味だけは理解できていた。
「撫でるって、その、どういうふうに」
「ふつうにだよ。決まってるじゃない」
「だから、つまり、男の先生なわけだ」
ハンバーガーを齧《かじ》りながら、こっくんと、加奈子がうなずいた。
「他の子の頭は、撫でないのか」
「撫でる……けど」
「おまえにだけ、特別に?」
今度はうなずきはしなかったが、ハンバーガーをもぐもぐやる口の動きに、加奈子が肯定の意思表示をしていることは、はっきりと感じられた。
加奈子が『パパに言っても仕方ない』と思ったのは、残念ながら、非常に的を射た判断だった。言われてみても、たしかに仕方はない。言葉の意味も、母親に無断で塾を休んでいる状況も理解はできるのだが、それを子供の立場からどう解決するかなど、俺には百年かかってもわからないだろう。
俺だって、三年前までは刑事をやっていたから、そういう事件もそういう人間も、腐るほど見てきている。しかし塾の教師が子供の頭を撫でたからって、そいつを死刑にするわけにもいかないではないか。
「おまえの、その、考えすぎってことは、ないのか」
しばらく、加奈子は、俺を無視してハンバーガーを齧りつづけていた。
そのハンバーガーを飲み下して、溜息をつくように、加奈子が言った。
「だからさ、パパに言っても、やっぱり仕方ないんだよね。ママにだって言えないしなあ」
親の出来が悪いと、子供はその倍ぐらい馬鹿になるか、あるいはとんでもない天才になる。こいつはたぶん天才の部類だろうと、加奈子の形のいい額を眺めながら、つい俺は感心してしまった。
塾の教師が特別に自分の躰にさわりたがるというのは、もしかしたら本当かもしれないし、もしかしたら、加奈子の思いすごしかもしれない。しかしどちらにしても、たしかにそれは知子に言える内容ではない。たんに知子の気が狂うというだけではなく、へたをすると社会問題にまでなりかねないのだ。たった十歳でそこまで理解できれば、やはりそれは一種の天才だろう。
もともと俺と知子が知り合ったのは、当時俺が勤めていた所轄《しょかつ》の記者クラブに、知子が新米のさつ回り記者として現れたのが最初だった。若い女の記者は、若いということと女だということだけで、だいたいは所轄のアイドルになってしまう。当然知子も順調にアイドルの座に納まったわけだが、知子の栄光がつづいたのはたったの二年間で、三年めにはもう奈落の底に身を転落させてしまった。ノンキャリアの、しがない刑事の女房に成り下がったのだ。
そんな知子が社会評論家としてカムバックできたのは、一般的にいうところの向上心と、もちろん一般的にいうところの、才能の為せるわざだった。
加奈子が幼稚園に通いはじめたころから、一度はやめた新聞社系の週刊誌にコラムや随筆を書きはじめ、俺の知らないうちに、知子はテレビにまで顔を出す社会評論家に出世してしまった。彼女のお得意は『女の社会進出』関係ではあったが、なぜか芸能関係にも才能があって、だいたいはあらゆる分野であらゆる論争に首をつっ込んでいた。最近その才能が枯渇したという話も聞かないから、相変わらずの健筆と健舌なのだろう。
その知子にとって、少女の頭にそっと手を置くことぐらいしかできない気の弱い塾の教師を、社会的に抹殺することなどゴキブリにキンチョールをかけるよりも簡単なことではないか。知子の潔癖性と職業的な道徳観は、間違いなく教師の上に天誅の鉄槌をふり下ろす。他人事ではあったが、なんとなく俺は、背筋が寒くなる思いだった。
「おまえの言うことは、わかった」と、二つばかり咳払いをしてから、俺が言った。「そのうちなんとかする。お母さんに話すのは、待ったほうがいいな」
たいして期待もしていないような顔で、加奈子が、ふんと鼻をふくらませた。
「パパに、できるかなあ」
「そりゃあ……そのパパっていうの、やめろと言ったじゃないか」
「ママにちゃんと、話せる?」
「一応は夫婦だ。おまえの教育に関しては、俺にだって責任がある」
「無理しなくて、いいんだよ」
「あのなあ、大人ってのは、無理だとわかっていてもやるときはやるんだ。おまえは自分のことだけを心配していればいい。とにかく、夏休みが終わるまでには、なんとかする」
吸っていた煙草を、灰皿でつぶし、立ち上がって、俺が加奈子を促《うなが》した。
マックシェイクの紙コップをテーブルに置き、加奈子も立ち上がって、うんと一つうなずいた。しかしもちろん、それは『期待などしていないが、とりあえずは頑《がん》張《ば》ってみたら』という程度の、妙に冷めたうなずき方だった。
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加奈子を総武線の改札口まで見送り、俺のほうはそこからタクシーを拾って、一人で四谷のマンションに引き返した。自分の子供でもなんでも、子供という生き物と半日もつき合えるほど、俺の神経はタフにできてない。殺人犯人でも追いかけて一週間徹夜するほうが、どれほど楽かしれたものではない。
俺は妙に疲れた気分で、自分の部屋の、安物のソファにぐったりと身を投げ出した。体調が悪いのは雨のせいではなく、見栄《みえ》で抱え込んでしまった時限爆弾のせいなのだろう。加奈子の教育問題に関して知子と正面から対決する勇気など、最初から俺にありはしないのだ。だからといって、例によって知子にあの神経症的な正義感をふり回されたのでは、塾の教師と一緒に加奈子まで週刊誌の晒し者になってしまう。その理屈をどうやって知子に納得させるか、考えただけでも気が重くなる。
「まあ、いいか……」と、俺は無理やり独り言を言い、溜息をついて、ゆっくりとソファから起き上がった。加奈子の夏休みが終わるまでには、まだ一ヵ月はある。天変地異でも起こって、人間界の瑣末《さまつ》な問題など、ある朝目を醒ましたらきれいさっぱり片づいていた……そういうことだって、まあ、なくはないのだ。
俺は冷蔵庫に行って缶ビールを取り出し、仕事机に戻って、『留守』にセットしてあった電話を再生に入れてみた。伝言は三件で、一件は編集者からの原稿の催促。二件めは吉島冴子からの連絡。そして最後の一件は、冴子が連絡してきたとおりの、島村香絵という女からの仕事の依頼だった。
俺は缶ビールを半分ほど呷《あお》り、椅子に腰かけて、ちらっと壁の時計に目をやってみた。まだ六時にはなっていないが、この雨と今日の体調を考えると、特別仕事に燃えてみたい気分にはならなかった。
俺は椅子に座ったまま、ビールの残りを飲み干し、煙草をくわえて、しばらくぼんやりと電話機を眺めていた。警察をやめて以来の肩書は、一応刑事事件専門のフリーライターということになってはいるが、そんなもので食えるほど、この業界も人生も甘いものではない。実際は冴子から回ってくる仕事で食いつないでいるわけで、それを考えると、気分だの体調だの哲学だの、贅沢を言ってられる身分ではないのだ。
煙草を二本、空ぶかしし、自分自身にえいっと気合いを入れて、俺は電話機に腕を伸ばした。三回のコールの後、『留守』に入っていたのと同じ女の声が出て、それが島村香絵だった。
「吉島さんという方からご紹介いただいて、それで、ご連絡いたしました」と、いくらか不安そうではあるが、それでも落ち着いた声で、女が言った。
「条件は、聞きましたか」と、俺が訊《き》いた。
「詳しいことは、直接|柚木《ゆずき》さんからお聞きするようにとのことでした。よろしければ、これからそちらに伺いますが」
「お宅、どちら?」
「石神井です、練馬の」
俺はまた壁の時計を覗き、時間を計算してから、島村香絵には聞こえないように、そっと溜息をついた。非合法ではあるが、商売は商売なのだ。それぐらいの礼儀は、俺だって心得ている。
「わたしのほうでこれから伺います。池袋線の石神井で、いいわけですか」
「石神井公園という駅に……わたくし、迎えに出ております」
「それでは、七時半に。黒いTシャツにグレーのジャケットを着て行きます」
電話を切り、立ち上がって、俺はそれまで着ていた服を床の上に脱ぎ散らしはじめた。四谷から石神井公園ぐらい一時間もかからないが、その前にシャワーを浴びて、髭ぐらい剃っていきたい。相手が堅気《かたぎ》の女らしいとなれば、なおさらのことだ。
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三十分で身支度をととのえ、俺は部屋を出た。外は相変わらず、靄《もや》とも霧ともつかない鬱陶しい空気にとり囲まれていた。水不足の心配がないとはいえ、夏がこう陰気臭くあっていいものではない。ふだんなら日焼けした若い女たちが大股で行きすぎる繁華街も、湿気と雨の色のせいで、どことなく無気力に感じられる。
俺はJRで新宿から池袋に回り、西武線に乗り換えて、石神井公園駅に向かった。着いたのはきっかり七時半だった。刑事やらフリーライターやらという商売のお陰で、都内ならどんな場所でも、だいたいは計算どおりの時間に着くことができる。
改札口を出ると、正面に立っていた女が、ゆっくりと近づいてきて、俺の顔を窺《うかが》いながら軽く会釈を送ってきた。歳は二十七、八。水色の地味なデザインのワンピースを着ていたが、顔立ちもスタイルも、本人さえその気になれば雑誌のモデルぐらいにはじゅうぶん使えそうな女だった。
「近くですから、家においでになりません?」と、お互いに名のりあってから、整った顔に気弱そうな微笑みをうかべて、女が言った。
まだ相手の素性はわからなかったし、仕事を引き受けると決めていたわけではなかったが、とりあえず、俺は同意した。部屋を見れば女の生活環境もわかるし、経済状況も把握できる。俺たちは肩を並べて、石神井公園の駅を南口に出た。
島村香絵が『家』と言ったのは、商店街をすこし外れた細い道ぞいにある、飾り気のない平凡なマンションだった。それでもエレベータはついていて、島村香絵の部屋はその五階にあった。
リビングの低いソファに俺を座らせ、コーヒーをいれてきてから、島村香絵も膝を揃えて、俺の前のソファに腰を下ろした。
「元刑事さんだとお聞きしていたので、もっと恐い方だと思っていました」
警官にだっていろんな顔をした人間はいるし、それが警察をやめなくてはならなかった人間となれば、なおさらのことだ。島村香絵が言うほど、自分の躰から警官の臭気《におい》が抜けきっていないことは、俺自身が一番よく知っている。
儀礼的に、微笑むだけ微笑んでから、俺が訊いた。
「吉島さんには、わたしのこと、どんなふうに聞きました?」
「警察が手をつけない事件を、解決してくださるとうかがいました」
「かならず解決できるとは、約束できません。話を聞かないうちは、引き受けるかどうかも決められない」
肩をすくめて、島村香絵が小さくうなずいた。
「それに費用の問題もある。どんな事件かは知らないが、一週間やるとしても一日十万円プラス必要経費。たぶん百万ちかくになると思う。一週間で百万円の出費は、軽いものではないでしょう」
「お金のほうは、なんとかなると思います。貯金もあります」
「君の、仕事は?」
「広告会社で企画をやっています。小さい会社ですけど……今日は、休みました」
「最初から金の話なんかは、したくないんだ。だけど商売だし、事件によってはこっちの身に危険がないとも限らない。それに料金をもらっても、領収書は出せない。それでいいわけですね」
最初から決心でもしていたように、島村香絵が、また小さくうなずいた。
「それからもう一つ。吉島さんの名前を、外部には出さないように」
唇の形で、了解したことを示し、島村香絵がそっとコーヒーのカップに腕を伸ばした。俺も自分のコーヒーを取り上げ、二人して黙って、二口三口コーヒーをすすり合った。
「どこから、お話ししましょうか」と、カップを受け皿に戻しながら、上目づかいに俺の顔を覗いて、島村香絵が言った。
「君の都合のいいところから。聞きたいことがあったら、こちらで口を挟みます」
長く一つ息をつき、ソファに座り直して、島村香絵が華奢な顎を、目を伏せて胸のほうに引きつけた。
「先月の二十一日、妹が死にました……」
俺のところに持ち込まれる仕事なんて、どうせ殺したの殺されたのという事件ばかりだから、特別、俺は驚きはしなかった。
「交通事故だったんです。いえ、警察では、交通事故ということで処理しようとしています。でもわたし、どうしても、ただの事故だったとは思えません」
「君がただの事故ではないと思う、理由は?」
「それは、その、勘みたいな……」
「君に霊感があるんなら、わたしに金を払う必要はないでしょう」
島村香絵の口の端が、神経質に引きつり、潤《うる》んだ目に一瞬、怒りのような表情が走った。
「でも妹は、あんなふうに、急に道から飛び出す性格ではありませんでした。元気のいい子だったけど、そういうところはしっかりしていました」
「元気がよくて、しっかりした性格の人間が、なん人ぐらい交通事故で死んでると思う?」
「でも……」
心のどこかに、まだなにかのわだかまりがあるのだろう。島村香絵はそれを素直に吐き出す気になっていない。もちろん初対面の人間に、心の内をすべてさらけ出せる人間など、いるはずはないのだが。
「交通事故の、具体的な状況を、聞かせてもらえますか」
「夜の十一時ごろだったそうです。わたしは会社の旅行で、群馬県の伊香保《いかほ》温泉に行っておりました。夜中に警察から旅館に電話があって、それで、会社の人のクルマで東京に戻ってきました」
「妹さんの、名前は?」
「由実。島村由実です。恵明大学の四年生でした。両親がいないので、妹とわたし、このマンションで二人暮しでした」
「道から飛び出したということは、轢《ひ》き殺されたということだ。それは、この近くで?」
「駅に行く途中の、狭い道でした」
「妹さんは帰るところだったのかな。それとも、出かけようとしていたのか」
「そこまでは、わかりません」
「服装は?」
「ジーパンに白いトレーナーでした。妹は、だいたいそんな服装でした」
「財布は持っていましたか」
「ポシェットの中に。でも、わたしたち二人だけでしたから、近くに出かけるときも必ず鍵を掛けて、お財布も持って行くようにしていました。ですから服装や持ち物では、行きか帰りかまではわかりません」
「君が伊香保から駆けつけたとき、部屋の電気はついていたのかな」
首をかしげて、しばらく考え、それから思い出したように、ふと島村香絵が顔を上げた。
「ついていました。そういえば、ちゃんとリビングの電気が」
「君が戻る前に、警察の人間が部屋に入ったりとか……」
「聞いていません。ポシェットの中には学生証やアドレス帳も入っていましたから、わたしのことは、そこからわかったんだと思います」
「轢き逃げの犯人は、当然捕まっていないわけですね」
唇を噛んで、島村香絵が、強くうなずいた。
「警察はそれを、なぜ偶然の事故と判断したんだろう」
「状況で、そういうことに決めたらしいんです。詳しいことは、わたしにはわかりません」
「六月二十一日……」と、口の中で呟いて、俺はざっと日にちを計算した。今日が七月二十五日だから、事件があってから一ヵ月以上にもなる。
だいたい事件捜査の中で、単純な轢き逃げほど警察にとって楽な仕事はない。クルマの塗料が一かけらでも残っていれば、そこから車種も年式も販売店も所有者も、かんたんに割り出せる仕組になっている。それが一ヵ月以上たった今でも、まだ犯人が挙がらないというのは、引っかかるといえば引っかかる。
「煙草、吸ってもいいかな」と、目でテーブルの上に灰皿を探しながら、俺が言った。
小さく声を出して、立ち上がり、島村香絵が流しからガラスの灰皿を持ってきた。
煙草に火をつけ、一つ煙を吐いてから、俺が訊いた。
「その事故、目撃者は、いなかったのかな」
「現場を見た人はいなかったそうです。でもちょうどその時間、白い乗用車が駅とは反対の方角に走って行くのを見た人はいます。時間的に、警察ではそのクルマが怪しいと言ってますけど」
「白い、乗用車……か」
「わたし、最近、白いクルマを見るたびに気分が悪くなります。あの、煙草、一本いただけます?」
俺が煙草の箱を差し出し、島村香絵が不慣れな手つきで、一本を静かに抜き出した。
使い捨てのライターで、俺がそれに火をつけてやった。
「ふだんは、わたし、吸わないんです」と、形のいい額に自嘲的な皺を寄せて、島村香絵が言った。「妹が吸っているのを見付けると、いつも叱っていたのに……」
「ご両親は、いつごろ亡くなられました」
「父は五年前に。母はわたしが、高校生のときでした」
「君が妹さんの母親がわりだったわけか。大学も君が働いて、通わせていた」
「父の保険金がありましたから、妹が大学に行くことに、問題はありませんでした。本人もアルバイトをしていました。マンションも二人の名義ですし、両親はいませんけど、経済的には苦しくありません。だけど、妹が、こんなことになってしまって……」
目に、不意に涙が浮いてきたが、島村香絵はそれを頬に伝わらせはしなかった。見かけよりは、芯の強い女なのかもしれない。
「そろそろ、勘以外にただの事故ではないと思う理由を、聞かせてもらいたいな」
碌に吸ってもいない煙草を、灰皿でていねいにもみ消し、唇をなめて、島村香絵が俺のほうに目を見開いてきた。
「あの子、大学を卒業したら、結婚することになっていました」
俺も灰皿で煙草をつぶし、目で、先を促した。
「それが、この春あたりから様子がおかしくなりました。でも、訊いても言わないんです。気の強いところがあったし、わたしには言いにくかったのかもしれません。相手の人は知ってましたから、わたし、その人に会って確かめてみたんです。別な女性との縁談があるとのことでした。その人が勤めている会社の、部長のお嬢さんだということでした」
「つまり、妹さんと婚約者の間で、別れ話がもちあがっていた」
「具体的にどういう話になっていたのか、そこまではわかりません」
「その婚約者の男が、邪魔になった妹さんを殺した……君は、そう思ってる」
返事もうなずきもしなかったが、まっすぐ前を見つめた島村香絵の目には、その男に対する複雑な思いが、隠しようもなく表れていた。
「男の、名前は?」
「上村英樹。東亜商事の第二営業部に勤めています」
「一流の商事会社の社員で、上司の娘と結婚すれば出世コースには、乗れる。そのこと、警察にも話したんだろう」
うなずいてから、震えを抑えるような声で、島村香絵が言った。
「アリバイがあったそうです。でもそんなもの、どうにだってなるじゃありません? テレビでもやってるでしょう? 警察が本気で調べればアリバイぐらい崩せるはずです。それを担当の刑事さんは、最初からただの轢き逃げ事故だと決めてかかっているんです」
俺のほうに顔を上げ、光る目で、島村香絵が肩ごと躰を前にかたむけた。この女がどこにこれほどの怒りを隠していたのか、すぐには納得できないほどの緊張感だった。
俺はコーヒーの残りを飲み干し、新しい煙草をつけて、しばらく頭の中で島村香絵の台詞《せりふ》をいじくり回していた。サラリーマンが出世のために女との関係を清算しようというのは、よくある話ではある。しかしだからといって、殺人まで犯すケースというのは、めったにあるものではない。だいいち上村英樹という男のアリバイは、警察でも調べているという。テレビドラマや推理小説とはわけがちがうのだ。犯人が素人となれば、そう簡単に警察の裏をかけるものではない。今のところ、島村香絵の勘以外には、島村由実の事故を故意の殺人とする理由は、なにもないことになる。
「その男との関係以外に、妹さんがなにか問題を抱えていたようなことに、心当りはありますか」
膝の上で手を組み合わせながら、かしげた首を、島村香絵が小さく横にふった。
「漠然としすぎていて、期待に応えられるかどうか、今すぐ判断はできない」
「引き受けては、いただけませんの」
「そうは言っていません」
「料金は前払いでもけっこうです。とにかくやってみて下さい。このままうやむやで終わるなんて、わたし、気が済まないんです。柚木さんに調べていただいて、本当にただの交通事故だというのなら、それで諦めます。わたしの気持ちなんです。引き受けて下さい。結果についてはいっさい文句は言いません」
手を組んだまま、ソファに座り直し、長い髪をさらっと揺らして、島村香絵が俺のほうに深く頭を下げた。一瞬ワンピースの衿から白い背中がのぞいて、不覚にも、俺は唾を飲んだ。こういう病気はちょっと歳をとったぐらいでは、かんたんに治るものではない。
「頭を上げてください。仕事をさせてもらうのは、俺のほうだ」
「それでは、お願いできるんですね」
「やるだけはやってみましょう。金はもちろん、後払いでいい」
島村香絵が、ソファに背中をあずけて、肩の力が抜けたような長い息を吐いた。目の中にたまっていた涙に温《あたた》かみが戻ってきて、いくらか、俺も救われた気分になった。いい女にはやはり、むずかしい表情は似合わない。
「妹さんの写真と、住所録と、それから、コーヒーをもう一杯いただけますか」
髪をふって、立ち上がり、島村香絵が二つあるドアの一つに歩いて行った。しばらくして戻ってくると、香絵は小型の住所録の上に写真を重ねて置き、ソファには座らず、また流しのほうに歩いて行った。
俺は住所録の上から写真を取り上げ、煙草に火をつけて、それを眺めはじめた。写真には女が二人写っていて、一人が香絵だから、もう一人の背の高いほうが妹の由実ということだろう。髪は短く、どこか少年ぽい雰囲気だが、写真だけでも活発さがわかる、素直な印象の女の子だった。
年間でも、交通事故では一万人しか死なないのだ。なにもこんなに若くて元気のいい子が死ぬことはないではないか。それが、そのときの正直な感想だった。年寄りなら死んでもいいとは言わないが、若い人間の、特に若い女の理不尽な死というやつには、どうにも俺は腹が立つ。
島村香絵が新しくいれたコーヒーを持ってきて、俺の前に置き、また元のソファに腰を下ろした。
「今年の冬、北海道にスキーに行って、ホテルで写したものです」
「可愛い子だ。俺がデートに誘っても、OKはしてくれなかったろうな」
「そういう言い方は奥様に嫌われますわ」
「君が女房の幼なじみでないことは、調べてある」
俺の台詞を、首をかしげてしばらく考え、それから、くすっと島村香絵が笑った。
「妹は、スポーツはなんでもできる子でした。テニスのプロになると言い出したこともありました。でも気が多いというのか、飽きっぽいというのか……わたしが、甘やかしすぎたのかもしれません」
「明るい活発ないい女の子だったらしい。写真を見ただけで、そんな感じがする」
俺は煙草を消し、コーヒーに口をつけてから、写真を置いて、代わりに住所録のほうを取り上げた。それは大きめの手帳ほどの、黄色いビニールカバーのついたうすい帳面だった。中には例の丸っこい文字で、三十人ほどの名前が並べられていた。名前と電話番号だけのものと、住所まで書かれたものと、割合としては半々ぐらいか。
「妹さんと、特に親しかった人を教えてもらえますか」と、テーブルに住所録を開きながら、俺が言った。
島村香絵が顔を寄せてきて、微かな女の匂いが、快く俺の鼻に伝わってきた。化粧品の匂いではなく、躰から滲みだした、香絵自身の匂いのようだった。
「友達のことはあまり詮索しないようにしてました」と、ページをていねいに確認しながら、島村香絵が言った。「この及川照夫という子、この子はよく電話をしてきました。大学の友達だと思います。それから、夏原祐子さん。この子も大学の友達で、家へも遊びに来たことがあります。あとは木戸千枝ちゃんぐらいかしら。高校の同級生で、家も近くだと思います。それ以外の人は、名前を聞いたことがある程度……もちろん、上村さんだけは別ですけど」
「住所録と写真は、預かっておきます。とりあえず一週間動いてみますが、その前にわかったことがあれば連絡するし、君のほうも思い出したことがあったら電話をしてください」
写真を住所録に挟んで、内ポケットにしまい、コーヒーを飲み干して、俺が立ち上がった。つられるように、島村香絵も腰を浮かせた。
「帰りの道はわかります」と、ドアの前まで進み、肩越しに香絵のほうをふり返って、俺が言った。「それから、どうでもいいことを二つ……」
唇をすぼめて、島村香絵が、困ったような目で俺の顔を見返してきた。
「一つは、コーヒーがうまかったこと。もう一つは、君に言われなくても、女房にはとっくに逃げられてるということ」
細かい雨が降りつづいていて、うすら寒いような蒸し暑いような、なんとも半端な気分だ。最近また終末論がはやっているらしく、それによると、一九九二年にヨーロッパで大変革が起こり、一九九七年には、善良なキリスト教信者以外はすべて亡んでしまうという。そんなものは駄法螺《だぼら》に決まっているが、それでもこう不愉快な天気がつづくと、ふと、人類なんかいつ亡んでもおかしくないような気になってくる。
俺が自分の部屋に帰りついたのは、九時をすぎていて、部屋では吉島冴子が俺のバスローブを着てソファに座り、ナンシー・ウィルソンのCDを低い音で流していた。髪は乾いてなく、テーブルには栓を開けた缶ビールがのっているから、来てからそれほどの時間はたっていないのだろう。
「会ってきた? 島村香絵」と、ソファから腰を上げずに、冴子が訊いてきた。
俺はうなずいただけで、上着を脱ぎ、ソファの背もたれにかけて、冷蔵庫に自分の缶ビールを取りにいった。
「知子さんから電話があったわ」
「君が、出たのか」
「それぐらい、いいでしょう?」
常識的には、決してそれぐらいでもいいでもないはずだったが、しかし俺としても、文句を言えるような立場ではない。
「それで、なんだって」
「なぜ加奈子ちゃんを家まで送らないのか、非常に冷静に、論理的にね、あなたの人格を非難していたわ」
俺はビールの栓を抜き、冴子のとなりに躰を投げ出して、頭を思いっきりソファの背にもたれさせた。このなんともいえぬ脱力感は、たぶん、血管中のすべての血に黴《かび》がはえてしまったせいだ。それもこれも、みんな天気が悪い。
「めずらしいわね。草平さんが加奈子ちゃんに会うなんて」
「三ヵ月ぶりさ。最初の約束は月に一度だった。契約書は交わしていないが、契約書なんかなくても、知子なら俺を非国民にして日本に住めなくするぐらい、かんたんかもしれないな」
俺は両脚をテーブルに投げ出し、ビールを呷《あお》って、軽く目を閉じた。
「君、いつごろから、男を意識しはじめた」
「なんのこと?」
「君が生まれて初めて男を意識したのは、いつかってことさ」
「お医者に取り上げられたとき……だって、わたし、裸だったもの」
「真面目《まじめ》な話だぜ」
「そんなこと、なぜ真面目に訊くの」
「天気のせいさ。それに、今日は仏滅なんだろう。天気と仏滅のせいで、俺にもむずかしい歳の女の子が一人いることを、思い出してしまった」
冴子が、遠いほうの眉を上げて、となりからちらっと俺の顔を窺《うかが》った。唇が少し皮肉っぽく笑っているが、嫌味な台詞が出てくる前ぶれではなく、俺と二人だけで居るときの、ただの癖にすぎなかった。
「島村由実のファイル、机の上に置いてあるわ」と、唇を歪めたまま、俺の顔を覗き込んで、冴子が言った。
俺は目を開け、溜息を一つついて、よっと立ち上がった。天気が悪かろうが塾の教師が加奈子の頭を撫でまわそうが、商売は商売だ。俺は缶ビールを持ったまま、机の前まで歩き、回り込んで椅子に腰を下ろした。冴子が持ってきたファイルは、うす茶色の、ふつうの文房具屋で売っている安物のバインダーだった。
吉島冴子は俺が警視庁の特捜にいたとき、一時上司だった女なのだ。五つも年下の女が上司というのも妙な話だが、キャリアとノンキャリアの違いだから、文句を言っても仕方がない。ノンキャリアの警官が警部補になるのに、最低でも十年かかるところを、キャリア組は最初から警部補で赴任してきてしまう。
だからといって、キャリアとノンキャリアの間に感情的な摩擦があるかといえば、そんなことはない。一般の警官にとってキャリアなんかはお客さんみたいなもので、どうせ一年か二年で頭の上を通りすぎてしまう。キャリアも現場の仕事には口を出さないし、俺たちも意見を訊くことはない。
そういうキャリア組が、研修で一時自分たちの課に配属されたとしても、ふつうの警官は相手にしないし、世間話すらすることはない。それが冴子のように若くて美人であっても、理屈は同じことだ。ましてそういう上司に男としてちょっかいを出す馬鹿は、警視庁広しといえども、知っている限り一人しかいなかった。この事実が庁内に知れていたら、その馬鹿はきっと警視総監賞をもらっていたにちがいない。その馬鹿というのは、もちろん、俺のことなのだが。
俺は煙草に火をつけ、バインダーをとって、ページをぱらぱらっとめくってみた。どれもコピーではあったが、現場写真、解剖結果、それに練馬西署の捜査係が作成した報告書と、一応の資料は揃っているようだった。
「島村香絵には明日からと約束してきた。だから、仕事は明日からだ」と、ファイルを机の引き出しにしまいながら、俺が言った。
「感触としては、どんな具合?」と、プレーヤーの前でCDを取りかえていた冴子が、視線だけで、俺のほうをふり返った。
「お世辞で言っても、五分五分かな」
「でも島村香絵は、あなたの労働意欲をかき立てたんじゃない?」
「俺は仕事に私情は挟まない。君が一番よく知ってるだろう」
「一番よく知ってるから、心配してるんじゃないの」
立ち上がって、ちょっとうんざりしながら、俺は冴子のほうに歩いていった。冴子もソファの前まで戻ってきて、そこで唇を笑わせながら、俺の胸をこつんと叩いてきた。子供も面倒だが、女って生き物もそれ以上に面倒だ。今日だけは俺も、もうこれ以上の面倒は抱え込みたくなかった。
「嘘は言わない。君に会ってから、俺には他の女がみんな糸瓜《へちま》に見える」
「島村香絵にも同じ台詞を言ってきたの」
「あのなあ……今日は昼からずっとジェットコースターに乗っていて、雨の中を石神井まで出かけて、この時間になってもまだ夕飯を食ってない。そのうえ警視庁きっての美人警部に取り調べを受けたら、明日は胃潰瘍になる」
濡れた髪を指で掻き上げてから、冴子が、またこつんと俺の胸を叩いてきた。
「今日のところは釈放してあげる。その代わり夕飯は草平さんの奢りよ。近くでいいの、そう、ニューオータニのレストランあたりでね」
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除湿にしたクーラーの音だけが、ぶーんと部屋の中に響いている。
冴子の抜け出していったベッドの中で、シーツを頭まで被り、俺は新しい一日が始まることに必死で抵抗をつづけていた。部屋にはもう一時間も前から、冴子の用意していったコーヒーの香りが漂っている。雨は降っていないらしいが、光の弱さからして、どうせ碌な天気ではないだろう。
電話が鳴り、起き上がって、俺は仕方なく居間のほうに歩いていった。壁の時計は九時ちょうどをさしていた。
電話の相手は、なぜか、知子だった。
「昨夜《ゆうべ》、どうして電話をくれなかったのよ」と、挨拶がわりに、まず知子が先制攻撃を仕かけてきた。
「君の用件は、ちゃんと伝わってる」
「伝わったなら伝わったって、電話ぐらいするべきでしょう?」
「テレパシーは送ったけどな。届かなかったか」
「三十すぎた女には、あなたのテレパシーは伝わらないの」
「なあ……電話、長びきそうか」
「用件が済めば、こっちだってすぐに切りたいわよ」
「とにかく、ちょっと待て。ちょっとだけでいいから」
俺は受話器を机に置いて、台所に歩き、保温器からコーヒーをカップに注いで、また電話のところまで戻ってきた。知子がすぐに切ると言うのだから、どうせ用件は長びく。
「覚悟はできた。それで、やっぱり俺は国外追放か」
「なんのことよ」
「君に逆らってこの国で生きていけると思うほど、甘くはないさ」
「寝ぼけてるの?」
「目は醒めた。俺の澄んだ瞳を見せてやれないのが、残念なぐらいだ」
「真面目《まじめ》に話しなさいよ。自分の娘のことぐらい、真面目に話せるでしょう」
「自分の娘のことだから、真面目に話すのが恐いんだ」
一瞬の間のあと、電話の中で溜息をついて、知子が言った。
「加奈子を家まで送ってくる約束、あなた、ちっとも守らないんだもの」
「もう四年生だぜ。俺なんか幼稚園のときから、一人で電車に乗っていた」
「男の子と一緒にしないでよ。もしものことがあったら、どうするのよ」
「もしもの、なに?」
「いろいろあるじゃない。事故にあうとか、痴漢にあうとか」
「サーカスに売られるとか」
「真面目に聞きなさいよ」
「なあ、四年生にもなれば、家ぐらい一人で帰れるさ。一歳《ひとつ》や二歳《ふたつ》の子供をおっぽり出したわけじゃないんだ。加奈子だっていつかは一人で電車に乗るようになるし、男ができれば家だって出ていく。いつまでも君のペットにしておくわけにもいかないじゃないか」
「わたしが、いつ加奈子をペットにしたのよ」
「たとえばの話さ。子供はいやでも大人になる。君が考えている以上に、その、加奈子はもう大人になってるかもしれないし」
塾の話を切り出そうかとも思ったが、この状況で火事場に突進するのは、たとえ防火服を着ていても無茶な試みだ。
「わたしが言いたいのはね……」と、攻撃に移るときのいつもの癖で、知子が低い声に身構えた。「あなたが約束を破ったことを問題にしているの。加奈子が一人で電車に乗れることぐらい、わたしだって知ってるわよ。だけどちゃんと送ってくることは、最初からの約束だったじゃない。必要がなくなったなら、二人で話し合ってそう決めたらいいわけでしょう。少なくともわたしに話してからにするべきよ。あなたとちがって、わたしには加奈子をまともな人間に育てる義務があるの。たまに会って、甘やかすだけ甘やかして、ご機嫌とりに小遣いをやればいい人とは立場がちがうの。あなた、そのこと、ちっともわかっていないじゃないの」
わかっていなくはないが、積極的にわかろうと努力をしていなかったことだけは、どうしようもない事実だ。
コーヒーで唇を湿らせてから、俺が言った。
「君が、その……加奈子を立派に育ててることには、感謝している」
「感謝なんかしてくれなくていいの。約束したことは守ってほしいって、そう言ってるだけ。それに小遣い、あんなにたくさんやってもらっては困るのよ。お金の価値を知らない子供に育てたくないの。わかるでしょう? わたしは加奈子に、物事をお金で解決する人間にはなってほしくないの」
「そんなに、大《おお》袈《げ》裟《さ》な問題か」
「本質的なこと、あなた、どうしてわかろうとしないの。別れて暮していても、あなただって加奈子の父親じゃない。子供を一人育てることがどれぐらい大変か、もう少し理解してくれてもいいと思うのよね」
「その、君が大変なことは、わかる」
「本当にわかっている?」
「わかってる。ぜったい、それはわかってる。近いうち会って、ゆっくり話し合おうじゃないか。俺のほうは、なんとか君の都合に合わせるから」
電話の中が、一瞬静かになり、向こう側で知子が長く息を吐く、ふーっという音が聞こえてきた。
「わたしのほうから電話するの、いやよ」と、呟くように、知子が言った。「吉島さんに出られるの、気まずいんだもの」
「昨夜は、たまたまなんだ」
「別にね、あなたがどんな女の人とつき合おうと、そんなことはどうでもいいの。ただ向こうだって気まずいでしょうし、わたしだって、ねえ? あなたに帰ってくれと言ってるわけじゃないんだし」
「だから昨夜は、本当にたまたまで、俺が仕事で出かけていて……とにかく、だから、電話は俺のほうからする。当分忙しいとは思うけど、まちがいなく連絡はする」
知子が、まだなにか言おうとしたが、俺は『わかった』を三つほど連発させ、どうにか電話を切らせてもらった。知子と喋《しゃべ》るのが疲れるのは、主張も論理も一方的に向こうが正しいからで、それは俺にもよくわかっている。しかしわかっただけではなにも解決しないことも、やはり俺にはよくわかっているのだ。
俺は椅子に座ったまま、腕だけのばして、軽く窓のカーテンをめくってみた。外堀公園から大宮御所にかけての森が、不安定な色に霞んで見える。雨こそ降ってはいないが、俺みたいな人間に勇気を与えて、元気に仕事に送りだしてくれるほどの天気ではない。
それでも俺は、コーヒーの残りを飲み干し、引き出しから冴子の置いていった資料ファイルと島村由実のアドレス帳を取り出して、机の上に積み重ねた。一日十万円プラス必要経費をもらう以上、仕事に手抜きをするわけにはいかない。島村香絵が自分で言ったほどこの金額が軽いものでないことは、いくら俺でも常識で判断できる。香絵は金持ちの馬鹿娘でもなく、パトロンつきの水商売女でもないのだ。
俺は、まずファイルの中から練馬西署が作成した事件の報告書を抜き出して、それに頭から目を通してみた。事故の起きた場所、日付や時間、現場の状況などは、香絵が俺に話したものと同じようなものだった。現場検証の記録では、場所はちょうど街灯の切れめで、路地から飛び出した島村由実を練馬から大泉方向に向かっていた白い乗用車が轢き殺した、ということらしい。解剖の結果と照らし合わせても、全身打撲で島村由実はほぼ即死の状態だった。
全身打撲ということは、クルマがまともに島村由実を跳ね飛ばしたということだ。とっさの場合、人間は頭を抱えてその場に屈み込んでしまう。飛び退いたり飛び上がったりなど、訓練された人間でなければ出来ることではない。島村由実も、急にクルマが迫ってきて、思わず地面に屈み込んでしまったのだろう。
その島村由実を、この犯人はブレーキも踏まずに轢き殺したのだ。時間を考えれば、運転していた人間が酒に酔っていたと判断できなくもない。酔っ払い運転で人を殺せば、間違いなくその人間は交通刑務所行きになる。逃げ切れるものなら逃げ切ってしまおう、そう考えるのも、人間のごく普通の発想でもある。自分の人生がそこで終わってしまうかもしれないと思えば、人間はいくらだって無茶な賭をする。不愉快ではあるが、人間とはそういうものだ。
しかし一つだけおかしいのは、これだけの事故を起こしたクルマなら、車体がかなりの部分で損傷しているはずだ、ということだ。バンパーは曲がっているだろうし、ボンネットだってかすり傷がついたぐらいのことでは済むまい。事実、報告書にも剥げた塗料やウインカーの破片が現場から採取されたと書いてある。事故直後には非常線も張られたはずで、そんな傷だらけのクルマで、犯人はどうやってその非常線を突破したのか。もし仮に、なにかの偶然で非常線をくぐり抜けたとして、クルマをどうやって処分したのか。報告書には、事故を起こした車種は五十四年式のトヨタ・チェイサーとある。警察はとっくに車種を割り出しているのだ。五十四年式といえば、かなり古い型ではあるが、今のコンピュータなら持ち主を特定することぐらい、難しいことではない。古ければ古いほど台数は限られているし、都内と近県の警察官を動員すれば、たとえなん百台であろうとなん千台であろうと、該当する車種はかんたんにチェックできる。
それが事故から一ヵ月以上たった今でも、まだ島村由実を轢いたクルマを発見できないでいる。これはいったい、どういうことか。まさかこの日九州からドライブに来たクルマが、たまたまこの時間、たまたま石神井なんてところの細い道を通りがかり、偶然路地から飛び出してきた島村由実を、偶然轢き殺し、偶然非常線をかい潜り、そのまま九州まで帰りついて、偶然誰にも知られずにそのクルマを処分してしまった……まさか、そんなことがあろうはずはない。
それでは警察は、この事件をなぜ偶然の轢き逃げ事故と断定しているのか。理由はかんたん。島村香絵の申し立てによって、一応上村英樹の身辺調査はしてみたが、上村には同夜同時刻、友人の早川功とかいう男と六本木のスナックで飲んでいたというアリバイがある。そしてそれ以外に、島村由実が殺人事件の被害者になる必然性は、まったく見当たらないということだ。状況からは自殺の可能性も考えられない。つまり、消去法によって、この事件はお決まりの交通事故ということにされてしまったのだ。
警察というところは、必要以上に『殺人事件』を作り出したりはしないものなのだ。事故死と殺人で、仮に確率が五分五分であった場合、呆れるぐらい図式的に事故死と断定してしまう。事故死のほうが捜査も楽だし、被害者や遺族や、それにマスコミを頂点とした『社会』に対する責任の質にも、首がかかるほどの違いがある。警察、特に警視庁は国家警察であって、国の体制を維持している片手間に、悪くいえば遊び半分で市民サービスをおこなっているにすぎないのだ。
そんな警察が、島村香絵の個人的な抗議で、五分以上事故と思える事件を殺人事件として捜査するはずはない。吉島冴子もそんな警視庁の体質に疑問を持っているからこそ、俺のところに仕事を回してくるのだし、俺自身はそれでなんとか食いつないでいる。いいか悪いかは知らないが、それが警察というものであり、それが俺の現実なのだ。
俺が島村香絵の依頼を引き受けて、まずしなくてはならないこと。それは島村由実が、警察が調べたとおり、上村英樹との関わり以外本当に、殺人事件の被害者になる可能性がなかったのかということだ。この部分に関して警察が手を抜いていることは、百パーセント間違いない。クルマの洗い出しは警察に任せるとして、俺の仕事は、とにかく島村由実の交友関係を徹底的に調べなおすことだ。どういう結果が出るにせよ、俺としては島村香絵の立場に立って、この事件は殺人事件だという前提で仕事をしなくてはならない。それが香絵に対する俺の義務だし、商売でいうなら、まあ、仁義ということになる。たとえそれ以上の興味を俺が香絵にもったとしても、それは病気であって、決して俺が悪いわけではない。法律でだって、殺意を抱いただけでは死刑にはならないと、ちゃんと決まっているのだ。
俺は机の上のファイルを片づけ、煙草を一本吸ってから、島村由実のアドレス帳を開いて、その中にある夏原祐子という女の子の部屋に電話を入れてみた。島村由実とは同じ大学で、よく石神井のマンションにも遊びに行ったという。たぶんこの子が、最近では島村由実と一番仲の良かった友達、ということになるのだろう。
電話に出たのは、寝ぼけたような声を出す、本当に寝ぼけた女の子だった。相手が寝ぼけているのを幸い、俺は十一時に訪ねる約束を取りつけ、そのときはそのまま電話を切った。いずれは上村英樹に当たるとしても、この男と妹の関係について、香絵はまだなにかを隠している。それぐらいのことは、俺が刑事をやったことがないとしても直感でわかる。夏原祐子が島村由実の親友だったなら、まずそのへんの事情を聞き出さなくてはならない。親兄弟に話せないことでも、親友になら話す。女子大生ぐらいの女の子というのは、そういうものだと週刊誌に書いてある。
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夏原祐子のアパートは、京王線の下高井戸駅から五分ほど明大側に歩いた、路地の奥にあった。マンションとまではいかないが、外壁を白く塗った小奇麗なアパートだった。
チャイムを鳴らすと、不用心なぐらいかんたんにドアが開いて、石鹸と化粧水の匂いのする女の子が、飄然と顔をのぞかせた。目つきがぼんやりしているのは、近眼か寝不足か、たぶんその両方なのだろう。
「歳をとると、目が醒めるのが早くて困るんだ」と、自分の名前を告げてから、俺が言った。
夏原祐子が、はにかんだように笑い、短く舌を出してから、うなずいて俺をドアの中に入れてくれた。そこは六畳の和室だったが、畳には濃いグレーのカーペットが敷いてあり、背の低いベッドと華奢な白いテーブルと、他にも小さいテレビやらミニコンポやらが、居心地良さそうに並べられていた。狭くはあったが台所や風呂までついていて、おまけに窓側の天井からはクーラーが乾いた風まで送りだしていた。親の仕送りがいいのか、うまいアルバイトの口があるのか。しかしどっちみち、俺なんかに学生の生態がわかるはずはない。
「狭いけど、どこでも座ってください」と、コーヒーの匂いのする台所から、ふり返って、夏原祐子が言った。電話で聞いたときよりも声ははっきりしていたが、どこかとぼけた感じのある、人なつこい喋り方だ。
壁を背にして座った俺に、コーヒーを持ってきて、夏原祐子もテーブルを挟んで向かい側に腰を下ろした。
俺の渡したフリーライターの名刺を、しばらくぼんやりした目で眺めてから、夏原祐子が言った。
「わたしも由実のこと、ずっと気になってました。夜中に電話がくると、あ、由実かなって、まだそんなふうに思います」
「君とは、親友だったわけだ」
「一年のとき同じクラスになって、お互いに一目ぼれでした」
なんとなく妙な子だが、なんとなく憎めない。それによく見ると顔立ちも素直に整っていて、ぼんやりした目と人なつこい喋り方さえなければ、こっちが恥ずかしくなるほどの美人だった。
「気になっていたというのは、具体的に、心当たりがあるわけか」と、心臓に精一杯の深呼吸をさせてから、俺が訊《き》いた。
「だって、あの……柚木さん、なにを調べてるんですか」
「調べられることは、ぜんぶさ。あの事故はただの事故ではなかったという前提で」
「ただの、事故では……なかった?」
急に頭の中のスイッチが入ったのか、座ったまま飛び上がるのではないかと思うほど、夏原祐子が大袈裟に身を起こした。
「だって、そういうのって、もしそうだったら……」
「故意の殺人」
うっとかむっとか、妙な声を出し、自分の手で、夏原祐子が大きく口を押さえ込んだ。それでも目だけはぼんやりした形だったから、これはたぶん、生まれつきのそういう形なのだろう。
「そんなこと、あるわけ、ないじゃないですか」と、俺の顔を宇宙人でも見るような目で見つめたまま、夏原祐子が言った。
「なぜ、あるわけがない?」
「だって、もしそうなら、犯人がいるわけでしょう。由実が誰に殺されなくてはいけなかったんですか」
「それを調べてる。君が犯人を教えてくれたら、今夜夕飯を奢ってもいいけどな」
素直な顎に力を入れ、不審そうな目で俺の顔を一睨みしてから、夏原祐子が迫力のある唸り声を上げた。癲癇もちかなと、一瞬あわてたが、そうでもなさそうだった。
「本気で、まじで、あの事故、殺人事件だと思うんですか」
「歯を磨いてきて、正解だったな」
「なんのこと?」
「君みたいな奇麗な子と、こんな近くで話ができるとは、思わなかった」
顔の近さに気がついたのか、今度も大袈裟に退《しりぞ》いて、夏原祐子が肩で深く息をついた。
「わたし、近眼なの。朝起きてすぐコンタクト入れるの、苦手なんです」
欠伸《あくび》のように深呼吸をして、それから見えもしない目で、夏原祐子がじっと俺の顔を睨みつけた。見えていないとはわかっていながら、こうしっかり見つめられると、なんとなく背中がそわそわしてくる。俺が三十八にもなっていなかったら、顔が赤くなって、下を向いてカーペットの毛でもむしっていたところだ。
「最初に言った、気になっていたという理由、聞かせてくれるか」
「特別にね、理由はないの」と、急に真面目な顔に戻って、夏原祐子が答えた。「ただびっくりしただけ。友達が、一番仲の良かった由実が、あんなふうにいなくなって。あれ、由実、本当にもういないのかなって、今でも信じられない。だけど殺人事件だなんて、そんなこと、もっと信じられない」
「由美さんの姉さんは、殺人事件だと信じているらしい」
声には出さなかったが、口をあっという形に開いて、夏原祐子が困ったような流し目を送ってきた。
「それ、あの、上村さんのことでしょう」
「当然、君は知ってるわけだ」
「でも……」
奇麗な顔を、もったいないほど歪めて、夏原祐子が怒ったように頬をふくらませた。
「それって、ありえないと思うな」
「なぜ?」
「あのね、お姉さんの気持ち、わかることはわかるの。でも由実はそれほど馬鹿な子ではなかった。柚木さん、このこと、雑誌に書くんですか」
「これは書かない。これは、別な動機でただ調べてるだけだ」
「約束する?」
「神に誓う。あいにく、神様なんか信じてはいないけど」
また顔を寄せてきて、じっくりと俺の人相を値踏みしてから、なぜか納得したように、夏原祐子が颯爽とうなずいた。
「由実だって、もちろん……」と、形のいい唇に、力を入れて、夏原祐子が言った。「もちろん、落ち込んではいた。だって来年の春には結婚するつもりでいたんだもの。それが突然あれでしょう。わたしなら相手の人に硫酸をかける……これ、冗談です。でも、それぐらい頭にきたって、当然ですよね。だけど由実って、へんに我慢強いところがあって、愚痴なんかぜったい言わなかった。上村さんを恨んだり、結婚の邪魔をしてやろうとか、そんなことも考えなかった。つまりね、それって、由実の美意識の問題だと思うんです。わかります?」
「まあ、なんとなく」
「だからしばらくは落ち込んでいたけど、すぐ自己回復したんです。上村さんがなにを考えていたか知らないけど、由実、上村さんにとって邪魔な存在ではないわけだから、上村さんが由実を殺す理由なんて、どこにもないんです」
「理論的には、理論的な気がする」
うんと、夏原祐子がうなずき、俺のほうに素直な形の顎をつき出して、満足そうに微笑んだ。この子の人生になにか問題があるとすれば、起きてすぐにはコンタクトが入れられないという、その一点だけだろう。
「頭がね、やっとはっきりしてきました」と、コーヒーを、しゅっとすすって、夏原祐子が言った。「わたし、少し血圧が低いの」
「俺は、血圧が高い女に興味はない」
「昨夜バイトで遅かったんです。柚木さん、遊んでいたと思ったでしょう」
「べつに……」
「顔に書いてあります」
「君がセブン−イレブンでアルバイトをやってるとは、思わなかっただけさ」
「必殺テレクラ返しです」
「ん?」
「わたしがやってる、アルバイトのこと」
急に、背中がそわそわしてきて、俺は無意識にポケットの煙草に手をのばしていた。
夏原祐子が座ったまま、どこかからひょいと灰皿を取り出してくれた。
煙草に火をつけてから、恐る恐る、俺が訊いた。
「必殺、なんて言った?」
「テレクラ返し」
「ぶっそうな、アルバイトなのか」
「ハードだけど、危ないことはないです」
「電話帳にのってる商売では、ないよな」
育ちのいい兎のような笑い方をして、夏原祐子が、華奢な首を大きくのけ反らせた。
「わたしの名前を出さなければ、雑誌に書いてもいいですよ」
「君の名前は、日記にだって書かないさ」
「あのね……」と、テーブルに肘をつき、秘密っぽい目つきで、夏原祐子が俺のほうに身をのり出した。「テレホンクラブってあるでしょう。あれ、東京ではもうはやらないの。小学生や中学生の女の子、あれで大人をからかって遊ぶから。それでテレクラのほうも考えたわけ。たまには本当にデートできないとお客さんが来なくなる。だからたまにアルバイトを使って、一種のキャンペーンみたいなことをやるの。昨夜なんかわたし、十五人も相手をしました」
「十五人も、相手を?」
「心配しなくていいです。お茶飲んで、お喋りするだけです」
「心配はしないが、ぶっそうなバイトであることに、変わりはない」
「喫茶店の経営者はテレクラと同じ人です。そういうところは、きちんとしています」
「きちんと……か。それで、そのバイト、毎日やってるのか」
「週に一回だけです。このバイトは実益と実益を兼ねてます」
「あの、なあ……」
俺は、不覚にもこんがらがって、思わず、愚痴《ぐち》っぽい声を出していた。
「君が俺をからかってるとは思わないけど、なんていうか、世代を超えた共通の言語ってやつな、そういうのを使ってくれないかな」
「ふつうの意味ですよ。レトリックじゃありません」
頬杖をついて、またしゅっと、夏原祐子がコーヒーをすすった。
「わたしの卒業論文ね、『テレクラにおける中年サラリーマンの希望と挫折』というテーマなの。だからこのバイト、実益と実益を兼ねてるんです」
「君、専攻は、なに?」
「社会心理学」
俺は思わず、うっそーっと叫びそうになったが、顔を見たかぎりでは、夏原祐子は嘘や冗談を言っているつもりはないらしかった。こんな子に研究されたら、『社会心理』のほうが赤面してしまうだろうに。
「柚木さんは、専攻、なんでしたか」と、頬杖をついたまま、夏原祐子が訊いてきた。
「俺は、一応、アメリカ文学」
「作家志望だったわけか」
「そんな、大袈裟なもんじゃないさ」
「作家になれなくて、フリーライターやってるんだ」
「その、俺は、べつに……」
「フリーライターって、取材費、ありますよね」
「あることは、ある」
「近くにラザニアのおいしい店があるの。知ってました?」
どうでもいいが、そんなこと、どうして俺が知らなくてはいけないのだ。
「ちょうどお昼です。贅沢《ぜいたく》は言いません。ラザニアとチーズケーキと、あと苺ジュースと、それぐらい食べればじゅうぶんだと思います……知っていました?」
その『ラザニアのおいしい店』というのは、夏原祐子のアパートを商店街のほうに出た、本当にすぐのところにあった。
ケーキ屋の二階のパーラーのような店は、十二時前のせいか客はなく、俺たちは商店街の通りを見下ろせる席に向かい合って腰をおろした。出がけに夏原祐子はコンタクトを入れてはきたが、とぼけたような目の形は相変わらずで、意味もなく俺はほっとした気分だった。
最初にやってきた苺ジュースのカップを、ストローで掻き回す夏原祐子の長い指を、感心して眺めながら、俺が言った。
「なあ、どうしても、一つ納得できないことがあるんだ。つまり……」
わかっている、というふうに、夏原祐子が、短くうなずいた。
「由実の結婚のことでしょう? 早すぎないかって」
そのころは俺にも理解できていたが、喋り方や表情とは無関係に、この子の頭の回転は、かなり速い。
