八月の舟
樋口有介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)匂《にお》いがまじるわけでも
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)左|膝《ひざ》の関節炎が
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松林の向こうの空が市街地のネオンサインで濁った色に浮きあがる。レストランや喫茶店の明りが松林の中を夜光虫のように明滅する。野球場の汗くさい喚声が夜と入れかわり、利根川の方向からなまぬるい風が吹き出した気もするが、それで木々が揺れるわけでもなく、空気に風の匂《にお》いがまじるわけでもない。こんな時間になっても、まだ蝉《せみ》が鳴いていた。
ぼくは部屋の窓枠に尻《しり》をのせ、松林の賠い夜光虫を、煙草《たばこ》を吹かしながらぼんやりと眺めていた。お袋がドアを開ける瞬間まで足音に気づかなかった理由は、ぼくのぼんやり病が重症だったせいだろう。いつものことではあるが、この病気はバイクでいうと、エンジンの回転数があがりすぎてある時点からオーバーヒートしてしまった状態に似ている。
そのときお袋が着ていた服は、黒地に白や黒やピンクの糸で刺繍《ししゅう》がしてあって、おまけに腕を広げると袖《そで》が裾《すそ》のところにまで垂れさがるという、ものすごい代物だった。年に一度か二度、お袋は勘違いをしてこういう服を買ってくることがある。
「いつ、帰ってきたのさ」と、ぼんやり病の順に無理やり気合を入れて、ぼくが訊《き》いた。
ぼくの煙草にちらっと目をやってから、逆光の中で、お袋がふんと鼻を鳴らした。
「考え事でもしていたのかい」
「そんなとこさ」
「考え事をするのに、青少年は部屋を暗くしておくんだねえ」
「明るい場所で考えることじゃないんだ」
「健全な青少年の健全な悩みではないわけか。人生とはなんぞやとか、人間いかに生きるべきかとかは、明るい電気の下で考えることだもんねえ」
お袋はしたり[#「したり」に傍点]笑いを残したまま、うしろにさがっていき、ドアの把手《とって》に手をかけたところで、悠然とふり返った。
「お寿司《すし》を買ってきたんでね、それを言いにきたんだよ」
お袋のその最後の台詞《せりふ》は、本人にとっては、たしかに格好よかった。久しぶりにかたち[#「かたち」に傍点]が決まったという喜びが、廊下を遠ざかっていく足音で単純に表現されていた。
昔からお袋には、前触れなしにぼくの部屋をのぞいて悦に入るという、妙な趣味があった。ぼくも中学生のころまでは抗議を申し入れていたが、お袋の決意と反論は、そうでなくても分の悪いぼくの立場を完全に圧倒するものだった。
お袋の反論というのは、こうだ。
「あんたの唯一の保護者であるあたしには、多分に社会生活不適応症気味の青少年を健全な人生に導く義務がある。問題はあんたの頭が、机にしまってある裸の女の写真で一杯なことで、そういうあんた自身の生活態度こそ非難されるべきである」
ようするに良くも悪くも、お袋には『ドアはノックするためについているのではない』という信念があったので、『ノックすることもできる』という信念のぼくとは、過去一度たりとも、ドアの存在理由について意見の一致はみていなかった。
しかしだからといって、これまでの十七年間、ぼくがずっとお袋に首のうしろをつかまれつづけていたのかといえば、そんなこともない。お袋の体重はぼくの体重を悲しくうわまわっていて、音をたてずに階段をのぼる技術を身につけるには、少し歳《とし》を取りすぎていた。足音自体は忍ばせても、階段のきしみが勝手に警戒警報を発してくれるのだ。
それに本当は、これがお袋の無念さなのだが、一年ほど前から左|膝《ひざ》の関節炎が重くなって、十二段しかない階段がデパートの非常階段ぐらいの高さにふくれあがったらしいのだ。最近のきまり文句は、「二階と一階では景色もちがうが、そんなものに感激するのはあんたの幼児性が抜けていない証拠である」というもので、二人しか住まない家を二階建てにしてしまったことを、お袋はくり返しくり返し後悔するのだった。
お袋が十キログラムの贅肉《ぜいにく》退治にとりかかったのは、ある意味では必然のなりゆきだった。お袋は自分の躰《からだ》から十キロぶんの宿敵を追放することで、膝の関節炎など整形外科医の標本棚に押しこめると信じたのだし、なんといっても十二段しかない階段をきしみ音一つたてずにのぼれなくなった人生に、もはや生《い》き甲斐《がい》も見出《みいだ》せなくなったのだ。
お袋が手初めに試みたのは、一週間の絶食だった。絶食の効用に対するお袋の演説は、少なくとも最初の三日目までは、思わず納得してしまうほどの説得力だった。「便秘は治る。肩|凝《こ》りは治る。だいいち食事をしないことのいかに経済的であることか。日本をはじめ全先進諸国はこれを法制化すべきで、そうすれば世界的食糧難もエネルギー危機も、一か月をまたずして解決されるであろう」
四日目に、多少なりとも自分の意見を修正したことは別にして、それでもどうにか一週間の絶食をなしとげ、その結果お袋はなんと、二キロもの減量に成功したのだった。しかしその時点で一つ明らかになったことは、つまり十キロの減量にはあと四週間の絶食が必要だという事実で、たたかいは即時中止になった。減量どころか、お袋にとって、それはもう生死の問題だったのだ。
以来耳のつぼに鍼《はり》を打つ方法を試したり、一粒六百円もする漢方の薬や、週刊誌の広告に出ていたデッキチェアみたいな形の機械を買いこんでみたりはしたが、どれもお袋の体重を百グラムだって減らすことはできなかった。だから今日の、それもこの時間のこの場面に限ってぼくが油断していたのかといえば、それは、そうなのだ。お袋が一年ぶりに百二十段もある階段に挑戦してくることなど、誰《だれ》が予想するものか。
実をいうとぼくは、暗くなるずっと前から、ある決意の重圧にほとんど自分の人格を破綻《はたん》させていた。ぼくは数えきれない煙草を空吹かしし、便箋《びんせん》の上にでんと坐《すわ》った『こんにちは』と、ひたすら苦しいニラメッコをつづけていた。ぼくが手紙なんてものを書くのは小学校のとき、担任の教師に年賀状を書いたのが最初で、しかも最後だった。それも冬休みの宿題に無理やりやらされただけのことで、そのぼくが年賀状でも暑中見舞いでもない手紙を書こうとすること自体、客観的には非常に無茶な試みだった。ぼくの頭の中では、『こんにちは』の一つ一つの文字が蟻《あり》のように行列をつくり、加藤さんの家の玄関までもうなん時間もぞろりぞろりと行進をつづけていた。考え方によってはこの『こんにちは』は、かなり天晴《あっぱれ》な書き出しのようにも思われ、また考え方によってはこれ以上芸のない文句も、そうはないようにも思われた。だからといって『拝啓』でいいのか、『前略』でいいのか。『拝啓』では加藤さんが敬礼を返してきそうだし、ぼく自身の思いこみからいっても、少なくとも前を略せるような問題ではないのだった。
ぼくにできたことは、たったの二つ。窓枠に腰かけて、顔の近くに飛んでくる羽虫を火のついた煙草の先で追いまわすこと。頬《ほお》の左側にできたニキビをこいつは思いニキビだっけ、それとも思われニキビだったっけ、と思案を巡らせながらひねりつぶすこと。お袋がぼくの部屋をのぞいたのは、つまり、そういう情況でのことだった。
ぼくは『こんにちは』だけしか書いてない便箋を破って、くずかごに捨て、煙草と紙マッチをズボンのポケットにつっ込んで階下におりていった。
下の部屋ではお袋が、ソファの上に、ふんぞり返って胡座《あぐら》をかく、というむずかしい姿勢で、坐るという言い方をするなら、とにかく坐っていた。背中では買ったばかりのクーラーが、これでもかと言わんばかりに唸《うな》っていた。お袋が今坐っているクーラーの前という場所は、いわゆる『指定席』で、それはぼくらの家がかわり、経済状況がかわるたびに、一応それぞれの場所にそれぞれの位置を占めていた。農家の離れを借りていたころは縁側に一番近い場所がそれ[#「それ」に傍点]であり、初めて扇風機を買ったころは、そのまん前がそれ[#「それ」に傍点]になった。去年の夏までお袋は扇風機のまん前に正座をして坐っては、「本当に、文明ってのはありがたいねえ」と口癖の一人ごとを言っていたものだ。
「本当に、文明ってのはありがたいねえ」
例の吸血コウモリみたいなワンピースは、どうにも不気味だったが、お袋がいつも言うとおり、それを着ること自体は犯罪ではなかった。ぼくは黙ってテーブルの前まで歩き、寿司おりから鮪《まぐろ》とイカと卵焼きを立ったまま口にねじこんでやった。飢えていたわけではなかったが、お袋はぼくが一生けんめい物を食う姿を見るのが、なぜか奸きだった。
「あんた、考え事はまとまったのかい」と、ソファにふんぞり返ったまま、横目でちらっとぼくの顔を見て、お袋が言った。
「最初からまとまってるさ」と、海苔巻《のりまき》を口に放《ほう》りこんで、ついでに、ぼくが答えた。「問題は表現なんだ」
「まとまりすぎて固くなったわけかね」
「そんなとこかな」
「それじゃあたしの便秘と同じだねえ」
海苔巻を飲みくだし、指の先を寿司おりの包装紙にこすりつけながら、頭の中で、ぼくは咳《せき》払いをした。
「ぼくはさ、母さん、恋をしているんだ」
「あんたがなにをしてるって?」
「恋」
「そりゃまた、珍しいことをしたねえ」
「それぐらい、いいさ、夏休みだもの」
「冗談かい」
「どうだかな。人生なんて、冗談だったらいいのにさ」
ぼくは今度は、声に出して本当に咳払いをし、お袋に会釈をしてそのまま玄関へ歩きだした。
「研一」と、歩いているぼくを、坐ったままお袋が呼びとめた。「あんた、煙草はなにを吸っているんだい」
「ロングホープ」
「最近セブンスターってのが出たよ。あれ、躰にいいらしいんだ」
「躰にいい煙草なんて吸う気にならないな」
「研一……」
「なに」
「その……べつに、なんてことはないけどね」
「田中ん家《ち》に行くだけさ」
「そんなことは訊いてないよ」
「ねえ母さん、ラブレターの書き出し、どうしたらいいのかな」
「真面目《まじめ》な話でかい」
「真面目な話でさ」
「そういうことは普通に書けばいいと思うけどね」
「普通に、どういうふうにさ」
「だから普通に、『これはラブレターです』って書けばいいじゃないか」
ぼくにもお袋にも、この会話を始める前から、本当のところは、ちゃんとわかっていた。お袋は出かけようとするぼくに「なん時に帰るのか」と訊きたかったのだし、ぼくだって「遅くはならないよ」と言ってやりたかった。ただ習慣として、ぼくらの間では、家を出ていく相手に帰りの時間は尋ねない、出かける側もいちいち報告しないことになっている、というだけのことだった。
ぼくらにこの習慣ができあがったのは、多分に意識的作業の結果だった。ぼくだってずっと昔には、仕事に出かけるお袋に帰りの時間を訊いたものだ。お袋も「五時半」とか「六時」とか、ちゃんとした返事をしてくれた。お袋もそのころはまだ富士見村の富士見小学校というところに勤めていた。
それがいつだったか、やはり「今日はなん時?」と訊いたぼくに、お袋が珍しい答え方をした。それは「一度家を出た者がなん時に帰るか、わかるはずはない」というもので、今から考えれば、一種の哲学だった。しかしそんな深遠な理屈が五歳のぼくに理解できるはずはなかった。ぼくは次の日も同じ質問をした。お袋の答えも変わらなかった。三日目から、ぼくはその質問をやめた。
それから一年か二年ぐらいして、親父《おやじ》が家を出ていき、それからまた三年で姉貴も家を出ていった。姉貴のほうは半年ほどたってから一度帰ってきたが、ぼくがお袋の宣言を理屈として納得したのは、そのときだった。お袋の哲学は正しかった。たしかに、一度家を出た人間がなん時[#「なん時」に傍点]に帰ってくるかなど、たとえ親子の間でさえ、わかるはずはないのだった。
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田中くんの家はぼくの家よりも市街地に近い、昔は五間道路と呼ばれていた道路ぞいにあった。お袋さんが生きていたときはインスタントラーメンの下請け工場だったが、お袋さんが死んだとき、出戻りの姉さんがその生命保険金を資本に商売がえをして、今では自転車のタイヤをつくる下請け工場をやっていた。この出戻りの姉さんという人は、小学校がうちのお袋と同級だった。
その姉さんを含めて、田中くんには四人の姉さんがいた。二番目の姉さんは結婚をして、前橋からクルマで三十分ぐらい行った松井田という町に住んでいた。三番目の姉さんももう結婚しているが、相手はインド人だった。東京にオリンピックを見にいって、ついでにひっかけて帰ってきたのだ。
ぼくはその日のことをよく覚えている。夕方田中くんが電話をしてきて「今|俺《おれ》ん家《ち》にインド人が来てるから見にこいよ」と誘ってくれたのだ。もちろんぼくは泡を食って出かけていった。前橋なんて町で本物のインド人を見られることは、そうざらにあることではなかったのだ。
ところが田中くんの家に行って、ぼくが生まれて初めて見たインド人は、どこ一つとしてインド人らしいところのないインド人だった。黒人のボクサーが借りてきた背広を着て坐《すわ》っているという感じで、つまりカレーのコマーシャルに出てくる、ああいうインド人とはまるでちがっていた。インドにもインド人らしくないインド人がいることを、ぼくはそのとき初めて知ったのだった。
あとになって、そのころはまだ生きていた田中くんのお袋さんさえ、ぼくにこう言ったものだ。
「インド人だって言うからさ、あたしゃ頭にあのなんとかって布くらい巻いてくるのかと思ったら、あれじゃただの黒んぼじゃないかねえ」
それから、四番目の姉さんという人。この姉さんは今年の春市内の女子高校を卒業して、デパートの下着売場に勤めていた。背が高くて、痩《や》せていて、いつもうつむき加減に相手の視線を外《はず》しながら喋《しゃべ》るような人だった。こういう人がどんな決意をして毎日下着を売っているのか、ぼくには想像ができなかった。田中くんの言うには、その姉さんには詩の才能があるとかで、デパートに勤めているのは世を忍ぶ仮の姿だということだった。
「姉貴が言うにはなあ」と、いつか田中くんが言ったことがある。「デパートの下着売場じゃ詩が見えるんだとよ。それもただの詩じゃねんだとよ、本物の詩なんだとよ」
田中くんの家では、田中くんの一番上の姉さんが、バス通りに面した事務所の奥で電話の受話器をかじっていた。情況に慣れていない人が見たら、その迫力に貧血でも起こしたにちがいない。慣れているぼくの目にさえ、それは一見、激しく金を並べた前歯で田中くんの姉さんが受話器をかじっている光景としか見えなかったからだ。外をクルマが通る度に、ヘッドライトが金歯にあたって、口から光線でも出してるみたいにちかっちかっと反射する。田中くんの姉さんはぼくに口をきく暇などないらしく、そのかわり持っていた鉛筆を、天井に向かってぐいっと突きあげてくれた。
目はこう言っていた。
「勝手にあがればいいじゃないか、このクソ餓鬼が」
ぼくはとにかく会釈だけをして、事務所を抜け、二階に通じる階段のほうへ歩いていった。うしろでは田中くんの姉さんが、受話器に向かってまだ怒鳴りつづけていた。
「だからなんだって言うのさ。え? いつあたしが猫のことなんか訊《き》いたいね。猫の肩が凝《こ》ったって? あんたの猫が肩を凝らせたって? それでどうしてあんたが会社を休むんだいね。よおくお聞き。うちの会社は猫に給料を払ってるんじゃないんだよ。それともあんたの猫はタイヤをつくれるんかい? そうだろう? とにかく明日は出ておいで。もし出てこなかったら、あたしゃあんたの猫にカッポレを踊らせるからね」
二階にあがってみると、田中くんは上半身裸で、勉強机の椅子《いす》を逆向きにしてその上に胡座《あぐら》をかいていた。足元には、昨夜二人で野球場から盗んできたラッパ形のスピーカーが転がっていた。ぼくは黙って横に歩き、北側に開け放ってあるバス通りに面した窓の敷居に腰をおろした。
「電圧がちがうらしいや」と、ぼくの顔は見ず、うんざりした声で、田中くんが言った。
「配線は?」と、ぼくが訊いた。
「たかがスピーカーの配線、間違えるはずはねえさ」
「特殊なアンプが要《い》るのかな」
「要るのかもしれねえ、くそっ」
田中くんがスピーカーを蹴《け》とばし、犬みたいに首をふって、顔の汗をぱっぱっと左右の壁にふりまいた。
「トメに使えるスピーカーが俺には使えねえわけかよ」
「あっちは金をかけてるさ」
「こっちは頭と時間をかけてらあ。こいつはたぶん執念の問題さ。執念さえありゃあ豚でも木に登るっていうじゃねえか」
田中くんの言う執念とは、こういうことだ。
田中くんの家のとなりに、トメちゃんという三十すぎの男の人が住んでいる。この人はある意味では前橋の市長よりも有名な人で、市長の顔を知らない小学生でもトメちゃんの顔は知っている。躾《しつけ》の悪い子供など、暇なときにはトメちゃんに石をぶつけて遊んだりもする。
トメちゃんの仕事は、お巡りさんの真似《まね》だった。本物のお巡りさんではなく、あくまでも真似なのだが、トメちゃん自身はそれを真似だとは思っていなかった。巡査の制服に似せてつくった服を着て、勝手に交通整理をやったり、白く塗った自転車で果てしなく殺人犯人を追跡したりする。クルマがこの世に一台もない日や、殺人犯人が一人も出現しない日は、二階のスピーカーで道行く人々に『目ン無い千鳥』を歌って聞かせるのもトメちゃんの仕事だった。噂《うわさ》では昔、この『目ン無い千鳥』でNHKののど自慢に優勝したこともあるという。
そのトメちゃんが、よし子ちゃんに恋をした。よし子ちゃんというのは、この春に青森から出てきて田中くんの家のタイヤ工場に勤めはじめた、十六歳の女の子だった。タイヤ工場の従業員は六人のうち四人までが東北からの集団就職で、しかも田中くんの姉さんは、その四人を自分の家に住まわせて夜間高校に通わせていた。そのせいで「田中の梅子さんは顔に似合わない人格者だ」と町内中で噂されていたが、噂の妥当性について、弟である田中くんはかなり否定的な意見を持っていた。前橋ではもう中学を卒業してすぐ働く人間はいなくなってしまったし、それになんといっても仕事の本質そのものに、特別な熟練は無用なのだという。「人格じゃ自転車は走らねえさ」というのが田中くんの意見で、ぼくも冷静に考えて、どちらかといえば、町内の噂より田中くんの意見が正しいと思っている。
さてそのよし子ちゃんというのは、おカッパ頭の、色の白い無口な、いかにも内気そうな女の子だった。言葉の訛《なまり》を気にしているせいか、田中くんの家に来てから、まだ一度も田中くんと口をきいたことがないという。そのよし子ちゃんにトメちゃんが恋をしたのだ。このことは田中くんの姉さんが経営する自転車タイヤ製造下請け工場に、惨酷な経営危機をもたらした。なにしろトメちゃんが自分の天職を放《ほう》り出して、境のブロック塀によじ登り、朝から晩までよし子ちゃんを見つめて暮らすようになつたのだ。よし子ちゃんも他の従業員も、平均的に内気だったこともあって、作業能率はいちじるしく低下した。田中くんの姉さんがいくら金歯で威嚇しても、恐れ入るようなトメちゃんではなかった。逆に従業員のほうが萎縮《いしゅく》するばかりで、田中くんの姉さんにもトメちゃんの恋には打開策が発見できなかった。
そんなことが一か月もつづいたある日、それはぼくや田中くんが夏休みに入った日だったが、トメちゃんが自分の母親を通して「よし子ちゃんを嫁にほしい」と田中くんの姉さんに申しこんできた。田中くんの姉さんも一瞬世界の終わりが来たかと思ったらしいが、それでも一応、その旨をよし子ちゃんに打診した。よし子ちゃんは、黙って、だが不思議に力強く、首を横にふったという。
次の日、ちょうどそのときぼくも田中くんの部屋にいたのだが、突然トメちゃんの放送が再開された。しかし内容はテーマソングの『目ン無い千鳥』ではなく、主旨だけを要約すると「よし子ちゃんと田中くんができている[#「できている」に傍点]」という類《たぐ》いのものだった。よし子ちゃんが首を横にふった原因が、田中くんにあると、なぜかトメちゃんは思いこんでしまったのだ。
それでも一日二日は、田中くんもその放送に対して、自分から拍手をするぐらいの余裕を見せていた。だが同じ放送が三日四目とつづき、一週間がたち、つまり昨夜のことだが、ついに田中くんも野球場からスピーカーを盗んでくるという、非常手段に訴える行動に出た。トメちゃんの意見を否定する放送を流さなければ、田中くんも男の面子《メンツ》が立たなくなったのだ。
情況からして、今日一日田中くんはそのスピーカーと真摯《しんし》に格闘をつづけていたらしかった。その田中くんが黙って椅子からおり、しばらくスピーカーを眺めたあと、急に笑い出して、ベッドの上に猛烈なダイビングをした。それから膝《ひざ》をつかって起きあがり、枕《まくら》にかぶせてあったバスタオルをむしって、べろっと顔をひと拭《ふ》きした。
「なあ」と、半分笑いながら、面倒臭そうな声で、田中くんが言った。「俺、よし子に惚《ほ》れてると思うか? 毎日トメに言われると、自分でもそんな気になってくる」
「田中がよし子ちゃんに惚れて、問題があるのか」
「問題はねえさ。タイヤ屋の若だんなが工場の女の子を嫁にもらって、タイヤ屋の跡を継いで、子供をつくって家を建てて市役所から表彰される。なんで表彰されるか知らねえけど、市役所なんて道端のごみを拾ったって表彰するからな。だけどよ、そういうことって恐ろしいんだよな」
田中くんが机の引出しから煙草《たばこ》の箱を取り出し、一本を歯で抜いてから、火をつけた煙草の煙を、ふーっと長く天井に吐きだした。
田中くんの姉さんが階段を激しく鳴らして、二階の部屋にあがって来た。手にはアルミの盆にのせた二切れの西瓜《すいか》を持っていた。
「ねえ研ちゃん……」と、盆を持ったまま、田中くんの姉さんがぼくににじり寄った。「あんた、猫の肩が凝ったところ、見たことあるかい」
「ぼくに訊いてるんですか」と、ぼくが訊いた。
「べつに、あんたに訊いてるわけじゃないけどさ」
ぼくはつき出された盆から、西瓜を一切れ受け取り、まん中の部分をめがけて、えいっとかじりついてやった。
「猫がどうやって肩を凝らせるんだいね。だいいち猫の肩が凝ったとして、どうしたらそれが人間にわかるんだいね」
ぼくに訊いているのではないと言いながら、田中くんの姉さんは、どうもぼくに訊いているようだったので、ぼくが答えた。
「最近の猫はヘルニアにもなるそうです。肩も凝るかもしれません」
「猫が、ヘルニアにかい」
「テレビで見ました」
「猫がねえ」
「ヘルニアはお灸《きゅう》をして治すそうです」
「お灸? 猫に?」
「ニンニク灸だそうです」
「猫にニンニク灸を……ふうん」
田中くんの姉さんは、思案顔で盆を机の上に置き、二、三歩ドアに向かって歩いてから、そこでもう一度強くぼくをふり返った。
「だけどもし猫の肩が凝るのが本当だとしてだよ、その飼い主が、どうして会社を休むんだいね」
「ぼくに訊いてるんですか」
「だからさあ、特別あんたに訊いてるわけじゃないんだよ」
しかしやはり、ぼくが訊かれているような気がして、ぼくが答えた。
「ぼくだったらたぶん、半日しか休まないと思います」
田中くんの姉さんはぼくの顔をじろりと眺め、またふうんとうなずいて、今度はふり向きもせずに階段をおりていった。背中にはぼくに対する軽蔑《けいべつ》が、まるで絵にかいたように、べったりと貼《は》りついていた。
田中くんが西瓜を取って、窓枠のぼくの横まで歩いてきた。ぼくらは暗黙の了解で、バス通りに向かって種の飛ばしっこを開始した。道路をはさんで外科病院の看板が見えていたが、その外科病院の四角い建物のうしろには赤城山の中腹から届いてくる民家の明りが、かすかにのぞいていた。これが昼間なら、左手側に子持山や谷川連峰が前橋の盆地を取り囲むように見えているはずだった。
そのとき、突然、窓の下から田中くんの姉さんが怒鳴り声をあげた。
「どこの百姓だい? あたしの頭に西瓜の種を蒔《ま》いてるのは」
ぼくらは一緒に、仕方なく、のっそりと窓から退いた。田中くんは西瓜の皮を盆にもどし、ぶらっと歩いて、転がっていたスピーカーを足でベッドの下に蹴りこんだ。田中くんの背中を流れた汗がパンツにまでしたたって、悲しいぐらい大きな染みをつくっていた。
田中くんが、汗と一緒にくるっとふり返った。
「あちいなあ、くそっ」
「詩が見えてきそうだな」
「本物の詩か?」
「本物の詩さ」
田中くんはそこで、ふんと鼻をならし、ベッドの端に尻《しり》をのせて、ぼくのほうに大きくあごをつき出した。
「それで葉山、加藤への手紙、書いたのかよ」
「努力はした」
「わからねえなあ。なんでいつまでも手紙にこだわるんだよ。加藤とは口もきいたことねえくせに」
「口をきいたことは、ある」
「いつだよ」
「中学のとき、加藤さんと職員室のドアの前でぶつかった」
「それで?」
「向こうがごめんなさいと言った」
「おまえは?」
「いいえって答えたさ」
田中くんがまたふんと鼻をならし、ぼくは躰《からだ》をひねって、肩ごしに西瓜の皮を外科病院の塀の向こう側に放り投げた。まだクルマの往来はひんぱんだった。
「帰るのか」と、立ちあがったぼくに、田中くんが訊いた。
「どっちでもいい」と、ぼくが答えた。
「クルマ、ぶっとばすか」
「どっちでもいいさ」
「赤城山のてっぺんまでぶっとばそうぜ。なあ? このくそあちいのに汗たらしながら西瓜食ってるだけなんて、健全な青少年のやることじゃねえや」
「健全な青少年は赤城山に行くべきかな」
「そうよ。健全な青少年はみんな気合い入れて、クルマぶっとばすのよ」
ふと、ぼくはお袋の顔を思い出した。お袋ならたぶん、田中くんとはちがう意見を持っているだろう。
相談の結果、というのは田中くんもぼくも、クルマどころか運転免許さえ持っていなかったので、ぼくのほうが先に出て、交番と蕎麦《そば》屋とが向かい合っている交差点の手前で田中くんを待つことにした。ぼくは一人で下におりていった。
下では田中くんの姉さんが、シャッターをおろしたあとの小さい入口から、背をかがめて事務所に入ってくるところだった。
「帰るのかい」
「はい」
「珍しいね、こんなに早く」
「はい。少し、夏休みの宿題をやろうと思います」
田中くんは十五分でやって来た。それまでの間にぼくは自動販売機でコーラを買い、乗ってきたバイクの荷台に腰かけて、ぼんやりとクルマの流れを眺めていた。
「姉貴が事務所でねばっていやがってよう」
田中くんは無表情な顔で唇を尖《とが》らせ、ぼくの目の前で、丸いわっかだけのキーホルダーをくるくるとまわしてみせた。
ぼくがバイクの荷台からおり、駐車場のほうに歩きだしたとき、うしろから田中くんがシャツの裾《すそ》をひっぱった。田中くんはそのままぼくを近くの電話ボックスへ連れていき、勝手にダイアルをまわして、勝手に受話器をぼくの耳に押しつけた。
五回のコールのあと、女の人が出た。
「『アキ子さんをお願いします』だ」と、ぼくの耳元で、低く田中くんが言った。
「アキ子さんをお願いします」と、送話器に向かって、ぼくが言った。
「お名前は?」と、女の人が訊いた。
「アキ子さんです」
「そちらのお名前は?」
「葉山です」
女の人が黙って、電話から離れていく気配がした。少し待てという意味だったのだろう。
「いるのか」と、田中くんが訊いた。
「知るもんか」
「誰《だれ》がでた」
「知るかよ」
「男か」
「女さ」
「いくつぐらいの」
「電話で、歳《とし》なんかわかるもんか」
ぼくは受話器を田中くんの手に押し返し、バイクのところへもどって、あとは田中くんの電話が終わるまで電話ボックスの上の空を眺めていた。『アキ子さん』なんて名前は、今まで一度も聞いたことのない名前だった。
田中くんの家のクルマは白いライトバンで、主に一番上の姉さんが商売用に使っているものだった。田中くんはそれを、初めは東に向かって走らせた。
市役所の東側の、昔は武家屋敷が並んでいたというあたりで国道を右に入り、細い道を二つ曲がり、大谷石の塀に暗い門灯のついた家の前をゆっくり走らせていくと、門の陰から不意に一人の女の子があらわれた。女の子はヘッドライトの中で、ぼくらに向かって気怠《けだる》くVサインをつくっていた。
田中くんがクラッチを切り、となりの家の前でクルマをとめた。バックシートに乗りこんできたのは、白っぽいアロハシャツに髪をポニーテールに結《ゆ》った、シャンプーの匂《にお》いのする女の子だった。
「同歳《おないどし》でな、女子高に行ってるんだ」
田中くんの紹介は、それだけだった。アキ子さんという人もクルマに乗ってきたとき、一度あっはと笑っただけで、あとは田中くんにもぼくにも、一言も話しかけなかった。クルマのほうは才川町通りから赤城県道に抜け、まっすぐ北に向かって走っていた。ただアキ子さんを乗せる前よりは、気のせいか、田中くんの運転は乱暴になっていた。
