TITLE : たけくらべ
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本書中には、今日の人権擁護の見地に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、発表当時の時代的背景と作品の価値とを考え合わせ、そのままとしました。
(編集部)
目 次
大つごもり
たけくらべ
にごりえ
十三夜
わかれ道
われから
注 釈
大《一》つごもり
(上)
井戸は車にて綱《つな》の長さ十二尋《二ひろ》、勝手《かつて》は北向きにて師走《しはす》の空のから風《かぜ》ひゆうひゆうと吹《ふき》ぬきの寒《さぶ》さ、おゝ堪へがたしと竃《かまど》の前に火なぶりの一分《いつぷん》は一時《いちじ》にのびて、割木《わりき》ほどの事も大台《三おほだい》にして叱りとばさるゝ婢女《はした》の身つらや、はじめ受宿《うけやど》の老媼《おば》さまが言葉には御子様方は男女《なんによ》六人、なれども常任家《じやうぢゆううち》にお出《いで》あそばすは御総領《ごそうりよう》と末《すゑ》お二人、少し御新造《四ごしんぞ》は機嫌《五きげん》かひなれど、目色顔色《めいろかほいろ》を呑みこんで仕舞《しま》へば大《たい》した事もなく、結句《けつく》おだてに乗る質《たち》なれば、お前《まへ》の出様《でやう》一つで半襟半《はんえりはん》がけ前垂《まへだれ》の紐《ひも》にも事は欠《か》くまじ、御身代《ごしんだい》は町内《ちやうない》第一にて、その代《かは》り吝《しわ》き事も二《に》とは下《くだ》らねど、よき事には大旦那《おほだんな》が甘い方《はう》ゆゑ、少しのほまち《六ヽヽヽ》は無き事もあるまじ、厭になつたら私の所《とこ》まで端書《はがき》一枚、こまかき事は入《い》らず、他所《よそ》の口を捜《さが》せとならば足は惜しまじ、何《いづ》れ奉公の秘伝は裏表と言ふて聞かされて、さても恐ろしき事を言ふ人と思へど、何も我心《わがこゝろ》一つで又この人のお世話《せわ》にはなるまじ、勤《つと》め大事《だいじ》に骨さへ折らば御気に入らぬ事も無き筈と定《さだ》めて、かゝる鬼の主《しう》をも持つぞかし、目見《七めみ》えの済《す》みて三日《みつか》の後《のち》、七歳《なゝつ》になる嬢さま踊りのさらひに午後よりとある、其支度は朝湯にみがき上げてと霜氷《しもこほ》る暁、あたゝかき寝床《ねどこ》の中《うち》より御新造《ごしんぞ》灰吹《八はひふき》をたゝきて、これこれと、此詞《これ》が目覚《めざま》しの時計より胸にひゞきて、三言《みこと》とは呼ばれもせず帯より先に襷《たすき》がけの甲斐々々《かひがひ》しく、井戸端《ばた》に出《い》づれば月かげ流しに残りて、肌《はだへ》を刺すやうな風の寒《さぶ》さに夢を忘れぬ、風呂は据風呂《九すゑぶろ》にて大きからねど、二つの手桶《てをけ》に溢《あふ》るゝほど汲みて、十三は入れねばならず、大汗《おほあせ》になりて運びけるうち、輪宝《一〇りんばう》のすがりし曲《一一ゆが》み歯《は》の水ばき下駄、前鼻緒《ばなを》のゆる〓〓になりて指を浮かさねばたわいの無きやうなりし、其の下駄にて重き物を持ちたれば足もと覚束《おぼつか》なくて流し元《もと》の氷にすべり、あれと言ふ間もなく横にころべば井戸側《がは》にて向ふ臑《ずね》したゝかに打ちて、可愛《かあい》や雪はづかしき膚《はだ》は紫の生々《なまなま》しくなりぬ、手桶《てをけ》をも其処《そこ》に投出《いだ》して一つは満足なりしが一つは底ぬけに成りけり、此桶《これ》の価何《あたひなに》ほどか知らねど、身代《しんだい》これが為に潰《つぶ》れるかのやうに御新造《ごしんぞ》の額際《ひたひぎは》に青筋《あをすぢ》おそろしく、朝飯《あさはん》のお給仕《きふじ》より睨《にら》まれて、其日一日物も仰《あふ》せられず、一日おいてよりは箸の上げ下しに、此家《このや》の品は無料《たゞ》では出来ぬ、主《しう》の物とて粗末《そまつ》に思ふたら罰《ばち》が当るぞえと明《あ》け暮《く》れの談義《だんぎ》、来る人毎《ごと》に告げられて若き心には恥かしく、其後《そのご》は物ごとに念を入れて、遂《つひ》に粗忽《一二そさう》をせぬやうになりぬ、世間に下女《げぢよ》つかふ人も多けれど、山村《やまむら》ほど下女の替《かは》る家《いへ》はあるまじ、月に二人は平常《つね》の事、三日四日に帰りしもあれば一夜居《ひとよゐ》て逃出《い》でしもあらん、開闢《かいびやく》以来を尋《たづ》ねたらば折る指に彼《あ》の内儀《かみ》さまが袖口おもはるゝ、思へばお峰《みね》は辛防《しんばう》もの、あれに酷《むご》く当つたらば天罰《てんばつ》たちどころに、此後《このご》は東京広しといへども、山村の下女《げぢよ》になる者はあるまじ、感心なもの、美事《みごと》の心がけと賞《ほ》めるもあれば、第一容貌《きりやう》が申分《まをしぶん》なしだと、男は直《ぢ》きにこれを言ひけり。
秋より唯一人の伯父《をぢ》が煩《わづら》ひて、商売の八百《やほ》や店もいつとなく閉《と》ぢて、同じ町ながら裏屋住居《ずまゐ》になりしよしは聞けど、むづかしき主《しう》を持つ身の給金を先《さ》きに貰へば此身は売りたるも同じ事、見舞にと言ふ事もならねば心ならねど、お使ひ先《さき》の一寸《いつすん》の間とても時計を目当《めあて》にして幾足幾町《いくあしいくちやう》と其しらべの苦しさ、馳《は》せ抜《ぬ》けても、とは思へど悪事千里《一三あくじせんり》といへば折角の辛防《しんばう》を水泡《むだ》にして、お暇ともならば弥々《いよいよ》病人の伯父《をぢ》に心配をかけ、痩世帯《やせじよたい》に一日の厄介《やくかい》も気の毒なり、其内《そのうち》にはと手紙ばかりを遣《や》りて、身は此処《こゝ》に心ならずも日を送りける。師走《しはす》の月は世間一躰《せけんいつたい》物せわしき中《なか》を、こと更《さら》にえらみて綺羅《きら》をかざり、一昨日《をとゝひ》出《一四》そろひしと聞く某《それ》の芝居《しばゐ》、狂言《きやうげん》も折から面白き新物《一五しんもの》の、これを見のがしてはと娘共《ども》の騒ぐに、見物《けんぶつ》は十五日、珍らしく家内中《うちぢゆう》との触《ふ》れになりけり、此《この》お供《とも》を嬉しがるは平常《つね》のこと、父母《ちゝはゝ》なき後《のち》は唯一人の大切な人が、病《やま》ひの床《とこ》に見舞ふ事もせで、物見遊山《ものみゆさん》に歩くべき身ならず、御機嫌《ごきげん》に違ひたらばそれまでとして遊びの代《かは》りのお暇《いとま》を願ひしに流石《さすが》は日頃の勤《つと》めぶりもあり、一日すぎての次の日、早く行きて早く帰れと、さりとは気まゝの仰《あふ》せに有難《ありがた》うぞんじますと言ひしは覚《おぼ》えで、やがては車の上に小石川《こいしかは》はまだかまだかと遅緩《もど》かしがりぬ。
初音町《一六はつねちやう》といへば床《ゆか》しけれど、世《一七》をうぐひすの貧乏町《びんばふまち》ぞかし、正直安兵衛《しやうぢきやすべゑ》とて神は此頭《このかうべ》に宿《やど》り給ふべき大薬罐《一八おほやくわん》の額《ひたひ》ぎはぴか〓〓として、これを目印《めじるし》に田町《たまち》より菊坂《きくざか》あたりへかけて、茄子大根《なすびだいこん》の御用《ごよう》をもつとめける、薄元手《一九うすもとで》を折《をり》かへすなれば、折から値《ね》の安うて嵩《かさ》のある物より外《ほか》は棹《さを》なき船に乗合《のりあひ》の胡瓜《きうり》、苞《つと》に松茸《まつたけ》の初物《はつもの》などは持たで、八百安《やほやす》が物は何時《いつ》も帳面《ちやうめん》につけたやうなと笑はるれど、贔屓《ひいき》は有がたきもの、曲《まが》りなりにも親子三人《おやこさんにん》の口をぬらして、三之助《さんのすけ》とて八歳《やつ》になるを五厘学校《二〇ごりんがくかう》に通《かよ》はするほどの義務《つとめ》もしけれど、世《よ》の秋《あき》つらし九月の末《すゑ》、俄《には》かに風が身にしむといふ朝、神田《かんだ》に買出《かひだ》しの荷《に》を我《わ》が家《や》までかつぎ入《い》れると其まゝ、発熱《はつねつ》につゞいて骨病《二一ほねや》みの出《いで》しやら、三月《みつき》ごしの今日まで商《あきな》ひは更《さら》なる事、段々《だんだん》に喰べ減《へ》らして天秤《てんびん》まで売る仕儀《しぎ》になれば、表店《おもてだな》の活計《くらし》たちがたく、月五十銭の裏屋《うらや》に人目《ひとめ》の恥《はぢ》を厭《いと》ふべき身ならず、又時節《じせつ》があらばとて引越《ひきこ》しもむざんや車に乗するは病人ばかり、片手《かたて》に足らぬ荷をからげて、同じ町《まち》の隅《すみ》へと潜《ひそ》みぬ。お峰《みね》は車より下りて其処此処《そここゝ》と尋《たづ》ぬるうち、凧紙風船《たこがみふうせん》などを軒につるして、子供を集めたる駄菓子《だぐわし》やの門《かど》に、もし三之助《さんのすけ》の交じりてかと覗《のぞ》けど、影も見えぬに落胆《がつかり》して思はず往来《ゆきき》を見れば、我が居《ゐ》るよりは向《むか》ひの側《がは》を痩《やせ》ぎすの子供が薬瓶《くすりびん》をもちて行く後姿《うしろすがた》、三之助《さんのすけ》よりは丈《たけ》も高く余《あま》り痩《や》せたる子と思へど、様子の似たるにつか〓〓と駆《か》け寄りて顔をのぞけば、やあ姉さん、あれ三《さん》ちやんであつたか、さても好《よ》い処《ところ》でと伴《ともな》はれて行くに、酒《さか》やと芋《いも》やの奥深く、溝板《二二どぶいた》がた〓〓と薄《うす》ぐらき裏《うら》に入《い》れば、三之助は先へ駆けて、父《とゝ》さん、母《かゝ》さん、姉さんを連《つ》れて帰つたと門口《かどぐち》より呼び立てぬ。
何お峰《みね》が来たかと安兵衛《やすべゑ》が起上《おきあが》れば、女房《つま》は内職《ないしよく》の仕立物《したてもの》に余念《よねん》なかりし手をやめて、まあ〓〓これは珍らしいと手を取らぬばかりに喜ばれ、見れば六畳一間《ひとま》に一間《いつけん》の戸棚唯一つ、箪笥長持《たんすながもち》はもとより有るべき家ならねど、見し長火鉢のかげも無く、今戸焼《二三いまどやき》の四角《しかく》なるを同じ形《なり》の箱に入れて、これがそも〓〓も此家《このいへ》の道具らしきもの、聞けば米櫃《二四こめびつ》も無きよし、さりとは悲しき成行《なりゆき》、師走《しはす》の空に芝居みる人もあるをとお峰《みね》はまづ涙ぐまれて、まづ〓〓風の寒きに寝てお出《いで》なされませと竪焼《二五かたやき》に似し薄蒲団《うすぶとん》を伯父《をぢ》の肩に着せて、さぞ〓〓沢山《たんと》の御苦労《ごくらう》なさりましたろ、伯母《をば》様も何処《どこ》やら痩《や》せが見えまする、心配のあまり煩《わづら》ふて下さいますな、それでも日増《ひま》しに快《よ》い方で御座んすか、手紙で様子は聞けど見ねば気にかゝりて、今日のお暇《いとま》を待ちに待つて漸《やつ》との事、何家《なにうち》などは何《ど》うでも宜《よう》ござります、伯父《をぢ》様御全快にならば表店《おもて》に出るも訳《わけ》なき事なれば、一日も早く快《よ》く成つて下され、伯父《をぢ》様に何《なん》ぞと存じたれど、道は遠し心は急《せ》く、車夫《くるま》の足が例《いつ》より遅《おそ》いやうに思はれて、御好物《ごかうぶつ》の飴屋が軒も見はぐりました、此金《これ》は少々なれど私が小遣《こづかひ》の残り、麹町《かうぢまち》の御親類よりお客のありし時、その御隠居《ごいんきよ》さま寸白《二六すばこ》のお起《おこ》りなされてお苦しみのありしに、夜《よ》を徹《とほ》してお腰を揉《も》みたれば、前垂でも買へとて下された、それや、これや、お家《うち》は堅《かた》けれど他処《よそ》よりのお方が贔屓《ひいき》になされて、伯父《をぢ》さま喜んで下され、勤《つと》めにくゝも御座んせぬ、此巾着《二七このきんちやく》も半襟《はんえり》もみな頂き物、襟は質素《じみ》なれば伯母《をば》さま掛けて下され、巾着《きんちやく》は少し形《なり》を替へて三之助《さんのすけ》がお弁当の袋《ふくろ》に丁度宜《ちやうどよ》いやら、それでも学校へは行きますか、お清書があらば姉にも見せてとそれからそれへ言ふ事長《なが》し、七つの年に父親得意場《てゝおやとくいば》の蔵普請《くらふしん》に、足場《あしば》を昇りて中《二八なか》ぬりの泥鏝《こて》を持ちながら、下なる奴《やつこ》に物いひつけんと振向《ふりむ》く途端《とたん》、暦に黒ぼしの仏滅《二九ぶつめつ》とでも言ふ日でありしか、年来慣《ねんらいな》れたる足場をあやまりて、落たるも落たるも下は敷石《しきいし》に模様がへの処ありて、掘おこして積みたてたる切角《きりかど》に頭脳《づなう》したゝか打ちつけたれば甲斐《かひ》なし、哀《あは》れ四十二の前厄《三〇まへやく》と人々後《のち》に恐ろしがりぬ、母は安兵衛《やすべゑ》が同胞《きやうだい》なれば此処《こゝ》に引取られて、これも二年の後《のち》は《三一》やり風俄《かぜには》かに重くなりて亡《う》せたれば、後《のち》は安兵衛夫婦《やすべゑふうふ》を親として、十八の今日《けふ》まで恩はいふに及ばず、姉さんと呼ばるれば三之助《さんのすけ》は弟のやうに可愛く、此処《こゝ》へ此処へと呼んで背を撫《な》で顔を覗《のぞ》いて、さぞ父《とゝ》さんが病気で淋しく辛かろ、お正月も直《ぢ》きに来《く》れば姉《あね》が何ぞ買つて上げますぞえ、母《かゝ》さんに無理をいふて困らせては成りませぬと教《をし》ふれば、困らせる処《どころ》か、お峰聞いて呉《く》れ、歳は八つなれど身躰《からだ》も大きし力《ちから》もある、私が寝てからは稼ぎ人《て》なしの費用《いりめ》は重《かさ》なる、四苦八苦《しくはつく》見かねたやら、表の塩物《しほもの》やが野郎《やらう》と一処《いつしよ》に、蜆《しゞみ》を買ひ出しては足の及ぶだけ担《かつ》ぎ廻り、野郎《やらう》が八銭うれば十銭の商《あきな》ひは必らずある、一つは天道《てんたう》様が奴《やつこ》の孝行《かうかう》を見通してか、兎《三二と》なり角《かく》なり薬代《くすりだい》は三が働き、お峰ほめて遣《や》つて呉れとて、父は薄団《ふとん》をかぶりて涙に声をしぼりぬ。学校は好きにもつひに世話をやかしたることなく、朝めし喰べると駆出《かけだ》して三時の退出《ひけ》に路草《三三みちくさ》のいたづらしたことなく、自慢《じまん》ではなけれど先生さまにも褒《ほ》め物の子を、貧乏なればこそ蜆《しゞみ》を担《かつ》がせて、此寒空《このさむぞら》に小さな足に草鞋《わらぢ》をはかせる親心、察して下されとて伯母《をば》も涙なり。お峰は三之助を抱きしめて、さてもさても世間《せけん》に無類《むるゐ》の孝行、大がらとても八歳《やつ》は八歳《やつ》、天秤《てんびん》肩にして痛みはせぬか、足に草鞋《三四わらぢ》くひは出来ぬかや、堪忍《かんにん》して下され、今日よりは私も家《うち》に帰りて伯父《をぢ》様の介抱《かいはう》活計《くらし》の助けもしまする、知らぬ事とて今朝までも釣瓶《つるべ》の繩《なは》の氷をつらがつたは勿躰《もつたい》ない、学校ざかりの年に蜆《しゞみ》を担《かつ》がせて姉が長い着物きて居らりやうか、伯父《をぢ》さま暇《いとま》を取つて下され、私は最早奉公《もはやほうこう》はよしまするとて取乱《とりみだ》して泣きぬ。三之助はおとなしく、ほろりほろりと涙のこぼれるを、見せじとうつ向《む》きたる肩のあたり、針目あらはに衣破《きぬや》れて、此肩《これ》に担《かつ》ぐか見る目も辛《つら》し、安兵衛《やすべゑ》はお峰が暇《いとま》を取らんと言ふにそれは以《もつ》ての外《ほか》、志《こころざ》しは嬉しけれど帰りてからが女の働き、それのみか御主人へは給金《きふきん》の前借《まへがり》もあり、それッ、と言ふて帰られるものでは無し、初奉公《うひぼうこう》が肝心《かんじん》、辛防《しんばう》がならで戻つたと思はれてもならねば、お主《しう》大事に勤《つと》めて呉《く》れ、我が病も長くはあるまじ、少しよくば気《三五》の帳弓《はりゆみ》、引つゞいて商《あきは》ひもなる道理《だうり》、あゝ今半月の今歳《ことし》が過ぎれば新年《はる》は好《よ》き事も来るべし、何事《なにごと》も辛防々々《しんばうしんばう》、三之助《さんのすけ》も辛防して呉《く》れ、お峰《みね》も辛防して呉《く》れとて涙を歛《三六をさ》めぬ。珍らしき客に馳走《ちそう》は出来ねど好物《かうぶつ》の今川焼《いまがはやき》、里芋《さといも》の煮ころがしなど、沢山たべろよといふ言葉が嬉し、苦労はかけまじと思へどみす〓〓大《おほ》晦日《みそか》に迫《せま》りたる家の難儀、胸につかへの病《やまひ》は癪《しやく》にあらねどそも〓〓床《とこ》に就きたる時、田町《たまち》の高利《かうり》かしより三月《三七みつき》しばりとて拾円借りし、一円五拾銭は天利《三八てんり》とて手に入りしは八円半、九月の末《すゑ》よりなれば此月《このつき》は何《ど》うでも約束の期限なれど、此中《このなか》にて何となるべきぞ、額《ひたひ》を合《あは》せて談合《だんがふ》の妻は人仕事《ひとしごと》に指先より血を出《いだ》して日に拾銭《じつせん》の稼《かせ》ぎも成らず三之助《さんのすけ》に聞かするとも甲斐なし、お峰《みね》が主《しう》は白金《三九しろがね》の台町《だいまち》に貸長屋《かしながや》の百軒も持ちて、あがり物ばかりに常綺羅美々《四〇じやうきらびゞ》しく、我れ一度お峰への用事ありて門《かど》まで行きしが、千両《せんりやう》にては出来まじき土蔵《どざう》の普請《ふしん》、羨《うらや》ましき富貴《ふうき》と見たりし、その主人に一年の馴染《なじみ》、気に入りの奉公人《ほうこうにん》が少々の無心《むしん》を肯《き》かぬとは申されまじ、此月末《このつきずゑ》に書《四一》かへを泣きつきて、をどり《四二ヽヽヽ》の一両二分《りやうにぶ》を此処《こゝ》に払へば又三月《みつき》の延期《のべ》にはなる、斯《か》くいはゞ慾に似たれど、大道餅買《四三だいだうもちか》ふてなり三ケ日《さんがにち》の雑煮《ざふに》に箸を持せずば出世前《しゆつせまへ》の三之助《さんのすけ》に親のある甲斐《かひ》もなし、晦日《みそか》までに金二両《りやう》、言ひにくゝともこの才覚《さいかく》たのみ度よしを言ひ出しけるに、お峰しばらく思案して、よろしう御座んす慥《たしか》に受合《うけあ》ひました、むづかしくばお給金《きふきん》の前借《まへがり》にしてなり願ひましよ、見る目と家内《うち》とは違ひて何処《いづこ》にも金銭の埒《らち》は明きにくけれど、多くでは無しそれだけで此処《こゝ》の始末《しまつ》がつくなれば、理由《わけ》を聞いて厭《いや》は仰《あふ》せらるまじ、それにつけても首尾損《四四しゆびそこな》ふては成らねば、今日は私は帰ります、又の宿下《四五やどさが》りは春永《四六はるなが》、その頃には皆々うち寄つて笑ひたきもの、とて其金《それ》を受合《うけあひ》ける。金は何として送附《おこ》す、三之助《さんのすけ》を貰ひにやろかとあれば、ほんにそれで御座んす、平日《つね》さへあるに大《おほ》晦日《みそか》といふては私の身に隙《すき》はあるまじ、道の遠きに可憐《かあい》さうなれど、三ちやんを頼《たの》みます、昼前《ひるまへ》のうちに必らず支度《したく》はして置まするとて、首尾《しゆび》よく受合《うけあ》ひてお峰は帰りぬ。
(下)
石之助《いしのすけ》とて山村《やまむら》の総領息子《そうりやうむすこ》、母の異《ちが》ふに父親《てゝおや》の愛も薄く、これを養子《やうし》に出《いだ》して家督《あと》は妹娘《いもとむすめ》の中《うち》にとの相談、十年の昔より耳に狭《はさ》みて面白からず、今の世に勘当《一かんだう》のならぬこそをかしけれ、思ひのままに遊びて母が泣きをと父親《てゝおや》の事は忘れて、十五の春より不料簡《ふれうけん》をはじめぬ、男振《二をとこぶり》にがみありて利発《りはつ》らしき眼《まな》ざし、色は黒けれど好《よ》き風采《ふう》とて四隣《あたり》の娘どもが風説《うはさ》も聞えけれど、唯乱暴一途《いちづ》に品川《三しながは》へも足は向《む》くれど騒ぎは其座限《そのざぎ》り、夜中《やちゆう》に車を飛ばして車町《四くるままち》の破落戸《ごろ》がもとをたゝき起し、それ酒買へ肴《さかな》と、紙入《かみい》れの底をはたきて無理を通すが道楽《だうらく》なりけり、到底《たうてい》これに相続《さうぞく》は石油蔵《せきゆぐら》へ火を入《い》れるやうなもの、身代烟《しんだいけぶ》となりて消え残る我等何とせん、あとの兄弟《きやうだい》もふびんと母親、父に讒言《ざんげん》の絶間《たえま》なく、さりとてこれを養子にと申受《まをしう》くる人此世《このよ》にはあるまじ、とかくは有金《ありがね》の何ほどを分けて、若隠居《わかいんきよ》の別戸籍《五べつこせき》にと内々《ないない》の相談は極《き》まりたれど、本人《ほんにん》うはの空《そら》に聞流して手に乗らず、分配金《ぶんぱいきん》は一万、隠居扶持月々《ぶちつきづき》おこして、遊興《いうきよう》に関《せき》を据《す》ゑず、父上《ちちうへ》なくならば親代《がは》りの我れ、兄上と捧《さゝ》げて竈《六かまど》の神の松一本も我が託宣《たくせん》を聞く心ならば、いかにもいかにも別戸《べつこ》の御主人になりて、此家《このや》の為には働かぬが勝手《かつて》、それ宜《よろ》しくば仰《あふ》せの通りになりましよと、何《ど》うでも厭がらせを言ひて困らせける。去歳《こぞ》にくらべて長屋《七ながや》もふえたり、所得《しよとく》は倍にと世間《せけん》の口より我家の様子を知りて、をかしやをかしや、其やうに延《八の》ばして誰が物にする気ぞ、火事は燈明皿《とうみやうざら》よりも出るものぞかし、総領《そうりやう》と名のる火の玉がころがるとは知らぬか、やがて巻きあげて貴様《きさま》たちに好《よ》き正月をさせるぞと、伊皿子《九いさらご》あたりの貧乏人を喜ばして、大《おほ》晦日《みそか》を当《あ》てに大飯《おほの》みの場所もさだめぬ。
それ兄様《あにさま》のお帰りと言へば、妹《いもと》ども恐《こは》がりて腫《は》れ物《もの》のやうに障《さは》るものなく、何事も言ふなりの通るに一段と我儘《わがまゝ》をつのらして、炬燵《こたつ》に両足、酔《ゑひ》ざめの水を水をと狼藉《らうぜき》はこれに止《とゞ》めをさしぬ、憎しと思へど流石《さすが》に義理はつらきものかや、母親かげの毒舌《どくぜつ》をかくして風引かぬやうに小掻巻《こがいまき》何くれと枕まで宛《あて》がひて、明日《あす》の支度《したく》のむしり田作《ごまめ》、人手《ひとで》にかけては粗末《そまつ》になるものと聞えよがしの経済を枕もとに見しらせぬ。正午《ひる》も近づけばお峰《みね》は伯父《をぢ》への約束こゝろもとなく、御新造《ごしんぞ》が御機嫌《ごきげん》を見はからふに暇《いとま》も無ければ、僅《わづ》かの手すきに頭《つむ》りの手拭《一〇てぬぐ》ひを丸めて、此ほどより願ひましたる事、折からお忙がしき時心なきやうなれど、今日の昼過ぎにと先方《さき》へ約束のきびしき金とやら、お助けの願はれますれば伯父《をぢ》の仕合《しあは》せ私の喜び、いついつまでも御恩に着《き》まするとて手をすりて頼《たの》みける、最初《はじめ》いひ出でし時にやふや《一一ヽヽヽヽ》ながら結局《つまり》は宜《よ》しとありし言葉を頼みに、又の機嫌むつかしければ五月蠅《うるさ》く言ひては却《かへ》りて如何《いかゞ》と今日迄も我慢しけれど、約束は今日といふ大《おほ》晦日《みそか》のひる前、忘れて何とも仰《あふ》せの無き心もとなさ、我には身に迫《せま》りし大事と言ひにくきを我慢《がまん》して斯《か》くと申しける、御新造《ごしんぞ》は驚きたるやうの呆《あき》れ顔して、それはまあ何の事やら、成《なる》ほどお前が伯父《をぢ》さんの病気、つゞいて借金の話も聞ましたが、今が今私の宅《うち》から立換《たてか》へやうとは言はなかつた筈、それはお前が何ぞの聞違《きゝちが》へ、私は毛頭《すこし》も覚えの無き事、とこれが此人の十《一二》八番とはてもさても情なし。
花紅葉《はなもみぢ》うるはしく仕立し娘たちが春着《はるぎ》の小袖《こそで》、襟をそろへて褄《つま》を重ねて、眺めつ眺めさせて喜ばんものを、邪魔《じやま》ものゝ兄が見る目うるさし、早く出《で》てゆけ疾《と》く去《い》ねとおもふ念《おも》ひは口にこそ出《いだ》さね、もち前の疳癪肚裡《かんしやく一三した》に堪《た》へがたく、智識の坊さまが目に御覧《ごらん》じたらば、炎につゝまれて身は黒烟《くろけぶ》りに心は狂乱の折ふし、言ふ事もいふ事、金は敵薬《てきやく》ぞかし、現在うけ合ひしは我れに覚《おぼ》えあれど何のそれを厭ふことかは、大方《おほかた》お前が聞ちがへと建《一四たて》きりて、烟草《たばこ》輪《わ》にふき私は知らぬと澄ましけり。
えゝ大金《たいきん》でもあることか、金なら二円、しかも口づから承知して置きながら十日とたゝぬに耄《もう》ろくはなさるまじ、あれ彼《あ》の懸《一五か》け硯《すゞり》の抽斗《ひきだし》にも、これは手つかずの分《ぶん》と一束《ひとたば》、十《とを》か二十《にじふ》か悉皆《一六みな》とは言はず唯二枚にて伯父が喜び伯母が笑顔三之助《ゑがほさんのすけ》に雑煮《ざふに》の箸も把《と》らさるゝと言はれしを思ふにも、何《ど》うでも欲しきは彼《あ》の金ぞ、うらめしきは御新造《ごしんぞ》とお峰は口惜《くちを》しさに物も言はれず、常々《つねづね》おとなしき身は理屈づめにやり込める術《すべ》もなくて、すご〓〓と勝手《かつて》へ立てば正午《一七しやうご》の号砲《どん》の音たかく、かゝる折ふし殊更《ことさら》胸にひゞくものなり。
お母《はゝ》さまに直様《すぐさま》お出《いで》下さるやう、今朝《けさ》よりのお苦しみに、潮時《一八しほどき》は午後《ごご》、初産《うひざん》なれば旦那取止《だんなとりと》めなくお騒《さわ》ぎなされて、お老人《としより》なき家なれば混雑お話しにならず、今が今お出《い》でをとて、生死《しやうし》の分目《わけめ》といふ初産《うひざん》に、西応寺《一九さいおうじ》の娘がもとより迎《むか》ひの車、これは大晦日《おほみそか》とて遠慮のならぬものなり、家《いへ》のうちには金もあり、放蕩《のら》どのが寝ては居《ゐ》る、心は二つ、分《わ》けられぬ身なれば恩愛《おんあい》の重きに引かれて、車には乗りけれど、かゝる時気楽《きらく》の良人《をつと》が心根《こゝろね》にくゝ、今日《けふ》あたり沖釣《二〇おきづ》りでもなきものをと、太公望《たいこうばう》がはり合ひなき人をつく〓〓と恨《うら》みて御新造《ごしんぞ》いでられぬ。
行《ゆ》きちがへに三之助《さんのすけ》、此処《こゝ》と聞きたる白金台町《二一しろがねだいまち》、相違《さうゐ》なく尋《たづ》ねあてゝ、我が身のみすぼらしきに姉の肩身を思ひやりて、勝手口《かつてぐち》より恐々《こはごは》のぞけば、誰れぞ来《き》しかと竈《かまど》の前に泣き伏したるお峰が、涙をかくして見出《みいだ》せば此子、おゝ宜《よ》く来たとは言はれぬ仕儀《しぎ》を何とせん、姉《あね》さま這入《はい》つても叱られはしませぬか、約束の物は貰つて行かれますか、旦那《だんな》や御新造《ごしんぞ》に宜《よ》くお礼を申して来いと父《とゝ》さんが言ひましたと、仔細《しさい》を知らねば喜び顔つらや、まづ〓〓待つて下され、少し用もあればと馳《は》せ行きて内外《うちと》を見廻せば、嬢さまがたは庭に出て追羽子《おひはご》に余念《よねん》なく、小憎どのはまだお使《つか》ひより帰らず、お針《二二はり》はお二階にてしかも聾《つんぼ》なれば仔細《しさい》なし、若旦那はと見ればお居間《ゐま》の炬燵《こたつ》に今ぞ夢の真最中《まつたゞなか》、拝《をが》みますると神さま仏さま、私は悪人になりまする、成りたうは無けれど成らねばなりませぬ、罰《ばち》をお当《あ》てなさらば私一人《いちにん》、遣《二三つか》ふても伯父《をぢ》や伯母《をば》は知らぬ事なればお免《ゆる》しなさりませ、勿躰《もつたい》なけれど此金ぬすまして下されと、かねて見置きし硯《すゞり》の抽斗《ひきだし》より、束《たば》のうちを唯二枚、つかみし後《あと》は夢とも現《うつゝ》とも知らず、三之助に渡して帰したる始終《しじゆう》を見し人なしと思へるは愚《おろ》かや。
その日も暮れ近く旦那《だんな》つりより恵比須顔《二四ゑびすがほ》して帰らるれば、御新造《ごしんぞ》も続いて、安産《あんざん》の喜びに送りの車夫《もの》にまで愛想《あいさう》よく、今宵《こよひ》を仕舞へば又見舞ひまする、明日《あす》は早くに妹共《いもとども》の誰れなりとも、一人は必らず手伝はすると言ふて下され、さてさて御苦労《ごくらう》と蝋燭代《二五らふそくだい》などを遣《や》りて、やれ忙がしや誰れぞ暇《ひま》な身躰《からだ》を片身《かたみ》かりたきもの、お峰小松菜《みねこまつな》はゆでゝ置いたか、数《かず》の子《こ》は洗つたか、大旦那《おほだんな》はお帰りになつたか、若旦那はと、これは小声に、まだと聞いて額《ひたひ》に皺《しわ》を寄せぬ。
石之助《いしのすけ》其夜はおとなしく、新年《はる》は明日《あす》よりの三ケ日《二六さんがにち》なりとも、我が家《いへ》にて祝ふべき筈ながら御存じの締りなし、堅くるしき袴《はかま》づれに挨拶《あいさつ》も面倒《めんだう》、意見も実は聞あきたり、親類の顔に美くしきもなければ見たしと思ふ念《ねん》もなく、裏屋の友達がもとに今宵《こよひ》約束も御座れば、一先《ひとまづ》お暇《いとま》として何《いづ》れ春永《はるなが》に頂戴《ちやうだい》の数々《かずかず》は願ひまする、折からお目出度矢先《やさき》、お歳暮《せいぼ》には何ほど下さりますかと、朝より寝込みて父の帰りを待ちしは此件《これ》なり、子は三界《二七さんがい》の首枷《くびかせ》といへど、まこと放蕩《のら》を子に持つ親ばかり不幸なるは無し、切られぬ縁の血筋《ちすぢ》といへば有るほどの悪戯《いたづら》を尽して瓦解《ぐわかい》の暁に落こむは此淵《このふち》、知らぬと言ひても世間のゆるさねば、家の名をしく我が顔はづかしきに惜《を》しき倉庫《くら》をも開くぞかし、それを見込みて石之助《いしのすけ》、今宵《こよひ》を期限の借金が御座る、人の受《二八う》けに立ちて判を為《し》たるもあれば、花見のむしろに狂風一陣《きやうふういちぢん》、破落戸仲間《ごろつきなかま》に遣《や》る物を遣らねば此納《をさ》まりむづかしく、我れは詮方《せんかた》なけれどお名前に申わけなしなどゝ、つまりは此金《これ》の欲しと聞えぬ。母は大方《おほかた》かゝる事と今朝よりの懸念《けねん》うたがひなく、幾干《いくら》とねだるか、ぬるき旦那どのゝ処置《しよち》はがゆしと思へど、我れも口にては勝がたき石之助《いしのすけ》の弁《べん》に、お峰を泣かせし今朝《けさ》とは変りて父が顔色《かほいろ》いかにとばかり、折々《をりをり》見やる尻目《しりめ》おそろし、父は静かに金庫《きんこ》の間《ま》へ立ちしが軈《やが》て五《二九》十円束《たば》一つ持ち来て、これは貴様《きさま》に遣《や》るではなし、まだ縁づかぬ妹《いもと》どもがふびん、姉が良人《をつと》の顔にもかゝる、此山村は代々堅気一方《だいだいかたぎいつぱう》に正直律儀《しやうじきりちぎ》を真向《まつかう》にして、悪い風説《うはさ》を立てられた事もなき等を、天魔《てんま》の生れ変《がは》りか貴様《きさま》といふ悪者《わる》の出来て、無《三〇》き余りの無分別《むふんべつ》に人の懐《ふところ》でも覘《ねら》ふやうにならば、恥は我が一代にとゞまらず、重しといふとも身代《しんだい》は二の次、親兄弟に恥を見するな、貴様《きさま》にいふとも甲斐《かひ》は無けれど尋常《なみなみ》ならば山村の若旦那《わかだんな》とて、入らぬ世間《せけん》に悪評もうけず、我が代《かは》りの年礼に少しの労をも助くる筈を、六十に近き親に泣きを見するは罰あたりでなきか、子供の時には本《ほん》の少しものぞいた奴、何故これが分《わか》りをらぬ、さあ行け、帰《かへ》れ、何処《どこ》へでも帰れ、此家に恥は見するなとて父は奥深く這入りて、金は石之助の懐中《ふところ》に入りぬ。
お母様《はゝさま》御機嫌よう好《よ》い新年をお迎へなされませ、左様《さやう》ならば参りますと、暇乞《いとまごひ》わざと恭《うやうや》しく、お峰下駄を直せ、お玄関からお帰りではないお出かけだぞとづぶ〓〓しく大手《おほで》を振りて、行先《ゆくさき》は何処《いづこ》、父が涙は一夜《ひとよ》の騒ぎに夢とやならん、持つまじきは放蕩息子《のらむすこ》、持つまじきは放蕩を仕立《したて》る継母《まゝはゝ》ぞかし。塩花《三一しほはな》こそふらね跡は一先《ひとまづ》掃き出して、若旦那退散《たいさん》のよろこび、金は惜しけれど見る目も憎《にく》ければ家《いへ》に居らぬは上々《じやうじやう》なり、何《ど》うすれば彼《あ》のやうに図太《づぶと》くなられるか、あの子を生んだ母《かゝ》さんの顔が見たい、と御新造《ごしんぞ》例に依つて毒舌《どくぜつ》をみがきぬ。お峰は此出来事も何として耳に入るべき、犯《をか》したる罪の恐ろしさに、我れか、人か、先刻《さつき》の仕業《しわざ》はと今更夢路《ゆめぢ》を辿《たど》りて、おもへば此事あらはれずして済《す》むべきや、万《まん》が中《なか》なる一枚とても数ふれば目の前なるを、願ひの額《たか》に相応《さうおう》の員数手近《三二ゐんずてぢか》の処《ところ》になくなりしとあらば、我れにしても疑ひは何処《いづこ》に向《む》くべき、調べられなば何《なん》とせん、何《なん》といはん、言ひ抜けんは罪深し、白状《はくじやう》せば伯父《をぢ》が上にもかゝる、我罪は覚悟の上なれど物堅《ものがた》き伯父様《をぢさま》にまで濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を着せて、干《ほ》されぬは貧乏《びんばふ》のならひ、かゝる事もするものと人の言ひはせぬか、悲しや何《なん》としたらよかろ、伯父様に疵《きず》のつかぬやう、我身が頓死《とんし》する法はなきかと目は御新造《ごしんぞ》が起居《たちゐ》にしたがひて心はかけ硯《すゞり》のもとにさまよひぬ。
大勘定《おほかんぢやう》とて此夜《このよ》あるほどの金をまとめて封印《三三ふういん》の事あり、御新造《ごしんぞ》それ〓〓と思ひ出して、懸《か》け硯《すゞり》に先程《さきほど》、屋根やの太郎に貸附《かしつけ》のもどり彼金《あれ》が二十御座りました、お峰、お峰かけ硯を此処《こゝ》へと奥の間《ま》より呼ばれて、最早此時《もはやこのとき》わが命は無きもの、大旦那《おほだんな》が御目通《おめどほ》りにて始めよりの事を申し、御新造が無情《むじやう》そのまゝに言《三四》ふてのけ、術《じゆつ》もなし法もなし正直は我身の守り、逃げもせず隠れもせず、慾か知らねど盗《ぬす》みましたと白状《はくじやう》はしましよ、伯父様同腹《ひとつ》で無きだけを何処《どこ》までも陳《の》べて、聴かれずば甲斐《かひ》なし其場《そのば》で舌かみ切つて死んだなら、命《いのち》にかへて嘘《うそ》とは思《おぼ》しめすまじ、それほど度胸《どきやう》すわれど奥の間へ行く心は屠所《三五としよ》の羊《ひつじ》なり。