「もちろん学生結婚をするやつもいるし、女の子なら卒業前に婚約する子もいる。だけど、どうもな、島村由実という子は、そういうことが似合うタイプではなかった気がする。君が言った『姉さんの気持ちはわかる』ということと、なにか関係があるんじゃないのか」
「やっぱり……」と、ストローを唇に押しつけたまま、頬をふくらませて、夏原祐子が言った。「柚木さんて、やっぱりプロなんですね」
「ラザニアぐらいで、お世辞を言わなくてもいいさ」
「このこと、書かないですか」
「最初から、書かないと言ってる」
入ってきた客に、軽く視線を送ってから、夏原祐子がゆっくりとジュースのカップを横に押しのけた。
「上村さんて人、最初は、お姉さんの彼氏だったんです」
俺の反応をたしかめてから、珍しく無表情に、夏原祐子がつづけた。
「由実の姉さんと上村さん、大学でゼミが一緒だったらしいの。それからずっとつき合っていて、たぶん結婚するんじゃないかって、由実でさえそう思ってたらしい。だけど、あのお姉さん、自分は由実の母親がわりだと勝手に思い込んでるところがあるでしょう。もちろんそういう部分はあったけど、由実だっていつまでも子供ではないし、結婚してお姉さんが幸せになったほうが、本当は気が楽だったと思う」
「つまり、由実さんが大学を出るまでとかなんとかいって、姉さんと上村さんの仲は、先に進まなかった」
「そんなところです。それで上村さん、大学でテニス部だったから、由実のテニスをコーチするようになっていたの。それでね、いつの間にか、そうなったわけ」
「いつの間にか、そう……か」
俺は煙草を取り出し、火をつけ、届かないことはわかっていながら、ガラス越しに下の通りに向かって、長く煙を吹きつけた。
昨日島村香絵が言い渋っていた上村との関係は、このことだったのだろう。香絵にしてみれば、恋人を自分の妹に取られ、しかもまだその妹の母親がわりをつとめる滑稽なハイミス、という役回りをあてがわれたことになる。香絵にそんな役回りが似合うかどうかは別にして、現実は、そういうことだったのだ。
「姉さんと由実さんの間は、当然、うまくいかなくなったんだろうな」と、黙ってストローを玩《もてあそ》んでいる夏原祐子に、俺が訊いた。
「それがあの姉妹《きょうだい》の、不思議なところなんです」と、唇を尖らせて、俺のほうに、夏原祐子が小さく首をひねった。「お姉さんだってショックだったはずなのに、やっぱり母親代わりなんです。あのお姉さん、いい人だとは思うけど、いい人すぎる人って、なんとなく重たいでしょう」
「由実さんも、姉さんのことを重く思ってた」
「そんな感じでした。上村さんとの結婚のことだって、由実自身は急いでいなかったと思う。でも、事情が事情だから、けじめみたいなこともあったろうし……もしかしたらね、由実があんなに早く自己回復したの、結婚できなくなってほっとした気持ちがあったんじゃないかな。そういう気持ちって、わたし、わかるような気がします」
ラザニアがやってきて、夏原祐子が毅然《きぜん》とした顔でフォークを取りあげ、俺もそのチーズくさい西洋おじやに、黙って、毅然と取り組み始めた。こんなもののどこかに、本当に『うまい』と『まずい』の違いがあるものなのか。この店を出たら、一人でカツ丼でも食い直すしかあるまい。
「及川照夫という男の子……」と、夏原祐子の手と口の動きが、一段落するのを待ってから、俺が言った。「姉さんの話では、由実さんによく電話をしてきたらしい。君、知ってるかな」
納まるものが納まる場所に納まって、急にアルバイトの疲れが取れたのか、夏原祐子の目が、俺の顔にきっちりと焦点を結んできた。
「及川くん、そんなに由実のところへ電話をしてたの」
「詳しくは知らない。だけど、君たちは大学で共通の友達だったはずだ」
「友達以上の関係、狙ってたわね。及川くんは誰だって、女の子なら友達以上の関係を狙うんです」
「君も、狙われた口か」
にやっと、歯を見せずに笑い、夏原祐子が大きすぎるほどの目を、扇形に百八十度回転させた。
「及川くんてのは、どうも、けしからん奴らしいな」
「そうでもないです。ああいう子って罪がないし、けっこう話題が豊富で、遊ぶ場所も知ってて、一人ぐらいボーイフレンドに持ってると便利かなっていう、そういう感じの子」
「由実さんも、君と同じ意見だったのか」
「意見は同じだったかもしれないけど、由実のほうが他人には親切でした」
「その親切は、たとえば、デートに誘われれば一度ぐらいはつき合う程度の?」
「相手に危険がなければです。柚木さんが誘っても、OKはしなかったと思うけど」
「俺は……」
言いかけて、すぐに反省し、とにかく、俺は仕事にだけ集中することにした。
「君の社会心理学的分析では、及川くんと由実さんはデートぐらいはしていた、そういうことだな」
「デートぐらいはね。そしてデートだけ。それ以上だったら、わたしにわからないはずはないもの」
「君も、及川くんとデートをしたということか」
「一回だけです。二十一年間のわたしの人生の中で、たったの一度。それももちろん、完璧にデートだけ」
「それ以上だったとしても、俺にはわからないさ」
コンタクトの入った目で、下から無遠慮に俺の顔を眺め、しばらくそうやってから、くすっと夏原祐子が笑った。
その夏原祐子の口が動き出す前に、俺が言った。
「及川くんと由実さんの間で、トラブルがあったという話は、ないかな」
ちょっとだけ考え、すぐ俺のほうに視線を上げて、夏原祐子が二度ばかり首を横にふった。
「それ以外に、由実さんがトラブルに巻き込まれていたとか、それとも、人に恨まれていたとか……」
また首を横にふり、テーブルに肘で支えていた躰を、夏原祐子が秘密っぽく前にのり出させた。
「柚木さん、本気で、由実が誰かに殺されたと思います?」
「初めから、そう言ってる。だから君にも会ってる」
「由実の姉さんとはどういう関係ですか」
「それは……」
「お姉さんに頼まれただけ、そうですよね。由実の姉さんがただの事故ではないと言うから、それで調べてるだけなんでしょう」
とっくに気がついていたそのことを、そこでまた、俺は改めて思い出した。見かけよりも、この子はずっと頭のいい子なのだ。
一種の賭《かけ》のような気はしたが、俺はその賭にのってみることにした。
「島村さんとは、ある人の紹介で、昨日初めて会った」と、夏原祐子の視線を押し返して、俺が言った。「君の言うとおり、島村さんから事件の調査を依頼された。島村さんは上村英樹が怪しいと言う。状況からはたしかにそうなんだが、上村にはアリバイがある。あとで洗い直すが、君の話を聞いた感じでも、上村の線は手応えがうすい気がする。ただ、警察の調査報告書を見て一つおかしいと思ったのは、由実さんを轢いたクルマの車種がわかっているのに、まだその持ち主を見つけられないでいることだ。詳しいことは省くけど、これは今の警察制度からして、ちょっと考えにくい」
「質問」と、小さく言って、小さく、夏原祐子が右手を差し挙げた。「柚木さん、なんで警察の調査報告書なんか、見られるんですか」
「俺の説明を最後まで聞くか、それとも、顔に水をかけられたいか」
むっと唸ったが、それでも口を尖らせただけで、夏原祐子が黙って肩をすくめた。
「それからな……」と、目でうなずいて、俺がつづけた。「これはただの勘かもしれないけど、もう一ついやなことがある。それは、事件の夜、由実さんがリビングの電気をつけっ放しにしていたことだ。姉さんは社員旅行で伊香保に行っていた。由実さんは一人。夜の十一時、友達のところにでも泊まりに行くなら、電気は消して行く。それではコンビニにでも買物に出たのか。昨日石神井のマンションに行ったけど、ちゃんとした大型の冷蔵庫があった。あの姉さんが食料を切らしていたとは考えられない。それではいったい、由実さんはあんな時間に、部屋の電気をつけたままどこへ出かけようとしたのか……」
俺の手元から、水の入ったコップをひったくって、夏原祐子が訊いてきた。
「どこへ?」
「どこだと思う?」
「木戸千枝さんの家、高校のときの同級生だった」
「調べてみるけど、もしその子の家ではなかったら?」
「たまたまお風呂が壊れてて、銭湯」
「いい線いってる。俺もそこまでは考えなかった。ただ殺されたとき、由実さんは風呂の道具を持っていなかった」
「だとしたら……」
「だとしたら?」
「散歩」
「彼女、夜中にふらっと散歩に出る癖でも、あったのか」
鼻をひくっと動かしてから、息を吸い込んで、夏原祐子が首を横にふった。
「柚木さんは、それじゃ、由実がどこへ行こうとしていたと思います?」
「そいつがわからない。つまらないことかもしれないけど、こういうつまらないことが意外に事件の核心を突いていることがある。誰かに電話で呼び出されたとしたら……水、返してくれないか」
「わたし、顔は洗いましたよ」
「知ってるさ。君が最初にドアを開けたとき、石鹸と化粧水の匂いがした」
口を曲げて、親の敵《かたき》を見るような目で俺を睨んだが、それでも溜息をつきながら、夏原祐子がそっと元の位置にコップを差し出した。
「それで……」と、顔を好奇心だらけにして、夏原祐子が言った。「もし、本当に、由実が誰かに電話で呼び出されたとしたら?」
「誰かに呼び出されて、そこで偶然、関係ないクルマに轢かれた……そういうことは、ありえないってことさ」
夏原祐子の腕に、鳥肌が浮き上がり、その鳥肌が浮いた腕を、祐子が抱き込むように自分で両手の中に包み入れた。
「死ぬ前に、由実さんに変わったことは、なかったかな」と、夏原祐子の腕から、意識的に視線をそらして、俺が訊いた。
「たとえば?」
「どんな小さいことでもいい。たとえば、婚約が解消になってから遊び方がひどくなったとか、よく酒を飲むようになったとか」
「そんなふうにはならなかった。由実は、そういう性格ではなかったもの」
「及川くん以外に、つき合い始めた男なんかは?」
「いなかったと思う。特定の彼氏ができれば、由実はわたしに話したと思う」
「就職なんかは、どうなっていた。そろそろ時期だったはずだが」
「熱心ではなかったみたい。今年の春まで、由実は就職するつもりはなかったわけだし、方向も決まっていなかったと思う」
「彼女が一番興味を持っていたことは? 洋服だとか、映画とか音楽以外で」
「いろんなことに、いろんなふうに興味を持つ子だった。好奇心は旺盛だったけど、のめり込むタイプではなかったな。ボランティアで老人ホームのヘルプもやったし、捕鯨の反対運動もやった。春ごろは公園にイベントホールができることに、ひどく怒っていました」
「公園て、どこの公園?」
「由実の家の近くに子供の遊び場になっている公園があって、練馬区がその公園をつぶしてイベントホールを建てる計画を出したの。由実、そういうことにわりあい怒る子だった。公園なんて一度つぶしたら、もう元に戻らないって」
「怒って、それから?」
「ただ怒っただけです。区長をリコールしてやるなんて言ってたけど、生きてたら、今ごろは原発反対の集会にでも行ってたんじゃないかな。そういうこと、けっこう好きな子でした」
「社会正義に燃えていて、老人に対する優しさもあって、男に裏切られてもくよくよせず、スポーツウーマンで人づき合いも良く、それにあんな若くてあんな可愛い子でも、人生のどこかで殺人事件の被害者になる条件を抱え込んでしまう……いやな世の中だ」
夏原祐子のチーズケーキが来て、それをきっかけに、伝票をつまんで、俺が立ち上がった。
「ゆっくりしていくといい。思い出したことがあったら、名刺の番号に電話をしてくれ」
「行っちゃうんですか?」と、突然飼い主に突きはなされたスピッツのような目で、不満そうに、夏原祐子が俺の顔を見上げてきた。
「昨夜チーズケーキに追いかけられて、オカマを掘られる夢をみた」
「及川くんに会いに行くんですよね」
「さあ、な」
「彼、今、中野のサンフラワーという花屋でバイトしてますよ。わたし、一緒に行こうかなあ」
もちろん、気持ちは動いたが、三十八年の人生経験というのは、それほど馬鹿にしたものではない。
「俺は昨日、娘と半日もつき合った」と、テーブルを離れながら、ふり返って、俺が言った。「二日もつづけて子供とは遊ばないことにしている。困ったことに、俺は子供に対するアレルギーがあるんだ」
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湿気の多いぼんやりした日射しの中を、俺は学生にでも戻ったような気分で、ゆっくりと駅の方向に歩きはじめた。夏休みのせいか本物の学生の姿はなく、下高井戸の狭い商店街の風景に、どことなく一時代前ののんびりした雰囲気が感じられる。
「夏原祐子……か」
たった今別れてきた夏原祐子の名前と、顔を思い出しながら、俺は拳《こぶし》で、こつんと自分の頭を叩いてやった。ラザニアとチーズケーキと苺ジュースの勘定は、礼儀として、島村香絵に経費を請求するわけにはいくまい。
京王線の踏切り際に立ち、ちょっとの間、俺は次に会うべき人間の名前を頭の中でいじくり回していた。考えなくても、まっ昼間というのは、聞き込みをして歩くのにそれほど適した時間帯ではない。家に居るのは主婦かご隠居さんに決まっているし、強制捜査権がない以上、堅気《かたぎ》の人間を職場に急襲するというのは、俺にとっても、相手にとっても、あまり具合のいいものではない。
及川照夫の居場所はわかっているし、探りを入れるだけのつもりで、俺は駅前の公衆電話から木戸千枝の家に電話を入れてみた。自分の名前とたまに仕事をする週刊誌の名前を言うと、電話に出た中年の女はあっさり千枝の居場所を教えてくれた。千枝は夕方まで、池袋のジャムとかいう貸しスタジオでバンドの練習をしているという。週刊誌と聞いて、千枝の母親らしいその女は、俺が音楽関係の人間かなにかと勘違いしたのだろう。
上村英樹は夜中にでも不意を襲わなくてはならないし、順序として、やはり及川照夫に当たることにした。京王線で新宿まで戻り、中央線に乗りかえて、俺は中野に出た。タクシーを使ってもよかったが、島村香絵のために、なるべくなら経費を節約してやろうと思ったのだ。
花屋の場所というのは、花屋に訊《き》けばわかる。俺は駅前の花屋で『サンフラワー』の場所を教えてもらい、ブロードウェイをつっ切って、早稲田通りに出た。
サンフラワーは早稲田通りを少し中野通り側に入った、側道の通り沿いにあった。間口二間ほどの小さな店で、人目をひくレイアウトがしてあるわけでもなく、可愛い女の子が客に愛想《あいそ》を売っているわけでもなく、一見しただけで、それはたんなる町の花屋だった。
店番をしていたのは、妙に太って、でかい割烹着を着た、厚化粧の五十ぐらいのおばさんだった。
「及川照夫って子、おたくでアルバイトやってる?」と、冷房を逃がさないように、すぐに戸を閉めて、俺が訊いた。
「配達に行ってるけど……あんた、てるちゃんの、なに?」
「なにってことはないけど、ちょっと訊きたいことがあるんだ」
「警察の人?」
「刑事というのはもっと人相が悪いさ。それとも、及川くんは警察に追われるようなことを、なにかしてるわけ」
「まさか。気がちっちゃくて優しい子だもの。いつだったか、てるちゃんのガールフレンドが交通事故で死んでさ。それで刑事ってのが一回来たことがあんの」
警察の報告書には及川照夫の名前は出ていなかったから、形式として事情聴取に来ただけなのだろう。
「その件で俺も話が聞きたいんだ。こっちは週刊誌のほうだけどね」
「てるちゃん、週刊誌に出るのかい」
「話次第だな。配達って、いつごろ帰る?」
「そうさねえ……」
自分の頭の上の掛け時計を、よっこらしょっとふり仰ぎ、歌舞伎役者のように縁取りした目を、おばさんがかっと見開いた。
「じき帰ってくるだろうよ。華道《おはな》の先生んとこでお茶なんか飲んでなきゃのはなし。あの子、調子がいいからね、へたすると昼飯《おひる》までごっ馳走《つぉう》になることがあんのよ」
「二軒となりに、喫茶店があったっけな」と、おばさんに名刺を渡しながら、俺が言った。「そこで待ってる。帰ってきたら、及川くんに話を聞きたいと言ってくれないか」
「てるちゃん、週刊誌に出られるといいんだけどねえ。うちの店の名前なんかもさあ」
よっぽど、あんたならそのままの顔でテレビにだって出られる、と言おうとしたが、我慢して、俺はていねいに頭を下げた。いったいこの店の、どこが『サンフラワー』だというのだ。
俺が二軒となりの喫茶店に腰を落ち着け、カツカレーを平らげてアイスコーヒーを飲みながら、スポーツ新聞の巨人の負け具合に腹を立てているとき、ジーパンに黒いポロシャツの及川照夫が、ふらっと店に入ってきた。それが及川照夫だとわかったのは、店には他に客がなく、向こうのほうからまっすぐ俺の席に歩いてきたからだ。
用心深そうな目で頭を下げ、長い脚を折って、及川照夫が向かいの席に腰をおろした。
「由実を轢いたクルマ、まだめっかんないんすか?」と、店のおしぼりで顔の汗を拭きながら、及川照夫が言った。
「だからこうやって追いかけてるのさ」
「轢き逃げ事故なんての、週刊誌の記事になるんかなあ」
「書き方次第だろうな。アグネス・チャンが子供を連れてるだけでも、書き方次第で記事になる」
「おれ、週刊誌の記者なんつうのもいいなって思ってんす。なるの、難しいっすか?」
「俺程度の記者でよけりゃ、誰でもなれるさ」
「おれね、卒業するのやめようかなって思うんすよ。当分フリーターでいこうかなとかね」
「フリーター?」
「フリーのアルバイターっす。卒業したって大蔵省に勤められるわけじゃないすもんね。当分あの花屋手伝ってて、そのうち週刊誌の記者とかになるっつうの、けっこう恰好いいと思いません?」
「美意識が許せば、なんでもいいさ。あの花屋、君の親戚かなにかか」
「おばさんの死んだ旦那っつうのがね、おれの親父の弟なんす。そいであの花屋も本当は娘がやるわけだったんすけど、フラメンコの勉強だなんつってスペイン行っちゃって、そのまんま帰ってこないんす。だからおれ、花屋やってもいいんすけど、一応自分の可能性みたいなやつ試そうかなとかね、一応思ってるんすよ」
「試すだけなら、ただだものな」と、煙草に火をつけて、一応俺も本題に入ることにした。「で、例の事故があるまで、君と島村由実はかなり親しかったと聞いたんだがな」
「その話、誰から聞いたんすか」と、まんざらでもなさそうな顔で、にやっと、及川照夫が笑った。
「由実の姉さんが、君からよく電話がかかってきたと言ってる。妹のほうから君に電話をしていたとは、言わなかった」
得意げだった笑いを、照れ笑いに変え、及川照夫が指で耳のうしろあたりを、ごそごそと掻きはじめた。
「三回ぐらい、デートしたかなあ」と、耳のうしろを掻きながら、及川照夫が言った。「だけど他に由実とデートしたやつなんていなかったしさ。やっぱ、おれなんか親しかったほうじゃないんかなあ」
「由実が会社員の男と婚約していたことは、知ってたんだよな」
「知ってたっすよ。クラスじゃ有名な話だったすから。それが、いつごろだったかなあ。三月か四月だったと思うすけど、ぱあんなっちゃってね。由実はそれまで、誘ったってデートになんかのってこなかったけど」
「君がつき合うようになったのは、それ以降ということか」
「まあ、そういうことね」
「婚約者だった男の名前、覚えてる?」
「なんつったかなあ……なんか平凡な名前だったと思うけど、どっか一流の商社かなんかに勤めてるやつでね。だけどそういうことって、しつこく訊かないのが礼儀なんすよ」
上村英樹の名前も覚えていないようでは、島村由実とこの男のつき合いも、たかが知れている。夏原祐子の言ったとおり、『デートだけ』の関係だったことは、たぶん間違いないだろう。
「婚約者との問題以外で、島村由実が困っていたようなこと、聞いていないかな」
「困ってたようなことって……おれ、ランチ食ってもいいっすか?」
「ランチでも音痴でも、好きなものを食ってくれ」
自分でカウンターにハンバーグランチを注文してから、座り直して、及川照夫が上目づかいに俺の顔を覗き込んだ。
「柚木さんでしたっけ? それで、柚木さん、あの事故はただの事故じゃないって思ってるわけ?」
「少なくとも、そういう前提のほうが記事は面白いだろう」
「殺人事件かなにかにしちゃって?」
「いくら美人女子大生でも、ただの交通事故では週刊誌が売れない」
「どういうストーリー、考えてるんすか」
「交通事故にみせかけた、計画的な殺人。愛情関係のもつれとか、大学内部のスキャンダルに巻き込まれたとか……パターンは決まってるけどな」
「愛情関係のもつれってのね。それ、ないと思うんすけどね」
「一方的に、婚約を破棄されたじゃないか」
「だけど由実、そのことあんましこたえてなかったと思うんすよね。そういう感じだったなあ」
「他に男関係は? 可愛い子だったらしいじゃないか」
「可愛いかどうかは、考え方ってやつですけどねえ。由実って、可愛いとか美人とかっていうのと、ちょっと違うんすよ。なんつうか、コケティッシュつうんかなあ。今さ、ワンレンなんかはやってるっしょう。そいでおれなんかもそういう女は見飽きてるわけ。由実はそこいくとさ、なんつうか、中性的な魅力っつうのかな、そういうんがあったんす」
「それならなおさら、誘いは多かったろうに」
「狙ってるやつは多かったすよ。だけどガードは堅かったなあ。みんなで飲みにいくとかね、そういうつき合いはよかったんすけど、誰か学校のやつでものにしたなんて話、聞いたことないもんなあ。わかるっしょう? 男って、そういうことって喋っちゃうすもん」
「トラブルとかスキャンダルとか、家庭の事情とかは?」
「たしか、両親はもう死んじまってるんすよねえ。だけど姉さんつう人がけっこうしっかりしてて、金には困ってなかったっすよ。姉さんつう人、やっぱ美人なんすか」
「松坂慶子を、ちょっと地味にした感じかな」
「ほーんと? 会っときゃよかったなあ。おれ、葬式に行けなかったんすよ。やっぱ、線香かなんかあげに行ったほうがいいっすかねえ」
勝手にしろ、とは思ったが、それを口に出すほど、俺も純情ではない。
「島村由実とのデートは、どんなところに行った?」
「ふつうっすよ。飯食ったり、ちょっと飲んだり。一回ディスコ行ったかなあ。あと、なんつったっけ、由実の友達がバンドやっててね、そのライブに行ったなあ」
「木戸千枝か」
「おれ、人の名前覚えるん苦手なんっすよ。木戸千枝っつったっけなあ。由実の高校んときの同級生で、その子がボーカルやってるんっす。ドラムがいまいちだったけど、ボーカルは迫力あったっすよ」
「デートのときは、どんなことを話した」
「ふつうじゃないっすか。友達のこととか、学校のこととか。デートんときあんまし難しいこと話さないっすよ」
「なにか、特別君が覚えているような話題は?」
「特別ったって……本当いうとね、三回もデートしたっつうのに、キスもさせてもらえなかったんす。そいでおれも、ああこりゃあ駄目だなって思ったわけ。そういうのってわかるっしょう? いつまでも一つのことにこだわるの、おれの主義じゃないんす。青春て意外に短いと思うんすよ」
「その短い青春を、君は今、夏原祐子に賭けてるわけか」
及川照夫が、ほっと口をすぼめ、額にかかっていた前髪を忙しなく上に掻きあげた。
「彼女にも、柚木さん、会ったんすか」
「必要な人間には誰でも会うさ。三流記者でも、記者としての良心はある」
「彼女、おれのことなんか言ってたっすか」
「話題も豊富だし、遊び方も洗練されてて、一緒に居ると飽きないってな」
「夏原祐子が、言ったんすか?」
「まあ……そんなようなことだった」
これから先、夏原祐子との関係で及川照夫に地獄が待っていたとしても、そんなこと俺の知ったことではない。この男はちょっとした地獄ぐらい、鼻歌を歌って観光旅行でもして来てしまう。
「島村由実が殺されたという前提では、思い当たることは、なにもないということか」と、少しうんざりしながら、俺が言った。
「ありっこないっすよ。だって、柚木さんだって本当はただの事故だと思ってるんっしょう?」
「俺は、商売にならんかなと思っただけさ。君が由実に最後に会ったのは、いつだった」
「それがさあ、事故のあった二日前なんっすよ。学食で一緒んなって、それっきり」
「なにを話した」
「なにって……夏休みの話、したっけなあ。最後の夏休みだからハワイに行きたいとか言ってたけど」
「やっぱり、イベントホールの件では怒ってたかな」
「なんっすか」
「知らない?」
「さあ……」
ハンバーグランチが来て、ぞんざいに会釈をし、フォークだけを使って及川照夫がその皿をつつきはじめた。
「さて……」と、伝票をつまんで、俺が立ち上がった。
口をもぐもぐやりながら、気楽に、また及川照夫が頭を下げた。
「それじゃ、しっかりな」
「は?」
「夏原祐子のことさ。君が考えているより、青春はずっと短いかもしれない」
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いくら雨の多い夏でも、午後二時という時間はそれなりに暑い。
俺はシャツの背を汗で濡らしながら、ブロードウェイをまた中野駅の方向に歩いていた。夏原祐子と別れた直後の、なんとなく甘酸っぱい気分は、頭からはもう完全にすっ飛んでいた。いくら若ぶっても三十八は三十八だし、夏原祐子と一緒に学食でハンバーグランチが食えるわけではないのだ。せいぜい卒論の、『テレクラにおける中年サラリーマンの希望と挫折』の研究材料にされるのがおちだ。
俺は、途中の公衆電話で吉島冴子を呼び出し、七時に六本木で会う約束をして、そのまま中野駅に出た。池袋なんて中央線と山手線を乗り継いだほうが早いに決まっているが、俺はわざと地下鉄に乗り、この鬱陶しい午後をちょっとだけ時間つぶしに費やした。いくら三十八でも、たかだか二、三十分の時間を無駄遣いするぐらいの青春は、俺にもまだ残っている。
木戸千枝がバンドの練習をしているという貸しスタジオは、池袋駅から明治通りを十分ほど新宿寄りに戻った、うすぎたないビルの地下にあった。地下におりる階段も悪臭がするほどうす汚れていて、壁といわず天井といわず、素人バンドのコンサートのちらしが呻《うめ》くように貼りつけられていた。年になん度かは、気が向けばライブハウスに変わるという、場末を絵に描いたような貸しスタジオだ。
防音材入りの重いドアを引くと、ビルの解体工事が始まっているかと思うほどの轟音が充満していて、一瞬、俺はその音で外に弾き飛ばされそうになった。我慢できたのは、人生そのものが我慢であるという、生まれつきの俺の哲学のおかげだった。
ステージにだけ明かりのついた轟音の中を、俺はフロアを横切り、奥の狭いカウンターの前まで歩いていった。
「俺の声、聞こえるか」と、カウンターに肘をかけて、立ったままステージを見つめている髪のうすい男に、俺が言った。
「おたく、素人だね」と、ステージを見つめたまま、男が答えた。「これぐらいの音で聞こえるかなんて訊くの、素人にきまってるもんね」
「あんたが、オーナーかなにか」
「そんなとこ」
「あの中に……」と、ステージのほうを顎で指しながら、俺が訊いた。「木戸千枝って女の子、居るはずなんだが」
「目も悪いのかい」
「なんだって?」
「悪いのは耳だけじゃなくて、目も悪いのかってことさ」
男が、うさん臭そうに俺の顔に流し目をくれ、その妙に尖った顎を、ぴくっとステージのほうにつき出した。
「あの中に女は一人っきゃ居ないぜ。見りゃわかりそうなもんだ」
ステージには、たしかに四人の人間らしき生き物が蠢いていて、それぞれがドラムのスティックをふり回したりギターをふり回したり、アクロバットのように躰をふり回したり、なにかにとり憑かれたように動き回っていた。最初は轟音としか聞こえなかった音も、よく聞くと一応はドラム、ベースギター、リードギター、ボーカルと分かれていて、それが世間でいうロックバンドらしいことは、なんとなく俺にも理解できた。そしてメンバーのまん中で、連獅子のように髪をふり乱してがなっているのは、言われてみれば、まあ、女のようだった。
「おたく、いくらか音楽はわかるん?」と、また男が俺に流し目をくれた。
「村田英雄と三波春夫の区別は、つく」
「あのボーカル、けっこういい線いってるんだよなあ。バックのメンバー入れ替えて、プロモーターでもつけりゃあさあ、ひょっとしたらひょっとするかもしんないぜ」
「その気があれば、自分でプロモートしたらいい」
「俺は見てるだけさ。十五年もずっと同じような連中見てきてさあ、恐いんだよなあ、へたにのめり込んで生活かけちゃって、こっちがそこまでやっても向こうは平気でやめちゃったりさあ。わかんねんだよなあ、連中の考えてること。それにやる気と才能があって、あとちょっと運があればさあ、俺なんかが手え出さなくてもちゃんと売れるもんさ。そういうもんじゃないかい?」
「まあ、そうかもな」
「おたく、千枝になんの用?」
「訊きたいことがあるだけ」
「興信所かなんか?」
「似たようなもんさ」
男が、一つ鼻を鳴らし、あとはもう俺に興味を示さず、轟音の元凶のほうにじっと耳をかたむけはじめた。俺はカウンターの丸椅子に腰をのせ、とにかくこの演奏が終わるのを待つことにした。いくら連中に体力があっても、まさか地球が滅亡する日まで叫びつづけるわけでもないだろう。
そのうち、急に轟音がやみ、代わってばかでかいクーラーの音が、ぶんぶんとスタジオに響きはじめた。
「千枝、お客さんだぜ」と、男がステージのほうに呼びかけた。
木戸千枝が肩で大きく息をつき、他のメンバーになにか言って、タオルを首にかけながら俺の前に歩いてきた。黒いズボンに黒いTシャツ、量の多い髪が汗で頬に貼りついて、覗き込まなければ顔立ちもわからない。
軽く声を出して、丸椅子に腰をのせ、肩で息をしながら、木戸千枝がタオルで手荒く顔を一拭きした。現れた顔は、意外にも獅子には似てなく、丸顔ではあったがそれなりの個性と人目を魅《ひ》く光のようなものを持っていた。
「島村由実さんのことで、聞きたいことがある」と、名刺を渡しながら、俺が言った。
「その前に、ビールを奢ってくれない?」と、汗の匂いを飛ばしながら、木戸千枝が遠くから俺の顔に視線を送ってきた。
「よかったら夕飯を奢ってもいい」
「ビールだけでいいわ。ここんちのクーラー、ちっとも効かないんだもの」
「それじゃ、ビール」と、髪のうすい男に、俺が言った。「バンドの他のメンバーにもな」
男がカウンターの中に入っていき、缶ビールを一本千枝の前に置いて、残りの三本を持ってステージのほうに歩いて行った。千枝はその間、上気した顔をしきりにタオルでこすりつづけていた。
ビールを半分ほど飲み干し、くーっと唸ってから、切れ長のよく光る目で、木戸千枝が俺の顔を見上げてきた。
「由実のことって、例の、事故のこと?」
「それ以外に俺とあの子は関係ないし、君とも関係はない」
にやっと、口元を歪めて、また木戸千枝が目を光らせた。
「あんた、いつもそういう口のきき方をするの」
「ハンフリー・ボガートに、似てるか」
「哀愁が足りないけど、でもわたし、そういうのってけっこう好き」
「お世辞はいらないさ。たかがビール一本だ」
俺は、ポケットから煙草の箱を取り出し、千枝にもすすめてから、使い捨てのライターで二本の煙草に火をつけた。
「君に訊きたいのは、先月の二十一日のことだ」と、思わずハンフリー・ボガートふうに煙を吐いて、俺が言った。「六月二十一日。つまり……」
「由実が事故にあった日ね」
「その日の十一時ごろ、彼女はどこかに出かけようとしてクルマに轢かれた。そんな時間に、彼女はどこに行こうとしたんだろう」
「彼氏の家じゃない?」
「彼氏って」
「上村さん。商事会社に勤めてる人」
「上村とはこの春に別れている。知らなかったのか」
丸めた唇から、短く煙を吐いて、木戸千枝が不思議そうに眉をつり上げた。
「由実、上村さんと別れたの? 知らなかったなあ」
「親友だったのに?」
「高校のときまでよ。だって、由実は大学に行って半分は花嫁修業みたいなことやってたし、わたしのほうは、ねえ? すっかりこれだもの」
「でも、まったくつき合わなくなったわけでは、ないだろう」
「そりゃあね。家が近かったからたまには寄ったり、電話でだべったりはしたけど、高校のときみたいじゃなかったわ」
「君のコンサートに来たこと、あったんじゃないのか」
「そう……」
煙草を灰皿でつぶし、ビールを口に流し込んでから、思い出したように、うんと木戸千枝がうなずいた。
「いつだったかなあ。五月ごろだったかなあ。そういえばそのとき、由実、他の男の子と一緒だったなあ」
「及川照夫?」
「及川……そうだったかしらね。なんか軽い感じの子でね。よく喋る子だった。十万円儲かったとか、そんなようなことを言ってたわ」
「十万……及川照夫が、そのコンサートの日に?」
「なんだか知らないけど、コンサートに来る前、他のクルマにこすられたんだって。それで十万円もらったとかね」
「由実さんも一緒にか」
「そうだと、思うわよ」
「警察は入れなかったのかな」
「元々がポンコツみたいなクルマだったらしいわよ。バンパーが曲がっただけなんだって。とにかくよく喋る子でね。由実、なんでこんな子を連れてきたのかなって思ったけど、よっぽど暇だったのよね。あれ、ぜったい由実の趣味じゃないもの」
「今度及川照夫に会ったら、君の感想を伝えておく」
「あれから由実の家に行ってないけど、姉さん、元気?」
「一応は元気で、まあ、冷静だ」
「いい人なのよね。高校のときなんか、わたし毎日由実の家に寄り込んで、いっつもご飯食べてた」
「上村って男は、元々は姉さんの恋人だったと聞いたが」
「そう……」
横目の視線を、息を止めて俺の顔に走らせ、木戸千枝がまたビールを一口、口に流し込んだ。
「柚木さん……だっけ? あんた、なんでそんなこと調べてるの」
「ただの商売」
「刑事でもないのに?」
「刑事が調べないことを調べるから、商売になる」
「調べて、それで、どうするのよ」
「島村由実を殺した犯人を捕まえる」
ひゅーっと、小さく、千枝が口笛を鳴らした。
「あれ、ただの事故だったんじゃないの」
「それを調べてるのさ。で、上村の件は?」
「それはね、あんたの言うとおり。でもあの姉さんて彼氏より妹を大事にする性格だから、へんなこじれ方はしなかったわ。上村さんにしてみれば、姉さんのそういうところが物足りなかったのかもね……そういえば、上村さん、由実のお葬式に来ていなかったっけ。わたしも不思議に思ったけど、まさかお葬式のとき、そんなこと訊くわけにいかないものねえ。由実、上村さんと別れてたんだ。そういうことだったんだ」
一人で勝手にうなずいている千枝の手に、俺が、ポケットから取り出した島村由実のアドレス帳を、そっと押し込んだ。
「その中に……」と、口を尖らせて表紙を眺めはじめた千枝に、俺が言った。「由実さんがあの時間に出かけて行きそうな友達、いないかな、家が近くで」
木戸千枝が、なにやら唸りながらしばらく中を眺めてから、頬をふくらませて、ぷすっと薄い唇を鳴らした。
「いないと思うな。高校のときの友達って、みんな電車に乗って行くようなところだもの。歩いて来られるとしたらわたしのとこぐらいだけど、わたし、あの日コンサートだったしね。それにここに書いてある名前、もう半分以上知らない人たち。だって、ねえ? 高校を出てから、もう三年以上たってるのよ」
「女同士の友情は変わりやすい、か」
「そういう意味じゃないの。だけど生き方の違いって、三年もすれば形に表れるじゃない。わたし、これ、趣味や道楽でやってるんじゃないの。武道館のステージに立てるまで、ぜったい頑張ってみせる」
「そのときは、一枚だけチケットを買わせてもらうさ。一人ぐらいおじさんのファンがいてもいいだろうしな」
木戸千枝が、生意気そうに鼻を曲げ、横目で俺の顔を眺めたまま、にやっと微笑んだ。
「さて……」と、俺の手にアドレス帳を押し返しながら、千枝が立ち上がった。「練習に戻らなくちゃ。このぼろスタジオ、二時間で五千円もふんだくるのよ。こういうのって、なにかの罪にならない?」
「民法では合法だけど、そのうち天罰はくだるかもしれない」
「そう願いたいわね。ビール、ご馳走さまでした」
ぺこりと頭を下げ、千枝がメンバーのほうに歩いていき、代わりに髪のうすい男がカウンターに戻ってきて、俺はビール代を払い、そのままスタジオを出た。こんな腐りかけた貸しスタジオからも、なにかの勘違いで、もしかしたら武道館のステージを踏めるぐらいの歌手が出ないともかぎらない。ありえないとはわかっていても、木戸千枝にはどこか、その『もしかしたら』を感じさせる雰囲気が漂っている。そしてこの世界には千枝と同じように『もしかしたら』を持った売れない歌手が、たぶんなん百もなん千もなん万もいて、そしてやはり『もしかしたら』を抱え込んだまま時代の中に消えていくのだ。そのことについて、俺に特別な感想があるわけではない。ただ木戸千枝が本当に武道館のステージに立ったときは、チケットの一枚ぐらい買ってやってもいいかなと、そう思っただけのことだった。
貸しスタジオを出て、池袋駅に戻る途中、俺は道端の喫茶店に寄り込んで、電話機に一番近い席に腰をおろした。
ビールを注文してから、俺は島村由実のアドレス帳を取り出し、その三十人ほどの名前を頭から読み直してみた。最初はてっきりアイウエオ順に並んでいると思っていたが、読み返してみると順序はばらばらで、順序づけ自体もどうやら気分の問題らしかった。事実及川照夫の名前は、三十人のうちのずっと下に書いてある。
俺はレジのところで、百円玉を両替してもらい、まず及川照夫のアパートに電話を入れてみた。及川はまだアルバイト先から戻ってはいなかった。次に電話を入れたのは、夏原祐子の部屋だった。祐子も留守ではあったが、受話器からは留守であることを告げる、とぼけたようなテープの声が聞こえてきた。初めてこの声を聞いたときからまだ半日もたっていないのに、妙に懐かしくて、声を聞きながら俺は思わず苦笑していた。女の子に神経がこんなふうに反応してしまうのは、商売上はもとより、俺の人生にとっても決して好ましいことではない。面倒を抱え込むにも、限度がある。
俺は店の電話帳を借りて、一度席に戻り、『サンフラワー』の番号を探してから、また電話に戻ってその番号にかけ直してみた。電話に出たのは、あの妙に太っていて、妙に厚化粧の、及川照夫の親戚だとかいうおばさんだった。
「週刊誌の話、決まったんかい?」と、俺が名前を言うなり、まずおばさんのほうから訊いてきた。
「これから編集長と相談するところさ。及川くん、まだそっちに居るかな」
「とっくに帰ったよ。アルバイトは昼までだからさあ」
「アパートに電話しても、出ないんだけどな」
「あんたねえ。今どきの若いもんが、アルバイトが終わったからってそのまんま家に帰るもんかいね。遊びに行ってるにきまってるじゃないか」
「及川くんの行きそうなところ、知ってる?」
「あたしがかい? あたしがどうしててるちゃんの行き場所、知らなきゃいけないんだいね」
「おばさん、及川くんの義理の叔母さんだっていうじゃないか」
「そりゃそうだけどね。だけど一緒に暮してるわけじゃないしさ。それにあんた、たとえあたしがてるちゃんの母親だったとしたって、今どきの若いもんがどこへ遊びに行くかなんて、わかるわけないじゃないかさ」
「その……」と、一つ咳払いをしてから、俺が言った。「今年の五月ごろ、及川くんがクルマの接触事故を起こした話、おばさん、知ってる?」
「事故? 五月ごろ? てるちゃんが?」
「事故というほどのことでは、なかったかもしれないが……」
おばさんが、しばらく電話の中で唸り、それからうんうんうんと三度、猛烈な勢いでうなずいた。
「そういやそんなこと、あったっけ。だけどありゃ事故なんてもんじゃなかったらしいよ。あんた、てるちゃんのクルマ、見たことないだろう」
「あいにくな」
「そりゃもう、こんなものがどうして走るんか不思議なぐらいなやつでさ。走ってる最中にハンドルが取れたって、あたしゃちっとも驚かないねえ」
「だけど、五月ごろ、他のクルマと接触したことは事実なんだよな」
「そうなんだよ。向こうのクルマはだいぶへこんだらしいんだけどね。てるちゃんのやつはなんとかってところがちょっと曲がっただけでさ。あんなのは事故なんて言わないんじゃないかねえ」
「及川くんのクルマは、白いチェイサーか」
「あたしにクルマの名前なんか、わかるわけないじゃないかさ。だけどてるちゃんのクルマは白いやつじゃないよ。まっ赤くってさ、横に線が入ってるちっちゃいクルマ」
「それで、その接触事故は、相手のほうが悪かったんだよな」
「どうだかねえ。そんなこと……」
「相手のほうが金を払ったと、そう聞いたけど?」
「そういや、そんなこと言ってたっけかねえ。だけどそんなこと、直接てるちゃんに訊けばいいじゃないか」
「連絡が取れないからおばさんに訊いてるのさ。話の内容によっちゃ、おばさんの名前だって週刊誌に出るかもしれないぜ」
おばさんが、絶句して、電話の向こうで歌舞伎のように見得を切っている光景が、俺の頭の中に大映しで蘇った。
「だからさ」と、俺がつづけた。「そのときのこと、詳しく聞かせてくれないかな」
「詳しくったって……あのね、さっきも言ったけどさ、あたしはてるちゃんと一緒に住んでるわけじゃないしね。てるちゃんがふだんどんなところに遊びに行って、どんな友達とつき合ってるとかさ、そんなことぜんぜん知らないもんねえ」
「その接触事故は、五月のいつごろだった?」
「いつ……そうだいねえ、五月の、連休すぎだったと思うけどねえ」
「友達も一緒だったと言わなかったか。先月交通事故で死んだ、女の子の友達」
「どうだったかねえ。聞かなかったねえ。やっぱしそういうこと、直接てるちゃんに訊いたほうがいんじゃないかい? 遊んでるったって部屋に帰らないわけじゃないんだしさあ。夜中んなりゃあ帰ってくると思うよ。今の若いもんは夜中だってへっちゃらだからね。夜中にでも電話してみないね」
「まあ、そうだな」
「あたしの話、役に立ったかい?」
「編集長から金一封もらったら、おばさんに赤い薔薇でも贈ってやるよ」
「馬鹿かいあんた、あたしゃ花屋だよ。そっちにその気があるんなら、ウイスキーの一本でも持ってきておくれな」
「今度行くときは、ダルマでも持っていくさ。もちろん赤い顔して、目鼻のついてるやつじゃない、もう一つのやつをな」
俺はもう、金輪際このおばさんに会うことはないと確信しながら、一応礼を言い、電話を切った。
自分の席に戻り、ビールで喉を湿らせながら、その黄色い表紙のアドレス帳を、俺はまた手の中でいじくりはじめた。俺のアドレス帳なんて黒くて古くてぶ厚くて、消しがあったり書き込みがあったり、関係のないメモがあったり、なん年使っているか覚えていないような代物だったが、女子大生の備品は、さすがに趣味がちがう。高価なものではなかったが、生きていたころの島村由実の主張のようなものは、適確に感じられる。正月とか四月の年度始めとかに、毎年新しく作り直すのだろう。これは今年の正月に変えたものだ。そうでなければ、上村英樹の名前が残っているはずはない。
ぼんやりページをめくっているうちに、ふと、俺の目がSSKとだけ書かれている電話番号にひっかかった。最初はスポーツクラブの名前かとも思ったが、テニスクラブや水泳教室の名前は、ちゃんとフルネームで書いてある。SSK……スペシャル・セックス・株式会社? まさか。
俺は半信半疑で立ち上がり、また電話のところに行って、SSKの番号に電話を入れてみた。間違い電話だと言って切れば、それで済む。
たった一回のコールで、ばかに元気のいいおばさんの声が飛び出してきた。
「はい。こちら石神井の自然を守る会事務局です」
とっさに、俺は週刊誌の名前を告げ、会長の在不在を尋ねた。
「こちら事務局ですので、ふだん会長はおこしにはなりません。なにか、取材のお申し込みでしょうか」
「できれば、と思いまして」
「それでは会長のスケジュールを調整して、こちらからお電話をさしあげましょうか」
「いえ、今たまたま石神井に居るもので、ついでにお目にかかれたらと思っただけです。わたしのほうもスケジュールを調整して、また連絡いたします。失礼しました」
一方的に電話を切り、腋の下に冷や汗を感じながら、席に戻って、俺は残っていたビールを一気に飲み干した。『石神井の自然を守る会』……SSKか、なるほど。
それから俺は、煙草を一本吸いおわるまでソファに凭れてから、腕時計を覗いて、立ち上がった。七時までには三時間ある。一度部屋に戻って、シャワーを浴びて、シャツぐらいは替えていかねばなるまい。どっちみち今日は長い夜になるのだ。
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湿気が多くて、昼の気温は上がらないくせに、それで日が落ちたからってべつに涼しくなるわけでもない。そういえば今年はまだ蝉が鳴いているのを聞いたことがない。ふだんの年、いつごろから蝉が鳴くのかは知らないが、いくらなんでも七月も末になれば鳴きはじめるだろう。今年は最後まで蝉は鳴かないのかもしれないし、ジャイアンツは優勝しないのかもしれないし、だとすればとんでもない馬鹿がソ連の大統領になって、それで核戦争が起こって地球が滅亡してしまうかもしれない。こんな陰気な天気ばかりつづくと、どんなことが起こっても、まるで不思議だとは思わなくなる。
もともと俺は、六本木という街が好きではない。芸能人やらヤクザやら、わけのわからない横文字商売の連中が集まって、意識的に閉鎖的な雰囲気を醸し出している。俺も今では横文字商売だから、もちろん六本木に文句を言ったら生きてはいけない。それどころか東京自体で生きていけなくなる。だからって俺はやはり東京が好きにはなれないし、六本木が好きになれない。俺が東京にへばりついている理由は、俺みたいな人間は田舎では生きていく場所がないという、それだけのことだ。
俺と冴子が行った店は、六本木の交差点を防衛庁側に五分ばかり歩いて、路地を百メートルほど入った、あまり賑やかではない一画にあった。広いスペースに細長いカウンターがあり、フロアにも小さめのテーブルがゆったりと配置されている。もっと遅い時間になれば、横文字商売と、そいつらに群がるかすれた声を出す女たちではやりそうな雰囲気の店だった。
俺たちは、わざとカウンターの一番奥に座り、冴子はドライマティーニ、俺はバーボンのオン・ザ・ロックを注文した。
「桜田門に、君専用の衣裳室があるらしいな」と、一目見て昨日とは違う冴子の服装を、本心から尊敬して眺めながら、俺が言った。
「家に寄って着がえてから行ったの。あなたとは、立場がちがうわ」
「君と俺の立場がちがうことには、俺だって感謝しているさ」
「そういう意味じゃなくて、あなたのように立場をかんたんに放り出せる人が、羨しいってこと」
特別、昨夜喧嘩をした覚えもないから、昼間仕事でなにか面白くないことでもあったのだろう。
「島村香絵という女……」と、眉を寄せて、深く息をしながらマティーニのグラスを眺めはじめた冴子に、俺が言った。「君の印象では、どんな感じだった」
「ご自分でたっぷり、観察したでしょう」
「君の印象を、聞きたいんだ」
カウンターに肘をついて、訝しげに冴子が首を横にかたむけた。
「彼女のほうに、なにか問題があるの」
「そうじゃないが、いくら妹思いでも、ものには限度がある」
「どういうことかしら」
「妹の由実が婚約していた上村という男は、もともと香絵の彼氏だったらしい。つまり香絵は、自分の男を妹に取られたことになる。それでも男や妹を恨みもせず、積極的に二人を結婚させようとしていた。そんな善人、俺は今までお目にかかったことがない」
「それは、あなたが、人殺しやヤクザばかり相手にしてきたからよ。わたし、島村香絵の妹を思う気持ちは、本当だと思うな」
「彼女は心の底で、やっぱり上村を許していない」
「人間はいろんなことを、いろんなふうに我慢できる生き物だわ。草平さん、まさか島村香絵が妹を殺したと、そういうふうに思ってるの」
「そこまで疑いぶかくはないさ。もし香絵がやったのなら、交通事故で片づきそうな事件を自分で蒸し返すはずはない。ただ、どうもな、あの女の心理が理解できないんだ」
口の端で、うすく笑い、冴子が、マティーニのグラスでこつんと自分の前歯を叩いた。
「あなた、女の心理がわからなくて、悩むような人だったの」
「俺はいつだってそれで悩んでる。女に比べれば、ヤクザも人殺しも可愛いもんさ」
「いい女は特に、でしょう?」
話をそこに持っていきたくなかったので、俺は、無理やり話題を変えることにした。
「今朝、知子から電話があった」と、バーボンを軽くなめてから、俺が言った。「もちろん全面的に、俺が謝った」
「知子さんも、やっぱり寂しいのよ」
「君に、そう言ったのか」
「有名になったり、仕事が忙しかったりすることと、女としての本質的な寂しさは別な問題なの。草平さんにはわからないわ」
「だからって社会に八つ当たりしてたら、そのうち社会から自分が袋叩きにあう。加奈子だっていくらかは、ものがわかる歳ごろだ」
「今さら加奈子ちゃんのことを言うなんて、勝手な人ね」
「もちろん、俺は勝手だけど、俺と知子の間で加奈子がふり回されるのが、そいつが、ちょっと心配なだけさ」
「一人前に、人の子の親みたいなこと言うじゃないの」
「俺は……昼間、なにかあったのか」
ふんと笑って、いつもの癖で、冴子が皮肉っぽく口の端を歪めた。
「あんなお子様相談室みたいなところで、なにかあるわけないでしょう」
「社会の縮図は見られる、ちがうか?」
「縮図でも拡大図でも、わたしは見るだけではいやなの。わたしは自分の躰で地図の中を歩きたいの」
せっかく話を変えたのに、また苦手な話題になりそうだったので、俺はグラスを空け、カウンターの中にバーボンのおかわりを注文した。冴子の苛立ちぐらい、俺にだってよくわかっている。俺がわかっていることは、本当は冴子にだってよくわかっているのだ。広報課の『都民相談室』室長なんて、キャリア入庁のエリートに耐えられる仕事ではない。
バーテンが、新しいグラスを持ってきて、コースターと一緒にそのグラスを俺の前に差し出した。まだ三十にはなっていないが、鼻の下に短い髭をはやした、水商売の臭気《におい》が染みきったような男だった。
「いい店じゃないか」と、指の先でコースターを手前に滑らせながら、バーテンに、俺が言った。
バーテンが俺と冴子の顔を見くらべ、気取った顎の出し方で、ひょいとうなずいた。
「お客さんたち、初めてでしたっけ」
「人に聞いてな。六本木じゃ珍しく、落ち着いたいい店があるって」
「うちのお客さん、わりかしアダルトって感じの人、多いですからね。テレビ局の人なんかもよく来てくれますよ」
「東亜商事の上村なんかも、よく来るんだろう」
「東亜商事の、上村さん……」
口を半分開いたまま、肩をすくめて、バーテンが怪訝《けげん》そうに首をひねった。
「それじゃ、早川のほうだったかな」
「早川さんて、デザイナーの早川さん?」
「早川功さ」
「お客さん、早川さんのお知り合いだったんですか」
「まあ……な」
「早川さんならボトルが入ってますよ。言ってくれれば、それを出しましたんに」
「それほどの仲じゃない。ちょっと、知ってる程度だ」
「お客さんも、それじゃ、やっぱ広告関係ですか」
「似たようなもんさ。こっちは情報を仕入れるほうだけどな」
「マスコミ関係、多いんですよ。うちのお客さん、クリエーター関係の人も」
「ところで……」と、新しいグラスに口をつけてから、俺が訊いた。「上村って男、本当に覚えがないか」
「上村さん……ねえ」
「先月の二十一日、早川と一緒に十一時まで、ここで飲んでいたはずなんだがな」
バーテンの鼻の下の髭が、陰険に震え、鋭い視線が一瞬、俺の顔を撫でていった。
「先月のことなんか、覚えてないですよ。人間てそういうもんじゃないですか? ふつうそういうもんですよ」
「俺はふつうのことなんか訊いてない。おまえさんの、特殊な記憶を訊いてるんだ」
「だから……お客さん、警察の人?」
「どっちだってかまわん。おまえさんが警察好きなら、そういうことにしてもいい。よかったらこの店を警官のたまり場にしてやってもいいぜ」
「だけど……」
バーテンの目が、忙しなく動いて、尖った喉仏が大きく上下した。
「本当ですよ。一ヵ月も前のことなんか、本当に覚えてないですよ」
「練馬西署の刑事が聞き込みに来たはずだ。それは覚えてるだろう。それともこの店は、覚えきれないぐらい刑事が聞き込みに来るのか」
「俺……その、刑事さんなんて、会ったこと、ないですもん」
「それじゃ、おまえさんもこれで一つ、世界が広くなったわけだ」
面倒臭くなって、つい、俺は冴子のほうに目配せをしてしまった。
冴子が溜息をつき、ハンドバッグから桜の代紋つきの国家権力を取り出して、それをバーテンの鼻先に、ひょいとつき付けた。
「本当は内緒なんだ」と、顎が外れかかっているバーテンに、俺が言った。「警察にこんないい女がいるとわかったら、日本中の男がみんな警官になりたがる」
えへっと、止めていた息を吐いて、バーテンが指の先で鼻髭を一こすりした。
「二十一日のことは覚えてなくても、そのあと刑事が聞き込みに来たことは、覚えてるだろう」
「それが、その……」と、眉を寄せて、バーテンが答えた。「そういうこと、たしかに一度だけありましたっけ。だけど十一時なんて時間、うちの店は一番混むときですからね。カウンターにでも座れば覚えてますけど、そうじゃなかったら、誰が来てたかなんて覚えちゃいませんよ。早川さんは週に一度ぐらい来てくれますからね、その早川さんが来てたって言うんなら、やっぱ来てたんじゃないですかねえ」
