ろくでなし
樋口有介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)社会からの隔絶に心地よく欠伸《あくび》する。
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)青木|昆陽《こんよう》の墓まで
本文中の《》は〈〉で代用した。
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[#ここで字下げ終わり]
自分が入るための自分のヌイグルミというやつがあったら、さぞ便利だろう。女の匂いに頭も混乱せず、瞳孔も開かず顔も赤くならず、硬質な仮面に守られて淡白に人生をやり過ごす。そうやって青春を懐古し、土手に寝そべっていつまでも田舎の汽車を眺めている。青い空と白い雲はワンセット、日射しを受けて水トンボが青く舞い、そよ風が色濃くコスモスの花粉を飛ばしてくる。おれは自分のヌイグルミの中で寝返りをうち、社会からの隔絶に心地よく欠伸《あくび》する。風も日射しも、遠ざかっていく汽車も他人事、青春も人生も他人事で、嬉しくても悲しくても、おれの神経は茫洋と仮定の中を浮遊する。
時間はたぶん正午《ひる》すぎ、たぶんおれは生きていて、仕事場と寝ぐらを兼ねた安ビルの三階で目をさまし、パーコレータでいれたコーヒーを苦くすすっている。開いている新聞のページは映画案内、ハードボイルドかサイコサスペンスか、どうせ目はそのあたりの活字を追っている。総選挙も都議会議員の選挙もなく、当分はまだ暇と貧乏がおれを追いまわす。
ドアにノックの昔がして、おれの神経が無意識に身構える。最近は危ない橋も渡っていないから、本来は無用の警戒なのだ。意味もなく緊張するのはたんなる習慣、裏街道ばかり歩いていると、人間がつい下品になる。
今ごろ部屋へ来てノックなんかするのは印刷屋か紙屋か、飲み屋の借金とりか健康食品のセールスウーマンか。おれはコーヒーのカップを持ったまま、パジャマ姿で漫然とドアを押し開けた。そして、そのとき、そこに立っていたのが、その女だった。
おれに理解できたのは、自分の脳がドーパミンを大サービスしたこと、そして耳の中でいっせいに蝉が鳴きはじめたこと。おれは一分か一時間か、馬鹿面をしてぽかんと女の顔を眺めていた。よだれぐらい垂れていたはずで、いい女を見るとおれにはよだれを垂らす病気があると、死んだお袋がよく言っていた。
それからおれは猛烈なスピードで『穴があったら入りたい』というその穴の中へ、頭から突っ込んだ。よれよれのパジャマを着た四十ちかい男が、目の前の女をよだれが垂れそうな顔で眺めている風景は、当人にとってそれほど感心できるものではない。当人というのがおれ自身でなかったら、おれはきっと指でもさして、大笑いしてやる。
初めに口を開いたのは、女のほうだった。
「こちらは『政局通信』の事務所とうかがったけど、間違っていたのかしら」
おれは落ちていた穴から、恐るおそる首を突き出し、コーヒーがこぼれていないか、必死に足元を点検した。
「半分当たりで半分はずれ……今のところは開店休業です」
相手が投げやりな動作で、ちらっと腕時計に目をやった。とっくに正午を過ぎているが、そんなことはおれの責任ではない。おれがパジャマのままでいることも、無精髭をのばしているのも二カ月間床屋に行っていないことも、女の存在を知らなかったせいだ。知っていたところで、こんな女がおれの人生とクロスするとは、思ってもいなかった。おれは奇蹟を信じるタイプではなく、生涯にたった一度奇蹟があったとしても、全人生を奇蹟の準備には当てられない。そしてたぶん、奇蹟というやつは、そういう心の隙をついてやって来る。
「立ち話がお好きなの? それとも……」と、皮肉っぽく頬を笑わせ、遠くからおれを見おろすように、女が言った。「まさかご自分のスタイルに、自信があるとか?」
おれは蹴飛ばされた犬のように、首をすくめ、うしろに下がってとにかく女を中に入れることにした。無用心といえば無用心、しかしおれには『いい女は悪事を働かない』という生まれつきの信念があった。
女を中に入れてから、おれは部屋に一つだけある椅子をすすめ、机の端に腰をのせて女と向かい合った。その間女は一言も口をきかず、衝立《ついたて》からはみ出したベッドや食器が山づみになった流し台やテーブルの灰皿などを、無感動な目で眺めまわしていた。
「以前に会ったとは言わないよな、おれは見かけより記憶力がいい」と、女の魅惑的な匂いに困りながら、空咳をして、おれが言った。
女は答えず、尖《とが》った顎を上向けて、目でかすかに笑っただけだった。
「もしあったら名前を聞かせてくれ。君のほうはおれの素性を知ってるらしい」
「お芝居でも『名のるほどの者ではない』という台詞《せりふ》があるでしょう」
女が名のらないこと、仮に名のったところで本名を言わないことぐらい、顔を見ただけで想像はつく。女は化粧品を売りに来たのではなく、職を求めて来たわけでもない。
おれは飲みかけのコーヒーに口をつけ、すぐにその行為を放棄し、常識的な衝動として、冷蔵庫へ行って缶ビールを取り出した。自律神経がおれの汗腺を拡げ、自分でも笑えるほど咽《のど》が渇いていた。
おれはしばらくそこに立ったまま、硬い木の椅子に端然と腰かけた女の、髪型やコスチュームや肉づきの具合などを、とっくりと観察した。髪は自然な栗色で、やわらかいウェーブがかかり、それが肩の上で絶妙な乱れ方をしている。ぴったりした青グレーのタイトスカートに対のテイラードジャケット、黒いハイヒールには皺《しわ》も埃《ほこり》もなく、歳《とし》は二十七、八といったところか。少なくともおれより十は若いだろう。
このタイプの女がどういう仕事をしているのか、判断は難しい。素人のOLではなし、水商売の臭気もにおわない。たまに女性科学者なんかにびっくりするほどの美人もいるが、そのタイプとも視線の位置が違う。雰囲気に官僚的な威圧感が感じられるといったら、少しばかり考えすぎか。まあとにかく、この手の女は決して『家事手伝い』とかをやっているものではない。
おれは冷蔵庫からもう一本缶ビールを出し、それを開けながら、ぶらりと女の前にまわり込んだ。
「あなたが勘違いしているのか、それともおれが夢を見ているのか……」と、ビールに口をつけて、おれが言った。「まさか、お茶を飲みに寄ったわけではないでしょう」
足を組みながら、女が椅子の背もたれに腕をまわし、下からじろりとおれの人格を値ぶみした。
「ちょっと引き受けてもらいたい仕事がありますの」
「ちょっと、仕事……か」
「ある男を尾行してもらいたいの」
女がそこで言葉をとめたところを見ると、おれが無意識のうちに「え?」とか「へえ?」とか、なにか声を出したに違いない。
「あなたはおれの名前も仕事も、すべてを承知でここへ来た」
口の端をかすかに曲げ、静かに、女がうなずいた。
「それで、おれに探偵の真似事をやれとおっしゃる?」
声を出さずに、また、女がうなずいた。
「あなたにおれを紹介した人間は、どこかが病気なんだろう」
「頭がおかしいわけでもなく、耄碌《もうろく》もしていないと思いますわ」
「だとしたらとんでもないアホウさ。それとも冗談が好きな、狂気の慈善家とか……」
自分の名前さえ言わない女が、扉の陰でほくそ笑んでいる人形使いの名を、簡単に明かすはずはない。それでもおれの勘が岩崎千寿夫の顔を思い浮かべるのは、寝起きに飲みはじめた、このビールのせいか。
「田沢さんが十年前まで新聞社の社会部記者だったことも、そして今は個人的に政治関係の新聞を発行していることも知っています」
こりゃ驚いた、といっても女がおれの素性を知ってるからではなく、おれの出している新聞を「政治関係の新聞」なんて上品な言い方をしてくれたことが、驚情にあたいするほど意外だったにすぎない。
「赤新聞と言って構いませんよ、みんなそう呼んでいる……おれ自身もね」
「わたしはどちらでも結構ですわ」
「それは、そうだ」
それは、そうなんだ。おれだってどっちでも構わないが、それにしてももの[#「もの」に傍点]は言いよう、今度からおれも自分の商売を他人に言うとき、ぜひこの『政治関係の新聞』という修辞を使ってやろう。
女がハンドバッグから、白い封筒を取り出し、テーブルの上に素っ気なく放り出した。
「百万円入っていますわ。田沢さんがその男を一週間尾行してくだされば、仕事の終わったあとさらに百万円をさしあげます」
これから先は、おれと女の長い長い睨《にら》めっこだった。勝ったのはもちろん女のほう、寝起きの顎髭をさすっている中年男と、たった今「ヴォーグ」から抜け出して来たような女の睨めっこなんて、始める前から勝負は決まっている。
口を開くのは、睨めっこに負けた側の責任だ。
「ずいぶん簡単な仕事だ。それになんといっても、率がいい」
女は笑ったような気もしたが、声も出さなければ、唇も開かなかった。
「しかし生命《いのち》の値段となると、ちょっと安すぎる気もする。それともおれの生命なんて、二百万ぐらいのものかな」
「尾行に気づかれなければいいの、それだけのことですわ」
「ということは逆に、失敗したら殺《や》られる、という意味だ」
女がふと思案顔になって、頬に人さし指をおしつけ、ほんのなん秒か、うす日のさすカーテンのあたりに視線を固定させた。
「田沢さん、多少のスリルは楽しむタイプではないのかしら」と、人さし指を頬にあてたまま、女が言った。
「買い被っちゃいけない、おれはA型だ」
「なんのことかしら」
「血液型さ、知らないのか? A型というのは慎重居士の代名詞みたいなもんだ。石橋だってほんの軽く叩くだけで、めったに渡りはしない」
「条件次第ということでしょう」
「条件なんか、それは、いいに越したことはないが」
「気づかれたことが分かったらその場で尾行を中止して構いません。条件というより、これは提案ね。こちらとしては特に条件はつけないわ」
「なるほど……」
条件はつけないという女の条件を、今度は、おれのほうが考えた。女の言うとおり、一週間だれかのあとを尾行《つけ》まわすだけで二百万という報酬は、悪い話ではない。それどころか腐臭がするほどいい話で、良すぎる話にはいつもリスクがつきまとう。お袋がよく言ってたものだ、「道に落ちてる千円札はすぐ拾ってもいいが、道に落ちてる一万円札は周囲をよく注意して拾え」と。
そのときおれが考えたのは、これがなにかの罠ではないか、ということだった。どういう意図のどういう種類の罠かは知らないが、とにかくだれかが、なにかの目的でおれを狙っている。無邪気に書いた政治家のゴシップ記事が相手にとっては予想以上の痛手だったとか、昔冗談半分で手を出した女が、今になって急におれを恨みはじめたとか。人間というのはとにかく、つまらないことで執拗に他人を恨みたがる。その中で明確におれの死を願っている人間は一人だけ。あの岩崎が十年前の恨みを、今になって突然晴らす気になったのか。おれのほうも新聞社を辞めるはめになったのだから、公平に言って、例の一件は痛み分けではないか。
「それで……」と、判断がつきかねるまま、ビールに口をつけて、おれが訊《き》いた。「尾行をして、そのあとは?」
「ただ尾行してくださればいいのよ。それから、その間に見たことをわたしに話すまで覚えていてくれればね」
分かってはいるが、ここは一応、礼儀としても念を押す必要がある。
「ただ尾行するだけなら興信所に頼めばいい。あっちはプロだから、おれなんかよりずっと上手《うま》くやるはずだ。それに具体的なことは知らないが、費用だって一週間で二百万もかからないだろう。そういうことも、あなたはみんな承知していらっしゃる?」
「報酬の中に詮索料は入っておりません。むしろその逆だと考えていただきたいわ。わたくしにとっての問題は、あなたがこの仕事を黙って引き受けてくれるかどうか、それだけですの」
ここでまた、女と睨めっこが始まりかけたが、どうせ負けるに決まっていて、おれはあっさり引きさがった。いい女ってやつは、存在も性格も、どうも始末が悪い。男と目を合わせて視線をはずす習慣をもっていないのか、ただ気が強いだけなのか。それでも女の動かない目に、ある種の信念のようなものが感じられて、おれはわけもなく感動した。いい女が真剣な顔をするのを見ると、おれはすぐ感動してしまう。
「まあ、いいか……」と、深呼吸を我慢し、無精髭をさすって、おれが言った。「引き受けると決めたわけではないが、とにかく話だけは聞いてみよう」
女はしばらく、値ぶみするような目で、黙っておれの顔を眺めていた。やがて視線をはずし、ハンドバッグから細いメンソールのタバコを取り出して、四角い銀色のライターで火をつけた。その仕種が一瞬自堕落な印象を与えたが、目をあげて長く煙を吐き出したときには、どこかに北欧系の血でも混じっているかと思うほど、神秘的なまでに高潔な雰囲気が漂っていた。
女が時間をかけてタバコを吸い、火種を灰皿につぶし、ハンドバッグから三枚の写真を取り出しながら、淡々と口を開いた。
「特別に難しいことではありません、お願いしたいのはこの家から出てくる男の尾行です」
手渡された三枚の写真は、どれも同じ家を、正面、ななめ横、それに手前の道路まで含めたやや遠景から写したもので、正面から撮った写真の裏には、黒いボールペンで住所の走り書きがしてあった。
『杉並区久我山六−三八−一二』
おれは三枚の写真を団扇《うちわ》のようにひらひらやりながら、ため息をついて、女のほうに顔をあげた。
「男の写真は?」
「ありません」
「名前は?」
「分かりません」
「君は?」
「え?」
「あなたの名前ですよ」
「田沢さん、最初に申し上げたでしょう? この報酬に詮索料は入っておりませんの」
女が咎《とが》めるような目つきをし、おれは口の中で舌打ちをやって、女に見えるように、わざと肩をすくめてみせた。
「それじゃ一応、男の人相でも教えてもらおうか。歳恰好とか背丈とか、頭が禿げてるとかメガネをかけてるとか……」
「そういったことも、一切分かっていませんの」
冗談が通じないのではなく、この女の存在自体が、冗談なのか。いったいどこの世界のだれが、名前も人相も知らない人間を尾行させようというのか。おれは表情を変えない女の目を覗きながら、残りのビールを呷《あお》って、その膝にひらっと三枚の写真を飛ばしてやった。
「二百万の中には、君のなぞなぞに付合う報酬も入っているのか」
女が眉をあげて、蔑《さげす》むように、軽くため息をついた。
「世間で思われているより、おれはずっと常識的な政治ゴロでね。新聞だって常識的な赤新聞さ」
「わたしはこの写真の家から出てくる男を尾行してほしいと申し上げました。わたくし自身その男の名前も、人相も職業も知りません。でも、そのことを不自然とは思いませんわ」
「いやはや、どうもね……」
なぞなぞでも冗談でもないとすると、女は神の使いか菩薩《ぼさつ》の化身か。仕事にあぶれてるおれに、無担保で、二百万円もの融資を申し出たことになる。
「実に奇妙な話だ。君はおれに、人相も職業も分からない男のあとを尾行しろと言う、そしてその報酬に二百万も払うと」
「あなたはわたしが聞いていた以上に好奇心が旺盛なようね」
「好奇心の問題とは思わないけどな」
「あなたの尾行する男は、朝の九時前にはこの家を出て、どこかへ行って、なにかをし、だれかに会ってまた同じ家に帰ってくる。あなたの仕事は男が接触した相手の写真を撮ること、筋のとおらない話ではないでしょう?」
なるほど、女の言い方には、言葉だけならたしかに筋はとおっている。家の写真もあって住所も分かっていて、その場所に躰を持って行くだけなら、おれは目をつぶっても行きつける。
「つまり君が言っているのは、相手は複数で、君自身人数も名前も掴みきれていない。しかしおれには説明したくない、なんらかの理由によって、そいつらの行動を探る必要がある。そこでとりあえず、その家から出てきた男のあとを尾行してみろ……と?」
「どう思おうと構いませんわ。いずれにせよお答えするつもりはありませんもの。あなたも元新聞記者なら、カメラの使い方ぐらいご存知ですわね」
女の目が厳しくなり、頬に緊張の気配が走ったが、それも一瞬にして消えていった。
「この話が奇妙に聞こえることは、わたくしにも分かっています。ですから田沢さんのところへ伺ったのよ。いろいろな条件を考慮して、あなたが一番適任だと判断したからですわ。問題はあなたが、一週間で二百万円のお金を稼ぎたいのか、稼ぎたくないのか、それだけのことではありません?」
女はそこで、鼻を曲げて口を結び、わざとらしい速度で、ゆっくりと足を組みかえた。おれがこういう形の足に弱いことまで、すっかり調べがついているという顔だった。
言葉を選ぶような調子で、女がつづけた。
「これはとてもデリケートな問題で、たしかに、百パーセント危険がないとは申しません。ただどういう種類の危険かはお話しできないの。つまり、その、もしなにもなかった場合、たぶんなにも起こりはしないと思うけれど、そのときは一切のことを忘れてほしいからです。そういうことをすべて承知の上で、黙ってこの仕事を引き受けていただきたい。これはあなたが考えているような罠ではありません、それだけは信じていただきたいわ」
ここまで見透かされ、足の好みまで調べられて、おれにどんな反論がある。おれは急に、もう一本ビールを飲む必要を感じ、そそくさと冷蔵庫へ歩いて行った。すべてがこんがらかって、すべてが胡散《うさん》臭くはあるが、だからってこの件に興味は感じている。目の前には二百万の金がぶらさがり、どんな裏があるにせよ、話を聞いたかぎりでは、女子供にでもできそうな仕事なのだ。金自体の得体は知れなくとも、おれが本業で稼ぐ金だって、自慢できるほど清潔なものではない。それになんといってもこの女だ。いったい東京のどこに、これほどいい女が隠れていられるのか。女が「信じろ」と言うなら、とりあえず信じればいいではないか。いい女の言葉が信じられなくて、世の中、他になにが信じられる。要するに、まあ、ごちゃごちゃ言いながら、おれは最初からこの件を引き受けると決めていたのだ。
「そういうことなら、そうしておくか……」と、最後の缶ビールを取り出し、女の前に戻りながら、おれが言った。「それで、仕事はいつから始めればいい?」
「明日の朝から、一週間」
女がまたタバコをくわえて、足を見せつけながら、銀のライターで火をつけた。
「君への連絡方法は?」
「一週間後のこの時間に、またわたくしのほうから伺いますわ」
「もし、なにかとんでもなく変わったことが起こった場合だが……」
「たとえば?」
「それは君のほうがよく知っている」
「田沢さんの仕事は男の尾行です。ジェームズ・ボンドの真似をしろとは言っておりません。お願いしたことをお願いしたとおりにやっていただければ、わたくし、それでじゅうぶんですの」
おれは『万事了解』と女に手をふり、テーブルから封筒を取りあげて、中の札束をにんまりと数えはじめた。百枚の一万円札が珍しいわけではないが、それでもここしばらくご無沙汰していたこともたしかだった。人間金があるとないとでは、健康状態まで変わってくる。おれの場合、金欠病と鬱病はほとんど同意語として使っている。そして治療方法がこれほどはっきりしている病気も、そうはないだろう。
「たしかに……」と、札を数え終わり、封筒の重さを実感として楽しみながら、おれが言った。
うなずいて、女が立ちあがり、確認するように、目で会釈をした。ハイヒールの分だけ目の位置はおれより高いようだった。
「一つだけ訊いてもいいかな」
女は、すでに歩き出していた。
「君はだれの命令でここへやって来た?」
立ち止まり、最初から答えるつもりはないという言い方で、女が訊き返した。
「なぜそんなことを?」
「なぜってこともないが……」
おれは、一歩女のほうに近寄った。
「もし君に命令できる男がいるとすれば、そいつが羨ましいと思ってさ」
「伝えておきますわ……もし、そんな男がいるとすればね」
くすっと、初めて、女がうちとけたような笑顔をみせた。冷たい表情もいいが、笑った顔がまたなんとも素晴らしい。
「わたくしにも一つお願いがあります」と、ドアのほうに歩いて、女が言った。「この次お伺いしたときは、パジャマを着がえておいていただけません? それにズボンの前ボタンはちゃんとお掛けになって……ね」
おれは絶望のため息とともに、両手を広げ、あらためて自分の風体を眺めまわした。パジャマのまま女を迎え入れたことさえ破廉恥だというのに、加えてあそこのボタンまで外しておく必要が、どこにある。
「約束するさ」と、上着の裾でズボンの前を隠しながら、心から、おれは言った。「この次はちゃんと服を着がえておくし、髭も剃《そ》っておく。それに前の日には床屋にも行っておく……まあ、生きたまま、床屋の椅子に座れればの話だけどな」
女を送り出したあと、ドアの内側に立って、おれは長いこと床のしみを眺めていた。なにかがなんとなくおかしいことは、考えなくても分かっている。現実に百万円の金を渡され、あんな形のいい足を見せつけられたら、人間の一人ぐらい殺したって構わない。それが実際は男を尾行するだけでいいという。世の中には変わった趣味の人間もいるから、これが冗談や悪戯《いたずら》という可能性も、なくはない。しかしおれの交際範囲に、そんな冗談を仕掛ける人間がいるだろうか。そもそもあの女はなに者なのか、ただの美しいメッセンジャーなのか、それとも物語の中心人物なのか。「信じろ」と言われたから信じはしたが、だからっておれの生命が保証されたわけではない。客観的に見れば確率は逆、なんらかの危険は覚悟しておくべきだろう。明日になって仕事を始めてみなければ、とにかく、今分かっている以上のことは分からない。おれは仕事を引き受け、半金の百万円を受け取った。そして明日から、だれだか知らないある男を尾行する、今はただ、それだけのことなのだ。
おれは急に腹がへった気分になって、簡単に着がえを済ませ、ビルの向かいにある『火星人の罪』というスナックへおりて行った。この奇妙な名前は経営者が探偵小説に凝っているせいで、もちろん『死にいたる火星人の扉』というフレドリック・ブラウンの小説をもじってのものだ。おれはこの店でほとんど毎日の飲み食いをしていたが、テーブルや食器はいつも神経質なまでに片づき、いつ行っても客が少なく、いつ行ってもBGMはオールディズのジャズメドレーだった。
おれが入って行ったときも、客はなく、例によって夢子がカウンターの端でトランプの一人遊びをやっていた。この遊びは夢子がおばあちゃんから教わったとかいうやつで、占いの類《たぐい》ではなかった。横五列、たて六列にトランプを並べていき、たて横ななめのどこでも同じ数字の札があれば、それを列の中から省いていく。最後にトランプが一枚もなくなれば成功、駄目なときはまた最初からやり直すという、一種の数字合わせのようなものらしい。こんな遊びのどこが面白いのか、夢子は二時間でも三時間でも、一人で黙々とそれをやっていることがある。
おれがとなりに座ると、夢子は広げていたトランプを脇にまとめ、小物入れから文庫本を取り出して、ぽんとカウンターの上に放り出した。ジュナサン・グールドの『豚は死にながらにやりと笑う』という、なんとも恐しい表題が見てとれる。
夢子が登場人物欄を広げて、そのページを指先でつんと叩いてみせた。
「ふーん、今度はだれが殺された?」と、内心うんざりしながら、おれが訊いた。
「マイルズ・ロブリィという保険代理店の経営者よ。上から七番目の男、けちで女好きですぐ暴力をふるういやな奴だけど、殺されたからには犯人はいるわけね」
探偵小説だから当然犯人はいるだろう。しかしそれを喋る夢子の表情は、鼻の穴をこころもち上に向け、同じ推理小説ファンとしてのおれの能力を、頭から信じていない顔だった。
おれは登場人物欄に載っている十五人の名前と、裏表紙に書かれている短い引き文とを、念のために五分ばかり眺めまわした。そしておもむろに、息を止めて、上から八番目の名前に人さし指を突き立てた。
夢子が気分を害したとしても、表情だけでは判断しきれない。この娘には感情がないか、あったとしても他人にはひどく分かりにくい特殊な働き方をする。
夢子の呼吸の音を聞きながら、耳のうしろを掻いて、おれが言った。
「最初はレイン・ジョーンズというロブリィの共同経営者かと思ったけど、グールドならもう一ひねりするはずだしな」
夢子は気のなさそうにため息をつき、カウンターに両肘をついて、輝きかけていた表情を、またいつものぼんやりした目の中に仕舞い込んだ。心の傷は意外に深いらしく、まさかおれが一発で犯人を当てるとは、思ってもいなかったらしい。夢子の横顔を見ているうちに、どうもおれは済まない気分になってきた。なんのことはない、夢子より先に、発売と同時にその本を読んでいただけのことだった。
「探偵小説の編集者が間抜けなのさ。犯人はいつも七番目か八番目、それはトレバーシリーズだから、登場人物の半分以上は除外できる。あとは粗筋を見比べれば、まあ、だいたいの見当はつく」
もちろんそんなことは、あるはずもないが、一応弁解して、それからおれはカウンターにハムサンドとビールを注文した。
スツールの上にあったスポーツ新聞を開き、まずおれは、競馬の下馬評に目をとおした。ヤマハボーイもコマチプリンスも、どちらもかんばしい評価は下されていない。ヤマハボーイは年齢的にあがり目がなく、コマチプリンスも本来の調子ではないという。競馬会とマスコミがぐるになって、二頭の人気をさげようとの計算だ。そのくせ競馬新聞の記者連中は、当日には二頭の馬連になん十万円もの大金をそそぎ込む。
「ねえ、さっき、奇麗な女の人が行ったでしょう?」と、丸いメガネを不気味な色に光らせ、鼻面を上に向けたまま、夢子が言った。
不意を襲われて、なんとなく、おれは聞こえない振りをした。
「ここでコーヒーを飲んで、『政局通信』の事務所はどこかと訊いていたわ」
おれはうんとか、いやとか、口の中でもごもごと言葉を誤魔化した。夢子に対してうしろめたい気持ちはないが、問題に女が絡んでくると、どうもおれは必要以上に神経質になる。
「奇麗な人だったわよねえ」と、一人ごとのように、また夢子が言った。
髪を掻きあげながら、仕方なく、おれはスポーツ新聞から目をあげた。
「あんないい女はそうはいないけど、歳を聞いたらびっくりする。あれで五十を過ぎてるんだ」
夢子がぼんやりした視線を辛辣な色に変え、じろりとおれの顔を一瞥した。メガネのせいで顔の輪郭は幼くなるが、夢子の目は不思議なほどまつ毛の長い、清潔な二重だった。白目の部分は子供のように青く、その夢子のこういう目つきに、おれはいつも閉口させられる。
だからといって、おれが夢子に惚れているかというと、ちょっと事情が違う。その逆というのも、まあ考えにくい。おれにはいい女に対する悲しい条件反射があるが、夢子に関しては、胸と尻の肉づきが、どうもおれの性欲をかき立てない。一年前、今と同じカウンターで初めて夢子を見たとき、おれは『ずいぶん奇麗な顔をした男の子がいるものだ』と思ったものだ。
あとになって夢子が『火星人の罪』の経営者と分かったが、夢子は店の仕事をするでもなく、一日中カウンターの端に座ってトランプの一人遊びをしているか、探偵小説を読んでいるか、どちらでもないときはただ頬杖をついて、ぼんやり宇宙の彼方を眺めているだけだった。
「あんな奇麗な人が田沢さんへの用事って、やっぱり借金のこと?」
なんともいや味な言い方だが、それにしても夢子がこういう食いさがり方をするのは、かなり珍しい。親でも死んだか、生理でも始まったか。ただしおれのほうも、事の性質上、今日は善人になってもいられなかった。
「おれと結婚してくれたら教えてやるさ。前世でも現世でも来世でも、この世でおれが愛するのは君一人だ」
おれは面の皮で夢子の視線をさえぎり、スポーツ新聞のページをめくって、気分だけ熱心に競馬欄を読みはじめた。夢子が拘《こだわ》るからというわけではないが、おれの頭にもあの女の足が引っかかって、どうにも気分がすっきりしなかった。ハードボイルドでもSF純愛スペクタクルサイコミステリーでも、今日はやはり、このまま映画に行くしかないだろう。
「式はいつがいいのよ」
「なんの式だ」
「結婚式」
「それは、次の競馬で稼いでからだ。がっぽり稼いで、式はぱっと派手にやる。よかったら迎賓館でも予約しておくさ」
ハムサンドができあがって、おれはビールと一緒にそれを胃に流し込み、ついでにため息も一つ、胃に流し込んだ。さっきまで活躍していた食欲が、現物を目の前にするとふと本音の裏側に隠れてしまう。
「フルバンドを入れてコーラスつきってのはどうだ? おれは結婚式だけは派手にやろうと決めてる。場所は迎賓館か赤坂離宮、飲み物は全部シャンペン、客は総理大臣から滝川吉次まで……」
「滝川吉次って?」
「新宿で知り合った浮浪者さ。地下道で寝てた奴におれがつまずいた、それで一杯おごってやったら、奴は感激してな。おれの結婚式にはかならず出席すると約束した」
ハムサンドが咽をとおるたびに、胃がむかむかし、胃が反乱するたびにまたビールが飲みたくなる。ビールを飲めばあの女の足がにおうほど鮮明になり、自慢ではないが、どうも、おれは病気にかかったらしい。いつもの切なくて悪い病気、いったんこいつを患うと、安静にしてたって、治《なお》るまでに三カ月はかかってしまう。
「新婚旅行はパデントン発四時五十分のオリエント急行に乗って……」と、もう半分無意識に、おれは喋っていた。「その晩はバートラムホテルに一泊する。そこで客を十三人呼んで晩餐会を開くと、なぜかそのうち客はだれもいなくなって、こいつは死への旅の始まりかなと二人で探偵をしゃれ込む……新婚旅行がミス夢子の最初の事件になるわけだ」
サンドイッチは半分以上残ってしまったが、新聞を放り出して、おれはすっくと立ちあがった。夢子のとなりに座っていること自体がおれを苛立たせ、またあの女の足が思い出されて、眼球には靄《もや》のような熱が浮かんでくる。気のせいか躰も熱っぽく、本当におれは病気になってしまった。女のあの足で蹴飛ばされるか、女が勘違いしておれと結婚するか、地球が突然滅亡するか。そんなドラマでも発生しなくては、どうせこの病気は治らない。こういう病気はいつか、おれの人生を破滅させる。
夢子には母方のまた[#「また」に傍点]従兄弟《いとこ》と新宿で待ち合わせがあると言い訳をし、『火星人の罪』を出て、おれは歌舞伎町まで足をのばした。そこでロードショウを二本はしごし、夜はランジェリーパブとおかまバーを転戦して、あとはウィスキーと焼酎《しょうちゅう》を飲んで寝てしまった。驚いたことにあの女は、夢の中にまで登場し、おれの目の前で例の形のいい足を、おしげもなく、友好的に、それはもうたっぷりと時間をかけて、組みかえて見せてくれた。
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二日酔いでも人生が空しくても、生きていれば、朝はちゃんとやって来る。なぜ自分が生まれてきたのか、なぜ生きつづけるのか、おれだって若いころは考えた。目的を模索し、平和な家庭生活を夢にえがき、生きる意味とはなにか、本気で答えを求めたこともある。今だって頭の片隅に哲学はしまってあるが、現実の人生は酒に冒され、女の足を妄想し、押し寄せる経済の赤字に悪態を吐きかける。それでも朝が来れば窓の外に雀が鳴き、おれの生体時計がおれの躰を、無理やりベッドから叩き出す。
おれは朝の六時にもう人生を開始し、濃い色の背広を着て、ほとんど遠足に出かける子供のように部屋を出た。『杉並区久我山六の三八の一二』、女から教えられたその家は井の頭線の久我山駅から歩いて七、八分の、腹が立つほど閑静な住宅街にあった。
仕事を始めてすぐ気がついたのは、こういう場所のこういう時間に、ある一つの家を見張るのはけっこう面倒なものだ、ということだった。通りすぎながらちらりと門の内側を覗き、引き返してはまたちらりと覗き、しかし同じパフォーマンスばかりくり返すわけにもいかず、かといって、じっと門の前に立ってもいられない。専門家なら対処の方法もあるのだろうが、まさか興信所にノウハウを訊くわけにもいかなかった。仕方なくおれは門から目を離さないように、約一時間、たった今近くの家から出て来た勤め人という演技で、そこいらをせかせかと歩きまわっていた。
見張りを始めた家は建物にも庭にも手が入っていない、鬱蒼とだだっ広い屋敷だった。古い鉄門扉には哀れなほど錆《さび》が浮き、大谷石のくすんだ門柱に表札も掛かっていなかった。住所と写真の風景が一致していなければ、てっきり空家だと思ったところだ。
腕時計は八時四十五分、自分が間抜けに思えてきたころ、ついに憧れの君の登場となった。内心では悪徳実業家か暴力団関係タイプの男を想像していたが、まずそこから当てが外れてしまった。男は四十なかばの、いかにも中小企業の経理課長という風体、背は高くも低くもなく、刈り込んだ髪を横分けにして、くたびれた鼠色の背広を無頓着に身につけていた。職業に貴賤なし、労働は対価と相殺される。依頼者は夢にまで出てくるいい女、しかしなんの因果で、おれがこんな男のあとを尾行《つけ》まわすのか。こういう平凡が背広を着たような男のどこに、『秘密』なんて高級なものが存在するのか。男の人相はどう見ても悪玉からほど遠く、ということは女のほうがどこか悪っぽいということで、それを考えると、おれはいっぺんに疲れた気分になった。
それでもおれは「拾った金の正体は使ってみるまで分からない」というお袋の格言を思い出し、気を鎮めて男のあとについていった。尾行の形態について特別の指示は受けていないから、とりあえず見逃しさえしなければ、任務としてはそれでいい。
尾行を始めてすぐ、おれはもう、今回の仕事がどれほど簡単なものか、完璧に悟ってしまった。男は自分が尾行られていることなど、思ってもいない様子で、ひどくのんびりと歩いていた。うしろ姿には住宅街の景色を心から楽しんでいる風情が感じられた。
男は久我山の駅まで歩き、井の頭線の電車に乗って渋谷へ出た。どこから見ても普通の勤め人で、おれはこの男が自分の会社に入ったまま夕方まで出てこなかったら、どこで見張りをつづけるのかと、つまらないことを考えていた。見ていると、男は駅前のガード下にある喫茶店に入って行き、窓ぎわの席に腰を落ち着けて、なにやら熱心に外の人通りを眺めはじめた。待ちあわせの人間を探していたのか、しかし二時間たっても、結局それらしい相手はあらわれなかった。
それよりも不思議だったのは、その二時間の間に、男が小ビンながら三本のビールを飲みほしたことだった。おれみたいなヤクザ人間がすることなら、朝からビールを飲むことに特別な違和感はない。しかし男は堅気の勤め人、その行為は、やはり尋常ではない。会社の金でも横領したのか、あるいは都庁かどこかの小役人で、汚職がらみの事件に一口かんでいるのか。小心なまじめ男が自分の置かれた立場に耐えきれず、朝から酒を飲む。じゅうぶんにありそうなことで、女がおれに尾行を依頼した理由も、それで説明がつく。
だがおれの名推理も、どこかが、なにか、もう一つ気にくわない。ビールを飲む男に怯えた様子はなく、飲み方は自然で、どちらかといえば楽しそう。酩酊の気配すらなく、アル中かなとも思ったが、アル中ならビールのような弱い酒は飲まないだろう。
そのうち男は、喫茶店を出て、黒い書類カバンを脇の下にはさみ、山手線の内まわり沿いを目黒方向に歩き出した。仕方なく、またぞろおれも尾行とやらを開始した。おれが困ったのは、服がめったに着ることのないきつめの背広だったこと、背広の色にあわせるつもりで葬式にしか履《は》かない黒い革靴を履いてきたこと。おれの足はどちらかというと左が大きく、そのころにはもう、足を引きずらなくては歩けないぐらい、小指の先がずきずきと痛んでいた。男が早足で歩かないことだけが、せめてもの救いだった。
男は決して忙《せわ》しくはなかったが、ただ街の風情を、鷹揚なゆとりを持って淡々と眺めていた。ビルの看板やブティックのショーウインドゥ、道端にしゃがんでいる茶髪の若者や犬を抱いた水商売の女など、目に付くものにはなんにでも興味をひかれる様子だった。ミニスカートも茶髪も鼻リングも、ガス工事もクルマの渋滞も右翼の街宣車も、どこも珍しくはない東京の日常、となると、男のその興味の方向は、なにを意味するのか。こいつは中国か北朝鮮のスパイかと、なかばおれは本気で考えた。男がスパイということになれば、これはもう国際的な大事件、だが、しかしと、またおれは考える。北朝鮮のスパイが朝っぱらから、あんなところでビールを三本も飲むものか。一般国民は餓死寸前だという噂だし、本国に知れたら、死刑ぐらいで済むお国柄ではないだろう。
男が歩きながら、なにやら丸い小さな玉を捨てはじめ、こいつはいよいよ『接触』が始まったかと、おれは一瞬緊張した。スパイはこういう方法でなに者かと連絡をとるものなのだ。男は定期的に、ぽいぽいとその玉を捨てつづけ、おれは素早くそれを一つ、自然な動作で拾ってみた。しかしそれは、キャラメルの包み紙を、ただ指の先で丸めただけのものだった。
まったく、やってみて初めて知ったことだが、山手線の内側を渋谷から東京駅まで歩くというのは、ほとんど半日仕事だった。困ったのは男が休んでくれないこと。酒屋があるたびにビールやスナック菓子を買い、五分とは立ち止まってくれないこと。おれのほうはマクドナルドでハンバーガーを買うわけにもいかず、口に入れられるものは煙草だけ、それも左足の痛む小指を引きずって、休みなく延延と歩かされる。他人の趣味はどうでも、おれの価値観ではこういう状況を地獄という。日当的にそれぐらい我慢しろと言われれば、なるほどそれまで、しかしこの尾行がたんなる遊びや冗談だったら、おれはあの女の横っ面を、思い切りひっぱたいてやる。
けっきょく男はどこへも寄らず、だれにも会わず、夜の七時には銀座線と井の頭線を乗りついで、朝出て来た久我山の家へ戻っていった。用意したカメラに仕事もなく、おれは革靴の抹殺を決意し、大いなる怒りとともに新宿へ引き返した。これだけ歩かされ、足とプライドを傷つけられ、得たものはタバコの煙と排気ガスのみ。尾行の喜びもスリルもなく、あの女への疑惑は極限にまでふくらみ、受け取った金は偽札ではないかと、要らぬことまで心配になってくる。尾行一日目でここまで懐疑的になった理由は、尾行の目的が相変わらず不明なこと、男が特別な人間とは接触しなかったこと、自分が探偵には不向きであること、要するにおれは、完璧にうんざりしたのだった。
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次の日に起こった事態について、無理に言葉で言えば、それは『呆れた』としか言い様がない。前日の経験から着こなした服と馴染んだ靴を履いて行ったので、足の指を地獄に落とすことは救ってやれたが、男のとった行動は奇想天外、傍若無人。渋谷駅発反対まわり東京行きという、第一日目とほとんど同じものだった。
特別な場所に寄るでもなく、怪しい人間と接触するでもなく、やたらキャラメルの紙を撒き散らし、ひたすらビールの缶を飲みすて、男は道路脇の猫にさえ笑顔をふりまいた。もし本物のスパイだったら、ビールとポテトチップスで一日中ぶらぶら過ごせるなんて、相当な大物に違いなかった。
男が尾行に勘づいているのか、知っていておれをからかっているのか、なにかの仕事に絡んでおれの探偵能力をテストしているのか。連想はいくらでも渦をまくが、男の気楽なうしろ姿に、おれの気合いがすっと逃げ出してしまう。おれは朝から晩まで口の中で愚痴を言いつづけ、自分の愚痴を励みに、とにかく男のあとを尾行まわした。それでも最後は精と根がおれに愛想を尽かし、いったいなにを目的に人類が存続するのか、すっかり厭世《えんせい》的になっていた。
男を自宅に送り届けたあとでは、もう完全に気分が滅入っていた。頭の中に憂鬱の蛆《うじ》がわき、その蛆虫が脳の深い部分を、欠伸をしながらぞろぞろと這いまわる。おれが人生を安直に過ごせるのは、そこまで頑固な憂鬱もウィスキーで退治できるという、基本的なシンプルさが理由だった。
夜の八時ごろ、頭の中に蛆虫を飼ったまま、おれは『火星人の罪』に寄ってみた。カウンターで夢子がトランプをいじっていたが、おれを見たからって、べつに嬉しそうな顔はしなかった。人生も躰も疲れさせた三十八歳の男を見て嬉しくなる女など、残念ながら、この世には一人もいないのだ。
おれは夢子のとなりに座って、ウィスキーをオン・ザ・ロックで注文してから、この三日間について頭の中を整理した。
まず、あの女だ。青グレーのタイトスカートに栗色の髪、蝋細工のような表情は冗談を受付けず、華奢な骨格の割には濃厚に女の匂いを撒き散らす。女優でもなく、娼婦でもなく、足の見事さはともかく、正体ときたらまるで分からない。今回のイベントは女自身の仕掛けなのか、女はただの窓口なのか、いずれにしても女の背後にはおれの過去がある。あの女が言ったとおり、十年前まで、おれは時事新聞社の社会部記者だった。若かったから怖いもの知らず、適度の好奇心に必要以上の正義感。若い記者ならだれでも同じことで、おれが特別に仕事熱心だったとは思わない。
当時、東北のある県で、県が発注した土木工事に関する汚職事件があった。事件そのものは知事と贈賄側の業者が起訴されてけりがついた。それだけなら問題はなかった。だがこの事件は、一人の自殺者を残した。よくある話と言えばそれまで。贈賄側業者の経理課長が責任を抱えたまま世を去った。おれは社会部の立場から課長の周辺を洗いなおし、そのとき名前を出したのが大臣経験もある代議士の私設秘書だった。宮部という代議士自身が糸を引いたのか、政党まで関与したのか、そこまでは分からない。しかし秘書の岩崎が収賄の橋渡しをやり、二千万円の成功報酬を受け取っていたとなれば、社会的大問題になることは目に見えていた。おれは若かったし、初めてのスクープが目の前にぶら下がってもいた。証拠入手の手段として岩崎の女房に近づき、岩崎が事件に関して漏らした証言のテープと、岩崎本人が署名した領収証の写しとを手に入れた。裁判になったときその証拠がどれほどの効力を持つか、自信はなかった。それでも新聞記事の裏づけ材料としてはじゅうぶん、ましておれの記事が発端となって、汚職事件に宮部代議士自身が関与していた証拠が、出てこないとも限らない。感触としてはその可能性が大きく、おれは記事を書く前に事実関係を社の上役に相談した。歯車はそこから狂いはじめた。
ここでもまた、よくある話が展開した。結局おれの記事は握りつぶされ、アパートからは証言テープと領収書の写しが消え去った。三日目には情報を流してくれた岩崎の女房が、なぜか交通事故で人生を終わらせた。おれの手には九州支局への転属命令が渡され、おれは新聞社をやめた。しかし、だからといって、おれの身に起こった現象が、それほど特殊だったわけではない。新聞屋の世界では殺人も汚職も、交通事故も戦争も、すべてが客観的な日常として行き過ぎる。自分の掴んだ情報を武器に成りあがるか、おれみたいに落ちこぼれるか、違いはそれだけのことだった。
それからというもの、おれには定期的に見張りがついていた。アパートや事務所が調べられることも、なん年かの間はつづいたようだった。岩崎が今でもおれから目を離していないことは、おれ自身がよく知っていた。では女をおれの事務所へよこしたのは、やはりあの男なのか。景気が悪くなって政治家の秘書も暇になったか、気分転換に冗談を仕掛けてみただけなのか。十年もたって、おれが女房と寝たことに二百万ものボーナスを払う気になったというなら、たしかにそれは、第一級のジョークではあるのだが。
そこまで考えると、やはり話はふり出しに戻ってしまう。事件の背景がなんであれ、実際におれは百万の金を受け取っている。二日の間一人の男を尾行まわし、男が勤め人風の中年男であることは確認した。男はキャラメルをなめ、ビールを飲み散らし、ひたすら東京中を歩きまわる。なぜそうするのか、女がなぜおれに尾行をさせるのか、ただ歩きまわることになんの意味があるのか、地球も人類も人生も、すべてが無意味であることの、国連規模の実験だとでもいうのだろうか。
諦めて、おれはウィスキーを深く胃に流し込み、カウンターのスポーツ新聞を漠然と見おろした。
〈一番人気ヨドアール、単勝三四〇円〉
ふーん、一番人気がヨドアールで、単勝の前売りオッズが三四〇か。と、頭の中で一人ごとを言って、次の瞬間、おれはとんでもなく絶望的な気分に陥った。あろうことか明日は天皇賞、この二日間奇妙な事件に首を突っ込んでいたお陰で、すっかりそのことを忘れていた。一番人気がヨドアールだなんて、まったくの陰謀もいいところだ。
ヤマハボーイとコマチプリンスの組合せオッズを見ると、六千円以上もつくと書いてある。当日は馬主や厩務《きゅうむ》員がこの馬券を買うから、実際には五千五、六百円、しかしここまで人気がさがれば、二頭の馬連が五千円を切ることはないだろう。なんというジレンマ、なんという災難、おれは夏の終わりから、ずっとこの二頭を狙っていたのだ。明日あの男は、散歩の途中、どこか馬券売場に寄ってくれるだろうか。新宿か渋谷か銀座か、それとも直接府中の競馬場に出かけるか。
おれの視界が一挙に黒くなり、それから突然白くなって、いつしか、ぐるぐると灰色の渦を巻きはじめた。男が馬券売場なんかに寄らないのは、おれがサラリーマンに戻れないのと同じぐらい明白なことだ。おれは明日になったら、また朝から晩まで、ただ意味も分からず男のあとを尾行まわす。二日で山の手線を一回りしたから、明日は総武線ぞいに千葉あたりまで歩くのか。いずれにしても場外馬券売場に寄ることなど、絶望的と言っていい。あの男の顔は決して競馬なんかやる顔じゃない。インポの偏平足の、散歩オタクの、非国民の顔だ。よりによってなんだっておれは、この季節のこんな時期に、こんな奇っ怪な事件に関わってしまったのか。すべてはあの女のせい、あの女の足のせい。お袋がよく言っていた、「お前みたいに女の足ばかり見ていると、いつかはその足で地獄に蹴落とされるよ」と。
おれはもしかしたら、夢子に馬券を頼めないかと、空しい希望で顔をあげてみた。夢子は手のひらで顎を支え、ぷからぷからとタバコを吹かしていた。タバコが挟まっている指は驚くほど長く、躰つきと同じで少し筋ばっている気もするが、それはそれで、またなんとなく処女っぽい。おれの頭に一瞬疲れた靄がかかる。これだけ人生に飽きていて、それでもこの病気だけは治らないというのも、我れながら困った体質だ。
「なあ、夢子……」
おれは靄の中にただよう夢子の長い足を、頭からふり払い、意識を現実の問題、つまり馬券のことに集中した。夢子は耳を塞いだ娘のように、おれの言葉にはなんの反応も示さなかった。出鼻を挫かれて、おれはそのまま黙り込んだ。きっと今日は星座の位置が悪いのだ。夢子に馬券を買いに行かせることなど、イスラム教徒に豚肉を食べさせるようなもの。夢子は博打に凝る人間を、排気ガスか大腸菌のように思い込んでいる。新宿の場外馬券売場に並ばせるのは、男の尾行を押しつけるより難しい。夢子はおれが競馬新聞を読むことを嫌い、店では競馬中継も観させてくれず、当然ながら、当たり馬券でつけ[#「つけ」に傍点]を清算することも許さない。まったく、夢子に尾行の肩代わりをさせることなど、競馬新聞を買いに行かせるよりも不可能だった。
おれは多少の演技過剰を承知で、夢子の腕を掴み、なにか唸《うな》った夢子を、そのまま端のボックス席までさらっていった。
「いいか、突然ではあるが、よく聞いてくれ」と、夢子をシートに深く押し込み、肩と視線に気合いを入れて、おれが言った。「これはとても重大な問題だ。これから話すことはだれにも喋らないと、とにかく、約束してほしい」
夢子がメガネと同じぐらい目を丸くし、鼻の穴をふくらませて、大きくこっくりした。
「おれの仕事は、知っているよな」
「赤新聞を出して政治家を強請《ゆす》ること」
まあまあ、そんなことで挫けていたら、この店ではコーヒーも飲めないし、人生そのものが暗くなる。
「世間ではいろんな呼び方をするさ、おれ自身も違うとは言わない。でも巡り合わせで、国家の機密に関係してしまうことがある。今おれが関わってるのも、まさにその類の仕事なんだ。ひょっとしたら国際的な大スパイ事件にも発展しかねない。それで毎日、こんなに苦労をしている……分かるよな」
「なにが?」
「だから、おれの仕事さ」
「赤新聞の編集長よね」
「ん……」
「社長だっけ」
「夢子……」
おれは悄然と夢子から躰を離し、さも疲れたように、大きくため息をついた。故意か、たんなる不注意か、夢子は分かろうとする努力をなにもしていない。実際本音として、おれはかなり疲れた気分だった。
「どうしたの、躰が悪いみたいね」
我慢一発、おれが役者になっていたら、アカデミー賞なんか軽いものだ。
「君に手伝ってもらおうと思ったが、虫が良すぎたか……」
「まだなにも聞いてないもの」
「いいか、これは大事なことだ、断りたければ断ってもいい。君に断られたら困るけど、それはおれの仕事だから、なんとかする。実は……」
おれはお袋が死んだときと同じぐらい真面目な顔で、夢子のメガネの前に、ぐっと自分の誠意を突きつけた。
「実はな……」
「うん」
「君に、いや君を見込んで、ある男を尾行してもらいたい」
重大な告白への反応を待つには、重度の忍耐力が必要となる。相手が夢子となれば尚更のこと、しかし間もなく、今度は夢子のほうが、メガネを光らせてぐっとおれに顔を近づけた。
「今度はだれを強請《ゆす》るの」
「なあ、おれの話、聞いていないのか」
「だって尾行するだけじゃ、お金にならないでしょう」
おれは真剣に、深くため息をつき、突然まわりはじめたウィスキーの酔いを、必死に理性の外に締め出した。
「たしかにおれが強請まがいの仕事をしてないとは、言わない。だけどおれがどれぐらいそれを良心的にやってるか、君には理解できないだろう。おれのやっているのはあくまでも合法的な出版事業、今までも購読料以外の金は、だれからも、一度だって受け取っていない。それに今度の仕事はおれの事業とは関係ない。一種の、その……国民の義務みたいなやつなんだ」
