夏の口紅
樋口有介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)滲《にじ》んだ汗が
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一口|呷《あお》り、
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裸の胸に滲《にじ》んだ汗が空気の中に冷たく乾いていく。香織《かおり》の長い髪の毛が一本、頼りなくぼくの皮膚から剥《は》がれ落ちる。低いクーラーの震えと香織の呼吸が聞こえるだけで、世田谷《せたがや》通りから脇道《わきみち》に入った部屋まではおもての喧騒《けんそう》も伝わらない。窓の外は暗く、悪戯《いたずら》に吹かしている煙草の煙だけがスタンドランプの中を壁に流れていく。マンションの下を通るクルマの音もクーラーの音に紛れて、虫の声程度にしか間こえていなかった。
ベッドの香織は、顔を壁のほうへ向けて、白い背中で相変わらず深い呼吸をつづけている。左の腕が枕《まくら》を抱え、乱れた髪が少し汗っぽく腕を覆っている。腰のタオルケットはベッドを出るときに掛けてやったもので、ぼくは床に座ってもう三十分も裸の香織を眺めている。気怠《けだる》くて、不安定で、それでいて一年たった今でも香織は会うたびにぼくを緊張させる。
ぼくは煙草をガラスの灰皿でつぶし、床に散らばったコンドームとテシューを始末して、音をたてないようにバスルームへ歩いていく。ユニット式のバスタブは脚が伸ばせるぐらい広くできていて、洗面台には薬草の石鹸《せっけん》や水歯磨やクレンジングクリームが乱雑に散らばっている。歯ブラシもコップの中に五、六本突っ込まれているが、香織はそれを、すべて自分で使うのだと言う。
シャワーで汗を洗い落とし、腰にバスタオルを巻いただけで、ぼくはベッドの前へ戻る。ビデオデッキのデジタル時計は十一時になっていて、眠るにしても帰るにしても中途半端な時間だった。
ベッドの上で白い影がゆれ、ため息と一緒に、目を閉じたままの香織が顔を巡らせる。
「今、なん時?」と、タオルケットを胸の上に引きあげながら、頬《ほお》を枕に押しつけて、香織が訊く。
「十一時」と、ぼくが答える。
香織が小さく欠伸《あくび》をし、頬の髪を掻《か》きあげて口笛を鳴らす。
「シャワー、浴びたの」
「うん」
「わたし、眠ってしまった?」
「うん」
「礼司《れいじ》くん」
「うん?」
「ビールを持ってきて」
ぼくは頷《うなず》いて冷蔵庫へ歩き、缶ビールを二本取り出して、栓を抜きながら香織の前へ戻る。
「どれぐらい寝たのかしら」
「三十分」
「あなたはなにしていたの」
「君を見ていた」
「どうして」
「習慣さ。いつも君は眠って、それでいつも、ぼくは羨《うらや》ましいと思いながら君を見ている」
ぼくの手から缶ビールを受け取り、躰《からだ》を起こして、香織があっけなくビールを喉《のど》に流し込む。五歳《いつつ》とし上で、香織はビールにも男の汗にも馴《な》れている。
「わたし、自分が裸で寝ているところを礼司くんに見られるの、嫌いじゃないわ」
「返事の仕方が分からないな」
「返事なんかしなくていいの、思ったことを言っただけ」
ぼくはビールを一口|呷《あお》り、うしろへ下がって、香織の剥《む》き出しの肩を眺めながら黒い回転|椅子《いす》に腰をおろす。スタンドランプは机のまん中を照らしていて、そこには画《か》きかけの、髪を短くした少女の線画が浮きあがっている。香織自身は皮膚の薄い整った顔立ちだが、イラストの少女は丸顔の漫画的な表情をしている。子供のころの香織がそういう女の子だったとも思えないから、イラストのイメージは香織のないものねだり[#「ないものねだり」に傍点]なのだろう。
「礼司くん、試験はいつまでだっけ」と、ビールの缶を床に置いて、肘《ひじ》でベッドの上に躰《からだ》を起こしながら、香織が言う。
「明後日《あさって》。アフリカ近代史の試験で最後」
「来週海に行かない? わたしも二日ぐらいなら泊まれるわ」
「海って、どこの」
「どこでもいいの。少し光を浴びて、乾いた空気を吸ってみたい」
「沖縄は無理かな」
「千葉でいいわ。八月にはわたし、フィジーに行くから」
香織がベッドから脚をおろし、タオルケットをはねのけてバスルームへ歩いていく。膝《ひざ》から下が感心するほど長く、歩き方も爪先《つまさき》から先に出るように訓練されている。昼間の街では、男たちが横目で香織のうしろ姿を追ってきて、ぼくでさえわざと距離をおいて二、三分その脚に見とれることがある。香織が八月にフィジーに行くことは、だから脚に見とれている間に、ぼくがどこかで聞きのがしたのだろう。
香織が使うシャワーの音を聞きながら、ぼくは床に散らばったトランクスとジーパンとポロシャツを着け、部屋の窓を開けて、十畳ほどのワンルームに生暖かい空気を流し込む。香織は鳥肌が立つほどクーラーを強くするが、ぼくには真夏でも自然な空気が心地いい。
ぼくはそれから、また香織の仕事椅子に腰をおろし、スタンドランプに浮きあがっている線画の少女に声を出して訊《き》いてみる。
「なあ、フィジーって、どこだっけ」
イラストの少女が返事をするはずはなかったが、香織とは逆に、机の上の少女はぼくの質問にもうっかり答えてしまいそうな、とぼけた表情をしている。フィジーがどこにあるのか分かっていないのと同じくらい、浮田《うきた》香織がなにを考えてぼくとつき合っているのか、一年たった今でも分からない。三口もつづけて電話をかけてくることもあるし、一か月に一度も連絡を寄越さないこともある。会えなかった理由を、訊けば答えるが、香織から言い訳をすることはない。ぼくもそれでいいと思っている部分はあって、お互いの生活に必要以上の詮索《せんさく》をしないことが二人の間では暗黙のルールになっている。
「礼司くん、今、なにか言った?」と、シャワーからストライプのパジャマで戻ってきて、床に胡座《あぐら》で座りながら、香織が言った。
「彼女に訊いただけ」と、ぼくが答えた。
「彼女って?」
「机の上で口を尖《とが》らせている、この目の大きい女の子」
香織が唇だけで笑い、頬《ほお》の髪を指で掻《か》きあげながら、首をかしげてぼくの顔をのぞき込む。
「それで、なにを訊いたの」
「フィジーって、どこにあるのかってさ」
「わたしに訊けば教えてあげるのに」
「君には訊きたくないんだ」
「どうして」
「どうしてかな。ただの、見栄みたいなやつかな」
香織にフィジーの場所を訊けば、いつ、誰と、と訊きたくなるのは分かっている。自分の気持ちが勤くことも、我慢をすることも好きではない。それを訊くこと自体が、ぼくらの関係ではルール違反になる。
「フィジーはね、サモアとトンガとニューカレドニアの、ちょうどまん中にあるの。オーストラリアの東のほう」
「君には訊いてないよ」
「礼司くん、歳のわりには強情だものね。さっきのトマシュにそっくり」
「さっきの、トマシュって」
「さっき観たビデオのこと。トマシュって男、一見ナンパのくせにへんに強情だったじゃない」
香織が言っているのはぼくらが二時間ほど前に観た『存在の耐えられない軽さ』という映画のことで、そういえば香織はビデオを見ながら、主人公のトマシュに皮肉っぽい鼻の鳴らし方をしていたものだ。映画の内容はソ運軍のチェコ侵攻を背景にした一人の男と二人の女の三角関係だったが、ただの三角関係映画という言い方で片づける勇気は、少なくとも、ぼくにはなかった。
「あの映画、辛かったな」
「男がばかだったからね」
「男なんて、誰だってばかだけどさ」
「そういう意味じゃないの。トマシュの価値観が古かったと思うの。サビーナのほうが魅力的だったじゃない。わたしにはどうしてトマシュがカメラマンの女を選んだのか、理解できないわ」
主人公のトマシュは医者で、自由な恋愛観を持つサビーナという画家の恋人がいる。ある日トマシュは田舎でカメラマン志望のテレーザに出会い、恋に落ちて結婚する。それでもトマシュの軽い恋愛観は変わらず、サビーナが許していたトマシュの軽さをテレーザは許さない。ソ連軍のプラハ侵攻を挟んでトマシュとテレーザは別れたり仲を戻したりをくり返し、そして最後には二人とも、チェコの田舎で交通事故を起こして死んでしまう。
そのトマシュが、なぜ画家のサビーナではなく古風な価値観で男を縛ろうとするテレーザを選んだのか、それが香織には理解できないというのだ。香織自身は奔放に生きるサビーナに魅力を感じたということで、そのサビーナを遊ばなかったトマシュは、つまり、男としてばかであるらしい。ぼくのほうはトマシュに軽さを感じなかったし、ぼくがトマシュだったとしても、やはりサビーナではなくテレーザを選んでいた。テレーザの役をやった女優がぼくの好みに合っていたという、それだけの理由ではあるが。
香織が立ちあがって、部屋の電気をつけ、窓を閉めてから、ぼくの肩に手をかけて机のイラストをのぞき込んだ。
「可愛《かわい》い子でしょう。小説雑誌の挿絵なの。誰かがわたしに妹をくれると言ったら、わたし、こういう子が欲しいわ」
「この子の顔、前にも一度見たことがあるな」
「青山|辰巳《たつみ》という作家、知ってる?」
「聞いたことはある」
「青山先生がわたしの絵を気にいってくれて、雑誌に短編を書くときは指名してくれるの」
香織は四年制の美術大学を卒業して、一年間アシスタントをやり、独立してから三年になる。たまにカタログ雑誌でイラストを見かけるから、プロとしての仕事はしているらしい。この部屋だって十万以下の家賃ではないはずだし、家具でも遊び場でも、香織は自分のスタイルを崩さない。本人はいつも「小遣いが足らなくて親から仕送りをしてもらう」と言っているが、実家は京都のつくり酒屋だという。
「わたし、これから仕事をするけど、礼司くん、泊まっていく?」と、腰で机に寄りかかりながら、ぼくの髪に長い指を差し込んで、香織が言った。「別なビデオでも借りてきて、観ていたら?」
「仕事の邪魔はしないさ」
「礼司くんが部屋にいるぐらい、邪魔になんかならないわ」
「邪魔にならないのも淋しいんだ」
「我が儘《まま》を言ってはいけないの、大人には大人の都合があるの」
香織がぼくの顎《あご》を指の先で撫《な》で、切れ長の目を見開いて、肩で小さくため息をつく。
「家に帰って試験勉強でもやるよ」
「来週は海でゆっくりできるわ」
「千葉で、いいのか」
「館山《たてやま》にいいホテルがあるの。わたしが予約しておく」
「ぼくは来週までクルマでも磨いているさ」
立ちあがったぼくの頬《ほお》に、香織が背伸びをしてキスをし、ぼくも香織の肩に腕を回して、化粧水の匂《にお》いがする唇に軽くキスをした。
「礼司くん」と、ドアに歩きかけたぼくに、髪を掻《か》きあげて、香織が言った。「わたしが誰とフィジーに行くか、聞きたくないの」
「訊きたいけど、知りたくはないな」
「強情なのよねえ。強情なのか冷たいのか、よく分からないけど」
「さっきのビデオ、返しておこうか」
香織が口の中で返事をし、床に屈み込んで、ビデオのケースをぼくの足元に滑らせる。
「だけどやっぱり、トマシュってばかだと思わない?」
「さっきも言ったさ」
「男はみんな、ばかだって?」
「苦しいけど仕方ないさ」
「ハードボィルドをやりすぎじゃない?」
「君とつき合うには覚悟が要るんだ」
「強情よねえ」
「君だって強情さ」
「わたしは一人で、誰にも頼らないで仕事をして生きたいだけ」
椅子《いす》に腰をおろし、パジャマの脚を横に投げ出して、机の上の煙草に手を伸ばしながら、香織がぼくのほうに首を伸ばす。
「礼司くんは、結局どっちがよかったの」
「画家と、写真家?」
香織が頷《うなず》き、その顔を見ながら、頭の中だけで、仕方なくぼくは深呼吸をする。
「君が画家のサビーナに魅力を感じないタイプなら、最初からつき合わなかった……そういうことだろうな」
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校舎から正門へつづくコンクリートの歩道に、埃《ほこり》っぽい欅《けやき》の並木がやる気のない影をつくっている。そこらじゅうで蝉《せみ》が鳴いていて、湿度の高い七月の陽射《ひざ》しを飴色《あめいろ》に粘らせる。一週間前にやってきた夏は前期の試験を終わらせ、九月までだらだらと退屈な夏休みを提供してくれる。
ぼくの専攻は歴史だったが、それは歴史の中に人間の真理を見つけようとか、将来学校の教師になろうとかの野望を持ったからではない。ほんの少しだけ時間を貰《もら》って、街を歩く自分の足音に自分で耳を澄ませてみたかっただけのことだ。人生の目的なんて、あるかも知れないし、ないかも知れない。人生に目的のない人間は生きてはいけないと言われても、今のぼくは途方に暮れてしまう。途方に暮れているうちに人生が終わってしまったら、それは、そのときのことだ。
ぼくが渋谷《しぶや》経由で自由が丘の家に帰ってみると、家にはお袋がいて、食堂のテーブルを白い霞草《かすみそう》でクリスマスツリーのように飾りつけていた。職業は一応ケーキ研究家ということになっていたが、客観的にいってそれは近所のおばさんが道楽でケーキを焼いている、という以上のものでは決してなかった。親父が家を出ていってからのお袋が、ぼくの世話とケーキだけを焼きつづけてこられたのは、死んだ祖父《じい》さんが悪徳不動産屋だったからで、お袋は祖父さんが自由が丘の駅前に残していったビルの五階で週に二度手作りケーキの講習会を開いている。そしてそれ以外の日も、出張教授やらパーティー指導やらで出歩いているから、昼間家でお袋と顔を合わせることはぼくにとってかなり違和感のある環境だった。
「母さん、パーティーでもやるの」と、立ち尽くしたまま、霞草のデコレーションにほとんど放心しながら、ぼくが言った。
お袋がテーブルを半分まで回ってきて、肩をすくめながら、顎《あご》の先を小さく横に振ってみせた。
「礼司くん、汗でびっしょりじゃない」
「夏だし、緊張してるんだ」
「シャワーを浴びて着がえていらっしゃいな」
「今朝はパーティーをやるなんて、言ってなかった」
「誰がパーティーをするの」
「知らないけど、花とか、服とか、まるで学芸会の結婚式みたいだ」
最初に食堂へ入ってきたときから雰囲気が奇妙だったのは、霞草よりも、お袋の服装に原因があったのだ。白いウエディングドレスみたいなワンピースは、うっかり四十七歳まで生きてしまったシンデレラのようだった。
「ちょっとしたお祝いができたの。いいから着がえていらっしゃいよ」
「誰か来るの」
「誰も来ないわよ」
「誰も来ないのに、なんでそんな恰好《かっこう》してるのさ」
「だからね、ちょっとしたお祝いなの」
「ちょっとって、どんな」
「わたしの心理的な問題よ。礼司くんはつき合ってくれるだけでいいの」
親子の義理があるし、お袋のちょっとした[#「ちょっとした」に傍点]心理的な問題につき合ってやってもいいが、やはりぼくはいやな予感がした。駅前の貸しビルにヤクザが入ってナイトクラブを開こうとしたときも一騒動あって、あのときもぼくはいやな予感がしたものだ。
「試験が終わって、今、面倒なことは考えたくないんだ」
「面倒なんかどこにもないわよ」
「本当かな」
「本当よ、約束する。礼司くんはシャワーを浴びて、シャツを着がえて、それでちょっとお祝いにつき合ってくれればいいの」
お袋の言葉は信じられず、だからって親子の関係もやめられない。仕方なくぼくは食堂を出て風呂場《ふろば》へ歩いていった。お袋が面倒を持ち込んでも親子心中するわけでもなし、今までもそうだったように、すべてはなるようになる。ヤクザ騒動のときも近所の都議会議員に頼み込んだだけで、通常の家庭生活が取り戻せたのだ。
ぼくがシャワーで汗を流し、自分の部屋で着がえをして食堂へ戻ってみると、お袋はもうテーブルについて、奇麗に並べた皿と白ワインの瓶を前に、神妙な顔でドボルザークの『新世界』に聞き入っていた。食堂にまでCDプレーヤーを持ち込んで、なにを祝おうというのだ。
「どうせなら、ビールのほうがいいな」と、半分警戒しながら、お袋の向かいに座って、ぼくが言った。
「あかかぶのケーキを焼いてみたの」
「なんのケーキ?」
「赤カブ、知ってるでしょう? よくお漬物なんかでいただくじゃない」
「そんなケーキ、なんで焼いたのさ」
「ケーキにできそうなものはみんなやってしまったもの。立場上マンネリは許されないのよ」
「午後の二時に赤カブのケーキを食べながらワインを飲むの、躰《からだ》によくないと思うけどな」
「昼食《おひる》、食べてきたの」
「ねえ母さん、そういう問題じゃないんだよ」
どういう問題なのか、本当はぼくにも分からない。こんな時間に赤カブのケーキを食べながら母子《おやこ》でワインを飲む状況が、倫理的に妥当かどうかも分からない。テーブルには霞草が飾られていて、お袋はシンデレラでBGMはドボルザークなのだ。赤カブのケーキに責任はないにしても、家庭環境としては、かなり問題がある。
お袋が二つのグラスにワインを注《つ》ぎ、ケーキを切り分けて、それを気取った手つきでぼくの前に押して寄越した。ぼくらは一緒にグラスを取りあげ、乾杯の代わりに「うむ」と一つずつ頷《うなず》き合った。
「それで礼司くん、試験はできたの」と、グラスの縁からぼくの顔を覗《のぞ》いて、首をかしげながら、お袋が言った。
「普通だと思う」と、ぼくが答えた。
「落第なんかしたら悲しいわよね。お嫁さんだって来てくれないわ」
「深刻に考えることはないさ。ただの定期試験だよ」
「でも礼司くん、いろんなことに諦《あきら》めがいいじゃない? 母親としたらそういうところは心配だわよ」
「ぼくにはこのケーキのほうが、ずっと心配だ」
お袋にはスーパーマーケットで売っているものなら何でもケーキに焼いてみる癖があって、そのうえ最初の試作品はぼくに食べさせなくてはいけないと、かたくなに信じ込んでいた。息子に毒見をさせようという意図ではなく、母親としての愛情表現のつもりなのだ。
「カブと生クリームの色合い、なかなかのアイデアでしょう」
「苺のタルトみたいだな」
「苺よりカブのほうがお安いのよ」
「最近はあのケーキ、焼かないの」
「あのケーキって」
「ピーマンのケーキさ」
「あれは渋味を抜くのが難しいの。それにね、お教室の生徒さんにも評判がよくなかったの」
「ぼくはあの苦味と甘味のコントラスト、けっこう好きだったな」
本当はこのままケーキ談義だけで状況を回避したかったが、ただ喋《しゃべ》っているだけでは赤カブのケーキに失礼になる。ぼくは意を決して皿を引き寄せ、フォークを突き立てて、半分ほどを気前よく口に放り込んでやった。
「お味、どう?」
「まあまあかな」
「カブは最初に水飴《みずあめ》で煮てあるの」
「歯ごたえがエキゾチックだ」
「今度のケーキコンクールに、出せると思う?」
「出せるさ、出すだけなら」
口の中の赤カブケーキは、スポンジの部分に繊維質の抵抗があって、公平に言っても不思議な歯ごたえだった。救われるのは、水飴で煮てあるせいかカブの味がまるでしないことで、しかしもちろん、ケーキに素材の風味を生かすか生かさないかはお袋の思想の問題だった。
「母さん、そろそろ、本題に入らないか」と、ワインと一緒にケーキを飲みくだして、ぼくが言った。
「そうよねえ」
自分でもグラスのワインを飲み干し、お袋が軽くテーブルに身をのり出した。
「あのね、増井さんが死んだの」
「それが、お祝い?」
「一種のレトリックよ。大学生ならそれぐらい分かるでしょう」
「増井さんて誰さ」
「覚えていないの?」
「人の名前を覚えるの、苦手なんだ」
「薄情な子よねえ。礼司くんのお父様じゃないの」
ぼくはそのとき、ちょうどワインのグラスをテーブルに戻したところだったが、腰の力が抜けて、椅子《いす》の中で尻《しり》を滑らせてしまった。
「真面目《まじめ》な話で?」
「冗談ではわたし、霞草なんか買ってこないわよ」
そういえば親父という人は、養子だったはずで、お袋と結婚する前の名前が増井だったことは覚えている気はする。親父が家を出ていってからその名前が抹殺されたのは、祖父《じい》さんが自分の娘に亭主がいた歴史を認めなかったからだ。祖父さんの信念では、お袋は伝染病かなにかでぼくを産んだらしかった。
「父さんが死んだこと、誰に聞いたのさ」と、椅子に座り直して、ぼくが言った。
「今朝礼司くんが学校へ行ったあと、電話があったの」
「父さんから?」
「まさか。なんとかいう……高森さんとかいう女の人から。それでね、あの人が死んだから、わたしに来いって」
「どこへ」
「高森さんの家」
「通夜とか、葬式とか?」
「そういうのは済んだらしいの。昨日《きのう》が初七日でしたって」
ぼくはまた座り直して、ワインの瓶に手を伸ばし、グラスに注《つ》いでそれを口に放り込んだ。
「父さんは、なんで死んだのさ」
「聞いたような気はするけど、よく覚えていないの。突然あんなこと言われて、わたし、慌ててしまったのよ。癌《がん》とか盲腸とか、普通の病気だったと思うけど、わたしになにか用事があるらしいの。怖いわよねえ」
人問が死ぬという事実は、それだけでたしかに恐怖ではある。しかし、お袋が怖がっているのは、たぶんそういうことではない。
「高森さんという人、親父とはどういう関係なのさ」
「それも聞いたけど、忘れてしまったわ。とにかく声が怖い人でね、あの人が死んだのはわたしのせいみたいに言うの。急にそんなこと言われても、困ってしまうわ」
「父さんが死んだのは、母さんのせいだって言ったわけ」
「そうは言わなかった。でも声がね、なんとなくそういう雰囲気だったの」
「それで、用事があるって?」
「遺言があるとか、なにか渡す物があるとか、そんなこと言っていた。礼司くん、どう思う?」
どう思うかと訊《き》かれたって、ぼくには親父の顔さえ思い出せないし、意見を言う立ち場でもない。
「向こうが来いと言うんだから、行く義理はあるんじゃないかな」
「そうなのよね。わたしも一応義理はあると思うの。礼司くん、いつがいい?」
「いつって」
「高森さんのお宅へうかがう日」
「母さんの都合のいい日でいいさ」
「わたしは、だって、そういうのは困るわよ……ねえ?」
途中からやばい[#「やばい」に傍点]気配は感じていたが、お袋の「ねえ?」という目つきで、ぼくの心配は確定的になった。いくらお袋が面倒を持ち込むのに馴《な》れていても、今回のこれは、限度を越えている。
「ねえ母さん」と、今度はゆっくりワインを注ぎ、ひとくち口に含んで、ぼくが言った。「これは母さんの問題だよ。母さんがこういうことが苦手なのは分かるけど、仕方ないときは仕方ないよ」
「仕方ないって、なにが」
「遺言があってなにか渡す物があると言われれば、元夫婦の義理で受け取りに行くしかないだろう」
「わたしはあの人と別れてから、十五年もたつのよ」
「ぼくだって同じさ」
「でも礼司くんにはお父様じゃない」
「母さんにとっては、なにさ」
「わたしにとっては、元もと他人だった人がまた他人に戻ったというだけの人よ」
「勝手すぎるよな」
「そういうものなのよ。男と女ってそういうふうにできているの。夫婦でも別れてしまえば他人なの。でも礼司くんはあの人の子供なんだし、義理の大きさは、わたしより礼司くんのほうが大きいと思うの」
「そんなものかな」
「そんなものよ、そう思わない?」
「思わなくは、ないけどさ」
「そうでしょう? ちゃんと理屈は通っているでしょう?」
ちゃんと理屈が通っているのはお袋にとってだけで、ぼくにそんな理屈を負わせたのが自分であることを、お袋は論理の中に組み込んでいないのだ。それにしても、勝手に家を出ていってから十五年もたって、親父はぼくたちに何を残したというのか。
「突然言われても、困るよな。父さんの顔なんて覚えていないもの」
「それは大丈夫。会いたくてもあの人、もう死んでいるもの」
「ねえ母さん、面倒なことはないって、最初に言ったよね」
「面倒なんてないでしょう? ただ高森さんのお宅へ伺って、あちら様のおっしゃることを黙って聞いてくればいいの。礼司くん、いつ行ってくれる?」
「いつがいいのさ」
「早いほうがいいわよ。あちらもなるべく早くと言っていた。どうせなら今日行ってくれない? さっき暦を見たらちょうど大安なの。義理もあることだし、こういうことは早く片づけてしまいましょうよ」
「明日から夏休みなのにな」
「よかったわよねえ、礼司くんも試験が終わっていて」
「母さん……」
「あのね、そのつもりで赤カブのケーキをたくさん焼いておいたの。珍しいから喜んでくれるわ。なにしろ声が、怖い感じの人だったのよ。あちらへ行ったら、父が大変お世話になりましたって、ちゃんとご挨拶《あいさつ》してちょうだいね」
「母さん……」
「ワイン、もう一杯飲む?」
「母さん」
「なあに」
言いたくはなかったが、つい、ぼくは言ってしまった。
「ぼくが帰るまでに、そのドレスだけは着がえておいてもらいたいな」
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親父は眼鏡《めがね》をかけていたか、背が高かったか低かったか、東横線の電車で渋谷へ向かいながら、ドアの横に寄りかかって、ぼくはそんなことを考えていた。太っていたか痩《や》せていたかも思い出せなかったし、遊んでもらった記憶も抱かれた記憶もなかった。喋《しゃべ》り方や表情や声の記憶も曖昧《あいまい》で、考えてみれば、アルバムには親父の写真すら残っていなかった。親父が家にいた記憶そのものが飛んでしまっているのだ。
親父の存在感が稀薄《きはく》だったせいか、ぼくの印象には死んだ祖父《じい》さんのほうが強く残っていた。野球や相撲に連れていってくれたり、中学生のぼくに酒を飲ませたり、最後は高校生になったお祝いだといってキャバレーにまで連れていってくれた。その罰《ばち》が当たって祖父さんは脳溢血《のういっけつ》で死んでしまったが、親父のことは死ぬまで口にしなかった。それでもたった一度、祖父さんが「世界中の不幸はぜんぶあの女の責任だ」と酔っ払って叫んだことがある。祖父さんの言った「あの女」とは、ぼくが小学校へあがる前に死んだ祖母《ばあ》さんのことだった。祖母さんが親父とお袋を結婚させなければ、祖父さんにとって世界はもっと平和なものだった。ぼくは子供心に、両親が両親である経緯《いきさつ》には触れないことに決めていたが、親父をどこかで発掘してきたのはその祖母さんで、どこかで知り合って、なにかが気に入り、祖父さんの反対を押し切って親父をお袋に押しつけた。文句を言っても仕方はないけれど、それから二十年以上たってあと始末をするぼくのことを、誰か一人ぐらい考えなかったのか。もっとも親父が家を出ていったのは、祖母さんが死んですぐだったから、親父も一人では世界中の不幸を背負い切れなかったのだろう。家を出ていったときの親父の気持ちは分からなくても、状況だけは、ぼくにも理解できるようだった。
お袋がメモしておいた高森さんの家は、本郷五丁目という場所にあって、近くには東大や後楽園もあるらしいが、ぼくに縁のあるのは東京ドームのある後楽園だけだった。地図を見ると丸ノ内線の本郷三丁目駅と、三田線の春日《かすが》駅のちょうど中間あたりで、ぼくは渋谷から半蔵門線と三田線に乗って、春日に出た。水道橋の方向からは後楽園の裏手にあたる地域らしかった。
春日駅から地上に出ると、左手が白山《はくさん》通りで、西日の熱気と排気ガスが待っていたようにぼくのポロシャツに汗の染みをつくりはじめた。ぼくはだいたいの見当をつけて、駅前を右に歩きはじめ、クリーニング屋の角から菊坂のゆるい坂道をだらだらと登っていった。高森さんの家は菊坂の途中にあるはずだったが、実際にその家を見つけるのに坂を行ったり来たり、ぼくは二十分も歩き回った。一帯は人間二人がやっと擦れ違えるような路地の連続で、路地が行き止まりだったり別の路地につながっていたり、地域全体がまるで『迷路ゲーム』のようだった。なん人ものおばさんやおじさんに道を訊《き》き、家を訪ね、ポロシャツを汗で濡《ぬ》らして、ぼくはやっと高森家の門の前に到着した。汗を出し切ったせいか、電車に乗っていたときよりも神経は不思議なぐらい静かになっていた。
菊坂から路地を入って突き当たりにあった高森さんの家は、まわりの家にくらべて敷地も広いらしく、茶色いニスを塗った古い板塀が両どなりの家から二十メートルもつづいていた。門も屋根つきの古い板戸で、インタホンはなく、字の消えかかった木の表札が引き戸の梁《はり》に埃《ほこり》っぽく引っかかっていた。敷地に草の匂《にお》いがしたのは庭全体にびっくりするほどの雑草が生えていたからで、縁側に新しい簾《すだれ》がかかっていなければ空き家かと思うところだ。
玄関にもやはり呼び鈴はなく、ぼくは一瞬迷ったが、ガラスの引き戸を開け、躰《からだ》を半分中へ入れて薄暗い空間に恐る恐る声をかけた。廊下の奥から唸《うな》るような女の人の声が聞こえたが、待っていても声のしたほうから人の姿は現れなかった。ぼくはそこで、深呼吸を一つやり、玄関の内側へ入って姓名素性を大声で怒鳴《どな》ってやった。お袋なら庭の雑草を見ただけで、とっくに逃げ帰っていたところだ。
しばらくすると、頭の上で音がして、あがり口に近い階段に素足のジーパンが、ひっそりと姿を現した。その脚が階段をおり切って、ぼくの前で立ち止まるまで、ぼくにはそれが男の子か女の子か判断もつかなかった。やっと女の子だと分かったのは、黒いTシャツの胸がいくらか尖《とが》っているように見えたからだった。
「自由が丘の、笹生《ささお》です」と、ただ階段の前に突っ立って、びっくりしたような丸い目でぼくの顔を見ている女の子に、軽くおじぎをして、ぼくが言った。
女の子の口が、かすかに動いたが、口紅の塗られていないうすい唇からは声もため息も聞こえなかった。
「電話で来ることは知らせてあります」
廊下の奥でまた唸るような声がして、女の子がふり向き、ぼくのほうは見ずにすたすたと廊下の奥へ消えていった。そっちで呼んでおいてずいぶん失礼な家系だとは思ったが、息子に代理を押しつけたお袋のことを考えると、ぼくの家系もあまり偉そうなことは言えなかった。
待つまでもなく、女の子はすぐ戻ってきたが、口は開かず、尖った顎《あご》を一度だけ怒ったようにしゃくってみせただけだった。
ぼくは女の子の視線に従ってスニーカーを脱ぎ、廊下へあがって、女の子の視線に従ってその廊下を奥へ歩いていった。途中|襖《ふすま》の嵌《は》まった部屋が二つほどあったが、女の子は突き当たりまで進み、木の引き戸を開いて、会釈だけで入るようにと命令をした。なにかの理由でぼくに恨みを持っているのか、たまたま今日が女の子のあれ[#「あれ」に傍点]で口をきく気力がないのか、どちらかなのだろう。
通された六畳ほどの和室は、まん中に木の卓袱台《ちゃぶだい》が置かれているだけで、箪笥《たんす》もなければテレビもない、恐ろしいほど殺風景な部屋だった。卓袱台のうしろに床の間が据えてあるものの、掛け軸はなく、花瓶には花も見えなかった。部屋の中でたった一つ目を見張ったのは、卓袱台の向こうに膝《ひざ》を崩して蹲《うずくま》っている、まるで布袋《ほてい》様が女装でもしたような、見事に太ったおばさんだった。おばさんはくたびれた浴衣《ゆかた》の寝間着を暑苦しそうに羽織り、強くパーマをかけた半白の髪に、里くて太いヘアピンをチャンバラ映画の手裏剣《しゅりけん》のように刺し込んでいた。歳は五十から七十で、放っておけば垂れさがってしまいそうな目蓋《まぶた》の肉を、ぼくに対する礼儀のつもりなのか、ほとんど死にもの狂いという形相で見開いていた。電話の声を聞いただけで、お袋はおばさんの人相を透視したのだ。
座れとも帰れとも言われず、それでも命の危険はなさそうだったので、ぼくは覚悟を決めて卓袱台の前に座り、お袋が持たせて寄越したケーキの箱を、おばさんのほうにそっと差し出した。
「初めまして、この度は父が、大変お世話になりました」
おばさんが、うーんと唸《うな》り、青や赤のおはじき[#「おはじき」に傍点]みたいな指輪が並んだ指で、浴衣の襟を大きく振り扇《あお》いだ。首には犬の首輪かと思うほど太い金のネックレスが、異様な光を放っていた。
「あんたが周郎《しゅうろう》さんの倅《せがれ》かい。そりゃまあ、ご苦労だったねえ。それでお兄さん、名前はなんていうんだね」
「笹生、礼司です」
「ささおれいじ……つまらない名前だねえ。そんなつまらない名前、誰がつけたのかね」
「よく知りませんけど、死んだ祖父《じい》さんだと思います」
「あたしは高森久仁子ってんだよ。お袋さんには電話で言ったけど、周郎さんには義理の姉にあたる人間でね、その縁で葬式も家《うち》から出したわけさ。聞いてたかい」
「いえ。母も突然で、気が動転したようです」
「動転? たかが昔の亭主が死んだだけで一々動転してたら、あたしゃ今ごろあの世とこの世を五、六回も往復してるさね」
おばさんが咳《せ》き込むように笑い、首の鎖を鳴らして、座椅子《ざいす》の背凭《せもた》れに力強く寄りかかった。首の肉で喉《のど》が詰まっているのか、声は全体にかすれ気味だったが、性格は人相ほど狂暴でもなさそうだった。
「キリ子、突っ立ってないで、お兄さんにサイダーでも持って来《き》なね」と、まだ戸口の前に立っていた女の子に、座椅子を軋《きし》らせて、おばさんが言った。「ついでにおまえの部屋から扇風機も持ってくるんだよ」
キリ子と呼ばれた女の子が、相変わらず返事をせず、引き戸を開けたまま部屋を出ていった。おばさんが喉を鳴らしてため息をつき、ぼくの顔に視線を戻して、もう一度深く、息苦しそうなため息をついた。
「うちの娘なんだけどさあ、ちょっと病気でね、愛想もくそもあったもんじゃないよ」
「それで、父のことですが……」と、女の子のことはそれ以上考えず、膝《ひざ》を崩して、ぼくが言った。「十五年前に別れたきり、ぼくも母も会っていませんでした。おばさんが父にとって義理の姉さんということは、どういうことでしょうか」
「そんなのあんた、そのとおりの意味だよ。あんたのお袋と別れたあと、周郎さんがあたしの妹と一緒んなった。妹は十年も前に死んじまったけど、周郎さんはずっとこの家で暮らしてた。あんた、周郎さんのこと、本当になにも知らないのかい」
「そういう家系なんです」
「なんだって?」
「いえ。これ、赤カブのケーキです。冷蔵庫へ入れておいて下さい」
そのケーキの箱に頷《うなず》いてみせ、深呼吸をしてから、ぼくはおばさんの指に並んだ指輪を改めて観察し直した。指輪が嵌《は》まっていないのは右手の親指とひとさし指だけで、あとの指には金やプラチナも含めて、それは質屋の指輪見本のようだった。ルビーだかサファイアだか知らないが、ぜんぶ本物なら、とんでもない財産だろう。
女の子が部屋へ入ってきて、卓袱台《ちゃぶだい》に氷の入ったコーラのグラスを置き、また廊下に消えて、今度は黒い大型の扇風機を胸の前に抱えてきた。女の子はそれをぼくのま横に置き、壁のコンセントにコードを差し込んで、座りもせず、腕を伸ばしただけでスイッチを入れてくれた。腰を屈めた瞬間にTシャツの襟から白い胸が覗《のぞ》いたが、ブラジャーは着けてなく、幸か不幸か、ぼくの目に色の薄い乳首がしっかりと飛び込んでしまった。
「あたしには風を向けないでおくれ」と、座椅子《ざいす》に座ったまま、大袈裟《おおげさ》に顎《あご》を突き出して、おばさんが言った。「リュウマチの具合いが良くないんだよ。やだねえ、夏は夏で湿気《しけ》っぽいし、冬は冬で寒いしさあ……それからね、これ、アブアブのケーキだってさ。冷蔵庫へ入れておいて、あとでおトメさんでも来たら出しておやりな」
女の子が卓袱台からケーキの箱を掬《すく》いあげ、黙り込んだまま、ふてくされたような歩き方で部屋を出ていった。乳首の形は中学生のようだったが、汗の匂《にお》いと指先の表情は意外なほどの大人だった。
「それで、どこまで話したっけね」と、一つ欠伸《あくび》をしてから、卓袱台に片肘《かたひじ》をついて、おばさんが言った。
「アブアブのケーキをおトメさんに食べさせるところまでです」
「その前だよ。なんか、周郎さんのことを言ってなかったかねえ」
「父がおばさんの妹と結婚して、この家に住んでいたところまで」
「そうなんだよ。その義理でさ、葬式も家から出したんだよ。周郎さんは岡山の出らしいけど、あっちにゃ碌《ろく》な親戚《しんせき》もいないってことだった」
コーラのグラスを取りあげ、半分ほど一気に飲み干してから、はいとぼくは返事をした。親父の出身が岡山だったことなんて、もちろんぼくには初耳だった。
「父は、なんの仕事をしていたんですか」
「知らないのかい」
「そういう……」
「家系なんだよね。まあ、あんたも子供だったろうから無理もないけど、周郎さんの仕事なんてあたしもよく知らないんだ。昆虫採集みたいなことをやってて、一年の半分以上は外国を放っつき歩いていたねえ」
昆虫採集が仕事というのが、どういう人生なのかは分からないが、おばさんの話が本当だとすると、ぼくの記憶の中で親父の存在が稀薄《きはく》だったのは、お袋と結婚していた間も親父は家にいることが少なかった人なのかも知れない。デパートでは昆虫の標本を売っているから、それを作る人も昆虫を集める人もいるわけで、親父は昆虫ブローカーのようなことでもやっていたのだろうか。
「父は、昆虫採集で死んだんですか」
「まさか。いつだったか、五月ごろだったかねえ。テレビの映りが悪くなって屋根へ登ったんだよ。自分でアンテナを直すってさあ、それで周郎さん、おっこっちまったのさ」
「即死ですか」
