目次
にごりえ
十三夜
たけくらべ
大つごもり
ゆく雲
うつせみ
われから
わかれ道
解説(三好行雄)
年譜
にごりえ
一
おい木村さん信《しん》さん寄つてお出《いで》よ、お寄りといつたら寄つても宜《い》いではないか、又素通りで二《ふた》葉《ば》やへ行く気だらう、押《おし》かけて行《ゆ》つて引ずつて来るからさう思ひな、ほんとにお湯《ぶう》なら帰りにきつとよつておくれよ、嘘つ吐《つ》きだから何を言ふか知れやしないと店先に立つて馴《な》染《じみ》らしき突《つツ》かけ下駄の男をとらへて小《こ》言《ごと》をいふやうな物の言ひぶり、腹も立たずか言訳しながら後刻《のち》に後刻にと行過《ゆきすぎ》るあとを、一《ちよ》寸《つと》舌打しながら見送つて後《のち》にも無いもんだ来る気もない癖に、本当に女房もちに成つては仕方がないねと店に向つて閾《しきい》をまたぎながら一人《ひとり》言《ごと》をいへば、高《たか》ちやん大《だい》分御《ぶご》述懐《じつかい》だね、何もそんなに案じるにも及ぶまい焼棒杭《やけぼっくい》と何《なに》とやら、又よりの戻る事もあるよ、心配しないで呪《まじなひ》でもして待つが宜《い》いさと慰さめるやうな朋輩《ほうばい》の口振《くちぶり》、力《りき》ちやんと違つて私《わた》しには技《う》倆《で》が無いからね、一人でも逃しては残念さ、私しのやうな運の悪るい者には呪も何も聞きはしない、今夜も又木戸番か、何たら事だ面白くもないと肝癪《かんしやく》まぎれに店前《みせさき》へ腰をかけて駒下駄のうしろでとんとんと土間を蹴《け》るは二十の上を七つか十か引眉《ひきまゆ》毛《げ》に作り生際《はへぎは》、白粉《おしろい》べつたりとつけて唇《くちびる》は人喰ふ犬の如く、かくては紅《べに》も厭《い》やらしき物なり、お力と呼ばれたるは中肉の背恰好《せいかつこう》すらりつとして洗ひ髪の大《おほ》嶋《しま》田《だ》に新わらのさわやかさ、頸《ゑり》もとばかりの白粉も栄《は》えなく見ゆる天然の色白をこれみよがしに乳《ち》のあたりまで胸くつろげて、烟草《たばこ》すぱすぱ長《なが》烟管《ぎせる》に立膝《たてひざ》の無沙《ぶさ》法《ほう》さも咎《とが》める人のなきこそよけれ、思ひ切つたる大形《おほがた》の裕衣《ゆかた》に引《ひつ》かけ帯は黒繻《くろじゆ》子《す》と何やらのまがひ物、緋《ひ》の平《ひら》ぐけが背の処に見えて言はずと知れしこのあたりの姉さま風なり、お高《たか》といへるは洋銀の簪《かんざし》で天神がへしの髷《まげ》の下を掻《か》きながら思ひ出したやうに力ちやん先刻《さつき》の手紙お出しかといふ、はあと気のない返事をして、どうで来るのでは無いけれど、あれもお愛想さと笑つてゐるに、大底《たいてい》におしよ巻紙二尋《ふたひろ》も書いて二枚切手の大封《おほふう》じがお愛想で出来る物かな、そしてあの人は赤坂以来《から》の馴染ではないか、少しやそつとの紛雑《いざ》があろうとも縁切れになつてたまる物か、お前の出かた一つでどうでもなるに、ちつとは精を出して取《とり》止《と》めるやうに心がけたら宜《よ》かろ、あんまり冥利《みようり》がよくあるまいと言へば御親切に有がたう、御異見は承り置まして私《わたし》はどうもあんな奴は虫が好かないから、無き縁とあきらめて下さいと人事のやうにいへば、あきれたものだのと笑つてお前などはその我ままが通るから豪勢さ、この身になつては仕方がないと団扇《うちは》を取つて足元をあふぎながら、昔しは花よの言ひなし可笑《をか》しく、表を通る男を見かけて寄つてお出でと夕ぐれの店先にぎはひぬ。
店は二間《けん》間口の二階作り、軒には御神燈さげて盛《も》り塩《じほ》景気よく、空壜《あきびん》か何か知らず、銘酒あまた棚の上にならべて帳場めきたる処もみゆ、勝手元には七輪を煽《あほ》ぐ音折々に騒がしく、女主《あるじ》が手づから寄せ鍋《なべ》茶椀むし位はなるも道理《ことわり》、表にかかげし看板を見れば子細らしく御料理《おんりようり》とぞしたためける、さりとて仕出し頼みに行《ゆき》たらば何とかいふらん、俄《にはか》に今日《こんにち》品切れもをかしかるべく、女ならぬお客様は手前店へお出かけを願ひまするとも言ふにかたからん、世は御方便や商売がらを心得て口取り焼肴《やきざかな》とあつらへに来る田舎ものもあらざりき、お力といふはこの家《や》の一枚看板、年は随一若けれども客を呼ぶに妙ありて、さのみは愛想の嬉しがらせを言ふやうにもなく我まま至極の身の振舞、少し容貌《きりよう》の自慢かと思へば小《こ》面《づら》が憎くいと蔭口《かげぐち》いふ朋輩もありけれど、交際《つきあつ》ては存の外《ほか》やさしい処があつて女ながらも離れともない心持がする、ああ心とて仕方のないもの面《おも》ざしが何処《どこ》となく冴《さ》へて見へるはあの子の本性が現はれるのであらう、誰《たれ》しも新開《しんかい》へ這入《はい》るほどの者で菊の井のお力を知らぬはあるまじ、菊の井のお力か、お力の菊の井か、さても近来まれの拾ひもの、あの娘《こ》のお蔭で新開の光りが添はつた、抱《かか》へ主《ぬし》は神棚へささげて置いても宜《い》いとて軒並びの羨《うら》やみ種《ぐさ》になりぬ。
お高は往来《ゆきき》の人のなきを見て、力ちやんお前の事だから何があつたからとて気にしてもゐまいけれど、私は身につまされて源《げん》さんの事が思はれる、それは今の身分に落ぶれては根つから宜いお客ではないけれども思ひ合ふたからには仕方がない、年が違《ちが》をが子があろがさ、ねへさうではないか、お内儀《かみ》さんがあるといつて別れられる物かね、搆《かま》ふ事はない呼出してお遣《や》り、私しのなぞといつたら野郎が根から心替りがして顔を見てさへ逃げ出すのだから仕方がない、どうで諦《あきら》め物で別口へかかるのだがお前のはそれとは違ふ、了簡《りようけん》一つでは今のお内儀《かみ》さんに三《み》下《くだ》り半《はん》をも遣られるのだけれど、お前は気位が高いから源さんと一処《ひとつ》にならうとは思ふまい、それだもの猶《なほ》の事呼ぶ分に子細があるものか、手紙をお書き今に三河やの御用聞きが来るだろうからあの子僧に使ひやさんを為《さ》せるが宜《い》い、何《なん》の人お嬢様ではあるまいし御遠慮ばかり申《まをし》てなる物かな、お前は思ひ切りが宜すぎるからいけないともかく手紙をやつて御覧、源さんも可愛さうだわなと言ひながらお力を見れば烟管掃除に余念のなきか俯向《うつむき》たるまま物いはず。
やがて雁首《がんくび》を奇麗に拭いて一服すつてポンとはたき、又すいつけてお高に渡しながら気をつけておくれ店先で言はれると人聞きが悪いではないか、菊の井のお力は土方の手伝ひを情夫《まぶ》に持つなどと考違《かんちが》へをされてもならない、それは昔しの夢がたりさ、何の今は忘れてしまつて源《げん》とも七とも思ひ出されぬ、もうその話しは止《や》め止めといひながら立あがる時表を通る兵児《へこ》帯《おび》の一むれ、これ石川さん村岡さんお力の店をお忘れなされたかと呼べば、いや相変らず豪傑の声がかり、素通りもなるまいとてずつと這入るに、忽《たちま》ち廊下にばたばたといふ足おと、姉《ねへ》さんお銚子と声をかければ、お肴《さかな》は何をと答ふ、三味《さみ》の音《ね》景気よく聞えて乱舞の足音これよりぞ聞え初《そめ》ぬ。
二
さる雨の日のつれづれに表を通る山高帽子の三十男、あれなりと捉《と》らずんばこの降りに客の足とまるまじとお力かけ出して袂《たもと》にすがり、どうでも遣りませぬと駄々をこねれば、容貌《きりよう》よき身の一徳、例になき子細らしきお客を呼入れて二階の六畳に三味《さみ》線《せん》なしのしめやかなる物語、年を問はれて名を問はれてその次は親もとの調べ、士族かといへばそれは言はれませぬといふ、平民かと問へばどうござんしようかと答ふ、そんなら華族と笑ひながら聞くに、まあさうおもふてゐて下され、お華族の姫様《ひいさま》が手づからのお酌、かたじけなく御受けなされとて波々とつぐに、さりとは無《ぶ》左《さ》法《ほう》な置つぎといふが有る物か、それは小笠原か、何流ぞといふに、お力流とて菊の井一家の左法、畳に酒のまする流気《りゅうぎ》もあれば、大《おほ》平《ひら》の蓋であほらする流気もあり、いやなお人にはお酌をせぬといふが大詰めの極《きま》りでござんすとて臆したるさまもなきに、客はいよいよ面白がりて履歴をはなして聞かせよ定めて凄《すさ》ましい物語があるに相違なし、唯の娘あがりとは思はれぬどうだとあるに、御覧なさりませ未《ま》だ鬢《びん》の間に角も生へませず、そのやうに甲羅は経ませぬとてころころと笑ふを、さうぬけてはいけぬ、真実《しんじつ》の処を話して聞かせよ、素性が言へずは目的でもいへとて責める、むづかしうござんすね、いふたら貴君《あなた》びつくりなさりましよ天下を望む大伴《おほとも》の黒主《くろぬし》とは私《わたし》が事とていよいよ笑ふに、これはどうもならぬそのやうに茶《ちや》利《り》ばかり言はで少し真実《しん》の処を聞かしてくれ、いかに朝夕《ちようせき》を嘘の中に送るからとてちつとは誠も交る筈、良人《おっと》はあつたか、それとも親故《ゆゑ》かと真《しん》に成つて聞かれるにお力かなしく成りて、私だとて人間でござんすほどに少しは心にしみる事もありまする、親は早くになくなつて今は真実《ほん》の手と足ばかり、こんな者なれど女房に持たうといふて下さるも無いではなけれど未《ま》だ良人をば持ませぬ、どうで下品に育ちました身なればこんな事して終るのでござんしよと投出したやうな詞《ことば》に無量の感があふれてあだなる姿の浮気らしきに似ず一節《ふし》さむろう様子のみゆるに、何も下品に育つたからとて良人の持てぬ事はあるまい、殊にお前のやうな別品《べつぴん》さむではあり、一足《そく》とびに玉《たま》の輿《こし》にも乗れさうなもの、それともそのやうな奥様あつかひ虫が好かでやはり伝法肌《でんぽうはだ》の三尺帯が気に入るかなと問へば、どうで其処《そこ》らが落《おち》でござりましよ、此方《こちら》で思ふやうなは先様が嫌《いや》なり、来いといつて下さるお人の気に入るもなし、浮気のやうに思召《おぼしめし》ましようがその日送りでござんすといふ、いやさうは言はさぬ相手のない事はあるまい、今店先で誰《た》れやらがよろしく言ふたと他《ほか》の女が言伝《ことづて》たでは無いか、いづれ面白い事があらう何とだといふに、ああ貴君《あなた》もいたり穿索《せんさく》なさります、馴染はざら一面、手紙のやりとりは反古《ほご》の取かへツこ、書けと仰《おつ》しやれば起証でも誓紙でもお好み次第さし上ませう、女夫《めをと》やくそくなどと言つても此方《こち》で破るよりは先《さ》方《き》様《さま》の性根なし、主人もちなら主人が怕《こわ》く親もちなら親の言ひなり、振向ひて見てくれねば此方《こちら》も追ひかけて袖を捉《と》らへるに及ばず、それなら廃《よ》せとてそれぎりに成りまする、相手はいくらもあれども一生を頼む人が無いのでござんすとて寄る辺なげなる風《ふ》情《ぜい》、もうこんな話しは廃《よ》しにして陽気にお遊びなさりまし、私は何も沈んだ事は大嫌ひ、さわいでさわいで騒ぎぬかうと思ひますとて手を扣《たた》いて朋輩を呼べば力ちやん大分おしめやかだねと三十女の厚化粧が来るに、おいこの娘《こ》の可愛い人は何といふ名だと突然《だしぬけ》に問はれて、はあ私はまだお名前を承りませんでしたといふ、嘘をいふと盆が来るに焔《ゑん》魔《ま》様《さま》へお参りが出来まいぞと笑へば、それだとつて貴君《あなた》今日《けふ》お目にかかつたばかりでは御坐りませんか、今改めて伺ひに出やうとしてゐましたといふ、それは何の事だ、貴君のお名をさと揚げられて、馬鹿々々お力が怒るぞと大《おほ》景気、無駄ばなしの取りやりに調子づいて旦那のお商売を当て見ませうかとお高がいふ、何分《なにぶん》願ひますと手のひらを差出せば、いゑそれには及びませぬ人相で見まするとて如何《いか》にも落《おち》つきたる顔つき、よせよせじつと眺められて棚おろしでも始まつてはたまらぬ、かう見えても僕は官員だといふ、嘘を仰しやれ日曜のほかに遊んであるく官員様があります物か、力ちやんまあ何でいらつしやらうといふ、化物ではいらつしやらないよと鼻の先で言つて分つた人に御《ご》褒賞《ほうび》だと懐中《ふところ》から紙入れを出《いだ》せば、お力笑ひながら高ちやん失礼をいつてはならないこのお方は御《ご》大身《たいしん》の御華族様おしのびあるきの御遊興さ、何の商売などがおありなさらう、そんなのでは無いと言ひながら蒲団の上に乗せて置きし紙入れを取あげて、お相方《あいかた》の高尾にこれをばお預けなされまし、みなの者に祝義でも遣《つか》はしませうとて答へも聞かずずんずんと引出《ひきいだ》すを、客は柱に寄かかつて眺めながら小言もいはず、諸事おまかせ申すと寛大の人なり。
お高はあきれて力ちやん大底におしよといへども、何宜《い》いのさ、これはお前にこれは姉さんに、大きいので帳場の払ひを取つて残りは一同《みんな》にやつても宜いと仰しやる、お礼を申《まをし》て頂いてお出でと蒔《まき》散《ち》らせば、これをこの娘《こ》の十八番に馴れたる事とてさのみは遠慮もいふてはゐず、旦那よろしいのでございますかと駄目を押して、有がたうございますと掻《か》きさらつて行くうしろ姿、十九にしては更けてるねと旦那どの笑ひ出すに、人の悪るい事を仰しやるとてお力は起《た》つて障子を明け、手摺《てす》りに寄つて頭痛をたたくに、お前はどうする金は欲しくないかと問はれて、私は別にほしい物がござんした、此品《これ》さへ頂けば何よりと帯の間から客の名刺をとり出して頂くまねをすれば、何時《いつ》の間に引出した、お取かへには写真をくれとねだる、この次の土曜日に来て下されば御一処にうつしませうとて帰りかかる客をさのみは止めもせず、うしろに廻りて羽織をきせながら、今日は失礼を致しました、またのお出《いで》を待ますといふ、おい程の宜い事をいふまいぞ、空誓文《そらせいもん》は御免だと笑ひながらさつさつと立つて階段《はしご》を下りるに、お力帽子を手にして後《うしろ》から追ひすがり、虚か誠か九十九夜《よ》の辛棒をなさりませ、菊の井のお力は鋳《い》型《がた》に入つた女でござんせぬ、又形《なり》のかはる事もありまするといふ、旦那お帰りと聞て朋輩の女、帳場の女主《あるじ》もかけ出して唯今は有がたうと同音の御礼、頼んで置いた車が来《き》しとて此処《ここ》からして乗り出せば、家中《うちじゅう》表へ送り出してお出を待まするの愛想、御祝義の余光《ひかり》としられて、後《あと》には力ちやん大明神様これにも有がたうの御礼山々。
三
客は結《ゆふ》城《き》朝《とも》之《の》助《すけ》とて、自ら道楽ものとは名のれども実体《じつてい》なる処折々に見えて身は無職業妻子なし、遊ぶに屈強なる年頃なればにやこれを初めに一週には二三度の通ひ路《ぢ》、お力も何処《どこ》となく懐かしく思ふかして三日見えねば文《ふみ》をやるほどの様子を、朋輩の女子《おんな》ども岡焼ながら弄《から》かひては、力ちやんお楽しみであらうね、男振《おとこぶり》はよし気前はよし、今にあの方は出世をなさるに相違ない、その時はお前の事を奥様とでもいふのであらうに今つから少し気をつけて足を出したり湯呑であほるだけは廃《や》めにおし人がらが悪いやねと言ふもあり、源さんが聞たらどうだらう気違ひになるかも知れないとて冷評《ひやかす》もあり、ああ馬車にのつて来る時都合が悪るいから道普請からして貰いたいね、こんな溝板《どぶいた》のがたつく様な店先へそれこそ人がらが悪《わろ》くて横づけにもされないではないか、お前方ももう少しお行義を直してお給仕に出られるやう心がけておくれとずばずばといふに、ヱヱ憎くらしいそのものいひを少し直さずは奥様らしく聞へまい、結城さんが来たら思ふさまいふて、小言をいはせて見せようとて朝之助の顔を見るよりこんな事を申てゐまする、どうしても私共の手にのらぬやんちや《・・・・》なれば貴君《あなた》から叱つて下され、第一湯呑みで呑むは毒でござりましよと告口《つげぐち》するに、結城は真面目になりてお力酒だけは少しひかへろとの厳命、ああ貴君のやうにもないお力が無理にも商売してゐられるはこの力《ちから》と思し召さぬか、私に酒《さか》気《け》が離れたら坐敷は三昧堂《さんまいどう》のやうに成りませう、ちつと察して下されといふに成程々々とて結城は二言《ごん》といはざりき。
或る夜の月に下《した》坐敷へは何処《どこ》やらの工場の一連《む》れ、丼《どんぶり》たたいて甚《じん》九《く》かつぽれの大騒ぎに大方の女《おな》子《ご》は寄集まつて、例の二階の小坐敷には結城とお力の二人ぎりなり、朝之助は寝ころんで愉快らしく話しを仕かけるを、お力はうるささうに生返事をして何やらん考へてゐる様子、どうかしたか、又頭痛でもはじまつたかと聞かれて、何頭痛も何もしませぬけれど頻《しきり》に持病が起つたのですといふ、お前の持病は肝癪《かんしゃく》か、いいゑ、血の道か、いいゑ、それでは何だと聞かれて、どうも言ふ事は出来ませぬ、でも他《ほか》の人ではなし僕ではないかどんな事でも言ふて宜さそうなもの、まあ何の病気だといふに、病気ではござんせぬ、唯こんな風になつてこんな事を思ふのですといふ、困つた人だな種々《いろいろ》秘密があると見える、お父《とつ》さんはと聞けば言はれませぬといふ、お母《つか》さんはと問へばそれも同じく、これまでの履歴はといふに貴君には言はれぬといふ、まあ嘘でも宜《い》いさよしんば作り言にしろ、かういふ身の不幸《ふしあはせ》だとか大底の女《ひと》はいはねばならぬ、しかも一度や二度あふのではなしその位の事を発表しても子細はなからう、よし口に出して言はなからうともお前に思ふ事がある位めくら按《あん》摩《ま》に探ぐらせても知れた事、聞かずとも知れてゐるが、それをば聞くのだ、どつち道同じ事だから持病といふのを先きに聞きたいといふ、およしなさいまし、お聞きになつてもつまらぬ事でござんすとてお力は更に取あはず。
折から下坐敷より杯盤を運びきし女の何やらお力に耳打してともかくも下までお出《いで》よといふ、いや行きたくないからよしておくれ、今夜はお客が大変に酔ひましたからお目にかかつたとてお話しも出来ませぬと断つておくれ、ああ困つた人だねと眉を寄せるに、お前それでも宜《い》いのかヘ、はあ宜いのさとて膝《ひざ》の上で撥《ばち》を弄《もてあそ》べば、女は不思議さうに立つてゆくを客は聞すまして笑ひながら御遠慮には及ばない、逢つて来たら宜からう、何もそんなに体裁には及ばぬではないか、可愛い人を素《す》戻《もど》しもひどからう、追ひかけて逢ふが宜い、何なら此処《ここ》へでも呼び給へ、片隅へ寄つて話しの邪魔はすまいからといふに、串談《じようだん》はぬきにして結城さん貴君に隠くしたとて仕方がないから申《まをし》ますが町内で少しは巾《はば》もあつた蒲団やの源七といふ人、久しい馴《な》染《じみ》でござんしたけれど今は見るかげもなく貧乏して八百屋の裏の小さな家《うち》にまいまいつぶろの様になつていまする、女房《にようぼ》もあり子供もあり、私がやうな者に逢ひに来る歳ではなけれど、縁があるか未《いま》だに折ふし何のかのといつて、今も下坐敷へ来たのでござんせう、何も今さら突出すといふ訳ではないけれど逢つては色々面倒な事もあり、寄らず障《さわ》らず帰した方が好いのでござんす、恨まれるは覚悟の前、鬼だとも蛇だとも思ふがようござりますとて、撥を畳に少し延びあがりて表を見おろせば、何と姿が見えるかと嬲《なぶ》る、ああもう帰つたと見えますとて茫然《ぼん》としてゐるに、持病といふのはそれかと切込まれて、まあそんな処でござんせう、お医者様でも草津の湯でもと薄淋しく笑つてゐるに、御本尊を拝みたいな俳優《やくしや》で行つたら誰れの処だといへば、見たら吃驚《びつくり》でござりませう色の黒い背の高い不動さまの名代といふ、では心意気かと問はれて、こんな店で身上《しんしよう》はたくほどの人、人の好《い》いばかり取得とては皆無でござんす、面白くも可笑《をか》しくも何ともない人といふに、それにお前はどうして逆上《のぼ》せた、これは聞き処と客は起かへる、大方逆上《のぼせ》性《しよう》なのでござんせう、貴君の事をもこの頃は夢に見ない夜《よ》はござんせぬ、奥様のお出来なされた処を見たり、ぴつたりと御出のとまつた処を見たり、まだまだ一層《もっと》かなしい夢を見て枕紙がびつしよりに成つた事もござんす、高ちやんなぞは夜る寐《ね》るからとても枕を取るよりはやく鼾《いびき》の声たかく、宜《い》い心持らしいがどんなに浦山《うらやま》しうござんせう、私はどんな疲れた時でも床へ這入《はい》ると目が冴《さ》へてそれはそれは色々の事を思ひます、貴君は私に思ふ事があるだらうと察してゐて下さるから嬉しいけれど、よもや私が何をおもふかそれこそはお分りに成りますまい、考へたとて仕方がない故人前ばかりの大《おほ》陽気、菊の井のお力は行《ゆき》ぬけの締りなしだ、苦労といふ事はしるまいと言ふお客様もござります、ほんに因果とでもいふものか私が身位かなしい者はあるまいと思ひますとて潜然《さめざめ》とするに、珍らしい事陰気のはなしを聞かせられる、慰めたいにも本《もと》末《すゑ》をしらぬから方《ほう》がつかぬ、夢に見てくれるほど実《じつ》があらば奥様にしてくれろ位いひそうな物だに根つからお声がかりも無いはどういふ物だ、古風に出るが袖ふり合ふもさ、こんな商売を嫌《いや》だと思ふなら遠慮なく打明けばなしを為《す》るが宜い、僕は又お前のやうな気では寧《いつそ》気楽だとかいふ考へで浮いて渡る事かと思つたに、それでは何か理屈があつて止《や》むを得ずといふ次第か、苦しからずは承りたい物だといふに、貴君には聞いて頂かうとこの間から思ひました、だけれども今夜はいけませぬ、何故々々《なぜなぜ》、何故でもいけませぬ、私は我まま故、申《まをす》まいと思ふ時はどうしても嫌やでござんすとて、ついと立つて椽《えん》がはへ出《いづ》るに、雲なき空の月かげ涼しく、見おろす町にからこ《・・・》ろ《・》と駒下駄の音さして行《ゆき》かふ人のかげ分明《あきらか》なり、結城さんと呼ぶに、何だとて傍《そば》へゆけば、まあ此処へお座りなさいと手を取りて、あの水菓子屋で桃を買ふ子がござんしよ、可愛らしき四つばかりの、彼子《あれ》が先刻《さつき》の人のでござんす、あの小さな子心《こごころ》にもよくよく憎くいと思ふと見えて私の事をば鬼々といひまする、まあそんな悪者に見えまするかとて、空を見あげてホツと息をつくさま、堪《こら》へかねたる様子は五音《いん》の調子にあらはれぬ。
四
同じ新開の町はづれに八百屋と髪結床《かみゆひどこ》が庇《ひ》合《あはひ》のやうな細露路、雨が降る日は傘もさされぬ窮屈さに、足もととては処々《ところどころ》に溝板《どぶいた》の落し穴あやふげなるを中にして、両側に立てたる棟割《むねわり》長屋、突当りの芥溜《ごみため》わきに九《く》尺二間《けん》の上《あが》り框《がまち》朽ちて、雨戸はいつも不用心のたてつけ、さすがに一方口《いつぽうぐち》にはあらで山の手の仕合《しやわせ》は三尺ばかりの椽の先に草ぼうぼうの空地面、それが端《はじ》を少し囲つて青《あを》紫蘇《ぢそ》、ゑぞ菊、隠元豆の蔓《つる》などを竹のあら垣に搦《から》ませたるがお力が処縁の源七が家なり、女房はお初《はつ》といひて二十八か九にもなるべし、貧にやつれたれば七つも年の多く見えて、お歯《は》黒《ぐろ》はまだらに生へ次第の眉毛みるかげもなく、洗ひざらしの鳴《なる》海《み》の裕衣《ゆかた》を前と後を切りかへて膝のあたりは目立ぬやうに小針のつぎ当、狭帯《せまおび》きりりと締めて蝉表《せみおもて》の内職、盆前よりかけて暑さの時分をこれが時よと大汗になりての勉強せはしなく、揃へたる籐《とう》を天井から釣下げて、しばしの手数も省かんとて数のあがるを楽しみに脇目もふらぬ様あはれなり。もう日が暮れたに太《た》吉《きち》は何故かへつて来ぬ、源さんも又何処《どこ》を歩いてゐるかしらんとて仕事を片づけて一服吸つけ、苦労らしく目をぱちつかせて、更に土《ど》瓶《びん》の下を穿《ほぢ》くり、蚊いぶし火鉢に火を取分けて三尺の椽に持出《もちいだ》し、拾ひ集めの杉の葉を冠《かぶ》せてふうふうと吹立《ふきたつ》れば、ふすふすと烟《けぶり》たちのぼりて軒《のき》場《ば》にのがれる蚊の声悽《すさ》まじし、太吉はがたがたと溝板の音をさせて母《かか》さん今戻つた、お父《とつ》さんも連れて来たよと門口《かどぐち》から呼立《よびたつ》るに、大層おそいではないかお寺の山へでも行《ゆき》はしないかとどの位案じたらう、早くお這入《はいり》といふに太吉を先に立てて源七は元気なくぬつと上る、おやお前さんお帰りか、今日はどんなに暑かつたでせう、定めて帰りが早からうと思うて行水を沸かして置ました、ざつと汗を流したらどうでござんす、太吉もお湯《ぶう》に這入なといへば、あいと言つて帯を解く、お待お待、今加減を見てやるとて流しもとに盥《たらい》を据へて釜の湯を汲出《くみいだ》し、かき廻して手拭を入れて、さあお前さんこの子をもいれて遣つて下され、何をぐたりと為《し》てお出《いで》なさる、暑さにでも障《さわ》りはしませぬか、さうでなければ一杯あびて、さつぱりに成つて御膳あがれ、太吉が待つてゐますからといふに、おおさうだと思ひ出したやうに帯を解いて流しへ下りれば、そぞろに昔しの我身が思はれて九尺二間の台処で行水つかふとは夢にも思はぬもの、ましてや土方の手伝ひして車の跡押《あとおし》にと親は生《うみ》つけても下さるまじ、ああつまらぬ夢を見たばかりにと、ぢつと身にしみて湯もつかはねば、父《とつ》ちやん背《せ》中《なか》洗つておくれと太吉は無心に催促する、お前さん蚊が喰ひますから早々《さつさつ》とお上りなされと妻も気をつくるに、おいおいと返事しながら太吉にも遣はせ我れも浴びて、上にあがれば洗ひ晒《ざら》せしさばさばの浴衣を出して、お着かへなさいましと言ふ、帯まきつけて風の透《す》く処へゆけば、妻は能《の》代《しろ》の膳のはげかかりて足はよろめく古物に、お前の好きな冷奴《ひややつこ》にしましたとて小丼《こどんぶり》に豆腐を浮かせて青紫蘇の香《か》たかく持出せば、太吉は何時《いつ》しか台より飯櫃《めしびつ》取おろして、よつ《・・》ちよいよつちよい《・・・・・・・・》と担《かつ》ぎ出す、坊主は我《お》れが傍《そば》に来いとて頭《つむり》を撫《な》でつつ箸《はし》を取るに、心は何を思ふとなけれど舌に覚えの無くて咽《のど》の穴はれたる如く、もう止《や》めにするとて茶椀を置けば、そんな事があります物か、力業《ちからわざ》をする人が三膳の御飯のたべられぬと言ふ事はなし、気合ひでも悪うござんすか、それとも酷《ひど》く疲れてかと問ふ、いや何処も何とも無いやうなれど唯たべる気にならぬといふに、妻は悲しさうな目をしてお前さん又例のが起りましたらう、それは菊の井の鉢肴《はちざかな》は甘《うま》くもありましたらうけれど、今の身分で思ひ出した処が何となりまする、先は売物買物お金さへ出来たら昔しのやうに可愛がつてもくれませう、表を通つて見ても知れる、白粉《おしろい》つけて美《い》い衣類《きもの》きて迷ふて来る人を誰《た》れかれなしに丸めるがあの人達が商売、ああ我《お》れが貧乏に成つたから搆《かま》いつけてくれぬなと思へば何の事なく済《すみ》ましよう、恨みにでも思ふだけがお前さんが未練でござんす、裏町の酒屋の若い者知つてお出《いで》なさらう、二葉やのお角《かく》に心《しん》から落込んで、かけ先を残らず使ひ込み、それを埋めやうとて雷神虎《らいじんとら》が盆筵《ぼんござ》の端《はし》についたが身の詰り、次第に悪るい事が染《し》みて終《しま》ひには土蔵やぶりまでしたさうな、当時《いま》男は監獄入りしてもつ《・・》そう《・・》飯《めし》たべていやうけれど、相手のお角は平気なもの、おもしろ可笑《をか》しく世を渡るに咎《とが》める人なく美《み》事《ごと》繁昌してゐまする、あれを思ふに商売人の一徳、だまされたは此方《こちら》の罪、考へたとて始まる事ではござんせぬ、それよりは気を取直して稼業《かぎよう》に精を出して少しの元手も拵《こしら》へるやうに心がけて下され、お前に弱られては私もこの子もどうする事もならで、それこそ路頭に迷はねば成りませぬ、男らしく思ひ切る時あきらめてお金さへ出来ようならお力はおろか小紫《こむらさき》でも揚巻《あげまき》でも別荘こしらへて囲うたら宜うござりましよう、もうそんな考へ事は止《や》めにして機嫌よく御膳あがつて下され、坊主までが陰気らしう沈んでしまいましたといふに、みれば茶椀と箸を其処《そこ》に置いて父と母との顔をば見くらべて何とは知らず気になる様子、こんな可愛い者さへあるに、あのやうな狸《たぬき》の忘れられぬは何の因果かと胸の中かき廻されるやうなるに、我れながら未練ものめと叱りつけて、いや我《お》れだとてその様に何時《いつ》までも馬鹿ではいぬ、お力などと名ばかりもいつてくれるな、いはれると以前《もと》の不出来《ふでか》しを考へ出していよいよ顔があげられぬ、何のこの身になつて今更何をおもふ物か、食《めし》がくへぬとてもそれは身体《からだ》の加減であらう、何も格別案じてくれるには及ばぬ故小僧も十分にやつてくれとて、ころりと横になつて胸のあたりをはたはたと打あふぐ、蚊《か》遣《やり》の烟《けむり》にむせばぬまでも思ひにもえて身の暑げなり。
五
誰《た》れ白鬼《しろおに》とは名をつけし、無《む》間《げん》地獄のそこはかとなく景色づくり、何処《どこ》にからくりのあるとも見えねど、逆さ落しの血の池、借金の針の山に追ひのぼすも手の物ときくに、寄つてお出でよと甘へる声も蛇くふ雉子《きぎす》と恐ろしくなりぬ、さりとも胎内十《と》月《つき》の同じ事して、母の乳房にすがりし頃は手《て》打《うち》々《て》々《うち》あわわの可愛げに、紙幣《さつ》と菓子との二つ取りにはおこしをおくれと手を出したる物なれば、今の稼業に誠はなくとも百人の中の一人に真からの涙をこぼして、聞いておくれ染物やの辰《たつ》さんが事を、昨日《きのふ》も川田やが店でおちやつぴいのお六めと悪戯《ふざけ》まわして、見たくもない往来へまで担ぎ出して打ちつ打たれつ、あんな浮いた了簡《りようけん》で末が遂げられやうか、まあ幾歳《いくつ》だとおもふ三十は一昨年《おととし》、宜《い》い加減に家《うち》でも拵《こしら》へる仕《し》覚《がく》をしておくれと逢ふ度に異見をするが、その時限りおいおいと空《そら》返事して根つから気にも止めてはくれぬ、父《とつ》さんは年をとつて、母《はは》さんと言ふは目の悪るい人だから心配をさせないやうに早く締つてくれれば宜《い》いが、私《わたし》はこれでもあの人の半纒《はんてん》をば洗濯して、股引《ももひき》のほころびでも縫つて見たいと思つてゐるに、あんな浮いた心では何時《いつ》引取つてくれるだらう、考へるとつくづく奉公が嫌《い》やになつてお客を呼ぶに張合もない、ああくさくさするとて常は人をも欺《だま》す口で人の愁《つ》らきを恨みの言葉、頭痛を押へて思案に暮れるもあり、ああ今日は盆の十六日だ、お焔《ゑん》魔《ま》様《さま》へのお参りに連れ立つて通る子供達の奇麗な着物きて小《こ》遣《づか》ひもらつて嬉しさうな顔してゆくは、定めて定めて二人揃《そろ》つて甲《か》斐性《ひしよう》のある親をば持つてゐるのであろ、私が息子の与太《よた》郎《ろう》は今日の休みに御主人から暇が出て何処へ行《ゆ》つてどんな事して遊ばうとも定めし人が羨《うらやま》しかろ、父《とと》さんは呑《のみ》ぬけ、いまだに宿とても定まるまじく、母はこんな身になつて恥かしい紅白粉、よし居処が分つたとてあの子は逢ひに来てもくれまじ、去年向島《むかふじま》の花見の時女房づくりして丸《まる》髷《まげ》に結つて朋輩《ほうばい》と共に遊びあるきしに土手の茶屋であの子に逢つて、これこれと声をかけしにさへ私の若く成《なり》しに呆《あき》れて、お母《つか》さんでござりますかと驚きし様子、ましてやこの大島田に折ふしは時《じ》好《こう》の花簪《はなかんざし》さしひらめかしてお客を捉らへて串談《じようだん》いふ処を聞かば子心には悲しくも思ふべし、去年あひたる時今は駒形《こまかた》の蝋燭《ろうそく》やに奉公してゐまする、私はどんな愁《つ》らき事ありとも必らず辛抱しとげて一人前の男になり、父《とと》さんをもお前をも今に楽をばお為《さ》せ申ます、どうぞそれまで何なりと堅《かた》気《ぎ》の事をして一人で世渡りをしてゐて下され、人の女房にだけはならずにゐて下されと異見を言はれしが、悲しきは女《をな》子《ご》の身の寸燐《まつち》の箱はりして一人《ひとり》口過《ぐちすぐ》しがたく、さりとて人の台処を這ふも柔弱の身体《からだ》なれば勤めがたくて、同じ憂き中にも身の楽なれば、こんな事して日を送る、夢さら浮いた心では無けれど言《いひ》甲斐《がひ》のないお袋とあの子は定めし爪《つま》はじきするであらう、常は何とも思はぬ島田が今日ばかりは恥かしいと夕ぐれの鏡の前に涕《なみだ》ぐむもあるべし、菊の井のお力とても悪魔の生れ替りにはあるまじ、さる子細あればこそ此処《ここ》の流れに落こんで嘘のありたけ串談にその日を送つて、情《なさけ》は吉《よし》野《の》紙《がみ》の薄物に、螢《ほたる》の光ぴつかりとするばかり、人の涕は百年も我まんして、我ゆゑ死ぬる人のありとも御愁傷さまと脇を向くつらさ他処目《よそめ》も養ひつらめ、さりとも折ふしは悲しき事恐ろしき事胸にたたまつて、泣くにも人目を恥れば二階座敷の床の間に身を投《なげ》ふして忍び音《ね》の憂き涕、これをば友朋輩にも洩らさじと包むに根生《こんじよう》のしつかりした、気のつよい子といふ者はあれど、障れば絶ゆる蛛《くも》の糸のはかない処を知る人はなかりき、七月十六日の夜《よ》は何処の店にも客人入《きやくじんいり》込《こ》みて都《ど》々《ど》一《いつ》端《は》歌《うた》の景気よく、菊の井の下《した》座敷にはお店者《たなもの》五六人寄集まりて調子の外れし紀伊《きい》の国《くに》、自まんも恐ろしき胴《どう》間《ま》声《ごゑ》に霞《かすみ》の衣《ころも》衣《ゑ》紋坂《もんざか》と気取るもあり、力ちやんはどうした心意気を聞かせないか、やつたやつたと責められるに、お名はささねどこの坐の中にと普通《ついツとほり》の嬉しがらせを言つて、やんややんやと喜ばれる中から、我恋は細谷川《ほそだにがは》の丸木橋わたるにや怕《こわ》し渡らねばと謳《うた》ひかけしが、何をか思ひ出したやうにああ私は一寸無礼《ちょツとしつれい》をします、御免なさいよとて三味《さみ》線《せん》を置いて立つに、何処へゆく何処へゆく、逃げてはならないと坐中の騒ぐに照《てー》ちやん高さん少し頼むよ、直《じ》き帰るからとてずつと廊下へ急ぎ足に出《いで》しが、何をも見かへらず店口から下駄を履《は》いて筋向ふの横町の闇へ姿をかくしぬ。
お力は一散に家を出て、行かれる物ならこのままに唐天竺《からてんじく》の果までも行つてしまいたい、ああ嫌だ嫌だ嫌だ、どうしたなら人の声も聞えない物の音もしない、静かな、静かな、自分の心も何もぼうつとして物思ひのない処へ行《ゆ》かれるであらう、つまらぬ、くだらぬ、面白くない、情ない悲しい心細い中に、何時《いつ》まで私は止められてゐるのかしら、これが一生か、一生がこれか、ああ嫌だ嫌だと道端の立木へ夢中に寄かかつて暫時《しばらく》そこに立どまれば、渡るにや怕し渡らねばと自分の謳《うた》ひし声をそのまま何処ともなく響いて来るに、仕方がないやつぱり私も丸木橋をば渡らずはなるまい、父《とと》さんも踏かへして落ておしまいなされ、祖《おぢ》父《い》さんも同じ事であつたといふ、どうで幾代もの恨みを背《せ》負《おう》て出た私なれば為《す》るだけの事はしなければ死んでも死なれぬのであらう、情ないとても誰《た》れも哀れと思ふてくれる人はあるまじく、悲しいと言へば商売がらを嫌ふかと一ト口に言はれてしまう、ゑゑどうなりとも勝手になれ、勝手になれ、私には以上考へたとて私の身の行き方は分らぬなれば、分らぬなりに菊の井のお力を通してゆかう、人情しらず義理しらずかそんな事も思ふまい、思ふたとてどうなる物ぞ、こんな身でこんな業体《ぎようてい》で、こんな宿《すく》世《せ》で、どうしたからとて人並みでは無いに相違なければ、人並の事を考へて苦労するだけ間違ひであろ、ああ陰気らしい何だとてこんな処《ところ》に立つてゐるのか、何しにこんな処《とこ》へ出て来たのか、馬鹿らしい気違じみた、我身ながら分らぬ、もうもう皈《かへ》りませうとて横町の闇をば出はなれて夜店の並ぶにぎやかなる小《こう》路《ぢ》を気まぎらしにとぶらぶら歩るけば、行かよふ人の顔小さく小さく擦《す》れ違ふ人の顔さへも遥《はるか》とほくに見るやう思はれて、我が踏む土のみ一丈も上にあがりゐる如く、がやがやといふ声は聞ゆれど井の底に物を落したる如き響きに聞なされて、人の声は、人の声、我が考へは考へと別々に成りて、更に何事にも気のまぎれる物なく、人立《ひとだち》おびただしき夫婦《めをと》あらそひの軒先《のきさき》などを過《す》ぐるとも、唯《ただ》我れのみは広《ひろ》野《の》の原の冬枯れを行くやうに、心に止まる物もなく、気にかかる景色にも覚えぬは、我れながら酷《ひど》く逆上《のぼせ》て人心のないのにと覚束《おぼつか》なく、気が狂ひはせぬかと立どまる途端、お力何処へ行くとて肩を打つ人あり。
六
十六日は必らず待まする来て下されと言ひしをも何も忘れて、今まで思ひ出しもせざりし結城の朝之助に不図《ふと》出《で》合《あひ》て、あれと驚きし顔つきの例に似合ぬ狼狽《あわて》かたがをかしきとて、からからと男の笑ふに少し恥かしく、考へ事をして歩いてゐたれば不意のやうに惶《あは》ててしまいました、よく今夜は来て下さりましたと言へば、あれほど約束をして待てくれぬは不《ふ》心中《しんじゆう》とせめられるに、何なりと仰《おつ》しやれ、言訳は後《のち》にしまするとて手を取りて引けば弥次馬がうるさいと気をつける、どうなり勝手に言はせませう、此方《こちら》は此方と人中《ひとなか》を分けて伴ひぬ。
下座敷はいまだに客の騒ぎはげしく、お力の中座をしたるに不興《ぶきよう》して喧《やかま》しかりし折から、店口にておやお皈《かへ》りかの声を聞くより、客を置ざりに中坐するといふ法があるか、皈つたらば此処《ここ》へ来い、顔を見ねば承知せぬぞと威張たてるを聞流しに二階の座敷へ結城を連れあげて、今夜も頭痛がするので御《ご》酒《しゆ》の相手は出来ませぬ、大勢の中に居れば御酒の香《か》に酔ふて夢中になるも知れませぬから、少し休んでその後《のち》は知らず、今は御免なさりませと断りを言ふてやるに、それで宜いのか、怒りはしないか、やかましくなれば面倒であらうと結城が心づけるを、何のお店《たな》ものの白瓜《しろうり》がどんな事を仕《し》出《いだ》しませう、怒るなら怒れでござんすとて小女《こをんな》に言ひつけてお銚子の支度、来るをば待かねて結城さん今夜は私に少し面白くない事があつて気が変つてゐまするほどにその気で附合てゐて下され、御《ご》酒《しゆ》を思ひ切つて呑みまするから止めて下さるな、酔ふたらば介抱して下されといふに、君が酔つたを未《いま》だに見た事がない、気が晴れるほど呑むは宜《い》いが、又頭痛がはじまりはせぬか、何がそんなに逆鱗《げきりん》にふれた事がある、僕らに言つては悪るい事かと問はれるに、いゑ貴君《あなた》には聞て頂きたいのでござんす、酔ふと申《まをし》ますから驚いてはいけませぬと嫣然《につこり》として、大湯呑を取よせて二三杯は息をもつかざりき。
常にはさのみに心も留まらざりし結城の風《よう》采《す》の今宵は何となく尋常《なみ》ならず思はれて、肩《かた》巾《はば》のありて背のいかにも高き処より、落ついて物をいふ重やかなる口振り、目つきの凄《すご》くて人を射るやうなるも威厳の備はれるかと嬉しく、濃き髪の毛を短かく刈あげて頸足《ゑりあし》のくつきりとせしなど今更のやうに眺られ、何をうつとりしてゐると問はれて、貴君のお顔を見てゐますのさと言へば、此《こ》奴《やつ》めがと睨みつけられて、おお怕《こわ》いお方と笑つてゐるに、串《じよう》談《だん》はのけ、今夜は様子が唯でない聞たら怒るか知らぬが何か事件があつたかととふ、何しに降つて湧《わ》いた事もなければ、人との紛雑《いざ》などはよし有つたにしろそれは常の事、気にもかからねば何しに物を思ひませう、私の時より気まぐれを起すは人のするのでは無くて皆心がらの浅ましい訳がござんす、私はこんな賤《いや》しい身の上、貴君は立派なお方様、思ふ事は反対《うらはら》にお聞きになつても汲《く》んで下さるか下さらぬか其処《そこ》ほどは知らねど、よし笑ひ物になつても私は貴君に笑ふて頂きたく、今夜は残らず言ひまする、まあ何から申さう胸がもめて口が利かれぬとて又もや大湯呑に呑む事さかんなり。
何より先に私が身の自堕落を承知してゐて下され、もとより箱入りの生娘《きむすめ》ならねば少しは察してもゐて下さろうが、口奇麗な事はいひますともこのあたりの人に泥の中の蓮《はす》とやら、悪業《わるさ》に染まらぬ女《おな》子《ご》があらば、繁昌どころか見に来る人もあるまじ、貴君は別物、私が処へ来る人とても大底《たいてい》はそれと思《おぼ》しめせ、これでも折ふしは世間さま並の事を思ふて恥かしい事つらい事情ない事とも思はれるも寧《いつそ》九尺二間でも極《き》まつた良人《おつと》といふに添うて身を固めようと考へる事もござんすけれど、それが私は出来ませぬ、それかと言つて来るほどのお人に無愛想もなりがたく、可愛いの、いとしいの、見《み》初《そめ》ましたのと出《で》鱈《たら》目《め》のお世辞をも言はねばならず、数の中には真《ま》にうけてこんな厄種《やくざ》を女房《にようぼ》にと言ふて下さる方もある、持たれたら嬉しいか、添うたら本望か、それが私は分りませぬ、そもそもの最初《はじめ》から私は貴君が好きで好きで、一日お目にかからねば恋しいほどなれど、奥様にと言ふて下されたらどうでござんしよか、持たれるは嫌なり他《よ》処《そ》ながらは慕はしし、一ト口に言はれたら浮気者でござんせう、ああこんな浮気者には誰《た》れがしたと思召《おぼしめす》、三代伝はつての出来そこね、親《おや》父《ぢ》が一生もかなしい事でござんしたとてほろりとするに、その親父さむはと問ひかけられて、親父は職人、祖父《ぢぢい》は四角な字をば読んだ人でござんす、つまりは私のやうな気違ひで、世に益のない反古《ほご》紙《がみ》をこしらへしに、版をばお上《かみ》から止められたとやら、ゆるされぬとかにて断食して死んださうに御座んす、十六の年から思ふ事があつて、生れも賤しい身であつたれど一念に修業して六十にあまるまで仕出来《しでか》したる事なく、終《おはり》は人の物笑ひに今では名を知る人もなしとて父が常住歎《なげ》いたを子供の頃より聞知つておりました、私の父といふは三つの歳に椽《ゑん》から落て片足あやしき風になりたれば人中に立まじるも嫌やとて居職《いしよく》に飾《かざり》の金物《かなもの》をこしらへましたれど、気位たかくて人愛《じんあい》のなければ贔負《ひいき》にしてくれる人もなく、ああ私が覚えて七つの年の冬でござんした、寒中親子三人ながら古浴衣《ゆかた》で、父は寒いも知らぬか柱に寄つて細工物に工夫をこらすに、母は欠けた一つ竃《へツつい》に破《わ》れ鍋《なべ》かけて私にさる物を買ひに行けといふ、味噌こし下げて端《はし》たのお銭《あし》を手に握つて米屋の門《かど》までは嬉しく駆けつけたれど、帰りには寒さの身にしみて手も足も亀《かじ》かみたれば五六軒隔てし溝板《どぶいた》の上の氷にすべり、足溜《あしだま》りなく転《こ》ける機会《はづみ》に手の物を取落して、一枚はづれし溝板のひまよりざらざらと翻《こぼ》れ入れば、下は行水《ゆくみづ》きたなき溝《どぶ》泥《どろ》なり、幾度《いくたび》も覗《のぞ》いては見たれどこれをば何として拾はれませう、その時私は七つであつたれど家《うち》の内《うち》の様子、父母《ちちはは》の心をも知れてあるにお米は途中で落しましたと空《から》の味噌こしさげて家には帰られず、立《たつ》てしばらく泣いていたれどどうしたと問ふてくれる人もなく、聞いたからとて買てやらうと言ふ人は猶更《なほさら》なし、あの時近処に川なり池なりあらうなら私は定《さだめ》し身を投げてしまひましたろ、話しは誠の百分一、私はその頃から気が狂つたのでござんす、皈《かへ》りの遅きを母の親案じて尋ねに来てくれたをば時機《しほ》に家へは戻つたれど、母も物いはず父親《てておや》も無言に、誰《た》れ一人私をば叱る物もなく、家《うち》の内森《しん》として折々溜息《ためいき》の声のもれるに私は身を切られるより情なく、今日は一日断食にせうと父の一言いひ出すまでは忍んで息をつくやうで御座んした。
いひさしてお力は溢《あふ》れ出《いづ》る涙の止め難ければ紅《くれな》ひの手巾《はんけち》かほに押当てその端を喰ひしめつつ物いはぬ事小《こ》半時《はんとき》、坐には物の音もなく酒の香したひて寄りくる蚊のうなり声のみ高く聞えぬ。
顔をあげし時は頬《ほう》に涙の痕《あと》はみゆれども淋しげの笑みをさへ寄せて、私はその様な貧乏人の娘、気違ひは親ゆづりで折ふし起るのでござります、今夜もこんな分らぬ事いひ出してさぞ貴君御迷惑で御座んしてしよ、もう話しはやめまする、御機嫌に障つたらばゆるして下され、誰れか呼んで陽気にしませうかと問へば、いや遠慮は無沙汰、その父親《てておや》は早くに死《な》くなつてか、はあ母《かあ》さんが肺結核といふを煩つて死《なく》なりましてから一週忌の来ぬほどに跡を追ひました、今居りましても未《ま》だ五十、親なれば褒めるでは無けれど細工は誠に名人と言ふても宜《よ》い人で御座んした、なれども名人だとて上手だとて私等が家のやうに生れついたは何にもなる事は出来ないので御座んせう、我身の上にも知られまするとて物思はしき風《ふ》情《ぜい》、お前は出世を望むなと突然《だしぬけ》に朝之助に言はれて、ゑツと驚きし様子に見えしが、私等が身にて望んだ処が味噌こしが落《おち》、何の玉《たま》の輿《こし》までは思ひがけませぬといふ、嘘をいふは人に依る始めから何も見知つてゐるに隠すは野暮の沙汰ではないか、思ひ切つてやれやれとあるに、あれそのやうなけしかけ詞《ことば》はよして下され、どうでこんな身でござんするにと打しほれて又もの言はず。
今宵もいたく更けぬ、下坐敷の人はいつか帰りて表の雨戸をたてると言ふに、朝之助おどろきて帰り支度するを、お力はどうでも泊らするといふ、いつしか下駄をも蔵《かく》させたれば、足を取られて幽霊ならぬ身の戸のすき間より出《いづ》る事もなるまじとて今宵は此処に泊る事となりぬ、雨戸を鎖《とざ》す音一しきり賑《にぎ》はしく、後《のち》には透きもる燈火《ともしび》のかげも消えて、唯軒下を行かよふ夜行の巡査の靴音のみ高かりき。
七
思ひ出したとて今更にどうなる物ぞ、忘れてしまへ諦《あきら》めてしまへと思案は極《き》めながら、去年の盆には揃《そろ》ひの浴衣《ゆかた》をこしらへて二人一処に蔵前《くらまへ》へ参詣《さんけい》したる事なんど思ふともなく胸へうかびて、盆に入りては仕事に出《いづ》る張《はり》もなく、お前さんそれではならぬぞへと諫《いさ》め立てる女房の詞《ことば》も耳うるさく、エエ何も言ふな黙つてゐろとて横になるを、黙つてゐてはこの日が過《すぐ》されませぬ、身体《からだ》が悪るくば薬も呑むがよし、御医者にかかるも仕方がなけれど、お前の病ひはそれではなしに気さへ持直せば何処《どこ》に悪い処があろう、少しは正気になつて勉強をして下されといふ、いつでも同じ事は耳にたこが出来て気の薬にはならぬ、酒でも買て来てくれ気まぎれに呑んで見やうと言ふ、お前さんそのお酒が買へるほどなら嫌やとお言ひなさるを無理に仕事に出て下されとは頼みませぬ、私が内職とて朝から夜《よ》にかけて十五銭が関の山、親子三人口おも湯も満足には呑まれぬ中で酒を買へとは能《よ》く能くお前無《む》茶《ちや》助《すけ》になりなさんした、お盆だといふに昨日《きのふ》らも小僧には白玉一つこしらへても喰べさせず、お精霊《しようりよう》さまのお店《たな》かざりも拵《こしら》へくれねば御《お》燈《とう》明《みよう》一つで御先祖様へお詫《わ》びを申《まをし》てゐるも誰《た》が仕業だとお思ひなさる、お前が阿《あ》房《ほう》を尽してお力づらめに釣られたから起つた事、いふては悪るけれどお前は親不孝子不孝、少しはあの子の行末をも思ふて真人間になつて下され、御《ご》酒《しゆ》を呑《のん》で気を晴らすは一時《とき》、真から改心して下さらねば心元なく思はれますとて女房打なげくに、返事はなくて吐息折々に太く身動きもせず仰向《あほのき》ふしたる心根の愁《つら》さ、その身になつてもお力が事の忘れられぬか、十年つれそふて子供まで儲《もう》けし我れに心かぎりの辛苦《くろう》をさせて、子には襤褸《ぼろ》を下げさせ家とては二畳一間のこんな犬小屋、世間一体から馬鹿にされて別物にされて、よしや春秋《はるあき》の彼《ひ》岸《がん》が来ればとて、隣近処に牡丹《ぼた》もち団子と配り歩く中を、源七が家へは遣《や》らぬが能い、返礼が気の毒なとて、心切《しんせつ》かは知らねど十軒長屋の一軒は除《の》け物、男は外《そと》出《で》がちなればいささか心に懸るまじけれど女心には遣る瀬のなきほど切なく悲しく、おのづと肩身せばまりて朝夕《ちようせき》の挨拶も人の目色を見るやうなる情なき思ひもするを、それをば思はで我が情婦《こひ》の上ばかりを思ひつづけ、無情《つれな》き人の心の底がそれほどまでに恋しいか、昼も夢に見て独言《ひとりごと》にいふ情なさ、女房の事も子の事も忘れはててお力一人に命をも遣る心か、浅ましい口《くち》惜《を》しい愁《つ》らい人と思ふに中々言葉は出《いで》ずして恨みの露を目の中にふくみぬ。