二十分も走ったころ、アキ子さんが初めて口をきいた。
「わたし、煙草が吸いたいな」
田中くんが無視したので、ぼくが前の座席からロングホープとマッチを渡してやった。
「一番上の姉貴の子さ」と、ハンドルの上にあごをしゃくり、フロントグラスに説明するような口調で、田中くんが言った。
「似ていないな」と、ぼくが言った。
「親父《おやじ》にも似てねえんだぜ。そいつの親父って、誰だと思う?」
「似ていなければどうせわからないさ」
「それがよ、開いたら笑っちまうんだ」
はっはっと、義理で、ぼくが笑った。
「わかったのか」
「いいや」
へっと、面白くもなさそうに、田中くんも笑った。
「笑っちまうんだよなあ。そいつの親父が、あの案山子《かかし》だってんだからよう」
一分か二分、たぶん、ぼくは口をぽかんと開けていた。電信柱がなん本も、ものすごい勢いでうしろに飛び去っていった。田中くんの言った案山子とは、田圃《たんぼ》の中につっ立っている、あの案山子ではなかった。ぼくらが通っている高校の、校長先生の渾名《あだな》だった。
吸っていた煙草を窓の外に捨てて、田中くんが言った。
「笑ったろうよ、なあ?」
「どうだかな」
「素直に笑えばいいんだ。おまえのそういうところな、いや味なんだよなあ」
「ちゃんとした質問ならちゃんと答えるさ」
「だけどやっぱり笑っちまうだろう? どっちかって言えばよ」
アキ子さんが身をのり出してきて、ぼくと田中くんの間に首をつっ込んだ。
「わたしのこと、二人だけでごちゃごちゃ言わないでよ」
それからぽんと、アキ子さんがぼくの肩を叩《たた》いた。
「ねえ、煙草、もう一本ちょうだい?」
ぼくがまた煙草とマッチを渡してやり、身をのり出したままアキ子さんが煙草をくわえて、マッチに火をつけた。日焼けしていない顔に口紅の赤い色だけが、へんに秘密っぽく浮きあがっていた。
「どこかで会った?」と、アキ子さんが訊いた。
「いいや」と、ぼくが答えた。
「葉山くんて言った?」
「言った」
「中学のとき、陸上やってた?」
「やってた」
「ハイジャンプ?」
「うん」
「市内大会で優勝したでしょう?」
「した」
「わたし、あんたのこと知ってるわ」
アキ子さんの煙草の煙が、ぼくの耳の穴に吹きこまれ、煙とシャンプーの匂いにまじって、かすかな体臭がぼくの顔の前を通りすぎた。それは不思議な匂いではあったが、いやな匂いではなかった。
クルマは市街地をとっくに離れ、赤城の大鳥居の手前までやって来ていた。田中くんが「こういうくそあちい日は記念にビールを飲むべきだ」と提案し、ぼくとアキ子さんが賛成した。走ってきた道の途中に酒屋があったのを思い出して、ぼくらはそこまで引き返した。
十時にちかく、酒屋はしまっていた。三人とも硬貨は十円玉しか持っていなくて、いくら計算しても自動販売機では缶ビールが一本しか買えなかった。赤城山の頂上まで行って、三人で一本の缶ビールを敷むというのは、健全な青少年のすることではなかった。ぼくらは酒屋の人に起きてもらうことにした。ジャンケンで負けて、ぼくが一人でクルマをおりていった。
三度シャッターをたたいて、無視され、また三度たたき直したとき、内側についた明りが、シャッターの隙間《すきま》からぼくの足元にこぼれ出してきた。
「なんだべえ?」
予想はしていたが、それは不機嫌という洞窟《どうくつ》からやっと這《は》い出してきたような、中年の男の人の声だった。
ここ一番というよそ行きのていねいさで、ぼくが言った。
「氷を頒《わ》けてもらえますか」
「氷だと?」
「子供が熱を出して、冷蔵庫のぶんでは間にあわないんです」
シャッターの小さい入口が開いて、鼠《ねずみ》色の寝間着を着た四十ぐらいの男の人が顔をのぞかせた。
酒屋の小父《おじ》さんは黙ってぼくを店に入れ、髪の毛につっ込んだ指をかきまわしながら、レジの向こうにある大型製京畿の前へ歩いていった。
ふと、小父さんがぼくのほうをふり返った。
「入れ物はあるんかね」
「慌てていて、忘れました」
「風邪かや」
「そう思います」
「夏っ風邪はこじらすと怖《こえ》えからなあ」
小父さんは屈《かが》みこんで、どこやらからビニール袋を取り出し、それを息でふくらませてから、がらがらと製氷畿の氷を掬《すく》いはじめた。動作が緩慢だったのは、ぼくに対して腹を立てていたからではなく、生まれつきのそういう性格なのだろう。
「子供はいくつだいね」
「三月に生まれたばかりです」
「医者に診《み》てもらったほうが良かんべえによ」
「近くに懇意な医者がいません」
「名取医院てのがあらあ。内科だけんど赤ん坊も診てくれるだんべえ」
「氷で冷やして、熱がさがらなかったら診てもらいます」
「そうするこった。鳥居んとこを右に曲がりゃあ直《す》ぐだに。若《わけ》え先生だが腕はいいっつう話だ」
もどってきて、小父さんがビニール袋を、無造作にひょいとぼくの目の前につき出した。中にはビールを冷やすのにちょうどいい分量の氷が入っていた。
「おいくらですか」と、ぼくが訊いた。
「金なんぞ要らねえやな」
「そうはいきません」
「困ってるときゃあお互い様だんべよ」
「こちらの気が済みません」
「若えのに律儀なこったいなあ」
「おいくらですか」
「本当に気なんか遣うこたあねえよ」
「それじゃ、ビールを売って下さい。缶ビールを、そう……十本ばかり」
ぼくは左手に缶ビールの紙袋をかかえ、右手に氷の入ったビニール袋をぶらさげて、ただなんとなく『ロンドン橋』を歌いながらクルマのほうへひき返した。
「姉貴は不知《しら》をきってるけどな……」
クルマの中では、田中くんが、例のスピーカー事件をアキ子さんに解説しているところだった。
「ことわる口実に俺の名前を出したに決まってるんだ。トメみてえな野郎に、よし子と俺ができてる[#「できてる」に傍点]なんて難しいこと、思いつくわけねえもんなあ」
ぼくらはまたクルマの向きを変え、山の陰に行く手が吸い込まれている赤城県道を、まっすぐ北に向かってのぼりはじめた。
大鳥居を過ぎ、畜産試験場を過ぎると、夜景ながら気配は急に山深くなる。この付近は昔お袋が小学校の教員をしていたあたりで、お袋の勤めていた学校は今のこの道よりも一本西側の、富士見街道沿いにあった。お袋はその小学校と前橋市内にある家との間を、毎日自転車で往復していた。
小学校に勤めていながら、お袋は子供好きな教員ではなかった。
「やかましくて無礼で、子供ほど癇《かん》にさわる生き物ったらありゃしない」
お袋がその台詞《せりふ》を吐かなかったのは、日曜日と休日と、せいぜい夏休み期間中の幾日かだけのことだった。そして日曜日とその他の休み以外の日には、お袋は毎日のようにイナゴのぎっしりつまったビニール袋や、芹《せり》や山うどや蕨《わらび》や筍《たけのこ》などを、自転車の荷台にそれこそ山のように積んで帰ってきた。授業中に子供たちを使って採らせていたのだ。
「田舎の子供の馬鹿《ばか》なところはね、ちゃんと勉強を教える先生よりも、イナゴを採らせる先生をいい先生だと思うところさ。みんなろくな大人にはならないよ」
しかしそれらの食糧が、母子家庭になったわが家の食膳《しょくぜん》を賑《にぎ》わせてくれたことは、どうしようもない事実だった。ぼくは骨が丈夫になるという理由で、毎日イナゴの佃煮《つくだに》を食べさせられ、そのせいでハイジャンプや走り幅飛びが得意になったのだと、今でもかたく信じている。
その他にもお袋は、本当にいろいろな物を持って帰ってきた。村の食肉処理場から豚の舌や心臓をもらってくることもあったし、これは田中くんに話しても信じてもらえなかったことだが、一度など、物干しにする五メートルほどの青竹を、自転車に乗って肩にかついで帰ってきたことさえあったのだ。
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クルマは有料道路の一キロほど手前を、笹《ささ》の葉や赤松の枝が低くかぶさった細い抜け道に入っていた。料会所を迂回《うかい》した理由を、田中くんは「百五十円の通行料金が惜しいわけではなく、たんに『有料道路』という発想が自分の人生観に合わないだけなのだ」と説明してくれた。しかしこれは迂回路に入ってすぐ気づいたことなのだが、田中くんもぼくもアキ子さんも『人生観』とかいう言葉を口にするには、あまりにも若すぎた。人はどういう人生観を持っていようとも、クルマに乗っているときは天井やドアや灰皿に頭をぶつけないほうが幸せなものなのだ。
それでもクルマは幾度か穴ぼこに腹をこすりながら、料会所を迂回しおわり、あとは峠を越えて白樺《しらかば》の林を大沼の方向にくだっていくだけになっていた。頭をあちこちにぶつけたせいか、飲みはじめたビールのせいか、アキ子さんもへんなふうに陽気になっていた。
大沼の岸を巡る道は、杉に囲われたバラス道だった。その岸辺を半周ほど走り、雑木《ぞうき》のとぎれた道の左側に寄せて、田中くんがクルマを止めた。動いていた空気がよどんで頬《ほお》に血がのぼったが、街の中よりは涼しかった。ぼくらはだらだらした土手を、大沼の水に手が届くところまでおりていった。
対岸には小さく、いくつか赤い火が燃えていた。キャンプファイアの明りだった。田中くんが小さく声を出して、また缶ビールの栓を引き抜いた。重心が定まっていないのは岸の傾斜のせいではなく、クルマの窓から投げ捨てられた三本の空缶に、より大きい責任があった。
ぼくは浅瀬に顔を出している平らな石に跳び移って、そこにうずくまり、かすかに波立っている黒い水面に手を浸してみた。水は生温かく、少し粘っている感じだった。一瞬自分はここでなにをしているのかしらんと思ったが、なにをしているわけでもなく、なにを考えているわけでもなかった。
「ねえ、聞いている?」
アキ子さんが、ぼくの膝につかまって、透視術でも使うような目でぼくの顔をのぞいてきた。ぼくが女の人の顔をこんな近くで見たのは、去年の夏休みに歯医者へ行って、看護婦さんに口の中へ脱脂綿をつっ込まれたとき以来だった。
「ねえ、聞いてるの」
「聞いてるさ」
「あんた、なんで陸上をやめたの」
「さっきも言った」
「それならもう一度言いなさいよ」
「過去はふり返らないことにしてるんだ」
「『誰だってみんないつかは何かをやめる』って、葉山くんはそう言ったの」
声の調子からして、見かけ以上にアキ子さんは酔っているらしかった。
「あんたのお母さん、ピアノの学校をやってるでしょう?」
「うん」
「わたし、一か月だけ習ったことがあるわ」
「どうして一か月でやめたんだ?」
鼻を曲げて、舌を出しながら、アキ子さんがつかんでいたぼくの膝を大きくゆすってきた。
「誰かが何かを止《や》める理由なんて、みんな同じだわよ」
それからアキ子さんは、なにやら鼻歌をうたいながら、沼の深いほうに向かってふらふらと歩きはじめた。顔の前でビールの缶を右側にまわしているのは、左側にまわっている自分の目とのバランスをとっているつもりなのだろう。
「彼女の人生、快適じゃなさそうだな」と、田中くんに、ぼくが言った。
「このくそあちいのに快適なのはおまえだけさ」
「泳げるのか」
「誰が」
「彼女」
「そんなこと俺が知るかよ」
「酔っ払ってる」
「気が済めばもどってくるさ」
しかし、というよりはやはり、アキ子さんはもどって来なかった。アキ子さんは十メートルほど沼の中心に進んだあと、急に躰の力を抜いて、そこにへたっと坐りこんだ。それでも鼻歌だけはしっかり歌っていたから、気絶したわけではないらしかった。
田中くんが小さく舌打ちをして、水の中に入っていった。
「ばーか、おまえ一人が死んだって、世の中が変わるもんかよ」
田中くんはアキ子さんの襟首をつかんで、感心するぐらい乱暴に、ずるずると岸の上に引きあげた。それでもアキ子さんは自分の運命には無関心な顔で、相変わらず鼻歌を歌っていた。メロディーははっきりしなかったが、よく聞くとそれは『ロンドン橋』だった。
水の上にアキ子さんの赤いサンダルが浮かんでいたので、仕方なくぼくも沼におり、それを拾って田中くんとアキ子さんのところへもどっていった。草の上に引きあげられたアキ子さんは、それでもまだ『ロンドン橋』を歌いつづけていた。
「いつもこれなのか」と、サンダルを草の上に放りながら、ぼくが言った。
「いつもってわけじゃねえさ」と、田中くんが答えた。
「風邪をひくかもしれない」
「死ぬことはねえさ」
「変わった子だな」
「見かけほどじゃねえよ」
「よく会うのか」
「べつに、よく[#「よく」に傍点]ってほどじゃねえさ」
アキ子さんが鼻歌をやめ、草の上でおとなしくなったので、ぼくと田中くんはさっきまでぼくが腰かけていた岩の上へもどり、並んで一本ずつ煙草に火をつけた。もうキャンプの明りは消えていた。大沼の岸を囲んで所々に立っている水銀灯の明りを除いて、あとは粒の小さい星の光だけが、空の一番高いあたりで泡|屑《くず》のように澱《よど》んでいるだけだった。
煙草を捨て、新しいビールの栓を抜きながら、田中くんが言った。
「中学んとき、林間学校に来たっけな。女|風呂《ぶろ》をのぞきにいって、生徒会のやつに見つかっちまった」
「彼女のこと、今まで一度も言わなかったな」
「彼女って」
「だから、彼女さ」
「そんなこと一々おまえに報告しねえよ」
「そんなことって、どんなことだ」
「そんなことは……そんなことさ」
「こっちにだって準備がある」
「なんの」
「いろいろさ」
「だから、なんのよ」
「だから、気持ちのさ」
へっと笑って、沼の暗いところへ、田中くんがぽーんとビールの缶を放り投げた。水音は聞こえたが、飛んだ距離は見えなかった。
「こんなに暑けりゃよ、誰だってみんな頭がおかしくなって、みんな自分の人生を反省するもんさ」
それは、ぼくが岸辺に寝そべっているアキ子さんをふり返ったのと、ちょうど同じ瞬間だった。誰かが光の強い懐中電灯でぼくの顔を照らしたのだ。
近づいてきたのを見ると、それは制服の襟から首の肉をたっぷりはみ出させた、三十ぐらいのお巡りさんだった。お巡りさんは土手の上にもう一人いて、やはり赤い輸のついた懐中電灯でクルマのナンバーを調べていた。
「上のクルマ、おたくたちの?」と、岸のぎりぎりのところまで近づいてきて、お巡りさんが訊いた。
ぼくは光から目をそむけずに、ビールの缶を取りあげて、わざとゆっくり飲み干して見せた。
「ぼくらは岸の向こう側でキャンプをしてます」
「学生さんだね」
「はい」
「高校生?」
「大学です。彼とそっちの子は結婚しています」
「大学生で結婚を……へええ」
そこでお巡りさんは、一度ずつ田中くんとアキ子さんの顔を懐中電灯で照らし、それからまた改めて光の方向をぼくの顔に向け直した。
「ところで上のクルマ、おたくたちの?」
「あれはさっきアベックが乗ってきたやつです」
「アベックが、へええ?」
「林の中に入って行きました」
「林の中に? なるほど。それでおたくら、キャンプはいつまで?」
「日曜日までです」
「今夜は遅いからテントに帰ったらどうかね」
「今、そうしようと話していました」
「わたしら、ほら……」
お巡りさんは岸のま向かいの、バス停や旅館や貸しボート屋が集まっている方角にあごをしゃくり、芋虫のような人さし指を一本、ぐいっとつき出してみせた。
「あの赤い電気が見えるところが駐在所ですから、なにかあったら知らせて下さいな。夜中にはおかしな連中も出てくるからねえ」
「なにかあったら知らせます」
「とにかく、早くテントにもどるように」
「はい。おやすみなさい」
太ったお巡りさんは土手をのぼっていき、ちょっとの間、クルマの前で待っていたもう一人のお巡りさんと小声で話をしていた。林の中に入っていったアベックを調べるべきか、相談でもしていたのだろう。
ぼくらはお巡りさんたちの懐中電灯が遠ざかっていくのを待ってから、岸にもどり、居眠りをしていたアキ子さんに起きてもらって、それから土手の上にとめてあるクルマのところまでもどっていった。買ってきた十本の缶ビールは、きれいに無くなっていた。
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道は来たときよりもカーブが多く、センターラインは奇妙な稲妻形に曲がりくねっていた。杉の木や笹|藪《やぶ》はすぐ目の前まで迫《せ》り出し、舗装ははげて、タイヤ一個が丸ごと入るほどの穴ぼこがいたるところに口を開けていた。来るときと同じ道を走っていながら、空にした四本の缶ビールが田中くんの道路に対する人生観を変えていたのだった。
クルマが走り出してから、料金所に近づくまで、ぼくはうしろの座席で、一人ずっと『ロンドン橋』を歌いつづけていた。前の座席ではハンドルを握った田中くんと、田中くんの襟首を握ったアキ子さんが、校長先生の頭はいつから禿《は》げはじめたのかという議論を、もう十二回ほどくり返していた。
議論に飽きたのか、アキ子さんが突然うしろの座席に身をのり出してきた。
「なんの歌よ? それ」
「ロンドン橋さ」
「ロンドン橋じゃないでしょう」
「ロンドン橋」
「それじゃもう一度歌ってみなさいよ」
「いけない、いけない、校長は禿げちゃいけない、ぜったい、いけない」
そのときだった。最初からわかっていそうなものだが、来るべきものはやはり、ちゃんとやって来る。
田中くんがどういう根拠で崖《がけ》のほうが避《よ》けてくれると思ったのかは知らないが、とにかくクルマはセンターラインを越えていき、一瞬傾いたかと思うと、路肩に生えていた熊《くま》笹を二十メートルほどむしり取って、そのまま赤土の崖に、三十度ぐらいの角度でつっ込んでいった。
しばらくの間、ぼくには自分が生きているのか死んでいるのか、うまく判断ができなかった。ぼくは座席の一番深いところで背中を丸め、じっと耳を澄ましてみた。コオロギかキリギリスか、なにかそんなような虫が鳴いていた。ラジエーターの蒸気が吹きあがる音や、熊笹の上を風が渡る音や、その他山全体がきしむようなみしみしという音も聞こえていた。
ぼくは頭を起こして、いつの間にかガソリン臭くなっていたクルマの中で、前の座席をのぞきこんだ。田中くんは上半身をハンドルにかぶせ、アキ子さんのほうは下のアロアに、まるで昼寝をしている子供のような格好でうずくまっていた。
ドアを押して、ぼくは外に出た。道のずっと下に前橋の夜景が見えていた。クルマはエンジンが止まっていて、煙も吹き出してはいなかった。
ぼくはクルマの前にまわってドアを開け、アキ子さんの躰を座席の上に引きあげた。頬をたたくと、目を開け、アキ子さんはちょっとうたた寝をしていただけだ、というような小さい欠伸《あくび》をした。それからアキ子さんは、右と左に一度ずつ鼻を曲げ、両手でぼくの頬をはさんで、自分の顔を十センチぐらいのところまで近づけてきた。
「あ……」
「なに」
「コンタクトが無いわ」
「探すから外に出ていろよ」
ぼくはアキ子さんを外に引き出し、助手席にもぐりこんで、ハンドルにかぶさっている田中くんを背凭《せもた》れのほうに抱き起こした。額の右側の、目の上あたりから血が流れ出していた。頬をたたいても田中くんは目を覚まさなかった。しかし脈は正確に打っていて、呼吸も乱れてはいないようだった。ぼくはとりあえず田中くんの額をハンカチでしばっただけで、外に出た。
アキ子さんは右手の小指を口にくわえて、道のまん中にぼんやりと立っていた。頼りない表情が事故のショックなのか、ビールの酔いが残っているせいなのか、判断はつかなかった。
「コンタクト、あった?」
「まだ探してない」
「ひろちゃん、死んだ?」
「生きてる」
「わたし、おしっこ[#「おしっこ」に傍点]してくるわ」
歩きかけて、立ちどまり、ふり返りながら、アキ子さんがちょっと首をかしげた。
「紙、持ってる?」
「持っていない」
「わたしのコンタクト、探しておいてね」
アキ子さんが道を反対偏に渡っていき、丈《たけ》の低い草むらの中に入って、その場所でうしろ向きにしゃがみ込んだ。
ぼくは頭をかがめてまた助手席にもぐりこみ、ダッシュボードから懐中電灯を取り出して、アキ子さんが転がっていたあたりを照らしてみた。コンタクトレンズは、意外と簡単に、フロアシフトのカバーの上で見つかった。ぼくはそれを指の先に貼りつけ、シャツの胸ポケットにしまってから、外に出て大きく深呼吸をした。前輪のフェンダーからはまだ埃《ほこり》臭い熱気がのぼりつづけていた。フェンダーに片|肘《ひじ》をつき、あごをあげると、山が道の両側にかぶさった空にいく粒かの暗い星が見えていた。その星の色とは逆に前橋の夜景は山裾から遠くなるほど光の密度を増し、繁華街と思われるあたりを中心に西と東に細長く広がっていた。それが自分の町であり、そんな細長い光の下に、なん万人もの人生が押しこめられている事実が、ぼくにはまるで信じられなかった。
アキ子さんが草むらをかき分けて、もぞもぞとクルマの前にもどってきた。そしてぼくのすぐそばまでやって来て、まるで風船玉の空気が抜けるように、アスファルトの上にぐちゃっと坐りこんだ。ぼくがポケットからコンタクトレンズを探し出し、それをアキ子さんの鼻先に突きつけた。レンズを受け取り、舌の先でなめてから、左の目を自分の指で開いて、アキ子さんがそこに小さなレンズを押しこんだ。
「もう一つは?」と、アキ子さんが訊いた。
「なにが」
「もう一つのレンズ」
「二ついるのか」
「わたしの目、二つあると思わない?」
「一つでも見えるさ」
「ねえ」
「うん?」
「煙草ちょうだい」
ぼくが煙草に火をつけ、それを逆向きにして、アキ子さんの口の前にさし出した。アキ子さんは唇をうすく開いただけで、いくら待っても、自分で煙草をくわえようとはしなかった。ぼくはフェンダーに尻をくっつけたまま、顔だけをアキ子さんの顔に寄せていき、そのうすく開かれたままの唇に、小さくキスをした。唇には少し口紅の匂いがのこっていた。
「煙草、吸わないのか」
「吸いたくなくなったわ」
ぼくは火をつけたばかりの煙草を、道の遠くに捨て、アキ子さんのあごをつまんでその顔を眺め直した。汗と埃で煤《すす》けてはいるが、目だけは不思議に暗い星を反射させていて、隙さえあればぼくの鼻に噛《か》みつこうと狙《ねら》っているような目つきだった。こんな奇麗な女の子が、今まで隠れていられたほど、前橋が広い町だったことも信じられなかった。
「君、運がいいな」
「運が良ければ生まれてこなかったわよ」
「そうでもないさ。君はずっと運が良かったし、これからもいいに決まってる」
ぼくは自分の中指の先をなめ、気合を入れて、指の先をアキ子さんの右の頬に押しつけた。指にくっついてもどってきたのは、アキ子さんのもう一つのコンタクトレンズだった。
ぼくらが走ってきた道の遠くに、かすかな明かりが見えはじめ、やがてそれがヘッドライトの輪郭となって、もうすぐぼくらのところまでやって来るほどになっていた。たとえそれが狐《きつね》の提灯《ちょうちん》だったとしても、ぼくらは盛大なVサインで迎えていたにちがいない。
「事故なんです、跳び出してきたウサギを避けようとしたんです」
「この辺にウサギなんかいるのかねえ」
「クルマの前を横切りました」
「狸《たぬき》じゃなくて?」
「ウサギのように見えましたけど、もしかしたら狸だったかもしれません。とにかく一人が怪我《けが》をしてるんです」
乗用車に乗っていたのは、それほど若くもない男の人と女の人で、二人とも眼鏡をかけていた。二人はクルマを止めたとたん、お互いに顔を見合わせ、『この世に交通事故なんか起こす馬鹿がいるとは信じられない』というように、二人一緒に肩で大きく息をした。男の人は市役所の戸籍係りで、女の人は信用金庫の出納《すいとう》係りのような顔だった。
ぼくらは男の人に手伝ってもらって、田中くんをライトバンから乗用車に移し、ぼくとアキ子さんも田中くんの両腕を抱えてうしろの座席に乗りこんだ。田中くんの額の血は、どうにか止まっているらしかった。ただよく見ると鼻の下と上唇にも血がにじんでいて、田中くんは口に流れこむ鼻血を無意識に舌の先でなめまわしていた。
「途中で救急車を呼ぼうかね」と、男の人が訊いてきた。この人は自分の運転技術の限界までアクセルを吹かしているらしく、バックミラーに映った顔は、頬の筋肉が口の形をゆがめるほどにひきつっていた。
「怪我人の家の前が外科の病院です。そこまで運んでもらえますか」と、ぼくが言った。
「前橋の市内?」
「はい」
「怪我のていどは」
「軽い脳震盪《のうしんとう》です。骨が一本ぐらい折れてるかもしれませんけど」
「でも運が良かった」
「そうですね」
「だってさあ、狸なんか轢《ひ》いちゃったら、後々ずっと気持ち悪いもんねえ」
電気の消えた料金所を過ぎ、畜産試験場の入口を過ぎ、大鳥居を過ぎたところまで、もうぼくらは誰も、一言も口をきかなかった。たまにアキ子さんが煙草を吸い、たまに田中くんが唸《うな》った。田中くんが唸るたびに前の二人は強盗にクルマを乗っ取られたような顔で、バックミラーからそっとうしろを盗み見するのだった。
クルマを止めてもらったのは、ビールを買った酒屋の前までもどってきたときだった。ぼくは自動販売機の横にある青電話のところまで、気合を入れて走っていった。それからありったけの十円玉を電話機に放りこんで、田中くんの家にダイアルをまわした。
十一回目のコールで、田中くんの一番上の姉さんが出た。
「葉山です」
「おや、まあ」
「田中が怪我をしました」
「誰がなにをしたって?」
「田中が、怪我です」
「おや……まあ」
「二十分でそっちに着きます。向かいの病院に支度をさせて下さい」
「病院で、なんの支度を」
「ライトバンで崖につっ込んだんです」
「そりゃまた、どうして」
「目の前を狸が横切ったんです。とにかく病院に支度をさせて下さい」
「とにかく……ああ、なるほどね。あんたが言ってるのは広司がクルマで怪我をしたって、そういうことなんだね」
「二十分で着きます」
「二十分ね」
「病院に支度を……」
「わかったよ。いいかい研ちゃん、電話なんかしてる暇があったら、一分でも早く広司を連れてきておくれ」
国道と五間道路との交差点まで戻ってきたときには、もう一時にちかく、それに情況まで考えると、田中くんの姉さんとアキ子さんが親子の対面をするには、少しばかり時間が遅すぎた。ぼくはアキ子さんにタクシーで帰ってもらうことにして、あとは病院まで一人で田中くんの肩に腕をまわしていた。
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病院の前には、田中くんの一番上の姉さんと、眼鏡をかけた痩せた看護婦さんと、パジャマの上に白衣を着た四十ぐらいの医者らしい男の人が、並んでぼくらを待っていてくれた。
「交通事故だって?」と、田中くんを診察室に運んでから、先生がぼくに訊いた。「どんなふうにぶつかったんだね」
「木を二、三本こすって、崖につっ込みました」
「スピードは」
「ほとんど出ていなかったと思います」
「最初から気を失ったままかね」
「はい、でも脈も呼吸も正常です」
「そんなことはわたしが決める」
「はい」
「本当にスピードは出ていなかったんだな」
「はい」
「ふだんから面白い餓鬼だと思っていたが、スピードも出さんで、よくこんな怪我ができたもんだ」
先生が田中くんの目蓋《まぶた》をひっくり返したり、看護婦さんがシャツやジーパンをむしり取っている間、ぼくと田中くんの姉さんは黙って二人のうしろに立っていた。田中くんの姉さんが口を開いたのは、やっと先生が診察台から顔をあげたときだった。
「死なないよね、ねえ、広司が死ぬようなことはないよねえ」
口の中で正露丸を噛みつぶしたような顔で、先生が答えた。
「死んでくれたほうが世間のためだったろうに……梅子さん、まあ、ちょっと外に出ていなさいな」
ぼくと田中くんの姉さんは、診察室を追い出され、田中くんの姉さんのほうは廊下を歩いて、そこにあった木の長椅子に腰をおろした。ぼくは門の外までもどってみたが、ぼくらを病院まで運んでくれた乗用車の姿は見えなかった。バス通りを走っているクルマは一台もなく、国道の方向から蛍光灯の白っぽい街灯が無人の町並にたよりなく連なっているだけだった。
「どこでやったんだい」と、診察室の前の廊下にもどっていったぼくに、金歯をむき出して、田中くんの姉さんが訊いた。
「赤城の料金所の、ちょっと上」と、ぼくが答えた。
「宿題は昆虫採集だったのかい」
「社会勉強です」
「赤城山まで社会勉強に行ったわけだ、この夜の夜中に」
ちっと、田中くんの姉さんが舌打ちをした。
「警察には?」
「知らせてありません」
「クルマは?」
「そのままです」
「不良の割にはまともな判断をしたもんだよ」
田中くんの姉さんは口をゆがめて、またぎらっと金歯を光らせ、ぼくに食いつきたそうな顔で勢いよく椅子から立ちあがった。
「朝までに片づければいいわけだ。まあ、あんたの宿題よりは簡単さね」
そのまま田中くんの姉さんは受付けの窓口まで歩いていき、ピンク電話を使って、誰かと壮絶な議論をくり広げはじめた。ぼくも納得したが、あのライトバンを夜の間に始末してしまうには、理論よりも腕力のほうが必要だったのだ。