つまり、そういうことなのだ。練馬西署の刑事は早川功にだけ上村のアリバイ確認をやり、この店での裏は取りきっていないということだ。ずさんと言えばずさんだが、警察の捜査なんて、一般の人間が考えるほど緻密なものではない。
バーボンを飲み干し、グラスを滑らせて、俺が言った。
「こいつと、それから、マティーニをもう一杯」
バーテンが二つのグラスを下げていき、俺は煙草を取り出して、店の紙マッチで火をつけた。
「悪かったな。そんなつもりで、君を誘ったんじゃないんだ」
冴子が、小さく首をふり、目を冷たい色で笑わせてから、曖昧なかたちに口の端を歪めてみせた。
「同じ仕事をするのなら、警察をやめる必要はなかったのにね」
「同じ仕事では、ないさ。今は、いやならいつでも逃げ出せる」
「あのときだって誰もあなたに責任をとれとは言わなかった。現実に、正当防衛で内部処理されたじゃない」
「俺は相手の拳銃が空になったことはわかっていた。俺はやつが憎くて、引金をひいただけさ」
「でも相手は、警官を二人も殺した男よ。誰もあなたを責めないし、警察も組織をあげてあなたを庇いつづける。特進の話だってあったのに」
「人を殺して出世する世界が、まともな世界だと思うか。戦争をやってるわけじゃなし……俺は、人間一人が負いきれる責任の量に、限界があると気がついただけだ」
溜息をつき、またこつんと、冴子が前歯にグラスの縁をうちつけた。
「世の中には、いつも誰か責任をとる人間は必要だわ。それが草平さんだとは、言っていないけど」
「君が言う責任と、俺が言う責任と、責任の質がちがう気がする」
「抽象的な責任なんて、わたしにはただのロマンチシズムとしか、思えないわ」
冴子が、ハンドバッグから煙草を取り出し、金のダンヒルで、優雅に火をつけた。それが『議論は打ち切り』という意思表示のようだったので、冴子の意思に、俺も素直に従うことにした。こんなところで、『人間とはなにか』なんて、本気で考える気分になるはずはない。
「だけど、ねえ……」と、細く煙を吐いてから、自分の胸を自分の腕で抱き込んで、冴子が言った。「上村はくさいわね。早川功の住所、調べましょうか」
灰皿でゆっくり煙草をつぶしながら、意識を事件のほうに戻して、俺が答えた。
「一応頼んでおくが、たぶん、もっと早くけりがつく」
バーテンがマティーニとオン・ザ・ロックを持ってきて、今度は逃げるように、カウンターの反対側に消えていった。
「わたしの立場もあるわけだし、無茶は、しないでね」
「今度の事件は、どうもすっきりしない。全体がぼやけていて、理屈で考えればただの交通事故だと思うしかないんだが、それでいて、どうも、なにかが引っかかる。たとえ上村のアリバイが崩せたとしても、それで片づく事件だとは思えないんだ」
「女の立場で、ということなら、わたしにも島村香絵の気持ちはわかるわ。もし上村が犯人でなかったとしても、彼女にしてみれば気持ちの整理はしたいのよ」
「島村香絵の気持ちと、事件の本質とは別の問題さ」
「事件にはみんな人間が関わっていて、その人間が一人一人、それぞれに気持ちをもっているものだわ」
「だから、そういうことと事件とは、よけいに切り離して考える必要がある。今さら俺が、君に説教することでもないだろう」
なにか言いかけた冴子を、目で制し、椅子をおりて、俺は電話のところに歩いていった。
まず及川照夫のアパートに電話を入れてみたが、やはり、及川は帰っていなかった。夏原祐子の電話も『留守』になったままで、しばらくその声を聞いてから、用件を言わずに俺は電話を切った。
最後に電話をかけたのは、島村香絵のマンションだった。独身の、それも男から見てじゅうぶんすぎるほどいい女が、こんな時間に一人で部屋に居る事実は納得できなかったが、とにかく島村香絵は帰っていた。
「昨日、わたしに言い忘れたことがありましたね」
一瞬言葉をつまらせたあと、それでも落ち着いた声で、島村香絵が訊き返した。
「なんの、ことでしょうか?」
「五月の連休すぎ、由実さんはちょっとした接触事故を起こしてる。もちろん由実さん自身がではなく、及川という学生のクルマに乗っていてだが。まさかそのことを、由実さんから聞いていなかったわけではないでしょう」
「おっしゃる意味が、わかりませんが」
「ですから、五月の……」
「由実から聞いていれば、昨日、柚木さんにお話ししていたと思います」
今度は俺のほうが言葉につまり、とまってしまった息を、送話器から顔をそむけて強く吐き出した。
「本当に、事故のこと、聞いていないわけですか」
「聞いておりませんわ。そのこと、なにか大事なことなんでしょうか」
「いや、乗っていたクルマが事故を起こしたら、当然姉さんの君に報告ぐらいはしたろうと思っただけです。もしかしたら、由実さん自身、思い出さないほど軽いものだったのかもしれない。たぶん、そういうことです」
俺は、わざとそこで言葉を切り、かすかに伝わってくる島村香絵の呼吸の音に、少しの間聞き入っていた。
「それで……」と、気まずさが弾ける直前で、俺が言った。「そのこと以外に、なにか思い出したことはないかな」
「やっぱり、なにも思いつかないんです。一生懸命考えてはいるんですけど」
「君、飯の支度していた?」
「は?」
「七時ごろ帰ってきて、着替えをして、それで今君は夕飯の支度をしていた、ちがうかな」
「どうして、わかるんですか」
「俺が今まで会ったなかで、君はかなりへんな部類の女だからさ。そんなことはどうでもいいけど、こっちにもまだ報告するほどの情報はない。ただ今度報告するときは、どこかのレストランで飯でも食いながらやりたいもんです。その費用は、もちろん経費から除外します」
返事を待たずに、電話を切り、俺はわざとゆっくり、時間をかけてカウンターに戻っていった。冴子が今の電話を聞いていたとは思わなかったが、一人前に掌が汗で濡れていて、自分で自信をもっているほど俺の神経もタフではないらしかった。
「まだ時間はある。どこかで飲みなおすか、それとも飯でも食うか……」と、汗ばんだ掌をズボンのポケットに隠しながら、椅子に尻をのせて、俺が言った。
冴子が唇をすぼめ、目を細めて、広い額に無理やりつくったような太い皺を刻ませた。
「今夜は早めに帰るわ。明日、あの人、帰ってくるの」
冴子の亭主は、法務省の役人だが、今は大阪の地方検察庁に出向している。
「電話で、言えばよかったじゃないか」
「あのあとに連絡が来たのよ。会議で、四日ほど東京に居るらしいわ」
冴子の屈託の原因は、なるほど、そのことにあったのか。
「四日間、俺に、一生懸命仕事をしろという意味かな」
「都合がいいじゃない? あなたにとっても」
「俺は君の都合に合わせて、人生を設計してるんだ」
「やめなさいね、会う女ごとにそういう言い方をするの。わたしでも腹が立つこと、あるんだから」
耳では聞こえなくても、テレパシーみたいなもので、冴子はちゃんと俺が香絵に言った台詞を聞いていたのだろう。もともと冴子にはそういう能力があるし、女そのものに、男には理解できないへんな才能が備わっている。男なんてのはしょせん、女というお釈迦様の掌の中でもがく、孫悟空みたいなものでしかない。
俺たちはそれから、しばらく黙ってマティーニとバーボンのグラスをなめ、お互いに一つずつ溜息をついて、黙って、カウンターの椅子をおりた。冴子の屈託も理解できるし、俺自身の憂鬱も理解していたが、人生には理解しただけでは意味のないことなんて、いくらでもある。
店を出たところで、冴子をタクシーに乗せ、俺は地下鉄の駅に戻って、そこから日比谷線で都立大学駅に出た。上村英樹のマンションは目黒通りを柿の木坂方面に戻った、商店街と住宅街の境目あたりにあった。いかにも若い女が喜んでついてきそうな外観は、悪趣味な感じもしたが、これが独身貴族とかいうやつのステータスなのだろう。
俺は郵便受けで上村が帰っていないことを確かめ、駅のほうに戻って、途中のレストランで腹ごしらえをすることにした。商事会社の営業部員が、そう早く帰ってくるはずはない。まして上役に見込まれて女婿《むすめむこ》になろうというほどの男なら、性格はともかく、仕事の面ではそれなりの能力は持っているのだろう。帰りは早くても十時。へたをすれば夜中をすぎる。いくら張り込みに慣れているといっても、他人の帰りをひたすら待つというのは、それほど面白い仕事ではない。こんなことを十五年もやっていたら、俺でなくても性格は歪んでしまう。知子が俺との生活を我慢できなかったのは、知子の感性に常識があったからだ。
そのレストランで十時までねばり、俺は上村のマンションまで戻って、となりのビルの陰で張り込みを開始した。一時間のあいだに男が二人マンションに入っていったが、年齢からして、そのどちらも上村ではなさそうだった。
十一時半。背の高い紺のスーツを着た男がマンションに入っていき、目星をつけて、俺はゆっくりとそのあとに付いていった。男は『上村』のネームのついた郵便受けから、新聞と郵便物を取り出し、差出人の名前をたしかめるように、ちょっとその場所に立ち止まっていた。
「上村さんですね」と、歩いていって、距離をつめすぎないように注意しながら、俺が声をかけた。
上村が郵便物から顔を上げ、緊張した目つきで俺の顔を見返してきた。
「訊きたいことがあって、待たせてもらった」
「警察の、方ですか」
「週刊誌のほうさ」
上村の目から、露骨に緊張が消えていき、その適度に日焼けした顔が大きく上のほうに反り返った。一流商社員と半端な記者とでは格がちがうということを、顔の角度で見せつけようとでもしている感じだった。こういう男には腹が立つが、逆に言えばあつかいやすいタイプでもある。
「島村由実の件さ。時間はとらせない」
「僕としては、話すことはありませんけどね」
「君に話すことがないぐらいはわかってる。こっちが訊きたいだけだ」
「だから……」
「『事件を追う』という特集を組むことになってね。最近起きた未解決殺人事件を追跡調査している。君の話を聞かないと、こっちも商売にならんのさ」
「あれは、ただの交通事故だったはずだ」
「葬式にも出なかったのに、ばかに詳しいじゃないか」
「それぐらい新聞で……とにかく、僕としてはなにも話すことはありません。遅いですから、失礼します」
歩きだした上村の首のうしろを目がけて、わざと抑揚のない声で、俺が言った。
「週刊誌の読者ってのは、気楽なもんだ。一流商社のエリートが殺人事件の犯人らしいなんて記事を読むと、その日は酒がうまくなるらしい」
上村が、肩に力を入れてふり返り、眉間に皺をよせて、一歩俺のほうにつめ寄ってきた。
「つまらん脅迫はよして下さい。脅迫と人権侵害で、警察を呼んでもいいんですよ」
「警察を呼ばれたら、俺もなんで君を追いかけているのか、喋らなくてはならない。特種《とくだね》は逃すが、いっそのこと俺のほうで呼んでやろうか」
日焼けしている上村の顔から、血の気が退《ひ》き、ワイシャツのカラーが食い込んだ首の筋が、痙攣のように引きつった。
「立ち話で済む話でもないし、君の部屋を見学したいわけでもない。近くに開いてるスナックがあった。二、三十分時間を割くだけで平和な生活に戻れるとしたら、楽なもんじゃないか」
口の中で唸った上村に、背を向け、俺は勝手に出口のほうに歩きだした。上村が付いてくることはわかっていた。一流商社員とヤクザな雑誌記者とでは、失うものの大きさが違いすぎる。守るものが大きければそれだけ人間は臆病になり、相手のはったりを見抜く能力も低下する。その相手の弱みにつけ込んで情報を聞き出そうというのだから、やっぱりこれは、汚い商売なのだ。
俺と上村は目黒通りぞいにある地下のスナックに入り、ボックス席に向かい合って、それぞれにビールを注文した。俺のほうはこれで今日の仕事は終わりだし、上村のほうも、今夜は酔っ払って眠るしか方法はないだろう。
「君の言ったとおり、今夜はもう遅い」と、勝手に注いだビールを口に運んでから、俺が言った。「遠回りをするのはお互いにばかばかしい。最初に言っておくが、六月二十一日の君のアリバイは、崩れている」
グラスを持った上村の手が、細かく震え、それが全身に伝わって、目がぎこちなく宙を漂いはじめた。警察の取り調べ室でもよく出合った光景だが、堅気《かたぎ》で、それも一般的にはエリートと呼ばれる人種ほど、自分の日常と切り離された部分ではぶざまな狼狽を見せる。できれば俺だって、人間のこんな弱い面を見たくはないのだが。
「なんのことか、わかりませんね」と、それでも精一杯の意地なのか、昂然と顔を上げて、上村が言った。
「早川功に電話をしてみたらどうだ。君とは、絶交になるかもしれない」
一瞬、上村が腰を浮かせかけ、電話と俺の顔を見くらべてから、長い息を吐いてビールを口に持っていった。ここで電話に飛びつくこと自体、早川と自分との密約を証明してしまうことになる。上村自身もそう、判断したのだろう。
「六本木の例の店でも、裏は取った。六月の二十一日、君と早川はあの店に行ってない。ふつう人間は一ヵ月も前のことなんか覚えちゃいないが、あの日はたまたま、なんとか隊という歌うたいが来て店中がパニックになったそうだ。そういう日のことは、人間はちゃんと覚えてる。君も、運が悪かったな」
「それで、つまり、だからなんだっていうんですか」
「だからなんだ?」
ビールを注ぎ足し、煙草に火をつけてから、俺が言った。
「あの事件は君にアリバイがあったからこそ、警察は交通事故で処理したんだ。君以外に島村由実と利害関係を持っている人間はいなかった。少なくとも、警察ではそう思った。その君のアリバイが実は偽証だということが証明された。だからなんだなんて、呑気に構えている場合ではないだろう」
「つまり、その……」
「別れ話のもつれから、君が島村由実を轢き殺した」
「そんな、ば、ばかな」
テーブルの上で握った上村のグラスが、音をたてて震え、端整といってもいいその顔から、汗が不必要に噴き出した。
「由実との間では、話はついていたんです。問題はなにも無かった。なぜ僕が由実を殺さなくちゃいけないんです」
「なぜ君が島村由実を殺さなくてはならなかったのか、俺もそれを訊いてるんだよ」
「僕は、やっていない」
「それならなぜ、アリバイ工作なんかしたんだ?」
「それは……」
「『ただ恐かったから』とは言わせない。殺人事件でのアリバイ工作は、それ自体で罪になる。君も早川も軽く考えすぎている。仮に君が犯人ではなかったとしても、偽証罪のほうはちゃんと成立する。その結果がどうなるか、君だってわからないわけじゃあるまい。法律的には軽くても、社会的な君の立場はどうなる。会社に知られないで済むと思うか。警察では内緒にしてくれるかもしれないが、俺のほうは君にそんな義理はない。自分でもいやな商売だとは思うが、俺だって食っていかなくてはならない」
「つまり……」と、握ったグラスに力を入れて、上村が言った。「金、ですか?」
「殺人事件を握りつぶせるほどの金、君、持ってるわけか」
「殺人事件だなんて、そんなこと、僕には関係ありませんよ」
「それじゃなんのためのアリバイ工作だった」
言い淀んだ上村の顔に、吐いた煙草の煙が届くのを待ってから、俺が言った。
「女……そうだろう?」
上村が、頬の筋肉をひくつかせ、ネクタイをゆるめて、取り出したハンカチで忙しなく顔の汗を拭きはじめた。
「君はあの夜、女と一緒だった。そのことは早川も知っていた。だからこそ早川は、かんたんに君のアリバイ証人になってくれた。そういうことなんだろう。上役の娘との結婚話がある君にとっては、他の女との関係が表沙汰になったら具合が悪い。どっちみち事件とは関係ないことだ。頬被りしちまえ。君はそう思った、違うか?」
汗を拭いていた上村が、ハンカチをテーブルに放り出し、脚を組んで、天井に向かって長く息を吐き出した。
「だとしたら、どうだって言うんです」
「女の、名前は?」
「言えるはず、ないでしょう」
「俺のほうはかまわん。ただ君のアリバイが偽装だったことを警察に知らせて、そのあと週刊誌に書くだけのことだ」
上村がビールを口に運び、苦味を噛みしめるように黙り込んでから、グラスの中に、ふっと短い溜息をついた。
「もし、その……」と、探りを入れるような声で、上村が言った。「そういうこと、ぜんぶ話したとしたら、僕の立場はどうなるんです」
「君の立場なんかどうでもいいさ。俺が追いかけてるのは、島村由実を殺した犯人だ」
「本当に、あれ、ただの轢き逃げ事故じゃないんですね」
「無駄な仕事は嫌いでな。君が犯人でないと言うんなら、俺としてはその裏を取らなくてはならん。無理やり君の名前を表に出したいわけじゃない。君の立場がどうなるかは、君自身が決めることだ」
諦めたのか、観念したのか、新しいビールを注文して、それが来るのを待ってから、上村が言った。
「友田美紗。三ヵ月ぐらい前ディスコで知り合って、それからたまに会っていて、それで、ちょうどあの日も……」
「住所は?」
「板橋のほうらしいけど、詳しくは知りません」
「電話は、わかるよな」
上村が背広の内ポケットから手帳を取り出し、女の電話番号を言って、俺がその番号を自分の手帳に写し取った。
「三ヵ月前なら、島村由実とは、別れていたわけか」
うなずき、手帳をしまって、上村が新しいビールを自分のグラスに注ぎ足した。
「島村由実とはどういう経緯《いきさつ》だったんだ。もともと君は、姉さんの香絵とつき合っていたそうじゃないか」
「商売とはいえ、よく調べるもんですね」
「いい女が絡んだ事件には、へんに闘志が湧くタイプでな」
上村が、初めて笑い、腕を伸ばして俺のグラスにもビールを注ぎ足した。この男がなん人もの女を渡り歩いているとしても、それ自体が罪になるわけではない。だいいちそんなこと、俺だって文句を言える立場ではない。
「で、君と、島村香絵と由実とは、実際にはどういう関係だったんだ」
「知ってるでしょうけど」と、ビールを飲み干してから、上村が言った。「姉さんとは大学のゼミで一緒になって、それからつき合いはじめました。僕のほうは結婚してもいいと思っていたけど、向こうがその気になってくれなかったんです。理由はわかりません。由実が大学を出るまでとか、僕の仕事が安定するまでとか、とにかく、その、ちゃんとした男と女の関係になろうとしないんです。僕も待てなくなって……」
「つい妹のほうに手を出した」
「結果的には、そうですね。でも責任逃れをするわけじゃないけど、由実だって積極的でした。あいつ、好奇心が旺盛というか、茶目っけがあるというか、わざと僕とつき合って、それで姉さんの態度をはっきりさせてやろうとか、最初はそんなつもりだったと思います。僕のほうもそれを承知で、由実と調子を合わせてるうち、ずるずる関係が本物になって、気がついたら由実と結婚することになっていたんです」
「その間、香絵さんは、黙って見ていたのか」
「特別反対はしませんでした。僕が思っていたほど向こうは僕に関心がなかったといえば、それまでですけど。あの人のこと、本当は今でもよくわからないんです。僕とつき合っていたあいだもキス以上はさせなかったし、他に男がいたとも、思えないし」
俺もビールを飲み干し、今度は俺が二つのグラスに、それぞれビールを注ぎ足した。
「そのへんが、どうも納得できない」と、注いだビールを口に運びながら、まっすぐ上村の目を見返して、俺が言った。「あの島村香絵は、自分さえその気になればいくらでも自由に生きられる女だ。そのことを自覚できるぐらいの常識もある。そんな女が、どうしてあそこまでかたくなに暮らしているんだろう」
「それは、だから、そういう性格なんでしょうね」
「ただの性格の問題とも、思えんな」
上村の視線が、軽く俺の顔を撫で、それからその手が、ゆっくりとビールのグラスに伸びていった。
「あの姉妹の父親が死んだの、五年前だそうだが、そのころにはもう君と香絵さんはつき合っていたのか」
「つき合っては、いました。でも問題は、僕と由実のことでしょう」
「個人的な興味さ。五年前というと、君たちがいくつのときだ」
「大学三年の、終わりごろでした」
「母親はその前に死んでいて、今度は父親も死んで、ふつうなら誰かに頼りたくなるものだ。君は結婚する意思をもっていた。香絵さんも他に好きな男がいたわけじゃない。それでどうして君たちの仲が進まなかったのか……なにか特別な障害が、あったんじゃないのか」
「だから、それが、わからないわけですよ。さっきも言ったけど、けっきょく僕が思っていたほど向こうはこっちを思っていなかった、それだけのことでしょう」
「香絵さんには、本当に君以外の男はいなかったんだな」
「そんなこと、僕にはわかりませんよ。あのころあの人がなにを考えていたか、今だってわかりません」
「男ということではなくても、特別に親しかった人間とか、相談相手になっていた人間とか、そういうのはどうだ。大学の三年なら二十一だ。そんな歳で両親を亡くして、歳下の妹と二人だけになってしまった。経済的には問題なかったとしても、誰か頼りにする人間の一人や二人はいたはずだ。残念ながら、それは君ではなかったということだろうが」
上村が、喉仏を見せてビールをあおり、天井に向かって、短く息を吐いた。
「名前だけは、聞いたことがあります」と、俺の顔に視線を戻して、上村が言った。「具体的に香絵さんとその人がどういう関係か、そこまでは知りません。たしか、彼女が高校のときに通っていた塾の、教師だということでした」
「名前は?」
「両角《もろずみ》とかいってましたね。僕は会ったこともないし、会いたいとも思いませんでした」
「由実さんも、両角という男のことは、知ってたよな」
「知っていたでしょうね。でも、どうしてなんですか? 死んだのは由実のほうだし、僕はその由実と婚約していたんですよ」
「ただの個人的な興味だと言ったろう。それとも俺が、彼女に個人的な興味をもっちゃいけないとでも言いたいのか」
上村が鼻白んだような顔でビールを口に運び、俺は煙草に火をつけて、その煙を、軽く上村の顔にとばしてやった。
「それで、妹とはけっきょく、どういうことになったんだ」
「ですから、ゲームみたいな感じでつき合い始めたわけで……」と、疲れたように目を細めて、上村が言った。「僕も由実も、そのことがどこかに引っかかっていたんです。由実も結婚に実感は持っていなかったと思います、まだ大学生だったしね。なりゆきで婚約してしまって、それで姉さんの手前、ゲームだったとは言えないし、なんていうか、二人して恋人同士という芝居をしていた感じ、わかります?」
「だけど妹のほうとは、『ちゃんとした男と女の関係』では、あったんだろう」
「それは、そうですけど」
「上司の娘との結婚話が出たのは、いつのことだ」
「三月の、初めかな」
「由実は、どういう反応をした」
「褒めてはくれませんでしたね。ただ、お互い内心では割り切れないものを持っていたし、こうなるほうがよかったというか、由実にしてもほっとした部分はあったろうと思います。僕にしたって、サラリーマンとして生きていく以上、出世はしたいしね。勝手なことはわかっていますけど、これでよかったと、由実だってそう思っていたはずです」
「君がサラリーマンとして出世をすることに、文句はない。だが、女に関しては、もう少し慎重にやるべきだな」
上村が頭を掻き、顔をしかめて、背中を丸めながら、細かく首を横にふった。
「由実との別れ話に関しては、たいしたトラブルはなかった、そういうことか」
「そういうことです。だから殺人事件で、僕が由実を殺したなんて言われたら、こっちのほうがびっくりしちゃいますよ」
「島村由実が、君とのこと以外で、なにか問題を起こしていたようなことはなかったか。たとえば、しつこく付きまとっていた男がいたとか」
「八方美人的なところはあったけど、由実は、人間関係をさばくのはうまかったですよ」
「及川照夫という名前は?」
「さあ……一番仲がよかったのは、夏原祐子でした。変わった子だけど、へんな魅力のある子でね。由実のことは彼女が一番詳しいはずです」
「『石神井の自然を守る会』という名前、聞いたことはないか」
「石神井の、なんですか?」
「なければ、いいんだ。それで君が由実と最後に会ったのは、いつだった」
「三月の末だったと思います。正確な日にちは覚えていません」
「そのあと、島村香絵が君のところに行ったろう」
「由実とのことを訊かれて、僕も正直に話しました」
「彼女の様子は?」
「冷静でしたよ。でもあの人のことは、僕にはわかりません。面と向かって罵られたほうが、気は楽なんですけど」
「人生は、まあ、長いさ」と、伝票を引き寄せ、指の間に挟みながら、俺が言った。「君にもそのうち、いやでも、女の恐さがわかるときがくる」
考えてから、つまんだ伝票を、俺は強く上村の前に押し戻した。ここのビール代ぐらいは香絵ではなく、やはり上村が払うべきだろう。上村もこんな勘定で重役の椅子が買えるとしたら、安いものだ。
額に皺を寄せている上村に、会釈だけして、俺はそのまま出口に歩きだした。背中では上村がビールの追加を注文する声が、耳ざわりに聞こえていた。
俺はそのスナックの階段を小走りに駈け上がり、目黒通りの公衆電話に飛び込んで、とにかく、友田美紗とかいう女のところに電話を入れてみた。
寝ていたのか、それともそういう性格なのか、受話器からは投げやりな若い女の声が聞こえてきた。
「こちら、新宿警察署の青木と申します」と、威嚇にならない程度の低い声で、俺が言った。「夜分に恐れ入ります。ちょっと、お訊きしたいことがあります」
「あんた、これ、いたずら電話?」
「電話でご都合が悪ければ、これから伺ってもよろしいんですが」
「ええと、あの、本当に警察?」
「上村英樹さんのことを伺いたいだけです。よろしいですか」
「ええ、ええと、いいけど」
「先月の二十一日のこと、覚えておいでですね」
「先月って、六月よねえ」
「六月の二十一日のことです。予定表を確認していただけますか」
こういう女はたいしたスケジュールもないくせに、手帳かなにかに、しっかりと予定らしきものを書き込んでおくものだ。
なにかごそごそやる音が聞こえ、しばらくして、また育ちの悪そうな、投げやりな声が戻ってきた。
「いいわよ。それで、なに?」
「六月二十一日の午後十一時。あなたと上村さんが一緒におられたという事実が確認できれば、それでけっこうです。前後の経緯《いきさつ》は関係ありません。それにこのことは外部にはいっさい公表いたしません。いかがですか」
「六月二十一日の十一時。思い出したわよ。たしかにあたし、上村さんと一緒だったけど、それがなんなの」
「いえ。失礼しました。捜査上の参考にお訊きしたまでです。このことは外部に漏らしませんように。それから念のために申しますが、上村とはもうお会いにならないほうがご自身のためだと思います。それでは、ゆっくりお休みください」
これで上村も、もう二度と、この女に会うことはあるまい。女にだらしがないのは仕方ないにしても、島村姉妹に対して、上村もそれぐらいの礼儀は払うべきなのだ。
受話器を置き、つづけて俺は及川照夫のアパートに電話を入れてみた。及川はまだ帰っていなかった。
とっくに十二時をすぎていて、ためらったが、やはり俺は夏原祐子のアパートにも電話をかけることにした。しかし夏原祐子も帰っておらず、受話器からは録音の、あのとぼけた声のメッセージが聞こえてきただけだった。俺は発信音のあと、「子供の夜遊びは寝小便のもとだ」と吹き込んでやり、電話を切って、電話機に向かって力いっぱいあかんべえをした。最近の若いやつらときたら、どいつもこいつも……と、まあ、それを言ったら愚痴になるか。
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自分がこれほど寝起きの悪い体質だとは、三十八年も生きてきて、正直なところ、最近になってやっと気がついた。以前は六時間も寝ればナポレオンなみに頭が動いたし、二晩ぐらい徹夜してもそのまま麻雀にだって出かけられたものだ。それが今では、八時間は眠っていると自覚していながら、躰のほうがどうやってもベッドから起き上がってくれない。歳のせいだといってしまえばそれまでだが、そういうことではなく、問題はたぶん、人生に対する気合いの入り方なのだろう。
人生に気合いの入っていない俺を、無理やりベッドから運び出したのは、今日もやはり電話の音だった。十一時にちかく、窓には俺の人生と同じくらい気合いの入っていない光が射していたが、気温だけは生意気に、胸にたっぷりと汗をにじませていた。
「昨日が締め切り日だったこと、まさか、忘れたわけじゃないでしょうね」
その声は俺に仕事を回してくれている、月刊雑誌の石田貢一のものだったが、俺の原稿が締め切り日に間に合わないことぐらい、最初から計算に入っているだろうに。
「柚木さんが売れっ子だってこと、よーく知ってますけどね、うちのほうにも校了の都合があるんですよ」
「調べてるうち、例の事件、被害者のほうにも問題が出てきてしまった。その扱いで、苦労してるんだ」
「被害者に問題があって、どこが悪いんです。それならそれで結構じゃないですか。だいたい犯人の不良たちが一方的に悪かったなんてのより、そっちのほうがインパクトがありますよ。殺された女子高校生のほうが犯人たちより、もっと不良だったとか、ねえ、読者はそういう記事を喜ぶわけでしょう」
「問題があったからって、殺されてばらばらにされてもいい理屈にはならない。そのへんの兼ね合いで、悩んでるわけさ」
「柚木さんが悩むのは勝手ですよ。好きなだけ悩んで下さいよ。それで原稿は、いつ上がるんです?」
「あと……二、三日。今月一杯、もらえるかな」
「冗談じゃないですよ。締め切りは昨日だったんですよ」
「だからさ、インパクトの強い記事には、リスクだって付きまとうじゃないか。あとで被害者の家族から訴えられたら、そっちだって困るだろうよ。そうならないように、裏づけをさ、もうちょっときっちり取っておきたいんだ」
「裏づけを、きっちりねえ……それでその記事、ぜったい面白くなるんでしょうね」
「なる。たぶん、いや、ぜったい、面白くなるはずだ」
「それじゃまあ、今月一杯ってことにしましょうか。いいですか? 三十一日の正午《ひる》までに、間違いなくあたしのデスクに持ってきて下さいよ。昔の義理があるからいや味なんか言いたくないけど、雑誌っていうのは発売日が決まってるんですからね。こう毎度締め切り日に遅れたんじゃ、あたしだっていつまでも仕事は回しきれませんよ。柚木さんと違って、こっちはただのサラリーマンなんだから」
「わかってる、雑誌に発売日があることも、おたくに迷惑をかけてることも、みんなわかってる。三十一日の正午、間違いなく原稿は持っていく」
「頼みましたよ。雑誌に穴があいたら、柚木さん一人が責任を取るだけじゃ、済まないんですからね」
「わかってる。そういうことも、みんなわかってる。とにかく原稿は、なんとしても月末には持っていくさ」
石田が、もう一度いや味を言い、締め切り日の念をおして、それから、俺たちは同時に電話を切った。フリーのライターなんて聞こえはいいが、要するに雑誌という猿回しに操られる、首に紐がついた猿でしかないのだ。立場によって紐の長さが変わったり、首の締められ方が違ったりするものの、どっちみち野に放たれたら、そのとたんに飢え死にしてしまう。
受話器を置き、一つだけ欠伸をしたとき、また電話が鳴って、俺はトイレに行く間もなく置いたばかりの受話器を取り上げた。
「早川功の住所と電話番号、教えてやろうと思ったの」と、電話に出た俺に、昨夜よりはいくらか機嫌のいい声で、吉島冴子が言った。
無理やり気分を入れかえ、住所と電話番号をメモ用紙に書き取ってから、手の甲で首の下の汗を拭って、俺が訊いた。
「そっちの例の人、もう、東京に出てきているのか」
「今朝一番の新幹線でやってきたわ。今ごろは法務省の会議に出ているはず」
「これから四日間は、ゆっくり新婚気分を味わえるわけだ」
「そういう言い方、やめなさいね。わたしだって好きでつき合うわけじゃないのよ。それより仕事のほう、どうなの。昨夜あれから、無茶したんじゃない?」
「上村英樹にかまをかけてやった。やっこさん、事件の日のあの時間、早川功とは会っていなかった」
「それなら、島村香絵の、思っていたとおり?」
「なんとも言えないな。一応別のアリバイが、あることはある。どっちにしても事件《やま》には登りはじめたところだ」
冴子が小さく鼻を鳴らし、受話器の向こうから、ふっと気弱に聞こえる息の吐きかたをした。
「なにかあったら、警察《かいしゃ》に電話をちょうだいね。わたしのほうからは、電話はできないから」
「今日から四日間、俺は仕事に没頭するさ。今朝起きたときから気合いが入ってるんだ。生きてることの喜びを、今躰じゅうで味わっている」
「幸せな性格よね」
「そう、か」
「草平さん、奇麗な女が絡んだ事件には、妙に闘志が湧く体質じゃない」
「そういう問題じゃないんだ。そういう問題ではなくて、なんていうか、人生に対する取り組み方の問題なんだが……」
俺は目で机の上に煙草を探し、引き寄せて、一本を抜き、片手だけで火をつけた。
また手の甲で首の汗を拭ってから、俺が言った。
「早川功ってやつ、デザイナーらしいけど、なんのデザイナーか、わかるか」
「それはわからないけど、自分で広告会社をやってるらしいわよ。オフィスは南青山二丁目のステータスビル。会社の名前は、『スタジオ・アド』」
「スタジオ・アド……広告会社なあ」
「それ以上は調べられないわ。この事件に関してだけ、特別に興味を示すわけにはいかないもの」
「島村香絵の勤めも広告会社だ。会社の名前、なんていったっけ」
「アジア企画。会社は新宿よ。草平さん、まだ島村香絵のことを疑ってるの」
「世の中には、広告会社というやつがそんなに多いのかと、不思議に思っただけだ」
「とにかく三日間は連絡が取れないと思う。その間に、無茶なことだけはしないでね」
「君は俺を誤解している」
「そうかしら」
「君が思っているほどタフじゃないし、ハンフリー・ボガートにだって似てないさ」
吉島冴子が軽く笑い、その声を聞いてから、俺は電話を切って、灰皿でていねいに煙草の火をもみ消した。こんな鬱陶しい天気で、八時間も眠ったくせに躰が目を覚まさなくて、なにを無茶なんかできるものか。
この日三番めの電話が鳴ったのは、俺が壁際に歩いてクーラーのスイッチを入れ、トイレで用をたして、それから洗面所で洗濯機を回し始めたときだった。
電話をかけてきたのは、困ったことに、夏原祐子だった。祐子には俺のほうから電話をするつもりでいたが、このときはまだ、気持ちに準備らしきものができていなかった。
「君の恐ろしいバイト、週に一度だけだったはずだぞ」と、精一杯見栄を張って、つとめて冷静に、俺が言った。
「昨夜は友達の部屋に泊まっただけです。わたしが寝小便をしたかどうか、教えてやろうと思ったの」
「あれは、まあ、冗談だ」
「冗談を言うのに、あんな怒った声を出すんですか」
「優しく言ったつもりだがな。俺は子供を脅したりはしない。それで、どうしたんだ」
「なにがですか」
「寝小便さ。したかどうか、教えてくれるんだろう」
電話の中から、むっという唸り声が聞こえて、それから例の半分寝ぼけたような声が、寝ぼけたような調子のまま、少しだけ真面目に変化した。
「柚木さん、昨夜、わたしにお休みを言うために電話してきたわけでは、ないでしょう?」
「この次からは、そうしたいもんだ」と、また煙草に火をつけて、俺が言った。「君に聞き忘れたことがあって、それを確認したかった」
「由実のこと?」
「由実さん、五月の連休すぎごろ、及川くんのクルマで接触事故をおこさなかったか」
「由実……が」
「事故というほどのものでは、なかったかもしれない。及川くんのクルマが、ちょっとへこんだだけらしい」
「五月の連休すぎ……」と、その口を結んだ顔が目に浮かぶように、静かに息を吐いてから、夏原祐子が言った。「そんなこと、あったかもしれないなあ。及川くんがなにか、言ってた気がする」
「及川くんは、なんと言ってた?」
「クルマのどこかが曲がっただけなのに、たしか、相手の人がお金をくれたんじゃない?」
「十万円も出したそうだ」
「そう。十万円だった。及川くん喜んでいたもの。そのことクラスじゅうに言いふらしていた……でも、それ、本当の話?」
「それって?」
「クルマに、由実が乗っていたこと」
煙草の煙が、一瞬喉にからまり、俺は横を向いて、軽く咳払いをした。
「由実さんからは、聞いてないのか」
「由実が一緒だったなんて、初めて聞いた。及川くんだって言わなかった。その話、及川くんから聞いたの」
「木戸千枝さんからだ。五月の連休すぎ、由実さんと及川くんが彼女のコンサートに行ったらしい。事故はその途中だったそうだ」
「おかしいなあ。もしそうだったら、由実、わたしに言うはずなのになあ」
「君も木戸千枝さんとは、知り合いなんだろう」
「二回くらい、由実と一緒に彼女のライブに行ったことがある。そのあとみんなで、お酒を飲んだの」
「君、その……今夜も友達の部屋に泊まるのか」
「わたしだって卒論の資料集めはします」
「できたら、今夜会えないかな。俺がそっちへ行ってもいいし、君が新宿あたりまで出てこられれば、夕飯を食いながらでもいい」
「へええ」
「なんだ?」
「今のそれ、デートの誘いですか」
「まあ……そんなようなもんだ」
「柚木さん、いつもそういうふうに、デートに誘うの」
「いつもこういうふうに誘って、いつもOKしてもらえる」
一瞬言葉を切ってから、急に目を覚ましたような声で、夏原祐子が言った。
「わたし、そんなふうに、軽く見えますか」
「いや……」
もうしっかりクーラーはきいているはずなのに、顔から汗が吹き出て、意味もなく、俺は電話機に向かって強く首を横にふった。
「そういうつもりでは、なかった。歳のせいか、前の日の疲れが取れにくいのかもしれない」
「柚木さん、いくつですか」
「三十八」
「嘘みたい。三十五、六だと思ってた」
「大した変わりはないさ」
「そういうもんでもないです。三十八くらいの人って、自分で老け込む人と、へんに若ぶる人と、けっこう極端です」
「俺はべつに、無理に若ぶってるわけじゃない」
「それがいいです。無理に自分を型に嵌めようとすると、生き方が不自然になります」
「君が、その、中年男のプロであることはわかってるけど、どうなのかな、今夜のこと。さっきの言い方が悪かったことは、もちろん謝る」
溜息をついたのか、笑ったのかはわからなかったが、なにか声がして、しばらく黙ったあと、夏原祐子が俺の耳に、止めていた息を力一杯吐き出した。
「わたし、どぜうが食べたいな」
「なんだと?」
「柚木さん、どじょうは嫌いですか」
「考えたことは、なかった」
「夕飯を奢ってもらうなら、わたし、どじょうがいいです。渋谷においしいどじょう屋さんがあるの、知ってました?」
「そういうことは、君が知っていればいい」
「それじゃ渋谷に決めた。わたしどうせ、渋谷に買い物に行こうと思ってたんです」
どうせ渋谷に買い物に出るなら、いくらかこっちも気が楽なわけで、それから待ち合わせの場所と時間を決め、俺は電話を切った。
俺はそれから洗面所にいって、洗濯機をゆすぎにセットし、台所でコーヒーをいれてまた電話のところに戻ってきた。そこで及川照夫のアパートに電話をしてみたが、昨夜から帰っていないのか、それとももう出かけてしまったのか、十回コールしても及川は電話に出なかった。
どうにも気はすすまなかったが、コーヒーで神経にかつを入れ、俺は中野の『サンフラワー』にも電話を入れてみた。こっちのほうもくどいほど発信音を鳴らしてみたが、出払っているのか店が休みなのか、誰も電話に出ようとはしなかった。
俺はそのまま、仕事机の前でコーヒーを飲み干し、パジャマを脱ぎながら、また洗面所に歩いていった。洗濯なんて男が必死になってするほどの事業でもないが、一人暮らしの身では、これも人生の必須課題ではある。特に汗をかく夏場は、俺はもうほとんど毎日洗濯機を回している。一人で暮らすようになったここ三年ほどの習慣でもあるが、独身時代からの、一種の趣味のようなものでもあった。俺の洗濯という趣味を、知子は当てつけだといやがったものだ。
俺はすっ裸になって、洗濯機の二回めをセットし、その間にとなりのバスルームで少し熱めのシャワーを浴びた。躰が眠っていようが人生に嫌気がさしていようが、仕事は仕事だ。それに俺自身、今度の事件に力が入り始めていることも、正直なところ、本音だった。吉島冴子に言われなくても、『いい女が絡んだ事件には妙に闘志が湧く体質』であることは、自分が一番よく知っている。
電話なんて、こないときには三日も四日もこないものだが、くるときにはたてつづけにくる。腰にバスタオルを巻いて部屋の中に洗濯物を干しているとき、この日四回めの電話が鳴って、俺は干しかけのパンツを肩にひっかけたまま、電話のほうに歩いていった。
電話をしてきたのは、なぜか、木戸千枝だった。
「起こしちゃったら、ご免なさいね」と、かすれているがよく響く声で、木戸千枝が言った。「昨日はビール、ごちそうさま」
「俺がこんなに人気者だと知ったら、女房も考え直すだろうな」
「柚木さん、奥さんいたの」
「十歳の女の子もいる。二人とも、俺と暮らすことはなにかの罪だと思っているらしいが」
「要するに、別居?」
「友達は、『逃げられた』という言い方をする」
「ねえ、寝てたんなら、あとでかけ直すわよ」
「俺がどれくらいしっかり起きてるか、見せてやりたいくらいさ。コーヒーも飲んだしシャワーも浴びたし、洗濯だって二回もした」
関心もなさそうに、へええと言ってから、少し改まった口調で、木戸千枝がつづけた。
「昨日、柚木さん、あたしが武道館でコンサートやったら、チケットを買ってくれると言ったわよね」
「昨日は、感傷的になっていた。それとも本当に、武道館でコンサートをやることになったのか」
「武道館ではないけど……昨日の稽古、どう思った」
「ビートルズが流行《はや》ったころのことを思い出したな。もっとも俺は、舟木一夫のファンだった」
「明後日ね、代々木でライブをやるの。ライブってけっこうお金かかるのよ。チケット、引き受けてくれないかなあ」
「そんなに俺、顔が広いように見えるか」
「一枚でも二枚でもいいの。そのかわり武道館でやるときは、招待してあげるわ。それに今度のライブ、大手のプロダクションからも聞きにくるの。メンバーも気合い入れてやるしね、二千五百円なら聞き得かもしれないわよ」
「ドラムは、入れ替えたのか」
「なんのこと?」
「昨日、聞いていて、ドラムが弱いような気がした」
「意外にわかるんじゃない。そのとおりなの。今別のプレーヤー探してるんだけど、ライブには間に合わないのよ。でも明後日は、あたしがバンドを組んでから最高のステージになるはず。だから一枚でも二枚でもチケットを捌きたいの。由実が生きていたら、五枚くらいは引き受けてくれたはずなんだけど」
意識的に島村由実の名前を出したのか、それは知らないが、由美の名前が俺にいくらか木戸千枝に対する義理を感じさせたことは、単純に事実だった。
「明後日は、なん時から」と、仕方なく、俺が訊いた。
「七時半。でも本当に始めるのは八時ごろから。来てくれる?」
「仕事の都合で、約束はできない。ただチケット、由実さんのかわりに五枚だけは引き受ける」
ぴゅーっと、口笛を吹き、電話の向こうでVサインを作ったことを、木戸千枝が超能力で俺の頭に送り込んできた。
「やったね。そういう気がしてたんだ。あたしって人を見る目があるの。場所は代々木塾のとなりの『ピン・スポット』。柚木さんの名前で受付にチケットを置いておく。もし明後日こられなかったら、いつかお金だけ貰えばいいわ」
ある意味では、これはパーティー券の押し売りのようなものだったが、その強引さに不愉快なものを感じないのは、木戸千枝という女の子に奇妙な魅力があるからなのだろう。それともたんに、これも俺の、ただの病気ということか。
木戸千枝との電話を切り、電話帳で『石神井の自然を守る会』の住所を調べて部屋を出たのは、どうにか薄日らしいものが射し始めた、午後の一時だった。洗濯さえなければ時間はもっと有効に使えるはずだが、本当を言うと俺は、時間なんてまるで有効に使いたいとは思っていないのだ。
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そういえば昔、石神井公園の池でボートに乗ったことがあるなと思い出しながら、一昨日島村香絵と待ち合わせをした改札口から、俺は石神井公園の駅を南口に出た。あのときは大学に入ったばかりで、高校のときに同級だった女の子と一緒だった。女の子とはそれから二ヵ月ぐらいつき合ったはずだが、どういうわけか、名前が思い出せない。
『石神井の自然を守る会』事務局が入っているビルは、駅前の道を島村香絵のマンションがある方向とは逆に五分ほど歩いた、バス通りぞいにあった。そのビルは四階建てで、一階には本屋とレコード屋が入っており、二階と三階の部分には『英進舎』というたて長の看板が掛かった進学塾が入っていた。エレベータはなく、俺は事務局がある四階まで、汗をかきながら内階段を上がっていった。
四階に上がってすぐ気がついたのは、『石神井の自然を守る会』事務局は、どうやら進学塾の事務所に同居しているらしいということだった。ドアの横には二つの案内板が掛かっていて、中に入ってみても、だだっ広いオフィスが仕切りもなく、窓のほうにまでつづいているだけだった。
俺が、ドアに一番近い席にいる事務服の女の子に名刺を渡し、用件を言うと、女の子は席を離れていって、奥からやけに派手な眼鏡をかけた四十ぐらいの女を連れて戻ってきた。
「昨日電話を下さった、週刊誌の方?」と、俺の名刺を目の高さで眺めながら、聞き覚えのある元気のいい声で、眼鏡の女が言った。
「今日もたまたま近くに来たものですから、ついでにと思って、寄ってみました」と、とっておきの笑顔を一つサービスしてやってから、俺が答えた。
「あいにく今日も、会長はこちらにはみえませんのよ。事前に連絡して下されば、わたしのほうで手配しましたのに」
「会の活動状況だけでも、事務局の方にお話し願えませんかね。活動の実態については、会長さんよりも実務責任者の方のほうが詳しいものでしょう」
「それはまあ、そういうことも、有り得ますわねえ」
実務責任者という言い方が気にいったのか、それとも俺の笑顔に昔の男でも思い出したのか、女が慇懃に笑って、気取った手つきで俺をフロアの中にうながした。眼鏡も派手だがブラウスも銀ラメの派手なやつで、黒いタイトスカートが肉づきのいい腰にぴったりと張りついている。十年も前ならそれなりに見られた女だろうが、たとえ十年前でも、俺の美意識はたぶん、丁重に遠慮していたことだろう。
女は俺を、壁際のかんたんな応接セットに座らせ、自分では奥のデスクに歩いて、金色の札入れを持って戻ってきた。
「この名刺、英進舎のものですけど、石神井の自然を守る会の仕事も兼ねております」と、札入れから取り出した名刺を俺に渡しながら、微笑んで、女が言った。
その名刺には、『総合ヒューマン教育の実践、英進舎事務長・丸山菊江』と書いてあった。
「丸山さんが二つの仕事を兼ねておられて、事務所も一緒ということは、英進舎の中で守る会を作られているということですか」と、俺が訊いた。
「そういうわけでは、ないんですの。英進舎の理事長が守る会を組織されて、まだその準備段階なもんですから、とりあえずわたしが事務局の仕事をしておりますのよ。もちろん近いうち、どこか適当な場所に守る会は独立させます」
最初に名刺を渡した女の子が、アイスコーヒーを持ってきて、俺と丸山菊江の前にグラスを置いていった。
「実は今、他の事件を取材しておりましてね、たまたまこの会のことを知ったわけです」と、置かれたグラスを脇にどけながら、俺が言った。「今取材している事件と直接の関係はないんですが、わたし、自然保護の問題には前々から興味を持っておりまして、内容次第ではこちらの活動を週刊誌で取り上げたいと思うんです。自然保護問題、環境問題というのは、二十一世紀を目前にした人類の最重要課題ですからね」
満足げに口を結び、濃くアイラインを引いた目を見開いて、丸山菊江が、ふんと鼻で息を吐いた。
「最近フロンガスや二酸化炭素、問題になってるでしょう。原発の安全性の問題もありますわよ。そういうことを問題にして運動として取り組むこと、もちろんそれも大事なことなんですわ。でも、ねえ? それでは日常の市民レベルでなにができるかということになると、たとえば地球の温暖化問題なんていうの、なかなか実感は湧かないものですわね。この会の趣旨は、最終的には人類全体の未来を考えるにしても、とりあえずは自分の足下から、まず自分が住んでいるこの町の環境問題から解決していこう、そういうことなんですの」
「地に足の着いた、立派な運動だと思いますね」
「会長は長く教育問題に携わった方ですから、環境保護運動をとおして人間の在り方を見つめ直そうというお考えです」
大変立派な考え方で、大変立派な運動ではあるが、その口上がこの派手なおばさんの口から出てくると、なぜか、妙に嘘っぽくなる。
「『自分の足下から』ということで、それで、例のイベントホールの問題になるわけですね」
それが癖なのか、また大袈裟に目を見開いて、丸山菊江が小指を立てながらアイスコーヒーのグラスを取り上げた。
「この運動、やっと週刊誌の耳に入りましたの。地道な活動って、いつかは結果が出るものなんですのね」
「さっきも言いましたように、別な事件の取材中に聞き込んだだけで、具体的にはなにも知らないんです。素人考えでは、公園にイベントホールを建てること自体、それほど問題だとは思いませんが」
「ですからその実状をわかっていただくために、わたくしたちが運動しておりますのよ。そりゃあね、このあたりはまだ緑も畑もけっこう残っておりますけど、そんなのあなた、十年もしてごらんなさいな、あっという間にコンクリートだらけになりますわよ。それにわたくしども、イベントホールになにがなんでも反対しているわけじゃありませんの。その場所がなぜ児童公園でなくてはならないのか、それが問題なんですのよ。公園をただの空き地としか見られない行政の貧しさ、役人の文化程度の低さ、それこそが問題なの。それにあの公園、今は児童公園になっておりますけど、あの下にはもともと弥生時代の遺跡が眠っていて、重要な史跡保存の役割だって果たしていますのよ。そこにイベントホールを建てるなんてことになったら、自然破壊だけでなく歴史破壊になってしまいますわ。自然も歴史も、一度破壊してしまったらもう二度と元には戻りません」
ますますご立派で、ますますごもっともだが、そんなこと、わかるだけなら俺にだって生まれる前からわかっている。
「で、会の当面の目標は、そのイベントホール建設を阻止しようということですか」
「いえね、そんなのはほんの、運動の手はじめにすぎませんのよ。今正式な事務局を開くための、スタッフを集めているところですの」
「つまり、運動自体を、もっと大規模なものにしようと?」
「だって、まずこの腐りきった区政を変えなくてはなりませんでしょう。それにはただ声を揃えて反対するだけでなく、実質的な政治力が必要なんです。守る会の会長は、次の区長選挙に立候補を予定しております」
なるほど、そういうことか。趣旨も考え方も活動方針も、妙にできすぎていると思ったら、つまりは区長選挙のための組織作りであったわけだ。だからってもちろん、生活や環境や歴史的遺跡を守ろうとすること自体、決して悪いことではない。
「守る会の組織作りのほうは、今、どの程度進んでいるわけですか」と、へんに甘ったるいアイスコーヒーを、口だけつけて、テーブルの遠くに置きながら、俺が言った。
「そりゃあもう、区民のみなさん、費用を自分もちで参加して下さってます。こういう運動は参加することに意義があるんです。これまで政治に無関心だった主婦の方々、今こそ自分が立ち上がらなくてはならないってこと、みなさんわかっていらっしゃいます」
「具体的には、どれぐらいの人数になっておられます?」
「それは、今わたくしの口からは申しあげられませんわよ。まだ組織も固まっておりませんしね」
「主体はやはり、主婦の方々ですか」
「なんと言っても地域の住環境問題は、教育問題と並行して主婦の一番の関心事ですもの。逆に言えば主婦こそ、この運動の主体に相応しい存在だということなんです」
「しかし、主婦だけの運動では、活動の基盤に問題が出てくるでしょう」
「もちろんそれは、ですから各地域の老人会や自治会のみなさんにもご理解いただいて、総合的な運動を展開していこうということですわ」
「中には、ボランティアで運動に参加する学生なんかも、いるんでしょうね」
「いますわねえ。最近の若い人たち、ファッションやグルメにしか興味がないように言われてますけれど、どうしてあなた、人生を真面目に考える人たちも、けっこう多いですわよ」
「島村由実という学生も、守る会に参加していましたか」
丸山菊江が、また大袈裟に目を見開き、派手な眼鏡の向こうから、じっと俺の顔を見つめてきた。
「それは、なんとも言えませんわねえ」と、ファンデーションを厚く塗った頬に、太い皺を刻んで、丸山菊江が言った。「最近はプライバシーのうるさい時代ですもの。特定の個人がどういう運動に参加しているか、どういう団体に所属しているか、そういうことはご本人の許可がなければ口外はできませんわ」
「本人の許可を取りたくても、もうできない状況なんです」
「と、申しますと?」
「死んでるんです、一ヵ月前に。覚えておりませんか? 一ヵ月ほど前、この近くで女子大生がクルマに轢かれた事件」
「どうでしたでしょう。石神井といっても広いですし、交通事故も数えきれないほどありますものねえ……それで、その事故で亡くなられたのが、島村由実さん?」