物いはねば狭き家《いゑ》の内《うち》も何となくうら淋しく、くれゆく空のたどたどしきに裏屋はまして薄暗く、燈火《あかり》をつけて蚊遣《かや》りふすべて、お初は心細く戸の外をながむれば、いそいそと帰り来る太吉の姿、何やらん大袋を両手に抱へて母《かか》さん母さんこれを貰つて来たと莞爾《につこ》として駆け込むに、見れば新開の日の出やがかすていら、おやこんな好《い》いお菓子を誰れに貰つて来た、よくお礼を言つたかと問へば、ああ能くお辞儀をして貰つて来た、これは菊の井の鬼姉さんがくれたのと言ふ、母は顔色をかへて図太い奴めがこれほどの淵に投げ込んで未《ま》だいぢめ方が足りぬと思ふか、現在の子を使ひに父《とと》さんの心を動かしに遣《よこ》しおる、何といふて遣したと言へば、表通りの賑やかな処に遊んでゐたらば何処のか伯父さんと一処に来て、菓子を買つてやるから一処にお出といつて、我《おい》らは入らぬと言つたけれど抱いて行《ゆ》つて買つてくれた、喰べては悪るいかへとさすがに母の心を斗《はか》りかね、顔をのぞいて猶《ゆう》予《よ》するに、ああ年がゆかぬとて何たら訳の分らぬ子ぞ、あの姉さんは鬼ではないか、父さんを怠惰《なまけ》者《もの》にした鬼ではないか、お前の衣《べ》類《べ》のなくなつたも、お前の家のなくなつたも皆あの鬼めがした仕事、喰《くら》ひついても飽き足らぬ悪魔にお菓子を貰つた喰べても能《い》いかと聞くだけが情ない、汚い穢《むさ》いこんな菓子、家へ置くのも腹がたつ、捨《すて》てしまいな、捨ておしまい、お前は惜しくて捨てられないか、馬鹿野郎めと罵《ののし》りながら袋をつかんで裏の空地へ投出《なげいだ》せば、紙は破れて転び出る菓子の、竹のあら垣打こえて溝《どぶ》の中にも落込むめり、源七はむくりと起きてお初と一声大きくいふに何か御用かよ、尻目にかけて振むかふともせぬ横顔を睨んで、能い加減に人を馬鹿にしろ、黙つてゐれば能い事にして悪口雑言は何の事だ、知人《しつたひと》なら菓子位子供にくれるに不思議もなく、貰ふたとて何が悪るい、馬鹿野郎呼はりは太吉をかこつけに我《を》れへの当こすり、子に向つて父親《てておや》の讒《ざん》訴《そ》をいふ女房気質《かたぎ》を誰《た》れが教へた、お力が鬼なら手前は魔王、商売人のだましは知れてゐれど、妻たる身の不貞《ふて》腐《くさ》れをいふて済むと思ふか、土方をせうが車を引かうが亭主は亭主の権がある、気に入らぬ奴を家には置かぬ、何処へなりとも出てゆけ、出てゆけ、面白くもない女《め》郎《ろう》めと叱りつけられて、それはお前無理だ、邪推が過る、何しにお前に当つけよう、この子が余り分らぬと、お力の仕方が憎くらしさに思ひあまつて言つた事を、とツこに取つて出てゆけとまでは惨《むご》う御座んす、家の為をおもへばこそ気に入らぬ事を言ひもする、家を出るほどならこんな貧乏世帯の苦労をば忍んではゐませぬと泣くに貧乏世帯に飽きがきたなら勝手に何処なり行つて貰はう、手前が居ぬからとて乞食にもなるまじく太吉が手足の延ばされぬ事はなし、明けても暮れても我《お》れが店《たな》おろしかお力への妬《ねた》み、つくづく聞き飽きてもう厭《い》やに成つた、貴様が出ずば何《どち》ら道同じ事をしくもない九尺二間、我《お》れが小僧を連れて出やう、さうならば十分に我鳴り立る都合もよからう、さあ貴様が行《ゆ》くか、我《お》れが出ようかと烈しく言はれて、お前はそんなら真実《ほんとう》に私を離縁する心かへ、知れた事よと例《いつも》の源七にはあらざりき。
お初は口惜《くや》しく悲しく情なく、口も利かれぬほど込上《こみあぐ》る涕《なみだ》を呑込んで、これは私が悪う御座んした、堪忍《かんにん》をして下され、お力が親切で志してくれたものを捨てしまつたは重々悪う御座いました、成程お力を鬼といふたから私は魔王で御座んせう、モウいひませぬ、モウいひませぬ、決してお力の事につきてこの後《ご》とやかく言ひませず、蔭《かげ》の噂《うわさ》しますまい故離縁だけは堪忍して下され、改めて言ふまでは無けれど私には親もなし兄弟もなし、差配の伯父さんを仲人《なかうど》なり里なりに立てて来た者なれば、離縁されての行き処とてはありませぬ、どうぞ堪忍して置いて下され、私は憎くかろうとこの子に免じて置いて下され、謝りますとて手を突いて泣けども、イヤどうしても置かれぬとてその後は物言はず壁に向ひてお初が言葉は耳に入《い》らぬ体、これほど邪慳《じやけん》の人ではなかりしをと女房あきれて、女に魂を奪はるればこれほどまでも浅ましくなる物か、女房が歎きは更なり、遂《つ》ひには可愛《かわゆ》き子をも餓へ死させるかも知れぬ人、今詫《わ》びたからとて甲斐《かひ》はなしと覚悟して、太吉、太吉と傍へ呼んで、お前は父《とと》さんの傍と母《かか》さんと何処《どちら》が好い、言ふて見ろと言はれて、我《おい》らはお父《とつ》さんは嫌い、何にも買つてくれない物と真正直《まつしようじき》をいふに、そんなら母さんの行く処へ何処へも一処に行く気かへ、ああ行くともとて何とも思はぬ様子に、お前さんお聞きか、太吉は私につくといひまする、男の手なればお前も欲しからうけれどこの子はお前の手には置かれぬ、何処までも私が貰つて連れて行きます、よう御座んすか貰ひまするといふに、勝手にしろ、子も何も入らぬ、連れて行きたくば何処へでも連れて行け、家《うち》も道具も何も入らぬ、どうなりともしろとて寐《ね》転《ころ》びしまま振向んともせぬに、何の家も道具も無い癖に勝手にしろもないもの、これから身一つになつて仕たいままの道楽なり何なりお尽しなされ、もういくらこの子を欲しいと言つても返す事では御座んせぬぞ、返しはしませぬぞと念を押して、押入れ探ぐつて何やらの小風呂敷取出《とりいだ》し、これはこの子の寐間着の袷《あはせ》、はらがけと三尺だけ貰つて行まする、御酒の上といふでもなければ、醒《さ》めての思案もありますまいけれど、よく考へて見て下され、たとへどのやうな貧苦の中でも二人双《そろ》つて育てる子は長者の暮しといひまする、別れれば片親、何につけても不《ふ》憫《びん》なはこの子とお思ひなさらぬか、ああ腸《はらはた》が腐た人は子の可愛さも分りはすまい、もうお別れ申ますと風呂敷さげて表へ出《いづ》れば、早くゆけゆけとて呼かへしてはくれざりし。
八
魂祭《たままつ》り過ぎて幾日《いくじつ》、まだ盆提燈《ぼんぢようちん》のかげ薄淋しき頃、新開の町を出し棺二つあり、一つは駕《かご》にて一つはさし担《かつ》ぎにて、駕は菊の井の隠居処よりしのびやかに出ぬ、大路に見る人のひそめくを聞けば、あの子もとんだ運のわるいつまらぬ奴に見込れて可愛さうな事をしたといへば、イヤあれは得心づくだと言ひまする、あの日の夕暮、お寺の山で二人立はなしをしてゐたといふ確かな証人もござります、女も逆上《のぼせ》てゐた男の事なれば義理にせまつて遣つたので御座ろといふもあり、何のあの阿《あ》魔《ま》が義理はりを知らうぞ湯屋の帰りに男に逢ふたれば、さすがに振はなして逃る事もならず、一処に歩いて話しはしてもゐたらうなれど、切られたは後袈裟《うしろげさ》、頬先《ほうさき》のかすり疵《きず》、頸《くび》筋《すぢ》の突疵《つききず》など色々あれども、たしかに逃げる処を遣られたに相違ない、引かへて男は美事な切腹、蒲団やの時代からさのみの男と思はなんだがあれこそは死花《しにばな》、ゑらさうに見えたといふ、何にしろ菊の井は大損であらう、かの子には結構《けつこう》な旦那がついた筈、取にがしては残念であらうと人の愁《うれ》ひを串談《じようだん》に思ふものもあり、諸説みだれて取止めたる事なけれど、恨《うらみ》は長し人魂か何かしらず筋を引く光り物のお寺の山といふ小高き処より、折ふし飛べるを見し者ありと伝へぬ。
十三夜
上
例《いつも》は威勢よき黒ぬり車の、それ門《かど》に音が止まつた娘ではないかと両親《ふたおや》に出迎はれつる物を、今宵は辻より飛《とび》のりの車さへ帰して悄然《しよんぼり》と格子戸の外に立てば、家内《うち》には父親が相かはらずの高声、いはば私《わし》も福人《ふくじん》の一人、いづれも柔順《おとな》しい子供を持つて育てるに手は懸《かか》らず人には褒められる、分外の欲さへ渇《かわ》かねばこの上に望みもなし、やれやれ有難い事と物がたられる、あの相手は定めし母様《ははさん》、ああ何も御存じなしにあのやうに喜んでお出《いで》遊ばす物を、どの顔さげて離縁状もらふて下されと言はれた物か、叱かられるは必定、太郎と言ふ子もある身にて置いて駆け出して来るまでには種々《いろいろ》思案もし尽しての後《のち》なれど、今更にお老人《としより》を驚かしてこれまでの喜びを水の泡《あわ》にさせまする事つらや、寧《いつ》そ話さずに戻ろうか、戻れば太郎の母と言はれて何時々々《いついつ》までも原田の奥様、御両親に奏任の聟《むこ》がある身と自慢させ、私《わたし》さへ身を節倹《つめ》れば時たまはお口に合ふ物お小《こ》遣《づか》ひも差あげられるに、思ふままを通して離縁とならば太郎には継母《ままはは》の憂き目を見せ、御両親には今までの自慢の鼻にはかに低くさせまして、人の思はく、弟《おとと》の行末、ああこの身一つの心から出世の真《しん》も止めずはならず、戻らうか、戻らうか、あの鬼のやうな我《わが》良《つ》人《ま》のもとに戻らうか、あの鬼の、鬼の良《つ》人《ま》のもとへ、ゑゑ厭《い》や厭《い》やと身をふるはす途端、よろよろとして思はず格子にがたりと音さすれば、誰れだと大きく父親の声、道ゆく悪太郎の悪戯《いたづら》とまがへてなるべし。
外なるはおほほと笑ふて、お父様《とつさん》私で御座んすといかにも可愛《かわゆ》き声、や、誰《た》れだ、誰れであつたと障子を引明《ひきあけ》て、ほうお関《せき》か、何だなそんな処に立つてゐて、どうして又このおそくに出かけて来た、車もなし、女中も連れずか、やれやれま早く中へ這入《はい》れ、さあ這入れ、どうも不意に驚かされたやうでまごまごするわな、格子は閉めずとも宜《よ》い私《わ》しが閉める、ともかくも奥が好《い》い、ずつとお月様のさす方へ、さ、蒲《ふ》団《とん》へ乗れ、蒲団へ、どうも畳が汚ないので大屋に言つては置いたが職人の都合があると言ふてな、遠慮も何も入らない着物がたまらぬからそれを敷ひてくれ、やれやれどうしてこの遅くに出て来たお宅《うち》では皆お変りもなしかと例《いつ》に替らずもてはやさるれば、針の席《むしろ》にのる様にて奥さま扱かひ情なくじつと涕《なみだ》を呑込《のみこん》で、はい誰れも時候の障《さわ》りも御座りませぬ、私は申訳《まをしわけ》のない御無沙汰してをりましたが貴君《あなた》もお母様《つかさん》も御機嫌よくいらつしやりますかと問へば、いやもう私《わし》は嚏《くさみ》一つせぬ位、お袋は時たま例の血の道と言ふ奴を始めるがの、それも蒲団かぶつて半日も居ればけろけろ《・・・・》とする病だから子細はなしさと元気よく呵々《からから》と笑ふに、亥之《ゐの》さんが見えませぬが今晩は何処《どちら》へか参りましたか、あの子も替らず勉強で御座んすかと問へば、母親はほたほたとして茶を進めながら、亥之は今しがた夜学に出て行《ゆき》ました、あれもお前お蔭《かげ》さまでこの間は昇給させて頂いたし、課長様が可《か》愛《わゆ》がつて下さるのでどれ位心丈夫であらう、これと言ふもやつぱり原田さんの縁引《ゑん》が有るからだとて宅《うち》では毎日いひ暮してゐます、お前に如才は有るまいけれどこの後《ご》とも原田さんの御機嫌の好いやうに、亥之はあの通り口の重い質《たち》だし何《いづ》れお目に懸つてもあつけ《・・・》ない御挨拶よりほか出来まいと思はれるから、何分ともお前が中に立つて私どもの心が通じるやう、亥之が行末をもお頼み申《まをし》て置ておくれ、ほんに替り目で陽気が悪いけれど太郎《たろ》さんは何時《いつ》も悪戯《おいた》をしてゐますか、何故《なぜ》に今夜は連れてお出《いで》でない、お祖父《ぢい》さんも恋しがつてお出なされた物をと言はれて、又今更にうら悲しく、連れて来やうと思ひましたけれどあの子は宵まどひでもう疾《と》うに寐《ね》ましたからそのまま置いて参りました、本当に悪戯《いたづら》ばかりつのりまして聞わけとては少しもなく、外へ出れば跡を追ひまするし、家内《うち》に居れば私の傍ばつかり覗《ねら》ふて、ほんにほんに手が懸つて成ませぬ、何故あんなで御座りませうと言ひかけて思ひ出しの涙むねの中に漲《みなぎ》るやうに、思ひ切つて置いては来たれど今頃は目を覚して母《かか》さん母さんと婢女《をんな》どもを迷惑がらせ、煎餅《おせん》やおこしの《たら》しも利《き》かで、皆々手を引いて鬼に喰はすと威《おど》かしてでもゐやう、ああ可愛さうな事をと声たてても泣きたきを、さしも両《ふた》親《おや》の機嫌よげなるに言ひ出《いで》かねて、烟《けむり》にまぎらす烟草《たばこ》二三服、空咳《からせき》こんこんとして涙を襦《じゆ》袢《ばん》の袖にかくしぬ。
今宵は旧暦の十三夜、旧弊なれどお月見の真似事に団子《いしいし》をこしらへてお月様にお備へ申せし、これはお前も好物なれば少々なりとも亥之助に持たせて上やうと思ふたれど、亥之助も何か極《きま》りを悪るがつてその様な物はお止《よし》なされと言ふし、十五夜にあげなんだから片《かた》月《つき》見《み》に成つても悪るし、喰べさせたいと思ひながら思ふばかりで上る事が出来なんだに、今夜来てくれるとは夢の様な、ほんに心が届いたのであらう、自宅《うち》で甘《うま》い物はいくらも喰べやうけれど親のこしらいたは又別物、奥様気を取すてて今夜は昔しのお関になつて、見得を搆《かま》はず豆なり栗なり気に入つたを喰べて見せておくれ、いつでも父様《ととさん》と噂《うわさ》すること、出世は出世に相違なく、人の見る目も立派なほど、お位の宜《い》い方々や御身分のある奥様がたとの御《お》交際《つきあひ》もして、ともかくも原田の妻と名告《なのつ》て通るには気骨の折れる事もあらう、女《をん》子《な》どもの使ひやう出入りの者の行渡り、人の上に立つものはそれだけに苦労が多く、里方がこの様な身柄では猶更《なほさら》のこと人に侮《あなど》られぬやうの心懸けもしなければ成るまじ、それを種々《さまざま》に思ふて見ると父《とと》さんだとて私だとて孫なり子なりの顔の見たいは当然《あたりまへ》なれど、余《あんま》りうるさく出入りをしてはと控へられて、ほんに御門の前を通る事はありとも木綿着物に毛《け》繻《じゆ》子《す》の洋傘《かふもり》さした時には見す見すお二階の簾《すだれ》を見ながら、吁《ああ》お関は何をしてゐる事かと思ひやるばかり行《ゆき》過《す》ぎてしまひまする、実家でも少し何とか成つてゐたならばお前の肩身も広からうし、同じくでも少しは息のつけやう物を、何を云ふにもこの通り、お月見の団子《いしいし》をあげやうにも重箱《おじゆう》からしてお恥かしいでは無からうか、ほんにお前の心遣ひが思はれると嬉しき中にも思ふままの通路が叶《かな》はねば、愚痴の一トつかみ賤《いや》しき身分を情なげに言はれて、本当に私は親不孝だと思ひまする、それは成程和《やは》らかひ衣類《きもの》きて手車に乗りあるく時は立派らしくも見えませうけれど、父《とと》さんや母《かか》さんにかうして上やうと思ふ事も出来ず、いはば自分の皮一重、寧《いつ》そ賃仕事してもお傍で暮した方が余《よ》つぽど快よう御座いますと言ひ出すに、馬鹿、馬鹿、その様な事を仮にも言ふてはならぬ、嫁に行つた身が実家《さと》の親の貢をするなどと思ひも寄らぬこと、家《うち》に居る時は斎藤の娘、嫁入つては原田の奥方ではないか、勇《いさむ》さんの気に入る様にして家の内を納めてさへ行けば何の子細は無い、骨が折れるからとてそれだけの運のある身ならば堪へられぬ事は無い筈、女などと言ふ者はどうも愚痴で、お袋などがつまらぬ事を言ひ出すから困り切る、いやどうも団子を喰べさせる事が出来ぬとて一日大立腹であつた、大分熱心で調製《こしらへ》たものと見えるから十分に喰べて安心させて遣つてくれ、余程甘《うま》からうぞと父親《てておや》の滑《おど》稽《け》を入れるに、再び言ひそびれて御馳走の栗枝豆ありがたく頂戴をなしぬ。
嫁入りてより七年の間、いまだに夜《よ》に入りて客に来しこともなく、土産もなしに一人歩《ある》行《き》して来るなど悉皆《しつかい》ためしのなき事なるに、思ひなしか衣類も例《いつも》ほど燦《きらびや》かならず、稀《まれ》に逢ひたる嬉しさにさのみは心も付かざりしが、聟よりの言伝とて何一言の口上もなく、無理に笑顔は作りながら底に萎《しほ》れし処のあるは何か子細のなくては叶はず、父親《てておや》は机の上の置時計を眺めて、これやモウ程なく十時になるが関は泊つて行つて宜《よ》いのかの、帰るならばもう帰らねば成るまいぞと気を引いて見る親の顔、娘は今更のやうに見上げて御父様《おとつさん 》私《わたくし》は御願ひがあつて出たので御座ります、どうぞ御聞遊してときつとなつて畳に手を突く時、はじめて一トしづく幾《いく》層《そ》の憂きを洩しそめぬ。
父は穏かならぬ色を動かして、改まつて何かのと膝《ひざ》を進めれば、私《わたし》は今宵限り原田へ帰らぬ決心で出て参つたので御座ります、勇が許しで参つたのではなく、あの子を寐《ね》かして、太郎を寐かしつけて、最早《もう》あの顔を見ぬ決心で出て参りました、まだ私の手より外誰れの守りでも承諾《しようち》せぬほどのあの子を、欺《だま》して寐かして夢の中《うち》に、私《わたくし》は鬼に成つて出て参りました、御《お》父様《とつさん》、御《お》母様《つかさん》、察して下さりませ私は今日まで遂ひに原田の身に就いて御耳に入れました事もなく、勇と私との中《なか》を人に言ふた事は御座りませぬけれど、千《ち》度《たび》も百度《ももたび》も考へ直して、二年も三年も泣尽《なきつく》して今日といふ今日どうでも離縁を貰ふて頂かうと決心の臍《ほぞ》をかためました、どうぞ御願ひで御座ります離縁の状を取つて下され、私はこれから内職なり何なりして亥之助が片腕にもなられるやう心がけますほどに、一生一人で置いて下さりませとわつと声たてるを噛《かみ》しめる襦袢の袖、墨絵の竹も紫《し》竹《ちく》の色にや出《いづ》ると哀れなり。
それはどういふ子細でと父も母も詰寄つて問かかるに今までは黙つてゐましたれど私の家《うち》の夫婦《めをと》さし向ひを半日見て下さつたら大底が御解りに成ませう、物言ふは用事のある時慳貪《けんどん》に申《まをし》つけられるばかり、朝起まして機嫌をきけば不図《ふと》脇を向ひて庭の草花を態《わざ》とらしき褒《ほ》め詞《ことば》、これにも腹はたてども良人《おつと》の遊ばす事なればと我慢して私は何も言葉あらそひした事も御座んせぬけれど、朝飯《あさはん》あがる時から小言は絶えず、召使の前にて散々と私が身の不器用不作法を御並べなされ、それはまだまだ辛棒もしませうけれど、二言目には教育のない身、教育のない身と御蔑《おさげす》みなさる、それは素《もと》より華族女学校の椅子にかかつて育つた物ではないに相違なく、御同僚の奥様がたの様にお花のお茶の、歌の画のと習ひ立てた事もなければその御話しの御相手は出来ませぬけれど、出来ずは人知れず習はせて下さつても済むべき筈、何も表向き実家の悪るいを風聴《ふうちよう》なされて、召使ひの婢女《をんな》どもに顔の見られるやうな事なさらずとも宜かりさうなもの、嫁入つて丁度半年ばかりの間は関や関やと下へも置かぬやうにして下さつたけれど、あの子が出来てからと言ふ物はまるで御人が変りまして、思ひ出しても恐ろしう御座ります、私はくら暗《やみ》の谷へ突落されたやうに暖かい日の影といふを見た事が御座りませぬ、はじめの中は何か串談《じようだん》に態《わざ》とらしく邪慳《じやけん》に遊ばすのと思ふてをりましたけれど、全くは私に御飽きなされたのでこうもしたら出てゆくか、ああもしたら離縁をと言ひ出すかと苦《いぢ》めて苦めて苦め抜くので御座りましよ、御父様も御母様も私《わたし》の性分は御存じ、よしや良人が芸者狂ひなさらうとも、囲い者して御置きなさらうともそんな事に悋《りん》気《き》する私でもなく、侍婢《をんな》どもからそんな噂も聞えまするけれどあれほど働きのある御方なり、男の身のそれ位はありうちと他処《よそ》行《ゆき》には衣類《めしもの》にも気をつけて気に逆らはぬやう心がけておりまするに、唯もう私の為《す》る事とては一から十まで面白くなく覚しめし、箸《はし》の上げ下《おろ》しに家の内の楽しくないは妻が仕方が悪るいからだと仰《おつ》しやる、それもどういふ事が悪い、此処《ここ》が面白くないと言ひ聞かして下さる様ならば宜けれど、一筋につまらぬくだらぬ、解らぬ奴、とても相談の相手にはならぬの、いはば太郎の乳母として置いて遣《つか》はすのと嘲《あざけ》つて仰しやるばかり、ほんに良人といふではなくあの御方は鬼で御座りまする、御自分の口から出てゆけとは仰しやりませぬけれど私がこの様な意久地なしで太郎の可愛《かわゆ》さに気が引かれ、どうでも御詞に異背せず唯々《はいはい》と御小言を聞いておりますれば、張《はり》も意気地もない愚うたらの奴、それからして気に入らぬと仰しやりまする、さうかと言つて少しなりとも私の言条《いひじよう》を立てて負けぬ気に御返事をしましたらそれを取《とつ》てに出てゆけと言はれるは必定、私は御母様出て来るのは何でも御座んせぬ、名のみ立派の原田勇に離縁されたからとて夢さら残りをしいとは思ひませぬけれど、何にも知らぬあの太郎が、片親に成るかと思ひますると意地もなく我慢もなく、詫《わび》て機嫌を取つて、何でも無い事に恐れ入つて、今日までも物言はず辛棒してをりました、御父様、御母様、私は不運で御座りますとて口惜《くや》しさ悲しさ打出《うちいだ》し、思ひも寄らぬ事を談《かた》れば両親《ふたおや》は顔を見合せて、さてはその様の憂き中《なか》かと呆《あき》れて暫時《しばし》いふ言もなし。
母親は子に甘きならひ、聞く毎々《ことごと》に身にしみて口《くち》惜《を》しく、父様《ととさん》は何と思《おぼ》し召すか知らぬが元来《もともと》此方《こち》から貰ふて下されと願ふて遣つた子ではなし、身分が悪いの学校がどうしたのと宜くも宜くも勝手な事が言はれた物、先方《さき》は忘れたかも知らぬが此方《こちら》はたしかに日まで覚えてゐる、阿《お》関《せき》が十七の御正月、まだ門松を取もせぬ七日の朝の事であつた、旧《もと》の猿楽《さるがく》町《ちよう》のあの家《うち》の前で御隣の小娘《ちいさいの》と追羽根して、あの娘の突いた白い羽根が通り掛つた原田さんの車の中へ落たとつて、それをば阿関が貰ひに行きしに、その時はじめて見たとか言つて人橋かけてやいやいと貰ひたがる、御身分がらにも釣合ひませぬし、此方《こちら》はまだ根つからの子供で何も稽古事も仕込んでは置ませず、支度とても唯今の有様で御座いますからとて幾度《いくたび》断つたか知れはせぬけれど、何も舅姑《しうとしうとめ》のやかましいが有るでは無し、我《わし》が欲しくて我が貰ふに身分も何も言ふ事はない、稽古は引取つてからでも充分させられるからその心配も要《い》らぬ事、とかくくれさへすれば大事にして置かうからとそれはそれは火のつく様に催促して、此方から強請《ねだつ》た訳ではなけれど支度まで先方《さき》で調へて謂《い》はば御前は恋女房、私や父様《ととさん》が遠慮してさのみは出入りをせぬといふも勇さんの身分を恐れてでは無い、これが妾《めかけ》手かけに出したのではなし正当《しようとう》にも正当にも百まんだら頼みによこして貰つて行つた嫁の親、大威張に出這入しても差つかへは無けれど、彼方《あちら》が立派にやつてゐるに、此方がこの通りつまらぬ活計《くらし》をしてゐれば、御前の縁にすがつて聟《むこ》の助力《たすけ》を受けもするかと他人《ひと》様《さま》の処思《おもはく》が口《くち》惜《を》しく、痩《や》せ我慢では無けれど交際《つきあひ》だけは御身分相応に尽して、平常《へいぜい》は逢いたい娘の顔も見ずにゐまする、それをば何の馬鹿々々しい親なし子でも拾つて行つたやうに大層らしい、物が出来るの出来ぬのと宜くそんな口が利けた物、黙つてゐては際限もなく募つてそれはそれは癖に成つてしまひます、第一は婢女《をんな》どもの手前奥様の威光が削《そ》げて、末には御前の言ふ事を聞く者もなく、太郎を仕立るにも母様《ははさん》を馬鹿にする気になられたら何としまする、言ふだけの事はきつと言ふて、それが悪るいと小言をいふたら何の私にも家が有ますとて出て来るが宜からうでは無いか、実《ほん》に馬鹿々々しいとつてはそれほどの事を今日が日まで黙つてゐるといふ事が有ります物か、余《あんま》り御前が温順《おとな》し過るから我儘《わがまま》がつのられたのであろ、聞いたばかりでも腹が立つ、もうもう退《ひ》けてゐるには及びません、身分が何であらうが父もある母もある、年はゆかねど亥之助といふ弟《おとと》もあればその様な火の中にじつとしてゐるには及ばぬこと、なあ父様《ととさん》一遍勇さんに逢ふて十分油を取つたら宜う御座りましよと母は猛《たけ》つて前後もかへり見ず。
父親《てておや》は先刻《さきほど》より腕ぐみして目を閉ぢて有けるが、ああ御袋、無茶の事を言ふてはならぬ、我《わ》しさへ始めて聞いてどうした物かと思案にくれる、阿《お》関《せき》の事なれば並大底でこんな事を言ひ出しさうにもなく、よくよく愁《つ》らさに出て来たと見えるが、して今夜は聟どのは不在《るす》か、何か改たまつての事件でもあつてか、いよいよ離縁するとでも言はれて来たのかと落ついて問ふに、良人《おつと》は一昨日《おととひ》より家へとては帰られませぬ、五日六日と家を明けるは平常《つね》の事、さのみ珍らしいとは思ひませぬけれど出《で》際《ぎは》に召物の揃《そろ》へかたが悪いとて如何《いか》ほど詫びても聞入れがなく、其品《それ》をば脱いで擲《たた》きつけて、御自身洋服にめしかへて、吁《ああ》、私位《ぐらゐ》不仕合の人間はあるまい、御前のやうな妻を持つたのはと言ひ捨てに出て御出で遊しました、何といふ事で御座りませう一年三百六十五日物いふ事も無く、稀々《たまたま》言はれるはこの様な情ない詞をかけられて、それでも原田の妻と言はれたいか、太郎の母で候《さふらふ》と顔おし拭つてゐる心か、我身ながら我身の辛棒がわかりませぬ、もうもうもう私は良人《つま》も子も御座んせぬ嫁入せぬ昔しと思へばそれまで、あの頑是ない太郎の寝顔を眺めながら置いて来るほどの心になりましたからは、もうどうでも勇の傍に居る事は出来ませぬ、親はなくとも子は育つと言ひまするし、私の様な不運の母の手で育つより継母御なり御手かけなり気に適《かな》ふた人に育てて貰ふたら、少しは父《てて》御《ご》も可愛《かわゆ》がつて後々《のちのち》あの子の為にも成ませう、私はもう今宵かぎりどうしても帰る事は致しませぬとて、断つても断てぬ子の可憐《かわゆ》さに、奇麗に言へども詞はふるへぬ。
父は歎息して、無理は無い、居愁《ゐづ》らくもあらう、困つた中に成つたものよと暫時《しばらく》阿《お》関《せき》の顔を眺めしが、大丸髷《おほまるまげ》に金《きん》輪《わ》の根を巻きて黒《くろ》縮緬《ちりめん》の羽織何の惜しげもなく、我が娘ながらもいつしか調ふ奥様風、これをば結ひ髪に結びかへさせて綿銘仙《めんめいせん》の半天に襷《たすき》がけの水《みづ》仕《し》業《わざ》さする事いかにして忍ばるべき、太郎といふ子もあるものなり、一端の怒りに百年の運を取はづして、人には笑はれものとなり、身はいにしへの斎藤主計《かずへ》が娘に戻らば、泣くとも笑ふとも再度《ふたたび》原田太郎が母とは呼ばるる事成るべきにもあらず、良人《おつと》に未練は残さずとも我が子の愛の断ちがたくは離れていよいよ物をも思ふべく、今の苦労を恋しがる心も出《い》づべし、かく形よく生れたる身の不幸《ふしやはせ》、不相応の縁につながれて幾らの苦労をさする事と哀れさの増《まさ》れども、いや阿関こう言ふと父が無慈悲で汲《くみ》取《と》つてくれぬのと思ふか知らぬが決して御前を叱かるではない、身分が釣合はねば思ふ事も自然違ふて、此方《こちら》は真《しん》から尽す気でも取りやうに寄つては面白くなく見える事もあらう、勇さんだからとてあの通り物の道理を心得た、利発の人ではあり随分学者でもある、無茶苦茶にいぢめ立る訳ではあるまいが、得て世間に褒め物の敏腕家《はたらきて》などと言はれるは極めて恐ろしい我まま物、外では知らぬ顔に切つて廻せど勤め向きの不平などまで家《う》内《ち》へ帰つて当りちらされる、的に成つては随分つらい事もあらう、なれどもあれほどの良人を持つ身のつとめ、区役所がよひの腰弁当が釜の下を焚《た》きつけてくれるのとは格が違ふ、随《した》がつてやかましくもあらうむづかしくもあろうそれを機嫌の好い様にととのへて行くが妻の役、表面《うわべ》には見えねど世間の奥様といふ人達の何《いづ》れも面白くをかしき中ばかりは有るまじ、身一つと思へば恨みも出る、何のこれが世の勤めなり、殊にはこれほど身がらの相違もある事なれば人一倍の苦もある道理、お袋などが口広い事は言へど亥之が昨今の月給に有ついたも必竟《ひつきよう》は原田さんの口入れではなからうか、七光どころか十光《とひかり》もして間接《よそ》ながらの恩を着ぬとは言はれぬに愁《つ》らからうとも一つは親の為弟《おとと》の為、太郎といふ子もあるものを今日までの辛棒がなるほどならば、これから後《ご》とて出来ぬ事はあるまじ、離縁を取つて出たが宜《よ》いか、太郎は原田のもの、其方《そち》は斎藤の娘、一度縁が切れては二度と顔見にゆく事もなるまじ、同じく不運に泣くほどならば原田の妻で大泣きに泣け、なあ関さうでは無いか、合《が》点《てん》がいつたら何事も胸に納めて、知らぬ顔に今夜は帰つて、今まで通りつつしんで世を送つてくれ、お前が口に出さんとても親も察しる弟も察しる、涙は各自《てんで》に分《わけ》て泣かうぞと因果を含めてこれも目を拭ふに、阿関はわつと泣いてそれでは離縁をといふたも我ままで御座りました、成程太郎に別れて顔も見られぬ様にならばこの世に居たとて甲斐《かひ》もないものを、唯《ただ》目の前の苦をのがれたとてどうなる物で御座んせう、ほんに私さへ死んだ気にならば三方四方波風たたず、ともあれあの子も両親の手で育てられまするに、つまらぬ事を思ひ寄《より》まして、貴君にまで嫌《い》やな事を御聞かせ申《まをし》ました、今宵限り関はなくなつて魂一つがあの子の身を守るのと思ひますれば良人のつらく当る位百年も辛棒出来さうな事、よく御言葉も合点が行きました、もうこんな事は御聞かせ申ませぬほどに心配をして下さりますなとて拭ふあとから又涙、母親は声たてて何といふこの娘《こ》は不仕合と又一しきり大泣きの雨、くもらぬ月も折から淋しくて、うしろの土手の自《し》然生《ぜんばへ》を弟の亥之が折て来て、瓶《びん》にさしたる薄《すすき》の穂の招く手振りも哀れなる夜《よ》なり。
実家は上野の新坂下、駿河台《するがだい》への路なれば茂れる森の木《こ》のした暗侘《やみわび》しけれど、今宵は月もさやかなり、広小《ひろこう》路《ぢ》へ出《いづ》れば昼も同様、雇ひつけの車宿とて無き家なれば路《みち》ゆく車を窓から呼んで、合点が行つたらともかくも帰れ、主人《あるじ》の留守に断《ことはり》なしの外出、これを咎《とが》められるとも申訳の詞は有るまじ、少し時刻は遅れたれど車ならばつひ一ト飛《とび》、話しは重ねて聞きに行かう、先《ま》づ今夜は帰つてくれとて手を取つて引出《ひきいだ》すやうなるも事あら立《だて》じの親の慈悲、阿関はこれまでの身と覚悟してお父様《とつさん》、お母様《つかさん》、今夜の事はこれ限り、帰りまするからは私は原田の妻なり、良人を誹《そし》るは済みませぬほどにもう何も言ひませぬ、関は立派な良人を持つたので弟の為にも好い片腕、ああ安心なと喜んでゐて下されば私は何も思ふ事は御座んせぬ、決して決して不了簡など出すやうな事はしませぬほどにそれも案じて下さりますな、私の身体《からだ》は今夜をはじめに勇のものだと思ひまして、あの人の思ふままに何となりして貰ひましよ、それではもう私は戻ります、亥之さんが帰つたらば宜しくいふて置いて下され、お父様《とつさん》もお母様《つかさん》も御機嫌よう、この次には笑ふて参りまするとて是非なささうに立あがれば、母親は無けなしの巾着《きんちやく》さげて出て駿河台まで何程《いくら》でゆくと門《かど》なる車夫に声をかくるを、あ、お母様それは私がやりまする、有がたう御座んしたと温順《おとな》しく挨拶して、格子戸くぐれば顔に袖、涙をかくして乗り移る哀れさ、家《うち》には父が咳払ひのこれもうるめる声成《なり》し。
下
さやけき月に風のおと添ひて、虫の音《ね》たえだえに物がなしき上野へ入りてよりまだ一町もやうやうと思ふに、いかにしたるか車夫はぴつたりと轅《かぢ》を止めて、誠に申かねましたが私はこれで御免を願ひます、代は入りませぬからお下《お》りなすつてと突然《だしぬけ》にいはれて、思ひもかけぬ事なれば阿関は胸をどつきりとさせて、あれお前そんな事を言つては困るではないか、少し急ぎの事でもあり増しは上げやうほどに骨を折つておくれ、こんな淋しい処では代りの車も有るまいではないか、それはお前人困らせといふ物、愚図らずに行つておくれと少しふるへて頼むやうに言へば、増しが欲しいと言ふのでは有ませぬ、私からお願ひですどうぞお下りなすつて、もう引くのが厭《い》やに成つたので御座りますと言ふに、それではお前加減でも悪るいか、まあどうしたと言ふ訳、此処《ここ》まで挽《ひ》いて来て厭やに成つたでは済むまいがねと声に力を入れて車夫を叱れば、御免なさいまし、もうどうでも厭やに成つたのですからとて提燈《ちようちん》を持《もち》しまま不図脇へのがれて、お前は我ままの車《くるま》夫《や》さんだね、それならば約定《きめ》の処までとは言ひませぬ、代りのある処《とこ》まで行つてくれればそれでよし、代はやるほどに何処か┘処《そこ》らまで、切《せ》めて広小路までは行つておくれと優しい声にすかす様にいへば、なるほど若いお方ではありこの淋しい処へおろされては定めしお困りなさりませう、これは私が悪う御座りました、ではお乗せ申ませう、お供を致しませう、さぞお驚きなさりましたろうとて悪者《わる》らしくもなく提燈を持かゆるに、お関もはじめて胸をなで、心丈夫に車夫の顔を見れば二十五六の色黒く、小男の痩《や》せぎす、あ、月に背《そむ》けたあの顔が誰《た》れやらで有つた、誰れやらに似てゐると人の名も咽元《のどもと》まで転《ころ》がりながら、もしやお前さんはと我知らず声をかけるに、ゑ、と驚いて振あふぐ男、あれお前さんはあのお方では無いか、私をよもやお忘れはなさるまいと車より濘《すべ》るやうに下りてつくづくと打まもれば、貴嬢《あなた》は斎藤の阿関さん、面目も無いこんな姿《なり》で、背《うし》後《ろ》に目が無ければ何の気もつかずにいました、それでも音声《ものごゑ》にも心づくべき筈なるに、私は余程《よつぽど》の鈍に成りましたと下を向いて身を恥れば、阿関は頭《つむり》の先より爪先《つまさき》まで眺めていゑいゑ私だとて往来で行逢ふた位ではよもや貴君《あなた》と気は付きますまい、唯《たつ》た今の先までも知らぬ他人の車夫《くるまや》さんとのみ思ふてゐましたに御存じないは当然《あたりまへ》、勿体《もつたい》ない事であつたれど知らぬ事なればゆるして下され、まあ何時《いつ》からこんな業《こと》して、よくそのか弱い身に障りもしませぬか、伯母さんが田舎へ引取られてお出《いで》なされて、小《を》川町《がはまち》のお店《みせ》をお廃《や》めなされたといふ噂《うわさ》は他処《よそ》ながら聞いてもゐましたれど、私も昔しの身でなければ種々《いろいろ》と障る事があつてな、お尋ね申すは更なること手紙あげる事も成ませんかつた、今は何処に家を持つて、お内儀《かみ》さんも御健勝《おまめ》か、小児《ちツさい》のも出来てか、今も私は折ふし小川町の勧工場《かんこうば》見物《み》に行《ゆき》まする度々《たびたび》、旧《もと》のお店がそつくりそのまま同じ烟《たば》草《こ》店《みせ》の能登《のと》やといふに成つてゐまするを、何時通つても覗《のぞ》かれて、ああ高坂《こうさか》の録《ろく》さんが子供であつたころ、学校の行返《ゆきもど》りに寄つては巻烟草のこぼれを貰ふて、生意気らしう吸立てた物なれど、今は何処に何をして、気の優しい方なればこんなむづかしい世にどのやうの世渡りをしてお出《いで》ならうか、それも心にかかりまして、実家へ行く度に御様子を、もし知つてもゐるかと聞いては見まするけれど、猿《さる》楽町《がくちよう》を離れたのは今で五年の前、根つからお便りを聞く縁がなく、どんなにお懐しう御座んしたらうと我身のほどをも忘れて問ひかくれば、男は流れる汗を手拭にぬぐふて、お恥かしい身に落まして今は家《うち》と言ふ物も御座りませぬ、寐処は浅草町の安宿、村田といふが二階に転がつて、気に向ひた時は今夜のやうに遅くまで挽く事もありまするし、厭やと思へば日がな一日ごろごろとして烟《けぶり》のやうに暮してゐまする、貴嬢《あなた》は相変らずの美くしさ、奥様にお成りなされたと聞いた時からそれでも一度は拝む事が出来るか、一生の内に又お言葉を交はす事が出来るかと夢のやうに願ふてゐました、今日までは入用《いりよう》のない命と捨て物に取あつかふてゐましたけれど命があればこその御対面、ああ宜く私《わたくし》を高坂の録《ろく》之《の》助《すけ》と覚えてゐて下さりました、辱《かたじけ》なう御座りますと下を向くに、阿関はさめざめとして誰れも憂き世に一人と思ふて下さるな。
してお内儀《かみ》さんはと阿関の問へば、御存じで御座りましよ筋向ふの杉田やが娘、色が白いとか恰好《かつこう》がどうだとか言ふて世間の人は暗《やみ》雲《くも》に褒めたてた女《もの》で御座ります、私が如何《いか》にも放蕩《のら》をつくして家へとては寄りつかぬやうに成つたを、貰ふべき頃に貰ふ物を貰はぬからだと親類の中の解らずやが勘違ひして、あれならばと母親が眼鏡にかけ、是非もらへ、やれ貰へと無茶苦茶に進めたてる五月蠅《うるさ》さ、どうなりと成れ、成れ、勝手に成れとてあれを家へ迎へたは丁度貴嬢が御懐妊だと聞ました時分の事、一年目には私が処にもお目出たうを他人《ひと》からは言はれて、犬張子や風車を並べたてる様に成りましたれど、何のそんな事で私が放蕩《のら》のやむ事か、人は顔の好い女房を持たせたら足が止まるか、子が生れたら気が改まるかとも思ふてゐたのであらうなれど、たとへ小町と西《せい》施《し》と手を引いて来て、衣通姫《そとほりひめ》が舞ひを舞つて見せてくれても私の放蕩《のら》は直らぬ事に極めて置いたを、何で乳くさい子供の顔見て発心《ほつしん》が出来ませう、遊んで遊んで遊び抜いて、呑んで呑んで呑み尽して、家も稼《か》業《ぎよう》もそつち除《の》けに箸《はし》一本もたぬやうに成つたは一昨々年《さきおととし》、お袋は田舎へ嫁入つた姉の処に引取つて貰ひまするし、女房《にようぼ》は子をつけて実《さ》家《と》へ戻したまま音信《いんしん》不通、女の子ではあり惜しいとも何とも思ひはしませぬけれど、その子も昨年の暮チプスに懸つて死んださうに聞ました、女はませな物ではあり、死ぬ際《ぎは》には定めし父様《ととさん》とか何とか言ふたので御座りましよう、今年居れば五つになるので御座りました、何のつまらぬ身の上、お話しにも成りませぬ。
男はうす淋しき顔に笑みを浮べて貴嬢といふ事も知りませぬので、飛んだ我ままの不調法、さ、お乗りなされ、お供をしまする、さぞ不意でお驚きなさりましたろう、車を挽くと言ふも名ばかり、何が楽しみに轅棒《かぢぼう》をにぎつて、何が望みに牛馬《うしうま》の真似をする、銭《ぜに》を貰へたら嬉しいか、酒が呑まれたら愉快なか、考へれば何もかも悉皆《しつかい》厭やで、お客様を乗せやうが空車《から》の時だらうが嫌やとなると用捨なく嫌やに成まする、呆《あき》れはてる我まま男、愛《あい》想《そ》が尽きるでは有りませぬか、さ、お乗りなされ、お供をしますと進められて、あれ知らぬ中《うち》は仕方もなし、知つて其車《それ》に乗れます物か、それでもこんな淋しい処を一人ゆくは心細いほどに、広小路へ出るまで唯道づれに成つて下され、話しながら行《ゆき》ませうとてお関は小《こ》褄《づま》少し引あげて、ぬり下駄のおとこれも淋しげなり。
昔の友といふ中にもこれは忘られぬ由縁《ゆかり》のある人、小川町の高坂とて小奇麗な烟草《たばこ》屋《や》の一人息子、今はこの様に色も黒く見られぬ男になつてはゐれども、世にある頃の唐桟《とうざん》ぞろひに小気の利いた前だれがけ、お世辞も上手、愛敬もありて、年の行かぬやうにも無い、父《てて》親《おや》の居た時よりは却《かへ》つて店が賑《にぎ》やかなと評判された利口らしい人の、さてもさてもの替り様、我身が嫁入りの噂聞え初《そめ》た頃から、やけ遊びの底ぬけ騒ぎ、高坂の息子はまるで人間が変つたやうな、魔でもさしたか、祟《たた》りでもあるか、よもや只事では無いとその頃に聞きしが、今宵見れば如何にも浅ましい身の有様、木賃泊りに居なさんすやうに成らうとは思ひも寄らぬ、私はこの人に思はれて、十二の年より十七まで明暮れ顔を合せる毎《たび》に行々《ゆくゆく》はあの店の彼処《あすこ》へ座つて、新聞見ながら商ひするのと思ふてもゐたれど、量《はか》らぬ人に縁の定まりて、親々の言ふ事なれば何の異存を入られやう、烟草屋の録さんにはと思へどそれはほんの子供ごころ、先方《さき》からも口へ出して言ふた事はなし、此方《こちら》は猶《なほ》さら、これは取とまらぬ夢の様な恋なるを、思ひ切つてしまへ、思ひ切つてしまへ、あきらめてしまはうと心を定めて、今の原田へ嫁入りの事には成つたれど、その際《きは》までも涙がこぼれて忘れかねた人、私が思ふほどはこの人も思ふて、それ故の身の破滅かも知れぬ物を、我がこの様な丸髷《まるまげ》などに、取済《とりすま》したる様な姿をいかばかり面《つら》にくく思はれるであらう、夢さらさうした楽しらしい身ではなけれどもと阿関は振かへつて録之助を見やるに、何を思ふか茫然とせし顔つき、時たま逢ひし呵関に向つてさのみは嬉しき様子も見えざりき。
広小路に出《いづ》れば車もあり、阿関は紙入れより紙幣いくらか取出《とりいだ》して小菊の紙にしほらしく包みて、録さんこれは誠に失礼なれど鼻紙なりとも買つて下され、久し振でお目にかかつて何か申たい事は沢山《たんと》あるやうなれど口へ出ませぬは察して下され、では私は御別れに致します、随分からだを厭《いと》ふて煩らはぬ様に、伯母さんをも早く安心させておあげなさりまし、蔭《かげ》ながら私も祈ります、どうぞ以前の録さんにお成りなされて、お立派にお店をお開きに成ります処を見せて下され、左様ならばと挨拶すれば録之助は紙づつみを頂いて、お辞儀申す筈なれど貴嬢のお手より下されたのなれば、あり難く頂戴して思ひ出にしまする、お別れ申すが惜しいと言つてもこれが夢ならば仕方のない事、さ、お出《いで》なされ、私も帰ります、更けては路が淋しう御座りますぞとて空車《からぐるま》引いてうしろ向く、其人《それ》は東へ、此人《これ》は南へ、大路の柳月のかげに靡《なび》いて力なささうの塗り下駄のおと、村田の二階も原田の奥も憂きはお互ひの世におもふ事多し。
たけくらべ
一
廻れば大門《おほもん》の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝《どぶ》に燈火《ともしび》うつる三階の騒ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行《ゆき》来《き》にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音《だいおん》寺《じ》前《まへ》と名は仏くさけれど、さりとは陽気の町と住みたる人の申き、三《み》嶋《しま》神社《さま》の角をまがりてよりこれぞと見ゆる大厦《いゑ》もなく、かたぶく軒《のき》端《ば》の十軒長屋二十軒長や、商ひはかつふつ利《き》かぬ処とて半《なかば》さしたる雨戸の外に、あやしき形《なり》に紙を切りなして、胡《ご》粉《ふん》ぬりくり彩色《さいしき》のある田楽みるやう、裏にはりたる串《くし》のさまもをかし、一軒ならず二軒ならず、朝日に干して夕日にしまふ手当ことごとしく、一家内これにかかりてそれは何ぞと問ふに、知らずや霜月酉《しもつきとり》の日例の神社に欲深様《よくふかさま》のかつぎ給ふこれぞ熊手の下ごしらへといふ、正月門松とりすつるよりかかりて、一年うち通しのそれは誠の商買人、片手わざにも夏より手足を色どりてく新年着《はるぎ》の支度もこれをば当てぞかし、南無《なむ》や大鳥大明神《おほとりだいみようじん》、買ふ人にさへ大福をあたへ給へば製造もとの我等万倍の利益をと人ごとに言ふめれど、さりとは思ひのほかなるもの、このあたりに大長者のうわさも聞かざりき、住む人の多くは廓《くるわ》者《もの》にて良人《おつと》は小格子の何とやら、下足札そろへてがらんがらんの音もいそがしや夕暮より羽織引かけて立出《たちいづ》れば、うしろに切《きり》火《び》打かくる女房の顔もこれが見納めか十人ぎりの側杖《そばづえ》無理情死《しんじゆう》のしそこね、恨みはかかる身のはて危ふく、すはと言はば命がけの勤めに遊《ゆ》山《さん》らしく見ゆるもをかし、娘は大籬《おほまがき》の下新《したしん》造《ぞ》とやら、七軒の何屋が客廻しとやら、提燈《かんばん》さげてちよこちよこ走りの修業、卒業して何にかなる、とかくは檜舞台《ひのきぶたい》と見たつるもをかしからずや、垢《あか》ぬけのせし三十あまりの年《とし》増《ま》、小ざつぱりとせし唐桟《とうざん》ぞろひに紺《こん》足袋《たび》はきて、雪《せつ》駄《た》ちやらちやら忙がしげに横抱きの小包はとはでもしるし、茶屋が桟橋とんと沙汰《さた》して、廻り遠《どほ》や此処《ここ》からあげまする、誂《あつら》へ物《もの》の仕事やさんとこのあたりには言ふぞかし、一体の風俗よそと変りて、女《おな》子《ご》の後帯《うしろおび》きちんとせし人少なく、がらを好みて巾広《はばびろ》の巻帯、年増はまだよし、十五六の小癪《こしやく》なるが酸漿《ほうづき》ふくんでこの姿《なり》はと目をふさぐ人もあるべし、所がら是非もなや、昨日《きのふ》河岸《かし》店《みせ》に何紫《なにむらさき》の源《げん》氏名《じな》耳に残れど、けふは地廻りの吉《きち》と手馴れぬ焼鳥の夜店を出して、身代たたき骨になれば再び古巣への内儀姿《かみさますがた》、どこやら素人《しろうと》よりは見よげに覚えて、これに染まらぬ子供もなし、秋は九月仁和賀《にわか》の頃の大路を見給へ、さりとは宜《よ》くも学びし露《ろ》八《はち》が物真似、栄《ゑい》喜《き》が処作《しよさ》、孟《もう》子《し》の母やおどろかん上達の速《すみ》やかさ、うまいと褒《ほ》められて今宵も一廻りと生意気は七つ八つよりつのりて、やがては肩に置手ぬぐひ、鼻歌のそそり節、十五の少年がませかた恐ろし、学校の唱歌にもぎつちよんちよん《・・・・・・・・》と拍子を取りて、運動会に木《き》やり音頭もなしかねまじき風《ふ》情《ぜい》、さらでも教育はむづかしきに教師の苦心さこそと思はるる入《いり》谷《や》ぢかくに育英舎とて、私立なれども生徒の数は千人近く、狭き校舎に目白押の窮屈さも教師が人望いよいよあらはれて、唯学校と一ト口にてこのあたりには呑込みのつくほど成るがあり、通ふ子供の数々に或《あるひ》は火《ひ》消鳶人足《けしとびにんそく》、おとつさんは刎橋《はねばし》の番屋に居るよと習はずして知るその道のかしこさ、梯《はし》子《ご》のりのまねびにアレ忍びがへしを折りましたと訴へのつべこべ、三百といふ代言の子もあるべし、お前の父《とと》さんは馬だねへと言はれて、名のりや愁《つ》らき子心にも顔あからめるしほらしさ、出入りの貸座敷《いゑ》の秘蔵息子寮住居《りようずまゐ》に華族さまを気取りて、ふさ付き帽子面《おも》もちゆたかに洋服かるがると花々しきを、坊ちやん坊ちやんとてこの子の追従《ついしよう》するもをかし、多くの中に龍華寺《りゆうげじ》の信如《しんによ》とて、千《ち》筋《すぢ》となづる黒髪も今いく歳《とせ》のさかりにか、やがては墨染《すみぞめ》にかへぬべき袖の色、発心《ほつしん》は腹からか、坊は親ゆづりの勉強ものあり、性来《せいらい》をとなしきを友達いぶせく思ひて、さまざまの悪戯《いたづら》をしかけ、猫の死骸を縄にくくりてお役目なれば引導をたのみますと投げつけし事も有りしが、それは昔、今は校内一の人とて仮にも侮りての処業はなかりき、歳《とし》は十五、並背《なみぜい》にていが栗の頭髪《つむり》も思ひなしか俗とは変りて、藤《ふぢ》本信如《もとのぶゆき》と訓《よみ》にてすませど、何処《どこ》やら釈《しやく》といひたげの素《そ》振《ぶり》なり。
二