「なんだって?」
「屋根から落ちて、父はすぐ死んだんですか」
「屋根から落ちたのは五月だよ。葬式を出したのは一週間前だって、電話でもそう言ったじゃないか」
「打ちどころが悪かったんですね」
「足の骨を折ったんだから、そりゃ打ちどころは悪かったさ」
「足の骨を折っただけで、死んだんですか」
「あんた、いくつだい?」
「今年の秋、二十一になります」
「大学へは行ってるんだろう」
「三年です」
「大学も三年になってさあ、人間一人、足の骨を折っただけで死ぬと思うかね」
人は悪くなさそうでも、話の不透明さにかけては、おばさんのほうがお袋よりもずっと年期が入っていた。
「要するに父は、なんで死んだんですか」
「だからさあ、それを今説明してやってるんじゃないか。今年の五月ごろね、周郎さんが屋根から落ちて、足の骨を折って同明会病院へ入院してさあ、ついでだかなんだか、あっちこっち検査してみたら肝臓が癌《がん》だっていうじゃないか。それゃまあ大変だねえって思ってたら、どんどん具合いが悪くなって、それっきり。あんたやあんたの姉さんに知らせようかって訊《き》いても、周郎さんが連絡するなって言うんで、それで今日まで待っていたのさ」
「あのう……」
「だいじょうぶ。今はいい薬があるからねえ、最後は苦しまずに、眠るように死んでいったっけ」
「あのう、父は、ぼくに知らせるなと言ったんですか」
「そう言ったよ。あたしはなん度もなん度も念を押したさ、自分の娘や息子に会わなくていいのかって。周郎さんも変わりもんでさあ、生きてるうちは死んでも会わないって言うんだよ」
「ぼくの、姉さんにも?」
「きっぱりとね、周郎さんはそう言った」
自分の家系について、今さら驚くことはないはずなのに、そのときはやはり、ぼくは少し驚いた。
「あのう……」
「なんだね」
「ぼくの姉さんて、誰ですか」
おばさんが喉《のど》を詰まらせ、肉の垂れた目蓋《まぶた》を見開いて、黄色く濁った目でじっとぼくの顔を見つめてきた。おばさんはなん秒か息を止めていたが、そのまま永久に止めつづけるつもりまではなさそうだった。
「なんだい、あんたも知らないのかい」と、躰中《からだじゅう》の息を、太い首から力一杯吐き出して、おばさんが言った。「そいつは困ったねえ。お宅に聞けば知ってるかと思っていたよ。お袋さんも知らないかねえ」
「聞いたことは、ないです」
「周郎さんが最初につくった子供でね、女の子らしいんだ。あんたのお袋さんと一緒になる前だってから、今ごろは二十五、六になってるはずさ。周郎さんがね、あんたと姉さんになんか残していったんだよ。あたしにはよく分からないけど、あとでキリ子から聞いておくれ」
「彼女、喋《しゃべ》るんですか」
「どうだかねえ。気が向けば口ぐらいきくだろうよ。もともと頭は悪い子じゃなかったから……そういえば周郎さんが死んでからこっち、あたしとも碌《ろく》に喋っていなかった」
おばさんが窮屈そうに躰を揺すり、戸口と天井に向かって女の子の名前を大声で呼びかけ、それからまたぼくに向き直って、指輪だらけの手で浴衣の襟を大きく振り扇《あお》いだ。
「周郎さんの部屋、二階にあるんだけどね。このとおりあたしはリュウマチでさあ、もう五年がとこ二階へはあがってないんだよ。下の部屋をごろごろ転がってるだけ。あたしの人生なんてまるで芋虫さね。生きてたって面白いこともありゃしない」
廊下に足音がして、キリ子という女の子が顔を出し、丸く見開いた目でぼくとおばさんの顔を一度ずつ見くらべた。人間は喋らなくても生きていけるという思想を、女の子はどこかで確立しているようだった。
「お兄さんに周郎さんの部屋を見せておやり」と、諦《あきら》めたような、怒ったような低い声で、おばさんが言った。「周郎さんがお兄さんに残していったものも渡してやるんだよ。あたしは二階のことは知らないんだから、おまえがちゃんと塩梅《あんばい》してやっておくれ」
おばさんがぼくに向かって、顎《あご》をしゃくり、顔に止まった蠅《はえ》でも追い払うように、強く肩を揺さぶった。ぼくはなんだかよく分からなかったが、この家に来た名目は親父の遺品を受け取ることだったので、とにかく、頷《うなず》いて腰をあげた。お袋の代わりにぼくが来たことが、笹生家の平和にとっても正解のようだった。
キリ子に案内された二階の部屋は、雑草の庭を見おろしていて、窓には古い旅館で見かけるような木の手摺《てすり》が二メートルほどの長さに渡されていた。時間は五時を過ぎていたが、西日は明かるく、竹の簾《すだれ》を通して部屋の汚れた壁をオレンジ色に染めあげていた。日が落ちきってもいないのに、蝉《せみ》の声に混じって雑草の間から虫の声も聞こえていた。窓から見える家の屋根も、壁もテレビのアンテナも小さい空も、みんな日に焼けていて、面白い風景でもないのに勝手に肩の力が抜けていくような、懐かしい匂《にお》いを持っていた。
「いい部屋だな……」と、窓枠に腰かけ、本ばかり並んだ部屋の壁を眺めながら、一つ深呼吸をして、ぼくが言った。
襖《ふすま》の横に寄りかかっていたキリ子が、不意に壁から背中を離し、本棚から一冊の本を引き抜いて、それを知らん顔で読み始めた。ぼくに対して敵意を示している雰囲気ではなかったが、友好的な関係を望んでいる表情でもなかった。
「君のキリ子って、どういう字を書くんだ」
キリ子が顔をあげ、部屋を横切って座り机の前まで進み、しゃがみ込んで、引き出しから出した紙に文字を書き始めた。
窓枠に腰かけたまま、上から覗《のぞ》いてみると、白い便箋《びんせん》には鉛筆で『季里子』と小さい文字が書かれていた。季里子がぼくに対して友好的な関係を望んでいないと判断したのは、ただの偏見なのかも知れなかった。
「奇麗な字だな、音の響きもいいしな」
『季里子』なんて、下にいたあのおばさんが付けた名前とは思えなかったが、そこまではぼくも、口に出して言わなかった。
「歳は、いくつなんだ」
季里子がまた鉛筆を取りあげ、便箋に向かって肩に力を入れたが、待っていても鉛筆の先から文字は吐き出されてこなかった。
「十六か、十七ぐらい?」
鉛筆を握った季里子の細い指が、細《こま》かく震えて、もう少しで便箋に文字が現れるかと思った瞬間、意外にも飛び出したのは文字ではなく、ちょっとかすれた、小さい拗《す》ねたような声だった。錯覚でなければ、季里子は自分の口で「十八」と言ったらしかった。
「十八か……若く見える」
日に焼けていない季里子の白い首筋に、赤味が差したようだったが、それが壁に反射した西日の色なのか、ぼくには分からなかった。
「よく考えると、おれたち、従兄妹《いとこ》なんだよな」
季里子が、白くて細い首でこっくんと頷《うなず》き、ななめにぼくの顔を見あげて、華奢《きゃしゃ》な指で鼻の頭に浮いた汗を乱暴に拭《ふ》き取った。初めて見たときから分かっていたが、季里子は額の広い、卵形の、とんでもなく奇麗な顔をしていた。季里子自身はそのことの意味を理解していないらしく、どうでもいいジーパンにTシャツを着て、髪も、ただどうでもよく短く切っているだけだった。こんな奇麗な女の子に会うのは、ぼくは生まれて初めてだった。
「親父とは十五年も会っていなかった。親父のこと、聞かせてくれないか」
季里子が唇をすぼませ、一度その唇を開きかけたが、声は出さず、代わりに机の本をぼくの前にそっと差し出した。それは表紙が茶色く変色した、殺風景な装丁の分厚い単行本だった。タイトルは『サムライ蟻《あり》に関する権力構造の確立』という不思議なもので、著者は、驚いていいのか笑っていいのか、増井周郎という人だった。
季里子が黙って部屋を出ていき、戻ってくる気配をみせなかったので、ぼくは本を開いて目次の部分に目を通し始めた。『蟻と蜂《はち》の分化』から始まって『サムライ蟻の宿命』まで二十項目ほどのサブタイトルが並んでいて、奥付を見ると出版されたのは一九六五年五月十五目、著者である親父の肩書きは『東京農水産大学講師』となっていた。一九六五年といえば、ぼくが生まれる五年前だから、逆算すると親父の歳は三十一ということになる。その歳で大学の講師なら世間を憚《はばか》る商売でもなかったはずだが、研究のテーマ自体は人類の進歩にそれほど貢献をするものとも思えなかった。季里子が最初に本棚からこの本を抜き出したのは、この本でぼくに親父という人間を解説してくれるつもりだったのだろう。
戸口に気配がして、指の長い白い素足が、俯《うつむ》いていたぼくの目に静かに忍び込んできた。季里子は右手にコーラのグラスを握っていて、左の掌には赤カブのケーキをのせていた。
目の表情で、「食べるか」と、季里子が訊《き》いた。
ぼくは首を横にふり、コーラのグラスだけ受け取って、一口飲み、尻《しり》をずらして窓枠に季里子の座る場所をつくってやった。
季里子が顔を正面に向けたま、窓枠へ腰をおろし、ケーキに食いついて、大きく瞬《まばた》きをした。表情と動作の不釣合いが可笑《おか》しくて、思わずぼくは笑ってしまった。
季里子がふり向き、しばらく不思議そうな目でぼくの顔を眺めてから、鼻の穴をふくらませて、少し笑った。
「ケーキ、好きなのか」
ケーキを口に頬張《ほおば》りながら、息を止めて、こっくんと季里子が頷《うなず》いた。
「うちのお袋が作ったんだ。お袋はケーキ研究家で、蟻ではケーキが焼けなくて親父と別れた」
季里子がまた頷き、手に残ったケーキを西日にかざして、怒ったような顔でじっとケーキを睨《にら》みつけた。味や素材に関して季里子にも意見はあったはずだが、赤カブのケーキをここまで黙って食べる女の子がいると知ったら、お袋はぼくの嫁に貰《もら》うと言い出すに違いない。
「親父がどういう死に方をしたかは、おばさんから聞いた。だけど姉さんがいることなんて、まるで知らなかった。君、親父から聞いていないか」
あまり期待はしていなかったが、季里子はケーキを頬張るだけで、面倒臭そうに、ちょっと首を横にふっただけだった。
「本郷のあたり、初めて来た。思っていたより静かだな」
「………」
「電車だと一時間以上かかる」
「………」
「東京ドームには、たまに来るんだ」
「………」
「親父が残していった物って、この本のことか」
季里子がケーキを飲み込み、指先の生クリームをTシャツの胸にこすり付けて、勢いよく立ちあがった。そして部屋を横切っていき、押し入れを開けて、ビデオデッキぐらいの風呂敷《ふろしき》包みを待って机の前へ戻ってきた。さっき季里子が「十八」と声を出したのは幻覚だったかなと、一瞬ぼくは不安になった。
季里子が机の上に開いた風呂敷の中味は、感想の言い様もなかったが、ぼくが受けた教育が間違っていなければ、それはガラスケースに入った一匹のばかでかい蝶《ちょう》だった。親父の本を見たときも唸《うな》ってしまったけれど、このときもやはり、唸るしかぼくには感想の表し方が分からなかった。おばさんが言ったなんか[#「なんか」に傍点]というのは、風呂敷でもガラスケースでもなく、この蝶のことなのだろう。
「ずいぶんでかい蝶々だ。色が、なんて言うか、すごいよな」
その蝶は羽根の直径が十二、三センチもあり、長い触角が頭からV字型に伸びて、下羽根の末端は細く八の字型に尖《とが》っていた。色は全体が濃い緑色で、上羽根のまん中と縁には黒いぼかし線があり、下羽根の中心部と腹は鮮やかなオレンジ色だった。ぼくだって青すじアゲハやカラスアゲハぐらい見たことはあるし、小学生のときにはデパートで蝶の標本を買ったこともあった。しかし今、目の前のガラスケースに収まっているこのとんでもない色と形の蝶は、直感だけで言っても、日本の蝶ではなかった。ケースの下面には『ゴクラクトリバネアゲハの亜種、または新種』と書かれた、小さい紙が貼《は》ってあった。嬉《うれ》しくも腹立たしくもなかったが、要するにこれが、親父がぼくに残していった財産なのだ。
「おれと姉さんに、ということは、こんなのが、もう一つあるわけか」と、ケースの中の蝶に、真剣な顔で見入っている季里子に、ぼくが訊《き》いた。
頷《うなず》いただけで、季里子が顎《あご》の先で押し入れのほうを指し示した。
親父がわざわざ遺言までして残していった蝶だから、たぶん珍しい蝶なのだろう。昆虫の研究家だった親父には、それなりに意味のある蝶でもあるのだろう。問題はぼくやお袋にとってどういう意味があるかで、こんなものを持って帰って、お袋が果たして喘息《ぜんそく》の発作を起こさないか。お袋は顔の前を蛾《が》が飛んだだけで貧血を起こすのだ。まして「姉さんのぶんだ」と言って二匹も見せてやったら、明日から新興宗教を始めるかも知れない。
「困ったな」
「………」
「父親が一人死ぬっていうのは、やっぱり、大変だな」
「………」
どこがどういうふうに大変なのか、責任を持って考えたくもなかったが、少なくとも押し入れに眠っているもう一匹の蝶がぼくとお袋の生活にとって、波紋の種であることは間ちがいない。どんなに底の浅い水溜《みずた》まりでも、石を投げれば波紋ぐらいはたててしまう。
「君、姉さんのこと、本当に聞いてないのか」
見ているぼくに癖が移ってしまうほど、季里子がまた、深く頷いた。もう少し馴《な》れてくれば、頷き方の変化で季里子の言いたいことも読み取れるようになる。
「まあ、いいか……」
ぼくは座っていた窓枠から腰をあげ、季里子のとなりへ行って、机の上で蝶のガラスケースを風呂敷に包み始めた。そのとき季里子の汗の中に、なにか甘酸っぱい匂《にお》いが混ざっていることに気がついて、自分でも恥ずかしいぐらい手の動きがぎこちなくなった。同時に香織の躰《からだ》の匂いも思い出し、そういう精神構造が季里子に対して失礼な気がして、ぼくは反省をした。
ガラスケースを包みおわり、立ちあがって、一緒に立ちあがった季里子に、ぼくが言った。
「おばさんに、もう少し、話がある」
分かっている、というように、季里子が一つニキビができている顎《あご》を、強く自分の胸に引き寄せた。
また可笑《おか》しくなって、つい、ぼくが笑った。
「なに?」という目で、季里子が口を尖《とが》らせながらぼくの顔をのぞき込んだ。
「なんだか知らないけど、とにかく、可笑しいんだ」
「………」
「親父って、へんなやつだったよな」
「………」
親父より季里子のほうがずっとへんなやつで、ぼくはそのまま右手を伸ばし、季里子の頬《ほお》に残っている生クリームを、指の先で拭《ふ》き取ってやった。季里子もぼくの顔をのぞき込んだまま、なぜか、ぼくの指先から顔を逃がさなかった。ぼくの無神経さに茫然《ぼうぜん》としたのか、運動神経が鈍いのか、たぶん、その両方だったのだろう。季里子は口を結んだまま、肩で深呼吸をつづけていた。短く切ってある髪を別にして、まったく呆《あき》れるぐらい奇麗な女の子だった。
季里子の真似《まね》をして、一つ、ぼくも大きく深呼吸をした。
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「あら、まあ……」
それが、お袋が『ゴクラクトリバネアゲハの亜種、または新種』を謁見《えっけん》したときの、最初の感想で、最後の感想だった。外はもう暗く、食堂で聞こえるのは虫の声でも風の音でもなく、低く空気を震わせるクーラーの音だった。
お袋がそれ以上に興味を示すはずもないので、ぼくはガラスケースを風呂敷に包み、テーブルの脇《わき》にどかして、食堂の椅子《いす》に浅く腰をおろした。霞草のデコレーションは相変わらずだったが、お袋の婚期を逃したシンデレラみたいなワンピースは衣装棚《いしょうだな》にしまわれていた。
「それで、ねえ、高森さんて、どういう人だった?」と、胸に赤い薔薇《ばら》の刺繍《ししゅう》が入ったブラウスの襟から、呑気《のんき》そうに顎《あご》を突き出して、お袋が言った。「礼司くんに、なにか意地悪をしなかった?」
「夕飯を食べていけと言われたけど、今日は帰ってきた」
「よかったわよねえ。食べ物に毒でも入れられたら、大度だったわよ」
「向こうは電話で母さんに言ったらしい」
「なんのこと」
「高森のおばさんは、父さんが母さんのあとで結婚した人の姉さんだってこと」
「あら……」
「父さんと結婚した人のほうは、十年前に死んでいる」
「そういえばそんなこと、言ってたかも知れないわねえ」
「そのあとも父さんは高森さんの家に住んでいて、それで、高森さんが葬式を出したらしい」
「怖い人だった?」
「母さんは会わなくて、正解だったかもしれないな」
「そうでしょう? 電話の感じで、そうだと思ったわ」
「声や見かけほど怖い人ではなかったけど」
「でも電話で、礼司くんのお父様が死んだの、わたしのせいみたいに言ったのよ」
「母さんの聞き違いだよ」
「そうかなあ」
「父さんは屋根から落ちて、癌《がん》で死んだのさ」
「あら」
「最後は苦しまなかったってさ」
「そう」
「今はいい薬があるんだって」
「でも、ねえ……」
「なにさ」
「でも屋根から落ちたら、痛かったでしょうにねえ」
高森のおばさんとお袋は、理論的には会わせるべきではないが、でも一度ぐらいは会わせてみたい。
「ねえ母さん、ぼくに姉さんがいること、知っていた?」
「礼司くんに……」
「高森のおばさんが、そう言ってた」
「へええ」
「知っていた?」
「知らないわよ、どこにいるの」
「どこにいるか、それが分からないらしい」
そのときぼくだって、お袋の表情ぐらい、ちゃんと観察していた。お袋はこういう究極の問題に対してとぼけられるほど、人間ができていないのだ。しかし逆に、ぼくに姉弟《きょうだい》がいることの意味を自分の生活に還元させようとしない体質も、息子の立場からは、困ったものだった。
「母さんは、ぼくの他に子供を産んだ覚え、ないんだろう」
「ないわよ。あればわたしだって覚えているわ」
「高森のおばさんは、父さんが母さんの前に誰かに産ませた子供だって言うけどね」
「あら……」
「本当に、知らない?」
「だってあの人のこと、今でもわたし、よく知らないんだもの」
「今まで訊かなかったけど、父さんと母さんは、なんで結婚したのさ」
「なんでって、それは、お母様があの人を連れてきたからよ」
「お祖母《ばあ》さんは、父さんとどこで知り合ったのさ」
「今ごろどうしてそんなことを訊くの」
「今ごろだから訊くんだよ」
「礼司くん、そういうことには関心なかったじゃない」
祖父《じい》さんと二人して、ぼくにはこの問題に立ち入らせない環境をつくっていたくせに、今更ぼくのせいにされても、ぼくのほうが困ってしまう。
「父さんにも義理はあるしさ。ルーツの概略ぐらい、知っておくべきだと思うんだ」
「わたしもね、今まで礼司くんがどうして訊かないのか、ずっと不思議に思ってた。あなたってへんに諦《あきら》めのいいところがあるし、変わった子だなあって思ってたのよ」
ぼくはお袋のことを、ずっと変わった母親だと思っていたが、まさかお互い様だったとは、考えてもみなかった。
「お祖母さんが生きていたら、姉さんのこと、知っていたと思う?」
「どうかしらねえ。お母様からもあの人からも、聞いたことはなかったわ」
「父さんは大学の先生だったらしいね」
「なにか虫の研究をしていたみたいね。お母様があのころ、『多摩川で鈴虫の声を聞く会』の会長をやってらして、誰かの紹介であの人に講師をお願いしたの。多摩川に鈴虫がいなかったら、礼司くんも生まれていなかったわ」
「父さんに、親戚《しんせき》はいないの」
「遠い親戚はいるでしょうけど、親兄弟はいないはずよ。岡山では代々学者の家の一人息子だって。お母様って、ほら、旗本の娘でプライドが高かったでしょう? お父様はお金|儲《もう》けは上手だったけど、はっきり言ってどこの馬の骨とも知れない人じゃない。それでお母様、あの人の家柄と肩書きを見込んでわたしのお婿さんにしたの。わたしはそんなこと、どっちでもよかったけどね」
結婚したり、子供を産んだり離婚したり、そういうことをお袋ぐらい軽く通過できれば、世の中は今よりずっと平和になる。
「姉さんのこと、知っている人の心当たり、ないかな」と、ぼくが言った。
「ないわねえ。そのこと、大事なこと?」
「そういうわけでもないけどさ。急に姉さんができたり従兄妹《いとこ》ができたり、妙な気分なんだ」
「あら……」と、テ≒フルに頬杖《ほおづえ》をついて、お袋が一度、大きく瞬きをした。「礼司くん、従兄妹もできたの」
「高森のおばさんの娘さ」
「へええ」
「ちょっと、変わった子だった」
「よかったじゃない。兄弟とか従兄妹とか、欲しがっていたものね。一度に両方できたなんてラッキーだわよ。だけど……」
「なにさ」
「高森さんのお嬢さんなら、義理の従兄妹にならない?」
「そうかな」
「そうよ。血のつながりなんか、ないと思うけどなあ」
ぼくも、自分を中心に、改めて親父から季里子までの関係図を頭に描いてみた。たしかにそれは、お袋の言うとおりだった。今まで兄弟も従兄妹もいなかったので、うっかりしていたが、厳密にいえば季里子は従兄妹ではなく、義理の従兄妹なのだ。義理の従兄妹ということは、要するにまったくの他人ということではないか。
「礼司くん、今夜は外でお食事しましょうよ」と、頷《うなず》きながら、椅子《いす》の背に深く肩を引いて、お袋が言った。
「父さんが死んだお祝いに?」
「礼司くんにもわたしにも、人生の区切りではあるでしょう」
「ぼくには面倒の始まりのような気がするな」
「難しく考えることはないの、あなたって諦《あきら》めがいいくせに悲観的なんだから。涼しくなったらわたしもお墓参りぐらい行ってみるわ。お墓、どこだって?」
「訊《き》くのを、忘れた」
「あら……」
「食事へ行く前にシャワーを浴びていいかな」
「いいわよ。それで、仏様にお線香はあげてきたんでしょう」
「それも忘れた。仏壇とか墓とか、やっぱりあるんだよな」
「礼司くんにしては珍しいわねえ」
「暑くてさ。それに……」
「なあに?」
「なんでもない。ちょっと、緊張していたのかも知れない」
高森の家でぼくを緊張させたのが、あのおばさんなのか、季里子なのか、考えなくても分かっている。おばさんの人相風体はたしかに圧巻だったが、だからって緊張して我を忘れるほど、ぼくの性格も素直ではない。
ぼくはお袋に、そのまま待つように目で合図をし、椅子を立って電話の前まで歩いていった。高森の電話番号を書いたメモはまだズボンのポケットに残っていた。
五回コール音が鳴って、電話に出たのは、声のない声だった。その不思議な間で相手の見当はついたが、しかし喋《しゃべ》りもしないくせに受話器を取る季里子の性格は、誰の血筋なのだろう。
「もしもし」
「………」
「おれ、わかる?」
意地になったわけではないが、この状況を季里子がどう処理するのか、個人的には非常に興味のある問題だった。
「さっきは、コーラ、ありがとう」
「………」
「おばさん、いないの」
「………」
「もしもし?」
「お風呂」
「え?」
「お風呂」
「風呂が、どうした」
「入ってる」
「誰が?」
「………」
「ああ……なるほど」
本郷の家で季里子が、「十八」と喋ったような気がしたのは、嬉《うれ》しいことに、錯覚ではなかったのだ。
「訊くのを忘れたことがあった」
「………」
「親父の墓のこと」
「………」
「どこにあるのかな」
「谷中《やなか》」
「谷中か。君……」
「………」
「連れていってくれるか」
「うん」
「本当に?」
「うん」
「明日は?」
「うん」
「二時ごろ、迎えにいく」
「うん」
「見かけによらないな。君がこんなにお喋りだったなんて、思ってもみなかった」
電話を切り、お袋に背中を向けたまま、ぼくは、思わず噴き出した。「うん」以外にも、「お風呂」と「入ってる」と「谷中」と、季里子は三つも言葉を知っていたのだ。
「礼司くん」
「うん?」
「なにかあったの」
「なにもないよ」
「そうかしら」
「なにもないんだ、特別なことは、なにもない」
ふり向いて、もう食堂へは戻らず、風呂場のほうに後退《あとずさ》りながら、ぼくが言った。
「母さん。父さんには悪いけど、今夜のお祝いは盛大にやりたいよな」
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六時間しか眠らないくせに、ぼくは充実した気分で目を醒《さ》ました。もちろん昨夜《ゆうべ》盛大に空けた白ワインは頭の芯《しん》に残っていて、まっすぐ歩こうとする躰《からだ》をいくらか左に傾けたが、ぼくの重心が少しぐらい左に傾いたからって、それで人類が滅亡するものでもない。光の色は相変わらず湿気《しけ》っぽく、朝の九時だというのに浄真寺の森からは蝉《せみ》の声が聞こえていた。
お袋ももう食堂の椅子《いす》に座っていたが、意識はまだ、自分の部屋のベッドの中らしかった。胸にフリルのついたピンク色のパジャマも着がえてなく、顔色はテーブルの霞草《かすみそう》より白かった。昨夜は駅の南側にあるレストランで夕食を食べたあと、バーとスナックを、三軒もはしご[#「はしご」に傍点]したのだ。お袋はくどいほどカラオケを披露してくれたが、歌ったのは最初から最後まで『ラ・ノビア』だった。
ぼくが声をかけても、お袋は目をつぶって、椅子から立つ様子も、椅子を倒す様子もみせなかった。仕方なくぼくは自分でコーヒーのポットを火にかけ、その間にトイレと洗面を済ませて、またパジャマのまま食堂へ戻っていった。
「母さん、コーヒー、飲む?」と、自分のカップにコーヒーを注《つ》ぎながら、ぼくが言った。
「要らない」と、こめかみの辺りを指で押さえながら、地獄を見ているような声で、お袋が答えた。
「寝てればいいのにさ」
「昼からケーキのお教室があるのよ。夜は福田さんのパーティーに呼ばれているし」
「昼まで寝ていて、それからまた夜まで寝ていればいいさ」
「パーティー用のケーキを引き受けてしまったの」
「福田さんて、誰さ」
「田園調布の葬儀屋さん。お嬢さんがお寺さんの息子と婚約したの」
「忙しいんだな」
「礼司くんも出かけるの」
「出かけるさ。本当に、コーヒーは要らない?」
「本当に、まだ、そういう気分じゃないの」
ぼくはそれ以上お袋を相手にせず、食堂でコーヒーを飲み、自分の部屋へ戻って海水パンツに着がえてから、今度は食堂を通らずに庭のガレージへおりていった。出かけるまでの暇潰《ひまつぶ》しにクルマを磨いてやろうと思ったのだ。
湿度の匂いをたっぶり含んだ陽射《ひざ》しの中、ガレージの扉を開け、ミニ・クーパーのエンジンをかけて、ボディーを臙脂《えんじ》とベージュ色に塗りわけた生意気なクルマをぼくは久しぶりに引き出した。新車のミニは一三〇〇ccのエンジンを積んでいて、箱根の峠ぐらいなら呆気《あっけ》ないほど簡単に登ってしまう。そういえばこの前遠出をしたのは、五月に香織と箱根へ行ったのが最後だった。昨日一日まったく香織のことを思い出さなかったが、来週は一緒に海へ行く約束になっている。館山のホテルが予約できたかどうか、今夜にでも連絡をしなくてはならない。
洗車とワックスがけを一時間で片づけ、十一時に、ぼくは家を出た。クルマで出かけてもよかったのだが、行った先の煩《わずら》わしさを考えると、今日もクルマに乗る気分にはならなかった。躰《からだ》に残っていたワインも洗車中に汗と一緒に流れ出ていて、重心はもう左には傾いていなかった。ぼくはいつものとおり渋谷まで東横線に乗り、そこからは歩いて大学へ向かった。試験が終わったあとまで学校に顔を出すのは、サークルに入っていないぼくには初めてのことだった。
校門をくぐってから直行したのは、ゼミの担当教授の研究室でもなく、学生食堂でもトイレでもなかった。中庭を挟んで本館の裏側にある、西校舎の図書室だった。ぼくの試験は昨日で終わっても、学部や学料によってはまだ試験はつづくはずで、学校全体として夏休みに入るのは一週間も先のことだった。
ぼくは司書のおばさんに学生証を見せてから、いつも歴史の資料を引き出す二階の閲覧室へはあがらず、一階のロビー近くにある書架から『世界蝶類図鑑』を抜き出して、大テーブルの端に腰をおろした。試験がほとんど終わっている図書室に、学生が多いはずはなく、ロビーとテーブルに女の子が四、五人、それぞれに本を選んだりノートをとっていたりするだけだった。
蝶類図鑑をケースから出し、最初のページをめくって、思わずぼくはため息をついた。書架から引き出したときから予想はしていたが、この地球には蝶が一万八千種類もいるというのだ。日本だけでも二百二十七種類と書いてある。探す蝶の名前を知らなければ、今日は一日中図鑑を相手に『神経衰弱』をやっていたところだ。親父が残していったゴクラクトリバネアゲハは、幸か不幸か、一分で見つかった。図鑑も便利だし、探す手間もかからなかったが、逆に簡単すぎて気が抜ける思いだった。図鑑に載っていて、しかも素人が一分で探せるほど一般的な蝶ということは、その素性に親父の秘密も、姉弟《きょうだい》の秘密も隠されてはいないだろう。
図鑑によると、ゴクラクトリバネアゲハはニューギニア島北西部に生息するアゲハチョウ料の蝶で、姿と模様の美しさからこの名前がついたという。たしかにちょっと行って採集してくる、という蝶ではなく、しかし十五年も会っていなかった息子に、わざわざ遺産として残すほどの蝶でもないらしい。親父はいったい、なにを考えてこんなものを残したのか。屋根から落ちて癌《がん》になって、人生に自棄《やけ》でもおこしたのか。それとも死ぬ間際まで冗談を忘れないほどの、偉大な昆虫学者だったのか。
ぼくはそれでも、十分ほど蝶の分類表を眺めてから、図鑑を脇《わき》に抱えて司書のおばさんのいるカウンターの前へ歩いていった。司書の具体的な仕事は知らないが、ぼくよりも本の専門家であることに間違いはない。
「すいません」と、ネームプレートで、おばさんの名前を確かめてから、ぼくが言った。「ここに『サムライ蟻《あり》に関する権力構造の確立』という本、ありますか」
おばさんが書類から顔をあげ、眼鏡《めがね》の奥の小さい目で、胡散臭《うさんくさ》そうにぼくの人相を値踏みした。
「なんですって?」
「本です」
「本は分かってるわよ。今言った名前、もう一度言ってみてよ」
「サムライ蟻に関する権力構造の確立」
「その本、読みたいわけ?」
「そうですね」
おばさんが鼻を鳴らし、ずれた眼鏡を指先で押し戻して、横の棚からインデクスつきのぶ厚い書類挟みを取り出した。
「サス[#「ス」に傍点]ライ蟻?」と、おばさんが訊《き》いた。
「サム[#「ム」に傍点]ライ蟻です」と、ぼくが答えた。
「サムライ蟻の、なんの確立?」
「権力構造の確立」
口の中でなにか言いながら、しばらくリストをめくり、それからぼくの顔を見あげて、おばさんが気難しく首を横にふった。
「ないわねえ、そんな本」
「なければ、いいです」
「あんた、よく歴史の本を借り出す学生じゃない」
「はい」
「今度は蟻に興味を持ったわけ」
「夏休みですから」
「夏休みなら蝶々のほうがイカスわよ」
「蝶々も好きです」
「うちの息子もね、夏休みの宿題で昆虫採集をするから、北海道に連れていけなんて言ってるわ」
たいして期待はしなかったが、一応、ぼくが訊いた。
「うちの大学に、蝶々や蟻に詳しい先生、誰かいますか」
「うちの大学にねえ……」
おばさんが眼鏡を外し、椅子《いす》を軋《きし》ませて、小さく欠伸《あくび》をした。
「うちの大学って、そういう関係の学部、ないもんねえ」
「いなければ、いいです」
「あんた、工学部の田崎先生、知ってる?」
「いえ」
「建築工学科の助教授よ。たしか日本ミノムシ学会の会員だったと思うわ」
「ミノムシ、学会、ですか」
「正式な団体じゃないけど、でも専門の先生方も加入してるって聞いたわ。蟻もミノムシも似たようなもんじゃない、ねえ?」
ねえ、と訊かれても困るが、それでもミノムシは蛾《が》の変態だったはずだから、蝶と無関係ということもないかも知れない。
「建築工学科の、田崎先生ですね」
「そう、五十にもなってまだ独者《ひとりもの》よ。それで趣味がオーディオいじりとミノムシの研究だって。変わってるでしょう?」
「最近は驚かないんです、変わった人に会っても」
ぼくはおばさんに軽く頭をさげ、図鑑を書架に戻して、ロビーを横切って図書室を出た。五十で独身で、趣味がオーディオとミノムシで、そういう人が建築工学科の助教授をやっているというのなら、この大学の教育水準は、ぼくが思っていたほど低くはない。それにしても親父と似たような人種が、いるところには、結構いるものなのだ。
時計を見ると十二時半で、本郷へ回るにしても、工学部の研究室を覗《のぞ》いてみる時間はありそうだった。田崎助教授が研究室にいるかいないか、ゴクラクトリバネアゲハに関する知識があるかないか、そんなことは分からないが、十分や二十分の時間を惜しむほど、ぼくは人生を急いでいなかった。ぼくは中庭を通って本館まで歩き、階段で工学部の研究室がある三階へあがっていった。窓のない中廊下は空気が澱《よど》んで、息苦しくなるような暑さだった。
工学部建築工学科の『田崎教室』は、三階の中廊下を北へ向かう途中にあった。名札のかかったドアをノックすると、中から男の人の返事があって、ぼくはドアを押して研究室へ入っていった。
「歴史料三年の、笹生といいます」と、ドアのすぐ横の机で、新聞を読みながらほかほか[#「ほかほか」に傍点]弁当を食べている若い男の人に、ぼくが言った。「田崎先生に教えていただきたいことがあります」
部屋の奥で、唸《うな》ったような声がして、中庭に面した大机の向こうから赤ら顔の太った男の人が首を伸ばしてきた。歳|恰好《かっこう》からして、その人が田崎助教授のようだった。
若い人が取り次ぎもせず、案内もしてくれなかったので、ぼくはそのまま部屋を進み、赤ら顔の男の人に軽くお辞儀をした。
「田崎先生ですか」
「そうだよ」
「歴史料三年の笹生です」
「そんなことは聞こえたさ」
「司書の小林さんに、先生が日本ミノムシ学会の会員だと聞いて伺いました」
田崎先生が脂っぽい赤ら顔を、嬉《うれ》しそうに歪《ゆが》め、ワイシャツの襟から食《は》み出させた首の肉に、軽い痙攣《けいれん》を走らせた。
「そうかい、まあいいや。歴史料の学生にしちゃ頭の良さそうな顔してる。よかったらその椅子《いす》にでも座ってくれ」
田崎先生が回転椅子を半分ほど回し、机の下から短い脚を抜き出して、窮屈そうに組み合わせた。ゴムサンダルを突っかけた靴下が汗くさく臭《にお》ったが、黙ってぼくは椅子に腰をおろした。
「笹生くんだっけな。どっかで新しいミノムシでも見つけたって話かね」と、丸くて色のうすい目を好奇心の強そうな色に光らせて、田崎先生が言った。
「ミノムシのことではないんです」
「へええ」
「ミノムシに詳しければ、蝶や蟻にも詳しいかと思いました」
なーんだというように、頬《ほお》をふくらませ、煙草をくわえて、田崎先生が黄色い使い捨てのライターで火をつけた。
「そりゃ素人よりいくらか知っちゃいるが、俺《おれ》の専門はあくまでもミノムシさ」
「専門は、建築工学ではないんですか」
「あんなものは給料を貰《もら》うための方便だよ。日本の政治家は頭が貧困でな、ミノムシの研究には金を出さないんだ。それで先進国だって威張ってるんだから、笑わせるにも程《ほど》があるよなあ」
人相風体がこの大学に馴染《なじ》んでいるとも思えないから、生え抜きではなく、どこか国立大学の講師あたりから移ってきた人なのだろう。
「先生、ゴクラクトリバネアゲハという蝶、ご存知ですか」
しばらく息を止め、太い首から煙草の煙を長く吐いて、田崎先生が回転椅子の背に寄りかかった。
「君、妙な蝶を知ってるなあ」
「ご存知なんですか」
「知ってると言や知ってるし、知らないと言や知らない」
「要するに、知ってるんですね」
「ゴクラクトリバネアゲハってのはマリリン・モンローみたいなもんだ。有名だから誰でも知っちゃいるけど、実物を見たやつはそうはいない。俺も一度標本を見たことはあるが、羽根が傷《いた》んでるやつだった……そのゴクラクトリバネアゲハが、どうかしたのかね」
「持ってるんです」
「誰が」
「ぼくが」
田崎先生が脚を組みかえ、喉《のど》に痰《たん》が詰まったような顔で、煙草の火をステンレスの灰皿に押しつけた。
「その蝶、羽根の傷んでいない、完璧《かんぺき》なやつなのか」
「ぼくの見たかぎり、傷んでいるところはありません」
「尾羽根も、切れていなくて?」
「はい。でも、図鑑にはそれほど珍しい蝶だとは書いてありませんでした」
「そりゃあ君、図鑑なんてのは珍しい蝶が載ってるから図鑑なんだ」
「そんなに、珍しいんですか」
「採集禁止だし、今は国外への持ち出しだって禁止されている。そんな完璧なゴクラクトリバネアゲハ、なんで君が持ってるんだ」
「なぜぼくが持っているのか、その理由が、ぼくにも分からないんです」
一度部屋の中を見回し、若い男の人が相変わらずほかほか[#「ほかほか」に傍点]弁当を食べているのを確かめてから、少し、ぼくは田崎先生のほうへ身をのり出した。
「採集禁止で、ニューギニアからの持ち出しも禁止されていると、蝶を持っていることが罪になりますか」
「そんなことはない。一度国内に入っちまったものについては、持っていようが売り買いをしようが当事者の勝手だ。よくは知らんが、日本にだって一万匹ぐらいは入っているだろう」
「一万匹、ですか」
「一万が多いか少ないかは、俺には分からんよ」
「たいして珍しい蝶でもないし、持っていることにも問題はない……」
「君はいったい、なにが知りたいんだ」
「ぼくが蝶を持っていることの、その、理由です」
「君はただゴクラクトリバネアゲハを持っている、それだけじゃないのか」
「ぼくが持っているのは一匹だけです。もう一匹は、別な家の押し入れに入ってます」
「あの、なあ……」