先生が診察室から出てきて、ぼくがそのほうに歩いていき、少し遅れて田中くんの姉さんも電話のところからもどってきた。
「無免許の酔っ払いじゃ、警察に届けんわけにはいかんな」と、先生が言った。
「なんだって?」と、電話口に向かって怒鳴っていたのと同じ声で、田中くんの姉さんが言った。「おたくが駐車場に使ってる土地、誰が貨してるんだい。駐車場があるからあんたみたいなヤブでも商売になるんだよ。それにあんたが中学校のとき、うちの物干し場に忍び込んであたしの下着を盗んだことがあったろう? あんときだってあたしは見逃してやった、それをあんたって人は……」
「まあ、梅子さん」
「あんたが前の看護婦に手をつけたときのことだって、忘れたとは言わせないよ」
「ちょっと、冗談で言ってみただけなんだから、ねえ?」
「あたしはね」と、田中くんの姉さんが一瞬言葉を切り、それからふっと、短いため息をついた。「あたしはね……今は冗談を聞く気分じゃないんだよ」
沈黙がやってくる前に、呼吸を見はからって、ぼくが先生に訊いた。
「怪我の具合、どうですか」
「重傷なら救急車を呼んでるさ。わたしはヤブだからな」
「軽いんだね」と、横から、田中くんの姉さんが念を押した。
「骨折も内出血もない。一応明日精密検査はしてみるが」
「人騒がせな子だよ、まったく」
「意識はもどりましたか」と、ぼくが訊いた。
「一度もどったが、また眠らせておいた。善良な市民はみんな寝てる時間だ」
「あんたはもうお帰り」と、田中くんの姉さんが、ぼくに言った。
「少し、待ってます」
「待っててどうするんだい」
「気持ちの問題です」
「広司みたいな馬鹿に他人の気持ちは伝わらないよ。とにかく今夜は帰っておくれ。あんたに待っていられたらあたしが寝られない。早く帰って、宿題でもやって寝ちまっておくれな、ねえ研ちゃん」
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それでもぼくが家に着いたときは、まだ二時にはなっていなかった。テレビでは深夜映画の西部劇をやっていた。
ぼくは冷蔵庫から寿司《すし》おりを出して鮪《まぐろ》を二つ口に放りこみ、ソファの肘かけに背中をあてて、足を横に投げ出した。
「生きるってのは、お前が考えてるほど難しいことじゃねえのさ」と、テレビの中で、ジェームズ・スチュワートが言った。
「へええ、そう」と、ぼくが返事をした。
お袋が自分の部屋から出てきて、居間の明るさに目を細めながら、壁のかけ時計に目をやった。なにか一言ありそうなところだったが、お袋はなにも言わず、尻を掻《か》いただけでそのままトイレに歩いていった。着ている黄色いネグリジェは落下途中のパラシュートのようで、それでもお袋にしてみたら、精一杯地味に決めてみたつもりなのだ。
居間にもどってきて、お袋が言った。
「門でも改修《なお》そうかね、クルマが入れるように……」
それからお袋は台所に近いほうの椅子に腰かけ、首をのばして、寿司おりの中を気のなさそうな顔でのぞきこんだ。
「なんとなく寝つけなくてねえ」
「そうらしいね」
「週刊誌で見たんだけど、子供が親不孝なほど親は寝つきが悪いらしいよ」
お袋は寿司おりに手をのばし、イカを一つ抓《つま》んで、ぽいと口に放りこんだ。
「あんた、ビールでもやるかい」
ぼくが返事をしたわけではなかったが、お袋は台所にパラシュートを引きずっていき、ビールと二個のコップとペティナイフとスモークソーセージを持って、また元の場所にもどってきた。『減量はたしかに躰にはいいが、精神衛生の観点からは非常に疑問が残る』というのが、減量に関する最近のお袋の意見だった。
頬|杖《づえ》をついて、ソーセージをもぐもぐやりながら、お袋が訊いてきた。
「どうかしたのかい」
「なにが」
「人でも殺してきたのかと思ってさ」
お袋があごをしゃくってみせたのは、ぼくのシャツのポケットの、田中くんの額が押しつけられていたあたりだった。
「田中ん家の姉さんと案山子が結婚していたこと、知っていた?」と、ぼくが訊いた。
「案山子なんて渾名、誰がつけたのかね」
「全校一致さ。いつも一人で校庭の石ひろいをしてるんだ。それが田圃の中に立ってる案山子みたいな感じでさ」
ぼくはコップに注《つ》がれたビールを一息に飲み干し、ついでにソーセージにも手をのばした。
「ねえ母さん」
「なんだい」
「知っていたんだろう」
「知ってたけど、忘れてたね。それよりあたしはあんたのシャツが気にくわないよ。出かけたときはそんな柄じゃなかったもの」
「田中が怪我をしただけさ」
「バイクでかい」
「ライトバン」
「ライトバンていうバイクかい」
「乗用車のうしろに荷物が積めるようになってる、あれだよ」
「それじゃクルマじゃないか」
「クルマだよ」
「つまりあんたも一緒に乗っていて、そのなんとかいうクルマで事故を起こしたってことかい」
「崖にぶつかっただけ」
「そういうのは、事故って言うんだろう」
「言うこともあるね」
「言うさ。あんた以外のまともな青少年は、クルマに乗っていて怪我をすることを交通事故って言うんだよ」
お袋はスモークソーセージをまた一切れ口に放りこみ、ゆっくりあごを動かして、それからさも不愉快そうに首を横にふった。
「またもめる[#「もめる」に傍点]んだろうねえ」
「そうでもないさ」
「どうして」
「クルマは田中ん家の姉さんが片づけるって」
「そういう問題じゃないだろう」
「そういう問題さ。自分で石につまずいてお巡りさんを呼ぶやつはいないさ」
お袋は鼻をふくらませて、ふーんと息を吐き、あとはもうぼくを無視してテレビの画面に顔を近づけた。
「ウイリアム・ホールデンだね」と、お袋が言った。
「ジェームズ・スチュワートさ」と、ぼくが答えた。
「ウイリアム・ホールデンみたいだけどねえ。この人がデートリッヒとやった西部劇、なんていったっけ」
「荒野の用心棒」
「そんな題じゃなかったよ」
「夕|陽《ひ》のガンマンかな」
「そういう題でもなかった……」
テレビの画面に顔を近づけたまま、軽くため息をついて、お袋が言った。
「だけど研一、クルマに乗って石につまずくなんて、あんたらもずいぶん間の抜けたことをしたもんじゃないか」
考えてみれば、ぼくとお袋が一緒に映画に行かなくなってから、もう十年になる。昔は、つまり十年前までは、お袋は日曜日ごとにぼくを自転車の荷台に乗せて、三十分ぐらいかかる街の映画館まで毎週映画を見に連れていってくれた。そのほとんどは洋画の二本立てで、だからぼくが映画を見ることと内容を理解することとは、だいたいは無関係だった。ぼくは字幕さえ、平仮名の部分がやっと拾い読みできる程度だった。
しかしそれでも、日曜日ごとの映画館行きが、そのころのぼくにとって人生最大の楽しみであることに変わりはなかった。フランスやイタリアの田園風景、ローマやロンドンの煤けたような古い町並、鼻がぶつからないように首をかしげてキスをする男女。それらのものはじゅうぶんすぎるほど子供のぼくを唖然《あぜん》とさせてくれた。そしてなによりも、金色の髪をした、奇麗な女の人たち。彼女たちを見る度にぼくの胸にへんな秘密が住んでいる気がして、あとで思い出しただけでも顔が赤くなってしまうのだった。
親父が家を出ていき、お袋が小学校をやめて、ピアノ教室をはじめ、それと同時に一緒の映画館行きは中止になった。お袋には夏休みも日曜日もなくなったし、ぼくはぼくで料金さえ払えば一人でも映画館に入れる、という理屈に気づく歳になっていた。
テレビでは、ジェームズ・スチュワートが乗った二頭引きの馬車が、きたない布切れで覆面をした三人の男に追いかけられる場面がつづいていた。お袋はその映画を黙って眺めていた。コップが空になったときだけ、画面からちょっと視線を外してビールを注ぎ足すぐらいだった。
「昔子供の羊飼いが主役の映画があってね」と、テレビの画面に顔を向けたまま、お袋が言った。「題も筋も覚えてないけど、でもあの地平線と空がくっつきそうな風景には涙が出たねえ。その羊飼いは一日中草の上に坐っているんだよ。ただ坐ってるだけ。たまに口笛を吹いたりね、たまにそばに寄ってくる羊の尻を竹の棒でつついたりね。そうやってるうちに日が沈んできて、一日が終わってしまう」
お袋はコップに残った最後のビールを、一気に飲み干し、ソーセージの残りも口に放りこんで、軽くゲップをした。
「その羊飼いの子供が言うんだよ。『神様、ぼくには死ぬということが理解できません。ぼくの一生は、ぼくのしたいことが全部やれるだけちゃんと長くできているのでしょうか。ぼくにはまだ、自分が一番初めになにをしたいのか、それさえわかっていないのです』」
お袋がぼくの感想でも聞きたそうな顔をしたが、ぼくに感想など、あるはずはなかった。ぼくはソファの肘かけに頭をのせ、テレビのほうを向いて横になった。寿司おりの中にはまだ寿司も残っていたが、ぼくにそれをたいらげる気力は残っていなかった。
お袋はなかなか、次を喋り出さなかった。ソーセージを怠るそうに噛む音と、テレビの台詞だけがほんの少しの間つづいていた。
「さて、寝るとするかね」
お袋が椅子を立って、のっそりと自分の部屋に歩きかけた。
「門がなんだって」と、ぼくが訊いた。
「なんだい」
「さっき、門がどうとかって言ったろう」
「改修《なお》そうかと思ったのさ、クルマが入れるようにね」
「誰がクルマに乗るのさ」
「和子が帰ってくるかもしれないし……」
「姉さんがそう言ったの?」
ぼくがソファから頭をあげたときには、お袋はもうスリッパを脱いでいて、部屋の襖《ふすま》をうしろ手に閉めるところだった。ぼくはまた肘かけに頭をもどした。
「どうしても行くの?」
「最初からこんな町に住みつく気はなかった」
「一生旅をつづけるなんて、出来やしないわよ」
「旅なんか終わったときに終わったと気づけばいいのさ」
「あんたなんか砂漠の中でのたれ死にすればいい。今あんたが抱いている犬や、今あんたが乗っている馬やあんたにたかっているシラミやなにもかもみんな……ねえあんた、考え直すのよ。この町にだって少しはいいことあるわよ。牧場を買ってもいいし、それで子供をつくって、家族で平和に暮らすのよ」
「行くぜ」
「あんた」
「同じことさ。俺とおめえの仲も、終わったときは終わったことを認めるもんさ」
「あんた……」
「あばよ」
「あばよ」と、ぼくもテレビのスイッチを切った。
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窓には金粉を塗りつけたように日が当たり、近くの松林から早起きをした蝉《せみ》がぼくの部屋までお節介なモーニングコールを送っていた。ぼくは気力でベッドから這《は》い出し、パジャマのまま下へおりていった。
十時を過ぎていたが、お袋は出かけていなかった。庭に面した居間のガラス戸を開け、敷居の上にぼんやりと腰をかけていた。クーラーも入れてなかったし、出かける支度もしていなかった。
「百日紅《さるすべり》のところまでどうかねえ」と、前かがみに、ぼくには背中を向けたまま、お袋が言った。
「なにが」と、ぼくが訊《き》いた。
「左の端から百日紅のところまでだよ」
「だから、なにがさ」
「塀を壊して門をつくりかえるのさ」
「ダンプでも買うのかい」
「広いに越したことはないからね。玄関の前までコンクリートを敷いてもいいねえ」
お袋は右腕で躰《からだ》を支え、太りすぎた猫が頭の向きを変えるように、よっと声を出して立ちあがった。
「母さん、仕事に行かないの」
「気が乗らないんだよ。誰《だれ》にだってそういう目はあるけど、まあ、昼からでも行ってみようかねえ」
コーヒーを一緒に飲み、ぼくはフランスパンを半分と梨《なし》を一個食べ、シャワーを浴び、一番新しいポロシャツを着て、それから髪に櫛《くし》をいれ、ニキビを一つつぶした。その間お袋のほうは指定席に陣取り、ぼくの支度ができあがっていく過程を、一言ありそうな目でじろりじろりと眺めていた。
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十二時に、ぼくはバイクで家を出た。
最初は田中くんの家との途中にある『蟹前《かにさき》サイクル』というバイク屋に寄った。そこの息子は中学のときの同級生で、今は市内の工業高校に行っていた。
蟹前くんは横に歩きはしなかったが、ちょっとばかり頭が大きく、ちょっとばかり躰が弱かった。そのせいかどうか、小学校のときからあまり口をきかない子供で、野球でも相撲でもドッジボールでも、蟹前くんはぼくらが遊んでいるところをいつも遠くから眺めているだけだった。そしてそのことは友達の誰も気にかけなかったが、勉強は間違いなくクラスで一番だった。
ぼくがバイクを止めたとき、蟹前くんのお父さんは、店の前に張り出させたテントの陰でサイクリング用の自転車を組み立てていた。順にはHONDAのロゴが入った赤い帽子をかぶり、口には顔をゆがめさせるためにだけ吸っているような、ちびた煙草《たばこ》をくわえていた。
ぼくを見て、本心から暑そうに、ゆっくりと蟹前くんのお父さんが立ちあがった。
「毎日あちいやねえ」
「そうですね」
「やつはプールに行ったけんど……」
蟹前くんのお父さんが煙草をアスファルトに捨て、それでも顔はゆがめたまま、帽子の庇《ひさし》からちらっと雲のない空をのぞきあげた。ぼくが蟹前くんに用があって来たのでないことぐらい、最初からわかっているという顔だった。
「エンジンのかかりが悪いんです」
「プラグかなあ」
「プラグは取りかえたばかりです」
「ガソリンタンクに水が入ったかもしんねえ」
「そんなはずはありません」
「そいじゃキャブレターだんべ。キャブだとすると今すぐは無理だいなあ」
「夕方に取りにきます」
「そうだいなあ、夕方までなら見とけるだんべ。そのころならやつも帰ってきてらあ」
ぼくは自分のバイクをテントの下へ入れ、スタンドを立てて、うんざりしながら日向《ひなた》の中を歩きはじめた。
「やつがプールなんぞへ行ったんは、今日が初めてでなあ」と、一人ごとのように、蟹前くんのお父さんが言った。
ぼくは一応立ち止まり、ただの礼儀で、その油で汚れたつなぎ[#「つなぎ」に傍点]をふり返ってみた。蟹前くんのお父さんは新しい煙草に火をつけ、帽子の庇から、ぼくの立っている金色のアスファルトを眺めていた。
ぼくは軽く会釈をして、また歩きはじめた。
「葉山くんよう」
「はい?」
「夏があちいのは誰のせいでもねえけんどなあ」
「そうですね」と、歩きながら、ぼくは口の中だけで返事をした。
田中くんの家も、昨夜田中くんを放《ほう》り込んだ病院も、蟹前くんの家から歩いて十分ほどの場所にあった。クルマばかり通る歩道のない道を、ぼくはなるべく日陰の側を選んで歩いていった。
受付けに居たのは、昨夜とちがう、もっと若くて奇麗で、髪を染めていて、なんとなく下品な感じの看護婦さんだった。その看護婦さんに田中くんの病室を教えてもらい、ぼくは二階にあがっていった。
田中くんの病室からは、なぜか聞き覚えのある男の人の歌声が聞こえていた。実をいうとその声は階段のところにまで聞こえていて、階段をあがりながら、ぼくはずっといやな予感を感じていた。
ドアを開けると、西側の壁にはりつくように立っていたのは、やはり、お巡りさん姿のトメちゃんだった。トメちゃんは『目ン無い千鳥』を歌いながらも、ぼくにお巡りさんに似せた派手な敬礼を送ってよこした。
「誰のせーいぃぃやーあぁぁらぁ、罪ぃじゃやぁぁぁらぁ」
歌い終わってから、トメちゃんは満足そうにうなずき、今度はぼくに向かって、敬礼と一緒に角度十五度のおじぎまでつけ加えてくれた。
「あんな、ひろちゃんな、記憶が喪失なんだと」
それはあまり巡査の制服に相応《ふさわ》しい言葉づかいではなかったが、今まで誰も、そこまではトメちゃんに要求しなかった。
「今朝な、田中の梅子さんがな、俺《おれ》にそう言ったんよ」
「はい?」
「広司の馬鹿《ばか》が怪我《けが》して記憶が喪失んなったから、病院へは行っちゃいけねえって、そう言ったんよ」
ベッドの上では田中くんが、上体だけ起こして、ふてくされた顔でじっと目を閉じていた。
「田中の姉さんは、病院に来てはいけないと言ったんでしょう」
「だけんどな、記憶がねえと人間生きてくんが大変だんべ? そいで俺がひろちゃんの記憶をもどしてやってるん。ひろちゃん、生前『目ン無い千鳥』がでえ好きだったんよ」
田中くんがうす目を開けて、ぼくだけにわかるように、ちょっと唇を尖《とが》らせた。いつ田中くんが死んだのかは知らないが、記憶だけは失っていないらしかった。
「田中は『目ン無い千鳥』の二番が、特に好きでした」と、トメちゃんに、ぼくが言った。
「二番がかや?」
「生前にそう言ってました」
トメちゃんは困ったような顔をして、少しの間なにか考えていたが、やがて頭の中で理論が統一されたらしく、あとは直立不動に戻って一気に『目ン無い千鳥』の二番に突入していった。田中くんの怪我がトメちゃんのよし子ちゃんに対する失恋の痛手を和らげたとしたら、それは田中くんにとっても、近所の誰にとっても、非常に結構なことだった。トメちゃんの歌が聞こえていながら、看護婦さんが一人も駆けつけてこないのは、病院側としてもそう判断している証拠だった。
やっと『目ン無い千鳥』の二番が終わって、ぼくが言った。
「効果があったようですね」
尊大な流し目をぼくに送って、にやっとトメちゃんが笑った。
「田中が涙ぐんでいます。あと二、三曲聞かせてみたらどうですか」
「そうはいかねえさあ」
「そうは、いかないんですか」
「急にショックを与えるとな、精神が破壊されるんよ」
「生前も田中の精神は破壊されていました」
「だけどよ、俺も本署から緊急連絡が入ってるん。緊急連絡つんは緊急だんべ? それだから俺もいそがしいんさあ」
トメちゃんはそこでゆっくりと反り返っていき、ベッドとぼくに一度ずつ敬礼を送って、そして次の瞬間なにを思ったのか、呆気《あっけ》にとられるほどの速さで病室を駆け出していった。トメちゃんの頭の中の、競輪場かどこかで、殺人事件でも発生したのだろう。
「どこか、痛むか」と、一つ深呼吸をしてから、気をとり直してぼくが訊いた。
「たいしたことねえよ」と、不機嫌な声で、田中くんが答えた。
その声が籠《こも》って聞こえるのは、右の鼻の穴につっ込まれた脱脂綿のせいで、顔がいびつに見えるのは額にななめに巻かれた包帯のせいだった。
「アキ子、どうした?」と、田中くんが訊いた。
最初に不機嫌な声を出したのは、その質問のための伏線だったのだろう。不機嫌な声を出さなければアキ子さんのことを訊きにくい事情が、田中くんにあることは、ぼくには昨夜《ゆうべ》からわかっていた。
「へんに元気さ、へんに運のいい子だし」
田中くんは包帯の上から顔を触り、おおげさに欠伸《あくび》をして、ベッドの上に胡座《あぐら》をかいて坐り直した。
「俺な、本当いうと昨夜は死んだと思った」
ぼくだってあのとき、自分が生きていることに自信はなかったのだから、田中くんが死にきったと思い込んだとしても、たいして不思議ではなかった。
「煙草、吸ってもいいのかな」と、ぼくが言った。
「勝手にしろや。あのな、あのとき俺、死ぬのがいやだとかおっかねえとか、そういうふうには思わなかった」
田中くんが腕をのばして、サイドテーブルから吸い口のついた水差しを取り、一口吸ってから、今度は尻《しり》をさげて仰向《あおむ》けに横になった。
「ほっとしたって感じさ。だから目が覚めたときは腹が立った。わかるか? 面白くねえなって、そういう感じ。それで俺は思い出したんだ。朝からずっとそのことを考えてたら、トメの馬鹿が来て歌うたい出しやがった。あの野郎、そのうちきっとぶっ殺してやる……葉山、俺にも煙草をくれ」
ぼくが途中で買ってきたセブンスターとマッチを渡し、横になったまま、田中くんがそれに火をつけた。
「なんだ? この煙草」
「新しく出たやつ」
「炭殼《たんがら》みてえな味がするな」
「躰にはいいんだ、お袋が言ってた」
ため息を一つつき、首をかしげながら、それでも田中くんは大きく煙を吸いこんだ。
「それで、なにを思い出したんだ」と、ぼくが訊いた。
「だからよ、なぜこんなに面白くねえのかって、そのことさ。三島由紀夫なんか、母親の腹から出てきたときの風景しか覚えてねえらしいけど、俺は自分が喋《しゃべ》った言葉まで覚えてる。お袋の腹から出ながら、俺が『母ちゃん、人生っておもしれえのかい?』って訊いたら、お袋が困った顔して答えたっけ。『馬鹿だねこの子は。おまえの人生なんて、あたしや父ちゃんの人生と同じぐらいつまらないさ』ってな。俺は今朝目が覚めたとき、そのときのことをみんな思い出しちまった」
煙草を持ったまま寝返りをうち、田中くんが一瞬、枕《まくら》に強く顔を押しつけた。ぼくはベッドから目を背け、窓枠にたまっていた羽虫の死骸《しがい》に、ふーっと息を吹きかけた。埃《ほこり》のように舞いあがって、幾|疋《ひき》かの死んだ羽虫がゆっくりとリノリュームの床に落ちていった。暑そうに、窓の外を雀《すずめ》が飛んでいた。
「本当はよ……」と、顔を部屋の反対側に向けたまま、田中くんが言った。「言われなくたってわかってるんさ。あの親父《おやじ》とあのお袋でよ、俺の人生なんて、最初からたか[#「たか」に傍点]が知れてるんだ」
「親の責任にしたら人生が楽だものな」
「楽じゃいけねえのかよ。勝手に産んで勝手に死にやがって、俺だって文句の一つぐれえ言いてえさ」
「生きてるだけで意味のない親もいる」
「お前は薄情なんさ。つまらねえ意地を張らねえで、親父と会ってやりゃいいのによ」
ドアが開いて、同時にアキ子さんが部屋に入ってきた。アキ子さんは白い綿《めん》の開襟シャツにジーンズのミニスカートをはき、左手にはセロファンに包んだ、小さい薔薇《ばら》の花をぶらさげていた。声には出さなかったが、ぼくと田中くんに一度ずつつくってみせたVサインは、口の中で「やあ、やあ」と言っている感じだった。アキ子さんの表情はぼくと田中くんに、それぞれの両親に対する考察を中止させる程度には、じゅうぶん気楽なものだった。
アキ子さんはちょっとだけ、田中くんの包帯を無気味そうに眺めてから、バス通りのクルマの音に耳を澄ますように、黙ってベッドをこちら側へまわってきた。薔薇の匂《にお》いと化粧水の匂いにまじって、またアキ子さんの匂いが広がり、意味もなくぼくは感動した。
「案外元気そうじゃない」と、田中くんの包帯に指で触れて、アキ子さんが言った。
田中くんは横目で一度、ぼくとアキ子さんの顔を見くらべ、それから脱脂綿をつっ込まれた鼻で、ふんと息を吐いた。
「おまえら、ここで待ち合わせたんか」
「喫茶店より洒落《しゃれ》てるだろう」と、ぼくが言った。
ポニーテールを大きくゆすって、あっはとアキ子さんが笑った。
「こっちは五時に目が覚めてよ、それからずっと人生の問題を考えてたんだぜ」
「ひろちゃんは寝たのが早かったものね」
田中くんが喉《のど》をならし、わざとらしく舌打ちをしながら、指の煙草をぽーんと床にはじき飛ばした。それをぼくが、スニーカーの底で踏みつぶした。
「おまえ、怪我は?」と、アキ子さんに、田中くんが訊いた。
「だいじょうぶ。コンタクトも二つあったわ」
「なんだと?」
「こっちの話よ。病院にはいつまで入ってるの」
「知るもんか、刑務所じゃあるまいし」
「良かったよねえ、刑務所じゃなくてさ」
その最後の台詞《せりふ》を吐いたのは、いつの間にかドアのところに顔をのぞかせていた、田中くんの一番上の姉さんだった。田中くんの姉さんはぼくとアキ子さんを無視して、病室を横切り、ベッドの横のテーブルにスーパーマーケットの紙袋を、やっとばかりに放り投げた。
「人様に怪我をさせたら鑑別所行きだったんだよ。もっともそのほうが近所の連中は喜んだろうけど。ええと………パジャマパンツ石鹸《せっけん》歯ブラシ歯磨き粉タオル。あと、なにかあったっけね」
「ラジオ」
「ああ」
田中くんの姉さんが、おおげさに天をふりあおぎ、ちっと黄金の舌打ちをした。
「あとでまた持ってきてやるよ。これから出かけなくちゃならないんでね」
「猫にカッポレを踊らせに行くんですか」と、ぼくが言った。
「なんだって?」
「いえ」
「冗談を言ったつもりかい」
「ただの挨拶《あいさつ》です」
田中くんの姉さんは口をかたく結んで、首を横にふり、それからほっと、小さくため息をついた。
「昨夜《ゆうべ》、まあちゃんが心配していなかったかい」
「お袋は寝つきが悪かっただけです。馬鹿な子供を持った親はみんな寝つきが悪いそうです」
「そうだろうね。だけどとにかく、今度のことにはなにも問題ないって、まあちゃんにはそう言ってやっとくれ」
ぼくはうなずいて、窓の横の壁に肩で寄りかかった。
「それで、田中の入院は、どれぐらい……」
「当分入っててもらうさ。鑑別所にくらべりゃ楽なもんだよ」
「クルマは?」
「片づけさせた」
「修理にお金がかかりますか」
「だてに保険には入ってないよ。事故なんてあたしがやったことにすればいいんだから。質問はそれだけかい」
「それだけです」
田中くんの姉さんは口の中でなにか唸《うな》り、ドアのところまで歩いて、そこでやっと思い出したように、くるっとアキ子さんをふり返った。
「どうでもいいけど、おまえ、なんでここにいるんだいね」
「昨夜一緒だったの」
「誰と」
「ひろちゃんと」
「広司が事故を起こしたとき?」
「そう」
田中くんの姉さんがまた舌打ちをやり、絶望の淵《ふち》から這いあがってきたワニのような顔で、ぎしっと歯ぎしりをした。
「よくもまあ、寄ってたかってあたしの血圧を高くしてくれるもんだよ。それでおまえのほう、怪我はなかったのかい」
「わたしは生まれつき運がいいらしいわ」
「そりゃ良かった。そのいい運が逃げないように、せいぜいつき合う友達を選ぶことだね」
ドアを閉めようとした田中くんの姉さんに、ベッドの上から、田中くんが声をかけた。
「姉ちゃんよう」
「なんだいね」
「ラジオ、早く持ってこさせてくれよ」
「今手があいてるのはよし子ちゃんだけだよ。よし子ちゃんでいいのかい? どうせトメが二階の窓から見張ってると思うけどね」
「あ、あとでいいや」
「決まってるよ。こっちはあんたらみたいな暇な連中に、構っちゃいられないんだ」
田中くんの姉さんが、ぼくとアキ子さんに手をふり、ひょいと首をひっ込めて、あとはもうそのまま、廊下に高いスリッパの音を響かせていった。
窓のほうを向いて、アキ子さんがふっと肩で息をついた。
田中くんの姉さんと入れちがいに病室へ入ってきたのは、受付けにいた、若くて奇麗で、もしかしたらこの病院の先生の手がついているかもしれない、ちょっと品のない感じの看護婦さんだった。看護婦さんは金属容器をごちゃごちゃ載せたステンレスのトレーを持っていた。下で面白いことでもあったのか、病室に入ってきたときから、もう唇の端に皮肉っぽいうすら笑いを浮かべていた。
「ゼンシンセイシキなんよ」と、ぼくと田中くんとアキ子さんの、ちょうど中間のどこかに向かって、看護婦さんが言った。
誰に言ったのかわからなくて、ぼくが訊き返した。
「なんですか」
「ゼンシンセイシキ」
「はい?」
「全身をね、アルコールで清拭《せいしき》すんの」
「誰が」
「あたし」
「ぼくにですか」
「あんたにしてどうすんのよ」
看護婦さんはぽくの顔を感心したような目で眺めながら、前を通りすぎ、ステンレスのトレーをテーブルに置いて、それからまたゆっくりとぼくに向き直った。
「全身て、どういうふうに、全身なんですか」と、一応、ぼくが訊いた。
「全身だから、ぜんぶ全身よ」
「ここで、ですか」
「表の道でやってみる?」
「俺、遠慮しとくぜ」と、田中くんが言った。
「遠慮はできないんよ」
「あとで自分でやるさ」
「そういう規則はないの」
「ぼくらも見てるんですか」と、ぼくが訊いた。
「見てたきゃ見ていなさいな」
アキ子さんが咳《せき》払いと一緒に、ふてくされたような歩き方で、ぶらっとドアのほうに歩きだした。
「わたし、帰るわ。花は花瓶に入れておいてよね」
アキ子さんにつづいて、ぼくもドアに歩いていった。
「俺も帰るかな」と、起きあがりかけた田中くんの頭を、看護婦さんが「ばーか」と言いながら人さし指で押しもどした。
なんの意味でか、看護婦さんはぼくの顔を見て、にたっとウインクをした。
ドアを閉めながら、田中くんに、ぼくが言った。
「なんだか知らないけど、とにかく、しっかりな」
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つい愚痴を言いたくなりそうな暑さの中を、バス通りを避けて、ぼくらは広瀬川ぞいの道を歩いてアキ子さんの家へ向かった。アキ子さんがアストラッド・ジルベルトというブラジルだかポルトガルだかの歌手のレコードを、「どうしても葉山くんに聴かせてあげる」と誘ってくれたのだ。ぼくのほうは特別にどうしても[#「どうしても」に傍点]聴きたいとは思わなかったが、アキ子さんと一緒に歩いていくことに関して、文句はなかった。