八月二十日は千束《せんぞく》神社のまつりとて、山車《だし》屋《や》台《たい》に町々の見得をはりて土手をのぼりて廓《な》内《か》までも入《いり》込《こ》まんづ勢ひ、若者が気組み思ひやるべし、聞かぢりに子供とて由断のなりがたきこのあたりのなれば、そろひの浴衣《ゆかた》は言はでものこと、銘々に申合せて生意気のありたけ、聞かば胆《きも》もつぶれぬべし、横町《よこちよう》組と自らゆるしたる乱暴の子供大将に頭《かしら》の長《ちよう》とて歳も十六、仁和賀《にわか》の金棒《かなぼう》に親父の代理をつとめしより気位ゑらく成りて、帯は腰の先に、返事は鼻の先にていふ物と定め、にくらしき風俗、あれが頭の子でなくばと鳶人足《とびにんそく》が女房の蔭口《かげぐち》に聞えぬ、心一ぱいに我がままを徹《とほ》して身に合はぬ巾をも広げしが、表町《おもてまち》に田中屋の正太郎《しようたろう》とて歳は我れに三つ劣れど、家に金あり身に愛敬《あいきよう》あれば人も憎くまぬ当の敵《かたき》あり、我れは私立の学校へ通ひしを、先方《さき》は公立なりとて同じ唱歌も本家のやうな顔をしおる、去年《こぞ》も一昨年《おととし》も先方《さき》には大人の末社《まつしや》がつきて、まつりの趣向も我れよりは花を咲かせ、喧《けん》嘩《か》に手出しのなりがたき仕組みも有りき、今年又もや負けにならば、誰れだと思ふ横町の長《ちよう》吉《きち》だぞと平常《つね》の力だては空《から》いばりとけなされて、弁天ぼりに水およぎの折も我が組に成る人は多かるまじ、力を言はば我が方がつよけれど、田中屋が柔和《おとなし》ぶりにごまかされて、一つは学問が出来おるを恐れ、我が横町組の太《た》郎《ろ》吉《きち》、三五郎など、内々は彼方《あちら》がたに成たるも口《くち》惜《を》し、まつりは明後日《あさって》、いよいよ我が方《かた》が負け色と見えたらば、破れかぶれに暴れて暴れて、正太郎が面《つら》に┼《きず》一つ、我れも片眼片足なきものと思へば為《し》やすし、加担人《かたうど》は車屋の丑《うし》に元結《もとゆひ》よりの文《ぶん》、手遊《おもちや》屋《や》の弥《や》助《すけ》などあらば引けは取るまじ、おおそれよりはあの人の事あの人の事、藤本のならば宜《よ》き智恵も貸してくれんと、十八日の暮れちかく、物いへば眼口にうるさき蚊を払ひて竹村しげき龍華寺の庭先から信如が部屋へのそりのそりと、信《のぶ》さん居るかと顔を出しぬ。
己《お》れの為《す》る事は乱暴だと人がいふ、乱暴かも知れないが口惜《くや》しい事は口惜しいや、なあ聞いとくれ信さん、去年も己れが処の末弟《すゑ》の奴と正太郎組の短小野《ちびや》郎《ろう》と万燈《まんどう》のたたき合ひから始まつて、それといふと奴の中《なか》間《ま》がばらばらと飛出しやあがつて、どうだらう小さな者の万燈を打《ぶち》こわしちまつて、胴揚《どうあげ》にしやがつて、見やがれ横町のざまをと一人がいふと、間抜に背のたかい大人のやうな面をしてゐる団子屋の頓《とん》馬《ま》が、頭《かしら》もあるものか尻《しつ》尾《ぽ》だ尻尾だ、豚の尻尾だなんて悪口《あつこう》を言つたとさ、己らあその時千束様《せんぞくさま》へねり込んでゐたもんだから、あとで聞いた時に直様《じきさま》仕かへしに行《ゆ》かうと言つたら、親父《とつ》さんに頭から小《こ》言《ごと》を喰《く》つてその時も泣《なき》寐《ね》入《いり》、一昨年《おととし》はそらね、お前も知つてる通り筆屋の店へ表町の若衆《わかいしゆ》が寄合《よりあつ》て茶番か何かやつたらう、あの時己れが見に行つたら、横町は横町の趣向がありませうなんて、おつな事を言ひやがつて、正太ばかり客にしたのも胸にあるわな、いくら金が有るとつて質屋のくづれの高利貸が何たら様だ、あんな奴を生して置くより擲《たた》きころす方が世間のためだ、己《おい》らあ今度のまつりにはどうしても乱暴に仕掛て取かへしを付けようと思ふよ、だから信さん友達がひに、それはお前が嫌やだといふのも知れてるけれども何卒《どうぞ》我《お》れの肩を持つて、横町組の耻《はぢ》をすすぐのだから、ね、おい、本家本元の唱歌だなんて威張りおる正太郎を取《とつ》ちめてくれないか、我《お》れが私立の寐ぼけ生徒といはれればお前の事も同然だから、後生だ、どうぞ、助けると思つて大《おほ》万燈を振廻しておくれ、己れは心《しん》から底から口惜しくつて、今度負けたら長吉の立《たち》端《ば》は無いと無茶にくやしがつて大幅の肩をゆすりぬ。だつて僕は弱いもの。弱くても宜《い》いよ。万燈は振廻せないよ。振廻さなくても宜いよ。僕が這入《はい》ると負けるが宜いかヘ。負けても宜いのさ、それは仕方が無いと諦《あきら》めるから、お前は何も為《し》ないで宜いから唯横町の組だといふ名で、威張つてさへくれると豪《ごう》気《ぎ》に人《じん》気《き》がつくからね、己れはこんな無学漢《わからずや》だのにお前は学《もの》が出来るからね、向ふの奴が漢語か何かで冷語《ひやかし》でも言つたら、此方《こっち》も漢語で仕かへしておくれ、ああ好《い》い心持ださつぱりしたお前が承知をしてくれればもう千人力だ、信さん有がたうと常に無い優しき言葉も出《いづ》るものなり。
一人は三尺帯に突《つツ》かけ草履の仕事師の息子、一人はかわ色金巾《がなきん》の羽織に紫の兵子《へこ》帯《おび》といふ坊様仕《じ》立《たて》、思ふ事はうらはらに、話しは常に喰ひ違ひがちなれど、長吉は我が門前に産声《うぶごゑ》を揚げしものと大和尚《だいおしよう》夫婦が贔負《ひいき》もあり、同じ学校へかよへば私立私立とけなされるも心わるきに、元来愛敬のなき長吉なれば心から味方につく者もなき憐《あは》れさ、先方《さき》は町内の若《わかい》衆《しゆ》どもまで尻押をして、ひがみでは無し長吉が負けを取る事罪は田中屋がたに少なからず、見かけて頼まれし義理としても嫌やとは言ひかねて信如、それではお前の組に成るさ、成るといつたら嘘は無いが、なるべく喧嘩は為《せ》ぬ方が勝だよ、いよいよ先方《さき》が売りに出たら仕方が無い、何いざと言へば田中の正太郎位小指の先さと、我が力の無いは忘れて、信如は机の引出しから京都みやげに貰ひたる、小《こ》鍛冶《かじ》の小刀《こがたな》を取出して見すれば、よく利れそうだねへと覗《のぞ》き込む長吉が顔、あぶなし此物《これ》を振廻してなる事か。
三
解かば足にもとどくべき毛髪《かみ》を、根あがりに堅くつめて前髪大きく髷《まげ》おもたげの、赭熊《しやぐま》といふ名は恐ろしけれど、此髷《これ》をこの頃の流《はや》行《り》とて良家《よきしゆ》の令嬢《むすめご》も遊ばさるるぞかし、色白に鼻筋とほりて、口もとは小さからねど締りたれば醜くからず、一つ一つに取たてては美人の鑑《かがみ》に遠けれど、物いふ声の細く清《すず》しき、人を見る目の愛敬あふれて、身のこなしの活《いき》々《いき》したるは快き物なり、柿色に蝶鳥《ちようとり》を染めたる大形の裕衣《ゆかた》きて、黒襦《くろじゆ》子《す》と染分《そめわけ》絞りの昼夜《ちゆうや》帯《おび》胸だかに、足にはぬり木《ぼく》履《り》ここらあたりにも多くは見かけぬ高きをはきて、朝湯の帰りに首筋白々と手拭さげたる立姿を、今三年の後《のち》に見たしと廓《くるわ》がへりの若者は申き、大黒《だいこく》屋《や》の美登利《みどり》とて生国《しようこく》は紀州、言葉のいささか訛《なま》れるも可愛《かわゆ》く、第一は切れ離れよき気象を喜ばぬ人なし、子供に似合ぬ銀貨入れの重きも道理、姉なる人が全盛の余波《なごり》、延《ひ》いては遣《やり》手《て》新造《しんぞ》が姉への世辞にも、美いちやん人形をお買ひなされ、これはほんの手《て》鞠代《まりだい》と、くれるに恩を着せねば貰ふ身の有がたくも覚えず、まくはまくは、同級の女生徒二十人に揃《そろ》ひのごむ鞠を与へしはおろかの事、馴《な》染《じみ》の筆やに店《たな》ざらしの手遊《てあそび》を買しめて喜ばせし事もあり、さりとは日々《にちにち》夜々《やや》の散財この歳この身分にて叶《かな》ふべきにあらず、末は何となる身ぞ、両親ありながら大目に見てあらき詞《ことば》をかけたる事も無く、楼の主《あるじ》が大切がる様子《さま》も怪しきに、聞けば養女にもあらず親戚《しんせき》にてはもとより無く、姉なる人が身売りの当時、鑑定《めきき》に来たりし楼の主が誘ひにまかせ、この地に活計《たつき》もとむとて親子三人《みたり》が旅衣、たち出《いで》しはこの訳、それより奥は何なれや、今は寮のあづかりをして母は遊女の仕立物、父は小格子の書記に成りぬ、この身は遊芸手芸学校にも通はせられて、そのほかは心のまま、半日は姉の部屋、半日は町に遊んで見聞くは三味《さみ》に太鼓にあけ紫のなり形、はじめ藤色絞りの半襟《はんゑり》を袷《あはせ》にかけて着て歩るきしに、田舎者いなか者と町内の娘どもに笑はれしを口惜《くや》しがりて、三日三夜泣きつづけし事も有しが、今は我れより人々を嘲《あざけ》りて、野暮な姿と打《うち》つけの悪《にく》まれ口を、言ひ返すものも無く成りぬ。二十日はお祭りなれば心一ぱい面白い事をしてと友達のせがむに、趣向は何なりと各自《めいめい》に工夫して大勢の好い事が好いでは無いか、幾金《いくら》でもいい私が出すからとて例の通り勘定なしの引受けに、子供中間の女王様《によおうさま》又とあるまじき恵みは大人よりも利きが早く、茶番にしよう、何処のか店を借りて徃来から見えるやうにしてと一人が言へば、馬鹿を言へ、それよりはお神《み》輿《こし》をこしらへておくれな、蒲《かば》田屋《たや》の奥に飾つてあるやうな本当のを、重くても搆《かまい》はしない、や《・》つちよいやつちよい《・・・・・・・・・》訳なしだと捩《ね》ぢ鉢巻をする男子《おとこ》のそばから、それでは私たちがつまらない、皆《みんな》が騒ぐを見るばかりでは美登利さんだとて面白くはあるまい、何でもお前の好い物におしよと、女の一むれは祭りを抜きに常《とき》盤《は》座《ざ》をと、言ひたげの口振《くちぶり》をかし、田中の正太は可愛らしい眼をぐるぐると動かして、幻燈にしないか、幻燈に、己れの処にも少しは有るし、足りないのを美登利さんに買つて貰つて、筆やの店で行《や》らうでは無いか、己れが映し人《て》で横町の三五郎に口上を言はせよう、美登利さんそれにしないかと言へば、ああそれは面白からう、三ちやんの口上ならば誰れも笑はずにはゐられまい、序《ついで》にあの顔がうつると猶《なほ》おもしろいと相談はととのひて、不足の品を正太が買物役、汗に成りて飛び廻るもをかしく、いよいよ明日《あす》と成りては横町までもその沙汰《さた》聞えぬ。
四
打つや鼓《つづみ》のしらベ、三味の音《ね》色《いろ》に事かかぬ場処も、祭りは別物、酉《とり》の市《いち》を除《の》けては一年一度の賑《にぎは》ひぞかし、三《み》嶋《しま》さま小野《をの》照《てる》さま、お隣社《となり》づから負けまじの競ひ心をかしく、横町も表も揃ひは同じ真《ま》岡《おか》木綿に町名くづしを、去歳《こぞ》よりは好からぬ形《かた》とつぶやくも有りし、口なし染の麻だすきなるほど太きを好みて、十四五より以下なるは、達《だる》磨《ま》、木兎《みみづく》、犬はり子、さまざまの手遊を数多きほど見得にして、七つ九つ十一つくるもあり、大鈴小鈴背中にがらつかせて、駆け出す足袋《たび》はだしの勇ましく可笑《をか》し、群れを離れて田中の正太が赤筋入りの印半天《しるしばんてん》、色白の首筋に紺の腹がけ、さりとは見なれぬ扮粧《いでたち》とおもふに、しごいて締めし帯の水浅《みづあさ》黄《ぎ》も、見よや縮緬《ちりめん》の上染《じようぞめ》、襟《ゑり》の印のあがりも際立《きわだち》て、うしろ鉢巻きに山車《だし》の花一枝《し》、革《かわ》緒《を》の雪《せつ》駄《た》おとのみはすれど、馬鹿ばやしの中《なか》間《ま》には入らざりき、夜《よ》宮《みや》は事なく過ぎて今日一日の日も夕ぐれ、筆やが店に寄合しは十二人、一人かけたる美登利が夕化粧の長さに、未《ま》だか未だかと正太は門《かど》へ出つ入りつして、呼んで来い三五郎、お前はまだ大黒屋の寮へ行つた事があるまい、庭先から美登利さんと言へば聞える筈、早く、早くと言ふに、それならば己《お》れが呼んで来る、万燈は此《こ》処《こ》へあづけて行けば誰れも蝋燭《ろうそく》ぬすむまい、正太さん番をたのむとあるに、吝嗇《けち》な奴め、その手間で早く行けと我が年したに叱かられて、おつと来たさの次郎左衛《じろざゑ》門《もん》、今の間とかけ出して韋駄《いだ》天《てん》とはこれをや、あれあの飛びやうが可笑しいとて見送りし女《おな》子《ご》どもの笑ふも無理ならず、横ぶとりして背ひくく、頭《つむり》の形《なり》は才槌《さいづち》とて首みぢかく、振むけての面《おもて》を見れば出額《でびたい》の獅子《しし》鼻《ばな》、反《そつ》歯《ぱ》の三五郎といふ仇《あだ》名《な》おもふべし、色は論なく黒きに感心なは目つき何処までもおどけて両の頬《ほう》に笑《ゑ》くぼの愛敬、目かくしの福笑ひに見るやうな眉のつき方も、さりとはをかしく罪の無き子なり、貧なれや阿波《あわ》ちぢみの筒袖、己れは揃ひが間に合はなんだと知らぬ友には言ふぞかし、我れを頭《かしら》に六人の子供を、養ふ親も轅棒《かぢぼう》にすがる身なり、五十軒によき得意場は持《もち》たりとも、内証の車は商買ものの外なれば詮なく、十三になれば片腕と一昨年《おととし》より並木の活判処《かつばんじよ》へも通ひしが、怠惰《なまけ》ものなれば十日の辛棒つづかず、一ト月と同じ職も無くて霜月《しもつき》より春へかけては突《つく》羽《ば》根《ね》の内職、夏は検査場《ば》の氷屋が手伝ひして、呼声をかしく客を引くに上手なれば、人には調法がられぬ、去年《こぞ》は仁和賀の台引きに出《いで》しより、友達いやしがりて万年町《まんねんちよう》の呼名今に残れども、三五郎といへば滑稽《おどけ》者《もの》と承知して憎くむ者の無きも一徳なりし、田中屋は我が命の綱、親子が蒙《かう》むる御恩すくなからず、日歩とかや言ひて利金安からぬ借りなれど、これなくてはの金主様《きんしゆさま》あだには思ふべしや、三公己れが町へ遊びに来いと呼ばれて嫌やとは言はれぬ義理あり、されども我れは横町に生れて横町に育ちたる身、住む地処は龍華寺のもの、家主《いゑぬし》は長吉が親なれば、表むき彼方《かなた》に背《そむ》く事かなはず、内々に此方《こつち》の用をたして、にらまるる時の役廻りつらし。正太は筆やの店へ腰をかけて、待つ間のつれづれに忍ぶ恋路を小声にうたへば、あれ由断がならぬと内儀《かみ》さまに笑はれて、何がなしに耳の根あかく、まぢくないの高声に皆《みんな》も来いと呼つれて表へ駆け出す出合頭《であいがしら》、正太は夕飯なぜ喰べぬ、遊びに耄《ほう》けて先刻《さつき》にから呼ぶをも知らぬか、誰《どな》様《た》も又のちほど遊ばせて下され、これは御世話と筆やの妻にも挨拶して、祖母《ばば》が自からの迎ひに正太いやが言はれず、そのまま連れて帰らるるあとは俄《には》かに淋しく、人《にん》数《ず》はさのみ変らねどあの子が見えねば大人までも寂しい、馬鹿さわぎもせねば串談《じようだん》も三ちやんの様では無けれど、人好きのするは金持の息子さんに珎《めづ》らしい愛敬、何と御覧じたか田中屋の後家さまがいやらしさを、あれで年は六十四、白《おし》粉《ろい》をつけぬがめつけ物なれど丸髷《まるまげ》の大きさ、猫なで声して人の死ぬをも搆《かま》はず、大方臨終《おしまい》は金と情死《しんじゆう》なさるやら、それでも此方《こち》どもの頭《つむり》の上らぬはあの物の御威光、さりとは欲しや、廓内《なか》の大きい楼《うち》にも大分の貸付があるらしう聞きましたと、大路に立ちて二三人の女房よその財産《たから》を数へぬ。
五
待つ身につらき夜半《よは》の置《おき》炬《ご》燵《たつ》、それは恋ぞかし、吹風《ふくかぜ》すずしき夏の夕ぐれ、ひるの暑さを風呂に流して、身じまいの姿見、母親が手づからそそけ髪つくろひて、我が子ながら美くしきを立ちて見、居て見、首筋が薄かつたと猶《なほ》ぞいひける、単衣《ひとへ》は水色友仙《みづいろゆうぜん》の涼しげに、白茶金《しらちやきん》らんの丸帯少し幅の狭いを結ばせて、庭石に下駄直すまで時は移りぬ。まだかまだかと塀《へい》の廻りを七度び廻り、欠伸《あくび》の数も尽きて、払ふとすれど名物の蚊に首筋額ぎわした《・・》たか《・・》螫《ささ》れ、三五郎弱りきる時、美登利立出でていざと言ふに、此方《こなた》は言葉もなく袖を捉《とら》へて駆け出せば、息がはづむ、胸が痛い、そんなに急ぐならば此方《こち》は知らぬ、お前一人でお出《いで》と怒られて、別れ別れの到着、筆やの店へ来し時は正太が夕飯の最《も》中《なか》とおぼえし。ああ面白くない、おもしろくない、あの人が来なければ幻燈をはじめるのも嫌、伯母さん此処《ここ》の家《うち》に智恵の板は売りませぬか、十六武蔵《むさし》でも何でもよい、手が暇で困ると美登利の淋しがれば、それよと即坐に鋏《はさみ》を借りて女《おな》子《ご》づれは切抜きにかかる、男は三五郎を中に仁和賀のさらひ、北廓《ほつかく》全盛見わたせば、軒は提燈《ちようちん》電気燈、いつも賑《にぎは》ふ五丁町、と諸声《もろごゑ》をかしくはやし立つるに、記憶《おぼえ》のよければ去年《こぞ》一昨年《おととし》とさかのぼりて、手振手拍子ひとつも変る事なし、うかれ立たる十人あまりの騒ぎなれば何事と門《かど》に立ちて人垣をつくりし中より、三五郎は居るか、一寸《ちよつと》来てくれ大急ぎだと、文《ぶん》次《じ》といふ元結《もとゆひ》よりの呼ぶに、何の用意もなくおいしよ、よし来たと身がるに敷居を飛こゆる時、この二タ股《また》野《や》郎《ろう》覚悟をしろ、横町の面《つら》よごしめ唯は置かぬ、誰れだと思ふ長吉だ生《なま》ふざけた真似をして後悔するなと頬骨《ほうぼね》一撃《うち》、あつと魂消《たまげ》て逃入る襟がみを、つかんで引出す横町の一むれ、それ三五郎をたたき殺せ、正太を引出してやつてしまヘ、弱虫にげるな、団子屋の頓馬も唯は置かぬと潮《うしほ》のやうに沸かへる騒ぎ、筆屋が軒の掛提燈は苦もなくたたき落されて、釣りらんぷ危なし店先の喧嘩なりませぬと女房が喚《わめ》きも聞かばこそ、人《にん》数《ず》は大凡《おほよそ》十四五人、ねぢ鉢巻に大万燈ふりたてて、当るがままの乱暴狼藉《ろうぜき》、土足に踏み込む傍若無人、目ざす敵《かたき》の正太が見えねば、何処へ隠くした、何処へ逃げた、さあ言はぬか、言はぬか、言はさずに置く物かと三五郎を取こめて撃つやら蹴《け》るやら、美登利くやしく止める人を掻《か》きのけて、これお前がたは三ちやんに何の咎《とが》がある、正太さんと喧嘩がしたくば正太さんとしたが宜い、逃げもせねば隠くしもしない、正太さんは居ぬでは無いか、此処は私が遊び処、お前がたに指でもささしはせぬ、ゑゑ憎くらしい長吉め、三ちやんを何故《なぜ》ぶつ、あれ又引たほした、意趣があらば私をお撃《ぶ》ち、相手には私がなる、伯母さん止めずに下されと身もだへして罵《ののし》れば、何を女郎め頬桁《ほうげた》たたく、姉の跡つぎの乞食め、手《て》前《めへ》の相手にはこれが相応だと多人数《おほく》のうしろより長吉、泥草履つかんで投つければ、ねらひ違《たが》はず美登利が額際にむさき物したたか、血相かへて立あがるを、怪我でもしてはと抱きとむる女房、ざまを見ろ、此方《こち》には龍華寺の藤本がついてゐるぞ、仕かへしには何時《いつ》でも来い、薄馬鹿野郎め、弱虫め、腰ぬけの活《いく》地《じ》なしめ、帰りには待伏せする、横町の闇に気をつけろと三五郎を土間に投出せば、折から靴音たれやらが交番への注進今ぞしる、それと長吉声をかくれば丑松《うしまつ》文次その余《よ》の十余人、方角をかへてばらばらと逃足はやく、抜け裏の露路にかがむも有るべし、口惜しいくやしい口惜しい口惜しい、長吉め文次め丑松め、なぜ己れを殺さぬ、殺さぬか、己れも三五郎だ唯死ぬものか、幽《ゆうれい》になつても取殺すぞ、覚えてゐろ長吉めと湯玉のやうな涙はらはら、はては大声にわつと泣き出《いだ》す、身内や痛からん筒袖の処々引さかれて背中も腰も砂まぶれ、止めるにも止めかねて勢ひの悽《すさ》まじさに唯おどおどと気を呑まれし、筆やの女房走り寄りて抱きおこし、背中《せな》をなで砂を払ひ、堪忍《かんにん》をし、堪忍をし、何と思つても先方《さき》は大勢、此方《こち》は皆よわい者ばかり、大人でさへ手が出しかねたに叶《かな》はぬは知れてゐる、それでも怪我のないは仕合《しあはせ》、この上は途中の待ぶせが危ない、幸ひの巡査《おまわり》さまに家まで見て頂かば我々も安心、この通りの子細で御座ります故と筋をあらあら折からの巡査に語れば、職掌がらいざ送らんと手を取らるるに、いゑいゑ送つて下さらずとも帰ります、一人で帰りますと小さく成るに、こりや怕《こわ》い事は無い、其方《そちら》の家《うち》まで送る分の事、心配するなと微笑を含んで頭《つむり》を撫でらるるに弥々《いよいよ》ちぢみて、喧嘩をしたと言ふと親父《とつ》さんに叱かられます、頭《かしら》の家は大屋さんで御座りますからとて凋《しほ》れるをすかして、さらば門口《かどぐち》まで送つて遣《や》る、叱からるるやうの事は為《せ》ぬわとて連れらるるに四隣《あたり》の人胸を撫でてはるかに見送れば、何とかしけん横町の角にて巡査の手をば振はなして一目散に逃げぬ。
六
めづらしい事、この炎天に雪が降りはせぬか、美登利が学校を嫌やがるはよくよくの不機嫌、朝飯がすすまずば後刻《のちかた》に鮨《やすけ》でも誂《あつら》へようか、風邪にしては熱も無ければ大方きのふの疲れと見える、太郎様への朝参りは母《かあ》さんが代理してやれば御免こふむれとありしに、いゑいゑ姉《ねえ》さんの繁昌するやうにと私が願《がん》をかけたのなれば、参らねば気が済まぬ、お賽《さい》銭《せん》下され行つて来ますと家を駆け出して、中《なか》田圃《たんぼ》の稲荷《いなり》に鰐口《わにぐち》ならして手を合せ、願ひは何ぞ行きも帰りも首うなだれて畦道《あぜみち》づたひ帰り来る美登利が姿、それと見て遠くより声をかけ、正太はかけ寄りて袂《たもと》を押へ、美登利さん昨夕《ゆふべ》は御免よと突然《だしぬけ》にあやまれば、何もお前に謝罪《わび》られる事は無い。それでも己《お》れが憎くまれて、己れが喧嘩の相手だもの、お祖母《ばあ》さんが呼びにさへ来なければ帰りはしない、そんなに無《む》暗《やみ》に三五郎をも撃《ぶ》たしはしなかつた物を、今朝《けさ》三五郎の処へ見に行つたら、彼《あ》奴《いつ》も泣いて口惜《くや》しがつた、己れは聞いてさへ口惜しい、お前の顔へ長吉め草履を投げたと言ふでは無いか、あの野郎乱暴にもほどがある、だけれど美登利さん堪忍しておくれよ、己れは知りながら逃げてゐたのでは無い、飯を掻《かつ》込《こ》んで表へ出やうとするとお祖母さんが湯に行くといふ、留守居をしてゐるうちの騒ぎだらう、本《ほん》当《と》に知らなかつたのだからねと、我が罪のやうに平あやまりに謝罪《あやまつ》て、痛みはせぬかと額際を見あげれば、美登利につこり笑ひて何負傷《けが》をするほどでは無い、それだが正さん誰れが聞いても私が長吉に草履を投げられたと言つてはいけないよ、もし万一《ひよつと》お母《つか》さんが聞きでもすると私が叱かられるから、親でさへ頭《つむり》に手はあげぬものを、長吉づれが草履の泥を額にぬられては踏まれたも同じだからとて、背《そむ》ける顔のいとをしく、本当に堪忍しておくれ、みんな己れが悪るい、だから謝る、機嫌を直してくれないか、お前に怒られると己れが困るものをと話しつれて、いつしか我家の裏近く来れば、寄らないか美登利さん、誰れも居はしない、祖母《おばあ》さんも日がけを集めに出たらうし、己ればかりで淋しくてならない、いつか話した錦絵を見せるからお寄りな、種々《いろいろ》のがあるからと袖を捉らへて離れぬに、美登利は無言にうなづいて、佗《わ》びた折戸の庭口より入れば、広からねども鉢ものをかしく並びて、軒につり忍艸《しのぶ》、これは正太が午《うま》の日の買物と見えぬ、理由《わけ》しらぬ人は小首やかたぶけん町内一の財産家《ものもち》といふに、家内は祖母《ばば》と此子《これ》二人、万《よろづ》の鍵《かぎ》に下腹冷えて留守は見渡しの総長屋、さすがに錠前くだくもあらざりき、正太は先へあがりて風入りのよき場処《ところ》を見たてて、此処へ来ぬかと団扇《うちわ》の気あつかひ、十三の子供にはませ過ぎてをかし。古くより持つたへし錦絵かずかず取出《とりいだ》し、褒めらるるを嬉しく美登利さん昔しの羽子板を見せよう、これは己れの母《かか》さんがお邸《やしき》に奉公してゐる頃いただいたのだとさ、をかしいでは無いかこの大きい事、人の顔も今のとは違ふね、ああこの母さんが生きてゐると宜いが、己れが三つの歳死んで、お父《とつ》さんは在るけれど田舎の実家へ帰つてしまつたから今は祖母《おばあ》さんばかりさ、お前は浦山《うらやま》しいねと無端《そぞろ》に親の事を言ひ出せば、それ絵がぬれる、男が泣く物では無いと美登利に言はれて、己れは気が弱いのかしら、時々種々《いろいろ》の事を思ひ出すよ、まだ今時分は宜いけれど、冬の月夜なにかに田《た》町《まち》あたりを集めに廻ると土手まで来て幾度も泣いた事がある、何さむい位で泣きはしない、何故だか自分も知らぬが種々の事を考へるよ、ああ一昨年《おととし》から己れも日がけの集めに廻るさ、祖母さんは年寄りだからそのうちにも夜るは危ないし、目が悪るいから印形《いんぎよう》を押たり何かに不自由だからね、今まで幾人《いくたり》も男を使つたけれど、老人《としより》に子供だから馬鹿にして思ふやうには動いてくれぬと祖母さんが言つてゐたつけ、己れがもう少し大人に成ると質屋を出さして、昔しの通りでなくとも田中屋の看板をかけると楽しみにしてゐるよ、他《よ》処《そ》の人は祖母さんを吝《けち》だと言ふけれど、己れの為に倹約《つましく》してくれるのだから気の毒でならない、集金《あつめ》に行くうちでも通新町《とほんしんまち》や何かに随分可愛想なのが有るから、さぞお祖母さんを悪るくいふだらう、それを考へると己れは涙がこぼれる、やつぱり気が弱いのだね、今朝も三公の家《うち》へ取りに行つたら、奴め身体《からだ》が痛い癖に親父に知らすまいとして働いてゐた、それを見たら己れは口が利けなかつた、男が泣くてへのは可笑《をか》しいでは無いか、だから横町の野蕃漢《じやがたら》に馬鹿にされるのだと言ひかけて我が弱いを耻かしさうな顔色《かほいろ》、何心なく美登利と見合す目つきの可愛《かわゆ》さ。お前の祭の姿《なり》は大層よく似合つて浦山しかつた、私も男だとあんな風がして見たい、誰れのよりも宜く見えたと賞められて、何だ己れなんぞ、お前こそ美くしいや、廓内《なか》の大巻《おほまき》さんよりも奇麗だと皆《みんな》がいふよ、お前が姉であつたら己れはどんなに肩身が広かろう、何処へゆくにも追従《つい》て行つて大威張りに威張るがな、一人も兄弟が無いから仕方が無い、ねへ美登利さん今度一処に写真を取らないか、我《お》れは祭りの時の姿《なり》で、お前は透《すき》綾《や》のあら縞で意気な形《なり》をして、水道尻《すいどうじり》の加藤でうつさう、龍華寺の奴が浦山しがるやうに、本当だぜ彼《あ》奴《いつ》はきつと怒るよ、真青に成つて怒るよ、にゑ肝だからね、赤くはならない、それとも笑ふかしら、笑はれても搆《かま》はない、大きく取つて看板に出たら宜《い》いな、お前は嫌やかへ、嫌やのやうな顔だものと恨めるもをかしく、変な顔にうつるとお前に嫌らはれるからとて美登利ふき出して、高笑ひの美音に御機嫌や直りし。
朝冷《あさすず》はいつしか過ぎて日かげの暑くなるに、正太さん又晩によ、私の寮へも遊びにお出でな、燈籠《とうろう》ながして、お魚追ひましよ、池の橋が直つたれば怕《こわ》い事は無いと言ひ捨てに立出《たちいづ》る美登利の姿、正太うれしげに見送つて美くしと思ひぬ。
七
龍華寺の信如、大黒屋の美登利、二人ながら学校は育英舎なり、去りし四月の末つかた、桜は散りて青葉のかげに藤の花見といふ頃、春季の大運動会とて水《みづ》の谷《や》の原にせし事ありしが、つな引、鞠《まり》なげ、縄とびの遊びに興をそへて長き日の暮るるを忘れし、その折の事とや、信如いかにしたるか平常《へいぜい》の沈着《おちつき》に似ず、池のほとりの松が根につまづきて赤土道に手をつきたれば、羽織の袂《たもと》も泥に成りて見にくかりしを、居あはせたる美登利みかねて我が紅《くれない》の絹はんけちを取出《とりいだ》し、これにてお拭きなされと介抱をなしけるに、友達の中なる嫉妬《やきもち》や見つけて、藤本は坊主のくせに女と話をして、嬉しさうに礼を言つたは可笑《をか》しいでは無いか、大方美登利さんは藤本の女房《かみさん》になるのであらう、お寺の女房なら大黒さまと言ふのだなどと取《とり》沙汰《さた》しける、信如元来かかる事を人の上に聞くも嫌ひにて、苦き顔して横を向く質《たち》なれば、我が事として我慢のなるべきや、それよりは美登利といふ名を聞くごとに恐ろしく、又あの事を言ひ出すかと胸の中もやくやして、何とも言はれぬ厭《い》やな気持なり、さりながら事ごとに怒りつける訳にもゆかねば、なるだけは知らぬ躰《てい》をして、平気をつくりて、むづかしき顔をして遣《や》り過ぎる心なれど、さし向ひて物などを問はれたる時の当惑さ、大方は知りませぬの一ト言にて済ませど、苦しき汗の身うちに流れて心ぼそき思ひなり、美登利はさる事も心にとまらねば、最初《はじめ》は藤本さん藤本さんと親しく物いひかけ、学校退《ひ》けての帰りがけに、我れは一足はやくて道端に珎《めづ》らしき花などを見つくれば、おくれし信如を待合して、これこんなうつくしい花が咲てあるに、枝が高くて私《わたし》には折れぬ、信《のぶ》さんは背《せい》が高ければお手が届きましよ、後生折つて下されと一むれの中にては年長《としかさ》なるを見かけて頼めば、さすがに信如袖ふり切りて行《ゆき》すぎる事もならず、さりとて人の思はくいよいよ愁《つ》らければ、手近の枝を引寄せて好悪《よしあし》かまはず申訳ばかりに折りて、投つけるやうにすたすたと行過ぎるを、さりとは愛敬の無き人と惘《あき》れし事も有しが、度かさなりての末には自《おのづか》ら故意《わざと》の意地悪のやうに思はれて、人にはさもなきに我れにばかり愁らき処為《しうち》をみせ、物を問へば碌《ろく》な返事した事なく、傍《そば》へゆけば逃げる、はなしを為《す》れば怒る、陰気らしい気のつまる、どうして好《よ》いやら機嫌の取りやうも無い、あのやうなむづかしやは思ひのままに捻《ひね》れて怒つて意地わるが為《し》たいならんに、友達と思はずは口を利くも入らぬ事と美登利少し疳《かん》にさはりて、用の無ければ摺《す》れ違ふても物いふた事なく、途中に逢ひたりとて挨拶など思ひもかけず、唯いつとなく二人の中に大川一つ横たはりて、舟も筏《いかだ》も此処には御《ご》法《はつ》度《と》、岸に添ふておもひおもひの道をあるきぬ。
祭りは昨日《きのふ》に過ぎてそのあくる日より美登利の学校へ通ふ事ふつと跡たえしは、問ふまでも無く額の泥の洗ふても消えがたき耻辱《ちじよく》を、身にしみて口惜《くや》しければぞかし、表町とて横町とて同じ教場におし並べば朋輩《ほうばい》に変りは無き筈を、をかしき分け隔てに常日頃意地を持ち、我れは女の、とても敵《かな》ひがたき弱味をば付目にして、まつりの夜《よ》の処為《しうち》はいかなる卑《ひ》怯《きよう》ぞや、長吉のわからずやは誰《た》れも知る乱暴の上なしなれど、信如の尻おし無くはあれほどに思ひ切りて表町をば暴《あら》し得じ、人前をば物識《ものしり》らしく温順《すなほ》につくりて、陰に廻りて機関《からくり》の糸を引しは藤本の仕業に極《きわ》まりぬ、よし級は上にせよ、学《もの》は出来るにせよ、龍華寺さまの若旦那にせよ、大黒屋の美登利紙一枚のお世話にも預からぬ物を、あのやうに乞食呼《よば》はりして貰ふ恩は無し、龍華寺はどれほど立派な檀《だん》家《か》ありと知らねど、我が姉《あね》さま三年の馴《な》染《じみ》に銀行の川様、兜町《かぶとちよう》の米《よね》様もあり、議員の短小《ちい》さま根《ね》曳《びき》して奥さまにと仰せられしを、心意気気に入らねば姉さま嫌ひてお受けはせざりしが、あの方とても世には名高きお人と遣《やり》手《て》衆《しゆ》の言はれし、嘘ならば聞いて見よ、大黒やに大巻の居ずはあの楼《いゑ》は闇とかや、さればお店《みせ》の旦那とても父《とと》さん母《かか》さん我が身をも粗畧《そりやく》には遊ばさず、常々大切がりて床の間にお据へなされし瀬戸物の大黒様をば、我れいつぞや坐敷の中にて羽根つくとて騒ぎし時、同じく並びし花瓶《はないけ》を仆《たお》し、散々に破損《けが》をさせしに、旦那次の間に御《ご》酒《しゆ》めし上りながら、美登利お転婆が過ぎるのと言はれしばかり小言は無かりき、他の人ならば一通りの怒りでは有るまじと、女子《おんな》衆《しゆ》達にあとあとまで羨《うらや》まれしも必竟《ひつきよう》は姉さまの威光ぞかし、我れ寮住居《ずまい》に人の留守居はしたりとも姉は大黒屋の大巻、長吉風情に負《ひ》けを取るべき身にもあらず、龍華寺の坊さまにいぢめられんは心外と、これより学校へ通ふ事おもしろからず、我ままの本性あなどられしが口惜しさに、石筆《せきひつ》を折り墨をすて、書物《ほん》も十露《そろ》盤《ばん》も入らぬ物にして、中《なか》よき友と埒《らち》も無く遊びぬ。
八
走れ飛ばせの夕べに引かへて、明けの別れに夢をのせ行く車の淋しさよ、帽子まぶかに人目を厭《いと》ふ方様《かたさま》もあり、手拭とつて頬《ほう》かふり、彼女《あれ》が別れに名残の一撃《ひとうち》、いたさ身にしみて思ひ出すほど嬉しく、うす気味わるやにたにたの笑ひ顔、坂本へ出《いで》ては用心し給へ千住《せんぢゆ》がへりの青物車《あおものぐるま》にお足元あぶなし、三嶋様の角までは気違ひ街道、御顔《おんかほ》のしまり何《いづ》れも緩《ゆ》るみて、はばかりながら御鼻《おんはな》の下ながながと見えさせ給へば、そんじよ其処《そこ》らにそれ大した御《ご》男《なん》子《し》様《さま》とて、分厘《ふんりん》の価値《ねうち》も無しと、辻に立ちて御慮外を申もありけり。楊《よう》家《か》の娘君寵《くんちよう》をうけてと長恨歌《ちようごんか》を引出《ひきいだ》すまでもなく、娘の子は何処《いづこ》にも貴重がらるる頃なれど、このあたりの裏屋より赫《かく》奕《や》姫《ひめ》の生るる事その例多し、築《つき》地《ぢ》の某《それ》屋《や》に今は根を移して御前さま方の御《おん》相手、踊りに妙を得し雪といふ美《び》形《けい》、唯今のお座敷にてお米のなります木はと至極あどけなき事は申とも、もとは此町《ここ》の巻帯党《まきおびづれ》にて花がるたの内職せしものなり、評判はその頃に高く去るもの日々に踈《うと》ければ、名物一つかげを消して二度目の花は紺《こう》屋《や》の乙娘《おとむすめ》、今千束町《せんぞくまち》に新つた屋の御神燈ほのめかして、小《こ》吉《きち》と呼ばるる公園の尤物《まれもの》も根生《ねお》ひは同じ此処《ここ》の土成し、あけくれの噂にも御出世といふは女に限りて、男は塵塚《ちりづか》さがす黒斑《くろぶち》の尾の、ありて用なき物とも見ゆべし、この界隈《かいわい》に若い衆《しゆ》と呼ばるる町並の息子、生意気ざかりの十七八より五人組七人組、腰に尺八の伊達《だて》はなけれど、何とやら厳めしき名の親分が手下《てか》につきて、揃ひの手ぬぐひ長提燈《ながぢようちん》、賽《さい》ころ振る事おぼえぬうちは素見《ひやかし》の格子先に思ひ切つての串談《じようだん》も言ひがたしとや、真面目につとむる我が家業は昼のうちばかり、一風呂浴びて日の暮れゆけば突《つき》かけ下駄に七五三の着物、何屋の店の新《しん》妓《こ》を見たか、金杉《かなすぎ》の糸屋が娘に似てもう一倍鼻がひくいと、頭脳《あたま》の中をこんな事にこしらへて、一軒ごとの格子に烟草《たばこ》の無理どり鼻紙の無心、打ちつ打たれつこれを一世《せ》の誉《ほまれ》と心得れば、堅気の家の相続息子地《じ》廻《まわ》りと改名して、大門際《おほもんぎわ》に喧嘩かひと出るもありけり、見よや女子《おんな》の勢力《いきほひ》と言はぬばかり、春秋《はるあき》しらぬ五丁町の賑ひ、送りの提燈《かんばん》いま流行《はや》らねど、茶屋が廻女《まわし》の雪《せつ》駄《た》のおとに響き通へる歌舞音《おん》曲《ぎよく》、うかれうかれて入《いり》込《こ》む人の何を目当と言問はば、赤ゑり赭熊《しやぐま》に裲襠《うちかけ》の裾ながく、につと笑ふ口元目もと、何処が美《よ》いとも申がたけれど華魁《おいらん》衆《しゆ》とて此処にての敬ひ、立はなれては知るによしなし、かかる中にて朝夕《あさゆふ》を過ごせば、衣《きぬ》の白《しら》地《じ》の紅《べに》に染《し》む事無理ならず、美登利の眼の中に男といふ者さつても怕《こわ》からず恐ろしからず、女郎といふ者さのみ賤《いや》しき勤めとも思はねば、過ぎし故郷を出立《しゆつたつ》の当時ないて姉をば送りしこと夢のやうに思はれて、今日この頃の全盛に父母への孝養うらやましく、お職を徹《とほ》す姉が身の、憂いの愁《つ》らいの数も知らねば、まち人恋ふる鼠なき格子の咒文《じゆもん》、別れの背中《せな》に手加減の秘密《おく》まで、唯おもしろく聞なされて、廓《くるわ》ことばを町にいふまで去りとは耻かしからず思へるも哀《あはれ》なり、年はやうやう数への十四、人形抱いて頬《ほう》ずりする心は御華族のお姫様とて変りなけれど、修身の講義、家政学のいくたても学びしは学校にてばかり、誠あけくれ耳に入《い》りしは好いた好かぬの客の風説《うはさ》、仕着せ積み夜具 茶屋への行《ゆき》わたり、派手は美事に、かなはぬは見すぼらしく、人事我事分別をいふはまだ早し、幼な心に目の前の花のみはしるく、持まへの負けじ気性は勝手に馳《は》せ廻りて雲のやうな形をこしらへぬ、気違ひ街道、寐《ね》ぼれ道、朝がへりの殿がた一順すみて朝寐の町も門《かど》の箒目青海《ははきめせいがい》波《は》をゑがき、打水よきほどに済みし表町の通りを見渡せば、来るは来るは、万年町山伏町《まんねんちようやまぶしちよう》、新谷町《しんたにまち》あたりを塒《ねぐら》にして、一能一術これも芸人の名はのがれぬ、よかよか飴《あめ》や軽業師、人形つかひ大《だい》神楽《かぐら》、住吉《すみよし》をどりに角《かく》兵衛獅子《べいじし》、おもひおもひの扮粧《いでたち》して、縮緬透《ちりめんすき》綾《や》の伊達もあれば、薩《さつ》摩《ま》がすりの洗ひ着に黒襦《くろじゆ》子《す》の幅狭帯、よき女もあり男もあり、五人七人十人一組の大たむろもあれば、一人淋しき痩せ老爺《おやぢ》の破《や》れ三味《ざみ》線《せん》かかへて行くもあり、六つ五つなる女の子に赤襷《あかだすき》させて、あれは紀の国おどらするも見ゆ、お顧客《とくい》は廓内《かくない》に居つづけ客のなぐさみ、女郎の憂さ晴らし、彼《かし》処《こ》に入る身の生涯やめられぬ得分ありと知られて、来るも来るも此処らの町に細かしき貰ひを心に止めず、裾に海草《みるめ》のいかがはしき乞食さへ門《かど》には立たず行過《ゆきすぎ》るぞかし、容貌《きりよう》よき女太夫《おんなだゆう》の笠にかくれぬ床《ゆか》しの頬を見せながら、喉《のど》自《じ》慢《まん》、腕自慢、あれあの声をこの町には聞かせぬが憎くしと筆やの女房舌うちして言へば、店先に腰をかけて徃来《ゆきき》を眺めし湯がへりの美登利、はらりと下る前髪の毛を黄楊《つげ》の櫛《びんぐし》にちやつと掻《か》きあげて、伯母さんあの太夫さん呼んで来ませうとて、はたはた駆けよつて袂《たもと》にすがり、投げ入れし一品《しな》を誰《た》れにも笑つて告げざりしが好みの明烏《あけがらす》さらりと唄はせて、又御《ご》贔《ひい》負《き》をの嬌音《きようおん》これたやすくは買ひがたし、あれが子供の処業《しわざ》かと寄集りし人舌を巻いて太夫よりは美登利の顔を眺めぬ、伊達には通るほどの芸人を此処にせき止めて、三味《さみ》の音《ね》、笛の音、太鼓の音、うたはせて舞はせて人の為《せ》ぬ事して見たいと折ふし正太に凵sささや》いて聞かせれば、驚いて呆《あき》れて己《おい》らは嫌やだな。
九
如《によ》是我《ぜが》聞《もん》、仏説《ぶつせつ》阿弥《あみ》陀経《だきよう》、声は松風に和《か》して心のちりも吹払はるべき御寺様《おんてらさま》の庫裏《くり》より生魚《なまうを》あぶる烟《けぶ》なびきて、卵塔《らんとう》場《ば》に嬰子《やや》の襁褓《むつき》ほしたるなど、お宗旨によりて搆《かま》ひなき事なれども、法師を木のはしと心得たる目よりは、そぞろに腥《なまぐさ》く覚ゆるぞかし、龍華寺の大和尚《だいおしよう》身代と共に肥へ太りたる腹なり如何《いか》にも美事に、色つやの好きこと如何なる賞め言葉を参らせたらばよかるべき、桜色にもあらず、緋《ひ》桃《もも》の花でもなし、剃《そ》りたてたる頭《つむり》より顔より首筋にいたるまで銅色《あかがねいろ》の照りに一点のにごりも無く、白《しら》髪《が》もまじる太き眉をあげて心まかせの大笑ひなさるる時は、本堂の如来《によらい》さま驚きて台座より転《まろ》び落給はんかと危ぶまるるやうなり、御《ご》新《しん》造《ぞ》はいまだ四十の上を幾らも越さで、色白に髪の毛薄く、丸髷《まるまげ》も小さく結ひて見ぐるしからぬまでの人がら、参詣人《さんけいにん》へも愛想よく門前の花屋が口悪る嚊《かか》もとかくの蔭口を言はぬを見れば、着ふるしの裕衣《ゆかた》、総菜《そうざい》のお残りなどおのづからの御恩も蒙《かうむ》るなるべし、もとは檀家の一人成しが早くに良人《おつと》を失なひて寄る辺なき身の暫時《しばらく》ここにお針やとひ同様、口さへ濡らさせて下さらばとて洗ひ濯《そそ》ぎよりはじめてお菜ごしらへは素《もと》よりの事、墓場の掃除に男衆《おとこしゆ》の手を助くるまで働けば、和尚さま経済より割出しての御不《ごふ》憫《びん》かかり、年は二十から違うて見ともなき事は女も心得ながら、行《ゆ》き処なき身なれば結句よき死場処と人目を耻ぢぬやうに成りけり、にがにがしき事なれども女の心だて悪るからねば檀家の者もさのみは咎《とが》めず、総領の花といふを懐胎《もうけ》し頃、檀家の中にも世話好きの名ある坂本の油屋が隠居さま仲人《なかうど》といふも異な物なれど進めたてて表向きのものにしける、信如もこの人の腹より生れて男女《なんによ》二人の同胞《きようだい》、一人は如《によ》法《ほう》の変屈ものにて一日部屋の中にまぢまぢと陰気らしき生《むま》れなれど、姉のお花は皮薄の二《に》重腮《じゆうあご》かわゆらしく出来たる子なれば、美人といふにはあらねども年頃といひ人の評判もよく、素人《しろうと》にして捨てて置くは惜しい物の中に加へぬ、さりとてお寺の娘に左《ひだ》り褄《づま》、お釈《しや》迦《か》が三《しや》味《み》ひく世は知らず人の聞え少しは憚《はば》かられて、田町の通りに葉茶屋の店を奇麗にしつらヘ、帳場格子のうちにこの娘《こ》を据へて愛敬を売らすれば、秤《はか》りの目はとにかく勘定しらずの若い者など、何がなしに寄つて大方毎夜十二時を聞くまで店に客のかげ絶えたる事なし、いそがしきは大和尚、貸金の取たて、店への見廻り、法用のあれこれ、月の幾《いく》日《か》は説教日の定めもあり帳面くるやら経よむやらかくては身躰《からだ》のつづき難しと夕暮れの椽《えん》先に花むしろを敷かせ、片肌ぬぎに団扇《うちわ》づかひしながら大盃《おほさかづき》に泡盛《あわもり》をなみなみと注《つ》がせて、さかなは好物の蒲焼《かばやき》を表町のむさし屋へあらい処をとの誂《あつら》へ、承りてゆく使ひ番は信如の役なるに、その嫌やなること骨にしみて、路を歩くにも上を見し事なく、筋向ふの筆やに子供づれの声を聞けば我が事を誹《そし》らるるかと情なく、そしらぬ顔に鰻屋《うなぎや》の門《かど》を過ぎては四辺《あたり》に人目の隙をうかがひ、立戻つて駈け入る時の心地、我身限つて腥《なまぐさ》きものは食べまじと思ひぬ。
父親《てておや》和尚は何処までもさばけたる人にて、少しは欲深の名にたてども人の風説《うはさ》に耳をかたぶけるやうな小胆にては無く、手の暇あらば熊手の内職もして見やうといふ気風なれば、霜月の酉《とり》には論なく門前の明《あき》地《ち》に簪《かんざし》の店を開き、御新造に手拭ひかぶらせて縁喜の宜《い》いのをと呼ばせる趣向、はじめは耻かしき事に思ひけれど、軒ならび素人の手《て》業《わざ》にて莫大《ばくだい》の儲《もう》けと聞くに、この雑踏の中といひ誰《た》れも思ひ寄らぬ事なれば日暮れよりは目にも立つまじと思案して、昼間は花屋の女房に手伝はせ、夜に入りては自身《みづから》をり立て呼たつるに、欲なれやいつしか耻かしさも失せて、思はず声《こわ》だかに負ましよ負ましよと跡を追ふやうに成りぬ、人波にもまれて買手も眼《まなこ》の眩《くら》みし折なれば、現在後世《ごせ》ねがひに一昨日《おとつひ》来たりし門前も忘れて、簪三本七十五銭と懸《かけ》直《ね》すれば、五本ついたを三銭ならばと直切《ねぎ》つて行《ゆ》く、世はぬば玉の闇の儲《もうけ》はこのほかにも有るべし、信如はかかる事どもいかにも心ぐるしく、よし檀家の耳には入らずとも近辺の人々が思わく、子供仲間の噂にも龍華寺では簪の店を出して、信さんが母《かか》さんの狂気面《きちがひづら》して売つてゐたなどと言はれもするやと耻かしく、そんな事はよしにしたが宜う御坐りませうと止めし事もありしが、大和尚大笑ひに笑ひすてて、黙つてゐろ、黙つてゐろ、貴様などが知らぬ事だわとて丸々相手にしてはくれず、朝念仏に夕勘定、そろばん手にしてにこにこと遊ばさるる顔つきは我親ながら浅ましくして、何故その頭《つむり》をまろめ給ひしぞと恨めしくもなりぬ。
もとより一腹一対の中に育ちて他人交ぜずの穏かなる家の内なれば、さしてこの児を陰気ものに仕立あげる種は無けれども、性来おとなしき上に我が言ふ事の用ひられねばとかくに物のおもしろからず、父が仕業も母の所作も姉の教育《したて》も、悉皆《しつかい》あやまりのやうに思はるれど言ふて聞かれぬものぞと諦《あきら》めればうら悲しきやうに情なく、友朋輩は変屈者の意地わると目ざせども自《おのづか》ら沈みゐる心の底の弱き事、我が蔭口を露ばかりもいふ者ありと聞けば、立《たち》出《い》でて喧嘩口論の勇気もなく、部屋にとぢ籠《こも》つて人に面《おもて》の合はされぬ臆病至極の身なりけるを、学校にての出来ぶりといひ身分がらの卑しからぬにつけて然《さ》る弱虫とは知る者なく、龍華寺の藤本は生煮えの餅のやうに真《しん》があつて気になる奴と憎がるものも有《あり》けらし。
十
祭りの夜は田町の姉のもとへ使を吩附《いひつけ》られて、更《ふ》くるまで我家へ帰らざりければ、筆やの騒ぎは夢にも知らず、翌日《あす》になりて丑松文次その外の口よりこれこれであつたと伝へらるるに、今更ながら長吉の乱暴に驚けども済みたる事なれば咎めだてするも詮《せん》なく、我が名を仮りられしばかりつくづく迷惑に思われて、我が為《な》したる事ならねど人々への気の毒を身一つに脊《せ》負《おひ》たるやうの思ひありき長吉も少しは我が遣《や》りそこねを耻かしう思ふかして、信如に逢はば小言や聞かんとその三四日は姿も見せず、やや余炎《ほとぼり》のさめたる頃に信さんお前は腹を立つか知らないけれど時の拍子だから堪忍して置いてくんな、誰れもお前正太が明《あき》巣《す》とは知るまいでは無いか、何も女《め》郎《ろう》の一疋《ぴき》位相手にして三五郎を擲《なぐ》りたい事も無かつたけれど、万燈《まんどう》を振込んで見りやあ唯も帰れない、ほんの附景気につまらない事をしてのけた、そりやあ己れが何処までも悪るいさ、お前の命令《いひつけ》を聞かなかつたは悪るからうけれど、今怒られては法《かた》なしだ、お前といふ後だてが有るので己らあ大舟に乗つたやうだに、見すてられちまつては困るだらうじや無いか、嫌やだとつてもこの組の大将で居てくんねへ、さうどちばかりは組まないからとて面目なささうに謝罪《わび》られて見ればそれでも私《わたし》は嫌やだとも言ひがたく、仕方が無い遣る処までやるさ、弱い者いぢめは此方《こつち》の耻になるから三五郎や美登利を相手にしても仕方が無い、正太に末社がついたらその時のこと、決して此方《こつち》から手出しをしてはならないと留《とど》めて、さのみは長吉をも叱り飛ばさねど再び喧嘩のなきやうにと祈られぬ。
罪のない子は横町の三五郎なり、思ふさまに擲《たた》かれて蹴られてその二三日は立居も苦しく、夕ぐれ毎《ごと》に父親《てておや》が空車《からぐるま》を五十軒の茶屋が軒まで運ぶにさヘ、三公はどうかしたか、ひどく弱つているやうだなと見知りの台屋に咎められしほど成しが、父親はお辞義の鉄《てつ》とて目上の人に頭《つむり》をあげた事なく廓内《なか》の旦那は言はずともの事、大屋様地主様いづれの御無理も御尤《ごもつとも》と受ける質《たち》なれば、長吉と喧嘩してこれこれの乱暴に逢ひましたと訴へればとて、それはどうも仕方が無い大屋さんの息子さんでは無いか、此方《こつち》に理が有らうが先方《さき》が悪るからうが喧嘩の相手に成るといふ事は無い、謝罪《わび》て来い謝罪て来い途方も無い奴だと我子を叱りつけて、長吉がもとへあやまりに遣られる事必定《ひつじよう》なれば、三五郎は口惜《くや》しさを噛《か》みつぶして七日十日と程をふれば、痛みの場処の愈《なほ》ると共にそのうらめしさも何時しか忘れて、頭《かしら》の家の赤ん坊が守りをして二銭が駄賃をうれしがり、ねんねんよ、おころりよ、と背負《しよ》ひあるくさま、年はと問へば生意気ざかりの十六にも成りながらその大躰《ずうたい》を耻かしげにもなく、表町へものこのこと出かけるに、何時も美登利と正太が嬲《なぶ》りものに成つて、お前は性根《しようね》を何処へ置いて来たとからかはれながらも遊びの中間は外れざりき。