「先生、増井周郎という名前、ご存知ですか」
田崎先生がまた煙草に火をつけ、煙を深く吸い込んで、その煙を長く窓のほうへ吹きつけた。
「言ってることが分からんな。しかしまあ、俺も増井周郎の名前は知ってる。シャクトリムシの研究で有名な昆虫学者だ」
「そんなものまで、研究したんですか」
「いくらか変人だという噂《うわさ》だ。十年ぐらい前に学会のお偉方と喧嘩《けんか》して、大学を辞めちまったよ」
「東京農水産大学です」
「詳しいじゃないか」
「ぼくの父です」
「へええ……誰が」
「増井周郎です」
「へええ……え?」
田崎先生の指の間から、煙草の灰がこぼれ、ワイシャツの腹にぶつかって、崩れながら床へ落ちていった。
「しかし、君は、自分の名前を笹生と言わなかったか」
「離婚しました、父と母が」
「ああ」
「父とは十五年間、一度も会っていませんでした」
「ああ、そう」
「十日ほど前に父が死にました」
「ああ……増井さんが、亡くなったのかね」
「屋根から落ちて肝臓|癌《がん》になったそうです」
「そいつはまた、面倒なことをしたもんだ」
「父はぼくに、ゴクラクトリバネアゲハを残していきました。他にはなにもありません。なんのつもりで蝶を残したのか、理由が分からないんです。ぼくには蝶の意味も、昆虫学の意味も分かりません」
田崎先生が煙草をくわえたまま、椅子《いす》を立って、汗の臭気《におい》をさせながら窓の前へ歩いていった。窓から見えるのは西館の殺風景な建物と、その上にほんの少しだけ覗《のぞ》いた、小さくて暑苦しい色の空だけだった。
「そうかあ、増井さんが亡くなったか」と、顎《あご》を首の肉に深くうずめ込んで、一人言のように、田崎先生が言った。「増井さんは、幾つだったね」
「五十七だったと思います」
「ああいうタイプの学者、少なくなったなあ。研究のために田舎の山林をぜんぶ処分したって話だ」
「迷惑でした」
「ん?」
「蟻とか蝶とかシャクトリムシとかに、それはどの価値がありますか」
「考え方の問題ではあるな。君だってファーブルの人生に意味がなかったとは思わんだろう」
「ファーブルは、家族の生活までは犠牲にしなかったと思います」
「世の中には金や名誉に執着する人間もいる。フンコロガシやシャクトリムシに執着する人間もいる。どっちが高級かは価値観の問題だし、迷惑かどうかは家族が決めればいいことさ」
親父が金や名誉に執着しなかったらしいことは、なんとなく分かる。昆虫学で成果を出したらしいことも、いくらかは理解できる。それでもやはり、親父の生き方には根本的な合理性が欠けている。親父がお袋の人生を傷つけなかったのは、たまたま運がよかっただけのことだろう。
「君、それで、ゴクラクトリバネアゲハは、どうするつもりだね」と、相変わらず肉の厚い顔を窓の外に向けたまま、一つ舌打ちをして、田崎先生が言った。
「決めては、いません」と、ぼくが答えた。
「俺に蝶のことは分からない。マニアがとんでもない値段をつけるかもしれないが、まあ、ふつうは大学や博物館に寄贈するもんだ」
親父だって昆虫学者で、自分のコレクションを研究機関に寄贈するぐらいの常識はあったろうが、たぶん親父は、それを承知でぼくたちにゴクラクトリバネアゲハを残したのだ。問題は、親父が、なにをどういうふうに承知していたか、なのだろう。
「昔から父のことを知っている人、誰か、ご存知ありませんか」
「昔からって」
「二十年とか、それよりもっと前とか」
「そうだなあ……」
田崎先生が汗の臭気《におい》をさせながら、机の前に戻ってきて、上気した顔で灰色の回転|椅子《いす》に腰をおろした。
「径蹟大学の小宮先生あたりかなあ。たしかあの先生、昔は東京農水産大学にいたはずだ」
「紹介してもらえますか」
「紹介?」
「知りたいことがあるんです」
「どんなこと?」
「一身上のことです」
「一身上……へええ」
爪先《つまさき》のサンダルを大袈裟《おおげさ》に揺すり、太い首で、田崎先生が息苦しそうに咳払《せきばら》いをした。
「小宮先生が増井さんを知ってるかどうか、先方に訊《き》いてみる必要がある。君の電話番号でも教えておいてくれ」
学者同士が連絡を取り合うというのは、それなりに手順のようなものが必要なのかも知れないし、田崎先生自身、径蹟大学のその小宮先生に好意的な印象は持っていない雰囲気だった。
立ちあがって、ズボンの尻《しり》ポケットから定期入れを取り出し、名刺を田崎先生に渡しながら、ぼくが言った。
「小宮先生も、虫の研究をされているんですか」
「タコだ」
「はい?」
「あの人の専門は、蛸《たこ》の生殖行動だよ」
「大変ですね」
「蛸の研究では日本で一番有名な先生さ」
「そうですか」
「蛸の養殖が可能かどうかは小宮先生の研究にかかってる。忙しい人だから連絡が取れるかどうか、保証はできないぞ」
「待ってます、どうせ夏休みですから」
ぼくの渡した名刺を、面白くもなさそうな顔で見つめ、名刺を指で弾いて、田崎先生が深く椅子の背に反り返った。
「最近の学生はいい名刺を持ってやがる」
「友達にイラストレーターがいるんです」
「君のゴクラクトリバネアゲハ、一度|俺《おれ》に見せてくれないか」
「先生はケーキ、お好きですか」
「俺は酒を飲まないんだ」
「母がケーキ研究家で、家でもケーキを焼きます」
「いいお袋さんだな」
「最近は赤カブのケーキに凝っています」
「俺が増井さんだったら、ケーキを焼く女とは死んでも別れなかった」
「蝶はいつでもお見せします。母も、いつでもケーキを焼いておみせすると思います」
ぼくは最初のときと同じように、軽くお辞儀をし、牛乳を飲んでいる若い男の人にも挨拶《あいさつ》をして、研究室を出た。廊下に出ても暑さは変わらず、部屋にクーラーが入っていなかったことに、そのときぼくは初めて気がついた。
ぼくは背中に噴き出す汗を意識しながら、廊下を進み、階段を一階までおりて、太陽が重く溢《あふ》れるキャンパスを正門のほうへゆっくり歩いていった。自分では拘《こだわ》っていないつもりでも、気持ちのどこかに、不安定な風が吹き始めていた。親父も昆虫の世界では有名な人だったらしいが、蝶だの蟻だのシャクトリムシだの、そんなものの研究に一生を費やして、なにが残ったのだろう。ぼくに妙な蝶を押しつけて、いったいなにが言いたいのだ。
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春日の駅から菊坂をのぼる道は、昨日より熱気が強く、アスファルトも湿度の高い照り返しを遠慮なくぼくの顔に吹きあげていた。日傘を差したおばさんが買い物かごを下げて坂道をくだり、白い制服を着た女子中学生が太い足で坂道をのぼっていた。クルマが通ることもなく、牛乳屋の庇《ひさし》の陰にはきたない犬が暑そうにうずくまっていた。そしてそういうすべての風景が、灰色の光の中で、へんに静かだった。
ぼくが高森の家についたのは、昨夜電話で約束した、二時ちょうどだった。勝手に門をくぐり、玄関のガラス戸を開けて、ぼくは二階へ声をかけた。しかし足音がしたのは階段ではなく、廊下の奥でもなく、雑草がかたくなに茂っている横手の庭のほうだった。短いキュロットスカートを穿《は》いた季里子が、ふてくされたような歩き方で庭をぼくのうしろへ回り込んできた。スカートの上は白い半袖《はんそで》のブラウスで、頭には黄色い鍔広帽《つばひろぼう》をかぶっていた。その出立《いでた》ちは昆虫採集に出かける小学生のようだったが、背丈はじゅうぶんぼくの目の高さまであった。季里子は素足に、新しい白いスニーカーを履いていた。
「やあ」と、五、六秒季里子を観察してから、ハンカチを取り出して、顔と首の汗を拭《ふ》きながら、ぼくが言った。
「やあ……」と、帽子の庇の下から、不思議に澄んだ目で、季里子が答えた。
「おばさんは?」
「いる」
「いるのか……」
「いる」
「そう。そりゃあ、よかった」
季里子がくるっと背中を回し、走るように庭へ消えて、ぼくも汗を拭きながら庭に入っていった。最初からここまで会話が弾むということは、今日の季里子は、よっぽど体調がいいのだろう。
季里子がいたのは玄関からは陰になっている、日向《ひなた》の縁側の前だった。竹の簾《すだれ》が半分までおりていて、部屋の中はうす暗かったが、そこには異様な物体が横になっていた。
「リュウマチってのは情けないやねえ」と、布団の上から顔だけを起こし、外の光に目を細めながら、一つ欠伸《あくび》をして、高森のおばさんが言った。「それになんだか風邪ぎみなんだよ」
「昨日、親父に線香をあげるのを忘れていました」
「あたしも忘れちまってた。歳のせいで頭ん中が腐っちまったのかねえ」
「今日は墓へ行きます」
「若いのに律儀なことだよ」
「彼女が案内してくれるそうです」
「そうだってね。いやだねえ、明日あたり雨でもふるんじゃないのかねえ」
おばさんが肘《ひじ》をついて躰《からだ》を起こし、簾の向こうで、布団の上に唸《うな》りながら座り込んだ。着ている浴衣《ゆかた》は昨日と同じだったが、部屋は昨日ぼくが通された部屋ではなく、テレビだの化粧台だの茶箪笥《ちゃだんす》だの、古っぽい家具がおばさんと一緒にぎっしりと詰め込まれていた。
「あたしも行けりゃいいけど、この暑さとリュウマチじゃねえ」と、枕元《まくらもと》から煙草の箱を取りあげ、抜き出した煙草に火をつけて、おばさんが言った。
「お袋に姉のことを訊《き》いてみました。知らないそうです」
「そうかい、知らないってかい? そいつは残念だった」
「名前は、分かりませんか」
「聞いたことはある気がするんだけど、どうしても思い出せないんだよ」
「親父の昔の知り合いに会えるかもしれません。なにか分かったら連絡します」
「そうしておくれな。今更その女の子も喜びゃしないだろうけど、こっちも知らせるぐらいの義理はあるしね。なんてったって周郎さんの娘なんだから」
季里子は縁側の端に尻《しり》をのせ、ぼくらの話には無関心な顔で雑草の庭を睨《にら》んでいたが、あとほんの少しだけ、そのままの姿勢で待ってもらうことにした。
「昨日の蝶々以外に、親父はなにか虫を集めていませんでしたか」と、おばさんに、ぼくが訊いた。
「そりゃあんた、なんだか知らないけど、いろんな標本が二階に溢《あふ》れていたさね」
「その標本はどうしました?」
「周郎さんが自分で始末した、まだ意識がはっきりしてるうちにね。イギリスだかフランスだかの博物館に贈っちまったよ」
思ったとおり、親父も昆虫学者としての常識は忘れていなかったのだ。コレクションを日本の研究機関に寄贈しなかったのは、いわゆる『学会』とかいうやつに対する親父の意地だったのかも知れない。ゴクラクトリバネアゲハだけを特別にぼくと姉さんに残したのは、そこになにかのメッセージを託したつもりなのだろう。
「おばさん、谷中って、どの辺ですか」
「根津《ねづ》のちょっと先だよ」と、煙草をばかでかいガラスの灰皿でつぶし、たれさがった目蓋《まぶた》を持ちあげて、おばさんが答えた。
「根津って」
「知らないのかい」
「知りません」
「お兄さんも東京もんだろうに」
「躾《しつけ》のせいだと思います」
「根津はこのちょっと先のほうさ」
「ああ……そうですか」
昨日から気がついてはいたが、おばさんは、自分の考えを他人に伝えようという野心を持っていない人なのだ。
「それじゃ、行ってきます」と、半分は季里子に対して、ぼくが言った。
季里子が縁側から腰をあげ、部屋の中から責いデイパックを掴《つか》み出して、それを怒ったような仕草で肩に引っかけた。訊《き》いても答えはしないだろうが、親父の墓へ行くために、季里子はかなり前から庭で待機していたらしかった。
「線香は季里子に持たせてあるよ」と、歩き出したぼくに、縁側から身をのり出して、おばさんが言った。「花はお寺さんの近くで買えばいいよ。それからね、季里子をあまり日に当てないでおくれ。日射病にでもなったら目も当てられないからねえ」
一応「はい」と返事をし、もう門へ向かって歩き始めている季里子のあとを、ぼくもゆっくりと歩き始めた。季里子のキュロットスカートから伸びた脚も、剥《む》き出しの腕も太陽と馴染《なじ》んではいなかったが、だからって今日のこの陽射《ひざ》しがぼくの責任であるはずもなかった。それに勝手な感想を言わせてもらえば、季里子の長い手足は、日陰よりも日向のほうが似合っている。
「クルマに気をつけるんだよ。急ぐことはないんだからね。それから周郎さんに会ったら、あたしもお盆には顔を出すからって、そう言ってやっとくれ」
季里子と並んで菊坂をくだり始めても、当然のことながら、ぼくにはまだ『谷中』の方角が理解できていなかった。昨夜は酔っ払って地図を見るのを忘れてしまったし、今朝は今朝で、今日季里子に会いにくる名目が親父の墓参りだったことを、見事に忘れていた。
「なあ……」と、青いデイパックを背負って、妙に脚をつっ張らせて歩いている季里子に、横から、ぼくが訊いた。「谷中って、遠いのか」
「根津の先」
「根津の先は分かってるさ。だから根津って、どの辺なんだよ」
「弥生町《やよいちょう》の先」
「弥生町の先か……なるほどな」
本郷と根津の間に、また弥生町なんて地名が登場して、ここから遠いのか近いのか、かえって分からなくなった。季里子は顎《あご》を胸に引きつけ、頭の中に流れているらしい行進曲かなにかに合わせて、固く手足を動かしていた。首筋に滲《にじ》んだ季里子の汗が、粘りもせずに白いブラウスへ染み込んでいく。ぼくには自分が今、なぜこんなところを歩いているのかも分からなくなっていたが、その空白に不安は感じなかった。条件さえ合えば、ぼくの生活にも、不安のない空白はある。
菊坂をくだりきっても、季里子は春日の駅に向かおうとせず、菊坂とT字に交わる坂道を黙って駅とは反対の方向にのぼり始めた。その方向に電車の駅はないはずで、タクシーも通り、T字路のそばにはバス停もあったが、季里子の歩調は最初からタクシーやバスを予定していないリズムだった。『谷中』というのはぼくが恐れているより近いのだろうし、少なくともそれは、この暑さの中を季里子が歩いて行けるぐらいには、近い場所に違いない。
曲がりくねった坂道を十五分も歩いたころ、クルマが溢《あふ》れる大通りに出て、そこでぼくは立ち止まってしまった。大通りには『本郷通り』という標識板と、交差点の所在を知らせる『弥生町』という地名標識が出ていたのだ。季里子はさっき、「根津は弥生町の先」と言ったのではなかったか。根津が弥生町の先なら、谷中はもっとずーっと先になるはずで、そして今までにぼくらはもう十五分も歩いているのだ。
「君、なあ……」と、心配になって、となりの季里子に、ぼくが言った。「おばさんに、あまり日に当たるなと言われなかったか」
まともな答えが返ってくるとも思わなかったが、季里子が返事をしたのは、信号が青に変わって本郷通りを反対側に渡った、そのあとだった。
「わたし、この帽子、初めて被《かぶ》った」
それがぼくの問いに対する返事だったのか、ひとりごとだったのかは分からない。しかし季里子の口からまとまったセンテンスが聞かれたのは、この二日間では初めてのことだった。
「なにか、病気なんだってな」
帽子の下からぼくの顔を眺めただけで、日陰側の歩道を、季里子が、また黙って歩き始めた。その気になれば季里子が、長い文章も口に出せることに、ぼくは心から安心した。
「親父の墓、まだ遠いのか」
「もう少し」
「休まなくていいのか」
「いい」
「病気ってどこが病気なんだよ」
「知らない」
声の調子に起伏がなく、横顔の鼻の形は怒って見えても、季里子がその気[#「その気」に傍点]になり始めたことは間ちがいない。久しぶりに汗をかいて、血液の循環でも良くなったのだろう。
弥生町の交差点を渡った辺りから、道路標識は言問《こととい》通りとなっていて、広い道の両側にはコンクリートの塀がつづき、塀の内側は深くて濃い森が空も覗《のぞ》けないほど暗く広がるようになった。道幅のわりに交通量も少なく、深い森がぼくらの歩いている歩道側に気持ちのいい影をつくっていた。この先どこまで歩くにせよ、季里子との散歩だと思えば汗も苦にならなかった。
固く口を結んで歩く季里子のデイパックを、軽く指で叩《たた》いて、ぼくが言った。
「弥生町って、もしかしたら弥生式土器の出た、弥生町か」
黄色い帽子の庇《ひさし》の下で、こっくんと季里子が頷《うなず》いた。
「少し歴史を知ってるんだ」
「ふーん」
「大学で歴史を勉強してる」
「ふーん」
「君、高校生だろう」
「………」
「昨日は十八だと言った」
「………」
「大学生じゃないよな」
「………」
「高校の、三年か」
「行ってない」
「高校に、行ってない?」
「休んでる」
「ああ……病気だっけ」
「………」
「高校に行ってれば、三年生のわけだ」
頷くかと思ったが、それもせず、横目でぼくの顔を見ただけで、季里子がふんと鼻を鳴らした。生意気な鼻の鳴らし方ではあっても、不愉快な印象ではなかった。
「この両側の森、広いな」
「東大」
「へええ」
「ぜんぶ東大」
「へええ」
「左が農学部、右が工学部」
なるほど、そういえば道路の反対側をなん人か学生ふうの男が歩いていて、しかしもちろん、そんなことはどうでもいいことだった。こうやって喋《しゃべ》っていれば、季里子にも少しは口を動かす練習になる。
「親父のこと、顔も覚えていないんだ」
「………」
「家には写真もない」
「………」
「背が高かったのか、低かったのか、太っていたのか痩《や》せていたのか、それも知らない」
「………」
「うん?」
「………」
「痩せていたのか」
「………」
「おれに似ていたかな」
「………」
「なんだよ」
「ちょっと、ね」
「ちょっと、か。でも、ちょっとで良かった。たくさん似ていたら、おれも屋根にのぼって怪我《けが》をしたものな」
季里子がなにか言いたそうに口をすぼめ、鼻の穴をふくらませて、横目でぼくの顔を睨《にら》みつけた。口も動き始めたようで、頭のほうもだいぶ調子が出てきたらしかった。
道はゆるいくだり坂になり、坂をおりきったところがまた交差点になっていて、交差する道は不忍《しのばず》通り、地名は根津となっていた。第一関門は突破しても、最初からはもう三十分歩いていた。
その交差点を渡り、嬉《うれ》しくなるほど古くて狭い繁華街を五分ほど進むと、言問《こととい》通りの両側に小さい寺の門が見え始め、道端に立っている案内板もやっと『谷中』になってくれた。初めからこれだけ歩くと分かっていれば、タクシーに乗ったところだが、季里子との友情を考えると、歩いたことは正解だった。
道の途中に花屋があって、季里子が足を止め、思い出して、ぼくは花屋で千円の花束を二つ奮発した。季節に菊は似合わなくても、墓参りに季節はないわけで、それになんといっても谷中は墓参りの本場なのだ。
買った花をぶら下げて、少し歩くと、辺り一帯はもう見事に谷中だった。ぼくだって『谷中墓地』の名前ぐらい知っていて、しかしここまで小さい寺が密集しているとは、思ってもいなかった。歩きながら寺の看板を眺めただけでも、上聖寺、本金寺、一乗寺、大行寺、愛染寺と、そんな寺がとなり合わせに感心するほどつづいていた。季里子に案内を頼んだのは、結果としては間ちがいではなかった。ぼく一人では今日中に親父の墓を発見できるかどうかも疑問だった。
季里子がぼくを連れていったのは、金巌寺だの法蔵院だのの寺を通り越して、路地を左に入ったところにある、静庵寺という古い寺だった。門らしい門はなく、他に墓参りの人もなく、門の正面に小さい本堂があって、その本堂を取り囲むように背の低い墓石の大軍が裏手のほうにまでつづいていた。ぼくは本堂横の水道でプラスチックの手桶《ておけ》に水を汲《く》み、季里子のあとについて、墓石の間をほとんど横歩きに歩いていった。祖父さんと祖母さんの墓がある八王子のインチキ臭い霊園に比べると、感動したくなるほど由緒正しい墓場だった。
本堂を裏手に回りきり、ブロック塀と桧葉垣《ひばがき》の隙間《すきま》をくぐり抜けると、そこに畳一枚ぶんほどの仕切りがあり、背後に卒塔婆《そとうば》の束を従えた灰色の墓石が、仕切りのまん中にのんびりとうずくまっていた。石の材質も黒とか白の御影《みかげ》ではなく、多摩川あたりから持ってきたような、ただ石というだけの石だった。墓石には楷書体《かいしょたい》で『高森家』と文字が彫ってあった。墓石の脇《わき》には墓碑銘を並べた薄い石盤があり、一番左には『修学院好虫|居士《こじ》・俗名増井周郎』という新しい彫り跡の文字があった。となりに彫ってある文字が『増井加津子』だったから、この加津子という人が高森のおばさんの妹で、親父の再婚相手なのだろう。親父はぼくの前にも一人子供をつくっていて、変わり者の昆虫学者にしては、女に関してだけへんに努力家だったことになる。その血筋をぼくが受け継いでいると知ったら、墓石の下で親父は今、喜んでいるかどうか。
季里子が肩から青いデイパックをおろし、新聞紙に包んだ線香の束を取り出して、地面に屈み込んだ。新聞紙を丸めて火をつけるつもりであることは分かったが、一瞬やはり、ぼくの目は季里子の胸にいってしまった。昨日Tシャツの隙間に見えた乳首は白いブラジャーに隠れていて、なんとなく、ぼくはほっとした。
ぼくは買ってきた花を仕切り石の土に置き、花筒に水を入れて、手桶に残った水を柄杓《ひしゃく》で墓石に振りかけ始めた。灰色の石が気持ち良さそうに濡《ぬ》れていき、どこかに止まっていた天道虫が音をたてて日向《ひなた》の中へ飛んでいった。半透明の太陽はいくらか西に傾いて、となりの敷地に植わっている背の高い木がぼくと季里子を濃い影で包んでいた。クルマの音も聞こえず、カラスの声も聞こえず、蝉《せみ》さえも鳴いていなかった。
季里子が立ちあがり、火のついた線香を持って、帽子の下から、一つ頷《うなず》いた。ぼくと季里子は花を一束ずつ筒に差し込み、線香を半分ずつ石の線香皿に置いて、季里子はしゃがんだまま、ぼくは立ったまま、一緒に墓石に手を合わせた。ゆるい風がかすかに線香の煙を乱し、どこか遠くのほうで、くーんと犬が鳴いた。
ぼくが一度目を閉じ、また目を開けても、季里子は墓に手を合わせたまま、いつまでも躰《からだ》を起こさなかった。ぼくは手を合わせつづける季里子をそのままにし、少しさがって、背の低い仕切り石に腰をおろした。周りを取り囲む同じような墓は、みな殺風景で、花も線香もあがっていなかった。目に見えないほどの羽虫が日向の部分で揺れ動き、青い線香の煙が低く卒塔婆《そとうば》に絡みついていた。その煙の波の中で、季里子はいつまでも顔をあげず、肉の薄い背中を丸めてじっとうずくまっていた。紺のスカートに白いブラウスを着た小さな女の子が、野原のまん中でレンゲでも摘んでいるような、そんな感じのうしろ婆だった。しかしその季里子の華奢《きゃしゃ》な肩が、細かく震えているのは、どういうことなのか。
ぼくは心配になって、仕切り石から腰をあげ、うしろから帽子の下に季里子の顔をのぞき込んだ。季里子は合わせた掌を鼻の頭に押しつけ、見開いた目からぽたぽたと涙を流していた。震えているのは肩だけではなく、唇も顎《あご》も白い首筋も、今にもぷつんと切れそうなほど小さく痙攣《けいれん》を起こしていた。
震えている季里子の肩に、手を置いて、ぼくが言った。
「煙が目にしみたのか」
季里子が肩を振ってぼくの手を払い、背中を丸めて、膝《ひざ》の間に低く首をうなだれた。
「スカートが汚れるぞ」
「………」
「脚が痺《しび》れるだろう」
「………」
それ以上言葉が見つからなくて、仕方なくぼくはズボンのポケットからハンカチを取り出し、季里子の鼻の下に、軽く押しつけた。
「君みたいに泣いてくれる子がいて、親父も嬉《うれ》しいだろうな」
季里子が顔をあげたのは、まったくの突然だった。それからなにを思ったのか、激しくふり返って、泣きながらぼくの膝に平手打を浴びせてきた。季里子の帽子は花筒の前まで飛び去り、髪の短い小さな頭が、ぼくの顎《あご》の下で神経質に動き回った。ぼくは季里子の手首を掴《つか》んで、腰をあげ、とんでもない声で泣きじゃくる季里子の肩を、自分の肘《ひじ》で強くおさえつけた。季里子は汗と涙と泣き声をごちゃ混ぜにして、握り拳《こぶし》でぼくの肋骨《ろっこつ》をごつごつと攻めたてた。骨ばって見える季里子の躰は、しかし、ちゃんと柔らかかった。
しばらく季里子を泣かせてから、ぼくは季里子の手首を掴《つか》んだまま、墓石の前から離れ、肩を押して仕切り石の上に腰をおろさせた。季里子の赤く腫《は》れた目にはまだ涙が溢《あふ》れていたが、泣き声は喉《のど》の途中に押し込まれていた。
「昨日初めて会ったときから、訊《き》こうと思っていたことがある」と、少し季里子から離れて、深呼吸をしてから、ぼくが言った。「君のその髪形、なにか特別な理由があるのか」
季里子が頬《ほお》を引き締め、口をへの字に結んで、ぼくの顔を睨《にら》みながらぼくのハンカチで、しゅっと洟《はな》をかんだ。
「夏にしても短すぎるだろう」
「………」
「うん?」
「………」
「なんだよ」
「う、う、う、う」
「どうした」
「そんなこと……」
「そんなこと?」
「そんなこと、大きなお世話だもの」
季里子がまた声を出して泣き出し、さっき洟をかんだハンカチで、めちゃくちゃに顔をこすり始めた。
「まあ、その、大した問題では、ないさ」
「だって、切ってるうちに、短くなったんだもの」
「自分で切ったのか」
「他人《ひと》に触られるのがいやなんだもの」
「変わった性格だな」
「大きなお世話よ。だいいち、これ、なによ」
「これって」
「ハンカチ……汗臭いじゃない」
洟をかんだり、涙を拭《ふ》いたり、好きなように使ってから文句を言われても困るが、季里子の頭の配線が、この瞬間、かちっと繋《つな》がったようだった。これだけ奇麗な子で、頭の配線まで繋がってくれれば、髪の毛を自分で切る趣味があることぐらい、ぼくはいつだって我慢してやれる。
墓石の前へ歩き、季里子の帽子を拾いながら、ぼくが言った。
「もう一つ、訊《き》きたいことがあるんだ」
「………」
「昨日のケーキ、どんな味だった?」
「味?」
「作った人間に文句を言いたくなる味だったか、どうかさ」
「………」
「大した意味はないけどな」
「色は変わっていた。でも普通の生クリームの味だった」
拾いあげた帽子を季里子の前まで持っていき、その針ネズミみたいな頭に、ま上から、ぼくがすっぽりと被《かぶ》せてやった。『色が変わっているだけで味は普通の生クリーム』ということは、味覚についても、季里子の配線は正常だろう。しかしそれなら、高森のおばさんが言った季里子の病気[#「季里子の病気」に傍点]とは、どんなことなのか。親父と季里子の関係も含めて、いろんなことが分かったようで、本当はなにも分かっていない。分からないほうがいいような、分かったほうが面白いような、人生なんて、へたな手品のタネ明かしみたいなものだ。
季里子が帽子を被り直し、手を伸ばしてデイパックを膝《ひざ》の上に抱えあげ、中から銀色の、ずんぐりした小型の魔法瓶を取り出した。
「まさか、おにぎり[#「おにぎり」に傍点]は持ってきてないよな」
「………」
「なんでもない、冗談だ」
季里子が魔法瓶の蓋《ふた》の中に、液体を注《つ》ぎ、肩で呼吸をしてから、その蓋を黙ってぼくの目の前へ突き出した。それは冷やした麦茶のようだった。
受け取った麦茶を、一息に飲み干して、ぼくが言った。
「君、初対面の人間には口をきかない主義とか、なにか、あるのか」
「麦茶、もう一杯飲む?」
「もういい」
ぼくから空の蓋を受け取り、麦茶を注いで、口に運んでから、軽くため息をついて、季里子が言った。
「喋り方を忘れただけ」
「ふーん」
「最初にうまく言葉が出なくて、どうしようかと思っていたら、喋れなくなったの。よくあることよ」
「よくあるのか」
「たまにね」
「面倒な性格だな」
「自分では困らない」
「変わってるよな」
「あんたのほうが変わってるわ」
「おれは、普通さ」
「初めて会ったときから、あんたのこと、変わったやつだと思ってたわ」
「君、なあ……」
「なに」
「あんたとか、やつとか、他の言い方はないのか」
「他に、なんて呼べばいいの」
「笹生さんとか、礼司さんとか、普通に呼べばいいさ」
「そうかな」
「そうさ」
「そういうの、他人行儀だと思うわ」
やっと順調に喋《しゃべ》り始めて、少し分かりかけたと思っていたのに、やはりぼくには、この女の子のことは分からない。他人行儀でもなんでも、ぼくらは他人なのだ。
もうすっかり涙を忘れて、好奇心の強そうな目でぼくの顔を見つめている季里子に、ぼくが言った。
「おれたち、親父が生きている間は義理の従兄弟《いとこ》だったけど、今は他人なんだ。血もつながっていないし、義理の関係もなくなっている」
「………」
「そういうことさ」
「あのね」
「うん?」
「あんたは……」
「うん」
「あんたは、わたしのお兄さんなの」
なにか、相槌《あいづち》を打ちかけたような気はするが、次の瞬間、ぼくは一生けんめい言葉を飲み込んでいた。高森のおばさんが言った『季里子の病気』とは、もしかしたら、このことだったのか。それともおばさんの忠告を無視して、季里子を日に当てたことの結果が、これなのか。
「君は、だって、あのおばさんの娘だろう?」
「養女よ」
「養女?」
「今のお母さんは死んだお母さんのお姉さん。お母さんが死んで、わたし、伯母《おば》さんの養女になったの」
ぼくは頭の中で、また関係図を作り直し、季里子をおばさんの娘から死んだ増井加津子の娘へと置き換えてみた。増井加津子は親父の再婚相手だから、季里子が二人の間にできた子供なら、たしかに、半分はぼくの兄妹《きょうだい》になる。
「それ、本当の話か」
「本当の話よ」
「君が、おれの、妹?」
「うん」
「それは……」
「妹じゃいけないの」
「いけなくはないけど、そういうのは、困る」
「どうして?」
「どうしてでも、やっぱりそれは、困るんだ」
もちろんぼくにだって、自分のどこが、なぜ困るのかぐらいのことは理解できていた。しかし考えてみれば、季里子とぼくは三つしか歳が違わないわけで、親父とお袋が離婚したのがぼくの六歳のときだから、年数的には勘定が合わないことになる。
キュロットスカートから伸びた季里子の長い脚を、しばらく複雑な気分で眺めてから、ぼくが言った。
「君の歳、十八だよな」
「………」
「おれが二十で、親父が家を出ていったのが十五年前。おれと君が兄妹だと、歳が合わないだろう」
「お父さんはわたしが五つのとき、お母さんと結婚したの」
「そのはずなんだ、だから……」
「わたしはお父さんのこと、ずっと本当のお父さんだと思っていた」
緊張していた背中に、気の抜けた風が吹いて、冗談ではなく、ぼくは座っていた石から尻《しり》を滑らせてしまった。季里子の言っている意味は、要するに親父は季里子の義理の父親で、季里子とぼくは義理の兄妹であった期間があるという、それだけのことではないか。その期間にぼくは季里子のことを知らなかった。ぼくたちの兄妹関係は知らない間に始まって、知らない間に終わっているのだ。季里子が風変わりな性格であることは分かっていたが、これからずっとつき合うとしたら、ぼくも覚悟を決める必要がある。
デイパックから黄色いタオルを取り出し、そのタオルを首にひっかけて、長い腕で長い脚を抱え込みながら、季里子が言った。
「初めて会ったとき、あんたのこと、他人じゃない気がした。お父さんと初めて会ったときも、そんな気がした」
「君の本当のお父さんは、どうしてるんだ?」
「お父さんは一人しかいないわ」
「それは、まあ、そうだな」
「お父さんはいつも、わたしに本当のお父さんだと言っていた。死ぬときだって、一番最後に、お父さんはそう言った」
親父という人もずいぶん面倒な遺産を残していったもので、季里子がなにかの勘ちがいでぼくを実の兄だと思い込んでしまったら、その責任は誰がとってくれるのだ。
「いろいろ、あるだろうけどさ」と、腰をあげ、季里子に会釈をしてから、水を汲《く》んできた手桶《ておけ》を拾いあげて、ぽくが言った。「夏休みだし、面倒なことはこれから、ゆっくり考えればいいさ」
季里子も立ちあがって、魔法瓶の蓋《ふた》を閉め、躰《からだ》全体を使って、こっくんと頷《うなず》いた。
「わたし、昨日《ゆうべ》から考えていたの」
「なにを」
「あんたのこと、なんて呼ぼうか」
「ふーん」
「お兄さんなんて、恥ずかしいわ」
「君も忙しいな、急に父親が死んだり、兄貴ができたり」
「わたしの運命ね」
「運命……か」
「どうする?」
「運命なら仕方ないさ」
「今日のことよ」
「ああ、今日の運命か」
季里子がデイパックに魔法瓶を放り込み、帽子の下から、丸い目でぼくの顔を見あげてきた。
「あんた、お金、持ってる?」
「うん……」
「夕飯を奢《おご》れる?」
「マクドナルドなら十軒でもはしご[#「はしご」に傍点]できるさ」
「そう、あんた、お金持ちなんだ」
肩をすくめて、目だけで笑い、ぼくを促しながら、季里子が墓の隙間《すきま》を本堂へ向かって歩き姶めた。どこまで本気で『お兄さん』という台詞《せりふ》を使ったにせよ、季里子の精神構造を理解するには、まだ少し時間がかかりそうだった。
「ねえ、動物園、好き?」
「深く考えたことはないな」
「わたしは動物園と水族館が好き。お父さんもよく連れていってくれた。上野の動物園、行ってみる?」
「君、今日、日に当たりすぎだろう」
「帽子を被《かぶ》ってるわ。上野の動物園へ行って、水族館にも行って、それからアメ横へ行ってお好み焼きを食べるの。わたし一度、兄妹水入らずでお好み焼きを食べてみたかった」
ぼくは頭の中で、静かにため息をついたが、良くも悪くも、これが親父の残していった遺産なのだ。姉さんの件も本物らしいし、季里子みたいな女の子と知り合って、今年の夏は、特別に暑くなりそうだった。
季里子に並びかけ、黄色い帽子をうしろから抓《つま》みながら、ぼくが言った。
「君に一つ、白状することがあるんだ」
季里子が丸い目を倍ほどの大きさに見開き、汗の粒が金色に光る鼻の頭を、びっくりするほどぼくの顔に近づけた。
「おれ、初めてなんだ」
「動物園のこと?」
「いや」
「お好み焼き?」
「まさか」
「なんのことよ」
「女の子と墓場でデートするのは、生まれて初めてさ」
季里子が笑い出したのは、手桶《ておけ》を元の場所に戻して、二人して参道をおもて通りへ向かい始めたときだった。墓場での笑い方としてはずいぶん失礼なもので、しかし親父も墓の下に眠っている他の誰も、文句は言わなかった。灰色の猫が暑そうに歩いてきて、不思議そうな目で季里子の顔を眺めていた。風が椿《つばき》の葉をさわさわと揺すったが、それで涼しくなるほど素直な季節でもなかった。
ぼくは笑いつづける季里子の頭に、少し離れたところから、狙《ねら》いをつけてぽーんと黄色い帽子を放り投げた。この帽子も、青いデイパックも上野動物園も、まさか親父は、意識して残していったわけではないだろう。
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曇ってはいないが、晴れているわけでもない。電車の進行方向にブランコのある小さい公園と、黒い森が見える。駅の名前が『井《い》の頭《かしら》公園口』だから、その森が井の頭公園なのだろう。駅前にほとんど商店街はなく、八百屋や花屋や喫茶店が広い道の両側に、思い出したようにぽつぽつとつづいているだけの町だった。森が近いせいか空気の中に濃く木の匂《にお》いが混じっていて、人のざわめきと油蝉《あぶらぜみ》の声が森のほうから鬱陶《うっとう》しく響いてくる。
ぼくは風呂敷《ふろしき》に包んだガラスケースを右手にぶら下げ、井の頭公園口から南に伸びた歩道のない道を『明星学園』と看板の出ている方向に歩いていた。時間は指定されたとおり、夕方の四時で、径蹟大学の小宮教授の家は、駅から五分とはかからない場所のはずだった。
最初の十字路を越え、次の細い道を左に入った三軒めに、その四角いコンクリートの建物はあった。塀も灰色のコンクリートで、庭に背の高い木はなく、二階だての四角い屋根の上に衛星放送用のアンテナが丸く首を突き出していた。
門のインタホンを押すと、女の人の声がして、それから鉄の門扉が自動的に開き、ぼくは十メートルほどの敷石をまっすぐ建物へ歩いていった。大学の先生がこんなに儲《もう》かる商売なら、親父ももう少し真面目《まじめ》に勤めれば良かったろうに。
ドアを開けてぼくを中に入れてくれたのは、ぼくよりいくらか歳上の、色のうすい髪をワンレングスにした目のきつい女の人だった。女の人は興味もなさそうな顔でぼくにスリッパを出し、ぼくを玄関のとなりにある応接間に連れていってくれた。玄関も廊下も応接室も埃《ほこり》一つ見えないほど片づいていたが、居心地のいい片づき方とは思えなかった。
茶色い皮張りのソファに座り、壁に掛けられた馬鹿でかいエッチングの風景画を眺めていると、ドアが関いて、焦げ茶の替えズボンに白い開襟シャツを着た小宮先生が、女の人よりもっと無愛想な顔で部屋に入ってきた。田崎光生から蛸《たこ》の権威だと聞いていたので、内心ぼくは期待していたが、小宮先生の顔は蛸というよりも歳をとった鶏《にわとり》のようだった。学者の自尊心として、顔の似ている鳥類は研究したくなかったのだろう。
「なるほど、君が増井くんの息子さんか」と、向かいのソファに座り、鶏のような目でじろりとぼくの顔を見て、小宮先生が言った。「増井くんと君のお母さんの結婚式には、わたしも出席した」
さっきの女の人がジュースを持ってきて、グラスを一つずつぼくらの前へ置き、黙って部屋を出ていった。顔は奇麗だったが、どこかで会っても友達になりたくないタイプの女の人だった。