夢子の唇が皮肉っぽく曲がって、短い髪からハーブの香りがにおい、丸い二つの黒目が、じりっとまん中に集まった。顎の先端に生意気な窪みが浮いているから、いくらかおれの言葉も耳に入っているのだろう。
「つまりな、おれが今調べてるグループは、北朝鮮のスパイ組織なんだ。公安でもまだはっきりした証拠は掴んでいない。それにもう一つ、アラブのある国が絡んでいて、国としては大っぴらに動けない事情がある」
「………」
「おれの仕事は国として本格的に動くための下調べみたいなものだが、事が事だけに、いい加減な人間には頼めない。それで、おれは、もしかしたら君ならと……つまり君は、一種のプロだからな」
「………」
「なあ、君はプロとしてじゅうぶん通用するぐらい、たくさんの探偵小説を読んでる。君ならなんとかおれを助けられる、いや、今おれを助けられるのは、もう君しか残っていないと思う」
夢子の呼吸が止まって、それからふとペパーミントの息が吐き出され、頬と顎の先端に、なにやら色っぽい赤みが這いあがった。まつ毛の長い二重の目も異様に光りはじめ、おれは柄にもなく、ちょっと怖気づいた。肩の尖り方も、目の寄り方も口の結び方も、いつもぼんやりカウンターに肘をついている夢子とは、あきらかに違う。調子にのって広げた風呂敷きの柄が、少しばかり派手すぎたか。
「あ、なあ、もちろん……」と、不気味に光る夢子の目から、思わず視線をそらして、おれが言った。「断ってくれてもいいんだ。事の性質上、まったく危険がないとは、言い切れないし」
「田沢さん……」
「うん?」
「白髪がふえたみたい」
「ん……そうかな」
「見かけによらず苦労してるのね」
「人間なんて、だれだって、見かけによらないさ」
「今の話、具体的に説明してほしいわ」
「白髪はおれのせいじゃない」
「仕事の話よ」
「そうか、仕事の話か……」
どこでチャンネルが変わったのか、形勢はいつの間にか逆転し、前に身をのり出す角度は、夢子のほうがおれより、きっぱりと鋭くなっていた。
こんな非常識が許されるのか、それともこれは、常識の範囲なのか。成り行きというのは一種の宿命だから、もちろんおれに責任はない。自分が二日間やって、足さえ丈夫なら、あんな尾行は女子供にでもできる。夢子だって自動カメラぐらい使えるだろう。危険もなく、東京見物もできて、かつ運動不足の解消になる。客観的にも主観的にも倫理的にも、夢子に尾行を任せることに、問題はなにもない。
「まあ、その、こういうことだ。つまり明日そのグループの一人が、ある場所で『重要人物と接触する』という情報が入った。おれは一日中そこに張り込む必要がある。グループにはもう一人別な男がいて、君に頼みたいのはその男を尾行することだ……どうだ、やってくれるか?」
夢子がうすい胸から長く息を吐き、舌の先で唇をなめながら、秘密っぽく、にっと微笑んだ。目の色は怖いほど青く澄み、前髪は額の上にはねあがって、もう一押しすれば、カウンターに飛び乗ってストリップでも始めそうな気配だった。
「田沢さん、今夜は時間、あるんでしょう」
「おれの人生はいつだって君次第だ」
「ボトルを一本、店のおごり[#「おごり」に傍点]にしてあげるわ」
「ふーん、済まんな」
「わたしと田沢さんの仲だもの」
「一日も早くそういう仲になりたいと思っていた」
「田沢さんの仕事も見かけより辛いみたいね」
「君なら完璧にサポートできるさ。本当に助かった、プロとしての君の力が借りられれば、もう怖いものはない。これでおれの人生も変わるだろう、実際もう、肩の荷が、半分以上はおりた気がする」
そのときおれの肩からは、自主的にすべての荷物がおり、ウィスキーのボトルに向かって千鳥足のステップを踏みはじめた。おれの意識は競馬場のターフに向かい、夢子の気合いは国際的なスパイ事件に向かっている。北朝鮮が社会主義に固執するのも、フセインがアメリカに喧嘩を売るのも、火星に生物が存在するのも、すべておれの責任で、そのくせおれの人生とはどこまでも無関係。政治も経済も宗教も家庭生活も、無関係で結構。ヤマハボーイとコマチプリンスの走りを、明日はとっくり、おれは競馬場で応援してやれるのだ。
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おれは正午《ひる》近くまでたっぷり眠って、二日酔いも悩みもなく、爽やかに目をさました。天気も絶好の天皇賞日和、馬場も良馬場間違いなし。おれが府中の東京競馬場へくり出したのは午後の二時。ダフ屋から当日の入場券を買い、場内に入るとさすがはGTレース、門からスタンドまで、十メートルとは直進不可能な人混みだった。
天皇賞の前に一つ平場のレースが残っていたが、おれは肚《はら》をくくってパドックスタンドに陣取り、日向ぼっこをしながら目指す二頭の登場を待ちわびた。時間がすすみ、天皇賞出走馬がパドックに入って来た。三万人ほどのパドック客が一斉にどよめき、青すぎる空に白い鳩が飛んで、秋の日射しが馬たちの毛艶を飴色に磨きあげる。こういうビッグレースに馬体の良し悪しは無関係、一世一代の大レースに手抜きをする調教師など、いるはずはないのだ。
となりの男が持っているラジオからは、パドック解説者の下見評が声高に流れつづける。ヨドアールとアンバーヤングとキングテスコの仕上がりが一番だと解説者氏は強調する。ヤマハボーイには年齢的にあがり目がなく、コマチプリンスも復調途上という見解は、スポーツ新聞でもくどいほど流されたゴタクだった。
もちろんおれは、そんないんちき解説者の下見評など、最初から耳に入れなかった。競馬社会というのは一つの閉鎖サークル、生産者も調教師も馬主も騎手も、厩務員も競馬新聞の記者もテレビ解説者も、利益はすべて自分たちの社会で分配する。大きく利益をあげるには高配当の馬券を自分たちだけで買えばいい。本命馬が人気を被りそうになれば、あらゆる手段を用いてその人気をさげようとする。プロレスや相撲の興行と理屈は同じ、構成員のすべてがぐる[#「ぐる」に傍点]なら、どんなストーリーも思いのままに展開できる。
しかしこの鉄壁をほこる競馬社会にも、一つだけ困った問題がある。肝心の馬が人間よりも純真なのだ。走る気があれば人間の思惑など構わず、闘志を素直に表現してしまう。その証拠にパドックを回りながら、ヤマハボーイは右目でおれにウィンクを送り、コマチプリンスにいたっては、なんと上唇をめくって、にっと笑いかけてもくれたのだ。
おれは馬券売場に歩いて、ニヒルに奥歯を噛みしめ、二頭の連番に、ぽんと十万円を放り込んだ。無茶といえば無茶、賭けといえば賭け、しかし競馬なんて、もともと賭け以外のなにものでもない。
馬場に行ったところで、どうせ人間の頭しか見えはしない。おれは早々と場内テレビの前に陣取り、映し出されるオッズの動きを無心に見張っていた。買った馬券は五千五百円の線を五十円ほどの幅で上下する。発走間際には厩務員関係の金が流れ込むから、最終的には五千四百円といったところか。
ファンファーレが鳴って、スターターの台がせりあがり、ゲートの開放と同時に、喚声が地鳴りのように爆発する。ゴールまでは二千メートル、一ハロンでの問題は各馬の位置取りだけ。ヤマハボーイもコマチプリンスも中団のやや手前で、おれがテレパシーで教えたとおり、絶好の位置取りをキープする。
三コーナーから各馬が仕掛け、どよめきと地響きのなか、馬群が一団となって最終コーナーを回りはじめた。二頭の位置と足取りから、おれはすでに、このレースの結果に確信を持っていた。はたせるかな、直線を向いてからは二頭のマッチレース、ヤマハボーイとコマチプリンスが鼻面を並べて、圧巻ゴール板を通過していった。言葉や言い分けはどうでも、つまり、おれはやったのだ。
本音を言うと、おれだってこのレースを、冷静に見物していたわけではなかった。一本買いで十万円も放り込んだのは初めて、内臓と美意識が腹の中で、ぐでんぐでんと舞踏していた。どんなレースだって馬券を買う前は当たると信じている。問題はレースが終わってから実際に当たったかどうか、確信と結果の間には普遍的な乖離《かいり》がある。これまでおれの競馬人生においては確信は確信、結果は結果と、それぞれが独立して存在していたのだった。
あまりにもの興奮に、おれの視界は黄色くなり、体重は引力を忘れ、聴覚は自分の心臓の音にだけ、うっとりと反応をくり返した。自分がどうやって両替場まで歩き、どうやって五百四十万円の金を受け取ったのか、覚えてもいなかった。
それからあとのことは、実は、もっと覚えていない。最初は競馬場ちかくのおでん屋でビールを飲みはじめたが、まわりの連中から『先生』とか『天才』とかおだてられ、いい気になって目茶くちゃに奢りまくった。そのあとは二、三人を連れて新宿へくり出し、なじみの店をかたっ端から飲み歩いた。最後にタクシーに乗ったときも、部屋への階段をのぼったときも、たぶん神が尻でも蹴飛ばしてくれたのだろう。
部屋のドアを開け、焦茶色のウォーキングシューズを発見し、キーを回さずになぜドアが開いたのかを考え、そのとたん、アルコールが自家発酵した頭で、おれは思わず「やられた」と叫んでいた。
なにをだれにどうやられたのか、そこまで思考は及ばなかった。脳からは血の気がひき、朦朧とした意識の中で必死に分析を開始する。分析したところで、否定したところで、これが自分の部屋であることは変わらない。電気をつけたまま、おれが鍵をかけずに外出することなど、絶対にありえない。
空き巣狙いか、間抜けな代議士が差し向けた右翼あたりを予想しながら、おれは恐るおそる部屋に足を踏み入れた。
衝立の陰でなにかが動き、一瞬、心臓が激しく存在を主張した。それでも向こうから跳びかかって来る気配はなく、おれは足音を忍ばせて、そっとベッドへ近寄った。なにかの親和感、どこかで見おぼえのある顔、それがうなされながら、古いベッドでしきりに寝返りをくり返す。おれは一生懸命ベッドに目の焦点を合わせ、しかし視界も部屋もぐるぐる回るだけで、ベッドの中の顔どころか、自分の名前さえ思い出せなかった。
そのうち霞んだ目の中に、ぼんやりと夢子の顔が浮かんできて、一応、おれはほっとした。ほっとはしたが、だがなんだって夢子がおれのベッドで寝返りをうっているのか。おれと夢子はずっと前から『男と女の関係』で、夢子が今ここにこうしていることは、実はなんの不思議もないことなのか。
おれは訳も分からないまま、上着をむしり取り、ベッドの端にすとんと腰をおろした。同時に夢子が目をさまして、宙を掴みながら、まるでコオロギのように、ぴょこんと跳ねあがった。
「ここ、どこ?」
「おれもそれを考えてる」
「田沢さん?」
「たぶんな」
「よかった」
「本当かよ」
「わたし、夢を見てた」
「おれは今でも夢を見てる」
「だれかがトイレを覗くの、節穴で目が動くの。一生懸命呼んだのに、どうして田沢さん、助けにこないのよ」
「ちょっと忙しかった」
「薄情者」
「悪かったな」
「あんたなんか嫌いよ」
「前は惚れてたのか」
「前からずっと嫌いだったわよ」
「そうか……だけど、間に合ったみたいで、よかったじゃないか」
いきなり夢子の毛が逆立って、丸い目から丸い涙があふれ出し、長くて細くて獰猛な腕が、交通事故のようにおれを襲ってきた。おれはベッドからすっ飛ばされ、床の上にちょうど、二回転ころがった。頭の骨が固く床を鳴らし、お陰で酔いは冷めたが、酔いを冷ましたいなどと、おれは、金輪際思っていなかった。
「なあ、夢子、突き飛ばすのは、トイレを覗いた奴にしてくれ」
一応は言ってみたものの、事実関係について、おれにも確たる自信はなかった。酔ったはずみで、覗き見ぐらいは、おれだってする可能性はある。
「あの男が死んだの」
「ああ、そう」
「真剣に聞きなさいよ」
「耳鳴りがしている……酒のせいか、頭を打ったせいか」
「酔ってるわけ?」
「そうらしいな」
「どうして酔ってるのよ」
「あ……頭を打って、忘れてしまった」
しっかり喋りながら、それでも夢子は洪水のように涙を流していて、そのときやっと、おれは夢子がメガネをかけていないことに気がついた。ベッドを見てとっさに混乱したのも、たぶんそのせいだろう。メガネを取った夢子は、おれが酔っているにしても、なんというか、やけにいい女だった。
「ええと……なんだっけ」
「あの男が死んだのよ」
「君のトイレを覗く奴なんか、死んで当然だ」
「わたしが覗かれたのは夢の話」
「それは、よかった」
「死んだのはその男じゃなくて、あの男」
「死んだのがおれじゃなくて、やっぱり、よかった」
頭を打って、酔いも冷めたと思っていたが、なんとなく、そうでもないらしい。夢子の言ってる言葉の意味が、どういうわけか、おれにはまるで理解できなかった。
「だけど、夢子……」と、意識的に欠伸をし、指先でこぶの位置を確かめながら、おれが言った。「君は、なんだって、おれのベッドでトイレの夢なんか見る?」
「わたしの勝手じゃない」
「それはそうだ……そうだけど、しかし、部屋へは?」
「管理人に入れてもらったの、八時からずっと待っていた」
「八時から……か」
「お酒なんか飲んできて、許されると思うの」
「そこまでは考えなかった」
「わたし、ぜったい、あんたなんか許してやらないわ」
「しかし……」
夢子に許されても、許されなくても、管理人の下司《げす》笑いが頭に浮かんで、おれはとんでもなく憮然とした気分になった。たまたま夢子だったからよかったものの、女が来るたびに部屋を開放されたら、おれの命なんか、いくつあっても足りはしない。
「まあな、たしかにグールドの小説は君より先に読んでいたさ。だからってなにも、こんな時間に驚かすな」
「ふーん、田沢さん、そういう人なの」
「おれは前からグールドのファンだ、新刊が出たらぜんぶ読むことにしている」
不思議なことに、夢子はもう泣きやんでいて、壁に深く背中をもたれさせ、怖いほど辛辣な目でじっとおれの顔を睨みつけていた。
おれは痛む頭と回る目で、やっと椅子を見つけ、体重を増した躰を、どさりと椅子に投げ出した。
「たかが探偵小説ぐらいのことで、そんな目をするな」
「そのことも許さないわ」
「店のつけ[#「つけ」に傍点]は明日払う。遠縁のおばさんが死んで、少し遺産が入った」
「田沢さん……」
「今、なん時だ」
「もう十二時すぎ」
「そうか、意外に早いな。それにしても君は、八時から……」
そのとき、なにか、不安のようなものがおれの耳をかすめ、ひいていた血が、じわりと頭に這いあがった。
「夢子、今……あの男が死んだと言わなかったか」
「最初から言ってるじゃない」
「君の言うあの男というのは、つまり、本物の、あの男のことか?」
答えを待つまでもなく、顎と肩と胸で、夢子が、深くうなずいた。
なんてことだ、呆れ返ってものが言えないというのは、まさにこのことだ。おれは競馬に行って、大穴を当てて酔っ払って、夢子がうなされながらベッドに丸まっていた理由を、考えもしなかった。夢子がメガネをかけていない理由も、おれを許さずに洪水のように涙を流した理由も、なにも考えなかった。酔っているのはおれで、夢子ではなく、夢子の淡白な性格からいっても、こういう種類の錯乱は起こさない。
「夢子……」と、自分で認識できるかぎりでは、どうにか、おれが、声らしきものを出した。「冷蔵庫からビールを出してくれ。もう一年以上、ビールを飲んでいなかった気がする」
夢子が鼻水をすすって、それでも素直にベッドをおり、驚くほどの大股で部屋を台所へ横切っていった。上はおれの着古したパジャマ、下は無防備な長い足、その足はじゅうぶんおれに目眩《めまい》を感じさせたが、太ももの肉づきは多少、おれの美意識を裏切っていた。
夢子が缶ビールを持って来て、そっけなくおれに渡し、長い足を見せつけるように、またベッドの端に腰をおろした。
「わたしね、昨日の打合せどおり、九時前には久我山に着いていた……」と、パジャマの袖で鼻水をふき、一つしゃっくりをして、夢子が言った。「家も男もすぐに分かった。男は久我山まで歩いて、電車に乗って吉祥寺に出たの」
「駅前の喫茶店でビールを飲んだか」
「二、三本飲んだ。わたしのほうはコーヒーとホットケーキ、ショートケーキも食べようと思ったけど、生クリームが古い気がしたの。ああいうところのケーキって、どうせ前の日の残りだから」
「君が食べたものはあとで聞く」
夢子が怒ったように鼻を鳴らして、足を組みかえ、前髪を払いながら、ひょいとテーブルのメガネに手をのばした。
「二時間ぐらい喫茶店でビールを飲んで、それから新宿に出たの」
「まさか、歩いて?」
「歩いたのよねえ、新宿まで」
それを聞いたとたん、おれはぞっと背筋が寒くなり、あやうくビールを下に落とすところだった。今日の尾行がおれの当番だったら、夢子ではなく、おれが新宿まで歩かされていた。
「吉祥寺から新宿って、歩くとけっこう時間がかかるわ」
「ああ、そう」
「新宿に着いたときはもう夕方だった」
「天気が良くてよかった」
「あんなに歩いたの、久しぶりだったな」
「機会があったらおれも試してみるさ」
「電車に乗れば二十分なのにね、あいつ、なにを考えてたんだろう」
「で……男の様子は? たとえば、だれかと会ったとか」
「人と会うことはなかった、ただ歩いただけ。歩きながらビールを飲んだり、コンビニでお菓子を買ったり。そういえば……」
「うん?」
「キャラメルの包み紙をね、歩きながら丸めて捨てるの。今から考えれば、あれ、なにかの合図だったかも知れないわ」
「その可能性は、大いにある」
「新宿に着いたあとは高層ビルの間を歩いた。都庁のまわりとか、ホテルのまわりとか……そのころからなの、様子がおかしくなったのは」
おれはビールの残りを飲みほし、視線だけをそっと、夢子の唇に集中させた。
「最初は酔っ払ったのかと思った、だってあんなにビールを飲んで、あんなに歩いたんだもの。でもなにか違う……そわそわしてるような、苛々してるような。わたし、近寄るなと言われてたから、それ以上のことは分からない。西口をずいぶん歩いてから、最後は中央公園まで歩いていった」
夢子がすっと膝をのばして、反動もつけずに腰をあげ、脂肪のうすい太ももを、隠しもせずおれに見せつけた。そうやってまた冷蔵庫へ歩き、今度は二本のビールを抜き出して、戻りながら、一本をぽいとおれに放り投げた。
「それからね、あの男、中央公園のトイレに入っていったの」と、立ったまま缶のプルトップを引き、両腕で自分の胸を抱くように、夢子が言った。「わたしは離れたベンチに座って、ずっと待っていた。でも、いつまでたっても出てこないの。三十分以上待ったけど、やっぱり出てこない。わたしだっておかしいと思いはじめた。トイレに別の出口があって、そこから出たのかと思った。尾行に気づかれたのかと……」
「それで、君が?」
「行ってみたわよ」
「近づくなと言ったろう」
「仕方ないじゃない、相手を見失ったら尾行もできない。簡単にまかれる[#「まかれる」に傍点]なんて、プロとしてのプライドが許さなかった」
「うん……」
「トイレは狭くて、ちょっと見たところ、男はいない感じだった……つまり、あの、立ってやるところには。でも他に出口はないし、それでわたし、念のために、ね」
「座ってやるほうのドアを、か」
「そう。そうしたら、そこで、あの男が死んでいたの」
夢子が咽を鳴らしながら、指先でメガネの位置を直し、うなずくと同時に、ぐっと缶ビールの底を押しあげた。
「でも、どうして……」と、夢子の長い脛に見惚れながら、脳に濃く酸素を送って、おれが言った。「どうして、男が死んでると分かった? もちろん、倒れるぐらいは、倒れていたろうが」
「便器の中に頭を突っ込んでいた、こんなふうに……」
そこで夢子は、男の倒れ方を真似たつもりなのか、顔を横向きにして、肩を激しくひねり、白目をむいてじっとおれの顔を睨みつけた。パフォーマンスに意欲は感じられたが、演技としては稚拙なものだった。
「わたし、訳が分からなくて、一分ぐらいそこに立ってたと思う。それから急に怖くなって、逃げ出して、あとはずっと走っていた。走って、ここまで来て、ずっと田沢さんを待っていた」
夢子のメガネの向こうで、また涙があふれ出し、おれは腰をあげてその小さい頭を、軽く顎の下に引き寄せた。夢子の髪から女っぽい匂いが伝ってきて、状況もわきまえず、ちょっと、おれは息を飲んだ。
「その、たとえば……」と、夢子をベッドの端に座らせ、床からティッシュの箱を拾いあげて、おれが言った。「君がトイレを見張っている間、あいつ以外にだれか入っていったとか、出てきたとか、そういうことはなかったか」
「なかった」
「三十分だぞ」
「わたし、ちゃんと見張っていた」
「本当に、一人も?」
「一人もいなかった、入った人も、出てきた人も」
ティッシュを箱から抜き出し、鼻の下を押さえながら、ふとメガネを光らせ、額に皺を寄せて、夢子が頑固そうに顎を尖らせた。
「そういえばね、途中でなにか動物が出てきた気がする」
「ふーん」
「ちょっと出てきて、すぐ植え込みの中に消えていった」
「猿が公衆便所で用を足していたか」
「よく分からないのよ。もう暗かったし、もしかしたら犬か猫か……とにかくなにか、小さい動物みたいなもの」
「犬だったらずいぶん公衆道徳をわきまえた犬だ」
「火星人みたいな……」
「もう酔ったのか」
「冗談ではないのよ。影みたいな、なにか変なもの。それが地面を這うようにあらわれて、気がついたときはもう植え込みの中に消えていた」
「君が火星人と友達とは知らなかった」
「まじめに聞きなさいよ」
「おれは夜中に冗談は言わない。どうせ紙かビニールか、なにかが飛んだんだろう」
夢子の目と鼻の頭が、一瞬怖い形に変貌し、火星人の話題から、おれはすごすごと退散した。泣くか怒るかビールを飲むか、できれば、行動は、一つずつやってもらいたい。
「とにかく、済まなかった……」と、頭の中でため息をつき、ビールに口をつけて、おれが言った。「思っていた以上に、君には大変なことを頼んでしまった。これはやっぱりおれの仕事だ、君はもう、すべてを忘れてくれ」
「あら?」
「そういうことだ、おれは事件を甘く見ていた」
「どういうことよ」
「だから、そういうことさ」
「忘れろですって?」
「君だって忘れたいだろう」
「わたしがいつ、そんなことを言った?」
「状況の常識的な判断だ」
「だれが判断したの」
「おれ」
「わたし、田沢さんに、状況を常識的になんか判断してもらいたくないわ」
夢子の泣いて怒っている顔に、頑固で強情な表情が加わり、おれのパジャマやむき出しの足やショートボブの髪型まで含めて、夢子の人格を摩訶不思議な、かなり面倒な存在に仕立てていた。
「ねえ田沢さん、まさか、手をひけなんて、言わないわよねえ」
「おれは手をひけと言ってる」
「そんなの勝手すぎる、わたしをこの仕事に巻き込んだのは田沢さんじゃない」
「そのことは、おれが悪かった」
「探偵小説だってね、だれかが死んでから本当の事件が始まるのよ」
「こいつは探偵小説と訳が違う」
「わたしを除け者にするつもり?」
「君のためだ」
「あら、そう」
「君を危険な目には合わせられない」
「わたし、言いふらすわよ」
「うん?」
「警察にもテレビにも新聞にも、友達にも店のお客にも、今度のこと、みんな言いふらしてやる。事件の中心人物が田沢さんだということ、世界中に言いふらしてやる」
なんだか知らないが、なんとなくおれは疲れてしまって、悪寒《おかん》を感じながら、ぐったりと椅子にへたり込んだ。なにをどう考えて、その思考をどこへ落ち着けたものか、さっぱり分からない。一つだけ明確なのは、夢子との言い争いだけは避けるべきだ、ということで、だいたい女との言い争いなんて、いつだって避けたほうがいいに決まっている。
疲れても呆れても、おれの使命は分かっている。まずは『男が死んだ』という事実を確認すること、夢子が嘘を言ってるとは思わないが、間違いか勘違いということは、大いにありえる。
おれは電話に手をのばして、昔勤めていた新聞社の、杉原という男を呼び出した。こいつは整理部にいるから、真夜中のこんな時間でも、ローテーションによってはまだ社に残っているはずだった。
「なんだ、田沢か。こんな時間にどうした、酔っ払って暴力バーにでも迷い込んだか」
杉原が目に見えるほど不機嫌な声を出したが、機嫌が良くても悪くても、こいつはいつだって不機嫌な声を出す。
「新宿の中央公園で男が死んだというニュース、入っていないか」
「なんだと?」
「仕事の話さ」
「ふーん、でかい事件なのか」
「まだ分からない。とにかくそういう記事が入っていたら、教えてくれ」
しばらくの間、電話口の向こうで原稿を掻きまわす音が聞こえ、それから間もなく、不機嫌なまま杉原の声が戻ってきた。
「見当たらんなあ。田沢、そいつはどんな事件だ? だいいちなん時ごろのことだよ」
「まだ事件と決まったわけじゃない。ちょっとした経緯で、おれが引っかかった。男が死んでるとすれば歳は四十五、六。今日の夕方、六時から七時ごろのはずだ」
「新宿の中央公園で?」
「そうだ」
「大事なことなら警察詰めの記者に訊いてやってもいいけどな」
「是非そうしてくれ、礼はする」
「礼……か。お前の礼は当てにならんが、まあとにかく、十分したらこっちから電話をする。どうせ例の、きたねえ事務所だろう?」
「大きなお世話だ、事務所はきたなくてもとなりにいる女は世界一の美人でな。人生ってのはそうやって、バランスが取れるもんさ」
受話器を置いて、へんな冷汗を感じながら、おれはそっと夢子をふり返った。電話を聞いていたのか、聞いていなかったのか、夢子は丸く目を見開いて、無心に部屋の壁を眺めていた。頭の中ではどうせ「ずいぶんきたない部屋だ」とでも呟いているのだろう。
ちょうど十分で電話が鳴り、ビールを呷りながら、おれは軽く受話器を取りあげた。
「お前の言ったとおりの事件は、あるにはあったが……」と、不機嫌に、不満そうに、ぶつくさと、杉原が言った。「なあ田沢、こんな記事では一段の見出しも立たないぞ。どこをどういじくれば、こいつが金儲けのタネになるんだよ」
「企業秘密は明かせない」
「水臭い野郎だ」
「いいから早く言ってくれ」
「ああ……ええとな、死体の発見者は中央公園を散歩していたアベック。発見時間は午後六時四十五分、発見場所はなんとなあ、公衆便所の大のほうだとよ」
「うん……」
「発見者の名前も必要なのか」
「そこまではいらない」
「持っていた定期入れから遺体の身元はすぐに判明、名前は高野和夫。高低のタカに野原のノ、平和のワに夫のオ。四十四歳、水道橋にある大島製薬という薬品製造会社の総務係長だ。二週間ほど前に会社を出たあと、行方が分からなくなって家族から捜索願いが出ていた。行政解剖の結果、死因は栄養失調と過労による衰弱死。要するにこいつは典型的なイキダオレってやつだ、胃も腸も空っぽだったらしい」
「おい、杉原……」
「なんだよ」
「行き倒れ?」
「それがどうした」
「胃も、腸も……」
「空っぽだったとさ」
「しかし……」
「警察発表をそのまま言っているだけだぞ」
「それは、まあ、そうだろうが」
それはそうだろうが、しかしいくらなんでも、胃と腸が空っぽだったなんて、そんなこと、あるはずがない。
「杉原、今言った警察というのは、どこのことだ?」
「冗談はやめてくれ」と、わざとらしく、うんざりした口調で、杉原が言った。「お前だって昔は一線の社会部記者だったろうよ。所轄なら新宿西署に決まってるじゃないか。行き倒れぐらいで、わざわざ本庁がお出ましになるもんか」
「済んだことは忘れる主義でな。それで、担当した刑事の名前は、分かるか」
「そこまでは知らんよ、しかしこんな事件にエリートが当たるとは思えんな。たぶん定年前のご隠居さんだろう」
「警察では殺人の線を、まるで考えてないのか」
「これが殺人じゃないぐらい、俺にだって分かるさ。もっとも六時半ごろ、その公衆便所から飛び出していった人間はいる」
「見られたか……」
「なんだと」
「いや、こっちの話だ」
「警察ではな、飛び出していった人間が、事件と関係あるとはみていない。背の高さや躰つきから、中央公園をショバにしているオカマだろうってことだ」
おれは腹の中で、複雑に相槌を打ち、ベッドの端に腰かけている夢子のほうを、ちらっと盗み見た。警察の見解がまるで的外れとは言わないが、夢子に聞かせてやれる内容ではないだろう。
「ところで、杉原……」と、気を取り直し、電話口に向かって、おれが言った。「男の住所はどこになっている?」
「市川市菅野二丁目、市営住宅か公団アパートだろうな」
「もう一つ……」
「娘の歳だけは訊いてくれるな、お前には教えられない」
「中央公園で猿を飼っているか」
「なにを、飼ってるかって?」
「猿だ、あそこで放し飼いをしてるとか、逃げ出したやつが住みついてるとか。それとも最近、あのあたりに宇宙人が出没するとか……」
「おいおい、もうすぐ夜中の一時だってこと、お前、忘れてるんじゃないのかよ」
杉原が憮然とした声を出すのは当然で、しかしおれが杉原の不機嫌な声を、どれぐらい聞き飽きているか、たぶん杉原には分かっていないのだ。
「知らなければ教えてやるけどな、新宿の中央公園は猿のメッカなんだぜ。あそこに集まるアベックやオカマが、猿以外のなんだっていうんだ」
「まあ……」
「それにな、俺に言わせりゃ、今の若い連中はみんな宇宙人だぜ。道端にしゃがんで鼻にまでピアスして、おまけに言葉も通じない。あいつらが同じ人間とは、どうしても思えんがな」
それから二言三言、杉原が皮肉っぽく漫才を仕掛け、おれが合いの手を入れて、おれたちは同時に電話を切った。
男の名前も、年齢も、職業も、住所も、たしかに分かることは、すっかり分かった。分からないのはただ一つ。これがどういう構造の事件で、あの女がどこに関係し、おれがどういう役割を演じているのか、ということだった。
おれは自分の屈託に仮面をつけさせ、夢子の前に歩いてから、乱れた前髪を指で梳《す》き、それからメガネの位置を直して、ゆっくりと立ちあがらせた。
「訊くのを忘れてたけど、君、どうしておれのパジャマなんか着ている?」
「服のままでは皺が寄るじゃない」
「そうか……まあ、君の足が奇麗なのは分かった。だから、そろそろ服を着てくれないか」
「出かけるの」
「そうらしいな」
「どこへ」
「君の家さ」
「田沢さんも?」
「おれは早くベッドに入って、目をつぶって寝ることにする。地獄に落ちても寝不足をするなというのが、お袋の遺言だ」
夢子が鼻をうごめかして、生意気な息をつき、まばたきもせずに、あっさりとパジャマのボタンに手をかけた。見つめたままでは具合が悪いし、かといって、子供みたいに顔を赤くもできなかった。
「むこうを向きなさいよ」
「ああ、そうか」
「送ってくれるわよね」
「一人で帰れないほど、遠いのか」
「田沢さん」
「なんだ」
「わたしがこんな思いをしたの、だれのせいなのよ」
「言われてみれば、そうだ」
「言わなくてもそうでしょう。それに事件は始まったばっかり、打合せだって、しっかりやる必要があるじゃない」
おれは気分だけ、ちっと舌打ちをしたが、音には出さなかった。夢子とは言い争いをしないと決めたことではあるし、事件に巻き込んだのは、たしかにおれのほうだ。あの男がここまで奇妙な死に方をしたとなれば、夢子はもう、事件には関係させられない。そのことをどうやって納得させるか、いつ宣言するか、まあ、そのうち、どこかで誤魔化せるだろう。
「それにしても田沢さん、この部屋、どうにかならないの」
「なにが」
「少しは片づけたら?」
「君に言われる筋合いはない」
「よく女の人を連れ込めるわね」
「おれは、女なんか、連れ込んでいない」
「この前の女の人は?」
「あれは、ただの、借金取りだ」
「本当かしらね。今度の事件と、関係があるんじゃない?」
「夢子……」
「なあに」
「いや、その……着がえ、済んだのか」
「済んだわよ」
「そうか、それじゃ、送って行くか。タクシーはいくらでも走ってるし、おれも酔いが冷めてしまった。それにまさか、君の家、青山墓地の中でもないだろうしな」
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さいわい夢子の家は、青山墓地の中ではなかったが、墓地より少し渋谷寄りの、青山通りから脇道に入った住宅街の中にあった。マンションの前にタクシーが横づけされたとき、おれは無意識に肩をすくめ、汗腺を熱くした汗に、恥もなく悪態を吐きつけた。政治家のスキャンダルをいくつ掴んだところで、おれなんか到底入れそうもない、圧倒されるほどの高級マンションだった。
おれは夢子だけをおろして、そのまま自分の部屋に引き返そうとした。体質的にも経済的にも、どうもおれは、こういうマンションとは相性が悪い。自分で確信するのも空しいが、要するにおれは、貧乏性なのだ。
しかし結局、女の命令には逆らえないおれの病気が、夢子のあとからおれの尻を、無理やりマンションの中に押し込んだ。今日のトラブルはたしかにおれの責任、逆らえばまた夢子が「世界中に言いふらす」と喚き出す。不運にもおれは、この時点で、事件と夢子という、ダブル迷路に迷い込んでしまったのだ。
夢子がマンションに一人暮らしだったこと、そのマンションが青山なんて場所の、とんでもない高級マンションであること。そのことに、部屋に入ってから、おれは漠然と赤面した。前から知っていてもよさそうな気もするが、考えてみればこの一年間、夢子と『火星人の罪』以外の場所で会うのは、今日が初めてだった。おれの知ってる夢子はいつもカウンターに片肘をついて、ぼんやりトランプをいじくってるだけの、やたら色気のない、もしかしたらひどく顔立ちがいいかも知れない痩せた娘という、それだけのことだった。
「こういうところに住んでる人間と、いつか、友達になりたいと思っていた」と、恐縮しながら部屋の中を眺め、塵も埃も見えない床に、つい感動して、おれが言った。
寝室を別にしたその部屋は、リビングだけでもおれの事務所の三倍ほどあり、背の低いウッドソファや、すだれタイプのカーテンや籐製の洒落たテーブルや、その他すべての家具は値段なんか聞きたくないと思うほど、思い切り贅沢なものだった。これだけの生活を維持するには、相当なセンスと、相当な収入が必要なはずだった。おれには縁のない風景で、しかし夢子のほうに縁があるというのは、どうにも納得できない事実だった。
おれは背の低いソファに浅く座り、広い部屋を流れるように歩く夢子の足を、不思議な感慨で観察していた。
そのうち夢子が、ブランデーとグラスを持って来て、おれに渡し、自分はカウンターに隠れたシャワールームに消えていった。ここ幾日か、不可解な事件ばかりつづき、今のこの状態が少しばかり説明困難なものであったとしても、おれはもう『勝手にしやがれ』という気分になっていた。
ほんの二時間ほど前まで、意識不明になるほど酔っ払い、それから男の奇妙な死を知らされ、今は目の前に、夢子の信じられない生活がある。競馬で大儲けしたことまで含めれば、一日の出来事としてはあまりにも苛酷すぎる。おれにできる事といったら、夢子が置いていったブランデーに、勇気を出して腕をのばすことだけだった。
ブランデーの香りに酔い、神経が心地よく節度をなくし、そのうちおれの目は、向かいの壁にかかっている、A全判にのばされた写真パネルに見惚れはじめた。それは粒子をわざと荒くした、モノクロームの女の写真だった。この女には、どこかで、たぶん、会ったことがある。そのうえ心臓が嬉しくなるほどいい女で、おれは必然的に、ふらふらと写真の前へ歩いていった。
パネルの前に立ってつくづく眺めると、その写真に見覚えがあることも、女が息を飲むほどいい女であることも、当然であることに、おれはすぐ気がついた。写真の女は二年ほど前まで、雑誌のグラビアやテレビのCMで活躍していた人気モデルだった。その彼女が前ぶれもなく、突然引退を宣言したとき、芸能界はちょっとしたパニックだったという。おれ自身はファッション界にも芸能界にも興味はなく、女の引退の理由や、その後の状況について、知ろうとも思わなかった。名前も思い出そうとしたが、酒のせいで思い出せないのか、最初から知らなかったのか、とにかくその程度のものだった。
しばらくおれは、ブランデーのグラスを手に持ったまま、パネルの女をぽかんと眺めていた。香りのいい酒を飲みながら、匂うほどいい女と向き合う構図は、状況はどうであれ、なんともいい気分だった。
五分か、十分か、おれは血管に怪しい不安を感じ、この女は本当にどこかで会ったはずだと、真剣に考えた。目にはブランデーの透明な膜がかかり、躰の重心は好奇心にもてあそばれ、おれはパネルに鼻がつくほど近寄って、写真を下から上へ、なめるように点検した。
女の衣装は白っぽい薄地のドレス、太ももまで切れたスリットからは、右足が一本、惜しげもなく覗いている。まっ直ぐで長くて皮膚のうすそうな、汚れのない清潔な足。たしかに長くて形のいい足ではあるが、おれの好みからいうと、もう少し、全体に肉がほしかった。
おれが叫び声をあげたことは、たぶん間違いない。「あんたは混乱すると場所もわきまえずに叫ぶ癖がある」と、お袋がよく言っていた。そのあまりにもの驚愕に、おれは手に持っていたブランデーを、見境もなく床にこぼしてしまったほどだ。
写真の女がだれに似ているのか、いや、実際にだれであるのか、アルコールに浸食された頭ながら、もうおれは、完璧に認識した。
おれは死にそこないの犬みたいに、うんうん呻《うめ》きながら、這うようにして、なんとかソファの前に戻って来た。それからグラスにブランデーを注ぎ足し、五、六回つづけざまに、えいっと口に放り込んだ。いったい、なんてことだ、今日という日はなぜここまで、大事件ばかり起こるのか。おれの体質がいくら迂闊でも、ものには限度がある。毎日のように夢子の顔を見ていながら、この一年間、それがだれであるのか、まるで気づかなかった。おれの頭が耄碌したか、それともとっくの昔に、男性ホルモンが枯れていたか。おれは夢子とおれ自身に腹が立って、残っていたブランデーを、猛烈に飲みはじめた。飲めば飲むほど腹が立って、空しさとおかしさと惨めさは、もうどうにも止まらなかった。
夢子がシャワールームから出てきて、おれの目の中を、揺れるように、ただようように、幻覚のように歩いて来た。胸に巻いたバスタオルは目にしみるほど白く、足の指は無茶なほど長く、その上に筋張った足首と、毛穴の見えないまっ直ぐな脛がつづいている。目近で見ればそれでも、やはり女の丸みがある。おれは夢子の足を見ているうち、気が遠くなって、自棄《やけ》っぱちに、敢然とソファにひっくり返った。暗い、深くて生暖かい穴蔵に落ち込みながら、「このまま死んでやる。ぜったい、このまま死んでやる」と、うすれていく意識の中で、おれはぶつぶつと一人ごとを言っていた。
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朝日というのは、いいものだ。たとえ頭の中でスケートを履いた小人が暴れまわっていても、朝日が顔に当たれば、まだ自分の生命を自覚できる仕組みになっている。生きていることを自覚し、生命そのものに悪態はついても、愚痴を言える自分の煩悩にふと安心を感じてしまう。
おれは軋《きし》む頭を手のひらで支え、ふりそそぐ光の中に、無理やり煩悩の入れ物を引き出した。そこは前の夜にひっくり返ったソファの上で、首の下には柔らかいクッションが敷かれ、胸にはベージュ色の毛布が掛けられていた。広すぎるリビングに夢子の姿はなく、キッチンやバスルームにも気配は感じられなかった。
壁の掛け時計は九時、カーテンの隙間から鋭く朝日が射し込み、ソファからとなりの部屋のドアへ、直線的に光の筋をのばしていく。おれの服は昨夜のまま、キッチンのカウンターにはブランデーの瓶とウィスキーの瓶、ウィスキーまで飲んだ覚えはないから、おれの爆睡を肴《さかな》に、夢子が寝酒でもやったということか。
おれは足音を忍ばせ、トイレに歩き、戻るついでに、寝室のドアをそっと引きあけた。壁紙は淡いグリーン、厚いカーテンに日射しは届かず、ロータイプベッドの羽毛布団にくるまって、夢子がドアのほうに背中を向けている。裸の肩がゆれ、めくれた布団から尻や背中や長い足が、やはり裸のまま覗いている。おれは止まろうとする心臓に活を入れ、目眩と頭痛と吐き気と煩悩に、冷静な撤退を指令した。いくら二日酔いの軟弱な頭でも、おれと夢子の間に恋愛関係が成立していないことぐらい、ちゃんと認識できていた。
静かにドアを閉め、酒臭い息を飲み込み、動揺する重心を矯正しながら、単調に玄関へ歩いていった。頭痛に対する怒りはなく、無力感がへんに心地よく、夢子への不可解な愛情がおれの憂鬱に、乾いた笑いを押しあげる。手の届く場所に裸で眠っていても、夢子の存在はおれの日常から、ずいぶん遠くへ退去している。
青山通りまで歩いてから、タクシーを拾い、神宮を迂回して、おれは新宿に出た。死にたいほどの二日酔いではあっても、自分の義務は分かっている。女に惚れて酒におぼれて人生を放棄はしても、生きているかぎり、義務はどこまでも付きまとう。
あの男が死んだことで、この一件が冗談やお遊びでないことは、もう確定した。杉原が言ったように、男の死因が『典型的なイキダオレ』ということも、まずありえない。三日間、たとえ正式な食事はしなかったにせよ、ビールとスナック菓子は意地きたなく摂《と》っていた。解剖の結果は、胃と腸が空っぽだという。公園で死体がすり替えられたか、仮りに警察が故意に死因を隠したのであれば、可能性としては、政治的な圧力も考えられる。どちらにせよ、おれの手に負える事件ではなさそうな気もするが、おれにはまだ女との契約が残っている。半金の百万円は受け取り済み、四日後に女が事務所へ来るときは、残金を受け取れるだけの報告も必要だ。気負わず、諦めず、手を抜かず、とにかくできることはきっちりやっておく。それが赤新聞の、人生を降りた人間の、最低限の良心というものだ。
おれは青梅街道でタクシーをおり、新宿西署に向かう支道との角で、しばらく考えた。十年前までは毎日のように顔を出した所轄ではあっても、おれはもう、現役の記者ではない。広報へ行ったところでプレス発表以上のネタは拾えない。見知った刑事に出会ったとしても、その男が無警戒に情報を漏らす可能性もない。この事件に裏があるとすれば尚更、逆に絡まれたら、おれ自身の動きが不自由になる。それにおれは、できればもう、警察なんかとは関係したくない。昔なまじ縁があっただけに、自分の中に妙な嫌悪感がある。おれはこの十年間、過去を忘れることを仕事に生きてきたのだ。
しかし、いやでもなんでも、やらなくてはならないことは、やらなくてはならない。歳を取るといことはそういうことだ。
おれは所轄署と通りを挟んだ向かいの喫茶店に入り、コーヒーとトーストを注文して、都合のいい刑事が出てくるのを待つことにした。この場合の『都合がいい』というのは、もちろん『脛に傷を持っている』ということ。通常の刑事と新聞記者の関係なら、脛の傷なんかお互いさま、しかし今のおれはまったくの素人で、少しばかり刑事に脅しをかける材料も持っている。人間をなん十年かやっていれば、他人に知られたくない傷の一つや二つ、だれでも持っている。洗いたての皿みたいにまっ白な人間なんか、かえって気味が悪いだろう。
一時間もコーヒーを飲んでいたろうか。所轄署から刑事の船井が出てきて、肩を丸めながら新宿駅の方向に歩き出した。都合がいいといえば、これほど都合のいい男もいない。歌舞伎町の風俗店からは『目こぼし料』を取り放題、取り調べは暴力と脅迫一辺倒、それにあれから十年たっているから、そろそろ定年に近い歳だろう。杉原の台詞ではないが、公衆便所の行き倒れはこういう刑事が担当するものなのだ。それにもし、担当が船井でなかったとしても、古参刑事は所轄内のあらゆる事件に目を届かせている。必要な情報は握っているはずで、おれは読んでいた新聞を放り出し、喫茶店を出て、船井のあとを追うことにした。いやでもなんでも、やらなくてはならないことは、やらなくてはならない。歳を取るというのはそういうことなのだ。
最近の私服刑事の服装に、流行があるのかどうか。おれがサツ廻りをしていたころは替ズボンに替上着、タートルネックセーターでも着ていればいいほうで、ほとんどは無地のワイシャツにノーネクタイというファッションだった。テレビに出てくる三つ揃えに決めた刑事も、革ジャンにジーパンをはいた刑事も、それに焦茶色のレインコートにハンチングをかぶった刑事も、現実にはめったにお目にかかれない。ところがこの船井という刑事は、日本でなぜか刑事スタイルということになっている、あのレインコートにハンチングに拘りつづける数少ない一人だった。それは船井の内面に理由があるのではなく、刑事という肩書で小遣い稼ぎをする、現実のほうに理由があるのだろう。
交差点の赤信号で立ち止まった船井に、うしろから追いつき、ハンチングからつき出たしなびた耳に向かって、おれが小さく声をかけた。
「しばらくですね、船井さん」
相手はいかにも刑事らしく、臭いものでも見るような目で、じろりとおれをふり返った。
「ほーう?」
「うしろ姿ですぐに分かりましたよ」
「うしろ姿で、な」
「久しぶりだから、その辺でコーヒーでもいかがですか」
「仕事に出かけるところだ」
「手間はとらせません。十分か二十分、昔のよしみで、ちょっと付合ってくださいよ」
信号が変わって、おれが歩き出し、怪訝な顔のまま、船井も黙ってついて来た。十年前に新聞社をくびになった男と古参刑事、そんな人間は偶然、所轄近くの交差点では出会わない。それぐらい船井が刑事でなくても、常識で推理できる。
地下の喫茶店に入って、おれはまたコーヒーを注文し、船井はビールとカツサンドを注文した。
おれがタバコに火をつけるのを待つように、ビールを口に含んで、船井が言った。
「もう十年になるか……田沢、それにしても元気そうじゃないか」
「二日酔いでもこの程度です」
「新聞社をやめたのは知っている」
「そうでしょうね」
「お前さん、今、なにをやってるんだ?」
「きれいな仕事で食いつないでます」
「きれいでヤクザで、危ない仕事か」
「そんなところです。まったくの堅気だったら、船井さんに会いには来ませんよ」
船井がいやな顔をして、舌を鳴らし、濁った目をにやりと笑わせた。
「ねえ船井さん、昨日中央公園の公衆便所で、男の変死体が見つかったでしょう」
「そうかね」
「とぼけないでください」
「公衆便所のことまで、いちいち俺が知るもんか」
「便所はあんたの専門だ」
「おい、田沢……」
「失礼、ちょっと昔のことを思い出した」
「十年ぶりに顔を出して、警察に引っぱられたいのかよ」
「警察……か。懐かしいとも思わない」
「お前が引っぱられたけりゃ、いつでも引っぱってやるぜ。所轄には昔なじみも沢山いることだしな」
「わたしを所轄に引っぱって、船井さんの汚職でも喋らせますか」
「ほーう、社会の手垢にまみれて、度胸が据わったか」
「新聞記者のなれの果てです」
「だからどうした。わざわざ俺を待っていたのは、なれの果てを見せつけるためか」
「まさか……ねえ?」
「まさかな。しかしまさか、暇を持て余して、俺に皮肉を言いに来たわけでもなかろうによ」
おれは財布の中から、一万円札を二枚抜き出し、それを小さくたたんで、そっと喫茶店の紙マッチに挟み込んだ。
「さっきの、変死体のことですけどね」と、紙マッチを船井の膝に放り、コーヒーに口をつけて、おれが言った。「ちょっと、囁いてもらえませんか」
「しかしなあ、田沢……」
「船井さんの扱いでしょう」
「そりゃあ、まあ、そうだが」
「簡単に聞かせてくれませんか」
「お前、そんなことのために、わざわざ俺を待っていたのか」
「人には事情があるもんです」
船井がビール、おれがコーヒーと、視線を交わしながら、二人同時に唇をしめらせた。
「で、どうなんです?」
「分からんなあ、話すようなことは、なにも無いはずだがな」
「とにかく最初からお願いできませんか」
「そうは言っても……」
それが『タバコをくれ』という目つきだったので、おれは船井の前にタバコの箱をすべらせ、椅子の背もたれに、浅く沈み込んだ。札を挟んだ紙マッチは、当然ながら、もう船井のポケットに姿を消していた。
おれのライターでタバコに火をつけ、長く煙を吹いて、船井が言った。
「警察に連絡が入ったのは、ありゃあ、昨日の六時半ごろだった。最初に現場にかけつけたのは派出所の警官でな、初めは物盗りの犯行と思ったらしい。それが、現場に争った形跡もないし、男は財布も持っていた。自然の衰弱死ということになって、しかしあとにもめ事が残らんようにと、一応俺が顔を出したわけさ」
「男の名前は高野和夫、四十四歳、水道橋にある大島製薬という薬品製造会社の総務係長……間違いありませんか」
「それだけ知っていて、他になにが訊きたいんだよ」
「栄養失調による衰弱死だなんて、なぜそんなことを?」
「そんなこと?」
「衰弱死は、ありえない」
「ほーう?」
「とぼけるのはやめましょう」
「いや、しかし……」
船井がおれの目を覗きながら、ねっとりとビールをなめ、しばらく鼻の脇を掻いて、くちゃっと舌を鳴らした。
「なあ田沢、お前、なにを言ってるんだ?」
「男の死因ですよ」
「そりゃお前さんの言ったとおりだ」
「わたしは船井さんが懐かしかったわけじゃない」
「お互いさまだぜ」
「高野和夫の死因は、なんです?」
「面倒な野郎だな。栄養失調による衰弱死で、どこが悪い。あいつは典型的な行き倒れってやつさ」
「ねえ、船井さん……」と、まずいコーヒーに腹を立て、二日酔いの倦怠に、つい苛立って、おれが言った。「たしか、お嬢さんがいましたよね。父親が汚職刑事だと世間に知れたら、肩身が狭いでしょう」
「貴様、本気で俺を脅すのか」
「わたしも見かけよりは疲れている」
「気取るんじゃねえよ、お前だって叩けば埃が出る身なんだろう」
「埃は出ても、なくす物はなにもない。逆に船井さんは退職金も恩給も取り消し、おまけに汚職刑事となれば次の仕事も見つからない……遠いますか」
「や……」
「船井さん、今度のことは伊達でも酔狂でもない。暇を持て余してあなたを待ってたわけでもない。船井さんが最後までとぼけるつもりなら、わたしにも覚悟がある」