お峰が引出したるは唯二枚、残りは十八あるべき筈を、いかにしけん束《たば》のまま見えずとて底をかへして振《ふる》へども甲斐《かひ》なし、怪《あや》しきは落散《おちち》りし紙切《かみき》れにいつ認《したゝ》めしか受取一通。
ひき出しの分《ぶん》も拝 借 致 候《はいしやくいたしさふろふ》石之助
さては放蕩《のら》かと人々顔を見合せてお峰が詮議《せんぎ》は無かりき、孝《かう》の余徳《よとく》は我れ知らず石之助の罪になりしか、いや〓〓知りて序《ついで》に被《かぶ》りし罪かも知れず、さらば石之助はお峰が守《三六まも》り本尊《ほんぞん》なるべし、後《のち》の事しりたや。
たけくらべ
(一)
廻れば大門《おほもん》の見《一》返り柳いと長けれど、お《二》歯ぐろ溝《どぶ》に燈火《ともしび》うつる三階の騒ぎも手に取る如く、明《あ》けくれなしの車の往来《ゆきゝ》にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前《三だいおんじまへ》と名は仏くさけれど、さりとは陽気《やうき》の町と住みたる人の申しき、三島神社《四みしまさま》の角《かど》をまがりてよりこれぞと見ゆる家もなく、かたぶく檐端《のきば》の十軒長屋二十軒長屋、商《あきな》ひはか《五》つふつ利《き》かぬ処とて半《なかば》さしたる雨戸の外《そと》に、あやしき形《なり》に紙を切りなして、胡粉《ごふん》ぬりくり彩色《さいしき》のある田楽みるやう、裏にはりたる串《くし》のさまもをかし、一軒ならず二軒ならず、朝日に干して夕日に仕舞ふ手当こと〓〓しく、一家内《いつかない》これにかゝりてそれは何《なに》ぞと問ふに、知らずや霜月酉《しもつきとり》の日例《ひれい》の神《六》社に慾深様のかつぎ合ふ是《こ》れぞ熊手の下ごしらへといふ、正月門松とりすつるよりかゝりて、一年うち通しの夫《そ》れは誠の商売人、片手わざにも夏より手足を色どりて、新年着《はるぎ》の支度もこれをば当てぞかし、南無や大鳥大明神《おほとりだいみやうじん》、買ふ人にさへ大福をあたへ給へば製造もとの我等万倍《ばんばい》の利益をと人ごとに言ふめれど、さりとは思ひのほかなるもの、此あたりに大長者の噂も聞かざりき、住む人の多くは廓者《くるわもの》にて良人《をつと》は小格子《こがうし》の何とやら、下足札《七げそくふだ》そろへてがらんがらんの音もいそがしや夕暮より羽織引かけて立出《たちい》づれば、うしろに切火《きりび》打かくる女房の顔もこれが見納《みをさ》めか十人ぎりの側杖《そばづゑ》無理情死《しんぢゆう》のしそこね、恨みはかゝる身のはて危く、すはと言はゞ命がけの勤めに遊山《ゆさん》らしく見ゆるもをかし、娘は大籬《八おほまがき》の下新造《九したしんぞ》とやら、七《一〇》軒の何屋が客《一一》廻しとやら、提燈《かんばん》さげてちよこ〓〓走りの修業、卒業して何にかなると、かくは檜舞台と見立つるもをかしからずや、垢ぬけのせし三十あまりの年増《としま》、小ざつぱりとせし唐桟《一二たうざん》ぞろひに紺足袋はきて、雪駄《一三せつた》ちやらちやら忙がしげに横抱きの小包は問はでもしるし、茶屋が桟橋《さんばし》とんと沙汰して、廻り遠や此処からあげまする、誂《あつら》へ物の仕事やさんと此あたりには言ふぞかし、一体の風俗よそと変りて、女子《をなご》の後帯《うしろおび》きちんとせし人少く、がらを好みて幅広の巻《一四》帯、年増はまだよし、十五六の小癪《こしやく》なるが酸漿《ほゝづき》ふくんで此姿《このなり》はと目をふさぐ人もあるべし、処がら是非もなや、昨日河岸店《一五かしみせ》に何紫の源氏名《一六げんじな》耳に残れど、けふは地廻《一七ぢまは》りの吉《きち》と手馴れぬ焼鳥の夜店を出して、身代《しんだい》たゝき骨になれば再び古巣への内儀姿《かみさますがた》、どこやら素人《しろうと》よりは見よげに覚えて、これに染まらぬ子供もなし、秋は九月仁和賀《一八にわか》の頃の大路を見給へ、さりとは能くも学びし露八《一九ろはち》が物真似、栄喜《えいき》が所作《しよさ》、孟子の母やおどろかん上達の速《すみや》かさ、うまいと褒められて今宵も一廻りと生意気は七つ八つよりつのりて、やがては肩に置《二〇》手ぬぐひ、鼻歌のそ《二一》ゝそり節《ぶし》、十五の少年がませかた恐ろし、学校の唱歌にもぎつちよんちよん《二二ヽヽヽヽヽヽヽヽ》と拍子《ひやうし》を取りて、運動会に木やり音頭《おんど》もなしかねまじき風情《ふぜい》、さらでも教育はむづかしきに教師の苦心さこそと思はゝる入谷《いりや》ぢかくに育英舎とて、私立なれども生徒の数は千人近く、狭き校舎に目白押《めじろおし》の窮屈さも教師が人望いよいよあらはれて、唯学校と一口にて此あたりには呑込みのつく程なるがあり、通《かよ》ふ子供の数々《かずかず》に或は火消鳶人足《ひけしとびにんそく》、おとつさんは刎橋《二三はねばし》の番屋に居《ゐ》るよと習はずして知る其道のかしこさ、梯子《はしご》のりのまねびにアレ忍びがへしを折りましたと訴へのつべこべ、三《二四》百といふ代言《だいげん》の子もあるべし、お前の父《とゝ》さんは馬《二五》だねえと言はれて、名のりや辛《つら》き子心にも顔あからめるしをらしさ、出入りの娼家《いへ》の秘蔵息子寮《れう》住居《ずまひ》に華族さまを気取りて、ふさ附き帽子面《おも》もちゆたかに洋服かるがると花々しきを、坊ちやん坊ちやんとて此子の追従《つゐしよう》するもをかし、多くの中に龍華寺《りゆうげじ》の信如《しんによ》とて、千筋《ちすぢ》となづる黒髪も今幾歳《いくとせ》のさかりにか、やがては墨染《すみぞめ》にかへぬべき袖の色、発心《はつしん》は腹からか、坊は親ゆづりの勉強ものあり、性来《せいらい》おとなしきを友達いぶせく思ひて、さま〓〓の悪戯《いたづら》をしかけ、猫の死骸を繩にくゝりてお役目なれば引導《いんだう》をたのみますと投げつけし事もありしが、それは昔、今は校内一の人とて苟《かり》にも侮《あなど》りての所業はなかりき、歳は十五、並背にていが栗の頭髪《つむり》も思ひなしか俗とは変《かは》りて、藤本信如《のぶゆき》と訓《よみ》にてすませど、何処やら釈《しやく》といひたげの素振《そぶり》なり。
(二)
八月廿日は千束《一せんぞく》神社のまつりとて、山車屋台《だしやたい》に町々の見得《みえ》をはりて土手をのぼりて廓内《なか》までも入込まんず勢ひ、若者が気組《きぐ》み思ひやるべし、聞かじりに子供とて油断のなりがたき此あたりのなれば、そろひの浴衣《ゆかた》は言はでものこと、銘々《めいめい》に申合せて生意気のありたけ、聞かば胆《きも》もつぶれぬべし、横町組と自らゆるしたる乱暴の子供大将に頭《かしら》の長《ちやう》とて歳も十六、仁和賀《にわか》の鉄棒《かなぼう》に親父《おやぢ》の代理をつとめしより気位《きぐらゐ》えらくなりて、帯は腰の先に、返事《へんじ》は鼻の先にていふものと定《き》め、にくらしき風俗、あれが頭の子でなくばと鳶人足《とびにんそく》が女房の蔭口《かげぐち》に聞えぬ、心一ぱいに我がまゝを通して身に合はぬ幅《はゞ》をも広げしが、表町に田中屋の正太郎とて歳は我れに三つ劣れど、家に金あり身に愛敬《あいきやう》あれば人も憎《にく》まぬ当《たう》の敵《かたき》あり、我れは私立の学校へ通ひしを、先方《さき》は公立なりとて同じ唱歌も本家《ほんけ》のやうな顔をしをる、去年《こぞ》も一昨年《をとゝし》も先方《さき》には大人《おとな》の末社《二まつしや》がつきて、まつりの趣向《しゆかう》も我れよりは花を咲かせ、喧嘩に手出《てだ》しのなりがたき仕組みもありき、今年又もや負けにならば、誰れだと思ふ横町の長吉だぞと平常《つね》の力だては空《から》ゐばりとけなされて、弁天ぼりに水およぎの折も我が組になる人は多かるまじ、力を言はば我が方《はう》がつよけれど、田中屋が柔和《おとなし》ぶりにごまかされて、一つは学問が出来をるを恐れ、我が横町組の太郎吉、三五郎など、内々《ないない》は彼方《あちら》がたに成りたるも口惜《くちを》し、まつりは明後日《あさつて》、いよ〓〓我が方が負け色と見えたらば、破れかぶれに暴れて暴れて正太郎が面《つら》に疵《きず》一つ、我れも片眼片足なきものと思へば為《し》やすし、加担人《かたうど》は車屋の丑《うし》に元結《三もとゆひ》よりの文《ぶん》、手遊屋《おもちやや》の弥助《やすけ》などあらば引けは取るまじ、おゝそれよりは彼《あ》の人の事彼の人の事、藤本のならば宜《よ》き智慧も貸してくれんと、十八日の暮れちかく、物いへば眼口にうるさき蚊を払ひて竹村しげき龍華寺《りゆうげじ》の庭先から信如《しんによ》が部屋へのそりのそりと、信さん居《ゐ》るかと顔を出しぬ。
己《お》れの為《す》る事は乱暴だと人がいふ、乱暴かも知れないが口惜《くや》しい事は口惜しいや、なあ聞いとくれ信《のぶ》さん、去年も己《お》れの処の末弟《すゑ》の奴と正太郎組の短小《ちび》野郎と万燈《四まんどう》のたゝき合ひから始まつて、それといふと奴の仲間がばらばらと飛び出しやあがつて、どうだらう小さな者の万燈を打《ぶち》こはしちまつて、胴揚《どうあげ》にしやがつて、見やがれ横町のざまをと一人がいふと、間抜の背のたかい大人《おとな》のやうな面《つら》をして居《ゐ》る団子屋《だんごや》の頓馬《とんま》が、頭《かしら》もあるものか尻尾《しつぽ》だ尻尾だ、豚の尻尾だなんて悪口《あくこう》を言つたとさ、己《お》らあ其時千束様《せんぞくさま》へねり込んで居《ゐ》たもんだから、あとで聞いた時直様《すぐさま》仕かへしに行かうと言つたら、父《とつ》さんに頭から小言《こごと》を喰つて其時も泣寝入、一昨年《をとゝし》はそらね、お前も知つてる通り筆屋《ふでや》の店へ表町《おもてまち》の若い衆が寄合て茶番か何かやつたらう、あの時己《お》れが見に行つたら、横町は横町の趣向がありませうなんて、おつな事を言ひやがつて、正太ばかり客にしたのも胸にあるわな、いくら金が有るとつて質屋のくづれの高利貸が何たら様《ざま》だ、あんな奴を生して置くより擲《たゝ》きころす方が世間のためだ、己《おい》らあ今度の祭りには如何《どう》しても乱暴に仕掛けて取かへしを附けようと思ふよ、だから信さん友達がひに、それはお前が厭だといふのも知れてるけれども何卒《どうぞ》己《お》れの肩を持つて、横町組の恥をすゝぐのだからね、おい、本家本元《ほんけほんもと》の唱歌だなんて威張りをる正太郎を取《とつ》ちめて呉れないか、己《お》れが私立の寝ぼけ生徒といはれゝばお前の事も同然だから、後生《ごしやう》だ、どうぞ、助けると思つて大万燈《おほまんどう》を振廻しておくれ、己《お》れは心《しん》から底から口惜《くや》しくつて、今度負けたら長吉の立端《たちば》は無いと無茶にくやしがつて大幅の肩をゆすりぬ。だつて僕は弱いもの。弱くても宜《い》いよ。万燈《まんどう》は振廻せないよ。振廻せなくても宜《い》いよ。僕が這入ると負けるが宜《い》いかえ。負けても宜《い》いのさ、それは仕方が無いと諦めるから、お前は何も為《し》ないで宜《い》いから唯横町の組だといふ名で、威張つてさへ呉《く》れると豪気《がうき》に人気がつくからね、己《お》れは此様《こん》な没分暁漢《わからずや》だのにお前は学《もの》が出来るからね、向うの奴が漢語か何かで冷《ひや》かしでも言つたら、此方《こつち》も漢語で仕返しておくれ、あゝ好《い》い気持《こゝろもち》ださつぱりしたお前が承知をしてくれゝればもう千人力《せんにんりき》だ、信さん有難うと常に無い優《やさ》しき言葉も出づるものなり。
一人は三尺帯に突かけ草履の仕事師の息子、一人はか《五》わ色金巾《かなきん》の羽織に紫の兵子帯《へこおび》といふ坊様仕立《ばうさましたて》、思ふ事はうらはらに、話しは常に喰ひ違ひがちなれど、長吉は我が門前に産声《うぶごゑ》を揚げしものと大《だい》和尚《をしやう》夫婦が贔負《ひいき》もあり、同じ学校へかよへば私立々々とけなされるも心わるきに、元来愛敬《ぐわんらいあいきやう》のなき長吉なれば心から味方につく者もなき憐れさ、先方《さき》は町内の若い衆どもまで尻押をして、ひがみでは無し長吉が負けを取ること罪は田中屋方に少からず、見かけて頼まれし義理としても厭とは言ひかねて信如、それではお前の組になるさ、なるといつたら嘘は無いが、成るべく喧嘩は為《せ》ぬ方が勝だよ、いよ〓〓先方《さき》が売りに出《で》たら仕方が無い、何いざと言へば田中の正太郎位《ぐらゐ》小指の先さと、我が力の無いは忘れて、信如は机の抽斗《ひきだし》から京都みやげに貰ひたる、小鍛冶《こかぢ》の小刀《こがたな》を取出して見すれば、よく切れさうだねえと覗き込む長吉が顔、あぶなし此物《これ》を振廻してなることか。
(三)
解《と》かば足にもとゞくべき髪《かみ》を、根あがりに堅くつめて前髪《まへがみ》大きく髷《まげ》おもたげの、赭熊《一しやぐま》といふ名は恐ろしけれど、これを此頃の流行《はやり》とて良家《よきしう》の令嬢《むすめご》も遊ばさるゝぞかし、色白に鼻筋とほりて、口もとは小さからねど締りたれば醜からず、一つ一つに取たてゝは美人の鑑《かゞみ》に遠けれど、物いふ声の細く清《すゞ》しき、人を見る目の愛敬《あいきやう》あふれて、身のこなしの活々《いきいき》したるは快きものなり、柿色に蝶鳥を染めたる大形《おほがた》の浴衣《ゆかた》きて、黒繻子《くろじゆす》と染分絞《そめわけしぼ》りの昼夜帯《ちうやおび》胸だかに、足にはぬり木履《二ぼくり》こゝらあたりにも多くは見かけぬ高きをはきて、朝湯の帰りに頸筋白々と手拭さげたる立姿を、今三年の後《のち》に見たしと廓《くるわ》がへりの若者は申しき、大黒屋《だいこくや》の美登利《みどり》とて生国《しやうこく》は紀州、言葉のいさゝか訛《なま》れるも可愛く、第一は切れ離れよき気象を喜ばぬ人なし、子供に似合ぬ銀貨入れの重きも道理、姉なる人が全盛の余波《なごり》、延《ひ》いては遣手《やりて》新造が姉への世辞にも、美《み》いちやん人形をお買ひなされ、これはほんの手鞠代《てまりだい》と、呉《く》れるに恩を着せねば貰ふ身の有がたくも覚えず、ま《三》くはまくは、同級の女生徒二十人に揃ひのごむ鞠を与へしはおろかの事、馴染《なじみ》の筆やに店《たな》ざらしの手遊を買しめて悦ばせし事もあり、さりとて日々夜々《にちにちやゝ》の散財《さんざい》此歳この身分《みぶん》にて叶ふべきにあらず、末《すゑ》は何となる身ぞ、両親ありながら大目に見てあらき詞《ことば》をかけたる事も無く、楼《ろう》の主《あるじ》が大切がる様子《さま》も怪しきに、聞けば養女にもあらず親戚にてはもとより無く、姉なる人が身売りの当時、鑑定《めきゝ》に来りし楼の主《あるじ》が誘ひにまかせ、此地《このち》に活計《たつき》もとむとて親子三人《みたり》が旅衣、たち出でしは此訳《このわけ》、それより奥は何なれや、今は寮のあづかりをして母は遊女の仕立物、父は小格子《こがうし》の書記に成りぬ、此身は遊芸手芸学校にも通《かよ》はせられて、其ほかは心のまゝ、半日は姉の部屋、半日は町に遊んで見聞くは三味《さみ》に太鼓にあけ紫のなり形《かたち》、はじめ藤色絞りの半襟を袷《あはせ》にかけて着て歩きしに、田舎者ゐなか者と町内の娘どもに笑はれしを口惜《くや》しがりて、三日三夜《みよ》泣きつゞけし事もありしが、今は我れより人々を嘲《あざけ》りて、野暮《やぼ》な姿と打《うち》つけの悪《にく》まれ口を、言ひ返す者もなくなりぬ、二十日はお祭りなれば心一ぱい面白い事をしてと友達のせがむに、趣向《しゆかう》は何なりと各自《めいめい》に工夫《くふう》して大勢の好《い》い事がいゝではないか、幾金《いくら》でもいゝ私が出すからとて例の通り勘定なしの引受けに、子供仲間の女王様《によわうさま》又とあるまじき恵みに大人《おとな》よりも利《き》きが早く、茶番《ちやばん》にしよう、何処のか店を借りて往来から見えるやうにしてと一人が言へば、馬鹿を言へ、それよりはお神輿《みこし》をこしらへてお呉《く》れな、蒲田屋《四かばたや》の奥に飾つてあるやうな本当のを、重くても構《かま》ひはしない、やつちよいやつちよい訳なしだと捩鉢巻《ねぢはちまき》をする男子《をとこ》の傍から、それでは私たちが詰《つま》らない、皆が騒ぐを見るばかりでは美登利《みどり》さんだとて面白くはあるまい、何でもお前の好《い》い物におしよと、女の一むれは祭りを抜きに常磐《五ときは》座《ざ》をと、言ひたげの口振をかし、田中の正太は可愛らしい眼をぐる〓〓と動かして、幻燈にしないか、幻燈に、己《お》れの処にも少しは有るし、足りないのを美登利《みどり》さんに買つて貰つて、筆やの店でやらうではないか、己《お》れが映してで横町の三五郎に口上《こうじやう》を言はせよう、美登利さんそれにしないかと言へば、あゝそれは面白からう、三ちやんの口上ならば誰れも笑はずには居《ゐ》られまい、序《ついで》にあの顔がうつると猶おもしろいと相談はとゝとのひて、不足の品を正太が買物役《かひものやく》、汗になりて飛び廻るもをかしく、いよ〓〓明日《あす》となりては横町までも其沙汰《さた》聞えぬ。
(四)
打つや鼓のしらべ、三味《さみ》の音色《ねいろ》に事かゝぬ場処も、祭りは別物、酉《とり》の市を除《の》けては一年一度の賑ひぞかし、三島さま小野照《一おのてる》さま、お隣社《となり》づから負けまじの競《きそ》ひ心をかしく、横町も表も揃ひは同じ真岡木綿《まをかもめん》に町名《ちやうめい》くづしを、去歳《こぞ》よりはよからぬ形《かた》とつぶやくもありし、く《二》ちなし染《ぞめ》の麻だすき成る程太きを好みて、十四五より以下なるは、達磨《三だるま》、木兎《みゝづく》、犬はり子、さま〓〓の手遊を数多《かずおほ》きほど見得《みえ》にして、七つ九つ十一着くるもあり、大鈴小鈴《おほすゞこすゞ》背中にがらつかせて、駆け出す足袋《たび》はだしの勇ましく可笑《をか》し、群《む》れを離れて田中の正太が赤筋入りの印半天《しるしばんてん》、色白の頸筋に紺の腹がけ、さりとは見なれぬ扮粧《いでたち》とおもふに、しごいて締めし帯の水浅黄《みづあさぎ》も、見よや縮緬の上染《じやうぞめ》、襟の印のあがりも際立《きはだ》ちて、うしろ鉢巻に山車《だし》の花一枝《いつし》、革緒《かはを》の雪駄《せつた》おとのみはすれど、馬鹿ばやしの仲間には入らざりき、夜宮《よみや》は事なく過ぎて今日一日の日も夕ぐれ、筆やが店に寄合ひしは十二人、一人かけたる美登利が夕化粧の長さに、未《ま》だか未だかと正太は門へ出つ入りつして、呼んで来い三五郎、お前はまだ大黒屋《だいこくや》の寮へ行つた事があるまい、庭先から美登利さんと言へば聞える筈、早く、早くと言ふに、それならば己《お》れが呼んで来る、万燈《まんどう》は此処へあづけて行けば誰れも蝋燭ぬすむまい、正太さん番をたのむとあるに、吝嗇《けち》な奴め、其手間で早く行けと我が年下に叱られて、おつと来たさの次郎左衛門、今の間《ま》とかけ出して韋駄天《ゐだてん》とはこれをや、あれあの飛びやうが可笑《をか》しいとて見送りし女子《をなご》どもの笑ふも無理ならず、横ぶとりして背ひくゝ、頭《つむり》の形《なり》は才槌《さいづち》とて頸みぢかく、振むけての面《おもて》を見れば出額《でびたひ》の獅子鼻《しゝつぱな》、反歯《そつぱ》の三五郎といふ仇名《あだな》おもふべし、色は論なく黒きに感心なは目つき何処までもおどけて両の頬の笑くぼの愛敬《あいきやう》、目《四》かくしの福笑《ふくわら》ひに見るやうな眉のつき方も、さりとはをかしく罪の無き子なり、貧なれや阿波《あは》ちゞみの筒袖、己《お》れは揃ひが間《ま》に合はなんだと知らぬ友には言ふぞかし、我れを頭《かしら》に六人の子供を、養ふ親も轅棒《かぢぼう》にすがる身なり、五《五》十軒によき得意場《とくいば》は持ちたりとも、内証《六ないしよう》の車は商売ものゝ外《ほか》なれば詮《せん》なく、十三になれば片腕と一昨年《をとゝし》より並《七》木の活版所へも通ひしが、◆惰《なまけ》ものなれば十日の辛防《しんばう》つゞかず、一月と同じ職も無くて霜月《しもつき》より春へかけては突羽根《八つくばね》の内職、夏は検《九》査場の氷屋が手伝ひして、呼声をかしく客を引くに上手なれば、人には重宝《ちやうはう》がられぬ、去年《こぞ》は仁和質《にわか》の台曳《だいひ》きに出でしより、友達いやしがりて万年町《まんねんちやう》の呼名《よびな》今に残れども、三五郎といへば滑稽《おどけ》者《もの》と承知して憎《にく》む者の無きも一徳《いつとく》なりし、田中屋は我が命の綱《つな》、親子が蒙《かうぶ》る御恩すくなからず、日歩《一〇ひぶ》とかや言ひて利金《りきん》安からぬ借りなれど、これなくてはの金主様《きんしゆさま》あだには思ふべしや、三公己《お》れが町へ遊びに来いと呼ばれて厭とは言はれぬ義理あり、されども我れは横町に生れて横町に育ちたる身、住む地処《ぢしよ》は龍華寺《りゆうげじ》のもの、家主《いへぬし》は長吉が親なれば、表むき彼方に背《そむ》く事かなはず、内々に此方《こつち》の用をたして、にらまるゝ時の役廻《やくまは》りつらし。正太は筆やの店へ腰をかけて、待つ間のつれ〓〓に忍《一一》ぶ恋路《こひぢ》を小声にうたへば、あれ油断がならぬと内儀《かみ》さまに笑はれて、何がなしに耳の根あかく、まぢくなひの高声に皆も来いと呼びつれて表へ駆け出す出合頭《であひがしら》、正太は夕飯《ゆふめし》なぜ喰べぬ、遊びに耄《ほう》けて先刻《さつき》にから呼ぶをも知らぬか、何方《どなた》も又のちほど遊ばせて下され、これはお世話と筆やの妻にも挨拶して、祖母《ばゞ》が自らの迎ひに正太いやが言はれず、其まゝ連れて帰らるゝあとは俄《には》かに淋しく、人数《にんず》はさのみ変らねど彼《あ》の子が見えねば大人までも寂しい、馬鹿さわぎもせねば戯言《じやうだん》も三ちやんのやうではなけれど、人好《ず》きのするは金持の息子さんに珍らしい愛敬《あいきやう》、何と御覧《ごらん》じたか田中屋の後家《ごけ》さまがいやらしさを、あれで年は六十四、白粉《おしろい》をつけぬがめつけ物なれど丸髷の大きさ、猫なで声して人の死ぬをも構《かま》はず、大方終焉《おしまひ》は金と情死《しんぢゆう》なさるやら、それでも此方《こち》どもの頭《つむり》の上らぬは彼《一二あ》の物の御威光、さりとは欲しや、廓内《なか》の大きい楼《うち》にも大分《だいぶ》の貸附があるらしう聞きましたと、大路に立ちて二三人の女房よその財産《たから》を数へぬ。
(五)
待《一》つ身につらき夜半《よは》の置炬燵《おきごたつ》、それは恋ぞかし、吹風《ふくかぜ》すゞしき夏の夕ぐれ、ひるの暑さを風呂に流して、身じまひの姿見《すがたみ》、母親が手づからそゝそけ髪《がみ》つくろひて、我が子ながら美くしきを立ちて見、居《ゐ》て見、頸筋が薄かつたと猶《なほ》ぞいひける、単衣《ひとへ》は水色友仙《いうぜん》の涼しげに、白茶《しらちや》金らんの丸帯少し幅の狭いを結ばせて庭石に下駄直すまで時は移りぬ。まだかまだかと塀の周囲《まはり》を七たび廻り、欠伸《あくび》の数《かず》も尽きて、払ふとすれど名物の蚊に首筋額際《ひたひぎは》したゝか螫《さ》され、三五郎弱りきる時、美登利立出《みどりたちい》でゝいざと言ふに、此方《こなた》は言葉もなく袖を捉《とら》へて駆け出せば、息がはずむ、胸が痛い、そんなに急ぐならば此方《こち》は知らぬ、お前一人でお出《いで》と怒られて、別れ別れの到着、筆やの店へ来《き》し時は正太が夕飯の最中《もなか》とおぼえし。あゝ面白くない、面白くない、彼の人が来なければ幻燈をはじめるのも嫌、伯母《をば》さん此処の家に智《二》慧の板は売りませぬか、十《三》六武蔵《むさし》でも何でもよい、手が閑《ひま》で困ると美登利《みどり》の淋しがれば、それよと即座に鋏を借りて女子《をなご》づれは切抜きにかゝる、男は三五郎を中に仁和賀《にわか》のさらひ、北廓《四ほくくわく》全盛見わたせば、軒は提燈《ちやうちん》電気燈、いつも賑ふ五丁町と、諸声《もろごゑ》をかしくはやし立つるに、記憶《おぼえ》のよければ去年《こぞ》一昨年《をとゝし》とさかのぼりて、手振手拍子《てぶりてびやうし》ひとつも変る事なし、うかれ立《だち》たる十人あまりの騒ぎなれば何事と門《かど》に立ちて人垣《ひとがき》をつくりし中より、三五郎は居《ゐ》るか、一寸来てくれ大急ぎだと、文次《ぶんじ》といふ元結《五もとゆひ》よりの呼ぶに、何の用意もなくおいしよ、よし来たと身軽《みがる》に敷居を飛《とび》こゆる時、此二股野郎《ふたまたやらう》覚悟をしろ、横町の面《つら》よごしめ唯は置かぬ、誰れだと思ふ長吉だ生《なま》ふざけた真似《まね》をして後悔するなと頬骨一撃《ひとうち》、あつと魂消《たまげ》て逃入る襟がみを、つかんで引出す横町の一むれ、それ三五郎をたゝき殺せ、正太を引出してやつて仕舞へ、弱虫にげるな、団子屋《だんごや》の頓馬《とんま》も唯は置かぬと潮《うしほ》のやうに沸かへる騒ぎ、筆屋の軒の掛提燈《かけぢやうちん》は苦もなくたゝき落されて、釣《つり》らんぷ危険《あぶな》し店先の喧嘩なりませぬと女房が喚きも聞かばこそ、人数《にんず》は大凡《おほよそ》十四五人、ねぢ鉢巻に大万燈《おほまんどう》ふりたてゝ、当るがまゝの乱暴狼藉《らうぜき》、土足《どそく》に踏込む傍若無人《ばうじやくぶじん》、目ざす敵《かたき》の正太が見えねば、何処へ隠した、何処へ逃げた、さあ言はぬか、言はぬか、言はさずに置くものかと三五郎を取こめて撃《う》つやら蹴るやら、美登利《みどり》くやしく止める人を掻きのけて、これお前がたは三ちやんに何の咎《とが》がある、正太さんと喧嘩がしたくば正太さんとしたが宜《よ》い、逃げもせねば隠しもしない、正太さんは居《ゐ》ぬではないか、此処は私が遊び処、お前がたに指でもさゝしはせぬ、えゝ憎《にく》らしい長吉め、三ちやんを何故ぶつ、あれ又引倒した、意趣《いしゆ》があらば私をおぶち、相手には私がなる、伯母さん止《と》めずに下されと身もだえして罵《のゝし》れば、何を女郎《ぢよらう》め頬桁《ほゝげた》たゝく、姉の跡つぎの乞食《こじき》め、手前《てめえ》の相手にはこれが相応だと多人数《おほく》のうしろより長吉、泥草履つかんで投つければ、ねらひ違《たが》はず美登利《みどり》が額際《ひたひぎは》にむさき物したゝか、血相《けつさう》かへて立あがるを、怪我でもしてはと抱留《と》むる女房《にようばう》、ざまを見ろ、此方《こち》には龍華寺《りゆうげじ》の藤本がついて居《ゐ》るぞ、仕返《しかへ》しには何時《いつ》でも来い、薄馬鹿野郎め、弱虫め、腰ぬけの意気地《いくぢ》なしめ、帰りには待伏《まちぶ》せする、横町の闇に気をつけろと三五郎を土間に投出せば、折から靴音たれやらが交番への注進《ちゆうしん》今ぞ知る、それと長吉声をかくれば丑松文次《うしまつぶんじ》その余の十余人、方角をかへてばら〓〓と逃足《にげあし》はやく、抜け裏の路次《ろじ》にかゞむもあるべし、口惜《くや》しい口惜しい口惜しい口惜しい、長吉め文次め丑松《うしまつ》め、なぜ己《お》れを殺さぬ、殺さぬか、己れも三五郎だ、唯死ぬものか、幽霊になつても取殺すぞ、覚《おぼ》えて居《ゐ》ろ長吉めと湯玉《ゆだま》のやうな涙はら〓〓、はては大声にわつと泣き出《いだ》す、身内や痛からん筒袖の処々引さかれて背中も腰も砂まぶれ、止《と》めるにも止めかねて勢ひの凄まじさに唯おど〓〓と気を呑まれし、筆やの女房走り寄りて抱き起し、背中をなで砂を払ひ、堪忍《かんにん》おし、堪忍おし、何と思つても先方《さき》は大勢、此方《こち》は皆よわい者ばかり、大人《おとな》でさへ手が出しかねたに叶《かな》はぬは知れて居《ゐ》る、それでも怪我《けが》のないは仕合《しあはせ》、此上は途中の待ぶせが危険《あぶな》い、幸ひの巡査《おまはり》さまに家まで見て頂かば我々も安心、此通りの仔細《しさい》で御座ります故と筋をあら〓〓折からの巡査に語れば、職掌《しよくしやう》がらいざ送らんと手を取らるゝに、いえいえ送つて下さらずとも帰ります、一人で帰りますと小さく成るに、こりや恐い事は無い、其方《そち》の家まで送る分《ぶん》の事、心配するなと微笑を含んで頭を撫でらるゝに弥々《いよいよ》ちゞみて、喧嘩をしたと言ふと父《とつ》さんに叱られます、頭《かしら》の家は大屋《六おほや》さんで御座りますからとて萎《しを》れるを賺《すか》して、さらば門口《かどぐち》まで送つて遣《や》る、叱らるゝやうの事は為《せ》ぬわとて連《と》れらるゝるに四隣《あたり》の人胸を撫でて遙に見送れば、何とかしけん横町の角《かど》にて巡査の手をば振放して一目散《いちもくさん》に逃げぬ。
(六)
めづらしい事、此炎天に雪が降りはせぬか、美登利《みどり》が学校を厭がるはよく〓〓の不機嫌、朝飯《あさはん》がすゝまずば後刻《のちかた》に鮨《やすけ》でも誂《あつら》へようか、風邪にしては熱も無ければ大方きのふの疲れと見える、太《一》郎様への朝参りは母《かゝ》さんが代理してやれば御免蒙《かうぶ》れとありしに、いえ〓〓姉さんの繁昌するやうにと私が願をかけたのなれば、参らねば気が済《す》まぬ、お賽銭《さいせん》下され行つて来ますと家を駆け出して、中田圃《なかたんぼ》の稲荷《いなり》に鰐口《二わにぐち》ならして手を合せ、願ひは何《なに》ぞ行きも帰りも首うなだれて畦路《あぜみち》づ《三》たひ帰り来る美登利《みどり》が姿、それと見て遠くより声をかけ、正太はかけ寄りて袂を押へ、美登利さん昨夜《ゆうべ》は御免よと突然にあやまれば、何もお前に詫《わび》られる事は無い。それでも己《お》れが憎《にく》まれて、己《お》れが喧嘩の相手だもの、お祖母《ばあ》さんが呼びにさへ来なければ帰りはしない、そんなに無暗《むやみ》に三五郎をも打たしはしなかつたものを、今朝三五郎の処へ見に行つたら、彼奴《あいつ》も泣いて口惜《くや》しがつた、己《お》れは聞いてさへ口惜しい、お前の顔へ長吉め草履を投げたと言ふではないか、あの野郎乱暴にもほどがある、だけれど美登利さん堪忍《かんにん》してお呉《く》れよ、己《お》れは知りながら逃げて居《ゐ》たのではない、飯を掻込《かつこ》んで表へ出ようとするとお祖母《ばあ》さんが湯に行くといふ、留守居《るすゐ》をして居るうちの騒ぎだらう、本当に知らなかつたのだからねと、我罪《わがつみ》のやうに平《ひら》あやまりにあやまつて、痛みはせぬかと額際《ひたひぎわ》を見あげれば、美登利につこり笑ひて何怪我《けが》をするほどではない、それだが正さん誰れが聞いても私が長吉に草履を投げられたと言つてはいけないよ、もし万一《ひよつと》お母《つか》さんが聞きでもすると私が叱られるから、親でさへ頭《つむり》に手はあげぬものを、長吉づれが草履の泥を額にぬられては踏まれたも同じだからとて、背《そむ》ける顔のいとをしく、ほんとに堪忍しておくれ、みんな己《お》れが悪い、だからあやまる、機嫌を直して呉《く》れないか、お前に怒られると己《お》れが困るものをと話しつれて、いつしか我家の裏近く来れば、寄らないか美登利さん、誰も居はしない、お祖母さんも日《四》がけを集めに出たらうし、己《お》ればかりで淋しくてならない、いつか話した錦絵《にしきゑ》を見せるからお寄りな、種々《いろいろ》のがあるからと袖を捉《とら》へて離れぬに、美登利は無言にうなづいて、侘《わ》びた折戸《をりど》の庭口より入れば、広からねども鉢ものをかくし並びて、軒につり忍艸《五しのぶ》、これは正太が午《うま》の日の買物と見えぬ、理由《わけ》しらぬ人は小首やかたぶけん町内一の財産家《ものもち》といふに、家内《かない》は祖母《ばゞ》と此子《これ》二人、万《よろづ》の鍵に下腹冷《したはらひ》えて留守は見渡《みわた》しの総長屋《そうながや》、流石《さすが》に錠前《ぢやうまへ》くだくもあらざりき、正太は先へあがりて風入《かざい》りのよき処を見たてゝ、此処へ来ぬかと団扇《うちは》の気《六》あつかひ、十三の子供にはませ過ぎてをかし。古くより持つたへし錦絵かず〓〓取出し、褒《ほ》めらるゝを嬉しく美登利さん昔の羽子板を見せよう、これは己《お》れの母《かゝ》さんがお邸《やしき》に奉公して居る頃いたゞいたのだとさ、をかしいではないか此大きい事、人の顔も今のとは違ふね、あゝ此母《かゝ》さんが生きて居《ゐ》ると宜《よ》いが、己《お》れが三つの歳《とし》死んで、お父さんは在《あ》るけれど田舎《ゐなか》の実家へ帰つて仕舞つたから今はお祖母《ばあ》さんばかりさ、お前は羨《うらや》ましいねとそゞろに親の事を言ひ出せば、それ絵がぬれる、男が泣くものではないと美登利に言はれて、己《お》れは気が弱いのかしら、時々種々《いろいろ》の事を思ひ出すよ、まだ今時分《じぶん》は宜《い》いけれど、冬の月夜なにかに田町《七 まち》あたりを集めに廻ると土《八》手まで来て幾度も泣いた事がある、何寒《さぶ》い位《くらゐ》で泣きはしない、何故だか自分も知らぬが種々《いろいろ》の事を考へるよ、あゝ一昨年《をとゝし》から己《お》れも日がけの集めに廻るさ、お祖母さんは年寄りだから其うちにも夜は危険《あぶな》いし、目が悪いから印形《いんぎやう》を捺《お》したり何かに不自由だからね、今まで幾人も男を使つたけれど、老人《としより》に子供だから馬鹿にして思ふやうには動いて呉《く》れぬとお祖母《ばあ》さんが言つて居《ゐ》たつけ、己《お》れがもう少し大人に成ると質屋を出さして、昔の通りでなくとも田中屋の看板をかけると楽しみにして居《ゐ》るよ、他処《よそ》の人はお祖母さんを吝《けち》だと言ふけれど、己《お》れの為に倹約《つましく》して呉《く》れるのだから気の毒でならない、集金《あつめ》に行くうちでも通新町《九とほりしんまち》や何かに随分可愛想なのが有るから、嘸お祖母さんを悪くいふだらう、それを考へると己《お》れは涙がこぼれる、矢張り気が弱いのだね、今朝も三公の家へ取りに行つたら、奴め身体が痛い癖に親父に知らすまいとして働いて居《ゐ》た、それを見たら己《お》れは口が利《き》けなかつた、男が泣くてえのは可笑《をか》しいではないか、だから横町の野蛮人《じやがたら》に馬鹿にされるのだと言ひかけて我が弱いを恥かしさうな顔色、何心なく、美登利《みどり》と見合す目つきの可愛さ。お前の祭の姿《なり》は大層よく似合つて羨ましかつた、私も男だとあんな風がして見たい、誰れのよりも宜《よ》く見えたと賞められて、何だ己《お》れなんぞ、お前こそ美くしいや、廓内《なか》の大巻さんよりも奇麗だと皆がいふよ、お前が姉であつたら己《お》れはどんなに肩身が広からう、何処へ行くにも随従《つい》て行つて大威張りに威張るがな、一人も兄弟が無いから仕方が無い、ねえ美登利さん今度一処に写真を取らないか、己《お》れは祭りの時の姿で、お前は透綾《すきや》のあら縞で意気《いき》な形《なり》をして、水道尻《一〇すゐだうじり》の加藤でうつさう、龍華寺《りゆうげじ》の奴が羨ましがるやうに、本当だぜ彼奴《あいつ》は屹度《きつと》怒るよ、真青《まつさを》に成つて怒るよ、にえ肝《かん》だからね、赤くはならない、それとも笑ふかしら、笑はれても構《かま》はない、大きく取つて看板に出たら宜《い》いな、お前は厭かえ、厭のやうな顔だものと恨《うら》めるもをかしく、変な顔にうつるとお前に嫌はれるからとて美登利ふき出して、高笑ひの美音《びおん》に御機嫌や直りし。