「本当に、ご存知ないわけですか」
「知りませんわよ。いえね、そういうことであれば申しますけど、そりゃあ島村由実さんのことは覚えております。たしか春先二、三度集会に見えられて、カンパと署名をして下さったお嬢さんですわ。でも特別熱心に活動されていたわけではありませんし、交通事故で亡くなっていたなんて、ぜんぜん存じませんでした」
「二、三度集会に顔を出しただけの人の名前を、丸山さん、よく覚えておいでですね」
「ですから、それは……柚木さんとおっしゃいましたか? その島村由実さんとうちの会、どういう関係がありますの」
「関係はありません。最初に言いましたように、今その島村由実の事件を取材していまして、たまたまこの会のことを知ったわけです。話のついでに、由実さんが守る会でどういう活動をしていたのか、それが聞ければと思っただけです」
赤く塗った唇を、舌の先で軽くなめ、肩の力を抜いて、丸山菊江がゆっくりと椅子の背に背中をあずけた。
「たしかに、そのとおりですわね。そんな交通事故とうちの会が、関係あるわけありませんものね。選挙をひかえて大事なときなもんですから、へんに神経質になっていたの。よくあるのよねえ、スキャンダルをでっちあげて相手候補を牽制するようなこと」
「わたしとしては、島村由実の事故から一ヵ月もたっているのに、まだ犯人を検挙できないでいる警察の在り方、つまり警察という組織なり捜査のやり方なりに、根本的な問題があるのではないかという、その観点から取材をしているわけです」
「そうなんですの……たしかに警察って、交通事故なんて本気で捜査をしない部分、ありますわよねえ」
「それで、その、島村由実のことですが……」
「いえね、おっしゃるとおり、二、三度集会に来て下さった人の名前なんか、ふつうならわたしだって覚えてはいませんわ。ただあのお嬢さん、会長の以前から知っている方の妹さんでしたの。最初に集会に見えたとき、わたしとそんなことをお話しして、それで覚えていましたのよ」
「島村由実の姉さんというと、島村香絵さん?」
「名前までは、聞きませんでしたわねえ」
そのとき俺は、自分が忘れていて、そしてこのときになって急に思い出したそのことについて、ほんの一瞬寒気のような感覚を味わった。たとえビルの二フロアを専有していようと、予備校的な体裁を整えていようと、この『英進舎』が私塾であることに、なんの変わりもない。
「守る会の会長さんと、英進舎の理事長さんは、同じ方だと言われましたが……」と、思わず煙草をくわえ、火をつけてから、俺が言った。「会長さんのお名前は、両角《もろずみ》さんとおっしゃいませんか」
「両角ですけど? ご存知、ありませんでしたの」
「いや……ちょっと、他の会と混同しておりました」
両角といえば、今はどうか知らないが、五年前まで島村香絵の相談相手になっていた男ではないか。上村英樹は、たしか、俺にそう言ったはずだ。ここが石神井であり、英進舎が私塾であるならば、島村香絵が通っていた塾が英進舎であっても、少しも不思議ではない。しかしそれでは、妹の由実は『石神井の自然を守る会』の電話番号を、なぜSSKなどという紛らわしい書き方をしていたのか。
「島村由実の姉さんの、香絵という人、昔この塾に通っていたんです。覚えておいでですか」
「塾の生徒の名前まで、一々覚えていませんわねえ。それにその昔って、いつごろのことですの」
「たぶん、十年ほど前」
「それなら尚更ですわよ。わたしが英進舎に入ったの、七年前ですもの。それまでは駅の向こう側で小さくやっておりましたものを、わたしが入りましてから徐々に大きくいたしましてね、四年前に現在のような体制にいたしました」
「両角さんは、今でも生徒を教えていらっしゃるわけですか」
「現在はもう、運営だけになっております。だって、ねえ、今はそれどころじゃありませんでしょう?」
「小さい私塾から始められて、今はもう区長さんになられようとしている。週刊誌の記者としては、ぜひともお目にかかりたい方ですね」
丸山菊江が、口を結んだまま笑い、軽く顎をしゃくって、俺のほうに遠く目を細めてきた。
「もちろんね、当方としても週刊誌の方とは、友好的なおつき合いはお願いしたいですわ。あくまでも友好的でなくては、困りますけれど」
「社会の表舞台に立たれる方とは、わたしは常に友好的なおつき合いをすることにしています。両角さんには、どちらに伺えばお目にかかれます?」
「ふだんは練馬の、東都開発という会社に出ております。でもなにしろ、お忙しい方ですからね。わたしも他の用事でさっき電話をしてみたら、やっぱりお出かけでしたわ」
「連絡先、教えていただけますか」
二、三秒眼鏡の中で目を見開いて、それから小さく息を吐き、丸山菊江が金色の札入れから、また一枚の名刺を取り出した。
「これ、わたしの名刺ですけど……」と、名刺を俺に渡しながら、丸山菊江が言った。「でも申しましたように、なかなか連絡は取れませんわよ」
渡された名刺には『株式会社東都開発 取締役 丸山菊江』と書いてあって、もちろんその左下には住所も電話番号も載っていた。守る会も英進舎も実質的にはこのおばさんが取り仕切っているらしいから、両角という男を中心にした組織の中で、丸山菊江はそれなりの地位を占めているということなのだろう。
「お忙しいところを、お邪魔しました」と、立ち上がりながら、俺が言った。「丸山さんからも、わたしがそのうちお目にかかりたいと、両角さんにお伝え下さい」
丸山菊江も立ち上がり、派手な会釈をして、俺の前を歩いて最初に座っていた自分の席に戻っていった。
俺はフロアをドアのほうに歩き、思い出して、ドアに一番近い席に座っている女の子に、小声で声をかけた。
「アイスコーヒーの味について、あとでゆっくり感想を聞かせよう」
女の子が弾かれたように顔を上げたが、俺はまた笑顔をサービスし、ドアを押して、そのまま外に出た。島村由実の事故死について調べているはずなのに、俺の頭には調査を依頼してきた姉のほうの顔が、はっきりと浮かび上がっていた。知子も吉島冴子も否定するだろうが、それはぜったい、俺がたんに女好きだから、というだけの理由ではなかった。
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今夜夏原祐子とどぜうを食うにしても、とりあえず腹になにか入れる必要があったので、俺は駅前まで戻り、靴屋の二階にあるレストランに入って生姜焼き定食とビールを注文した。
定食が来るまでの間、ためしに及川照夫のアパートとサンフラワーに電話をしてみたが、どちらも予想どおり、果てしないコール音が鳴りつづけるだけだった。及川照夫がどこにいったのか知らないが、花屋のほうはたぶん、今日は休みなのだろう。俺はそれから、さっき丸山菊江にもらった名刺をポケットから取り出し、『東都開発』にも電話を入れてみた。電話には中年らしい声の男が出たが、両角はやはり不在で、今日は会社に戻らないということだった。東都開発という会社がどんな仕事をやっているのか、知りたくはあったが、両角には直接会いたかったので、挨拶だけで俺は電話を切った。
ビールを一本飲み、定食を食って俺がレストランを出たときには、空はそれほど暗くはなかったが、性懲りもなくまた細かい雨が降り始めていた。今年はもう、このまま梅雨はあけないのかもしれない。ずっと陰気くさい天気がつづいて、太陽は萎《しぼ》んでしまって、人間も犬もゴキブリもみんな黴だらけになる。そういえば俺が子供のころ、『マタンゴ』という映画があったが、あれは人間が茸《きのこ》をくって黴だらけになってしまう話だった。難破した船の乗員が茸の島に流れ着き、食い物は島に生えている茸だけ。その茸を食って茸の化け物として生きのびるか、それとも人間としての尊厳を守って飢え死にするか、考えてみれば無茶な選択を迫るストーリーだ。俺があの映画を見たのは、たしか小学校の一年か二年のころだったが、子供ながら、自分ならどちらを選ぶだろうかとけっこう真剣に悩んだものだ。馬鹿馬鹿しいといえば馬鹿馬鹿しいが、それでは今なら結論が出せるかというと、やはり俺は考えてしまう。人間はそれぞれ、自分の美意識の中でできるかぎり奇麗に生きたいと思うものだ。しかしそれが拒否された場合、あっさり生への執着にへつらうものか、どうか。自分の生き方の汚さを承知で生きつづける不快感は、ただ疲れるなどという言い方で済むものでは、決してない。そしてこんな生き方をしている俺が絵空事の人生観をあれこれいじくりまわすことにも、もちろん意味はない。
俺が駅前で拾ったタクシーを、練馬西署の正門に横づけしたときも、まだ雨は細かく降りつづいていた。警察をやめて三年たっているからといって、都内にある所轄の場所ぐらい、俺だってまだちゃんと覚えている。
一般に警察署というと、警備が厳重で部外者は入りにくい聖域と思うだろうが、なんのことはない、現実にはラーメン屋の暖簾をくぐるよりも簡単なものだ。都内でも桜田門とか、その他主だった所轄には立ち番の警官もいるが、多くはどこも開けっ放《ぴろ》げで、現役のころ俺は、よくこれで過激派に爆弾を仕掛けられないものだと、ずっと不思議に思っていた。
俺は受付も通さず、勘で見当をつけて、勝手に二階の刑事課の部屋に上がっていった。
所轄の規模にもよるが、練馬西署の刑事課は、机の数からして、ざっと二十人ぐらいの陣容だった。俺も昔は所轄にいたし、本庁に上がってからも研修会や捜査会議はあったし、殺しがある度に本庁の専門家として出張《でば》ってもいた。だからどの所轄の刑事課にも知った顔の二人や三人はいて、それに警視庁内部では、なんといっても、俺はある種の有名人ではある。
半分以上が出払っているその部屋にも、やはり名前を知っている刑事が一人居て、俺は机の間を進み、そいつの肩をぽんと叩いてやった。
一瞬不審そうな顔はしたが、すぐに気がついたらしく、鮎場という刑事が口を丸めて、俺のほうにほーっと長い息を吐いた。歳は俺より五つほど下で、四年ぐらい前、港区で起こった殺人事件を一緒に捜査したことがある。
「六本木から練馬じゃ、ずいぶん飛ばされたもんだな」と、口を丸めたままの鮎場に、会釈をしてから、俺が言った。
「マル暴関係が少ないぶん、楽なもんですがね」と、椅子ごと躰をまわし、眼鏡を光らせて、鮎場が答えた。「柚木さんこそ、まさか交通違反のもみ消しに来たわけじゃないでしょう」
「似たようなもんだ。ここの署長、今、だれがやってる?」
「高野警視です。例のエレベータ組ですよ」
「刑事課長は?」
「大森警部。隅田川《かわ》向こうが長かった人です」
「なん年か前、足立の信用金庫強盗を手がけた、あの大森さんか」
「そうらしいですね。あと二年で定年だそうです……今日は、休んでます」
「警察が暇なのは、まあ、いいことだ」
俺は鮎場のデスクに、軽く尻をのせ、煙草を取り出して、漫然とそれに火をつけた。
「君に訊きたいことがある。交通違反のもみ消しよりは、簡単なことさ」
「お手やわらかに願いたいですね。柚木さん今、週刊誌に警察関係の記事を書いてるんでしょう。お偉いさんたち、頭にきてるようですよ」
「俺だって食っていかにゃならんさ。人間を撃ち殺したことがある元刑事なんて、銀行のガードマンにも雇っちゃもらえない」
口を結んで、目をぱちぱちやり始めた鮎場の前から、勝手に灰皿を引き寄せて、その灰皿の中に俺が煙草の灰をはたき落とした。
「一ヵ月ほど前、石神井公園駅の近くで女子大生が轢き逃げされた。覚えているよな」
五秒ほど深く呼吸をしてから、眉間に皺を寄せ、鮎場が、ちらっと俺の顔を見上げてきた。
「まずいんですよねえ。いくら柚木さんでも、今は民間人のわけだし……」
「民間人で、ジャーナリストだぜ。正当な取材に正当に答えてもらいたいだけさ。べつに国家機密を聞き出そうってわけじゃない。それに場合によっちゃ、俺のほうから情報を提供することも、あるかもしれない」
俺の顔から視線を外し、またなん秒か深く息をついて、それから急に、鮎場がぎしっとスチールの椅子を軋らせた。
「石神井の轢き逃げ事件というと、被害者はたしか、島村由実って女の子でしたよねえ」
「恵明大学の四年生で、写真を見たかぎりでは、明るくて素直そうな女の子だった」
「あんな轢き逃げ事件で、どうして柚木さんが動くんです?」
「飯のたねだからさ。桜の代紋をしょってるときと違って、国家権力が鼻であしらうような事件に首をつっ込んでこそ、食っていける。君も警察をやめることになったら、そのへんのこつはしっかり教えてやるよ」
小さく鼻で笑い、俺のほうに目を細めてから、椅子を立って、鮎場がぶらぶらと部屋の反対側に歩いていった。
安物の湯呑に茶をいれ、戻ってきて、デスクの端に置いてから、鮎場がまた元の椅子に座り込んだ。俺は空いているとなりの椅子を引き出し、湯呑を取り上げながら、鮎場と向かい合って腰を下ろした。
「あの事件はたしかに、変わってはいるんですよねえ」と、湯呑を口に当てた俺の顔を、横目で覗き込みながら、鮎場が言った。「国家権力側も、べつに鼻であしらってるわけじゃないんですよ」
「事故から一ヵ月以上もたってるのに、クルマの持ち主を割り出せないでか。車種だって、五十四年式のチェイサーだとわかってるそうじゃないか」
「柚木さんのことだから、それくらいはどこかで調べるんでしょうけど……」
「この一ヵ月、警視庁のコンピュータが故障していたわけじゃあるまい?」
「それなんですよ」と、机の上の煙草を取り上げ、火をつけてから、鮎場が椅子の背に深く背中をもたれさせた。「警視庁管内はもちろん、隣接する埼玉側の同車種はぜんぶリストアップしたらしいんですがね、どういうわけか、該当するクルマが出てこないわけです」
「交通課の、仕事だよな」
「最初はね。交通課でも最初はありきたりの轢き逃げ事故だろうということで、二、三日で片づくと踏んでたらしいんです。それが始めてみたら、まるで幽霊みたいにクルマが消えちまって、あわてて刑事課のほうに上げてきたわけですよ」
「刑事課に上がった事件なのに、なぜただの交通事故ということで処理したんだ」
「ただの交通事故で処理したなんて、誰が言いました?」
「被害者の姉の、島村香絵」
煙を長く吐き出し、右の手で頭のうしろを掻いて、にやっと、鮎場が笑った。
「そういうことですか。柚木さん、そっちのほうから動いているわけですか……いえね、わたしだって調べてはみたんですよ。これが故意の殺しで、わたしがその犯人でも捕まえてやれば、もしかしたら彼女とおつき合い願えたかもしれない」
「君、まだ嫁さんを貰っていないのか」
「去年やっと、巡査部長ですもんねえ」
「調べてみて、それで、どういうことになった」
「なーんにも。あの島村由実って被害者、きれいなもんでした。婚約者だった上村英樹という男にも、柚木さん、当たってみたんでしょう」
「一応は、な」
「島村香絵はあの男に、遺恨があるようです。でも婚約を解消したといっても、被害者との間にトラブルがあったふうでもないし、それに上村には事件当夜、ちゃんとしたアリバイがあるんです。被害者はなんといっても女子大生ですからね、殺されるほど誰かに恨まれていたということも、考えにくいわけですよ」
「事件のほうは、それでも、捜査中ではあるわけか」
「打ち切りにはなっていない、そういうことですね。ただ刑事課のほうでこれ以上なにか掴めるとも思えませんし、保険屋も、そのうち諦めるんじゃないですかね」
「保険が、からんでいるのか」
「保険屋のほうが渋っているわけですよ、支払いをね。ある意味じゃ警察より、保険会社のほうがそういうことにはしつこいですから」
「島村由実には、いくらの保険がかかっていたんだ」
「一億」
「一億?」
「驚くことはないでしょう。最近じゃそのくらいの保険、ベトナム難民だってかけていますよ」
「受取人は、当然、姉の島村香絵?」
「そういうことですね。他に親兄弟はいないし、お互いに同額の保険をかけ合っていたそうです」
「保険がかかっていたんなら、島村香絵とすれば、早いとこ事故死と断定してもらったほうが都合がいいじゃないか」
「知りませんよ。うちとしてはまだ事故死とも故意の殺人とも、断定する材料はない。とりあえず捜査は継続中ですが、新しい手がかりが出てくる見込みもない。交通課のほうからなにか出てくるのを待っている。そういう状況です。こういう事件は意外なところから、たとえば例のクルマがまた交通事故を起こすとか、なにかの検問にひっかかるとかね、そんなところから案外かんたんに解決するもんです。わたしとしてはまあ、島村香絵の気持ちも、わからなくはありませんが」
鮎場に、どういうふうに香絵の気持ちがわかるのか知らないが、たった一人の妹に死なれた姉の悲しみとかいう図式的な感想は、大体の場合、問題にはならない。俺がこうやって事件を調べているのは、たしかに香絵から調査を依頼されたからだが、しかし今のこの状況で、香絵が俺に事件を調べさせる必要など、どこにあったのだろう。最初に香絵は『警察はただの交通事故で処理しようとしている』と言ったが、鮎場に言わせれば捜査はまだ継続中ではないか。もちろん捜査自体にたいして熱が入っているとは思えないが、警察の捜査なんて、しょせんはこんなものだ。それに島村香絵は、保険金のことなど、俺に一言も言わなかったではないか。
「事件が起きたのは、六月二十一日の、夜中の十一時ごろだよな」と、味のないぬるい茶を飲み干して、湯呑を机に戻してから、俺が言った。
「そうですねえ。あれからもう、一ヵ月以上たつんですねえ」
「その日のその時間、島村香絵は会社の旅行で伊香保に居たそうだが、裏は取ってあるのか」
灰皿で煙草をつぶしていた鮎場が、額に皺を寄せて、不満そうに俺の顔を窺った。
「電話だけじゃなかったのか。島村由実のアドレス帳から香絵の会社を割り出して、その同僚の家族かなにかから伊香保のことを知った。それで伊香保に電話で連絡をした、なあ?」
「だとすると、どうだって言うんです?」
「どうだとも言ってないさ。確実なのは、警察は電話で連絡をしただけということだ」
「柚木さんの言いたいことはわかりますけど、でも、それはちょっと、考えすぎじゃないですか」
「人間一人が死んだ事件に、考えすぎなんてことはない。四年前君と扱った事件、あれだって女房のほうの狂言だった。特に女がからんだ事件は、徹底的に裏づけを取る必要がある。もちろん俺は、今度の事件で、島村香絵が犯人だと言ってるわけじゃない。将来の警視庁を担う巡査部長殿に、基本的な心構えをアドバイスしてみただけさ」
「柚木さんのアドバイスは、そりゃあ、参考にはなりますけどね」
「君が警視総監になるにしても、落ちぶれてごろつきライターになるにしても、な?」
鮎場が、苦しげに鼻を鳴らし、また右手で頭のうしろを掻きながら、サンダル履きの足をずるっと前に投げ出した。
「まあ、確認はしてみましょうかねえ。たしかに伊香保なんて、関越に乗れば練馬まで、二時間もかからないわけだし」
「その確認ができたら、君とはもう一度おつき合い願いたいもんだ。で、話は変わるが、両角という男、ここの署でなにかのリストに上がっていないか。石神井で英進舎という進学塾をやってる男だ」
「両角……ねえ」と、自分の足先から視線を上げ、鮎場が、たいして興味もなさそうに俺の顔を見返してきた。「その男が、どうかしましたか」
「いや。素性がわかればと思っただけだ。この辺りでは名士ということになってるかもしれない」
「わたしもこの所轄にきて、まだ二年半ですから……でもたしか、地区の防犯協会の会長が、両角といったと思いますよ」
自然保護の団体を作ったり、区長選挙に出ようとする男なら、たしかに防犯協会の会長ぐらいはやっているかもしれない。そしてそういう男はどうせ、自治会の会長とかも兼ねているのだ。
「坂田さん……」と、俺の頭越しに、五つほど離れた席で新聞を読んでいる五十すぎの男に、鮎場が声をかけた。「防犯協会の会長、たしか両角さんといいましたよねえ」
坂田と呼ばれた刑事が、眼鏡を押し上げながら、面倒臭そうにむっくりと顔を上げた。毒にも薬にもならないが、自分の縄張り内のことならなんでも知っているという、どこの所轄にも一人や二人はいるタイプだ。
「防犯協会の会長もやってるし、交通安全協会の役員もやってますなあ」と、口のまわりに浮かべた太い皺を、ほとんど動かさずに、坂田が言った。
「両角さんは、石神井で進学塾をやってるんですか」
「進学塾もやってるし、ファミリーレストランもスーパーもやってなさる。最近この辺りじゃ、一番の羽振りちゅうことだいねえ」
「七、八年前までは、個人で小さい塾をやっていただけだそうですね」と、椅子ごと坂田のほうに躰をまわして、俺が訊いた。
「運のいい人間てなあ、どこにでもいるもんですよ」と、俺の顔を知っているらしい目つきで、皺の刻まれた頬を、坂田がごしっとこすり上げた。
「両角さんのその運は、どこからやって来たんです?」
「いいスポンサーがついた、そういうこってすなあ」
「その、スポンサーというのは?」
「そりゃああんた、これにきまってますわいな」
坂田がこれと言ったときには、もちろん、立てられた右手の小指が、新聞の上にちょっとだけ持ち上げられていた。
「女ができただけで、ただの塾の教師がそこまで出世したわけですか」
「それがまあ、人間の運ちゅうやつなんですなあ。その女ってのがあんた、ただの女じゃなかったわけですよ」
「丸山菊江……ですか」
「知ってなさるんかね」
「顔だけは、一応ね」
「知ってなさるんなら、話は早いや。いえね、あの丸山菊江って女、もともとここいらの大地主の一人娘なんですよ。婿をとってしばらくはおとなしくしてたんですが、なんせねえ、金のほうが腐るほどあるってことで、なかなか型どおりにゃあ治まらなかったわけです」
「その丸山菊江と両角は、どこで関係ができたんです?」
「どこでですかねえ。最初は丸山菊江が子供を両角さんの塾へ通わせたとか、どうせそんなところでしょうよ。女ってなあ恐ろしいもんですわ。たった七、八年で、両角さんをあそこまで押し上げちまったんですから。もともと両角さんに商売の才能があったっていやあ、それまでですけどねえ」
「二人の家庭のほうは、どうなんです? それぞれに相手も子供もいるわけでしょう」
「離婚したって話は、聞きませんやいねえ。そりゃあどうせすったもんだやってるでしょうけど、あっちもこっちも金はあるわけだし、それでなんとか治まってるんでしょうよ。死ぬの生きるの別れるのなんてのは、しょせんは貧乏人の悪あがきってやつですわな」
坂田のその哲学が、人間すべてにあてはまるとは思わないが、知子と別れるの別れないのと言っているこの俺が貧乏人であることは、非常に残念な事実だった。
「その両角さんが、島村由実の事件と、なにか関係があるんですか」と、坂田の目を憚るように、俺のほうに身を屈めて、鮎場が訊いた。
「あるのかないのか、こっちで聞きたいくらいさ。もっともそんな名士が事件と関係があったら、この練馬西署はパニックになるだろうがな」
「柚木さんのほうも情報を提供するって、そういう約束だったじゃないですか」
「約束なんか、してない。場合によっては提供できる情報があるかもしれない、そう言っただけさ。俺が提供しようと思っていた情報は、両角のことではなくて、上村英樹のことだ」
「上村英樹って、島村由実の婚約者だった、あの上村英樹ですか」
「さっきのアドバイス、覚えてるよな」と、くわえかけた煙草を、途中でやめ、煙草とライターを上着のポケットにしまって、俺が言った。「女がからんだ事件には、とにかくしつこく裏を取る」
「上村英樹の、どこが問題なんです?」
「アリバイさ。上村は事件当夜の十一時前後、早川功と六本木のスナックで飲んでいたと証言した。警察は早川功から裏を取ったが、スナックのほうからは取れなかった。上村はあの店の従業員が、十一時なんていう混んでいる時間に客の顔なんか覚えていられないことを、ちゃんと知っていたんだ」
「つまり、それ……本当ですか」
「俺が君の歳のときは、警部補だったんだぜ」
鮎場が背中を引いて、スチールの椅子を鳴らし、机の引き出しから取り出した黒い手帳を、なにやら唸りながら猛烈な勢いでめくり始めた。
「その時間上村は、本当は女と一緒だった」と、立ち上がりながら、俺が言った。「友田美紗とかいう、ディスコでひっかけた女だそうだ。女のほうもその時間は上村と一緒だったと言ってるが、ああいう連中の言うことがどこまで信用できるか、俺には、なんともわからんな」
ドアに向かって歩き出した俺を、鮎場がなにか言いたそうに目で追いかけてきたが、それを無視して、俺は黙ってドアに歩きつづけた。坂田が会釈を送ってきて、そのほうにだけ、俺も小さく会釈を送り返した。どうせあと二、三年で定年なんだろうが、坂田のような警官人生も、まあ、悪いものではあるまい。
練馬西署に着いたときに降っていた雨が、今ではもう上がっている。おまけに薄い西日まで射して、ミニパトカーから降りてくる婦人警官の帽子の下の顔に、くっきりと黒い影をつくっている。
俺は署の前から流しのタクシーを拾い、来た道を逆に走って、また石神井公園の駅前に出た。夏原祐子との待ち合わせが七時だから、時間はまだ二時間以上ある。
俺は駅から少し離れた喫茶店に入って、道路に面した窓際に席をとり、ビールを注文してから、店にあった女性週刊誌を当てもなくめくり始めた。週刊誌には百五歳になって赤んぼうを産んだ女の話や、宇宙人に強姦された女のインタビュー記事なんかが載っていたが、世の中には俺の知らないところで、ずいぶん大変な事件が起きているものだ。
ビールとその週刊誌で二十分も時間をつぶしたころ、『英進舎』が入っているビルの出入り口から、俺にアイスコーヒーを出してくれた女の子が、やっと姿を現した。五時半まで待って出てこなかったら、今日のところは諦めるつもりだったが、俺の運もまんざらではなかったらしい。もちろんそれは、両角なんとか氏の運とは、比べものにもならないだろうが。
ビールの勘定を払って、俺はその店を出た。
俺が女の子に声をかけたのは、しばらく後ろをついて歩いて、急ぐ様子もなく駅に向かっていることを確かめた、そのあとだった。女の子は事務服をジーパンと袖なしの綿《めん》シャツに着がえていたが、それで印象が変わるほど特徴のある子でもなかった。歳はたぶん、夏原祐子より一つか二つ下といったところだろう。
立ち止まった女の子が、肩から下げていたキャンバス地のバッグを胸の前に抱え直して、なにやら困ったような目つきで、そっと俺の顔を見上げてきた。
「ナンパされるの、初めてみたいな顔じゃないか」と、女の子よりもっと困った目つきを作ってやって、俺が言った。「君を一目見て忘れられなくてな。あのまま帰る気には、どうしてもなれなかった」
「よーく言うんだ。どうせあたしからなにか聞きたいんでしょう。塾のこととか、守る会のこととか」
「俺の顔、下心があるように見えるか」
「見えるわよ。丸ごとぜんぶ下心じゃない」
「困ったな。歳をとると、いやでも人生が顔に出るらしい」
女の子が、あはっと笑って、胸の前で抱えていたバッグを、暑そうに肩にひっかけ直した。
「さっきだって、あたし、びっくりしちゃったわよ」
「さっき?」
「事務所を出るとき、急に言うんだもん。アイスコーヒーの味について、あとでゆっくり感想を聞かせるとかさあ」
「あれも中年の証拠だ。可愛い女の子には、ああいう口のきき方しかできないんだ。アイスコーヒーの味、どこかで勉強してみないか」
「それ、今すぐってこと?」
「早いほうがいいな。君みたいに勘のいい子なら、アイスコーヒーの味なんか二、三十分で勉強できる」
上目づかいに、黙って呼吸をしてから、女の子がまた、あはっと笑った。
「柚木さんだったっけ? あたし、アイスコーヒープラスケーキの味だったら、勉強してもいいわよ」
「やっぱり君は、勘がいい」と、女の子をうながして、とりあえず駅のほうに歩き出しながら、俺が言った。「ここだけの話だけどな。本当を言うと、この前俺のナンパが決まったのは、もう二十年も昔のことだ」
女の子が俺を連れていったのは、駅の高架を北口に渡った、ケーキ屋の二階のだだっ広い喫茶店だった。隅の席に向かい合って腰をかけ、女の子は予言どおりアイスコーヒーとチョコレートのショートケーキを注文し、俺のほうも飲む気はなかったが、それでも一応コーヒーを注文した。
「久しぶりで、ナンパの礼儀を忘れていたらしい」と、シートに深く腰かけ、メンソールの煙草を屈託なく吹かし始めた女の子に、俺が言った。「君の名前を、まだ聞いていなかった」
「広地美代子。電話番号も知りたい?」
「電話番号は、この次でいい。見かけによらず俺は、気が小さいんだ」
煙草を取り出して、ゆっくり火をつけ、煙を吐いてから、俺が訊いた。
「君、あの塾に勤めてから、どれくらいたつ?」
「一年半ぐらいかな。最初はね、アルバイトで入ったんよ。そしたら前の事務の子がやめちゃって、面倒臭いからあたしが社員になったの。でもあたし、本当はもうトラバーユしようと思ってんの。あんなだっさい服着て採点表の整理やるの、面白くもなんともないもん」
「次の仕事は、決まっているのか」
「仕事なんか、なんでもよければいくらだってあるじゃない。あたし雑誌の編集なんか興味あるんだけど、柚木さん、そっちのほうにコネ、ある?」
「なくはないが、あまり薦《すす》めないな」
「やっぱし、お給料安い?」
「給料も安いし、仕事の時間も長いし、それにあの世界の連中はみんな性格が悪くてな。君みたいな可愛い女の子には、男として薦めにくい」
「雑誌の記者とか編集者って、恰好いいと思うけどなあ」
「君、いくつなんだ?」
「二十歳《はたち》」
「東京の子か?」
「福島。大泉でアパート借りてんの」
「俺が事務所で話した、丸山っておばさん、あの人はどういう人なんだ」
「やーなおばさんよ。口やかましくて自分勝手で、可愛い女の子はみんないびり出すの。あたしの前にやめた子だって、丸山さんにいびり出されたんだから」
「実家は、とんでもない金持ちだそうじゃないか」
「だからさあ、世の中って不公平なんよねえ。あんな意地の悪いおばさんでも、お金さえあればみんなちやほやするんだもん。ちやほやして、ぺこぺこしてさ」
「理事長の両角も、ちやほやしてぺこぺこする口か」
「理事長はちがうわよ。あれは丸山さんのほうがいかれてる感じ」
注文したケーキとアイスコーヒーがきて、広地美代子がそれに取りつき、俺のほうはコーヒーのカップを脇にどけて、広地美代子の元気のいい口の動きを眺めながら、しばらく、黙って煙草を吹かしていた。
「理事長の、両角の下のほうの名前は、なんと言うんだ」と、広地美代子のケーキの大きさが、半分ぐらいになったとき、煙草を消して、俺が訊いた。
「啓一。両角啓一」と、ひらべったいケーキスプーンを口に当てたまま、広地美代子が答えた。
「理事長と丸山さんの関係は、公然の秘密ってわけか」
「そうみたいね。誰もなんにも言わないけど、ずっと前からそういうことみたい」
「それぞれに家族があって、よくトラブルが起こらないな」
「丸山さんの旦那さんて、養子なんだって。ああいうお金持ちの家に養子にいく人なんて、最初からそういうこと、覚悟してるんじゃない」
「理事長の、奥さんのほうは?」
「似たようなもんよ。あのね、このこと、前にやめた子から聞いたんだけど、理事長、丸山さんとそうなる前は、この近くで小さい塾をやってただけなんだって。丸山さんのお陰で塾だって大きくしたし、レストランとかスーパーとかも始めたわけだし、奥さんだって文句なんか言えないわよ。愛だとか恋だとか言ったって、世の中けっきょくお金だもんね」
「それだけ金があるのに、丸山さんはどうして英進舎の事務長なんかやってるんだ」
「だって、そんなの、お金の次は名誉じゃない。やめた子がそう言ってた。丸山さんPTAの会長もやってんのよ。いくら大地主の一人娘で大金持ちだって、ただの主婦じゃPTAの会長になんかなれないわよ」
「丸山さんの家は、なにも商売はしていないのか」
「ガソリンスタンドとか、自動車の修理工場とか鉄工所とか、そういうのをやってんの。だけど、ねえ? ガソリンスタンドとか鉄工所とかって、ぜんぜん文化的じゃないでしょう。あの人あんな顔してて、もっのすごく文化的なことが好きなんよ。石神井の自然を守る会だって、本当は丸山さんがやってるんだから」
「両角理事長は、次の区長選挙に立候補するそうだな」
「そうらしいわね。丸山さん、お金ばら撒いてるっていうから、ひょっとしたら当選するかもしんないわね」
「両角というのは、どういう男なんだ」
「どういうって、そんなの、ふつうのおじさんだけど?」
「ふつうのおじさんに、そんな金持ちの女がどうして入れ込むのか、理由が知りたいもんだ」
「あたしだって知りたいわよ。あたしなんか、あんなおじさんとおばさんがそんな関係だなんて、聞いただけでも気持ち悪いわ。理事長はほとんど英進舎に顔を出さないけど、丸山さんが来させないっていう噂もあるの。それって、案外当たっているかもねえ」
「両角理事長が塾に顔を出して悪い理由が、なにかあるわけか」
「だって、大学の受験生なんかで可愛い子、いるじゃない? あたしなんか笑っちゃうけど、丸山さんて、そういうことにへんに本気になるの。ぜったい本人だけの考えすぎなんだけどさあ」
いつの間にか、広地美代子の前からケーキが姿を消していて、残った皿に、俺が軽く顎をしゃくってやった。
「いくつ食ってくれても、かまわないんだぜ」
「もういいの。あたし一応、ダイエットしてんの」
アイスコーヒーのグラスに手をのばし、ストローをすすってから、上唇を尖らせて、広地美代子が大袈裟な瞬きをした。
「だけど柚木さん、なんでそんなこと調べてるわけ? 守る会の活動とか、そういうのを聞きたかったんでしょう」
「活動が成功するかしないかは、リーダーの人格と会員の目的意識の問題だからな。とうぜん内部の人間関係にだって興味は出る。君も、守る会には入っているのか」
「形だけよ。あそこに勤めてるかぎり、それぐらい仕方ないわよ」
「島村由実って子、覚えていないか。会員になっていたかどうかは、わからないが」
「あたしさあ、本当に形だけなんよ。丸山さんへの義理で一回だけ街頭署名とかをやっただけ」
俺は上着の内ポケットから、島村由実のアドレス帳を取り出し、間に挟んであった写真を抜いて、それを広地美代子の顔の前につき付けた。
「右側に写ってる、背が高くて、髪の短いほうの子だ」
「見たこと、あるような気はするけど……」
「丸山さんは、その子が二、三度集会に来たと言ってる」
「丸山さんがそう言うんなら、そうなんじゃない? あたしもなんとなく見た気はする。事務所に来たことも、あるんじゃないかなあ」
「写真の、となりの女はどうだ。そっちのほうは見たことないか」
「見たこと、ない気がするなあ。これぐらい奇麗な人なら、会ってれば覚えてるわよ」
広地美代子が興味もなさそうな顔で写真を押し返し、俺はそれを元のポケットにしまって、また煙草に火をつけた。
「ケーキ、本当にもういいのか」
「本当にもういいの。夕飯が食べられなくなるしね」
「トラバーユの件は、慎重に考えたほうがいい気がするな」
「だってもう決めたんよ。このままあそこに居たって、面白いことなんかなんにも無いもん」
「どこに居たって、特別面白いことなんか無いさ」
「そうでもないわよ。友達でテレビのアシスタントやってる子がいるけど、けっこう面白いってよ。いろんなスターに会えて、たまに飲みになんか連れてってもらうって」
「雑誌の編集、やりたかったんだろう?」
「それもいいけど、テレビ関係だっていいわよ。柚木さん、テレビのほうにはコネないの」
「俺は、テレビとか映画ってのは、見るだけのものだと思っている」
「あたしさあ、せっかく東京に出てきたんだし、なんか面白いことやりたいんよねえ。テレビなんか見てると、面白く生きてるような子、たくさんいるのにさあ」
「ふつうが、一番いいんだ」と、腕時計を覗きながら、伝票をつまんで、俺が立ち上がった。「最後までふつうに生きられれば、それで人生の九十パーセントは成功だ。あとの十パーセントがなんなのか、俺にも、よくはわからない」
キャンバス地のバッグを、膝の上に引き上げ、半分腰を浮かせて、広地美代子が丸い目で俺の顔を見上げてきた。
「ねえ、本当に、聞かなくていいの」
「なにを?」
「だからさあ、最初に言ったじゃない……あたしの電話番号」
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石神井公園の駅で広地美代子と別れて、俺が渋谷に着いたのは、夏原祐子と約束した七時よりも十分ぐらい早い時間だった。空にはまだ夕方の明るさが残っていて、駅から出ていく人間の足取りも、駅に向かう人間の足取りも、なんとなく慌ただしい。
夏原祐子と待ち合わせをした場所は、自慢ではないが、ハチ公の前だった。電話で祐子にはパルコがどうとか、東急ハンズがどうとか言われたのだが、俺の人生ではそのどちらも、全面的に確信がもてる場所ではなかった。もちろん俺だってパルコや東急ハンズの所在ぐらい、見当がつかないわけではない。しかしその中のなん階の、なんというパーラーとか言われても、もうそれだけで混乱してしまう。俺が学生のころは、新宿なら紀伊国屋前、渋谷ならハチ公前と、善良な市民が待ち合わせすべき場所はちゃんと決まっていたのに。
夏原祐子は、俺がハチ公の鼻面を眺めながら、どうもこいつは昔と立っている場所を変えたのではないかと疑い始めたとき、道玄坂の方向から、銀色の紙袋をぶら下げて忽然と登場した。紙袋の中味が買い物の正体なのだろうが、たいした大きさではなく、ぶら下げている手つきからして、代わってやるほどの重さでもなさそうだった。
「どこかでビールでも飲むかな。それともすぐ、飯がいいか……」
「もちろんすぐ、ビールを飲みながら食事がいいです。わたし二時間も買い物をしていて、お腹がすいて、それで少し気が立ってます」
夏原祐子はそこで、深くうなずいてみせ、それから俺の頭の上に目をやって、なんとなく困ったような顔をしているハチ公に、ひらっと手をふった。
「柚木さん、知っていました?」
「なにを」
「ハチ公のこと。映画で見たときは白い犬だったのに、ハチ公って本当は、黒い犬だったんですねえ」
夏原祐子が言っていた『どぜうのうまい店』というのは、センター街をつき当たり近くまで歩いて、そこから路地に入っていった、古い店構えのどじょう屋だった。こんな子がこんな店を知っていて、俺のほうがそれにのこのこついて来る構図こそが、まさにグルメブームとかいう時代の困った現実なのだ。
二階の座敷におさまり、鍋が出てくるまでの間、冷やっこと枝豆を肴に、とりあえず俺たちはビールを飲み始めた。夏原祐子はまさか俺のためではないだろうが、ちゃんとプリント模様のスカートを穿いて、少し前襟の開いた草色のサマーセーターを着ていた。これで口をきかなければ、実際の年齢より二つ三つは、確実に大人っぽく見える。
「買い物は、ぜんぶ、済んだのか」と、クーラーとビールの冷たさに、いくらか気分が鎮まったような顔の夏原祐子に、俺が訊いた。
「第一目標のやつだけ、なんとかクリアしました」と、しっかりコンタクトレンズを入れているらしい目で、悪びれもせず、夏原祐子が俺の顔を見返してきた。「女の子の買い物が大変なこと、知っていますよね」
「女の子の買い物は、男にとっては社会問題だ」
「女の子って、買い物に人生を賭けてるところがあります。わたしなんか今日、お店を五軒まわって、それでやっぱり最初の店で見たやつが良くて、けっきょくそこへ戻って買ってきたんです。水着を一つ買うのがなんでこんなに大変なのか、最後には自分で腹が立ちました」
食事だけで、買い物にまでつき合う運命になかったということは、今日の俺はやはり、運が良かったのかもしれない。水着を選ぶのに二時間もつき合っていたら、俺は間違いなく過食症になっていた。
「見てみます?」
「なにを?」
「わたしが買った水着」
「いや……」
もちろん俺は、『いや。見なくてもいい』と言ったつもりだったが、夏原祐子はなぜか『いや。見てもいい』と取ったらしく、銀色の紙袋を引き寄せて、中から青い小さな布きれを、魔法か手品のようにあっけなくつまみ出した。
「これより少しうすい色のと、どっちにしようか迷って、けっきょくこっちに決めました」
それは色こそ鮮やかなブルーだったが、形はどう見ても競泳用としか思えない、平凡なワンピーススタイルの水着のようだった。
「本当を言うと、かなり頑張ったんです。わかります? 着てみるとこれ、ものすごいハイレグなんですよ」
ハイレグということは、つまり、股の切れ上がりの深い、あれということか。見ただけではわからないが、それもなにやらものすごいというではないか。しかし俺の背中がへんに恥ずかしくなったのは、水着のせいではなく、その水着を着る夏原祐子のせいだ。
「どう思います?」
「色は、いいな」
「形だっていいんです。いかにも泳げそうに見えますからね」
「いかにも水泳の選手のように……君、泳げないのか」
「二メートルぐらい進むと、沈むんです。どうしてでしょうねえ」
「俺に訊かれても、困るな」
「訊いてるわけじゃないけど、だけど、沈む理由が納得できないの。どうしてわたしだけ沈んじゃうのかなあ」
「君以外の人はどうして沈まないのか、その理由を考えたほうが問題は早く解決する。俺の経験からいって、まず間違いない」
仲居が浅い鉄鍋にどじょうを持ってきて、ガスコンロにセットし、山盛りのきざみネギとごぼうを置いて戻っていった。
「君、今度の夏休み、由実さんとハワイに行く予定だったそうだな」と、二つのコップにビールを注ぎたしながら、俺が言った。「昨日及川くんが、そんなことを言ってた」
「ハワイというわけでは、なかったんです」と、水着を紙袋に戻してから、座布団の上に座り直して、夏原祐子が答えた。「由実は学生時代最後の夏休みだし、どこか旅行にいこうかって、そんなことを話してたの」
「及川くんも、一緒にか」
「人生はそんなに甘くありませんよ。そういえば昨日、及川くんから電話があったなあ」
「なん時ごろ」
「五時ちょっと前。わたし、友達と待ち合わせがあって、出かけるところだったの」
「俺のほうは接触事故のことを訊きたいんだが、捕まえられないでいる。及川くん、なにか言ってたか」
「それがね、一緒にハワイに行かないかだって。及川くんがわたしを連れていくって言うの」
「及川くんも、気合いを入れてきたわけだ」
「なにを考えたのかなあ。喫茶店でお茶を飲むのと、わけが違うのになあ」
「連れていくと言うんなら、連れていってもらえばいい。及川くんも一生懸命バイトをやってる」
「そういう問題じゃないですよ。わたしが一緒に行くかどうか、常識で考えてもらいたいです」
「昨夜君が一緒だった友達に、失礼にあたるわけか」
夏原祐子が、几張面な目つきで鼻の穴をふくらませ、眉をしかめて、尖った顎を毅然と俺のほうにつき出した。
「柚木さん、そういうふうに考えるんですか」
「常識的に、考えてみた」
「わたしが昨夜泊まったの、高校のときの同級生の部屋ですよ」
「俺の高校なんか、三分の二が男だった」
「女子校に男の子はいません。柚木さんて、ぜんぶそういうふうに考えるんですか」
「疲れてるせいか、考え方が安易になる。気に障ったら、謝る」
「昼間も電話で謝りました」
「そうだったか」
「そういうふうにいつも謝るの、男の価値を下げると思いますよ」
俺だって他人に謝るのは嫌いだし、ここしばらく誰かに謝った覚えもないが、言われてみれば、今日は夏原祐子に二回も謝っている。疲れているからといって、性格が素直になったわけでもないだろうに。
それはそれとして、と頭の中で呟いてから、口を尖らせてどじょうを小鉢に取り始めた夏原祐子に、俺が言った。
「さっき君、『由実は学生時代最後の夏休み』と言ったけど、君のほうは、最後ではないのか」
「わたしは大学に残ります」と、俺にともどじょうにともなく、深くうなずいて、夏原祐子が答えた。
「大学にってことは、大学院に?」
「大学に残ってまで、わたしは学生食堂に勤めませんよ」
「大学院でまた、『テレクラにおける中年サラリーマンの希望と挫折』の研究をつづけるのか」
「あれは卒論だけの単発的なテーマ。目標はあくまでも、全体社会における人間心理の構造学的な研究です」
「非常にわかりやすい、その、良さそうな研究だ」
なんだかよくわからないが、一般社会とやらで生活的に歳をとっていくよりも、無菌状況の中で汚れずに生きていくほうが、この夏原祐子という女の子には相応しいのかもしれない。死ぬまで手《て》垢《あか》で汚れない人生が似合う人間というのも、たまにはいるものだ。
俺としても、できれば今日はこのまま、『全体社会における人間心理の構造学的な研究』とやらを聞いていたかったのだが、しかし今こうやって夏原祐子と向かい合っているのは、そのためではない。
「由実さんのことを調べているうち、少し、引っかかるところが出てきた」と、目のまわりをかすかに赤く染め始めた夏原祐子に、集中力を仕事に戻して、俺が言った。「この春からのことで、君に思い出してもらいたいことがある」
小鉢と箸を下に置いて、また座り直し、夏原祐子が、生真面目にうなずいた。飯を食うためだけに俺が呼び出したのでないことは、この子にはもちろん、ちゃんとわかっている。
「昼間電話でも訊いた、及川くんの接触事故のことだ。昨日及川くんはそのことを俺に言わなかった。言う必要はないと思ったのかもしれないが、それにしては、おかしい気がする」
「由実がそのとき、一緒に乗っていたこと?」
「一緒に乗っていて、そしてそのことを、由実さんが誰にも言わなかったこと」
ふーんと溜息のように息をつき、目を天井に回して、夏原祐子が頬に自分で人さし指をつき立てた。
「おかしいと思わないか。由実さんはなぜ、君に言わなかったんだろう」
「由実が及川くんと一緒だったこと、本当なのかなあ」
「木戸千枝さんは、そう言ってる」
「及川くんがね、そういうことがあったのは本当だと思う。学校でみんなに言ってたし、わたしも学食を奢ってもらった。でも、及川くんも由実のことは言わなかった。二人が人に言えないほど深い関係だったなんて、そんなこと、なかったはずだけど」
「三回デートをして、及川くんはキスもさせてもらえなかったらしい」
「及川くんが由実にキスをしようとしたことは、あるの。由実からちゃんと聞いてる。でもそのとき由実が、『及川くん鼻毛が出てる』って言ったら、やめちゃったって」
「娘が中学に入ったら、今の技をぜひ教えてやろう」
「柚木さん、子供がいたんだっけ。そんなふうに、見えないのになあ」
「そんなふうに見えないのが、女房には面白くないわけさ。それでな、もしその接触事故のとき、由実さんが及川くんと居たことが本当だとしたら、どう思う? 及川くんの鼻毛事件まで君に話した由実さんが、なぜ接触事故のことは言わなかったのか。由実さんはそのことを、姉さんにも喋っていない。それに話の様子からすると、自分が一緒だったことを及川くんに口どめしていたことになる。いったい由実さんは、なぜそんなことをしたんだろう」
「それが、そんなに、大事なこと?」
「大事かどうかは、あとでゆっくり考えるさ」
「でも及川くんの話では、軽くこすっただけで、警察だって呼ばなかったのよ」
「だからおかしいんだ。事故の相手は警察を入れずに、その場で示談にしている。本当にただの接触事故なら、当然警察を呼ぶはずだ。クルマは保険に入っているし、警察の事故証明がなければ保険金はおりない。つまりそのとき、相手のクルマに乗っていたやつは、保険金なんかおりなくてもいいから事故をその場で処理したかった。その場で処理する必要があったから、ポンコツを承知で及川くんに十万円も払った、そういうことさ」
「その、その場で処理する必要って、たとえば?」
「酔っ払っていたとか、無免許だったとか、あるいはその場に居たことを他人に知られたら具合が悪かったとか……だいたいは、そんなところだ」
ビールのコップを口に当てたまま、目を見開いて、夏原祐子がどじょう鍋の上に、平然と額をつき出した。
「もし、ね、事故をその場で処理したかった理由が、もし柚木さんの言うとおりだったとして、そのことと由実の事件が、どういうふうに関係あるの」
「それを、君に教えてもらいたい」
「わたし、そんなこと、知らないけどなあ」
「知らないかもしれないし、知ってるかもしれない。目を、つぶってくれないか」
「どうして?」
「いいからつぶれよ」
「わたしが目をつぶったら、キスするつもりでしょう」
「あの、なあ?」
「冗談ですよ。でもどうして、目なんかつぶらせるんですか」
「思い出してもらいたいんだ。接触事故があった五月の連休すぎ、及川くんと由実さんがどんな様子だったか。君と会っていたときの表情でも仕草でも、なんでもいい。目をつぶってそのときの情景を思い浮かべると、人間は意外といろんなことを思い出す」
「長年の、キャリア?」
「そういうことだ」
「本当にキスは、しない?」
「俺はどじょうを食いながら、女の子にキスはしない」
夏原祐子が、一瞬とぼけた目で俺の顔を睨み、鼻を生意気に動かして、小さく喉を鳴らした。それでも黙って目を閉じたところをみると、この件に関してだけは俺のキャリアを信じる気になったらしい。
「いいか、時期は二ヵ月ちょっと前、五月の連休をすぎたあたりだ。場所は学校の食堂でも廊下でも、教室でもいい。友達がなん人か居て、そこで及川くんが接触事故のことを喋っている……浮かんだか」
「浮かんだ浮かんだ」
「及川くんは、どんな服を着ている?」
「ジーパンに、Tシャツに、それと肩にセーターを巻いてる」
「昨日さあ、ちょっとクルマこすっちまってさあとかなんとか、そんなこと言ってるよな」
「言ってる言ってる」
「場所はどこだって」
「場所は、ええと、井の頭通りとか、井の頭公園のそばとか……たぶん、そう」
「あっちが急に出てきてよう、俺も目一杯ブレーキ踏んだんだけどよう……な?」
「そうそう」
「相手のクルマを運転していたのは、男、女?」
「それは、言わなかった」
「なん人乗っていたとか」
「やっぱり、言わなかったなあ」
「そのとき、由実さんは?」
「由実が、なに?」
「及川くんが友達に喋っていて、それを君が聞いている。君のそばに、由実さんも居るだろう」
「柚木さん、見てたんじゃないですか」
「気を散らすと、本当にキスするぞ」
目を開きかけて、また慌てて閉じ、夏原祐子がむっつりと口を尖らせた。
「由実さんは、どこに居る?」
「由実は、わたしのとなり。教室の椅子に座ってる」
「及川くんの話を聞きながら、なんの気なしに、君はちらっと由実さんの顔を見た」
「見た見た」
「由実さんの様子は、どうだ」
「由実は、そうねえ、由実は……及川くんの話なんか、聞いていないような顔してた。そういえばそうだ。由実、なにか他のことを考えてるような顔をしていた」
「石神井の児童公園にイベントホールを建てる話な……」と、夏原祐子の、輪郭のはっきりした形のいい唇に、素直に見とれながら、俺が言った。「由実さんは、具体的にはいつごろまで怒っていた?」
「いつごろまでって……」と、寝起きのように、頼りなく目を開いて、夏原祐子が困ったように肩をすくめた。「目をつぶってるの、疲れました」
「開いてもいいから、意識はまだ由実さんのことに集中させておく」
「そういう言い方、好きではないです」
「そういう、なに?」
「そういう、子供に言うみたいな言い方」
「そんなつもりは、ない。また謝るか」
「謝らなくていいけど、来月、わたしは二十二です」
「ふつうの二十二は、高校のときの男の同級生の部屋に泊まるもんだ」
「柚木さん。顔にビール、かけられたいですか」
「顔は、ちゃんと、洗ってきた」
俺の顔にビールをかける代わりに、コップを口に運んで、夏原祐子が短く、くっと鼻を鳴らした。鼻ぐらいいくら鳴らしたってかまわないが、その怒っているのか笑っているのかわからない目で、じっと俺の顔を睨むのは、なんとかならないものか。
「問題は、イベントホールの件だ。思い出してくれたか」
「でも、それ、由実が勝手に怒っていただけで、わたしは関係ないです」
「俺と君に関係があるのは、由実さんがいつまで怒っていたかということさ」
「そんなこと、死ぬまでずっと怒っていたのに、決まってるじゃないですか」
「君が最後に由実さんに会ったのは、いつだ?」
「死んだ日の、二日前」
「そのときも由実さんは、イベントホールのことを怒っていたか」
「それは、だって、会うときいつもその話をしたわけじゃないもの。イベントホールのことなんか、なにかのついでに話すだけだった」
「それじゃ最後に、ついでに話したのは、いつ?」
「そういうこと、わたしが覚えていると思います?」
「君なら思い出せるさ。俺が今まで会った女の子の中で、目のつぶり方は、君が一番うまい」
夏原祐子が、じろりと俺の顔を睨み、座布団の上で、憮然と背筋をのばした。これで本当にビールが飛んできたら、たまったものではない。
「わかった。今のは冗談だ。今のは冗談だけど、イベントホールのことは冗談で訊いたわけじゃない。いつまで由実さんが怒っていたのか、本当に知りたいんだ」
「でも……」と、首を右にかたむけて、どじょうときざみネギを小鉢に取りながら、夏原祐子が言った。「由実、もう怒るのはやめたとか、イベントホールに賛成になったとか、そんなこと、一度も言わなかった」
「由実さんが死んだのが六月の二十一日。及川くんが接触事故を起こしたのが、五月の十日だったとする。その間が約一ヵ月半。その一ヵ月半の間に限って考えてみたら、どうだ。君と一緒に居るとき、由実さんはイベントホールの話題を持ち出したことが、あったか」
口の中で低く唸り、また人さし指を頬につき立てて、夏原祐子が尖らせた唇を、柔らかく動かした。
