ピース
樋口有介
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ピース
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1
古いアップライトのピアノに向かって、成子《せいこ》が古いジャズをひいている。店も古い写真館を改装したもので天井が高く、セピア色の照明に成子の白い背中が艶《なま》めかしい。ピアノのななめ左上には煤《すす》けたような色調の宗教画、ピアノの後ろにはこれも古い木製の丸テーブルとアンティークなジュークボックス。ジュークボックスはいまだに現役で、ビートルズ以前のラインアップから一晩に一曲か二曲、酔った客がシナトラやプレスリーを選択する。店の奥には鍵型のカウンターがあって今は二人の客とアルバイトの珠枝《たまえ》がそれぞれ、ビールや焼酎のロックを飲んでいる。
梢路《しょうじ》はカウンターの内で虹鱒《にじます》のマリネを調理し、二つの小鉢にとり分けて、珠技の前に置く。その小鉢を珠枝が左右の客にすすめ、カウンターに肘をかけてロックのグラスを口に運ぶ。
「マスターさあ、ショウちゃんが来てから科理が上品になったよね。マスターのお得意はジジ焼きとか野菜妙めとか、レトロだったもの」
「わざわざ俺のジジ焼きをご指名で、東京から来る客もいるんだぜ」
「年に一度、夜祭りの日だけ、じゃないの」
「認識不足もいいところだけど、まあ、小長《こなが》さんの推理が正解だ」
マスターの八田《はった》芳蔵《よしぞう》が半白の顎鬚《あごひげ》をさすり、パイプの煙を吹いて自分のグラスを口に運ぶ。髭はもみあげの下から顎の先端まで一センチほどの長さで生えそろい、その上に厚い唇と鼻梁《びりょう》張った丸い鼻。ぎょろりとした大きい目は深い皺にとり囲まれ、髪は額から頭頂の半分あたりまで禿《は》げている。六十は過ぎたが声や表情には若さが残り、固太りの大柄な体躯に黒いテョッキがよく似合う。
珠枝が丸い目で二人の客を見比べ、ぽっちゃりした顎の先を上向けて、カウンターの内へ首をのばす。
「マスター、ジジ焼きってなんですか」
「ジジ焼きはジジ焼きだ、知らないのか」
「知りませーん。焼き芋みたいなもの?」
「どっちかって言やお好み焼きに近いな。うどん粉に飯と味噌を混ぜて、具はまあ肉とか野菜とか、適当だ」
「まずそーっ」
「言ってくれるな。子供のころはジジ焼きで今は本物のジジイで、どうせ珠ちゃんには、食ってもらえないさ」
カウンターに低い笑い声が起こったが、笑ったのは珠枝ではなく両どなりの客、一人は写真家の小長|勝巳《かつみ》でもう一人が山鹿《やまが》清二《せいじ》というセメント会社の技術者だが、二人とも歳は五十を過ぎて山鹿のほうは髪もマスターより薄くなっている。
マスターの台詞《せりふ》を理解したのかしないのか、珠枝も肩をすくめて笑いだし、その珠技のグラスに山鹿が自分のボトルから焼酎をつぐ。
小長が梢路のつくったマリネに箸をつけ、青島《チンタオ》ビールを口に運びながら、しゃくれた顎を右にかたむける。
「だけどマスター、本当のところジジ焼きってのは、どういう意味なのさ」
「どういう意味なのかね。焼くときジジッて音がするとか、爺《じじい》が焼いて孫に食わせたからとか、そんなところだろう」
「ダダチャ豆みたいだな」
「ダダチャ豆……そうか、小長さん、生まれは山形だっけ」
「鶴岡のずっと田舎《いなか》だよ、ダダチャってのは庄内《しょうない》地方の方言で、爺さんとか親父さんとかいう意味でね。その爺さんがつくる枝豆だからダダチャ豆さ」
小さい目をきょろきょろと動かして口を尖《とが》らせ、青島ビールをすするように飲んで、小長がしゃくれた顎を笑わせる。小柄だが肩や腕には筋肉の盛り上がりがあり、首の後ろで束ねられた半白の長髪が、馬の尻尾を思わせる。
「俺が山形でマスターが群馬で……」
「生まれてすぐ大宮へ越したけどな」
「山鹿さんは?」
「佐賀」
「へーえ、佐賀」
「大学で東京に来たんですよ」
「そうだよね。まだ集団就職が残ってた時代で、『ああ上野駅』なんて歌もはやったっけ。珠ちゃんも秩父《ちちぶ》じゃないだろう」
「福島です」
「福島、か。成子さんは東京の西荻窪《にしおぎくぼ》で、考えたら不思議だよね。秩父みたいな田舎のスナックでマスターも客も従業員も、地元の人間は一人もいない。これが東京なら、当たり前なんだろうけどさ」
マスターが顎鬚をゆがめて口元を笑わせ、パイプのタバコに火をつけながら、成子のほうへ目を細める。ピアノをひいている成子の衣裳は背中の開いた赤い袖なしのワンピースで、黒いピアノを背景に赤いワンピースとその白い肩が、単調に交錯する。成子も東京から秩父へ流れついて半年、昼間は主婦や子供にピアノを教えて夜はこのスナックでアルバイトをする。客の誰かが歌う気になればカラオケがわりの伴奏もするし、普段はテーブルやカウンターで客の相手もする。四方を山に囲まれた田舎町でも写真家や画家は住んでいて、山鹿のような技術者も学者も住んでいる。六年前には横瀬町に四年制の総合大学が新設され、秩父のように地方から、わざわざ秩父へやってくる学生もいる。
時間はちょうど夜の十一時、店のドアが開いて、黒っぽい服装をした女がミュールの踵《かかと》を鳴らしてくる。女はフロアを途中まで歩いて足をとめ、カウンターを睥睨《へいげい》するように見回してから、突然疲労を思い出したように、テーブル席の椅子に腰をおろす。黒い足首までのスパッツに腰が隠れるほどのロングTシャツ、その上に薄物の半袖カーディガンを羽織って、頭は自棄《やけ》を起こして掻きむしったのか、それとも寝起きの髪を、そのままスプレーで固めてしまったのか。小さい卵形の顔は唇だけが赤く、顔色は病人のように青白い。
梢路はカウンターにおしぼりを用意し、珠技がスツールをおりて、そのおしぼりを女のテーブルへ運ぶ。
狭い店だから、女が「日本酒の冷」と呟《つぶや》いた声はカウンターまで聞こえ、マスターの合図で梢路は日本酒の支度をする。女の口調や仕種には拗《す》ねた子供のような幼さがあって、バランスの崩れた、どこか奇妙な、倦怠《けんたい》のようなものが感じられる。
梢路はカウンターの内でガラス鉢を用意し、それに冷水と氷とレモンの薄切りを入れて、そのなかにカクテル用のコリントグラスを立てる。酒は新発田《しばた》の五六八《ごろはち》、つきだしは春に掘った筍《たけのこ》を灰汁《あく》抜きをせずに塩漬けにしたもので、それを干切りにしてからほんの少し、生醤油《きじょうゆ》をたらす。
珠枝が日本酒のセットを女のテーブルへ運んでいき、ピアノの前からは成子がカウンターに戻ってくる。成子の背中や腕には柔らかそうな肉がついて体毛も薄く、凹凸の少ない日本人形のような顔が無自覚な媚をただよわす。セピア色の照明がその小柄な顔を若く見せるが、歳は三十を過ぎている。成子が自分のグラスに氷をたすと、横から山鹿が、すぐにボトルの焼酎をつぐ。
「ねえ成子さん、さっきの話だけど……」
山鹿が頭まで赤くなった脂《あぶら》顔に照明を反射させ、背広の襟をくつろがせて、右肘をカウンターに被せる。
「とにかくこの十年以内には、間違いなく大地震が来る。東京へ戻るにしても地震の後にするべきですよ」
「東京がダメなら秩父だってダメでしょう」
「そこが素人の浅薄《あさはか》さ、この地方の岩盤は石灰岩で頑丈だから、ちょっとぐらいの地震じゃびくともしないんだ。それに比べると東京なんて、地質学的に見れば泥の海と同じでね。もう一度関東大震災クラスの地震が来れば、全滅です」
「全滅は大げさよ」
「大げさなもんか。政府も学者も口には出さないけど、まず建物の九十パーセントは助からない」
「九十パーセント?」
「マグニチュード七・五の地震で、八〇年以前のビルと一般民家は全壊、高層ビルだって設計上は耐えられるけど、それは設計上の空論でしてね。実際にはコンクリートがもちません。セメント屋の私が言うんだから、間違いないです」
「地震に強いセメントは造れないの」
「セメントだけいくら強度があっても、実際の建造物には役に立たない。鉄筋の太さも数もみんな誤魔化してあるし、それにセメントなんてのも所詮は、石灰を焼いて粉にしただけのものでしょう。特殊な混和剤を入れて耐震性や耐水性を増したりはできるけど、建築に使う生コンクリートは、町の生コン屋が造るわけだから」
「トラックにでんでん虫の殻みたいなのを積んで走ってる、あのクルマね」
「あれはミキサー車といって、工場から現場まで生コンを運ぶだけのクルマです。あれでずっとかき回していないと、コンクリートが固まってしまう」
「ふーん、そうなの」
「どっちにしてもコンクリートの材料はセメントと水と砂利で、これはどこの生コン屋が造っても変わらない。どうせ同じ生コンなら、買うほうは一円でも安く買おうとする」
「そうね」
「で、結局は、生コン屋同士でダンピング競争を始めるんです。単価を落とせば生コンの質も落ちる。材料の川砂を安い海砂に代えると、塩分とセメントのアルカリ分が反応してコンクリートがもろくなるし、もともとインチキな鉄骨だって余計に腐ってしまう。いくら設計を完璧にしても、現場の施工がデタラメなんだから建造物は結局、欠陥だらけになる理屈です」
成子が相槌をうちながら焼酎のグラスをなめ、山鹿のグラスに焼酎をたして、マスターのほうへ、ちらっと流し目を送る。セメントにも地震にも山鹿本人にも興味はないだろうが、それでも成子には客が飽きるまで相手の話に相槌をうち続けるだけの、技術がある。
「生コンの単価を安くする方法は、他にもいくつかあって……」
カウンターの内で山鹿の解説を聞き流しながら、梢路はマスターの肩越しにテーブル席の女を眺める。珠枝もまだテーブルに残っていて、手振りを交えながら舌足らずな会話をつづけている。女の声は低くて聞こえないが、ほとんど口は動かず、目の表情とつっ張った髪の動きが面倒くさそうに、ときたま珠枝の声に反応する。
女が髪をかきあげながら腰をあげ、コリントグラスを顎の下に構えたまま、ふらりとピアノの前に歩く。その興味はピアノではなく壁の絵にあるらしく、グラスの酒を咽《のど》に流しながら煤けたような絵に、じっと目を細める。
女が独りごとのように何か呟き、それからすぐにジュークボックスの前へ場所を移して、唇で曲のラインナップを読みはじめる。壁に掛かっている絵はラザロの復活を描いた宗教画だといわれているが、一目でキリストと分かる髭男とその弟子や村人、そして洞窟の入り口には死から復活した若い男がぼろ布をまとって茫然とした顔をのぞかせる。この八号ほどの絵はマスターがイタリアへ旅行をしたときに買ってきたラファエロの傑作で、ガラクタ市での値段は三千八百円だったという。
女がジュークボックスに、百円玉を放り込み、ゆっくりと、操作のボタンを押す。ジュークボックスもゆっくりと仕事の準備を開始し、やがて店内に、バット・ブーンの『砂に書いたラブレター』が流れはじめる。マスターがぎょろりとした目を満足そうに輝かせ、テーブルからは珠枝が、空になったコリントグラスを運んでくる。
「ショウちゃん、おかわりね」
マスターがぷかりと煙を吹いて顎鬚をこすり、カウンターに顔を寄せて、テーブルのほうへ眉をひそめる。
「珠ちゃん、彼女はもう、だいぶ酔ってるだろう」
「そうみたいですね。でもあの子、お酒呑みで有名だから」
「知ってる子なのか」
「同じ大学の子。学部が違うから口をきくのは初めてだけど、授業にもお酒を飲んで出るとか、もう完全にアル中だとか」
「そいつは頼もしい。そんな有名人に来てもらえて、店としても光栄だ。よかったらカウンターで飲むように言ってやれよ」
「はーい。それからショウちゃん、樺山《かばやま》さんが茸《きのこ》のグラタンだって。誰かほかの子から聞いて、ショウちゃんのグラタンを食べに来たみたい」
珠枝が満たされたグラスを持ってテーブルへ戻っていき、梢路は冷蔵庫からグラタンのベースをとり出して、オーダーの調理にとりかかる。仕込んであるベースは卵黄を生クリームと牛乳でペーストしたもので、香辛料は塩と胡椒《こしょう》だけ。シメジやヒラタケは秩父地方の特産だからふんだんに使い、そこに味の深みを増すための玉ねぎと小エビをアレンジする。グラタン皿に盛りつけた上には粉チーズをふってオーブンに入れ、加熱時間は十分。これら料理のレシピはラザロに入店してから独習したものだが、最近はマスターも焼きうどんや野菜妙め以外、料埋には手を出さない。
『砂に書いたラブレター』は二分十五秒で終了し、それでも樺山という女子大生はカウンターに合流せず、つま先にひっかけた赤いミュールをゆすりながら、そっぽを向いて酒を飲みつづける。アル中と評判の女子大生では相手が悪いのか、珠枝も手持ち無沙汰な顔でカウンターに戻ってくる。
「珠ちゃん、田舎大学の学生にしては、彼女、美人だねえ」
となりに腰をおろした珠枝に顔を近づけ、小さい目を鼠《ねずみ》のように動かして、小長がささやく。
「そうですかね。昼間見れば普通の子ですよ」
「普通の子が酒を飲んで授業には出ないだろう」
「学生にもストレスはあります。鬱病で自殺した子もいるし、ゼミの教授をナイフで刺した子もいます」
「楽しそうな大学だ」
「人はそれぞれです。私はまじめに授業へ出て、アルバイトをしてちゃんと卒業して、それから東京の法律事務所に就職して、弁護士と結婚します」
「そりゃまた遠大な計画だ。珠ちゃんが弁護士の嫁さんに納まるまで、俺も警察に捕まらないよう、せいぜい気をつけるよ」
小長が腰のバッグからデジタルの一眼レフカメラをとり出し、スイッチを操作して、レンズをうしろの女に向ける。フラッシュがたかれても女は表情を変えず。小長を無視して淡々と酒を飲みつづける。小長は十回ほど連続でシャッターを切り、女にひらひらと手をふって、カメラをバッグにしまう。一見貧相で剽軽《ひょうきん》だが写真家としての経歴は長く、カメラを手に十年以上も世界を放浪したという。普段の小長は大型の四輪駆動車で秩父の山中を走り回り、鳥や昆虫や植物、山で暮らす老人やその生活の断片を写真におさめ、それを週刊誌や学術雑誌に売って生計を立てている。若い頃はテレビ局のカメラマンをしていたとかで、そのときのコネで今でも写真の注文がくるらしい。
女がまた席を立ってジュークボックスへ歩き、ぼさぼさの髪を指で梳《す》きながら、今夜の二曲目を選択する。ジュークボックスがプラターズの『煙が目にしみる』を流しはじめたとき、ドアが開いて香村《こうむら》麻美《あさみ》が入ってくる。ベージュ色のチノパンツに半袖のサファリジャケット、肩に大きいズックのバッグを担いで野球帽をかぶり、首には赤いタオルを巻いている。職業は秩父新報という地元紙の記者で四十一歳、普段はスーツにローヒールのパンプスといういで立ちだが、今日は県境の山に崖崩れの取材にでも出掛けたのか。
肩からバッグを外して床に置き、山鹿のとなりに腰をかけて、麻美がカウンターに頬杖をつく。梢路はすぐにおしぼりとグラスをさし出し、冷蔵庫から缶のバドワイザーをとり出して、筍のつきだしを添える。
「マスター、ジャイアンツは今日、どうした?」
「二対〇で上原の完封」
「そう、つまらなそうな試合だけど、勝っただけよかったわ」
「中日との差も三・五ゲームだから、優勝の目が出てきたよ」
「あとは桑田の頑張り次第、か。でも彼もロートルだから、どうかしらね」
「マスターも麻美さんも……」
珠枝の向うから小長がしゃくれた顎をつき出し、わざとらしくむくれた表情をつくって馬の尻尾をゆらす。
「いい加減にジャイアンツ贔屓《びいき》はやめてくれないかなあ。それに桑田をロートルって言うけど、麻美さんより若いんだぜ」
「女は見かけが勝負なの。特に私は顔とスタイルと、子持ちには見えない若さが自慢なのよ」
「そりゃ今日の格好は若いけどさ。後ろから見たら珠ちゃんの妹みたいだ」
「あら、今夜は後姿なんか、見せてないでしょう」
「プロのカメラマンを見くびっちゃ困りますよ。表を見ただけで裏を見抜くのが、俺の商売なんだから」
「それじゃ売れない写真家なんかやめて、占い師にでもなったら?」
「こりゃまた、おキツイお言葉。で、今日はどうしたの、どこかでコンニャク玉でも掘ってきたんですか」
「小長さんも素人ねえ、何年秩父に住んでるのよ」
「一年半」
「あら、十年も住んでるような顔してるのに。でもとにかくコンニャク玉を掘るのは、十一月になってからなの。この時期に掘るのはバカなオカマぐらいだわ」
麻美が野球帽を脱いで短い髪をふり払い、目尻の小皺を冷淡に笑わせながら、ビールを口に運ぶ。自分で言うほどでもないがたしかに実年齢よりは若く見え、広い額に一重のくっきりした目と鼻梁の薄い尖った鼻、それに高頬骨と口角の切れ込んだ唇に意志の強さが感じられる。出身は秩父市で東京の大学へ通い、卒業後は出版社に努めて結婚もした。その麻美が離婚をして秩父に帰ってきたのが七年前、秩父新報に入社してラザロの常連にもなり、仕事の後はほとんど、毎日のようにこの店で酒を飲む。
「それで香村さん、要するに今日は、どこへ行ってきたんですか」
やっとセメント講釈をきりあげ、それでも肩を成子のほうへ傾けたまま、山鹿が横へカウンターに肘をかける。
「荒川から大滝から山梨の県境まで、朝からずっと周ってたの」
「栗拾いか何か」
「密猟の取材よ」
「密猟?」
「ほら、最近旅館や科理屋で、カモシカの肉を食べさせるって噂が、あるでしょう」
「知らないなあ、だいいちカモシカって、天然記念物じゃないですか」
「だから珍しがって、有難がって食べるバカがいるのよ。本来は禁猟だし、獲るのも売るのも犯罪、それが地下ではひそかに出回っている。どうやら警察も見てみぬ振りをしてる感じがあって、案外この問題、奥が深いのかも知れないわ」
「たかがカモシカ、されどカモシカか……」
小長が口を尖らせてビールをすすり、大げさに天井をふり仰いで、歌舞伎役者のような見栄を切る。
「料現屋に生コン屋に警察に、悪党ども、覚悟しておれ、いつかはこの秩父にも必ず、水戸黄門が回って来るぞよ」
麻美が鼻を鳴らしてビールを飲み干し、頬杖をつき直して、梢路のほうへ眉をあげる。梢路は空になったビールの缶とグラスをカウンターの下にさげ、代わりに麻美がキープしてある芋焼酎のボトルと、氷と新しいグラスを並べる。ジュークボックスの音楽もニール・セダカの『恋の片道切符』に変わっていて、オーブンもグラタンの焼きあがりを知らせてくる。
「グラタンのいい匂いがするわね。夕飯を中途半端な時間に食べてしまって、私もお腹がすいたわ」
「麻美さん、焼きうどんでもつくろうかね」
「マスターの焼きうどんは味が濃すぎるわよ。具もただのぶつ切りで、あれじゃ民宿の山賊料理だわ」
「言ってくれるじゃないか。ショウが来る前はジジ焼きでも水団《すいとん》でも、喜んで食ってたくせに」
「地獄に生まれて地獄で育った人間は、自分の住んでる場所が地獄だとは気づかないものなの」
「おいおい、俺の料理は地獄の給食かね」
「いいじゃないの。顔だってどうせ、地獄の赤鬼みたいなんだし」
「口の悪い女だよなあ。『その声で毛虫食うかやホトトギス』だ」
「私の欠点はこの口だけだもの。別れた旦那がノイローゼになった理由も、今から考えれば、分かる気がするわ」
茸グラタンのセットが完了し、珠枝が皿をテーブルへ運んでいって、また女と何か話しはじめる。ジュークボックスも仕事を終わらせて黙然と身を慎み、店内に音のない空間が四、五秒、唐突に訪れる。
麻美がグラスの氷をころんと鳴らし、頬杖の手を甲の側にかえながら、ほっとため息をつく。
「ショウちゃん、私にも何かつくってくれる? グラタンよりもう少し、ボリュームがあるもの」
梢路はうなずいて頭のなかの在庫を点検し、麻美の好みも考慮して、ジャガ芋の明太子|和《あ》えを選択する。レシピは簡単でまず三個のジャガ芋を用意し、皮をむいて一口大の角切りをつくる。それを電子レンジで空茄でにし、その間に明太子の皮をほぐしておく。茄であがったジャガ芋にはバターを落として満遍なくまぶし、それをほぐした明太子と和える。調味料はいっさい使わず、明太子の旨味とバターの風味だけでジャガ芋の食感を際立たせる。
「さあて、どうも俺は暇みたいだから、久しぶりにピアノでもひいてみるかな」
マスターがパイプをくわえたままカウンターのあげ板をくぐり、チョッキの襟を整えながら、太鼓腹をぽんと叩く。店にピアノが置いてあるのは元々がマスターの道楽で、マスターは四十を過ぎてから独学でピアノの技術を習得し、昔の童謡や小学校唱歌、それにシャンソンや簡単なジャズのスタンダードを、まずまず笑われない程度にひきこなす。成子に言わせると「ピアノを習い始めて二、三年の小学生と同じぐらい」の腕らしいが、ラザロで出される酒の肴としてはその程度のピアノがちょうど、心地よい。
マスターがテーブルの女に会釈《えしゃく》を送り、カウンターの客にも手をふって、ピアノの椅子に腰をのせる。何秒かの間がおかれ、それから古いピアノがぽつりぽつりと、『フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン』のメロディーを流しはじめる。カウンターでは小長と成子が揃ってタバコに火をつけ、テーブルの女は爪先で赤いミュールを揺すりつづけて、麻美は空になったグラスに、自分で氷と焼酎を落とす。
梢路はカウンターの内で黙々と料理をつくりつづけ、平和な田舎町の平和な夜に、ひっそりと欠伸《あくび》をかみ殺す。
*
一人二人と客が帰り、十二時には珠枝がアルバイトを終了させて、一時半にはマスターと成子も家へ帰る。それから三十分、新しい客はなく、店には梢路一人が残っている。人声がなくなると空調の機械音が地鳴りのように甦生し、古い木の床には冷蔵庫の振動までよみがえる。狭かったはずの空間も奇妙にだだっ広く感じられて、セピア色の間接照明に壁の宗教画が印象を強くする。
梢路は、樺山|咲《さき》がキープしていった五六八の一升瓶を棚に片付け、今夜の売上伝票を整理して、洗い物をケースに始末する。それからカウンターを出てフロアを見回し、床のゴミやテーブルの汚れも点検する。ラザロの営業時間は午後六時から夜中の一時まで、しかしそれは建前で、客の都合によっては三時を過ぎることもある。
時間はすでに午前の二時、梢路は外の電気看板を内にとり入れ、腰でジュークボックスの角に寄りかかる。一日の仕事が終わったことと一日の人生を無為に消費したことの安堵感が、ふと梢路の唇を笑わせる。
梢路は背伸びをして肩で息をつき、顔を手のひらでこすりながらジュークボックスをふり返る。大型洗濯機ほどのジュークボックスには上面全体に曲のラインナップが並び、その左右にAからZ、一から十までの数字が配列されている。アルファベットと数字の組み合わせが選曲の仕組みになっているが、二十一歳の梢路はラザロに来るまでこんな機械は見たこともなく、ジュークボックスの存在すら知らなかった。収まっている曲も古いジャズやポップスばかり、マスターのレトロさ加減には呆れても、しかしそれらの曲はみな梢路の気分を和ませる。
ドアが開いて麻美が野球帽の庇《ひさし》をさし入れ、店のなかに目を配ってから、肩のバッグと一緒にフロアへ入ってくる。
「二時を過ぎてしまったわ、人目を忍ぶ不純異性交遊も、楽じゃないわね」
「ごめん」
「謝らなくていいの。人目を忍んでいるのはショウちゃんじゃなくて、私のほうなんだから」
麻美が丸テーブルをまわって足をとめ、帽子の庇をつき上げながら、片頬をゆがめる。
「外が妙に蒸し暑い。雨でも降るのかしら」
「あと二日は天気らしいよ」
「そう。それじゃバッグが重いのと、汗のせいね。私、先にシャワーを浴びさせてもらうわ」
口のなかでため息をつき、肩のバッグを担ぎなおして、麻美がカウンターの横から奥の通路へ消える。通路の先にはトイレと洗面台とそれに写真館時代は物置だったらしい、十畳ほどの板の間がある。今は通路との境に衝立《ついたて》が置かれ、板の間側が梢路の居室に使われている。
梢路はドアに歩いて錠を閉め、ピアノの蓋を閉めてジュークボックスのスイッチも切り、もう一度カウンターの内に戻る。すでに売り上げの計算は済んでいて、酒や食材の在庫も点検済み。最近は仕入れも支払いも梢路に任されているから、金の管理にも責任がある。
シンクの洗い物、布巾類の片付け、ガスの元栓、それらをすべて始末してから、小さいトレーにコリントグラスを二つ並べ、グラスのなかに氷と焼酎とライムと、それに少量のガムシロップを落とす。トレーには麻美用の灰皿を添え、もう一度カウンターの内外を点検して、カウンターを出る。通路をのぞくと梢路の部屋に明かりが見え、シャワーの水音が雨だれのように聞こえてくる。
梢路は左手にトレーをのせ、店の照明を消して、暗い通路から薄暗い自室に入る。衝立を抜けた右手側の壁際、その角のスペースにプラスチック製の手作りシャワーがあり、ビニールカーテンの向こうに麻美の裸身が透けて見える。梢路の部屋はベッドもテーブルもビールケースを応用した手作りで、部屋代、光熱費、食費は無科。その上マスターの八田は毎月、五万円の給料を払ってくれる。
トレーをテーブルに置いたときシャワーがとまり、ビニールカーテンが割れて、麻美がバケットの縁をまたいでくる。それから麻美は床のバスタオルをゆるく胸に巻きつけ、濡れた髪を両手でしごきながら、横据わりに足を投げ出す。店で酔いつぶれた麻美を部屋に泊めたのが今年の五月、それから麻美は月に二、三度、朝までの時間を梢路の部屋で過ごしていく。
「自分で思ってるより私、今日は酔ってるみたい、シャワーを浴びながら眠りそうになったわ」
「眠ればいいさ。オレもシャワーを浴びたら、すぐ寝る」
「あら、私、眠るために来たんじゃないのに」
「どっちでもいいさ。麻美さんが起きていればオレも起きてる。麻美さんが酒を飲めばオレも飲む」
麻美が口を開きかけて言葉を呑み、薄い鼻梁に笑い皺を刻んで、トレーのグラスに腕をのばす。その二の腕にはシャワーの滴と四十一年の時間がもつれ合い、肘にはどこでつけたのか、新しい擦り傷が見える。
「だけどショウちゃん、考えたら……」
グラスの焼酎に口をつけ、濡れた髪を後ろになでつけながら、麻美が梢路のほうに目を細める。
「今はまだいいけど、このシャワー、冬になったら寒いでしょう」
「湯は湯さ」
「台所用の湯沸かし器をシャワーに使うのは、消防法にだって違反してるのよ」
「麻美さんも違法シャワーを浴びてる」
「イヤな性格ね。私はショウちゃんのことを心配してるの。去年の冬はどうやって過ごしたの」
「今と同じ」
「このシャワーで?」
「うん」
「嘘みたい」
「死ななければいいさ。去年死ななかった証拠に、今も生きてる」
麻美が大げさに鼻を曲げて息をつき、グラスをテーブルに置いて、床のバッグからタバコとライターをとり出す、麻美に言われなくてもシャワーが違法であることは分かっていて、湯量も熱量も、冬は限界を超えてしまう。
麻美の吹かしたタバコの煙が梢路の鼻先をかすめ、梢路は座を立ってシャワーに歩く、そこでパンツと半袖シャツとトランクスを脱ぎすて、バケットの縁をまたいで湯沸かし器の栓を押す。量の少ない湯が梢路の肩を濡らし、梢路はバケットの底にかがみ込んで、しばらく湯を頭に受ける。梢路がマスターに招かれて秩父へ来たのが昨年の十月、十二月の初めにはすでに雪が降り、そのときはバケットに湯を溜めて足腰を暖めた。慣れてしまえばこんなシャワーでも快適で、他人からの束縛を受けずに起居の自由を満喫できる解放感は、麻美に話しても分からない。
石鹸で髪と躰を洗い、またしばらく湯をかぶって、シャワーを出る。麻美が自分の使ったバスタオルを梢路に手渡し、筋肉質なふくら脛《はぎ》を見せながらベッドの端に腰をのせる。すでに梢路のTシャツをかぶって頭にフェイスタオルを巻き、用意してきた化粧品で顔の始末も済ませている。麻美はシャンプーやリンスもバッグに持っていて、梢路の部屋に泊まるときはそのバッグからドライヤーまでとり出してみせる。
梢路は腰にバスタオルを巻いて床に足を投げ出し、コリントグラスに手をのばして、焼酎のロックに口をつける。酒を飲むようになったのはラザロに来てからだが、自分の躰がどれほどの酒量を受け入れるのか、まだ試したことはない。
「ねえショウちゃん、あなたの人生観に文句はないけど……」
頭のタオルを外して髪をふり払い、ドライヤーのコードをコンセントにさし込みながら、麻美が唇の端に力を入れる。
「生活というか、青春というか、そういうものをもう少し楽しんだら? この部屋だってテレビもないしラジカセもない。服だっていつも同じものを着て、外で食事をすることもないでしょう。二十一歳の男の子なら女の子とも遊びたいはずだし、お洒落《しゃれ》だってしたいはず。もともと根暗なオタク性格とも思えないし、いったいあなた、なにが面白くて生きてるの」
「本当は根暗なオタク性格なんだ。ラザロに勤めたお陰で麻美さんにも会えたし、これで結構、青春を楽しんでる」
「そうかしらね。それならそれで構わないけど、少なくてもアパートぐらい借りたら? 秩父なら三、四万でお風呂つきの部屋が借りられるわよ」
「麻美さん、分からないの」
「なにが」
「オレ、この部屋が気に入ってるんだ」
「まじめな話?」
「うん、西日が当たって洗濯物がよく乾いて、裏が墓場だからクルマも通らない。それに壁は昔の土壁だから、冬も意外に暖かい」
「変わり者ねえ。マスターも変わり者だけど、ショウちゃんのほうがずっと変わってるわ。もっともショウちゃんの奇妙に普通じゃないところが、私の好奇心を刺激するわけだけど」
会話の途中で麻美がドライヤーを使いはじめ、短くカットした髪に上下ななめ左右と、手際よく温風を当てていく。髪がふくらんだせいか小作りな顔がいっそう小さく見え、日灼けした首筋と鼻梁の薄い横顔に一瞬、幼さがのぞく。
梢路は髪と躰の滴《しずく》をぬぐってバスタオルを洗濯寵に放り、段ボール箱でつくった衣類ケースから下着とTシャツをとり出して、くるっと身につける。この二十一年間、男性用化粧品などに縁はなく、髪も長くなった部分を鋏で切るだけ。麻美の台詞ではないが衣類も洗いがえの下着やシャツが必要なだけで、日常の生活にほとんど金はかからない。唯一の贅沢《ぜいたく》は秩父へ来てからクルマの免許をとったことだが、それだって学科も実地もすべて一度でクリアしたから、金額的には高が知れている。
麻美がドライヤーを終わらせてコードを始末し、ベッドの上から梢路の髪に指を入れて、濡れた髪を後ろに梳きあげる。麻美の太ももが梢路の肩に触れ、その皮膚感と髪を梳く指の動きが梢路の心を温める。
「ショウちゃんの髪、癖がなくて柔らかくて、きれいね」
「ふーん、そう」
「うちの息子なんか十歳なのに、もう髪がゴワゴワよ。あ、そういえば……」
麻美がベッドをおりて梢路の膝に肘をかけ、グラスに手をのばしながら、横からにんまりと流し目を送る。
「髪の毛で思い出したわけでもないけど、三日ぐらい前、長瀞《ながとろ》でマスターと成子さんを見かけたわ、それで声をかけようと思ったけど、やめたの」
「ふーん、そう」
「声をかけなかった理由、聞かないの」
「二人がホテルに入るところだった」
「あら、知ってたの」
「知らない、でも麻美さんの言い方で分かる」
「いい勘してるわ。もっとも二人が入ろうとしてたのはホテルではなくて、普通のレストラン。ただそのときの雰囲気がね」
「できてる感じ?」
「私の勘、当たるの」
「麻美さんの勘が当たったとしても、問題はないさ」
「問題はあるでしょう。成子さんがラザロに来てから、おじ様族のお客が増えてる。私の勘が当たったら経営に支障が出てしまうわ」
梢路は欠伸をして自分のグラスに口をつけ、睡魔を制御しながら、マスターや成子や成子目当てに通ってくる客たちの顔を、ぼんやりと思い出す。成子のことはよく知らないが、マスターの八田も独身ではあるし。二人が男と女の関係になったとしても、他人が口を出すことはない。
「ねえ、マスターと成子さんが本当にそうだとしたら、山鹿さんや望月さん、がっかりするわね」
「そうだろうな」
「矢島さんも阿部さんも細野さんも、みんながっかりするわ」
「麻美さんがみんなに冷たいからさ」
「あら、ショウちゃん、お世辞?」
「率直な感想。オレはもともと、成子さんに興味はないもの」
「屈折した青年ねえ。成子さんみたいにお人形さんのような顔をして、太ってるわけでもないのに肉感的で、ああいう女の人、男心をそそるはずだけど」
「オレ、屈折してるから」
「へそ曲がり。でも変わり者で屈折してへその曲がってるショウちゃんが、私、大好きよ」
麻美が切れ長な目を見開いて鼻先を笑わせ、焼酎を含んだ口で梢路の頬にキスをする。梢路は腕をまわして麻美の腰を抱え、見かけよりは柔らかい麻美の太ももに、そっと手を重ねる。性欲の予感が気分のだるさと調和し、一瞬梢路に、人生の平和を錯覚させる。
麻美が膝を立てて梢路の膝にまたがり、トランクスとショーツの布地を通して、二人の股間が重なる。麻美はそのままの姿勢で焼酎を口に含み、自分の口から梢路の口へ、酒を移す。
「ショウちゃん、私……」
薄い唇を皮肉っぽくゆがめ、胸をのけぞらすように顔を遠ざけて、麻美が梢路の目をのぞく。
「いつも言うけど、詮索するつもりはないの。だけどショウちゃんの過去はどうしても気になる。いい加減に話してみたら?」
「いつも言ってる。人に話すほどのことは、何もない」
「普通に栃木の高校を卒業して、それからずっとフリーターをやってて、その間にご両親が亡くなって、去年になって伯父さんのマスターに呼ばれたから、秩父へ来た」
「うん」
「でも言葉に栃木の訛《なまり》がないわ」
「麻美さんにも秩父訛はない。福島の珠ちゃんだって標準語を話す、最近はどこだって、訛なんかないさ」
「仮にね、出身が栃木であることは本当だとしても、ショウちゃんがずっとフリーターだったというのは嘘でしょう。あなたは老成しすぎてるし、それに歳のわりには、物知りすぎるわ」
「そのことも前に言った」
「趣味が百科事典を読むこと」
「そう」
「もうそこが不自然なのよ。コスプレオタクやパソコンオタクや、世間にはいろんなオタク青年がいる。でも今の時代に百科事典オタクなんて、聞いたこともない。根暗でもないし常識もあるし頭に病気もない。それに、ねえ、あのほうだって」
麻美が尻を動かして股間を押しつけ、グラスを口に運びながら、くすっと笑う、
「だいたいね、ショウちゃん、上手すぎるわよ。まさかああいうテクニックまで百科事典で覚えたわけでは、ないでしょう」
麻美の口が動いて梢路の唇をなめ、梢路は麻美の肩を抱き寄せて、その日灼けした首筋にキスをする。麻美が梢路の過去を詮索するのはこれが二度目、しかし麻美の問いに答える気はないし、答えたところで意味はない。麻美にしても今夜は酔っているだけだろうし、明日になればどうせ知らん顔をして、ただの常連客に成済ます。
麻美がぐったりと梢路にもたれかかり、梢路はグラスをテーブルに戻して、麻美の躰をベッドに抱きあげる。店のほうから大型冷蔵庫のモーター音が響き、西側の小窓ではカーテンがゆれる。あと一時間もすれば朝の早い雀が鳴きはじめ、そして昼を過ぎたころからは食材の買出しや神社仏閣見物や、この十一ヵ月間梢路がつづけてきた、単調で無意味な日常が始まる。
梢路はうつ伏せになった麻美のショーツをひき下ろし、Tシャツも上にひき剥がして、その小さくて筋肉質な尻の割れ目に、強く自分の顔を押しつける。
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2
中古の軽自動車なんかに乗って自分はどこへ走るのだろうと、今日も清水成子は自問する。もちろん自問したところで、今向かっている場所は分かっている。小鹿野《おがの》町で頭と器量の悪い女子中学生にピアノを教え、国道299号線を秩父市へ帰るところなのだ。時間は八時を二十分ほど過ぎたあたり、週に三日は夜のレッスンを受けもっていて、ラザロに出る時間も九時でいいことになっている。もっとも今日は日曜日で店自体は、休みなのだが。
それらすべての状況は承知で、やはり成子は「自分はどこへ向かうのか」と呟いてしまう。その問いは毎日耳鳴りのように湧きあがり、答えも毎日偏頭痛のように変化する。
「こんな田舎町での生活は一日も早くきりあげ、東京へ戻って新しい仕事を探す」「いずれは元の仕事に戻るとしても、もう少し気力が回復するまで、しばらくは現状を維持する」「大阪にいる昔の音楽仲間と連絡をとり、関西で再起を期す」
頭のなかにはその他幾通りかの答えが用意されていて、その日の天候や体調や気分が回答を勝手に脚色する。人生なんか諦《あきら》めてしまえば、楽なものなのに。いっそのことすべてを放棄して秩父に腰を落ち着けようか。そんな自棄と自嘲が今もまた成子に、ふとクルマのアクセルを踏み込ませる。
プロのピアニストでもやっていける自分が、なぜこの土地へ流れてきたのか。その答えも分かっているが、それはべつに、秩父という町に意味があったわけではない。秩父なんか子供のころの夏休みに一度、友達とその両親と一緒に貸し別荘に泊まったことがあるだけ。だから土地なんか長野でも青森でも瀬戸内海の小島でも、どこでもよかったのだ。ただ東京という都会が、自分が一流の音楽家になれないという絶望が、銀座や六本木のクラブで身過ぎのピアノをひくだけの毎日が、妻子ある男との情事や妊娠や堕胎や、それらすべての混沌が成子を疲れさせたのだ。
幾日かのんびりと温泉にでも浸かりたい、ちょうどそう思っていたとき、六本木のクラブ時代に客だった山鹿から、大滝村の温泉に誘われたのだ。山鹿は何年か前から秩父に単身赴任していて、仕事で上京するたびに成子のいる店に顔を出してくれた。特別な常連でもなく、手を握るわけでも口説くわけでもなく、ただセメントの講釈をしながら酒を飲むだけの、つまらない男。温泉に泊まったときもすべての料金を払ってくれ、昼間ちょっとセックスをしただけで夜には会社の寮へ帰っていった。お陰で成子は三日間ゆっくりと温泉に浸かり、寝転んでテレビを見て山歩きをし、山鹿が置いていった観光案内のパンフレットやタウン誌を眺め、そしてそのときたまたま目にとまったのが、ラザロの募集広告だった。電話で聞いてみるとラザロには山鹿も常連だといい、田舎町には珍しく、雰囲気も客筋もいいという。
なぜ面接を受ける気になったのか、マスターの八田に勧められるまま、なぜ秩父へ移ってきたのか。理由は疲労と絶望が成子の思考を停止させていたからで、三十一年も生きていればそういう心のエアポケット状態が、一度や二度はやってくる。
人生とは思い通りに行かないもの。それはそうだけど、だからってこんな田舎町で朽ち果てるのもね、と、対向車のヘッドライトに目を細めながら、成子は頭のなかで独りごとを言う。もしあのとき、父親の会社が倒産していなかったら。もしウィーンのピアノコンテストでの結果が銀賞ではなく、金賞だったら。アパレルメーカーの御曹司《おんぞうし》から申し込まれた結婚を、あのとき、もし拒否していなかったら。もし六本木のビルオーナーが約束どおり妻子をすてて、自分と結婚してくれていたら。それらさまざまな仮定が走馬灯のように行き交い、軽自動車のハンドルを握った成子の手に、寒い汗をにじませる。
人生とは思い通りに行かないもの。そんなことは分かっていて、その事実を受け入れてしまえば今の暮らしも、楽といえば、まあ楽なんだけど。マスターの八田に言い寄ってみたのは、とりあえずの保身を考えたから。歳も六十を過ぎて分別もあって、見かけは引退したプロレスラーのようだが意外にインテリで、愛だの恋だの結婚だの、オバカな台詞は口にしない。店でのアルバイトも時間の融通はきくし、東京のクラブと違って客に気を使うこともない。ただひとつ店で気になるのは、八田の甥《おい》だという平島梢路のこと。何が気になるのか、梢路のどこが神経に障《さわ》るのか、成子自身にも分からない。仕事の手際もよくて料理のセンスもよく、無口だが無愛想でもなく、頑固な感じではあっても節度はあり、成子を無視することもなく秋波を送ってくることもなく、表面はおとなしいが内に狂気を秘めているような、そんな性格にも思えない。それなら非の打ちどころのない好青年のはずなのに、それでもやはり梢路という存在の、何かが気にかかる。梢路の皮膚の薄い整った顔立ちや動揺を知らない目つき、客の会話に微笑みながら相槌をうつときの、悲しそうでもあり楽しそうでもある独特の表情。そういう不可解さは女心の何かを刺激するし、それに六本木で遊びなれている中年男ですら使わない、女の躰をすみずみまで舐めまわすような、あの濃厚なテクニック。
思い過ごしかも知れないな。東京でいろんな男を見てきたから、男を見る目には自信があったけど。でも田舎には田舎なりに不可解な人間がいて、その不可解さに違和感を覚えるだけなのだろう。真面目で働き者で陰日向のないちょっと内気な青年、ラザロの客は全員が梢路をそう評し、そしてその評価は、たぶん正しいのだろう。存在は不可解でも成子の肉体には至上の快楽を与えてくれるし、成子の人生そのものには、まるで関係ない。八田はパトロンのようでもあり父親のようでもあり、小長という写真家にだけは嫌悪を感じるが、ほかの男たちはみんな善良で単純、東京の夜で場数を踏んでいる成子にしてみれば、『ネコ踏んじゃった』ようなものだ。山鹿との関係もほかの客たちとの関係もすべてが内緒だから、みんながそれぞれにピアノの生徒を、争うように紹介してくれる。お陰で収入も安定して、一軒家を借りてピアノ教室を開けとすすめる客もいるし、成子がその気なら八田や山鹿も援助するという。そうやって秩父の田舎町に腰を落ちつけ、そのうち大地主の跡取りかなんかと結婚して、子供を生む。いくら秩父だからって音楽に素養のある人間も少しはいるだろうし、市民なんとかホールでコンサートも開ける。無意味で空疎な生活ではあるが神経は痛まず、痼疾《こしつ》のように自分をさいなむ挫折感からも、とりあえずはまあ、逃げられる。
人生とは思い通りに行かないもの。すべてを諦めてしまえば、それはそれで、楽なんだけどね。
中古の軽自動車はすでに荒川を渡って秩父の市街地へ入り、造り酒屋の前を通って秩父神社の方向に向かっている。市街地といっても夜の七時を過ぎれば人通りが絶えるような田舎町だから、クルマも数えるほどしか走らない。成子は思考の走馬灯にブレーキをかけ、意識的に深呼吸をして、ほっと頬をふくらませる。窓からの風がセミロングの髪を首筋に絡みつかせ、午後から三件のレッスンをこなした今日一日の汗を思い出させる。東京の排気ガスとは違った田舎町の、このねっとりした埃っぽさ。九月になったというのに妙に蒸し暑く、シートに押しつけた背中には今も汗がにじんでいる。出かける前にシャワーを浴びたら約束の時間に遅れてしまうだろうが、だけどあんなポリバケツでつくったようなシャワー室にかがみ込むことは、どうにも美意識が許さない。
国道から脇道に入って常楽寺の手前を左折し、すでに寝静まっているような住宅街を少し走って、アパートの駐車場にクルマをつける。六畳と三畳にユニットバスがついたアパートの部屋代は、三万八千円。ラザロには歩いて十分しかかからず、それに最近は八田が泊まることもあるから、部屋代は店の経費で落としてくれる。
クルマの鍵を閉めて楽譜の入ったバッグを抱え、明かりもない駐車場から二階への外階段をのぼる。モルタルアパートでも階段にはコンクリートが打ってあり、成子のパンプスがこつこつと硬い音をたてる。部屋は南西角の7号室、まだ九時前だというのにどの部屋も静まり返って、人声もテレビの音も聞こえない。まさかみんな寝てしまったわけでもないだろうに、しかしたしかに田舎の生活は夜も朝も、驚くほど早い仕組みにできている。
二階へあがって部屋のドアを二つ通りすぎ、7号室のドアの前でキーケースをとり出す。鍵を鍵穴にさし込んだとき、ふと違和感に襲われ、思わず手をとめて首をかしげる。施錠には神経質なほうだから鍵の掛け忘れはないはず。しかしそれは東京で暮らしていたころの話で、秩父へ来て半年もすれば神経も弛《ゆる》むし、頭もボケてしまう。空き巣も秩父なんかで働くほど間抜けではないだろうし、それに入られたところで盗られる物は、何もない。
そうか、そういえば二、三週間前にも一度、鍵を掛け忘れたな。町も生活も平和に澱みすぎて、頭に黴《かび》が生えてしまった。こんな田舎に腰を落ち着けようなんて一瞬で思った自分が、まったく、心から情けない。明日になったらやはり大阪の知り合いに連絡をとり、京都でも大阪でも、もう少しましな世界で暮らせる方法を、何か考えよう。歳だってまだ三十一、最近は体調もいいし、睡眠薬の数も減らしている。秩父で暮らす時間の長さに比例して無気力も膨張し、冗談ではなくそのうち、本当に躰も精神も、腐ってしまう。
さし入れていた鍵を鍵穴から抜き、ドアを開けて、沓脱《くつぬぎ》に足を入れる。そして電気のスイッチを入れた瞬間、突然視界に黒いものが湧きあがり、Vの字型に開かれた人間の指が鼻面をかすめて、ぬっと迫ってくる。
あれ、何が起こったのか、とは思ったが、成子の意識があったのは、そこまでだった。
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3
坂森四郎巡査部長を乗せた埼玉県警の警察車が、国道140号線を長瀞方面に向かっている。140号線は通称を彩《さい》甲斐《かい》街道といい、埼玉県の熊谷《くまがや》から寄居《よりい》、秩父を通って雁坂《かりさか》トンネルを抜け、山梨県の甲府までつづいている。行く手の左側は秩父の大滝村に源流をもつ荒川、この荒川が埼玉県北部を流れて東京まで達し、その分流が隅田川になる。現在では秩父と東京を結ぶ幹線も国道299号線になっているが、明治までは急峻な正丸《しょうまる》峠を越えきれず、秩父人の多くは熊谷経由で東京に出た。その名残りが荒川沿いを走る秩父鉄道で、ちょうど今も警察車に平行して二両編成の熊谷鉄道が、のんびりと三峰口駅へ走っていく。
窓の外は靄《もや》のような、鬱陶《うっとう》しい気配。窓を開けていれば車内が湿気っぽくなるのは当然で、しかし寄居の警察署を出て以来、坂森はずっと助手席の窓を開けている。ハンドルを握る沼内刑事が嫌煙家であることは承知していても、寄居から長瀞までの時間にタバコを自粛するのは、少しばかり辛すぎる。
坂森はちらっと沼内の横顔に目をやり、わざとゲップを吐いてから、そっぽを向いてタバコに火をつける。昔は捜査一課の刑事部屋なんてタバコメーカーの試煙室みたいだったのに、最近は若い刑事のほとんどがタバコを吸わず、一課長や刑事部長までが禁煙に励んでいる。だからって誰か体調がよくなったという話は聞かないし、それどころか犯罪の検挙率は下がる一方、近年はついに二十パーセントを割ってしまったのだから、犯罪者の十人に八人が野放し状態にある。警察官の禁煙率と犯罪の検挙率に相関関係があるのかないのか、そんなことは知らないが、坂森の定年まであと二年、「警察官の全面喫煙禁止」とかいう警察庁長官指令が出ないことを、切に願っている。
道が長瀞の手前の野上に入り、けぶったような景色にも山の近さが感じられてきて、坂森はふっと、窓の外に煙を吐く。坂森の出身は皆野《みなの》町という長瀞の西隣、今でも皆野の実家には長兄の家族が住んでいて、その他秩父市内にも小鹿野町にも吉田町にもそれぞれ、父方や母方の親戚が散在する。いわば坂森の地元になるわけだが、そうはいっても高校を卒業して警察学校に入り、運良く本庁採用になって以降はずっと浦和暮らしだから、あまり秩父には帰らない。同じ埼玉県内とはいえ秩父地方は県央から孤立していて、歴史も文化も言葉も、まるで違う。地形的にも群馬、長野、山梨側の三方を山に囲まれて出口は荒川沿いのこの一点だけ、雁坂峠にトンネルが開通したのもほんの何年か前だし、群馬県側へ抜ける志賀坂峠だって冬になればしばしば、雪のために通行止めになる。関東地方のどん詰まりで昔から文化的交流に乏しく、人間関係は濃密で閉鎖的、親しくなれば鬱陶しくなるほどの親切心を示す代わり、よそ者には頑なに心を閉ざすような雰囲気が、今でも少し残っている。
もっとも坂森が実家と疎遠になったのは、秩父に対する嫌悪感や親戚連中との軋轢《あつれき》ではなく、たんなる年齢のせい。長兄もすでに隠居をして甥が家業を継いでいるし、坂森のほうも大宮の郊外に建売住宅を買って、三人の子供を育てあげた。次男はまだ大学生だがこれも来年には卒業、保母だった長女は結婚してさいたま市内に住んでいる。一番の自慢は自分と同じ警寮官になった長男のことで、「同じ警察官」といっても長男は国家公務員試験をパスして入庁したキャリアだから、階級だって巡査部長の坂森をすでに、三階級も越えている。
「沼内くん、そろそろだと思うんだが……お、あれか」
坂森が前方に顎をしゃくりながらタバコを車外にすて、萎《しな》びた日灼け顔をフロントガラスに押しつける。国道の右手前方に停車したパトカーが見え、国道からの分かれ道を塞ぐような格好で制服警官が立っている。距離はおよそ五十メートル、沼内が方向指示器を点滅させてクルマの速度を落とし、パトカーに近づいたところでハンドルを右に切る。とまったクルマに制服警官が腰をかがめて敬礼し、沼内が運転席側の窓を開けて、身分証明書を示す。
「やあやあ、ご苦労さん。天気がどうにも鬱陶しくて、おたくらも大変だいねえ」
身をのり出すようにして坂森が声をかけ、制服警官がまた腰をかがめて、再度の敬礼をする。
「で、現場はこっから.どれほど行ったとこかね」
「この山道を二キロほど進みますと、道が二又に分かれまして、現場はその右側を直進した先の辺りで。二又道の分岐点にも所轄のパトカーを配備しております」
「そりゃ結構。そいでこの道は、先々どこへ抜けるんだっけか」
「これは山仕事用の林道でありまして、山中をまわりながら枝分かれをして、皆野側の県道に通じております」
「ほーう、ほうけえ。覚えてるような、覚えてねえような……もっとも四十年もたちゃあ、山も林道も変わるべえからなあ」
坂森が沼内に会釈をし、沼内がクルマを発進させて、白い県警車は霞《かす》んだような山道を進みはじめる。坂森が秩父弁を使ったのは地元に帰ってきて記憶が反応したからではなく、所轄の警官に対する愛想のつもり。しかし沼内のほうはメガネを光らせるだけでひたすら、むっつりと口を結んでいる。坂森が車内で吸うタバコがよほど癇《かん》に障《さわ》るのか、それとも坂森のような才気も向上心もない老いぼれ刑事が、ただ疎《うと》ましいのか。沼内は三十二歳で階級は坂森と同じ巡査部長、準キャリアとまではいかないが一応は大学出だから、五十前に警部補ぐらいにはなるのだろう。
林道の舗装は百メートルほどで終わり、以降は狭まったゴロタ道の両側にススキばかりが生い茂って、視界は杉林と雑草で閉ざされてしまう。都会育ちらしい沼内はハンドルさばきに苦闘しつづけ、坂森は腐葉土や葉緑素や雑草の腐敗臭を懐かしく感じながら、無言でタバコを吹かしつづける。視界は開けたり閉ざされたり、そんな林道を十分ほど進むと開けた草地にパトカーが見え、おりてきた制服警官に沼内がまた身分証を示す。坂森も今度は無駄口をきかず、クルマは二又に分かれた林道を右側に入っていく。知らない人間にはまるで迷路のような山道で、地元の人間でも特別な用がなければ、こんな林道には踏み込まない。実際に草を踏みしだいた轍《わだち》の跡も小さく、両傍の雑草も刈られずに残って、湿気を含んだススキの穂が重そうに首を垂れている。ススキはスズキ、稲の穂も鈴木というから元は同義語だったろうに、今は山道にはびこるススキなんか、誰も見向かない。
