プラスチック・ラブ
樋口有介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)電車が呑気《のんき》な振動をひびかせる。
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)山口|南生子《なおこ》の顔が目に入ったのだ。
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雪のふる前の日には
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堀切橋と平行して走る荒川の鉄橋に、電車が呑気《のんき》な振動をひびかせる。まだ夕方のラッシュは始まらず、小学生やパートの帰りのおばさんが埃《ほこり》っぽく体臭を撒《ま》きちらす。人息でくもった窓ガラスの向こうに高速環状の黄色い照明灯が寒そうに連なっていく。今日が二学期の終業式で、これから冬休みが終わるまでの二週間、ぼくも制服の灰色から気分だけは解放される。
京成線の堀切菖蒲園駅につき、ぼくとなん人かのおばさんを吐き出して、電車がまた埃っぽく夜の中に消えていく。日の短い季節とは知っていても、電車に乗っていた三十分でここまで暗くなることに、諦《あきら》めに似た不安がまぎれ込む。
改札を出たところで首にマフラーを巻きなおし、商店街の方向に歩き出して、ぼくの足が凝灰岩《ぎょうかいがん》のように固くなる。ガード下の鉄柱に寄りかかった山口|南生子《なおこ》の顔が目に入ったのだ。南生子はジーンズに白いスニーカーをはき、ベージュ色のハーフコートを着て首に黒い毛糸のマフラーを垂らしていた。前髪を額にかけたショートカットは中学のころと同じでも、南生子に会うのは、中学を卒業して以来一年九ヵ月ぶりだった。
迷ったが、けっきょく声をかけずに、ぼくはそのまま商店街への道を歩き出した。突然目の前にあらわれた南生子に怖《お》じ気づいた自分を、ぼくはじゅうぶん意識していた。
並びかけてきて、声をかけたのは、意外にも南生子のほうだった。
「気がついたくせに、木村くん、知らん顔して行っちゃうんだ?」
「今は観たい映画がなくてさ」
「なんのことよ」
「映画以外で君に声をかけるきっかけが、まだ見つからない」
南生子が足を止め、横目でぼくの顔を見あげながら、マフラーに顎《あご》をうずめて、低く鼻を笑わせた。
「木村くん、そういうことにこだわる人だったの」
「性格が几帳面《きちょうめん》なんだ」
「見かけによらないわね」
「人なんて、みんな見かけによらないさ」
「木村くんだけは別よ」
「そうかな」
「几帳面ではないという噂《うわさ》、よく聞くわ」
どんな噂であるか、想像はつくが、そんなことを南生子から言われても仕方がない。それに南生子の家は駅を挟んで、ぼくの家とは反対の方角ではなかったのか。
「君、ぼくを待っていたわけではないだろう」と、少し歩いて、ぼくが言った。
「木村くんを待っていたの」
「どうして」
「水江が家出をしたの」
「ふーん」
「島野水江、覚えているでしょう?」
島野水江は中学三年のときぼくや南生子と同級だった子、それぐらいのことはもちろん覚えている。でもその水江が家出をすると、なぜ南生子が駅前でぼくを待っているのか。それもこんな寒い日の、こんな時間に。
「言ってる意味が分からないな」
「だから水江が家出をしたと言ってるの」
「家出ぐらい島野でなくてもできるさ」
「その言い方、相変わらず薄情ね」
「見かけを裏切りたくないんだ」
ふっと肩で息をつき、またマフラーに顎をうずめて、南生子が切れ長の目を怒ったように見開いた。
「わたし、冗談を聞きに来たんじゃないのよね」
「思い出した」
「なにを」
「君は冗談が分かる体質じゃなかった」
「人が真面目に言ってるときは、真面目に聞きなさいよ」
それならあのときはお互い様だった、と言いたかったが、南生子のへんに真剣な目つきに、ついぼくは言葉を出しそびれた。ぼくにだって南生子がラブレターを渡すつもりでないことぐらい分かっている。島野水江の家出について、なんのつもりか、南生子はぼくを巻き込むことに決めている。髪形も強引さも中学のときのまま、広い額や生意気そうな鼻の形も相変わらず、そんな南生子に感じる未練に対して、頭の中で、ぼくはひっそりとため息をついた。
ぼくらが入ったのは、一階がケーキ屋になっている小さいパーラーだった。ぼくの高校にも『喫茶店への出入り禁止』という風変わりな校則はあるし、南生子の通っている桐葉《とうよう》学園でも同じことだろう。理屈を言えば、この店は喫茶店ではなく、ただのパーラーだった。
ぼくらは通りを見おろす窓側の席に向かい合って座り、南生子がホットチョコレート、ぼくがホットレモネードを注文した。
「君が島野と親友だったことは覚えてる」と、マフラーをゆるめてから、コップの水で唇を湿らせ、無理やり肩の力を抜いて、ぼくが言った。「彼女、高校はどこだっけ?」
大きく目を見開き、その憎らしいほど形のいい唇を、南生子が力一杯|尖《とが》らせた。
「知らないの?」
「同級生は三十五人もいた」
「都立の鶯谷。一緒に桐葉学園を受けたけど、水江のほうは落ちてしまった」
「だれがどこの高校へ行ったかなんて、覚えてはいないさ」
「でも水江のことは覚えているべきよ」
「どうして」
「デートまでしたくせに」
「だれが」
「木村くんよ」
「ぼくがなぜ島野とデートをする?」
「なぜかなんて、そんなこと、わたしが知るわけないわよ」
チョコレートとレモネードが来て、ぼくらはそれぞれのカップを自分の前に引き寄せ、スプーンで掻《か》きまわす間だけ、ちょっと黙っていた。
レモネードを一口飲んでから、尖ったままの南生子の唇を眺め、空気の違和感を押し返して、ぼくが言った。
「ぼくが島野とデートしたなんて、だれが言ったんだ?」
「水江が自分で言ったわ。木村くんと上野の二科展を見に行って、そのあと江戸屋でアンミツを食べたって」
「おとなしいデートだな」
「デートはデートよ」
「本当なら、もちろん、デートだけど」
「本当じゃないの」
「ぼくが君に嘘《うそ》を言う必要はないさ」
「わたしには関係ない」
「関係なくても、やっぱり、ぼくが君に嘘を言う必要はないんだ」
南生子がチョコレートのカップを持ったまま、背中を椅子《いす》の背もたれに引き、視線をゆっくりと窓の外へもっていった。向かいのビルから届くパチンコ屋の赤いネオンが、南生子の右の頬《ほお》と右の耳たぶを、火照《ほて》ったような色に染め分ける。
「島野は君に、なぜそんなことを言ったのかな」
「無神経よね」
「そういう意味じゃない」
「わたしが言ったのは木村くんが無神経だということ」
しゅっとチョコレートをすすり、カップをテーブルに戻して、南生子が胸の前でセーターの偉そうに腕を組み合わせた。
「水江が木村くんを好きだったことぐらい、知ってるでしょう?」
「まさか」
「知らなかったの」
「島野は言わなかった」
「木村くん、言葉で言われなければ分からない人なの」
「相手次第かな」
「言わなくても気づいてやるの、男子のほうの礼儀じゃないのよ」
ずいぶん無茶な論理で、そんな論理が成り立つなら、あのときぼくの気持ちに気づかなかった南生子だって、しっかり無神経だ。
「木村くん……」と、腕を組んだまま、蔑《さげす》むように眉を広げて、南生子が言った。「まだ吉井成美と付合ってるの」
「君には関係ないはずだ」
「わたしには関係ないけど、水江には関係あるの」
短い前髪を指で払い、舌の先で唇をなめて、ふて腐れたように、南生子が小さく尻を動かした。
「今年の春ね、水江とアメ横に買い物に行ったとき、木村くんと吉井成美が一緒にいるところを見ちゃったの。水江、ショックだったらしい。それから帰るまで口をきかなかった」
「君の言いたいことがまだ分からない」
「だから木村くんから水江に言ってほしいの、ちゃんと家に戻って学校にも行くようにって。水江、もうわたしの言うことなんか聞かないんだもの」
「島野がいる場所、分かってるのか」
チョコレートのカップに手をのばし、頬をふくらませて、こっくんと南生子がうなずいた。
「場所が分かっていて連絡がとれれば、家出とは言わないだろう」
「ほかになんて言うのよ」
「そんなことは知らない。だけど島野は行方不明ではないし、理由があって家を出たんだろうし、そういうことがぼくに関係あるとは思えないな」
「まったく……」と、カップを口に押しつけながら、南生子が形よく尖った顎を、呆《あき》れたように上向けた。「木村くんて案外せっかちよね。わたしはその事情を説明しようと思って、一時間も待ってたんじゃないのよ」
急に可笑《おか》しくなって、首筋に汗を感じながら、ぼくは思わず笑ってしまった。もし南生子がぼくの彼女だったら、今ごろ疲れきって、ぼくは学校に通う気力をなくしていた。
「なによ」
「なんでもないさ」
「わたし、可笑しいことを言った?」
「君とこんなふうに話をするの、初めてだったな」
「必要なかったもの」
「島野の家出に感謝するか」
「失礼なやつ」
「少なくとも笑えたさ」
「わたしのこと、馬鹿にしてるわけ?」
「馬鹿になんかしてない。でも島野のことぐらい、電話で話せばよかったろう」
「そう言うと思ったわ。木村くんが薄情なこと、学校中で評判だったもの。電話だけなら断られると思ったから、待ち伏せして、どうしても水江のことを頼みたかったのよ」
そういう単純な発想は、ぼくも嫌いではないが、ぼくだって評判と噂の中だけで生きているわけではない。女の子にふられれば落ち込むし、相手によっては気持ちがこだわることもある。南生子はその当たり前の事実を、率直に無視している。ぼくの知っている島野水江は中学のとき南生子と親友だった女の子というだけで、それ以上でもそれ以下でもない。南生子自身のトラブルならともかく、今さら水江の問題にぼくが口を出す必要が、どこにある。
「水江ね、今友達のアパートにいるの」と、一度視線を窓の外にやって、口元を引きしめ、まつ毛を長くふるわせながら、南生子が言った。「家を出たのは一週間前、わたしもそのことはあとで電話で聞いたの。先週の金曜日に会って、高校だけは卒業するように言ったけど、水江って意外に頑固なのよね」
「友達って、もしかして、男?」
唇を怒ったようにゆがめて、額にかかった前髪を、南生子が両手でうしろに掻きあげた。
「新宿のライブハウスで知り合ったらしい……バンドやってる子。前に一度だけわたしも会ったことがあるけど」
「どんなやつ?」
「ヘビメタ」
「髪を紫色にしたり、金色にしたり?」
返事はしなかったが、口の曲げ方で南生子が肯定の意思表示をした。
「島野もヘビメタになったのか」
「水江はそこまでやってない。でもそのうち自分でもヴォーカルをやりたいって」
つまり島野水江は家を出て、学校にも行かなくなって、ライブハウスで知り合った男と同棲《どうせい》を始めて、自分でもそのうちヘビメタになるということだ。中学のころの水江からは想像もつかないが、どっちみちぼくは水江について、特別な印象を持っていなかった。同窓生では子供を産んだ女の子もいるし、水江の生き方に対して口を出すのは南生子のお節介で、そしてぼくが口を出すのは、それ以上のお節介だ。
「島野が悪いことをしているとは、思えないけどな」
「わたしは水江に戻ってほしいだけ。それから高校も、ちゃんと出てほしい」
「島野が自分で考えて自分で決めたことだろう」
「木村くんは事情を知らないのよ。水江の家《うち》って複雑なの。水江が本当にロックをやりたいならそれでもいい。でもそうじゃないの。水江、ただ自棄《やけ》を起こしてるだけなの。水江には時間をかけて将来のことを考えてほしいの」
「意外だな」
「そうでしょう? 中学のころは水江、ヘビメタなんて軽蔑してたものね」
「ぼくが意外だったのは、君が見かけによらず常識家だということ」
南生子が、一瞬|眉《まゆ》をひそめ、ぼくの顔を見つめながら、目のまわりにすっと血の気をのぼらせた。
「わたしのどこが常識家よ」
「言ってることがぜんぶ常識家だ、まるで進路指導の教師みたいだ」
「水江のことを心配して、どこがいけないの?」
「心配なら心配するだけでいいさ。どんな事情があるか知らないけど、島野は自分で自分の生き方を決めた。他人がそれに対して文句を言うのは、大きなお世話だ」
「木村くんのほうこそ、物分かりのいいオヤジみたいじゃないのよ」
「他人《ひと》の生き方に干渉するのは失礼だと思うだけさ」
「干渉して悪いの? 友達を心配して意見を言うことのどこがいけないのよ。わたしと水江、小学校のときから親友だったのよ」
「次元が違う」
「どう違うのよ。木村くんの次元が高くて、わたしの次元が低いわけ?」
「そんなことは言ってない」
「言ったじゃないの、友達のことを心配するのは次元が低いって。他人のことなんか放っておけばいいって。冷たく突き放すほうが次元が高いって」
「君、なあ……」
「気安く言わないでよ」
「怒ることないだろう」
「怒ってなんかいないわ」
「困ったな」
「木村くんみたいな冷たいやつ、死ぬまで困ることはないわ」
南生子が突風のように立ちあがり、ジーンズの前ポケットからつまみ出した五百円玉を、テーブルの上にぴしりと叩きつけた。
「木村くんに頼むの、間違いだったみたいね」
「最初からそう言ってる」
「わたしや水江がどうなっても、木村くんには関係ないものね。木村くんは吉井成美や板倉玉枝と付合うのに忙しくて、中学の同級生のことなんか、気にしてる暇はなかったのよね」
力一杯うなずき、凄い目でぼくの顔を睨《にら》みつけて、それからわざとらしく背中を回し、ふり返りもせず、コートとマフラーを掴《つか》んで南生子が大股《おおまた》にフロアを歩いていった。ぼくは呆気《あっけ》にとられて、しばらく息を止め、鮮やかに動く南生子のスニーカーを茫然《ぼうぜん》と眺めていた。
ぼくが止めていた息を吐き、残っていたホットレモネードを飲み干したのは、南生子の短い髪が階段に消えてから、十秒もしてからだった。明日から冬休みだというのに、ぼくは一気に、十年ぶんも疲れた気分だった。中学三年のとき南生子に振られたのは、もしかしたら正解だったかなと、ぼくは本気で考えた。なにか事情はあるにしても、南生子にあそこまで怒られる必要が、どこにあるのだ。
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ぼくが自分の部屋で、教科書も参考書も開かなかったのは、次の日から始まる冬休みだけが理由ではなかった。ぼくは電気ストーブをつけて勉強机の椅子に座り、中学の卒業写真を取り出して、長い時間ぼんやりと眺めていた。写っているのは男子が十九人、女子が十六人。男子は黒い詰め襟で女子は背中に白い線の入った紺のセーラー服、そんな野暮ったいセーラー服を着ていながら、南生子だけはやはり、うしろから二列めのまん中で困るほど輝いていた。
ぼくはしばらく写真の南生子と睨めっこをしたあと、思い出して、同じ写真の中に島野水江の顔を探してみた。水江は南生子よりも一列前の、左から二番めに髪を肩まで垂らして写っていた。どこといって特徴があるわけでもなく、欠点のある顔でもなかった。一年間同じクラスだったから、話をしたことはあったはず。しかし記憶を集中させても、けっきょくぼくはなにも思い出さなかった。ぼくが見ていた女の子は南生子だけで、南生子のとなりにいた島野水江はただの影としか思わなかった。一人の女の子が、もう一人の女の子の影でしかないなんて、本当は、あり得ないことだった。
「あの島野が、ヘビメタか……」と、声に出して一人ごとを言ったとたん、パーラーでの南生子の怒った顔が頭に浮かんで、机に頬杖をついたまま、そっとぼくは肩をすくめた。
あそこまで向き[#「向き」に傍点]になる必要はないと思うが、南生子が親友だった水江の『ヘビメタ化』に干渉するのは、状況を考えれば、悪意ではないだろう。ぼく自身ヘビメタに意見はなくても、あの革ブーツや太いベルトや頭の色彩感覚に、なんとなく悲しい気分にはなる。写真の中の普通すぎるほど普通な島野水江が、家を出て、学校もやめてヘビメタになろうとするからには、どうせなにかの理由はある。ぼくが水江の話を聞き、南生子の気持ちを水江に伝えてやっても、水準以上のお節介ではないのかも知れない。
意地を張っていないと思いながら、やはりぼくは意地を張っていた。南生子がぼくの存在に見事なほど無頓着で、それをぼくの無意識が許せないと決めつけていた。あれから二年もたっているのに、自分で思っているほど、ぼくの寛容度は成長していなかった。
ぼくが卒業写真を机の引き出しにしまい、下におりていったのは、十時を少し過ぎた時間だった。二年前たった一度電話をしただけなのに、ぼくの記憶はしっかり南生子の電話番号を覚えていた。ぼくは階段をおりながら、自分の頭を自分の拳《こぶし》で、こつんと叩いてやった。
「もしもし、さっきは悪かった」
「わたしもちょっとだけ反省したわ」
「ちょっとだけ……な」
「いろんなことがあって、少し苛々《いらいら》してたみたい」
「家に帰ってから中学の卒業写真を見ていた」
「わたしも見ていた」
「へんに懐かしくてさ」
「そうなのよね、あのころは二人とも若かったわよね」
「その……」
「なあに?」
「島野のアパート、場所は分かるのか」
「東中野、この前会ったとき住所は聞いておいた」
「大事なことを思い出した」
「………」
「明日から冬休みで、それで当分、暇になるだろうってこと」
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駅前で待っていた南生子は、昨日と同じベージュのハーフコートに、下はコーデュロイのパンツと黒いタートルネックだった。唇には薄い色の口紅が塗られていて、セーターの黒と濡れた唇の色が昨日より少しだけ大人っぽい雰囲気をつくっている。正午《ひる》を過ぎているのに日射しは気配すらなく、灰色の風が荒川の方向から強く堀切の町に吹き込んでいた。学校なら出かける決意が鈍りそうな天気で、だがぼくはもう、今朝は起きたときから、自分でも笑ってしまうぐらい張りきっていた。
ぼくと南生子は改札口の前で一度ずつうなずき合い、黙ってキップを買って、黙って改札を通り抜けた。ぼくのほうは言葉を出すきっかけが見つからず、南生子が口を開かなかった理由は、寝不足か、天気が気に入らないか、そんなところだろう。
ぼくたちは京成線で日暮里に出て、電車をJRに乗りかえ、山手線と総武線を乗りついで東中野に出た。電車に乗ってから初めてぼくらはコミュニケーションをこころみたが、内容は昨夜聞きそびれた、島野水江の『家庭の事情』だった。親父《おやじ》さんは子供のころに死んでいて、お袋さんが東堀切で美容院をやっているという。お袋さんが二年前に再婚し、義理の父親が家に入った。水江はその義理の父親と折り合いが悪いらしい。ぼくを含めた三十五人の同級生には、三十五人ぶんの『家庭の事情』があって、それぞれが屈託《くったく》を抱えたままうつむき加減に生きている。ぼくはその当たり前の理屈を忘れ、南生子に薄情と罵《ののし》られ、それでもたいして反省はせず、自分の日常に恥もなく愛着を感じてしまう。
新宿まで来たことはあっても、東中野なんて町に、もちろん馴染《なじ》みはない。ぼくが知っていたのは東京のどこかにそういう名前の町があって、そしてどうせそれは中野のそばだろうという、その程度のものだった。南生子の東中野に関する知識も、嬉《うれ》しくなるほどぼくと同じだった。ぼくらは東口改札を出たところの交番で東中野三丁目を訊《き》き、そこで東京の偉大さをあらためて納得した。三丁目は新宿寄りの改札ではなく、中野側から出るのが正解で、ぼくらはガードをくぐって線路ぞいを中野方向に歩きはじめた。
今日最初に会ったときから、南生子は失礼なほど無口で、コートのポケットに両手を入れたまま、ぼくのとなりを寒そうな顔で歩いていた。
「島野、アパートにいるかな」と、山手通りを中野側へ渡ってから、舗装路に舞う欅《けやき》の落葉を踏んで、ぼくが言った。
視線を自分の足元にやって、悪寒でも我慢するように、南生子が小さくうなずいた。
「昨夜、電話はしておいた」
「ぼくが一緒に行くこともか」
「木村くんのことは言ってない」
理由を訊きそうになって、奇妙に怒っている南生子の横顔に、ぼくは余計な質問はやめることにした。女の子には独得な体調とかいうのがあって、その不可解な波長はいつもぼくを混乱させる。それに南生子の体調がどうであれ、現実にぼくらはもう、東中野に来てしまっている。
「木村くん」
「うん?」
「わたし、駅で待ってていいかなあ」
答えようがなくて、ぼくは一歩だけ前に進み、前髪を風にゆらしている南生子の白い顔を、正面からのぞき込んだ。南生子は口をかたく結んで、枯葉の流れる灰色の舗道を、ぼんやりした目で見つめていた。
「パチンコ屋のとなりに喫茶店があった」と、一歩うしろに下がって、ぼくが言った。
南生子が肩をすくめ、ぼくの顔に視線を戻しながら、軽くローファーのかかとを踏み鳴らした。
「理由、訊かなくていいの」
「訊いたほうがいいかな」
「なんとなく水江に会いたくないだけ」
「ぼくにはどうせ、君の考えてることは分からないさ」
怒り出しはせず、大きく瞬きをしただけで、南生子がコートの襟に軽く顎をうずめ込んだ。
「水江のアパート、もう近いわよね」
「この道を右に曲がったあたりだと思う」
「本当に、喫茶店で待ってていい?」
「いいさ」
「木村くん、大人になったじゃない」
「君と二日つづけて会って、ぼくは十年ぶん歳《とし》を取った」
南生子がくすっと笑い、二、三歩駅のほうに歩いて、肩の向こうから強引に視線を巡らした。
「水江のこと、頼むわね。わたし、本当に水江のことが心配なの」
ほんの少しだけ視線を引きずり、あとはコートの華奢《きゃしゃ》な背中を見せて、南生子が風を切るように駅の方向へ歩き出した。ぼくはしばらくそのうしろ姿を眺めたあと、線路ぞいに歩きはじめて、ついでに道に転がっていた小石を、ぽーんと蹴とばしてやった。自分の存在がお節介であることは承知していたが、状況はぼくが考えているより、もう少し面倒らしかった。
島野水江がヘビメタ男と住んでいるという竹下荘は、通りがかったおばさんに一度訊いただけで、簡単に見つかった。外側が無気力なピンク色で塗られたモルタルアパートで、外階段の剥《は》げたペンキの下から茶色い錆《さび》止め塗料が浮きあがっていた。水江の部屋はその鉄階段をのぼった、二〇六号室だった。
ドアを開けた水江は赤いジャージのスエットパンツに赤いセーターを着て、その上にぴかぴか光る金色のジャンパーを羽織っていた。服装の配色はじゅうぶん衝撃的だったが、髪を染めているわけでもなく、犯罪になるほどの化粧もしていなかった。
「やあ」と、しばらくお互いの顔をのぞき合ってから、恐るおそる、ぼくが言った。「ドアを開けたままだと、寒いんじゃないか」
水江が一瞬、ぼくのうしろにだれかの顔を探す表情をしたが、すぐに肩で息をつき、額にニキビの目立つ顔を大きく天井にふり向けた。
「なーんだ、昨夜南生子が電話してきたの、そういうことだったの」
肩をふるわせて笑いだし、笑ったまま、水江が目でぼくを中へ促した。
ぼくはドアを閉め、狭い沓脱《くつぬぎ》でスニーカーを脱いで、その驚異的に雑然とした六畳の和室に、えいっと上がり込んだ。狭い台所はついていたが、部屋はベッドとコタツに息苦しくなるほど占領され、おまけに壁という壁はポスターと洋服と吊り戸棚とに、これでもか[#「これでもか」に傍点]というほど取り囲まれていた。この部屋で同棲できるなら、水江とヘビメタ男は、よほど美意識が共通している。
「まさかねえ、木村くんが来るなんて、思ってもいなかったわよ」と、リモコンでテレビのスイッチを切り、向き合ってコタツに足を入れてから、にやっと笑って、水江が言った。「南生子がなにを言ったか知らないけど、木村くんてさあ、そういうお節介する人だった?」
「こういうお節介をする人だったんだ。ぼくも昨夜、初めて自分の人格に気がついた」
「なんでもいいけど、久しぶりよねえ。まだ吉井成美と付合ってるの」
「一ヵ月でふられた」
「板倉玉枝とは?」
「もう半年も会ってない」
「それじゃあれは? あの、金町の不良で有名だった子の彼女。木村くんその彼女にちょっかい出して、あいつらに袋叩きされたんでしょう?」
「ぼくより詳しいな」
「堀切のネットワークからは逃げられないわよ、噂が届くのに一週間もかからない」
「島野のほうは?」
「あたしのなに?」
「この部屋の人、出かけてるのか」
「ガソリンスタンドでバイトやってんの。夕方まで帰ってこないわ」
「ヘビメタだってな」
「ベースでね。音を作るの、けっこういいセンスしてるの。テレビにだって出たことあんのよ」
「ええと、その……」
「分かってるって。ねえ、蜜柑《みかん》でも食べなさいよ」
水江がコタツの上の蜜柑|籠《かご》をぼくのほうに押し出し、仕方なく、ぼくは一つもらってゆっくりと皮を剥《む》きはじめた。
「それでさあ、あたしのこと、南生子にはいつ聞いたの」と、自分でも蜜柑の山に手をのばし、コタツ板に肘《ひじ》をかけながら、水江が言った。
「昨夜。君が家を出て、学校にも行かないでヘビメタになりそうだって」
「大きなお世話よねえ。南生子って、いつだって自分だけいい子になるんだから」
ちゅっと音をたてて、蜜柑をすすり、厚ぼったくて横に広い下唇を、水江がうんざりしたように突き出した。醜い顔でもなく、付合ってみたいと思う顔でもなく、金ぴかのジャンパー以外、印象は中学のころとそれほど変わってはいなかった。
「でも意外よねえ。そんなことでわざわざ、木村くんが来るなんてさあ」
「今日から冬休みだしな」
「そう? そうかあ、もう冬休みなんだっけ」
「高校、本当にやめるのか」
「まだ考えてない。でも家《うち》には戻らないから、結局やめるんじゃない?」
「あと一年で卒業なのにな」
「関係ないって。都立の鶯谷なんか卒業したって、意味ないもん。南生子みたいに大学へ行くわけじゃないしさあ」
普通に生きて歳をとることだけのために、高校の卒業証書が意味を持たないことぐらい、ぼくにだって分かっている。それでもぼくは今、意識的に勘違いを装って、善人のふりをしながら恥ずかしく生温《なまぬる》い蜜柑をしゃぶっている。
「山口も心配してるし、家に戻って、学校へ行く気はないのか」
「本気? 木村くん、そんなこと本気で言ってるわけ?」
「普通に考えたらそういうことになる」
「木村くんが普通に考えるわけ、ないじゃん。南生子に頼まれただけでしょう?」
返事の仕様はなかったが、立場として、水江の断定を肯定したら具合は悪いだろう。喫茶店で待っている南生子の顔が思い出され、居心地悪く、ぼくは赤面した。
「木村くん、大学は決めたの」と、口から蜜柑の袋を取り出し、気楽な顔で皮の中に押し込みながら、水江が言った。
「私立の適当なところに入るさ」
「三年の文化祭の日のこと、覚えてる?」
「文化祭の日の、なに」
「文化祭が終わったあと、木村くんがあたしを途中まで送ってくれたじゃない」
言われて、もしかしたらそんなこともあったかなとは思ったが、正直なところ、やはりぼくは思い出さなかった。
「あのとき木村くん、テレビ局か出版社に入りたいって言ったでしょう? なにか作り出す仕事をしたいってさあ」
「そうだったかな」
「覚えてない?」
「どうだかな、まだ先の話さ。君は本当にヘビメタをやるのか」
「意外と音感はいいんよ、躰《からだ》うごかすのも好きだしね。それにさあ、それぐらいのことしなきゃ目立たないもん。南生子みたいにぼーっとしてるだけで男がふり返る子と、立場が違うのよねえ」
「島野と山口、なにかあったのか」
「なにかって?」
「だから、特別、仲が悪くなるようなこと」
水江がしゅっと鼻水をすすり、肩の前に垂れていた髪を、尖った指で面倒臭そうに掻《か》きあげた。
「そんなもの、あるわけないじゃん」
「山口は気にしてた、君が自棄《やけ》を起こしてるって」
「あたしは南生子のお付き[#「お付き」に傍点]がいやになっただけ。中学のときはそれで男の子も集まってきたけど、本当はみんな南生子がお目当てだったんよ。南生子のお零《こぼ》れを拾って歩くの、もう面倒なの。だから今度のこともこれ以上余計なお節介は焼くなって、南生子にそう言ってくれない?」
「その、それ……」と、コタツ板の上に置いてあるタバコと、赤い使い捨てライターを目で指して、ぼくが言った。「一本もらえるかな」
水江が鼻で返事をして、タバコとライターを、ひょいとぼくの側に押し出した。
中から一本をもらって、ぼくはそのタバコに火をつけた。
ぼくが水江に訊かなくてはならないことは、何もなかった。言ってやることも、もちろんなかった。水江は南生子より、少しだけ大人になる時間を急いでいる、ただそれだけのことだった。
ぼくがタバコを吸っている間、水江も黙って蜜柑を食べつづけていて、ぼくが言葉を出したのは、吸っていたタバコをブリキの灰皿でつぶし消した、そのあとだった。
「ぼくがここに来る必要がないことは、最初から分かっていた」
「べつにさあ、気になんかしてないわよ」と、金色の両肘をコタツ板に滑らせ、新しい蜜柑に手をのばして、水江が言った。「南生子に頼まれれば仕方ないわよ。でもけっきょく、なるようになったわけじゃない」
「なにが」
「木村くん、南生子と付合ってるんでしょう?」
「昨日三十分と、今日一時間。山口と付合ったのはそれだけ」
「嘘みたい」
「どうして」
「だって……」
水江が口を開けて笑い、蜜柑の房を噛んで、袋を歯と唇の間からくちゃっとしごき出した。
「特別に意味はないんよ。木村くんがそういう素直な性格だなんて、信じられなかっただけ」
自分が今日なにをしにここへ来たのか、ぼくはもう考えないことにした。水江に会って南生子の気持ちを伝え、口実に対する義務だけは完了した。それにぼくが思っていたとおり、水江は水江の価値観で、けっこう華やかな人生を送っている。
「長くいるつもりはないんだ」と、コタツから足を抜き、水江に会釈を送りながら、尻をうしろにずらして、ぼくが言った。
「ゆっくりしてけばいいのに。よかったら夕飯でも食べていったら?」
立ちあがったぼくに、自分もコタツから腰をあげ、誘うように、水江がぼくの顔を覗き込んだ。
「新宿で待ち合わせがあってさ」
「デート?」
「そんなとこかな」
「忙しい性格よねえ」
「なあ島野」
「うん?」
「やっぱり、家には一度帰ったほうがよくないか」
「そういう訳にはいかないんよ」
ぼくのうしろをドアの前まで歩いて来て、口の端を片側だけ曲げながら、水江がばさりと髪を掻きあげた。
「帰れたらあたしも苦労ないわけよ」
「事情はあるだろうけどさ」
「お袋の相手の男がね、お袋がいないとき、あたしに手を出すの。そんなこと南生子には言えないでしょう」
「お袋さんは知ってるのか」
「知るわけないじゃん、言ったらお袋が可哀そうだもん。でも気にしなくていいんよ。世間にはよくある話だし、あたしはあたしで気楽にやってるんだから」
スニーカーの紐《ひも》を結び、ドアを半分開けて、肩を外に出しながら、ぼくが言った。
「ステージに立つようになったら、連絡をくれよな」
「見に来てくれるの」
「義理がある気がする」
歯を見せて笑い、それから金色のジャンパーの背を丸めて、水江がドアの隙間《すきま》から大げさに空をふり仰いだ。
「寒いわよねえ。明日あたり雪がふるって、さっきテレビで言ってたっけ」
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南生子が待っていたのは東中野駅前の、パチンコ屋のとなりにあった狭い喫茶店だった。窓際に細長くガラスのテーブルが並び、南生子はまん中の席で膝《ひざ》に厚い漫画雑誌を開いていた。なにを飲んでいたのか、白いカップは空になり、ケーキ皿の上にも銀色のフォークが残っているだけだった。
「島野、思っていたより元気だった」と、コートを脱ぎながら、ウェイトレスにココアを注文して、ぼくが言った。「特別に自棄を起こしている感じでもなかったしな」
南生子が長く息を吐き、片肘をテープルにかけて、もう片方の手で前髪を軽く上に掻きあげた。同じ仕草はアパートの部屋で水江もやったはずだが、感動するかしないかは、ぼくの側の問題だった。
「水江、どんなアパートにいたの」
「外に階段がついている普通のアパート」
「部屋は?」
「六畳と台所かな、風呂はなかったかも知れない」
「相手の男の人、いたの」
「昼間はガソリンスタンドでバイトをしてるらしい」
ココアが来て、ぼくはそれで唇をあたため、肩の力を抜くために、椅子の中で小さく尻を動かした。
「君、島野の義理の親父さんて人、知ってるのか」
「二、三度は会った……どうして?」
「どんな人かと思ってさ」
「普通の小父さん、タクシーの運転手だって。水江のお母さんがカラオケに凝っててね、スナックで知り合ったらしい。水江、あの人のことなにか言ったの」
「一緒には住みたくないってさ。島野は今のままでいいらしい。君にも島野にも事情はあるだろうけど、でもこれ以上島野に干渉するの、大きなお世話だと思うな」
南生子が口をすぼめ、深くため息をつきながら、細い肩をゆっくり椅子の背にもたれさせた。
「木村くんが言うとおり、大きなお世話かも知れないわね」
「躰の具合、悪いのか」
「どうして」
「目がまん中に寄らない」
「どういう意味よ」
「昨日君に会って思い出した。君は元気のいいとき、いつも目をまん中に寄せる」
「木村くんねえ……」
「口も尖るかな」
「いや味な性格」
「観察力が鋭いんだ」
「悪いのは躰じゃなくて心よ」
「根性も曲がってたか」
「ばーか」
「ごめん」
「知らない町に来ると訳もなく心細くなる……それだけのことよ」
最初に会ったときから、今日の南生子がおかしい[#「おかしい」に傍点]ことは分かっている。ぼくにとって南生子は存在そのものが不可解で、しかしここまで素直になられると、なんとなく不気味な感じもする。
「東中野って、寒そうな町……」と、テーブルに浅く頬杖をつき、視線だけを窓の外にやって、南生子が言った。「水江、こんな町で寂しくないのかな」
「堀切だって寂しい町さ」
「でも堀切なら家族がいる、友達もいて菖蒲園もあって辰巳屋もある」
「辰巳屋って」
「菖蒲園のそばにあるもんじゃ焼き屋」
「知らないな」
「小学校のときからよく行ったの」
「意外に不良じゃないか」
「水江って柔道が強くてね、男の子だって投げ飛ばしたわ。わたしが苛《いじ》められるといつも水江が助けてくれた」
「ふーん」
「わたしは気が弱いし、躰も小さかったの」
「気が……な」
「なによ」
「ぼくは東小学校、だから君たちのことは知らない……それだけさ」
南生子の目と口の形に、じわりと強情さが戻ってきて、怖れながら、思わずぼくは安心した。『気が弱い』というのはあくまで南生子の自己申告、自分の性格なんか、だれだって、自分では分からない。
「木村くん、わたしのこと、からかってない?」
「君をからかう勇気のあるやつなんか、堀切にはいないさ」
「やっぱり馬鹿にしてるわ」
「意外だっただけ。もんじゃ焼きのことも、柔道のことも、君と島野の関係も……堀切みたいな狭い町に、意外なことが多すぎる」
ウェイトレスが水を注ぎに来て、南生子の言葉が止まり、ポップスのBGMが南生子の怒った目に、気弱な陰りを射していく。
「考えたらねえ、気が滅入《めい》るよね」と、ウェイトレスが下がってから、コップに手をのばし、呆れたように口を曲げて、南生子が言った。「わたしたち、歳を取りすぎたのかな」
小学校からなら五年、中学を卒業してからも一年九ヵ月。南生子は水江以上に背が高くなり、水江は柔道をやめてヘビメタ男と同棲をはじめた。水江にとって南生子のほうが荷物になっている構造を、南生子だって、本当はどこかで気づいている。
「なあ、新宿で映画を観ないか」
「昨日と違うじゃない」
「なにが」
「観たい映画なんてあるの」
「急に思い出した」
「いい加減な性格ね」
「二年前と同じさ」
「木村くん、ずっとそういう性格よね」
「無理に変わりたくない」
「木村くんから映画に誘われるの、二度目だわ」
「覚えてるのか」
「なんだって覚えてるわ。水江とデートして、わたしを映画に誘って、わたしが断ったらすぐ吉井成美なんかと付合って、木村くんはそういう性格よ」
「君に断られなければ吉井とは付合わなかった」
「主体性がないわけ」
「そうかも、な」
「一度誘ったぐらいで、わたしがOKすると思ったの」
「ぼくも若かった」
「木村くんはずっと傲慢《ごうまん》よ」
「自分でも呆れることがある」
「最低でも二度は誘いなさいよ」
「そういうもんかな」
「それぐらい男子の礼儀じゃない。中学のときからいやな奴だと思ってたけど、木村くんて、まるで変わってない」
「新宿で映画を観ないか」
「わたしの言うこと、聞いてないわけ?」
「二度目だけどな」
「だから……」
「今日は二度誘った……映画を観て、帰りには辰巳屋へ寄って君にもんじゃ焼きをおごる。ぼくらが歳を取るのは、それからだって間に合うさ」