しばらく待ったが、答えが出てこなかったので、俺が言った。
「五月の連休前とそれ以降と、単純に分けてみたら、どうかな。由実さんが最初にイベントホールのことを言い出したのは、いつごろだった」
「最初に言ったのは、春休みが終わって、初めて学校で会った日。由実、へんにそのことを怒っていて、森林破壊だとか酸性雨のことまで言い出して、それでその日は、最後までそのことを喋っていた」
「由実さんも、専攻は君と同じ、その……」
「由実は社会科学。学部は同じ社会学部だけど、三年から専攻が分かれるの」
「もともと、由実さんは、環境問題に興味があったわけだ」
「ふつうの人より、いくらかっていう、その程度じゃないかな」
「で、春休みが終わったとき、初めてイベントホールの話題が出た。それから?」
「それからは、喫茶店でぼーっとしてるときとか、部屋に泊まりにきたときとか、なん度かは喋ったと思う。これ、そんなに大事なこと?」
「今の段階では、なんとも言えない。ただどうにも引っかかるし、今度の事件では他に引っかかるようなことが、なにも見当たらないんだ」
「あのね、もしかしたら、間違ってるかもしれないけど……」と、顎をななめに引きながら、小さく唇をなめて、夏原祐子が言った。「由実がそのことをよく喋ったの、連休前だったような気がする。怒るのをやめたかどうか、それは知らない。でも連休をすぎたころからは、由実はイベントホールのことを言わなくなった。気にもしなかったけど、言われてみればたしかに、連休をすぎてからは一言も喋らなくなった……これ、どういうことですか」
「どういうことなのか、わかる気はするが、わからない気もする。今わかっているのは、君がビールを飲みすぎていることだけだ」
「わたしの……」
口を半分開いたまま、鉄鍋ののったテーブルに、夏原祐子が、生意気な仕草で強引に肘を引っかけた。
「わたしがどじょうを好きだとか、ビールをどれぐらい飲むとか、そういうことは、今は問題ではないです」
「それは、そうだ」
「今は由実のことを問題にしてるんです。由実は、昨日柚木さんが言ったように、本当に誰かに殺された、あれはただの交通事故ではなかった、そのことは、ぜったいに間違いないんですか」
「理屈だけで言えば、確率は今でも半分以下だと思う。由実さんは人に恨まれる子ではなかったようだし、トラブルに巻き込まれていた様子もない。だけどトラブルってのは、勝手に向こうからやって来ることもある。由実さん自身が気づかないうちに、とんでもないトラブルを背負い込んでいた、もっと悪く考えると、環境そのものにトラブルを生む芽が含まれていた、そんな気がして仕方がない。ぜったいかと訊かれればぜったいではないけど、俺の勘としては、間違いなく殺人事件だと思う」
俺が喋っている間、息でも止めていたのか、夏原祐子が音が聞こえるほどの勢いで、ふーっと溜息をついた。
「わたし、昨日から、ずっと考えていました。でも由実が殺される理由がわからなくて、柚木さんがわたしをからかっただけなんだろうって、ずっと、そう思おうとしていました」
夏原祐子の目に、いつの間にか涙が厚い膜をつくっていたが、それがどじょう鍋のネギのせいでないことだけは、俺にも理解できていた。
「わたし、柚木さんのこと、信じることに決めましたよ」と、座椅子に背中を引き、敢然と瞬きをしてから、顎に妙な力を入れて、夏原祐子が言った。「由実のためにも、柚木さんを信じるべきだと思うんです。由実がそんなふうに殺されたのなら、わたしだって黙っていられませんよ。ぜったい頑張って、犯人を見つけてやります」
「ビール、もう少し、飲むか」
「わたしは、ご飯がいいです」
「飯を食う?」
「食べますよ。いけませんか」
もう夏原祐子の腹には、どじょうもビールも枝豆も、かなりの量が納まっているはずだったが、これがいわゆる、歳のちがいというやつか。俺は慌てて煙草を消し、通りがかった仲居に注文を取らせて、ついでに自分でもビールを追加した。
仲居がいなくなってから、ぼんやりした視線をテーブルの上に据えて、夏原祐子が言った。
「わたし、由実とは映画にいったり買い物をしたり、いつも一緒で、なんでも知ってるつもりでいた。でも、それ、本当だったのかな。由実のこと、わたし、わかっていたのかな。いろんなこと、由実はぜんぶ喋っていたと思うの、勝手な思い込みだったかもしれない。わたしだって由実に言わなかったこと、やっぱりあるんです。どうしても人に言えないことって、あるんですよね。由実だってわたしに言えないこと、あったと思うんです。そんなことも気がつかなくて、親友だなんて、人間て、勝手なもんですよね」
「人間が勝手な生き物でないとは、俺だって、思わない」と、やって来たビールを、自分のコップにだけ注いでから、俺が言った。「それぞれ勝手な価値観をもって、勝手なことを考えて、勝手に生きている。だからって人間に対して懐疑的になることもないさ。お互いに言えないことはあったとしても、由実さんが君の親友だったことに変わりはない。打ち明けられない問題が一つか二つしかない友達だったことのほうが、意味があると思う……恰好をつけすぎるか」
夏原祐子が、目の端で気楽に笑い、頬杖をついて、背中を丸めるように肩をすくませた。
「そういうふうに恰好つけるのも、決まっていますけどね。基本的に二枚目志向の人って、わたし、嫌いではないです」
わかるようで、よく考えるとなんだかよくわからない言い方だが、夏原祐子の目つきからして、否定的な意味ではないらしかった。それにしてもたった今まで『友情』について懐疑的な考察をしていたというのに、この子はいったい、どこで、いつ機嫌を入れかえたのか。
「君が協力してくれれば、事件は解決したようなもんだ」と、ビールを口に運んでから、頬杖をついたままコップを玩んでいる夏原祐子に、一つうなずいて、俺が言った。「由実さんの姉さん……島村香絵さんのことを、君はどれくらい知ってる」
「どれくらい、ですか?」
「君はあのマンションに泊まったことがある。由実さんからも話は聞いている。私生活の具体的な様子、たとえば香絵さんの交遊関係とか、仕事の内容とか個人的に興味をもっていることとか、具体的に知ってることがあったら、教えてもらいたい」
「由実の姉さんのことを具体的に知って、どうするわけですか」
「それは前にも言った。由実さん個人に被害者になる要因はなかったとしても、環境のほうにあった可能性はある。由実さんの家庭環境ということになれば、当然姉の香絵さんに、興味が出てくる」
「それって、おかしいですねえ」
俺の顔と俺が手にもったビールのコップを、含みのある目つきで、のんびりと夏原祐子が見くらべた。
「昨日、柚木さんは言いました、ある人の紹介で姉さんに事件の調査を依頼されたって。そういう関係なら、今言ったようなことは直接本人から聞けばいいわけでしょう。本人に直接訊けない理由、なにかあるんですか」
昨日初めて会ったときも感じたし、それからもなん度か認識させられたが、本当にこの子は、見かけよりも頭のいい子なのだ。
「由実さんに保険がかけられていたことは、君、知っていたか」
眉がひっそりと動いたが、夏原祐子は口を開かず、目だけで、俺に先をうながした。
「たった二人の姉妹だから、保険をかけ合っていたとしても、不思議ではない。ただ一億というのは、どんなもんかな。保険のかけ金だけでも馬鹿にならないはずだし、当然二人ぶんのかけ金は、香絵さんが出していたことになる。そのこと、由実さんは君に話したことがあるか」
「一億……ですか」と、それが癖なのか、また丸い目を大きく天井に回して、夏原祐子がひゅーっと口笛を鳴らした。「由実の値段として、高いのかな、安いのかな。でも今わたしに一億くれると言われたら、困りますよねえ」
「保険のことは、知らなかった?」
「傷害保険のことは、言ってたような気はする。でも金額のことまでは聞いていなかった。由実自身、そこまでは知らなかったと思う」
「香絵さんは俺に調査を依頼したとき、保険のことは言わなかった。言う必要がなかったといえば、それまでかもしれないが」
「柚木さん、もしかして……」
「ただの可能性の問題を言ってるだけだ。人間によって金の価値は様々だが、一億円という金額は、やっぱり半端じゃない」
「柚木さんの仕事って、そこまで考えなくてはいけないんですか」
「そこまで考えなくてはいけない仕事に、協力はできないか。俺が言ったのは、あくまでも可能性の問題さ。もし相手が香絵さんでなくても、理屈は同じことだ」
「相手がわたしでも、同じことですか。ボーイフレンドを由実に取られて、わたしが由実を恨んでいる可能性があるとしたら、柚木さんはわたしのこと、疑うんですか」
「俺は、君のことは、疑わない。俺は人を見る目に自信がある」
「そんなのはおかしいです。論理的に、破綻しています」
「大きなお世話だ。こういうことは破綻したっていいんだ。相手によっては俺だって破綻する。恰好よくばかりは決められない。それとも君は、無理にでも俺に疑ってもらいたいのか」
「柚木さん……」
「なんだよ」
「ビール、飲みすぎじゃないですか」
「俺は、なんていうか、つまり、今回の事件を冷静に……」
「それで由実の姉さん、他にどういうところが怪しいんですか」
「たとえば警察にしたって……君、今、俺をからかったのか」
「とんでもありませんよ。わたしだって人を見る目はあります。ただわたしは、柚木さんがわたしのことをどう思っているのか、誘導尋問をしただけです」
俺としても、ここで一言決めてやるべきだったが、残念ながら出てきたのは言葉ではなく、背中の冷や汗だけだった。
「警察は、保険のことで、由実の姉さんを疑っているわけですか」
「そういうわけでは、ない」と、頬杖の上で生意気そうに上を向いている夏原祐子の鼻の頭を、無駄は承知で、俺は思いっきり睨みつけてやった。「警察は誰を疑っているわけでもない。ただ香絵さんが俺に言ったように、交通事故で処理しようとしているわけでもない。やり方がかったるいとしても、捜査は一応継続中だ。この段階で彼女が俺のところに事件を持ち込む必然性が、常識的に考えて、あるのかどうか……」
「上村さんのことは、どうなんでしょうね」
「上村英樹の、なに?」
「由実の姉さん、上村さんのことが許せなくて、結婚を邪魔したいと思ってるのかもしれません」
夏原祐子の顔を睨みつける仕事を、つい忘れて、俺が言った。
「そのことは、俺も考えた。上村をもう一度事件の中に引っぱり出して、それで騒ぎが大きくなれば上村には都合が悪い。ただ、それだけでなんの根拠もない事件を、殺人事件だと騒ぎ立てるかどうか。どっちにしても俺には、あの香絵さんという人が、一息わからない」
「それ、個人的な興味も含まれてます?」
「どういう意味だ」
「だって、由実の姉さん、あんな奇麗な人じゃないですか」
「そういうことは、とりあえず、関係ない。今問題にしているのは香絵さんの私生活だ。とにかく彼女はあれだけの美人だ。由実さんの母親代わりをつとめる必要があったとしても、少し限度を越えている気がする。彼女があそこまで自己犠牲に徹する必要が、どこにあるのか。香絵さんと由実さんは、本当に仲がいいだけの姉妹だったのか……捜査への協力、そのへんから始めてくれないか」
夏原祐子が、コップに残っていたビールを力を入れて飲み干し、自分自身を納得させるように、こっくんとうなずいた。
「由実の姉さんのこと、変わった人だとしか思わなかったけど、わたしも見方を変えることにします。お酒を飲むとわたし、頭がものすごく論理的になるんです、知ってました?」
そんなこと知るわけはないが、夏原祐子に言われるとなんとなく知っている気になって、ごく自然に、俺はうなずいた。
「とりあえず、二人の両親のことから、始めようか」と、目つきに妙な気合いが入り始めた夏原祐子に、ビールを呷《あお》ってから、俺が言った。「母親は以前に死んでいるらしいが、なにか問題があったようなこと、聞いているか」
「お母さんが死んだのは、由実が中学生になって、すぐだったらしいです」と、もう頭の中で整理されているらしい言葉を、ひょいとテーブルに置くように、夏原祐子が答えた。「ずっと肝臓が悪くて、二年くらい入院していて、由実が中学生になったのと同時に死んだそうです。それからはいろいろあったみたいだけど、でも由実、どこの家でも母親が死ねば大変に決まってるって、そんなふうに割り切っていた。わたしと知り合ったのは大学に入ってからだから、時間もたっていたしね」
「父親が死んだときのことは、どうだ。香絵さんも由実さんも学生だったから、困ったんじゃないのか」
「そのことも、由実はあまり喋らなかった。お父さん、千葉に釣りに行って岩場から足を滑らせたらしいの。もしかしたら自殺だったかもしれないって、そんなようなことは言ったことがあった」
「自殺かもしれないと思った理由も、聞いたか」
「由実のお父さん、自分で小さい電気工事会社をやっていたの。仕事がうまくいかなくて、借金があったらしい。由実はそのとき高校二年生だったそうです」
「由実さんが勝手に自殺と思い込んでいただけ、ということも、あるかもしれないな」
「どっちにしても、もうわからないって。事故でも自殺でも、もう済んだことだって、そんなふうにも言ってた」
「父親が死んだあとの始末は、香絵さんが一人でやったわけだ。香絵さんは俺に、父親の保険金が入ったと言ったが、実際のところ金の問題はどうなのかな。香絵さんの勤めだけで、由実さんの学費や二人の生活を賄うことが、じゅうぶんにできたと思うか」
「由実はお金のこと、あまり気にしない子だった。お父さんが死んだとき、姉さんが言ったそうです。マンションもあるしお父さんの保険金もある、だから由実がお金のことを心配する必要は、なにもないって」
「毎月の小遣いを、由実さんは、どうしていた」
「姉さんから貰っていた。アルバイトもしたけど、それは洋服を買ったり旅行に行ったりの、資金稼ぎ」
「父親が死んだときのあと始末や、生活の問題を、香絵さんは両角啓一という男に相談していたらしい。その男の名前、由実さんからも聞いたことがあるかな」
口を尖らせ、額に皺をつくって、夏原祐子が二、三度、不審そうに瞬きをした。
「そいつは香絵さんが高校のときに通っていた、塾の教師だった男だ。上村英樹の話では、由実さんもそいつのことは知っていたはずだという」
「由実からは、聞いたことないと思うけど」と、尖らせていた口を、頬杖で塞ぎ、夏原祐子がゆっくりと首をひねった。「わたしね、あの姉さんのこと、たいして知ってるわけではないの。友達の家に遊びにいって、そこのお母さんが居て気まずいこと、あるでしょう。由実の姉さん、そういう感じの人。だから由実のほうがよくわたしの部屋に泊まりに来ていた。わたしがあの姉さんの友達で知っているのは、早川さんという人だけ」
「早川功……君、知ってるのか」
「知ってますよ。上村さんと由実とわたしと早川さん、四人で箱根にドライブに行ったことがあるもの」
早川功と上村英樹は、早川が偽証を承知で上村のアリバイ証言をしたほどの仲だから、二人が親しいのは、当然といえば当然だ。そして島村由実は上村の婚約者であり、夏原祐子が由実の親友となれば、祐子と早川が知り合いであっても、それもまた当然ということか。しかし上村は早川と香絵の関係を、なぜ昨日俺に言わなかったのだろう。だいいち上村のアリバイ証人が早川であることは、香絵だって知っていたはずだ。香絵も、そのことはやはり俺に言わなかった。
「早川功は、つまり、香絵さんや上村と同じ大学だった、そういうことか」
「それは、ちがうみたい。早川さんは由実の姉さんと高校が一緒だったの。由実の話では、早川さん、高校のときからずっとあのお姉さんにアタックしていたみたい。それでも友達以上の関係にはならなくて、別の大学にいってからも、やっぱり友達としてつき合っていて、それで上村さんとも知り合ったらしいの」
「上村と由実さんがつき合い始めてからは、早川功は、どういう立場になっていたんだ」
「そこまでは知らない。でも上村さんと早川さん、気が合っていたみたいですよ。由実たちがドライブにわたしと早川さんを誘ったの、あれ、ぜったいそういうつもりだったと思うな」
夏原祐子の屈託ない視線を外して、コップのビールを飲み干し、そして視線を外したまま、俺が訊いた。
「四人でドライブに行ったあと、君と早川は、つまり、どういうことになったんだ」
「どういうことって?」
「由実さんと上村は、そのつもりで君と早川を会わせたんだろう」
「二人がそのつもりでも、わたしには関係ありませんよ。柚木さん、もしかして、気にしてるんですか」
「そういうわけではない。関係があまり複雑になると、ちょっと、整理がつきにくいと思っただけだ」
俺の背中にまた冷や汗が噴き出しかけたとき、まったくうまい具合に、仲居が夏原祐子の注文したイクラ定食とやらを運んできた。顔は失礼なほどの鬼瓦だが、この仲居は死んだあと、間違いなく天国に行ける。
仲居がいなくなったあと、自分の前に据えられたイクラ定食を、じっと睨みつけて、夏原祐子が肩で大きく溜息をついた。
「柚木さん、知ってました?」
「なにを?」
「わたしが一番好きな食べ物、イクラご飯です。二番めが柳川鍋で、三番めが油揚げです」
俺にだかイクラにだか、ていねいに頭を下げ、箸を取り上げて、限りなく満足そうな顔で、夏原祐子が悠然と食事にとりかかった。下高井戸でラザニアを食べたときもそうだったが、本当にこの子は、うまそうにものを食う。
「君、出身、どこだったっけ」
「松江です、島根の。言ってなかったと思いますよ」
「夏休みで、故郷《くに》には帰らないのか」
「帰ります。でも、お盆になってからです。卒業の年って、これでけっこう忙しいんです」
「ハワイにも行くんだろうし、な」
「あれは、やめです」
「どうして」
「由実と二人で行こうと思っていたのに、由実がいなくちゃ、行ってもつまらないです」
「君のあの水着姿、日本の男にだけ見せたら、国際問題になるな」
手を止め、しばらく口を動かしてから、少し横向きに角度をつけて、夏原祐子が真剣な目で俺の顔を睨みつけた。
「そういうことばかり言ってると、柚木さん、いつかは奥さんに逃げられると思います」
「そこが、俺としても、むずかしいところだ」
「本当はね、この水着、どこかに行くために買ったんではないんです」
俺の感慨を無視して、箸の先につまんだイクラ粒に話しかけるような口調で、夏原祐子が言った。
「今年の夏が、こういう夏であったことの思い出に……由実が死ぬ前、二人でデパートに行って、今年は二人ともこういう水着で決めてやろうと相談していて、それで、ハワイにもどこにも行かなくても、やっぱり今年はこういう水着を買おうって、そう思って買ってきたんです」
俺が、ここもまた謝るべきかと考え始めたとき、夏原祐子がふと顔を上げ、箸の先のイクラ粒を、元気よく口に放り込んだ。
「それにね、今年の夏、へんな天気がつづいているでしょう。だからわたしが水着を買って、ぜったい海に行くんだと決めてやれば、天気もちゃんと頑張ってくれると思うんです」
夏原祐子にそう決められれば、もちろん天気だって頑張るしかないだろうが、しかし夏が本当に夏らしくなってしまったら、冗談ではなく、祐子があのものすごい水着とやらを着ることになってしまう。大きなお世話だとは思いながら、それを考えると、俺も憮然とした気持ちにならないこともない。これがいつもの、ただの病気であってくれれば、なにも問題はないのだが。
幸せそうな顔で箸を動かす夏原祐子の顔を、目の端に入れながら、俺は自分でビールを注ぎ、黙って、ゆっくりと飲み干した。祐子のものすごいハイレグはともかく、それにしても島村香絵は、なぜ自分と早川の関係を隠していたのか。なぜ由実にかけていた保険のことを言わなかったのか。そしていったい、なぜ、俺に事件の調査なんかを依頼してきたのか。
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こんな季節に、部屋の中で洗濯ものを乾かすには、クーラーを除湿にセットしておけばいい。これは一人暮らしが考え出した自棄《やけ》っぱちのアイデアで、この三年間梅雨どきはずっとこの手を使っている。出かける前に洗濯をしておけば、帰ってきたときにはみんなぱりぱりに乾いている。
夏原祐子とは九時すぎにどじょう屋を出て、そのまま渋谷の駅で別れてきた。俺自身そのことに心が残らないわけではなかったが、祐子に関しては、俺の常識が妙に素直に反応してしまう。学生時代に戻れるわけではないが、たまには、こういうことがあってもいい。石神井に戻って島村香絵に会う気にもならず、及川照夫のアパートを探して張り込む気にもならず、けっきょくは荒木町の飲み屋に引っかかって、へんに感傷的な気分で十二時すぎまで飲んでしまった。本当にたまには、こういう気分の、こういう日があってもいい。
俺が酔っ払って自分の部屋にたどり着き、シャワーを先にするか洗濯物の始末を先にするかと考えていたとき、ドアの外に足音がして、そいつがチャイムを鳴らしてきた。冴子は大阪から帰っている亭主と一緒のはずだし、まして知子や加奈子がこんな時間にやって来るはずはない。一瞬俺の頭に夏原祐子の顔が浮かんだが、人生というのは、もちろん、そんなに甘いものではない。
ドアの外に立っていたのは、練馬西署の鮎場と、もう一人坂田とかいう、あの五十すぎの貧相な顔をした刑事だった。
「警察なんかやめたほうが、人生は楽しく生きられますかねえ」と、たっぷり汗を浮かべた顔を、にやっと歪めて、鮎場が言った。「もう二時間も、ずっと下で待っていたんですよ」
「気持ちのいい子とデートして、気持ちよく帰ってきたのにな。そういえば俺の麻雀は、いつも最後に満貫をふり込んでいた」
二人の刑事が、面白くもなさそうに笑ったが、俺にしたって酔った頭で無理やり冗談を言いたいわけではなかった。こんな時間に刑事が二人もやってくることが、尋常な事態でないことぐらい、警官くずれでなくても常識で理解できる。
俺は、とにかく二人を中に入れ、長いほうのソファに座らせて、自分では立ったまま一つ大きく欠伸をしてやった。
「これから、まだどこかに回るのか」と、部屋の中を見渡しながら、ハンカチで顔の汗を拭いている鮎場に、俺が訊いた。
「いえ。柚木さんに話を聞けば、今夜は二人ともあがりです」
「それじゃビールぐらい、飲めるわけだな。ゆっくりしていけとは言わないが、追い返せるような話でもなさそうだ」
俺はそのまま、台所に行き、冷蔵庫からビールのロング缶を二本抜き出して、グラスと一緒にソファのところまで運んできた。
三つのグラスにビールを注ぎ、二人にすすめてから、自分のグラスを取って、俺が言った。
「まさか、島村由実殺しで、姉の香絵を引っぱったという話じゃあるまいな」
「そっちのほう、柚木さん、そういうめぼしを付けてるんですか」
「訊いてみただけさ。それ以外に、おたくらがこんな時間に善良な市民を襲う理由が、思いつかない」
「どこでどういうふうに絡んでるんだか……」と、ビールを飲み干し、自分で勝手に注ぎ足してから、鮎場が言った。「これって、ただの偶然なんですかねえ」
「これって、なんのこれだ」
「いえね、それなんですわ」と、ビールにぴちゃっと舌を鳴らしてから、坂田が遠慮もなく、俺のほうに肩を乗り出させた。「柚木さん、及川照夫っちゅう男、ご存知ですかな。恵明大学の学生だそうですわ」
鮎場と坂田がどんな話を持ってきたのか、見当もつかなかったが、とりあえず俺は、うなずくだけはうなずいた。
「その及川ちゅうのが、今日の夕方、石神井川ん中で死体で発見されたんですわ。昼間柚木さんが警察《かいしゃ》にみえられて、二、三時間もせんうちのことです」
及川照夫が、今日の夕方、死体で……それまでかなり快適に躰の中を巡っていたアルコールが、瞬間に温度を上げ、次の瞬間に今度は急激に温度を下げて、極度に緊張した神経を俺の頭の中に、ぽいと投げてよこした。
「発見された状況、詳しく聞かせてもらえますか」
「その前に、柚木さんと及川ちゅう学生のつながり、話してもらえませんかなあ。だいたいのところは、見当はつきますけども」
「死んだ及川が俺の名刺を持っていた、そういうことですか」
「そういうことですわ。それに及川は恵明大学の学生で、一ヵ月前に死んだ島村由実と同じ大学です。柚木さんはそれで、一ヵ月前の轢き逃げ事件を調べておられた。たしか、そうだったですなあ」
俺が島村由実の事件を調べていることは、秘密でもなんでもないし、その件で及川照夫に会ったことも、隠さなくてはならない理由もない。
「及川というのは、一ヵ月前に死んだ島村由実の、ボーイフレンドだった男です」と、煙草に火をつけ、煙の中に坂田の顔を透かして、俺が言った。「ボーイフレンドといっても、大学が同じで、二、三度デートをしただけという関係だったようです。おっしゃるように俺も昨日初めて会って、島村由実のことでいくらかつ突いてみました」
「つ突いてみて、なにか出てきましたんですか」
「真面目なんだかとぼけてるんだか、訳のわからん野郎でした。俺としても昨日は、まさかこういうことになるとは、思ってもいなかった」
坂田がまた、ぴちゃっとビールをなめ、軽く息を吐きながら、猫背の背中をゆっくりとソファの背もたれに引いていった。
「それで発見の状況は、どんな具合なんだ」と、鮎場のほうに、俺が訊いた。
「発見時間は、今日の夕方、六時ごろです」と、目で坂田に了解を求めてから、鮎場が答えた。「近くの団地に住んでいる小学生が、石神井川に落ちたサッカーボールを追いかけていって、橋脚に引っかかっている及川の死体を発見したということです。検死官の所見では、死因は右脇腹を刃物で刺されたことによる失血死。水は飲んでおらず、全身数箇所に見られる打撲痕や擦過傷に生活反応が無いことから、被害者は別の場所で殺されて現場に遺棄された、そういうことのようです」
「死亡推定時間は?」
「解剖結果は出ていないんですがね、腐敗の進行度からすると、だいたい前日の夜中あたりでしょう」
「被害者の服装は、どんなものだった」
「ふつうのジーパンに、黒いポロシャツです」
俺が会ったときも、たしか及川はその恰好だった。つまり及川が殺されたのはまだ日が変わらないうちで、俺が昨日の夜中アパートに電話を入れたころには、もう及川は殺されていたということか。及川照夫の青春は、自分で思っていたより、こんなにも短かったのだ。
「現場の検視は、君が自分で出向いたのか」
「わたしと、坂田さんとでね」
「防御瘡は、どうだった。及川が抵抗した形跡は?」
「防御瘡はありませんでしたねえ。油断しているところを、不意にやられたんでしょう。凶器はまだ発見されていませんが、たぶん包丁の柳刃とか登山ナイフとか、細身で鋭い刃物だと思います」
「犯人につながる、手がかりでも残っていたか」
「それがどうも、今わかっているのはこれが殺人《ころし》だということだけで……明日の朝から川ざらいをしちゃみますが、期待はできないでしょう。今度の事件に関しては、柚木さんから手がかりを貰ったほうが早いと思いましてね」
「俺もまさか、及川が殺されるとは、思っていなかったが……」
新しいビールの栓を抜いて、二人のグラスに注いでやってから、俺が言った。
「一ヵ月前の事件とは関係なく、及川が喧嘩ででも殺されたのなら、事件そのものが俺とは関係ない。ただそう考えるには、ちょっとばかり、タイミングがよすぎる」
「島村由実事件との関連で、と、うちとしてもそう考えるより、ないわけですよ」
鮎場でなくともそう考えるのは当たり前で、二つの事件がまったく別の要因から、まったく別に独立して起こったと考えるのは、あまりにも無理がある。及川照夫の死で島村由実事件の手がかりが消えてしまった事実は否定できないとしても、逆に言えば、島村由実事件が故意の殺人であったことを、結果的に証明したことにもなるのだ。
「今度の事件で、おたくの所轄に特別捜査本部ができそうか」
「どんなもんですか……二、三日様子を見てということでしょう。うちの課長、本庁さんの出張《でばり》を仰ぐの、好きじゃない人ですからね。一ヵ月前の事件と絡みがあるとすれば、なおさらでしょう」
「島村由実事件での香絵のアリバイ、あれは、どうした」
「あれは、すぐ調べてみました。交通課の話では、香絵の居所を割り出すのに時間がかかって、連絡がとれたのは事件発生から二時間後だったそうです。ただその警官が電話を入れたとき、香絵は間違いなく旅館に居たとのことです」
「香絵の会社の同僚から、あとで裏を取っておくんだな」
「必要なら、まあ、やりますけど」
「及川照夫のことは、俺にもまだわからない。昨日は俺も、少し高を括《くく》っていたところがある。結果的には及川になめられたんだろうが、そのせいでやつも寿命を縮めたわけだ。やつはたぶん、うまく立ち回ればまた小遣いが稼げるとでも思ったんだろう」
「また……ですか?」
「及川は二ヵ月半ほど前、ちょっとした接触事故で相手から十万円の金をせしめている。そのときの状況が気に食わなくて、俺もやつからもう一度話を聞きたいと思っていた」
「その気に食わない状況っての、面白そうですなあ」と、煙草を吹かし始めていた坂田が、目を細めて、しゅっと鼻水をすすった。「どこがどういうふうに、気に食わないんです?」
「まずその接触事故は、警察を入れずに、当事者同士その場で示談にしている。昔はそんなこともよくありましたが、今は保険の関係でそういうことはやらない。それに及川のクルマを知っている人間の話では、とても十万の価値があるクルマではないらしい。それを承知で相手は金を払った。そして一番の問題は、事故のとき、及川は島村由実と一緒だったということです」
「しかし、柚木さん……」と、ソファの上で尻をずらして、脚を組みながら、鮎場が言った。「及川と島村由実は大学での友達なわけですから、そのとき一緒のクルマに乗っていたとしても、不思議ではないでしょう」
「不思議ではないが、島村由実はどういうわけか、自分がその現場に居合わせた事実を隠そうとしていた。少なくとも触れてもらいたくはない、そういう雰囲気だったらしい」
「事実そうだったとしても、そのことと六月の島村由実の事件とは、どういうふうに結びつくんです?」
「俺だってどういうふうに結びつくのか、それが知りたかったのさ。無関係だったかもしれないし、あるいは直接、島村由実殺しの犯人につながる手がかりになったかもしれない」
「なあ鮎場くん……」と、灰皿の中でていねいに煙草の火をつぶしながら、またしゅっと、坂田が鼻水をすすった。「わしはやっぱり、柚木さんの話は非常に面白いと思いますなあ。柚木さんがおっしゃるのは、もしその接触事故と島村由実の事件とが無関係だったら、犯人はわざわざ及川なんちゅうチンピラ学生を殺す必要はなかった。それで及川が島村由実事件にどこかで関係してるとしたら、その接触事故以外には考えられない、柚木さんはそこまで調べておられる、つまりは、そういうことなんですわ」
鮎場が小さく鼻を鳴らして、ビールを飲み干し、脚を組みかえながら、面倒臭そうに俺の顔を窺った。
「つまり警察も柚木さんも、犯人《ほし》に先を越されたってわけですよねえ」
「考え方の問題さ。犯人がなにを焦ったのかは知らないが、これで警察としても島村由実殺しに本腰を入れざるをえなくなる。昔から言う藪蛇ってやつだが、犯人にしても、蛇が出ることは承知で藪をつ突かなくてはならなかった。この時点でもう、俺たちよりも相手のほうが苦しくなっているわけだ」
「その考え方の問題で、ついでに犯人の名前、教えてもらえませんかねえ」
もうとっくに、二本めの缶ビールが空になっていることは知っていたが、三本めを出してまで二人に飲ませてやる気にはならなかった。俺が現役のときだって、聞き込みにいった先でここまでの接待を受けた覚えはない。
「及川がこういうことになっても、とりあえず、打つ手はある」と、立ち上がって、仕事机の前に歩いてから、視線を巡らせてきた二人の刑事に、俺が言った。「及川のクルマがどこにあるのか知らないが、まだ処分はしていないはずだ。五月の接触事故以来バンパーの修理もしていないだろう。だとすれば、及川のクルマのバンパーに相手方のクルマの塗料が残っている可能性がある。塗料が残っていれば、相手のクルマを割り出すのはかんたんだ。そのクルマの持ち主を割り出したあと、どういうふうに持っていくか、それは君たちの腕次第だ」
坂田が、ほうほうというようにうなずき、立ち上がって、自分の開襟シャツで掌をこすりながら、俺のほうにひょいと腰を屈めた。
「時間も時間ですし、ここへは寄らずに引き上げようと思ったんですが、まあ、お帰りを待っていた甲斐があったようですわ」
「警察への協力は、市民の義務ってやつですよ」
「当分はその、なんですわ、義務だけにしておいてもらいたいですなあ。週刊誌に書かれるのは、事件の片がついてからと、そういうことでお願いしましょう」
鮎場も立ち上がり、坂田と顔を見合わせてから、俺に会釈をして、二人一緒に黙ってドアのほうに歩き始めた。
二人のあとについていって、ドアの前で、俺が鮎場に声をかけた。
「六月二十一日の夜、上村英樹と一緒にいた友田美紗とかいう女、当たってみたか」
「課の若いやつを行かせてますよ。こっちは夕方から、ずっと及川照夫にかかりきりでした。どっちみち上村と早川には、明日は朝から冷や汗をかいてもらいます」
「冷や汗をかいてもらうには、天気もちょうどいいしな」
「なんですか?」
「こっちの話だ。天気も明日からは、夏らしくちゃんと頑張る事情があるんだ。天気も君も、お互いご苦労なことさ」
怪訝そうな顔の鮎場を、とにかく外に追い出し、二人に手をふって、俺はドアを閉めた。一時避難していたウイスキーの酔いが、急に戻ってきて、ドアの内側に立ったまま、一つ俺は深呼吸をした。及川照夫が殺され、警察がそれを島村由実の事件と関連させて捜査を始めるとすれば、俺に対する香絵の依頼そのものが、まったく無意味になる。俺のほうは事件から手を引いてもいいとして、問題は夏原祐子だ。由実を殺した犯人が及川照夫まで殺したとなれば、そいつの焦りは、いやでも想像がつく。自分の周りをうろつく危険の芽は、無理は承知で早めに摘み取ろうとするだろう。そして犯人は、俺や夏原祐子が考えていたよりも、ずっと俺たちの身近にいる。あの夏原祐子のことだ。『ぜったい犯人を見つけてみせる』と宣言した以上、どんな無茶をするか、知れたものではない。うっかり事件に巻き込んでしまったが、ここから先は、俺としても精一杯大人の分別を働かせなくてはならない。大人の分別として、夏原祐子だけは、なんとしても危険から遠ざけなくてはならない。
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世の中には、存在自体が人類全体にとって特別に意味のある人間というものが、たまにはいるものだ。ベッドの中で茫然と目をつぶっているだけでも、俺はその真理に確信がもてる。七月になってから観光業者も農民も死ぬ思いで天気の回復を願っていただろうに、天気のほうはそいつらの願いなんか、完璧に無視してきた。それが一日たった今日の天気は、どうだ。朝の十時だというのに、光と気温が向きになって俺をベッドから追い立てようとしている。夏原祐子が水着を買っただけでここまで夏が蘇生するなら、観光業者と農民は、もっと早く彼女にはハワイの島でもプレゼントしておくべきだったのだ。
もっとも俺のほうは、躰じゅう汗まみれなのを承知で、このままどこまでも夏原祐子の神通力に抵抗をつづけようと、必死の思いでベッドにしがみついていた。俺の人生観は完全に朝を拒否するようになっていたし、なんといっても、昨夜は事件の顛末を考えながら四時までウイスキーを飲みつづけていたのだ。
夏が急に夏らしくなったことは俺の責任ではないが、電話機の操作のほうは、やはり俺の責任なのだろう。わかっていればちゃんと呼び出し音をオフにし、録音機能を『留守』にセットしておくべきだった。寝ているところを電話で起こされる度に、いつも俺は反省をし、そしていつも忘れてしまう。歳のせいだとは思いたくないが、どうも一息、この留守番電話というやつとは相性が悪いらしい。
いつからコールがつづいているのか、ほとんど意識はなかったが、それでもその電話機は俺の電話機で、コール音がつづいていることも、たぶん俺の責任なのだろう。俺は這うようにベッドを抜け出し、はるか彼方の電話機のところまで、実際に這って進んでいった。
「柚木さん、ぜったい家に居ると思いました。こういうことの勘、ものすごく当たるんです」
夏原祐子の声を聞くことは、たとえ地獄に落ちていく途中でも俺を平和にしてくれるだろうが、自分の息が酒臭いことにうんざりしている現実のこの人生は、間違いなく地獄より始末が悪い。
「俺がぜったい家に居ることは、君よりも俺のほうがよく知ってる」
「寝起きみたいな声ですね。わたしは今日は、早起きをしました」
「そいつは、良かった」
「柚木さん、起きていたでしょう?」
「俺が起きてるって、どうしてわかるんだ」
「最初の日、言ったじゃないですか、歳をとると目が覚めるのが早いって」
俺は本心から、このまま受話器を叩きつけてやろうかと思ったが、あいにく電話機の本体は腕を伸ばしても届かない、ずっと机の上に納まっている。
「よく覚えてないが、昨夜、君にモーニングコールを頼んだか」
「寝ぼけたこと言わないでください。今朝の新聞、読んだでしょう」
「天気のいい日は、俺は、新聞は読まないことにしている」
「柚木さん、まだ、寝ていたんですか」
「こういう天気のいい日は、俺は夕方まで眠って、それから気象庁に電話して今日の天気は君の仕事だと教えてやって、それから農水省にも電話して、もし今年の米の取れ高が平年並みだったら君に国民栄誉賞を贈るように掛け合って、それからシャワーを浴びてビールを飲んで、それから……」
「なんだか、酔っ払ってるみたいですね」
「酔っ払ってはいない。酔っ払った人間は、こんな頭脳明晰に喋らない」
「どうでもいいですから、早く新聞を読んでください。酔っ払って寝ぼけてる暇はないんです。及川くんが、大変なことになっています」
「及川くんが、石神井川の中で死んでいたか」
電話の中で、一瞬喉が詰まる音が聞こえ、それから夏原祐子が鼻から息を吐く、低くて尊大な音が聞こえてきた。
「そのこと、知っていたんですか」
「昨夜刑事が来て、教えてくれた」
「どうして、昨夜なんですか」
「昨夜では悪いか」
「昨夜って、なん時ごろの昨夜ですか」
「あれから一人で飲み屋に寄って、十二時すぎに帰ってきて、そしたら、刑事が来た」
「それなら柚木さん、昨夜からちゃんと、及川くんのことは知ってたわけじゃないですか」
「最初から、そう言ってる」
「そんなのって、ありですか? わたしだって二時くらいまで起きていました」
「若い女の子が、夜更かしするのは、よくない」
「大きなお世話です。昨夜から及川くんのことを知っていて、どうして報《し》らせなかったんですか。今度のことでは協力し合うって、約束したじゃないですか」
「そんな約束、したか?」
「したじゃないですか。正式にはしなかったかもしれないけど、したのと同じことです。柚木さんだってそう思ったでしょう。わたしだってそう思いました。それなのに電話をくれないなんて、わたしを裏切るんですか」
「そんな、大袈裟な問題では、ない」
「大袈裟な問題です。信頼関係の問題ですよ。わたし、柚木さんを信用すると言ったでしょう。柚木さんはわたしのこと、信用できないんですか」
「あの、なあ? そういう問題では、ないんだ」
「そういう問題です。十二時でもなん時でも、わたしのことを信用していれば報らせるべきです」
「君、昨夜、悪い夢でもみたのか」
「悪い夢なんか見ません。悪い夢もいい夢も、わたしは夢を見ません。生まれてから一度も、夢なんか見たことはありません」
なにを怒ってるのか知らないが、寝不足の二日酔いの頭で議論するには、俺にはちょっとばかり、問題が複雑すぎる。だいいち俺は、昨夜一晩考えて、今度の事件から夏原祐子を降ろすことに決めていたのだ。
切れたりつながったりする意識の中で、自分の声を遠くに聞きながら、俺が言った。
「君は疲れている。細い躰で日本じゅうの夏を相手にして、君は倒れるほど疲れている。走りつづけるだけが人生じゃない。休むことを覚えるのも、大人になる第一歩だ」
「なんの、ことですか」
「だから、その、及川くんのことは忘れて、君は学生らしい夏休みをおくるべきだと、そういうことだ」
「言ってる意味が、わかりません。本当に、酔っ払ってるんですか」
「酔ってはいない、そう言ったろう。真面目に考えて、真面目に言ってる。冷静に考えたら、由実さんや及川くんのことは、君とは関係のないことだとわかった」
「冗談は言わないで下さい。由実はわたしの親友でした。及川くんだって、クラスメートです」
「生きてるうちは、な。だけど死んでしまったら、殺人事件の被害者という抽象的な言葉でしかなくなる。だから君が由実さんの親友だったことと、君が事件の捜査に首をつっ込むこととは、まるで関係はない。殺人事件というのは、女子大生が遊び半分で興味を持つことではないんだ」
「なにか、あったんですか」
「なにもないさ。三十八歳としての常識が、俺を冷静にしただけだ。由実さんのことも及川くんのことも忘れて、君は、『テレクラにおける中年サラリーマンの希望と挫折』でも研究していればいい」
夏原祐子が、電話の中で間欠的に息を吐き、それから突然、妙に静かな声で、断定的に、言った。
「わかりました。柚木さんは大人だから、わたしとなんか話はできないんですね。それならそうと、最初から言えばよかったんです。柚木さんがわたしを信用していないこと、よーくわかりました。もう迷惑はかけません。わたしはわたしで、勝手にやります」
がちゃんと受話器を置いたかどうか、そこまではわからなかったが、夏原祐子の声が聞こえたのは、それが最後だった。気がついたときには回線の切れた無機質な音が、顎に挟まった受話器の中で果てしもなく鳴りつづけていた。
俺は最後の力をふり絞って、どうにか受話器をフックに戻し、そしてそのまま、ばたりと床の上にひっくり返った。自分がベッドにまで戻れるとは、最初から、考えてもいなかった。だいいちこの暑さでは、ベッドなんかよりも床のほうが、限りなく気持ちいい。
電電公社がNTTに変わったからって、特別にサービスが向上したわけでもない。寝ていようが死んでいようが、誰かが電話をかけてくればコールは鳴るし、そのコール音はこっちが受話器を取らないかぎり、どこまでも鳴りやむことはない。
床の上にひっくり返った俺を起こしたのは、またもやNTTだった。
「パパ、わたしよ。元気にしてた?」
「おまえの声が聞こえるから、生きては、いるんだろうな」
「寝ていたの」
「いや。風邪をひいて、休んでいただけだ。おまえのほうは、どうだ。風邪なんかひいていないか」
「わたしは平気。これから友達とよみうりランドのプールに行くの。友達のお姉さんが連れて行ってくれるの」
「そいつは、良かった。お母さんはどうしてる。元気にしてるか」
「ママは元気。今日はテレビ局に行った。セクハラの討論会に出るんだって」
「なんの、討論会だと?」
「セクハラよ。今はやってるじゃない、セクシャルハラスメント」
「ああ……なあ、ちょっと待て。ほんの、ちょっとでいいからな」
俺はそのまま、電話口に加奈子を待たせ、クーラーに歩いていって、スイッチを入れ、机に戻ってきてそこの椅子に腰を下ろした。それから今日初めての煙草に火をつけたが、頭のほうはともかく、躰のほうは、どうやらまだ人間をつづけているらしかった。
「ええと、なんだったかな、セクシャルハラスメントが、どうかしたんだっけな」
「ママがね、テレビの討論会に出るんだって。それでその討論会、夜中から朝までやるんだって」
「そんなものを夜も寝ないでやって、面白いってか」
「知らないよ。だけどママ、主婦の立場から家庭におけるセクハラの問題を取り上げるって、そう言ってた」
「セクハラの意味、おまえ、わかってるんだろうな」
「わかってる。男の人が女の人をいじめること。男の子ってすぐ暴力ふるったり、スカートめくったりするものね」
「俺は、お母さんに、一度も暴力はふるっていない。その逆は、なん度かあったけど」
「パパ、ママのスカートをめくったこともないの」
「それは、なんというか、むずかしい問題があって、一口には言えないんだ。お母さん、テレビで、俺にスカートをめくられたなんて言わないよな」
「言わないと思うよ。ママだってそのくらいの常識、あると思うよ」
「そうだと、いいけどな。それでおまえのほう、どうした。塾のこと、あれからどうなった」
「そうなの。そのことで電話したの。あのことはもういいって、心配しないようにって、それをパパに言おうと思ったの」
心配しなくていいのは結構だが、それこそセクシャルハラスメントでもあるあのことを、十歳の加奈子が、どうやって解決したというのだ。
「おまえ、塾の先生のこと、お母さんに言ったんじゃないだろうな」
「先生のことは言わない。そういう常識、わたし、ちゃんとあるよ。ただママには塾に行きたくないって言っただけ。わたしには向かなかったって、勉強は一人でやるものだと思うって」
「それでママ……いや、お母さんは、なんて言った」
「当たり前だって。勉強は学校ですればいいって。塾なんか行かなくても、ママはちゃんと大学に入れたって」
「ママ……いや、ええと、お母さんはまあ、かなり勉強はできたらしい。俺だって塾なんかには行かなかった」
「だからね、あのことはもういいの。パパ、本気で心配してるみたいだったから、それで電話したの」
今度の事件で、うっかり忘れていたが、たしかに俺は『加奈子の教育』という社会的命題を抱えていたのだ。しかし加奈子の言うことが本当だとすれば、塾の問題ではどうにか責任も回避できそうだし、知子との決戦も、とりあえずは不戦敗を決め込むことができる。俺も助かったが、もっと助かったのはやはり、加奈子の頭を変に撫でるという、気の弱い塾の教師だろう。
「まあ、心配は、してなかったけどな」と、煙草をつぶして、つづけて二本めに火をつけてから、俺が言った。「こういう問題は、だいたいはうまく解決するもんだ。努力さえすれば、人間はどんな問題でも解決できる。核戦争も避けられるし、フロンガスの問題も解決できる」
「そんな大袈裟な問題じゃ、ないよ」
「それはまあ、そうだ」
「それでね、パパ、わたし、オーストラリアに連れて行ってくれない」
「なんだと?」
「オーストラリアだよ」
「オーストラリアぐらい、わかってる。連れて行ってくれないかというのは、俺にという意味か?」
「パパに言ってるんだから、パパに決まってるじゃない」
「どうして俺が、おまえをオーストラリアなんかに連れて行かなくちゃいけない?」
「だってパパ、わたしの父親でしょう。友達はみんな、親子で夏休みの旅行に行くんだよ。今までパパ、わたしを旅行に連れて行ってくれたこと、あった?」
「今まではその、仕事が忙しかったから……おまえなあ、この前会ったとき、パパって呼ぶの、やめろと言わなかったか」
「パパって呼ばなければ、オーストラリアに連れて行ってくれる?」
「それとこれとは、問題が違う。だいいちママ……お母さんが、旅行ぐらい連れて行ってくれるだろう」
「今年は駄目なの。ママずっと忙しくて、講演会とかずっとあって、お休みが取れないの」
「お祖母《ばあ》ちゃんはどうした。お祖母ちゃん、元気なんだろう」
「わたしがお祖母ちゃんと旅行に行って、楽しいと思う?」
「しかし……その、なあ? それはそうだけど、なんで急に、オーストラリアなんだ」
「わたしね、カモノハシが見たいの」
「鴨の足ぐらい、オーストラリアでなくても、見られるじゃないか」
「鴨の足じゃないよ。カモノハシ。この前テレビでやってたの、知らない?」
「テレビは、しばらく見てないんだ。それでなんだ、そのカモノハシって。コアラみたいなもんか?」
「コアラとはぜんぜん違う。コアラなんか多摩動物園で見られるよ。カモノハシって顔がアヒルみたいで、躰がカワウソで尾っぽがビーバーで、足に水掻きがついてて、それでオーストラリアにしか住んでいないの」
「顔がアヒルで水掻きがついていて、尾っぽがビーバーで、要するにそいつは、なんなんだ?」
「そういう動物だよ。ものすごく可愛いの。カモノハシは卵を産んで、卵から孵《かえ》った赤ちゃんをお乳で育てるの」
「卵から孵った、赤ちゃんをなあ……」
思わず感心しかけて、ふと、俺はそのことに気がついた。哺乳類が卵なんか産むわけはないし、もしそれが鳥類や爬虫類だったとしたら、産まれた子供を母乳でなんか育てるはずはない。
「おまえ、今、冗談を言ったわけか」
「そうじゃない。本当にそういう動物がいるんだよ。ものすごく可愛いの」
「顔がアヒルで、躰がなんだっけ?」
「躰はカワウソ」
「それで尾っぽがビーバーで、足には水掻きがついてて……そんな動物が、本当に可愛いのか」
「本当に可愛いよ。パパだって動物、好きでしょう? パンダだって見に連れて行ってくれたよね」
「上野とオーストラリアじゃ、わけが違うさ。今からでは、飛行機もホテルも取れない」
「お盆よりあとなら、大丈夫かもしれない。ママの友達で旅行会社やってる人がいる。聞いてみようか」
「しかし、その、急に言われても、なあ」
「お金がない?」
「金は、なんとかなるとしても、大人にはいろいろ都合があって、その、仕事やなにかが……わかるだろう?」
「わかるけど、パパ、ずっと仕事仕事って言ってたよねえ。最近はママも仕事仕事って、そればっかり。最近わたし、親子のコミュニケーション、ちっともしてないよ」
「俺とは、この前後楽園に行って、コミュニケーションしたじゃないか」
「あんなの、たった半日じゃない。夏休みだしさあ、友達なんかみんな家族で旅行に行くよ。わたしだってパパと旅行に行って、人生とはなにかとか、そういうこと、ちゃんと話し合ったほうがいいと思うんだ。そう思わない?」
「そりゃあ、そうは、思う」
「だからオーストラリアに行こうよ。カモノハシを見て、コアラとカンガルーを見て、ついでに親子で人生のことを話し合おうよ」
「ついでに……なあ」
「それにオーストラリアに行けば、金髪で若くて奇麗な女の人、たくさんいるよ。パパ、若くて奇麗な女の人、好きでしょう? ママがそう言ってた」
「おまえ、もしかして、お母さんとぐるになっていないか?」
「そんなことないよ。ママには塾の先生のことだって言わなかったし、今日パパに電話することも言ってないよ。純粋にわたしとパパの問題だもの」
「しかし、その、たとえばな、俺の都合がついたとして、それで飛行機やホテルがとれたとして、お母さんがOKすると思うか。それが一番の問題だろうよ」
「人間努力すれば、どんな問題でも解決できるんでしょう? パパとママは一応夫婦なんだし、そのくらいのこと、解決できると思うよ。パパだってわたしに父親らしいこと、たまにはしてみたいでしょう」
どうも、なんとなく、加奈子の発言の裏には知子の影が見えないでもないが、たとえそうだったとしても、その状況はもちろん、加奈子の責任ではない。
「ぜんぶのことが、ぜんぶうまくいったら、一応考えてみよう」と、火種をつぶした煙草を、灰皿の中に放り込んでから、椅子の背もたれに躰をあずけて、俺が言った。
「パパは、OKってことだね」
「飛行機とか仕事とか、なにも問題がなければな」
「平気だよ。わたしも頑張る。パパも努力してみて」
「俺の人生は努力の連続だった……お母さんは、そうは思っていないだろうがな。とにかくお母さんには、あとで電話するからって、そう言ってくれ」
俺は電話を切り、半分無意識で、また新しい煙草に火をつけた。加奈子の塾の問題が片づいたと思ったら、今度は旅行だという。場所がオーストラリアとなれば、短くても四泊五日ぐらいだろうし、へたをすれば一週間ということにもなりかねない。一週間も加奈子と二人だけで、この俺にどんな人生を話し合えというのだ。人生とはなにか、それがわかっていれば、俺自身こんな町でこんな仕事をつづけてはいない。しかしまあ、盆がすぎるまでにはまだ二十日もある。飛行機もホテルも取れないかもしれないし、知子だって海外旅行なんて無茶は認めないかもしれない。塾のことがなんとかなったように、旅行のことも、たぶんなんとかなる。本当はたいして努力なんかしなくても、人生ってやつは、だいたいはなんとかなるものなのだ。
俺はまだ眩暈《めまい》のする頭と、だるい躰を無理やり持ち上げ、だだっ広いワンルームを横切ってふらふらと台所に歩いていった。そこでパーコレータにコーヒー豆をセットし、となりのバスルームに行って、熱いシャワーに飛び込んだ。そしてそのとき、突然、俺はそのことを思い出した。加奈子の前に電話をしてきた夏原祐子は、最後に、たしか『わたしはわたしで、勝手にやる』と言ったのではなかったか。夏原祐子は、勝手に、なにをやるというのか。『勝手に犯人を探す』……そういう意味に、決まっているではないか。
俺はすっ裸のまま、シャワーを飛び出し、電話まで走って、もうしっかり暗記している夏原祐子のアパートに、大急ぎで電話を入れてみた。四回のコールのあと、一瞬間があり、留守になっていることを告げる、おなじみのとぼけた声のメッセージが聞こえてきた。居留守を使っているのでないとすれば、さっきの電話も外からかけてきたということか。
俺は一度電話を切り、ためしにもう一度同じ番号にかけ直して、本当に留守であることを確かめてから、仕方なく、出しっ放しになっているシャワーに戻ってきた。夏原祐子はなんとしても事件から遠ざけなくてはならないが、とりあえずさっきは、居場所だけでも確認しておくべきだった。こんな朝っぱらから、といっても十時半だが、あの困った魔法使いは、いったいどこをほっつき歩いているのだ。