二又道を右に曲がってほんの何百メートル、パトカーが二台に所轄のものらしい乗用車が四、五台、それに県警本部の鑑識課ワゴン車が三台、狭い林道に縦列駐車をして付近の雑草をなぎ倒している。沼内がワゴン車の最後尾にクルマをとめ、二人はクルマをおりて、パトカーのほうへ向かう。空気もゴロタ道も雑草も湿って視界には靄がかかり、いくらも歩かないうちに革靴とズボンの裾が濡れてしまう。
「やっぱしなあ、長靴を買ってくりゃよかったい。長靴に軍手に鎌《かま》ってのが、山へ入るときは三種の神器なんさ」
坂森が独りごとを言ったとき、たむろする警官のなかから四十過ぎの私服刑事が顔を出して、手をふりながら坂森と沼内を迎える。この刑事も県警本部捜査一課の山脇巡査部長、捜査一課は四班に分かれていて坂森と班は異なるが、もちろん十年来の同僚ではある。
「ほーう、本部からは山ちゃんが駆けつけたか。結局寄居にいた俺たちが、一番最後ってわけだ」
「どうせなら山一つ向こうの、群馬県側で願いたかったね。そうすりゃ二、三日あとから、ゆっくりお出ましもできたのに」
「まったくなあ。運がいいんか悪いんか、あっちもこっちも、ご苦労なことだがね」
坂森はパッケージに残った最後のタバコに火をつけ、靄った乳色の空を見あげて、とんとんと肩を叩く。現在坂森が関っているのは一ヵ月ほど前に寄居町の山中で発生した、バラバラ殺人死体遺棄事件。県警の捜査一課からは警部を主任にした六人の刑事が派遣され、寄居町の所轄とともに事件の捜査に当たっている。そこに発生したのがこの長瀞の事件で、遺体の発見者はまず地元警察に一一〇番通報をするから、最初に駆けつけるのは現場に最も近い場所にいるパトロール警官。その警官が事件を確認して所轄の本部に連絡を入れ、所轄からは捜査係刑事が出向く。遺体が明確な事故によるものであれば話は別だが、事故、自殺、他殺、病気による自然死などの状況が不分明な場合、所轄を通して県警本部へ情報を上げる。県警本部からは鑑識と初動捜査班が出動し、事件の概要を大まかに把握する。この長灘の事件も最初から、「バラバラ段人」と通報されていれば坂森たちも寄居かち直行できたのに、所轄や県警本部での事実確認が不徹底だったため、一番近い場所にいた坂森たちの到着が結局、一番最後になったのだ。
「で、山ちゃんが見たところ……」
湿った空にぷかりとタバコを吹かし、黄色い立ち入り禁止テープの向こう側へ顎をしゃくって、坂森が皺顔の皺を深める。
「やっぱし状況は、寄居と同じかね」
「坂森さん、俺は寄居の現場を見てないんだよ」
「そうか、ほい、忘れてた」
「鑑識さんも仕事を始めたばかりで、まだ何ともねえ。分かってるのはホトケさんが、女ってことだけ」
「女? ほーう」
「着ている物からすると、婆さんじゃないとは思うけどね。両足が切断されてるから背も高いんだか低いんだか……とにかく坂森さん、自分で見たら見当もつくんじゃないの」
「あっちで首吊りこっちでバラバラ、愚痴を言うわけじゃねえけど、俺も本当に、定年が待ち遠しいがね」
そのとき若い男が獣道《けものみち》のような藪《やぶ》をかき分けて来て、小腰をを[#底本「小腰をを」ママ]かがめながら坂森と沼内に、敬礼をする。
「坂森さん、彼は秩父中央署の楠木くんだ。パトロールから連絡を受けて最初に現場へ駆けつけてから、ずっと張りついてるらしい」
「ほい、そりゃまた、ご苦労さん」
楠木と紹介された刑事はまだ三十前、洒落たソフトスーツにペイズリー柄のネクタイを締めてはいるが、ワイシャツの襟には汗が滲んで本人も汗まみれ。スーツの肩にもズボンにも濡れ染みが浮かんで、まるでたった今、落ちた沢から這いあがってきたように見える。大柄で固太りで見るからに体育会系、しかしその小さくて丸い目にどことなく、人のよさそうな印象がある。
「その、とにかく自分は、こういう現場が初めてでありまして、現場保存が第一と考え、国道や県道から林道へ入ってくる出入り口を、まっ先に封鎖したわけであります」
「うんうん、それが正解さあ。慣れねえわりにゃよく手配ができてらい。お前さん、大学出かね」
「はあ、一応」
「歳は?」
「二十八であります」
「二十八ならうちの倅《せがれ》と同じだがね。倅も大卒のキャリアで警視庁に奉職してるから、そのうち会うこともあるべえよ。俺のほうはあと二年で定年だし、これからはお前さんたち、若えもんの時代だいなあ」
タバコを長く吹かして皺目蓋を笑わせ、垂れてきた鼻水を、坂森がしゅっとすする。いくら同い年の大学出でも東京の警視庁と秩父の所轄、この楠木と自分の長男が出会う可能性はゼロに近いが、坂森はちょっと、息子自慢をしてみたのだ。
「それで、楠木くんだったか」
「はあ」
「第一発見者ってのはどこの物好きだい」
「黒沢吉男さんといって、この下《しも》のほうで床屋をやってる家の、ご隠居さんです。今日は天気がいいんで、茸を採りに山へ入ったそうです」
「天気がいいから、か。山ちゃん、楠木くんの言ってる意味、分かるかね」
「午前中は天気がよかったとか」
「そうじゃねんだ。こういう雨だか霧だかでジメジメしてる日ってのは、茸がよく採れるわけさ。それに黒沢ってのは秩父に腐るほどある名前で、俺んちの親戚にも二軒はある」
「なるほど」
「坂森さんは秩父の出身でありますか」
「この山向こうの、皆野さあ」
「さようですか。自分は両神《りょうがみ》の長又であります」
「高校は小鹿野かい」
「いえ、秩父高校まで」
「ほうけえ。秩高を出て東京の大学へ行ったとなりゃ、とんでもねえエリートさんだ。で、嫁さんは?」
「それは、まだ」
「うちの倅もまだなんだが……まあいいや、要するに床屋の隠居は身元も確かで、たまたま茸採りに来て遺体を発見しただけ。事件に関係はねえし、被害者にも心当たりはねえと」
「その通りであります」
「おいおい、定年近え老いぼれ刑事相手に、そうシャチコ張らなくてもいいがね」
「あ、はあ」
「付近一帯の捜索ってのは」
「鑑識の仕事が終わるのを待って、半径一キロと林道を中心に、百人体制で遺留品の捜索に当たる手はずです」
「面倒じゃあろうが、手を抜くわけにもいくめえしなあ。こんな天気の悪い日に、所轄のみんなもご苦労なことだがね」
短くなったタバコから長々と煙を吸い、持ち歩いている携帯の灰皿に吸殻を始末して、坂森がまた、とんとんと肩を叩く。たとえ千人二千人体制で遺留品の捜索に当たったところで、寄居の事件と同様、どうせ犯人につながる手がかりは得られない。それは分かっていても、これが殺人事件である以上、捜査の手抜きは許されない。
「さて、それじゃ気はすすまねえが、その女としか分からねえホトケさんてえのを、拝むことにするべえか」
坂森が肩をすくめて沼内へ首を巡らし、楠木がきびすを返して、四人が立ち入り禁止テープの内側へ藪《やぶ》をかき分ける。林道に沿った空き地側はススキやクズの葉が土手状に視界を塞いでいるが、そこをくぐり抜けると雑草の密度が減少し、ナラやクヌギの繁った低木の疎林があらわれる。なるほどこういう雑木林《ざつぼくりん》なら茸採りには絶好の環境で、子供のころ親や学校仲間と山歩きをした記憶が、ふと坂森によみがえる。
疎林のなかには、半径五十メートルほどの間隔で二十人ほどの鑑識課員が散っていて、積もった落ち葉をかき分けるもの、木の幹に印をつけて写真を撮るものなど、それぞれが黙々と証拠採集作業をすすめている。雨滴は落ちてこないが湿度は蒸し風呂のように高く、薄暗い雑木林のなかで鑑識課員の着ている紺色の制服が音もなく、粛々と動きまわる。
その鑑識課員たちの方向へ誘導路の青いビニールシートがつづき、坂森たちは縦一列になって、林の中央まですすむ。辺りはいくらか疎林が開けてケヤキの高木がそびえ、付近の雑木《ざつぼく》にはカラス瓜やアケビの蔓《つる》が投げ網のように絡んでいる。
「やあ坂森さん、こんな埼玉のどん詰まりまで、お互いにご苦労なことですなあ」
近寄ってきたのは鑑識課班長の下小出《しもこいで》で五十を過ぎたベテラン、寄居の事件でも下小出の班が出動したから、状況はすべて把握済みだろう。
「まったくこの秩父ってのは、思ってたより不便なとこだねえ。高速に乗って花園インターで降りても、所沢方面から二九九で来ても、浦和からは二時間もかかってしまう」
「それもパトカーの先導つきで、ね」
「そうそう、坂森さんは寄居から?」
「一番の近場《ちかば》にいた俺が一番最後さあ。問題は情報なんだろうがね」
「情報と道路だろうな。ここが同じ埼玉だなんて、信じられないよ。以前|女房《かみ》さんと長瀞のライン下りに来たことがあったけど、そのときは電車だった」
無駄話をしながらも坂森の視線は足元のビニールシートにそそがれていて、中央が盛りあがった矩形のシートの端を出入りする青蠅の群れに、思わず、ちっと舌打ちをする。
「下小出さん、ホトケさんは、女だって?」
「うん。ついてるものがついてないから、オカマじゃない」
「オカマでも玉なしはいるべえに」
「あれ、坂森さん、秩父弁がうまいねえ」
「元々がとなり町の出なんさ。さっき冗談で秩父弁を使ったら、はあ止まらねえ。子供のころ馴染んだ言葉ってのは、弱ったもんだがね」
「そうなの。坂森さんは秩父の出なの。でもまあ玉の件は、私の専門だから」
「そりゃまそうだ。で、歳は」
「陰毛に白髪は混じってない」
「とすりゃあ、四十前かい」
「二十歳から四十の間。皮膚の感じじゃ、三十前後かな。この周囲で両手両足頭部、もう全部発見されてるしね」
下小出が腰をかがめてシートの端に手をかけ、寝ている子供の毛布でも剥ぐように、ひょいとめくり上げる。すでに見飽きているのか、それとも二度と見たくないのか、楠木と山脇が後ろへ顔をそむける。となりでは沼内の咽が蛙を踏みつけたような、湿気っぽい音を洩らす。そういえば寄居の事件でも沼内が捜査に加わったのは、事件発生の二日後からだった。
シートに隠されていた遣体は両手両足頭部が見事に切断され、裁縫師が仕事に使うトルソー[#参考資料添付]のようで、その胴体だけの躰に半袖のワンピース。ワンピースの上には薄物のカーディガンを羽織《はお》っていたらしいが、もちろんカーディガンの袖に、腕はない。ワンピースの裾は腹の上までめくれて臙脂《えんじ》色のショーツを晒《さら》し、足のつけ根には黒褐色に変色した肉の切断面が二ヵ所、ぽっかりと口を開けている。腐敗の始まった肉塊に青蠅や蚋《ぶよ》や大小の羽虫が群がって、その肉自体がなにやら、もぞもぞと動いているように見える。遺体の周囲にほとんど血痕は散っていないから、死後ある程度の時間がたってから切断されたものだろう。
「なあ下小出さん、こりゃやっぱり、あれかねえ」
「あれだと思うよ」
「しかしまた何だって……身元の確認できそうなものは、何か?」
「出ていない。バッグやら靴やら、その他の携帯品はいっさいなしだ。バラバラにされた頭や手足、見ますかね」
「遠慮するべえ。前科がありゃ指紋と照合できようし、歯形の照会もおたくらの仕事だい。で、その頭と手足ってのも、やっぱり?」
「寄居のときと同じだよ。胴体を中心にみんな二、三十メートルの範囲に散っていた。切ったそばから、犯人が放り投げたんだろう」
「それなら寄居の事件と同一犯人と断定して、間違いないかね」
「うん。切断に使った鋸《のこぎり》も胴体のわきに放り投げてあって、こいつも前回と同じような安物だ。切断箇所も方法も同じだし、ナンだったら、私の退職金を賭けてもいいよ」
「バラバラ殺人死体遺棄事件ってだけでも大事《おおごと》なのに、これが連続となると、いやはや、テレビも新聞も、放っちゃおくめえなあ。こういう事件は早えとこ片をつけねえと、世間やマスコミから、警察が袋叩きにされるがね」
坂森が腰をのばして低い樹冠をふり仰ぎ、脂っけのない皺顔を、無骨な手でごしっとこすり上げる。寄居の事件では被害者が持っていた免許証からすぐに身元がわれ、家族関係、仕事関係、その他交友関係なども速やかに調査された。寄居で殺されたのは近藤|輝芳《てるよし》という三十二歳の歯科医師、出身は群馬県側の中里という村で、寄居町で歯科医院を開業したのはそこに結婚相手の実家があるから、という理由らしい。
被害者が歯科医師となれば相応の収入があって、女房の実家も資産家。金銭関係のもつれ、痴情のもつれ、歯科治療でのトラブル等々、事件の背景はどうせそんなところだろうと捜査を開始して一ヵ月、熊谷や小川町からも応援を頼んで被害者の生活実態を調べてみたが、そのどれもが肩透かし。若いわりに歯科医師としての技術は上々で人柄も明朗快活、患者とのトラブルはいっさいなく、夫婦仲もよくて男女間のもめ事など、気配にもない。また実家でも近藤夫婦でも金銭上の問題は抱えておらず、関係者の誰もが、「他人から恨みを買うような人間ではなかった」と断言する。近藤の人生はまさに順風満帆、そのきれい事すぎる人生に胡散《うさん》臭《くさ》さは感じられても、世の中にはそういう人間も、いなくはない。
しかしそれならなぜ近藤は殺され、遺体を切断されて、寄居山中に遺棄されたのか。捜査は進展せず、とりあえずは事件当日における近藤の足取りを追う程度の方策しかなかったが、この長瀞の事件で状況は一変する。犯人が遺体を切り刻んだ理由はともかく、連続殺人であるからには必ず、「連続」でなくてはならない、なんらかの必然がある。
とんとんと拳で肩を打ち、胴体だけの遺体に戻した視線を、坂森がゆっくり沼内にふり向ける。
「沼内くん、そういうことだ。今下小出さんが言うたこと、寄居の蜂屋警部に報告してくれや。それから今後の捜査方針なんかも、一応は指示を仰いでくれ」
沼内がメガネを光らせてきびすを返して行き、坂森は下小出と山脇の顔を見比べて、目尻を皺深く笑わせる。
「やっぱしなあ、ホトケさんの手足と頭、拝むべえかね。定年が近くなって仕事に手を抜いたなんて言われちゃ、倅に合わす顔がねえからなあ」
下小出が苦笑をしながら林の奥へ顎をしゃくり、坂森、山脇、楠木の三人を従えるように、作業靴を湿った落ち葉に踏み込ませる。最初に目印の小旗が立っていたのは胴体からせいぜい、十五メートルほどの地点。セミロング程度かと思われる栗色の髪が糸玉のように顔全体を被い、頸骨が露出している首の切断面以外は顔の特徴も化粧の有無も、何ものぞけない。この頭部にもやはり青蠅や蚋がまといつき、落ち葉の下ではごそごそ、何かの虫が這いまわる。
「下小出さん、どうなんだね、ホトケさんは美人だったかい」
「私に聞かれても困るよ。自然死ならともかく、相当のチアノーゼも起こしてる。切断されて痕跡がはっきりしないけど、たぶん扼殺《やくさつ》か絞殺《こうさつ》だろう」
「死後の経過時間は?」
「さあねえ、二日か三日か。とにかくそっちは解剖する医者に聞くしかない。ただ私の経験からいって、昨日今日ではないと思うよ」
「かといって一週間はたっていねえと」
「遺体を冷凍保存しておいた、なんてことがあれば話は別だがね。どっちみちそれも、解剖待ちさ」
下小出の背中がまわって今度はななめ右側へ歩き出し、十メートルほどでまた、足をとめる。そこにも目印の小旗と写真撮影済みの標識が立っていて、近くでは制服の鑑識課員がピンセットを構えながら、片膝つきで落ち葉の上にかがみ込んでいる。
「ほーう、今度は腕かい」
「こいつは左腕でね。右腕のほうはあの胴体の、反対側に落ちてる。釈迦に説法だろうが、皮膚には狸や狐に咬《か》まれた跡もないし、ここまでひきずられてきた痕跡もない」
「指輪や腕時計は」
「中指にルビーらしい指輪をはめていた。時計は女物のカルティエ、指輪も時計も本物だとすれば、結構な値段だろう」
「結婚指輪とかは」
「なかったし、薬指に結婚指輪をはめた跡もない」
「見たところ奇麗な指だいなあ」
「これが主婦だとしたら、家事なんかしなくても済むいい家の奥様だろう。爪は短く切ってやすりで磨き、マニキュアもていねいに塗ってある」
「少なくとも秩父やどこか、農家の女房《かみ》さんじゃねえってことかい」
「調べるのは坂森さんたちの仕事さ。私ら鑑識はただ証拠を採集して、事実を提示するだけ」
「躰のどこかに、本人の名前と犯人の名前が刺青《いれずみ》で彫ってあるとか、そういう事実を提示できないかね」
「あいにく、被害者は無精だったらしいよ」
「殺人事件の被害者なんざ、みんな無精なもんだがね。自分を殺しそうな人間をリストにして警察に登録しておいてくれりゃ、俺たちの仕事も、よっぽど楽だんべえがなあ」
坂森が目で合図をして下小出が移動を始め、枯葉と下草と湿度が充満する雑木林を四人が一列になって、少し斜面をくだる。その斜面のいくらか窪地になったところに白蝋《はくろう》色をした一本の足が転がり、そこにもやはり目印と標識が立っている。
「太からず細からず、長からず短からず。ホトケさんは中肉中背ってとこかなあ」
「身長は百六十センチ、体重は四十五キロ。長年この仕事をやってると足を見ただけで、分かってしまうよ」
「ついでにホトケさんの商売、分かんねえかい」
「分かるのはさっき坂森さんが言った、農家の主婦ではないだろうって、それぐらいだ。もっとも最近は農家の嫁さんも、ペディキュアぐらいはするかね。ただこの足は外反《がいはん》母趾《ぼし》気味だし、踵には厚いタコがある。普段の靴はハイヒールだったろう」
「付近にそのハイヒールもなくて、足の裏も汚れてねえ。どこか別な場所で殺されて、ここまで運ばれたってわけだ」
「ここまで運ばれて、ここでバラバラにされて、手や足をあちこちに放り投げられた。この右足は斜面を転がって窪地でとまり、左足のほうは灌木にすっぽり嵌《はま》ってる。ねえ坂森さん、寄居のときも不思議に思ったけど、犯人は何でわざわざ、こんな面倒なことをするのかねえ」
それが分かれば事件も解決、という台詞を腹の内に呑み込み、黙々と作秦をつづける鑑識課員たちを跳めながら、坂森はうーむと、長く嘆息をする。一般的に犯人が遺体の手足を切断する理田は、その運搬が困難なとき。非力な女が自力では遺体を動かせず、細分化してパーツをそれぞれに始末する。あるいは極端な怨恨で相手を殺しただけでは気が済まずに、遣体を損傷させることによって怨念を晴らす。もう一つは被害者の身元を隠蔽する目的での切断で、この場合は被害者の身元が判明すれば、自動的に犯人も特定される。それなら今回の連続バラバラ殺人事件は、どのケースに当てはまるのか。目の前の遺体は身元も割れていないが、それは所持品がないからで、寄居の事件では免許証も残されていた。犯人が非力な人間なら殺した場所で遺体を分解するはずだし、とすればやはり、怨恨か。歯科医師の身辺捜査では怨恨の可能性を否定してしまったが、それはたんに、捜査が不徹底だっただけなのか。
「坂森さん、念のために付け加えておくと……」
下小出が制帽をぬいで額の汗をふき、すぐに帽子をかぶり直して、転がった足に視線をやる。
「このホトケさん、性的な暴行は受けていなかったよ。それを不幸中の幸いと表現するのは、不謹慎だろうがね」
「足の毛もきれいに抜いてあって、もしかしたらそこそこ、美人だったかも知れねえのになあ」
「私の勘でも美人だったと思うよ。それで、もう一本の足と腕、ご覧になりますかね」
「はあ止めとくべえ。見たところで犯人が分かるわけでもなし、だけど、なあ下小出さん、あんな鋸で手足をこんなふうに切るにゃ、どれほどの時間がかかるかね」
「二十分」
「ほい、たった二十分かい」
「寄居の事件の後、似たような鋸で課員に実験させたんだ。もちろん人間の躰を切るわけにもいかないから、豚を使ってね。そうしたらあんな安物の鋸でも、二十分はかからなかった」
「そんなもんかなあ。えれえ手間がかかるような気もしたが、たった二十分でこんなふうに、バラバラかい。そう考えると人間てえのは、命も躰も、儚《はか》ねえもんだがね」
坂森はうなずいた下小出と顔を見合わせ、しょぼつく目をこすって、小さくため息をつく。これまで百以上の殺人事件をあつかい、目を被うような惨殺死体も検分はしてきたが、バラバラの、それも連続殺人に出くわすのは、今回が初めて。しかし死体もこうやって手足がバラバラになってしまうと、それが人間であるという実感が、なんとなく希薄になる。
「さーて、下小出さんの仕事を邪魔してもいけねえ。鑑識の作業が終わるまで、俺たちはあっちで待機しようかね」
「時間はそれほどかからないよ。ご覧の通り枯葉と雑草で、足跡の採取はむずかしい。あとは手足をまとめて解剖へまわすぐらいさ」
「どっちにしても報告書をもらってから、ということだがね。うまく寄居の事件とつながってくれりゃいいが、はあて、どんなもんだか」
下小出に軽く頭をさげ、山脇と楠木をふり返って、坂森は林道側へ顎をしゃくる。下小出が近くにいた鑑識課員のほうへ歩いていき、三人の刑事も傾斜のある雑木林のなかを、腰をかがめながら林道方向へ戻りはじめる。すでに坂森の靴とズボンの裾はぐしょ濡れ、途中で長靴を調達してこなかった自分の迂闊《うかつ》さを、坂森はつくづくと反省する。
雑木林から藪を抜けて林道へ出ると、パトカーの傍に沼内が待っていて、メガネを光らせながら坂森たちのほうへ歩いてくる。
「坂森さん、蜂屋警部は県警本部へ戻って、一課長と対策を協議するそうです」
「ほうけえ。ええと、山ちゃん、お前さんタバコはやめたんだっけか」
「あいにく、また始めてしまった」
「そいつは都合がいい。済まんが一本めぐんでくれや」
山脇が背広のポケットからタバコをとり出し、坂森はその箱から一本を抜いて、ライターで火をつける。
「それで沼内くん、蜂屋さんは本庁へ戻るって?」
「はあ。ですから詳しい報告は、直接一課長へするようにと」
「詳しい報告ったって、被害者の身元も殺害場所も、何も分からねえ。分かってるのは手口が寄居の事件と同じだって、それだけだい」
「ですからそういう事実を、坂森さんから一課長へ、直接報告するようにと」
「ほいほい、俺から課長へ直接、な」
「それから坂森さんは秩父中央署へ残って、現場の指揮をとるようにと。私は寄居へ帰って連絡係を務めます」
「そうかい。そりゃまたご苦労なこった。とにかくこれが寄居の事件と連続してることだけは、間違いねえ。今の問題ってのは一時間でも早く、被害者の身元を割り出すことだがね」
タバコの煙を長々と吹かし、付近に散っている所轄の刑事たちを遠くに眺めながら、坂森はほっとため息をつく。
「楠木くん、聞いての通りだ。しばらくはおたくの所轄に厄介をかけらい」
「さっそく宿舎を手配します」
「よろしく頼まいね。いくら皆野の出だからって、今じゃはあ浦島太郎だい。実家へ帰ったら甥だの嫁だのその子供だの、煩《わずら》わしいことだしなあ」
「坂森さん、俺のほうは……」
自分でもタバコに火をつけ、濡れたズボンの裾を指先でつまみながら、短く煙を吐く。
「ホトケさんを武蔵医大の法医学教室まで搬送して、解剖にも立ち会う手はずなんだよ」
「ほい、ご苦労さん。なにしろバラバラも連続となりゃあ、県警としても大事件だい。一課が総掛かりになるかも知れねえよ」
「刑事部長も記者会見を開くだろうしね」
「その記者会見で被害者の衣服、顔や躰の特徴から遺留品の指輪や時計なんか、詳しくマスコミさんに発表して……まあ、そんなことは俺が、課長に電話しとくがね」
「連続といっても寄居と長瀞、特別捜査本部をどっちに置くんだか」
「それを蜂屋さんと課長が相談するんだんべ。どっちに置いたところでこいつは、課長直々のお出ましだい。ホトケさんの身元が割れて寄居の事件と結びつきゃいいが、そうじゃなかったらしばらくは、えれえ騒ぎさ」
短くなったタバコを名残惜しそうに眺め、それを携帯の灰皿に始末して、坂森は曲がり気味の腰に手を当てる。
「楠木くん、秩父ってとこはやっぱし、長靴が必要だいなあ」
「あ、はあ」
「靴下まで濡れてちまった[#底本「濡れてちまった」ママ]。どこか調達できるとこへ連れてってくれや」
「それでは、矢尾のデパートへ」
「あのデパート、まだつぶれてねえかい」
「はあ、なぜか」
「そりゃよかった。ついでに秩父中央署へ寄って、署長さんやら課長さんやら、皆さんに挨拶《あいさつ》もしておくべえ。これからは当分、おたくの所轄がスターなんだからよ」
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丸テーブルへ斜向きに座って、樺山咲が無表情に酒を飲んでいる。ラザロは店を開けたばかりだがすでに日は落ちきり、カウンターのスツールではアルバイトの珠枝が暇そうに頬杖をつく。まだ咲のほかに客はなく、マスターの八田もカウンターに座って梢路のつくった蕎麦水団を、不機嫌そうにつついている。本来なら好物の蕎麦水団に食欲がわかない感じに見えるのは、三日前から音信不通になっている、成子のせいだろう。
梢路はカウンターの内で茄子《なす》を洗い、その黒味をおびた紫色の美しさに、思わず頬をゆるめる。この秋茄子は荒川村の農家に寄って自ら収穫してきたもので、弾力のある小粒な重量感と皮膚を刺すへた[#「へた」に傍点]の質感が、なんとも愛らしい。梢路が初めてその農家に寄ったのは七月の終わりごろ、乗っていたバイクが山道で転倒し、膝と肘を打って顎をすり剥いたときのことだ。バイクも打ち所が悪くてエンジンがかからず、仕方なく痛む手足で山道を五キロほど、故障したバイクを押しおろした。やっと人家が見えてきたとき畑にいたのが農家の老婆で、梢路はその家ですり傷を洗わせてもらい、茶を振舞われて自動車の修理工場にも電話をさせてもらった。老婆は採れたての茄子と胡瓜《きゅうり》を庭先で洗い、胡瓜は丸ごと、茄子は薄切りにして生のまま、茶請けとして梢路に提供した。茄子を生で食べるという発想も、実際に生で食べたのもそのときが初めて。しかし採りたての茄子は皮も身も柔らかく、エゴ味はなくてかすかな甘味があり、なるほどこれが野菜の味なのかと、梢路は深く納得した。老婆に言わせると茄子も胡瓜もその他の野菜も、前日に収穫したものは「古くてはあ、食えたもんじゃねえべ」ということで、筍ですら採りたてならアク抜きをせず、生で食べられるという。そのことがあってから梢路は月に二、三度、荒川村の農家に出向いて老婆から野菜講釈を聞き、ラザロで使う食材もそこで調達するようになっている。
梢路は茄子を洗ってペーパータオルで水を拭い、まず二つ切りにしてから、形を崩さないようにペティーナイフで縦方向の薄切りをつくる。あとはその薄切りを扇形に開いて鰹節《かつおぶし》と醤油を添えるだけ、これまでも自分では生茄子を賞味していたが、客に出すのは初めてのことだ。
でき上がった茄子の薄切りを珠枝が咲のテーブルへ運び、二言三言話しただけで、ぶらりとカウンターに戻ってくる。咲がラザロの客になって今回が三度目、それでも咲はカウンターへは座らず、ほかの客と会話をすることもなく一人、黙々と酒を飲みつづける。最初の日にキープした新潟の五六八も今は二本目で、なるほど日本酒の一升ぐらいは、軽く飲むらしい。アル中かとの噂があって実際にも大酒を飲み、騒ぐでもなく歌うでもなく、泣くでもなく独りごとを言うでもなく淡々と酒を飲みつづける女子大生というのも、一般にはかなり、不気味だろう。
咲が生茄子をつまんで口に入れ、一瞬眉間に皺をつくってから梢路にしか見えない角度で、怒ったような流し目を送る。しかしその表情も一瞬に消え、小さくて青白くて唇だけが赤い咲の顔にまた、神経質そうな無表情が戻る。今夜の咲は頭に黒っぽいバンダナを被って下は膝の擦り切れたジーンズ、上は長袖と半袖のTシャツを重ね着にして、腰には金のチェーンを巻いている。足は素足に革サンダルだが、珠枝に言わせるとそれが、「すごーく格好いい」らしい。
マスターが蕎麦水団の鉢を傍にどけ、ぎょろりとした目玉を天井に一巡りさせたとき、表のドアが開く。それからまず香村麻美、そしてラザロでは見かけない二人の男が、つづけて店に入ってくる。一人は三十前のソフトスーツを着た大男、もう一人は猫背で萎びた感じの初老男だが、その初老男のほうはなぜか背広に、黒いゴム長靴をはいている。
麻美がまっすぐカウンターに歩いてきてマスターと梢路の顔を見比べ、立ったままカウンターに手をかけて、後ろの男たちをふり返る。
「マスター、この人たち、警察の方よ」
二人の男が同時に身分証をとり出し、麻美の後ろまで歩いてきて、目顔でマスターに挨拶をする。
「麻美さん、大手柄だな」
「なんの話?」
「カモシカの密猟者とかってやつ、見つけたんだろう」
「そんな……マスター、テレビを見てない?」
「昨夜の深夜映画は見たよ」
「そうじゃなくて、夕方のニュースは?」
「店にテレビはないだろう」
「そうか。ショウちゃんの部屋にも……」
言いかけて言葉を呑み込み、唇の端に皮肉っぽい力を入れながら、麻美が顎の先を左右にふる。
「私ね、ちょっと前まで秩父中央署の記者クラブにいたの。記者クラブといってもべつに……いえ、それはともかく、その記者クラブで夕方のニュースを見ていたら、ね。あとは楠木さん、あなたから話して」
「はあ、実は……」
楠木と呼ばれた刑事が麻美の背後からマスターを見おろし、暑くはないはずなのに、ハンカチで首筋の汗をふく。
「実は今日の午前中、長瀞の山中で女性の遺体が発見されましてね。それが何というか、手足がバラバラで、おまけに身元が確認できるような所持品も、一切なくて。そこで大よその背格好や顔の特徴、その他衣類や腕時計なんかを、テレビを通じて公表した次第です。そうしたところ香村さんが、こちらのお店に勤めている女性に、似ていると」
カウンターの端が音を立てたのは、珠枝が灰皿を落としたからで、珠枝本人もスツールからずり落ちそうな格好のまま、ぽかんと口をあけている。
「ねえマスター、成子さんと連絡がとれなくなったのは、月曜日の夜からよね」
「うん、まあ、そうだ」
「今日が木曜日、あれからやっぱり、連絡はないわけでしょう」
「ケイタイには電話してるけど、通じない」
「成子さんがしていた腕時計、カルティエのタンクフランセーズ[#参考資料]だったと思うけど」
「時計屋の商標なんか、知らんなあ」
「あ、私、覚えてまーす」
「やっぱりカルティエのタンクフランセーズ?」
「そうそう。何年か前、誰かからプレゼントされたやつだって。買ったら四、五十万円はするやつですよ」
「珠ちゃん、ルビーの指輪は覚えてないかしら」
「成子さんの?」
「そう」
「楕円形で台がプラチナで、周りに小さいダイヤが嵌ってるやつ?」
麻美が横目で二人の刑事に確認し、楠木が丸い小さい目を見開いて、大げさにうなずく。
「その指輪らしいわ。覚えてるの」
「だってあのルビーだって、買えば五十万円はするし」
「服はどうかしら。最近成子さん、茶とベージュがイージーストライプになった、半袖のワンピースを着てなかった?」
口のなかでゲップのような音を立てたのは、今度はマスターの八田。マスターはうっそりと席を立ってカウンターの内へまわり込み、パイプにダンヒルのタバコを詰めながら、分厚い唇をゆがめる。
「マスター、その服を?」
「イージーストライプってのはよく分からないが、そんなようなワンピースは、まあ、着てた気がする」
「ベージュ色の薄いカーディガンは」
「そんな服も、たしか、持っていた」
「そうすると、やっぱり」
「や、や、や、そうするとやっぱり、これはナンですなあ、残念ながらそういう可能性が、高くなるわけで」
麻美と楠木の間から肩をわり込ませ、よっこらしょというようにスツールへ腰をのせて、初老の刑事が両手で皺顔をこする。
「で、清水成子という女性は、いつごろからこのお店に?」
「半年近くになるかな」
「香村さんに伺ったところによると、地元の人ではないとか」
「東京ですよ。荻窪だか西荻窪だか」
「秩父に親戚とか、あるいはごく親しい人間なんかは」
「聞いていない。たぶんいないだろう」
「地縁も血縁もない女性がなぜ秩父なんかに……まあ、それは後で伺うとして、清水さんのお住まいは」
「ここから十分ほど歩いた上宮地のアパート」
「そのアパートに被害者は……いや、つまり清水さんは、お一人で」
「うん」
「とすると、清水さんと一番親しかったのは、このお店の方々、ということになる」
「私とは経営者と従業員、彼と彼女にはアルバイト仲間、麻美さんたちとは客と従業員、ただそれだけのことでね。親しかったかどうかは考え方の問題だ」
「ほーう、マスターは八田さんとおっしゃる?」
「うん?」
「や、や、そこに貼ってある保健所の営業許可証が、目に入りましてな。それはそれとして、いずれにしてもどなたかに、被害者の身元確認を願いたい。顔を見てもらってもし清水成子さんでないと判明すれば、それはそれでまた、お目出たいことでしょうがね」
初老の刑事が皺深い目をしょぼつかせ、マスター、梢路、珠枝の顔をゆっくりと見比べてから、肩越しに後ろの楠木をふり返る。
「そういうことだよ。楠木くん、パトカーを一台、緊急に回してもらえや。熊谷の武蔵医大ぐれえパトカーでぶっ飛ばせば、一時間もかからねえべ」
楠木がうなずいてすぐに携帯電話をとり出し、その場で簡潔に、パトカーの手配をする。
「楠木くん、パトカーにはお前さんも同乗してくれや。俺は清水さんのアパートを調べるからよ」
「はあ、それで、遺体の顔改めは?」
「八田さんか、そっちの若え衆か、まさかこっちのお嬢さんてわけにも、なあ」
「坂森さん、私が行きます」
「香村さんが」
「田舎新聞の記者でも一応は記者です。それにもし被害者が清氷成子さんだと確認されれば、私にとっては一生に一度の、大スクープです」
「そりゃそうだろうが、マスコミの人を事件に関らせるってのは、どうも」
「最初に通報したのは私ですよ。マスコミといったって秩父地方に限定された、タウン誌みたいなもの。普段は通信社からニュースを買うだけで、こちらから一般紙にニュースを提供することなんか、まずないんです。だけど事件が秩父で起きたものなら、餅は餅屋、警察としても地元の秩父新報に貸しをつくっておいたほうが、後々都合がいいと思うけど」
「ほーう、奇麗な顔に似合わず、強引な記者さんだがね」
「一生に一度、この記事はお母さんのスクープなんだと、十歳の息子に自慢させてくださいよ」
「今度は親子のヒューマンドラマかい。まあナンだ顔改めなんぞ身内でなきゃ、誰でも同じだんべがなあ」
「恩に着ますし、協力もします」
「胴体から離れてる首を見て気絶しても、知らねえよ」
「気絶したらそのときの体験も手記にして、東京の出版社に売り込むわ」
「いやはや、なんともまあ、そういうことだから楠木くん、地元は地元同士ってことで、あとはお前さんに任せらい」
坂森という初老の刑事が上着のポケットからタバコをとり出し、量の少ない白髪頭を掻きながら、抜き出したタバコに火をつける。そのとき店の外にパトカーのサイレンが聞こえ、坂森が短く煙を吹いて、ぴしりと自分の頬を叩く。
「よう楠木くん、サイレンを鳴らすのは店から離れたところまでって、制服さんたちに言わなかったんかや」
「はあ、ちょっと」
「パトカーも警官も、一般の人たちにゃ迷惑なもんだってことを、忘れちゃいけねえがね」
「申し訳ありません。以後、注意します」
「まあナンだ、顔改めをして当りだったら、お前さんから直接、県警本部へ連絡をしてくれや。俺のほうには当りでも外れでも、一応は電話をな」
「承知しました。では香村さん、大学病院まで、お願いします」
楠木が大柄な躰をゆすってドアへ向かい、麻美がマスターと珠枝と梢路に、それぞれ相手に相応した会釈をする。
「とにかく帰ってきたら、またお店に寄るわ。でもこのこと、まだ他のお客たちには内緒にね」
楠木につづいて麻美もドアを出て行き、すぐにパトカーのサイレンがやんで、店のなかには奇妙に湿度の高い、饐《す》えたような空気が漂いだす。丸テーブルでは樺山咲が知らん顔で酒を飲みつづけ、マスターの吹かすパイプの煙に坂森刑事の吹かすタバコの煙が絡み合って、投網《とあみ》のように梢路の顔へ押し寄せる。
マスターが珠枝に、缶のバドワイザーを渡して丸テーブルのほうへ顎をしゃくり、珠枝がカウンターを離れていって、テーブルの咲と同席をする。麻美は「他のお客にはまだ内緒に」と言ったが、窓際には他の客である咲が店にいて、それにビッグニュースを溜め込んだときの珠枝の口は、素直に軽くなる。
坂森が何服かタバコを吸って、とんとんと灰皿につぶし、煮染《にし》めたような色のネクタイを緩めながら、皺目の皺を深くする。
「八田さん、いやあ、実にお懐かしい。覚えておられませんかね、ほれ、警察学校で同期だった坂森、坂森四郎ですがね」
「やっぱりな。どこかで見た顔だと思ったんだが、麻美さんが坂森さんと呼んだので、思い出したよ」
「まったくまったく、私のほうももしやと思って、それで保健所の営業許可証を確認したんですわ。そうしたところが名前が八田芳蔵、髪のほうはちょっとナンですが、その体格にそのぎょろっとした目で、こりゃもう間違いないと。なんとも奇遇ではありますが、いったいあれから、何年がたちましょうかなあ」
「さあ、三十年か、四十年か……」
マスターが太鼓腹の上で両腕を組み、パイプの煙を長々と吹かしてから、壁にかけた宗教画のあたりに目を細める。坂森とは警察学校の同期ではあるが高卒と大卒の差があって、歳は八田のほうが上。見習いの警邏《けいら》係を一緒に勤めてあとはお互いに本庁採用になり、八田は公安、坂森は警備に配属されたはず。覚えているのはそこまでで、八田のほうはその七年後に警察を辞めたから、坂森の言う「あれから」がどの時点を起算にしているにせよ、とにかく三十年か、四十年の時間はたつ。
「しかし、ナンですなあ。まさかこんなところで八田さんにお目にかかるとは、思いませんでしたなあ」
「お互い様だよ。坂森さんはいつから秩父の所轄に?」
「いやいや、現在もまだ、本庁の捜査一課に」
「さっき秩父弁を使ったろう」
「お忘れかも知れませんが、私、皆野の出でしてね。昼間冗談で喋ってみたら、はあ止まらねえってやつで」
「そうか、坂森さんは皆野の出身だったか。でもまあ本庁の捜査一課なら、ずいぶんの出世だ」
「なんのなんの、とんでもない。巡査部長の平刑事で、再来年はもう定年ですがね。ですが倅のほうは出来がよくて、鳶《とんび》が鷹といいますか、お陰さまで東京の警視庁へ、キャリアで奉職しております」
「ほーう、ゆくゆくは警視総監か」
「いくらなんでも……いやね、それはそれとして、八田さんはあれからすぐ、秩父へ?」
「いや。いろんな土地に暮らして、いろんな仕事をして、それから百姓でもやろうと思って秩父へ来たんだが、またあれやこれやあって最後はこの始末……ここにこの店を出して、そろそろ十年かな」
「なるほどね、しかし八田さんも、お元気そうで何より。こういう状況でなければどこかで、ゆっくり飲みたいものですなあ」
坂森がまたタバコをとり出して火をつけ、その坂森の前に梢路が缶のビールと、グラスを置く。
「お、いや、まだ仕事中で……」
「ビールの一本や二本、お茶と同じだろう」
「そりゃまあ、ねえ」
「仕事の邪魔はしないし、賄賂でもない。とにかく咽ぐらいは潤してくれよ」
「まあ、ナンですな。たしかにお茶をいただきたいと思ってたところで、相手が八田さんとあっちゃ、お断りもできませんなあ」
カウンターの上にぷかりと煙を吹き、皺深い目を呑気《のんき》そうに笑わせて、坂森がしゅっと鼻水をすする。
「で、こちらの若い方は」
「甥っ子で、去年から店を手伝わせている」
「ほうほう、甥御さん」
「変わった性格で世間のことには一切無関心だから、気にしなくていいよ」
「なるほど。最近はそういう若い連中が多いようで、これも時代ですかなあ」
皺目の奥からじろりと梢路の顔を値踏みし、それから缶のビールをグラスに空けて、坂森がまた、短くタバコの煙を吹く。
「その、ねえ八田さん、思いがけず懐かしい方にお目にかかれたってのに、無粋な話で恐縮なんですが……」
「その遣体、成子と決まったわけではないだろう」
「ごもっとも。いや、ごもっともではあるんですが、ただどうも、私の勘が、ねえ」
「成子らしいと」
「時計や指輪やワンピースの柄や……清水成子さんという女性の、お歳は」
「三十一だったか、二だったか」
「身長は百六十センチ、体重は四十五キロ」
「体重のことは分からないが、背はそんなもんかな」
「月曜日の晩から連絡がとれなくなったということは、今日で三日目。なぜ捜索願を出されんのです?」
「身内でもないし、東京に急な用ができて、帰ったのかとも」
「最近の若い女ってのは、ぷいと現れたり、ぷいといなくなったり」
「うん、そういうこともあるな」
「実はですなあ、私……」
グラスのビールを番茶のようにすすり、短くなったタバコを灰皿につぶして、坂森がぽりぽりと耳のうしろを掻く。
「実は私、今は寄居で起きた歯科医師の殺害事件を担当しておって……八田さん、あの事件のことは?」
「ニュースでは知ってる、一ヵ月ぐらい前だったと思うが」
「そうそう。三十二歳の歯科医師が殺されて、遺体は両手足と頭部がバラバラ」
「長瀞の事件も、たしか……」
「手口が同じなんですわ。まだ解剖の結果は出ておらんのですが、殺害後に鋸で頭部や手足を切断して、それを胴体の周囲に放り投げておく。いったい何の目的で……ま、それは追々判明するにしても、寄居の事件では捜査が行き詰まっておって、正直なところ、お手上げの状態でしてな。そこに発生したのが、この長瀞の事件、ということなんですわ」
「頭部と手足が、か」
「犯人は同一人物だと断定して、まず間違いない。となればまあ、清水さんと歯科医師とのつながりを追うことで、犯人にも行き着けるかと」
「しかし成子が殺されて、しかもバラバラにされたと言われても、まだ実感がわかない」
「や、や、ごもっとも。まああと一時間もすれば香村さんも熊谷へ到着して、そうなりゃすべてがはっきりしましょうが、ですがとりあえず清水成子さんという女性について、お聞かせ願えませんかね」
うーむと、マスターが鼻を鳴らしてため息をつき、くわえパイプのまま、切りそろえた顎鬚をさする。三日前から成子と連絡がとれないのは周知の現実、遺留品の指輪や腕時計や服装や、それに坂森が説明した身長や体重など、状況を考えれば長瀞の遺体を成子だと仮定しないほうが、不自然になる。
「八田さん、まず月曜日から連絡がとれなくなったという、そのあたりの事情を」
「事情といっても……」
手の中でパイプをもてあそび、消えているタバコに火をつけなおして、マスターがぷかりと煙を吹かす。
「ただ連絡がとれなくなったという、それだけのことさ。あの日の成子は夜の八時に店へ出る予定になっていた。二、三十分遅れることは前にもあったので、しばらくは放っておいたんだが、それが九時を過ぎても顔を出さない」
「ほうほう、で?」
「ケイタイに電話をしたよ」
「もちろん電話はつながらなかった」
「そういうことだ。部屋に固定電話はないし、だからこの甥っ子に、アパートへ様子を見に行かせた」
「甥御さんにわざわざ」
「歩いてもすぐだし、それに店も暇だったから」
坂森が皺目を細めてビールをなめ、ちらっと梢路の顔をうかがう。
「で、アパートへ行ってみたら?」
「クルマは駐車場にあって、部屋の電気はついていませんでした」
「部屋のドアを、ノックは?」
「いえ」
「どうして」
「電気のついていない部屋をノックする必要は、ないと思いました」
「理屈では……まあ、とにかく、それを聞いて八田さんは、東京にでも出掛けたのか、と思われた」
「うん」
「以前にもそんなことが」
「いや、なかった」
「地元の人間でもない清水さんが、どういう経緯でこのお店に」
「さっき坂森さんが言ったとおりだよ」
「と、仰有《おっしゃ》ると」
「半年前に、タウン誌にのせていた募集広告を見たといって、ふらっと現れた」
「ははあ、なるほど」
「温泉に行った帰りだったか、何だったか」
「そのふらっと現れた見ず知らずの女性を、八田さんは、すぐに雇われた」
「雇ったといってもこんな田舎スナックの、ただのアルバイトだ。長く勤まるかそれともすぐに辞めてまた、ぷいとどこかへ行ってしまうか。そんなことはこっちが覚悟をしておけば、いいだけのことさ」
マスターが長々と煙を吹いてその煙に目を細め、禿げあがった額に浮いてきた粒の大きい汗を、手の甲で拭きとる。そのときジュークボックスがプレスリーの『ラブ・ミー・テンダー』を流しはじめ、坂森の皺顔がひょいと、うしろのテーブル席をふり返る。
しばらくプレスリーの歌に耳を傾けてから、カウンターに向き直って、坂森が新しいタバコに火をつける。
「なんとまあ、ねえ、プレスリーとはお懐かしや。こう見えても私、若いころはプレスリーのファンでして、さかんにドーナツ盤を集めたもんでしたがね」
「ふーん、そうかね」
「ところでねえ八田さん、その、ナンですわ、清水さんは寄居の歯医者まで、通っておりませんでしたかな」
「歯医者なら秩父にだってある」
「ではありましょうが、治療の技術やら何やら、やっぱりね」
「私生活に干渉はしなかったが、寄居まで通っていれば知れたはずだ」
「いや、ごもっとも。それでは逆に、近藤という歯科医がこの店に来たようなことは」
「近藤というのが一ヵ月前の?」
「同じ手口で殺されて、バラバラにされた被害者ですがね」
「この店の客はほとんどが常連でね。よそ者が来れば一目で分かるし、覚えてもいる」
「つまりは、来ていないと」
「断言してもいい」
「そうですか。そういうことですと、あっちはどうですかな、いわゆる滑水さんの、男関係なんかは」
「そんなこと一々……」
「従業員の私生活に、干渉はなさらない」
「それが俺の主義だよ」
「客のなかで特に親しかった人間とか、あるいは清水さんに、惚れ込んでいた男とか」
「仮にな、成子が誰かとつき合って、誰かとできたとして、一々報告なんかするもんか。この店は置屋じゃないし、俺だって売春婦のヒモじゃないんだから」
「ま、ま、これは一応、捜査の手順というやつで」
「だからさ、そんなことは長瀞の遺体が、成子と決まった後のことだろう。やっぱり東京に用事ができて、それで今夜あたりひょっこり、帰ってくるかも知れない」
「そうでしたな。いや、これは私としたことが、とんだお先走りでした。なにせ寄居の事件に埒があかんもんで、内心焦っておるのですよ。手順としては清水さんのアパートを拝見させていただくことのほうが、先でしたなあ」
恐縮したふうもなくタバコを吹かし、残っていたビールを飲み干して、坂森がぴちゃぴちゃと舌を鳴らす。すでにプレスリーは歌い終わって店には静寂が戻り、丸テーブルでは頬杖をついた咲に珠枝が小声で、何かをささやいている。
梢路はカウンターの会話やテーブル席のささやき声を空調と同じようにやり過ごし、茄子と一緒に仕入れてきたジャガ芋でマッシュポテトをつくりつづける。このマッシュポテトは牛蒡《ごぼう》や玉葱《たまねぎ》と和えてサラダにもなり、客の希望によってはコロッケにもなる。
「さあて、ちょっと一服のつもりが、とんだ長っ尻になりましたがね。八田さん、そろそろ清水さんのアパートまで、ご案内願いましょうかな」
マスターの視線が煙の向こうから梢路の顔をうかがい、梢路は肩の動きだけで返事をして、ジャガ芋にぐっと拳を押しつける。蒸《ふ》かしたジャガ芋は指でつぶすのが効率もよく、固さや食感にも自由な調節がきく。
マスターが巨躯をかがめてカウンターをくぐり、坂森もスツールをおりて、フロアにぎゅっと、長靴のゴム音をたてる。二人はそのまま凸凹の漫才コンビが舞台を去るように店を出て行き、梢路はステンレスボールのなかで黙々と、蒸かしたジャガ芋をつぶし続ける。
それから少し間をおいてジュークボックスがレターメンの『ミスター・ロンリー』を流しはじめ、それからまた少し間をおいて、珠枝がテーブル席からカウンターに戻ってくる。
「ショウちゃん」
「………」
「ショウちゃん」
「うん?」
「樺山さんがね、茄子のおかわりだって」
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伊豆沢、白沢、柏沢、塩沢と、この両神という地区は「沢」のつく地名が多い。梢路は塩沢を過ぎたあたりの県道傍にマスターから借りてきた古い四輪駆動車をとめ、薄川《すすがわ》の河原につき出した大岩に腰をのせて、持参のコーヒーに口をつける。背負ってきたデイパックのなかにはコーヒーのポットとサンドイッチ、それにタオルやティシューや秩父地方の地図やアーミーナイフや折りたたみ式の鋸や、一応の必需品が揃っている。
頭上でモズが鳴き、ケヤキの枝をゆすって陽射しのなかに黒い影をつくる。両神も小学校のある長又付近を過ぎると平坦地は一切なくなり、この塩沢辺りまで来ると薄川の両岸に山が迫って、風の温度も変わってくる。県道の行きつく先は日向《ひなた》大谷《おおや》、クルマが入るのはそこまでで、日向大谷から両神山の山頂までは徒歩になる。梢路はまだ登っていないがその山頂にはイザナギ、イザナミの二神を祭った神社があり、地区の名前もそれに由来するという。両神村が小鹿野町と合併したのは最近のことで、土地の人間は相変わらず両神を村といい、山も村名もリョウガミではなく、リョウカミと呼ぶ。
梢路はポットの蓋に注いだ一杯目のコーヒーを飲み干し、サンドイッチの包みを開いて、薄川の水面に目を細める。幾日か雨が降ったせいか水量が多く、大岩に遮られた流れが渦を巻いてトチの枯葉を巻き込んでいく。両岸に迫る山には垂直に近い斜面にまで杉や檜が植林され、その所々にパッチワークで継《つ》ぎ接《は》ぎをしたような雑木林《ざつぼくりん》がある。
長瀞で発見された遺体が成子のものであると確認されてから、今日で四日目。マスターは店を休まず、それに週末も重なって常連客が多く顔を出し、ラザロは緊張感のある陰気な盛況をみせている。誰もが成子の話題を口にし、しかし深くは言及したがらず、そのうちに酒量が多くなって最後はマスターにピアノをひかせ、愛の讃歌だの山男の歌だの、どうでもいい歌をうたってしまう。だからといって梢路の日常は変わらず、酒の仕度や料理の注文に応えながち、たまに「成子さんは残念なことをした」という客の呟きに相槌をうち、そしてたまには客がすすめてくれるビールや焼酎に、黙って口をつける。忙しくて単調な時間を律儀に消費しながら、梢路が思うのはただ、店に新しいアルバイトが必要かな、という程度のことだった。
朝食昼食兼用のサンドイッチを食べ終わり、ポットから二杯目のコーヒーをついで、梢路は大岩に寝そべる。頭上のケヤキが晴れた空にちらちらと影をつくり、ピンで刺すような陽射しを気まぐれに送ってくる。岩の感触は固くて冷たくて誘惑的、放っておけばまどろんでしまうことは分かっていて、そして実際に梢路は、少しまどろむ。悲しくもなく楽しくもない人生という無駄、その無為な時間がこのまま消滅してくれないかとは思うものの、ただ寝そべっているだけでは長い人生を消費しきれない事実もまた、梢路には分かっている。