春は桜の賑ひよりかけて、なき玉菊が燈籠《とうろう》の頃、つづいて秋の新《しん》仁和賀《にわか》には十分間に車の飛ぶ事この通りのみにて七十五輌《りよう》と数へしも、二の替りさへいつしか過ぎて、赤蜻蛉《あかとんぼう》田《た》圃《んぼ》に乱るれば横堀に鶉《うづら》なく頃も近づきぬ、朝《あさ》夕《ゆふ》の秋風身にしみ渡りて上清《じようせい》が店の蚊《か》遣香懐《やりこうかい》炉《ろ》灰《ばい》に座をゆづり、石橋の田村やが粉《こな》挽《ひ》く臼《うす》の音さびしく、角《かど》海老《ゑび》が時計の響きもそぞろ哀れの音《ね》を伝へるやうに成れば、四季絶間なき日《につ》暮里《ぽり》の火の光りもあれが人を焼く烟《けぶ》りかとうら悲しく、茶屋が裏ゆく土手下の細道に落かかるやうな三味の音《ね》を仰いで聞けば、仲《なか》之町《のちよう》芸者が冴《さ》えたる腕に、君が情の仮《かり》寐《ね》の床にと何ならぬ一ふし哀れも深く、この時節より通ひ初《そむ》るは浮かれ浮かるる遊客《ゆうかく》ならで、身にしみじみと実のあるお方のよし、遊女《つとめ》あがりの去る女《ひと》が申き、このほどの事かかんもくだくだしや大音寺前にて珎《めづ》らしき事は盲目《めくら》按《あん》摩《ま》の二十ばかりなる娘、かなはぬ恋に不自由なる身を恨みて水《みづ》の谷《や》の池に入水《じゆすい》したるを新らしい事とて伝へる位なもの、八百屋の吉《きち》五《ご》郎《ろう》に大《だい》工《く》の太吉がさつぱりと影を見せぬが何とかせしと問ふにこの一件であげられましたと、顔の真中《まんなか》へ指をさして、何の子細なく取立てて噂をする者もなし、大路を見渡せば罪なき子供の三五人手を引つれて開いらいた開らいた何の花ひらいたと、無心の遊びも自然と静かにて、廓《くるわ》に通ふ車の音のみ何時に変らず勇ましく聞えぬ。
秋雨《あきさめ》しとしとと降るかと思へばさつと音して運びくる様なる淋しき夜、通りすがりの客をば待たぬ店なれば、筆やの妻は宵のほどより表の戸をたてて、中に集まりしは例の美登利に正太郎、その外には小さき子供の二三人寄りて細螺《きしやご》はじきの幼なげな事して遊ぶほどに、美登利ふと耳を立てて、あれ誰《た》れか買物に来たのでは無いか溝板《どぶいた》を踏む足音がするといへば、おやさうか、己《お》いらは少《ち》つとも聞かなかつたと正太もちうちうたこかいの手を止めて、誰れか中《なか》間《ま》が来たのでは無いかと嬉しがるに、門《かど》なる人はこの店の前まで来たりける足音の聞えしばかりそれよりはふつと絶えて、音も沙汰もなし。
十一
正太は潜《くぐ》りを明けて、ばあ《・・》と言ひながら顔を出すに、人は二三軒先の軒下をたどりて、ぽつぽつと行く後影、誰《だ》れだ誰れだ、おいお這入《はいり》よと声をかけて、美登利が足駄を突かけばきに、降る雨を厭《いと》はず駆け出《いだ》さんとせしが、ああ彼《あ》奴《いつ》だと一ト言、振かへつて、美登利さん呼んだつても来はしないよ、一件だもの、と自分の頭《つむり》を丸《まろ》めて見せぬ。
信《のぶ》さんかへ、と受けて、嫌やな坊主つたら無い、きつと筆か何か買ひに来たのだけれど、私たちが居るものだから立聞きをして帰つたのであらう、意地悪るの、根性まがりの、ひねつこびれの、吃《どんも》りの、歯《はツ》かけの、嫌やな奴め、這入つて来たら散々と窘《いぢ》めてやる物を、帰つたは惜しい事をした、どれ下駄をお貸し、一寸《ちよと》見てやる、とて正太に代つて顔を出せば軒の雨だれ前髪に落ちて、おお気味が悪るいと首を縮めながら、四五軒先の瓦斯《がす》燈《とう》の下を大黒傘肩にして少しうつむいてゐるらしくとぼとぼと歩む信如の後かげ、何時までも、何時までも、何時までも見送るに、美登利さんどうしたの、と正太は怪しがりて背中をつつきぬ。
どうもしない、と気の無い返事をして、上へあがつて細螺《きしやご》を数へながら、本当に嫌やな小僧とつては無い、表向きに威張つた喧嘩は出来もしないで、温順《をとな》しさうな顔ばかりして、根性がくすくすしてゐるのだもの憎くらしからうでは無いか、家の母《かか》さんが言ふてゐたつけ、瓦落々々《がらがら》してゐる者は心が好いのだと、それだからくすくすしている信さん何かは心が悪るいに相違ない、ねへ正太さんさうであらう、と口を極めて信如の事を悪く言へば、それでも龍華寺はまだ物が解つてゐるよ、長吉と来たらあれははやと、生意気に大人の口を真似れば、お廃《よ》しよ正太さん、子供の癖にませた《・・・》様でをかしい、お前は余つぽど剽軽《ひようきん》ものだね、とて美登利は正太の頬《ほう》をつついて、その真面目がほはと笑ひこけるに、己《おい》らだつても最《も》少《すこ》し経ては大人になるのだ、蒲《かば》田屋《たや》の旦那のやうに角袖外套《がいとう》か何か着てね、祖母《おばあ》さんがしまつて置く金時計を貰つて、そして指輪もこしらへて、巻《まき》烟草《たばこ》を吸つて、履く物は何が宜からうな、己《おい》らは下駄より雪《せつ》駄《た》が好きだから、三枚裏にして襦珎《しゆちん》の鼻緒といふのを履くよ、似合ふだらうかと言へば、美登利はくすくす笑ひながら、背《せい》の低い人が角袖外套に雪駄ばき、まあどんなにか可笑《をか》しからう、目薬の瓶《びん》が歩くやうであらうと誹《をと》すに、馬鹿を言つていらあ、それまでには己らだつて大きく成るさ、こんな小《ちい》つぽけでは居ないと威張るに、それではまだ何時の事だか知れはしない、天井の鼠があれ御覧、と指をさすに、筆やの女房《つま》を始めとして座にある者みな笑ひころげぬ。
正太は一人真面目に成りて、例の目の玉ぐるぐるとさせながら、美登利さんは冗談にしてゐるのだね、誰れだつて大人に成らぬ者は無いに、己らの言ふが何故をかしからう、奇麗な嫁さんを貰つて連れて歩くやうに成るのだがなあ、己らは何でも奇麗のが好きだから、煎餅《せんべい》やのお福のやうな痘痕《みつちや》づらや、薪《まき》やのお出額《でこ》のやうなが万一《もし》来ようなら、直《じき》さま追出して家へは入れて遣らないや、己らは痘痕《あばた》と湿《しつ》つかきは大嫌ひと力を入れるに、主人《あるじ》の女は吹出して、それでも正さん宜く私が店へ来て下さるの、伯母さんの痘痕《あばた》は見えぬかえと笑ふに、それでもお前は年寄りだもの、己らの言ふのは嫁さんの事さ、年寄りはどうでも宜いとあるに、それは大失敗《おほしくじり》だねと筆やの女房おもしろづくに御機嫌を取りぬ。
町内で顔の好いのは花屋のお六さんに、水菓子やの喜いさん、それよりも、それよりもずんと好いはお前の隣に据つてお出《いで》なさるのなれど、正太さんはまあ誰れにしようと極めてあるえ、お六さんの眼つきか、喜いさんの清元か、まあどれをえ、と問はれて、正太顔を赤くして、何だお六づらや、喜い公、何処が好い者かと釣りらんぷの下を少し居退《ゐの》きて、壁際の方へと尻込みをすれば、それでは美登利さんが好いのであらう、さう極めて御座んすの、と図星をさされて、そんな事を知る物か、何だそんな事、とくるり後を向いて壁の腰ばりを指でたたきながら、廻れ廻れ水車《みづぐるま》を小音《おん》に唱《うた》ひ出す、美登利は衆人《おほく》の細螺を集めて、さあもう一度はじめからと、これは顔をも赤らめざりき。
十二
信如が何時も田町へ通ふ時、通らでも事は済めども言はば近道の土手々《で》前《まへ》に、仮初《かりそめ》の格子門、のぞけば鞍《くら》馬《ま》の石燈《いしどう》籠《ろ》に萩《はぎ》の袖垣《そでがき》しをらしう見えて、椽先に巻きたる簾《すだれ》のさまもなつかしう、中がらすの障子のうちには今様《いまよう》の按察《あぜち》の後室《こうしつ》が珠《じゆ》数《ず》をつまぐつて、冠《かぶ》つ切《き》りの若紫《わかむらさき》も立出《たちいづ》るやと思はるる、その一ト搆《かま》へが大黒屋の寮なり。
昨日《きのふ》も今日も時雨《しぐれ》の空に、田町の姉より頼みの長胴着が出来たれば、暫時《すこし》も早う重ねさせたき親心、御苦労でも学校まへの一寸の間《ま》に持つて行つてくれまいか、定めて花も待つてゐようほどに、と母親よりの言ひつけを、何も嫌やとは言ひ切られぬ温順《おとな》しさに、唯はいはいと小包みを抱へて、鼠小倉《ねづみこくら》の緒のすがりし朴木《ほうのき》歯《ば》の下駄ひたひたと、信如は雨傘さしかざして出《いで》ぬ。
お歯ぐろ溝《どぶ》の角より曲りて、いつも行《ゆ》くなる細道をたどれば、運わるう大黒やの前まで来し時、さつと吹く風大黒傘の上を抓《つか》みて、宙へ引あげるかと疑ふばかり烈《はげ》しく吹けば、これは成らぬと力足を踏こたゆる途端、さのみに思はざりし前鼻緒のずるずると抜けて、傘よりもこれこそ一の大事に成りぬ。
信如こまりて舌打はすれども、今更何と法のなければ、大黒屋の門に傘を寄せかけ、降る雨を庇《ひさし》に厭《いと》ふて鼻緒をつくろふに、常々仕《し》馴《な》れぬお坊さまの、これは如何《いか》な事、心ばかりは急《あせ》れども、何としても甘《うま》くはすげる事の成らぬ口惜《くや》しさ、ぢれて、ぢれて、袂《たもと》の中から記事文の下書きして置いた大半紙を抓み出し、ずんずんと裂きて紙縷《こより》をよるに、意地わるの嵐またもや落し来て、立かけし傘のころころと転《ころが》り出《いづ》るを、いまいましい奴めと腹立たしげにいひて、取止めんと手を延ばすに、膝へ乗せて置きし小包み意久地もなく落ちて、風呂敷は泥に、我《わが》着る物の袂までを汚しぬ。
見るに気の毒なるは雨の中の傘なし、途中に鼻緒を踏み切りたるばかりは無し、美登利は障子の中ながら硝子《がらす》ごしに遠く眺めて、あれ誰れか鼻緒を切つた人がある、母《かか》さん切れを遣つても宜う御座んすかと尋ねて、針箱の引出しから友仙ちりめんの切れ端をつかみ出し、庭下駄はくも鈍《もど》かしきやうに、馳《は》せ出でて椽先の洋傘《かうもり》さすより早く、庭石の上を伝ふて急ぎ足に来たりぬ。
それと見るより美登利の顔は赤う成りて、どのやうの大事にでも逢ひしやうに、胸の動《どう》悸《き》の早くうつを、人の見るかと背後《うしろ》の見られて、恐る恐る門の傍《そば》へ寄れば、信如もふつと振返りて、これも無言に脇を流るる冷汗、跣《はだ》足《し》に成りて逃げ出したき思ひなり。
平常《つね》の美登利ならば信如が難義の体《てい》を指さして、あれあれあの意久地なしと笑ふて笑ふて笑ひ抜いて、言ひたいままの悪《にく》まれ口、よくもお祭りの夜《よ》は正太さんに仇《あだ》をするとて私たちが遊びの邪魔をさせ、罪も無い三ちやんを擲《たた》かせて、お前は高見で采配《さいはい》を振つてお出《いで》なされたの、さあ謝罪《あやまり》なさんすか、何とで御座んす、私の事を女郎女郎と長吉づらに言はせるのもお前の指図、女郎でも宜《い》いでは無いか、塵《ちり》一本お前さんが世話には成らぬ、私には父《とと》さんもあり母《かか》さんもあり、大黒屋の旦那も姉さんもある、お前のやうな腥《なまぐさ》のお世話には能《よ》うならぬほどに、余計な女郎呼はり置いて貰ひましよ、言ふ事があらば陰のくすくすならで此処でお言ひなされ、お相手には何時でも成つて見せまする、さあ何とで御座んす、と袂を捉らへて捲《まく》しかくる勢ひ、さこそは当り難うもあるべきを、物いはず格子のかげに小隠れて、さりとて立去るでも無しに唯うぢうぢと胸とどろかすは平常《つね》の美登利のさまにては無かりき。
十三
此処は大黒屋のと思ふ時より信如は物の恐ろしく、左右を見ずして直《ひた》あゆみに為《せ》しなれども、生憎《あやにく》の雨、あやにくの風、鼻緒をさへに踏切りて、詮《せん》なき門下《もんした》に紙縷《こより》を縷《よ》る心地、憂き事さまざまにどうも堪《た》へられぬ思ひの有しに、飛石の足音は背より冷水《ひやみづ》をかけられるが如く、顧みねどもその人と思ふに、わなわなと慄《ふる》へて顔の色も変るべく、後向きに成りて猶《なほ》も鼻緒に心を尽すと見せながら、半《なかば》は夢中にこの下駄いつまで懸りても履ける様には成らんともせざりき。
庭なる美登利はさしのぞいて、ゑゑ不器用なあんな手つきしてどうなる物ぞ、紙縷は婆《ば》々《ば》縷《より》、藁《わら》しべなんぞ前壺《まへつぼ》に抱かせたとて長もちのする事では無い、それそれ羽織の裾が地について泥に成るは御存じ無いか、あれ傘が転がる、あれを畳んで立てかけて置けば好《よ》いにと一々鈍《もど》かしう歯がゆくは思へども、此処に裂《き》れが御座んす、此裂《これ》でおすげなされと呼かくる事もせず、これも立尽して降雨袖に侘《わび》しきを、厭《いと》ひもあへず小隠れて覗《うかが》ひしが、さりとも知らぬ母の親はるかに声を懸けて、火のしの火が熾《おこ》りましたぞえ、この美登利さんは何を遊んでゐる、雨の降るに表へ出ての悪《いた》戯《づら》は成りませぬ、又この間のやうに風引かうぞと呼立てられるに、はい今行《ゆき》ますと大きく言ひて、その声信如に聞えしを耻かしく、胸はわくわくと上気して、どうでも明けられぬ門の際《きわ》にさりとも見過しがたき難義をさまざまの思案尽して、格子の間より手に持つ裂れを物いはず投げ出《いだ》せば、見ぬやうに見て知らず顔を信如のつくるに、ゑゑ例《いつも》の通りの心根と遣《や》る瀬なき思ひを眼に集めて、少し涙の恨み顔、何を憎んでそのやうに無情《つれなき》そぶりは見せらるる、言ひたい事は此方《こなた》にあるを、余りな人とこみ上《あぐ》るほど思ひに迫れど、母親の呼声しばしばなるを侘しく、詮方《せんかた》なさに一ト足二タ足ゑゑ何ぞいの未練くさい、思はく耻かしと身をかへして、かたかたと飛石を伝ひゆくに、信如は今ぞ淋しう見かへれば紅《べに》入《い》り友仙の雨にぬれて紅葉《もみぢ》の形《かた》のうるはしきが我が足ちかく散《ちり》ぼひたる、そぞろに床しき思ひは有れども、手に取あぐる事をもせず空《むな》しう眺めて憂き思ひあり。
我が不器用をあきらめて、羽織の紐《ひも》の長きをはづし、結《ゆわ》ひつけにくるくると見とむなき間に合せをして、これならばと踏試《ふみこころむ》るに、歩きにくき事言ふばかりなく、この下駄で田町まで行く事かと今さら難義は思へども詮方なくて立上る信如、小包みを横に二タ足ばかりこの門をはなるるにも、友仙の紅葉目に残りて、捨てて過ぐるにしのび難く心残りして見返れば、信さんどうした鼻緒を切つたのか、その姿《なり》はどうだ、見ッとも無いなと不意に声を懸くる者のあり。
驚いて見かへるに暴れ者の長吉、いま廓内《なか》よりの帰りと覚しく、裕衣《ゆかた》を重ねし唐桟《とうざん》の着物に柿色の三尺を例《いつも》の通り腰の先にして、黒八の襟《ゑり》のかかつた新らしい半天、印の傘をさしかざし高足《たかあし》駄《だ》の爪皮《つまかわ》も今朝《けさ》よりとはしるき漆の色、きわぎわしう見えて誇らし気なり。
僕は鼻緒を切つてしまつてどう為《し》ようかと思つてゐる、本当に弱つてゐるのだ、と信如の意久地なき事を言へば、そうだらうお前に鼻緒の立《たち》ッこは無い、好いや己《お》れの下駄を履《はい》て行《ゆき》ねへ、この鼻緒は大丈夫だよといふに、それでもお前が困るだらう。何己れは馴れた物だ、かうやつてかうすると言ひながら急遽《あわただ》しう七分三分に尻端折《しりはしをり》て、そんな結《ゆわ》ひつけなんぞよりこれが爽快《さつぱり》だと下駄を脱ぐに、お前跣足《はだし》に成るのかそれでは気の毒だと信如困り切るに、好いよ、己れは馴れた事だ信さんなんぞは足の裏が柔らかいから跣足で石ごろ道は歩けない、さあこれを履いてお出で、と揃《そろ》へて出《いだ》す親切さ、人には疫病神のやうに厭《いと》はれながらも毛虫眉毛を動かして優しき詞《ことば》のもれ出《いづ》るぞをかしき。信さんの下駄は己れが提げて行かう、台処《だいどこ》へ抛《ほを》り込んで置たら子細はあるまい、さあ履き替へてそれをお出しと世話をやき、鼻緒の切れしを片手に提《さ》げて、それなら信さん行てお出《いで》、後刻《のち》に学校で逢はうぜの約束、信如は田町の姉のもとへ、長吉は我家の方《かた》へと行別れるに思ひの止《とど》まる紅入《べにいり》の友仙は可憐《いぢら》しき姿を空しく格子門の外にと止《とど》めぬ。
十四
この年三の酉《とり》まで有りて中《なか》一日はつぶれしかど前後の上天気に大鳥神社の賑《にぎわ》ひすさまじく、此処《ここ》をかこつけに検査場《ば》の門より乱れ入る若人《わかうど》達の勢ひとては、天柱くだけ地維かくるかと思はるる笑ひ声のどよめき、中之町《なかのちよう》の通りは俄《にわか》に方角の替りしやうに思はれて、角《すみ》町京町処々《ちようきようまちところどころ》のはね橋より、さつさ押せ押せと猪《ちよ》牙《き》がかつた言葉に人波を分くる群もあり、河岸《かし》の小《こ》店《みせ》の百囀《ももさへ》づりより、優にうづ高き大《おほ》籬《まがき》の楼上まで、絃歌の声のさまざまに沸き来るやうな面白さは大方の人おもひ出でて忘れぬ物に思《おぼ》すも有るべし。正太はこの日日がけの集めを休ませ貰ひて、三五郎が大頭《おほがしら》の店を見舞ふやら、団子屋の背高《せいたか》が愛《あい》想気《そげ》のない汁粉やを音《おと》づれて、どうだ儲《まう》けがあるかえと言へば、正さんお前好い処へ来た、我《お》れが餡《あん》この種なしに成つてもう今からは何を売らう、直様《すぐさま》煮かけては置いたけれど中途《なかたび》お客は断れない、どうしような、と相談を懸けられて、智恵無しの奴め大鍋《おほなべ》の四辺《ぐるり》にそれッ位無駄がついてゐるでは無いか、それへ湯を廻して砂糖さへ甘くすれば十人前や二十人は浮いて来よう、何処でも皆なそうするのだお前の店《とこ》ばかりではない、何この騒ぎの中で好悪《よしあし》を言ふ物が有らうか、お売りお売りと言ひながら先に立つて砂糖の壺を引寄すれば、目ッかちの母親おどろいた顔をして、お前さんは本当に商人《あきんど》に出来てゐなさる、恐ろしい智恵者だと賞めるに、何だこんな事が智恵者な物か、今横町の潮吹きの処《とこ》で餡が足りないッてこうやつたを見て来たので己れの発明では無い、と言ひ捨てて、お前は知らないか美登利さんの居る処を、己れは今朝から探してゐるけれど何処へ行《ゆつ》たか筆やへも来ないと言ふ、廓内《なか》だらうかなと問へば、むむ美登利さんはな今の先己れの家の前を通つて揚《あげ》屋《や》町《まち》の刎橋《はねばし》から這《は》入《い》つて行《いつ》た、本当に正さん大変だぜ、今日はね、髪をかういふ風にこんな嶋《しま》田《だ》に結つてと、変てこな手つきして、奇麗だねあの娘《こ》はと鼻を拭つつ言へば、大巻さんより猶《なほ》美《い》いや、だけれどあの子も華魁《おいらん》に成るのでは可憐《かわい》さうだと下を向ひて正太の答ふるに、好いじやあ無いか華魁になれば、己れは来年から際物《きわもの》屋《や》に成つてお金をこしらへるがね、それを持つて買ひに行くのだと頓《とん》馬《ま》を現はすに、洒落《しやら》くさい事を言つてゐらあそうすればお前はきつと振られるよ。何故何故。何故でも振られる理《わ》由《け》が有るのだもの、と顔を少し染めて笑ひながら、それじやあ己れも一廻りして来ようや、又後《のち》に来るよと捨て台辞《ぜりふ》して門《かど》に出て、十六七の頃までは蝶よ花よと育てられ、と怪しきふるへ声にこの頃此処の流行《はやり》ぶしを言つて、今では勤めが身にしみてと口の内にくり返し、例の雪《せつ》駄《た》の音たかく浮きたつ人の中に交りて小さき身体《からだ》は忽《たちま》ちに隠れつ。
揉《も》まれて出《いで》し廓の角、向ふより番頭新《ばんとうしん》造《ぞ》のお妻《つま》と連れ立ちて話しながら来るを見れば、まがひも無き大黒屋の美登利なれども誠に頓馬の言ひつる如く、初々《ういうい》しき大嶋田結ひ綿のやうに絞りばなしふさふさとかけて、鼈甲《べつこう》のさし込、総《ふさ》つきの花かんざしひらめかし、何時よりは極彩色《ごくざいしき》のただ京人形を見るやうに思はれて、正太はあつとも言はず立止まりしまま例《いつも》の如くは抱きつきもせで打守るに、彼方《こなた》は正太さんかとて走り寄り、お妻どんお前買ひ物が有らばもう此処でお別れにしましよ、私はこの人と一処に帰ります、左様ならとて頭《かしら》を下げるに、あれ美いちやんの現金な、もうお送りは入りませぬとかえ、そんなら私は京町で買物しましよ、とちよこちよこ走りに長屋の細道へ駆け込むに、正太はじめて美登利の袖を引いて好く似合ふね、いつ結つたの今朝《けさ》かへ昨日かへ何故はやく見せてはくれなかつた、と恨めしげに甘ゆれば、美登利打しほれて口重く、姉さんの部屋で今朝結つて貰つたの、私は厭《い》やでしようが無い、とさし俯《うつ》向《む》きて往来《ゆきき》を耻ぢぬ。
十五
憂く耻かしく、つつましき事身にあれば人の褒めるは嘲《あざけ》りと聞なされて、嶋田の髷《まげ》のなつかしさに振かへり見る人たちをば我れを蔑《さげす》む眼つきと察《と》られて、正太さん私《わたし》は自宅《うち》へ帰るよと言ふに、何故今日は遊ばないのだらう、お前何か小言を言はれたのか、大巻さんと喧《けん》嘩《か》でもしたのでは無いか、と子供らしい事を問はれて答へは何と顔の赤むばかり、連れ立ちて団子屋の前を過ぎるに頓馬は店より声をかけてお中が宜しう御座いますと仰山な言葉を聞くより美登利は泣きたいやうな顔つきして、正太さん一処に来ては嫌やだよと、置きざりに一人足を早めぬ。
お酉さまへ諸共《もろとも》にと言ひしを道引違《ひきたが》へて我が家《や》の方《かた》へと美登利の急ぐに、お前一処には来てくれないのか、何故其方《そつち》へ帰つてしまふ、余《あんま》りだぜと例の如く甘へてかかるを振切るやうに物言はず行《ゆ》けば、何の故とも知らねども正太は呆《あき》れて追ひすがり袖を止《とど》めては怪しがるに、美登利顔のみ打赤めて、何でも無い、と言ふ声理由《わけ》あり。
寮の門をばくぐり入るに正太かねても遊びに来馴れてさのみ遠慮の家にもあらねば、跡より続いて椽先からそつと上るを、母親見るより、おお正太さん宜く来て下さつた、今朝から美登利の機嫌が悪くて皆なあぐね《・・・》て困つてゐます、遊んでやつて下されと言ふに、正太は大人らしう惶《かしこま》りて加減が悪るいのですかと真面目に問ふを、いいゑ、と母親怪しき笑顔をして少し経てば愈《なほ》りませう、いつでも極りの我まま様《さん》、さぞお友達とも喧嘩しませうな、真実《ほんに》やり切れぬ嬢さまではあるとて見かへるに、美登利はいつか小座敷に蒲《ふ》団抱巻《とんかいまき》持出でて、帯と上着を脱ぎ捨てしばかり、うつ伏し臥《ふ》して物をも言はず。
正太は恐る恐る枕もとへ寄つて、美登利さんどうしたの病気なのか心持が悪いのか全体どうしたの、とさのみは摺《すり》寄《よ》らず膝に手を置いて心ばかりを悩ますに、美登利は更に答へも無く押《おさ》ゆる袖にしのび音《ね》の涙、まだ結ひこめぬ前髪の毛の濡れて見ゆるも子細《わけ》ありとはしるけれど、子供心に正太は何と慰めの言葉も出《いで》ず唯ひたすらに困り入るばかり、全体何がどうしたのだらう、己れはお前に怒られる事はしもしないに、何がそんなに腹が立つの、と覗《のぞ》き込んで途方にくるれば、美登利は眼を拭ふて正太さん私は怒つてゐるのでは有りません。
それならどうしてと問はれれば憂き事さまざまこれはどうでも話しのほかの包ましさなれば、誰れに打明けいふ筋ならず、物言はずして自づと頬《ほほ》の赤うなり、さして何とは言はれねども次第次第に心細き思ひ、すべて昨日の美登利の身に覚えなかりし思ひをまうけて物の耻かしさ言ふばかりなく、成事《なること》ならば薄暗き部屋のうちに誰《た》れとて言葉をかけもせず我が顔ながむる者なしに一人気ままの朝夕を経《へ》たや、さらばこの様《よう》の憂き事ありとも人目つつましからずはかくまで物は思ふまじ、何時までも何時までも人形と紙雛《あね》さまとをあひ手にして飯事《ままこと》ばかりしてゐたらばさぞかし嬉しき事ならんを、ゑゑ厭や厭や、大人に成るは厭やな事、何故《なぜ》このやうに年をば取る、もう七月《ななつき》十月《つき》、一年も以前《もと》へ帰りたいにと老人《としより》じみた考へをして、正太の此処にあるをも思はれず、物いひかければ悉《ことごと》く蹴《け》ちらして、帰つておくれ正太さん、後生《ごしよう》だから帰つておくれ、お前が居ると私は死んでしまふであらう、物を言はれると頭痛がする、口を利くと目がまわる、誰れも誰れも私の処へ来ては厭やなれば、お前も何卒《どうぞ》帰つてと例に似合ぬ愛《あい》想《そ》づかし、正太は何故《なに》とも得ぞ解きがたく、烟のうちにあるやうにてお前はどうしても変てこだよ、そんな事を言ふ筈は無いに、可怪《をか》しい人だね、とこれはいささか口《くち》惜《を》しき思ひに、落ついて言ひながら目には気弱の涙のうかぶを、何とてそれに心を置くべき帰つておくれ、帰つておくれ、何時まで此処に居てくれればもうお友達でも何でも無い、厭やな正太さんだと憎くらしげに言はれて、それならば帰るよ、お邪魔さまで御座いましたとて、風呂場に加減見る母親には挨拶もせず、ふい《・・》と立つて正太は庭先よりかけ出《いだ》しぬ。
十六
真一文字に駆けて人中を抜けつ潜《くぐ》りつ、筆屋の店へをどり込めば、三五郎は何時《いつ》か店をば売しまふて、腹掛のかくしへ若干金《なにがし》かをぢやらつかせ、弟妹《いもと》引つれつつ好きな物をば何でも買への大兄様《おほにいさん》、大《おほ》愉快の最《も》中《なか》へ正太の飛込み来しなるに、やあ正さん今お前をば探してゐたのだ、己れは今日は大分の儲けがある、何か奢《おご》つて上やうかと言へば、馬鹿をいへ手《て》前《めへ》に奢つて貰ふ己れでは無いわ、黙つてゐろ生意気は吐《つ》くなと何時になく荒らい事を言つて、それどころでは無いとて鬱《ふさ》ぐに、何だ何だ喧嘩かと喰べかけの餡ぱんを懐中《ふところ》に捻《ね》ぢ込んで、相手は誰れだ、龍華寺か長吉か、何処で始まつた廓内《なか》か鳥居前か、お祭りの時とは違ふぜ、不意でさへ無くは負けはしない、己れが承知だ先棒は振らあ、正さん胆ッ玉をしつかりして懸りねへ、と競ひかかるに、ゑゑ気の早い奴め、喧嘩では無い、とてさすがに言ひかねて口を噤《つぐ》めば、でもお前が大層らしく飛込んだから己れは一《いち》途《ず》に喧嘩かと思つた、だけれど正さん今夜はじまらなければもうこれから喧嘩の起りッこは無いね、長吉の野郎片腕がなくなる物と言ふに、何故どうして片腕がなくなるのだ。お前知らずか己れも唯今《たツたいま》うちの父《とつ》さんが龍華寺の御《ご》新《しん》造《ぞ》と話してゐたを聞いたのだが、信さんはもう近々何処かの坊さん学校へ這入《はい》るのだとさ、衣《ころも》を着てしまへば手が出ねへや、空《から》つきりあんな袖のぺらぺらした、恐ろしい長い物を捲《まく》り上るのだからね、さうなれば来年から横町も表も残らずお前の手下だよと煽《そや》すに、廃《よ》してくれ二銭貰ふと長吉の組に成るだらう、お前みたやうのが百人中間に有たとて少《ちつ》とも嬉しい事は無い、着きたい方へ何方《どこ》へでも着きねへ、己れは人は頼まない真《ほん》の腕ッこで一度龍華寺とやりたかつたに、他処《よそ》へ行かれては仕方が無い、藤本は来年学校を卒業してから行くのだと聞いたが、どうしてそんなに早く成つたらう、為《し》様《よう》のない野郎だと舌打しながら、それは少しも心に止まらねども美登利が素振のくり返されて正太は例の歌も出ず、大路の徃来《ゆきき》の夥《おび》ただしきさへ心淋しければ賑やかなりとも思はれず、火ともし頃より筆やが店に転がりて、今日の酉の市目茶々々に此処も彼処《かしこ》も怪しき事成りき。
美登利はかの日を始めにして生れかはりし様の身の振舞、用ある折は廓の姉のもとにこそ通へ、かけても町に遊ぶ事をせず、友達さびしがりて誘ひにと行けば今に今にと空約束《からやくそく》はてし無く、さしもに中よし成けれど正太とさへに親しまず、いつも耻かし気に顔のみ赤めて筆やの店に手踊の活溌さは再び見るに難《かた》く成ける、人は怪しがりて病ひの故《せい》かと危ぶむも有れども母親一人ほほ笑みては、今にお侠《きやん》の本性は現れまする、これは中休みと子細《わけ》ありげに言はれて、知らぬ者には何の事とも思はれず、女らしう温順《おとな》しう成つたと褒めるもあれば折角の面白い子を種なしにしたと誹《そし》るもあり、表町は俄《にはか》に火の消えしやう淋しく成りて正太が美音も聞く事まれに、唯夜な夜なの弓張提燈《ゆみはりぢようちん》、あれは日がけの集めとしるく土手を行く影そぞろ寒げに、折ふし供する三五郎の声のみ何時に変らず滑稽《おどけ》ては聞えぬ。
龍華寺の信如が我が宗の修業の庭に立出《たちいづ》る風説《うわさ》をも美登利は絶えて聞かざりき、有し意地をばそのままに封じ込めて、此処しばらくの怪しの現象《さま》に我れを我れとも思はれず、唯何事も耻かしうのみ有けるに、或る霜の朝水仙の作り花を格子門の外よりさし入れ置きし者の有けり、誰《た》れの仕業と知るよし無けれど、美登利は何ゆゑとなく懐かしき思ひにて違ひ棚の一輪ざしに入れて淋しく清き姿をめでけるが、聞くともなしに伝へ聞くその明けの日は信如が何がしの学林に袖の色かへぬべき当日なりしとぞ。
大つごもり
上
井戸は車にて綱の長さ十二尋《ひろ》、勝手は北向きにて師《し》走《はす》の空のから風ひゆうひゆうと吹ぬきの寒さ、おお堪えがたと竈《かまど》の前に火なぶりの一分《ぷん》は一時《じ》にのびて、割木ほどの事も大台にして叱りとばさるる婢女《はした》の身つらや、はじめ受宿《うけやど》の老媼《おば》さまが言葉には御子様がたは男《なん》女《によ》六人、なれども常住家内《うち》にお出《いで》あそばすは御総領と末お二人、少し御《ご》新《しん》造《ぞ》は機嫌かいなれど、目色顔色《かほいろ》を呑みこんでしまへば大した事もなく、結句おだてに乗る質《たち》なれば、御《お》前《まへ》の出様一つで半襟《はんゑり》半がけ前垂《まへだれ》の紐《ひも》にも事は欠くまじ、御身代は町内第一にて、その代り吝《しは》き事も二とは下《さが》らねど、よき事には大旦那が甘い方《ほう》ゆゑ、少しのほまち《・・・》は無き事も有るまじ、厭《い》やに成つたら私の所《とこ》まで端書一枚、こまかき事は入らず、他所《よそ》の口を探せとならば足は惜しまじ、何《いづ》れ奉公の秘伝は裏表と言ふて聞かされて、さても恐ろしき事を言ふ人と思へど、何も我が心一つで又この人のお世話には成るまじ、勤め大事に骨さへ折らば御気に入らぬ事も無き筈と定めて、かかる鬼の主《しゆう》をも持つぞかし、目見えの済みて三日の後《のち》、七歳《ななつ》になる嬢さま踊りのさらひに午後よりとある、その支度は朝湯にみがき上げてと霜氷る暁、あたたかき寝床の中《うち》より御新造灰吹きをたたきて、これこれと、此詞《これ》が目覚しの時計より胸にひびきて、三言とは呼ばれもせず帯より先に襷《たすき》がけの甲斐々々《かひがひ》しく、井戸端に出《いづ》れば月かげ流しに残りて、肌《はだへ》を刺すやうな風の寒さに夢を忘れぬ、風呂は据風呂にて大きからねど、二つの手《て》桶《をけ》に溢《あふ》るるほど汲《く》みて、十三は入れねば成らず、大汗に成りて運びけるうち、輪宝《りんぽう》のすがりし曲《ゆが》み歯の水ばき下駄、前鼻緒のゆるゆるに成りて、指を浮かさねば他愛《たわい》の無きやう成《なり》し、その下駄にて重き物を持ちたれば足もと覚束《おぼつか》なくて流し元の氷にすべり、あれと言ふ間もなく横にころべば井戸がはにて向ふ臑《ずね》したたかに打ちて、可愛や雪はづかしき膚に紫の生々しくなりぬ、手桶をも其処《そこ》に投出《なげいだ》して一つは満足成しが一つは底ぬけに成りけり、此桶《これ》の価《あたゑ》なにほどか知らねど、身代これが為につぶれるかの様に御新造の額際に青筋おそろしく、朝飯《あさはん》のお給仕より睨《にら》まれて、その日一日物も仰せられず、一日おいてよりは箸《はし》の上げ下《おろ》しに、この家《や》の品は無代《ただ》では出来ぬ、主《しゆう》の物とて粗末に思ふたら罸《ばち》が当るぞえと明け暮れの談義、来る人毎に告げられて若き心には恥かしく、その後《ご》は物ごとに念を入れて、遂ひに麁《そ》想《そう》をせぬやうに成りぬ、世間に下女つかふ人も多けれど、山《やま》村《むら》ほど下女の替る家は有るまじ、月に二人は平常《つね》の事、三日四日に帰りしもあれば一夜居て逃出《にげいで》しもあらん、開闢《かいびやく》以来を尋ねたらば折る指にあの内儀《かみ》さまが袖口おもはるる、思へばお峯《みね》は辛棒もの、あれに酷《むご》く当《あたつ》たらば天罸たちどころに、この後《ご》は東京広しといへども、山村の下女に成る物はあるまじ、感心なもの、美《み》事《ごと》の心がけと賞めるもあれば、第一容貌《きりよう》が申分なしだと、男は直《じ》きにこれを言ひけり。
秋より只一人の伯父が煩ひて、商売の八百や店もいつとなく閉ぢて、同じ町ながら裏屋住居《ずまゐ》に成しよしは聞けど、むづかしき主《しゆう》を持つ身の給金を先きに貰へばこの身は売りたるも同じ事、見舞にと言ふ事も成らねば心ならねど、お使ひ先の一寸《すん》の間とても時計を目当にして幾足幾町とそのしらべの苦るしさ、馳《は》せ抜けても、とは思へど悪事千里といへば折角の辛棒を水泡《むだ》にして、お暇《いとま》ともならば弥々《いよいよ》病人の伯父に心配をかけ、痩《やせ》世《ぜ》帯《たい》に一日の厄介も気の毒なり、その内にはと手紙ばかりを遣《や》りて、身は此処《ここ》に心ならずも日を送りける。師走の月は世間一躰《いつたい》物せわしき中を、こと更に選らみて綺羅《きら》をかざり、一昨日《おととひ》出そろひしと聞く某《それ》の芝居、狂言も折から面白き新物《しんもの》の、これを見のがしてはと娘共の騒ぐに、見物は十五日、珍らしく家内《うち》中との触れに成けり、このお供を嬉しがるは平常《つね》のこと、父母《ちちはは》なき後《のち》は唯一人の大切な人が、病ひの床に見舞ふ事もせで、物見遊《ゆ》山《さん》に歩くべき身ならず、御機嫌に違ひたらばそれまでとして遊びの代りのお暇を願ひしにさすがは日頃の勤めぶりもあり、一日すぎての次の日、早く行きて早く帰れと、さりとは気ままの仰せに有難うぞんじますと言ひしは覚えで、頓《やが》ては車の上に小《こ》石川《いしかは》はまだかまだかと鈍《もど》かしがりぬ。
初音町《はつねちよう》といへば床《ゆか》しけれど、世をうぐひすの貧乏町ぞかし、正直安兵衛とて神はこの頭《かうべ》に宿り給ふべき大《おほ》薬《や》罐《かん》の額ぎはぴかぴかとして、これを目印に田町より菊坂《きくざか》あたりへかけて、茄子《なすび》大《だい》根《こ》の御用をもつとめける、薄元手を折かへすなれば、折から直《ね》の安うて嵩《かさ》のある物より外《ほか》は棹《さほ》なき舟に乗合の胡瓜《きうり》、苞《つと》に松《まつ》茸《たけ》の初物などは持たで、八百安が物は何時《いつ》も帳面につけた様なと笑はるれど、愛顧《ひいき》は有がたきもの、曲りなりにも親子三人の口をぬらして、三之助とて八歳《やつ》になるを五《ご》厘《りん》学校に通はするほどの義務《つとめ》もしけれど、世の秋つらし九月の末、俄《には》かに風が身にしむといふ朝、神《かん》田《だ》に買出しの荷を我が家までかつぎ入れるとそのまま、発熱《ほつねつ》につづいて骨病みの出《いで》しやら、三月ごしの今日まで商ひは更なる事、段々に喰べへらして天秤《てんびん》まで売る仕義になれば、表《おもて》店《だな》の活計《くらし》たちがたく、月五十銭の裏屋に人目の恥を厭《いと》ふべき身ならず、又時節が有らばとて引越しも無惨や車に乗するは病人ばかり、片手に足らぬ荷をからげて、同じ町の隅へと潜みぬ。お峯は車より下りて┘処《そこ》此処と尋ぬるうち、凧《たこ》紙風船などを軒につるして、子供を集めたる駄菓子やの門《かど》に、もし三之助の交じりてかと覗《のぞ》けど、影も見えぬに落胆《がつかり》して思はず徃来《ゆきき》を見れば、我が居るよりは向ひのがはを痩《やせ》ぎすの子供が薬瓶《くすりびん》もちて行く後姿、三之助よりは丈《たけ》も高く余り痩せたる子と思へど、様子の似たるにつかつかと駆け寄りて顔をのぞけば、やあ姉《ねえ》さん、あれ三ちやんで有つたか、さても好い処でと伴なはれて行くに、酒やと芋やの奥深く、溝板《どぶいた》がたがたと薄くらき裏に入《い》れば、三之助は先へ駆けて、父《とと》さん、母《かか》さん、姉さんを連れて帰つたと門口《かどぐち》より呼び立てぬ。
何お峯が来たかと安兵衛が起上れば、女房《つま》は内職の仕立物に余念なかりし手をやめて、まあまあこれは珍らしいと手を取らぬばかりに喜ばれ、見れば六畳一間に一間《けん》の戸棚只一つ、箪《たん》笥《す》長持はもとより有るべき家ならねど、見し長火鉢のかげも無く、今戸焼の四角なるを同じ形《なり》の箱に入れて、これがそもそもこの家《いへ》の道具らしき物、聞けば米櫃《こめびつ》も無きよし、さりとは悲しき成ゆき、師走の空に芝居みる人も有るをとお峯はまづ涙ぐまれて、まづまづ風の寒きに寝てお出《いで》なされませ、と堅焼《かたやき》に似し薄蒲団を伯父の肩に着せて、さぞさぞ沢《たん》山《と》の御苦労なさりましたろ、伯母様も何処《どこ》やら痩せが見えまする、心配のあまり煩ふて下さりますな、それでも日増しに快《よ》い方で御座んすか、手紙で様子は聞けど見ねば気にかかりて、今日のお暇《いとま》を待ちに待つて漸《やつ》との事、何家《うち》などはどうでも宜《よ》ござります、伯父様御全快にならば表店《おもて》に出るも訳なき事なれば、一日も早く快《よ》く成つて下され、伯父様に何ぞと存じたれど、道は遠し心は急く、車夫《くるまや》の足が何時より遅いやうに思はれて、御好物の飴《あめ》屋《や》が軒も見はぐりました、此金《これ》は少々なれど私が小遣の残り、麹町《かうぢまち》の御親類よりお客の有し時、その御隠店さま寸《す》白《ばく》のお起りなされてお苦しみの有しに、夜を徹してお腰をもみたれば、前垂でも買へとて下された、それや、これや、お家《うち》は堅《かた》けれど他処《よそ》よりのお方が贔《ひ》負《いき》になされて、伯父さま喜んで下され、勤めにくくも御座んせぬ、この巾着《きんちやく》も半襟もみな頂き物、襟は質素《じみ》なれば伯母さま懸けて下され、巾着は少し形《なり》を換ヘて三之助がお弁当の袋に丁度宜《よ》いやら、それでも学校へは行《ゆき》ますか、お清書が有らば姉にも見せてとそれからそれへ言ふ事長し。七歳《ななつ》のとしに父親得《てておやとく》意場《いば》の蔵普請に、足場を昇りて中《なか》ぬりの泥鏝《こて》を持ちながら、下なる奴《やつこ》に物いひつけんと振向く途端、暦に黒ぼしの仏滅とでも言ふ日で有しか、年来馴れたる足場をあやまりて、落たるも落たるも下は敷石に模様がへの処ありて、掘おこして積みたてたる切角《きりかど》に頭脳したたか打ちつけたれば甲斐《かひ》なし、哀れ四十二の前厄《まへやく》と人々後《のち》に恐ろしがりぬ、母は安兵衛が同胞《きようだい》なれば此処に引取られて、これも二年の後《のち》はやり風俄かに重く成りて亡《う》せたれば、後《のち》は安兵衛夫婦を親として、十八の今日まで恩はいふに及ばず、姉さんと呼ばるれば三之助は弟《おとと》のやうに可《かあ》愛《ゆ》く、此処へ此処へと呼んで背を撫《な》で顔を覗いて、さぞ父《とと》さんが病気で淋しく愁《つ》らかろ、お正月も直きに来れば姉が何ぞ買つて上げますぞえ、母《かか》さんに無理をいふて困らせては成りませぬと教ゆれば、困らせる処か、お峯聞いてくれ、歳は八つなれど身躰《からだ》も大《おほ》きし力もある、我《わし》が寐《ね》てからは稼《かせ》ぎ人《て》なしの費用《いりめ》は重なる、四苦八苦見かねたやら、表の塩物やが野郎と一処に、蜆《しじみ》を買ひ出しては足の及ぶだけ担ぎ廻り、野郎が八銭うれば十銭の商ひは必らずある、一つは天道さまが奴《やつこ》の孝行を見《み》徹《とほ》してか、となりかくなり薬代は三が働き、お峯ほめて遣つてくれとて、父は蒲団をかぶりて涙に声をしぼりぬ。学校は好きにも好きにも遂ひに世話をやかしたる事なく、朝めし喰べると馳《か》け出して三時の退校《ひけ》に道草のいたづらした事なく、自慢では無けれど先生さまにも褒《ほ》め物の子を、貧乏なればこそ蜆を担がせて、この寒空に小さな足に草鞋《わらじ》をはかせる親心、察して下されとて伯母も涙なり。お峯は三之助を抱きしめて、さてもさても世間に無類の孝行、大がらとても八歳《やつ》は八歳、天秤《てんびん》肩にして痛みはせぬか、足に草鞋くひは出来ぬかや、堪忍《かんにん》して下され、今日《けふ》よりは私も家《うち》に帰りて伯父様の介抱活計《くらし》の助けもしまする、知らぬ事とて今朝《けさ》までも釣《つる》瓶《べ》の縄の氷を愁《つ》らがつたは勿躰《もつたい》ない、学校ざかりの年に蜆を担がせて姉が長い着物きてゐらりようか、伯父さま暇《いとま》を取つて下され、私《わたし》は最《も》早《はや》奉公はよしまするとて取乱して泣きぬ。三之助はをとなしく、ほろりほろりと涙のこぼれるを、見せじとうつ向きたる肩のあたり、針目あらはに衣《きぬ》破《や》れて、此肩《これ》に担ぐか見る目も愁《つ》らし、安兵衛はお峯が暇を取らんと言ふにそれは以ての外《ほか》、志しは嬉しけれど帰りてからが女の働き、それのみか御主人へは給金の前借もあり、それッ、と言ふて帰られる物では無し、初《うい》奉公が肝腎《かんじん》、辛棒がならで戻つたと思はれても成らねば、お主《しゆう》大事に勤めてくれ、我が病気《やまひ》も長くは有るまじ、少しよくば気の張弓、引つづいて商ひもなる道埋、ああ今半月の今《こ》歳《とし》が過れば新年《はる》は好き事も来たるべし、何事も辛棒々々、三之助も辛棒してくれ、お峯も辛棒してくれとて涙を納めぬ。珍らしき客に馳走は出来ねど好物の今川焼、里芋の煮ころがしなど、沢山たべろよと言ふ言葉が嬉し、苦労はかけまじと思へど見す見す大《おほ》晦日《みそか》に迫りたる家の難義、胸に痞《つか》への病は癪《しやく》にあらねどそもそも床に就きたる時、田町の高利かしより三月しばりとて十円かりし、一円五拾銭は天利とて手に入《い》りしは八円半、九月の末よりなればこの月はどうでも約束の期限なれど、この中にて何となるべきぞ、額を合せて談合の妻は人仕事に指先より血を出《いだ》して日に拾銭《じつせん》の稼ぎも成らず、三之助に聞かするとも甲斐なし、お峯が主《しゆう》は白金《しろかね》の台町《だいまち》に貸長屋の百軒も持ちて、あがり物ばかりに常《じよう》綺《き》羅《ら》美々しく、我れ一度お峯への用事ありて門《かど》まで行きしが、千両にては出来まじき土蔵の普請、羨《うら》やましき富貴と見たりし、その主人に一年の馴染、気に入りの奉公人が少々の無心を聞かぬとは申されまじ、この月末に書《かき》かへを泣きつきて、をどりの一両二分を此処に払へば又三月の延期《のべ》にはなる、かくいはば欲に似たれど、大道餅買ふてなり三ケ日の雑煮に箸を持せずば出世前の三之助に親のある甲斐もなし、晦日《みそか》までに金二両、言ひにくく共この才覚たのみたきよしを言ひ出しけるに、お峯しばらく思案して、よろしう御座んす慥《たし》かに受合ひました、むづかしくはお給金の前借にしてなり願ひましよ、見る目と家内《うち》とは違ひて何処《いづこ》にも金銭の埒《らち》は明きにくけれど、多くでは無しそれだけで此処の始末がつくなれば、理由《わけ》を聞いて厭やは仰せらるまじ、それにつけても首尾そこなうては成らねば、今日は私は帰ります、又の宿下りは春永《はるなが》、その頃には皆々うち寄つて笑ひたきもの、とて此《こ》金《れ》を受合ける。金は何として越《おこ》す、三之助を貰ひにやろかとあれば、ほんにそれで御座んす、常日《つね》さへあるに大晦日といふては私の身に隙《すき》はあるまじ、道の遠きに可憐《かわい》さうなれど三ちやんを頼みます、昼前のうちに必らず必らず支度はして置まするとて、首尾よく受合ひてお峯は帰りぬ。
下
石之助とて山村の総領息子、母の違ふに父《てて》親《おや》の愛も薄く、これを養子に出《いだ》して家督《あと》は妹《いもと》娘《むすめ》の中《なか》にとの相談、十年の昔しより耳に挟《はさ》みて面白からず、今の世に勘当のならぬこそをかしけれ、思ひのままに遊びて母が泣きをと父親《てておや》の事は忘れて、十五の春より不了簡《ふりようけん》をはじめぬ、男振にがみありて利発らしき眼《まな》ざし、色は黒けれど好き様子《ふう》とて四隣《あたり》の娘どもが風《うわ》説《さ》も聞えけれど、唯乱暴一《いち》途《ず》に品川へも足は向くれど騒ぎはその座ぎり、夜《よ》中《なか》に車を飛ばして車町《くるままち》の破落戸《ごろ》がもとをたたき起し、それ酒かへ肴《さかな》と、紙入れの底をはたきて無理を徹《とほ》すが道楽なりけり、到底《とても》これに相続は石油蔵へ火を入れるやうな物、身代烟《けふ》りと成りて消え残る我等何とせん、あとの兄弟も不《ふ》憫《びん》と母親、父に讒言《ざんげん》の絶間なく、さりとて此放蕩子《これ》を養子にと申受《うく》る人この世にはあるまじ、とかくは有金の何ほどを分けて、若隠居の別戸籍にと内々の相談は極《き》まりたれど、本人うわの空に聞流して手に乗らず、分配金は一万、隠居扶持《ぶち》月々おこして、遊興に関を据へず、父上なくならば親代りの我れ、兄上と捧げて竈《かまど》の神の松一本も我が託宣を聞く心ならば、いかにもいかにも別戸の御主人に成りて、この家《や》の為には働かぬが勝手、それ宜しくば仰せの通りに成りましよと、どうでも嫌やがらせを言ひて困らせける。去歳《こぞ》にくらべて長屋もふゑたり、所得は倍にと世間の口より我が家の様子を知りて、をかしやをかしや、そのやうに延ばして誰《た》が物にする気ぞ、火事は燈明皿よりも出る物ぞかし、総領と名のる火の玉がころがるとは知らぬか、やがて巻きあげて貴様たちに好き正月をさせるぞと、伊《い》皿《さら》子《ご》あたりの貧乏人を喜ばして、大晦日を当てに大呑みの場処もさだめぬ。
それ兄様《あにさま》のお帰りと言へば、妹《いもと》ども怕《こわ》がりて腫《は》れ物のやうに障るものなく、何事も言ふなりの通るに一段と我がままをつのらして、炬《こ》燵《たつ》に両足、酔《ゑひ》ざめの水を水をと狼藉《ろうぜき》はこれに止《とど》めをさしぬ、憎くしと思へどさすがに義理は愁《つ》らき物かや、母親かげの毒舌をかくして風引かぬやうに小《こ》抱巻《かいまき》何くれと枕まで宛《あて》がひて、明日《あす》の支度のむしり田作《ごまめ》、人手にかけては粗末になる物と聞えよがしの経済を枕もとに見しらせぬ。正午《ひる》も近づけばお峯は伯父への約束こころもと無く、御《ご》新《しん》造《ぞ》が御機嫌を見はからふに暇《いとま》も無ければ、僅かの手すきに頭《つむ》りの手拭ひを丸《まろ》めて、このほどより願ひましたる事、折からお忙がしき時心なきやうなれど、今日の昼る過ぎにと先方《さき》へ約束のきびしき金とやら、お助けの願はれますれば伯父の仕合せ私の喜び、いついつまでも御恩に着まするとて手をすりて頼みける、最初《はじめ》いひ出《いで》し時にやふや《・・・・》ながら結局《つまり》は宜《よ》しと有し言葉を頼みに、又の機嫌むつかしければ五月蠅《うるさく》いひては却《かへ》りて如何《いかが》と今日までも我慢しけれど、約束は今日と言ふ大晦《おほみそ》日《か》のひる前、忘れてか何とも仰せの無き心もとなさ、我れには身に迫りし大事と言ひにくきを我慢してかくと申ける、御新造は驚きたるやうの惘《あき》れ顔して、それはまあ何の事やら、なるほどお前が伯父さんの病気、つづいて借金の話しも聞ましたが、今が今私《わた》しの宅《うち》から立換へようとは言はなかつた筈、それはお前が何ぞの聞違へ、私は毛頭《すこし》も覚えの無き事と、これがこの人の十八番とはてもさても情なし。
花《はな》紅葉《もみぢ》うるはしく仕立し娘たちが春着の小袖、襟《ゑり》をそろへて褄《つま》を重ねて、眺めつ眺めさせて喜ばんものを、邪魔ものの兄が見る目うるさし、早く出てゆけ疾《と》く去《い》ねと思ふ思ひは口にこそ出《いだ》さね、もち前の疳癪《かんしやく》したに堪《た》えがたく、智識の坊さまが目に御覧じたらば、炎につつまれて身は黒烟《くろけふ》りに心は狂乱の折ふし、言ふ事もいふ事、金は敵薬《てきやく》ぞかし、現在うけ合ひしは我れに覚えあれど何のそれを厭《いと》ふ事かは、大方お前が聞ちがへと立《たて》きりて、烟草《たばこ》輪にふき私は知らぬと済しけり。
ゑゑ大金でもある事か、金なら二円、しかも口づから承知して置きながら十日とたたぬに耄《もう》ろくはなさるまじ、あれあの懸け硯《すずり》の引出しにも、これは手つかずの分《ぶん》と一ト束、十か二十か悉皆《みな》とは言はず唯二枚にて伯父が喜び伯母が笑《ゑ》顔《がほ》、三之助に雑煮のはしも取らさるると言はれしを思ふにも、どうでも欲しきはあの金ぞ、恨めしきは御新造とお峯は口《くち》惜《を》しさに物も言はれず、常々をとなしき身は理屈づめにやり込る術《すべ》もなくて、すごすごと勝手に立てば正午の号砲《どん》の音たかく、かかる折ふし殊更胸にひびくものなり。