船井が目尻の皺を太くして、色の悪い唇をゆがめ、肩を揺すりながら、ビールをぽいと口に放り込んだ。
「いい度胸をしてるぜ……お前も修羅場を踏んできたってことか」
「度胸が命取りになりますかね。で、どうなんです? 本当のところ」
「それがなあ、その、お前がなぜそこまで向き[#「向き」に傍点]になるのか、理由が、さっぱり分からんのさ」
「理由はわたしが決めます」
「だからよう、あの高野って男は本当に栄養失調だったんだぜ。俺が検視官に直接確認した、現場だって自分の目で確めた。他殺でもなければ自殺でもない、ではなんだ? 自然死だよ、なあ、あれはどう見たって、栄養失調と過労による衰弱死だ」
「胃は、本当に、空っぽだった?」
「一滴の水も飲んでいなかった」
「ありえないな」
「そうかよ」
「たとえば、検視報告が正しかったとして、それはどういう状況です? 堅気のサラリーマンがある日ふと姿を消して、見つかったときには水も飲んでいなかった……普通のサラリーマンの身に、そんなことが起こるはずがない」
「俺が知るもんかよ。世の中にはいろんな人間がいるんだぜ。ふらっと姿を消す奴も、自分からすすんで餓死する奴も、東京には五万といるさ。その理由を俺がぜんぶ知る義務はない。家出しようと絶食しようと、そんなこと、みんなそいつらの勝手だよ。俺の責任でも警察の責任でもないじゃねえか」
だれが家出をしようと、絶食をしようと、たしかにそれは、警察の責任ではない。都内だけでも年間の餓死者は十人前後、その数が多いのか、少ないのか、そしてだれの責任なのか、もちろんおれには分からない。
「念のために、死んだ男の人相を……」
「中肉中背、短い髪を横分けにして、度の強い安物の眼鏡をかけていた。発見時の服装は濃いグレーの背広、まあ、特徴がないのが特徴みたいな野郎だ」
人相を聞くかぎり、中央公園で死んだ男は、おれが尾行をした相手と同一人物だ。死体がすり替えられた可能性もなく、船井のいう検死報告の結果も、とりあえずは信じていいらしい。しかし、そうだとすると、この事件は、いったいどういうストーリーなのだ。
「俺のほうは肚《はら》を割ってる。なあ田沢、お前がなにを追ってるのか、話す気にならんか」
「惚れた女に対するサービスですよ」
「そのサービスが、ひょいと宝の山に化けるわけか」
「そんなところですかね。しかし、定年が近い善良な刑事さんには、どこまでも無関係です。少なくとも退職金や恩給をフイにするほどの、宝の山じゃない」
おれにもう訊くことはなく、船井の澱んだ視線にも食傷し、ゲームオーバーという意味で、深く椅子に沈み込んだ。二日酔いの勢力は衰えず、コーヒーは黴《かび》臭く、意思力で支えなければ、おれの脳は貧血を起こしそうな気配だった。
船井が黙って立ちあがり、レインコートのポケットに両掌を入れながら、顎を突き出して、じろりとおれの顔を見おろした。
「俺もあと二年で定年だ……」と、テーブルを横にまわり、くちゃっと舌を鳴らして、船井が言った。「退屈な老後ってやつも、世間で言うほど悪いもんじゃない。人間、歳を取れば、だれだって静かな生活を願うようになる」
「お嬢さんに迷惑はかけませんよ」
「是非そう願いたいもんだ」
「何歳《いくつ》になりました?」
「今年大学に入ったよ。入学金やら授業料やら、二百万もかかりやがった」
「そうでしょうね」
「来年は成人式だとさ。そうなりゃどうせまた金がかかる。娘なんて、まったく、金喰い虫みたいなもんだぜ」
「あと少しですよ」
「そのとおりだ。だからな、いざとなれば俺だって、自分と自分の家族は守ってみせる。田沢、そのあたりをお前もよく覚えておけ」
「船井さんも宝の山に、つまらない夢は見ないことだ」
おれは船井の視線を正面から押し返し、肩をすくめながら、軽くうなずいた。船井がレインコートをひるがえして、ふり向く素振りも見せず、足早に店を出ていった。おれのタバコは無くなっていたが、伝票だけはテーブルに残っていた。
昨日からの疲れが、気楽に神経を浸食し、おれは目を閉じて、ぐったりと椅子にもたれかかった。息はまだブランデー臭く、肩の凝りは猛烈で、目の中は単調に黄色っぽい。夢子のとぼけた顔と、うしろ向きに覗いた夢子の裸の尻や足が思い出され、おれは頭痛を承知で、茫然と首を横にふった。尾行を依頼に来た女と、夢子と、無意識に比較してしまう自分は、我れながら滑稽な生き物だ。お袋だったら、「なあに、またいつもの病気が始まっただけだよ」と言うのかも知れないが、今度の病気ばかりは、いくら酒を飲んでも、そう簡単には治らない。風邪だって命を落とすことがあるわけで、恋の病だってじゅうぶん命取りになる。
時間はまだ正午前、午後になったら久我山の家を調べに行くとしても、憂鬱と二日酔いが少しばかり派手すぎる。アルコールと雑念を抜き、体力と気力に二、三時間の仮眠はあたえたい。おれは喫茶店を出て、新大久保寄りにふらりと歩き、選びもせずにうす汚れたサウナに飛び込んだ。汗を流せば憂鬱も流れ出し、後退する疲労感の隙間にかすかながら生きる勇気がまぎれ込む。
休憩室では二時間ほど眠ったか。躰はまだ貪欲に休暇を求めていたが、頭はけっこう酸素を取り込んでいて、周囲に対する注意力にも日常の好奇心は戻っていた。
「へーえ、ヤマハボーイとコマチプリンスで、五千四百二十円か」
離れた椅子でスポーツ新聞を広げていた男が、ちっと舌打ちをして、口の端を曲げながらとなりの中年男に声をかけていた。ヤクザ者には見えないが、ニンニクの臭気がしてきそうな、妙に脂《あぶら》っぽい皮膚をした男だった。
「まったくなあ、どういう情報を組み合わせりゃ、こんな馬券が買えるっていうんだい。競馬新聞も嘘ばっか書きやがって……」
サウナにも競馬場にもパチンコ屋にも、喫茶店にも飲み屋にも路上にも、東京という街にはまったく、ヤクザとも素人ともつかない男があふれている。昼間からサウナに入ってビールを飲んで、それでも生活を成り立たせる金が、どこからか懐に流れ込む。
「政府見解と同じことだよ」と、興味もなさそうに、目を閉じたまま、中年男が答えた。
「なんだって?」
「景気がよくなるという政府見解があれば経済は低迷する。政府が戦争をやらないと言えば戟争が始まる……同じことさ」
「そんなもんかねえ」
「競馬新聞に『いらない』と書いてある馬は疑ってみることだ」
「あんた、取ったのかい?」
「おさえ[#「おさえ」に傍点]でささやかに」
「俺、昨日は堅いと思ってたんだ。ヨドアールとアンバーヤングに五万円も突っ込んだ」
「まあ、堅いときもあるけどね」
「三年前、スイートキングが逃げきった天皇賞があったろう、覚えてるかい?」
「うん」
「あのときは一本買いで仕留めたんだぜ。ひもはトキノキンテキ、六千円以上ついたっけなあ」
「当たるときもあれば外れるときもある」
「まったくなあ、三年前は一本買いで、スイートキングとトキノキンテキを仕留めたんだ。黒三角とばつ印で、それを一本買いでなあ」
競馬なんて当たることもあれば、外れることもある。もちろん外れることのほうが多く、だからこそ三年前に当てた天皇賞の夢にすがり、今日も明日も馬券を買いつづけ、そうやっていつかは、男もおれも、外れ馬券の山でのたれ死ぬ。
おれは寝椅子を立って、もう一度シャワーを浴び、一応鏡の前で身なりをととのえ、サウナを出た。仮眠のせいで憂鬱の虫も鳴きやみ、日射しも秋の風も、剃った顎を心地よく撫であげる。
新宿から京王線と井の頭線を乗りついで、久我山に着いたのは、三時をいくらか過ぎた時間だった。そこからは二日間かよった道を歩く。こんな事件に首を突っ込まなければ、なんの変哲もない、閑静な住宅街の気だるい午後、ときたま道に、枝から離れた銀杏の葉が黄色く散ってくる。
例の家は相変わらず鬱蒼と静まり返り、背後にある背の高い杉の木が舗道にまでうそ寒い影を投げていた。あらためて眺めてみると、門扉の錆は思っていたより凄絶で、蝶番の金具にも取っ手の回転部にも、最近できたらしい新しい擦過痕が光っていた。
おれは周囲に視線を送ってから、肩で門扉を押し開き、素早く内側に身を忍び込ませた。玄関の戸を引いてみたが、もちろん鍵はかかっていた。
おれは家を横手にまわり込み、予想以上に広い裏庭に出た。雑草があたり一面を被い、その草もみんな黄ばんで、庭全体が死相のような景観だった。
台所らしい窓が裏庭に面していたので、そこから中を覗く。人の住んでいる気配はなく、おれは庭を点検しながら建物を一周し、入ったときと同様、素早く門扉をすべり出た。この家が空家であること、なん年か空家でありつづけたこと、あの男が三日つづけて家から出て来たこと、おれと夢子が男を尾行したこと、そしてその男が『自然死』したこと。それらのことが、どういう繋がりをもって、なにを暗示しているのか。あの女は事件にどういう関わりをしているのか。問題は増えるばかりで、謎は深まるばかり。解決の糸口もなく、おれに責任があるのかないのか、そんなことも分からない。いったい全体、この奇妙な事件は、おれまで巻き込んで、どこのだれが筋書きを書いているのだ。
暗澹とした気分のまま、住宅街を抜けて、おれは駅前の商店街に出た。たそがれた商店街に夕方の買い物客が行き交い、騒がしくもなく、侘しくもなく、盛り場とは異質な都会の顔を見せていた。おれは酒屋でタバコを買ったついでに、自転車の荷台に酒瓶のケースをくくりつけている若い店員に声をかけた。
「ちょっと訊きたいんだけどな」
「俺、忙しいんだ」
「見るからに忙しそうだ」
「なんだか知んねえけど、道ならよう、交番で訊いてくれよ」
虫の居処が悪いのか、それとも頭が悪いのか。たぶん酒屋の店員という職業が、この若い男にとっては我慢ならないのだろう。
「ビールのロング缶はいくらかな」
「三百円さ、それがどうしたい?」
「道以外のことなら教えてくれるか、試してみた」
「ねえ、なんだってあんたら、酒屋が近所をぜんぶ知ってると思うんだい。なん丁目のどこになんていう人が住んでるか、どうして俺がそんなこと、知らなきゃいけないんだよ。新しい人が越して来たからって、ぜんぶ俺んところへ挨拶に来るわけじゃないぜ。酒屋は酒を売る、お巡りは道を教える、それでいいじゃねえか。酒屋がお巡りの商売にまで口出しする必要、ぜんぜんないと思うけどよう」
「たいしたもんだ」
「なにが」
「ちゃんとした哲学をもってる」
「それほどでもないよ」
「ところで、ビールのことなんだがな」
「ビールを買うのかい」
「いいや、訊くだけさ」
「訊いただけじゃ味は分からないぜ」
「今日は二日酔いだからな、味まで分かる必要はないんだ」
「ビールのなにが訊きたいんだよ」
「変わったことがないかと思ってさ」
「今のところはないね、来年になれば値あがりするけど」
「本当かよ」
「本当さ。来年になりゃ酒税があがるんだ。メーカーは酒税の分を小売り価格に上のせするんだけど、買うほうにとってみりゃ、要するにビールの値段があがるってことさ」
「いいこと聞いた」
「そうかい」
「値あげの前にビールの飲みだめでもしよう」
「それがいいね。さて、用がなきゃ俺、行くよ」
酒屋の店員が自転車のスタンドを蹴りあげ、サドルに跨《またが》って、おれのほうにちょっと、面倒臭そうに顔を向けた。
「あんた、本当にそんなこと、訊きたかったのかい」
「もちろんさ。それと、ビールを不自然にたくさん買う男のことをな」
「そんなことか」
「そんなことさ」
「いるよ、そういう人。毎日ビールのロング缶を一ケースずつ買っていくんだ。一ケースって二十本なんだけど、それを毎日さ」
「毎日、ビールのロング缶を、一ケース……か」
「一丁目の吉田さん家《ち》」
「うん?」
「あそこの旦那、変わりもんでね」
「ふーん」
「ロング缶を二十本っていや、かなりの重さだぜ。それぐらいだとうちじゃ配達するんだけど、あの旦那、配達料を惜しんで自分で運ぶんだ。このあたりじゃ一番の金持ちなのにさあ」
「世の中には、いろんな主義の人間がいるもんさ」
「そういうことだよね。ビールなんか飲む奴もいて、配達する奴もいて、それで社会が成り立ってるわけさ……さて、俺、本当に行くよ」
店員が足の甲でペダルの位置を変え、肩と腰に力を入れて、声を出しながら自転車を住宅街の方向へ向かわせた。
「ほかに変わった人間は?」
「最近じゃ、あんたが一番変わってるさ」
「………」
「ねえあんた、今度二日酔いじゃないとき、うちのビールを飲んでみなよ。他の店のとは味が違うからさあ」
礼を言う間もなく、店員の自転車は遠ざかっていき、ひょいと角を曲がると、もうそのまま見えなくなっていた。なるほど酒屋は酒を売ればいいわけで、油まで売る必要は、どこにもないのだった。
おれは買ったばかりのタバコの封を切り、中身を取り出して、火をつけた。寒いというほどでもなく、しかし十月も下旬を過ぎれば風に冬の匂いが混じってくる。駅のそばには井の頭通りが走っていて、クルマの喧噪が夕方の気配を色濃く伝えてくる。
久我山という町は、田園調布や下北沢ほどではないとしても、郊外の住宅地としてはまず高級の部類とされる。アパートを借りるならともかく、家を建てようとなれば、おれなんか死んでも縁のない土地だ。さっき見てきたあの家は、その高級住宅地にあれだけの広さを占めている。門の前から見た以上に、信じられないほどの奥行きをもっていた。建坪は四、五十、敷地全体では三百坪ちかく、久我山に三百坪の土地とは、いったい、どれほどの価格になるものか。
おれはタバコをくわえたまま、酒屋のとなりの不動産屋に歩き、そこのガラス戸に貼られた案内チラシを眺めてみた。
アパート、マンション、貸店舗、借家、売家、売土地と、それぞれの物件ごとにチラシの紙が色分けされている。その中の一枚が『売家、築十五年、敷地三十坪、建坪二十五坪、六畳二、四・五畳一、台所、風呂、便所。六千四百万円』と、つまり三十坪で六千四百万円の値がついているのだ。
その周旋《しゅうせん》屋は畳三枚ほどの狭くて細長い店で、カボチャのような顔に勘違いでもしたかと思うほどに厚化粧をした女が、一人でぽつんと店番をしていた。
入っていって、おれが声をかけた。
「六丁目の空家のこと、おたくで分かるかな」
「六丁目? ただ六丁目といったって……」
女がおれの風体を、じろりと値ぶみし、うしろの棚に手をのばして、机に大判の地図を取り出した。
「座っていいかな」
「勝手にしたら」
おれは壁に押しつけてある粗大ゴミのようなソファに、深く腰をおろし、足を組んで新しいタバコに火をつけた。
「ええと、六丁目のどの辺?」
「駅前の道を十分ほど北に行ったところの、うしろに高い杉の木がある家」
「ああ、あの家……」
女が呆れたように地図を閉じ、顎を机についた頬杖にのせて、近眼のように目を細めた。
「大谷石の塀に、古くで高い鉄の門がついている家?」
「そう」
「あれ、売りに出てないのよ」
「空家みたいだがな」
「空家でも売り物じゃないの」
「持ち主は?」
「それが、あれは、ちょっと訳ありなのよねえ」
「幽霊でも出るか」
「そんなものが出れば幽霊ごと売ってやるわ」
「それなら?」
「社長がいれば詳しいことが分かるけど、今日は夜まで帰ってこないのよ……待ってみる?」
「いや、売り物でなければいいんだ」
「この辺で家を探しているの?」
「探しても買えないさ」
「アパートならあるわよ、今が一番物件が多いときなの。来月になればもう学生が動き出すから、部屋を探すなら今が一番だわ」
「昔は学生が動くのも二月だったのにな」
「まったくねえ、今じゃ十一月に入ったとたんに動くんだから。それも四畳半なんて見向きもしない、最低でもワンルームマンション形式のやつね。お風呂がないだけで最近の学生はいやがるの」
「そういう時代なんだろう」
「だけどこの辺でワンルームなら八万五千円が相場なのよ。分かる? 学生が八万五千円の部屋だって、あたしの部屋だって五万八千円なのに」
「部屋なんか、眠れて雨が漏らなきゃいいのにな」
「東京で暮らしてなにが無駄かって、部屋代ぐらい無駄なものはないわよねえ」
「おたく、ここには長いのか」
「もう五年かしら、でも年が明けたらやめるつもり。やめて田舎に帰るの」
「田舎はどこ?」
「栃木、宇都宮からバスで一時間ぐらい行ったとこ」
「田舎で百姓でもやるか」
「結婚するのよ。先日《こないだ》お見合いしてね、相手は二度目で子供がいるんだけど、それだってあたしなんかにはお似合いだわよ」
「結婚するのもいいさ」
「いつまで一人でいたって仕方ないものね。あんた、奥さんいるの?」
「あいにくな」
「いつかは結婚するんでしょう?」
「縁があればさ。それで、おたくがここにいた五年の間、あの家はずっと空家だったのか」
「よく覚えてないけど、たぶんそうだったと思うわ」
「前の持ち主は分かるかな」
「駄目じゃないかしら。だって、あの家……」
「訳あり……か」
女が目の端と口の端に、怖いほどの皺を浮かべ、太く塗ったアイシャドゥの向こう側から、笑うようにおれの顔を盗み見た。
「買うわけでもないのに、なんであの家のことが知りたいの」
「こっちも訳ありでさ」
「あたしには関係ない?」
「そういうことだ」
「あんた、ヤクザ屋さんには見えないけどね」
「つまり……」
「そういう噂よ、なにしろあの場所にあれだけの土地でしょう。バブルが弾けたからって田舎の山林とはわけが違う。うちの社長も一口のろうと首を突っ込んだけど、まるで駄目みたい」
「暴力団が絡んでる、と?」
「半年に一度ぐらい名義が変わるのよ。法務局の線から追いかけても、持ち主はみんなペーパーカンパニーだって」
「買うとしたら?」
「そうねえ、買うとしたら……」
机の上で大判の区画地図を開き、ページをめくってから、口をゆがめて、女がふんと鼻をならした。
「あの物件、意外と奥が広いのよね」
「土地だけで三百坪あるだろう」
「三百坪? それなら九か十ってとこかしら」
「九億から十億?」
「古い家なら無いほうがいいわよ、壊し代にお金がかかるもの」
「バブルの時代なら二、三倍はしたろうな」
「そんなものかしらね」
「暴力団……か」
「だからね、このあたりの不動産屋、あの物件にはどこも手を出さないのよ」
「残念な話だ」
「あんたもせいぜい気をつけることだわ」
「おれはA型だしな」
「家庭的という意味?」
「臆病なほど慎重だという意味さ」
「慎重が一番だって。それよりあんた、本当にアパートを借りる気ないの」
「どうにか雨露はしのいでる」
「もったいないわねえ、部屋を探すなら今が一番なのにねえ」
灰皿でタバコをつぶし、欠伸を我慢して、おれは席を立った。
「部屋を替わる気になったらまた来よう」
「気にしないで。年が明ければどうせあたし、ここにはいないんだから」
「君がいなければ、おれもこの店に用はないな」
「嬉しいこと言っちゃって」
「君が田舎に帰って結婚するなんて、東京の独身男には残酷な話だ」
「お世辞なんかいらないわよ」
「まあな、それじゃ、幸せに」
「ありがとう……いったいさあ、あんたがなにをしに来たのか、まるで知らないけどさ」
おれは乗るつもりのないバスを見送るように、女に手をふり、急ぎもせずに不動産屋を出た。家賃五万八千円のアパートに住み、こんな不動産屋に勤めて一人暮らしをつづけても、たしかにそれほどの意味はない。それなら田舎に帰って見合い結婚することに、どれほどの意味があるのか。詐欺まがいの業界新聞で日々をごまかすおれの人生に、なんの意味があるのか。意味のある人生と、意味のない人生に、だれが、いつ、どこで、どうやって区別をつけるのか。
秋の日は呆れるほど早く暮れていく。街灯のともりはじめたうす闇の中に、駅から仕事を終えた勤め人が単調に吐き出されて来る。バブルが弾けたせいか、学生やOLの中にちらほらと中年男が顔を覗かせる。男も四十を過ぎれば、家へ急ぐ足に人生への安堵と諦めが混じり合う。おれがどこかに放り出してきた生活の重みで、私鉄沿線の夕暮れどきは一時、空しく暖かく、息苦しく賑やかになる。
おれは駅まで人波と逆に歩き、売店でタブロイド紙を買ってから、こぢんまりと並ぶ券売機に新宿までのキップを買いに行った。活気も混雑もなく、この時間に券売機を使う人間は幾人もいなかった。
キップを買って、改札の方向に足を向かわせたとき、おれの目の隅を、一人の男が顔を隠すように券売機へ歩いて行った。背広は明るい紺色、茶と黄の派手な横じまのネクタイをしめ、七、三に分けた髪の形が、どことなく東南アジア系の感じを思わせる。気のせいか、うす闇のせいか、昼間サウナで中年男に話しかけていた、あのニンニクが臭うような男に似ていた。
おれはわざとゆっくり改札を通り、男をじゅうぶん引きつけ、気づかぬふりで上り線のホームに出た。男はななめうしろの角度から、おれとは二十メートルほどの間隔をおき、柱にもたれて大判の新聞を開いていた。偶然サウナで同室になり、そしてまた偶然、駅のホームで同じ上り電車を待っているだけなのか。それとも今ここにいる男は、昼間の男と似ているだけの、まったくの別人なのか。
ホームに電車が入って来て、おれが車輪のまん中に乗り込み、男も同じ車輌のうしろ乗降口に乗って来た。そこでもまた躰を半身に構え、背中と新聞でうまく顔を隠していた。偶然にしては、おれと男との間隔が、あまりにも、不自然なほど一定すぎる。
駅をいくつかやり過ごし、明大前でその電車をおりた。男もおりて来て、やはり距離を保ったまま、おれたちは地下道から京王線のホームに出た。二十メートルの間隔もそのまま、男はななめうしろで半身に新聞を開きつづける。尾行なのか、ただの偶然なのか、判断は難しい。近寄って男に訊けばいいわけだが、間違いだったらそれまで。とぼける気なら、いくらでもとぼけられる。それに尾行を請負ったおれが尾行されるなんて、腹が立つより、不気味さのほうに毛穴が寒くなる。
京王線の上り電車が入って来て、おれが乗り込み、男も同じ車輌の離れたドアに身をすべらせた。井の頭線のときとまったく同じ位置、尾行だったら芸がないし、偶然だとしても、こういう男とは、金輪際友達になりたくない。
電車は代田橋で止まり、次の笹塚でも止まった。おれはそこでおりて、向かいホームの新宿線に歩いて行った。男がついて来ていることは分かっていた。乗った車輌も以前と同じ位置、おれが一番前、男が一番うしろ。おれがホーム側のドアの前、男が逆方向のドアの前、おれがタブロイド新聞を開き、男も顔の前で大判の新聞を広げる。
発車のベルが鳴って、なん人か小走りに車内へ駆け込んで来た。ドアが閉まりはじめ、一瞬、おれが躰を横にすべらせた。ドアが閉まりきったときには、おれはホームに立って、車輌の中で大きくふり返る男の顔を眺めていた。その男は間違いなく、サウナでスポーツ新聞を読んでいた、三年前にスイートキングで天皇賞を当てたとかいう、あの脂っぽい皮膚をした男だった。
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たぶんおれは疲れていた。歳のせいか屈託のせいか、しかしもともとタフな体質ではなく、そのぶん破滅的な性格でもない。おれが疲れたのは気分のせい、とくに今度のようにたった四日でスペンサーの一年分ぐらいの出来事にぶつかると、おれは意気地もなく疲れてしまう。こんなときは三、四日ぶっとおしで眠りつづければいい。眠っている間に頭が勝手に問題を整理し、目覚めたときにはジグソー・パズルがかっちりと嵌まり込んで、あとは楽な気分でコーヒーでも飲めばいい仕組みになっている。
本心からそうするつもりだった、『火星人の罪』の前に来るまでは。
その扉を押してしまえば、事件の他にもう一つ問題を背負うことは分かっていた。それは夢子との関係について、おれが自惚れをもった、という意味ではない。できるかぎり先に延ばしたい結論を、無理に出さなくてはならない自分が不安であり、理屈や強がりを言いながら、要するにおれは、夢子が怖かったのだ。
夢子はいつものとおり、いつものカウンターに腰かけていた。片隅の暗い照明の中、淡々とトランプの一人遊びをつづけている。おれの顔は柄にもなく熱っぽく、普通に近寄って気楽に声をかけるという手順が、我れながらひどく欺瞞《ぎまん》的だった。
「いや味な性格……」
「うん?」
「起こせばコーヒーぐらい入れたのに」
夢子の口はまるで腹話術で、おれはその低い声を聞きながら、居心地悪くとなりの椅子に腰をおろした。
「なぜ黙って出て行ったの」
「行ってまいります、とは言えなかった」
「気取っただけ?」
「まあ、そうかな」
「気取っても似合わないわよ」
「状況によっては見栄を張ることもあるさ」
夢子が広げていたトランプを一つにまとめ、丸いメガネを右手の中指で、ちょっと押しあげた。
「飲む?」
「うん」
「そのうち躰をこわすわね」
「おれが健康だったら、堅気の勤め人に申し訳ないものな」
愛想もなく笑って、夢子が肩をすくめ、カウンターの中のバーテンに、白くメガネを光らせた。
「今日は早じまい、タカユキくんも上がっていいわ」
バーテンがうなずいて、表の電気看板を消しに行き、それからバーテンと一組の客が帰るまで、夢子は黙ってトランプの一人遊びをつづけていた。その間おれにも話しかけず、広げたトランプが『完成』に行き着くまで、一人ごとも言わなかった。
店の中に静寂が定着し、ジャズのBGMがふくらんで、トランプを完成させた夢子が怠《だる》そうにボリュームを下げに行った。そのまま夢子はくぐりをとおって、カウンターに入り、並んだグラスや酒瓶を無表情に眺め渡した。夢子がカウンターに入ったのを見るのは、この一年間で初めてのことだった。
ふと顔をあげ、呆れたように唇をすぼめて、夢子が訊いた。
「なにか食べる?」
「うん……」
「この店、碌《ろく》なものがないみたい」
夢子が差し出したのはワイングラスに盛ったバターピーナツ、これだって食べ物だと言われれば、違うとは言い切れない。おれは腹がへっていたのを思い出して、そのバタピーをぼそぼそと齧《かじ》りはじめた。
「ん、まいったな」
「なあに?」
「ピーナツが虫歯にはさまった」
「歯医者には行ってるの」
「いいや」
「行きなさいよ」
「そのうちな」
「二日酔いなら自然に治るけど、虫歯は歯医者しか治せないわ」
夢子がカウンターにグラスとバーボンの瓶を置き、くぐりを抜けて、またおれのとなりに戻って来た。今日の衣装は珍しくテーラードのパンツスーツ、パッドの入った肩とグレーのブラウスが、困るほど大人っぽい。
「わたしもね、本当は今朝、目がさめていたの」と、アイスペールの氷をグラスに移し、ウィスキーの瓶をかたむけて、夢子が言った。
「そうか、歯ブラシを借りればよかった」
「なにが気にくわないのよ」
「おれが?」
「だから黙って行ったんでしょう」
「まさか」
「それなら、どうしてよ」
「今日は天気が良かった」
「ふーん」
「天気がいいと、おれは、寝てる人間を起こさない癖がある……それだけのことさ」
おれは夢子が注いでくれたバーボンの色を、感激して眺め、その感激と野生的な酒を、一緒に咽の奥へ放り込んだ。焦臭い刺激臭がおれの閉塞感を愛撫し、背中にじんわりと安らぎを拡げてくる。
「君みたいな有名人にウィスキーを注いでもらうだけで、おれは感激で顔が赤くなる」
「いや味な性格……」
「お袋もそう言っていた」
「当然だわね」
「もしおれに欠点があるとすれば、それは僻《ひが》みっぽいところだとさ」
おれは注ぎ足されたウィスキーを、今度は節度をもって口に含み、ていねいに舌の先でころがしてみた。おれの部屋にある安物のバーボンとは、やはり味が違う。ワイルドターキーも十二年ものになれば、荒っぽさの中にそれなりの品位が混じってくる。
「これからどうするの」と、オン・ザ・ロックにした自分のグラスを、長い指で包み、カウンターに肘をかけて、夢子が言った。
「オーストラリアに牧場でも買うさ」
「その意見には賛成だけど、わたしが訊いてるのは事件のこと」
「それはおれの問題だ」
「わたしの問題でもあるわ」
「古女房みたいな言い方だな」
「古女房がどんなものか、知りもしないくせに」
「映画でよく観る」
「映画は二時間で終わるけど、現実は永遠につづくものよ」
「結婚したことがあるのか」
「あるわ」
「ああ、そうか」
まったく、自分が三十八にもなっていなかったら、おれは椅子から跳びあがり、ついでにカウンターの上で宙返りでもやっていた。おれは肝臓のあたりを馬に蹴飛ばされたような気分で、風船玉がしぼむように、ぐずっと自分自身の中に崩折れた。
「子供も一人いるわ」
「昨夜は見かけなかった」
「実家にあずけてあるの、この前の誕生日で三つになった」
「誕生日は、いつ?」
「七月四日」
「アメリカの独立記念日だな」
「関係ないでしょう」
「それはそうだ……それで、相手とは?」
「別れた」
「二年前に?」
「そう」
「みんな知ってることなのか」
「向こうの家族とわたしの家族と、なん人かの友達と、それからたぶん、わたしの子供と……」
夢子が結婚したことがあって、三つになる子供まであって、そして二年前に離婚したことなど、テレビでも週刊誌でもやらなかった。夢子に処女だと告白されても困るが、だからって子供までいる必要が、どこにある。それによりによって、わざわざアメリカの独立記念日に子供を産む必要が、どこにあるというのだ。
「ええと、その……」と、咽を好きなだけバーボンに焼かせ、熱くなった首をシャツの襟にうずめて、おれが言った。「子供の名前を、聞いていなかった」
「クリント」
「クリント?」
「お洒落でしょう」
「ん……相手の男は?」
「イーストウッド」
おれは十秒か十五秒、口を開けて、間違いなく、ぽかんと夢子の顔を眺めていた。
メガネを外して、唇をうすく笑わせ、髪を払うように、夢子が目を細めておれの顔を覗き込んだ。
「なあ、夢子……」
「なあに」
「今の話、冗談か」
「冗談よ」
「いくらなんでも……」
「質が悪い?」
「ものには限度がある、冗談にも種類がある。おれは本気で、肝臓を悪くした」
握っていたグラスが、カウンターにいやな音をたて、氷とウィスキーが同時に、大きくこぼれ出た。夢子の頬に平手打ちでもあびせたかったが、おれにそんな権利がないことは、夢子の目が冷静に物語る。
夢子が黙って席を立ち、カウンターに入って、こぼれた氷とウィスキーを淡々とダスターで拭き取った。夢子の指にリングはなく、爪にもマニキュアはなく、長い指には関節も浮かんでいなかった。
おれのグラスに氷とウィスキーを足し、カウンターに入ったまま、胸の前に腕を組んで、夢子がほっと頬をふくらませた。
「なぜか、思わず、気が立った……」と、ダスターに置かれた夢子の指を眺めたまま、グラスを引き寄せて、おれが言った。「その代わり今までのつけ[#「つけ」に傍点]は、みんな清算する」
「珍しいわね」
「おれだって勤勉な一般市民だ」
「無理しなくてもいいのに」
「オーストラリアに牧場を買ったら、牛の一頭もプレゼントするさ」
「そんな甲斐性、本当にあるの」
「夢も見つづければいつかは叶う」
「当てにしないで待ってるわね」
「友達は金持ちにかぎるな。とくに金持ちの女は、包容力が大きい。お袋が……」
おれが思い出したのは、お袋の台詞ではなく、夢子の過去と、その過去に関する、おれ自身の過去だった。
「なあに?」
「いや……そういえばあのころ、おれは毎日あのカレーを食っていた」
「親父が聞いたら泣いて喜ぶわ」
「君の親父さん、あの会社の社長だったよな。おれが最初に君を見たのはカレーのコマーシャルだった。おれは一週間ぶっとおしであのカレーを食った。袋を湯で温めるだけ、味も三種類で、おれも若かった……もう十年も前のことだ」
おれは頭の中で、なんとなく電卓を弾き、それから意味もなく、ひゅっと口笛を鳴らした。
「そうか、あれから、十年か……」
おれに十年の時間がたっていれば、夢子だって同様の時間を重ねている。夢子がデビューしたのは十八のとき、その逆算が、思わずおれを驚愕させる。『女は化け物』というお袋の戒めを、人生を賭けて、おれはゆっくり噛みしめた。
「とにかくね、わたしのほうは……」と、カウンターからメガネを取りあげ、立ったままおれの顔を見おろして、夢子が言った。「田沢さんが競馬をやってる間、あの男を尾行して死ぬところまで付合った。事件のことを詳しく知る権利があるし、事件を解決する義務もあると思うわ」
「君、メガネ、どうしてもかけるのか」
「………」
「同じ酒ならいい女と飲みたいけどな」
夢子がピーナツをつまんで、視線を怒らせ、そのピーナツをおれの顔に、ぱちんと弾きとばした。いい女にかぎって冗談が通じないという原則があるにしても、おれの迂闊さから事件に巻き込んでしまった以上、今さら夢子の締め出しは不可能だ。問題は距離の程度、火のそばに寄っても、火傷《やけど》しないだけの距離なら構わないということか。
女との経緯は避け、事件の事実関係だけを、とにかく、おれは夢子に説明した。あの女のことを話したくても、名前すら知らないのだ。
「殺された男、なんといったかしら」と、しばらく腕を組んでから、眉間に気難しく皺を寄せ、鼻の先に気合いを入れて、夢子が言った。
「高野和夫」
「その男の身辺を調べる必要があるわね。家族とか、友達とか会社の同僚とか……」
「殺されたと決まったわけじゃない」
「そうなの?」
「死因は栄養失調と過労による衰弱死、この警察発表は信じていいと思う」
「そんなの、おかしいわ」
「おかしいと思っているのはおれと君だけさ、今のところはな」
「でもこれは殺人事件よ、少なくともそう仮定する必要がある」
「なぜ」
「わたしは死んだ男の顔を見たの。驚いたような、突然十年も歳を取ったような、へんな感じだった」
「死んだ人間の顔なんて、そんなもんさ」
「とにかくその線で捜査をすすめましょう、そっちのはわたしがやる」
「そっち?」
「被害者の調査。被害者の行動を徹底的に洗って、そこから同じような死に方をした人間を見つけるの。犯人はその共通線上に浮かんでくるわ」
「探偵小説では、そうだな」
「捜査は演繹法で、犯人の割り出しは消去法で。そうやればかならず事件は解決するものなの」
「こんな店はやめて、探偵事務所を開いたらどうだ」
「探偵事務所?」
「うん……や、ほんの思いつきだ」
「探偵事務所ねえ」
「冗談だ、忘れてくれ」
夢子の丸い目が、まんざらでもなさそうに鈍く光り、おれはバーボンを呷りながら、いやな予感を胃の奥に押さえ込んだ。いつも気だるくぼんやりしているくせに、『殺人』とか『探偵』とかという単語を聞くと、夢子は一気に鼻息を荒くする。
口の端をハードボイルドにゆがめ、不気味にウィンクをして、夢子が言った。
「そうと決まったら、田沢さんは資料を集めて」
「そうと決まったら……な」
「明日からは忙しくなるわ」
「おれは今でも忙しい」
「資料ぐらい集められるでしょう」
「なんの資料」
「不審なイキダオレの資料よ、新聞社や警察に顔がきくはずじゃない」
「そういうことも、なくはないが……」
東京の人口は千二百万、一日の行き倒れ件数も二十前後、十日前にさかのぼっただけで、もう二百件になってしまう。一カ月なら六百件で、そんな資料を集めて捜査の役に立つとも思えないが、夢子を火傷から守るには、ほかに方法も思いつかない。それにひょっとして、瓢箪《ひょうたん》から駒という可能性も、なくはない。
「わたしは公園で見た生き物も気になるわ」
「君のメガネ、度は合ってるのか」
「トイレから出てきたことは事実でしょう」
「見えたことと見えた気がすることとは、問題が別だ」
「火星にだって生物の痕跡があった、地球にエイリアンがいたっておかしくないわ」
「本気かよ」
「可能性はすべてチェックするの、捜査も科学も理屈は同じよ」
「俺の守備範囲にSF小説は入らない」
「アラブが絡んだスパイ小説も、ね?」
「なあ、夢子……」
「とにかく田沢さんは資料を集めること……被害者の住所は分かってるのよね」
おれは頭の中で渾身のため息をつき、しかし表情だけは冷静に、新聞社の杉原から聞き取ったメモを、軽くカウンターに差し出した。
「腹がへった、なにか、まともな物が食いたいな」
「あるのはピーナツだけ」
「ラーメンでも奢るとするか」
夢子がメモ用紙をつまみながら、音の出ない口笛を吹き、カウンターをまわって、少し猫背気味に店の電気を消しに行った。
その腰高のうしろ姿に、ひっそりと舌打ちをして、おれが言った。
「君、おれが競馬をやってたこと、どうして分かった?」
「推理の帰結よ。田沢さんが店のつけ[#「つけ」に傍点]を払うなんて、他にありえないわ」
「そんなもんかな」
「それに昨夜毛布をかけたとき、上着の内ポケットがへんにふくれていた。あのお金、もう銀行へ預けたの」
「今日は忙しかった」
「明日の朝一番で預けなさい、持ちつけないものを持つと碌なことがないから」
「うん、まあ……」
思わず頭を掻きながら、大股にフロアを歩く夢子の足に、奇妙な胸騒ぎを感じて、おれは肩の中に深く首を落とし込んだ。
「ええと、君、ミニスカートは穿《は》かないのか」
「どうしてよ」
「似合いそうな足をしている。それにたぶん、赤いハイヒールも似合う」
「ハイヒールをはいたら田沢さんより背が高くなるわ」
「そういう女と歩いてみたい。おれも新しい背広を買う、新しいワイシャツと新しいネクタイと、新しい靴と……ほかに注文は?」
「チャーシュー入りの醤油バターラーメン」
「うん……」
「ハイヒールをはいたら餃子も奢ってくれる?」
「なんでも奢るさ。前の日には床屋へ行って、歯医者で虫歯を治して、それからロールスロイスのレンタカーでも借りて、君のマンションにぴったり横づけしてみせる」
夢子が肩でふり返って、メガネの奥の目を半分ほど見開き、鼻先を上に向けながら、ゆったりと微笑んだ。夢子の歯は白くて粒がそろい、左の犬歯が少しだけ、小さい八重歯になっていた。おれは毎日髭を剃ることを心に誓い、新しいジャケットを買うことを誓い、よし、明日からは歯医者に通うぞと、自分と死んだお袋に、深く誓った。
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歌舞伎町の近くまで行って、おれたちはチャーシュー入り醤油バターラーメンを食べ、海老シューマイと肉餃子を、それぞれ一皿ずつ平らげた。勘定はおれが払ったが、夢子はミニスカートもハイヒールも約束しなかった。それから夢子だけをタクシーに乗せて、おれは歩いて事務所へ戻った。
躰は疲れ、神経は混乱し、しかし気分は不思議なほど平和だった。同じ疲れでも眠りさえすれば恢復すると、はっきりと予感のある疲れもある。生活に華やいだ雰囲気さえ流れ込めば、ほとんどの疲れは一晩で吐き出すことができる。人間恋をすれば風邪もひかないし、風邪をひいても寝込むほどの熱は出ない。四十にちかい歳になっても、男なんてのは勝手で気楽で、その程度に無邪気な生き物なのだ。
シャワーを浴び、前の晩に夢子が脱ぎ捨てていったパジャマに着がえて、おれはベッドの端に腰をおろした。事件も事件だが、明日のことは明日考えればいい。今のおれに必要なのはあと二、三杯のウィスキーと、最低七時間の睡眠だった。おれは放ったらかしのグラスに安ウィスキーを注ぎ、殺風景な部屋を反省しながら、ついでにちょっとだけ、自分の人生にも反省を試みた。
そのときドアにノックの昔がして、おれは反省の淵から、のっそりと腰をあげた。時間はまだ十二時、夢子がミニスカートをサービスする気になったのか、演繹法でも帰納法でもない、斬新な探偵技術でも考案したか。
気楽にドアを開け、そこでおれは立ちつくし、胸の動悸を誤魔化しながら、一気に人生の反省を再開した。シャワーを浴びたときに髭を剃り忘れ、おまけに髪はぼさぼさ、パジャマだってエンジェルフィッシュがプリントされた、奇妙に恥ずかしい代物だった。
幽霊を見たって、おれはそんなには驚きはしなかった。女がやって来るのは三日後の約束だったから、という理由だけではなく、おれが感じた驚きは、口では言えないような、ある種の感動に近いものだった。
「たぶんあなたは、部屋を間違えた」と、指で髪をなでつけ、精一杯肩の力を抜いて、おれが言った。
女が唇をすぼめて、少し笑ったが、それを自嘲の表情に見せたのは、女の顔全体を被う濃い疲労の色だった。
「間に合ったみたいね」
「まだ寝ていなかったかという意味なら、寝てはいなかった」
俺はうしろに下がって、女を中に入れ、女の乱れた髪やコートの裾を横切る太い皺に、苦く息を飲み込んだ。今回の出来事自体が不可解なパズル、もう一つくらい意味不明のカードが紛れたとしても、たいした変化はない。そうは思いながら、予想もしなかった女の出現に、おれの脳は軽い貧血を起こしていた。
女は放心したような顔で部屋の中を見まわし、つま先をこつこつと床に打ちつけ、それからやっとおれの存在を思い出したように、視線を固定して小さく肩をすくめてみせた。
「コート、脱いでもいいのかしら」
「コートの下は?」
「うす物のワンピースですけど」
「残念だったな。普通そういう台詞を言うときは、下は裸なもんだ」
おれはハンガーを持って来て、女からコートを受け取り、それを壁に吊して女のほうに向き直った。
女はウール地の青いワンピースを着ていて、疲労のせいか、ワンピースの色のせいか、顔色にも前回の華やかさは感じられなかった。
「ウィスキーでもやりますか。それとも、ビールか……」
「ウィスキーをオン・ザ・ロックで。氷、おありかしら」
おれは女を椅子に座らせ、何カ月も冷凍庫に眠っていた氷でオン・ザ・ロックをつくり、自分でもグラスを持って、ベッドの端に腰をおろした。こんな時間に、目に見えるほど憔悴して、まさか女が、おれの部屋へウィスキーを飲みに寄ったわけではない。
「例のこと、どこで知ったんです?」
「………」
「新聞には載らなかったと思うが」
グラスに軽く口をつけ、上目づかいに、女が言った。
「例の、なんのこと?」
「あの男が死んだ件ですよ。尾行していた男が殺された……それで来たんでしょう」
女の目は動かず、口も動かず、手の中のグラスだけが神経と共鳴するように、しばらく弱い振動をくり返した。頭の中でどんな想念が回転しているのか、たとえおれが話しかけても、女はディナーのメニューさえ隠しとおすだろう。
五分か、十分か、女がゆっくりと顎をあげ、眉間に皺を浮かべた色のうすい目で、直線的におれの顔を見返した。
「今、殺されたとおっしゃった?」
「君が聞いたとおりだ」
「なぜ殺されたと思ったの」
「理由はこっちが訊きたい」
「なにか知っている口ぶりね」
「君ほどじゃないさ」
「知っていることは話していただくわ、そのためにお金を払ったの」
「もう一杯どうです?」
「え?」
「ウィスキーですよ」
「ああ、そうね、ありがとう」
おれは空になっていた女のグラスに、多めにウィスキーを注ぎ、自分の胃にもストレートのウィスキーを流し込んだ。おれは半分うわの空、女のほうはたぶん、丸ごとうわの空だった。
「男の名前は高野和夫……」と、意識的にグラスを置き、タバコに火をつけて、おれが言った。「水道橋にある大島製薬という会社の総務係長だった、ここまでは、いいですか」
女はグラスを口の前に構えたまま、返事も、うなずきもしなかった。
「警察の発表では栄養失調と過労による衰弱死、これは信じていいと思う。ただ警察はなぜ男がそうなったのか、捜査はしてない。一般的な行き倒れで処理してしまった。ある意味では、仕方ないともいえるが……」
話しながら、おれは女の反応を注意深く観察していたが、女は感情を切れ長の目に押し込んだまま、うなずく素振りも見せなかった。
「尾行の結果報告をしましょうか、それともあとで、文書にするか……」
「ええ、そうね」
「どっちです?」
「今、聞かせていただくわ」
おれはベッドから腰をあげ、ウィスキーとタバコを両手に、女のまわりをゆっくりと歩きはじめた。そうしながら男の一日目から三日目までの行動、行き先、そして三日目の夕方に中央公園の便所で死ぬところまで、夢子の名前は出さずに報告をした。
「それにしても、やっぱり、おかしいわけさ」と、区切りのついたところで、タバコを灰皿につぶし、グラスにウィスキーを足して、おれが言った。「奴はビールを飲んでいた。キャラメルだのスナック菓子も食べ放題、それが解剖してみたら、胃は空っぽだという。死体がすり替えられた形跡もなし、君ならこの謎なぞを、どう解く?」
女は答えず、表情も変えず、相変わらず見事な足を、そっけなく組みかえただけだった。答えを摸索している顔なのか、答えを拒否している顔なのか、呼吸の音からも判断はつかなかった。
「男の勤め先が製薬会社だったというのは、ただの偶然だろうか……」
こうなったらもう、おれのほうが勝手に喋るしか、仕方はない。
「男は死ぬ直前までビールを飲んでいた、菓子も食っていた、胃袋を開いてみたら空っぽだった。男は製薬会社に勤めていた……製薬会社というのはいろんな実験をするもんだ。公表はしないが、どうせ生体実験もやっている。そのへんの事情は、おれより君のほうが詳しいだろう」
「田沢さん……」と、顔色に生気を取り戻し、声にもいくらか威厳を取り戻して、女が言った。「報酬の中に詮索料は含まれていないこと、最初に言わなかったかしら」
「ほんのサービスです。いい女に対しては、おれの本能がついサービスをさせてしまう」
女がつっと椅子を立って、目に爆発的な怒りを込め、髪をふりながら、グラスを辛辣におれの鼻先へ突きつけた。
「あなたにお願いしたのは、尾行だけだったはずです」
「や、だから……」
「百万や二百万のお金で、わたくし、そんなサービスまで期待しませんわ」
面くらって、女の視線に弾かれ、おれはだらしなくたじろいだ。外国の映画では女もよくこういう怒り方をするが、日本人の女がここまで断定的な怒りを見せるのは、あまり例はない。
自分の声が弁解がましくなるのを意識しながら、おれが言った。
「例の家のことも、少し分かった。ウィスキーを顔にかけないと、約束してくれるか」
女が椅子に戻って、諦めたように首をふり、ため息をつきながら、ふっと唇を笑わせた。
「今日、ちょっと、あの家を覗いてきた。建て坪のわりには裏庭が広い、そして少なくとも五年以上は空家になっている。所有者は分からないが、暴力団が絡んでるという噂もある。土地だけでも価格は十億前後、地元の不動産屋は手を出さない。この線を突っ込めというなら……」
「必要ありません」
「しかし……」
「サービスも好奇心も、あなたの本業にお使いください」
女は椅子の中で、かたくなに足を組みつづけ、ガラス玉のように動かない目は部屋の汚れた壁を、いつまでも暗く、単調に映していた。
「あなたにお願いしたのは尾行だけ、もう仕事は終わりました」
それから女は、椅子の中に深く背中をあずけ、乱れた髪をととのえながら、黙ってグラスをかたむけた。女が初めて事務所に来た日の、あの傲然とした美しさは、どこへ行ったのか。目は尊大な自信に輝き、髪も足もひたすら豪華で、吐く息にもおれを圧倒するような芳香が匂っていた。あの日女は、おれを、そして世界中の男を、自分の足元に、完膚なきまでに見くだしていた。たった四日の間に、女はあの自信と傲慢さを、どこへ置いてきたのか。
鈴の音のようなものが聞こえ、おれは意識を今の時間に戻し、うしろから、二、三歩女の前にまわり込んだ。女の空になったグラスの中で、三つの角氷がこまかく震えていた。おれは黙って女のグラスにウィスキーを注ぎ、女も黙ってウィスキーを飲みほした。
おれがもう一度ウィスキーを足すと、女は初めておれのほうに顔をあげ、かすかに、ちょっと、戸惑ったように微笑んだ。その顔には笑っただけでは誤魔化せない、濃い疲労がただよっていた。それでも女の美しさに変わりはなく、女の顔がどれほど翳《かげ》っていようと、やはり一等賞をやりたいほど、完璧な美しさを保っていた。
「そっちのカードを、少しだけ……」と、タバコの箱を取りあげ、それをすぐ机に放って、おれが言った。「カードを少しだけ、開いてみないか。気分が楽になるかも知れない」
「残念ながらね、ワン・ペアもできていないのよ」
「今日、おれが、尾行された」
「そんな……」
「妙な気分だ。尾行するのはおれの役まわりのはずなのに」
「気のせいでは?」
「おれは尾行されることに慣れている、こういうことで勘違いはしない」
女の目の色が深くなり、眉間のたて皺も深くなって、おれが尾行を受ける風景が、頭の中で明確な映像を結んだようだった。
「相手は?」
「心当たりがあるのか」
「どんな男だったの」
「男だとは言っていない」
「女ではないでしょう」
「それは、そうだ」
「人相は? 日本人?」
「君には日本人と中国人の区別がつくのか」
「とにかく、どんな男だったのよ」
「背はおれぐらい、肉づきもふつう、明るいブルーの背広に茶と黄のストライプネクタイ。脂っぽい皮膚で、顔に特徴はなかったが、もしかしたら日本人ではないかも知れない。顔の問題ではなく、匂いが……」
「髪の毛を七、三に分けて?」
「うん……」
「歳は三十ちょっと」
「お友達か」
「いえ……」
女は顔色も変えず、おれの質問も無視する態度も、やはり変更する意思は見せなかった。
「尾行をされて、あなたはどうしたの」
「まいて来たさ、知らない人間に背中を見られるのは好きじゃない」
「その心がまえ、忘れないでね」
「君子あやうきに近寄らず、か」
「え?」
「ことわざさ」
「そう、あなたって、見かけによらず物知りなのね」
女もまさか、こんな中学生みたいな諺を知らないはずもないが、状況からして、たぶん他の問題に思考を巡らしていたのだろう。
おれは女の手からグラスを取りあげ、冷蔵庫に行って新しい氷を入れてから、戻って来て、またベッドに腰をおろした。おれの酩酊は頭の芯にまでとどかず、女の顔にも酔いの気配は見えなかった。
息苦しくなって、とりあえず、おれは話題を変えることにした。
「君が来ると分かっていれば、パジャマなんか着ていなかった」
女はしばらく、ガラス玉のような目でエンジェルフィッシュのプリント模様を眺めていたが、突然記憶の回路がつながったらしく、目尻に屈託のある笑いを浮かべてみせた。
「明日は床屋に行くつもりだった。背広も新調して、君を最上等のディナーに誘うつもりだった」
「最上等の夜景と一緒に?」
「東京で一番高いビルにあるレストランに行って、一番高いワインを飲んで、仔牛のクリームソース煮と舌平目のムニエルを食って、キウイとアイスクリームとショートケーキとコーヒーのデザートを食う……背広を作るまで、待ってもらえるか」