眠っていたのは五分か十分か。梢路は身を起こしてコーヒーを飲み干し、ポットやサンドイツチの空き袋をデイパックに始末して、ひとつ背伸びをする。今日は起きたときから天気がよくて風も穏やか、それで両神山へ登ってみる気になったのだが、河原で休んでいるうちに気分が沈滞したらしい。このところ連夜明け方近くまで客が集って、考えてみればずっと寝不足がつづいている。
両神山への予定を変更し、大岩をおりて、梢路は河原へくだって来た踏み分け道を上の県道までひき返す。そこでクルマの助手席にデイパックを放り、エンジンをかけてシートベルトをしめる。今日はこのまま部屋へ帰ってもう一度昼寝をし、それでもまだラザロの開店時間に間があったら百科事典でも読んで、時間をつぶせばいいだけのことだ。
ギヤをパーキングからドライブに入れようとしたとき、前方の藪に気配が起こって、藪内から郵便配達のバイクが走り出る。赤い郵便バイクは県道を日向大谷の方向へ登っていき、間もなくエンジン音も消えてしまう。そのバイクが出てきた藪はさっき梢路がクルマをUターンさせた場所で、そこは材木の切り出し用に開いただけの、ただの空き地ではなかったか。もちろん郵便配達だって休憩はとるだろうし、小便もする。しかし藪の内側からはかなり長くエンジン音が聞こえていたはずで、そのエンジン音は決して、停車中の空吹かしではない。
梢路はギヤをドライブに入れ、五十メートルほどの距離をゆっくりと藪前まで走らせる。着いてみるとやはりそこはただの空き地で、クズの葉とアケビと何かの蔓草が小山のように茂って絡みつき、山への林道も踏み分け道も見られない。県道にはたまに沢の支流のような枝道があって、それがずっと山奥までつづいていたり小集落に行き着いたり、意外な面白さを提供することがある。ただそんな枝道にはかならず人間の気配があるもので、この空き地には新しい轍も草を刈った跡も、何も見られない。この付近は狸や狐も多いというから、さっきの郵便配達は暇な狸が暇な梢路に、余興でも見せてくれたものか。
頬をこすりながら苦笑し、それでも好奇心に動かされて、梢路はクルマをおりて二十メートルほど先にあるつき当りまで進んでみる。そこにもやはり轍や人間の踏み跡はなく、しかしかすかに雑草が倒れていて、草の上には新しいタバコの吸殻が放ってある。最近の狸はタバコを吸うのか、と独りごとを言ってひき返そうとしたとき、視線の角度が変わって茂みの奥の空間が目に入る。それは正面からではクズの葉が衝立のように被っている狭い隙間で、改めて眺めてみると雑草もほんのわずか、その方向に倒れている。郵便配達がいくら公共意識に篤《あつ》くても、小便をするぐらいのことでわざわざ、こんな草陰に隠れることはない。
梢路は一度クルマに戻ってキーを抜き、それからまた草藪のその隙間を、何秒か点検する。人の気配はないが人間が一人通れるほどの幅はあり、バイクでの通り抜けも可能らしい。藪の向こうは植林された杉の林らしく、それが切り立つように頭上へ迫ってくる。こんな地形の向こう側に人家があるとは思えないが、さっきの郵便配達もまさか、狸ではないだろう。
ほっと軽く息をつき、梢路はその暗い藪内に足を踏み込ませる。笹や蔦や何かの枝が両側から梢路の肩をこすり、頬にもぴしぴしと小枝がかすっていく。それでも踏み分け道らしい空間は意外に平らで、梢路は岩にも倒木にも邪魔をされず、百メートルほどを進む。藪を突き抜けたところは思ったとおりの杉林、雑草は姿を消してまばらながらも陽がさし込み、土の匂いと湿った木肌の匂いが清潔に漂いだす。その杉林の奥へも古い踏み分け道がつづいていて、所々に平らな敷石で補修したような跡もある。
梢路はそこでしばらく呼吸を整え、それから額の汗をぬぐって、登山さながら細い山道をのぼり始める。道は蛇行しながら徐々に高度をあげていく構造で、杉の植林地の途中にタラの林があったり炭焼き窯跡の石組みが残っていたり、なるほど生活の痕跡がある。
山をいくつか回りこんで高度も相当にあがり、直線距離にして七、八百メートルも進んだころ、突然道が途切れて踊り場のような平坦地に出る。そこには樹齢何百年かと思うような杉の古木がそびえ、その前には柿葺《こけらぶ》きの屋根に苔の生えた小さい祠《ほこら》が祀《まつ》ってあって、靴跡やバイクのタイヤ痕も残っている。山道に慣れない梢路でさえたどり着いたのだから、さっきの郵便配達もたぶん、ここまでバイクで登って来たのだろう。つき当たりの崖には岩を削った階段状の足場がつづき、空もいくらか明るくなって、階段道の向こうには確かに、開けた土地があるらしい。
梢路は大きく深呼吸をし、汗をハンカチでぬぐって、そしてそのとき、初めてその痛みに気づく。左腕の外側でシャツの袖をめくっていた部分、そこに長さ十センチほどの傷ができていて、流れ出した血が手の甲にまで滴《したた》っている。藪をすり抜けるとき笹の枝にでもひっ掛けたものか、あるいはどこかの岩にでもこすったか。梢路は流れ出る血の美しさにしばらく見とれ、それから血の甘さを味わいながらていねいに嘗《な》めとって、傷口をハンカチで被う。痛むことは痛むが強烈でもなく、傷の深さも血の量ほどではないだろう。
呼吸を整えなおし、祠に一礼をしてから、梢路はひとつうなずいて崖の改段道を登りはじめる。岩を削ったステップ幅は足裏がちょうど掛かる程度、それがほぼ四十五度の角度で十五メートルほどつづき、それから少し角度がゆるくなって崖を向こう側へまわり込む。崖道はそこからも山頂を目指すように曲がりくねり、百メートルも登ったかと思ったあたりで、やっと低い尾根を越える。そこに来て一気に視界が開け、西からの陽射しと一反ほどの小畑と、それからまだ青い実をふんだんにつけた柿の木や崩れかけた石垣や黒いトタン屋根や半壊した物置小屋や、長閑《のどか》な山里の風景が切り絵のように広がってくる。トタン屋根の向こうからはすぐに植林された杉山がそびえ、畑も農家造りの家も朽ちかけた土蔵も、この空間全体が崖の途中にひっ掛かった、空中集落のように見える。秋父へ来て以来ずいぶん山のなかを走りまわったはずだが、これほど狭小で山深い集落に出会うのは、初めてのことだ。
梢路は呼吸を整えながら集落の佇まいを観察し、そこだけ草の刈ってある石垣伝いの道を、ゆっくりと建物のほうへおりてみる。道は人間が歩く部分だけ草が刈られ、それ以外はイラ草やカヤツリ草がのび放題。剥がれた板壁にもクズの蔓が這いのぼって、二階の板戸にキツツキの仕業《しわざ》らしい穴が開いている。そばへ寄ってみると相当に規模の大きい木造の農家で、手前の家のほかにも一棟か二棟、同じ構造の家があるらしい。道の先は家の前面につながっていくらか幅も広がり、咲き残ったカンナが一株、鮮やかなオレンジ色の花をつけている。家の裏手にも庭の下にも石垣が積んであるから、集落の家々はみんな、山の斜面を切り開いて建てたものだろう。
狭い庭を歩いていくと雨戸を開け放った広い座敷が見え、土間の引き戸も開け放されていて、梢路は座敷と土間に一度ずつ、大きく声をかける。しばらく待っても返事はなく、そこで勝手に、集落見物を開始する。農家の庭はそのまま集落の通路になっていて、石段をおりて行くと今度は下の家、その家もトタン屋根を被せた農家造りだが人の気配はなく、雨戸も引き戸も締め切ったままで、もう長い間放置されているように見える。実際に庭部分にも雑草が茂って二階の手摺《てすり》は外され、戸のない物置小屋には錆びたネコ車が転がっている。そのとなりに軒を接してもう一軒、規模の小さい農家が建っているがこちらは引き戸のガラスが破れて壁そのものが傾き、埃の積もったサンダルやビールの空き瓶が廃屋の臭気を発してくる。ほかには屋根が崩れて壁がむき出しになった土蔵、古材木を積んだまま放置された戸のない作業小屋、庭の隅に密生した茗荷《みょうが》の葉や錆びた缶詰の空き缶と、どうやらこの集落で人が住んでいるのは上の、一軒だけらしい。それでも狭い敷地に植わった五本の柿の木はたわわに実をつけ、柚子《ゆず》や山椒《さんしょう》も古木となってそれぞれに実をつけている。向かいの山は石を投げれば届きそうなほど近く、耳を澄ますとどこかから沢音が聞こえてくる。
梢路は空き家と廃屋と停滞した時間の美しさにしばらく見とれ、それからきびすを返して、石垣積みの細道を上の家へ戻りはじめる。素人積みの石垣は何ヵ所も崩れて木の杭《くい》で補修され、その杭を伝って一メートル以上もある青大将が、のんびりと逃げていく。
蛇を迂回し、さっき降りてきた石段をのぼって上の家に戻ったとき、土間の前で、梢路は老人の視線に迎えられる。老人は右手に鎌を持って左手に何本かの葱《ねぎ》をぶら下げ、まるで何年間もそこに立ちつづけていたような風情で、じっと梢路の顔を見つめてくる。頬はこけ落ちて白い眉毛が眼窩にかぶさり、五分刈り程度の髪はすでに真っ白、地下足袋をはいて茫洋とたっている足腰は丈夫そうだが、歳は八十を過ぎているというより、九十に近いだろう。
「お邪魔しています。声をかけたんですが返事がなかったので、勝手に集落を見させてもらいました」
老人の口がもぐもぐと動き、何秒かしてやっと入れ歯が嵌ったらしく、その皺に被われた厚い唇からぼそりと、言葉が漏れる。
「兄《あん》ちゃん、怪我あしたんけえ」
「はあ?」
「腕から血が出てるべえ」
「はい、でも……」
「木の枝にでもこすったかね」
「たぶん」
「世話あなかんべが、洗っとくがいいや。今の若《わけ》え衆は蚊に食われたの蛇に咬まれたのって、はあ直《じき》に死んじまうからよ」
老人が鎌と葱を戸口わきへ放り出し、自分から先に土間へ入って、顎で梢路をさし招く。梢路は暗くてだだっ広い土間に足を入れ、煤けた梁《はり》や天井や磨き込まれた床板の年季に、思わず感嘆する。荒川村の農家も築五十年と聞いているが、この家の古さはたぶん、そんなものではない。座敷の梁は一抱えもあるほど太くて無骨、土間につづく板の間には囲炉裏《いろり》が切ってあって、囲炉裏には時代劇で見るような自在鈎が吊ってある。土間の台所には二口の竈《かまど》が据えられ、流し台は目地が黒くなったタイル張り。むき出しの水道管には凍結防止用のテープが巻かれているから、山からの湧き水でも引いているのか。台所には竈のほかに七輪があるだけでガス台はなく、古い大型の冷蔵庫がかろうじて、この家の電気事情を教えている。
梢路は左腕のハンカチを解いて傷を水道で洗い、その傷にまたハンカチを被せて、老人に一礼をする。
「兄ちゃん、写真家とか画家とか自然環境ナントカ家とか、そんな商売かい」
「いえ、秩父の市内で、伯父のスナックを手伝っています」
「へーえ、そうかい。まあ何だか知らんが、来ちまったもんは仕様がねえ。茶でも振舞うから、上がって飲んで行きねえ」
老人が地下足袋を脱いで囲炉裏の間に上がっていき、誘われるまま梢路も靴を脱いで、老人につづく。囲炉裏のある板の間はせいぜい六畳ほどの広さで窓はなく、壁の一面全体が作りつけの茶箪笥《ちゃだんす》になっている。その板戸も壁も梁も天井も煤でまっ黒、ただ床と茶箪笥の戸は丹念に磨き込まれた時間の艶があり、壁の一角には東京電力のカレンダーが貼ってある。
「失礼ですけど、秩父でもこれだけ古い家を見るのは、初めてです」
「建ったのは祖父《じい》様《さま》の代だってから、はあ百五十年はたつべえよ」
「百五十年」
「ちょいと見は二階家に見えべえが、崖を削って建ててあるから、よーく見りゃあ三階建てなんさ。昔は二階と三階にオカイコ様を飼っておって、人間なんざ下ではあ、縮こまって暮らしてたい」
自在鉤からアルミの大薬缶《おおやかん》をとり上げ、出してある急須に湯を注いで、老人が囲炉裏の向こうに腰をおろす。囲炉裏には熾火《おきび》[#「熾火」赤くおこった炭火・消し炭]のような炭が燃えていて、薬缶に対しては電気ポットのような役割を果たすらしい。
老人が梢路の前に古い湯呑を置き、自分でも筒型の湯呑をとり上げて、しゅっと茶をすする。
「で、兄ちゃんはなんだってまた、こんな奥離《おくり》まで来なすったね」
「ちょっと、好奇心で」
「そいつは奇特なこった」
「郵便屋さんが県道に出てこなければ、集落への道も分かりませんでした」
「ありゃおめえ、余計な人間が入えって来ねえように、隠してあるんだい。この辺も最近はアメリカ人の陶芸家だのちょん髷の写真家だの、奇妙な人間が多くていけねえからよ」
皺が人相のように固まった目でじろりと梢路の顔を眺め、それから腰をのばして、老人が茶箪笥の抽斗《ひきだし》から古くなった白い半紙をとり出す。老人は胡坐《あぐら》を組み直して半紙を二つ折りにし、何やら呪文のようなものを唱えながら、折った半紙を指でちぎり始める。その作業はほんの十何秒、開いて見せたのは案山子《かかし》を小さくしたような人形《ひとがた》で、それを囲炉裏越しに梢路へ渡してよこす。
「オシラ様を傷に当てときない」
「はあ?」
「傷にゃあそれが一番だからよ。昔は鎌の傷も蝮《まむし》の傷も、みんなオシラ様で治したもんだ。ヨモギの葉なんぞより、よっぽど効き目があるべえよ」
梢路は老人のすすめに従って左腕のハンカチを解き、オシラ様という紙人形を傷に当てて、その上に右手を添える。血はすでに滲む程度だから放っておいても「世話はねえべえ」が、こういう仙境地では神様の助力が、いくらか心強い。
「あの郵便屋もなあ、ご苦労なことに……」
木の恨のように太くて硬そうな指で湯呑をいじりまわし、まばらに髭の生えた頬をゆがめて、老人がしわがれ声を出す。
「用もねえのに週に一度、ああやってワシの様子を見に来るんだがね。役場の福祉課とかってとこから、頼まれてるらしくてなあ」
「電話は、ないんですか」
「婆さんが生きてるうちは使ってたが、はあ用はねえ。やたら人の声なんぞ聞いたら、煩わしいべえ」
ほかにご家族は、と聞きそうになって言葉を控え、梢路はかろうじて色と味がついているだけの薄い茶を、ひっそりと咽へ流す。家内《いえうち》にも老人以外に人の気配はなく、板の間につづく広い座敷にも一組の布団が積んであるだけで、テレビも座卓も鏡台も、何もない。下の二軒は空き家と廃屋だから、老人はこの弧絶した山深い集落でたった一人、仙人のように暮らしているらしい。
「兄ちゃんには信じられめえがなあ、先《せん》はこの家にだって、二十人がとこの人間が暮らしてたもんだい」
「はーあ、二十人も」
「爺様に婆様に孫に曾孫《ひまご》に、その嫁やら親戚やら作男やらまあ、賑やかなもんでよ。下の二軒も同じ塩梅だったから、はあ水争いが騒動でなあ。それに牛やら豚やら鶏《にわとり》やらも飼ってて、夕方んなるとはあ、戦争みとな騒ぎさあ」
この上の一軒に二十人、下の二軒で四十人なら合計が六十人。こんな狭い山肌の集落に六十人もの人間がひしめく光景は想像もできないが、老人の言う「先」はどうせ、戦争より前の話だろう。荒川村の老婆が話す昔話にもついひき込まれてしまう梢路は、老人たちの昔話に対しては意味もなく、百科事典に対するような興味を持つ。
「失礼ですけど、この小さい集落でそれだけの人たちが、どうやって」
「食ってたかってか」
「はい」
「そりゃおめえ、みんな山が食わしてくれたんさあ」
「はーあ」
「向かいの山だって、見ろい、今ははあみんな杉を植えちまったが、先はあれが陸稲《おかぼ》の畑でなあ。秋んなると山全部が金色にうねって、そりゃおめえ、見事なもんだったさあ」
老人が湯呑を囲炉裏端に置いてひとつ空咳をし、作業着の胸ポケットからタバコをとり出して、ゆっくりと火をつける。
「兄ちゃんら若えもんは知らねえべが、山ってのは有難えもんでよ。春にはタラッペにワラビにゼンマイ、それにウリッパだのモミジガサだのが喰いきれねえほど採れる。秋んなりゃ茸に栗にアケビに自然薯《じねんじょ》に、それに喰いたきゃあ熊だって兎だって、なんでも喰える。畑を開きゃあ芋も陸稲もつくれて、だから里のもんは裏に山を持ってるワシらのことを、ウラヤマシイと言ったんさ」
「はーあ、なるほど」
「それでも一番の恵みってのは、やっぱし木だんべなあ。今じゃ杉なんぞ売れもしねえが、昔は薪《まき》でも炭でも、いい値で売れたもんよ。その炭だって自分らで焼くんじゃねえ、冬んなると長野あたりから炭焼きの衆が渡ってきて、夫婦で山んなかに小屋を建ててなあ。赤ん坊なんぞいたらそこいらの木に縛りつけといて、一月も二月も、ずっと炭を焼いてたもんさ」
「炭焼きさんたちはいわゆる、山窩《さんか》ですか」
「兄ちゃん、山窩を知ってなさるかね」
「百科辞典で読みました」
「ほうけえ。まあ炭焼きが山窩かどうかは知らねえが、焼けた炭の六割とか七割とかが、ワシらの取り分さあ」
「はあ、うらやましい」
「だけんど春んなるとオカイコ様が忙しくなってよう、その分冬は安気なもんだ。長野の衆に炭を焼かしといて、ワシらは正月だの小正月だの次郎の正月だの。そのころんなると物売りや瞽女《ごぜ》様なんぞが回ってきて、はあ幾日も逗留してったもんさな」
「瞽女様というのは、たしか」
「それも百科事典かい」
「いえ、映画で」
「まあナンだ、目のみえねえ女子衆が何人か寄って、下のほうからよっこらよっこら、山を登ってくるわけよ。連中は鉦《かね》を叩いたり三味線をひいたり、唄をうたったり手踊りを見せたりなあ、そうやって長えときゃあ、一月も逗留してたっけが」
「はーあ、一月も」
「だっておめえ、下と違ってここじゃ食い物に困らねえ。戦争中だってなんだって、そこの納戸にゃあ缶詰が溢れてたもんだい。それに瞽女様が来りゃ、集落の女たちが着物を呉れたり櫛を呉れたり、風呂にも入れてやって髪も梳いてやって、はあ瞽女様たちには天国みとだったべえ」
「瞽女様は戦争中も?」
「それどころか、戦争が終わってからも、しばらくは通って来たい。ここいらに電気がひけたんが昭和三十何年で、そんときはたしか、瞽女様が来てたんべ。ワシにゃそんなに昔のこととも思えねえが、瞽女様も炭焼きの衆も、はあみんな、どこへ行っちまったんだか」
老人が短くなったタバコを囲炉裏の火に放り、湯呑をとり上げながら、深く息をつく。昭和三十何年なんて梢路にとっては気の遠くなるような昔だが、しかしマスターの八田ならそのときすでに、大学生ぐらいにはなっている。
「ひとつ、聞いて、いいですか」
「何だんべえな」
「昔はそれだけの人が住んでいて、集落も賑やかで、他所《よそ》からもたくさんの人が来て、それが今はお爺さん一人だけ。電話もなくてテレビもなくて新聞も来ないようだし、毎日が、淋しくありませんか」
老人の白い眉が一瞬上にひっ張られ、外れた入れ歯でも戻しているのか、しばらくもごもごと、顎が動く。
「兄ちゃん、バカなことを言っちゃいけねえ」
「すみません」
「人間なんざ誰でも、一人で暮らしていくのは、淋しいもんだい」
「そうですね」
「ワシだって若《わけ》えころは熊谷へも出たし、一時なんぞ、小鹿野で暮らしたこともあるがね。だけんどやっぱし山がよくって、帰ってきて嫁をとって子供をつくって……それが、時代ってやつだんべえなあ、材木も薪も炭も売れなくなって、今度は下の暮らしのほうが便利になって、気がついたら瞽女様も物売りも、誰も来やしねえ。集落の連中も秩父たら大宮たらへ出て行っちまうし、ワシの倅と娘も横浜へ出て行って、二人ともそこで死んじまったい。それで十年がとこ前に婆様が死んだときにゃ、正直ワシも、山を降りべえかと思ったさあ。だけんどなあ……」
老人が茶を一すすりしてタバコに火をつけ、こけた頬を節くれだった手でこすりながら、つき出た咽仏を、飴玉のように上下させる。老人の吐いたタバコの煙が熾火の気流にのって天井へ流れ、その煙もすぐに、梁や柱の煤に紛れていく。
「だけんどよう、そんときワシも、考えたいなあ。下の里へ降りて、いったいワシは、誰に会いてえのかってな。毎日毎日考えて、そしたらワシには会いてえ人間なんぞ、はあ一人もいねえことに気がついた。ワシが会いてえのは婆様と倅と娘と、それだけさあ。ワシが山を降りべえかと思ったのはただ淋しかったからで、会いてえ相手や暮らしてえ相手がいたからじゃねえ。だとすりゃあよ、そういうことは人様に対して、失礼になるべえ」
「よく、分かりませんけど」
「ただ淋しいからってお他人様と関るのは、そりゃ関る相手に対して、失礼だべえってことだい」
「はあ、そうですか」
「人間なんざ一人で生きるのは、誰だって、みんな淋しいもんだがね。だけんど逆に、その淋しさが我慢できりゃあ、ほかの事はなんでも我慢できる。貧乏も病気も歳をとることも死んでいくことも、生きてる淋しささえ我慢できりゃあ、人間てえのは、はあ何でも我慢できるべえよ」
土間から虻《あぶ》が舞い込んで囲炉裏の間を一周し、ぷーんという羽音を残して表の明るみに消えていく。庭のカンナには赤っぽいシジミ蝶がたわむれ、どこかで柿の実でも落ちたのか、トタン屋根が固い落下音をひびかせる。山が深いせいか日の翳《かげ》り方が早く、下の里からはもうカラスが帰ってくる。
「だけんどなあ、兄ちゃん」
「はい」
「生きてることが、そんなに辛えかい」
「どうしてですか」
「そういう顔をしてるからよ」
「自分では分かりません」
「おめえは、なんてえか、親からはぐれた猪子坊《うりんぼう》みてえな顔をしてらあ。どうせ頭はいいんだんべから、普段は誤魔化せるんだろうがよ」
梢路はぬるくなった茶を飲み干して足を組みかえ、オシラ様をめくって傷口の具合を確かめる。血がすっかり止まっているのは神様のご利益か、それともたんに、右手で押さえていたせいか。
「生きてることが辛いのか辛くないのか、それは、分かりません。でも死ぬまでの時間をどうやってつぶそうかと思うと、茫然とします」
「何もしねえで、じっとしてりゃいいべ」
「はい」
「死ぬまでの時間が長えか短けえか、そんななあ頭のなかのカラクリだい。飯を食って仕事をして酒でも飲んで、ついでがあったら女房でももらって子供をつくって、そうやってじっとして生きてりゃあ、自然にお迎えが来らいね」
「じっとして……そうですか」
「本心から会いてえ人間がいるのか、いねえのか、兄ちゃんも一度よーく、自分に聞いてみることだいなあ」
老人が茶の残りを囲炉裏の灰に空けて空咳をし、首に巻いたタオルで、滲んでいる鼻水をぬぐう。梢路がこの集落までたどり着いてから、せいぜい一時間。囲炉裏の間に腰を落ち着けてからだって三十分もたっていないはずだが、梢路には既視感に似た安堵と親しみが感じられて、もう体質になっている鬱屈にほんの少しだけ、気楽な風が吹く。
「傷、治ったみたいです」
「治っちゃいめえが、血は止まったべえ」
「はい、有難うございました」
「なんてったって傷には、オシラ様が一番だい」
「はい。それからお茶を、ご馳走さまでした」
梢路は膝に手を添えて老人に頭をさげ、腕の傷にハンカチを巻きなおして、腰をあげる。老人が梢路を歓迎しているのか、疎んでいるのか、いずれにしても梢路自身は老人の昔話に対して、たっぷりと未練がある。
「秩父へ帰って、仕事の支度をします」
「ほうけえ。まあナンだ、来てもらっても茶ぐらえしか出ねえが、気が向いたらまた登って来ない」
「はい、またお邪魔します。今日は突然に伺って、失礼しました」
老人はうなずいただけで腰をあげず、梢路はその老人にもう一度頭をさげて、囲炉裏の間から土間へおりる。放り出された葱にとまっていたアシナガ蜂が梢路を見あげ、何度か羽を震わせてから、ぷいと台所の暗処《くらみ》に消えていく。
土間を出て庭を歩いてカンナの前を通り過ぎ、そして梢路は、「あの葱、生で齧《かじ》ったら美味《うま》いんだろうな」と、声に出して独りごとを言う。
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窓辺に立つと眼下に荒川の河川敷が見渡せる。もっともそれは昼間のことで、日の落ちた今は山中にミューズパークへの街灯がオレンジ色の連なりを見せ、あとは対岸の人家から思い出したように生活の明かりが届くだけ。坂森が秩父を離れていた四十年の間にミューズパークやらアートミュージアムやらなんとかレジャーファームやら、付近には訳の分からない施設が林立した。昔なら余所《よそ》者《もの》なんか札所めぐりの年寄りか秩父夜祭りの見物客しか見かけなかったのに、なにが面白いのか、こんな田舎に今では年間二百四十五万人もの観光客が来るという。
坂森四郎は座っている事務椅子を尻の反動で半回転させ、窓の夜景から室内に視線を戻す。埼玉県警秩父中央署三階にある刑事課室にはスチールの仕事机が十七脚、そのうちの一つが県警本部の坂森にあてがわれ、そしてそれぞれのデスクには一様にノート型のパソコンが置かれている。夜も九時に近くなってこの刑事《デカ》部屋にいるのは課長の管田警部と三人の署員だけで、他の刑事たちが今現在帰宅しているのか職務を遂行中なのか、部外者の坂森には分からない。
坂森はぬるい茶に口をつけてから老眼鏡をかけ直し、パソコンのキーボードを操作して、「県北西部連続殺人事件特別捜査本部」から送られてくる捜査概況に目をやる。何度確認したところで画面の文字に変化はなく、昨日から捜査に進捗《しんちょく》は見られない。長瀞の山林で清水成子の遺体が発見されてから四日目、発見当日の夕刻には県警本部内に特別捜査本部が設置され、捜査一課長が特捜本部長に就任した。これは埼玉県警の総がかり態勢を意味していて、マスコミの対応から捜査方針の決定まで、すべて県警本部が指揮をとる。事件の残虐さ、話題性、そしてその連続性を考えれば当然の体制なのだが、現場を管掌する所轄署としては、いささか気勢があがらない。実際に特捜本部の主力組はすべて東京に投入され、清水成子と歯科医の「東京における接点」の割り出しに全力を挙げている。上層部の見解では「現場が寄居と長瀞だったのは、ただの偶然。清水成子三十一歳、歯科医の近藤輝芳も三十二歳と、ほぼ同年齢。成子は東京生まれの東京育ちで音楽大学も東京、近藤も生まれは群馬だが東京の歯科大学を卒業していて、東京時代は世田谷のアパートに暮らしていた。加えて成子の大学と近藤の大学は同じ中央線で一駅の場所にあり、成子は西荻窪の実家からその大学へ通っていた。この二人にはどこかで必ず接点があり、だからこそ二人は連続殺人の被害者になって、同じ方法で遺体を刻まれた。逆に考えれば二人の接点を発見することが事件の構図を解明することになり、そしてその構図のなかで容疑者も浮かびあがる」というもの。これは誰が考えても妥当な捜査方針で、捜査員の主力がすべて東京へ投入されたのも、無理はない。こうなっては寄居の所轄も秩父の所轄も、まるで留守番組の扱い。県警本部から秩父へ出向しているのは坂森一人だけで、所轄からも刑事は、二人しか提供されていない。
坂森はパソコンの画面を眺めたままタバコに火をつけ、老眼鏡を額の上にずらして、こつこつと肩を叩く。寄居の所轄にいたときは三日に一度ほど大宮の自宅に帰れたものが、場所が埼玉県のどん詰まりとなった今は、それも叶わない。宿舎は所轄が手配してくれたビジネス旅館で可もなし不可もなし、着替えのシャツや背広も宅配便で届いたから、とりあえずの暮らしには困らない。どこにいたところで食って寝てそれ以外の時間はほとんどを仕事に費やすわけだから、場所が大宮でも寄居でも秩父でも、人生の理屈は変わらない。こんな生活をもう四十年、警官のなかには断腸の思いで定年を迎える者もいるというが、自分の場合は、果たして、どんなものか。高卒の叩き上げだから最初から出世の望みはなく、それでも運良く私服組に拾い上げられて、制服を着たのはほんの三年あまり。大宮の郊外に建売住宅を買ってすでにローンも完済、来年は次男も大学を卒業するから、経済的にも問題はないだろう。同僚のなかには中学生の子供を抱えて定年を迎える警官もいたりして、そんな連中は定年後の再就職先探しに、今から余念がない。それを考えれば坂森の余生なんて、楽なもの。借金もないし子供の養育費もかからないし、定年時には慣習のズル昇進で警部補待遇になるから、退職金や年金もそれなりの金額が出る。なんといっても警視庁にキャリア入庁した長男がいて、その将来を見守るという、警察官としては至福の楽しみもある。
そんな自分にくらべて八田の人生はどうだったのかと、タバコを吹かしながら、ふと坂森は考える。まさか秩父なんかのスナックで、それも事件の関係者として八田に会うとは思わなかったが、これも定年が近くなった現場警察官としての、因縁のめぐり合わせか。今回の事件が片付いたらゆっくり酒でも飲めるだろうに、ただそうなったとしても警察を辞めて以降の経緯を、八田が自分に、打ち明けるかどうか。
戸口に人影が動いて空気がゆれ、刑事部屋に二人の刑事が入ってくる。一人は当初からバラバラ事件に関っている大柄な楠木、もう一人も三十を過ぎたばかりの大林刑事で、秩父の「留守番組」としては坂森を舎めた三人が一応、今回の特捜班に加わっている。
二人が坂森を挟むようにそれぞれのデスクに腰をおろし、同じように背広の上着を脱いで、同じようにネクタイを弛める。大林のほうが楠木より二周りほど小柄だがそれでも猪首《いくび》にいかり肩、柔道は三段だとかで、左の耳がいくらか袋耳になっている。
「坂森さん、東京のほうで何か、進展は?」
「自分でパソコンを見ろいや。機械が壊れてるんじゃねえかと、俺なんかはあ三回も本部へ電話したがね」
「はあ、まあ、清水成子や近藤輝芳の学生時代といえば、十年も前ですからね。当時の同級生やら友人やらを探し出すだけでも、時間はかかるんでしょう」
「そのために百人も……と、文句を言っても仕方ねえ。大林くん、お前さんの顔からすると、面白え話でも聞き込んだかい」
「一つ二つ、ちょっと気になることがね。ただ事件と関係があるのかどうか、そこは分かりません」
「まあいいやね。調べるだけ調べて、掴めるだけの事実を掴んでおきゃあ、そのうち何かの役には立つべえよ」
「はあ、それがね……」
大林が脱いだ背広のポケットからタバコをとり出し、火をつけて、その胡坐をかいた団子鼻から長く煙を吹く。大林の喫煙は坂森の影響らしく、それどころか今では楠木もタバコを吸いはじめて、留守番組の三人は気心の知れた喫煙トリオになっている。
「清水成子が住民票を秩父へ移していないことは、前にも報告しましたよね」
「要するに、最初からこんな田舎に住み着く気はなかったと、そういうことだんべ」
「彼女の家族は父親の内装工事会社が倒産して以降、てんでんバラバラ。成子は住民票を母親の実家に置いたままなんですが、それならアパートの名義は、誰になっているのかと」
「そんなもの、八田さんじゃねえのかい」
「はあ。成子が秩父へ転居する前に八田さんが手続きをして、いわば寮のような形にしていたと」
「べつに不思議はなかんべえ」
「いえね、それなら成子が乗っていた軽自動車だって、名義は八田さんのはず。それなのにクルマの名義は、山鹿というセメント会社の技師なんですよ」
「山鹿……」
坂森が額にずらしていた老眼鏡を鼻の上に戻し、唇をなめながらパソコンの表示切替バーをクリックする。画面にあらわれたのはスナック『ラザロ』の客や従業員の関係者リストで、経営者の八田を筆頭に五十人ほどの名前が並んでいる。客も週に二、三度は通う常連から二、三ヵ月に一度という人間まで様々、そのなかで山鹿清二というセメント会社の技術者は超常連、特に成子が入店してからは毎日のように通ってくるという。
「ふーん、山鹿清二、五十一歳。武蔵セメント秩父工場の主任技師で、住まいは中宮地の社員住宅かい」
「三年前に東京の本社工場から単身赴任してきて、今は一人暮らしです」
「で、このオッサンが被害者に?」
「クルマを買ってやったのか、あるいは名義を貸しただけなのか、そのあたりは明日にでも調べますが」
「あの軽自動車、買ったら何円《いくら》ぐれえするべえ」
「年式も古そうだし、三十万か三十五万か、そんなもんでしょう」
「案外二人ができてたなんて、そんなこともあるかなあ」
「水商売の三十女と単身赴任の小金持ちなら、あるいはね」
「まあ、できてたからって、それがどうってこともあるめえが、一応は調べることだがね」
「坂森さん、そのことでこっちも、ちょっと……」
大柄な楠木が背中を丸めるように身をのり出し、額の脂っぽい汗をティシューでこすり取りながら、ほっと息をつく。
「被害者の住んでいた『せきれい荘』の住人で、一人だけ事情聴取の済んでいなかった男がいまして、それが今夜、やっと捉まったんですよ」
「ほうほう、捕まえてみたらそいつが、強盗殺人の指名手配犯だったとか」
「ただのトラック運転手です。それも長距離が専門だとかで、この三日間は四国から九州方面を走っていたそうです」
「ご苦労なこったい。そういう連中はどうせ、暴走族上がりだんべ」
「それは知りませんが、とにかくその運転手の証言によると、十日ほど前、成子の部屋へ入っていく八田さんを見かけたと」
「近くを通ったんで茶でも飲みに寄ったかな」
「夜中の三時ですから、お茶ではないでしょう」
「夜中の三時?」
「午前三時を夜中というか朝というかは、知りませんがね。とにかく運転手ってのは朝の早い商売で、ちょうど十日ほど前のその時間に八田さんが、被害者と一緒に」
「アパートの部屋へ入ったと」
「はい」
「その運転手は八田さんの顔を?」
「ラザロのマスターとは知らなかったそうですが、人相特徴は一致します」
「まあ、スナックの経営者とそこの従業員で、仕事のあと飲み直すぐれえのことはあるべえが、女の部屋で二人だけってのは、ある程度以上の関係ってことかい」
「常識的に考えれば、ね」
「弱ったもんだがね。といっても何が弱ったのかは分からねえけど、殺人事件ではあることだし、被害者と八田さんの関係はもう少し、つっ込んでみるべえかなあ」
老眼鏡をはずして皺深い顔をひと撫でし、薄くなった髪に右手の指をさし入れて、坂森が面倒くさそうに髪を掻きむしる。今回の事件が東京時代の成子と歯科医の関わりに根をもつことは明らか、そういう本部の見解に異論はないのだが、留守番組としてはもっと単純に、歯科医と成子と犯人における三角関係のもつれ、という構図にほんの一パーセントか二パーセントを期待する部分が、なくはない。もしそうならラザロの関係者に三角関係の一点があると考えるのが常識で、しかし今のところ寄居の歯科医院から押収したカルテのなかにも、客や従業員の名前は見当たらない。
楠木が給茶器へ歩いて三人分の茶を用意し、戻ってきて二つの湯呑を坂森と大林に手渡す。
「ねえ坂森さん、ラザロの八田さんが我々の先輩だということは、前に聞きましたけど、いったい、どういう方なんです」
「そりゃあ俺と違って大学も出てるし、正義感も人一倍で沈着冷静、ただ、まあ……」
「なんです?」
「まあ、何かの拍子で、激昂する部分はあったけどよ。それだってどうせ、正義感の裏返しだがね」
「そんな方が、なぜ」
「警察を辞めたのか」
「はい」
「知らねえよ」
「でも……」
「知らねえというのは、詳しくは知らねえという意味で、俺の当て推量でよけりゃあ、聞かさねえこともねえさ」
「はあ」
「つまりはよ、あれだい、要するにラザロってことだい」
「はあ?」
「お前さん、ラザロを知らねえかい」
「スナックの名前でしょう」
「だからよう、自分のスナックに八田さんがなんでそんな名前をつけたのかって、そういうことだがね。楠木くんだって店の壁にかかってた、あの古い絵は見てるべえ」
「はあ、いえ、ちょっと」
「見てねえかい。正直に言うと俺も、よくは見てねえんだがね。種明かしをすりゃあお前さんらが外で汗水たらしてる間に、ちょいとパソコンをいじくってみたわけさ」
坂森が新しい茶に口をつけて皺目を細め、わざと間をおくように、ゆっくりとタバコに火をつける。
「で、このパソコンが言うにゃあ、ラザロってのは昔ユダヤに住んでた、若え衆の名前なんだと」
「はーあ」
「そのラザロって若え衆が病気か何かになって、死にそうになったんだと。で、ラザロの二人いた姉ちゃんの一人がキリストさんのとこへ行って、弟を助けてくれと頼んだんだと」
「はあ」
「キリストさんてのは呪《まじな》いとか超能力とかで、人の病気を治す力があったんだいなあ。今だって世界のあっちやこっちに、超能力で病気を治しちまう奴がいるべえ。まあインチキも多かろうが、たまにゃ本物だっていようがね。お釈迦さんとか弘法さんとか、昔の偉え人ってのはどうせ、みんなそういう力を持ってたんだいね」
「それで……」
「それでな、ラザロの姉ちゃんにゃ頼まれたけど、キリストさんは断ったんだと」
「どうして」
「知らねえ。機嫌が悪かったとか、姉ちゃんがブスだったとか、どうせそんな理由だんべえ」
「本当ですか」
「キリストさんだって生身の人間だがね。そりゃまあとにかく、そんなこんなで、ラザロって若え衆は死んじまった。要するに助けようと思や助けられたものを、キリストさんは見殺しにしたんだいなあ」
「うちの姉も器量が悪いんですが」
「今のは冗談だい。楠木くんも……まあいいや。それでな、ラザロが死んだら今度は、何だか知らねえがキリストさんのほうからのこのこ出掛けていって、死んだラザロを呪いで生き返らせたんだと」
「どうして」
「もう一人の姉ちゃんが美人で……よすべえ、どうも楠木くんは、人間が純情すぎらい。まあ、ラザロって若え衆も仮死状態で、本当に死んでたわけじゃあるめえがな。それでもキリスト教の信者は有難がって、そんときの話を『ラザロの復活』とか言うんだとよ」
「分かりませんねえ。どうせあとで生き返らせるんなら、死ぬ前に助ければよかったのに」
「美人の姉ちゃんのほうが先に……まあ、ナンだ、キリストさんも自分の力を大衆に、見せ付けたかったんだんべ」
「いや味な奴ですねえ。でも『ラザロの復活』は分かりました。それで……」
楠木が茶をすすってタバコに火をつけ、耳の後ろをぼりぼりと掻きながら、坂森と大林の顔を見比べる。そのころは大林もタバコを吹かしていて、刑事部屋のこの一画だけが煙のバリアでガードされた、特殊な聖域のように見える。
「ラザロの意味は分かりましたが、坂森さん、それが……」
「八田さんも昔、若え衆を一人、見殺しにしたんだがね。パソコンでラザロのどうとかって話を見ていて、俺も昔の噂を思い出したんさ」
「八田さんが若い男を、見殺しに?」
「噂だがな。それも三十年だか四十年だか昔の……なにせ相手は公安だい、同じ警察といったって実態は、すっかり闇のなかだがね」
坂森がタバコをつぶしてすぐ新しいタバコに火をつけ、周囲の気配をうかがうような顔で、ちらっと刑事部屋を見まわす。刑事課長のデスクは部屋の反対側、一番近い七つ八つ離れたデスクでは中年の刑事が鼻毛を抜いているが、留守番組の与太話になんかどうせ誰も、注意は払わない。
「公安が警察内警察ってことぐれえ、なあ、お前さんらも……」
タバコの煙のなかに坂森が声を低くし、その仕種につられるように楠木と大林が、少し身をのり出す。
「なあ、要するに公安ってのは、昔の陸軍中野学校だい。戦争が終わった後そのスパイ学校が警察へ編入されて、それがずっと、今までつづいてるわけさ。だから公安がどんな組織でどんな活動をしてるのか、警察の内部にだって知ってる者は何人もいやしねえ。嘘みてえな話だが、公安てえのは今でも、暗殺をやるんだとよ」
楠木と大林が顔を見合わせたが、どちらも言葉は出さず、それぞれが目の表情で坂森に先をうながす。
「これは俺たち古参刑事の間じゃあ常識なんだがよ。ずっと昔、東京の府中で『三億円事件』てのがあってな、今でも映画やテレビでやるから、お前さんらも話は知ってべえ。電器会社のボーナスが白バイ警官を装った野郎に奪われて、まだ犯人が捕まってねえっていう、例のあれだい。あんときゃあ大騒ぎで、容疑者だって十万人以上もリストアップされたんだと。犯人は左翼の過激派だとか推理小説家だとか、元警官だとかいやいや現職の警官だとか、噂も派手に飛び回ってなあ。だけどそんとき警察内部で言われてたもっとも信憑性のある噂ってのが、『犯人公安説』さ。そのころは俺もまさかと思ったが、後になってから考えりゃあ、どうもなあ、あれは公安の仕掛けだったという噂が、理屈に合うんだいなあ」
坂森が立ち込める煙をすかして若い刑事たちの顔を見まわし、それから遠くを見るように視線を天井に向けて、タバコの火種を、とんとんと灰皿につぶす。
「先《ま》ずなあ、あの三億円事件で一番得をしたのは、誰だと思うね」
「………」
「そりゃ金を奪った犯人だと思うのが、常識だい。ところがよ、その奪われた三億円てのが使われた形跡が、いつになっても出てこねえ。札《さつ》の番号も控えてあったし、延べ人数にすりゃ十何万人て警官が調べまわってるんだい、ちょっと怪しい金が使われりゃあ、そんなもの、すぐ足がつかいね。それよりも問題は当時の社会情勢ってやつで、七〇年安保の二年前。今の若え連中にゃあ信じられめえが、当時の大学生ってのは多かれ少なかれ、政治にかぶれててよ。安保反対だの自民党打倒だの、そりゃ毎日のようにデモをやってたがね。裏で糸を引いてたのはもちろん共産党だい、そのころはまだソ連も元気で、金なんかいくらでもつぎ込んでくれる。今から考えりゃとんだ茶番じゃあったけど、そのころは自民党も財界も、学生運動で政府が倒されるんじゃねえかと、本気で心配したんさ」
茶を飲んでからまたタバコに火をつけ、手の甲で皺目をこすりながら、坂森がゲップのように呼吸をする。
「でなあ、まあ、そんなとき起きたのがさっき言った、三億円事件さあ。動員された警官は十七万人、そいつらがみんな事件の捜査って名目で、三多摩近辺の安アパートにローラーをかけた。そういうアパートにゃ学生運動家だの過激派だのって連中が多く住んでて、そのローラー作戦でそいつらを、根こそぎ摘発しちまった。だからこそ政府は二年後の七〇年安保をのり切れたんだが、そのとき捕まりそこなった過激派が後になって、浅間《あさま》山荘《さんそう》事件だのよど号ハイジャック事件だのを起こしたわけ。だけどその大元の引き金ってのが、つまりは府中の三億円事件さあ。こいつはどうみても政府絡みの公安絡みと、まあ表立っては誰も口に出さねえが、警察の内部でもそんな噂が、しつこく流れたもんだがね」
「はあ、ですが、その事件と八田さんが……」
「話は最後まで聞きない。安保だの三億円事件だのってなあ、ただの手順だがね。要するに三多摩と同様に、当時は川口や蕨近辺にも学生が多く住んでる安アパートってのが、ごっちゃりあったわけ。八田さんも公安だったから、そのころの職務っていや当然学生運動の過激派つぶしだい。過激派をつぶすにゃ先ず情報収集、こりゃ今でも公安が新興宗教なんかを相手に、同じ手段《て》を使ってべえ」
「ええと、それは?」
「スパイさあ」
「ああ、はあ」
「こっちから相手の組織にスパイを送り込むか、組織の誰かをこっちのスパイに仕立てあげるか。なにせ公安の前身は旧陸軍の中野学校だい、そんな諜報工作はお手のもんだがね。八田さんのお得意は今の言葉で言うマインド・コントロールとかってやつで、具体的には知らねえが、人間を一人スパイにしたり暗殺者に仕立てたりするぐれえのことは、簡単なんだと。そうやって八田さんは何かの方法で過激派の学生組織に自分のスパイを送り込んで……念のために言っとくが、こりゃあくまでも噂だよ。同期だし、一緒に本庁採用にもなったりで、俺もほかの警官よりはちょいと、八田さんのことが気になってな。それで内部の噂にも耳を立ててたんさ」
「はあ、それで、そのスパイが」
「殺されちまったい」
「と、それは?」
「調べりゃ名前も分かるし、事件の大筋も記録に残ってべえがな。とにかく過激派同士の内ゲバ事件があって、学生が一人殺されちまった。もちろん内ゲバ殺人ってのは表向きの発表で、実情はスパイの身分がバレて、仲間からの粛清を食らったんさ。八田さんが警察を辞めてったのは、その学生が殺されてから、すぐのことだったいなあ」
天井を見上げたまま三服ほどタバコを吹かし、肩凝りをほぐすように首をまわして、坂森が短くなったタバコを、とんと灰皿につぶす。楠木と大林もタバコをつぶして茶を口に含み、まばらに刑事たちの残っている閑散とした部屋に、黙って視線を巡らせる。
「だからよう、ラザロって名前で……」
坂森がタバコを抜きかけてすぐ箱に戻し、草臥《くたび》れきった革靴の底で、ずるずるとゴムタイルの床をこする。
「まあなあ、本当のところ、八田さんの気持ちは分からねえ。自分がスパイに仕立てた学生が殺されちまって、どんな思いがしたのか。キリストさんならラザロを見殺しにしたところで、呪《まじな》いで生き返らせることもできたい。だけどただの警官じゃ、そういう芸は使えねえや。人間を一人見殺しにしたって、公安としては誰でもやってる通常の職務、治安を守るためには仕方のねえ犠牲だったと、人によっちゃそんなふうに、割り切ることもできべえがな。さあて、八田さんの場合は、どんな塩梅だったか」
刑事課長が遠くからフロアを歩いてきて、思いとどまったように自分のデスクへひき返し、そばのデスクにいた若い刑事を、小声で呼び寄せる。さっきまで鼻毛を抜いていた刑事はいつの間にかいなくなり、気がつくと刑事部屋にいるのは課長と若い刑事と、あとは留守番組の三人だけになっている。
「まあなあ、そういうことでよ、八田さんの事情についてはお前さんらも、ちょいと頭に入れておけや」
「分かりました。それで、今夜のところは?」
「はあお開きにするべえ。これ以上パソコンを睨んでたって、本部からの情報も入るめえしな」
「それなら、ねえ坂森さん……」
大林が椅子を立って坂森の上にかがみ込み、楠木にも目で合図をして、胡坐をかいた団子鼻を秘密っぽく上向ける。
「道上町あたりの料理屋で、軽く咽を潤しませんかね。後学のために公安のお話を、もう少し聞きたいし」
「軽くでも重くでも、咽を潤すってのは賛成だいなあ」
「そうですか、それじゃそういうことで。いえね、大きい声じゃ言えないんですが、あの辺りには内緒でカモシカの肉を食わせる、珍しい店があるんですよ」
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ラザロに通ってくる客たちのリストを眺めながら、香村麻美はデスクに頬杖をつく。ワンフロアを衝立で仕切った編集部のスペースにはファクスやパソコンやコピー機やシュレッダーが物置のように押し込まれ、かろうじて息がつける空間で七人の編集部員が働いている。この七人には政治、経済、社会、文化などという区別はなく、その日の都合でそれぞれが村会議員選挙だの秩父の夜祭りだの、編集長の指示にしたがって各取材先に散っていく。もともと秩父新報は養蚕農家向けに発行された生糸関係の情報新間で、その創刊は明治の初期。現在の一般大新聞よりも歴史は古く、最盛期には自社ビルを持つほどの隆盛を誇ったというが、現状は秩父盆地に限定されたまったくのローカル紙に落ちぶれている。記事の内容だって吉田町の龍青祭りに何人の見物客が出たの、何番の札所ではなんの花が見ごろだの、いたって呑気で罪がない。中央の情報や世界関連の記事は提携先の通信社から配信されるし、地方新聞協会にも入っているから日本各地の情報も、一応は入ってくる。ただ秩父新報の購読者層にイラク情勢やアフリカのエイズ問題は不似合いで、地方としての構造改革や財政再建問題も、あまり評判はよろしくない。嘘みたいな話だが郡内の町長選挙や村長選挙では『一票一万円』という固定相場が、今でも誠実に守られている。
十日前、そんな秩父新報が長瀞町で起きたバラバラ死体遺棄事件の詳報をスクープしたのだから、これはもう、その昔に秩父困民党の蜂起を世間に知らしめたとき以来の快挙で、二日ほどは営業も販売もお祭り騒ぎ。ただ問題はそれ以降の推移で、捜査本部が浦和の県警本部内に設置されてしまっては、タウン誌もどきの秩父新報なんかまるで蚊帳《かや》の外。新しい情報は入らないし、それに捜査本部が事件の本質を東京にあると想定し、現場である寄居や秩父を無視していることも、いささか気に食わない。麻美だってあの翌日には寄居の現場を見学に行き、町から離れた雑木林が長瀞の現場と酷似していることを確認した。両現場とも犯人が偶然に通りかかるような場所とは思われず、少なくとも犯人は俗に言う、「土地勘のある人間」だろう。だとすれば清水成子と近藤輝芳の「東京における接点」だけに的を絞った捜査方針は、どんなものか。成子は秩父に地縁も血縁もなくて住み始めてからもまだ半年、常識的に考えればたしかに、事件の根は東京にある。容疑者もたぶんその線で浮上するのだろうが、それでは寄居も長瀞も、犯人はただ遺体をバラバラにして、捨てて行っただけの場所なのか。
麻美はこの日何度目かのため息をつき、何本目かのタバコに火をつけて、リストの紙をぽいと放り出す。リストをいくら読み返したところで顔ぶれは変わらず、成子や寄居の歯科医を殺しそうな人間なんか、お世辞にも浮かばない。マスターの八田にしたって成子と関係はあったかも知れないが、それはそれだけのことだろう。嫉妬に狂うタイプではないはずだし、仮に見かけ以上の付合いだったとしても、それでは歯科医との接点はどうなのか。技師の山鹿や写真家の小長、大学講師の阿部や画家の矢島の顔も浮かんでは消えるものの、八田同様にやはり、連続バラバラ殺人事件の犯人、というイメージにはほど遠い。事件が発生してからすでに十日目、警察だってラザロの客関係は調べているはずで、何か情報があるなら手懐《てなず》けてある楠木刑事あたりから、こっそり耳打ちがされている。事件に進捗がないのはテレビの報道でも明らかで、秩父でも寄居でも東京でも、今は捜査自体が手詰まりなのだろう。
それにしても警察は、平島梢路の存在を、どう考えているのか。成子が殺されてラザロの客はみな静かに熱狂し、八田だってふさぎ込んだり突然はしゃぎ出したり、それなりの動揺を見せる。そういう八田や客たちから梢路一人が別の世界にいて、律儀に確実に淡々と、顔色も変えずにカウンターの仕事をこなしている。それを「元々そういう性格なのだ」と言ってしまえばそれまで、しかし仮にも同じ店の従業員が殺人事件の被害者となったのに、あの無感動と無関心は、本当にただの、「そういう性格」なのか。
麻美はタバコの煙を天井に吹かして腕を組み、目尻の小皺を広げるように、少し目を見開く。この事件が発生する前から梢路には不可解な部分があって、その不可解さが麻美の好奇心を刺激したのだ。他の客は梢路のことを物静かでちょっと内気で陰日向なく働く好青年、と見ているのだろうが、その内気さのなかに不遜さや不敵さが同居していることを、麻美はちゃんと知っている。殺された成子だってただの小娘ではなし、梢路のことをシャイで真面目なだけの田舎青年、と思っていたはずはない。梢路にしたって、奇妙に男心をそそる成子に心が動かなかったと考えるのは、やはり無理がある。それならあの二人には、八田も店の客も麻美さえも気づかなかった、何か特別な関係があったのか。梢路も口では「成子さんに興味はない」と言っているが、梢路の本心なんて、どうせ誰にも分からない。それに最近になって秩父やラザロに関ってきたのは梢路と成子だけ、客たちにも地元の人間はほとんどいないが、みな短くて一年半、長ければ十年以上も秩父に住んでいる。もしかしたら梢路が秩父へ来てラザロに勤めたからこそ、成子も東京から、秩父へやって来たのではないか。
いつの間にかタバコが短くなっていて、麻美は火種を灰皿につぶし、背伸びをしながら腕を天井につき上げる。まさか自分が成子に嫉妬しているわけでもないだろうに、いつまでも心を開こうとしない梢路に対して、多少の苛立ちはある。本当なら梢路の部屋に泊まって胸倉でも掴んでやりたい気もするが、このところ明け方近くまで粘る客が多くて、それも儘《まま》ならない。それに胸倉を掴んだところで甘えて口説いたところで、やはり梢路は本心なんか、口にしないだろう。