お母《はは》さまに直様《すぐさま》お出下さるやう、今朝《けさ》よりのお苦るしみに、潮時は午後、初産《ういざん》なれば旦那とり止めなくお騒ぎなされて、お老人《としより》なき家なれば混雑お話しにならず、今が今お出でをとて、生死《しようし》の分《わけ》目《め》といふ初産に、西応寺の娘がもとより迎ひの車、これは大晦日とて遠慮のならぬ物なり、家のうちには金もあり、放蕩《のら》どのが寐《ね》てはいる、心は二つ、分けられぬ身なれば恩愛の重きに引かれて、車には乗りけれど、かかる時気楽の良人《おつと》が心根にくく、今日あたり沖釣りでも無き物をと、太公望《たいこうぼう》がはり合ひなき人をつくづくと恨みて御新造いでられぬ。
行《ゆき》ちがへに三之助、此処と聞きたる白銀台《しろかねだい》町《まち》、相違なく尋ねあてて、我が身のみすぼらしきに姉の肩身を思ひやりて、勝手口より怕《こわ》々《ごわ》のぞけば、誰《た》れぞ来しかと竈《かまど》の前に泣き伏したるお峯が、涙をかくして見《み》出《いだ》せばこの子、おお宜く来たとも言はれぬ仕義を何とせん、姉《あね》さま這入《はい》つても叱かられはしませぬか、約束の物は貰つて行《ゆ》かれますか、旦那や御新造に宜くお礼を申て来いと父《とと》さんが言ひましたと、子細を知らねば喜び顔つらや、まづまづ待つて下され、少し用もあればと馳《は》せ行《ゆ》きて内《うち》外《と》を見廻せば、嬢さまがたは庭に出て追羽子に余念なく、小僧どのはまだお使ひより帰らず、お針は二階にてしかも聾《つんぼ》なれば子細なし、若旦那はと見ればお居間の炬燵に今ぞ夢の真最中《まつただなか》、拝みまする神さま仏さま、私は悪人になりまする、成りたうは無けれど成らねば成りませぬ、罸《ばち》をお当てなさらば私《わたし》一人、遣《つか》ふても伯父や伯母は知らぬ事なればお免《ゆる》しなさりませ、勿躰《もつたい》なけれどこの金ぬすませて下されと、かねて見置きし硯の引出しより、束のうちを唯二枚、つかみし後《のち》は夢とも現《うつつ》とも知らず、三之助に渡して帰したる始終を、見し人なしと思へるは愚かや。
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その日も暮れ近く旦那つりより恵比須《ゑびす》がほして帰らるれば、御新造も続いて、安産の喜びに送りの車夫《もの》にまで愛想よく、今宵を仕舞へば又見舞ひまする、明日《あす》は早くに妹《いもと》共の誰《た》れなりとも、一人は必らず手伝はすると言ふて下され、さてさて御苦労と蝋燭代《ろうそくだい》などを遣《や》りて、やれ忙がしや誰れぞ暇な身躰《からだ》を片身かりたき物、お峯小松菜はゆでて置いたか、数の子は洗つたか、大旦那はお帰りに成つたか、若旦那はと、これは小声に、まだと聞いて額に皺《しは》を寄せぬ。
石之助その夜《よ》はをとなしく、新年《はる》は明日《あす》よりの三ケ日なりとも、我が家にて祝ぶべき筈ながら御存じの締りなし、堅くるしき袴《はかま》づれに挨拶も面倒、意見も実は聞あきたり、親類の顔に美くしきも無ければ見たしと思ふ念もなく、裏屋の友達がもとに今宵約束も御座れば、一先《まつ》お暇《いとま》として何《いづ》れ春永に頂戴の数々は願ひまする、折からお目出《めで》度《たき》矢先、お歳暮には何ほど下さりますかと、朝より寝込みて父の帰りを待ちしは此金《これ》なり、子は三界の首械《くびかせ》といへど、まこと放蕩《のら》を子に持つ親ばかり不幸なるは無し、切られぬ縁の血筋といへば有るほどの悪戯《いたづら》を尽して瓦《が》解《かい》の暁に落こむはこの淵《ふち》、知らぬと言ひても世間のゆるさねば、家の名をしく我が顔はづかしきに惜しき倉庫《くら》をも開くぞかし、それを見込みて石之助、今宵を期限の借金が御座る、人の受けに立ちて判を為《し》たるもあれば、花見のむしろに狂風一陣、破落戸《ごろつき》仲間に遣る物を遣らねばこの納まりむづかしく、我れは詮方《せんかた》なけれどお名前に申わけなしなどと、つまりは此金《これ》の欲しと聞えぬ。母は大方かかる事と今朝《けさ》よりの懸念うたがひなく、幾金《いくら》とねだるか、ぬるき旦那どのの処置はがゆしと思へど、我れも口にては勝がたき石之助の弁に、お峯を泣かせし今朝とは変りて父が顔色いかにとばかり、折々見やる尻目おそろし、父は静かに金庫の間へ立ちしが頓《やが》て五十円束一つ持ち来て、これは貴様に遣るではなし、まだ縁づかぬ妹どもが不《ふ》憫《びん》、姉が良人《おつと》の顔にもかかる、この山村は代々堅気一方に正直律義を真向《まつこう》にして、悪い風《うわ》説《さ》を立てられた事も無き筈を、天魔の生れがはりか貴様といふ悪者《わる》の出来て、無き余りの無分別に人の懐《ふところ》でも覗《ねら》うやうにならば、恥は我が一代にとどまらず、重しといふとも身代は二の次、親兄弟に恥を見するな、貴様にいふとも甲斐《かひ》は無けれど尋常《なみなみ》ならば山村の若旦那とて、入らぬ世間に悪評もうけず、我が代りの年礼に少しの労をも助くる筈を、六十に近き親に泣きを見するは罰あたりで無きか、子供の時には本の少しものぞいた奴、何故《なぜ》これが分りをらぬ、さあ行け、帰れ、何処へでも帰れ、この家に恥は見するなとて父は奥深く這入りて、金は石之助が懐中《ふところ》に入りぬ。
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お母様御機嫌よう好い新年をお迎ひなされませ、左様ならば参りますと、暇乞わざとうやうやしく、お峯下駄を直せ、お玄関からお帰りでは無いお出かけだぞと図分々々《づぶづぶ》しく大手を振りて、行先は何処《いづこ》、父が涕《なみだ》は一夜《よ》の騒ぎに夢とやならん、持つまじきは放蕩《のら》息子、持つまじきは放蕩《のら》を仕《し》立《たつ》る継母《ままはは》ぞかし。塩花こそふらね跡は一まづ掃き出して、若旦那退散のよろこび、金は惜しけれど見る目も憎ければ家に居らぬは上々なり、どうすればあのやうに図太くなられるか、あの子を生んだ母《かか》さんの顔が見たい、と御新造例に依つて毒舌をみがきぬ。お峯はこの出来事も何として耳に入《い》るべき、犯したる罪の恐ろしさに、我れか、人か、先刻《さつき》の仕業はと今更夢路を辿《たど》りて、おもへばこの事あらはれずして済むべきや、万が中《なか》なる一枚とても数ふれば目の前なるを、願ひの高に相応の員《いん》数《ず》手近の処になく成しとあらば、我れにしても疑ひは何処《いづこ》に向くべき、調べられなば何とせん、何といはん、言ひ抜けんは罪深し、白状せば伯父が上にもかかる、我が罪は覚悟の上なれど物がたき伯父様にまで濡れ衣《ぎぬ》を着せて、干《ほ》されぬは貧乏のならひ、かかる事もする物と人の言ひはせぬか、悲しや何としたらよかろ、伯父様に疵《きず》のつかぬやう、我身が頓《とん》死《し》する法は無きかと目は御新造が起《たち》居《ゐ》にしたがひて、心はかけ硯のもとにさまよひぬ。
大勘定《おほかんじよう》とてこの夜《よ》あるほどの金をまとめて封印の事あり、御新造それそれと思ひ出して、懸け硯に先程、屋根やの太郎に貸付のもどり彼金《あれ》が二十御座りました、お筆お峯、かけ硯を此処へと奥の間より呼ばれて、最早この時わが命は無き物、大旦那が御目通りにて始めよりの事を申、御新造が無情そのままに言ふてのけ、術もなし法もなし正直は我身の守り、逃げもせず隠られもせず、欲かしらねど盗みましたと白状はしましよ、伯父様同腹《ひとつ》で無きだけを何処までも陳《の》べて、聞かれずば甲斐なしその場で舌かみ切つて死んだなら、命にかへて嘘とは思しめすまじ、それほど度胸すわれど奥の間へ行く心は屠《と》処《しよ》の羊なり。
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お峯が引出したるは唯二枚、残りは十八あるべき筈を、いかにしけん束のまま見えずとて底をかへして振へども甲斐なし、怪しきは落散し紙切れにいつ認《したた》めしか受取一通。
(引出しの分も拝借致し候 石之助)
さては放蕩《のら》かと人々顔を見合せてお峯が詮議は無かりき、孝の余徳は我れ知らず石之助の罪に成りしか、いやいや知りて序《ついで》に冠《かぶ》りし罪かも知れず、さらば石之助はお峯が守り本尊なるべし、後《のち》の事しりたや。
ゆく雲
上
酒折《さかをり》の宮、山梨の岡、塩山《えんざん》、裂石《さけいし》、さし手《で》の名も都人《ここびと》の耳に聞きなれぬは、小仏《こぼとけ》ささ子《ご》の難処を越して猿橋《さるはし》のながれに眩《めくる》めき、鶴《つる》瀬《せ》、駒飼《こまかひ》見るほどの里もなきに、勝沼《かつぬま》の町とても東京《ここ》にての場末ぞかし、甲府はさすがに大《たい》厦《か》高楼、躑躅《つつじ》が崎《さき》の城跡など見る処のありとは言へど、汽車の便りよき頃にならば知らず、こと更の馬車腕車《くるま》に一昼夜をゆられて、いざ恵《ゑ》林《りん》寺《じ》の桜見にといふ人はあるまじ、故郷《ふるさと》なればこそ年々《としどし》の夏休みにも、人は箱根伊香保《いかほ》ともよふし立つる中を、我れのみ一人あし曳《びき》の山の甲斐《かひ》に峯のしら雲あとを消すことさりとは是非もなけれど、今《こ》歳《とし》この度みやこを離れて八王子に足をむける事これまでに覚えなき愁《つ》らさなり。
養父清《せい》左衛《ざゑ》門《もん》、去歳《こぞ》より何処┘処《どこそこ》からだに申分ありて寐《ね》つ起きつとの由は聞きしが、常日頃すこやかの人なれば、さしての事はあるまじと医者の指図などを申やりて、この身は雲井の鳥の羽がひ自由なる書生の境界《きようがい》に今しばしは遊ばるる心なりしを、先きの日故郷《ふるさと》よりの便りに曰《いは》く、大旦那さまことその後の容《よう》躰《だい》さしたる事は御座なく候へ共、次第に短気のまさりて我意《わがまま》つよく、これ一つは年の故《せい》には御座候はんなれど、随分あたりの者御機げんの取りにくく、大《おほ》心配を致すよし、私《わたくし》など古狸《ふるだぬき》の身なればとかくつくろひて一日二日と過し候へ共、筋のなきわからずやを仰せいだされ、足もとから鳥の立つやうにお急《せ》きたてなさるには大《おほ》閉口に候、この中《じゆう》より頻《しきり》に貴君《あなた》様を御手もとへお呼び寄せなさりたく、一日も早く家督相続あそばさせ、楽隠居なされたきおのぞみのよし、これ然るべき事と御親類一同の御決義、私は初手から貴君様を東京へお出し申すは気に喰はぬほどにて、申しては失礼なれどいささかの学問などどうでも宜《よ》い事、赤《あか》尾《を》の彦が息子のやうに気ちがひに成つて帰つたも見てをり候へば、もともと利発の貴君様にその気づかひはあるまじきなれど、放蕩《ほうとう》ものにでもお成りなされては取返しがつき申さず、今の分にて嬢さまと御祝言、御家督引つぎ最《も》はや早きお歳にはあるまじくと大《おほ》賛成に候、さだめしさだめしその地には遊《あそば》しかけの御用事も御座候はんそれ等を然るべく御取まとめ、飛鳥《とぶとり》もあとを濁ごすなに候へば、大藤《おほふぢ》の大尽が息子と聞きしに野沢の桂《けい》次《じ》は了《りよう》簡《けん》の清くない奴、何処《どこ》やらの割前を人に背負《せよは》せて逃げをつたなどとかふいふ噂があとあとに残らぬやう、郵便為替にて証書面のとほりお送り申候へども、足りずば上杉さまにて御立かへを願ひ、諸事清潔《きれい》にして御帰りなさるべく、金故に恥ぢをお掻《か》きなされては金庫の番をいたす我等が申わけなく候、前《ぜん》申せし通り短気の大旦那さま頻に待ちこがれて大ぢれに御座候へば、その地の御片つけすみ次第、一日もはやくと申納《おさめ》候。六蔵といふ通ひ番頭の筆にてこの様の迎ひ状《ぶみ》いやとは言ひがたし。
家に生《はへ》抜《ぬ》きの我れ実子にてもあらば、かかる迎へのよしや十度十五たび来たらんとも、おもひ立ちての修業なれば一ト廉《かど》の学問を研《みが》かぬほどは不孝の罪ゆるし給へとでもいひやりて、その我ままの徹《とほ》らぬ事もあるまじきなれど、愁《つ》らきは養子の身分と桂次はつくづく他人の自由を羨《うら》やみて、これからの行く末をも鎖りにつながれたるやうに考へぬ。
七つのとしより実家の貧を救はれて、生れしままなれば素《す》跣足《はだし》の尻きり半纏《ばんてん》に田圃《たんぼ》へ弁当の持はこびなど、松のひで《・・》を燈火《ともしび》にかへて草鞋《わらんじ》うちながら馬士《まご》歌《うた》でもうたふべかりし身を、目鼻だちの何処《どこ》やらが水《みづ》子《こ》にて亡《う》せたる総領によく似たりとて、今はなき人なる地主の内儀《つま》に可愛がられ、はじめはお大尽の旦那と尊《たつと》びし人を、父上と呼ぶやうに成りしはその身の幸福《しやわせ》なれども、幸福《しやわせ》ならぬ事おのづからその中《うち》にもあり、お作《さく》といふ娘の桂次よりは六つの年少《としした》にて十七ばかりになる無地の田《い》舎娘《なかもの》をば、どうでも妻にもたねば納まらず、国を出《いづ》るまではさまで不運の縁とも思はざりしが、今日この頃は送りこしたる写真をさへ見るに物うく、これを妻に持ちて山梨の東郡《ひがしごほり》に蟄伏《ちつぷく》する身かと思へば人のうらやむ造酒家《つくりざかや》の大身上《おほしんしよう》は物のかずならず、よしや家督をうけつぎてからが親類縁者の干渉きびしければ、我が思ふ事に一銭の融通も叶《かな》ふまじく、いはば宝の蔵の番人にて終るべき身の、気に入らぬ妻までとは弥々《いよいよ》の重荷なり、うき世に義理といふ柵《しがら》みのなくば、蔵を持ぬしに返し長途の重荷を人にゆづりて、我れはこの東京を十年も二十年も今すこしも離れがたき思ひ、そは何故《なにゆゑ》と問ふ人のあらば切りぬけ立派に言ひわけの口上もあらんなれど、つくろひなき正《しよう》の処ここもとに唯一人すててかへる事のをしくをしく、別れては顔も見がたき後《のち》を思へば、今より胸の中もやくやとして自《おのづか》ら気もふさぐべき種なり。
桂次が今をるここ許《もと》は養家の縁に引かれて伯父伯母といふ間がら也《なり》、はじめてこの家《や》へ来たりしは十八の春、田舎縞の着物に肩縫あげをかしと笑はれ、八《や》つ口《くち》をふさぎて大人の姿にこしらへられしより二十二の今日までに、下宿屋住居《ずまゐ》を半分と見つもりても出入り三年はたしかに世話をうけ、伯父の勝義《かつよし》が性質の気むづかしい処から、無敵にわけのわからぬ強情の加減、唯々女房にばかり手やはらかなる可笑《をか》しさも呑込めば、伯母なる人が口先ばかりの利口にて誰《た》れにつきても根からさつぱり親切気のなき、我欲の目当てが明らかに見えねば笑ひかけた口もとまで結んで見せる現金の様子まで、度々の経験に大方は会得のつきて、この家《や》にあらんとには金づかひ奇麗に損をかけず、表むきは何処《どこ》までも田舎書生の厄介者が舞ひこみて御世話に相成るといふこしらへでなくては第一に伯母御前《ごぜ》が御機嫌むづかし、上杉といふ苗字をば宜いことにして大名の分家と利かせる見得ぼうの上なし、下女には奥様といはせ、着物は裾のながいを引いて、用をすれば肩がはるといふ三十円どりの会社員の妻がこの形粧《ぎようそう》にて繰廻しゆく家の中《うち》おもへばこの女が小利口の才覚ひとつにて、良人《おつと》が箔《はく》の光つて見ゆるやら知らねども、失敬なは野沢桂次といふ見事立派の名前ある男を、かげに廻りては家の書生がと安々こなされて、御玄関番同様にいはれる事馬鹿らしさの頂上なれば、これのみにても寄りつかれぬ価値《ねうち》はたしかなるに、しかもこの家の立はなれにくく、心わるきまま下宿屋あるきと思案をさだめても二週間と訪問《おとづれ》を絶ちがたきはあやし。
十年ばかり前にうせたる先妻の腹にぬひと呼ばれて、今の奥様には継《まま》なる娘《こ》あり、桂次がはじめて見し時は十四か三か、唐人髷《とうじんまげ》に赤き切れかけて、姿はおさなびたれども母のちがふ子は何処やらをとなしく見ゆるものと気の毒に思ひしは、我れも他人の手にて育ちし同情を持てばなり、何事も母親に気をかね、父にまで遠慮がちなれば自づから詞《ことば》かずも多からず、一目に見わたした処では柔和《おとな》しい温《す》順《なほ》の娘といふばかり、格別利発ともはげしいとも人は思ふまじ、父母そろひて家の内に籠《こも》りゐにても済むべき娘が、人目に立つほど才女など呼ばるるは大方お侠《きやん》の飛びあがりの、甘やかされの我ままの、つつしみなき高慢より立つ名なるべく、物にはばかる心ありて万《よろづ》ひかえ目にと気をつくれば、十が七に見えて三分の損はあるものと桂次は故郷《ふるさと》のお作が上まで思ひくらべて、いよいよおぬひが身のいたましく、伯母が高慢がほはつくづくと嫌やなれども、あの高慢にあの温順《すなほ》なる身にて事なく仕へんとする気苦労を思ひやれば、せめては傍《そば》近くに心ぞへをも為《な》し、慰めにも為りてやりたしと、人知らば可笑《をかし》かるべき自《うぬ》ぼれも手伝ひて、おぬひの事といへば我が事のように喜びもし怒《いか》りもして過ぎ来つるを、見すてて我れ今故郷《こきよう》にかへらば残れる身の心ぼそさいかばかりなるべき、あはれなるは継子の身分にして、俯甲斐《ふがひ》ないものは養子の我れと、今更のやうに世の中のあぢきなきを思ひぬ。
中
まま母育ちとて誰《た》れもいふ事なれど、あるが中《なか》にも女の子の大方《おほかた》すなほに生《おひ》たつは稀《まれ》なり、少し世間並除《の》け物の緩《ゆる》い子は、底意地はつて馬鹿強情など人に嫌はるる事この上なし、小利口なるは狡《ず》るき性根をやしなうて面《めん》かぶりの大変ものに成《なる》もあり、しやんとせし気性ありて人間の質《たち》の正直なるは、すね者の部類にまぎれてその身に取れば生涯の損おもふべし、上杉のおぬひと言ふ娘《こ》、桂次がのぼせるだけ容貌《きりよう》も十人なみ少しあがりて、よみ書き十露《そろ》盤《ばん》それは小学校にて学びしだけのことは出来て、我が名にちなめる針仕事は袴《はかま》の仕立までわけなきよし、十歳《とを》ばかりの頃までは相応に悪戯《いたづら》もつよく、女にしてはと亡き母親に眉根を寄せさして、ほころびの小言も十分に聞きし物なり、今の母は父親《てておや》が上役なりし人の隠し妻とやらお妾《めかけ》とやら、種々曰《さまざまいは》くのつきし難物のよしなれども、持《もた》ねばならぬ義理ありて引うけしにや、それとも父が好みて申受しか、その辺たしかならねど勢力おさおさ女房天下と申やうな景色なれば、まま子たる身のおぬひがこの瀬に立ちて泣くは道理なり、もの言へば睨《にら》まれ、笑へば怒られ、気を利かせれば小ざかしと云ひ、ひかえ口にあれば鈍な子と叱かられる、二葉の新芽に雪霜のふりかかりて、これでも延びるかと押へるやうな仕方に、堪《た》へて真直ぐに延びたつ事人間わざには叶《かな》ふまじ、泣いて泣いて泣き尽くして、訴へたいにも父の心は鉄《かね》のやうに冷えて、ぬる湯一杯たまはらん情もなきに、まして他人の誰《た》れにか慨《かこ》つべき、月の十日に母《はは》さまが御《おん》墓《はか》まゐりを谷《や》中《なか》の寺に楽しみて、しきみ線香それぞれの供へ物もまだ終らぬに、母さま母さま私を引取つて下されと石塔に抱《いだ》きつきて遠慮なき熱涙、苔《こけ》のしたにて聞かば石もゆるぐべし、井戸がはに手を掛て水をのぞきし事三四度に及びしが、つくづく思へば無情《つれなし》とても父様《ととさま》は真実《まこと》のなるに、我れはかなく成りて宜からぬ名を人の耳に伝へれば、残れる耻《はぢ》は誰《た》が上ならず、勿躰《もつたい》なき身の覚悟と心の中《うち》に詫言《わびごと》して、どうでも死なれぬ世に生中《なまなか》目を明きて過ぎんとすれば、人並のうい事つらい事、さりとはこの身に堪へがたし、一生五十年めくらに成りて終らば事なからんとそれよりは一筋に母様の御機嫌、父が気に入るやう一切この身を無いものにして勤むれば家の内なみ風おこらずして、軒ばの松に鶴が来て巣をくひはせぬか、これを世間の目に何と見るらん、母御は世辞上手にて人を外らさぬ甘《うま》さあれば、身を無いものにして闇をたどる娘よりも、一枚あがりて、評判わるからぬやら。
お縫《ぬい》とてもまだ年わかなる身の桂次が親切はうれしからぬに非ず、親にすら捨てられたらんやうな我が如きものを、心にかけて可愛がりて下さるは辱《かたじ》けなき事と思へども、桂次が思ひやりに比べては遥《はる》かに落つきて冷やかなる物なり、おぬひさむ我れがいよいよ帰国したと成つたならば、あなたは何と思ふて下さろう、朝夕の手がはぶけて、厄介が減つて、楽になつたとお喜びなさろうか、それとも折ふしはあの話し好きの饒舌《おしやべり》のさわがしい人が居なくなつたで、少しは淋しい位に思ひ出して下さろうか、まあ何と思ふてお出《いで》なさるとこんな事を問ひかけるに、仰《おつ》しやるまでもなく、どんなに家中《うちじゆう》が淋しく成りましよう、東《こ》京《こ》にお出《いで》あそばしてさへ、一ト月も下宿に出て入らつしやる頃は日曜が待どほで、朝の戸を明けるとやがて御足おとが聞えはせぬかと存じまする物を、お国へお帰りになつては容易に御出京もあそばすまじければ、又どれほどの御別れに成りまするやら、それでも鉄道が通ふやうに成りましたら度々御《お》出《いで》あそばして下さりませうか、そうならば嬉しけれどと言ふ、我れとても行きたくてゆく故郷《ふるさと》でなければ、此処《ここ》に居られる物なら帰るではなく、出て来られる都合ならば又今までのやうにお世話に成りに来まする、成るべくはちよつとたち帰りに直ぐも出京したきものと軽くいへば、それでもあなたは一家の御主人さまに成りて采配《さいはい》をおとりなさらずは叶ふまじ、今までのやうなお楽の御身分ではいらつしやらぬ筈と押へられて、されば誠に大難に逢ひたる身と思《おぼ》しめせ。
我が養家は大藤村の中萩原《なかはぎはら》とて、見わたす限りは天目山《てんもくざん》、大菩薩峠《だいぼさつたうげ》の山々峰々垣《かき》をつくりて、西南にそびゆる白妙の富士の嶺《ね》は、をしみて面かげを示めさねども、冬の雪おろしは遠慮なく身をきる寒さ、魚《うを》といひては甲府まで五里の道を取りにやりて、やうやう┐《まぐろ》の刺身が口に入《い》る位、あなたは御存じなけれどお親父《とつ》さんに聞て見給へ、それは随分不便利にて不潔にて、東京より帰りたる夏分などは我まんのなりがたき事もあり、そんな処に我れは括《くく》られて、面白くもない仕事に追はれて、逢ひたい人には逢はれず、見たい土地はふみ難く、兀々《こつこつ》として月日を送らねばならぬかと思《おもふ》に、気のふさぐも道理とせめては貴嬢《あなた》でもあはれんでくれ給へ、可愛さうなものでは無きかと言ふに、あなたはさう仰しやれど母などはお浦山《うらやま》しき御身分と申てをりまする。
何がこんな身分うら山しい事か、ここで我れが幸福《しやわせ》といふを考へれば、帰国するに先だちてお作《さく》が頓死するといふ様なことにならば、一人娘のことゆゑ父親《てておや》おどろいて暫時《しばし》は家督沙汰《ざた》やめになるべく、然るうちに少々なりともやかましき財産などの有れば、みすみす他人なる我れに引わたす事をしくも成るべく、又は縁者の中《うち》なる欲ばりども唯にはあらで運動することたしかなり、その暁に何かいささか仕損なゐでもこしらゆれば我れは首尾よく離縁になりて、一本立の野中の杉ともならば、それよりは我が自由にてその時に幸福《しやわせ》といふ詞《ことば》を与へ給へと笑ふに、おぬひ惘《あき》れて貴君《あなた》はその様の事正気で仰しやりますか、平常《つね》はやさしい方と存じましたに、お作様に頓死しろとは蔭ながらの嘘にしろあんまりでござります、お可愛想なことをと少し涙ぐんでお作をかばふに、それは貴嬢《あなた》が当人を見ぬゆゑ可愛想とも思ふか知らねど、お作よりは我れの方を憐《あは》れんでくれて宜《い》い筈、目に見えぬ縄につながれて引かれてゆくやうな我れをば、あなたは真の処何とも思ふてくれねば、勝手にしろといふ風で我れの事とては少しも察してくれる様子が見えぬ、今も今居なくなつたら淋しかろうとお言ひなされたはほんの口先の世辞で、あんな者は早く出てゆけと箒《はうき》に塩花が落ちならんも知らず、いい気になつて御邪魔になつて、長居をして御世話さまに成つたは、申訳がありませぬ、いやで成らぬ田舎へは帰らねばならず、情《なさけ》のあろうと思ふ貴嬢がそのやうに見すてて下されば、いよいよ世の中は面白くないの頂上、勝手にやつて見ませうと態《わざ》とすねて、むつと顔《がほ》をして見せるに、野沢さんは本当にどうか遊《あそば》していらつしやる、何がお気に障りましたのとお縫はうつくしい眉に皺《しわ》を寄せて心の解《げ》しかねる躰《てい》に、それは勿《もち》論《ろん》正気の人の目からは気ちがひと見える筈、自分ながら少し狂つていると思ふ位なれど、気ちがひだとて種なしに間違ふ物でもなく、いろいろの事が畳まつて頭脳《あたま》の中がもつれてしまふから起る事、我れは気違ひか熱病か知らねども正気のあなたなどが到底《とても》おもひも寄らぬ事を考へて、人しれず泣きつ笑ひつ、何処やらの人が子供の時うつした写真だといふあどけないのを貰つて、それを明けくれに出して見て、面と向つては言はれぬ事を並べて見たり、机の引出しへ叮嚀《ていねい》にしまつて見たり、うわ言をいつたり夢を見たり、こんな事で一生を送れば人は定めし大《おほ》白痴《だわけ》と思ふなるべく、そのやうな馬鹿になつてまで思ふ心が通じず、なき縁ならば切《せ》めては優しい詞でもかけて、成仏するやうにしてくれたら宜さそうの事を、しらぬ顔をして情ない事を言つて、お出《いで》がなくば淋しかろう位のお言葉は酷《ひど》いではなきか、正気のあなたは何と思ふか知らぬが、狂気《きちがひ》の身にして見ると随分気づよいものと恨まれる、女といふものはもう少しやさしくても好い筈ではないかと立てつづけの一ト息に、おぬひは返事もしかねて、私《わた》しは何と申てよいやら、不器用なればお返事のしやうも分らず、唯々こころぼそく成りますとて身をちぢめて引退《ひきしりぞ》くに、桂次拍子ぬけのしていよいよ頭の重たくなりぬ。
上杉の隣家《となり》は何宗かの御《おん》梵刹《てら》さまにて寺《じ》内《ない》広々と桃桜いろいろ植《うゑ》わたしたれば、此方《こなた》の二階より見おろすに雲は棚《たな》曳《び》く天上界に似て、腰ごろもの観音さま 濡れ仏にておはします御《おん》肩のあたり膝《ひざ》のあたり、はらはらと花散りこぼれて前に供へし樒《しきみ》の枝につもれるもをかしく、下ゆく子守りが鉢巻の上《う》へ、しばしやどかせ春のゆく衛《ゑ》と舞ひくるもみゆ、かすむ夕べの朧月《おぼろづき》よに人顔ほのぼのと暗く成りて、風少しそふ寺内の花をば去歳《こぞ》も一昨年《おととし》もそのまへの年も、桂次此処に大方《おほかた》は宿を定めて、ぶらぶらあるきに立ならしたる処なれば、今歳この度とりわけて珍らしきさまにもあらぬを、今こん春はとても立かへり蹈《ふむ》べき地にあらずと思ふに、ここの濡れ仏さまにも中々の名残をしまれて、夕げ終りての宵々家を出《いで》ては御寺参り殊勝に、観音さまには合唱を申て、我が恋人のゆく末を守りたまへと、お志しのほどいつまでも消えねば宜《よ》いが。
下
我れのみ一人のぼせて耳鳴りやすべき桂次が熱ははげしけれども、おぬひと言ふもの木にて作られたるやうの人なれば、まづは上杉の家にやかましき沙汰《さた》もおこらず、大藤村にお作が夢ものどかなるべし、四月の十五日帰国に極《き》まりて土産物など折柄日清《につしん》の戦争画、大勝利の袋もの、ぱちん羽織の紐《ひも》、白粉《をしろい》かんざし桜香《さくらか》の油、縁類広ければとりどりに香水、石鹸《しやぼん》の気取りたるも買ふめり、おぬひは桂次が未来の妻にと贈りものの中へ薄藤色の襦袢《じゆばん》の襟《ゑり》に白ぬきの牡《ぼ》丹《たん》花《か》の形《かた》あるをやりけるに、これを眺めし時の桂次が顔、気の毒らしかりしと後《あと》にて下女の竹が申き。
桂次がもとへ送りこしたる写真はあれども、秘しがくしに取納めて人には見せぬか、それとも人しらぬ火鉢の灰になり終りしか、桂次ならぬもの知るによしなけれど、さる頃はがきにて処用と申こしたる文面は男の通りにて名書きも六蔵の分なりしかど、手跡大分あがりて見よげに成りしと父親の自まんより、娘に書かせたる事論なしとここの内儀が人の悪き目にて睨《にら》みぬ、手跡によりて人の顔つきを思ひやるは、名を聞いて人の善悪を判断するやうなもの、当代の能書に業平《なりひら》さまならぬもおはしますぞかし、されども心用ひ一つにて悪筆なりとも見よげのしたため方はあるべきと、達者めかして筋もなき走り書きに人よみがたき文字ならば詮《せん》なし、お作の手はいかなりしか知らねど、此処の内儀が目の前にうかびたる形は、横巾ひろく長《たけ》つまりし顔に、目鼻だちはまづくもあるまじけれど、《びん》うすくして首筋くつきりとせず、胴よりは足の長い女とおぼゆると言ふ、すて筆ながく引いて見ともなかりしか可笑《をか》し、桂次は東京に見てさへ醜《わ》るい方では無いに、大藤村の光《ひか》る君《きみ》帰郷といふ事にならば、機《はた》場《ば》の女が白粉のぬりかた思はれると此処にての取沙汰、容貌《きりよう》のわるい妻を持つぐらゐ我慢もなる筈、水呑みの小作が子として一足飛《そくとび》のお大尽なればと、やがては実家をさへ洗はれて、人の口さがなし伯父伯母一つになつて嘲《あざけ》るやうな口調を、桂次が耳に入《い》らぬこそよけれ、一人気の毒と思ふはお縫なり。
荷物は通運便にて先へたたせたれば残るは身一つに軽々しき桂次、今日も明日もと友達のもとを馳《は》せめぐりて何やらん用事はあるものなり、僅かなる人目の暇を求めてお縫が袂《たもと》をひかえ、我れは君に厭《いと》はれて別るるなれども夢いささか恨む事をばなすまじ、君はおのづから君の本《ほん》地《ち》ありてその島田をば丸曲《まるまげ》にゆひかへる折のきたるべく、うつくしき乳房を可愛《かわゆ》き人に含まする時もあるべし、我れは唯だ君の身の幸福《しやわせ》なれかし、すこやかなれかしと祈りてこの長き世をば尽さんには随分とも親孝行にてあられよ、母《はは》御前《ごぜ》の意地わるに逆らふやうの事は君として無きに相違なけれどもこれ第一に心がけ給へ、言ふことは多し、思ふことは多し、我れは世を終るまで君のもとへ文の便りをたたざるべければ、君よりも十通に一度の返事を与へ給へ、睡《ねぶ》りがたき秋の夜は胸に抱《いだ》いてまぼろしの面影をも見んと、このやうの数々を並らべて男なきに涙のこぼれるに、ふり仰《あほ》向《の》いてはんけちに顔を拭ふさま、心よわげなれど誰《た》れもこんな物なるべし、今から帰るといふ故郷《ふるさと》の事養家のこと、我身の事お作の事みなから忘れて世はお縫ひとりのやうに思はるるも闇なり、この時こんな場合にはかなき女心の引入られて、一生消えぬかなしき影を胸にきざむ人もあり、岩木のやうなるお縫なれば何と思ひしかは知らねども、涙ほろほろこぼれて一ト言もなし。
春の夜の夢のうき橋、と絶えする横ぐもの空に東京を思ひ立ちて、道よりもあれば新宿《しんじゆく》までは腕車《くるま》がよしといふ、八王子までは汽車の中、をりればやがて馬車にゆられて、小仏《こぼとけ》の峠もほどなく越ゆれば、上《うへ》野《の》原《ばら》、つる川、野田《のだ》尻《じり》、犬《いぬ》目《め》、鳥沢《とりざわ》も過ぐれば猿はし近くにその夜は宿るべし、巴峡《はきよう》のさけびは聞えぬまでも、笛吹川《ふゑふきがは》の響きに夢むすび憂く、これにも腸《はらわた》はたたるべき声あり、勝沼よりの端書一度とどきて四日目にぞ七里《ななさと》の消印ある封状二つ、一つはお縫へ向けてこれは長かりし、桂次はかくて大藤村の人に成りぬ。
世にたのまれぬを男心といふ、それよ秋の空の夕日にはかに掻《か》きくもりて、傘なき野道に横しぶきの難義さ、出あひし物はみなその様に申せどもこれみな時のはづみぞかし、波こえよとて末の松山ちぎれるもなく、男傾城《をとこげいせい》ならぬ身の空涙こぼして何に成るべきや、昨日あはれと見しは昨日のあはれ、今日の我が身に為《な》す業しげければ、忘るるとなしに忘れて一生は夢の如し、露の世といへばほろり《・・・》とせしもの、はかないの上なしなり、思へば男は結髪《いひなづけ》の妻ある身、いやとても応とても浮世の義理をおもひ断つほどのことこの人この身にして叶ふべしや、事なく高砂をうたひ納むれば、即ち新らしき一対の夫婦《めをと》出来あがりて、やがては父とも言はるべき身なり、諸縁これより引かれて断ちがたき絆《ほだし》次第にふゆれば、一人一箇の野沢桂次ならず、運よくば万《まん》の身代十万に延して山梨県の多額納税と銘うたんも斗《はか》りがたけれど、契りし詞《ことば》はあとの湊《みなと》に残して、舟は流れに随《した》がひ人は世に引かれて、遠ざかりゆく事千里、二千里、一万里、此処三十里の隔てなれども心かよはずは八重がすみ外《と》山《やま》の峰をかくすに似たり、花ちりて青葉の頃までにお縫が手もとに文《ふみ》三通、こと細か成けるよし、五月雨《さみだれ》軒ばに晴れまなく人恋しき折ふし、彼方《かなた》よりも数々思ひ出《いで》の詞《ことば》うれしく見つる、それも過ぎては月に一二度の便り、はじめは三四度も有りけるを後《のち》には一度の月あるを恨みしが、秋《あき》蚕《ご》のはきたてとかいへるに懸りしより、二月に一度、三月に一度、今の間《ま》に半年目、一年目、年始の状と暑中見舞の交際《つきあい》になりて、文言《もんごん》うるさしとならば端《は》書《がき》にても事は足るべし、あはれ可笑《をか》しと軒ばの桜くる年も笑ふて、隣の寺の観音様御《おん》手《て》を膝に柔和の御相これも笑《ゑ》めるが如く、若いさかりの熱といふ物にあはれみ給へば、此処なる冷やかのお縫も笑くぼを頬《ほう》にうかべて世に立つ事はならぬか、相かはらず父様《ととさま》の御機嫌、母の気をはかりて、我身をない物にして上杉家の安穏をはかりぬれど、ほころびが切れてはむづかし。
うつせみ
一
家の間《ま》数《かず》は三畳敷の玄関までを入れて五間、手《て》狭《ぜま》なれども北南吹とほしの風《かぜ》入《い》りよく、庭は広々として植込の木立も茂ければ、夏の住《すま》居《ゐ》にうつてつけと見えて、場処も小《こ》石川《いしかは》の植物園にちかく物静なれば、少しの不便を疵《きず》にして他には申旨のなき貸家ありけり、門《かど》の柱に札をはりしより大凡《おほよそ》三月ごしにも成けれど、いまだに住人《すみて》のさだまらで、主《ぬし》なき門の柳のいと、空《むな》しくなびくも淋しかりき、家は何処《どこ》までも奇麗にて見こみの好ければ、日のうちには二人《ふたり》三人《みたり》の拝見をとて来るものも無きにはあらねど、敷金三月分、家賃は三十日限りの取たてにて七円五十銭といふに、それは下町の相場とて折かへして来るは無かりき、さるほどにこのほどの朝まだき四十に近かるべき年輩《としごろ》の男、紡績織の浴衣《ゆかた》も少し色のさめたるを着て、至極そそくさ《・・・・》と落つきの無きが差配のもとに来たりてこの家の見たしといふ、案内して其処此処《そこここ》と戸棚の数などを見せてあるくに、それ等のことは片耳にも入れで、唯四辺《あたり》の静にさわやかなるを喜び、今日より直《すぐ》にお借り申まする、敷金は唯今置いて参りまして、引越しはこの夕暮、いかにも急速では御座りますが直様《すぐさま》掃除にかかりたう御座りますとて、何の子細なく約束はととのひぬ、お職業はと問へば、いゑ別段これといふ物も御座りませぬとて至極曖昧《あいまい》の答へなり、御《ご》人《にん》数《ず》はと聞かれて、その何だか四五人の事も御座りますし、七八人にも成りますし、始終《とほし》ごたごたして埒《らち》は御座りませぬといふ、妙な事のと思ひしが掃除のすみて日暮れがたに引移り来たりしは、相乗りの幌《ほろ》かけ車に姿をつつみて、開きたる門を真直に入りて玄関におろしければ、主《ぬし》は男とも女とも人には見えじと思ひしげなれど、乗りゐたるは三十ばかりの気の利きし女中風と、今一人は十八か、九には未《いま》だと思はるるやうの病美人《びようびじん》、顔にも手足にも血の気といふもの少しもなく、透きとほるやうに蒼白《あをしろ》さがいたましく見えて、折から世話やきに来てゐたりし、差配が心に、此人《これ》を先刻《さき》のそそくさ《・・・・》男が妻とも妹《いもと》とも受とられぬと思ひぬ。
荷物といふは大八《だいはち》に唯一くるま来たりしばかり、両隣にお定めの土産は配りけれども、家の内は引越らしき騒ぎもなく至極ひつそりとせし物なり。人《にん》数《ず》はかのそそくさにこの女中と、他には御飯たきらしき肥大女《ふとつてう》および、その夜に入りてより車を飛ばせて二人ほど来たりし人あり、一人は六十に近かるべき人品よき剃髪《ていはつ》の老人、一人は妻なるべし対《つひ》するほどの年輩《としばい》にてこれは実法に小さき丸髷《まるまげ》をぞ結ひける、病みたる人は来るよりやがて奥深に床を敷かせて、括《くく》り枕に頭《つむり》を落つかせけるが、夜もすがら枕近くにありて悄然《しよんぼり》とせし老人《としより》二人の面《おも》やう、何処やら寝顔に似た処のあるやうなるは、この娘《こ》のもしも父母にては無きか、かのそそくさ男を始めとして女中とも一同旦那さま御《ご》新《しん》造《ぞ》様《さま》と言へば、応々《おいおい》と返事して、男の名をば太《た》吉《きち》太吉と呼びて使ひぬ。
あくる朝風すずしきほどに今一人車を乗りつけける人の有けり、紬《つむぎ》の単衣《ひとへ》に白ちりめんの帯を巻きて、鼻の下に薄ら髯《ひげ》のある三十位のでつぷりと太《ふとり》て見だてよき人、小さき紙に川村太吉と書て張りたるを読みて此処だ此処だと車よりおりける、姿を見つけて、おお番町の旦那様とお三どんが真先に襷《たすき》をはづせば、そそくさは飛出していやお早いお出《いで》、よく早速おわかりに成りましたな、昨日《きのふ》まで大塚《おほつか》にお置き申したので御座りますが何分最早《もう》、その何だか頻《しきり》に嫌《いや》にお成りなされて何処《どこ》へか行《ゆ》かう行かうと仰《おつ》しやる、仕方が御座りませぬで漸《やつ》とまあ此処をば見つけ出しまして御座ります、御覧下さりませ一寸《ちよいと》こうお庭も広う御座りますし、四隣《まはり》が遠うござりますので御気分の為にも良からうかと存じまする、はい昨《ゆふ》夜《べ》はよくお眠《やすみ》に成ましたが今朝ほどは又少しその、一寸《ちよつと》御様子が変つたやうで、ま、いらしつて御覧下さりませと先に立て案内をすれば、心配らしく髭《ひげ》をひねりて奥の座敷に通りぬ。
二
気分すぐれて良き時は三歳児《みつご》のやうに父母の膝《ひざ》に眠《ねぶ》るか、白紙を切つて姉様の製造《おつくり》に余念なく、物を問へばにこにこと打《うち》笑《ゑ》みて唯はいはいと意味もなき返事をする温順《をとな》しさも、狂風一陣梢《こずゑ》をうごかして来《きた》る気の立つた折には、父様《とうさん》も母様《かあさん》も兄様《にいさん》も誰れも後生《ごしよう》顔を見せて下さるな、とて物陰にひそんで泣く、声は腸《はらわた》を絞り出すやうにて私が悪う御座りました、堪忍《かんにん》して堪忍してと繰返し繰返し、さながら目の前の何やらに向つて詫《わび》るやうに言ふかと思へば、今行《ゆき》まする、今行まする、私もお跡から参りまするとて日のうちには看護《まもり》の暇をうかがひて駆け出《いだ》すこと二度三度もあり、井戸には蓋を置き、きれ物とては鋏刀《はさみ》一挺《ちよう》目にかからぬやうとの心配りも、危《あやふ》きは病ひのさする業かも、この繊弱《かよわ》き娘一人とり止むる事かなはで、勢ひに乗りて駆け出《いだ》す時には大の男二人がかりにてもむつかしき時の有ける。
本宅は三番町の何処やらにて表札を見ればむむあの人の家かと合点のゆくほどの身分、今さら此処には言はずもがな、名前の恥かしければ病院へ入れる事もせで、医者は心安きを招き家は僕《ぼく》の太吉といふが名を借りて心まかせの養生、一月と同じ処に住へば見る物残らず嫌やに成りて、次第に病ひのつのる事見る目も恐ろしきほど悽《すさ》まじき事あり。
当主は養子にて此娘《これ》こそは家につきての一粒ものなれば父母が歎きおもひやるべし、病ひにふしたるは桜さく春の頃よりと聞くに、それよりの昼夜メ《まぶた》を合する間もなき心配に疲れて、老たる人はよろよろたよたよと二人ながら力なささうの風《ふ》情《ぜい》、娘が病ひの俄《には》かに起りて私はもう帰りませぬとて駆け出《いだ》すを見る折にも、あれあれどうかしてくれ、太吉太吉と呼立てるほかには何の能なく情なき体《てい》なり。
昨夜《ゆふべ》は夜もすがら静に眠《ねぶ》りて、今朝は誰れより一はな懸けに目を覚し、顔を洗ひ髪を撫《な》でつけて着物もみづから気に入りしを取出《とりいだ》し、友仙の帯に緋《ひ》ぢりめんの帯あげも人手を借ずに手ばしこく締めたる姿、不図《ふと》見たる目にはこの様の病人とも思ひ寄るまじき美くしさ、両親《ふたおや》は見返りて今更に涕《なみだ》ぐみぬ、附そひの女が粥《かゆ》の膳を持来たりて召上りますかと問へば、嫌や嫌やと頭《つむり》をふりて意気地もなく母の膝へ寄そひしが、今日は私の年季《ねん》が明まするか、帰る事が出来るで御座んせうかとて問ひかけるに、年季《ねん》が明るといつて何処へ帰る了簡《りようけん》、此処はお前さんの家では無いか、このほかに行くところも無からうでは無いか、分らぬ事を言ふ物ではありませぬと叱られて、それでも母様《かあさま》私は何処へか行くので御座りませう、あれ彼方《あすこ》に迎ひの車が来てゐまする、とて指さすを見れば軒《のき》端《ば》のもちの木に大いなる蛛《くも》の巣のかかりて、朝日にかがやきて金色の光ある物なりける。
母は情なき思ひの胸に迫り来て、あれあんな事を、貴君《あなた》お聞遊しましたかと良人《をつと》に向ひて忌はし気にいひける、娘は俄に萎《しほ》れかへりし面《おもて》に生々とせし色を見せて、あのそれ一昨《をと》年《とし》のお花見の時ねと言ひ出《いだ》す、何ゑと受けて聞けば学校の庭は奇麗でしたねへとて面しろさうに笑ふ、あの時貴君《あなた》が下すつた花をね、私は今も本の間へ入れてありまする、奇麗な花でしたけれどももう萎れてしまひました、貴君にはあれから以来御目にかからぬでは御座んせぬか、何故《なぜ》逢ひに来て下さらないの、何故帰つて来て下さらぬの、もうお目にかかる事は一生出来ぬので御座んするか、それは私が悪う御座りました、私が悪いに相違ござんせぬけれど、それは兄様《にいさま》が、兄が、ああ誰れにも済《すみ》ませぬ、私が悪う御座りました免《ゆる》して免してと胸を抱いて苦しさうに身を悶《もだ》ゆれば、雪子や何も余計な事を考へては成りませぬよ、それがお前の病気なのだから、学校も花もありはしない、兄様《にいさん》も此処にお出でなさつてはゐないのに、何か見えるやうに思ふのが病気なのだから気を落つけて旧《もと》の雪子さんに成ておくれ、よ、よ、気が付きましたかへと脊《せ》を撫でられて、母の膝の上にすすり泣きの声ひくく聞えぬ。
三
番町の旦那様お出《いで》と聞くより雪や兄様《にいさん》がお見舞に来て下されたと言へど、顔を横にして振向ふともせぬ無礼を、常ならば怒りもすべき事なれど、ああ、捨てて置いて下さい、気に逆らつてもならぬからとて義母《はは》が手づから与へられし皮《かは》蒲《ぶ》団《とん》を貰ひて、枕もとを少し遠ざかり、吹く風を背にして柱の際に黙然《もくねん》としてゐる父に向ひ、静に一つ二つ詞《ことば》を交へぬ。
番町の旦那といふは口数少なき人と見えて、時たま思ひ出したやうにはたはた《・・・・》と団扇《うちは》づかひするか、巻煙草の灰を払つては又火をつけて手に持《もつ》てゐる位なもの、絶えず尻目に雪子の方《かた》を眺めて困つたものですなと言ふばかり、ああこんな事と知りましたら早くに方法も有つたのでせうが今に成つては駟馬《しめ》も及ばずです、植村も可愛想な事でした、とて下を向いて歎息の声を洩らすに、どうも何とも、我は悉皆世上《しツかいせじよう》の事に疎しな、母もあの通りの何であるので、三方四方埒《らち》も無い事に成つてな、第一は此娘《これ》の気が狭いからではあるが、否《いや》植村も気が狭いからで、どうもこんな事になつてしまつたで、我等《わしども》二人が実に其方《そちら》に合はせる顔も無いやうな仕義でな、然し雪をも可愛想と思つて遣《や》つてくれ、こんな身に成つても其方《そちら》への義理ばかり思つて情ない事を言ひ出しをる、多少教育も授けてあるに狂気するといふは如何《いか》にも恥かしい事で、この方から行くと家の恥辱にも成る実に憎むべき奴ではあるが、情実を汲《く》んでな、これほどまで操といふものを取止めて置いただけ憐《あはれ》んで遣つてくれ、愚鈍ではあるが子供の時からこれといふ不出来《ふでか》しも無かつたを思ふと何か残念の様にもあつて、誠の親馬鹿といふので有らうが平《な》癒《ほ》らぬほどならば死ねとまでも諦《あきらめ》がつきかねる物で、余り昨今忌はしい事を言はれると死《し》期《ご》が近よつたかと取越し苦労をやつてな、大塚の家《うち》には何か迎ひに来る物が有るなどと騒ぎをやるにつけて母がつまらぬ易者などにでも見て貰つたか、愚《ぐ》な話しではあるが一月のうちに生命《せいめい》が危ふいとか言つたさうな、聞いて見ると余り心よくも無いに当人も頻《しきり》と嫌がる様子なり、ま、引移りをするが宜からうとて此処を探させては来たが、いやどうも永持はあるまいと思はれる、殆《ほとんど》毎日死ぬ死ぬと言て見る通り人間らしい色艶《いろつや》もなし、食事も丁度一週間ばかり一粒《りゆう》も口へ入れる事が無いに、そればかりでも身体《からだ》の疲労が甚しからうと思はれるので種々《いろいろ》に異見も言ふが、どうも病ひの故《せい》であらうかとかくに誰れの言ふ事も用ひぬには困りはてる、医者は例の安田が来るのでかう素人《しろうと》まかせでは我ままばかりつのつて宜く有るまいと思はれる、我《わし》の病院へ入れる事は不承知かと毎々聞かれるのであるが、それもどう有らうかと母などは頻《しきり》にいやがるので我も二の足を蹈《ふ》んでゐる、無論病院へ行けば自宅と違つて窮屈ではあらうが、何分この頃飛出しが始まつて、我《わし》などは勿論《もちろん》太吉と倉《くら》と二人ぐらゐの力では到底引とめられぬ働きをやるからの、万一井戸へでも懸られてはと思つて、無論蓋はして有るが徃来へ飛出されても難義至極なり、それ等を思ふと入院させやうとも思ふが何か不《ふ》憫《びん》らしくて心一つには定めかねるて、其方《そちら》に思ひ寄《より》も有らば言つて見てくれとてくるくると剃《そり》たる頭《つむり》を撫でて思案に能《あた》はぬ風《ふ》情《ぜい》、はあはあと聞ゐる人も詞は無くて諸共《もろとも》に溜息《ためいき》なり。
娘は先刻《さき》の涙に身を揉《も》みしかば、さらでもの疲れ甚しく、なよなよと母の膝へ寄添ひしまま眠《ねぶ》れば、お倉お倉と呼んで附添ひの女《をな》子《ご》と共に郡内《ぐんない》の蒲団の上へ抱《いだ》き上げて臥《ふ》さするにはや正体も無く夢に入るやうなり、兄といへるは静に膝行《いざり》寄りてさしのぞくに、黒く多き髪の毛を最惜《いとを》しげもなく引つめて、銀杏返《いちようがへ》しのこはれたるやうに折返し折返し髷形《まげなり》に畳みこみたるが、大方横に成りて狼藉《ろうぜき》の姿なれども、幽霊のやうに細く白き手を二つ重ねて枕のもとに投出《なげいだ》し、浴衣の胸少しあらはに成りて締めたる緋ぢりめんの帯あげの解けて帯より落かかるも婀《なまめ》かしからで惨《いた》ましのさまなり。
枕に近く一脚の机を据ゑたるは、折ふし硯《すずり》々《すずり》と呼び、書物よむとて有し学校のまねびをなせば、心にまかせて紙いたづらせよとなり、兄といへるは何心なく積重ねたる反古《ほご》紙《がみ》を手に取りて見れば、怪しき書風に正体得《え》しれぬ文字を書ちらして、これが雪子の手跡かと情なきやうなる中に、鮮かに読まれたるは村といふ字、郎といふ字、ああ植村録郎、植村録郎、よむに得堪へずして無言にさし置きぬ。
四