アキ子さんの家は昨夜の印象よりずっと大きな、青|苔《ごけ》がはりついた大谷石の塀がとなりの家の新しいブロック塀まで、三十メートルもつづいている家だった。門から建物までの間には白っぽい玉砂利が敷かれ、そのまん中には亀《かめ》の背中のような濃い色の踏み石が、歩幅に合わせた間隔で玄関の入口にまで並んでいた。砂利道の右側の松や金|檜葉《ひば》以外は、よく刈り込まれた平らな芝生で、芝生の塀寄りには青い葉が強く影をつくっている葡萄《ぶどう》棚が見えていた。
門をくぐると、アキ子さんはぼくを置いて直接芝生に入っていき、葡萄棚の前を通って庭の一番西端まで歩いていった。そこにはなにかをのぞきこむような格好で、案山子《かかし》と渾名《あだな》されている校長がうしろ向きにしゃがんでいた。校長先生はうす汚れたちぢみ[#「ちぢみ」に傍点]の上下にらくだ色の腹巻を巻き、頭にはきたない麦藁《むぎわら》帽子をかぶっていた。まるでどこか遠くのほうから、台風にでも吹き飛ばされてきた、年季の入った案山子のようなうしろ姿だった。そのうしろ姿に一瞬、ぼくは訳のわからない懐しさを感じたが、それで校長先生を尊敬する気にはならなかった。この校長先生がアキ子さんの親父さんで、田中くんの一番上の姉さんがアキ子さんのお袋さんだという不条理が、まだぼくには納得できていなかった。
ぼくは葡萄棚の下の木の椅子に腰かけ、葉影を透《す》かして、建物の二階に並んだ窓をぼんやりと見あげてみた。黄色いカーテンがかかったベランダつきの部屋があり、なんの根拠もなく、ぼくは「ああ、あれがアキ子さんの部屋だな」と勝手に決めこんだ。
アキ子さんがもどりそうもないので、ぼくも庭を横切って、西端に屈《かが》んでいる二人のうしろまで歩いていった。そこには目の細かい金網でそれぞれが正方形に区切られた、細長い池が掘られていた。道路に近い側には篠《しの》でできた簾《すだれ》がかけられ、もう一方の簾をあげられた池には、頭を瘤《こぶ》ででこぼこにした背鰭《せびれ》のない金魚が泳いでいた。校長先生は金魚が泳いでいるほうの池の縁に、もみほぐした棕櫚《しゅろ》の皮を一枚ずつていねいにはりつけていた。
「モグラみたいな金魚ですね」と、ポニーテールと麦藁帽子の間に顔をつっ込んで、ぼくが言った。
顔をあげずに、校長先生がむっと唸った。
「新聞の集金なら、奥に言いなさい」
「ピアノの葉山先生ん家《ち》の子よ」と、アキ子さんが言った。
「葉山先生の息子さんが、新聞の集金をされているのかね」
「金魚の感想を言いにきただけです」
「田中のひろちゃんの友達なの」
「二年五組です」
「ほうう?」
そこでやっと、ぼくが新聞の集金人ではない事実を納得したらしく、校長先生は麦藁帽子を脱いで、禿《は》げ頭にたまっていた汗を手拭《てぬぐ》いで一|拭《ふ》きした。
「君のお母さんは存じていますよ」
「お袋も昔は教員でした」
「県の研修会で知り合ってね。そのころ君にも会ったことがあるんだが、覚えていますか」
「過ぎたことはみんな忘れます」
校長先生は、しばらく珍しそうにぼくの顔を眺めたあと、残っていた棕櫚の皮をぽいと池に放りこんだ。
腹巻の間からいこい[#「いこい」に傍点]を取り出し、火をつけて長く煙を吐いてから、校長先生が言った。
「君にはこの金魚が、モグラのように見えますか」
「頭にできもの[#「できもの」に傍点]ができています」
「蘭鋳《らんちゅう》という種類です。瘤が大きいほど価値があります」
「卵を産ませるために棕櫚で巣をつくってるの」と、アキ子さんが解説した。
「蘭鋳は金魚の王様と言われてるんですがね」
一瞬迷って、しかしやはり、ぼくは言うことにした。
「でもやっぱり、モグラみたいな金魚ですね」
校長先生が強くまばたきをし、腰をのばして、操り人形のような歩き方でふらふらと葡萄棚の下へ歩いていった。アキ子さんがあとについていって、ぼくもそうした。ぼくらは三人で葡萄棚の木の椅子に腰をおろした。
「葉山くんは、田中の広司くんと同級でしたか」と、しばらく黙って煙草を吸ってから、校長先生が言った。「二年五組だと、石川先生かな」
「海老原先生です」と、ぼくが答えた。
「数学の、海老原先生ねえ」
「英語です」
「ああ、英語のねえ。それで、将棋はできますか」
「海老原先生が、ですか」
「君がです」
「指し方は知ってます」
「それならまあ、一局つきあいなさい」
校長先生がアキ子さんにあごをしゃくり、アキ子さんはおおげさにため息をついて、それでも文句を言わずに建物へ歩いていった。校長先生はくわえ煙草の先を空に向け、ミニスカートの長い足で大|股《また》に歩くアキ子さんのうしろ姿を、眩《まぶ》しそうな目でじっと眺めていた。
「葉山くん、アキ子とは前からの知り合いですか」と、校長先生が訊いた。
「それほどでもありません」
「家《うち》に来たのは初めてでしょう」
「夜、ちょっと来たことがあります。ちょっと、一度だけです」
校長先生がじろりとぼくの顔をにらみ、口の両端に皺《しわ》を寄せて、それからなんのつもりでか、にっと笑った。
「広司くんはだいぶ元気がいいようで、職員会議でも話題になりますよ」
「今、怪我をして入院してます」
「そうでしたか」
「石につまずいて転びました」
「元気が良すぎるんでしょうな。あの家は家系的にみなさん元気がよろしい。しかしまあ、躰にだけは気をつけんとねえ」
アキ子さんが脚のついた将棋盤を持ってきて、校長先生の前に置き、ぼくにはその向かい側に坐れ、と目で合図をした。
「終わったら二階に来て? 階段をあがってすぐの部屋」
将棋盤にちらっと目をやり、鼻の頭に皺をつくって、口笛でも吹く感じでアキ子さんが建物の中にもどっていった。
ぼくは仕方なく将棋盤の前に場所を移し、校長先生と一緒に駒《こま》を盤の上に並べはじめた。自分がなぜ将棋なんかする羽目になったのか、ぼくにはまるでわかっていなかった。
「この盤と駒、昔の教え子から贈られたものです」と、駒を並べながら、校長先生が言った。「始めてみると意外に面白くてね、性格が出るわけです。強い弱いに関係なく、指す人の性格が出る」
校長先生が歩を三枚取って、掌《てのひら》の中でふってから、それをぱらっと盤の上にばら撒《ま》いた。表が二枚と裏が一枚で、ぼくもやったが、表裏の数は校長先生のものとは逆だった。
駒をもどして、3四歩と校長先生が角道を開けてきた。
「君のお母さんが教職を辞められたのは、実に残念でした。彼女ほど教え子に人望のあった教師に、わたしはいまだかつて会ったことがない」
「イナゴのお陰です」
「ほう、イナゴのね……」
「生徒の人望には、金魚よりイナゴのほうが効果があると思います」
2六歩・4二銀・7六歩・3三銀・4八銀・5四歩・5六歩・4二飛・5七銀。
お手伝いさんがお茶を持ってきて、校長先生の左手側に置き、ぼくには大きなコップに入れたオレンジジュースを渡してくれた。
「濃すぎるな」と、その白い筒形の湯呑《ゆのみ》をのぞきながら、憮然《ぶぜん》とした声で、校長先生が言った。
お手伝いさんがなにか返事をしたが、意味は不明だった。
「取りかえろとは言っていません」と、湯呑に手をのばしかけたお手伝いさんに、また校長先生が言った。
「あ、あ、あ……」
お手伝いさんは出していた手を引っこめ、それでもまだ命令のつづきでも待っているのか、葡萄棚の陰に小さく立ちつづけていた。
「なにか?」
「え、え、いえ……」
お手伝いさんはぼくにお辞儀をし、それから尻を蹴飛《けと》ばされたような歩き方で、よろよろと建物に引きあげていった。短い髪を不思議な色に染めた、歳《とし》のわかりづらい女の人だった。昨夜最初に電話に出た女の人は、この人だったのだろう。
校長先生が4筋に飛車をふっていたので、ぼくのほうは玉を片矢倉にいれ、5、6筋に銀を二枚並べて応戦態勢をつくっていた。校長先生の指し方は、『振り飛車入門』とかに出てくる棋譜に無理やり自分の将棋を嵌《は》めこもうとするやつで、その意味ではたしかに、性格は出ているのかもしれなかった。
「まずいですなあ」と、一人ごとのような声で、校長先生が言った。
「はい」と、ぼくが返事をした。
「葉山先生はまだ詩を書いておられますか」
「かくのは鼾《いびき》だけです」
「あのころはD・M・トマスという詩人を勉強されておった」
「人ちがいです」
「いや。たしかにD・M・トマスでした」
「そういう意味では、ありません」
「いやいや、どうも、この飛車が動けませんなあ」
ぼくは面倒になってきて、逆に自分の飛車を中にふり、5筋に銀を進めてまん中から校長先生の美濃《みの》囲いを蹴散らしてやった。
「そういう手がありましたか」
「『振り飛車の破り方』に出ていました」
「弱りましたなあ」
「そうですね」
「これは、弱りました」
「煙草、吸ってもいいですか」
「はい」
「いいんですか」
「アキ子も煙草を吸いますが、わたしはいつも見ないことにしています」
ぼくがセブンスターに火をつけ、校長先生のほうは湯呑に手をのばして、それをせんぶり[#「せんぶり」に傍点]でも飲むような顔で、一口ずるっとすすりあげた。
「この飛車が、どうにも弱りましたなあ」
「そうですね」
「なんというかどうも、弱ったもんです」
しかし校長先生が弱っていられたのは、それからせいぜい十分だった。十分後に校長先生は、左手に握っていた幾枚かの駒を盤の上に放り出し、途方に暮れたような視線を日向の芝生にまでもっていかなくてはならなかった。どこかずっと遠くで油蝉が唸り、塀の外を瓶を積んだオートバイががちゃがちゃと通りすぎた。
ふと、校長先生がぼくのほうに顔をあげた。
「君は将来、何になるつもりですか」
「小説家です」
「どこか躰でも悪いのかね」
「躰は、普通です」
「可哀《かわい》そうにねえ」
「はい?」
「いや、雀も、暑かろうにねえ」
校長先生は一人でぼんやりとうなずき、いこいに火をつけて、なにかに耳を澄ますような顔で黙って煙草を吸いはじめた。蝉の声と葡萄の葉がゆれる音と池の浄水機の音が、むっとする光の色の中で奇妙に静かに聞こえていた。
ぼくは勝手に駒を集めて、箱にもどし、校長先生を残して建物に歩きはじめた。
「葉山くん」と、うしろから校長先生が呼びかけた。「わたしは出かけるけれども、まあ、夕飯でも食べていきなさい」
アキ子さんの家の玄関は、広くて、暗くて、三和土《たたき》の右手にはばかでかい木の靴箱が、関所のように据えつけられていた。あがり口の廊下には二階に通じる新しい階段があり、階段の奥が台所だった。そのうす暗い台所では、さっきのお手伝いさんが目の前に置いた一升瓶に向かって、ぶつぶつと一人ごとを言っていた。お手伝いさんの頭はまるで彼岸花《ひがんばな》みたいで、ぼくはお手伝いさんには声をかけず、足音を忍ばせて階段をのぼっていった。
教えられたアキ子さんの部屋に、アキ子さんはいなかった。そこはブルーグレーの壁紙を貼《は》った八畳ほどの部屋で、床も壁の色よりはいくらか濃いグレーのゴムタイルだった。なにか特別な理由でもあったのか、床の上には思わず貧血を起こしそうなほど、ありとあらゆる物がぶち撒《ま》けてあった。ぼくの部屋でも三年ぐらい掃除をしなければ、これぐらい壮絶になるだろうとは思ったが、それだってあまり自信はもてなかった。たとえばベッド、ステレオ、鏡台、本棚。これぐらいなら驚かなくても、その他にワンピースやブラウスや下着などの諸々《もろもろ》の衣類、包装紙やブラシや化粧品や置時計やコーラの空瓶やカセットテープや、灰皿や写真のネガやバスタオルやタンポンの箱や、それこそ自分の才能でぶち撒けられる物はぜんぶぶち撤けてみた、という感じだった。そしてなんといっても恐縮だったのは、部屋の中に、勉強机が見当たらないことだった。それでもベッドの横のテーブルには教科書とノートが積んであったし、床にはさっきアキ子さんが着ていたシャツとスカートがぶち撤けて[#「ぶち撒けて」に傍点]あったから、そこがアキ子さんの部屋であることは間違いなさそうだった。
ぼくは部屋のまん中で、しばらく途方に暮れていたが、仕方がないのでベッドに腰かけ、床から灰皿を拾って煙草に火をつけた。正面の壁には猫がボールと遊んでいる図柄のカレンダーと、夏の尾瀬らしい下手《へた》な油絵が飾ってあった。その横には変色した葉書大の写真がピンで止めてあって、小学校にあがる前ぐらいの子供が二人、どこかの湖を背景にきをつけ[#「きをつけ」に傍点]をして写っていた。一人は気の強そうな目つきですぐにアキ子さんとわかったが、もう一人が田中くんだとわかるまでには、ほんの少し時間が必要だった。田中くんは可笑《おか》しいぐらい萎縮《いしゅく》していて、なにか悲しいことでもあったのか、その十秒後には泣き出すにちがいないと思うような顔だった。
煙草を一本吸い、それでもアキ子さんはもどらず、ぼくは扇風機のスイッチを入れてベッドの上に仰向けにひっくり返った。部屋の散らかり方からは信じられないほど、マットもシーツも気持ち良く乾いていて、おまけに石鹸だか化粧水だかの匂いまでして、ぼくは眠りこみそうな気分だった。
そしてたぶん、本当に半分ぐらいは眠っていたのだろう。鼻を抓《つま》まれるまでアキ子さんがそこに立っていることに、ぼくは気づきもしなかった。
目を開けたぼくに顔をしかめて見せ、あっはと笑ってから、アキ子さんが正座をして坐りこんだ。アキ子さんは白いタオル地のバスローブを着て、頭には黄色いバスタオルを巻いていた。
「遅いんでシャワーを浴びてたの。親父、なにか言ってた?」
「可哀そうだって」
「誰が」
「雀かぼくか、どっちか。それから君とはもう寝たのかって」
アキ子さんが唇だけ笑わせ、床を這っていって、鏡台の前で胡座をかいて坐り直した。バスローブ姿のせいか、ぼくよりもずいぶん大人の女の人みたいな印象だった。
髪にブラシを入れ、ポニーテールに結《ゆ》い直してから、アキ子さんが肩越しにぼくをふり返った。
「レコード、聴いた?」
「まだ」
「聴いていれば良かったのに」
「探す勇気がなかった」
「あるじゃない」
「勇気のことか」
「レコードのことよ。ほら、テーブルの下……」
アキ子さんに無茶な論理を押しつけられたのは承知で、それでもぼくはベッドをおり、文庫本やらノートやらが芸術的に押しこまれているテーブルの下に、奇跡的に一枚のLPを発見した。それはもう先祖代々聴きつがれてきた感じの、うす緑色のレコードジャケットだった。
アキ子さんが鏡の中でうなずいたので、ぼくはそれをステレオにセットし、それからテニスのラケットとなにかの空き箱を退《ど》けて、今度は床の上に腹這いで寝そべった。これだけ散らかっていれば、もう文句はないのだと、いつの間にかぼくも納得していた。
レコードは少しの間針の音をぴりぴりやったあと、女の人が歌う気怠《けだる》いボサノバを流しはじめた。今まで一度も聞いたことのない曲だったが、気怠い女の人の声が不思議に心地良くて、ぼくは目蓋《まぶた》の上を柔らかい指ででも撫《な》ぜられている気分だった。
アキ子さんが床の上を這ってきて、わざとらしくま上からぼくの顔をのぞきこんだ。
「葉山くん、どこでも寝られるの」
「田中ほどじゃないさ。やつはクルマを運転しながらでも寝られる」
面白くなさそうに笑って、アキ子さんがぼくのとなりに腕枕で横になった。
「ねえ、昨夜、わたしにキスしたでしょう」
「どうだったかな」
「したわよ」
「忘れた。過ぎたことはみんな忘れることにしている」
アキ子さんが唇を尖らせ、ふーんと言いながら、ごろりと向こう側に寝返りをうった。ぼくはへんに息苦しくなって、立ちあがって窓まで歩き、そこからコンクリートのベランダへおりてみた。下では着がえをした校長先生が、門の前からタクシーに乗りこむところだった。お手伝いさんは見送りに出ていなかった。ぼくはそっと深呼吸をした。
さっきぼくらが将棋をやった葡萄棚は、影をずいぶん長くし、校長先生に気の毒がられた雀も、もう遊んではいなかった。高い建物は一つもなく、とんでもなく遠くに秩父の低い山が霞《かす》んで見えていた。昔ならこの窓から、富士山が見えたこともあったろう。
もうずっと子供のころ、ぼくも一度だけ、富士見村から富士山を見たことがあった。
「ほら、富士山が見えるよ」
それは冬のある日、お袋に日曜日の日直当番がまわってきた日のことだった。赤城おろしのからっ[#「からっ」に傍点]風が吹く中、ぼくを自転車の荷台に乗せ、学校に向かう途中の田圃《たんぼ》道で、お袋が自転車を止めて前橋の方角を指差した。
「研一、富士山が見えるよ」
しかしぼくには、お袋が指差した富士山も、お袋が言った富士山も、そのときには理解できなかった。ぼくの頭には銭湯の富士山しか思い浮かばなかったのだ。
「富士山じゃないよ」と、ぼくが言った。
「富士山だよ」と、お袋が言い返した。
「お母さん、だって富士山は日本一の山なんだよ」
毛糸の襟巻で顔をぐるぐる巻きにしたお袋が、サドルの上から荷台のぼくをふり返った。
「研一ねえ、富士山も遠いと、小さく見えるんだよ」
「遠いって、どれぐらい遠いのさ」
「ここから家までのなん百倍も遠いよ」
「そんな遠くのもの、見えるわけないよ」
襟巻の中で、ふっと笑って、お袋がぼくの頭をきつくコートの腕に抱えこんだ。
「馬鹿だねえ研一、こんな遠くからでも見えるから、富士山は日本一の山なんだよ」
その富士山を生まれて初めて見た日、家にまだ親父がいたのかどうか、ぼくの頭はどうしても思い出さなかった。ぼくが思い出したのは、お袋の帰りが遅くなったある夜、親父が雨の中に放り投げたお袋のスカートの赤い花柄模様だけだった。お袋の服装趣味は、そのころから変わっていなかった。
ふり返ると、アキ子さんはベッドの横に場所を変えていて、バスローブでくるんだ膝《ひざ》に薄い単行本を開いていた。大きな黒縁の眼鏡をかけたアキ子さんのポニーテールを、扇風機の風がゆるくうしろへなびかせていた。
ぼくは部屋の中にもどって、アキ子さんのとなりに腰をおろし、そばにあったタンポンの箱から中身を一つ抓み出した。長さも太さも、ぼくの人さし指ぐらいで、紐《ひも》のついている感じがなんとなく不気味だった。
アキ子さんはぼくを無視することに決めたらしく、ぼくが目の前でタンポンを振り子にして遊んでも、鼻の穴をふくらませただけで本から顔をあげなかった。最初からわかっていたが、その本は夏休みになる前に、ぼくが田中くんに貨したサリンジャーの『フラニーとズーイ』だった。
しばらく、アキ子さんのうぶ毛の浮いた横顔を眺めてから、ぼくが言った。
「実に、いい眼鏡だ」
それでもアキ子さんは、膝を深くかかえ直し、もう死ぬまで口をきく気はないのだという形の背中で、しっかりとぼくの視線を遮《さえぎ》りつづけていた。
ぼくは立っていってレコードをかけ直し、またアキ子さんの前へ戻って、膝立ちで本を上からのぞきこんだ。
観念したのか、呆《あき》れたのか、口をゆがめて、アキ子さんがじろりとぼくの顔をにらみあげた。
「葉山くんて、変わってると言われない?」
「言われないさ」
「でもわたし、変わってると思うわ」
「誰の小説?」
「サリンジャー」
「面白いの?」
「あんたのほうが面白いけどね」
ひょいと、アキ子さんがぼくの手からタンポンをひったくり、目をつりあげて、えいっと部屋の隅に投げつけた。ぼくもアキ子さんの顔から眼鏡をひったくり、びっくりしている唇に、正面から自分の唇をかさね合わせた。アキ子さんの唇に昨夜の口紅は残っていなかった。煙草の匂いも汗の匂いも、昨夜のものはなにも残ってはいなかった。今匂っているのは、濡《ぬ》れた髪と、化粧水の匂いとバスローブの日向の匂いだけだった。このアキ子さんの唇を、ぼく以外の誰かが知っているとは、ぼくは、思いたくなかった。
ぼくらはそれから十分ぐらい、唇を合わせたまま、二人してずっと鼻で深呼吸をやっていた。昨日はうまくいったのに、今日になってみると、合わせた唇をどうやって離したらいいのか、なかなか形が決まらなかったのだ。
ため息と一緒に顔を離して、アキ子さんが、こつんとぼくのあごに額をぶつけてきた。
「思い出した?」
「なにを」
「昨夜わたしにキスしたこと」
「昨夜君が、おしっこ[#「おしっこ」に傍点]をしに行ったことは、思い出した」
こつんと、またぼくはあごをたたかれたが、今度の凶器はアキ子さんの額ではなく、にぎり拳《こぶし》だった。
「わたし、あんたみたいに性格の悪いやつ、初めて会ったわ」
壁にピンで止められている田中くんが、その瞬間、ぼくに向かって、むっと怒ったような顔をした。
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ぼんやりしていても、ちゃんと時間はすぎていく。いつの間にか五時になっていて、ぼくは蟹前くんの家にバイクを預けてきたことを思い出し、本屋に行くアキ子さんと一緒に下へおりていった。
台所の奥から、彼岸花の幽霊みたいな登場の仕方で、お手伝いさんがぬるっと滑り出してきた。化粧品と日本酒の臭気《におい》がまじり合った、口臭のひどい人が仁丹をなめているような臭気《におい》がしていた。
「あ、あ、あ……」と、スニーカーに足を入れたぼくに、腰をかがめて、お手伝いさんが言った。「あの、夕飯を」
「今日は帰ります」
「でも、夕飯を……」
「校長先生によろしく言って下さい」
「夕飯を、あの……」
「おかあさん」と、ぼくと女の人の間に割りこんで、アキ子さんが言った。「ブラウスのボタン、外れてるわ」
スニーカーの紐を結びおわって、ぼくはアキ子さんの義母《おかあ》さんに、本心から深々と頭をさげた。
「どうも、お邪魔しました」
中央郵便局の前まで歩く間、アキ子さんは口の中で、一人でずっと歌をうたいつづけていた。ぼくはぼくで、頭の中でやはり『ロンドン橋』をうたっていた。
次の日の約束をして、ぽくらはそこで別れた。アキ子さんは繁華街へおりていき、ぼくは信号を北に渡って国道の歩道をバイク屋に向かって歩きはじめた。排気ガスと埃と西日の中、『蟹前サイクル』までは三十分もかかったが、時間が気になるほどぼくの頭は働いていなかった。そして一人で歩きはじめたときには、ぼくはもう、そのことに気がついていた。ぼくは五年間書きつづけてきた『加藤さんへの手紙』を、アキ子さんの部屋に忘れてきたのだ。そのことに後悔を感じなかったのは、この西日と、排気ガスと埃と、そしてたぶん、アキ子さんの拳でこつんとたたかれたときの、あごの痛さが原因だった。
蟹前くんの家について、ゆるんでいたぼくの神経が急に熱を出したのは、ぼくのせいでも、アキ子さんのせいでもなかった。そこでは道路に張り出させてあったテントが取り払われ、店先に並べてあった中古の自転車やバイクも、突然商売がえをしたのかと思うほど、きれいに片づけられていた。ショーウインドウからとなりの家の塀にまで白黒の幕が渡され、道路には線香の匂いが流れていた。
ぼくが昼間寄ったときには、自転車やバイクの陳列所であり、蟹前くんのお父さんの作業場だったコンクリートの床は、今はしけっぽいだけの空間にかわっていた。そのがらんとした空間に、饐《す》えたグリスの臭気《におい》と水を打ったあとの埃の臭気《におい》とが、奇妙に調和して充満していた。店と居間を仕切っていたガラス戸もなく、居間のまん中にはつなぎ[#「つなぎ」に傍点]を黒ズボンとワイシャツにかえた蟹前くんのお父さんと、白いハンカチを襟に挟んだお母さんと、それから同じぐらいの歳の女の人が二人、四人で額をくっつけるように坐っていた。
戸口にぼくを見つけて、蟹前くんのお父さんが膝で畳の上をにじり歩いてきた。
「葉山くん、バイク、修理《なお》しておけなかった」
「そうですか」
「裏の、庭のさ……」
「はい」
「葉山くんよう」
言いかけて、蟹前くんのお父さんは手拭いで目をおさえ、その同じ手拭いで、しゅっと鼻をかんだ。
「やつがよう、キヨシがよう」
「はい?」
「死んじまいやがった、子供用のプールで……」
唇がかわいて、舌の先で、ぼくはそっと唇を湿らせた。
「今日がこんなに暑くなきゃあよう、やつだってプールなんぞ行く気は起こさなかったんべによう、やつが友達と一緒だっつうからよう」
「はい」
「やつに友達なんぞいねえこたあ、俺だって知ってたけんどよう。夏だしなあ、夏休みだしなあ。やつだってプールっくれえ行きてえと思ったさあ。こんなあちい日にゃよう、誰だってプールっくれえ行きてえと思うさあ。葉山くんよう?」
「はい?」
「ちょっと、その、あがってくんないかいね」
ぼくは口の中で、返事をし、居間にあがって、蟹前くんのお父さんのあとを蟹前くんの枕元まで歩いていった。扇風機が首をふって部屋の酸っぱい空気をかきまわし、その扇風機の風がとどくたびに、線香の煙が乱れ、蟹前くんのまわりに白っぽいうす膜をつくっていた。
「葉山くんよう……」
「はい」
「おめえ、小学校んときから、ずっとキヨシと一緒だったいねえ」
「はい」
「なんかよう、やつにもその、嬉《うれ》しいことの一つや二つ、あったかいねえ。好きな女の子がいたとかよう、その……」
「作文が上手でした。いつも先生に褒《ほ》められました」
「作文が? そうかい」
「兎《うさぎ》の飼育係りのときは、誰よりも一生けんめい世話をしました。誰よりもたくさん、草を取ってきてました」
「キヨシは心臓が悪くてよう。大人んなったら、手術することになってたんさ」
「はい」
「葉山くんよう」
「はい?」
「キヨシの顔、見てやってくんないね」
蟹前くんのお父さんが、膝で蟹前くんの頭の横にまわり、白い布に手をかけて、そっと手前に引きはらった。蟹前くんの顔は、まるで生きているようだった。目を開けて天井を睨《にら》んでいたのだ。
「おう」と、蟹前くんのお父さんが跳びあがった。「キヨシが、目を開けとる」
ぞりぞりと畳をこすって、三人の女の人が枕元につめ寄ってきた。
「あんた、あんた、あんた」
蟹前くんの心臓に耳を押しつけた蟹前くんのお父さんに、蟹前くんのお母さんがしがみついた。
「うるせえ」
「キヨシが生き返ったんでしょう? ねえあんた、あんた」
「うるせえっつうに」
それから蟹前くんのお父さんは、ゆっくりと顔を起こし、頬《ほお》を引きつらせながら、三人の女の人へ静かに首をふってみせた。
「生き返るわきゃあねえやな、なあ?」と、開いた蟹前くんの目蓋を、指で押えながら、蟹前くんのお父さんが言った。「よくあるこった、なんつうか、なあ? 死後硬直とかっつうやつだんべえ」
「だって目を開けてあたしのほう見てたんに」と、蟹前くんのお母さんが言った。
「それならてめえで確かめてみろいや」
しかし蟹前くんのお母さんは、ハンカチで顔をおさえただけで、それ以上蟹前くんに近寄らなかった。
「やっぱし恨んでたんに。キヨシはあたしのこと、恨んでたんに」
「そんなこたあねえ」と、取り出した煙草に火をつけながら、落ち着いた声で、蟹前くんのお父さんが言った。「親を恨む子なんざいるわきゃあねえ。キヨシだって本心、あの世とやらでほっとしてるだんべえよ」
女の人たちが、一斉に泣き出し、その泣き声に、外で金槌《かなづち》を使う音が無神経に重なってきた。夕方のせいか、クルマの往来もひんぱんだった。
ぼくは黙って立ち上がり、女の人たちのうしろをまわって、音をたてないように店の出口へ歩いていった。蟹前くんのお父さんが敷居の前までついてきた。
「裏の、庭のよう……」
「はい」
「鍵《かぎ》はついてるから、その、落ち着いたらまた、持ってきてみないね」
「落ち着いたら、また持ってきます」
「あんなあ」
「はい?」
「あんなあ、キヨシはよ、葉山くんのこと、ただ一人の友達だと言ってたっけ」
アキ子さんに指摘されるまでもなく、本当はぼくは、小さいころから親戚《しんせき》中で変わった子供だと言われつづけていた。だから少しぐらいのことには驚かないはずだったが、その日家に帰って田中くんがお袋と一緒にテレビを見ている場面に出くわしたときだけは、多少|唖然《あぜん》とした。この時間にお袋が家にいること自体が珍しいのに、入院しているはずの田中くんが、ぼくの家で、ぼくのお袋とテレビを見ていて、おまけにぼくに向かって「よう」と手までふってみせたのだ。
あまり面倒なことを考える気分ではなかったので、ぼくは黙って居間へ入り、黙ってお袋のとなりに腰をおろした。田中くんは病院で会ったときと同じように、額に斜めの包帯を巻いていたが、鼻の脱脂綿は抜いてきていた。
「ずっと待ってたんだぜ」
頼んだ覚えはないし、だいいも田中くんがずっと[#「ずっと」に傍点]待っていたことなんて、ぼくにわかるはずはないのだ。
「早かったな」と、ぼくが言った。
「なにが」と、田中くんが訊いた。
「退院がさ」
へっへっと、田中くんが気味の悪い笑い方をした。この笑い方と表情は、あとで面白い話を聞かせてくれるつもりなのだ。
一つ深呼吸をしてから、ぼくがお袋に言った。
「母さん、仕事に行かなかったんだ」
「見たとおりだよ」
「今朝は行くと言ったのにさ」
「あんたが学校へ行くと言ってパチンコ屋に行くのと、同じことだよ」
田中くんだけが馬鹿みたいに笑ったが、ぼくとお袋は視線を合わせず、お互いに一度ずつ、うむと唸りあっただけだった。
お袋が夕飯の支度は面倒だと言うので、ぼくらは三人で外に出た。もう日は沈んでいて、風も少し出ていたが、それでも本当に暗くなるまでにはあと三十分はかかりそうだった。