梢路と成子に何らかの関係があったとしたら、それはいったい、どんなものか。麻美は新しいタバコに火をつけて一つ煙を吹き、リストの後ろにクリップしてあるファイルの綴りを、軽くめくってみる。それはラザロに関係する人間たちの住民票や戸籍謄本の写しで、自分で入手したものや楠木にコピーさせたものが総計で三十五、六枚。上から三枚目には梢路の住民票があって、そこには昨年の十月に梢路が秩父の八田方に転入した日付と栃木の前居住地、それに六月二十日という梢路の生年月日が記されている。誕生日が六月二十日なら今年はもう麻美とベッドを共にしていて、それを一言も告げなかった梢路の涼しい顔を思い出すと、麻美は年甲斐もなく、ムカッと腹が立つ。
栃木県那須郡那須町黒田原三の二十五の六。それが住民票に記されている梢路の前居住地だが、本人も出身は栃木だと言っていたから、この住所に嘘はないだろう。那須にも新婚当時、別れた亭主と二、三度ドライブに行った記憶があって、あのときは塩原温泉に泊まったはず。しかしそれ以外の記憶となるとどうにも瞹昧《あいまい》で、那須塩原市と那須町は近いのか遠いのか、東北自動車道ではどちらが東京から離れているのか、そんなことも分からない。だいいち梢路も栃木の那須町とまでは言わず、麻美もなんとなく、宇都宮か小山あたりと思い込んでいた。同じ埼玉県でもこの秩父は埼玉のド田舎、同じように那須町なんてところは栃木県の、ド田舎なのではないか。
まあね、私が埼玉のド田舎に生まれてしまったのも、私が悪いわけじゃなし、と頭のなかで独りごとを言い、くわえタバコのまま、麻美はデスクの上に首都圏と関東の道路地図をひき出す。栃木のページを開いてみると思ったとおり那須町はもう福島との県境に近く、その東京寄りには塩原温泉や那須高原の所在地がのっている。那須町自体に名所旧跡はなく、それでも付近には東北自動車道や東北新幹線が仙台方面に向かっているから、秩父ほどのどん詰まりではないらしい。しかしいずれにしてもそれほどの都会とは思えず、こんなド田舎で生まれ育った梢路が人生の何が悲しくて、埼玉のド田舎まで流れてきたのか。
麻美はタバコの煙を透かしてしばらく道路地図を眺め、それからタバコを消して、近くの電話機に手をのばす。受話器をとってNTTの番号案内を呼び出し、那須町の住所を告げて「平島」の電話番号を問い合わせる。オペレータが素気なく「その住所に平島という名義の登録はない」と返事をし、麻美は電話を切る。梢路からは両親の死亡を聞いてはいるが、あるいは兄弟か親族がその住所に残っている可能性を、少しだけ期侍したのだ。こんなふうに梢路の素性を詮索するのは、本来ならルール違反。成子の死がなければ不可解さも不可解なまま放っておいたはずなのに、今は情況が変わっている。梢路と成子の間に何らかの関係があったところで、それでは梢路が成子殺しの犯人だとまでは思わないが、この気分のわだかまりだけは一応、払拭しておく必要がある。
タバコに手をのばしかけて思いとどまり、麻美はミント味の咽飴を口に放り込んで、短い前髪を両手で掻きあげる。編集部は全員が出払って編集長の顔もデスクになく、衝立の向こうを営業や印刷の職員が歩きまわる。麻美にしてもそろそろ秩父中央暑へ顔を出す時間で、そのあと郡内の交通事故概況やら、コンニャク相場の市況動向やらの、どうでもいい原稿が待っている。そういうド田舎新聞記者という立場に文句もないが、今回の殺人事件に関してだけは何とか、もう少しジャーナリストらしい働きをしてみたい。
デスクに頬杖をつき、咽飴を口の中で五、六分ころがしてから、また受話器をとってNTTに那須町役場の番号を問い合わせる。今度はすぐに番号が案内され、その番号をメモに書きとって、間をおかずに耶須町役場へ電話を入れる。こちらも問題なく応答があり、電話に出た男性職員に「那須町の黒田原で別荘の購入を勤められているのだが、その黒田原というのは、どんな土地か」と、訊ねてみる。
「黒田原、黒田原、黒田原……と」
中年らしい職員が栃木訛で応対し、住居地図でも調べているのか、ほんのしばらく、会話が途切れる。
「ええと、お宅さん、黒田原の何番地とかって、そういうことまで分かるかね」
「黒田原三の二十五の六ですけど」
「三の二十五の六? あれあれ、そりゃダメだなあ」
「別荘地ではないと」
「いやね、住宅地だから別荘を建てようと犬小屋を建てようと、やりゃあできるけど、二十五の六はダメだよ。なにしろその番地は全体が『那須隣愛園』っていう、少年院なんだから」
「少年院、ですか」
「そう、二十五の六番地全部が、その少年院の敷地さあ」
「そういうことですと、ちょっと、無理ですね」
「無理無理、お宅、怪しい業者にでも騙されてるんじゃないのかね」
「もしかしたら、そうかも」
「前から同じような別荘詐欺があってねえ。いい加減な不動産屋には注意するほうがいいよ。ナンだったらうちの役場で、地元の業者を紹介してやろうかね」
「はい、そうですね。主人とも相談して、そのときは役場でしっかりした業者を紹介していただきます。はい? いえ、はい、ではそういうことで、今回は本当に、お手数をかけました」
電話を切り、椅子から腰をあげてみたがどこへも歩くつもりはなく、また椅子に腰を落として、麻美はデスクのタバコに手をのばす。
「主人とも相談して……か」と、声に出して独りごとを言い、それからタバコをくわえて火をつけ、最初の煙を目の前の電話機に向かって、長く、ふーっと吹きつける。
*
黒沢満男がサザンオールスターズの『ツナミ』をうたい終わると、ママの幸恵《ゆきえ》と三人の客がお義理っぽい拍手を贈ってくる。まだ夜の九時だが三人の客は声が裏返るほどに酔っていて、誰も本気で満男の歌なんか聞いていない。それでもママの幸恵だけはいくらか感心してくれたかなと、満男はマイクを置きながら幸恵の顔を盗み見る。幸恵も田舎でスナックを開いている割りにはサザンやユーミンに造詣があって、満男がうたう非演歌系の歌には肩でリズムをとってくれる。若いころは池袋でクラブ勤めをしていたという噂もあり、村の人間にしてはたしかに、仕種や表情がどことなく色っぽい。歳もまだ四十を過ぎたあたりで化粧も派手やか、二の腕のむっちりした肉づきが奇妙に性欲を刺激する。
幸恵がカウンターの内から満男のグラスに焼酎を足し、満男は水割りの焼酎を手のひらに包んで、カウンターの客たちに眉をひそめる。三人とも旧両神村の住人で歳は四十から五十、三十四歳の満男よりみんな歳上だが、子供のころから顔や名前は知っている。もちろんこの三人だけではなく、村内の全住民はほとんどが顔見知りで、それぞれの経済状態や畑や山林の有無、三代前の爺様の名前もその爺様が戦争中は上等兵だったのか伍長だったのか、そんなことまで誰もが知っている。今店にいる三人は製材所の社長に土建会社の現場監督にガソリンスタンドの店員、不景気を嘆き合って子供の自慢話をしてフィリピンパブの値踏み競争をして、焼酎を飲み散らして焼き鳥を食い散らす。三人が話題にしているフィリピンパブというのは秩父市内にある「すげえ店」だとかで、セット料金のほかに一万五千円を出せば若いフィリピン女と、「やり放題」なのだという。
この三人はもう、ママの幸恵ともやっているのかなと、満男は乾いた咽に薄い焼酎を流し込む。噂では交渉によって幸恵は「やらせてくれる」らしく、満男はこの二ヵ月、その噂を頼りにスナック『峠』に通いつづけている。ただ店にはいつも今夜のような客がいるし、それに幸恵と二人だけになったところで、その交渉はどう切り出すのか。いきなり「何円《いくら》でやらせてくれるのか」と聞くのは、いくらなんでも具合が悪いか。だいいち二万とか三万とかいう金額だったら、これは最初から、手が出ない。それとなく相場を聞いてみたい気もするのだが、ほかの客がいてはそれも憚《はばか》られる。秩父市内では若いフィリピン女が一万五千円、幸恵は四十を過ぎていても日本人ではあるし、やはり八千円か、一万円は取られるか。
満男は焼酎を飲んでつきだしの南瓜《かぼちゃ》を口に入れ、首にかけたタオルで、顔の脂をこすり取る。嫁さえ貰えればママの幸恵に心は動かないだろうし、行ったこともないフィリピンパブとやらに憬《あこが》れる必要も、まるでないのだ。嫁というからには自分の嫁で、そうなったらもう昼でも夜中でも、畑でも裏山でもやり放題、それも只で出来るというんだから、夢のような生活ではないか。問題は自分に定職がないこと、中学しか卒業していないこと、日影の家には口やかましい両親がいること、家にはわずかばかりの山林とわずかばかりの畑があるが、畑も山林もほとんど収入をもたらさないこと。
やっぱりなあ、せめて高校ぐらい出ておけば、もう少しましな人生になったのかなと、ボトルの残りを気にしながら満男は、ちびちびと薄い焼酎を舐める。そうはいっても子供のころから勉強が嫌いで、中学を卒業した後でまた三年も高校へ通うのかと思うと、あのころは背筋が寒くなったものだ。それにとなり町にある小鹿野高校なら両神村の日影集落からも自転車で通えるが、満男の頭で入学を目指すには、いささかレベルが高すぎた。郡内最低学力の皆野高校ではたとえ受かったとしても、自転車通学で片道が二時間もかかってしまう。通学用のバイクを買ってくれるような親ではないし、それに親のほうも元々、満男の頭を諦めていたのだ。だから中学を卒業してすぐに吉田町の造り酒屋へ就職し、そこを半年で辞めてからは小鹿野町の新聞配達、荒川村の民宿から畳屋の住み込み、ドライブインの厨房からゴルフ場の清掃係と、二十歳までに十近い職場を渡り歩いた。二つ年下の弟は秩父高校を卒業して市内のスーパーマーケットに就職し、満男のほうはそれ以降もう定職にはつかず、家にいて父親の山仕事や母親の畑仕事を手伝ったり、そんなことで十何年かを過ごしている。郡内のどこかで崖崩れがあれば臨時の人夫として雇われ、冬になると新潟まで除雪のアルバイトに出掛けたりもする。現在はたまたま荒川の護岸工事特需があって、二ヵ月前から小鹿野町の生コン工場に雇われている。スナック『峠』の噂を聞いたのはその生コン工場で、それからは週に一度ほど仕事帰りに幸恵の顔を見に寄ってみるのだが、今に至るまでなかなか、問題の交渉を切り出せないでいる。
「おう満男、来月の両神文化祭にゃ、おめえまたカラオケ大会に出るんかや」
カウンターの向こうから赤い顔をつき出したのは、土建会社で現場監督をしている黒沢寛二。姓は同じだが寛二の家は日向集落にあって、特別に血縁関係はないらしい。この日影、日向という集落名は山間部によくある地名だが、その由来は文字通り日当たりの善し悪し。昔は「日向に大尽なし、日影に貧乏なし」と戯《ざ》れたともいい、日向集落の者は山も畑も豊穣だから怠けがちになり、逆に日影集落の者は苛酷な環境で働き者になる、というぐらいの意味らしい。もちろんそんな格言が通用したのは明治か大正まで、今は山林が無価値で仕事も資源もなく、山間部の集落にはどこへでも公平に、ひたすら貧乏が押し寄せる。
「そりゃよう満男、おめえは若えから東京もんを真似た歌もうたうべえが、ここは両神だい。一等賞を取るにゃやっぱし、ロスプリモスか東京ロマンチカだべえ」
「だけど寛二さん、俺、昔の歌は知らねえから」
「そりゃおめえの勉強不足だべえ。去年一等賞を取った大平の潤子だって、おめえよか若えのに歌は『天城越え』だったじゃねえか」
「潤子は吉田のスナックへ勤めてて、毎晩カラオケをやってるんだよ」
「それならおめえも毎晩この店へ来て、演歌を覚えりゃあいいべえ。さっき歌った犬が首を絞められたような歌じゃあ、どうせ今年もまた六等賞だい」
製材所の社長とガソリンスタンドの店員が拍手をしながら大笑いをし、幸恵までが焼酎を口に運びながら、くつくつと肩をふるわせる。幸恵も客たちもみんな年上だから揶揄《わら》われても文句は言えないが、このぶんでは今夜もやはり、例の交渉は切り出せない。
満男は頭を掻きながら焼酎を飲み干し、わざとらしく腕時計を覗いて、幸恵に勘定を頼む。ボトルの焼酎を飲んで焼き鳥を一皿食べてカラオケを四曲、それでも勘定は千六百円だから、生コン屋の日当が六千五百円の満男でも週に一度ぐらいは顔を出せる。東京にはビールを一本飲んだだけで一万円も二万円も取られるスナックがあるというが、そんな店は満男にとって、死ぬまで縁はないだろう。
「なんでえ満男、もう帰るんけえ」
「うん、明日は工場へ出る前に、畑の始末をするからね」
「おめえんとこはまだコンニャク玉でも作ってるんかや」
「コンニャクはお袋が少しだけ。明日は畑に牛糞を鋤《す》き込んで、大根とキャベツの種をまくんだい」
直前までそんなつもりはなかったが、そういえばそろそろ冬野菜の種まき時期なんだなと、満男は自分の言葉で家の畑仕事を思い出す。生コン工場のアルバイトもどうせあと一ヵ月、これからはコンニャク玉の取入れだの杉の枝打ちだの干し柿用の皮むきだの、つまらない農作業が待っている。
幸恵と三人の客に手をふり、店を出たところで一つ深呼吸をして、満男はクルマをとめてある空き地へ歩く。スナック『峠』のある場所は小鹿野町と旧両神村の地区境、その峠の山中に一軒だけぽつんと電気看板を出していて、その紫色の看板には「カラオケ、焼き鳥、家庭科理」という文字が黄色く浮きあがる。ここから一番近い民家だって三百メートルほど山道をくだった両神側、飲みに来るにはクルマを使うしか方法はなく、実際に客の全員がクルマでやって来る。近くでネズミ捕りのある日は村の駐在所からしかるべき連絡が来るし、そしてその日が『峠』の、定休日になる。
満男は道沿いの草むらに長々と立ち小便をし、それから五年前に中古で買ったカローラのドアを開けて、運転席に身を沈める。エンジンをかけてライトをつけ、クルマを旧村役場の方向へ進めてから二又道でハンドルを右に切り、あとは薄川沿いの一本道を谷の奥へ向かう。十九の歳に免許をとって同時に飲酒運転も始めたから、水割り焼酎の五、六杯なんかビタミン剤のようなもの。町場と違って突然飛び出してくるのは狸か狐ぐらいで、狸ならわざとひき殺して家へ持って帰り、皮は剥製屋に売って肉のほうはみんなで、狸汁にしてしまう。
曲がりくねっているだけで単調な山道を両神山の方向へ向かいながら、満男は見たこともないフィリピンパブの光景を、竜宮城のように思い描く。フィリピン女自体は秩父市内でも見かけたことがあって、その小柄で浅黒い肌でくるっとした目の愛くるしい容貌が、まるで目の前にいるように浮かんでくる。
うーん、あんなに若くて可愛い女の子が、一万五千円か。ただ製材所の社長は「セット料金のほかに」と言ったはずで、それではそのセット料金というのは、何円なのか。仮にセット料金が五千円だとして、それだけでもう二万円。やる場所だってまさか店のなかではないはずで、いわゆるラブホテルだろう。そのラブホテルはフィリピンパブと提携していて、無料なのか、それともホテルはホテルでまた、別料金なのか。別料金だとしたらその金も客が払うのか、女の子の一万五千円のなかに、含まれているのか。
うーん、でもなあ、女の子が寿司を食べたいとか言い出すかも知れないし、どっちにしてもやっぱり、二万五千円は必要か。この二万五千円という金額は満男が朝から晩まで生コン工場で働いて得る収入の、ほぼ四日分。四日も汗まみれになって稼いだ金を、たった一回股を借りるだけのことで、ごそっと取られてしまうのか。たしかに若くて可愛いフィリピン女に涎《よだれ》はわいてもくるが、一発で二万五干円は、いくらなんでも高すぎる。いったい世の中は、なぜそんな仕組みにできているのか。これはやはり、政治が悪いのか。共産党だって福祉とか老人問題とか少子化問題とかを騒いでいるが、それなら一発で二万五千円というこの理不尽な矛盾を、どう解決してくれるのか。
開けてある窓から外につばを吐いたとき、バックミラーにヘッドライトが反射して、満男はほっとハンドルを握りなおす。そういえば『峠』を出たときから後ろに一台のクルマがついていて、二又道を右に折れたときも薄川沿いの山道に入ったときも、ずっとそのクルマがついて来た気がする。もしかしたら警察のネズミ捕りか、と思ってバックミラーを確認してもパトカーの回転灯は見えず、それにその後続車は五十メートルほどの車間を置いたまま、ひたすらていねいな運転をつづけている。もともとこの時間になれば両神山方向から下って来るクルマは皆無、脇道から飛び出す年寄りや子供もいないし、細くて曲がりくねってはいるものの理屈さえ知っていれば山道での運転は、ひどく安全なのだ。村の人間ならそんなことは誰でも知っていて、満男のクルマだってナンバーだって、やはり誰もが知っている。そういう知り合いなら車間をつめてきてクラクションの挨拶を送ってきそうなものを、後続車はいつまでも距離をおいたまま、つかず離れず山道をのぼって来る。
まあなあ、今ごろ小鹿野から帰ってくるのは小倉の清蔵さんか、出原の良幸さんか。どちらにしても相当な酒飲みだから、今夜は酔っ払って普段より運転が慎重なのだろう。あるいは両神山の民宿に泊まっている余所《よそ》者《もの》かも知れず、いずれにしても飲酒運転の取締りでなければ、なんだって構わない。問題はフィリピンパブに出掛けて二万五千円を浪費するか、それとも『峠』に通って、なんとか幸恵との交渉を成立させるか。四十女の幸恵なら高くたって一万円、場合によっては五千円ぐらいで決着するかも知れないし、それにほかの客がいなければ何曲かたっぷりサザンを聞かせたあと、最後に『二人の銀座』あたりをデュエットすれば、幸恵もその気になって、只でやらせてくれるような可能性も、まあ、なくはない。
クルマは沼里を過ぎて日向も過ぎて、すでに日影集落への脇道に差しかかる。父親はもう寝てるだろうが母親のほうはテレビを見ながら、どうせ塩煎餅か沢庵の古漬けをなめている。この母親には我慢できるにしても、口やかましいくせに山仕事にしか能のない父親のほうは、何とかならないものか。杉の木なんかいくら手入れしたところで、五十年ものがせいぜい七千円。五十年間も枝打ちをして下草を刈って間伐作業して、それでも製材所に売るときはたった七千円なのだ。これが杉ではなく檜なら手間も生育期間もその倍、そんな苦労をしても杉や檜は花粉症の元凶だと非難されて、そして両神のように杉や檜だけしかない山奥にも製材所にはちゃんと、安い南洋材が入ってくる。こういう現実に関して父親は「外材の輸入なんかいつか必ず、共産党が禁止してくれる」とゴタクを言うが、共産党の政権公約に「外国産材木の輸入禁止」なんて項目が、本当に、あるのだろうか。
あの親父さえいなければ山も材木も売り払って、そうすればその売った金で新車も買えるし、古くて薄暗くて薄汚い田舎家も、少しは改築できる。新車を買って家をきれいにして洒落た洋間でもつくって、そうすれば、そうか、そうすれば柏沢の初美か下和田の恭子ぐらいなら、なんとか、嫁にできるかも知れない。顔なんかどっちも似たようなもんだが恭子のほうが足が長くて色が白くて、しかしまあ恭子がだめなら、初美だって構わない。なにしろ二十代で独身で村に残っているのはその二人だけ、どちらかを嫁にしてしまえば朝晩毎日、それも只でやり放題なのだ。
まったくなあ、あの親父さえ死んでくれれば、山を売って新車を買って嫁をもらって、冗談じゃなく、本当に、夢のような生活が待っているのにな。
満男がハンドルを右に切って日影への脇道へ入ると、後ろにいたクルマはそのまま県道を両神山の方向へのぼって行き、音も灯火も人けも何もない集落の上空に十五夜の青白い月が、UFOのように浮きあがる。
その満月となんの関係があるのか、満男の頭には頑迷で小心な父親に対する殺意が、耳鳴りのように押し寄せる。
*
十二時を過ぎてアルバイトの珠枝が帰っていくと、店には梢路と樺山咲と山鹿清二だけが残る。殺人事件以降の一週間ほどは半年ぶりの客も顔を見せたりして、ラザロは明け方近くまで店を開けていた。そんな客足がとまったのは昨日から、昨夜は十二時を過ぎても五人の客しか入らず、今夜も早い時間に女子大生のグループが一組あっただけで、あとはここ二時間ほど咲と山鹿がそれぞれむっつりと酒を飲んでいる。咲の席は相変わらずフロアの丸テーブル、客の有無にかかわらずカウンターへは近寄らず、キープの一升瓶を従えてひたすら無口に飲みつづける。今夜の服装はベージュ色のワークパンツに赤いウインドゥブレーカーで、寝乱れたような髪を指で梳きながら多少目を据わらせ、酔いの出ない青白い顔を片手の頬杖にのせている。今ではすっかり常連のはずだが他の常連客と言葉を交わした場面を、梢路はまだ、一度も見ていない。
山鹿が首をかたむけながら席を立ち、ジュークボックスへ歩いて幾つかのコインを放り込む。カウンターに戻ってくるとすぐにイントロが始まり、そのイントロがプレスリーの『悲しき悪魔』に変わる。
「ねえショウちゃん、今夜は妙に静かだねえ」
「そうですね」
「今ジュークボックスに三曲入れたから、それを聞いたら私も帰るよ」
「はい」
「一人で社宅へ帰っても仕方ないけど、さすがに私も、疲れた気がする」
言いながら山鹿が薄い髪を手のひらで撫でつけ、自分のロックグラスに、自分で焼酎をたす。梢路のほうは手を休めず、仕込みすぎたグラタンソースを使って咲のために、サービスの茸グラタンをつくっている。
一曲目の歌が終わって曲がやはりプレスリーの『ハートブレイク・ホテル』に変わったとき、店のドアが開いて写真家の小長勝巳が入ってくる。小長は梢路と山鹿に会釈を送りながらカウンターへ歩いてきて、よっと声を出してスツールに腰をのせる。その小長の前に梢路がすぐ、おしぼりをさし出す。
「ショウちゃん、マスターは?」
「今夜は休みです、疲れたとかで」
「そうなの。若く見えても歳なのかねえ。それにしても今夜は、ずいぶん静かだ」
「祭りの後なんて、こんなもんです」
「祭りの後? そうか、なるほどね」
「それより小長さんのほうこそ、久しぶりですね」
「幾日か前に店をのぞいたよ」
「そうでしたか」
「やけに混んでて、席もなさそうだったから、入らずに帰ったんだけどさ」
おしぼりで額と首筋をこすり、ひとつ息をついて、小長がサファリジャケットの肘をカウンターにかける。しゃくれた顎に小さい目が相変わらずきょろきょろと動き、その小長の顔に梢路は百科事典の図版で見た、カワウソを思い出す。
梢路は小長のためにつきだしの餡《あん》かけ豆腐を用意し、カウンターにはいつもの青島ビールをセットする。そのころにはジュークボックスの曲がジョニー・ソマーズの『ワン・ボーイ』に変わっていて、山鹿がその歌に首でリズムをとりながら、長くため息をつく。
「だけどさ山鹿さん、今回は本当に……」
小長が束ねた半白の髪をふりながらタバコをとり出し、天井のあたりに視線をやって、ひとつ空咳をする。
「一昨日矢尾のデパートで画家の矢島さんに会ったら、だいぶ、警察に絞られたって」
「絞られたのはこっちも同様ですよ。どこで調べたのか、私も成子さんとの関係を知られていました」
「山鹿さんが?」
「まあ、なんというか、成り行きで。ピアノの生徒を紹介してやったお礼にと、食事に誘われましてね」
「いやーっ、そうなの。こいつはびっくり」
一瞬おどけた表情をつくりかけ、すぐに口元をひきしめて、小長が小さく鼻を鳴らす。
「実は、俺も、成り行きでさ」
「小長さんも?」
「痛くもない腹を探られたら面倒だから、警察にも喋ってしまった」
「そうでしたか、小長さんも」
「申し訳ない。矢島さんや山鹿さんともそうだと知ってれば、自重もしたろうけど、だって、ねえ?」
「この分では後からまた、一人や二人は出てくるんですかね。たった半年の間に成子さんも忙しい人だった」
山鹿がちっと舌を鳴らして眉をしかめ、苦笑をこらえるような顔で、首筋をさする。
「私なんか、クルマまで買わされましてね。このことが東京の家内に知れたら、どうなることやら」
「警察が、奥さんに?」
「内緒にしてくれる、とは言ってますが」
「死んだ後まで人騒がせな女だよなあ」
「警察といえば、小長さん、知っていましたか」
「もう噂になってるもの。マスターが昔、警官だったと」
「やっぱり狭い町ですねえ。それに人というのは、見かけによらない」
「山鹿さんだって見かけによらないよ。成子さんもマスターも、人間なんて、みんな見かけによらないんだ。俺だって見かけによらないかも知れないし、こんな田舎町でもそれぞれ、面倒なことだよね」
二人の会話を聞き流しながら梢路は調理をすすめ、茸グラタンを焼きあげて、それを自分で丸テーブルへ運ぶ。咲の視線が一瞬梢路の顔に焦点を合わせ、そしてすぐにまた、セピア色の壁に漂う。
「仕込みすぎたから、サービスだ」
「ニューボトルを入れて」
「うん」
「このお酒、かなりいけるわ」
「うん」
梢路はうなずいただけでグラタン皿をテーブルに置き、空になっている五六八の一升瓶を持って、カウンターへ戻る。それからカウンターの内で新しい一升瓶を用意し、咲のテーブルへ運んで、またカウンターの内に戻る。その梢路にグラスの縁を透かして、小長が大げさなウィンクをする。
「なあショウちゃん、今になればもう、隠す必要はないだろう」
「何ですか」
「何ですかって、成子さんとの関係だよ。やっぱりショウちゃんも、なあ?」
「小長さんとは違います」
「そりゃ俺や山鹿さんや、その辺のオヤジ連中とは違うだろうけどさ。成子さんのほうから誘われなかったかい」
「まるで」
「なし?」
「はい」
「ふーん、そう。だとしたらみんな五十とか六十とかで、若いやつは一人もいないんだよな。彼女には何か、そういう趣味でもあったのかね」
「そういう趣味が公平に、みたいですね」
「そうそう。結果的には非常に公平で、そのくせ男のほうは自分だけだと思い込んでいて、そのあたりのギャップというのが、要するに、人生なんだよなあ」
山鹿が咽の詰まりを誤魔化すように短く笑い、グラスをカウンターに置いて、目を細める。清水成子がマスターと関係があるらしい、とは麻美も言っていたが、まさか他の常連客とも公平に付合っていたとまでは、思わなかったに違いない。麻美もマスターも常連客たちもみんなが毎日のように顔を合わせていながら、結局他人のことは、誰にも分からない。
「それはそれとして、事件のほうは……」
小長がグラスに自分でビールを注ぎたし、タバコの火種を灰皿につぶしながら、束ねた髪を横にかたむける。
「最近新聞にも出ないし、テレビのニュースでもやらないよねえ」
「膠着状態なのか、進展があってもマスコミには発表しないのか」
「どっちなわけ」
「私が知るはずないでしょう。ただみんなの噂では、警察も捜査の場所を東京に絞り込んでいるとか」
「東京に?」
「成子さんと寄居の歯医者が東京で、何か関係があったという判断でしょうね。寄居と秩父なんて近いようだけど、生活圏はまるで別だから」
「成子さんとその歯医者と犯人の、三角関係じゃないの」
「そんな単純な構図ならもう、事件は解決していますよ。小長さん、日本における犯罪の検挙率って、どれぐらいか知ってます?」
「さあ、六割か七割か」
「二割以下ですよ」
「あれあれ、だって……」
「日本の警察は世界一優秀なんていうのは、昔の神話です。ただ殺人事件に関してだけは、九割の検挙率があるらしいけど」
「ばかに詳しいねえ」
「この一週間ほど、ラザロではそういう話ばかりですから。殺人事件の検挙率は九割、だけど逆に言えば、殺人犯の十人に一人は捕まらない理屈でしょう」
「まあ、そうだね」
「警察の捜査方法も旧態依然、とにかく怪しいやつを捕まえて殴る蹴る……と、そこまではいかなくても、それに近い尋問で自白を強要するそうです。その結果あっちでもこっちでも、毎年毎年、誤認逮捕や冤罪事件が発生してしまう」
山鹿がグラスをあおって自分で注ぎたし、カウンターに身をのり出しながら、舌打ちをする。これまでセメントや地震の問題にしか興味を示さなかった山鹿も、身近な場面で身近な人間が殺されてはやはり、神経が騒ぐのか。
梢路はつくりすぎた里芋の煮物を小長にサービスし、山鹿のアイスピッチャーも新しくして、壁の時計を眺める。一時には店を閉めるつもりだったが小長も腰を落ちつけそうな気配で、それにテーブル席の咲も頬杖をついたまま、相変わらずむっつりと酒を飲みつづける。
山鹿が焼酎をなめてまた舌打ちをし、頭頂部まで禿げあがった額の脂を、手の甲でこすり取る。さっきまでは曲を聞いたら帰る、と言っていたのに、酒の相手ができてやはり、腰を落ちつける気になったらしい。
「ねえ小長さん、今も言ったけど、殺人事件の検挙率は九割で、その九割も事件発生時には犯人が分かってるそうです。つまり今度の事件は、残りの一割でしょう」
ここ一週間ほどの間にラザロでも素人探偵の推理は出尽くしていて、これから山鹿がどんな見解を披露するのか、聞かなくても梢路には、見当がつく。
「だいたい連続だのバラバラだのという事件は、底が浅いものですよ。犯人と被害者の間には必ず接点があって、その接点をたどっていけばイヤでも犯人に行きつく。事件が派手で猟奇的だから世間は騒ぐけど、構図自体は単純なものです」
「なるほどね」
「成子さんが殺されてから二週間、寄居の歯医者からなら一ヵ月半。それだけの時間がたっても事件の構図が見えないのは、これはちょっと、尋常じゃない」
「犯人の頭がいいのかな」
「そうそう、犯人は頭がよくて猟奇趣味があって、自分が捕まらないほうの一割だということに、確信をもっている人間です」
山鹿がタバコに火をつけて長く煙を吹き、横から小長の顔をのぞきながら、禿げあがった額に太い皺をきざむ。そのとき咲がコインを入れたのか、休憩していたジュークボックスからビートルズの『フール・オン・ザ・ヒル』が流れはじめる。咲のこの選曲に意味があるのかないのか、しかしラザロのジュークボックスでは一連のビートルズナンバーが、最新の曲になる。
『フール・オン・ザ・ヒル』が終わるまで黙ってビールを飲み、それからグラスをカウンターに置いて、小長が山鹿に肩を寄せる。
「だけど山鹿さん。本当に犯人は、捕まらないほうの一割だと?」
「マスターの意見では、まず捕まらないだろうと」
「ふーん、マスターがね」
「犯人はそうとうに頭のいい人間で、頭がよくて猟奇的で殺人自体を楽しむようなタイプだろうと」
「一種の、通り魔みたいな?」
「はい。連続ではあるけど不連続というような、アメリカ型のオカルト犯罪という意見です。警察は成子さんと歯医者の接点を捜してるっていうけど、そんなの、無駄に決まっていると」
「とすると犯人は、誰でもいいから、ただ殺してみたかっただけ?」
「ただ人間を殺してみたかった、ただ人間の遺体を、バラバラに切断してみたかった」
「病気だな」
「頭のいい病人ですね。殺したり、バラバラにしたり、世間が騒いだり、犯人はそういうことで快感を得ている人間でしょう。被害者が歯医者と成子さんだったのは偶然で、まあ、運が悪かった」
「そうか、成子さんも運が、か」
小長がビールをあおってまた自分で注ぎたし、一度丸テーブルのほうへ流し目を送ってから、肩でも凝ったように、首を左右にかたむける。
「連続ではあるけれど不連続、か。なるほどね、犯人が病気だとしたら、そうかも知れないね」
「私たちも警察も一般社会も、頭が硬くなってるんです。今の若い連中なら通り魔的バラバラ快楽殺人事件と考えることに、違和感はないはずです」
「ふーん、ショウちゃん、そうなの」
「いえ」
「違う?」
「たとえ山鹿さんの言うとおりだとしても、事件の本質は別だと思います」
「本質ねえ、その本質というのは、たとえば?」
「非常に個人的なことではあっても、やっぱり普遍的っていうか、なにか、そんなこと」
「分かりやすく言うと?」
「ちょっとちょっと、小長さん……」
山鹿が薄笑いをつくりながら梢路の顔をうかがい、グラスを口に運んで、耳のうしろを掻く。
「ショウちゃんの言うことなんか、本気にしないでくださいよ。若いといっても彼は料理と山歩きにしか興味のない、変わり者なんだから」
梢路も小長や山鹿と議論をつづける気分ではなく、肩をすくめただけで、洗い物に戻る。事件から一週間は仕込んだ料理が間に合わず、そして昨日からは食材が余っている。この状態が本当に祭りの後だとすれば、これからはメニューも仕込みの量も、加減が必要になる。
「どうもなあ、山鹿さん、ジジ焼きを食いたくならないかい」
「どういう心境の変化です?」
「どういう心境の変化かね。マスターの顔が見えないと、なんだか無性に、ジジ焼きが食いたくなった」
「私もそういえば、ショウちゃんがラザロに来てから一年近く、ジジ焼きを食べていなかったな」
「そうそう、秩父名物ジジイのジジ焼き」
「ショウちゃん、ジジ焼きは?」
「つくれます」
「それじゃ頼もうかな」
「はい」
「山鹿さん、言い出したのは俺だぜ」
「いいじゃないですか、一緒に食べましょうよ。それからついでに、向こうの美人で無愛想な女子大生にも、ね」
山鹿の台詞ではないが、そういえば梢路が店に来てからも一ヵ月ほどは毎晩、五、六皿のジジ焼きが売れていた。そのオーダーが週に一、二皿になってそのうちぴたりと止まり、ここ半年ほどでジジ焼きを注文した客は、一人もいなかった。
梢路は一度カウンターを出てジュークボックスへ歩き、ポケットを探って、とり出したコインをジュークボックスに入れる。選んだ曲はポール&ポーラの『ヘイ・ポーラ』、この曲は成子が生きていたころ自分でピアノをひきながら、小長とデュエットしていたことがある。
丸テーブルを見るといつの間に平らげたのか、茸グラタンの皿は空になっていて、咲は足先にひっかけたサンダルをゆすりながら壁の宗教画を眺めている。初めてラザロに来たときからその絵に関心をもったらしいから、信者ではないにしても、聖書に対する知識はあるのだろう。
梢路は何秒か咲と視線の方向を同調させ、それから空になったグラタン皿を片付けて、カウンターの内へ戻る。その梢路に小長が、ビールの追加注文をする。
「ショウちゃん、ジジ焼きは急がなくていいから、たまには一杯やらないか」
「はい、ありがとう」
「店も暇そうだしな」
「そうですね」
「それにしてもなあ、成子さんみたいな女が秩父へ来たこと自体が、間違いなんだろうなあ」
「はい」
「彼女さえ……まあ、とにかく、一杯やってくれよ」
梢路がグラスをさし出し、小長が自分のビールをそのグラスに注いで、肩をカウンターに被せる。
「さっきショウちゃんが言った、あのことな」
「はい」
「非常に個人的なことではあるけど、やっぱり普遍的なこと、とかいうやつ」
「言っただけです。意味はありません」
「そうだろうけどさ。人間なんて、分かるようで分からなかったり、分からないようで意外に分かったり、そんなこともあるんじゃないの」
「そうですか」
「麻美さん、今夜は?」
「さあ」
「今度の事件で彼女も忙しいのかな」
「たぶんね」
「秩父始まって以来の大事件で、秩父新報始まって以来の大スクープだ」
「はい」
「金一封ぐらい出たろうからさ。今度会ったときはバッチリ、奢ってもらわなくちゃな」
梢路は注がれたビールを飲み干し、きょろきょろと目だけを動かすイタチに似た小長の横顔を、黙って眺める。小長が突然麻美の名前を出したのは、故意か、隅然か。人のことは分かるようで分からなかったり、分からないようで意外に分かったり、しかしどちらにしても所詮それは、他人のことだ。
咲がまた席を立ってジュークボックスへ歩き、コインを入れて選曲のキーを操作する。普段の日なら一晩に一回か二回の仕事しかさせられないのに、今夜に限ってはこの古いジュークボックスもさぞ、疲れたことだろう。
咲が席へ戻って頬杖をつき直し、それからすぐにジュークボックスがポール・アンカの、『ユー・アー・マイ・デスティニー』を流しはじめる。
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最近は鮎が戻ってきたとか騒ぐけど、秩父あたりの荒川に比べたらやっぱりドブ川だわと、また香村麻美は嘆息する。多摩川の対岸はもう神奈川県の川崎市で、遠くのサイクリングロードを母親と子供が大小の自転車を連ねていく。西に傾いた太陽は土手地の湿度を低くし、ゆったりとした川面にも金色のさざ波を起こさせる。眼下の河川敷では小学生の野球チームが甲高く喚きつづけ、そのゲームを暇な父親や暇な母親が三々五々、善人そうな顔でとり囲む。少し離れた土手には年金暮らしらしい年寄りが腰掛けていて、流れの川崎側でも何人かの年寄りが釣り糸を垂れている。
東京で就職をして緒婚して離婚して秩父へ戻ってから、もう七年。その間仕事や買い物で東京へは出ているが、気分としてはすっかりド田舎のド田舎新聞記者に落ちついている。今さらまた東京で暮らしたいとも思わないし、多摩川のようなドブ川に鮎や鮭を呼び戻そうとする東京人の無神経さにも、本心からうんざりする。
そうはいっても麻美ももう四十一、見掛けは若くても女としては限界で、このまま田舎で暮らして子育てをして歳をとって死んでいくのも、ちょっとばかり味気ない。出版社に就職して美人編集者とか騒がれ、一流の作家や映画人やスポーツ選手たちとも、多少の交流はあった。それは世間が考える華やかな生活だったかも知れないし、実際に自分でもその環境が自慢だった部分が、なくもない。しかしそういう浮かれ気分で暮らせたのも、最初の四、五年だけのこと。どの業界でも一流と位置づけられる人間たちには特殊な才能があり、それは知能であったり体力であったり思想や意志力であったりもするのだが、その先鋭な特殊さが麻美の体質には馴染まなかった。仕事をつづけるうちに自分の神経がすり減っていく現実が自覚され、つい「休める場所」を求めたのだ。
そんな麻美に「休める場所」を提供したのは、スナックで知り合った銀行マン。総合職だから学歴もあって生活も安定していて、それに何よりもその平凡な人生観が麻美の神経を慰めた。一流出版社の編集部員という立場に未練はあったものの、退職して結婚をして子供を生み、杉並のマンションで暮らした期間が五年。平凡な銀行マンはひたすら平凡で、しかし当初は癒しになったその平凡さが今度は麻美の神経に、痼疾《こしつ》のような苦痛を与えはじめた。作家も映画人もある意味では性格破綻者的な一面があって、それが魅力でもあり才能でもあり、そして他人を疲労させる凶器でもあるのだが、反面人間的な奥の深さも備えていた。それに比べると平凡な銀行マンは危険もないかわりに魅力もなく、一言でいえば、飽きたのだ。それはもちろん麻美の責任で、相手に悪気も落ち度もないことは分かっていた。それぐらいはちゃんと分かっていても、いつしか麻美は神経症気味になり、相手の食事マナーから風呂の入り方から歯の磨き方まで、辛辣《しんらつ》な批評を加えるようになった。そんな生活がつづけば相手も麻美を敬遠するのは当たり前、そのうち外に女でもできたのか、マンションに帰らない日が目立ちはじめ、半年後には「性格の不一致」を理由に協議離婚が成立した。麻美は子供をつれて秩父の実家へ戻り、親のコネと出阪社勤務という実績で秩父新報にもぐり込んだ。そういう四十一年間の人生は失敗でもあり当然の帰結でもあり、よかったのか悪かったのか、麻美自身にも分からない。ただ東京時代に比べれば神経も穏やかで気分も平和で、しょせん自分の人生はこの程度のもの、という諦めと達観がある。
それはそうなんだけどね、やっぱりもうちょっと、東京で頑張ってみるべきだったのかしらねと、麻美はドブ川のような多摩川に目をやりながら、何度目かのため息をつく。今日は午前中に、久しぶりに昔勤めた出版社へ顔を出し、調べ物をして昔の同僚と歓談して、つかの間当時の生活を思い出した。あのまま結婚なんかしなかったら、仮に結婚をしても仕事をつづけていたら、今ごろ自分の人生には、何が待っていたのか。
多摩川に架かる京王線の鉄橋を銀色の電車が渡っていき、その高架音と野球の喚声が麻美の思考を、不意に現実へひき戻す。
麻美は腕時計をのぞいて土手から腰をあげ、尻に敷いていたハンカチを拾いあげて、土と芝の切れ端をふり払う。天気がよくて光の色も透明で、それでも麻美の気分が重いのは決して、人生への後悔だけが理由ではない。
ショルダーのハンドバッグを肩にかけ、タイトスカートの足をさばいて、土手から土手下の道におりる。京王閣で競輪が開催されていれば人出もあるのだろうが、今日は遠くに犬の鎖をひいた主婦が歩いているだけで、多摩川沿いの住宅街は穏やかな倦怠に包まれる。少しばかり早い気もするが屋敷林のどこかから、ふと金木犀が匂いかける。
電柱の住居表示を頼りに多磨川四丁目から三丁目に入り、ログハウス風の邸宅や古い新建材の住宅が入り混じった住宅街を五分ほど歩いて、レンガの門柱に「柴崎」の表札を見つける。その家は木造の羽目板張りでスレート屋根の平屋建て、古めかしい佇まいだが寂れた感じはなく、門柱からつづく低い塀にもリサイクルらしい古レンガが使ってある。塀からは咲き残ったブーゲンビリアやエンゼルトランペットの大花があふれ出し、門扉のない庭の奥にも千日紅やジニアの小花が咲き乱れる。建物も小体《こてい》で敷地も広くはなく、しかしふんだんに咲いた花と雑草の見えない庭や花壇に、家に対する住人の愛着が感じられる。
麻美は門から二、三歩庭内へ歩き、ムクゲの樹下でギボウシの花柄をつんでいる白髪の老婦人に、後ろから声をかける。
「ご免ください。午前中にお電話をした、香村と申します」
老婦人の手がとまり、腰が浮いて、その白髪がゆっくりと向こう側へ回される。あらわれた顔は意外に若々しく、化粧っ気のない血色のいい皮膚はせいぜい六十を過ぎたあたりか。背丈も麻美と同じほどはあり、ウコン色の作務衣《さむえ》を着た体型にもそれほどの衰えは見られない。婦人の名前は柴崎|可音子《かねこ》、この可音子が中学で梢路を担任した元教諭であることを、麻美のほうはもちろん、承知で訪ねてきたのだ。
可音子が肩をすくめるようにして目を見開き、口元に軽い笑いをつくって、ギボウシの花柄をぽいと足元に放る。
「そうでしたね。秩父からわざわざ……」
何歩か麻美のほうへ歩み寄り、掃出し窓の前に据えてある木製のガーデンチェアに、可音子が麻美をうながす。
「ちょっと手を洗ってしまうわ。少しだけここで、お侍ちくださいね」
言い残して可音子が家内《いえうち》へ入っていき、麻美はすすめられた椅子に腰をおろして、あらためてその庭を眺める。花壇は多摩川で拾ってきたらしい石での手作り、今は赤とピンクのペゴニアが満開で、その向こう側には白い日々草が配されている。ポットに植えられたハイビスカスもまだ満開で、深紅のドイツ芙蓉には西からの木漏れ日が射しかかる。その玄関わきには男物の自転車がとまっているから、可音子も一人暮らしではないのだろう。
待つまでもなく奥から可音子があらわれ、持ってきたトレーをテーブルに置いて、自分も麻美の向かいに腰をおろす。
「いえね、本当にねえ、電話で平島くんの名前を聞いたときには、もうびっくりしてしまって……」
トレーから麻美の前に大きめのカップを移し、白い前髪を右手の小指でかき上げながら、可音子が短く息をつく。
「もちろん私も、気にはなっていたんですよ。そろそろ出所の時期ではないかということも、分かってはいたんです。ただねえ、忘れてはいけないと思いながら、本音の部分では関りたくない気持ちも働いたりして……結局私には教師の資格なんて、なかったわけですよ」
庭の一画でセージの葉叢《はむら》がゆれ、ブチ猫が顔を出してそのまま、二人には見向きもせず門のほうへ歩いていく。花壇にはカラスアゲハが舞って花蜂が飛び交い、遠くから京王線の高架音がかすかに聞こえてくる。
麻美はすすめられたミントのハーブティーに口をつけ、軒下にハンギングされたポーチュラカの花から可音子の顔に視線を移して、軽く息を整える。
「電話でもお話をしましたけど、このままでは梢路くんが、面倒な立場になる可能性があります。今のところ警察も気づいてはいないようですが、いつかは調べ出してしまうでしょう」
「せっかく秩父で静かに暮らしているものを……今回の秩父や寄居の事件は、もちろんニュースを見て知っています。でもまさか平島くんが関係していたとまでは」
「関係しているのではなく、正しくは、巻き込まれかけている、です。でも警察が梢路くんの過去を知ってしまえば、当然のように、疑ってかかります。私に何ができるのかは分かりませんが、当時の事情を心得ていれば、いくらかは梢路くんの役にたてるかも知れません」
「本当にねえ、何故あんなことに……」
自分でもテーブルから白いカップをとり上げ、目を伏せたまま一口すすって、可音子がため息をつく。さっきのブチ猫が戻ってきて一瞬足をとめたが、ぷいとそっぽを向いてまた、セージの葉叢にもぐり込む。
「当時の事情といってもねえ、とにかく事件の後は教師も生徒も、みんなが動揺してしまって……生徒のなかには不登校になったり受験に失敗したり、親に隠れてお酒を飲む子まで出てきたり。そのころから六年もたって、私なりにあれやこれや考えてはみるんですが、正直なところ平鳥くんが何故あんな事件を起こしたのか、結局は、分からなくて」
「でも理由は、あったはずです」
「もちろんね。検察庁の判断は、受験ノイローゼによる発作的な犯行、ということでした。平島くんの弁護士も同じ主張で……ただ、どうなんでしょう、本当の理由は平島くん本人にしか、分からないんだと思いますよ」
六年前の初冬、中学三年生の「少年」が就寝中の母親を包丁で刺し殺した事件は、ほんの一ヵ月ほど、新聞やテレビを騒がせた。報道では匿名になっている「少年」の実名も、新聞社や雑誌社にはデータとして扱っていて、麻美は元同僚を介して当時の情報を入手した。事件の概要が分かってからはパソコンを使って新聞のバックナンバーを検索し、今日は元の勤務先まで出向いて、六年前の週刊誌にも目を通している。
その結果分かった事実は六年前の十二月初旬、「少年」である梢路が成績不振を叱責され、発作的に母親を刺し殺した、というもの。もちろん母親の名前やその母親が小学校の教諭であったこと、五年前には離婚して梢路とマンションでの二人暮らしだったこと。その他梢路がサッカー少年であったことや、同級生などの梢路評などなど。普段の母親と梢路は仲のいい母子で、よく二人でスーパーにも出掛けていたし、マンションの住人も二人が争っている声も物音も、聞いたことすらないという。また「友達」の証言でも「少年」は多少元気のよすぎる部分はあったにせよ、明朗で快活で友達の面倒見もよく、非行やいじめなどにも一切無縁。担任教師の談話でも「少年」が悩んでいたり生活態度が変わったりの兆候はなく、今回の事件には「ただただ驚いている」という。
新聞や週刊誌がこの「中学生による母親刺殺事件」を追ったのはそこまで。以降は大した記事もなく、ときたま「少年」が家庭裁判所から検察庁へ逆送されたこと、そして一般と同様の刑事裁判が行われ、五年以下の短期懲役刑が確定して少年院に送致されたこと等、後日談的な記事が何行か、新聞の片隅にのる程度だった。その間にも幼女誘拐殺人や高校生による強盗殺人事件が頻発していたから、麻美にしても梢路の事件を、そういえばそんな事もあったかな、ぐらいにしか記憶していなかった。
「ですけどねえ、ただの受験ノイローゼというのは、どうも……」
可音子がカップをテーブルに置いて首をかしげ、二、三秒麻美の顔に目を細めてから、視線を手元のカップに落とす。
「成績的には確かに、中の中から上のあいだぐらいで……でもそれは最初からお母様もご存知だったはずだし、都立ならそう無理もせずに入れることも、分かっていたはずなの。平島くん自身も一流大学を志望するような生徒ではなくて、どちらかといえば、人生を楽しむタイプだったから」
「受験ノイローゼはあり得ないと」
「そういう意味ではないのよ。結局は平島くんとお母様二人だけの問題で、事件の後で平島くんと接見した心理学者やカウンセラーの判断も、突発的な心神耗弱だと。裁判でも平島くん自身が、それを認めたというし」
「でも先生には、納得できない」
「教師の欲目というか、私の思い込みというか……平島くんには内心、将来を期待していた部分があるんですよ。長い間教師をしているとごく希に、この子は普通の子とは違うな、という勘が働く生徒がいるものなの。どこがどう普通の子と違うのか、科学か経済か政治かスポーツか芸術か、その分野も分からないけど、とにかく普通の子とは何かが違うの。もちろんそんなこと、平島くんには言わなかったし、私だけの楽しみとして……」
可音子の口端に自嘲っぽいたて皺が刻まれ、老人斑の浮いた手がカップにのびかけて、その手がすぐ、胸元にひき戻される。
「それにね、事件の三ヵ月ほど前から、平島くんはお母様の評判を同級生たちに、聞きまわっていたというの」
「母親の評判を、同級生たちに?」
「同学年生にも下級生にも、それから、他校の生徒たちにも」
「どういうことなんでしょう」
「どういうことなのか、今でも分からないのよ。あの事件の後、生徒たちの間でそんな噂が広まりましてね。学区の関係でうちの中学にも平島くんのお母様が勧めていた小学校から、年間に三、四人は入学してくるの。平島くんはその生徒たちに、小学校でのお毋様の評判を、熱心に聞ききわったと」
「彼がそういう行動をとった、理由は」
「分からないわ。事件の前にそんな様子は見られなかったし、噂も私の耳には入らなかった。もしあの事件が起こらなければ噂自体、広まることもなかったでしょうし」
「自分の母親がどんな教師なのか、梢路くんは、知りたかった」
「たぶん、そういうことだと思うわ」
「でも、何故そんなことを……」
何故そんなことを、と、麻美はその問いを反芻《はんすう》させたままハンドバッグを開き、タバコをとり出して、火をつける。火をつけてから可音子に喫煙の可否を問うべきだった、とは気づいたが、知らん顔でそのまま、しばらくタバコを吸いつづける。
「先生ご自身は……」
椅子のわきにタバコの灰を落とし、花壇に戻ってきたアゲハ蝶に目をやりながら、麻美はハーブティーのカップをとり上げる。
「ご自身でその噂を、確認されたわけですか」
「ええ、何人もの生徒に」
「警察へは」
「もう裁判所の判決がおりた後でしたもの。それに平島くんがお母様の評判を知りたがっていたことと事件とが、どう関係するのか。たとえ関係があったとしても、それは平島くん本人にしか分からないことでしょう」
「では、その、母親の評判というのは」
「具体的には知りません」
「生徒たちからお聞きになったと」
「もう六年も前のことで……」
「最初にも言いましたけど、梢路くんの立場は今、微妙な情況にあります。もし警察が彼の過去を知ったら梢路くんの味方は伯父の八田さんと、私の二人だけ。私は自分から警察には言わないし、もし秩父や寄居の事件がこのまま解決してくれれば、表沙汰にする必要もありません。ただ最悪のケースを考えて……」
「ええ、ええ、そうでしたわね。ただちょっと悪口になってしまうようで、気がひけただけなんですよ」
可音子が眉をひそめながら口元を笑わせ、小皺に囲まれた細い目を上向けて、肩をすくめる。梢路の母親が評判のいい数師だったのなら可音子も躊躇《ためら》わないはずで、麻美にしてもその発言には、おおよその見当がつく。