それから俺は、改めてシャワーを浴び直し、意識して自分の神経を鎮め、台所のコーヒーを持って、また電話のところに戻っていった。気はすすまなかったが、事件の経緯に関してだけは、やはり吉島冴子に報告をする義務がある。
「警視庁に電話するのに、どうして罪の意識を感じるんだろうな」と、コーヒーの匂いに、いくらか気分を励まされて、俺が言った。「法務省の会議とやらは、まだ終わらないのか」
「三十日までよ。明日は休みをとって、一日わたしをお芝居と買い物に連れていってくれるらしいわ」
「俺よりはずっと優しい。いっそのこと、亭主と結婚したらいいかもしれない」
吉島冴子が、皮肉っぽく唇を鳴らし、憤然とした息を長く受話器の中に吐き出した。
「そのほうがあなたも、自由になれるという意味?」
「ただの、冗談さ」
「あなたの冗談には、いつも半分以上本音が入っているわ」
「絡まないでくれないか。二日酔いで、まだ頭に元気が出ていないんだ」
「絡んだのはどっちよ。彼と結婚しろなんて、ずいぶんな言い方じゃないの」
「だから、あれは、ただの冗談さ。君の亭主にやきもちを焼いた、そういうことにしておいてくれ」
コーヒーをすすり、顔を背けて溜息をついてから、受話器を持ち変えて、俺が言った。
「今度の事件のことで、君に相談したいことがあるんだ」
「そう、それ、面倒な話?」と、声を落として、吉島冴子が訊いた。
「本質的には、かなり面倒だと思う。君の旦那が大阪に帰るまで待てないから、無理やり電話で片づける」
「二、三十分なら、抜け出せるわよ」
「危険は冒したくないな。お互いにその程度には、大人のはずだし……話というのは、島村香絵のことだ。彼女、今度のこと、君のところにはどういうふうに持ち込んだ」
「最初に伝えたとおりだけど、問題が出てきたの」
「問題だらけさ。事件の調査を依頼しておきながら、島村香絵は事件の核心を隠していた。それに所轄の練馬西署も、あの事件を交通事故で処理していたわけではない」
「事件の、核心になる部分というのは?」
「たとえば、上村英樹のアリバイを証明した早川功と、香絵自身との関係とか、妹の由実に一億円の保険をかけていたこと」
「保険が、かかっていたの」
「それも一億円だ。最近では珍しくない額かもしれないが、常識的には大金だろう」
「早川功と、島村香絵の関係のほうは?」
「早川と香絵は、高校のときの同級生だそうだ。早川が一方的に惚れていたらしい」
「つまりは、どういうことなの?」
「どういうことなのか、俺にもわからない。香絵は上村のアリバイを崩したかったわけだから、それを証明しているのが早川だということは、知っていたはずだ。知っていて俺には話さなかった。香絵が本当に事件を解決したいのかどうか、怪しく思えて仕方がない」
「草平さん、島村香絵が犯人なら、事件の調査を依頼するはずがないと言わなかった?」
「言ったさ。理屈で考えれば、当然そうなる。ただ恐ろしいのは、女が理屈でものを考えないことだ」
「わたしが女だということ、知ってて言うわけね」
「その、今のは、非常に初歩的な一般論だ。一般論を当てはめるには、君は美人すぎる」
どうも一息調子が出ないのは、躰に残っているウイスキーと、急にやってきた夏のせいか。俺はコーヒーを飲み干し、煙草の箱に手をのばして、それに火をつけた。
「だからって島村由実の事件が、ただの交通事故だったわけではない」と、煙を長く天井に吹いてから、俺が言った。「昨日及川照夫という大学生が殺された。こいつは大学が由実と同じで、由実の件についてなにかを知っていたらしい。俺が動き始めたせいか、あるいは偶然か、そのへんはわからない。ただ昨日の殺しが島村由実事件と関係していることは、間違いないと思う。俺がこのまま調査をつづけて、いやな結果が出た場合……」
「あなたの言うことは、わかるわ」
「もともとこの事件は、島村香絵が持ち込んできたものだ。しかし今の状況だと、俺は依頼者である香絵本人を調べなくてはならない。そしてもし、結果が悪く出たら、いろんなことの都合も悪くなる」
「調査料が、もらえない?」
「それもあるが、問題は香絵の口から君の名前が表に出る恐れが、あるということだ」
吉島冴子が、一瞬息を止めた気配が、受話器を握っている俺の手に、じわっといやな汗を滲ませた。
皮肉っぽく口を歪めた顔が、目に浮かぶような声で、吉島冴子が言った。
「そういう事態って、いつかは、起こるかもしれないわね」
「かんたんに言うじゃないか。それほどかんたんな問題では、ないと思うがな」
「かんたんではないわよ。でもわたしと草平さんのことも、わたしたちがやっていることも、このままつづくと思っているわけではないわ。かんたんではないけど、覚悟はしている」
「俺は、君みたいに、そこまで覚悟はしていなかった」
「女は理屈でものを考えないのよ」
「さっきのは、あれは、冗談だ」
「わたしのほうも冗談よ。でもわたしは、そのくらいの危険は覚悟であなたに仕事を回しているの。覚悟をしているからといって、もちろん、破《は》綻《たん》していいとは思っていないけど」
「俺が言ってるのは、今度の仕事、この時点で手を引くこともできるってことだ。安全を考えれば、そういうこともできる」
「今さら安全を考えることに、意味はないでしょう? もし結果が悪いほうに出たら、いずれ香絵はわたしの名前を喋ることになる。そうなったらわたしのほうは、でたらめだと言い張ればいいの。苦しいかもしれないけど、それぐらいは頑張れるわよ」
「君がそこまでハードボイルドだとは、思わなかったな」
「わたしはあなたのように、ロマンチストではないの。それに女の勘として、香絵が妹を思う気持ちが嘘だとは、どうしても思えないの」
「無茶はしないで、やれるところまでやる……そんなところかな」
「彼が大阪に帰ったら、わたしのほうから連絡するわ。そのとき、ゆっくり話し合いましょう」
「それまでに結論が出ていなければ、そういうことにしてもいい。俺のほうも、安全でかつ最善の方法を考えてみる」
それから一言二言、吉島冴子の言葉に相槌を打ち、電話を切って、俺は煙草の吸殻を、ぽいと灰皿に放り込んだ。安全でかつ最善の方法なんて、あるはずはないが、言葉というのは気休めにだけは便利に使えるものだ。
俺はそのまま、台所に歩き、カップにコーヒーを注ぎ足して、また机に戻って島村香絵のマンションに電話を入れてみた。平日のこんな時間に堅気の人間が家に居るはずはなく、俺は電話を、香絵が勤めているアジア企画とかいう会社にかけ直した。電話に出た若い声の男が、香絵は外出中で一時まで戻らないと言い、伝言をせずに、俺は電話を切った。
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夏という季節が好きでなくなったのは、いつごろからだったろう。子供のころはもちろん夏が好きで、夏の大部分を占める夏休みというやつが、人生最大の楽しみだったこともある。学生時代は海にも行ったし、女の子と知り合うのも、夏が多かった。それがいつごろからか、三十をすぎたころからだろうか、夏がやってくることに、それほどの興奮は感じなくなっていた。社会というものが大体こういうものであり、人間というものが大体こういうものであると、頭ではなく、躰が理解し始めたのだろう。いつの間にか躰が汗をかくことを嫌うようになり、強すぎる光が鬱陶しくなり、クーラーのきいた薄暗い飲み屋でウイスキーをなめることに、中途半端な楽しみを感じるようになってきた。躰が腐っていくに連れて、人生も、やはりこうやって腐っていく。それはわかっていて、しかし今日の夏の光は、どこか子供のころに見た光の色に似ている。
昨夜片づけなかった洗濯物の始末をし、着がえをして、俺は十二時半に部屋を出た。
新宿って町は、どうしていつもこう人間が多いのだろう。新宿に限らず、渋谷でも銀座でも同じことだが、東京のこの類の町は二十四時間、なにがしかの人間が蠢いている。こいつらが皆それぞれに仕事を持ち、金を稼いで、有意義かどうかは知らないが、皆それぞれに人生というやつを展開させている。一千万の人間が一千万の人生を抱えているのだ。考えてみたら気味が悪いが、それを言えば、俺自身の人生が一番気味悪い。知子や加奈子から解放されて自由といえば自由だが、三十八にもなって社会のどこにも根を下ろしていない現実は、客観的には、風に飛ばされる紙くずみたいなものだ。俺のような人間がすべてとは言わないが、そういう紙くずが無自覚に吹き溜まっている場所、それが東京という街なのかもしれない。
俺は丸ノ内線の新宿御苑前駅を出たところで、薬屋の日陰側の壁に寄りかかり、地下鉄の出口と新宿通りの往来を、ぼんやりと眺めていた。この駅についてすぐ、夏原祐子の部屋と島村香絵の勤め先に電話を入れてみたが、どちらもまだ戻ってはいなかった。島村香絵が勤めているアジア企画は、地図では靖国通りぞいの、厚生年金会館のそばにある。タクシーに乗らないとすれば、香絵は新宿線の三丁目駅か丸ノ内線の御苑前駅かの、どちらかを使うはずだ。確率としては五分五分だったが、とりあえず俺は御苑前駅のほうで待つことにした。勘が外れたら会社まで出向けばいいし、ここで捕まえられれば、それだけ手間が省ける。しかしそれにしても、このくそ暑い中を、夏原祐子はいったいどこを飛び回っているのだ。
一時をだいぶすぎ、吸っていた煙草を靴の底で踏みつぶしているとき、勘が当たって、地下鉄の狭い階段から島村香絵が新宿通りに姿を現した。三十分でも一時間でも、同じ場所に立っていられるというのは、商売で身についた空しい性《さが》というしかない。
島村香絵が新宿通りを反対側に渡り始め、俺も薬屋の壁から背中を離して、声をかけようとした、そのときだ。妙な違和感が、ふと俺の頭を横切った。顔を見まちがうはずはないし、前を歩いている女は間違いなく、島村香絵のはずだ。たしかにそのはずなのだが、しかしどこか、なにかが違う。香絵はベージュ色のタイトスカートを穿き、長袖の白いブラウスを着て、しっかり前を向いて大股に歩いている。急いでいる歩き方ではないが、濃い臙脂《えんじ》色のハイヒールの動きは鮮やかで、今日になって突然襲ってきた真夏の陽射しすら、まるで気にする様子はない。脇に挟んだ茶色の紙封筒を支える腕は、華奢ではあるが力強く、歩くたびに揺れる肩までの髪も、男に媚びを売る揺れ方はしていない。この女が本当に、あの頼りない表情で俺に事件の調査を依頼した、あの、島村香絵なのだろうか。それとも最初に会った日は、俺のほうが疲れていて、香絵のイメージを頭の中に間違って描《か》きつけてしまったのか。
けっきょく俺は、島村香絵に声をかけず、胸騒ぎのようなものを抱えたまま、靖国通りのアジア企画が入っているビルの前まで、うしろをついて歩くことになった。初めて会ったときもずいぶんいい女だとは思ったが、島村香絵は、道を歩きながら、それもうしろから声をかけるのに相応しい女では、決してなかった。
俺は香絵がビルの中に姿を消したあと、その場所に立ったまま、煙草を一本吸い、それからビルの案内板を確かめて、六階に入っているアジア企画までエレベータで上がっていった。ビルの大きさからして、香絵が『小さい会社』と言ったほどには、小さい会社でもなさそうだった。
六階の全体を占めるオフィスには、受付のようなものはなく、だだっ広いフロアに机が雑然と並び、壁やつい立てや書類棚のあらゆる場所に、ポスターや広告のようなものが騒然と貼りつけられていた。入り口のドアに近いところに座っている女の子が、興味もなさそうに俺のほうを見たが、用件を尋ねてくるわけでもなかった。こういう会社は訳のわからない人間が始終出入りしていて、いちいち断らずに自分の用事を済ませて出ていくのだろう。俺が出入りしている雑誌社に、雰囲気は似たところがある。
俺はしばらくそこに立って、フロアの一番奥の、窓に近い場所で若い男と立ち話をしている島村香絵の様子を、感激しながら眺めていた。香絵は少し脚を開きぎみに、まっ直ぐに立ち、腕を組んで、しきりに相手の話に相槌を打っていた。その様子は男から指示を受けているものではなく、香絵のほうが上の立場で男からの報告を受けているという印象だった。立っているだけで二人の格が違うことは、フロアの一番遠くにいる俺のところまで、恥ずかしいほどはっきりと伝わってくる。
そのうち、香絵が男との話を切り上げ、髪を無表情にふって、少し通路を進んだところにある窓側のデスクまで歩いていった。俺は雑然と置かれている机と広告の山の中を、縫うように進み、島村香絵の前に回り込んで、とにかく、声をかけた。
顔を上げた香絵の目が、一瞬戸惑ったように揺れた気がしたが、しかしその目にもすぐ、落ち着いた、親しみのある好奇心が現れた。
「近くに来たので、ちょっと、寄ってみました」と、香絵の視線を押し返し、だだっ広いオフィスの中を見回しながら、俺が言った。
島村香絵が、開いていた書類を閉じ、肩を引いて、指の先で髪を分けながら俺の顔を見上げてきた。
「会社の場所、よくおわかりでしたわね」
「これも商売です。君を昼飯に誘うために、必死に探しました」
「わたし、あいにく、昼食《おひる》は済ませてきましたの」
「それでは、コーヒーだけ」
「コーヒーだけなら、おつき合いできますわ。ビルの一階に喫茶店があります。十分ほど、待っていただけます?」
「女を待つのは得意です。もちろん君ほどの美人を待ったことは、生まれてから一度もなかったが」
口の端を笑わせた島村香絵に、精一杯真面目な顔で会釈をし、手をふって、俺はその場から離れはじめた。いい女を相手にすると人間が正直になってしまうというのも、困った体質だが、頭の中だけで考えているより、口に出してしまったほうが気分は楽になる。楽になってどうすると言われれば、それは、それだけのことなのだが。
エレベータで一階まで下り、靖国通りに面している喫茶店に入って、一番奥の席で、俺はコーヒーとトーストとハムエッグを注文した。それから店の新聞を借りて社会面を開いてみたが、及川照夫の記事も、顔写真と一緒に当然その一画を占めていた。しかし扱いは小さく、内容も昨夜鮎場と坂田が話していったものと、ほとんど変わらなかった。及川の死を島村由実の事件と関連させていないのは、事実関係を警察が故意に隠しているということなのだろう。
島村香絵は、俺がトーストとハムエッグをそれぞれ半分ほど片づけたとき、手に白いハンドバッグを抱えて現れた。俺の前の席に座り、コーヒーを注文してから、気持ちを落ち着かせるかのように、香絵がコップの水で軽く唇を湿らせた。
「声をかける前に、会社の中で、しばらく君の様子を見ていた」と、両手を膝に揃えて座り直した香絵に、俺が言った。
香絵が目を見開き、首をかしげて、赤く塗った唇を、怪訝そうに引きしめた。
「気がつきませんでしたわ。しばらくって、どれぐらいの時間でしょう」
「ほんの二、三十秒。すぐには、声がかけられなかった」
「喧しい会社で、びっくりなさいました?」
「びっくりしたのは君に対してさ。テレビなんかで見る、有能なキャリアウーマンを思い出してしまった」
くすっと笑い、やってきたコーヒーにミルクだけ入れて、掻き回さずに、香絵がカップのほうに腕を伸ばした。
「男の人だって、家と会社では、顔つきが違うものでしょう」
「たとえ違っても、君ほど生き生きとは働けないな。ほとんどの男は、宿命で仕方なく仕事をしているだけだ」
「わたしだって同じです。働きながら、宿命で、たった一人で生きていくんです。外では弱く見られたくありません……柚木さんも、人が悪いですね」
「君が落ち込んでいなくて、安心したんだ。最初に会ったときの勘が外れたことにも、安心した」
「最初に会ったときの、勘?」
「この女はたぶん、男嫌いなんだろうと、そう思った」
また、くすっと笑い、カップを受け皿に戻して、頬の髪を耳のうしろに掻きあげながら、香絵が伏し目がちに俺の顔をうかがった。
「柚木さんがわざわざお見えになったのは、例の、由実の接触事故のことでしょうか」
「もちろん、それもあります」と、灰皿を引き寄せ、煙草に火をつけてから、俺が言った。「くどいようですが、接触事故のことは、本当に由実さんから聞いていないんですね」
「わたしも、あれから、一生懸命考えてみました。でも由実からは、やはり聞いていないと思います。そのこと、そんなに大事なことでしょうか」
「由実さんをクルマに乗せていた及川照夫が、殺されました。そのことは、ご存じでしたか」
「及川って、あの、よく電話をしてきた、及川くん?」
「その及川くんが、殺されたわけです」
俺が脇に置いていた新聞を取り上げ、社会面を開いて、テーブル越しに香絵の前に差し出した。
新聞を受け取り、二分ほど黙って記事に目を通してから、放心したように顔を上げ、社会面を開いたまま、香絵が肩を落として息を吐いた。
「わたし、知りませんでしたわ。及川くんに、会ったことは、なかったけど……新聞も社会面は、ほとんど読みませんの」
「新聞には、由実さんの事件に関連があるとは書いてありません。しかし警察は、もうその線で動き始めています。及川は由実さんの事件に関して、なにかを知っていた可能性がある」
「そのなにかが、接触事故?」
「それは、わかりません。わたしも警察も、犯人に先を越されたわけです。でもその結果、犯人は由実さんの事件を警察に引き戻すことになった。人間を二人も殺せば、関連性はどこかに出てくるもんです」
煙草を消し、コーヒーに口をつけてから、空間のどこやら一点を見つめている香絵に、俺がつづけた。
「なんと言っていいかわからないが、とにかくこれで、由実さんの事件がただの交通事故でなかったことははっきりした。警察も今度は本気で調べる。犯人だって近いうちに捕まると思う。だから君の依頼は、この時点で、意味がなくなったことになる」
空間から、俺の顔に視線を戻し、集中力も戻して、香絵が二重の切れ長の目に深い困惑の光を走らせた。
「調査は、もう、していただけないということですか」
「そうは、言ってない。ただ俺がこのまま仕事をつづけても、君にとって意味はないということだ。由実さんが誰かに殺されたことはわかった。犯人もすぐ捕まる。その犯人を俺が見つけても警察が見つけても、結果は同じことでしょう」
「わたしの気持ちは、同じでは、ありません。由実を殺した犯人がわかって、ただその犯人が捕まるということと、わたしの気持ちに決着がつくこととは別の問題です。自分がこのままなにもしないで、ある日突然、警察から由実を殺した犯人が捕まったと聞かされても、わたし、実感が湧かないと思います。わたしは直接、柚木さんの口から事件の結果をお聞きしたいんです」
俺は、煙草に火をつけたい気持ちをおさえ、コーヒーのカップを取り上げて、俺の顔にきっちり焦点を結んでいる香絵の目を、黙って見返した。俺にしても調べたいことは山ほどあるし、事件の事実関係について確認したいことだって、山ほどある。それになんといっても、うっかり巻き込んでしまった夏原祐子の身の安全が、やはり気にかかる。事件の結果に見通しはついたといっても、事件そのものが解決したわけではないのだ。
「一つ、君に、確認しておきたいことがある」と、我慢しきれずに、煙草に火をつけて、俺が言った。「上村が由実さんと婚約する前、君の恋人だったこと、なぜ言わなかったのか。それに君は、上村のアリバイ証人が早川功だということも知っていた。早川とは高校で同級だったことも、君は俺に言わなかった」
島村香絵が、奇麗に揃った白い歯の間から舌の先を覗かせ、唇をなめながら、小さく咳払いをした。
「そういうこと、やはり、わかるものなんですわね。なんだか、怖いみたい」
「最初に説明してくれていれば、及川照夫に関しても、もう少し早く動けたかもしれない」
「そのことは、謝らなくてはなりません。でもわたし、事件に、早川くんを巻き込みたくなかったの。彼は高校のときからの友達だし、上村くんにしたって、こんなことさえなければ、親しくつき合っていたはずの人です。それにわたしと上村くん、つき合ってはいましたけど、恋人という関係ではありませんでした。あのころわたし、父が死んで、学校のことや就職のことで、それどころではなかったんです。由実が上村くんとつき合うようになって、幸せになるのなら、わたしはそれでいいと思いました。上村くんには裏切られたような気はしますけど、でもあの人自身は、決して悪い人ではないんです」
俺は本当は、保険金のことも両角啓一との関係についても訊いてみたかったが、それを口にすることには、どこか、ためらう気持ちが働いた。香絵の言葉を信じないわけではなかったが、最初に会った日の香絵と、目の前のこの鮮やかな女との間には、俺を不安にさせる壁がある。
「もともとこの仕事は、君の依頼で始めたことです」と、煙草を消し、背中を引いて、香絵との間に距離をとってから、俺が言った。「君が最初の日に言った『どんな結果が出ても文句は言わない』という約束が有効なら、もうしばらく、つづけてみます」
「わたしの気持ちは、最初の日と変わりませんわ」
「犯人が捕まるのも、もう時間の問題だと思う。費用はなるべく節約します」
香絵が溜息をつきながら、うなずき、肩をずらして、ちらっと腕時計を覗き込んだ。
「わたし、会社に、来客がありますの」
「仕事の邪魔をして、済まなかった。近いうちに連絡をします。今度の報告は、君の仕事が終わってからにする」
「夕飯に、誘って下さるわけね」と、目に冷静な微笑みを浮かべながら、腰を浮かせて、香絵が言った。「一昨日の電話で、柚木さん、そうおっしゃったわ。わたしの『結果に文句は言わない』という約束は、もちろん有効です。柚木さんのほうも、あの約束はぜひ守っていただきたいわ」
軽く会釈をして、香絵が席を離れていき、そのうしろ姿が店のドアに消えるのを待ってから、脚を投げ出して、俺はシートの中に深くふんぞり返った。冷房は効いているのに、脇の下が、妙に汗ばんでいる。自分で意識しているより、香絵と話をしている間、へんなふうに緊張していたということか。しかしその緊張は、いったい、どういう種類の緊張だったのだろう。
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残っていたトーストとハムエッグを片づけ、コーヒーを飲み干してから出かけたのは、法務局の練馬分室だった。一般的に登記所と呼ばれる役所で、不動産関係の登記や公証などを扱う、法務省の出先機関だ。殺人事件でも不動産関係の財産が絡んでいる場合、こういう役所で被害者の利害関係を調べることがある。
俺が調べようと思ったのは、もちろん、島村香絵が住んでいるマンションの所有権登記だった。ふつうの人間はマンションを買っても、特別なことがないかぎり所有権の登記などはしないものだが、香絵と由実の父親は自分で電気の工事業をやっていた男だ。仕事に関係してマンションになんらかの権利が設定されていた可能性は、じゅうぶんにある。
練馬の駅からタクシーで分室に行き、確信はなかったが、俺はマンションの所有権台帳閲覧を申し込んだ。思ったとおり、所有権は登記されていたが、しかしそれは島村姉妹の共同名義ではなく、島村香絵個人の単独名義だった。
そしてその台帳を、さかのぼって調べていくうち、俺はちょっと、妙なことに気がついた。あのマンションは過去に、抵当権が設定されたことがあるのだ。マンション自体の最初の所有権は島村喜久男という名義で、八年前の九月に登記されている。前後の関係から、この男が島村姉妹の父親なのだろう。八年前といえば姉妹の母親が死んだ前後のはずで、もしかしたら、母親の死後、親子三人でこのマンションに移ってきたのかもしれない。マンションに最初の抵当権が設定されたのは、その翌年の五月。共栄興業という会社が抵当権者になっている。電気工事会社の経営が苦しかったというから、マンションを担保に島村喜久男は共栄興業から金を借りたのだろう。しかしもっと意外だったのは、その抵当権者が、五年前の四月に東都開発という会社に移行していることだった。
俺はポケットから、英進舎で丸山菊江に渡された名刺を取り出し、そこに書かれている『東都開発』という文字と見比べながら、思わず、口笛を鳴らしてしまった。名刺は丸山菊江のものだったが、東都開発という会社自体は、あの両角啓一が社長をしている会社ではないか。島村喜久男が死んだ直後に、抵当権者が両角啓一に変わっているのだ。それどころか、二ヵ月後には抵当権そのものが解除され、改めて島村香絵が単独の所有権者になっている。いったいこれは、どういうことか。島村香絵は、最初に会った日、『父親の保険金が入ったので、姉妹二人の生活は苦しくない』と言ったが、それならなぜ、マンションに設定されていた最初の抵当を、父親の保険金で解除しなかったのだろう。なぜ途中に、両角啓一の東都開発が顔を出す必要があったのか。なぜ最初から最後まで、島村香絵はこうまで俺に嘘を言いつづけるのか。そしてもう一つ、事態がここまで進んだ今となってまでも、なぜ、香絵は俺に事件の調査をつづけさせようとするのか。
台帳を係に戻して、俺はその分室を出た。
油照りという言葉が相応しい陽射しが、分室前の狭いコンクリートの庭を、てらてらと炙っている。練馬なんて都心から比べればずいぶん田舎のような気もするが、それでもやはり、狂ったようにやってきた夏の光を遮ってくれる木陰は、どこにも見当たらない。
俺は傾きはじめた陽射しを頭のうしろに受けながら、公衆電話まで歩き、ボックスのドアを開けたまま、まず夏原祐子のアパートに電話を入れてみた。もう四時に近いから、今朝の電話からは六時間もたっている。しかし夏原祐子は、どこに飛んでしまったのか、まだ部屋に戻っていなかった。
それから俺は電話帳で東亜商事の番号を調べ、そこに電話をして、上村英樹が属している第二営業部につないでもらった。電話には女の子が出て、上村は今日は風邪で休んでいると言う。答え方に躊躇がなかったところをみると、上村が俺に対して居留守を使っているわけでもないらしい。俺は電話を切り、上村のマンションにもかけ直したが、マンションの電話も留守になっていた。会社には病欠だと言い、しかも部屋は留守にしている。上村英樹は医者にでも出かけているということか。
電話をかけるだけでは消化不良を起こしそうだったので、俺は電話ボックスを出て、タクシーを拾い、両角啓一の東都開発にまで直行することにした。ふつうの仕事なら出向く相手の在不在を確認してから出かけるのだろうが、警察も含めて、俺のような仕事では事前の連絡はしないことが多い。居留守を使われればそれまでだし、そうでなくとも、相手に必要以上の警戒心を与えてしまう。そして当然のことながら、そのぶんが無駄足になることも、必然的に多くなる。
両角啓一の東都開発という会社は、東武練馬駅の繁華街から少し外れた、古い雑居ビルの中の、暗くて狭い一室にあった。会社に居たのは六十ぐらいのおじさんと、三十すぎの化粧っけのない女だけで、両角は朝から一度も顔を出していないという。二人が嘘を言っているとも思えなかったし、それ以上に俺には、この二人がなにか仕事をしているようにも思えなかった。両角は進学塾だのスーパーマーケットだの、いくつかの会社を経営しているというから、東都開発は経理上のトンネル会社なのかもしれなかった。こういう半分幽霊のような会社が、一時的にとはいえ、島村香絵のマンションに設定されていた抵当を肩代わりしたのだ。そして二ヵ月後には、抵当権そのものを解除している。常識的に考えて、それは両角の商売上の行為ではあるまい。
東都開発の次に行ったのは、南青山にある、早川功の『スタジオ・アド』だった。二日酔いの寝不足の頭で、我ながらずいぶんまめに動き回るものだとは思ったが、だいたいのところそれは、生まれながらの性分だった。動き回っているうちにこの動きがどこかで夏原祐子と重なってくれないかという、かすかな期待のようなものもあった。青山に着いたときも駅からすぐ祐子に電話を入れてみたが、電話からは、相変わらず、あのとぼけた声のメッセージが聞こえてきただけだった。そして、俺がスタジオ・アドに訪ねていった当の早川功も、今日は会社に来ていなかった。時間はちょうど六時で、帰り支度をしていた女に聞いたのだが、早川は今日、電話一本入れずに会社を休んだという。いったい早川は、それに上村英樹も、今日は一日中どこへ消えてしまったのか。そして消えてしまった人間は、もう一人いる。夏原祐子は、今朝十時に俺の部屋に電話をしてきたあと、いったいどこに行ってしまったのだろう。
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下高井戸なんて町に、無理やり考えるほどの魅力があるわけではない。私鉄沿線のこの類の町は、しょせん東京に群がってきた人間達に寝所《ねぐら》を与えるだけの、それぞれが一個の蜂の巣のようなものだ。それぞれの町に、町の大きさに合わせたスーパーマーケットがあり、八百屋と魚屋とラーメン屋があり、ケーキ屋と喫茶店と飲み屋がある。ある期間、学生や独り者の勤め人がそういう町の一つに住み着き、そして町を離れて、もう二度と戻ってくることはない。東京のこの類の町は、どこも似たようなものだ。俺だって下高井戸に夏原祐子のアパートさえなければ、二度とこんな町に来ることはなかったろう。
俺は暗くなりはじめた商店街の道を、かすかな不安ともどかしさを感じながら、夏原祐子のアパートに向かって歩いていた。『わたしはわたしで、勝手にやります』と夏原祐子が最後に言った台詞《せりふ》が、時間がたつに連れて頭の中で膨らみはじめ、どうにも、俺は我慢できなくなっていた。俺だってもちろん、二十一歳の女子大生が遊び回る場所に不自由しないことぐらい、教えられなくても知っている。友達と喋るだけで、半日でも半年でも時間をつぶせることだって知っている。しかし今は、状況がちがう。直接祐子の顔を見て、無事を確かめるまでは、どうしても今日という一日を切り上げる気にはならなかった。
俺は一昨日初めて来た、白いアパートの外階段を上り、部屋に電気がついていないことを承知で、チャイムを二度、強く押してみた。そのまましばらくドアの前で待ってみたが、中からは返事も、人が動く気配も聞こえてこなかった。メモを入れておこうかとも思ったが、思い直して階段を下り、商店街の中を歩いて、俺は駅のほうに引き返した。駅のそばに映画館があったことを思い出したのだ。
その古い映画館でやっていたのは、ベルイマンとヴィスコンティという、なんとも豪華な二本立てだった。なんとも豪華ではあるが、なんとも、居眠りをするのには具合がいい。
学生時代のある時期、考えてみたら、俺もかなり映画を見たころがあったのだ。俺自身がというより、つき合っていた友達が映画マニアだった。そいつは映画監督志望で、年間一千本の『映画鑑賞』をノルマにしていた。一日平均三本という、信じられないようなペースだ。そんなやつがなぜ映画の世界を捨てたのか、俺は聞いたことはない。結局そいつは映画を作ることもなく、岡山だか広島だかに帰って今は植木屋をやっている。俺は俺で、学生時代は新聞記者志望だったものが、なんの因果か警官になり、その警官もやめて、今、こんな場末の映画館でくだらない『名作』に見入っている。人生とは所詮こんなものだとは思いながら、こんなものであることに、意味もなく腹が立つこともある。
俺がその映画館を出たのは、ヴィスコンティはやはりただの病気だったのかと認識し直した、そのあとだった。人生には、認識なんかしなくてもいいことをうっかり認識してしまうことが、たまにはあるものだ。
俺は、そこからまた夏原祐子のアパートに行き、前と同じように電気のついていない部屋のチャイムを鳴らして、前と同じようにメモを置かずに、商店街に戻ってきた。上村と早川の消え方も気にはなるが、そんなことは、もうどうでもよかった。祐子の無事な顔を見るまでは、どうせ今夜は眠れない。どこかでビールでも飲みながら、最後まであの不良娘を待つしかあるまい。まったく、なんの恨みがあって、夏原祐子はこうまで俺に心配をかけるのか。ラザニアだって奢ってやったし、どぜうだってあんなに、腹一杯食わせてやったではないか。
俺は十分ほど、商店街の中を歩き回ったあと、客の少ない小料理屋に入って、ビールを飲み始めた。ビールはいつの間にか日本酒に変わっていたが、けっきょく俺はとっくりを三本空けただけで、十一時半にはその店を出た。知らない町の知らない店で酒を飲むことの息苦しさもあったが、それよりもやはり、夏原祐子の安否のほうが気にかかった。どうせ苛々するなら、誰にも顔を見られない場所で、一人でゆっくりと苛々したい。
またアパートまで戻り、部屋に電気がついていないことを確かめてから、路地の暗がりに立って、そこで俺は夏原祐子の帰りを待ちはじめた。階段の途中やドアの前で待ったのでは、美学の上で問題が出てくるし、どっちみち俺は物陰に隠れて人間を待つことに馴れているのだ。
京王線の最終がなん時なのかは知らないが、十二時をすぎ、いい加減苛立ちと心配が頂点に達したとき、商店街のほうから、白っぽい人影がとぼとぼと路地を歩いてきた。それまでにもなん人かは路地を曲がってきたが、それらの人間が夏原祐子でないことは、俺には一目で判断がついていた。そしてそれと同じ理屈で、今度やって来た人影が祐子であることも、やはり、俺には一目で判断がついた。歩き方に特徴があるというよりも、祐子は躰全体から、なにか明るい電波のようなものを発している。
夏原祐子の白っぽい影が、路地の暗闇の中で大きくなり、十メートルほど先の街灯にはっきり浮かび上がったとき、俺は泣きたいような気分で、一歩、塀の陰から路地のほうに進み出た。とぼとぼと歩いていた祐子が、足を止め、息を飲んでから、俺の顔を確認して、背伸びをするように肩を聳《そび》やかした。
「こんなところで、柚木さん、なにをしてるんですか……」
「近くに引っ越してきたわけでは、ない」
俺は気が抜けたような、ほっとしたような、それでいてやはり苛立たしい気分で、煙草に火をつけ、長く地面に煙を吐いてから、街灯の下まで夏原祐子のほうに距離を詰めていった。
「こんな時間まで、どこをうろうろしていたんだ」
「大きなお世話です。それにわたし、犬じゃないです。どこもうろうろなんかしていません」
「鎖に繋がれているぶん、不良娘より犬のほうが始末はいい」
ぱちっと、夏原祐子が目を見開いたときの音が、大袈裟ではなく俺の耳にまで聞こえてきたようだった。
「わたしのどこが、不良なんですか。こんなふうに女の子を待つ人のほうが、ずっと不良じゃないですか」
「君なんかを、待ちたくて待っていたわけじゃない。礼儀として、電話で言ったことの念を押そうと思っただけだ」
夏原祐子が、一歩俺に近寄り、赤いビニールのバッグを胸の前に抱えて、むっと唸り声を上げた。鼻の穴には妙に気合いが入っていて、ぼんやりした形の目も、百面相のような寄り目になっていた。
「柚木さんの親切には、お礼を言います。わたしを信用していないということを、わざわざ念を押しに来てくれたわけですね」
「君がどう思っているか知らないが、俺は、そんなに暇じゃない……君、コンタクト、ずれていないか」
「大きなお世話です。わたしのコンタクトは、ずれたほうがよく見えるんです」
「酒を飲んでいる」
「飲んでいますよ。わたしだってお酒を飲む友達ぐらい、ちゃんといるんです。コンタクトのこともお酒のことも、柚木さんに文句を言われたくないです」
「文句なんか言わないさ。君が誰と飲んだって、夜中までどこをほっつき歩いたって、俺の知ったことじゃない。俺は、電話で、事件から手を引けと言ったことを君が覚えているか、確認したかっただけだ」
鼻の頭に浮かべた汗を、街灯の明かりに光らせて、夏原祐子が、また強く唸った。
「勝手なこと、言わないで下さいよ。信用していない人間がなにをしたって、柚木さんに関係ないでしょう。わたしに事件から手を引けと言う資格、柚木さんのどこにあるんですか」
「資格で、言ってるんじゃない。プロとして、忠告しただけだ」
「そんなこと、みんな、大きなお世話です。由実も及川くんもわたしの友達でした。柚木さんのほうこそ、わたしのすることに口を出さないで下さい」
「及川くんが殺された今、口を出さないわけにはいかない」
「及川くんが殺されたから、そのことを柚木さんが教えてくれないから、わたしだって、一生懸命調べているんです」
「俺は一生懸命調べることを、やめろと言ってるんだぞ」
「やめられませんよ。最初に由美の事件を殺人だと言ったのは、柚木さんです。今さら忘れろなんて、そんなの、論理的に破綻《はたん》しています。わたしは勝手にやります。今日は及川くんの友達を探して、一日中接触事故のことを調べていたんです」
「接触……事故のこと」
俺は、下のアスファルトに煙草を捨て、躰を捻って、暗いブロック塀に軽く背中をもたれさせた。コンクリートブロックの冷たさが、シャツを通してかすかに背中に伝わってくる。
「君、今日は、そんなことをしていたのか」
「わたしがなにをしたって、柚木さんには関係ないです」
「関係があるから言ってるんだ」と、急に腹が立って、思わず、俺が声を荒くした。
「だって、わたしがなにをしたって、もう関係ないって……」
「関係があってもなくても、どうでもいい。いったい今日は、どこをほっつき歩いていたんだ」
祐子の生意気な鼻の穴から、気の毒なほど気合いが抜け、唾を飲み込んだあとの尖った顎が、ふてくされたように突き出された。
「そんなに、怒らなくたって、いいと思います」
「怒ったわけでは、ない。ただ、君が今日誰と会ったのか、それが、知りたいだけだ」
「わたしは、誰か、及川くんから……」と、俺の顔を上目づかいに睨みながら、悪戯《いたずら》を白状させられる子供のような口調で、夏原祐子が言った。「誰か、及川くんから事故のことを聞いていないかと思って、及川くんの友達に、会ってきただけです」
「事故のことを聞いていたやつが、いたのか」
大きくうなずいてから、路地を歩いてきた人間に目をやり、肩をすくめて、夏原祐子もブロック塀のほうに身を寄せてきた。
「夏休みで、みんな故郷《いなか》に帰ったり旅行に行ったりしてるの。でも、三人だけ話が聞けた。及川くん、事故のことを友達に喋っていた」
「由実さんがクルマに乗っていたことは、間違いないんだな」
肩を落としてうなずき、俺と並んで、夏原祐子もブロック塀に寄りかかった。
「由実と一緒だったことは、喋るなと言われていたらしい。でも及川くんて、黙っていられる子ではなかった」
「友達からは、具体的に、どんなことが聞けたんだ」
「相手のクルマのことや、乗っていた人のこと」
「相手のクルマは、白っぽいチェイサーだったか」
「ちがう。わたし、クルマのことはよく知らないけど、及川くんが友達に言ったのは、黒いセドリックだって」
「黒い、セドリック……それで、そのセドリックに乗っていたやつは?」
「及川くんは、『そのおじさんから十万円もらった』って、そう言ったらしい」
「及川くんのクルマは、君も知っているよな」
「赤い、小さいクルマ。従兄弟からもらったやつで、車検が切れるまで乗ると言ってた」
「そんなクルマをこすっただけで、相手がなぜ十万円も出したのか、理由も、友達は聞いていたか」
「相手のクルマがホテルから出てきたところだったの。だから及川くん、友達に、十万円では安すぎたって、そんなふうに言ったらしい」
「つまり、それは、『おじさん』と一緒に、クルマには女も乗っていたということだ」
「そういうこと、みたいね」
「どんな女かも、喋っていたか」
「若い女だって。どうせ今はやりの、あれだろうって」
「今はやりの、あれ……か。由実さんがそのとき及川くんと一緒にいたことを、隠そうとした理由は、なにか、あったのかな」
「そのことは、及川くんから、誰も聞いていないらしい」
「たとえば、由実さんと及川くんもそのホテルを使ったことは、考えられないか」
「そんなこと、ぜったい無いと思う。由実なら喋らなかったかもしれないけど、もしそういうことがあったら、及川くんが誰かに喋っていたはずだもの」
及川照夫が、島村由実にキスもさせてもらえなかった、と俺に言った言葉は、状況から考えて事実だったろうし、それ以上の関係であったら友達に言いふらしていないはずもない。及川と島村由実は、本当にそのとき、たまたまその場所を通りかかって、たまたまホテルから出てきたクルマと接触事故を起こしただけなのだろう。しかしそれでは、島村由実はなぜ、親友の夏原祐子にその事実を隠そうとしたのか。
俺は、また煙草に火をつけ、ブロック塀から背中を離して、距離に注意をしながら夏原祐子の前に回り込んだ。
「君が今日会った人間は、及川くんの友達の、その三人だけなんだな」
「最後に、もう一人会いましたよ」
「もう一人?」
「大学の先輩で、その人とお酒を飲んできたんだもの。だけどそんなこと、柚木さんとは関係ないです。わたしが誰とお酒を飲んだって、そんなことはわたしの勝手です」
その大学の先輩が、どんなやつであろうと、夏原祐子がそいつのことをどう思っていようと、たしかに、そんなことは祐子の勝手なのだ。
「事件に関係して会った人間が、本当にその三人だけなら、それでいい。ただ事件に首をつっ込むのは、今日で終わりにしてもらいたい。事件はもう、君の手から離れている」
「今さら調べるのをやめろと言うのは、そういうのは、ずるいです」と、ブロック塀に背中をくっつけたまま、口を尖らせて、夏原祐子が言った。「柚木さんて、勝手だと思います。わたしの気持ちをわかろうとしないじゃないですか」
「君を事件に巻き込んだことは、俺が迂闊だった。謝れと言うなら謝る。だけど由実さんを殺したやつは、及川くんまで殺した。君が考えている以上に、相手は必死になっている。君がへんな動きをすれば、そいつは君だって殺すだろう」
夏原祐子の丸い目が、街灯の光を受けて緑色に浮かび上がり、うすく開かれた唇から、意味のわからない短い息がこぼれ出た。
「君の気持ちは、俺だって承知している。でも事件のことは、もう俺に任せてほしい」
自分の言った言葉が、相手に伝わっているかどうか、確認のためだけに、俺は夏原祐子の目に顔を近づけた。祐子は唇をうすく開けたまま、意思を示すらしい表情はなにも見せていなかった。
「警察だって、今度は本気で動く。君が俺のことを卑怯だと思うのも、いやなやつだと思うのも勝手だ。だけど事件が解決するまでは、とにかく、君には、もう余計な動きはしないでもらいたい」
俺は、それでもやはり念を押したくて、見開かれたままの夏原祐子の目に、もう一度顔を近づけた。夏原祐子が瞬きをし、そしてその瞬間、寄りかかっていたブロックの塀に、頭のうしろをこつんと打ちつけた。
「あ」
「どうした?」
「コンタクト、本当にずれちゃった」
俺の肩のあたりから、溜まっていた力が見事に抜け、ひどく頼りない気分で、一歩、俺は夏原祐子から退いた。
「まあ、とにかく、そういうことだ。君は、事件が片づくまで、部屋でおとなしくしていればいい」
それから俺は、妙な恰好でブロック塀に張りついている祐子の顔を、街灯の光で確認し、うしろ向きに歩いてから、躰の向きを変えて、狭い路地を商店街の方向に歩きはじめた。歩きながらなん度か、うしろをふり返りたい思いにかられたが、俺は歩きつづけ、ほとんどの店が灯《ひ》を落としている商店街を通って、甲州街道に出た。まだ電車の一本や二本は残ってるだろうが、なんとなく、俺はそんなものに乗る気分にはならなかった。この激しい脱力感は歳のせいだと、これからはしばらく、自分に言い聞かせなくてはなるまい。
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人生に分不相応な気合いが入っているわけではないが、それでも俺は、十時に目を覚ました。昨日一日、二日酔いと寝不足の頭で歩き回ったわりには、夜の眠りも浅かったらしい。急に天気が変わって、体調と神経が混乱でも起こしているのか。それにしても朝の十時だというのに、これは、なんという陽射しだ。
俺はとりあえず、クーラーを入れ、コーヒーを沸かしてきて、朝一番の煙草に火をつけた。煙草をくわえたまま練馬西署の刑事課に電話を入れてみたが、電話に出たのは鮎場ではなく、古参の坂田のほうだった。
「クルマのこと、どうなったかと思いましてね」と、煙草を吹かして、坂田の気配に耳を澄ませながら、俺が言った。「及川のクルマに、相手のクルマの塗料は、残っていましたか」
「そのへんは、まあ、柚木さんの睨んだとおりでしたわなあ」と、含みのある声で、坂田が答えた。
「クルマの割り出しも、進んでいるということですね」
「なんとも、お答えはできませんですよ。今日中に結論は出るでしょうが、今の段階では、これ以上は申しあげられんのです。とにかく、柚木さんのご協力には、非常に感謝しておるということです」
坂田のその言い方からして、塗料の科研での分析も終わり、クルマの持ち主に対する裏づけ捜査も、今日中には完了するということなのだろう。
「いい歳をしてポルシェなんかに乗ると、碌なことはないもんですね」
「なんの、ことでしょうな」
「両角啓一のクルマは、白いポルシェじゃなかったですか」
「やっこさんのクルマはセドリックですがね」
「セドリック……ほう?」
坂田が、電話の中で鼻を鳴らし、なにか短い言葉をつぶやいてから、溜息をついて、軽く咳払いをした。
「ところで、上村英樹と早川功、昨日おたくの署で引っぱりませんでしたか」
「そりゃあ、鮎場くんが、引っぱりましたけどなあ」と、表情が想像できるような、苦っぽい声で、坂田が言った。
「引っぱって、それから?」
「鮎場くんも、頭にきておったらしいですわ」
「まさか、一晩泊めたわけじゃないでしょうね」
「お泊まりいただきましたよ。それで今朝早く、お帰りになりましたですわ」
上村と早川が、昨日一日姿を消していた場所は、練馬西署の取り調べ室だったということか。俺も予想をしなくはなかったが、しかしまさか、一晩拘置するとまでは、考えてもいなかった。
「やつらから、面白い話でも聞き出せましたか」
「そういうことは、お答えできませんやね。しかしまあ、なにか面白い話があったら、お二人ともこう早くは帰れんということですわ。とにかくここ二、三日、柚木さんとしても、黙ってうちの仕事を見ておってくれませんかね。警察への協力も市民の義務。口を出さんのも市民の義務と、一つまあ、そういうことでお願いしたいもんです」
警察のやり方に口を出さないのが市民の義務かどうかは知らないが、坂田を相手に議論をする気分でもなかったので、礼を言って、俺は電話を切った。練馬西署の捜査も、思っていた以上に進んでいるらしい。
それから俺は、シャワーで汗を流し、かんたんに身支度をして、正午《ひる》前に部屋を出た。早く今年の夏に慣れないと、そのうち、いやでも自閉症になってしまう。
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東京がいつからこんなに地下鉄だらけになったのか、覚えてはいないが、俺は地下鉄を霞ケ関で乗りかえ、日比谷線で都立大学駅に出た。三日前の夜に歩いた目黒通りの歩道は、今日は真上からの太陽で臭気《におい》がするほど炙られ、歩くたびに、焼けたコンクリートが靴の中にまで強烈に熱気を伝えてくる。なにもかも、これは夏原祐子が天気にかけた、あの魔法のせいだ。
俺は上村英樹の郵便受けから、新聞が抜かれていることを確かめ、エレベータを使って、三階の上村の部屋に上がっていった。
部屋はエレベータを下りて、内廊下を右に曲がっていった途中にあった。チャイムを鳴らしても返事はなかったが、俺はかまわず、そのままチャイムを押しつづけた。朝まで警察に泊めておかれて、休みもせず会社に出かけられるほど、上村もタフではあるまい。帰ってきた証拠に、朝刊はちゃんと抜かれている。
そのうち、部屋の中に音がして、チェーンをかけられたままのドアが、外側に少し押し開かれた。警察から帰ったあと寝てでもいたのだろう、パジャマ姿の上村が、はれぼったい目でドアの隙間に顔を覗かせた。
「俺のほうはドア越しに話し合っても、かまわないけどな」と、そこに立ったまま、不機嫌な顔で黙り込んでいる上村に、俺が言った。「君が疲れていることはわかるが、それも自分で撒いた種だ」
上村は、しばらくなにか考え、それから溜息をついて、指で髪の毛を掻きあげながらドアのチェーンに腕を伸ばした。
俺も上がり込むつもりまではなかったので、中に入ったところで、ドアを閉め、鉄のそのドアに背中で寄りかかった。
「この前会ったとき、話はぜんぶ済んだと思ったのに。警察に友田美紗のことを言われるとは、思いませんでしたよ」
部屋はあまり広くないワンルームのようだったが、カーテンを引いた窓際にベッドが見え、ガラスのテーブルの上にはビールの缶と、半分ほどに減ったウイスキーの瓶が置かれていた。
「俺は、言わないと約束したわけじゃない。あのとき君がぜんぶ話してくれていれば、こういう面倒は起きなかった」
「聞きたいことがあったら、警察に行ってもらいたいですね。知ってることは、みんな話しましたよ」
「君と、早川功や島村香絵の関係まで、警察に喋ったのか。俺には、そういうふうには思えないな」
上村が顔に浮いた脂《あぶら》をパジャマの袖でこすり、唇をなめて、部屋の様子を隠すように肩で上がり廊下の壁に寄りかかった。
「わかるでしょうけど、今、寝ていたところなんです。僕にだって自分の生活を守る権利はあります」
「たっぷり眠って、明日からまた予定どおりの人生をつづけたければ、俺に協力しても損はないさ」
俺はシャツのポケットから、煙草を取り出し、灰皿がないことを承知で、それに火をつけた。
「最初に会ったとき、君はなぜ、早川と香絵が知り合いであることを隠したんだ? 君が隠していたことはそれだけではないだろうが、とりあえず、そのあたりから聞きたいもんだな」
「相手が週刊誌の記者だとわかっていて、余計なことを言う人間はいないでしょう。一般的な、ふつうの心理です」
「君が俺の知りたいことを話してくれれば、今度のことは一切公表しない。君にとっても、悪い取り引きではないだろう」
「僕に、信用しろと言うんですか」
「この前は、口外しないと約束はしなかった。しかし今度は約束する。もちろん、君が俺を騙そうとしなければの話だが」
上村がまた、パジャマの袖で顔の脂を拭き、自分の身を抱き込むように、胸の前でゆっくりと腕を組み合わせた。素性の知れない週刊誌の記者が約束を守るなどと、その階級意識からも信じたくはなかったろうが、立場と生活を守るためには、とりあえず、信じるしか方法はあるまい。
「僕だって、べつに、隠そうとしたわけじゃないですよ」と、視線を逸らして、冷静を装う努力を見せながら、上村が言った。「だけど自分から騒ぎを大きくする必要はないし、黙っていて済むんなら、黙っていようと、そう思っただけです」
「島村由実の友達だった、及川照夫という学生が殺されたことは、知っているか」
「警察で言われました。二十六日のアリバイも訊かれましたよ。だけどもともとそんなやつは知らないし、アリバイも、柚木という週刊誌の記者が証明してくれると言ってやりました」
「及川が殺されたのは、たしかに、あの日俺と君が会っていたころだ。それについてはお互いに運がよかったが、とにかく、及川が殺されたということは、島村由実の事件も殺人事件だったということさ。もう君が黙っていて済む問題ではない。島村由実と、君と、それから島村香絵は、実際にはどういう関係だったんだ」
「ですから……」と、指で髪の毛を掻きあげ、端正な顔をわざとらしく歪めて、上村英樹が言った。「関係自体は、前にお話ししたとおりで、ただそれぞれの気持ちと状況が、ちょっとだけ、面倒だったということです」
「それぞれの気持ちが、ちょっとだけ……なあ」
「僕が由実と婚約していたことも本当ですし、その前は香絵さんとつき合っていたことも本当です」
「そんなことはわかっている。しかし君は、妹とつき合いはじめてからも、心の底では島村香絵が忘れられなかった、そういうことだろう」
写真で見るかぎり、由実も活発そうな可愛い女の子ではあるが、姉の完成された美しさに比べると、残念ながら、格がちがう。島村香絵は恋人を妹に奪われて、それでも健気《けなげ》に母親がわりをつとめる内気な女とは、基本的にタイプがちがうのだ。少なくともあのマンションから一歩外に出たときの香絵は、そういう女ではない。
「君は島村香絵に惚れていた。本当は、今でも惚れているんじゃないのか」
「男なんて、まったく、馬鹿な生き物ですよね」
「手に入らない宝石は、実際以上に、美しく見えることはあるだろうな」
「あなたが言うとおり、僕は香絵さんのことが諦められなかった。由実と結婚しようと決めていながら、最後まで、自分の気持ちに整理がつきませんでした」
「由実さんも、けっきょくは君の気持ちに気がついた……それから?」
「香絵さんに、改めて結婚を申し込みました」
「いつのことだ」
「今年の三月」
「結果は?」
「僕は由実に対してだけ責任を取ればいいと……要するに、相手にされなかったということです」
「早川功も、立場としては君と同じようなものか」
「あいつのほうが自分を傷つけない方法を知っていましたよ。香絵さんは、高校のときから、ずっと女王様だったそうです」
「その女王様も下世話な社会で、つまらない苦労をしたらしい」
俺は、吸っていた煙草を沓脱《くつぬぎ》に捨ててから、時間をかけて、靴の底でていねいにその煙草を踏みつぶした。
「島村香絵の経済状態、君なら、知っているよな」と、壁に寄りかかったまま、ぼんやりした目で俺の足下を見つめている上村に、俺が言った。
「最近のことは、僕には、わかりません」
「父親が死んだ当時のことなら、知っているだろう」