今日は用なしの身なればとて兄は終日此処にありけり、氷を取寄せて雪子の頭《つむり》を冷す看《つき》護《そひ》の女《をん》子《な》に替りて、どれ少し我《わし》がやつて見やうと無骨らしく手を出《いだ》すに、恐れ入ます、お召物が濡れますと言ふを、いいさ先《まづ》させて見てくれろとて氷袋の口を開いて水を搾《しぼ》り出す手振りの無器用さ、雪や少しはお解りか、兄《にい》様《さん》が頭《つむり》を冷して下さるのですよとて、母の親心付《づけ》れども何の事とも聞分《ききわけ》ぬと覚しく、目は見開きながら空《くう》を眺めて、あれ奇麗な蝶が蝶がと言ひかけしが、殺してはいけませんよ、兄様《にいさん》兄様と声を限りに呼べば、こらどうした、蝶も何も居ない、兄は此処だから、殺しはせぬから安心して、な、宜いか、見えるか、ゑ、見えるか、兄だよ、正雄だよ、気を取直して正気になつて、お父《とつ》さんやお母《つか》さんを安心させてくれ、こら少し聞分てくれ、よ、お前がこの様な病気になつてから、お父様《とつさん》もお母様《つかさん》も一晩もゆるりとお眠《やすみ》に成つた事はない、お疲れなされてお痩《や》せなされて介抱してゐて下さるのを孝行のお前に何故わからない、平常《つね》は道理がよく了解《わか》る人では無いか、気を静めて考へ直してくれ、植村の事は今更取かへされぬ事であるから、跡でも懇《ねんごろ》に吊《ともら》つて遣れば、お前が手づから香花《こうはな》でも手《た》向《むけ》れば、あれは快よく瞑《めい》する事が出来ると遺書《ゆいしよ》にも有つたと言ふでは無いか、あれは潔よくこの世を思ひ切つたので、お前の事も合せて思ひ切つたので決して未練は残してゐなかつたに、お前がこの様に本心を取乱して御両親に歎《なげき》をかけると言ふは解らぬでは無いか、あれに対してお前の処置の無情であつたもあれは決して恨んではゐなかつた、あれは道理を知つてゐる男であらう、な、さうであらう、校内一流《いち》の人だとお前も常に褒《ほ》めたではないか、その人であるから決してお前を恨んで死ぬ、そんな事はある筈がない、憤りは世間に対してなので、既に其事《それ》は人も知つてゐる事なり遺書《ゆいしよ》によつて明かでは無いか、考へ直して正気に成つて、その後《ご》の事はお前の心に任せるから思ふままの世を経るが宜い、御両親のある事を忘れないで、御両親がどれほどお歎きなさるかを考へて、気を取直してくれ、ゑ、宜いか、お前が心で直さうと思へば今日の今も直れるでは無いか、医者にも及ばぬ、薬にも及ばぬ、心一つ居処をたしかにしてな、直つてくれ、よ、よ、こら雪、宜いか、解つたかと言へば、唯うなづいて、はいはいと言ふ。
女子《をんな》どもは何時《いつ》しか枕もとを遠慮《はづ》して四辺《あたり》には父と母と正雄のあるばかり、今いふ事は解るとも解らぬとも覚えねども兄様《にいさん》兄様と小さき声に呼べば、何か用かと氷袋を片寄せて傍近く寄るに、私を起して下され、何故か身《から》体《だ》が痛くてと言ふ、それは何時も気の立つままに駆け出《いだ》して大の男に捉へられるを、振はなすとて恐ろしい力を出せば定めし身も痛からう生疵《なまきず》も処々《ところどころ》に有るを、それでも身体の痛いが知れるほどならばとはかなき事をも両親《ふたおや》は頼もしがりぬ。
お前の抱かれてゐるは誰君《どなた》、知れるかへと母親の問へば、言《ごん》下《か》に兄様《にいさん》で御座りませうと言ふ、さうわかればもう子細はなし、今話して下された事覚えてかと言へば、知つてゐまする、花は盛りにと又あらぬ事を言ひ出《いだ》せば、一同かほを見合せて情なき思ひなり。
良《やや》しばしありて雪子は息の下に極めて恥かしげの低き声して、もう後生《ごしよう》お願ひで御座りまする、その事は言ふて下さりますな、そのやうに仰せ下さりましても私《わたし》にはお返事の致しやうが御座りませぬと言ひ出《いづ》るに、何をと母が顔を出せば、あ、植村さん、植村さん、何処へお出《いで》遊ばすのと岸破《がば》と起きて、不意に驚く正雄の膝を突のけつつ椽《えん》の方へと駆け出《いだ》すに、それとて一同ばらばらと勝手より太吉おくらなど飛来るほどにさのみも行かず椽先の柱のもとにぴたりと坐して、堪忍《かんにん》して下され、私が悪う御座りました、始めから私が悪う御座りました、貴君《あなた》に悪い事は無い、私が、私が、申さないが悪う御座りました、兄と言ふてはをりまするけれど。むせび泣きの声聞え初《そ》めて断続の言葉その事とも聞わき難く、半かかげし軒ばの簾《すだれ》、風に音する夕ぐれ淋し。
五
雪子が繰かへす言の葉は咋日も今日も一昨《をとと》日《ひ》も、三月の以前もその前も、更に異《こと》なる事をば言はざりき、唇に絶えぬは植村といふ名、ゆるし給へと言ふ言葉、学校といひ、手紙といひ、我罪、おあとから行まする、恋しき君、さる詞《ことば》をば次第なく並べて、身は此処に心はもぬけの│《から》に成りたれば、人の言へるは聞分《ききわく》るよしも無く、楽しげに笑ふは無心の昔しを夢みてなるべく、胸を抱《いだ》きて苦《く》悶《もん》するは遣るかた無かりし当時のさまの再び現《うつつ》にあらはるるなるべし。
おいたはしき事とは太吉も言ひぬ、お倉も言へり、心なきお三どんの末まで嬢さまに罪ありとはいささかも言はざりき、黄八丈の袖の長き書生羽織めして、品のよき高髷《たかまげ》にお根がけは桜色を重ねたる白の丈長《たけなが》、平打《ひらうち》の銀簪《ぎんかん》一つ淡泊《あつさり》と遊して学校がよひのお姿今も目に残りて、何時《いつ》旧《もと》のやうに御《お》平癒《なほり》あそばすやらと心細し、植村さまも好いお方であつたものをとお倉の言へば、何があの色の黒い無骨らしきお方、学問はゑらからうともどうで此方《うち》のお嬢さまが対《つい》にはならぬ、根つから私は褒めませぬとお三の力めば、それはお前が知らぬからそんな憎くていな事も言へるものの、三日交際《つきあひ》をしたら植村様のあと追ふて三《さん》途《ず》の川まで行きたくならう、番町の若旦那を悪いと言ふではなけれど、彼方《あなた》とは質《たち》が違ふて言ふに言はれぬ好い方であつた、私でさへ植村様が何だと聞いた時にはお可愛想な事をと涙がこぼれたもの、お嬢さまの身に成つては愁《つ》らからうでは無いか、私やお前のやうなおつ《・・》と来い《・・・》ならば事は無いけれど、不断つつしんでお出遊ばすだけ身にしみる事も深からう、あの親切な優しい方をかう言ふては悪いけれど若旦那さへ無かつたらお嬢さまも御病気になるほどの心配は遊ばすまいに、さういへば植村様が無かつたら天下泰平に納まつたものを、ああ浮世は愁《つ》らいものだね、何事も明《あけ》すけに言ふて除《の》ける事が出来ぬからとて、お倉はつくづく儘《まま》ならぬを傷《いた》みぬ。
つとめある身なれば正雄は日毎に訪《と》ふ事もならで、三日おき、二日おきの夜な夜な車を柳のもとに乗りすてぬ、雪子は喜んで迎へる時あり、泣いて辞す時あり、稚子《おさなご》のやうに成りて正雄の膝を枕にして寐《ね》る時あり、誰《た》が給仕にても箸《はし》をば取らずと我儘をいへれど、正雄に叱られて同じ膳の上に粥《かゆ》の湯をすする事もあり、癒《なほ》つてくれるか。癒りまする。今日癒つてくれ。今日癒りまする、癒つて兄様《にいさん》のお袴《はかま》を仕立て上げまする、お召《めし》も縫ふて上げまする。それは辱《かたじけな》し早く癒つて縫ふてくれと言へば、さうしましたらば植村様を呼んで下さるか、植村様に逢はして下さるか、むむ逢はして遣る、呼んでも来る、はやく癒つて御両親に安心させてくれ、宜いかと言へば、ああ明日《あした》は癒りますると憚《はばか》りもなく言ひけり。
正《まさ》しく言ひしを心頼みに有るまじき事とは思へども明日《あす》は日暮も待たず車を飛ばせ来るに、容体ことごとく変りて何を言へども嫌々とて人の顔をば見るを厭《いと》ひ、父母をも兄をも女《おな》子《ご》どもをも寄せつけず、知りませぬ、知りませぬ、私は何も知りませぬとて打泣くばかり、家の中《うち》をば広き野原と見て行く方なき歎きに人の袖をもしぼらせぬ。
俄《には》かに暑気つよく成し八月の中旬《なかば》より狂乱いたく募りて人をも物をも見分ちがたく、泣く声は昼夜に絶えず、眠《ねぶ》るといふ事ふつに無ければ落入たる眼《まなこ》に形相《ぎようそう》すさまじくこの世の人とも覚えず成ぬ、看護の人も疲れぬ、雪子の身も弱りぬ、きのふも植村に逢ひしと言ひ、今日も植村に逢ひたりと言ふ、川一つ隔てて姿を見るばかり、霧の立おほふて朧気《おぼろげ》なれども明日《あした》は明日はと言ひて又そのほかに物いはず。
いつぞは正気に復《かへ》りて夢のさめたる如く、父様母様《ととさまかかさま》といふ折の有りもやすと覚束《おぼつか》なくも一《ひと》日《ひ》二《ふつ》日《か》と待たれぬ、空蝉《うつせみ》はからを見つつもなぐさめつ、あはれ門《かど》なる柳に秋風のおと聞えずもがな。
われから
一
霜夜ふけたる枕もとに吹くと無き風つま戸の隙《ひま》より入《い》りて障子の紙のかさこそ《・・・・》と音するも哀れに淋しき旦那様の御《おん》留守《るす》、寝間の時計の十二を打つまで奥方はいかにするとも睡《ねぶ》る事の無くて幾そ度《たび》の寝がへり少しは肝の気味にもなれば、入らぬ浮世のさまざまより、旦那様が去歳《こぞ》の今頃は紅葉舘《こうようかん》にひたと通ひつめて、御自分はかくし給へども、他所《よそ》行《ゆき》着《ぎ》のお袂《たも》より縫とりべりの手巾《はんけち》を見つけ出したる時の憎くさ、散々といぢめていぢめて、困《いぢ》め抜いて、もうこれからは決して行かぬ、同藩の沢《さわ》木《き》が言葉のい《・》とゑ《・》を違《たが》へぬ世は来るとも、この約束は決して違《たが》へぬ、堪忍《かんにん》せよと謝罪《あやまつ》てお出遊《であそば》したる時の気味のよさとては、月頃の痞《つか》へが下りて、胸のすくほど嬉しう思ひしに、又かやこの頃折ふしのお宿《とま》り、水曜会のお人達や、倶楽部《くらぶ》のお仲間にいたづらな御方の多ければそれに引かれて自づと身持の悪う成り給ふ、朱に交はればといふ事を花のお師匠が癖にして言ひ出せども本《ほん》にあれは嘘ならぬ事、昔しはあのやうに口先の方《かた》ならで、今日は何《ど》処┘処《こそこ》で芸者をあげて、この様な不思議な踊を見て来たのと、お腹《なか》のよれるやうな可笑《をか》しき事をば真面目に成りて仰《おつ》しやりし物なれども、今日この頃のお人の悪るさ、憎くいほどお利口な事ばかりお言ひ遊《あそば》して、私《わたし》のやうな世間見ずをば手の平で揉《も》んで丸めて、それはそれは押へ処の無いお方、まあ今宵は何処へお泊りにて、明日はどのやうな嘘いふてお帰り遊ばすか、夕かた倶楽部へ電話をかけしに三時頃にお帰りとの事、又芳原《よしはら》の式部がもとへでは無きか、あれも縁切りと仰しやつてからもう五年、旦那様ばかり悪いのでは無うて、暑寒のお遣《つか》いものなど、憎くらしい処置をして見せるに、お心がつひ浮かれて、自づと足をも向け給ふ、本に商売人とて憎くらしい物と次第におもふ事の多くなれば、いよいよ寝かねて奥方は縮緬《ちりめん》の抱巻《かいまき》打はふりて郡内《ぐんない》の蒲《ふ》団《とん》の上に起上り給ひぬ。
八畳の座敷に六枚屏風《びようぶ》たてて、お枕もとには桐胴《きりどう》の火鉢にお煎茶《せんちや》の道具、烟草《たばこ》盆《ぼん》は紫《し》檀《たん》にて朱《しゆ》羅宇《らう》の烟管《きせる》そのさま可笑しく、枕ぶとんの派手摸様より枕の総《ふさ》の紅ひも常の好みの大方に顕はれて、蘭奢《らんじや》にむせぶ部《へ》やの内、燈《あん》籠台《どうだい》の光かすかなり。
奥方は火鉢を引寄せて、火の気のありやと試みるに、宵に小間使ひが埋け参らせたる、桜炭《さくら》の半は灰に成りて、よくも起さで埋《い》けつるは黒きままにて冷えしもあり、烟管を取上げて一二服、烟《けぶ》りを吹いて耳を立つれば折から此室《ここ》の軒ばに移りて妻恋ひありく猫の声、あれは玉では有るまいか、まあこの霜夜に屋根伝ひ、何日《いつか》のやうな風ひきに成りて苦るしさうな咽《のど》をするので有らう、あれもやつぱりいたづら者と烟管を置いて立あがる、女《め》猫《ねこ》よびにと雪灯《ぼんぼり》に火を移し平常《ふだん》着《ぎ》の八丈の書生羽織しどけなく引かけて、腰引ゆへる縮緬の、浅黄はことに美くしく見えぬ。
踏むに冷めたき板の間を引裾ながく縁がはに出《い》でて、用心口より顔さし出《いだ》し、玉よ、玉よ、と二タ声ばかり呼んで、恋に狂ひてあくがるる身は主人が声も聞分けぬ。身にしむやうな媚《なま》めかしい声に大屋根の方《かた》へと啼《な》いて行く。ゑゑ言ふ事を聞かぬ我まま者め、どうともお為《し》と捨てぜりふ言ひて心ともなく庭を見るに、ぬば玉の闇たちおほふて、物の黒白《あやめ》も見え分かぬに、山茶花《さざんか》の咲く垣根をもれて、書生部屋の戸の隙《ひま》より僅かに光りのほのめくは、おおまだ千葉は寝ぬさうな。
用心口を鎖《さ》してお寝間へ戻り給ひしが再度《ふたたび》立つてお菓子戸棚のびすけつとの瓶とり出《いだ》し、お鼻紙の上へ明けて押ひねり、雪灯を片手に縁へ出《いづ》れば天井の鼠がたがたと荒れて、鼬《いたち》にても入りしかきき《・・》といふ声もの凄《すご》し。しるべの燈火《ともしび》かげゆれて、廊下の闇に恐ろしきを馴れし我家の何とも思はず、侍女《こしもと》下婢《はした》が夢の最《ただ》中《なか》に奥さま書生の部屋へとおはしぬ。
お前はまだ寐《ね》ないのかえ、と障子の外から声をかけて、奥さまずつと入《い》りたまへば、室《う》内《ち》なる男は読書の脳《つむり》を驚かされて、思ひがけぬやうな惘《あき》れ顔をかしう、奥さま笑ふて立ちたまへり。
二
机は有りふれの白木作りに白天竺《しろてんじく》をかけて、勧工《かんこう》場《ば》ものの筆立てに晋唐小楷《しんとうしようかい》の、栗《りつ》鼠《そ》毛《もう》の、ぺンも洋刀《ないふ》も一ツに入れて、首の欠けた亀の子の水入れに、赤《あか》墨汁《いんき》の瓶がおし並び、歯みがきの箱我れもと威を張りて、割拠の机の上に寄りかかつて、今まで洋書を繙《ひもとゐ》てゐたは年頃二十歳《はたち》あまり三とは成るまじ、丸頭の五分刈にて顔も長からず角ならず、眉毛は濃くて目は黒目がちに、一体の容顔《きりよう》好《い》い方なれども、いかにもいかにもの田舎風、午《ご》房縞《ぼうじま》の綿入れに論なく白木綿の帯、青き毛布《けつと》を膝《ひざ》の下に、前こごみに成りて両手に頭《かしら》をしかと押へし。
奥さまは無言にびすけつとを机の上へ載せて、お前夜ふかしをするなら為《す》るやうにして寒さの凌《しの》ぎをして置いたら宜からうに、湯わかしは水に成つて、お火と言つたら螢火《ほたる》のやうな、よくこれで寒く無いのう、お節介なれど私がおこして遣《や》りませう、炭取を此処へと仰しやるに、書生はおそれ入りて、何時も無精を致しまする、申訳の無い事でと有難いを迷惑らしう、炭取をさし出《いだ》して我れは中皿《ちゆうざら》へ桃を盛つた姿、これは私が道楽さと奥さま炭つぎにかかられぬ。
自慢も交じる親切に螢火《ほたるび》大事さうに挾《はさ》み上げて、積み立てし炭の上にのせ、四辺《あたり》の新聞みつ四つに折りて、隅の方よりそよそよと煽《あほ》ぐに、いつしかこれよりかれに移りて、ぱちぱちと言ふ音いさましく、青き火ひらひらと燃へて火鉢の縁のやや熱うなれば、奥さまはどのやうな働きをでも遊したかのやうに、千葉もお翳《あた》りと少し押やりて、今宵は分けて寒い物をと、指輪のかがやく白き指先を、籐編《とあ》みの火鉢の縁にぞ懸けたる。
書生の千葉いとどしう恐れ入りて、これはどうも、これはと頭《かしら》を下げるばかり、故郷に有りし時、姉なる人が母に代りて可愛《かわゆ》がりてくれたりし、その折その頃の有さまを思ひ起して、もとより奥様が派手作りに田舎ものの姉者人《あねじやひと》がいささか似たるよしは無けれど、中学校の試験前に夜明しをつづけし頃、このやうな事を言ふて、このやうな処作をして、その上には蕎麦掻《そばが》きの御馳走、あたたまるやうにと言ふてくれし時も有し、懐かしきはその昔し、有難きは今の奥様が情と、平常《へいぜい》お世話に成りぬる事さへ取添へて、怒り肩もすぼまるばかり畏《かしこ》まりて有るさまを、奥さま寒さうなと御覧じて、お前羽織はまだ出来ぬかえ、仲《なか》に頼んで大急ぎに仕立てて貰ふやうにお為《し》、この寒い夜に綿入一つで辛棒のなる筈は無い、風でも引いたらどうお為《し》だ、本当に身体《からだ》を厭《いと》はねばいけませぬぞえ、この前に居た原田といふ勉強ものがやつぱりお前の通り明けても暮れても紙魚《しみ》のやうで、遊びにも行かなければ、寄席一つ聞かうでもなしに、それはそれは感心と言はふか恐ろしいほどで、特別認可の卒業と言ふ間際まで疵《きず》なしに行つてのけたを、惜しい事にお前、脳病に成つたでは無からうか、国元から母さんを呼んで此処の家で二月も介抱をさせたのだけれど、終《つ》ひには何が何やら無我夢中になつて、思ひ出しても情ない、言はば狂死をしたのだね、私はそれを見てゐた故、勉強家は気が引ける、懶怠《なまけ》られては困るけれど、煩はぬやうに心がけておくれ、別けてお前は一粒物、親なし、兄弟なしと言ふでは無いか、千葉家を負ふて立つ大黒柱に異状が有つては立直しが出来ぬ、さうでは無いかと奥様身に比べて言へば、はッ、はッ、と答へて詞《ことば》は無かりき。
奥様は立上がつて、私は大層邪魔をしました、それならば成るべく早く休むやうにお為《し》、私は行つて寝るばかりの身体、部《へ》やへ行く間の事は寒いとても仔細はなきに、搆《かま》ひませぬからこれを着てお出《いで》、遠慮をされると憎くく成るほどに何事も黙つて年上の言ふ事は聞く物と奥様すつとお羽織をぬぎて、千葉の背後《うしろ》より打着せ給ふに、人肌のぬくみ背に気味わるく、麝香《じやこう》のかをり満身を襲ひて、お礼も何といひかぬるを、よう似合のうと笑ひながら、雪灯手にして立出《たちいで》給へば、蝋燭《ろうそく》いつか三分の一ほどに成りて、軒端に高し木がらしの風。
三
落葉たくなる烟《けぶり》の末か、それかあらぬか冬がれの庭木立をかすめて、裏通りの町屋の方へ朝毎に靡《なび》くを、それ金村《かなむら》の奥様がお目覚だと人わる口の一つに数へれども、習慣《ならはし》の恐ろしきは朝飯《あさはん》前の一風呂、これの済《す》までは箸《はし》も取られず、一日怠る事のあれば終日《ひねもす》気持の唯ならず、物足らぬやうに気に成るといふも、聞く人の耳には洒落者《しやれもの》の道楽と取られぬべき事、その身に成りては誠に詮《せん》なき癖をつけて、今更難義と思ふ時もあれど、召使ひの人々心を得て御《お》命令《いひつけ》なきに真《ま》柴《しば》折くべ、お加減が宜しう御座りますと朝床のもとへ告げて来れば、もう廃《よ》しませうと幾度《いくたび》か思ひつつ、猶《なほ》相かはらぬ贅沢《ぜいたく》の一つ、さなご入れたる糠袋《ぬかぶくろ》にみがき上て出《いづ》れば更に濃い化粧の白ぎく、これも今更やめられぬやうな肌《ぢ》になりぬ。
年を言はば二十六、遅れ咲の花も梢《こづゑ》にしぼむ頃なれど、扮装《おつくり》のよきと天然の美くしきと二つ合せて五つほどは若う見られぬる徳の性《しよう》、お子様なき故と髪結の留《とめ》は言ひしが、あらばいささか沈《おち》着《つ》くべし、いまだに娘の心が失せで、金歯入れたる口元にどう為《せ》い、かう為《せ》い、子細らしく数多《あまた》の奴婢《ひと》をも使へども、旦那さま進めて十軒店《けんだな》に人形を買ひに行くなど、一家の妻のやうには無く、お高祖頭《こそず》巾《きん》に肩掛引まとひ、良人《つま》の君もろ共川崎の大師に参詣《さんけい》の道すがら停車《ていしや》場《ば》の群衆《ぐんじゆ》に、あれは新橋《しんばし》か、何処ので有らうと凵sささや》かれて、奥様とも言はれぬる身ながらこれを浅からず嬉しうて、いつしか好みもその様に、一つは容貌《きりよう》のさせし業《わざ》なり。
目鼻だちより髪のかかり、歯ならびの宜い所まで似たとは愚か母様をそのままの生れつき、奥様の父《てて》御《ご》といひしは赤鬼の与四《よし》郎《ろう》とて、十年の以前《まへ》までは物すごい目を光らせて在《おは》したる物なれど、人の生血をしぼりたる報ひか、五十にも足らで急病の脳充血、一朝《あさ》にこの世の税を納めて、よしや葬儀の造花《つくりばな》、派手に美事な造りはするとも、辻《つぢ》に立つて見る人に爪《つま》はぢきをされて後生いかがと思はるる様《よう》成し。
この人始めは大蔵省に月俸八円頂戴して、兀《はげ》ちよろけの洋服に毛《け》繻《じゆ》子《す》の洋傘《かうもり》さしかざし、大《たい》雨《う》の折にも車の贅はやられぬ身成《なり》しを、一念発起して帽子も靴も取つて捨て、今川橋の際に夜明しの蕎麦掻《そばが》きを売り初《そめ》し頃の勢ひは千鈞《きん》の重きを提《ひつさ》げて大海をも跳《おど》り越えつべく、知る限りの人舌を巻いて驚くもあれば、猪武《いのししむ》者《しや》の向ふ見ず、やがて元も子も摺《す》つて情なき様子が思はるると後言《しりうごつ》も有けらし、須《しゆ》弥《み》も出《いで》たつ足もとの、その当時《はじめ》の事少しいはばや、茨《いばら》につらぬく露の玉この与四郎にも恋は有けり、幼馴染《おさななじみ》の妻に美尾《みを》といふ身がらに合せて高品《こうひん》に美くしきそのとし十七ばかり成しを天にも地にも二つなき物と捧げ持ちて、役処がへりの竹の皮、人にはしたたれるほど湿つぽき姿と後指さされながら、妻や待らん夕烏の声に二人とり膳の菜の物を買ふて来るやら、朝の出がけに水瓶《みづがめ》の底を掃除して、一日手《て》桶《おけ》を持たせぬほどの汲《くみ》込《こ》み、貴郎《あなた》お昼だきで御座いますと言へば、おいと答へて米かし桶に量り出すほどの惚《の》ろさ、かくて終らば千《ち》歳《とせ》も美くしき夢の中に過ぬべうぞ見えし。
さるほどに相添ひてより五年目の春、梅咲く頃のそぞろあるき、土曜日の午後より同僚二三人打つれ立ちて、葛飾《かつしか》わたりの梅屋敷廻り帰りは広小《ひろこう》路《ぢ》あたりの小料理やに、酒も深くは呑ぬ質《たち》なれば、淡泊《あっさり》としまふて殊更に土産の折を調《ととの》へさせ、友には冷評《ひようばん》の言葉を聞きながら、一人別れてとぼとぼと本郷附《ほんごうつけ》木《ぎ》店《だな》の我家へ戻るに、格子戸には締りもなくして、上へあがるに燈火はもとよりの事、火鉢の火は黒く成りて灰の外に転々《ころころ》と凄《すさ》まじく、まだ如月《きさらぎ》の小《さ》夜嵐《よあらし》引まどの明放しより入りて身に染《し》む事も堪えがたし、いかなる故とも思はれぬに洋燈《らんぷ》を取出《とりいだ》してつくづくと思案に暮るれば、物音を聞つけて壁隣の小学教員の妻、いそがはしく表より廻り来て、お帰りに成ましたか、御《ご》新《しん》造《ぞ》は先刻《さきほど》、三時過ぎでも御座りましたろか、お実家《さと》からのお迎ひとて奇麗な車が見えましたに、留守は何分《なにぶん》たのむと仰しやつてそのままお出かけに成ました、お火が無くば取りにお出《いで》なされ、お湯も沸いていまするからと忠実々々《まめまめ》しう世話を焼かるるにも、不審の雲は胸の内にふさがりて、どういふ様子どのやうな事をいふて行《ゆ》きましたかとも問ひたけれど悋気男《りんきをとこ》と忖度《つも》らるるも口《くち》惜《を》しく、それは種々《いろいろ》御厄介で御座りました、私が戻りましたからは御心配なくお就蓐《やすみ》下されと洒然《さつぱり》といひて隣の妻を帰しやり、一人淋しく洋燈《らんぷ》の光《あか》りに烟草《たばこ》を吸ひて、忌々しき土産の折は鼠も喰べよとくぐ縄のまま勝手元に投出《なげいだ》し、その夜は床に入りしかども、さりとは肝癪《かんしやく》のやる瀬なく、よしや如何《いか》なる用事ありとても、我れなき留守に無断の外出、殊更家《か》内《ない》あけ放しにして、これが人の妻の仕業かと思ふに余りの事と胸は沸くやうに成りぬ。明くれば日曜、終日《ひねもす》寝ていても咎《とが》むる人は無し、枕を相手に芋虫を真似びて、表の格子には錠をおろしたまま、人訪《と》へども音もせず、いたづらに午後四時といふ頃に成ぬれば、車の門《かど》に止まりて優しき駒下駄の音の聞ゆるを、論なくそれとは知れども知らぬ顔に虚《そら》寝《ね》を作れば、美尾は格子を押て見て、これは如何な事、錠がおりてあると独り言をいつて、隣家《となり》の松の垣根に添ひて、水口の方《かた》へと間道《かんどう》を入りぬ。
昨日《きのふ》の午後より谷《や》中《なか》の母《かか》さんが急病、癪気《しやくけ》で御座んすさうな、つよく胸先へさし込みまして、一時はとてもこの世の物では有るまいと言ふたれど、お医者さまの皮下注射やら何やらにて、何事も無く納りのつき、今日は一人でお厠《ちようず》にも行かれるやうに成ました、右の訳故の手間どり、昨日家《うち》を出まする時も、気がわくわくして何事も思はれず、後《あと》にて思へば締りも付けず、庭口も明け放して、さぞかし貴郎《あなた》のお怒《おこ》り遊した事と気が気では無かつたなれど、病人見捨てて帰る事もならず、今日もこのやうに遅くまで居りまして、何処までも私が悪《わろ》う御座んするほどに、この通り謝《あや》罪《まり》ますほどに、どうぞ御《お》免《ゆる》し遊して、いつもの様に打解けた顔を見せて下され、御機嫌直して下されと詫《わ》ぶるに、さてはさうかと少し我の折れて、それならばその様に、何故はがきでも越《よこ》しはせぬ、馬鹿の奴がと叱りつけて、母親は無病壮健の人とばかり思ふてゐたが、癪といふは始めてかと睦《むつま》しう談《かた》り合ひて、与四郎は何事の秘密ありとも知らざりき。
四
浮世に鏡といふ物のなくば、我が妍《かほよ》きも醜きも知らで、分に安《やすん》じたる思ひ、九《く》尺二間《けん》に楊《よう》貴妃小《きひこ》町《まち》を隠くして、美色の前だれ掛奥床《おくゆか》しうて過ぎぬべし、万《よろ》づに淡々しき女子心《おなごごころ》を来て揺する様な人の賞め詞《ことば》に、思はず赫《くわつ》と上気して、昨日までは打すてし髪の毛つやらしう結びあげ、端折《はしおり》かがみ取上げて見れば、いかう眉毛も生えつづきぬ、隣より剃刀《かみそり》をかりて顔をこしらゆる心、そもそも見てくれの浮気に成りて、襦袢《じゆばん》の袖も欲しう、半天の襟《ゑり》の観光が糸ばかりに成しを淋しがる思ひ、与四郎が妻の美尾とても一つは世間の持上しなり、身分は高からずとも誠ある良人《おつと》の情心うれしく、六畳、四畳二間の家を、金殿とも玉楼とも心得て、いつぞや四丁目の薬師様にて買ふて貰ひし洋銀の指輪を大事らしう白《しら》魚《を》のやうな、指にはめ、馬爪《ばづ》のさし櫛《ぐし》も世にある人の本甲ほどには嬉しがりし物なれども、見る人毎に賞めそやして、これほどの容貌《きりよう》を埋れ木とは可惜《あたら》しいもの、出ている人で有うなら恐らく島原切つての美人、比べ物はあるまいとて口に税が出ねば我おもしろに人の女房《にようぼ》を評したてる白痴《こけ》もあり、豆腐《おかべ》かふとて岡持《おかもち》さげて表へ出《いづ》れば、通りすがりの若い輩《ひと》に振かへられて、惜しい女に服粧《みなり》が悪るいなど哄然《どつ》と笑はれる、思へば綿銘仙の糸の寄りしに色の褪《さ》めたる紫めりんすの幅狭《せま》き帯、八円どりの等外が妻としてはこれより以上に粧《よそほ》はるべきならねども、若き心には情なく┌《たが》のゆるびし岡持に豆腐《おかべ》の露のしたたるよりも不覚《そぞろ》に袖をやしぼりけん、とかくに心のゆらゆらと襟袖口のみ見らるるをかてて加へてこの前の年、春雨《はるさめ》はれての後《のち》一日、今日ならではの花盛りに、上野をはじめ墨田川へかけて夫婦づれを楽しみ、随分とも有る限りの体裁をつくりて、取つて置きの一てう羅《ら》も良人《おつと》は黒紬《くろつむぎ》の紋つき羽織、女房は唯一筋の博《はか》多《た》の帯しめて、昨日甘へて買ふて貰ひし黒ぬりの駒下駄、よしや畳は擬《まが》ひ南部にもせよ、比ぶる物なき時は嬉しくて立出《たちいで》ぬ、さても東叡山《とうえいざん》の春四月、雲に見紛ふ木の間の花も今日明日ばかりの十七日成りければ、広小路より眺むるに、石段を下り昇る人のさま、さながら蟻《あり》の塔を築き立つるが如く、木の間の花に衣類《きもの》の綺羅《きら》をきそひて、心なく見る目には保養この上も無き景色なりき、二人は桜が岡に昇りて今の桜雲台《おううんだい》が傍《そば》近く来し時、向ふより五六輛の車かけ声いさましくして来るを、諸人立止まりてあれあれと言ふ、見れば何処《いづこ》の華族様なるべき、若き老ひたる扱《こ》き交ぜに、派手なるは曙《あけぼの》の振袖緋無垢《ひむく》を重ねて、老《ふ》け形《かた》なるは花の木の間の松の色、いつ見ても飽かぬは黒出たちに鼈甲《べつこう》のさし物、今様ならば襟の間に金ぐさりのちらつくべきなりし、車は八百《やを》膳《ぜん》に止まりて人は奥深く居るを、憎くさげな評いふて見送るもあり、唯大方にお立派なといひて行《ゆき》過《す》ぐるも有しが、美尾はいかに感じてか、茫然《ぼんやり》と立ちて眺め入りし風《ふ》情《ぜい》、うすら淋しき様に物おもはしげにて、何《いづ》れ華族であらうお化粧《つくり》が濃《こつ》濃《てり》だと与四郎の振かへりて言ふを耳にも入れぬらしき様にて、我れと我が身を打ながめ唯悄然《しよんぼり》としてあるに与四郎心ならず、どうかしたかと気遣ひて問へば、俄《にはか》に気分が勝れませぬ、私は向島《むかふじま》へ行くのは廃《や》めて、此処から直ぐに帰りたいと思ひます、貴郎《あなた》はゆるりと御覧なりませ、お先へ車で帰りますと力なささうに凋《しほ》れて言へば、それはと与四郎案じ始めて、一人では何も面白くは無い、又来るとして今日は廃《や》めにせうと美尾がいふまま優しう同意してくれる嬉しさも、この折何とも思はれず、せめて帰りは鳥でも喰べてと機嫌を取られるほど物がなしく、逃げ出すやうにして一散に家路を急げば、興ことごとく尽きて与四郎は唯お美尾が身の病気《いたつき》に胸をいためぬ。
はかなき夢に心の狂ひてより、お美尾は有し我れにもあらず、人目無ければ涙に袖をおし浸し、誰《た》れを恋ふると無けれども大空に物の思はれて、勿体《もつたい》なき事とは知りながら与四郎への待遇《もてなし》きのふには似ず、うるさき時は生返事して、男の怒れば我れも腹たたしく、お気に入らぬ物なら離縁して下され、無理にも置いてとは頼みませぬ、私にも生れた家が御座んするとて威《い》丈高《たけたか》になるに男も堪《こら》えず箒《はうき》を振廻して、さあ出て行けと時の拍子危ふくなれば、さすがに女気の悲しき事胸に迫りて、貴郎《あなた》は私をいぢめ出さうと為《な》さるので御座んすか、私が身はそもそもから貴郎に上げた物なれば、憎くくば打つて下され、殺して下され、此処を死に場に来た私なれば、殺されても此処は退《の》きませぬ、さあ何となりして下されと泣いて、袖に取すがりて身を悶《もだ》ゆるに、もとより憎くくは有らぬ妻の事、離別などとは時の威嚇《おどし》のみなれば、縋《すが》りて泣くを好い時《し》機《ほ》に、我まま者奴《め》の言ひじらけ、心安きままの駄々と免《ゆる》して可愛さは猶《なほ》日頃に増《まさ》るべし。
五
与四郎が方《かた》に変る心なければ、一日も百年も同じ日を送れどもその頃より美尾が様子のとにかくに怪しく、ぼんやりと空を眺めて物の手につかぬ不審《いぶか》しさ。与四郎心をつけて物事を見るに、さながら恋に心をうばはれて空《うつ》虚《ろ》に成し人の如く、お美尾お美尾と呼べば何えと答ゆる詞《ことば》の力なさ、どうでも日々を義務《つとめ》ばかりに送りて身は此処に心は何処《いづこ》の空をZ《さま》佯《よふ》らん、一々気にかかる事ども、我が女房を人に取られて知らぬは良人《おつと》の鼻の下と指さされんも口《くち》惜《お》しく、いよいよ真《まこと》にその事あらばと恐ろしき思案をさへ定めて美尾が影身とつき添ふ如く守りぬ。されどもこれぞの跡もなく、唯うかうかと物おもふらしく或時はしみじみと泣いて、お前様いつまでこれだけの月給取つてお出遊《いであそ》ばすお心ぞ、お向ふ邸《やしき》の旦那さまは、その昔し大部屋あるきのお人成しを一念ばかりにてあの御出世、馬車に乗つてのお姿はどのやうの髭《ひげ》武《む》者《しや》だとて立派らしう見えるでは御座んせぬか、お前様も男なりや、少しも早くこの様な古洋服にお弁当さげる事をやめて、道を行くに人の振かへるほど立派のお人に成つて下され、私に竹の皮づつみ持つて来て下さる真実が有らば、お役処がへりに夜学なり何なりして、どうぞ世間の人に負けぬやうに、一ッぱしの豪《ゑら》い方に成つて下され、後生で御座んす、私はその為になら内職なりともして御《お》菜《さい》の物のお手伝ひはしましよ、どうぞ勉強して下され、拝みますと心から泣いて、このある甲斐《かひ》なき活計《くらし》を数へれば、与四郎は我が身を罵《ののし》られし事と腹たたしく、お為ごかしの夜学沙汰《さた》は、我れを留守にして身の楽しみを思ふ故ぞと一図にくやしく、どうで我《お》れはこの様な活《いく》地《じ》なし、馬車は思ひも寄らぬ事、この後《ご》辻車ひくやら知れた物で無ければ、今のうち身の納りを考へて、利口で物の出来る、学者で色《いろ》男子《をとこ》で、年の若いに乗かへるが随一であらう、向ふの主人もお前の姿を褒めてゐるさうに聞いたぞと、碌《ろく》でもなき根すり言、懶怠《なまけ》者《もの》だ懶怠者だ、我《お》れは懶怠者の活地なしだと大の字に寐そべつて、夜学はもとよりの事、明日《あした》は勤めに出るさへ憂がりて、一寸《すん》もお美尾の傍《そば》を放れじとするに、ああお前様は何故その様に聞分けては下さらぬぞと浅ましく、互ひの思ひそはそは《・・・・》に成りて、物言へば頓《やが》て争ひの糸口を引出《ひきいだ》し、泣いて恨んで摺《す》れ摺れの中に、さりとも憎くからぬ夫《め》婦《をと》は折ふしの仕こなし忘れがたく、貴郎かうなされ、ああなされと言へば、お美尾お美尾と目の中へも入れたき思ひ、近処合壁《がつぺき》つつき合ひて物争ひに口を利く者は無かりし。
ありし梅見の留守のほど、実家の迎ひとて金紋の車の来し頃よりの事、お美尾はとかくに物おもひ静まりて、深くは良人を諫《いさ》めもせず、うつうつと日を送つて実家への足いとどしう近く、帰れば襟に腮《あご》を埋めてしのびやかに吐息をつく、良人の不審を立つれば、どうも心悪う御座んすからとて食もようは喰べられず、昼寝がちに気不精に成りて、次第に顔の色の青きを、一向きに病気とばかり思ひぬれば、与四郎限りもなく傷《いた》ましくて、医者にかかれの、薬を呑めのと悋《りん》気《き》は忘れてこの事に心を尽しぬ。
されどもお美尾が病気はお目出《めで》度《たき》かた成き、三四月の頃よりそれとは定かに成りて、いつしか梅の実落る五月雨《さみだれ》の頃にも成れば、隣近処の人々よりおめで度《た》う御座りますと明らかに言はれて、折から少し暑くるしくとも半天のぬがれぬ恥かしさ、与四郎は珍らしく嬉しきを、夢かとばかり辿《たど》られて、この十月が当る月とあるを、人には言はれねども指をる思ひ、男にてもあれかしとはかなき事を占なひて、表面《うわべ》は無情《つれなく》つくれども、子《こ》安《やす》のお守り何くれと、人より聞きて来た事をそのまま、不案内の男の身なれば間違ひだらけ取添へて、美尾が母に万端を頼めば、お前さんより私の方が少し巧者さ、と参られて、なるほどなるほどと口を噤《つぐ》みぬ。
六
月給の八円はまだ昇給の沙汰も無し、この上小児《ちいさい》が生れて物入りが嵩《かさ》んで、人手が入るやうに成つたら、お前がたが何とする、美尾は虚弱の身体《からだ》なり、良人を助けて手内職といふもむツかしかるべく、三人居《ゐ》縮《すく》んで乞食のやうな活計《くらし》をするも、余り賞めた事では無し、何なりと口を見つけて、今の内から心がけもう少しお金になる職業に取かへずば、行々《ゆくゆく》お前がたの身の振かたは無く、第一子を育つる事もなるまじ、美尾は私《わたし》が一人娘、やるからには私が終りも見て貰ひたく、贅沢《ぜいたく》を言ふのでは無けれど、お寺参りの小《こ》遣《づか》ひ位、出しても貰はう、上げませうの約束でよこしたのなれども、元来《もとより》くれられぬは横着ならで、どうでも為《す》る事のならぬ活《いく》地《じ》の無さ故、それは思ひ絶つて私は私の口を濡らすだけに、この年をして人様の口入れやら手伝ひやら、老耻《おひはぢ》ながらも詮の無き世を経まする、されども当て無しに苦労は出来ぬもの、つくづくお前夫婦の働きを見るに、私の手足が働かぬ時に成りて何分のお世話をお頼み申さねば成らぬ暁、月給八円でどう成らう、それを思ふと今のうち覚悟を極めて、少しは互ひに愁《つ》らき事なりとも当分夫婦別れして、美尾は子ぐるめ私の手に預り、お前さんは独身《ひとりみ》に成りて、官員さまのみには限らず、草鞋《わらじ》を履《は》いてなりとも一《ひと》廉《かど》の働きをして、人並の世の過ごされる様に心がけたが宜からうでは無いか、美尾は私が娘なれば私の思ふやうに成らぬ事は有るまじ、何もお前さんの思案一つと母親お美尾の産前よりかけて、万づの世話にとこの家《や》へ入り込みつつ、ともすれば与四郎を責めるに、歯ぎしりするほど腹立しく、この老婆《ばば》はり仆《たほ》すに事は無けれど、唯ならぬ身の美尾が心痛、引いては子にまで及ぼすべき大事と胸をさすりて、私とても男子《おとこ》の端で御座りますれば、女房子位過ぐされぬ事も御座りますまいし、一生は長う御座ります。墓へ這入《はい》るまで八円の月給では有るまいと思ひますに、その辺格別の御心配なくと見事に言へば、母親はまだらに残る黒き歯を出して、なるほどなるほど宜く立派に聞えました、さういふてくれねば嬉しう無い、さすがは男一疋《ぴき》、その位の考は持つていてくれるであらう、なるほどなるほどと面白くも無い黙頭《うなづき》やうを為《す》る憎くさ、美尾は母《かか》さんそのやうな事は言ふて下さりますな、家《うち》の人の機嫌そこなうても困りますと迂路々々《うろうろ》するに、与四郎は心おごりて、馬鹿婆めが、どのやうに引《ひき》割《さ》かうとすればとて、美尾は我が物、親の指図なればとて別れる様な薄情にて有るべきや、殊更今より可《かわ》愛《ゆ》き物さへ出《いで》来《こ》んに二人が中は万万歳、天《あま》の原《はら》ふみとどろかし鳴神《なるがみ》かと高々と止《とど》まれば、母を眼下に視下して、放れぬ物に我れ一人さだめぬ。
十月中《なか》の五日、与四郎が退出間近に安らかに女の子生れぬ、男と願ひしそれには違へども、可《かわ》愛《ゆ》さは何処《いづこ》に変りのあるべき、やれお帰りかと母親出むかふて、さすがに初孫《ういまご》の嬉しきは、頬のあたりの皺《しは》にもしるく、これ見て下され、何と好い子では無いか、このまあ赤い事と指《さし》つけられて、今更ながらまごまごと嬉しく、手をさし出《いだ》すもいささか恥かしければ、母親に抱《いだ》かせたるままさし覗《のぞ》いて見るに、誰《た》れに似たるかかれに似しか、その差別《けじめ》も思ひ分ねども、何とは知らず怪しう可《かわ》愛《ゆ》くて、その啼《な》く声は昨日まで隣の家に聞きたるのと同じ物には思はれず、さしも危ふく思ひし事のさりとは事なしに終りしかと重荷の下りたるやうにも覚ゆれば、産婦の様子いかにやと覗いて見るに、高枕にかかりて鉢巻にみだれ髪の姿、傷ましきまで疲《やつ》れたれどその美くしさは神々《かみがみ》しき様《よう》に成りぬ。
七《しち》夜《や》の、枕直しの、宮参りの、唯あわただしうて過ぎぬ、子の名は紙へ書きつけて産《うぶ》土《す》神《な》の前に神鬥《みくじ》の様にして引けば、常磐《ときは》のまつ、たけ、蓬莱《ほうらい》の、つる、かめ、それ等は探ぐりも当てずして、与四郎が仮の筆ずさびに、この様な名も呼よい物と書いて入れたる町《まち》といふをば引出《ひきいだ》しぬ、女は容貌《きりよう》の好きにこそ諸人の愛を受けて果報この上も無き物なれ、小野《をの》のそれならねどお町《まち》は美くしい名と家《か》内《ない》いさみて、町や、町や、と手から手へ渡りぬ。
七
お町は高笑ひするやうに成りて、時は新玉《あらたま》の春に成りぬ、お美尾は日々に安からぬ面《おも》もち、折には涕《なみだ》にくるる事もあるを、血の道の故《せい》と自身《みづから》いへば、与四郎はさのみに物も疑はず、只この子の成長《おほきう》ならん事をのみ語りて、例の洋服すがた美《み》事《ごと》ならぬ勤めに、手弁当さげて昨日も今日も出《いで》ぬ。
お美尾の母は東京の住居《すまい》も物うく、はした無き朝夕《ちようせき》を送るに飽きたれば、一つはお前様がたの世話をも省くべき為、つねづね御懇命うけましたる従《じゆ》三位《み》の軍人様の、西の京に御栄転の事ありて、お邸《やしき》彼方《 かなた》へ建築《たて》られしを幸ひ、┘処《そこ》の女中頭として勤めは生涯のつもり、老らくをも養ふて給はるべき約束さだまりたれば、もうこの地には居ませぬ、又来る事があらば一泊はさせて下され、その外の御厄介には成りませぬと言ふに、与四郎はさりとも一人の母親なれば、美尾が心細さも思ひやりて、お前も御老年のこと、いかに勤めよきとても、他《た》人《にん》場《ば》の奉公といふ事させましては、子たる我々が申訳の言葉なし、是非に止まり給へと言へども、いやいやその様の事はお前様出世の暁にいふて下され、今は聞ませぬとて孤身《みひとつ》の風呂敷づつみ、谷《や》中《なか》の家は貸家の札はられて、舟路ゆたかにかの地へと向ひぬ。
越えて一ト月、雲黒く月くらき夕べ、与四郎は居残りの調べ物ありて、家に帰りしは日くれの八時、例《いつも》は薄くらき洋燈《らんぷ》のもとに風車犬張子取ちらして、まだ母親の名も似合ぬ美尾が懐《ふところ》おしくつろげ、小児《ちご》に添へ乳《ぢ》の美くしきさま見るべきを、格子の外より伺ふに燈火《ともしび》ぼんやりとして障子に映るかげも無し、お美尾お美尾と呼ながら入《い》るに、答へは隣の方に聞えて、今参りますと言ふ句は似たれど言葉は有らぬ人なりき。
隣の妻の入来るを見るに、懐には町を抱きたり、与四郎胸さわぎのして、美尾は何処《どこ》へ参りました、この日暮れに燈火《あかり》をつけ放しで、買物にでも行きましたかと問へば、隣の妻は眉を寄せて、さあその事で御座んすとて、睡《ねぶ》り覚めたる懐中《ふところ》の町がくすりくすりと嘩泣《むづか》るを、おお好い子好い子と、ゆすぶつて言葉絶えぬ。
燈火《あかり》は私が唯今点《つ》けたので御座んす、誠は今までお留守居をしていましたのなれど、家のやんちやがむツかしやを言ふに小言いふとて明けました、御《ご》新《しん》造《ぞ》は今日の昼前、通りまで買物に行つて来まする、帰りまでこの子の世話をお頼みと仰《おつ》しやつて、唯しばらくの事と思ひしに、二時になれども三時はうてども、音も無くて今まで影の見えられぬは、何処まで物買ひにお出なされしやら、留守たのまれまして日の暮れし程心づかひな物は無し、まあどうなされたので御座んしよな、と問ひかけられて、それは我れより尋ねたき思ひ、平《ふ》常《だん》着《ぎ》のままで御座りましたかと問へば、はあ羽織だけ替えて行かれたやうで御座んす、何か持つて行《ゆき》ましたか、いゑそのやうには覚えませぬと有るに、はてなと腕の組まれて、この遅くまで何処にと覚束《おぼつか》なし。
無器用なお前様がこの子いぢくる訳にも行くまじ、お帰りに成るまで私が乳を上げませうと、有さまを見かねて、隣の妻の子を抱いて行くに、何分お頼み申ますと言ひながら、美尾の行《ゆく》衛《ゑ》に心を取られてお町が事はうはの空に成ぬ。
よもや、よもや、と思へども、晴れぬ不審は疑ひの雲に成りて、唯一ト棹《さほ》の箪《たん》笥《す》の引出しより、柳行李《やなぎこり》の底はかと無く調べて、もしその跡の見ゆるかと探ぐるに、塵《ちり》一はしの置場も変らず、つねづね宝のやうに大事がりて、身につく物の随一好き成りし手《た》綱染《づなぞめ》の帯あげもそのままに有けり、いつも小遣ひの入れ場処なる鏡台の引出しを明けて見るに、これは何とせし事ぞ手の切れるやうな新紙幣《あたらしき》をばかり、その数およそ二十も重ねて上に一通、与四郎は見るより仰天の思ひに成りて、胸は大波の立つ如く、さてこそ子細《わけ》は有けれと狂ふて、その文《ふみ》開けば唯一ト言、美尾は死にたる物に御座候、行衛をお求め下さるまじく、此金《これ》は町に乳の粉をとの願ひに御座候。
与四郎は忽《たちま》ち顔の色青く赤く、唇を震はせて悪《あく》婆《ば》、と叫びしが、怒気心頭に起つて、身よりは黒烟《くろけぶ》りの立つ如く、紙幣も文も寸断々《ずたず》々《た》に裂いて捨てて、直然《すつく》と立しさま人見なば如何《いか》なりけん。
八
浮世の欲を金に集めて、十五年がほどの足《あ》掻《が》きかたとては、人には赤鬼と仇《あだ》名《な》を負《おほ》せられて、五十に足らぬ生涯のほどを死《し》灰《かい》のやうに終りたる、それが余波《なごり》の幾万金、今の金村《かなむら》恭助《きようすけ》ぬしは、その与四郎が聟《むこ》なりけり。あの人あれ程の身にて人の姓をば名告《なの》らずともと誹《そし》りしも有けれど、心安う志す道に走つて、内を顧みる疚《やま》しさの無きは、これ皆養父が賜物ぞかし、されば奥方の町子おのづから寵愛《ちようあい》の手の平に乗つて、強《あなが》ち良人《おつと》を侮るとなけれども、舅姑《しうとしうとめ》おはしまして万づ窮屈に堅くるしき嫁御寮の身と異なり、見たしと思はば替り目毎の芝居行きも誰れかは苦情を申べき、花見、月見に旦那さま催し立てて、共に連らぬる袖を楽しみ、お帰りの遅き時は何処《どこ》までも電話をかけて、夜は更くるとも寐《ね》給《たま》はず、余りに恋しう懐かしき折は自ら少しは恥かしき思ひ、如何《いか》なる故ともしるに難けれど、旦那さま在《おは》しまさぬ時は心細さ堪《た》えがたう、兄とも親とも頼もしき方に思はれぬ。
さりながら折ふし地方遊説《ゆうぜい》などとて三月半年のお留守もあり、湯治場あるきのそれと異なれば、この時には甘ゆる事もならで、唯徒《いたづ》らの御文通、互ひの封のうち人には見せられぬ事多かるべし。
この御中《おんなか》に何とてお子の無き、相添ひて十年余り、夢にもさやうの気色はなくて、清水《きよみづ》堂のお木偶《でく》さま幾度空《いくたびむな》しき願ひに成けん、旦那さま淋しき余りに貰ひ子せばやと仰しやるなれども、奥さまの好みむづかしければ、これも御縁は無くて過ぎゆく、落葉の霜の朝な朝な深くて、吹く風いとど身に寒く、時雨《しぐれ》の宵は女《をな》子《ご》ども炬《こ》燵《たつ》の間に集めて、浮世物がたりに小説のうわさ、ざれたる婢女《をんな》は軽口の落しばなしして、お気に入る時は御《ご》褒賞《ほうび》の何やかや、人に物を遣《や》り給ふ事は幼少《ちいさい》よりの道楽にて、これを父親《てておや》二もなく憂がりし、一ト口に言はば機嫌かひの質《たち》なりや、一ト言心に染まる事のあれば跡先も無くその者可愛ゆう、車夫の茂《も》助《すけ》が一人子の与太《よた》郎《ろう》に、この新年《はる》旦那さま召おろしの斜《なな》子《こ》の羽織を遣はされしも深くの理由《わけ》は無き事なり、仮初《かりそめ》の愚痴に新年《はる》着《ぎ》の御座りませぬよし大方に申せしを、頓《やが》て憐《あわれ》みての賜り物、茂助は天地に拝して、人は鷹の羽の定紋《じようもん》いたづらに目をつけぬ、何事も無くて奥様、書生の千葉が寒かるべきを思《おぼ》しやり、物縫ひの仲《なか》といふに命令《いひつけ》て、仰《おほ》せければ背《そむ》くによし無く、少しは投やりの気味にて有りし、飛白《かすり》の綿入れ羽織ときの間に仕立させ、かの明《あく》る夜は着せ給ふに、千葉は御恩のあたたかく、口に数々のお礼は言はねども、気の弱き男なれば涙さへさしぐまれて、仲働きの福《ふく》に頼みてお礼しかるべくと言ひたるに、渡り者の口車よく廻りて、斯《か》様《よう》々《か》々《よう》しかじかで、千葉は貴嬢《あなた》泣いてをりますと言上すれば、おお可愛い男と奥様御《ご》贔負《ひゐき》の増りて、お心づけのほど今までよりはいとどしう成りぬ。
十一月の二十八日は旦那さまお誕生日なりければ、年毎お友達の方々招き参らせて、坐の周旋はそんじよそれ者《しや》の美くしきを撰《ゑ》りぬき、珍味佳《か》肴《こう》に打とけの大《おほ》愉快を尽させ給へば、髭《ひげ》むしやの鳥《とり》居《ゐ》さまが口から、逢ふた初《しよ》手《て》から可愛さがと恐れ入るやうな御詞《おことば》をうかがふのも、例の沢木さまが落人《おちうど》の梅川《うめがは》を遊《あそば》して、お前の父《とと》さん孫いもんさむとお国元を顕はし給ふも皆この折の隠し芸なり、されば派手者《しや》の奥さまこの日を晴れにして、新調の三枚着に今歳の流行を知らしめ給ふ、世は冬なれど陽春三月のおもかげ、落《ち》り過ぎたる紅葉《もみぢ》に庭は淋しけれど、垣の山茶花《さざんか》折しり顔に匂ひて、松の緑のこまやかに、酔ひすすまぬ人なき日なりける。
今歳は別《わ》きてお客様の数多く、午後三時よりとの招待状一つも空《むな》しう成りしは無くて、暮れ過ぐるほどの賑《にぎは》ひは坐敷に溢《あふ》れて茶室の隅へ逃るるもあり、二階の手摺《てす》りに洋服のお軽女郎《かるじよろう》、目《め》鏡《がね》が中《ちゆう》だと笑はるるもありき、町《まち》子《こ》はいとど方々《かたがた》の持《もて》はやし五月蠅《うるさ》く、奥さん奥さんと御盃《おさかづき》の雨の降るに、御免遊ばせ、私は能《よ》う頂きませぬほどにと盃洗《はいせん》の水に流して、さりとも一盞《つ》二盞は逃れがたければ、いつしか耳の根あつう成りて、胸の動《どう》悸《き》のくるしう成るに、外づしては済まねども人しらぬうちにと庭へ出でて池の石橋を渡つて築山の背後《うしろ》の、お稲荷《いなり》さまが社前なるお賽銭箱《さいせんばこ》へ仮初《かりそめ》に腰をかけぬ。
九
此家《ここ》は町子が十二の歳、父の与四郎抵当ながれに取りて、それより修繕は加へたれども、水の流れ、山のたたずまい、松の木がらし小高き声も唯その昔のまま成けり、町子は酔ごこち夢のごとく頭をかへして背後《うしろ》を見るに、雲間の月のほの明るく、社前の鈴のふりたるさま、紅白の綱ながく垂れて古鏡の光り神さびたるもみゆ、夜あらしさつと喜《き》連《つれ》格子に音づるれば、人なきに鈴の音《ね》からんとして、幣《へい》束《そく》の紙ゆらぐも淋し。