「増井くんが、亡くなったそうだね」
「はい」
「癌《がん》だって?」
「はい」
「わたしと同年《おないどし》だった」
「そうですか」
「学会には連絡が入っとらんな」
「父は学会の人間ではありませんでした」
小宮先生が気難しそうな顔で腕を組み、鶏のように首を伸ばして、尖《とが》った喉仏《のどぼとけ》をゆっくりと上下させた。
「まあ、田崎くんから話は聞いている。とにかくそのゴクラクトリバネアゲハとやらを拝見しようじゃないか」
頷《うなず》いて、風呂敷《ふろしき》包みを開き、ぼくは黙ってガラスケースを小宮先生の前へ押し出した。小宮先生は腕を組んだまま、ケースの上にかがみ込み、息をしているのかしていないのか、一分ほど動かない目でケースの中を覗《のぞ》きつづけた。
「こいつをニューギニアから持ち出すとは、増井くんも、無茶をしたもんだ」と、躰《からだ》を起こしながら、天井の方向に長いため息をついて、小宮先生が言った。「それが増井くんらしいといえば、まあ、増井くんらしいが」
しばらく小宮光生を感慨に浸らせてやってから、味のはっきりしないジュースを一口飲んで、ぼくが言った。
「これと同じ蝶が、もう一匹います」
ほう、と口をすぼめ、開襟シャツから突き出した干涸《ひから》びた腕を、小宮先生が軽くソファの背凭《せもた》れに引っかけた。
「これと同じ蝶ということは、これと同じ、新種というわけかね」
「なんですか」
「だから、そのもう一匹もこれと同じ新種かと訊《き》いているんだ」
ガラスケースに貼《は》ってある紙には、たしかに『ゴクラクトリバネアゲハの亜種、または新種』と書いてあるが、しかしぼくが大学の図書館で調べたかぎり、目の前の蝶は図鑑に載っていたとおりのゴクラクトリバネアゲハだった。
「もう一匹の蝶は見ていませんが、これ、新種なんですか」と、ぼくが訊いた。
「腹の色が違うんだ。一般種では腹の色は黄色だが、こいつはオレンジ色をしている」
「そういえば、そうです」
「大した違いはないといえば、大した違いはないが、まるで違うといえばまるで違う」
「腹の色が違うと、どれぐらい違うんですか」
「それは君、一般種とくらべて、腹の色が違うぐらい違うんだよ」
それが学問的問題なのか、禅問答的問題なのかは知らないが、ぼくにしても小宮先生に因縁を付けにきたわけではなかった。小宮先生の顔が鶏に似ていようと、女の人が無愛想だろうと、それは小宮家の間題だった。
苛立《いらだ》ちはじめた気分を、無理やり鎮めて、ぼくが言った。
「父はもう一匹の蝶を、ぼくの姉に残していきました」
「ほーう」と、首を伸ばして、また小宮先生が腕を組んだ。
「先生が父と母の結婚式に出られる前に、父にはもう子供がいたこと、ご存知ですか」
「なるほどな」
「はい?」
「君がわたしに訊きたいというのは、そのことか」
「そのことです」
「もちろんわたしは、知っているがね」
「教えていただけませんか」
「なにを?」
「当時の事情や、姉の名前です」
「知らんのかね」
「父が死んで、姉がいることを初めて知りました。会ったこともなければ聞いたこともありません。ぼくの母も、父と一緒に暮らしていた人も知らないそうです」
「まったく、増井くんらしいといえば、増井くんらしい」
腕を組んだまま、天井に目をやり、うすく尖《とが》った鼻の先を小宮先生が笑った形に歪《ゆが》めてみせた。
「いまさらそれを知って、君はどうするんだね」
「蝶を渡します」
「蝶を、渡すだけか」
「父の遺言です」
「蝶を、渡せという?」
「はい」
「他に財産は?」
「ありません」
「まったく……」
「父らしいですか」
小宮先生が腕組みを解き、ジュースのグラスを引き寄せながら、ソファに座り直してぼくの顔に目を細めた。
「杉田とか杉原とか、杉がつく名前だったような気もするが、残念ながら正確には覚えておらん。大学の同僚ではあっても、個人的なつき合いをする友人ではなかった。もっとも増井くんに個人的なつき合いをする友人がいたかどうか、わたしには分からんがね」
「父と女の人の間に子供がいたことは、事実なんですね」
「そういう話は聞いていた」
「その女の人と子供は、どうしました?」
「相手方の親に引き取られた。もともと結婚していたわけじゃなく、一緒に暮らしてる間に出来てしまった子供らしい。大学でも問題になったが、増井くん自身は問題になろうが噂《うわさ》になろうが、気にする男ではなかった。あれで常識があれば、学者としても一流になれたかも知れんがね」
「相手の名前、やっぱり、思い出せませんか」
「思い出せんな。京都かどこかの和菓子屋の娘で、美大の大学院に通っていたはずだ」
「京都の、和菓子屋の、娘ですか」
「そういう噂だった。なんせもう二十五年も昔の話だ、わたしの記憶違いかも知れん。相手の親が怒って、彼女と子供を実家へ連れ帰ったんじゃなかったかな」
「京都の和菓子屋の娘で、美大の、大学院生……」
「心当たりでもあるのかね」
「いえ」
「増井くんも無茶な男だったよ。ああいうタイプの学者、一見派手に見えるが、けっきょくは最後まで講師どまりだった。蝶々で言えば迷い蝶ってやつだ」
「迷い、蝶?」
「そういう蝶がいるもんなんだ。日本にもフィリピンあたりからふらふら迷い込んでくる。定着もせず、繁殖もせず、なんのためになん千キロも飛んでくるのか分からんが、本人は呑気《のんき》に生きて呑気に死んでいく。それでいいと言えば、まあ、それでいいわけだ」
「父は、繁殖だけは、しっかりやっていました」
「言葉のあや[#「あや」に傍点]だよ。蝶なら迷っても構わんが、人間となると傍《はた》迷惑なこともある。違うかね」
「そうかも知れません」
「君はこのゴクラクトリバネアゲハ、売る気はないのか」
「ありません」
「考えてみてもいいんじゃないのか」
「それは、そうです」
「手放すということになれば相応の値段でわたしが引き取るよ」
「まだ、なにも考えていないんです。とにかく姉を探して、もう一匹の蝶を渡さなくてはなりません」
背中のあたりが熱くなったように落ち着かなくて、ぼくは会話を休むためにだけグラスを手にとり、意識的に、少し長くストローをくわえつづけた。今まで漠然《ばくぜん》としていた親父の存在感が、女の人の登場で突然|手応《てごた》えを持ってしまった。女の人と一対になって、やっとイメージを結ぶしかないのは、親父としても残念だったろうが。
「自分の蝶の処分は、もう一匹のゴクラクトリバネアゲハを姉に渡してから考えます。当時のことで、他になにか思い出せませんか」
小宮先生が首を伸ばし、蝶の入ったガラスケースを膝《ひざ》に引き寄せて、小さく欠伸《あくび》をした。
「友部恵子という女流画家は、知っているかね」
「いえ」
「フランスでなんとかいう賞を取った、有名な画家だよ」
「友部恵子さん……」
「いつだったか新聞社のパーティーで一緒になって、話しているうちに増井くんの名前が出た。彼女は美大時代、増井くんと暮らしていた女の親友だったそうだ」
「友部さんの連絡先は、分かりますか」
「わたしが知るわけないだろう。新聞社にでも問い合わせたらどうかね」
「父が大学をやめた直接の理由を、できれば、聞かせて下さい」
「そりゃあ、まあ、辞めたというより、辞めさせられたわけだ」
視線を蝶にやったまま、ぼくにも親父にも興味のなさそうな顔で、小宮先生がまた鼻の先を笑わせた。
「もともと増井くんは、大学とか学会とかの縦社会には馴染《なじ》まない人間だった。他人の研究にも首をつっ込むし、教授の許可を得ないで勝手に本を出したりしていた。十年前、イギリスの専門誌に『欲求進化説』という論文を発表してね、これも指導教授の許可を得ていなかった。その論文が学会で話題になったもんだから、教授としても黙っていられなかったわけだ。よくある話といえば、よくある話だよ」
親父の歴史や、生活と仕事に対する距離の取り方が分かってきた今、親父の勝手さはぼくにも実感として理解できる。それと同時に、組織のほうが親父のような人間を排除する構図も、やはり理解できる。傍《はた》迷惑だった親父の人生を、今では直接ぼくが背負い込んでいるのだ。それでいながら、どうも、ぼくは親父という人間に愛着を感じ始めている。迷い蝶だろうが迷い学者だろうが、親父は好ましいものと好ましくないものを厳密に区別できる人間だったに違いない。傍迷惑であろうと、自分勝手であろうと、基本的な部分で悪意のある人間ではなかった。そうでなければ季里子が、墓の前で、あんなふうに泣くはずはない。
ドアにノックの音がして、さっきの女の人が顔を出し、部屋には入らず、戸口のところから無表情な目で小宮先生に声をかけた。
「あなた、サンデージャーナルの中村さんが来月ぶんの原稿を取りに来たわ」
小宮先生がガラスケースをテーブルへ戻し、背中をソファに引いて、面倒臭そうな目でぼくの顔をうかがった。
「それでは、もう、失礼します」と、立ちあがって、蝶のケースを風呂敷《ふろしき》に包みながら、ぼくが言った。
「わたしも君の姉さんとやらの消息は当たってみる」と、座ったまま、小宮先生が言った。
ドアの前まで歩き、立ち止まって、お辞儀をし、ついでに、ぼくが訊《き》いた。
「親父の『欲求進化説』というの、簡単に言うと、どういうことですか」
「簡単に言うと、すべての生物は欲求によって進化したということだ」
「ずいぶん簡単ですね」
「人間は猿から人間になりたいという欲求[#「欲求」に傍点]によって人間になった。犬もゴキブリも象もキリンも、みんなそうなりたいと思う意思の積み重ねでそうなったと、まあ、そういうことだ」
「先生は、どうお考えですか」
「わたしは、進化なんて、普通の突然変異説でいっこうに構わんね。たとえわたしが蛸であっても、足なんか八本も欲しいとは思わんよ」
お辞儀をし直し、ドアの外に立っている女の人にも挨拶《あいさつ》をして、ぼくはそのまま、まっすぐ玄関へ歩いていった。どうでもいいことだが、蛸の養殖の成否が小宮先生の研究にかかっているとしたら、蛸にとっても人間にとっても、あまり幸せなことではないだろう。蛸だって蛸なりに、足が八本必要な理由が、なにかあるに決まっているではないか。
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井の頭公園口駅からぼくが原宿へ向かったのは、原宿で季里子と待ち合わせをしていたからだった。原宿で待ち合わせをした理由は、季里子が「原宿を見たい」と言ったからで、なぜ季里子が原宿を見たかったのかといえば、季里子は今まで、生まれてから一度も「原宿を見たことがない」からだった。
原宿なんて小学生でも遊びに行くし、地方の高校生だって修学旅行にやってくる。本郷で生まれた季里子が原宿を知らないというのは、考えてみれば、かなり奇抜な経歴だった。ただぼくも季里子と知り合ってから、時間がたったせいか、季里子の日常や価値観に、それほど神経質な反応はしなくなっていた。季里子が一年間高校に通っていないと言うのだから、そうなのだろうし、毎日外に出ないで本を読んでいると言うのだから、それもそうなのだろう。季里子が困らないのにぼくが困っても仕方はない。人生が困るか困らないかなんて、みんな考え方の問題なのだ。
約束の六時には少し遅れたが、竹下口から二十メートルほど渋谷寄りの歩道で、ぼくはかんたんに季里子を発見した。この時間に原宿の駅前で待ち合わせた相手を見つけるには、本当なら神がかり的な偶然が必要なはずだった。季里子の無防備な存在感に、神様もおまけ[#「おまけ」に傍点]をしたのだろう。季里子は明治通りのガードレールに尻《しり》をのせ、車道側に顔を向けて竹下通りの入り口あたりを眺めていた。白いジーンズにピンク色のポロシャツを着ただけの季里子が、ステージ衣装《いしょう》を着てスポットライトを浴びているように、その場所で、無邪気に輝いていた。
「やあ……」と、それが唯一のお洒落《しゃれ》らしいグレゴリーのデイパックを、上から軽く叩《たた》いて、ぼくが言った。「デートの相手が遅れたときは、もう少し神妙な顔をしてるもんだ」
季里子がガードレールから飛びおり、白い前歯を隠すように、口をへの字に結ばせた。こんな子が生まれてから一度もデートをしたことがないというのも、これも神様のおまけ[#「おまけ」に傍点]なのだろうか。
人の流れの中に季里子を促して、歩きだしながら、ぼくが言った。
「今日は帽子、被《かぶ》っていないんだな」
「………」
「けっこう似合ってる」
結んだままの口を尖らせ、季里子が目で「なに?」と訊《き》いてきた。
「髪形さ。原宿に合わせて、短く切ってあるように見える」
「十分の遅刻よ」
「うん」
「わたしは約束より十分先に来ていた」
「電車が来なかったんだ」
「十分も遅れて来たくせに、髪のことまで言わないで」
最初から季里子がここまで素直に口をきいてくれれば、今日のデートは気合いの入り方が違ってくる。親父や家族の歴史を引きずりながら、この時間があるのでなかったら、ぼくは原宿の人混みに向かって口笛でも吹きたい気分だった。手に持った蝶のケースを煩わしく感じたのは、ケース自体の責任ではなかった。
「姉さんという人のこと、少し分かりかけてきた」と、明治通りを竹下通り側へ渡って、うわつきそうになる気持ちをおさえながら、ぼくが言った。「姉さんの母親という人は、親父と正式には結婚していなかった。京都から東京へ来ていた美大の大学院生で、姉さんが生まれたあと、京都へ帰ったらしい」
となりを歩いている季里子が、ふーんと顎《あご》を突き出し、歩きながら、人混みを透かすように小さく背伸びをした。
「アメ横より混んでるわ」
「親父、京都へはよく行っていたのか」
「知らない。お父さんはいつもどこかへ出掛けていた」
ぼくを無視して、スキップを踏むように、季里子が人の流れの間を強引に雑貨屋の中へ入っていった。ゴクラクトリバネアゲハやぼくの姉さんよりも、季里子にはビニールポーチやガラスのアクセサリーのほうが重大事なのだろう。
季里子は狭い雑貨屋の中を睨《にら》むような目つきで進んでいき、壁に止めてあるTシャツやカバンの前で足を止めては、その度に肩へ力を入れて、大きくため息をくり返した。原宿の雑貨屋にこれだけ感激する女の子は、東京ではもう貴重品の部類だ。ぼくは親父と姉さんの存在を頭から閉め出し、季里子と歩くだけで今日の仕事は完了させることにした。気持ちのいい時間は、面倒なことを考えずに気持ち良くすごせばいい。
季里子がなにかをレジへ持っていき、金を払って、受け取った小さい紙包みを背負ったままのデイパックに、もぞもぞとしまい始めた。腕が長いのか、躰《からだ》が軟らかいのか、その仕草は拍手したくなるほど器用なものだった。
「なにを買ったんだ」と、店から出てきた季里子の背中を、人混みの中へ押しながら、ぼくが言った。
「教えない」
「どうして」
「いいの」
「いい物?」
「いちいち訊かないで」
「強情なんだな」
「女の子の買い物に興味を持つのって、いやな性格よ」
「日常会話さ、興味を持ったわけじゃない」
季里子の買い物に、本心ではけっこう興味を持っていたが、『兄貴』としてはそれぐらいの見栄は仕方のないところだ。
「人が多いね」
「夏休みだからな」
「お店も多い」
「原宿だからな」
「たまには原宿も来てみるもんだわ」
「君、買い物はアメ横へしか行かないのか」
「新宿へも行く」
「へええ」
「今までに三度行った。でもあそこ、疲れるわ」
竹下通りを途中まできて、人混みやブティックにうんざりしかけたとき、季里子がファッションビルの前で足を止め、目で「入っていいか?」と尋ねてきた。打診されなくても今日は『季里子の日』と覚悟を決めたので、季里子の真似《まね》をして、ぼくはうんと頷《うなず》いてやった。
ファッションビルの中は、冷房が激しくきいていて、散歩の途中で一息入れるだけなら、ちょうどいい涼しさだった。季里子はブースごとに詰め込まれたTシャツや雑貨の間を、いちいち頷きながら検分して歩き、ぼくはその季里子のあとを、笑いを我慢しながらひたすら追いかけ回した。季里子の歩き方は整然と自分勝手で、興味のないブースには義理にも顔を向けなかった。
店の中の狭い階段をあがり、二階のフロアへ出て、右側に歩き出したとき、声をあげて季里子がスニーカーの足をつっ張らせた。進んでいく先に、女の子のパンティーが山盛りにデコレイトされた、夢のようなコーナーがあったのだ。
季里子が肩に力を入れて、低く唸《うな》り、ぼくの顔を見あげて一歩横に足を踏み出した。
「待っていてくれる?」
「パンティー、買うのか」
「………」
「選んでやってもいいぞ」
「………」
「おれは構わない」
「そういうことする男、わたし、嫌い」
季里子が強く頷いて、勝手に歩きだし、ぼくは歩いていく季里子のうしろ姿を、エチケットとして黙って見送った。ぼくだって本当は女の子の下着売り場は苦手で、香織につき合わされるときも内心では必死に腋《わき》の下の汗と格闘しているのだ。
階段の横の壁に寄りかかり、ズボンのポケットに両手をつっ込んで、フロアをうろつく女の子や男たちを、ぼくはぼんやり見物していた。女の子たちが無表情なのにくらべて、男たちのほとんどは唇を弛《ゆる》めて頬《ほお》に困ったようなうす笑いを浮かべていた。無表情な女の子も笑いつづける男も、飽きないほど魅力のある風景ではなかった。
ぼくが自分の視線の方向を自分で意識したのは、五、六分女の子たちを観察した、そのあとだった。いつの間にか正面のポスターを眺めていて、たぶん一分ほど、緊張しながらぼくはそのポスターを眺めていた。それは女の人の顔が大写しになった口紅のポスターで、化粧品コーナーのうしろの壁に一枚だけ赤いピンで止めてあった。ぼくがそのポスターを意識したのは、デザインが特殊だったからでもなく、口紅に興味を待ったからでもなかった。モデルになっている女の人が香織に似ていたのだ。香織とは三日後に館山《たてやま》へ行く約束になっていた。
「困ったもんだ……」と、頭の中でひとりごとを言って、ポスターから視線を外したとき、困った現実はもう目の前に迫っていることに、ぼくは突然気がついた。自分ではポスターを眺めているつもりだったが、ポスターの横には染めた髪をボブカットにした、見事なまでに厚化粧の女の人が立っていたのだ。女の人はぼくに向かって、なにを勘ちがいしたのか、凄《すご》い顔でにっと笑いかけていた。ぼくは条件反射でつい笑い返し、五メートルほどの距離を、仕方なく化粧品売り場のカウンターまで歩いていった。
「下着売り場に入れない男の子って、案外多いのよね」と、相変わらず目で笑いながら、歯茎が丸ごと見える喋《しゃべ》り方で、女の人が言った。
「男の化粧品、ないんですか」と、ぼくが訊《き》いた。
「あんた、化粧するの?」
「そういう化粧品じゃなくて、ローションとか、ムースとか」
「男性用のって置いてないのよ。だってこのビル、女の子用のアイテムでクリエイトされてるじゃない。男の子ってデートの最中は自分の化粧品を買わないものなの」
「そういうもんですか」
「そういうものよ。さっきの女の子、あんたの彼女?」
「妹です」
「妹? へええ、もったいないわねえ」
「もったいなくは、ないです」
「彼女だったら友達に自慢できたのに」
「妹だって自慢はできます」
「でも彼女だったら、もっと自慢できるでしょう? あたしこの店に出て三年になるけど、あんな可愛《かわい》い女の子、初めて見たわ」
「その……」
「なあに?」
「口紅、一本買おうかな」
女の人が手で口をおさえて笑い、アイシャドーを濃く塗った目尻《めじり》に、激しく小皺《こじわ》を刻ませた。二十五ぐらいかと思っていた歳も三十は越えているらしかった。
「まさか、あんたが自分で塗るんじゃないわよねえ」
「お袋へのプレゼントです」
「そうなの。でもお母さんも幸せだわ、自分の子供が二人とも可愛くて」
「あなたの顔もじゅうぶん人目を引きます」
「あたしなんか化粧で誤魔化してるだけよ。子供だって三人もいるんだから」
「大変ですね」
「それで、口紅、どういうのがいい?」
「オレンジ色」
「今年はローズ系が流行《はや》りよ」
「オレンジ系がいいです、夏の色だし」
女の人がカウンターの向こうへ屈み込み、手を伸ばして、サンプル用の口紅をケースごと掴《つか》み出した。
「オレンジ系って、数が少ないのよね」と、ケースの中から、五、六本の口紅を抜き出しながら、女の人が言った。「どういう感じ? パールっぽいの? パステルっぽいの?」
「パステルっぽいの」
「それじゃこれだわ。オレンジ系のわりに品があって、華やいだ雰囲気もあるの」
女の人が自分の手の甲にサンプルを塗り、光の角度を変えるように、二、三度手首を、くるくると動かした。
「いい色でしょう?」
「はい」
「もう少し濃いのもあるけど?」
「それでいいです」
「四千五百円」
「はい」
「誕生日かなにか?」
「そんなとこです」
「他に要らない?」
「口紅だけで、いいです」
それが癖なのか、女の人がまた歯茎を剥《む》き出し、商品棚から箱入りの口紅を抜いて、鼻歌を歌いながらレジの横で口紅を包み始めた。最初に女の人がぼくに向かって笑いかけたと思ったのは、もしかしたら、生まれつきの、そういう顔なのかも知れなかった。
口紅のパッケージが出来あがり、ぼくが受け取ったとき、下着売り場の衝立《ついたて》から季里子が顔を覗《のぞ》かせて、両腕を頭のうしろへ回しながら階段のほうに歩いてきた。今回も買った紙袋を背中のデイパックに納めようとしていたが、袋の大きさの分だけ、背負われたままのバッグは季里子の意見を聞いてくれなかった。なぜ季里子がバッグを下ろして袋をしまわないのか、理由が分からず、女の人に会釈だけして、ぼくは季里子の前へ歩いていった。
「入れてやろうか」
「いや」
「どうして」
「だって、わたしの、あれ[#「あれ」に傍点]だもの」
「あれ[#「あれ」に傍点]だって、一度も穿《は》いていなければただの布切れだ」
「わたしが選んでわたしが買って、わたしが穿くんだもの」
「見せろなんて言ってないさ」
「触られるのもいやなの」
「他人行儀だな」
「他人行儀でもいいの」
「それならバッグを下ろしてからしまえばいい」
「わたし、背負ったまま物をしまうの、得意なんだもの」
面倒臭くなって、ぼくは季里子の頭に拳骨《げんこつ》をくれ、怯《ひる》んだ隙《すき》に、パンティーの紙袋を口紅の包みと一緒にデイパックへ押し込んだ。季里子は首をふってなにか唸《うな》ったが、ぼくがバッグのジッパーを閉め終わるまで、泣き出しも走り出しもしなかった。男が下着に触っただけで子供ができるとまでは、さすがに、季里子も信じてはいないようだった。
「アイスクリームでも食べるか」
季里子は丸い目を怒った色に光らせ、頬《ほお》も怒った形にふくらませていたが、それでも頷《うなず》いて、ぼくと並んでフロアを階段のほうへ歩き始めてくれた。
化粧品コーナーの前を通ったとき、女の人が首を伸ばして、ぼくに凄い顔で笑いかけた。女の人はやはり、生まれつきのそういう顔立ちだったのだ。
ファッションビルを出てぼくらが行ったのは、竹下通りから細い路地を右に入った、『宿命倶楽部』という名前の喫茶店だった。店の中にいろんな占いコーナーのある女の子向けの喫茶店で、ぼくも情報としては店の名前を知っていた。原宿初体験の季里子まで知っていたということは、女の子業界ではそれなりに権威のある店らしかった。アイスクリームを『宿命倶楽部』で食べると言い出したのは、もちろん、季里子のほうだった。
その狭苦しい店の小さいテーブルに着き、季里子がバニラと抹茶のダブルアイス、ぼくがアイスレモンティーを注文して、ぼくたちは同時に、ふっと笑い出した。ぼくが笑ったのは席についても季里子がデイパックを肩からおろさなかったからで、季里子が笑った理由は、ぼくには分からなかった。
店の中を見回して、盛況ぶりに一応感心しながら、ぼくが訊《き》いた。
「いったい、なにを占うんだ?」
取り出したハンカチで首の下の汗を押さえ、上目づかいに目を見開いて、ぷすっと、季里子が唇を鳴らした。
「いろんなこと」
「いろんな、なに」
「いろんなこと、ぜんぶ」
「ぜんぶ……か」
「占いって、大好き」
「女の子だもんな」
「今日も家を出る前に暦を見たら、先負だった」
「先負って、縁起がいいのか」
「午前中は縁起が悪いけど、午後はいいの」
「先負でなかったら、デートもできなかったわけだ」
「今日、デートなの?」
「たぶんな」
「そうなの」
「難しく考えることはないさ」
「でも考えたら、やっぱりデートみたい」
「考えなくてもデートだろう」
「凄《すご》いな」
「そうでもないさ」
「デートって、やってみると意外と簡単だわ」
「今まで一度もデートしたこと、ないのか」
「一度、ある」
「あるのか」
「中学三年のとき」
「相手は?」
「となりのクラスの男の子。小石川の植物園に行った」
「変わったところへ行くんだな」
「でもすぐ帰ってきた」
「どうして」
「その子が、わたしの手を握ろうとしたから」
中学三年で、しかもデートと名目が決まっている以上、男なら誰だって手ぐらい握るだろう。そんなことですぐ[#「すぐ」に傍点]帰られたら困ってしまうが、季里子がそのときすぐ帰ってきたことについて、ぼくは心から褒《ほ》めてやりたい気分だった。
アイスティーとアイスクリームが来て、季里子がウエイトレスに占いをリクエストし、それから五分ぐらい、ぼくらは黙ってお互いの行為に熱中した。季里子はアイスクリームを食べることに熱中し、ぼくのほうは季里子の皮膚のうすい唇や長い睫《まつげ》の微妙な表情を見物することに、自分でも呆《あき》れるぐらい熱中していた。
順番がきて、ウエイトレスに促され、季里子が席を立ってぽんとぼくの肩を叩《たた》いた。
「なんだ」と、ぼくが訊《き》いた。
「行くの」
「どこへ」
「あそこ」
季里子が顎《あご》をしゃくったのは、店の隅にある低い衝立《ついたて》のあるコーナーで、そこにはパソコンのディスプレイと金色の鉢巻きをした女の人が、煙草の煙の中で力強く座っていた。季里子がリクエストしたのは、『コンピュータによる魔界星座占い』とかいう、名前を聞いただけで当たってしまいそうな占いだった。
季里子がまたぼくの肩を叩き、勝手に歩き出して、仕方なくぼくもうしろに付いていった。ぼくは占いにもコンピュータにも、金色の鉢巻きにも興味はなかったが、今日が『季里子の日』であることだけは、しっかりと認識していた。
ディスプレイのとなりで煙草を吸っていた女の人は、頭に金色の鉢巻きを太く巻き、肩にもきらきら光るうすいショールを掛けていて、マニキュアと口紅にも恐れ入るような金色を使っていた。ぼくは一瞬高森のおばさんを思い出したが、おばさんほど迫力のある個性は感じられなかった。
「まず名前と生年月日、それと血液型を言ってちょうだい」と、煙草を指に挟んだまま、ちらっと季里子の顔を見て、女の人が言った。
「高森季里子。一九七三年、六月二十八日。血液型はO型」と、椅子《いす》に膝《ひざ》を揃《そろ》えて座り、神妙に顎を引いて、季里子が答えた。
女の人がキーボードを打ち込み、画面に英語|綴《つづ》りの季里子の名前と、生年月日が写し出された。
「彼氏のほうは?」と、画面に目をやったまま、女の人が言った。
「なんですか」と、ぼくが訊いた。
「名前や生年月日」
「ぼくは、いいです」
「よくないわよ」
「ぼくは、ただの、付き添いです」
「付き添いでもなんでも、名前と生年月日と血液型が必要なの。それが分からなくちゃ相性が出ないわ」
「相性って」
「あんたたち二人の相性よ」
「この占い、そういうことを見るんですか」
「他になにか、見ることある?」
季里子が肘《ひじ》で、ぼくの脇腹《わきばら》を小突き、目配せをしながら、二度|頷《うなず》いた。季里子は雑誌かなにかで最初から情報を仕入れてあるらしかった。
「笹生礼司。一九七〇年、十一月十三日。A型」と、ほとんど自棄《やけ》で、ぼくが言った。
女の人がそれをまたキーボードに打ち込み、別なキーを操作して、画面一杯に小さい文字を浮きあがらせた。
「高森季里子さん、あなたは典型的な蟹座《かにざ》の生まれね。自己防衛本能が強く、家庭に強く執着する保守的な傾向があります。他人の影響を受けやすい傾向もありますが、環境への順応力も高く、人生を現実的に乗り切る能力を特っています……と、まあ、詳しいことはあとでプリントしてあげるわ」
女の人が新しい煙草に火をつけ、長く煙を吐いてから、ぼくの顔に流し目をくれて、なんの意味でか、一つ低く喉《のど》を鳴らした。
「笹生礼司さん、あなたは蠍座《さそりざ》で、強いプライドと向上心の持ち主です。社交的な反面孤独を好む傾向があり、文学や芸術といった創造的なものに強く心を引かれます。そのぶん独断的なところがあって、他人とのトラブルも多い運勢です。これもあとでプリントしてあげるわ」
どうも、ぼくにだけ非好意的な占いをしたような気もするが、どっちみちぼくは占いなんて信じていないのだ。ぼくが大学を受けた日も運勢は最低だったし、香織との関係だって、星占いでは最悪の相性だった。
「さてと、いよいよ二人の相性だわ」と、くわえ煙草で、ボードのキーを強く叩《たた》きながら、女の人が言った。「このデータを入力するのに、あたし、三か月もかかったのよ。今まで当たらなかったことなんてなかったから、結果は百パーセント信用していいわ」
画面がぱたぱたと入れ代わり、五重の円に内接した、かなり整った太い線の五角形が現れた。
「あら……」
煙草の灰を膝《ひざ》に落とし、ぼくらの顔を見比べて、女の人が忙《せわ》しなく金色の鉢巻きを震わせた。
「こんなことって、あるかしら」
「なにか、具合いが悪いんですか」と、ぼくが訊《き》いた。
「そうじゃないの、そうじゃないんだけど……」
女の人がまたキーを操作し、図形の大きさを半分にして、余白の部分に解説らしい細かい文字を呼び出した。
「大変。こんなことって、初めてだわ」
「悪い占いですか」
「その逆。良すぎるの。こういうことって、あるのかしらねえ」
いい占いが出て、その占った本人が驚いているぐらいだから、それはよっぽどいい占いなのだろう。もっとも女の人だって商売でやっているわけだから、驚いてみせるのも営業上のパフォーマンスなのかも知れない。
「あたし、このデータを入力するのに半年もかけたけど、こんなに相性のいいカップルが出るなんて、自分でも信じられないわ」
さっきはたしか、データの入力に三か月かけたと言ったはずだった。それが思わず倍になってしまうほど、そんなに凄《すご》い相性なのか。
「とにかく、なにからなにまで完璧《かんぺき》だわ。あんたたち、どういう関係?」
「普通の友達です」
「嘘《うそ》でしょう? あたしはごまかせても、コンピュータはごまかせないわよ。金星と火星がまったく同じエレメントにあって、恋愛の相性が百パーセントになってるわ。こんなこと、今まで一度もなかったんだから」
「コンピュータも、たまには間違います」
「入力はあたしがしたの。間違うわけないじゃない。だいいち結婚の相性だって彼女の太陽と彼氏の月が画一サインにあって、これも理想的。セックスの相性もお互いの火星が同じエレメントだし、二人のサン・サインがそれぞれオポジションの位置にきてる。自分で言うのも変だけど、あなたたち、相性が良すぎて怖いぐらいだわ」
女の人の使う専門用語が、理解できなくても、要するにぼくと季里子の相性はセックスまで含めて『非常に怖い』ということらしい。しかし、どうでもいいが、セックスの相性が怖いというのは、どんなものだろう。
季里子が、となりで大きく息を吐き、汗でも滲《にじ》んだのか、反らせた長い指をジーンズの膝《ひざ》に強く掌を擦《こす》りつけた。横から見ると細い顎《あご》に妙な力が入っていて、冷房がきいているのに鼻の頭には霧のような汗が光っていた。
「一つ今、気になることがあるんです」と、自分で出した画面に自分で感激している女の人に、ぼくが訊《き》いた。「ぼくが探している人、見つかるでしょうか」
「尋ね人?」
「はい」
「そりゃ駄目だわ」
「駄目ですか」
「そうじゃなくて、失せ物や尋ね人はあたしの専門じゃないの、八卦《はっけ》とか水晶占いとかでやってみることよ。とにかくあんたたち、二人の相性はあたしが保証する。一種の、なんて言うか、宿命みたいなもんかしらねえ」
女の人がプリンターに用紙をセットし、キーを操作して、画面のデータをかたかたとプリントし始めた。
「今夜家に帰ってからあたしも研究し直してみるわ。こんな結果が出たの、冗談じゃなく初めてなのよ。占いをやってるといいことも悪いこともあるけど、世の中には嘘《うそ》みたいにいい相性って、本当にあるものなのねえ」
女の人が感激してくれるのは有難いし、ぼくと季里子の相性が感動的であることも、悪いことではない。しかし占いは占いで、当たるか当たらないかの確率は、良くて半々だろう。それに相性だけ良くても、男と女には、どうにもならない関係というやつがある。
季里子の膝小僧《ひざこぞう》のあたりを、軽く指で突いて、ぼくが言った。
「君、他に占ってもらうこと、ないか」
肩に力を入れて、季里子がうんと頷《うなず》いた。それが「ない」という意味であることは、ぼくにも理解できる時間がたっていた。
プリントが出来あがり、女の人が用紙を季里子に渡して、ぼくらはまた、最初に座った窓際の席へ戻っていった。占いの間中季里子はほとんど喋《しゃべ》らなかったが、季里子が喋らないことは、不自然なことではなかった。
コップに残っていた水を飲んでから、やはりコップを唇に当てている季里子に、ぼくが言った。
「占いなんて、当たってから信じても遅くないんだ」
コップの縁を強く唇に押しつけたまま、怒ったような目で、季里子がふーんと長いため息をついた。季里子の膝にはプリントされた占いの用紙がのっていて、まだ掌が汗ばむのか、コップを持ちかえてはしきりに掌をジーンズにこすりつけていた。
「占いが当たるように、おれも努力をする」
「………」
「努力をして駄目だったら、努力をしなかったときより、少しだけ諦《あきら》め切れる」
季里子が珍しく首を横にふり、下唇に力を入れて、広い額に、神経質そうな皺《しわ》を刻ませた。
「わたし、そういうのは、いや」
「そういうのって」
「努力をして、駄目で、諦めるようなこと」
「努力をしても、駄目なことが、たまにはあるさ」
「そういうのはいや」
「いやでもなんでも、仕方ないときは仕方ないさ」
「いやなものは、いや」
「強情だよな」
「強情でもいいの」
「さっきの占い、君の性格については、当たっていなかった」
「………」
「セックスの相性だって、たぶん当たってないさ」
コップの水を飲み干し、内心赤面しながら、季里子に気づかれないように、ぼくは静かに深呼吸をした。最初の日に見てしまった季里子の小さい乳首が思い出されて、ぼくの心臓は困った動悸《どうき》を打ち始めていた。占いも宿命も、相性も信じてはいないが、ただ季里子が目の前で怒っているだけで、なぜ世界はこんなに平和なのだろう。季里子みたいな女の子と十年以上も暮らした親父に、ぼくのどこかが、嫉妬《しっと》に似た気持ちを感じ始めていた。
それから五分ほどで、『宿命倶楽部』を出て、ぼくらはまた原宿探検を再開した。ふだん家に籠《こも》っているわりに季里子の足は速く、竹下通りぞいに並んでいる靴屋からブティックまで、駆け足に近い速さで精力的に歩き回ってくれた。暑いし、人は多いし、季里子を見失わないように付いていくだけでぼくには息切れがするほどだった。歩き始めたばかりの子供を遊園地に連れていく父親の気持ちは、こんなものだろうかと、ぼくは素直に納得した。
一時間たっぷり歩き回って、やっと疲れたらしく、夕飯を食べようというぼくの提案に、季里子が力強く頷《うなず》いた。ぼくらは明治通りを青山側へ渡って、嘘《うそ》みたいに人通りのない路地を表参道とは直角の方向へ歩いていった。原宿まで来たのなら夕飯はその店にしようと、探検の途中でぼくは決心していたのだった。
その店は民家風の玄関に、知らなければ見過ごしてしまいそうな小さい看板が出ているだけで、路地を偶然通った人間には入る気を起こさせないような、排他的な店だった。経営方針の是非は別にして、出てくる料理の味と量に関しては、ぼくは大いに満足していた。中華風の料理は質量ともに完璧《かんぺき》で、季里子の積極的な食欲にも簡単に対応するはずだった。
畳数にしたら十畳ぶんぐらいの狭い店は、やはり混んでいて、空《あ》いている席は厨房《ちゅうぼう》との出入り口に近い二人かけのテーブルだけだった。学生風の客はなく、背中にデイパックを背負った季里子の雰囲気は、ちょっと異質だった。ぼくらはそんなことに構わず、フロアを横切って一番奥の席へ歩いていった。デイパックだろうが針ネズミ頭だろうが、この世に季里子に似合わない風景があるとしたら、それは風景のほうが悪いのだ。
まずビールを注文して、それから料理を五品頼み、やってきたビールで、ぼくらは乾杯した。
季里子もやっと肩からバッグをおろし、テーブルの端に肘《ひじ》をかけて、他の客とぼくの顔を落ちついた目で眺め始めた。
「お父さんもたまに、銀座や浅草のお店に連れていってくれた」
「親父って、いろんなことを研究していたらしいな」と、一杯めのビールを飲みほして、ぼくが言った。「蟻とか蝶とかシャクトリムシとか……専門は、なんだろう」
「人間」
「人間と蟻の合いの子をつくる研究か」
「わたしを、からかってる?」
「冗談さ」
「お父さんのことで冗談はいや」
自分の冗談がそれほど下品だとも思わなかったが、ぼくと季里子の間には、まだ親父に対する思い込みに質のちがいがある。
「人間が専門なら、直接人間を研究すればよかった」