上村が視線を上げ、俺の顔を窺ってから、気弱なその視線をすぐにまた下に持っていった。
「あのときは、仕方なかったんです。僕にも早川にも、どうすることもできなかった」
「親父さんが死んで、島村香絵には、借金が残ったということか」
「保険金をはたいても、一千万ほど足りなかったようです。学生だった僕や早川には、そんな金、つくれるはずもなかった」
「島村香絵はその金を、両角啓一から借りたんだな」
「具体的なことは、知らないんです。しばらくしたら、香絵さん、金のことは一言も口に出さなくなりました。僕もなにかあったとは思いましたけど、香絵さんには、そういうことは訊けなかった」
「妹の由実は、自分たちの経済状態を、知っていたのか」
「由実には喋らないようにと念を押されました。由実はまだ高校生だったし、余計な心配をさせたくなかったんでしょう」
「しかし、君は、喋ってしまった……ちがうか」
「僕は、喋ってはいません。香絵さんは勘違いしてるようだけど、僕だって由実にそんな心配はさせたくなかったし、香絵さんとの約束も、破りたくはなかった」
「姉のことを、妹の由実がなにも知らなかったとは、思えないが」
「それは……」
上村が指でまた髪の毛を掻きあげ、痰でもからまったように、くっと喉を鳴らした。
「それは、僕自身は喋らなかったけど、由実だってどこかでは、気がついたようでした」
「その、どこかでというのは?」
「具体的に誰かに聞いたとか、そういうことでは、なかったと思いますよ。ただ二人だけの姉妹ですから、由実だって不自然さは感じたんでしょう。由実のほうから、なにか知らないかと訊かれたことがあります」
「島村由実が、それを君に訊いたのは、いつごろだった」
「今年に入ってからでした」
「君は最初に会った日、由実は両角啓一を知っていたはずだと言ったが、彼女の口から、直接その名前を聞いたことがあったのか」
「僕は、その、よく覚えていませんけど、なんとなく、当然由実は知っていただろうと、そう思っただけです」
「君はあのとき、三月の初めに上司の娘との結婚話が出て、その月の末に由実と別れたと言った。それがさっきは、三月には香絵に結婚を申し込んだという。いったい君は、なにを考えていたんだ」
「特別なことなんか、考えていませんよ。香絵さんのことが諦めきれなかっただけです。部長のお嬢さんとの話は、前からあったやつです。でも今は、本当に、そういうふうに結婚して、サラリーマンとしてそういうふうに生きていくのも、けっこういいかなって、本気で考えています。香絵さんはけっきょく、僕なんかのかなう相手ではなかった……彼女、近ぢか、独立するらしいですよ」
「島村香絵が、独立?」
俺は自嘲ぎみに眉を寄せている上村の顔を、下から覗き込んだまま、煙草に火をつけ、その煙を相手の胸に向かって、ふっと吹きつけた。
「独立というのは、自分で広告会社を作るということか」
「彼女ならそれぐらいはやるでしょうね」
「その話は、どこから出たんだ」
「業界の噂だそうです。早川も自分で広告会社をやっているから、話は耳に入るわけです。もっとも早川のほうは、親父さんが死んで跡を継いだだけですけど」
「君としては、ただの噂だとは思わないわけだな」
「本当であっても、おかしくはないと思うだけです」
「それは、いつごろ出た噂だ」
「せいぜい、ここ一ヵ月ぐらいでしょう。もともと彼女の就職は、大手の広告代理店に決まっていたんですよ。それがお父さんのことから、すべてが狂ってしまったわけです。もちろん、たとえ狂わなくても、僕と結婚することはなかったでしょうけどね」
上村英樹が、口を結んで溜息をつき、視線を面倒臭そうに漂わせてから、片方だけ眉を上げて俺の顔を窺った。
俺はもう一度上村の胸に煙を吹きつけ、寄りかかっていたドアから背中を離して、煙草の挟まっている手を、上村に向かってひらっと振ってやった。
「心配しなくてもいい。君が昨夜寝られなかったことは知っている。もちろん個人的に、君の人生観に興味があるわけでもない」
なにか言いかけた上村を、目で制し、自分でドアを開けて、外に出ながら俺が言った。
「たしかに手に入らなかった宝石は、実際より奇麗に見えるかもしれない……どうせ素人には、本物と贋物の区別はつかないだろうしな」
俺のするべきことは、俺にはもうちゃんとわかっていた。事件にけりをつけなくてはならないし、同時に、『島村香絵からの依頼』という個人的な仕事からも、俺自身を解放してやることだった。
俺は上村のマンションを出たところで、香絵の会社に電話をし、七時に会う約束を取りつけて、そのまま自分の部屋に引き返した。本当は日比谷あたりで映画を見てもよかったのだが、暗い映画館の椅子に一人で腰を下ろすことは、今日は、なんとなく遠慮したい気分だった。それに考えてみたら明後日は月末で、俺は『女子高校生バラバラ殺人事件』の原稿を石田のデスクまで持って行かなくてはならないのだ。
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こういうふうに時間がたち、こういうふうに歳をとっていく。
俺は机の上に原稿用紙を投げ出したまま、意味もなく、灰皿の中に吸殻の山を積みあげていた。頭の中には、行ったこともないフィジーだかモルジブだかの風景が浮かんでいたが、こういう勝手な空想が頭の中に紛れ込むこと自体、この人生に気合いが入っていない証拠なのだろう。だからといって、どこか知らない南の島で一生を終えるという人生が、俺に我慢できるはずもない。こうやって毎日毎日、人殺しだの家出人だのを追いかけて東京中を歩き回り、そしていつかは、歳をとることに慣れ、歳をとることを諦めて、老いぼれて、腐るように死んでいく。別な生き方があるかもしれないとは思いながら、けっきょくは毎日毎日、時間が頭の上を通りすぎていくのをただ漫然と眺めている。毎日毎日歩き回るということと、自分が自分の人生に参加することとは、たぶん、致命傷的に別な問題なのだろう。
俺は五時には原稿を書くことを諦め、島村香絵に会うための着がえをして、早めに部屋を出た。新宿に出てからは紀伊国屋に寄り、そこで三十ばかり、オーストラリア関係の旅行案内書を見ながら時間つぶしをした。動物図鑑でカモノハシとかいう生き物とご対面もしてみたが、なるほど、加奈子の言うとおり、顔はまるでアヒルそのもの、躰はカワウソというよりアザラシを小さくした感じで、ごていねいにビーバーそっくりの尾に水掻きのついた足まで持っている。こんな動物が世の中に生存すること自体が信じられないが、それが可愛いというのは、いったい、知子は加奈子にどういう教育をしているのだろう。
俺が指定された新宿通りぞいの喫茶店に行ったのは、約束どおり、きっちり七時だった。島村香絵は先にきていて、店の一番奥の席で膝に大判の女性雑誌を開いていた。女の服装に対する蘊蓄はないが、そのとき香絵が着ていた服は、柔らかそうな生地の青いワンピースで、髪型も化粧も含めて、昨日の印象よりも、悲しいほど鮮やかになっていた。それが香絵の意図したものか、俺の気のせいか、なんとも判断はつかなかった。
向かいの席に座った俺に、雑誌を脇に置き、軽く会釈をしながら、香絵がいや味のない微笑みを送ってきた。世の中には一言で『美人』と片づけるより仕方のない女がいるものだが、これではたしかに、同級生の早川や上村では、最初から試合《ゲーム》にならなかったろう。
「今日は経過報告かしら。それとも、最終報告?」と、レモンティーらしい華奢なカップを取り上げて、口に持っていきながら、目を細めて香絵が俺の顔を覗き込んだ。
ウエイターに馬鹿の一つ覚えのコーヒーを注文してから、座り直して、俺が言った。
「前世のおこないが悪いのか、どうも、君とは酒が飲める状況にはなってくれない」
「わたしのほうは、構いませんわよ。これから食事にでも参りましょうか」
「話が済んでからにしよう。話が済んだあと、君がその気になればだが……」
「柚木さんが約束を忘れないで下されば、わたしのほうは、それでけっこうですわ」
「俺も『結果については文句を言わない』という君の約束は、覚えている」
ウエイターが持ってきたコーヒーを、ほとんど無意識に取り上げ、口をつけてから、やはり無意識に、俺は煙草に火をつけた。
「昨日、及川という学生が殺されたことは、お話ししたはずです。由実さんの事件がただの交通事故ではなかったことも」
「警察が殺人事件として捜査を始めたということでしたわね」
「捜査を始めて、近いうちに結論を出すそうです。俺のほうの結論は、警察より少し早いでしょう」
香絵の切れ長の目が、気のせいか少しまん中に寄り、頭の中で言葉を探すように、唇が静かに波をうった。
「由実のことについて、どんなことがわかりましたの?」
「すべてわかったとも言えるし、なにもわからないとも言える……少なくとも由実さん個人に関しては、殺人事件の被害者になる条件は見当たらなかった」
「どういうことでしょう。由実の事件はただの交通事故ではなかったと、そうおっしゃったはずです」
「その前に、一つ提案があるんだ」
煙草を灰皿でつぶし、吸いたくもない煙草にまた火をつけて、俺が言った。
「俺のほうは、昨日君に会った時点で、今回の仕事は終了したことにしておいてもいい」
「おっしゃる意味が、わかりませんわ」
「由実さんの事件が交通事故ではなかったことは、はっきりした。警察も動きだした。それに君がなにかの勘違いで恨んでいるらしい上村英樹も、警察で油をしぼられた。君は昨日、『自分の気持ちの問題だ』と言ったが、気持ちの問題だけなら、これでぜんぶ解決したことになる」
「わたしは、事件のすべての結果を、柚木さんの口からお聞きしたいと言ったはずです。それに、上村くんのことは、まだなにも聞いておりません」
「君の依頼どおり、俺が、上村のアリバイを崩したということですよ」
「アリバイが、嘘だったんですか」
「少なくとも早川と六本木のスナックで飲んでいたというやつは、嘘だった」
「由実を殺したのは、それでは、上村くん?」
「そこまで単純だったら、こんな回りくどい言い方はしない。最初のアリバイは偽証だったが、上村には別なアリバイがあった。由実さんのことは別にして、上村と及川照夫には事件についての接点もない。上村が及川を殺したのでない以上、由実さん殺しも上村だとは考えられない」
「それでは由実を殺したのは、いったい、誰なんですか」
いくらも吸っていない煙草を、また灰皿の中でつぶし、コーヒーのカップを引き寄せて、形だけ、俺はそれに口をつけた。
「由実さんを殺した犯人がわかるのは、時間の問題だ。上村も警察にしぼられたし、上司の娘との結婚話も、へたをすれば流れるかもしれない。君に依頼された件については、俺の仕事は、もう終わっているということだ。だからこれ以上なにか報告するとすれば、君に対する義務からではなく、由実さんに対する俺の、個人的なサービスということにしたい」
「由実に対して、柚木さんが、なぜ個人的にサービスをしてくださるの」
「それは、調べているうちに、由実さんが写真で見るより可愛い子だったことが、わかったから」
島村由実と、夏原祐子が俺の頭の中で混乱していたが、そんなことは香絵に対して言いわけをする問題ではない。
「柚木さん、もう犯人の名前、ご存じなんじゃありません?」
「君にそこまで優秀だと思われれば、光栄です」
「犯人が近いうちに捕まるというのは、見当がついているからでしょう」
「買い被らなくてもいいんだ。君を呼び出したのは、さっきの提案を受け入れてくれるかもしれないと、気分の問題として期待しただけのことだ」
「調査料が足らなければ、上積みしても構いませんわよ」
「ありがたいけど、やっぱり、ここから先はサービスにしておいたほうがいい」
島村香絵が、俺の顔に視線を据えたまま紅茶を飲み干し、ベージュ色のハンカチで唇をおさえながら、首をかたむけて、ゆっくりと脚を組みかえた。
「柚木さんのおっしゃり方、最初から、あまり気に入りませんわ。わたし、気に障ることを言ったでしょうか」
「君はなにも言ってないさ。問題なのはむしろ、そのなにも言わなかったことのほうだ」
「わたしが、なにを、『なにも言わなかった』んでしょう」
「君は最初から、事件の核心に当たる部分を話さなかった。俺をばかにしたわけでもないだろうが、プロの仕事を過小評価はしていたかもしれない。所轄の刑事を見て、捜査そのものに高を括っていたんだろう」
「おっしゃる意味が、よくわかりませんわ」
「上村のアリバイが崩れた話をしたとき、君はなぜ驚かなかった? アリバイが崩れたのに、それでも俺は上村が犯人ではないと言った。君は最初の日、上村が犯人らしいとにおわせたじゃないか。その上村のアリバイが崩れたというのに、君は少しも動揺しなかった。君は上村が犯人でないことぐらい、最初から知っていたんだ」
「わたしが……」
「上村は、今でも君に惚れている。由実さんとつき合っている間も、本当は君のことが忘れられなかった。上村と由実さんの婚約が解消になったのも、原因は上村の君に対する未練だ。上司の娘との結婚話なんて、そんなものは口実でしかなかった。由実さんもそのことは、なんとなくわかっていた。だから上村から一方的に婚約を解消されても、それほど混乱はしなかった。そしてそのことは、君だって知っていた。上村と由実さんの間には、殺したり殺されたりというトラブルはなかった。上村が結婚に邪魔になった由実さんを殺すという理屈は、最初から成り立たない。それを知っていたから、上村が犯人ではないと聞いても、君には意外でもなんでもなかった」
「ずいぶん、断定的に言いますのね。わたしや由実の個人的な気持ちが、どうして柚木さんにわかりますの」
「俺は、君や由実さんの気持ちが理解できると言ったわけじゃない。事件の事実関係がわかったと言っただけだ」
「そんなことがわかることの、どこがプロなのかしら。由実の事件が事故でなかったとしたら、そして殺した人間がいるとしたら、その犯人を捜すのがプロではありません?」
「回りくどく説明しているのは、俺が手抜き仕事をしたわけではないことを、君に理解してもらいたいからさ」
俺はコーヒーを口に含み、胃にこみあげてきた吐き気をおさえるために、コップの水を、半分ほど一気に飲み込んだ。
「由実さんにかけていた一億円の保険のこと、なぜ、君は言わなかった?」
香絵の弓形に揃った左右の眉が、バランスを崩し、目に表情がなくなって、絵にかいたように奇麗な顔が、肩と一緒にゆっくりとシートの背もたれに引かれていった。
「君が俺に調査を依頼したのは、事故でも殺人でも、とにかくこの事件に結論を出したかったからだ」と、吐き気がするのを承知で、また煙草に火をつけて、俺が言った。「君が言った状況とは違って、警察は、由実さんの事件を交通事故で処理をしていたわけではなかった。轢いたクルマが発見できなくて、警察は事故とも故意の殺人とも決めかねていた。その警察の結論が出ないのをいいことに、保険会社は君に一億円の支払いを拒んでいた。君は、由実さんの事件は事故でも殺人でもいいから、とにかく早く金を手に入れたかった。俺が調べて殺人の決め手が掴めなかったときは、それを事故の証拠として、君は保険会社に圧力をかけるつもりだった……だいたいは、そんなところかな」
「勝手に、決めないでいただきたいわ。わたしの気持ちが、あなたになんかわかるはずはないんです」
「君の気持ちを理解したいわけじゃないことは、最初から言ってる」
島村香絵の切れ長の目が、遠くのほうではっきりと見開かれ、店のうす暗い照明を映して、鈍くいやな光を反射させた。
「理解できないのなら、他人の気持ちになんか入ってこないでよ。そういうことは大きなお世話なの。わたしがあなたに頼んだのは、由実の事件を解決することだけ」
「サービスだと、これも最初から言ってる」
「それじゃそのサービスも、大きなお世話だわ。あなたがするべきことは、わたしが払うお金に見合ったぶんの仕事だけなのよ」
「俺は良心的に仕事をすることで、この業界では有名なんだ。それを知らなかったのは、君のほうが悪い」
「わたしが……たった一人の妹を殺されたわたしの気持ちが、あなたにはわからないの? お金のためだけに仕事を頼んだと、本当に、あなたはそういうふうにしか考えないの」
「君は独立して広告会社をつくるために、一日も早く由実さんの保険金を受け取りたかった。それを否定するのもしないのも、もちろん、君の勝手だ」
「否定しなかったら、どうだって言うのよ。最初から保険金のことを話したら、あなた、仕事を引き受けてくださった?」
「金がらみでも愛情がらみでも、俺にとってはただの仕事でしかない。ただそれならそれで、最初からわかっていれば、君に対してくだらない幻想は抱かなかった」
「幻想を、わたしに対して?」
「君自身理解していないのか、知っていて利用しているのか、俺には、わからない。だけど君は、君と関係する男には妙にある種の幻想を抱かせる……君には、世の中の男という男が、馬鹿に見えて仕方がないだろうな」
島村香絵が、座席から黒いハンドバッグを引き寄せ、細身の煙草と銀色のライターを取り出して、黙ってそれに火をつけた。
「上村も早川も、どこかの時点でその幻想に気がついた。だけど、気がついたときには手遅れだった。やつらには君を憎むことはできなかった。男がそういう馬鹿な生き物であることを、君はちゃんとわかっている」
うなずきも、首を横にふりもせず、香絵が煙草の煙を長く、ふーっと俺の顔に吹きつけた。
「君が俺を早川功に会わせたくなかったのは、早川が高校生のときから君に惚れていたからだ。早川は誰よりも、君のことをよく知っている。君は早川を事件に巻き込みたくなかったのではなく、早川に、自分の過去を喋られるのが恐かったんだ」
「関係ないわ。わたしが、今まで、どういうふうに生きてきたか……」
「親父さんの借金を抱え込んでしまったことは、君の責任ではない。妹の由実さんに隠していたことも、妹に対する愛情だった。しかし俺に言わせれば、由実さんの人生まで君が抱え込む必要はなかった。由実さんだっていつかは気がつく。気がついた時点で、重荷に感じる。愛情ってのは押しつけられると、悪意がないぶん、押しつけられたほうの逃げ場がなくなるもんだ」
「そんなの、奇麗ごとだわよ。わたしが守ってやらなかったら、由実を、誰が守ってくれたの。親戚が、父の友人が、社会が? とんでもないわ。由実はわたしが守ってやるより、仕方がなかったのよ」
「それなら君自身は、誰に守ってもらったんだ。塾の教師だった、両角啓一にか」
島村香絵の指の間から、煙草の灰が折れるように落ち、ワンピースの膝に汚れをつくって、リノリュームの床に音もなく零《こぼ》れていった。
「それも、みんな、大きなお世話……」と、慌てもせず、無表情に膝の灰を払って、島村香絵が言った。「わたしは、自分のことは自分で解決してきたわ。そしてこれからも、そうやっていくつもり」
「君がどういう主義で生きていくのか、そんなこと、興味はない。俺が知りたかったのは君と両角の関係を、由実さんがどこまで知っていたのかということだ」
「由実が……」
「一千万の借金を、君は両角啓一に肩代わりさせた。両角はそのころ手広く商売を始めていたから、一千万ぐらいの金はどうにでもなったろう。だからといって、両角も善意で金を貸したわけじゃない。君と両角の間にどういう合意があったか、言われなくても見当はつく。君にしても役にたたない早川や上村より、金もあって仕事もできる両角のほうが、あの時点では頼りになった。一千万の借金はなくなっても、君にはまだ大学が残っていたし、毎日の生活や由実さんのこともある。君としては両角と関係をつづけるより、仕方がなかった」
「他人に、そんなことを非難する権利はないのよ。わたしは誰にも迷惑をかけていないし、由実を大学にだって行かせてやったわ」
「しかし由実さんは、そのことをどう思ったろう。君にとって妹が大事だったように、由実さんだって君のことを慕っていたはずだ。親がわりに頼りにしていたかもしれないし、ある意味では、尊敬もしていたろう。その君が、実際には、売春婦まがいの生活をしていた」
「なにもわかっていない。柚木さん、あなた、わかっていないわよ。親がいないというだけで、わたしは志望した会社にも就職できなかった。親の借金を抱えて、家も追い出されそうになって、高校生の妹と二人だけで、わたしがどうすればよかったわけ。スーパーのレジかなにかで働いていれば、それでよかったの。そうしていたら、あなたは感動してくれた? 冗談を言わないで。それが他人のことなら、わたしだっていくらでも感動してやれるわよ」
「君は一つ、勘違いをしているな」
「そうかしら。わたしのどこが、どういうふうに勘違いかしら」
「スーパーでレジを叩いているおばさんたちは、君のように、自尊心の切り売りはやっていない」
島村香絵が、煙草を吸う手を止め、ついでに息も止めて、言葉を飲み込んだまま、目の端でじっと俺の顔を睨みつけた。
「柚木さん、あなた……」と、咳き込むように、突然笑い出して、香絵が言った。「あなた、本当に刑事をやっていたの? 今まで本当に、そんな甘い理屈で生きてきたの。そんな正義感をふり回していたら、奥さんに逃げられて当然だわよ」
「俺は君と、人生観の議論をしたいわけじゃない。君の実像を知って、妹の由実さんが、どれくらい傷ついたかを言っただけだ」
「由実はなにも知らなかったのよ。さっきからあなた、わかったようなことを言ってるけど、由実のことに関してはぜんぶ見当ちがいだわ。由実は自分がどういうお金で暮らしているか、最後まで気がつかなかった」
「そうかな。君がそう、思い込みたいだけではないのか」
「一緒に暮らしていた妹のことが、わからなかったはず、ないでしょう」
「由実さんだって二十一だ。君が考えていたほど、子供ではなかったというだけさ。由実さんがどういうつもりで『石神井の自然を守る会』に参加していたのか、それは知らない。でも、あの会は両角啓一が会長をやってる。君と両角の関係を、由実さんは当然知っていたはずだ」
「仮にね、そんなことはないと思うけど、仮に由実が、わたしと両角の関係を知っていたら、だからどうだというの。由実が世をはかなんで自殺でもしたというの? 由実が子供ではなかったと言ったのは、あなたでしょう。男と女のことぐらい、由実にだって理解できたはずだわ」
「理解はできたかもしれないが、由実さんにとっては、つらいことだった。君も知っているだろう、彼女は人一倍正義感の強い性格だった。そんな由実さんが、君と両角がホテルから出てくるところを見たら、どう感じたか。甘い正義感をふり回しているお陰で、俺には、理解できる気がする」
最後の煙を長く吐き出し、灰皿の中にその細身の煙草を突き立てて、膝ごと、香絵が強く向き直った。
「ばかばかしい。いったいあなた、なにを言ってるの。そんなことがあるわけないじゃない。わたしと両角が、いつ由実に見られたというの」
「五月の連休すぎさ。偶然に、由実さんは、君と両角が井の頭公園近くのホテルから出てくる場面にぶつかってしまった。あのとき、両角のクルマが赤いスターレットと接触事故を起こしたろう。君も両角も気がつかなかったが、相手のクルマの助手席には、由実さんが乗っていたんだ。由実さんのほうは、もちろん君たちに気がついた。両角は場所が場所だったし、区長選挙のこともあるし、相手の若い男に十万円を払って、その場で示談にした。そのときの若い男が、及川照夫だったことは、今さら言うまでもないはずだ」
「ばかばかしい。そんな妄想、どこで考えてきたのよ。わたしはあなたに、由実の事件を解決するように頼んだのよ。その結果が、今の妄想なわけ。そんなでたらめを聞くために、わたしは一日十万円も払わされるの」
「でたらめかどうかは、もうすぐ結論が出る。日当の十万円は、君には高くついたかもしれない」
「ばかばかしい……」
三度目のそれを言って、テーブルの上から煙草とライターをひったくり、島村香絵が、その煙草とライターを荒っぽくハンドバッグに放り込んだ。
「自分が言ってること、あなた、わかっていないんでしょう。あなたの今の言い方、まるでわたしが由実を殺したように聞こえたわ」
「君が殺したとは、言ってない。ただ君は、俺なんかに調査を依頼する必要はなかったと言っただけだ。君は最初から犯人の名前を知っていた。ただ君が犯人を知っていることを、自分の口から警察に言うわけにはいかなかった。両角との関係が知れれば、当然共犯だと疑われる。君としては誰か利害関係のない人間から、犯人の名前を明らかにさせる必要があった」
香絵がばね仕かけの人形のように立ち上がり、ハンドバッグを胸の前に抱き込みながら、ほとんど俺のま上に、その尖った顎をつき出した。
「調査料、ぜんぶでいくらになるのかしら」
「三日ぶんだけ、もらっておく。三十万プラス、経費として二万円だ」
「でたらめな調査料としては、ずいぶん高いですわね。でも約束したことだけは守らせてもらいます。家のほうに請求書を送ってくださいな」
「請求書も領収書も出せない。最初の日に、そう言ったはずだ」
俺は目で、待つように合図をし、取り出した手帳に銀行の口座番号を書きつけて、そのページをやぶいて島村香絵に手渡した。
「君、カモノハシって動物、知っているか」
もう席を離れていた島村香絵が、テーブルの横で立ち止まり、顔だけ、髪を掻きあげながら俺のほうにふり向けた。
「鴨の足?」
「カモノハシ。顔がアヒルで、躰がカワウソ。そいつはビーバーそっくりの尾っぽに水掻きのついた足を持ってる。おまけに卵まで産んで、孵《かえ》った赤ん坊は自分の乳で育てるそうだ」
島村香絵が、口の端に力を入れ、俺に顔を向けたまま、一歩だけ出口のほうに後ずさった。
「残念だけど、あなたには、もう二度と会いたくないわ」
「後学のために言うと、俺の娘は、そのカモノハシって動物を可愛いと感じるそうだ」
「だから、それがいったい、なんだって言うのよ」
「人間にも見ただけでは正体のわからない生き物が、いるものだってことさ。君にくらべたらカモノハシのほうが、ずっと理解しやすいかもしれない」
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最初からわかっていたが、けっきょく、島村香絵は俺と夕飯を食う気にも、酒を飲む気にもならなかった。俺は俺で香絵がいなくなったとたん、胃の不快感は治まったが、それでも、すぐに動き出す気にはならなかった。俺は二十分ばかり、怒りをもてあましたまま、うんざりと喫茶店の椅子に腰かけていた。
現役の警官だったときもそうだったが、事件にはかならず、あと味というものがある。殺人や自殺に『いいあと味』なんてめったにあるものではないが、それでも捕まえた犯人が単純な凶悪犯だったりすると、事件に関係した人間のそれぞれの思惑を考えて、ほっとした気分になることもある。それに比べると今度の事件は、なんとしても、やはりあと味が悪い。
なりゆきではあったが、俺が香絵に吐いた非難がましい台詞は、俺自身赤面するほど意味のないものだった。香絵の置かれていた状況が、俺にだってわからなくはないのだ。彼女は彼女なりに、精一杯は生きてきた。最初に母親に死なれ、父親には借金を残され、一人だけ残っていた妹も自分の生き方が原因で死なせてしまった。その責任をすべて、香絵一人に背負わせるというのは、責任の質があまりにも重すぎる。人間がそれほど強い生き物でないことぐらい、俺自身わかりすぎるほどわかっていることではないか。
俺が木戸千枝のコンサートを思い出したのは、まったくの偶然だった。腕時計で時間を確かめたとき、その八時という時間に、一昨日《おととい》千枝が電話で言った『ライブは八時から』という言葉が思い出されたにすぎなかった。どっちみち最後は行きつけの飲み屋にでも転がり込むのだろうが、それにしても八時では、まだ時間が半端すぎる。特に今日は、早い時間におとなしく部屋に帰るような気分ではない。
俺は伝票をつまみ、立ち上がって、その店を出た。新宿通りにはクルマが溢れ、排気ガスと人の息が混じり合って、空気がすえたような、なにかいやな臭気《におい》に染まっていた。今日がこの夏で一番暑い日だったことは、たぶん、間違いないだろう。
JRの代々木駅に近い『ピン・スポット』というライブハウスは、たいして探しもせずに、かんたんに見つかった。この類の店がほとんど地下に押し込められている理由は、構造上の問題ではなく、騒音対策上の必然からなのだろう。俺は階段を下りていったところで、受付の女の子に五枚ぶんのチケット代を払い、防音扉を開けて、すでに渦巻いている煙草の煙と絶叫の中に、憮然とつっ込んでいった。一万二千五百円というそのチケット代は、誰も経費として落としてはくれないが、これでなん年か先に武道館に招待してもらえるとすれば、安いものだ。
演奏のつづいているステージを、遠くに眺めながら客席のうしろを回り、そこだけ小さい明かりがついているカウンターに行って、俺はチケットと引きかえに缶ビールを一本受け取った。それから近くの壁に寄りかかって、客席を挟んだ反対側に明るく浮き上がっているステージを、改めて見直してみた。もともと音楽に興味はないし、ましてロックなんて、これまでは人生の外側にぴたりと締め出してきた。しかし今こうやって、空気全体が震える圧倒的な音量の中に身を置いてみると、その音量全体を引っぱるボーカルの少し粘っこいリズムは、俺の神経にもそれほど不愉快な共鳴はしてこなかった。歌手としての木戸千枝の才能なのか、それとも千枝に対して俺が感じている、説明しにくい魅力のせいか。しかしいずれにしても、今はそんなことを分析したい気分ではない。
曲が終わり、木戸千枝にだけ当たっていたスポットライトがステージの奥にまで広がって、バックバンドの顔が遠く客の頭の上に浮かび上がった。客の数は百人足らず。みな予備校の教室をそっくりここへ移してきたような歳恰好だ。その客たちに向かって、ステージのまん中に出てきた木戸千枝が、なにやらバンドの活動状況らしきものを話し始めた。演奏の合間のトークタイムというやつなのだろう。千枝の衣裳は銀色のタイツに赤いハイヒール、それに袖にひらひらがついた赤い上着という、かなり衝撃的なものだった。バンドの他のメンバーがみなジーパンと安物のシャツであるのに比べると、千枝の衣裳だけ、さすがに金がかかっている。たとえ今はアマチュアでも、スターは最初からスターでなくてはならないのだろう。
ビールを飲み干し、ふと横を見ると、池袋の貸しスタジオにいた髪の薄い男が、やはり俺と同じように壁に寄りかかって一人で煙草を吹かしていた。この雰囲気の中では俺もいい加減場違いだったが、そいつのほうも年齢的には、俺に負けないぐらい場違いだった。
俺はカウンターに歩き、そこでまた缶ビールを二本もらって、壁に寄りかかっている男の顔の前に、一本をそっと差し出した。
男が煙草をくわえたまま、顔をふり向け、二、三秒目の端で俺の顔を眺め回してから、こめかみに太い皺をつくって、にやっと笑った。
「おたくも、千枝にチケットを売りつけられた口かい?」と、俺の差し出した缶ビールを、気楽に受け取って、男が言った。
「ちょっとした先行投資さ。武道館のコンサートには、招待してくれるそうだ」
くっと喉を鳴らしてから、男がビールをあおり、煙草を吸って、その煙を長くステージのほうに吐き出した。
「ひょっとすると、ひょっとするかもなあ。あのドラムさえ入れかえりゃあ、音楽的には文句はねえもんな」
「プロモートする気に、なったのか」
「そりゃ話がべつ。ああいう連中に人生なんか賭けられねえよ。いっそのこと、おたくが自分でやってみちゃどうだい」
「彼女が演歌でもうたう気になったら、考えてみるさ」
男がまた、くっと笑い、煙草を床に放って、その禿げあがった額の辺りを掌で軽く一拭きした。
「十五年もこんな商売やってるとなあ、たまには、こいつはって思うやつもいるもんさ。だけど本当にものになったやつは、今まで一人もいなかった」
「彼女もやっぱり、あんたに、こいつはって思わせてるんだろう」
「千枝がバンド始めたときから、俺、ずっと目をつけてたんさ。いいもの持ってるんだよなあ。だけどいいもの持ってて売れなかったやつなんて、腐るほどいるんだよなあ」
「俺には、彼女の歌もスタイルも、文句はないように見えるけどな」
「素人はみんなそう思うよ。だけどあんた、歌がうまくてスタイルも顔もいい女、この世界になん人いると思う?」
「十人……ぐらいか」
「まさか。なん千だかなん万だか、数えきれねえほどさ。そいつらを掻き分けて世に出るっての、素人が考えてるほどかんたんじゃねえわけよ」
「でもあんた、彼女はひょっとしたらひょっとすると、そう言ったじゃないか」
「そりゃあなあ、千枝はそのくれえのもの、持ってるもの。それに俺は知らなかったけど、どうも、スポンサーがついたらしいんだ。あの一番うしろの席の右側に座ってる二人、知ってるかい」
「さあな」
「あいつら、バウンドプロのディレクターさ。金だかコネだか知らねえけど、あんな大手のプロダクションから二人も人間が来るってのは、よっぽどでかいスポンサーがついたってことさあ」
「それなら、彼女、デビューできたようなもんだな」
「どうかなあ。賭けに出るかどうか……だいいちデビューさせて、テレビに出したらまるで受けねえってこと、いくらでもあるからなあ。デビューだけして終わりっての、腐るほどいるんだよなあ」
「賭けたっていいのさ。彼女はまだ、二十一だ」
「あんた、やっぱり素人だよなあ。この世界のこと、なにもわかっていねえんだよ。賭けるのは千枝じゃなくて、プロダクションのほうだってこと」
照明が、急に絞られ、ステージにはまた木戸千枝一人だけが浮かび上がって、それと同時に爆発的なイントロが、狭いライブハウスの空気をこれでもかというほどの音量で揺さぶり始めた。俺はもうとなりの男と話す気にはならず、また壁に寄りかかって、音の中に茫然と疲れた神経を晒し始めた。千枝のかすれて、少し粘っこい声が心地良く聞こえるのは、もしかしたら今の俺が、たんに疲れているから、というだけのことなのかもしれない。
千枝のステージは、それから三十分で終了した。お決まりのアンコールでは客の全員が立ち上がり、音楽とは無関係に轟然たる手拍子を巻き起こしたが、ステージが終わった瞬間から、客たちは嘘のような静けさで黙々と出口のほうに流れ始めた。表の手書きのポスターには『七時半開演、九時終了』と書いてあったから、実質的には正味一時間のステージだったのだろう。
明るくなった客席には、となりにいた貸しスタジオの男の姿はなく、プロダクションの人間だという二人の男の姿も、いつの間にか見当たらなくなっていた。俺は出口の混雑がおさまるまで、しばらく壁に寄りかかってから、吸っていた煙草を床に捨てて、ゆっくりとドアに歩き始めた。楽屋に行って千枝に声をかけようかとも思ったが、どうも、そういう気分でもなさそうだった。やっと夏らしい天気になったというのに、俺の精神状態はきっぱりと鬱側に傾いてしまったらしい。千枝がステージで見せつけた若さに、嫉妬を感じたのか、それとも島村由実や及川照夫が放り出していった青春に、柄にもなく感傷的になったのか。
「柚木さん……」
俺が表の通りに出て、飲み屋の看板をいくつか思い浮かべながら、駅のほうに歩き出したとき、後ろから声がして、千枝が地下からの階段を二段おきぐらいの大股で駆け上がってきた。銀色のタイツはそのままだったが、赤いハイヒールはゴムのビーチサンダルに履きかえていて、上もプリントのない白いTシャツに着がえていた。
「水臭いじゃない。コンサートに来たら、声ぐらいはかけていくものよね」
「スターとファンが、馴々《なれなれ》しくするのも具合が悪いと思ってな」
顔じゅうを歪めて笑い、Tシャツの裾を引っぱって、千枝が顔から流れ出る汗を、べろっと拭き取った。
「今のステージ、どうだった?」
「俺が芸能界に詳しかったら、マネージャーを買って出たところだ」
「あいにく、もうマネージャーは決まったの。それに柚木さんにマネージャーやられたら、チケットを買ってくれるスポンサーが一人減っちゃうわ」
「スポンサーは、もうついたらしいじゃないか」
「スポンサーを見つけるのも実力のうちだもの。ただ歌うだけなら、カラオケやってればじゅうぶんだしね」
「君ならいつか武道館でコンサートを開けるさ。ステージを見て、そんな気がした」
「お世辞でも、嬉しいな」
「俺のほうこそ、人生に楽しみができた。これから先、君がメジャーになっていくのを陰ながら見ていられる」
くすっと笑って、また髪の毛を掻きあげ、汗の匂いのする躰を、千枝が一歩俺の顎の下に寄せてきた。
「あんた、今日はハンフリー・ボガート、やってないじゃない」
「君の歌に感動して、気力がなくなったのさ」
「ハンフリー・ボガートより、どっちかっていうと今日は、ジェームス・ディーンの線みたい」
「チケットのほうが、ビールより美意識をにぶらせるわけだ」
今度はあはっと、声を出して笑い、それから首をかたむけて、千枝が目に街灯の光を、強く反射させた。
「これからみんなでうちあげをやるの。柚木さん、来てくれる?」
「さっきも言ったさ。スターとファンは、親しくなりすぎないほうがいい」
俺は一歩だけうしろにさがり、汗と若さを無自覚に発散させている千枝の顔を見つめたまま、ポケットから煙草を取り出して、火をつけた。
地面に向かって、一つ煙を吐き出し、駅のほうに向かおうとして、ふと、その問いが俺の頭を横切った。もう決着がついたはずの島村由実の事件が、気持ちのどこかで、まだ諦め悪く引っかかっているらしい。
「そのうちあげっていうの、コンサートの度に、いつもやるのか」
「いつもやるわよ。みんな貧乏だから、焼き鳥屋かおでん屋だけどね」
「あの日も、やったか」
「あの日って?」
「由実さんが、ボーイフレンドと君のコンサートに行った日」
「もちろんやった。あの日はたしか、新宿の『北の家族』だったかなあ」
「由実さんとボーイフレンドも、うちあげに出たんだろうな」
「出た。コンサートのときは、由実はいつも最後までつき合ったもの」
「それで、由実さん……」と、首をかしげて立っている千枝の顔に、煙がかからないように煙草を吸って、俺が言った。「どんな様子だった? へんなふうに、落ち込んでいなかったか」
「へんなふうに、由実が?」
「その日に彼女は、接触事故を起こしていた」
「でもそれ、相手の男の子が起こした事故でしょう。由実が自分でやったわけじゃないもの」
「由実さんに、変わった様子はなかったのかな」
「由実は、そうねえ、なにか怒っていたようだけど、でも落ち込んでる感じはなかった。相手の男の子のお喋りに、うんざりしてるみたいだった」
「悩んでる感じでは、なかったんだな」
「そういうのとは、ちがう。由実、へんに怒ってたけど、悩んでも落ち込んでもいなかった。あの男の子と喧嘩でもしたんじゃないかなあ」
「怒ってるだけで、悩んでも落ち込んでもいなかった……そんなもんかな」
俺は、親指の爪でフィルターを弾き、煙草の灰を下の舗道に落としてから、千枝に手をふって、駅側に歩きかけた。
「うちあげ、本当に、来られない?」と、顔の汗をふり払うように、肩で大きく息をして、千枝が言った。
「好きな女の子を遠くから見守るのも、男のロマンてやつさ」
「決まった。今の、リチャード・ギアだね」
「俺は今、ハンフリー・ボガートのつもりだった」
「次のコンサートも、チケット頼んでいいかなあ」
「それは、リチャード・ギアに言ったのか?」
「ハンフリー・ボガート」
「ボギーのほうなら、もちろん、チケットぐらいで吝嗇《けち》なことは言わないさ」
俺は木戸千枝に、もう一度手をふり、煙草を捨てて、人通りの少なくなった舗道を駅に向かって歩き始めた。生きていれば島村由実も、このコンサートに顔を出し、それから夜中までうちあげとやらで騒ぎまわれただろうに。しかしどうでもいいが、男のロマンてやつも、けっこう高くつく。
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疲れて気分が滅入ることで、一つだけいいことがあるとすれば、それは躰が深酒を受け入れないことだ。前の日俺は珍しく十二時前に部屋に帰り、テレビの面白くもないバラエティー番組と、面白くもない深夜映画を見て、そのまま正午《ひ る》ちかくまで寝込んでしまった。二日酔いを起こさずに目を覚ます度に、酒を慎むことがどれぐらい躰にいいかを認識するのだが、その認識が人生にとってたいして意味のないことも、同時にまた、すぐに俺は認識してしまう。
俺はベッドの中で、誰にも邪魔されずに眠れたことの充足感を自嘲ぎみに味わってから、軽く気合いを入れて、よっと起き上がった。一昨日《おととい》突然戻ってきた夏は相変わらず窓の外に居座っていて、カーテンを通して光と熱気を自棄になって部屋に流し込んでいた。俺は部屋の反対側に歩いてクーラーを入れ、それからトイレに行って用を足し、台所でコーヒーをセットしてから、洗面所に戻って二日ぶんの洗濯に取りかかった。今日はシーツと枕カバーを洗うから、洗濯機は、二回まわすことになる。
一度めの洗濯機をセットし、台所でコーヒーを注いでから、俺は壁の時計で、時間が十二時をすぎていることを確かめた。この時間なら間違いないだろうし、うまくいけばもう自供も始まっている。容疑者の居所が確認できている場合、逮捕に警察は原則として夜明けを狙う。相手が混乱している間に自分達のペースに巻き込んでしまおうという、姑《こ》息《そく》ではあるが、基本的な心理作戦なのだ。
俺は机をまわって椅子に腰かけ、煙草に火をつけてから、練馬西署に電話を入れてみた。相手は坂田でも鮎場でもよかったのだが、はったりが効《き》くぶん、いくらかは若い鮎場のほうが都合はいい。
「へええ。やっぱり、いい勘してるもんですねえ」と電話に出るなり、機嫌の良さそうな声で、鮎場が言った。「さすが、警視庁のユリ・ゲラーと言われた柚木さんだ」
「君たちの頭の中を知るのに、超能力なんか必要ないさ。それで、及川のクルマから出た塗料は、ぴったりだったのか」
「お陰様でね。それに及川のアパートの部屋から、練馬区の広報が出てきました。どういうことだか、わかります?」
「両角啓一の写真がでかでかと載っていた、そんなところだろう」
「そんなところなんですよ。そいつがまたご丁寧に、連絡先の電話番号に鉛筆で丸がついていましてね、見たときは笑っちゃいましたよ。『はい、あんたが犯人』ていうようなもんですからねえ」
「両角は、なにか、自供《うた》い始めているか」
「そいつはまだです。相手は地元の名士ですから、殴る蹴るというわけにはいきませんよ」
「両角のクルマは、セドリックだったよな」
「黒塗りのオートマチックです。左前方フェンダー下部に修理をした痕跡がありますから、まず間違いないですね」
「車内から血液反応とか及川の髪の毛とか、出てきたか」
「鑑識の段階では出なかったようです。詳しく調べるために、クルマは科研に回しました。そっちからなにか出たら、自供が取れなくても送検できるんですけどねえ」
「両角は、要するに、全面否認ってわけだな」
「及川や島村由実との面識については、認めてるんですよ。それから接触事故の件についてもね。四日前の午後、英進舎の両角のところに及川が金を強請《ゆす》りにやってきたことも認めました。出だしとしては、こんなところでじゅうぶんでしょう」
「及川や島村由実との接触は認めたが、殺人については否認している、そういうことか」
「二人殺《や》ってれば死刑の可能性もありますからね、かんたんに口は割りませんよ。うちの課長としても、最初から持久戦を決めてるようです」
「例の、島村由実殺しに使われたチェイサーは、どうした?」
「あれはまだです。とにかく二十三日間|勾留《とめ》ておけるわけですから、時間をかけてじっくり吐かせてやりますよ」
コーヒーを飲み、一度煙草を吹かしてから、受話器を反対の手に持ちかえて、俺が訊いた。
「島村由実との関係について、両角は、どういうふうに言ってる?」
「ただ知ってるだけだと、その一点張りです。知ってるだけの人間を一々殺していたら、日本じゅう死体の山になっちゃいますよ」
「及川が両角を強請ったのは、当然、島村由実のことについてだろう?」
「訳のわからないことを言うので追い返したと、両角は言ってますけどねえ」
「島村香絵のほうは、どうした? 接触事故のとき両角のクルマに乗っていたことは、認めたか」
「なんのことです? どうしてそこに、島村香絵の名前が出てくるんです」
「認めて、いないのか?」
「認めてないって……だって柚木さん、あのときクルマに乗っていたのは、広地美代子という女ですよ」
「広地、美代子?」
「英進舎で事務をやってる小娘なんですけどね。いい歳して、両角もよくやるもんですよ」
「それは、その、あのとき一緒だったのは広地美代子だと、両角が言ったのか」
「両角の証言から、広地美代子にも確認を取りました。本人も認めましたよ。最近の若い女ってのは、いったいなにを考えてるんでしょうねえ」
「なにを……」
「でも柚木さん、島村香絵がどうとかって、あれ、なんのことです」
「あれは、こっちの話だ。おまえさんたちの捜査がどこまで進んでいるか、かまをかけてみただけさ」
「それならいいんですけどね。ここまできてひっくり返されたら、警察の面子はまるつぶれです」
「警察の面子より、問題は被害者の人権だ。それと容疑者のな」
「わかってますって。でも今度の事件《やま》に関しちゃ、犯人《ほし》は両角で決まりですよ。火遊びの現場を島村由実と及川照夫に見つかった。島村由実は買収に応じなかった。社会的な立場もあるし、区長選挙のこともあるし、両角としては島村由実の口を封じるしか方法がなかった。島村由実の口を封じたら、今度はそれを嗅ぎつけた及川照夫に強請られて、それも殺してしまった……構図としては、そんなところじゃないですか」
「そんな、ところだろうな」
「それにしてもあんな小娘との火遊びで、両角も高い慰謝料を払ったもんです。そう思いませんか。ねえ、柚木さん」
予定はあったとしても、俺の人生における予定なんか、いつだって他人に自慢できるほどのものではない。
二回の予定だった洗濯を、一回で切り上げ、かんたんにシャワーを浴びて、とにかく、俺は部屋をとび出した。鮎場の台詞ではないが、広地美代子との火遊びぐらいで人生を棒にふるとすれば、両角啓一にとっては、たしかに高すぎた慰謝料だ。俺も直接島村由実を知っていたわけではないが、しかしその正義感の強さからすれば、由実が両角を許せなく思ったことも、単純に想像がつく。島村香絵の役割については、俺自身基本的な考え違いをしていたのだ。両角が及川照夫のクルマと接触事故を起こしたとき、一緒に乗っていたのが香絵ではなく広地美代子だったとすれば、昨日木戸千枝が『由実は怒っていたけど、悩んでも落ち込んでもいなかった』と言ったことの状況は、かんたんに説明がつく。島村由実は、自分のアドレス帳に『石神井の自然を守る会』の電話番号をSSKなどという暗号めいた書き方をしていたぐらいだから、自分の姉と両角との関係は、当然知っていた。そのことに割り切れない思いはあったにせよ、現実の問題としては黙認するより方法はなかったのだろう。どういう形にしろ自分の姉と関係がある両角が、他の女とホテルから出てくる場面を目撃してしまった。そのときの島村由実の心理を考えれば、『悩む』というより、『怒る』というほうが相応しい。まして両角は地元の名士でもあるし、次期区長候補でもある。由実の若い正義感がそういう両角の行状を許せなく思ったのも、当然といえば当然だろう。姉と関係のある両角に対する屈折した気持ちと、その正義感から、由実は両角の実像を世間に公表しようとした。両角も懐柔しようとしたが、由実は聞き入れなかった。そこで両角は、由実を殺した。区の広報で両角の素姓を知った及川照夫は、接触事故と由実の事件を絡めて両角に強請りをかけた。後難を恐れた両角は、その及川も始末した……鮎場に言われなくても、事件自体の構図は『どうせそんなところ』なのだ。間に島村香絵が入ってこなければ、構図としてはそれで非常にすっきりする。殺人事件の構図なんて単純であればあるほど説得力は大きいし、そしてだいたいは、それが結論であることも多い。しかしもし、構図がそのとおりであって、事件そのものがそこまで単純であったとすれば、もう一皮剥いてもっと単純であったとしても、決しておかしくはない。
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この前広地美代子に会ったとき、最後になってその電話番号を手帳に書き取ってしまったのは、はっきり言って、俺の病気のせいだ。三十八年間もその病魔にとり憑かれていて、人生は不当な混乱をつづけていたが、病気のほうが状況を救ってくれることも、たまにはある。電話をすると、広地美代子は部屋に居て、俺が行くまで外出しないようにという拘束力のない命令を、なぜか素直に聞き入れてくれた。
広地美代子のアパートは、大泉学園の駅から線路ぞいに、十分ほど保谷側に歩いた住宅地の中にあった。私鉄沿線の町のどこにでもある、木造モルタル塗りの特徴のないアパートだったが、自分でも呆れるぐらいの嗅覚で、俺は路地一つ間違わずにアパートにたどり着いた。十三年間もやってきた警察官の習性は、善良な市民に戻ったからといって、かんたんに抜けるものではない。
二階の五号室というその部屋は、間取りこそ夏原祐子の部屋と似たようなものだったが、壁もカーテンも畳も全体にうす暗く、そのくせばかでかい衣裳ダンスが部屋の半分を占めるかと思うほど、どーんと壁からつき出していた。クーラーはなく、壁にかかった小型の扇風機が首もふらずに忙しなく部屋の空気を掻き回していた。
「癪《しゃく》にさわるわよねえ、こんな急に、暑くなっちゃってさあ」
ジーンズの短パンに赤いTシャツを着た広地美代子が、台所からサイダーのようなものを持ってきて、窓際に腰をおろした俺とテーブルを挟んで座り込んだ。
「仕事、本当に、トラバーユする気なのか」と、テーブルの上のガラスの灰皿を、勝手に引き寄せながら、俺が言った。
「そんなの、いやでもそうなるわよ、理事長、警察に捕まったんだもんさあ」
「英進舎自体が、倒産するかもしれないしな」
「どうかしらね。丸山さん次第だろうけど、あたしにとってはどっちでも同じことだわよ」
「両角のことは、いつ知ったんだ」
「今朝仕事に行こうとしたら、警察の人が来たの。それで五月の九日、あたしと理事長が一緒に居なかったかって……煙草きらしちゃった、一本もらえる?」
俺は自分で一本を抜き出し、残りを箱ごと前に滑らせて、広地美代子がくわえた煙草と自分の煙草に、使い捨てライターで火をつけた。
「どっちでもいいのよ。あたしは最初から、あそこはやめるつもりでいたんだから……」と、投げ出した自分の足先に向かって、長く煙を吐いてから、広地美代子が言った。
「両角とのこと、この前会ったとき、なぜ言わなかったんだ」
「そんなこと、だって、あたしの口から言えるわけないじゃない。訊かれもしないのに、本当はあたし理事長とつき合ってますとか、そう言えばよかったわけ?」
「君は両角のことを、ただのおじさんだと言ったじゃないか」
「そりゃあ、ただのおじさんだわよ。だけどあたしにだって、いろいろ都合はあるじゃない? 東京ってお金がかかるしさあ。ここの部屋代だって、五万三千円もするんよ」
「その……両角とは、いつごろから、そうなんだ」
「今年の初めぐらいから。でもあたし、もうやめようと思ってたんだ。最初はスリルもあったけど、なんとなく面倒臭くてさあ。だけどさあ、思わない? 丸山さんにはいい気味だったわよねえ」
金がらみとはいえ、島村香絵と関係を持っている両角啓一が、広地美代子にまで手を出す必要は常識では考えられないが、そういう常識では考えられないことをしてしまうのも、男というやつの空しさなのだろう。
「君は、それで……」と、広地美代子の投げ出した、意外に肉づきのいい脚を、苦っぽい気分で眺めながら、俺が言った。「五月九日、本当に両角と、一緒に居たんだな」
「警察の人にも言ったわよ。ホテルから出てきたとき、赤いクルマとぶつかったことも言った。理事長あんとき、余所見《よそみ》をしてたんよねえ」
「そのとき相手のクルマに乗っていた女の子が殺されたことは、いつから知っていた?」
「ぜんぜん知らんかった、これは本当。だってその子、クルマから降りてこなかったし、あたしも顔なんか見なかった。その子がこの前、柚木さんが写真で見せてくれた子だったわけ?」
「彼女が英進舎に行ったときも、事故のことは思い出さなかったのか」
「気がつかなかったわよ。向こうはどうだか知らないけど、こっちは顔なんか見ていないんだもの」
「男のほうは、どうだ。俺が英進舎に行った前の日、両角を訪ねていったろう」
「そうだってね。でもそれだって、警察の人から聞いて思い出したの。同じような感じの男の子、塾にいっぱい居るじゃない。どこかで見たような気はしたけど、あんときは思い出さなかった」
「そいつが英進舎に行ったのは、なん時ごろだった」
「夕方だったなあ、五時には、なっていなかった」
あの日及川照夫が、夏原祐子に電話をしてきたのが五時だったというから、その時点で、及川は金についてなんらかの感触を得たということか。
「あの日は両角が英進舎に居て、その男には、自分で会ったんだな」
「自分で会ったわよ。あたしが理事長室に取りついだんだもの」
「二人がなにを話していたか、聞いたか」
「聞くわけないじゃない。あたしは取りついだだけだし、男の子だって理事長室には五分も居なかったわ」
「五分間両角と会って、それから?」
「それからって?」
「男は、どうした」
「そりゃあ、帰ったわよ」
「両角のほうは?」