女が口の中でくすっと笑い、自分の子供でも見るような目で、おれの顔を真摯に見つめ返した。
「余計なことだけど、訊いていいかな」
「訊くのは余計なことだけにしてね」
「君は指輪の似合う指をしている」
「それが質問?」
「そう」
「光栄だわ」
「なぜ指輪をしていない?」
「あなたを叩いたとき頬に傷をつけないように」
「ネックレスもイヤリングもしていない。君の彼氏は、光り物を嫌うのかな」
「いつもそうやって女を観察するわけ?」
「特別な場合だけさ、特別に観察する価値のある相手だけ。これも本能のサービスだ」
女の表情に軽い寛ぎが浮かんだが、目の色は相変わらず暗く、無理に笑った唇の動きにも傲慢な美しさは戻らなかった。
「わたくしも質問していいかしら」
「美人は生まれたときから、男に質問をする権利を持っている」
「あなた、なぜ、こんなお仕事を?」
「世間の役に立つ生き方というのが、どうも気にくわない」
「それだけの理由で?」
「自分が善人でないことも知りすぎた」
「結婚は?」
「質問の量が多すぎるな」
「ただの世間話よ」
「そうか、君みたいな美人でも、世間話が好きなわけか」
「お酒も飲むしセックスもするわ。男には女のことが分からない、女には男のことが分からない……その混乱と不安が、日常をドラマチックに装わせるの」
女が言葉を飲み込んで、一人で勝手に笑い、そのままハンドバッグに手をのばして、中から細いメンソールのタバコを取り出した。手の甲にはうすい痣《あざ》があり、首筋と手首の内側には青く静脈が透けていた。装飾はロレックスの腕時計だけ、ハンドバッグは黒のニナリッチだった。女がなぜ約束の日より三日も早く、それもこんな時間にやって来たのか、おれにはやはり、まるで理解できなかった。
女は淡々とタバコを吹かしつづけ、おれの汚れた殺風景な部屋に、その青い煙が場違いな優雅さをただよわす。タバコも、女も、女がおれと向き合っている風景も、すべてが場違いで、この状況が可笑《おか》しいのか悲しいのか、おれにはよく分からなかった。
「君、もしかして……」と、女のやつれた頬と手の痣を眺めながら、へんに切なくなって、おれが言った。「躰の具合が、悪いのか」
「いえ……」
「顔色が悪すぎる」
「それは……」
おれはグラスを持ったまま、女の前に歩き、腰をかがめて、その広い額に軽く手を触れてみた。熱はなく、抵抗もなく、女が本当に生きているのか、疑いたくなるほどの冷たさだった。
おれは女の額に手のひらをのせつづけ、女は目を閉じつづけ、場違いな風景の中で場違いな関係が、粛々と進行した。女は首も肩も払わず、おれは女の乾いた唇を眺めつづけ、この行為の妥当性について、思考を放棄した。女がなぜおれの手から逃れないのか、考える気にもならなかった。
「もうなにも訊かない。大人の常識で、質問を我慢する」
女が顎を上向け、うすく目を開いて、無表情な目を暗く潤ませながら、おれの顔に温かい息を飛ばしてきた。おれの膝から力が抜け、唇が女の唇に重なり、口紅のはげた女の唇が、強くおれの唇を吸い込んだ。女に舌を噛み切られても、股間を蹴りあげられても、文句を言える場面ではなかった。しかし女はおれの唇を避けず、自分のほうから舌を使い、悲しみを舐めまわすように、無心におれの唇を吸いつづけた。
人生には『まさか』と思うような出来事が、三度はあるという。幸か不幸か、おれはこれまでの三十八年間、一度もそんな目に合わなかった。今回の出来事は間違いなく、第一回目の『まさか』だ。今まで客席から眺めていた映画の中の人物に、自分が瞬間的に入れ代わってしまった、そんな夢とも現実ともつかない浮遊気分。主演女優の背中に腕をまわし、現実に唇の感触を味わっている。おれの舌は女の歯並びを確め、二種類の唾液を混ぜ合わせ、ひたすら乾いた陶酔を観察する。おれの人生にもこうやって奇蹟は降りそそぎ、そしてその奇蹟は、今回を別にして、あと二回も残っている。
二つのグラスが床に転がり、おれは女の躰をすくいあげ、ベッドに運んで、その上に自分の躰を投げ出した。頭の中で『せいぜい用心することだね』というお袋の声が聞こえたが、だからってせっかくやって来た奇蹟を、たとえ地獄を見ようと、途中で辞退はできなかった。
おれは無言で女の服をはがし、女の股間に、無言で自分自身をもぐり込ませた。女も無言でおれを迎え入れ、古い床に安いベッドの音を、無感動に響かせた。おれは女の温もりにだけ神経を集中し、女も屈託なく躰を開きつづけた。永遠に交わっていられるかと思うほど、二枚の皮膚は安定したリズムでこすれ合った。
呼吸が鎮まるのを待って、甘い脱力感を楽しみながら、おれが言った。
「男なんて他愛のない生き物だ。となりにいい女がいるだけで、人生に要らぬ希望を持ってしまう」
「懐疑論者なのね」
「男は痩せた犬。女という座標軸を中心に、いつも息を切らして走りまわる」
女がおれの顎の下に顔をうずめ、足を絡ませながら、唇でそっと、おれの汗を吸い取った。
「女だって走ることはあるのに」
「いい女は走らない。もし走る女がいるとすれば、男みたいに惨めな女だけさ」
「そんな先入観、どこで仕入れたの」
「お袋というのが哲学者で、生活に格言をあてはめる趣味があった。今から考えると、首をかしげるのもたくさんあったけど」
おれはタバコに火をつけ、二口吸ってから、それを女の口にくわえさせた。間近で覗くと、女の目は深い灰色だった。
「君の名前を知りたいな」
「嘘を教えてもあなたには分からないわ」
「嘘でもいいさ」
「嘘を言うのは嫌いなの」
「人生のすべてが嘘でもか」
「そう」
「今夜、なぜここへ来た?」
「ほかに行くところがなかっただけ」
「岩崎との関係は?」
「さあ……」
「奴が君におれを紹介したことは分かってる」
「知らないわね、そんな人」
女が肩をまわしながら、タバコを床に放り、絡めていた足に力を入れて、またおれの腰を引き寄せた。
「あなたのことを話して」
「君の知ってるとおりさ」
「懐疑論者で、律儀でマザコンで、女たらし?」
「世間では政治ゴロともいう」
「似合わないみたい」
「オーストラリアに牧場を買ったら、そこで死ぬまで『人間とはなにか』を考える」
「人間とはなんなの?」
「それを考えるのさ」
「面白そうね」
「東京に君のようないい女がいなければ、今すぐでも行ってしまう。まったく、東京って街は、いい女が多すぎる」
女が顔をずらしてきて、おれの口をふさぎ、指をおれの下腹に這わせ、その部分の回復具合を確めた。おれは少年のように勃起し、女の足を開いて、またその中にもぐり込んだ。ベッドが軋り出し、女の口から動物の匂いがこぼれ、おれたちは上になり、下になり、ベッドから転がり出て、部屋のいたるところでお互いの悲しさを慰めた。女の躰は疲れを知らず、セックスにためらいはなく、汗に倦怠も匂わせなかった。女をそこまで駆りたてるのが、なんであるのか、少なくともおれ自身でないことは、おかしいほどの事実だった。
おれは女をシャワーに誘い、明かりの下に立たせて、目でその足の形を味わった。足の指の一本一本、くるぶし、長い脛に脂肪のあつい太もも、枯れ草の匂いのする恥毛にたるみのない尻。なん年かたって、牧場で羊の群れを追いながら、つぶった目の中でも、おれはきっと女の足を思い出せる。
シャワーを出たあと、タバコを吸い、ビールを飲み、それ以外に女は、ほとんど口をきかなかった。お互いの口と指で、おれたちは果てしなく戯れた。求めるかぎり女はおれを迎え入れ、女が求めるかぎり、おれも単純に自分を動物に変身させた。
おれが眠り込んだのは、もう明け方近くだった。遠のいていく意識を眺めながら、女の乳房に顔をうずめたとき、おれはもう完全に熟睡の中にいた。
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となりをまさぐって指に女の皮膚が触れなかったときも、おれはそれほどの絶望を感じなかった。前夜の出来事がすべて夢だったとしても、一生忘れることのない甘美な夢、もし現実だったら、女がおれよりも先にベッドを抜け出し、仕事にでも出掛ける事態はじゅうぶん予想できていた。
おれは自分が新しい背広を着て、ドレスアップした女をホテルのディナーに誘う幻覚に陶酔しながら、いつまでも毛布にくるまっていた。意識は日の高さを感じていたが、躰は動かなかった。しびれているのは腰だけでなく、全身の関節から軟骨が流れ出し、背中と尻の筋肉は石膏のように引きつっていた。そうやってとろとろと微睡《まどろ》んでいるのは、なんともいえず、いい気分だ。頭の中では女と試みた様々な体位が、ビデオテープのように再現され、おれは本心、このまま目がさめなくても本望だった。
目ざめと微睡みが、いく度かくり返された。そのうち覚醒の時間が固定され、おれは頭だけを起こして、壁の時計に目をやった。生きていようと死んでいようと、時間はもう夕方の五時になっていた。
シーツの中には女の匂い、ウィスキーの空き瓶や床に散ったグラス、その風景が夢ではなく、女の存在も夢ではなかったことが、頭の中に、完全なかたちでよみがえった。女との経験が本物だったと認識すると、気分はまた陶然としてきて、やはりベッドを抜け出す気にはなれなかった。夕方の五時なんて、ぜったい、人間が起きる時間ではない。それに全身を包んだこの脱力感が、おれを百メートルとは歩かせない。女と付合うためにスポーツジムにでも通うかと、しびれた頭で、おれはけっこう本気で考えた。
それでも躰の要求は容赦なく、おれはベッドから転がり出し、トイレまで這うように歩いて行った。そのころにはもちろん、今日はどこにも出かけないと、おれはきっぱりと結論を出していた。
トイレから出たあとは、冷蔵庫から缶ビールを出し、毛布を躰に巻きつけて、おれはまたベッドの端に腰をおろした。トイレに行こうとビールを飲もうと、タバコを吸おうと寒さに身を震わせようと、女のことは金輪際、おれの頭から離れなかった。
ふと、そのとき、朦朧としたおれの目が、机の上に白い封筒を確認した。おれはビールの缶を持ったまま、ぶらりとそのほうへ歩いて行った。封筒の厚さは一センチ、中の金額も、女が最初に渡していったものと、まったく同じだった。
封筒の下にはメモが挟んであり、立ったまま、おれは茫然と読みはじめた。
『仕事は終わりました。約束の半金を置いて参ります。もうお目にかかることはありません。パジャマ以外のお姿を拝見できなかったことが、少し心残りです。一日も早くオーストラリアに渡り、「人間とはなにか」を考える生活に入られますように。
心残りなく生きるということは、どんなに素晴らしく、どんなに難しいことでしょう。私にとって、人間とは、自分の責任ではない人生を自分の責任として生きる、悲しい生き物です。私はこれからまた、自分の責任でない自分の責任を果たしに参ります。
田沢さんには二度とお目にかかりません。
私のこと、事件のこと、すべてお忘れくださいませ』
おれはそのメモを持ったまま、意気地もなく、ぐしゃりと床にへたり込んだ。手帳からむしり取ったらしいそのメモは、読み返しても内容は変わらず、女の名前も浮かんで来なかった。それでもおれは二十回ほど、しつこくその角張った文字を読み返した。
女から依頼された仕事が終わったことは、前の日から分かっている。あれほど金に飢えていたくせに、封筒の金にも感動はない。おれの心を泣かせるのは、もう二度と会うことはないという、女の冷静な意思表示だった。おれだって女と一緒に、オーストラリアで羊が飼えると思ってはいなかった。あの女はもともと、田舎や羊が似合うタイプではない。だからって二度と会えないというのは、どこの国の法律なのだ。女がおれを嫌ったのならともかく、そうではないことは、おれと同じぐらいに女だって分かっていたはずだ。たとえ女の生活が社会の裏側にあるとしても、そんなこと、おれだって人のことを言える立場ではない。女は、どこへ、なにをしに行ったのだ。自分の責任ではない自分の責任とは、なんのレトリックなのか。ウィスキーの一本も買って、なぜこの部屋に戻って来ないのだ。なぜおれと一緒に、夜景が見渡せるレストランで最上等のワインが飲めないのだ。なぜ一緒に映画へ行って、一緒にディスコへ行って、それからたまに、一緒に競馬場へ行けないのだ。
おれは初めて失恋した中学生みたいに、床にへたり込んだまま、いつまでもぐずぐずと愚痴をこぼしていた。なにがどうなっているのか、さっぱり分からない。女は突然あらわれ、突然消えていった。残ったのはおれが奇妙な男を尾行した事実と、その男の死と、女との一夜と、そして二百万の金。これらの間にどういう繋がりがあって、おれの知らないところで、なにが起こっているのか。夢だったのか、ちょっと長すぎる、五日間つづいた冗談のきつい夢でしかなかったのか。
おれだってもちろん、この五日間が夢でないことぐらい、冷静な部分で意識していた。仕事が終わったことも、女とは二度と会う運命にないことも、決定的な事実として理解していた。そういうことが事実であればあるほど、理解できれば理解できるほど、なおさら気が滅入って、知らない間にだれかおれを撃ち殺してくれないかと、本気で願ったほどだった。
おれは這って行って、ベッドにもぐり込み、躰を丸め、両腕に枕を抱き込んだ。そうするとまた女の体温が思い出されて、辛さは増す一方だった。後悔と、挫折感と、やり場のない絶望の中に首まで漬かることが、もう唯一の慰めだった。
時間はマニ車のように過ぎ去り、おれにできることは、ベッドの中で寝返りをうつことと、冷蔵庫からビールを持って来ることぐらいだった。夜の八時ごろ、夢子がドアを叩いて小声で呼びかけたが、夢子と顔を合わせる気にはならなかった。今のこの病気が治るまでは、夢子とだってだれとだって、とうてい顔なんか合わせられない。おれは一晩中電気もつけず、ベッドとトイレと冷蔵庫だけを、ひたすら夢遊病者のように往復しつづけた。
いつの間にか、また夜が明けてきて、時間の経過がおれの気分に諦めをよみがえらせた。それでも決して、記憶から女の匂いは消えなかった。時間がたてばたつほど、女の印象は鮮やかになり、たとえば女の傲慢な目の動き、タバコを吸うときの指の曲げ方、おれの肩に歯を立てたときの息づかい、それらのものが甘苦しい実感として、おれの皮膚にタトゥーのような刻印をきざんでいた。
すっかり日が高くなったころ、それでもどうにかおれは起きあがり、コーヒーを火にかけ、その間に髭を剃って熱いシャワーに飛び込んだ。躰はふらついていたが、腰が立たないほどではなかった。
おれは『とにかく今度のことは忘れよう』と、遅ればせながら決心を開始した。世間知らずの中学生でもあるまいし、いい歳をして、いつまでも甘やかな絶望に浸ってはいられない。自分の人生に、労働組合の事務局や政治家の後援会をまわり、どうでもいいゴシップを集める以外の現実が待っていると思うほど、おれも子供ではない。いつの日かオーストラリアに牧場を買い、羊の数をかぞえながら人生を終わらせるまで、おれは毎日、そうやって日常の倦怠に目をつぶる。
コーヒーを飲みながら、新聞を取って来て、おれは漫然とベッドの上に開いてみた。相変わらず役人は利権を手放さず、中東はきな臭く、警官はコンビニ強盗ばかりやっている。高校生は親を殺し、親は不倫相手を殺し、女子大生は就職活動に奔走する。そんなことがいちいち新聞に載ること自体、日本が平和な証拠でもある。新聞に日本が世界一呑気な国家だという記事が載らない理由は、日本人が世界一呑気な国民だから。馬鹿な人間は死ぬまで、自分の馬鹿を自覚しない。
興味もなく紙面を眺めているうち、その中に一つ、おれは奇妙な記事に気がついた。社会面のかなり下のほうで、見出しもたった二段だったが、新聞屋だったころの勘がその内容にいやな臭気を嗅ぎつけた。
見出しは『男女深夜の怪死! 心中か、女が男性を射殺?』
いくら日本に銃犯罪が増えたといっても、女が男を撃ち殺すという事件は、ちょっと珍しい。社会面のトップは官官接待の実態リポートで、見出しやら写真やらで紙面の三分の二を占めている。それにくらべると『深夜の怪死』事件は、少しばかり扱いが小さすぎる。印刷間際に飛び込んだ記事で、下のほうに無理やり押し込んだのか。しかし記事の中に『記事中』と呼ばれる、行数にしたら二十行分ほどの穴埋め広告が入っている。広告は新聞社自身の休刊案内、こんなものをわざわざ『記事中』に持って来るのは、記事の分量が足りなかったか、印刷の直前に、なんらかの理由で二十行分の記事を削る必要があったかの、どちらかだ。この場合は後者のほう、なぜならこれだけ珍しい事件において、記事の分量が足りないという事態は、まず起こらない。記事の中にある自社広告は、読者に知られたくない部分を無理やり削り取った跡、ということになる。
その記事の内容は、抽象的で、書き方も曖昧なものだった。要点はすべて書かれているようでもあり、肝心な部分はなにも書かれていないようでもある。
つまり、こういうことだ。
『昨夜十二時前、都内杉並区の井の頭通りにかかる陸橋の上から、身元不明の若い女性が転落死した。通報を受けた警察官が駆けつけてみると、陸橋の上には胸部を拳銃で撃ち抜かれた男の死体が転がっていた。男は持っていた身分証明書から、アメリカ国籍の在日中国人王幼泉と判明。また転落死した身元不明の女性の手には、王幼泉を撃ったと思われる拳銃が握られていた。警察では女性の身元の確認を急ぐとともに、心中、事故、殺人の各方面からの捜査をつづけている』
たしかに、これだけの記事でも、昨夜なにかが起こったらしいことは分かる。しかしなにが起こったのかは、まったく分からない。警察は事実を隠蔽《いんぺい》しているし、新聞記者は判明した事実を書いていない。新聞は報道の使命にもとづいて記事を書くのではなく、おかみ[#「おかみ」に傍点]の意向にもとづいて記事を書く。新聞経営は広告収入で成り立ち、広告主はおかみと直結し、おかみは広告主の鼻息にもとづいて新聞社に圧力をかける。それがマスコミの限界であることは承知していても、やはりこの記事には、おかしいことが多すぎる。記事と『記事中』のバランスが不自然で、プロの割り付け師の仕事として手際が悪すぎる。紙面構成に無理があるということは、その裏には必ずなにかがある。『新聞を読む』というのは、そういうことだ。
おれは新聞を折りたたみ、床に放って、またベッドに転がった。その瞬間背板に頭を打ちつけ、黄色くなった視界の中を、暗い不安が、すっと横切った。おれは慌ててベッドから這い出し、痛みのような不安を抱えたまま、社会面をもう一度聞き直した。たしかに見出しは二段、場所も紙面の一番隅、しかし男と女の顔写真は、小さいながらしっかりと載っている。
鉄で撃たれた男は王幼泉、アメリカ国籍の在日中国人、どこで生まれてどこで暮らそうと、その人間の勝手ではあるが、世間にはずいぶん面倒な人間がいるものだ。王幼泉は面倒で複雑な人生をおくり、そしておれの不安は的中した。井の頭通りの歩道橋上で射殺されたというこの男こそ、一昨日おれのあとを尾行した、あの男だったのだ。
髪を七、三に分けた王幼泉の顔写真を確認し、一度目を閉じて、深呼吸をやり、悪寒に奥歯を噛みしめながら、おれは『身元不明』とされている女の顔写真を、そっと目の前に近づけた。粒子は粗く、光度も不十分、それでも生前女がどれほどの美しさであったか、知らない人間にも想像できるほどだった。おれの悪寒は躰の震えへと移行し、見境もなく、その場所で腰を抜かしてしまった。なぜ気絶しないのか、なぜ発狂しないのか、喚きながら、おれは脈絡のない想念にとりつかれていた。新聞の片隅からおれの顔を見つめている切れ長の目は、まだベッドに芳潤な汗の匂いを残している、あの女だった。
メモに残していった女の言葉は、女の意志ではなく、女の現実だったのだ。
『田沢さんには二度とお目にかかりません……』
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おれはそれから一時間も、部屋の中をもぞもぞと動きまわっていた。頭の中で黒い塊が悲鳴のように喚いて、自分がなにを考えているのか、まるで分からなかった。愚痴をくり返していたのか、ブッダやキリストを罵っていたのか、それとも意味のない、発作的な叫び声をあげていたのか。
おれの中に、突然、粘度の高い、耳鳴りのような怒りが湧きあがった。ここ十年来久しぶりに感じる、悲しみに似た怒りだった。なに者があの女を殺したにせよ、そいつの首を絞めあげるまでは、おれは鬼にも悪魔にもなってやる。
もちろん常識的には、陸橋上で王幼泉ともみ合っているうち、女が誤って落ちたと考えるのが普通だ。常識的にはそのとおりで、実際もそういう状況ではあったろうが、そんなもの、この事件の表面的な現象に決まっている。裏には得体の知れない、不気味な必然が眠っているのだ。そのことの証明が、当面の、おれ自身の存在証明にもなる。理屈なんかどうでも、とにかく今なにかを始めなければ、おれはこの部屋で腐り果ててしまう。そのなにかとは、女を殺した犯人を見つけ出すという、それ以外には考えられなかった。
おれは出かける決心をし、もう一度熱いシャワーを浴び、身支度をととのえて事務所を出た。先ずどこへ行ってなにをするべきか、もう明確に判断はできていた。
三丁目の地下鉄の駅まで歩き、そこから都営線で市ヶ谷へ向かい、有楽町線に乗りかえて永田町へ出た。仕事が暇になってからはこの町にもずいぶんのご無沙汰、兜《かぶと》町が日本で一番表の金が動く町だとすれば、永田町は裏の金が日本で一番集まる町。おれのような職業におこぼれがまわってくるのは、こういう裏の金なのだ。
政治家と呼ばれる連中は、ほとんどはここから赤坂の界隈に事務所を構えている。政治家が政治家である理由は、政治をするからではなく、忙しく裏金を集めるからだ。政治家が本当に政治をやっていれば、日本の政治がここまで貧困であるはずはない。この町にどれだけの金が集まって、どこへ流れて行くか、おれには分からない。毎年永田町にいくらの裏金が流れ込み、どういう形で消費されるのか。実態はだれも知らず、しかし裏金を多く動かす者ほど、そのブローカーは大物政治家と崇《あが》められる。日本の政治というのは、驚くほど単純な仕組みでできている。
おれは永田町の駅から五分ほど日比谷高校寄りに歩き、通りに面した五階建てのビルに入って行った。その四階に、おれに新聞社をやめさせた宮部代議士の事務所がある。代議士事務所といっても、本人がいるわけではなく、事務所の主は岩崎という私設秘書、死んでも会うまいと決めていた男で、今度の事件さえなかったら、おれは事務所の一キロ以内にだって近寄らなかった。
世間一般、堅気で暮らしている人間に、政治家の秘書ほど分かりにくい商売はない。政治家の仕事自体が不可解なのに、私設秘書ともなれば尚更だ。政治家によっては、この私設秘書を二、三十人もかかえている。官費で割り当てられる公設秘書は三人、連中の仕事はボスのスケジュールを調整したり、代理で小学校の卒業式に祝辞を持って行ったりする、まあ世間並みのものではある。
問題はそれ以外の秘書たちが、なにをやっているか。ボスから給料をもらっている秘書もいれば、もらっていない秘書もいる。無給料秘書は政治家の裏金を集めるかわり、ボスの名前を利用して自分たちの懐も肥やす。やり方はヤクザの恐喝以上、企業と銀行の橋渡しでなん百万という金をかすめ取る。馬鹿ばかしいのは後援会員の息子をアイドルに会わせたりするやつで、こんなことでも、場合によってはなん千万かの政治資金を引き出すことができる。それらの行為はまったく隠密裏におこなわれ、動いた金が税務署に持っていかれることはない。大使館と永田町だけは、相変わらず日本における治外法権区域なのだ。
おれは十年前に幾度か乗った古いエレベータで、四階まであがり、相変わらず代議士名義の看板が出ている事務所のドアを、二度ノックした。そしてもちろん、返事を待たずにドアを手前に引き開けた。
十年なんて時間は、人間が頭の中でひねくり回すほど、長いものではない。受付けの女はファッションこそ違え、十年前どおりの美人で、有能そうで、そしてこういう場所で働く女特有の、ある種の無神経さを感じさせる顔だった。
椅子から腰をあげた女に、意識的に抑揚を押さえて、おれが言った。
「岩崎さん、いらっしゃるかな」
「はあ……」
どちらともとれる口調で、女がおれの風体を、慇懃に値ぶみした。
「田沢がご挨拶に伺ったと伝えてもらいたい」
「お約束がございましょうか」
「近くまで来て、急に思い立った……君、この事務所には?」
「二年でございますが」
「おれが来たと聞いたら岩崎さんは泣いて喜ぶ。君は知らないだろうが、彼氏とおれとは怪しい関係なんだ」
女がおれの台詞をどう理解しようと、こんな事務所は得体の知れない人間がいくらでも出入りする。女はさして疑う様子もみせず、デスクから離れて奥の部屋へ取次ぎに行った。
待つ間もなく、女はすぐに戻って来た。
「どうぞ、お入りくださいませ」
言葉使いはていねいだが、それは客に対する誠意があってのことではない。どうせおれのことを右翼か、香港マフィアからの使いとでも思ったのだろう。
おれは女にうなずいて、岩崎の部屋のドアを開け、部屋に入ってうしろ手にドアを閉めた。
岩崎は窓を背中にマホガニーの事務机に座り、バインダーに挟んだうすい書類に見入っていた。淡茶に光る絹地の背広、民芸品ふうのネクタイ、オールバックに撫でつけた髪にも、やはり十年分の白髪がふえている。歳はとっくに四十を過ぎているはずだった。
岩崎が顔をあげず、おれも黙ったまま部屋を進み、革張りのソファに腰をおろしてタバコに火をつけた。岩崎はそうやって、五分ほど書類を眺めつづけた。おれのほうも壁に目をやったまま、黙ってタバコを吹かしていた。
やがて岩崎が書類のファイルを閉じ、机の引き出しに入れて、デスクをゆっくりとおれの前にまわって来た。
「君の顔は二度と見たくない……」と、ネクタイの位置を直しながら、欠伸を噛み殺すような声で、岩崎が言った。
おれはタバコを床に捨て、脂《あぶら》の浮いた岩崎の顔を見あげながら、捨てたタバコを、わざと執拗に踏みつぶした。
「この事務所では客にコーヒーも出さないんですか」
「あいにく君に飲ませるコーヒーなど、用意しておらん」
「残念ですね。わたしはただ懐かしくて、岩崎さんの顔を見に来ただけなのに」
「君の噂は聞いている」
「そうですか」
「ゆすり屋みたいなことをやってるそうじゃないか。エリートの社会部記者も落ちぶれたもんだ」
「生きてられるだけありがたい、みんなあなたのお陰だ」
「無駄口はきかず、早く用件を言いたまえ」
「さもないと命はないぞ、ですか?」
「ばかな……」
「あなたもずいぶん手の込んだ芸を見せたもんだ」
「なんの話か、分からんな」
「ゆっくり解説してあげましょう」
「君の話なんぞ……」
「聞かなくても分かっていますか。しかしあなたの顔を見た以上、手ぶらでは帰れない。わたしのほうは岩崎さんを相手に、立回りをする覚悟はできている」
諦めたのか、呆れたのか、ネクタイの結び目を押さえながら、岩崎が前のソファに腰をおろしかけた。
「コーヒー、どうなりました?」
座りかけていた岩崎が、腰をのばし、ドアまで歩いて、顔だけをとなりの部屋に突き入れた。
不機嫌な声で女にコーヒーを言いつけ、戻って来て、岩崎がソファに座りながらタバコに火をつけた。
壁に掛かっている代議士の写真を眺めながら、足を組みかえて、おれが言った。
「相変わらずこの事務所も、繁盛してるらしい」
「政治家の事務所に、ゆすり屋が歯ブラシを売りに来たわけでもないだろう」
「昔の事件を蒸し返すつもりはない」
「こっちもそう願いたいもんだ」
「わたしのほうはこの様《ざま》、あなたも自分の女房を手にかけた。いわば痛み分けってやつさ」
岩崎が火のついたタバコを、おれの顔に投げつけ、それが頬をかすめて、火の粉を散らしながら横の壁にまで飛んでいった。
「君がなんと言おうと、あれはただの事故だった」
「タイミングがよすぎる事故は気持ちが悪いもんです」
「よすぎてもなんでも、正真正銘の交通事故だった。殺すなら君のほうを殺していた、わたしは……」
「奥さんを愛していた?」
岩崎が鼻で、大きく息を吐き、新しいタバコをくわえて、また火をつけた。
「さっきも言ったとおり、わたしは昔の話を蒸し返しに来たわけではない。こっちだってあのことは忘れたい、とりあえずは命も惜しい。あなたに思い出してもらいたいのは、十年前のことではなく、たかが一週間ほど前のことです」
今朝の新聞を、おれは上着のポケットから取り出し、腕を組んでふんぞり返っている岩崎の膝に、ぽいと放り投げた。
「今日の朝刊です、もちろんお読みになったでしょうがね」
岩崎が怪訝そうな目で、ちらっとおれの顔をうかがい、タバコを灰皿の上に置いて、膝から新聞をつまみあげた。
「この新聞がどうしたね」
「新聞自体はどうもしません、書いてある内容ですよ」
「事務所では三つも新聞をとっている、端から端まで目はとおせんよ」
「もし本当に読んでないなら、ためしに社会面でも開いてください」
岩崎は言われたとおり、折ってあった新聞を広げ、新聞名と日づけを確認してから、ひっくり返して左手で社会面のページをめくりはじめた。
「官官接待を自粛したところで、役人の甘い汁は変わらんさ」と、いくらかしらけたような声で、岩崎が言った。
「政治家の甘い汁も変わらない……問題はその下の記事ですよ」
岩崎の視線が下におりていき、射殺事件あたりの場所で止まって、約一分くらい、今度は二度ばかりゆっくりと紙面を追いかけた。
「この記事が、なにか……」と、読み終わって新聞を元のようにたたみ、おれの顔を見おろして、岩崎が言った。「日本もぶっそうな国になったもんだ、女がピストルで男を撃ち殺すとはな」
「その女がオカマだからって、ここまで報告に来たわけじゃない」
「わたしは三面記事に興味はないんだよ」
「どうやらあなたは、思っていたほどの狸《たぬき》ではなさそうだ」
ドアがノックされて、さっきの女が顔を覗かせ、コーヒーのセットを持って部屋に入って来た。
女はおれと岩崎の前に一つずつカップを配り、砂糖のポットを置いて、これ見よがしに髪をふり払った。
「共和薬品の村瀬様からお電話がございました」と、プラスチックの盆を小わきに抱え、抑揚のない声で、女が言った。「お急ぎのようで、今日中にお目にかかりたいとのことでした」
岩崎が背広の袖を指でおしあげ、腕時計を覗き込んで、もう一度たしかめるように、憮然と壁の時計に目をやった。
「五時にこちらから出向くと、君からそう電話を入れてくれ」
女はうなずいただけで、おれには目もくれず、黙って部屋を出て行った。
おれは運ばれて来たコーヒーを取りあげ、砂糖を入れずに、一口すすってみた。インスタントではなかったが、カルキ臭が強くにおっていた。
「さて、感想のつづきを聞きましょうか」と、カップを受け皿に戻し、岩崎の目を確認しながら、おれが言った。
「なんの話か、わたしには分からんね」
「興味のない記事を二度も読み返す人間はいませんよ。とりあえず、あなたがその記事を初めて読んだことは分かりました。それともう一つ、新聞社に圧力をかけて記事を削らせたのも、岩崎さんではないようだ」
「田沢、なにが言いたいんだ?」
「女のことを吐けと言ってるのさ」
岩崎は持っていた新聞を、おれの膝に投げ返し、口をゆがめて、ふんと鼻を鳴らした。
「やっぱりなんの話か、見当もつかんな」
「わたしだって切り札もなしに、地獄の入り口へはやって来ない。それぐらいはゆすり屋のイロハです」
また岩崎の口がゆがんで、おれの口を念力でふさごうとするように、細い目がじっとおれの顔を睨みつけた。
「十年前、あなたはわたしのアパートからテープと領収証の写しを盗み出した。あなたの立場からすれば当然のことだ。ただわたしの立場では、証拠のコピーを取っておくのが当然でしょう。わたしは岩崎さんが思ってるより用心ぶかい性格でね、血液型だってもちろんA型だ」
「そんなコピーなど、あるものか。あったらなぜ十年前に使わなかった?」
「状況が違うでしょう。あのころは世間もゼネコン汚職に無関心だった。わたしの証拠だけではあなたの政治力に敵わない。あなたは女房を始末するほど必死で、おたくの代議士《せんせい》だって党の幹部だ。どうもがいてもわたしに勝ち目はなかった。喧嘩に勝つには、勝てる相手とだけやれというのがお袋の遺言でした」
「それなら、今は勝てそうなのか」
「わたしだって一生に一度ぐらい、勝算のない喧嘩をやってみたくなる。負けたところで無くすものはない。それに十年前と今では、立場も違う。おたくの代議士《せんせい》だって薬害疑惑で尻に火がついている。あんなコピーでも食いつく週刊誌はあるでしょう。宮部代議士も、岩崎さんも、ここでつまらない騒ぎは起こしたくないはずだ。そうなれば勝ち目も、五分五分というところですかね」
岩崎がおれを睨んでいた視線を、自分のコーヒーに落とし、カップを取りあげて、一口唇をしめらせた。それから尻の位置をずらし、頬をこすって、気が抜けたように背中をソファにもたれさせた。
「君はあの女のことが知りたい……なあ、本当にそれだけなんだな」
「とりあえずはね」
「なぜそんなに拘る?」
「それはこちらの問題です。彼女をわたしの事務所へよこしたのは、やはり岩崎さんでしょう」
観念したのか、頬をこすったまま、岩崎が素直にうなずいた。
「わたしはただ、君を紹介してやっただけだ……こんなことになるとは、思ってもいなかった」
「どういう素性の女です?」
「ロシア大使館の一等書記官付き事務官だ」
「ロシア……」
突然、あまりにも突拍子のない名前が飛び出して、おれの頭のヒューズが、ぱちんとショートした。ロシア大使館の一等書記官付き事務官だなんて、それが素性というなら素性なのだろうが、それでは本当のところ、いったいどういう素性なのだ。
コーヒーに口をつけ、ちっと舌打ちをして、岩崎がつづけた。
「名前はラトーニャ・ノグチ。わたしも外務省関係の私的なパーティーで二、三度会っただけで、詳しいことは知らん。彼女が突然この事務所へやって来たときは、こっちのほうがびっくりしたくらいだ」
おれの頭はまだ半分以上麻痺していて、ぼけてしまったピントは、なかなか焦点を戻さなかった。
「ラトーニャ……なんといいました?」
「ノグチ。ラトーニャ・ノグチ、日系の二世だ。父親が若いころなにかの研究で旧ソビエトに渡り、そのまま向こうの女と結婚した。彼女は目黒かどこかで、妹と二人暮らしだったはずだ」
「妹がいるんですか」
「いたって悪くあるまい」
「それは、そうですが……」
状況がまるで見えず、女のイメージも一気に拡散したが、どうも、しばらくは、私的な感情は抑えたほうが良さそうだった。話がここまで面倒になれば、惚れたとかはれた[#「はれた」に傍点]とか、その次元の問題ではないだろう。
「それで女……ラトーニャ・ノグチがあなたのところへ来て、なにを依頼したんです?」
「男を一人紹介しろと言われた」
「ふーん」
「なにも詮索せず、頼まれた仕事だけをきっちり果たす、金に困っている男という条件でな」
「なるほど」
「そういう条件の男は君しか思いつかなかった」
「仕事の内容は?」
「尾行だよ」
「おかしいと思いませんでしたか、尾行なら興信所にやらせればいい」
「わたしだってそう言ってやった」
「彼女は?」
「ひょっとしたら、事故が起こる可能性が、あるということだった」
「ひょっとしたら……ね」
「ひょっとしたら、だ」
「岩崎さんはどう思いました? そのひょっとしたらという言い方を」
岩崎がおれの顔から窓に視線を移し、すすったコーヒーを、口の中で五、六秒、しつこく転がしまわした。
「わたしはそれを、確実に、というふうに理解したよ」と、そっけない口調で、興味もなさそうに、岩崎が言った。
意味もなく可笑しくなって、タバコを挟んだおれの指が、へらへらと笑い出した。考えてみれば当然すぎることでも、他人の口から聞かされると、可笑しくて悲しくて、腹も立たない。あの夜ラトーニャが突然おれの部屋を訪れ、最初に言った言葉が「間に合ったか」だったのは、要するに「まだ生きていたのか」という意味だったのだ。
ラトーニャは最初からおれを捨て駒に使うつもりだった。そうは思っても、なぜかラトーニャに対する怒りは湧かなかった。厳然と事実を突きつけられ、ずれていたピントが、おれの頭の中でぴたりと焦点を合わせて来た。
「岩崎さんのその確信が、つまり、ラトーニャにわたしを紹介させたということか」
岩崎は返事をしなかったが、口の中では明瞭に、ふんとうなずいていた。
「十年前と同じ理屈だな」
「お互いさまだろう。お互いそれほど、きれいな水には棲んでいない」
「認めますけどね。ただちょっとばかり、あなたの棲んでいる水のほうが濁っている」
「小魚ほど濁った水の中では生きていられない、それだけのことだよ」
岩崎が舌打ちをして、ふと腰をあげ、なにか唸りながら、鷹揚にデスクの前へまわって行った。
「小魚でも餌代は必要だろう」と、戻って来て、テーブルに札束を放り、そっぽを向いたまま、岩崎が言った。
輪ゴムで止められた札の厚みは一センチ、その単位が百万であることぐらい、数えなくても想像はつく。ラトーニャから渡された二百万といい、競馬での大当たりといい、この一週間はばかに金が降って来る。こういう棚ぼた[#「棚ぼた」に傍点]があと二、三回つづけば、オーストラリアの牧場も夢ではないだろうが、こんなあぶく銭まで『奇蹟』に含まれたら、おれの運なんか、すぐ使い果たしてしまう。
「とにかく今は面倒を起こしたくない、用が済んだらさっさと消えてくれ」と、相変わらずそっぽを向いたまま、煙を天井に吹いて、岩崎が言った。
「コーヒーのお代わり、出てきませんかね」
「命が惜しければコーヒーを飲みすぎないことだな」
「喧嘩を仕掛けたのは岩崎さんのほうだ」
「だから後悔している。そうでなければ君になんぞ、金は渡さん」
「知りたいことが分かればすぐに帰りますよ」
「知ってることはぜんぶ話したぞ」
「彼女の住所は?」
「そんなことまで、わたしが知るもんか」
「どこかに電話をすれば分かるでしょう。それぐらいのサービスは、わたしにだって受ける権利がある」
「なにを拘ってる?」
「さあ……」
「いったい、これは、どういう事件なんだよ」
「それをあなたに訊こうと思って来た。岩崎さんが知らないと言うなら、自分で掘り返すしか仕方ない」
「わたしは、こんな事件に、これ以上関わりたくない」
「勝手な言い分だ」
「金というのはな、田沢、勝手な言い分をとおすために使うんだよ」
「今のところはそういうことにしておきましょうか。あなたと事件とは無関係、わたしと岩崎さんも無関係、ただ、最低限の協力はしてもらう……そういうことです」
岩崎が鼻を鳴らして、腰をあげ、また自分のデスクに歩いて、そこから背中を向けたままどこかに電話をかけはじめた。
おれは新聞と札束をポケットに突き入れ、岩崎のうすくなりはじめた後頭部を、ぼんやりと眺めていた。十年の時間が岩崎の体型を崩し、髪の毛をうすくし、苦く、感傷に似た思いがおれの時間に重なっていく。この男も若いころから苦労し、宮部代議士のカバン持ちをしながら大学へ通ったという。岩崎を疲れさせた時間は、意識していないだけで、どうせおれの人生も疲れさせている。
岩崎が戻って来て、立ったまま、黙って小さいメモ用紙を突き出した。
おれも腰をあげ、用紙を受け取り、目をとおしてから上着のポケットへ押し込んだ。
「念のために訊きますが……」と、ソファから離れ、一歩横に出て、おれが言った。「殺された男に、心当たりは?」
口の端に太い皺をきざみ、当然のことのように、岩崎が首を横に動かした。手をふって、おれはドアのほうに歩きかけた。
「田沢……」と、ドアに手をかけたおれを、ソファの前に立ったまま、岩崎が呼び止めた。「忘れ物をしてるぞ」
「貰うものは貰いましたよ」
「コピーを置いていけ」
「わたしの勘が当たったな」
「なんだと?」
「最初に、あなたも見かけほどの狸ではないと言ったでしょう? そんなコピーがあったら、今ごろは週刊誌に売り込んでいます」
岩崎がテーブルから灰皿を掴みあげ、おれは部屋を出て、うしろ手にドアを閉めた。ドアの向こうで灰皿がぶつかる音と、ガラスの割れる音が、けたたましく響きわたった。
受付けの女が座ったまま、じろりとおれの顔を見あげたが、顔色は変えなかった。たしかにいい女だが、名前を訊きたいとは思わなかった。
もうとっくに正午をすぎていたが、食事をする気にはならず、薬屋に寄って栄養ドリンクを飲む気にもならなかった。この二日間、ビールとコーヒー以外は胃に入っていないはずだが、それでも神経はまだおれに食物を許していなかった。人間なんかビールさえ飲んでいれば、簡単に死ぬものではない。おれは死なず、またあぶく銭を稼ぎ、こうやって呑気に人生を悩んでいる。人間の生理なんか、おれだってロシア人だって、それから高野和夫という男だって、それほどの違いはないはずだった。
おれはエレベータで一階までおり、ビルの内側にあるピンク電話で、杉原の新聞社に電話を入れてみた。
杉原は出社前で、自宅にかけ直すと、まず杉原の女房が出た。元気なのか、まだ独身なのか、それらの質問を連発し、しかしとにかく、杉原に取り次いでくれた。
杉原の声は相変わらず不機嫌だった。杉原がいつも不機嫌に喋る理由は、人間への愛が深すぎ、そのことが本人にも負担になっているからなのだろう。
「寝てるときは起こすなと言ってあるのに、女房の奴、この十年間一度も守ってくれないんだぜ。奴は夜中に、俺が会社で居眠りでもしてると思ってる。お前がその歳でも独身でいるのは、ぜったい正しい判断だ」
「おれだってお前の女房の声が聞きたくて、電話したわけじゃない」
「まさか娘と結婚したいとか言うなよな、娘はまだ八つだ」
「目はさめたか?」
「どうにか……」
「今日の朝刊にへんな記事が出ている」
「なあ田沢、新聞なんか、いつだってへんな記事しか載らないんだぜ」
「昨日の夜中、杉並にある歩道橋の上で女が男を射殺した」
「そんなことのどこがへんなんだ?」
「記事が削られている、たぶん、大事な部分だと思う」
「まったく、どうでもいいが、俺を叩き起こすぐらい大事なことなのかよ」
「さっきも言ったが、おれはお前の女房に気があるわけじゃない」
珍しく杉原が、電話の向こうで噴き出し、それからまた、むっつりとした声で訊き返した。
「今日の朝刊と言ったな」
「そうだ」
「すると割り付けは昨日の夜中か……俺は空番だった」
「調べられるか」
「そりゃあ、その気になればな」
「できるだけ詳しく調べてくれ。この前のネタと合わせて、十万円の礼をする」
一瞬杉原が言葉を切って、鳴りもしない口笛を、無理やり送話口に吹きつけた。
「お前、金のなる木でも見つけたか」
「地べたを這いまわって貯めた金さ。たまにはお前の女房子供に、うまい物を食わせてやりたい」
「友達ってのはいいよなあ」
「そういうことさ」
「今日は六時出だから、七時すぎに社のほうへ電話をくれ」
「分かった、とにかく目一杯たのむ。女に関しては、どんな細かいことでもいい」
「十万円分のネタは集めるさ」
「期待してる」
「なあ田沢、さっきの話、俺のほうは構わないぜ」
「さっきの、なんだ?」
「本当にお前が俺の女房に気があるなら、俺のほうは構わんってことさ」
目眩がして、返事もせず、おれは電話を切った。杉原があの女房と結婚した理由は、なにか人類愛のようなものが動機だったのだと、おれはこの十年間、ずっと信じつづけていた。
一度スイングドアに歩きかけ、思い出して、おれは夢子の店に電話を入れてみた。この一年間で『火星人の罪』に電話をするのは初めて、夢子と電話で話をすることも初めてだった。
「どこに隠れていたのよ」と、開口一番、ゴキブリでも叩きつぶすような声で、夢子が言った。
「下痢がひどくて、ちょっと入院していた」
「どこの病院よ」
「横浜のほうで、従兄弟《いとこ》の親戚が、内科の病院をやってる」
「わたしなんか昨日は市川まで行ってきたわ」
「従姉妹《いとこ》が病院をやってるのか」
「あの男の家に行ってきたの」
「あの男って?」
「殺された男に決まってるでしょう」
「ああ……」
「奥さんに会ってきたわ」
「なるほど」
「田沢さん、本当に躰が悪いの」
「二日間なにも食ってない」
「二日ぐらい食べなくても死にはしないわよ」
「おれもそう思う」
「それで分かったことは……」
「なあ夢子、その分かったこと、夕方まで待てないか」
「そうでもないけど」
「それなら夕方、店に寄る。そのときたっぷり聞かせてくれ。それともう一つ、夕方までに調べてもらいたいことがある」
聞き耳をたてるように、一瞬、夢子が送話器の向こうで黙り込んだ。店で流している古いジャズのCDが、唐突におれの耳に拡がってくる。夢子の静かな呼吸の音が、おれの面の皮に、じわりと罪の意識を押しあげる。
「君の親父さん……」と、手のひらの汗をズボンにこすり、通りの方向に息を吐いて、おれが言った。「たしか、食品会社の社長だったよな」
「わたしには関係ないわ」
「関係を持ってくれ」
「どういうこと?」
「食品会社は研究機関を持ってるはずだ、新製品の開発とか成分の分析とかで」
「たぶんね」
「薬品関係の専門家もいるに違いない、その線から当たってくれ」
「当たるって、なにを?」
「医学的にか薬学的にか、あの男の、ああいう死に方が可能かどうか」
「捜査は消去法で……ね」
「できそうか」
「できると思うわ」
「それなら、頼む」
「そっちの情報も隠さないでよね。この事件、わたしたちの共同捜査なのよ」
「ん……まあ、分かった」
おれはうしろめたい気分のまま、また手のひらの汗を拭き、受話器を置いて、意識的にため息をついた。
事件はたしかに、『わたしたちの共同捜査』ではある。だからって夢子を渡らせるには、この橋はあまりにも危険すぎる。ラトーニャと過ごした夜のことも話せないし、そのときのおれの気持ちも話せない。殺人に動機があるように、犯人を追いかける人間にも動機はある。おれが今度の事件を追う動機に気づかないほど、夢子も迂闊な神経はしていない。男は女に隠し事ができるほど、高級には造られていないのだ。
おれはまたもう一つ、本心からため息をつき、タバコに火をつけながらビルを出た。おれを疲れさせるのが事件なのか、ラトーニャなのか、夢子なのか、意識して、おれは考えないことにした。
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ラトーニャの住んでいたマンションは、JRの目黒駅から山手通りの方向へ五分ほど歩いた、ちょっとした高台にあった。夢子のマンションよりは古びて見えたが、外壁のタイルも床の模造大理石も、おれをチラシ配りのような気分にさせるほどに、じゅうぶん瀟洒《しょうしゃ》な建物だった。
三〇五号というその部屋は、すぐに見つかった。警察が張り込んでいるか、マスコミが見張っているか、しかしラトーニャがロシア大使官員だった状況を考えると、警察もこの種の事件に深入りはしないはずだった。
おれはインタホンのブザーを押して、しばらく中の反応をうかがった。物音は聞こえなかった。留守なら留守で手段を考えなくては、と思いはじめたとき、内側で人の気配がし、中から女の声がおれの名前を尋ねてきた。おれは自分の名前を告げ、ラトーニャと知り合いだったことも付け加えた。
ドアを開けたのは、どう見ても日本人とは思えない、背の高い若い女だった。髪は金髪に近い亜麻色、色素のうすい顔にはピンク色のそばかすが散り、青く透き通った目は寝ていたのか、泣いていたのか、かなり腫れぼったい感じだった。パジャマの上にパイルガウンを羽織った恰好からして、寝ながら泣いていたのだろう。
「ラトーニャの、妹さん?」と、分かっていながら、おれが訊いた。
「ナターシャです。ナターシャ・ノグチ」
ナターシャの発音は巻き舌で、鼻音が響きすぎ、一言聞いただけでも、明らかにロシアなまりの日本語だった。それでも、まるで西洋人にしか見えない娘の口から正確な日本語がとび出すのを聞くのは、妙な気分だった。おれはラトーニャの日本語を思い出してみたが、よみがえるのは足と顔と、ちょっと酸っぱい汗の匂いだけだった。
「ラトーニャと一緒に仕事をしていた。できたら君の話が聞きたい」
ナターシャは探るような目で、二、三秒おれの顔を眺めていた。ここまで平然と相手を値ぶみする習慣は、やはり日本の文化には馴染まない。日本人ならバーのホステスだって少しは視線の角度を遠慮する。
やがてナターシャは納得したように、自分が先に立って、黙ったままおれを部屋へ迎え入れた。リビングルームは驚くほどの広さではなく、明るいグレーの絨毯とレンガ色の小さなソファが、彼女たちの趣味と育ちの良さを物語っていた。
おれを大きいほうのソファに座らせ、膝をそろえて、ナターシャも横のソファに腰をおろした。目が腫れぼったくなく、鼻が赤くなく、それに亜麻色の髪にブラシでも入っていれば、きっと最高に清楚な感じの女の子だった。ナターシャの日本人ばなれした雰囲気がラトーニャを思い出させないことが、この場合、おれには唯一の救いだった。
なにから話していいのか、しかし礼儀として、とにかく、なにかを話さなくてはならなかった。
「君も、日本で、仕事を?」
「わたしは二年前からこちらの大学に留学しています。源氏物語におけるテの問題を研究しているの」
「難しいんだろうな。あのころの人がどういうふうに手を動かしたか……」
「そうではなくて、ただのテです。タチツテトのテ」
「タチツテトのテ……ふーん、なるほど」
返事はしたものの、要するにおれには、ナターシャがわざわざ日本に来てなにを研究しているか、見当もつかなかった。
「詳しいことは言えないから、こちらから一方的に質問する……それで、構わないかな」
意外ではあったが、素直に、ナターシャが長い首をうなずかせた。
「もう警察には?」
「はい」
「なにを訊かれた?」
「最近の姉の様子とか、死んだ男の人のこと」
「王幼泉」
「そう、その人に心当たりはないかとか」
「心当たりは、あるのか」
ナターシャが青い目を見開き、静かではあるが断定的に、首を横にふった。
「あなた、大使館の方ではないでしょう?」