朝涼はいつしか過ぎて日かげの暑くなるに、正太さん又晩によ、私の寮《れう》へも遊びにお出でな、燈籠ながして、お魚追ひましよ、池の橋が直つたれば恐い事は無いと言ひ捨てに立出《たちい》づる美登利の姿、正太うれしげに見送つて美くしと思ひぬ。
(七)
龍華寺の信如《》、大黒屋《だいこくや》の美登利、二人ながら学校は育英舎なり、去りし四月の末つかた、桜は散りて青葉のかげに藤の花見といふ頃、春季の大運動会とて水《一》の谷《や》の原にせし事ありしが、つな引、鞠なげ、繩とびの遊びに興をそへて長き日の暮るゝを忘れし其折の事とや、信如いかにしたるか平生《へいぜい》の沈着《おちつき》に似ず、池のほとりの松が根につまづきて赤土道に手をつきたれば、羽織の袂も泥に成りて見にくかりしを、居《ゐ》あはせたる美登利みかねて我が紅《くれなゐ》の絹はんけちを前出《とりいだ》し、これにてお拭きなされと介抱をなしけるに、友達の中なる嫉妬《やきもち》や見つけて、藤本は坊主のくせに女と話をして、嬉しさうに礼を言つたは可笑《をか》しいではないか、大方《おほかた》美登利さんは藤本の女房《かみさん》になるのであらう、お寺の女房《かみさん》なら大黒《二だいこく》さまと言ふのだなどゝ取沙汰《とりざた》しける、信如元来《ぐわんらい》かゝる事を人の上に聞くも嫌ひにて、苦《にが》き顔して横を向く質《たち》なれば、我が事として我慢のなるべきや、それよりは美登利といふ名を聞くごとに恐ろしく、又あの事を言ひ出すかと胸の中もやくやして、何とも言はれぬ厭な気持なり、さりながら事ごとに怒《おこ》りつける訳にもゆかねば、成るだけは知らぬ体《てい》をして、平気をつくりて、むづかしき顔をして遣《や》り過ぎる心なれど、さし向《むか》ひて物などを問はれたる時の当惑《たうわく》さ、大方《おほかた》は知りませぬの一言《ひとこと》にて済《す》ませど、苦しき汗の身うちに流れて心ぼそき思ひなり、美登利はさる事も心にとまらねば、初めは藤本さん藤本さんと親しく物いひかけ、学校退《ひ》けての帰りがけに、我れは一足はやくて道端に珍らしき花などを見つくれば、おくれし信如を待合して、此様《こんな》うつくしい花が咲いてあるに、枝が高くて私には折れぬ、信《のぶ》さんは背が高ければお手が届きましよ、後生《ごしよう》折つて下されと一むれの中にては年長《としかさ》なるを見かけて頼めば、流石《さすが》に信如袖ふり切りて行過ぎる事もならず、さりとて人の思はくいよ〓〓つらければ、手近《てぢか》の枝を引寄せて好悪《よしあし》かまはず申訳ばかりに折りて、投つけるやうにすた〓〓と行過ぎるを、さりとは愛敬《あいきやう》の無き人と惘《あき》れし事もありしが、度かさなりての末にはおのづから故意《わざと》の意地悪のやうに思はれて、人には然《さ》もなきに我れにばかりつらき仕打をみせ、物を問へば碌な返事した事なく、傍《そば》へゆけば逃げる、はなしをすれば怒る、陰気らしい気のつまる、どうして宜《よ》いやら機嫌の取りやうも無い、あのやうなむづかしやは思ひのまゝに捻《ひね》れて怒つて意地わるが為《し》たいならんに、友達と思はずば口を利《き》くも入らぬ事と美登利少し疳《かん》にさはりて、用の無ければ摺れ違うても物いうた事なく、途中に逢ひたりとて挨拶など思ひもかけず、唯いつとなく二人の中に大川一つ横たはりて、舟も筏《いかだ》も此処には御法度《ごはつと》、岸に添うておもひおもひの道をあるきぬ。
祭りは昨日に過ぎて其あくる日より美登利の学校へ通ふ事ふつと跡たえしは、問ふまでも無く額の泥の洗うても消えがたき恥辱を、身にしみて口惜《くや》しければぞかし、表町《おもてまち》とて横町とて同じ教場におし並べば朋輩《ほうばい》に異《かは》りは無き筈を、をかしき分け隔《へだ》てに常日頃意地を持ち、我れは女の、とても敵《かな》ひがたき弱味をば附目《つけめ》にして、まつりの夜の所為《しうち》はいかなる卑怯《ひけふ》ぞや、長吉のわからずやは誰れも知る乱暴の上なしなれど、信如の尻おし無くばあれほどに思ひ切りて、表町をば荒らし得じ、人前をば物識《ものしり》らしく温順《すなほ》につくりて、陰に廻りて機関《からくり》の糸を引きしは藤本の仕業《しわざ》に極《き》まりぬ、よし級は上にせよ、学《もの》は出来るにせよ、龍華寺《りゆうげじ》さまの若旦那にせよ、大黒屋《だいこくや》の美登利紙一枚のお世話にも預からぬものを、あのやうに乞食《こじき》呼はりして貰ふ恩は無し、龍華寺はどれほど立派な檀家《だんか》ありと知らねど、我が姉《あね》さま三年の馴染《なじみ》に銀行の川様、兜町《三かぶとちやう》の米様もあり、議員の短小《ちい》さま根曳《ねびき》して奥さまにと仰《あふ》せられしを、心意気《こゝろいき》気に入らねば姉さま嫌ひてお受けはせざりしが、彼《あ》の方とても世に名高きお人と遣手《やりて》衆の言はれし、嘘ならば聞いて見よ、大黒やに大巻《おほまき》の居ずば彼《あ》の楼《いへ》は闇とかや、さればお店の旦那とても父《とゝ》さん母《かゝ》さん我が身をも粗略には遊ばさず、常々大切がりて床の間にお据ゑなされし瀬戸物《せともの》の大黒様をば、我れいつぞや座敷の中にて羽根つくとて騒ぎし時、同じく並びし花瓶《はないけ》を仆《たふ》し、散々に破損《けが》をさせしに、旦那次の間に御酒めし上りながら、美登利お転姿《てんば》が過ぎるのと言はれしばかり小言《こごと》は無かりき、他《ほか》の人ならば一通りの怒りではあるまじと、女衆達《をんなしゆたち》にあと〓〓まで羨まれしも畢竟《ひつきやう》は姉さまの威光ぞかし、我れ寮住居《ずまひ》に人の留守居はしたりとも姉は大黒屋の大巻、長吉風情《ふぜい》に敗《ひ》けを取るべき身にもあらず、龍華寺の坊さまにいぢめられんは心外《しんぐわい》と、これより学校へ通ふ事おもしろからず、我まゝの本性あなどられしが口惜《くや》しさに、石筆《せきひつ》を折り墨をすて、書籍《ほん》も十露盤《そろばん》も入らぬ物にして、中よき友と埒《らち》も無く遊びぬ。
(八)
走れ飛ばせの夕《ゆふべ》に引かへて、明けの別れに夢をのせ行く車の淋しさよ、帽子まぶかに人目を厭ふ方様《かたさま》もあり、手拭とつて頬かぶり、彼女《あれ》が別れに名残の一打、いたさ身にしみて思ひ出すほど嬉しく、うす気味わるやにた〓〓の笑ひ顔、坂《一》本へ出でゝは用心し給へ千住《せんぢゆ》がへりの青物車にお足元《もと》あぶなし、三島様の角《かど》までは気違ひ街道、御顔のしまり何《いづ》れも緩《ゆる》みて、はゞかりながら御鼻の下なが〓〓と見えさせたまへば、そんじよ其処らに夫《そ》れ大した御男子様《ごなんしさま》とて、分厘《ぶんりん》の価値《ねうち》も無しと、辻に立ちて御慮外《ごりよぐわい》を申すもありけり、楊家《二やうか》の娘君寵《むすめくんちよう》をうけてと長恨歌《ちやうこんか》を引出すまでもなく、娘の子は何処《いづこ》にも貴重がらるゝ頃なれど、此あたりの裏屋より赫奕《かぐや》姫の生るゝ事その例多し、築地《つきぢ》の某屋《それや》に今は根を移《うつ》して御前《ごぜん》さま方の御相手《おんあひて》、踊りに妙を得し雪といふ美形《びけい》、唯今のお座敷にてお米のなります木はと至極《しごく》あどけなき事は申すとも、もとは此町《こゝ》の巻帯党《まきおびづれ》にて花がるたの内職せしものなり、評判は其頃に高く去るもの日々に疎《うと》ければ、名物一つかげを消して二度目の花は紺屋《こうや》の乙娘《をとむすめ》、今千束町《三せんぞくまち》に新《しん》つた屋の御《四》神燈ほのめかして小吉《こきち》と呼ばるゝ公園の尤物《まれもの》も根生《ねお》ひは同じ此処の土なりし、あけくれの噂にも御出世といふは女に限りて、男は塵塚さがす黒斑《くろぶち》の尾の、ありて用なき物とも見ゆべし、此界隈《かいわい》に若い衆と呼ばるゝ町並の息子、生意気《なまいき》ざかりの十七八より五人組七人組、腰に尺八《しやくはち》の伊達《だて》はなけれど、何とやら厳《いか》めしき名の親分が手下《てした》につきて、揃ひの手ぬぐひ長提燈《ながちやうちん》、賽《さい》ころ振る事おぼえぬうちは素見《ひやかし》の格子《かうし》先に思ひ切つての串戯《じやうだん》も言ひがたしとや、真面目《まじめ》につとむる我が家業は昼のうちばかり、一風呂浴《あ》びて日の暮れゆけば突かけ下駄に七《五》五三の着物、何屋の店の新妓《しんこ》を見たか、金杉《かなすぎ》の糸屋が娘に似てもう一倍鼻がひくいと、頭脳《あたま》の中を此様な事にこしらへて、一軒ごとの格子に烟草《たばこ》の無理どり鼻紙の無心《むしん》、打ちつ打たれつ是れを一世の誉《ほまれ》と心得れば、堅気《かたぎ》の家の相続息子地廻りと改名して、大門際《おほもんぎは》に喧嘩かひと出るもありけり、見よや女子《をんな》の勢力《いきほひ》と言はぬばかり、春秋しらぬ五《六》丁町の賑ひ、送りの提燈《かんばん》いま流行《はや》らねど、茶屋が廻女《まはし》の雪駄《せつた》のおとに響き通へる歌舞音曲《かぶおんきよく》、うかれうかれて入込む人の何を目当と言問《ことと》はゞ、赤えり赭熊《しやぐま》に裲襠《うちかけ》の裾ながく、につと笑ふ口元目《くちもとめ》もと、何処《どこ》が美《よ》いとも申しがたけれど華魁衆《おいらんしゆう》とて此処にての敬《うやま》ひ、立はなれては知るによしなし、かゝる中にて朝夕を過ごせば、衣《ころも》の白地の紅に染む事無理ならず、美登利の眼の中に男といふ者さつても怖からず恐ろしからず女郎《ぢよらう》といふ者さのみ賤《いや》しき勤めとも思はねば、過ぎし故郷を出立の当時泣いて姉をば送りしこと夢のやうに思はれて、今日此頃の全盛に父母への孝養うらやましく、お《七》職を通す姉が身の、憂いの辛《つら》いの数も知らねば、まち人恋ふる鼠《八》なき格子の呪文《じゆもん》別れの背《せな》に手加減の秘密《おく》まで、唯おもしろく聞なされて、廓《くるわ》ことばを町にいふまでさりとは恥かしからず思へるも哀なり、年はやう〓〓数への十四、人形抱いて頬ずりする心は御華族のお姫様《ひめさま》とて変りなけれど、修身の講義、家政学のいくたても学びしは学校にてばかり、誠あけくれ耳に入りしは好《す》いた好《す》かぬの客の風説《うはさ》、仕着《しき》せ積《九》み夜具茶屋《ちやや》への行わたり、派手《はで》は美事《みごと》に、かなはぬは見すぼらしく、人事我事分別《ひとごとわがことふんべつ》をいふはまだ早し、幼心《をさなごゝろ》に目の前の花のみはしるく、持まへの負けじ気象は勝手に馳《は》せ廻りて雲のやうな形をこしらへぬ、気違ひ街道、寝ぼれ道、朝がへりの殿がた一順すみて朝寝の町も門の箒目青海波《せいかいは》をゑがき、打水よきほどに済みし表町の通りを見渡せば、来るは来るは、万年町《一〇まんねんちやう》、山伏町《やまぶしちやう》、新谷町《しんたにまち》あたりを塒《ねぐら》にして、一能一術《いちのういちじゆつ》これも芸人の名はのがれぬ、よか〓〓飴や軽業師《かるわざし》、人形つかひ大神楽《だいかぐら》、住吉をどりに角兵衛獅子、おもひおもひの扮粧《いでたち》して、縮緬透綾《すきや》の伊達《だて》もあれば、薩摩がすりの洗ひ着に黒繻子の幅狭帯《はゞせまおび》、よき女もあり男もあり、五人七人十人一組の大たむろもあれば、一人淋しき痩せ老爺《おやぢ》の破《や》れ三味線《ざみせん》かゝへて行くもあり、六つ五つなる女の子に赤襷《あかだすき》させて、あ《一一》れは紀の国をどらするも見ゆ、お顧客《とくい》は廓内《くわくない》に居つゞけ客のなぐさみ、女郎《ぢよらう》の憂《う》さ晴《は》らし、彼処《かしこ》に入る身の生涯やめられぬ得分《とくぶん》ありと知られて、来るも来るも此辺《こゝら》の町に細《こま》かしき貰ひを心に留《と》めず、裾に海松《みるめ》のいかゞはしき乞食《こじき》さへ門《かど》には立たず行過ぎるぞかし、容貌《きりよう》よき女太夫の笠にかくれぬ床《ゆか》しの頬見せながら、喉自慢、腕自慢、あれ彼《あ》の声を此町には聞かせぬが憎《にく》しと筆やの女房舌うちして言へば、店先に腰をかけて往来《ゆきき》を眺めし湯がへりの美登利、はらりと下《さが》る前髪の毛を黄楊《つげ》の鬢櫛《びんぐし》にちやつと掻きあげて、伯母さんあの太夫《たいふ》さん呼んで来ませうとて、はた〓〓駆けよつて袂にすがり、投げ入れし一品《ひとしな》を誰れにも笑つて告げざりしが好《この》みの明烏《一二あけがらす》さらりと唄はせて、又御贔負《ごひいき》をの嬌音《けうおん》これたやすくは買ひがたし、あれが子供の所業《しわざ》かと寄集《よりあつま》りし人舌を巻いて太夫《たいふ》よりは美登利の顔を眺めぬ、伊達《だて》には通るほどの芸人を此処にせき止めて、三味《さみ》の音《ね》、笛の音《ね》、太鼓の音《ね》、うたはせて舞はせて人の為《せ》ぬ事して見たいと折ふし正太に囁《ささや》いて聞かせれば、驚いて呆《あき》れて己《おい》らは嫌だな。
(九)
如是我聞《一によぜがもん》、仏説阿弥陀経《ぶつせつあみだきやう》、声は松風に和《くわ》して心のちりも吹払はるべき御寺様の庫裏《くり》より生魚《なまうを》あぶる烟《けぶり》なびきて、卵塔湯《らんたふば》に嬰児《やゝ》の襁褓《むつき》ほしたるなど、お宗旨《しうし》によりて構《かま》ひなき事なれども、法師《ほふし》を木のはしと心得たる目よりは、そゞろに腥《なまぐさ》く覚ゆるぞかし、龍華寺《りゆうげじ》の大和尚身代《だいをしやうしんだい》と共に肥え太りたる腹なり如何にも美事《みごと》に、色つやの好きこと如何なる賞《ほ》め言葉を参らせたらばよかるべき、桜色にもあらず、緋桃の花でもなし、剃《そ》り立てたる頭《つむり》より顔より首筋にいたるまで銅色《あかゞねいろ》の照りに一点のにごりも無く、白髪もまじる太き眉をあげて心まかせに大笑ひなさるゝ時は、本堂の如来《によらい》さま驚きて台座より転び落ち給はんかと危ぶまるるやうなり、御新造《ごしんぞ》はいまだ四十の上を幾らも越さで、色白に髪の毛薄く、丸髷も小さく結《ゆ》ひて見苦しからぬまでの人がら、参詣《さんけい》人へも愛想よく門前の花屋が口悪嬶《くちわるかゝ》も兎角の蔭口を言はぬを見れば、着ふるしの浴衣《ゆかた》、総菜のお残りなどおのづからの御恩も蒙《かうぶ》るなるべし、もとは檀家の一人なりしが早くに良人《をつと》を失ひて寄る辺なき身の暫時《しばらく》こゝにお針やとひ同様、口さへ濡らさせて下さらばとて洗ひ濯《すゝ》ぎよりはじめてお菜ごしらへは素《もと》よりの事、墓場の掃除に男衆《をとこしゆ》の手を助くるまで働けば、和尚さま経済より割出しての御ふびんかゝり、年は二十から違うて見ともなき事は女も心得ながら、行き処なき身なれば結句《けつく》よき死場所と人目を恥ぢぬやうになりけり、苦々《にがにが》しき事なれども女の心だて悪からねば檀家の者もさのみは咎《とが》めず、総領の花といふを懐孕《まうけ》し頃、檀家の中にも世話好《ず》きの名ある坂本の油屋の隠居さま媒人《なかうど》といふも異《い》な物なれど勧《すす》めたてゝ表向《おもてむ》きのものにしける、信如《しんによ》も此人の腹より生れて男女二人《なんによふたり》の同胞《きやうだい》、一人は如法《二によほふ》の変屈《へんくつ》ものにて一日部屋の中にまぢ〓〓と陰気らしき生れなれど、姉のお花は皮薄《かはうす》の二重腮《にじゆうあご》可愛《かはゆ》らしく出来たる子なれば、美人といふにはあらねども年頃といひ人の評判もよく、素人《しろうと》にして捨てゝ置くは惜しい物の中に加へぬ、さりとてお寺の娘に左《三》り褄《づま》、お釈迦《しやか》が三味《しやみ》ひく世は知らず人の聞え少しは憚られて、田町の通りに葉茶屋の店を奇麗にしつらへ、帳場格子《ちやうばがうし》の裡《うち》に此娘《このこ》を据ゑて愛敬《あいきやう》を売らすれば、秤《はか》りの目は兎に角勘定《かんぢやう》しらずの若い者など、何がなしに寄つて大方毎夜十二時を聞くまで店に客のかげ絶えたる事なし、いそがしきは大和尚《だいをしやう》、貸金の取たて、店への見廻り、法用のあれこれ、月に幾日は説教日の定《さだ》めもあり帳面くるやら経よむやら斯《か》くては身体のつゞき難《がた》しと夕暮れの縁先に花むしろを敷《し》かせ、片肌ぬぎに団扇《うちは》づかひしながら大盃《おほさかづき》に泡盛《あわもり》をなみ〓〓と注《つ》がせて、さかなは好物《かうぶつ》の蒲焼《かばやき》を表町のむさし屋へあらい処をとの誂へ、承りてゆく使ひ番は信如《しんによ》の役なるに、其厭なること骨にしみて、路を歩くにも上を見し事なく、筋向うの筆やに子供づれの声を聞けば我が事を誹《そし》らるゝかと情なく、素知《そし》らぬ顔に鰻屋の門《かど》を過ぎては四辺《あたり》に人目の隙をうかゞひ、立戻《たちもど》つて駈け入る時の心地、我身限つて腥《なまぐさ》きものは食べまじと思ひぬ。
父親《てゝおや》和尚は何処までもさばけたる人にて、少しは慾深の名にたてども人の風説《うはさ》に耳をかたぶけるやうな小胆《せうたん》にては無く、手の暇あらば熊手の内職もして見ようといふ気風なれば、霜月《四しもつき》の酉《とり》には論なく門前の明地《あきち》に簪《かんざし》の店を開き、御新造《ごしんぞ》に手拭かぶらせて延喜《えんぎ》の宜《よ》いのをと呼ばせる趣向《しゆかう》、はじめは恥かしき事に思ひけれど、軒ならび素人《しろうと》の手業《てわざ》にて莫大の儲《まう》けと聞くに、此雑沓の中といひ誰れも思ひ寄らぬ事なれば日暮《ひぐ》れよりは目にも立つまじと思案《しあん》して、昼間は花屋の女房に手伝はせ、夜に入りては自身《みづから》おり立《たち》て呼たつるに、慾なれやいつしか恥かしさも失《う》せて、思はず声高《こわだか》に負けましよ負けましよと跡を追ふやうになりぬ、人波にもまれて買手《かいて》も眼《まなこ》の眩《くら》みし折なれば、現在後世《ごせ》ねがひに一昨日《をとゝひ》来りし門前も忘れて、簪三本七十五銭と懸直《かけね》すれば、五本ついたを三銭ならばと直切《ねぎ》つて行く、世はぬば玉の闇の儲《まうけ》は此ほかにも有るべし、信如《しんによ》は斯《か》かる事どもいかにも心ぐるしく、よし檀家の耳には入《い》らずとも近辺の人々が思はく、子供仲間の噂にも龍華寺では簪の店を出して、信《のぶ》さんが母《かゝ》さんの狂気面《きちがひづら》して売つて居《ゐ》たなどゝと言はれもするやと恥かしく、其様《そん》な事は止《よ》しにしたが宜《よ》う御座りませうと止《と》めし事もありしが、大和尚《だいをしやう》大笑ひに笑ひすてゝ、黙つて居《ゐ》ろ、黙つて居《ゐ》ろ貴様などが知らぬ事だわとて丸々相手にしては呉れず、朝念仏《あさねんぶつ》に夕勘定《ゆふかんぢやう》、そろばん手にしてにこ〓〓と遊ばさるゝ顔つきは我親ながら浅ましくて、何故その頭をまろめ給ひしぞと恨めしくもなりぬ。
もとより一腹《ぷく》一対《つゐ》の中に育ちて他人交《ま》ぜずの穏かなる家《いへ》の内《うち》なれば、さして此児を陰気ものに仕立あげる種は無けれども、性来《せいらい》おとなしき上に我が言ふ事の用ひられねば兎角に物のおもしろからず、父が仕業《しわざ》も母の所作《しよさ》も姉の教育《したて》も、悉皆《しつかい》あやまりのやうに思はるれど言うて聞かれぬものぞと諦めればうら悲しきやうに情なく、友朋輩《ともほうばい》は変屈者《へんくつもの》の意地わると目ざせども自ら沈み居《ゐ》る心の底の弱き事、我が蔭口を露ばかりもいふ者ありと聞けば、立出《たちい》でゝ喧嘩口論の勇気もなく、部屋にとぢ籠つて人に面《おもて》の合はされぬ臆病至極の身なりけるを、学校にての出来ぶりといひ身分がらの卑《いや》しからぬにつけても然《さ》る弱虫とは知る者なく、龍華寺《りゆうげじ》の藤本は生煮《なまに》えの餠のやうに真《しん》があつて気になる奴と憎《にく》がるものも有りけらし。
(十)
祭りの夜は田町の姉のもとへ使ひを吩咐《いいつけ》られて、更《ふ》くるまで我家へ婦らざりければ、筆やの騒ぎは夢にも知らず、翌日《あす》になりて丑松文次《うしまつぶんじ》その外の口よりこれこれであつたと伝へらるゝに、今更《いまさら》ながら長吉の乱暴に驚けども済みたる事なれば咎《とが》めだてするも詮《せん》なく、我が名を仮りられしばかりつく〓〓迷惑に思はれて、我が為《な》したる事ならねど人々への気の毒を身一つに背負たるやうの思ひありき、長吉も少しは我が遣りそこねを恥かしう思ふかして、信如《しんによ》に逢はゞ小言《こごと》や聞かんと其三四日は姿も見せず、やゝ余熱《ほとぼり》のさめたる頃に信さんお前は腹を立つか知らないけれど時の拍子《ひやうし》だから堪忍して置いて呉《く》んな、誰れもお前正太が明巣《あきす》とは知るまいではないか、何も女郎《めらう》の一疋位相手にして三五郎を擲《なぐ》りたい事もなかつたけれど、万燈《まんどう》を振込んで見りやあ唯も帰れない、ほんの附景気に詰《つま》らない事をしてのけた、そりやあ己《お》れが何処までも悪いさ、お前の命令《いひつけ》を聞かなかつたは悪からうけれど、今怒られては形《かた》なしだ、お前といふ後だてがあるので己《お》らあ大船に乗つたやうだに、見すてられちまつては困るだらうぢやないか、嫌だとつても此組の大将で居てくんねえ、左様《さう》どぢばかりは組まないからとて面目なさゝうに詫《わび》られて見ればそれでも私は厭だとも言ひがたく、仕方が無い遣る処までやるさ、弱い者いぢめは此方《こつち》の恥になるから三五郎や美登利《みどり》を相手にしても仕方が無い、正太に末社《まつしや》がついたら其時のこと、決して此方から手出しをしてはならないと留めて、さのみは長吉をも叱り飛ばさねど再び喧嘩のなきやうにと祈られぬ。
罪のない子は横町の三五郎なり、思ふさまに擲《たゝ》かれて蹴られて其二三日は立居《たちゐ》も苦しく、夕ぐれ毎に父親《てゝおや》が空車《からぐるま》を五十軒の茶屋が軒まで運ぶにさへ、三公は何《ど》うかしたか、ひどく弱つて居るやうだなと見知りの台《一》屋に咎《とが》められしほどなりしが、父親《てゝおや》はお辞宜《じぎ》の鉄とて目上の人に頭《つむり》をあげた事なく廓内《なか》の旦那は言はずともの事、大屋様地主様いづれの御無理も御尤《ごもつとも》と受ける質《たち》なれば、長吉と喧嘩してこれ〓〓の乱暴に逢ひましたと訴へればとて、それは何《ど》うも仕方が無い大屋さんの息子さんではないか、此方に理が有らうが先方《さき》が悪からうが喧嘩の相手に成るといふ事は無い、詫びて来い詫びて来い途方も無い奴だと我子を叱りつけて、長吉がもとへあやまりに遣られる事必定《ひつぢやう》なれば、三五郎は口惜《くや》しさを噛みつぶして七日十日と程をふれば、痛みの場所の癒ると共に其うらめしさも何時《いつ》しか忘れて、頭《かしら》の家の赤ん坊が守りをして二銭が駄賃をうれしがり、ねん〓〓よ、おころりよ、と背負ひあるくさま、年はと問へば生意気ざかりの十六にも成りながら其づう体を恥かしげにもなく、表町へものこ〓〓と出かけるに、いつも美登利と正太が嬲《なぶ》りものになつて、お前は性根を何処へ置いて来たとからかはれながらも遊びの仲間は外《はづ》れざりき。
春は桜の賑ひよりかけて、な《二》き玉菊が燈籠の頃、つゞいて秋の新仁和賀《しんにわか》には十分間に車の飛ぶこと此通りのみにて七十五輛と数へしも、二《三》の替りさへいつしか過ぎて、赤蜻蛉田圃《とんぼたんぼ》に乱るれば横《四》堀に鶉《うづら》なく頃も近づきぬ、朝夕の秋風身にしみ渡りて上清《じやうせい》が店の蚊遣香《かやりかう》懐炉灰に座をゆづり、石《五》橋の田《六》村やが粉挽《ひ》く臼《うす》の音さびしく、角海老《七かどえび》が時計の響きもそゞろ哀れの音《ね》を伝へるやうになれば、四季絶間なき日暮里《につぽり》の火の光りもあれが人を焼く烟《けぶり》かとうら悲しく、茶屋が裏ゆく士手下の細道に落かゝるやうな三味の音を仰いで聞けば、仲之町《なかのちやう》芸者が冴えたる腕に、君《八》が情の仮寝の床にと何ならぬ一ふしあはれも深く、此時節《じせつ》より通《かよ》ひ初《そ》むるは浮かれ浮かるゝ遊客《いうかく》ならで、身にしみじみと実《じつ》のあるお方のよし、遊女《つとめ》あがりのさる人が申しき、此ほどの事かゝんもくだくだしや大音寺前《だいおんじまへ》にて珍らしき事は盲目《めくら》按摩《あんま》の二十《はたち》ばかりなる娘、かなはぬ恋に不自由なる身を恨みて水《九》の谷《や》の池に入水《じゆすゐ》したるを新らしい事とて伝へる位《くらゐ》なもの、八百屋の吉五郎に大工《だいく》の太吉がさつぱりと影を見せぬが何とかせしと問ふに此一件であげられましたと、顔《一〇》の真中へ指をさして、何の仔細《しさい》なく取立てゝて噂をする者もなし、大路を見渡せば罪なき子供の三五人手を引つれて開《一一ひ》いらいた開らいた何の花ひらいたと、無心の遊びも自然と静かにて、廓《くるわ》に通ふ車の音のみ何時に変らず勇ましく聞えぬ。
秋雨しと〓〓と降るかと思へばさつと音して運び来るやうなる淋しき夜、通りすがりの客をば待たぬ店なれば、筆やの妻は宵のほどより表の戸をたてゝ、中に集まりしは例の美登利《みどり》に正太郎、その外《ほか》には小さき子供の二三人寄りて細螺《一二きしやご》はじきの幼げな事して遊ぶほどに、美登利ふと耳を立てゝ、あれ誰れか買物に来たのではないか溝板《どぶいた》を踏む足音がするといへば、おや左様《さう》か、己《お》いらは些《ちつ》とも聞かなかつたと正太もち《一三》うちうたこかいの手を止めて、誰れか仲間が来たのではないかと嬉しがるに、門《かど》なる人の、此店の前まで来りける足音の聞えしばかりそれよりはふつと絶えて、音も沙汰《さた》もなし。
(十一)
正太は潜《くゞ》りを明《あ》けて、ばあと言ひながら顔を出すに、人は二三軒先の軒下をたどりて、ぽつぽつと行く後影《うしろかげ》、誰《だ》れだ誰れだ、おいお這入よと声をかけて、美登利が足駄を突かけばきに、降る雨を厭はず駆け出《いだ》さんとせしが、あゝあ彼奴《あいつ》だと一言、振かへつて、美登利さん呼んだつても来はしないよ、一件だもの、と自分の頭《つむり》を丸めて見せぬ。
信さんかえ、と受けて、嫌な坊主つたら無い、屹度《きつと》筆か何か買ひに来たのだけれど私たちが居るものだから立聞きをして帰つたのであらう、意地悪の、根性《こんじやう》まがりの、ひねつこびれの、吃《どんも》りの、歯《はつ》かけの、嫌な奴め、這入つて来たら散々と窘《いぢ》めてやるものを、帰つては惜しい事をした、どれ下駄をお貸し、一寸見てやる、とて正太に代《かは》つて顔を出せば軒の雨だれ前髪に落ちて、おゝ気味が悪いと首を縮めながら、四五軒先の瓦斯燈《一がすとう》の下を大黒傘《二だいこくがさ》肩にして少しうつむいて居るらしくとぼ〓〓と歩む信如《しんによ》の後《うしろ》かげ、何時《いつ》までも、何時までも、何時までも見送るに、美登利《みどり》さん何《ど》うしたの、と正太は怪《あや》しがりて背中をつゝきぬ。
何《ど》うもしない、と気の無い返事をして、上へあがつて細螺《きしやご》を数へながら、本当に嫌な小僧とつては無い、表向《おもてむ》きに威張つた喧嘩は出来もしないで、温順《おとな》しさうな顔ばかりして、根性《こんじやう》がぐずぐずして居るのだもの僧らしからうではないか、家の母《かゝ》さんが言うて居たつけ、がら〓〓して居る者は心が良いのだと、それだからぐずぐずして居る信《のぶ》さん何《なん》かは心が悪いに相違ない、ねえ正太さん左様《さう》であらう、と口を極《きは》めて信如《しんによ》の事を悪く言へば、それでも龍華寺《りゆうげじ》はまだ物が解《わか》つて居るよ、長吉と来たら彼《あ》れははやと、生意気に大人の口を真似《まね》れば、お廃《よ》しよ正太さん、子供の癖にませたやうでをかしい、お前はよつぽど剽軽《へうきん》ものだね、とて美登利は正太の頬をつゝいて、其真面目《まじめ》がほほと笑ひこけるに、己《おい》らだつても最《も》少し経てば大人になるのだ、蒲田屋《かばたや》の旦那のやうに角袖《かくそで》外套か何か着てね、お祖母《ばあ》さんが仕舞つて置く金時計を貰つて、そして指輪もこしらへて、巻煙草を吸つて、穿《は》く物は何が宜《よ》からうな、己《おい》らは下駄より雪駄《せつた》が好きだから、三枚裏にして繻珍《しゆちん》の鼻緒といふのを穿くよ、似合《にあ》ふだらうかと言へば、美登利はくす〓〓笑ひながら、背《せい》の低い人が角袖外套に雪駄ばき、まあ何《ど》んなにか可笑《をか》しからう、目《三》薬の瓶が歩くやうであろうと誹《四おと》すに、馬鹿を言つて居らあ、それまでには己《おい》らだつて大きく成るさ、此様《こん》な小ぽけでは居ないと威張るに、それではまだ何時の事だか知れはしない、天井の鼠があれ御覧、と指をさすに、筆やの女房《つま》を始めとして座にある者みな笑ひころげぬ。
正太は一人真面目に成りて、例の目の玉ぐるぐるとさせながら、美登利《みどり》さんは戯言《じやうだん》にして居るのだね、誰れだつて大人に成らぬ者は無いに、己《おい》らの言ふが何故をかしからう、奇麗な嫁さんを貰つて連《つ》れて歩くやうに成るのだがなあ、己《おい》らは何でも奇麗のが好きだから、煎餅《せんべい》やのお福のやうな痘痕《五みつちや》づらや、薪《たきゞ》やのお出額《でこ》のやうなが若し来ようなら、直《ぢき》さま追出して家《うち》へは入れて遣らないや、己《おい》らは痘痕《あばた》と疥癬《しつ》つかきは大嫌ひと力を入れるに、主人《あるじ》の女は吹出して、それでも正さん能《よ》く私が店へ来て下さるの、伯母さんの痘痕《あばた》は見えぬかえと笑ふに、それでもお前は年寄りだもの、己《おい》らの言ふのは嫁さんの事さ、年寄りは何うでも宜《よ》いとあるに、それは大失敗《おほしくじり》だねと筆やの女房おもしろづくに御機嫌を取りぬ。
町内で顔の好いのは花屋のお六さんに、水菓子やの喜《き》いさん、それよりも、それよりもずんと好いはお前の隣に坐つてお出《いで》なさるのなれど、正太さんはまあ誰にしようと極《き》めてあるえ、お六さんの眼つきか、喜《き》いさんの清元か、まあ何《ど》れをえ、と問はれて、正太顔を赤くして、何たお六づらや、喜《き》い公、何処が好いものかと釣りらんぷの下を少し居退《ゐの》きて、壁際《ぎは》の方へと尻込《しりご》みをすれば、それでは美登利さんが好いのであらう、さう極《き》めて御座んすの、と図星をさゝれて、そんな事を知るものか、何だ其様《そん》な事、とくるり後を向いて壁の腰ばりを指でたゝきながら、廻《六》れ〓〓水車を小音《せうおん》に唱ひだす、美登利は衆人《おほく》の細螺《きしやご》を集めて、さあもう一度はじめからと、これは顔をも赤らめざりき。
(十二)
信如《しんによ》が何時《いつ》も田町へ通《かよ》ふ時、通らでも事は済《す》めども言はゞ近道の土手々前《どててまへ》に、仮初《かりそめ》の格子《かうし》門、のそげば鞍馬《一くらま》の石燈籠《いしどうろう》に萩の袖垣《そでかき》しをらしう見えて、縁先に巻きたる簾《すだれ》のさまもなつかしう、中がらすの障子のうちには今様《二いまやう》の按察《あぜち》の後室《こうしつ》が数珠《じゆず》をつまぐつて、冠《かぶ》つ切りの若《三》紫も立出づるやと思はるゝ、その一構《かま》へが大黒屋の寮なり。
昨日も今日も時雨《つゆ》の空に、田町の姉より頼みの長胴着《ながどうぎ》が出来たれば、寸時《すこし》も早う重《かさ》ねさせたき親心、御苦労でも学校まへの一寸《ちよつと》の間に持つて行つて呉《く》れまいか、定《さだ》めて花も待つて居ようほどに、と母親よりの吩咐《いひつけ》を、何も厭とも言切られぬ温順《おとな》しさに、唯はい〓〓と小包みを抱《かゝ》へて、鼠小倉《こくら》の緒のすがりし朴木歯《ほゝのきば》の下駄ひた〓〓と、信如は雨傘さしかざして出でぬ。
お歯ぐろ溝《どぶ》の角より曲《まが》りて、いつも行くなる細道をたどれば、運わるう大黒やの前まで来し時、さつと吹く風大黒傘の上を攫《つか》みて、宙へ引あげるかと疑ふばかり烈《はげ》しく吹けば、これは成《な》らぬと力足を踏こたふる途端《とたん》、さのみに思はざりし前鼻緒のずる〓〓と抜けて、傘よりもそれこそ一の大事に成りぬ。
信如こまりて舌打《したうち》はすれども、今更何と法のなければ、大黒屋の門に傘を寄せかけ、降る雨を庇《ひさし》に厭《いと》うて鼻緒をつくろふに、常々仕馴《つねづねしな》れぬお坊さまの、これは如何《いか》な事、心ばかりは急《あせ》れども、何としても巧《うま》くはすげる事のならぬ口惜《くや》しさ、ぢれて、ぢれて、袂《たもと》の中から記《四》事文の下書きして置いた大半紙《おほばんし》を掴み出し、ずん〓〓と裂《さ》きて紙綯《こより》をよるに、意地《いぢ》わるの嵐またもや落し来て、立《たて》かけし傘のころ〓〓と転がり出づるを、いま〓〓しい奴《やつ》めと腹立たしげにいひて、取留めんと手を伸ばすに、膝へ載せて置きし小包み意気地《いくぢ》もなく落ちて、風呂敷は泥に、我着る物の袂までを汚《よご》しぬ。
見るに気の毒なるは雨の中の傘なし、途中に鼻緒を踏み切りたるばかりは無し、美登利《みどり》は障子《しやうじ》の中ながら硝子《がらす》ごしに遠く眺めて、あれ誰れか鼻緒を切つた人がある、母《かゝ》さん切れを遣《や》つても宜《よ》う御座んすかと尋ねて、針箱の抽斗《ひきだし》から友仙《いうぜん》縮緬の切れ端をつかみ出し、庭下駄はくも鈍《もど》かしきやうに、馳《は》せ出《い》でゝ縁先の洋傘《かうもり》さすより早く、庭石の上を伝うて急ぎ足に来りぬ。
それと見るより美登利の顔は赤う成りて、どのやうの大事にでも遇《あ》ひしやうに、胸の動悸《どうき》の早くうつを、人の見るかと背後《うしろ》の見られて、恐る恐る門の傍《そば》へ寄れば、信如もふつと振返りて、これも無言の腋《わき》を流るゝ冷汗《ひやあせ》、跣足《はだし》になりて逃げ出したき思ひなり。
平生《つね》の美登利ならば、信如が難儀の体《てい》を指さして、あれ〓〓あの意気地《いくぢ》なしと笑うて笑うて笑ひ抜いて、言ひたいまゝの悪《にく》まれ口、よくもお祭りの夜は正太さんに仇《あだ》をするとて私たちが遊びの邪魔をさせ、罪も無い三ちやんを擲《たゝ》かせて、お前は高見で采配《さいはい》を振つてお出《いで》なされたの、さあ謝罪《あやまり》なさんすか、何とで御座んす、私の事を女郎《ぢよらう》々々と長吉づらに言はせるのもお前の指図《さしづ》、女郎でも宜《よ》いではないか、塵一本お前さんが世話には成らぬ、私には父《とゝ》さんもあり母《かゝ》さんもあり、大黒屋《だいこくや》の旦那も姉《あね》さんもある、お前のやうな腥《なまぐさ》のお世話には能《よ》うならぬほどに、余計な女郎呼はり置いて貰ひましよ、言ふ事があらば陰のくすくすならで此処でお言ひなされ、お相手には何時《いつ》でもなつて見せまする、さあ何とで御座んす、と袂《たもと》を捉《とら》へて捲《ま》くしかくる勢ひ、さこそは当《五》り難うもあるべきを、物いはず格子のかげに小隠《こがく》れて、さりとて立去るでもなしに唯うぢ〓〓と胸とゞろかすは常の美登利のさまにては無かりき。