「理事長は……あたしが帰るときも、まだ理事長室に居たと思う」
「丸山菊江は、そのときは、どうしていたのかな」
「丸山さん? 丸山さんが、なあに」
「その男と、話でもしたかと思ってさ」
「話ぐらいは、したんじゃない。男の子が来たとき、丸山さんは理事長室に居たから」
「丸山菊江は、理事長室に居たのか」
「そうよ。だって理事長は、英進舎には丸山さんから仕事の報告を聞くために来るんだもの。それ以外に用があるときは、どうせ外で会ってるわよ」
「男が帰ったあと、丸山菊江は、どうした。すぐに外出かなにか、しなかったか」
「どうだったか……だけどどうして? そんな細かいこと、一々覚えていないわよ。丸山さんのことなんか、あたしぜんぜん興味ないんだからさあ」
広地美代子が、剥きだしの腕をのばして灰皿で煙草をつぶし、俺も最後の煙を吐いてから、その灰皿で煙草の火をつぶし消した。
「それより柚木さん、なにかいいバイトの口、ないかなあ」と、畳についた腕で躰を支えながら、暑苦しく息を吐いて、広地美代子が言った。「マクドナルドとかコンビニだとか、ああいうださいんじゃなくてさあ、恰好よくて面白くて、それでお給料のいいやつ」
「そういうバイトが見つかったら、俺にも教えてくれ」
「テレビのレポーターとかなるの、難しいんかなあ」
「君なら、なれるかもしれないな。君より頭の悪そうな女が、いくらでもやってる」
「そうなんよねえ。テレビなんか見てると、たいしたことない子が楽しそうにやってるんよねえ。ああいうのみんな、コネなんよねえ。だけど今さら、丸山さんに頼むわけにもいかないしさあ」
「丸山菊江は、そのほうにコネを、もってるのか」
「あれだけのお金持ちだもの、ちょっとぐらいそういうの、あるんじゃない。昔はけっこう遊んだっていうしね、嘘だか本当だか、テレビ局に知り合いが居るみたいなことも言ってた。でも今さら、ねえ? 理事長とのことだってばれちゃったわけだし、丸山さんになんか頼めないわよ」
「いっそのこと、故郷《くに》にでも帰ったらどうだ」
「帰ったって……福島に帰って、なにがあるわけ?」
「平凡な人生の、平凡な幸せがあるかもしれない」
「そんなもののどこが面白いのよ。そりゃあさ、三十になったら考えるかもしんないけど、でも一度ぐらい、あたしだって楽しい思いをしていいんじゃない。みんな楽しんでるのに、あたしだけつまらない人生をやってるの、ぜんぜん割が合わないわよ」
「俺にはそれほど、みんなが楽しんでいるとは思えないけどな」
俺は煙草の箱を置いたまま、ライターだけポケットにしまい、サイダーのようなものを半分飲んで、窓の外を覗きながらゆっくりと立ち上がった。池袋線の線路が近いせいか、かすかな震動と一緒に、ごーっという電車の音が低く聞こえてくる。
「ねえ、雑誌関係でもいいから、なにかあったら声かけてくれる?」
「なにか、あったらな」
「理事長も捕まっちゃったし、当分あたし、スナックにでも勤めようかなあ」
「どんな仕事でも、君ならうまくやっていけるさ」
会釈をして、ドアのほうに歩きはじめた俺に、部屋のまん中につっ立ったまま、広地美代子が言った。
「柚木さん、どう思う? ずっとあたしが理事長とつき合ってたら、あたしもやっぱり、殺されていたと思う?」
「君を殺す気になんか、誰もならないと思うぜ」
「そうよねえ。あたし、悪いことなんか、なにもしてないもんねえ。だけど理事長、なんで人なんか殺しちゃったんかなあ。区長になりたいからって、人まで殺すこと、なかったと思うけどなあ」
まったく、鮎場の台詞ではないが、この広地美代子との火遊びぐらいのことで、両角啓一もずいぶんと高い慰謝料を払ったものだ。
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志木から浦和に通じる抜け道のせいか、見渡すかぎりの畑と工場群の中を、ダンプや大型トラックがひっきりなしに通りすぎる。あと三十分で日も暮れきる時間となれば、こういう田舎道でもそれなりの混雑は当然なのだろう。汗と排気ガスと土埃に、いい加減うんざりしながら、それでも性懲りもなく、俺は煙草に火をつけた。まだ明るさが残っている空のとんでもなく高い所を、カラスだけが気持ち良さそうに旋回をつづけている。
俺の目の前には、百台ちかいクルマの残骸が、廃墟を彫刻にでもしたような悲惨さで、累々と横たわっている。中には五台も六台も、押しつぶされて一ヵ所に積み重ねられているクルマもある。腹を上にしているクルマもあれば、トランクを跳ね上げたまま横向きに寝ているクルマもある。しかしどのクルマも一様に、みなタイヤだけはきれいに取り外されている。ほとんど無傷に見えるクルマでも、クルマというやつはタイヤをつけていないと、なんとも不様に見えて仕方がない。
俺はやっと見つけた五十四年式のトヨタ・チェイサーを、煙草を一本吸い終わるまで眺めてから、煙草を捨て、人間の掌《てのひら》大に剥げているボンネットの塗料のつづきの部分を、直径で五センチほど、指で剥ぎ取った。それからそばに落ちていた小石を拾って、ウインカーを割り、その破片とボンネットの塗料とを、一緒にハンカチで包み込んだ。足がないところは人間の幽霊と同じだが、こんな廃車置き場でカラスの巣になっているぶん、クルマの幽霊のほうが、気の毒な感じがしないでもない。
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「あなたっていつも、そういうふうに逃げるじゃない。わたしはべつに、今さらあなたを責めようとは思っていないの。そんなことを言ってるんじゃないの。ただわたしたちだって一応は夫婦なんだし、加奈子が二人の子供であることは事実なんだし、そういう意味で、約束したことだけは守ってもらいたいのよ」
「俺は、だから、仕事が片づいたら、本当に電話をしようと思っていた。俺だって自分が加奈子の教育に責任があることぐらい、ちゃんとわかってるさ」
「わかってるなら、なぜ連絡をしてくれないの。わたしのほうから電話するのはいやだって、この前も言ったじゃない」
「この前は、あれは本当にたまたま、彼女がうっかり受話器を取っただけなんだ。この前だってそう言ったろう」
「それでこの前は、あなたのほうから連絡するとも言ったでしょう。あれからいく日たってると思うのよ」
「いく日って、ほんの二、三日さ」
「わたしが最初に電話をした日から、丸まる六日と半日よ」
「似たような、もんだろう」
「三日と六日とでは、倍もちがうわよ。だいいちあなた、わたしが今日電話しなかったら、あなたのほうから電話をしてくれた?」
「だから、洗濯でも済んだら、ちょっとしてみようかとは、思っていた」
「なによ、その洗濯って」
「洗濯は、洗濯さ。昨日忙しくて、予定の半分しかできなかったんだ」
「洗濯と加奈子の将来と、あなたにとってはどっちが大事なのよ」
「そういう問題じゃ、ないだろうよ。俺だって洗濯ぐらいするし、急に暑くなって、シーツや枕カバーだって洗わなくちゃならない」
「あなたっていつもそうよね。そういうどうでもいいことで、いつも大事な問題から逃げようとするのよね」
「俺が洗濯するのが、そんなに悪いことか。俺だって毎日洗ってあるシャツを着たいし、気持ちのいいシーツでだって眠りたい。俺にはそんなことの権利もないわけか」
「そんなこと、言ってないじゃない。あなたの唯一の趣味が洗濯だということぐらい、わたしだって知ってるわよ。あなたは昔から洗濯に執着していたじゃない。夜中でも朝でも、とにかく洗濯洗濯、洗濯洗濯……」
「俺はべつに、君に迷惑をかけた覚えは、ない」
「だからいやなのよ。仕事から帰ってきてあなたに洗濯を始められたら、わたしのほうはどうしたらいいわけ? 洗濯ぐらいわたしだってやっていたわよ。それなのにいつもあなた、当てつけがましく夜中に洗濯を始めたじゃない。そんなことをされたら、わたしの立場はどうなると思うのよ」
「だから、もう、いいじゃないか。君に洗濯をしに来いと言ってるわけじゃない。昨日は忙しくて、洗おうと思っていたシーツと枕カバーが洗えなかった。だから今洗ってるだけのことだ。それがなにかの罪になるんなら、俺はいつだってこんな国は出ていってやる」
「そんなこと、言ってないでしょう? わたしは加奈子のことを話し合いたいと言ってるだけよ。あなたはそうやって、いつも問題をすり替えようとするんじゃない」
「俺がいつ、すり替えた。だいいち俺は、君が言うほどいつも逃げてるわけじゃないだろう」
「逃げてるじゃないの。あの事件があってから、あなたは人が変わったじゃない? ヤクザの一人や二人撃ち殺したぐらいのことで、どうしてあなたが人生を放り出すのよ。あなたが殺さなくても、あんな人たち、どうせいつかは殺される連中だったじゃない」
「あのことは、だから、もう、済んだことだ」
「どこが済んだのよ。あなたが投げ出した人生には、わたしや加奈子の人生も含まれていたのよ。自分一人の勝手で、わたしや加奈子の人生まで犠牲にする権利、あなたにあったわけ?」
「そのことはもう、話し合ったはずだ」
「話し合ったけど、それはあなたが警察をやめたあとだったじゃない。そりゃあね、ヤクザにだって子供はいるわよ。でもその子供が加奈子と同年《おないどし》だったことが、どうしてあなたの責任なの。あなたはたった一人で、世の中の不幸にすべて責任をとれると思ってるわけ?」
「そういう問題じゃないことは、あのとき、ちゃんと説明している」
「いくら説明されたって、わからないものはわからないわよ。ヤクザの子供に責任をとって、自分の子供には責任をとらなくていいなんて理屈、わたしにわかるわけないじゃない」
「問題が、ちがうんだ。俺は自分の人生を放り出してもいないし、君や加奈子に対する責任から逃げるつもりもない。だからってあのことを、もう一度蒸し返す気にはならない」
「蒸し返すつもりなんか、ないわよ。わたしはただ、あなたが言ったから、言っただけ。わたしだってもう一度元の生活に戻れるとは思っていないの。戻りたいと言ってるわけでもないの。ただわたしは、あなたが神様になってくれなくてもいいから、加奈子の父親であることを忘れないでほしいって、そう言ってるだけ。約束したことだけは守ってほしいって、そう言ってるだけよ」
「電話は、だから、しようとは思っていたさ。昨日までは本当に忙しかったんだ。今日じゅうにはぜんぶ片づくから、今夜にでも君に電話して、できれば、明日にでも会いたいと思っていた」
「本当に、そう思っていたの?」
「本当に、そう思っていた。俺の瞳は今、真実の光に輝いている」
「あなた……」
「いや、今のは、冗談だ」
「あなたって人は、いつも、そうなんだもの」
「悪かった。口が勝手に喋ってしまった。だけど、明日会えそうだということは、本当だ」
「だからね、それで、わたしのほうから電話したの。明日はわたし、都合が悪いのよ。講演会で仙台に行かなくてはならないの」
「君が忙しいことは、加奈子から聞いた」
「以前は家で原稿を書いていたから、加奈子のことも看《み》てやれたの。だけど最近外に出る仕事が多くて、あまり家に居られないのよ。そういうこともあるから、一度あなたと話し合っておきたいの」
「俺のほうは、明後日《あさって》のことまでは、わからないな。なにしろ半端仕事がつづいている」
「それじゃわたしが、仙台から帰ってきてからということ?」
「そう、だな。都合のよさそうなとき、俺のほうから電話をする」
「ちゃんと電話してよね。わたしのほうから電話するの、本当に気まずいんだから」
「だからな、あれは……まあ、とにかく、明後日以降、俺のほうから間違いなく電話はするさ」
「本当よ? 自分の子供のこと、あなたももう少し本気になってよね。人間には逃げられる問題と逃げられない問題があること、わかるでしょう。あなたはいつだって、大事な問題を逃げて済まそうとするんだもの」
「俺は……その、加奈子、家に居るのか」
「居るわよ。居間でテレビを見てるわ」
「ちょっと、代わってくれないか。この前の、コミュニケーションのつづきがあるんだ」
「わたしが言ったこと、ぜったい忘れないでよね」
「忘れない。毎日夢の中でも確認して、朝起きたら、毎日君の家の方角に向かって手を合わせる」
ふんと、知子が鼻を鳴らし、それからこつんという受話器を置く音がして、俺の電話にもやっと平和が戻ってきた。どうやら二日間は執行猶予がもらえたようだし、あとちょっと努力すれば、知子との頂上サミットも一週間ぐらいは引きのばせる。知子との間に話し合って解決できる問題など、なにもないことはわかっていながら、それでもやはり俺たちは話し合わなくてはならない。結論を出すためにではなく、話し合うこと自体が、俺と知子の、親としての義務というやつなのだろう。
俺が煙草に火をつけ、二、三口吸ったところへ、受話器を取り上げる音がして加奈子が声をかけてきた。
「どうした、元気にしてるか」と、椅子の背もたれで背中をのばしながら、俺が言った。
「元気にしてるよ。二日ぐらいで変わるわけ、ないじゃない」
「プール、今日は行かないのか」
「今日は行かない。今日は夏休みの宿題やってる。パパ、今、ママとなにかもめてた?」
「ママ……いや、お母さんはなにかもめてたらしいが、俺のほうはぜんぜんもめていなかった」
「わたし、両親がもめるの見るの、いやだなあ」
「本当にもめていない。おまえも知ってるだろう、お母さんは普段から、ああいう喋り方なんだ」
「それならいいけどさ。そうじゃなくても別居してるんだから、これ以上もめるの、子供の教育にもよくないと思うよ」
「俺としても、精一杯は、努力している。それよりこの前のあれ、どうなった?」
「そうなの。それでわたしも、パパに電話しようと思ってたの。あれやっぱり、やめることにした」
俺としてはオーストラリア関係の旅行案内書も見たし、図鑑でカモノハシまで調べて、それなりの覚悟らしきものはできかかっていたのだ。しかし加奈子がやめるというのなら、それはそれで、文句はない。
「だってね、パパ……」と、空気を胸一杯に吸い込んだらしい音をさせて、早口に、加奈子が言った。「旅行会社の人に訊いたら、オーストラリアって、今冬なんだってさ。地球の反対側は夏と冬が逆なんだって」
「そういえば、まあ、そうだったな」
「冬になんか行ったって、つまらないよね。パパだって奇麗な女の人の水着、見られないでしょう」
「そりゃあ、俺は、そういうのには、最初から興味なかったけど……冬に行っても、たしかに、夏休みらしくはないよな」
「だからね、今度の冬休みに行けば、ちょうどいいと思うの。冬休みならホテルも飛行機も予約できるし、パパだってお金、貯《た》められるでしょう」
「それぐらい時間があれば、なんとか、なる」
「わたし今から、ちゃんと調べて準備をする。パパもOKだよね」
「OKだと、思うな。だけどおまえ、今年の夏休みは、どこにも行かなくていいわけか」
「我慢するよ。家庭環境が複雑なんだし、他の子よりそういうこと、我慢しなくちゃいけないと思うの」
「あまり難しく考えることは、ないんだぞ」
「難しく考えてるわけじゃないよ。人間ってさ、それぞれ立場があるから、他の子と比べても仕方がないと思っただけ」
「俺としては、おまえが元気でやってくれれば、それでいいさ」
「元気でやっていくよ。だからパパ、冬休みはオーストラリアだよ」
「オーストラリアで、カモノハシな」
「約束だよ。わたしもお小遣い、貯めておくね。パパ、もう一度ママに代わる?」
「もういい。なあ加奈子、なにか困ったことがあったら、いつでも電話していいんだからな」
「パパも父親やりたいときは、いつでも電話してきていいよ」
「俺はいつだって……おまえ、そのパパっていうの、本当になんとかならないのか」
「また後楽園で、ゆっくり話し合えばいいよ」
「また、後楽園か」
「パパだってジェットコースター、喜んでたじゃない」
「あれは、躰が逆さになって、びっくりしただけだ」
「とにかくまた電話するよ。本当にママに代わらなくていい?」
「代わらなくていい。パパもこれ以上、今日は暑い思いをしたくないんだ」
加奈子が、冬休みには間違いなくオーストラリアに連れていくように、と念をおし、それに答えてやってから、俺は電話を切った。親のできがいくら悪くても、まったく、子供ってやつはけっこうまともに育つものだ。
俺はそれから、洗面所に行って途中だった洗濯を終わらせ、洗濯物を部屋の中に干して、コーヒーを新しくいれ直した。事件に結論が出たことを夏原祐子に連絡しようかとも思ったが、実際には俺は、今朝起きたときからそのことをずっとためらいつづけていた。ここまで係わった以上、夏原祐子にもことの経緯を知る権利は、当然ある。そうは思うのだが、逆に事件が片づいた今となって、俺の気持ちの中でこれ以上祐子を引っぱりつづけることに、柄にもない不安を感じていた。風邪もひきはじめのうちに薬を飲んだほうがいいし、癌だって早いうちなら、手術をせずに治るというではないか。
俺はコーヒーを一杯飲み終えるまで、ソファに座って煙草をなん本か吸い、それからとりあえずの結論として、吉島冴子に連絡を入れることにした。病気は病気、感傷は感傷、同じ理屈で、仕事は仕事なのだ。俺はまた机の前に戻り、『都民相談室室長』への直通に電話を入れた。
「こっちのほうは、一応片づいた」と、電話に出た吉島冴子に、超能力で頭の中の感傷を探知されないように、注意しながら、俺が言った。「そっちのほうは、どうした?」
「こっちも片づいた。朝の早い新幹線で大阪に帰ったわ。わたしも草平さんに電話をしようと思っていたところ」
「いい女は今日、みんな俺に電話をしようと思うらしい」
「なんのこと?」
「いや、加奈子の電話で、同じことを言われただけだ」
吉島冴子が、表情が浮かぶように言葉を切り、書類挟みでも閉じたのか、電話の中に短く低い音を響かせた。
「片づいたということは、事件が解決したということ?」
「所轄の練馬西署が、今朝丸山菊江というおばさんを緊急逮捕した。島村由実殺しも、それから及川照夫殺しも、丸山菊江の単独犯行だった」
「島村香絵は、事件にはいっさいの係わり、なし?」
「それはまた、あとで話す。いっさいではないが、直接的には無関係だった」
「その丸山菊江という容疑者は、どういう素性なの」
「進学塾の事務長をやっている。そこの理事長に入れ込んで、理事長のスキャンダルを自分で摘み取ろうとしたらしい」
「実際にはその女や理事長や島村香絵の関係が、面倒臭く入り組んでいるということね」
「男と女の関係ってのは、どんな関係でも面倒なもんさ」
「そういう言い方、わたしにはしないでほしいわ」
「その……それでな、そのおばさんは気持ちも入れ込んでいたけど、その男を区長にするために金もばら撒いていた。だから男の火遊びぐらいで、自分とその男の将来を棒にはふれなかった。島村由実を生かしておいたら、丸山菊江たちにとって面倒であったことは、たしかだと思う。及川照夫のほうは、まあ、ついでに殺されたようなもんだ」
「それで、決め手は、なんだったの」
「島村由実を轢いたクルマを発見しただけさ。人間だって幽霊に会いたければ、墓場に行けばいい。クルマの幽霊も理屈は同じことだ。島村由実を轢いたクルマは幽霊だった。つまりあの時点では、もうこの世に存在していないはずのクルマだった。事件の二週間前に、そのクルマは廃車になっていた。だからってそれは書類上のことで、書類の上で廃車になってもクルマ自体が動かないわけじゃない。登録がなかろうとナンバープレートがなかろうと、エンジンをかければ走り出すし、それで轢けば人も死ぬ。警察は書類の上で生きているクルマしか捜さなかったから、この幽霊を見つけることができなかった」
「そんな幽霊を、草平さんがどうやって発見したわけ?」
「その丸山菊江という女、進学塾の事務長はやってたけど、実際は大地主の一人娘でな、実家はガソリンスタンドとか鉄工所とか、手広く商売をやってるんだ。商売の一つに自動車の修理工場もあった。廃車になってもまだ動くようなクルマが、工場にはいつも二、三台ころがっていた。もちろん俺が幽霊を発見したのは、埼玉にある廃車置き場だった」
「事件は、それでは、みんな解決ね」
「一応は、そういうことだろうな」
「そのこと、島村香絵には言ってやったの」
「俺が言わなくても、警察から連絡はいく。俺がクルマを見つけてやったのは、島村香絵にではなく、妹の由実に対する個人的なサービスだった」
「よくわからないけど、そのへんのところは今夜にでも聞いてあげるわ。あなた、今夜は部屋に居る?」
「たぶん、な。外をふらふらする気分には、ならないと思う」
「仕事が終わったら、そっちに回ってみる。ワインでも買っておいてほしいわね」
「ふんぱつするさ。君のお陰で、来月もなんとか食いつなげそうだ」
「来月ねえ、そういえばもう、八月なのよねえ」
「八月に、なにかあったっけな」
「わたしたちがこうなってから、来月でちょうど三年だなあって、そう思っただけのこと」
俺が部屋に掃除機をかけ、ベッドメイクと台所の片づけを済ませてから外に出たときは、もう午後の三時になっていた。吉島冴子には外出する気分にならないと言ったものの、今度の事件に関係したすべての人間に対する、俺自身の係わり方の問題として、けじめだけはつけておく必要がある。
俺の上着の内ポケットには、最初の日に島村香絵から預かった、由実のアドレス帳と写真がつっ込まれていた。新宿の喫茶店で香絵に会ったとき、返すのを忘れてしまったやつだ。住所を調べて郵送してもよかったが、直接とどける気になったのは、やはり俺自身のけじめの問題だった。だからって俺は香絵に会いたいわけではなく、写真とアドレス帳をマンションの郵便受けに放り込んでくればいい。たとえ香絵の調査依頼が、純粋に妹に対する愛情からのものであったとしても、あるいは一億円の保険金が、両角との関係を清算して自分の人生を立て直すためのものであったとしても、妹を死なせてしまった誘因が香絵本人の生き方にあったことは、否定しようのない事実だった。そしてそのことは、俺なんかが口を出すまでもなく、香絵自身がわかりすぎるほどわかっていることなのだ。
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俺が地下鉄と西武線を乗りつぎ、石神井に行って島村香絵のマンションに封筒を届けてから、また西武線で池袋に戻ってきたのは、街に夕方の賑わいが出はじめた、午後の五時だった。夏原祐子が無理やり連れてきた夏は、今日もどっかりと東京の空に居座り、ビルも駅前のロータリーもアスファルト道も、その道路の上を無方向にうごめく人間たちも、みなちょっと赤っぽい、遅い午後の夏の色一色に染めあげていた。明日からは八月で、梅雨が長かったぶん、今年の夏は悪魔的に暑くなるかもしれない。
俺は明治通りの日陰側を、十分ほど新宿方向に歩き、『ジャム』という貸しスタジオの前まで来て、そこで煙草に火をつけた。この五年間でもう十二回も禁煙を試みているが、そのどれも、一週間とはつづかなかった。原因はもちろん意思力の弱さなのだが、自分の習慣を意思力でねじ伏せることに、美意識が無意識のうちに抵抗している部分もあるのだろう。
地下に通じる『ジャム』の階段は、うらぶれ方もうす汚さも、壁じゅうに貼ってある素人バンドのコンサート案内も、最初に俺がここへ来たときと、まったく変わっていなかった。壁のちらしだけはもしかしたら内容が変わっているのかもしれないが、変わったところで俺には同じことだし、それはいわゆる世間というやつにとっても、やはり同じことだろう。
スタジオの中は、外の熱気のせいか以前よりも蒸し暑く、換気の悪い空気と煙草の臭気《におい》が、響き渡る楽器の音と一緒に不愉快な和音を渦巻かせていた。カウンターにもスタジオのどこにも、髪の薄い男の姿はなく、ステージの上で木戸千枝とそのバンドのメンバーだけが、暗い照明を受けて気怠《けだる》そうな練習をつづけている。
俺はフロアを横切り、カウンターまで歩いて、丸椅子に腰をのせ、上着を脱いで、額と首筋の汗をハンカチでしつこく拭き取りはじめた。若いころより汗の量が多くなったのは、腹につきはじめた脂肪のせいか、それともたんに、ビールの飲みすぎのせいか。
五分ほどで楽器の音がやみ、ステージのほうから、千枝が前のときと同じように頭からタオルを被って、ぶらぶらと歩いてきた。ただ前と違うのは、千枝が俺の顔を見つめる猫のような目に、飼い主に出会ったときのような親しみの色を浮かべていることだった。
「ドラム、入れかえたらしいな」と、タオルで顔の汗を拭きながら、一つ置いたとなりの椅子に腰を下ろした木戸千枝に、俺が言った。
「今日が初練習なの。前の子より勘はいいみたい。でもメンバーの音に馴染むには、もう少し時間がかかりそう」
「コンサートが終わったばかりなのに、大変だな」
「勢いのあるときは走りつづけたほうがいいの。人生って、そういうものじゃない」
「ビールを奢《おご》りたいけど、あの禿げたやつが見当たらない」
「今日はいいわよ。わたしたちもそろそろ切り上げるから。柚木さん、近くに用事でもあったの」
「君の家に寄ったら、お袋さんにここだと言われた」
「わたしの家、知ってたっけ?」
「昨日近くを歩いていて、偶然見つけたんだ。門から玄関まで、赤いカンナがたくさん咲いていた」
ふーんというように口を尖らせ、カウンターに肘をかけて、汗を拭きながら、千枝がなにか言いたそうな目で、遠くから俺の顔を覗き込んだ。
「由実さんを殺した犯人が捕まった。それを君に、教えてやろうと思ってさ」
上着のポケットから煙草と使い捨てのライターを取り出し、わざとゆっくり、俺は火をつけた。
「由実のこと、やっぱり、ただの交通事故じゃなかったの」
「最初から、そう言ったさ。それに一昨日は言わなかったけど、由実さんと君のコンサートに行った及川というやつも殺された。そのことは、知っていたか」
「あの男の子が、殺された?」
「犯人はもちろん同一人物。知ってるだろう? 丸山菊江というおばさん」
木戸千枝が、口の中でなにか言い、顔全体を包み込んでいる量の多い髪を、タオルでばさっと上に掻きあげた。
「当然、知っているよな。丸山菊江のあのばかでかい家は、君の家から五軒しか離れていないもんな」
千枝の顔に、掻きあげたばかりの髪がまとめて落ちてきたが、千枝は肩で息をするだけで、しばらく、カウンターについたしみの模様を、じっと見つめていた。
「犯人は、丸山さんだったの……」
「犯人は、丸山菊江だった。丸山菊江が犯人だということ、君は、いつから知っていたんだ」
「だって、そんなこと、たった今、柚木さんが言ったんじゃない」
「俺は、君が最初に気がついたのは、いつかと訊いたんだ」
「わたし……」
「由実さんがあんな時間に、なぜかんたんに呼び出されたのか、不思議に思っていた。両角啓一という男は知ってるか? たぶん、知ってるだろうな。それで由実さんを呼び出したのが両角であっても丸山菊江であっても、あんな夜中にそいつはどうやって由実さんを呼び出したのか、それが、ずっとわからなかった」
俺はそこで、しばらく千枝の呼吸の音に耳を澄ませてみたが、その乱れが練習でのものなのか、気持ちの動揺でのものなのか、判断はできなかった。
「島村由実は両角の浮気の現場を、偶然に目撃してしまった。及川と彼女が君のコンサートに行った、あの日のことだ。そして由実さんは、そのことを丸山菊江に話してしまった。すべてはそこから始まった。俺が知りたいのは、それを君が、どこまで知っていたのかということだ」
「そんなこと、わたし……」
椅子の上で足を組みかえ、俺のほうに目を細めて、千枝が、しゅっと鼻水をすすった。
「わたし、そんなこと、なにも知らなかった」
「しかしあの日、君が電話で由実さんを呼び出したことは、事実だろう?」
「あれは、丸山さんに頼まれただけ。由実と大事な話をしたいけど、自分が呼び出しても来ないからって」
「それを頼まれたとき、君は、おかしいと思わなかったのか」
「丸山さんは、子供のときから知っている人だもの。コンサートのチケットだって、いつもたくさん買ってくれていた」
「由実さんが死んだあとは、どうした? 君だって丸山菊江が怪しいと思ったはずだ」
「丸山さんは、偶然の事故だと言ったわ。駅前のスナックで待っていたけど、由実は現れなかったって」
「君はそれを、信じたのか」
「丸山さんがそう言うんだもの、そうだと、思ったわよ」
「そうかな。君は丸山菊江と、取り引きをしたんじゃないのか。丸山菊江が島村由実を殺すことを、君は知っていた。君は最初から知っていて、資金援助とプロダクションを動かすことを条件に、電話で由実さんを呼び出した」
「そんなこと、あるはずがないわ。由実は高校のときまで、ずっと親友だったのよ」
「しかし君は、デビューのためならどんなことでもした。君はどんなことをしても、武道館のステージに立ちたかった」
「たしかにわたしは、音楽に賭けてる。遊び半分でやってるんじゃない。でも知っていて親友を殺す手助けなんか、ぜったいにしない。信じなくてもいいけど、電話をしたときには本当になにも知らなかった」
「それでは、そのあとはどうだ。君は本当に丸山菊江を疑わなかったのか。君みたいに頭のいい子が、そんな単純なことに気がつかなかったとは、俺にはどうしても考えられない」
木戸千枝が、肩の中に首を落とし、顔にかぶさった髪を、長い十本の指でゆっくりと上に掻きあげた。
「それは、本当言うと、少しはおかしいと思った。でも新聞にも事故だと出ていたし、由実は返ってこないわけだし、丸山さんにスポンサーになってもらって、わたしがデビューできるなら、それはそれで、いいんじゃないかとは思った」
俺は吸っていた煙草を下に捨て、つづけて新しい煙草をくわえてみたが、火をつける気にならず、吸ってもいない煙草を、指でぱちんと床に弾き飛ばした。ステージの上ではいつの間にか、バンドのメンバーが手持ち無沙汰な様子で、それぞれに勝手なフュージョンのようなものを始めていた。どこかでクーラーは動いているらしいが、聞こえるのは低い咳き込むような音だけで、かんじんの冷房のほうはまったく効いてこない。
「ロックって、そんなに、いいものか」と、しばらくステージのほうを眺めてから、千枝の顔は見ずに、俺が訊いた。
「いいか悪いか、そういうこと、関係ないのよ」と、カウンターに肘をついたまま、俺と一緒にステージの上を見つめながら、千枝が言った。「わたしはもう、賭けちゃっただけ。だからわたしは、死ぬまでずっと賭けつづけて、死ぬまでこのまま走りつづけるの」
「俺も昔、ちょっとだけギターをやったことがある。ベンチャーズって、知ってるか」
「聞いたことは、ある気がする」
「パイプラインという曲がはやってな、みんなそれをやりたがった。ビートルズが人気になる、少し前さ」
カウンターの上から、上着を取り、煙草とハンカチをポケットに突っ込んで、膝に反動をつけながら、声を出して俺は椅子から飛び下りた。
「どっちでもいいけど、君、またスポンサーを探さなくては、な」
ドアのほうに歩きだした俺に、一緒についてきて、横から、木戸千枝が浅く俺の顔を覗き込んだ。
「わたし、なにか、罪になると思う?」
「どうだかな。警察はなにか言ってくるかもしれないが、そんなもの、知らないと言い張ればいいさ」
「腐っちゃうなあ。せっかく、運が向いてきたと思ったのに」
「運ぐらい、君ならいつでも掴める。君が武道館を諦めたら、俺の楽しみが無くなるものな」
「今のそれ、また、ハンフリー・ボガート?」
「今のは、まあ、ポール・ニューマンさ。ポール・ニューマンも最近、だいぶくたびれてきたらしいから」
千枝が立ち止まり、首にかけたタオルの端を両手で引っぱりながら、口を強く結んで、強引にウインクをした。そして千枝はうしろ向きに歩いていき、ステージの前まで行って、俺のほうに、腰の横に構えた手で小さくVサインを作って見せた。
俺はそのまま、ドアを押し、外に出て、階段を上りきったところで、一つ大きく深呼吸をした。千枝が丸山菊江の殺意を知りながら島村由実を呼び出したのか、あるいは本当に知らなかったのか、それはもう千枝一人にしか意味のないことだ。俺の仕事は終わったはずだし、由実に対するサービスも、だいたいこんなものだろう。いくらサービスでも度を越せば、それはやっぱり、大きなお世話なのだ。
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俺がデパートに寄ってシャトー・マルゴーを一本ふんぱつし、部屋に戻ったのは、まだ日の暮れきらない七時前だった。六月の一番昼の長い季節から比べると、いくらか日も短くなった気もするが、それでも明るさの余韻は、思わせぶりに時間をかけて退《ひ》いていく。冬よりも夏のほうがいくらかましに感じるのは、この曖昧な時間の長さが俺の人生観に合っているせいだろう。吉島冴子ではないが、明日からはもう八月で、本当なら今日の正午《ひる》には『女子高校生バラバラ殺人事件』の原稿を雑誌社まで届けなくてはならないはずだった。俺も忘れていたが、石田からの催促の電話も、どういうわけかかかってきてはいない。俺がさばを読んでいるのと同じように、締切日なんて、どうせ相手もさばを読んでいるのだ。原稿は今夜、徹夜をしてなんとか誤魔化せばいい。
俺は買ってきたワインを、アイスピッチャーに放り込み、シャワーを浴びてから、つまみ用にジャガ芋のピザを作り始めた。それはジャガ芋をピザふうに焼くだけの素直なものだったが、俺が作った料理の中で、知子も加奈子もこれにだけは文句を言わなかった。知子が俺の全存在中ただ一つ賛辞を呈したのは、たぶん、ジャガ芋のピザだけだったろう。
俺は、バターを塗った耐熱皿にスライスしたジャガ芋を並べ、玉葱とベーコンとチーズを敷き込んでまたジャガ芋を重ね、その上にもう一度玉葱とベーコンとチーズを敷きつめた。作業中に塩、胡椒、ガーリックと味つけをしていくわけだが、今日は状況を考えて、ガーリックの代わりにナツメッグを使うことにした。俺自身はどっちでも構わないが、冴子と二人でニンニク臭い息を吐き合うというのも、冗談として高級なものではない。
支度のできた皿をオーブンレンジにセットし、久しぶりにテレビのナイターをつけて、缶ビールを一本開けたとき、部屋のチャイムが、ぴんぽんと鳴り渡った。あと十分もすればピザも焼き上がるし、タイミングとしては、ちょうどいい。俺はバスローブのまま歩いていって、ドアを外側に、軽く押し開けた。
そこで俺は、不覚にも、叫び声を上げてしまったが、ドアの前に立っていた夏原祐子まで俺と一緒に叫んだ理由は、俺には、なんとも理解できなかった。
「近くまで来たんで、ついでに、寄ってみました」と、一瞬とぼけたような顔をしてから、背伸びをするように笑って、夏原祐子が言った。「友達とホテルのプールに行ってきたんです」
夏原祐子は膝の前に白いスポーツバッグをぶら下げているから、なるほど、その中にはこの前買った、例のあの、ものすごい水着とやらが入っているのだろう。しかし、いったい、この子はなにを考えて、俺の部屋なんかにやって来たのか。
「ここの場所、よく、わかったな」
「名刺をくれたじゃないですか、最初の日」
「それは、そうだ。それはそうだけど……君、今、なにか叫ばなかったか」
「柚木さんこそ、へんな声を出しましたよ」
「俺は、足が滑って、倒れそうになっただけだ」
「わたしは柚木さんが叫んだんで、お連れで、声を出しただけです」
俺につき合ってくれたのはありがたいが、ドアの前での議論に相応しい相手でもなかったので、なんとなく不安ではあったが、とにかく、俺は夏原祐子を中に入れることにした。なんだかよくわからないが、ついでに寄ってみただけなら、どうせすぐ帰る気になるだろう。
俺が案内したソファに、両手を膝に揃えて座り、不思議そうな顔で部屋の中を眺めまわしている夏原祐子に、俺が訊いた。
「ビールでも、飲んでみるか」
「そうですね。泳いだあとだから、ビールなんていいですね」
俺はテレビを消し、それから台所に行って冷蔵庫からビールを取り出し、グラスを一つ追加して、また夏原祐子の前に戻ってきた。
「一つ、訊いてもいいですか」と、両手を膝に揃えたまま、白いコットンパンツの尻を居心地悪そうに動かして、夏原祐子が言った。「この部屋、柚木さんの仕事部屋か、なにかですか」
「仕事部屋でもあるし、ここで寝泊まりしている」
「自宅っていうのは、どこですか」
「そういうのは、ない」
「それじゃ、奥さんとか、お子さんとかは?」
「二人とも、ちょっと出かけている……三年ほど、帰ってきていないが」
ソファに浅く腰をのせていた夏原祐子の躰が、つっかえ棒が外れたようにうしろに倒れ、ピンク色のソックスが、ひらりと床から浮きあがった。
「そうですよねえ。わたし、ぜったいそうだと思っていた」
「ぜったいそうだなんて、思われたくもないけどな」
「わたし、そういうことの勘、ものすごく当たるんです」
「俺が女房に逃げられたことが、そんなに嬉しいか」
口を開けて笑っていた夏原祐子が、躰を起こし、真面目な顔に戻って、むっつり頬をふくらませた。
「だって、わたしだってね、一応は悩んでいたんです」
「君に悩むことがあるとも、思えないけどな」
「そういうものでもないです。わたしだって気は使います。奥さんが居たら、部屋に入るのはやめようと決めていたんです」
「女房が居ても居なくても、たいした変わりはないさ。俺のほうは、君にはもう、二度と会うまいと決めていた」
夏原祐子が目を見開き、鼻が曲がってしまうほど、口の端に強く気合いを入れた。そしてしばらく、思考の方向がわからない目つきで俺を睨んでから、歯を見せないで、にやっと笑った。
「柚木さん、今のは、少し恰好つけすぎじゃないですか」
「いや、俺は……」
「そこまで言ったら、気取りすぎだと思いますよ」
「べつに、気取ったわけでは、ない」
「最初から思ったけど、柚木さんて、歳のわりに恰好をつけすぎるところがあります」
「そういう問題では、ないと思うけどな」
「真面目な顔で『二度と会うまいと思った』なんて言われたら、わたしの立場がないじゃないですか」
「俺にだって、いろいろ、都合はある」
「誰にだって都合ぐらいあります。でも会うたびに気取られたら、わたしのほうが疲れます」
「君が、そんなに疲れているとは、思わなかった」
「はぐらかさないで、ちゃんと話を聞いて下さい。本当はわたしが来ること、知っていたんでしょう」
その夏原祐子の目が、仕事机の上の、アイスピッチャーに入ったワインの瓶をしっかり見つめていることに気がついて、思わず、俺は咳き込んだ。
「その、あれはまだ冷えてないから、ビールのほうが、いいと思う」
俺は忘れていたビールを、急いで夏原祐子のグラスに注ぎ、前から出ていた自分のグラスにも、もっと急いで注ぎ足した。
「柚木さん、あれからまた、一人でこそこそやりましたよね」と、ビールを三分の一ほど空け、口の前でグラスを構えたまま、上目づかいに、夏原祐子が言った。
「俺は、こそこそなんか、なにもやってないさ」
「隠しても無駄です。わたしだって新聞ぐらい読みます」
「若い子が新聞を読むのは、いいことだ」
「とぼけても駄目です。あのこと、知っていたんでしょう?」
「あの、なにを……」
「由実を殺した犯人が、捕まったこと。新聞の夕刊に、ちゃんと出ていました」
丸山菊江の逮捕は今朝の八時だったというから、夕刊紙なら、間に合ったところもあるかもしれない。
「それで今日は、どういう言い訳をするんですか」
「君に言い訳をする必要は、べつに、ないと思うけどな」
「知っていたことは、認めるんですね」
「一応は、そうだな」
「わたしに連絡をしようとは、思わなかったんですか」
「したほうがいいかもしれないとは、思わなくは、なかった」
「それならなぜ、電話をくれないんですか」
それは、俺にだって中年男なりの複雑な心理はあるわけで、だがどうも、夏原祐子は基本的に俺のおかれている状況を理解していないようだった。
「俺としては、事件の結論に、もう一つ確信が持てなかった」と、ビールを飲み、内心の恐慌を悟られないように、静かに呼吸をしてから、俺が言った。「だからあれから、そのことの確認に歩いていた。確認できたら、もちろん、君には報告するつもりだった」
「本当ですか」
「だいたいは、まあ、本当だ」
「柚木さんて、無理に恰好つけるし、意味もなく秘密主義なところがあります」
「それは君の、考えすぎだと思うな」
「それじゃさっき言った、『二度と会うまいと思った』というのは、あれは、なんですか」
「あれは、だから、事件に関して、君のことが心配だっただけだ」
「事件が終わるまでは二度と会わないという、そういう意味ですか」
「そういう、意味だったと思うな」
「この前アパートに来たときも、そういうことを言いたかったんですか」
「俺はちゃんと、そういうことを言ったつもりだった」
「信じて、いいのかなあ」
「信じていいと思う」
「それじゃそういうことに、しておきます」
「そういうことにしておいたほうが、いいと思う」
「柚木さん?」
「なんだ」
「なにか、いい匂いがするじゃないですか」
「いや……かんたんに、食うものを作っている」
「柚木さんもいい勘をしてますよ」
「そう……か?」
「プールで泳いで、わたし、お腹《なか》がぺこぺこなんです」
もうこうなったら、ピザが夏原祐子の腹に納まることは宿命みたいなもので、そういう宿命に対して俺が、どんな抵抗ができるというのだ。
俺は台所に行って焼き上がったピザを大皿に出し、小皿とフォークも二組ずつ出して、またソファのところに戻ってきた。
「わたし、わかってましたけどね」と、俺がテーブルに置いたピザに、流し目のような目つきで微笑みかけながら、夏原祐子が言った。「柚木さんみたいなタイプ、見かけによらず料理は上手なんです」
「言われたことは、なかったな」
「それは柚木さんが、気取っているからです」
「反論するわけじゃないが、俺は君が言うほど、気取っても恰好をつけてもいない」
「でも自分の気持ちを、素直に言わないじゃないですか。自分の性格に自分で疲れること、あるでしょう?」
「それは、なくもないような、気がしないこともない」
「それより柚木さん、あのワイン、いつから冷やしてるんです?」
「七時、ちょっと、前だ」
「それならちょうどいいですよ。シャトー・マルゴーって、冷やしすぎないほうがいいですからね」
俺もべつに、自棄《やけ》を起こしたわけではないが、こうなったらもう、運命にはどこまでもつき合うべきなのだろう。シャトー・マルゴーだろうがなんだろうが、ワインぐらいあとで、近所の酒屋に行って買い直してくればいいのだ。台所からワイングラスとワイン抜きを持って戻ってきたときには、俺の気持ちの中から、もうほとんど罪の意識は消えかかっていた。
「八五年ものまで奢るなんて、意外に贅沢なんですね」
俺が注いでやったワインを、まったく呑気そうな顔ですすってから、夏原祐子が、日に焼けた鼻の頭を小さく動かした。
「由実さんを殺した犯人が捕まった、お祝いみたいなもんさ」
「だけど犯人の丸山菊江という人、どういう人ですか。ぜんぜん知らない人だった」
「例のイベントホールに反対している団体の、責任者だった女さ」
「その女の人が、どうして由実や及川くんを殺したんだろう」
「新聞には、どういうふうに出ていた」
「愛情関係のトラブルが原因での犯行だって、そう書いてありました。由実がその人とトラブルを起こしていたなんて、信じられませんよ」
「新聞に載ると、そういうことになるんだ。週刊誌では、あとで詳しく書くところが出てくるかもしれない」
「柚木さんが、書くんですか」
「俺は書かない。君に約束したし、頼まれても俺自身、書く気にはならない」
書く気にはならないが、殺された島村由実の親友としての夏原祐子に、事件の概略を説明してやるぐらいの義理は、俺にもある。
「香絵さんが高校のときに通っていた塾の教師で、両角啓一という名前、覚えてるか」と、ワインのグラスをテーブルに置いて、俺が訊いた。
ジャガ芋のピザを頬ばった口を、もぐもぐやりながら、背筋を伸ばして、夏原祐子がうなずいた。
「詳しく言っても仕方はないけど、香絵さんと両角は、以前から深い関係にあったんだ。両角は丸山菊江の援助で、個人塾の教師から地元の名士にまで出世していた。かんたんに言うと、事件の発端は両角の浮気現場を由実さんが目撃したことだった。及川くんと由実さんがクルマの接触事故を起こした相手が、その両角だった。由実さんにも事情はあったろうが、自分の姉と両角の関係は知っていたし、両角は自然保護団体の会長でもあったし、由実さんとしては、そういう両角の行状が許せなかった。だから由実さんは、その自然保護団体を通じて両角を糾弾しようとした。でもそれを最初に話した相手は、両角ではなく丸山菊江だった。由実さんは両角と丸山菊江の関係は、知らなかったらしい。丸山菊江も両角の浮気に腹ぐらいは立てたろうが、それよりも今は両角を区長に仕立てようとしている時期で、スキャンダルで両角や自分の立場が失われることのほうが、ずっと怖かった。あるいは丸山菊江は、香絵さんと両角の関係をうすうすは知っていたかもしれない。そうだとすれば、その妹である由実さんを、よけいに生かしておく気にはならなかった。丸山菊江の香絵さんに対する憎しみが、由実さんに対する憎しみを一層大きくした。今度の事件の人間関係は、基本的には、そんなところだと思う」
よっぽど腹が空いていたのか、ピザを頬ばったままうんうんとうなずき、それからやっとワインに口をつけて、夏原祐子が、肩で息をついた。
「そうすると、及川くんは、どういうことですか。及川くんも両角という人が、許せなかったのかなあ」
「俺には及川くんが、そんな殊勝《しゅしょう》なやつだったとは、思えないけどな」
「わたしもまあ、そうですね」
「俺の話を聞いて、及川くんは両角に小遣いをせびりに行っただけさ。両角には断られたけど、運悪く丸山菊江に捕まってしまった。一度思い込むと、男より、だいたいは女のほうが怖いもんだ」
「そういう、もんですかねえ」
「そういうもんだと、思うな」
「そうなんですよね。女の人って、思い込むと、怖いんですよねえ」
なぜかはわからなかったが、そこで夏原祐子は、深くうなずき、腕を組んで、奇妙な気合いを入れながら鼻の穴をふくらませた。俺にしてみればそういう夏原祐子のほうがずっと怖いわけで、空になっていたそのグラスに、慌ててワインを注ぎ足した。
「由実も、一言ぐらい、わたしに言えばよかったのになあ」と深い感慨に陥っているわりには、忘れずにグラスを取り上げて、夏原祐子が言った。「わたしって、そんなに頼りなかったのかな。由実も由実の姉さんも、可哀そうな気がする。人間て、やっぱり、みんな大変なんですよねえ」
「だいたいは、そうなんだろうな」
「だいたいは、そういうものなんですよねえ」
「君もやっぱり、なにか、大変なのか」
「わたしだって、いろいろ、ありますよ。わたしなんか細かいことに、ぐずぐず悩む性格ですから」
「朝起きて、すぐにコンタクトが入らないとかな」
「なんですか」
「いや、こっちの話だ」
せっかく社会心理学を勉強しているのに、自分の性格分析については、夏原祐子の勉強も役には立っていないらしい。それとも瓶のワインがもう半分以上なくなっているから、あるいは、そっちのせいか。
「事件も解決したし、お天気も夏らしくなったのに……」と、グラスを空け、俺が新しく注いでやったワインのほうに、大きくうなずいてから、夏原祐子が言った。「わたし、気持ちが、なんとなくはっきりしないんですよね」
「そういうふうには、見えないけどな」
「いろいろあるわけですよ。女の子が一人で東京に生きてると、やっぱり、いろいろあるんです」
「いろいろ、まあ、あるんだろうな」
「特にこんなことがあると、人生ってなんだろうかとか、女としてどういう生き方をするべきかとか、そういうことも、考えるわけです」
「悩まないほうが、いいんじゃないか」
「わかっては、いるんです。わかってはいるけど、つい考えてしまうものなんです」
そこで夏原祐子は、またワインを半分ほど空け、グラスをテーブルに戻して、腕を組みながら、俺の膝のあたりに長く息を吐きかけた。
「やっぱり、おいしいなあ」
「ん?」
「このワイン、さすがですよねえ」
「そりゃまあ、そうだ」
「ジャガ芋のバター炒めも、なかなかの味じゃないですか」
かなり警戒はしているはずだったが、この子がいつ、どこで人生を立ち直らせるのか、どうも、俺にはまだ呼吸が理解できていないらしい。それにしてもこのジャガ芋のピザが、どうして祐子にはバター炒めにしか見えないのだろう。
「柚木さんの仕事って、夏休み、あるんですか」と、俺の混乱を無視して、そのなんとも不思議な目を大きく見開きながら、夏原祐子が言った。
「あるような、ないような、そんな感じだな」
「どこか南の島に行って、一週間ぐらいぼーっとできたら、いいですよねえ。いやなこと、みんな忘れると思いますよ」
そこまでして忘れなくてはならないほどいやなことが、夏原祐子にあるとも思えなかったが、そのへんはやっぱり、なにか、いろいろはあるんだろう。しかしそのことと俺の夏休みと、どういう関係があるのだ。
「友達のお兄さんで、旅行会社をやってる人がいます。その人に頼めば、今からでも間に合うと思います」
「いろんな友達がいて、幸せじゃないか」
「ハワイとかグァムとか、ああいうところじゃなくてね、今は東南アジアがトレンドです」
「オーストラリアが今冬だということは、知ってる」
「柚木さんは、いく日ぐらい休めますか」
「俺? 俺は……」
夏原祐子が、いつの間にかまたグラスを空にしていて、なにやら不気味に微笑みながら、空になったグラスを、そっと俺の前に差し出した。
だいぶ精神に破綻はきたしていたが、それでも精一杯気をしずめて、俺はそのグラスにワインを注ぎ足した。
「セブとかペナンとか、タイのプーケット島とか、あのあたり、いいと思いますよ」
「いいことは、いいだろうな」
「行くとしたら、お盆のころですか」
「俺は、そういう予定は、ない」
「わたしなら大丈夫です。アルバイトしたから、お金はあります」
「それは、よかった」
「柚木さん、お金、ないですか」
「俺は……なあ? 一つ、訊いてもいいか」
またワインを口に含んで、こっくんと、夏原祐子がうなずいた。
「君は、酔っ払って、大人をからかう癖があるか」
「友達には、言われたこと、ないです」
「自分で、社会心理学的に分析しては、どうだ」
「わたしはもともと、人をからかったり冗談を言ったり、そういう性格では、ないです」
ワインを飲み干し、ついでにグラスに残っていたビールも飲み干して、俺が言った。
「君の言い方は、なんとなく、俺を旅行に誘っているように聞こえる」
「なんとなく、ですか」
「なんとなく、さ」
「わたしはちゃんと、一緒に南の島に行って、一週間ぐらいぼーっとしたいなって、そう言いましたよ」
「そう、言ったか」
「聞いていませんでした?」
聞いていなかったはずはないし、祐子が言った言葉の意味も大筋では理解していたが、俺が訊いたのは、それが冗談か本心か、ということなのだ。たしかに目の周りは、かなり赤くはなっているが、祐子の言葉にも表情にも、どうも冗談らしい雰囲気は感じられない。しかし本当に冗談でないとしたら、これは大変なことなわけで、それはもう『いやなことをぜんぶ忘れられる』どころの話ではない。不覚にも俺は、ペナンだかプーケットだかの光り輝く海辺で、祐子と一緒にぼーっと寝そべっている自分の姿を、頭の中にきっぱりと思い描いてしまった。しかもとなりで横になっている祐子の水着は、例の、あの、ものすごいやつときている。
そのときだ。部屋のチャイムが、呑気そうな音で、ぴんぽんと鳴り渡った。一瞬俺の頭に静電気が走り、そして次の瞬間には、たぶん、俺はソファの上に、十センチほど飛び上がっていた。すっかり忘れていたが、こっちが忘れていようといまいと、来るものはちゃんとやって来る。
「誰か、来たみたいですねえ」
言われなくても誰かが来たことぐらい、俺にだって、わかっている。そしてその誰かが誰であるかということだって、俺には、ちゃんとわかっているのだ。
「今、チャイムが鳴りましたよ」
「そう……だったか」
「わたしが出ましょうか」
「いや……」
「柚木さん?」
「なんだ」
「もしかして、借金取りとか、そういうのですか」
「借金取りとか、そういうのでは、ないと思う」
祐子が、とぼけたような顔で目を見開き、首をかしげて、俺のほうににっこりと微笑んだ。この状況を吉島冴子に、いったい俺は、どうやって説明したらいいのだ。
二度めのチャイムが、またぴんぽんと鳴って、もう完全に仕方なく、俺はえいっと立ち上がった。そして立ち上がってはみたものの、脚のほうは、やはり、すぐにはドアのほうに歩きだしてくれなかった。
俺は、誓って言うが、夏原祐子の『ぼーっと』に同意したわけではないのだ。ものすごい水着姿だって、ただちょっとだけ、倫理観とは無関係に頭の中を通りすぎて行っただけなのだ。俺がいったい、どんな悪いことをしたというのか。居留守を使おうにも、部屋の明かりは台所の窓から洩れているし、冴子は部屋の合い鍵だって持っている。生き別れになっていた実の妹が二十年ぶりに訪ねてきたと言ったら、俺の言葉は、どれぐらい信憑性をもって聞こえるだろうか。
ぴんぽーんと、さすがに苛立たしそうな音で、三度めのチャイムが鳴り渡った。
向かいのソファでは、へんに色っぽく脚を組んだ夏原祐子が、ワインのグラスを持ったまま、相変わらずその不思議な目で俺に微笑みかけている。
今年初めての蝉が、俺の耳の奥で、じーんと鳴きはじめたようだった。
[#改ページ]
単行本 一九九〇年四月 講談社刊
底本
講談社文庫
一九九三年六月刊
電子文庫パブリ版
二〇〇一年六月八日発行