南生子が鼻の穴に力を入れて、しばらく息を止め、目を見開いたまま、白い頬をかすかに上気させた。怒ったのか、戸惑ったのか、しかし南生子の強烈な視線にも、ぼくは少しだけ免疫ができていた。
南生子を怒らせたまま、ぼくは伝票をつまみ、コートを取って、ゆっくりと腰をあげた。南生子も黙って立ちあがり、長く息を吐きながら、諦めたように肩をすくめてみせた。黒いタートルネックは頼りないほど清潔で、細い顎にも乾いた唇にも、不思議に気の強さは感じられなかった。小学校のころは内気で小柄だったという南生子が、今の生意気な南生子のうしろから、恥ずかしそうに、一瞬顔を覗かせたようだった。
喫茶店を出たところで、コートを肩にかけ、短い髪をふって、南生子が襟を合わせながら空に目を細めた。寒いくもり空に桜の枯葉が舞い、JRの黄色い電車が悠長に遠ざかる。空と同じ色の鳩《はと》が飛行船のように飛び、山手通りからクルマの喧噪《けんそう》が低く流れてくる。
「でも、良かった……」と、駅に向かって歩きだし、空の色に目を細めたまま、一人ごとのように、南生子が言った。「水江が元気なら、それでいいよね」
「うん……」
「木村くん、知ってた?」
「なにを」
「今日がこんなに寒かったこと」
「忘れてた」
「わたしも忘れてたわ」
コートのポケットに両手を入れ、背中を丸めて、ローファーを小さくスキップさせながら、南生子が肘でぼくの腰を突いてきた。
「ねえ」
「なんだよ」
「今朝、テレビで言ってたわ」
「………」
「今夜はもっと寒くなって、それで明日、雪がふるって」
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春はいつも
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ぼくが彼女を見ていることに、彼女は気づいていない。グレーのソフトジーンズにルーズなセーターを着て、西日に右の横顔をさらしている。彼女の視線は公園の隅に植わった白い花に固定され、Vネックの襟からのびた首に日射しが金色のネックレスを光らせる。肩までの髪が風にゆれ、その髪を掻きあげるときだけ、彼女の目尻に不安そうな皺《しわ》が刻まれる。
何歳《いくつ》ぐらいだろうと、彼女の細い顎《あご》を眺めながら自問する。二十五か、六か、ぼくより十は上だろう。肩から腕の線に大人の固さがあって、結んだ口元にかたくなな哀しみがただよっている。彼女は花壇の鉄柵に腰をのせ、いつまでも白い花を見つめている。以前どこかで会っているはずなのに、場所と日にちが、どうしても思い出せない。
「やばいんだよね、ほーんと」
ベンチのとなりで、糸織《しおり》がソックスの足を乱暴に投げ出してみせる。タータンチェックのミニスカートにベージュ色のブレザー、足にはこげ茶のローファーをはいている。見飽きている制服ではあるが、髪を茶髪《ちゃぱつ》にしていないだけ許してやれる。
「決まったわけではないだろう」と、横目で遠く彼女を眺めながら、ぼくが言う。
「お袋は言い出したらきかないもの」
「親父《おやじ》さんに頑張らせるさ」
「頼りないんだよ。このままじゃわたし、新潟に連れていかれるわ」
糸織の母親が新潟の出身であることは、付合いはじめたころ、ぼくも糸織から聞いている。親父さんは繊維会社のサラリーマン、最近不倫が発覚して、離婚にまで発展しそうだという。
「新潟も、いいかもな」
「どうして」
「雪がふる」
「わたし、雪なんか嫌いだもの」
「新潟のおみやげにイカの一夜干しをもらったことがある。あれ、うまかった」
「木村くんねえ、他人《ひと》のことだと思って、気楽に言わないでよ」
新潟に関するぼくの知識なんか、たかが知れている。日本海側では最大の都市であること。雪がふること。イカの一夜干しがうまいこと。糸織の母親の実家があること。
「相手の女に会ってみようかな」と、ローファーのつま先をゆすりながら、短い髪をふって、糸織が言う。
「会ってどうする」
「顔だけでも見たいじゃない」
「見たって仕方ないさ」
「親父がどういう女と不倫してるのか、興味があるの」
「そうかな」
「そういうもんよ」
「お袋さんよりいい女だったら君が困る」
「問題が別でしょう」
「それは、そうだ」
「相手が奇麗で、お袋より性格がよくても、親父の肩を持つわけにはいかないもの」
浮気とか、不倫とか、三角関係とか、本当はみんなうんざりしている。テレビでは毎日同じテーマのドラマをやっていて、週刊誌では離婚したタレントが毎週相手に罪をなすりつける。ぼくのお袋の妹、つまり叔母さんは女房子供のいる不動産屋と略奪結婚をした。高校で美術を教えている女の先生は離婚して、村田という姓から田村という旧姓に戻ってしまった。ぼくだって今は糸織のことを好きだと思っているが、同じ気持ちが来週までつづくか、本音では自信がない。
「木村くん、あの人を知ってるの」
「うん?」
「花壇の前にいる人」
「さあ」
「ずっと見てるじゃない」
「そうかな」
「見てるわよ」
「気のせいさ」
「木村くん?」
「なんだよ」
「ぼんやりしてるね、最近」
彼女が鉄柵から腰をあげ、一つため息をついて、西日の影を引きながら公園を亀戸駅の方向へ歩いていった。急ぐ様子はなかったが、腰から前に進むような、足の長い大股《おおまた》な歩調だった。
「奇麗な人だね」
「そうかな」
「だから見てたくせに」
「見てなんかいない、君の気のせいだ」
「ねえ、どう思う?」
「なにが」
「相手の女に会うこと」
「その人に会っても、問題が解決するとは思えないけどな」
靴の先で糸織が地面の小石をけり、欠伸《あくび》を我慢するような顔で、小さく背伸びをした。五月の風がスズランの花壇を陽炎《かげろう》のように吹きぬけ、公園の狭い空をツバメが低く滑空する。
糸織が反動をつけてベンチを離れ、ぼくの前にまわって、肩に頑固な拳《こぶし》を突きたてた。
「あんたねえ、もう少し真剣に考えなさいよ」
「考えてるさ」と、遠くの白い花を眺めたまま、ぼくが言った。「だけど親父さんが別の人を好きになるのは、仕方ない」
「わたしはどうするのよ」
「お袋さんと一緒に新潟へ帰ればいいさ」
「よく言うわね」
「どうせ大学で東京に戻ってくる」
「二年も先じゃない」
「二年も新潟に住めたら、幸せだと思うけどな」
糸織がまた拳を握り、ぼくは肩をすくめて、尻をベンチの右端にまで逃げさせた。糸織の話を聞いていないわけではなかったが、ぼくの頭にはまだ、さっき公園を出ていった、セーターとソフトジーンズのうしろ姿が残っていた。
「木村くんて、薄情よね」
「そうかな」
「会えなくなるかも知れないのに」
「遠距離恋愛も美しいさ」
「気楽なやつ」
「悩んだって仕方ない」
「わたし、恰好いいオヤジと援助交際でもやろうかな」
「ん?」
「シャネルのバッグを買ってハワイへ遊びに行くの」
「どうして」
「あんたが薄情だから」
「そういうもんかな」
「そういうもんよ」
「いいな……女の子は楽なアルバイトがあって」
糸織がローファーの底を浅くけり、諦《あきら》めたようにぼくの顔を見おろして、ふんと鼻を鳴らした。
「わたし、今日カラオケ行くの、やめるわ」
「どうして」
「つまらないもの」
「そうかもな」
「木村くん、ほーんと、最近ぼんやりしてるわ」
ミニスカートの裾《すそ》をひるがえし、ベンチからカバンをすくいあげて、糸織が怒った背中で歩き出した。霞《かす》んだ日射しが糸織のブレザーを金色にそめ、紺色のハイソックスが強引に風景を切っていく。首も肩も腕も華奢なのに、足だけがへんにむっちりして見える。ぼくは性欲の予感をこらえ、ベンチの背もたれに腕をまわして、ひっそりと息をついた。いつもなら追いかけて糸織の機嫌を取るところなのに、今日は情熱が眠っている。風が暖かくて、スズランやサツキが咲いていて、そうでなくても動くのが面倒くさい。
糸織がふり返らずに公園を出ていき、ぼくは一つ欠伸をして、拳でこつんと自分の頭をたたいてやった。糸織に言われなくても、集中力がないことは分かっている。五月の連休が終わり、夏休みまで、もう大したイベントは待っていない。夏休みになっても、冬休みになっても、そうやってあと二年の高校生活が過ぎても、どうせ大したイベントは待っていない。ぼくを待っているのは二流か三流の大学で、勤めをしたところで先は見えている。意味もなく歳《とし》をとって、今よりも疲れていくだけの現実に、なぜ集中力や情熱が必要なのだろう。
ぼくは止まらない生欠伸に身をまかせたまま、糸織が姿を消した公園の出口を、ぼんやりと眺めていた。糸織の生意気な顔がひょっこりあらわれるようにも思え、それを期待しながら、そうなったときの煩わしさも想像できていた。糸織に対する気持ちは変わらなくても、付合いはじめた去年の暮れより、執着は確実に萎縮《いしゅく》している。
糸織と彼女のうしろ姿が、意識の中で交錯し、ぼくは彼女が見つめていた白い花を、ふと思い出した。出口に近い植え込みにほかの木とまぎれ、二メートルほどの高さに小さい花を咲かせている。昨日もこの公園を通ったはずなのに、その花のことを、ぼくはまるで覚えていなかった。
カバンを抱えて、腰をあげ、耳鳴りのような空気に押されて、ぼくは木のそばに歩いていった。
『ライラック(別名リラ)。モクセイ科』
木の腰ぐらいの高さにプラスチックの札がかかっていて、黒いマジックインキで種類名が書いてある。小さい花弁が房状に集まっている地味な花で、青い清潔な匂《にお》いが頼りなくただよっている。
「ライラック、別名リラ……」
声を出して札を読んでから、それが聞き覚えのある名前であることを思い出し、ぼくは不思議な気分で、ちょっと木の根もとに近寄った。リラといえば北海道あたりによくある木で、花は紫色ではなかったか。
ふーん、この花がリラなのか。蝶《ちょう》にも白いのや黒いのがいるから、リラにだって白い花はあるのかも知れない。ただよってくる香りは別にして、木の姿も地味な花も、彼女があれほど見惚《みと》れていた理由はどこにあるのだろう。花壇にはスズランやパンジーも咲いている。花の華やかさからいえば、近くにあるサツキの大株のほうがずっと見事ではないか。
「ライラック、別名リラ。モクセイ科……」と、ぼくはもう一度一人ごとを言い、カバンを脇に抱えなおして、意識的にため息を吹いた。彼女の憂鬱《ゆううつ》な横顔が思い出され、遠い冷淡な視線が思い出され、優美な腰の形があふれるように思い出される。
どこかで会っているはずなのに、名前も素姓も知っているはずなのに、いい加減なぼくの記憶が、突然ぼくを苛立《いらだ》たせる。春の匂いに拡散してしまった集中力は、怒っても苛立っても、もう戻ってはくれなかった。
怒って帰っていった糸織と、偶然見かけただけの彼女と、気持ちがどちらにこだわっているのか、ぼくは、判断を放棄した。
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まだ日も落ちきっていないのに、葛西橋の上はライトをつけたクルマが鬱陶しく渋滞する。江戸川区側の土手にもクルマが行きかい、川下からは東西線の鉄橋を渡る電車の振動が低く伝わってくる。サイクリングコースに自転車はなく、波のない荒川の水面がどこまでも黒くつづいている。
ポチが短い足で不器用に波止めをくだり、川面との境にできた一メートルほどの砂地を前足で掻きまわしている。妹がどこかから貰ってきた犬で、純粋な雑種ではあるが、いくらかフレンチ・ブルドッグの血も入っているという。鼻面は押しつぶしたように扁平《へんぺい》、白黒のぶち模様に顔の部分だけ茶色い毛が混じっている。ぼくに懐《なつ》いているわけではなく、ぼくもポチに愛着は感じていない。修学旅行に出ている妹のピンチヒッターで、仕方なく散歩をさせているだけのことだった。
ぼくは川に面した土手の端に座り、葛西橋のクルマや空《から》の材木船などを、タバコを吹かしながら眺めていた。鎖は放してあっても、ポチが遠くへ行く心配はない。そんな度胸はないし、他人にさらわれるほど高級な犬でもない。
くだっていく川船をしばらく眺めてから、視線をポチに戻したとき、別な犬が目に入って、ぼくは一瞬恐縮した。どこから来たのか、やはり鎖を放たれた大型の犬で、毛色も青みがかった深い灰色をしている。犬に興味はなくても、それがドッグショーに出せるほどの犬であることぐらい、なんとなく見当がつく。二匹の犬は喧嘩《けんか》を始める気配もなく、向き合った姿勢でそれぞれに砂地を掻きまわしている。自分が雑種の駄犬であることに恥を感じないポチが、少しだけ、ぼくは羨《うらや》ましかった。
「タバコ、一本いただける?」
突然声をかけられ、理解するまでに時間はかかったが、ぼくのうしろには女の人が立っていて、どうやらその人は、ぼくにタバコをくれと言っているらしい。
ぼくが唖然《あぜん》としている間に、女の人が腰をかがめ、膝《ひざ》を自分の腕で抱えこんで、口の端をちょっと笑わせた。ぼくはカーディガンのポケットから慌ててタバコを取り出し、女の人が一本抜くのを待ってから、息を飲んでライターに火をつけた。
「やめていたのよ。でもあなたが吸うのを見ていたら、急に吸いたくなったの」
遠くもない下の砂地には、鎖を放たれた大型の犬がいる。どこかに飼い主がいるのは当然のことだった。しかしぼくを慌てさせたのは自分の迂闊《うかつ》さではなく、女の人の整いすぎた横顔だった。街でもテレビでも映画でも、こんなふうに『嘘のような奇麗な顔』を見るのは、ぼくは、初めてだった。
女の人はぼくから一メートルほどの距離にいて、無地のジャンパースカートに男物のテーラードジャケット、黒いソックスに透明なビニールサンダルをはき、髪は首のうしろでゆるく束ねていた。赤い唇と青いトルコ石のイヤリングが、影絵のように鮮明な横顔に、へんになまめかしい。
「あなたの犬、おもしろい顔ね」と、小さく煙を吹き、下の砂地に目を細めて、女の人が言った。
「ぼくの犬ではありません」
「そう?」
「妹の……」
「お宅で飼ってるんでしょう」
「それは、そうです」
「名前は?」
「ポチ……ただの雑種です」
女の人が唇をすぼめて、今度は長く煙を吹き、抱えている膝の上にゆっくりと頬杖《ほおづえ》をついた。香水の匂いがぼくに切ない緊張を押しつけ、座っているぼくの重心が、風景と一緒に回転しながらゆがんでいく。
「あの犬……」と、意識して肩の力を抜き、耳の奥に鼓動の音を聞きながら、ぼくが言った。「種類、なんですか」
「アイリッシュ・ウルフハウンド」と、唇を動かさずに、女の人が答えた。
「いい犬ですね」
「あなたに分かるの?」
「なんとなく」
「どういうふうに、なんとなく?」
「理由は、べつに、ありません」
女の人が横顔を向けたまま、目尻に憂鬱な皺を刻み、長い指でタバコをはじいてから、肩だけで息をついた。
「あなた、疲れるでしょう」
「はい?」
「諦めろという意味ではないの」
「はい」
「あなたの犬も可愛いのよ」
「それは、そうです」
「ごらんなさい。雑種でも純血種でも、仲よく一つの穴を掘っている。犬の価値も人間の価値も、あなたが勝手に決めてはいけないことなのよ」
またかすかに香水が匂い、女の人が静かに腰をあげて、ぼくから離れながら、ひゅっと口笛を鳴らした。大型の犬が砂地で首をもたげ、土手を見あげてから、コンクリートの波止めを機械のような正確さで駆けのぼってきた。川音の中に犬の不穏な呼吸音がまぎれ、むき出された歯とピンク色の歯ぐきが、意味もなくぼくを圧倒した。艶《つや》のある灰色の肢体は濡《ぬ》れたように滑らかで、無駄のない足の動きには傲慢なほどの威厳が感じられる。種類はアイリッシュ・ウルフハウンドというから、祖先のどこかに、狼の血でも入っているのだろう。
灰色の大型犬は見る間に土手をのぼりきり、吠えも呻《うめ》きもせず、一気に土手を反対側にくだっていった。
女の人がいないことにぼくが気づいたのは、その、一瞬のあとだった。首をのばしても、土手の向こうにはもう、薄闇の中に家々の屋根が低く連なっているだけだった。ぼくは混乱して周囲を見まわし、硬直した空気の中で、寒く歩道に目をやった。土手のどこにも人影はなく、見えるのは葛西橋に渋滞するクルマと、夜の色に染まっていく五月の晴れた空だけだった。
ポチが不器用に土手をのぼってきて、平らな鼻面を、馴れなれしくぼくの膝に押しつけてきた。ぼくはポチの頭をなで、鑑札のついた首輪に指をふれ、自分が夢の中にいるのではないという事実を、ためらいながら確信した。
たしかに、間違いなく、夢ではなかった。ぼくは女の人にタバコをわたし、ライターで火をつけ、女の人が煙を吹く唇のかたちも確認した。ソックスもビニールサンダルも、ジャケットも首のうしろで束ねた髪も、絵に描けるほど記憶に残っている。言葉もかわしたし、香水の匂いもかいだ。あの匂いは昼間の公園で彼女が見つめていた、リラの花と同じものだった。女の人の横顔の、憂鬱そうに浮かべた目尻の皺は、そういえば、花壇の鉄柵に座っていた彼女が見せた、不安そうな表情と同じものだった。
ポチの頭をなでたまま、ぼくは目を閉じ、それから目を開き、背中に生温かい悪寒を感じながら、ゆっくりと唾《つば》を飲みくだした。
『アイリッシュ・ウルフハウンド』と唇を動かさずに言った彼女の声が、すぐとなりで聞こえたように、ぼくの頭の中で、鮮明によみがえった。
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「親父ね、今夜もまだ帰らないの」
「うちの親父も帰らない」
「木村くんのところは広告会社じゃない」
「どこで何をしてるかなんて、だれにも分からないさ」
「うちは分かってる、今度の女と一緒なの。夕方会社に電話したらもう帰ったって」
声や口調がふだん通りだから、糸織は自分の部屋から電話しているのだろう。ぼくの家も十一時以降は回線をぼくの部屋に切りかえる習慣になっている。糸織が電話をしてきた理由は、『ぼくのほうがしなかったから』ということだった。
「木村くん、あれからカラオケに行ったの」
「一人では行かない」
「最近、やっぱりぼんやりしてるわよ」
「言わなかったっけ」
「なにを」
「春になると頭がぼーっとする」
「そうなの」
「毎年さ」
「聞いてなかった」
「それじゃ、言い忘れたんだ」
受話器の中で、しばらく間があり、低い吐息のあとから、糸織の鼻にかかった不遜《ふそん》な声が聞こえてきた。
「明日、暇がある?」
「いつも暇さ」
「学校のあと会えるかな」
「カラオケか」
「気分じゃないよ」
「それなら、なに」
「青山に行くの」
「買い物?」
「女に会うの」
「どの女」
「まったく、木村くん、たまには頭に気合いを入れなさいよ」
糸織の威嚇《いかく》的な口調に、思わず目がさめたが、そういえば糸織は親父さんの不倫相手にこだわっていた。昼間もその相手に会いたいと言っていた。会って結論が出る問題でもないだろうに、親の都合だけで新潟に連れていかれたら、やはり腹は立つだろう。
「ねえ、付合う?」
「君一人では心配だ」
「ずいぶん素直じゃない」
「頭に気合いが入った」
「授業はなん時に終わる?」
「四時」
「それなら四時半に亀戸の駅」
「OK」
「うざったい[#「うざったい」に傍点]けどね。けじめを付けておかないと人生が前進しないのよ。今夜はもう寝るわ。それじゃね、おやすみ」
糸織が勝手に電話をきり、ぼくはいつも通り途方に暮れて、ばたりとベッドに倒れ込んだ。糸織の声の余韻に彼女の憂鬱な笑顔が重なって、首筋にうすい悪寒が這《は》いあがる。不倫やけじめに興味はなくても、糸織に対しては責任がある。この半年間、糸織の明瞭な無邪気さがぼくの鬱屈を慰めてくれた事実を、本当は、ぼくもちゃんと分かっていた。
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渋谷や原宿や青山に来ると、いつも軽い緊張に襲われる。いやな気分ではないけれど、長い時間歩くと胃が重くなる。ブランド物の外出着が晴れがましくても、そのまま芝生に寝ころんだら肩がこるのと同じ理屈だろう。
亀戸からは三十分で外苑前につき、簡単によそいきの街があらわれる。街も人もテナントもよそいきで、糸織までよそいきの表情をつくっている。いつも感心することではあるが、糸織のミニスカートにブレザーの制服は、亀戸より青山や渋谷によく似合う。
会社が終わる時間なのか、青山通りの歩道を硬いハイヒールの音が行きかい、ビル風がクルマの排気ガスを無気力に攪拌《かくはん》する。空はじゅうぶんに明るく、野球場の方向へカラスが群れをなして飛んでいく。付近に人混みはないから、今日はナイターをやらない日なのだろう。
親父さんの不倫相手は二十八歳のイラストレーターで、南青山に事務所をもっている。名前は北村綾子、繊維会社の企画部に勤める親父さんとは仕事で知り合い、関係は二年もつづいている。そういうことを興信所を使って調べさせたというのだから、お袋さんの執念も半端ではない。
青山通りから路地を南に入ると、風景が一挙に萎縮する。建物も埃っぽい安普請が目立ち、塀からのぞく緑もひ弱な庭木が多くなる。青山でも亀戸でも路地裏のたたずまいが似たようなものであることに、ふとぼくは可笑《おか》しくなる。
糸織のメモにあった『パークサイド青山』は、『青山公園』という小公園を迂回《うかい》した東側にあって、気が抜けるほど見事なモルタルアパートだった。糸織も気を悪くしたような目でぼくの顔色をうかがったが、住所が合っているのだから、文句を言っても仕方ない。ぼくらは錆《さび》の浮いた外階段を言葉もなくのぼり、二〇五と標識の出ているドアの前で、寡黙に立ち止まった。ドアの化粧ベニヤは合板が剥《は》げかけていて、目の高さに『KITAMURA ADVERTISEMENT』とへんに立派な金属プレートが貼ってある。アパート名も会社名も、名前だけなら、もちろん法律には違反しない。
ノックのすぐあとに女の人がドアを開け、糸織が名前を言ったときの反応は、ぼくのシミュレーションと、無惨なほど異なるものだった。二十八歳のイラストレーターで、五十に近い妻子もちの会社員と不倫中、その相手の娘が突如護衛つきで仕事場に押しかけて来たのだから、ふつうなら気まずい表情を見せるだろう。それを北村綾子という女の人は、糸織とぼくを流し目で見くらべ、一瞬眉をひそめたあと、顔の半分以上を口にして、ぐわっと笑ったのだった。
「へーえ、シオリちゃん、その制服おしゃれじゃない。いいから上がりなさいよ。ねえ、そっちの彼も遠慮しないで」
畳にフローリングカーペットを敷いた六畳の部屋は、言われなくても、遠慮をするような環境ではなかった。窓の前全面にスチールの仕事机が据えられ、人間が移動する空間だけを残して、テレビと冷蔵庫とファクスとコピー機と本棚と、それから用途の分からない洗濯機ほどの陶製の壺が置かれていた。壁には煩《うるさ》いデザインのポスターやカレンダーが貼ってあり、天井からはどこから持ってきたのか、飲み屋の赤|提灯《ちょうちん》までぶら下がっている。北村さん自身は黒いスリムパンツに黒いハイネックセーターを着て、首には東南アジアから買ってきたような、エキセントリックなネックレスを掛けていた。
「どうしたの、原宿にでも遊びに来たの。電話をくれればビールぐらい買っておいたのに」
糸織とこの北村さんがまるで初対面であるという事実を、知らなければ、ぼくなんか完全に疑ってしまうところだ。
北村さんが冷蔵庫から小さいビンを二本抜き出し、ぼくと糸織にわたして、顔を豪快に笑わせたまま仕事用の椅子に腰をおろした。糸織は踏み台のような椅子に座らせてもらったが、ほかに椅子はなく、ぼくのほうは沓脱《くつぬぎ》と部屋の境に立ったままだった。わたされた小ビンはビタミンと繊維質とカルシウムが混合された、栄養ドリンクだった。
「あのう、父のことですが……」
糸織が一度ぼくの顔に視線をおくり、肩で息をついて、血の気の引いた平らな頬を、ぷくっとふくらませた。糸織にも戸惑いや気後れがあるのかと思うと、失礼なほど嬉しくなる。
「大変だったわねえ。お母さま、興信所を雇ったんですって?」と、おかっぱ[#「おかっぱ」に傍点]ふうの髪を両手で掻きあげ、のけ反《ぞ》るように足を組んで、北村さんが言った。「ああいうところって高いんじゃない?」
「金額は知りませんけど、母は、離婚すると言ってます」
「大変よねえ。男と女って、くっつくより別れるほうが面倒なのよ。結婚してれば財産の問題もあるし、お宅なんか子供もいるわけだしね」
「正式に決めたわけではないんです」
「宮崎さんも優柔不断だしねえ。もっとも彼の、そういうところが可愛いんだけど」
「北村さん……」
「なあに?」
「父と、本気で、結婚するつもりですか」
「そこなのよねえ。問題はずばりそこの部分なわけよ。彼は四十九でわたしは二十八でしょう。その決断がね、女としては勝負どころなわけよ」
北村さんが不ぞろいな歯を遠慮もなくむき出し、あぐらをかいた鼻を、右側に大きくゆがめてみせた。頬も唇もぶ厚く、体重も基本より十キロはオーバーしている感じだった。
「仮にですね、もし……」と、ドリンクビンのキャップを強引にひねり、一気に飲みほして、糸織が言った。「父が北村さんと別れると言ったら、どうしますか」
「彼、そんなこと言ってるの」
「たとえばの話です」
「急に言われても困るけど」
「あくまでも、たとえばで」
「どうしようかしら。慰謝料でも貰おうかしら」
「慰謝料ですか」
「大した金額じゃないの、形式みたいなものよ。そうすれば彼だって責任を取った気分になれるじゃない」
開けてある窓から風が吹き込み、赤提灯がぶらりとゆれて、天井の羽目板が愚痴っぽく鳴りひびく。狭い路地をバイクやクルマが横柄に走り抜け、公園からも子供のかん高い声が聞こえてくる。
北村さんがまたぐわっと笑い、椅子を軋《きし》らせながら、笑ったまま細いメンソールのタバコに火をつけた。
「シオリちゃんは、それで、どういうことなの。お父さまと離れて暮らしたくないわけ」
「今さら面倒ですから」
「お母さまは?」
「母も、たぶん、面倒だと思います」
「そうなのよねえ。行くも面倒、戻るも面倒。立ち止まったままでも面倒は残るし、男と女って、まったく、面倒なもんだわ」
糸織が不意に腰をあげ、ミニスカートの裾を押さえながら、北村さんに強く頭をさげた。ぼくの角度からは糸織のかたく結んだ口と、ふくらんだ鼻の穴が見えていた。
「あら、帰るの。ゆっくりしていけばいいのに」
「原宿で買い物をします」
「残念ねえ。どっちにしてもあたし、シオリちゃんとは友達になりたいわ」
「お忙しいところをお邪魔しました」
「いいのよ。ちょうど暇だったの。もう友達になったわけだし、いつでも遊びにいらっしゃいね。この事務所、原宿も渋谷も近いでしょう。その気になれば六本木にも歩いていけるわ。本当に便利なところ。青山だってあたし、大好きなのよ」
糸織がカバンを抱えてぼくの目の前を歩き、ぼくは飲んでいない栄養ドリンクをテレビの上に置いて、会釈をしただけで沓脱に出た。北村さんは椅子から腰をあげず、ドアまで送る素振りも見せなかった。
行くも面倒、戻るも面倒、立ち止まったままでも、たしかに男と女は面倒かも知れない。しかし糸織の親父さんは、この北村綾子という女の人を相手に、なんの理由でそんな面倒を抱え込む気になったのか。
公園や路地にもう光の影はなく、灰色の空気が青みをまして、アスファルト道のタンポポが足元に小さい彩りを与えてくれる。いつも怒っているように見える糸織の歩き方が、早足のせいで小癪《こしゃく》な殺気まで感じさせる。ぼくらの少し前を薄物のコートを着た女の人が歩いていて、優雅なハイヒールの動きがぼくの気分をむなしくさせる。糸織の足もいつかはちゃんと細くなり、いつかはどうせ、ハイヒールの動きで男たちの視線を引きつける。
「なあ、ゆっくり歩けよ」と、糸織の肩に手をかけ、頭ごしに青山通りの喧噪《けんそう》を透かして、ぼくが言った。
糸織が足を止め、屈託のある視線をぼくに向けてから、顎をしゃくって、また怒ったように歩きはじめた。
「男って、ほーんと、馬鹿なんだから」
「自覚はしてるさ」
「木村くんのことじゃないわよ」
「ああ、そう」
「人間は顔じゃないと言うけど、顔だって大事だと思わない?」
「そうだろうな」
「ものには限度がある。親父がオカマと駆け落ちしたほうが、まだ笑えるよ」
解説を聞かなくても、糸織の言いたいことは分かっている。親父さんが北村さんのどこに魅力を感じたのか、ぼく同様、理解できないということだ。
「わたしね、お袋が気の毒になってきた」
「ぼくは感想がちがう」
「へんな感想なら聞きたくない」
「気の毒なのは男のほうさ」
「どういうことよ」
「ぼくは君のお袋さんを知ってる、親父さんにも会ってる。常識で考えれば親父さんが北村さんと不倫する理由はないんだ」
「常識で考えなくても分かるわよ。お袋にどう説明したらいいわけ」
「お袋さんには分かってるさ」
「親父が馬鹿なこと?」
「世界中の男が、みんな馬鹿であること」
前の女の人が、優雅な腰つきで足を止め、空を見あげるような仕草で、肩までの髪をさらりと振り分けた。風の中に若い花の匂いがただよい、女の人を取り巻く空気にだけ、かすかな靄《もや》がかかっている。
「木村くん……」
「うん?」
「説明しなさいよ」
「なにを」
「男のほうが気の毒だという意味」
気がつくと、女の人は姿を消していて、目をはなした隙《すき》に青山通りの角でも曲がっていったらしかった。
「簡単な話さ、ぼくも男だから」と、頭の中で肩をすくめ、糸織の背中を先に促して、ぼくが言った。「うまく説明できないけど、宿命みたいなもんだろうな」
「不倫は遺伝子がさせるということ?」
「うん……」
「わたしだって不倫だの浮気だの、ちょっとは仕方ないと思うわよ。だけど相手を選ぶのは自分の責任でしょう」
「男には選べない、いつも選ばれるだけ。努力してもけっきょくは選ばれないで、それで愚痴を言いながら、疲れたまま、ぼんやり人生を終わってしまう」
「あんたねえ……」と、肩でぼくの胸を小突き、眉の形を山型につりあげて、糸織が言った。「病気があるなら、最初に言ってちょうだいよ」
「うん?」
「春になると頭に病気が出るんでしょう?」
「ああ、そうか」
「昨日はぼんやりしていて、今日は念仏みたいなことを言ってる。もう付合いきれないわ。それでなくてもわたし、今は機嫌が悪いんだから」
青山まで誘っておいて、勝手に機嫌を悪くされても困るが、そういうことをすべて我慢するのも、男の宿命だ。糸織は原宿にも渋谷にも出たくないと言い、銀座線とJRを乗りついで、ひたすら亀戸へ帰ることにした。北村さんが美人であることばかり心配していたのに、ここまで間抜けな結果に終わることなど、ぼくも糸織も、予想はしていなかった。
ぼくらは口もきかず地下鉄に乗り、神田から秋葉原にまわってくだりの総武線に乗り込んだ。車内は息もつけないほど混んでいて、こういう時間帯に遭遇したことまで、今日は日が悪かったのだろう。
カバンを網棚に置くこともできず、まわりの人に押されて、ぼくは不機嫌な糸織の肩を、ただ黙って支えていた。ぼくの膝が座席の人の膝にあたり、恐縮したぼくの視線が、無意識にその人の顔を見おろした。女の人は素直なセミロングの髪を肩のうしろにたらし、薄物のコートを着て、膝に置いたハンドバッグに長い両手の指をそろえていた。青山の路地でぼくらの前を歩き、そして突然姿を消していった、あの優雅な歩き方の人だった。
ぼくの首筋に悪寒が走り、つり革を握った指が固くなって、胸のまん中に、風のような痛みが吹きわたった。ぼくは充満するリラの香りに息がつまり、凝縮していく視界の中で、一心に彼女の顔を見つめつづけた。広い額に細い顎、切れ長の目の瑞に、ほんのわずか憂鬱な皺が刻まれている。こんな電車には似合わない奇麗すぎる顔が、ぼくの目の下で、彫像のように膝のハンドバッグを握りつづける。
彼女が予定された表情で視線をあげ、無感動にぼくの顔を見すえて、唇をかすかに微笑《ほほえ》ませた。車内の音が凍りながら拡散し、彼女の視線と彼女のリラの匂いが、ためらわずにぼくを束縛していく。
「諦めろという意味ではないのよ、分かるでしょう?」
「はい……」
「逃げてはいけないわ」
「………」
「自分を愛することと他人を愛することは、別な次元なの」
「はい」
「あなたはいつも半分逃げて、相手を半分しか愛さない」
「………」
「頑張りなさいね。疲れるかも知れないけど、最後まで、逃げてはいけないわ」
電車がとまり、乗客の物理的な力が、空っぽのぼくを簡単にホームへ押し出した。喧噪が戻って、風景がよみがえり、自分の躰が階段の方向へ流されていく感覚が、ぼくに軽い嫌悪感をもよおさせる。ぼくは糸織のブレザーに手をかけ、客たちがまわりを過ぎていくまで、しばらくホームのまん中につっ立っていた。
「どうしたの、気分でも悪い?」
「気分はいいんだ」
「また頭の病気?」
「あれは、治った」
「さっき一人ごとを言ってたわよ」
「うん……」
「最近、本当におかしいわ」
「糸織……」
「なによ」
「援助交際をするの、やめてくれないか」
糸織が突然目を丸くし、頬をふくらませて、胸に抱えていた学生カバンを、乱暴にぼくのみぞおち[#「みぞおち」に傍点]に打ちつけた。
「木村くんて、馬鹿じゃない」
「そうかな」
「わたしがどうしてそんなことするのよ」
「援助交際をしてハワイに行くと言ったのは君だ」
「まったく、付合いきれないわね」
「カラオケボックス、おごるけどな」
「今日、これから?」
「お祝いにさ」
「だって……」
「お袋さんたちは離婚しない、君も新潟へ行かないで済む。そんなこと、本当は決まってることなんだ」
なにか唸《うな》った糸織の肩を、ぼくは自分の腕で包み、ホームの階段をめざして、ゆっくりと歩きはじめた。ぼくの病気は春だけのものなのか、彼女はいつまでぼくを見守ってくれるのか、そんなことはカラオケをなん曲か歌って、ビールでも飲んで、それからもっと肩の力が抜けてから考えればいい。
ためしにホームを見わたしてみたが、彼女の姿も、気配もなく、ぼくを不安にさせるリラの花も匂っていなかった。
少し遅くはなるけれど、今夜もポチを散歩に連れていこうと、糸織のふて腐れた横顔を眺めながら、頭の中でぼくは一人ごとを言った。
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川トンボ
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怜子《さとこ》がベランダからなにを見ているのか、ぼくには分からない。雨はやんでいて、咲きはじめた紫陽花《あじさい》に蜜蜂《みつばち》が寒そうに飛んでくる。アオキの垣根は乱雑に枝をのばし、路地の向こうでカラスが陰気に鳴き競う。紫陽花のまわりにはヒメジョオンやチチコグサがはびこり、しばらく庭の草むしりをしていなかったことを、ふとぼくは思い出す。去年の今ごろは庭に雑草もなく、垣根のアオキも整然と枝をそろえていた。薔薇《ばら》もアブラ虫に食われなかったし、花の終わったツツジも几帳面に摘芯《てきしん》されていた。当然だったはずのそのことが、今はチチコグサやオオバコとなって目の前に乱立する。掃除や洗濯や買い物だけでなく、庭の手入れも、やはりお袋の仕事だった。
「怜子、夕飯、なにがいい?」
背中を少し曲げただけで、顔をあげず、怜子は相変わらず庭を眺めつづける。お袋が家を出ていってから一ヵ月、怜子が学校に行かなくなってから、もう二週間が過ぎていた。
「スキヤキでもしてみるか」
「うん……」
「金曜日だしな」
「うん……」
「サラダはなんにする?」
「ねえお兄ちゃん……」
「なんだ」
「お父さん、早く帰るの」
「どうかな、仕事が忙しいらしいから、早くはないだろう」
親父《おやじ》が帰ってきたって、どうせ怜子は自分の部屋へ入ってしまう。普段は無口な親父も、怜子の不登校については口数が多くなる。
「お兄ちゃんと二人でスキヤキしたって、仕方ないよ」
「そうかな」
「夕飯なんか、わたし、なんでもいい」
怜子が腰をあげて、ダイニングを歩き、そのまま二階への階段をのぼっていく。テレビでは再放送のトレンディードラマをやっていて、知らない女優がヒステリックに愛の苦悩をわめき散らす。くもり空でも日の暮れる時間ではなく、ときたま路地を新聞配達のバイクが走り抜ける。
ぼくはテーブルに置いた学生カバンに、一つ拳骨《げんこつ》をくらわせ、椅子の上で軽く背伸びをした。ぼんやりしていても時間は過ぎていくが、意味もなくぼんやりしていると、どうにも肩がこる。
テレビのスイッチを切り、カバンを持って腰をあげたとき、水槽の中でジョーズが動いて、ゆっくりぼくは窓際に歩いていった。怜子がジョーズに餌《えさ》をやっているはずもないし、そういえばぼくも、一週間以上ジョーズのことは忘れていた。