「すべての学問は、最後には『人間とはなにか』に行き着くの」
「そんなもんかな」
「お父さんがそう言っていた」
「十年前に大学をやめてから、親父は、なにをしていたんだ?」
「雑誌に動物や昆虫の記事を書いていた。わたし、そういう雑誌、ぜんぶ取ってある」
「そのうち見せてもらうさ。昆虫はどうでもいいけど、親父には興味が出てきた」
親父に対する興味は、たしかに強くなって、それとは逆に季里子の口から出る親父に対しては、やはり嫉妬に似た気分が強くなる。
料理が出始めて、ぼくが鳥肉のサラダと帆立のクリーム煮を小皿にとり、あとは勝手にそれぞれが箸《はし》と小皿を使うことにした。季里子が顔に似合わず強情であることも、見かけによらず、薄い腹にクルマ海老《えび》や豚肉が呆気《あっけ》なく収まっていく風景も、大いに見かけによらなかった。
「親父のことだけど……」と、熱心に箸を使っている季里子に、自分でも箸を動かしながら、ぼくが言った。「おばさんは、骨折して、入院して検査して、それで癌《がん》だと分かったと言ったけど、親父ってそれほど迂闊《うかつ》な人間ではなかった気がするな」
「………」
「親父のことは少し分かりかけてきて、でも、やっぱり分からない。姉さんのことも蝶々のことも分からない。親父がただの気紛れで蝶々を残していったとは、なんとなく思えない」
「………」
「たとえば、親父が、自分の病気をおばさんが言ったよりも前に知っていて、それでおれと姉さんになにかを伝えるために蝶々を準備しておいた……親父って、それぐらいのことはする人間じゃなかったのかな」
「………」
「骨折して入院するまで、親父、どんな生活をしていた?」
ビールのコップに手を伸ばし、上から泡を見つめたまま、静かに息をついて、ひとりごとのように、季里子が言った。
「お父さん、三か月ぐらいブラジルへ行っていた。どこかの出版社でアマゾンの昆虫写真集を出すことになって、それのプロデュースをやったの」
「日本に帰ってきてからは?」
「家に、いた」
「親父が家でじっとしていること、珍しかったんだろう?」
「………」
「ブラジルへ行く前と、帰って来てからと、変わったことはなかったか」
季里子がコップのビールを乱暴に呷《あお》り、長く息を吐いて、口の端に力を入れながら目の焦点を強くぼくの顔に合わせてきた。
「お父さんは、わたしを、いろんな所へ連れていってくれた」
「動物園とか水族館とか、食事とか、な」
「お芝居とか、映画とか」
「そういうことを、君は、おかしいと思わなかったか」
「………」
「君が……」
君が病気だったから、と言いかけて、季里子の視線の強さに気がつき、意識的に、ぼくは言葉を飲み込んだ。季里子自身が触れたがらないものに、無理やり触れる覚悟は、まだぼくにはできていなかった。それに季里子の口から聞かなくても、季里子の抱えている病気が躰《からだ》の問題でないことぐらい、初めて本郷の家へ行ったときから理解できていた。
「これ、君のぶんだ」と、一つ残っていたクルマ海老《えび》のチリソース煮を、小皿に取ってから、季里子の鼻の頭を指で押して、ぼくが言った。「今はとにかく、君の家にあるもう一匹の蝶々を、姉さんに渡してやりたいだけさ」
季里子が肩に力を入れて、小さく頷《うなず》き、止めていた息を吐き出しながら、くっと喉《のど》を鳴らした。
「ビール」
「なんだ」
「ビールが足らないわ」
「飲み過ぎじゃないか」
「父兄同伴のときは酔っ払ってもいいの、校則で決まってるの」
そんな校則があるはずもないが、どっちみち季里子は一年も学校に通っていないわけで、それに高校だってそろそろ夏休みに入る。
追加のビールをもらい、二つのコップに注《つ》いでから、もう目の周りを赤くしている季里子に、ぼくが訊いた。
「くどいようだけど、姉さんのこと、親父から本当に聞いていないか」
丸い目でぼくの顔を見つめたまま、唇を尖《とが》らせて、こっくんと季里子が頷いた。
「もう一匹の蝶々も、腹はオレンジ色?」
「………」
「腹の色さ。ゴクラクトリバネアゲハの腹が、オレンジ色か、どうか」
「もう一匹もオレンジ色よ」
「詳しいことは知らないけど、その蝶々、ゴクラクトリバネアゲハの新種らしい」
「二匹の蝶々は、お父さんの宝物だった」
「宝物だから親父は、形見として残した……それだけのことなのかな」
「………」
「姉さんという人に、会ってみたいな」
「………」
「その人はぼくより五つも歳上だ。蝶々に理由があれば、なにか知っていると思う」
「わたし、お父さんのことは、自分が一番よく知っていると思っていた」
「うん」
「でも本当は、なにも分かっていなかったのかも知れない」
「人間なんて、そんなもんさ。ふだんは自分のことだけで精一杯だ」
「わたしの好きな人、みんなすぐわたしの側《そば》からいなくなる」
「その……ラーメン、食べるか?」
「………」
「ここの冷やし中華、特製なんだ」
「あんたみたいに無神経な人、初めて会ったわ」
そのとき、ぼくらの横を通った女の人の腰がテーブルに当たり、ちょっと、ぼくはそのほうへ顔をあげてみた。女の人はそのまま化粧室へ歩いていったが、ぼくの背中にはもう熱い寒気が這《は》いあがっていた。どうでもよくて、どうでもよくはないが、いったい、いつから香織がこの店にいたのだ。
「なあに?」
「いや」
「怒ったの」
「なにが」
「今、わたしが言ったこと」
「べつに……」
「聞いていなかった?」
「聞いていたさ。君はおれみたいな無神経なやつに、初めて会ったんだよな」
季里子が肩で息をし、一度|頷《うなず》いてから、デイパックを引き寄せて中を掻《か》き回し始めた。口紅の包みに気づかれるかと思ったが、季里子が取り出したのは最初の雑貨屋で買った、小さい紙包みだった。季里子はそれをぼくの前へ置き、目で、開けるように、と命令をした。ぼくがセロテープを剥《は》がしてみると、中には蛙のマンガがプリントしてある二枚のハンカチが入っていた。
ハンカチを指で抓《つま》みあげ、目の前で蛙のプリントを観察しながら、かなり複雑な心境で、ぼくが言った。
「なかなかいい柄だ」
「この前貸してくれたハンカチ、おじさんっぽかったわ」
「そうかな」
「あんたって年寄りくさいところがあるの」
「自分では気がつかない」
「顔の問題じゃないわ」
「雰囲気が、か?」
「そういうときがあるの」
「これからは気をつける」
「ハンカチ、気にいった?」
「気にいった。もうぜったい、大いに気にいった」
香織が化粧室から出てきて、脚の長さを見せつけるように、またテーブルの横を通りすぎた。この店をぼくに教えたのは香織だから、ここで会うことに不思議はなくても、しかし店に入ってきたとき、なぜぼくは香織に気づかなかったのだろう。香織だってぼくに気づいたのなら、声をかければ良かったのだ。
「ふーん」
「なんだ」
「なんか、おかしいな」
「そう、か?」
「無神経だって言ったの、気にしてる?」
「気にしてない。君にプレゼントをもらって、びっくりしただけさ」
香織の座っているテーブルは、ぼくたちと一組離れていて、声は聞こえなかった。香織は髪をぼさぼさにした四十ぐらいの男の人と一緒だった。男の人は髪こそぼさぼさでも、着ているシャツはダンヒルのプリントポロで、尖《とが》った顎《あご》と尖った鼻に、強引で優しそうな、ちょっと変わった目つきをしていた。どこかで見たことがあるような顔だったが、ぼくが知っている範囲の人ではなかった。
香織と男の人が席を立ち、低い声で話しながら、男の人が金を払って店を出ていった。食事を終わらせた順序からいっても、香織はぼくらよりも先に店に来ていたのだろう。自分が腋《わき》の下に妙な汗をかいていることに、ぼくはそのとき、初めて気がついた。
残っていたビールを飲み干し、頭の中でため息をついて、季里子に、ぼくが訊《き》いた。
「おばさんには、なん時に帰ると言ってきたんだ?」
「時間のことなんか、言ってこない」と、椅子《いす》の背に浅く寄りかかって、まだなにか意見が残ってるような目で、季里子が答えた。
「遅くなると心配するな」
「………」
「夜遊びは初めてだろう」
「お父さんとは、もっと遅いこともあった」
「そういうこととは、状況が、違う」
「デートだから?」
「うん……」
「わたし、ディズニーランドへ行きたいな」
「いいさ」
「いつ?」
「夏休みが終わるまでには」
「お父さんはあそこだけは嫌《いや》だって、連れていってくれなかった」
季里子が屈託なく笑い、掌で口を隠して、大きく欠伸《あくび》をした。目の周りも首の周りもまっ赤で、そしてそれもビールのせいなのか、二重の黒目の大きい目が店の間接照明を受けて不思議な色に光っていた。香織とニアミスをした直後だというのに、いつの間にか季里子の顔に見とれているぼくの体質は、誰の血筋を受け継いでいるのだろう。
季里子がまた欠伸をし、その顔を眺めながら、腕時計を確かめて、ぼくが言った。
「そろそろ送っていく」
「一人で帰れる」と、座ったまま背伸びをして、デイパックに手を伸ばしながら、季里子が答えた。
「君の方向感覚は信用できない」
「一人で帰れるわよ」
「相手を家まで送るのがデートの礼儀なんだ」
立ちあがりながら、目を見開き、天井に視線を回して、季里子が口笛でも吹くように、ぷくっと頬《ほお》をふくらませた。最初の日に名前さえ言わなかったことを思うと、この進歩は一種の奇跡かも知れなかった。
店を出たのは十時で、地下鉄を乗り継いで季里子を菊坂の家に送り届けたときは、もう十一時になっていた。木戸の奥では風鈴が鳴っていて、高森のおばさんにも挨拶《あいさつ》をするべきだったが、ぼくは門の前だけで遠慮した。
ぼくは菊坂を春日の駅まで戻り、乗ってきたばかりの三田線を逆に都心の方向へ向かい始めた。神保町で乗り換えれば、半蔵門線は新玉川線で三軒茶屋までつながっている。香織の妙な笑いを目の奥に残したままでは、今夜はやはり、寝られない。
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香織がマンションの部屋にいるかどうか、どちらとも、確信はなかった。香織が部屋にいないケースも、香織に言うべき言葉も考えてはいなかった。ぼくがいるともいないとも分からない香織を部屋に訪ねたのは、今日に限って自分の常識を鬱陶《うっとう》しく感じたのだ。夏休みだというのに、常識だけを規準に時間をつぶすには、まだぼくは幼なすぎた。
勘が当たったのか、香織は帰っていて、インタホンを押したぼくをバスローブ姿で部屋へ迎え入れてくれた。レストランで着ていたベージュのスカートとグリーンのブラウスはベッドに放り出してあったから、香織がシャワーを浴びている時間だけ、ぼくが本郷へ寄り道をしていたことになる。ぼくが電話もせずにやって来ることを、香織のほうも最初から承知していたような顔だった。
「さっきは妙なところで会ったわね」と、冷蔵庫から缶ビールを二本出してきて、一本をぼくに渡し、残った一本の栓を引き抜いて、口をつけながら、香織が言った。
ぼくは仕事机に蝶のケースを置き、スチール製の細長いデスクに散らばった筆や絵の具やペーパーパレットを眺めながら、一口だけ、ビールに口をつけた。デスクの前のコルクボードには五、六枚のイラストがピンで止められていて、机の上にも描《か》きかけの墨絵が二枚、重ねるように放り出してあった。筆洗い用の水も濁ったままで、ペーパーパレットにもなん色かの絵の具が滲《にじ》み合うように塗りつけられていた。
「仕事、忙しいみたいだな」
「夏休みを取る前に片づけたいの。雑誌社の人たちも、考えることは同じなのよ」
「邪魔になることは分かっていた」
「礼司くんが部屋にいても仕事の邪魔にはならないわ。この前もそう言ったでしょう」
「そう言われた。邪魔にならないのも淋《さび》しいって、この前はそう答えた」
香織がベッドの端に腰をおろし、脚を組んで、濡《ぬ》れた髪を掻《か》きあげながら切れ長の視線を壁のイラストへ漂わせた。
「あのレストランで礼司くんに会うなんて、思ってもいなかった」
「事情があったんだ」
「事情があったわりには、可愛《かわい》い子だったわね」
「紹介するきっかけがなかった」
「わたしは礼司くんがつき合う女の子たち、紹介されたいとは思わないわ」
缶ビールを持ったまま、ベッドの前まで歩き、フローリングの床に座って、ぼくが言った。
「君のほうこそ、気づいたときに声をかければ良かった」
「わたしは、ちょっと、びっくりしただけ……」と、ベッドの端に腰かけたまま、ぼくの頬《ほお》にビールの缶を押しつけて、屈託なく、香織が言った。「東京って広いのよね。ああいう嘘《うそ》みたいに可愛い女の子、本当にいるんだもの。礼司くんのことも見直したわ」
「ぼくに声をかけられなかっただけさ」
「そう思う?」
「決まってるさ」
「青山先生のこと?」
「そうか、あの人が……」
香織が「青山先生」と言うことは、作家の青山辰巳ということで、レストランで見かけたときどこかで会った気がしたのは、ぼくも雑誌で写真ぐらい見たことがあったのだろう。
「青山先生、ホテルでかんづめ[#「かんづめ」に傍点]になってるの。雑誌の原稿が遅れて、挿絵を先に仕上げることになったの。それで食事をしながら、打ち合わせをしていただけ」
「そういうふうには見えなかったな」
「どういうふうに見えたの」
「二人で、フィジーへ行く相談をしているように見えた」
缶ビールの縁で、こつんとぼくの顎《あご》を叩《たた》き、膝《ひざ》を自分の腕で抱え込みながら、低い声で香織が笑った。
「礼司くん、ヤキモチを焼いてるんだ」
「それぐらい、礼儀さ」
「感謝したいけど、あの女の子はあなたのほうもルール違反よ」
ビールをゆっくり飲み干し、意識的に一つ咳払《せきばら》いをして、ぼくが言った。
「一緒にレストランにいたのは、妹さ」
香織がまた髪を掻《か》きあげ、バスローブの肩を捻《ひね》って、目を見開きながら顎の先をぼくの顔の前へ突き出した。
「礼司くんに、妹なんか、いたっけ」
「急にできてしまった」
「急に?」
「事情があってさ」
「事情って」
「親父が死んだ」
「お父さまが、亡くなった?」
「ずっと前に家を出ていった親父。急に死んで、連絡がきて、その家に行ってみたら妹ができていた」
「嘘《うそ》みたいな話ね」
「嘘みたいで、本当の話なんだ」
「お父さま、いつ亡くなったの」
「十日ぐらい前」
「他人事《ひとごと》みたいに言うのね」
「他人事さ、ある意味では」
香織がビールの缶を床に置き、立ちあがって、足音を忍ばせるように仕事机の前へ歩いていった。
机の前の椅子《いす》に座って、深く脚を組んだ香織に、ぼくが言った。
「急にできたのは妹だけじゃなくて、姉さんもできてしまった」
首をかしげて、目を細めながら、香織がぼくをふり返った。
「親父はお袋と一緒になる前に、別な女の人にも子供を産ませていた」
「面倒なことをする人だったのね」
「面倒なやつだったけど、なんとなく、憎めない」
困ったような顔で眉《まゆ》をあげ、仕事机に片肘《かたひじ》をかけて、開いていたバスローブの裾《すそ》を香織が自分の長い脛《すね》に深く巻きつけた。
「礼司くん、泊まるんなら、シャワーを浴びてきたら?」
「そういうつもりはなかった」
「大人ぶらなくてもいいのに」
「仕事の邪魔はしたくないんだ」
「たまには邪魔してみたら?」
「意地で、礼儀正しくしている」
「どうして」
「君がぼくより大人だから」
香織が口の端で笑い、眉をしかめて、肩で一つ、大袈裟《おおげさ》なため息をついた。
「クルマ、磨いている?」
「うん?」
「ミニ・クーパーを、わたしのために磨いておくと言ったでしょう」
「磨いているさ。乗りもしないのに毎日磨いている」
「意地じゃないのよね」
「そうかな」
「礼司くんが礼儀正しいこと。あなた、本質的にどこかが冷たいの」
香織にしては珍しい言い方だったが、ぼくも気持ちのどこかで香織に絡んでいたし、香織も仕事以外の部分で、誰かに絡んでみたい気分なのだろう。
「机の上の包み、開いてみないか」と、ベッドの横板に寄りかかったまま、脚だけ床に投げ出して、ぼくが言った。「親父はぼくと姉さんにそれを残していった。ゴクラクトリバネアゲハというニューギニアの蝶々らしい。だけどぼくは姉さんに会ったこともないし、名前も知らない」
香織が風呂敷《ふろしき》包みを開き、机に頬杖《ほおづえ》をついて、頬の髪を払いながらケースに入った蝶を覗《のぞ》き込んだ。
「こういう蝶々、好きな人にはたまらないでしょうね」
「腹がオレンジ色で、ゴクラクトリバネアゲハの中でも新種らしい」
「高いものなの」
「どうかな……君に心当たり、ないかな」
「蝶々のことなんて、わたしには分からないわ」
「そうじゃなくて、姉さんのこと」
「礼司くん……」
「うん?」
「わたしがどうして、礼司くんのお姉さんに心当たりがあるの」
「親父の子供を産んだ女の人が、京都の人だったから」
香織が椅子《いす》を立ち、歩いてきて、唇を笑わせながら長い指でぼくの髪の毛をぐちゃぐちゃと掻《か》き回した。
「京都って礼司くんが思うほど秘境じゃないのよ。京都の人間をぜんぶ、わたしが知っていると思うの」
「歴史のある街だから、一人ぐらい奇妙な人がいるかもしれない」
「冗談のつもり?」
「偶然はそれだけじゃなくて、女の人は親父と暮らしていたころ、束京の美大に通っていた大学院生だった。子供ができて、実家に連れ戻されたらしいけど、姉さんの歳も君と同じぐらいだ。そういう条件が当てはまる人、京都にもそれほどはいないだろう」
ぼくの頭から手を離し、となりに座り込んで、床から煙草の箱を拾いあげながら、香織が言った。
「京都府の人口は二六〇万、市内だけでも一五〇万人いるわ。東京の美大に通っていたことがあって、わたしぐらいの歳の子供がいる女の人、なん人いると思う」
「なん人ぐらいかな」
「気が遠くなるほどいるわよ」
「姉さんは苗字《みょうじ》に杉のつく名前らしい」
「わたしの親戚《しんせき》にも杉のつく名前はあるけど、美大にも東京にも縁はないわね。礼司くんは、お父さまから詳しく聞いていなかったの」
「親父とは十五年間、一度も会わなかった。姉さんのことはお袋も知らなかった。親父って変わったやつで、親しい親戚とか親友とかもいなかったらしい」
「いくら変わった人でも、ちょっと変わりすぎね」
「限度は越えていたかも知れないな」
「お父さまを、恨んでいないの」
「恨めるほど覚えていないさ」
「でも礼司くんやお母さまを捨てて、勝手に家を出ていった人でしょう」
「親父は親父なりに都合があった」
「勝手すぎるわね」
「親父? ぼく?」
「両方とも。男ってみんな勝手で我が儘《まま》なの。そのくせ甘ったれで、新しい世界に入っていく勇気もないの」
くわえた煙草に火をつけ、長く煙を吐いて、曲げた肘《ひじ》でぼくの脇腹《わきばら》を小突きながら、香織が深くため息をついた。
「礼司くんは、要するに、お姉さんに会いたいわけ」
「会いたいさ」
「会ってどうするの」
「蝶々を渡す」
「あの、なんとかいう……」
「ゴクラクトリバネアゲハ」
「そんなもの渡して、どうするのよ」
「ただ渡すだけさ」
「相手が礼司くんに会いたくないと言ったら?」
「考えたこともなかった」
「そういう可能性もあるでしょう」
「あるかな」
「今は静かに暮らしていて、昔のことは思い出したくない人だって、いると思うわ」
「会わないほうがいいという意味?」
「そうではないけど、問題は礼司くんが考えているほど単純ではないかも知れない。名前が分からなくては、探しようもないということよ」
「友部恵子という画家、知らないかな」
「友部、恵子……」
香織が膝《ひざ》をかかえたまま、しばらく黙って煙草を吹かし、眉の間に皺を寄せて、軽く首を横にふった。
「知らないけど、その画家が、どうかしたの」
「友部さんに会えば姉さんのことが分かるかも知れない。親父のことや、親父と暮らしていた女の人のことを知っているらしい」
「珍しいわね」
「なにが?」
「礼司くんがそんなに張り切るの」
「死んでから突然あらわれたくせに、親父って、妙に気になるんだ。親父がぼくやお袋のことをどう考えていたのか、生きていれば、訊《き》いてみたい気がする」
「十五年間一度も会いに来なかったんだから、お父さまは礼司くんに会いたくなかったのよ」
「そうかな」
「そうよ。男はいつも自分勝手なの。夏休みで礼司くん、少し感傷的になってるんじゃない?」
「ぼくは、因縁かと思っただけさ」
「因縁?」
「二十なん年か前、親父は美大の大学院生とつき合っていて、それで今はぼくが、美大を出たイラストレーターの君とつき合っている」
「本気で言ってるの」
「半分は、冗談」
「わたしが礼司くんのお姉さんだったら、可笑《おか》しいわね」
「それは、可笑しいな」
「調べてみて、わたしたちが姉弟《きょうだい》だったら、どうする?」
「笑えばいいさ」
「それだけ?」
「もしぼくたちが姉弟だったら、笑うしかないだろう」
香織が唇を丸めて、煙を吹き、煙草をガラスの灰皿に突き立てて、そっとぼくの肩に腕を回した。
「あなたって、子供のくせに他人《ひと》を疲れさせるのね」
「冷房が強すぎるな」
「え?」
「君の腕が冷たい」
「礼司くん……」
「うん?」
「あなたって、本当に、困ったやつ」
肩に回っていた香織の腕に、力が入って、ぼくの顔に香織の濡《ぬ》れた髪と濡れた唇が、冷たく覆い被《かぶ》さった。ぼくは胸の上に香織をのせたまま、躰《からだ》の位置を入れ替え、腕の中に入ってきた香織の額に、小さくキスをした。
二、三秒ぼくの胸に顔をうずめてから、顎《あご》を反らせ、目を皮肉っぽい色に光らせて、香織が言った。
「今夜は帰さないと言ったら、礼司くん、どうする?」
「一度でいいから、そう言われたかった」
「いつでも言ってあげたのに」
「君は『わたしは仕事をするから、帰らないでビデオを見ていなさい』って言うだけさ」
「今日意地が悪いのね」
「気が立ってるのかな、やっぱり」
「わたしも気が立ってるみたい、やっぱりね」
「海に行けば落ち着くさ」
「そう、海に行けば、たぶん……ね」
香織の唇が言葉をしまい込み、その唇にぼくが自分の唇を重ねて、ぼくたちはお互いに馴染《なじ》んだお互いの唇を、しばらく、黙って確かめ合いつづけた。香織の舌の動きにいつもの軽さはなかったが、それはぼくにしても同じことだった。季里子に会ったときから、予感はしていたが、香織の唇は、初めて悲しかった。
「礼司くん」
「うん?」
「東京って疲れる街よね」
「うん」
「わたし、疲れたな」
「うん」
「今夜、帰らなくちゃ、いけないの」
「………」
「わたしに、今夜は帰らないでって、言わせてみたい?」
「………」
「礼司くん」
「うん?」
「今夜は、帰らないで」
ぼくは香織の唇に、もう一度キスをし、躰を起こして、頬《ほお》の上で乱れている香織の髪を指の先で払いのけた。香織の切れ長の目に涙が浮かんでいたが、それが誰のための涙なのか、ぼくは、考えないことにした。
「礼司くん……」と、ぼくの鼻をつまみ、長い腕でぼくの躰を押しのけながら、香織が言った。「あなた、やっぱり汗臭いわ」
「けっきょく仕事の邪魔をすることになった」
「反省なんかしなくていいの。あなたは生きているだけでじゅうぶん邪魔なのよ」
「シャワー、浴びてこようかな」
「歯も磨いていらっしゃい。チリソースとニンニクの臭気《におい》が残っているわ」
立ちあがり、バスルームのほうへ歩き出して、そして突然ぼくはそのことに気がついた。季里子に初めて会った日、季里子の顔に懐かしいような親しみを感じた理由は、もしかしたら、そういうことだったのかも知れない。
「レストランで会った女の子、誰かに似ていると思わないか」
「思うわよ」
「やっぱりな、そうだよな」
「今ごろ気がついたの」
「ぼくの頭は、普段は、君のことで一杯だもの」
「わたしが描いていた女の子が実際に目の前にいて、不思議な気分だった。因縁とか宿命とかって、あるかも知れないわね」
返事をしかけたが、返事はできず、ぼくはうしろに下がって、バスルームへ歩きながら頭の中で静かに頷《うなず》いた。この状況は自分にも言い訳はできなかったが、香織が疲れているのと同じぐらい、ぼくも疲れていた。今はとにかく、シャワーを浴びて、なにも考えずに冷たい香織の皮膚にもぐり込みたかった。香織を疲れさせたのがぼくでも季里子でもないことは、最初から結論の出ている秘密として、もうお互いに認め合っていることなのだ。
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平日の正午で、ハチ公前で待ち合わせている人の数は少なかったが、センター街や公園通りの方向には切れ目なく人の流れがつづいていた。湿度の高い空気が排気ガスと人の喧騒《けんそう》を押さえ込み、車道にも歩道にも逃げ場のない活気を振り撒《ま》いている。こんなコンクリートだらけの街でも、宮下公園のほうで蝉《せみ》が鳴いていた。
三軒茶屋の香織のマンションから渋谷へ出たのは、本屋で友部恵子の画集を探してみようと思ったからだった。新聞社も雑誌社も友部さんの住所は教えてくれず、図書館に問い合わせても、結果は同じだった。画集を見つけたところで住所まで分かるとは思わなかったが、出版社に事情を話せば、連絡先ぐらいは教えてくれるかも知れない。
大盛堂書店へ入って、美術書のある階までエレベーターであがり、友部さんの本を探してみたが、画集の数は思っていたより少ないものだった。世界美術全集だの、近代日本なんとかだのの全集は並んでいたし、ぼくが名前を知っている範囲の画家なら個人全集が出ているものの、それ以外の画集は一冊も見当たらなかった。世の中にどれぐらい画家がいて、有名と無名の差がどこにあるのか、個人画集の数は、タレントの写真集よりも少なかった。
書棚に友部さんの画集が見あたらず、美術全集を出している出版社でも訪ねようかと思ったとき、書棚の端に薄い本が一冊押し込まれていることに気がついて、ぼくはその本に手を伸ばした。薄くて貧弱な装丁のわりには『現代芸術作家年鑑』という立派なタイトルだった。本には陶芸家だの書家だのの名前が、項目ごとにびっしりと並んでいた。中には洋画家という項目もあり、ぼくは口笛を吹きそうな気持ちを抑えて、アイウエオ順に友部さんの名前を探し始めた。『友部恵子』は、ト欄の一番最後に、呆気《あっけ》なく登場した。名前の下には略歴と住所と電話番号が書かれていて、探す場所さえ間違わなければ、画家を一人探し出すのにそれほどの苦労はなかったのだ。
年鑑によると、友部さんはフランスのサロン・ド・セーヌ賞という賞を受賞しているらしく、一号あたり八十万円という値段は、前後の画家に比べて二、三十万も高くなっていた。ぼくが知らなかっただけで、友部さんはやはり『有名な画家』だったのだ。住所は鎌倉だったから、東京の電話帳を探しても見つからない。
ぼくは住所と電話番号だけメモさせてもらい、年鑑を書棚に戻して、エレベータは使わずに下へおりていった。途中の階で『サムライ蟻に関する権力構造の確立』という本も探してみたが、書棚にはなく、店のコンピュータにもそんな本は登録されていなかった。初版が一九六五年で、たいして売れたはずもないから、とっくの昔に絶版になったのだろう。
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渋谷駅から友部さんの家に電話を入れ、『留守』になっている電話に名前と用件だけを言い、電話を切って、ぼくは下りの東横線に乗り込んだ。時間も気分も中途半端だったし、今日のぼくの宿命は、家へ帰って庭の草むしりをすることだった。
「あら、礼司くん、朝帰りにしては機嫌が良さそうじゃない……」
夏休みだから顔を合わせる機会が多いのは仕方ないにしても、食堂にはお袋がいて、ピンク色のワンピース姿でガラスボールに大量の野菜サラダを仕込んでいた。髪もピンクのヘアバンドで止めていて、お袋の人生観を知らなければ、これから町内会の余興でマジックショーでも始めるのかと思うところだ。
「特別、機嫌なんか良くもないけどね」と、冷蔵庫から牛乳のパックを取り出し、コップに二杯つづけて歌んでから、ぼくが言った。「母さん、今日は出かけないの」
「わたしだってたまにはお休みをいただくわよ。家の中も片づけたいし、礼司くんにご馳走《ちそう》だって作ってあげたいもの」
「また面倒が起きそうだな」
「なんのこと?」
「なんでもない。ただの休みなら、ぼくも嬉《うれ》しいよ」
牛乳のパックを冷蔵庫へ戻し、鼻歌を歌っているお袋を横目で見ながら、テーブルを回って、ぼくは出入口に近い側の椅子《いす》に腰をおろした。母親が家の中を片づけるのは自然な思いつきだし、息子に栄養のあるものを食べさせようと考えるのも、普通の発想だ。いちいちお袋の言動に神経を尖《とが》らせていたら、ぼくのほうが胃潰瘍《いかいよう》になってしまう。
「礼司くん、八月の予定は、どうなってるの」と、調理台の前から、かなりさりげなくふり返って、お袋が訊《き》いた。
「予定なんかないよ。家でぶらぶらしてるだけ」と、条件反射で、つい警戒しながら、ぼくが答えた。
「あなたも変わった子ねえ。大学生はお友だちと尾瀬へ行ったり、海でキャンプをしたりするものでしょう」
「そういうの、今は、流行《はや》らないんだ」
「そうなの。それじゃ今の大学生は、夏休みはどうするの」
「一人でゆっくり人生を考えたり、イラクへ行って復興のボランティアをするのさ」
「あら」
「地球温暖化に関する世界学生会議に出るやつもいる」
「まあ」
「高校で同級だった大橋ってやつ、覚えてる?」
「さあ」
「やつなんか失恋して、今はエスキモーと一緒に暮らしてるよ」
「大変なのねえ。今の世の中、大学生にも住みにくいのかしらねえ」
お袋がサラダボールをテーブルへ置き、小皿を並べて、手を腰に組みながら横目でぼくの顔を見おろしてきた。
「朝ご飯、食べてないでしょう」
「食べてない」
「人生は長いんだし、いろんなことを難しく考えないほうがいいと思うわよ」
「努力はしてるさ」
「それがいいわ。いくら難しく考えても、仕方ないことは仕方ないんだもの」
「母さん……」
「なあに?」
「ぼくの八月の予定って、どういうことさ」
「ああ……そのこと」
お袋がベーコンエッグの皿とヨーグルトミルクのカップをぼくの前におき、自分も椅子に座って、頭に巻いたピンク色のヘアバンドをちょっと横へかたむけた。
「ハワイなんかどうかと思って、それで訊《き》いてみたの」
「ハワイ?」
「福田さんがハワイに別荘を買ったんですって。それでお盆のころ、一緒に行かないかと誘ってくださるの」
「福田さんて、誰だっけ」
「田園調布の葬儀屋さんよ。彼最近、わたしが作るホーレン草ケーキのファンなの」
「彼……ね」
「お嬢さんがお寺さんの息子さんと婚約されたでしょう、それで彼も淋《さび》しいらしいの」
「その葬儀屋さん、独身《ひとり》ものなんだ」
「五年前に奥さまを亡くしたのよ。最初は彼女のほうが、お教室の生徒さんだったけど」
考えてみれば、お袋もまだ四十七なわけで、四十七のおばさんが女としてなにを言おうとしているか、ぼくにだって理解できる。
「べつに、それぐらい、いいんじゃないかな」と、ベーコンエッグと野菜サラダを、一緒に口に運びながら、ぼくが言った。
「それぐらいって」
「母さんがハワイに行くこと」
「わたしは礼司くんを誘ってるのよ」
「葬儀屋さんの別荘っていうの、趣味じゃないな」
「でも福田さんね、お葬儀屋さんだけじゃなくて、ファミリーレストランとスーパーマーケットも経営しているの。山梨に生コン工場も持ってるらしいわ」
「そのうち手作りケーキの店も、始めるかもしれないね」
「あら?」
「なにさ」
「礼司くん、その計画、どうして知ってるの」
「その、なんとなく、そんな気がしただけ」
お袋が神妙な顔をしているときは、どうも面倒な話題がついて回る。葬儀屋の福田さんがどんな人かは知らないが、お袋と気が合うとすれば、たぶん心の広い人だろう。
「八月の予定は、特別にないけどさ。お互いに大人だし、夏休みはそれぞれの方法で過ごせばいいと思うよ」
「それはそうだけど、たまにはハワイで親子のコミュニケーションをやってみない? 福田さんも礼司くんに会いたがっているの」
「ぼくは気が向いたら、別荘だけ使わせてもらうさ」
「薄情なのよねえ。礼司くんのそういうところ、死んだあの人に似てきたみたい」
ベーコンエッグを平らげ、サラダを小鉢にとってヨーグルトミルクをかけながら、ぼくが言った。
「母さん。父さんと結婚したとき、籍はちゃんと入れたんだよね」
「入れたと思うわよ、どうして?」
「父さんは、婿養子でね」
「お母様がそういうふうに手続きをしたはずだわ」
「母さんの戸籍を見れば、父さんの本籍とか過去の結婚歴とか、分かるわけだ」
「それは、そうだわね」
「姉さんという人のこと、戸籍に載っていないかな」
「そこまでは無理だと思うわよ。あの人の本籍ぐらいは分かるでしょうけど、女の子のことまでは載っていないわ」
「どうして」
「戸籍ってそういうものだからよ」
「そういうもんかな」
「女の子は相手方の籍に入っているはずだし、それにもしあの人に戸籍上の結婚歴があったら、お母様が気づかないはず、なかったもの」
お袋の戸籍を調べるというアイデアが閃《ひらめ》いたときには、一歩だけ姉さんに近づいた気がしたが、考えてみれば、お袋の言うとおりだ。姉さんが親父の籍に一度も入っていないとすると、たとえ親父の本籍を調べたところで、戸籍の上では子供なんてどこにもいない理屈になる。手掛りはやはり、画家の友部さんだけということか。
「礼司くん、まだお姉さんのこと、探しているの」と、ぼくの顔を遠くのほうで眺めながら、奇麗に口紅を塗った口にサラダを押し込んで、お袋が言った。
「一応、礼儀だしね」
「やっぱり会いたいんだ」
「母さんだって会ってみたいだろう」
「どうかしらねえ、怖い気もするわねえ。その人があまり幸せでなかったり、性格が悪かったりしたら、わたしは、会いたくないわねえ」
「考えすぎさ。姉さんを産んだ女の人は、京都の和菓子屋の娘だってさ。たぶん幸せに暮らしているよ」
「そうだといいわね。わたしたちには関係ないけど、彼にかかわった人たちには、みんな幸せになってほしいわ」
お袋の性格が明朗すぎるにしても、親父の存在感は、家の中になぜここまで痕跡《こんせき》をとどめていないのか。季里子の家にも生活の跡は残っていないようだし、親父の人生を追いかけようとしても、どこかでするっとぼくの手から逃げてしまう。昆虫学者としては個性の強い生き方をしたはずなのに、一人の男として考えてみると、なにか手応《てごた》えが伝わらない。そこに親父の諦《あきら》めを感じるのは、もしかしたらぼくの側の問題なのだろうか。
「礼司くん、お姉さんのこと、新聞に尋ね人の広告を出してみたら」と、テーブルに肘《ひじ》をついて、ヘアバンドを悠長に頷かせながら、お袋が言った。「意外と効果があるって、誰かに聞いたような気がするわ」
「名前も分からないのに広告は出せないよ」
「それじゃ、どう? 私立探偵を雇って調べてもらうの」
「興信所?」
「そう、興信所」
「思いつかなかったな」
「そうでしょう。鈴木さんの息子さんにご縁談があったとき、相手のお嬢さんを私立探偵を使って調べたんですって。それはもう、そのお嬢さんの酒癖まで調べてきたそうよ」
「考えてみようかな」
「それがいいわ。けっきょく鈴木さんのご縁談は、流れてしまったけどね」
「女の人、酒癖が悪かったんだ」
「酒癖とね、男癖ですって」
「鈴木さんって、誰だっけ」
「等々力《とどろき》で錦鯉の卸をやってる人。礼司くんの知らない人よ」
「母さんも、大度だな……顔が広くてさ」
興信所に酒癖と男癖を調べられて、結婚できなかった女の人も気の毒で、葬儀屋から錦鯉屋まで交際範囲を広げているお袋も、ご苦労なことだ。朝飯も済んだことだし、家族会議は終了させてもらって、ぼくは庭の草むしりを始めることにした。夏休みのサービスという意味もあり、気持ちのどこかに、朝帰りのうしろめたさも残っていた。これで葬儀屋の福田さんとの問題がこじれなければ、この家でも当分は静かな生活がつづくだろう。
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庭に出て、すぐ気がついたことは、たいして環境がいいとも思えない狭い庭に、勘ちがいをしたらしい蟻がびっくりするほどの数住んでいることだった。草の陰に直径一センチほどの土が盛りあがり、そこを出入り口にして、なん匹もの蟻が無方向にせかせかと動き回っていた。今まで自分の家の庭に蟻が住んでいることなど、考えたこともなかったが、親父の本が頭に浮かんで、草をむしりながらついぼくは蟻に見入ってしまった。蟻は乾いた土の上にも、コンクリートの塀の上にもヒマワリの茎の上にもいて、黒い律儀な彷徨《ほうこう》は、まるでこのうんざりする熱気を楽しんででもいるようだった。蟻の一生にどういう意味があって、なにを生き甲斐《がい》にしているのか。生き甲斐なんか、あってもなくても、蟻は文句を言わずに生きて、子供を作って、死んでいくのか。五十七年間こんなふうに蟻や蝶を眺めてきて、親父はなにか、悟りのようなものを開いたのだろうか。
草むしりと蟻観察で一時間ほど汗をかき、ぼくが庭木に水をやるためにガレージへ歩きかけたとき、門の前にタクシーが止まって、開いたドアから金色に光った異様な物体が、ぎらっと滑り出してきた。一瞬ぼくはお袋の交遊関係に恐怖を感じたが、それがお袋の関係者でないことが分かったときには、それ以上の恐怖だった。太くて短い脚に金ラメのパンタロンを穿き、紫色のブラウスに金色の帽子を被って歩いてきたのは、高森のおばさんだった。おばさんは手に小さいハンドバッグと紫色の風呂敷《ふろしき》包みを抱え、暑さに腹を立てているような顔で、悠然とぼくににじり寄ってきた。