五分ほど歩いて、ぼくらは植物園の入口に近い『やま村』という鉄板焼き屋へ入っていった。その店はぼくらより十ぐらい歳上の、奇麗な女の人が経営していた。『奇麗な人というのはこういう人のことだ』というぐらい、その女の人は奇麗だった。噂《うわさ》では昔、東京でファッションモデルをしていたというのだが、そういう人と鉄板焼き屋という組み合わせが、どうにも納得できなかった。鉄板焼き屋が悪いというわけではなく、しかしこんな奇麗な人の人生にもなにか難しい問題があるのかしらんと思うと、意味もなくぼくは胸騒ぎを感じるのだった。
「やっぱりなあ、信じられねえよなあ」
田中くんは鉄板の上の肉を裏返したり、野菜を紫色にはれた唇に押しこんだりしながら、さかんに「信じられねえ」を連発させていた。それはつまり、その奇麗な女の人には妹が一人いて、中学のときぼくや田中くんと同級になったことがあったのだ。その妹は姉さんに、苦しいほど似ていなかった。
「不公平だぜなあ。生まれたときでっけえ荷物を背負ったやつはよ、転がったとき起きあがるのも大変だぜ」
「新興宗教でも始めるのか」
「真面目《まじめ》な話よ。姉さんがあれ[#「あれ」に傍点]で、妹があれ[#「あれ」に傍点]でよ、本人たちは人生を、どういうふうに納得させりゃいいんだ」
大きなお世話だとは思ったが、一応ぼくが言った。
「田中の姉さんがあれ[#「あれ」に傍点]で、その娘があれ[#「あれ」に傍点]でも、それぞれ人生を納得させてるさ」
いやな目つきで、じろりとぼくの顔を見てから、わざとらしく欠伸をし、それからコップに残っていたビールを、田中くんが勢いよく呷ってみせた。
ぼくらは「一本だけ」という約束でビールを飲ませてもらっていたが、一本のビールが瓶の中にとどまっていた時間は、きっかり七分間だった。ぼくは幾度か「一本ずつ[#「一本ずつ」に傍点]という意味ではなかったか」とお袋に尋ねてみたが、その度にお袋は鼻をならし、断固として首を横にふるのだった。
鉄板の熱気でも気に入らないのか、ほとんど箸《はし》を動かしていないお袋に、ぼくが言った。
「今日案山子に会って、将棋をやった。案山子が母さんのことを知ってた」
お袋は小さくゲップをして、壁の換気扇のあたりに、ちらっと目をやった。
「研修会で一緒になったとか、そんなことを言ってたな」
「そうだったかねえ」
「D・M・トマスって、なにさ」
「でっかいトマト?」
「D・M・トマス」
「イギリスのへぼ詩人だけど、それがなんだい」
「なんでもない。案山子が母さんのこと、人望のある先生だったってさ」
「暑さで頭がおかしくなったのかねえ」
「頭は禿げてたけど、おかしくはなかったさ」
「あたしが立派な教師だったら、どうしてあんたや、和子みたいな子供ができたんだね。そんなことは常識の問題だよ」
お袋はビールのコップに口をつけただけで、あとはもう、肉にも野菜にも、ほとんど手をのばさなかった。今日にかぎって言えば、鉄板に油がはねる呪術《じゅじゅつ》的な音も、ニンニクの焦げる煽情《せんじょう》的な匂いも、お袋の人生観とは一致しないようだった。食欲は最後までもどらず、そのことに対してぼくと田中くんが冗談を言ってみたが、お袋は返事をするのも面倒な様子だった。
五人前の料理は、すべてぼくと田中くんの腹に納まり、それでもぼくらは、もう一本ビールが飲めたらもっといい退院祝いになったのにと、一言ずつ不平を言い合った。
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外はすっかり暗くなっていた。幅の広い舗装路にも深い松林の影がかぶさり、レストランや喫茶店の照明もアスファルトの路面近くにだけ、ぼんやりと広がっているだけだった。その中を夕涼みの人がぽつりぽつりと歩き、バイクが走り去り、一番明るい看板を出したレストランには幾組ものアベックが、つまらなそうな顔で出入りしていた。
「よう、茶でも飲もうぜ」と、肘《ひじ》でぼくの脇《わき》腹を小突いて、田中くんが言った。
ぼくらはレジで金を払っているお袋を、『やま村』の外に立って待っているところだった。
お袋が出てきて、ぼくが言った。
「ちょっと、コーヒーを飲んでいく」
お袋はものわかりのいい顔でうなずき、手に持っていた財布から千円札を一枚抜いて、ぼくに手渡してくれた。
「あたしは家に帰ってプロレスを見るよ。今夜はジャイアント馬場が出るからね」
巨体をゆすって、ゆったりと、お袋が歩きはじめた。
「おばさん」と、そのお袋に、田中くんが声をかけた。「不良に誘われても、ついて行っちゃだめだぜ」
表情も変えず、立ち止まりもせず、面倒臭そうにお袋がふり返った。
「ひろちゃん、この辺にあんたら以上の不良がいたら、一度家に連れてきておくれな」
ぼくらはしばらくお袋を見送ったあと、『やま村』と通りを挟んで向かい合っている喫茶店に入って、コーヒーを注文した。ぼくがキリマンジャロのストレートで、田中くんはなぜか、ブルーマウンテンのストレートだった。
「おまえがいたらぜったい笑っちまったぜ」
田中くんは喫茶店の小さなテーブルに躰をかぶせ、ぼくがジュークボックスからもどるのを待ちきれない様子で、組んだ足をせわしなく貧乏ゆすりさせていた。
「あの看護婦な、前から噂はあったけど、本当にいかれて[#「いかれて」に傍点]やがった。全身清拭だなんて言って、俺をすっぱだかに剥《む》いてよ、わかるか? すっぱだかだぜ、すっぱだか……」
店の人がコーヒーを持ってきて、そのときだけ田中くんは、一時「すっぱだか」を中断した。
「俺も本当言って、あっちこっち痛むしな、最初は向こうの好きにさせてたんさ。だけど全身清拭だから、だんだん手が下にさがってくるじゃねえか……聞いてるのか」
「聞いてるさ」
「それでよ、俺だって立っちまったさあ。そんなの俺のせいじゃねえもんなあ。そしたらあの看護婦な、俺の顔見てへんな笑い方しやがるの。俺も噂聞いてたから『やろうぜ』って言ってみたさ。冗談でだぜ。からかってみただけよ。そしたら、いかれた[#「いかれた」に傍点]女ってのが本当にいるんだよなあ、本当にベッドへあがってきやがって、触ってみたらパンティーもはいてねえの。それで本当に俺にのっかってきやがって……聞いてるのか」
「聞いてるさ。聞いてるけど、それなら、退院しないほうが良かったろう」
「だからよう、そんときな、ちょうど、デパートに行ってる姉貴が入ってきたわけよ」
田中くんが「どうだ」といわんばかりに、目を細めて、じっとぼくの顔をのぞきこんだ。ぼくに特別な意見があるわけではなかったが、たしかに、田中くんがそれ以上入院をつづける情況としては、かなり苦しそうだった。
「デパートに行ってる姉さん、詩を見たかな」と、ぼくが言った。
「姉貴はラジオをおっことしただけさ。青くなって逃げてった。だからどっちかって言や、俺だって入院してたほうが良かったんだ。でもな、そのあと、いっとう上の姉貴がすっ飛んできたんさ」
へっと笑って、はれあがった上唇をなめ、それから田中くんはなんとなく疲れたような顔で、角砂糖を三個コーヒーカップに放りこんだ。ぼくが煙草に火をつけて、田中くんにも勧めたが、田中くんは目でことわった。
包帯をまいた自分の顔が珍しいのか、スプーンの凹《おう》面と凸《とつ》面をかわるがわるのぞいていた田中くんが、急に言った。
「俺、学校やめようと思うんだ」
膝に煙草の灰が落ちて、ぼくはそれを掌で払い落とした。
「真面目な話でか」
「真面目な話でさ」
「いつ、真面目になったんだよ」
田中くんはぼくの吸っている煙草をにらんで『肺癌《はいがん》になるぞ』と目で威《おど》し、それから椅子の背凭《せもた》れにふんぞり返って、口の中のごみかなにかを、ぺっと床に吐き出した。
「もう我慢ができねえ。糸みてえなものがぷっつり切れちまった。面白くねえんだ。なにもかもぜんぶ面白くねえ。トメだのアキ子だの姉貴だの学校だの、俺もう、そういうのぜんぶ勘弁してもらいてえんだ」
学校や姉さんのことはある程度当然として、しかしどうしてそこにアキ子さんの名前が出てくるのか。昨夜アキ子さんの名前を初めて聞いたときから、ずっと感じていた不安が、ぼくの中で突然現実の問題として姿をあらわした。田中くんはやはり、アキ子さんの唇を知っているのか。
「トメちゃんの意見が、正しかったな」と、不安と煙草の灰を一緒に灰皿に落として、ぼくが言った。
「なんの話だ?」
「田中は昨夜の事故で精神が破壊された」
「真面目に言ってるんだぜ」
「どこが真面目なんだよ」
「俺が真面目に考えて、真面目に言ってるから、真面目なんさ」
「真面目に考えて真面目に学校やめて、どうするんだよ」
「東京にでも行くさ」
「東京に行ってヒッピーをやるのか」
「知るかよ。とにかくこの町から逃げ出せりゃ、そんなことはどうでもいいんだ」
ぼくは吸っていた煙草を、灰皿でつぶし、ジュークボックスに歩いて、ビージーズの『マサチューセッツ』をかけてもどってきた。田中くんは組んでいた足をといていて、箱から抜いたぼくの煙草を指の先でもてあそんでいた。
「それでな」と、片方の眉《まゆ》をあげ、深く息を吐いて、田中くんが言った。「金が要《い》るんだ。俺のバイク、買ってもらえねえかなあ」
「バイクって、あれか」
「あれ以外にバイクはねえさ」
「もう一度あれ[#「あれ」に傍点]に出したらどうだ」
「修理《なお》すのに五万もつっ込んでる。今更ばた[#「ばた」に傍点]屋になんか出せるか」
あまり深く考えたくはなかったが、田中くんの言うバイクとは、去年の夏、田中くんの家の前をたまたま通りがかった廃品回収のトラックから、田中くんが千円で買ったカワサキの二五〇tだった。田中くんはそれを三か月かけて生き返らせ、精一杯のランプや精一杯のバックミラーを取りつけて、自分で勝手に『流星号』という名前をつけて乗りまわしていた。ガソリンタンクの横腹には、白ペンキで『RYUSEIGOU』と文字まで書き込んでいて、「ああ、ご先祖様に顔向けができない」というのが、そのバイクを見るときの、いつもの田中くんの一番上の姉さんの口癖だった。
「なあ、買うか」
「いくら」
「三万」
「三万?」
「エンジンは保証する」
「エンジンだけで、三万?」
「とにかく全部で五万以上はかかってるんだ」
「五万以上か……」
言うつもりはなかったが、それでもつい、ぼくは言ってしまった。
「ずいぶん高い、ごみだったなあ」
田中くんは手に持っていた煙草に、けっきょく火をつけず、しばらく黙って、煙草の葉くずを灰皿のまわりに散らしつづけていた。バイクの件はあとで考えることになったが、ぼくはもうコーヒーを飲み終わっていて、誰かがかけた『レットゥ・イットゥ・ビー』に聞き入っていた。それでもぼくの頭は、どこかで、アキ子さんと田中くんの具体的な関係を、本気になって考えていた。
「ビートルズは昔のやつのほうがいいな」と、ふと田中くんが言った。「『ガール』とか、『アンド・アイ・ラブ・ハー』とかよう」
「コーヒー、もう一杯飲むか」
「もういらねえ」
田中くんが立ちあがり、ジュークボックスに歩いて、なにかをセットしてもどってきた。ぼくは自分のぶんだけ、コーヒーのおかわりを注文した。
コーヒーが来て、ぼくが一口すすり、そのぼくの顔をちらっとのぞいて、田中くんが言った。
「加藤のことで、おまえに言ってやることがある」
ぼくは口に運びかけていたカップを、受け皿にもどし、椅子の中で、ちょっと尻を動かした。田中くんがかけてきたレコードは、『フール・オン・ザ・ヒル』だった。
「やつに男がいるとしたら、どうする?」
そんな突然の質問と、突然の情況に、ぼくが答えられるはずもなかった。たとえ答えられたとしても、それを今田中くんに言ってやりたいとは思わなかった。
「だからよ」と、今度はかぶせるように、ぼくの顔をのぞきこんで、田中くんが言った。「手紙なんか書いたって意味はねえってことよ。大きなお世話だから、言わなかったけど、先日《こないだ》やつが男と街を歩いてるところを見ちまった。大学生かなんかさ。客観的にいって、おまえに勝ち目があるとは思えねえんさ」
コーヒーを飲んで、喉の調子を整えてから、ぼくが言った。
「加藤さんに手紙を書くことが、夏休みの課題なんだ」
「おまえ、なんで手紙にこだわるんだよ」
「中学のとき、加藤さんに手紙を書こうと思って、まだ書いてない」
田中くんが片方の頬をゆがめて、口に煙草を押しこみ、ぼくの顔を眺めながら、ぱちっとマッチをすった。
「俺は今まで、加藤のことは言わなかった。おまえが誰に惚《ほ》れようと勝手だしな。だけど本当いうと、俺、ああいう女が一番我慢できねえんだ」
「加藤さんにも意見はあるさ」
呆れた目つきで、田中くんがふーっと、ぼくの顔に煙を吹きかけた。
「そりゃたしかに、顔は白雪姫みてえに奇麗だけどよ、白雪姫だって糞《くそ》はたれるし、屁《へ》もするんだ。それをやつは自分だけ、そういう下種《げす》なことには関係ねえって顔して、そのくせしっかり男をつくってやがる」
「本当の話か?」
「本当の話よ」
「白雪姫が屁をするなんて、信じられないな」
田中くんが、ちっと舌打ちをやり、火がついたままの煙草を、ぼいと灰皿に放りこんだ。
「いい加減にしやがれ。葉山が惚れてるのは加藤じゃなくて、加藤に惚れてるおまえ自身じゃねえか。おまえは自分のスタイルにのぼせ[#「のぼせ」に傍点]てるだけさ。真剣に女に惚れて、そんなきれい事で済むもんかよ」
「田中の問題は、田中が自分で解決すればいい」と、一生けんめい肩の力を抜いて、ぼくが言った。
「俺はおまえと加藤のことを言ってるんだぜ」
「自分のことを棚にあげてか」
「俺が、いつ、自分のことを棚にあげたよ」
「彼女のことは棚にあげてる」
「だからさっきから、加藤のことを言ってるじゃねえか」
田中くんが故意に、アキ子さんの話題を避けたのか、本当にぼくが言った言葉の意味を理解しなかったのか、それはわからなかった。ぼくも口に出して、田中くんに、アキ子さんとの関係を訊く気にはならなかった。恐れているとおりの答えを出されても、その事実をどう処理したらいいのか、ぼく自身にも覚悟はできていなかった。
田中くんが、灰皿にコップの水をかけて煙草の火を消し、残った水を時間をかけて喉に流しこんだ。
「加藤のことは教えてやった。俺は学校をやめるし、この町も出ていく。それで余計なお節介を言ってみただけよ。あとのことはおまえが、どうにでも勝手にすりゃいいさ」
それから田中くんは、もうぼくの顔は見ず、店の女の人の器量の悪さについて、一人ごとでぶつぶつ文句を言っていた。ぼくのほうも田中くんに言うことはなくなっていた。首でも痛むのか、たまに自分で頭のうしろをおさえては、田中くんは口をゆがめて長い息を吐きつづけた。窓ガラスの中の田中くんの背中を、白いクルマが二台通りすぎた。レコードは『イエロー・サブマリン』に変わっていた。
お袋にもらった千円札で勘定を払って、ぼくらは外に出た。ところどころに立っている街灯に、たくさんの羽虫や蛾《が》が集まっていた。松林の遠くのほうから、なん台ものクルマが一斉にエンジンを吹かす、どんよりとした音が聞こえていた。
歩きながら、田中くんは口の中で、小さく歌をうたっていた。
「目ぇん無いぃぃ千鳥のおぉぉ…」
家の前までもどってきて、バイクのバックミラーからヘルメットを取りあげた田中くんに、ぼくが言った。
「明日、花火に行かないか」
「花火?」
「約束してある」
「誰と……ああ」
「風野書店の前に七時だ」
田中くんが流星号にまたがり、ヘルメットを頭にのせて、がちゃっとスターターを蹴った。
「七時だな」と、田中くんが念を押した。
一発でエンジンはかかり、田中くんはニュートラルのまま、ぶんぶんと三度エンジンを空吹かしさせた。
「忘れてたけど、蟹さんが死んだ」
「蟹さん? へーえ」
「今日の昼すぎ」
「ふーん」
「子供用のプールで」
「……おばさんに、夕飯、ご馳走《ちそう》さまでしたと言ってくれ」
田中くんはギヤをローに入れ、もう一度大きくエンジンを吹かしたあと、ヘッドライトをつけて、一直線に夜の道を走り出した。たしかにエンジンだけは快調らしく、ぐんぐんと唸って、流星号は住宅街から一気に松林の中につっ込んでいった。うしろにアキ子さんが乗っているような錯覚が起きかけたが、錯覚は、ただの錯覚だった。
持主が田中くんから、ぼくに代わることを流星号は許してくれるだろうかと、ぼくが考えていたのは、そんなことだった。
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ただ諦《あきら》めるしかないような、相変わらずの光の色だった。アキ子さんは葡萄《ぶどう》の葉がつくる濃い影の下で、椅子《いす》の上にミニスカートの足を長く投げ出し、テーブルに寄りかかってあごの先をアロハシャツの襟にもぐり込ませていた。胸の上にはサリンジャーの本が置かれていたから、本を読むついでに居眠りでもしていたのだろう。
ぼくに気づいて、椅子から足をおろし、アキ子さんが立ちあがった。アキ子さんはぼくに目で坐《すわ》るようにと命令すると、肩でリズムをとりながらゆらゆらと建物のほうへ歩いていった。ぼくは昨日と同じ木の椅子に腰かけ、テーブルに肘《ひじ》をついて、一つ欠伸《あくび》をした。太陽は葡萄棚の影をま下にひっぱり、聞こえてくるのは怠《だる》そうな蝉《せみ》の声と、庭の浄水機の音だけだった。
アキ子さんがもどってきて、含み笑いをしながら、大きなまるい琺瑯《ほうろう》の盆をぼくのすぐ鼻先につき出した。そして盆をその位置に据えたまま、まるで闘牛士の模範演技のように、盆の布巾《ふきん》をさっとふり払った。無理やり闘牛の観客にされた気分で、思わずぼくは、あっと息を飲んだ。そこには相撲取りが遠足で使う弁当箱のようなサンドイッチが、盆からはみ出すほどの勢いでうずくまっていたのだ。アキ子さんが向かい側に坐って、自分のトマトジュースに手をのばすまで、そのいやな予感にぼくは口をきくこともできなかった。
「朝飯は、一応、食べてきた」
ぼくのその台詞《せりふ》を、純粋な意味での遠慮と受け取ったのか、にっと笑って、アキ子さんがテーブルに大きく頬杖《ほおづえ》をついた。
「でももう正午《ひる》に近いわよ」
「今朝は起きるのが遅かった」
「わたしは八時に起きて、ずっとサンドイッチをつくっていたわ」
「パンから焼けば、それぐらいの時間はかかるだろうな」
アキ子さんが、うんとうなずいて、頬杖をついたまま、下からぼくの顔をのぞきこんだ。
「やっぱりわかる?」
「なにが」
「このサンドイッチ、パンから焼いたこと」
たしかにパンの形や大きさは、規格には納まっていない感じで、それがアキ子さんの努力の成果だと言われれば、そうなのだろう。しかしたかがサンドイッチを一つつくるのに、どうしてパンから焼く必要があったのだ。
「食べていいのよ、葉山くんのためにつくったの」
そのアキ子さんの努力に負けて、仕方なく、ぼくはサンドイッチ退治にとりかかった。昨夜《ゆうべ》しっかり眠れたことがぼくに少しだけ勇気を与えてくれていた。そしてアキ子さんのほうは、頬杖をついたまま、ぼくが手品を使って自分の傑作を隠しこまないかと、油断のない目つきで監視をつづけていた。
「おいしいでしょう? 少し水っぽいけど、サンドイッチにすれば食べられるはずよ」
「君は、食べないのか」
「わたしはつくっただけでおなかが一杯」
たんに言い方の問題だろうが、本当はそれは、見ただけで腹が一杯になったという、そういう意味にちがいなかった。
「玉ネギが、多いな」
「アメリカでは玉ネギなんか丸ごとかじるわ。メアリ・マッカーシーの小説に書いてあった。子供のおやつに玉ネギを生で食べさせるんだって」
本当かねと頭の中で呟《つぶや》きながら、それでもぼくは意思力で、四辺からやたらハムやレタスや玉ネギのはみ出したばかでかいサンドイッチに、必死の挑戦を試みた。今朝お袋がぼくの顔を見ながら、不安そうな目つきをしたのは、母親の本能でぼくのこの運命を予感したのかもしれなかった。
「昨夜家へ帰ったら、田中が来ていた」と、サンドイッチを頬張りながら、精一杯肩の力を抜いて、ぼくが言った。
特別衝撃を受けた様子もない顔で、アキ子さんが小さく鼻をならした。
「病院から逃げ出したの?」
「もう少し難しい事情で、退院した」
「普通にしていることができない性格なのよねえ」
「田中はぼくなんかより、人生はずっと短いと思ってる」
アキ子さんが目を見開いて、額に皺《しわ》をつくり、なんの意味でか、ひゅっと口笛を吹いた。
「ぼくに流屋号を買わないかって。それで学校をやめて、東京に行くらしい」
「勝手にどこでも行けばいいのよ。他人《ひと》に迷惑をかけることはないわ」
「田中が東京に行くと、君に迷惑がかかるのか」
「どうして」
「どうしてだかな、そんな気がしただけさ」
「わたしはバイクのことを言っただけ」
「今夜は花火に来る」
「どうして」
「ぼくが誘った」
「どうして」
「昨夜、ちょっと、暑かったから」
かすかに息の音をさせて、唇をすぼめ、庭の日向《ひなた》の部分に視線を流しながら、アキ子さんが呆《あき》れたようにため息をついた。鼻の頭の小さい汗の粒が芝生からの反射を受けて、金粉のように光っていた。
「校長先生のぶんは?」と、ぼくが訊《き》いた。
「なに」と、視線をもどして、アキ子さんが訊き返した。
「サンドイッチさ」
「親父《おやじ》は昨夜から泊りだもの」
「義母《おかあ》さんがいる」
「あの人にはサンドイッチよりお酒のほうが栄養なの」
「昔うちで飼っていた金魚は、サンドイッチが好物だった」
皮肉っぽく口の端を結んで、大きく見開いた目を、アキ子さんがきらっと光らせた。
「わたし、無理に食べろなんて言った?」
「君は無理に食べろとは、言ってないさ。君は今朝八時に起きて、パンから焼いたと言っただけさ」
しかし特別宗教を信じていなくても、人間界のあらゆる問題は、だいたいのところ愛情で解決できるらしい。十五分後には、あれほど皿の上に頑張っていたサンドイッチの化け物が、違和感もなくすっぽりとぼくの腹に場所を移していたのだ。ぼくも自分の意思力に恐怖を感じたが、もっと恐れ入ったのは、サンドイッチをつくったアキ子さん自身だった。
「まさかねえ、本当にぜんぶ食べるなんて、思ってもみなかったわ」
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それから三十分後、アキ子さんの家を出て、ぼくらは市役所の北側にある市営プールまで歩いていった。ぼくにもいくらかわかりかけてきたが、アキ子さんは歩くのが好きな人だった。昨日病院から家まで歩いたときも文句を言わなかったし、一昨日の夜も、国道と五間道路との交差点から歩いて帰ったということだった。
プールにつき、別々の更衣室で着替えをしてから、そこでまたアキ子さんはこの日二回目の闘牛士をやってみせてくれた。お袋もよく勘違いをして妙な服を買ってくることはあるが、アキ子さんの場合は似合っているぶん、よけいに始末が悪かった。そういう水着は東京のデパートに見本として飾ってあるにすぎないと、ずっとぼくは信じてきた。色やデザインの感想を言おうにも、布の絶対量が少なすぎるのだ。男が集まってこなかったのも、喚声があがらなかったのも、ただの偶然だった。この日のプールに来ていたのは、偶然、前橋でも一番気が弱くて、一番目の悪い連中ばかりだったのだ。
唖然《あぜん》としているぼくに、あっはと笑って、アキ子さんが言った。
「ちょっと派手だったかな」
「派手な服には、慣れてるさ」
「今日初めて着るの。この前東京に行ったとき、デパートで買ってきたのよ」
不思議に野次馬に取り囲まれもせず、五十メートルプールの西端に荷物を置いて、そこでぼくらは泳ぎはじめた。
泳ぎはじめてすぐ、ぼくはまた感動した。アキ子さんの足の生えた人魚のような躰《からだ》つきや、水の抵抗のほとんどない水着のデザインと、アキ子さんが実際に泳げることとの間にはなんの関連性もなかったのだ。田中くんがアキ子さんに水泳を教えていないことは意外だったが、アキ子さんは空気の抜けた蛙《かえる》の玩具《おもちゃ》のように、やたら手足をばたばたやり、水から顔を出してまたばたばたやり、そんなことを幾度もくり返して、その度に一々ぼくに言い訳をするのだった……なぜか、浮かないのだと。
ぼくはきっかり一時間、水泳教室のコーチでもそこまで論理的には教えられないだろうというぐらい、細胞の成分まで分析して『人間の躰は神様が水に浮くようにつくったのだ』という理屈を、ずっとアキ子さんの頭の上で怒鳴りつづけた。そして一時間後、二人の努力は「とにかく時間に解決させよう」という、どちらからともない了解で終わることになった。人間の躰が水に浮くはずがないというアキ子さんの信念のほうが、ぼくの理論を完璧《かんぺき》にうわまわっていたのだ。
太陽はま上から、二十度ほど西の方向にずれかかっていた。ぼくらはお互いの背中にローションをぬり合い、コンクリートの上にタオルを広げて、仰向《あおむ》けにひっくり返っていた。金網の外側に植わっている欅《けやき》のこまかい葉が顔の上に影をつくったが、それはちょうど、瞑《つむ》っている目蓋《まぶた》の上をたまに蝶々《ちょうちょう》が飛び交う程度の邪魔にしかならなかった。
ぼくは半分ほど眠っていて、あとの半分で夢をみたり、田中くんや加藤さんやお袋の顔を意味もなく思い浮かべたりしていた。その中には鼻歌をうたいながらトラックのハンドルを握る親父の顔や、姉貴のむき[#「むき」に傍点]になってゴムとびをする顔もあったが、どれか一つが目の奥に残ることもなく、ときたま誰《だれ》かの身ぶりや言葉の断片がまじるだけの、果てしなくつづく連想ゲームのようだった。皮膚の上でじっと動かない強い日の光も気持ち良かったし、プールのざわめきも人間の声ではなく、ただのぼわーんという麻酔音のようだった。
「栄養が悪いのかねえ」
「そんなことないよ」
なにかの具合で、連想ゲームの途中に引っかかったのが、鏡台の前に坐っているお袋のうしろ姿だった。ぼくが覚えているだけでも、お袋は三台鏡台を買いかえていて、家具屋から運ばれてくる度にお袋の鏡台は立派になっていき、それに合わせてお袋の躰も立派になっていった。
お袋が髪を染めるようになったのは、二台目の鏡台が入ったころからだった。だから本当は、お袋の頭はもうまっ白のはずで、そのことを知っているのはぼくと、お袋と、二台目と三台目の鏡台だけだった。お袋は自分が髪を染めていることを、姉貴にさえも秘密にしていた。
「ねえ研一、栄養が悪いのかねえ」というのが、鏡台の前で髪を染めるときの、いつものお袋の口癖だった。そして羽根布団のようなお袋の背中を眺めながら、「そんなこと、ぜったいに[#「ぜったいに」に傍点]ないよ」と、いつもぼくは勇気づけてやった。そういえば親父が家を出ていった日も、お袋は一日中鏡台の前に坐って、鏡の中からぼくの顔にうなずきながら、一人ごとのようになん度か同じ言葉をくり返したものだ。「ねえ研一、自分が悪いとわかっていても、男と女にはどうしようもないことがあるんだよ」……そのときのお袋を、子供だったぼくは、どんな言葉で勇気づけたのだろうか。
「葉山くん、ねえ……」
気がつくと、アキ子さんの足がぼくの顔の上に影をつくっていて、アキ子さんは片方の足で、今にもぼくの顔を踏みつけようと狙《ねら》っているところだった。両手にはコカ・コーラの紙コップを持っていた。
ぼくがアキ子さんの足首をつかんで、下に引くと、アキ子さんはよろっと一回りして、尻《しり》からぼくの腹に倒れこんできた。それでもコーラを零《こぼ》さなかったから、運動神経自体に欠陥はなさそうだった。
ぼくの腹に腰かけたまま、コーラを飲み終わって、アキ子さんが鼻でふふと不気味な笑い方をした。
「わたし、もう泳げると思うわ」
アキ子さんはVサインをつくって、ななめに歩きだし、スタート台の上でぼくにうなずいたかと思うと、次ぎの瞬間にはひらっと宙に舞いあがっていた。しかし舞いあがったように見えたのは、スタート台から足が離れるまでで、実際は水の上に失礼な尻|餅《もち》をついただけだった。ぼくが心配したのはアキ子さんではなく、水着のほうだったが、幸い水着はまだアキ子さんの胸に貼《は》りついていてくれた。
ぼくにはもう細胞の成分を分析する自信も、気力もなかったので、タオルのところにもどり、腹這《はらば》いになってコーラの残りに口をつけた。蝉の声にまじって飛行機の飛ぶかすかな音が頭の上を南から北に横切っていった。欅の小さい葉がコンクリートの上をからからと転がり、誰かが石で書いた『三つ並べ』の線の上を、黄色いテントウ虫が心細そうに歩いていた。「雀《すずめ》も暑かろうに」と言った校長先生の言葉が、ふと思い出された。
「雀も暑かろうに。夏があちいのは、誰のせいでもねえけんどなあ」
蝉の声が急に大きくなり、テントウ虫が羽を広げて、よろっと飛び立った。ぼくは起きあがって、なんとなく眩暈《めまい》を感じながらプールの端を歩きはじめた。アキ子さんはまだ懲《こ》りもせず水と闘いつづけていた。