「生徒の評判もそうですし、ああいう事件の後では職員室なんかでも、平島先生の人物評のような話が多くなって、いやでも耳に入ったんです。私は進路相談のときにしかお会いしていませんでしたけど、同じ市内の教員ではあるし、平島先生をよく知っている教師もいたりして……で、一言でいって平島先生は、ひどくえこ贔屓《ひいき》の激しい教師だったと」
「えこ贔屓ですか」
「えこ贔屓なんて言葉自体、最近はあまり聞きませんけどね。でも他に言いようがないから仕方ないわ」
「つまり、梢路くんの毋親は、あまりいい教師ではなかったと」
「表現の問題を別にすれば、最悪、かしら」
「そこまで」
「いろいろな評判から私個人でまとめた結論を言うと、最も教師には向かない性格だった、ということね。一つのクラスに四十人の生徒がいたとして、そのうちの二、三人は偏愛。逆に嫌いな生徒は徹底していじめ抜いて、その他大勢は無視。それが表面上問題にならなかったのは、世渡りが上手かったから、らしいの。教頭や校長、教育委員会の職員や父母会の役員たちには有能な教師と思われていたようで、その関係で悪く言う人は、まずいないとか。嫌いな生徒をいじめるにしても、体罰や暴言ではなく、証拠に残らないような言葉でちくちくと、陰湿に長期間つづけたらしいわ。いじめに遭った生徒が親に訴えても、ちょっとした言葉の思い違い、という程度で済んでしまったようで、要するに他人に取り入るコツと他人をいじめるコツを、心得ていた人なんでしょう。ただ、ねえ、そうは言っても……」
細い目を見開いて額に皺を刻み、テーブルに置いたカップのつまみをもてあそびながら、可音子がしゅっと、鼻水をすする。
「女というのはなかなか、公平にはなりきれない生き物ですものね。さっきは平島先生のことを『教師として最悪』と言いましたけど、それでは自分はどうなのかと。事件の後で自分の教師生活を思い返してみると、多かれ少なかれ、生徒をえこ贔屓していた部分が、ね。そのことに気づいてしまったら、もう教師を、つづけられなくなって……」
「学校を?」
「ええ、定年までには二年ありましたけど、思い切って、退職しました」
「そうですか。たしかに女というのは……」
「女というのは日常生活でも、えこ贔屓が洋服を着て歩いているような生き物ですものね。平島くんの事件が、そのことを思い知らせてくれました」
内心、苦笑交じりに深くうなずき、麻美はタバコを足元にすてて、パンプスの底で踏みつぶす。女が男に比べて不公平な生き物であることは、それはもう、生理的な事実。そして梢路の母親がその極端な例だったことも事実だとして、それではそのことが、事件の原因なのか。中学生の息子が母親とスーパーへ買い物に行く、というぐらいだから、母親は梢路を溺愛していたはず。いくら梢路が母親の、教師としての実態を知ったからといって、自分に愛情を注いでいる母親を包丁で刺し殺すなどという結果が、生じるものなのだろうか。それに八田義蔵にしても梢路は実の甥だろうが、母親のほうは実の妹。妹を殺した犯人である梢路を手元へひき取ることに、躊躇《ちゅうちょ》や葛藤《かっとう》は、なかったのか。
「ですからね、あの事件……」
可音子が椅子に座りなおして小首をかしげ、下から麻美の顔をのぞいて、唇に力を入れる。
「あの事件が受験ノイローゼの結果だったというのは、どこかに、不自然さが残ります。でも平島くん自身が突発性の精神錯乱だったと主張するのなら、それはそれで、いいんじゃないかしら。もう刑期も終えて、出所もして、静かに暮らしているわけですし」
「このまま静かに暮らせれば、それはそれで、いいのかも知れませんね」
「それにね、少年院へ面会に行ったとき、平島くんにも、『すべてを忘れるように』と言われたの」
「栃木の、少年院へ」
「一度だけね。彼、私の教え子だった平島梢路とは、まるで別な人になっていたわ。なんていうのか、老成した大人が少年の縫いぐるみを着ているような、そんな感じ。そして私に『自分がこの世に存在していたことも、存在していることも、すべて忘れるように。そして二度と、面会なんかには、来ないように』って。ただ一つだけ頼めるなら、百科事典をさし入れてくれ、と」
「はあ、百科事典」
「百科事典を読んでいれば、死ぬまで、暇つぶしができるからって」
「死ぬまで暇つぶしが、ですか」
「私が思ったとおり、彼はやはり他の子供とは違っていたの。ただどういうふうに違うのか、それは今でも、分からないわ」
殺風景な、手作りのシャワーと手作りのベッドが置かれているだけの、なんの生活感もない梢路の部屋。その部屋の片隅に今でも全二十七巻の百科事典が並んでいることを、口に出しかけて、麻美は言葉を呑む。少年院へ面会に来た担任教師に、「自分のことは忘れてくれ」と告げた梢路にしてみれば、麻美が可音子を訪ねたことなんか、大きなお世話。口にこそ出さないが可音子にしてもそれは、同じ気持ちだろう。
麻美はとり出しかけたタバコをバッグへ戻し、腰を浮かせて、ていねいに頭をさげる。
「いろいろ、失礼なこともお聞きしたと思います。ただこの情況ですので、お許しください」
「こちらこそ。本当は私のほうが……ですけど香村さん、少年院を出たあとで平島くんが私に連絡をしてこなかったその気持ちも、考えてくださいね」
「はい。今日先生にお目にかかったことは、誰にも言いません」
「早く今の事件が解決してくれるように。私にできるのは、祈ることだけですわ」
テーブルから離れて二、三歩門のほうへ歩き、ふと思い出して、麻美は可音子をふり返る。
「初めに先生、事件の後は教師も生徒も動揺して、と仰有いましたわね」
「それは、あれだけの事件でしたから」
「親に隠れてお酒を飲む生徒まで出たと」
「まったくねえ、勉強もよくできて、家も調布では有名な資産家だったのに」
「まさかその生徒、女子ではありませんよね」
「女子生徒ですよ。奇麗で勉強もできて、平島くんと同じように私、彼女の将来を楽しみにしていたんですけど」
「まさか……」
「まさか?」
「その女子生徒の名前、まさか、樺山咲?」
麻美のほうへ歩きかけていた可音子が足をとめ、小皺に囲まれた細い目を見開いて、作務衣の襟を整えながら、下から麻美の顔をのぞき込む。
「ええ。樺山咲ですけど、どうしてそれを……」
*
黒沢満男は出てきたばかりの『峠』をふり返って、ちっと舌打ちをする。今夜はせっかくママの幸恵と二人だけになれた、と思っていたところにまた日向の黒沢寛二と小鹿野のトラック運転手が来て、結局例の話題は不発。それに焼酎のニューボトルまで入れさせられたから、出金が四千円を超えてしまった。朝から晩まで生コン工場で働いた日当が六千五百円で、たった二時間焼酎を飲んでカラオケを歌った出費が、四千円とは。せめて幸恵と一発やるときの相場だけでも聞き出せたらそれなりの進展ということで、いくらか気も晴れたろうに。なぜ自分はこんなにも運が悪いのか、なぜ無理をしてでも高校ぐらい出ておかなかったのか、そしてなぜ、秩父のどん詰まりの、こんな山奥に生まれてしまったのか。
今日は小鹿野のラーメン屋で下和田の恭子を見かけ、新しく買ったベッドの上で思う存分やりまくる場面を想像して、躰中が熱くなった。だからってもちろん声はかけられず、大盛りの味噌ラーメンと餃子を食べただけで、店を出てきたのだ。恭子はたしか皆野高校へ行ったはずだから、中卒の満男としては、いくらか引け目がある。顔なんか柏沢の初美と似たようなものだが、新車を買って家を直して新しいベッドを買うなら、ここは頑張ってやっぱり、色が白くて足の長い、恭子のほうだよな。
満男は『峠』の黄色い電気看板にもう一度舌打ちをし、空き地の草むらに立ち小便をしてから、とめてあるカローラのドアを開ける。背後の闇にヘッドライトがあらわれ、そのクルマが両神方向へ『峠』の前を通り過ぎる。
それにしてもなあ、黒沢寛二はいつも都合の悪いときにやって来て、やれ演歌をうたえだの嫁をもらえだの、余計なことばかり言い募る。嫁をもらえるものならとっくにもらっていて、こんな時間に『峠』でなんか油を売らずに、嫁さんと何発も何発も、腰が抜けるほどやりまくっているのだ。あの親父さえいなければ、と呟きながらエンジンをかけてアクセルを踏み込み、中古のカローラを薄川の川沿い道方向へ走らせる。昼間はよく晴れていたのに夕方から曇ってきて、林間にのぞく空には星も月も見られない。もう九月も終わりで夜になると気温もさがり、両神山の山頂では紅葉も始まったという。今年もまた新潟へ雪掻きの出稼ぎか。どうせなら東京の道路工事にでも出ればいいものを、本音を言うと満男は東京という都会に、恐怖を感じるのだ。
細くて曲がりくねった山道を走りながら、親父さえいなければと、また満男は声に出して独りごとを言う。山を売って材木を売って四輸駆動の新車を買い、フローリングとやらの酒落た部屋をつくって、洒落たダブルベッドを買う。初美も恭子も顔は似たようなものだが、初美は色が黒いし背は低いし、それに目が藪睨みで、顔を合わせてもどこを見ているのか、よく分からない。それに比べると恭子は色が白くて足が長くて、正常位でやったときにはちゃんと、目だって合うだろう。高卒と中卒の差はあるが所詮は皆野高校、とにかくあの親父さえいなければ、恭子を嫁にもらって朝から晩までベッドの上で、それはもう何発も何発も、只でやり放題なのだ。それになあ、一度嫁にもらってしまえば、女房のほうにだって亭主や家計を助ける、義務が生じるのではないか。
その起死回生ともいえる真理が頭に浮かび、ハンドルを握った満男の手に、ぐっと力が入る。なぜ今まで自分は、そのことに気づかなかったのか。只で好きなときにやり放題というだけでなく、女房を農協の売店かコンニャク工場で働かせれば、しっかり月給まで持って帰るのだ。只でできてしかも相手が金まで稼いでくれて、なんと夢のような、なんと美味い話か。そうなったらもう秩父のフィリピンパブにも『峠』の幸恵にも、完璧に用はなく、冬になっても新潟へなんか、雷掻きの出稼ぎに行く必要もなくなるのだ。
冗談ではなく、これは本気で考えるべきだなと、満男は手のひらに滲んだ汗を意織する。もちろん本気で考えたところで父親はまだ、六十五歳。山仕事にしか能がなくても躰だけは丈夫で、ここ何年も、風邪すらひいたことはない。タバコも吸わず酒も飲まず、ただひたすら共産党が「外材の輸入を禁止してくれる日」を待ちつづけている。そんな父親が自然に死んでくれるなんて、山で熊にでも食われない限り、まあ、絶望的。ドクツルタケかタマシロオニタケといった毒茸を食わせようにも、父親も母親も茸には満男以上の知識がある。トリカブトの根という手段は症状が明らかで、もし病院に運ばれたら一発でバレてしまう。それならいっそのこと、山仕事のついでに谷底へでも突き落としてみるか。ただそれも確実に死んでくれるとは限らず、もし死ななかったら自分のほうが刑務所へ入れられてしまう。念のために頭を石で殴っておくか、それとも突き落としてから助ける振りをして、谷の水に顔を押しつけてやるか。
あれやこれや場面を想像し、なにかもう一息名案はないものか、と首をひねったとき、クルマのヘッドライトに赤い停車ランプが浮きあがる。とまっているクルマの前には人影も見え、手をあげて満男のほうに合図を送っている。道はもう塩沢を過ぎた山のなかまで来ていて、こんな時間にこんな所へクルマをとめているのは、誰だろう。
満男はブレーキを踏んで速度を落とし、崖の側へ切り開かれている空き地にハンドルを切って、停車しているクルマのすぐ後ろへカローラをとめる。この空き地は山奥にある集落への入り口で、そういえば偏屈な年寄りがたった一人でまだ、その山奥に暮らしているという。
ギアをパーキングに入れてサイドブレーキをかけ、ドアを開けて、満男は外に出る。
「どうも、慣れない山道を走って、オーバーヒートしたらしいんです」
「ほうけえ。そりゃまた、困ったいなあ」
「あいにくケイタイを持っていなくて。どこかこの近くに電話はありませんか」
「俺もケイタイってのは持ってねんだけどよ。ここいらじゃ公衆電話も……あんた、両神の民宿へ行くんかい」
「ええ、予約がしてあるので」
「ほうけえ。まあナンだい、俺んちはこの先をちょっと行ったところだから、一緒に来て電話をかけりゃあいいべえ」
「構いませんか」
「世話あねえって。村のもんならどうもねえだろうがよ、他所から来た人じゃあ狸や狐が、おっかなかんべ」
「それならお言葉に甘えます」
「いいっていいって。ほんのすぐそこだから、とにかく一緒に来《き》ないね」
相手に背を向けてカローラに戻りかけた満男の肩を、その相手が、ぽんぽんと叩く。
「はあ? 何だんべえ」
奇妙に視界が明るいのは、クルマのライトのせいか。自分の頭自体が明るい気もするのだが、その理由が分からない。膝から力が抜けていく理由も分からないし、突然襲ってきた吐き気の理由も頭が割れるように痛い理由も、とにかく満男には、何も分からない。
満男の視界一杯に人間の拳が広がり、その拳から人さし指と中指が突き立って、二本の指がゆっくりと、Vの宇形に開く。
そうだいなあ、親父を殺すときはやっぱし、初めに頭を石でぶっ叩いてから、谷底に突き落としてやるべえ。
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秩父というところは事件の日に限って、どうしてこう、天気が悪いのか。傘が必要なほどの雨が植林された杉の林をけぶらせ、空き地に這い出したクズの葉をべっとりと地面に押しつける。足元の雑草も穂を広げたススキもすべてが雨に濡れ、パトカーや鑑識課のワゴン車にも雑木《ざつぼく》からの雨滴が垂れかかる。
そうはいっても今日の坂森四郎は長靴にレインコートの完全武装、空き地の一画に張ったテントの内でスチールパイプの椅子に腰掛け、山道や向こう側の谷や空き地と藪の間を出入りする捜査員たちの働きを、憮然と眺めている。警官たちは制服も私服も鑑識も全員が透明なレインコートを着込み、この雨のなかを愚痴も言わずに動きまわる。
薄川沿いの道にパトカーが鼻面を見せ、とまったパトカーの後部ドアが開いて、初老の男と若い男が降りてくる。二人は同時に傘を開いて周囲を見まわし、立ち番の警官と言葉を交わしてから、すぐに黄色い「立ち入り禁止」テープをくぐって来る。初老の男は埼玉県警捜査一課長の永橋靖男警部、若いほうは嫌煙家の沼内巡査部長で、どうやら県警本部から直接パトカーを乗りつけたらしい。道からテントまで三十メートルも歩かないというのに、もう二人の靴とズボンの裾はぐしょ濡れになっている。
傘をたたんでテントの内へ入り込み、悪太りした永橋が窮屈そうに腰をかがめて、ズボンの裾にハンカチをあてがう。
「この雨のなかを課長直々のお出ましとは、ご苦労様ですなあ」
「そうは言ったってサカさん、連続のナニも三件目となりゃ、現場を見ておかんわけにはいかないよ」
「まったくねえ、まさか、こんなふうに続くとは……」
坂森がたたんであるスチールパイプの椅子を開いてやり、永橋がそれに腰をおろして、ふーっと長く息をつく。歳は坂森より二つ若いが大学出の準キャリアで、捜査一課に配属されたのは坂森とほぼ同時期。二人でコンビを組んだ期間も長くあり、課長と平刑事という立場の違いはあっても、お互いに気心は知れている。もともと県警本部の課長職には若いキャリアの警視がつくものだが、ただ一つの例外は強行犯を扱う捜査一課。一課の課長にだけは現場から叩き上げた警部が就任する慣習で、これは他の県警や東京の警視庁でも変わらない。いわば捜査一課は警察社会における叩き上げ組の聖域で、若いエリート警視が年寄りの平刑事を罵倒する、といったテレビドラマのような光景は、まず見られない。一課の課長を経験した警部は定年の三年ほど前に警視へ昇進し、中規模所轄の署長となって、警察官生活を満了する。永橋も来年あたりはどこかの暑長に転出するはずで、永橋のようなケースが現場警察官としては、最高の出世になる。
タバコに火をつけた坂森の顔を羨ましそうに眺め、肩にたまった雨の滴を払いながら、永橋がごほっと咳払いをする。
「で、サカさん、鑑識さんの姿が見えないようだが、現場は谷のほうかね」
「逆の山側だよ。あっちのつき当たりに蔓が絡んだ藪があるだろう。ここからじゃ見えないけど、あの藪の後ろに細い道があってね、ホトケさんはその道の途中に転がってる。もちろんその……」
「手足と首がバラバラになって、か」
「手口は前の二件とまったく同じ。こうと分かっていればもっと、警戒をするんだった」
「そうは言うけどなあ。この事件が、こういう展開になるとは……まさかこの辺の住人に、バラバラ殺人の被害者になりそうなやつは名乗り出ておけ、とも言えなかったろう」
「そりゃあ、そうだが」
「マスコミにはまた叩かれるかも知れんが、こいつは不可抗力さ。まあ後で現場は見るとして、とりあえず分かってることを聞かせてくれんかね」
坂森が携帯の灰皿にタバコの灰を落とし、永橋の横に立っている沼内の顔を一瞥してから、またぷかりと、タバコを吹かす。
「分かっているのは被害者の名前ぐらいなもんだがね。まず名前は黒沢満男、このちょっと先の日影という集落に住んでいて、独身、三十四歳、両親との三人暮らし。今は小鹿野の生コン工場へ臨時仕事に出てるが、普段は家の山仕事や畑仕事を手伝ったり、たまに道路工事のアルバイトに出たり。と、それから……」
背広の内ポケットから手帳と老眼鏡をとり出し、くわえタバコの顔にメガネをのせて、坂森が手帳を開く。
「昔だったら聞いたことはみんな覚えてたんに、はあいけねえ」
「なんだいその、はあいけねえってのは」
「秩父弁で、もうダメだって意味だよ。こっちへ来てから言葉が昔に戻っちまって、はあ止まらねえ」
「分かるような、分からないような……で?」
「で、と。遺体の発見者は父親の黒沢作太郎。昨日の朝満男は生コン工場へ仕事に出て、夜になっても帰らない。満男も酒は飲むし、若い者のことだからどこかに引っかかってるんだろうと、気にもせずに寝ちまったらしい。それが朝になっても帰ってきた様子がなく、電話も来ない。それにどうも、虫の知らせみたいなものがあったらしくて、で、こっちのほうへ探しに出てきてみたら、この空き地に倅のクルマがとまっていたと」
「クルマだけで人は乗っていなかったわけだね」
「そりゃだって、倅はこの奥でバラバラだもの」
「だけどサカさん、満男の父親はどうして、あの藪の向こうへ」
「課長もやっぱし町っこだいなあ。ここら辺のもんは藪の向こうに道があって、その道を登っていったずっと先に集落があることを、みんな知ってるのさ」
「あの先に集落が?」
「途中まではバイクが入れて、その先は歩きになるけどね。昔は三家族ほどの人間が住んでたらしいんだが、今は爺様がたった一人」
「たった一人でも、今でも人がねえ」
「俺も午前中に上ってって、会ってきたよ。ちょいと変わった爺様だけど、頭はボケてなかった。もちろん今日は朝からこの雨だし、外には出ていないから、事件のことは知らなかったと」
「ふーん、こんな山奥の、それよりもっと奥にまで……」
周囲が山深いことによほど感心したのか、それともこんな山奥での独居老人が信じられないのか、永橋が目をしばたいて、首の肉をぶるんと震わせる。昔は坂森と同じぐらいに痩せて頑健だったのに、最近はとくに贅肉《ぜいにく》が目立ちはじめ、座るときはズボンのベルトを弛めたりワイシャツのカラーを弛めたり、それにときたま息が切れたように白目をむいて、肩で呼吸を整えることがある。
「なにしろ平家の落人部落だの、戦国時代の隠れ里だの、いろんな伝説がある土地柄でね。俺の子供の時分には豊臣秀吉の末裔だとかって爺さんがいたけど、あれはただの病気だった」
「うん、いやあ、なるほど」
「つまりは被害者の父親も、倅が何かの都合で上の集落へ行ったんじゃねえかと、ね」
「それであの藪を入って行ってみたら」
「はあバラバラだったと」
「サカさん、そのはあっての、酒落てるなあ」
「ほうけえ。それなら県警の捜査一課で、はやらすべえかね」
「今言った、ほうけえってのは」
「そうかい、というような」
「ほうけえ、ほうけえ、こりゃいいや」
「坂森さん……」
坂森と永橋の無駄話に業を煮やしたのか、永橋の頭越しに顎をつき出して、沼内が縁なしのメガネを光らせる。
「要するに、遺体の発見時間は」
「はあ朝の九時を過ぎてたってよ」
「そうですか。それで、発見したあとは」
「それがよう、なんとまあ気の勝った親父で、なにしろ最初に見つけたんは胴体だけだんべ。服を見てすぐ倅だと分かったんだが、足も頭もねえ。それでそこらを探して、頭と両腕と両足、みんな胴体に戻してやったんだと」
「つまり、遺体を動かしてしまったと?」
「そういうことだいなあ」
「とんでもないことを」
「だけど沼内くん、手足が転がってたんはみんな胴体から二十メートル前後で、これは前の二件と同じだい。鑑識さんも手口が同じだと言ってるし、親父が手足をくっつけたからって、大して問題はなかろうよ」
「そういうことじゃなくて……」
「なあサカさん、それはそれとして、おおよその死亡推定時刻なんかは、分かってるのかね」
「まあ、だいたいのところは、ね」
短くなったタバコを携帯の灰皿に始末し、手帳のページをめくって、坂森がこつこつと腰を叩く。天気が悪いとどうしても右腰の痛みが増し、そのぶんだけ坂森の機嫌も、必然的に悪くなる。
「正確なところは解剖してからなんだが、被害者は昨夜、十時近くまで酒を飲んでるんだよ。場所は小鹿野と両神の境にある『峠』というスナックで、そこのママが言うにゃあ、昨夜黒沢満男が帰ったのは十時より少し前だったと」
「酒を飲んでクルマに?」
「村の連中はこの世にタクシーってものがあることを、いまだに知らないのさ」
「ふーん、なんとも」
「その『峠』付近から被害者の家までは、この薄川沿いの道が一本だけ。被害者が家へ帰るつもりでここまで来たとすれば、クルマに乗っていた時間はせいぜい、十五分か二十分」
「とすると、犯行時間も死亡推定時間も、昨夜の十時半前ということになるな」
「そんな見当だいね」
「サカさん、それなら……」
永橋がズボンのベルトを弛めながらぶ厚い目蓋をもち上げ、ぶ厚い頬を、ぴくっと震わせる。
「犯行時間も犯行場所も、はっきりと特定できるじゃないか。これは前の二件と、明らかに違う」
「一応は、まあ、そうかね」
「一応は、というのは?」
「そりゃ夜の十時半なんてのは、東京や大宮なら宵の口だろうがね。ここはご覧の通りの山んなかだい。果たしてその時間にここを通ったクルマが、あるかどうか」
「聞き込みは始めてるんだろう」
「通報を受けた直後からね。所轄の連中が簿川沿いの集落を、シラミ潰しさ。ただ今のところ、その時間にここで被害者やそれ以外の人間を見たという目撃者は、出てないよ」
「しかし出てくれば、犯人《ホシ》が初めて尻尾を見せたことになる」
「俺も期待はしてるんだが、さあて、どんなもんだか」
「この川沿いの道はどこへ抜けるんだね」
「どこへも抜けねえ。両神山へつき当たって、はあそれで終《しま》いだい」
「両神山へつき当たって、はあ、か。だけど、どうもなあ、その両神山って名前、前にもどこかで、聞いた気がするなあ」
「山歩きの好きなやつなら……課長じゃ、そんなこともねえか」
「どこだったか……リョウカミ、リョウカミ、ええと」
眉毛からとび出た長い毛を指でひっ張りながら、厚い頬に笑窪のような皺をつくって、永橋がちらちらと坂森の顔をのぞく。
「サカさん、ちょっとその、タバコを一本くれんかね」
「俺はかまわねえが、タバコなんか吸ったら女房《かみ》さんにどやされべえ」
「うちの女房だって千里眼じゃないよ」
「分からねえぜ。女ってのは背広についた髪の毛一本、タバコの煙の一吹きだって見のがさねえ」
「久しぶりにヘビースモーカーのサカさんに会って、臭いが移ったとか何とか、言い訳は考えるさ」
「そりゃまあ、そっちの勝手で……」
レインコートの下に手をやってタバコとライターをとり出し、それを永橋にわたして、ついでに坂森は、携帯の灰皿もさし出す。永橋がタバコに火をつけ、坂森も一本をくわえる。
そのとき下の道から制服の警官がやって来て、敬礼をしながらテントの内へ腰をかがめる。
「失礼します。ちょっと、ただ今、そこに郵便配達が来まして、上の集落まで行きたいと」
「ほうけえ。そりゃまたご苦労さんだが、今日のところは遠慮してもらいない。大事な配達もんならお前さんがあずかって、後で上へ届けりゃいいがね」
「は、では、そのように」
制服警官が敬礼を残して元の配置に戻っていき、その様子に目を細めながら、永橋が長々とタバコの煙を吹く。
「いやーっ、なんともまあ、やっぱりタバコってのは、美味いねえ」
「せいぜい肺癌に気をつけることだい」
「サカさんに言われたくはないけど、だけどナンだなあ、郵便配達ってのは、こんな山奥にまで来るものかね」
「それが連中の仕事だがね。最近のことは知らねえが、昔はバイクも入らねえような集落がここの他にも、ずいぶん在ったもんだよ」
「郵便配達って仕事も、楽じゃないなあ」
「それがよくしたもんでよ。なにしろここいらは家の数が少ねえ。当然配達物も少ねえから、行った先で一時間や二時間、茶を飲んで世間話をして弁当を食ってと、そんな事もできるわけ。町場の郵便配達から見りゃあ、はあ田舎は極楽だんべ」
「ほうけえ、聞いてみないと、分からないもんだ」
「課長、お話し中ですが……」
沼内が歯軋《はぎし》りをするような顔でメガネを光らせ、地面に突き立てた傘を、ぐっと握りなおす。
「鑑識さんも待っていることでしょうし、早く現場を検証しておきませんと」
「急ぐことはないだろう。逃げ出したくたって、沼内くん、ホトケさんには足がないんだから」
「あ、いえ、はあ」
「それはそれとして、サカさん……」
永橋がまた深々とタバコを吸い、肉のかぶさった目蓋をもち上げて、ぽんぽんと腹を叩く。
「黒沢満男という被害者の、交友間係はどうなんだね。前の二件とのつながりは、出てきそうかね」
「まだ聞き込みを始めたばかりで、詳しいことは分からねえ。ただね、親や兄弟や飲み屋のママや勤め先の社長や、そういった連中の話じゃあ、どうもこの被害者、ほとんど秩父から出てねえそうだよ。中学を卒業してあっちこっち勤めはしたらしいが、それも隣町だの隣村だのだけ。むろん東京ぐれえ遊びに行ったことはあるだろうけど、歯医者だのピアニストだのってのとは、人種が違う感じだいなあ」
「秩父市の、例のスナックには」
「金輪際《こんりんざい》、こんな野郎は来てねえと。寄居の歯医者にも記録はねえらしいが、そっちはまだ向こうの所轄に、調べを継続してもらってる」
「となると、仮にだよ、三人の被害者になんの共通点もなかった場合、この事件は、どうなるね」
「通り魔的連続バラバラ殺人事件と、そういうことだんべえ」
「そういうこと、か。たしかに最近は、たんなる楽しみで人を殺したり死体を切り刻んだり、そんなバカも多いが、どうも……とりあえずサカさん、この両神の事件だけでも、マスコミに伏せられないかね」
「そりゃ無理だがね」
「どうして」
「都会のマンションあたりで起きた事件なら、箝口令《かんこうれい》を敷くこともできようがよ、なんてったってここは秩父だい。さっきの郵便屋だってはあ誰かに喋ってべえし、聞き込みに行った先の相手だって、どうせもう十人や二十人には電話してらい」
「なんと、まあ」
「隣村のゴンベエがその隣村の後家さんに夜這いをかけてるとか、どこん家のカアちゃんは尻の穴でタバコを吸うとか、そういうことを小学生でも知ってるような土地だがね。ここは逆に、マスコミさんに騒いでもらうほうが、手段《て》と思うがなあ」
「マスコミに騒いでもらって、逆に犯人を炙《あぶ》り出すと」
「思うんだけどよ、雨は偶然だったにしても、雑草や枯葉の上じゃあ足跡は残らねえ。この現場を見ても分かるとおり、まず素人が知ってるような場所でもねえ。そりゃ寄居も長瀞も同じことで、犯人はこの地方の地理に、相当詳しい野郎だい」
「犯人を男と断定できるかね」
「野郎って言ったのは、まあ、言葉のあやだけどね。だけど遣留品の鋸だって女が買ったら目立とうし、それに中国から何万本も輸入されてる鋸じゃあ、到底足取りは掴めねえ。犯人はそれもちゃんと心得てる野郎で、そりゃ頭は病気なんだろうが、意外に普段はインテリかも知れねえよ」
「つまりサカさんの見解は、被害者相互の接点を割り出そうという今の捜査方針は、間違っていると」
「そうは言ってねえさ。だけどこの黒沢満男って野郎に、東京から来た美人のピアノ弾きや金持ちの歯医者と、接点があるとは思えねえんだ。むろん東京は東京でこれまでどおりの捜査は必要だんべえが、こっちはこっちで、いわゆる『異常者』ってやつの割り出しも、なあ」
「そうなると捜査本部も、秩父へ移さなくてはならない」
「そんなことは課長や刑事部長が決めることで、こっちはただの、将棋の駒だがね」
「薄情なことを……ただ、まあ、実際にこうやって三件目の事件が発生してみると、捜査方針の転換も、仕方ないかな。もちろん刑事部長はそれでも、被害者相互の接点に、拘《こだわ》るだろうがなあ」
根本まで吸いきったタバコを名残借しそうに見つめ、永橋が携帯用の灰皿にタバコを落として、肉のついた九い肩を、ちょっとすくめる。雨足は強まりもせず弱まりもせず、杉の林や空き地のオオバコやテントのキャンパス地や捜査員たちのレインコートに、粛々と降りそそぐ。
「さあてと、それじゃ沼内くん、そろそろ……」
永橋が腰を浮かせて軽く背伸びをし、弛めていたズボンのベルトを締めなおしかけて、ふと、その手をとめる。
「サカさん、そういえば、思い出したよ」
「なにを」
「リョウカミという名前を、前にどこで聞いたのか」
「ただのデ・ジャ・ブーじゃねえのかい」
「また洒落た言葉を……だけどまあ、そうじゃなくて、ほら、昔|御巣《おす》鷹山《たかやま》ってところに、大型の旅客機が落ちたろう」
「うん、もう二十年も前になるかなあ」
「何年たったかは忘れたけど、しかしとにかく、あのときの第一報は『両神山に墜落』だった」
「そういやあ……」
「そうそう、それで両神山ってのは埼玉県警の管轄だから、本庁でも当初、緊急の出動態勢に入っていた」
「言われてみりゃあ、そんな事もあったかね」
「あったあった。だけどすぐに、墜落したのは県境を越えた詳馬県側だと分かって、少しだけ、ほっとしたもんさ」
「それで両神って名前を、か」
「珍しい地名だから覚えていたんだろうが、しかしまあ、それだけのことだけどね」
とめていた手を動かして永橋がズボンのベルトをしめ、息苦しそうに肩を上下させて、ごぼっと空咳をする。そういえば永橋の肥満は禁煙を始めて以降のことで、喫煙と肥満のどちらが健康を害するものか、坂森には分からない。
「課長、俺の長靴とレインコートを貸すから、着て行きない」
「サカさんは来ないのかね」
「寄居に長瀞にこの両神に、はあバラバラは見飽きたがね」
「ほうけえ、ほうけえ。いや、冗談じゃなく、サカさんの秩父弁が伝染《うつ》りそうだ」
坂森はレインコートを脱いで永橋にわたし、それから長靴も脱いで、椅子の座に胡坐を組む。永橋がわたされたレインコートを着て革靴も長靴に履きかえ、テントのポールに立てかけてある傘に、よっこらしょと手をのばす。
「おーい、楠木くん」
胡坐を組んだまま手ラッパでテントの外へ呼びかけ、藪の前に立っている若い大柄な刑事に、坂森が手招きをする。
楠木が雨のなかを小走りに歩いてきて、背を丸めながらテントの内をのぞき込む。
「楠木くん、課長さんを、ちょいと現場まで案内してやってくれや」
「課長?」
「本庁の捜査一課長、永橋警部さんだがね」
「は、どうも、は、自分は……」
「いいからよ。今度の事件で、どうせ捜査本部は秩父中央署へ移らい。自己紹介なら後で、好きなだけできるがね」
永橋が苦笑をしながら傘を開き、太った腰を窮屈そうにかがめて、テントから雨のなかへ踏み出す。沼内もつづいて空き地へ出て行き、その二人を楠木が奥の藪へみちびく。沼内の背広には肩にも尻にもすぐに雨の染みが広がり、雑草を踏んでいく革靴にも、濡れたカヤツリ草やゲンノショウコがまといつく。
長瀞の事件現場へ出向いたとき、「山へ入るときは長靴が必需品」と教えてやったのに、今日はあのとき以上の雨で、現場もあのとき以上に草深い。まして濡れた藪のすき間をくぐるのは、服を着たまま水に飛び込むようなもの。沼内も大学出とはいいながら、先輩の忠告を無視するようではどうせ、大して出世はしないだろう。
坂森は、三人が藪の向こう側へ踏み込んでいく後姿を眺めながら、またタバコをとり出して、憮然と火をつける。
*
梢路が浴びているシャワーの音を聞きながら、香村麻美は折り曲げた自分の膝を、自分の腕で抱きしめる。目の前からは電気ストーブがささやかな熱を提供し、寒くて薄暗い梢路の部屋にそのオレンジ色の光が、気分だけ暖かい。
麻美は自分で持ち込んだワインのグラスを口に運び、ビニールのカーテンに跳ねるちっぽけなシャワーの滴に目をやって、思わず首を横にふる。十月に入ったばかりでも深夜には暖房が欲しくなる土地なのに、梢路は去年の冬、この電気ストーブさえ使わずに過ごしたという。栃木の少年院生活で寒さには慣れているにせよ、梢路の頑なさは限度を超えている。元教諭の柴崎可音子も「普通の子とは何かが違う」と言ったが、それはたんに毋親を手にかけた、という梢路の経験以上に、もっと何か、本質的なものだろう。
ワインを咽に流しながら部屋内を見まわし、壁際に積んである全二十七巻の百科事典に目をとめて、麻美はふんと鼻を鳴らす。人の価値観も生きるスタイルもそれぞれ、アフリカあたりでボランティアに命をかける医者もいれば、ベランダから女物のパンティーを盗んでマスターベーシヨンにふける詩人もいる。梢路がこれからの一生を百科事典で消費しようというなら、それだって、やって出来ないことはない。もちろんやって出来ないことはないのだろうが、そんなことで人生のゲームオーバーを決め込んでいる梢路に、どうにも麻美は、腹が立つ。
いったい自分は何を考えているんだろうと、ここ幾日か折につけ、麻美は自問する。梢路という存在に興味は感じていたが執着があったわけではなく、他人の目を盗んで時々ベッドを共にする程度の、軽い相手だった。歳だって自分のほうが倍も上だし、正式な交際がどうとか結婚がどうとか、考えることすら論外。それが成子の事件以降、梢路の過去を知って秘密を知って、気持ちの内に不可解な執着が生じてきた。
常識で考えれば、殺人を犯した人間、それも自分の母親を手にかけた男となど、接点をもつことすら疎まれる。麻美のなかにもそういう通俗的な感情が芽生えるかと思っていたのに、現実は逆だった。自分でも頭がおかしいのか、と疑ってしまうほど、梢路と肌を合わせる場面を想像するだけでなぜか、鳥肌が立つほどの性欲を感じるのだ。
梢路が閉じこもっている殻を破壊して、もう一度現実の杜会へひき戻そう。そのためなら、二人の関係を公表して、情況によっては結婚をしたって構わない。狭い町だから色狂いのバカ中年女と罵《ののし》られるかも知れず、そのことで親や子供が肩身の狭い思いをするというなら、いっそのこと梢路と息子と自分との三人、東京へ出てやり直すか。元の出版社は無理にしても、当時のコネをたどれば編集の仕事ぐらいは見つけられる。梢路を大学へ入れ、同時に息子も育てあげ、そんなことをしていたらすっかりお婆さんになってしまうだろうが、ド田舎のド田舎新聞記者で人生を朽ち果てさせるよりは、まだましではないのか。こんな感慨が安っぽいヒロイズムであることは認識していても、心と躰は梢路という存在に向かって、むずむずと傾斜する。
シャワーがとまってビニールのカーテンが開き、梢路が出てきて、バスタオルを腰に巻く。たんに汗や汚れが落ちればいい、と梢路は言うが、バスタブで存分に手足をのばす快感を、梢路という人間は本当に、志向しないのか。
梢路が簡単に下着とパジヤマをつけ、麻美のとなりへ来て、床に膝を折る。その梢路の横顔を電気ストーブの光が、ほんのりとオレンジ色に照らす。
麻美が梢路にグラスをわたし、ワインをついで、自分ではタバコに火をつける。
「でもねえショウちゃん、殺された黒沢という人には可哀そうだけど、これでラザロも、静かになるわね」
梢路が濡れた髪をかき上げながら唇をゆがめ、その茫洋とした視線を、黙ってストーブの光に合わせる。
「成子さんも小鹿野までは出張レッスンに行ってたらしいけど、黒沢という人との接点なんか、あるはずないもの」
「あれば警察が調べてるだろうな」
「警察の情報なら私の耳に入るはず。あれから三日もたってるのに、何もないわ」
「オレは静かな生活ができれば、それでいいんだ」
「相変わらずクールな奴ねえ。ショウちゃんの歳で静かな生活なんて、死んでるのと同じじゃない」
タバコを吹かしてワインを口に運び、梢路の膝に自分の膝を合わせて、麻美はひっそりと、苦笑まじりのため息をつく。もちろん成子の事件が発生した当初から、梢路を疑ってなんかいなかったが、それでも梢路と成子の間係について一抹の疑念はもっていた。過去のどこかで梢路と成子には、何かの接点があったのではないか。梢路が直接成子を殺したのではないにせよ、その過去の接点が、どういう形でか事件に関係しているのではないか。その疑念は梢路に母親殺しの過去がある事実を知ったことによって、少しだけ助長され、だからこそ警察が梢路の過去を調べあげる可能性を恐れたのだ。殺人事件が発生したら過去に殺人を犯した人間が、まず疑われる。まして成子と梢路は同じラザロの従業員、たとえ梢路が今回の事件に無関係であることが証明されたとしても、梢路の秘密が周囲に知れればそれこそ「静かな生活」なんて、水泡に帰す。
しかしそんなとき両神村で黒沢某という男が殺され、事件の様相は一変した。黒沢がラザロの客でなかったことは麻美ももとより、客の誰もが知っている。成子と黒沢は面識すらなかったことも、秩父中央署の若い刑事から聞き出した。寄居の歯科医、成子、黒沢某、その三人には過去にも現在にもまるで接点はなく、「秩父方面連続殺人事件」の特別捜査本部の方針も、「精神異常者による快楽的連続殺人」にシフトチェンジされたらしい。そうなればラザロの関係者は捜査の対象からはずされ、当然梢路の過去も、これ以上の詮索を受けることはない。
ただ一つ気にかかる問題は、樺山咲のこと。まさか咲と梢路が中学時代の同級生だったなんて、誰が考えるか。二人もその事実を気配にすら出さず、二人が言葉を交わす場面も、見たことはない。店以外の場所で密かに会っている可能性もなくはないが、それなら女としての勘がいくらかは、麻美にも訴える。そうかといって咲と梢路がお互いの存在に気づいていないはずもなく、マスターの八田にも二人の関係を知っている様子は見られない。それにもともと、秩父へは大学生の咲のほうが先に来ていたはずだし、咲がラザロにふらりと現れたのだってせいぜい一ヵ月ほど前。二人がそれ以前に連絡をとり合っていたとも思えず、咲の口から梢路の過去が周囲に漏れている気配もない。ラザロにおける咲には、変わり者のアル中女子大生、という評価が定着していて、麻美自身その評価を、疑ったこともない。
咲も変わり者で梢路も変わり者、中学時代から六年の時間が過ぎて偶然、秩父のスナックで顔を合わせた。ただそれだけの事なのかも知れないが、ただそれだけの事にしては咲の態度も梢路の過去も、あまりにも不可解すぎる。その疑念を梢路にぶつけてみたい思いは山々なのだが、しかしそれでは麻美が調布の柴崎可音子を訪ねた事実が、梢路に知れてしまう。
「うん?」
「え?」
「麻美さん、独りごとを言ってる」
「まさか。ただのため息よ」
「ふーん、どうでもいいけど、ストーブって、暖かいな」
「足らなければもう一つ買ってくるわ。でもストーブを増やすより、アパートを借りたほうがいいと思う」
「前にも言ったさ」
「そうね、ショウちゃんはこの部屋が気に入ってるのよね。寒くて暗くてお風呂がなくて、裏が墓地だから環境もいいのよね」
「麻美さん、今夜はヘンだな」
「だって、これだけ色々あって、仕事も忙しくて子供はアトピーを起こして、私だって疲れるわ」
「それなら今夜は何もしないで、寝ればいい」
「いやーな奴、ショウちゃんのそういう分別臭いところが、いつも私、腹がたつの」
拳でこつこつと梢路の肩を突き、タバコを灰皿につぶして、麻美はグラスのワインを飲み干す。二十歳も年下の若造に四十女が翻弄されてどうするのだ、とは思いながら、女が本能的にもっている甘え癖が、つい麻美の声を媚《こび》らせる。
「だけど、ねえショウちゃん。ショウちゃんも成子さんの事件が片付いて、ほっとしたでしょう」
「片付いてはいないさ」
「片付いたも同じよ。ショウちゃんやラザロに関係なければ、あとは警察の仕事だもの」
「成子さんが殺された事実は変わらない。それに連続殺人だって、終わりとは限らない」
「ショウちゃんはテレビを見ないから知らないだけ。今度の事件に関して、警察はこの地方の精神異常者に的を絞ったの。ラザロのお客たちだって、その話をしてたじゃない」
「だけどやっぱり、この事件がこれで終わりとは思えないな」
「どうして」
「ただの勘で」
「そりゃあショウちゃんは……」
「オレが、なに」
「いえ、べつに、でもショウちゃんのその勘は、杞憂よ。田舎の人間ってね、こんど隣村の誰某《だれそれ》へ嫁に来た誰某は、前はどんな仕事をしていて家族はどうで、実家はああでその実家の収入はこうでとか、なんでも知ってるの。今回のような猟奇殺人をくり返す人間は、子供のころから猫の足を斬ったり犬の目をつぶしたり、異常な行動をくり返すものなの。そんな人間が隣近所にいたら、都会はともかく、田舎の人間は見逃さない。実際に警察へも、もう二百件近い情報が寄せられてるわ」
「その情報のどれかが正解だったとしても、的を絞りきるまでの間に犯人が、次の事件を起こす可能性もある」
「どうしたのよショウちゃん、ばかに悲観的じゃない。それとも勘以外に……」
「分かるようで分からなかったり、分からないようでいて、意外に分かったり」
「なんの話?」
「人間のこと」
「ショウちゃんのほうこそ、今夜はヘンよ」
「小長さんが……」
ワインを飲んで肩をすくめ、パジャマの袖を上に折り返しながら、梢路が片頬に力を入れる。
「小長さんが、オレたちのこと、気づいてるらしいよ」
「あら、そう」
「麻美さん、困らないの」
「どうでもいいわ。どうせ私はバツ一で出戻りで、人生に疲れきった中年女だもの」
「本当に今夜は、疲れてるみたいだ」
「世間体とか親への遠慮とか、前は考えたけどね。でも成子さんの事件があってから、いろんな事がどうでもよくなったの。いっそのことショウちゃん、私たちのこと、みんなにバラしちゃおうか」
「うん」
「うん?」
「オレはいいよ」
「簡単に言うわねえ」
「言い出したのは麻美さんだ」
「それはそうだけど、だけど、そうはいっても……」
麻美は二つのグラスにワインを注ぎ足し、梢路の腰に腕をまわして、梢路の視線から顔を隠す。自分さえ覚悟を決めればたしかに、梢路との関係を世間の誰に知られようと、問題はないのだ。これまでだって自分は自分の能力で生きてきたし、他人から好奇の目で見られたって、赤面するほど初心《うぶ》ではない。
冗談ではなく、いっそのこと、本当に覚悟を決めてしまおうか。そうすれば梢路を連れ出して公然と旅行にも行けるし、子供と三人で食事もできる。梢路だって世間が広くなれば自分の殻を脱ぎ捨てる気になるかも知れず、百科事典のなかで圧殺していた人生を、甦生させないとも限らない。たしかにトライしてみる価値のある発想で、しかしそうなった場合は麻美だけでなく、周囲の注目は梢路にまで向いてしまう。誰もが誰もを知っていて、誰もが誰もを知っていないと気が済まないという田舎者の好奇心が、どこかで必ず、梢路の過去を探り出す。
「だけど、やっぱり……」
「冗談だよ。オレと違って、麻美さんには立場があるもの」
「そうじゃないの。そうじゃなくて、もし私とショウちゃんのことがみんなに知れたら、ラザロが、困るわ」
「どうして」
「だって、最近やっと、若いお客が増えはじめたじゃない。彼女たちはシヨウちゃんのファンだし」
「関係ないよ」
「あるわよ。毎日のように来てるあの子なんか……」
ワインのグラスで口元を隠し、目尻の端で梢路の表情を確認しながら、麻美はひっそりと深呼吸をする。
「あの樺山咲という子は、間違いなく、ショウちゃんが目当てよ」
「だとしたら、なに」
「なにって、あんな奇麗な女の子に好かれたら、嬉しいでしょう」
「そうかな」
「私よりずっと若いし、お金もありそうだし、雰囲気もショウちゃん好みだと思うけど」
「べつに」
「なんとも思わないの」
「思わない。店に通ってくれて、いつも日本酒のボトルをキープしてくれて、いいお客さ」
「信じられない」
「分かるようで分からなかったり、分からないようで分かったり、いろいろだよ」
「まったく、生意気な奴。私なんか彼女のこと、ずっと気にしていたのに」
梢路が口を開きかけ、言葉は出さずに首を横にふって、眉間にうすい皺をきざむ。表情らしく見えたのはそれだけで呼吸も乱さず、あとはただ茫洋とした視線が百科事典のほうへ、素気なくそそがれる。梢路の胸中にその過去や咲の存在がどんな形で去来するのか、中学生時代は優等生だったという咲の変貌に、本来なら梢路のほうにこそ、責任がある。
麻美は破裂しそうな感情をおさえて、またタバコに火をつけ、肩を沈めて梢路の胸に頬を押しつける。梢路の鼓動は憎らしいほど規則正しく、その冷たい皮膚が無感動に麻美の甘えを拒絶する。
この瞬間、思い切って、疑念のすべてをぶつけてしまおうか。柴崎[#底本「芝崎」]可音子に会った経緯を告げ、母親を手にかけた真の理由を問い、そして梢路と母親との、本当の関係も問い質す。柴崎可音子に会った日からわだかまっていて、そのわだかまりをずっと否定しつづけてきた、ひとつの疑念。それは梢路と母親が仲のいい母子であったのと同時に、仲のいい男と女ではなかったのか、というものだ。そうでなければ五年間を栃木の少年院で過ごしてきた梢路が、あの女の襞《ひだ》の襞にまで舌を這わせるようなテクニックを、どこで身につけたのか。受験ノイローゼ、母親の人間性、思春期の情緒不安定、もちろんそれらのすべてが混在した結果なのだろうが、一番の理由は、二人の間での、関係の清算ではなかったのか。それともそんな突拍子もない妄想に悩まされること自体が、梢路に対する、女としての、ヒステリックな執着なのか。
すべてを告白して糾弾したい衝動と、大人としての分別が混沌と錯綜し、制御しがたいほどの性欲に駆られて、麻美は強く、梢路の腰を抱きしめる。
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10
後ろからぽんと肩を叩かれ、坂森は顔をふり向けて、老眼鏡を額の上に押しあげる。
「たった今連絡が入った。どうやら目撃者が出たらしいよ」
「ほい、そいつはまた……」
「出原とか何とかいう集落の、農協の何とからしいんだけどね。あの日のあの時間に、あの現場を通りがかったそうだ」
「それで、犯人《ホシ》を?」
「詳しいことはまだ分からない。とにかくクルマを見たことは確かなようで、あの時間にあの空き地で二台のクルマを見たという。一台は白っぽい乗用車だから、被害者の乗っていたカローラだろう。もう一台はそれより大きい、四駆車かワンボックスカーのような気がした、というんだがね」
「要するに、人間は見ていないわけですなあ」
「しかし犯人の乗っていたクルマが、乗用車じゃないことだけは判明したんだ。もう少し詳しく聞き出せば車種の特定までいけるかも知れない」
「そうなってくれれば、しめたもんだが」
「少なくとも四駆車やワンボックスカーに乗るのは、女ではないだろう」
「さあて、最近は女でも……このこと、マスコミに公表するんですかね」
「とりあえず伏せておこう。容疑者を絞り込む過程で、クルマが決め手になってくれるかも知れんからさ」
蜂屋警部がまた坂森の肩を叩いて自分の席へ戻っていき、坂森は額の老眼鏡をはずして、ぽいとデスクに放る。事件の捜査本部は本庁から秩父中央署の会議室に移され、当初は留守番組の三人だけだった捜査員も、一挙に百二十人にまで増員された。特別捜査本部が所轄に設置された場合はその特捜本部長に、所轄の所長が就任する。しかしそれは名目で、実際の指揮は本庁の捜査一課がとり、今回の事件でも蜂屋正嗣警部が本部長代理として出向している。蜂屋は五十歳前の準キャリア、もちろん現場からの叩き上げで、この連続殺人事件を自分の指揮下で解決させれば次期課長候補の、最有力になる。
坂森はぬるい茶に口をつけてタバコを抜き出し、皺顔を一こすりしてから、そのタバコに火をつける。百二十人体制の捜査本部、といっても現在本部室にいる職員は数えるほど。そのほとんどは一般から寄せられた不審者情報や糖神病歴者の追跡調査に出払っていて、だだっ広い会議室にいるのは電話オペレーターの婦警やコンピュータの専従班員ばかり。三人のコンピュータ専従班は本庁からの出向で、インターネットのサイトやブログに本件に関する情報が見出せないか、また連続殺人や猟奇殺人の犯人は掲示板の書き込みなどで自分の犯行を自慢したがるもの、という通例から昼夜休みなく、三人がパソコンとにらみ合っている。
タバコの煙を長く吹いて鼻水をすすり、コンピュータ係の仕事ぶりを遠くに眺めながら、坂森は凝った首筋をもみほぐす。考えてみれば殺人事件の捜査も、ずいぶんと仕組みが変わってきた。昔は「情報は足で集めろ」と先輩から叩き込まれたもので、実際に坂森の若いころには月に一足の革靴を履きつぶした。それが今では「科学的検証」とやらが主流になりつつあり、刑事にしても沼内のように、銀行員だか商社マンだか分からないようなタイプが増えている。これもすべて時代の流れ、社会の変化に文句を言っても意味はなく、あと二年で定年を迎えられることに本心から、安堵と充足を感じてしまう。
しばらくタバコを吹かしてから、そのタバコを灰皿につぶし、坂森は電話機に手をのばして本庁の鑑識課を呼び出す。電話はすぐに班長の下小出にとり次がれ、坂森は受話器を首に挟んで、またタバコに火をつける。
「どうしたね坂森さん、まさか四件目の殺しが発生したとか」
「いやいや、犯人もそれほど暇じゃないがね。四件目をやるにしても一ヵ月は先だろうさ」
「本当に四件目があると?」
「さあて、どんなもんだか……と、用件はそれじゃなくてね、実はたった今、両神の現場で事件の夜のあの時刻に、犯人のものと思われるクルマを見た、という奴があらわれたらしいんだ」
「ほーう、初めての目撃者か」
「ただまあ見たのはクルマだけで、それも乗用車よりは大きい気がした、という程度だけど」
「ワゴン車か四駆車かな」
「そんなところだろうがね。それでさ、どうかね、現場に何か……」
「タイヤ痕とかクルマの塗料とか?」
「うん」
「あれば報告書で出してるよ」
「そりゃそうだろうが、念のために聞いてみたんだ」
「前にも言ったけど、草地や枯葉の上では足跡すら残らない。まして両神はあの雨だもの、タイヤ痕なんか残っていても流されちまうよ。塗料にしたって被害者のクルマや空き地の岩木まで、ぜんぶ調べてあるんだから」
「下小出さんのことだから抜かりはないと思ったが、それはそうと……」