「へええ。お兄さん、庭の草むしりかい」
「はい」
「毎日あついやねえ」
「はい」
「うちも草むしりをしなきゃいけないけど、この暑さじゃ考えただけでもリュウマチが痛くなるよ」
「あのう……」と、手シャベルを庭の隅に放り出し、両方の軍手を一つずつていねいに脱いで、ぼくが言った。「この家、すぐ分かりましたか」
「電話帳にのってるよ」
「ああ……」
「それに家を探すのはあたしじゃなくて、タクシーの運転手さ」
「本郷から、タクシーで来たんですか」
「あたしは行きたいところへはどこだってタクシーで行くのさ。金の問題じゃなくて、権利の問題だよ」
権利の問題ということの意味は、よく分からなくても、おばさんの金のネックレスや指の宝石類は、金の問題ではないと言うおばさんの主張をじゅうぶんに裏づけるものだった。おばさんはなんのためにタクシーを乗りつけてきたのか、まさかお中元を持ってきただけ、というわけではないだろう。
背中を流れる汗の量が増えたことを意識しながら、ガレージ前の水道で手を洗い、肉の被《かぶ》さった細い目で庭を眺めているおばさんに、勇気を出して、ぼくが言った。
「とにかく、中へ入ってください。ちょうどよかった。今日は、お袋も家にいるんです」
ぼくがおばさんを押し込んだのは、普段はあまり使うことのない、食堂とは対角にある西側の応接間だった。祖父さんが生きていたころは得体の知れない連中が出入りしていた部屋で、今ではお袋がパーティーを開くとき以外、窓を開けることも掃除をすることもない、開かずの間になっていた。ぼくがその部屋を選んだのは、おばさんを応接間でもてなそうという意図ではなく、直接食堂へ連れていったときの混乱を、本能が避けただけのことだった。
おばさんをソファに座らせ、換気のために窓を開けて、事件を知らせるために、ぼくは急いで食堂へ飛んでいった。お袋は鼻歌を歌いながらテーブルの下に掃除機をかけていた。
「母さん、来てしまった……」と、お袋が使っている掃除機のスイッチを、勝手に切って、ぼくが言った。
「あら」と、腰を伸ばして、ピンク色のヘアバンドの位置を直しながら、首だけでお袋がふり返った。
「逃げられないよ。どうする?」
「なにが来たのよ」
「高森のおばさん」
「高森のおばさん?」
「母さんに電話をしてきた、本郷の、父さんの葬式を出した人」
お袋の手から掃除機の柄がこぼれ、床の上に、ごつっという派手な音を響かせた。
「今、応接間に通した」
「あら……」
「わざわざタクシーを乗りつけてきた」
「わざわざ? タクシーを?」
「そう言ってた」
「それで、なんの用なの」
「知らない」
「訊《き》かなかったの」
「そんなこと、訊けないよ」
「訊いていらっしゃいよ」
「母さんが訊けばいいさ」
「わたしは、だって、まだ、お目にかかったこともないもの」
「応接間へ行けばすぐお目にかかれるさ」
「そんなの、困るわよ」
「どうして」
「わたしは、だって、まだ、食堂の掃除が終わっていないもの」
「母さん……」
「ねえ、礼司くん、警察を呼んだほうがいいかしら」
「母さん?」
「なによ」
「おばさんは殴り込みに来たわけじゃないよ。父さんの葬式も出してくれたことだし、義理だってある。母さんが挨拶《あいさつ》に出ないわけにはいかないさ」
「困ったわねえ」
「ぼくだって、困ったさ」
「あの人、勝手に家を出ていったくせに、なんて今ごろわたしを困らせるのかしら」
「そういうなりゆきなのさ」
「そういうなりゆき、わたし、好きじゃないわ」
「現実は素直に認めるもんさ」
「呑気《のんき》なこと言わないでよ」
「心配ないよ、ぼくも付いてる」
「礼司くん」
「なにさ」
「やっぱり今日、仏滅なのよねえ。家で静かにしていようと思ったのが、裏目に出てしまったわ」
お袋にとって今日が仏滅なら、高森のおばさんにも仏滅のはずで、当然ぼくにとっても仏滅になる。人間は仏滅の日も大安の日も生きていかなくてはならず、目の前に障害が立ち塞《ふさ》がったら、それを克服しなくてはならない。
「ここは一発、女の意地の見せどころだよ」と、掃除機を脇《わき》にどかし、うしろから一つお袋の肩を叩《たた》いて、ぼくが言った。「なるべくおばさんの顔を見ないようにすればいいさ。ぼくもすぐコーラを持っていく」
お袋がスリッパを鳴らして二、三歩歩き、ドアの前で立ち止まって、覚悟を決めたように、背中全体で大きくため息をついた。
「心配ないよ、母さん」
「日が悪いのよねえ。お父様が亡くなった日も、やっぱり仏滅だったわ」
お袋はそのまま食堂を出ていったが、肩の上で振ってみせた掌には、半分|自棄《やけ》を起こしたような、なんとも言えない哀愁が漂っていた。トイレに隠れなかっただけでも、お袋は女の意地を見せたのだ。
応接間にコーラを持っていく前に、掃除機を片づけ、椅子《いす》とテーブルを元に戻して、ぼくは五分ほどぼんやり椅子に腰かけていた。表敬訪問のために高森のおばさんがリュウマチを押して来たとも思えないし、親父や姉さんの間題でわざわざやって来なくてはならないほどの、新しい展開でもあったのか。それとも権利として一度は面と向かってお袋を罵《ののし》ってみたかったのか。まだ始まったばかりだというのに、今年の夏休みは毎日が妙にざわざわしている。責任が死んだ親父にあることは問違いないが、なりゆきとしてこういう年がやって来ることも、ぼくは頭のどこかで、子供のころから覚悟していたような気がする。
窓を開けはなった応接間では、お袋がおばさんの向かい側に座って、意外なことに、なにやら大袈裟《おおげさ》な手ぶりで会話の主導権を握っていた。ぼくはコーラのグラスを二人の前に置いてから、お袋側のソファに座って、緊張を解くためにわざと欠伸《あくび》をした。
「ねえ礼司くん、こちらの高森さま、本郷に二つも家作《かさく》をお持ちなんですってよ」と、身ぶりと一緒に尻《しり》をずらしながら、派手な笑顔をつくって、お袋が言った。「代々あの辺りで町名主をされていたお家柄ですって。そういえばこちらの奥さま、ねえ、風格がおありですもの」
お袋も高森のおばさんも、一般的な挨拶《あいさつ》は済んでいるようで、その上お袋が高森家の歴史から経済状況まで聞き出しているわけだから、今のところ二人は、互角の勝負をしている。貸家や家柄のことは、ぼくでさえまだ季里子から聞いてはいないのだ。
「今ちょっと伺っただけだけど、彼、高森さまのお宅に、本当にお世話になったらしいの」
「父さんはいろんな所で、いろんな人に世話になったらしいよ」と、おばさんとお袋の顔を見くらべながら、二人のまん中に向かって、ぼくが言った。「死んでからもまだ、こうやって世話をかけてるしさ」
お袋は口を開いただけで言葉を出さず、高森のおばさんも、あつぼったい目蓋《まぶた》の向こうから気難しそうにぼくの顔を眺めただけだった。おばさんにしても久しぶりの外出で、見かけよりは体力を消耗しているのかも知れなかった。
「それでね、今……」と、また派手に指を動かしながら、上品な作り笑いを見せて、お袋が言った。「わたくしが日本におけるケーキの社会的な立場をご説明していたの。欧米ではどんなお料理よりも、デザートでいただくケーキに主婦の力量を認めるのに、日本ではまだまだおやつ[#「おやつ」に傍点]扱いなんですものね。日本の男性方にはもっとケーキに対する認識を新たにしていただきたいわ」
「母さん、今日はケーキを、焼かなかったの」
「今日は……焼かなかったわ」
「仏滅だっけね」
「そうなの、仏滅なの。仏滅の日はわたし、ケーキは焼きませんの」
「気を使うことはないよ、お兄さん」と、ネックレスを不気味な色に光らせて、金ラメの脚を組み合わせながら、吐き捨てるように、おばさんが言った。「甘いものは心臓に良くないんだ。医者から控えるように言われてるんだよ。しょっぱいものも辛いものも駄目。いったいなにが楽しみで生きてるんだか、自分でもよく分からないけどねえ」
「それじゃコーラなんかも、よろしくないですわねえ」
「あたしが飲むのは実母散《じつぼさん》の煎《せん》じ薬だけさ」
「あら……礼司くん、うちに、実母散、あったかしら」
「実母散て、なにさ」
「そういう漢方のお薬よ。死んだお母さまが、昔よく飲んでいらしたでしょう」
「そうだったかな」
「そうだったのよ。でもあれ、ずいぶん昔のことだったわねえ」
「木当に、気なんか使わないでおくれ。あたしはお兄さんに話があって来ただけなんだから」
「礼司くんに、ですの?」
「そう言ったよ、聞こえなかったかね」
「聞こえましたけど……」
「お兄さんに折り入って話があって、それでこうやって、わざわざ出かけて来たわけさ」
「あら……」
「そういうこと」
「まあ……」
お袋ではないが、そのとき、ぼくも、頭の中で思わず「まあ……」と叫び声をあげていた。おばさんの標的はお袋でなく、この、ぼくだったのだ。
五、六秒の沈黙がつづいたあと、急にお袋が立ちあがって、上品に、派手に、わざとらしく笑い出した。
「ちょうどよかった。礼司くん、わたし、もう出かける時間なの。佐野さんのお宅へ出張教授なのよ」
「仏滅の日に?」
「仕方がないのよ。佐野さんは目黒区の緑を守る会の会長さんで、お教室にもたくさん生徒さんを紹介してくれているの。断れなかったって、礼司くんにも言わなかった?」
「もしかしたら、聞いたかもしれないね」
「そうなのよ。あら……もうこんなお時間だわ」
お袋が真面目《まじめ》な顔で自分の腕時計を眺め、高森のおばさんに笑いかけて、口の中でなにか言いながらドアのほうへ歩きだした。息子が生涯の危機に直面しているというのに、一人で逃げ出せることをこんなに喜ぶ母親も、かなり珍しい。文句を言うわけではないが、しかし佐野さんというのは、たしかたまに家へやって来る保険屋のおばさんではなかったか。
「礼司くん、あとのことはお願いするわ。わたしは夜まで帰れないと思うの。お寿司でも鰻《うなぎ》でも、好きなものを取ってちょうだいね」
それからお袋は、また派手に笑っておばさんにお辞儀をし、ハイジャンプの助走のような足取りで軽快に部屋を出ていった。高森家の家系も経済状況も分かったし、日本におけるケーキの社会的立場も説明したし、お袋にしてみれば自分の責任はじゅうぶん果たしたつもりらしかった。
「お宅のお袋さん、いくつになるね」と、お袋が出ていったあとのドアを、しばらくうんざりした顔で眺めてから、ソファに深く座り直して、おばさんが言った。
「四十七です」と、ぼくが答えた。
「四十七ねえ、あたしと十も違わないのに、元気が良くて結構なことだよ」
「おばさん、クーラー、入れますか」
「このままでいいよ。機械がつくる風は躰《からだ》に良くないんだ」
ぼくは頷《うなず》いて、場所をお袋が座っていたところに移し、お袋が手をつけずにいたコーラを半分ほど、一気に喉《のど》に流し込んだ。開いている窓からぬるい風が吹いてきて、おばさんの使っている化粧品の臭気《におい》を濃くぼくの顔に飛ばしてきた。おばさんの歳が六十前だというのは信じられなかったが、おばさんがぼくに見栄を張る必要も思いつかなかった。
「まあ、とにかく、これを持ってきたんでね……」
風呂敷《ふろしき》包みを膝《ひざ》の上で開き、見覚えのあるガラスケースを、おばさんがテーブルの上に押して寄越した。
「とりあえずこれは、そっちで預かっておくれ」
おばさんが風呂敷包みを取りあげたときから、察しはついていたが、それはぼくが本郷の家で渡されたのと同じ、ガラスケースに入ったゴクラクトリバネアゲハだった。
「お兄さんが持っていておくれな。これ以上季里子を、あんたやあんたの姉弟《きょうだい》に係わらせたくないんだ」
おばさんの言葉も耳には入っていて、その意味を考えてはいても、ぼくの意識は半分以上ガラスケースに収まったゴクラクトリバネアゲハに向かっていた。蝶の腹の部分はぼくが持っているのと同じ、鮮やかなオレンジ色だった。
「これは、つまり、姉さんのぶん、ということですね」と、視線だけ蝶にやったまま、意識をおばさんの言葉に戻して、ぼくが言った。
「周郎さんがそう言ったらしいから、そうなんだろうね。あたしにはどれがどれだか、区別なんかつかないよ。あたしには蝶々のことも分からない。周郎さんのこともあんたのことも分からない。もう季里子のことも分からないし、人間、歳はとりたくないもんだ」
おばさんがため息をっきながら、脚を組みかえ、テーブルに手を伸ばして、躰《からだ》によくないはずのコーラを不愉快そうな顔ですすりあげた。
「だからね、そういうことなんだよ。あんたのことも分からない。季里子のことも分からない。だけど季里子はあたしの身内で、あたしとしては分かろうが分かるまいが、あの子を守ってやる義務があるんだ」
「彼女がおばさんの妹の娘で、本当のお母さんが死んだあとおばさんの養女になったことは、彼女から聞きました」
「季里子はそんなことまで喋《しゃべ》ったのかね」
「ぼくが知っては、いけないことでしたか」
「いけなくはないさ。ただ季里子らしくないから、びっくりしただけのことだよ」
「おばさんが言ってることの意味、ぼくには、理解できません」
ぼくもクーラーは好まなかったが、躰がへんに火照《ほて》ってきて、クーラーでも水のシャワーでも、なんでもいいからとにかく頭から飛び込みたい気分だった。おばさんの言ったことは完全に理解できなくても、理解できそうな予感は、もうぼくの背中にまで這《は》いあがっていた。
「あたしは別に、難しいことなんか言っちゃいないよ」と、ハンドバッグから煙草を取り出し、金色のライターで火をつけて、煙を天井に吐いてから、おばさんが言った。「季里子が普通の子じゃないことは、お兄さんだって分かるだろう。あの子は普通に暮らせる子じゃないんだ。あたしも普通になってもらいたいとは思わない。でもね、静かな生活はさせてやりたいさ。妹の娘で、今じゃあたしの娘で、子供のときからずっとあたしが育ててきた。これ以上傷ついたらあの子の頭は、本当にこわれちまう」
「ぼくには、彼女は、まともな子のように思えます」
「まとも? 季里子が? あんた、大学でなに習ってるんだね」
「おばさんが言う普通じゃないという意味は、分かる気はします。でもそれは、まともな範囲で変わっているだけだと思います」
「難しい言い方はやめておくれ。お兄さんは学があるからどんな言い方でもできるだろうけど、季里子の病気は言い方じゃごまかせないよ」
「それじゃ彼女は、どこが病気なんですか」
「頭が病気なのさ」
「頭のどこが、病気なんですか」
「どこだか知らないけど、ずっと深いところの、医者でも治せないところが病気なのさ。病院だっていくつも変えてみた。有名な先生に診てもらったこともあった。でもあの子は、どうしても自分の病気の中から出てこようとしないのさ。あたしはもう季里子の病気なんか気にしないことにした。その代わり、あの子を一生守ってやることにした。土地も家も他の財産も、みんな季里子の名義にしてある。あたしが死んだあとも季里子が一人で生きていけるように、もうちゃんと準備はしてあるんだよ」
「そういうことと、彼女の病気とは、関係ないと思います」
「季里子が病気だから、あたしはそこまで準備しているんだ」
「ぼくと会っているとき、彼女は、少しも病気に見えません」
「だから困るんだよ。ここいく日か季里子の様子がおかしいことぐらい、顔を見りゃ分かるからね。それがお兄さんのせいだってことも、男と女の常識じゃないか。あたしは、お兄さんには、もう季里子に会ってもらいたくないと言ってるんだよ」
季里子の病気のことは察しがつく。おばさんが季里子の将来を心配する気持ちも理解できる。今日おばさんの顔を見たときから、「季里子には会うな」という台詞《せりふ》が出てくることも、予感として感じてはいた。しかしその予感の妥当性については、今になっても認める気にならなかった。
ぼくは、どうにも居心地が悪くなって、立ちあがり、窓に歩いて肩を半分だけ外に突き出した。浄真寺の辺りで蝉《せみ》が鳴いていて、湿気《しけ》っぽい声が草むしりの済んだ庭に遠慮なく流れ込んでいた。ピンクのワンピースを白いニットスーツに着がえたお袋が、柿の木の向こうを回って門から出ていくところだった。「親は一度親になったら、もう一生親なんだから」と、口癖でお袋は言うが、しかし子供にしても、その親を選べるわけではないのだ。
「おばさん……」と、部屋の中へ向き直り、両手に並べた指輪を黙って見つめているおばさんに、ぼくが言った。「まさか、彼女……ぼくの妹ではないでしょう」
おばさんがソファの中で、痙攣《けいれん》を起こしたように肩を震わせ、黄色く濁った目を、激しく見開いた。
「あんた……」
「そういうことですか」
「あんた、いったい……」
おばさんが言葉を飲み込んでいたのは、きっかり五秒間だった。そして五秒後に、心臓の発作でも起こしたような顔で、おばさんが壮絶に笑い出した。
「お兄さん、あんた、どこでそんなことを思いつくんだね」と、自分の笑い声にむせながら、躰中《からだじゅう》の肉を震わせて、苦しそうに、おばさんが言った。「お兄さんも歳のわりに古いことを考えるもんだよ。昔のメロドラマじゃあるまいし、人間そんな都合よく、悲劇の主人公になれるものかね。季里子は正真正銘、あたしの妹の娘さ。父親だってまだ生きてる。名前は言えないけど、有名な茶道のお家元だよ。妹は昔そこの内弟子で、お家元の手がついちまったわけ。そんなこと、季里子だって知ってることだよ」
ぼくの躰から、逃げるように力が抜け、それでもまだ息苦しくて、テーブルの前まで戻り、ぼくはグラスのコーラを立ったまま飲み干した。
「それなら、おばさんが言うことの意味は、理解できません。ぼくが彼女に会っていけない理由は、どこにもないと思います」
「あんたも分からない男だねえ」と、今までのばか笑いが嘘《うそ》のように、目尻《めじり》の皺を強くして、おばさんが言った。「あたしは子供のころから心臓が悪くて、ずっと行かず後家を通してきた。だけど男を見る目は確かなんだよ。お兄さん、あんた、自分で気がつかないのかい? あんたみたいな男は悪気がなくても、最後は必ず女を不幸にするもんさ。あたしにはちゃんと分かってる。それが分かってるから、あたしはお兄さんに、季里子とつき合うのをやめてくれと言ってるんだよ」
「それは、でも……」
「自分の胸に手を当てて聞いてごらんな。お兄さん、今まで誰か一人でも、本当に女を好きになったことがあったかい? お兄さんみたいな男はけっきょく自分の勝手を通しちまうんだ。周郎さんがそうだったよ。あんたが初めて本郷の家へ来た日、あたしは、あんまり周郎さんに似てるんで気分が悪くなった。一見優しそうで、人当たりはいいけど、根はヤクザもんさ。地面に足をつけて堅気で生きる気なんか、最初から無いだろう。女にとっちゃあんたみたいな男が一番あぶないよ。悪気がないぶん始末が悪いやね。それでも季里子が普通の子供ならね、これも人生経験だと思ってあたしも知らん顔する。だけどあの子は心に病気を持ってるんだよ。本当の父親の顔も知らなくて、五つのとき訳の分からない男が家に入ってきて、八つのときは母親が死んじまった。それも本人の見てる目の前でね。本人の見てる前で、母親がクルマに轢《ひ》かれたんだよ。あれでよくこの歳まで育ったもんさ。季里子は根はしっかりした子なんだ。頭だっていいんだよ。だからあたしも最初は気がつかなかった。中学も普通にかよってて、勉強も良くできてた。それがだんだん学校へ行かなくなって、友達もいなくなって、それであるとき気がついたら、もう誰とも口をきかなくなっていた。そのときは突然そうなったと思ったけど、突然じゃなかったんだ。生まれたときから周りの人間が、少しずつあの子の心を傷つけてきたのさ。季里子にとっちゃ神経症でも自閉症でも、自分の病気の中に閉じ籠《こ》もってるほうが、どんなに楽か知れやしないんだ」
おばさんがまた、箱を振って煙草を抜き出し、口に押し込んで、ライターで火をつけた。
「分かってくれたかい? あたしの言ってること」と、煙を長く吐いてから、おばさんが言った。「周郎さんだって悪気があるわけじゃなかったさ。だけどあの人もお兄さんと同じで、女の気持ちが分からない人だったよ。仕事だか研究だか知らないけど、母親が死んだあとも季里子の面倒をみようとしなかった。そりゃ元々は他人だからね、本当の子供のように愛情は湧《わ》かなかったろうさ。だけど季里子が周郎さんに惚《ほ》れてたことは、周郎さんだって知ってたはずなんだ。知っててあの人は、ずっと知らん顔をしていた」
「彼女が、親父に、惚れていた?」
「そういうもんさ。自分の一番身近にいる男だもの。季里子みたいなませた子は、どうしたって意識しちまうさ。父親としてじゃなく、季里子が周郎さんを男として意識していたことは、あたしはずっと前から気づいていた。あの子の母親が死んでからは、特にそうだったよ。だけど周郎さんは、本郷の家なんか体《てい》のいい下宿屋ぐらいにしか思っていなかった。アフリカだとかブラジルだとかを勝手に飛び回ってた。妹が死んだとき、季里子の籍をあたしのほうへ移すことにだって、周郎さんはまるで無関心だった。そういう人だったよ、あの人は」
ぼくはもう口をききたくなかったし、立っていたくもなかった。頭の中で季里子の無表情な目がぼくを見つめていて、今この世界から逃げ出してしまうことに、気持ちが未練がましく抵抗していた。
「彼女は、そうは言わなかった」と、自分の声を、自分の外側の、部屋のどこか別な場所で聞きながら、ぼくが言った。「親父は、たしかに旅行が多かったけど、日本にいるときは彼女を水族館へも動物園へも、映画にも食事にも連れていった、彼女は、ぼくに、そう言いました」
「季里子が、かい?」
「愛情の表現は下手だったかも知れないけど、親父は、彼女を愛していたと思います」
「周郎さんが季里子を普通の意味で愛していなかったなんて、そんなことは言ってないよ。そりゃ自分が惚れた女の連れ子としては、季里子を愛したろうさ。だけどもし周郎さんがお兄さんの言ったとおりのことをしてくれたのなら、そのこと、なんであたしが知らないんだね」
「おばさんが……」
立っているのがつらくなって、テーブルから離れ、腋《わき》の下に噴き出した汗を意識しながら、ぼくはソファの端に腰をおろした。
「あたしの知っているかぎり、周郎さんが特別に季里子を連れ出したり、特別に面倒をみてくれたり、誓ってもいいけど、そんなことは一度としてなかったね。誓ってもいいけど、周郎さんはそういうことをする人じゃなかったよ」
「でも……」
「季里子がそう言ったんだよね? 季里子が、周郎さんはよく自分と遊んでくれた、そう言ったわけだ。季里子がなんでお兄さんにそんな嘘《うそ》を言ったと思うね。あんたにはそんなことも分からないのかい? まったく、だから……」
おばさんの厚く肉の被《かぶ》さった目に、不意に涙が浮かび、金ラメのパンタロンの膝《ひざ》に筋を引いて落ちていった。おばさんはハンドバッグから取り出したハンカチで、両方の目を一度ずつ押さえ、それからハンカチと一緒に取り出した一枚の写真を、唸《うな》りながらぼくの膝へ投げてよこした。
「季里子と一緒に写ってるのが周郎さんだよ。もう三年も前の写真だけどね。季里子はこんな写真をアルバム一杯ため込んでいた。あたしは昨日、それをぜんぶ庭で燃やしちまった。季里子の中からもう周郎さんに出ていってもらいたいんだ。この写真はせめてもの、あたしの、お兄さんへの気持ちということさ」
写真に写っているのは、紺のセーラー服を着た髪の長い季里子と、ワイシャツにサファリジャケットを引っかけただけの、背の高い痩《や》せた男の人だった。男の人が日焼けしていることは分かったが、顔つきも表情もぼんやりしていて、それが親父だと言われても、特別に衝撃らしいものは感じなかった。ぼくが感じたのは、やっぱり親父の顔は覚えていなかったという、自棄《やけ》ぎみな安心感だけだった。
「季里子はね、たしかに……」と、ハンカチと煙草とライターをハンドバッグに放り込み、宝石の並んだ指で口金を閉めながら、舌打ちをして、おばさんが言った。「お兄さんに会ってから変わり始めたさ。だけど季里子は、お兄さんに周郎さんの代わりを見ているだけなんだよ。それで今、ちょっとはしゃいでいるだけなのさ。今のはしゃぎが終われば季里子の病気はもっと悪くなる。そんなことは目に見えているよ。だからお兄さん、頼むから、もう季里子には会わないでおくれ。こういう腐れ縁はどこかで誰かが我慢しなきゃ断ち切れない。気の毒だけど、あたしはお兄さんに我慢してもらうことに決めたんだよ」
「おばさん……」
「なんだね」
「彼女は、幸せになりますか」
「季里子のことはあたしが考える。お兄さんは季里子のことを考えることも、思い出すこともやめておくれ」
おばさんが組んでいた脚を床におろし、天井に向かって顔をしかめながら、反動をつけて、勢いよく立ちあがった。
「おばさん……」
「話は終わりだよ」
「でも……」
「終わったものは終わったんだ」
「あの……」
「なんだい」
「タクシー、呼びますか」
「タクシーぐらい自分で拾えるさ」
「夕飯をなにか、取ります」
「あたしは巣鴨《すがも》に寄って、久しぶりにとげ抜き地蔵の塩団子でも食べて帰るさ。今日はリュウマチの具合いが良くてね。こんなに躰《からだ》の調子がいいの、もうなん年ぶりだか知れたもんじゃないよ」
おばさんが躰全体で頷《うなず》き、金色の帽子を頭にのせて、スリッパを引きずりながら、辛そうな足取りでドアへ歩いていった。
立ちあがろうと思っても、躰に力が入らず、ソファに座ったまま、ぼくはおばさんのうしろ姿を、ただ、茫然《ぼうぜん》と眺めていた。おばさんがもうこの家にいないことに気がついたのは、それから一時間もたってからだった。ぼくに分かっていたのは、ぼく自身の空白だけで、その空白に怒りや悲しみを感じる傲慢《ごうまん》さは、どこにも残っていなかった。たった二十年しか生きていなくて、それでいて一人の女の子を好きになるには遅すぎる人生が、本当に、あるものなのか。
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電話が鳴っていたが、そんなものに出てやる義理を、ぼくはまるで感じなかった。重心が妙に不安定で、頭も腰も軽くて、悲しくて愉快で、空《むな》しかった。暗闇《くらやみ》から伸びてきた手に捕まって、突き飛ばされて、そして地面に圧《おさ》えつけられたような、起きあがっていいのか倒れたままでいいのか分からない、不思議な気分だった。
気がついたときに、電話は鳴りやんでいた。ぼくはプッシュホンの白い電話機を見つめたまま、それから三十分ぐらい風通しの悪い応接間に突っ立っていた。なぜそんなことに拘《こだわ》っていたのか、三十分間ぼくが思い出そうとしていたのは、なぜか、高森のおばさんの名前だった。
名前を思い出せず、思い出すことを諦《あきら》め、受話器を取りあげて、ぼくは指がすっかり覚えている八|桁《けた》の番号を、静かにプッシュした。高森のおばさんがとげ抜き地蔵で塩団子を食べているとすれば、まだ本郷の家には帰っていない時間だった。
十回コール音を聞いて、諦めかけたとき、受話器の外れる音がして、季里子の表情が息遣いと一緒に、苦しいほど強くぼくの胸に飛び込んできた。ぼくは言葉を思いつかないまま、季里子の呼吸の音を、受話器の中で黙って聞きつづけていた。
「もしもし……」
「………」
「さっき、おばさんが、家に来た」
「………」
「姉さんの蝶々と、君の写真を置いていった」
「………」
「もしもし?」
「………」
「それで、君には、もう会うなと言われた。おれが君に会ってはいけない理由を、おばさんが話していった」
「………」
「今年の夏休み、始まったばかりなのにな」
「………」
「口紅、つけてみたか」
「………」
「ディズニーランドへ行くとき、口紅を、つけるといい。君は夏が似合うから」
「………」
「君の父親のことも、母親のことも病気のことも、おばさんから聞いた」
「………」
「でも君、病気じゃないよな。君みたいにまともな女の子、おれは、初めて会った」
「………」
「それから、髪形、な」
「………」
「写真みたいに長いのじゃなくて、やっぱり、今のやつがいい。君には短い髪が、へんに似合ってる」
「………」
「もしもし?」
「………」
「占いは、けっきょく、当たらなかったな。相性だけじゃ、どうにもならないことがあるさ」
「………」
「君にもらった蛙のハンカチ……」
「………」
「その……なんでもない」
「………」
「本当に、なんでもない」
「………」
「それだけだ」
「………」
「電話、切るぞ」
「………」
「うん?」
最後に、一言だけ、季里子が言った。
「あんたなんか、だいっ嫌い」
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二日酔いという言葉の意味は知っている。たまにはその予行演習みたいなことをやらなくもない。だが本物の二日酔いがここまで悲惨だとは、正直言って、考えてもみなかった。それは頭痛がするとか吐き気がするとかの半端なものではなく、『人間にとっては死だけが究極の救いなのだ』と悟ってしまうほどの、圧倒的なばかばかしさだった。躰中《からだじゅう》の細胞が酒臭い息を吐き、二酸化炭素とアセトアルデヒドが皮膚の内側に閉じこめられて、脳から脊髄《せきずい》から血管から、あらゆる場所で好き勝手にぼくの人格を非難して回る。十時間は眠っているはずなのに、まだ動悸《どうき》が激しくて、自分で自分の息が臭くて、気持ちが悪くて頭が痛くて生きているのに腹が立つ。ただ一つの救いは、死ぬにしろ気が狂うにしろ、今横になっている場所が自分の部屋の、自分のベッドだということだった。
褒《ほ》められたことでもないが、ぼくだって昨夜、最後は一人で渋谷のショットバーにいたことぐらい覚えている。九時ごろ、別のバーでボディコンの女の子と知り合い、二人でF1を話題に盛りあがったのだ。女の子は黒いミニスカートに赤いパンプスを履いていて、ぼくに日に焼けた肩を見せながら、一週間前グァムへ行ってきたのだと話していた。グァムへはもう二回行っていて、向こうには友達になったビーチボーイもいるという。正月にはハワイへ行くつもりだと言って、ぼくもぜったい[#「ぜったい」に傍点]一緒に行くと約束したが、ぼくは女の子の顔も名前も、住所も電話番号も覚えていなかった。女の子がいつ帰ったのか、ぼくがいつ店を移ったのか、それも覚えてはいなかった。そして十二時にぼくは一人でショットバーにいて、それから今日の十二時に、こうやってベッドの上で二日酔いに文句を言っている。まさか渋谷から歩いて帰ってきたはずもないから、切れた記憶の中でも、完全には羽目を外していなかったのだろう。
陽射《ひざ》しはしっかり窓を灸《あぶ》っていて、部屋にクーラーは入っていない。いつまで唸《うな》っていても仕方ないので、とにかくぼくは起きあがって、死体置き場から這《は》い出してきたような躰を下の食堂まで引きずっていった。太陽は珍しく乾いた夏の色に光っていたが、今日に限っては、その光の色を嬉《うれ》しいとは思わなかった。
お袋のいない食堂で冷蔵庫のミネラルウォーターを飲み、頭痛薬と胃薬を一緒に口に放り込んでから、庭のまん中にデッキチェアを引き出し、無気力な頭と無気力な躰を、ぼくは漫然と太陽に晒《さら》し始めた。クルマを磨く気にもならず、食事をする気にもならず、本を読む気にも音楽を聞く気にもならなかった。ただ時間が過ぎていって、光がぼくの皮膚とぼくの無気力を消毒してくれるのを、デッキチェアに寝そべってひたすら素直に受け入れていた。
気分と体調に関係なく、太陽は久しぶりに透明な光をふり撒《ま》き、芝生も庭木も門からの玉砂利も、夏が来たことを知らせるように元気のいい金色に輝いてる。空の低いところを銀色の飛行船が、呑気《のんき》なスピードで多摩川の方向へ飛んでいく。
飲み疲れのせいか、頭痛薬のせいか、二時間ほど太陽の中でうとうとし、目覚めたときには躰も軽くなっていて、頭に詰まっていたアルコールも汗と一緒にどこかへ蒸発していったようだった。
ぼくは食欲が甦《よみがえ》っている自分の胃袋に苦笑し、デッキチェアを畳みながら、西に傾いて色を濃くした太陽の光を、胸一杯に吸い込んだ。肺の中にまだ痛い塊は残っていたが、それが二日酔いの後遺症でないことは、ぼくにも分かっていた。
デッキチェアをガレージへ運びながら、人間らしくなった頭で、今日の予定について、ぼくは本気で考え始めた。クルマのワックスがけは手を抜いてもいい。エンジンオイルの交換もタイアの空気圧点検も、明日ガソリンを入れるついでにスタンドでやってもらえばいい。季里子の存在を抱え込みながら香織と海に出かける勇気も立派だったが、香織との旅行も今回が最後になることは、ぼくも香織も、もうお互いの皮膚で了解し合っている。こんな気持ちのまま香織との関係をつづけることは、香織に対してもぼく自身に対しても、失礼になる。
頭の中に画家の友部恵子という名前が甦ったのは、デッキチェアを片づけ、太陽に炙《あぶ》った皮膚をバスルームのシャワーで冷やし始めた、そのときだった。二十四時間以上も眠っていたその名前が、シャワーの飛沫《しぶき》の中で、勢いよく目を覚ました。それと同時に高森のおばさんの名前も思い出したが、季里子のことも含めて、親父が残していったもののすべてのあと始末は、ぼくの仕事なのだ。
ぼくは水のシャワーで汗を流し、タオルも使わずに、自分の部屋まで階段を一気に駆《か》けあがった。昨日|穿《は》いたコットンパンツは床の上に脱いであって、尻ポケットには本屋で取ったメモ用紙が皺《しわ》くちゃに突っ込まれていた。
一瞬ためらったが、ぼくはフックを外して番号をプッシュし、電話に出た女の人に名前と用件をくり返して、面会の約束をとり、そして、電話を切った。自分がしなくてはならないことは、クルマを磨くことでも愚痴を言うことでもなく、責任を消化することだった。
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ぼくが紺の綿パンに白いポロシャツを着て家を出たのは、柿の木の影がとなりの家の塀にまで延びた、午後の四時だった。二日酔いの頭は少し心配だったが、ぼくはミニ・クーパーのハンドルを握ることにした。メモにある友部さんの家は鎌倉で、材木座海岸からあまり離れていない住宅地だった。湘南道路までの道は分かっているし、まだ夕方のラッシュも始まっていない。お袋がどこへ行ったにせよ、東京にいたところで、今日はすることもないのだ。
ぼくは家の近くのスタンドでガソリンを入れ、タイアとエンジンオイルをチェックして、それから環八経由で第三京浜に乗ることにした。|保土ヶ谷《ほどがや》で横浜・横須賀《よこすか》道路に乗り換えれば、逗子《ずし》を通って鎌倉までは二時間で行くはずだった。
横浜・横須賀道路を逗子でおりて、湘南道路に出たのは暗くなる直前の、六時半だった。道路も普通の混み方で、湘南道路までの道も間道えなかったから、時間的には予定どおりに着いたことになる。休日のこの道路は一キロ進むのに三十分もかかることがあるが、今日は週のまん中だし、ぼくが急いでいるわけでもない。相手の声にも時間を強制する雰囲気は感じられなかった。ぼくは鎌倉の市街地に入る手前で湘南道路を右へ入り、途中の酒屋で一度住所を聞いただけで、迷いもせずに友部さんの家に到着した。日は暮れきっていたが、門灯で表札は読め、街灯の明りで低いレンガの塀とコンクリートの建物も確認できた。
ぼくを玄関に迎えてくれ、だだっ広いフローリングのリビングに案内してくれた友部さんの印象は、『ずいぶん奇麗に歳をとった人だな』というものだった。歳は五十を過ぎているはずだったが、半分白くなった髪をおかっぱ[#「おかっぱ」に傍点]のように短く切り、線の崩れていない躰《からだ》にスリムのジーパンとロゴ入りの赤いTシャツを着ていた。化粧をしていない皮膚には日に焼けた艶《つや》があって、ぼくの顔を見て微笑《ほほえ》んだ目には、正直な好奇心が光っていた。
「なるほどねえ。電話で声を聞いたときも増井さんに似ていると思ったけど、実際にあなたの顔を見ると二十五年前を思い出してしまうわ」
リビングと床つづきの台所から、色のうすいジュースのようなものを持ってきて、ぼくの前へ置きながら、悪戯《いたずら》を仕掛ける中学生のような目で、友部さんが笑いかけた。
「あなた……笹生くんだっけ、大学生?」
「はい」
「どこの大学?」
「青南《せいなん》大の、三年です」
「専攻は?」
「歴史」
「うちの娘も朔学大の三年だわ。西洋美術史が専攻で、今はイタリアへ行ってるの」
友部さんが向かいのソファに脚を組んで座り、どうぞ、というように、テーブルのグラスを目で指し示した。
「笹生くん、それで増井さんは、なんで亡くなられたの」
「肝臓|癌《がん》だったそうです。ぼくが知ったのは、親父が死んでから一週間あとでした」
「増井さんとは一緒に暮らしていなかったわけね」
「親父とお袋は、ぼくが小学校へあがる前に別れました」
「今は、お母様とお暮らし?」
「はい。親父はそのあとまた別の女の人と結婚して、その女の人は、十年前に死んでいます」
「増井さんも忙しいことをしたのねえ。あの人、いろんな意味で気が短かったから」
「友部さんは、親父のこと、よく知っていましたか」
「親友みたいなものだったわよ。あの頃はみんなお金がなくてね、美南代《みなよ》の家からの送金でわたしたち三人が食べていたぐらい」
「美南代?」
「杉野美南代、あなたが探している人の名前」