水槽の前に座り込んでみると、その昆虫はビー玉ほどの大きさになっていて、水槽の前面から水底の敷石へ、けだるい移行をこころみていた。ジョーズというのは怜子がつけた名前、本当の素姓は知らないが、トンボのヤゴかなにかだろう。去年の夏に多摩川からメダカをすくってきたとき、水草の中にまぎれていた。メダカが死んだあともその虫は生きつづけ、たいした世話もしないのに、なぜか水槽での生活に適応していた。お袋がいたころは生きたメダカやミジンコを補給していたから、ジョーズにとっても最近、食生活には不満があるに違いない。
ぼくは十分ほどジョーズの怖い顔を眺め、意識的にため息をついてから、カバンを持って自分の部屋へあがっていった。お袋がいてもいなくてもゴミは出るし、時間がたてば冷蔵庫は空になって、洗濯物は山づみになる。中学二年の怜子に家事のすべてを押しつけるのも、気分的に無理がある。お袋だって二十年も家事をつづけ、毎日毎日トレンディードラマの再放送を観ていれば、ちょっとはドラマチックな人生をやってみたくなる。
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「へーえ、紫陽花、咲いたんだ。うちのはまだ蕾《つぼみ》、あと一週間ぐらいかかるかな」
釉香《ゆうか》が庭に入ってきたのは、ぼくが着がえを済ませてリビングに掃除機をかけていたとき。左手には犬をつないだ革紐《かわひも》をにぎり、右手にはプラスチックの糞《ふん》取り器をぶらさげていた。服装はジーンズのミニスカートにウエスト丈のTシャツ、素足に赤いデッキシューズをはいて、髪はシンプルなベリーショートだった。雪乃丞という名前の犬はブルテリアの雑種だというが、犬の種類なんか、どうせぼくには分からない。一つだけ感想を言わせてもらえば、その不細工な顔と体型に雪乃丞なんて名前は、ぜったい似合わない、ということだった。
「木村くんが家の掃除か……人生の不条理が身にしみるね」
釉香はぼくと同年《おないどし》の十七歳、高校は別になったが、中学まではずっと同じ学校にかよっていた。家も歩いて十分ほどの場所で、雪乃丞の足が汚れているから、多摩川へ散歩にでも行ってきたのだろう。
「怜子ちゃん、まだ学校に行かないの」と、犬の紐をベランダの柱にむすび、紫陽花の花に首をのばして、釉香が言った。
「犬じゃないからな、紐をつけて連れては行けないさ」
「天気が悪いものねえ、怜子ちゃんじゃなくても気分が滅入《めい》るわ。おばさんも家出の季節を選べばよかったのに」
釉香が糞取り器を下にほうって、軽く手を払い、右の眉をしかめながら、生意気な感じに唇をすぼめてみせた。釉香の両親は三年前に離婚しているから、状況的にはぼくの先輩になる。
「ねえ、掃除、いつまでやってるのよ」
「家事は一生かかっても終わらない、その理屈がやっと分かった」
「コーヒーでもいれてくれない? なければ紅茶でも普通のお茶でもいいわ」
「お袋は季節を考えないで面倒なことをするし……か」
「なんのこと?」
「なんだかな。なんだか知らないけど、とにかく早く、夏休みが来てほしいな」
鼻を曲げた釉香の顔を確認してから、ぼくは掃除機を横の壁に立てかけ、一度空の色をのぞいてから、ぶらりとキッチンへ入っていった。暗くなるまでには時間があって、本当は洗濯もかたづけるつもりだった。お袋はいなくて親父は不機嫌で、怜子は学校に行かなくて洗濯物はたまっている。季節は梅雨で雪乃丞の顔はどこまでも不細工、くわえて釉香は魂胆のありそうな目でコーヒーを要求する。ぼくの人生が悲運に運命づけられているならともかく、金曜日の夕方ぐらい、少しは心静かに過ごしたい。釉香だって知らない家ではなし、コーヒーが飲みたければ自分でいれればいいではないか。
と、文句を言ったのは頭の中だけ。二分後にぼくはインスタントのアイスコーヒーを二ついれ、敷居に腰をおろしている釉香のうしろに戻っていった。洗濯物がたまろうと垣根のアオキがのびようと、一日はこうやって、確実に終わっていく。
「あの黄色い薔薇、咲く前に枯れてるね。天気のせいかな」
ぼくからアイスコーヒーのグラスを受け取り、うなずくように口をつけて、尖った顎を釉香が小さくしゃくってみせた。
「アブラ虫さ、なんとなく殺虫剤をかける気にならない」
「薔薇って面倒よね、うちも親父がいなくなってから二本枯れた」
「雑草は増えるけどな」
「おばさん、やっぱり、だめ?」
「お袋が思い詰めるタイプだなんて、考えてもいなかった」
「結局おじさんが悪いのよ、男ってみんな無神経だから」
「そんなもんかな」
「怜子ちゃんの学校は?」
「夏休みが終わるまで様子をみてくれる、一過性の鬱《うつ》病らしい」
「仕方ないよねえ。怜子ちゃん、木村くんと違って神経質だもの」
梅の木がゆれて、雀が多摩川の方向に飛んでいき、うずくまっていた雪乃丞が面倒くさそうに頭をうごめかした。ずいぶん昔から飼われている犬だから、年齢的には老犬の部類だろう。
「ねえ木村くん……」
「うん?」
「明日あたり、暇?」
「釉香が掃除と洗濯と買い物と、それから怜子の相手をしてくれれば、な」
「よかった、木村くんならどうせ暇だと思ってたわ」
「考え方の問題だ」
「ねえ」
「なんだよ」
「吉田くんと親しかったよね」
「吉田?」
「中学のとき一緒だった吉田くん」
「ああ……」
「ちょっと、ね」
「なに」
「会ってくれない?」
「どうして」
「最近、彼、様子がおかしいの」
中学で一緒だった吉田といえば、吉田真人。二組のクラス委員長で成績もよく、高校は私立の進学校へ行ったはずだ。親父さんは商社マンで、一度か二度、ぼくも吉田の家には寄ったことがある。
「おまえ、吉田と付合ってたのか」
「そういうわけじゃないのよ、二度デートしただけ」
「付合ってないやつと、デートなんかするのか」
「デートぐらいするじゃない、木村くんとだってディズニーランドへ行ったし」
「あれは、たまたま、相手がいなかった」
「妬《や》いてるの」
「まさか。吉田が釉香のタイプだったなんて、意外だっただけさ」
釉香がベランダのコンクリートに足をのばし、グラスを両手で包んだまま、自分の息で額の前髪を器用に吹きあげた。足も長くて顔もアイドル風ではあるが、子供のときから見慣れているせいか、困るほどの魅力は感じなかった。
「それで、なんだよ……」と、立ったまま壁に寄りかかり、釉香のへんな屈託を見おろして、ぼくが言った。「吉田に、ふられたとか?」
「木村くん、わたしの話、聞いてないの」
「聞いてる気はするけど」
「だからね、吉田くんとは特別に付合ったわけじゃないの。デートは二度だけ、最初は映画、二度めは三波春夫のコンサート」
「三波春夫……」
「あまったチケットをだれかにもらったらしいの。そのときだってね、マックに寄って帰ってきただけよ」
「ようするに、なんの話だ」
「最初に言ったでしょう。彼、なにかへんで、それで木村くんに頼みたいの」
「まだ意味が分からない」
「だから……」
赤い釉香のデッキシューズが、かかとを支点にくるりとまわり、それが合図のように、雪乃丞がのんびりと欠伸をした。紫陽花にとまっていた蜜蜂が羽音をひびかせ、しけっぽい速度でくもり空を旋回する。
「彼ね、うちのベランダから、下着を取っていったらしいの」
「………」
「本当にわたし、暇だから付合っただけなのよ。だけど彼……」
「そういうのは、苦手だ」
「彼、勘違いしてね、夜中にも電話してくるの。学校の正門で待ってることもあるし、その気はないと言っても、断っても、まるで聞いてくれない」
蜜蜂は軒先からヒメジョオンに移っていて、うすいピンク色の貧相な花を、その重みで風のようにゆすっている。人間の目には雑草でも、蜂や蝶にとっては梅雨の晴れ間に気分を高揚させる、貴重な食料庫なのだろう。
「悪いけど、ぼくには、関われない」と、アイスコーヒーを半分飲んでから、釉香のとなりまで歩いて、ぼくが言った。「理由は、ぼくが口を出す問題ではないから」
「でも……」
「おまえが思うほど暇じゃないんだ」
「………」
「そういうのは、ルール違反だと思う」
釉香が頬《ほお》に暗い笑窪《えくぼ》をきざみ、下唇に皺《しわ》を寄せながら、長いまつ毛を重そうにふるわせた。口の形は強引だったが、Tシャツからのびた二の腕には、うすく鳥肌が浮かんでいた。
「気が滅入るよねえ、これからずっと、こんな天気なんだろうね」と、胸で小さく息をつきながら、庭のほうに首をのばして、釉香が言った。
「風呂場にカビは生えるし、洗濯物は乾かないし」
「お袋は愚痴っぽいし、親父はリストラにあうし」
「親父さん、連絡、あるのか」
「わたしとは親子だもの」
「それはそうだ」
「木村くんのうちだってそうなるわ」
「そうだろうな」
「親父ね、会社やめさせられて、女の人とも別れたんだって」
「家に戻りたいとか?」
「親父にだって恥はあるわ」
「したいことをしたんだし、仕方ないさ」
「仕方ないよねえ。わたしもどうせ、仕方ないんだろうね」
「吉田の……」
「え」
「いや、やっぱり、ぼくが口を出しては、いけない問題だな」
雪乃丞がもぞりと腰をあげ、紐につながれたまま、無様な動作で尻の位置を入れかえた。雨はふりそうでふらず、日は暮れそうで暮れず、多摩堤通りの方向からはトラックのエンジン音が灰色に聞こえてくる。
「さてと、わたし、買い物をして帰らなくちゃ」
立ちあがって、犬の紐をほどき、雪乃丞に気合いを入れるように、釉香が勢いよく足を屈伸させた。短いTシャツから痩《や》せた背中がのぞき、太ももの裏側には窓レールの細い跡が、赤くはりついていた。
「怜子ちゃん、だいじょうぶだと思うよ。そのうちわたしが遊んであげる。夏休みになったら旅行に行ってもいいしね」
「釉香……」
「なあに」
「おまえんち、今日の夕飯、なに」
「どうしようかな。ハンバーグとコロッケでも買って、あとはカップ麺かな」
「ハンバーグとコロッケと、カップ麺か……」
「アイスコーヒー、ごちそうさま」
「無理するなよな」
「なにを」
「雪乃丞、疲れてるみたいだから」
「年寄りだものね……だけど男って、ほーんと、みんな面倒くさいよねえ」
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夕方にはやんでいた雨が、夜になってからまた銀鼠《ぎんねず》色にふりはじめた。尾山台の駅からは寡黙に傘の群れが散っていき、駅舎の明かりと雨足が傘の背を性急に追いかける。焼き肉屋のネオンは闇《やみ》を淫靡《いんび》に包んで、クルマのヘッドライトが駅前通りを雑然と騒がせる。
大井町線の尾山台駅、午後の十時、茶髪のセーラー服が自動改札を欠伸と一緒に通り抜ける。上は制服らしいグレーのベスト、ぬれた焦げ茶のローファーに白いソックスをたるませ、顔は髪の色より濃く日に焼き込んでいた。頬骨の高い肉厚顔が山内|亜津美《あつみ》と分かったのは、改札を出たところで亜津美のほうが、傘をふってぼくに笑いかけたせいだった。
「やだーっ、久しぶりじやない。どうしたのよ木村くん、これから飲みにでも行くわけ」
「山内……か」
「久しぶりよねえ、高校に行ってから会ってないわよねえ」
「会ってればすぐ分かったさ」
「どうしたのよう、家の人でも迎えに来たの」
「君を待っていた」
「あらーっ、だれか死んじゃった?」
「死んだのはメダカぐらい」
「うっそーっ、メダカが死んで、あたしを待ってたわけ」
「そういうわけでも、ないけどな」
「本当にあたしを?」
「山内のうちに電話したら、もう帰るころだと言われた」
「うっそみたい」
「時間、いいか」
「うっそーっ」
「コーヒーでもおごる、手間はとらせない。だから、ちょっとだけ付合ってくれ」
山内亜津美が長い茶髪を掻きあげ、ぼくの横顔にうっそーっと呼びかけたが、ぼくは構わず、傘をひらいて環八通りの方向に歩き出した。雨の匂いにはクルマの排気ガスが溶け込み、革靴やハイヒールが足早にぼくらを追い越していく。アスファルトには油膜のように雨がたまって、スナックや寿司屋の電気看板がまだら模様に舗道を染め分ける。こんな雨の中を、傘をさして、レインコートのおばさんが颯爽《さっそう》と自転車を飛ばしていく。
ぼくらが入ったのは環八通りぞいにある、終夜営業のファミリーレストラン。山内亜津美はヨーグルトパフェ、ぼくは熱いコーヒーを注文した。亜津美の指には銀色のマニキュアがぬられ、眉を細くカットして、日焼けを強調するように唇にも銀色の口紅がぬってあった。自分が駅で亜津美を待っていたはずなのに、相手から声をかけられなければ、ぼくにはたぶん、亜津美を見分けられなかった。
「どうしたのよう、木村くん、チョー陰気って感じ」
「青春が暗いせいだろうな」
「木村くんて生真面目だもんねえ。高校、どこだっけ」
「都立の多摩川台」
「あ、あそこ、けっこう程度いいじゃん、大学へも行くんでしょう」
「一応はそのつもり」
「あたしは服飾系の短大、うちの高校からだとね、無試験で入れるんよ」
「君、なんか、元気になったな」
「やだー、あたしね、人生観変えたんよ。地味っぽく生きたって結果は同じじゃん、皇室へ嫁げるわけでもないしさあ。今楽しんでおかなきゃ、すぐオバンだもんねえ」
「考え方だろうな」
「どうしたのよう、あたしとエッチでもしたいわけ」
「ん……」
「やだー、冗談よう。木村くんて面食いだもんねえ、釉香とはまだ付合ってるの」
「あいつはただの幼なじみ」
「でも中学んとき、有名だったじゃない」
「なにが」
「体育館の裏でキスしてたでしょう」
「釉香と?」
「してたでしょう」
「まさか」
「だって噂だったわよ。康代なんかね、木村くんと釉香、多摩川の土手でセックスまでしてたって」
「土手……」
「そりゃあね、あたしだって康代の言ったこと、本気で信じちゃいないわよ。でも二人ができてるって、多摩川の土手じゃ有名よう」
「康代って」
「三組にいた森高康代、覚えてない?」
「どうだかな」
「ほら、三年のときデートクラブで補導されて、しばらく停学になった子」
「そうか」
「康代なんてね、高校行かないで、今吉原のソープで稼いでるわ。もちろん歳《とし》はごまかしてるけど」
「みんな元気で、よかったな」
「だけどさあ、木村くん、どうしたんよ。さっきから考えてるけど、木村くんがあたしに用なんて、完璧《かんぺき》に思いつかないわよ」
やってきたヨーグルトパフェに、柄の長いスプーンを突き立て、厚ぼったい目蓋《まぶた》の向こうから、亜津美がちらっと流し目を送ってきた。目にはアイラインとマスカラが入り、三十をすぎた女が余興でセーラー服を着ているような、奇妙な雰囲気だった。
「君、中学のとき、吉田真人にラブレターを出したよな」と、コーヒーに口をつけてから、シャツの糸くずを払って、ぼくが言った。
「あ、やだー、知ってたの」
「有名だったさ」
「参っちゃうなあ、今ごろそんなこと言われたら、チョー恥ずかしいわ」
「付合ってもいたよな」
「なーんだ、話って吉田くんのこと」
「個人的に君を待ってたら、彼氏に悪いだろう」
「木村くんもよく言うわ。あたしなんかさあ、ちょっと本気にして、緊張とかしちゃったわよ。だけど吉田くんのことを訊《き》くために、わざわざ駅で待ってたわけ」
山内亜津美がスプーンをなめながら、大げさに髪を掻きあげ、脂の浮いた額に浅く皺をきざませた。一年半前の山内亜津美が、どんな顔だったのか、やはりぼくには思い出せなかった。
「あいつ、高校に行ってから、なにかあったのか」
「なにかって」
「変わったという噂だから」
「中学生から高校生になれば、だれだって変わるじゃない」
「人によって程度は違う」
「それって、あたしのこと?」
「女の子が奇麗になるのはまともな成長さ」
「うっそーっ、木村くん、お世辞なんか言ってるわけ」
「普通の感想」
「こんな天気が悪いのに、よく言うわよ」
「吉田のこと……」
「あ、だけどね、あたしが付合ってたんは去年の夏ぐらいまで。最近のことは知らないわ」
「別れた理由、訊いてもいいかな」
「いいけどさあ、そんなこと、なんで木村くんが気にするの」
「この前電車で会って、声をかけたけどシカトされた。感じが、なにかおかしかった」
「それだけ?」
「それだけさ」
「うっそみたい。木村くんてクールに見えて、意外とボランティア体質なんだ。人って見かけによらないもんよねえ」
ウェイトレスが来て、二つのコップに水を足していき、子供を追った母親がやかましく通路を走りすぎた。環八通りにはクルマが渋滞し、雨粒が窓ガラスをモザイク模様に流れ落ちる。さっきからコーヒーがまずく感じられるのは、雨や子供のせいではなく、向かいの席から匂うコロンのせいだった。
「吉田くんねえ、勉強はできたし、中学んときからお洒落《しゃれ》だったじゃん」と、しばらくパフェをなめてから、芝居っぽく首をかしげて、亜津美が言った。「あたしがのぼせてたのは本当、背だって高くて、お金もあったしさあ、だけど……」
「うん?」
「やっぱり、ねえ」
「山内が人生観を変えた理由とも、関係あるわけか」
「だってさあ、ようするにね、吉田くんはエッチしたかっただけなんよ。優しかったのは最初だけ。そりゃあね、あたしのほうから惚《ほ》れたんだから、ちょっとは仕方ないわよ。だけどあたしだってさ、ただセックスされるためにだけなんか、付合えないわよ」
「山内のほうからふったわけだ」
「あたしが勝手に好きになって、勝手に嫌いになったっていう、それだけのこと」
「人生観も変わるかな」
「エッチさせてやって、軽くあつかわれて、それで只《ただ》なんてチョー馬鹿らしいじゃん。そのへんのオヤジと援助交際してやれば、一回で三万円はくれるんだから」
「ああ、そう」
「馬鹿なオヤジなんか十万も出すわ」
「それはたしかに、チョー馬鹿らしい」
「売春《うり》みたいなこと出来るんは高校んときだけ、オヤジたちはこの制服にお金出すの。だから今のうちに稼いで、今のうちにたっぷり人生を楽しんでやるの」
溶けたヨーグルトパフェを、亜津美がストローで強くすすり、描いたような細い眉を、右側だけ陽気に持ちあげた。奥の席で子供が叫び、ダンプカーが窓ガラスをふるわせ、こんな時間まで子供がレストランで叫んでいることに、意味もなく腹が立つ。
「吉田がおかしくなったのは、君にふられたせいかもな……」と、コーヒーを飲みほし、ついでに水も飲みほして、ぼくが言った。
「それはまた別。吉田くんがあたしのことなんかで、悩むはずないじゃん」
「どうして」
「彼ね、ほら、あれなんよ」
「どれ」
「やだーっ、木村くん今、別のこと考えたでしょう」
「べつに……」
「包茎とか短小とか」
「そんなことは、考えてない」
「あたしさあ、小さすぎで役に立たないとか、そんなことない気がするんよね」
「吉田は、だから、なに」
「だって吉田くん、小学校のときから勉強ができたじゃない。クラスでトップとか学年でトップとか、ねえ、でも今度の高校、レベルがまるで違うんだって、みんな天才みたいな子ばっかりだって。信じられる? あの吉田くんがクラスで二十番だってよ、学年じゃなくて、クラスでだって。それで彼、去年の一学期が終わったころ、ぷっつん切れちゃったらしいのよね」
「去年の一学期……か」
「背伸びするからよねえ、上には上があって、その上にはまたずっと上があるの。そういう上にいる人たちって、生まれも育ちも最初から違うんよ。そんな理屈、男だって女だって、みんな同じことなのにねえ」
ウェイトレスがまたコップの水を足しに来たが、ぼくはそれを断り、窓に交錯するヘッドライトやテールランプの明滅に、ぼんやりと目をやった。子供の叫び声に罪はなく、山内亜津美の人生観に罪はなく、怜子の不登校にもお袋の家出にも罪はなく、罪はひたすら、ふりつづけるこの雨にある。
山内亜津美が首をふって髪を掻きあげ、日焼けした脂顔《あぶらがお》を照明にさらして、銀色の上唇をめくりながら、腫《は》れぼったい目蓋を、じわりと上下させた。その表情がウィンクなのか、目が痒《かゆ》いだけなのか、ぼくはもう、思考を放棄した。
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薄日が射しただけなのに、紫陽花の花蕚《かがく》は正直に色をます。薔薇の葉裏や枝には見事なほどアブラ虫が結集し、久しぶりに乾いた地面をクロヤマ蟻が混沌《こんとん》と這《は》いまわる。梅の木やアオキの陰には蚊よりも小さい羽虫が舞っていて、庭にどれほどの昆虫が闊歩《かっぽ》しているのか、考えると気が遠くなる。ヒメジョオンは相変わらず地味な花を咲かせ、チチコグサまでが先端に黄色く、米粒ほどの花をつけている。午前中に洗濯物をやっつけてから、草むしりをするつもりだったのに、せまい庭を、ぼくは一時間も散策していた。薔薇のアブラ虫を殺していいものか、雑草を始末していいものか、意気地もなく迷いつづけていたのだ。
「お兄ちゃん、ジョーズがね、なんか変だよ」
怜子は黄色いトレーナーにスリムのジーンズ、髪をポニーテールにむすび、トレーナーの袖《そで》は肘《ひじ》の上にたくしあげている。台所の片づけは終わったらしく、窓枠に肩を寄せて、庭のほうへぶらりとスリッパをふってみせた。親父は朝から接待ゴルフで、日曜日とか梅雨間の日射しとか、そんなことでも怜子の鬱屈は改善されるのだろう。
「洗い物は済んだのか」
「済んだ」
「テーブルは?」
「片づけた」
「怜子な、女の子なんだから、下着ぐらい自分で洗えよな」
「お兄ちゃん、ジョーズだよ」
「あいつの顔は最初からおかしいさ」
「顔じゃないよ、泳げなくて、口から泡をふいてるの」
アブラ虫をどうするのか、垣根のアオキは放っておくのか。それにまた泳ぎの下手な水棲《すいせい》昆虫まで、ぼくの責任だというのか。
ぼくはかがみこんでいた薔薇の前から、ゆっくりと腰をあげ、庭|下駄《げた》の先で軽く目の前の小石を蹴とばした。柿の木の下には小さく蚊柱が立っていて、うすい色のシジミ蝶が忙《せわ》しなく垣根をわたっていく。日射しが心地いいのか、銀色のトカゲが二匹、庭石の上で鷹揚《おうよう》な交尾をくり返す。
居間に入り、水槽をのぞくと、いつもは底に沈んでいるジョーズが、なるほど水面の近くでぐったりと肢《あし》をもがかせていた。鎌《かま》を横にしたような口には気泡が浮いていたが、『泡をふいてる』というほどの苦境でもなさそうだった。
「おまえ、水、いつ取りかえた?」
「ずっと前」
「餌は?」
「ずっと前」
「ずっと前の、いつ」
「そんなの、ずっと前だよ」
「そうだったな、お兄ちゃんも忘れていた。今日は新しい水を汲《く》んでこような」
お袋がいたころは一週間に一度、ぼくか怜子が多摩川で水を汲んできた。濾過《ろか》装置もエアポンプもない水槽でジョーズが生き残ったのは、ぼくたちの勤勉さが理由だったのだろう。一昨日《おとつい》はちゃんと思い出したのに、思考が飽和して、ぼくはまたジョーズの存在を忘れていた。犬でも猫でもメダカでも、余裕のない人間に飼われたら、飼われる側は、たまったものではない。
庭に気配がして、ふり返ると、雪乃丞に先導された釉香の長い足が、門から大股《おおまた》に楓《かえで》の陰を横切ってきた。釉香はルーズな短パンに透明なプラスチックサンダルをはき、上にはゆったりとボーダー柄のTシャツをかぶっていた。山内亜津美とのセックスに十万円も払うオヤジは、釉香に対して、何円《いくら》の値段をつけるのか。
「怜子ちゃん、偉いわねえ」と、庭の洗濯物に目を細めながら、顎の先を部屋の中に尖らせて、釉香が言った。「今日はお天気だものね、ちゃんと洗濯したわけ」
「洗濯はぼく」
「あら」
「掃除も買い物も料理も、みんなぼく」
「兄妹だものねえ。そんなこと、お兄さんがやるのは当然よねえ」
「おまえ、今日も散歩か」
「雪乃丞の日光浴よ、年寄りのくせに足だけは丈夫なの」
「雨が好きだっていう動物、世の中にいないのかな」
「いるわよ」
「ふーん」
「雨蛙」
犬の紐をベランダの柱につなぎ、膝を敷居の内側について、釉香が上半身を部屋の中に突き入れた。腰をかがめたTシャツの胸に白いブラジャーがのぞいて、頭の中で、軽く、ぼくは咳《せき》払いをした。
「メダカ、一匹もいなくなったね」と、床に膝を立てたまま、偉そうに水槽を見おろして、釉香が言った。
「飼ってたのはメダカじゃない」
「金魚?」
「メダカなんだけどさ、あれはジョーズの餌だった」
「ジョーズって?」
「今浮いてる虫」
「あら」
「しばらく水をかえてなくて、ちょっと、苦しんでる」
釉香が腕を組んで、背筋を弓なりにそらし、額の前髪を透かすように、じっと水槽をにらみつけた。雪乃丞に引かれてきたせいか、鼻の頭にはうすく、金色の汗がにじんでいた。
「釉香……アイスコーヒーは?」
「いらない」
「あがるならあがれよ」
「これ、トンボのヤゴじゃない」
「知ってるさ」
「この形と顔だとアオハダトンボね」
「詳しいんだな」
「親父が飼ってたの。あの人ね、オニヤンマやシオカラトンボのヤゴも飼ってた」
「オタクっぽい人だった」
「うちのこと言わないでよ」
「それは、そうだ」
「ねえ、このヤゴ、どうするの」
「水をかえて餌をやるさ」
「だってねえ、もうあれよ」
「あれって」
「変態」
「うん?」
「脱皮、トンボになりたがってるの。草か棒につかまって外に出たがってる。だから今さら水をかえても、もう仕方ないよ」
怜子のポニーテールが頼りなくゆれ、ふくらみのないジーパンの尻が、リビングの椅子に浅く沈み込んだ。口を尖らせたり眉をしかめたり、釉香の影響か、怜子の表情も少し活発になっていた。
「怜子、ジョーズはトンボになりたいんだってさ」
「………」
「忘れていた。ヤゴはいつか、トンボになるんだよな」
釉香が膝をくずして敷居に座り、首のうしろに浮いた小さい赤みに、欠伸をしながら爪《つめ》を突き立てた。湿疹《しっしん》やニキビではなく、蚊に食われた跡らしかった。
「痒みどめ、つけるか」
「え」
「首」
「あ……いらない」
「掻きすぎると傷になるぞ」
「木村くん……」
「うん?」
「あの……ね」
「なんだよ」
「お兄ちゃん」
「なんだよ」
「ジョーズをね、川に戻してやらない」
「ん……そうだな」
「生まれた場所でさ、友達のたくさんいるところでトンボにさせてやろうよ」
怜子がポニーテールをふって台所に歩いていき、スーパーのビニール袋をもって、またスリッパを鳴らしてきた。天気や昆虫に反応するのは鬱病が治りはじめた証拠で、しかしさっき、自分が庭でなにを考えていたのか、ぼくのほうはまるで思い出さなかった。
「アオハダトンボなら、川に返したほうがいいね」と、サンダルをふって腰をあげ、日射しの中で背伸びをして、釉香が言った。「大人になって、ちょっと飛んで、すぐ死んじゃうわけだし」
「釉香……なんだっけ」
「なにが」
「なにか言いかけなかったか」
「そのヤゴ、多摩川でしょう」
「ゴルフ場の反対側」
「葦《あし》のはえてるとこ?」
「そう」
「ヤゴを放して、散歩して、玉川楼でケーキを食べない?」
「………」
ぼくが返事をする前に、怜子がベランダへスリッパを鳴らしていき、ふり返った釉香と、なにごとか、にんまりとうなずきあった。担任の教師は『夏休みが終わるまで様子をみる』と言ってくれたが、そこまでの猶予も、どうやら不要のようだった。散歩の帰りに玉川楼でケーキを食べるというなら、明日からは買い物も夕飯の支度も、きっちり怜子に分担させてやる。
ヤゴの袋を釉香にあずけ、ぼくが戸締まりをして戻ってくるまでに、五分もかからなかった。光は湿度の高い金色、気温二十八度、ただ歩くだけでも額と首に無機質な汗が流れ出す。ぼくらは住宅街を多摩堤通りに出て、道を土手側へわたり、河川敷の草野球を遠くに見ながら、玉川園の方向に黙々と散歩していった。雪乃丞は年寄りのくせに力が強く、紐をにぎった華奢な怜子を重心の低いガニ股で強引に運んでいく。犬を引きずったり引きずられたり、尻《しり》もちをついたりぼくらに手をふったり、多摩川の土手を歩いていく怜子は、少なくとも今日は、登校拒否の中学生には見えなかった。
「怜子ちゃん、だいじょうぶだね」と、ヤゴの袋をぶらりとふり、プラスチックのサンダルにスキップを踏ませて、釉香が言った。
「しばらく元気がなくてあいつの本性を忘れていた」
「どういう本性?」
「気が強くて我儘《わがまま》で甘ったれで、自分勝手な性格だった」
「女の子なんてそんなもんよ」
「そんなもんかな」
「玉川楼のケーキね、今日は、わたしがおごるわ」
「売春《うり》でもやったか」
「なんのこと」
「こっちの話」
「木村くん……」
「うん?」
「昨夜ね、わたし、吉田くんに電話したの」
「………」
「わたしの責任かも知れないし、ちゃんと話して、わたしの気持ち、分かってもらおうと思ったの」
「けっこう律儀なんだな」
「わたし、笑っちゃったよ」
「なにが」
「彼、わたしのこと、不良だって」
「今まで知らなかったのか」
「わたしの友達に不良がいるんだって」
「ふーん」
「その不良が昨日、吉田くんの家に行って彼を脅したらしいの。そのせりふが笑えるのよね」
「………」
「『釉香は子供のときから自分の女だから、手を出したらなぐる』だって」
「笑っちゃうな」
「でも彼、本気で恐がってたわ」
「その友達、人相が悪いんだろう」
「たぶんね」
「困ったもんだ」
「そういう友達と付合ってるわたしも、吉田くんに言わせるとものすごく不良だって」
「ようするにふられたわけか」
「そうみたい」
「釉香……」
「なあに」
「悪い友達をもって、おまえも不幸な人生だよな」
口を閉じたまま、釉香が顎の先で笑い、多摩川の対岸を透かすように、細めた目を金色に輝かせた。光の中を雪乃丞の尾っぽと怜子のポニーテールがリズムを合わせ、草野球の喚声が河川敷の風景を気楽に熱くする。
「ほら、あれ。あの緑色に光って飛んでる、あれがアオハダトンボ」
釉香の指さす先に、黒く、青く、薄紙細工のような川トンボが、光の色を楽しむように頼りなく土手を舞いおりる。ジョーズもすぐにあんなトンボになって、つかの間多摩川の土手を飛び、騒ぎもせず、文句も言わず、愚痴も言わずに一生を終えていく。
腕を水平にのばした釉香の腋《わき》の下から、甘酸っぱい汗が匂って、失礼にも、ぼくはうっすらと赤面した。
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ヴォーカル
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大沢さんがステージのまん中で無気力なギターフュージョンをやっている。相手はダンプカーのような音を出すばかでかいクーラー、水を使って冷《ひや》すクーラーなんて、このスタジオ以外ではまず見かけない。水冷クーラーの冷房効率も怪しいもんで、このクーラーがここにある背景には、なにか特殊な、不可解な事情がある。もしかしたらそれは、このクーラーこそ地球の中心で、位置をかえたら地球が崩壊してしまうとか、この喧《やかま》しい音がロシアから送られてくる秘密の暗号になっているとか、二時間分の料金で利用者を一時間で追い返す陰謀とか、とにかく経営者にだけ納得のいく、深い理由があるに違いないのだ。
ぼくと雅美《まさみ》はステージとは反対側の壁に寄りかかり、二人とも足を投げ出して、フロアの白茶けたゴムタイルをぼんやり眺めていた。クーラーの音は地下道を飛ぶヘリコプターみたいで、尻には震動が直《じか》に伝わってくる。貸しスタジオにぼくらを座らせてくれる椅子はなく、それに床に座っていたほうが、いくらかはクーラーの努力を助けてやれる。
吉野さんが四本の缶ビールを抱えて、肩でドアを押し、汗と一緒に憮然《ぶぜん》とスタジオに戻ってきた。吉野さんはそのままぼくらの前まで歩いてきて、ぼくと雅美に一本ずつ缶ビールを渡し、ステージからおりてきた大沢さんにも、ぽいと一本放り投げた。
「電話番号、違ってるらしいや」と、ビールのプルトップを抜きながら、怪訝《けげん》そうに首を横にふって、吉野さんが言った。
「こんな時間に寝ぼけるなよ」と、大沢さん。
「間違えるはず、ないけどなあ」
「おまえが間違えないでどこが間違うんだよ」
「どこだか……だけど、出ないんだ」
「それじゃもう来るんだろうぜ」
「それが……」
ビールを口に含み、ぼくらの顔を見まわしてから、吉野さんがメガネの向こうの眉を、大きく八の字型に押し広げた。
「どうもなあ、この電話番号、使われてないって言うんだ」
「だれが?」
「だれだか知るかよ。だれだか、NTTの女の人さ」
「『あなたのおかけになった番号は、ただ今使われておりません……』て、あれか?」
「そう、あれ」
ビールを一気に飲みほしてから、ふーっと長く息を吐いて、大沢さんが言った。
「おまえのかけ間違いだろうよ、なあ?」
「三回かけたんだけどなあ」
「だからよう、おまえ、三回とも間違えたんさ」
今度は大沢さんがぼくらの顔を見まわし、鼻を曲げてから、肩までの髪を面倒臭そうに指で掻きあげた。
「公衆電話、壊れてんじゃねえのか」
「知るかよ」と、肩をすくめて、吉野さんが答えた。
「どこでかけた?」
「歩道橋の下の、酒屋の電話」
呆れたように鼻を鳴らし、ビールの缶を握りつぶしてから、大沢さんがちっと舌打ちをした。
「俺、ちょっと行ってくらあ。他の電話めっけてみる」
ブーツのかかとを鳴らしながら、大沢さんがスタジオを出て行き、それまで立っていた吉野さんも、ぼくのとなりに座って浅く壁に背中を押しつけた。
「映画でも観てくればよかった……」と、ふて腐れたように足首をまわし、口を尖らせて、雅美が言った。「だけどこのクーラー、もう少し働かないのかなあ」
雅美に言われなくても、クーラーさえちゃんと効《き》いてくれれば、伶子《れいこ》さんが一時間以上遅れていることに、だれもこれほど苛立《いちだ》ちはしない。そういう意味では今のところ、ぼくらは経営者側の作戦にのせられている。
「もう何度もかけてるし……」と、ポケットから手帳を取り出し、しつこく眺めながら、不安そうな声で、吉野さんが言った。「なあ、間違ってないよなあ」
ぼくは仕方なく缶ビールを床に置き、自分のテレホン帳を取り出して、伶子さんの電話番号を確認してみた。吉野さんの手帳に書かれている番号と、ぼくの番号と、たしかにそれは同じものだった。
「合ってますね」
「そうだよなあ。三回もかけて、三回とも間違うはずないもんなあ」
「酒屋の電話ってピンク電話ですか」
「そうだけど?」
「昼間から赤い顔した電話なんて、信用しないほうがいいですよ」
困ったように、それでもまた不安そうに笑い、メガネを外して、吉野さんが首のタオルで顔を一|拭《ふ》きした。吉野さんの小さい目は本気で困惑し、伶子さんが今ここにいないことの責任は自分にある、とでも思い込んでいる感じだった。
ドアが開き、大沢さんがブーツのかかとを鳴らして、肩をゆすりながら戻ってきた。気配と目の表情から、大沢さんの口から出る言葉は、ぼくにもある程度予想できていた。
「本当だぜ。この電話番号、本当に使われてねえってさ。俺も二回かけ直してみた、もちろん酒屋の電話じゃねえやつで。いったいこれ、どういうことなんだ?」
なぜぼくらのバンドが『カメレオン』という名前なのか、ぼくは聞いたことがない。バンドができたときには決まっていて、結成されたのは今年の三月だから、まだ半年もたっていない。一週間に一度貸しスタジオで練習をやり、今までに三回、ライブのステージを踏んでいた。
バンドができたきっかけは、吉野さんがアルバイトをしていた渋谷のスナックに伶子さんが客で来て、そこで話が決まったという。リーダーでヴォーカルが伶子さん、吉野さんがドラム、大沢さんのリードギターに雅美のピアノ、そしてベースギターが、ぼく。
このメンバーを集めたのは吉野さんだった。まず吉野さんの中学時代の友達で、バンドを五つも渡り歩いているセミプロの大沢さんを入れ、雅美の兄さんが吉野さんと高校の同級生だったということから雅美が入り、その雅美の命令で、結局ぼくまでメンバーに加わった。ぼくと雅美は高校の二年、雅美は無試験で音大の作曲科に入ることが決まっているし、ぼくも東大を目指しているわけではない。週に二時間の練習や月に一度ぐらいのライブは、勉強の合間の健全な息抜きだった。
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「だからさ、なにがどうなってるんだか、さっぱり分からなくてさあ」
伶子さんがいなくなってから、三日目。
電車が通るたびに地響きがするガード下の焼き鳥屋で、吉野さんはもう五回ぐらい同じせりふをくり返していた。夕方になって急に吉野さんから呼び出され、ぼくもコップに二杯だけビールを付合っていた。
「そんなことがあると思うかよ。一人の人間がなんの理由もなく姿を消して、どこを捜したって見つからないなんてこと」
「それならもう、警察ですね」と、いい加減面倒臭くなって、思わずぼくが言った。
「それができないからよう、こっちは苦労してるんだ」
吉野さんはメガネの奥の小さな目を朦朧《もうろう》とさせ、躰を揺すりながら、握ったビールのコップをごそごそとふるわせている。鼻の下にはうっすらと髭《ひげ》が生《は》えて、白いカッターシャツの襟は萎《しな》びたように内側へねじれていた。
「捜せるところはぜんぶ捜してみた、不動産屋も大家《おおや》も……」