(十三)
此処は大黒屋《だいこくや》のと思ふ時より信如《しんによ》は物の恐ろしく、左右《さいう》を見ずして直《ひた》あゆみに為《せ》しなれども、生憎《あやにく》の雨、生憎の風、鼻緒をさへに踏切りて、詮なき門下《もんした》に紙綯《こより》を撚《よ》る心地、憂き事さま〓〓に何《ど》うも堪へられぬ思ひのありしに、飛石《とびいし》の足音は耳より冷水をかけられるが如く、顧《かへりみ》ねども其人と思ふに、わな〓〓と慄へて顔の色も変るべく、後向《うしろむ》きになりて猶も鼻緒に心を尽すと見せながら、半《なかば》は夢中に此下駄いつまで懸りても穿《は》けるやうには成らんともせざりき。
庭なる美登利はさしのぞいて、えゝ不器用なあんな手つきして何《ど》うなるものぞ、紙《一》綯は婆々撚《ばゞより》、藁《二》しべなんぞ前壼《まへつぼ》に抱かせたとて長もちのする事ではない、それ〓〓羽織の裾が地について泥になるは御存じ無いか、あれ傘が転がる、あれを畳んで立てかけて置けば好《よ》いにと一々鈍《もど》かしう歯がゆくは思へども、此処に裂《き》れが御座んす、此裂《これ》でおすげなされと呼かくる事もせず、これも立尽して降《ふる》雨袖に詫《わび》しきを、厭《いと》ひもあへず小隠《こがく》れて覗《うかが》ひしが、さりとも知らぬ母親のはるかに声を懸けて、火のしの火が熾《おこ》りましたぞえ、此美登利さんは何を遊んで居る、雨の降るに表へ出ての悪戯《いたづら》は成りませぬ、又此間のやうに風引かうぞと呼立てられるに、はい今行きますと大きく言ひて、其声信如に聞えしを恥かしく、胸はわく〓〓と上気して、何うでも明けられぬ門の際《きは》にさりとも見過しがたき難儀をさま〓〓の思案尽《しあんつく》して、格子の間《あひだ》より手に持つ裂《き》れを物いはず投げ出せば、見ぬやうに見て知らず顔を信如のつくるに、えゝ例《いつも》の通りの心根と遣る瀬なき思ひを眼に鍾《あつ》めて、少し涙の恨《うら》み顔、何を憎んで其やうに無情《つれなき》そぶりは見せらるゝ、言ひたい事は此方《こなた》にあるを、余りな人とこみ上ぐるほど思ひに迫れど、母親の呼声しば〓〓なるを詫《わび》しく、詮方《せんかた》なさに一足二足えゝ何ぞいの未練くさい、思はく恥かしと身をかへして、かた〓〓と飛石を伝ひゆくに、信如は今ぞ淋しう見かへれば紅入《べにい》り友仙の雨にぬれて紅葉の形《かた》のうるはしきが我が足ちかく散ぼひたる、そゞろに床《ゆか》しき思ひはあれども、手に取あぐる事もせず、空《むな》しう眺めて憂き思ひあり。
我が不器用をあきらめて、羽織の紐の長きをはづし、結《ゆは》ひつけにくる〓〓と見とむなき間に合せをして、これならばと踏試《こゝろ》みるに、歩きにくき事言ふばかりなく、此下駄で田町まで行く事かと今さら難儀は思へども詮方なくて立上る信如、小包みを横に二足《ふたあし》ばかり此門をはなるゝにも、友仙の紅葉眼に残りて、捨てゝ過ぐるにしのび難く、心残して見返れば、信さん何《ど》うした鼻緒を切つたのか、其姿《なり》は何だ、見つともないなと不意に声を懸くる者あり。
驚いて見かへるに暴《あば》れ者の長吉、いま廓内《なか》よりの帰りと覚《おぼ》しく、浴衣《ゆかた》を重ねし唐桟《たうざん》の着物に柿色の三尺を例《いつも》の通り腰の先にして、黒八《三くろはち》の襟のかゝつた新らしい半天《はんてん》、印の傘をさしかざし高足駄《あしだ》の爪皮《つまかは》も今朝よりとはしるき漆《うるし》の色、きはぎはしう見えて誇らしげなり。
僕は鼻緒を切つて仕舞つて何《ど》う為《し》ようかと思つて居る、本当に弱つて居るのだ、と信如の意気地《いくぢ》なき事を言へば、左様《さう》だらうお前に鼻緒の立《たち》ツこは無い、好《い》いや己《お》れの下駄を穿《は》いて行きねえ、此鼻緒は大丈夫だよといふに、それでもお前が困るだらう。何己《お》れは馴れたものだ、斯《か》うやつて斯うすると言ひながら急遽《あわたゞ》しう七分三分に尻端折《しりはしをり》て、其様《そん》な結《四ゆ》ひつけなんぞより是《こ》れが爽快《さつぱり》だと下駄を脱ぐに、お前跣足《はだし》になるのかそれでは気の毒だと信如困り切るに、好いよ、己《お》れは馴れた事だ信さんなんぞは足の裏が柔かいから跣足《はだし》で石ころ道は歩けない。さあ此れを穿《は》いてお出、と揃へて出す親切さ、人には疫病神《やくびやうがみ》のやうに厭はれながらも毛虫眉毛《けむしまゆげ》を動かして優《やさ》しき詞《ことば》のもれ出づるぞをかしき。信さんの下駄は己が提げて行かう、台処《だいどこ》へ抛《はふ》り込んで置いたら仔細《しさい》はあるまい、さあ穿き替へてそれをお出しと世話をやき、鼻緒の切れしを片手に提げて、それなら信さん行つてお出、後刻《のち》に学校で逢はうぜの約束、信如は田町の姉のもとへ、長吉は我家の方へと行別れるに思ひの留まる紅入《べにいり》の友仙《いうぜん》は可憐《いぢら》しき姿を空《むな》しく格子門の外にと止めぬ。
(十四)
此年三《一》の酉までありて中一日はつぶれしかど前後の上天気に大鳥《おほとり》神社の賑ひすさまじく、此処をかこつけに検査場の門より乱れ入る若人達の勢ひとては、天柱くだけ地維《ちゐ》かくるかと思はるゝ笑ひ声のどよめき、仲之町《なかのちやう》の通りは俄《にはか》に方角《ほうがく》の変りしやうに思はれて、角 町 京 町《すみちやうきやうまち》処々のはね橋より、さつさ押せ〓〓と猪牙《ちよき》がゝつた言葉に人波を分くる群《むれ》もあり、河岸《かし》の小店の百囀《ももさへづ》りより、優《いう》にうづ高き大籬《おほまがき》の楼上まで、絃歌の声のさま〓〓に沸き来るやうな面白さは大方の人おもひ出でて忘れぬものに思《おぼ》すもあるべし、正太は此日日がけの集めを休ませ貰ひて、三五郎が大頭《二おほがしら》の店を見舞ふやら、団子屋の背高《せいたか》が愛想《あいそ》気のない汁粉《しるこ》やを音づれて、何《ど》うだ儲《まう》けがあるかえと言へば、正さんお前好《い》い処へ来た、己《お》れが◆《あん》この種なしに成つてもう今からは何を売らう、直様《すぐさま》煮かけては置いたれど半途《なかたび》お客は断《ことわ》れない、何《ど》うしような、と相談を懸けられて、智慧無しの奴め大鍋の周辺《ぐるり》にそれッ位無駄がついて居るではないか、それへ湯を廻して砂糖さへ甘くすれば十人前や二十人は浮いて来《こ》よう、何処でもみんな左様《さう》するのだお前の店《とこ》ばかりではない、何此騒ぎの中で良否《よしあし》を言ふ者があらうか、お売りお売りと言ひながら先に立つて砂糖の壼を引寄すれば、隻眼《めつかち》の母親おどろいた顔をして、お前さんは本当に商人《あきんど》に出来て居なさる、恐ろしい智慧者《ちゑしや》だと賞めるに、何だ此様《こん》な事が智慧者なものか、今横町の潮吹《しほふ》きの処《とこ》で◆が足りないッて斯《か》う遣《や》つたを見て来たので己《お》れの発明ではない、と言ひ捨てゝ、お前は知らないか美登利さんの居る処を、己《お》れは今朝から探して居るけれど何処へ行つたか筆やへも来ないと言ふ、廓内《なか》だらうかなと問へば、むゝ美登利さんはな今の先己《お》れの家の前を通つて揚屋町《あげやまち》の刎橋《はねばし》から這入《はい》つて行つた、本当に正さん大変だぜ、今日はね、髪を斯ういふ風にこんな島田に結つてと、変てこな手つきして、奇麗だね彼《あ》の娘《こ》はと鼻を拭《ふき》つゝ言へば、大巻《おほまき》さんより猶美《なほい》いや、だけれど彼《あ》の子も華魁《おいらん》に成るのでは可哀さうだと下を向《む》いて正太の答ふるに、好いぢやあないか華魁《おいらん》になれば、己《お》れは来年から際物屋《三きはものや》に成つてお金をこしらへるがね、それを持つて買ひに行くのだと頓馬《とんま》を現はすに、洒落《しやら》くさい事を言つて居らあ爾《さう》すればお前は屹度振《四》られるよ。何故々々。何故でも振られる訳があるのだもの、と顔を少し染めて笑ひながら、それぢやあ己《お》れも一廻りして来ようや、又後に来るよと捨台辞《すてぜりふ》して門《かど》に出で、十六七の頃までは蝶よ花よと育てられ、と怪《あや》しきふるへ声に此頃此処の流行《はやり》ぶしを言つて、今では勤めが身にしみてと口の内に繰返し、例の雪駄《せつた》の音高く浮きたつ人の中に交りて小さき身体《からだ》は忽ちに隠れつ。
揉《も》まれて出でし廓《くるわ》の角、向うより番《五》頭新造のお妻と連《つ》れ立ちて話しながら来るを見れば、まがひもなき大黒屋の美登利なれども誠に頓馬の言ひつる如く、初々《うひうひ》しき大島田結《ゆ》ひ綿《わた》のやうに絞《しぼ》りばなしふさ〓〓とかけて、鼈甲のさ《六》し込、総《ふさ》つきの花かんざしひらめかし、何時よりは極彩色《ごくさいしき》のたゞ京人形を見るやうに思はれて、正太はあつとも言はず立止りしまゝ例《いつも》の如くは抱きつきもせで打諦視《うちまも》るに、彼方《かなた》は正太さんかと走り寄り、お妻どんお前買物が有ればもう此処でお別れにしましよ、私は此人と一処に帰ります、左様ならとて頭を下げるに、あれ美いちやんの現金《げんきん》な、もうお送りは入りませぬとかえ、そんなら私は京町で買物しましよ、とちよこちよこ走りに長屋の細路《ほそみち》へ駆け込むに、正太はじめて美登利の袖を引いて好く似合ふね、いつ結つたの今朝かえ昨日かえ何故はやく見せては呉れなかつた、と恨めしげに甘ゆれば、美登利打萎《しを》れて口重く、姉さんの部屋で今朝結《ゆ》つて貰つたの、私は厭で仕様が無い、とさし俯《うつぶ》きて往来《ゆきゝ》を恥《は》ぢぬ。
(十五)
憂く恥かしく、つゝましき事身にあれば人の褒めるは嘲《あざけ》りと聞なされて、島田の髷《まげ》のなつかしさに振かへり見る人たちをば我れを蔑《さげす》む眼つきと猜《と》られて、正太さん私は自宅《うち》へ帰るよと言ふに、何故今日は遊ばないのだらう、お前何か小言《こごと》を言はれたのか、大巻《おほまき》さんと喧嘩でもしたのではないか、と子供らしい事を問はれて答へは何と顔の赤むばかり、連立《つれだ》ちて団子屋の前を過ぎるに頓馬《とんま》は店より声をかけてお中が宜《よろ》しう御座いますと仰山《ぎやうさん》の言葉を聞くより美登利は泣きたいやうな顔つきして、正太さん一処《いつしよ》に来ては嫌だよと、置去りに一人足を早めぬ。
お酉さまは諸共《もろとも》にと言ひしを道引違《ひきたが》へて我が家の方《かた》へと美登利の急ぐに、お前一処《いつしよ》には来て呉《く》れないのか、何故其方《そつち》へ帰つて仕舞ふ、あんまりだぜと例の如く甘えてかゝるを振切るやうに物言はず行けば、何の故《ゆゑ》とも知らねども正太は呆れて追ひすがり袖を留《とゞ》めては怪《あや》しがるに、美登利顔のみ打赤めて、何でもない、と言ふ声理由《わけ》あり。
寮の門をばくゞり入るに正太かねても遊びに来馴れてさのみ遠慮の家にもあらねば、跡《あと》より続いて縁先からそつと上るを、母親見るより、おゝ正太さん宜《よ》く来て下さつた、今朝から美登利の機嫌が悪くてみんなあぐね《一ヽヽヽ》て困つて居ます、遊んでやつて下されと言ふに、正太は大人《おとな》らしうかしこまりて加減が悪いのですかと真面目《まじめ》に問ふを、いゝえ、と母親怪《あや》しき笑顔をして少し経《た》てば癒《なほ》りませう、いつでも極《きま》りの我まゝ様《さん》、嘸《さぞ》お友達とも喧嘩しませうな、ほんに遣切《やりき》れぬ嬢さまではあるとて見かへるに、美登利はいつか小座敷に蒲団掻《二》巻持出でゝ、帯と上着を脱ぎ捨てしばかり、うつ伏し臥《ふ》して物をも言はず。
正太は恐る〓〓枕もとへ寄つて、美登利さん何《ど》うしたの病気なのか心持が悪いのか全体何《ど》うしたの、とさのみは摺《すり》寄らず膝に手を置いて心ばかりを悩ますに、美登利は更に答へも無く押ゆる袖にしのび音《ね》の涙、まだ結《ゆ》ひこめぬ前髪の毛の濡れて見ゆるを訳ありとは著《しる》けれど、子供心に正太は何と慰めの言葉も出でず唯ひたすらに困り入るばかり、全体何が何《ど》うしたのだらう、己《お》れはお前に怒られる事はしもしないのに、何が其様《そん》なに腹が立つの、覗き込んで途方《とはう》にくるれば、美登利は眼を拭うて正太さん私は怒つて居るのではありません。
それなら何《ど》うしてと問はれゝば憂き事さま〓〓是《こ》れは何うでも話しのほかの包ましさなれば、誰れに打明けいふ筋ならず、物言はずしておのづと頬の赤うなり、さして何とは言はれねども次第々々に心細き思ひ、すべて昨日の美登利の身に覚えなかりし思ひをまうけて物の恥かしさ言ふばかりなく、成る事ならば薄暗き部屋のうちに誰れとて言葉をかけもせず我が顔ながむる者なしに一人気まゝの朝夕を経《へ》たや、さらば此様の憂き事ありとも人目つゝましからずば斯《か》く迄物は思ふまじ、何時《いつ》までも何時までも人形と紙雛様《あねさま》とを相手にして飯事許《まゝごとばか》りして居たらば嘸かし嬉しき事ならんを、えゝえ厭々、大人《おとな》に成るは厭な事、何故此やうに年をば取る、もう七月十月、一年も以前《もと》へ還りたいにと老人《としより》じみた考へをして、正太の此処にあるをも思はれず、物いひかければ悉《ことごと》く蹴ちらして、帰つてお呉《く》れ正太さん、後生《ごしやう》だから帰つてお呉れ、お前が居ると私は死んで仕舞ふであらう、物を言はれると頭痛がする、口を利《き》くと眼がまはる、誰《だ》れも誰れも私の処へ来ては厭なれば、お前も何卒《どうぞ》帰つてと例に似合ぬ愛想《あいそ》づかし、正太は何故とも得ぞ解きがたく、煙《けぶり》のうちにあるやうにてお前は何うしても変てこだよ、其様《そん》な事を言ふ筈は無いに、をかしな人だねと、是《こ》れはいさゝか口惜《くちを》しき思ひに、落ついて言ひながら目には気弱の涙のうかぶを、何とてそれに心を置くべき帰つてお呉れ、帰つてお呉れ、何時《いつ》まで此処に居て呉れゝばもうお友達でも何でも無い、厭な正太さんだと憎らしげに言はれて、それならば帰るよ、お邪魔さまで御座いましたとて、風呂場に加減《かげん》見る母親には挨拶《あいさつ》もせず、ふいと立つて正太は庭先よりかけ出しぬ。
(十六)
真一文字《まいちもんじ》に駆けて人中を抜けつ潜《くゞ》りつ、筆屋の店へをどり込めば、三五郎は何時《いつ》か店をば売仕舞うて、腹掛のかくしへ若干金《なにがし》かをばぢやらつかせ、弟妹《おとゝいもと》引つれつゝ好きな物をば何でも買への大兄様《おほにいさん》、大愉快の最中《もなか》へ正太の飛込み来しなるに、やあ正さん今お前をば探して居たのだ、己《お》れは今日は大分儲《まう》けがある、何か奢《おご》つて上げようかと言へば、馬鹿をいへ手前《てめえ》に奢《おご》つて貰ふ己《お》れでは無いわ、黙つて居ろ生意気は吐《つ》くなと何時になく荒い事を言つて、それどころでは無いとて鬱《ふさ》ぐに、何だ何だ喧嘩かと喰べかけの◆ぱんを懐中《ふところ》に稔《ね》ぢ込んで相手は誰《だ》れだ、龍華寺《りゆうげじ》か長吉か、何処で始まつた廓内《なか》か鳥《一》居前か、お祭りの時とは違ふぜ、不意でさへ無くば負けはしない、己《お》れが承知だ先棒《さきぼう》は振らあ、正さん胆つ玉をしつかりして懸《かゝ》りねえ、と競《きそ》ひかゝるに、えゝ気の早い奴め、喧嘩では無い、とて流石《さすが》に言ひかねて口を噤《つぐ》めば、でもお前《めえ》が大層らしく飛込んだから己《お》れは一途《いちづ》に喧嘩かと思つた、だけれど正さん今夜はじまらなければもう是《こ》れから喧嘩の起りッこは無いね、長吉の野郎片腕がなくなるものと言ふに、何故どうして片腕がなくなるのだ。お前知らずか己《お》れもたつた今うちの父さんが龍華寺の御新造《ごしんぞ》と話して居たを聞いたのだが、信さんはもう近々《ちかぢか》何処かの坊さん学校へ這入るのだとさ、衣《ころも》を着て仕舞へば手が出ねえや、からつきり彼《あ》んな袖のぺら〓〓した、恐ろしい長い物を捲《まく》り上《あげ》るのだからね、左様《さう》なれば来年から横町も表も残らずお前の手下《てした》だよと煽《そや》すに、廃《よ》して呉れ二銭貰ふと長吉の組に成るだらう、お前みたやうのが百人仲間に有つたとて些《ちつ》とも嬉しい事はない、附きたい方へ何方《どつち》へでも附きねえ、己《お》れは人は頼まない真《ほん》の腕ッこで一度龍華寺と遣りたかつたに、他処《よそ》へ行かれては仕方が無い、藤本は来年学校を卒業してから行くのだと聞いたが、何《ど》うして其様《そんな》に早く成つたらう、仕様のない野郎だと舌打しながら、それは少しも心に留まらねども美登利が素振《そぶり》のくり返されて正太は例の歌も出ず、大路の往来《ゆきゝ》の夥《おびたゞ》しきさへ心淋しければ賑やかなりとも思はれず、火ともし頃より筆やが店に転がりて、今日の酉《とり》の市めちやめちやに此処も彼処《かしこ》も怪《あや》しき事なりき。
美登利は彼日《かのひ》を始めにして生れかはりしやうの身の振舞《ふるまひ》、用ある折は廓《くるわ》の姉のもとにこそ通へ、かけても町に遊ぶ事をせず、友達さびしがりて誘ひにと行けば今に今にと空約束《からやくそく》はてし無く、さしもに中よしなりけれど正太とさへに親しまず、いつも恥かしげに顔のみ◆《あか》めて筆やの店に手踊《てをどり》の活溌さは再び見るに難くなりける、人は怪《あや》しがりて病ひの故《せゐ》かと危ぶむもあれども母親一人ほゝ笑みては、今にお侠《きやん》の本性《ほんしやう》は現はれまする、これは中休《なかやす》みと理由《わけ》ありげに言はれて、知らぬ者には何の事とも思はれず、女らしう温順《おとな》しう成つたと褒《ほ》めるもあれば折角の面白い子を種なしにしたと誹《そし》るもあり、表町は俄に火の消えしやう淋しくなりて、正太が美音《びおん》も聞く事稀《まれ》に、唯夜な〓〓の弓張提燈《ゆみはりぢやうちん》、あれは日がけの集めとしるく土手《どて》を行く影そゞろ寒《さぶ》げに、折ふし供する三五郎の声のみ何時《いつ》に変らず滑稽《おどけ》ては聞えぬ。
龍華寺の信如が我が宗《しゆう》の修業の庭に立出《たちい》づる風説《うはさ》をも美登利は絶えて聞かざりき、有りし意地《いぢ》をば其まゝに封じ込めて、此処しばらくの怪《あや》しの現象《さま》に我れを我れとも思はれず、唯何事も恥かしうのみありけるに、或る霜の朝水仙の作り花を格子門《かうしもん》の外より差入れ置きし者のありけり、誰れの仕業《しわざ》と知るよし無けれど、美登利は何ゆゑとなく懐かしき思ひにて違ひ棚の一輪《いちりん》ざしに入れて淋しく清き姿をめでけるが、聞くともなしに伝へ開く其明けの日は信如が何がしの学林《がくりん》に袖の色かへぬべき当日《たうじつ》なりしとぞ。
にごりえ
(一)
おい木村さん信さん寄つてお出《いで》よ、お寄りといつたら寄つても宜《い》いではないか、又素通《すどほ》りで二葉《ふたば》やへ行く気だらう、押かけて行つて引ずつて来るからさう思ひな、ほんとにお湯《ぶう》なら帰りに屹度《きつと》よつてお呉《く》れよ、嘘つ吐《つ》きだから何を言ふか知れやしないと、店先に立つて馴染《なじみ》らしき突《一つッ》かけ下駄の男をとらへて小言《こごと》をいふやうな物の言ひぶり、腹も立たずか言訳《いひわけ》しながら後刻《のち》に後刻《のち》にと行過ぎるあとを、一寸《ちよつと》舌打《したうち》しながら見送つて後《のち》にも無いもんだ来る気もない癖《くせ》に、本当に女房もちに成つては仕方がないねと店に向つて閾《しきゐ》をまたぎながら一人言《ごと》をいへば、高《たか》ちやん大分御述懐《ごじゆつくわい》だね、何もそんなに案じるにも及ぶまい焼棒杭《二やけぼつくひ》に何とやら、又よりの戻る事もあるよ、心配しないで呪《まじなひ》でもして待つが宜《い》いさと慰《なぐ》さめるやうな朋輩《ほうばい》の口振《くちぶり》、力《りき》ちやんと違つて私には技倆《うで》が無いからね、一人でも逃《にが》しては残念さ、私《わたし》のやうな運の悪い者には呪も何も利《き》きはしない、今夜もまた木戸番《三きどばん》か、何《なん》たら事だ面白くもないと肝癪《かんしやく》まぎれに店前《みせさき》へ腰をかけて駒下駄《こまげた》のうしろでとん〓〓と土間《どま》を蹴《け》るは二十の上を七つか十か引眉毛に作り生際《はえぎは》、白粉《おしろい》べつたりとつけて、唇《くちびる》は人喰ふ犬の如く、かくては紅も厭やらしき物なり、お力《りき》と呼ばれたるは中肉の背恰好《かつかう》すらりつとして洗ひ髪の大島田に新《四しん》わらのさわやかさ、頸《えり》もと計《ばか》りの白粉《おしろい》も栄《は》えなく見ゆる天然《てんねん》の色白《いろじろ》をこ《五》れみよがしに乳のあたりまで胸《六》くつろげて、烟草《たばこ》すぱ〓〓長烟管《ながぎせる》に立膝《たてひざ》の無作法《ぶさはふ》さも咎《とが》める人のなきこそよけれ、思ひ切つたる大形の浴衣《ゆかた》に引《七》かけ帯は黒襦子《くろじゆす》と何やらのまがひ物、緋《ひ》の平《八》ぐけが背の処に見えて言はずと知れし此あたりの姉《あね》さま風なり、お高といへるは洋銀《やうぎん》の簪《かんざし》で天《九》神がへしの髷《まげ》の下を掻きながら思ひ出したやうに力《りき》ちやん先刻《さつき》の手紙お出しかといふ、はあと気のない返事をして、どうで来るのでは無いけれど、あれもお愛想《あいさう》さと笑つて居《ゐ》るに、大抵《たいてい》におしよ巻紙二尋《一〇ふたひろ》も書いて二枚切手《ぎつて》の大封じがお愛想《あいそう》で出来る物かな、そして彼《あ》の人は赤坂《あかさか》以来の馴染《なじみ》ではないか、少しやそつとの粉紜《いざ》があらうとも縁切れになつて溜《たま》る物か、お前の出かた一つで何《ど》うでもなるに、ちつとは精《せい》を出して取止《とりと》めるやうに心がけたら宜《よ》かろ、あんまり冥利《一一みやうり》がよくあるまいと言へば御親切に有がたう、御異見《ごいけん》は承《うけたまは》り置まして私はどうも彼《あ》んな奴《やつ》は虫が好かないから、無き縁とあきらめて下さいと人事《ひとごと》のやうにいへば、あきれたものだのと笑つてお前なぞは其我《そのわが》まゝが通るから豪勢《がうせい》さ、此身になつては仕方がないと団扇《うちは》をとつて足元《もと》をあふぎながら、昔《一二》は花よの言ひなし可笑《をか》しく、表を通る男を見かけて寄つてお出《いで》でと夕ぐれの店先《みせさき》にぎはひぬ。
店は二間間口《けんまぐち》の二階作《づく》り、軒には御神燈《一三ごしんとう》さげて盛《一四も》り塩《じほ》景気《けいき》よく、空壜《あきびん》か何か知らず、銘酒《めいしゆ》あまた棚の上にならべて帳場《ちやうば》めきたる処も見ゆ、勝手元《かつてもと》には七輪《りん》を煽《あほ》ぐ音折々《をりをり》に騒《さわ》がしく、女主《あるじ》が手づから寄せ鍋茶碗《なべちやわん》むし位《ぐらゐ》はなるも道理《ことわり》、表《おもて》にかゝげし看板《かんばん》を見れば仔細《しさい》らしく御料理《おんれうり》とぞしたゝめける、さりとて仕出《一五しだ》し頼《たの》みに行たらば何とかいふらん、俄《にはか》に今日品切《こんにちしなぎ》れもをかしかるべく、女ならぬお客様は手前店《てまへみせ》へお出かけを願ひまするとも言ふにかたからん、世は御方便《一六ごはうべん》や商売がらを心得《え》て口取《くちと》り焼肴《やきざかな》とあつらへに来る田舎《ゐなか》ものもあらざりき、お力《りき》といふは此家の一《一七》枚看板《かんばん》、年は随一《ずゐいち》若けれども客を呼ぶに妙《めう》ありて、さのみは愛想の嬉しがらせを言ふやうにもなく我まゝ至極《しごく》の身の振舞《ふるまひ》、少し容貌《きりやう》の自慢《じまん》かと思へば小面《一八こづら》が憎くいと蔭口いふ朋輩《ほうばい》もありけれど、交際《つきあつ》ては存《ぞんじ》の外やさしい処があつて女ながらも離れともない心持《こゝろもち》がする、あゝ心とて仕方のないもの面《おも》ざしが何処《どこ》となく冴《さ》えて見えるは彼《あ》の子の本性《ほんしやう》が現はれるのであらう、誰しも新開《一九しんかい》へ這入《はい》るほどの者で菊の井《ゐ》のお力《りき》を知らぬはあるまじ、菊の井《ゐ》のお力《りき》か、お力《りき》の菊の井か、さても近来まれの拾ひもの、あの娘《こ》のお蔭《かげ》で新開《しんかい》の光りが添《そ》はつた、抱《かゝ》へ主《ぬし》は神棚《かみだな》へさゝげて置いてもいゝとて軒並《のきなら》びの羨《うら》やみ種《ぐさ》になりぬ。
お高《たか》は往来《ゆきき》の人のなきを見て、力《りき》ちやんお前の事だから何があつたからとて気にしても居まいけれど、私は身につまされて源《げん》さんの事が思はれる、夫《それ》は今の身分に落ぶれては根つから良《い》いお客ではないけれども思ひ合ふたからには仕方がない、年が違《ちが》をが子があろがさ、ねえ左様《さう》ではないか、お内儀《かみ》さんがあるといつて別れられるものかね、構《かま》ふ事はない呼出してお遣《や》り、私のなぞといつたら野郎《やらう》が根《ねつ》から心替《こゝろがは》りがして顔を見てさへ逃げ出すのだから仕方がない、どうで諦《あきら》め物で別口《べつくち》へかゝるのだがお前のは夫《そ》れとは違ふ、料簡《れうけん》一つでは今のお内儀《かみ》さんに三下《二〇くだ》り半をも遣《や》られるのだけれど、お前は気位《きぐらゐ》が高いから源さんと一《ひと》つにならうとは思ふまい、夫《それ》だもの猶《なほ》の事呼ぶ分に仔細《しさい》があるものか、手紙をお書き今に三河《かは》やの御用聞《二一ごようき》きが来るだらうから彼《あ》の子僧《こぞう》に使《つか》ひやさんを為《さ》せるが宜《い》い、何《なん》の人お嬢様ではあるまいし御遠慮《ごゑんりよ》ばかり申してなる物かな、お前は思ひ切りが能《よ》すぎるからいけない兎《と》も角《かく》手紙をやつて御覧、源さんも可愛《かあい》さうだわなと言ひながらお力《りき》を見れば烟管《きせる》掃除《さうぢ》に余念《よねん》のなき歟俯向《かうつむき》たるまゝ物いはず。
やがて雁首《がんくび》を奇麗に拭《ふ》いて一服《ぷく》すつてポンとはたき、又すひつけてお高《たか》に渡しながら、気をつけてお呉《く》れ店先《みせさき》で言はれると人聞きが悪いではないか、菊の井《ゐ》のお力《りき》は土方《どかた》の手伝《てつだ》ひを情夫《まぶ》に持つなどゝ勘違ひをされてもならない、夫《それ》は昔の夢がたりさ、何《なん》の今は忘れて仕舞つて源《げん》とも七とも思ひ出されぬ、もう其話しは止め〓〓といひながら立あがる時表を通る兵子帯《二二へこおび》の一むれ、これ石川さん村岡さんお力《りき》の店《みせ》をお忘れなされたかと呼べば、いや相変らず豪傑《がうけつ》の声がかり、素通《二三すどほ》りもなるまいとてずつと這入《はい》るに、忽《たちま》ち廊下《らうか》にばた〓〓といふ足音、姉さんお銚子《てうし》と声をかければ、お肴《さかな》は何をと答ふ、三味《さみ》の音景気《ねけいき》よく聞えて果《は》ては乱舞《らんぶ》のおともまじりぬ。
(二)
さる雨の日のつれ〓〓に表を通る山高帽子《一やまたかばうし》の三十男、あれなりと捉《と》らへずば此降《このふ》りに客の足とまるまじとお力《りき》かけ出して袂《たもと》にすがり、何《ど》うでも遣《や》りませぬと駄々《だゞ》をこねれば、容貌《きりやう》よき身の一徳《とく》、例になき仔細《しさい》らしきお客を呼入れて二階の六畳に三味線《さみせん》なしのしめやかなる物語《ものがたり》、年を問《と》はれて名を問《と》はれて其次は親もとの調《しら》べ、士族《二しぞく》かといへば夫《そ》れは言はれませぬといふ、平民かと問《と》へば何《ど》うござんせうかと答ふ、そんなら華族《くわぞく》と笑ひながら聞くに、まあ左様《さう》おもふて居て下され、お華族の姫様《ひいさま》が手づからのお酌《しやく》、かたじけなく御受けなされとて波々《なみなみ》とつぐに、さりとは無作法《ぶさはふ》な置《三おき》つぎといふが有る物か、夫《それ》は小笠原《四をがさはら》か、何流ぞといふに、お力流《りきりう》とて菊の井一家《ゐいつか》の作法《さはふ》、畳に酒のまする流儀《りうぎ》もあれば、大平《五おほひら》の蓋《ふた》であほらする流儀《りうぎ》もあり、いやなお人にはお酌をせぬといふが大詰《おほづ》めの極《きま》りでござんすとて臆《おく》したるさまもなきに、客はいよ〓〓面白がりて履歴《りれき》をはなして聞かせよ定《さだ》めて凄《すさ》まじい物語《ものがたり》があるに相違《さうゐ》なし、唯の娘あがりとは思はれぬ何《ど》うだとあるに、御覧なさりませ未だ鬢《びん》の間《あひだ》に角《つの》も生《は》えませず、其やうに甲羅《かふら》は経《へ》ませぬとてころ〓〓と笑ふを、左様《さう》ぬけてはいけぬ、真実の処を話して聞かせよ、素性《すじやう》が言へずば目的でもいへとて責《せ》める、むづかしうござんすね、いふたら貴君《あなた》びつくりなさりましよ天下《六てんか》を望む大伴《おほとも》の黒主《くろぬし》とは私が事とていよ〓〓笑ふに、これは何《ど》うもならぬ其《その》やうに茶利《七ちやり》ばかり言はで少し真実《しん》の処を聞かしてくれ、いかに朝夕《てうせき》を嘘の中に送るからとてちつとは誠も交《まじ》る筈、良人《をつと》はあつたか、それとも親故かと真に成つて聞かれるにお力《りき》かなしくなりて、私だとて人間でござんすほどに少しは心にしみる事もありまする、親は早くになくなつて今はほんの手と足ばかり、此様《こん》な者なれど女房に持たうといふて下さるも無いではなけれど未《ま》だ良人《をつと》をば持ちませぬ、何《ど》うで下品《げひん》に育ちました身なれば此様《こん》な事して終るのでござんしよと投出《なげだ》したやうな詞《ことば》に無量《むりやう》の感あふれてあだなる姿の浮気《うはき》らしきに似ず一節《ふし》さ《八》むらふ様子のみゆるに、何も下品《げひん》に育つたからとて良人《をつと》の持てぬ事はあるまい、殊《こと》にお前のやうな別品《べつぴん》さんではあり、一足《いつそく》とびに玉の輿《こし》にも乗れさうなもの、夫《そ》れとも其やうな奥様あつかひ虫が好《す》かで矢張《やはり》伝法肌《九でんぱふはだ》の三尺帯《じやくおび》が気に入るかなと問へば、どうで其処《そこ》らが落《お》ちでござりましよ、此方《こちら》で思ふやうなは先様《さきさま》が嫌なり、来いといつて下さるお人の気に入るもなし、浮気《うはき》のやうに思召《おぼしめ》しませうが其日送《そのひおく》りでござんすといふ、いや左様《さう》は言はさぬ相手《あいて》のない事はあるまい、今店先《みせさき》で誰れやらがよろしく言ふたと他《ほか》の女が言伝《ことづて》たではないか、いづれ面白《おもしろ》い事があらう何とだといふに、あゝ貴君《あなた》もい《一〇》たり穿鑿《せんさく》なさります、馴染《なじみ》はざら一面、手紙のやりとりは反古《ほご》の取かへッこ、書けと仰《おつ》しやれば起証《一一きしよう》でも誓紙《一二せいし》でもお好《この》み次第《しだい》さし上ませう、女夫《めをと》やくそくなどと言つても此方《こち》で破《やぶ》るよりは先方様《さきさま》の性根《しやうね》なし、主人もちなら主人が怖《こは》く親もちなら親の言ひなり、振向《ふりむ》いて見てくれねば此方《こちら》も追ひかけて袖を捉《と》らへるに及ばず、それなら廃《よ》せとて夫《そ》れ限《ぎ》りに成りまする、相手《あひて》はいくらもあれども一生を頼む人が無いのでござんすとて寄る辺《べ》なげなる風情《ふぜい》、もうこんな話しは廃《よ》しにして陽気《やうき》にお遊びなさりまし、私は何も沈んだ事は大嫌ひ、さわいでさわいで騒ぎぬかうと思ひますとて手を叩《たゝ》いて朋輩《ほうばい》を呼べば力《りき》ちやん大分お《一三》しめやかだねと三十女の厚化粧《あつげしやう》が来るに、おい此娘《このこ》の可愛《かあい》い人は何といふ名だと突然《だしぬけ》に問《と》はれて、はあ私はまだお名前を 承 《うけたまは》りませんでしたといふ、嘘をいふと盆《ぼん》が来るに閻魔《えんま》様へお参りが出来まいぞと笑へば、夫《一四それ》だとつて貴君《あなた》今日お目にかゝつたばかりでは御座りませんか、今改《あらた》めて伺ひに出やうとして居《ゐ》ましたといふ、それは何の事だ、貴君《あなた》のお名をさと揚《一五あ》げられて、馬鹿馬鹿お力《りき》が怒るぞと大景気《おほけいき》、無駄ばなしの取りやりに調子《てうし》づいて旦那《だんな》のお商売《しやうばい》を当てて見ませうかとお高《たか》がいふ、何分願ひますと手の平《ひら》を差し出せば、いえ夫《それ》には及びませぬ人相《にんさう》で見まするとて如何《いか》にも落つきたる顔つき、よせ〓〓じつと眺《なが》められて棚《一六》おろしでも始まつては溜《たま》らぬ、斯《か》う見えても僕は官員《くわんゐん》だといふ、嘘を仰《おつ》しやれ日曜のほかに遊んであるく官員様《くわんゐんさま》があります物か、力《りき》ちやんまあ何でいらつしやらうといふ、化物《ばけもの》ではいらつしやらないよと鼻の先で言つて分つた人に御褒美《ごはうび》だと懐中《ふところ》から紙入《かみい》れを出《いだ》せば、お力《りき》笑ひながら高《たか》ちやん失礼をいつてはならない此お方は御大身《一七ごたいしん》の御華族様おしのびあるきの御遊興《ごいうきよう》さ、何の商売などがおありなさらう、そんなのでは無いと言ひながら蒲団《ふとん》の上に乗せて置きし紙入《かみい》れを取あげて、お相方《あひかた》の高尾《一八たかを》にこれをばお預《あづ》けなされまし、みなの者に祝儀《しうぎ》でも遣《つか》はしませうとて答へも聞かずずん〓〓引出《ひきいだ》すを、客は柱に寄《より》かゝつて眺《なが》めながら小言《こごと》もいはず、諸事《しよじ》おまかせ申すと寛大《一九くわんだい》の人なり。
お高《たか》はあきれて力《りき》ちやん大抵《たいてい》におしよといへど、何宜《なによ》いのさ、これはお前《まへ》にこれは姉さんに、大きいので帳場《ちやうば》の払《はら》ひを取つて残りは一同《みんな》にやつても宜《よ》いと仰《おつ》しやる、お礼を申して頂いてお出でと撒散《まきち》らせば、これを此娘《このこ》の十《二〇》八番に馴れたる事とてさのみは遠慮もいふては居ず、旦那よろしいのでございますかと駄《二一》目を押して、有がたうございますと掻《か》きさらつて行くうしろ姿、十九にしては老《ふ》けてるねと旦那《だんな》どの笑ひだすに、人の悪い事を仰《おつ》しやるとてお力《りき》は起《た》つて障子《しやうじ》を明《あ》け、手摺《てす》りに寄つて頭痛《づつう》をたゝくに、お前はどうする金は欲しくないかと問はれて、私は別にほしい物がござんした、此品《これ》さへ頂けば何よりと帯の間から客の名刺《めいし》を取出して頂くまねをすれば、何時《いつ》の間に引出《ひきだ》した、お取かへには写真をくれとねだる、此次《このつぎ》の土曜日に来て下されば御一処《ごいつしよ》にうつしませうとて帰りかゝる客を左《さ》のみは止《と》めもせず、うしろに廻りて羽織をきせながら、今日は失礼を致しました、又《また》のお出《いで》を待ますといふ、おい程《ほど》の善《い》い事をいふまいぞ、空誓文《二二そらせいもん》は御免だと笑ひながらさつ〓〓と立つて梯子《はしご》を下りるに、お力帽子《りきばうし》を手にして後《うしろ》から追《お》ひすがり、嘘か誠《まこと》か九十九夜《二三くじふくよ》の辛防《しんばう》をなさりませ、菊の井《ゐ》のお力《りき》は鋳型《二四いがた》に入つた女でござんせぬ、又形《なり》のかはる事もありまするといふ、旦那お帰りと聞て朋輩《ほうばい》の女、帳場《ちやうば》の女主《あるじ》もかけ出して只今は有がたうと同音《どうおん》の御礼《おれい》、頼んで置いた車が来しとて此処《こゝ》からして乗り出せば、家中表《うちぢゆうおもて》へ送り出してお出《いで》を待まするの愛想《あいさう》、御祝儀《しうぎ》の余光《ひかり》としられて、後《あと》には力《りき》ちやん大明神様《だいみやうじんさま》これにも有がたうの御礼山々《おれいやまやま》。