ぼくはテーブルに手を伸ばし、グラスを取りあげて、指先に冷たい感触を確かめてから、一口、飲みものを口に含んでみた。それは冷やしたハーブティーのような味だった。
「杉野さんとは今でもおつき合いがありますか」と、グラスをテーブルに戻して、ぼくが訊《き》いた。
「あるわよ。でも今は二、三年に一度会うぐらいね」
「杉野さんには親父との間に、女の子が一人いたそうです」
「あなたがわたしに会いに来るのは、そのことだと思っていたわ」
友部さんが立ちあがり、ぼくの顔を見おろしながら、楽しんでいるような目でTシャツの肩をすくめてみせた。
「笹生くん、あなた、お腹が空いているでしょう」
「はい?」
「そういう顔をしているわ。今日は朝からなにも食べていないみたい」
どうしてそんなことが分かるのか、不思議ではあったが、画家として一流になるような人は勘の働き方が違うのだろう。友部さんの視線につられて、ついぼくは「はい」と返事をした。
「昼間からビーフシチューを煮込んであるのよ、ご馳走《ちそう》してあげる。今日は朝からお客様が見えるような気がしていたの」
友部さんが台所へ歩いていき、ぼくはいくらか唖然《あぜん》としながら、それでも知らないうちに肩の力を抜いている自分に、ちょっと苦笑した。初めて来た家で突然ビーフシチューを食べさせられるのも、妙な気分だったが、相手が親父の親友だった人なら、失礼ということもないだろう。
カウンターで仕切られた台所の向こうで、友部さんがごそごそやりだし、ぼくは手持ち無沙汰《ぶさた》に、改めて広い台所とリビングを眺めてみた。リビングと台所の中間の壁には二階へのぼる剥《む》き出しの階段があって、階段の上には明かり取りの天窓が付いていた。画家の家だから、アトリエもあるはずだったが、それが二階なのか一階の別棟なのか、座っている場所からは分からなかった。画家の家だというのに、リビングにも階段にも絵は一枚も飾られていなかった。
「友部さんの絵、一枚もありませんね」と、カウンターの向こうで、腕を組んでなにかを見つめている友部さんに、首を伸ばして、ぼくが言った。
「笹生くん、絵に興味があるの」と、腕を組んだまま、大きく息を吐いて、友部さんがおかっぱ[#「おかっぱ」に傍点]の髪を振り払った。
「特別に、興味はありません」
「あなたの顔は絵に興味を持つ顔じゃないものね。増井さんもそうだったけど、あなた、プラグマチストでしょう?」
「そういうことは、分折しないことにしています」
「わたしは自分の絵を家に飾れるほど無神経じゃないの。絵なんて、興味のない人に無理やり押し付けるものでもないしね。絵描きってみんな馬鹿だから、そういう理屈が分からない人間も多いけど」
「言ってることは、分かると思います」
「増井さんも絵には興味のない人だったわ。でも彼、理屈は分かる人だった。だから美南代とも暮らせたのよ。美南代もわたしも、逆に昆虫にはまったく興味はなかった」
「親父と杉野さんは、どこで知り合ったんですか」
「わたしが紹介したの」
「友部さんが、ですか」
「あのころわたし、大学で顔料の研究をしていてね、蝶々の色から新しい顔料のヒントが欲しくて、友達に昆虫学者を紹介してもらったの。その紹介された人が増井さんだったわけ。けっきょく新しい顔料はできなかったけど、美南代と増井さんができ[#「でき」に傍点]ちゃった。男と女って、分からないものよね」
友部さんが中華どんぶりを二つ運んできて、テーブルに置き、台所へ戻って二本のスプーンと細長いフランスパンを持ってきた。中華どんぶりには黒いビーフシチューが溢《あふ》れていて、大きい肉の塊が、どぼんどぼんと浮かんでいた。
「シチューは沢山あるの。おかわり[#「おかわり」に傍点]してもいいわよ」と、フランスパンを半分に割り、片方をぼくに手渡しながら、友部さんが言った。「でも笹生くん、本当に増井さんに似ているわ。あの頃もよく三人で一本のフランスパンを齧《かじ》ったっけ」
「親父は、その頃、貧乏だったんですか」
「大学の講師なんて夜警のおじさんより貧乏よ。それに専門が昆虫学じゃ、碌《ろく》なアルバイトもなかったわ」
「親父がいろんな人に迷惑をかけていたこと、最近、分かってきました」
「迷惑だと思う人もいたし、思わない人もいたでしょうね。あまり喋《しゃべ》らない人だったけど、その代わり妥協もしなかったな。増井さんに好意を持つ人と嫌う人、極端だったかもしれない」
「杉野さんは無理やり実家に連れ戻されたと聞きました。親父は、放っておいたんですか」
「そうねえ……お味、いかが?」
「はい?」
「ビーフシチューのこと」
「お袋のビーフシチューよりは、合格です」
「お腹《なか》が空いているときはなんでも美味《おい》しいって、顔に書いてあるわ」
友部さんが目尻《めじり》で可笑《おか》しそうに笑い、自分ではどんぶりに手をつけずに、腕を組んで小さくため息をついた。
「笹生くん、美南代と増井さんが別れたあともお互いに愛し合っていたとしたら、あなた、どうする?」
「はい?」
「あなたとしては面白くないわよね」
「そういうことは、考えないことにしています」
「あなたのお母さまより、増井さんが美南代を愛していたとしても?」
「お互い様です。お袋も特別に、親父を愛していたわけではなかったようです」
「笹生くんは、そういうことが割り切れる性格なの」
「訓練はしています」
「変わった子ねえ。増井さんも変わっていたけど、あなたのほうがもっと変わっているわ」
「親父と杉野さんは、なぜ別れたんですか」
「そんなことが分かれば世の中から男と女の問題はなくなるわよ。美南代は老舗《しにせ》の一人娘で、増井さんは貧乏な昆虫学者、状況が悪すぎたんでしょうね。だから別れたとは言わないけど、男と女って、愛し合っているだけではどうにもならないことがあるものだわ」
具体的に、親父と杉野美南代の関係がどういうものだったのか、納得はしなくても、自分と季里子のことを考えれば理屈は理解できる。それに友部さんが心配してくれるように、親父と杉野美南代が愛し合っていた事実を、ぼくは少しも不愉快に思わなかった。親父は親父のスタイルで、真剣に女の人を好きになることもあったのだ。顔も思い出さない親父に対して微笑《ほほえ》ましい愛着が湧《わ》いてきて、ワインがあれば友部さんと乾杯をしたい気分だった。
「杉野さんにも、友部さんにも、迷惑はかけません」と、フランスパンを千切って、しばらく口の中で噛《か》んでから、意識して静かに、ぼくが言った。「ただ親父が、姉さんに当たる人に形見の蝶を残しています。ニューギニアにしかいないゴクラクトリバネアゲハという蝶です。そんなもの、姉さんは要らないと言うかも知れませんけど、ぼくが預かっていて、親父の遺言でもあるし、渡すだけは渡したいと思います」
「その事のためだけに、今日、わざわざわたしに会いに来たの」
「友部さんに会いに来たのは、その事だけが、理由です」
「笹生くん、あなた、本当に変わっているわ。でもあなたみたいな変わり方、わたし、好きなのよね」
友部さんがスプーンを胸の前で止めたまま、脚を投げ出して、ぼくのほうに大きく眉《まゆ》を開いてみせた。
「美南代のことは教えてあげる。会いたければ紹介してあげてもいいけど、でも二十五年もたてば状況が変わること、笹生くんにも分かるわよね」
「ぼくの状況なんか、一日で変わります」
「なんのこと?」
「いえ……」
「昨日《きのう》留守番電話であなたの声を聞いたときから、わたしも考えていたの。でも、話さないわけにはいかないし、わたしが話さなくてもあなたはどこかで調べるでしょうしね。今日も電話で言ってあげようかと思ったけど、わたしとしては、直接あなたに会って話したかったの」
友部さんがスプーンをどんぶりに戻し、鼻の頭に皺《しわ》を寄せて、おかっぱの前髪を指の先で横に掻《か》き分けた。
「あなたが姉弟《きょうだい》に会いたい気持ちは、もちろん、よく分かるの……」
「はい」
「でも、二十五年の間には、いろいろなことがあるものなのよ」
「はい」
「会いたくても、あなたはお姉さんに会えないの……言ってること、分かる?」
「はい……あのう、いえ」
「分かるでしょう? 和可子《わかこ》ちゃんは、もうずっと前に死んでいるのよ」
ぼくのスプーンにはそのとき四角い肉の塊がのっていたが、スプーンをそのまま口に運んでいいものか、とっさに判断はできなかった。聞き違いでなければ、友部さんは、姉さんはもう死んでいると言ったのだ。
「姉さんの名前は、和可子……でずか」
「そう。美南代は婿養子を迎えたから、姓はそのままよ。あなたのお姉さんは杉野和可子。色が白くて奇麗な子だったわ。十八のときに自殺をしてしまったの」
親父の死を知らされたときでさえ、あれほど実感が湧《わ》かなかったのに、会ったことのない姉弟がすでに死んでいるという事実に、なぜぼくが動揺するのだろう。姉さんの存在と親父の生きてきた軌跡を、ぼくは、どこかで、無意識のうちに混同していたのだろうか。
「笹生くんには気の毒だけど……」と、スプーンをどんぶりに戻しながら、細めた目を深い色に光らせて、友部さんが言った。「和可子ちゃんが死んでから八年もたっている。美南代の家族も今では静かに暮らしているわ。お婿さんとの間には別な子供もいるの。だから、わたしとしては、美南代の生活に必要以上の波風は立たせたくないのよ。それは、分かってくれるわね」
もともとぼくは杉野美南代に会いたかったわけではなく、相手の生活が混乱する事態を望んでもいなかった。和可子という姉さんが、もし生きていて、なにかの事情でぼくに会いたくないと言うのならそれも仕方ないと思っていた。ただその事情が、『八年前に死んでいる』とまでは、思ってもいなかった。
「友部さん。姉さんは、自殺したと言いましたか」
「残念だけど、そのとおりよ。頭が良くて、神経が過敏すぎるところがあったの。家庭の事情も複雑だったし、無自覚に生きていくには繊細すぎたんでしょうね」
「自殺した原因は、どういうことですか」
「大学の入試が近くなって、成績が思うように上がらなくなってはぃたらしいけど、そのことが直接の原因ではなぃでしょうね。原因はあくまでも、和可子ちゃんの資質だと思う。美南代が諦《あきら》めた絵の道を進もうとしていて、わたしから見ても才能は美南代以上だったわ。ただ、繊細なだけに、精神的な生命力が弱かったんでしょうね。和可子ちゃんが死んだときは、わたしも自分の子供のことのように残念だった」
なんのために姉さんを探してぃたのか、理由も目的も分解してしまった。結論としては、もういくら探しても姉さんには会えない、ということなのだ。親父の存在まで急に遠くなったような気がしたが、しかし親父は、姉さんの死を知らないで、二匹の蝶を残したのだろうか。
「笹生くん」
「はい」
「最初にも言ったけど、あなたが美南代に会いたければ、紹介してあげてもいいのよ」
「その必要は、ありません」
「そうでしょうね。会えば美南代もあなたも、辛《つら》いだけでしょうね」
「杉野さんには、いつか、親父が死んだことだけを伝えて下さい。墓は谷中の静庵寺という寺にあります」
「せっかく姉弟《きょうだい》がいると分かったのに、残念だったわね」
「はい」
「ほかにご姉弟は?」
「いません」
「和可子ちゃんのことを知りたければ、高校時代の親友が東京に住んでぃるわ。紹介してあげましょうか」
「そう……ですね」
「むずかしい[#「むずかしい」に傍点]子だけど、あなたとなら気が合うかもしれない。和可子ちゃんとは中学から一緒で、美大を出てイラストレーターをやっているの」
「イラストレーター、ですか」
「いけない?」
「いえ」
「技術的にはまだ若いけど、和可子ちゃんの親友だけあってセンスのいい子だわ。今、三軒茶屋に住んでいるの」
「………」
「浮田香織といって、最近は雑誌でも仕事をしているわよ」
「………」
「笹生くん?」
「はい」
「どうかした?」
「いえ」
「香織ちゃんのこと、知っているの」
「いえ……」
掌に噴き出した汗が、腋《わき》の下にまで伝わり、クーラーの風が首のうしろを冷たく通りすぎる。イラストレーターで、名前が浮田香織で、実家が京都で今は三軒茶屋に住んでいる。そんな人間が偶然二人いたら、ぼくは、笑ってしまう。
「ビーフシチュー、お口に合わない?」
「味は、今まで食べたシチューの中で、最高です。昨夜飲みすぎて、胃が重いだけです」
「ビーフシチューでは油が強すぎたかも知れないわね」
「友部さん」
「なあに?」
「その、浮田さんのほうは、ぼくを知っていると思いますか」
「どうかしらね。でも増井さんが結婚したことや、子供が生まれたことは、わたしも美南代から聞いていたの。あなたとしては面白くないでしょうけど、和可子ちゃんが中学生の頃までは増井さんも京都へ会いに行っていたらしいわ。香織ちゃんなら、和可子ちゃんからあなたのことは聞いていたかも知れないわね。だからわたし、最初に訊《き》いたのよ、そういう事実を、あなたが我慢できるかどうか」
ソファの座り心地が悪くなって、尻《しり》をずらし、二の腕に浮いてきた鳥肌を、ぼくは腕を組む仕草で掌の中に包み込んだ。最初からすべて事情を知っていた香織が、いったいなんのつもりで、一年間も隠しつづけてきたのか。
「笹生くん、どうする?」
「はい?」
「香織ちゃんを呼んであげましょうか」
「今、ですか」
「電話して、都合がよければ来てもらうわよ。ビーフシチューを作りすぎたの」
「今日は、ぼくは、準備ができていません」
「いざとなると怖いわけ」
「姉さんが死んでいることに、覚悟ができていませんでした」
「そういうものかしらね。見かけよりあなた、難しい青少年なのね」
自分がこの混乱をどう解決したらいいのか、考える勇気もなく、ぼくはただの見栄でソファに座りつづけていた。
どんぶりに残っていたビーフシチューを、黙って平らげ、フランスパンも無理やり胃に押し込んでから、友部さんに分かるように、失礼は承知でぼくは自分の腕時計をのぞき込んだ。八時にはなっていなかったが、時間が気になったわけではなかった。
「日を改めて、蝶も用意して、ぼくのほうから電話をします」
「遅くなるとお母様に叱《しか》られる?」
「女の子と待ち合わせがあったことを、思い出しました」
「今まで忘れていて、突然思い出したの」
「それぐらいのことは、いつでも忘れて、いっでも思い出せます」
「あなたも増井さんに似て忙しい性格らしいわ」
「親父よりは、ぼくのほうが、礼儀を知っています」
「礼儀正しく女の子を困らせるわけね。わたしには増井さんより、あなたのほうがいけない男の子に見えるわ」
無性に外の空気が吸いたくなって、ぼくは気を鎮めて会釈をし、ズボンの膝《ひざ》で掌の汗を拭《ふ》きながら、軽く深呼吸をした。自分の動揺をごまかし切ったとは思わなかったが、ごまかし切ったという前提で、ぼくは腰をあげた。
「笹生くん……」と、玄関に向かって歩き出したぼくに、うしろから付いてきて、おかっぱの首を傾げながら、友部さんが言った。「もう少し休んでいったほうが、良くない?」
「だいじょうぶです。海の風は頭の中も消毒してくれます」
「いろんなこと、我慢しないほうがいいわよ」
友部さんにもその言葉の意味は分からなかったろうし、ぼくにも分からなかったが、とにかくぼくは、「はい」と返事をした。
「近いうちにまたいらっしゃいね」
「はい」
「あなたとはお友達になれそうだわ」
「はい」
「八月には娘も帰ってくるの。わたしに似てるから、美人だわよ」
「はい」
「笹生くん……」
「はい?」
「本当に、だいじょうぶ?」
「本当に、だいじょうぶです」
ぼくが息苦しくなった理由を、友部さんが知っているはずもなく、それでも友部さんは眉《まゆ》の間に皺《しわ》を寄せて、心配そうに肩をすくめてみせた。
「事情は分からないけど、笹生くん、あなたも困った男の子らしいわ。そういう意地を張るところ、増井さんにそっくりだもの」
友部さんとは視線を合わせず、自分の肩で顔が隠れる角度に、ぼくは、深くお辞儀をした。
「ビーフシチューを、ご馳走《ちそう》さまでした」
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海岸が遠くなるにつれて、空気から潮の匂《にお》いが薄れていく。鎌倉から保土ヶ谷までの間、ぼくは窓を開けて走りつづけ、火照《ほて》った顔と冷めた神経を意識的に濃い風に晒《さら》しつづけていた。街路灯や対向車のヘッドライトが揺れながら滲《にじ》み去り、ぼくの頭は奇妙に静かで、ハンドル操作もギアチェンジも、自分の動作が他人事に思えるほど完壁《かんぺき》だった。破滅をしないぼくの性格はぼくを横浜まで運び、クルマを第三京浜へ乗せて、まっすぐ東京へ走らせる。
空気に排気ガスの臭気《におい》が強くなり、汗が埃《ほこり》で粘り始め、ぼくは初めて、窓を閉めてクーラーを入れる。カーステレオにC・Dをセットし、そしてふと、なんの脈絡もなくそのことを考える。いったいぼくは、何歳《いくつ》のときから夏休みを待ち遠しく思わなくなったのだろう。
高速道路の料金所をすぎ、インターチェンジで環八に出てから、脇道《わきみち》へ入って、そこからは駒沢《こまざわ》への抜け道を三軒茶屋へ向かう。このまま自由が丘の家へ帰ってしまったら、香織と顔を合わせる決心が鈍ってしまう。
玉川通りに突き当たる手前の道を右へ曲がり、街灯の横にクルマを止めて、香織のマンションまでの五十メートルほどの距離を、ぼくは思考の止まった頭でゆっくりと歩いていった。香織が部屋にいなければいないで、公園のブランコにでも乗っていればいい。今夜中に帰らなければ、帰るまで、明日の朝までブランコに乗っていればいい。
香織は部屋にいて、口元を軽く歪《ゆが》めただけで、黙ってぼくを中へいれてくれた。部屋にはいつものとおり寒いほどクーラーがきいていたが、香織の着ていた服は白いショートパンツに、ボーダー柄の半袖《はんそで》トレーナーだった。フローリングの床に置かれたビールの缶もガラスの灰皿も、いつものとおり見慣れたもので、テレビはついてなく、机の上にはスタンドランプに照らされた絵筆やペーパーパレットが無造作に放り出されていた。
「ちょっとだけ待ってくれる? この絵を仕上げてしまいたいの。冷蔵庫のビールは昨日から冷えているわ」
椅子《いす》に浅く腰をのせ、筆を取りあげた香織を眺めながら、ぼくは冷蔵庫へ歩いて缶ビールを取ってきた。空気の冷たさも絵の具の匂《にお》いも、香織の横顔も窓からの夜景も、なにもかもいつものとおりで、そしてなにもかも、気が遠くなるほど知らない世界だった。
ぼくはベッドの横板に背中を凭《もた》れさせ、床の冷たさとクーラーの冷気を躰《からだ》に染み込ませながら、机に俯《うつむ》いている香織の横顔を不思議なほど静かな気持ちで眺め始めた。香織の肩までの髪は黒いシニョン・リングで束ねられていて、剥《む》き出しになった耳から顎《あご》の線にかけて、ライトの強い光が彫刻のように硬い影をつくっている。
これまでなん度この部屋へ来て、なん度香織のベッドで眠ったことか。それでもぼくは、仕事をしている香織を見るのは初めてだった。ぼくが香織の都合を確かめないで部屋に来ることはなかったし、香織も仕事の合間にだけ、ぼくに電話をかけてきていた。お互いに自分たちの関係を言葉で確認し合うこともなく、お互いの世界に必要以上に入り込むことも、一度もせずに過ごしてきた。ぼくは『大人の関係』という言い方で自分に言い訳をしていたが、それは香織の心を確かめる勇気がなかっただけのことなのだ。
三十分ほどの間、ぼくの目蓋《まぶた》の内側で涙が滲《にじ》んだり乾いたりしていたが、香織は仕事机から顔をあげず、頬杖《ほおづえ》の位置をずらしては筆を洗うだけで、ふり返ることも、話しかけることもしなかった。
ぼくはビールを飲み干し、立ちあがって、香織のななめうしろからライトの中に自分の影を割り込ませた。ぼくには香織が描《か》いているイラストの意味も、技術的な巧拙も分からなかった。香織は薄く溶《と》いたなん色もの水彩絵の具を、ただ紙の上に重ね塗りしているだけのようだった。ぼくの影にも、呼吸の音にも気づいているはずだったが、香織は頬杖をついたまま、筆を動かすだけで、自分が動かす筆の先に切れ長の視線を無表情に据えつづけていた。
「今日もまた、仕事の邪魔をしてしまった」と、椅子《いす》の背凭《せもた》れに手をかけ、机に散らばった絵の具のチューブを、勝手に横へ並べながら、ぼくが言った。「他人に見られると描《か》きにくいんだろうな」
「イメージが湧《わ》かないだけなの。急にお天気が良くなって、集中力がどこかへ飛んでしまったみたい」
筆を洗い水の瓶に放り込み、欠伸《あくび》のようなため息をつきながら、丸めたペーパーパレットを、香織がぽいと屑籠《くずかご》に放り込んだ。
「君が仕事をしているところを見るの、考えてみたら、初めてだ」
「わたしのほうは関係ないって、いつも言ってたのにね」
「礼儀正しくしようと、努力していたんだ。君のことを尊敬していたから」
香織が口の中で声を出さずに笑い、椅子をずらして、ショートパンツから伸びた脚をぼくの目の下でゆっくりと組みかえた。
「ビール、持ってこようか」
「そうね。一息入れて、気分を変えたほうがいいかも知れないわ」
ぼくは香織の横顔を目の中に入れたまま、仕事机から離れ、冷蔵庫からビールを二本出してまた香織のうしろへ戻ってきた。もう触れるつもりのない香織の長い脚に、奇妙な欲望を感じる自分が、ぼくには、少しだけ悲しかった。
「今日、本当に、天気が良くなった」と、栓を抜いた缶ビールを、一本香織に手渡して、ぼくが言った。
「これから一週間は雨が降らないって、テレビでも言ってたわ」
「海に行く支度、してあるのか」
「していないの、昼間からずっと仕事をしていたの」
「ぼくも、やっぱり、支度はしてないんだ」
ぼくは栓を抜いたビールの缶に、唇を押しっけながら、香織から離れて仕事机の端に腰で寄りかかった。
「急に天気が良くなって、急に鎌倉へ行く気になって、天気が良かったから、うっかり、親父の友達だった人に会ってしまった」
香織が白い喉《のど》を晒《さら》してビールを呷《あお》り、ライトに伸ばした指先で、ぱちっとスイッチを切った。
「その人は昔の親父を知っていて、親父と暮らしていた女の人も知っていて、女の人が産んだ子供も知っていた。ぼくの姉さんの名前も教えてもらったし、姉さんの親友だった女の人の名前も教えてもらった」
一度切ったライトのスイッチを、またぱちっと点《つ》け、それをまたぱちっと消して、残っていたビールを香織が静かに飲み干した。
「友部のおば様から電話があったわ。礼司くんのこと、ちょっと癖があるけど、魅力的な男の子だと言ってたっけ」
ぼくも残っていたビールを飲み干し、空き缶を机の端において、一つ、ひっそりと深呼吸をした。友部さんが香織に連絡したことは想像できていたし、香織が仕事に集中していない理由がその電話にあったことも、もう理解できていた。
「どこから、話し始めようか」
「どこからでも同じでしょう。礼司くんのお父さまが亡くなって、礼司くんが和可子を探し始めたときから、こうなることは決まっていたもの」
どこから始めても結果は同じだろうが、憎み合って別れる必要がないことも、ぼくは漠然と感じていた。
「君の考えていること、やっぱり、分からないな。ぼくと姉さんのこと、いつから知っていたんだ」
「最初から知っていたわよ」と、組んでいた脚をおろし、絵筆とインク壷《つぼ》を机の端に押しやりながら、ひとりごとのように、香織が言った。「和可子に母親がちがう弟がいることは中学のときから聞いていた。和可子のお母さんは実家に内緒で、和可子とあなたのお父さまを会わせていたの。和可子が新しいお父さんに馴染《なじ》まなかったのは、そういうことにも原因があったと思うわ」
香織の口調は、もう長い間練習してきた舞台の台詞《せりふ》のようで、一気に喋ってしまうことで自分の感情を抑えようという、香織なりの努力なのかも知れなかった。
「和可子は、礼司くんに会うことを楽しみにしていた。お父さまから礼司くんの写真ももらっていて、わたしにもよく見せてくれた。子供のくせに生意気な顔をしてるって、二人で笑ったものだわ。和可子はお母さんの影響で子供の頃から画家志望だったし、わたしも絵画クラブに入ったけど、和可子の絵を見て自分が画家になることは諦《あきら》めたの。才能があそこまで違えば嫉妬《しっと》も感じなかった。ただ和可子は、絵に才能があったぶんだけ生きていくには繊細すぎたの。大学へ入って礼司くんに会うことを楽しみにしていたのに、けっきょく、その前に、自分で手首を切って死んでしまった。わたしは一人で東京へ出てきて、和可子のかわりに自由が丘まであなたの顔を見に行ったわ。最初は礼司くんが中学生のとき。二回目は、三年前の秋だった。礼司くん、気がつかなかったでしょう」
香織が一度ぼくの顔を覗《のぞ》き込み、椅子《いす》から腰をあげて、揺れるような歩き方で怠《だる》そうに台所へ歩いていった。そして栓を抜いた赤ワインとグラスを持ってきて、ベッドの前に胡座《あぐら》をかいて座り、シニョン・リングをはずして髪を両手の指で大きく上に掻《か》きあげた。
「あのとき礼司くん、門の前で女の子と話をしていたっけ」と、二つのグラスにワインを注《つ》いでから、ぼくに目で合図を送り、口の端を皮肉っぽく笑わせて、香織が言った。「紺の制服を着て、おでこに前髪を垂らした、可愛《かわい》い子だったわ。あの子とはもう、つき合っていないの」
ぼくはグラスを差し出している香織の前まで、なんとか歩いていき、グラスを受け取って、さっきまで香織が座っていた椅子に深く腰をおろした。意識が朦朧《もうろう》としているわけではなかったが、香織が言う『可愛い女の子』が誰だったのか、ぼくには、思い出せなかった。
「わたしは名乗るつもりはなかったし、礼司くんに和可子のことを教えるつもりもなかった。ただ和可子が会いたがっていた弟がこんな家に住んでいて、こんな青春をやっているのかということを確かめたかっただけなの。人間には知ったからって、どうしようもないことはいくらでもあるわけだしね」
香織がグラスを静かに口へ運び、眉《まゆ》をあげて、同意を求めるように、ちょっと顎《あご》を突き出した。返事をしなくても香織の言葉がつづくことは分かっていたので、ぼくはワインに口をつけて、黙って香織の顔を眺めていた。
「でもね、三回めに礼司くんを見かけたのは、本当に偶然だった。覚えているでしょう? あの日のこと」
香織に念を押されなくても、ぼくはさっきから一年前のその日を思い出していた。その店もその時間も、そのときの香織の服装も香織の表情も、はっきりと思い出していた。
あのときぼくがバーのカウンターに座っていて、となりに座った香織と目が合い、冗談のつもりでぼくが「あと十分待って君が来なかったら、帰ろうと思っていた」と話しかけたのが最初だった。無視されるか、席を立たれるかと思ったが、香織は二、三秒ぼくの顔を切れ長の目で見つめたあと、片方の頬《ほお》だけで笑って、「六本木でタクシーを拾うのに、三十分もかかったの」と返事をしてくれた。バーテンが香織の注文を訊《き》き、その注文をぼくの伝票に書き入れたとき、お互いにもう、下を向いてくすくす笑っていた。香織の服装はペパーミントグリーンのラップスカートに、対《つい》のボレロジャケットだった。
「もちろんね、あの店で偶然カウンターにとなり合わせたわけではないの。いくら渋谷が狭い街でも、夜中に初めて入ったお店で偶然礼司くんに会うなんて、あるわけないものね」
香織が一杯めのワインを飲み干し、空のグラスに注《つ》ぎ足して、目の高さにあげたグラスに向かって軽く目を細めた。
「本当はあの日の夕方、東急ハンズの家庭用品売り場であなたを見かけていたの。礼司くんは黄色いパンプスを履いた髪の長い女の子と一緒だった。自由が丘の家で立ち話をしていた子とは違ったわね。礼司くんがその女の子に琺瑯《ほうろう》のパーコレータをプレゼントしてあげて、それからあなたたち、映画を見にいったわ。あれは『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』だった。そのあとで道玄坂《どうげんざか》のレストランへ行って、二人でビールを飲んで、お喋《しゃべ》りをして、楽しそうなデートをしていたわ。二人がレストランを出たのが十一時ごろ。どうするのかなと思っていたら、礼司くんが女の子を井の頭線の駅へ送っていって、そこで別れてしまった。わたしも自分がなんで礼司くんのあとをついて回るのか、よく分からなかったけど、いつの間にか礼司くんのことを弟のように錯覚していたのかも知れない。それで、わたしの弟、けっこう爽《さわ》やかな若者じゃないって、なんとなく嬉《うれ》しかった。それから礼司くんも東横線の電車に乗ると思っていたら、あなた、一人で街の中へ戻っていったでしょう。わたし、こいつ、もしかしたら他の女の子と待ち合わせしてるのかなって、ちょっと頭にきたの。礼司くんて一見|真面目《まじめ》そうだけど、本当はなにを考えているのか分からないところがあるものね。あなたが一人であの店に入ったから、ぜったい他の女と会っていると思って、十分ぐらい外で時間をつぶしてからわたしもショットバーへ入ってみたわ。少し怒っていたから、つまずいた振りをしてあなたに水でも掛けてやろうと思ったのね。でも店に入ってみたら、礼司くん、一人でぼんやりカウンターに座ってバーボンを飲んでいた。少し前まで女の子と一緒だったときのうしろ姿と、まるで違っていた。こいつ、なにを考えているんだろうって、もしかしたら淋《さび》しいのかなって、そう思ったらわたしも急に淋しくなって、それで、あのとき、となりに座ってしまったの」
香織の説明を聞きながら、頭の中でぼくはいちいち頷《うなず》いていたが、たとえきっかけが香織の言うとおりだったとしても、あの日から今日までの一年間は、偶然や冗談ではなかったはずだ。香織はぼくがぼくであることを知っていて、それを言うか言わないかは、香織の責任だった。
「知り合った日のことは、君の言うとおりだろうけど……」と、椅子《いす》の背凭《せもた》れに背中を張りつけたまま、ワインのグラスに口をつける真似《まね》をして、ぼくが言った。「それ以降のことは、君のルール違反だ」
「それはそうなの。それは、礼司くんの言うとおりだわ」
またワインを飲み干し、自分でグラスに注《つ》ぎ足して、胡座《あぐら》をかいていた脚を香織が面倒臭そうに床へ投げ出した。
「わたしも最初は冗談のつもりだった。あの夜だけ冗談を楽しんで、次に会ったときには説明して、礼司くんに謝るつもりだった。こういう関係になるなんて、わたしも思っていなかったわ」
「………」
「だから、言い訳はしない。でも二度めに会ったとき、その次までまた冗談を楽しみたくなったの。三度めに会ったときはもう本当のことを話すきっかけがなくなっていた。本当のことを話す必要もなくなっていた。これからも素性が分かるはずはないし、それに、はっきり言って、礼司くんと結婚したいと思ったわけではないしね」
「それでも、やっぱり、ルール違反だった」
「そんなことは分かっているわよ。分かっていたって、どうにもならなかったじゃない? 礼司くんはこの一年間、楽しくなかったの」
「楽しかったけど、そういうこととは、問題が別だ」
「ルール違反だということ? わたしが和可子の親友だったことを言わなかったのが、ルール違反? 和可子の自殺を隠していたことがルール違反? そんなこと、最初から分かっているわよ」
「君が……」
「わたしが、なに?」
「いや……ワイン、もらおうかな」
こんなワイン、いくら飲んでも酔わないことは分かっていた。ぼくは手を伸ばしてワインを注いでもらい、椅子の背凭れにまた強く背中を押しつけた。クーラーは鳥肌が立つほどきいていて、それでも背中と腋《わき》の下に、居心地の悪い汗をかいていた。
「この前礼司くんに、お父さまが亡くなったことを聞いたときも……」と、切れ長の目で、遠くのほうからぼくの顔を眺めながら、口の端を歪《ゆが》めて、香織が言った。「今さら、実はわたしはあなたのお姉さんの親友で、あなたのお姉さんは八年前に自殺していますとは言えなかったわ。礼司くんが友部のおば様の名前を言ったときから、こういう結果になることは分かっていたけど、でも、近いうちにわたしたちがこういう結果になることは、礼司くんにだってもう分かっていたことじゃない」
香織が髪をふって膝《ひざ》を抱え込み、ワインのグラスを頬《ほお》に押しつけて、口紅を落としていない赤い唇を、瞬間、くっと引きつらせた。
椅子をおりて、グラスを持ったまま窓側へ歩き、黒くて小さい夜景に目をやりながら、ぼくが言った。
「この前に見せた蝶のこと、覚えているだろう」
「ゴクラクなんとかいう、礼司くんのお父さまが残した、蝶のこと?」
「ゴクラクトリバネアゲハさ。日本語で書くと、極楽の、鳥の羽根の、アゲハ蝶ってことなんだろうな。親父がなんであんなものを残したのか、その理由が、分かったような気がする」
今更そんなことはどうでも良く、香織も聞きたくはなかつたろうが、ぼくたちの関係に結論が出てしまった今、ぼくにはそれを、自分の口で説明する必要があった。
「親父は五月に入院して、死ぬことが分かったとき、付き添っていた人にぼくと姉さんには連絡するなと言ったそうだ。親父の見栄だったかも知れない。一人で死んでいくのが義務だと思ったのかも知れない。でも本当は、そういうことではなかったと思う。杉野さんが連絡をしなかったはずはないし、親父は姉さんが死んでいることは知っていた。知っていて、わざとぼくに姉さんを探させた」
「それが、わたしたちと、どう関係があるの」
「関係はない。ただ、言ってみただけさ。親父は、照れたんだと思う。照れたけど、それでも親父は親父なりに、無器用だった自分の生き様をぼくに説明したかった……そういうことじゃないかな」
親父が残していった蝶の意味が、ぼくが考えたとおりなのか、それとも親父の気紛れだったのか、今となっては、誰にも分からない。香織が言うように蝶がぼくたちの関係に影響したわけではないし、親父の歴史がなにかの教訓を残したわけでもない。親父が残したのは、けっきょく、季里子と一緒に写っている一枚の写真だけなのだ。
「姉さんの蝶、今、ぼくが預かっているんだ。姉さんの親友だった君には、受け取る権利があると思う」
「わたしがもらっても仕方ないわね」
「そうだろうな。杉野さんに送るのも迷惑だろうから、友部さんへ、ビーフシチューのお礼にでもするかな」
ぼくは躰《からだ》の向きを変え、空のグラスを机の上に置いてから、静かに、一歩だけ香織の横へ近づいた。
「夏になって、天気が良くなったのに、残念だった」
「海……」
「ホテル、キャンセルできるかな」
「放っておけばいいわ、そんなもの」
「青山辰巳と行けばいいのに」
「あんなやつ……奥さんとも別れない、フィジーも駄目になってしまった」
香織が床から起きあがって、ベッドの端に腰をのせ、腕を広げて背伸びをしながら、長くため息をついた。
「礼司くん、女の厄年って、いくつだっけ」
「十九と、三十三かな」
「三十三まで、まだ七年もあるのか……疲れるわね」
同じ台詞《せりふ》はこの前も聞いた気はしたが、返事ができるはずもなく、ぼくは曖昧《あいまい》に頷《うなず》いただけで、黙ってドアへ歩き出した。
「帰らないでと言っても、礼司くん、もう聞いてくれないのよね」
「君みたいに奇麗で、五つも歳上の人には意地を張りたいさ」
「本当は肩の荷がおりたんでしょう? この前一緒にいた女の子、あの子、妹ではないものね」
ぼくの背中に悲しいような怒りが走ったが、せっかく鎮まりかけた自分の気持ちを、今は、もう一度怒らせる気にならなかった。
「あの子のこと、好きなんでしょう?」
「………」
「大事にしなさいね」
「………」
「あの子は普通の子とちがう……そんな気がする」
「………」
「礼司くん?」
「うん?」
「わたしのこと、怒っている?」
「今夜君に会いに来たのは、そういう意味ではなかった」
「どういう意味なの」
「ぼくたちが憎み合って別れる必要がないことを、確かめたかっただけ」
「大人になったのね」
「ぼくが君に、ありがとうと言ったら、失礼になるかな」
「それは、失礼になるわ」
「そうだろうな。だから、そういうことは言わないんだ」
香織が背中を丸めて、膝を抱え込み、ワインのグラスをぼくのほうへ差し出して、乾杯というように、口を結んだまま、目だけで頷いた。
ぼくも手の中の透明なグラスを香織に差し出し、ベッドの上とドアの前から、その二つのグラスを、かちんと重ね合わせた。
ぼくの目の中で、いつまでも香織の肩が揺れていたが、それがワインのせいではなく、涙のせいだとわかったのは、ドアを閉めて、マンションの廊下をエレベータへ歩き始めたときだった。
「ぼくが、君を、怒るはずないさ」と、のぼってくるエレベータを待ちながら、声に出して、ぼくは一人言《ひとりごと》を言った。
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「あら……礼司くん、クルマじゃなかったの」
「………」
「電話がないから帰るとは思っていたけど、顔が赤くない?」
「鎌倉へ行ってきた」
「鎌倉へ行くと、どうして顔が赤くなるのよ」
「急に天気が良くなって、海の光が強くて、日に焼けたんだ」
「礼司くんは日に焼けると、息がお酒臭くなるわけ」
「ビールは、一杯だけ飲んだ」
「大変よねえ」
「それは、大変さ」
「昨夜もタクシーの運転手さんに担ぎ込まれたしね」
「昨夜……へええ」
「覚えていないの」
「覚えていない。都合が悪いことは、忘れることに決めたんだ」