また話が最初に戻ったなと思いながら、それでもぼくは礼儀と、自分の忍耐心を試《ため》すために、黙ってうなずいた。
「あれから俺と大沢でな、彼女のマンションに行ってみたんさ。彼女のマンション、荻窪《おぎくぼ》にあるんだ。いや、あったっていうか、とにかく、二人で行ってみたわけ。だって一週間前に電話があって、あの日あそこで練習することは決まってたんだものな。そしたらさあ、やっぱし鍵が閉まってて、チャイムなんか押したってどうにもなんなくてさあ」
吉野さんが手をあげ、立ちあがって、勝手にうなずきながら、三回目だか四回目だかのトイレへ歩いて行った。吉野さんはもう四本もビールを飲んでいて、舌はもつれていなかったが、トイレへの歩き方はだいぶ怪しくなっていた。
「それでさあ、木村くん……」と、トイレから戻ってきて、ゲップを吐きながら、吉野さんがつづけた。「俺、いやな予感がしてさあ。そういうことってよくあるだろう? 女の人の一人暮らしで、なんかの具合で死んじゃって……それで大沢に、やっぱし警察に届けたほうがいいかって言ったら……」
「電話の件がおかしいと?」
「そうなんだ。そういえばたしかに……なあ?」
吉野さんはそこでまたビールを呷《あお》り、テーブルから瓶をひったくって、空《から》になったコップに自分でビールを注《つ》ぎ足した。
「大沢さん、今どうしてますか」と、自分でもビールを飲むふりをしながら、ぼくが訊いた。
「大沢なんか……昨夜電話が来て、もう他のバンドに入ったとさ。あんなやつ、最初から入れなけりゃよかった。あいつを入れたからこんなことになった、そうに決まってるんさ」
素人《しろうと》バンドにセミプロの大沢さんを引き入れたのは、吉野さんで、その意味では論理的に矛盾《むじゅん》している。今の吉野さんは論理などビールのつまみにもしたくないだろうが、ぼくにしても大沢さんのテクニックは認めていたものの、ギターの音に品《ひん》がないという感じが、なんとなく好きになれなかった。
「木村くんさあ……」と、メガネの奥の目を険《けわ》しく光らせながら、顎を手の甲で支《ささ》えて、吉野さんが言った。「問題は、そういうことじゃなくて、やっぱし電話だったわけ。電話がちゃんと処理されてるってことは、伶子さんが部屋の中で死んでるとか、そういうことはないだろうとかって、俺もそう思ったわけ。それでマンション中のチャイムを押してさ、たまたまいた人に不動産屋と大家の住所を訊《き》いて、それでな、二人して行ってみたわけ」
ここまでの話は、今日会った最初から吉野さんがくり返していたことで、放っておけばまた『なにがどうなっているのかさっぱり分からない』に戻ってしまう。
この席を早く切りあげるためにも、ぼくの精神衛生のためにも、とりあえずぼくは、断固とした声を出した。
「最初に不動産屋へ行ったんですね、不動産屋はなんて言いました?」
「それがさあ、なにがどうなってるんだか……」
「不動産屋ではなにも分からなかった」
「そう、つまり……」
吉野さんがまたビールを呷り、メガネをずらして、苛立たしそうに顔中をハンカチで拭きまくった。
「彼女、伶子さんな、あのマンションに越してきたの、今年の三月だというんだ。今年の三月だぜ? 三月っていえばバンドを組むちょっと前だ。半年もバンドやってて、考えてみたらさあ、俺たち伶子さんのこと、なにも知らなかったんだよなあ」
吉野さんに言われる前から、本当はぼくだって、そのことは意識していた。伶子さんを除いては、バンドを組む前からそれぞれが一応のつながりを持っていた。一種の仲間|内《うち》という関係で、その仲間に、伶子さんはぽつんと飛び込んで来た。スタジオ代やバンドの経費は伶子さんが出していたから、金があることは分かっていた。しかし実際に伶子さんがどんな仕事をしているのか、あるいは仕事なんかしていなかったのか、ぼくはそれすら知らなかった。
「不動産屋が伶子さんのことを知らなくても、不思議ではないけど……」
「そうなんだよな。その不動産屋っての、青梅《おうめ》街道沿いにある『曙《あけぼの》不動産』とかいうやつでさあ、耄碌《もうろく》したようなオヤジが一人でやってるわけ。話を聞いても埒《らち》があかなくて、大沢が大家んとこまで行くって言うから、俺も最後まで付合ったんさ」
吉野さんは、そこで一息入れ、タバコを取り出して、紙のはぎ取りマッチでしゅっと火をつけた。吉野さんがタバコを吸うのを見るのは、知り合ってから初めてのことだった。
「大家は駅のすぐそばで薬屋をやってるおばさんでさあ」と、うまくもなさそうに煙を吐いて、吉野さんが言った。「びっくりしたぜ。だって伶子さん、あの練習の前の日に、引っ越したって言うんだ。木村くんさあ、いったいこれ、どういうことなんだ?」
ぼくに訊かれたって分かるはずはないし、吉野さんだって、ぼくがなにかを知っていると思ったわけではないだろう。
「その引っ越しも急だったらしいんだ」と、ぼくの返事は待たずに、舌打ちをして、吉野さんがつづけた。「急に故郷《くに》へ帰ることになったとかでな、伶子さんが自分で大家へ行ったらしい」
「伶子さんの故郷、どこですか?」
「名古屋……つまり、その、大家には名古屋だと言ってあった」
吉野さんが尻ポケットから手帳を取り出し、挟んであった小さい紙切れを、そっとぼくに差し出した。その紙には『名古屋市中区大岩町十四の十五』と、吉野さんらしい几帳面な文字が並んでいた。
「実は俺……」と、ちょっと声を詰まらせ、息を大きく飲んで、吉野さんが言った。「今日な、実は、名古屋まで行ってきたんだ。だって、どう考えても不自然だろう? なにがあったか知らないけど、故郷へ帰るなら帰るで、俺に言うべきなんだ。そのさあ、俺と伶子さんな、なんていうか……」
「できてた[#「できてた」に傍点]わけですか」
「はっきり言うと、まあ、そういうことなんだけどな。それがさあ、大沢が言うには、伶子さんは、やつとも寝てたっていうんだ。そんなことないよなあ、大沢のはったり[#「はったり」に傍点]だよなあ、どう思う木村くん?」
どう思うかと言われたって、そんなことぼくに、どうにも思えるはずはない。
「ぼく、伶子さんのことはよく知りませんでした」
「そうなんだよ。考えてみたら、俺だって大沢だって君だって、伶子さんのことはなにも知らなかった。俺、人間が分かんなくなった。バンドやってる間は伶子さんのこと、よく知ってるような気でいたけど、急にいなくなって、それじゃ伶子さんてだれだったのかと考えたらまるで分かんねえの。こんなことって本当にあるんかなあ」
興味はなくても、好奇心だけは湧いてきて、ビールを飲みながら、ぼくが訊いた。
「名古屋へ行って、伶子さんに会えたんですか」
「それさあ、問題はそこなんさ」
ビールを激しく呷って、メガネの奥からじっとぼくの顔を見すえ、くずれるように、吉野さんが肩を深くテーブルに突き出した。
「そんな住所は無かった。駅で訊いて交番で訊いて、最後は市役所まで行ってみた。名古屋にはさあ、中区だけじゃなくて、どんな区にも大岩町そのものが無かったんだ。木村くん……伶子さんて、なあ、いったいだれだったんだ?」
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夏がないまま夏が終わってしまう、そんな感じだった夏が、ここいく日か急に元気を取り戻した。夏休みの終わりに暑くなっても仕方ないと思うが、天気にも都合があって、一応最後の意地を見せる気になったのだろう。
そういえば最近、夜中に蝉《せみ》の声を聞くことがある。蝉なんてかんかん照りのまっ昼間、人間の神経を痛めつけるために鳴く虫かと思っていたが、夜中にまで鳴かれると、へんに可哀そうな気にもなる。
ぼくと雅美は吉祥寺の『ペンギンハウス』の窓際で、井の頭通りを走るクルマを眺めながら、一個のチーズマフィンを両方からつつき合っていた。二人とも食欲がないわけではなく、一時間前に、それぞれもうビッグマックを一個ずつ平らげていたのだ。
「そんなこと、今まで気がつかなかったの」と、レモンスカッシュのストローを上唇に押しつけたまま、ぼくの顔を辛辣《しんらつ》にのぞいて、雅美が言った。「木村くんて他人のことに、鈍感だからね」
「伶子さんと吉野さんでは釣り合いがとれない気がする」
「男と女のことだもの、木村くんが考えてるより難しいわよ。わたしだって吉野さんと伶子さんがそういう[#「そういう」に傍点]関係とは思わなかったけど、でも吉野さんがいかれてた[#「いかれてた」に傍点]ことは知ってる。それぐらいのこと、目や態度を見れば分かるわ」
「目や態度で……か」
「気持ちって目や態度に出ちゃうものなの、木村くんも気をつけなさいね」
「ぼくがなにを」
「可愛い子がいると、いつもじっと見るじゃない」
「じっとなんか見ないさ」
「じっと見るわよ、自分で気づかないうちにじっと見るの。そういうのってね、一緒にいると分かっちゃうんだから」
もともと雅美には、一緒にいなくても分かられる部分があって、その超能力にはぼくのガードなんか、クラーク・ケントのメガネより意味がない。だからって街を歩きながら、他の女の子に『完全無視』を決め込むほど、ぼくは疲れていないのだ。
「だけど……」と、話題を変える意図を悟られないように、用心しながら、ぼくが言った。「伶子さんが大沢さんとまで関係してたこと、信じられるか」
うーんと小さく唸《うな》って、雅美がストローをくわえ、レモンスカッシュの中にぶくぶくと息を吹き込んだ。
「そこまでは、ねえ……」と、気難しそうに眉をしかめ、鼻の頭に皺《しわ》をよせて、雅美が言った。「でも伶子さんて、分からないところがあったな」
「ぼくにはまるで分からなかった」
「そういう意味じゃなくて、なんていうか、感性みたいなものが違ってた気がする」
「自分のことを喋《しゃべ》らなかったから?」
「そういうのとも違う。うまく説明できないけど、あの人には生活の匂いが感じられなかった。生きてる実感みたいな、時間の分泌物みたいな、伶子さんにはそういうもの、なにも感じられなかった」
女の子が女の人を見る目と、男が女の人を見る目が違うことぐらい、ぼくにだって分かる気はする。客観的に見て伶子さんは相当に奇麗な人で、匂いがなかったと言われればそうかもしれないが、そのことが逆に、不思議な存在感も発散させていた。それは決して、ぼくが『じっと見るから』というだけの理由ではないはずだった。
「吉野さんは、かなりまいってた……」と、今日初めてのタバコに火をつけ、わざと冷淡に、ぼくが言った。「警察に行くわけにもいかない、伶子さんのことも忘れられない……あの人、真面目すぎるのかな」
「それがふつうなのよ」と、ぼくのタバコに手をのばし、鼻を強引に曲げながら、雅美も一本に火をつけた。「木村くんなら一週間で忘れるけどね」
「今日のマフィン、固いな……」
「もちろん吉野さんだってね、十年もすれば忘れるわよ。人間てそういうもんだもの」
「ふーん」
「だけどあの人の性格だと意志力では割り切れないと思う」
「割り切り方が分からないさ」
「伶子さんの消え方が消え方だし……」
雅美が細長く煙を飛ばして、つけたばかりのタバコを灰皿でつぶし、小さいテーブルに軽く頬杖をついた。
「無責任といえば無責任よね、事情があるらしいことは分かるけど」
「突然のトラブルではないと思う」
「どうして」
「電話やマンションを自分で処理している」
「捜してみようか」
「どうやって」
「なんとかなるわよ」
「伶子さんは捜されたくないと思ってるさ」
「そんなの向こうの勝手じゃない。説明もなく放り出されたほうはどうしたらいいの。説明できないほどの事情って、なんなのよ。たとえ説明できなかったとしても、挨拶《あいさつ》はしていくべきだったわ」
「うん……」
「木村くんはなんで伶子さんの肩を持つの。吉野さんや大沢さんみたいに、やっぱり伶子さんと関係があったわけ?」
自分で喋りながら、自分で興奮してきたらしく、少し上向きな鼻を、雅美がぷくっとふくらませた。雅美の声がこういうトーンに変調してきたときは、だいたいは、やばい。
「捜すといっても……」と、視線で雅美の機嫌を取り、意味もなくマフィンをつつきながら、ぼくが言った。「伶子さんの友達なんか、ぼくたち、一人も知らないだろう」
素人バンドがコンサートをするときには、チケットなんて、だいたいは半強制的に友達に売りつける。伶子さんを除いた四人は、そのとおりのことをやっていた。ただ伶子さんだけは、だれにもチケットを売らなかった。コンサートの赤字は伶子さんが埋めていたから、ぼくらはそのことに気がつかなかった。今から考えると、これまでの三回のライブに、伶子さんの友達は一人もステージを見に来ていなかった。
昨夜吉野さんが言った言葉が、妙にはっきり、ぼくの頭によみがえった。『伶子さんて、いったいだれだったんだ?』
しばらくぼんやりしていたぼくの頬を、ストローでつついて、雅美が言った。
「わたし、怒ってきた気がする。さっきまでなんとも思わなかったけど、急に怒ってきた。見つけてやるわよ、伶子さんのこと、ぜったい見つけてやるから」
雅美の短い髪の首筋を、汗が直線的に流れていく。それはぼくにしても同じことだ。『ペンギンハウス』を出たとたん、シャツの中はもう汗でぐっしょりだった。地軸が狂ったかなにかして、今年の夏はたった今始まったばかりなのか。そうだとすれば、湘南あたりで、十月まで海水浴ができる。
雅美の推理では、伶子さんだってマンションを借りるとき、住民票が必要だったはずだという。住民票は不動産屋なり家主なりに、必ず残っている。雅美の兄さんが京都の大学に入ってアパートを借りたとき、雅美が手続きを手伝った。住民票には本籍地ものっているはずで、雅美の決意は、『必要なら九州でもアメリカでも行ってやる』というものだった。昔、戦争中、ぼくの祖母《ばあ》さんはアメリカの爆撃機を竹槍で突き落とす訓練をしたという。そのころ雅美が生きていたら、B29ぐらいどうせ竹槍で突き落としていた。日本が戦争に負けた原因は雅美が生まれてくるのが、少しだけ遅かったせいなのだ。
ぼくらは『ペンギンハウス』から吉祥寺の駅まで歩き、中央線で荻窪に出た。伶子さんが住んでいたマンションも、不動産屋も家主の家もみんな荻窪にある。井の頭公園でボートを漕いで、マクドナルドでビッグマックを食べて『ペンギンハウス』でレモンスカッシュを飲んだあとでも、時間はまだ午後の三時だった。
吉野さんから聞いた『曙不動産』は、荻窪駅を北口に出て、青梅街道を少し高円寺《こうえんじ》方向に行った下駄《げた》屋のとなりにあった。まわりのビルのほとんどは新しくなっていたが、下駄屋と不動産屋だけは、古さ自体に屈折した美意識を持っているように、悠然とその古さを誇っていた。
店にいたのは六十から九十の間ならいくつにでも見える、老人博覧会に出してみたいような、頑固そうな白髪頭のおじいさんだった。白内障の手術でもしたのか、分厚いレンズのメガネをかけ、粗大ゴミのようなソファでむっつりと新聞を開いていた。それでもクーラーはぶんぶん唸っているから、完璧な文明拒否症ではないらしかった。
新聞から顔をあげ、じろりとぼくらを見比べて、おじいさんが胡散《うさん》くさそうに口を動かした。
「新婚用の部屋かね……その若さでご苦労なこったなあ」
「大きなお世話よ」と、鋭く耳をふるわせ、おじいさんに気安くにじり寄って、雅美が言った。「わたしたち、金村伶子さんのことを訊きに来たの」
雅美の迫力に気圧《けお》されたのか、おじいさんが新聞を下に置き、きたないソファからのっそりと腰をあげた。
「客じゃねえのかあ。そういやここんとこ、客なんか来てねえなあ」
「今親切にしてくれたらわたしがアパートを借りるときお客になってあげるわ。今はフロントケアとアフターケアの時代なんだから」
おじいさんが呆れた顔で事務机の向こうにまわり、ゆっくり腰をおろして、しゅっと鼻水をすすり上げた。
ぼくはなんとなく顔が赤くなったが、訊問の才能はどう考えても雅美のほうが上まわっているわけで、この局面はやはり、雅美に任せることにした。
「それで、なんだっけ?」と、ふるえるような手でタバコに火をつけ、顔の皺を精一杯ひろげて、おじいさんが言った。「最初になんか言ったっけなあ、だれかがどうしたとか」
「金村伶子さん。今年の三月、おじさんが近くのマンションを紹介した人」
「ああ、『ビュー・パレス』のなあ。そういや二、三日前、やっぱし若《わけ》え衆が二人来てなんか言ったっけが。困るんだなあ、部屋を出るなら出るで、こっちにも連絡してくんねえとさあ」
「わたしたちね、その金村伶子さんを捜してるの」
「この前の二人もそんなこと言ってたっけ。あの人、なんかやったんかね」
「それが分からないから捜してるのよ」
雅美がインナースケートのように机の前へ歩き、さっきまでおじいさんが座っていたソファの肘《ひじ》かけに、ひょいと尻をのせた。ポーズも決まっていて、足も長いのだが、この気の強さだけ、なんとかならないものか。
「金村さんの引っ越し先、おじさん、知ってるんじゃない?」と、芝居っぽく声の調子を和《やわ》らげて、雅美が言った。
雅美の声に釣られるように、メガネをずり下げて、おじいさんが欠伸をしながら机に身をのり出した。
「わしが知るわけねえさあ。さっきも言ったけど、とにかく、うちには連絡もよこさなかった。前の二人にも家主のとこへ行けと言ってやったけどねえ。家主には連絡先を置いてったらしいや」
ここまでのところは、吉野さんがぼくにしてくれた説明と一致している。ただこのおじいさんも、大家さんも、伶子さんが置いていった連絡先が架空のものだとは思っていないらしい。
「金村さんが借りていた部屋の家賃、いくらですか」と、ぼくが訊いた。
入り口に立っていたぼくに、初めて気がついたように、おじいさんがぼくのほうにメガネを押しあげた。
「十四万八千円だがね。表《おもて》にもう新しい広告を出しといたよ」
「管理費は別で?」
「管理費は六千円さあ。この時期、この値段じゃちょっくら借り手はつくめえなあ」
「それだけの部屋を貸すなら、借り手の身元を調べるでしょう」
「そりゃあ、まあ、なあ……」
おじいさんがタバコをくわえたまま、机の上から鉛筆を取りあげ、もぞもぞと白髪の中を掻きまわした。
「そりゃまあ、そういうことを細かくやる不動産屋もあるけどなあ。うちなんか昔どおりの商売してるんだよ」
「毎月家賃を払えるか、どうして分かるんです? 敷金や礼金だってあるだろうし」
「あんたねえ……若いから知らねえだろうけど、世間にゃ事情のある人だっているわけさあ。このへんは水商売の女だって多いし、中にゃ囲われもん[#「囲われもん」に傍点]だっているってこと。堅気《かたぎ》の衆よりゃそういう連中のほうが金まわりはいいんだよ。いちいち細かいことは言ってられねんさあ」
「金村さんが……囲われもん[#「囲われもん」に傍点]だったわけですか」
「そんなことは知らねえ。知らねえけどさあ、他人様の事情をほじくるだけが商売じゃねえってことだあね」
雅美がちらっとぼくの顔を見てから、首をかしげるように、不気味なほど光る目で下からおじいさんの顔をのぞきあげた。
「だけど住民票ぐらい、出すわよねえ」
「そりゃあ……」
おじいさんがゆっくりと雅美とぼくの顔を見比べ、タバコをつぶしながら、またしゅっと鼻水をすすり上げた。
「そのくれえは出すさあ」と、雅美から視線をそらし、なぜかぼくの顔を見ながら、おじいさんが言った。「そのくれえは、商売上の常識ってもんだあな」
雅美が尻のうしろに手をまわし、腰をラップのようにふりながら、小さくVサインを送ってきた。聞かなくても分かっているが、『あとはわたしに任せなさい』という意味なのだ。
「おじさん、わたし、その住民票が見たいなあ」
「その[#「その」に傍点]って……」
「だからね、金村伶子さんの住民票……あるんでしょう?」
「そういうのは契約書と一緒に家主へ渡すんさあ」
「それなら家主さんが持ってるわけ?」
「持ってると思うよ。もっとも部屋を出ちまった人のまではどうだかなあ、捨てちまってるかも知んねえなあ」
「家主さんは薬屋さんよね」
「この前の道を右側に行ったところの『壮快堂』さあ」
「壮快堂……へーえ」
雅美が、また尻のうしろでVサインをつくり、今度は立ちあがって、そのままぼくのほうへ歩いてきた。歩きながら雅美は一つウィンクをし、ごていねいに、ぺろりと舌まで出してみせた。
「じゃあね、今度部屋を探すときは、おじさんに頼むわ」と、軽くスキップを踏み、ドアに手をかけて、雅美が言った。
「来年までわしが生きてたら、ぜひそうしてくれや」と、たいして自信もなさそうな声で、おじいさんが答えた。
それからおじいさんは、ぼくを見て首をふり、その首をかしげながら、にやっと皺を笑わせた。
「若えのになあ、あんたも大変だなあ」
そのおじいさんの目つきが、なんとなく気になって、ぼくが訊いた。
「もしかして、住民票、コピーがあるんですか」
「そのくれえのことは商売の常識だあな」
半分開けていたドアを、乱暴に戻し、かかとをまわして、雅美が大げさにふり返った。
「ずるーい、最初から言えばよかったのに」
「おねえちゃんが訊かなかっただけだがね」
「そんなこと、だって……」
言いかけた雅美を無視して、おじいさんがまたぼくに首をふり、孫の将来を心配するような顔で、ぽりぽりと頭を掻いた。
「若えのになあ、まったく、あんたも大変だよなあ」
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「……ということは、伶子さん、荻窪に来る前は八王子にいたってことよねえ」
ぼくらはおじいさんがくれた伶子さんの住民票を眺めながら、荻窪駅の改札に近いコンクリートの壁に、並んで寄りかかっていた。人の流れはゆるやかだったが、換気のわるい構内は腹が立つほど蒸し暑く、ぼくも雅美も、ほとんど犬のように肩で息をついていた。
二人で住民票を眺めはじめ、しばらくして気づいたことは、それが荻窪のものではなく、伶子さんが以前住んでいた八王子の市役所が発行したもの、ということだった。荻窪でマンションを借りる時点で身分証明として使うわけで、当たり前といえば当たり前、しかしぼくは住民票なんかを見るのは初めてだったし、自分で使ったこともない。そこに書かれていることにどんな意味があるのか、ほとんど分かっていなかった。そしてそれは、口ほどにもなく、雅美にしても同じことだった。
「へーえ、なるほどねえ……」
雅美はさっきからそのせりふを、三回ほどくり返していて、ぼくもその度に住民票に向かって、うんうんとうなずいていた。ただ実際には、雅美が何に感心し、ぼくが何に対してうなずいているのか、ぼくにも雅美にも、まるで分かっていなかった。
「ほら、ねえ?」と、ぼくの顔を見あげながら、住民票の下の欄を指さして、雅美が言った。「本籍もちゃんと出てるじゃない」
それぐらいのことは、ぼくだってとっくに知っていて、ぼくが言った。
「要するに伶子さんの本籍が、神戸だということだよな」
「そうなのよ。伶子さんの実家は名古屋ではなくて、神戸だったのよ」
名古屋の住所が架空であることは、吉野さんから聞いて、最初から分かっている。たとえ本籍が神戸であっても札幌であっても、驚くことではないだろう。
「本籍と実家が同じだとは限らないんだ」
「だけどわたしの本籍、今の御殿山《ごてんやま》よ。なにかで聞いたことあるもの」
「うちの親父《おやじ》の本籍は高崎だ。大学で東京に出てきてそのまま住み着いた。だからもし、ぼくがどこかへ行ってそこに住み着いたら、実家は吉祥寺だけど本籍は高崎になる。たぶんそういうことになる……本籍の横の『筆頭者』って、なにかな」
「わたしに訊いたって、知るわけないでしょう」
「住民票はあった、あとはかんたんだ。君の推理で伶子さんを捜すだけでいいんだものな」
雅美がむっと唸って、目尻にいやな影をつくり、ぼくの脇腹に長い指の先を、鋭く食い込ませた。ピアノを弾《ひ》くせいか、華奢な形の割りに、怖いほど力強い指だった。
「本籍が分かっただけでも伶子さんに近づいた。それにそこには、伶子さんの歳《とし》も書いてある」
雅美が指の力を抜き、ぼくの顔を一|睨《にら》みしてから、頬をふくらませて、ふーっと息をついた。不動産屋のせりふではないが、この若さで、ぼくってなんて大変なんだろう。
「思うんだけどね、筆頭者のこの林敏一って人……」と、伶子さんの生年月日には興味をしめさず、鼻の頭の汗を拭いて、雅美が言った。「伶子さんのお祖父《じい》さんとか曾祖父《ひいおじい》さんとか、そういう人じゃないかしら。つまり、伶子さんの祖先みたいな人よ」
お祖父さんを祖先と呼ぶかどうか、しかし本籍の横の欄ということで、たぶん雅美の言うとおりだろう。それよりぼくには住民票にのっている、伶子さんの年齢に興味があった。ずっと二十二、三だと思っていたのに、実際は二十八。世間で言われる『女は化け物』という定説には、なるほど、根拠があったのだ。
「それに、ほら、ここを見てよ」と、肩でぼくの胸を押して、雅美がまた住民票に指を突き立てた。「『転入』の日が四年前ということは、この日に伶子さんが、八王子のこの住所に越して来たってことよ」
それはそうだが、問題はいつ八王子に越して来たかではなく、荻窪のマンションから消えてしまった伶子さんが、今どこにいるか、なのだ。
「『前住所』というのは、だからそういうことなのよ。分かってみれば簡単じゃない、ねえ?」
雅美が分かったのは、そして簡単だと思ったのは、あくまでも住民票の読み方でしかない。
「世田谷の太子堂《たいしどう》……か。そこが伶子さんの前の前の住所、八王子のそこが前の住所、それから本籍が神戸、そこまではいいさ。だけど八王子から荻窪に来て、ぼくらと半年バンドを組んでた伶子さんは、今はどこで、なにをしてるのかな」
「だから……」
「うん?」
「だからね、それをね、捜すんじゃないのよ」
雅美の声の調子が、急に頼りなくなって、尖らせた口からも急に迫力が消えていった。意識的に姿を消した人間を住民票一枚で捜し出すことが、どれぐらい難しいか、雅美にも突然理解できたらしかった。
なんとなく可哀そうになって、暑いのは承知で、ぼくは雅美の肩に腕をまわした。
「涼しいところで頭を冷せば名推理がうかぶ……たぶんな」
しばらく、雅美がぼくの腕の中で憤慨し、それから肩で大きく息をして、住民票のコピーを背負ったままのデイパックに、器用に押し込んだ。雅美の気の強さもこの程度なら、まだぼくの人格もバランスが保たれる。
「渋谷に出て映画を観て、屋台村でエスニックを食べて、伶子さんのことはそれからまた考えるさ」
「映画ならわたし、デビッド・リンチのホラーがいいな」
「暑くないか」
「ああいうの観ると逆に涼しくなるのよ」
「そういうもんかな」
二人してキップ売場へ歩きだし、ふと思い出して、ぼくが言った。
「今の住民票、ちょっと見せてくれ」
足を止めて、雅美が黙って背中を向け、ぼくはそのデイパックから、そっとさっきの住民票を取り出した。
「最初に書いてある『世帯主』というの……世帯主の金村悟っていう人、これ、だれなんだろうな」
「世帯主は、世帯主なんじゃない?」
「だから、どの家の世帯主なんだよ」
「伶子さんの……」
「伶子さんの、なに?」
「伶子さんの家の、世帯の、主ってことでしょう」
「それならこれは?」
汗の浮いている雅美の鼻の頭を眺めながら、ぼくは息を飲んで、伶子さんの名前のとなりにある、『続柄』という欄を指さした。そこには漢字で一文字だけ『妻』と書かれている。
「あ……」
「もし、世帯主との続柄が『妻』だとすると……この金村悟という人に対して、伶子さんが妻ということになる。理屈で考えると、どうしても、そういうことになってしまう」
ぼくらが乗った電車は、上りの新宿方面ではなく、八王子方面行き下りの中央線だった。
分かってしまえば、雅美のせりふではないが、それは馬鹿ばかしいぐらい簡単なことだった。住民票の読み方も簡単だし、伶子さんが突然あらわれ、突然消えていった理由も、住民票と同じぐらい簡単だった。
伶子さんは結婚していた。世田谷の住所が太子堂コーポ、八王子が中野町団地ということは、伶子さんは四年前に結婚してその団地に引っ越したのだ。そして今年の三月に家を出て、荻窪で一人暮らしを始めた。そこまで分かれば伶子さんが突然姿を消した理由は、二つしか考えられない。金村悟という『世帯主』に見つかったか、あるいは見つかりそうになって慌《あわ》てて別な場所に引っ越した。もう一つは、相手と話がついて自分の家に戻った。常識的に考えれば、当然後のほうだ。伶子さんの男関係が吉野さんの言うとおりなら、家に戻った伶子さんはその事実を知られまいとする。吉野さんにも大沢さんにも、雅美にもぼくにも、伶子さんが連絡をとろうとしないのは当たり前のことではないか。
そこまで理解できたとき、雅美がまた「急に怒った」と言い出したとしても、それはぼくの責任ではない。雅美の憤慨は伶子さんが鎮めるべきで、事実伶子さんは、もうぼくらのすぐそばまで姿をあらわしている。たとえ八王子の団地に戻っていなくても、相手の金村悟という人は間達いなく存在している。そこから伶子さんに辿《たど》り着くことは、それほど難しいことではないはずだった。
ぼくらは八王子で電車をおり、交番で場所を訊いて、バスで郊外の中野町団地に向かった。時間はまだ五時をすぎたばかり、金村悟という人は帰っていなくても、それならそれで、どこかで待てばいい。どっちみちぼくは、今日はもう最後まで雅美に付合うことに決めていた。
中野町団地前という停留所でバスをおりると、そこは耳鳴りがするほどの大団地で、明るいうちに着いたことは、やはり正解だった。暗くなってからこんな所に入り込んだら、ぼくらは一生、団地の中で迷子をつづけることになる。
バス停前の住居案内で見当をつけ、自転車や三輪車や子供の声があふれる団地の道を、ぼくらはD−5棟を目指して進んでいった。心配するほどのこともなく、十分歩いただけでD−5は簡単に見つかった。アルファベットも数字も、たんに団地の壁を装飾しているわけではなかったのだ。
四角いその建物が近づくにつれ、雅美のデイパックは運動が小さくなり、入り口の番号表示の前に立ったときには、雅美の汗ばんだ手が可愛いほどの無口さでぼくの手を握っていた。殺人犯人を追い詰めたわけでもないのに、緊張でぼくも背中が寒くなる感じだった。
『金村家』が三階の西端にあることを確かめ、ぼくらは手のひらの汗を重ねたまま、吹き抜けのコンクリート階段を慎重に上っていった。「ぜったい文句を言ってやる」と断言していた雅美も、建物の前に着いたときから、下唇を噛んだままひたすら黙りこくっていた。
318と表示のついたドアの前まで来て、ぼくらは手を離し、お互いに一つずつ、大きく深呼吸をした。
雅美に目で命令され、ぼくがチャイムを押すと、チェーンのかかったままのドアが二十センチほど開いて、丸顔の三十前ぐらいの女の人が、そっと顔をのぞかせた。
「金村悟さんのお宅ですか」
「はあ……」
化粧をしていない女の人の眉が開いて、頬のホクロが位置を変え、平凡な形の目に単純な懸念が浮きあがった。
「ぼくたち、金村伶子さんを捜しています。伶子さん、いらっしゃいますか」
「それは……どんなご用事?」
「ぼくたち伶子さんの友達で、四日前まで一緒にバンドを組んでいました。伶子さんが急にいなくなって、みんな心配しています。話だけでも聞きたいと思います」
女の人が怪訝な顔のまま、ゆっくりチェーンを外し、開いたドアから、ぼくと雅美は並んで狭い沓脱《くつぬぎ》に足を入れた。女の人のうしろにはやっと歩きはじめたぐらいの子供がいて、子供は女の人の膝《ひざ》に両手でからみついていた。中からは夕飯の支度《したく》をしているらしい、煮物の匂いが流れていた。
「伶子さん、今、こちらですか」
「いることは、いますけど……」
思わず、ぼくと雅美は顔を見合わせ、どちらからともなくうなずいて、同時に女の人をふり返った。
「会わせてください。みんな心配しています。吉野さんという人なんか、昨日は名古屋まで伶子さんを捜しに行きました」
「あなたたちの言ってることが……」
女の人が、足にからみついている子供の頭を抱え込み、不審そうな目で、きょろきょろとぼくと雅美の顔を見比べた。
「金村伶子って、わたしがその、金村伶子だけど」
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雨がふったからって、特別に感激するほどのことはない。雨なんか八月の初めまでは飽きるほどふっていたし、ぼく自身雨を見て、ロマンチックになる体質でもない。だから今ぼくがぼんやり『ペンギンハウス』の窓を眺めているのは、外の雨が薄いカーテンになって、頬杖をついた雅美の顔を頼りなく映しているからだ。直接見ると腹が立つぐらい生意気な雅美の顔も、雨の窓ガラスに映ると、妙に切なそうになる。
あれから、けっきょく、ぼくらは『伶子さん』を捜せなかった。八王子の金村伶子さんは本物の金村伶子さんで、住民票もその金村伶子さんのものだった。金村さんはぼくらが考えたとおり、神戸の出身で結婚する前は世田谷の太子堂に住んでいた。金村悟という人と結婚して八王子に引っ越してきたのも事実。しかしぼくらが捜していた伶子さんに関しては、住民票を使った人間にも心当たりはないし、ぼくらが『伶子さん』の特徴を話しても、「知り合いには思い当たらない」と、困ったように首を横にふっただけだった。
『カメレオン』のリーダーでヴォーカルだった伶子さんは、本当に、すっぽりとこの世から姿を消してしまった。ぼくらにはそれ以上伶子さんを捜す方法は分からず、警察に届けることのようにも思えなかった。「ぜったいに見つけてやる」という雅美の決意も、八王子から帰ってからは聞かれなくなり、そして九月になって、二学期が始まり、吉野さんからの連絡もなくなっていた。一週間前に伶子さんからの電話さえなければ、ぼくだってたぷん、そんな人はこの世にいなかったと、本気で思い込んでいたかも知れなかった。
「ねえ……」
頬杖をついたまま、雅美が窓のほうから、ぼんやりと視線をまわしてきた。
「木村くん、伶子さんの声、覚えてる?」
「かすれていて、それでいて妙に透明だった気がする」
「わたしも、仕草とか表情とか、存在感みたいなものは覚えてないのに、声はちゃんと覚えてるの。聞き流せば特徴のない声だけど……」
雅美の髪も少しだけ長くなって、首の日焼けもうすくなり、額に巻いた水玉模様のヘアバンドが、しっかり秋の色を強調する。
「木村くん、伶子さん、あのときなにが言いたかったと思う?」
「言ってもだれにも分からないことだろうな」
「だれにも分からないことって?」
「だれにも分からないことは、だれにも分からないさ」
「吉野さんか大沢さんから、電話が来た?」
「来ない。見なかったか、見ても気づかなかったか……本当は君に、言わなかったことがある」
雅美の視線を受けたまま、ぼくはレモンティーに口をつけ、雅美の前髪を透かして、なんとなく、レヂの風景に目をやった。
「八王子に行った日の三日あと、伶子さんから、電話があった」
雅美の頬杖がぎこちなくはずれ、切れ長の目が不思議な生き物でも観察するように、大きく見開かれた。
「伶子さんに、だれにも言うなと念を押された。伶子さんはぼくたちが八王子に行ったことを知っていた。それで、捜すなと言われた。ぼくらが伶子さんを捜すと迷惑な人もいる……それだけ言って、勝手に電話を切った。だから君にも吉野さんにも、だれにも言わなかった」
雅美が胸一杯に息を吐き、横目の視線をにらませたまま、司令官のように手をのばして、ぼくの頬に人差指を突き立てた。
「陰険なやつ……」
「なにが」
「秘密を自分だけでしまって、ハードボイルドを気取ってたわけ?」
「世の中には喋ってはいけないことがある……そう思っただけさ」
「どうしてそう思ったのよ」
「分からないことや、意見を言ってはいけないことが、世の中にはたぶん、沢山あるんだ」
「わたしにだけは言うべきじゃない」
「だから、今、言った」
「そんなこと、わたしが許すと思う?」
「思うさ」
「どうして」
「ぼくの彼女だから」
口の中で低く唸りながら、見開いた目を天井にまわし、空中で頬杖をついて、雅美が盛大に鼻を尖らせた。目の形は怒っていたが、唇はかすかに笑っていた。
「でも……」と、頬杖をテーブルにつき直し、ぼくの反応を検証するような目で、雅美が言った。「昨日の伶子さん、奇麗だったね。伶子さんて、あんなに奇麗な人だった?」
「君から電話がなかったらぼくも気づかなかった」
「気がついたわよ。木村くんならぜったい気がついた、ぜったいそう思う」
雅美の言いたいことに想像はついても、雅美の訊問に、今は取り合う気にならなかった。ぼくの頭にも昨日テレビで見た伶子さんの顔が、遠慮っぽくよみがえっていた。
昨日、伶子さんは、一瞬だけテレビのニュースに登場した。雅美に電話で教えられ、ぼくは十時のニュースでその瞬間を見た。核査察問題に決着がつき、禁止されていた北朝鮮への輸送船が再開されたというニュースだった。テレビでは出港の様子を新潟からの録画中継で流していた。マイクを向けられた在日らしい男の人が、攻撃的な口調で日本政府への抗議をまくしたて、次に乗船を待つ人の列にカメラがふられて、そこに若い女の人の横顔が映し出された。