タバコを長く吹かして一つ息をつき、ぬるい茶で咽を湿らせてから、坂森は皺目蓋の目脂《めやに》をこすり取る。
「その、なんていうか、下小出さん、現場から無くなっているようなものに、何か気がつかなかったかね」
「無くなっているもの?」
「何かこう、あるはずなのに、無いものみたいな」
「ナゾナゾかい」
「真面目な話だよ」
「坂森さん、こっちは無いはずなのにあるものを見つけるのが仕事なんだぜ」
「分かっちゃいるがね。たとえば被害者が着ていた服のボタンとか、髪の毛の一部とか、指の爪とか」
「どうしたんだい。現場や被害者に、不審なことでも?」
「いやいや、不審なところが何もないってのが、ちょいと不審かなあと」
「やっぱりナゾナゾじゃないか」
「そうじゃなくて、つまり……」
短くなったタバコを灰皿につぶし、薄い頭髪を手のひらで撫でつけながら、坂森は小さく空咳をする。
「ほれ、なんていうか、最近はプロゴルファーとかが書いた心理分析本みたいなものが、やたらにあるじゃないか」
「プロゴルファー?」
「FBIのなんとかって」
「プロファイラーだろう」
「そうかい。名前なんかどうでもいいんだが、俺も商売柄ああいう本の一冊や二冊、読むことがあってね」
「意外に勉強家じゃないか」
「そりゃ倅の手前……いやね、それはともかく、まあアメリカと日本じゃ文化とか歴史とかってものが違うから、あんな本は参考にならねえけど、ただふと思ったのは、今回みてえな連続殺人犯ってのは犯行の記念に何か、いわゆる戦利品とかいうやつを、さ」
「現場や遺体から持ち去ると?」
「日本でもたしか、そういう例があったと思うんだが」
「言われてみれば、たしかに……」
下小出が電話の向こうで言葉を切り、首でもひねったのか眉でもしかめたのか、ちっと舌打ちをする。
「たしかにね、女の子を何人も殺して山のなかに埋めてた野郎なんか、被害者の靴や下着を自分の部屋に溜めこんでいたっけ」
「そうそう、だから今度の事件でも、犯人が何かを持ち去ってるんじゃねえかと」
「なるほど。そういうふうには考えなかったが、でもどうかねえ、遺体も荼毘《だび》にふされてるし、残ってるのは被害者の衣服や現場の写真ぐらいだよ。それに戦利品とやらが持ち去られていたとして、そのことが容疑者に結びつくのかね」
「気休めかも知れねえがね。なにしろやっとクルマの目撃者が出ただけで、犯人の輪郭ってのがまるで浮かばねえ。だからもう一度、資料の再検討をやりてえわけさ」
「そりゃまあ、ご苦労さまで」
「報告書に添付した以外の写真ってのも、そっちには山ほどあるわけだろう」
「うん、もちろん」
「済まねえがそいつをさ、インターネットで俺のパソコンへ送ってくれんかね。どうも何かを見落としてる気がして、ここんところ寝覚めが悪くていけねえんだ」
「分かった。そういうことなら私のほうでも、寄居と長瀞と両神、もう一度被害者の遣留品を調べ直してみるよ」
「お互いに無駄骨かも知れねえが、まあ、これも給料の内だがね。まさか四件目があるとは思わねえけど、マスコミもヒステリーを起こしてるし、早く事件に決着をつけねえとさ」
「息子さんの手前もあるし、か」
「そんなとこだい。昨日もケイタイに電話してきやがって……まあ、要するにさ、そういうことで、万事よろしく頼まいね」
それから二こと三こと無駄話を交わし、電話を切って、坂森は首のつけ根にこつこつと拳を打ちつける。長瀞の山林で清氷成子の遺体が発見されてから、約一ヵ月。寄居の事件からなら二ヵ月が過ぎていて、まさか三件目が発生するとは思わなかったし、事件の解決にこれほどの時間がかかるとも思わなかった。坂森の背広もドブねずみ色の夏用からドブねずみ色の合着に代わり、最近は朝晩の冷え込みに備えて股引まではいている。秩父でのビジネス旅館暮らしもすでに一ヵ月、里心がついたわけでもないだろうに、自分の倍ほども体重のある古女房の顔が、ふと頭に浮かぶ。
そうだいなあ、女房でも呼んで二、三日秩父見物をさせてやるべえかね、と、新しいタバコをくわえながら坂森は、またとんとんと首のつけ根に拳を打ちつける。
*
「まったく参りましたよ。ほら、さっきも言った丹波山の爺さんね、けっきょく頭がおかしいのは自分のほうなんだから。そりゃ仕事だから山梨でも長野でも行きますけど、もうちょっと情報を絞り込めないもんですかねえ」
「要するに間題は、昔からの境界線争いなんだろう」
「そういうこと。その爺さんともう一人の爺さんと、尾根のちょっと下のほうが五十メートルほどどうだとか。あんな山なんか一坪百円にもならないだろうに、いったい連中は、どういう神経なのかなあ」
「そりゃ大林くん、山の人間には山の人間の価値観があるんだがね。金がどうこうじゃなく、先祖代々の縄張り意識みてえなものがよ。山のどの辺りのどの木は俺んちのもんで、その木をどこそこの誰が勝手に切っちまったから、あの野郎、はあ許さねえとか」
「そうかも知れませんけどね。だけど誰某は昔から豚や鶏を殺すのが好きだったから、今度の犯人はあいつに間違いないとか、いちいち警察に投書しますかね。山では狸だって兎だって、みんな自分で殺して食べるわけじゃないですか」
「まあ、そうぼやくない。今のところ一般からの情報が、唯一の頼りなんだからよ。千でも二千でもガセ情報《ネタ》をつぶしていって、一つでも本物が残りゃあこっちのもんだがね。科学捜査だのプロファイルだのと言ったところで、刑事《デカ》ってのは結局、足で稼ぐわけだからよ」
「ねえ坂森さん、話は変わりますけど、なぜ刑事のことをデカと呼ぶんですか」
「知らねえのかい」
「はあ、気にはなってたんですが」
「そりゃあなあ楠木くん、江戸時代に目明しのことを、同心の手下《てか》と呼んでたんだい。そのテカがなまってデカになったわけさ」
「はーあ、江戸時代の」
「キャリアのエリートさんたちが同心で、俺たち平刑事は目明しで、時代が変わっても人間の理屈ってのは、ちょっくら変わらねえもんだがね」
時間は夜の九時。道上町の科理屋で熊鍋を囲んでいるのは坂森と楠木と大林で、捜査本部が秩父に移って坂森の同僚も本庁から出向はして来たが、仕事の後に三人で飲む磯会が多いのはやはり、当初から留守番組だった縁だろう。楠木も大林も寄せ集めの捜査員に混じって毎日毎日、秩父市内、郡内、それに県境を越えた群馬、長野、山梨にまで情報の確認に飛びまわっている。なかには北海道や九州あたりから「どこそこの誰が怪しい」と電話をしてくるマニアもいて、日々そんな情報にふり回されている大林が愚痴を言いたくなる気持ちも、分からなくはない。
「ほい、忘れていたが……」
土鍋のなかから能の肉を挟み出し、小鉢に椎茸や白莱も盛り合わせて、坂森がしゅっと鼻水をすする。鍋のなかには熊肉と猪肉とそれから大林が「例のあれも」と注文した、カモシカの肉が入っている。
「今日の昼間、クルマの目撃者を見つけ出したんは、楠木くんだったいなあ」
「はあ、偶然ですが」
「偶然でも何でもよ、事件から四日もたって、なぜ今ごろ出てきたんだい。黒沢満男が殺されたことぐれえ、はあ村中に知れわたってたんべえに」
「いや、それが……」
楠木が湯割にした焼酎を飲んで舌を鳴らし、すっかり赤くなっているニキビ顔を、てらっと光らせる。
「それがですねえ、いつだったか、私の姉の話をしませんでしたっけ」
「うんうん、器量が悪くて、お前さんも心配だとか」
「それはともかく、その姉が農協近くの食堂に勤めてましてね。宗方さんが事件の夜にあの場所で、クルマを目撃したらしいと」
「お前さんに?」
「はあ、電詰で」
「宗方ってのが農協のナントカってやつか」
「総務課の係長なんですがね。食堂で昼飯を食べてるとき、雑談で姉にそんなようなことを言ったと」
「そりゃ姉さんのお手柄だがね。だけどナンだい、宗方って野郎はどうしてすぐ、警察へ知らせなかったんだね」
「ですから、つまりは、あれですよ。夜の十時過ぎに大谷まで帰るというのは……」
「どこかで酒を飲んだって、か」
「はあ。小鹿野のスナックだったらしいんですが、もし警察へ通報して細かく聞かれると、面倒だと思ったとか」
「そりゃ村内なら誰でも酒を飲んでクルマに乗るべえが、公になりゃたしかに、面倒だいなあ。特に勤めが農協ってんなら」
「ですから私も酒のことは不問に付すからと」
「それが正解だがね。本庁の連中には分かるめえが、村には村の掟があるからよ。細けえことを言ってたら集まる情報も集まらねえさ。それで……」
熊肉を頬張って舌鼓《したつづみ》をうち、皺目蓋を鶏のように見開いて、坂森が顎先を上向ける。
「宗方って野郎が見たのは、本当にクルマだけなのかね」
「はあ、人は見なかったと。あの場所は人家もないし街灯もないし、通りすがりにちらっとクルマが見えただけのようです」
「二台のクルマにライトは?」
「ついていなかったと言ってます」
「あんな場所にあんな時間、クルマが二台もとまってたら、不審《おか》しいとは思うだんべえに」
「たしかにね。でも最近はたまに、東京あたりから沢釣りに来てクルマのなかで夜を明かす連中もいるとかで、たぶんそういうクルマだろうと。ただねえ坂森さん、最初のときはワゴン軍か四駆車と言ってましたが、あとからまた連絡が来て、四駆車だった気がすると」
「ほい、また少し絞られたかい」
「色も被害者のカローラよりもずっと黒っぽかったと言うから、紺か臙脂《えんじ》か、そんなところでしょう」
「これでクルマのナンバーでも見てりゃあ、宗方って野郎も課長に昇進したんべになあ」
「私ね、思ったんですが……」
そのとき料理屋のガラス格子が開いてツイードの肩がのぞき、大き目のショルダーバッグをさげた香村麻美が、すっと店内に入ってくる。料理屋といっても食堂を兼ねたような狭い店だから、麻美は何歩も歩かずに小上がりの座敷まで距離を詰める。
「あら、偶然ねえ。特捜のジャングル組が、こんなところでお食事?」
「香村さんのほうこそ……だけど何ですかその、ジャングル組というのは」
「楠木の木に大林の林に坂森の森に、三人が集まると木ばっかりだから」
「はーあ、気づかなかった。でも……」
「楠木さんも知ってるでしょう、ほら、最近カモシカの肉を秘密で食べさせる店があるとかで、それでちょっとね。それはそうと皆さんが召し上がってるのは、何のお肉かしら」
「いや、これは、熊と猪と……」
「そっちの少し白っぽいお肉は?」
「ですから、これは、鹿です」
「鹿はもっと赤かったと思うけど」
「ですから、鹿の肉にも、いろいろあるわけで……そうですよね大林さん」
「そうそう、牛肉にもヒレやロースがあるのと同じように、鹿の肉もいろいろなんだ……ねえ坂森さん」
「さあなあ、俺は地元の人間じゃねえから、さっきから何のどこの肉か、知らねえで食ってたがね」
坂森が皺顔をこすりながらにやっと笑い、タバコに火をつけて、短く煙を吹く。
「ところで記者さん、夕飯は済んだかね」
「食べそびれていて」
「そいつはちょうどいいや。むさ苦しい野郎連中と一緒でよかったら、付き合わんかね」
「私もお皿に盛られたお肉を見て食欲がわいたわ。遠慮なく、お言葉に甘えます」
麻美が土鍋を見おろしながら皮肉っぽく唇を笑わせ、大林と楠木が尻をずらしてつくった席に、タイトスカートの膝を折る。その間に坂森が手を打って従業員を呼び、麻美のためのグラスと鍋の材料を用意させる。
「ですけど、ねえ香村さん、われわれもつい仕事の話をしてしまうだろうし、聞いたことはオフレコですよ」
「楠木くんも野暮を言うない。記者さんは最初からそのつもりだがね。俺たちが話すことも俺たちが食ってるものも、みんなオフレコにしてくれるだんべえ」
「はあ、まあ」
「ぼんやりしてねえで、ほれ、美人記者さんに酒をすすめろいや。なにしろ地元のマスコミと俺たちは、持ちつ持たれつだからよ」
楠木が苦笑いをしながら麻美のグラスに氷を落とし、大林が横の一升瓶をとり上げて、グラスのほうへ腕をのばす。一升瓶の酒は吉田町で造られる『だんべえ』という地焼酎で、味はともかく、秩父では値段の安さで昔から親しまれている。
タバコを灰皿でつぶし、坂森もグラスに焼酎を注ぎ足して、とんとんと肩を叩く。
「そういや楠木くん、お前さん、さっき何か言いかけなかったかい」
「ええと、何でしたっけ」
「美人記者さんが入ってくる前に、何か思ったことがあるとか」
「はあ、そうでした。いえね、べつに大したことではないんですが、今回の現場は前の二件とは少し違うんじゃないかと、なんとなく、思ったもんで」
「ほい、その、少し違うってのは」
「ですからね、そりゃ三件とも、たしかに分かりにくい場所ではありますよ。夜になったら人なんか入るはずはないし、でも寄居と長瀞はしょせん、林道沿いです。それに比べると両神のあの現場は……」
「上の集落への登り道で、あの空き地から奥へクルマは入らねえ」
「そうです。それに空き地からの入り口も隠し戸のようになっていて、下の道からでは見えません。私も両神の出ですが、あんなところに上の集落への登り道があるなんて、まるで知りませんでした」
「ということは、ナニかい、犯人はたんに土地勘がある、というだけじゃねえと」
「秩父地方の地理に詳しい、というだけでは、無理じゃないですかね。両神の現場ではたとえ誰かにクルマを見られても、あの衝立のようになっている藪の向こうへ被害者を引き込んでしまえば、犯行自体は見られません」
「要するに犯人は、そこまで知っていた野郎だって、か」
「寄居も長瀞もクルマで偶然に迷い込む、ということはあるでしょうが、両神のあの現場は、偶燃はありえないと思うんです」
「なるほどなあ。俺も皆野を離れて四十年、やっぱし浦島太郎だったがね。こりゃ楠木くんの言うとおり、犯人《ホシ》は秩父の地理に詳しいってだけじゃなく、専門的に詳しいのかも知れねえ。まあ近隣の情報も無視するわけにはいくめえが、こいつは捜査会議に上げて、みんなの耳に入れておく必要があるべえなあ」
ロックの焼酎に口をつけながら坂森が座を見まわし、鍋に箸をのばしている麻美に目をとめて、しゅっと鼻水をすする。
「どうだね記者さん、そのカモシカの肉に似た鹿の肉ってのも、美味かんべえ」
「私は子供のころから熊が好物なんです。東京から秩父へ戻ってきて一つだけよかったのは、いつでも熊の肉が食べられることですわ」
「あんたも奇麗な顔をして、ずいぶん変わってるがね。熊の肉なんざ臭くて固くて、普遍は男でも食わねえもんだが」
「熊の肉は躰が温まる、というでしょう。女には冷え性が多いから」
「そりゃそうだい。ま、俺なんか子供の時分にゃあ熊だけでなく、狸だの兎だの、何でも食わされたがね。野兎なんざ山に針金の罠を仕掛けておきゃあ、はあ幾らでも獲れてよ。それを親父や兄貴はかんたんに絞めちまうんだが、俺にはそれができなくて……それでよ、おめえなんざ物の役に立たねえから警官にでもなれって、親父に言われたんさ」
「ご冗談を」
「なーに、今の時代にゃそんなこともあるめえが、昔は出来の悪い二、三男は警察か自衛隊かって、相場が決まってたもんだい。長男には家を継がせる、二、三男でも出来がよけりゃ堅気《かたぎ》の勤め人にさせる。だから俺なんざ、それ以外のろくでなしってことだがね」
勝手に喋って自分で笑い、また焼酎をすすって、坂森がタバコに火をつける。
「ところでよ、楠木くんの意見じゃねえけど……」
長く煙を吹いて首の後ろをさすり、胡坐の足を組みかえながら、坂森が空咳をする。
「お前さんら若い連中が足に豆をこさえてる間に、俺も本庁の鑑識から詳しい資料を送らせてよ。それを年寄りの皺目でずっと眺めてたんだが、どうもなあ、今度の事件は、あんましにもバラバラすぎる気がして……そりゃ遺体がバラバラだって、そういう意味じゃねんだがよ」
楠木が四つのグラスに焼酎を注ぎ分け、腰を落ち着けてから、坂森のほうへ身をのり出す。
「そりゃ連続殺人で、犯人が同一人物であることは間違いねえ。三件のうちどれかが模倣犯である可能性ってのは、鑑識が否定している。だから連続は連続なんだんべえが、被害者の三人に、あんましにも共通点がなさすぎる気がして……どうだい大林くん」
「たしかに、そう思いますが」
「そうだんべえ。ま、東京じゃまだ何人かの刑事が歯医者と清水成子のつながりを調べてるから、もしかしたら何か出てくるかも知れねえ。そうなりゃまた話は別なんだが、今のところは異常者の快楽連続殺人ってことだい。だけどよ、どうかいね、いくら異常者だって、脈絡とか傾向とかってもんが、もうちっとありそうなもんじゃねえか」
「脈絡とか傾向とか、というと」
「ほれ、たとえば被害者はみんな幼稚園ぐれえの女の子だとか、あるいは逆に、年寄りばっかしとか。アメリカなんかにゃ売春婦専門とか看護婦専門とか、とにかく被害者個々につながりはねえにしても、犯人の頭のなかじゃあちゃんとつながってるわけさ。ところがよ、今回の三件は……」
「被害者の性別も職業も生活圏も、まるで統一性がありませんね」
「なあ、お前さんらだって、そう思うだんべえ。歳が三十一から三十四だから、まあ似通っちゃあいる。場所も寄居から両神だから、近いといやあ近い。だけどそんなものが共通点になりゃあ、大林くんだって楠木くんだって、みんな殺されちまうがね」
「はあ、というと、つまり?」
「こいつはよう、突拍子もねえ思いつきなんだが、つまりナンだい、両神の黒沢満男は、目くらましじゃあねえかと」
「目くらまし……」
「ただの妄想だがね。そういうふうに自棄《やけ》を起こしたくなるほど、今度の事件では犯人像ってやつが、浮かばねえんだい」
楠木と大林と麻美がそれぞれタバコとグラスと箸の手をとめ、それぞれに顔を見合わせてから、視線を坂森の皺顔に向ける。坂森はタバコを消してゆっくりとグラスをとり上げ、首の後ろをさすって、その手でぽんと肩を打つ。
「俺も埼玉県警に奉職して三十何年、それゃあ手こずった事件も迷宮《おみや》入りした事件も、腐るほどあるがね。だがどういう事件だって、ああ、こいつはこういう仕組みのこういう事件で、犯人は何歳ぐれえでこういうタイプじゃねえかと、おおよその見当はつくもんだい。それが今回ばっかしはいくら資料を睨んでも、いくら捜査の経緯を思い返してみても、事件のカタチってやつが見えてこねえ。そこでよ……」
一度言葉を切ってグラスを口に運び、決まりが悪そうに眉をすくめて、坂森がちっと舌打ちをする。
「まあ、半分は自棄で、黒沢の殺しは捜査陣の目をくらますための、ダミーだったんじゃねえかと、そんなふうにな」
「そうすると犯人も、異常者ではないと?」
「そうは言わねえ。雑木《ざつぼく》や廃材じゃあるめえし、人間の手足をあんなふうに切り刻む野郎はどう考えても正常《まとも》じゃねえ。だからって三つの事件は無関連で、三人の被害者は三人ともただ偶然に選ばれただけってことにも、ならねえだろう」
「そんな映画みたいな……」
「そうそう、記者さんの言うとおり、昔の映画とか推理小説とかには、よくそんな話があったがね。何人もの人間を殺しちゃいるが、犯人の狙いはそのうちのたった一人。だから警察もなかなか犯人と被害者同士の接点を見つけられなくて……ただああいうのは作り話だから、結局犯人は捕まるんだけどよ」
「しかしですねえ、そうだとすると……」
大林が小鉢に鍋の肉を盛り込んで息をつき、顎の下あたりに滲んでいる汗を、手の甲で拭きとる。楠木と麻美の手も箸やグラスに戻っていて、坂森の言う『黒沢満男ダミー説』もすでに、酒の上の絵空事になっている。
「ねえ坂森さん、もし両神の黒沢が目くらましだったとすると、犯人の本命は歯医者か清水成子かの、どちらか、ということですか」
「どちらか一人か、あるいは二人か」
「二人だとすると結局、元の『東京での関係』に戻ってしまいます」
「そうだんべえ。長瀞で清水成子の遺体が見つかって、こりゃ歯医者との接点を探りゃ事件は解決と、捜査の主力を東京へつぎ込んだい。それが両神で黒沢が殺されたら、今度は捜査が秩父近辺の異常者へ移っちまった。犯人の本命が一人にせよ二人にせよ、実際に警察は大混乱で、いわば犯人に、まんまと攪乱《かくらん》されてるわけだがね」
「面白い説だとは思うんですが、なんだか、現実離れが……」
「だからよ、最初から妄想だと言ってるだんべえ。たった一人を殺してえために、無関係な人間を二人も殺しちまうなんて、現実にはあり得ねえさ。それもみんなバラバラにしちまうってんだから、犯人はやっぱし、そこいらの異常者だんべえよ」
坂森が皿の肉を土鍋に空けながら顔をしかめ、空になった皿の縁をとり箸で、こつんと叩く。
「どうだね記者さん、熊でも猪でも、追加を頼もうかね」
「いえ」
「遠慮はいらねえさ。どうせ捜査協力費から捻出するんだから」
「それなら余計に遠慮したくなるわ」
「固えことは言いっこなしだい。警察の裏金なんてのはお役所の無駄遣いに比べりゃあ、屁みてえなもんだがね。それにあんたを同罪に巻き込んでおかねえと、楠木くんや大林くんが心配しちまって、はあ夜も眠れなかんべえ」
目尻の皺をより深くして片頬を笑わせ、坂森が帳場のほうへ首をのばして、手真似で肉の追加を注文する。麻美はグラスを置いて膝を横にくずし、ハンドバッグからとり出したタバコに、使い捨てのライターで火をつける。熊鍋ぐらいで警察経費の流用に加担させられてもかなわないが、そんなことに目くじらを立てるほど、若くはない。つい一ヵ月前まではカモシカの密猟や密売にさえ正義感をふり回していたのに、成子の事件が起きてからどうも、価値観が弛んできたらしい。
そんなことより問題は坂森の開陳した『黒沢満男ダミー説』、もちろん現実離れした発想で若い二人の刑事も本気にはしていないようだが、可能性としては果たして、どんなものか。麻美が調べた限りでも黒沢は典型的な田舎者、教養もなくて仕事もなくて財産も妻子もなく、性格も優柔不断で覇気などまるでなし。他人に恨まれるほどの存在感すらなかったというから、そんな人間を殺したって、殺したほうが損をする。歯医者のことは知らないが、成子が黒沢と接点があったとは考えられず、だから警察も事件の犯人像を、快楽のために区別なく人を殺して切り刻む性格異常者、と絞り込んだ。麻美自身もそれが正解だろうと思うし、警察の目が梢路から離れてくれることが、何よりもありがたい。たしかにそうではあるけれど、しかし坂森の言うとおり犯人の真の狙いが三人のうちの一人か二人、歯科医か成子かあるいはその二人という可能性は、本当にないのだろうか。仮に犯人の狙いが成子ただ一人だったとしたら、警察だっていつかは捜査の方針を、またラザロの関係者に向けてくる。そうなれば梢路の過去も暴かれるだろうし、悪くすれば容疑者にまでされてしまう。考えてみればマスターの八田は古い四駆車に乗っていたはずで、梢路だってクルマの免許はもっている。問題は梢路が両神のあの現場を、知っていたかどうか。実家が両神の長又にある楠木さえ知らず、麻美だってあんなところに上の集落への登り道があるなんて、思ってもいなかった。それなら秩父へ来てまだ一年しかたっていない梢路も、当然ながら知ってはいないだろう。あとはアリバイ云々になってしまうが、そういえば成子の殺された日は日曜日、ラザロは休みで少なくとも成子一人に限っていえば、梢路のアリバイは成り立たない。
肉と野菜と茸の追加が来て鍋がつくり直され、それぞれにグラスも満たされて、座が少し活気づく。楠木と大林は若くて図体も大きいぶん呆れるほどの大食漢で、熊肉も猪肉も椎茸も白菜もコンニャクも、見る見る減っていく。
「それはそうと、ねえ香村さん……」
焼酎と鍋の熱気ですっかり顔を赤くした大林が、その角ばった達磨《だるま》のような顔を、怒ったように麻美へふり向ける。
「テレビで毎日毎日事件のことを騒ぎ立てるの、あれ、何とかなりませんかねえ。警察が何もしてないようなことまで言うキャスターがいて、まったく、腹が立ちますよ」
「世間がそれだけこの事件に、注目してるわけよ」
「そりゃそうだろうけど、勝手に犯人像を分析したり被害者の私生活を暴きたてたり。二番目の被害者のことなんか、まるで売春婦みたいに言うやつまでいて……」
「たしかにテレビも週刊誌もひどすぎるなあ。だけどあの清水成子って被害者、もしかしたら一種の、ニンフォマニアだったかも」
「なんだい楠木、そのニンフォマニアって」
「いわゆる、セックスが異常に好きみたいな」
「ふーん、異常に、か。香村さん、気づいてました?」
「さあ」
「店の客は手当たり次第で、それに八田さんの甥の、あの若い奴とまで」
「彼とも?」
「週刊誌の記者がそんな情報を、ね。ただ事実だったところで事件とは関係ないし、本人は否定していますけど」
「無関係だから否定してるんでしょう」
「さあ。なんとも……」
「だけど楠木、捜査の方針は異常者の洗い出しに絞られたんだ。あの被害者がニンフォなんとかで、誰と誰が関係があったって、そんなことはもう、どうでもいいじゃないか」
「それはまあ、そうです」
「いずれにしてもねえ、香村さん、テレビや週刊誌のやってることは所詮、興味本位なんですよ。これじゃ捜査妨害もいいところだ」
「私に言われても困るわ。うちの新聞はテレビとは関係ないし、マスコミというより、ミニコミなんだから」
「ですからテレビの過剰放送を自粛しろ、とか何とか、秩父新報に書いてくださいよ。警察は遊んでるわけじゃなく、毎日毎日夜も寝ないで、必死で捜査してるんだって」
「夜も寝ないで熊鍋を食べて、ね」
「そりゃあ、夜も寝ないでってのは、言葉のあやですけどね。とにかくこの秩父が危険な土地だなんてイメージをもたれたら、観光客だって減ってしまう」
「そうそう、先日《こないだ》旅館の女将《おかみ》も言ってたけど……」
楠木が一升瓶から麻美のグラスに焼酎を注ぎ足し、弛めていたネクタイをいっそう大きく弛めて、ゲップを吐く。
「週末の泊り客がね、やっぱりいつもの年より少ないんだって。秩父ってのは何しろお寺さんの多いところで、婆さん連中の裏京都でしょう。年寄りは物騒な話に過剰な反応をしちゃうから」
「俺も似たような話は聞いたなあ。それでもマスコミがホテルや旅館を利用してくれれば、いくらかは助かるのに、とか」
「まったくね。テレビなんか中継車にレポーターやらディレクターやら、五、六人は乗ってるのに。そういうテレビが何局も来て、新聞社が来て週刊誌が来て、だけど連中は秩父に泊まらないで、みんな日帰りなんだとか」
「楠木くんも大林くんも、そうぼやくない。秩父なんざ池袋から特急に乗れば、はあ一時間で来ちまう。それにテレビが騒いでくれるお陰で、情報だってちゃんと寄せられるんだがね」
「その情報のお陰で昨日は長野、今日は山梨ですよ」
「だからよう、さっき楠木くんが言ったんべえ。犯人は土地に詳しいってだけでなく、専門的に詳しい野郎だい。それを明日の捜査会議に上げて、これからはその観点から聞き込みをすべえじゃねえか。専門的な土地勘があって、黒っぺえ四駆車に乗ってて頭がいかれてる野郎なんてのも、そうはいねえはずだがね」
坂森が鍋から熊肉をつまみ出して小鉢にとり、萎びた顔を間延びさせて、口元を弛める。捜査の輪は確実に挟まっているのか、それとも犯人はまだ、輪の外側にいるのか。何か一つでも有力な情報が出てくれば一気に解決へ向かう気もするし、同時にこのまま犯人に逃げ切られてしまうような予感もあって、坂森は胃の内に不愉快なものを感じながら、とんとんと凝った肩を叩く。
「さあて、今夜はなんだか疲れたみてえで、年寄りは先に帰るべえ。勘定は済ませていくから、記者さんもゆっくりしていくがいいがね」
小鉢の肉を平らげ、タバコとライターを背広のポケットに押し込んで、坂森がよっこらしょと腰をあげる。
「大林くんと楠木くんは、どうせどこかで飲み直すんだんべえ」
「はあ、ええ、まあ」
「若えから徹夜で飲んでも世話はなかんべえが、明日の会議には遅れるない。特捜のジャングル組が評判を落としたら、俺も面目がねえからよ」
大林と楠木と麻美に軽く左手をふり、右の腰を右手でさすりながら、坂森が座敷から離れていく。二人の若い刑事が膝立ちになって頭をさげ、麻美も表情だけで挨拶をする。捜査協力費というのがどれほどストックされているのかは知らないが、厳密にいえば公金横領、最大限に弁護したところで必要悪で、しかしこういうお上の悪慣習が一掃されるまでにはあと、何十年もかかるのだろう。
麻美は新しいタバコに火をつけ、一度社へ戻ってから自分もラザロで飲み直そうと、ふーっと長く、鍋の湯気に煙を吹きつける。しかしそれにしても、まさかとは思うが、梢路と成子の間に男と女の関係があったという情報は、どこまで信じられるのか。そしてもし、その関係が本当だったとすると、今回の事件は、どうなるのか。
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朝の全体会議が終わって捜査員が出払い、たまに電話が鳴るだけの閑散とした捜査本部室で坂森は、とんとんと肩を叩く。机の上には二百枚以上の写真が積まれたり並べられたり裏返されたり、まるでカルタ大会を途中で放り出したように散らばっている。これらは寄居、長瀞、両神の事件現場を鑑識課員が撮影した写真で、前日に下小出が坂森のパソコンへ送ってきたものだ。それぞれに遺体の手足や切断部、切断された個々の部位を遠景や近景や上下左右から正確に写してあって、それに現場の状況写真まで加わっているから枚数的には、うんざりするほどの数になる。本来ならプリントアウトせずにパソコン内で検証すればよさそうなものを、坂森は物《ぶつ》として目の前に並べてみないと、どうにも気がすまない。
湯呑に手をのばしかけたとき後ろから肩を叩かれ、坂森は「ほい」と首をめぐらせる。立っていたのは主任警部の蜂屋で、その蜂屋が顔をしかめながら四つ折の新聞をさし出して見せる。
「坂森さん、参ったよ。いったいこれは、どういうことなのかね」
蜂屋が示しているのは秩父新報の社会面で、それには四段抜きの大見出しで『連続殺人に新展開』とうたってあり、小見出しでは『容疑者は黒っぽい四輪駆動車を使用、地元の地理に特殊な知識を持つ人間』とまで言及している。記事本文は寄居から両神までの事件経過を無難に解説したものだが、もちろん蜂屋に「参った」と言わせたのは、その大見出しと小見出し。しかし本文の最後にはちゃんと『警察は総力を挙げて、不眠不休の捜査を続けている』と結んでいる。中央の一般紙ならこんなフォローはしてくれないから、大林も楠木もこれでは香村麻美を、まあ恨めない。
「ねえ坂森さん、いったいこの情報は、どこから洩れたんだね。それも一般紙ならともかく、こんな田舎新聞に」
「俺に聞かれても困るなあ」
「べつに、坂森さんに聞いてるわけじゃないけどさ」
「クルマのことは昨日の段階で、全捜査員に通達したんだろうがね」
「そりゃあ、まあね」
「だったら聞き込みに行った先で、みんながクルマの件に念を押すだろうさ。田舎の人間ってのは一度面白え話を聞いたら、はあ黙っていられねえ」
「まあ、そうかも知れないが、それなら『地元の地理に特殊な知識』という部分は? これは今朝楠木くんが報告したばかりだよ」
「それもこれも、なにせ本庁から出向いてる捜査員はたった七人だい。あとは所沢や熊谷から応援を頼んで、残りはみんな地元の警官だがね。誰かが楠木くんと同じことに気づいたって、おかしくはなかろうさ」
「それじゃ所轄の誰かが、この田舎新聞に?」
「リークってつもりはなくても、世間話のついでに自分の見込みを喋るぐれえのことは、あるんじゃないのかね。それとも秩父新報の記者が意外に有能で、取材をしてるうちに自分で気づいたとか」
「坂森さん、ずいぶん肩を持つじゃないか」
「そんなつもりはないがね。ただクルマの件も容疑者の見込みも、明日になりゃあ一般紙やテレビ局にも知れちまう。どうせ知れるなら今日でも明日でも、同じだと思ってさ」
「そうは言うけど……」
蜂屋が新聞をひったくって手のひらに打ちつけ、机に散った写真に目をやりながら、低く鼻を鳴らす。
「午後の記者会見で他のマスコミから苦情が出てしまうよ。警察が地元紙にだけリークしたんじゃないかと、痛くもない腹をさぐられる」
「そいつはご苦労さま。しかしこの記事に関してはあくまでも秩父新報のスクープだい。地元紙には地元紙の意地もあろうがね」
「地元紙といったって……」
言いかけて途中で言葉を呑み、蜂屋がまた鼻を鳴らして、口の端をひきつらせる。マスコミへの対応は蜂屋の仕事だから四輪駆動車の件も容疑者の見込みも、本当は自分が記者会見で発表するつもりだったのだろう。
蜂屋が顔をしかめたまま踵《きびす》をまわし、二、三歩自分のデスクのほうへ歩いてから、思い出したように足をとめる。
「そうだ、坂森さん、さっき本庁から知らせてきたんだがね。清水成子は子供のころに一週間ほど、長瀞に滞在したことがあるらしい」
「ほい、そいつは……」
坂森は湯呑に手をのばしてぬるい茶をすすり、皺目を見開いて、蜂屋の顔を見あげる。
「子供のころというのは、どれぐらいの」
「もう二十年も前だというが」
「そいつはまた、ずいぶんな子供だ」
「東京での捜査をつづけている連中が、小学校時代の友達というのを見つけたとか。その友達が二十年ほど前の夏休みに、一週間だけ、長瀞の貸し別荘に泊まったと」
「一週間だけ、ねえ」
「友達とその家族と清水成子と。清水成子の家族は行かなかったそうだ」
「どうして」
「知らんよ。仕事が忙しかったか、何か……」
「その貸し別荘の場所や、名前は」
「覚えてないということだ。なにしろ小学校の五年か六年か、そんなときらしいから」
「二十年前ねえ。二十年といや、ずいぶんな昔だがね。ちょうどバブルの真っ最中で、秩父にも安別荘だの安貸し別荘だの、腐るほど建ってたころだんべえ」
「まあ、そうかね」
「そんな貸し別荘、はあ残っちゃいねえと思うが」
「坂森さん、その秩父弁は……」
「ほい、こいつは失札」
「その、まあ、仮に残っていたとしても、昔一週間だけ泊まった子供のことなんか、誰も覚えてはいないだろうが」
「それでも東京組がせっかく調べた新情報だがね。一応は所轄の誰かをやって、探させてみることだいなあ」
蜂屋がうなずいて自分のデスクへ戻っていき、坂森は湯呑の底に残ったぬるい茶に、ほっとため息を吹きかける。二十年前に清水成子が長瀞に滞在したことがあるというのは、たしかに新事実。これまでは事件の半年前にふらっと秩父へやって来て住みついた、とだけ思われていた被害者に、この地方との新たな接点が出現したのだ。それはそうだろうが、何しろ二十年も前で期間はたったの一週間、貸し別荘の選定にだって理由はなかったろうし、場所が秩父の長瀞だったことにも、特別な理由はないだろう。
坂森は湯呑を机に戻してタバコに火をつけ、短く煙をひと吹きしてから、こつこつと凝った肩に拳を打ちつける。今度の事件では容疑者が黒っぽい四輪駆動車に乗っていること、地元の地理に特殊ともいえるほど詳しい可能性があること。それらの事実が公表されればまた新たな一般情報が寄せられるだろうし、ひょっとしたら今日にでも「うちの隣に人殺しが好きで遺体をバラバラにする趣味があって、かつ黒っぽい四駆車に乗っていて仕事は両神近辺の地理研究家、という男がいる」とかいう電話が、かかって来ないとも限らない。
タバコを半分ほどまで吹かしたとき、ふと昨日は、忘れてしまった古女房への電話を思い出し、坂森はくわえタバコのまま電話機に手をのばす。事件は事件、家庭は家庭、気候だって暑くもなし寒くもなし、女房にはやっぱり幾日か、秩父見物をさせてやろう。
受話器をとろうとしたときタバコの灰が机に落ち、その灰を払おうとして、下の写真に目がとまる。電話機の前にあったのは清水成子の切断された右腕写真で、それが親指をこちら側に向けた四十五度ほどの角度で写っている。坂森はタバコの灰を払って写真を目の前にひき寄せ、それから積んである写真の山をかきまわして、歯科医と黒沢満男の右腕写真を探し出す。同じ右腕の写真でも角度や遠近を変えた写真は十葉ほどずつもあり、そのなかから成子の右腕写真と同じ角度から撮られたものを選んで、三枚を並べる。しばらくその三枚の写真を見比べ、タバコを消してまたすぐ新しいタバコに火をつけ、念のために三人の左腕写真も探し出して、右腕写真の上に並べる。それぞれの左手は歯科医が拳状、成子の指は半開き、そして黒沢満男の指は四指が親指を包む形で凝固している。それなのに右手のほうは三人とも同じ形に、たとえば野球のボールを握ってストレートかカーブを投げようとしたとき、ボールだけがすぽっと抜けてしまったような、そんな形に曲がっているのだ。
坂森は思わず椅子から腰をあげ、しかし見渡したところで楠木と大林の顔があるはずもなく、自分の席に戻った蜂屋は気難しい顔で、じっと新聞を睨んでいる。その蜂屋に声をかけようとして思いとどまり、椅子に腰を落ち着けて、坂森は何度か皺顔をこすり上げる。
さあて、こいつは、何としたもんだか。死んだ人間から腕を鋸で切り取ると、指の形はこんなふうに、みんな同じ角度に曲がるのか。まさかそんなこともないだろうし、その証拠に左手の指は三人三様、みな別な形に曲がっている。それなら三人の右手は何かの偶然で、同じ形に萎縮したのか。この世に偶然はいくらだって存在するだろうが、特に今回の連続殺人に限ってだけ、それも被害者の右手だけが同じ形状に曲がってしまう偶然は、確率としては果たして、どんなものか。
さあて、こいつは、何としたもんだかなあ。それにしてもうちの女房《かあ》ちゃんはよっぽど、秩父に縁がねえんだいなあ。
坂森は電話に手をのばして受話器をとり上げ、鼻水をすすりながら、本庁の鑑識課に番号をプッシュする。
*
青い空に夏のような雲が浮かんで、上空には鷹が米粒ほどの大きさに舞っている。校庭に柿の木が植わった小学校も珍しいが、その色づき始めた柿の実にも校舎の窓ガラスにも、秋の澄んだ陽射しが風景画のように降りそそぐ。
校庭には十五、六人の子供がいて喚芦をあげ、小さいサッカーゴールを目指してボールとともに戯れる。子供たちが着ているジャージの運動着は赤、青、緑に分かれていて、それが学年別の区分けにでもなっているのか。まさかこの十五、六人が生徒の全員でもないだろうが、田舎には生徒より教師のほうが多い小学校というのも、たまに存在する。
子供たちの動きにあわせて笛を吹いたり横に走ったりしている教師は、須田|文則《ふみのり》。地元上野村の出身で鬼石の県立高校を卒業し、大学を出てからは藤岡市の小学校に七年間勧務した。この出身地の小学校に赴任してきたのは四年前で、同時に結婚をして実家の敷地内に新婚用の家も建て、高校で同級だった女房との間にはすでに子供もできている。
そこまでは調べてあって、須田の生活習慣や日常行動も把握はしているが、この先の手順は果たして、どうしたものか。
走っていた須田がサッカーゴールの前で足をとめ、口に笛をくわえた格好で、一瞬こちらへ顔を向ける。まさか気づかれたとは思わなかったが、ここは用心して、クルマを校門の前から県道方向へ、移動させる。県道までの道には高木のイチョウやケヤキの葉が生いしげり、クルマのフロントガラスにも、何葉かの枯葉が散ってくる。
それにしても秩父新報にのった『容疑者は黒っぽい四輪駆動車を使用、地元の地理に特殊な知識を持つ人間か』という記事は、これからの計画にどれほどの影響をもってくるのか。黒っぽい四輪駆動車、というだけなら黒も臙脂も紺も、この地方にはいくらでも走っている。ナンバーが知られているならすでに警察も所有者を割り出しているだろうが、地元の地理に特殊な知識を持つ人間、という部分は、なるほどたしかに、意外なほど的を射ている。両神のあんな場所に隠れた山道があることを知っているのは、上の集落に住む年寄りか郵便配達ぐらいであることは、誰が考えても、想像がつく。
寄居と長瀞の仕事があまりにも巧く運びすぎて、両神では心のどこかに油断があったのだろう。あんな時間にあの場所を通るクルマがあるとは思わなかったし、それにもう少し先へ進めば少なくとも、自分のクルマだけは隠せる場所があったのだ。以降は気のゆるみを戒めるとして、だからって浮き足立つ必要があるほど、捜査の手は間近に迫っているのか。寄居の初仕事からはすでに二ヵ月以上、ここまでは順調に義務を遂行してきたが、しかしそろそろ、どこかで事件の構図に気づく人間が、出て来ないとも限らない。
クルマを神流川《かんながわ》にかかる橋の方向へ向けながら、浮き足立つ必要もないだろうが、それでも次の仕事は急ぐべきだろうなと、意識して独りごとを言ってみる。
*
空き地に四輪駆動車をとめ、衝立状になった藪の隙間を通り抜けたところで、梢路は杉の枝を見あげる。快晴の空からも杉の葉枝に遮《さえぎ》られて木漏《こも》れ日は届かず、薄暗い林間に下草や落ち葉やシダや地衣類が湿度の高い腐敗臭を発してくる。
見渡したところで殺人の痕跡があるわけでもなく、すぐに山道を登りはじめる。張り出した岩や笹藪をぬって進むと祠と大杉の平坦地があらわれ、前回同様にそこで祠に一礼をして、背負ってきたデイパックを担ぎなおす。それから額の汗をふいて目の前の崖道に足をかけ、十五メートルほどつづく急傾斜の岩場を一気に登りきる。崖をまわり込めば道の傾斜はゆるくなり、あとは曲がりくねった岩場道をしばらく歩いて、低い尾根を越える。
尾根を越えて視界が開けたときの驚きは、煎回同様に新鮮で、前回同様に微笑ましい。遠くに見える小畑には葱が植わってホウレン草の新芽が顔を出し、色づきはじめた柿の実にも崩れかけた石垣にも物置小屋のトタン屋根にも、乾いた陽射しが清々と降りそそぐ。
梢路は呼吸を整えてからデイパックを担ぎなおし、人足《ひとあし》の幅だけ草が刈ってある石垣沿いの道を、眼下の集落へくだりはじめる。柿の実が色づいた以外はイラ草やクズの葉の風情も変わらず、キツツキが開けたらしい板壁の穴も繕われずに残っている。石垣道はすぐに終わって母屋の横庭にたどりつき、そこから前庭へまわっていく道にはカンナが一株、萎れた花をつけたままぽつねんと植わっている。前庭に面した母屋では今日も雨戸がひき払われ、土間へのガラス戸も開けっ放しで、そしてやはり家内《いえうち》にも下の廃屋にも、人の気配はない。
梢路は母屋と土間内に一度ずつ声をかけ、それから一升瓶の入ったデイパックを肩からおろして、土間の内側へ置く。囲炉裏の間をのぞいても人影は見えず、それでも自在鉤にかかったアルミの薬缶からは湯気が出ていて、湯呑や急須も囲炉裏の前に置かれている。老人は山に茸か山菜でもとりに行ったのか、それとも、マスコミを警戒してどこかに避難でもしているのか。いずれにしても夕方までは時間もあることだし、梢路は土間の上がり框《がまち》に腰をおろして、老人の帰りを待つことにする。高い天井と煤けた梁や柱の湿度が梢路の郷愁に心地よく、台所の籠から逃げていく銀色のトカゲに対してさえふと、懐かしさを感じてしまう。目を閉じると瞽女《ごぜ》様や炭焼きや子供や作男や牛や鶏の喧騒が聞こえてきそうな気がして、止まっている時間が止まったまま、さらさらと梢路の躰を流れ去る。
ぼんやりしていたのは三十分ほどか。老人を待つことに少し退屈になって、梢路は集落の探検に出ることにする。下の廃屋は前に見ているから今回は集落の上、登り道から畑のほうへ行ってみようと、毋屋の前から横庭へまわり込む。距離を置いて老人の家を眺めるとなるほど、建物の構造は三階建てになっている。老人は百五十年前の建築、と言ったはずだが、そんな昔のこんな山の中に木造の三階建てなんか、どうやって建てたのか。材木は近くの山から伐り出して来るにしても、それを製材して大工や職人を下の町から呼び寄せて、何ヵ月かあるいは何年か、途方もなく長い時間をかけて建てたものか。崩れてはいるが下のほうには土蔵もあるし、終戦までは前の山全体が陸稲《おかぼ》の畑だったという。瞽女様が滞在して炭焼きが来て行商人が出入りして、今からでは想像もできないほどこの集落には、裕福な時代がつづいたのか。
「裏に山があるからウラヤマシイ……か」
声に出して独りごとを言い、横庭から石垣道を少し戻って、畑に通じる空き地へ入る。空き地といってもカヤの刈りあとや桑の切り株が残っているから、何年か前まではここも畑だったらしい。今は全面が咲き残りのタンポポとゲンノショウコなどの雑草に被われ、所々に迷彩服模様のコンニャクがにょきっと、海底植物のように茎を立てている。
その空き地を横切って進むと尾根から見える小畑があって、一反ほどの斜面には勢いのいい葱が二列、ていねいに土寄せがされている。ゆるい段々畑のさくにはホウレン草が芽吹いて白菜が葉を広げ、そして下のほうには三株のナスがそれぞれに、一つ二つの実をつけている。畑の隅には地這いキュウリやトマトの枯れ茎が積んであるから、老人が自家用にする野菜ぐらいはすべて、この畑が提供するのだろう。
梢路は畑の畦《あぜ》に腰をおろして一つ背伸びをし、スニーカーを脱いで、足の裏に土の感触を確かめさせる。小石混じりの土には堆肥《たいひ》が鋤き込まれて空気の保有度が高く、取り残した雑草のわきを黄色い天道虫が這っていく。開けた空にはカラスらしい鳥影が見え、集落の向こうにある杉山に混じったケヤキやカエデにも、すでにうっすらと紅葉が始まっている。近くに木がないせいか空気が乾いて風が心地よく、耳を澄ますとどこからか、かすかな沢音が聞こえてくる。
梢路は向こう側の杉山が陸稲《おかぼ》の畑だったころの風景を想像し、山全体が黄金色にうねるその迫力に、想像のなかで感動する。陸稲というのがどんな稲なのかは知らないが、もし今でも裁培していたらちょうど今頃が、収穫期にでもなっているのか。六十人もいたという集落の全員が刈り取りの作業に従事し、子供が走りまわって赤ん坊が泣いて豚が斜面から転げ落ちて、そんな騒ぎがたぶん、この畑からも見えていたことだろう。
死ぬまで何もせず、じっとして生きればいい、か。なるほどな、あのとき老人がいった言葉の意味も、今はなんとなく、分かる気もする。畑仕事をして材木を伐り出して鶏を追いまわして子供を育てて酒を飲んで、そうやって何もせずにじっと生きていれば、いつかは歳をとって、自然に死んでいく。自分にもそんな生き方が可能かも知れないし、もしかしたらそれこそがこの気が遠くなるほど長い人生の、唯一の消費策かも知れない。
梢路は集落の下の廃屋を思い出し、あの家に自分が住みつく状況を仮定して、思わず頬をゆるめる。それからもう一度背伸びをして足をスニーカーに戻し、畑の畦から腰をあげる。尾根にも集落にも相変わらず人の気配はなく、今日はもしかしたら日が暮れるまで、老人も帰ってこないのか。
見渡すと畑の下のほうに集落へくだっていく踏み分け道があり、梢路はやって来た方向とは逆まわりに畑をおりはじめる。さっきは遠くに見えていたカラスが家のトタン屋根をかすめ飛び、日陰と日向との境では虻が顔にまといつく。そうやっていくらも歩かずに畑の縁まで来てみると、その石垣を積んだ段差の部分に下への渡り板が据えてあって、これがどうやら畑と集落との通路らしい。石垣のすぐ向こうには物置小屋の屋根も見え、暗くて湿っぽい空間には便所の臭気が淀んでいる。
梢路は渡り板に足をおろして石垣をくだり、物置小屋と母屋との隙間へ進んで、そこで足をとめる。人間一人がやっと通れるほどのその通路を、何か茶色っぽい物体が、長々と塞いでいるのだ。一瞬米の紙袋でも積んであるのかと思ったが、米袋には足があって足にはゴムサンダルがひっかかり、向こう側には人間の手と、その手が握った鎌と葱が見えている。次の瞬間には物体が老人であることが理解でき、梢路は老人の躰をまたいで、頭側に出る。うつ伏せに寝そべったまま固着したような躰には生命の匂いがなく、老人は右頬と鼻を下に、鎌と葱を握った両手を頭の上に広げて、長々と寝そべっている。それはちょうど万歳をしたまま倒れたような格好で、しかし頭にも他のどこにも出血や外傷はなく、深い皺を刻んだ渋紙色の顔にも苦悶や驚愕の気配は、一切見られない。
状況の判断に五分ほど費やしてから、梢路は腰をかがめて老人の頸動脈に指をあて、心臓にも耳をあてて、その死を確認する。それから老人の躰を両腕で抱えあげ、通路から母屋の道に出る。梢路に抱えられても老人の手は鎌と葱をはなさず、梢路はそのまま土間へ入って老人を囲炉裏の間に運ぶ。自在鉤の薬缶は相変わらず白い湯気をふき、散らばった湯呑や急須には小さい羽虫がとまっている。
梢路は老人の躰を囲炉裏の前に据え、背中をうしろの板壁にもたれさせて、二本の足に胡坐を粗ませる。首をうなだれた老人は囲炉裏の前で居眠りをしているようにも見え、それでも鎌と葱をはなさない萎びた姿には、奇妙な可笑しさがある。梢路は老人の手から鎌と葱をとり上げ、鎌は土間へ放って、葱のほうは自分で持って下の流し場へおりる。水道の栓をひねると勢いよく水が流れ出し、葱を洗ってからまな板と包丁で、三センチ長のぶつ切りにする。プラスチックの水切りには小鉢や小皿や湯呑が洗われてあり、その皿に切った葱を盛りつけて、醤油をたらす。そうやって葱と湯呑を囲炉裏の間に運んでから、デイパックに入れてきた五六八の一升瓶をとり出して、自分も囲炉裏の前に腰をおろす。
目の前の老人がすでに死んでいること。自分がその死に直面して、しかも対座していること。その状況に違和感はなく、葱を洗って葱を切って醤油をたらして、そして二つの湯呑に酒をついで老人と自分の前に据えるという自分の行為にも、まるで違和感はない。死んでいても生きていても老人には囲炉裏がよく似合い、そして何十年後かには自分もこんなふうに死んでいく光景を想像して、梢路はつかの間、至福を味わう。
ただ洗って切って醤油をたらしただけの葱を口に運び、最初の日に「あの葱を生でかじったら美味いんだろうな」と思った自分の予感が的中して、梢路は思わず、老人に話しかける。
「お爺さん、畑の葱を帰りに、何本かもらえますか」
*
山の向こうに隠れて太陽は見えないが、それでも澄んだ空に夕焼けの色が美しい。皆野の子供時代は夕焼けに感動したことなんかなかったのに、秩父での滞在が坂森に里心をつけさせたのか、それともたんに、歳をとっただけなのか。
群馬県警上野村駐在所の前でクルマをおり、ドアを閉めたところで坂森はもう一度、夕焼けの西空に目を細める。童謡のとおりにカラスが飛んでトラクターがリヤカーを引いていき、自転車の中学生が喚きながら行き過ぎる。秩父へ来て以来まだ一度も皆野の実家に顔を出していなかったことに、ふと坂森は、後ろめたさを感じる。
駐在所の戸口に三十過ぎの警官が顔を出し、坂森は楠木をうながして、青いマウンテンバイクがとめてあるその戸口へ向かう。
「お世話になります。埼玉県警の坂森です。こっちは秩父中央署の楠木くん」
「はっ、自分はこの駐在所に勤務しております、玉本であります」
「管轄外の事件にまで協力してもらって、恐縮ですなあ」
「いえいえ。どう考えても先生の気のせいだとは思うんですが、これだけ騒がれてる事件ですので、一応、こっちの県警本部からそちらへ……ま、とにかく、なかへお入りください」
玉本が手振りで坂森と楠木を招き入れ、同時に内にいたスポーツ刈りの男がスチールの椅子を立って、二人に頭をさげる。
「先生、こちらが事件を担当していらっしゃる、埼玉県警の刑事さんですよ」
「お手数を煩わせて、申し訳ありません」
「なーんの、これが私らの仕事ですがね。こちらこそ貴重な情報をいただいて、感謝しておりますよ」