「運転手にも雇ってくれないさ」
「ラーマの関係?」
「ラーマ?」
「R・A・M・A、ロシア空軍調査局」
「そのRAMAというところで、運転手を募集してるのか」
「わたし、ユーモアは嫌いじゃないけど、今はあまり聞きたくないの」
たしかにそのとおり、分かっていながら、いい女を見ると、おれはつい自分の言語能力を試そうとする。
「悪かった。本当を言うと、おれはラトーニャをよく知っていたわけではない。なにも知らなかったというほうが正解かも知れない。もし、今度のことがなかったら……」
おれがそこまで言ったとき、ナターシャの肩がぐらっと揺らぎ、顔の筋肉が泡立て機でも押しつけられたように、激しく引きつりはじめた。それと同時に、両方の目からコップにでも溜まりそうなほどの涙が、一気にあふれ出した。
おれは途方にくれて、機関車のように泣き喚くナターシャを、ただ見守っていた。ロシア人なら立っていって肩でも抱いてやるのだろうが、それはできなかった。ナターシャは手袋ほどにも長い指が十本もついた両の手で、完璧に顔を被い、しゃくりあげてはまたサイレンを鳴らすという泣き方で、そのまま一週間でも泣きつづけそうな気迫だった。
ハンカチの清潔さに自信はなかったが、おれはナターシャの手を取って、皺だらけのハンカチをテーブル越しに渡してやった。ナターシャの顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃ、使ったハンカチを絞れば、涙もコップ一杯ほどは溜まりそうだった。
十分ぐらい、ナターシャは好きなように泣きつづけ、その間おれは、ソファの中で足を組んだり戻したり、ぽかんと眺めていた。いい女は怒っても泣いてもいい女なのだと、おれはまた一つ、不謹慎な発見をした。
「ラトーニャが人を殺すなんて、嘘にきまっている……」と、いくらか気が鎮まったのか、鼻水をすすって、ナターシャが言った。「人を殺して自分も死ぬなんて、そんなこと、作り話に決まっている。あなた、姉を知っていたのなら分かるでしょう。ラトーニャが人を殺すはず、ないでしょう?」
「もちろんおれは信じている……水でも飲むか」
「ありがとう、キッチンにコップがあるわ」
おれは台所に立って行って、コップに水を汲み、ソファに戻ってナターシャに渡してやった。
ラトーニャが王幼泉を殺したかどうか、本当は、おれにはどうでもいいことだった。やっていないと分かれば、それはそれでいい。もし王幼泉を撃ち殺したことが事実であっても、ラトーニャの行為に理由と必然があって、おれが納得でき、彼女も納得していたのなら、あとのことは神に任せるしか仕方ない。おれにとっての問題は、その理由と必然が、今のところ、検討もつかないことだった。
「少しは落ち着いたか」と、コップをテーブルに戻したナターシャに、タバコを我慢して、おれが言った。
微笑《ほほえ》もうとしたのか、百面相でもするように、ナターシャがものすごい顔のゆがめ方をした。涙は止まっていたが、鼻水は流れたままだった。
「君が姉さんと最後に会ったのは、いつ?」
「先週の木曜日」
「それからは会ってはいないのか」
「はい」
妹のナターシャが木曜日以降会っていないのなら、ラトーニャと最後に会ったのは、当然おれ。もちろんあの、王幼泉とかいう男を除いての話だが。
「おれは昨日の朝に会った」
「昨日の、朝……」
ちょっと考えたが、おれはナターシャに、事実を言うことにした。ナターシャが夢子の親友で、おれと姉の関係を夢子に話すことまで、心配する必要はない。
「実は、その前の夜から、ずっと一緒だった」
「その前の夜から、朝まで?」
「そう、夜から朝まで」
ナターシャは半分ぐらい口を開けて、鼻水をすすりながら、青い目で長い間おれの顔を眺めていた。それだけ眺めれば、おれとラトーニャが一晩中トランプで遊んでいたわけではないと、当然ナターシャにも理解できる。
「そうすると……」と、ハンカチで鼻水を押さえ、思い出したように、ナターシャが言った。「ええと、昨日の前の日のこと、日本語でなんと言ったかしら」
「おととい」
「一昨日……そうすると、一昨日、ラトーニャは日本に戻って来ていたのね」
「彼女はどこかへ行ってたのか」
「モスクワに帰っていたの」
「ロシアの、モスクワに……木曜日から?」
「一週間の予定だったわ」
「木曜日から、一週間……か」
おれは頭の中で、ナターシャには気づかれないように、深くため息をついた。とにかくこれで、一つ答えは出た。ラトーニャが最初に事務所へ来たのが先週の木曜日、おれに尾行を依頼した一週間というのは、彼女がモスクワに帰っているはずの日にちだった。どういう理由でその予定が早まったにせよ、そのことがラトーニャを殺させ、王幼泉を殺させ、そして高野和夫の事件にも、明瞭な糸で繋がっている。
「ラトーニャがモスクワに帰った理由は、知っている?」
「仕事だと思うわ。でもラトーニャの仕事のこと、わたしには分からない。なにも言わなかったし、わたしも訊かなかった。姉は他人に話せない種類の仕事をしていたの。他人に話せないからって、悪いこととは限らない。世の中には他人に話せない大事な仕事もある、そうでしょう?」
「君や君の姉さんみたいな美人は、決して悪いことをしない。おれはそれだけを信じて生きている」
ナターシャが、やっと普通に微笑んで、おれの肩に被さっていた鬱屈も、いくらか重量を下げたようだった。
「さっきRAMAの話が出たけど、あれはなにか、意味があったのか」
「姉はロシアでRAMAに勤めていたの」
「ラトーニャが、空軍の……」
「わたし、思うけど、ラトーニャはずっとRAMAの仕事をしていた気がする。大使館はただの名目、姉が簡単にRAMAをやめるとは思えない」
「なぜ……」
「ラジブの仕事を引きついだはずだから」
「ラジブの仕事というのは?」
「詳しくは知らない。ロケットや飛行機の、航跡かなにかの研究だと思う。宇宙開発局の仕事がほとんどで、だからラジブもラトーニャも、仕事の内容については喋らなかった」
おれはいやな予感と、その予感が十中八、九当たっていることの確信とで、もう人間を放棄したい気分だった。
「ラジブというのは、ラトーニャの恋人?」
「テイシュ」
「テイシュ?」
「なんていうのかしら、英語で言うとハズバンドね」
「ラトーニャは結婚していたのか」
「三年前にラジブは死んだの、心臓が悪かったの」
「ラトーニャはラジブを愛していた……」
「愛していたわ」
「とても?」
「とてもよ。ラジブもラトーニャを愛していたわ」
今更どうでもいいことを、なぜここまで拘るのか。ラトーニャがおれに惚れてベッドを共にしたのでないことぐらい、最初から分かっていた。最初から知っていて、そして妹の口から当然のことを宣告されて、それでもおれの気分に、ラジブという男に対する嫉妬が湧きおこる。
「ラトーニャがラジブを愛していたのなら、なぜ姓をノグチに戻したんだ?」
「連邦が崩壊してからは、ロシアでも日系のほうが暮らしやすいから」
「それだけの理由で?」
「いけないかしら」
「いや……ラトーニャは、遊ぶタイプだったのかな、その、テイシュが死んだあと」
「ラトーニャが? まさか」
西洋人らしく、大げさに眉をつり上げ、青い目でナターシャが鋭くおれを睨みつけた。
「初めてあなたを見たとき、わたし、なにかが懐かしかった。この人、ラジブに似ているなと思った。もちろんラジブのほうが背が高くて、それになんていうか……」
「英語で言うとハンサムか」
「でも雰囲気は似ている。だからあなたとラトーニャとのことを聞いたとき、驚きはしなかったわ」
ナターシャがラトーニャに対するおれの気持ちを理解し、ロシア的な気配りを見せたことは、下を向けた赤い鼻とうすい唇が、正直に表現している。だからって哀れみを受けるおれは、複雑な心境だった。言い方はどうでも、ラトーニャが亭主のラジブを愛しつづけていた理屈に、言葉以上の変化はない。当然それは、あの夜だって同じことだった。
おれにラジブを思い出させる雰囲気があったとして、それが事実だとすれば、そのことは直接、ラトーニャがとった行動の説明にもなる。あの晩ラトーニャが「他に行くところがなかった」と言ったのは、レトリックではなく、素直な心の声だったのだ。ラトーニャはこの事件に関する最終的な決定を、モスクワにあるなんらかの機関へ求めに行った。その決定か命令が、ラトーニャにも自分の死を覚悟させた。そうだとすれば、たしかにあの夜、ラトーニャには他に行く場所はなかった。ラジブのところに行く以外、ラトーニャがどこへ行けたというのだ。
もう一つの不愉快な事実、それはラトーニャが、尾行の依頼だけが目的でおれに近づいたのではない、ということ。あの二百万円はただの手付け金、最悪の場合、ラトーニャが自分で手をくだした仕事こそ、おれにやらせるつもりだったのだ。闇に葬るべき事件を、形式どおり闇へ葬るのに、おれほど都合のいい人間はいない。その条件はおれが仕事に失敗した場合も同様だろう。闇から闇へ消えていくことに、やはりおれほど都合のいい人間はない。事件の片がついたあと、ラトーニャ自身がおれの始末をつけるつもりだったという可能性も、なくはない。ラトーニャに誤算があったとすれば、おれの雰囲気にラジブの影を見たことだ。神様とかいう奴が、本当にいるとしたら、そいつはきっとヒッチコックみたいな顔をしてるに違いない。
足を乱暴に組みかえ、ハンカチで鼻水をかんで、ナターシャが言った。
「ラジブのこと、もっと聞きたい?」
「たくさんだ」と、首を横にふって、おれが答えた。「そのラジブという奴は、どうせいつもぼさぼさな髪で、休みの日にはパジャマで家の中をうろついてるマザコンに決まってる。そんな男のことなんか、だれが知りたいもんか」
おれはもう、事件に関して、半分以上は興味を失っていた。おれにとっての事件とはラトーニャの実体が大部分で、そのラトーニャの素性がここまで分かった以上、残っているのは彼女が本当に自分の仕事をやりとげたのかという、それだけだった。
「ラトーニャは、いつから日本に来ていたんだ?」と、首を横にふり、そのリズムに気をとり直して、おれが言った。
「一カ月ぐらい前から。それまでわたしは親戚の家に住んでいたの。ラトーニャが日本のロシア大使館に勤めるようになって、一緒に暮らすことにしたの」
「なにか思い当たることはないかな。彼女がよく電話をかけた相手とか、人の名前を口にしたとか……」
「なかったと思う、仕事に関するそういったことは、という意味でね。もちろん共通の知り合いについては話をした。わたし、二年前から日本に来てるでしょう、だからあまり姉に会う機会はなかったの。一緒に暮らして気がついたのは、ラトーニャが以前よりずっと神経質になったこと。なんとなく、いつも苛々していた」
「時間は……不規則だったとか」
「普通だったと思う、わたしのほうが遊んでたぐらい。考えたらおかしいわね、ラトーニャはわたしよりずっと日本人らしいのに、親しい友達は一人もいなかった」
「変わったことは、なにも?」
「なにも……そういえば、一度だけ酔って帰ったことがある。ラトーニャってお酒は強いはずなのに、あの日はずいぶん酔っていた」
「いつ頃のこと」
「十日ぐらい前ね。ラトーニャがあんなに酔ったのは初めて、だからよく覚えている。寝るまで一人ごとを言ってたわ」
「その一人ごと、思い出せないか」
ナターシャが首をかしげて、亜麻色の髪を掻きあげ、青い目の視線を、じっと手のハンカチに集中させた。
「ニエ モジェト ビイテェ タコエ ドクラケストボ」
「うん?」
「ロシア語よ」
「ああ、そう」
「『こんな馬鹿ばかしいこと、だれに言っても信じない』とか、そういう意味。それをラトーニャは寝るまでくり返していた」
「他人に言っても信じないほどの、馬鹿ばかしいこと……か」
「………」
「君に心当たりは?」
「いいえ」
「しかし……」
「わたしにはこれ以上馬鹿げたことは思いつかない。ラトーニャが人を殺すなんて、そんなの、ありえないもの」
また涙のこぼれ出したナターシャの顔を、もう正視する気にならず、ズボンのポケットに入れた手のひらを、おれは強く握りしめた。一緒に泣いてやればいいのだろうが、ただ泣いても、ラトーニャを殺した犯人は見つからない。それが大人の常識で、大人の常識というやつは、いつだって疎《うと》ましい。
おれは腰をあげて、青い涙を流す目に、別れの会釈をした。
ナターシャはハンカチを鼻の下に握ったまま、大柄な背中を丸めて、ドアの前までおれを送って来た。
「君はこれから、どうするんだ」と、靴に足を入れてから、おれが言った。
舌の先で唇をしめらせ、はにかんだように、ナターシャが肩をすくめるジェスチャーをした。
「しばらくモスクワに帰ります」
「東京は嫌いになったか」
「いいえ、わたし、戻って来ます」
「戻って来て、また源氏物語におけるテの研究をつづけるか」
無理やり口元をほころばせ、顎をあげながら、ナターシャが毅然とおれのほうへ手を差し出した。筋ばっていて、関節が太くて爪を短く切りそろえた、生命力の強そうな長い指だった。
おれはナターシャの手を握り返し、引き寄せたくなる衝動を我慢して、肩でドアを押し開けた。
「君が戻って来たら、おれは床屋に行って、新しい背広を買って、君を東京タワーの見えるレストランへ連れて行く」
おれの手を離しながら、踵《きびす》をまわして、くすっとナターシャが笑った。
「その台詞、ラトーニャにも言ったでしょう」
「どうだったかな」
「似たようなことをラジブもよく言ってたわ」
「いい女に対して、男はみんな同じことを言うもんさ」
「ロシアでも日本でも、男は同じ?」
「世界中どこでも男は同じ、女も同じ、それなのに歯車は噛み合わない。男と女は別な星の住人だという意見は、本当かも知れないな」
ドアが閉まり、おれはナターシャとラトーニャの世界から締め出され、怠惰な日常に向かって気恥ずかしく足を踏み出した。女に対して凡庸な台詞しか思いつかない自分も情けないが、状況を考慮しなかった自分は、もっと情けない。ラトーニャに捨て駒と思われたのも当然、おれの人生が無目的に浮遊しているのも当然。しかしそれでは、『すべてを忘れろ』と言ったラトーニャの遺言に、おれはこれから、どういうスタンスを取るべきなのか。
「東京という街の困ったところは……」と、マンションを出てから、駅の方向に歩き出し、頭の中に消え残るナターシャの視線に、首をすくめながら、おれは一人ごとを言った。「君やラトーニャみたいに、いい女が多すぎることだ。おれが愚痴を言いながらこの街をうろつく理由は、たぶん、そういうことだ。日本中どこを探したって、いい女がこれほどあふれた街は、他にないもんな」
日が沈みきる時間ではなかったが、横からの日射しは林立するビルにさえぎられ、隙間の舗道には気の滅入るうそ寒い風が吹いていた。あと幾日かで十月も終わり、東京もおっとりと冬の支度を開始する。
おれは歩きながら、ポケットの札束を、ジャケットの上からそっと確めた。この金はもちろん一過性のあぶく銭、それでもおれは、なんとなく、行ったこともないオーストラリアの大地を考える。西海岸か、東海岸か、いずれにしても海が近く、気温も二十度ぐらいまでしか下がらない。人気《ひとけ》もなく排気ガスもなく、動いているのは遠くの海を行く貨物船と、目の前の羊だけ。農業や牧畜に経験はなくても、本を買って研究すれば食糧ぐらいは賄《まかな》える。海に出れば食える熱帯魚もいるだろう。問題は酒で、最初の二、三年は買うとしても、以降はサツマ芋を植えて自家製の焼酎をつくればいい。日の光と食糧と酒と、それだけあれば人生は完璧、あとは女だが、それは歳を取って、煩悩が消滅するまで、じっと我慢するしか仕方ない。
急に肩を叩かれ、おれは一瞬、はっとして足を止めた。交差点の向こうにはJRの目黒駅が見えている場所だった。
おれの足を止めさせたのは、なぜか、刑事の船井だった。相変わらず皺の寄ったレインコートにハンチングをかぶり、口元に浮かべたうす笑いで、下からじっとおれの顔を見あげていた。
「どうした、なにかいいことでもあったのか」と、おれの肩を叩いた手をコートのポケットに戻して、船井が言った。
「さあ、どうだか……」と、動揺をおさえ、声の抑揚を殺して、おれが答えた。
「いいことがあったような顔をしてるぜ」
「気のせいでしょう」
「若い奴が羨ましい。歩きまわっても疲れないし、将来に希望もある」
「夢も希望もみんな幻想です、そのことは船井さんが一番よく知っている」
信号が青に変わったが、口元を笑わせたまま、船井は歩き出さなかった。
「めっきり寒くなった、朝晩はとくにな」
「まだ日は暮れていませんよ」
「だがこの歳になるとやわ[#「やわ」に傍点]な風でも躰にこたえるんだ。そこの喫茶店で熱いコーヒーでも奢ってもらおうか」
返事を待たずに、船井が駅とは逆に歩き出し、仕方なくおれもあとに付いて行った。船井の登場はあまりにも突然で、平衡感覚が狂って、おれはまだ動揺から回復していなかった。
おれたちはすぐそばにあった、歩道に面した喫茶店に入り、窓ぎわの席でコーヒーを注文した。
ハンチングをかぶったまま、コップの水で唇をしめらして、船井が言った。
「妙なところで会うもんだな、え?」
船井の思考方向が分からず、タバコに火をつけて、とりあえずおれは成り行きを見守ることにした。
「船井さん、いつからあとをつけていたんです?」
「人聞きの悪いことを言うなよ。俺は今日、非番なんだぜ」
「非番で青木|昆陽《こんよう》の墓まで散歩ですか。その散歩の帰りにばったりとわたしと行き合った……」
「そんなところだな」
コーヒーが来て、船井が三杯の砂糖を入れ、頬を疲れたようにゆがめながら、しつこくスプーンを使いつづけた。
「あれからお前さんのことを、ちょっと調べさせてもらった」
「そうですか」
「お前がこの十年間、なにをやってたかをさ」
「暇なんですね」
「個人的な趣味だよ、歳を取ると人間が疑いぶかくなる」
「なにか分かりましたか。たとえばわたしが、日本の政治を良くするために孤軍奮闘している事実とか」
船井が鼻で笑って、目を細めながら、忙しなくカップを口に持っていった。
「俺には訳が分からん。お前はちゃんと大学も出ている、新聞社をくびになったからって、ゆすり屋にまで落ちぶれる必要はなかろうに」
「船井さんから説教されるとは思わなかった」
「こいつも個人的な趣味だよ」
「長生きをしたければ、そういう個人的な趣味は捨てたほうがいい」
船井の目が鋭く光って、帽子の庇《ひさし》ごしに、凍ったような視線がじろりとおれの顔を舐めあげた。
「いい気になるなよ。俺に脅しをかけようたって、そうはいかんぞ。お前なんかその気になればいつでも引っぱってみせる」
「好きにやればいいでしょう」
「時機がくればな、そのうち臭い飯をたっぷり食わせてやるさ」
船井がなぜおれをつけてきたのか、持ち駒はどの程度のものか、顔を見ただけでは、やはり分からない。なぜ直接話を切り出さないのか、切り札なんか持っていないのか。しかし船井が岩崎やナターシャの存在を知ったことだけは、一応考慮の必要がある。
「船井さん、あと二年で定年のはずでしょう」と、コーヒーには手をつけず、タバコの煙を透かして、おれが言った。「退屈な老後はどうしました、いつから宗旨《しゅうし》がえをしたんです?」
「退屈な老後をおくるにも先立つものは必要だ」
「ふーん、なるほど」
「娘が大学に入ったことは言ったよな。それで二百万もかかった、来年は成人式でまた金がかかる。娘なんてのはなあ、まるで金を食って生きてるようなもんだ」
「わたしのせいですか」
「そっちに余分な金があったら、本当に金を必要としてる人間に回してくれてもいいと思ってな」
「刑事がゆすり屋をゆするわけか」
「まさか、俺はお前さんに協力を申し出てるんだぜ。協力者が報酬を受け取るのは当然の権利だろうよ」
「あなたに協力を頼むつもりはない」
「警察にパイプがあったほうが仕事がやりやすいぜ、まあ、なにを追いかけてるかは知らんが……」
「そんなことを言うために、わざわざ?」
「さっき言ったろう、今日の俺は非番なんだよ。なんで俺がお前のあとをつける必要がある?」
船井の台詞が本物だとすれば、この男はいったい、目黒でなにをしていたのか。ラトーニャのマンションを見張っていて、偶然おれと出くわしたのか。それともやはり、事務所からおれのあとをつけ回していたのか。
足に貧乏ゆすりをさせて、船井が言った。
「なあ、お前が政治家のゴシップを金にしてることは知っている。今度はいくらの事件《やま》なんだよ、まさか十万や二十万のはした金じゃあるまい?」
「話が見えませんね」
「田沢、俺には金が必要なんだ」
「あなたには新宿でのゴミ箱あさりが似合ってる」
「貴様……」
「わたしの仕事に権力は必要ない」
「一口のせないと言うんだな」
「船井さんの握ったネタのことは知らない。しかしどっちみち、あなたの個人プレーだ。お陰で大事なことが分かりましたよ」
「なんだと?」
「自分で個人的な趣味だと言ったでしょう。ということは、警察も、この事件に関して組織としては動いていない。警察は組織で動くから価値がある。一人離れたあなたの動きに金を払うほど、わたしは甘くない」
「………」
「中央公園の事件はたしかに船井さんの担当だろう。しかしここは目黒、あなたの縄張りからは外れている」
「俺が握ったネタを知りたくないというのか」
「なにを握ってるにせよ、それは船井さんの個人的な問題だ。あなたの娘が大学に入ったのも、あなたが二年後に定年になるのも、みんなあなたの個人的な問題でしょう」
「そんな口をきいて後悔するぞ」
「後悔は得意ですよ」
「食えねえ野郎だ」
「お互いにね」
「いいか、一つだけ言っておく。俺はこのままじゃ済ませない。俺をこけ[#「こけ」に傍点]にした奴がどんな目に合うか、そのうちたっぷり味わわせてやる」
「船井さん……」
「ん?」
「退屈な老後をお忘れなく」
「この野郎……」
船井が立ちあがり、ハンチングを目深にかぶりなおして、舌打ちをしながら、くるっと背中を向けた。
「コーヒー、奢りとは言いませんでした」
「なんだと?」
「あなたも公務員だ、コーヒー代はご自分で払いなさい」
船井が口の中で「くそっ」と呟き、ズボンのポケットから百円玉を取り出して、それを四枚、音が出るほどテーブルに叩きつけた。おれは船井を無視して、自分のカップに手をのばし、ソファの背に深く沈み込んだ。船井はしばらくおれを睨みつづけ、おれはおれで、黙って船井を無視しつづけた。
諦めたのか、船井がコートをひるがえして大またに店を出て行った。船井を怒らせ、敵にまわすことが、自分にとって不利であることは分かっている。結果や状況がどうであれ、要するにおれは、船井という男が嫌いなのだ。
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「昨日わたしが市川に行ったこと、電話で言ったわよねえ。死んだ高野和夫という人ね、四人家族で高校生と中学生の娘がいるの。長野県の高校を卒業して上京、アルバイトをしながら大学の夜間部に通って、卒業と同時に大島製薬へ入社、奥さんとは社内結婚らしいわ。勤続二十三年で係長だから仕事はそこそこ、そのぶん敵もいなかったようね」
夢子の衣装は色気のないワークパンツに、丈の短いコットンジャケット、下にハイネックセーターを着て、足には無骨なウォーキングシューズを履いている。渋谷あたりの不良と似たような恰好で、時代に合わせたつもりなのか、変装のつもりなのか、それともおれに対する当て付けなのか。
おれの顔を見るなり、鼻の向きでボックス席に誘い、頭の中のメモを読むような口調で、淡々と夢子が供述した。いつものとおりメガネは無表情、雰囲気は投げやり、しかしひくひく動く鼻には、隠し切れない気合いがこもっていた。
「ふーん、なるほどな」と、夢子の情熱に恐縮し、心から感動して、俺が言った。「そんなこと、どこで調べたんだ」
「高野の奥さんに聞き込みをかけたの、探偵小説によく出てくる手よ」
夢子がワークパンツの尻を動かし、上着の胸ポケットから手品のように名刺を抜いて、それをおれの目の前で、ひらっと振ってみせた。それには『保険調査員』とかいうような、なにやら怪しげな文字が印刷されていた。
おれはもう少しで、また「探偵事務所を始めればいい」と言いそうになったが、夢子の静かな気合いに、心して言葉を飲んだ。藪を突ついて蛇を出さなくても、蛇はもう、メガネをかけて、しっかり鎌首を持ちあげている。
店に相変わらず客はなく、ワンパターンの古いジャズが暇そうに流浪する。
肝心なことを思い出して、おれが訊いた。
「昼間電話で頼んだこと、分かったかな」
「ああ、あれね」と、日常の無感動な口調で、夢子が言った。「わたしも気にはなっていた。高野の勤め先は製薬会社、新しい癌《がん》の薬とか痩せる薬とか、それで生体実験をやったとか……」
「結論を言ってくれ」
「親父の会社にも研究所はあった。カレーを作るのに薬学まで必要とは思えないけど、とにかくそういう部門はあったの。どこだと思う?」
「さあ」
「前橋だって……前橋って栃木県?」
「どうだかな」
「本社は新橋なのにね」
「夢子……」
「分かってる。電話で訊いたらファクスを送って来た。なにか難しいことが書いてある、でも結論としては、不可能ということよ」
夢子が名刺を胸ポケットに戻して、代わりに四つ折りの用紙を取り出し、テーブル越しに、ぽいと放り投げた。夢子が『不可能』と判断したなら、おれにそれ以上のことが分かるはずはなく、しかし念のため、一応ファクス用紙を開いてみた。
二枚の用紙には新聞活字ほどの文字が並び、消化のシステムから酵素の働きまで、専門用語が律儀につづいている。食物が胃の内にとどまるのは三、四時間、小腸が三時間から十一時間、大腸では十時間以上、つまり、一度口に入れた食物が消え去るまで、最低でも十六時間が必要と書いてある。参考として胃の蠕動《ぜんどう》運動を促進させる方法や、ペプシンとかトリプシンとかいう消化酵素の活性化法も提案されているが、それだって完全消化を二、三時間短縮するだけ。高野和夫の死因にあった『胃も腸も空っぽ』という環境には、ほど遠い。
「新薬の生体実験というのは、やっぱり、無理か……」と、いつの間にかくわえていたタバコに、無意識に火をつけ、煙を短く吹いて、おれが言った。
「そんな薬があればダイエットに苦労しないわ」
「大腸菌にだってインシュリンを作らせる。バイオとかなんとか、方法もある気がするが」
「現実には風邪を治す薬もないの」
「うん……」
「これが医学の現実よ」
「問題は、そういう現実で、一人の男が死んだことだ」
予想していたこととはいえ、新薬の生体実験という可能性を消してしまえば、あとには、なにが残る。遺体のすり替えは不可能、死んだ男が歩き回っていたはずもなく、ラトーニャや岩崎の役割は見えてきたというのに、事件の総体に関しては、相変わらず手がかりも、糸口も見つかっていなかった。
「高野という人ね……」と、テーブルに頬杖をつき、上目づかいに口を尖らして、夢子が言った。「会社での部署も新薬の開発には無関係、この線からの捜査は打ち切るべきだと思うわ」
「君の意見が正しいかな」
「今度の事件は彼の仕事とか家庭とか、個人的な部分には関係ないはず」
「君の意見は、いつも正しい」
「殺人事件はすべて消去法で解決されるの」
「しかし……」
「あのへんな生き物よ」
「だけど……」
「あれがエイリアンなら筋がとおるわ」
「高野はエイリアンに襲われて、生気を吸い取られたか」
「あのときの男の顔、そんな感じだった」
「いくらなんでも……なあ?」
「田沢さんは頭が固いの。地球の生命はもともと宇宙から来たという説がある、世界中でUFOも目撃されてる。東京に一人ぐらい火星人がいたって、わたしは驚かないわ」
おれは頭が固いし、中年で政治ゴロで極楽トンボで根なし草。それはそうだろうが、高野を殺した犯人が宇宙人というのは、いくらなんでも無理がある。たとえどこかの銀河に地球外生命が存在したとして、男を一人殺すためにわざわざUFOに乗って来て、その宇宙人に、なんの得があるのだ。
急に、おれの胃が惨めに二日間の無聊《ぶりょう》を訴え、疲労と困惑が、共同でおれに空腹を主張した。二日ぐらい飲まず食わずでも死にはしないが、極度の空腹は人間から、いやでも思考の意欲を奪い取る。
おれの気配を察したのか、それともテレパシーが共感したのか、夢子がカウンターに首をのばして「残っているハンバーガーをすぐ持って来るように」と、バーテンに伝達した。夢子の誠意には感謝するとして、しかしこの経営方針では、店を閉める日も遠くはないだろう。
沈み込んだ深いシートの中から、鼻の先でおれの顔を透かして、夢子が言った。
「で、田沢さんのほう、なにを隠してるわけ?」
「なんの話だ?」
「あなたは二日も姿を消していた」
「うん……」
「横浜に田沢さんの親戚はいない」
「なぜ知ってる」
「前に言ったじゃない」
「ええと……」
「両親はいない、姉弟もいない、遠い親戚が四国にいるだけって」
「言ったかな」
「言ったわよ」
「そうか、言ったか」
「なにを掴んだの」
「いや……」
「二日間雲隠れしてなにも掴まないなんて、信じられる?」
「君だけはおれを信じてくれると思っていた」
「あの人は?」
「うん?」
「田沢さんに尾行を依頼した、あの奇麗な女の人。彼女の線を辿ればなにか出てくるはずじゃない」
事件のきっかけがラトーニャだったことを、夢子は、いつ、どこで知ったのか。もっとも夢子はあの日曜日、おれが府中で馬券を買っていたことまで見抜いていた。ラトーニャの登場とおれの行動を結びつけるのは、驚くほどの推理ではない。ラトーニャとの一夜に関しては告白不可能、しかし死の事実まで隠しとおせると思うほど、おれも楽観的ではない。無用な隠し立ては早晩、夢子からの反撃となって返ってくる。
「最初の予定では、明日、尾行の結果を聞きに来ることになっていた」と、記憶からラトーニャの匂いをふり払い、少し奥歯を噛んで、おれが言った。
「最初の予定では?」
「そう」
「予定が変わったの」
「変わった」
「それなら、いつ?」
「彼女の予定は全面的に変わった。もう二度と、おれたちの前にあらわれない」
おれはポケットに残っていた新聞を取り出し、社会面を開いて、夢子の手に渡してやった。
夢子はすぐ紙面の下欄記事に気づき、おれの顔も見ず、三度ばかり黙々とその記事に目をとおしつづけた。
「これ、どういうことなのよ」と、新聞から顔をあげ、おれの責任だと決めたような口調で、夢子が言った。
「書いてあるとおりだ」
「これだけではなんのことか、まるで分からない」
「彼女が死んだことは分かる」
「それと高野の死とどういう関係があるの」
「どういう関係があると思う?」
「田沢さんに訊いているの」
「おれは君に訊いている。君でなくても、知ってる人間がいればおれはだれにだって訊いてやる。これはどういう事件なのか、高野や女や王幼泉はなぜ死んだのか、おれたちはこれから、なにをすればいいのか……」
ラトーニャの死と、高野という中年男の死に、どんな関係があるのか。それが掴めれば事件の謎も解決する。もちろん高野の死は高野の死、ラトーニャは別の理由で死んでいった可能性はある。高野和夫は本物の行き倒れ、ラトーニャは王幼泉との痴話喧嘩で死んでいった。可能性としては考えられるが、それが現実なら、おれは馬鹿ばかしくて笑ってしまう。
大皿にハンバーグサンドのようなものが運ばれて来て、思考を事件に巡らしたまま、おれは茫然と皿に手をのばした。最初に感じた食欲は消えていたが、空の胃はひたすら食糧を求めていた。無意識にせよ、この店の料理が食える間は、おれにもまだいくらか生命力が残っている。
「新聞には彼女の名前、載ってないわね」と、メガネの向こうで目を細め、呆れたように鼻の先をふって、夢子が言った。「田沢さんは当然、知ってるわけでしょう?」
「いや……」
「どうして?」
「聞かなかった」
「どうしてよ」
「彼女が言わなかった」
「尾行の目的は?」
「それも聞かなかった」
「名前も目的も聞かないで、それで仕事を引き受けたの?」
「なにも訊かないことが条件だった」
「嘘みたい」
「嘘のような本当の話が、この世には実際、あるもんさ」
夢子が顎を胸に押しつけて、いやな目つきでおれの顔をうかがい、ふくらませた頬から、ふっと息を吐き出した。こんな奇麗な顔で、そんな目をされると、生まれつきの病気が、思わずおれの意志力を困らせる。
「この王幼泉という男のことは?」
「それも分からない」
「なにも分からなくて、二日もどこをほっつき歩いてたのよ」
「おれがどこをほっつき歩いたって、おれの勝手だ」
「やっぱり隠してるわ」
「おれには君に隠し事ができるほどの、度胸はない」
開いたままの夢子の目に、透明な影が浮かび、それがなぜか涙に変わって、一滴、すっと頬を伝わった。
「あ……」
「わたし、本気で心配したんだから」
「や……」
「わたし、田沢さんのこと、信じてたんだから」
よせばいいのに、胸に切ない思いが込みあげて、おれの気弱さが、一瞬おれを善人に変えていく。夢子を事件から遠ざけようという決意に、どこからか根拠のない罪悪感がまぎれ込む。
「なあ夢子、今、新聞社の友達に調べさせている。きっとそいつが、なにか教えてくれる」
「本当?」
「本当だ、おれのほうから七時に電話することになってる」
「わたしを騙《だま》さない?」
「おれは一度だって、君を騙していない」
「もう七時よ」
「うん?」
「七時。新聞社に電話するなら、もうその時間になってるということ」
夢子がおれの手からハンバーグサンドを取りあげ、顎を突き出して、店のピンク電話をさし示した。目の涙は屈託のない光に変わり、どうもおれは、一杯食わされたらしかった。そういえば夢子は、モデルの仕事をしながら、テレビドラマにも出ていたか。
おれは仕方なく腰をあげ、電話まで歩いて、社の杉原を呼び出した。
「珍しく田沢、時間どおりだな」と、一つ咳払いをしてから、よそ行きの声で、杉原が言った。
「分かったことがあれば聞かせてくれ」
「それが、ちょっとな……」
「まだ調べがつかないか」
「そういう訳でもないんだが……」
「電話ではまずい?」
「まあ、そういうことだ」
電話のそばに別の人間がいることはたしかだが、それにしても杉原の声は、いつになく緊張している。
「こっちから行ってもいいぞ」
「そうしてくれ、八時半になれば抜けられる」
「いつものところか」
「いや、となりのビルの地下に『リオ』という喫茶店がある」
「リオだな」
「そうだ」
「杉原……」
「なんだ?」
「お前の女房に、おれが心から愛してると言ってやってくれ」
おれは電話を切り、腕時計で時間を確かめてから、ぶらりとカウンターに歩いて行った。指定された時間まではまだ一時間以上、おれはバーテンからビールを受け取り、夢子の待っている席に戻って、ビールを飲みはじめた。
杉原が電話では言えないほどの情報とは、どんなものか。八方とも塞がったドアの、どれか一つぐらいは開けてくれるのか。たとえドアが開いたとして、事件の方向が見えたとして、ラトーニャという存在は、ずいぶん遠くへ行ってしまった。
おれのサンドイッチを無表情に齧り、目をメガネと同じほど丸くして、夢子が言った。
「田沢さん?」
「なんだよ」
「この店の味、ずっとこうなの」
「ずっとこうだ」
「一年間ずっと?」
「一年間ずっとさ」
「ふーん、そうなの」
首を横にふりながら、心から感心したように、夢子が大きくため息をついた。
「一年間ねえ……田沢さん、こんなもの、よく黙って食べてたわねえ」
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おれと夢子が指定された喫茶店の席につき、ビールとレモネードを注文し終わったとき、サンダルを引きずって、杉原もひょっこりと店に入って来た。無精髭に度の強い縁なしメガネ、女房の手編みらしい不思議なセーターを着て、髪の被った耳にちびた赤鉛筆を挟んでいる。今はレイアウトもコンピュータになったはずだが、活字の洪水にうんざりした新聞屋という表情は、この十年間たいして変化を見せていなかった。
杉原が向かいの席に座り、夢子の顔に眉をひそめながら、口の中で、なにかぼそっと呟いた。よく聞こえなかったが、「またいつもの病気か」とかなんとか、そんなようなことだった。おれと違って杉原には女に一目惚れをする習慣はなく、そのぶん女と名がつけばどんな女でも我慢する、特殊な才能を持っていた。
「杉原、彼女のことは気にしなくていい」と、杉原の懸念を晴らすべく、とりあえず、おれが言った。
杉原が乱れた髪に指を入れて、幾度か掻きまわし、首をかしげながら、ちらっと夢子の顔に視線を走らせた。
「前にどこかで会ったかな」
「いいえ」
「いや、どこかで会ってるよ」
「会っていません」
「俺は記憶力がいいんだぜ」
「なあ、杉原……」
「なんだよ」
「それはおれたちが学生のころ、新宿のナンパで使った手だ。今では田舎の女子高生も引っかからない」
「今はどうやるんだ」
「一万円札をなん枚か出して、『援助交際をお願いします』さ」
杉原が朗らかに笑って、おれも笑いそうになったが、夢子の横目がおれの顔を睨み、おれは素直に恐縮した。そんな目で見られなくても、たしかに今は、冗談を言う場面ではない。
「まあ、それはそれとして……」と、夢子の視線をふり切り、座りなおして、おれが言った。「わざわざ呼び出すというのは、どういうことだ」
いがらっぽく咽を鳴らし、髪を掻きあげながら、杉原が少し肩を突き出した。
「うん、それなんだが……」
「彼女のことは気にしなくていい」
「や、そのな、お前に言われた記事はすぐに見つかった。田沢の勘も鈍ってないということだ」
「で?」
「事件が起きたのは昨日の夜中、正確には昨夜の十一時三十分前後。持ち物から二人の身元はすぐに判明して、杉並署からお決まりのプレス発表があった。うちの社でもサツまわりの記者が発表を記事にして、印刷にかけようとしていた。ところが、直前になって、急に警察から『待った』がかかった。プレス発表があってから二時間後のことだ」
「一度発表しておいて、それに『待った』をかけるのも、納得できないな」
「新聞社ではもう輪転機を回していた。だから記事の取り消しは不可能と頑張ったらしいが、それなら女の素性だけでも削除しろと言ってきた。警察がそこまで必死になるというのは、中途半端な圧力ではなかったってことさ」
「記事にストップをかけるときは、理由説明があるはずだ」
「あることはあった、一応『日露の友好関係に微妙な影響をもつ事件なので』ということだ」
「日露の……」
「圧力をかけてきたのはロシア大使館だろう」
「ロシア大使館……か」
それが自然な考え方で、相手がロシア大使館となれば、さすがに杉原も慎重になる。おれにしても大使館が直接干渉してきたという事実に、言い様もなく、背中が寒い気分だった。ラトーニャが一等書記官付き事務官だったぐらいのことで、大使館がわざわざ、そこまで表に顔を出すものか。
「女の身元だがなあ……」と、セーターの下から手帳を取り出し、爪の先でページをめくりながら、杉原が言った。「歩道橋から落ちて死んだ女は、ラトーニャ・ノグチ、父親が日本人で母親がロシア人の日系二世、国籍はロシア。モスクワ工科大学の宇宙化学科を卒業して、在学中に同級生と結婚をしている」
「ふーん、在学中に……」
おれには分かっていることでも、夢子にとっては初めての情報、おれも初めて聞くふりをした。面倒といえば面倒だが、こうなってしまったものは、もう仕方ない。
おれの混乱には構わず、杉原がつづけた。
「女の肩書は一等書記官付き事務官ということになってるが、具体的にどういう仕事なのか、そこまでは分からん」
「まずスパイだわね」と、一人ごとのような口調で、しかし断定的に、夢子が言った。「ロシアの大使館員なんてスパイに決まってるわ」
「なあ、無理に詮索はせんが……」と、頭を掻きながら、困ったように口を曲げて、杉原が言った。「このお嬢さん、どういう素性の人なのかね」
「彼女は犯罪研究家だ」と、仕方なく、おれが答えた。「アメリカのハードボイルドが専門で、たまには日本の探偵小説も研究する」
杉原は不満そうに夢子を値ぶみしただけで、それ以上意見は言わず、指を舐めてまたページを繰りはじめた。
「面白いのはな、このラトーニャという女、大学を出てからずっとRAMAに勤めていたそうだ」
「ロシアの空軍調査局だな」
「知ってるのか」
「聞いたことはある」
「俺も調べちゃみたが、実態はまるで分からん。ロシアの実態なんて、だれが調べても分からんだろうけどな」
夢子が腕を組んで、椅子にふんぞり返り、靴の底をぺたりと床に打ちつけた。
「彼女は間違いなくロシアのスパイということね」
「だがね、お嬢さん……」と、やって来たコーヒーに口をつけ、苦っぽく舌打ちをして、杉原が言った。「冷戦時代ならともかく、このご時世にスパイが必要かね。わざわざ大使館員に化けさせて日本へ送り込む、どういう必然がある? それにこのラトーニャ・ノグチという女、スパイにしちゃ素性が割れすぎている」
「でも……」
「なあ杉原、一緒に死んだ男のことは、分かってるのか」
「まあ、問題はそっちなんだ」と、夢子を無視し、手帳の新しいページをめくって、杉原が言った。「臭いと言えばこっちのほうが臭いぜ。中国生まれでアメリカ国籍で、それで今は日本に住んでいて、こいつはなに人だよ。俺がだれかをスパイにするとしたら、こういう訳の分からん奴を第一候補にあげるがな」
「経歴は?」
「名前は王幼泉、生まれは福建省、歳は三十二。子供のとき親と一緒に台湾へ密航して、そこからアメリカへ脱出。学歴は不明だが、日本に来たのは五年ほど前。渋谷の東三丁目で『東洋商事』という小さな貿易会社をやっていた。家族構成その他は一切不明、要するにこいつは、訳が分からんということさ」
素性も分からず、経歴も分からず、日本に住んでいた目的も分からない。それではあの王幼泉という男は、なんの理由で、いつからおれを尾行していたのか。尾行に気づいたのは四日前の久我山の駅、しかしその前にはサウナでも顔を見た。ラトーニャを介して以外、おれと王幼泉に繋がりはなく、理屈で考えればおれと夢子が高野和夫を尾行した三日の間、王幼泉はおれたちのあとをつけていたことになる。ラトーニャと王幼泉は、同じ組織の一員なのか、高野を見逃さないために二重の尾行シフトを敷いたのか。それとも二人は別の、利害の反する組織の一員なのか。
「杉原、ラトーニャが……あの女が王幼泉を射殺した件に、疑問の余地はないのか」
「判明しているのは状況だけだ。使用された拳銃はロシア製のトカレフ、男はその銃で殺され、女もなんらかの理由で歩道橋から転落して、即死。通りがかったクルマの運転手が落ちるところを見て駆けつけたし、なん人かが歩道橋の登り口から上にあがった。女とその男以外はだれもいなかったそうだ。普通に考えれば、女が男を射殺し、そのあと女は歩道橋から飛びおり自殺をしたと……まあ、そういうことになる」
杉原が手帳に目をやったまま、まばらに生えた頬の無精髭をさすり、含みのある顔で、ふんと鼻をならした。
おれは財布から十枚の一万円札を抜き、黙って杉原に差し出した。杉原が金をズボンの尻のポケットに押し込み、首を半分ほどひねって、頬をさすりながらじっとおれの顔を見返した。
「なあ田沢、お前はたぶん、安い買い物をしたぜ」
「そうだといいがな」
「そうに決まってる。いいか、男の死因は間違いなく胸に撃ち込まれたピストルの弾、しかし検死の結果、奴の胃は空っぽで、放っておいても長生きはしなかったという。これは……」
杉原の次の言葉を、自覚もなく、おれがさえぎった。
「放っておけば、衰弱死か」
「そういうことだ」
「中央公園で死んだ高野和夫と同じだ」
「やっぱり安い買い物だったろうよ」
杉原が手帳をセーターの下にしまい、それまで前かがみだった肩を、ちょっと椅子の背にもたれさせた。おれの背中には寒い汗が噴き出し、ビールは胃壁をとおして、直接脳の血管にまで侵入した。このビールがカロリーにならず、躰が糖分も炭水化物も吸収しないというのは、どういう状況なのか。
「なんだかまるで分からんな」と、コーヒーに口をつけ、欠伸を噛み殺すように、杉原が言った。「いったい今の世の中、なにを好んで、餓死などせにゃならんのかな」
「二人ともダイエット中だったか……」
「放っておけば死ぬものを、なぜ女はわざわざ撃ち殺したんだ?」
「さあ……」
「女の気持ちなんかだれにも分からんということかな」
「警察のほうはどうだ、動きはあるのか」
「ロシア大使館からの圧力だぜ。どうせ外務省だって承知、これ以上日本の警察が動くもんかよ」
今日の夕方、目黒の駅前に船井刑事があらわれたとき、おれはいやな予感と、奇妙を確信を感じた。この事件に関して警察は動いていない、ただ船井だけが高野と王幼泉の関連に気づき、金儲けの幻想に取り憑《つ》かれたのだ。船井が握ったネタというのは、この検死結果の類似性なのだろう。
杉原が油っ気のない髪を指で掻きまわし、うんざりしたように眉をあげて、鼻でまた、ふんと笑った。
「この一件は終了だ、少なくとも新聞の中では終わった。あれ以上は載らんし、興味を持つ人間もいない。またくだらん事件が次から次へと起こって、俺は性懲りもなくそいつを新聞の中にばら撒きつづける」
「それぐらいの圧力に参るなんて、読者に対する裏切りじゃないですか」
忘れていたが、おれのとなりには夢子がいて、レモネードのストローを唇に引っかけたまま、ふて腐れたマネキン人形のように鎮座していた。言葉づかいがおれに対するよりていねいなのは、まさか杉原を尊敬したわけでもないだろう。
「このお嬢さん、俺に言ってるのか」と、怪訝な顔をおれに向け、首をかしげながら、杉原が言った。
「そうらしいな」
「事実は事実として報道するのが新聞社の使命でしょう」と、珍しく目を怒らせて、夢子が言った。
「俺だってまったく同意見ですよ。ただ新聞は嘘を書いてるわけじゃない、知ってて書かない事のほうが多いだけでね。要はバランスの問題、これで世の中、結構うまく回転しているわけさ」
「情報の選択は読者の判断に任せるべきだわ」
「いいかね、犯罪研究家のお嬢さん。一つだけ言っておくが、新聞は読者なんか信用してないんだ。信用してるのは広告主だけ、読者がいても広告主がいなければ新聞は出せない。逆に読者なんかいなくても広告さえあれば新聞は出せる……まあ、そういうことですな」
「出せるかも知れないけど、そんな新聞、出しても意味はないわ」
「いやはや、俺もまったく同意見ですよ。ただ少なくとも、俺たち新聞屋だけは食っていける」
杉原が面倒臭そうに笑って、のっそりと腰をあげ、顎髭をこすりながら、ひょいと伝票をつまみ上げた。
「とりあえずな、今日はそんなところだ。田沢、ここの勘定は俺の奢りにしておく」
それから杉原は、もう一度夢子の顔に視線を戻し、片手をズボンのポケットに入れて、小さく首をひねった。
「君、やっぱり前に会ってるな……娘の友達だっけ」
「お嬢さんて何歳《いくつ》なの?」
「小学校の二年生」
「わたしのほうが少し歳上だわ」
「そうだよなあ、まさか女房の友達ということもなかろうし……歳を取ると女の年齢に興味がなくなる。それにしても、どこかで会ってる気がするが」
杉原が興味もなさそうにうなずいて、おれに手をふり、あとは黙ってサンダルをレジに引きずって行った。杉原を待っているのは活字の洪水、それを整理し、取捨選択し、政府や財界や圧力団体の意向を受けて紙面にバランスやら秩序やらをぶち撒ける。そんな新聞を出しても意味がないことは、杉原自身が、一番よく知っている。
杉原を見送ってから、おれはタバコをくわえ、頭を深く椅子の背にもたれさせた。得体の知れない疲れと恐怖が、不気味におれの肩を押さえつける。事件が事件として成立し、糸口も見えて来たのに、この脱力感はどこから運ばれるのか。ラトーニャはどこから来て、どこへ行ったのか。ロシア大使館まで絡んで来て、この事件は本当に、おれの手に負えるのか。依りによって、こんなトラブルに、なぜ夢子を巻き込んでしまったのか。
向かいの席に場所を移し、腹話術のように顎を固定させたまま、夢子が言った。
「考えてることがあるなら、言葉で説明しなさいよ」
「君がドレスアップしたらどれぐらい美人になるか……」
「はあ?」
「おれの考えてることなんか、そんなもんさ」
「冗談はやめなさい」
「おれの目を見てくれ」
「田沢さんは目の形が冗談よ」
「残念だったな。君だって髪を長くして、尻と胸にボリュームをつければラトーニャに負けないほどの美人になる」
「気持ちを事件に集中するべきね」
「おれもそう思う」
「ずいぶんいろんなことが分かってきた……ねえ?」
夢子の顔は不思議なほど色が白く、皺も染みも見えず、二重の大きい目が淡々とおれの顔を覗き込む。昼間はナターシャの西洋的な端正な顔に見惚れ、今は夢子の未成熟な匂いに見惚れている。そのくせ頭の中ではラトーニャの幻影を追い、どこかではちゃんと事件の推移を検証する。
「問題は次にわたしたちがなにをするか、そういうことね」
「なあ夢子、君は今度の事件が、おれたちの手に負えると思うか」
「どういう意味よ」
「RAMAだのロシア大使館だの、そんなところが絡んでるとしたら、おれたちに出る幕はない気がする」
「ロシア大使館ぐらい乗り込んでやるわよ」
「保険調査員の名刺でか」
「親父は日経連の理事、尻を叩けばなんとかなる。とりあえず大使館にアタックしてみる?」
おれのほうだって、岩崎にもう一度威しをかければ、ロシア大使館ぐらい渡りはつけられる。問題はおれの気力。敵の正体に見当がつかず、影だけが無際限に広がって、おれから茫洋と闘争心を吸いあげる。今朝事務所を出たときの興奮が、今はただの疲労に変わってしまった。事件への興味をなくしたせいでもなく、年齢のせいでもなく、おれを臆病にしているのは、説明のつかないいやな予感のせいだった。
「分かったようでもあり、分からないようでもあり……」と、タバコをくわえたまま、火をつけず、手の中でライターをもてあそんで、おれが言った。「無闇にロシア大使館を攻めても、答えはなにも引き出せない」
「田沢さんは弱気すぎるわ」
「頭も固いしな」
「新聞社も警察も手を引いた事件、わたしたちが解決しなかったら、だれがするの」