女の人はマイクに向かって、一瞬なにか言いたそうな顔をしたが、すぐに首をふり、そのまま後ろを向いて二度と画面をふり返らなかった。ぼくが伶子さんを見たのは、それが最後だった。
「ねえ、デビッド・リンチの映画、まだやってるかなあ」と、空の灰皿を見つめたまま、頬に屈託のある影をつくって、雅美が言った。
「やってるさ、新宿かどこかで」
「木村くん……」
「うん?」
「一つ訊いてもいい?」
「うん」
「伶子さん、なんで木村くんのところに電話してきたの?」
「訊く暇《ひま》がなかった。一方的に喋って、一方的に電話を切ったから」
灰皿から目をあげ、唇に皮肉っぽく皺をきざませて、雅美がじろりとぼくの顔を一瞥《いちべつ》した。
「わたしに隠してること、あるんじゃない?」
「あるさ」
「わたしに言えないこと?」
「君がだれにも喋らないと約束すれば、言ってもいい」
「喋らない、約束するわ」
「あのな……」
「早く言いなさいよ」
「ぼく……」
「なあに?」
「小学校の三年まで、寝小便をしていた」
雅美の手が音をたててコップにのび、同時にぼくも手をのばして、雅美の手とコップをテーブルの上に、強く押さえ込んだ。表情は冷静だったが、雅美の手はぼくの圧力の下で、苛々《いらいら》ともがいていた。
「わたし、本当に怒ったからね」
「知ってた、眉毛が逆立っていたから」
「真面目な話なの。伶子さんが木村くんに電話してきた理由、わたし、分かるような気がする。木村くんてそういう雰囲気があるから」
「どういう?」
「そういう[#「そういう」に傍点]よ」
「困ったな、こんな天気が悪い日に……」
視線からきらりと電波を飛ばしたあと、雅美が短く鼻を鳴らし、ぼくの手をつねって、生意気な舌打ちをした。
「いいわよ、分かったわ」
「君なら分かってくれると思った」
「木村くんが三年生までオネショしてたこと、みんなに言いふらしてやる」
雅美の前髪を息で吹き飛ばし、伝票をつまんで、立ちあがりながら、ぼくが言った。
「雨の日曜日にはハンバーガーとフレンチポテトを買って、好きな女の子と映画を観にいく。普通すぎるけど、普通すぎることって、それほど悪いことでもないと思う」
鼻をうごめかせて、雅美も腰をあげ、肩にデイパックを引っかけながら、窓ガラスに映っているぼくに向かって、小さくアカンベエをした。デビッド・リンチのホラー映画なんて、どう考えても面白くなさそうだが、こんな雨の日は、雅美が観たいという映画を観ればいい。うまく言葉にできない問題や、ぼくが一度だけ伶子さんの部屋に泊ってしまった理由や、言葉にできても他人に話せない問題は、本当はだれでも、いくらでも持っている。
「木村くん……」と、『ペンギンハウス』を出て、細かい雨に傘をさしかけたぼくの腕に、軽く指を突き刺して、雅美が言った。「レヂにいた女の子、新しい子だったわよねえ」
「気がつかなかった」
「信じられない」
「どうして」
「だって、奇麗な子だったじゃない」
「そうだったかな」
「そうだったわよ、知ってたくせに……」
「………」
「木村くん、あの子の顔、じっと見てたじゃないの」
[#改丁]
夏色流し
[#改ページ]
皮膚が腐るほど暑い。これだけ暑いのにもう八月は終わりで、八月が終われば夏休みも終わってしまう。今年は北海道へキャンプに行った以外、イベントにとぼしい夏休みだった。もう十七回も経験し、夏への期待は卒業するべきなのに、それでも光の明るさが他愛もなくぼくの神経を楽しませる。
午後の三時、高架をあぶる日射しを眺めるだけで、へんに頭が熱くなる。改札口には両方向から人が群がり、狭い駅舎に汗と口臭がべっとりと氾濫《はんらん》する。ぼくが下北沢に来るのは二度めだったが、こんな小さい町になぜ人間があふれるのか、いつも理由が分からない。南口でも北口でも、五分も歩けば繁華街は簡単に住宅街へ変わってしまう。駅からの街路はすべて細道で、ぼくは北口を井の頭通りの方向に抜け、不意に顔を出す静寂に呆れながら路地を歩いていった。
苔《こけ》色の石塀に囲まれた深い屋敷林、コンクリート外装の洒落《しゃれ》たマンション、感心するほど古めかしい灰色の洋館、そんな中で夏を惜しむアブラ蝉が、狂ったように鳴きさわぐ。
クルマがやっと通れるほどの道を左にまがり、檜葉垣《ひばがき》ぞいに進むと、突然さびれた平屋があらわれる。垣根の竹は腐って体裁をくずし、まばらな椿も枯れたように萎給《いしゅく》している。木のくぐり戸は向こう側にかたむいて、閉めようとしたのか開けようとしたのか、板戸に二十センチほどの隙間《すきま》があいている。朽ちた柱には『森川』という手書きの張り紙、祖父《じい》さんにとっては表札のつもりなのだろう。はびこった雑草やめくれた敷居までふくめて、補修の意思は礼儀にも感じられなかった。
ぼくはくぐり戸をなんとかこじ開け、汗を意識しながら、ため息と一緒に直接庭へまわっていった。季節の終わった紫陽花が葉だけをしげらせ、ヒメジョオンやオオバコの雑草が狭い庭を好きなように占拠する。日射しは西側のマンションに遮られ、黒いアシナガ蜂が呑気《のんき》に木漏れ日を旋回する。
縁側にいた祖父さんが、なにか口を動かし、タバコを灰皿につぶしながら、眉だけをむっつりと持ちあげた。こけた頬《ほお》に太いたて皺が目立ち、うすくなった銀髪を長くうしろへ流している。着ているのは夏用の作務衣《さむえ》、グレーのしぼり地が屈託なく涼しそうで、充満する蝉の声に風景がゆらりと調和する。サルスベリの大木が赤い花を咲かせ、うらぶれた柿の木に青い実が重そうにぶら下がっている。
「ほーう、時郎《ときお》くんか。このくそ暑いのにご苦労なことだな」
乾いた唇を笑わせて、祖父さんがあぐらを組みかえ、戸枠に肩を寄せながら、まぎれ込んできたアゲハ蝶にそっ気なく視線を移動させた。声に抑揚はなく、感情らしいものもなく、それでもぼくを拒否している顔には見えなかった。
「様子を見に来ました」
「ほーう、そうか」
「具合い、どうですか」
「死にかけてる人間の具合いが、いいはずはないだろう」
「買い物があれば行きます」
「青少年の優しさは社会構造のせいか、それとも家庭環境のせいかな」
「はい?」
「季理子《きりこ》さんも来てくれた」
「あ……」
「買い物は済んでいるよ。こんな暑いのに、二人ともご苦労なことだ」
祖父さんの背後に、ハーフパンツの長い足があらわれ、かたく口を結んだまま、顎だけでぼくに会釈をした。季理子には病院でも会っていて、高校二年生らしいが、なぜかぼくの叔母さんだという。祖父さんは夏休みの始まったころ心不全で入院し、その病院に見舞ったのが、ぼくが祖父さんに会った最初だった。
ぼくは季理子に会釈を返し、なんとなく庭を見まわして、雑草が吐き出す酸素の匂いを、ひっそりと吸い込んだ。
「時郎くん、今日のこと、雅代さんは知ってるのかね」と、作務衣の足を投げ出し、骨張った指で首筋をこすりながら、祖父さんが言った。
「お袋に言われて来ました」
「ほーう」
「本心では心配しています」
「そんなものかね」
「ただ……」
「彼女にも意地があるだろうな」
「そうですね」
「それでいいんだ、わしになんぞ構って、生活を乱さんよう伝えてくれ」
祖父さんが欠伸をかみ殺すように、ほっと肩をすくめ、頬の皺を笑わせながら、無造作に髪を掻きあげた。ぼくがお袋に内緒でこの家へ来たことぐらい、初めから見抜いている顔だった。
「庭、荒れてますね」
「どうせこんな家だ」
「雑草を抜きますか」
「冬が来れば自然に枯れるさ」
「掃除とか……」
「それも季理子さんがやってくれた。時郎くん、ビールでも飲まんか」
「いえ……」
「不思議なもんだなあ。救急車で運ばれるまで、自分にこれほど家族が多いとは、思ってもいなかったよ」
季理子が音もなく歩いてきて、ウーロン茶の缶を差し出し、それを受け取ってから、ぼくは縁側の祖父さんから離れた場所に腰をおろした。季理子の腕や足はずいぶん日に焼けていて、タンクトップの腋《わき》の下にだけ、かろうじて皮膚の白さが残っていた。手足の長さにくらべて顔が小さく、短い前髪が生意気そうに頬を被《おお》っている。病院で会ったときも、季理子とは一言も話をしていなかった。
「季理子さん、わしにビールをくれんかね。今日は奇妙に体調がいい。心臓が若者の生命力に共感するのかも知れんな」
季理子が畳の上を奥に引き返し、冷蔵庫からビールの缶を出してきて、その缶を黙ったまま祖父さんに突き出した。頑固そうな大きい黒目は、怒っているようでもあり、困っているようでもあり、うすい唇や尖った鼻からも表情は読めなかった。古びた色の畳には扇風機が回っていて、冬にはコタツにもなるテーブルとテレビがある以外、部屋に目立った家具は見あたらない。襖《ふすま》の向こうには四畳半の和室があって、そこには祖父さんの万年床が敷かれているはずだった。
「森川さん……」と、座敷に座った季理子を目の端に入れたまま、ビールの栓を抜いた祖父さんに、ぼくが言った。「本、探したけど、見つかりませんでした」
「なんの本だね」
「あなたの小説」
「探してどうする」
「興味があります」
「本にかね、わしにかね」
「さあ……」
「やじ馬根性は感心せんな」
「興味を持ってはいけませんか」
「時郎くん、君は作家志望ではないだろう」
「ただ、ふつうに、興味があるだけです」
「いかんなあ」
「はい?」
「健全な青少年が小説なんぞに関わってはいかん」
「はい」
「特にわしの本はな。それにわしの小説なんか、どうせ絶版になってる。版元にだって残っておらんさ」
「家には?」
「あったとしても君には差し上げんよ。わしは君に、健全な社会人になってほしいからね」
季理子が部屋の暗処《くらみ》で、無表情に目を光らせたが、やはり言葉は出さなかった。
「それより時郎くん、いい機会だから、一つ頼まれてくれんかな」
祖父さんがビールに口をつけ、それからタバコにも火をつけて、吸い込んだ煙を庭に向かって細く吐き出した。心臓動脈の二割が壊死《えし》していて、それでもビールを飲んでタバコを吸うのだから、祖父さんという人も大した度胸だった。
「季理子さんにも頼んでおく。もちろん君たちに義理がないことは分かっている。しかし、まあ、ボランティアだと思って頼まれてくれ」
煙を長く吹いてから、目尻に照れたような皺をきざみ、老人|斑《はん》の浮いた手で、また祖父さんが髪を掻きあげた。
「ようするに、わしが死んだあとのことだよ。葬式なんぞもちろん無用だが、供養も墓も要らん。火葬場で始末したあと、骨はゴミに出すか、その辺の川にでも流してもらいたい」
季理子の大きい黒目がゆれて、ぼくの視線とぶつかり、ぼくたちは口を開けたまま、少しの間視線を合わせつづけた。首をふる扇風機が熱く空気を掻きまわし、アシナガ蜂が部屋を一周して、戸惑いながら庭へ逃げていく。
「ゴミとか川とかは、できません」
「遠慮は要らんよ。本来なら焼く必要までもないが、まさか生ゴミでは出しにくいだろう」
「ぼくたちに言われても困ります」
「雅代さんや津也子さんに言ったら、もっと困るさ」
「墓ぐらい家にもあります」
「そんなところへは入れんよ」
「実家はどこですか」
「生まれは甲府だがね、兄弟はおらんし親戚《しんせき》も知らん。それにわしは閉所恐怖症でな、墓のような狭い場所は嫌いなんだ」
柿の木がざわりと騒ぎ、灰色の鳥がしばらく枝を伝ってから、いやな声で忙《せわ》しなくマンションの方向へ飛んでいった。空はじゅうぶんに明るく、かすかな木漏れ日がサルスベリの幹を艶《つや》のある色にそめ分ける。雅代というのはぼくのお袋で祖父さんの娘、津也子というのは季理子の母親、祖父さんの無茶がお袋と季理子を姉妹にしてしまった。ぼくたちをさん[#「さん」に傍点]づけで呼ぶのは、祖父さんの遠慮なのか、薄情さなのか。
「ほーう、ヒヨドリか。東京にもずいぶん鳥が戻ってきたね」
「あの柿、甘柿ですか」
「どうだろうな、毎年みのるが取ったことはない」
「死ぬことより病気を治すことを考えてください」
「時郎くん、それは思い違いだ」
「はい?」
「わしは死にかけているが、病気ではないよ」
「でも……」
「老人が老いていくのは当然のことだ。心臓が弱るのも新陳代謝が低下するのも、すべて自然の摂理ではないかね」
「でも無理に死ぬことは、ないです」
「無理に生きる必要もないだろうさ。生きることに目的も必然もない。君らに言われるまでもなく、わしは人間のくずだ。くずはくずらしくゴミとなって消えていく、それぐらいの美意識は残ってるよ」
祖父さんの歳《とし》は七十四。三十のときにお袋が生まれ、すぐに失踪《しっそう》して、二度と家に帰らなかったという。お袋は今でも祖父さんの存在を認めず、ぼくの知識も『身内にそういう人がいる』という程度のものだった。病院から連絡があったときもお袋は祖父さんを許さず、無難だからという理由だけで、ぼくが見舞いに行かされた。季理子の家からも季理子しか来なかったから、経緯は似たようなものだろう。
ぼくは缶のウーロン茶を飲みほして、シャツの袖《そで》で額の汗を拭き、季理子の頭の向こうに、暗い部屋を見渡した。台所の小さい窓は埃で光をとおさず、暗い板の間に冷蔵庫だけが白く存在を主張する。ガス台の上にはアルミの薬罐《やかん》、布巾《ふきん》のかかった食器の水切り、壁は土壁らしく、ひび割れに貼られた和紙も黄色く変色している。祖父さんと同じ程度に古い家だったが、生活の匂いはまるで希薄だった。掃除の必要もなく、買い物もなく祖父さんの本もなければ、ぼくがこの家にいる必要も、やはり思いつかなかった。
季理子が顎を突き出して、一瞬ぼくに流し目を送り、尻を支点に足をまわしながら、ぼそりと一人ごとを言った。低くてよく聞こえなかったが、どうも『帰る』と言ったようだった。部屋の空気が微妙に振動し、季理子の方向から、扇風機が青いプラムのような匂いを飛ばしてくる。
「そうか、若い人に、人間が死ぬ話は無用だったか」
「………」
「しかし誤解をせんでくれ。わしは悲観して、ゴミになりたいと言うわけじゃない。それに君たちには申しわけないが、君たちの人生にも責任は感じていない。この歳まで生きて分かったことは、人間はどんな他人にも、責任は取り切れないということだ」
立ちあがった季理子につられて、ぼくの腰も浮き、頭の中で、ぼくも『帰る』と呟《つぶや》いていた。
ビルの間から、強い日射しがまだ鋭く横にのびてくる。歩きはじめるとすぐに汗が噴き出し、蝉の声が排気ガスの重さをしつこく増幅する。草いきれが埃の臭気《におい》に変わり、近づいてくる繁華街の人混みが熱気を静かに押しひろげる。人の割りに喧噪《けんそう》は小さく、ブティックやアクセサリーショップに安っぽい商品が淡々と氾濫する。季理子の黄色いデイパックはぼくの目に心地よく、首筋の汗は相変わらず、プラムのような青い匂いを飛ばしてくる。
いくつものブティックを過ぎ、雑貨屋の前の人混みをかき分け、シャッターをおろした銀行の前まで来て、灰色のアスファルトに眉をしかめながら、季理子がこつんとスニーカーの先を蹴とばした。前髪が一筋額に貼りつき、鼻の頭にも汗が浮いていたが、日焼けのせいか、大して暑そうには見えなかった。
「あんた、お茶する?」
「うん……」
「どっちなの」
「その……」
「いやならいいわ」
「いやではない」
「わたしはトイレに行きたいの。それに涼しいところで、ちょっと休みたいの」
季理子が三百六十度かかとを回して、軽く唇を尖らせ、首をかしげながら、薬屋の脇の階段へ勝手に歩きはじめた。上は喫茶店になっていて、季理子の意思は分かったが、ぼくの意思は分からなかった。季理子はふり向かずに階段をのぼっていき、割り切れない気分のまま、ぼくも仕方なく階段に向かっていった。季理子と喫茶することに異論はなくても、季理子の偉そうな口調が、なんとなく腹立たしかった。
入った店はやたらに鉢物の多い明るいパーラー、小さいテーブルが窓際にならび、ポップスのBGMがゆるくクーラーの風に紛れている。客のほとんどは女の子で、ぼくたちは路地を見おろす席に向かい合って座り、季理子はキウイとヨーグルトのジュース、ぼくはアイスコーヒーを注文した。
トイレから戻ってきて、背中のデイパックをおろし、ジュースのストローを唇にひっかけながら、窓の外に、季理子が短くため息をついた。トイレへ歩くときも、肩からデイパックをおろすときも、季理子は一度もぼくと視線を合わせなかった。
「このジュース、甘すぎるわ」
「ふーん」
「トイレもきれいじゃなかった」
「クーラーは効《き》いてるさ」
「そうね、ここに住むわけじゃなし、文句を言っても仕方ないわね」
季理子の声は低くて投げやりで、喋《しゃべ》るときもほとんど唇を動かさず、それが日常の体質なのか、今日だけの気分なのか、どちらにしても少し、ぼくは不安だった。
「今年の夏、まるで懲りないみたい」
「うん……」
「ちゃんと秋が来るなんて、信じられないな」
「君、ハワイにでも行ったの」
「ナウル」
「ナウルって」
「太平洋の小さい島、そこの高校生と文通してるの」
「大変だな」
「どうして」
「さあ、ただ、なんとなく」
季理子と初めて会ったのは一ヵ月前、病院でもう一度顔を合わせ、それから今日、思わず話をする運命に陥った。祖父さんの存在さえよく知らなかったのだから、突然|同年《おないどし》の叔母さんがあらわれたら、ぼくの頭だって混乱するに決まっている。
「ぼくたち、考えたら、親戚なんだよな」と、アイスコーヒーで喉《のど》をしめらせ、イメージだけ咳《せき》払いをして、ぼくが言った。
「考えなくても親戚よ。時郎くんはなぜ彼のところへ来るの」
「彼?」
「あの人」
「気になるのは仕方ないさ」
「わたしのこと、知ってた?」
「知らなかった」
「驚いた?」
「ちょっと」
「わたしは知ってた。お袋が話してたし、幼稚園のころまで彼も家にいたから。でも具体的に時郎くんの名前までは知らなかったわ」
季理子が息を吹いてストローを遠ざけ、前髪を指先でつまみながら、なにを思ったのか、正面からじっとぼくの顔をのぞき込んだ。黒目の部分にはっきり顔が映るほど、その目は丸くて大きかった。
「森川さんて、変わってるよな」
「わたしは忘れてたけどね。突然病気になったりして、迷惑な人よ」
「拷問のせいだと言ってた」
「なにが」
「電話、ぼくたちに連絡するつもりはなかったって。意識が朦朧《もうろう》としてるとき、医者に白状させられたらしい」
「彼ならそうかもね」
「ほかに子供とか孫とか、いないのかな」
「まるで知らない」
「あの家、いつから住んでるんだろう」
「知らない」
「どこでなにをしていて、なにを考えていたのか……困った人だ」
ウェイトレスが来て、コップに水を足していき、BGMのポップスが場違いなブルースに切りかわった。音楽を気にする客はなく、女の子たちが連発する半疑問の会話が、鉢植えを透かして和音のようにひびいてくる。
「うちのお袋ね、彼のこと、許してないのよねえ」と、グラスのくもりを爪《つめ》の先でなぞり、右の頬に皮肉っぽい笑窪《えくぼ》をつくって、季理子が言った。「そんなこと、ふつうに考えれば、当然だけどね」
「だれか森川さんのことを許してるのかな」
「本人は許してるわ」
「そうか」
「自分で『人間のくずだ』なんて、笑っちゃうね」
「君は怒ってないのか」
「今の親父《おやじ》とはうまくいってるし、わたし個人としては問題ないの」
「そういうもんかな」
「時郎くんだってお見舞いに来るじゃない」
「ぼくのはただの興味」
「ルーツ探しみたいな?」
「それほど大げさじゃないさ」
「男の子って屈折が好きだものね、穴を掘ったり埋めたり、また掘ったり」
「勝手に決めるなよ」
「根暗っぽい顔してるから、そうかなと思ったの」
いくら叔母さんだからといって、同じ十七歳で、少しは発言を慎んでもらいたい。病院でも口をきかなくて、祖父さんの家でも喋らなくて、しかし思っていたとおり、季理子の性格はかなり辛辣だった。お袋とは腹ちがいの妹だから、そういう血筋といえば、そうなのだろう。
季理子がストローをすすって、横目でぼくの顔をうかがい、息をとめるように、小さくしゃっくりをした。
「わたしね、あの人の小説、読んだことがあるわ」
「ふーん」
「恥ずかしくなるような恋愛小説。登場人物の女の人、お袋がモデルみたい」
「その本、借りたいな」
「通俗な恋愛小説よ」
「恋愛なんてみんな通俗さ」
「でも小説を書くために恋愛をされたら、相手が迷惑だわ」
「だから、本人は、ゴミになると言ってる」
「そういうところが卑怯《ひきょう》なの。ゴミになんか出せないこと、ちゃんと分かってるくせに」
テーブルに小さく頬杖をついて、ストローでグラスの氷を掻きまわし、かたく結んだ口の端から、季理子がふっと息を吹いた。眉の間には困ったような皺が浮かび、日焼けした顎の線に銀色のうぶ毛がふるえていた。ぼくにとって祖父さんはまったくの他人でも、少なくとも季理子のほうは、なん年かは一緒に暮らしている。
「自分だけゴミになればいいなんて、知ってはいたけど、あの人、勝手だわ」
ぼくも少なくなったアイスコーヒーのグラスに、ストローを突き立て、季理子の手の動きに合わせて、なん度か氷を掻きまわした。氷の音に季理子の息づかいが共鳴し、場違いだったBGMのブルースが、ぼくの感傷に意地悪く同調する。
「だけど、一つだけ、良かった」と、グラスとコップの位置を入れかえ、熱くなった唇をコップの水で冷やして、ぼくが言った。
季理子が視線をあげて、丸い目に光を戻し、鼻の先で見事に疑問符を描きあげた。
「君が母親似であること」
「どうして分かるの」
「ぼくのお袋とは似てない」
「それがどうして良かったのよ」
「似ていたら困った」
「どうして」
「ぼくの勝手さ」
「そういうことが勝手でいいわけ?」
「責任はない」
「あの人にそっくりね」
「君はやっぱり、怒ってる」
「気安くきみ[#「きみ」に傍点]なんて呼ばないで」
「気安く時郎くんなんて言うなよ」
「だってあんた、甥《おい》じゃないの」
「ぼくの責任ではないさ」
「理屈っぽい子ねえ」
「血筋だろうな」
「頭にくる。あんたが血筋なら、わたしだってそういう血筋になってしまう」
季理子の頬杖がずるっと滑って、目のかたちが稚拙に崩壊し、タンクトップの肩があわてながらバランスを修正した。ぼくのコップも水がこぼれるほど動揺したが、それはぼくが我慢できず、思わず噴き出したせいだった。
「今年の夏休み、調子が狂ったわ」と、頬杖をつきなおし、ジュースを飲みほしてから、唇だけを笑わせて、季理子が言った。
「ぼくは平和すぎて物足りない」
「あんた、へんに冷静ねえ」
「答えのない問題は解かないことに決めている」
「傲慢《ごうまん》な性格みたい」
「どの問題に答えがあって、どの問題に答えがないのか、そのへんはいつも分からないけど」
「やっぱり根暗だわ」
「君は見かけより明るいな」
「本当は内気なの」
「ああ、そう」
「人見知りをする性格よ」
「自己分析が正しいとは限らないさ」
「どういう意味?」
「一般論で」
「時郎くん、彼女なんかいないでしょう」
「………」
「そういう顔してるわ」
「そうかな」
「今は根暗な子は流行《はや》らないの。軽くて剽軽《ひょうきん》で、サービス精神がないと受けないの」
「そんなことしてまで受けたくない」
「やっぱり彼女、いないわけ」
「大きなお世話だ」
「ただのアドバイスよ。自分の甥が根暗で傲慢で女の子にもてなかったら、叔母として恥ずかしいじゃない」
季理子が長い腕を組んで、背中を椅子の背もたれに引き、目を深い色に光らせながら、鼻の先を生意気に笑わせた。夏休みになってから突然完成した関係とはいえ、甥よりも叔母のほうが、それはもちろん、優越感はあるだろう。
「さて、ジュースが甘すぎるから、そろそろ帰るかな」
「冗談もへたなのね」
「これからは努力する」
「時郎くんの家、どこ」
「調布」
「けっこう遠いね」
「君の家は」
「葛飾区の亀有《かめあり》」
「帝釈天《たいしゃくてん》なら行ったことがある」
「最近は水元公園のほうが人気があるの。時郎くん、バード・ウォッチングをやる?」
「いや……」
「残念ね。趣味は理屈を言うだけなんて、やっぱり女の子にもてないと思うわ」
首をかしげながら、季理子が腰をあげ、デイパックと勘定の伝票を、同時に取りあげた。腰をかがめたとき、タンクトップの胸にベージュ色のブラジャーがのぞいて、ほんの一瞬、ぼくの呼吸が苦しくなる。お袋にも祖父さんにも似ていなくて、手足が長くてナウルとかいう島で日に焼けてきて、目が大きすぎて生意気で自分では内気だと宣言する。祖父さんがいなければぼくも季理子も存在しなかったが、出会ったことが幸運なのか、不運なのか、頭の中の靄《もや》に、ぼくはひゅっと口笛を吹きつけた。
「伝票、よこせよ」
「どうして」
「サービス精神さ」
「オヤジみたい」
「君に言われたくないな」
「わたしが払うわよ」
「へんなやつ」
「わたしにだって立場があるわ。甥とお茶なんかして、相手におごらせるわけにいかないの。いくら彼の孫だって、それぐらいの常識、ちゃんと考えなさいよ」
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くもり空にうすい色の赤トンボがまばらに乱舞する。もう鉄橋を渡る電車の音は聞こえず、映画村の方向からクルマのクラクションが湿気っぽく響いてくる。河川敷きの運動場にはソフトボールとサッカーの喚声が飛びかい、対岸の稲田側には魚釣りの人影が小さく霞《かす》んでいる。堰堤《えんてい》の上流は多摩川の水も鈍重によどみ、鬱蒼《うっそう》とした葦《あし》に雀ほどの鳥が忙しなく出入りする。一時間もすれば日は落ち切るはずなのに、濃いくもり空が日没の気配をひどく曖昧《あいまい》にする。
鉄橋の下から歩きはじめると、五分で堰堤を通りすぎ、水量の落ちた川原に丸石だけが単調にあらわれる。形も分からない羽虫が低い位置に群れ飛び、茫洋《ぼうよう》とした運動場の喚声を、たまに鳥の声が甲高く掻きまわす。
「ほら、あれ、イソシギよ」
「ふーん」
「映画に出てきたイソシギとは種類がちがうの、あれは日本にいない種類だから」
川幅の狭くなった水辺を、二十センチほどの鳥が尻を振りながら歩いていく。全体に目立たない褐色で、尻が振れるたびに腹側の羽毛が白くのぞき見える。水辺を少し進んでは尻を上下させ、長いくちばしで無心に水面を凝視する。たまにくちばしを水に突き入れるのは、餌《えさ》の小魚か昆虫でも狙っているのだろう。
季理子の制服はチェックのスカートに濃紺のベスト、胸に臙脂《えんじ》色の蝶ネクタイを結び、手には扁平《へんぺい》な黒いカバンをさげている。靴も黒いローファーで、靴下は足首までの白いソックスだった。ルーズなハイソックスばかり見かけるせいか、季理子の几帳面な制服に奇妙な安心を感じてしまう。顔の日焼けもずいぶん薄れ、頬骨の先端には小さくソバカスが散って見える。髪もいくらかのびたようで、長すぎる手足が季理子の顔を不思議なほど幼い印象にする。
「調布って思ってたより遠いわ。ここが同じ東京だなんて、信じられない」
「向こうの岩にとまってる、あの黒っぽい鳥、なに?」
「セグロセキレイだと思う」
「セキレイ……か」
「尾の動かし方で分かるの、最近はハクセキレイのほうが増えてるけど」
「詳しいんだな」
「親父のバード・ウォッチングに付合うからね……親父ってもちろん、お袋が再婚したほうの親父」
「その人、何歳《いくつ》?」
「四十二」
「お袋さんは?」
「四十七」
「すごいな」
「どうして」
「べつに……ただ、なんとなく」
季理子はぼくと同じ十七だから、今四十七の母親は、三十のときに季理子を生んだことになる。そのこと自体は特別にすごく[#「すごく」に傍点]はないが、計算ではそのとき、祖父さんは五十七だった。ぼくがあと四十年も生きて、いろんな女の人に子供を生ませてその結果に『責任はない』と宣言したら、いったいだれが、ぼくを許してくれるだろう。
「木村くんのお母さんて、何歳なの」
「四十五」
「若いんだね」
「普通だろう」
「うちのお袋より若いわ」
「世間的には普通さ」
「やっぱり屈折してて、性格がゆがんでるわけ」
「根暗で傲慢で冗談も言えない」
「怒らなくてもいいわよ」
「君のお袋さんはゆがんでないのか」
「最近はかなり矯正された。親父って人が変わった人でね、生まれてから一度も怒ったことがないんだって」
「お袋さんの宿命かもな」
「なんのこと」
「変わった人を好きになる、そういう体質がさ」
季理子が丸石にローファーの底を滑らせ、バランスを崩した腕が、一瞬ぼくの腕にからみついた。季理子の乾いた体臭がぼくの雑念を混乱させ、重いくもり空が夕焼けのように明るく乱反射する。
「君、匂いが変わったな」
「え」
「前はプラムみたいな匂いだった」
「あんたって臭覚障害?」
「どうだかな」
「わたしは香水とかコロンとか、嫌いなの」
「そういう意味じゃない」
「それならどういう意味よ」
「だから、匂いさ」
「匂いなんてないわよ」
「あるさ」
「うそ」
「あるんだ。前はプラムみたいだったけど、今はミツバオオハンゴン草みたいな匂いがする」
重心をたてなおし、ぼくより二メートルほど先に出て、手提げカバンを胸に抱えながら、季理子が尖った鼻に呆れたような皺を刻ませた。
「ミツバなんとか草って、なによ」
「そういう帰化植物があるんだ」
「聞いたこともない」
「さっきの土手にも咲いていた」
「見なかったわ」
「キク科の黄色い花さ」
「わたしに似てるの」
「うん?」
「奇麗かという意味よ」
「ん……派手ではないけど、へんな存在感はある気がする」
季理子が丸くて色の深い目で、しばらくぼくの顔をにらみ、肩をそびやかしながら、大きく白い前歯をこぼれさせた。季理子がここまできっぱり笑ったのは、知り合って以来、初めてのことだった。
「花の名前、もう一度教えてくれる?」と、丸石を一つ跳び、流れのほうに歩きながら、顎だけをまわして、季理子が言った。
「ミツバオオハンゴン草」
「花壇に使えるかしら」
「ただの雑草さ。八重咲きのオオハンゴン草は庭にも植えるらしいけど」
「いつか試してみるわ」
「なにを」
「わたし、将来は庭師になるの」
「ふーん、そう」
「花壇を中心にした新しい庭を造ってみたい。今は冬に咲く花も多いし、庭が楽しくなれば家庭だって楽しくなると思う」
「将来は鳥屋かと思った」
「大学は農学部の園芸科に行くつもりよ」
「変った将来設計だ」
「木村くんは大学、決まってるの」
「まだ」
「モラトリアム症候群みたい」
「なに」
「大人になることを拒否する心の病気」
「まだ十七さ」
「将来のこと、なにも決めてないわけ」
「楽しく遊んで快適に暮らしたいな」
「怠惰な将来設計ね」
「なにが楽しくて、どういう生き方が快適か、今はそれを考えてる。森川さんの生き方もどこがどういうふうに問題なのか、考えはじめると分からなくなるし」
ぼくたちが歩くたびに、イソシギという鳥が距離を保ったまま遠ざかり、尻を上下に振って黙々と餌を探しつづける。空は重力を感じるほど暗くなり、丸石の間を埃色のバッタが急ぎもせずに跳ねまわる。対岸の釣り人は霞んだまま位置を変えず、遠くの鉄橋をベージュ色の電車が音もなく渡っていく。
「そうか、映画のイソシギとは、別な種類か……」
葦のしげる一画を迂回《うかい》し、スニーカーの先が水に触れる手前まで来て、となりの季理子の顔を、ちょっとぼくは覗いてみた。
季理子がローファーの足を踏んばって、額がゆがむほど目を細め、ため息をつくように小さくうなずいた。川風が季理子の前髪をゆらし、寒くはないはずなのに、日焼けの消えたふくら脛《はぎ》にはうすく鳥肌が浮かんでいた。
「水、あまり奇麗じゃないわね」と、カバンを石の上におろし、折りまげた膝頭《ひざがしら》をスカートで隠しながら、季理子が言った。
「魚だって文句を言わずに棲《す》んでる」
「やっぱり、可哀そうかな」
「答えのない問題は考えない」
「冷たいやつ」
「たぶん正解なんだ。理由はないけど、なんとなく、そんな気がする」
祖父さんが死んだのは十日前。新宿の酒場で発作を起こし、救急車が着いたときは心臓も止まっていたという。葬式は出さず、火葬だけやって、遺骨は今日までぼくの家に置いてあった。甲府にいた祖父さんの従兄弟《いとこ》の子供という人も、引き取る義理はないと電話をかけてきた。『ゴミに出す』というぼくの意見が却下された理由は、お袋の愛情というより、たんに世間体の問題だろう。
ぼくは骨の入った紙袋をひらき、腕と膝をのばして、水の流れている部分に中身を振り出した。顎の骨も腰の骨もほとんど重量をもたず、波のない水面を枯れ枝のように流れていく。こまかい灰は埃となって白く水を汚し、小岩にからまったビニール片を遠巻きに、あっけなく本流へ紛れていった。すべての骨がぼくらの視界から消えていくまで、時間は二十秒とかからなかった。
しばらく黒い水面を眺めてから、ぼくは季理子のとなりに腰をかがめ、紙袋を丸めて、使い捨てのライターで火をつけた。足元に火の玉のような炎がふくらみ、形を乱しながら乱暴に燃えあがる。季理子がその炎に古い単行本を立てかけ、唇を強く噛んで、表情のない目を丸く固定させる。本はページをゆがめながら、苦情も言わず、諦めたように燃えつづける。祖父さんの本が粛々と灰になっていく光景が、ぼくに罪の意識と悲しい安堵感を、同時に押しつける。
季理子の丸い目が丸い涙を浮かべ、炎をきらきら映して音もなく膝に伝っていく。季理子の涙はとまらず、すべてが灰になって炎が消えてからも、いつまでもきらきら光って膝に落ちつづける。
北海道へキャンプに行った以外、イベントもなく、夏は淡々と水に流れていく。
[#改丁]
団子坂
[#改ページ]
風が冷たい。
地下鉄から表の通りに出たところで、ぼくは思わず学生服のカラーに指をのばす。三時を過ぎているが光はじゅうぶん金色で、それでも上野の森から吹いてくる風にはごまかせない冬の匂いが混じっている。入谷も飯能も季節は変わらないなと、その当然さが、少しだけぼくを可笑《おか》しくさせる。
地下鉄の出入り口から昭和通りを三ノ輪の方向に歩けば、中学まで住んでいた路地裏の家がある。あれから二年、付近に足を運んだことはなく、記憶よりも貧相な家並に理由のない罪の意識が感じられる。生まれた家に日常的な感傷はあっても、考えるまでもなく、最初から決めていたとおり、ぼくの足はその方向に向かわなかった。
ぼくは二、三十秒、交差点の歩道で呼吸をしてから、意識的に背中をのばし、カバンを腋《わき》の下に抱えて言問《こととい》通りを浅草方向に歩き出した。学生服にグレーのハーフコートを着て、おまけに黒い学生カバンまで抱えているのだから、だれが見ても授業をサボってきた田舎の高校生だろう。カバンぐらいコインロッカーに預けてくればよかったが、今日はそんな当たり前のことも思いつかなかった。この混乱が村瀬貴代のせいか、入谷という町のせいか、区別する気分でもなかった。
五分ほど言問通りをくだり、覚えのある仏具屋の角から路地に入って、三輪車やお姿さんや発泡スチロールの箱をよけながら、懐かしい風景の中をぼくは貴代の家に向かっていった。道にあふれる植木鉢は相変わらずで、重なった緑の中には菊の大鉢も紛れていた。
貴代の家につき、昔は草履《ぞうり》屋だったという表のガラス戸を開けると、貴代のお祖母《ばあ》さんが三和土《たたき》の向こうに顔を出し、あがり口の上から低く背をかがめてきた。
「あれえ、トキオくんじゃないかさあ。ねえ、木村の時郎くんだよねえ」
「ご無沙汰しています」
「見違えちゃったよう。大きくなったねえ。あんた、ちっとも顔を見せなかったねえ」
「飯能に引っ越しました、高校も向こうです」
「そうだったかねえ、そういえば貴代から……」
背をかがめたまま、お祖母さんが化粧の目立つ口元に強く皺《しわ》をつくり、視線をそらしながら、よろけるように重心を移動させた。
「そうか、あんたら、待ち合わせしてたん?」
「はい?」
「真弓ちゃんとさあ、待ち合わせしてたんじゃないのかね」
返事をしかけたが、訊《き》くまでもなく、コンクリートの三和土には黒いローファーが脱がれていた。それを一週間前に死んだ貴代の靴と考えるのは不自然で、葬儀や法要に関係なく香川真弓に会うなんて、ぼくは思ってもいなかった。
「とにかく上がりなね。二人とも貴代のことを覚えててくれて、本当にありがたいよう」
お祖母さんが暖簾《のれん》のうしろに顔を引っ込め、決心のつかないまま、それでもぼくは靴を脱いで暗い居間に入っていった。位牌の貴代と対面する覚悟はしていても、真弓と顔を合わせて、どんな表情をつくればいいのだろう。
畳敷きの居間には庭から浅く光が射し込み、その光を線香の煙が青い模様にゆらめかす。ぼくはコタツの向こうに座っている真弓に、目だけで会釈をし、コートを脱いで仏壇の前に腰をおろした。脇のテーブルには骨壺の箱と線香立てと、拡大された貴代の写真がのせてあった。貴代は前髪を眉の上までたらし、視線を斜め上に向けて、右の八重歯がのぞけるほど大きな笑顔をつくっている。小学校からの知り合いだが、これほど屈託なく笑う貴代は初めてだった。