(三)
客は結城朝之助《ゆふきとものすけ》とて、自《みづか》ら道楽《だうらく》ものとは名のれども実体《じつてい》なる処折々《ところをりをり》に見えて身は無職業妻子なし、遊ぶに屈竟《くつきやう》なる年頃《としごろ》なればにや是《こ》れを初《はじ》めに一週には二三度の通《かよ》ひ路《ぢ》、お力《りき》も何処《どこ》となく懐《なつ》かしく思ふかして三日《みつか》見えねば文《ふみ》をやるほどの様子《やうす》を、朋輩《ほうばい》の女子《をんな》ども岡焼《一をかやき》ながら弄《から》かひては、力《りき》ちやんお楽《たの》しみであらうね、男振《をとこぶり》はよし気前《きまへ》はよし、今にあの方は出世《しゆつせ》をなさるに相違《さうゐ》ない、其時《そのとき》はお前の事を奥様とでもいふのであらうに今つから少し気をつけて足を出したり湯呑《ゆのみ》であほるだけは廃《や》めにおし人がらが悪いやねと言ふもあり、源《げん》さんが聞《きい》たら何《ど》うだらう気違《きちが》ひになるかも知れないとて冷《ひや》かすもあり、あゝ馬車にのつて来る時都合《つがふ》が悪いから道普請《みちぶしん》からして貰ひたいね、こんな溝板《どぶいた》のがたつくやうな店先《みせさき》へ夫《それ》こそ人がらが悪くて横づけにもされないではないか、お前方も最《も》う少しお行儀《ぎやうぎ》を直《なほ》してお給仕《きふじ》に出られるやう心がけてお呉《く》れとずば〓〓といふに、エヽ憎《にく》らしい其《その》ものいひを少し直さずば奥さまらしく聞えまい。結城《ゆふき》さんが来たら思ふさまいふて、小言《こごと》をいはせて見せやうとて朝之助《とものすけ》の顔を見るより此様《こん》な事を申《まう》して居《ゐ》まする、何《ど》うしても私共《わたしども》の手にのらぬやんちや《二ヽヽヽヽ》なれば貴君《あなた》から叱つて下され、第一湯呑で呑むは毒でござりましよと告口《つげぐち》するに、結城《ゆふき》は真面目《まじめ》になりてお力《りき》酒だけは少しひかへろとの厳命《げんめい》、あゝ貴君《あなた》のやうにもないお力《りき》が無理にも商売して居られるは此力と思し召さぬか、私に酒気《さかけ》が離れたら座敷は三昧堂《三さんまいだう》のやうに成りませう、ちつとは察して下されといふに成程々々《なるほどなるほど》とて結城《ゆふき》は二言《ごん》といはざりき。
或る夜の月に下座敷《したざしき》へは何処《どこ》やらの工場の一群《むれ》、丼《どんぶり》たゝいて甚句《四じんく》か《五》つぽれの大騒《おほさわ》ぎに大方《おほかた》の女子《をなご》は寄集《よりあつ》まつて、例の二階の小座敷《こざしき》には結城《ゆふき》とお力《りき》の二人《ふたり》限《ぎ》りなり、朝之助《とものすけ》は寝ころんで愉快らしく話しを仕《し》かけるを、お力《りき》はうるさゝうに生返事《なまへんじ》して何やらん考へて居《ゐ》る様子《やうす》、何《ど》うかしたか、又頭痛《づつう》でもはじまつたかと聞かれて、ナニ頭痛《づつう》も何もしませぬけれど頻《しきり》に持病《ぢびやう》が起つたのですといふ、お前の持病は肝癪《かんしやく》か、いゝえ、血《六ち》の道《みち》か、いゝえ、夫《それ》では何だと聞かれて、何《ど》うも言ふ事は出来ませぬ、でも他《ほか》の人ではなし僕ではないか何《ど》んな事でも言ふて宜《よ》さゝうなもの、まあ何の病気だといふに、病気ではござんせぬ、唯こんな風になつて此様《こん》な事を思ふのですといふ、困つた人だな種々《いろいろ》秘密があると見える、お父《とつ》さんはと聞けば言はれませぬといふ、お母《つか》さんはと問へば夫《それ》も同じく、これまでの履歴《りれき》はといふに貴君《あなた》には言はれぬといふ、まあ嘘でも宜《い》いさ、よしんば作《つく》り言《ごと》にしろ、かういふ身の薄命《ふしあはせ》だとか大抵《たいてい》の女《ひと》はいはねばならぬ、しかも一度や二度逢ふのではなし其位《そのくらゐ》の事を告げたとて仔細《しさい》なからう、よし口に出して言はなからうともお前に思ふ事のある位《くらゐ》めくら按摩《あんま》に探《さぐ》らせても知れた事、聞かずとも知れて居るが、それをば聞くのだ、どつち道《みち》同じ事だから持病《ぢびやう》といふのを先きに聞きたいといふ、およしなさいまし、お聞きになつても詰《つま》らぬ事でござんすとてお力《りき》は更《さら》に取あはず。
折から下座敷《したざしき》より杯盤《はいばん》を運《はこ》び来《き》し女の何やらお力《りき》に耳打《みゝうち》して兎《と》も角《かく》も下までお出《いで》よといふ、いや行き度《たく》ないからよしてお呉《く》れ、今夜《こんや》はお客で大変に酔《ゑ》ひましたからお目にかゝつたとてお話も出来ませぬと断つておくれ、あゝ困つた人だねと眉《まゆ》を寄せるに、お前それでも宜《い》いのかえ、はあ宜《い》いのさとて膝の上で撥《ばち》を弄《もてあそ》べば、女は不思議さうに立つてゆくを客は聞きすまして笑ひながら、御遠慮《ごゑんりよ》には及ばない、逢つて来たら宜《よ》からう、何にもそんなに体裁《ていさい》には及ばぬではないか、可愛《かあい》い人を素戻《七すもど》しもひどからう、追ひかけて逢ふが宜い、何なら此処《こゝ》へでも呼び給へ、片隅《かたすみ》へ寄つて話しの邪魔《じやま》はすまいからといふに、冗談《じようだん》はぬきにして結城《ゆふき》さん貴君《あなた》に隠《かく》したとて仕方がないから申しますが町内で少しは 巾《八はゞ》もあつた蒲団《ふとん》やの源《げん》七といふ人、久しく馴染《なじみ》でござんしたけれど今は見るかげもなく貧乏して八百屋《やほや》の裏の小さな家にまい〓〓つぶろの様になつて居《ゐ》まする、女房もあり子供もあり、私《九》がやうな者に逢ひに来る歳《とし》ではなけれど、縁があるか未《いま》だに折ふし何の彼のといつて、今も下座敷《したざしき》へ来たのでござんせう、何も今さら突き出すといふ訳《わけ》ではないけれど逢つては色々面倒《いろいろめんだう》な事もあり、寄《よ》らず障《さは》らず帰した方が好いのでござんす、恨《うら》まれるは覚悟の前、鬼だとも蛇《じや》だとも思ふがようござりますとて、撥《ばち》を畳に少し延びあがりて表を見おろせば、何と姿が見えるかと嬲《なぶ》る、あゝもう帰つたと見えますとて茫然《ぼつ》として居るに、持病といふのは夫《それ》かと切込《一〇きりこ》まれて、まあ其様《そん》な処でござんせう、お《一一》医者様でも草津湯《くさつのゆ》でもと薄淋《うすさび》しく笑つて居《ゐ》るに、御本尊《ごほんぞん》を拝《をが》みたいな俳優《やくしや》で行つたら誰の処だといへば、見たら喫驚《びつくり》でござりませう、色の黒い背の高い不動《ふだう》さまの名代《みやうだい》といふ、では心意気《こゝろいき》かと問はれて、此様《こん》な店《みせ》で身上《しんしやう》はたくほどの人、人の好《い》いばかり取得とては皆無《かいむ》でござんす、面白くも可笑《をか》しくも何ともない人といふに、夫《そ》れにお前は何《ど》うして逆上《のぼ》せた、これは聞き処《どころ》と客は起かへる、大方《おほかた》逆上《のぼせ》性《しやう》なのでござんせう、貴君《あなた》の事をも此頃は夢に見ない夜はござんせぬ、奥様のお出来なされた処を見たり、ぴつたりと御出《いで》のとまつた処を見たり、まだ〓〓一層《もつと》かなしい夢を見て枕紙《一二まくらがみ》がびつしよりに成つた事もござんす、高《たか》ちやんなどは夜《よ》る寝るからとても枕を取るよりはやく鼾《いびき》の声たかく、宜《よ》い心持らしいが何《ど》んなに浦山《うらやま》しうござんせう、私はどんな疲れた時でも床《とこ》へ這入《はい》ると目が冴《さ》えて夫《それ》は夫《それ》は色々《いろいろ》の事を思ひます、貴君《あなた》は私に思ふ事があるだらうと察して居《ゐ》て下さるから嬉しいけれど、よもや私が何をおもふか夫《そ》れこそはお分《わか》りに成りますまい、考へたとて仕方がない故人前《ひとまへ》ばかりの大陽気《おほやうき》、菊の井《ゐ》のお力《りき》は行《ゆき》ぬけの締《しま》りなしだ、苦労といふ事はしるまいと言ふお客様もござります、ほんに因果《いんぐわ》とでもいふものか私が身位《みぐらゐ》かなしい者はあるまいと思ひますとて潸然《一三さめざめ》とするに、珍らしい事陰気《いんき》のはなしを聞かせられる、慰めたいにも本末《もとすゑ》をしらぬから方《はう》がつかぬ、夢に見てくれるほど実があらば奥様にしてくれろ位《ぐらゐ》いひさうな物だに根つからお声がゝりも無いは何《ど》ういふ物だ、古風《こふう》に出るが袖《一四》ふり合ふもさ、こんな商売を厭やだと思ふなら遠慮なく打明《うちあ》けばなしを為《す》るが宜《い》い、僕は又お前のやうな気では寧《いつそ》気楽だとかいふ考へで浮いて渡る事かと思つたに、夫《そ》れでは何か理屈があつて止むを得ずといふ次第か、苦しからずば承《うけたまは》りたい物だといふに、貴君《あなた》には聞いて頂かうと此間《このあひだ》から思ひました、だけれども今夜はいけませぬ、何故何故《なぜなぜ》、何故でもいけませぬ、私が我《わが》まゝ故、申すまいと思ふ時は何《ど》うしても厭《い》やでござんすとて、ついと立つて椽《えん》がはへ出《いづ》るに、雲なき空の月かげ涼しく、見おろす町にからころと駒下駄《こまげた》の音さして行《ゆき》かふ人のかげ分明《あきらか》なり、結城《ゆふき》さんと呼ぶに、何だとて傍《そば》へゆけば、まあ此処《こゝ》へお坐《すわ》りなさいと手を取りて、あの水菓子《一五みづぐわし》屋で桃を買ふ子がござんしよ、可愛《かあい》らしき四つ許《ばかり》の、あれが先刻《さつき》の人のでござんす、あの小さな子心《こごゝろ》にもよく〓〓憎くいと思ふと見えて私の事をば鬼々といひまする、まあ其様《そん》な悪者に見えまするかとて、空《そら》を見あげてホッと息をつくさま、堪へかねたる様子は五音《一六ごいん》の調子にあらはれぬ。
(四)
同じ新開《しんかい》の町はづれに八百屋《やほや》と髪結床《かみゆひどこ》が庇合《ひあはひ》のやうな細露路《ほそろぢ》、雨が降る日は傘もさゝれぬ窮屈《きゆうくつ》さに、足もとゝては処々《ところどころ》に溝板《どぶいた》の落《一おと》し穴《あな》あやふげなるを中にして、両側に立てたる棟割長屋《二むねわりながや》、突当《つきあた》りの芥溜《ごみため》わきに九尺《三くしやく》二間の上り框朽《がまちく》ちて、雨戸《あまど》はいつも不用心《ぶようじん》のたてつけ、流石《さすが》に一方口《ぱうぐち》にはあらで山の手の仕合《しあはせ》は三尺許《ばかり》の椽の先に草ぼう〓〓の空地面《あきぢめん》、それが端《はじ》を少し囲《かこ》つて青紫蘇《じそ》、えぞ菊《ぎく》、隠元豆《いんげんまめ》の蔓《つる》などを竹のあら垣に搦《から》ませたるがお力《りき》が所縁《しよえん》の源七《げんしち》が家なり、女房はお初《はつ》といひて二十八か九にもなるべし、貧にやつれたれば七つも年の多く見えて、お歯黒《四はぐろ》はまだらに生《は》え次第《しだい》の眉毛《まゆげ》みるかげもなく、洗ひざらしの鳴海《五なるみ》の浴衣《ゆかた》を前と後《うしろ》を切りかへて膝《ひざ》のあたりは見立《めだゝ》ぬやうに小針のつぎ当《あて》、狭帯《せまおび》きりゝと締めて蝉表《六せみおもて》の内職《ないしよく》、盆前よりかけて暑さの時分《じぶん》をこれが時《とき》よと大汗《おほあせ》になりての勉強せはしなく、揃《そろ》へたる籐《とう》を天井《てんじやう》から釣下《つりさ》げて、しばしの手数《てすう》も省《はぶ》かんとて数《かず》のあがるを楽しみに脇目《わきめ》もふらぬ様《さま》あはれなり。もう日が暮れたに太吉《たきち》は何故《なぜ》かへつて来ぬ、源《げん》さんも又何処《どこ》を歩いて居《ゐ》るかしらんとて仕事を片《かた》づけて一服吸《いつぷくすひ》つけ、苦労らしく目をぱちつかせて、更《さら》に土瓶《どびん》の下を穿《ほぢ》くり、蚊《か》いぶし火鉢《ひばち》に火を取分《とりわ》けて三尺《さんじやく》の椽《えん》に持出《もちだ》し、拾《ひろ》ひ集《あつ》めの杉の葉を被《かぶ》せてふう〓〓と吹立《ふきたつ》れば、ふす〓〓と烟《けぶり》たちのぼりて軒端《のきば》にのがれる蚊《か》の声凄《すさ》まじゝ、太吉《たきち》はがた〓〓と溝板《どぶいた》の音《おと》をさせて母《かゝ》さん今戻《もど》つた、お父《とつ》さんも連《つ》れて来たよと門口《かどくち》から呼立《よびたつ》るに、大層《たいそう》おそいではないかお寺の山へでも行はしないかと何《ど》の位案《くらゐあん》じたらう、早くお這入《はい》りといふに太吉《たきち》を先に立てゝ源七《げんしち》は元気なくぬつと上る、おやお前さんお帰りか、今日《けふ》は何《ど》んなに暑かつたでせう、定《さだ》めて帰りが早からうと思ふて行水《ぎやうずゐ》を沸《わ》かして置きました、ざつと汗《あせ》を流したら何うでござんす、太吉《たきち》もお湯《ぶう》に這入《はいり》なといへば、あいと言つて帯を解《と》く、お待《まち》お待《まち》、今加減《かげん》を見てやるとて流しもとに盥《たらひ》を据《す》ゑて釜《かま》の湯を汲出《くみいだ》し、かき廻して手拭《てぬぐい》を入れて、さあお前さん此子《このこ》をも入れて遣《や》つて下され、何をぐたりとしてお出《いで》なさる、暑さにでも障《さは》りはしませぬか、さうでなければ一杯《いつぱい》あびて、さつぱりに成つて御膳《ごぜん》あがれ、太吉《たきち》が待つて居《ゐ》ますからといふに、おゝ左様《さう》だと思ひ出したやうに帯を解《と》いて流しへ下《お》りれば、そゞろに昔の我身が思はれて九尺二間《くしやくにけん》の台所《だいどころ》で行水《ぎやうずゐ》つかふとは夢にも思はぬもの、ましてや土方《どかた》の手伝《てつだ》ひして車《くるま》の跡押《あとおし》にと親は生つけても下さるまじ、あゝ詰《つま》らぬ夢を見たばかりにと、じつと身にしみて湯もつかはねば、父《とつ》ちやん背中を洗つてお呉《く》れと太吉《たきち》は無心《むしん》に催促《さいそく》する、お前さん蚊が喰《く》ひますから早々《さつさ》とお上《あが》りなされと妻も気をつくるに、おい〓〓と返事しながら太吉《たきち》にも遣《つか》はせ我《わ》れも浴びて、上にあがれば洗ひ晒《さら》せしさば〓〓の浴衣《ゆかた》を出して、お着かへなさいましと言ふ、帯まきつけて風《七かぜ》の透《す》く処《ところ》へ行けば、妻は能代《八のしろ》の膳《ぜん》のはげかゝりて足はよろめく古物《ふるもの》に、お前の好きな冷奴《九ひややつこ》にしましたとて小丼《こどんぶり》に豆腐《とうふ》を浮かせて青紫蘇《あをじそ》の香《か》たかく持出《もちだ》せば、太吉《たきち》は何時《いつ》しか台より飯櫃取《めしびつとり》おろして、よつちよいよつちよいと担《かつ》ぎ出す、坊主《ばうず》は我《お》れが傍《そば》に来いとて頭《つむり》を撫《な》でつゝ箸《はし》を取るに、心は何を思ふとなけれど舌《した》に覚《おぼ》えの無くて咽《のど》の穴《あな》はれたる如く、もう止《や》めにするとて茶碗を置けば、其様《そん》な事があります物か、力業《ちからわざ》をする人が三膳《ぜん》の御飯《ごはん》のたべられぬと言ふ事はなし、気合《一〇きあ》ひでも悪うござんすか、それとも酷《ひど》く疲れてかと問ふ、いや何処《どこ》も何とも無いやうなれど唯たべる気にならぬといふに、妻は悲しさうな眼をしてお前さん又例《れい》のが起りましたらう、それは菊の井の鉢肴《はちざかな》は甘《うま》くもありましたらうけれど、今の身分《みぶん》で思ひ出した処《ところ》が何となりまする、先《さき》は売物買物《うりものかひもの》お金さへ出来たら昔のやうに可愛《かあい》がつても呉《く》れませう、表を通つて見ても知れる、白粉《おしろい》つけて美《い》い衣類《きもの》きて迷《まよ》ふて来る人を誰れかれなしに丸めるが彼の人達が商売、あゝ我《お》れが貧乏に成つたから構《かま》ひつけて呉《く》れぬなと思へば何の事なく済《すみ》ませう、恨《うら》みにでも思ふだけがお前さんが未練《みれん》でござんす、裏町《うらまち》の酒屋の若い者知つて御出《いで》なさらう、二葉屋《ふたばや》のお角《かく》に心《しん》から落込《おちこ》んで、か《一一》け先《さき》を残《のこ》らず使《つか》ひ込《こ》み、それを埋《う》めやうとて雷神虎《らいじんとら》が盆筵《一二ぼんござ》の端《はし》についたが身の詰《つま》り、次第に悪い事が染《し》みて終《しま》ひには土蔵《どざう》やぶりまでしたさうな、当時《いま》男は監獄入《かんごくい》りしても《一三》つそう飯《めし》たべて居《ゐ》やうけれど、相手《あいて》のお角《かく》は平気《へいき》なもの、おもしろ可笑《をか》しく世を渡るに咎《とが》める人なく美事繁昌《みごとはんじやう》して居《ゐ》まする、あれを思ふに商売人の一徳《いつとく》、だまされたは此方《こちら》の罪《つみ》、考へたとて始まる事ではござんせぬ、夫《それ》よりは気を取直《とりなほ》して稼業《かげふ》に精《せい》を出して少しの元手《もとで》も拵《こしら》へるやうに心がけて下され、お前に弱られては私も此子《このこ》も何《ど》うする事もならで、夫《それ》こそ路頭《ろとう》に迷《まよ》はねば成りませぬ、男らしく思ひ切る時《とき》あきらめてお金さへ出来やうならお力《りき》はおろか小紫《一四こむらさき》でも揚巻《あげまき》でも別荘《べつさう》こしらへて囲《かこ》ふたら宜《よ》うござりませう、最《も》うそんな考へ事は止めにして機嫌《きげん》よく御膳《ごぜん》あがつて下され、坊主《ばうず》までが陰気《いんき》らしう沈《しづ》んで仕舞《しま》ひましたといふに、みれば茶碗と箸を其処《そこ》に置いて父と母との顔をば見くらべて何とは知らず気になる様子、こんな可愛《かあい》い者さへあるに、あのやうな狸《たぬき》の忘れられぬは何の因果《いんぐわ》かと胸の中かき廻されるやうなるに、我れながら未練《みれん》ものめと叱《しか》りつけて、いや我《お》れだとて其様《そのやう》に何時《いつ》までも馬鹿では居《ゐ》ぬ、お力《りき》などゝ名ばかりも言《い》つて呉《く》れるな、いはれると以前《もと》の不出来《ふでか》しを考へ出していよ〓〓顔があげられぬ、何の此身《このみ》になつて今更《いまさら》何をおもふ物か、飯がくへぬとても夫《そ》れは身体《からだ》の加減《かげん》であらう、何《なに》も格別案《かくべつあん》じてくれるには及ばぬ故小僧も十分にやつてくれとて、ころりと横《よこ》になつて胸のあたりをはた〓〓と打ちあふぐ、蚊遣《一五かやり》の烟《けぶり》にむせばぬまでも思ひにもえて身の暑げなり。
(五)
誰れ白鬼《しろおに》とは名をつけし、無間地獄《一むげんぢごく》のそこはかとなく景色《けしき》づくり、何処《どこ》にからくりのあるとも見えねど、逆《さか》さ落《おと》しの血《二ち》の池《いけ》、借金《しやつきん》の針《三はり》の山《やま》に追ひのぼすも手《て》の物《もの》ときくに、寄《よ》つてお出《い》でよと甘える声も蛇《四へび》くふ雉子《きぎす》と恐《おそ》ろしくなりぬ、さりとて胎内《たいない》十月《つき》の同じ事して、母の乳房《ちぶさ》にすがりし頃はちよち〓〓あわゝの可愛《かあい》げに、紙幣《さつ》と菓子との二つ取りにはおこしをお呉《く》れと手を出したる物なれば、今の稼業《かげふ》に誠《まこと》はなくとも百人の中《なか》の一人に真《しん》からの涙をこぼして、聞いておくれ染物屋《そめものや》の辰《たつ》さんが事を、昨日《きのふ》も川田《かはた》やが店でおちやつぴいのお六めと悪戯《ふざけ》まはして、見たくもない往来《わうらい》へまで担《かつ》ぎ出して打《う》ちつ打《う》たれつ、あんな浮《う》いた料簡《れうけん》で末《すゑ》が遂《と》げられやうか、まあ幾歳《いくつ》だとおもふ三十は一昨年《をとゝし》、宜《い》い加減《かげん》に家《うち》でも拵《こしら》へる仕覚《五しかく》をしてお呉《く》れと逢《あ》ふ度《たび》に異見《いけん》をするが、其時限《そのときかぎ》りおい〓〓と空返事《そらへんじ》して根《ね》つから気にも止《と》めては呉《く》れぬ、父《とつ》さんは年をとつて、母《はゝ》さんと言《い》ふは眼の悪い人だから心配をさせないやうに早く締《しま》つてくれゝば宜《い》いが、私はこれでも彼《あ》の人の半纏《はんてん》をば洗濯《せんたく》して、股引《もゝひき》のほころびでも縫つて見たいと思つて居《ゐ》るに、あんな浮《う》いた心では何時引取《いつひきと》つて呉《く》れるだらう、考へるとつく〓〓奉公が厭やになつてお客を呼ぶに張合《はりあひ》もない、あゝくさ〓〓するとて常《つね》は人をも欺《だま》す口で人の愁《つ》らきを恨《うら》みの言葉、頭痛《づつう》を押へて思案《しあん》にくれるもあり、あゝ今日は盆の十六日だ、お閻魔《六えんま》様へのお詣《まゐ》りに連《つ》れ立つて通る子供達《こどもたち》の奇麗な着物きて小遣《こづか》ひもらつて嬉しさうな顔してゆくは、定《さだ》めて定《さだ》めて二人揃《そろ》つて甲斐性《かひしやう》のある親をば持つて居《ゐ》るのであろ、私が息子《むすこ》の与太郎《よたらう》は今日《けふ》の休みに御主人から暇《ひま》が出て何処《どこ》へ行つて何《ど》んな事して遊ばうとも定《さだ》めし人が羨《うらやま》しかろ、父さんは呑《七のみ》ぬけ、いまだに宿とても定《さだ》まるまじく、母は此様《こん》な身になつて恥《はづ》かしい紅白粉、よし居処《ゐどころ》が分《わか》つたとて彼《あ》の子は逢ひに来ても呉《く》れまじ、去年向島《きよねんむかふじま》の花見《はなみ》の時女房づくりして丸髷に結《ゆ》つて朋輩《ほうばい》と共《とも》に遊びあるきしに土手《どて》の茶屋であの子に逢つて、これ〓〓と声をかけしにさへ、私の若く成りしに呆《あき》れて、お母《つか》さんでございますかと驚きし様子、ましてや此大島田《このおほしまだ》に折《をり》ふしは時好《八じかう》の花簪《はなかんざし》さしひらめかしてお客を捉《と》らへて串戯《じようだん》いふ処を聞かば子心《こごゝろ》には悲しくも思ふべし、去年《きよねん》あひたる時《とき》今は駒形《九こまがた》の蝋燭《らふそく》やに奉公して居《ゐ》まする、私はどんな愁《つ》らき事ありとも必らず辛防《しんばう》しとげて一人前《にんまへ》の男になり、父《とゝ》さんをもお前をも今に楽をばおさせ申します、何《ど》うぞ夫《そ》れまで何なりと堅気《かたぎ》の事をして一人で世渡《よわた》りをして居《ゐ》て下され、人の女房にだけはならずに居《ゐ》て下されと異見《いけん》を言はれしが、悲しきは女子《をなご》の身の寸燐《一〇まつち》の箱はりして一人《ひとり》口過《ぐちすご》しがたく、さりとて人の台所《一一だいどころ》を這ふも柔弱《にうじやく》の身体《からだ》なれば勤《つと》めがたくて、同じ憂《う》き中にも身の楽《らく》なれば、此様《こん》な事して日を送る、努《ゆめ》さら浮いた心では無けれど言甲斐《いひかひ》のないお袋《ふくろ》と彼《あ》の子《こ》は定《さだ》めし爪《一二つま》はじきするであらう、常《つね》は何とも思はぬ島田《しまだ》が今日斗《ばかり》は恥《はづ》かしいと夕ぐれの鏡の前に涕《なみだ》ぐむもあるべし、菊の井《ゐ》のお力《りき》とても悪魔の生れ替《がは》りにはあるまじ、さる仔細《しさい》あればこそ此処《こゝ》の流れに落こんで嘘のありたけ串談《じようだん》に其日を送つて、情《なさけ》は吉野紙《一三よしのがみ》の薄物《うすもの》に、螢《ほたる》の光ぴつかりとする許《ばかり》、人の涕《なみだ》は百年も我《が》まんして、我ゆゑ死ぬる人のありとも御愁傷《ごしうしやう》さまと脇《わき》を向《む》くつらき他処目《よそめ》も養《やしな》ひつらめ、さ《一四》りとも折ふしは悲しき事恐ろしき事胸にたゝまつて、泣くにも人目を恥《はぢ》れば二階座敷の床《とこ》の間《ま》に身を投《なげ》ふして忍《しの》び音《ね》の憂《う》き涕《なみだ》、これをば友朋輩《ともほうばい》にも洩《も》らさじと包むに、根情《こんじやう》のしつかりした、気のつよい子といふ者はあれど、障《さは》れば絶ゆる蛛《くも》の糸《いと》のはかない処を知る人はなかりき、七月十六日の夜《よ》は何処《どこ》の店にも客人入込《きやくにんいりこ》みて都々一端歌《どゞいつはうた》の景気《けいき》よく、菊の井《ゐ》の下座敷《したざしき》にはお店者《一五たなもの》五六人寄集《よりあつ》まりて調子《てうし》の外《はづ》れし紀伊《一六きい》の国《くに》、自まんも恐ろしき胴間声《どうまごゑ》に霞《一七かすみ》の衣衣紋坂《ころもえもんざか》と気取《きど》るもあり、力《りき》ちやんは何《ど》うした心意気《こゝろいき》を聞かせないか、やつた〓〓と責《せ》められるに、お《一八》名はさゝねど此座の中にと普通《ついッとほり》の嬉しがらせを言つて、やんや〓〓と喜ばれる中《なか》から、我《一九》恋は細谷川《ほそだにがは》の丸木橋《まるきばし》わたるにや怖《こは》し渡らねばと謳《うた》ひかけしが、何をか思ひ出したやうにあゝ私は一寸《ちよつと》失礼をします、御免《ごめん》なさいよとて三味線《さみせん》を置いて立つに、何処《どこ》へゆく何処《どこ》へゆく、逃げてはならないと座中《ざちゆう》の騒ぐに照《てい》ちやん高《たか》さん少し頼《たの》むよ、直《ぢ》き帰るからとてずつと廊下《らうか》へ急ぎ足に出《いで》しが、何《なに》をも見かへらず店口《みせぐち》から下駄《げた》を履《は》いて筋向《すぢむか》ふの横町の闇《やみ》へ姿をかくしぬ。
お力《りき》は一散に家を出て、行かれる物なら此ままに唐天竺《二〇からてんぢく》の果《はて》までも行つて仕舞《しまひ》たい、あゝ嫌だ嫌だ嫌だ、何《ど》うしたなら人の声も聞えない物の音《おと》もしない、静かな、静かな、自分の心も何もぼうつとして物思ひのない処《ところ》へ行かれるであらう、つまらぬ、くだらぬ、面白くない、情ない悲しい心細い中《なか》に、何時《いつ》まで私は止《と》められて居《ゐ》るのかしら、これが一生《しやう》か、一生《しやう》がこれか、あゝ嫌だ〓〓と道端《みちばた》の立木《たちき》へ夢中に寄りかゝつて暫時《しばらく》そこに立どまれば、渡るにや怖《こは》し渡らねばと自分の謳《うた》ひし声を其まゝ何処《どこ》ともなく響いて来るに、仕方がない矢張《やつぱ》り私も丸木橋をば渡らずばなるまい、父《とゝ》さんも踏かへして落《おち》てお仕舞なされ、祖父《おぢい》さんも同じ事であつたといふ、何《ど》うで幾代《いくだい》もの恨《うら》みを背負《しよ》つて出た私なれば為《す》る丈の事はしなければ死んでも死なれぬのであらう、情けないとても誰れも憐れと思ふてくれる人はあるまじく、悲しいと言へば商売がらを嫌ふと一ト口に言はれて仕舞《しまふ》、えゝ何《ど》うなりとも勝手になれ、勝手になれ、私には、以《二一》上考へたとて私の身の行き方は分らぬなれば、分らぬなりに菊の井《ゐ》のお力《りき》を通してゆかう、人情《にんじやう》しらず義理しらずか其様《そん》な事も思ふまい、思ふたとて何《ど》うなる物ぞ、此様《こん》な身で此様《こん》な業体《げふてい》で、此様《こん》な宿世《二二しゆくせ》で、何《ど》うしたからとて人並《ひとなみ》では無いに相違なければ、人並《ひとなみ》の事を考へて苦労するだけ間違であろ、あゝ陰気《いんき》らしい何だとて此様《こん》な処《とこ》に立つて居るのか、何《なに》しに此様《こん》な処《とこ》へ出て来たのか、馬鹿らしい気違《きちがひ》じみた、我身ながら分《わか》らぬ、もう〓〓帰りませうとて横町《よこちやう》の闇をば出はなれて夜店《よみせ》の並ぶにぎやかなる小路《こうぢ》を気まぎらしにとぶら〓〓歩るけば、行《ゆき》かよふ人の顔小さく〓〓擦《す》れ違《ちが》ふ人の顔さへも遙《はるか》とほくに見るやうに思はれて、我が踏む土《つち》のみ一丈《いちぢやう》も上にあがり居《ゐ》る如く、がや〓〓といふ声は聞ゆれど井《ゐ》の底に物を落したる如き響きに聞なされて、人の声は、人の声、我《わ》が考へは考へと別々に成りて、更《さら》に何事にも気のまぎれる物なく、人立《ひとだち》おびたゞしき夫婦《二三めをと》あらそひの軒先《のきさき》などを過ぐるとも、唯我れのみは広野《ひろの》の原の冬枯《ふゆが》れを行くやうに、心に止《と》まる物もなく、気にかゝる景色《けしき》にも覚《おぼ》えぬは、我れなから酷《ひど》く逆上《のぼせ》て人心《ひとごゝろ》のないのかと覚束《おぼつか》なく、気が狂ひはせぬかと立どまる途端《とたん》、お力何処《りきどこ》へ行くと肩を打つ人あり。
(六)
十六日は必らず待まする来て下されと言ひしをも何も忘れて、今まで思ひ出《だ》しもせざりし結城《ゆふき》の朝之助《とものすけ》に不図出合《ふとであひ》て、あれと驚きし顔つきの例《れい》に似合ぬ狼狽《あわて》かたがをかしきとて、から〓〓と男の笑ふに少し恥かしく、考へ事《ごと》して歩いて居たれば不意の様《やう》に惶《あわ》てゝ仕舞ました、よく今夜は来て下さりましたと言へば、あれほど約束して待つてくれぬは不心中《一ふしんぢゆう》とせめられるに、何なりと仰《おつ》しやれ、言訳《いひわけ》は後《のち》にしまするとて手を取りて引けば弥次馬《やじうま》がうるさいと気をつける、何《ど》うなり勝手に言はせませう、此方《こちら》は此方《こちら》と人中《ひとなか》を分《わ》けて伴《ともな》ひぬ。
下座敷はいまだに客の騒ぎはげしく、お力《りき》の中坐《ちゆうざ》したるに不興《ふきよう》して喧《やかま》しかりし折から、店口《みせぐち》にておやお帰りかの声を聞くより、客を置ざりに中坐《ちゆうざ》するといふ法があるか、帰つたらば此処《こゝ》へ来い、顔を見ねば承知せぬぞと威張《ゐば》りたてるを聞流《きゝなが》しに二階座敷へ結城《ゆふき》を連《つ》れあげて、今夜《こんや》も頭痛《づつう》がするので御酒《ごしゆ》の相手は出来ませぬ、大勢《おほぜい》の中に居《ゐ》れば御酒《ごしゆ》の香《か》に酔《ゑ》ふて夢中《むちゆう》になるも知れませぬから、少し休んで其後《そののち》は知らず、今は御免なさりませと断《ことわ》りを言ふてやるに、夫《そ》れで宜《い》いのか、怒《おこ》りはしないか、やかましくなれば面倒《めんだう》であらうと結城《ゆふき》が心づけるを、何《なん》のお店《たな》ものゝ白瓜《二しろうり》がどんな事を仕出《しいだ》しませう、怒《おこ》るなら怒《おこ》れでござんすとて小女《こをんな》に言ひつけてお銚子《てうし》の支度《したく》、来《く》るをば待かねて結城《ゆふき》さん今夜《こんや》は私に少し面白くない事があつて気が変つて居《ゐ》まするほどに其気《そのき》で附合《つきあ》つて居て下され、御酒《ごしゆ》を思ひ切つて呑みまするから止《と》めて下さるな、酔《ゑ》ふたらば介抱《かいはう》して下されといふに、君が酔《よ》つたを未《いま》だに見た事がない、気が晴れるほど呑むは宜《い》いが、又頭痛《づつう》がはじまりはせぬか、何《なに》が其様《そん》なに逆鱗《三 げきりん》にふれた事がある、僕らに言《い》つては悪い事かと問はれるに、いえ貴君《あなた》には聞《きい》て頂きたいのでござんす、酔《ゑ》ふと申しますから驚いてはいけませぬと嫣然《につこり》として、大湯呑《おほゆのみ》を取《とり》よせて二三杯《はい》は息をもつかざりき。
常には左《さ》のみに心も留《と》まらざりし結城《ゆふき》の風采《やうす》の今宵《こよひ》は何となく尋常《なみ》ならず思はれて、肩巾《かたはゞ》のありて背のいかにも高き処より、落ついて物をいふ重《おも》やかなる口振《くちぶ》り、目つきの凄《すご》くて人を射《い》るやうなるも威厳《ゐげん》の備《そな》はれるかと嬉しく、濃《こ》き髪《かみ》の毛を短かく刈《かり》あげて衿足《えりあし》のくつきりとせしなど今更《いまさら》のやうに眺められ、何をうつとりして居《ゐ》ると問《と》はれて、貴君《あなた》のお顔を見て居《ゐ》ますのさと言へば、此奴《こやつ》めがと睨《にら》みつけられて、おゝ恐《こは》いお方《かた》と笑つて居《ゐ》るに、串戯《じようだん》はのけ、今夜《こんや》は様子が尋常《たゞ》でない聞たら怒るか知らぬが何か事件《じけん》があつたかと問ふ。何《なに》しに降つて沸《わ》いた事もなければ、人との紛紜《四いざ》などはよし有《あ》つたにしろそれは常の事、気にもかゝらねば何しに物を思ひませう、私の時より気まぐれを起すは人のするのではなくて皆心からの浅《あさ》ましい訳《わけ》がござんす、私は此様《こん》な賤《いや》しい身の上、貴君《あなた》は立派なお方様、思ふ事は反対《うらはら》にお聞きになつても酌《く》んで下さるか下さらぬか其処《そこ》ほどは知らねど、よし笑ひ物になつても私《わたし》は貴君《あなた》に笑ふて頂きたく、今夜《こんや》は残らず言ひまする、まあ何《なに》から申さう胸がもめて口が利《き》かれぬとて又もや大湯呑《おほゆのみ》に呑《の》む事さかんなり。