町子は俄《には》かに物のおそろしく、立あがつて二足三足、母屋の方《かた》へ帰らんと為《し》たりしが、引止められるやうに立止まつて、この度は狛《こま》犬《いぬ》の台石に寄かかり、木の間もれ来る坐敷の騒ぎを遥《はる》かに聞いて、あああの声は旦那様、三味線は小梅さうな、いつの間にあのやうな意気な洒落《しやれ》ものに成り給ひし、由《ゆ》断《だん》のならぬと思ふと共に、心細き事堪えがたう成りて、締つけられるやうな苦るしさは、胸の中の何処とも無く湧《わ》き出《いで》ぬ。
良《やや》久しうありて奥さま大方酔も覚めぬれば、万《よろづ》におのが乱るる怪しき心を我れと叱りて、帰れば盃盤狼藉《ろうぜき》の有さま、人々が迎ひの車門前に綺羅《きら》星《ほし》とならびて、何某《たれ》様お立ちの声にぎはしく、散会《ひけて》の後《のち》は時雨《しぐれ》に成りぬ。
恭助《あるじ》は太《いた》く疲れて礼服ぬぎも敢《あ》へず横に成るを、あれ貴郎《あなた》お召物だけはお替へ遊ばせ、それではいけませぬと羽織をぬがせて、帯をも奥さま手づから解きて、糸織のなへたるにふらんねるを重ねし寐間着《ねまき》の小袖めさせかへ、いざ御《お》就蓐《やすみ》と手をとりて助ければ、何その様に酔ふてはいないと仰しやつて、滄浪《よろめき》ながら寐間へと入給ふ。奥さま火のもとの用心をと言ひ渡し、誰《た》れもかれも寐よと仰しやつて、同じう寐間へは入給へど、何故となう安からぬ思ひのありて、言はねども面持の唯ならぬを、旦那さま半睡《はんすい》の目に御覧じて、何故寐ぬか、何を考へているぞと尋ね給ふに、奥さま何とお返事の聞かせ参らする事もあらねど、唯々不思議な心地が致しまする、どう致したので御座りませう、私《わたくし》にも分りませぬと言へば、旦那さま笑つて、余り心を遣ひ過ぎた結果であらう、気さへ落つければ直ぐ癒《なほ》る筈と仰しやるに、否それでも私《わたし》は言ふに言はれぬ淋しい心地がするので御座ります、余り先刻《さきほど》みな様のお強《し》い遊ばすが五月蠅《うるさ》さに、一人庭へと逃げまして、お稲荷さまのお社《やしろ》の所で酔ひを覚ましてをりましたに、私は変な変な、をかしい事を思ひよりまして、笑つて下さりますな、どうも何とも言はれぬ気持に成ました、貴郎《あなた》には笑はれて、叱かられる様な事で御座りましよと下を向いて在《おは》するに、見れば涙の露の玉、膝《ひざ》にこぼれて怪しう思はれぬ。
奥さまは例に似合ず沈みに沈んで、私は貴《あな》君《た》に捨てられは為《せ》ぬかと存じまして、それでこの様に淋しう思ひますると言ひ出《いづ》れば、又かと旦那さま無造作に笑つて、誰《た》れが何を言ふたか、一人で考へたか、その様なつまらぬ事の有る筈は無い、お前の思ふてくれるほど世間は我《わ》しを思ふてくれぬから、まあ安心しているが宜いと子細《わけ》も無い事に言ひ捨つれば、それでも私はそのやうな悋《りん》気沙汰《きざた》で申《まうす》のでは御座りませぬ、今日の会席の賑《にぎや》かに、種々《いろいろ》の方々御出の中に誰れとて世間に名の聞えぬも無く、このやうのお人達みな貴郎《あなた》さまの御友達かと思ひますれば、嬉しさ胸の中におさへがたく、蔭《かげ》ながら拝んでいても宜いほどの辱《かたじけな》さなれど、つくづく我が身の上を思ひまするに、貴郎はこれより弥《いや》ますますの御出世を遊して、世の中広うなれば次第に御器量まし給ふ、今宵小梅が三味に合せて勧進帳《かんじんちよう》の一くさり、悋気では無けれどあれほどの御修業つみしも知らで、何時《いつ》も昔しの貴郎とおもひ、浅き心の底はかと無く知られまする内、御《お》厭《いと》はしさの種も交るべし、限りも知れず広き世に立ちては耳さへ目さへ肥え給ふ道理、有限《あるかぎり》だけの家の内に朝夕《あさゆふ》物おもひの苦も知らで、唯ぼんやりと過しまする身の、遂《つ》ひには倦《あ》かれまするやうに成りて、悲しかるべき事今おもふても愁《つ》らし、私は貴郎のほかに頼もしき親兄弟も無し、有りてから父の与四郎在世のさまは知り給ふ如く、私をば母親似の面ざし見るに癇《かん》の種とて寄せつけも致されず、朝夕さびしうて暮しましたるを、嬉しき縁《こと》にて今かく私が我ままをも免《ゆる》し給ひ、思ふ事なき今日この頃、それは勿体ないほどの有難さも、万《も》一《し》身にそぐなはぬ事ならばと案じられまして、この事をおもふに今宵の淋しき事、居ても起ちてもあられぬほどの情なさより、言ふてはならぬと存じましたれど、遂ひこの様に申上てしまひました、それは孰《いづ》れも取止めの無き取こし苦労で御座りませうけれど、どうでもこの様な気のするを何としたら宜う御座りますか、唯々心ぼそう御座りますとて打なくに、旦那さま愚痴の僻《ひが》見《み》の跡先なき事なるを思召《おぼしめし》、悋気よりぞと可笑しくも有ける。
十
我れと我が身に持《も》て脳《なや》みて奥さま不覚《そぞろ》に打まどひぬ、この明くれの空の色は、晴れたる時も曇れる如く、日の色身にしみて怪しき思ひあり、時雨《しぐれ》ふる夜の風の音は人来て扉《とぼそ》をたたくに似て、淋しきままに琴取出《とりいだ》し独り好みの曲を奏でるに、我れと我が調《ちよう》哀れに成りて、いかにするとも弾くに得堪《えた》えず、涙ふりこぼして押やりぬ。ある時は婦女《おんな》どもに凝る肩をたたかせて、心うかれる様な恋のはなしなどさせて聞くに、人は腮《あご》のはづるる可笑《をか》しさとて笑ひ転《こ》ける様な埒《らち》のなきさへ、身には一々哀れにて、我れも思ひの燃ゆるに似たり、一夜仲働きの福こゑを改めて、言はねば人の知らぬ事、いふて私の徳にも成らぬを、無言にいられませぬは饒舌《おしやべり》の癖、お聞きに成つても知らぬ顔に居て下さりませ、此処にをかしき一条の物がたりと少し乗《のり》地《じ》に声をはづますれば、それは何ぞや。お聞なされませ書生の千葉が初恋の哀れ、国もとに居りました時そと見初《みそ》めたが御座りましたさうな、田舎者の事なれば鎌を腰へさして藁草《わらぞう》履《り》で、手拭ひに草束ねを包んでと思召《おぼしめし》ませうが、中々さうでは御座りませぬ美くしいにて、村長の妹《いもと》といふやうな人ださうで御座ります、小学校へ通ふうちに浅からず思ひましてと言へば、それは何方《どちら》からと小間使ひの米《よね》口を出すに、黙つてお聞、無論千葉さんの方からさとあるに、おやあの無骨さんがとて笑ひ出すに、奥様苦笑ひして可憐《かわい》さうに失敗《しくじり》の昔し話しを探り出したのかと仰しやれば、いゑ中々そのやうに遠方の事ばかりでは御座りませぬ、未《ま》だ追々にと衣紋を突いて咳払ひすれば、小間使ひ少し顔を赤くして似合頃の身の上、悪口の福が何を言ひ出すやらと尻目に眺《にら》めば、それに構はず唇を甞《な》めて、まあお聞遊ばせ、千葉がその子を見《み》初《そめ》ましてからの事、朝学校へ行まする時は必ず其家《そこ》の窓下を過ぎて、声がするか、もう行つたか、見たい、聞たい、話したい、種々《いろいろ》の事を思ふたと思し召せ、学校にては物も言ひましたろ、顔も見ましたろ、それだけでは面白う無うて心いられのするに、日曜の時はその家《や》の前の川へ必らず釣をしに行きましたさうな、鮒《ふな》やたなごは宜《い》い迷惑な、釣るほどに釣るほどに、夕日が西へ落ちても帰るが惜しく、その子出て来《こ》よ残り無くお魚を遣《や》つて、喜ぶ顔を見たいとでも思ふたので御座りましよ、ああは見えますれどあれで中々の苦労人といふに、それはまあ幾歳《いくつ》のとしその恋出来てかと奥様おつしやれば、当てて御覧あそばせ先方《むかう》は村長の妹《いもと》、此方《こちら》は水ばかりめし上るお百姓、雲にかけ橋、霞《かすみ》に千鳥などと奇麗事では間に合ひませぬほどに、手短かに申さうなら提燈《ちようちん》に釣鐘《つりがね》、大《だい》分其処《ぶそこ》に隔てが御座りまするけれど、恋に上下の無い物なれば、まあ出来たと思しめしますか、お米どん何とと題を出されて、何か言はせて笑ふつもりと悪推《わるずい》をすれば、私は知らぬと横を向く、奥様少し打笑ひ、成り立たねばこそ今日の身であろ、その様なが万一《もしも》あるなら、あの打かぶりの乱れ髪、洒落《しやれ》気《げ》なしでは居られぬ筈、勉強家にしたはその自狂《やけ》からかと仰しやるに、中々もちまして彼男《あれ》が貴嬢《あなた》自狂《やけ》など起すやうな男で御座りましよか、無常を悟つたので御座りますと言ふに、そんならその子は亡くなつてか、可憐《かわい》さうなと奥さま憐《あはれ》がり給ふ、福は得意に、この恋いふも言はぬも御座りませぬ、子供の事なれば心にばかり思ふて、表向きには何とも無い月日を大凡《おほよそ》どの位送つた物で御座んすか、今の千葉が様子を御覧じても、あれの子供の時ならばと大底にお合点が行ましよ、病気して煩つて、お寺の物に成ましたを、その後何と思へばとて答へる物は松の風で、どうも仕方が無からうでは御座んせぬか、さてそれからが本文《ほんもん》で御座んすとて笑ふに、福が能い加減なこしらへ言《ごと》、似つこらしい嘘を言ふと奥さま爪《つま》はじき遊ばせば、あれ何しに嘘を申ませう、さりながらこれをお耳に入れたといふと少し私《わたし》が困りの筋、これは当人の口から聞いたので御座りますと言へば、嘘をお言ひ、彼男《あれ》がどうしてその様な事を言はふ、よし有つてからが、苦い顔でおし黙つているべき筈、いよいよの嘘と仰しやれば、さても情ない事その様に私の事を信仰して下さりませぬは、昨日の朝千葉が私を呼びまして、奥様がこの四五日御すぐれ無い様に見上げられる、どうぞ遊してかと如何にも心配らしく申ますので、奥様はお血の故で折ふし鬱《ふさ》ぎ症にもお成り遊すし真実お悪い時は暗い処で泣いていらつしやるがお持前と言ふたらば、どんなにか貴嬢《あなた》吃驚《びつくり》致しまして、飛んでも無い事、それは大層な神経質で、悪るくすると取かへしの付かぬ事になると申まして、それでその時申ました、私が郷里の幼な友達にこれこれかう言ふ娘《こ》が有つて、癇《かん》もちの、はつきりとして、此邸《ここ》の奥様にどうも能く似ていた人で有つた、継母《ままはは》で有つたので平常《つね》の我慢が大底ではなく、積つて病死した可憐《かわいさう》な子と何《いづ》れあの男の事で御座りますから、真面目な顔でありありを言ひましたを、私がはぎ合せて考へると今申た様な事に成るので御座ります、その子に奥様が似ていらつしやると申たのはそれは嘘では御座りませぬけれど、露顕しますと彼男《あれ》に私が叱られます、御存じないお積りでと舌を廻して、たたき立る太鼓の音さりとは賑《にぎ》はしう聞え渡りぬ。
十一
今歳も今日十二月の十五日、世間おしつまりて人の往来《ゆきかひ》大路にいそがはしく、お出入の町人お歳暮持参するものお勝手に賑々《にぎにぎ》しく、急ぎたる家には餅つきのおとさへ聞ゆるに、此邸《ここ》にては煤取《すすとり》の笹の葉座敷にこぼれて、冷めし草履ここかしこの廊下に散みだれ、お雑《ぞう》巾《きん》かけまする物、お畳たたく物、家《か》内《ない》の調度になひ廻るも有れば、お振舞の酒《ささ》に酔ふて、これが荷物に成るもあり、御懇命うけまするお出入の人々お手伝お手伝ひとて五月蠅《うるさ》きを半《なかば》は断りて集まりし人だけに瓶《かめ》のぞきの手ぬぐひ、それ、と切つて分け給へば、一同手に手に打冠《うちかぶ》り、姉さま唐《とう》茄子《なす》、頬《ほう》かぶり、吉原《よしはら》かぶりをするも有り、旦那さま朝よりお留守にて、お指図し給ふ奥さまの風を見れば、小《こ》褄《づま》かた手に友仙《ゆうぜん》の長襦袢《ながじゆばん》下に長く、赤き鼻緒の麻裏を召て、あれよ、これよと仰せらる、一しきり終りての午後《ひるすぎ》、お茶ぐわし山と担ぎ込めば大皿の鉄砲まき分捕《ぶんどり》次第と沙汰《さた》ありて、奥様は暫時《しばし》のほど二階の小間《こま》に気づかれを休め給ふ、血の道のつよき人なれば胸ぐるしさ堪《た》えがたうて、枕に小《こ》抱巻仮初《がいまきかりそめ》にふし給ひしを、小間づかひの米よりほか、絶えて知る者あらざりき。
奥さまとろとろとしてお目覚《さむ》れば、枕もとの縁がはに男女《なんによ》の話し声さのみ憚《はば》かる景色も無く、此宿《ここ》の旦的《だんつく》の、奥洲《おくしゆう》のと、車宿の二階で言ふやうなるは、奥さま此処にと夢にも人は思はぬなるべし。
一方《かたかた》は仲働《なかばたらき》の福のこゑ、叮嚀《ていねい》に叮嚀にと仰しやるけれど、一日業《わざ》にどうしてさうは行渡らりよう、隅々隈々《すみずみくまぐま》やつていてお溜《たま》りが有らうかえ、目に立つ処をざつと働いて、あとは何《いづ》れも野となれさ、それで丁度能《い》い加減に疲れてしまう、そんなにお前正直で務る物かと嘲笑《あざわら》ふやうに言へば、大きにさといふ、相手は茂助がもとの安五郎がこゑなり、正直といへば此処の旦的《だんつく》が一件物《いつけんもの》、飯《いひ》田《だ》町《まち》のお波が事を知つてかと問ひかけるに、お福は百年も前からと言はぬばかりにして、それを御存じの無いは此処の奥様お一方《かた》、知らぬは亭主の反《あべ》対《こ》だね、まだ私は見た事は無いが、色の浅黒い面長で、品が好いといふでは無いか、お前は親方の代りにお供を申すこともある、拝んだ事が有るかと問へば、見た段か格子戸に鈴の音がすると坊ちやんが先立《さきだち》で駆け出して来る、続いて顕はれるが例物《れいぶつ》さ、髪の毛自慢の櫛巻《くしまき》で、薄化粧のあつさり物、半襟《はんゑり》つきの前だれ掛とくだけて、おや貴郎《あなた》と言ふだらうでは無いか、すると此処のがでれりと御座つて、久しう無沙汰をした、免《ゆ》るせ、かなんかで、入口の敷居に腰をかける、例のが駆け下りて靴をぬがせる、見とも無いほど睦ましいと言ふはあれの事、旦那が奥へ通ると小戻りして、お供さん御苦労、これで烟草《たばこ》でも買つてと言つて、それ鼻薬の出る次第さ、あれがお前素《しろ》人《うと》だから感心だと賞めるに、素人も素人、生《き》無垢《むく》の娘あがりだと言ふでは無いか、旦那とは十何年の中で、坊ちやんが歳もことしは十《と》歳《を》か十一には成《なら》う、都合の悪るいは此処の家には一人も子宝が無うて彼方《あちら》に立派の男の子といふ物だから、行々《ゆくゆく》を考へるとお気の毒なは此処の奥さま、どうもこれも授り物だからと一人が言ふに、仕方が無い、十分先《せん》の大旦那がしぼり取つた身上《しんじよう》だから、人の物に成ると言つても理屈は有るまい、だけれどお前《まい》、不正直は此処の旦那で有らうと言ふに、男は皆あんな物、気が多いからとお福の笑ひ出すに、悪く当つ擦《こす》りなさる、耳が痛いでは無いか、己《お》れはかう見えても不義理と土《ど》用干《ようぼし》は仕た事の無い人間だ、女房をだまくらかして妾《めかけ》の処へ注ぎ込む様な不人情は仕《し》度《たく》ても出来ない、あれだけ腹の太い豪《ゑら》いのでは有らうが、考へると此処の旦那も鬼の性さ、二代つづきて弥々《いよいよ》根が張らうと、聞人《きくひと》なげに遠慮なき高声、福も相槌《あひづち》例の調子に、もう一ト働きやつて除《の》けよう、安さんは下廻りを頼みます、私はも一度此処を拭いて、今度はお蔵だとて、雑巾がけしつしつと始めれば、奥さまは唯この隔てを命にして、明けずに去《い》ねかし、顔みらるる事愁《つ》らやと思しぬ。
十二
十六日の朝ぼらけ咋日の掃除のあと清き、納戸めきたる六畳の間に、置《おき》炬《ご》燵《たつ》して旦那さま奥さま差向ひ、今朝《けさ》の新聞おし開きつつ、政界の事、文界の事、語るに答へもつきなからず、他処目《よそめ》うら山《やま》しう見えて、面白げ成しが、旦那さま好《よ》き頃と見はからひの御積りなるべく、年来《としごろ》足らぬ事なき家に子の無きをばかり口《くち》惜《を》しく、其方《そなた》に有らば重畳の喜びなれど万一《もし》いよいよ出来ぬ物ならば、今より貰うて心に任せし教育をしたらばとこれを明くれ心がくれども、未《いま》だに良きも見当らず、年たてば我れも初老《はつおひ》の四十の坂、じみなる事を言ふやうなれども家の根つぎの極《き》まらざるは何かにつけて心細く、このほど中《ちゆう》の其方《そなた》のやうに、淋しい淋しいの言ひづめも為《せ》では有られぬやうな事あるべし、幸ひ海軍の鳥居が知人の子に素性も悪るからで利発に生れつきたる男の子あるよし、其方に異存なければそれを貰ふて丹精したらばと思はるる、悉皆《しつかい》の引受けは鳥居がして、里かたにもあの家にて成るよし、年は十一、容貌《きりよう》はよいさうなと言ふに、奥さま顔をあげて旦那の面様《おもよう》いかにと覘《うかが》ひしが、なるほどそれは宜い思《おぼ》し召《めし》より、私《わたし》にかれこれは御座りませぬ、宜いと覚しめさばお取極め下さりませ、此家《ここ》は貴郎《あなた》のお家で御座りまする物、何となり思しめしのままにと安らかには言ひながら、万一《もし》その子にて有りたらばと無情《つれなき》おもひ、おのづから顔色に顕はるれば、何取《とり》いそぐ事でも無い、よく思案して気に叶《かな》ふたらばその時の事、あまり気を欝々として病気でもしては成らんから、少しは慰めにもと思ふたのなれど、それも余り軽卒の事、人形や雛《ひな》では無し、人一人翫弄物《もてあそび》にする訳には行くまじ、出来そこねたとて塵塚《ちりづか》の隅へ捨てられぬ、家の礎《いしづゑ》に貰ふのなれば、今一応聞定めもし、取調べても見た上の事、唯この頃の様に欝《ふさ》いでいたら身体《からだ》の為に成るまいと思はれる、これは急がぬ事として、ちと寄席ききにでも行つたらどうか、播《はり》磨《ま》が近い処へかかつている、今夜はどうであらう行かんかなと機嫌を取り給ふに、貴郎は何故《なぜ》そんな優しらしい事を仰しやります、私は決してそのやうな事は伺ひたいと思ひませぬ、欝ぐ時は鬱がせて置いて下され、笑ふ時は笑ひますから、心任《こころま》かせにして置いて下されと、言ひてさすが打つけには恨みも言ひ敢へず、心に籠《こ》めて愁《うれ》はしげの体にてあるを、良人《おつと》は浅からず気にかけて、何故その様な捨てばちは言ふぞ、この間から何かと奥歯に物の挾《はさ》まりて一々心にかかる事多し、人には取違へもある物、何をか下心に含んで隠しだてでは無いか、この間の小梅の事、あれでは無いかな、それならば大間違ひの上なし、何の気も無い事だに心配は無用、小梅は八木田《やぎた》が年来《としごろ》の持物で、人には指をもささしはせぬ、ことにはあの痩《や》せがれ、花は疾《と》くに散つて紫蘇葉《しそは》につつまれようと言ふ物だに、どれほどの物好きなれば手出しを仕様ぞ、邪推も大底《たいてい》にして置いてくれ、あの事ならば清浄《しようじよう》 無垢《むく》、潔白な者だと微笑を含んで口髭《くちひげ》を捻《ひね》らせ給ふ。飯田町の格子戸は音にも知らじと思召《おぼしめし》、これが備へは立てもせず、防禦《ぼうぎよ》の策は取らざりき。
十三
さまざま物をおもひ給へば、奥様時々お癪《しやく》の起る癖つきて、はげしき時は仰向《あほのけ》に仆《たほ》れて、今にも絶え入るばかりの苦るしみ、始《はじめ》は皮下注射など医者の手をも待ちけれど、日毎夜毎に度かさなれば、力ある手につよく押へて、一時《じ》をとかくまぎらはす事なり、男ならでは甲斐《かひ》のなきに、その事あれば夜《よ》といはず夜《よ》中《なか》と言はず、やがて千葉をば呼立てて、反かへる背を押へさするに、無骨一遍律義男《りつぎをとこ》の身を忘れての介抱人の目にあやしく、しのびやかの凵sささや》き頓《やが》て無沙汰に成るぞかし、隠れの方《かた》の六畳をば人奥様の癪部屋と名付けて、乱行あさましきやうに取なせば、見る目がらかやこの間の事いぶかしう、更に霜夜の御《お》憐《あは》れみ、羽織の事さへ取添へて、仰々しくも成ぬるかな、あとなき風も騒ぐ世に忍ぶが原の虫の声、露ほどの事あらはれて、奥様いとど憂き身に成りぬ。 中働きの福かねてあらあら心組みの、奥様お着《き》下《おろ》しの本結城、あれこそは我が物の頼み空《むな》しう、いろいろ千葉の厄介に成たればとて、これを新年着《はるぎ》に仕立てて遣《つか》はされし、その恨み骨髄に徹《とほ》りてそれよりの見る目横にか逆《さか》にか、女髪結の留《とめ》を捉らへて珍事唯今出来《しゆつたい》の顔つきに、例の口車くるくるとやれば、この電信の何処《いづく》までかかりて、一町毎に風説《うはさ》は太りけん、いつしか恭助ぬしが耳に入れば、安からぬ事に胸さわがれぬ、家つきならずは施すべき道もあれども、浮世の聞え、これを別居と引離つこと、如何《いか》にもしのびぬ思ひあり、さりとてこのままさし置かんに、内政のみだれ世の攻撃の種に成りて、浅からぬ難義現在の身の上にかかれば、いかさまに為《せ》ばやと持てなやみぬ、我ままもそのまま、気随もそのまま、何かはことごとして咎《とが》めだてなどなさんやは、金村が妻と立ちて、世に耻かしき事なからずはと覚せども、さし置がたき沙汰とにかくに喧《かしま》しく、親しき友など打つれての勧告に、今日は今日はと思ひ立ちながら、猶《なほ》その事に及ばずして過行く、年立《としたち》かへる朝《あした》より、松の内過ぎなばと思ひ、松とり捨つれば十五日ばかりの程にはとおもふ、二《は》十日《つか》も過ぎて一月《げつ》空しく、二月は梅にも心の急がれず、来る月は小学校の定期試験とて飯田町のかたに、笑《え》みかたまけて急ぎ合へるを、見れども心は楽しからず、家のさま、町子の上、いかさまにせん、とばかりおもふ、谷《や》中《なか》に知人の家を買ひて、調度万端おさめさせ、此処へと思ふに町子が生涯あはれなる事いふばかりなく、暗涙にくれては我が身が不徳を思《おぼ》ししる筋なきにあらねど、今はと思ひ断ちて四月のはじめつ方、浮世は花に春の雨ふる夜、別居の旨をいひ渡しぬ。
かねてぞ千葉は放たれぬ。汨《べき》羅《ら》の屈原《くつげん》ならざれば、恨みは何とかこつべき、大川の水清からぬ名を負ひて、永代《えいたい》よりの汽船に乗込みの帰国姿、まさしう見たりと言ふ物ありし。
憂かりしはその夜のさまなり、車の用意何くれと調へさせて後《のち》、いふべき事あり此方《こなた》へと良人のいふに、今さら恐ろしうて書斎の外《と》にいたれば、今宵より其方《そなた》は谷中へ移るべきぞ、この家をば家とおもふべからず、立帰らるる物と思ふな、罪はおのづから知りたるべし、はや立て、とあるに、それは余りのお言葉、我に悪き事あらば何とて小言は言ひ給はぬ、出しぬけの仰せは聞きませぬとて泣くを、恭助振向いて見んともせず、理由《わけ》あればこそ、人並ならぬ事ともなせ、一々の罪状いひ立んは憂かるべし、事の用意もなしてあり、唯のり移るばかりと言ひて、つと立ちて部やの外《と》へ出給《いでたま》ふを、追ひすがりて袖をとれば、放さぬか不《ふ》埒者《らちもの》と振切るを、お前様どうでもさやうなさるので御座んするか、私を浮世の捨て物になさりまするお気か、私は一人もの、世には助くる人も無し、この小さき身すて給ふに仔細《わけ》はあるまじ、美事すててこの家を君の物にし給ふお気か、取りて見給へ、我れをば捨てて御覧ぜよ、一念が御座りまするとて、はたと白睨《にら》むを、突《つき》のけてあとをも見ず、町、もう逢はぬぞ。
わかれ道
上
お京さん居ますかと窓の戸の外に来て、ことことと羽目を敲《たた》く音のするに、誰れだえ、もう寐《ね》てしまつたから明日《あした》来ておくれと嘘を言へば、寐たつて宜いやね、起きて明けておくんなさい、傘《かさ》屋《や》の吉《きち》だよ、己《お》れだよと少し高く言へば、嫌《いや》な子だねこんな遅くに何を言ひに来たか、又御餅《おかちん》のおねだりか、と笑つて、今あけるよ少時《しばらく》辛棒おしと言ひながら、仕立かけの縫物に針どめして立つは年頃二十余りの意気な女、多い髪の毛を忙がしい折からとて結び髪にして、少し長めな八丈の前だれ、お召の台なしな半天を着て、急ぎ足に沓脱《くつぬぎ》へ下りて格子戸に添ひし雨戸を明くれば、お気の毒さまと言ひながらずつと這入《はい》るは一寸法《ぼ》師《し》と仇《あだ》名《な》のある町内の暴れ者、傘屋の吉とて持て余しの小僧なり、年は十六なれども不図《ふと》見る処は一か二か、肩幅せばく顔少さく、目鼻だちはきりきりと利口らしけれど何《いか》にも脊《せい》の低くければ人嘲《あざ》けりて仇名はつけける。御免なさい、と火鉢の傍《そば》へづかづかと行《ゆ》けば、御餅《おかちん》を焼くには火が足らないよ、台処の火消壺から消し炭を持つて来てお前が勝手に焼てお喰べ、私《わたし》は今夜中にこれ一枚《つ》を上げねば成らぬ、角の質屋の旦那どのが御年始着だからとて針を取れば、吉はふふんと言つてあの兀《はげ》頭《あたま》には惜しい物だ、御《お》初《はつ》穂《う》を我《お》れでも着て遣《や》らうかと言へば、馬鹿をお言ひで無い人のお初穂を着ると出世が出来ないと言ふでは無いか、今つから延びる事が出来なくては仕方が無い、そんな事を他処《よそ》の家《うち》でもしては不用《いけない》よと気を付けるに、己れなんぞ御出世は願はないのだから他人《ひと》の物だらうが何だらうが着かぶつて遣るだけが徳さ、お前さん何時《いつ》かさう言つたね、運が向く時に成ると己れに糸織の着物をこしらへてくれるつて、本当に調《こしら》へてくれるかえと真面目だつて言へば、それは調らへて上げられるやうならお目出《めで》度《たい》のだもの喜んで調らへるがね、私《わたし》が姿を見ておくれ、こんな容躰《ようだい》で人さまの仕事をしている境界《きようがい》では無からうか、まあ夢のやうな約束さとて笑つていれば、いいやなそれは、出来ない時に調らへてくれとは言は無い、お前さんに運の向いた時の事さ、まあそんな約束でもして喜ばして置いておくれ、こんな野郎が糸織ぞろへを冠《かぶ》つた処がをかしくも無いけれどもと淋しさうな笑《ゑ》顔《がほ》をすれば、そんなら吉ちやんお前が出世の時は私にもしておくれか、その約束も極《きは》めて置きたいねと微笑《ほほゑ》んで言へば、そいつはいけない、己れはどうしても出世なんぞは為《し》ないのだから。何故々々《なぜなぜ》。何故でもしない、誰れが来て無理やりに手を取つて引上げても己れは此処《ここ》にかうしているのが好いのだ、傘屋の油引きが一番好いのだ、どうで盲《め》目《くら》縞《 じま》の筒袖に三尺を脊負《しよ》つて産《で》て来たのだらうから、渋を買ひに行く時かすり《・・・》でも取つて吹矢の一本も当りを取るのが好い運さ、お前さんなぞは以前《もと》が立派な人だと言ふから今に上等の運が馬車に乗つて迎ひに来やすのさ、だけれどもお妾《めかけ》に成ると言ふ謎《なぞ》では無いぜ、悪く取つて怒つておくんなさるな、と火なぶりをしながら身の上を歎くに、さうさ馬車の代りに火の車でも来るであらう、随分胸の燃える事が有るからね、とお京は尺《ものさし》を杖《つえ》に振返りて吉三《きちぞう》が顔を守りぬ。
例《いつも》の如く台処から炭を持出《もちいだ》して、お前は喰ひなさらないかと聞けば、いいゑ、とお京の頭《つむり》をふるに、では己ればかり御馳走さまに成らうかな、本当に自家《うち》の吝嗇《けちん》ぼうめやかましい小言ばかり言ひやがつて、人を使ふ法をも知りやあがらない、死んだお老婆《ばあ》さんはあんなのでは無かつたけれど、今度の奴等と来たら一人として話せるのは無い、お京さんお前は自家《うち》の半《はん》次《じ》さんを好きか、随分厭《いや》味《み》に出来あがつて、いい気の骨頂の奴では無いか、己れは親方の息子だけれど彼《あ》奴《いつ》ばかりはどうしても主人とは思はれない番ごと喧《けん》嘩《か》をして遣《や》り込めてやるのだが随分おもしろいよと話しながら、金網の上へ餅をのせて、おお熱々と指先を吹いてかかりぬ。
己れはどうもお前さんの事が他人のやうに思はれぬはどういふ物であらう、お京さんお前は弟《おとと》といふを持つた事は無いのかと問はれて、私は一人娘《ご》で同胞《きようだい》なしだから弟にも妹《いもと》にも持つた事は一度も無いと云ふ、さうかなあ、それではやつぱり何でも無いのだらう、何処《どこ》からかかうお前のやうな人が己れの真《しん》身《み》の姉《あね》さんだとか言つて出て来たらどんなに嬉しいか、首つ玉へ噛《かぢ》り付いて己れはそれぎり徃生しても喜ぶのだが、本当に己れは木の股《また》からでも出て来たのか、遂《つ》いしか親類らしい者に逢つた事も無い、それだから幾度も幾度も考へては己れはもう一生誰れにも逢ふ事が出来ない位なら今のうち死んでしまつた方が気楽だと考へるがね、それでも欲があるから可笑《をか》しい、ひよつくり変てこな夢何かを見てね、平常《ふだん》優しい事の一言も言つてくれる人が母親《おふくろ》や父親《おやぢ》や姉《あね》さんや兄《あに》さんの様に思はれて、もう少し生てゐやうかしら、もう一年も生てゐたら誰れか本当の事を話してくれるかと楽しんでね、面白くも無い油引きをやつてゐるが己れみたやうな変な物が世間にも有るだらうかねえ、お京さん母親《おふくろ》も父親《おやぢ》も空《から》つきり当《あて》が無いのだよ、親なしで産れて来る子があらうか、己れはどうしても不思議でならない、と焼あがりし餅を両手でたたきつつ例《いつ》も言ふなる心細さを繰返せば、それでもお前笹づる錦の守り袋といふ様な証拠は無いのかえ、何か手懸りは有りさうな物だねとお京の言ふを消して、何そんな気の利いた物は有りさうにもしない生れると直さま橋の袂《たもと》の貸赤子に出されたのだなどと朋輩《ほうばい》の奴等が悪口《わるくち》をいふが、もしかするとさうかも知れない、それなら己れは乞食の子だ、母親《おふくろ》も父親《おやぢ》も乞食かも知れない、表を通る襤褸《ぼろ》を下げた奴がやつぱり己れが親類まきで毎朝きまつて貰ひに来る跣跋《びつこ》片眼《めつかち》のあの婆あ何かが己れの為の何に当るか知れはしない、話さないでもお前は大底しつてゐるだらうけれど今の傘屋に奉公する前はやつぱり己れは角兵衛の獅子《しし》を冠つて歩いたのだからと打しをれて、お京さん己れが本当に乞食の子ならお前は今までのやうに可愛《かわゆ》がつてはくれないだらうか、振向いて見てはくれまいねと言ふに、串談《じようだん》をお言ひでないお前がどのやうな人の子でどんな身かそれは知らないが、何だからとつて嫌やがるも嫌やがらないも言ふ事は無い、お前は平常《ふだん》の気に似合ぬ情ない事をお言ひだけれど、私が少しもお前の身なら非人でも乞食でも搆《かま》ひはない、親が無からうが兄弟がどうだらうが身一つ出世をしたらば宜からう、何故そんな意気地なしをお言ひだと励ませば、己れはどうしても駄目だよ、何にも為《し》やうとも思はない、と下を向いて顔をば見せざりき。
中
今は亡《う》せたる傘屋の先代に太つ腹のお松とて一代に身上《しんじよう》をあげたる、女相撲のやうな老《ば》婆《ば》さま有りき、六年前《まへ》の冬の事寺参りの帰りに角兵衛の子供を拾ふて来て、いいよ親方からやかましく言つて来たらその時の事、可愛想に足が痛くて歩かれないと言ふと朋輩の意地悪が置ざりに捨てて行つたと言ふ、そんな処へ帰るに当るものか少《ちつ》とも怕《おつ》かない事は無いから私《わたし》が家《うち》に居なさい、皆《みんな》も心配する事は無い何のこの子位のもの二人や三人、台所へ板を並べてお飯《まんま》を喰べさせるに文句が入る物か、判証文を取つた奴でも欠落《かけおち》をするもあれば持逃げの吝《けち》な奴もある、了簡《りようけん》次第の物だわな、いはば馬には乗つて見ろさ、役に立つか立たないか置いて見なけりや知れはせん、お前新網《しんあみ》へ帰るが嫌やなら此家《ここ》を死場と極めて勉強をしなけりやあ成らないよ、しつかり遣《や》つておくれと言ひ含められて、吉や吉やとそれよりの丹精今油ひきに、大人三人前を一手に引うけて鼻歌交り遣つて除《の》ける腕を見るもの、さすがに目鏡と亡き老婆《ひと》をほめける。
恩ある人は二年目に亡せて今の主《あるじ》も内儀《かみ》様《さま》も息子の半次も気に喰はぬ者のみなれど、此処を死場と定めたるなれば厭《い》やとて更に何方《いづかた》に行くべき、身は疳癪《かんしやく》に筋骨つまつてか人よりは一寸法師《ぼし》一寸法師と誹《そし》らるるも口《くち》惜《を》しきに、吉や手《て》前《めへ》は親の日に腥《なまぐ》さを喰《やつ》たであらう、ざまを見ろ廻りの廻りの小仏と朋輩の鼻垂れに仕事の上の仇《あだ》を返されて、鉄拳《かなこぶし》に張たほす勇気はあれども誠に父母いかなる日に失せて何時《いつ》を精進日とも心得なき身の、心細き事を思ふては干《ほし》場《ば》の傘のかげに隠くれて大《だい》地《じ》を枕に仰《あほ》向《の》き臥《ふ》してはこぼるる涙を呑込みぬる悲しさ、四季押とほし油びかりする目くら縞の筒袖を振つて火の玉の様な子だと町内に怕《こわ》がられる乱暴も慰むる人なき胸ぐるしさの余り、仮にも優しう言ふてくれる人のあれば、しがみ附いて取ついて離れがたなき思ひなり。仕事屋のお京は今年の春よりこの裏へと越して来し者なれど物事に気才の利きて長屋中への交際《つきあい》もよく、大屋なれば傘屋の者へは殊更に愛想を見せ、小僧さん達着る物のほころびでも切れたなら私の家へ持つてお出《いで》、御家は御《ご》多《た》人《にん》数《ず》お内儀さんの針もつていらつしやる暇はあるまじ、私は常住仕事畳紙《たとう》と首つ引の身なれば本《ほん》の一針造作は無い、一人住居《ずまい》の相手なしに毎日毎《まい》夜《や》さびしくつて暮しているなれば手すきの時には遊びにも来て下され、私はこんながらがらした気なれば吉《きつ》ちやんの様な暴れ様《さん》が大好き、疳癪がおこつた時には表の米屋が白犬を擲《は》ると思ふて私の家の洗ひかへしを光沢出《つやだ》しの小《こ》槌《づち》に、碪《きぬた》うちでも遣りに来て下され、それならばお前さんも人に憎くまれず私の方でも大助り、本に両為《りようだめ》で御座んすほどにと戯言《じようだん》まじり何時となく心安く、お京さんお京さんとて入浸《いりびた》るを職人ども翻弄《からかひ》ては帯屋の大将のあちらこちら、桂川《かつらがは》の幕が出る時はお半の脊中《せな》に長右衛門と唱はせてあの帯の上へちよこなんと乗つて出るか、此《こ》奴《いつ》は好いお茶番だと笑はれるに、男なら真似て見ろ、仕事やの家へ行つて茶棚の奥の菓子鉢の中に、今日は何が何箇《いくつ》あるまで知つているのは恐らく己れの外には有るまい、質屋の兀頭めお京さんに首つたけで、仕事を頼むの何がどうしたのと小五月蠅這入込《こうるさくはいりこ》んでは前だれの半襟《はんゑり》の帯つかはのと附届をして御機嫌を取つてはいるけれど、遂ひしか喜んだ挨拶をした事が無い、ましてや夜るでも夜中でも傘屋の吉が来たとさへ言へば寝間着のままで格子戸を明けて、今日は一日遊びに来なかつたね、どうかお為《し》か、案じていたにと手を取つて引入れられる者が他《ほか》に有らうか、お気の毒様なこつたが独活《うど》の大木《たいぼく》は役にたたない、山椒《さんしよ》は小粒で珍重されると高い事をいふに、この野郎めと脊を酷《ひど》く打たれて、有がたう御座いますと済まして行く顔つき背《せい》さへあれば人串談《じようだん》とて免《ゆる》すまじけれど、一寸法師の生意気と爪はぢきして好い嬲《なぶ》りものに烟草《たばこ》休みの話しの種成き。
下
十二月三十日の夜《よ》、吉は坂上の得意場へ誂《あつら》への日限の後《おく》れしを詫《わ》びに行きて、帰りは懐《ふところ》手《で》の急ぎ足、草履下駄の先にかかる物は面白づくに蹴《け》かへして、ころころと転げると右に左に追ひかけては大溝《おほどぶ》の中へ蹴落して一人からからの高笑ひ、聞く者なくて天上のお月さまさも皓々《こうこう》と照し給ふを寒いと言ふ事知らぬ身なれば只ここちよく爽《さわやか》にて、帰りは例の窓を敲《たた》いてと目算ながら横町を曲れば、いきなり後《あと》より追ひすがる人の、両手に目を隠くして忍び笑ひをするに、誰れだ誰れだと指を撫《な》でて、何だお京さんか、小指のまむしが物を言ふ、恐赫《おどか》しても駄目だよと顔を振のけるに、憎くらしい当てられてしまつたと笑ひ出す。お京はお高僧頭《こそず》巾《きん》目《ま》深《ぶか》に風通《ふうつう》の羽織着て例《いつも》に似合ぬ宜《よ》き粧《なり》なるを、吉三は見あげ見おろして、お前何処へ行きなすつたの、今日明日は忙がしくてお飯《まんま》を喰べる間もあるまいと言ふたでは無いか、何処へお客様にあるいてゐたのと不審を立てられて、取越しの御年始さと素知らぬ顔をすれば、嘘をいつてるぜ三十日の年始を受ける家《うち》は無いやな、親類へでも行きなすつたかと問へば、とんでも無い親類へ行くやうな身に成つたのさ、私は明日《あす》あの裏の移転《ひつこし》をするよ、余《あんま》りだしぬけだからさぞお前おどろくだらうね、私も少し不意なのでまだ本当とも思はれない、ともかく喜んでおくれ悪るい事では無いからと言ふに、本当か、本当か、と吉は呆《あき》れて、嘘では無いか串談《じようだん》では無いか、そんな事を言つておどかしてくれなくても宜《い》い、己れはお前が居なくなつたら少しも面白い事は無くなつてしまふのだからそんな厭《い》やな戯言《じようだん》は廃《よ》しにしておくれ、ゑゑつまらない事を言ふ人だと頭《かしら》をふるに、嘘では無いよ何時かお前が言つた通り上等の運が馬車に乗つて迎ひに来たといふ騒ぎだから彼《あす》処《こ》の裏には居られない、吉ちやんそのうちに糸織ぞろひを調へて上るよと言へば、厭やだ、己れはそんな物は貰ひたく無い、お前その好い運といふはつまらぬ処へ行かうといふのでは無いか、一昨日《おととひ》自家《うち》の半次さんがさういつてゐたに、仕事やのお京さんは八百屋横町に按《あん》摩《ま》をしてゐる伯父さんが口入れで何処のかお邸《やしき》へ御奉公に出るのださうだ、何お小間使ひと言ふ年ではなし、奥さまの御側やお縫物しの訳は無い、三つ輪に結つて総《ふさ》の下《さが》つた被《ひ》布《ふ》を着るお妾さまに相違は無い、どうしてあの顔で仕事やが通せる物かとこんな事をいつてゐた、己れはそんな事は無いと思ふから、聞違ひだらうと言つて大喧嘩を遣つたのだが、お前もしや其処《そこ》へ行くのでは無いか、そのお邸《やしき》へ行くのであらう、と問はれて、何も私だとて行きたい事は無いけれど行かなければ成らないのさ、吉ちやんお前にももう逢はれなくなるねえ、とて唯いふ言《こと》ながら萎《しほ》れて聞ゆれば、どんな出世に成るのか知らぬが其処へ行くのは廃《よ》したが宜《よか》らう、何もお前女口一つ針仕事で通せない事もなからう、あれほど利く手を持つてゐながら何故つまらないそんな事を始めたのか、余《あんま》り情ないでは無いかと吉は我が身の潔白に比べて、お廃しよ、お廃しよ、断つておしまいなと言へば、困つたねとお京は立止まつて、それでも吉ちやん私は洗ひ張に倦《あ》きが来て、もうお妾でも何でも宜《よ》い、どうでこんなつまらないづくめだから、寧《いつ》その腐れ縮緬《ちりめん》着物で世を過ぐさうと思ふのさ。
思ひ切つた事を我れ知らず言つてほほと笑ひしが、ともかくも家へ行かうよ、吉ちやん少しお急ぎと言はれて、何だか己れは根つから面白いとも思はれない、お前まあ先へお出《いで》よと後《あと》に附いて、地上に長き影法師を心細げに踏んで行く、いつしか傘屋の路次を入つてお京が例の窓下に立てば、此処をば毎夜音づれてくれたのなれど、明日《あす》の晩はもうお前の声も聞かれない、世の中つて厭やな物だねと歎息するに、それはお前の心がらだとて不満らしう吉三の言ひぬ。
お京は家に入るより洋燈《らんぷ》に火を点《うつ》して、火鉢を掻《か》きおこし、吉ちやんやお焙《あた》りよと声をかけるに己れは厭やだと言つて柱際に立つてゐるを、それでもお前寒からうでは無いか風を引くといけないと気を付ければ、引いても宜いやね、搆《かま》はずに置いておくれと下を向いてゐるに、お前はどうかおしか、何だか可怪《をか》しな様子だね私の言ふ事が何か疳《かん》にでも障つたの、それならそのやうに言つてくれたが宜《い》い、黙つてそんな顔をしてゐられると気に成つて仕方が無いと言へば、気になんぞ懸けなくても能《い》いよ、己れも傘屋の吉三だ女のお世話には成らないと言つて、寄かかりし柱に脊を擦《こす》りながら、ああつまらない面白くない、己れは本《ほん》当《と》に何と言ふのだらう、いろいろの人がちよつと好い顔を見せて直様《すぐさま》つまらない事に成つてしまふのだ、傘屋の先《せん》のお老婆《ばあ》さんも能い人で有つたし、紺《こう》屋《や》のお絹さんといふ縮れつ毛の人も可《かあ》愛《ゆ》がつてくれたのだけれど、お老婆さんは中風《ちゆうふう》で死ぬし、お絹さんはお嫁に行くを嫌やがつて裏の井戸へ飛込んでしまつた、お前は不人情で己れを捨てて行し、もう何もかもつまらない、何だ傘屋の油ひきになんぞ、百人前の仕事をしたからとつて褒《ほう》美《び》の一つも出やうでは無し朝から晩まで一寸法師の言《いは》れつづけで、それだからと言つて一生立つてもこの背《せい》が延びやうかい、待てば甘《かん》露《ろ》といふけれど己れなんぞは一日一日嫌やな事ばかり降つて来やがる、一咋日半次の奴と大喧嘩をやつて、お京さんばかりは人の妾に出るやうな腸《はらわた》の腐つたのでは無いと威張つたに、五日とたたずに兜《かぶと》をぬがなければ成らないのであらう、そんな嘘つ吐《つ》きの、ごまかしの、欲の深いお前さんを姉《ねえ》さん同様に思つてゐたが口惜しい、もうお京さんお前には逢はないよ、どうしてもお前には逢はないよ、長々御世話さま此処からお礼を申ます、人をつけ、もう誰れの事も当てにする物か、左様なら、と言つて立あがり沓《くつ》ぬぎの草履下駄足に引《ひき》かくるを、あれ吉ちやんそれはお前勘違ひだ、何も私が此処を離れるとてお前を見捨てる事はしない、私は本《ほん》当《と》に兄弟とばかり思ふのだものそんな愛《あい》想《そ》づかしは酷《ひど》からう、と後から羽がひじめに抱き止めて、気の早い子だねとお京の諭《さと》せば、そんならお妾に行くを廃《や》めにしなさるかと振かへられて、誰れも願ふて行く処では無いけれど、私はどうしてもかうと決心してゐるのだからそれは折角だけれど聞かれないよと言ふに、吉は涕《なみだ》の目に見つめて、お京さん後生だから此肩《ここ》の手を放しておくんなさい。
解説
三好行雄
樋口一葉は天才と呼ばれるにふさわしい明治女流文学の第一人者である、などと改まって書くまでもないだろう。生涯の大半を不遇のうちに過し、名声のトバ口にたたずんだままで夭折《ようせつ》したが、晩年の一年、いわゆる〈奇蹟の一年間〉に『たけくらべ』『にごりえ』『十三夜』などの名作をやつぎばやに発表し、とくに『たけくらべ』が森鴎外や幸田露伴のいささか過大なまでの讃辞を得て、その名を不朽のものにした。鴎外の主宰した雑誌「めざまし草」の合評「三人冗語」で、鴎外はローカル・カラーをたくみに描破した才筆とゆたかな詩情を絶讃し、露伴は〈自ら殊勝の風骨態度を具せる好文字を見ては、我知らず喜びの余りに起つて之《これ》を迎へんとまで思ふなり〉とさえ述べている。一葉の没したのは『たけくらべ』の翌年、明治二十九年十一月二十三日である。享年二十五歳だった。
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樋口一葉は本名奈津、別に夏子と署名したこともある。明治五年三月二十五日に東京内幸町の東京府庁構内長屋で生れた。父則義は東京府の下級官吏をつとめていたが、もともとは甲斐《かい》の貧しい百姓の出身である。出奔して江戸に出たのが安政四年で、つてを頼って武士階級に接近し、維新直前には八丁堀同心の株を買って直参の列に加わったという異例の人間だった。百姓から武士への道を歩みぬいて、ようやくに手に入れた身分を幕府の瓦解とともに手放さなければならなかった無念は察するに余りあるが、それだけにまた、武士という身分に対する自負や矜持《きようじ》もひとしお強かったにちがいない。さほど豊かでない家計を割《さ》いて、一葉を中島歌子の名門塾に通わせて和歌や古典を学ばせたのも、武士の娘にふさわしい教育を身につけさせようとしての背伸びであった。
もちろん、父親の野心や矜持はそのまま一葉にも伝えられ、彼女の生きかたをながく縛ることになった。国家の命運や世のなりゆきについての関心がふかく、日記のあちこちにも女性らしからぬ国士風な感慨が書きとめられているが、そうした男まさりの気丈な性格にも〈武士の娘〉の気負いが反映していたかもしれない。のちの半井桃水《なからいとうすい》との恋愛事件でも、士族の誇りは微妙な形で一葉の足枷《あしかせ》となったようである。
一葉は明治二十四年に、当時、朝日新聞社の小説記者だった桃水に入門し、小説の制作をこころざしたが、まもなく桃水の端麗な美貌と穏和な人柄に惹《ひ》かれて、師へのひそかな慕情をそだてはじめることになった。一葉にとって最初にして最後のこの恋愛は結局、一葉自身が桃水への愛をみずから絶って師と訣《けつ》別《べつ》するという形で終るが、その直接の契機は桃水に関する無実の醜聞を一葉が誤解したからであったという。同時に、中島塾の師友をはじめ、師弟の恋愛に好奇な眼をそそぐ封建的な世間の批判もきびしく、一葉はそれに拮《きつ》抗《こう》しうるだけの恋愛至上の論理をもちあわせていなかった。というより、矜持と裏おもての倫理感覚は、そういう世間にどうしてもこだわらざるをえない心情に彼女を追いつめたのである。〈をさなきよりおもふこと人にことにて、いさゝかも世の中の道といふことふみ違へし〉(「しのぶぐさ」明治二十六年四月十五日)という一葉の決意は、〈われは士族の娘なり〉という昂然《こうぜん》たる自負にのみ発していた。
尾崎紅葉に『おぼろ舟』(明治二十三年)という小説がある。売春宿を舞台に、食いつめて娘を売る没落士族の悲劇が描かれているが、娘たちのひとりは〈何の商売を遊ばします〉と問われて、〈商売なぞは致しませぬ。父親は印刷局へ勤めて居ります〉と昂然とこたえる。――〈此女大方御家人杯の娘ならむ……商売なぞと賤しみ、官員といふが自慢の心中可笑かりし〉と紅葉は書いている。この皮肉な目が、牙彫《きばぼり》師を父とする町人作家のものであるとすれば、一葉は明らかに嘲笑《ちようしよう》されている側の人間であった。
『おぼろ舟』の描く没落士族の苛《か》酷《こく》な運命は、父則義が明治二十二年七月に多額の負債をのこして死んだあと、樋口家にもまともに吹きつけてきた。長男泉太郎は夭折し、陶工修業中の次男虎之助は素行上の理由で早くから分籍されていた。一葉は樋口家の相続人として、すべての責任を負うことを強いられ、とくに母と妹をかかえた経済的苦闘がながく続いた。小説の制作を思いたったのも、同門の友人田辺花圃《かほ》の書いた『籔《やぶ》の鶯《うぐいす》』の成功に刺激されて、原稿科の収入を当てにしてのことであった。入門の日に桃水が語ったという〈我は名誉の為め著作するにあらず。弟妹父母に衣食させんが故なり〉という認識はそのまま一葉のものだったはずである。文学へのたかい理念も理想もなくはじめられた創作活動が、処女作の『闇桜』以下、通俗のみをめざした戯作ふうな作品しか生みだしえなかったのは当然である。主題も、実感の添わない架空の夢物語に終始していた。
そうした低い次元からはじまった一葉の文学が、『にごりえ』や『たけくらべ』に見られるようなすぐれたリアリティを獲得するまでの過程は、しだいに倍加する家計の不如意にあえぎつづけた人生体験のさまざまと見合っている。その間、士族の矜持と、現実の零落意識との葛藤も一葉を苦しめたにちがいない。
文学についての新しい発見も用意されていた。恋愛を機とする師との訣別は、一葉にとって〈戯作との別れ〉を意味した。桃水のもとを去ってから露伴や西鶴の影響を受けたことも、また、才能の片鱗《へんりん》をはじめて示した小説『うもれ木』を通じて、平田禿木《とくぼく》や馬場孤《こ》蝶《ちよう》らの「文学界」同人と交友がひらけたことも、いずれも彼女を新しい文学の世界につれだすきっかけになった。「文学界」(明治二十六年創刊)は近代の黎明《れいめい》期に青春や愛や自由の意味を問い、わが国の初期浪漫《ろうまん》主義運動を主導したグループである。雑誌の中心にいた北村透谷は、『厭世《えんせい》詩家と女性』(明治二十五年)という直截《ちよくせつ》な恋愛至上論を書いた気鋭の評論家である。一葉がかれらに学ぶことは多かったはずで、おそらく、おろかな禁忌を破れなかった桃水との恋愛体験も、新しい意味を与えられてよみがえったにちがいない。明治二十六年七月の一葉は、文学は人間の真情を写すべきものという自覚をすでに自分のものにしていた。(「にっ記」)
しかし、それにもまして、一葉の文学が大きく飛躍する契機になったのは、貧困という名の人生の糧《かて》であった。明治二十六年の末あたりから樋口家の家計は極度に逼迫《ひつぱく》し、そのためいちどは文学の放棄を思いつめたこともある。一家は生計のつてを求めて、下谷の大音寺前、本郷の丸山福山町などの〈塵《ちり》の中〉に移り住んだが、その間、さしせまった貧困は親戚《しんせき》知人はもとより、見も知らぬ他人にまで借金を申込むという、なりふりかまわぬ場所に一葉を追いつめた。明治二十七年二月二十七日の「日記ちりの中」に、〈我はもとよりうきよに捨て物の一身〉という自嘲とも居直りともつかぬ一句を書きとめたとき、一葉はすでに〈士族の娘〉の背伸びから解き放たれていたはずである。