線香を立ててから、手を合わせ、真弓とお祖母さんに向き直って、膝《ひざ》を折ったまま、少しだけぼくは畳を前に出た。
「村瀬が死んだなんて、まだ信じられません」
「まったくさあ。神様もなにを考えてるんだか……忙しくて順番を間違えたのかねえ」
「おばさんは?」
「疲れが出ちまって実家に帰ってるよ。なにしろこんな具合で、一昨日《おとつい》が初七日だったもんだから」
お祖母さんが咳き込むようにため息をつき、素振りでぼくにコタツをすすめながら、腰をあげて居間から台所に入っていった。真弓の前には紅茶のカップが置かれているから、ぼくにも同じものを持って来るつもりなのだろう。
「君が来てるなんて、思わなかったな」と、近寄っただけで、コタツには足を入れず、視線を壁に向けたまま、ぼくが言った。
「わたしもお葬式には来なかったの。でもお線香だけは上げたかった」
「斉藤からの電話で事故のことを知った」
「わたしにはサヤカから電話があった。覚えてるでしょう、北村サヤカ」
「北村も都立だっけ」
「クラスは違うらしいけどね。わたしもお葬式、迷ったけど……」
お祖母さんが紅茶を持って来て、ぼくの前に置き、コタツに入りながら、貴代の写真と真弓とぼくの顔を、うなずくように見くらべた。
「本当にありがたいよう。トキオくんと真弓ちゃんがさあ、ねえ、中学んとき、あんたらが一番の仲良しだったもんねえ」
「斉藤とか内海とか」
「そうだったねえ。五人がグループで、よく一緒に遊んでたっけねえ。斉藤くんや内海くんは、どうしてるん?」
「斉藤は葛飾の都立で内海は千葉の私立です」
「みんな学校がばらばらで貴代も寂しかったろうねえ。高校では仲のいい友達も出来なかったようだし」
真弓の肩が動き、制服の腕が差し出されて、爪《つめ》を短く切った華奢な指が静かに紅茶のカップをすくいあげた。横顔に表情はなかったが、尖った顎の先が少し上気しているようだった。
「新聞では、事故の場所、団子坂の交差点らしいですね」と、几帳面に結んだ真弓のボータイを眺めながら、意識をお祖母さんに向けて、ぼくが言った。
「どうしてあんなバイクに乗ったのか、魔が差したのかねえ。たまにゃ菊見煎餅も食べたいけど、あたしゃ二度と団子坂へは行かないよ」
「バイクの広野という人、前からの知り合いですか」
「あの日に知り合ったと言ってるけど、どうなのかねえ。貴代が簡単に、そんな男のバイクに乗るものかねえ」
「警察では?」
「ただの交通事故だってさ。あたしゃ直接には聞いてないけど、孝之と和美さんにはそう言ったらしいよ」
正確には覚えていないが、孝之と和美というのは貴代の両親のはずで、親父《おやじ》さんは中学校の教師、お袋さんも結婚するまでは小学校の先生だった。
「その日に知り合った人のバイクに乗って、バイクが事故を起こして、村瀬だけが死んだということですか」
「警察がそう言うんだからさあ、そう思うしかないだろうがね。あの若さで神も仏もありゃしないよ。交通事故なら代わりにあたしを殺せばよかったのに」
「男の人も重体でしたね」
「どこかの骨を折っただけさ。父親ってのが葬式に来たけど、ヤクザもんみたいな男でね。他人《ひと》の娘を殺しておいて、詫びの一つも入れようとしなかった」
新聞の記事と斉藤からの電話で、事故の概略は分かっている。それが事実だとすれば、広野という人に全面的な非があるわけではない。バイクから投げ出された貴代を轢《ひ》き殺したのは、反対車線を走ってきたタクシーだった。お祖母さんが「他人の娘を殺した」と言ったのは、感情の問題だろう。
少し前から、真弓の視線がぼくを狙っていることは知っていたが、無視して、ぼくが言った。
「広野という人、どこの病院ですか」
「三河島の……だけどトキオくん、病院なんか聞いてどうするんだね」
「村瀬がどんな人と一緒だったのか、興味があります」
「父親ってのを見りゃ見当はつくさ。退院したら挨拶《あいさつ》に来るっていうけど、あたしゃそんな男、顔も見たくないよ」
「病院は……」
「三河島の福祉会病院だったかね、救急車で運ばれてそのまんまらしい」
「怪我は、骨折だけ?」
「だれかがなにか言ってたけど、そんなことあたしが知るもんかね」
真弓のカップが音をたてて、突然ぼくは喉《のど》が渇き、紅茶に口をつけながら、首だけで貴代の写真をふり返った。小学校のころ少し意識したことはあったが、それ以上の関係にはならず、中学に入ってからはずっと五人のグループ交際だった。貴代と真弓が不仲になったのは真弓が高校を私立に決めたころからで、どういう感情の行き違いなのか、ぼくには分からない。斉藤が真弓につき、内海が貴代の側について、転出の決まっていたぼくは中途半端なままグループを抜けてしまった。あれから一年半、年賀状のやり取りはしたが、貴代にも真弓にも、一度も会っていなかった。
真弓がコタツから下がって、お祖母さんに挨拶し、ぼくも貴代の思い出話をつづける気にはならず、立ちあがってコートとカバンに腕をのばした。真弓も制服にカバンを持っているから学校帰り、中学のころより背が高くなった気がするのは、見慣れない私立の制服と肩までのばした髪のせいだろう。
「また顔をみせておくれな、ねえ」と、三和土におりたぼくと真弓に、あがり口で腰をかがめ、膝に両手をそろえて、お祖母さんが言った。「それにしても今年は寒いやねえ。夏も天気が悪かったし、言いたくないけど、世の中ぜんぶ狂っちまってるねえ」
貴代の家から路地を言問通りまで歩く間、真弓はため息を二つつき、ぼくも言葉が見つからず、手のひらの汗をただズボンのポケットで拭きつづけていた。日はビルの向こうに姿を消し、バス通りからの風が狭い路地に濃く吹き渡っていく。真弓の家がどの方向だったのか、知っているはずなのに、なぜかぼくは思い出せなかった。
「木村くん、たまには東京に来るんだ」と、髪を風にさらしたまま、視線を道の遠くにやって、真弓が言った。
「たまには、な」と、カバンを腋の下に抱え直して、ぼくが答えた。
「貴代とは会っていたの」
「卒業してから会っていない」
「斉藤くんや内海くんとは?」
「たまに、電話だけ」
「わたしのこと、怒ってる?」
「どうして」
「グループが壊れたの、わたしのせいだと思ってるでしょう」
「考えたこともなかった。事情があるのはだれだって同じさ」
真弓が靴の先で小石を蹴る真似をし、スキップを踏むように、一歩だけ前に進み出た。
「みんなでよくお祭に行ったのにね。内海くんが自転車を盗まれたの、あれ、いつだったかしら」
「三年の最後のほう」
「寒い日だった、浅草の羽子板市?」
「鷲《おおとり》神社の二の酉《とり》」
「二の酉、か。今年はほおずき市も一の酉も行かなかったわ」
「あの自転車、結局、見つからなかったよな」
中学を卒業してから、本当は、ぼくは一度だけ真弓に電話をした。Jリーグの入場券が手に入る、と伝えようとしたのだが、真弓は修学旅行に出ていて、チケットのことも寂しさの言い訳だった。伝言はしたはずなのに、その後真弓から電話はかかってこなかった。
「木村くん、今日は半日だったの」
「授業をさぼった」
「貴代のため?」
「だれのためということはない……なにかが、なんとなく、へんな気がした」
「わたしも貴代のことは信じられない」
「ただの交通事故というのが、やっぱり、おかしいのかも知れないな」
真弓の肩が向こう側にバランスを崩し、一つニキビのできた顎が、懐かしく、怒ったように突き出された。髪を長くしたぐらいで性格が変わるはずもなく、真弓の気の強い横顔に、少しぼくは安心した。
「そう思うでしょう。事故は仕方ないとして、ナンパされるのも仕方ないとして、でも貴代が簡単についていくと思う? バイク青年なんて一番似合わなかったわよ」
「好みが変わる可能性はあるけどな」
「女の子はそれほど浮気じゃないの。貴代みたいに頑固な子は、簡単に好みを変えないものなの」
真弓に頑固と言われたら貴代も気を悪くするだろうが、貴代が無自覚にのぞかせた興奮に、なん度かぼくも困った覚えがある。ほかの友達から見れば素直な優等生でも、貴代は内側に微妙な破綻《はたん》を隠していた。貴代のそういう屈折を、真弓はどこまで知っていたのだろう。
「君に電話をした北村、村瀬のこと、なにか言ってたかな」と、言問通りの出口まで来て、カバンを持ち直し、真弓の頭の上に上野の森を透かしながら、ぼくが言った。
「貴代のことを、なにかって?」
「学校とか男とかでトラブルがあったようなこと」
「彼氏ができたようには見えなかったらしい」
「広野という人、本当に、あの日に知り合っただけだろうか」
「さっきもこだわっていたわね」
「うちの高校はバイクに乗るやつが多くてさ、村瀬より広野という人が話題になった」
「田舎の子ってバイクが好きだものね」
「広野さんはレースで優勝したこともあるらしい」
「そうなの」
「詳しくは知らないけど、プロみたいなもんじゃないかな」
「そういう人に限って無茶をするのよ」
「普通は、逆さ」
「テレビで見たけど、バイクのレースってすごく乱暴だったわ」
「レースでは限界以上のスピードを出す。でも一般の道では素人《しろうと》より慎重に走る」
「そういうものなの」
「そういうもんさ。レースで優勝するほどの人が、普通の道で、女の子を乗せていて、スリップするほどのスピードを出すとは思えない」
風が一瞬、真弓の短いスカートをめくり、不覚にもぼくは緊張した。もちろん風も真弓も、スカートの乱れなんか、気にはしなかった。
「木村くんは貴代の事故を、おかしいと思ってるわけ?」
「最初からそう言ってる」
「言ってた?」
「言ってるさ。相変わらず、他人の言うことを聞かない性格だな」
真弓のカバンが宙にまい、ぼくは覚悟を決めて目をつぶったが、いつまで待っても、カバンは頭にまで落ちてこなかった。それが真弓の人間的成長なのか、横を通った自転車のせいなのか、ついぼくは考え込む。
「気になっていたけど、やっぱり、男の人に会うべきね」と、カバンを腰のうしろに隠し、横目でぼくの顔をうかがいながら、顎を不遜に尖らせて、真弓が言った。
「やっと思い出した」
「なんのこと」
「君の家のこと。日本堤で医者をやっている」
「それがどうしたのよ」
「人間はなんでも思い出せる。思い出したいことも、思い出したくないことも、結局は思い出してしまう」
記憶の中を白いチョークが颯爽《さっそう》と横切り、その瞬間の新鮮な驚きまで、ぼくはきっぱりと思い出した。ぼくにチョークを投げたのは中学で同級になった日の、初めて会った真弓だった。今でも信じられないが、理由はぼくの顔が生意気だからという、それだけのことだった。
言問通りを国際通りの交差点まで歩き、そこからぼくらが乗ったのは、三河島の近くを通る池袋駅行き都営バスだった。家が医者のせいか、真弓は福祉会病院の場所を知っていて、宗教系の団体が運営する民間の総合病院ということも教えてくれた。
道灌山《どうかんやま》通りぞいにあった福祉会病院は、くすんだ色の四階だてで、玄関に植え込みもなく、風と埃と寒い西日で全体に殺風景な印象だった。広野さんも骨折だけなら面会は可能なはずだが、会ってどうするのか、具体的に考えてはいなかった。街で声をかけられて貴代がついていくタイプの人か、とりあえず、そのことの確認ができればいい。
受付けで病室を訊き、階段を上がっていくと、四人部屋に名札が出ていて、その一番下が広野清隆になっていた。病室に入ってから、カーテンで仕切られたベッドを見回し、ぼくと真弓は迷わずヘッドホンをつけた男の人の前へ歩いていった。歳《とし》が二十一であることは知っていたし、ほかの三人では、貴代に対して失礼になる。
広野さんが右手でヘッドホンを外し、少し角度をあげたベッドから、うすく髭《ひげ》の生えた顎を黙ってぼくらのほうに向けてきた。左腕はコルセットで固められ、入院着からのぞく上半身にも首の下までコルセットが巻かれていた。顔に傷がないのは、ヘルメットがフルフェイスだったせいだろう。目は意外に穏やかで、顔に血の気がなく、長めの髪にはうしろに向かってゆるくウエーブがかかっていた。
「ぼくたち、村瀬貴代の友達です」と、ベッドの足元に真弓と肩を並べながら、うすく唇を開いている広野さんに、ぼくが言った。
しばらくぼくと真弓の顔を見くらべてから、軽く唇をなめ、CDのスイッチを切って、広野さんがだるそうに瞬きをした。
「怪我の具合、どうですか」
「見たとおりさ。左腕と鎖骨をやられた……彼女の友達が、なにか用なのか」
「事故の状況を聞きたいと思います」
「どうして」
「村瀬の友達だからです」
「知りたけりゃ警察へ行ってくれ。事故のことはみんな警察に話してある」
「あなたの口から聞きたいのよ。話す義務があるでしょう」と、一歩横に動き、右の肩を広野さんの前に突き出して、真弓が言った。
知らない人はだれだってたじろぐし、ぼくも一瞬冷汗が出たが、真弓の固い表情と威圧的な口調に、広野さんも素直に恐縮したようだった。
「死んだ子には悪いけど、事故は事故なんだ。あのとき前からクルマが来なければ、こんなことにはならなかった」
「転がらなければ問題はなかったわ」
「だれにでも不可抗力はあるさ。だから事故が起こるんだ」
「貴代が死んだことを不可抗力で片づけるの?」
「君たち、なにしに来たんだよ。たしかに事故は俺が起こした。彼女にも済まないことをした。だけど俺だってこの怪我で、免停もくらったしレースにも出られない。これ以上どうしろというんだ」
「ぼくたち、なぜあんな事故になったのか、本当の理由が知りたいだけです」
広野さんの薄い唇が、内側に引きしまり、ウエーブのかかった前髪が一筋、ゆっくりと額にたれかかった。
「スピードの出し過ぎ、前方不注意、安全運転義務違反……そういうことさ」
「あなたのようなプロが、団子坂辺りで、簡単に事故を起こすものですか」
「起きてしまったものは仕方ないだろう。突然左に曲がれと言われて、ブレーキを強く踏みすぎた」
「村瀬が曲がれと?」
「俺は直進するつもりでいた」
「駒込の方向から?」
「池袋へ行った帰りだからな」
「なぜ団子坂で左折なんです、入谷に向かうなら直進か右折でしょう」
「知らないよ。青信号で俺は直進するつもりだった。今もそう言ったじゃないか」
「駒込の方向から来て、団子坂で左折……ですか」
真弓がぼくの顔をじろりとにらみ、カバンを胸の前に構えて、ベッドの鉄枠に腰で寄りかかった。相手が怪我人でなければカバンを投げつけたところだろうが、病院でもあることだし、真弓も少しは大人になっている。
「わたしにはバイクのことが、やっぱり分からないわ」と、肩の力を抜くように、深く息をして、真弓が言った。「貴代はバイクなんか好きじゃなかった。もしかして、いやがるのを無理に乗せたんじゃない?」
「勝手なことを言うなよ。バイクには彼女のほうから乗せろと言ってきた」
「知り合ったばかりで?」
「その前に飯も食ったし喫茶店へも行った。知り合ってから三時間以上たっていたさ」
「街で知り合って、貴代が簡単にOKしたわけ?」
「彼女はアメ横の靴屋でブーツを買おうとしていた。一人でいつまでも迷ってたから、俺が選んでやった」
「簡単すぎるわね。貴代って、そんな軽い子じゃなかったわ」
「いい加減にしろよ、話は警察にしてある。嘘だと思うなら警察へ行ってくれ。あっちはみんな調べてあるんだから」
「最後に一つだけ、教えてください」と、真弓の肩に手をかけ、うしろに引きながら、ぼくが言った。「村瀬、あの日、変わったところがありましたか」
広野さんの視線が曖昧《あいまい》な位置で止まり、コルセットから出ている首筋に、唾を飲み込んだときにできる、太い緊張が浮きあがった。
「なんのことか分からないな」
「だから、おかしいと思ったこと」
「知り合ったばかりだぜ、よく喋《しゃべ》る明るい子だったよ。向こうは学校のことや映画のことを話して、俺は仕事のことやレースの話をした。それだけさ、こんな事故がなければ、俺たち、今ごろは真面目に付合ってたかも知れないのに……」
真弓のカバンが胸の前で物騒な音をたて、ぼくはまた肩に手をかけて、真弓をベッドの前から通路のうしろに引き戻した。広野さんも疲れたように頭を落とし、口を強く結んで、そのまま天井に視線を固定させてしまった。
ぼくは広野さんに礼を言い、まだ意見のありそうな真弓を、強引に病室から連れ出した。胸騒ぎは強くなっていても、広野さんがこれ以上、なにかを話すとは思えなかった。事故の状況は警察が調べているし、不審な点があれば二人が知り合った靴屋にも聞き込みをしている。二人はたまたまあの日靴屋で知り合い、食事をしてバイクを走らせ、団子坂で偶然事故を起こした。表面的にはたしかに、そのとおりなのかも知れないのだ。
「わたし、なんとなく、腹が立つ」と、病院を出たところで、カバンを振り子のように揺すり、道灌山通りをバス停のほうに歩きながら、真弓が言った。「今の人、やっぱり貴代のタイプじゃないと思う」
「意外に、いい人では、ある気がする」
「そういう問題じゃないの。軽くナンパされて、軽く食事をして、軽くバイクなんかに乗せられて、相手があの人でよかったのかな……そんなことで死んで、貴代、それでよかったのかな」
「君はどう思う?」
「訊いてるのはわたしよ」
「そうではなくて、つまり……」
立ち止まったぼくを、二、三歩先でふり返り、風に目を細めながら、背伸びをするように真弓が首をのばした。
「村瀬の性格さ。たった一年半で、そんなに変わるものかな」
「会っていないけど……」
「村瀬の家でお祖母さんが言っていた、高校では新しい友達ができなかったって。村瀬はアメ横にも一人で買い物に行った。だけど広野さんと会っていたときの村瀬は、よく喋る明るい子だった……ぼくたちの知っていた村瀬は、どっちだと思う?」
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風はないが、不愉快なくもり空で、坂の上から見おろす信号も気のせいかぼやけて見える。タクシーやトラックが速度をゆるめて行き来し、自転車の小学生が叫声をあげて坂をくだっていく。交差する不忍通りにはバスの渋滞がつづき、排気ガスと枯葉の臭気《におい》が低く歩道をおおっている。東京にならどこにでもある交差点の風景で、日曜日の団子坂だからといって、特別に変化があるわけではない。買い物袋をさげたおばさんがサンダルばきで闊歩《かっぽ》し、足の太い女の人が無慈悲にハイヒールを踏んでいく。坂をくだりきって直進すれば三崎《さんさき》坂から谷中に行きつくし、不忍通りを右折すれば根津神社前から言問通りにつき当たる。広野さんが「直進するつもりだった」と言ったのは、谷中を抜けて入谷に帰る予定だったのだ。貴代の家を事前に聞いていれば、だれだってそう考える。交差点を左折してしまえば西日暮里から三ノ輪に出て、距離的には倍以上も遠くなる。貴代だってそれぐらいは知っていたはず、承知していながら、なぜ突然の方向変更を求めたのか。中学を卒業して以来一年半、村瀬貴代はなにを考え、どんな高校生活を送っていたのだろう。
ぼくは百メートルほどのくだり坂を、目の奥にバイクの幻影を見ながら交差点まで歩き、不忍通りに出て、バス停から上野行きのバスに乗り込んだ。理由があって団子坂に来たわけではなく、しかし礼儀として、貴代が死んだ場所だけは確認しておきたかった。
バスを広小路でおり、アメ横から昭和通りを越えていくと、一帯は信じられないほどのバイク屋街になる。どの店先にも呆れるほどのバイクが並び、中古品には二万六千円とか三万八千円とか、嘘のように安い値段がついている。部品の専門店のようなものから広いロビーを構えた店もあり、バイク好きなら歩くだけで胸がときめく街なのだろう。
友達から教えられた『広野モータース』は、バイク街の中心辺りにあって、キャンバス地の庇《ひさし》を張り出させた店先には二台のモトクロス用バイクを展示し、たて長の店内にはなん台ものツーリングバイクが色彩を競っていた。奥には暗いコンクリートスペースがあり、人の動きからはそこが整備工場らしかった。
店には紺色のつなぎ[#「つなぎ」に傍点]を着た人が二人いて、しばらく無視されたが、ぼくは一つ深呼吸をし、整備工場でバイクを組み立てている人のそばに、ゆっくりと近づいていった。
「お仕事中に済みません、広野清隆さんのお父さんですか」
男の人が作業の手を止め、しゃがみ込んだまま、帽子の下からちらっとぼくの顔を見あげてきた。顔は日に焼けていて、短い口髭を生やし、帽子の下の半白の髪には強くパンチパーマがかかっていた。これでストライプの背広に黒ネクタイでもしていれば、友好的な雰囲気の人ではないだろう。
「名前は聞いてないが、あんた、清隆の病院へ行った高校生かい」と、帽子の鍔《つば》を上に押しあげ、のっそりと腰を浮かせて、男の人が言った。
「木村といいます。事故で死んだ村瀬貴代とは中学で同級でした」
「可哀そうだったなあ。清隆の馬鹿め、とんだことを仕出かしやがった」
「少しお話をうかがえますか」
「俺にかい?」
「あの事故のことが、ぼくにはまだ信じられません」
男の人が、ぼくの目を見つめたまま汚れた軍手を脱ぎ、小さく舌打ちをして、顎で壁際にあるスチールの椅子を指し示した。太い首と厚い肩は威嚇的だが、口調にも目つきにも、暴力の気配は感じられなかった。
小さいテーブルに向かい合って座り、タバコに火をつけてから、喉の荒れている声で、男の人が言った。
「そりゃあよう、倅《せがれ》のやったことだから親の俺にも責任はあるさ。あっちの家族には出来るだけのことをさせてもらうよ」
「そういうことではなくて、知りたいのは、事故が起きた原因についてです」
「木村くんといったっけか。あんた、倅にも同じことを訊いたらしいなあ」
「あの場所はゆるいくだり坂です。交差点は渋滞していて、スピードを出せる道とは思えません」
「どんな道でも事故は起こるさ。俺の知ってるやつなんか小学校の校庭でクルマにはねられた」
「小学校の校庭なら反対車線にタクシーは走っていないでしょう」
「たとえば、ということだよ。プロレスに興奮して死ぬ親爺もいるし、蜂に刺されただけで死ぬ子供もいる。それともなにかい、あんた、清隆がわざとあの子を殺したとでも言いたいのか」
ぼくの鼻先を、タバコの煙がかたまって通りすぎ、展示してあるバイクのほうへ乱れもせずに流れていった。店のどこかで金属的な音は聞こえたが、相変わらず客はなく、若い男の人が一度だけ店先と作業場を往復しただけだった。壁のポスターもカレンダーも写真はすべて派手な色のバイク、大判の白い紙にはレースの予定と結果が、マジックでびっしりと書き込まれていた。広野さんも広野さんのお父さんも、店の若い人も集まってくる客も、生活のすべてをバイクに関わらせて生きているらしい。
「清隆さんはプロのライダーだと聞きました。坂の角度や、スピードや転倒する方向や対向車の位置や、そういうことを、すべて計算できると思います」
「おい、君……」
「偶然も重なりすぎると、不愉快な気がします」
「因縁をつけに来たのなら相手が違うぜ。警察も事故と断定した、保険会社も認めて賠償の手続きを取っている。彼女を轢いたタクシーの運転手も証言しているし、ほかにも目撃者がいたんだ。これ以上俺や清隆に、どうしろと言うんだよ」
「最初にも言いました。ぼくは事故の原因が知りたいだけです」
「あれは単純なブレーキミスだ」
「酒では……」
「なんだと?」
「酒を飲んでいたか、薬を飲んでいたか」
男の人の座っているスチールの椅子が、床にこすれていやな音を出し、指の間からタバコの灰がこぼれて、つなぎ[#「つなぎ」に傍点]の胸に雨だれのような汚れを貼りつけた。
男の人が笑い出したのは、タバコを灰皿でつぶし、つづけて新しいタバコに火をつけた、その直後だった。
「素人がなにを言うかと思ったら……あんたなあ、自分ではバイクに乗らないだろうよ」
「雑誌で勉強しました」
「そいつはご苦労だった。だけど俺の言ってるのは機械《マシン》のことじゃない。事故を起こしたあとのことさ。事故ったやつはクルマでもバイクでも、すぐ血液検査をされるんだぜ。倅だって当然やられた。その結果が白と出たから、免停だけで済んでるわけだよ」
「ぼくは清隆さんが飲んでいたとは言ってません」
「だって……」
「清隆さんが血液検査をされたことは想像できます。でも村瀬は、即死でした。轢いたのはタクシーだし、ほかにも目撃者はいました。だれが見たって単純な交通事故で、そんな場合、被害者の血液検査までするものですか。警察に問い合わせたら、血液検査も行政解剖もやらなかったそうです」
「だから、なんだよ。事故を起こしたのはうちの倅だ。たとえ女の子がビールを飲んでいたとしても、だからどうしたね。それに今さら、ビールのことなんかどうやって証明するんだ」
「証明はできると思います」
「ほーう、どうやって?」
「村瀬と清隆さんが知り合ったのはアメ横の靴屋です。食事をしたのも近くのレストランか喫茶店のはずです。村瀬のクラスメイトが三十人、ぼくの友達も、中学の同級生もその友達も、百人以上の人間が写真をもってアメ横をまわれば、二人が食事をした場所ぐらい見つかります。二週間前のことなら、店には伝票も残っているでしょう」
男の人が口を結んだまま、黙ってタバコをつぶし、今度は新しいタバコに火をつけず、つなぎ[#「つなぎ」に傍点]の袖《そで》で額の脂をしつこくこすり取った。肉の厚い頬には毛穴が荒く目立ち、口髭も右側に大きくゆがんでいた。
「まさかとは思ったが、気がつく奴もいるんだなあ」と、帽子を深くかぶり直し、腕組みをして、スチールの椅子を鳴らしながら、男の人が言った。「だけど木村くん、最近は高校生だってビールぐらい飲むだろう。特別に悪いことだとは思わないぜ」
「清隆さん自身は、本当に、飲まなかったんですね」
「口だけはつけたらしいが、やつだってプロだからな。マシンを転がす前に酒は飲まんさ」
「そのことをなぜ隠していたんです」
「清隆は相手が高校生であることを知っていた。いくら最近じゃ普通だといっても、事故で死んだとなりゃ話は別だ。レーサーとしての経歴に傷がつく。今はまだ国内のレースだけど、奴には世界に出て行ける才能があるんだ。死んだ女の子には悪かったが、倅には、俺が口止めしておいた」
「村瀬は、酔って、バイクから落ちたわけですか」
「もしそうなら俺だって警察に届けたさ、だけど倅は違うと言う。たしかにビールは飲ませたが、酔って落ちるほどではなかった……あの場所に来て、女の子が突然暴れ出したというんだ」
「二人が喧嘩《けんか》をしたとか」
「そういうこともなかった。知り合って、飯を食って、原宿から池袋のほうへバイクを転がした。また次も会う約束をしたというから、喧嘩はしなかったはずだ」
「ビールのせいでもなく、喧嘩のせいでもなく、村瀬が、突然暴れ出した……」
「倅がバランスを崩すほど暴れたそうだ。なぜそうなったのか、今でも理由が分からないらしいよ」
ぼくは突然、息が苦しくなって、意識的に深呼吸をし、テーブルに肘《ひじ》をかけてゆっくりと立ちあがった。機械油の臭気が濃く鼻をつき、澱《よど》んだ空気が固まって、ぼくの肩や足を執拗《しつよう》に押さえ込んでくる。
もう視線を合わせる気にならず、礼だけ言って、ぼくはうしろに下がり、並んだバイクの横を店先に歩き出した。
「覚悟はしてたけど、木村くん、警察へ行くんかい」と、椅子を立ちながら、一つ咳払いをし、抑揚のない声で、男の人が言った。
「必要なとき以外、ああいう場所には行きません」
「間が悪かったんだよなあ。日曜日に休ませなきゃ、倅もアメ横へは行かなかった。二人が知り合わなけりゃ事故も起きなかった」
「村瀬のことは昔から知っています。街で声をかけられて、簡単についていく子ではありませんでした。彼女も清隆さんのことを、いい人だと思ったはずです」
「倅も言ってた、素直で、明るくて、可愛い子だったとな。だれが悪いわけでもないのに、なあ、世の中ってのは面倒なもんだなあ」
男の人がまたタバコをくわえ、帽子の下から、遠く、ぼくのほうに会釈を送ってきた。ぼくはもう一度礼を言い、開いているガラスドアから、小雨のふりだした街にそっとまぎれ込んだ。店先からバイクを片づけたり、シートを被せたり、道の両側もけだるい賑《にぎ》わいが始まっていた。無性に真弓の声が聞きたかったが、我慢して、冷たい雨の中をぼくはJRの駅に歩きつづけた。もうすぐ鷲神社の二の酉で、二の酉が過ぎれば、いやでも本物の冬がやって来る。
「だれが悪いわけでもないのに……」と、早足に歩きながら、コートの襟をおさえ、首をすくめて、ぼくは一人ごとを言った。
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懐《なつ》かしくて寒くて意味もなく気分が浮き立って、その中に説明したくない空しさが混じっている。屋台の発電機やアセチレンガスの光が参道の向こうから飴色に国際通りへ届いてくる。晴れていても、星は見えず、祭りの明かりが空の低い辺りを暖かい色に染めあげる。肩に担ぐほどの大熊手を持って帰る人、腕を組んで参道に入っていく茶髪と革ジャンの二人連れ、しばらく縁のなかった風景が、祭りの喧噪と一緒に心地よくぼくの神経を興奮させる。これで貴代や斉藤や内海がやって来れば、図式的には二年前の、あの二の酉の夜と同じ情景だった。
十分も人の流れを眺めていたころ、国際通りの車道側を、三ノ輪の方向から赤いマウンテンバイクが怖いほどのスピードで突進してきた。待ち合わせに遅れるのは真弓の体質、しかしたかが十分のことで、これほどむき[#「むき」に傍点]になる必要もないだろう。
真弓がぼくにうなずきながら、自転車をチェーンキーで歩道の柵に固定し、デイパックを担ぎ直して大股《おおまた》に歩いてきた。ブルーのダウンジャケットにマフラーまで巻いたコスチュームは、いくら今年の冬が早くても、少しばかり大げさすぎる。
「自転車、替えたんだな」と、街灯に光るマウンテンバイクと、真弓の重装備に感心しながら、ぼくが言った。
「誕生日に親父に買わせたの。自分ではベンツに乗ってるくせに、意外とけちなのよね」
真弓が背中のデイパックをゆすり、色ゴムで止めた髪をマフラーの外に払いながら、スニーカーの先を、黙って鷲神社のほうに踏み出させた。真弓の服装に対して議論する気はなかったので、ぼくもコートのポケットに両手を入れ、黙って真弓の横を歩きはじめた。人の流れは無秩序に一定していて、そのつもりはなくても、つい真弓と肩が触れてしまう。中学のころ、グループで集まったときは、ぼくはわざと真弓から離れた場所を歩いていた。
蛸《たこ》焼きやガラス細工やクレープ売りの屋台を過ぎ、熊手が並んだ一画まで来て、真弓とぼくのリズムに、やっと中学時代の秩序が戻ってきた。あのころは社殿で賽銭《さいせん》をあげる前に、どこかの屋台にもぐり込んで密かな宴会を決行したものだ。熊手屋の裏側にテントで囲まれたおでんの屋台を確認したとき、ぼくたちの足は、必然的にその方向へ進んでいた。
屋台のベンチに並んで腰かけ、おでんと焼きそばを注文し、真弓も首からチェックのマフラーを、くるりとはぎ取った。ダウンジャケットの下はセーターではなく、ボーダー柄のカットソーだった。二年の時間が影絵のように色を濃くしたが、あのころと違うのは、ぼくらの前にビール瓶と、二個のコップが並んでいることだった。
「だれが悪いわけでもないのに……」と、コップを合わせてから、一口口に含み、食道を落ちていくビールの刺激を意識しながら、ぼくが言った。「広野さんという人が、悪かったわけでもないし」
真弓の長いまつ毛が、横からぼくの顔を覗いたが、結んだ口からは言葉も、ため息ももれなかった。このまま貴代の話題を避けて通れるなら、本当はぼくだって、もっと気は楽なはずだった。
「事故の日、村瀬はビールを飲んでいた。広野さんも口をつけたけど、運転を間違うほどではなかったらしい」
「木村くんならそれぐらい調べると思ったけど……」
「村瀬に対する礼儀だろうな」
「それなら、事故は貴代のビールが原因?」
「関係あるかも知れないし、ないかも知れない。ぼくが気になったのは村瀬の性格だった」
おでんの竹輪を一つ食べ、喉の渇きをビールで鎮めてから、真弓の視線を確認して、ぼくが言った。
「小学校のとき村瀬が花壇のパンジーを抜いたことがある。ぼくがやめさせたけど、あのとき村瀬は、自分のしていることを自覚していなかった」
「………」
「村瀬は咲いたばかりのパンジーを一人ごとを言いながら抜いていた……ぼくは、少し、怖かった」
真弓もビールのコップを口に運び、しかし言葉は出さず、鼻の先を勒かしただけで、目で先を促した。
「その日はクラス委員の選挙があった。いつも委員だった村瀬が、初めて落ちた。花壇の花を抜いたのはそのショックだと思う。冷静でおとなしく見えたけど、混乱すると村瀬は、信じられない無茶をする」
「木村くん、知っていたの……」と、はんぺんに赤面するほど辛子を塗り、ダウンジャケットのジッパーをおろしながら、静かに息をして、真弓が言った。「今まで黙ってたけど、貴代との間が気まずくなったのは、それが原因よ」
「………」
「わたしが高校を私立に決めたとき、貴代、ヒステリーを起こした」
「………」
「親父とか親戚の関係とか、わたしにだって都合があったのにね」
「分かる気はする」
「わたしのことを卑怯者だって、グループから出ていけって。あのときの貴代の目、わたし、今でも覚えてる」
「ぼくに言えばよかった」
「木村くんは貴代の味方だったじゃない」
「そんなことはないさ」
「あるわよ。貴代にばかり気をつかって、わたしには冷たかった」
「君はチョークを投げたり視線《がん》を飛ばしたりするから、近寄らなかっただけさ」
「今のこと、本気で言った?」
「うん……」
「冗談でしょう」
「たぶん、冗談だと思う」
「まったく……」
真弓の割り箸と口が、しばらく決然と運動をくり返し、そのうち空気が抜けるように、顎の先からふっと力が抜けていった。盛りあがった殺気も心配するほどのことはなく、以前のように、チョークも足蹴りも飛んで来なかった。
「証明はできないけど、村瀬の死は自殺だと思う」
真弓が割り箸を口の前で止め、テーブルにかけた肘をずらして、今まで見たこともないほど、大きく目を見開いた。
「バイクのうしろで村瀬は突然暴れ出した。広野さんにも理由は分からないという」
「ビールのせい?」
「違うと思う。昨日、村瀬のお袋さんに会ってきた。おばさんは入谷の家に帰っていない」
「実家って、どこだっけ」
「川崎」
「ショックで向こうに帰ったまま?」
「そうではなくて、もう入谷の家には帰らない。親父さんとお袋さんは離婚が決まっていたらしい」
風が吹いて、テントが金属的な音で軋《きし》み、それが合図のように、真弓の目から呆気《あっけ》なく光が消えていった。気が強いのも動作が乱暴なのも事実だが、同時に真弓には、気の毒なほどの繊細さが同居している。
「証明はできないし、したところで意味はないけど、あれは発作的な自殺だった」
「発作的な、自殺……」
「村瀬の性格なら可能性はある。必要以上に我慢をして、それでどこかで、バランスが崩れる。お袋さんも薄々は気づいてたらしい」
「………」
「ぼくには村瀬の気持ちが、分かる気がする」
真弓が口の端を曲げたまま、横目でしばらくぼくの顔を見つめ、大きく息を吐いてから、視線を戻してビールを一気に飲みほした。目の大きさと涙の粒が比例するものか、調べたことはないが、頬も伝わらずに落ちた真弓の涙は、感激するほど大きかった。
「辛子、多すぎたのか」
「大きなお世話よ。木村くんて、ずるいわ」
「どこが」
「いつも一人だけで分かってる、わたしにはなにも言わない。木村くんの両親が離婚したときだって、少しぐらい相談すればよかったのよ」
「君に相談しても仕方なかった」
「そういう問題じゃないの。木村くんは自分勝手で偽善者で無神経で、その性格が今でも変わってないということ」
「そうかな」
「わたしだって貴代のことに責任を感じていた。あのとき喧嘩をしなければ、喧嘩をしても仲直りしていれば、こんなことにはならなかった」
「君の責任ではないさ」
「わたしの責任よ」
「君の責任でも両親の責任でも、広野さんの責任でもない。偶然が悪いほうに重なったけど、責任は村瀬がとるしか仕方なかった」
「ふーん、そうなの」
「そうさ」
「木村くんは自分一人だけ、大人だと思ってるわけ?」
「君だって大人になったさ」
「大人になんかなってないわ」
「髪も長くなったし、今夜は口紅も似合っている」
真弓がテーブルをふるわせて立ちあがり、デイパックとマフラーを抱えて、真上から、電波が出るほどの目でぼくの顔をにらみつけた。ぼくも必死で反省したが、この状況に至っては、もうすべてが手遅れだった。真弓はベンチを蹴って歩き出し、ぼくの瞬きが終わったときには、おでん屋の屋台からきっぱりと姿を消していた。飯能から西武線とJRとバスを乗りつぎ、三時間もかけて、いったいぼくは、こんなところまで、何をしに来たのだろう。