「相手が大きすぎる」
「わたしは平気よ」
「君は犯人が宇宙人でも平気だ」
「可能性はあるじゃない。ラトーニャという人はロシアのスパイで、RAMAは空軍調査局。中央公園のトイレにはへんな生き物がいた。高野は餓死で王幼泉は餓死寸前、普通の殺人事件で、そんなことはありえないわ」
「君の推理では……」
「エイリアンが高野と王幼泉に寄生したのよ」
「ラトーニャはなぜ王幼泉を撃った?」
「彼女の任務はエイリアンを抹殺すること、それで筋がとおるじゃない」
「筋だけなら、まあ、とおる気もするが……」
ラトーニャはモスクワ工科大学の宇宙化学科出身、ナターシャによれば、RAMAは宇宙開発局の仕事がほとんどだという。条件は地球外生命の方向を示しているが、それにしてもやはり、犯人が宇宙人では、常識に対してあまりにも無礼すぎる。
「田沢さん、ラトーニャという女の人が死んで、やる気をなくしたわけ?」と、メガネの奥から冷淡な視線を投げ、顎を出刃包丁のように尖らして、夢子が言った。
「まさか」
「まさか、なによ」
「そんなことはないという意味」
「顔に書いてあるわ」
「なにが」
「関係があったこと」
「関係って?」
「男と女の関係」
「ああいう女は簡単に、おれなんかとは寝ないさ」
「好みは様々よ」
「そういう好みの女と会ってみたい」
「田沢さん……」
「なんだよ」
「本当はどうだったの?」
「おれは金をもらって尾行を引き受けただけ。依頼者も尾行相手も死んで、だから仕事は終わっている。これ以上どこを突ついても、もう金は出てこない」
ラトーニャの形のいい足が思い出され、うすい色の乳首や酸味の強い汗の匂いが思い出され、おれの頭の中を、透明な耳鳴りが氷のようにとおりすぎる。記憶は鮮明でも、その記憶自体がずいぶん昔の出来事のようで、おれの気分を実感のない、作り物の悲しみに閉じ込める。
「とにかく、今夜は、帰ろう」と、ビールを苦く飲みほし、タバコの箱を掴んで、おれが言った。
「帰るって、どこへ」
「君は君のマンション、おれはおれの部屋」
「勝手すぎるわよ」
「今日は疲れた」
「また自分の殻に閉じこもるの」
「そういうことだ」
「子供みたいね」
「君には言われたくない」
「困ったら逃げ出す、都合の悪いことは冗談でごまかす。そうやって三十八年も生きて来れば、田沢さんも疲れるわ」
「大きなお世話だ。仕事も終わり、探偵ごっこも終わり、おれの夢も終わりだ」
「………」
「もともと君は社長令嬢、有名人で金持ちで、スナックも探偵もただの暇つぶし。おれとは生きる世界が違うし、価値観も違う。幻想や錯覚だけで生きるには、おれは歳を取りすぎている」
通りに出て、タクシーを拾い、夢子のマンションまで走らせる間、おれたちは一言も口をきかなかった。夢子を勝手に巻き込み、今度は勝手に事件から締め出そうとする。あらためて解説されなくても、虫のいい話であることは分かっている。だがこれは空想の物語ではなく、現実の殺人事件なのだ。王幼泉がおれを尾行していたなら、夢子の存在だって知っていた可能性がある。犯人がだれで、どんな思惑で動いているにせよ、この事件ではもう複数の人間が殺されている。次がおれ自身でないと、夢子ではないと、だれが保証できるのか。
おれは夢子のマンションの前で、夢子だけをおろし、タクシーを直接事務所へまわらせた。まだ地下鉄は動いていたが、人込みにまぎれる気にはならなかった。親しい友達もなく、酒を飲みたい相手もなく、今夜はひたすら休みたかった。明日の朝になって、もし天気が良ければ、おれの倦怠にもたぶん気力は戻って来る。戻らなかったときは、どうするか。答えは簡単、この十年間親しんだ正しいろくでなし[#「ろくでなし」に傍点]稼業を、粛々とつづけるだけのことだった。
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それにしても、なんと殺風景な部屋であることか。
自分の事務所に帰りつき、ドアを閉めたところで、つくづくとおれは立ち尽くした。灰色の壁にはタバコの脂《やに》がこびりつき、カーテンも芸のない灰色、部屋のどこかで金髪のピンナップガールがウィンクを送ってくるわけでもない。スチールの仕事机とソファタイプの椅子、ベッドを隠す衝立と汚れたゴムタイルの床、カーペットも部屋の半分だけで、履きもしないスリッパがぽつねんと床に散っている。もう五年もこの部屋で寝泊りをし、仕事場としても使っているのに、どこにも人間の体温が匂わない。今まで無自覚でいたが、おれはこの部屋に、まるで愛着を感じていなかった。
上着を脱ごうとしたが、急に寒気を感じ、おれは収納庫から電気ストーブを引っぱり出して、椅子の前にセットした。スイッチを入れると埃の焦げる臭気が鼻をつき、しかしすぐにヒーターが活動して、部屋にかすかな憩いが拡がりはじめた。気力の萎えた躰には、電気ストーブのちっぽけな熱でも、いくらかは生きる勇気を援助してくれる。
おれは十分ぐらい、ストーブの前に立って、ぼんやりと躰を暖めていた。それから棚に焼酎の瓶を見つけ、グラスに注いで、仕事机の椅子に深く腰をおろした。
ビルのどこかでコンクリートが軋み、窓の外からはクルマの喧噪が聞こえ、こうやってこの街は、一日中眠ることもなく、無数の酔っ払いや無数の売春婦や、ヤクザ者や性倒錯者や麻薬患者やらが、まるで腐ったチーズの中を這いまわる蛆虫みたいに、休みなく蠢きつづける。
おれはまた空想の中にオーストラリアの牧場を思いうかべ、羊の群れを眺めながらタバコを吹かしている自分の姿を、頭の中で漫然と凝視した。遠くの空を飛ぶのはハゲワシか、ウミネコか。夕焼けの中をカンガルーが土埃をあげて跳び、絶滅したというタスマニア狼が音もなく羊の群れを狙いつづける。カンガルーが姿を消した地平線のかなたから、なにかのエンジン音が聞こえ出し、おれはおっとりと背伸びをする。ロケットにばかでかいタイヤのついた乗りものが、夕日を受けながら偉そうに近づいて来る。形は少し奇妙だが、たぶんそれは、トラクターなのだ。そのロケットトラクターが目の前で止まり、運転席から飛びおりた女が、にっこりとおれに笑いかける。トラクターを運転して来たくせに、ラトーニャはなぜか、颯爽と白いイブニングドレスをひるがえす。
おれは頭をふって、幻想を追い払い、焼酎を飲みほしてから、机の引き出しをゆっくりと引き開けた。奥にはずいぶん不似合いな札束。ラトーニャが置いていった二百万と、競馬で儲けた五百万だ。おれは上着の内ポケットから岩崎のよこした金を取り出し、前からあった札束の上に、ぽいと放りなげた。この前これだけまとまった金を見たのは、いつだったか。それも今は眺めるだけではなく、本物の金が、本物の引き出しに納まっている。なにか喜びのようなもの、人生を諦める見返りのようなものを期待したが、いくら待っても、やって来るのは自嘲と、根拠のない疲労だけだった。
「いい歳をして、柄にもなく感傷的になってやがる」と、焼酎をグラスに注ぎ足し、声に出して、おれは一人ごとを言う。
たしかにこれは感傷、心と躰が疲れると、感傷でもなんでもいいから、つい甘い夢がほしくなる。とにかく明日は床屋に行こうと、また声に出して、おれは一人ごとを言った。床屋に行って、頭をさっぱりさせ、それからデパートへ行って新しい背広を買う。ついでにスリーシーズンのコートも買い、靴とネクタイも新調する。新しい背広に新しいコート、新しいカバンも買って、ちょっと旅に出る。温泉につかって魚釣りをやり、帰ってきたらこんな事務所や、こんな仕事とはおさらば。二、三流の業界紙なら、まだどこかで拾ってくれる。そうやって堅気に六十まで暮らし、しっかり金も貯めて、あとは本当にオーストラリアへ渡って小さい牧場を買う。そんな幻想を眺めているうち、錯覚と確信が、入れ替わりにあらわれては、つかの間おれを笑わせる。
おれはグラスにもう一杯焼酎を注ぎ、ベッドの端まで歩いて、よっこらしょと腰をおろした。そこで焼酎を口に放り込み、グラスを持ったまま、ベッドに身を投げ出した。枕にはまだラトーニャの匂いが残っていて、おれの自嘲が、じわりとパニックに変わっていく。言い知れぬ不安、抑えようのない怒り、そんなものが混沌として、おれの手から焼酎のグラスを、昂然と床に投げ出させる。考えなくても、最初から分かっていることなのだ。ラトーニャの存在がいくら遠くなったとはいえ、ラトーニャと過ごした一夜に対する礼儀は、依然として燻《くすぶ》っている。
おれはまたベッドに躰を起こし、床の上で割れているグラスや、事務机や、スイッチの入っていないテレビや灰色に塗られた鉄板ドアを、耳を澄まして眺めまわした。ドアの向こう側に初めてラトーニャが立ってから、まだ一週間もたっていない。あのときから、なにかが狂い出したのだ。生活のリズムとか習慣とか、そんな安っぽいものではなく、おれの人生そのものが狂い出した。ラトーニャさえあらわれなければ、今でも政治家のゴシップを集めてまわる平和な人生が、どうでもいい単調さでつづいていたはずなのだ。
おれはラトーニャが初めて事務所にやって来たときの、部屋を眺めまわす傲慢な表情や、おれの顎の下に顔をうずめたときの髪の匂いや、絡めてくる足の力の強さや肌の甘いぬくもりを、まるでこの瞬間の現実のように、はっきりと思い出していた。いったいラトーニャはなにを考え、おれの人生を無視して、自分の中でどんな結論を出したのか。
もし、仮に、ラトーニャの王幼泉射殺が事実だったとして、ラトーニャはなぜそんな行為におよんだのか。殺しなんかおれにやらせればよかった。一晩を一緒に過ごした翌日、おれにトカレフを渡して「王幼泉を殺《や》ってこい」と言えば、それで済んだはずだ。おれは頭に血がのぼっていたし、ラトーニャに殺《や》れと言われれば十人でも二十人でも、人間なんかいくらでも殺していた。もっと不自然なのは、王幼泉を射殺したあと、ラトーニャが歩道橋から飛びおりたという状況だ。人間を殺せばだれでも罪の意識はもつ。だからってラトーニャは、自殺をするタイプではなかった。あの夜、事務所にやって来たとき、たしかにラトーニャは憔悴していた。なにかを決意し、なにかを思い詰めていた。しかしそれが自殺の決意だったとは、どうしても思えない。自分の死を覚悟することと、自殺を決意することとは、心理のプロセスは違うのだ。
おれは頭の中に巣食っている理不尽な困惑を、順を追って整理しはじめた。ラトーニャがおれを事件に巻き込んだ経緯は、岩崎が言ったとおりの、単純なものなのか。宮部代議士は厚生族のボス、その私設秘書である岩崎が外務省関係のパーティーでラトーニャと出会うものなのか。ラトーニャがおれを選んだ理由が、偶然ではなかったとすると、それではどんな必然なのか。
次にラトーニャが依頼した仕事のこと。ラトーニャはあの時点で、どこまで結果を見ていたのか。高野の死、王幼泉の死、そして自分の死と、そんなことまで計算の内だったのか。漠然とした危険ぐらいは、たぶん予想はしていたろう。しかし高野の尾行を依頼したときの曖昧さは、どう説明すればいいのだ。
おれはふと思い出して、机まで歩き、引き出しの中から三枚の写真を取り出した。ラトーニャから最初に渡された、久我山の家の写真だった。正面からのもの、ななめ横からのもの、それと手前の道路までを入れた遠景からのもの。実物の家にはすっかり馴染んでいたし、写真だって渡されたときと変わらない。ただ、なにかが、なんとなく引っかかる。説明しようとすると逃げていってしまいそうな、なにか、理屈に合わない不愉快さ。
急に、おれはとんでもない不整合性に気がついて、自分の迂闊さに、力一杯の悪態を吐きつけた。そんなことを忘れていたこと自体、おれはラトーニャ惚けをしていたのだ。この仕事は最初から辻褄が合っていなかった。今はっきりとそのことを思い出した。ラトーニャは「高野和夫という男を尾行しろ」とは言わなかった。ラトーニャはただ、この家から出てくる男を尾行しろと言ったにすぎない。ラトーニャだって高野の名前ぐらいは知っていた。しかしラトーニャにとって大事だったのは『男』ではなく、『この家』だったのだ。ということは、どういうことか。おれは二日もあの家に通ったし、高野の死後、庭にまで踏み込んだ。あの家はだだっ広い空家というだけで、それ以上でも、以下でもなかったではないか。
おれは壁の時計で、まだ十二時前であることを確かめ、ストーブと電気を消して事務所を飛び出した。確信はなかったが、あの家への懸念は、どうせおれを眠らせない。見当違いであったところで、それは、それまでのことだった。
おれは新宿の三丁目までかけ足で歩き、新宿線と京王線と井の頭線を乗りついで、久我山に出た。明大前から乗った井の頭線は、最終一つ前の吉祥寺行きだった。
終電に近い通勤電車というのは、まるでラッシュ時のような混み方をする。長い間のヤクザ生活で、おれはそのことを忘れていた。乗客の大部分は疲れたサラリーマン、中には学生や若いOLも混じっている。みな酒臭い息を吐き、仕事だか人生だかの疲れで朦朧と視線をただよわす。この連中が五、六時間の睡眠のあと、朝にはまた一日の仕事を開始する。怠惰を貪るだけのおれの日常が、この健全すぎる風景の中で、自虐的におれの人生をあざ笑う。
久我山でもなん人か電車をおり、改札口から吐き出されて、駅前の道をほぼ半数ずつ左右に別れていった。右に行けば井の頭通りに突き当たり、左に歩けば十分で例の家に行き当たる。
おれは三度も往復しているその道を、上着の襟を立て、勤め人たちのうしろをひっそりと歩いていった。季節はもうすぐ十一月、夜中の風には強引に冬の気配がまぎれ込む。
前を歩いていた四、五人がいつの間にか姿を消し、それからいくらも歩かないうちに、おれも例の家の前に出た。遠くのほうに暗い街灯が一つ点いているだけで、前にもうしろにも、人間は一人も歩いていなかった。
左右を見まわし、もう一度人の気配がないことを確かめてから、鉄の門扉を押して、おれは屋敷内に忍び込んだ。
庭中を被いつくす鬱蒼とした木の匂い、枯れた雑草の匂い、家自体が発散する埃の臭気、そんなものが奥行きの広い屋敷全体に、闇よりも濃く幕を広げていた。
門を入って、少し横へ歩き、裏手からのかすかな明かりに、一瞬おれは、唖然と足を止めた。家の無人感は相変わらず、その無人感と間違いなく明かりが漏れている事実との間には、寒気がするほどの違和感があった。
おれは枯れ枝を踏まないよう、用心しながら、身をかがめて屋敷を裏側へまわり込んだ。三方を接する家との間には高い石塀が巡らされ、おまけに杉の濃い林立がどの角度からも屋敷の露出を守っていた。明かりが漏れているのは、おれが以前来たときに覗いた、裏庭に面した台所の窓だった。
身をかがめたまま、足音を殺し、息も殺して、おれはそのほうに忍び寄った。埃の臭気もガラスの汚れも変わらず、おれはその窓の下にしゃがみ込み、片目でそっと台所を覗いてみた。以前にも来ているとはいえ、不気味なほど殺風景な台所は、おれをたっぷりと怖気づかせた。空家であるはずの台所の天井から、明かりのついた裸電球が一本、提灯のようにぶら下がっている。ほかの部屋に明かりはなく、物音もなく、見えるのは埃とうすく広がる暗い光輪だけ。おれの胃は痛みに似た吐き気を押しあげ、血管は収縮し、手のひらには熱く汗がにじんでいた。
そのとき、初めから死角に立っていたのか、あるいは別の部屋から入って来たのか、おれの視界に、音もなく一人の男がまぎれ込んだ。窓から頭を引こうとしたが、男はおれに見向きもせず、台所を横切って、うしろ向きに流し台の前へ立ち止まった。限りなく浮浪者に近い、汚れた身なりの、躰中から垢の臭気を飛ばしているような男だった。
確信のなかった推理が、あまりにも呆気なく的中し、おれは思わず目眩を感じた。高野和夫以外に、第二だか第三だか、とにかくこの家に人間が存在していたのだ。高野が死んだあと、迂闊にもおれは家から注意を外らしてしまった。敵はこっち、本命は家と、この家に出入りする男たちなのだ。
男はおれに背中を向けたまま、かなり長い時間、流し台の前に佇んでいた。
その男が急に窓をふり向き、泡をくったおれの頭が、危うくうしろに倒れそうになった。しかし男の視線はおれの存在をかすめず、窓よりもっと上の、天井と壁の境目あたりか、あるいはもっと上の、神の国あたりに向かっていった。
男が一歩だけ前に出て、床に膝をつき、こちらに顔を向けたまま、客観的には、昏倒という状況に突入した。倒れる瞬間、呻くような表情をしたが、声は届かなかった。
男は倒れてからも、断続的に躰を痙攣させ、目の前の床に掴む物があるとでもいうように、さかんに両手を開閉させていた。
おれは五分ぐらい、窓枠に顎をのせ、息を詰めて事の推移を見守っていた。家の奥から男の仲間が飛び出し、処置をするのが当然の状況、ところが、いくら待っても、男の仲間はおろか、ネズミ一匹登場しなかった。
おれは肚《はら》を決めて立ちあがり、ガラスを割って、掛け金をはずし、頭から台所にダイブした。そのとたん、なんとも言えない臭気が、猛然とおれに襲いかかった。黴と分泌物と饐《す》えたアルコールが混じったような、涙がにじむほど不愉快な臭気だった。
用心しながら、倒れている男に近寄り、肩を起こして、おれは強く二、三度ゆすってみた。男は濁った目を義眼のように見開いていたが、意識はおれの顔など、完璧に見てはいなかった。
「どうした、なにがあった」と、思考を放棄し、あたりも構わず、おれが言った。「これは、どういうことだ。あんたはだれだ、ここでなにをしている?」
いくらゆすっても、男の目は反応せず、躰からも呆気なく生気が抜けていき、最後にはその垢にまみれた頭が、がっくりとおれの腕にもたれかかった。おれは男の躰を床に戻し、念のために心臓に耳を当ててみた。確かめるまでもなく、もう男の鼓動は止まっていた。
おれは立ちあがって、肩で息をつき、あらためて空疎な台所を眺めまわした。作りつけの食器戸棚がある以外、鍋も釜も食器もない、埃っぽいだけの、過剰に寒い台所だった。いやな臭気は相変わらず濃く渦巻き、しかしいくら見渡しても、倒れている男以外、その臭気の元は見当たらなかった。
おれは呼吸を制御し、背中をのばして、もう一度死んだ男を眺めおろした。顔は死際の形相にゆがみ、顎のまわりには縦横に無精髭が生え、額は垢と脂《あぶら》で赤黒く光っていた。もし男に職業があったとしたら、日雇いの労務者か浮浪者か、あるいはそういう芝居をしている新劇の役者。節くれだった指や爪の垢からして、この風体が男の仮装とは思えなかった。そして論理的に考えるなら、男の死因は、栄養失調による衰弱死だ。
事件の核心には近づいているはずなのに、近づけば近づくほど、答えのほうが逃げ出していく。今度の事件では、知っているかぎり、四つの殺人があった。それがみな共通線上にあって、しかしどこが共通線上なのかが分からない。平凡な会社員である高野和夫、なにかの組織に関係していたらしい王幼泉、ラトーニャに、そして名前は知らないが、この浮浪者風の汚れた中年男。いったいこの四人に、どういうつながりがあるのか。
こんな場合、マイク・ハマーならどうするか、ハマーだってウォーショースキーだってミス・マープルだって、これほど不可解な事件に首を突っ込んだ例を、断じておれは聞いていなかった。
死体のほうでなにかが動き、おれの臆病心が、反射的に目をふり向かせた。しばらく見ていたが、やはりそれは錯覚、変死体と空家の台所に閉じ込められる経験は、人間を長くやっていても、そう頻繁にあるものではない。おれの神経が怖気づき、パニックを起こしているだけ。男の心臓は間違いなく止まっている。オカルト映画じゃあるまいし、死んだ人間が生き返るはずはないのだ。
一度死んだ人間は、ぜったい生き返らない。蘇生の例というのは心臓が仮死状態に置かれていただけで、要するに最初から、死んではいないのだ。そう思いながら、男の顔を見ているうち、あろうことか、男の膝がへんな形に歪み出した。そのうち踵《かかと》が床をこすり出し、大量の蟹《かに》が乱闘するような、なんとも神経に障る音が聞こえてきた。おれの躰からは血の気という血の気が、一気に蒸発し、もう死体から目を離すことも、逃げ出すこともできなかった。
死んだはずの男が足で床を蹴り、顔まで引きつらせて、なにをしようというのだ。たんなる死後硬直か、しかし死後硬直は筋肉弛緩の次に来るはずで、いくらなんでも、そこまでの時間はたっていない。死んだ[#「死んだ」に傍点]死体が床を蹴るなんて話も、聞いたことはない。心臓の停止はおれの思い違い、あれはただの、仮死だったのか。
男のほうに向かったおれの爪先が、自覚もなく停止し、その場所から、おれは再び飛び下がった。足だけだった男の痙攣が、波紋のように、膨脹しながら上半身にまで移ってきたのだ。痙攣は腹、胸、肩、腕にまで拡がり、首やら顔やら手の甲やら、露出した皮膚に蠕動まで引き起こした。皮膚は粟のように波立ち、次の瞬間には針穴のように陥没し、血管もふくらんでは萎え、躰全体が蛆虫の巣のように、激しく形態を入れ換える。皮膚の動きには粘質な音が付随し、男の躰が意思のある生ゴムのように、色を変えながら果てしなく変質する。
おれが息を止めていたのは、一分か、十分か。突然皮膚の痙攣がやみ、手足の痙攣も止まって、凍るほどの静寂が、一気に押し寄せた。その瞬間、男の眼窩《がんか》がずぶりと落ち込み、眼球と歯茎が剥き出されて、赤い舌と一緒に、骸骨標本のようになった男の頭が、わっと起きあがった。
目の前に風景がなくなり、腰を抜かすついでに、おれは三十八年間の全人生をかけて、必死に窓へ飛びついた。選択肢はたった一つ、一刻も早くここから逃げ出すこと。だからおれは、そのとおりにした。窓から飛び出して、庭を走り、商店街の灯が見えて来るところまで、野犬のように疾走した。息が切れるとか足が動かないとか、そんな贅沢は問題外、途中でだれかが奇異な目でふり返ったが、人間の視線など、断じて、おれの走る喜びを疎外しなかった。
井の頭通りまで走り切って、タクシーを拾い、運転手に事務所の所在を告げ、そのままおれは、猛然とシートに躰を丸め込んだ。助かった自分の生命が、褪《さ》めようとしない恐怖の中で、じわりとおれの目を熱くする。この四十年ちかく疑問に思っていたことの答えを、そのときおれは、はっきりと見出した。おれは生きることが好きなのか、そう、おれは本心から、生きることが好きなのだ。
「ねえお客さん……」と、バックミラーからおれの顔を覗き、夜中にしては異様なほど陽気な声で、運転手が言った。「なんだか、幽霊でも見てきたような顔じゃないですか」
返事をする義理はなく、気力もなく、それでもともかく、自分に言い聞かせるつもりで、おれは精一杯の愛想をふりまいた。
「幽霊なら生け捕って見せ物にするけどな。だけど今夜は、自分が幽霊に生け捕られそうになった……他人に言っても、馬鹿ばかしくて、どうせだれも信じないだろう」
事務所にたどり着き、服も脱がず、おれはまっすぐベッドに飛び込んだ。ベッドの中には夢子がいたが、おれはその理由や、事の重大性を、考える気にもならなかった。
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いつ眠ったのか、本当に眠れたのか、おれに眠る資格があったのか。
夢子の長い手足がおれの震えを包み、皮膚や髪の匂いが強引に恐怖を中和してくれたが、それでも性懲りもなく襲って来る悪夢に、おれの神経は一晩中悪寒をくり返した。
明るくなり、夢子が忍び足で部屋を歩く気配を感じても、おれはベッドに救いを求めつづけた。昨日のつづきである新しい一日が始まる事実を、おれの臆病がどうしても認めなかったのだ。
しかしそれでも、窓からの光が衝立の隙間に射し込み、部屋に夢子の気配が感じられなくなったころ、おれは怒濤の決意をし、猛然とベッドに起きあがった。上着もズボンも靴下もはいたまま、おまけに頭の先までびっしょりと悪い汗をかいていた。
おれは服をむしり取って、シャワーまで歩き、熱い湯の下に無心で座り込んだ。息をしてシャワーを浴びられるだけのことに、おれは心からの充足と、素直な幸福を感じていた。
シャワーを出て、壁の時計を見ると、もうとっくに正午を過ぎていた。サイドテーブルには紙ナプキンのかかった大皿、中身はハムとレタスのサンドウィッチだった。パーコレータにはコーヒーも入っていたが、それはもう冷たくなっていた。
おれはガス台でコーヒーを温めなおし、身支度をととのえてから、朦朧と夢子の朝食に取りかかった。口は砂漠のように乾き、味は不分明で、しかし生きたまま物が食える環境に、おれはじゅうぶん満足だった。
くり返し襲われた悪夢の結果か、それともシャワーやコーヒーのお陰か、おれには事件における一連の仕組みについて、ある程度理解できるようになっていた。分かってみればこれほど単純な事件も、そうはない。問題はこの事実を事実として受け入れられる人間が、この世になん人いるかという、それだけのことだった。
あと始末の依頼に警察を訪問するのは、考え得るかぎり、もっとも稚拙な発想。死ぬのもご免、精神病院に逃げ込むのも邪道、おれはジャック・ニコルスンみたいにタフではないし、シュワルツェネッガーほどの体力もない。実質的には、この事件はもうおれの手を離れている。本来おれが関わるべき事件ではなく、それでもけじめをつけようと思ったのは、これまでのおれの人生が、どこまでもけじめとは無縁だったせいだ。意地でも礼儀でもたんなる強がりでも、三十八年も生きれば、一度ぐらい意味もなく、人生にけじめをつけてみたくなる。
おれはサンドウィッチとコーヒーを、簡単に胃に収め、少し厚手の上着を着て外に出た。『火星人の罪』の前もとおったが、店は閉まっていた。ドアにも鍵がかかっていて、店員や夢子の姿は見えなかった。定休日があるわけでもなし、なんの都合で臨時休業を決めたのか、いずれにしても今度の事件が片づいたら、夢子に赤いハイヒールでも買ってやろうと、おれは軽く決心した。
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無駄足になるかも知れないとは思ったが、おれは渋谷へ出て、杉原から聞いた東三丁目に王幼泉の会社を探しはじめた。所在地は恵比寿寄りの、場外馬券売場に近い、明治通りに面した狭くて古いビルだった。エレベータはなく、おれは三階の事務所まで、暗い階段を王幼泉の顔を思い出しながら上がって行った。
『東洋商事』とそっけないプラスチック表示が出たドアの前で、ためらいをふり払い、おれはドアを小さくノックした。会社は店じまいしたとしても、王幼泉が死んでからたった二日。一人や二人、始末の社員は残っているはずだった。
内側から女の返事が聞こえて、おれはドアを開け、簡単に中へ足を踏み入れた。広さはおれの事務所と同じほど、寝ぐらは別だったらしく、事務机やコピー機やファクスや、一応は会社らしい体裁が揃っていた。
中にいたのは三十ぐらいの、厚い化粧に唇をドドメ色に塗った、疲れた感じの痩せた女だった。女は事務机から腰をあげず、湯呑を持った肘を机についたまま、胡散臭そうにおれの顔を眺めてきた。
「仕事のことだったら分かんないわよ。知ってるだろうけど、うちの社長、死んじゃったの」
おれはうなずいただけで、事務所を見まわし、フロアを歩いて空いている机に尻をのせた。
「思っていたより立派な会社だ、社員も思っていたより美人だし」
「ええ、あの……」
「君のほかには?」
「社員は私だけよ」
「最初から?」
「ええ、あの……おたく、警察の人?」
「まさか」
「新聞記者かなにか?」
「そう思いたければ、そういうことにしておくさ」
女がまたじろりとおれの風体を値ぶみし、湯呑の茶をすすって、欠伸ともしゃっくりともつかぬ、不可解な呼吸をした。
「さっきも言ったけど、仕事のことなら私、まるで分かんないわよ」
「この会社、まだ営業してるのか」
「そんなこと分かれば苦労しないわよ」
「どういう意味だ?」
「なんの用なんよ。どうして私がそんなこと、あんたに説明しなきゃいけないんよ」
「君に小遣いを稼がそうと思った……いやならいいさ」
おれは財布から、新しい一万円札を抜き、たてに折って、それを紙飛行機のように、ひらりと女の膝に飛ばしてやった。
「ほーんと、なにがなんだか……今月の給料だって私、まだ貰ってないんだから」
女が立ちあがり、おれを目で引き止め、衝立の陰に入って、すぐ湯呑の盆と一緒に戻って来た。おれが膝に飛ばしてやった紙飛行機は、いつの間にか、見事に姿を消していた。
「あんた、こっちの関係の人?」と、机に湯呑を置き、指で頬に傷の線を引きながら、女が言った。
「なぜそう思う?」
「うちの社長も堅気だったわけじゃないでしょう」
「それを聞こうと思ったのさ、君が王幼泉を堅気ではないと思った理由は?」
「べつに、理由なんて、特別にはないけど……」
女がまた自分の机にまわり込み、茶をすすって、パーマをかけた茶髪を、二度ばかり煩《うるさ》そうに掻きあげた。
「うちの会社のこと、どこまで知ってるわけ?」
「たいしては知らない。王幼泉が生きてるとき、ちょっと会っただけだ」
「とにかくうちの会社って、東南アジアとか中東とか、そういうとこの雑貨を扱ってるの。生活用品なんかを都内の小売店に卸してね、ただそれって名目だと思うわ。仕事なんか月に一、二度、家賃や私の給料が出るほどの仕事じゃないんよ。そういうこと見てれば、だれだっておかしいと思うじゃない」
「君、この会社にはどれぐらい?」
「もう三年かな。おかしいと思ったとき、辞めとけばよかったんにね」
「どうして辞めなかった?」
「だってさあ、スーパーでレジ打ってるより、ずっと楽じゃない。社長がなんかやってたとしても、ほら、密輸とかなんかね、だけどそんなこと、私に関係ないもん。今から考えればそれが間違いだった、私っていつも運が悪いんよね。社長は死んじゃうし、給料は貰えないし、ねえ、本当だったら退職金だって貰えるわけだしさあ」
軽く引き出しを開けて、女がタバコを抜き出し、髪を払いながら、慣れた手つきで赤いライターで火をつけた。窓からの日射しがブラインドをすり抜け、女の黒いカーディガンをシマウマ模様に染め分ける。
「この会社、ロシアとも取引があったよな」と、流れてきた煙に息を吹き、女のつけまつ毛に感心しながら、おれが言った。
「へーえ、よく知ってるわねえ」
「蛇の道はヘビさ」
「あんたも密輸をやってるの」
「まさか」
「どうでもいいけどさあ、でもロシアとの取引なんて書類だけのことよ。自動車の部品をウラジオストクに送るの。みんな中古の部品、それをどこからか集めてきて、中間マージンを取るわけね」
「まともな仕事じゃないか」
「どうだか……」
「これからこの会社、どうなるんだ?」
「それが分からないんよ。だれかがなにか言ってくるだろうと思うんに、うんでもすんでもないの。あんた社長の知り合いなら、家族とか仕事の関係の人とか、だれか知ってない?」
「あいにくな……王幼泉の住まいは?」
「知らないんよねえ。考えたら可笑しいけど、三年も一緒に仕事してて、社長がどこに住んでるのか、家族がいるのか、そういうことも知らないの。一緒にコーヒーも飲まなかったわ」
「王幼泉が親しくしていた人間は?」
「ないわねえ」
「取引先の一つや二つ、あったろう」
「オリエンタル通商ってとこから、たまに電話がきたわ」
「どういう会社だ」
「さあ」
「電話帳を借りる」
「調べるの?」
「まあな」
「無駄だと思うわよ。私も前に調べてみたけど、電話帳になんか載ってなかったわ」
「君も苦労したわけか」
「そういうこと。だからあんたには苦労させたくないんよ」
「その善意に感謝しよう」
「私ってね、お金をくれる人に対しては、ついサービスしちゃうんよ」
「女は?」
「ええ?」
「女さ、王幼泉を訪ねて、女が来たことはないか」
タバコの煙に挑戦するように、女がつけまつ毛を震わせ、口の端から下顎にかけて、太く皺をきざませた。三十前後と見えていた歳も、五つほどの嵩《かさ》あげが必要だった。
「その女って、どんな女なんよ」
「美人さ」
「へーえ」
「百メートル先からでも美人と分かるほどの、本物の美人だ」
「冗談でしょう。うちの社長がそんな女と、どこで知り合ったんよ」
「知り合いとは言ってない」
「それなら、仕事の関係?」
「どうだかな。会社に来たことがなければ、それでいいさ」
女がリュウマチでも痛むように、額に皺を寄せ、肩を丸めながら、長く煙を吐き出した。王幼泉の住所も知らず、一緒にコーヒーを飲んだこともなく、それでも女関係だけは気になるとしたら、この女もずいぶんな博愛主義者だ。
「ねえ、今度の事件、どういうことなんよ。やっぱしうちの社長、なんかやってたわけ?」
「訊くのはおれのほうだ」
「だけどこれから私、どうしたらいいか分かんないんよ。警察にも行ってみた、そしたら社長の遺体、もう知り合いが引き取ったって。そのくせ知り合いの名前も教えてくれない。警察っていったい、なに考えてるんかしらねえ」
「どうせ、なにも考えてはいないさ」
「あたしはべつにね、社長がなにやってたって構わないんよ。責任のある人が会社のことを始末してくれて、私の給料と退職金、ちゃんと払ってくれればいいの。まったく、失業保険にだって入ってないんよ」
おれは女に渡された茶を、口に含み、腰かけていた机を指さして、女に訊いた。
「これ、王幼泉が使っていたデスク?」
「そうだけど」
「中を見ていいか」
「勝手にしたら? どうせ碌なものは入ってないわ」
机をおりて、上から下まで四つの引き出しを開き、一応、おれは中を探ってみた。入っていたのはボールペンやらクリップやら、女のものと同じ赤い使い捨てのライターやら旅行のパンフレットやらで、事件の手がかりらしいものは見当たらなかった。ただ週刊誌の間に一枚の写真があって、そこには四人の人間が写っていた。一人は王幼泉、あとの三人も東洋人で、二人は年齢から王幼泉の両親らしく、もう一人の若い女は王幼泉の妹か、女房か、そんなところだろう。写真の背景は中国ではなく、どこかアメリカの住宅地らしかった。この家族にも、王幼泉の死は、たぶんもう知らされている。
おれは写真を机に戻し、引き出しを閉めて、うんざりと女に視線を向かわせた。女は机にコンパクトを取り出し、ドドメ色の唇に、より濃く口紅を塗りなおしていた。
「王幼泉のことで、ほかに変わったことに気づかなかったかな」
「言ったとおりよ」と、ミラーから顔をあげず、口紅を塗りながら、女が答えた。「全部がとにかく変わってるじゃない。仕事なんか碌にないし、会社にもほとんど出てこない。家族のことも住んでる場所も分からない、私だったらそういう人間、変わってると思うわ。密輸だかなんだか知んないけど、社長には会社の他にも仕事があったんよ……今さらね、私にはどうでもいいことだけどさあ」
女のほうに手をふり、フロアを出口に歩きかけたおれを、アイシャドゥを引きながら、女が短く呼びとめた。
「ねえあんた、カエルの玩具、要らない?」
「うん?」
「電池で動くカエルの玩具よ」
「それが、どうした」
「先月ね、台湾から電池で動くカエルの玩具、十ダースも仕入れたの」
「ふーん」
「ほしけりゃあげるけど?」
「遠慮しておく」
「残念ねえ……だけど、どうしようかな」
「なにが」
「その玩具、私が売ってお金にしちゃったら、罪になるかしらね」
「どうだかな」
「今月の給料もなし、退職金もなし。新しい仕事だってさ、そう簡単には見つからないわ」
「君が銀座に出ればすぐナンバーワンになる」
「冗談はよしてよ」
「まあな……カエルの玩具ぐらい、売り飛ばしても構わないさ。文句を言う奴なんか、どうせ一人もいないはずだ」
おれはもう一度女に手をふり、ドアのノブをまわして、外に出た。あとは本命の顔が拝めるか、おれの背負った荷物がおれの肩からおりてくれるか、問題はそれだけだった。
王幼泉の事務所を出たところで、おれは電話ボックスを見つけ、そこから杉原の新聞社に電話を入れてみた。整理部は二十四時間勤務、杉原も夕方までは社にいるはずだった。
「おい、田沢、俺はお前の便利係じゃないんだぜ」
電話に出た杉原が、例によってこの世の終わりを確信しているような、不機嫌な声を出した。
「またちょっと調べてくれ」と、杉原の台詞には取り合わず、手帳を取り出しながら、おれが言った。
「ロシア大使館の電話番号と、一等書記官の名前が知りたい」
「それぐらいどこでだって調べられるだろうによ」
「だからお前に頼むんだ、電話帳をめくる暇がなくてな」
杉原がちっと舌打ちをし、それから不機嫌に、低い声で言った。
「すぐ調べるから、電話を切らずにそのまま待っていろ」
一分も待たないうちに、杉原が受話器を取り、外報部かどこかで聞いたらしいロシア大使館の電話番号と、一等書記官の名前を教えてくれた。
「電話番号は外線の受付けだからな、直接その男にはつながらないと思うぜ」
「名前が分かればそれでいい」
「田沢、いよいよ大使館に殴り込みか」
「そんな度胸はないさ」
「せいぜい気をつけろよ、相手が相手だ」
「危ない橋は渡らない」
「是非そうしてくれ、お互いもう歳ではあるし……それより、なあ?」
「なんだ」
「昨日の女の子、やっぱりどこかで会った気がする。あれはいったい、だれだよ」
「聞いたら驚くぞ」
「驚いたぐらいじゃ死なんさ」
「実はな……」
「うん」
「彼女は、お前の女房の腹違いの妹だ」
おれは電話を切って、それから気持ちを鎮めるために、電話ボックスの中でタバコに火をつけた。投げた矢が的に当たるかどうか、しかしとにかく、矢を投げてみなくては、結果なんか出はしない。
三口だけ吸ってから、タバコをボックスの外に捨て、おれはロシア大使館の番号のボタンをプッシュした。
電話に出たのは若い女だった。流暢な日本語に威圧的な慇懃さ、声だけではロシア人か日本人か、区別はつかなかった。
「一等書記官のグラシエフさんに取り次いでいただきたい」と、相手と同じほど慇懃に、おれが言った。
「そちら様は?」
「田沢」
「お約束がございますでしょうか」
「これからその約束をしようと思う」
「こちらは外線受付けで、書記官室とは番号が異なります」
「電話を回すぐらいはできるだろう」
「ご用件は、どういうことでしょうか」
「君に説明できるぐらいなら、わざわざグラシエフさんに電話はしない」
「そういうことですと、お取り次ぎはできかねます」
「分かった、十分後にもう一度電話をする。グラシエフさんには、田沢という者がラトーニャ・ノグチと王幼泉の件で話があると伝えてくれ。間違いなく伝えるように、もし君が手を抜いたら、おれは君の家を探し出して火をつけてやる」
受話器を置き、電話ボックスを出て、またタバコに火をつけながら、おれは渋谷駅の方向に歩き出した。急いでもゆっくり歩いても、渋谷駅には十分で行きつく。受付けの女に腹を立てても仕方ないが、官僚的な物言いに違和感を感じるのは、おれの体質だろう。大使館という看板を背負っているだけで、あんな小娘までが、外部の人間を野良犬のように扱おうとする。
ちょうど十分で渋谷駅につき、おれはガードに近い公衆電話で、もう一度ロシア大使館に電話を入れた。出たのは同じ女だったが、慇懃な口調のまま別な番号を告げ、そこへかけ直すようにと言ってきた。おれはさっきの詫びを言い、電話を切って、すぐその番号にかけ直した。
二回目のコールで、太くて低い男の声が出た。声の響きに感情はなく、言葉もていねいな日本語、しかし相手の年齢も、人種も分からなかった。
「ラトーニャ・ノグチと王幼泉の件について、どういうお話があるわけですかな」と、わざと感情を殺したような声で、単調に、男が言った。
「今は公衆電話でしてね。テレホンカードを使う趣味はないから、せっせと十円玉を放り込んでいる」
相手がよく響く声で、短く笑い、一瞬間をおいてから、からかうように言った。
「分かりました、今はどちらにおいでですかな」
「渋谷駅の近くです、王幼泉の事務所を覗いて来ました」
「なるほど……それでは青山でお目にかかりましょうか。地下鉄の外苑前駅近くに『エトワール』という喫茶店があります。青山通りに面したビルの一階ですから、すぐ見つかるでしょう。一番奥に席を取ってください。こちらは二十分ほどで参ります、それでは、ご用件はお目にかかったときに」
向こうが勝手に電話を切り、おれも受話器をおいて、その場で一つ、おれは深呼吸をした。
今回の事件にどう片をつけるかは、それは相手が決めることだ。二十分後に青山の『エトワール』とかいう喫茶店で男と会い、事件の始末について下駄をあずけてしまえば、おれはそれで解放される。
帰りには銀座にでも寄って、自分には新しい背広、夢子には赤いハイヒールを買ってやる。夢子の足のサイズは、どんなものか、背はおれと同じほどあっても、足のサイズまで二十五半ということはないだろう。二十三とか二十三半とか、どうせそんなもの、買った靴が夢子の足に合わなかったら、それでも構わない。世の中には無駄なものはいくらだってあるし、おれの人生なんか、無駄が服を着て歩いているようなものだった。
渋谷から地下鉄の銀座線に乗り、表参道を経て、外苑前駅に出た。階段も地下鉄もまだラッシュ前、目的の場所まで、十分とはかからなかった。
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指定された『エトワール』もすぐに見つかり、言われたとおり一番奥に席を取って、おれはコーヒーを注文した。窓際の席には流行の服を着た女たちが、気だるく、華やかに、香水臭いオーラと不遜な談笑を撒き散らしていた。こういう店なら白人の一人や二人まぎれ込んでも、なるほど目立たずに済む。場違いなのは古いジャケットに安手のチノパンツをはいた、おれのほうだった。
おれは運ばれて来た濃いコーヒーを味わいながら、しばらくぼんやりと、窓辺の女たちを眺めていた。不思議に茶髪は少なく、衣装も淡い単色、思い切ってファッション雑誌から抜けて来たという化粧の女も、ちらほら見受けられる。生活臭のない女というのは、見ているだけなら、ひどく罪がない。しかしこういう女たちを遊ばせ、一緒に暮らしたら、おれなんか一日で疲れてしまう。
自動ドアが開いて、男が顔を覗かせ、ためらいもなく店の奥へ進んで来た。金髪の初老の男を考えていた予想は、見事に外れてしまった。広い肩幅に厚い胸、高い眼窩に丈夫そうな顎、しかし背丈はおれと同じほどで、黒い髪をオールバックにした四十ぐらいの男だった。純粋なスラブ人種ではなく、西アジアか中央アジアの血でも混じっているのだろう。
男はゆったりした歩きでフロアを横切り、奥の席におれを認めて、目にうす笑いを浮かべながら、威圧的に近づいて来た。
おれの前で立ち止まり、フラノの背広をかがめながら、低い声で、男が言った。
「お電話をいただいた、田沢さんですね」
それはさっき電話で聞いた、太くてよく響く、慇懃な日本語と同じものだった。
おれがうなずいてみせ、相手も黙って向かいの席に腰をおろした。
「お待たせしましたかな」
「いや……」
「この時間はまだ東京の道も空いている。もっとも道路標識の謎だけは、なん年暮らしても解けませんがな」
ウェイトレスが来て、男は抹茶アイスクリームを注文し、そのウェイトレスがいなくなるのを待って、また男が言った。
「さて、ラトーニャと王幼泉についてのお話とやら、伺いましょうか」
「その前にこちらもいくつか伺いたい」
「ほーう?」
「わたしの趣味でしてね。物事に筋をとおしたほうが、少しだけ気分が良くなる」
「私も同意見ではありますな」
「あなたが一等書記官のグラシエフという方でないことは、もちろん分かっています。そのあたりからまず、確認したい」
相手の灰色の目が、笑いを含みながらじっとおれの顔をうかがい、それから赤ら顔の頬がゆるんで、にっと白い歯がこぼれ出た。
「わたしがグラシエフでないとすると、だれだとお思いですか」
「名前は知りません、まだ聞いてませんからね。とりあえず名のってはいかがです?」
「もう少しあなたの意見を聞いてからにしましょうか」
「わたしは最初から、グラシエフなんて人に用はなかった。一等書記官といえば大使の次の要職、訳の分からない電話でうっかり出かけてくるほど、暇だとは思えない」
おれの読みが正しいとすれば、相手はプロ、簡単に身分を明かすはずはない。そんなことは承知しているが、おれの疲労と厭世感は、もう駆け引きをいやがっていた。
「無理にでもなんでも、わたしの推理を聞いてもらいたい」
「それぐらいの時間はありますよ」
「あなたはたぶん、ロシアのなんらかの、大使館以外の組織に属している。一等書記官と直接連絡が取れるぐらいだから、クラスはかなり上、王幼泉はあなたの部下だった……KGBではありませんか」
抹茶アイスクリームが運ばれて来て、おれたちは会話を中断し、灰色の視線とおれの疲れた視線が、テーブルを挟んで、しばらくの間絡まり合った。ウェイトレスがさがったあとも、男は言葉を出さず、目の奥で笑いながら、スプーンで執拗にアイスクリームをなでまわしていた。
やがて、ふと顔をあげ、黄色っぽい前歯を見せて、男が言った。
「ご存知ありませんか。連邦崩壊後、KGBという組織は解体されました。残念ながら今の我がロシアには、諜報活動にうつつを抜かす余裕はありません」
「名称を変更しただけでしょう。謀略好きのロシア人が諜報組織を手放すはずがない」
「それはまた、ずいぶんな褒め言葉ですな」
「駆け引きも、探り合いも、わたしはうんざりです」
「こちらもご同様。KGBではありませんが、私は日本における情報収集の責任者です」
確信はしていたが、あまり気楽に言われて、おれのほうが少なからず戸惑った。
「まさか、身分証明書なんか……」
「必要ならお見せしますよ。新聞記者証でも商業外交官証でも……名前はセルゲイ・キリコビッチ、国防省国家保安局の日本駐在員です」
セルゲイ・キリコビッチと名のった男は、頬に太い皺をつくって、にやりと笑い、灰色の目を屈託なく光らせながら、スプーンに盛ったアイスクリームを、ゆっくり口へ運んでいった。
「私はこの国で、非合法な活動はしておりませんよ」と、アイスクリームを楽しむように、小さく息を吐いて、キリコビッチが言った。「隠れる必要も、身分をいつわる必要もない……もっとも部下の中には、表面に出したくない人間もおりますがね」
KGBにせよ、国家保安局にせよ、キリコビッチが諜報組織の一員で、日本で情報収集活動をしているという台詞を、おれとしてはとりあえず、信じるしか仕方ない。身分証明書を出されたところで、どうせおれには分からないのだ。
「王幼泉があなたの部下であったことは、認めるわけですね」
アイスクリームを口に含みながら、ロシア民話でも聞くような顔で、簡単にキリコビッチがうなずいた。
「まず事実関係の確認をしたい。答えられることだけでも、答えていただきたい」
キリコビッチがもう一度うなずくのを確かめてから、おれがつづけた。
「あなたと王幼泉は国家保安局の一員、そこまでは分かりました。問題はラトーニャです。彼女があなたたちと同じ組織の人間であったはずがない。ロシアでラトーニャは、RAMAに勤めていた。それが一カ月前、急に大使館員として日本にやって来た。その理由を、あなたはご存知でしたか」
「いいや……田沢さんは?」
「知るはずがありません、昨日まではね」
「昨日まで、ほーう?」
「キリコビッチさん、それを話すためにわたしはあなたに来てもらった」
「是非うかがいたい」
「その前に、もう少しわたしの趣味に付合ってもらえませんか」
「趣味……ああ、なるほど」
「ラトーニャとあなたの関係が、どういうものだったか、それが知りたい」
キリコビッチがスプーンを皿に戻し、ソファの背もたれに腕をまわして、目を細めながら、半身でおれのほうに身構えた。
「実は、田沢さん。もし今日あなたから連絡がなかったら、私があなたの事務所へ出向くつもりだった。今回の事件に関しては、私よりあなたのほうが詳しい。大使館に電話があったと聞いたときは驚きましたよ。そしてお目にかかったら、あなたは私に事件の答えを話すと言う。私のほうはあなたからそれを聞きたかった……どうやらわたしたちは、気が合うかも知れませんな」
「ラトーニャのことは……」
「我が祖国には種々の情報組織があります。旧KGB、国家保安局、内務省情報局、それに陸軍や空軍などもそれぞれに諜報機関を持っている。そして各組織の連絡が、かならずしも緊密とは言い切れない。連邦崩壊後は特に、自組織の仕事はなるべく他組織に知られまいとする傾向がある。一カ月前、ラトーニャ・ノグチが大使館員となって日本へやって来たときも、うちの組織としてはその理由が分からなかった。彼女がRAMAの人間であることは明確、それがなぜ、急に日本へ来たのか……」
「だから王幼泉にラトーニャを尾行させた」
「そういうことですな」
「一週間前の木曜日、ラトーニャはわたしに接触したあと、モスクワへ帰った。そこで王幼泉は尾行の相手をわたしに切りかえた。彼からはどんな報告を受けていました?」
「田沢さんが久我山の家を見張りだしたこと、そして中年男のあとを二日間尾行したこと、三日目は休んで競馬場に行かれたこと。天皇賞ではだいぶ儲けたようですな」
「その三日目にわたしが尾行していた男が死んだ……そのことはご存知ですか」
「いや……」
「死んだ男の名前は高野和夫、製薬会社に勤める平凡なサラリーマンだった。死因も栄養失調による衰弱死で、新聞にも載らなかった。検死の結果では、この男の胃が、空っぽだったそうです」
「と、いうと……」
「王幼泉です。王幼泉がラトーニャに射殺されたあとの検死でも、同じ結果が出た。あなたはこの一致をどう思いますか」
「分かりませんなあ……なぜラトーニャが王幼泉を撃ち、そのあと自分まで歩道橋から飛びおりたのか」
「それでもマスコミと警察は抑えた」
「ラトーニャも王幼泉もロシア側の人間です」
「ジグソーパズルが完成しそうだ」
「なんのことでしょうな」
「王幼泉からの報告が途切れたのは、三日前の月曜日からではありませんか」
「そういえば、そうです」
「あの日も王幼泉はわたしの尾行についた」
「ほーう?」
「わたしが気づいて巻いてやりましたがね」
「うちの部員としては失格ですな」
「少なくとも優秀ではなかった。ラトーニャですら、王幼泉の尾行には気づいていたらしい」