とりわけ痛切だったのは天啓顕真《てんけいけんしん》術の占師、久佐賀《くさか》義孝とのいきさつであろう。一葉が秋月という仮名で、義孝をはじめて訪れたのは明治二十七年の二月二十三日である。むろん一面識もなかった人物だが、一葉は例によって物質的援助を頼みこんでいる。以後さまざまの曲折を経て、七月に入ってから、久佐賀は物質的援助の代償として一葉の肉体を求めた。この要求はむろん拒否されたが、それにしても、一葉は文字どおり金のために身を売る瀬戸際にまで追いつめられたのである。大音寺前で吉原の遊女を、丸山福山町で銘酒屋の酌婦を、彼女は身近に見ていた。いま身をもって、からだ《・・・》を売って生きる女の悲しさを実感することで、一葉はようやく、陽のあたらぬ市井を生きる人間たちの心情に純粋な共感をわけもつことができたのである。こうして、〈奇蹟の一年間〉が実現し、身を売った女の悲劇を描く傑作がやつぎばやに発表されることになる。『にごりえ』のお力はいうまでもない。『たけくらベ』の美登利は遊女になる以外のどういう未来も選べない少女であり、『十三夜』のお関も、婚家の経済力で実の父母の安泰をあがなったという意味では、やはり、結婚という形の売春を強いられた女性である。『大つごもり』のお峯《みね》は――彼女は〈給金を先きに貰へばこの身は売りたるも同じ事〉と考えている。これらの作品はいずれも、一葉自身の体験に裏うちされた切実な実感に支えられ、つよいリアリティをそなえて読む者の胸をうつ。低俗な戯作仕立てのロマンチックな夢物語からはじまった一葉の文学は、ここまできたのである。
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本書の作品配列は代表作三編を冒頭においたため、かならずしも成立年代順にはなっていない。念のために、初出の年次を示すと、つぎのようなことになる。
『大つごもり』明治二十七年十二月十七、八日頃に脱稿し、「文学界」の同年十二月号に発表。
『たけくらべ』明治二十八年一月から翌年一月にかけて、「文学界」に七回分載され、その後、「文芸倶楽部」の同年四月号に一括して再録された。
『ゆく雲』「太陽」の明治二十八年五月号に発表。
『うつせみ』「読売新間」の明治二十八年八月二十七日号から三十一日号まで連載。
『にごりえ』明治二十八年八月二日に脱稿し、「文芸倶楽部」の同年九月号に発表。
『十三夜』明治二十八年九月十七日に脱稿し、「文芸倶楽部」の同年十二月臨時増刊号に発表。
『わかれ道』明治二十八年十二月二十四日前後に脱稿し、翌二十九年一月、「国民之友」の第二百七十七号に発表。
『われから』明治二十九年四月中に脱稿し、「文芸倶楽部」の同年五月号に発表。
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一葉の文学が写実性をふかめて、ひとつの転機を迎えるのは『大つごもり』からである。主題も、生活の苦闘を通じてつかんだ人生認識とかかわるきびしさを、ようやく持ちはじめている。ヒロインのお峯は貧乏な叔父一家を救うために、主家の金を盗む。彼女は封建的な主従関係の外にでる自由をもたない。その弱い人間が貧ゆえに落ちてゆく罪の世界は、うたがいもなく、一葉の生活体験の内部から拾われた主題である。お峯の悲哀と、一葉の実感との距離はきわめてせまい。しかし、お峯が主家の息子に救われるという収束は、いささか作為がめだちすぎる。石之助の行為は一時の危機を糊塗できても、お峯のおかれた状況をすこしも変えるわけではない。お峯を救ったのは幸運な偶然にすぎず、作者自身、石之助の心境にたちいることを避けて、〈後《のち》の事しりたや〉という曖昧《あいまい》な言葉で物語を閉じたゆえんである。お峯の明日《・・》をあからさまに描くことは、一葉には不可能だったのである。貧しさからの解放がないかぎり、お峯の悲劇もまた解決しない。一葉にその因果が見えていなかったはずはないが、だとしても、生活体験に支えられた彼女の発想は、悲劇を真に救済する論理や思想を内にふくんでいないし、また、外に求めることも不可能だった。一葉の文学が、体験の埒《らち》をついに超えることのできなかった限界であるが、同時におなじ理由から、彼女の文学は、封建の霧がふかい未熟な近代を生きた庶民層の暗さと、とりわけ社会の矛盾がしわよせられてゆくもっとも弱い部分、つまり女性のどうしようもない悲劇との、まさに正確な〈写し絵〉となりえたのである。救うことはできない、しかし、悲しさをわけもつことはできるという、女であることの慟哭《どうこく》をバネにして、一葉は女たちの悲劇を書く。だから、『にごりえ』がそうであり、『十三夜』がそうであったように、一葉文学のリアリティの根拠は悲劇の解決を放棄したところに成立する。
明治二十七年七月一日の「水の上日記」で、従兄(樋口幸作)の死を聞いた一葉はつぎのように書く。
〈浅ましき終を、ちかき人にみる、我身の宿《すく》世《せ》もそゝろにかなし〉
この記事から、血統についての恐れを推測する説(和田芳恵氏)もあるが、いずれにしろ、晩年の一葉がある種の宿命観にかたむきはじめていたのは確かである。『にごりえ』のお力もおなじように、〈三代伝はつての出来そこね〉とみずからいう宿命の重さをどうすることもできない。〈行かれる物ならこのままに唐天竺《からてんじく》の果までも行つてしまいたい〉という願望はあまりにも無力であった。ひそかな夢を托してみた結城も、もはや石之助の役割を演じることはなかった。お力は、源七を狂わせた罰をみずから引受けて死んでゆく。
『にごりえ』が一葉の写実的傾向の頂点を示しているのに対して、『十三夜』は『たけくらべ』とともに抒情《じよじよう》性の濃い作品である。しかし、抒情のヴェールをまとったお関の悲劇は、そこに描かれた夫婦関係ひとつをとってみても、明治社会の現実とふかくかかわっている。お関はいちどは夫とのきずなを絶つことを決意し、いわば運命からの脱出を試みる。しかし、彼女もやはり貧しさの壁はどうすることもできない。零落した恋人と別れて〈鬼の良人《おつと》のもと〉ヘ帰るお関のうしろ姿には、〈我身の宿世〉を実感した一葉の心情が暗い影を落していよう。
『にごりえ』や『十三夜』が現実の矛盾を矛盾としてうけとめる心情から生れて、そのゆえに救済のない悲劇を主題としていたとすれば、『たけくらべ』は現実の矛盾にせきとめられた一葉の思いが、子供の世界にたちかえって、失われた時代をなつかしむ郷愁とともに成立した。美登利や信如に、あるいは彼らを中心とする子どもたちの世界に、一葉は大人の喪失した人間性の故郷を見ている。下谷大音寺前のローカル・カラーをみごとに描き切って、しかも環境の特殊性を越えた普遍的な主題を具現しえたゆえんである。鴎外が批評したように、確かに、詩情ゆたかな作品である。しかし、『たけくらベ』に少年の詩だけを読むのは、すこし片手落ちである。一葉が『にごりえ』の作家であることを見すごしてはならない。彼女は、たとえば美登利の未来にお力の悲劇を見ていたはずだ。だけでなく、信如にしても長吉にしても、ここに描かれている子どもたちのすべてが土地と家に縛られて、未来の生を決定されている。一葉は、これもまた明治の風俗であった立身出世の衝動にうながされて、自由な未来を夢みる子どもをひとりも描いていない。信如が父のあとを継ぐべく、〈我が宗の修業の庭に立出《たちいづ》る〉消息を描いて、小説を収束させた一葉の筆はこころにくいまで巧妙である。〈信如が何がしの学林に袖の色かへぬべき当日〉に、なにかが確実に終った。
『たけくらべ』の描く子どもの四季は、目に見えぬ周辺に、大人の世界を影のように透視させていた。『たけくらべ』の詩は滅びることを前提にしている。作家自身によって死を予見されていたのである。だから、ひそやかな感傷と哀愁が、この小説の主調低音となった。そこに響くのは、大人になってはいけないという、一葉の肉声である。
(昭和五十三年五月)
一 焼棒杭と何とやら
焼棒杭に火がつく。
一度焼けた杭には火がつきやすいところから、以前に恋愛関係のあった男女は、縁が切れても、何かのきっかけでもとの関係に戻りやすいことの喩《たと》え。
二 新わら 新しい稲に熱湯をかけ、かわかして髪飾りにしたもの。花柳界や下町好みの風俗であった。
三 盛り塩 花柳界など客商売の家で、縁起を祝うために門口に塩を盛ること。
四 三下り半 離縁状。むかし、夫から妻に出す離縁状は三行半に書いたことからいう。
五 大平 大平椀《わん》のこと。平たくて大きな椀。その蓋で酒を飲む。
六 ぬけてはいけぬ ちゃかしてはいけないの意。
七 天下を望む大伴の黒主 大伴黒主は平安初期の歌人で六歌仙のひとり。「天下を望む云々」は、鳥羽屋里長作曲の常磐津《ときわず》『積恋雪《つもるこいゆき》関扉《のせきのと》』で、逢坂山《おうさかやま》の関守の関兵衛、実は大伴黒主の名乗りの台詞《せりふ》。墨染桜を伐《き》って天下を調伏しようとくわだてる。
八 茶利 本来は浄瑠《じようる》璃《り》で、滑稽な文句のある部分。転じて、冗談などの意に用いる。
九 三尺帯 職人・子供などによく用いられた兵児《へこ》帯。ここでは三尺帯をしめるような男の意味。
一〇 起証 起請文。遊女が客ととりかわす誓紙で、変らぬ愛や夫婦約束などを誓ったもの。
一一 高尾 江戸吉原の名《めい》妓《ぎ》。十一代あり、いずれも娼家《しようか》三浦屋の抱《かか》えであった。いずれも大名、富豪などの相手をつとめ、かずかずのエピソードを残しているが、ここでは自分をその高尾に見立てた洒落《しやれ》。
一二 九十九夜の辛棒 深草少将が小野小町に恋慕し、百夜通いをはじめたが、九十九夜まで通って、ついに思いをとげえず、怨《うら》みを残して死んだという伝説があり、謡曲『通小《かよいこ》町《まち》』などに脚色されている。
一三 潜然《さめざめ》とする さめざめと涙を流すさま。〈潸然とする〉の誤記または誤植か。
一四 袖ふり合ふも 袖ふり合うも他生《たしよう》の縁。見知らぬ人と道で袖がふれあうのも宿世の因縁によるという意味。ここでは、こうして知りあったのも何かの縁だから、の意。
一五 五音 五十音の各行の五つの音の称から、転じて言葉の調子をいう。
一六 九尺二間 間口一間半、奥行き二間ぐらいの狭い貧乏家。
一七 蝉表 籐《とう》で編んだ駒下駄の表。手編みで作る。
一八 盆筵 ばくち場でつぼを伏せるござ。〈盆筵の端につく〉は賭場《とば》に足を踏み入れて、ばくちをやること。
一九 もつそう飯 物相飯。刑務所で囚人に食べさせる飯。
二〇 蛇くふ雉子 美しい姿をしている雉子が、恐ろしい蛇を食う。表面の美しさからは予想出来ない裏面があるの意。
二一 紀伊の国 端《は》唄《うた》・歌沢。船王十二社からはじまって、浅草付近の稲荷《いなり》をよみこんである。
二二 霞の衣衣紋坂 大田蜀山人《しよくさんじん》作詞の清元、『北州千歳寿《ほくしゆうせんねんのことぶき》』に〈新玉の霞の衣えもん坂、衣《え》紋《もん》つくろう初買の袂《たもと》ゆたかに大門の〉という一節がある。北州とは吉原のことで、そこの四季の風物を叙したもの。衣紋坂は、新吉原の日本堤から大門《おおもん》までの間にあった坂。
二三 業体 稼業《かぎよう》。
二四 不心中 薄情なこと。不誠実なこと。
二五 版をばお上から… 版は版木のこと。木版印刷を行うために文字や図様を彫刻した板で、出版を禁止されたの意。
二六 人愛 人に好まれる愛矯《あいきよう》。
二七 とツこに取つて 言《げん》質《ち》にとる。真言宗の修行に使うとっこ(独鈷、銅又は鉄製)は尖《とが》った両瑞が分れていないので、動かすことの出来ない言葉の証拠の比喩《ひゆ》に用いられた。
二八 魂祭り 祖先以来の死者の霊を祭ること。もと十二月晦日《みそか》に行われたが、のち七月十五日(中元)に行われるようになった。盂《う》蘭《ら》盆《ぼん》、精霊会《しようりようえ》ともいう。
二九 さし担ぎ 前後二人で荷物をかついで行くこと。ここでは棺《かん》桶《おけ》を二人だけで運んでゆく貧しく淋しい葬《とむら》いをいう。
三〇 奏任 旧制の官吏で、高等官のうち、天皇が任命する勅任に次ぐもので、内閣総理大臣が奏聞して任命するもの。三等以下の高等官がこれにあたる。
三一 宵まどひ 宵の口からねむがること。
三二 片月見 八月の十五夜、九月の十三夜の二度の月見のうち、片方だけ人を招いたり、御馳走を届けたりすること。当時はそれを嫌う風習があった。
三三 手車 自家用の人力車。
三四 墨絵の竹も紫竹の色にや出る 襦袢《じゆばん》の袖に描かれた墨絵の竹の模様も、涙で紫色に変るだろうかの意。紫竹は淡《は》竹《ちく》の一種で、二年目から黒紫色になる。
三五 人橋かけて 急用の時などに、引きつづき何回も使いを出すこと。また仲人をたてて結婚を申入れることをもいう。
三六 百まんだら 百万べん。真言陀羅尼《だらに》(密教の梵文《ぼんぶん》の経文)を百万回読誦《どくじゆ》する仏事の百万陀羅尼の略。転じておなじことを何度も繰返すことをいう。
三七 勧工場 明治大正時代に、多くの商店が組合を作り、いまの百貨店ふうな形態で、ひとつの建物のなかで、さまざまな品物を陳列して販売した店《てん》鋪《ぽ》。
三八 小菊の紙 ふところ紙にする小型の和紙。
三九 お辞儀申す 頭を下げておことわりする。
四〇 大門の見返り柳 大門は吉原遊廓《ゆうかく》の正門で、古くは木造の屋根つきの黒塗門だったが、当時はアーチ型の鉄製門に変っていた。その外に柳があり、ちょうど吉原に遊んで帰る客がなごりを惜しんで振りかえるあたりなので、洒落《しやれ》て〈見返り柳〉と呼ばれるようになった。
四一 お歯ぐろ溝 名前の由来は、遊女が化粧する際お歯黒を流したためとも、また、溝の水が、お歯黒のように黒く濁っていたからともいう。
四二 霜月酉の日 霜月(十一月)の酉の日は、順次に一の酉、二の酉、三の酉と称し、関東各地にある鷲《おおとり》神社の祭日で「酉の市」がひらかれる。もとは武運を守護する神として信仰され、武士の参詣《さんけい》が多かったが、のちには開運の神として、とくに客商売の人の信仰をあつめた。
龍泉寺町にある鷲神社の酉の日は有名で、酉の市のにぎわいが吉原遊廓の大繁盛をもたらしたといわれる。
四三 小格子の何とやら 小格子は妓《ぎ》楼《ろう》(遊女屋)の格式のひとつで、比較的小さい店をいう。吉原の妓楼の格式には、明和期以降、上位から「大籬《おおまがき》(惣籬《そうまがき》)」「半籬」「大町小見世(町並)」「小格子」「切見世」の五階級があり、遊女の格や客種もおのずから区別された。ここでは、小さな遊女屋に勤めて、何とやらいう仕事をしているの意。
四四 大籬の下新造 大籬は、吉原の妓楼で最も格式の高い店のこと。新造は吉原ではお職女郎につきしたがって働く遊女をいい、振《ふり》袖《そで》新造(下新造)・留《とめ》袖《そで》新造・番頭新造などの別があった。
四五 七軒 大門から江戸町一丁目にかけて七軒あった引手茶屋で、吉原の引手茶屋の中では一番格式が高かった。
四六 客廻し 茶屋から大店へ客を案内したり、迎えに行ったりする女中のこと。
四七 巻帯 帯を結ばずに腰に巻きつけること。
四八 源氏名 おいらんがつけている名前。高尾、薄雪など、源氏物語五十四帖《じよう》にちなんだ優美な名をつけていることからいう。
四九 仁和賀 俄《にわか》。茶番狂言のことで、上方《かみがた》で特に廓《くるわ》を中心に発達した。江戸では、享保《きようほう》年間、吉原の九郎助稲《いな》荷《り》の祭礼にうつされ、その後吉原俄として、毎年陰暦八、九月に、晴天三十日間行われた。ねりものを出し、芸妓が踊りを、幇間《ほうかん》が茶番を演じた。
五〇 孟子の母 孟子は中国の聖人で、その母がわが子の教育に適した環境を選んで、三度も転居したという故事がある。その孟母三遷《せん》の教えにひっかけた洒落《しやれ》。
五一 そそり節 遊廓などのひやかし客がうたう歌。
五二 木やり音頭 本来は重い材木などを運ぶ時、大勢で声を合せ音頭をとって歌ったもの。ここでは、この風俗を模して祭礼の時、手古《てこ》舞《まい》姿の芸妓がうたう歌。
五三 刎橋の番屋 刎橋は、お歯ぐろ溝《どぶ》にかけてある板橋。遊女の逃亡を防ぐため平常ははね上げてあって、廓の内の者が用事のある時だけ、それを下して渡って行く。これは外から内へ渡すことは出来ない。この橋の側に番人のいる小屋があった。
五四 三百といふ代言 三百代言。代言は代言人の略で、弁護士の旧称。三百は三百文の意で、資格もないくせにわずかな金額で、他人の訴訟《そしよう》や談判などを引受ける、もぐりの代言人を卑しめて呼ぶ言葉。
五五 馬 つけ馬のこと。遊興費の不足した客に付いて自宅などに行き、残額を取りたてる。
五六 金棒 六尺ほどの鉄棒で、五、六個の鉄輪が頭についている。吉原俄では、鳶《とび》の者が片手に提灯《ちようちん》、片手に鉄棒をもって、行列の先頭にたち、警固の役をつとめる。これを〈金棒曳き〉といい重要な威勢のよい役目である。
五七 末社 本社に付属した小社。転じて、大尽(大神)を取巻く意味から、遊里で客の取持ちをする者などをいう。ここでは取巻きの意。
五八 万燈 四角形の木の枠《わく》に紙を張り、長い柄をつけた行灯《あんどん》。祭の時、これを持って練り歩き振りまわして喧《けん》嘩《か》などをした。
五九 かわ色金巾 かわ色は緑を帯びた紺色。革を染めるのに多くこの色を用いたからいう。金巾は堅くよった綿糸で、目をかたく細かく薄地に織った広幅の綿布。
六〇 昼夜帯 本来は黒繻《じゆ》子《す》に白裏をつけた女帯をいった。転じて、表と裏とに違う布を使って仕立てた帯をいう。
六一 遣手 遣手婆。遊廓で、遊女の取締りや客の世話など、万事をきりまわす老女で、例外はあるが、貪欲《どんよく》な女が多かった。
六二 五十軒 衣紋坂から大門までを五十間道といい、その道筋にある引手茶屋をさす。
六三 検査場 遊廓の北、水道尻《じり》にあった娼《しよう》妓《ぎ》の健康診断所。その前の空地を検査場と土地の人が呼んだ。
六四 忍ぶ恋路 端《は》唄《うた》・歌沢。歌詞には異本もあるが、〈忍ぶ恋路はさてはかなさよ、今度逢うのが命がけ よごす涙のおしろいもその顔かくす無理な酒〉というのが普通。
六五 待つ身につらき夜半の置炬燵 端唄『わがもの』の一節。雪の夜に女のもとに通う辛《つら》さをうたったもの。
六六 十六武蔵 もとばくちに使われ、のちに家庭遊戯となった。親石一つ、子石十六を使ってする一種のはさみ将棋。
六七 太郎様 太郎稲《いな》荷《り》神社。下谷の光月町にあり、近傍の人々の信仰を集めていた。
六八 午の日 稲荷神社の縁日にあたる。
六九 にゑ肝 陰性のかんしゃく持ち。
七〇 大黒さま 大黒は僧侶の妻をさしていう陰語。
七一 根曳 遊女や芸妓などを身代金を出して落籍し、自由の身にさせること。みうけ。
七二 楊家の娘 楊《よう》貴《き》妃《ひ》のこと。美《び》貌《ぼう》で、歌舞音曲にもすぐれ、唐の玄宗皇帝の妃として寵《ちよう》をもっぱらにした。安禄山が謀《む》叛《ほん》したとき、兵に殺された。『長恨歌』は中国唐代の詩人白楽天の叙事詩で、楊貴妃をうしなった玄宗の恨《うら》みと悲しみを叙した傑作。全編七言、一二〇句からなる。
七三 巻帯党 巻帯でつきあうような町内の仲間の意。
七四 塵塚さがす黒斑の尾 ごみ溜《ため》をあさっている黒斑の犬の尻尾《しつぽ》。あっても物の役にたたないものの比喩。
七五 七五三の着物 後ろ幅《はば》七寸、前幅七寸、衽《おくみ》三寸仕立の着物。男物としては普通の寸法より身幅が狭い。
七六 地廻り 土地に顔を売ったやくざ。
七七 お職を徹す お職女郎の位置を張り通す。お職女郎は、もとはその妓楼の最高位の遊女の称だったが、のちには稼《かせ》ぎ高によって、毎月変るようになった。
七八 鼠なき 口をすぼめて鼠《ねずみ》の啼《な》き声に似た声を出すこと。鼠が物を引く縁起をかついで、客を待つ遊女が行う。
七九 積み夜具 江戸時代から、遊廓では節句、祭日などをふくむ定められた日を物《もの》日《び》と称し、当日は遊女が馴《な》染《じみ》客から贈られた夜具を店先へ飾る慣わしだった。
八〇 茶屋への行わたり 茶屋への付け届けを手落ちなく行きわたらせること。
八一 明烏 新内(浄瑠璃の一種)の『明烏《あけがらす》夢泡雪《ゆめのあわゆき》』の略称。鶴《つる》賀《が》若狭掾《わかさのじよう》の作曲。
八二 卵塔場 墓場。卵塔は、四角または八角の台座に築いた卵型の塔。
八三 左り褄 芸者。左手で左の褄をとって歩くからそう呼ばれた。
八四 あらい処 大身のところの意で、鰻《うなぎ》の大串のこと。
八五 世はぬば玉の闇の儲 世の中はたとえていえば闇のようなもので、その闇にまぎれたいんちき商売のぼろ儲《もう》け。ぬば玉は闇の枕《まくら》詞《ことば》。
八六 台屋 きのじやともいい、享保《きようほう》の末頃から吉原に現われた商人で、遊女屋で客に出す料理、つまり台のものをとりそろえる仕出し料理屋。
八七 玉菊が燈籠 六月晦日《みそか》の夜から仲の町にかけつらねる燈籠。享保年間に、吉原中万字屋抱《かか》えの名妓玉菊の新盆《あらぼん》に吊《つる》したのが最初で、以来、夏の吉原情緒として欠かせぬものになった。春の桜、夏の燈籠、秋の俄《にわか》(前出)を吉原の三大行事という。
八八 二の替り 俄は陰暦八月から九月にかけて、晴天三十日間行われ、前後の十五日ごとに演出を変えた。その後半の十五日をいう。
八九 顔の真中へ指をさして 鼻を指さして。鼻を花(花札)にかけて、花札賭《と》博《ばく》の意を寓したもの。
九〇 今様の按察の後室 現代風な按察大納言の未亡人の意。『源氏物語若紫巻』に、北山に赴《おもむ》いた光源氏が山中の散策の途中、とある小《こ》柴垣《しばがき》の庵《いおり》をのぞいて、尼君(按察大納言の未亡人で、紫の上の祖母にあたる)が仏前で供養しているのを見ていると、藤壷《ふじつぼ》におもざしの似た少女(紫の上)が現われるという場面がある。この前後はその場面をふまえた表現で、美登利を紫の上に見立てている。なお、按察は国司の治めぶりなどを巡察する官名。
九一 冠つ切りの若紫 おかっぱの若紫の意。若紫は紫の上の幼名。
九二 記事文 当時、小学校の作文教育には手紙文と叙事・抒情文《じよじようぶん》があり、後者の総称。
九三 黒八 黒八丈の略。黒色で無地の厚い織物で、八丈島が原産地なのでこう呼ばれる。
九四 猪牙がかつた言葉 猪牙船は隅田川から山谷堀へと遊客を運ぶ小舟で、その船頭は威勢のよい掛け声をかけながら船を漕《こ》ぐ。その掛け声のように威勢のよい言葉の意。
九五 大頭の店 酉の市では、ふかしたいもがしらを笹《ささ》に数個通して輪にしたものを売った。人の頭《かしら》になるという縁起をかついだ商品。
九六 潮吹き 潮吹き面の略。ひょっとこ。
九七 際物屋 入用の季節の間際に売り出す品物(たとえば盆の提灯、酉の市の熊手)とか、その時だけの流行品を売る商売。
九八 番頭新造 番新ともいう。多くは廓慣れした年《とし》増《ま》が多く、最高級の遊女や部屋持の遊女について、客や茶屋、遊女屋との間のいっさいのことをとりしきった。
九九 さし込 簪《かんざし》の一種で花模様などの飾り物を足から差込むようにしたもの。
一〇〇 割木ほどの事も大台にして 割木はたきぎ。些《さ》細《さい》なことでも大げさにいいたてての意。
一〇一 ほまち 臨時の収入。
一〇二 輪宝 竹の皮をないあわせて作った鼻緒。
一〇三 出そろひし 当時は市川団十郎(九世)と尾上菊五郎(五世)の人気絶頂期で、両者の意地の張りあいから、上演予定の狂言がすべて出そろうのは初日からかなりおくれるのが常であった。
一〇四 世をうぐひすの貧乏町 〈初音〉の縁語〈うぐひす〉のう《・》に〈憂し〉の憂《・》をかけた技巧。憂鬱な生活を強いられる貧乏人の町の意。
一〇五 棹なき舟に乗合の胡瓜 当時、初物のきゅうりは小さな舟の形の器に入れて売る風習があった。
一〇六 五厘学校 貧困者の子弟を対象にして教えた小学校の俗称。授業料がひと月五厘(一銭の半分)であった。
一〇七 商ひは更なる事 商売(ができない)のはもとよりのこと。
一〇八 寸白 下腹部にはげしい痛みのともなう婦人病の一種。
一〇九 帰りてからが女の働き 帰ってきたとしても、どうせ女のことだから大した稼《かせ》ぎができるはずもない、の意。
一一〇 三月しばり 三カ月間の期限。
一一一 あがり物 貸長屋からの家賃だけで。
一一二 をどり 期限に払えない借金を、借用証書を書きかえて期限を延ばしてもらうとき、利息を二重に支払うこと。
一一三 品川 ここでは品川の遊廓をさす。
一一四 敵薬 食いあわせて毒になるもの。いまの御新造の心境に、金のことをいいだすのは大禁物の意。
一一五 蝋燭代 当時の東京の夜は暗くて、歩くのに提灯《ちようちん》が必要だったところから、夜道の使いなどによる心付けをこう呼んだ。
一一六 子は三界の首械〈三界〉は過去、現在、未来のこと。親にとって、子どもは逃れることのできない苦労の種であるという喩《たと》え。
一一七 知らぬと言ひても(親が子どもの不行跡を)自分の知ったことではないと言ってもの意。
一一八 人の受けに立ちて 人の借金の保証人になって。
一一九 花見のむしろ ここでは花札賭博をやる場所のこと。
一二〇 屠処の羊 屠《と》殺場《さつじよう》に引かれてゆく羊。あたかも死を目前にしたような、大きな不幸に直面して気力を失った人間の喩え。
一二一 酒折の宮 山梨県(甲府)の旧蹟。日本武尊《やまとたけるのみこと》 が 蝦夷《えぞ》東征の帰路に宿泊した行宮《こうきゆう》跡で、尊を祭神とする酒折神社がある。
一二二 山梨の岡 東山梨郡岡部郡鎮《しず》目《め》にある丘で、山梨神社がある。
一二三 塩山 ここでは塩山市の上《かみ》於曽《おぞ》にある小さな丘。〈しおのやま〉とも呼ぶ。笛吹川の西岸にあるさし手の磯とならぶ名勝の地として知られる。
一二四 腕車 人力車のこと。
一二五 恵林寺 夢想国師を開山とする臨済宗の名刹《めいさつ》。東山梨郡松里村にあったが、天正十年、織田氏の焼討によって炎上した。
一二六 八王子 当時、鉄道が八王子まで開通していた。したがって甲府へは馬車や人力車などを乗り継いだ。
一二七 雲井の鳥の羽がひ 空を飛びゆく鳥のつばさのように、の意。
一二八 松のひで 松の根を干したもの。よく燃えるので、ともしびや付け木などに用いた。
一二九 水子 生れて間もない赤ん坊。
一三〇 三十円 当時の三十円は、ほぼ現在の十八万〜二十万円にあたる。
一三一 少し世間並除け物の緩い子 世間並みとはすこし言いかねるほど、頭の働きのにぶい子どもの意。
一三二 すね者の部類にまぎれて すね者だと思われての意。
一三三 目を明きて ここでは、物ごとの裏や表をはっきり見きわめての意。
一三四 一枚あがりて 格がひとつ上になって。より以上にの意。
一三五 おぬひさむ 〈おぬひさん〉におなじ。当時は〈ん〉をしばしば〈む〉と表記した。
一三六 兀々として じっと動かずにいて。
一三七 やかましき財産 わずらわしい財産。
一三八 箒に塩花が落ち いやな客や長っ尻《ちり》の客を帰すまじないに、箒を逆さにたてて手拭をかければいいというのがある。〈結局は、その逆さ箒のまじないで追いかえされて、あとで清めの塩をまかれるのが落ち〉の意。
一三九 腰ごろもの観音さま 腰だけに衣をまとった裸身の観世音菩《ぼ》薩《さつ》像。
一四〇 濡れ仏 堂の外の境内に安置した仏像。
一四一 子守りが鉢巻 子守りは、髪の毛が背中の赤ん坊の目や口に入るのを防ぐため、頭に手拭の鉢巻をしていた。
一四二 大勝利の袋もの 日清戦争の勝利を祝って売り出された一種の福袋。密閉した袋をおなじ値段で売り、中身は買ってからのお楽しみという趣向である。
一四三 ぱちん ぱち《・・》ん《・》と音をたてて留める帯留めの金具。
一四四 男の通りにて 男が書くとおりの文面(文体)で、の意。
一四五 すて筆 捨て筆。字を書くとき、正しい字体に点や線などを添える余計なひと筆。
一四六 光る君 光源氏。美男のこと。
一四七 通運便 運送屋に頼んで荷物を送ること。
一四八 本地 ほんらいは仏教語で、仏や菩薩が衆生を救うために、この世に現われた仮の姿に対して、その真実の姿である仏・菩薩の本体をいう。ここでは、ほんとうの生きかたといったほどの意。
一四九 春の夜の夢のうき橋、と絶えする横ぐもの空 藤原定家の〈春の夜の夢の浮橋とだえして嶺に別るる横雲の空〉(『新古今集』所収)を踏まえた表現。
一五〇 道より 途中で他へ寄るところ。
一五一 巴峡のさけび 猿のさけび声のこと。『和漢朗詠集』巻下所収の漢詩「猿」の〈巴峡秋深シ、五夜ノ哀猿月ニ叫ブ〉に拠《よ》っている。巴峡は中国の四《し》川《せん》東部、揚《よう》子《す》江《こう》岸にある三峡のひとつ。
一五二 波こえよとて末の松山ちぎれるもなく 清原元輔の〈ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山浪越さじとは〉(『後《ご》拾遺《しゆうい》集』十四)を踏まえて、契った女もいないという意を技巧的に表現している。
一五三 高砂をうたひ納むれば 結婚式が終ると。「高砂」は結婚の披露宴などでうたわれる謡曲。
一五四 はきたて 養蚕で、孵化《ふか》した毛蚕《けご》を蚕卵紙から他の紙や蚕座に移すこと。
一五五 下町の相場 日本橋・京橋・神田など、商業地として繁昌していた下町では、家賃の相場なども山の手に比べて高かった。
一五六 紡績織 紡績糸(紡績機械で撚《よ》った綿糸)で織った織物。高級品ではない。
一五七 対するほどの年輩 一対とするにふさわしい年配。
一五八 実法に すなおに。
一五九 姉様 姉様人形。女の子の玩具《おもちや》で、千代紙と縮緬《ちりめん》紙で作った花嫁姿の雛《ひな》人形。
一六〇 井戸には蓋を置き 投身自殺をふせぐための処置である。
一六一 名前の恥かしければ 名前が傷つくのを恥じての意。
一六二 一はな懸け まっさきに。
一六三 駟馬も及ばず 〈駟馬も舌に及ばず〉におなじ。〈駟馬〉は車を引く四頭だての馬、またはその車をいう。いちど口にしたことはあとから取り返しがつかないことの喩え。出典は『説苑《ぜいえん》』談叢《だんそう》篇。
一六四 郡内 郡内織の略。山梨県の東部地方で産出する絹の縞織物で、夜具などに多く用いられる。
一六五 書生羽織 明治十四年ごろから学生に愛用された羽織で、普通のものより丈が長い。
一六六 丈長 ここでは丈長奉書(紙質が厚く、糊《のり》けのない奉書紙)で作った元結い。
一六七 おつと来い あわて者。おっちょこちょい。
一六八 空蝉はからを見つつもなぐさめつ 僧《そう》都《ず》 勝延《しようえん》の〈空蝉はからを見つつもなぐさめつ深草の山けぶりだに立て〉を踏まえた表現。
一六九 紅葉舘 芝公園(いまの港区)にあった割烹《かつぽう》店。宴会や集会の客が多く、明治十四年の新築当初から貴顕紳士の集う店として知られた。のちにはやや平民化し、尾崎紅葉など文人の出入りすることもあった。
一七〇 縫とりべりの手巾 ふちを飾り糸で縫いとったハンケチ。女ものである。
一七一 い《・》とゑ《・》を違へぬ世は来るとも 〈い《・》とゑ《・》を違へぬ〉とは、方言のおかしな発音が改まるという意味で、そんなふうな、とうてい不可能なことが起っても、の意。
一七二 芳原の式部 〈芳原〉は吉原遊廓のこと。〈式部〉は遊女の源氏名であろう。あるいは、紫式部にかけて、才たけた美しい遊女の仇《あだ》名《な》か。
一七三 朱羅宇の烟管 竹のくだの部分を赤く塗った長ぎせる。遊女などの好んで用いた煙管である。
一七四 蘭奢にむせぶ 香料の強いかおりがむせぶほどたちこめている、の意。日本古代に、中国から渡来した名香のひとつに蘭奢待《らんじやたい》がある。
一七五 用心口 地震や火事などの緊急事に、避難のためにそなえた雨戸の非常口。
一七六 晋唐小楷 細字を楷書《かいしよ》で書くための筆。芯《しん》に狸《たぬき》の毛を用いる。
一七七 午房縞 正しくは〈午蒡縞〉。ふとい縞模様のこと。
一七八 中皿へ桃を盛つた姿 恐縮して背をまるめたさまの比喩。
一七九 特別認可の卒業 当時は成績が優秀で、所定の試験に合格すれば、規定の年数より早く卒業することを認める制度があった。
一八〇 さなご 核子。米の粉をふるいにかけて、あとに残ったかすのこと。肌を色白にする効果があると信じられていた。
一八一 後言 かげ口。
一八二 須弥も出たつ……少しいはばや 須弥は須弥山の略。仏教の世界観で、世界の中心にそびえるという高山で、金・銀などの財宝から成り、帝釈天《たいしやくてん》の住む華麗な宮殿がある。その須弥山にもたぐえられるほどの財宝につつまれて住む与四郎が、そもそもここにいたるまでの最初の頃のことをすこし言ってみようか、の意。
一八三 役処がへりの竹の皮 役所からの帰り道に、竹の皮に包んだ惣菜《そうざい》を買って帰ること。
一八四 したたれるほど湿つぽき姿 女にでれでれとあまい男の形容。
一八五 端折かがみ 端折鏡。懐中鏡の一種で、端を折りたたみ、布の袋に収めてもちはこぶ。
一八六 馬爪 馬のつめ。べっ甲(本べっ甲)の代用品に用いられる。
一八七 島原 京都下京区の地名で、遊廓の所在地として知られる。
一八八 等外 等外官。准判任など、官吏の最下等だった判任官にも及ばぬ下級官吏の卑称。
一八九 花の木の間の松の色 はなやかな花のあいだにたちまじる松の緑のように、落ち着いて渋い着物の色、の意。
一九〇 言ひじらけ 言い争ったあとのしらけた気分。
一九一 根すり言 あてつけ。いやみ。
一九二 そはそは《・・・・》に成りて 落ち着きがなくなって。
一九三 口入れ 奉公人などの世話をすること。
一九四 天の原ふみとどろかし鳴神か 『古今集』巻十四の読み人しらず〈天の原ふみとどろかしなる神も思ふ中をばさくるものかは〉を踏まえ、おなじように自分たちのなかを引き裂くことができるものか、という意をこめる。
一九五 枕直し 産婦の床上げを祝う行事。ふつう産後二十一日目に行う。
一九六 はした無き朝夕 不安定なその日暮しの意。
一九七 手綱染 馬の手綱のような、だんだら染めのこと。
一九八 清水堂のお木偶さま 清水堂は上野公園にある清水の観音堂のこと。ここの子育て守り人形(土製)は、子宝に恵まれるお守りとしても信仰された。
一九九 落人の梅川 近松門左衛門作の浄瑠璃『冥《めい》途《ど》の飛脚』の「新口村」の段のこと。封印切りの大罪を犯した忠兵衛が、遊女梅川と故郷の新口村へ落ちてゆく場面で、実父の孫右衛門とひそかに対面する見せ場がある。
二〇〇 二階の手摺りに洋服のお軽女郎 酒に酔った洋服姿の女性が二階のてすりにもたれているのを、『仮名手本忠臣蔵』の七段目、一力茶屋の場に見立てた洒落《しやれ》。遊女のお軽が二階から、由良之助の読む御台の文を盗み見る有名な場面がある。
二〇一 喜連格子 狐格子のこと。碁盤の目のように細かく組んだ格子。
二〇二 似合頃の身の上 似たような年頃のせいか。
二〇三 雲にかけ橋 所詮かなうはずのない望みの喩え。〈霞《かすみ》に千鳥〉もおなじく、有りえないことの喩え。
二〇四 瓶のぞき 瓶をのぞいただけで引きあげた染物の意。藍《あい》がめに漬けてすぐ取りだす染めかたで、ごく薄い浅黄無地に染まる。
二〇五 鉄砲まき 海《の》苔《り》巻ずしの別名。
二〇六 旦的 旦那のことを下卑て呼ぶことば。おなじく〈奥洲〉は奥様を呼ぶ卑称語。
二〇七 車宿 人力車を置いて営業する店。二階は車夫が住んでいた。
二〇八 家の根つぎ 相続人。
二〇九 為では有られぬやうな事あるべし そうしないではいられなくなるはずだ、の意。
二一〇 播磨 当時、義太夫語りとしてもっとも人気のあったひとり、竹本播磨太夫のこと。
二一一 花は疾くに散つて紫蘇葉につつまれようと言ふ物 女ざかりはとうの昔に過ぎ、いまはしその葉に包まれて梅干にでもなろうかといったような代物という意味。小梅という名前にかけた洒落である。
二一二 あとなき風も騒ぐ世に忍ぶが原の虫の声 根も葉もないことも、とやかく噂好きな世の中ではひそひそ話の種になって、の意。
二一三 笑みかたまけて その方にばかり笑い顔をふりまいて。
二一四 汨羅の屈原 屈原は楚《そ》の忠臣。懐王・頃襄王《けいじようおう》に仕えたが、讒言《ざんげん》のために無実の罪を得て、江南に流された。しかし、楚国への忠誠心をうしなわず、衰退してゆく祖国の前途を憂えて、汨羅(湖南省北部の川)に投身自殺した。〈恨みは何とかこつべき〉は千葉もおなじく濡れ衣をきせられたが、屈原とはちがうのだから、いったいどんなふうに嘆きうらむのであろうか、の意。
二一五 台なしな半天 ひどくいたんで汚れた半纏《はんてん》。
二一六 御初穂 最初の収穫を神仏に供える、その稲の穂。ここでは仕立ておろしの着物のこと。
二一七 糸織 絹のより糸で織った織物。中流以上の人々が着た高級品である。
二一八 三尺 職人帯。長さが三尺(鯨尺)であった。
二一九 番ごと 機会のあるたびに。
二二〇 笹づる錦 つる模様の笹を織り出した錦地。
二二一 貸赤子 乞《こ》食《じき》などに損料をとって貸した赤ん坊。ひとの憐《あわ》れみをかうために借りるわけだが、当時の貧民街にはこういう商売があった。
二二二 親の日 両親の命日。
二二三 廻りの廻りの小仏 子どもの遊戯でうたわれる歌。〈かごめかごめ〉に似た遊びで、手をつないで輪になり、鬼のまわりを〈まわりのまわりの小仏、なぜ背が低いな、親の日に赤の飯《まま》食って魚《とと》食って、それで背が低いな……〉とうたいながら廻り、うたの切れ目ごとに鬼が交代する。
二二四 光沢出しの小槌 洗い張りする布地を砧《きぬた》の上にのせ、柔らかくしたり光沢を出したりするために叩く小槌。
二二五 帯屋の大将のあちらこちら 帯屋長右衛門とはあべこべの意。長右衛門は菅専助《すがせんすけ》作の浄瑠《じようる》璃《り》『桂川連理《れんりの》柵《しがらみ》』の主人公。四十代の分別盛りで、十四歳のお半と結ばれる。お京と吉三の場合は、逆にお京が年長であることをからかったもの。
二二六 桂川の幕 『桂川連理柵』の桂川道行の場。お半との関係に悩み、また周囲の人間の奸計《かんけい》に追いつめられた長右衛門はお半との心中を決意し、お半を背に負って桂川に身を投げる。つぎの〈お半の背中に長右衛門〉は、その道行の場の〈これは桂の川水に、うき名を流す二人づれ、お半をせなに長右衛門、あふせそぐはぬあだ夢を…〉という浄瑠璃の文句をもじったもの。
二二七 小指のまむし 第二関節を伸ばしたままで、第一関節が曲がる指を俗に〈まむし指〉と呼び、器用な人間に多いといわれる。
二二八 風通 風通お召。表と裏とがまったく反対な模様になるように織った高級品。
二二九 三つ輪 三つ輪髷《まげ》。中央の小さな丸髷の両翼に大きな輪を張りだすように結った髪型。芸事の師匠や妾《めかけ》などが好んで結った。
二三〇 腐れ縮緬着物 芸者に出たり、妾になったりするような、身を落しても贅沢《ぜいたく》な暮しを望むこと。
二三一 人をつけ 江戸語。ばかにするな、勝手にしろ、などの意。
年譜
明治五年(一八七二) 三月二十五日(新暦では五月二日)、東京府第二大区一小区内幸町一丁目一番屋敷の東京府構内長屋の官舎に父樋口則義、母たきの次女として生まれた。戸籍面なつ。父則義は山梨県の農民で安政四年(一八五七)に同じ村のたきといっしょに出府、八丁堀同心の株を買って直参になったが、当時、東京府少属。姉ふじ、長兄泉太郎、次兄虎之助がおり、後に妹くにが生まれた。
明治十年(一八七七) 五歳 三月、本郷学校に入学したが、幼少通学にたえないために月末退学。
明治十一年(一八七八) 六歳 一月、本郷四丁目にあった私立吉川学校に入学。小学読本、四書の素読をうけるかたわら、草双紙を読み耽る。
明治十四年(一八八一) 九歳 七月、下谷区御徒町一丁目十四番地に移転。十一月、私立青海学校に転入学。
明治十六年(一八八三) 十一歳 十二月、青海学校小学高等科第四級を首席で卒業、第三級にすすまず退学。
明治十七年(一八八四) 十二歳 一月から短期間、京橋区新湊町に住む則義の知人、もと芝大神宮の祠掌で『鴨川集』に作品が見えている和田重雄から通信教育で和歌の手ほどきを受けた。十月、下谷区西門町二十三番地に移転。
明治十八年(一八八五) 十三歳 裁縫の稽古に通っていた松永政愛宅で、渋谷三郎に会った。三郎は、父母が出府した折に世話になった郷党の先輩真下専之丞の妾腹の孫であり、東京専門学校(現、早大)で法律を学んでいた。この年ごろ、松永家で佐佐木信綱に会ったという。
明治十九年(一八八六) 十四歳 八月、父の知人で医師の遠田澄庵の紹介により、中島歌子の萩の舎に入塾。萩の舎は小石川安藤坂にあって、民間歌塾のなかで、貴族、上流社会の子女を多くあつめて著名だった。同門に乙骨牧子、田辺花圃、伊東夏子などの才媛がいた。
明治二十年(一八八七) 十五歳 一月十五日からなつは最初の日記と見られている『身のふる衣まきのいち』をつけはじめた。十二月、長兄泉太郎は肺結核で死亡。香典控に、市村ト次郎、夏目漱石の父直克などの名がある。
明治二十一年(一八八八) 十六歳 二月、なつが家督を相続した。姉ふじが久保木長十郎と再婚し、次兄虎之助が不良少年のころ、分家させられていたためである。五月、芝区高輪北町十九番地に転居した。九月、家主の愛宕神社宮司松岡徳善は事業家でもあり、彼をうしろ盾にして、父が荷車請負業組合の設立にかかり、神田区表神保町二番地に移転、神田錦町に事務所を置き、事務をあつかった。
明治二十二年(一八八九) 十七歳 三月、事業は失敗し破産状態となり、一家は神田区淡路町二丁目四番地へ移った。七月、健康を害した父は、死期が迫ったことを知り、妻子の前途を案じて、渋谷三郎になつと結婚するよう頼んで死んだ。九月、なつは母と妹くにを連れて、債鬼を逃れて虎之助のもとに身を寄せるようになった。三郎は、零落した事実を知って、なつとの婚約を一方的に破棄した。
明治二十三年(一八九○) 十八歳 一月、虎之助と母の折合がわるく、風波が絶えないため、自活の道をもとめて、妹くにが奉公口を探しに出たりした。四月、なつは第三回内国博覧会の売子になろうともした。五月、なつは萩の舎塾へ住み込むことになった。中島歌子は、同情してなつを女学校の教師に世話をし、母と妹の三人暮しを計画してくれたが実現しなかった。九月の末、姉ふじ一家に近い本郷区菊坂町七十番地に借家を見つけ、母とくにの三人暮しをはじめた。針仕事と洗張で生計をたてた。
明治二十四年(一八九一) 十九歳 一月、なつは小説家として立とうと決意し、『かれ尾花一もと』を執筆した。これは萩の舎の姉弟子田辺花圃が『藪の鶯』で認められ、新進女流作家として活躍していることに刺激されたためである。四月、妹くにの友人野々宮菊子の学友幸子を通じて、その兄半井桃水に小説の指導を頼んでいたが、実現して弟子になった。桃水は「朝日新聞」の小説記者で、三十歳だったが、妻に死なれたのち独身を保ち、弟妹の面倒をみていた。容貌がすぐれており、また、苦労人の桃水になつはひかれていった。十月、くにが菊子から半井家に寄宿している鶴田たみ子が桃水の子を生んだという噂を聞いてきた。真相は弟の浩の子なのだが、桃水から直接に弁明されても、なつの疑念は仲々晴れなかった。十一月、随筆『森のした艸 一』を執筆。この頃、あし(銭)がないというしゃれで、達磨が乗って渡来したという蘆の一葉にちなんで一葉と号した。十二月、なつは桃水に借金を申し入れた。
明治二十五年(一八九二) 二十歳 一月、桃水ヘ年賀に行ったが不在、歌子から桃水との交際についての心得を教えられ、また、代って小説をみてやろうと言われた。二月、桃水を訪ねて、その仲間や弟子の作品を発表するための同人雑誌「武蔵野」の発刊計画を聞かされた。
三月、『闇桜』を「武蔵野」に発表。
四月、『たま欅』を「武蔵野」に発表。
また、桃水の推薦で『別れ霜』を「改進新聞」に連載。五月、西隣の菊坂町六十九番地に移転した。これは近くの西片町へ桃水が引越してきたので、少しはましな借家へ引越したのである。六月、桃水との噂が萩の舎で問題化し、なつは思いを残しながら、一時絶交の形をとらねばならなかった。
七月、『五月雨』を「武蔵野」に発表。
八月、新潟三条町区裁判所検事になった渋谷三郎が突然訪問、坪内逍遥や高田早苗にいつでも紹介するといった。
九月、『経づくえ《ママ》』を甲府から発行されていた、「甲陽新報」に連載。
主幹野尻理作は、東京大学の学生時代に、父が保証人だったので、よく出入りしていた縁によるものである。
十一月、花圃の仲立ちで、『うもれ木』を、一流の文芸雑誌「都の花」に連載。
この報告がてら、神田区三崎町で松濤軒という葉茶屋を経営していた桃水を訪問、旧交を復した。
明治二十六年(一八九三) 二十一歳
二月、『暁月夜』を「都の花」に発表。
三月、『雪の日』を「文学界」に発表。
「文学界」には、北村透谷、島崎藤村、平田禿木などのすぐれた青年作家があつまっていたが、半営業半同人雑誌なので、原稿料は薄謝に近いものであった。七月、精神的にも物質的にも行きづまりを感じ、生活の建てなおしをはかって、下谷区竜泉寺町三百六十八番地の二戸建長屋へ引越した。ここは俗称大音寺前という土地で、吉原遊廓の近くであった。八月、荒物、駄菓子などをあきなう小店を開き、なつは商品の買い出しに、妹くには店番をして、生計をたてた。
十二月、『琴の音』を「文学界」に発表。
明治二十七年(一八九四) 二十二歳 二月、易者で観相家の久佐賀義孝を訪ね、女相場師になりたいと相談を持ちかけ、資金の借り入れを申し込み、これを機会に交際するようになった。『花ごもり』を「文学界」(二月、四月)に発表。三月、「文学界」同人の馬場孤蝶が原稿の催促ではじめて訪問、生涯の知己になった。四月、生活のための原稿は書かぬと決めて商人になったなつは、また、文筆活動へ戻ろうとして桃水を訪ね、助力を乞うた。一方、萩の舎へ助教として復帰することになった。五月、本郷区丸山福山町四番地に転居。六月、蓮門教の行者二十二宮人丸を訪ねて失望したり、また久佐賀義孝から物質的な援助と交換に妾になれといわれて、断わったりした。
七月、『暗夜』を「文学界」(七月、九月、十一月)に発表。
八月頃、はじめて島崎藤村が訪ねた。九月、村上浪六へ借金を申し込んだが、実現されなかった。
十二月、『大つごもり』を「文学界」に発表。
久佐賀に千円の借金を申し入れ、月十五円で妾になれと具体的にいわれ、その俗人ぶりに肚をたてて、ことわり状を出した。
明治二十八年(一八九五) 二十三歳 一月、「文学界」客員の戸川残花がはじめて来訪する。
一月、『たけくらべ』を「文学界」(一月、三月、八月、十一月、十二月、二十九年一月)に発表。
三月、博文館主人大橋佐平の娘ときの婿で編集局長格の大橋乙羽から、手紙で「文芸倶楽部」へ寄稿をもとめてきた。乙羽は硯友社系の作家であった。
四月、『軒もる月』を「毎日新聞」に発表。
五月、『ゆく雲』を「太陽」に発表。
上田敏や、川上眉山がはじめて訪問。
六月、『経づくゑ』に手を入れて「文芸倶楽部」に再発表。
八月、『うつせみ』を「読売新聞」に発表。
九月、『雨の夜』『月の夜』を「読売新聞」に発表。
田岡嶺雲などが絶讃した。「読売新聞」記者関如来がはじめて訪問。
十月、随筆『雁がね』『虫の音』を「読売新聞」に発表。
十二月、『十三夜』と旧作『やみ夜』を「文芸倶楽部・臨時増刊閨秀小説」に発表。
明治二十九年(一八九六) 二十四歳 一月、「毎日新聞」記者横山源之助、岡野正味はじめて来訪。横山源之助が、二葉亭四迷に紹介しようとした。
一月、「文学界」に断続掲載した『たけくらべ』完結。『わかれ道』を「国民之友」に、『この子』を「日本乃家庭」に発表。
二月、『裏紫』前半を「新文壇」に発表。『大つごもり』を「太陽」に発表。
四月、『たけくらべ』を「文芸倶楽部」にまとめて発表。
「めざまし草」の「三人冗語」で、森鴎外、幸田露伴、斎藤緑雨が最高の讃辞を呈した。この頃までに泉鏡花と会った。
五月、『通俗書簡文』を博文館から書きおろし刊行。『われから』を「文芸倶楽部」に発表。随筆『あきあはせ』を「うらわか草」に発表。
斎藤緑雨がはじめて訪問。
七月、随筆『ほとゝぎす』を「文芸倶楽部・臨時増刊海嘯義捐小説」に発表。
幸田露伴が三木竹二といっしょに訪ねてきて、「めざまし草」で、合作小説をはじめようなどと言った。
八月、重態で創作を執筆することができないので、旧作の和歌八首を「智徳会雑誌」に寄せた。山竜堂病院長樫村清徳が診断の結果、絶望と宣告した。秋頃、斎藤緑雨が森鴎外に相談し、鴎外の斡旋で青山胤通の往診を受けたが、命旦夕にせまると申し渡された。十一月二十三日、奔馬性結核のため死去。未刊の日記、随想類、また、四千首にあまる和歌などの大量の原稿が残された。二十五日の葬儀は妹くにの考えで内輪にしたため、会葬者がわずかに十数人という寂しいものであった。萩の舎からは代表として、田中みの子、伊東夏子が参列した。法名は智相院釈妙葉信女。築地本願寺境内の樋口家墓地に葬られた。(現在は杉並区和泉の本願寺墓所)
(本年譜は、諸種のものを参照して編集部で作成した。)