ぼくは突然疲れてしまって、ビールを飲む気力もなく、残ったおでんと焼きそばの皿を、馬鹿みたいに眺めていた。酉の市の喧噪が和音になって響きだし、人息や他人の話し声が地面の下からすごい迫力で膨らんできた。中学のときから意識しているくせに、どう調節しても真弓とは、バイオリズムが合わないらしい。
十分ほどで、ぼくは放心していた自分に気づき、一つ頬をたたいてから、ベンチを立ってコートのボタンをかけ直した。鷲神社でも二の酉でも、真弓がいなければ寒いだけの、ただ埃っぽいだけの雑踏だった。
テントの屋台を出て、社殿まで歩く自分の気力を疑いはじめたとき、ダウンジャケットとマフラーに顎をうずめた真弓が、目の前に怖いほど颯爽と立ち塞がった。ぼくは条件反射で、一歩しりぞき、不気味に目を光らせている真弓の顔に、つい心臓を止めてしまった。
「自転車、盗まれたのか」
「あんたねえ、自分のその性格、いや味だと思わない?」
「たまには思うこともある」
「そんなふうに屈折するの、流行《はや》らないわよ」
「君がテントを出ていってから反省をつづけている」
「分かればいいの。お互い青春は短いんだし、もう少し素直に生きようね」
理屈としてどちらが正しいのか、疑問はあっても、この場面は正しいとか正しくないとか、たいして意味はない。理屈よりも力で押し切るほうが偉いことを、ぼくは生まれたときから、ずっと教えられている。
真弓がダウンジャケットに手を入れ、なにかごそごそやって、ぼくの背中を、肩で社殿のほうに押し出した。まっすぐ歩くのは不可能な混雑で、それでも人波も人息も人声も、ぼくの世界からは失礼なほど姿を消していた。
「これ、あげるわ。韓国のお土産よ」と、ポケットから取り出した手を、向こう側からぼくの前に回し、怒ったような声で、真弓が言った。「水晶のキーホルダー。うちの高校、修学旅行が韓国だったの」
「君の修学旅行は六月だった」
「知っていて電話をしなかったの?」
「なにが」
「お祖母《ばあ》さんにことづけ[#「ことづけ」に傍点]たじゃない、お土産があるから電話をするようにって」
「うちの祖母さん?」
「聞かなかったの」
「あの人には大事なことを忘れる主義がある」
「なーんだ、聞かなかったのか」
「君はどうして電話をくれなかった?」
「なんのことよ」
「ぼくも君に電話をした、君は修学旅行中だった。サッカーの切符があるって、お袋さんに伝言しておいた」
真弓が口の中で、なにか唸《うな》ったが、それがはっきり声として聞こえたのは、二人で人混みを掻き分けていった、社殿の前だった。マフラーの下に深くうずめた口で、真弓は肩が震えるほど笑っていた。
ポケットの中で指に水晶のキーホルダーをからめながら、ぼくはひっそりと、そのことを決意した。
真弓と真弓の赤いマウンテンバイクのために、今夜は一発、『交通安全』のお守りを奮発してやろう。
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プラスチック・ラブ
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年寄りが鳩に餌《えさ》をやっている。西日が社《やしろ》の影を長く引き、枯れた公孫樹の葉がアイスダストのようにふりそそぐ。子供が走るたびに鳩の群れが散らばり、羽ばたいてはまた年寄りのまわりに寄っていく。十二月に入っても日射しは暖かく、都電の方向に開けた空には綿菓子のような雲が浮かんでいる。明治通りからクルマの喧噪《けんそう》が聞こえ、境内の外を新聞配達のバイクが乾いた排気音を捨てていく。ベンチの年寄りはグレーのジャンパーを羽織っていて、新聞紙の包みから機械人形のようにパンくずをまきつづける。ベージュ色のズボンに真新しいスニーカー、頭には白い鍔広幅《つばひろぼう》をかぶり、首にはチェックのマフラーを巻いている。
「週刊誌に出ちゃうのかな。学校のまわり、記者みたいな人がうろうろしてる」
美波《みなみ》も首にマフラーを掛けていて、ショルダーにもなる学生カバンは膝《ひざ》の上に置かれ、黒いローファーの爪先《つまさき》がたまに足元の落ち葉を蹴りとばす。ブレザーの下にはニットの青いベストがのぞき、制服のスカートからは日に焼けた臑《すね》が長く突き出している。
年寄りがまたパンくずを投げ、鳩の群れがざわめいて、灰色の地面に賑《にぎ》やかな混乱が湧きおこる。鬼子母神を祭った社殿のほうから、がらがらと無神経な鈴音が鳴りひびく。
「君がクラブを休むなんて、珍しいよな」と、向かいのベンチを眺めたまま、欠伸を飲みこんで、ぼくが言った。
「気分じゃないのよねえ」
「キャプテンが練習をサボって、いいのかよ」
「今日だけよ。交通事故だって大変なのに、寛子、なにを考えてたんだろう」
美波が尖った顎に力を入れ、眉間《みけん》を怒ったように広げながら、息の音を低く喉《のど》にひびかせた。頬《ほお》も額も呆れるほど日に焼けていて、骨ばった膝小僧には、大判のバンドエイドが貼ってあった。
竹田寛子が遺体で発見されたのは、四日前の午前二時。ニュースはテレビでもやったし、新聞にものった。『若い女性、渋谷区宇田川町のホテルで絞殺。被害者は前日九時ごろ中年の男と入室。男だけ先に帰り、不審に思った従業員が室内を調べたところ、半裸状態で死亡している女性を発見。警察では同伴の男が事件に関係あるとみて、行方を追っている』
もちろんニュースでは、被害者の名前が竹田寛子であること、桃華女学院の二年生であることなど、一切発表されなかった。ぼくだって『若い女性』が中学のとき同級だった竹田寛子だと知ったのは、美波の電話でだった。
「犯人、まだ捕まってないんだよな」
「警察はクラスの子にも事情を訊《き》いてるらしい」
「遊ぶタイプじゃなかったのに」
「高校で変わったのね。うちの学校、派手な子も多いから」
「変わらな過ぎても困るけどな」
「みんな変わるわよ、女の子って微妙だもの」
「そうでもないやつもいるさ」
「だれのこと?」
「だれのことかな」
「言えばいいじゃない、わたしは色気がないって」
「ソフトボールに夢中で、色もまっ黒で、髪も男みたいに短くて、そんなやつを彼女にしているぼくが気の毒に思えただけさ」
美波が下唇を突き出して、頬をふくらませ、目尻のさがった丸い目を、不気味な色に光らせた。男がふり返るような美人ではないが、こぢんまりした鼻の形は、口笛を吹きたくなるほど奇麗だった。
鳩の群れに雀が舞いおり、鋭く鳴きながら、強引に餌をつつきはじめた。年寄りが別な方向にパンくずを放って、鳩が騒ぎ、その中を乳母車が淡々と渡っていく。
「新聞に出たのが竹田だということ、みんな知ってるのか」
「女子校だもの、次の日にはソフトボール部のコーチまで知ってた」
「竹田とはクラス、別なんだよな」
「寛子は三組、一年のときから付合わなくなったの」
「中学までは仲がよかったのに」
「そうなのよね。わたしは意識しなかったけど、向こうが避けたみたい」
「理由は?」
「知らないわよ。石井さんのグループのほうが、面白くなったんじゃない?」
竹田寛子が美波を避けはじめた理由について、本当はぼくに、心当たりがある。中学を卒業してから、ぼくは一度だけ寛子とデートした。それからいく日かして、また寛子から電話があった。ぼくはその誘いを断わった。寛子はもちろん、ぼくと美波の関係は知っていた。
「石井さんというのは……」と、ベンチの中で尻をずらし、美波のとぼけた横顔を眺めながら、ぼくが言った。「中学のときテニス部だった、石井友絵?」
「知ってるの」
「テニスで目立ったしな。彼女も桃華女学院か」
「高校ではテニスをやってない、練習が厳しいらしいから」
「そんなもんかな」
「寛子は石井さんたちと付合ってた、学校でも派手なほうのグループ」
「遊んでた、という意味?」
「そういう噂ね。どういうふうに遊ぶのか、わたしには分からないけど」
美波がうすい唇を、困ったようにゆがめ、マフラーを巻き直しながら、小さくくしゃみをした。この秋からはソフトボール部のキャプテンで、日曜日でも試合に出かけてしまう美波に、ほかの女の子がどういうふうに遊んでいるのか、分かるはずはない。
「噂のことだけどな……」
「うん?」
「ほかには?」
「ほかにって」
「竹田とホテルに入った男のこと」
「興味があるわけ」
「中年の男なんて、ちょっと変だ」
「みんな変でしょう、ホテルのことも殺されたことも」
「どうなんだよ、噂」
「いろいろ。売春とか、愛人とか」
「竹田、が?」
「ただの噂よ、わたしは信じない。寛子は高校に入ってから少し派手になった。コンパに出たり、お酒を飲んだり、それぐらいのことはしたと思う。でも、売春なんて、ぜったい有りえない」
「一年半だ、中学を出てから」
「たった一年半よ」
「変わると言ったのは君さ。女の子は特に、微妙らしいし」
突風が吹いて、美波のスカートがめくれ、飛び立った鳩の群れが一瞬空を暗くする。向かいの年寄りも腰をあげ、ジャンパーのポケットに手を入れながら、頼りなく山門の方向に歩きはじめた。力のない歩き方と真新しいスニーカーのバランスが、奇妙に淋《さび》しく感じられる。樹齢六百年という大公孫樹の高みから、黄色い枯葉が限りなく舞いおりる。
「君がクラブを休むの、たまにはいいな」
「へんな気分だけどね。わたしが寛子のこと考えても仕方ないのに」
「映画でも行くか」
「お腹《なか》がすいた。木村くんの顔を見たら、なんとなくほっとした」
「気楽なやつ」
「わたし、ぐずぐず悩むの、向かないみたい。やっぱり体力勝負だわ」
「たまには悩めよ」
「どうして」
「少しは美人になる」
「木村くんが知らないだけよ」
「なにを」
「交際してくれって、手紙がたくさん来るんだから」
「知らなかったな」
「バレンタインなんか沢山の子がチョコレートをくれる」
「チョコレート……か」
「羨《うらや》ましいでしょう」
「そうでもないけど、君にはやっぱり、悩むのは向かないらしい」
立ちあがって、ぼくは公孫樹の舞う空を眺めてから、美波のマフラーをつまんで、軽く上に引っぱった。美波も腰をあげ、鼻の頭に皺《しわ》を寄せながら、またくしゃみをした。日射しはもう境内に届かず、風も出ていて、いつの間にか鳩の群れもいなくなっていた。
カバンを背中にかけた美波の手をとり、風の吹いてくる方向に、ぼくらは肩を寄せて歩きはじめた。美波の背はぼくと同じほどで、高校に入ってから、もう五センチものびていた。
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JRの目白駅から池袋方向に歩き、西武池袋線につき当たる手前を左に曲がると、『三東化学工業池袋寮』と表札の出ているコンクリートの門柱が見えてくる。ブロック塀に囲まれた敷地に植え込みはなく、門の内側には自転車や三輪車が並び、どの部屋のベランダにも意地を張ってるのかと思うほど、精一杯の洗濯物が干されていた。建物は団地のような四階建て、エレベータはなく、ぼくは吹き抜けになっている外階段を、少し緊張してのぼっていった。中学の三年間、ぼくは一度も、石井友絵とは同級にならなかった。
ブザーを押すと、すぐに鉄板のドアがあき、見覚えのある切れ長の目が笑いながら顔をのぞかせた。見覚えがあったのは二重の目の形だけで、茶髪にしたシャギーや濡《ぬ》れたように光るピンク色の口紅は、どこまでも初めての風景だった。
「びっくりしたわよ。木村くんが電話してくるなんて、どういう風の吹きまわし?」
「中学の卒業名簿を見ていて、突然君に会いたくなった」
「いいわよ、寛子のことでしょう。うちの学校、今その問題で大山鳴動なの」
「君、出かけなくて、いいのか」
「まったくね。今は謹厳実直、台風一過を待ってる気分よ」
「ちょっとだけ、話を聞きたい」
「ノーコメント……と言いたいところだけど、あたしも暇だし、友好してあげるわ。今も雑誌の記者という人が来て、いろいろ聞いていったところ」
友絵が化粧品の匂いを飛ばしながら、うしろに下がり、含みのある目でぼくを内側にうながした。ぼくは言われるままドアを閉め、靴を脱いで台所につづく狭いリビングに上がっていった。部屋にはダイニングテーブルと食器棚とサイドボードが隙間《すきま》なく場所を占め、おまけに中学生ぐらいの男の子が、床に座ってテレビゲームのコントローラをいじくっていた。
男の子は顔もあげず、友絵も弟を無視して、黙ってぼくを奥の部屋に連れていった。
「ベッドにでも座っていて。紅茶を入れてくるわ」
友絵が姿を消し、ぼくはその六畳ほどの部屋にとり残されて、居心地悪く室内を見わたした。ロータイプベッドに衣装ケースに本棚に机、それだけでもう、部屋の中は歩く余地もないほどだった。壁にはアイドルのポスターが貼られ、本棚にはマンガの単行本が並び、ベッドの枕元にはクジラのぬいぐるみがリアルにと鎮座していた。ピンク色のベッドカバーもパステルプリントのカーテンも、美波の部屋とは笑えるほどの相違だった。
「あら、遠慮しなくていいのに。友達はみんなベッドに座るんだから」
戻ってきて、ティーカップをのせた盆をベッドのまん中に置き、クジラのとなりに腰かけながら、友絵が顎で反対側を指し示した。白いスパッツに草色のミニスカート、上は丈の短いモヘアのカーディガンだった。
「君と、ちゃんと話したこと、あったっけ」と、ジャケットのボタンを外しながら、ベッドの端に尻をのせて、ぼくが言った。
「あるじゃない、文化祭の準備委員会で一緒に委員をやったわ」
「忘れていた」
「木村くんて交友範囲が広いものね。あたしのことを覚えていただけでも青天の霹靂《へきれき》よ」
「君、変わったかな」
「いい女になっていてびっくりしたでしょう」
「まあ、そうだな」
「木村くん、都立だっけ」
「普通科」
「大学は?」
「行くつもりだけど、分からない」
「あたしは短大までエスカレータ、気楽なもんよ」
「テニス、やめたんだって?」
「だれから聞いたの」
「桃華に知ってる子がいる」
「本城さん?」
「いや」
「相原さんか、松下さん?」
「ちがうけど……」
「ほかに可愛い子なんか、いたっけ」
「君の知らない子さ。たまたま電車で知り合った」
竹田寛子はぼくと美波の付合いを知っていたはずだから、そのことは友絵に話していないことになる。友絵と竹田寛子の親しさは、どの程度のものだったのか。それに、言っても仕方ないが、どういう女の子を可愛いと思うかなんて、そんなこと、ぼくの勝手なのだ。
「そういえば木村くん、中学のとき寛子と同級だったわね」と、紅茶のカップを取りあげ、上目づかいにぼくの顔をのぞいて、友絵が言った。
「だから不思議に思った、竹田の死に方」
「あ、そういうこと」
「あいつ、なにをやってたのかな」
「普通だと思うわよ、殺されたのはちょっと驚天動地《きょうてんどうち》だけど」
「ちょっと……か」
「警察にもしつこく訊かれた。頭きちゃうわ、あたしのこと、売春《うり》してるみたいに言うんだもの」
友絵がスリッパの足を突き出し、肘《ひじ》をベッドの天板にまわしながら、首すじの髪を大きくふり払った。仕草も表情も視線の流し方も、もう不可解なほどの大人だった。
「君たちのグループでは、普通に、中年の男とホテルに入るのか」
部屋の外でなにか音がして、友絵が目尻をつりあげ、舌打ちをしながら、ピンク色の唇を右側に固く曲げてみせた。
「木村くん、因縁つけに来たの」
「そう思うか」
「だって、今の言い方、そういう意味じゃない」
「知らないから訊いただけ。竹田がなにを考えていたのか、なぜあんなことになったのか、知っていたら教えてもらいたい」
「あたしが犯人まで知ってるとか?」
「知っていれば警察に言ってるさ」
「それならなによ。あたし、気取るわけじゃないけど、売春《うり》まではやらないわ」
「君のことではなく、竹田のこと」
「寛子は……」
友絵が下唇を噛《か》んで、その唇に紅茶のカップを押しつけ、首をかしげながら、スパッツの足を面倒臭そうに組みかえた。
「たとえば……」と、茶色に染めた髪を掻きあげ、口笛を吹くように息を吐いて、友絵が言った。「寛子がやっていたとしても、あたしには言わないわね。パンティーを売ったとか、デートクラブに出入りしたとか、それぐらいは喋《しゃべ》ったけど」
「パンティー……」
「八百円で売れるのよ、捨てればただのごみなのに」
「竹田のパンティーが、八百円か」
「女の子によって違うの、あたしのは八百五十円」
「ああ、そう」
「どうせ卒業するまでよ、建設的な小遣い稼ぎね」
「デートクラブというのは、なに」
「一般論で?」
「もちろん、一般論で」
「クラブに登録してね、ポケベルや携帯にアポがあったら、電話しておじさんとデートしてやるの。ボランティアみたいなものよ」
「ボランティア代、いくら」
「一般論としては三万ぐらい」
「デートだけで?」
「当然でしょう。四十とか五十とかのおじさんが女子高生とデートできるんだもの、正当な労働報酬よ」
「そんなもんかな」
「そんなもんよ。あたしたちなんてさ、どうせ先は一目瞭然《いちもくりょうぜん》じゃない。OLやって、あとは平凡なサラリーマンと結婚するだけ。子供が天才になるはずもないし、ローンを払って歳《とし》をとって、最後は老人ホーム。だから今のうちに稼いで単刀直入に楽しむの。他人に迷惑がかかるわけじゃないから、それでいいんじゃない?」
もう紅茶は冷めていたが、ぼくは軽く唇を湿らせ、息苦しさを我慢しながら、意識して視線を壁にもっていった。ハンガーには皺も染みもない、美波のものと同じ桃華女学院の制服が掛かっていた。
「思い出した……」と、カップを受け皿に戻してから、手のひらの汗をズボンにこすって、ぼくが言った。「三年生のとき、君のテニスの試合、応援に行ったことがある」
「あら」
「場所は、どこだったか……」
「国体の地区予選?」
「そうかもな」
「言えばよかったのに」
「スターは遠くから見るほうが美しいんだ」
「木村くんて、お世辞も言えるの」
「君のバックハンドスマッシュは格好よかった」
「あたしにだって取り柄はあったわよ」
「テニス、なぜやめたんだ」
「才能のある人が腐るほどいるから」
「君だって才能はある。つづけていれば、ウィンブルドンにだって、出られたかも知れない」
友絵の厚めの唇が、内側に引きしまり、押し寄せる化粧品の匂いの中に、汗の匂いがうすくまぎれ込んだ。閉まった窓の向こうから池袋線の震動が聞こえ、壁の鳩時計からは四度、鳩が鳴きながら出入りした。
友絵が突然笑い出し、スリッパの先をふりながら、茶色い髪をばさりと上に掻きあげた。
「木村くんて、もしかしたら、おぼっちゃま?」
「親父はただのサラリーマン」
「そんな世間知らずで十七年も生きてきたの」
「どういうこと」
「あんたねえ、あたしぐらいのテニス、なん人ができると思う? なん万人も、なん十万人も、世界中ならなん百万人もの人ができるのよ。ウィンブルドンに出るようなプレーヤーは天才なの。親も子供のときから英才教育をするの。豊島区の中学でちょっと強いというのとは、レベルが違うの」
「………」
「夢と現実は別ものよ。うちのお袋なんてね、あたしを私立の女子校に通わせるために、スーパーでレヂを打ってる。そんな親から天才が生まれると思う? おばさんになってスーパーのレヂを打つ以外の人生が、あたしにあると思う? みんな分かってるのよ。だから今を楽しむの、売れるものならパンティーでも躰でも売るの。あと五年もしたら、こっちから頼んでも、もうだれも買わなくなるんだから」
残っていた紅茶を飲みほし、壁の制服と友絵の顔とクジラのぬいぐるみを見くらべてから、カップを置いて、そっとぼくは腰をあげた。部屋のバランスがぎこちなくゆがみ、ベッドが軋《きし》んで、空気が埃っぽくうごめいた。
「竹田のことを、知りたかっただけさ」と、ドアまで歩いてから、ふり返り、うしろ手に把手《とって》を握って、ぼくが言った。「いいとか、悪いとか、そんなこと、ぼくには分からない」
「木村くん……」
「うん?」
「あたしのテニス、本気で応援してくれたの」
「君が準決勝で負けたときは、本気で悲しかった」
「本気で?」
「うん」
「あのとき言えばよかったのに」
「見かけより内気なんだ」
「ありがとう」
「ぼくのほうは謝る、干渉するつもりはなかった」
「寛子ね……」
「うん」
「プラスチック・ラブだって」
「うん?」
「おかしいでしょう」
「そうだな」
「あたしがね、彼氏のことを訊いたら、寛子がプラスチック・ラブと答えた」
「プラトニック・ラブ?」
「プラスチック・ラブ。あたしも訊き返した。そうしたら、寛子はにやっと笑って、あとはなにも言わなかったわ」
友絵が軽く手をふり、ぼくは喉に灰色の塊を飲み込んだまま、やはり手をふって、友絵の部屋を出た。友絵は部屋から動かず、弟もテレビゲームから顔をあげなかった。リビングの窓に日射しはなく、照明もなく、暗い部屋にテレビゲームの人工的な音が、耳鳴りのように響いていた。
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夕暮れのせまった乾いた空に、カラスの声だけがやかましい。半ズボンの小学生は足に鳥肌を浮かべ、買い物袋をさげたおばさんが忙《せわ》しなくサンダルを引きずっていく。道端の地蔵尊からうすく線香のにおいが流れ、アスファルトをプラタナスの枯葉が大儀そうに舞っていく。冬至にはずいぶん間があるはずなのに、十二月の日は、あっけなく暮れてしまう。
ぼくが肩をたたかれたのは、寮の敷地を出て、ジャケットのボタンをかけながら目白駅の方向に歩きはじめたときだった。喉に詰まった屈託が気になっていて、うしろに人が立っていることに、まるで気づかなかった。
「君が石井さんの家に入るところが見えたんでね、待たせてもらった」
男の人がハーフコートのポケットから名刺を抜き出し、悲しそうな目でぼくの顔を見おろしながら、小さく欠伸をした。歳《とし》は三十五から四十の間ぐらい、全体に肉のうすい顔で、渡された名刺には『月刊EYES記者・柚木草平』と書いてあった。
「石井友絵さんの兄弟ではないだろうし、歳ごろからして竹田寛子さんの友達だと思うけど、ちがうかな」
ぼくが部屋を訪ねたとき、友絵が言った『話を聞きに来た記者』というのは、この柚木という人のことか。新聞とテレビは寛子の名前を隠したが、週刊誌や月刊誌では、どうなのだろう。
「雑誌に、竹田のことを、書くんですか」と、名刺をズボンのポケットにしまい、目白駅のほうに歩きながら、ぼくが言った。
「裏づけ取材というやつさ。基本的に俺は、男女間のトラブルに興味はない」
「人間が死んでるのに、ただのトラブル?」
「故殺《こさつ》ではあるが謀殺《ぼうさつ》ではない。喧嘩《けんか》の末に犯人の手が滑っただけだろう」
「そんなこと、なぜ分かるんです?」
「最初から殺す気ならラブホテルは使わないさ。それに公表はされていないが、被害者の遺体にはていねいに布団が掛けられていた」
柚木さんが頬の片側に皺をつくって、横からぼくの顔をうかがい、タバコをくわえて、使い捨てのライターで火をつけた。鋭い目付きに威圧感はなく、抑揚のない口調にも頽廃《たいはい》は感じられなかった。
「君、竹田寛子くんとは、どういう関係?」
「中学のとき同級でした」
「それで事件に興味がある?」
「そうですね」
「名前は?」
「木村時郎」
「ちょっと付合わないか、よければ夕飯をおごるよ。俺のほうは一日歩きまわって、ビールが飲みたくなった」
柚木さんが勝手に前を歩き、ぼくも方向を変える必要はなく、少し遅れて目白駅に向かっていった。柚木さんが竹田寛子について取材する気なら、ぼくのほうにも事件の概要に関して、取材する権利がある。
ぼくらが入ったのは目白通りぞいに小さい看板を出した、清潔な中華料理店だった。まだ客は少なく、クロスの掛かった丸テーブルに、柚木さんは五品ほどの点心を並べてくれた。見栄を張って飲み物は、ぼくもビールにした。
「殺人事件というのは、なん度めぐり会っても気が滅入《めい》る」と、一度ビールを飲みほしてから、面倒臭そうに注《つ》ぎたして、柚木さんが言った。「特に若い女の子が殺されるというのは、いやなものだ」
「事件のこと、教えてもらえますか」
「取材は俺がする」
「分かってることだけでも教えてください」
「君は寛子くんのことを訊くために、石井友絵に会った」
「はい」
「俺も裏づけ取材をした。被害者がどういう生活をしていて、どんな交遊関係をもっていたか」
「竹田が遊んでいたらしいことは知っています」
「売春ぐらいは、か」
「可能性はあります」
柚木さんがぼくのグラスにビールを注《さ》し、タバコに火をつけて、煙を長く天井に吹きつけた。青春スターだった人が勘違いをして刑事ドラマの悪役をやっているような、そんな感じの人だった。
「この事件のようなケースでは、結果は二つに限られる。迷宮入りになるか、犯人がすぐ捕まるか」
「………」
「被害者がホテトル嬢かなにかで、加害者と接点がなかった場合、犯人はまず捕まらない。犯人に前科がなければなおさらだ。逆に二人が以前からの関係なら、犯行そのものが幼稚すぎる」
「柚木さん、刑事みたいですね」
「そう見えるか」
「ちょっとだけ」
「木村くん……」
「はい?」
「君と寛子くんは、どれぐらいの付合いだった?」
「だから……」
「中学時代の同級生」
「はい」
「それだけか。俺の勘は、もう少しなにかあると、言ってるけどな」
店に新しい客が入ってきて、となりのテーブルに座り、しばらく華やいだざわめきが漂った。三人とも女子大生のような雰囲気で、ぼくらの話題とは、どこまでも無関係だった。
「竹田とは一度だけ、デートをしました」と、海老《えび》シューマイを少しかじってから、ビールを口に含んで、ぼくが言った。
「一度だけ、な」
「一度だけです」
「セックスは?」
「そのとき、一度だけ」
「いつごろのことだ」
「去年の春」
「一年半前、か」
「そうですね」
「なぜ、一度だけ?」
「ほかに好きな子がいるから」
「好きな女の子がいて、寛子くんと?」
「そいつ、クラブ活動に夢中で、日曜日でも試合に行ってしまう」
「その子に対する当てつけか」
「よくは、分からないけど」
「だから君は寛子くんに対して責任を感じた。寛子くんが遊びはじめた原因が自分にあると、そう思った」
柚木さんが灰皿でタバコをつぶし、となりのテーブルを悲しそうな目で眺めながら、短くため息をついた。
「君、今まで気の弱い女の子に、会ったことがあるか」
「さあ……」
「考えてみろよ」
「たぶん、ないです」
「俺は三十八年も生きてるけど、やはり気の弱い女に会ったことはない。偶然にしては確率が悪すぎる」
「………」
「気の弱い男なんて、いくらでもいるのにな」
「どういうこと」
「つまりさ、体力も精神力も、君が考えてるより女は丈夫だということ。君が寛子くんに責任を感じる気持ちは分かるけど、向こうは君のことなんか、どうせ忘れていた」
となりのテーブルで、女子大生たちが陽気な声をあげ、目尻でその声を受けとめながら、柚木さんが皮肉っぽく唇を笑わせた。
「耳に真珠のピアスをした子……」と、テーブルに身をのり出し、声をひそめて、柚木さんが言った。「彼女のショルダーバッグ、君の席からも見えるか」
「はい」
「グッチのバンブーとかいうやつだ」
「そうですか」
「日本で買えば十万ちかくする」
「詳しいですね」
「調べたのさ。寛子くんが殺されたとき、同じデザインのバッグを持っていた」
柚木さんが冷静な目でタバコに火をつけ、ぼくのほうは象牙《ぞうげ》の箸を重く使いながら、味も分からずに、茫然《ぼうぜん》と春巻を口に運びつづけた。
「靴もスーツもグッチで決めていて、総額では三十万円以上になるらしい」
「つまり、やっぱり……」
「売春か」
「パンティーを売ってもそこまでは儲《もう》かりません」
「寛子くんはブルセラにも?」
「石井が、言ってました」
「情けないような、羨《うらや》ましいような、困ったもんだ」
「デートクラブでおじさんとデートすれば三万になるそうです」
「いい世の中だな。だれにとっていい世の中かは、知らんけど」
「犯人、デートクラブの相手だと思いますか」
「そんなところか……少なくとも子供の父親は、君でない」
ウェイトレスがビールの追加を運んできて、テーブルの上で食器が移動し、リノリウムの床にパンプスの動く音が、しばらく響きわたった。となりのテーブルは相変わらず賑《にぎ》やかで、話題の中心は冬休みに出かけるハワイ旅行の相談らしかった。目に涙が浮かんできて、シューマイにつけた辛子の量が多すぎたことに、ぼくはやっと気がついた。
「竹田が、妊娠ですか」と、ビールで辛子の匂いを飲み込み、手のひらの汗をズボンにこすって、ぼくが言った。
「四ヵ月だった。だからもちろん、君には関係ない」
「父親は……」
「今、細胞のDNA鑑定をやってる。警察の正式発表はないが、被害者の体内に精液が残されていたらしい。精液と胎児のDNA型が一致すれば、結論は簡単になる」
「犯人は、前から付合いのあった男?」
「四ヵ月以上前から寛子くんと付合っていて、寛子くんを妊娠させ、事件当夜一緒にホテルへ入り、性交のあと絞殺して逃げた中年の男。これだけの痕跡《こんせき》をばらまいていれば、捕まるのは時間の問題だろうな」
「そんな相手、本当に石井友絵が、知らなかったのかな」
「君にも知らないと言ったか」
「はい」
「警察の事情聴取にも喋らないらしい、男なら簡単に口を割るのにな」
「体力と精神力、ですか」
「世の中に一人でも気の弱い女がいれば、世界はもっと平和になる」
「プラスチック・ラブだそうです」
「うん?」
「竹田とその男との関係」
「意味が分からないな」
「ぼくにも分からないけど、竹田が石井に言ったそうです。プラトニック・ラブではなく、プラスチック・ラブだと」
「プラスチック……」
柚木さんが長く息をついてから、手のひらで目の上をこすり、自分の頭の中に耳を澄ますような顔で、浅くテーブルに頬杖をついた。酒に強い体質でもないらしく、頬骨と耳の縁には赤くビールの酔いがあらわれていた。
「意味、分かりますか」
「ん?」
「プラスチックの」
「ん……可塑性《かそせい》のある高分子化合物の総称だな。ポリエチレンとか、塩化ビニールとか」
「そういう意味ではないと思います」
「そういう意味ではない。もちろん、そういう意味ではないさ」
ビールを飲みほしてから、新しいタバコに火をつけ、椅子の背に身を引いて、柚木さんが指で乱暴に前髪を掻きあげた。
「竹田の冗談だったとは、思えませんけど」
「心当たりが?」
「いえ」
「それなら俺にも分からない。女子高校生の生態なんて、もともと俺には縁のない世界だ」
柚木さんがグラスにビールを足し、半分ほど飲んでから、タバコの煙を透かして、軽く目の端を笑わせた。
「木村くん、日曜日でも試合に行ってしまう女の子とは、うまくいってるのか」
「たぶん」
「彼女は君と寛子くんの関係を?」
「知りません、たぶん」
「体力と精神力のほかに、女にはもう一つ特殊な能力がある」
「………」
「君も気をつけることだ」
「はい?」
「男がいくらうまく嘘をついても、女には確実に見破られる」
「確実に、ですか」
「確実に、さ。女にそういう奇妙な勘がなければ、世の中も平和だろうにな」
店に客が増えはじめ、空気にゴマ油の匂いが濃くなり、フロアに揺れる照明にも夜の活気が混じってきた。ウェイトレスがテーブルの食器をかたづけていき、ビールビンが空になって、残ったのは柚木さんの吸うタバコの煙と、冷めたウーロン茶の湯呑だけだった。
「いずれにしても、事件の背景は分かったわけだ」と、タバコを灰皿につき立て、疲れたように欠伸をして、柚木さんが言った。「君としては一日も早く、こんな事件は忘れることだ」
「今度のこと、雑誌に書くんですか」
「書くとしたら犯人の側からだろうな」
「竹田の名前は……」
「雑誌協会という組織があって、こういうケースでは自主規制する……個人的にも、そう願ってるよ」
「犯人、分かったら教えてください」
「どうだかな。君はせいぜい、明るく正しい男女交際に没頭してくれ」
伝票をつまんで、柚木さんが椅子をずらし、髪を掻きあげながら、目尻に太い皺を刻ませた。それがウィンクだと分かったのは、柚木さんが席を立って、ぼくのほうに尖った顎を突き出したあとだった。
「寛子くんのこと、君の彼女にはしら[#「しら」に傍点]を切りとおせよ。気づかれても口を割っちゃいけない。法律でも決まってる、たとえ人を殺しても、証拠がなければ罪にならないってな」
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年寄りが鳩に餌をまいている。
グレーのジャンパーを着て、ベージュ色のズボンを穿《は》き、足には新しいままのスニーカーをはいている。白い鍔広帽子にチェックのマフラー、一週間の時間が幻覚であったように、鬼子母神のベンチには乾いた西日が当たり、年寄りのまくパンくずに鳩の群れがゆれ動く。遊んでいる子供は上着を厚くし、連なる赤鳥居には冬毛の雀が整然と列をつくっている。欅の葉が舞い、公孫樹の枯葉が地面を飛び、都電の方向から呑気《のんき》な警笛音が聞こえてくる。
「だけど木村くん、寛子のことにずいぶん関心があったのね」
「普通だと思うけどな、中学の同級生だし」
「寛子だけが同級生だったわけ?」
「君だって竹田のことで、落ち込んでたくせに」
「わたしは仲がよかったもの」
「中学のときだけだろう」
「仕方ないじゃない、向こうが避けたんだから」
「自分が冷たかったとは思わないのか」
「だって……」
「クラブが忙しいしな」
「それじゃなによ、木村くんは部活をやってないから、石井さんにまで会いに行ったの?」
黄色いゴムボールが転がってきて、ぼくはそれを小学生に投げ返し、一呼吸おいてから、怒っている美波の鼻の頭を、指でぱちんとはじいてやった。もう膝にバンドエイドはなく、カブト虫みたいな形のかさぶたが偉そうに貼りついていた。
「今日もクラブ、サボってきたのか」
「ごまかさないでよ」
「なにを」
「石井さんに会ったこと」
「隠したか」
「言わなかったじゃない」
「この前の日曜日、君は試合で千葉に行っていた。火曜日の九時にも電話したけど、まだ練習から帰っていなかった……それだけのことさ」
「伝言をすればよかった」
「石井に会ったけど、君の意見を聞きたいってか」
「そうよ」
「街で可愛い女の子とすれ違った。三年ぶりに従姉《いとこ》に会ったら見ちがえるほど奇麗になっていた。そのことに関して君の意見を聞きたい……これからはみんな、伝言を頼むさ」
「ふーん」
「なんだよ」
「陰険なやつ」
「ぼくはソフトボールのことを訊いただけ」
「そんなの、期末試験の、準備休みよ」
「素直にそう言えばいい」
「まったく……どっちが素直じゃないか、今夜うちへ帰って反省しなさいよ」
ローファーのかかとで地面を蹴り、目にごみでも入ったように顔をゆがめて、美波が大きく背伸びをした。一週間たっても相変わらず髪は短く、右耳のうしろにはまた、新しい傷が見えていた。
「石井に会ったこと、よく分かったな」
「和実が言ったの」
「和実って」
「横川さんと仲のいい子」
「横川さんって」
「石井さんのグループの子」
「女子高校って、暇なんだな」
「木村くん……」
「うん?」
「寛子が妊娠してた話、まじ[#「まじ」に傍点]?」
「情報源があるんだ。捕まった犯人は造花をつくる会社の社長らしい」
美彼がカバンを膝からおろして、尻の位置を動かし、尖った膝をこつんとぼくの太ももに打ちつけた。
「情報源って、だれよ」
「言えない」
「どうして」
「男の約束」
「へーえ、男?」
「ぼくが君に嘘を言ったことなんて、あるかよ」
「そんなの……」
「本当に、プラスチック・ラブだったわけさ」
「………」
「竹田は石井に、彼氏との関係をプラスチック・ラブだと言った。その情報をぼくがある人に提供して、それで、その人が犯人をつきとめた。知り合ったのはデートクラブらしいけど、付合ってるうちに、竹田が本気になった」
「寛子の気持ち、分からないな」
「犯人にも殺すつもりはなかった。子供のことでもめてるうち、喧嘩になって、首を絞めてしまった」
「なんか、淋しいな」
「君には分からないさ」
「あら、木村くんには分かるの」
「分かる気もするし、分からない気もする……プラスチック・ラブって、どういう意味だったのかな。ただ造花の材料を言っただけとは思えないけど」
自転車を押したおじさんがくわえタバコでのんびりと境内を横切り、同じ方向に小犬を連れた子供が一人ごとを言いながら行き過ぎた。鳩の群れはたいして騒ぎもせず、さざ波のように羽ばたくだけで、またパンくずをまく年寄りのそばに集まっていく。
「中学のときは仲がよくて、高校も同じだったのに……」と、自分の腕で自分の肩を抱きながら、靴の爪先を打ち合わせて、美波が言った。「寛子のこと、わたし、まるで分からなかった」
「竹田は君より大人だった、それだけさ」
「冷たいやつ」
「事実だから仕方ない」
「なにかが悔しい。仕方ないとは思うけど、やっぱり割り切れない」
「慣れるしかないさ」
「なんに」
「事実をそのまま受け入れること」
「オヤジみたい」
「分かってるやつがいるんだ、ぼくらと同年《おないどし》でも、もう人生が分かってるやつ。自分の人生になにが待っていて、なにが待っていないか、そういうことが分かってるやつ」