駐在所の内部は六畳ほどの広さで事務机が一つだけ、机には電話機と警察無線の送受信機が置かれていて、前の棚には住民票や報告書のファイルが並んでいる。あとは壁に小さい黒板と、『怪しい人を見たら一一〇番』のポスターが張ってあるだけだが、駐在所の有様なんて全国一律、どこでも変わらない。ただ交番と異なるのは奥に居住用のスペースがあることで、ちょうど今もそこのドアが開いて奥から玉本の女房らしい女が、茶の盆を持って現れる。
女房が湯呑を盆ごと置いて奥へ戻っていき、坂森は玉本にすすめられて、玉本の事務椅子に腰をおろす。大柄な楠木は外からの視線を塞ぐように戸口の前へ立ち、玉本も須田という小学校教諭のななめ横に立っている。
「で、さっそくですが……」
戸口の楠木が手帳を構えたのを確かめ、坂森は盆から湯呑をとり上げて、一口咽を湿らせる。
「先生がその四輪駆動車をご覧になったのは、いつのことですかね」
「今日の昼過ぎです。子供たちに校庭でサッカーをやらせてまして、なんとなく校門のほうをふり返ってみますと、そのクルマが、すっと」
「走り去った?」
「はい」
「しかし校門の前を四駆車が走り去ったからといって、それが事件に関連すると、なぜ」
「それは、駐在さんにも話したんですが、なんとなく、何か……今朝たまたま、秩父新報の記事を見たせいかも知れませんが」
「ほーう、秩父新報を」
「そこの神流川《かんながわ》を越えれば、向こうはもう秩父ですからね。実家が養蚕をやってた関係で、昔から秩父新報をとってるんです」
「なるほど。で、今朝の新聞をお読みになって、クルマの記事が出ていたからと」
「ええ。記事には黒っぽい四輪駆動車、と書いてありましたが、私が見たクルマは濃い緑色でした」
「濃い緑色の四輪駆動車が、校門の前から、すっとねえ。たしかに今朝の新聞を読んでいれば、気になったかも知れませんなあ」
坂森は湯呑を盆に戻して須田と玉本の顔を見比べ、机に灰皿があることを確認してから、タバコに火をつける。
「ですが、ナンですなあ、新聞の記事でクルマのことが気になってたとしても、それだけでなぜ、容疑者のクルマではないかと?」
「それが、その……」
須田がタバコの煙を避けるように首をひねり、日焼けした人のよさそうな顔に、困惑の色を浮かべる。
「それが、自分でもうまく説明できないんですが、このところずっと、なんとなく、誰かに見張られているような感じがあって」
「ほーう、それはまた?」
「いえ、駐在さんにも気のせいだろうと言われて、自分でもそうは思うんですが、何かが、どうも……家には家内《かない》も両親もおりますし、学校では子供たちもいたりして、ですから駐在さんに、内緒で相談したんですが」
「ごもっとも。まあ、先生の気のせいであってくれれば、そりゃそれで、目出度いことですがね」
「無駄なお手数かも知れませんが」
「なんのなんの。一般の方がこういうふうに協力してくれるからこそ、警察も犯人を捕まえられるわけです。こちらの手数なんぞ、気になさらんでください」
「本当に、どうも。もちろん気のせいであってくれれば……ただ今日のクルマは、前にも見ている気がして」
「前にも?」
「二度ほど、たぶん」
「村内の誰かが乗っているクルマだと」
「いえ、たぶん、村のクルマではないと思います。村のクルマをぜんぶ知っているわけではありませんが、そういうことは、なんとなく分かりますから」
「そうでしょうな。私も皆野の出身《で》なんで、先生の仰有ることもなんとなくは、分かる気がしますよ」
「ただそのクルマ、前にも見ている気はするんですが、それも確かではなくて、いつどこで、ということも思い出せないんです。何もかも曖昧な話で、本当に、申し訳ありません」
須田が日灼けした太い首筋をさすって眉をゆがめ、玉本のほうを見あげながら、ため息をつく。小学校教諭、という先入観がなくても人のよさそうな好青年で、その深く切った指の爪にはチョークの粉がこびりついている。
「ですから……」
ジャージの運動ズボンの膝に手をこすりつけ、玉本から坂森のほうへ視線を戻して、須田が肩をすくめる。
「もし今朝の新聞を読まなかったら、校門のクルマにも気づかなかったでしょうし、以前にそのクルマを見たことも、思い出さなかったと思うんです」
「今日のクルマに乗っていた人間は、ご覧になりましたか」
「いえ、距離がありまして、男か女かさえ分かりません」
「ナンバーも」
「見えませんでした」
「最初に先生、誰かに見張られている感じが、と仰有いましたなあ」
「それも、確信はなくて」
「確信なんぞはいりませんよ。ですがその『見張られている感じ』というのは、いつごろから?」
「よくは分かりませんが、たぶん夏前ぐらいから」
「緑色の四駆車を見た気がするのも、そのころからでしょうかな」
「言われてみれば、そんな気も」
「と、いうことはですなあ、見張られたり尾行をされたり、そんなことをされる理由に何か、心当たりがあるわけですか」
「と、とんでもない。どう考えても心当たりがないんで、それで私も、困っているんです。結婚以来浮気をしたこともないし、それに子供のころから争いごとが嫌いで、この歳まで一度も、喧嘩だってしたことがありません」
「それでもこの地方で起きている連続殺人事件のことは、気になっていたと」
「これだけテレビが騒げば、当然でしょう。ですけど寄居の歯医者さんもスナックの女性も、それから両神の黒沢という人とも、面識どころか名前を聞いたことも、一切ありません。それなのに……」
「まあまあ、そのクルマが容疑者のものと決まったわけではなし、先生が狙われてるなんてことも、決まっちゃおりませんがね。ここは冷静になって、しばらく様子をみる、というのが妥当だと思いますがなあ」
坂森は眉をゆがめている須田の顔を何秒か観察し、それからタバコを消して、盆の湯呑をとり上げる。この須田が三人の被害者と面識がなかったところで、三人とも個々の面識は判明しておらず、面識がないという理由だけで事件から除外はし切れない。しかし第二の事件以降は新聞やテレビの報道が過熱状態だから、そのせいで不安神経症におちいる人間も、多々いる。捜査本部には「今度は自分が狙われている」という通報がすでに、二十件以上も寄せられているのだ。捜査員はそれら善意の通報者たちに翻弄されつづけ、そして今も手帳を構えた楠木の表情に、呑気な倦怠が浮かんでいる。坂森の観察でも須田の懸念には根拠が乏しく、本人や駐在の玉本が言うとおり、やはりただの杞憂だろう。
「実はですなあ、先生、先生のように『今度は自分が殺されるかも知れない』と警察へ言ってくる人間が、もう百人を超えておるんですよ」
「はあ?」
「みんな先生と同じように、誰かに見張られてるとか、尾行されてるとか、そういう不安を感じていると」
「そんな人が、百人も」
「これだけテレビや新聞が騒ぐと、どうしたって事件が頭にこびりつきますがね。被害者たちの年齢も先生と同じようですし、普段から温厚で争いごとの嫌いな人に限って、逆に詰まらないことが心配になる。もちろん私ら、そういう方たちからも事情を聞きますし、必要ならアドバイスもしますがね。ただまあ……」
「本当に私みたいな人間が、百人も?」
「こういう不安だらけの社会では、誰のせいでもありませんよ」
「そうですか。それだけたくさんの人が、みんな同じような不安を」
「犯人がいくら暇だって、百人もの人間を殺しちゃ歩きませんがね。ですから連絡をいただいたことには感謝しますが、先生もあまり心配せんほうが、よろしいと思いますなあ」
「私のような人間が、百人も……そうですか、それを伺うとなんだか、気のせいのように思えてきます」
「ですが、まあナンですな。一応は緑色の四駆車にだけは、お気をつけください。今度そのクルマを見かけたら運転している人間の顔を覚えておくように。それからできたら、ナンバーも」
「ええ、ええ、もちろんそうします。ただ今日のことが家や学校に知れると、みんなが余計な心配しますので、ここだけの話に」
「当然ですがね。また何か不審なことでもありましたら、駐在所か特捜本部に、遠慮なく連絡してくださいな」
背広の内ポケットから名刺をとり出して、須田にわたし、坂森は頭を掻いている楠木をちらっと眺めてから、またタバコに火をつける。
「ところで先生、野球はおやりになりますかなあ」
「はあ?」
「野球ですよ。ほれ、ボールを投げたりバットをふったり」
「それは、草野球ぐらいなら」
「ピッチャーになったつもりで、ちょいと球を握ってもらえませんかね」
「球といっても……」
「いやいや、ピッチャーになったつもりで、球もあるつもりで」
須田が坂森の名刺をポケットに入れながら腰をあげ、右腕を前にさし出して、空中に浮かんでいるその透明な丸い球に、五本の指をあわせる。小指と薬指は手のひら側に折れて中指と人差し指が揃って上へのび、親指は下から球を支える形。誰が握ったところで同じ形になるのだろうが、須田の五指もやはり、三人の被害者と同じ形に曲がっている。
「刑事さん、これが、なにか?」
「何てことではないんですが、どうですか、ご自分の指をそういう形に曲げてみて、何か思い出すこととか思い当たることとか、ありませんかね」
曲げた自分の手を右に左に動かし、それからまたしばらくその手を見つめてから、須田が呆れたように、肩の力を抜く。
「思い出すことも思い当たることも、何もありませんが」
「そうですか。いや、それなら結構。べつにたいした意味はありませんので、お気になさらんように」
須田がまだ何か言いたそうに坂森の顔を見たが、坂森は手をふって腰をあげ、安心してひきとるようにと、特製の笑顔をサービスする。
「刑事さんのお話を伺って、気が楽になりました。やっぱりただの、気のせいだったと思います。今日はお忙しいところを本当に、有難うございました」
坂森と玉本に頭をさげ、躰を横に向けた楠木のわきを抜けて、須田が駐在所から県道へ出ていく。机の前にはすぐに楠木が寄ってきて、マウンテンバイクで去っていく須田の後姿に目をやりながら、短く息を吐く。
「坂森さん、今の先生の話、どう思います?」
「どう思うって、そんなこと、どうも思わんがね。ただまあ人に恨まれる性格でもなさそうだし。頭をやられてるようにも……玉本さん、村内での先生の評判は、どんなもんかね」
「そりゃもう熱心で子供にも父兄にも人気があって、評判なら文句はありませんね。もともとこの村の出身で、先生になってしばらく藤岡の小学校に勤めてから、何年か前に地元の小学校へ戻ってきたそうです。物産館に勤めている奥さんも美人で愛想がよくて、この村に須田先生のことを悪く言う人間は、一人もいないと思います」
「そんないい先生が連続殺人犯に狙われるはずはない、か」
「そう思いますね。私も気のせいだと言ってやったんですが、先生がどうしても心配だ、というものですから」
「まあ、最初に殺された寄居の歯医者ってのも、患者からの評判はよかったがね。あんたも一応は先生の身辺に、気をつけてやることですな」
「は、そのように、心がけます。ですが……」
「ほい」
「さっきの、野球のボールがどうとかというのは……」
「そりゃこっちの話でね。さあて楠木くん、せっかく上野村まで来たんだい。ついでに名物のナメコ蕎麦でも、食って帰るべえか」
そのとき帰っていったはずの須田が戻ってきて、首筋をさすりながら、二歩ほど駐在所の内へ入ってくる。
「ほい、先生、なにか?」
「それが、その、あれなんです」
「何か思い出したことでも?」
「そういう訳じゃなくて、その、さっき、子供のころから一度も喧嘩をしたことがない、と言いましたが、そのことでちょっと」
「一度も、とかどうとかなんて、そりゃ言葉のあやですがね。人間誰だって喧嘩の一度や二度は、しましょうさ」
「そうではなくて、喧嘩は本当にしたことがないんですが、ただ子供のとき一度、大人からひどく怒られたことがあるんです」
「なんと、まあ」
「なにしろ他人とのトラブルはそれ一度だけなもので、ちょっと、気になって」
「ご苦労様ですなあ。私のような商売をしてると先生のような方には、めったにお目にかかれませんがね」
坂森は浮かせていた腰をまた椅子に戻し、とんとんと肩を叩きながら、ポケットにタバコの箱をまさぐる。
「で、そのひどく怒られた、というのは」
「知らない男が突然家に怒鳴り込んで来て、何か投げつけて、私は怖くなって押入れに隠れたんですが、その男は三十分も何か喚いていて、すごい剣幕でした」
「そりゃ大変だった」
「父親がなんとか追い返してくれたんですが、あのときの怖さは、忘れられません」
「いったいその男は、なんで」
「よく分からないんです」
「理由もなく?」
「テレビがどうとか新聞がどうとか、でも何を喚いているのか、父親にも分からなかったと」
「まあ、たまにはそういう人間も、おりましょうなあ」
「そこの御巣鷹山に飛行機が落ちたときのことですから、付近一帯がなにしろすごい騒ぎで、父親も何かのショックで頭がおかしくなった人だろうと」
「ほーう、あの事故のとき」
「もう二十年も前のことですが、他人とのトラブルというのは、それしか記憶にないんです」
「二十年前? 御巣鷹山の、二十年前、二十年前、ええと、二十年前……」
とり出したタバコに火をつけかけ、ライターを目の前に構えたまま、坂森は須田の後ろに立っている楠木のほうへ、大きく皺目を見開く。
「楠木くん、そういえば清水成子も、二十年前の夏休みに……」
「はい。長瀞の貸し別荘に」
「そうだいなあ。秩父と上野村なんてのはそこの神流川を越えりゃあ、目と鼻の先だがね。まさかとは思うが……」
あらためてタバコに火をつけ、ライターをポケットに戻して、坂森は天井にまで届けとばかりに、長々と煙を吹きつける。
「先生、椅子におかけになって、そのときの状況をもう一度、詳しく聞かせてもらえませんかね」
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12
一坪ほどの家庭菜園にはアブラ菜と小松菜、それに採り残しの葱がひょろっと植わって、土寄せや施肥など手入れの様子は見られない。家は古い市営住宅のような平屋建て、玄関前には薔薇と椿が茂って道からの視線をさえぎり、その玄関と茂みの隙間ぎりぎりに深緑色の四駆車がとめてある。竹垣で囲った庭には菜園の奥からスチールの物置が陽射しを反射させ、縁側の軒下には洗濯物のハンガーがかかっている。
梢路は垣根の外にマスターの古い四駆車をとめ、うしろの席から茄子の袋をとり出して、庭を縁側の前にまわる。六畳の和室にいた小長がちゃぶ台の前から首をめぐらし、一瞬「おや?」という顔をしてから、立膝で縁側まで這い出してくる。
「珍しいなあ、どうしたいショウちゃん」
「近くへ来たもんだから」
「この家、来たことがあったっけ」
「初めてです。荒川へ野菜の仕入れに行って、その帰りです。場所はすぐに分かりました」
「そうなの、まあいいや。ちょうど暇をもてあましてたんだ。どうだい、上がってビールでも飲まないか」
「秋茄子があります。簿切りにして醤油をたらすと、肴になる」
「そりゃいいね。料理はショウちゃんに任せるから、やってくれよ」
「はい。庭の葱を、一本もらえますか」
「構わんさ。だけど手入れをしてないから、食えるかどうか」
「採りたての野莱なら何でもうまく食べられます。昨日も葱を生で食べてみたら、美味かった」
梢路は何歩かうしろへ歩いて菜園から痩せた葱を抜き、茄子と一緒に持って、縁側の前に戻る。
「遠慮するような家じゃないんだ。その奥が台所だから、勝手にやってくれ。食器も調味料もみんな出ているよ」
言われたとおり梢路は縁側から座敷へあがり、パソコンやコピー機やオーディオ機器がぎっしり詰まった居間を抜けて、奥の台所へ向かう。間取りも昔の市営住宅ふうで狭苦しく、それでも台所や風呂の他にもう一間、居間とは別な部屋があるらしい。借家だとは聞いているが小長も一人暮らしではあるし、それに「空き家にしておくよりは」という理由で、家賃もただなのだという。
台所には大型の冷蔵庫が不似合いに場所を占め、流しや調理台は狭くても清潔で、前の棚には酢や醤油や砂糖類の容器がラベルつきで並んでいる。湯沸かし器の横にはプラスチックケースに食器類が収められ、布巾も清潔で乾いていてまな板や包丁もフックに整然と始末されているから、小長も見かけによらず几帳面な性格なのだろう。
梢路はまず葱を洗って外皮をむき、その貧弱な葱をぶつ切りにして昨日と同じように、小鉢へもる。それから茄子も洗って薄切りにし、棚から鰹節を見つけて、茄子と葱に鰹節と醤油で味付けをする。この料理を店のメニューとして出すにはもう一工夫必要だろうな、と思いながら二つの小鉢を居間へ運び、ちゃぶ台の上に小鉢を置く。
「ショウちゃん、ついでに冷蔵庫からビールを出してくれ。割り箸も流し台の引出しに入っているから」
返事をして梢路は台所へひき返し、缶の青島ビールとコップと割り箸を手に、ちゃぶ台の前に戻る。梢路自身はコップなしでもビールを飲めるが、ラザロでの小長には缶類に直接口をつけない、頑なな癖がある。
腰を落ち着けて部屋を眺めなおしてみると、パソコンは三台もあって、コピー機やオーディオ機器のほかにもCDのダビング機やビデオの編集機が、二方の壁に並んでいる。仕事用なのか趣味用なのか、しかしその機械類も狭いスペースに整然と並んで埃は見えず、スチールの棚に詰め込まれたファイルにも、整然とインデクスが貼ってある。部屋全体にうっすらと何かの薬品が匂うのは、家のどこかに写真の現像室でもつくってあるのか。
小長が缶からコップにビールをついで半分ほど咽に流し、しゃくれた顎の先をさすりながら、茄子の小鉢に箸をのばす。
「ショウちゃん、ビールはたくさんあったろう。遠慮なくやってくれよ」
「はい」
「だけどなるほど、この茄子は美味いなあ」
「同じ秩父の茄子でも露地ものハウスもの、平坦地か斜面か、盆地か山の上かで、みんな味が違うそうです」
「うん。俺も地元の年寄り連中からそういう話を聞くなあ。甘味がどうとか皮の固さがどうとか、ただ正直なところ、俺には分からんがね」
「小長さんもずいぶん山を歩くんでしょう」
「それが俺の仕事だよ。カメラマンなんてのは一見芸術冢みたいだけど、実態は登山家と変わらない。そりゃもちろん、スタジオにこもってモデルばっかり撮ってる写真家も、いるけどさ」
茄子を頬張って葱も口に運び、空になったビールをつぎ足して、小長がイタチを思い出させる目を、きょろきょろと動かす。
「どうも、葱はいけないなあ。こいつは匂いがきつすぎる」
「甘味がないのは肥料が足りないせいです」
「そうだろうな。となりの婆さんに言われて畑をつくっちゃみたが、気がのらなくてさ。ほとんど手入れをしてないんだ。それはそうと……」
コップを手にとって一つ空咳をし、胡坐に組んだ自分の膝に片肘をのせて、小長が下から梢路の顔を見あげる。
「ショウちゃん、今日ショウちゃんが来たのは、あれのことかい」
「あれ?」
「だから、麻美さんとのこと」
「ああ、あれですか」
「店では話しにくいから、なあ?」
「まあ、そうですね」
「心配いらないよ。誰と誰がどうだかなんて、俺の知ったことじゃないもの。こう見えても口は固いんだから」
「はい」
「だけどショウちゃんも、意外に、心配性だよなあ。そりゃ麻美さんには家も立場もあって、もしバレたら面倒だろうけど」
「そうですね。オレはともかく、香村さんは困るかも知れませんね」
「だから心配いらないって。そんなことを言いふらして溜飲をさげるほど、暇じゃないんだし」
「でも、どうして、分かりました?」
「見くびっちゃいけないぜ。二人の視線や会話の微妙なバランスを観察していれば、それぐらい見当はつく……と、言いたいところだけど、実はたんに、彼女がラザロへ入っていく様子を見ちまったっていう、それだけのことさ」
小長が胡坐を組みかえて愉快そうに笑い、ちゃぶ台の下から灰皿をひき出して、タバコに火をつける。
「三ヵ月ぐらい前かな。酔っ払ってラザロの近くを歩いてたら、麻美さんが店に入っていくじゃないか。もう看板も落ちてたし、時間も三時を過ぎてて、それに彼女の様子が何かを警戒してる感じで。それを見て、ああなるほどと、さ」
「そうですか。すごい勘だと思って、感心したんですけどね」
「勘だってなくはないんだ。さっき言った二人の視線や話し方の感じで、もしかしたら、ということぐらいは前から思っていたよ。それにしてもショウちゃんもまったく、隅に置けないよなあ」
タバコを長く吹かして目を細め、セーターの両袖をたくし上げながら、小長がまた、口の端で笑う。梢路はビールの缶に口をつけて膝を崩し、陽射しを反射させる外の物置と菜園の貧弱な野菜類を、ぼんやりと見比べる。麻美の件も、他人に知られずに済めばそのほうがいいに決まっているが、もし誰かに知られたからってそれは、それだけのことだろう。
「小長さん、いい加減に、厭きませんか」
「うん?」
「自分がそろそろ捕まる予感も、すると思うけど」
「ショウちゃん、何の話だね」
「人間なんか一人殺すだけでも、疲れるんじゃないかと」
「おいおい、なんだい急に。麻美さんとのことを内緒にしてくれって、それを頼みに来たんだろう」
「分かるようで分からない。分からないようでも、意外に分かってしまう」
「ショウちゃん、酵っ払ってるのか」
「オレの勘、当たってるでしょう」
「なにが」
「小長さんが成子さんを殺したこと。そしてたぶん、寄居の歯医者と両神の黒沢も」
「侍てよショウちゃん、突然やって来て、俺が連続殺人の犯人だって? いくらなんでも、そりゃ無茶すぎる」
「そうですね。本当言うとオレ、どうでもいいんです。でもいつだったか、小長さん、アルバイトの珠ちゃんに、『珠ちゃんが弁護士の奥さんになるまで、警察には捕まらないように気をつける』と言いましたよね。冗談みたいに聞こえたけど、でもあのときの小長さんの目は、動いていなかった」
「そりゃまた、たいした観察力だ」
「ただの勘です。勘だから外れたら外れたで、べつに、それだけのことです」
缶ビールを飲み干して膝を戻し、小長の顔は見ずに、梢路は頭をさげる。
「お邪魔しました。ビール、ご馳走様でした」
「おいおい、おい、待てよ。何がなんだか……とにかく、ちょっと侍て」
小長がタバコを消してビールを口に運び、手の甲で顎の先をこすりながら、肩で息をつく。
「なあショウちゃん、どういうことか、その、詳しく説明してくれよ」
「オレの気分です」
「気分?」
「何もせずに、ただ淡々と日常を消化して、そうやって死ぬのを待つ。人生の極意だと思いませんか」
「まあ、だけど、それが?」
「両神のお爺さんに教えられました」
「よくは分からんが……」
「小長さんが黒沢を殺した場所の、あの上の集落に住んでいる年寄りですよ。小長さんも会ったことがあるでしょう」
「や、しかし……」
「オレ、さっきも言ったけど、本当にどうでもいいんです。ただ人間というものは、他人を殺しつづけることに飽きないのか、何もせずに静かに生きつづけるだけ、という心境にならないものなのか。それを小長さんに、聞いてみたかっただけです」
「ショウちゃん……」
新しい缶のプルトップを抜き、それを缶ごと口に運んで、小長が上目づかいにビールをあおる。束ねた長髪に白毛は混じっているものの、鼠のように動く目も小柄で敏捷《びんしょう》そうな体型も、歳不相応に若々しい。そんな小長が一気に老けたように見えるのは、たぶん梢路の、気のせいだろう。
「ショウちゃん、本当に俺が、成子さんや他のやつらを殺したと?」
「はい」
「そう思うのは、ただの勘だと?」
「勘と、事実の組み合わせです」
「事実って」
「小長さんは成子さんと寝ていません」
「う、うん?」
「ラザロで山鹿さんに、小長さんは自分も成子さんと、関係があったと」
「そりゃあ、だって」
「オレ、成子さんと寝ていました」
「え、そ、そんな……」
「小長さんとだけは寝たくないと」
「成子が?」
「はい」
「そうか、ショウちゃんは……」
「済みません」
「いや、だけどショウちゃん、その、つまり、山鹿さんにああ言ったのは……」
「見栄、ですか」
「そうそう。成子が死んだあと、あっちでもこっちでも噂があって、それで俺も、ちょっと」
「成子さんと寝てもいない小長さんが、成子さんの死んだ夜に、なぜ彼女の部屋から?」
「ショ、ショウちゃん、まさか」
「十一時をすぎていました。あの夜は九時に成子さんがオレの部屋へ来ることになっていて、でも十一時をすぎても来ないし、電話もないし。べつに来なくても構わなかったけど、暇だったから、散歩のついでに」
「あのアパートへ?」
「小長さんはカメラバッグの倍ほどもあるビニールバッグを担いで、静かに階段をおりて来て、表の四輪駆動車に乗りました」
「そこまで見ていたのに、なぜ、警察に……」
「他人《ひと》のことです。警察にも小長さんにも、成子さんにもほかの誰にも、義理はありません」
「義理? まあ、しかし、それじゃショウちゃんは、最初から……」
缶のビールを飲み干し、つづけて新しい缶のプルトップを抜いて、小長が咳き込みながら、ビールを飲む。
「俺にも誰にも義理はなく、知っていたのに警察にも言わず、いったいショウちゃんは、何者なんだね」
「去年まで栃木の少年院にいました」
「うん?」
「六年前に、母親を殺して」
「あ……ああ、そう」
「勘も事実も関係なく、本当はオレ、最初から分かっていた気がします。小長さんには血の匂いがしたから」
「匂いが、そんな、しかし、匂いが……」
小長の口からこぼれたビールが缶をつたい、胡坐をかいた膝の上に四、五滴、小便のように落ちる。
「ショウちゃんも六年前に、お袋さんを殺している」
「はい」
「ラザロに来るまで少年院に」
「はい」
「だから、匂いが?」
「たぶん」
「分からない人間には分からないが、分かる人間には、分かると?」
「はい」
「だけど、ショウちゃんは、なぜ、お袋さんを……」
「説明できません」
「話したくないと?」
「いえ。オレの必然は、オレだけの必然だから」
「他人に話して、たとえ相手が分かってくれても、理解はできないと?」
「そうですね」
「そいつは傲慢だ」
「はい」
「人間に対して失礼すぎる」
「分かってます」
「だけど……」
「はい?」
「いや、まあ、そんなことは、どうでもいいか」
「はい」
「俺が成子やほかの連中を始末した理由も、どうでもいいか」
「小長さんの必然は、小長さんだけの必然です」
「この世には仕方のない必然があって、その必然はどうもがいても、仕方ないと、どうせ、そういうことだ」
最後のビールを飲み干し、その缶をちゃぶ台にごつんと置いて、小長が大きくため息をつく。鼠のような目にももう動きはなく、下から梢路の顔を見つめる小さい目が、じわりと、三白眼に変わる。
「ショウちゃん、見せたいものがあるんだ」
「でも……」
「心配するなよ」
「はい」
「俺の頭は、たぶん、病気だ」
「はい」
「病気ではあるかも知れないが、だけど、狂ってはいないんだからさ」
小長がにやっと笑って座を立ち、玄関のほうへ二、三歩あるいてから、敷居との境で梢路をふり返る。一瞬の躊躇は一瞬で消え、梢路も腰をあげて、小長のあとにつづく。狭い玄関の横にはドアのついた部屋があり、小長がそのドアを開けて内へ入る。梢路が促されたのは六畳の和室で井草のカーペットが敷かれ、窓にはカーテンがひかれて隅に万年床がのべてある。パソコンやオーディオ機器が並んだ居間とは対照的に目立った家具もなく、ただ大型のテレビとCDプレーヤーが一台ずつ、窓の前に置かれている。窓横のコルクボードには三枚の写真がピンでとめてあって、小長が部屋の明かりをつけるとその写真が、幽鬼のように浮きあがる。
「ショウちゃんの言うとおりだよ。どうだい、気が済んだかい」
B4判ほどにプリントされた写真にはどれにもみな、人間の上半身が映っている。梢路に見分けられるのは成子の顔だけだが、他の二人が誰であるのか、想像はつく。三人は全員が正面を向いて目を閉じ、そして三人ともなぜか右耳の横で、指をVの字形に開いている。目を閉じた三人の顔に生命の匂いはなく、実際に成子の咽首には黒い圧痕が見え、貧相な顔をした男の額には血の染みが写っている。
小長が膝を折ってテレビのスイッチを入れ、CDをプレーヤーにセットして、部屋のまん中に胡坐をかく。梢路は立ったまま南壁の写真と小長の顔とテレビの画面とを、黙って見比べる。テレビはすぐにCDの映像を映し出し、マイクを持ったレポーターらしい男と、その男の声が流れはじめる。男の声も表情も固くて平板で、動揺と混乱をその無表情さの内側へ、必死に抑え込んでいるように見える。背景は森林らしいが男の周囲には人間のざわつきがあり、レポートの声に混じって足音や何かの機械音が聞こえている。
そのとき、面面を突然子供の顔がさえぎり、テレビカメラに向かって、「ピース、ピース」と喚きはじめる。子供は丸刈りで十二、三歳、右手の指をVの字形につき立ててレポーターの前を横切り、またすぐに戻ってきて、同じ動作をくり返す。レポーターは困惑顔をしながらも中継をつづけ、その間に子供の数が増えて、みなそれぞれ「ピース、ピース」とカメラの前にVサインを突きつける。中継の邪魔をする子供の数は四人、最初の子供以外は三人とも十歳前後だが、なかに一人、女の子が混じっている。
「ショウちゃん、このニュースの現場、どこだか分かるかい」
「レポーターが『御巣鷹山』と言ってます」
「うん、両神から峠を一つ越えた上野村にある、御巣鷹山だ。この御巣鷹山に旅客機が墜落した事件は?」
「はい」
「ショウちゃんが生まれたころの話だろう」
「そうですね」
「実際の墜落現場は今テレビに映ってる場所の、少し上だ。放映はできなかったが、そりゃあ酷《ひど》い光景だった。付近の木はすっかりなぎ倒されて、飛行機の破片が散らばって、人間の足や腕もみんなバラバラ。想像できるかい、四百人以上の人間があっちにもこっちにも、バラバラになって、焼け焦げて……」
CDの録画時間が終わって画面が暗くなり、小長がリモコンを操作して、また最初から、御巣鷹山のニュースを流しはじめる。
「一口に『地獄のような』と言うけど、あれは、そんなもんじゃない。臭いが、俺の躰にしみついて、いくら洗っても、落ちようとしない。木が燃えて油が燃えて機体の残骸が燃えて、その煙に混じって、人間の、男か女か、大人なのか子供なのか、まるで判別もできなくなった人間の、そういう遺体が、見渡す限りに散乱して……情けない話だが、俺の神経の、俺の神経の許容範囲を、超えてしまった」
テレビ画面はレポーターと子供たちの様子を単調に再現し、甲《かん》高い子供の声がしつこく、「ピース、ピース」をくり返す。女の子がVサインをつくりながらカメラの前に顔をつき出し、その女の子の顔と壁に張ってある成子の顔写真とを、一瞬、梢路は見比べる。
「小長さん、昔、テレビ局のカメラマンでしたね」
「うん」
「このニュースを撮っているのが?」
「うん。だけどこんなニュース、撮るべきではなかった。子供たちを殴り倒してでも、子供たちを殺してでも、カメラの前から排除するべきだった。こんな映像を、日本中に、事故死者の家族に見せてしまった自分が、俺には、どうしても、許せなかった」
「ピース、ピース」
「ピース、ピース、ピース」
「報道部のカメラマンなんて、俺には、柄じゃなかった。同じ光景の同じ現実にも、耐えられる人間と、耐えられない人間がいる。だから俺は、テーマを自然と日常だけに設定して、東南アジアから南米まで、十年以上もほっつき歩いた」
中継の画面が終わって小長がまたリモコンを操作し、前二回と同じニュースが、また同じ無慈悲さで流れはじめる。
「ピース、ピース、ピース」
「だけど、いくら忘れようとしても……」
「ピース、ピース」
「ピース、ピース、ピース」
小長がリモコンを膝に置いたまま、束ねた長髪をなでつけ、首を横にふりながら、苦しそうに舌打ちをする。
「いくら忘れようとしても、この子供たちは俺の頭のなかで、しつこくVサインをつくりつづける。こいつらの顔、こいつらの声が毎日毎日、あのときテレビのカメラをとめられなかった俺を……」
「ピース、ピース、ピース」
「だから、こいつらにVサインをやめさせるには、現実のこいつらを抹殺するより、ほかに、方法がなかった」
「ピース、ピース、ピース」
「御巣鷹山から目を背けたくて、この子供たちから逃げたくて、それなのに俺は山一つ越えただけの、秩父に住み着いた。憎くて忘れたくて縁を切りたくて、そのくせ何かに憑《つ》かれたように、何かに、無理やり引き込まれたように、俺は、自分の罪のなかへ、帰ってきた。人間というのは……」
「はい」
「愚かで、やり切れなくて、不可解な生き物だ」
「はい」
「ピース、ピース、ピース」
「ピース、ピース、ピース」
「それでも、成子さえ秩父へ、来なければ……」
「はい」
「ピース、ピース、ピース」
「ラザロで、成子にさえ、会わなければ……」
「はい。ビールを、ご馳走様でした」
小長はもう言葉を出さず、猫背気味に上体をゆすりながら、顔の前にリモコンを構えたまま、黙ってテレビを眺めつづける。梢路はその小長に頭をさげ、開けてあるドアから外に出て、玄関から居間へ向かう。日はかたむいて庭の物置にもう陽射しの反射はなく、そしていつやって来たのか日の陰った縁側に黒猫が一匹、置物のように座っている。猫は梢路を見ても逃げようとせず、梢路はちゃぶ台に残っている葱のぶつ切りを口に放り込んで、縁側から庭におりる。荒川が近いせいかかすかに水音が聞こえ、垣根の向こうを学校帰りの小学生が通り過ぎる。
梢路は庭を出てクルマまで歩き、座席におさまりながら、葱のぶつ切りを飲みくだす。たしかに両神の葱より甘味がなく、辛味が下品で、舌触りも荒っぽい。
この葱がまずいのは窒素分が足りないせいだろうなと、梢路はクルマのエンジンをかけ、シートベルトをしめる。
「ピース、ピース」
「ピース、ピース、ピース」
「ピース、ピース」
「ピース、ピース、ピース」
*
「その小学校の先生に、監視は?」
「六人を三組に分けて」
「そんな人数で大丈夫かね」
「まだそれほどの緊急事態ではないし、聞き込みのほうに手がかかります」
「うん、まあ、それならそっちはそういうことで、とにかく当時の同級生が言うには、たしかに清水成子はあの御巣鷹山の事故のとき、父親のクルマで長瀞から見物に行ったと」
「そのあとで男に怒鳴り込まれた、という覚えは?」
「同級生は、ないと言ってる」
「そりゃだって、清水成子は貸し別荘に泊まってただけの余所者だい。家まで調べるには時間もかかるべえ」
「そういうことだろうな」
「ですが両神の黒沢満男と歯医者の近藤輝芳のほうには、その事実があります。事故の二、三日あとに、すごい剣幕で怒鳴り込まれてる」
「同じ男と断定して、間違いないかね」
「両方の親とも、テレビがどうとか言われたのを、覚えてるそうです」
「子供を出せ、テレビの前で被害者の家族と日本人全員に謝罪させろとか、まあ、なんか、そんなことを喚いてたらしいがね。完全に頭がやられてる感じだったとさ」
「男の年齢とか、特徴とかは」
「そりゃダメだい。なにしろ二十年も昔の話で、黒沢の親も歯医者の親も、覚えてるのはそれが『男だった』ってことだけ」
「若くもなく年寄りでもなく、三十から四十ぐらいだったろうと」
「仮に三十だったとしよう。そうすると、なあサカさん、はあ男は五十になってるべえ」
「そんな見当だんべえ。だけど課長、俺の口真似はやめないね」
「どうもなあ。サカさんの顔を見ると、秩父弁が伝染《うつ》ってしまうんだ。それはそうと……」
捜査一課長の永橋が出されている茶に口をつけ、閑散とした捜査本部室を見渡して、ネクタイの襟をゆるめる。部屋に残っているのはコンピュータ・オペレーターと連絡係の婦警だけ、それ以外の捜査員は全員が上野村周辺の聞き込みに出払い、今は本庁から駆けつけた永橋のデスクを坂森と蜂屋が、二方から囲んでいる。
「で、どうなのかね。その小学校の先生は、テレビカメラの前で悪ふざけをした子供が何人いたのか、まだ?」
「四、五人か五、六人か、あるいは十人もいたか、まるで思い出せねえんだと」
「本人は自分がそんな事をしたことすら、忘れていたと言います」
「そりゃ他の連中だって、同じだんべえがね」
「と、するとだよ。聞き込みを上野村周辺だけに限定するのは、どうかなあ。歯医者も清水成子も黒沢満男も、ずいぶん離れた場所から見物に行ってる」
「いっそのこと隣接県にまで範囲を広げて、捜査員の一万人もぶち込むべえかね」
「それは、まあ、できれば」
「冗談だい。そんなに範囲を広げなくたって、俺の勘じゃあ上野村で、まず間違いねえ」
「サカさんの勘、なあ」
「だってよ課長、事件の最初が寄居、次が長瀞、その次が両神。ということは……」
「そうか。遠いところから、順番に御巣鷹山へ近づいてる」
「ほい。つまり犯人は、でたらめに三人を殺したんじゃねえ。遠いところから始めて最後は御巣鷹山と、最初から決めてたんだんべえ」
「と、いうことは」
「一種の、儀式みてえなもんだんべえよ」
「儀式のような……か」
「私も坂森さんの見込みに賛成です。小学校の先生以外にも狙われてる人間がいるとすれば[#底本「いるとすば」修正]、どうしても御巣鷹山の近くになる」
「なるほど。一種の儀式と考えれば、犯人が手順を変えるはずはない、か」
「今回の事件が面倒だったのは、当時の子供たちに面識もつながりも、何もなかったことです。近藤という歯医者は父親のバイクで見物に出かけ、清水成子も、友達の父親と」
「黒沢のバカなんか、一人で両神からわざわざ、自転車で出かけたんだとよ」
「いくら被害者同士の接点を調べても、分からなかったはずだな」
「同じ学校の子供とか、同じ集落の子供だったら、ここまで面倒にはならなかった」
「狙われているのがあと一人、小学校の先生だけ、とでも分かってくれれば、助かるんだがなあ」
「課長、テレビ局のほうは、どうなってるね」
「東京のキー局に協力も依頼したし、直接捜査員も向かわせてる。しかしその男がテレビ局云々と喚いてたとしても、しょせん頭のおかしくなった奴だろう」
「事故のショックで、自分を神様だとかお釈迦様だとか思い込んだ野郎は、いくらでもいたんべえしなあ」
「ですが、テレビ局に当時の記録が残っていれば、子供の人数が確認できます」
「そういうことだ。これまではすべて犯人の後手にまわっていたが、やっとこっちへ先手がまわって来た。この勝負、迅速かつ慎重に、なんとしてもこの局面で詰めてしまおう」
「しかしなんだって、ねえ課長、あの事故から二十年もたってるのに、今さら……」
「そんなこと、俺にだって分からんよ。サカさん、どう思うね」
「可能性だけだったらいくらでもあるべえよ」
「たとえば」
「仮に二十年前の男が、犯人だったとするがね。事故当時は頭をやられたんべえが、一応は治って、これまでは平穏に暮らしていた。それが女房に逃げられたか子供が病気で死んだか、そんなことで昔の病気がぶり返した」
「仮に、というのは?」
「二十年前の男とは関係のねえ、別な誰か。あのときの事故で死んだ人間の家族だって関係者だって、いくらでもいるがね」
「しかしそれでは、的が絞れない」
「二十年前ならそろそろビデオが普及し始めてたい。引越しだか荷物の整理だか、そんなときに昔のビデオを見つけて、それを見ちまって」
「サカさん、やめてくれよ。そんな人間なら、何千人も出てきてしまう」
「ただの可能性だって、そう言ってるべえに。だけど家族にしてみりゃあたとえ二十年が二百年だったところで、あの餓鬼ども、とうてい許す気にはなるめえがね」
「いずれにしても何かのきっかけは、あったんだろうなあ」
「そのきっかけが何であったにせよ、やはりこいつは、異常者ですかね。被害者の遺体をバラバラにしたのも、どうも儀式くさい」
「異常者ではあるが、犯行自体は緻密で、計画的だ」
「そうそう、昔の子供たちが今どこで何をしてるか、そんなこともちゃんと調べてる。少なくともバカじゃあるめえよ」
「サカさんの言ってた、あれはどうなのかね」
「あれって」
「被害者の右手の指がどうとか」
「ああ、あれか。あれは分からねえ」
「やっぱり何かの儀式なのかなあ」
「儀式だか趣味だか戦利品だか、そんなことは知らねえ。ただ将棋で言やもう『詰めろ』の局面だがね。犯人を捕まえてみりゃあ、何もかも、みんな分かるべえよ」
「うん、事件の決着がつくまで、俺も秩父に泊まり込もう」
「課長、マスコミのほうへは?」
「お、うっかりしていた。今回ばかりは報道の自粛を、完璧に守ってもらう。こちらの動きを犯人に知られたら、大変なことになる」
「坂森さん、秩父新報には、特に釘を刺しておいてくださいよ」
「いやあ、まあ、ナンだい。マスコミと警察は持ちつ持たれつ。これでめでたく事件が解決してくれりゃあ、俺も東京の倅に、顔向けができるがね」
坂森は頭を掻きながらタバコに火をつけ、椅子をデスクから遠ざけて、最初の煙を、ぷかりと吹かす。
「サカさん」
「ほい」
「俺にも、タバコを一本……」
そのとき電話が鳴り、受話器をとった婦警が受話器を耳に当てたまま、デスクから腰をあげる。
「永橋課長、県警本部から、一番にお電話です」
*
夕焼けの始まった西空を背景に、須田文則の青いマウンテンバイクが校門を走り出る。前方にとまっていた軽トラックが先に県道へ出て行き、それからしばらく間をおいて、白い乗用車が須田の自転車を追いはじめる。
「お、あのマウンテンバイク、コルベットのダブルサスペンションじゃないか」
「へえ、そうですか」
「前後輪ブレーキのセミブロックタイヤだ。こんな田舎には、ちょっともったいない」
田舎だからマウンテンバイクなんだろうに、と思いながら楠木は軽トラックと自転車と白い乗用車を見送り、須田が出てきた校門の側も確認して、ゆっくりとクルマをスタートさせる。
「それにしてもなあ楠木、ここまでの田舎だと、張り込みも不便だよなあ」
「そのぶん容疑者のほうも、隠れる場所がない理屈ですけどね」
「だけどやっぱり、あの先生には状況を話したほうが、安全じゃないのか」
「それはそうだろうけど、そんなことをしたら……」
コスモスの咲いた畑道を姉弟らしい小学生が帰っていき、その上空を雀の群れが豆粒でもばら撒いたように、鳴きながら飛びすぎる。
「状況なんか話したら、先生本人だけでなく、家族も学校も生徒も、みんながパニックを起こしますよ」
「命には代えられないだろうよ。状況を話して、協力してもらって、そうすれば俺たちもぴったりマークできる」
「ここまでの大事件ですからね。本庁の指示に従うよりありませんよ。それにたぶん……」
「たぶん、なんだよ」
「みんなが警戒して、その気配が犯人に伝わってしまうことが、まずいんだと思います」
「そんなもんかなあ」
「やっとここまで来たんです。慎重の上にも慎重にって、そういうことですよ」
大林が肩をすくめたところへ無線の緊急ブザーが鳴り、すぐにオペレーターが、全警察車両向けの緊急指令を告げはじめる。
「全車に告ぐ、全車に告ぐ。連続殺人事件の容疑者が判明。くり返す、連続殺人事件の容疑者が判明。容疑者は秩父市内在住の小長勝巳、五十二歳。容疑者は秩父市内在住の小長勝巳、五十二歳。同容疑者は現在、深緑色の四輪駆動車で逃亡中。全車両は緊急警戒態勢に入り、発見し次第容疑者の身柄を確保すること。くり返す。連続殺人事件の容疑者は秩父市内在住の小長勝巳、五十二歳と判明。同容疑者は現在、深緑色の四輪駆動車で逃亡中。全車両とも容疑者を発見し次第、すみやかに身柄を確保すること」
「大林さん……」
「うん、どういう事情なのか、とにかく……」
そのとき楠木の背広でケイタイが鳴り、楠木はクルマを畑道のわきにとめて、電話機をとり出す。
「ほい、楠木くんも大林くんも、ご苦労さん」
「は、いえ、どうも」
「そっちはどんな按配だね」
「特段の異状は、ありませんが」
「そりゃよかった。ところで、無線は聞いたんべえ」
「はあ、たった今」
「要するに、そういうことだい。テレビ局へ聞き込みに行った本庁の連中が、簡単に割り出しちまった」
「いったい……」
「お前さん、小長勝巳って写真家、覚えてねえかい」
「たしか、スナックの」
「あそこの常連客で、清水成子とも関係があったとかいう男だがね。まさかとは思ったが、こいつはとんだ迂闊だったい」
「で?」
「あの野郎、以前は中央テレビのカメラクルーだったとかで、御巣鷹山のときに担当だったんだと」
「はあ、つまり」
「あの事故のとき何かのトラブルがあって、しばらく局内でもめてたんだと。そのうちふいっと会社を辞めちまって、後のことはよく分からねえ」
「それで、逃亡中というのは」
「逃げられちまったわけさ」
「はあ?」
「ちょうど課長がいるところへ、本庁から報告が来てなあ。それで課長と俺と蜂屋さんと年寄りが三人、任意で身柄だけでも押さえべえと。で、よっこらしょと奴の家へ出掛けてみたら、はあ蛻《もぬけ》の殻《から》だった」
「まさか……」
「どこかで情報が洩れたかなあ」
「そんなはずは、ないと思いますが」
「踏み込んだときにゃビールも小鉢も、みんな出しっ放しだった。肴にしてたらしい茄子の色変わりからして、それほどの時間はたってねえ」
「近所へでも……」
「いや。見るからに泡を食って逃げ出したって、そんな感じだい。寝室の壁には被害者たちの写真も張ってあって、奴が本犯人《ホンボシ》であることは、金輪際間違いねえ」
「で、配備のほうは?」
「緊急の一斉検問だい。秩父からの出口が何ヵ所あるか知らねえが、こうなったらはあ、逃がすもんじゃねえ。そっちへも今パトカーをまわしたがね」
「私たちは、どうしましよう」
「先生の監視はあとの二組に任せて、神流川の橋を封鎖しろい。奴のクルマは深緑色の四輪駆動車、名義が違うせいかまだナンバーは知れてねえが、それも追っつけ分かるべえよ」
「はい」
「秩父ってのはあっちもこっちも、みんなどん詰まりだがね。どこへ逃げたって、はあ袋の鼠には変わりねえ。そういう事情だからよ、なあ楠木くん、今夜あたりはまたジャングル組で、一杯やるべえじゃねえか」
坂森が小さく笑って電話を切り、楠木と大林は顔を見合わせて、同時にとり出したタバコに、同時に火をつける。
「大林さん、やりましたね」
「楠木……」
「はい」
「容疑者の身柄を俺たちで確保すれば、もしかしたら、なあ?」
「もしかしたら、何です」
「もしかしたら本庁の捜査一課に、上げられるかも知れないぜ」
そんな簡単に事は運ばないだろう、とは思いながら、それでも本庁勤務に一抹の夢が広がって、楠木は緊張で震えそうになる足に、ぐっとアクセルを踏み込ませる。
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13
玉本加代は夫の事務椅子に座って、一歳半になった息子に目を細める。翔太がまたがっているのは村会議員の奥さんから贈られたベビー三輪車で、広くもない駐在所のなかを行ったり来たり、おぼつかない足でこぎまわる。藤岡市の所轄からこの駐在所に赴任してきてから、もう三年。翔太もこの上野村の産院で生まれ、夫も村に馴染んで暮らしにもゆとりがある。夫の仕事といえば村祭りの警備や交通取締りぐらいで、普段はただバイクに乗って村内を巡回してまわるだけ。危険もないかわりに刺激もなく、それはそれでいいのだろうが、加代はこの平和なだけの単調さに最近ふと、疎ましさを感じる。
本来、駐在所勤務は三年から五年と決められている。地域住民と必要以上に親しくなるのを避けるため、という理由らしいが、たしかに田舎人の付き合いは生活の襞の襞まで干渉する癖があり、そうやって接触の密度が濃くなってしまえば選挙違反も交通違反も、簡単には取り締まれない。実際に翔太が乗っている三輪車だって、「みんなそうなんだから、ただのお祝いなんだから」と言われれば、「いえ、決まりですので」と突き返すわけにはいかなくなる。夫のほうはそのあたりに無頓着で、巡回先の農家から沢庵漬けや地卵をもらってきたり、青年会のアレやら婦人会のコレからウイスキーや日本酒ももらってくる。そんなことに神経質な警官に田舎の駐在は勤まらないのだろうし、地域との融和だって保てない。それは分かっているのだが、老人会の御詠歌会にまで顔を出さなくてはならない加代にしてみれば、そういった村民たちとの付き合いが、かなり煩わしい。
もちろんこの暮らしもあと二年、と厳格に決まっているのなら、我慢の方法はある。しかし駐在期間の三年から五年、というのはあくまでも建前。好きこのんで田舎の駐在所勤務を希望する警官はまずいないから、実際の赴任期間は八年であったり十年であったり、極端な話では二十年、という例もあるという。問題は夫がこの『田舎の駐在さん』という立場に満足しているらしいことで、最近では「ここで金をためて、藤岡市の郊外に家を建てよう」などとも口にする。このまま駐在所にいれば家賃も光熱費もただ、そのうえ家族手当と僻地勤務手当まで支給されるから、たしかに金はたまる。加代だって一戸建ての家は生涯のあこがれだし、翔太のためにもぜひ建ててやりたい。そうは思うのだが、それにはこの田舎暮らしを、あと何年つづければいいのか。結婚して子供もできたが加代だってまだ二十九歳、自活だの不倫だのとまでは考えなくても、たまには高崎あたりの酒落たレストランで食事をしたり、エステに通ったりブティック巡りをしたり正月の福袋を買いあさったり、それぐらいの贅沢はしてみたい。それよりもっと問題は翔太の学校で、もしあと十年もこの村で暮らすとしたら、翔太は本当に、本物の田舎者になってしまう。
翔太が『怪しい人を見たら一一〇番』に頭をぶつけ、それでも泣きもせず、けろっとした顔でまた三輪車をこぎはじめる。こういう無頓着さは夫に似たんだろうな、と思いながら加代は思わず微笑み、事務机に頬杖をついて下唇をかむ。夫も悪い人ではなし、田舎暮らしも死ぬほど嫌いというわけでもなし、せめてあと三年ぐらいなら、せめて翔太が小学校に上がるまでなら。それでもなあ、もし二日前に判明した連続殺人事件の犯人を、夫が逮捕してくれたら。本人自身が逮捕しなかったとしても、逮捕にあたって『明らかな功績あり』と認められるような働きをしてくれたら、状況は一気に変わるのに。たとえ他県警の事件ではあっても、今は日本中がこの事件と逃亡中の容疑者に関心をもっている。夫がこの事件に関して功績をあげれば『勲功昇進』もあるだろうし、本庁とまではいかなくても所轄署の刑事ぐらいに昇格する可能性は、なくもない。同じ警官といっても制服組と私服組とでは雲泥の差、もし夫がテレビの刑事ドラマに出てくるような私服組に昇格したら、高卒警官との結婚にいい顔をしなかった両親にも、いくらかは自慢できる。
でもねえ、あれからもう二日もたってるし、どうせ東京あたりへ逃げちゃってるわねと、なぜか裏の農家からもらった里芋と玉葱の始末を思い出しながら、加代はまた、下唇をかむ。
何度眺めても豪勢な石造りの塀に、玉本巡査は今日も眉をひそめる。神流川の少し下流に鬼石町という三波石の主産地があって、塀の腰高部分にはその三波石の大岩が、ふんだんに使われている。塀のこちら側には収穫間近のコンニャク畑が広がり、屋敷の背後には竹林と雑木林が迫っている。須田の家は江戸時代からの大農家だったと評判で、明治から終戦直後までは養蚕で財を成したらしい。広い庭の奥には竹林を背負って瓦葺の古い和風家屋が構え、門内の右側がトラックやトラクターが置いてある物置、左側には新建材を使った二階建ての家があり、須田教諭夫婦はこの新しいほうの家に住んでいる。大学も出してもらって親に家を建ててもらって、同じ公務員であるけれど自分とはずいぶん違うよなと、玉本は少し口を尖らせる。