何より先《さき》に私が身の自堕落《じだらく》を承知して居《ゐ》て下され、もとより箱入りの生娘《きむすめ》ならねば少しは察《さつ》しても居《ゐ》て下さらうが、口奇麗《くちぎれい》な事はいひますとも此あたりの人に泥《五どろ》の中の蓮《はす》とやら、悪業《わるさ》に染《そ》まらぬ女子《をなご》があらば、繁昌《はんじやう》どころか見に来る人もあるまじ、貴君《あなた》は別物、私が処へ来る人とても、大抵《たいてい》はそれと思しめせ、これでも折ふしは世間《せけん》さま並《なみ》の事を思ふて恥かしい事つらい事情《なさけ》ない事とも思はれるに寧九尺《いつそくしやく》二間《けん》でも極《きま》つた良人《をつと》といふに添《そ》ふて身を固《かた》めやうと考へる事もござんすけれど、夫《そ》れが私は出来ませぬ、夫《そ》れかと言《い》つて来るほどのお人に無愛想《ぶあいさう》もなりがたく、可愛《かあい》いの、いとしいの、見初《みそめ》ましたのと出鱈目《でたらめ》のお世辞《せじ》をも言はねばならず、数《かず》の中には真《ま》にうけて此《こ》様な厄種《やくざ》を女房にと言ふて下さる方もある、持たれたら嬉しいか、添《そ》ふたら本望《ほんまう》か、夫《そ》れが私は分りませぬ、そもそもの最初《はじめ》から私は貴君《あなた》が好きで好きで、一日お目《め》にかゝらねば恋しいほどなれど、奥様にと言ふて下されたら何《ど》うでござんしよか、持たれるは厭なり他処《よそ》ながらは慕はしゝ、一ト口《くち》に言はれたら浮気者《うはきもの》でござんせう、あゝ此様《こん》な浮気者《うはきもの》には誰がしたと思召《おぼしめ》す、三代伝《つた》はつての出来そこね、親父《おやぢ》が一生もかなしい事でござんしたとてほろりとするに、其親父《そのおやぢ》さんはと問ひかけられて、親父《おやぢ》は職人、祖父《ぢゞい》は四角な字をば読んだ人でござんす、つまりは私のやうな気違ひで、世に益《えき》のない反古紙《ほごがみ》をこしらへしに、版《はん》をばお上《かみ》から止められたとやら、ゆるされぬとかにて断食《だんじき》して死んださうにござんす、十六の年から思ふ事があつて、生《うま》れも賤《いや》しい身であつたれど一念《ねん》に修業《しゆげふ》して六十にあまるまで仕出来《しでか》したる事なく、終りは人の物笑ひに今では名を知る人もなしとて父が常住歎《じやうぢゆうなげ》いたを子供の頃より聞知つて居りました、私の父といふは三つの歳《とし》に椽《えん》から落ちて片足《かたあし》あやしき風《ふう》になりたれば人中《ひとなか》に立まじるも厭《い》やとて居職《ゐじよく》に飾《かざり》の金物《かなもの》をこしらへましたれど、気位《きぐらゐ》たかくて人愛《六じんあい》のなければ贔負《ひいき》にしてくれる人もなく、あゝ私が覚《おぼ》えて七つの年の冬でござんした、寒中親子《かんちゆうおやこ》三人ながら古《ふる》浴衣《ゆかた》で、父は寒いも知らぬか柱《はしら》に寄《よ》つて細工物《さいくもの》の工夫《くふう》をこらすに、母《はゝ》は欠《か》けた一つ竈《ベッつい》に破《わ》れ鍋《なべ》かけて私に然《さ》る物を買ひに行けよといふ、味噌《みそ》こし下げて端《はし》たのお銭《あし》を手に握《にぎ》つて米屋《こめや》の門《かど》までは嬉しく駆けつけたれど、帰りには寒さの身にしみて手も足も龜《かじ》かみたれば五六軒隔《へだ》てし溝板《どぶいた》の上の氷《こほり》にすべり、足溜《あしだま》りなく転《こ》ける機会《はずみ》に手の物を取落《とりおと》して、一枚はづれし溝板《どぶいた》のひまよりざら〓〓と翻《こぼ》れ入《いれ》ば、下《した》は行水《ゆくみづ》きたなき溝泥《どぶどろ》なり、幾度《いくたび》も覗《のぞ》いては見たれど是《こ》れをば何《なん》として拾はれませう、其時《そのとき》私は七つであつたれど家《いへ》の内《うち》の様子、父母《ちゝはゝ》の心をも知れてあるにお米は途中で落しましたと空《から》の味噌こしさげて家《うち》には帰られず、立つてしばらく泣いて居《ゐ》たれどどうしたと問《と》ふて呉《く》れる人もなく、聞いたからとて買つてやらうと言ふ人は猶更《なほさら》なし、あの時近所に川なり池なりあらうなら私は定《さだ》めし身を投げて仕舞ひましたろ、話は誠《まこと》の百分一、私は其頃《そのころ》から気が狂つたのでござんす、帰りの遅《おそ》きを母《はゝ》の親案《あん》じて尋《たづ》ねに来《き》てくれたをば時機《しほ》に家《うち》へは戻《もど》つたれど、母《はゝ》も物いはず父親《てゝおや》も無言《むごん》に、誰《だ》れ一人私をば叱る者もなく、家《いへ》の内森《うちしん》として折々溜息《をりをりためいき》の声《こゑ》のもれるに私は身を切られるより情《なさけ》なく、今日《けふ》は一日断食《だんじき》にせうと父《ちゝ》の一言《こと》いひ出《だ》すまでは忍《しの》んで息をつくやうで御座《ござ》んした。
いひさしてお力《りき》は溢《あふ》れ出《いづ》る涙の止《と》め難《がた》ければ紅《七くれな》ゐの手巾《はんけち》かほに押当《おしあ》て其端《そのはし》を喰《く》ひしめつゝ物言《ものい》はぬ事小半時《こはんとき》、座には物の音《おと》もなく酒の香《か》したひて寄りくる蚊のうなり声のみ高く聞えぬ。
顔を上げし時は頬《ほう》に涙の痕《あと》はみゆれども淋しげの笑《ゑ》みをさへ寄せて、私は其様《そのやう》な貧乏人の娘、気違ひは親ゆづりで折ふし起るのでござります、今夜《こんや》も此様《こん》な分らぬ事いひ出して嘸《さぞ》貴君《あなた》御迷惑《ごめいわく》で御座《ござ》んしてしよ、もう話はやめまする、御機嫌《ごきげん》に障《さは》つたらばゆるして下され、誰か呼んで陽気《やうき》にしませうかと問へば、いや遠《八》慮は無沙汰《ぶさた》、その父親《てゝおや》は早くに死《な》くなつてか、はあ母《かゝ》さんが肺結核《けつかく》といふを煩《わづら》つて死《なく》なりましてから一週忌の来《こ》ぬほどに跡を追ひました、今居《を》りましても未《ま》だ五十、親なれば褒《ほ》めるので無けれど細工《さいく》は誠に名人《めいじん》と言ふても宜《よ》い人で御座んした、なれども名人だとて上手《じやうず》だとて私等《わたしら》が家《うち》のやうに生れついたは何《な》にもなる事は出来ないので御座んせう、我身《わがみ》の上にも知れまするとて物思《ものおも》はしき風情《ふぜい》、お前は出世を望むなと突然《だしぬけ》に朝之助《とものすけ》に言はれて、えッと驚きし様子に見えしが、私等《わたしら》が身にて望んだ処が味噌こしが落《おち》、何の玉《九》の輿《こし》までは思ひがけませぬといふ、嘘をいふは人に依る始めから何も見知つて居《ゐ》るに隠《かく》すは野暮《やぼ》の沙汰ではないか、思ひ切つてやれ〓〓とあるに、あれ其のやうなけしかけ詞《ことば》はよして下され、何《ど》うで此様《こん》な身でござんするにと打しをれて又もの言はず。
今宵もいたく更《ふ》けぬ、下座敷《したざしき》の人はいつか帰りて表の雨戸《あまど》をたてると言ふに、朝之助《とものすけ》おどろきて帰り支度《じたく》するを、お力《りき》は何《ど》うでも泊《とま》らするといふ、いつしか下駄をも蔵《かく》させたれば、足を取られて幽霊《いうれい》ならぬ身の戸のすき間《ま》より出る事もなるまじとて今宵《こよひ》は此処《こゝ》に泊る事となりぬ、雨戸を鎖《とざ》す音《おと》一しきり賑はしく、後《のち》には隙間《すき》もる燈火《ともしび》のかげも消えて、唯軒下を行きかよふ夜行《やかう》の巡査の靴音のみ高かりき。
(七)
思ひ出したとて今更《いまさら》に何《ど》うなる物ぞ、忘れて仕舞へ諦めて仕舞へと思案は極《き》めながら、去年《きよねん》の盆には揃《そろ》ひの浴衣《ゆかた》をこしらへて二人一緒に蔵前《くらまへ》へ参詣《さんけい》したる事なんど思ふともなく胸へうかびて、盆に入りては仕事に出《いづ》る張《はり》もなく、お前さん夫《それ》ではならぬぞえと諫《いさ》め立てる女房の詞《ことば》も耳うるさく、エヽ何も言ふな黙《だま》つて居《ゐ》ろとて横になるを、黙《だま》つて居《ゐ》ては此日が過《すぐ》されませぬ、身体《からだ》が悪くば薬も呑むがよし、御医者にかゝるも仕方がなけれど、お前の病《やま》ひは夫《そ》れではなしに気さへ持直せば何処《どこ》に悪い処があらう、少しは正気《しやうき》になつて勉強をして下されといふ、いつでも同《おな》じ事は耳にたこが出来て気《き》の薬にはならぬ、酒でも買つて来てくれ気まぎれに呑んで見やうと言ふ、お前さん其お酒が買へるほどなら嫌《いや》とお言ひなさるを無理に仕事に出て下されとは頼みませぬ、私が内職《ないしよく》とて朝から夜《よ》にかけて十五銭が関《一》の山、親子三人口《ぐち》おも湯《ゆ》も満足《まんぞく》には呑まれぬ中《なか》で酒を買へとは能《よ》く能《よ》くお前無茶助《むちやすけ》になりなさんした、お盆だといふに昨日《二きのふ》らも小僧には白玉《しらたま》一つこしらへても喰べさせず、お精霊《三しやうりやう》さまのお棚かざりも拵《こしら》へられねば御燈明《おとうみやう》一つで御先祖様《おせんぞさま》へお詫《わ》びを申して居《ゐ》るも誰が仕業《しわざ》だとお思ひなさる、お前が阿房《あほう》を尽してお力《りき》づらめに釣られたから起つた事、いふては悪けれどお前は親不孝子不孝、少しは彼《あ》の子の行末《ゆくすゑ》をも思ふて真人間《まにんげん》になつて下され、御酒《ごしゆ》を呑んで気を晴《は》らすは一時《いつとき》、真《しん》から改心して下さらねば心元《こゝろもと》なく思はれますとて女房打《うち》なげくに、返事はなくて吐息折々《といきをりをり》に太《ふと》く身動《みうご》きもせず仰向《あふのき》ふしたる心根《こゝろね》のつらさ、其身になつてもお力《りき》が事の忘れられぬか、十年つれそふて子供まで儲《まう》けし我れに心かぎりの苦労をさせて、子には襤褸《ぼろ》を下げさせ家《いへ》とては六畳一間《ひとま》の此様《こん》な犬小屋《ごや》、世間一体《せけんいつたい》から馬鹿にされて別物《べつもの》にされて、よしや春秋《四はるあき》の彼岸《ひがん》が来《く》ればとて、隣近所に牡丹《ぼた》もち団子《だんご》と配《くば》り歩く中《なか》を、源《げん》七が家へは遣《や》らぬがよい、返礼《へんれい》が気の毒なとて、親切《しんせつ》かは知らねど十軒長屋《けんながや》の一軒は除《の》け物、男は外出《そとで》がちなればいさゝか心に懸《かゝ》るまじけれど女心には遣《や》る瀬《せ》のなきほど切《せつ》なく悲しく、おのづと肩身せばまりて朝夕《てうせき》の挨拶《あいさつ》も人の目色《めいろ》を見るやうなる情《なさけ》なき思ひもするを、それをば思はで我が情婦《こひ》の上ばかりを思ひつゞけ、無情《つれな》き人の心の底がそれほどまでに恋しいか、昼も夢に見て独言《ひとりごと》にいふ情《なさけ》なさ、女房の事も子の事も忘れはてゝお力《りき》一人に命をも遣《や》る心か、あさましい口惜《くちを》しい辛《つら》い人と思ふに中々《なかなか》言葉は出《い》でずして恨《うら》みの露を眼の中《うち》にふくみぬ。
物いはねば狭《せま》き家《いへ》の内《うち》も何となくうら淋《さび》しく、くれゆく空《そら》のた《五》ど〓〓しきに裏屋《うらや》はまして薄暗《うすくら》く、燈火《あかり》をつけて蚊遣《かや》りふすべて、お初は心細《こゝろぼそ》く戸の外をながむれば、いそ〓〓と帰り来る太吉《たきち》の姿、何《なに》やらん大袋《おほぶくろ》を両手に抱へて母《かゝ》さん母《かゝ》さんこれを貰つて来たと莞爾《につこ》として駆け込むに、見れば新開《しんかい》の日の出屋《でや》がかすていら、おやこんな良い御菓子を誰れに貰つて来た、よくお礼を言つたかと問へば、あゝよくお辞儀《じぎ》をして貰つて来た、これは菊の井《ゐ》の鬼姉《おにねえ》さんが呉《く》れたのと言ふ、母《はゝ》は顔色《かほいろ》をかへて図太《づぶと》い奴《やつ》めが是《こ》れほどの淵《ふち》に投げ込んで未《ま》だいぢめ方《かた》が足《た》りぬと思ふか、現在の子を使ひに父《とゝ》さんの心を動かしによこし居《を》る、何といふてよこしたと言へば、表通りの賑やかな処に遊んで居《ゐ》たらば何処《どこ》のか伯父《をぢ》さんと一緒に来て、菓子を買つてやるから此方《こつち》へお出《いで》といつて、おいらはいらぬと言つたけれど抱いて行つて買《か》つて呉《く》れた、喰《た》べては悪いかえと流石《さすが》に母《はゝ》の心を測《はか》りかね、顔をのぞいて猶予《いうよ》するに、あゝ年がゆかぬとて何たら訳《わけ》の分らぬ子ぞ、あの姉さんは鬼ではないか、父《とゝ》さんを◆惰《なまけ》者《もの》にした鬼ではないか、お前の衣服《べゞ》のなくなつたも、お前の家《うち》のなくなつたも皆あの鬼めがした仕事、喰《くら》ひついても飽き足らぬ悪魔にお菓子を貰つて喰べてもいゝかと聞くだけが情ない、汚《きた》ない穢《むさ》い此様《こん》な菓子、家《うち》へ置くのも腹が立つ、捨てゝ仕舞《しまひ》な、捨てゝお仕舞《しまひ》、お前は惜《を》しくて捨てられないか、馬鹿野郎めと罵《のゝし》りながら袋をつかんで裏の空地《あきち》へ投出《なげいだ》せば、紙は破れて転《まろ》び出る菓子の、竹のあら垣《がき》打こえて溝《どぶ》の中にも落《六》ち込むめり、源《げん》七はむくりと起きてお初《はつ》と一声《ひとこゑ》大きくいふに何か御用かと、尻目にかけて振むかうともせぬ横顔を睨んで、いゝ加減に人を馬鹿にしろ、黙つて居ればいゝ事にして悪口雑言《あくこうざふごん》は何の事だ、知つた人なら菓子位《ぐらゐ》子供にくれるに不思議もなく、貰ふたとて何が悪い、馬鹿野郎呼《よば》はりは太吉《たきち》をかこつけにおれへの当《あて》こすり、子に向つて父親《てゝおや》の讒訴《ざんぞ》をいふ女房気質《かたぎ》を誰れが教へた、お力《りき》が鬼なら手前は魔王《まわう》、商売人《しやうばいにん》のだましは知《し》れて居《ゐ》れど、妻たる身の不貞腐《ふてくさ》れをいふて済《す》むと思ふか、土方《どかた》をせうが車を引かうが亭主《ていしゆ》は亭主の権《けん》がある、気に入らぬ奴《やつ》を家《うち》には置かぬ、何処《どこ》へなりとも出てゆけ、出てゆけ、面白くもない女郎《めらう》めと叱りつけられて、それはお前無理だ、邪推《じやすゐ》が過ぎる、何しにお前に当《あて》つけやう、この子があんまり分《わか》らぬと、お力《りき》の仕方《しかた》が憎《にく》らしさに思ひあまつて言つた事を、とツこに取つて出てゆけとまでは酷《むご》うござんす、家《うち》の為をおもへばこそ気に入らぬ事を言ひもする、家を出るほどなら此様《こん》な貧乏世帯《びんばふじよたい》の苦労をば忍んでは居ませぬと泣くに貧乏世帯に飽きが来たなら勝手に何処《どこ》なり行つて貰はう、手前《てまへ》が居《ゐ》ぬからとて乞食《こじき》にもなるまじく太吉《たきち》が手足の伸《の》ばされぬ事はなし、明けても暮れてもお《七》れが棚おろしかお力《りき》への妬《ねた》み、つく〓〓聞き飽きてもう厭やになつた、貴様《きさま》が出ずば何《どち》ら道《みち》同じ事を惜《を》しくもない九尺《しやく》二間《けん》、おれが小僧を連《つ》れて出《で》やう、さうならば十分に我鳴《がな》り立《たて》る都合《つがふ》もよからう、さあ貴様《きさま》が行くか、おれが出やうかと激《はげ》しく言はれて、お前はそんなら真実《ほんたう》に私を離縁する心かえ、知れた事よと例《いつも》の源七にはあらざりき。
お初《はつ》は口惜《くや》しく悲しく情《なさけ》なく、口も利《き》かれぬほどこみ上ぐる涙を呑込んで、これは私が悪う御座んした、堪忍して下され、お力《りき》が親切で志《こゝろざ》して呉《く》れたものを捨てゝ仕舞つたは重々《ぢゆうぢゆう》悪う御座いました、成程《なるほど》お力《りき》を鬼といふたから私は魔王で御座んせう、モウいひませぬ、モウいひませぬ、決してお力《りき》の事につきて此後《このご》とやかく言ひませず、陰《かげ》の噂《うはさ》しますまい故離縁だけは堪忍して下され、改めて言ふまでは無けれど私には親もなし兄弟もなし、差配《さはい》の伯父《をぢ》さんを仲人《なかうど》なり里なりに立てゝ来た者なれば、離縁されての行き処《どころ》とてはありませぬ、何《ど》うぞ堪忍して置いて下され、私は憎《にく》からうと此子《このこ》に免じて置いて下され、あやまりますと手を突いて泣けども、イヤ何《ど》うしても置かれぬとて其後《そのご》は物言はず壁に向ひてお初《はつ》が言葉は耳に入《い》らぬ体《てい》、これほど邪慳《じやけん》の人ではなかりしをと女房あきれて、女に魂を奪はるれば是《こ》れほどまでも浅ましくなるものか、女房が歎きは更《さら》なり、遂《つひ》には可愛《かはゆ》き子をも餓《う》ゑ死《じに》させるかも知れぬ人、今詫びたからとて甲斐《かひ》はなしと覚悟《かくご》して、太吉《たきち》、太吉と傍《そば》へ呼んで、お前は父《とゝ》さんの傍《そば》と母《かゝ》さんと何方《どちら》が好《い》い、言ふて見ろと言はれて、おいらはお父《とつ》さんは嫌ひ、何にも買つて呉《く》れないものと真正直《まつしやうじき》をいふに、そんなら母さんの行く処へ何処《どこ》へも一緒に行く気かえ、あゝ行くともとて何とも思はぬ様子に、お前さんお聞きか、太吉は私につくといひまする、男の子なればお前も欲しからうけれど此子はお前の手には置かれぬ、何処《どこ》までも私が貰つて連《つ》れて行きます、よう御座んすか貰ひまするといふに、勝手にしろ、子も何も入《い》らぬ、連《つ》れて行きたくば何処《どこ》へでも連れて行け、家《うち》も道具も何も入《い》らぬ、何《ど》うなりともしろとて寝転《ねころ》びしまゝ振向かんともせぬに、何《なん》の家《うち》も道具も無い癖に勝手にしろもないもの、これから身一つになつて仕《し》たいまゝの道楽《だうらく》なり何《なに》なりお尽しなされ、最《も》ういくら此子を欲しいと言つても返す事では御座んせぬぞ、返しはしませぬぞと念を押して、押入《おしい》れ探《さぐ》つて何《なに》やらの小風呂敷取出《こぶろしきとりいだ》し、これは此子の寝間着《ねまき》の袷《あはせ》、はらがけと三《八》尺だけ貰つて行きまする、御酒《ごしゆ》の上といふでもなければ、醒めての思案《しあん》もありますまいけれど、よく考へて見て下され、たとひ何《ど》のやうな貧苦の中でも二人揃つて育てる子は長者《ちやうじや》の暮しといひまする、別れゝば片親、何《なに》につけてもふびんなは此子とお思ひなさらぬか、あゝ腸《はらわた》が腐《くさ》つた人は子の可愛さも分りはすまい、もうお別れ申しますと風呂敷さげて表へ出づれば、早くゆけ〓〓とて呼びかへしては呉《く》れざりし。
(八)
魂祭《一たままつり》過ぎて幾日《いくじつ》、まだ盆提燈《ぢやうちん》のかげ薄淋しき頃、新開《しんかい》の町《まち》を出《い》でし棺《くわん》二つあり、一つは駕《かご》にて一つはさ《二》し担《かつ》ぎにて、駕は菊の井《ゐ》の隠居所《いんきよじよ》よりしのびやかに出でぬ、大路《おほぢ》に見る人のひそめくを聞けば、あの子もとんだ運のわるい詰《つま》らぬ奴に見込まれて可愛さうな事をしたといへば、イヤあれは得心《とくしん》づくだと言ひまする、あの日の夕暮、お寺の山で二人立ばなしをして居たといふ確《たし》かな証人もござります、女も逆上《のぼせ》て居た男の事なれば義理にせまつて遣《や》つたので御座ろといふもあり、何《なん》のあの阿魔《あま》が義理はりを知らうぞ湯屋の帰りに男に逢ふたれば、流石《さすが》に振はなして逃る事もならず、一処に歩いて話しはしても居たらうなれど、切られたは後袈裟《うしろげさ》、頬先《ほうさき》のかすり疵《きず》、頸筋《くびすぢ》の突疵《つききず》など色々あれども、たしかに逃げる処を遣《や》られたに相違ない、引《ひき》かへて男は美事《みごと》な切腹《せつぷく》、蒲団《ふとん》やの時代から左《さ》のみの男と思はなんだがあれこそは死花《しにばな》、えらさうに見えたといふ、何にしろ菊の井《ゐ》は大《おほ》損であらう、彼《あ》の子には結構《けつかう》な旦那《だんな》がついた筈、取にがしては残念であらうと人の憂《うれ》ひを串戯《じようだん》に思ふものもあり、諸説みだれて取止めたる事なけれど、恨《うらみ》は長し人魂《ひとだま》か何かしらず筋《すぢ》を引く光り物のお寺の山といふ小高《こだか》き処より、折ふり飛《と》べるを見し者ありと伝へぬ。
十三夜
(上)
例《いつも》は威勢よき黒ぬり車《ぐるま》の、それ門《かど》に音《おと》が止《と》まつた娘ではないかと両親《ふたおや》に出迎はれつるものを、今宵は辻より飛《一とび》のりの車さへ還《かへ》して悄然《しよんぼり》と格子戸《かうしど》の外《そと》に立てば、家内《うち》には父親《てゝおや》が相かはらずの高声《たかごゑ》、いはゞ私も福人《二ふくじん》の一人、いづれも柔順《おとな》しい子供を持つて育てるに手は懸《かゝ》らず人には褒《ほ》められる、分外《三ぶんぐわい》の慾《よく》さへ渇《かわ》かねば此上《このうへ》に望みもなし、やれ〓〓有難い事と物がたられる、あの相手は定《さだ》めし母様《はゝさん》、あゝ何《なに》も御存じなしにあのやうに喜んでお出《いで》遊ばすものを、何《四ど》の顔さげて離縁状もらふて下されと言はれたものか、叱られるは必定《ひつぢやう》、太郎といふ子もある身にて置いて駆け出して来るまでには種々思案《いろいろしあん》もし尽しての後《のち》なれど、今更《いまさら》にお老人《としより》を驚かして是《こ》れまでの喜びを水《五 》の泡《あわ》にさせまする事つらや、寧《いつ》そ話さずに戻らうか、戻れば太郎の母と言はれて何時何時《いついつ》までも原田《はらだ》の奥様、御両親に奏任《六そうにん》の聟《むこ》がある身と自慢させ、私さへ身を節約《つめ》れば時たまはお口に合ふ物お小遣《こづか》ひも差あげられるに、思ふまゝを通して離縁とならば太郎には継母《まゝはゝ》の憂《う》き目を見せ、御両親には今までの自慢の鼻俄《はなには》かに低くさせまして、人の思はく、弟の行末《ゆくすゑ》、あゝ此身一つの心から出世の真《七しん》も止《と》めずばならず、戻らうか、戻らうか、あの鬼のやうな我良人《わがつま》のもとに戻らうか、あの鬼の、鬼の良人《つま》のもとへ、えゝ厭々と身をふるはす途端《とたん》、よろ〓〓として思はず格子にがたりと音さすれば、誰《だ》れだと大きく父親《てゝおや》の声、道ゆく悪太郎《八あくたらう》の悪戯《いたづら》とまがへてなるべし。
外《そと》なるはおほゝと笑ふて、お父様私《とつさんわたし》で御座んすといかにも可愛《かは》ゆき声、や、誰れだ、誰れであつたと障子を引明《ひきあけ》て、ほうお関《せき》か、何だな其様《そん》な処《ところ》に立つて居て、何《ど》うして又此《この》おそくに出かけて来た、車もなし、女中も連《つ》れずか、やれ〓〓ま早く中《なか》へ這入れ、さあ這入れ、何《ど》うも不意に驚かされたやうでまご〓〓するわな、格子は閉《し》めずとも宜《よ》い私《わたし》が閉《し》める、兎《と》も角《かく》も奥がいゝ、ずつとお月様のさす方へ、さ、蒲《九 》団へ乗れ、蒲団へ、何《ど》うも畳が汚いので大屋《一〇おほや》に言つては置いたが職人の都合《つがふ》があると言ふてな、遠慮も何も入らない着物がたまらぬからそれを敷《し》いて呉《く》れ、やれ〓〓何《ど》うして此遅《このおそ》くに出て来たお宅《うち》では皆お変りもなしかと例《いつ》に替らずもてはやさるれば、針の蓆《むしろ》にのるやうにて奥さま扱《あつか》ひ情《なさけ》なくじつと涙を呑込《のみこ》んで、はい誰れも時候《じこう》の障《さは》りも御座りませぬ、私は申訳《まをしわけ》のない御無沙汰して居《を》りましたが貴君《あなた》もお母様《つかさま》も御機嫌よくいらつしやりますかと問へば、いやもう私は嚏一《くさめひと》つせぬ位《くらゐ》、お袋《一一ふくろ》は時たま例の血《一二ち》の道《みち》といふ奴を始めるがの、それも蒲団《ふとん》かぶつて半日《はんにち》も居ればけろけろとする病《やまい》だから仔細《しさい》はなしさと元気よく呵々《からから》と笑ふに、亥之《ゐの》さんが見えませぬが今晩《こんばん》は何方《どちら》へか参りましたか、あの子も替らず勉強で御座んすかと問へば、母親《はゝおや》はほ《一三》たほたとして茶を侑《すゝ》めながら、亥之《ゐの》は今しがた夜学に出て行きました、あれもお前お蔭さまで此間は昇給《しようきふ》させて頂いたし、課長様が可愛《かあい》がつて下さるので何《ど》の位《くらゐ》心丈夫《ぢやうぶ》であらう、是《こ》れと言ふも矢張《やつぱ》り原田さんの縁が有《あ》るからだとて宅《うち》では毎日いひ暮して居《ゐ》ます、お前に如才《一四じよさい》は有るまいけれど此後《このご》とも原田さんの御機嫌《ごきげん》の好《い》いやうに、亥之《ゐの》はあの通り口《一五くち》の重《おも》い質《たち》だし何《いづ》れお目に懸《かゝ》つてもあつけ《一六ヽヽヽ》ない御挨拶《ごあいさつ》よりほか出来まいと思はれるから、何分《なにぶん》ともお前が中《なか》に立つて私どもの心が通じるやう、亥之《ゐの》が行末《ゆくすゑ》をもお頼《たの》み申して置いてお呉《く》れ、ほんに替《一七》り目で陽気《やうき》が悪いけれど太郎さんは何時《いつ》もお悪戯《いた》をして居《ゐ》ますか、何故《なぜ》に今夜《こんや》は連《つ》れてお出でゞない、お祖父《ぢい》さんも恋しがつてお出《いで》なされたものをと言はれて、又今更《さら》にう《一八》ら悲しく、連《つ》れて来《こ》やうと思ひましたけれどあの子は宵《一九よひ》まどひでもう疾《と》うに寝ましたから其《その》まゝ置いて参りました、本当に悪戯《いたづら》ばかりつのりまして聞わけとては少《すこ》しもなく、外《そと》へ出れば跡を追ひまするし、家内《うち》に居《ゐ》れば私の傍《そば》ばつかり硯《ねら》ふて、ほんに〓〓手が懸《かゝ》つて成《なり》ませぬ、何故《なぜ》彼様《あんな》で御座りませうと言ひかけて思ひ出しの涙むねの中に漲《みなぎ》るやうに、思ひ切つて置いては来たれど今頃は目を覚して母《かゝ》さん母《かゝ》さんと婢女《をんな》どもを迷惑がらせ、お煎餅《せん》やおこしの賺《たら》しも肯《き》かで、皆々《二〇みなみな》手を引いて鬼に喰はすと威《おど》かしてゞも居《ゐ》やう、あゝ可愛《かあい》さうな事をと声たてゝも泣きたきを、さ《二一》しも両親《ふたおや》の機嫌《きげん》よげなる言《い》ひ出《いで》かねて、烟《けぶり》にまぎらす烟草《たばこ》二三服《ぷく》、空咳《からせき》こん〓〓として涙を襦袢《じゆばん》の袖にかくしぬ。
今宵《こよひ》は旧暦《きうれき》の十三夜《二二じふさんや》、旧弊《きうへい》なれどお月見の真似事《まねごと》に団子《いしいし》をこしらへてお月様にお供《そな》へ申せし、これはお前も好物《かうぶつ》なれば少々《せうせう》なりとも亥之助《ゐのすけ》に持たせて上《あ》げやうと思ふたれど、亥之助《ゐのすけ》も何か極《きま》りを悪がつて其様《そのやう》な物はお止《よ》しなされと言ふし、十五夜《じふごや》にあげなんだから片月見《二三かたつきみ》になつても悪《わる》し、喰べさせたいと思ひながら思ふばかりで上げる事が出来なんだに、今夜《こんや》来て呉《く》れるとは夢のやうな、ほんに心が届《とゞ》いたのであらう、自宅《うち》で甘《うま》い物はいくらも喰べやうけれど親のこしらへたは又別物、奥様気《ぎ》を取すてゝ今夜《こんや》は昔のお関《せき》になつて、外見《みえ》を構《かま》はず豆なり栗なり気に入つたを喰べて見せてお呉れ、いつでも父様《とゝさん》と噂《うはさ》すること、出世《しゆつせ》は出世《しゆつせ》に相違なく、人の見る目も立派なほど、お位《くらゐ》のいゝ方々や御身分《ごみぶん》のある奥様がたとの御交際《おつきあひ》もして、兎《と》も角《かく》も原田の妻と名告《なの》つて通るには気骨《きぼね》の折れる事もあらう、女子《をんな》どもの使ひやう出入《でい》りの者の行渡《二四ゆきわた》り、人の上に立つものはそれ丈《だけ》に苦労が多く、里方《二五さとかた》が此様《このやう》な身柄《みがら》では猶更《なほさら》のこと人に侮《あなど》られぬやうの心懸《が》けもしなければ成るまじ、それを種々《さまざま》に思ふて見ると父《とゝ》さんだとて私だとて孫なり子なりの顔の見たいは当然《あたりまへ》なれど、余《あんま》りうるさく出入《でい》りをしてはと控《ひか》へられて、ほんに御門《ごもん》の前を通る事はありとも木綿着物《もめんぎもの》に毛襦子《二六けじゆす》の洋傘《かうもり》さした時には見す〓〓お二階の簾《すだれ》を見ながら、あゝお関《せき》は何をして居る事かと思ひやるばかり行過《ゆきす》ぎて仕舞《しまひ》まする、実家《じつか》でも少し何とか成つて居《ゐ》たならばお前の肩身《かたみ》も広からうし、同じくでも少しは息のつけやうものを、何を云ふにも此通《このとほ》り、お月見の団子《いしいし》をあげやうにもお重箱《ぢう》からしてお恥かしいでは無からうか、ほんにお前の心遣《づか》ひが思はれると嬉しき中《なか》にも思ふまゝの通路《二七つうろ》が叶《かな》はねば、愚痴《ぐち》の一つかみ賤《いや》しき身分を情《なさけ》なげに言はれて、本当に私は親不孝だと思ひまする、それは成程柔《なるほどやはら》かい衣服《きもの》きて手車《二八てぐるま》に乗りあるく時は立派らしくも見えませうけれど、父《とゝ》さんや母《かゝ》さんに斯《か》うして上げやうと思ふ事も出来ず、いはゞ自《二九》分の皮一重《かはひとえ》、寧《いつ》そ賃仕事《三〇ちんしごと》してもお傍《そば》で暮した方がよつぽど快《こゝろ》よう御座いますと言ひ出すに、馬鹿、馬鹿、其様《そのやう》な事を仮にも言ふてはならぬ、嫁に行つた身が実家《さと》の親《おや》の 貢 《三一みつぎ》をするなどゝ思ひもよらぬ事、家に居《ゐ》る時は斎藤《さいとう》の娘《むすめ》、嫁入《よめい》つては原田の奥方《おくがた》ではないか、勇《いさむ》さんの気に入るやうにして家《いへ》の内を修《をさ》めてさへ行けば何の仔細《しさい》は無い、骨が折れるからとてそれ丈《だけ》の運のある身ならば堪《た》へられぬ事は無い筈、女《をんな》などゝいふ者は何《ど》うも愚痴で、お袋《ふくろ》などが詰《つま》らぬ事を言ひ出すから困り切《き》る、いや何《ど》うも団子《だんご》を喰べさせる事が出来ぬとて一日大立腹《おほりつぷく》であつた、大分《だいぶ》熱心で調製《こしらへ》たものと見えるから十分《じふぶん》に喰べて安心させて遣《や》つて呉《く》れ、余程甘《よほどうま》からうぞと父親の戯謔《三二おどけ》を入《い》れに、再び言ひそびれて御馳走の栗枝豆《くりえだまめ》ありがたく頂戴《ちやうだい》しぬ。
嫁入りてより七年の間《あひだ》、いまだに夜《よ》に入りて客に来《き》しこともなく、土産《みやげ》もなしに一人歩きして来《く》るなど悉皆《三三しつかい》ためしのなき事なるに、思ひなしか衣類も例《いつも》ほどきらびやかならず、稀《まれ》に逢ひたる嬉しさにさのみは心も附かざりしが、聟《むこ》より言伝《ことづて》とて何一言《なにひとこと》の口上《こうじやう》もなく、無理に笑顔《ゑがほ》は作りながら底に萎《しを》れし処のあるは何か仔細《しさい》のなくては叶《かな》はず、父親《てゝおや》は机の上の置時計《おきどけい》を眺めて、こりやもう程なく十時になるが関《せき》は泊《とま》つて行つても宜《よ》いのかの、帰るならばもう帰らねばなるまいぞと気を引いて見る親の顔、娘は今更《いまさら》のやうに見上げて御父様《おとつさん》私は御願があつて出たので御座ります、何《ど》うぞ御聞《おきゝ》遊ばしてと屹《きつ》となつて畳に手を突く時、はじめて一しづく幾層《三四いくそ》の憂《う》きを洩《も》らしそめぬ。
父は穏《おだや》かならぬ色を動かして、改《あらた》まつて何かのと膝《ひざ》を進めれば、私は今宵《こよひ》限り原田へ帰らぬ決心で出て参つたので御座ります、勇《いさむ》が許しで参つたのではなく、あの子を寝かして、太郎を寝かしつけて、もうあの顔を見ぬ決心で出《で》て参りました、まだ私の手より外《ほか》誰れの守《も》りでも承知せぬほどの彼《あ》の子を、欺《だま》して寝かして夢の中《うち》に、私は鬼に成つて出て参りました、御父様《とつさん》、御母様《おつかさん》、察して下さりませ、私は今日までつひに原田の身について御耳に入れました事もなく、勇《いさむ》と私との中《なか》を人に言ふた事は御座りませぬけれど、千度《ちたび》も百度《もゝたび》も考へ直して、二年も三年も泣き尽《つく》して今日といふ今日どうでも離縁を貰《もら》ふて頂かうと決《三五》心の臍《ほぞ》をかためました、何《ど》うぞお願ひで御座ります離縁の状《じやう》を取つて下され、私はこれから内職なり何なりして亥之助《ゐのすけ》が片腕《かたうで》にもなられるやう心がけますほどに、一生一人で置いて下さりませとわつと声たてるを噛《かみ》しめる襦袢《じゆばん》の袖、墨絵《三六すみゑ》の竹も紫竹《しちく》の色にや出《い》づると憐《あは》れなり。
それは何《ど》ういふ仔細《しさい》でと父《ちゝ》も母《はゝ》も詰寄《つめよ》つて問《とひ》かゝるに今までは黙つて居《ゐ》ましたれど私の家《うち》の夫婦《めをと》さし向ひを半日見て下さつたら大抵《たいてい》がお解《わか》りに成ませう、物言《ものい》ふは用事のある時慳貪《三七けんどん》に申附けられるばかり、朝起まして機嫌《きげん》をきけば不図《ふと》脇を向いて庭の草花を態《わざ》とらしき褒《ほ》め詞《ことば》、是れにも腹はたてども良人《をつと》の遊ばす事なればと我慢《がまん》して私は何も言葉あらそひした事も御座んせぬけれど、朝飯《あさはん》あがる時から小言《こごと》は絶えず、召使《めしつかひ》の前にて散々と私が身の不器用不作法《ぶきようぶさはう》を御並べなされ、それはまだ〓〓辛防もしませうけれど、二言目《ふたことめ》には教育のない身、教育のない身と御蔑《おさげす》みなさる、それは素《もと》より華族《三八くわぞく》女学校の椅子《いす》にかゝつて育つた者ではないに相違なく、御同僚《ごどうれう》の奥様がたのやうにお花のお茶の、歌の画のと習ひ立てた事もなければ其お話しのお相手は出来ませぬけれど、出来ずば人知れず習はせて下さつても済《す》むべき筈、何も表向《おもてむ》き実家の悪いを吹聴《ふいちやう》なされて、召使ひの婢女《をんな》どもに顔の見られるやうな事なさらずとも宜《よ》かりさうなもの、嫁入《よめい》つて丁度半年《ちようどはんとし》ばかりの間《あひだ》は関《せき》や関やと下《した》へも置かぬやうにして下さつたけれど、あの子が出来てからといふものは丸《まる》でお人が変りまして、思ひ出しても恐ろしう御座ります、私はくらやみの谷へ突落《つきおと》されたやうに暖かい日の影といふを見た事が御座りませぬ、はじめの中《うち》は何か串戯《じようだん》に態《わざ》とらしく邪慳《じやけん》に遊ばすのと思ふて居《を》りましたけれど、全《まつた》くは私にお厭《あ》きなされたので此様《かう》もしたら出て行くか、彼様《あゝ》もしたら離縁をと言ひ出すかと苛《いぢ》めて苛めて苛め抜くので御座りましよ、御父様《おとつさん》も御母様《おつかさん》も私の性分《しやうぶん》は御存じ、よしや良人《をつと》が芸者狂《三九げいしやぐる》ひなさらうとも、囲《かこ》ひ者してお置きなさらうとも其様《そん》な事に悋気《りんき》する私でもなく、婢女《をんな》どもから其様《そん》な噂《うはさ》も聞えまするけれどあれほど働きのある御方なり、男の身のそれ位《くらゐ》はありうちと他処行《四〇よそゆき》には衣服《めしもの》にも気をつけて気に逆《さか》らはぬやう心がけて居りまするに、唯もう私の為《す》る事とては一から十まで面白くなく思召《おぼしめ》し、箸の上《あ》げ下《おろ》しに家《いへ》の内《うち》の楽しくないは妻が仕方《しかた》の悪いからだと仰《おつ》しやる、それも何《ど》ういふ事が悪い、此処《こゝ》が面白くないと言ひ聞かして下さるやうなら宜《よ》けれど、一筋《ひとすぢ》に詰《つま》らぬくだらぬ、解らぬ奴、とても相談の相手にはならぬの、いはゞ太郎の乳母《うば》として置いて遣《つか》はすのと嘲《あざけ》つて仰《おつ》しやるばかり、ほんに良人《をつと》といふではなくあの方は鬼で御座りまする、御自分の口から出てゆけとは仰《おつ》しやりませぬけれど私が此様《このやう》な意気地《いくぢ》なしで太郎の可愛《かあい》さに気が引かれ、何《ど》うでもお詞《ことば》に違背《ゐはい》せず唯々《はいはい》とお小言《こごと》を聞いて居《を》りますれば、張《はり》も意気地《いくぢ》もない愚《四一ぐ》うたらの奴《やつ》、それからして気に入らぬと仰《おつ》しやりまする、左様《さう》かと言つて少しなりとも私の言条《四二いひでう》を立てゝ負けぬ気にお返事をしましたらそれを取《と》つこに出てゆけと言はれるは必定《ひつじやう》、私は御母様《おつかさん》出て来るのは何でも御座んせぬ、名のみ立派の原田勇《はらだいさむ》に離縁されたからとてゆめさら残りをしいとは思ひませぬけれど、何《なん》にも知らぬあの太郎が、片親《かたおや》になるかと思ひますると意地《いぢ》もなく我慢《がまん》もなく、詫《わび》て機嫌《きげん》を取つて、何《なん》でも無い事に恐れ入つて、今日までも物言《ものい》はず辛防《しんばう》してをりました、御父様《おとつさん》、御母様《おつかさん》、私は不運で御座りまするとて口惜《くや》しさ悲しさ打出《うちいだ》し、思ひも寄らぬ事を語れば、両親《ふたおや》は顔を見合せて、きては其様《そのやう》の憂き中《なか》かと呆《あき》れて暫時《しばし》いふ言《こと》もなし。