子供用のプールは、正確には幼児用のプールというべきで、そこでおこなわれているゲームは、滑り台からおりてくる子供を母親が水の中で待っていてすくいあげるという、芸のない建設的なゲームだった。滑り台の梯子《はしご》には子供たちが律儀に列をつくり、着水するあたりには母親たちがそれぞれに太い腕を広げて待ち構えていた。蟹前くんの場合は、母親の代わりに、死神が腕を広げていたのだ。
呼笛が鳴って、顔をあげると、すぐ近くのテニスの審判が乗るような台の上に、日焼けしか特徴のなさそうな若い監視員が腕を組んで腰かけていた。その監視員は鍔《つば》つきの赤い帽子をかぶり、爪先《つまさき》にひっかけたビーチサンダルを暇そうにゆすっていた。
歩いていって、ぼくが監視員に声をかけた。
「やあ」とかなんとか、その人が返事をした。前歯の一本を銀歯にした、大学生みたいな感じの人だった。
「忙しいですか」と、ぼくが訊いた。
「考え方の問題さあ、とりあえずは坐ってるだけだけどな」
「昨日ここで友達が死にました」
「ああ」
監視員はビーチサンダルをふるのをやめ、へたなウインクのように、目のあたりをくちゃっとゆがめてみせた。
「君の友達かい。昨日はびっくりしたなあ、新聞にも出ちゃったしなあ」
「新聞は見ていません」
「人工呼吸したの、俺《おれ》なんだけどな。新聞にはそこまで出なかったけどよ」
「見つけたのもあなたですか」
「そうさなあ。どっかのおばさんが、へんな野郎が子供の遊ぶんを邪魔してるって言ってきたんだ。それで行ってみたらよ、びっくりしたなあ、死んでるんじゃねえの。俺、去年もここでバイトやったけど、人が死んだん見たのは初めてだもんなあ」
「やつもプールは、初めてでした」
「やつって?」
「だから、昨日ここで死んだやつ」
「生まれて初めてプールに来て、その日に死んじまったってかい? 運の悪い野郎だなあ」
「病気だったんです」
「病気? へええ」
「気がつきませんでしたか」
「病気にかい」
「やつが溺《おぼ》れていたことにです」
「こっちは子供用のプールだもんなあ。子供ばっかし見てるさ、責任者にそうしろって言われてるんだ。だいいち昨日のやつが病気かどうか、俺が知るわけねえもん。そんなやつ、プールに来るほうがいけねえんじゃねえの?」
ぼくらの正面で、赤い水玉模様の水泳帽をかぶった女の子が、カラスに似た喚声をあげながら滑り台をおりてきた。母親が水の中で、飛沫《しぶき》と一緒にその子供をすくいあげた。女の子は身をもがかせ、母親から離れてまた順番を待つ列の一番うしろに走っていった。滑り台に次の子供が立ち、下では母親が入れかわった。
「水、取りかえたんですか」
「水?」
「昨日、あれから」
「別に水が悪かったわけじゃねえもの。毎日水質検査はしてるし、必要なときは消毒だってやるさ」
「そういうことじゃなくて、たとえば、礼儀みたいな意味で」
紐《ひも》のついた呼笛をくるくる回していた監視員が、不思議そうな目で、ちらっとぼくの顔をうかがった。
「このプールに水がなんトン入ってるか、知ってるかい? 俺だってよく知らねえけど、たぶんなん十トンてやつさ。その水だって只《ただ》じゃねえものな。だから水質検査をしたり、消毒したりしてるわけ……用はそれだけかい」
「はい」
「ただ坐ってるだけだけどな、これでけっこう気はつかってるんだぜ。誰か溺れ死んだりしたら大変だもんなあ」
水滴が肩にかかって、ふり返ると、いつからそこに立っていたのか、アキ子さんがぼくの肩越しに爪先きだちでプールをのぞきこんでいた。アキ子さんは水からあがってきたばかりらしく、大粒の水滴を躰中にきらきらと光らせていた。
「どうかした?」と、アキ子さんが訊いた。
「なんでもない」と、ぼくが答えた。
「探したじゃないのよ」
髪の中から額に流れ出した水滴を、アキ子さんが両手で、べろっと拭《ふ》き払った。
「昨日ここで友達が死んだ」
「ここ? この子供用のプールで?」
「中学のときぼくや田中と同級だったやつ」
アキ子さんがぼくの肩にあごをのせて、ふーんと言いながら、水の濁りを透視するような目でプールの中を見渡した。
「人間なんて簡単に死ぬのよね、安物の玩具《おもちゃ》みたい」
ぼくは意識的に、自分の肩からアキ子さんのあごを外し、荷物のあるスタート台の方向に歩きはじめた。
プールの縁を半分ぐらいまで歩いたとき、うしろからアキ子さんが並びかけてきた。
「三年前に弟が死んだけど……」
ぼくと並んで歩きながら、アキ子さんは目を細めて、濡《ぬ》れた髪を指でかきあげながら、眩《まぶ》しそうにプールの水飛沫を眺めていた。
「あのときも簡単だったな。お風呂《ふろ》に落ちたの。まだ九か月で、義母《おかあ》さんが買物に出かけてる間に這っていって、そのままだった。水なんか十センチしか入っていなかったのにね」
立ち止まったぼくに、一人で少し歩いてから、ふとアキ子さんがふり返った。
「なあに?」
「なんでもない」
「目が怒ってるじゃない」
「眩しいだけさ」
「泳げばいいのに」
「泳ぎたくないんだ」
「どうして」
「君を見てるだけで、疲れてしまった」
アキ子さんがそのまま歩きだし、ぼくが追いついて、ぼくらはまたプールの西端に向かっていった。
アキ子さんのポニーテールをつまんだぼくに、アキ子さんが訊いた。
「なあに?」
「なんでもないさ」
アキ子さんが立ち止まって、下唇をつき出しながら、ぼくの肘に濡れた冷たい腕をからませてきた。
「わたし、やっぱり、あんたは変わり者だと思うわ」
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競輪場と白鳥池にはさまれた道の両側では、今夜の花火大会に出る夜店の支度が、もうその時間から始められていた。競輪場の北側が市営プールで、南側の道を西にくだっていくと利根川の河原につきあたる。今夜の花火は利根川の向こう岸から打ちあげられる予定だった。
ぼくらは組み立てかけのテントや、リヤカーや、木箱の山の間を抜けて、城址《じょうし》公園の南側の歩道を市街地の側におりてきていた。躰はいくらか怠かったが、歩いても汗が出ないことが気持ち良かった。繁華街に近づくにつれて、交差点でのクルマの数も増え、昼間の陽射《ひざ》しを追い出した街は夕方の活気を取りもどす時間になっていた。
プールを出たときからの相談で、ぼくらは帰る前にビールを飲んでいく予定になっていた。アキ子さんはどうしても[#「どうしても」に傍点]『田園』という同伴喫茶を探険するのだと主張し、ぼくはデパートの屋上か、普通のレストランでもじゅうぶん探険になると主張した。街の中まで来たときも、まだ二人の間で意見の調整はできていなかった。
『イージー・ライダー』をやっている映画館の前を通りすぎ、となりのレコード屋の前まで来て、思わず、ぼくは足を止めた。加藤さんの姿が目に入ったのだ。
加藤さんはレコードケースの前に立って、LPでも探しているようだった。棚からレコードを出しては首をかしげ、元にもどしてまた次のレコードを引き出し、その仕種《しぐさ》の合間に横を向いてとなりの男の人と話をし、そして話をしながら、へんにうっとりと微笑《ほほえ》んだりもするのだった。
ぼくが首のうしろに、焼印を押しつけられたような熱を感じたのは、あることを思い出したせいだった。それはこの場面とも加藤さんとも関係のない、十年以上も普の、今までに一度も思い出したことのない記憶だった。
夏の日の夕方、ぼくは一緒に出かけた姉貴にソフトクリームを買ってもらい、そのころ前橋に初めてできた大型デパートの正面玄関から、人ごみをわけて表の通りに出たときだった。通りの反対側にお袋を見つけたのだ。お袋は白い半|袖《そで》のワイシャツを着た、妙にだぶだぶのズボンをはいた手足の長い男の人と一緒だった。
お袋のほうに歩きかけたぼくを、姉貴が神経質な力でデパートの中へ引きもどした。
「お母さんだよ」と、ぼくが言った。
姉貴は、黙っていた。
「だって、お母さんだよ」と、また、ぼくが言った。
「わかってる」
だが姉貴は、ぼくの両肩に筋ばった指を突き立てたまま、その手をいつまでも放そうとしなかった。姉貴の掌《てのひら》は熱く、かたく汗ばんでいた。
お袋と男の人はそのまま歩いていき、どこかの通りを曲がったか、店に入ったか、気がつくと姿は見えなくなっていた。
「チョコレート、買ってやろうか」と、デパートを出ながら、まだ熱い手でぼくの肩をつかんだまま、姉貴が言った。「今日お母さんに会ったことを誰にも言わなければ、チョコレートを買ってやる」
ぼくはチョコレートなんか欲しいと思わなかったが、なんとなく息が苦しくなって、「うん」と返事をした。
今から思うと、そのことがあったのはぼくが小学校にあがる前で、一緒にいた姉貴もまだ小学校の四年生だった。お袋の帰りが遅い日がつづき、帰宅の時間を訊くぼくに、お袋が「一度家を出た者の帰宅時間などわからない」と哲学的な返事をするようになった、そのころだった。そしてそのことに、どういう意味があるのか、記憶の中でお袋と歩いていた男の人のうしろ姿と、池の端から葡萄棚の下まで歩いていった校長先生のうしろ姿とが、ぼくの頭の中でぴったりと重なってしまったのだ。今更どうでもいいことではあるが、男の人がぼくをふり返っていたら、そこにはどんな顔があったのか。
ぼくはなにか唸《うな》ったか、それとも黙ったままだったか、とにかくレコード屋の前にぼんやりと立っていた。その間にアキ子さんは店の中に入っていて、それどころか、加藤さんの肘に手をかけたり、一緒にレコードケースを覗《のぞ》いてお喋《しゃべ》りまで始めていたのだ。
しばらくして、二人は店から出てくると、貧血をおこしかけていたぼくに、笑顔を向けながら気楽に近づいてきた。そのときぼくが感じた恐怖は、一昨日《おととい》の夜クルマが崖《がけ》につっ込んだときの恐怖など、比較にもならなかった。
「葉山くん、加藤さんは知っているわよね」と、ポニーテールを無造作にゆすって、アキ子さんが言った。「今わたしたち、同じクラスなの」
ぼくはもうほとんど放心していて、いっそのこと病院でトメちゃんがやった直立不動の敬礼でもしてみようかと思ったが、精一杯の見栄《みえ》で、我慢した。
加藤さんはレコードを探していたときと同じように、首をかしげてにっこり笑い、それから目に不思議な微笑みを浮かべて、ふわっとぼくに近寄ってきた。
「わたし、葉山先生にピアノを習っているの。葉山先生、葉山くんのお母様でしょう?」
お母様[#「お母様」に傍点]というほどのものではないだろうが、世の中っていうのは、広いようで、ずいぶん狭い。お袋は加藤さんがピアノ学校にかよっていることを、なぜ教えてくれなかったのだ。ぼくとお袋の間には親子の義理がある。いくらお袋が、ぼくの加藤さんに対する気持ちを知らなかったからって、母親には愛情で息子の青春を健全な方向に導く使命があるのではないか。
頬の痙攣《けいれん》を、なんとか道路の反対側に隠して、加藤さんに、ぼくが言った。
「中学のとき、一度話をしたことがあった」
「そうだったかしら」
「覚えていないかな」
「文化祭のとき?」
「文化祭では、なかった」
「体育祭?」
「体育祭でもなかったさ」
「それなら修学旅行のときでしょう。わたしが嵐山の橋の上で転んで、あのとき水筒を拾ってくれたのが、葉山くん?」
かなりの絶望だったが、出てきたぼくの声には、我ながら実にしっかりとした威厳がこもっていた。
「橋に表札が掛かっていたことは、覚えていないか」
「だからあれは、嵐山の……」
「橋には『職員室』という札がかかっていた」
ぼくの肘を横からぼんとたたいて、となりにまわりながら、ァキ子さんが言った。
「加藤さんも今夜、わたしたちと花火に行くのよ」
職員室の前での奇跡を、思い出した様子もなく、微笑んだままの目で、加藤さんが言った。
「かまいませんこと?」
「かまいませんとも」と、深くうなずいて、ぼくが答えた。
ぼくは加藤さんに理解してもらえる程度の下品さで、横にあごをしゃくり、目でレコード屋の中を指し示した。
「あの男の人も?」
見つめられたぼくが困ってしまうような目で、肩をすくめて、また加藤さんがにっこりと微笑んだ。
「残念だけど、兄はもうすぐ出かけてしまいますの」
加藤さんのお兄さんという人は、今夜大学の友達と尾瀬に出発することになっているので一緒に花火には行けないのだ、と加藤さんが謝った。実に残念だとぼくは答えた。
加藤さんとお兄さんは買物が残っているというし、ぼくとアキ子さんもビールを飲む場所について意見が分れていたので、ぼくらは七時に、もう一度風野書店の前に集まり直すことにした。加藤さんは田中くんのことも覚えていて、アキ子さんから名前を聞いた瞬間、「でもあの人、ものすごく不良じゃないこと?」と、真剣に表情を強張《こわば》らせた。アキ子さんが、田中くんは自分の親戚《しんせき》で、一見不良みたいに見えるが本当は不良ではないと、幾度も幾度も念を押して、やっと加藤さんは納得した。本人の田中くんでも、そこまで自信をもって「自分が不良ではない」とは言い切れないはずだった。
加藤さんと別れたあと、けっきょくぼくらはビールを飲まずにアキ子さんの家にもどることにした。アキ子さんが最後まで『田園』でなければいやだと言い張ったせいだった。
五時を過ぎて、葡萄棚の影はとなりの家の影に吸いこまれ、池からの浄水機の音だけが涼しそうに聞こえていた。
アキ子さんの家では義理のお母さんが一人、庭に面した和室の奥に毅然《きぜん》と正座をして坐っていた。日の陰った暗処《くらみ》の中で、へんに毅然とした姿は、まるで壊れたからくり人形のようだった。白い団扇《うちわ》で自分の前の誰かを扇《あお》いでいるらしいのだが、その誰かが誰なのか、考える気にはならなかった。
ぼくらは玄関から直接台所へ入り、アキ子さんは期末試験に取り組む転校生のような気むずかしい顔で、腕を組んで猛然と台所の中を彷徨《さまよ》いはじめた。アキ子さんは帰りの道々、ぼくに「カレーライスをつくってみせる」と宣言していたのだ。
ぼくは缶ビールを一本もらって、椅子を逆向きにまたぎ、なにか意味がありそうにやたら歩きまわるアキ子さんを、ぼんやりと眺めていた。アキ子さんのかよった中学校に家庭科があったかどうか、訊くのは失礼な雰囲気だった。
そしてやはり、恐れていたとおり、アキ子さんは流し台の下から笊《ざる》一杯の玉ネギを取り出し、その玉ネギに向かって、うむと強くうなずいた。
「やっぱりそれ、入れるんだ」と、ぼくが訊いた。
料理研究家がテレビで解説するような、平然とした声で、アキ子さんが言った。
「二人ぶんなら三個は必要だと思うわ」
「ぼくがつくるときは二人ぶんで半分だな」
包丁をつかんで、鼻の先でぼくの顔を眺めながら、アキ子さんがじりっと距離をつめてきた。
「わたし、料理をするところを人に見られると、気が散るのよ」
はいはいはいと、頭の中で三度返事をして、そっとぼくは立ちあがった。
「ぼくも君の料理を見ていられるほど度胸はないさ」
アキ子さんがぼくの胸に包丁を突きつけ、下唇を曲げて、ふんと鼻をならした。
「生きてカレーが食べたかったら、二階にいなさいよ」
ぼくは今度は、口に出してはいと返事をし、まわれ右をして、ゆっくりと台所から退散した。お袋が食事に関してだけは好き嫌いを言わせなかったことに、今日に限って、ぼくは深く感謝した。
ぼくはそのまま、二階へはあがらず、玄関から庭におりて西端の池まで歩いていった。芝生はまだ熱っぽく、風も出ていなかった。
ぼくは池の縁に屈《かが》みこみ、簾《すだれ》をめくって緑色に澱《よど》んだ水に目を透かしてみた。昨日のモグラみたいな金魚が三匹、棕櫚《しゅろ》の間を目まぐるしい速さで泳いでいた。金魚は三匹とも赤と白のまだら模様で、頭に瘤《こぶ》をつけ、短い尾鰭《おひれ》を気の毒なほど一生けんめい動かしていた。それほど真剣に観察しなくても、一匹の丸々と腹をふくらませた金魚がメスで、もの欲しそうにあとを追いまわしている二匹がオスであることぐらい、ぼくにだって理解できた。金魚でも人間でも、そういうこと[#「そういうこと」に傍点]の理屈は同じにできている。いつまでこんなことをつづけているのか、金魚のぶかっこうな体型からは、泳ぎの速さは息苦しいまでに不自然だった。
自分では気づかずに、ずいぶんと長い時間、ぼくはその金魚を眺めていた。いるはずのない校長先生が、葡萄棚の下でぶつぶつと一人ごとを言っているようだった。「弱りましたなあ。まったく、弱ったもんですなあ」
簾をもどし、立ちあがって、ぼくはゆっくりと建物へ引き返した。葡萄棚の下から校長先生がふり返り、お袋と一緒に歩いていた男の人も、記憶の中で同時にふり返った。その顔が親父の顔に重ならないことを、ぼくはもう知っていた。
「弱りましたなあ。まったく、弱ったもんですなあ」
アキ子さんの部屋へ入って、まず驚いたのは、そこがアキ子さんの部屋とはちがっていたことだった。すくなくとも昨日ぼくが居眠りをした、あの空からごみ箱が降ってきたような部屋とは、まるでちがっていた。ベッドや鏡台はそのままだったにしても、昨日あれほどぶち撒《ま》けてあった衣類や小物が、それぞれの位置に整然と納まって、アキ子さんの匂《にお》いと一緒ににっこりとぼくに微笑みかけていたのだ。どういう体質をしているのか、一晩であれほど散らかしたり、これほど片づけたりできるアキ子さんの才能に、ぼくは大いに恐縮した。そしてそれよりも、もっと恐縮したのは、できあがったアキ子さんのカレーライスだった。ぼくも自分でつくるときはぜったいハウスインドカレーにすると約束したが、アキ子さんに言わせると、カレーの味はメーカーではなく、あくまでも玉ネギの分量だということだった。
ぼくはカレーライスを三皿おかわりした。
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風野書店の前についたのは、七時ちょうどだった。ぼくらより先に来ていた加藤さんは、夕方の白いワンピースをスリムのジーパンと赤いトレーナーに着がえ、髪を黄色いカチューシャで飾っていた。ぼくや田中くんに合わせて、気分だけでも下品に決めたつもりらしかった。
その田中くんも、すぐにやって来た。流星号にまたがっての登場の仕方は、加藤さんの期待どおり、たしかに上品なものとは言えなかった。田中くんは歩道に並んだ自転車の列にバイクを割りこませ、たくさんあるバックミラーの一つにヘルメットをかぶせて、気むずかしそうな顔でぶらっとぼくらに近寄ってきた。歩き方には、そっちから声をかけなければ素通りしてやるぞ、という威厳と威嚇がこもっていた。
田中くんの額の包帯を指さして、アキ子さんが、まず加藤さんに解説した。
「交通事故なの、喧嘩《けんか》ではないの」
田中くんはアキ子さんと加藤さんの顔を黙って見くらべ、それから説明を強請する目で、ぼくに向かってぐっとあごをつき出した。
「三年のとき七組だった、加藤さんだ」と、田中くんの視線を鼻の前でやり過ごして、ぼくが言った。
「そんなことはわかってるさ」
「偶然街で会って、花火に行くことになった」
「偶然会うと、どうして偶然一緒に花火に行くんだよ」
「そんなの、偶然、今日が花火の日だからさ」
田中くんがちらっと加藤さんの顔に目をやり、振り子を逆にふるように、皮肉っぽい視線をまたぼくの顔にまわしてきた。
「そういや思い出した、なあ葉山?」と、指の先で、まだいくらかはれぼったい唇を撫《な》でながら、田中くんが言った。「中学んとき、彼女に惚《ほ》れて、手紙を書くとか書かねえとか大騒ぎしてた馬鹿《ばか》がいた。あいつ今、どうしてるんだ?」
「近くの穴にでも潜ってるさ」
「あれは笑えたぜなあ。あいつののぼせ[#「のぼせ」に傍点]方、まるで本物の詩だったからなあ」
田中くんはそこで、また仏頂面《ぶっちょうづら》をつくり、正面から加藤さんに向き直って、握手でもするように一歩前へ進み出た。そしてなにを思ったのか、本当に手を差し出し、加藤さんもなにを思ったのか手を差し出して、田中くんと加藤さんは軽く握手をした。加藤さんには田中くんの顔が珍しかったか、恐ろしかったかしたのだろう。
「彼女、おまえの友達なのか」と、視線をアキ子さんに移して、田中くんが言った。
「今年から同じクラスなの」
「なんで早く言わなかった」
「ひろちゃんに関係ないじゃない」
「関係あるかねえか、こっちで決めらあ。なあ葉山、ばかばかしいったらありゃしねえよなあ」
声には出さなかったが、まったくと、ぼくは頭の中で田中くんの言葉に相槌《あいづち》をうった。田中くんにつられて加藤さんまで手を差し出すなんて、まったく、ばかばかしいったらありゃしない。
利根川の方向の空には、もう三十分も前から、三寸や五寸の人呼び花火が休みなく打ちあげられていた。一瞬に色を変える光の輪も、煙の色も、暗さを増した城址公園の森や消防署の火の見|櫓《やぐら》の上にはっきりと見分けられるほどになっていた。
ぼくらは夕方アキ子さんと二人でくだってきた道を、今度は四人で利根川の河原に向かって歩きはじめていた。浴衣を着たり下駄《げた》をつっかけたりした大勢の人が、ぼくらと同じ方向にぞろぞろと歩いていた。暗くなったからって、涼しくもなかったが、音と光に気を取られるぶん、汗も出てくるのを忘れているようだった。
「明日あたり罰《ばち》が当たるぜ。なあ? 赤城で崖につっ込んだときから、俺たちは悪い夢を見てるんさ」
歩きはじめた最初のころから、田中くんは一人でくどくど、同じような繰《く》り言を言いつづけていた。ぼくはバランスを崩している自分の神経を鎮《しず》めるためだけに、田中くんの一人ごとに相槌をうっていた。アキ子さんと加藤さんはぼくらの前で、花火大会のポスターのように、立ち止まっては空を見あげながらのんびりと歩いていた。もし二人が同時にふり返って、自分たちの人生には悲劇はおこりえない、と宣言したとしても、否定はできない光景だった。
「昨日の話だけどな」と、城址公園の手前まで来たとき、ぼくの肘を自分の肘で小突いて、田中くんが言った。「あれよ、バイクのことよ」
「気が変わったのか」
「そうじゃねえ。おまえ、考えておくと言ったろうよ」
「今日は、忙しかった」
田中くんが無表情に、ふんと鼻をならした。
「こっちは真剣なんだけどな」
「姉さんには、言ったのか」
「言ったら食い殺されるさ。だから金をつくって逃げるしか仕方ねえんだ」
田中くんの一番上の姉さんの顔を、前を歩くアキ子さんのうしろ姿に重ねてから、そっと息を吐いて、ぼくが言った。
「田中、どこまで本気なんだ」
「俺は最初から本気さあ」
「田中が本当に本気なら、買ってもいい」
気が抜けたように、へっと、田中くんが笑った。田中くんに蹴《け》られた小石がぽーんと飛んで、車道の手前までよろよろと転がっていった。
「それでおまえ、どうするんだよ」と、田中くんが言った。
「なにが」と、ぼくが訊いた。
前の二人に、田中くんがあごをしゃくったが、どちらを指したものかはわからなかった。ぼくが返事をしないでいると、田中くんもそれ以上は訊いてこなかった。
公園の坂をのぼりきったとき、白鳥池のま上に、突然尺玉が打ちあげられた。ぼくらもまわりを歩いていた人も、誰もが足を止め、そのばかでかい光の輪が幾層にも広がっていく変化を唖然と見あげていた。尺玉は空の低いところで一杯に開ききり、遅れて響いてきた地鳴りのような音と一緒に、ぼくらのすぐ頭の上で消えていった。一斉にあがったどよめきの中には、どこかに子供の泣く声もまじっていた。
公園から河原に通じる道は、普通の歩幅では前に進めないほどの人ごみになっていた。ぼくらはお互いを見失わないように、アキ子さんと加藤さんをぼくと田中くんが両側からはさんで、騎馬戦のような陣形をとっていた。ただそうやっていたはずだったのは、競輪場の入口をすぎたあたりまでで、気がつくと加藤さんがいなくなっていた。
ぼくはその場所で二人に待ってもらい、人の流れとは逆方向に一人で城址公園の側に引き返した。いくらももどる必要はなく、加藤さんはすぐに見つかった。加藤さんは綿|飴《あめ》屋の前に立っていた。
ぼくはほんの少しの間、綿飴屋の機械に催眠術をかけられたように動かない加藤さんの横顔を、へんに懐かしい気持ちで眺めていた。中学校の広い校庭を一人で歩いていく加藤さんを、教室の窓から息を止めて眺めていたときの、あの冬の日。枯葉の匂いと土|埃《ぼこり》の匂いの感傷が、ぼくに子供のころの悲しみを素直に思い出させる。
ぼくは一瞬、加藤さんを残して引き返そうかと思ったが、感傷を押し返して、声をかけた。
「はぐれてしまう……本当はもうはぐれてるけどな」
ぼくの声だけは聞こえたらしく、うなずきはしたが、加藤さんはふり返らなかった。綿飴屋のおじさんをにらみつける加藤さんの目は、親の敵《かたき》に出くわしたサーカスの少女のようだった。
「綿飴、欲しいのか」
目を一度、ぱたっと閉じただけで、やはり加藤さんは返事をしなかった。
「買おうか」と、また、ぼくが言った。
「お金は持っているの」
「そりゃあ、よかった」
「だいじょうぶかしら」
「なにが」
「綿飴って、お腹《なか》をこわさないかしら」
「子供だって食べてるさ」
加藤さんが急に背すじをのばして、なにかとんでもない真理を聞いたとでもいうように、大きくこっくりをした。
「そうよね、子供が食べていけないものを、日本の国が売るわけなかったわね」
そして加藤さんは子供たちを押しのけ、ジーパンの尻ポケットから一万円札を抜き出して、当たり前のような顔で四本の綿飴を買った。それが国営の綿飴屋だったとは、どうしても信じられなかった。
「花火には毎年家の人と来ていたの」と、一本を右手に持ち、残り三本の綿飴を胸の前にかかえて、田中くんたちの待っている場所に歩きながら、加藤さんが言った。「花火のときは毎年|桟敷《さじき》を取るの。でも今年は父と母が出かけてしまって、兄もお友達と尾瀬に行ってしまうでしょう? だから本当は花火に来るの、諦めていたの。あなた達《たち》はおうちの方とはいらっしゃらないの」
「うちのお袋は花火を見ると血圧があがる。アキ子さんの親父はこの音で毛が抜けてしまう」
首をかしげて、綿飴の間から、加藤さんが感激したような目でぼくの顔をのぞきこんだ。
「田中ん家《ち》の姉さんは今ごろ金魚を食べてるな。ただの迷信だけど、花火大会の日に金魚を食べると金持ちになれるらしい」
自分でもなにを言ってるのか、よくわからなかったが、加藤さんはなぜか真面目《まじめ》な顔で、ずっとぼくの話に耳を澄ませていた。
「金魚すくいが出てるだろう? あれ、本当は食用の金魚なんだ。一年間ミミズで大きくして、次の花火大会の日、刺身にして食っちまう」
加藤さんが足を止め、自分の綿飴に舌で穴を開けながら、ぼくに向かってふーんとうなずいた。相変わらず小さい花火がたんたんと弾《はじ》け、狭いアスファルト道には夜店の瀬戸物売りの音や、屋台の発電機がたてるぐーんという音が、人声や足音にまじって埃っぽい和音をつくっていた。
「葉山くんのお父様って、赤城建設の長谷川さんでしょう?」と、綿飴を見つめたまま、真面目な顔で、加藤さんが言った。「うちの父がよく一緒にゴルフをすると言ってたわ」
加藤さんの背中を押して、ゆっくり、ぼくは先に進みはじめた。
「今の話は、冗談さ」
「お父様のお話?」
「金魚の話」
「それぐらいのこと、わたしにもわかっているわ」
「中学のとき、君は冗談がわからない人で有名だった」
加藤さんの髪に小さい羽虫が止まって、それをぼくが、ふっと息で吹き飛ばした。
肩を引いて、首をかしげながら、加藤さんがぼくの前にまわりこんだ。
「ねえ葉山くん、田中くんて、どういう人?」
唐突ではあったが、それをあまり唐突と感じなかった理由は、ぼくの中にへんな直感と、へんな覚悟が同居していたからだろう。
「田中は見たとおりさ」
「中学のときはいつも喧嘩をしていたわね」
「二回だけさ。二回とも相手が仕かけてきた。でもやつはみんなにそう[#「そう」に傍点]見られてしまう」
「なんとなく変わった人よね」
加藤さんにとっては変わっていて、興味ぶかい対象かもしれないが、ぼくの立場から肯定してやることではなかった。
「葉山くん、蟹前くんていう人は覚えている?」と、ぼくの顔を見つめたまま、ちょっと眉《まゆ》を寄せて、加藤さんが言った。
「三年のとき一緒だった」
「わたしは一年で一緒だったの。あの人、それからずっとわたしに手紙をくれていたの。昨日死んでしまったのね。新聞に出ていたわ」
ぼくはポケットから煙草《たばこ》を取り出し、火をつけて、ちょうど打ちあげられたスターマインの光に、ふーっと煙を吐き出した。規模の大きい線香花火のような光が、ぱりぱりと空を焼いて、一瞬に消えていく。
「蟹さんの親父さん、蟹さんに好きな女の子がいたかどうか、心配してたっけな」
「世の中には生まれつき気の毒な人がいるものなのね」と、正面に向きなおって、小さくうなずきながら、加藤さんが言った。
「蟹さん、君にどんな手紙を書いてきた?」
「他の男の子たちと同じじゃないかしら」
「読まなかったのか」
「そういう手紙は、母が読ませてくれないの」
「蟹さん、作文はうまかったのにな」
「気の毒にね」
「返事は、書いたの」
舌の先で、また綿飴に穴をあけながら、首と綿飴を加藤さんが同時に横へふった。
「読んでいない手紙に返事は書けないわ」