「困ったわねえ。今ごろになって、反抗期がきてしまったのかしら」
夜中の十二時だというのに、それとも夜中の十二時だからなのか、食堂ではお袋が養命酒をオンザロックで飲みながらテーブルにケーキカタログを開いていた。着ているものはハートがプリントされた半袖《はんそで》パジャマだったが、前髪と頭の上にヘアカーラーを三本も巻きつけていた。今日もどこへ出かけたのか知らないが、明日はどうせ、葬儀屋の福田さんとデートでもするのだろう。
「礼司くんも大学生だし、煩《うるさ》いことは言いたくないけど……」と、左の手で頬杖《ほおづえ》をつきながら、右の手でカタログのページをめくって、鼻から息を吐くように、お袋が言った。
「でも最近、毎晩帰りが遅いし、毎晩お酒を飲んでくるし、あまり、無茶なことはしないでね」
「無茶ができればもっと楽に生きられるのにな」
「礼司くん……」
「うん?」
「最近少し、おかしくなあい?」
「少しは、おかしいかも知れないね」
「そうなのよね。へんに陽気になったり、へんに落ち込んだり……昨夜《ゆうべ》言っていた一人言《ひとりごと》、覚えてる?」
「昨夜のことは無かったことに決めた」
「でもあんなことを言われたら、母親としては心配になるわよ」
「あんなことって、どんなこと」
「本当に覚えていないの」
「ねえ、母さん……」
「覚えていなければいいのよ。礼司くんだって悩みはあるだろうし、青春って、そういうものだものね」
お袋がなにを言いたいのか知らないが、昨夜の酒がぼくの精神衛生に良かったはずはなく、ぼくに悩みがあることも、青春がそういうもの[#「そういうもの」に傍点]であることも、お袋よりは、ぼくのほうがちゃんと分かっている。
「昨夜、ぼくが、なにを言ったのさ」
「いいのよ。礼司くんが元気なら、それでいいの」
「本当にいいの」
「本当には、それは、よくないけど……」
「なにを言ったか知らないけど、酔っ払いの戯言《たわごと》じゃないのかな」
「そうかしら」
「そうさ、決まってるさ」
「礼司くんは、『この無意味な人生を、どうやって最後まで我慢したらいいのか』って、なん度も同じことを言っていたのよ」
「へええ」
「覚えていない?」
「覚えていない。ずいぶん難しい寝言を言ったんだな」
「そうでしょう、わたしが心配する気持ち、分かるでしょう?」
「母さんに甘えてみたかったのさ」
「そうなの」
「たぶんね」
「それならいいけど、礼司くんが不良になつたら、わたし、困ってしまうわ」
「母さんが最近ぼくを突き放しているからさ」
「わたしは礼司くんのほうが冷たくなったと思っていた」
「愛情の表現が、大人になっただけさ。それに人生が無意味だとも思わないから、不良にだってならないさ」
「そうよね。礼司くんが不良になるんなら、大塚さんの息子さんなんか銀行強盗になるわよね」
「大塚さんて、誰だっけ」
「上野毛《かみのげ》でケーキのお教室を開いている人。わたしのことをただの素人だって、ご近所に言いふらしているらしいの」
「母さんも、大変なんだな」
親父の死を知らされて以降、お袋もお袋なりに、混乱はしていたのだろう。ぼくの混乱がお袋に伝染してしまったことだって、少なくはなかったろう。姉さんの問題も片づいたし、明日からは心を入れかえて、健全な青少年に戻ればいい。
「それで、ねえ礼司くん、本郷の高森さんは、昨日はなんのお話だったの」
「昨日は、一般的な、娘の教育に関しての相談だった」
「そうなの」
「それだけさ」
「わたしはあの人が礼司くんを困らせに来たのかと思ったの。今日だってなん度も電話をしてきたのよ」
「今日?」
「そうよ。わたしが帰ってきてから、もう三度もかけてきたわ。怖い声で礼司くんはどこにいるのかって、そればっかり訊《き》くの」
「母さん……」
「どこにいるのかって訊かれても、ねえ? 礼司くんが鎌倉へ行ったことなんて、わたしが知るわけないじゃない?」
「高森のおばさんの電話って、なん時ごろあったのさ」
「最初は八時ごろ」
「それから?」
「十時にあって、十一時すぎにもう一度あったわ。わたしが礼司くんの居場所を知らないことを、なにか悪いことのように言うの」
「高森のおばさんは、なんの用だって」
「知らないわよ。とにかく礼司くんはどこにいるのか、なん時に帰ってくるのかって、そればっかり」
お袋に文句を言っても仕方ないが、昨日高森のおばさんは自分の意見は言い尽くしたはずで、それを今夜三度も電話してくるというのは、並大抵の事件ではない。お袋がいくら状況を知らなくても、ぼくとおばさんが夜中に電話でお喋《しゃべ》りをするほどの友達でないことぐらい、判断ができそうなものではないか。
壁の時計を見て、十二時を過ぎていることを確認したとき、計ったように電話が鳴って、頬杖《ほおづえ》を外したお袋を目で制しながら、ぼくは黙って電話へ歩いていった。相手が高森のおばさんであることは分かっていた。高森のおばさんが、ぼくを巣鴨のとげ抜き地蔵へ誘うために電話をしてきたのでないことも、やはりぼくには分かっていた。
「お兄さんかい? え? こんな遅くまで、いったいどこへ行ってたんだね」
どこへ行こうと大きなお世話で、しかしおばさんの声の真剣さと、用件の内容に対する予感で、とにかく、ぼくは素直に謝った。
「お兄さん、今、一人なのかい?」
「お袋も起きています」
「そんなことはどうだっていいよ。あたしが訊いてるのは、季里子はそこにいないのかってこと」
予感は当たっていて、おばさんがぼくに季里子の居場所を訊くということは、今、この時間に季里子が本郷の家にいないということなのだ。
「彼女が、どうか、したんですか」
「どうかしたのか、こっちが知りたいよ。あんたたち、一緒じゃなかったんだね」
「ぼくにも一応、ぼくの人生があります」
「あんたの人生なんか知りたくもないね。あたしが知りたいのは季里子が今どこにいるのか、それだけなんだよ」
「もっと、落ち着いて下さい」
「あたしはじゅうぶん落ち着いてるさ。ねえお兄さん、あんたまさか、季里子を隠したんじゃないだろうね」
「そういう無茶はしない家系です」
「なんだって?」
「いえ……」
「なんでもいいけどさ。あんた、今日、本当に季里子とは会っていないんだね」
「彼女と会っていれば電話に出ません。それより彼女がどうしたのか、落ち着いて話して下さい」
「どうしたもこうしたも……」
高森のおばさんが喉《のど》をつまらせ、それから目蓋《まぶた》の震えが目に見えるような声で、低く、言葉を吐き出した。
「季里子が、いなくなっちまったんだよ」
「おばさん」
「なんだね」
「彼女がいなくなったことは分かってます。だから、具体的には、どういうふうにいなくなったんですか」
「どういうふうにって、いなくなったものは、いなくなったんだよ」
「いつからいないんです?」
「いつから? そんなの、今日からいないに決まってるじゃないか」
「家出ということですか」
「そんなことあたしが知るもんかね」
「他に、心当たりは……」
「なんだって?」
「いえ。分かりました。今からそちらへ伺います」
「今から?」
「いいですね」
「いいって……ああ、そうかい、そうしてくれるかい?」
「伺います。すぐに行きます。彼女はだいじょうぶです。おばさんが思っているよりはしっかりした子です」
ぼくが受話器を下に置いたときには、お袋も椅子を立っていて、なにか質問のありそうな目で、口を半分開きかけていた。
「なんでもないよ」と、ぼくが言った。
「礼司くん……」
「出掛けてくる」
「礼司くん?」
「今夜は帰らないかも知れない」
「礼司くん」
「うん?」
「なんだか知らないけど……」
「うん」
「とにかく、頑張ってちょうだいね」
ぼくは一応お袋に頷《うなず》いてやり、そして頷きおわったときには、もう家を飛び出していた。おばさんには「だいじょうぶだ」と言ったものの、季里子の存在自体が少し危ないことは、ぼくにも分かりすぎるほど分かっていた。原宿にさえ行ったことのなかった季里子が、まさか一人で、六本木のディスコに繰り出すはずはない。
ミニ・クーパーのエンジンをかけたときには、香織の部屋で飲んだビールも、ワインも、ぼくの頭からきっぱりと蒸発していた。
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首都高速の混み具合いは心配だったが、工事にさえかからなければ一般道よりは速く着く。ぼくは自由が丘から中原街道へ出て、首都高速の二号線に突っ込んだ。目黒から飯田橋《いいだばし》のランプまでは三十分で通過し、春日通りを本郷方面に戻って、あとは白山通りから菊坂へ入っていった。付近の地理が頭に入っているわけでもないのに、道を間違えることもなく、ぼくは自由が丘を出てから一時間で季里子の家に到着した。夜中でクルマが少ないせいもあった。ミニ・クーパーの小回りがきいたせいもあった。そしてぼくの集中力も、完壁だった。
クルマの頭を門の前にくっつけ、木戸をくぐって庭を覗《のぞ》くと、縁側に面した部屋から明りが洩《も》れていて、浴衣《ゆかた》を着たおばさんの影が部屋の明りを縁側の手前でくっきりと遮っていた。
ぼくは前と同じように、木戸から庭へ入り、白い団扇《うちわ》で膝《ひざ》の上を扇《あお》いでいるおばさんのところまで、ゆっくりと歩いていった。おばさんが普段どんな生活をしているにせよ、夜中の一時に、庭を眺めながら思索に耽《ふけ》るというのも、そうあることではないだろう。縁側には強く、蚊取り線香の匂《にお》いが流れていた。
「夜中にどうやって来るかと思ってたけど、お兄さんもクルマ乗れるんだねえ」
おばさんが縁側から部屋の中に尻《しり》をずらし、ぼくは空いた部分に腰をおろして、部屋と、雑草だらけの庭と、今自分がくぐってきた古い木の門とを改めて見回してみた。殺風景な古い家には季里子の不在感だけが強烈で、雑草の中で鳴いている虫の声にも、蚊取り線香の匂いにも、季里子の不在に対する苛立《いらだ》ちが濃く漂っていた。来てはみたものの、やって来てから自分がなにをするのか、実は、ぼくも考えていなかった。
「まだ、連絡はないんですか」と、分かりきっているそのことを、今の状況を確認するためだけの意味で、ぼくが訊《き》いた。
おばさんが腹と胸を大きく揺すり、団扇を強く振って、なにか、口の中で返事をした。
「心当たりは、調べたんですか」
「当たり前さね。中学の同級生のところも、親戚《しんせき》の家も、思いつくところはぜんぶ電話をした。電話しながら気がついたっけ、季里子が……あの子が、同級生や親戚の家へ行くはずがないってこと。季里子はこの家以外、いるところも行くところもないんだよ」
「でも実際は、今、この家以外のどこかにいます」
「だからさ、あたしはてっきりお兄さんと一緒だと思っていた。あんたらが二人で、駆け落ちでもしたんじゃないかと思っていた」
駆け落ち[#「駆け落ち」に傍点]というのがどんなものか、とっさに実感は湧《わ》かなかったが、言葉の意味を確認して、妙にぼくは納得した。
「警察には、届けたんですか」と、庭を睨《にら》みながら、指輪を並べた手で団扇を使っているおばさんに、目の前の蚊を掌で追い払って、ぼくが言った。
「春日の交番へは行ってきた。九時ごろまではお兄さんと一緒だろうと思って、いくらかは安心していたのさ。だけど、どうもね、へんな勘が働いたよ。考えてみたらあんたはそういうことをする男じゃなかった」
「駆け落ちをしたほうが良かったかも知れません」
「今更言っても遅いけど、二人で駆け落ちしてくれたほうが、あたしも気が楽だった」
「警察は、探してくれているんですか」
「探してなんかくれるもんか。十八にもなった子の帰りが遅いのは、当たり前だって言うんだよ。季里子は普通の子じゃないって、いくら説明してやっても聞いちゃくれないやね。偉そうな顔して税金ばっかり使ってるくせに、いざというときにはなんの役にも立ちゃしない。おかみ[#「おかみ」に傍点]だの警察だのなんて、所詮《しょせん》はそんなもんさ」
十八で夜の商売をする女の子もいるし、新宿や六本木ならもっと若い子が朝まで遊んでいる。李里子が特別だと説明しても、警察が納得しないのは仕方ない。小学生が遊びに出てこの時間まで帰らないこととは、問題が別なのだ。
「彼女は、今日の、なん時ごろ家を出たんですか」
「早い時間だったよ。一緒にお昼食《ひる》を食べて、それから、すぐだった」
「どこへ行くとか、誰かに会うとか、言わなかったんですか」
「あの子がそんなことを言うわけないだろう、お兄さんだって知ってるじゃないか。それにいつもは一時間か二時間で帰ってくるんだよ。この前お兄さんと出掛けたときは特別だった。あのときは季里子も、あたしに話していった」
「服装は、どうでした?」
「ジーパンにあの青いリュックを背負って、頭に帽子を被《かぶ》っていた」
「様子に、変わったところは?」
「あの子は普段から変わってるんだよ。そんな難しいこと、あたしに分かるわけないじゃないか」
「彼女の部屋は、見ましたか?」
「お兄さんの言いたいことは分かる。それが心配で、あたしも二階の部屋まで這《は》っていったさ。でもそういうもの[#「そういうもの」に傍点]は、なにも見つからなかった」
おばさんはもちろん、李里子の遺書か書き置きのことを言っているわけで、ぼくも具体的に考えたくはなかったが、部屋になにも無いということは、とりあえずは、気休めの材料になる。
「昨日おばさんが、ぼくに言ったことですけど……」と、蚊取り線香の煙を、手を振って払いながら、視線を庭に戻して、ぼくが言った。「おばさんの気持ちは分かります。ぼくも反省しました。常識的にはおばさんが正しいと思います。でも、それを突然彼女に押しつけるのは、無理があったと思います」
「結果的には、まあ、お兄さんの言うとおりさ」
おばさんが団扇《うちわ》を膝《ひざ》の上に置き、煙草に火をつけて、煙を庭に向かって力なく吐き出した。
「あたしは季里子に、静かな暮らしをさせたかった。お兄さんのことも早く結論を出しちまったほうがいいと思った。それだけなんだけど、それが、やっぱり、年寄りのお節介だったのかねえ」
「ぼくもおばさんの言うことなんか、きかなければ良かったと思います」
「へええ」
「大きなお世話でした」
「お兄さんも意地を張るんだねえ」
「駆け落ちだってなんだって、するべきでした」
「本当に駆け落ちされたら、それも面倒だったよ」
「彼女はおばさんが写真を燃やしたとき、なにか言いましたか」
「なにも言わなかった。なにも言わないで、あたしが庭で周郎さんの写真を燃やすのを眺めていた。季里子がなにも言わなかったし、表情も変えなかったから、あたしはあの子があたしの言うことを分かってくれたと思った。でも、ねえ、あの子が黙っていたり表情を変えなかったりするのは、そういう意味じゃないんだよね。あたしも分かってるつもりで、つい自分に都合よく解釈しちまった」
「彼女が帰ってきたら、ぼくたちに、時間を下さい」
「大きなお世話じゃないのかい?」
「はい?」
「あたしが駄目だと言ったら、駆け落ちするんだろう」
「はい」
「いやだねえ。歳は取りたくないねえ。自分では精一杯考えてるつもりなのに、いつの間にか若いもんのことが分からなくなってる……お兄さんにも、謝らなくちゃねえ」
「………」
「周郎さんのことさ。周郎さんはたしかに勝手な人だったけど、季里子にだけはよくしてくれたよ」
「はい」
「季里子の気持ちを考えると、あたしとしてはそれも怖かったんだけどねえ」
「………」
「人間、歳は取りたくないもんさ」
「おばさんは、それでも、いいほうです」
「お世辞なんか要らないよ。あたしは季里子が無事に帰ってくれば、それで文句はないんだ」
「少し寝て下さい。ぼくが起きて待っています」
「寝られるもんかね。季里子がこんな時間まで帰らないなんて、一度もなかったんだ。そりゃ傍目《はため》には変わった子に見えたろうけど、案外しっかりしてるしね、心根だって優しい子さ。あたしがどんなに心配しているか、季里子にだって分かりそうなもんなのに」
「彼女、ぼくのこと、なにか言いましたか」
「変わった人だってさ。最初に二人でお寺さんへ行った日、帰ってきてから、そう言ってた。あの子に変わってると言われるんだから、お兄さん、よっぽど変わってるんだろうね」
「原宿へ行って、帰りが遅くなった日は……」
「あの日は、お兄さんとディズニーランドへ行く約束をしたとか、そんなことを言ってたかねえ」
「ディズニーランド……ですか」
あの日、たしかに、ディズニーランドは季里子の目を輝かせ、口元には素直な憧れの微笑《ほほえ》みを浮かべさせた。季里子が行きたい場所があるとすれば、単純にディズニーランドかも知れない。頭の中の整理がつかなくなって、季里子は今日、ふらっとディズニーランドへ行ってしまったのだろうか。季里子が一人でアリスのティーパーティーに乗っている光景が目に浮かんで、どうにも、ぼくはやり切れなかった。一人ではスタージェットにもウェスタンリバー鉄道にも乗ってもらいたくないし、乗せたくもなかったし、だいいちそれでは、ディズニーランドが季里子に似合わない。
ぼくの頭に、竹下通りを大股《おおまた》に歩く季里子のうしろ姿が甦《よみがえ》って、『宿命倶楽部』でコンピュータ星座占いを突き付けられたときの生真面目《きまじめ》な顔や、原宿の駅前でぼくを待っていたときの生意気な存在感や、レストランでビールのコップを睨《にら》みつけたときの目の迫力なども、ビデオテープを巻き戻すように、かすかな音を立てて記憶に甦ってきた。初めて会ったときの季里子の素足の表情から、この家の前で別れたときの鼻の頭の汗まで、そのすべてを、ぼくは苦しいほど鮮明に覚えている。
そのとき、戻りすぎた記憶がまた前に進み始め、コマ送りのように、止まっては進みながら、李里子と一緒に歩いた道の風景を、記憶の中の画面にくっきりと映しだしてきた。次の瞬間、ぼくは腰をあげていたが、自分が立ちあがりながら声を出したことに気づいたのは、それからほんの少しあとだった。
「どうかしたのかい?」
「はい……」
「蚊にでも食われたかね」
「いえ。ちょっと、思い出しました」
「ちょっとって、なにをさ」
「だから、ちょっと、思い出したんです」
気持ちはもうクルマに歩きかけていたが、おばさんの力のある視線に引き戻されて、ぼくの躰《からだ》だけは、まだ縁側の前に立っていた。
「季里子の居場所に心当たりができたんだね」
「分かりませんけど、とにかく行ってみます」
「とにかく、どこへ?」
「行ってから、彼女がいたら、連絡します」
ぼくは今度は、本当に木戸へ向かって歩き始め、庭の入り口のところで、一度だけ縁側のおばさんをふり返った。
「なにをしてるんだね」
「はい……」
「なんでもいいから、早く季里子を連れてきておくれよ。あたしのことなんか気にしなくていいんだ」
「姉さんのこと、言うのを忘れていました」
「馬鹿じゃないかい」
「はい?」
「そんなこと、今はどうでもいいじゃないか。早く李里子のところへ行っておくれ。早くあの子を見つけてきておくれ。ディズニーランドでもどこでもいいから、早く行ってあの子を連れてきておくれ」
ぼくは自分が返事をしたのか、頷《うなず》いただけだったのかも思い出せないまま、木戸をくぐり、クルマのドアを開けて、同時にもうキーをイグニッションに差し込んでいた。季里子がそこにいることに、確信はなかった。ただ確信したいという思いが掌に汗を滲《にじ》ませ、アクセルを踏む足に不器用な力を入れさせた。路地にぶつけないでクルマを菊坂まで戻せたのは、死んだ姉さんの、弟に対する同情かもしれなかった。
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夏休みに入って、久しぶりにハンドルを握ってみたら、今日はとんでもない距離を走っている。覚悟を決めてドライブに出たわけでもないのに、気がついたら鎌倉へも行ってきて、今は知らない街で向き[#「向き」に傍点]になってアクセルを踏んでいる。昨夜の今ごろはタクシーの運転手に担がれていたらしいから、人間の運命なんて、分かったものではない。生きていることが面白いかつまらないか、結論を出すには、少しだけぼくは若すぎる。
ぼくは菊坂からクルマを本郷弥生町に向け、言問通りを根津から谷中まで、季里子と歩いた道を、それこそ必死になってぶっとばした。一緒に走っているのはタクシーだけで、どんな事情があるのか知らないが、タクシーもやはりぼくと同じようにぶっとばしていた。
根津の交差点を過ぎて、谷中へ入り、見覚えのある道を左に曲がると、そこがもう墓場の町だった。季里子と来たときは昼間の一番暑い時間で、クルマも走っていたし、人も歩いていた。猫だって犬だって歩いていて、蝉《せみ》も烏も鳴いていた。それが今ではところどころに白い街灯がついているだけの、人間の体温は気配としても感じられない町だった。ぼくは幽霊なんて信じていないが、幽霊を信じていないことと、暗闇《くらややみ》や墓場が怖いこととは別の問題なのだ。クルマを走らせながら、ぼくは本心から怖かった。相手が季里子でなければ、こんなところまで探しにこないことを、ぼくは自信をもって確信した。
親父の墓が入っている静庵寺を見つけ、クルマのライトで参道の奥を照らしたまま、ダッシュボードの懐中電灯を掴《つか》んで、ぼくは目をつぶって寺の敷地へ入っていった。空が晴れたせいか、風が出ていて、木の葉や卒塔婆《そとうば》をぎしぎしと揺すっている。十八歳の女の子がこんな時間の、こんな場所に一人で座っていたら、客観的に言って、間ちがいなく変わり者だ。
ぼくは自分の恐怖心に生涯一度の蓋《ふた》をさせ、クルマのライトが届かない墓場の中の道を、懐中電灯を頼りに怒りながら進んでいった。恐怖を我慢していると、自然に神経が怒ってきて、その怒りが、なんとかぼくの足を墓場の奥まで引っ張っていくようだった。
懐中電灯の光に桧葉垣《ひばがき》が浮かびあがり、ブロック塀との隙間《すきま》に踏み込んで、顔を覗《のぞ》かせると、案の定墓石の前に人間が蹲《うずくま》っていた。季里子だと確認できたとたん、もう、どうしようもなくぼくは腹を立てていた。季里子のいる場所がここにしかないことは理解できても、夜中の二時に、なんでぼくたちがこんなところでデートをしなくてはならないのだ。
「おれが人さらい[#「人さらい」に傍点]だったら、明日おまえは、サーカスに売られるんだぞ」
わざとスニーカーで地面を蹴《け》り、懐中電灯を季里子の顔に向けながら、墓石の前まで歩いていって、ぼくが言った。
「どっちでもいいけど、おれのこと、変わったやつだなんて言うなよな」
季里子のほうは最初から気づいていたらしく、顔を埋《うず》めていた腕から目だけを覗かせて、返事の代わりに、鼻水を一度、力一杯すすりあげた。季里子の目には池ができるぐらいの涙が溜《た》まっていた。懐中電灯の光の中で、その目は倍ぐらいの大きさに潤んでいた。
「遅かったじゃないのよ」
「なんだって?」
「来るなら、もっと早く来てよ」
「……ちょっと、おれも、用事があった」
「あんたの用事なんかどうでもいいの。わたし、蚊に食われちゃった」
本当はもっと怒っていたはずで、それが季里子の声が耳に届いた瞬間、ぼくの頭から、怒りの粒子は感激するほどの早さで飛び去っていた。今が夜中でここが墓場であることも忘れて、季里子のとなりに、ぼくもえいっと腰をおろした。こんなところに座っていれば、蚊にも食われるだろう。迎えが遅かったと言われれば、なるほど、それほど早い時間でもない。
「おまえの今の言い方、おばさんに似ていなかったか」
「そんなの、わたしの勝手よ」
「いつからここに座ってるんだ」
「いつからだっていいの。わたし、あんたなんか、だいっ嫌い」
「泣くか怒るか、一つに決めてくれ」
「泣いてなんかいないわよ。こんな時間まで、どこにいたのよ」
「おまえこそ、こんな時間に、なんでこんなところにいるんだよ」
「そんなの、決まってるわ」
「どういうふうに決まってるんだ」
「そんなの、あんたが、馬鹿だからよ」
言われた瞬間は、かなり無茶な理屈だと思ったが、ぼくと季里子の関係においてはすべての論理がそこに帰結する。分析してみたところで、ぼくの馬鹿さ加減は変わらず、最終的には季里子の意見が正しくなってしまう。
ぼくはズボンのポケットから蛙柄のハンカチを取り出し、季里子の帽子をひったくって、涙と埃《ほこり》で煤《すす》けたその顔を、ごしごしと拭《ふ》き始めた。季里子は口を結んだまま、ぼくに顔を拭かせていたが、拭いたそばから涙が溢れ出して、いつまで拭いても涙は消えていかなかった。
「おばさん、心配していたぞ」と、面倒になって、ハンカチを季里子の手に押し込み、デイパックの背中を揺すりながら、ぼくが言った。「信じなくてもいいけど、おれだっておばさん以上に心配した」
季里子が突然声を張りあげ、足をばたつかせて、ぼくの手にハンカチを叩《たた》きつけた。
「なんだよ」
「そういう言い方、だいっ嫌い」
「そういうって、どういう?」
「『信じなくてもいいけど』って、どういうことよ。普通に『信じろ』って言えばいいじゃない」
「それは、そうだな」
「昨日《きのう》の電話だって、なによ。おばちゃんの言うことなんか気にするなって、普通に言えば良かったのに」
「あのときは、都合があった」
高森のおばさんに、「季里子はぼくに親父の代わりを見ているだけ」と言われて、ぼくがどれほど愕然《がくぜん》としたか、言っても仕方はない。季里子の心にも、そういう部分はあったろう。問題は季里子とぼくが、時間の中でそれを無かったことにできるかという、それだけのことだ。大人になるというのは、そういうことで、しかし、もちろん、ぼくは今すぐ季里子に大人になってほしいとは思わなかった。
「ハンカチが足らなければ、クルマの中にタオルがある」と、まだ涙を流している季里子の目の下を、指の先で拭《ぬぐ》いながら、ぼくが言った。
「タオルぐらい、わたしだって持ってる」
「おれがここへ探しにくること、分かっていたのか」
季里子が背中を丸めて、腕に顎《あご》をのせ、頭ごと、首をちょっと右にかたむけた。
「最初は、ぼんやり、歩き始めただけ」と、ふてくされたような、ひとりごとのような声で、季里子が言った。「考えるのがいやになって、お天気が良くて、ただ歩き始めたらここへ来ていて、そうしたら悲しくなって、歩くのがいやになって、それであんたのこと思い出したら腹が立って、迎えにくるまでここにいてやろうと思って、待ってたけど、来ないし、もっと腹が立って、前より悲しくなって、そうしたら、自分でもどうしていいのか、分からなくなった」
季里子がまた腕に顔を伏せて泣きだし、ぼくは思わず疲れてしまって、墓の区画を仕切っている低い石に、腕をかけて寄りかかった。他人から見たらかなり不気味な風景だろうが、他人[#「他人」に傍点]が散歩にやって来る場所でも、時間でもない。ぼくはもう安心して季里子を泣かせておくことにした。季里子のほうは夕方から墓の前で泣いているわけで、見かけによらず、体力はあるのだろう。
十分ぐらい季里子は泣きつづけ、最後には飽きたのか、涙が涸《か》れたのか、大きく息を吸って、諦《あきら》めたような唸《うな》り声をあげた。
「鈍感よねえ、あんた」
「そうかな」
「なにか言ってよ。心配するなとか、お腹《なか》は空いてないかとか」
「腹《はら》、空いてないか」
「空いてるに決まってるわ」
「そうだろうな。夕方からなにも食べてないだろうしな」
少しクルマを走らせれば、コンビニぐらいどこにでもあるはずで、それに季里子の今の唸り声は、『今日の家出はここまで』という終結宣言なのだ。頷《うなず》き方だけでなく、唸り声でもぼくは季里子の心を読み取れるようになった。あと一か月もすれば、ぼくたちはたぶん、テレパシーで会話ができるようになる。
腰かけていた石の上から、最初にぼくが立ちあがり、季里子も躰《からだ》を起こして、それからぼくたちは『高森家』の墓石に向かって、二人同時に、軽く頭をさげた。季里子を無事に保護してくれていたことに、ぼくは深く親父に感謝した。
墓石の間の狭い道を、ぼくがデイパックのベルトを掴《つか》み、季里子がぼくのシャツを握りしめて歩いていたのは、愛情表現ではなく、それぞれの事件を解決して、墓場の恐怖をしみじみと味わい始めた結果だった。クルマのライトは本堂の裏までは届かず、住宅の明りもなく、ただ上野方向の空がネオンの色で赤く濁《にご》っているだけだった。暗いだけでも怖いのに、思い出したくもないが、ここは墓場なのだ。
「一つ訊《き》いてもいいか……」
並んだ墓石の静けさに、冗談を言う気力もなく、デイパックの上から李里子の背中に腕を回して、大股《おおまた》に歩きながら、ぼくが言った。
「お袋さんのことも、本当の親父さんのことも、おばさんから聞いた。でもおばさんが言うおまえの病気、信じられないな。最初の日から、ちゃんと電話に返事をした」
季里子がぼくの手の中で肩をすくませ、懐中電灯に照らされた足元の小石を蹴《け》って、口の中で、小さく咳払《せきばら》いをした。
「おまえ、本当は、強情なだけだろう」
「………」
「自分の都合で喋《しゃべ》ったり、喋らなかったりするのは、病気といわない」
「わたし……」
「うん」
「中学のとき、ためしに、一日じゅう他人《ひと》と喋らないでみようと思った」
「ふーん」
「最初は誰かに返事をしてしまった。でも、次はうまくいった。三度めはもっとうまくいって、そのうち、こういうのも楽だなと思ったら、他人と話すのが面倒になった」
「強情で、我が儘《まま》なんだよな」
「本気で言ってるの」
「本気で言ってるさ」
「いやな性格ね」
ぼくの性格を非難したわりには、季里子の性格も墓石のデザインに馴染《なじ》まないらしく、ぼくから離れようとも、握ったシャツの裾《すそ》を放そうともしなかった。家族の墓の前で怒りながら泣いているのと、他人の墓の間を懐中電灯一本で歩くのとは、風景が別なのだ。
「わたしだって、本当は、困っていたの」と、ぼくの脇腹《わきばら》にデイパックをこつこつ打ちつけながら、怒ったような声で、季里子が言った。「喋らないことに馴《な》れたら、喋るきっかけが見つからなくなった。困ったなあと思っていたら、あんたが家に来たの」
季里子の病気が、ただの強情や我が儘が原因だとは、ぼくも思わない。ただ今夜の事件を考えると、この強情さはただものではない。ぼくのほうも相当の覚悟が必要で、しかしそっちがその気なら、覚悟ぐらい、ぼくはいつだって決めてやる。
「わたし、お母さんが死んだとき、ものすごく悲しかった……」
クルマのライトが見え始め、杉の黒い枝や本堂の屋根も明りの中に浮かびあがってきた。季里子はぼくのシャツを握ったまま、深呼吸をくり返し、骨張った肩に相変わらず強情な力を入れていた。
「自分でもどうしたらいいか、分からないぐらい、悲しかった。でもそれと一緒に、お父さんがわたしだけのものになるとも思った。わたし、いやな性格なの。自分で自分のことが嫌いで、こういう性格の人間は他人と口をきいちゃいけないって、ずっと、自分で決めていたの」
「へんなことで苦労するよな」
「………」
「おれは、だから……」
強情で我が儘で、頭が良くて、しかも季里子は素直なのだ。こんな性格の女の子が一人で背負うには、これまでの人生が、少しだけ重かったのだろう。
「今、なにを言おうとしたの」
「あとで言うさ」
「あとって、いつ?」
「ほんの、もうちょっと、あと」
ふーんと口を尖《とが》らせ、首を伸ばしながら、ぼくの腕の中で、季里子が力強く背伸びをした。
「わたし、でも、いろんなことを面倒臭く考えるの、やめることにしたわ。むずかしく考えると毎日が本当に面倒なんだもの」
「同じことを、偶然、おれも今日気がついた」
「今日?」
「そうさ」
「だったらそれ、偶然じゃないわ」
「そうかな」
「わたしたちの相性が宿命的だからよ」
「それは、良かった」
「わたし、夏休みが終わったら、学校へ行き直そうと思う」
「………」
「おばちゃんがお父さんの写真を燃やしたときだって、わたし、お父さんには悪いけど、もうお父さんはいなくてもいいなって、そう思った。おばちゃんが一人で大騒ぎをしただけ」
「家に帰ればおばさんも変わってるさ」
「おばちゃんのこと、わたしも嫌いではないの」
「おばさんはおれたちに、時間をくれると言っていた」
「そう」
「時間なんか、おれたちには、いくらでもある」
季里子がまた、ふーんと言いながらぼくの顔を覗《のぞ》き、届き始めたライトの中に踏み出して、分かったのか分からないのか、妙に大きく、うんと頷《うなず》いた。
「時間、ある?」
「あるさ」
「わたし、ディズニーランドへ行きたいな」
「ディズニーランドぐらい、いつでも行けるさ」
「今、これからでも?」
「今……か」
「わたしのほうは、時間はあるわ」
ぼくだって時間ぐらい、あることはある。しかし時間があることと、今ディズニーランドへ行くこととは、発想的に飛躍がありすぎる。
「わたし今日、本当はディズニーランドへ行くつもりで家を出たの。ディズニーランドまで歩いて行こうとしたけど、ここまで来て、やめたの」
どうせそんなことだろうと思っていたが、もう習慣になっていて、頭の中で、今度もぼくは唸《うな》ってしまった。
「この前ここへ来たとき、言ったっけな」
「なにを」
「墓場でのデートに、経験がなかったこと」
季里子が口を開けて、声を出さずに笑い、両足で、軽くうしろへ飛びさがった。
「でも墓場も馴《な》れてみると、意外にロマンチックだ」
「ディズニーランド、行く?」
「行くか」
「今?」
「うん」
「ふーん」
「なんだよ」
「ばかに今日、素直なのね」
「今日は、ちょっと、疲れてるんだ」
ディズニーランドがこんな時間に開いていないことは、ぼくも季里子も知っている。ただ今夜は、やはりディズニーランドへ行くべき日で、浦安《うらやす》まで行って、海岸で朝がくるのを待てばいい。高森のおばさんには電話で駆け落ち[#「駆け落ち」に傍点]でないことを伝えればいいし、夏休みは始まったばかりだし、ぼくと季里子は、そういう『宿命的な相性』なのだ。
季里子がまた声を出さずに笑い、横に飛んで、ライトの中を水道の前まで飛び眺ねた。明りが届いているのは参道と本堂と、季里子が屈み込んだ水道の前だけで、あとの風景は季里子を浮かびあがらせるだけの、ただの暗幕だった。
ぼくは水道で顔を洗う季里子のうしろ姿を、ぼんやり眺めながら、菊坂からこの寺までクルマを飛ばしたときの掌の汗や、鎌倉からの帰りに頬に受けた風の匂いや、それからもっと、この十日ほどの間に会ったすべての人の顔と、すべての出来事を思い出していた。それは不思議にみんな遠い昔のことのようで、自分がここにいる理由も、季里子が今水道で顔を洗っている理由も、みんな忘れていた。ぼくに分かっていたのは、今目の中に季里子がいるという、それだけだった。
季里子が立ちあがり、両手を腰のうしろへ組んで、ふてくされたような歩き方でぼくの前に戻ってきた。Tシャツの胸も前髪もジーパンの裾《すそ》も濡《ぬ》れていて、顔を洗ったのか、頭から水を被《かぶ》ったのか分からなかった。季里子の目も鼻も口も顎《あご》の線も、クルマのライトを正面から受けて、くっきりと光っていた。
「ねえ」
「なんだよ」
「だから、これ」
季里子が開いてみせた掌には、ぼくが原宿で買った李里子の口紅がのっていた。季里子はその掌をぼくの顎の下に突き出しながら、大きく見開いた目で、こっくんと頷《うなず》いた。
「なんだ?」
「塗ってほしい」
「どうして」
「わたし、口紅を塗ったこと、ないの」
「おれだって口紅なんか、塗ったことはないさ」
「………」
「明日の朝がいい。明日、海から日がのぼり始めたら、クルマのバックミラーを使って自分で塗るといい。口紅って、そういうもんさ」
「ふーん」
「そういうもんだ。おまえ、少し、髪が伸びたか」
季里子が丸い目を驚いたように閉じ、また驚いたように開けて、ぼくに向かって、力一杯舌を突き出した。ぼくは一つだけニキビのできている季里子の顎をつまんで、横にふり、それから黄色い帽子を季里子の目の下まで、すっぽりと被せてやつた。今は短すぎる季里子の髪も、夏休みが終わるころには、素敵な長さになるだろう。
「さっきのあれ、なあに?」と、自分で帽子を被りなおし、クルマのほうへ歩きながら、一つ飛び跳ねて、季里子が言った。
「さっきの、あれって」
「さっき言いかけて、あとで話すと言った、あれ」
「あれ……か」
ぼくも季里子に追いつき、少し歩いてから、ふり返った季里子を、デイパックと一緒に思いきり肩の上に担ぎあげた。
「けっこう重いんだな」
「バッグに麦茶が入ってるの」
「また麦茶を持ってきたのか」
「大きなお世話よ。ねえ、あれ、なあに?」
さっきなにを言いかけ、なにを言えなかったのか、本当は、思い出しもしなかった。ぼくの考えたことなんか、どうせ季里子への気持ちに決まっている。初めて会ったときから、眠っている間でさえ、ぼくは季里子の顔を忘れたことはなかったのだ。
「恰好《かっこう》悪いなって言おうとしただけさ」
「ふーん」
「それだけだ」
「それだけなの」
「それだけさ」
「誰が、恰好悪いの」
「おれが恰好悪い」
「どうしてあんたが恰好悪いの」
「そういうもんだからさ」
「どこが、どういうふうに、そういうもんなの?」
季里子をクルマの横へ放り出し、ドアを開けて、助手席に押し込んでから、丸い目で窓ガラスに顔を張りつけた季里子に、半分ひとりごとで、ぼくが言った。
「二十歳《はたち》をすぎてからの初恋なんて、恰好悪いに、決まってるじゃないか」
[#改ページ]
単行本 一九九一年一〇月 角川書店刊
底本
角川文庫
一九九九年九月二五日 第一刷