母親《はゝおや》は子に甘きならひ、聞く毎々《ことごと》に身にしみて口惜《くちを》しく、父様《とゝさま》は何と思召《おぼしめ》すか知らぬが元来《もともと》此方《こちら》から貰《もら》ふて下されと願ふて遣《や》つた子ではなし、身分が悪いの学校が何《ど》うしたのとよくも〓〓勝手な事が言はれたもの、先方《さき》は忘れたかも知らぬが此方《こちら》はたしかに日まで覚えて居る、阿関《おせき》が十七のお正月《しやうがつ》、まだ門松《四三かどまつ》を取りもせぬ七日の朝の事であつた、もとの猿楽町《四四さるがくちやう》の彼《あ》の家《うち》の前でお隣の小娘《ちいさい》のと追羽根《四五おひばね》して、あの娘《こ》の突いた白い羽根《はね》が通り掛つた原田さんの車の中へ落《四六》たとて、それをば阿関《おせき》が貰ひに行きしに、其時はじめて見たとか言つて人橋《ひとはし》かけてやい〓〓と貰ひたがる、御身分《ごみぶん》がらにも釣合《つりあ》ひませぬし、此方《こちら》はまた根《ね》つからの子供で何も稽古事《けいこごと》も仕込《四七しこ》んでは置きませず、支度《したく》とても只今の有様《ありさま》で御座いますからとて幾度断《いくたびことわ》つたか知れはせぬけれど、何も 舅 姑 《しうとしうとめ》のやかましいが有るではなし、我《わし》が欲しくて我《わし》が貰ふに身分も何も言ふ事はない、稽古《けいこ》は引取《ひきと》つてからでも十分させられるから其心配も要《い》らぬ事、兎角《とにかく》くれさへすれば大事にして置かうからとそれは〓〓火のつくやうに催促《さいそく》して、此方《こちら》から強請《ねだ》つた訳《わけ》ではなけれど支度《したく》まで先方《さき》で調《とゝの》へて謂はゞお前は恋女房、私や父様《とゝさん》が遠慮《ゑんりよ》してさのみは出入《でい》りをせぬといふも勇《いさむ》さんの身分を恐《おそ》れてゞはない、これが妾《めかけ》手《四八》かけに出したのではなし正当《しやうたう》にも正当にも百《四九》まんだら頼みによこして貰つて行つた嫁の親、大威張に出這入《ではいり》しても差つかへは無けれど、彼方《あちら》が立派にやつて居《ゐ》るに、此方《こちら》が此通りつまらぬ活計《くらし》をして居《ゐ》れば、お前の縁にすがつて聟《むこ》の助力《たすけ》を受けもするかと他人様《ひとさま》の所思《五〇おもはく》が口惜《くちを》しく、痩《や》せ我慢では無けれど交際《つきあひ》だけは御身分相応《ごみぶんさうおう》に尽《つく》して、平生《へいぜい》は逢ひたい娘の顔も見ずに居《ゐ》まする、それをば何の馬鹿々々しい親なし子《こ》でも拾つて行つたやうに大層《たいそう》らしい、物が出来るの出来ぬのとよく其様《そん》な口が利《き》けたもの、黙《だま》つて居《ゐ》ては際限《さいげん》もなく募《つの》つてそれは〓〓癖《くせ》になつて仕舞ひます、第一は婢女《をんな》どもの手前《てまへ》奥様の威光《ゐくわう》が殺《そ》げて、末《すゑ》にはお前の言ふ事を聞く者もなく、太郎を仕立《したて》るにも母様《はゝさん》を馬鹿にする気になられたら何《なん》としまする、言ふだけの事は屹度《きつと》言ふて、それが悪いと小言《こごと》をいふたら何《なん》の私にも家がありますとて出て来《く》るが宜《よ》からうではないか、ほんに馬《五一》鹿々々しいとつては夫《それ》ほどの事を今日が日まで黙《だま》つて居るといふ事がありますものか、あんまりお前が温順《おとな》し過ぎるから我儘《わがまゝ》がつのられたのであろ、聞いたばかりでも腹が立つ、もう〓〓怯《五二ひ》けて居《ゐ》るには及びません、身分《みぶん》が何《なん》であらうが父もある母もある、年はゆかねど亥之助《ゐのすけ》といふ弟もあれば其様《そのやう》な火の中にじつとして居るには及ばぬこと、なあ父様一遍勇《とゝさんいつぺんいさむ》さんに逢ふて十分油《五三》を取つたら宜《よ》う御座りましよと母は猛《たけ》つて前後《ぜんご》もかへり見ず。
父親《てゝおや》は先刻《さきほど》より腕組《ぐみ》して目を閉《と》ぢてありけるが、あゝお袋《ふくろ》、無茶《むちや》の事を言ふてはならぬ、我《わし》さへ初めて聞いて何《ど》うしたものかと思案《しあん》にくれる、阿関の事なれば並大抵で此様《こん》な事を言ひ出しさうにもなく、よく〓〓つらさに出て来たと見えるが、して今夜《こんや》は聟《むこ》どのは不在《るす》か、何か改《あらた》まつての事件でもあつてか、いよいよ離縁するとでも言はれて来たのかと落ついて問ふに、良人《をつと》は一昨日《をとゝひ》より家《うち》へとては帰られませぬ、五日六日《いつかむいか》と家《うち》を明《あ》けるは常の事、さのみ珍らしいとは思ひませぬけれど出際《でぎは》に召物《五四めしもの》の揃へかたが悪いとて如何《いか》ほど詫《わ》びても聞き入れが無く、其品《それ》をば脱《ぬ》いで擲《たゝ》きつけて、御自身《ごじしん》洋服にめしかへて、あゝ、私位不仕合《ふしあはせ》の人間はあるまい、お前のやうな妻を持つたのはと言ひ捨てに出て御出《おい》で遊ばしました、何《なん》といふ事で御座りませう一年三百六十五日物いふ事もなく、たま〓〓言はるれば此様《このやう》な情《なさけ》ない詞《ことば》をかけられて、それでも原田の妻と言はれたいか、太郎の母で候《さふらふ》と顔お《五五》し拭《ぬぐ》つて居《ゐ》る心か、我身《わがみ》ながら我身の辛防《しんばう》がわかりませぬ、もう〓〓もう私は良人《つま》も子も御座んせぬ嫁入せぬ昔と思へばそれまで、あの頑是《ぐわんぜ》ない太郎の寝顔を眺めながら置いて来るほどの心になりましたからは、もう何《ど》うでも勇《いさむ》の側《そば》に居《ゐ》る事は出来ませぬ、親はなくとも子は育つと言ひまするし、私のやうな不運《ふうん》の母の手で育つより継母御《まゝはゝご》なり御手《五六おて》かけなり気《き》に適《かな》ふた人に育てゝ貰ふたら、少しは父御《てゝご》も可愛《かあい》がつて後々《のちのち》あの子の為にも成ませう、私はもう今宵かぎり何《ど》うしても帰る事は致しませぬとて、断《た》つても断てぬ子の可愛さに、奇麗《きれい》に言へども詞《ことば》はふるへぬ。
父は歎息《たんそく》して、無理は無い、居辛《ゐづら》くもあらう、困つた中《なか》に成つたものよと暫時《しばらく》阿関《おせき》の顔を眺めしが、大丸髷に金輪《五七きんわ》の根を巻《ま》きて黒縮緬《くろちりめん》の羽織何《なん》の惜《を》しげもなく、我《わ》が娘《むすめ》ながらもいつしか整《とゝの》ふ奥様風《ふう》、これをば結《五八むす》び髪《がみ》に結《ゆ》ひかへさせて綿銘仙《めんめいせん》の半纏《はんてん》に襷《たすき》がけの水仕事《みづしごと》さする事いかにして忍ばるべき、太郎といふ子もあるものなり、一旦《いつたん》の怒《いか》りに百《五九》年の運を取はづして、人には笑はれものとなり、身はいにしへの斎藤主計《さいとうかずへ》が娘に戻《もど》らば、泣くとも笑ふとも再び原田太郎が母とは呼ばるゝこと成るべきにもあらず、良人《をつと》に未練は残さずとも我が子の愛の断《た》ちがたくば離れていよ〓〓物をも思ふべく、今の苦労を恋しがる心も出づべし、斯《か》く容《六〇かたち》よく生れたる身の不幸《ふしあはせ》、不相応《ふさうおう》の縁につながれて幾《いく》らの苦労をさする事と憐れさの増《まさ》れども、いや阿関斯《おせきか》う言ふと父《ちゝ》が無慈悲《むじひ》で酌取《くみと》つて呉《く》れぬのと思ふか知らぬが決してお前を叱るではない、身分が釣合《つりあ》はねば思ふ事も自然違ふて、此方《こちら》は真から尽す気でも取りやうに由《よ》つては面白くなく見える事もあらう、勇《いさむ》さんだからとてあの通《とほ》り物の道理《だうり》を心得た、利発《りはつ》の人ではあり随分《ずゐぶん》学者でもある、無茶苦茶にいぢめ立《たて》る訳ではあるまいが、得《え》て世間に褒《ほ》め物の敏腕家《はたらきて》などゝ言《い》はれるは極《きは》めて恐ろしい我《わが》まゝ者、外《そと》では知らぬ顔に切つて廻せど勤《つと》め向《む》きの不平などまで家内《うち》へ帰つて当りちらされる、的《まと》になつては随分《ずゐぶん》つらい事もあらう、なれどもあれほどの良人《をつと》を持つ身のつとめ、区役所がよひの腰弁当《六一こしべんたう》が釜《かま》の下を焚《た》きつけて呉《く》れるのとは格《かく》が違ふ、随《したが》つてやかましくもあらうむづかしくもあらうそれを機嫌《きげん》の好《い》いやうにとゝのへて行くが妻の役、表面《うはべ》には見えねど世間《せけん》の奥様といふ人達の何《いづ》れも面白くをかしき中《なか》ばかりはあるまじ、身一つと思へば恨《うら》みも出《で》る、何《なん》のこれが世の勤《つと》めなり、殊にはこれほど身《六二》がらの相違もある事なれば人一倍の苦もある道理《だうり》、お袋《ふくろ》などが口広《くちひろ》い事は言へど亥之《ゐの》が昨今《さくこん》の月給に有ついたも畢竟《ひつきやう》は原田さんの口入《くちい》れではなからうか、七光《六三ななひかり》どころか十光《とひかり》もしてよそながらの恩を着ぬとは言はれぬに辛《つら》からうとも一つは親の為弟の為、太郎といふ子もあるものを今日までの辛防がなるほどならば、これから後《ご》とて出来ぬ事はあるまじ、離縁を取つて出たが宜《よ》いか、太郎は原田のもの、其方《そち》は斎藤の娘《むすめ》、一度縁が切れては二度と顔見にゆく事もなるまじ、同《おな》じく不運に泣くほどならば、原田の妻で大泣きに泣け、なア関《せき》さうでは無いか、合点《がてん》がいつたら何事も胸に歛《をさ》めて知らぬ顔に今夜《こんや》は帰つて、今迄通りつゝしんで世を送つて呉《く》れ、お前が口に出さんとても親も察しる弟も察しる、涙は各自《てんで》に分けて泣かうぞと因果《いんぐわ》を含めてこれも目を拭ふに、阿関はわつと泣いてそれでは離縁をといふたも我儘《わがまゝ》で御座りました、成程《なるほど》太郎に別れて顔も見られぬやうにならば此世《このよ》に居《ゐ》たとて甲斐《かひ》もないものを、唯目の前の苦をのがれたとて何《ど》うなるもので御座んせう、ほんに私《わたし》さへ死んだ気にならば三方四方波風《なみかぜ》たゝず、兎《と》もあれ彼《あ》の子も両親《りやうしん》の手で育てられまするに、つまらぬ事を思ひ寄《より》まして、貴君《あなた》にまで厭な事をお聞かせ申しました、今宵《こよひ》限り関《せき》はなくなつて魂《たましひ》一つがあの子の身を守るのと思ひますれば良人《をつと》のつらく当る位《ぐらゐ》百年も辛防《しんばう》出来さうな事、よくお言葉も合点《がてん》が行きました、もう此様《こん》な事は御聞かせ申しませぬほどに心配をして下さりますなとて拭ふあとから又涙、母親は声たてゝ何といふ此娘《このこ》は不仕合《ふしあはせ》と又一しきり大泣きの雨、くもらぬ月も折から淋しくて、うしろの土手《どて》の自然生《じねんばえ》を弟の亥之《ゐの》が折つて来て、瓶《びん》にさしたる薄《すゝき》の穂の招《まね》く手振《てぶ》りもあはれなる夜《よ》なり。
実家《じつか》は上野《うへの》の新坂下《六四しんざかした》、駿河台《六五するがだい》への路なれば茂《しげ》れる森の木《こ》の下闇《したやみ》わびしけれど、今宵《こよひ》は月もさやかなり、広小路《六六ひろこうぢ》へ出《い》づれば昼も同様《どうやう》、雇《やと》ひつけの車宿《六七くるまやど》とて無き家《いへ》なれば路《みち》ゆく車を窓から呼んで、合点《がてん》が行つたら兎《と》も角《かく》も帰れ、主人《あるじ》の留守《るす》に断《ことわ》りなしの外出《ぐわいしゆつ》、これを咎《とが》められるとも申訳《まをしわけ》の詞《ことば》はあるまじ、少し時刻《じこく》は遅《おく》れたれど車ならばつひ一飛《とび》、話は重《かさ》ねて聞きに行かう、先づ今夜《こんや》は帰つてくれとて手を取つて引出すやうなるも事あら立《だ》てじの親の慈悲《じひ》、阿関《おせき》はこれまでの身と覚悟《かくご》してお父様《とつさん》、お母様《つかさん》、今夜《こんや》の事はこれ限り、帰りまするからは私は原田の妻なり、良人《をつと》を誹《六八そし》るは済《す》みませぬほどにもう何も言ひませぬ、関《せき》は立派な良人《をつと》を持つたので弟の為にも好い片腕《かたうで》、あゝ安心なと喜んで居て下されば私は何も思ふ事は御座んせぬ、決して決して不料簡《ふれうけん》など出すやうな事はしませぬほどにそれも案じて下さりますな、私の身体《からだ》は今夜《こんや》をはじめに勇のものだと思ひまして、彼《あ》の人の思ふまゝに何《なん》となりして貰ひましよ、それではもう私は戻ります、亥之《ゐの》さんが帰つたらば宜《よろ》しく言ふて置いて下され、お父様《とつさん》もお母様《つかさん》も御機嫌《ごきげん》よう、此次《このつぎ》には笑ふて参りまするとて是非なさゝうに立ち上れば、母親は無けなしの巾《六九》着さげて出て駿河台《するがだい》まで幾干《いくら》でゆくと門《かど》なる車夫《しやふ》に声をかくるを、あ、お母様《つかさん》それは私がやりまする、難有《ありがと》う御座んしたと温順《おとな》しく挨拶して、格子戸《かうしど》くゞれば顔に袖、涙をかくして乗り移る憐《あは》れさ、家《うち》には父が咳払ひの是《こ》れもう《七〇》るめる声なりし。
(下)
さやけき月に風のおと添《そ》ひて、虫の音《ね》たえ〓〓に物かなしき上野《うへの》へ入《い》りてよりまだ一町《いつちやう》もやう〓〓と思ふに、いかにしたるか車夫はぴつたりと轅《かぢ》を止《と》めて、誠に申兼《まをしか》ねましたが私はこれで御免を願ひます、代《だい》は入《い》りませぬからお下《お》りなすつてと突然にいはれて、思ひもかけぬ事なれば阿関《おせき》は胸をどつきりとさせて、あれお前そんな事を言つては困るではないか、少し急ぎの事でもあり増《一 》しは上げやうほどに骨を折つてお呉《く》れ、こんな淋しい処では代《かは》りの車も有るまいではないか、それはお前人困らせといふもの、ぐづらずに行つてお呉れと少しふるへて頼むやうに言へば、増《ま》しが欲しいといふのではありませぬ、私からお願ひです何《ど》うぞお下りなすつて、もう引くのが厭になつたので御座りますと言ふに、それではお前加減《かげん》でも悪いか、まあ何うしたといふ訳《わけ》、此処《こゝ》まで挽《ひ》いて来て厭になつたでは済《す》むまいがねと声に力を入れて車夫《しやふ》を叱《しか》れば、御免なさいまし、もう何《ど》うでも厭になつたのですからとて提燈《二ちやうちん》を持ちしまゝ不図脇《ふとわき》へのがれて、お前は我《わが》まゝの車夫《くるまや》さんだね、それならば約定《きめ》の処《ところ》までとは言ひませぬ、代《かは》りのある処《ところ》まで行つて呉《く》れゝばそれでよし、代《だい》はやるほどに何処《どこ》か其辺《そこら》まで、せめて広小路《ひろこうぢ》までは行つてお呉《く》れと優《やさ》しい声にすかすやうに言へば、成るほど若いお方ではあり此淋《このさび》しい処《ところ》へおろされては定《さだ》めしお困りなさりませう、これは私が悪う御座りました、ではお乗《の》せ申しませう、お供《とも》を致しませう、嘸《さぞ》お驚きなさりましたらうとて悪漢《わる》らしくもなく提燈《ちやうちん》を持《もち》かふるに、お関《せき》もはじめて胸をなで、心丈夫《ぢやうぶ》に車夫《しやふ》の顔を見れば二十五六の色黒く、小男《こをとこ》の痩《や》せぎす、あ、月に背けたあの顔が誰れやらで有つた、誰れやらに似て居《ゐ》ると人の名も咽元《のどもと》まで転《ころ》がりながら、もしやお前さんはと我知《われし》らず声をかけるに、え、と驚いて振りあふぐ男、あれお前さんはあのお方ではないか、私をよもやお忘れはなさるまいと車より濘《すべ》るやうに下りてつく〓〓と打まもれば、貴嬢《あなた》は斎藤の阿関《おせき》さん、面目もない此様《こん》な姿《なり》で、背後《うしろ》に目が無ければ何の気もつかずに居《ゐ》ました、それでも音声《ものごゑ》にも心づくべき筈なるに、私は余程《よつぽど》の鈍《三どん》に成りましたと下を向《む》いて身を恥《はぢ》れば、阿関《おせき》は頭《つむり》の先より爪先《つまさき》まで眺めていえ〓〓私だとて往来《わうらい》で行逢《ゆきあ》ふた位《ぐらゐ》ではよもや貴君《あなた》と気は附きますまい、唯《たつ》た今の先までも知らぬ他人《たにん》の車夫さんとのみ思ふて居《ゐ》ましたに御存じないは当然《あたりまへ》、勿体《もつたい》ない事であつたれど知らぬ事なればゆるして下され、まあ何時《いつ》から此様《こん》な業《こと》して、よく其孱弱《かよわ》い身に障《さは》りもしませぬか、伯母《をば》さんが田舎《ゐなか》へ引取られてお出《いで》なされて、小川町《四をがはまち》のお店をお廃《や》めなされたといふ噂《うはさ》は他処《よそ》ながら聞いても居《ゐ》ましたれど、私も昔の身でなければ種々《いろいろ》と障《さは》る事があつてね、お尋《たづ》ね申すは更なること手紙あげる事も成《五なり》ませんかつた、今は何処《どこ》に家を持つて、お内儀《かみ》さんも御健勝《おまめ》か、小児《ちいさい》のも出来てか、今も私は折ふし小川町《をがはまち》の勧工場《六くわんこうば》見に行きまする度毎《たびごと》、旧《もと》のお店がそつくり其儘《まゝ》同じ烟草《たばこ》店の能登《のと》やといふに成《な》つて居まするを、何時《いつ》通つても覗《のぞ》かれて、あゝ高坂《かうさか》の録さんが子供であつたころ、学校の往復《ゆきもど》りに寄つては巻烟草《まきたばこ》のこぼれを貰ふて、生意気《なまいき》らしう吸立《すひた》てたものなれど、今は何処《どこ》に何《なに》をして、気の優《やさ》しい方なれば此様《こん》なむづかしい世に何《ど》のやうの世渡《よわた》りをしてお出《いで》なさらうか、それも心に懸《かゝ》りまして、実家《さと》に行く度《たび》に御様子を、もし知つて居るかと聞いては見まするけれど、猿楽町《さるがくちやう》を離れたのは今で五年の前、根《ね》つからお便りを聞く縁が無く、何《ど》んなにおなつかしう御座んしたらうと我身のほどをも忘れて問ひかくれば、男は流れる汗を手拭にぬぐふて、お恥かしい身に落まして今は家《うち》といふものも御座りませぬ、寝処《ねどころ》は浅草町《あさくさまち》の安宿《やすやど》、村《七》田といふが二階に転《ころ》がつて、気に向《む》いた時は今夜《こんや》のやうに遅くまで挽《ひ》く事もありまするし、厭と思へば日《八ひ》がな一日ごろ〓〓として烟《けぶり》のやうに暮して居《ゐ》まする、貴嬢《あなた》は相変らずの美くしさ、奥様にお成りなされたと聞いた時からそれでも一度は拝《をが》む事が出来るか、一生《いつしやう》の内《うち》に又お言葉を交《かは》す事が出来るかと夢のやうに願ふて居《ゐ》ました、今日までは入用のない命《いのち》と捨《す》て物に取りあつかふて居《ゐ》ましたけれど命があればこその御対面《ごたいめん》、あゝ能《よ》く私を高坂《かうさか》の録之助《ろくのすけ》と覚えて居《ゐ》て下さりました、辱《かたじけ》なう御座りますと下を向くに、阿関《おせき》はさ《九》め〓〓として誰れも憂《う》き世に一人と思ふて下さるな。
してお内儀《かみ》さんはと阿関《おせき》の問へば、御存じで御座りましよ筋向《すぢむか》ふの杉田やが娘、色が白いとか恰好《かつかう》が何《ど》うだとか言ふて世間《せけん》の人は暗雲《一〇やみくも》に褒《ほ》めたてた女《もの》で御座ります、私が如何《いか》にも放蕩《のら》をつくして家へとては寄りつかぬやうに成つたを、貰ふべき頃に貰ふ物を貰はぬからだと親類《しんるゐ》の中《うち》のわからずやが勘違《かんちが》ひして、あれならばと母親が眼鏡にかけ、是非もらへ、やれ貰《もら》へと無茶苦茶に勧《すゝ》めたてる五月蠅《うるさ》さ、何《ど》うなりと成《な》れ、成れ、勝手に成れとて彼《あ》れを家《うち》へ迎へたは丁度《ちやうど》貴嬢《あなた》が御懐妊《ごくわいにん》だと聞きました時分《じぶん》の事、一年目には私が処にもお目出たうを他人《ひと》からは言はれて、犬張子《いぬはりこ》や風車《かざぐるま》を並べたてるやうに成りましたれど、何《なん》のそんな事で私が放蕩《のら》のやむ事か、人は顔の好《よ》い女房を持たせたら足が止《と》まるか、子が生れたら気が改《あらた》まるかとも思ふて居《ゐ》たのであらうなれど、たとひ小町《一一こまち》と西施《せいし》と手を引いて来て、衣通姫《一二そとほりひめ》が舞《まひ》を舞《ま》つて見せて呉《く》れても私の放蕩《のら》は直《なほ》らぬ事に極《き》めて置いたを、何《なん》で乳くさい子供の顔見て発心《ほつしん》が出来ませう、遊んで遊んで遊び抜いて、呑んで呑んで呑み尽《つく》して、家も稼業《かげふ》もそつち除《の》けに箸一本持たぬやうに成つたは一昨々年《さきをとゝし》、お袋《ふくろ》は田舎《ゐなか》へ嫁入つた姉の処に引取つて貰ひまするし、女房は子をつけて実家《さと》へ戻したまゝ音信不通《いんしんふつう》、女の子ではあり惜《を》しいとも何とも思ひはしませぬけれど、其子も昨年《さくねん》の暮窒扶斯《くれちふす》に罹《かゝ》つて死んださうに聞きました、女はませた者ではあり、死ぬ際《きは》に定《さだ》めし父様《とゝさん》とか何《なん》とか言ふたので御座りませう、今年居《ゐ》れば五つになるので御座りました。何《なん》のつまらぬ身の上、お話しにも成りませぬ。
男はうす淋しき顔に笑《ゑ》みを浮べて貴嬢《あなた》といふ事も知りませぬので、飛《と》んだ我《わが》まゝの不調法《ぶてうはう》、さ、お乗りなされ、お供《とも》をしまする、嘸不意《さぞふい》でお驚きなさりましたらう、車を挽《ひ》くと言ふも名ばかり、何が楽しみに轅棒《かぢぼう》をにぎつて、何が望みに牛馬《うしうま》の真似《まね》をする、銭《ぜに》が貰へたら嬉しいか、酒が呑まれたら愉快なか、考へれば何《なに》も彼《か》も悉皆《しつかい》厭で、お客様を乗せやうが空車《から》の時だらうが厭となると用捨《ようしや》なく厭に成《なり》まする、呆《あき》れはてる我《わが》まゝ男、愛想《あいそ》が尽《つ》きるでは有りませぬか、さ、お乗りなされ、お供《とも》をしますとすゝめられて、あれ知らぬ中《うち》は仕方もなし、知つて其車《それ》に乗れますものか、それでも此様《こん》な淋しい処を一人ゆくは心細いほどに、広小路《ひろこうぢ》へ出るまで唯道づれに成つて下され、話しながら行きませうとて阿関《おせき》は小褄《一三こづま》少し引あげて、ぬり下駄のおと是《こ》れも淋しげなり。 昔の友といふ中《うち》にもこれは忘られぬ由縁《一四ゆかり》のある人、小川町《をがはまち》の高坂《かうさか》とて小奇麗《こぎれい》な烟草《たばこ》屋の一人息子、今は此様《このやう》に色も黒く見られぬ男になつては居《ゐ》れども、世にある頃の唐桟《一五たうざん》ぞろひに小気《こき》の利《き》いた前《一六》だれがけ、お世辞も上手《じやうず》、愛敬《あいきやう》もありて、年の行かぬやうにも無い、父親《てゝおや》の居《ゐ》た時よりは却《かへ》つて店が賑やかなと評判《ひやうばん》された利口《りこう》らしい人の、さても〓〓の変り様《やう》、我身《わがみ》が嫁入りの噂《うはさ》聞え初《そ》めた頃から、やけ遊びの底ぬけ騒ぎ、高坂《かうさか》の息子《むすこ》は丸で人間が変つたやうな、魔《ま》でもさしたか、祟《たゝ》りでもあるか、よもや只事《ただごと》では無いと其頃に聞きしが、今宵《こよひ》見れば如何《いか》にも浅ましい身の有様《ありさま》、木賃泊《一七きちんどま》りに居《ゐ》なさんすやうに成らうとは思ひも寄らぬ、私は此人《このひと》に思はれて、十二の年より十七まで明暮《あけく》れ顔を合せる毎《たび》に行々《ゆくゆく》は彼《あ》の店の彼処《あすこ》へ坐つて、新聞見ながら商《あきな》ひするのと思ふても居《ゐ》たれど、はからぬ人に縁の定《さだ》まりて、親々の言ふ事なれば何の異存《一八いぞん》を入《い》れられやう、烟草屋の録さんにとは思へどそれはほんの子供心、先方《さき》からも口へ出して言ふた事はなし、此方《こちら》は猶《なほ》さら、これは取とまらぬ夢のやうな恋なるを、思ひ切つて仕舞《しま》へ、思ひ切つて仕舞へ、あきらめて仕舞はうと心を定《さだ》めて、今の原田へ嫁入りの事には成つたれど、其際《きは》までも涙がこぼれて忘れかねた人、私が思ふほどは此人も思ふて、それ故の身の破滅《はめつ》かも知れぬものを、我が此様《このやう》な丸髷《まるまげ》などに、取すましたるやうな姿をいかばかり面憎《つらにく》く思はれるであらう、ゆめさら左様《さう》した楽しらしい身ではなけれどもと阿関《おせき》は振返つて録之助《ろくのすけ》を見やるに、何を思ふか茫然《ぼうぜん》とせし顔つき、時たま逢ひし阿関《おせき》に向つてさのみは嬉しき様子も見えざりき。
広小路《ひろこうぢ》に出《いづ》れば車もあり、阿関《おせき》は紙入《かみいれ》より紙幣《しへい》いくらか取出《とりいだ》して小菊《一九こぎく》の紙にしほらしく包みて、録《ろく》さんこれは誠に失礼なれど鼻紙《はながみ》なりとも買つて下され、久し振でお目にかゝつて何か申したい事は沢山あるやうなれど口へ出ませぬは察して下され、では私はお別れに致します、随分《ずゐぶん》からだを厭《いと》ふて煩《わづ》らはぬやうに、伯母《をば》さんをも早く安心させておあげなさりまし、蔭ながら私も祈ります、何《ど》うぞ以前の録《ろく》さんにお成りなされて、お立派にお店をお開きに成ります処《ところ》を見せて下され、左様《さやう》ならばと挨拶《あいさつ》すれば録之助《ろくのすけ》は紙づゝみを頂いて、お辞儀《二〇じぎ》申す筈なれど貴嬢《あなた》のお手より下されたのなれば、難有く頂戴して思ひ出《で》にしまする、お別れ申すが惜《を》しいと言つても是《こ》れが夢ならば仕方のない事、さ、お出《いで》なされ、私も帰ります、更《ふ》けては路が淋しう御座りますぞとて空車《からぐるま》引いてうしろ向《む》く、其人《それ》は東《二一》へ、此人《これ》は南へ、大路《おほぢ》の柳月のかげに靡《なび》いて力《ちから》なさゝうの塗《二二》り下駄《げた》の音、村田の二階も原田の奥も憂《う》きはお互ひの世におもふ事多し。
わかれ道
(上)
お京《きやう》さん居《ゐ》ますかと窓の戸《と》の外に来て、こと〓〓と羽目《はめ》を敲《たゝ》く音のするに、誰れだえ、もう寝《ね》て仕舞つたから明日《あした》来てお呉れと嘘《うそ》を言へば、寝たつて宜《い》いやね、起きて明《あ》けてお呉んなさい、傘屋の吉《きち》だよ、己《お》れだよと少し高く言へば、いやな子だね此様《こん》な遅《おそ》くに何を言ひに来たか、又お餅《かちん》のおねだりか、と笑つて、今あけるよ少時辛防《しばらくしんばう》おしと言ひながら、仕立かけの縫物《ぬひもの》に針どめして立つは年頃二十《はたち》余りの意気《いき》な女、多い髪の毛を忙しい折からとて結び髪にして、少し長めな八丈《一ぢやう》の前だれ、お《二》召の台《だい》なしな半天《はんてん》を着て、急ぎ足に沓脱《くつぬぎ》へ下りて格子戸《かうしど》に添《そ》ひし雨戸を明《あ》くれば、お気の毒さまと言ひながらずつと這入《はい》るは一寸法師《すんぼし》と仇名《あだな》のある町内の暴《あば》れ者、傘屋の吉とて持て余しの小僧なり、年は十六なれども不図見《ふとみ》る処は一か二か、肩幅せばく顔小さく、目鼻だちはきり〓〓と利口《りこう》らしけれどいかにも背の矮《ひく》ければ人嘲《あざけ》りて仇名《あだな》はつけゝる、御免なさい、と火鉢の傍《そば》へづか〓〓と行けば、お餅《かちん》を焼くには火が足らないよ、台所の火消壺から消し炭を持つて来てお前が勝手に焼いてお喰べ、私は今夜中《こんやぢゆう》に此れ一枚《ひとつ》を上げねばならぬ、角の質屋の旦那どのが御年始着《ごねんしぎ》だからとて針を取れば、吉はふふんと言つて彼《あ》の兀頭《はげあたま》には惜しい物だ、御初穂《三おはつう》を己《お》れでも着て遣《や》らうかと云へば、馬鹿をお言ひでない人のお初穂《はつう》を着ると出世が出来ないと言ふではないか、今つから伸びる事が出来なくては仕方が無い、其様《そん》な事を他処《よそ》の家でもしては不可《いけない》よと気を附けるに、己《お》れなんぞ御出世は願はないのだから他人《ひと》の物だらうが何だらうが着かぶつて遣るだけが徳さ、お前さん何時《いつ》か左様《さう》言つたね、運が向く時になると己《お》れに糸織《四いとおり》の着物をこしらへて呉れるつて、本当に調製《こしら》へて呉れるかえと真面目だつて言へば、それは調製《こしら》へて上げられるやうならお目出度のだもの喜んで調製《こしら》へるがね、私が姿を見てお呉れ、此様《こん》な容体《ようだい》で人さまの仕事をして居る境界《きやうがい》ではなからうか、まあ夢のやうな約束さとて笑つて居《ゐ》れば、いゝやなそれは、出来ない時に調製《こしら》へて呉れとは言はない、お前さんに運の向いた時の事さ、まあ其様《そん》な約束でもして喜ばして置いてお呉れ、此様《こん》な野郎が糸織《いとおり》ぞろへを被つた処がをかしくも無いけれどもと淋しさうな笑顔をすれば、そんなら吉ちやんお前が出世の時は私にもしてお呉れか、其約束も極めて置きたいねと微笑《ほゝゑ》んで言へば、其奴《そいつ》はいけない、己《お》れは何うしても出世なんぞは為《し》ないのだから。何故々々、何故でもしない、誰れが来て無理やりに手を取つて引上げても己《お》れは此処に斯《か》うして居《ゐ》るのがいゝのだ、傘屋の油引きが一番好《い》いのだ、何《ど》うで盲目《五めくら》縞《じま》の筒袖に三尺《じやく》を背負《しよ》つて産《で》て来たのだらうから、渋を買ひに行く時かすり《六ヽヽヽ》でも取つて吹矢《ふきや》の一本も当りを取るのが好い運さ、お前さんなぞは以前《もと》が立派な人だといふから今に上等の運が馬車に乗つて迎ひに来やすのさ、だけれどもお妾《めかけ》になるといふ謎《なぞ》では無いぜ、悪く取つて怒つてお呉んなさるな、と火なぶりをしながら身の上を歎《なげ》くに、左様《さう》な馬車の代《かは》りに火の車でも来るであらう、随分胸の燃える事があるからねと、お京は尺《ものさし》を杖に振返りて吉三《きちざう》が顔を諦視《まも》りぬ。
例《いつも》の如く台所から炭を持出して、お前は喰ひなさらないかと聞けば、いゝえ、とお京の頭《つむり》をふるに、では己《お》ればかり御馳走さまにならうかな、本当に自家《うち》の吝嗇奴《けちんばう》めやかましい小言《こごと》ばかり言やがつて、人を使ふ法をも知りやがらない、死んだお老婆《ばあ》さんはあんなのでは無かつたけれど、今度の奴等と来たら一人として話せるのは無い、お京さんお前は自家《うち》の半次《はんじ》さんを好きか、随分厭味に出来あがつて、いゝ気《き》の骨頂《こつちやう》の奴ではないか、己《お》れは親方の息子だけれど彼奴《あいつ》ばかりは何《ど》うしても主人とは思はれない、番《七》ごと喧嘩をして遣《や》り込めてやるのだが随分おもしろいよと話しながら、鉄網《かなあみ》の上へ餅をのせて、おゝ熱々と指先を吹いてかゝりぬ。
己《お》れは何《ど》うもお前さまの事が他人のやうに思はれぬは何《ど》ういふものであらう、お京さまお前は弟といふを持つた事は無いのかと問はれて、私は一人子で同胞《きやうだい》なしだから弟《おとゝ》にも妹《いもと》にも持つた事は一度も無いと言ふ、左様《さう》かなあ、それでは矢張《やつぱり》何でも無いのだらう、何処《どこ》からか斯《か》うお前のやうな人が己《お》れの真身《しんみ》の姉さんだとか言つて出て来たら何んなに嬉しいか、首つ玉へ噛《かじ》り着いて己《お》れはそれぎり往生《わうじやう》しても喜ぶのだが、本当に己《お》れは木の股《また》からでも出て来たのか、ついしか親類らしい者に逢つた事も無い、それだから幾度も幾度も考へては己《お》れはもう一生誰れにも逢ふ事が出来ない位《くらゐ》なら今のうち死んで仕舞つた方が気楽だと考へるがね、それでも慾があるから可笑《をか》しい、ひよつくり変てこな夢なんかを見てね、不常《ふだん》優しい事の一言も言つて呉れる人が母親《おふくろ》や親父や姉《あね》さんや兄《あに》さんのやうに思はれて、もう少し生きて居《ゐ》ようかしら、もう一年も生きて居《ゐ》たら誰れか本当の事を話して呉れるかと楽しんでね、面白くも無い油引《あぶらひ》きをやつて居《ゐ》るが己《お》れ見たやうな変な物が世間にも有るだらうかねえ、お京さん母親《おふくろ》も親父も空《から》つきり当が無いのだよ、親なしで産れて来る子があらうか、己《お》れは何《ど》うしても不思議でならない、と焼きあがりたる餅を両手でたたきいつも言ふなる心細さを繰返せば、それでもお前笹《八》づる錦《にしき》の守り袋といふやうな証拠は無いのかえ、何か手懸《てがゝ》りは有りさうなものだねと、お京の言ふを消して、何其様《そん》な気の利《き》いた物は有りさうにもしない生れると直《すぐ》さま橋の袂の貸赤子《あかご》に出されたのだなど朋輩《ほうばい》の奴等が悪口をいふが、もしかもすると左様《さう》かも知れない、それなら己《お》れは乞食の子だ、母親《おふくろ》も親父も乞食かも知れない、表を通る襤褸《ぼろ》を下げた奴が矢張己《やつぱりお》れが親《九》類まきで毎朝きまつて貰ひに来る跛《びつこ》隻眼《めつかち》のあの婆あ何かが己《お》れの為の何に当るか知れはしない、話さないでもお前は大抵《たいてい》知つて居《ゐ》るだらうけれど今の傘屋に奉公する前は矢張己《やつぱりお》れは角兵衛《一〇かくべゑ》の獅子を冠《かぶ》つて歩いたのだからと打しをれて、お京さん己《お》れが本当の乞食の子ならお前は今までのやうに可愛《かはい》がつては呉《く》れないだらうか、振向いて見ては呉《く》れまいねと言ふに、串戯《じようだん》をお言ひでないお前が何《ど》のやうな人の子で何《ど》んな身かそれは知らないが、何だからとつて厭がるも厭がらないも言ふ事は無い、お前は平常《ふだん》の気に似合《にあは》ぬ情ない事をお言ひだけれど、私が少しもお前の身なら非人《一一ひにん》でも乞食でも構《かま》ひはない、親が無からうが兄弟が何《ど》うだらうが身一つ出世をしたらば宜からう、何故其様《そん》な意気地《いくぢ》なしをお言ひだと励《はげ》ませば、己《お》れは何《ど》うしても駄目だよ、何にも為《し》ようとも思はない、と下を向《む》いて顔をば見せざりき。