「礼儀として、手紙には、返事を書くもんさ。夏が暑いのは誰のせいか、蟹さんに教えてやればよかった」
「葉山くん……」
「生まれつき気の毒で、生きていても意味のない人間はさっさと死ぬべきだと、蟹さんに教えてやればよかった」
「葉山くん?」
「蟹さんだって、金魚だって雀だって、気の毒がられるために生きてるわけじゃない」
「葉山くん?」
心配そうな顔と、心配そうな声で、また横から加藤さんがぼくの顔をのぞきこんだ。
「葉山くん、煙草吸うのって、躰によくないと思いません?」
田中くんとアキ子さんは、ぼくと別れたままの場所で、打ちあげのつづく花火に忙しく顔の色を染めかえていた。もうなん年も前から二人が肩を並べて空を見あげているような、そんな雰囲気に、ぼくは冗談も思いつかなかった。
二人はそこで、加藤さんから綿飴を一本ずつ支給され、ぼくらはまた砂利道を河原に向かって歩きはじめた。歩きながら、田中くんは綿飴を持った自分のスタイルに恥入っていたが、悪態はつかなかった。待っている間にアキ子さんから、加藤さんに、田中くんが不良でないことを納得させるのに自分がどれぐらい奮闘したか、恥入るほど聞かされたのだろう。
利根川の土手まで来て、ぼくらは四人同時に、まず大きなため息をついた。土手の河原側の斜面一帯が桟敷になっていて、その桟敷席から川までの空地へ、立ち見の人たちが怒濤《どとう》の進撃を展開していたのだ。ぼくらが特別に遅れてきたわけではなかったが、それでも土手から河原までおりていくのはかなりの苦戦を強いられそうだった。前は完璧に人の頭で埋まり、うしろからもまたそれと同じぐらいの人の頭が押し寄せていた。加藤さんが桟敷以外で花火を見たことがなかったのは、ある意味では、ひどくまともな経歴だった。
ぼくらは顔を見合わせただけで、もう意思疎通を完了し、土手を白鳥池側におりて休憩所のほうへ歩いていった。仕かけ花火は無理としても、打ち上げ花火はじゅうぶんに見物できる場所だった。
休憩所につき、家族づれの間に無理やり四人ぶんの席をつくって、まず最初にやった行為は、ぼくと田中くんでビールとオデンを買いこむことだった。
加藤さんは「ビールなんて一度も飲んだことはないし、自分がビールを飲める人間だとも思わない」と主張したが、ぼくは加藤さんが、綿飴すら一度も食べたことのなかった人間である事実を指摘して、それで問題は解決した。ぼくらは紙コップを取り上げ、『花火大会の成功を祈って』その日最初の乾杯をした。
それから先のことで、ぼくが覚えているのは、四人のうちの誰か一人が休みなく売店に足を運んでいったことだった。一番熱心だったのは、加藤さんだった。加藤さんは高校生でビールを飲むのは不良だと思っていたが、それは自分の偏見であった、と力強く反省した。そして最初の乾杯から一時間もしないうちに、その場所から仕かけ花火が見られないことを、誰も残念だとは思わなくなっていた。打ち上げ花火でさえ、誰かがビールの追加を買ってくるまでの、気の抜けた暇つぶしだった。それはちょうど、この夜の花火大会が、一般的には一番佳境といわれるはずの時間だった。
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気がついて、すぐにわかったことは、そこがアキ子さんの部屋の、アキ子さんのベッドの上だということだった。ぼくにわかったのはそれだけで、自分が意識もなくそこにひっくり返っていた理由については、恐ろしいほどわからなかった。躰にはタオルケットが一枚かかっていて、手をのばして確かめてみると、ぼくは最低限の下着すらつけていなかった。一瞬それは知らない間にアキ子さんとしてしまった[#「してしまった」に傍点]ことの結果かとも思ったが、そんな力のないことはひどい頭痛が証明していた。まったくそれは、これが自分の頭かと疑いたくなるような、生きているのがいやになるほどの頭痛だった。おまけに左の目の下がへんに熱をもっていて、頭に負けないぐらいずきずきと痛んでいた。
それでもぼくは、どうにか躰を起こし、ぐるぐるまわる目と頭で部屋の中にアキ子さんの姿を探してみた。アキ子さんはベッドのすぐ下で、クッションを枕《まくら》にして横になっていた。ベランダからの風が窓のカーテンをゆすり、それ以外には花火の音もなく、クルマの音も虫の声も聞こえなかった。
ベッドのきしむ音で気がついたのか、アキ子さんが起きあがって、立《た》て膝《ひざ》でぼくの顔をのぞいてきた。髪のポニーテールは解かれ、服も青い水玉のパジャマだった。
「朝まで起きないと思ってたのに」と、妙な形に口の端をゆがめて、アキ子さんが言った。
「今、なん時?」
「もうすぐ十二時よ」
ぼくはすぐにでも、今のこの情況について説明を受けたかったが、口元をゆがめたアキ子さんの顔つきが、なんとなく気にいらなかった。子供のころ一時間ぐらい昼寝をして、目覚めたとき次の日まで眠ってしまったと錯覚したときのような、居心地の悪い気分だった。
アキ子さんがぶいと横を向き、居心地の悪い気分のまま、ぼくはまたベッドへ横になった。首をベッドの頭板にのせると、頭痛はいくらか楽になったが、と切れた記憶のほうはどうしてももどってこなかった。
アキ子さんの顔つきが、まだ気になったが、仕方なくぼくが訊いた。
「ぼくのシャツと、ズボンは?」
「洗って干してあるわ」
「どうして」
「どうして?」
ベッドの端に腰をのせてきて、アキ子さんが皮肉っぽく、くっと喉《のど》を鳴らした。
「覚えていないの」
「覚えていない」
「よかったわね。都合の悪いこと、みんな忘れられる性格で」
その言い方が、どことなくお袋の台詞に似てる気がして、情況も考えず、思わずぼくは苦笑した。
「君をレイプして殴られたのかな、目の下がはれてる」
「わたしだって殴ってやりたかったけど、葉山くんを殴ったのはひろちゃんよ」
「ぼくが田中をレイプしたのか」
アキ子さんが躰を倒してきて、ぼくの左の目の下を、軽く指でさわった。
「明日|痣《あざ》になるわね……本当に覚えていないの」
「本当に、覚えていない」
ため息をついて、順にかかった髪を、アキ子さんが指で大きく上にかきあげた。
「ひろちゃんに殴られて白鳥池に落ちたの」
「誰が」
「あんたがよ」
「どうして」
「あんなこと言うから」
「あんなこと?」
「本当に覚えていないなら、思い出さなくてもいいわ。わたしも言いたくないから」
さっきの居心地の悪さが、ぼくの背中のあたりに、急にまたよみがえった。完全に思い出したわけではなかったが、ぼくが今裸でいることが事実で、目の下の痛みが事実だとすれば、ぼくが田中くんに言ったことの内容については、だいたいの想像はつく。酔っぱらったからといって、田中くんとアキ子さんの関係は、口には出していけないことだった。
ぼくはアキ子さんに背中をむけて、ベッドからおり、裸のまま、風の吹いてくるベランダへ歩いていった。鉄柵《てっさく》さえなければベランダの向こうの闇《やみ》の中まで、ぼくは歩いていったかもしれなかった。この気分を、自己嫌悪というのには、少しだけ、気分の中に甘酸っぱい匂いが強すぎる。雲のない空に、流れ星が飛んだ。そういえば最近夕立がこないなと、ふとぼくは思った。子供のころは夏になると、前橋の町には毎日のように夕立がやってきた。
ベランダの風がなにかを揺らし、それが自分の服であることをぼくに思い出させ、ぼくはまだ乾いていない服を着て、部屋の中にもどっていった。アキ子さんはベッドの端に浅く坐り、壁のどこかを見つめていた。
アキ子さんの視線が、壁のどこかから、無表情にぼくの顔へまわってきた。
「わたし、帰れなんて、言った?」
「相手の気持ちを察しただけさ」
「相手の気持ちを察するなんてこと、葉山くんにできるの」
「たまには、趣味で、やってみる」
アキ子さんが、にっと笑い、あごをつき出しながら、勢いよくベッドを立ちあがった。シャンプーの匂いと一緒に平手が飛んできて、音をたててぼくの頬を払っていった。
ぼくは腕時計や、バイクのキーをまとめてズボンのポケットにつっ込み、アキ子さんの顔は見ずに、黙ってドアへ歩きだした。
「思い出した?」
「たぶんな」
「加藤さんがいるところで言うなんて、あんたの神経、おかしいわ」
「期待のしすぎさ、君も田中も」
「都合が悪いと逃げ出すの……葉山くんもひろちゃんと同じね」
本当に逃げ出したかったが、息を止めて、ぼくはふり返った。
「君は?」
「わたしが、なに」
「君は逃げ出さないのか」
「わたしはいつだって前に走ってる。いつだって、本気で、前を向いて走ってるわ」
「だから、追いつかないんだろうな、ぼくも田中も」
歩きだしたぼくの腕に、アキ子さんの手がのびてきて、痛い力が、ぼくを部屋の中へ引きもどした。
「わたしとひろちゃんがそう[#「そう」に傍点]なったことが、そんなに気にくわない?」
「拍手をする気にはならないさ」
また平手が飛んできたが、今度はぼくがその手首をつかみ、二人とも息を殺したまま、長い力くらべを開始した。アキ子さんは瞬《またた》きをせず、ぼくの目をにらんだまま、歯を食いしばっていつまでも腕から力を抜かなかった。
急に頭の中に夕立が起こって、ぼくがかぶっていた仮面が、ひらっと風に舞った。
「君みたいに勇気があればいいのにな。泳げないことがわかっていて、それでもプールに飛び込む勇気が、ぼくにはない」
アキ子さんの躰が、一瞬痙攣し、そして突然夢からさめたように、ぼくの指の中でもがいていたアキ子さんの手首から、ふっと力が抜けていった。
「あんたって、やっぱり、変わってるわ」と、うしろ向きにベッドへさがりながら、なん度かうなずいて、アキ子さんが言った。「変わってて、プライドが高くて、卑怯《ひきょう》で、でも結局は田舎の高校生なのよ」
ぼくはアキ子さんの髪の匂いと、石鹸《せっけん》の匂いと甘酸っぱい躰の匂いを、後悔の手前でしめ出し、うしろにさがって、ドアのノブに手をかけた。
「玄関から出て、迷感にならないかな」
「そう思うなら、ベランダから飛びおりたら?」
「一つだけ、まだ思い出せないことがある。白鳥池に落ちたあと、どうやってここまで来たんだ?」
「ひろちゃんがバイクで運んだのよ」
「加藤さんは?」
「ひろちゃんが送っていったわ」
「失敗だったな」
「なんのこと?」
「今夜の花火大会が、失敗することは、最初から、なんとなくわかっていた」
ぼくはドアを開け、廊下に出て、ふり返らず、暗い階段を黙って下へおりていった。アキ子さんは部屋に残ったまま、送ってはこなかった。
ぼくが階段をおりきり、玄関から庭に面した和室をのぞくと、そこでアキ子さんの義理のお母さんが、正座をしてまだ白い団扇をふりつづけていた。その和室にも台所にも玄関にも、アキ子さんの部屋以外、家の中に電気はついていなかった。ぼくは玄関を出たところにある金|檜葉《ひば》の陰で、屈みこみ、幾度か嘔吐《おうと》をくり返した。池の浄水機がなま暖かい空気をふるわせ、庭全体にざわざわと風のような音を響かせていた。
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居間の電気もクーラーも、ぼくが家に帰ったときは、全部がつけっ放しになっていた。居間にお袋の姿はなく、夏用のスリッパだけがお袋の部屋の前に、並べて脱がれてあった。
ぼくはテレビの音を大きくしたり、冷蔵庫のドアに音をたてさせたりしてみたが、お袋は自分の部屋から出てこなかった。ぼくは十分ぐらい下でうろうろしてから、全部のスイッチを切り、足音を忍ばせて二階の部屋にひきあげた。ベッドにもぐりこんだが、すぐには寝つかれなかった。なにも考えたくなかったし、考えてはいないはずだった。ただ頭の芯《しん》に居すわった黒い熱が、ぼくの神経に、いつまでも息苦しい批判を囁《ささや》きかけていた。
ぼくが眠りこんだのは窓の外が白く色づきはじめ、松林の遠くで鳩《はと》や尾長が鳴きだした、そのあとだった。
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電話がなっていることは知っていたが、ぼくはそれを罰《ばち》当たりな夢と決めこんで、必死に眠りを貪《むさぼ》りつづけた。もう日も高く、汗もいい加減噴き出していた。だからといってぼくが夢の中の電話に返事をしてやる必要は、義理にもないはずだった。だが電話は現実の世界でなりつづけ、しかもなりやまなかった。ぼくは窓ガラスをあぶっている陽射《ひざ》しに悪態をつきながら、ベッドを這《は》い出し、階段の下にある電話までふらふらとおりていった。壁の時計は九時半をさしていた。
電話をかけてきたのは、田村さんという、お袋のピアノ学校で経理をやっている四十ぐらいの男の人だった。家にも幾度か来たことがあったし、お袋と三人で夕飯を食べたこともあった。田村さんが用があったのは、もちろんお袋のほうだった。
お袋がまだ出かけていないことは、部屋の前にあるスリッパが証明していた。ぼくは受話器をオルゴールの上に置いて、お袋の部屋まで歩いていった。
「母さん、田村さんから電話……」
少し待ったが、お袋は返事をしなかった。ぼくは襖《ふすま》をノックし、また少し待ったが、お袋が起きてくる気配はみえなかった。
「母さん……」
ぼくは襖を開けて、部屋に入り、布団のところまで歩いていって、お袋の肩をゆすってみた。
「母さん」
お袋は動かなかった。
「母さん?」
お袋は、呼吸をしていなかった。
「母さん……」
お袋の心臓は、動いてはいなかった。
ぼくは廊下を、電話の前までもどり、オルゴールから受話器を取りあげた。
「お待たせしました」
「はい」
「いることはいるんですが……」
「経理のことで先生にご相談がありましてね」
「今、出られません」
「はあ?」
「もしもし」
「はあ」
「今ちょっと……」
「はあ」
「今、ちょっと、死んでるんです」
電話を切ったあと、ぼくはテレビとクーラーのスイッチを入れ、台所に行って、自分のぶんだけのコーヒーを火にかけた。テレビでは『世界の子供たち』という番組をやっていた。今日が日曜日で、日曜日はよくお袋と映画に行ったっけと、ふと思い出したりした。
コーヒーを飲みおわり、お袋のハンドバッグから煙草《たばこ》をもらって、一本吸い、それからぼくはもう一度お袋の部屋をのぞきにいった。
お袋は黄色いネグリジェの腹に、タオルケットを一枚のせ、「誰《だれ》が呼んでもぜったいに起きてやるものか」という表情で、かたく目を閉じていた。ぼくはしばらく、立ったままお袋の顔を眺めたあと、枕《まくら》の下にはさんである革表紙の手帳を抜き出して、また居間にもどってきた。
その手帳はお袋が『閻魔帳《えんまちょう》』と呼んで、どこへ行くにも手放さなかった、紺色の大判の手帳だった。書かれていたのは毎日の金銭出納と、ちょっとした忘備事項で、たとえば、
七月五目、水曜日。
タクシー代七百二十円。煙草百円。昼食代(コーヒー含む)五百五十円。パンティーストッキング(三足)七百五十円。明日一時に中沢楽器店にTEL。コーヒー代百二十円。音楽会の打合わせ商工会議所(日時未定)。牛肉千七百円。野菜(キュウリレタスピーマンキャベツトマトセロリ合せて……なんて高いんだろう)千百二十円。酒屋の支払い二千百円。研一に三千円。
それは今年の一月からほとんど同じ内容で、ただ一昨々日《さきおととい》の八月五日以降には金銭|出納《すいとう》はなく、そのかわり昨日のぶんのページには、細かい字でびっしりとぼくに対する伝言が書いてあった。
『葉山研一様。私に何かあればあんたがこれを見る事は分っていますので、この場所に書きます。
木曜日の午後、脳塞栓《のうそくせん》の発作が起きました。脳塞栓と言っても分りにくいと思いますが、卒中のようなものだと考えればいいでしょう。血圧が高い事は以前から分っていましたので、発作が起きたからといって、私も桜井先生も驚きはしませんでした。病院では入院させたかったらしいのですが、私《わたし》は入院とか手術とかが生まれつき性に合いませんし、暫《しばら》く様子をみるということで取敢《とりあ》えず家に帰して貰《もら》いました。それにこれが本音なのですが、最近は特に、そういった色々な事が面倒に思えて仕方なくなったのです。放《ほう》っておいても一年や二年は生きられるでしょうし、このまま二回目の発作が起きなければそれ以上も生きられるらしいのです。一年以上生きるようでしたら、今書いているこの事は無駄になるわけですが、とにかく私が死んだ後、あんたが必要以上にまごつかないようにと思って書いているわけです。
話は横道に逸《そ》れますが、発作が起きたとき一つ面白い事を発見しましたので、あんたにも聞かせてあげる事にします。発作が起きてから気を失うまでの間、どれくらいの時間があったのかは知りませんが、多くて一秒か二秒か、そんな処《ところ》だろうと思います。そしてそれが本当に一秒か二秒であったとすれば、自分が、自分の人生に於《お》いて一番知りたいと思っていた事の回答を出すのに、人間とはほんの一秒か二秒の時間しか必要としない生き物だということです。自分が生きてきた人生は最善であったのか、自分という人間がこれ以上生きる必要が有るのか。ねえ、研一、そんな事はまったく馬鹿《ばか》馬鹿しくなるくらい簡単に分ってしまう事なのです。人生に於いて最大の問題が、なんと一秒か二秒でです。随分簡単な話だとは思いませんか?
さて、と、先《ま》ず、金銭問題から片付けてしまいましょうかね。これは市役所のそばに事務所を出している渡辺という弁護士に連絡して下さい。電話は三・二七八〇です。私の生命保険金や銀行預金、それに株の配当等を合せたもので、あんたが一人前になるくらいまでは何とか暮らせるようになっている筈《はず》です。この事は一昨日、信用金庫と保険会社と弁護士事務所へ行って手続きを済ませておきました。
次に家の事ですが、あんたはどうせこんな町には住まないだろうと思って、和子の物になるよう決めました。あの子が今まで一ヵ所に落着いた生活が出来なかった責任は、やはり私に有ると、そう思ったのです。和子が今の人と結婚して一緒に住むか、別れて一人で住むかは知りませんが、あんたも高校を卒業するまでは一緒に暮らしてやって下さい。
それから、ピアノの学校のことです。これはあんたと田村さんとで、相談して決めて下さい。きれいさっぱり売り払っても構いませんが、生徒|達《たち》や、雇っている先生や事務員の事も有りますので、そのへんの処を考えて、とにかく一番都合のいいよう、田村さんと相談して決めて下さい。
あとは大して問題は無い筈です。あんたが自分自身で悔いのない生き方をしてくれさえすれば、それで私は満足です。そう、最後に一つだけ、どうしてもあんたに頼んでおきたい事が有ったのでした。それはあの、恥知らずな葬式とかいうやつは、絶対にやらないで欲しいという事です。私が世の中で一番嫌いなものが結婚式で、二番目が葬式だという事は、あんたも知っての通りです。骨はお祖父《じい》さんたちのお墓に放り込んでくれれば結構です。一昨年《おととし》お墓を作り直す時に二十万円も出しているのですから、文句を言う親戚《しんせき》は無い筈です。もし誰かが文句を言うようだったら、東京あたりに在るという、コインロッカー式のお墓に入れて貰っても構いません。それも面倒でしたら、大渡り橋の上からでも利根川にばら撒《ま》いてやって下さい。骨になって太平洋まで旅をするのも、案外楽しいように思いますが、まあとにかく、絶対に葬式だけは出さないように、呉々《くれぐれ》もお願いしておきます。もし浮かばれなくて、あんたの頭の上をふらふらするような事が有っても、急に姿を現して驚かしたりはしない積りでいますから、どうぞ安心して下さい。
疲れました。研一、あんたも意味もなく大人を揶揄《からか》うのは止《や》めること。馬鹿なように見えても、大人にはそれぞれ苦労が在るわけですから。それから煙草、本当にセブンスターに換えましたか? 出来ればあんな物販わないに越したことはないのですが、あんたの事だからどうせ他人の言う事は聞かないでしょうしね、まあ精々|身体《からだ》には気をつけることです。
[#地付き]愚母拝』
ぼくは閻魔帳を閉じ、テーブルの上に放って、歩いていってクーラーとテレビのスイッチを切り、それから居間のガラス戸を開けて敷居の上にしゃがみ込んだ。外の熱気が激しくぼくの顔に押し寄せ、ぼくは目をつぶり、深呼吸をして、目を開け、百日紅《さるすべり》の幹に塀の外の電信柱が曲がりくねった影をつくっている様子を、しばらく眺めていた。雨もふらないのに湿度ばかり高く、蝉《せみ》の声がやけに息苦しかった。
急に思い出して、ぼくは部屋の奥にもどって桜井病院へ電話を入れてみた。日曜日だったが、事情を話すと、桜井先生が普段着のままクルマに乗ってやって来てくれた。桜井先生はお袋の躰《からだ》をていねいに調べたあと、「本来なら変死あつかいだが……」と言いながら、それでもぼくの見ている前で二通の死亡診断書を書いてくれた。
帰りぎわに、一言だけ、桜井先生が言った。
「法律的にはどうだか知らんが、わたしに言わせれば、これは自殺だ」
ぼくは二杯目のコーヒーを飲んでから、姉貴のアパートの大家さんと、お袋の三人の兄妹《きょうだい》と地方新聞の広告部とにまとめて電話を入れた。新聞には明日の朝刊に、お袋の死亡記事を頼んだ。
『葉山|正世《まさよ》享年四十六識は、八日未明、脳塞栓のため死去致しました。故人の遺志により葬儀等は一切行いません』
正午《ひる》近くになると、お袋の兄妹と田村さんが、もう明日には地球が滅亡するのだというような顔で家の前にクルマを乗りつけてきた。田村さんにはお袋の伝言を話し、なんとか引き取ってもらったが、問題はお袋の兄妹たちだった。
『死ぬ間際は冷静さを失って妙なことを考える、それが人間の弱さというものだ』
人生観はそれぞれどうであれ、それがお袋の「葬式は嫌いだ」という意見に対する、敬一伯父さんと定二叔父さんと喜久子叔母さんの、一致した反論だった。
国道沿いで建材屋をやっている敬一伯父さんは、商工会議所の副会頭という自分の立場から今回の妹の死に対処したい、と意思表明した。市内の相互銀行に勤めている定二叔父さんにも、銀行ではやはり自分の立場があるらしかった。
「葬式を出さんなどと、商工会議所の連中にどう説明したらいいんだ? 実の妹が死んで葬式を出さなかったじゃ、あとでどんな陰口をきかれるか知れたもんじゃない」
「だいいち兄さん、正世姉さんはなんだって信用金庫なんかに研ちゃんの口座をつくったんだろうねえ。こんなときこそうちの銀行を使ってくれりゃ良かったのに」
「正世も分別をなくしていたわけだ。まあ、いまさら銀行のことは仕方ないとして、葬式だけは兄妹で盛大にやろうじゃないか。仏だって本心はそうしてもらいたかったろうしな。葬式の費用なんぞは香典でじゅうぶん賄《まかな》える。わしの妹の葬式だ、市長や市会議員なら十万ぐらいの香典は包んでくるだろう」
「会計は任せて下さい。銀行の若いもんを幾人か手伝わせますよ」
もちろん喜久子叔母さんも、やる気になっていたことでは二人の兄弟に負けてはいなかった。
「奥の切り盛りはわたしのほうでやります。婦人会に声をかければ十人や二十人、簡単に集まりますから」
「それで兄さん、葬儀屋はどこにしましょうかねえ」
「羽田の仏其屋にしてくれんかなあ。あそこの社長には商工会議所で義理があるんだ」
それまで黙って聞いていたが、一応ぼくにも口をはさむ権利がある気がして、ぼくが言った。
「葬式は、やらないことに決まってます」
ぼくが部屋にいたことを、やっと思い出してくれて、三人が同時にぼくをふり返った。
「葬式は出しません。お母さんが自分で決めたことです」
三人で顔を見合わせてから、敬一伯父さんがむっと息を吐いて、面倒臭そうにぱたぱたと扇子を動かした。
「しかしけん坊よ、現実問題としてそういうわけにはいかんさあ」
「伯父さんたちが決めてくれなくてもいいんです。お母さんが自分で決めたことです」
「けん坊が一人でやるって言うのか」
「ぼくはやらない[#「やらない」に傍点]と言ってるんです」
「お寺さんを通さなくちゃ、戒名も貰えんぞ」
「お母さんは芸名が嫌いでした」
「けん坊がどうしても葬式を出さんと言うなら、わしら兄妹で出すまでだ」
「伯父さんたちがどうしても市長を呼ぶなら、ぼくは警察を呼びます」
という具合で、伯父さんたちが帰っていくまでには二時間かかったが、遺骨を祖父さんの墓に納める件に関しては、ぼくが二十万円の話を持ち出す必要もなかった。伯父さんたちには商工会議所や銀行や婦人会で、それぞれに立場があったのだ。
伯父さんたちが帰ってから、ぼくは田中くんの家に電話を入れ、それから思い出して、忘れていた朝飯を食べることにした。米をといで電気|釜《がま》にかけ、キャベツをきざみ、冷凍庫から出した牛肉を解凍し、フライパンを火にかけた。お袋が生きていたときもろくなものは食べさせてもらわなかったから、ぼくの食生活に関して変化はなさそうだった。
肉を焼こうとしたときに、田中くんがやってきた。田中くんは玄関へはまわらず、直接庭を通ってガラス戸の手前まで歩いてきた。光の強さに顔をゆがめてはいたが、包帯のかわりに、額にはマスクのようなガーゼを絆創膏《ばんそうこう》で貼《は》りつけていた。
「冗談ならアカデミー賞もんだがなあ」と、顔をゆがめたまま、ちっと舌打ちをして、田中くんが言った。
「昼飯、食べたか」と、ぼくが訊いた。
「それどころじゃねえや」
首のうしろを自分の手でおさえ、ひょいと、田中くんがぼくの顔にあごをしゃくった。
「おまえのほうは?」
「今、支度をしている」
「なんの」
「朝飯のさ」
田中くんが言ったのは、ぼくの目の下のはれのことだとわかっていたが、今は昨夜《ゆうべ》のことを思い出す気分ではなかった。
「あちいなあ、死ぬほどくそあちいや」
田中くんは寝不足だか二日酔だかの頭を、ぐるっとまわし、それからまた舌打ちをして、ゆがめた顔を大きく塀の外へ持っていった。
「なんだか知らねえけど、姉貴が一緒に来てるんだ」
西側の塀からつづく門柱の陰に、クルマの前半分がはみ出して見え、ちょうど田中くんの一番上の姉さんがドアに鍵《かぎ》をかけているところだった。クルマはぼくたちが赤城山の崖《がけ》につっ込んだ、白いライトバンだった。
田中くんの姉さんは、鍵をハンドバッグにしまいながら、庭に入ってきたところで、照り返しに一度、ぎらっと金歯を光らせた。口の中でぼくに挨拶《あいさつ》でもしたらしかった。
「クルマ、なおったんですか」と、ぼくが訊いた。
うなずきながら、歩いてきて、田中くんの姉さんが田中くんのうしろで立ち止まった。お袋が出迎えに来るのを待ってでもいるような顔だった。
「暑いねえ、今日は今年一番の暑さだって、さっきテレビで言ってたっけ」
ぼくは二人にあがってもらい、それからお袋の部屋に案内した。
「呼べば起きるんじゃねえのか」と、襖の内側に立って、田中くんが言った。
「もうやってみたさ」と、ぼくが答えた。
田中くんの姉さんが膝《ひざ》をついて、投げ出してあったお袋の両手を胸の上で組み合わせてくれた。
「まあちゃんさあ、十年ぶりだったねえ。こんな姿で会うなんて、思ってもいなかったよ」
たしかに、それはぼくが気づかなかっただけのことで、お袋が田中くんの家に出かけたことも、田中くんの姉さんが家にやってきたことも、覚えている限りでは一度もないはずだった。お袋が死にさえしなければ、二人は本当に、死ぬまで会うことはなかったのかもしれなかった。
田中くんの姉さんは自分で組み合わせたお袋の手を、しばらく握ったあと、立っているぼくの顔を、下からひょいとふり仰いだ。
「葬式は、明日かい?」
「葬式は出しません」
「おや、まあ」
「お袋は二番目に葬式が嫌いでした」
「まあ……」
「一番嫌いだったのは結婚式です」
「あら」
「おばさん、昼飯、食べますか」
「あたしは食べたばっかり」
「田中は?」
「そうさな。俺《おれ》は、食うかな」
ぼくは二人を居間にやって、ソファに坐《すわ》らせ、自分だけ台所にもどって食事の支度をし直した。肉を一枚追加し、キャベツを切り足し、ついでに玉ネギとジャガ芋で味噌《みそ》汁をつくった。かかった時間は二十分だった。
ぼくと田中くんが朝食と昼食を食べている間、田中くんの姉さんはソファに正座をして坐り、部屋の天井や壁や、そこに貼ってある楽器屋から配られたカレンダーなどを、目尻《めじり》の皺《しわ》と一緒に黙って眺めていた。ガラス戸が開いているせいで、蝉の声が直《じか》に流れこみ、その中には外を通るクルマの音や、野球場のアナウンスの声もまじっていた。
「本当言うとまあちゃん、わかりづらいところのあった子でねえ」と、ハンドバッグから煙草を取り出し、金色のライターで火をつけてから、田中くんの姉さんが言った。「普段は大人《おとな》しいくせに、急に思い切ったことをやったりして、あたしなんかさんざ驚かされたもんだったよ」
田中くんの姉さんは、金歯の隙間《すきま》からしゅーっと煙を吐き、四十年だか三十年だか昔のことを思い出すために、壁と天井の境目あたりをじっとにらみつけた。