キリコビッチはやれやれというふうに、首を横にふり、アイスクリームに手をのばして、それでも気楽にスプーンを使いつづけた。
「これからはわたしの推理です」と、コーヒーを口に含み、タバコに火をつけて、おれが言った。「たぶん、間違っていない思う。王幼泉はわたしに巻かれたあと、また久我山の家に戻り、そこでやられた」
「やられた?」
「そう、やられた」
「だれに……いや、そんなことより、王幼泉はラトーニャに射殺されたはずでしょう」
「ラトーニャが撃ったのは王幼泉ではなかった」
「まさか……」
「王幼泉はその前に、もう奴にやられてる」
「田沢さん……」
「一見馬鹿ばかしい話で、あなたも素直には信じられないと思う」
おれはコーヒーを飲みほし、ついでにコップの水も飲んで、タバコの煙を吐きながら、この話をどう切り出そうか、少しの間考えた。幽霊を信じるのは幽霊を見たことのある人間だけ。おれ自身、ここで平和にコーヒーを飲んでいると、昨夜の出来事が質《たち》の悪い夢だったかと、つい錯覚したくなる。
「キリコビッチさん……」と、煙を天井に吹き、タバコを灰皿につぶして、おれが言った。「あなたはUFOとかエイリアンとか、信じる体質でしょうか」
「考えたこともないが……」と、スプーンをもてあそびながら、おれの言葉を吟味するような顔で、キリコビッチが答えた。「事実か証拠を見せられれば、信じるかも知れませんな。証拠さえ見せられれば、私は神の存在だって信じますよ」
「お見せできる証拠はない、しかし証人はいる……つまり、このわたしです。ラトーニャが追っていたのは人間ではない。信じにくいことですが、事実です。もしあなたがわたしに同じことを言ったら、わたしは笑う。ただそれは、自分が『その生き物』を見ていなかったらの話です。わたしは昨夜、実際、そいつに出くわした」
キリコビッチが笑わなかったので、新しいタバコに火をつけて、おれが言った。
「そいつは人間の躰に寄生して養分を吸いつくす。高野も王幼泉もラトーニャも、みんなその生き物にやられた。ラトーニャはモスクワで奴を始末するよう指令を受け、あの夜、その目的で久我山の家に出向いた。そしてそこにいたのは王幼泉、いや王幼泉に寄生した、その生き物だった。ラトーニャもそのことに気がついた、彼女は最初から奴を追いかけていた。二人がどうして井の頭通りまで移動したか、それは分からない。とにかくラトーニャは、そこの歩道橋上で王幼泉を撃った。王幼泉の躰は死んだが、その生き物は死ななかった。そしてラトーニャを歩道橋から突き落とした。分かってみれば単純な図式です。問題は、だれが、それを信じるか……」
「そして田沢さんは、その生き物が、エイリアンとおっしゃる」
「ラトーニャの専門は宇宙化学、動物学者ではなかった」
おれはタバコの火をしつこく灰皿につぶし、額におしぼりを当てながら、ソファに深く躰を沈ませた。これで『終了』という安堵感が、おれの肩から緊張を抜き、鬱血していた血を、血管にさらさらと流しはじめた。キリコビッチの背広は素人目にも仕立てが良く、自分でも似合うだろうかと、おれは意味もなく考えた。
「この場ですぐ、全面的に信じるとは、お答えできないが……」と、灰色の目に困惑を浮かべ、太い眉を水平にゆがめて、キリコビッチが言った。「ただ事件の経過からして、田沢さんのお話にも、説得力はある」
「わたしには冗談を言うために諜報部員を呼び出す趣味はない。わたしの人生は人殺しにもエイリアンにも、スパイにも無関係。あなたに事実関係をお話しして、わたしの仕事は終わった。あと始末をどうするか、それはあなたが決めて、あなたが実行することです」
立ちあがって、おれはキリコビッチに会釈をし、テーブルをドアのほうへ、半分だけまわり込んだ。
「田沢さん……」と、座ったまま、眉も動かさずに、キリコビッチが言った。「こちらの用件は済んでいない、もう一度腰をおろしていただけませんか」
「日本には『逃げるが勝ち』という諺がある」
「あなたのお話はすべて伺った、今度はこちらの話も聞いてもらえませんかな」
「聞いたところで……」
「私もロシアについての愚痴を言うつもりはありません。残念ながら我が祖国は、愚痴を言うにも、難問が多すぎる」
キリコビッチの率直な視線が、一瞬おれを善人に仕立て、迷いながらも、おれはまた元の場所に腰をおろした。キリコビッチは紙ナプキンで口をぬぐい、ネクタイの位置を直しながら、厚い胸で、ゆったりと呼吸をくり返していた。
「コーヒー、もう一杯いかがです?」と、足を組み、よく磨かれたローファーを黒く光らせて、キリコビッチが言った。
「いや……」
「あなたのお話が事実だとして、あなたが信用できる証人だとして、しかし私としては、確かな証拠を手に入れたい」
「手に入れればいいでしょう」
「日本には『乗りかかった舟』という諺もある、もうしばらく手伝っていただけませんか」
「宇宙人を調教して、一緒にボリショイサーカスに出ろとか」
キリコビッチが鼻を曲げて、生真面目に渋面をつくり、ネクタイの位置を直しながら、軽く咳払いをした。
「ラトーニャと王幼泉が死んだ以上、この事件に関わっているのは田沢さんしかおられない。それにあなたは、そのエイリアンとやらに接触した、唯一の人間だ」
「わたしは二度と、あんなものには接触したくない。わたしは諜報組織とも国家権力とも、接触なんかしたくない」
「あなたは十年前まで新聞記者をしておられた。今でも個人的に政治関係の仕事をしている。そのあなたが少しばかり私の仕事を手伝っても、国家から非難はされませんよ」
呆れてしまって、目の前で鷹揚に足を組むロシア人の顔を、おれはつくづくと眺めやった。肚が座っているのか、文化の違いなのか、おれがいくら見つめても、キリコビッチは断固として怯《ひる》まなかった。
半分あきらめて、冷汗を意識しながら、おれが言った。
「そんなことまで調べていれば、たしかに人手は、足りなくなる」
「必要なことはなんでも調べます、それが私たちの仕事です。あなたは誤解しておられるようだが、初めに言ったとおり、国家保安局の仕事に非合法な部分はありません。過去においては戦争のための裏工作や、誘拐や暗殺など、無かったとは言わない。しかしそれはCIAも同じことでしょう。すべて歴史の必然に踊っただけのこと、今では事情が違う。我がロシアはUSAとも敵対関係にないし、とくに日本とは、安定的な友好関係を望んでいる。私の仕事なんかせいぜい、北朝鮮や中国の動向を監視する程度で、実態は民間のデータ会社と大同小異です」
「キリコビッチさん……」
「なんでしょうな」
「要するに、わたしに、手伝えと言っておられる?」
「要するに、そう言ってるわけです。田沢さんも本心ではこの事件の結末に、興味がおありでしょう。そうでなければここまで深く、事件には関わりませんからな」
相手はおれのことなど、なんでも見通しという顔で、慇懃に、自信たっぷりに、深くうなずいた。
キリコビッチに言われるまでもなく、おれにしたって事件の結末には、抗えない関心がある。これだけの人間が死んだわりに、事件自体に目に見える動きはない。ラトーニャが生命を賭けてまで果たそうとした仕事は、ラトーニャの失敗という形で、空しく宙に浮いている。
「乗りかかった舟……か。ラトーニャには血液型の冗談も、基本的な諺も通じなかったが」と、おれの顔を覗いたままのキリコビッチに、軽く会釈をして、おれが言った。「今度失業したときは、あなたの組織にでも雇ってもらおうか。少なくとも王幼泉よりは、役に立つでしょう」
キリコビッチの深い灰色の目が、にやりと笑い、組んでいた足が解けて、肉食人種特有の体臭が、かすかに流れて来た。
「残念ながら、我がロシアには、あなたを高給で雇うほどの余裕はありませんがね。本当に失業されたら相談にはのりますよ」
キリコビッチが逞しく腰をあげ、つられて、おれもゆっくりと立ちあがった。
おれと並んで歩き出したキリコビッチに、店の伝票を渡しながら、おれが言った。
「人間、長生きすると、いいこともあるもんだ」
「ほーう?」
「ロシアの交際費でコーヒーが飲めるとは、まさか、思ってもいなかった」
キリコビッチのクルマは外交官ナンバーではない、普通の白い乗用車で、おれたちはそのクルマで渋谷から井の頭通りに抜け、三十分ほど走って久我山に出た。
屋敷のある道よりも一つ南側の路地でクルマを止め、区画を一つ迂回して例の家の前に出た。外から見るかぎり、たたずまいに昨夜と異なった雰囲気はなく、石塀は相変わらず深く苔むし、建物を取り囲んだ高い木々は冬にそなえてか、尖った葉を黒っぽい陰気な色に変色させていた。
おれは前の二回と同じように、肩で鉄の門扉を押し、キリコビッチを案内して屋敷の裏手へまわり込んだ。台所の窓はおれが飛び出したとおりに開いていて、割れたガラスも、裸電球も、床の死体も、まるで放置された舞台装置のようだった。
キリコビッチが窓枠に足をかけて、先に乗り込み、おれも靴のまま、慎重に台所へ入り込んだ。あのいやな臭気が残っているような気もしたが、屋内に人間の気配はなく、物音もネズミの声も聞こえなかった。
「いつも感心していたが……」と、手のひらで強く頬をこすりながら、足元の死体に眉をひそめて、キリコビッチが言った。「日本の浮浪者はずいぶんリッチですな。ロシアの一般労働者よりずっと身なりがいい」
キリコビッチの目つきに動揺はなく、口の形に緊張の気配もなく、その悠然とした呼吸音に、おれは足元の死体を、蝋人形かと錯覚するほどだった。
「それにしても、なるほど、かなり痩せてはいるが……」
死体は濁った色の眼球が異様に露出し、皮膚は木質化して、顔のどこにも、脂肪の痕跡は幻覚ほどにも見えなかった。あの生き物が体内に留まっている怖れはなく、今はただ痩せ衰えた、ひたすら無害な剥製だった。
「日本の浮浪者は食糧にも困っていませんよ」と、死体から顔をそむけ、にじんできた汗をハンカチで押さえて、おれが言った。「死ぬ直前までは、この男だって、わたし以上に太っていた」
「たしかに、奇妙な現象ではありますな」
「ラトーニャは最初からこの家に拘っていた。わたしが迂闊だった、この家をもっとマークするべきだった。自分の迂闊さに気づいて、わたしは昨夜、この家を調べに来た。窓から見ているとこの男があらわれて、この場所で倒れた。王幼泉の躰から出たあと、あいつはこの男に寄生した」
キリコビッチが眉をしかめたまま、視線を天井に向け、埃をかぶっている蜘蛛の巣に、ひゅっと口笛を吹きつけた。
「わたしも昨夜の段階までは、エイリアンの存在など、信じていなかった。だから台所に踏み込み、男を抱き起こした。男はなにも言わず、すぐに死にました……死んだというのは、つまり、寄生されたほうが、という意味です」
おれの目の前に、愕然と昨夜の光景がよみがえり、背中から這いあがった目眩が、ふらっとおれの重心を攪乱した。嘔吐も耳鳴りも襲ってきたが、どうにか我慢して、おれが言った。
「いくらもしないうちに、死体がこまかく震え出した。皮膚が痙攣して、顔がゆがんで、それからあの生き物がわたしに襲いかかった」
「襲いかかった?」
「いけませんか」
「いや……襲われて、田沢さんは?」
「逃げてきましたよ」
「なるほど」
「そいつは死んだ男の代わりに、わたしに乗り移ろうとした」
「どんな形でした?」
「形なんて……」
「エイリアンなら形があるでしょう」
「あなたはあの場面に遭遇していない。とにかく死体の口が開いて、なにかがわたしに飛びかかろうとした。見た者でなくては、いや実際に襲われたわたしでも、まだ信じられない」
「RAMAではたしかに、地球外生命の研究をしていたようですがな」
「キリコビッチさん、昨夜奴がわたしへの乗り移りに成功していたとしたら、どうします? 今のわたしはそいつに寄生されたヌイグルミで、この瞬間、次の獲物を狙っているとしたら……」
キリコビッチの顔から、ふと血の気がひき、灰色の真剣な目が、探るようにおれの顔を見返した。
可笑しくなって、状況もわきまえず、おれが噴き出した。
「冗談ですよ。ただうっかりしていると、本当にやられかねない。用心に越したことはありません」
キリコビッチが忙しなく頬をこすり、鼻白んだような目で、低く息を吐き出した。キリコビッチにしても地球外生命なんかより、CIAのスパイでも相手にするほうが、ずっと気楽に違いない。
キリコビッチが目で合図をし、おれにも異存はなく、台所をあとにして、おれたちは屋敷の奥へ進んで行った。おれ一人なら、こんな探検は金をもらっても遠慮する。しかし今日はプロのキリコビッチが同道、エイリアンだろうが火星人だろうが、要するに宇宙からの、スパイということではないか。
屋敷自体は平屋建ての、なんの変哲もない和洋折衷館だった。部屋という部屋、廊下という廊下には黴と埃が充満し、湿っぽい殺気が重く空気を苛立たせる。どの部屋にも家具はなく、雨戸の節目から射す夕方の明かりが、かろうじて各部屋の間取りを浮きあがらせていた。キリコビッチはすべての納戸や押し入れを点検し、風呂場もトイレも慣れた手際で調べあげ、そのたびに軽く鼻を鳴らしながら、降りかかる埃を腹立たしそうに吹き飛ばしていた。ペンシル型のライトが諜報員の必携品なのか、あらかじめ用意して来たものか、おれは訊く気にもならなかった。
台所につづく八畳間まで戻って来て、首を横にふりながら、ため息と一緒に、キリコビッチが言った。
「人間に放棄された家というのは、日本でもロシアでも、不気味なもんですな」
おれは返事をせず、廊下を歩き、雨戸の掛け金を外して、その古い板戸を横一杯に引き開けた。方向は裏庭に面し、戸を開けても表からは見られない位置だった。
遅い秋の乾いた日射しと、新鮮な空気が一気に流れ込み、おれは目眩を感じながら、縁側に出てタバコに火をつけた。おれにタバコを吸う余裕を与えているのは、日常の平和な日射しと、専門家であるキリコビッチの存在だった。
「田沢さん、この家のこと、なにか分かっておりますか」と、おれのうしろまで来て、ハンカチで鼻水をかみながら、キリコビッチが言った。
「土地だけで十億前後、ヤクザ絡みの物件という噂があって、不動産屋も手を出さないそうです」
「ヤクザ……ですか」
「実態は分かりませんがね」
「ロシアでもマフィアは横行していますが、日本のように合法的な組織として存在する例はありませんな」
「日本のヤクザは国家予算ほどの金を動かすそうです」
「ほーう?」
「それも噂の範囲です。パチンコ屋が三十兆も稼ぐ国ですから、いずれにしても無意味な金が余っている」
「羨ましいですな、どんな金でも食糧は買えるし、住宅も建つ。一割でいいから我がロシアに援助してもらいたいものだ……タバコ、一本いただけますか」
おれが差し出したタバコの箱から、キリコビッチが一本を抜き、口に挟んで、そっとライターの火に近づけた。
「禁煙していたんですよ、ちょうど一週間になる……」と、庭に目を細めながら、煙を長く吹いて、キリコビッチが言った。「私も日本まで来て、まさかエイリアンを追うとは思わなかった」
可笑しくはなく、しかし礼儀として、笑いながら、おれが答えた。
「日本には合法的なヤクザも、政治家という合法的な詐欺師もいる……宇宙人ぐらいいて、当然かも知れませんね」
空しくても可笑しくても、考えてみれば、今のこの状況は、限りなく不可解だった。ロシアの国家保安局日本駐在員と、新聞記者くずれのろくでなしが、空家の荒れた庭を眺めながら世界の不条理を嘆いている。二人は並んでタバコを吹かし、そしてこの二人は、協力してエイリアンを追っている。
「キリコビッチさん、プロの目から見て、なにか手掛かりがありますか」と、タバコを遠くに放り、軽く欠伸をして、おれが言った。
「部屋の隅に段ボールが敷いてある。日本酒の紙パックに缶詰の空缶、完璧な空家でもなさそうだ」
「殺された男のものでしょう」
「埃も所々はげている」
「台所の男以外、高野和夫もこの家を使ったはずだが……」
「生活の気配までは感じられない」
「高野は失踪して二週間、そして少なくとも、三日はこの家に住んでいた」
「高野もあの段ボールを寝具に使っていたと?」
「理屈ではそういうことになる」
「必然が見えませんな」
「エイリアンの必然なんか、どうせ地球人には分かりませんよ」
キリコビッチが深い息で煙を飛ばし、空の色を確認するように、太い眉を片方だけ持ちあげた。厚い胸板がおれに安心を与え、灰色の善良そうな目が、風景を少しだけ悲しませる。
「それにしても釈然としませんな。田沢さんのおっしゃるエイリアンは、今、どこで、なにをしているんです?」
「どうせだれかに取り憑《つ》いている。寄生する相手なんか、奴にとっては無作意です」
「しかし、証拠が、この家だけではね」
「台所に死体があるでしょう。ほとんどミイラのようですが、昨夜までは間違いなく生きていた」
「なぜこの家で……」
「浮浪者が空家に巣食うのに、理由はいりませんよ」
「高野は浮浪者と同居していたわけですか」
「キリコビッチさん、エイリアンは意識的にこの家を利用していた。ラトーニャもこの家に拘っていた。拘るだけの理由がある。もしかしたらここは、エイリアンの基地なのかも知れない」
「この家が……ね」
キリコビッチがタバコを下に捨て、腰をのばしながら、深呼吸のように、厚く胸をふくらませた。横顔には銀色のうぶ毛が密生し、おれの解説をどこまで納得しているのか、表情は読めなかった。いずれにしてもこれから先は、キリコビッチの仕事。素人のおれに、地球外生命なんかと、闘えるわけがない。
おれは縁側から廊下に戻り、積もった埃に文句を言いながら、古びた色の柱を、軽く蹴飛ばした。
「待て、ちょっと待て……」と、身振りでおれを制し、低い声で、キリコビッチが言った。
そのままキリコビッチは、畳の上に腰をかがめ、アヒルが歩くように、腰を落として部屋の中央に進んで行った。
「田沢さん、雨戸をもう少し、開けていただけませんか」
おれは言われたとおり、もう二枚の雨戸を開け、そこに立ったまま、顔が畳に付くほどかがみ込んだキリコビッチを、遠くから透かし見た。
「ひょっとして、これは……」
「なんです?」
「いや、ここがエイリアンの基地なら……」
その畳は古く変色し、積もった埃が濃く模様をつくっている以外、興味を引くものは見当たらなかった。
キリコビッチが腰をあげ、そのとたん畳がいやな音に軋んで、おれは心臓を押さえ、意気地もなく後ずさった。キリコビッチの灰色の目がねばっこく巡らされ、おれの顔と畳の面を、二、三度、感動もなく往復した。
「日本の住宅というのは、畳の下、どうなっております?」
「うすい板が……床板《とこいた》といううすい板が、渡してあるだけです」
「うすい板が、ですか」
膝を折って、キリコビッチが軋んだ畳を眺めまわし、おれの顔を見あげながら、赤みの濃い肉厚な頬を、にやりと笑わせた。
「田沢さん、あなたにはこの畳だけ、少し浮いているように見えませんか」
「うん……」
「浮いていますよ、ほんの少しですがね。畳が浮いてるということは、浮かせた人間がいるはずだ。なんのために、だれが、空家の畳なんか上げたんでしょうかね」
おれは断固として気がすすまず、しかしキリコビッチに合図を送られ、仕方なく、息を飲んで横にかがみ込んだ。畳の隙間はほんのわずか、そこに指先を引っかけ、キリコビッチが口の形で数をかぞえて、三つ目のカウント直後、その畳を、おれたちは同時に持ちあげた。
「おーっ」
キリコビッチが頓狂な声をあげた心理は、人種や文化に関係なく、解説も必要なく、おれにも自然現象として理解できた。畳の下は床板がくり抜かれ、古雑誌が詰め込まれたビニール袋が二つ、廃品回収でも待つように鎮座していた。
死体か、エイリアンでも飛び出すかと思っていたおれは、激しく気が抜け、はしたなく、その場に尻もちをついてしまった。おれの思考が笑い出したのは、それから一分もあとのことだった。
「キリコビッチさん、あなたは、なにがあると思っていました?」
「なにといって……地下室とか、秘密のトンネルとか」
「わたしはUFOを期待していた」
「しかし、なんの冗談でしょうな。宇宙人はマンガ雑誌が好きなのか」
「浮浪者の全財産ですよ。どこから来たのか知らないが、あの生き物も人騒がせな奴です」
「それにしても、この家は……」
キリコビッチがマンガ雑誌を拾いあげ、ロシア語でなにか喚きながら、腹立たしそうに、それを力一杯下に叩きつけた。ビニール袋がめくれて、雑誌の山がくずれ、投げられたマンガがワンクッションで部屋の向こう側へ飛んでいった。
「ラトーニャが日本へ来たのが一カ月前、奴もその前後には来ているはず。一人の人間に寄生できる時間は二日か三日、相手の体力や生命力によって時間は変わる。三日だとすれば一カ月で十人、二日とすれば十五人……ただそれは、あくまでも日本だけの話だ。可能性としては日本へ来る前に、どこかを経由して来たと考えられる」
キリコビッチが曖昧にうなずきながら、赤ら顔を一層赤くし、おれの言葉を無視するように、猛然と雑誌の袋を放り出した。くずれた雑誌を蹴散らし、ビニール袋を引き裂いては、ロシア語でぶつぶつと一人ごとをくり返す。目つきも真剣で、肩には気合いが入り、靴や背広が汚れることにも、まるで無頓着だった。
「キリコビッチさん、地下室の入口でも見つかりましたか」
「いや……」
「火星人が地下室を掘るとも思えませんがね」
「この世に火星人なんかいない」
「それは……」
「火星の隕石に生命の痕跡はあったかも知れないが、そんなものは単細胞レベル、UFOに乗って来るほどの文明は期待できません。田沢さんは本気で、火星人を設定しておられるのですか」
おれが『火星人』と口走ったのは、考えてみれば夢子の影響、おれだって火星に、あのタコのような生物が文明を築いているとは思わない。しかし宇宙には銀河系がなん千とあって、地球に似た惑星なんか、なん万もあるという。そして実際、どこからかやって来たエイリアンに、昨夜おれは襲われている。
キリコビッチが肩をすくめるジェスチャーをして、軽く手を払い、鼻と口を曲げながら、不機嫌に雑誌を蹴飛ばした。その横には床板が穴をあけ、畳がめくれてビニール袋が散乱し、客観的には、かなり異様な光景だった。
「いずれにしても、あとはキリコビッチさんの仕事だ」と、キリコビッチを真似て肩をすくめ、廊下側に場所を移して、おれが言った。「この家を見張っていれば、いつかはあの生き物があらわれる。ラトーニャたちを殺した犯人が奴であることも明白。火星人でも金星人でも、要するに、わたしの手には負えないということです」
そのとき、背中のほうで固い物音が響き、息を飲んだキリコビッチが、肩をまわしながら、おれの背後に目をやった。台所との境に不穏な影が動き、死体でもよみがえったかと、一瞬おれは、全身の毛を逆立てた。
いやな風が吹き、影がふくらんで、しかし息を止めたおれの前に姿を見せたのは、死体でも宇宙人でもなく、ハンチングを目深にかぶった、刑事の船井だった。
「こんなところで、なにを……」
レインコートを重そうにひるがえし、皺顔を手のひらでさすりながら、足元の雑誌を蹴って、船井が言った。
「田沢、お前こそここで、なにをしてるんだ?」
「おれは……」
「向こうにある死体はなんだよ。状況的には、お前が殺《や》ったということか」
キリコビッチがおれの横に歩いて来て、おれと船井の顔を、灰色の冷静な目で、凝然と見くらべた。
「田沢さん、この男がだれか、知っているのですか」
「新宿西署の刑事で船井という男です。性懲りもなく、わたしにつき纏《まと》っていたらしい」
「俺は一度目をつけた獲物は逃がさん。やっとお前の尻尾を掴んだ……ところで、そっちの外人さんは、どなたなんだ?」
「この人はハリウッドの映画プロデューサーさ」と、背中に落胆と緊張を同時に感じながら、おれが言った。「アメリカからわざわざおれをスカウトに来た」
「冗談を言うな。こんな野郎と人殺しまでやりやがって」
「あんたには関係ない。それにおれたちが犯人でないことぐらい、あんたにも分かってるはずだ。船井さん、余計なトラブルに首を突っ込むと、大怪我をしますよ」
「それはこっちの台詞だぜ。田沢、俺に向かって、二度と大きな口はきかせんぞ」
船井が背中を丸めて、ハンチングを押しあげ、濁った視線を送りながら、ぐいと顎をしゃくった。
「とにかく署まで来てもらう。今度はこっちが、ゆっくり楽しませてもらうぜ」
「困った人だ、これはあなたが口を出す事件ではないんですよ」
「警察が殺人事件に口を出さなくて、どこに口を出すんだ?」
「刑事さん……」と、船井の前に肩を割り込ませ、威圧的な低い声で、キリコビッチが言った。「あなたはなんの権限で、私たちを尾行されたのです?」
「俺はあんたなんか尾行していない。田沢を追っていただけさ……ずいぶんと日本語が達者なようだが、まだ名前を聞いていなかったな」
「私の名前はセルゲイ・キリコビッチ、ロシア大使館の首席武官補です」
「ロシア大使館の、武官補……」
「身分証明書をお見せしましょうかな」
「是非、そう願いたいもんだ」
キリコビッチが上着の内ポケットから、鷹揚に黒革のケースを取り出し、それを半分に開いて、船井の鼻先に突きつけた。
身分証明書を、舐めるように眺めてから、コートの前を掻き合わせて、船井が言った。
「や、まあ、たしかに、身分は分かりました。しかしそのキリコビッチ氏が、なんだって田沢のような男と関わるんです?」
「それはこちらがお訊きしたい。この件に関して、日本の警察はノータッチのはずだ。私が直接警視総監に申し入れ、総監も了承してくださった。そういう事件に介入すると、あなた自身の立場がまずくなる、そうではありませんか」
「しかし、警察としては……」
「お分かりになりませんかな。納得できないということであれば、警視総監に確めてはいかがです? もちろんあなたは、確実に、明日から別の仕事を探すことになる」
船井が凍りついたような目で、キリコビッチの顔を見つめ、キリコビッチはキリコビッチで灰色に見つめ返し、二人はそうやって、しばらくお互いの顔を覗き合っていた。
やがて船井が、諦めたように肩を落とし、不満そうにうなずきながら、口をゆがめてコートのポケットに両手を差し入れた。
「分かりましたよ。それじゃとりあえず、お二人ともこの場はお引きとりください。私のほうは死体がある以上、放っておくわけにはいかん。ロシア大使館に敬意を表す意味で、なんとか始末してみましょう」
「日本の警察は物分かりがいい、それだけが取り柄だ」と、おれに目配せをしながら、顎先を船井に向けて、キリコビッチが言った。「いいですか、私も田沢さんも、あの男の死には無関係。私たち二人はこの家に来たことすらない……お分かりでしょうな」
「それぐらい分からなくて、三十年も警官はやっておれん」
鼻で息を吐きながら、船井がちらっと、おれに暗い視線を走らせた。
「では、私たち二人は失礼します。あとのことは刑事さんの裁量で、穏便に始末してください」
キリコビッチが自信たっぷりに会釈し、幅の広い肩をゆすって、大股に裏庭へ向かいはじめた。船井が不敵に息をつき、肩の凝りでもほぐすように、口元を引きしめながら、ぐるっと首を巡らした。おれの行動を予想できた人間は、この瞬間、おれ以外、ここにはだれもいなかった。
おれはラグビーのスクラムを組む要領で、船井の腰にタックルを食らわせ、一発で船井を畳に突き倒した。レインコートのこすれる軽薄な音と、船井の呻きとキリコビッチの驚声が、鉄工所と火事場が合体したように、じたばたと響きわたった。おれは船井の足首を掴み、顔から倒れた船井を、一気に部屋の中央へ引き戻した。そこでしばらく、おれたちは無様に格闘を展開した。船井は歳《とし》を取りすぎ、おれは酒を飲みすぎ、どちらも舞踏や格闘には、ずいぶん不向きな体質になっていた。
おれに勝利が転がり込んだ理由は、神の加護か、ラトーニャの怨念か。たぶん歳の差だろうとは思うが、最後にはおれが船井を押さえ込み、馬乗りになって、船井の両腕を背中の側にねじ上げた。
「キリコビッチさん、早くこいつを、縛ってくれ」と、他人事のように観戦しているキリコビッチに、おれが言った。
「いやはや、まったく、なんのおつもりです?」
急がず、慌てず、呆れたような声で、キリコビッチが言った。
「説明はあとでする、とにかくこいつを縛ってくれ」
キリコビッチが納得のいかない顔で、それでも反対側から船井の上にかがみ込み、自分のネクタイで船井の両手首を縛りあげた。その手際もスピードも、さすがにプロ、やらせればうまいものだ。格闘だってキリコビッチなら十秒とかからなかったろうに、おれが苦戟している間は黙って、呑気に見物していただけだった。
「田沢さん、いくらこの男が嫌いでも、警官への暴行は感心しませんな」
「こいつは船井なんかじゃない」
「この男が刑事の船井だと言ったのは、あなたですよ」
「躰は船井のものだが、今ではただのヌイグルミです」
「しかし……」
「こいつですよ、こいつがラトーニャや男たちを殺した、あのエイリアンだ」
船井が意識を取り戻して、小さく唸り、壊れたゼンマイ仕掛けの人形のように、首だけを、ぎりっと上にねじ曲げた。ハンチングは部屋のずいぶん遠くへ飛び、痩せて骨ばった顔に表情はなく、動かない皺と陶磁玉のような目は、どことなく間が抜けて見えた。
「無茶なことをしやがる……」と、畳の上に肩をまわし、乾いた声で、船井が言った。「お前は狂っている。俺にこんな事をして、ただで済むと思うのか」
そして船井は、キリコビッチのほうに顎を突き出し、哀願の視線と不敵な笑いを、力なく送りつけた。
「あんたはたしかに、ロシア大使館の武官かも知れない。だからって日本の警察官に、こういう仕打ちをする権利はない。田沢は頭が狂ってる。田沢は俺を憎んでいる。こんな男の言うことなんか、信用しちゃいかん。冷静になって、早くこの手を解いてくれ」
「解きたければそこから出て、自分で解けばいいさ」と、呼吸を鎮めながら、ついでに爆発しそうな神経も鎮めて、おれが言った。
おれは畳に尻餅をついたまま、ポケットからタバコを取り出し、呼吸をととのえながら、ライターに火をつけた。
「私にはどう見ても、この男があなたのいう宇宙人とは、思えませんがな」と、眉をしかめ、からかうような声で、キリコビッチが言った。
「なんの話だよ、宇宙人がどうしたって? 田沢、お前、本当に狂ったのか」
「あんたも物忘れの激しい人だ、人と言えるかどうか……昨夜は自分の仕事に忙しくて、顔を覚えていないのか」
「昨夜のことなど知らん、俺にはお前の言うことが、さっぱり分からん。なあ田沢、今なら間に合う、この手を解いてくれれば、なにも無かったことにしてやる」
「さっきも言ったろう、解きたければ自分で解けばいい。もっともお前は、自分のヌイグルミが死んだあとでなければ、そこから出られない……違うか?」
「くだらんことを……お前なんか、ぜったいブタ箱にぶち込んでやる」
「船井のような口をきくところをみると、寄生したあとも、相手の記憶は受けつぐらしいな。お前は、いや船井は、たしかにおれを尾行してこの屋敷へ来た。だがそれは今日でなく、昨夜のことだ。昨夜おれのあとを尾行して来た船井は、窓の外にひそんでいた。お前がおれへの乗り移りを諦めた理由は、外の船井に気づいたからだ。おれでも船井でも、お前にとって条件は同じ、だからそっちへ鞍がえをした」
「馬鹿ばかしい、そんな話、だれが信じるもんか」
「まだ分からないのか。お前が自分でも承知しているように、そのヌイグルミに入ってしまえば、ほとんど臭わない。しかし、だからって、まったくの無臭ではない。おれは死んだって、このいやな臭気《におい》は忘れない」
船井がおれの語気につられて、ミイラのようにおれを睨み、おれたちは一分ぐらい、そうやってただ睨み合っていた。
視線の格闘に飽き、おれがタバコの煙を吹いたとき、ふと船井が肩の力を抜いて、手をうしろに回したまま、がくりと首をうなだれた。
「どこの星から来たか知らないが、意外に素直な性格だな」
「………」
「おい、話はまだ、終わっていないぞ」
「………」
「船井、まさか……」
首と肩からはたしかに力が抜けたが、逆に船井の膝はこまかく痙攣を開始し、同時に、昨夜おれを襲ったいやな臭気が、圧倒的な濃度で流れはじめた。おれは声もなくタバコを落とし、抜けた腰で、じたばたとうしろにずり下がった。
「キ、キリ……」
間抜けに叫んだおれを、キリコビッチが太い腕で受けとめ、かたむいたおれの重心を、棒切れのように矯正させた。
「殺《や》ってしまえ、いや、逃げよう。とにかくここから、逃げなくては……」
「落ち着きなさい」
「冗談じゃない、奴はすぐ船井の躰から出てくる。出てきたらわたしたちが寄生される。あなたはどうでも、わたしは死にたくない」
「田沢さん、エイリアンなんか、本気で信じているのですか」
「あなたもすぐに信じられる。証拠さえあれば、あなたは神でも信じる人だ」
おれの肩を抱えたまま、キリコビッチが足を踏んばり、上着の下から拳銃を抜いて、うずくまっている船井に、淡々と銃口を突きつけた。
「トカレフというのは扱いにくい拳銃でしてね、素人では二メートル先の的にも当てられない」
「解説はいらない。撃つなら、早く、撃て」
「この男がただの刑事だったら?」
「それでもいい。こんな奴、死んだほうが世間のためだ」
「無茶を言わないでください。私は合法的な諜報員で、警察とのトラブルはご免です」
「それなら逃げましょう。とりあえず逃げて、あとの処置はそれから考える。生きていれば名案だって浮かぶ」
「しかし田沢さん、この男に、あなたの言うような変化は見られませんがな」
「いや、すぐに、もうすぐ……」
もうすぐ、船井の痙攣は足から上半身に這いあがり、皮膚が蠕動して細胞がしぼみ、口が開いて、あの生き物がわっと飛び出すのだ。それからおれに取り憑き、おれの躰を貪り食い、一分か二分でおれを人間の干物に変えてしまう。あいつが口から飛び出したとき、果たして、拳銃で撃ち殺せるものなのか。特殊な構造で弾が突き抜けてしまったら、おれとキリコビッチは、そのときはもう、首をそろえて地獄行きだ。
「キリコビッチさん……」
「ご覧なさい。痙攣が止まっても、特別な変化は起こらない」
「そんなはずは……」
「私にはどう見ても、ただの気絶としか思えませんな」
「しかし……」
キリコビッチが額に太い皺を寄せ、おれの肩から腕を放して、一歩だけ、船井のほうに踏み出した。
「田沢さん……」と、銃を腋の下に戻しながら、半分ほど腰をかがめて、キリコビッチが言った。「この音は、なんでしょうな」
「だから……」
「私には鼾《いびき》のように聞こえるが」
「そんな、ばかな……」
「鼾をかくエイリアンなんて、聞いたこともありませんよ」
いくら言われても、恐怖はおさまりそうもなかったが、それでも船井の顔に変化はなく、胸の動きからも、なるほど、呼吸はつづけている。船井が畳に倒れてから五分以上、昨夜の例からすれば、とっくにミイラはできあがっている。
「そんなはずは、ないんだが……」
「この男は間違いなく生きていますよ。あるいは軽い、卒中でも起こしたのかも知れない」
「わたしはたしかに、あの臭気をかいだ」
「臭気……ですか」
キリコビッチが片膝をついて、船井を縛っていたネクタイを外し、おれに流し目を送りながら、顔をそっと船井の口に近づけた。
「田沢さん、こちらへ来て臭気をかいでごらんなさい」
「いや、わたしは……」
「保証しますよ。この男はエイリアンにも、アルファーAにも寄生されていない」
「アルファー……」
「とにかく自分の目で確かめなさい。トカレフを撃ち込んでいたら、私たちは、警察に追われる身になっていた」
キリコビッチが言った言葉の意味も、船井が生きているという事実も、おれにはまだ、半分も理解できていなかった。しかしキリコビッチの目は冷淡に灰色で、船井の鼾も単調に連続し、おれがこの場で絶命する懸念だけは、どうやら晴れそうだった。
おれは視力を総動員して、船井の顔色を確認し、臆病を抱えたまま、その口に自分の鼻を近づけた。肉の腐ったような臭気が猛然と押し寄せ、おれの毛穴が開き、昨夜と同質の恐怖が、呆気なくよみがえる。
「台所の浮浪者もにおいますがね」
「うん……」
「あれは垢と汚れの臭気です。ある意味では、人間の、通常の臭気ですよ」
「しかし……」
「この男もにおいますが、これは口臭でしょう。歯槽膿漏を患った人間はこういう臭気を出すものです」
「キリコビッチさん……」
「なんでしょうな」
「あなたは、最初から、わたしをからかっていた?」
キリコビッチが手のひらで顔の脂《あぶら》を拭き、顎を首の中にうずめて、善良そうな灰色の目を、暗くゆらめかせた。目尻には困惑の皺が浮かび、いかつい肩も素直に丸くなっていた。
「詳しいことはクルマで話しましょうかな」
「今、この場で説明してもらいたい」
「刑事が目をさましますよ」
「さましたって……」
「警察へはあなたが説明してやりますか」
「いや、それは……」
「不自然なほど干からびた人間の死体が一つ。そしてそれは、一連の変死事件と同様の死因。わたしたち二人は空家に不法侵入し、踏み込んで来た刑事を二人で縛りあげた……わたしはあまり、そういう状況を、警察に説明したくありませんな」
キリコビッチが口をゆがめながら、腰をかがめ、船井の躰を抱き起こして、それをゴミ袋のように壁際へ引きずった。船井がおっとりと目をあけて、なにか唸り、口から粘っこくよだれを流れさせた。
「田沢さんとのトラブルは、なかったことにしますよね」と、船井を壁にもたれさせ、念を押すような口調で、キリコビッチが言った。「あなたはすべてを忘れることだ。警視総監へは私が連絡します。あなたが口を出しても、あなた自身が困るだけ。あとは本庁に任せて、刑事さんはゆっくり休むことです」
船井がまたなにか唸ったが、起きあがる気配はなく、おれは裏庭に向かって歩き出したキリコビッチのあとから、茫然と家をあとにした。うしろには半分気絶した刑事の船井、畳が一枚跳ねあげられ、古雑誌やビニール袋が散乱し、台所には意味不明の死体が転がっている。それがどれほど凄まじい光景か、想像しただけでも、寒気がする。なぜそういう光景が出現したのか、だれが出現させたのか、キリコビッチでなくても、たしかに、警察には説明したくない。
「アルファーA……か。ラトーニャ、君はなにが面白くて、おれをこんな事件に巻き込んだんだ」と、ぶ厚いキリコビッチの背中を眺めながら、思わず庭の小石を蹴って、おれは一人ごとを言った。
外は生活感だけがあふれる秋の黄昏《たそがれ》、狭い路地に水銀灯がピンク色にともり、おれの愚かさを圧倒して、冷たい風が飄々と吹き抜ける。付近では家の物音に気づかなかったのか、それともすでに警察へ通報済みなのか、どの窓にも人間の顔はなく、路地には猫も人影も見当たらなかった。
ふとおれの頭に赤いハイヒールを履いた夢子の足が浮かび、おれは意味もなく、ハイヒールの色を赤からピンクに修正した。今朝から頭の隅に位置を占めていた疑問が、こんな場違いな場面で、なぜか、鮮明におれを糾弾する。なんだって夢子は、昨夜、あんな時間に、あんなふうにおれのベッドを暖めていたのか。そして今朝はサンドウィッチを作ってコーヒーをいれ、顔も見せず、どこへ行ったのか。まさか夢子は、おれの頭がつくり出した、希望的な幻覚だったのか。夢子のハイヒールだけが部屋に残り、おれは老いぼれるまで、それを眺めながら、一生果てしもなく牧場の夢を見つづけるのか。
「乗ってください。新宿でもどこでも、好きなところへ送りますよ」と、クルマを運転席側にまわり、赤ら顔を憮然と風に晒《さら》して、キリコビッチが言った。
おれは口の中で返事をし、ドアが内側から開かれるのを待って、暗澹と助手席に腰をおろした。おれをロシア大使館に連行して拷問にかけるのか、あるいはシベリアあたりに島流しにするのか。しかしそれなら、船井と一緒に撃ち殺せば済んだこと。おれにコーヒーを奢る必要もないし、正体を明かす必要もない。『アルファーA』などという奇妙な名前を口走ったからには、キリコビッチにしても、事件の総体は、まだ掴んでいないはずだった。
キリコビッチが安全ベルトをセットし、エンジンをかけて、不思議な冷静さでそろりとクルマをスタートさせた。暑くはなかったが、車内がへんに息苦しく、おれは助手席側の窓を十センチほど引きおろした。
「田沢さん、これからどうするおつもりです?」
「さあね、南極へ行ってエスキモー人でも始めますか」
「それもいいですかな」
「わたしはどこかで、迷路に入っていたようだ」
「大筋は正解でしょう。頑張れば、王幼泉よりは、優秀なスパイになれる」
ハンドルを握ったまま、キリコビッチが不敵に笑い、毛深い指を立てて、おれにタバコを要求した。おれはタバコを抜いてキリコビッチの口にくわえさせ、ついでにライターを擦って、火も提供した。
「禁煙というのも続かないものです、すべてはアメリカの陰謀ですよ」
「『大筋での正解』という部分、聞かせてもらえませんかね」
「田沢さん、わたしはあなたを、いくらでも抹殺できる。遺体を完璧に消滅させることもできる……そのあたりをまず、ご理解いただきたい」
本来なら、その台詞にパニックを起こすか、心臓でも止めてやるところだが、おれにはそんな気力も、エネルギーも湧かなかった。この不可解な事件と凄絶すぎる光景に、おれの常識は完璧に麻痺していた。
「口外無用と?」
「口外厳禁です」
「他人に話したところで、どうせだれも信じませんよ」
「それもそうですな」
「アルファーAというのは、いったい、なんのことです?」
「もともとはアシドフィルス菌だそうですがね」
「アシド……」
「腸内細菌の一種ということですが、私にも詳しいことは分かりません。なにしろ専門家は……」
「死んでしまった?」
「ラトーニャ・ノグチの専門はエイリアンではなく、この人工腸内細菌だった……私も、あとで知ったことではありますがね」
窓からの風がおれの血圧をさげ、背中に悪寒を強制し、それでもおれは息苦しく、窓を開けたまま、タバコに火をつけた。ラトーニャの仕事が腸内細菌であれば、エイリアンより現実味はあるが、それならそんな細菌のために、ラトーニャは命まで賭けたのか。
「困ったもんです。連邦が崩壊して、わがロシアも、すっかり三流国家に成り下がってしまった」
「事実関係は……」
「エイリアンだの宇宙人だの、田沢さん、本気で信じていたのですか」
「ん、いや……」
「私を試すための芝居だった?」
「本当に二人で、ハリウッドへ売り込みますか」
「我がロシアも長年、宇宙の研究はしておりますがね。さすがにエイリアンまでは発見していませんよ」
おれが嵌《は》まっていた迷路の正体は、おれ自身の恐怖。目に見えない敵が幻像となっておれを襲い、想念が実体まで創出した。いくら夢子に煽《あお》られたって、昨夜まではちゃんと、おれも常識の世界に住んでいた。それでも実際に浮浪者が死に、目の前で遺体の変貌を見せられ、つい仮想現実に陥った。昨夜、浮浪者の遺体はたしかに蠕動し、一気に皮膚を萎縮させていったが、おれは視覚での確認を怠った。おれを襲ったのは体積のある恐怖ではなく、幻覚としての実体だった。夢子が中央公園で見たと主張する実体も、猫かカラスか紙袋。ススキでも濡れタオルでも、その気になれば、いくらでも幽霊だと思い込める。
常識で考えれば当然のこと、しかし本質がただの腸内細菌では、空しくて、涙も出てこない。
「キリコビッチさん、事実関係の説明をお願いします」
「アルファーAはRAMAとロシア製薬研究所が共同で開発をおこなっていた、人工腸内細菌です」
「………」
「ただ、ご存知のように、現状ではとうてい完成品とは言えません。RAMAは目下、総力をあげて完成をめざしています」
「なぜ、そんなものを……」
「排便抑制剤ですよ」
「はあ?」
「最初は宇宙船の乗組員用に開発を試みた。いくら宇宙食でも、腸をとおれば糞便に変わる。その糞便問題を解決しないかぎり、宇宙船の中がクソだらけになってしまう」
「………」
「ところが、連邦の崩壊で、ロシアは宇宙開発を断念した。アルファーAのノウハウは、老人医療用に転用されるはずだった」
「………」
「世界中の寝たきり老人から糞便を抹消する、これは画期的な新薬ですよ。おまけにダイエットにまで特効があるとなれば、ロシア経済に驚異的な恩恵をもたらします」
煙を窓の外に吹き、額に浮いている脂汗を、ハンカチで、おれはそっと拭き取った。ダイエットだの糞便抑制だの、一流の科学者が、そんなつまらないことに先端技術を乱用する必要が、どこにある。驚異的であろうと、画期的であろうと、要するにそれは、ただの金儲けではないか。
「アルファーAの効果は、すでに見てきたとおりですがね」と、タバコを灰皿にねじ込み、無表情にフロントガラスを見つめて、キリコビッチが言った。「ただ残念ながら、副作用が大きすぎる。体内に入るとある腸内酵素と反応して、異常繁殖してしまう。その結果体内脂肪も食物も水分も、非常な短時間で分解してしまう」
「………」
「その酵素というのが、また面倒な物質らしいのですよ。動物によっても異なるし、同じ人間でも体質によって働きが異なる」
「………」
「しかし、逆にね、酵素の抑制方法さえ発見すれば、アルファーAも完成ということです」
「アルファーAは、意思や思考力を?」
「まさか……それに爆発的に増殖したあとは染色体のコピー能力が減退して、繁殖力は消滅します。細菌自体の意思で人間を襲うことはありません」
「そんな人工腸内細菌が、ロシアから、勝手に日本へ渡って来た?」
「そういうことも有りえませんな。ロシア製薬研究所の職員が、一千万ルーブルでサンプルを日本人に売ったそうです。その男は本国で逮捕されておりますがね。一千万ルーブルといえば日本円でたった二十万、それだけの金のために、今のロシア人は、国まで売るのですよ」
クルマが信号で止まり、キリコビッチが拳をダッシュボードに打ちつけて、日本人がやるように、ちっと舌打ちをした。もう井の頭通りに出ているらしく、下り車線にはライトをつけたクルマが、夜光虫のようにあふれていた。
「アルファーAが意思を持たないとすると、高野や王幼泉の行動が、理解できない」と、動き出したクルマの窓から、タバコを捨て、手の中でハンカチを握ったまま、おれが言った。
「それは私にも分からない、でもロシアからサンプルを持ち出した人間は分かっています」
「それは……」
「高野和夫ですよ。ラトーニャ・ノグチも、もちろん高野を追って日本へやって来た」
「あなたは高野の死を知らず、ラトーニャは高野の名前も顔も知らないと言った」
「私たちはウォッカのセールスマンではありませんからな」
「べつに、怒りはしないが……」
「一カ月ほど前、大島製薬の研究員がロシア製薬研究所を視察しています。当初ロシア側でも、会社ぐるみの犯行かと疑った。RAMAも私も、そのあたりは徹底的に調べました。ですが大島製薬自体にアルファーAの情報は流れていない。もちろん研究にも取り組んでいない。サンプルを持ち出したのは高野の個人プレー、高野は一カ月前、研究員の随行でロシアに行っている」
この世にエイリアンなんか存在せず、事件の核心に人工細菌があることは、一応納得できる。しかしその細菌は意思を持たず、殺人だってそいつの責任ではない。それならなぜ、高野はおれや夢子を引きまわしたのか。山手線や中央線ぞいに歩きまわるのが、たんなる趣味だったのか。一カ月前に細菌をロシアから持ち出し、二週間前に失踪し、そして久我山の家に姿をあらわすまで、高野はどこで、なにをしていたのか。高野が自分の持ち出したサンプルで殺《や》られたことは明白、いったい高野は、アルファーAの副作用を知っていたのか。
「分かりませんね。高野という男は平凡でうだつの上がらない、小心なサラリーマンのはずだが……」
「問題はそこですな。なぜ高野がサンプルを持ち出したのか、アルファーAの情報をどこから入手したのか、そのあたりが、まるで見えてこないのですよ」
「細菌を持ち出したのは高野の個人プレーだが、うしろには、組織がある?」
「アルファーAを完成させ、世界特許が承認されれば、利益は天文学的な数字になるでしょう」
「サンプルは、まだ?」
「残っているはずです、ジュラルミンの特殊ケースに入ってね」
「なるほど……」
久我山の家で、キリコビッチが畳までめくり、滑稽なほどの真剣さで捜していたものは、そのケースだったのだ。どんな特殊ケースか知らないが、それが動く場所によって、金が動く場所まで変わってしまう。
「田沢さん、残りのサンプルがどこへ行ったか、ご存知ありませんか」
「まさか……」
「我がロシアにとっては死活問題です。なにしろ年間国家予算が六兆円の国ですからな、日本の十分の一にも及ばない。アルファーAを完成させれば、国民だって、腹一杯ジャガ芋が食べられる」
「ラトーニャが未回収であったことは……」
「たしかだと思いますな。彼女のマンションも高野の自宅も王幼泉の部屋も、すべて調べてあります。二週間前に失踪してから久我山の家に姿を見せるまでに、高野がどこかへ、隠したとも考えられるが」
「それは、可能性が、うすい」
「ほーう?」
「高野が死んだのは四日前、王幼泉は三日前、浮浪者は昨日。その三人が細菌の寄生を受けていたとすれば、サンプルは、どこか、近い場所にある」
「浮浪者が隠したというのは……」
「浮浪者だって、古雑誌を隠すために床板は外しませんよ」
「と、すると……」
「最近までケースは床下に隠してあった。浮浪者は開いていた穴に財産を収めただけ……しかし、キリコビッチさん、あの男はどこから来たんでしょうかね」
「そう言われても……」
キリコビッチが軽く鼻を鳴らして、唇を舐め、フロントガラスから、ちらっと視線をふり向けた。どこまでこのロシア人が信じられるのか、しかし信じなければ、おれの命なんか、簡単に抹殺されてしまう。
「考えてみれば、あの浮浪者は、おかしい」
おれが浮浪者に疑問を持たなかったのは、当然。なにしろおれは、高野もラトーニャも王幼泉も、みんな意思のあるエイリアンに殺されたと思っていたのだ。
「浮浪者というのは普通、新宿や池袋の盛り場にいるものです。盛り場なら食糧も寝ぐらも簡単に確保できる。でも久我山は高級住宅地、職業として浮浪者は成り立たないし、暮らすにしても、少しばかり目立ちすぎる」
「田沢さんがおっしゃる意味は……」
「そういう意味ですよ」
「実験動物として、連れてこられたと?」