玉本の実家は松井田という小さな町にある、洋品屋をかねた雑貨屋。町自体が寂れている上に郊外には大型量販店があり、父親は家業よりも道路工事などの日雇いで生計を立てていた。兄弟だって四人もいたから大学など思いもよらず、それにもともと勉強は苦手で、中学高校の六年間は柔道の部活で費やした。その柔道ではレギュラーになって県大会にも出場し、しかし成績はそこまで。大学からスカウトされるほどの活躍はできず、高校を卒業してからの進路は高崎あたりの店員か工員、それに警察か自衛隊かということで、「まあ警察かなあ」と警察官採用試験に応募した。「柔道部での実績があれば、学科のほうは名前が書けるだけでいい」と、それは柔道部からやはり警官になっていた先輩からの、有益なアドバイスだった。
そうやって警官になって以来十三年、すでに巡査長への昇進資格は得てはいるが、試験を受けること自体がどうにも、面倒くさい。巡査長の上へは巡査部長、警部補、警部、警視とつづき、高卒の警官が試験でたどり着けるのはせいぜい、警部補まで。なかには警視にまで昇進するまれなケースもあるが、そんなのは重大事件で大手柄を連発した警官だけの、特殊な事例なのだ。ほとんどの高卒警官は巡査部長で退職し、退職時特進で警部補に任官する。それだって最近は社会の目が警察のズルに敏感だから、玉本が定年になるころには欺瞞《ぎまん》昇進や捜査費の横領など、どうせ一掃されている。
あくせく働いて上司のご機嫌をとって、そうやって神経をすり減らしたところで、しょせんは下級地方公務員。それならこういうのんびりした田舎で『駐在さん』生活を送ることの、どこが悪い。赴任期間は三年から五年、という一応の規定はあるが、こちらから希望を出せば延長は可能だし、それに群馬県自体が関東の僻地なんだから、この上野村以外にも駐在所を必要とする田舎は、腐るほどある。
田舎は空気がよくて生活のペースも緩やか。住民もみんな親切で物価も安くて治安もよくて、それに「駐在さん、駐在さん」と年寄りや子供たちからも慕われる。一生を平巡査のまま警官生活をまっとうし、しっかり貯金をして家を建てて子供を大学へやる。それは実現可能な計画であり、最も現実的な生活設計だとは思うのだが、同時に妻の加代が町場での生活を望んでいることも、玉本には分かっている。
女ってやつはどうしていつもいつも、新しい服に新しい靴に新しいアクセサリーに、新しい化粧品に新しいレストランに新しいクルマに、それに亭主の昇給に亭主の昇進に亭主の社会的地位に、そんなものばっかり欲しがるのか。加代が他の女より特別に貪欲だとは思わないが、それでも藤岡の実家へ帰ったときは無用な服や履きもしない靴を、嬉々として買ってくる。二日前に連続殺人事件の容疑者が判明したときも、口にこそ出さなかったが、加代は玉本に『夢』を期待したのだ。もしこの事件で玉本が何かの手柄を立てたら、自分は「駐在さんの奥さん」から脱皮できる、と。
玉本にだって警官としての誇りはあるから、容疑者が上野村へ現れる可能性あり、となれば、それなりに闘志はわいてくる。巡回の行き帰りには必ず須田の家を警戒するし、この三日間は夜中にバイクで付近を見回っている。加代の期待どおりにここで何かの手柄が立てられれば、昇進や昇給は無理でも、県警本部から刑事局長賞ぐらいは授与される。
そうはいっても、埼玉側から二人の刑事が駐在所へ来てからもう三日、容疑者が判明してからは二日がたつ。緊急手配に国道の一斉検問、秩父から域外や県外へ抜ける峠や橋もすべて封鎖して、当初は逮捕も時間の問題と思われた。玉本だってそのつもりで、まさか埼玉県警が小長という容疑者を捕り逃がすことなど、考えてもいなかった。須田の周囲を警戒したのは万一の場合に備えてで、その万一が三日もつづいたのだから、もう四日目はないだろう。
玉本の後ろを郵便配達のバイクが走り過ぎ、ふと我に返って、玉本は自分のバイクを門の内側へとめる。広い庭にはコスモスが咲いているだけで人の気配はなく、母屋や物置や石塀の内側に気を配りながら、若夫婦の家へ向かう。玄関わきのカーポートには軽自動車と須田のマウンテンバイクがとめてあり、玄関の前には人の背丈ほどの椿が一本、剪定《せんてい》をされずに植わっている。まだ十月の半ばで椿の咲く時季ではないはずなのに、その枝には五、六輪の赤い花がついている。
玉本は玄関のガラス戸を細めに開け、静まり返った家の奥へ、わざと陽気に声をかける。
「こんにちは。駐在の玉本でーす」
奥に音がしてスリッパが鳴り、すぐにジャージ姿の須田が顔を出す。須田は走るように上がり口の前まできて、口を半開きにしながら玉本の顔をのぞき込む。
「その、あれは?」
「いやあ、まだのようです」
「ずっとテレビを見ていて……」
須田が玄関のサンダルに足をおろし、家の奥をふり返りながら、玉本を玄関の外へうながす。一昨日の夜には警察も須田に状況を通知し、須田も昨日からは『病欠』で学校を休んでいる。
「どうしたんですかねえ。だって、すぐ捕まると言ってたのに……」
眉間に皺を寄せて声をひそめ、玉本の背後に視線を配りながら、須田が大きくため息をつく。家族にも知らせて協力をしてもらうべき、という警察の申し入れを、まるで人が変わったのではないかというほどの怒りを見せて、須田はかたくなに拒否しているのだ。容疑者が緊急手配をされたその日に逮捕されていたら、それはそれで済んでいたかも知れないが、ここまで時間が経過すると、家族や周囲に、いつまで隠しつづけられるか。
「どうですか先生、何か変わったことはありませんか」
「そんなもの、何もありませんが、ねえ駐在さん、犯人はなぜ捕まらないんです」
「さあ、まあ、どこかへ逃げてしまったんでしょうなあ」
「逮捕されたら、すぐに連絡を」
「そりゃ当然です。ですが先生、あれから二日もたって逮捕されないということは、犯人はもうこの近くにはおらんと、そういうことですよ。家に閉じこもっている必要は、ないと思いますなあ」
「そうかも知れないが……いやね、テレビを見てると、犯人の動機がどうとか、さかんに騒ぐでしょう。今になってみれば、その、もちろん反省はしますけど、だからって二十年前のあのことで私の名前が出ちゃったら、子供たちにも、村の人たちにも、私は、顔向けができなくなる」
「無用な心配ですよ。警察には一般の方の人権を守るために、秘匿義務があります。先生の名前はどこからも洩れはしませんよ」
「ただ、テレビとか、週刊誌とか……」
「心配性なんですなあ。そりゃまだ犯人は捕まっていませんが、これだけ顔や名前がテレビで騒がれれば、逮捕は時間の問題です。逮捕されて、もし動機がどうとかってことになっても、世間は被害者のほうに同情しますよ。小長ってやつの言い分なんか、どう考えても筋が通りません」
「それは、もちろん、そうなんだろうけど……」
「いえね。巡回の途中で様子を見に伺っただけで、変わったことがなければ、それで結構なんです。今も言いましたように、犯人はもう東京あたりへ逃げていると思われます。無用な心配はなさらずに、明日はもう、学校へも」
「ええ、ええ、まあ」
「もちろん逮捕の一報が入ったら、すぐにお知らせします。くれぐれも、気にしすぎませんように」
玉本が軽く敬礼をして玄関から離れ、二、三歩あるいたところで、ちょっと後ろをふり返る。
「先生、この椿、変わってますねえ」
「こんな時季に花が、でしょう」
「そうそう。山茶花《さざんか》にしても、まだ一ヵ月は先だと思うけど」
「私も不思議なんです。ただの寒椿で、去年までは十二月に咲いてたんですけどね。気候の加減かなにか、それとも子供が小便でもひっかけたか」
「ふーん、小便ねえ。まあとにかく、そういうことで、一応はお気をつけください」
玉本がまた敬礼をしてバイクへ歩き、須田も玄関の内へ姿を消して、ガラス戸を閉める。これが都会なら、ましてこんな状況なら玄関に鍵をかけない人間などいるはずはないのに、田舎には遺伝子的に、その発想がないのだろう。
そりやいくら家族に顔向けができなくたって、いくら一人で隠そうとしたって、名前なんかすぐバレちゃいますよ、先生。
「駐在さんもご苦労ですよね。午前中にも二回、あの家を見回ってます」
「勤勉で真面目な警官ってことだがね。そりゃそれとして大林くん。駐在所の女房《かみ》さんに電話して、あまりここへは近寄らねえように言ってやりない。やたら制服がうろうろすると、小長だって出ずれえがね」
「はあ、それでは、そのように」
大林がケイタイをとり出して駐在所へ電話を入れ、二こと三こと話しただけで、すぐに電話を切る。クルマをとめてあるのは須田の家から百メートルほど離れた雑木林の陰で、そこからはちょうど石の門と、その奥にある須田教諭夫妻の家が見渡せる。前の席では大林と楠木が双眼鏡を構えて周囲を警戒し、後部座席では坂森が靴を脱いで足を投げ出している。四面の窓すべてが開いているのは三人が吹かすタバコのせいで、後部座席用の灰皿からはすでに吸殻が二本、床のゴムシートにこぼれている。昔は張り込みの十日ぐらい屁でもなかったのにな、とは思いながら、肩が凝って腰が痛くて、坂森はつくづく自分の歳を考えてしまう。
「ですけどねえ坂森さん……」
大林が額の脂を手の甲で拭きながら、窓枠にかけた肘に顎をのせて、低く鼻を鳴らす。
「これ以上見張っていても、やっぱり、無駄じゃないですかねえ」
「無駄だって何だって、他にすることがあるかね」
「それは、そうですけど」
「検問だってまだつづけてらい。消防団にも話を通して、山狩りもしてもらってる。こうやって待つ以外、俺たちにすることはなかんべえよ」
「ですが、あれからもう二日ですよ。小長はとっくに、逃亡してると思うけど」
「正直言うとなあ」
「はい」
「俺もお前さんと、同じ考えだい」
「はあ、そうですか」
「あれだけ秩父からの出口を固めて、それでも網にかからねえ。ということは一歩か二歩の違いで、逃げられちまったってことだい」
「それなら、なぜ」
「ただの勘だよ」
「勘、ですか」
「お前さんらは知るめえが、昔の人間は山を越えるとき、尾根伝いに歩いたもんだがね。落ち武者だって山奥へ住み着くときに、下から登っていったんじゃねえ。尾根伝いに山を越えてきて、上から下を見おろすんだい。それで日当たりがどうとか水はありそうだとか、そういうふうにな」
「はーあ」
「猟師だって行商だって、道もねえ山を歩くにゃあ、みんな尾根を伝ったもんさ。と、そりゃあ親父から聞いた話だけどよ」
「で、それが?」
「小長って野郎がもし、尾根歩きの理屈を知ってたら……」
「いくらなんでも、それは、無理ですよ」
「承知してらい。小長はいま一歩のところで網の目をくぐり抜けて、はあ今ごろは、歌舞伎町あたりのソープランドだんべえ」
「ソープランドというのは、ちょっと」
「たとえばの話だがね。ただよう、小長の生まれは鶴岡の田舎で、羽黒山の近くだんべえ。羽黒山ていやあ、山伏の本場じゃねえか。そんなとこで生まれ育ちゃ、小長も山歩きの理屈を、知ってねえとも限らねえ」
「たとえ小長が山に詳しくて、クルマを捨てて尾根から逃亡したとしても、どうですかねえ、こっち側へは警察の手配が回ってることを知ってるはずですから、逃げるのは山形側か、やっぱり東京側か」
「そうだんべえなあ、俺もそう思わい」
「ですから……」
「そうは思うけどよ。そういう理屈は頭がまともな人間の考えだがね。小長ってのは利口で用心深え野郎にゃ違いあるめえが、イカレ方だって本物だい。四人のうち三人まで整理して、残りはあと一人。その始末をつけなけりゃあ、奴の頭のなかで、何かが終わらねえ気がする」
「その、何か、とは」
「知らねえよ。俺は心理学者でも、プロゴルファーでもねえんだから。だけど小長が部屋のコルクボードに留めていた写真は、やっぱし、一枚足らねえ」
「はあ?」
「歯医者と清水成子と黒沢満男の、あの写真だがね」
「写真が?」
「鑑識の下小出さんに調べてもらったい。遺体の指を無理やりVの字に開かせて、その後で腕を切り離すと、筋の具合か何かで、指が野球の球を握ったみてえな形に曲がるんだと」
「そうですか」
「被害者にVサインをつくらせて、それを写真にとって、自分の部屋へ飾る。小長にとっちゃ戦利品のはずだったんべえが、その戦利品が、やっぱし、ひとつ足らねえ」
ポケットを探ってタバコの箱をとり出したが、中身はもうなく、坂森は灰皿のなかから長めの吸殻を抜き出して、火をつける。
「なあ、お前さんらも押収したあのCDは、見たんべえ。そういや俺もあの事故の当時、ニュースであんな場面を見た覚えがあらい。そんときにはよ、いくら子供の悪ふざけだからって、こいつは酷すぎる。この餓鬼ども、ぶっ殺してくれべえか、と本気で腹が立ったがね。子供だって連中もあの歳だい。飛行機が落ちて乗客たちがどうなってるか、分かってたはずだものよ」
「だからって……」
「小長の行為は正当化されねえ、か」
「はあ、まあ」
「そりゃその通り。俺もべつに、小長が正しいとか小長の気持ちが分かるとか、そんなことは言ってねえよ。ただなあ、いくら子供だってバカだって、人間にはしちゃいけねえことがある。あの先生を含めた四人の子供は、その人間としてしちゃいけねえことを、しちまった。それを子供の悪ふざけだといって済ませてきた大人と、この日本て国にも、責任があるんじゃねえかと……大林くん、湿気煙草《しけもく》ってのはやっぱし、まずいなあ」
「はあ? はあ」
「そんなことよりなあ、俺にはあの事のほうが、どうにも腹が立つんだい」
「しけもくが?」
「そうじゃなくて、ほれ、何度も愚痴を言って申し訳ねえが、俺たちが踏み込むことの情報が洩れちまった、あのことだい」
「坂森さんたちが小長の家に到着したのは、本庁から連絡が来て、十分もしないうちでしたよね」
「いくら三人が年寄りだからって、よっこらよっこら、階段ぐれえ駆け下りるがね」
「それならその十分の間ではなく、やっぱり、事前に洩れたんでしょう」
「事前にったって、その直前まで俺も課長も、小長のコの字も知らなかったんだぜ。俺たちが知らねえのに、警察の手がまわる事を、容疑者のほうがどうやって知るんだい」
「それは、ああいう人間にありがちな、独特の勘みたいなもので」
「ほい、お前さんもプロゴルファーかい」
「はーあ?」
「なんでもいいやな。だけど踏み込んだとき、割り箸や小鉢が出てたから、小長の他にもう一人……お、おっと」
坂森が反動をつけて身を起こし、根本まで短くなったタバコを外へ放って、前の座席に肘をかける。
「大林くん、済まねえが、タバコを一本めぐんでくれや」
「はあ、べつに、どうぞ」
大林が自分の肩越しにタバコをさし出し、その箱から一本を抜いて、坂森は深々と火をつける。
「なあお前さんら、俺たちはとんだ、見当違いをしてたかもよ」
「見当違い?」
「俺や課長が踏み込む前、小長の家には小長のほかに、もう一人誰かがいた」
「はあ」
「その誰かが、理由は分からねえが、何かの具合で警察の動きを察知した。だからその誰かが、小長を逃がしたと考えりゃあ……」
「小長に共犯がいたと」
「共犯とは限るめえが、小長を犯人と知ってて、小長を逃がして、逃がしただけじゃなく匿《かくま》ってるとすりゃあ、なあ、小長はまだ秩父の市内だい」
「なるほど」
「あれだけの検問と緊急手配で、そう簡単に網はくぐれねえ。小長本人も小長のクルマも、見たという通報は一つもねえ。俺としたことが何という迂闊《うかつ》な……おい、楠木くん、早くクルマを出せや。こんなところでタバコを吸ってねえで、秩父へひき返すべえ」
「坂森さん」
「ほい」
「さっきの郵便屋が戻ってきましたよ」
「郵便屋?」
「さっき須田の家の前を通っていった郵便屋です」
「それがどうしたい」
「門の前にバイクをとめて、庭へ入っていきます」
「配達物がありゃあ、そりゃ入っていくべえよ」
「そうかも知れませんが……」
楠木がクルマのエンジンをかけてギアを入れ、確かめ直すように双眼鏡を構えて、レンズの度を調節する。
「坂森さん、郵便配達のバイクが、埼玉ナンバーです」
「川を一つ越えりゃあ埼玉……」
「でも、こっちは県外のはずでしょう」
「県外? バイクのナンバーが?」
「郵便屋は県外にも配達するんですかね」
「そんなことは……」
「そうですよねえ、でもナンバーが」
「ナンバーが……お、そういや昨日、小鹿野で、郵便配達が」
「失踪して行方不明になっています」
「くそっ、楠木」
「はい」
「早く、早く、早く、早くクルマを、須田の家へ」
その声と同時に楠木がクルマを発進させ、雑木林の陰からコンニャクの畑道へ、猛スピードで突っ込ませる。雑木林から須田の家までは百メートル、足で走っても二十秒はかからないその距離を、エンジンを全開にしたクルマがまるでスローモーションのように、遅々とした速度で進んでいく。砂利にスリップして石ころにバウンドして、それでも何とか須田の家にたどり着き、門の前で急停車する。郵便配達はもう椿の咲いた玄関にまで進んでいて、開いたガラス戸からもジャージ姿の須田が顔を出している。
クルマのドアが三方から一気に開き、坂森と楠木と大林が躍り出る。
「郵便屋さん、ちょいと待ちない」
須田が背伸びをするように顔をつき出し、小柄な郵便配達の肩越しに、唖然と目を見開く。しかしヘルメットの郵便配達は坂森の声に反応せず、右手でVサインをつくりながら、左手では小包様の茶封筒を、黙って須田にさし出しつづける。
一歩、二歩、坂森たちが玄関のほうへ歩いたとき、突然、郵便配達が爆発する。煙が二階家の屋根まで一気に噴きあげ、その中心部に赤黒い炎を閉じ込めて、そして雪崩が起きたような轟音。それらはすべて同時に発生し、爆風で倒れたのか自分たちの意思で地に伏せたのか、坂森と楠木と大林の三人は、耳鳴りがおさまるまで、五秒か十秒か、そのまま地面に伏せつづける。
坂森の薄くなった頭に鳩の糞に似た感触の物体が降りかかり、坂森は地に伏せたまま、目だけをそっと、玄関のほうへ向けてみる。そこにもう玄関は無く、ただ空洞になっただけの壁の奥には室内のドアと、上がり口にはなぜか乱れていないスリッパが一足、脱がれたままの形で見えている。無くなっているのは玄関だけではなく、そこに立っていたはずの郵便配達も須田も椿の木も、煙と一緒に宙へ消えたように、きっぱりと姿を消している。
坂森は視線を巡らして楠木と大林の無事を確認し、シャクトリ虫のように腰を曲げて、地面の上に身を起こす。それから額に伝ってくる生温かい肉片を払い落とし、目の前に転がっている薪状の物体に、じっと視線を集中させる。
「さあてね、どこかで見たはずの物だが……」
人間の手首に似たその物体は、野球のボールを握ったような形に指を曲げ、肘に相当する箇所からは骨を見せて血を流して、そして何か、ジャージ生地のようなぼろ布をまとっている。
「さあて、こいつは、どこかで見たはずなんだが……」
頭のなかには被害者たちの腕を写した三葉の写真が見えているのに、目の前の物体がそれと同じものであることを、坂森の理性は、金輪際、認めようとしなかった。
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二ヵ月半前は半袖だった珠枝のブラウスも長袖になり、その上に薄物のカーディガンが羽織られている。
カーディガンの上にハーフコートを着終わった珠枝が、ヴィトンのバッグを小脇にかかえて麻美に会釈をする。珠枝はマスターと梢路にも手をふってフロアを進み、テーブル席の咲に声をかけてから、「それじゃお先にーっ」と語尾をのばして店を出ていく。
客は麻美と咲の二人だけ、咲のほうは相変わらず一升瓶を丸テーブルに据えて、黙々と酒を飲みつづける。咲の衣装も薄物からコットンセーターに変わり、そして今夜は足の先になぜか、赤い鼻緒の塗り下駄をひっかけている。
「さあて、もう一杯飲んだら、俺も帰るかな。忙しくても疲れるし、客が入らなくても気が滅入る。俺もやっぱり、歳なんだよなあ」
マスターが顎鬚をこすりながらパイプに火をつけ、自分でグラスにバーボンを足して、大きく背伸びをする。マスターと麻美の間には三人分のスペースがあり、それでも二人は席を詰めないまま、ほとんど会話もなくそれぞれに酒を飲んでいる。客たちも一連の事件に飽きたのか、疲れたのか、特に小長の一件以降はこの三日間、一晩に二、三人の客しか入らない。
店のドアが開いて萎びた風釆の初老男が顔をのぞかせ、わざとらしく腰をさすりながら、そのドブねずみ色の背広をカウンターへ運んでくる。
「おや、美人記者さん、最後の夜にこんな店でお目にかかれるとは、光栄ですなあ」
「こちらこそ光栄ですわ。でも坂森さん、こんな店は失礼でしょう」
「や、や、こりゃ失言。さすがに私も疲れちまって、頭がまわらんのですわ。八田さんも、気を悪くせんでくださいよ」
坂森が恥じ入ったふうもなくマスター寄りのスツールに腰をのせ、背広のポケットから、すぐにタバコの箱をとり出す。
「ほーう、バーボンですか。そういえば八田さんは昔から、酒にお酒落でしたものなあ」
「オールド・グランド・ダッドという安物だよ。お酒落というような酒ではないが、これが一番バーボン臭いんだ。よかったら試してみるかね」
「や、や、こりゃ光栄。それじゃ昔馴染みのお言葉に、遠慮なく甘えますかなあ」
梢路が坂森の前におしぼりとグラスをさし出し、そのグラスにマスターが氷とウィスキーを落とす。それを見てから梢路はカウンターの内で葱を五センチほどの長さに切り、切った葱を縦に二分して小皿に盛る。小皿の端には味醂《みりん》醤油に漬けてあったおかかと、山椒を和えた地味噌も添える。葱もただのぶつ切りよりは体裁がよくなるし、それにおかかと地味噌だけでも、酒の肴になる。
坂森が火のついたタバコを指に挟んでバーボンをなめ、ぴちゃぴちゃと舌を鳴らして、凝った肩をほぐすように、ぐるっと首をまわす。
「しかしまあ、お陰様で、一応の片はつきましたよ。こちらにもお騒がせしたりご迷惑をかけたり、お世話になりましたなあ」
「今夜が最後だ、と」
「明日には本庁へ戻ります。大事件ではありましたが、なにせ小長があれじゃあねえ。容疑者死亡のまま書類送検だなんて、お粗末な幕切れでした」
「彼に生きていられたほうが、あとが面倒だったろうに」
「そりゃまあ、弁護側は精神鑑定だの何だの、因縁をつけて来ましょうしなあ。裁判だって何年かかったことやら」
「小長は最初から、死ぬつもりだったと思うよ。と、そう思うことに、根拠はないけどな」
「はあ、まあ、私も……」
煙を長く天井に吹いて拳で肩を叩き、梢路がさし出した小皿に、坂森がわざとらしく皺目を見開く。
「ほーう、生の葱をこんなふうに。この手の料理をどこかで見た気はするが……しかし、まあナンですわ。行方不明になっていた郵便配達も見つかりまして、事件は一件落着。無関係な人間だけは、死なずに済みました」
「そうか、郵便配達か」
「つい三時間ほど前のことですがね。記者さん、残念ながらこのことは、もう他社に知れちまってるよ」
「無事に見つかれば、それでいいわ」
「ほい。今夜はまた……ま、場所は両神の山裾でね。八田さん、昔平賀源内が石綿を掘ったとかって洞窟跡、ご存知ですか」
「さあ」
「嘘か本当か、山の年寄りが言うことですがね。とにかく両神山の下のほうに古い洞窟がありまして、郵便屋はそこで手足を縛られてました。脱水症状は起こしてたが、命に別状はないとかで、それに小長のクルマも、その洞窟で」
「地元の人間より小長のほうが、山に詳しかったわけか」
「そういうことになりますなあ。いえね、私も目の前で四番目の犯行をやられちまって、下手をすりゃ減俸か停職。俺のせいかい、と尻をまくりたいところじゃありますが、そんなことをしたら女房に殺されちまう。ここはひたすら頭をさげて、定年まで辛抱しますがね」
ひっひっと卑屈に笑ってタバコを消し、すぐに新しいタバコに火をつけて、坂森がマスターと麻美の顔を見比べる。
「それから、小長が犯行に使ったダイナマイトねえ……記者さん、明日あたり、亜細亜セメントの現場事務所に、家宅捜査が入りそうだよ」
「あら」
「石灰石の切り出し現場からダイナマイトが紛失してると、内部情報《たれこみ》があってね」
「あら、そうですか」
「どうしなすった、今夜はご機嫌がななめかね」
「べつに。ただ生理が近いだけ」
「それならそれでいいが、なーにね、ダイナマイトをどこで手に入れたとか、小長はどうやって使い方を知ったのか、とか、そんなことをマスコミに騒いでもらいたいと思ってね。そうすりゃ事件の本質からも、世間の目がいくらか逸れるかと……」
空になった坂森のグラスにマスターが氷とウィスキーを足し、自分のグラスにもウィスキーを足してから、パイプにダンヒルのタバコを詰めなおす。
そのときテーブル席でこつんと音がし、咲が空になった一升瓶の口に顎をのせて、梢路のほうへ催促の視線を送ってくる。梢路は肯いただけでガスコンロに火をつけ、鍋に残っている南瓜のクリーム煮に火を通しはじめる。どうせもう客は来ないだろうし、仕込みすぎた南瓜料理は咲たちへの、サービスにする。
温まった料理を三つの小鉢にとり分け、麻美と坂森に一つずつ配ってから、梢路は五六八のニューボトルを持ってカウンターを出る。今夜の咲は店に来てから食事をせず、つきだしに出した柿のベーコン巻きを齧っただけで、もう二時間も酒を飲みつづけている。
梢路が咲のテーブルに新しい一升瓶と南瓜料理の小鉢を置き、一言も言葉を交わさずに、空の瓶を持ってカウンターへ戻る。麻美は梢路と咲の様子を肩越しに盗み見していたが、二人は視線を合わすこともなく、どちらも表情を変えず、梢路はカウンターの内で黙々と空の瓶を片付け、咲のほうは足を組みかえただけで、面倒くさそうにボトルの栓を抜く。料理をサービスされたら礼を言うほうが当然で、それに視線を合わせないこと自体が、何か不可解で、何か秘密っぽい。
咲の足先にひっかかっている下駄の赤い鼻緒がゆれ、薄暗いセピア色の照明のなかで、ゆらり、ゆらり、その鼻緒が赤いエロチックな生き物のように、意味もなく麻美の嫉妬心を刺激する。
「八田さん、あの五百六十八という日本酒は、最近の流行《はやり》でしょうかなあ」
「ごろはちと読むんだよ。新潟県の酒で、わざわざ取り寄せてるんだ」
「そうでしょうなあ。私も酒に詳しいわけじゃないが、あまり見かけん銘柄ですがね」
「それが?」
「いやあ、どういうわけかつい最近、あれと同じ酒を見ましてなあ。世の中には奇妙な偶然というのが、あるもんなんですなあ」
カウンターからのぞき込むように空の一升瓶を眺め、梢路の顔にちらっと視線をやってから、坂森がゆっくりとグラスを口に運ぶ。
「いえね、こりゃ事件とは関係ないんですが、八田さん、両神で黒沢満男が殺されましたでしょう」
「うん」
「あの現場からずっと山を登っていった先に、小さい集落がありましてな。住人はみんな山をおりちまって、残っていたのは九十近い年寄りが一人だけ」
「うん、事件の後で聞いた気はする」
「で、ね、その年寄りが死んでいるのを郵便屋が見つけて、まあついでということで、私が検分に行きました。ざっと見たところ外傷もなし、一応行政解剖にかけたところ、死因は多臓器不全に急性心不全、いわゆる、老衰ってやつでした」
「そのことの何が偶然なんだね」
「年寄りは老衰ですから事件性は一切なし。ただその年寄りが死んでた囲炉裏の近くに、あれと同じ一升瓶がねえ。珍しい銘柄だったもんで、ほい、この爺さんも意外に洒落た酒を飲んでるもんだと、それで覚えておったのですよ」
「まあ、そういう偶然も、あるんだろうな」
「そうそう。奇妙な隅然というのも、たまにはあるもんですわ。小長と清水成子がこの店で出会ったのも、まったくの偶然でした。私は偶然というやつが嫌いで、あれから小長と清水成子の関わりを調べてみましたが、やはりこの二十年間、接触は一切なし。だから清水成子さえ秩父へ来なかったら、そしてこの店で小長と会うことさえなかったら……」
「坂森さん、そのことはもう、話したくないな」
「や、や、や、こりゃ失礼。歳のせいかどうも、話がくどくなって……」
坂森がとり出しかけたタバコをポケットへ戻し、グラスのバーボンを飲み干して、皺顔をごしっと、手のひらでこする。
「ですがなあ八田さん、今も言いましたように私はどうも、偶然というやつが嫌いでしてなあ。小長と清水成子がこの店で会ったのは、本当に偶然なのかと……」
「自分で調べたと言ったじゃないか」
「そうではあるんですがね。清水成子も小長も、本人たちですら偶然と思っていたのに、実はこれが、仕組まれた偶然であったかも知れんと、そんな妄想がちらっと、頭に浮かびましてなあ」
マスターが消えたパイプに火をつけなおし、カウンターの酒棚のほうへ、長く煙を吹く。
「そりゃたしかに、小長が自爆した場面はこの目で見ましたし、それ以前の三件も小長の犯行に、間違いはないんでしょうが」
「坂森さん、何が言いたいんだね」
「何が言いたいのか、自分でも分からんのですわ。ただどうもねえ、何かが、ぴんと来なくて」
「その何かが、とは」
「小長という人間ですよ。自爆も間違いなし、連続バラバラ殺人も間違いなし。ただ本当にあれを小長がやったのかというと、なんというか、どうも、似合わん気がしまして」
ポケットに戻したタバコをまたとり出し、自分で勝手に肯きながら、坂森がゆっくりと火をつける。
「八田さん、始めのころ、清水成子は『募集広告を見てふらっと現れた』、とおっしゃいましたなあ」
「そのとおりだよ」
「清水成子は、その募集広告を、偶然に?」
「俺が知るもんか」
「偶然ではなく、誰かに見せられてこの店へ誘導された、という可能性は?」
「そんなことは成子に聞くしか方法はない」
「や、や、ごもっとも。そこで私も考えたんですわ、清水成子は誰かに募集広告を見るように仕向けられ、で、自分でも知らぬ間にこの店へ誘導されたのではないかと。もし清水成子がその誘導にのらなかった場合には、何か別の方法で、やっぱりこの店へ来る仕組みになっていたとしたら」
「言ってることの、意味が分からんな」
「ですから、本物の偶然では、なかったと」
「だとしたら?」
「だとしたら、小長勝巳が秩父へ来てあの家に住み着いたのも、やはり偶然ではなかった可能性が、ありますなあ」
二、三服深々とタバコを吸い、坂森が空になっているグラスに、目でバーボンの催促をする。そのグラスにカウンターの内から梢路が、バーボンをつぐ。
「八田さん、小長という男……」
坂森がタバコをはさんだままの指でグラスをとり上げ、一度拝むように頭をさげてから、しゅっとバーボンをすする。
「実際のところあの男に関して、どれぐらいのことをご存知ですね」
「ただの常連客だよ。写真家だったという以外は……」
「以前テレビ局のカメラマンだったことは?」
「そんな話は聞いていた」
「もちろん今はこの事件の関係で、誰もが知っておりましょうがね。ただあれから調べなおしたところ、たしかに小長は中央テレビのカメラマンで飛行機事故のときも、カメラクルーとして現場に出向いておりました。ですが……」
わざとらしく言葉を切り、わざとらしくタバコを消して、坂森がバーボンを口に運ぶ。
「ですが、八田さん、中継のときにカメラを回していたのは別のクルーで、小長は、なんとねえ、子供たちと一緒にVサインをつくって、悪ふざけをしてたそうですわ」
カウンターに音がしたのは麻美のグラスが滑ったからで、マスターは酒棚を見つめたままパイプを吹かしつづけ、梢路は黙々と洗物をつづける。
「もともとあの小長という男、お調子者というか、風が読めない性格というか。要するに事故の現場ではカメラをはさんで、子供たちと小長がVサインごっこをしてたんですなあ。それで中継が終わったとき、ある男が小長に殴りかかった、と」
「ほーう、そうかね」
「周囲の人間がみんなで、二人をひき離したそうですが」
「その、殴りかかった男とは」
「これが分からんのです。なにせ二十年も前の話で、テレビ局にもそのとき現場にいた人間は、二人しか残っておりません。ただその二人に話を聞いてみても、殴りかかった男は局の人間ではなかったと。男はそのあと、集まっていたヤジウマ連中に悪ふざけをした子供たちの家や名前を、しつこく聞いていたとか」
「埒もない話だ」
「や、や、まったく。小長がいくらお調子者だからって、ものには限度がある。私がその場にいたらやっぱり、小長と餓鬼どもを殴り倒しておったでしょう。当然小長の行為は局でも問題になり、謹慎だの減俸だの、左遷だのと。そのうち奴も会社に顔を出さなくなって、で、あるときぷっつり消息がなくなったと思ったら、次に登場するのが、これがなんと、テレビのニュースなんですわ」
グラスの縁から皺深い目をのぞかせ、その目でしばらくマスターの横顔をうかがってから、坂森がふと、顔を麻美のほうへ向ける。
「記者さん、一年半ほど前にチベットで、日本人のお調子者が中国の警察に捕まったという事件は、覚えてるかね」
「そういえば、何か……」
「正確には一年と、八ヵ月ほど前の事件なんだが」
「たしか、ラサで、何かのビラを撒いたとか」
「そうそう。『チベットは独立国。侵略はやめて、中国はチベットから出て行け』とかなんとか」
「言われてみれば、覚えている気もするけど」
「私は国際問題とかってやつに、疎くてねえ。それにあまり関心もないんで、チベットがどうとかこうとか、よく分からんのですよ。ただそのお調子者が捕まったのは事実で、当然その男は、日本に強制送還された」
「それが、小長さん?」
「そういうことです。まあテレビのニュースに出たからって、ほんの一秒か二秒。関心のない人間は覚えてもいなかろうがね。私だって覚えちゃいなかったが、改めてそのときのニュースを見てみると、たしかに小長だった。おまけに小長はテレビカメラに向かって、性懲《しょうこ》りもなく、Vサインを。この野郎、二十年たった今でも同じことをと、正直私も、小長という男を、ぶち殺したくなった」
麻美が何か言いかけ、しかし言葉は出さず、首を横にふりながら黙ってグラスを口に運ぶ。梢路は洗い終わった食器を布巾で磨きあげ、まだ坂森の話がつづくようなら南瓜のクリーム煮もサービスしようかなと、ガス台の鍋に視線を向ける。
「ねえ八田さん、あのときのニュースは八田さんも、ご覧になりましたでしょうなあ」
「さあ、どうだか」
「仮に、まあ、ご覧になったとしましょうか。ご覧になれば当然、カメラに向かってVサインをつくっている男が二十年前に、御巣鷹山の事故現場で悪ふざけをしたカメラマンであると、お気づきになった」
「ふーん、そうかね」
「小長は髪こそ白くなってはいたが、例のちょん髷は昔と同じで、Vサインも昔と同じ。相手は忘れておったにしても、飛行機事故の現場で激怒したほうとすれば、覚えておるのが、当然でしょうなあ」
「歳のせいか、坂森さんも回りくどい言い方をする」
「や、や、面目ない。女房にも倅にも怒られて……で、二十年前のあの事故のとき、八田さんは、どちらに?」
「過ぎたことは忘れる主義でな」
「さようですか。ですがまあ、八田さんのお生まれはたしか、詳馬だったかと」
「生まれてすぐに大宮へ越したよ」
「それでも親戚は群馬に残っておられる。富岡におられるご親戚なんか、製材業から不動産業まで、手広くご商売を。なんですか、上野村にまで山林をお持ちだとか」
「親戚でも他人は他人だ」
「ごもっとも。ただ仮定の話として、警察をお辞めになった後、八田さんが親戚のご商売を手伝っておられた可能性も、あるわけでして」
「調べれば分かるだろう」
「や、それもごもっとも。しかしこれは仮定の話ですから、その仮定として、あの事故のときもし八田さんが現場の近くにおられたら、どうですかなあ、ご気性として、被災者を一人でも助けられないかと、現場へ」
「仮定だけならいくらでも成り立つ」
「いやあ、しごく、ごもっとも。このバーボンという酒がうますぎて、仮定の仮定が、止まらなくなりましたがね」
坂森がほっと息をついてタバコに火をつけ、梢路のほうへまた、目でバーボンの催促をする。梢路は氷とバーボンを坂森のグラスに足してやり、そして頭のなかで、南瓜のサービスはやめておこう、と独りごとを言う。
「まあ、とにかく……」
タバコを長く吹かし、背中を丸めながら、坂森がちびりとバーボンのグラスをなめる。
「もう二十年も前の話でして、私の仮定が当たっていたとしても、証明の仕様がありませんでね。それでも念のためにと、小長の写真を遺族に見てもらったんですわ」
「遣族?」
「今回の事件で被害者になった連中の、遺族ですがね。連中が子供のころあの事故現場で悪ふざけをし、その後でそれぞれの家に、男が怒鳴り込んでいる。当初はそれを小長だと思い込んでおりましたが、仮定での理屈を考えると、どうも辻褄が合わない」
「律儀なのか、しつこい性格なのか」
「女房にも……いやまあ、それはそれとして、で、小長の写真を見せはしたんですが、なにせ二十年も前に、たった一度会っただけ。誰も顔なんか覚えちゃおりませんし、それにみんな、歳も歳でして。ただそのなかで黒沢満男の父親だけが、あのとき怒鳴り込んできた男とは、どうも違う気がするとね。この爺様、案外頭がちゃんとしておって、あのときの男はちょん髷ではなかったと。感じとしてはもっと大柄で、それに目が、なんというか、ぎょろりとしていたと」
マスターがパイプをくわえたまま鼻を鳴らし、カウンターに片肘をかけながら、ぎょろりと坂森を見すえる。
「いやあ、まあ、しかし爺様も、その男にもう一度会ったところで、分からんとは言っておりますが」
「仮定の話ばかり聞かされても、返事の仕様がない」
「ごもっとも、ごもっとも。しかしですなあ八田さん、セメント会社に勤めている山鹿清二が、あの旅客機事故で妹さんを亡くされておるのは、仮定ではなく、間違いのない事実なんですわ」
麻美が長いため息をついてグラスをカウンターに置き、梢路がそのグラスに、氷と芋焼酎をつぐ。ボトルはそれで空になり、麻美が梢路にニューボトルの仕種を見せる。梢路は棚から新しいボトルをおろし、ついでに麻美には南瓜のクリーム煮をサービスする。
「しかしだよ、坂森さん……」
マスターがパイブの火皿から灰をかき出し、その火皿に新しいタバコをつめながら、口の端に強く力を入れる。
「今回の事件に関する事実は、山鹿さんの妹が二十年前の旅客機事故で死んでるという、それだけじゃないか」
「やあ、ごもっとも。事実はその一つだけで、山鹿と八田さんがいつからのお知り合いなのか、飛行機事故に関するお互いの立場を、どこまで話し合っておられたのか。小長が強制送還されたときテレビに向かってつくったVサインを、山鹿がどんな思いで見たのか。今回の連続殺人も、言い出したのは飛行機事故で妹を亡くした、山鹿ではなかったのか、そんなことはもうこの老いぼれに、調べようはありませんがね。ですが山鹿もセメント会社の技術者なら、ダイナマイトの扱いぐらいは、心得ておりましょう」
「それはまた仮定だ。だいいち小長の自爆は自分のその目で、見てるはずじゃないか」
「この目で、たしかに、見ておりますよ。見ておるからこそ、教師を道づれにした自爆もそれ以前の犯行も、小長には似合わん気がしましてね」
「仮定の次は禅問答か」
「いえいえ、仰有るとおり私はしつこい性格で、最後まで仮定を通しますがね。そうやってたどり着く最後の仮定は、小長の自爆も、子供のころあくどい悪ふざけをした人間たちの始末も、すべては八田さんの仕掛けではなかったか、と」
坂森が皺深い目でじっとマスターの横顔を見つめたが、マスターは表情を変えず、ただ葉をつめ終わったパイプを口に運んで、黙って火をつける。
「八田さんがどうやって小長を秩父へ誘《おび》き寄せたのか、それは分かりません。小長の住んでいた家は高桑某という人間が借主なんですが、調べてみるとこれが、架空の人物でしてね。中国から強制送還されて居場所のなかった小長を、何者かが意図的にこの家へ誘導したとして、仮にその何者かが八田さんであったなら、私のような老いぼれ刑事に、尻尾は掴ませんでしょう。それに四人の子供たちが成人して、今どこで何をしているのか、八田さんなら簡単に調べられたはず。そして最後がもっとも核心部分の仮定なんですが、八田さんなら小長の頭を、小長の心を、小長の行動を、一連の犯行と最後の自爆へ、導けたはず」
そこで坂森が言葉を切り、しばらくマスターの反応をうかがったが、最後には諦めたように、目をしょぼつかせて、グラスを口に運ぶ。
「まあ、なんといいますか、今の言葉でいうマインド・コントロールとかいうやつですかなあ。何かの方法で毎日毎日、小長が事故現場の映像を見るように仕向けられたとする。小長だってお調子者ではありましょうが、バカってほどのこともない。もともと内心には罪の意識もあったろうし、その罪の意識を増幅させていきながら、偶然をよそおった清水成子との出会いを仕掛ける。小長はこれを自分の宿命だと思い込み、罪の意識を成子を含めた四人の被害者たちに対する殺意へと転化させる。ねえ八田さん、公安警察といえば昔の陸軍中野学校、その公安で腕利きと評判だった八田さんなら、小長のマインドをご自分の意図どおりにコントロールすることぐらい……」
「坂森さん」
「は、はあ」
「あんたがずっと並べてきた仮定は、警察としての、公式な仮定かね」
「滅相もない。今まで申し上げた仮定は私の個人的な、まあ、妄想とでもいいますか。調べたところで証明できるはずもなく、それにせっかく小長の単独犯行で片付いた事件をむし返したら、こっちが首を切られますがね」
「それなら今までのゴタクは、単なる世間話か」
「単なる世間話の、単なる愚痴ですがね。私だって定年まであと二年、上と揉め事を起こす気力はなし、恩給でもフイにしたら、それこそ、女房に殺されますわ」
マスターが苦っぽく笑って深々とパイプを吹かし、頭頂まで禿げあがった額を、つるりと手のひらで撫でる。麻美も肩から力を抜くようにタバコに火をつけ、自分の短い前髪に向けて、ふっと煙を吹きつける。
やっぱり坂森にも南瓜をサービスしようかな、と梢路が思ったとき、坂森がスツールをおりて、マスターのほうへ小腰をかがめる。
「いやあ、それにしてもこのバーボンは、いけますなあ。私も女房に頼んで、明日からの晩酌はこの酒にしますかなあ」
「帰るのかね」
「はあ、まあ、ご挨拶に寄っただけですのでね」
「ショウ。オールド・グランド・ダッドを一本、八田さんにもたせてやれ」
「や、や、や、そんなつもりでは……」
「いいんだよ。映画にでもしたら面白そうな仮定をたっぷり聞かせてもらって、バーボンの一本ぐらい、安いもんだ」
「結局、今回の事件で起きた偶然は、私がこの店で八田さんにお目にかかったという、それだけでしたかなあ」
梢路が棚からおろしたバーボンを坂森に手渡し、坂森が相好《そうごう》をくずして、皺深い目を、にやっと笑わせる。
「思いがけず、何十年ぶりかで八田さんにお目にかかれて、これも何かの、ご縁というやつですがね」
カウンターにかけていた手をはずし、一度梢路のほうをふり返ってから、坂森がマスターに向き直って、またカウンターに手をかける。
「八田さん、その、私、悪気はないんですが」
「まだ何か?」
「いえ、ね、思いがけず八田さんにお目にかかれて、つまらんことを……」
「また何かの仮定かね」
「いやいや、これは私の、間違いのない記憶なんですが、その記憶によると八田さんにはたしか、ご兄弟がおらんかったはず」
「うん?」
「ご兄弟がおらんのに、甥や姪が、おるはずはないと」
「いや……」
「そりゃ結婚でもされておったら、義理の姪や甥はおられましょうがね。でも調べてみたところ八田さんに、結婚歴はおありにならない」
「坂森さん……」
マスターがパイブをカウンターに置いて背筋をのばし、一口バーボンのグラスをすすってから、ぎょろりと坂森の顔を見あげる。
「や、や、や、最初にも申したとおり、本当に悪気はないんですわ。ただ歳をとりますと、なんといいますか、堪《こら》え性というのがなくなりましてな。つい余計なことまで口に……つまり、ナンですわ、八田さんが警察をお辞めになったころ、学生運動家同士の内ゲバ事件がありまして、そのことは、覚えておいででしょう」
「当時はそんなもの、日常茶飯事だったよ」
「そうそう、内ゲバ事件なんか日常茶飯事で、その内ゲバで活動家が殺されるようなことも、たまにはありましたがね」
坂森がまた梢路をふり返って、しゅっと鼻水をすすり、それから梢路とマスターの顔を見比べながら、目の皺をいっそう深くする。
「その内ゲバで殺された活動家の名前が、なんとねえ、平島というんですよ。平島には妹が一人おりましたが、その妹も不幸なことに、ある事件で、すでに死亡しております」
マスターが一瞬腰をあげて唇を噛みしめ、ぎょろりと坂森の顔を睨んでから、思い直したようにまた、スツールに腰を落とす。
「いやいや、ただまあ、昔はそんなこともあったなあと、本当にそれだけのことで……実際のところ、本当に、悪気はないんですわ」
坂森が後ろへさがってマスターに一礼し、視線を巡らして梢路の顔に流し目を送ってから、麻美に向かって何やら、シャックリを我慢するような表情をつくる。それがウィンクである、と麻美に理解できるまでには数秒の時間がかかり、その間に坂森はフロアのまん中まで歩いていて、一瞬、ピアノの前で足をとめる。
「美人記者さん、若えジャングル組が二人、はあ落ち込んじまってよう。機会があったらあんたからも、慰めといてくれないね」
坂森はそのままバーボンの瓶をふってドアを出て行き、薄暗い店のなかに酒の匂いとタバコの匂いと、梢路が坂森のグラスを片付ける物音とマスターの空咳と、そして麻美の混乱と麻美の自己嫌悪が、それぞれ無関係に充満する。ただ一人、咲だけが酒のコリントグラスを顎の下に構え、赤い鼻緒の下駄をゆすりながら、無表情に壁の宗教画を眺めつづける。
麻美はグラスにボトルの焼酎をつぎ足し、布巾でグラスを磨きあげる梢路の手元を、ぼんやりと見つめる。坂森も、最後には妄想と自己診断を下していったが、しかし仮定に仮定を重ねてたどり着いた坂森の妄想は、本当にただの、妄想なのか。成子が東京から流れてきてラザロで働くようになったこと、小長がこの店の常連になって、成子に出会ったこと。たしかにそれらの偶然は少しばかり出来すぎてはいるだろうが、それでは作為的に仕掛けたという可能性だって、あまりにも出来すぎる。小長という男の人間性に関しても、沈着に連続殺人をくり返して最後にはきれいに自爆してみせる、というタイプとは、少し違うと思う。小長ならたとえ人を殺したって、くどくどと言い訳をするかこそこそと逃げ出すか、そんなところが似合っている。それはそうだろうが、だからってマインド・コントロールなんかで、一人の人間をあそこまでの行為に、誘導できるものなのか。それに坂森の仮定を聞いているときのマスターには、麻美が観察していた限り、一点の動揺も見えなかった。仮定はただの仮定だから、動揺なんかする必要がなく、いや、そうではなくて、たとえ仮定がすべて事実だったとしても、マスターには証拠を残していない、という自信があって、だとすると、梢路もその事案のどこかに関係していて、いや、梢路自身は無関係で、そして結局は、どういうことなのか。
いや、いや、いや、坂森の並べていったゴタクは、やっぱりただの妄想だわと、麻美はグラスの氷を口に入れて、こりっと奥歯で噛み砕く。いつだったか熊鍋を食べた料理屋でも坂森は、「黒沢殺しは目くらまし」という推理を開陳し、結局はあれもただの絵空事だった。あれも妄想、これも妄想、たった一つ事実らしいのはマスターと梢路に血縁関係がないという発言で、それですら成子が殺された直後に二人の関係をもう少し調べていれば、麻美にだって分かったはず。そうはいっても「もう少し調べていれば」の「もう少し」が欠けているのだから、やっぱり自分は田舎新聞の、田舎記者なのだ。
そんなことは分かっている。分かってはいるけど、だからってそれが何なのよ、という自嘲と居直りが交錯して、麻美の唇に皮肉っぽい笑みを浮かばせる。坂森だって梢路と咲が中学時代の同級生、という事実にまでは気づいていないようだから、その部分では麻美の勝ち。もちろんそんなことで勝ったからって、やっぱりそれは、それだけのことなのだろうけど。
「ショウ、俺用のバーボンを、もう一本あけてくれ」
梢路がうなずいて後ろの棚をさぐり、新しいオールド・グランド・ダッドの瓶をとり出して、マスターの前に置く。
「マスター、一杯飲んだら、帰るんじゃなかったの」
「麻美さんも皮肉はやめてくれよ。節操なく自堕落に耄碌《もうろく》して生きることだけが、年寄りの特権なんだから」
言葉を返そうと思ったが、何も台詞が思い浮かばず、麻美はただ頬杖をついてグラスを口へ運ぶ。自分はこんな時間にこんな店で、何をしているのか。家へ帰れば子供だっているし、明日は亜細亜セメントの石灰石切り出し現場に張り込んで、家宅捜索に取材をかける必要もある。否定はしてみたものの、坂森が残していった妄想はやっぱり気になるし、梢路と八田の関係も気になるし、梢路と咲の関係も気になるし、四十を過ぎてから増えてきた自分の白髪も目じりの小皺も、息子のアトピーも咲が履いている赤い鼻緒の下駄も、何もかもが気にかかる。
マスターが新しい瓶からグラスにバーボンをつぎ、パイプを吹かして、ダンヒルの香ばしい煙をカウンターにふりまく。
梢路が冷蔵庫を開け、バドワイザーの缶をとり出して、珍しく自分用にプルトップを抜く。
フロアのほうでは咲が席を立ち、木の床に下駄を鳴らしてジュークボックスへ歩く。咲はコインを入れて何かを選曲し、また下駄を鳴らして、丸テーブルに戻る。
「ショウちゃん」
「うん?」
「今夜、部屋に泊めてくれる?」
「うん」
「いいの?」
「いいさ」
「本当に?」
「うん、本当に」
「あなたって……あなたも、誰もかれも、何もかも全部、まったく、泣きたいほど変わってるわ」
マスターは知らん顔でパイプをくゆらせつづけ、咲も知らん顔で、ゆらり、ゆらり、ゆらり、赤い鼻緒の下駄をゆすりつづける。
ジュークボックスがかすかな振動音をひびかせ、それからすぐ、ベン・E・キングが薄暗い照明をセピア色に震わせて、『スタンド・バイ・ミー』を歌いはじめる。
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[#地付き]本作品は書き下ろしです。
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[#地付き]装 画 中島 潔
[#地付き] (「朱」)
[#地付き]装 幀 中央公論新社デザイン室
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樋口有介(ひぐち・ゆうすけ)
1950年群馬県前橋市生まれ。業界紙記者などを経て、88年「ぼくと、ぼくらの夏」で第6回サントリーミステリー大賞読者賞を受賞してデビュー。青春ミステリー小説の新たな担い手として注目される。次作「風少女」が直木賞候補となる。近著に「月への梯子」、小社より「林檎の木の道」「ともだち」「海泡」「雨の匂い」がある。
ピース
二〇〇六年八月二五日 初版発行
著 者 樋口有介(ひぐち・ゆうすけ)
発行者 早川準一
発行所 中央公論新社
平成十八年十二月二十五日 入力 校正 ぴよこ