「女学校のとき、講堂のオルガンを石で叩《たた》き壊したことがあった。まあちゃんにオルガンを教えていた先生が死んでね。代用教員かなにかで、あたしは顔も名前も覚えちゃいないけど、若い男の先生だったいねえ。兵隊に取られて、マレーシアかどこかで戦死したんだよ」
「お袋、そのあと、どうしました?」
「どうしたかねえ。次の日に前橋が空襲にあって、それからいくらもしないうちに終戦になったいねえ」
吸っていた煙草を灰皿でひねりつぶし、二本目を取り出しかけて、ふと田中くんの姉さんがぼくをふり返った。
「研ちゃん、焼き場とか市役所とか、連絡はしたんかい」
「明日します、今日は日曜日だから」
「電話してごらんな。ああいう所は日曜だってやってるもんさ。曜日を選んで死ぬ人間はいないんだからさ」
ぼくは口の中でキャベツを飲みくだし、電話へ歩いて、番号案内で教えられた火葬場にダイアルをまわしてみた。曜日を選んで死ぬ人間はいないという、田中くんの姉さんの意見は正しかった。係りの人が、明日の十一時が空いている、と教えてくれ、ぼくはお願いします、と答えた。
「取りに来るってかい」
「明日の十一時です」
「棺桶《かんおけ》は?」
「ありません」
「ないのはわかってるさ。あんなもの、普段から用意しておく家があるもんかいね。まさかあんた、焼き場までまあちゃんをおぶって行くつもりじゃないんだろう?」
田中くんの姉さんが、ぼくをはじき飛ばすように電話の前へ入れかわり、指につばをつけて、なにやらもの凄《すご》いスピードで茶色の手帳をめくりはじめた。その態度は、きっぱりと、町内会で顔のきく葬儀屋があることを物語っていた。
手帳を閉じて、田中くんの姉さんが電話機を脅しはじめた。
「そうなんだよ。そう、なん度言ったらわかるんだいね。え? だからさっきからそう言ってるじゃないか。あたしがそうだって言えばそうなんだよ」
電話の相手は、棺桶だけで他《ほか》はなにも要《い》らないという思想が、当然ながら納得できないらしかった。
「あんたもくどいねえ。え? だからそうだって言ってるじゃないか。とにかく一等でかい[#「でかい」に傍点]やつだよ。わかったね? 一等でかい[#「でかい」に傍点]やつ。そう。一等でかい[#「でかい」に傍点]やつ」
昨日から棺桶をトラックに積んで、お袋が死ぬのを待っていたのか、葬儀屋はすぐにやってきた。その葬儀屋に田中くんの姉さんは、玄関口でもう一度同じことの釈明をし直さなければならなかった。
「そうなんだよ、棺桶だけで本当になにも要らないんだってば。払いはあたしのほうでするから。そう、月末にでも伝票をまわしないね。そうなんだよ。はい、ご苦労さん」
もちろん、本心から納得したわけではなかったろうが、とにかく葬儀屋は帰っていった。五間道路の町内会で田中くんの姉さんに対抗できるのは、トメちゃん一人だけだった。
葬儀屋が置いていった棺桶というのは、厚さが二センチぐらいの白い木でできていて、見た目よりは軽いものだった。中には白い小さな枕と、詰物に使ううすい布団と、ドライアイスのかたまりが入っていた。
棺桶をお袋の部屋に運んで、お袋の横に置いたとたん、まず間違いなく、ぼくらは三人、同時にそのことに気がついた。
三人を代表して、田中くんが感想を言った。
「こいつはよう、まるで舟だいなあ」
ぼくもたしかに、そのとおりだとは思ったが、相槌《あいづち》はうたなかった。ぼくの頭にはその舟のような棺桶に乗ってお袋が大渡り橋の下から太平洋に船出していく光景が、へんにはっきりと浮かんでいた。
「暑いねえ今日は。今年一番の暑さだって、テレビで言ってたもんねえ」と、田中くんの姉さんが言った。
ぼくはお袋が着ていたパラシュートの化け物みたいな黄色いネグリジェを、田中くんの姉さんに変えてもらうことにした。選んだのは、この夏の間中、お袋がぼくを困らせつづけた袖《そで》の垂れさがるワンピースだった。その間ぼくと田中くんは、部屋の外に出て、二人黙って煙草を吹かしていた。
十分ぐらいして、呼ばれて戻ってみると、お袋は五色の模様が蝶《ちょう》のように入り混じったお気に入りの衣装を着て、「さあ、天国でもどこでも、好きなところへ連れていっておくれ」という感じで布団の上に横になっていた。その脇《わき》で田中くんの姉さんが、頭から汗をたらしながら、肩ではあはあと息をしていた。お袋と田中くんの姉さんは、体重が二十キロちかくも違うはずだった。
「だけどよう、ちょっと派手すぎねえかなあ」と、お袋のワンピースに感激した顔で、田中くんが言った。
「焼いちまえば同じさ」と、ぼくが答えた。
三途《さんず》の川を渡る衣装にしては、たしかに少しばかり目立ちすぎるかもしれなかったが、お袋は目立つのが嫌いな性格ではなかった。
田中くんの姉さんが、お袋に化粧をしてくれると言って、鏡台からなん本かの瓶を集めてきた。ぼくと田中くんは陰にならないように、離れて坐り、田中くんの姉さんがお袋の顔に化粧をしていく作業をぼんやりと眺めていた。まずクレンジングクリームで顔の脂《あぶら》をふき、化粧水をつけ、ファンデーションをぬり、眉《まゆ》墨をひき、目尻にアイシャドウで陰をつくり、頬《ほお》紅をさし、最後に三本あったうちの一番明るい口紅を選んで、唇にぬった。
「まあちゃんさあ、あんた、昔から勝手な子だったいねえ」と、お袋の顔をはるか遠くに見るような目で、田中くんの姉さんが言った。「あたしもいい加減くたびれちゃいるけど、あんたみたいに休むわけにもいかなくてさあ」
ぼくらは三人で、お袋を棺桶に移し、居間にもどってコーラを一本ずつ飲み、それからいくらもしないうちにぼくは田中くんと田中くんの姉さんを送り出した。
「明日は来られないよ」と、ハンカチで首の汗をふきながら、帰りがけに、田中くんの姉さんが言った。
「おばさん……」と、庭の日向《ひなた》の部分に踏み出した田中くんの姉さんに、ぼくが声をかけた。「お袋のこと、恨んでいましたか」
田中くんの姉さんは小さくふり返って、五秒ほどぼくの顔を眺め、そしてたぶん微笑《ほほえ》んでみせてくれたつもりで、ぎらっと金歯を光らせた。
「ねえ研ちゃん。この十年間、あたしはずっとまあちゃんに感謝していたよ。相手の立場なんて、その相手にならなきゃわからないもんさ」
田中くんの姉さんはかすかに首をかしげ、あとはふり返りもせず、忙しそうな歩き方でどんどんクルマのほうへ歩いていった。
「バイクのことだけどな、あれ、買ってくれなくていいや」と、日向の中で立ち止まり、二、三歩ぼくの前にもどってきて、田中くんが言った。「こんな町だけど、俺にもいいことがあるかも知れねえ」
田中くんが加藤さんのことを言ったのはわかったし、返事をすればできたが、ぼくは、黙ってうなずいた。
「今朝、アキ子から電話があったんさ」
口を尖《とが》らせて、ぼくの顔をうかがってから、へっと田中くんが笑った。
「俺にはもう、死ぬまで会わねえんだとよ。笑っちまったぜ。こっちもお互い様と言ってやったさ」
「田中、案山子《かかし》とうちのお袋のこと、知っていたか」
「どうだかな。だけどそんなこと、どっちでもいいじゃねえの」
「昨夜《ゆうべ》は悪かった」
「そいつもお互い様さ。俺だっておまえのお陰で肩の荷をおろした。だから葉山、おまえ、アキ子と加藤の両方っての、そういうのはなし[#「なし」に傍点]だぜ」
田中くんはぼくに軽く手をふり、エンジンを吹かしはじめたクルマのほうへ、陽射しに顔をゆがめながらゆっくりと歩いていった。松林の向こうから、わーっと野球場の喚声が湧《わ》き起こった。居間のかけ時計は四時をうっていた。
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あとのすべての時間を、ぼくはソファの上で、テレビとビールだけでやり過ごした。五時少し前に市役所の人が来て、お袋の遺体と死亡診断書を調べていった。それから九時までの間にピアノ学校の先生が二人と、事務員が一人と、あとどこで聞いたのか知らないが、学校に通っている子供の父兄という人が二人、それぞれ「ちょっとお線香だけ」と言いながら玄関を入ってきた。だが実際に線香をあげて玄関を出ていった人は一人もいなかった。通夜の弔問に自分で線香を持ってくる必要があるとは、誰も考えなかったのだ。
そして姉貴が顔を見せたのは、夜中の二時を十分ばかり過ぎたころだった。姉貴は今一緒に住んでいる河野さんという男の人と、小型のダンプカーに乗ってやって来た。二人は高崎から新潟の市場まで、三国峠を越えて野菜を運ぶ仕事をしていた。お袋が家の門について、どこまで本気で考えていたのか、この家にダンプカーを乗りつける人間は、本当にいたのだった。
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十時、それがバスのやって来た時間だった。敬一|伯父《おじ》さんも定二叔父さんも、そのバスを見た瞬間には、いったいこんなもので人間を天国へ運べるのか、と激しく困惑したが、他の人たちも特別に個性的な反応はしなかった。とにかくそれは車体に神社の屋根のようなものがのった霊柩《れいきゅう》車ではなく、横腹を紺と灰色にぬり分けた、完璧《かんぺき》なマイクロバスだった。
バスの横腹には、白抜きの文字で『前橋市市営火葬場』と書かれていた。
ぼくはバスを運転してきた人に、カソウバと読むのか、それともカソウジョウと読むのかと訊いてみたが、三十ぐらいのその人は、「今正式には答えられないが、自分はずっとカソウバと読んでいた」と教えてくれた。
前の日に電話をしてあったので、九時ごろから来ていて、伯父さんたちは居間で黙々とお茶を飲みつづけていた。三人のお袋の兄妹《きょうだい》と、その奥さんと旦那《だんな》さんと、田村さんと河野さんと姉貴と、ぼく。この人数がお袋の人生観に合ったかどうか知らないが、少なくともお袋は起きあがってきてぼくに文旬は言わなかった。
みんなが一通りお袋の顔を覗《のぞ》いたあと、ぼくが蓋《ふた》に釘《くぎ》を打って、十人全員で棺桶《かんおけ》を表の霊柩バスまで運び出した。ぼくが眩暈《めまい》を感じたのは、八月の太陽のせいでもなく、寝不足のせいでもなく、朝まで飲んでいたビールのせいだった。
市営火葬場は、前橋ととなり町との境に近い、市街地をずっと外れた田圃《たんぼ》の中にあった。ぼくらは、ぼくと姉貴と敬一伯父さんだけが棺桶と一緒にバスに乗りこみ、他の人たちは自分たちのクルマを連ねて、家から二十分ほどの距離を火葬場までやって来ていた。駐車場がやけに広く、赤いカンナの花壇ばかりが目立ち、そして低い建物とまわりの田圃を圧してつき出した灰色の煙突には、いかにも「焼いてやるぞ」という意気込みが溢《あふ》れていた。お袋のことだから、棺桶の中で「さあ、焼いてもらおうかね」と一人ごとを言ったにちがいなかった。ぼくにはその声が聞こえたようだった。
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「ご親族の方だけこちらへ……」
ぼくらが待合室の椅子《いす》に腰を落ちつけ、テーブルに用意された麦茶をすすっているところへ、背広の片腕に黒い腕章を巻いた男の人がやってきて、『葉山家ご一族』をうながした。親族だけと言われても、九人しかいなかったので、田村さんを含めた全員が待合室を出て、冷房のきいた別棟へ入っていった。そこは小学校の体育館のように天井の高い部屋だった。
踵《かかと》で床を蹴《け》ればかーんと響きそうな、四角いコンクリートの建物には、西側の壁に火葬炉の扉が五メートルほどの間隔で横に三つ並んでいた。反対側の高い位置にある小さい窓から、夏であることを忘れそうな光がかすかに射《さ》しこんでいた。
別の入口から運び込まれていたお袋の棺桶は、すでに南端の火葬炉の前にセットされ、あとは扉を開けて押しこむだけになっていた。ぼくらが棺桶を半円形に取り囲み、係りの人が火葬炉の扉を開け、台車の上の棺桶を白い手袋をはめた手で、ぐいと中に押し入れた。扉を閉め、ボタンを押すと、火葬炉の中で炎が渦を巻く乾いた音が湧《わ》き起こった。喉《のど》が渇いて、ぼくは幾度も幾度もつばを飲みこんだ。
お袋がどれぐらいの時間で灰になるのか、ぼくにはわからなかった。ぼくは壁に寄りかかって、火葬炉の長四角の扉をぼんやりと眺めていた。他にすることがあったわけでもなく、考えることもなかった。ただなんとなく、お袋がどんなふうに燃えていくのだろうと、そんなことを想像していた。お袋は髪の毛から燃えていき、例のワンピースに火がつき、それから顔や足の肉、腹や背中、内臓、歯、骨、そんな順序で、徐々に白っぽい灰になるのだろう。
「これでも燃料にガスを使うようになりまして、効率はよくなりましたですなあ」
「仏さんの体格なんかでも、焼きあがる時間はちがうわけかね」
「中には妙に骨の太い仏様もおりましてね。そういう方は一般の方より十分がとこ時間はかかりますなあ。私どもとしては焼き残しをするわけにはまいりませんので、係りの人間が覗き窓から確かめて時間を加減しておるんですわ」
「燃料にガスを使うようになったのは、いつごろのことだろうな」
「かれこれ三年になりますかなあ。重油の時代はあなた、仏様お一人焼くのに二十七リットルもかかりましてね、煙突や炉の始末も大変でございましたわなあ」
炉の前で立ち話をしているのは、敬一伯父さんと係りの人だった。しかしそれ以外の人も火葬室の中の勝手な場所で、それぞれが勝手な立ち話をしていた。定二叔父さんの奥さんと喜久子叔母さんとで話していたかと思うと、今度は二人で姉貴と河野さんのところへいき、「まあ、それはそれは……」とか「せめて正世姉さんの生きているうちに……」とか、そんなようなことを喋《しゃべ》っていた。定二叔父さんや田村さんも中小企業の景気の動向について話をしていたし、要するにその部屋にいた人の誰《だれ》一人として、人間はただ黙って立っていることもできるのだ、という理屈に気づいていなかった。暇をもて余していたのは、ぼくと、火葬炉の中のお袋ぐらいのものだった。
ベルが鳴った。
係りの人が急にむずかしい顔になって、扉を開け、まだ熱で赤黒く見える火葬炉の入口にころ[#「ころ」に傍点]のついた台車を押しつけた。みんながそのうしろに集まり、ぼくも壁から背中を離して、ポケットの中で汗ばんでいた両|掌《て》を躰《からだ》の前で組み合わせた。
引き出された棺桶は、そのときにはもう棺桶ではなくなっていたが、まったく見事に灰になっていた。一筋の煙すら立ちのぼっていなかった。お袋の骨は鉄板の土で順序を入れかえ、頭だった部分は腹のあたりに、奥歯のなん本かついた下|顎《あご》は、足元のほうにまで位置を変えていた。火の勢いで飛ばされたか、それともなにか面白くないことでもあって、お袋が自分で蹴飛ばしたかしたのだろう。
係りの人に言われて、ぼくと姉貴が二人で最初に骨を拾い、つづけて敬一伯父さん、定二叔父さんと、使った箸《はし》をそれぞれが次の人に手渡していった。骨だと形が見分けられるものは、いくらも残っていなかった。お袋のお袋であったところの大部分は、棺桶の板と一緒にこまかい灰色の粉に変わっていた。
みんなが一回ずつ箸を使いおわり、あとは係りの人が頭の骨を壺《つぼ》に移して、蓋を閉め、木の箱に入れて白い布で包み、それでもう、お袋はこの世からいなくなった。
空気は、不透明なくせに熱気が渦を巻いていて、放《ほう》っておけば建物もアスファルトもクルマも電信柱も、どろりと溶けて、なにもかもどろりと流れていきそうな、めちゃくちゃな暑さだった。その中を百人ほどの喪服の団体が駐車場から不規則な行列をつくって、だらだらと待合室へ向かっていた。
「納骨の日は、また改めてな」と、ロビーを出たところで、足にできた豆にでも腹を立てているような顔で、敬一伯父さんが言った。
はいと、ぼくは口の中で返事をした。ぼくの首には木箱に入った、軽すぎるお袋がぶらさがっていた。
伯父さんたちは陰のない広い駐車場を、陽射《ひざ》しに追われるように急ぎ足で自分たちのクルマへ歩いていった。誰も、一度もぼくをふり向かなかった。敬一伯父さんも定二叔父さんも、団体の誰よりも立派な喪服を着ていたが、人数で負けたことが気にくわないらしかった。
「これからまた仕事でねえ」と、遅れてロビーを出てきた姉貴が、ぼくの肩をたたいて、うしろから声をかけてきた。
姉貴のとなりには赤鬼のお面をかぶったような河野さんが立っていて、河野さんは顔中を湯気だらけにして、なにかしきりに姉貴に文句を言っていた。
「だからよう、新潟っくれえ俺《おれ》一人で行けるって言ってるだんべえな」
「あんたが言ったからって、キャベツは自分でトラックに乗ってくれないよ。今日一人でトラック転がせば事故を起こすに決まってるじゃないか」
「てめえの親が死んだんだぜ? そんなときっくれえ弟と一緒にいてやるんが人の道っつうもんだんべえに」
「人の道より新潟までの道のほうが大変なんだよ」
「ごちゃごちゃぬかすな。てめえがいたって横で居眠りしてるだけじゃねえか」
「なんでもいいからさ、早くトラックに乗っておくれよ」
「よう、それでもてめえは人の子か」
「あたしは二日も続けて火葬場《やきば》なんかに来たくないだけなの」
言葉だけでなく、骨壺を首からぶらさげた格好で、ぼくは本当に二人の間へ割って入った。
「いいんです、河野さん」
「放っときなよ研一」と、ハンカチでぱたぱたと顔を扇《あお》ぎながら、姉貴が言った。「これから市場を三つまわるんだよ。それに本当いうと、もう時間にも遅れててさ」
姉貴が河野さんを無視して、勝手にトラックのほうへ歩き出した。
「てめえ、この人でなし[#「人でなし」に傍点]」
「だいじょうぶです、ぼくはバスで帰ります」
歩いていた姉貴が、立ち止まって、ちょっとぼくをふり返った。
「明日の夕方には顔を出すよ。今までだって一緒に暮らしてたわけじゃなし、研一だって一人のほうが休めるよねえ」
河野さんが頭から流れる汗を軍手のような掌《てのひら》で、べろっと拭《ぬぐ》い、それからぼくに向かって、ぐわっと鬼が吠《ほ》えるようなため息をついた。
「わりいなあ研ちゃん。俺が自分のトラック買うまで、勘弁してくれよなあ」
そして河野さんは、小走りに姉貴へ近寄っていき、二人肩を並べて緑色のトラックまで駐車場を横切っていった。歩きながら姉貴は、その竜が彫ってあるという河野さんの広い背中を、まるで日向《ひなた》に干した布団でもたたくように、ぱんぱんとたたいていた。
ぼくは喪服の団体を幾人かやり過ごし、下から熱風を吹きあげているアスファルトの上を、眩暈を感じながら正門の方向へ歩きだした。
ぼくのうしろで、子供が泣き出した。
「本当に、暑くてねえ」と、泣き出した子供の頭に手をのせながら、中年の女の人がとなりの女の人に話しかけていた。「なにもねえ、わざわざこんな暑いときに死んでくれなくてもねえ……」
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クルマなら二十分しかかからない距離も、バスを二つ乗りつぐと火葬場から家までは一時間半の時間が必要だった。
ぼくが家に帰ってみると、門の横の塀に、遠くの松林をにらむような角度で、葬式用の花輪が一本凝然と立てかけられていた。陽射しばかり強い殺風景な舗道に、その白と黒と金ぴかの紙のかたまりは悲壮に居心地が悪そうだった。まん中には『前橋市市議会議長』と書かれた、たて長のボール紙がはさまっていた。
遠の反対側にとまっていた小型トラックから、若い男の人がおりてきて、汗を拭《ふ》きながらぼくの前に歩いてきた。
「助かったなあ、やっぱしお宅でよかったんだよなあ」
その人はぼくとお袋の正装を見てそう言ったのだろうが、ぼくもお袋も、その人を助けるためにこんな格好をしていたわけではなかった。
「近所でも葬式のことなんか知らないって言うしさあ」
「葬式はありません」
「でも、死んだんだろう?」
「ただ死んだだけです」
「人が死んで葬式やらないってかい」
「趣味の問題です」
「今どき葬式やらない家も珍しいやいなあ」
「お袋は、葬式が嫌いでした」
「死んだのはあんたのお袋さんかい。そいつは気の毒になあ。ところであんた、うちは注文されて花輪を持ってきただけなんだけどさあ」
「葬式はやらないんです」
「そりゃあ、そっちの都合だろうけどさあ」
「持って帰って下さいと言えば、持って帰ってもらえますか」
「どうしてもと言われりゃあ、そりゃあ、そういうことにならいねえ」
「それじゃ、持って帰って下さい」
男の人はふうんと唸《うな》って、しばらくぼくの顔と、骨壺の木箱と塀の花輪とを、意見がありそうな目でちらちらと見くらべていた。
「暑すぎると思いませんか」
「なんだって?」
「今日も、昨日《きのう》も、一昨日《おととい》も、その前の日も……」
「そりゃ、あちいことはあちいけど、俺のせいじゃねえもんなあ」
「似合わないんです」
「なにが」
「こんな暑い日に、そんな金ちゃかちゃの花輪が」
ぼくはそのまま、うしろを見ずに家へ入り、お袋の入った木箱をテレビの上に置いて、居間のガラス戸を開け放った。塀の外では花輪がゆれていて、男の人がやっと片づけにかかったようだった。今日も野球場からの喚声は聞こえていた。
「気の毒になあ。こんないい家に住んでて、金がなかったんかなあ」
ぼくは花輪が運び去られるまで待って、居間の奥にもどり、テーブルの下から椅子を出して深く腰をおろした。煙草《たばこ》に火をつけてみたが、胃がむかついて吸う気にはならなかった。
電話がなって、しばらくぼんやりとその音を聞いていたが、電話はなりやまなかった。
歩いていってぼくは電話に出た。
「今、なにしてるの」と、アキ子さんが言った。
「なにもしてない」と、ぼくが答えた。
「お母さんのこと、新聞で見たわ」
「良かった」
「どうして」
「お袋は目立つのが好きだった」
ふっと小さく息を吐いて、ほんの少し黙ってから、アキ子さんが言った。
「今、話をしていい?」
「いいさ」
「一人?」
「うん」
「一昨日の夜のこと、葉山くん、失礼だったと思わない?」
「失礼だと思った。だから朝まで反省していた」
「わたし、言い訳はしたくないけど、でも、ちょっとだけしたいな」
ぼくは受話器を左の手に持ちかえ、右|掌《て》の汗をズボンでこすり、また受話器を持ちかえて、うん、と返事をした。
「あのときわたしが言ったこと……」と、声をひそめて、アキ子さんが言った。「あれ、嘘《うそ》だからね。あんたの無神経さに腹が立っただけ。ひろちゃんとわたしでそんなこと[#「そんなこと」に傍点]、あるわけないでしょう?」
「あっても、おかしくないさ」
「おかしくはないけど、でもないの。そういうもんだと思わない?」
「そういう、もんかな」
また少し黙ってから、気の強そうな口の形が目に見えるような声で、アキ子さんが言った。
「そんなことでぐずぐず言うの、男らしくないわよ」
「反省はしている」
「今度会ったとき、言いなさいね」
「なにを」
「わたしのことが、好きだって」
「今度会ったとき、言おうと思っていたさ」
「それなら許してあげる」
「うん」
「それからね……」
「うん?」
「うちの親父《おやじ》がね、葉山くんに、元気を出すようにって」
それからしばらく、アキ子さんがなにか喋りつづけ、ぼくが相槌《あいづち》をうちつづけて、ぼくたちは同時に電話を切った。その間も蝉《せみ》はずっと鳴いていて、アキ子さんの声と悲しい合唱をつづけていた。田中くんと、そんなこと[#「そんなこと」に傍点]はなかったというアキ子さんの言葉を、ぼくは信じなかったが、それでぼくの人生が変わるわけでもなかった。
ぼくは居間に戻って、元の椅子に腰をおろした。
目の前のテーブルには伯父さんたちが使った湯呑《ゆのみ》や急須や、小皿や箸や、ぼくが昨日から飲みつづけていたビールの瓶やコップが、ひっそりと散らばっていた。テーブルの向こうにはテレビがあり、テレビの上には白い布に包まった小さすぎるお袋がうずくまっていた。改めて眺めてみると、木箱はテレビの半分もない大きさで、減量に関してだけ言えば、お袋にとってこれが初めての成功だった。これでお袋も、足音をたてずに階段をのぼれるようになったのだ。
十分ほど、テーブルに頬杖《ほおづえ》をついて蝉の声を聞いているうち、ふとぼくは気がついた。自分以外にテーブルを片づける人間は、もうこの家には、一人もいなかった。
ぼくは台所からステンレスの盆を持ってきて、食器を集め、テーブルを布巾《ふきん》で拭き、洗い桶に水を張って食器を放りこんだ。スポンジを取って中性洗剤を含ませようとしたが、洗剤の容器は空になっていた。棚のどこを探しても買い置きは見つからなかった。
「洗剤、買ってこなくちゃな……」
一人ごとを言ったとたん、急に涙が出てきて、もう止まらなかった。ぼくは食器を桶ごと床にたたきつけ、風呂《ふろ》場に走って、服を着たままシャワーの下に坐《すわ》りこんだ。怒りと涙が際限もなくあふれ出し、それが水と一緒に、風呂場の排水口に音をたてて流れていった。ぼくは床に腹這《はらば》いになって、タイルのめじ[#「めじ」に傍点]に必死で指を食いこませていた。そうしていないと怒りや涙や水と一緒に、ぼく自身が分解して、排水口の中にさらさらと消えていってしまいそうだった。
いい加減|喚《わめ》いて、涙の在庫がなくなり、ぼくがシャワーを出てパジャマに着がえおわったとき、玄関に男の人が訪ねてきた。どこかで期待していて、そしてどこかで、諦《あきら》めてもいた人だった。歳《とし》は五十ぐらい、背が高く、厚い胸と広い肩を夏用の背広できっちりと包んでいた。日焼けした硬そうな首には、白いワイシャツの襟がきつそうに巻きついていた。ぼくは首にかけたタオルを両手でつかみ、ゆれようとする自分の重心を、一生けんめい自分の両手で支えていた。
その人は開けたドアの前に立ったまま、珍しそうに玄関を見まわし、あとは空気の震動に耳を澄ますような顔で、皺《しわ》の深い視線をじっとぼくの顔にすえつづけた。
「新聞を、見た」
「知らせるだけは、知らせようと思いました」
「新聞に広告を出したのは、私への連絡のためか」
「はい」
「そうか。線香をあげたいが……」
「線香はありません」
その人は下唇に、かすかに力を入れたが、帰るとは言わなかった。ぼくらは黙ったまま、しばらくお互いの表情をのぞき合っていた。
「あがりますか」と、ぼくが訊いた。
「そうだな」と、男の人が答えた。
ぼくはその人を廊下にあげ、居間の、お袋の骨壺がのっているテレビの前へ案内した。
低いため息と一緒に、面白がっているような目で、その人がじろりとぼくの顔を眺めてきた。
「本当に葬式を出さなかったのか」
「はい」
「これからどうする気だ」
「はい?」
「学校とか、生活とか」
「今までどおりです」
「それで……」
「はい?」
「だいじょうぶなのか」
「はい」
「どういうふうに、だいじょうぶなんだ」
「普通に、だいじょうぶです」
その人は頬をゆがめて、口の中で笑い、またため息をついて、お袋のほうにちらっと目をやった。それからなにか決心でもしたように、ぼくの倍ほどもありそうな手を合わせて、テレビに深々と頭をさげた。そうやってその人は、ずいぶんと長い間テレビを拝んでいた。
やがて、ゆっくり顔をあげ、背広の内ポケットから白い封筒を取り出して、その人が一歩ぼくに近づいた。
「香典というわけではない」
「香典でないと、なんですか」
「気持ちだ」
「気持ちなら、気持ちだけでいいです」
「受け取れないという意味か」
「はい」
「受け取らないんだな」
「はい」
その人は苦笑いのようなものをして、天井に向かって息を吐き、封筒をポケットにしまいながら、皺をきざんだ静かな目でていねいに部屋の中を眺めわたした。
「コーラ、飲みますか」と、ぼくが訊いた。
「いや」
「ビールもあります」
「研一」
「はい」
「目の下は、どうした」
「これは、だいじょうぶです」
「どういうふうにだいじょうぶなんだ」
「だから、普通に、だいじょうぶです」
その人が困ったような顔で、なん度かうなずき、口をかたく結んで見せてから、黙って玄関へ歩き出した。ぼくもあとについていった。背広の広い肩が岩かなにかでできた、硬質な壁のような感じだった。
門の外には、黒ぬりの大型乗用車が西日と蝉の声を受けて、黙々ととまっていた。ぼくはパジャマのまま、そこでその人のあとについていった。
運転手がおりてきて、後部座席のドアを開け、黙ってその人が乗りこんだ。ぼくのほうに顔を巡らせたその人の頬に、西日が一瞬太い皺を彫ったが、それがぼくに対して笑ってみせた表情なのか、ぼくにはわからなかった。
ぼくはその人の乗った黒ぬりの乗用車が走り出し、植物園の角をフラッシャーをつけながら右に曲がって、見えなくなるまで、パジャマのままずっと門の前に立っていた。
それから家に入り、玄関の鍵《かぎ》をかけ、居間にもどって、一つ欠伸《あくび》をした。
蝉の声と野球場の喚声が、突然よみがえって、ぼくの頭の中で、それはいつまでも耳鳴りのように響きつづけた。
もう一つ欠伸をしながら、とにかく眠りたいなと、ぼくは思った。
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単行本 一九九〇年一一月 文藝春秋刊
底本
ハルキ文庫
一九九九年九月一八日 第一刷