「それって、わたしがバカだという意味?」
「おまえ、今日、ひねくれてないか」
「あんたが悪いのよ。隠れて石井さんに会ったり、探偵みたいなことをしたり」
「君がいやなら話は終わりだ、うちへ帰って期末試験の勉強でもするさ」
「却下」
「言いがかりをつけてるのは、君だ」
「あんたねえ、なん年わたしの彼氏をやってるの」
「まだ、二年」
「二年でも分かるでしょう」
「なにが」
「だからね、わたし今、あれなのよ」
「どれ」
「毎月女の子に来るあれ[#「あれ」に傍点]。そんなこと、計算すれば分かるじゃない」
「ああ、あれか」
「へんに苛々したり、妙に勘が鋭くなったり、自分でも大変なんだから」
「勘が妙に、な。それは……大変だ」
美波が拳《こぶし》でぼくの胸を突き、なにか唸りながら、ぼくの腋《わき》の下に骨ばった肩をもぐり込ませた。美波の短い髪がぼくの顎をくすぐり、長い指が力強くぼくの手首を握りしめる。紺色のブレザーが日向《ひなた》の匂いをふくらませ、美波の体温と美波の体臭が、ぼくに罪の意識を強制する。
「木村くん、わたしに隠してることなんか、ないよね」
「もちろん、ないさ」
「嘘も言ってない?」
「言ってない」
「わたし、ソフトボール、やめようかな」
「やめたらバレンタインデーにチョコレートがもらえなくなる」
「わたしが日曜日にも遊べないこと、木村くん、面白くないでしょう」
「最近は慣れてきた」
「なんとなく不安なのよね」
「ぼくはソフトボールをやってる君に、二年もかけて慣れた。やめた君に慣れ直すのも面倒だ」
「大人なんだね、意外に」
「君はソフトボールをつづける。君よりうまい選手がいるとか、ソフトボールに意味があるとか、ないとか、そんなことは関係ない。好きなことに打ち込んでる君は、だれから見ても美しい」
美波の肩が動いて、少しスカートがめくれ、日に焼けていない太ももの内側に、冬の日が白く差し込んでくる。咲きはじめた椿の枝に風が渡り、こげ茶の猫が欠伸をしながらベンチの横にうずくまる。
「一つ、訊いていいか」
「なによ」
「君のパンティー、いくら」
「え?」
「パンティーの値段さ」
「そんなこと……」
美渡が飛びあがるようにベンチを軋らせ、肩をそびやかしながら、じっとぼくの顔を睨《にら》みつけた。
「あんたねえ……」
「なに」
「変態」
「言えないのか」
「本気なの」
「本気さ、聞きたいんだ」
「どうしても?」
「どうしても」
「大事なこと?」
「ぼくにとっては大事なこと」
「あの、ええと……」
日に焼けた美波の顔に、それでも明瞭《めいりょう》な赤みが這《は》いあがり、うすい胸が破裂するかと思うほど、深く息が吸い込まれた。
「九百八十円よ」
「ふーん」
「三枚でね」
「三枚で九百八十円、か」
「気が済んだ?」
「気が済んだ、ありがとう」
美波の鼻が曲がって、下唇が突き出され、それから長い腕がのびてきて、たこ[#「たこ」に傍点]の浮いた指が乱暴にぼくの髪を掻きまわした。
「いいわ。なんだか知らないけど、今日は許してあげる」
ふと美波が駆け出し、惜しげもなくスカートの裾《すそ》をひるがえして、きれいなフォームで社殿の前に走っていった。鳩の群れが津波のように舞いあがり、低く鳴きながら無方向に空の色を攪拌《かくはん》する。向かいの年寄りも腰をあげ、パンくずの袋をぶら下げたまま表情もなく参道を歩き出す。年寄りの奇妙に白いスニーカーと、曲がった背中と疲れきった足取りが、ぼくに息苦しく人生の不安を覚えさせる。
ぼくは美波のカバンを引き寄せ、ベンチを離れて、賽銭箱《さいせんばこ》の前で手を合わせつづける美波のほうへ、ゆっくりと歩き出した。ぼくと美波の間には公孫樹の枯れ葉が高く舞い、鳩と雀が滑空し、明治通りの喧噪と都電の警笛音が寒い空間を風景画のように色づける。美波の白いソックスが目の中にあふれ、日に焼けた長い臑《すね》とうつむいた項《うなじ》が、ぼくの不安を穏やかに慰める。
美波がふり返り、鈴につづく紐《ひも》に腕をからめながら、白い歯を見せて、大きくVサインをした。押しよせる罪の意識に耳鳴りを感じながら、頭の中で、ぼくは力いっぱい美波の肩を抱きしめた。
[#改丁]
クリスマスの前の日には
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十二月に入ったばかりなのに、街にはもうポインセチアがあふれている。鮮やかな赤い色は花でも葉でもなく、苞《ほう》なのだという。シクラメンやクリスマス用のコニファーなら分かるけれど、花屋には鉢植えのパンジーまで出回っている。パンジーとかガーベラとか、以前は春の花だった。花なんかいつ咲いても構わないと思いながら、勝手に季節を変えられると、なんとなく騙《だま》された気分になる。
遊歩道の両側にはヤブツバキ、ニセアカシア、カエデやヤナギが雑然と植わり、甲州街道にそった住宅地に不思議な静寂を提供する。遊歩道は笹塚から幡ヶ谷、初台を通って山手通りに突き当たり、そこでぷつんと消えてしまう。昔は桜上水の水を都心に流す用水路だったというが、ぼくが生まれたころは今と同じ遊歩道になっていた。西新宿の学校から幡ヶ谷の家まで、天気さえ良ければぼくはこの道を歩いて家へ帰る。年寄りがつくる小さい花壇や、野良猫や鳩やカラスや乳母車の子供たちが、季節に応じて単純にぼくの目を楽しませる。『高校生のくせに趣味が散歩とは、あんたの人生も先が見えている』というのが、ぼくの将来に対する、お袋の客観的な感想だった。
「ねえ、木村くん、あの陰に咲いている白い花、なあに」
「山茶花《さざんか》」
「椿みたいだけどね」
「椿の一種さ」
「寒椿?」
「ちょっと違う。寒椿は寒椿、ワビスケはワビスケ、山茶花は山茶花、ツバキ科の花ではあるけれど、みんな少しずつ違う」
「見た感じは同じなのにね」
「山茶花は花弁が一重《ひとえ》、椿や寒椿はもっと花弁が多い」
「だけど見た感じは、やっぱり同じに見えるわよ」
自転車を押している理菜子《りなこ》の背に、ひらりと公孫樹の葉がふりかかる。ベージュ色のブレザーに公孫樹の枯葉が、頑固な染みのように纏《まと》いつく。
枯葉にのばしかけた手を、ぼくはズボンのポケットに戻し、理菜子の長い茶髪にひっそりと息を吹きかける。制服のスカートは太ももの位置でゆれ、汚れのないローファーが歩道に固い音をひびかせる。ソックスをルーズにしていないのは、たんに学校が近いせい、カバンにはどうせ変身用のルーズソックスが入っている。
今日の理菜子が自転車に乗ってきた理由は、天気のせいか、通常の気まぐれか。二年の一学期まで、理菜子は笹塚の家から自転車で通学していた。夏休みが終わり、新体操部をやめ、髪を染めてついでに通学も電車に変更した。それから三ヵ月、明確に喧嘩《けんか》をしたわけではないけれど、ぼくと理菜子はデートをしなくなっていた。
「木村くん、三組の吉沢亜紀って、知ってる?」と、髪をふり払い、夕日の長い影に首をすくめて、理菜子が言った。
「どうだかな」
「モデルをやってテレビなんかに出て、かなり目立つ子」
「正門に彼氏が迎えに来てるやつか」
「黄色いポルシェで……あの彼氏って、医学部の大学生だって」
「ポルシェ、最近見かけないな」
「捕《つか》まったらしいわ」
「だれが」
「亜紀の彼氏」
「ふーん」
「Sだって」
「うん?」
「スピード、覚醒剤《かくせいざい》のこと」
「大変だな」
「亜紀も最近学校に来ないと思わない?」
「さあ……」
「噂だけど、亜紀もやばいらしいよ」
「一緒に?」
「そういう噂」
「退学……か」
「でも亜紀なら高校なんか出なくても、楽に生きてけるよね」
「高校なんか出なくても、だれだって、みんな楽に生きていけるさ」
風が渡ってきて、葉の落ちた欅にオナガが鳴きさわぎ、砂場で尻もちをついた子供が空気を裂くように絶叫する。歩道ぞいに細長く見える空に雲はなく、その圧倒的な青さが子供の泣き声を金属的に助長する。
「木村くん、今付合ってる子、いるの」
「いない」
「あんたって性格が面倒だものね」
「そうかな」
「気難しいし、人のことを認めないわ」
「相手によるさ」
「クラスの子も言ってるわ、木村くんは付合いにくいって。わたしから見ても協調性が足りない気がする」
「自分では普通だと思うけど」
「自分だけ良ければいいわけよね。相手のこととか、友達のこととか、まるで考えない性格よね」
なぜ理菜子が今自転車を押しているのか、なぜ今日ぼくを追ってきたのか、まだぼくには分からない。相変わらず理菜子の茶髪には馴染《なじ》めず、細い眉も滑稽《こっけい》で、ただ長い足とハンドルを握った華奢な指だけが、少しぼくの散歩を困らせる。
「そういえば君、日焼けがさめたな」と、カバンを脇に抱えなおし、なびいた理菜子の髪に目を細めて、ぼくが言った。
「十二月だもの」
「富田や森内はまだ日焼けしている」
「あの子たちはサロンで焼いてるの、うちの制服って日焼けが似合うから」
「そんなもんか」
「ねえ、アルパカって、知ってる?」
「セーターだろう」
「セーターの元になる動物、羊みたいなもんね」
「それが?」
「妹がアルパカをほしいって言うの」
「アルパカのセーターを」
「生きてるやつ、動物そのもの。テレビで見たのか雑誌で見たのか……でもどうしてもアルパカがほしいって、アルパカを飼わないと学校に行かないという」
理菜子の妹の名前は、なんといったか。智美か、智代か、智子か、そんな名前だった気がする。なん度かは会っていて、生意気な目つきをした、気の強い女の子だ。理菜子より四つ歳下《としした》だから、まだ中学一年のはずだった。
理菜子が足を止め、眉をゆがめながら、唇を噛《か》んで短く息をついた。目の表情に夏休み前の素直さが浮かび、ぼくの胸に困惑と懐かしい切なさがよみがえる。中学のころから理菜子にあこがれていて、最初に交際を申し込んだのは、ぼくのほうだった。
「君のうち、猫を飼ってたよな」と、自転車から離れ、日射しの溜《た》まっているベンチへ歩いて、ぼくが言った。「動物の一匹ぐらい、増やせばいいだろう」
自転車にスタンドを立て、カバンを荷物かごに入れたまま、落ち葉を蹴るように理菜子がベンチへ向かってきた。
「あのねえ、猫や犬と、訳がちがうの」
「どうして」
「アルパカって、本当に知らない?」
「知らない」
「わたしは図鑑で調べた。顔はラクダみたいで、躰も小さい馬ぐらいあった」
「大変だな」
「馬みたいな大きい動物、どうやってうちで飼うの。それにアルパカってアンデスとかに住んでる動物で、ペット屋には売ってない。でもアルパカを飼わないと妹は学校へ行かないという……お袋なんてね、もう完璧にヒステリーよ」
ベンチの端に離れて座り、太ももにスカートの裾《すそ》を巻きつけながら、理菜子がぷくっと頬《ほお》をふくらませた。頭のすぐ近くを雀が飛んで、密度を低くした日射しが横から理菜子の前髪を透かしてくる。夏休み前はショートボブだった髪も、今は肩の上でゆるく内巻のカーブを見せていた。
アルパカという動物について、ぼくの頭にも曖昧《あいまい》な輪郭が形成され、笑っていいのか困っていいのか、少し複雑な気分だった。理菜子の家は一階がお袋さんのブティック、二階と三階が住居で、裏側に幅二メートルほどの庭があるだけ。そんなところで馬を飼えと言われたら、ぼくのお袋だってヒステリーを起こすだろう。
「君のうちも、けっこう面倒なんだな」
「親父《おやじ》が家を出たこと、木村くん、知ってた?」
「いつのこと」
「二ヵ月前」
「そう……か」
「今年中には離婚するって」
「親父さんたち、仲、悪かったっけ」
「いいはずだったのにね。でも親父、三年前から不倫をやってたらしい」
「すごいな」
「親父が自分で言い出したの。もう一度人生をやり直すって、どうしてもその女と暮らすって、家も家庭もなにも要らないって」
「普通に暮らしてたはずなのに、親父たちって、ある日突然、なんか、ぷっつり切れるんだよな」
目の前を自転車の小学生が走って、小さく枯葉が舞い、スーパーの袋を持ったおばさんが力強くスニーカーを運んでいく。おばさんはダウンの完全武装、それほどの寒さではないはずなのに、真冬のパンジーと同様、やたら奇妙な違和感をまき散らす。ぼくの親父が家を出ていったのも、そういえば五年前の、クリスマスの前だった。
「親父の気持ちだってね、わたし、分からなくはないけど……」と、足を組み、組んだ膝《ひざ》の上に頬杖をついて、理菜子が言った。「親父たちって、どうせ、人生がつまらないんだよ」
「………」
「話をしてやるだけで喜ぶ。一緒にコーヒーとか飲んでやると、それで五千円もくれる」
「君の親父さんが?」
「そのへんの知らないオヤジ」
「そのへんの知らないオヤジと、コーヒーを飲むのか」
「ほんのたまによ。渋谷あたりで声をかけられて、暇なときに付合うだけ。それで一時間ぐらいだべって、オヤジたちも仕事のこととか愚痴言って、あとは嬉《うれ》しそうに帰っていく。そういう人たち見てるとね、わたし、可哀そうになるわ」
ぼくは水平に腕をあげて、熟れきったカエデの葉をむしり、黒いほどに色づいた葉脈を確認してから、ふっと舗道に飛ばしてみた。遊歩道には蝶もトンボもバッタも見えず、耳障りな蚊柱も見当たらない。冬になって一つだけいいことは、顔に蚊と蠅《はえ》が飛んで来ないことだった。
「君の妹、智代だっけ」
「智美《ともみ》」
「つまり、いろんなことで、むくれてるわけだ」
「そうみたいね。妹の気持ちも分かるし親父の気持ちも分かる。お袋がヒステリーを起こすのだって、仕方ないよね」
「ぼくの気持ちも分かればいいのに」
「木村くんの気持ちなんか、分かってるわよ」
「そうだったのか」
「あんたは自分勝手で人の意見を聞かない性格なの。自分だけが正しいんだから、そうやって一人で、偉そうに生きてけばいいのよ」
「君もヒステリーかな」
「わたしは冷静、木村くん、そのいや味な性格、いつになったら治《なお》るわけ」
理菜子の黒いローファーが、ぶらりとゆれ、上唇がめくれて、左の八重歯がゆるく日射しをはね返す。怒ったのか、呆れたのか、笑ったのか、一瞬判断はつかなかった。
ぼくはベンチの距離を、半分ほどつめ、理菜子の背中についたままの公孫樹の葉を、ぱちんと指ではじき飛ばした。理菜子は背中を丸めただけで、意見は言わず、ローファーの先を単調にふりつづけた。長くなった爪には銀色のマニキュアが塗られ、耳たぶにはピアスの穴がニキビのようにのぞいていた。
「久しぶりに、冷静に、君はぼくの性格を非難しに来たわけか」
理菜子が首筋の髪を掻きあげ、形のいい鼻を上向きにそらして、長いまつ毛を頼りなくふるわせた。コギャルに変身した理菜子も、新体操の汗にまみれていた理菜子も、同じ理菜子という名前の中に納まっている現実が、やはりぼくには不可解だった。
「木村くん、今日、暇?」
「遊んでくれる友達はいないさ」
「皮肉を言わないで。ちょっとね、時間があったらうちに寄ってくれないかな」
「殊にアルパカは諦《あきら》めるようにって?」
「そう」
「なぜぼくが」
「友達じゃない」
「だれと」
「皮肉を言いたければあとで聞いてあげる。だけどうち、今パニクってるのよ。時間がたてば落ち着くだろうけど、それまで妹に、がつんと言ってやってくれない?」
「苦手だな」
「木村くんの言うことなら聞くと思う」
「どうして」
「あいつ、生意気に、あんたに惚《ほ》れてるのよ」
「中学生だろう」
「関係ないわ」
「やっぱり、ちょっと、苦手だな」
「それならどうするのよ、わたしにアンデスまでアルパカを買いに行けと言うの。そんなもの買ってきたとして、どこで飼うのよ。親父はいなくなってもアルパカが飼えるほど家は広くないわ。あんたって性格は面倒だけど、こういうことだけは頼りになるでしょう」
「こういうことだけ……な」
「お母さんは動物学者だし、それに、ねえ、離婚にだって慣《な》れてるじゃない。木村くんも母子家庭のプロで、妹とは変わり者同士、ぴったり気が合うと思うのよね」
妹の智美というのは、痩《や》せっぽちで目が大きくて生意気で、それに突然アルパカが欲しいと言い出すぐらいだから、少しは変わり者なのだろう。だけどぼくは自分を、オーソドックスな性格だと信じている。趣味の散歩だって校則の範囲内だ。茶髪にしてルーズソックスをはいてオヤジから五千円も巻きあげる理菜子から、『変わり者』と呼ばれる覚えは、断じてない。そうは思ったが、言葉が氾濫《はんらん》したのは頭の中だけ。結局ぼくは理菜子の自転車を押し、遊歩道ぞいに笹塚まで歩いていった。理菜子に未練があるのか、一度は好きになった女の子に対する礼儀なのか、理由はあるとも、ないとも言えなかった。
遊歩道から笹塚駅へ向かい、途中の道を住宅街に入っていくと、すぐに笹塚の商店街へつき当たる。化粧ブロックの舗道には活気も人通りもなく、駅へ向かう人と帰る人が仕方なく通るだけの、ひどく殺風景な商店街だった。理菜子の家はその中間あたり、お袋さんはアクセサリーや小物をそろえたブティックを経営し、親父さんは広告会社で営業の仕事をしていたはずだった。
店はのぞかず、ぼくたちは裏手の外階段にまわり、直接二階のリビングへ上がっていった。三階が理菜子と智美の個室、二階には両親の寝室もあったが、親父さんが家を出たというなら、そこはもうお袋さんの部屋だった。
なん度か来ていて、驚く必要はなくても、そのリビングに、やはりぼくは驚いた。ダイニングには冷蔵庫や食器棚や精一杯のゴミ袋、リビングにもテレビからテーブルから精一杯の観葉植物、理菜子の家族は相変わらず整理に無縁な体質で、おまけにドアを開けたとたん、奥の暗処《くらみ》から煤《すす》けたペルシャ猫が湧き出し、ぼくに一発、ふんと鼻を鳴らしてくれた。猫は智美と同年《おないどし》というから、人間にすれば百歳を越えている。
ぼくと猫をリビングに残し、三階に上がっていって、それから理菜子が戻ってくるまで、たっぷり十分が過ぎていた。制服もソックスもそのまま、怒った目もそのまま、しかし唇の形は困惑し、頬は素直にふて腐れていた。
「あいつ、親父に似て頑固なのよね。いくら言ってもおりてこないの」
「家系だろうな」
「どういう意味よ」
「全員がノーマルならトラブルは起きない」
「木村くん、喧嘩を売りに来たの」
「連れてきたのは君だろう」
「だけど……」
「彼女がいやだと言うなら、無理に会っても仕方ないさ」
「女心は難しいの、だから男に責任があるわけよ。紅茶をいれておくから、とにかく木村くん、一度様子を見てきてよ」
理菜子が眉を広げて、小さくくしゃみをし、キッチンに肩を向けながら、指をぐいと天井に突きあげた。態度も表情も尊大で、口調も断定的、こんな状況に嵌《は》まって、ぼくとしても逃れる術《すべ》はなさそうだった。理菜子を待っている十分間、自分の迂闊《うかつ》さはたっぷり後悔していたが、理菜子に対して不可解な義理も感じていた。
理菜子の視線がぼくの背中を押し、ぼくの足が階段をのぼり、気がついたとき、ぼくはもう三階の廊下に立っていた。つき当たりのドアが理菜子の部屋、手前が智美の部屋、理菜子の部屋には慣れていても、智美の部屋はのぞいたこともないし、中学生の部屋になんか、興味も感じなかった。
ノックをしたが、返事はなく、それでも権利があるような気がして、ぼくはそっとドアを引き開けた。中は六畳ほどの洋室、西向きの窓にはマンガ模様のカーテンが掛かり、ベッドカバーは地味なベージュ色。智美は付属品がシステム化された勉強机に座って、顔もあげずになにかの作業に取り組んでいた。セーターから突き出た首は笑えるほどの子供で、おかっぱ頭も相変わらず、それがもうすぐ茶髪になるのかと思うと、少しぼくは不安だった。
「ふーん、学校の宿題か」と、机の横まで歩き、動きつづける智美の手元をのぞいて、ぼくが言った。
返事をせず、顔もあげず、背中を丸めたまま、智美はかたくなに作業を続行する。手にはホチキスが握られていて、顔の前には厚紙があり、その紙にかちかちと針が打ち込まれていく。紙を綴《と》じているわけではなく、一枚の厚紙に、ただひたすら針を並べていく。しばらく見ていても、模様どころか、紙には連続した意図すら浮かんでこなかった。
「姉さんが下で紅茶をいれるそうだ」
「………」
「そんなことしてると、目が悪くなるぞ」
「………」
「どうした、久しぶりなのに、挨拶《あいさつ》もしないのか」
智美の手が止まって、大きな目がふり向き、怒りを含んだ視線が、じっとぼくの顔を射抜いてきた。以前は宿題を教えたこともあり、智美のほうがぼくに纏いついて、ぼくと理菜子の男女交際を邪魔したこともある。そのころは両親が別れることなど、考えてもいなかったろう。
「向こうへ行ってよ」
「どうして」
「木村くんのことなんか、わたし、嫌いなの」
「嫌われたら仕方ないな」
「みんな嫌い。パパも木村も、男ってみんな嘘つき」
ぼくはうしろ向きに一歩さがり、丸い黒目がふるえる智美の顔を、ぼんやりと見返した。『男はみんな嘘つき』というのは、週刊誌でよく見かけるせりふだが、中学一年の女の子が悟るには、少しばかり早すぎる。
「君、最近、アルパカが好きなんだって?」
「アルパカなんか嫌いだよ」
「君も嘘つきか」
「嘘つきは理菜子だよ。パパはすぐ帰ると言ったのに、ずっと帰らない。パパとママは離婚するの、パパは一生家になんか帰らない」
「猫だって家出して、帰らないときがあるだろう」
「パパは道に迷ったわけじゃないもの」
「猫だって道には迷わない、犬も迷わないし鳩も迷わない。動物が家に帰らないときは、みんな理由があるんだ」
「パパは動物じゃないよ」
「動物なのに動物じゃないから、困るんだよな」
「みんな嘘つきだよ。パパも理菜子も木村も、みんな嘘つきで、みんな大嫌い」
智美が椅子を立って、くるっと背中をまわし、下手なターンをくり返しながら、棒切れのようにベッドへ倒れ込んだ。理菜子に似て足だけは長く、しかし太ももにはまだ、赤面するほどの肉はついていなかった。
ぼくは入れ替わりに、勉強机へ場所を移し、散らばったホチキスや少女マンガの単行本を、簡単に眺め渡した。机にはプラスチックの鉛筆入れも置かれていて、友達と写したプリントシールと、羊のような動物のマンガシールが貼られていた。
「これがアルパカか、そういえばテレビで見たことがあるな」
「ふわふわしてね、毛糸の玉みたいで、ものすごく可愛いよ」
「毛糸玉にしては大きすぎる」
「乗っても遊べるもの」
「アルパカに乗って学校へ行くのか」
「理菜子は分かってないんだよ。コータローにご飯もやらないし、パパがいなくてもまるで平気なの」
「要するに、姉さんが遊んでくれれば、それでいいわけか」
「理菜子なんかと遊びたくない。理菜子はママの味方で、ずっとパパのことが嫌いだったの」
智美の言うことは、一見支離滅裂、しかし中学生の心に単純な混乱を設定すれば、矛盾は簡単に整理される。親父が家から消えたとき、ぼくは家出をして東北新幹線に乗ってしまったし、お袋は大学の助手と三ヵ月も飲み歩いた。すべては時間が解決し、たとえ解決されない問題が残ったとしても、蓋《ふた》の開かない箱を抱えたまま、みんなそうやって、苦笑しながら時間をやり過ごす。
「アルパカって、馬ぐらい大きいんだってな」と、椅子を逆向きにまわし、智美の暗い目を眺めながら、浅く腰をおろして、ぼくが言った。
「そんなに大きくない、理菜子は大げさなんだよ」
「君が乗って歩けば笹塚の名物になる。商店街が賑《にぎ》わって、お母さんも喜ぶかな」
「わたしのこと、馬鹿にしてる?」
「ぼくは君の味方さ」
「うそ、木村は嘘つきだよ。夏休みのときだって、わたしのこと騙したじゃない」
「夏休みの、なんだっけ」
「海へ連れて行くと言った。親戚《しんせき》が海で旅館をやってるから、友達と一緒に連れて行くと言った。木村はわたしを騙した」
座っていた椅子が軋《きし》んで、マンガプリントのカーテンがゆれ、後悔と気まずさが、ふとぼくの背中を這《は》いあがる。忘れていたが、智美に約束したことは事実。理菜子との関係から仕方なかったにしても、結果的にぼくは智美を裏切ってしまった。子供を相手に言い訳や弁解をするのは、やはり恥ずかしい。
「悪かった。君だけでも連れて行けばよかったな」
「夏は来年も来るよ」
「それは、そうだ」
「でも理菜子と喧嘩してる間は、わたしとも遊べないでしょう」
「それも、そうだ」
「理菜子が悪いんだよね。お姉ちゃんて我儘《わがまま》で、性格も悪いし」
「見かけほどではないさ」
「ぜったい理菜子が悪い。わたし、知ってるよ。新体操部をやめること、一人で勝手に決めて、だから木村が怒ったんだよね」
背中にわだかまっていた後悔と気まずさが、冷汗に変わり、ぼくは腕組みと欠伸で、思わず動揺をごまかした。ぼくと理菜子の関係は、それほど単純な問題ではなく、しかし本当は単純な問題かも知れないという疑問が、居心地悪く汗になる。
「今日はどうしたの、仲直りしちゃったわけ」
「近くを通っただけさ」
「理菜子が近くを通らせたの?」
「君、もう少し礼儀正しく、喋《しゃべ》れないのか」
「木村ってフィーリングが固いよ。いいやつだとは思うけど、ずっと付合ってると、息が詰まるかも知れないね」
智美が中学生で、生意気な性格で両親のトラブルに悩んでいて、そして理菜子の妹で、そんなことはすべて承知していても、声を聞いて顔を見ると、つい腹が立つ。親父が家を出ていくとき、ぼくの耳元で『女と喧嘩をしても勝ち目はないぞ』と囁《ささや》いていったのは、あれはたぶん、究極の真理だった。
「ええと、まあ、思ったより元気で、よかった」
「だれが元気なの」
「君が元気だ」
「わたしは死にそうだよ。パパはもう帰らない、ママは落ち込んでて理菜子は不良で、それでわたしが元気だったら、馬鹿みたいじゃない」
「アルパカがいなくても学校には通えるんだな」
「それがなによ」
「なにということは、ないけどな」
椅子を立って、ぼくはそっとドアへ歩き、腕枕で口を尖らせている智美に、軽く手をふった。
「我慢するしかないときは、我慢するしか、方法がないもんな」
「わたしのことより自分のことを心配しなよ」
「ありがとう」
「理菜子は悪いけどさ、木村くんも大人気《おとなげ》ないと思うよ」
「まだ高校二年さ」
「いい加減オヤジじゃない」
「考え方の問題だ」
「理菜子だってね、普通にケーキやポテトチップス食べて、少しは爪を長くして、たまには親を騙して外泊したいんだよ」
「今はやってるさ」
「今のことじゃない、お姉ちゃんが新体操をやめたときのこと」
「ぼくは、なにも、聞いていない」
「木村は部活で頑張る理菜子が好きなんでしょう。だけど理菜子って、新体操には足が長すぎるの。食べるとすぐ太って、皮膚が弱いからいつも傷だらけ。才能のある子は他にいくらでもいる、だからあのときが限界だったの。木村って、理菜子の言うこと、まるで聞かなかったでしょう」
ドアを開け、肩を半分外に出し、血管で騒ぐ血を鎮めながら、居心地悪く、ぼくはベッドをふり返った。
「紅茶、本当に、飲まないのか」
「理菜子の顔なんか見たくない」
「面倒な姉妹《きょうだい》だ」
「嘘ばっかり。面倒なのはパパとか木村とか、男のほうじゃない」
ドアを閉めると、そこはもう灰色の空間で、窓に日射しはなく、となりのビルとの隙間《すきま》にかろうじて暗い空がのぞくだけだった。下の階からはテレビの音が聞こえ、すべてが雑然とした空間から、猫の臭気《におい》に混じってミントティーの香りが軽快に流れてくる。廊下には段ボール箱や花鉢が置かれ、階段に敷かれた滑り止めカーペットが寒そうにささくれる。
階段をおりながら、ぼくは理菜子の親父さんを思い出そうとしたが、顔も髪型も、なにも浮かばなかった。自分の父親の顔すら輪郭は曖昧で、ぼくはささくれ立ったカーペットの皺《しわ》を、スリッパの裏で、ぺたりと踏みつぶした。
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『アルパカ(ALPACA)、ラクダ科、原産地ペルー』
その無愛想な標識を、杉林からの木漏れ日が金色に染め分ける。欅の枯葉がコンクリートをさらさらと流れ、激しい獣臭に子供の喚声が屈託なくこだまする。パンダ舎の方向にカラスが濃く群れ飛び、まるで雲のない空を飛行船が銀色に渡っていく。
アルパカの柵内にはリャマという動物もいて、その説明標識にも『ラクダ科、原産地ペルー』と書いてある。標識は柵の外、動物が名札をぶら下げているわけもなく、どちらがリャマでどちらがアルパカか、彼らも自己紹介はしてくれない。一頭は汚れたベージュ色、もう一頭は汚れた汚れ色、ベージュ色のほうが頭一つぷんほど大型で、智美に向かってしきりに口をもごもごやっている。なるほど顔はラクダ、姿はヤギのよう。大きさは馬ほどではなく、せいぜいポニーか、さっき見てきたカモシカ程度だった。
智美は背中にロゴの入ったスタジアムジャンパーを着て、ジーパンの足を交差させ、もう二十分も手すりにもたれている。足が長くて尻が小さく、躰は依然として男子との境界線上をさまよっている。ぼくが中学で会った理菜子も似たような体型で、その理菜子がリボンを操り、マット上を跳躍する肢体は、ぼくに希望に似た感動を与えてくれた。ぼくが犯した間違いは、感勤を自分の中に求めず、他人の理菜子に期待したことだった。
「羊みたいなヤギみたいな、アルパカって、よく見ると変な動物ね」
「パンダも昔は変な動物に見えたさ」
「コータローは家に来たときから可愛かったわ」
「猫は人間に慣れてる……人間のほうが、猫に慣れてるのかな」
「動物園に来たの、わたし、なん年ぶりだろう」
「君は忙しかったものな」
「やっと冬休みだものね」
「そういう意味では、なく……」
「なあに」
「夏休みまでは新体操の部活、それ以降は渋谷でオヤジ狩り」
「木村くん、その性格を治さないと、二度と会ってやらないからね」
「思い出した」
「なにを」
「最後に家を出ていくとき、親父、ツィードのコートを着て、アルパカのマフラーを巻いていた」
杉林からの木漏れ日は、理菜子のベンチウォーマーへもまだら模様にふりそそぐ。理菜子の首は毛糸のマフラーでガードされ、髪もコーデュロイのキャップで深く被《おお》われている。ぼくに見えるのは鼻と口だけで、ベンチのまん中にはテイク・アウトのハンバーガーが置かれ、その袋にもちらちらと木漏れ日が届いてくる。たまに風が吹き、子供がわめいてカラスが鳴き、それでも上野の森には静かに冬の枯葉色が充満する。
もう三日前から冬休みで、理菜子の両親も正式に離婚したという。アルパカはいなくても智美は学校に通いつづけ、ぼくと理菜子は学期末試験をクリアし、週に一度ほど、北風に文句を言いながら理菜子は自転車通学を再開した。冬は本物になって、もうすぐ正月が来て、来年になればいやでも、ぼくらは進学の準備に取りかかる。
「まったくね、智美の頑固なところ、だれに似たのかしら」と、ワークパンツのポケットに両手を入れたまま、マフラーから口の先だけを出して、理菜子が言った。「見て、靴の先がぶらぶら揺れてるでしょう」
「うん」
「本当はもう飽きてるの。意地を張ってアルパカを見てるだけ。わたしたちが呼ばなければずっとああしてるわ」
「妹という生き物も面倒だよな」
「木村くんの家はどれぐらいで落ち着いた?」
「さあ……」
「親父のことなんか気にもしてなかったのに、実際にいなくなると妙な気分だわ」
「死んだわけではないさ」
「結婚したり子供を作ったり家を建てたり、それでも離婚したら終わり。夫婦なんて薄情よね」
「仕方ないものは仕方ない」
「お袋なんてね、親父の使ったタオルもシーツも、食器もゴルフのクラブも、みんな捨てちゃった」
「親父さんが作った子供を捨てないだけ我慢強いさ」
「そういう考え方もできるね」
「なあ、妹、呼ばなくてもいいのか」
「放っておきなさいよ。わたしは一生付合うわけだし、一々ご機嫌は取れないの」
膝に飛んできた落ち葉を払い、理菜子に肩をすくめてから、日射しに向かって、ぼくはゆっくりと腰をあげた。園の僻地《へきち》にあるアルパカコーナーは納得するほど人気《にんき》がなく、たまに迷い込む親子連れも足は止めなかった。ふりしきる枯葉が平和にリズムをきざみ、理菜子の目深にかぶったキャップが、強引に理菜子の表情を遮断する。
「コーヒーを買ってくる、君は……」
「お砂糖とミルク、たっぷりね」
「砂糖とミルクをたっぷり……な」
落ち葉を蹴って、ぼくは売店に歩きだし、ついでに柵の方向へ、ちょっと寄り道をした。智美の靴先は地面に円を描きつづけ、柵に掛けた肘《ひじ》にもゆるやかな倦怠《けんたい》がにじんでいる。本心からアルパカに見惚《みと》れているのか、それともただの意地なのか、ぼくはわざと、コンタクトを中止した。
売店でホットコーヒーを三本買ってから、ぼくはしばらくゴリラ舎の賑《にぎ》わいを羨《うらや》み、苦笑と一緒に、元のベンチへ戻ってきた。一本は砂糖たっぷりのカフェオレ、一本はミルクだけのノンシュガー、もう一本はモカのブラックだった。
智美は相変わらず柵にもたれていて、理菜子はベンチの隅、欅の落ち葉も木漏れ日も変わらず、分園に渡るモノレールがかすかな金属音をひびかせる。風はあっても呪《のろ》うほどではなく、子供の喚声も動物たちの咆哮《ほうこう》も、飽きるほど平和に単調だった。
ぼくがベンチにコーヒーの缶を並べ、理菜子が尻の位置をずらして、なぜか顔を隠したまま、袋からパック入りのハンバーガーを取り出した。上野の駅で待ち合わせたときから、なんとなく違和感があって、その理由を、ついにぼくは発見した。
「そうか、マニキュア、してないのか」
「今ごろ気がついたの」
「終業式の日はしてたろう」
「わたしだって気分は変わるわ」
「今度気分を変えるときは連絡をくれ」
「鈍感なやつねえ。そんなこと勝手に気づいて、勝手に褒《ほ》めなさいよ」
「爪も短くしたのか」
「一々コメントしないで」
「大変だな。勝手に気づいてコメントはせず、態度だけで感動を表現する……」
「そういう気配りがないから、木村くん、女の子にもてないのよ」
「努力の範囲を越えたテーマだ」
「いいからハンバーガーを食べなさい。わたし、お腹《なか》がすいちゃった」
理菜子がキャップを脱いで、髪をふり払い、並べた缶の中から、黙ってブラックのコーヒーを取りあげた。理菜子の注文はカフェオレだったはずで、途中まで出かけた抗議を、ぼくは感動と一緒に、深く気配りの中にしまい込んだ。帽子の下からあらわれた髪は、茶髪でも肩までのセミロングでもなく、夏休み前と同じ黒いショートボブだった。
「ええと、理菜子……」
「なによ」
「妹、呼ぶか」
「放っとけばいいわ。意地だけでは生きられないこと、あいつにも教える必要があるの」
立ったまま、ぼくはミルクコーヒーのプルトップを抜き、理菜子から渡されたハンバーガーに、茫然とかぶりついた。木漏れ日は明るく、暖かく、風は心地よく透明で、流れてくる獣臭も微笑《ほほえ》ましいほど清潔だった。
「どうしたのよ」
「うん?」
「そんなふうに、人の顔をじろじろ見ないでよ」
「うん……」
「ハンバーガーが食べられないわ」
「そっち、なに?」
「チーズバーガー」
「こっちはテリヤキだ」
「チーズのほうがいいわけ?」
「そういう意味ではない」
「それならなによ」
「今日はクリスマスイブだった」
「だから、なに」
「だから、なんだろうな」
「男のくせに、言いたいことがあるなら、はっきり言えばいいじゃない」
理菜子の視線は舞いつづける欅の枯葉に固定され、マフラーから突き出した口だけが、ハンバーガーを含んで淡々と活躍する。自重しているはずの感動が、理菜子のかたくなな細い指に、ついぼくの意思力を裏切ってしまう。
コメントはせず、態度だけで感動と尊敬を表現し、そして言いたいことをはっきり言う。そんな難しい注文にどこまで対応できるのか、自信はなかったが、それでも透明な日射しが単純にぼくを勇気づける。
ぼくはハンバーガーの袋とコーヒーの缶を横にどけ、理菜子のとなりに腰をおろして、目の前を流れていく日射しと困惑に、軽く息を吹きつけた。
柵の前から智美がふり向き、ぼくは短くなった理菜子の前髪を透かしながら、ハンバーガーを持った手を、頭の上で大きくふり返した。
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〈初出一覧〉
雪のふる前の日には[#地付き]「週刊小説」91年1月18日号
春はいつも[#地付き]「週刊小説」95年5月12日号
川トンボ[#地付き]「週刊小説」96年5月10日号
ヴォーカル(「ボーカルが消えた」改題)[#地付き]「小説現代」89年3月号
夏色流し[#地付き]「週刊小説」96年8月30日号
団子坂[#地付き]「海燕」93年10月号
プラスチック・ラブ[#地付き]「週刊小説」95年12月8日号
クリスマスの前の日には[#地付き]「週刊小説」96年12月6日号
[#地付き](すべて収録時に大幅加筆・訂正されています)
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底本
単行本 実業之日本社刊
一九九七年二月二五日 第一刷