「妥当な推理です」
「だれに?」
「そこまでは分かりません、まさか……」
「ラトーニャを疑っておられる?」
「いや……キリコビッチさん、ラトーニャがモスクワで受けた指令の内容を、ご存知ですか」
「妥当な推理ならできますがな」
「………」
「サンプルの完全回収と、持ち出した人間の抹殺です。なにしろロシアは、アルファーAの開発に国運を賭けている」
「つまり、ラトーニャは、サンプルの所在にも高野の背後組織にも、見当をつけていた」
「だからこそモスクワへ帰ったわけでしょう。抹殺ということになれば、その時点で、もちろん私にも出番はまわって来た」
「そのラトーニャが、なぜ、王幼泉を?」
「私もそれは考えましたよ。現場を見ていないので、断言はできかねるが……」
左手でハンドルを操ったまま、右手を上着の下に差し入れ、表情も変えず、キリコビッチがひょいと黒い拳銃を抜き出した。
拳銃をおれの膝に放り、肩をすくめながら、一つクラクションを鳴らして、キリコビッチが言った。
「弾は入っておりませんよ。田沢さん、拳銃を扱ったことは?」
「いや……」
「お持ちになれば分かるでしょう。そのトカレフというのは無様なほどの大型拳銃で、扱いも難しい。極寒の地でも引き金が凍らないよう、重厚な作りになっている。力の弱い人間では引き金も操作できません」
「ラトーニャでは、無理だと……」
「無理ではありませんがな。少なくとも、女性が好んで携帯する銃ではない」
「要するに、歩道橋で使われた銃は、王幼泉のものだった」
「妥当な推理でしょう」
「トカレフを撃とうとしたのは、ラトーニャではなく、王幼泉?」
「争いの中で銃がラトーニャの手に渡り、ラトーニャが発射した。しかし銃はその重いトカレフ、ラトーニャは発射の反動で歩道橋から転落した……あくまでも、私の推理ですがね」
「ラトーニャはなぜ王幼泉を追ったんです?」
「さあ……」
「王幼泉が菌に汚染されていることを、ラトーニャは知らなかったのかな」
「分かりませんなあ。今となっては、なにも分からない。私としてはサンプルの回収さえできれば、とりあえず、それで満足ですよ」
おれはトカレフの重さと手触りを、慎重に確認し、キリコビッチの膝に戻して、外からの風を窓ガラスで遮断した。気温も自分の体温も分からず、銃への恐怖も、ラトーニャの死も、どこか、奇妙なほど他人事だった。
王幼泉がアルファーAに寄生されていると知っていたら、ラトーニャは撃たなかった。銃の引き金を引かなくても、王幼泉は死ぬ運命にあった。自分の運命を知らなかったのは王幼泉のほう。アルファーAの副作用を理解せず、自分を追跡したラトーニャを射殺しようとした。それではなぜ、ラトーニャは王幼泉を追ったのか。王幼泉が相手組織の一員でないとすれば、答えは一つ。ラトーニャの使命は、流出したサンプルの回収だったのだ。
「キリコビッチさん、王幼泉はアルファーAについて、どこまで知っていました?」
「公式には知らせておりませんな」
「しかしラトーニャを尾行するうち、『なにか』に気づいた可能性はある」
「彼だって一応は諜報員だった」
「その『なにか』が金になるという可能性にも、もちろん気づいた」
「私たちにできるのは、残念ながら、推理だけです」
「推理としてはいかがです? 王幼泉なら浮浪者を使って、人体実験をやりかねないか……」
キリコビッチが仕種で、またタバコを要求し、おれは箱ごと、ライターと一緒にダッシュボードへ差し出した。
「あの男は、言わば……」と、ライターで火をつけ、フロントガラスに煙を飛ばして、キリコビッチが言った。「一種の臨時雇いで、私としても、全面的に信用していたわけではない」
「あなたの部下ではあっても、ロシアへ忠誠を尽くすタイプではなかった」
「アルバイトというのは一般企業でも同じ理屈でしょう」
「王幼泉は浮浪者に人体実験をしておきながら、誤って自分も汚染された」
「なるほど」
「王幼泉はタバコを吸いましたか」
「はあ?」
「タバコですよ」
「私の知るかぎり、吸わなかったはずですが……」
「残りのサンプルをだれが持っているか、妥当な推理は、可能な気がします」
「しかし……」
「王幼泉の部屋は調べた」
「ええ」
「事務所もね」
「私はこれでもプロでしてな」
「奴の女までは調べていない」
「ん……」
「カエルの玩具を金に換える人間は、ジュラルミンのケースだって金に換えようとする。本人はそれが危険な人工細菌だとは、分かっていないでしょうがね」
「………」
「王幼泉という男、尾行もへただったが、女の趣味も悪かった。ロシアが立ち直ってスパイに臨時雇いを使わなくて済む日が、一日も早く来てほしいものです」
おれがクルマを降りたのは、甲州街道の明大前駅近く。キリコビッチはそのまま王幼泉の事務所へ向かい、おれは駅に向かう道を、風に逆らって強引に歩いて行った。暗くはなっていたが、時間はまだ六時で、駅の方向からは勤め帰りの安堵感が盛大に押し寄せる。久我山の家には今ごろ警察が駆けつけ、どうせ無意味な混乱が展開されている。船井は本当に諦めるのか、性懲りもなく悪あがきをつづけるのか。いずれにしてもおれやキリコビッチに累《るい》は及ばない。浮浪者の死はまた『日露友好』という名目で抽象化され、静かに闇の彼方へ葬られる。こんな事件は闇に葬って当然、しかしおれの意地とラトーニャに対する追悼は、どこかできっぱり、形を示す必要がある。
駅まで来て、学生や勤め人の群れを掻き分け、公衆電話から、おれはナターシャのマンションに電話を入れてみた。七、八回コール音が響き、やっと受話器が外れ、鼻音の高い日本語が、不思議な違和感でおれの憂鬱を慰めた。
「昨日、返事を聞くのを忘れてしまった」
「はい?」
「おれが東京タワーの見えるレストランに誘ったら、君は、OKするかどうか」
「もちろんOKよ」
「そうか、よかった」
「そんなディナーに誘ってくれれば、相手なんかだれでもOKです」
「だれだって、か」
「わたし、お腹いっぱい食べますよ」
「覚悟をしておこう」
「田沢さん」
「うん?」
「今日、ラトーニャのガイコツが戻って来ました」
「骸骨?」
「ええと、なんと言うのかしら、焼いて骨になったやつ」
「遺骨か」
「そう、その遺骨、今日、大使館の人が持って来ました」
「おれも一目会いたいが……」
「これからマンションに来ますか」
「今日はまだ仕事がある」
「残念ですね」
「明日は?」
「わたし、明日はモスクワへ帰ります。さっき飛行機の予約をしました」
「明日のなん時?」
「朝の六時」
「早いんだな」
「田沢さんに見送りに来られたら、困りますからね」
「どういう意味だ?」
「意味はありません」
「その……なあ?」
「なんですか」
「一つ訊きたいことがある」
「いいですよ」
「君、ラトーニャが日本に来るまで、親戚の家にいたんだよな」
「はい」
「父方の?」
「はい」
「名前は、野口?」
「はい」
「その父方の身内で、十年前、交通事故で死んだ女の人はいないか」
「いますよ」
「いる……か」
「なぜ知ってるんです?」
「いや……その人は?」
「父の妹です」
「君の、叔母《おば》さんか」
「はい」
「名前は?」
「たしか、ミキコだったと思います」
「独身?」
「いいえ」
「結婚していた?」
「はい」
「相手の名前は?」
「名前までは、ちょっと……」
「覚えていないか」
「わたし、まだ十一でしたからね。名前は覚えていませんけど、苗字は覚えています」
「ああ、なるほど」
「聞きたいですか」
「是非」
「ミキコ叔母さんが結婚していた相手は、岩崎という苗字です。名前まで知りたければ親戚に訊いてあげますよ」
「岩崎美紀子……君とラトーニャは、彼女の姪《めい》だったのか」
「田沢さん」
「うん?」
「叔母のこと、知っていたんですか」
「もちろん知ってはいない。事件に関係あるかと思ったが、まるで無関係だ」
「そうですよね。十年前の交通事故が、姉の死に関係あるはず、ありませんよね」
「君……」
「はい?」
「岩崎という男、最近、モスクワへ行ったかな」
「最近のことは知りません」
「そうか……」
「でも二年ほど前、姉とは会ってるはずですよ。政治家の秘書とかで、視察に来たと言ってたから」
「政治家と一緒に?」
「たぶん、そうだと思います」
「ナターシャ……」
「はい?」
「モスクワでファクスが受けられるか」
「はい」
「番号を教えてくれ」
「ええと、ちょっと、待ってくださいね」
なにかのぶつかる音と、紙のこすれる音がしばらくつづき、やがて歌うような鼻音が、受話器にさらさらとファクス番号を響かせた。おれは手帳にその番号を書きとめ、背中を騒がす悪寒に、かろうじて気力を対抗させた。
「君がモスクワへ着いたころ、この事件について、おれがレポートを送る」と、手帳をポケットに戻し、意識的に肩の力を抜いて、おれが言った。「本当ならラブレターでも送るところだけどな」
「国際ファクスラブレターなんて、友達が感動しますよ」
「気が向いたらそっちも努力するさ」
「事件のこと、分かったんですか」
「うん……いずれにしても、東京へ戻ったら電話をくれ。君に腹いっぱいの食事が奢れるよう、おれもせいぜい、仕事に精を出す」
自分の電話番号を言ってから、おれは電話を切り、じわりと熱を持った肺に、大きく風を呼び入れた。駅前の喧噪は恥もなく華やかで、学生たちはだれも人生の屈折を発しない。平凡な青春が、平凡に幸せであることに、珍しくおれは、腹も立たなかった。
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京王線と新宿線と地下鉄を乗りつぎ、永田町に出たときは七時になっていた。日は暮れきって、人通りもまばら、赤坂へ向かうOLたちの足にも冬の気配が忍び寄る。風は冷たく、しかし公孫樹《いちょう》の葉は青いままで、灯を落とさないオフィスビルに白い街灯が寒く反射する。あれほど憎みながら、心から嫌いながら、おれはまた岩崎の事務所へやって来た。こんな道を歩くのも、岩崎の顔を見るのも顔を思い出すのも、できれば、今日が最後になってほしい。
エレベータで四階へあがり、ノックをせずにドアを開けると、覚えのある鮮やかな女が、ちょうどデスクの横に出てうす物のコートを羽織るところだった。セミロングの髪は乱れなく肩におさまり、エステで磨きあげたような顔は相変わらず無表情、おれを覚えているのか、困惑しているのか軽蔑しているのか、感情は呼吸にも表れなかった。
「今度おれが来たら、居留守をつかえと言われてないか」と、うしろ手にドアを閉め、女の香水に疲れを感じながら、わざと無感動に、おれが言った。
女がコートの襟をととのえ、鼻の先をかすかに曲げて、どちらともなく、曖昧にうなずいた。岩崎も女も、おれがまたこの事務所へ攻め込むことなど、思ってもいなかったろう。
「岩崎さんに大事な用を思い出してな、いたら取り次いでくれ」
「ただ今来客中ですが」
「相手はヤクザか」
「………」
「ヤクザなら、おれは逃げる」
「………」
「どうせクスリ屋のお偉方だろう、今度はなんの利権を狙っている?」
「わたくし、退社時間なので、失礼いたしますわ」
「君のコーヒーが飲めないとは、残念だ」
女がおれを迂回するように、出口のドアへ歩き、ハイヒールのかかとを、固く床に響かせた。帰れとも言わず、残れとも言わず、女にとっては、どちらでもいいのだろう。
「君、この事務所、二年だっけな」と、デスクのほうにまわりながら、ドアを開けた女に、おれが言った。「そろそろ辞めどきじゃないのか」
「情報でも入ってます?」
「かなり濃い情報だ」
「検討すべきかしら」
「おれなら結論を出すのに、一週間もかけないさ」
「ずいぶん性急ですのね」
「善は急げ、沈む船からはネズミより早く逃げ出せ……お袋の遺言だ」
「変わったお母さま」
「美人には素直に感動しろとも、よく言っていた」
ドアから肩を出し、髪をシャンプーのコマーシャルのように揺すって、うすい色の唇を、女がくすっと笑わせた。
「コーヒーはありませんけど、冷蔵庫にビールが入っています。灰皿は流し台の引き出し……それにもちろん、今のお客様、ヤの字関係ではありませんわ」
ドアが閉まり、女の香水が消え、突然色彩が消えたベージュ色の空間に、おれは漠然と立ち尽くしていた。となりの部屋から人声は聞こえず、電話もならず、おれは洗い場から缶ビールと灰皿を取り出し、女の椅子にぐったりと腰をおろした。ラトーニャからの依頼を受けて、ちょうど一週間、尾行をしたりされたり、死体につまずいたり拳銃を放られたり、面倒なドラマばかり展開した。明日以降もこんな日がつづけば、おれの神経は、どこかでぷっつり切れてしまう。オーストラリアの牧場も夢、焼酎の自家製造も夢、のんびりと生命を縮小させる計画も、ぜんぶ夢。へたをすれば岩崎との心中が待っていて、明日のことなんか心配する間もなく、ここで人生が終わる可能性もある。そしてそれは、勝手に降りかかった災難ではなく、過去から現在まで、半分はおれの生き方に問題がある。
十分か、二十分か。となりの部屋に人声が湧き、ドアが開いて、銀髪の痩せた男と岩崎が、低く笑いながら姿をあらわした。岩崎が幽霊でも見たように顔色を変え、しかし言葉は出さず、慇懃に笑ったまま、快活な仕種で男を出口のドアへ送り出した。新薬の許認可に目度がついたか、役人の抱き込みに成功したか、岩崎の仕事なんて、どうせその程度のものだ。
「田沢、また金をゆすりに来るとは、いくらなんでも下品だろう」と、しばらくドアの外に耳を澄ましてから、不意に顎を引き、頬に陰気な皺をきざまして、岩崎が言った。「それに無断侵入は犯罪だぞ、今すぐ消えないと警察を呼んでやる」
「ビールと灰皿は彼女の提供だ。つまり、一応は、了解済みということです」
「理屈を言える立場か。お前なんか電話一本で、いつでも刑務所へ送り込める」
「この一週間、その台詞はずいぶん聞きましたよ」
「そうか、それなら二度と聞けないよう、本当に警察を呼んでやる」
岩崎がじりっと歩いて、ネクタイをゆるめ、おれの顔色をうかがいながら、表情も変えずに電話へ手をのばした。岩崎の指は不似合いなほど繊細で、ロレックスの腕時計に汚れはなく、小指には印を彫った金の指輪が光っていた。
「どうしました、警察は一一〇番ですよ」
「………」
「どうせ警察へ電話するなら、久我山の家でなにが起こっているか、訊いてみたらいい」
「ん?」
「確かめなくても分かっていますがね」
「………」
「今ごろは本庁の一課まで駆けつけて、あの家は警官だらけでしょう」
「貴様……」
「岩崎さん、申し訳ないが、ビールをもう一本いただきます」
椅子を立って、おれは岩崎のうしろをまわり、この博打が裏に出るか、表に出るか、息を詰めたまま洗い場へ歩いて行った。本当に岩崎が警察を呼んだら、賭は大外れ、おれのトラブルは延々とつづき、気力も体力も、そこでぷっつり切れてしまう。
岩崎が背伸びをするように、肩でため息をつき、受話器は外さず、靴音を響かせてとなりの部屋へ入って行った。デスクから拳銃を取り出して発砲するのでなければ、とりあえず博打も、表が出たことになる。
冷蔵庫から缶ビールを出し、部屋へ入って行くと、岩崎はソファに足を組んで座り、コーヒーのカップが並んだテーブルに向かって、長くタバコの煙を吐き出していた。窓にはブラインドがおり、デスクにもテーブルにも書類はなく、岩崎の手に拳銃も握られていなかった。
岩崎の向かいに座り、ビールのプルトップを抜いて、おれが言った。
「場所は久我山の一等地、価格は十億、不動産屋が首を突っ込んでも素性の分からない土地というのは、どういう人間の所有なんでしょうね」
「不動産屋に分からんものが、私に分かるはずはない」
「しかし今、あの家には奇妙な死体が転がっている」
「ずいぶん賑やかな家らしいな」
「昨日までは浮浪者が住み着いていただけの、目立たない空家でしたがね」
「それがどうした。どこの家でだれが死のうと、そんなこと、私になんの関係がある?」
「警察も本気で動くということですよ。連中が組織で動けば所有者も判明する、書類上の所有者ではなく、実質的な所有者が」
「お前は私が、十億もの土地を持ってるというのか」
「いくら岩崎さんが悪人でも、そこまでのヘソクリは作れない」
「なんだと?」
「あれほどの資産を隠匿するには、大きい政治力が必要です。所有者は宮部代議士、管理をしていたのは岩崎さん……ここ一週間ほど、岩崎さんがあの家を使っていたことを、宮部も知っていたわけですか」
岩崎の手から、タバコの灰が落ち、グレーのズボンを伝わって、ひっそりと床にこぼれていった。岩崎の目はどこか遠い空間を見つめ、目蓋は動かず、口元の皺にも表情は見えなかった。
「お前もうちの代議士《せんせい》をみくびってるな」と、タバコを灰皿に放り、膝の灰を払いながら、おれとは視線を合わさずに、岩崎が言った。「警察ぐらいいくらでも押さえ込める、自治省にも法務省にも手はまわせる。土地でも株でも、どうにでも始末できるさ」
「そんなもんですかね」
「お前も裏の世界を知ってるなら、それぐらい理解できるだろう」
「岩崎さんも所詮はトカゲの尻尾です」
「田沢、お前、命は惜しくないのかよ」
「宮部だって自分の尻に火がつけば、あんたなんか簡単に切り捨てる」
「くだらんゴタクを……」
「この事件では四人の人間が死んだ。いくらロシア大使館からの圧力でも、警察だって、もう闇には葬り切れない」
「話が見えんな」
「四人ですよ、もちろん岩崎さんが知っているのはラトーニャと高野和夫だけ。しかしあとの二人も、実質的には、あんたが殺したようなものだ」
「そんなホラ話で私がゆすれるのか」
「岩崎さんも欲が深すぎた。高野一人だけ消しておけばよかったものを、ついでにおれまで始末しようとした。その手順の狂いが、あとの三人まで死なせることになった」
「田沢、私の我慢にも、限界があるぞ」
「だから?」
「だから……」
「おれにアルファーAでも寄生させますか」
「き、貴様……」
「事件は見えている。みんな岩崎さんの仕掛けだ、たとえ宮部が関わっているとしても、あいつはどうせ尻尾を切り捨てる。切られた尻尾の運命なんて、もう先は知れている」
「なんの話か……」
「十年前、奥さんではなく、おれのほうを殺しておけばよかった。あなたの失敗はあのときから始まっていた」
岩崎の咽仏が固く上下し、首筋の痙攣がこめかみにまで走って、眉間に太いたて皺が浮きあがった。指は組んだ足の膝を掴み、ネクタイをとめたダイヤのタイピンが、螢光灯を白く反射する。
「岩崎さん、あなたは学生時代から、宮部のカバン持ちをしていた……」と、ビールで口の渇きを癒し、岩崎の顔色に意識を集中して、おれが言った。「宮部の家で雑用係をしながら、大学の夜間部に通った」
「………」
「あなたと高野和夫の接点がどこにあるのか、まるで分からなかった。高野は平凡で小心なサラリーマン、出世にも研究部門にも無関係。そんな高野が、なぜあなたの計画に加担したのか……」
岩崎がタバコをくわえて、そっぽを向いたまま火をつけ、足を組みかえながら、黙って天井に煙を吹きつけた。
「高野がなにを血迷ったのか、おれには分からない。しかし男というのは、平凡でも小心でも、一度ぐらいは博打を打ってみたくなる。四十も過ぎて、人生に先が見えてきて、高野も夢を見たくなった。大学の夜間部で同窓だったあなたは、高野のそういう屈折につけ込んだ」
岩崎は黙ってタバコを吹かしつづけ、貧乏ゆすりのつま先だけが、淡々とおれの推理を肯定する。
「高野はどこまでアルファーAの実態を知っていたのか。効能は知っていても、副作用までは知らされていなかったろう。証拠はないが、高野の感染は事故ではなく、あなたが故意に仕掛けたものだ。あなたは最初から高野の抹殺を狙っていた」
「くだらんことを……」
「高野が東京中を歩きまわった行為は、ただの攪乱だった。あなたは高野を別な場所にかくまっていた。身辺があやしくなり、相手の動きを見極めるという名目で、高野を動かした。あの男はあなたに指示されたとおり、カモフラージュであの家を使ったにすぎない。理由と結果を知っていたのはあなただけ。高野が死んだとき、おれが尾行していたら、おれは高野に駆け寄っていた。アルファーAはおれに感染し、あなたの思惑は成功していた。現時点で邪魔な高野を殺し、ついでに十年間邪魔でありつづけたおれも抹殺する。証拠も残らず、あなたの関与を疑う人間もなく、計画は完璧なはずだった……しかし、岩崎さん、それでは話がうますぎる。いくら神が呑気でも、そこまで無茶な計画は、やはり許さない」
「田沢……」と、ふと腰をあげ、大きく煙を吹いてから、ソファを二、三歩横に出て、岩崎が言った。「お前のホラ話も、ずいぶんなスケールじゃないか。ゆすり屋なんかやめて小説家になったらどうだ」
「そういう考え方もありますね」
「そこまでの馬鹿話なら、意外に売れるかも知れんぞ」
「オーストラリアで羊を飼いながら、ついでに小説も書く……夢のような生活だ」
「高野だのアルファーAだの、副作用だの抹殺だの、お前がなにを言ってるのか、見当もつかんな」
「大学の同窓会名簿を調べれば、あなたと高野のつながりは証明できる」
「だからどうした、大学の同級生をみんな殺していたら、私は大量殺人鬼になってしまう」
「ある意味では今でも大量殺人鬼ですよ」
「くだらん……」
「そういうくだらない計画で、四人もの人間が死んだ」
「お前の妄想だ」
「勝手にそう思えばいい」
「ゆすり屋のホラ話なんか、だれが信じるもんか」
「おれは今度の事件に関して、レポートをある機関に渡してある。あなたにも宮部にも手の届かない遠い機関……今度ばかりは、岩崎さんも逃げ切れない」
「田沢、まさか?」
「ラトーニャをおれに会わせたことが、一番の失敗だった」
「まさか、ロシアに……」
「厚生利権を漁《あさ》るあなたが、外務省のパーティーでラトーニャに会うとは思えない。たとえ会ったとしても、そんな女が仕事の話を持ち込むはずはない。あなたは故意に、ラトーニャをおれに近づけた。おれが奥さん殺しの犯人とか、いい加減な情報を吹き込んだ」
「なにを根拠に……」
「彼女は死んだ奥さんの姪、当然あなたとは、以前から接触があった」
「貴様という奴は……」
「また殺したくなりましたか」
「………」
「残念ながらラトーニャには、あなたが思った以上の常識があった。アルファーAに関しても、もともと彼女はあなたを疑っていた」
「………」
「高野の所在もあなたがラトーニャに教えた。尾行におれを使うこともあなたが提案した。本心ではラトーニャが死ぬことまで、あなたは期待していた」
「………」
「ラトーニャの追及が自分にまで及んだからこそ、あなたは高野を抹殺する決心をした。おれが生きていることを除いては、あなたの目論見はすべて成功した」
岩崎がタバコを床に投げ捨て、靴の底で踏みつぶしてから、ふらりと向こう側へ歩き、ズボンのポケットに両手を入れながら、腰でデスクの端に寄りかかった。紅潮した顔には濃く脂汗が浮かび、色のない唇だけがかすかに、芋虫のように蠢いていた。
「あなたがアルファーAの存在を知ったのも、ラトーニャからだ」と、ビールを飲みほし、重い腰を無理やり持ちあげて、おれが言った。「ラトーニャが金で情報を売ったとは思えない。ロシアでか、日本でか、いつのことか、ふと研究の概要を漏らした。結局ラトーニャは、そのことの責任を、自分の命で取ることになった。それでもあなたが、利権漁りさえ狙わなければ、問題は起こらなかった」
黙って壁を見つめている岩崎に、おれはわざと舌打ちを浴びせ、怒りと耳鳴りを慎重に我慢して、固くて冷たくて清潔なフロアを、暗澹とドアに歩きかけた。
「田沢……」
「………」
「何円《いくら》だ?」
「………」
「お前のレポートを、何円《いくら》で売る?」
「冗談でしょう」
「お前はまだレポートをロシアに送っていない、それぐらい分かっているぞ」
「試してみますか」
「なにを……」
「おれを殺せば答えは出る」
「………」
「どうせあなたの手は汚れている」
「お前、金がほしくないのかよ」
「岩崎さんからの金だけはほしくない……理由はおれにも、よく分からないが」
「恨みか?」
「さあ」
「アルファーAを商品化すれば兆単位の金が転がり込む」
「懲《こ》りない男だ」
「半分はお前にやってもいい」
「手遅れですよ。サンプルだってもうロシアの諜報機関が回収している。今度ばかりはおれもブラフを切らない。レポートはRAMAに渡した。利権を横取りされそうになったロシアも、黙ってはいない。日本の警察に捕まる前に暗殺されないよう、岩崎さんもせいぜい、身辺に気をつけることです」
岩崎がなにか言いかけたが、おれは肩でその視線をふり切り、ドアを押して、部屋を出た。閉まったドアには灰皿もタバコも、罵声も反省も、なにも飛んでこなかった。おれの意地も演技も、だらしなく限界を超え、事務所を出たときには、もう膝がわなわなと震えていた。どうやら賭けには勝ったようで、しかしこんな奇蹟が、いつまでつづいてくれるものか。人生に三度訪れるという奇蹟を、いったいおれは、いくつ使っているのだろう。
ビルを出てから、おれは永田町駅には向かわず、ほてった顔を風に晒しながら、ぼんやりと赤坂見附に歩いていった。空しさと充足感が、美意識の中で混沌とわだかまり、笑いたいのか泣きたいのか、まるで分からなかった。風が歯にしみて、奥歯が痛み、とりあえず明日は歯医者へでも行くかと、おれが決めたのは、それだけのことだった。
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繁華街にまわればまだブティックぐらいは開いている時間、だがおれは試着室で阿呆な奮闘をする気にならず、無礼で無気力な店員にズボンの裾あげをさせる気にもならず、婦人靴売場で冷汗をかく気にもならなかった。気持ちは背広やハイヒールを希望しても、恥や汗をかくにはそれに相応《ふさわ》しい気力と、体力が必要なものだ。
『火星人の罪』に寄って、不思議な味のピザでも食べ、ビールを飲んで夢子のトランプ遊びを見学し、探偵小説の犯人当てをやってスポーツ新聞の競馬欄を読む。それから部屋に帰ってシャワーを浴び、洗濯をしてテレビを観て寝酒を飲んで寝てしまう。それが今日のおれには相応しく、できるものなら、実際にそうするつもりだった。
『火星人の罪』は、昼間と同様、頑固に扉を閉めていた。『準備中』の札もそのまま、看板にも店の中にも、明かりの気配すら感じられなかった。夢子はおれの人生から永久に消えたのか、あの変装のようなメガネも生意気な視線も、二度とおれを困らせないのか。自分でピンク色のハイヒールを買って、おれは一生、その靴に五百円玉貯金でもつづけるのか。
風に吹かれて、おれはしばらく、行き場もなく『火星人の罪』の前に突っ立っていた。たしかにそれも、ありえる結果なのだ。夢子の世界とおれの世界は、最初から、もともと、クロスはしていなかった。おれの人生に登場したのは夢子の気まぐれ。気まぐれでスナックを開店し、気まぐれで閉店し、そして気まぐれで、住み慣れた自分の世界へ戻って行く。おれに意見を言う資格はなく、夢子を引き止める権利もなく、夢子の人生にだって、責任は取り切れない。この一週間、常識から遮断され、おれの思考は突飛な回路に短絡を起こしていた。夢子は夢、ラトーニャも夢、諜報部員も人工細菌もオーストラリアの牧場も、みんな夢。そう割り切って非難される理由はなく、逆に割り切らなければ、これからの人生が辛すぎる。
口の中で愚痴を言っているうちに、おれはいつの間にか事務所への階段をあがり、気づいたときには部屋の前に立っていた。
ドアを開け、そのとたん、おれは激しく我れに返り、ドアを閉め、急遽そこから飛びさがった。頭の中が真空になっていて、部屋を間違えてしまったのだ。
また階段まで戻り、一つ階下におりてみたが、なんの因果か、やはりそこは事務所の下の階、ということは、さっきの部屋が、どう考えてもおれの事務所だった。おれは頭を混乱させながら、元の階の元の部屋の前まで、不可解に足を運んでいった。
さっき間違えたと思った部屋は、やはりおれの事務所だった。おれは気合いを入れてノブを引き、ドアの隙間から、そっと部屋を覗いてみた。その部屋には見たこともない、背の高いスタンドランプが灯っていたが、間取りはたしかにおれの部屋、階数もドアの位置も、きっぱりとおれの部屋だった。それなのになぜ、こんなふうに、中の景色が違うのだ。
窓には淡いグリーンのカーテンが掛かっているし、床にも同色の絨毯が敷かれ、それにごていねいに、ベージュ色のソファまでが置かれている。仕事机は、たぶんそうかも知れないと思うのだが、チェックのテーブルクロス掛けで部屋の隅に押しつけてある。その上にはガラスの花瓶と、まっ赤な薔薇《ばら》の花。ついに、来るべきものが、やって来た。最近の過剰な刺激に、おれの神経は耐えきれなかった。とうとうおれは、気が狂ってしまったのだ。
部屋のどこかで、小さい物音がし、おれは意を決して、敢然と狂気の中へ踏み込んだ。物音の発現地は奥の台所、ガス台も食器棚もケトルもフライパンも、まったく未知の代物で、おまけに流し台ではだれかが洗い物をしているのだ。
女が急にふり向き、おれたちは同時に、短く、あっと叫び合った。
唖然としているおれに、湯沸かし器を止め、大きく目を見開いたまま、女が言った。
「声ぐらいかけなさいよ。黙って立ってたら、びっくりするじゃないの」
「ただいま」
「お帰りなさい」
「その……」
「なあに」
「夢子、メガネは、どうした?」
「コンタクトよ」
「なるほど」
「今帰ってきたの?」
「たぶん、そうだと思う」
「なにか食べる?」
「いや……」
「ビール?」
「うん……」
「向こうでテレビでも観ていなさい」
「向こうで、テレビを……か」
もちろんおれの足は、動く気にならず、おれの目は食器棚や洗い桶やキッチンマットや夢子の腰に巻かれたサロンを、茫然と観察していた。
「どうしたの?」と、顎だけをふり向け、首をかしげながら、メガネと同じほど丸い目で、夢子が言った。
「どうしたのかな」
「そこにいたら邪魔でしょう。うしろに立っていられると、わたし、気が散るのよ」
理性も常識も、まるで納得しなかったが、どうも夢子の意見は正しいらしく、おれは仕方なく部屋に戻って、恐るおそるソファに腰をおろした。カーテンも絨毯もソファも馴染みのない新品、しかしここは自分の部屋で、夢子だって宇宙人ではない。この現象は正当なのか、不当なのか。ソファなんかに座って許されるのか、タバコを吸っていいのか、呼吸をして罰金を取られないのか、生きていて、犯罪にならないのか。
そのうち、夢子が缶ビールを持って登場し、チーズの皿をおれの前に置いて、自分もソファの端に腰をおろした。座るときに割れたサロンから、見事に太ももが覗き、おれはそのとき、今日の夢子が黒いミニスカートであることに、初めて気がついた。
「いくらか人間の部屋らしくなったでしょう」と、カーテンとおれの顔を見くらべながら、鼻をうごめかせて、夢子が言った。
「これで壁でも塗りかえれば、ちょっとした高級マンションだ」
「明日は来るわ」
「なにが」
「塗装屋さん」
「ああ、そう」
「陰気な部屋に住むと性格まで根暗になる、手遅れになる前に人格の改造をしましょうね」
「自分の人格は、けっこう、気に入っている」
「それが老化の始まりなの、保守的になって自分の価値観にだけしがみ付こうとする」
「それほど大袈裟な問題か」
「問題に気づかないところが問題なのよ。明日はデパートに行って洋服を選んであげる。その恰好ではどう見ても、新聞記者くずれの政治ゴロだものね」
言われなくても、自分の風体は、おれだってちゃんと反省している。洋服を買いに行く件についても、まあ、異論はない。しかしこの激しい現状の変革は、どういう意味なのだ。
ビールを口に含み、無理やり気分を落ち着かせて、おれが言った。
「夢子……君に、話がある」
「あらたまらなくても聞いてあげるわ」
「今度の、事件のことだ」
「ふーん」
「とりあえず、片がついた」
「よかったわね」
「政治家の秘書やらロシアの諜報組織が絡んで、面倒な駆け引きをやっていた」
「そうだったの」
「君が中央公園で見た生き物も、エイリアンではなかった」
「分かってるわよ」
「分かってたのか」
「常識でしょう」
「そういうもんかな」
「わたしね、なんとなく、興味がなくなったわ」
夢子の気まぐれは承知していても、ここまで急に気分を変えられると、やはりおれは困ってしまう。そんなことで困惑するところが、夢子の言う、老化現象というやつか。
「本当に、聞かなくていいのか」と、目で灰皿を探し、頭の中でため息をついて、おれが言った。
「SFとかスパイ物とか、わたしの守備範囲ではないもの」
「うん……」
「わたしの得意は密室殺人やハードボイルド」
「そういえば、そうだな」
「それに今度の事件、わたしには情報が少なすぎた。田沢さんは隠し事ばっかり、フェアな立場でなければ推理は不可能よ」
深くうなずいて、同時に心の中で、おれは真摯に反省した。肩すかしをくわされ、気が抜けたことは事実。事件の詳細を説明しなくて済むことに、安堵したことも事実。しかしそれにしても、なんだって夢子は、突然ミニスカートをはく気になったのか。
夢子の足に見惚れ、机の赤い薔薇に見惚れ、それでもおれは、ふとそのことに気がついた。ベッドがないのだ。窓のカーテンや、絨毯やソファよりも部屋に違和感を与えていたのは、十年も使っていたセミダブルのベッドが、部屋の中から、すっぽり姿を消していることだった。
「なあ、夢子……」と、深い恐怖から、慎重に立ち直り、貧血を抑えて、おれが言った。「今朝、部屋を出るときは、ベッドがあった気がする」
「夕方まではあったわ」
「今はないのか」
「捨てたの」
「どうして」
「気分の問題よ」
「どんな気分?」
「ベッドを捨てたい気分」
「それだけ?」
「それだけよ」
「そうか、それだけ……か」
この時点で、一つ、無理やり、おれは悟ってしまった。夢子との意思疎通は、人生を最初からやり直すほどの覚悟がいる。夢子の言葉だって、意味だけなら理解できる。しかしなぜそういう結論に至るのか、思考の過程も、心理的根拠も、まるで理解できなかった。
びっくり箱を開けるような気分で、ひたすら無難に、おれが訊いた。
「しかし、ベッドがないと、おれが困らないか」
「一晩ぐらい我慢できるでしょう」
「試したことは、ないが」
「明日は新しいベッドが届くわ」
「明日は塗装屋が来て、ベッドまで来るのか」
「いやな匂いがしたのよ」
「まあ、十年も使っていたから」
「そういう匂いじゃない」
「どういう……」
「わたしね、ニナリッチの香水って、嫌いなのよね」
ああ、なるほど、そういうことか。枕に残っていたラトーニャの匂いには、おれだって気がついた。まして夢子は女、今はノーメイクでも、モデル時代は高級ブランドに取り囲まれていた。そういう夢子が匂いに敏感なのは、当然のこと。おれがラトーニャに、ただベッドを提供するだけの体質でないことも、当然夢子は見抜いている。
しかし、それだけで、おれは罪人になるのか。人道上の立場からも、倫理的な見地からも、おれは限りなく無罪だと推定できる。夢子の部屋に泊まったとき、おれはしっかりソファで眠ったはずだ。昨夜はたしかに、そのうすい胸にしがみ付きはしたが、あれは状況が違う。昨夜のおれは、ズボンさえ脱がなかった。
これがニール・サイモンのラブコメディーだったら、おれが怒りを爆発させ、夢子が絶叫し、洒落た台詞で罵《ののし》り合い、そして最後には心が通じ、キスの一つもしてハッピーエンドになる。しかし現実というやつは、そうはうまく運ばない。おれはベッドを捨てた夢子に怒りを覚えず、逆に夢子に対して理不尽なうしろめたさと、憮然とした引け目を感じてしまった。論理も倫理も、常識もプライドも、男と女の間では、すべて男の側に罰が当たる。
「世の中というのは、理不尽だから、スリルもある……」と、チーズを口に放り込み、なんとなく夢子の足を見つめて、おれが言った。「新しいベッドぐらい、どうせすぐ慣れるさ。新しい絨毯にも、新しいカーテンにも、新しい困難にもすぐに慣れる」
夢子が澄ました顔で口を結び、頬のそばかすを少し赤らめて、おれの視界から、ミニスカートの足をすっぽりと被い隠した。
「今夜は一発、銀座へでもくり出すか」
「銀座のラーメン屋で餃子を奢る?」
「君の足に似合うイタリアレストランがあるんだ」
「田沢さんでもそんなお店、知ってるの」
「週刊誌でチェックした」
「事件が片づいたお祝いかな」
「君が部屋の改造に費やした時間と、ミニスカートをはいた好意に対する、ささやかな返礼だ」
ソファに座り直して、夢子が片頬に笑窪《えくぼ》をつくり、鼻と顎の先を、ちょっと尖らせた。
「気を使わなくていいの、改造費用は田沢さん持ちだから」
「うん?」
「言ったでしょう、持ち慣れないお金を持つと、碌なことはないって」
「つまり……」
「たった五十万よ」
「ああ、そう」
「机に現金を入れておくの、不用心だわ」
「分かってはいたが……」
「残りは田沢さんの名義で銀行に積んでおいた」
「君、なあ……」
「銀座はキャンセル?」
「それぐらいのことで、おれが挫けるもんか」
「田沢さんも成長したわね」
「君のお陰だ」
「ついでに結婚しようか」
「うん?」
「結婚よ」
「だれが」
「田沢さんが」
「だれと」
「わたしと」
「どうして」
「約束したじゃない」
「そんな約束、いつ……」
言いかけて、やっと夢子の言葉が脳細胞に伝わり、スタンガンで撃たれたように、思わず、おれは立ちあがった。いくらおれが冗談体質でも、内容によっては、対応できないジョークもある。
「夢子……」と、酸っぱい目眩を感じ、よろりとソファに腰を落として、おれが言った。「君がベッドを捨てたことにも、部屋の改造を断行したことにも、特別に意見はない。だけど、今度のことで、これ以上、おれにどうしろというんだ」
「今度のことって?」
「それは、だから、今度のことだ」
「なんの今度のことよ」
「よくは分からないが、なにか、事件に関することだろう」
「事件は終わったんでしょう」
「なにか、怪しい」
「どこが」
「ぜんぶ、なにか、怪しい」
「それは田沢さんの心に疚《やま》しい部分があるからよ。わたしは事件のことも、あの女のことも、なにも言ってないわ」
「君はたしかに、ベッドを捨てただけだ」
「やっぱりそうなの」
「それは、そうさ」
「やっぱりあのベッド、大事だったの」
「ベッドのことではない。いいか? 君にベッドを捨てる趣味があるなら、そんなもの、おれは十でも二十でも買ってやる。君は好きなだけベッドを捨てればいい。おれの言ってるのは、そういうことではなく、つまり、君の悪い冗談に付合えるほど、おれは、若くないということだ」
「まだ三十八じゃない」
「もうすぐ三十九だ」
「無理すれば三十五ぐらいに見えるわ」
「見えたって、見えなくったって、それがどうした」
「なにを怒ってるの」
「おれが?」
「怒ってるじゃない」
「おれは今、泣こうとしてるんだぞ」
「田沢さんはちゃんと約束した」
「それは、つまり……」
「競馬で儲けたらわたしと結婚するって」
「だから……」
「言ったでしょう?」
「あ……」
「田沢さんは約束した、だから男らしく、責任を取りなさいよ」
よくは覚えていないが、なにかのどさくさに、そういえば、言ったような気もしなくはない。しかしあれは単なる病気、体調が良くて頭が混乱すると、おれはつい、そんな台詞を口走る。
「あのとき田沢さん、競馬で儲けたわよね」と、ソファの肘掛けに腕をまわし、遠くからおれの顔を見おろして、夢子が言った。
「少しだけ、ちょっと、儲けた」
「お酒はすべてシャンパン」
「うん……」
「会場は迎賓館」
「うん……」
「浮浪者の友達も呼ぶ?」
「いや……」
「式はいつにするの」
「夢子……本気か」
「冗談ではわたし、結婚なんかしたくない」
「ちょっと待て。気を落ち着けて、しっかり、ちょっと待て」
おれはビールのアルコールに、左脳の活動を精一杯援助させ、パフォーマンスの稚拙さは承知で、なん度かため息をくり返した。一度頭にのぼった血は、杳《よう》として巡らず、反乱した自律神経が皮膚の表面に、しつこく悪寒と発熱を重複させる。
たしかに、おれ自身、夢子に惚れてしまったことは、認めざるを得ない。夢子と暮らす毎日を想像するだけで、心が奇妙な平和を感じてしまう。しかし思うことと実行することとは、まるで問題が違う。思うだけなら、おれは、子連れのマドンナとだって結婚できる。
夢子に悟られないように、横を向いて深呼吸をしてから、おれが言った。
「冗談でないとすると、君は価値観に、なにか病気を持っている」
「自分でも面倒な性格だと思うわ」
「君なら映画俳優でも財界の御曹司《おんぞうし》でも、だれとでも結婚できる」
「わたしは性格が面倒なの、好みも昔から変わってるの。だけど好みや性格は犯罪ではないし、わたしがだれを好きになってだれと結婚しようと、そんなこと、わたしの勝手なの」
「冗談にしても質《たち》が悪すぎる」
「冗談ならもっとうまく言うわよ」
「自分を大切にすることを知らない人間は、愚か者だ。人間は君が思っているほど、平等にはできていない。みんなが平等に、だれでも幸せになれるわけではない。君は幸せになる素質を持っていて、幸せになる権利も持っている。意味もなく自分の権利を放棄する人間は、馬鹿だ。おれの人生は、そういう馬鹿とは、馴染まない」
「三十八年も生きてきて、そんな台詞しか思いつかないの」
「残念ながらおれは、語彙《ごい》が少ない」
「単純な男ねえ」
「正直だと言ってくれ」
「言葉は正直でも、気持ちは不正直よ」
「そこまで見抜ければ大したもんだ。おれの不正直さが分かった以上、君のすることはたった一つ。それは、君が、一人でこの部屋を出て行くことだ」
言い終わらないうち、おれの足がおれの躰を持ちあげ、おれの手が夢子の二の腕を掴んで、意思とは無縁な力が、手荒く夢子をソファから引き起こした。
「君は君の世界へ帰る、おれはおれの世界に閉じこもる。それが世間の常識で、常識だけが、すべての問題を解決させる」
夢子が身をひるがえして、肩で大きく息をつき、口をかたく結んだまま、ゆっくりとサロンをむしり取った。
「卑怯な男」
「それでも君よりは、常識がある」
「治らないのよね」
「治す気はない」
「それなら居心地のいい殻に、一人でせいぜい閉じこもるといいわ」
丸めたサロンを、ぽいとおれに放り、太ももを直線的に交差させて、膝も曲げず、肩も落とさず、腰の高い歩き方で、夢子がまっすぐドアへ歩き出した。黒いミニスカートにチャコールのセーター、躰のラインは見事に均整が取れ、短すぎる髪も、今日は息を飲むほど美しい。夢子はどこまでも歩いて行き、ドアを抜け、廊下を進み、階段をおり、通りに出てタクシーを拾い、そして自分の部屋と、自分の住み慣れた世界へ戻って行く。
気がついたときには、もう夢子の姿はなく、おれは襲って来た現実に、意識もなくソファにひっくり返った。空気は空疎で硬質、ビールの味に親しみはなく、火をつけたタバコも、ただ枯れ草の匂いがするだけだった。
おれは耳鳴りのする頭で、激しく変貌した自分の部屋を、あらためて眺めまわした。淡い色のカーテンも、肌触りのいいソファも、テーブルクロスも薔薇も絨毯も、形だけなら、たしかに人間の住処らしい。しかし人間の住処には、人間が住まなくてはならず、おれが一人でこの部屋に暮らしたって、それは決して、人間が生きることを意味しない。
いったいおれは、なにを血迷ったのか。幸せになる権利を放棄する人間は、間違いなく愚か者。それなら自分は、どこかで幸せにトライしてみたか。怠惰な時間におぼれ、堅気に生きる度胸もなく、愛とは無縁にいい加減な女たちを渡り歩く生活に、未練が残っているだけなのだ。自分以外の人間を傷つけることに、自分以外にもう一つ人生を背負い込むことに、覚悟ができないだけ。惚れた女を、目をつぶって自分の人生に引き込む勇気を、おれはいつ無くしたのか。
なにか、突然、背中に突きあげる熱を感じ、ゆらゆらと、反射的におれは腰をあげた。おれは走って行ってドアに飛びつき、気づいたときには靴もはかず、もう外にとび出していた。
廊下にも踊り場にも階段にも、夢子の姿は見えなかった。おれは一階まで駆けおり、明治通りに向かって、必死に走り出した。なん人かとすれちがい、なん人かを追い越したが、いくら走っても夢子は姿を見せなかった。時間的にも、夢子の足からも、まだ表通りへは出ていないはず。おれはその場で立ち止まり、来た道を悲しくふり返った。若い女の二人連れが歩いていたが、どちらも滑稽なほど、夢子に似てさえいなかった。
途方にくれ、混乱し、自分を呪い、自分を摸索しながら、おれは来た道を戻りはじめた。この三十八年間で失ったものは、限りなくある。それでもおれ自身が空白になるほどの後悔は、なにもなかったはずだ。しかし今度だけは、世界中の酒を飲み尽くしても、世界中の女をレイプしても、世間に復帰して人間の仮装をつづける自信が、どうしても湧いてこなかった。自覚しつづけていたそのことを、三十八年も自分に言い聞かせていたことを、おれは激しく自覚した。要するにおれは、本物のろくでなしなのだ。
ビルの入り口まで戻って来ても、おれの目と人生は、まだ懲りもせず夢子の姿を探していた。今追いつかなければ、おれは一生夢子に追いつけない。そして現実に、失ってしまった夢には、二度と出会えない。
おれは失ったもののあまりの大きさに、愕然としながら、ビルの狭い階段を夢遊病のように上りはじめた。靴下にコンクリートの冷たさが回復し、涙を流さず、おれは粛々と泣いていた。おれは世界一の間抜け、おれは世界一の意気地なし、おれは世界一のマザコン、だからおれは、世界一不幸な人間だった。
三階の暗い踊り場まで、どうにかたどり着き、自分の部屋へ向かいかけたとき、そこに存在した感動に、おれは見栄もなく腰を抜かした。夢子が腕を組んで、ミニスカートの足を見せつけ、肩で部屋のドアに寄りかかっていたのだ。
倒れずに夢子の前まで歩いて行くのが、そのときのおれにできた、精一杯の懺悔《ざんげ》だった。
「こんなところで、なにをしている?」
「ジャケットを部屋に置いてきたの」と、眉を片方だけ持ちあげ、笑窪に皮肉っぽい陰をつくって、夢子が言った。「あなたこそ、どこへ行ってきたの」
「おれは、ちょっと、散歩だ」
「靴下で散歩に行く趣味があるの」
「君の知らないことなんか、いくらでもあるさ。おれは床屋にも行けるし、それに今まで秘密にしていたけど、おれは君に惚れている」
「子供がいても?」
「例の、七月四日に生まれた子供か」
「本当は五歳だけど」
「名前はクリント・イーストウッドでな」
「あれは冗談よ」
「あれは、な」
「でも子供のことは本当」
「本当……か」
「なにか問題がある?」
「どうだかな」
「わたしは構わないわ」
「君が構わなければ、おれだって、どっちでも構わないさ」
夢子の目に光があふれてきて、鼻の側面にまつ毛が陰をつくり、白い頬と白い首筋に、ほのかな赤みが広がった。メガネを外したからというだけの理由ではなく、夢子は本当に、おれが初めて見る、世界一美しい女だった。
「ジャケット、取って来てもいい?」
「もちろん……さっきのこと、覚えているか」
「さっきの、なあに」
「銀座のイタメシ」
「わたし、ラーメンのほうが好きだわ」
「最初から分かっていた」
「なんのこと」
「君は、顔がいいだけでなく、趣味もいい」
夢子がドアを開け、おれが夢子の肩に手を置き、おれたちは、同時に、もつれ合って甘い地獄へ突入した。
人間らしい風景と、人間らしい匂いと、人間らしい穏やかさが、圧倒的な現実として、淡々とおれを包んでくる。カーテンと絨毯のグリーン、ソファのベージュ色、鮮やかな赤い薔薇、その中に夢子の存在があるだけで、空気が平和な方向へ統一する。
ふり返って、短い前髪でおれの鼻をくすぐり、おれの目を覗きながら、夢子が言った。
「思い出したことがあるの」
「うん?」
「今日はわたし、ジャケットを着てこなかった」
おれは足でドアを閉め、夢子の背中に腕をまわし、華奢な肩とうすい胸とそばかすの散った頬を、力一杯自分の人生に引き入れた。夢子の清潔な体臭がおれを過去から切り離し、夢子の頼りない鼓動が、正確なリズムでおれの罪を洗浄する。
夢子の顎をつまんで、その乾いた唇に、礼儀正しく、おれは自分の唇を重ね合わせた。
「聞いてくれる?」
「君の言うことなら、おれは、なんでも聞く」
「あのお店、閉めることに決めたわ」
「君の決めたことなら、おれは、なんでも賛成だ」
「明日から改装を始めるの」
「それは、よかった」
「あなたを所長にしてあげる」
「なんの?」
「探偵事務所の」
「おれが……」
「世間体もあるしね。でもオーナーはわたし、仕事もわたしが選ぶ。水商売って、やっぱりわたしには向かないわ」
おれの腕をすり抜け、ふわりと漂い、見事にターンをして、屈託もなく、夢子が大きく目を見開いた。長い手足に罪の気配は見えず、白くて華奢な首は頼りないくせに、目だけはへんに強引だった。
おれは言葉もなく、途方に暮れ、目の前に迫って来る自棄《やけ》っぱちな平和に向かって、ひゅっと口笛を吹きつけた。どこか、なにかが間違っている気もするが、反省は無意味だった。おれは仏の手のひらで遊ぶ石猿、いくら哲学しても女は謎、わざわざ宇宙から呼ばなくても、エイリアンはこうやって、ちゃんと目の前に存在する。
「改装は一週間で終わる」
「ふーん」
「これから忙しくなるわね」
「そんなもんかな」
「探偵事務所を始めたら、あなたにはしっかり働いてもらう。不倫に汚職に結婚詐欺に殺人、仕事はいくらでもある。いやな世の中だけど、肩の力を抜いて気楽に生きましょうね」
こんなふうに、突然知らない家具の中に放り出され、突然探偵事務所の所長に任命され、そしてへたをすると、一気に子持ちの中年オヤジに変身させられる。しっかり働くことに文句はないが、夢子に言われなくても、おれはじゅうぶん忙しい。お袋ならこの混乱にどういう格言を創作するか、考えても答えは浮かばない。
冗談ではなく、おれの奇蹟は、おれの人生に、あといくつ残っているのだろう。
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底本
単行本 立風書房刊
一九九七年二月二五日 第一刷