(中)
今は亡《う》せたる傘屋の先代《せんだい》に太《ふと》つ腹《ぱら》の松つて一代《だい》に身上《しんしやう》をあげたる、女相撲《をんなずまふ》のやうな老婆様《ばゞさま》ありき、六年前の冬の事寺参りの帰りに角兵衛《かくべゑ》の子供を拾うて来て、いゝよ親方からやかましく言つて来たら其時の事、可愛想に足が痛くて歩かれないと言ふと朋輩《ほうばい》の意地悪が置去《おきざ》りに捨てて行つたと言ふ、其様《そん》な処へ帰るに当るものか些《ちつ》とも怕《おつ》かない事は無いから私が家に居なさい、みんなも心配する事は無い何の此子位《ぐらゐ》のもの二人や三人や台所へ板を並べてお飯《まんま》を喰べさせるに文句《もんく》が入るものか、判証文《はんしようもん》を取つた奴でも駆落《かけおち》をするもあれば持逃げの吝《けち》な奴もある、料簡《れうけん》次第のものだわな、いはゞ馬にも乗つて見ろさ、役に立つか立《たゝ》ないか、置いて見なけりや知れはせん、お前新網《しんあみ》へ帰るが厭なら此家《こゝ》を死場と極《き》めて骨を折らなきやならないよ、しつかり遣つてお呉《く》れと言ひ含められて、吉や〓〓と夫《そ》れよりの丹精《たんせい》今油ひきに、大人《おとな》三人前を一手に引うけて鼻唄交《まじ》り遣《や》つて退《の》ける腕を見るもの、流石《さすが》に眼鏡と亡《な》き老婆《ひと》をほめける。
恩ある人は二年目に亡《う》せて今の主《あるじ》も内儀様《かみさま》も息子《むすこ》の半次も気に喰はぬ者のみなれど、此処《こゝ》を死場《しにば》と定《さだ》めたるなれば厭とて更に何方《いづかた》に行くべき、身は疳癪に筋骨《すぢほね》つまつてか人よりは一寸法師一寸法師と誹《そし》らるゝも口惜《くちを》しきに、吉や手前《てめへ》は親の日に腥《なまぐ》さを喰《やつ》たであらう、ざまを見ろ廻りの廻りの小仏《こぼとけ》と朋輩《ほうばい》の鼻垂《はなた》れに仕事の上に仇《あだ》を返されて、鉄拳《かなこぶし》に撲倒《はりたふ》す勇気はあれども誠に父母《ちゝはゝ》いかなる日に失《う》せて何時《いつ》を精進日《一しやうじんび》とも心得なき身の、心細き事を思うては干場《ほしば》の傘のかげに隠れて大地を枕に仰向《あふむ》き臥《ふ》してはこぼるゝ涙を呑込みぬる悲しさ、四季押通《きおしとほ》し油びかりする目くら縞《じま》の筒袖を振つて火の玉のやうな子だと町内《ちやうない》に恐がられる乱暴も慰むる人なき胸苦しさの余り、仮《かり》にも優《やさ》しう言うて呉れる人もあれば、しがみ附いて取ついて離れがたなき思ひなり。
仕事屋《しごとや》のお京、今年《ことし》の春より此裏へと越して来《き》し者なれど物事に気才《きさい》の利《き》きて長屋中への交際《つきあひ》もよく、大屋《おほや》なれば傘屋の者へは殊更に愛想を見せ、小憎さん達着る物のほころびでも切れたなら私の家《うち》へ持つてお出《いで》、お家《うち》は御多人数《ごたにんず》お内儀《かみ》さんの針持つていらつしやる暇はあるまじ、私は常住仕事《じやうぢゆうしごと》畳紙《たゝう》と首つ引《ぴき》の身なればほんの一針造作《ひとはりざうさ》は無い、一人住居《ずまひ》の相手なしに毎日毎夜さびしくつて暮して居《ゐ》るなれば手すきの時には遊びにも来て下され、私は此様《こん》ながら〓〓した気なれば吉《きつ》ちやんのやうな暴《あば》れさんが大好き、疳癪《かんしやく》がおこつた時には表の米屋が白犬を擲《は》ると思うて私の家の洗ひかへしを光沢出《つやだ》しの小槌《こづち》に、碪《きぬた》うちでも遣りに来て下され、それならばお前さんも人に憎《にく》まれず私の方でも大助かり、ほんに両為《りやうだめ》で御座んすほどにと戯言《じやうだん》まじり何時《いつ》となく心安く、お京さんお京さんとて入浸《いりびた》るを職人など挑発《からかひ》ては帯屋《おびや》の大将のあちらこちら、桂川《二かつらがは》の幕が出る時はお半《はん》の背《せな》に長右衛門と唱《うた》はせて彼《あ》の帯の上へちよこなんと乗つて出るか、此奴《こいつ》は好《い》いお茶番《ちやばん》だと笑はれるに、男なら真似て見ろ、仕事やの家《うち》へ行つて茶棚の奥の菓子鉢の中に、今日は何が何箇《いくつ》あるまで知つて居るのは恐らく己《お》れの外には有るまい、質屋の兀頭《はげあたま》めお京さんに首つたけで、仕事を頼むの何が何《ど》うしたとか小うるさく這入込《はいりこ》んでは前だれの半襟の帯つ皮のと附届《つけとゞけ》をして御機嫌を取つては居《ゐ》るけれど、つひしか喜んだ挨拶をした事が無い、ましてや夜中でも傘屋の吉が来たとさへ言へば寝間着のまゝで格子戸を明けて、今日は一日遊びに来なかつたね、何《ど》うかお為《し》か、案じて居たにと手を取つて引入れられる者が他にあらうか、お気の毒様なこつたが独活《三うど》の大木《たいぼく》は役にたゝない、山椒《さんしよ》は小粒《こつぶ》で珍重されると高い事をいふに、此野郎めと背を酷《ひど》く打たれて、有りがたう御座いますと澄まして行《い》く顔つき身長《せい》さへあれば人串戯《ひとじようだん》とて恕《ゆる》すまじけれど、一寸法師の生意気と爪はじきして好《い》い嬲《なぶ》りものに煙草休みの話しの種なりき。
(下)
十二月三十日の夜《よ》、吉《きち》は坂上の得意場《とくいば》へ誂《あつら》への日限《にちげん》の遅れしを詫びに行《ゆ》きて、帰りは懐手の急ぎ足、草履下駄の先にかゝるものは面白づくに蹴かへして、ころ〓〓と転げるを右に左に追ひかけては大溝《おほどぶ》の中へ蹴落《けおと》して一人から〓〓の高笑ひ、聞く者なくて天上のお月さま宛《さ》も皓々《かうかう》と照し給ふを寒《さぶ》いといふ事知らぬ身なれば唯こゝちよく爽かにて、帰りは例の窓を敲いてと目算《もくさん》ながら横町を曲れば、いきなり後《あと》より追ひすがる人の、両手に目を隠して忍び笑ひをするに、誰れだ誰れだと指を撫でて、何だお京さんか、小《一》指のまむしが物を言ふ、嚇《おど》かしても駄目だよと顔を振のけるに、憎らしい当《あ》てられて仕舞つたと笑ひ出す。お京はお高祖頭巾《二こそづきん》眉深《まぶか》に風通《三ふうつう》の羽織着て例《いつも》に似合ぬ美《よ》き粧《なり》なるを、吉三は見あげ見おろして、お前何処へ行きなすつたの、今日明日は忙がしくてお飯《まんま》を喰べる間《ま》もあるまいと言うたではないか、何処へお客様にあるいて居たのと不審を立てられて、取越《とりこ》しの御年始さと素知《そし》らぬ顔をすれば、嘘を言つてるぜ三十日《みそか》の年始を受ける家《うち》は無いやな、親類へでも行きなすつたかと問へば、とんでもない親類へ行くやうな身に成つたのさ、私は明日あの裏の移転《ひつこし》をするよ、あんまりだしぬけだから嘸《さぞ》お前おどろくだらうね、私も少し不意なのでまだ本当とも思はれない、兎も角喜んでお呉れ悪い事では無いからと言ふに、本当か、本当か、と吉は呆《あき》れて、嘘では無いか串戯《じようだん》では無いか、其様《そん》な事を言つておどかして呉《く》れなくても宜《い》い、己《お》れはお前が居なくなつたら少しも面白い事は無くなつて仕舞ふのだから其様《そん》な厭な串戯《じようだん》は廃《よ》しにしてお呉れ、えゝ詰《つま》らない事を言ふ人だと頭《かしら》をふるに、嘘ではないよ何時《いつ》かお前が言つた通り上等の運が馬車に乗つて迎ひに来たといふ騒ぎだから彼処《あすこ》の裏には居《ゐ》られない、吉《きち》ちやん其うちに糸織《いとおり》ぞろひを調製《こしら》へて上《あげ》るよと言へば、厭だ、己《お》れは其様《そん》な物は貰ひたくない、お前その好《い》い運といふは詰《つま》らぬ処へ行かうといふのではないか、一昨日《をとゝひ》自家《うち》の半次さんが左様《さう》言つて居《ゐ》たに、仕事やのお京さんは八百屋横町に按摩《あんま》をして居る伯父さんが口入《くちい》れで何処のかお邸へ御奉公に出るのださうだ、何お小間使ひといふ年ではなし、奥さまのお側《そば》やお縫物師の訳はない、三《四》つ輪に結《ゆ》つて総《ふさ》の下《さが》つた被布《五ひふ》を着るお妾《めかけ》さまに相違は無い、何《ど》うしてあの顔で仕事やが通せるものかと此様《こん》な事を言つて居《ゐ》た、己《お》れは其様《そん》な事は無いと思ふから、聞違ひだらうと言つて大喧嘩を遣つたのだが、お前もしや其処へ行くのでは無いか、其お邸へ行くのであらう、と問はれて、何も私だとて行きたい事は無いけれど行かなければならないのさ、吉ちやんお前にももう逢はれなくなるねえ、とて唯言ふことながら萎《しを》れて聞ゆれば、どんな出世《しゆつせ》に成るのか知らぬが其処へ行くのは廃《よ》したが宜《よ》からう、何もお前女口一つ針仕事で通せない事もなからう、あれほど利《き》く手を持つて居《ゐ》ながら何故つまらない其様《そん》な事を始めたのか、あんまり情ないではないかと吉は我身の潔白に較《くら》べて、お廃《よ》しよ、お廃しよ、断つてお仕舞なと言へば、困つたねとお京は立止まつて、それでも吉ちやん私は洗ひ張に倦きが来て、もうお妾《めかけ》でも何でも宜《い》い、何《ど》うで此様《こん》な詰らないづくめだから、いつその腐れ縮緬着物で世を過ごさうと思ふのさ。
思ひ切つた事を我れ知らず言つてほゝと笑ひしが、兎も角も家へ行かうよ、吉ちやん少しお急ぎと言はれて、何だか己《お》れは根《ね》つから面白いとも思はれない、お前まあ先へお出《いで》よと後《あと》に附《つ》いて、地上に長き影法師を心細げに踏んで行く、いつしか傘屋の路次を入つてお京が例の窓下に立てば、此処をば毎夜音づれて呉《く》れたのなれど、明日の晩はもうお前の声も聞かれない、世の中つて厭なものだねと歎息するに、それはお前の心がらだとて不満らしう吉三の言ひぬ。
お京は家に入《い》るより洋燈《らんぷ》に火を点《うつ》して、火鉢を掻きおこし、吉ちやんやお焙《あた》りよと声をかけるに己《お》れは厭だと言つて柱際《はしらぎは》に立つて居《ゐ》るを、それでもお前寒《さぶ》からうではないか風を引くといけないと気を附ければ、引いても宜《い》いやね、構《かま》はずに置いてお呉《く》れと下を向いて居《ゐ》るに、お前は何《ど》うかおしか、何だか可笑《をか》しな様子だね私の言ふ事が何か疳《かん》にでも障《さは》つたの、それなら其やうに言つて呉《く》れたが宜《い》い、黙つて其様《そん》な顔をして居《ゐ》られると気に成つて仕方が無いと言へば、気になんぞ懸けなくてもいゝよ、己《お》れも傘屋の吉三だ女のお世話には成らないと言つて、凭《より》かゝりし柱に背を擦《こす》りながら、あゝ詰《つま》らない面白くない、己《お》れは本当に何と言ふのだらう、いろ〓〓の人が鳥渡好《ちよつとい》い顔を見せて直様《すぐさま》つまらない事に成つて仕舞ふのだ、傘屋の先《せん》のお老婆《ばあ》さんも善《い》い人であつたし、紺屋《こんや》のお絹さんといふ縮《ちゞ》れつ毛の人も可愛《かはい》がつて呉《く》れたのだけれど、お老婆《ばあ》さんは中風《ちゆうぶう》で死ぬし、お絹さんはお嫁に行くを厭がつて裏の井戸へ飛込んで仕舞つた、お前は不人情で己れを捨てて行くし、もう何も彼《か》もつまらない、何だ傘屋の油ひきなんぞ、百人前の仕事をしたからとつて褒美《はうび》の一つも出やうでは無し、朝から晩まで一寸法師の言はれつゞけで、それだからと言つて一生経《た》つても此身長《このせい》が延びようかい、待てば甘露《かんろ》といふけれど己《お》れなんぞは一日々々厭な事ばかり降つて来やがる、一昨日《をとゝひ》半次の奴と大喧嘩をやつて、お京さんばかりは人の妾《めかけ》に出るやうな腸《はらわた》の腐つたのではないと威張《ゐば》つたに、五日とたゝずに兜《かぶと》をぬがなければ成らないのであらう、そんな嘘つ吐《つ》きの、ごまかしの、慾の深いお前さんを姉さん同様に思つて居たが口惜《くちを》しい、もうお京さんお前には逢はないよ、何《ど》うしてもお前には逢はないよ、長々御世話さま此処《こゝ》からお礼を申します、人をつけ、もう誰の事も当てにするものか、左様なら、と言つて立あがり沓《六くつ》ぬぎの草《七》履下駄足に引《ひき》かくるを、あれ吉《きつ》ちやんそれはお前勘違《かんちが》ひだ、何も私が此処を離れるとてお前を見捨てる事はしない、私はほんとに兄弟とばかり思ふのだもの其様《そん》な愛想づかしは酷《ひど》からうと、後《うしろ》から羽《八》がひじめに抱き止めて気の早い子だねとお京の諭《さと》せば、そんならお妾《めかけ》に行くを廃《や》めにしなさるかと振かへられて、誰れも願うて行く処では無いけれど、私は何《ど》うしても斯《か》うと決心して居るのだからそれは折角だけれど肯《き》かれないよと言ふに、吉は涙の眼に見つめて、お京さん後生だから此肩の手を放しておくんなさい。
われから
(一)
霜夜ふけたる枕もとに吹くと無き風つ《一》ま戸の隙《ひま》より入りて障子の紙のかさこそ音するも哀れに淋しき旦那様の御留守《おんるす》、寝間《ねま》の時計の十二を打つまで奥方《おくがた》はいかにするとも睡《ねぶ》る事の無くて幾そ度《たび》の寝がへり少しは肝《かん》の気味《きみ》にもなれば、入らぬ浮世のさま〓〓より、旦那様が去歳《こぞ》の今頃は紅葉館《二こうえふくわん》にひたと通《かよ》ひつめて、御自分はかくし給へども、他所行着《よそゆきぎ》のお袂《たもと》より縫《ぬひ》とりべりの手巾《はんけち》を見つけ出したる時の憎くさ、散々《さんざん》といぢめていぢめて、困《いぢ》め抜《ぬ》いて、最《も》う是《こ》れからは決して行かぬ、同藩の沢木《さはぎ》が言葉のい《三ヽ》とゑ《ヽ》を違《たが》へぬ世は来るとも、此約束は決して違《たが》へぬ、堪忍せよと謝罪《あやまつ》てお出遊《いであそば》したる時の気味《きみ》のよさとては、月頃《つきごろ》の痞《つか》へが下《お》りて、胸のすくほど嬉しう思ひしに、又かや此頃折ふしのお泊り、水《四》曜会のお人達や、倶《五》楽部のお仲間にいたづらな御方の多ければ夫《そ》れに引かれて自《おの》づと身持《みもち》の悪う成り給ふ、朱《しゆ》に交はればといふ事を花のお師匠が癖にして言ひ出せども真《ほん》にあれは嘘ならぬ事、昔しは後《あ》のやうに口先《くちさき》の方ならで、今日は何処《どこ》◆《そ》処《こ》で芸者をあげて、此様《このやう》な不思議な踊を見て来たのと、お腹《なか》のよれるやうな可《を》笑しき事をば真面目に成りて仰《おつ》しやりし物なれども、今日此頃のお人の悪さ、憎《に》くいほどお利口《りこう》な事ばかりお言ひ遊して、私のやうな世間見ずをば手の平《ひら》で揉《も》んで丸めて、夫《そ》れは夫《そ》れは押へ処の無いお方、まあ今宵は何処へお泊りにて、明日はどのやうな嘘いうてお帰り遊ばすか、夕かた倶楽部へ電話をかけしに三時頃にお帰りとの事、又芳原《六よしはら》の式部《しきぶ》がもとへでは無きか、彼《あ》れも縁切りと仰しやつてから最《も》う五年、旦那様ばかり悪いのでは無うて、暑寒《しよかん》のお遣《つか》ひものなど、憎くらしい処置をして見せるに、お心がつい浮かれて、自《おの》づと足をも向け給ふ、本に商売人とて憎くらしい物と次第におもふ事の多くなれば、いよ〓〓寝かねて奥方《おくがた》は縮緬《ちりめん》の掻巻打《かいまきうち》はふりて群内《七ぐんない》の蒲団の上に起上り給ひぬ。
八畳の座敷に六枚屏風たてて、お枕もとには桐胴《きりどう》の火鉢にお煎茶の道具、烟草《たばこ》盆は紫檀にて朱羅宇《八しゆらう》の烟管《きせる》そのさま可笑《をか》しく、枕ぶとんの派手模様より枕《九》の総《ふさ》の紅《くれな》ゐも常に好《この》みの大方《おほかた》に顕《あら》はれて、蘭奢《らんじや》にむせぶ部屋の内、籠行燈《あんどん》の光かすかなり。
奥方《おくがた》は火鉢を引寄せて、火の気のありやと試《こゝろ》みるに、宵に小間使ひが埋《い》け参らせたる、桜炭《さくら》の半《なかば》は灰に成りて、よくも起さで埋《い》けつるは黒きまゝにて冷えしもあり、烟管《きせる》を取上て一二服《ふく》、烟《けぶ》りを吹いて耳を立つれば折から此室《こゝ》の軒端に移りて妻恋ひありく猫の声、あれは玉では有るまいか、まあ此霜夜に屋根伝《づた》ひ、何日《いつか》のやうな風ひきに成りて苦しさうな咽《のど》をするので有らう、あれも矢《や》つ張《ぱり》いたづら者と烟管《きせる》を置いて立あがる、女猫《めねこ》よびにと雪灯《ぼんぼり》に火を移し平常《ふだん》着《ぎ》の八丈《ぢやう》の書生羽織《一〇しよせいばおり》しどけなく引《ひき》かけて、腰引《こしひき》ゆへる縮緬《ちりめん》の、浅黄《あさぎ》はことに美くしく見えぬ。
踏むに冷めたき板の間を引裾《ひきすそ》ながく縁がはに出でて、用心口《一一ようじんぐち》より顔さし出し玉よ、玉よ、と二《ふ》タ声ばかり呼んで、恋に狂ひてあくがるゝ身は主人が声も聞分《きゝわ》けぬ、身にしむやうな媚《なま》めかしい声に大屋根《おほやね》の方《かた》へと啼いて行く、えゝ言ふ事を聞かぬ我まゝ者め、何《ど》うともお為《し》と捨てぜりふ言ひて心ともなく庭を見るに、ぬば玉の闇たちおほうて、物の黒白《あやめ》も見え分《わ》かぬに、山茶花《さゞんくわ》の咲く垣根をもれて、書生部屋の戸の隙《ひま》より僅《わづ》かに光りのほのめくは、おゝまだ千葉は寝ぬさうな。
用心口を鎖《さ》してお寝間《ねま》へ戻り給ひしが再度立《ふたゝびた》つてお菓子戸棚のびすけつとの瓶とり出《いだ》し、お鼻紙の上明けて押ひねり、雪灯《一二ぼんぼり》を片手に縁へ出《いづ》れば天井《てんじやう》の鼠がた〓〓と荒れて、鼬《いたち》にても入りしかきゝといふ声もの凄し。しるべの燈火《ともしび》かげゆれて、廊下の闇に恐ろしきを馴れし我家の何とも思はず、侍女《こしもと》下婢《はした》が夢の最中《たゞなか》に奥さま書生の部屋へとおはしぬ。
お前はまだ寝ないのかえ、と障子の外から声をかけて、奥《おく》さまずつと入り玉へば、室内《うち》なる男は読書の脳《つむり》を驚かされて、思ひがけぬやうな惘《あき》れ顔をかしう、奥さま笑うて立ち玉へり。
(二)
机は有りふれの白木作《しらきづく》りに白天竺《一しろてんぢく》をかけて、勧工場《二くわんこうば》ものの筆立てに晉唐小楷《三しんたうせうかい》の、栗鼠毛《りつそまう》の、ペンも洋刀《ないふ》も一ツに入れて、首の欠けた龜の子の水入《みづい》れに、赤墨汁《あかいんき》の瓶がおし並び、歯みがきの箱我れもと威《ゐ》を張りて、割拠《かつきよ》の机の上に寄りかゝつて、今まで洋書を繙《ひもとい》て居たは年頃二十歳《はたち》あまり三とは成るまじ、丸頭の五分刈《ぶがり》にて顔も長からず角《かく》ならず、眉毛は濃《こく》て目は黒目がちに、一体の容顔《きりやう》好い方なれども、いかにもいかにもの田舎《ゐなか》風《ふう》、牛蒡縞《ごばうじま》の綿入《わたいれ》に論《ろん》なく白木綿《しろもめん》の帯、青き毛布《けつと》を膝の下に、前こゞみに成りて両手に頭《かしら》をしかと押へし。
奥さまは無言にびすけつとを机の上へ載せて、お前夜《まへよ》ふかしをするなら為《す》るやうにして寒さの凌《しの》ぎをして置いたら宜《よ》からうに、湯わかしは水に成つて、お火と言つたら螢火《ほたる》のやうな、よく是れで寒く無いのう、お節介《せつかひ》なれど私がおこして遣《や》りませう、炭取《すみとり》を此所《こゝ》へと仰《おつ》しやるに、書生はおそれ入りて、何時《いつ》も無精《ぶしやう》を致しまする、申訳の無い事でと有難いを迷惑らしう、炭取をさし出して我れは中皿《四ちゆうざら》へ桃を盛つた姿、これは私が蕩楽《だうらく》さと奥さま炭つぎにかゝられぬ。
自慢も交《ま》じる親切に螢火《ほたるび》大事さうに挟み上げて、積み立てし炭の上にのせ、四辺《あたり》の新聞三つ四つに折りて、隅の方よりそよ〓〓と煽《あふ》ぐに、いつしか是れより彼れに移りて、ぱちぱちと言ふ音いさましく、青き火ひら〓〓と燃えて火鉢の縁《ふち》のやゝ熱うなれば、奥さまは何《ど》のやうな働きをでも遊《あそば》したかのやうに、千葉もお翳《あた》りと少し押やりて、今宵は分《わ》けて寒い物をと、指輪のかゞやく白き指先を、籐編《五とあ》みの火鉢の縁《ふち》にぞ懸《か》けたる。
書生の千葉いとゞしう恐れ入りて、これは何《ど》うも、これはと頭《かしら》を下《さ》げるばかり、故郷に有りし時、姉なる人が母に代《かは》りて可愛《かはゆ》がりて呉れたりし、其折其頃の有さまを思ひ起して、もとより奥様が派手作《はでづく》りに田舎ものの姉者人《あねじやひと》がいさゝか似たるよしは無けれど、中学校の試験前に夜明《よあか》しをつゞけし頃、此やうな事を言うて、此やうな処作《しよさ》をして、其上には蕎麦掻《六そばが》きの御馳走、あたゝたまるやうにと言うて呉れし時も有《あり》し、懐かしきは其昔し、有難きは今の奥様が情《なさけ》と、平常《へいぜい》お世話に成りぬる事さへ取添《とりそ》へて、怒り肩もすぼまるばかり畏《かしこ》まりて有るさまを、奥さま寒さうなと御覧《ごらん》じて、お前羽織はまだ出来ぬかえ、仲《なか》に頼《たの》んで大急《おほいそ》ぎに仕立てて貰ふやうにお為《し》、此寒い夜《よ》に綿入《わたいれ》一つで辛棒のなる筈《はず》は無い、風でも引いたら何《ど》うお為《し》だ、本当に身体を厭《いと》はねばいけませぬぞえ、此前に居た原田といふ勉強ものが矢《や》つ張《ぱり》お前の通り明けても暮れても紙魚《七しみ》のやうで、遊びにも行かなければ、寄席《よせ》一つ聞かうでもなしに、それはそれは感心と言はうか恐ろしいほどで、特別認可《にんか》の卒業と言ふ間際《まぎは》まで疵《きず》なしに行つてのけたを、惜しい事にお前、脳病《なうびやう》に成つたでは無からうか、国元《くにもと》から母《はゝ》さんを呼んで此処の家《いへ》で二月も介抱《かいはう》をさせたのだけれど、終《つ》ひには何が何やら無我夢中になつて、思ひ出しても情ない、言《いは》ば狂死《きやうし》をしたのだね、私は夫《そ》れを見て居た故、勉強家は気が引ける、◆《なま》情《け》られては困るけれど、煩《わづら》はぬやうに心がけてお呉れ、別《わ》けてお前は一粒物《ひとつぶもの》、親なし、兄弟なしと言ふでは無いか、千葉家を負うて立つ大黒柱《だいこくばしら》に異状《いじやう》が有つては立直《たてなほ》しが出来ぬ、さうでは無いかと奥様身に比《くら》べて言へば、はツ、はツ、と答へて詞《ことば》は無かりき。
奥様は立上がつて、私は大層邪魔をしました、夫《それ》ならば成るべく早く休むやうにお為《し》、私は行つて寝るばかりの身体《からだ》、部《へ》やへ行く間の事は寒いとても仔細《しさい》はなきに、構《かま》ひませぬから此れを着てお出《いで》、遠慮をされると憎くゝ成るほどに何事も黙つて年上の言ふ事は聞く物と奥様すつとお羽織をぬぎて、千葉の背後《うしろ》より打着せ給ふに、人肌のぬくみ背に気味わるく、麝香《じやかう》のかをり満身《まんしん》を襲《おそ》ひて、お礼も何といひかぬるを、よう似合のうと笑ひながら、雪灯手《ぼんぼりて》にして立出《たちいで》給へば、蝋燭いつか三分の一ほどに成りて、檐端《のきば》に高し木がらしの風。
(三)
落葉たくなる烟《けぶり》の末《すゑ》か、夫《そ》れかあらぬか冬がれの庭木立《にはこだち》をかすめて、裏通りの町屋《一まちや》の方《かた》へ朝毎に靡《なび》くを、夫《そ》れ金村《かなむら》の奥様がお目覚《めざめ》だと人わる口の一つに数《かぞ》へれども、習慣《ならはし》の恐ろしきは朝飯《あさはん》前の一風呂、これの済《すむ》までは箸も取られず、一日怠《おこた》る事のあれば終日《ひねもす》気持の唯ならず、物足《ものた》らぬやうに気に成るといふも、聞く人の耳には洒落者《しやれもの》の蕩楽《だうらく》と取られぬべき事、其身に成りては誠に詮《せん》なき癖をつけて、今更難儀《いまさらなんぎ》と思ふ時もあれど、召使ひの人々心を得て御命令《おいひつけ》なきに真柴折《ましばをり》くベ、お加減《かげん》が宜しう御座りますと朝床《あさどこ》のもとへ告《つ》げて来れば、最《も》う廃《よ》しませうと幾度《いくたび》か思ひつゝ、猶相《なほあひ》かはらぬ贅沢《ぜいたく》の一つ、さなご入れたる糠袋《二ぬかぶくろ》にみがき上て出《いづ》れば更に濃《こ》い化粧《けしやう》の白《三》ぎく、是《こ》れも今更やめられぬやうな肌《ぢ》になりぬ。
年を言はゞ二十六、遅れ咲の花も梢《こずゑ》にしぼむ頃なれど、扮装《おつくり》のよきと天然《てんねん》の美しきと二つ合せて五つほどは若う見られぬる徳《とく》の性《しやう》、お子様なき故と髪結《かみゆひ》の留《とめ》は言ひしが、あらばいさゝか沈着《おちつ》くべし、いまだに娘の心が失《う》せで、金歯入れたる口元に何《ど》う為《せ》い、彼《か》う為《せ》い、仔細《しさい》らしく数多《あまた》の奴婢《ひと》をも使へども、旦那さま勧めて十軒店《四けんだな》に人形を買ひに行くなど、一家の妻のやうには無く、お高祖頭巾《こそづきん》に肩掛引まとひ、良人《つま》の君もろ共川崎《かはさき》の大師《だいし》に参詣《さんけい》の道すがら停車場《ば》の群集《ぐんじゆ》に、あれは新《五》橋か、何処《どこ》ので有らうと囁《さゝや》かれて、奥様とも言はれぬる身ながら是れを浅からず嬉しうて、いつしか好みも其様に、一つは容貌《きりやう》のさせし業《わざ》なり。
目鼻だちより髪のかゝり、歯ならびの宜い所まで似たとは愚《おろ》か母様《はゝさま》を其まゝの生れつき、奥様の父御《てゝご》といひしは赤鬼《あかおに》の与《よ》四郎《らう》とて、十年の以前《まへ》までは物すごい目を光らせて在《おは》したる物なれど、人の生血《いきち》をしぼりたる報《むく》いか、五十にも足らで急病の脳充血《なうじゆうけつ》、一朝《ひとあさ》に此の世の税を納《をさ》めて、よしや葬儀《さうぎ》の造花《つくりばな》、派手《はで》に美事《みごと》な造りはするとも、辻に立つて見る人に爪《つま》はじきをされて後生《ごしやう》いかゞと思はるゝ様成《やうなり》し。
此人始めは大蔵省《おほくらしやう》に月俸《げつぽう》八円頂戴して、兀《はげ》ちよろけの洋服に毛繻子《けじゆす》の洋傘《かうもり》さしかざし、大雨《たいう》の折にも車の贅《ぜい》はやられぬ身成《みなり》しを、一念発起《ねんほつき》して帽子も靴も取つて捨て、今川橋《いまがはばし》の際《きは》に夜明《よあか》しの蕎麦掻《そばが》きを売り初《そめ》し頃の勢《いきほ》ひは千鈞《きん》の重きを提《ひつさ》げて大海をも跳《をど》り越えつべく、知る限りの人舌を捲いて驚くもあれば、猪武者《いのしゝむしや》の向う見ず、やがて元《もと》も子も摺《す》つて情《なさけ》なき様子が思はるゝと後言《六しりうごと》も有けらし、須彌《七しゆみ》も出《いで》たつ足もとの、其当時《そのはじめ》の事少しいはゞや、茨《いばら》につらぬく露の玉この与四郎にも恋は有けり、幼馴染《をさななじみ》の妻に美尾《みを》といふ身がらに合せて高品《かうひん》に美くしき其とし十七ばかり成しを天にも地にも二つなき物と捧《さゝ》げ持ちて、役所がへりの竹の皮、人にはしたゝれるほど湿つぽき姿と後指《うしろゆび》さゝれながら、妻や待らん夕烏《ゆふがらす》の声に二人《ふたり》とり膳の菜《さい》の物を買うて来るやら、朝の出がけに水瓶《八みづがめ》の底を掃除して、一日手桶《てをけ》を持たせぬほどの汲込《くみこ》み、貴郎《あなた》お昼だきで御座いますと言へば、おいと答へて米かし桶《をけ》に量《はか》り出すほどの惚《の》ろさ、斯《か》くて終《をは》らば千歳《ちとせ》も美くしき夢の中に過ぎぬべうぞ見えし。
さるほどに相添《あひそ》ひてより五年目の春、梅咲く頃のそゞろあるき、土曜日の午後より同僚二三人打つれ立ちて、葛飾《かつしか》わたりの梅屋敷《うめやしき》廻り帰りは広小路《ひろこうぢ》あたりの小料理《これうり》やに、酒も深くは呑《のま》ぬ質《たち》なれば、淡泊《あつさり》と仕舞《しま》うて殊更《ことさら》に土産《みやげ》の折を調《とゝの》へさせ、友には冷評《ひやうばん》の言葉を聞きながら、一人別れてとぼ〓〓と本郷附木店《ほんがうつけぎだな》の我家《わがや》へ戻るに、格子戸《かうしど》には締りもなくして、上へあがるに燈火《ともしび》はもとよりの事、火鉢の火は黒く成りて灰の外に転々《ころころ》と凄《すさ》まじく、まだ如月《九きさらぎ》の小夜嵐《さよあらし》引《一〇》まどの明放《あけはな》しより入りて身に染《し》む事も堪へがたし、いかなる故とも思はれぬに洋燈《らんぷ》を取出してつく〓〓と思案《しあん》に暮るれば、物音を聞つけて壁隣《かべどなり》の小学教員の妻、いそがはしく表より廻り来て、お帰りに成ましたか、御新造《ごしんぞ》は先刻《さきほど》、三時過ぎでも御座りましたろか、お実家《さと》からのお迎ひとて奇麗《きれい》な車《一一》が見えましたに、留守は何分《なにぶん》たのむと仰《おつ》しやつて其まゝお出かけに成ました、お火が無くば取りにお出なされ、お湯も沸いて居ますからと忠実《まめ》〓〓しう世話を焼かるゝにも、不審《ふしん》の雲は胸の内にふさがりて、何《ど》ういふ様子何《ど》のやうな事をいうて行きましたかとも問ひたけれど悋気《りんき》男と忖度《つも》らるゝも口惜《くちを》しく、夫《そ》れは種々御厄介《いろいろごやつかい》で御座りました、私が戻りましたからは御心配なくお就蓐《やすみ》下されと洒然《さつぱり》といひて隣の妻を帰しやり、一人淋しく洋燈《らんぷ》の光《あか》りに烟草《たばこ》を吸ひて、忌々《いまいま》しき土産《みやげ》の折《をり》は鼠も喰べよとこ《一二》ぐ繩のまゝ勝手元《かつてもと》に投出し、其夜は床に入りしかども、さりとは肝癪《かんしやく》のやる瀬《せ》なく、よしや如何《いか》なる用事ありとても、我なき留守に無断の外出、殊更家内《ことさらかない》あけ放しにして、是れが人の妻の仕業《しわざ》かと思ふに余りの事と胸は沸《わ》くやうに成りぬ。
明《あ》くれば日曜、終日《ひねもす》寝て居ても、咎《とが》むる人は無し、枕を相手に芋虫《いもむし》を真似《まね》びて、表の格子には錠をおろしたまゝ、人訪へども音もせず、いたづらに午後四時といふ頃に成ぬれば、車の門《かど》に止まりて優《やさ》しき駒下駄《こまげた》の音の聞ゆるを、論《ろん》なく夫《そ》れとは知れども知らぬ顔に虚寝《そらね》を作れば、美尾《みを》は格子を押て見て、これは如何な事、錠がおりてあると独り言をいつて、隣家《となり》の松の垣根に添ひて、水口《一三みづぐち》の方《かた》へと間道を入りぬ。
昨日《きのふ》の午後より谷中《やなか》の母《かゝ》さんが急病、癪気《しやくけ》で御座んすさうな、つよく胸先へさし込みまして、一時はとても此世の物では有るまいと言うたれど、お医者さまの皮下注射《ひかちゆうしや》やら何やらにて、何事も無く納《をさま》りのつき、今日は一人でお厠《てうず》にも行かれるやうに成ました、右の訳故《わけゆゑ》に手間《てま》どり、昨日家《うち》を出まする時も、気がわく〓〓して何事も思はれず、後《あと》にて思へば締《しま》りも付《つ》けず、庭口《にはぐち》も明け放して、嘸《さぞ》かし貴郎《あなた》のお怒り遊《あそば》した事と気が気では無かつたなれど、病人見捨てて帰る事もならず、今日も此やうに遅くまで居りまして、何処までも私が悪う御座んするほどに、此通り謝罪《あやまり》ますほどに、何《ど》うぞ御免《おゆる》し遊して、いつもの様に打解《と》けた顔を見せて下され、御機嫌直して下されと詫ぶるに、さては左様《さう》かと少し我《が》の折れて、夫《そ》れならば其様に、何故はがきでも越《よこ》しはせぬ、馬鹿の奴がと叱りつけて、母親は無病壮健《むびやうさうけん》の人とばかり思うて居たが、癪《しやく》といふは始めてかと睦《むつま》じう語り合ひて、与《よ》四郎《らう》は何事の秘密ありとも知らざりき。
(四)
浮世に鏡といふ物のなくば、我が妍《かほよ》きも醜《みにく》きも知らで、分《ぶん》に安《やすん》じたる思ひ、九反二間の楊貴妃小町《一やうきひこまち》を隠《か》くして、美色《びしよく》の前だれ掛奥床《かけおくゆか》しうて過ぎぬべし、万《よろ》づに淡々《あはあは》しき女子心《をなごごゝろ》を来て揺する様な人の賞《ほ》め詞《ことば》に、思はず赫《くわつ》と上気して、昨日までは打すてし髪の毛つやらしう結びあげ、端折《はしをり》かゞみ取上げて見れば、いかう眉毛《まゆげ》も生《はえ》つゞきぬ、隣より剃刀《かみそり》をとりて顔をこしらゆる心、そも〓〓見て呉れの浮気《うはき》に成りて、襦袢《じゆばん》の袖も欲しう、半天《はんてん》の襟の観光《二くわんくわう》が糸ばかりに成しを淋しがる思ひ、与四郎が妻の美尾《みを》とても一つは世間の持上《もちあげ》しなり、身分《みぶん》は高からずとも誠ある良人《をっと》の情心《なさけごゝろ》うれしく、六畳、四畳二間の家を、金殿《きんでん》とも玉楼《ぎよくろう》とも心得て、いつぞや四丁目の薬師様《やくしさま》にて買《か》うて貰ひし洋銀《三やうぎん》の指輪《ゆびわ》を大事らしう白魚《しらを》のやうな、指にはめ、馬爪《ばづ》のさし櫛《ぐし》も世にある人の本甲《四ほんかふ》ほどには嬉しがりし物なれども、見る人毎に賞めそやして、これほどの容貌《きりやう》を埋《うも》れ木《ぎ》とは可惜《あたら》しいもの、出《五で》て居る人で有《あら》うなら恐らく島原切《六しまばらき》つての美人、比《くら》べ物はあるまいとて口に税が出ねば我《わが》おもしろに人の女房《にようぼ》を評《ひやう》したてる白痴《こけ》もあり、豆腐《おかべ》かふとて岡持《七をかもち》さげて表へ出《いづ》れば、通りすがりの若い輩《ひと》に振かへられて、惜《を》しい女に服粧《みなり》が悪いなどと哄然《どつ》と笑はれる、思へば綿銘仙《めんめいせん》の糸の寄《よ》りしに色の褪《さ》めたる紫めりんすの幅狭き帯、八円どりの等外《八とうぐわい》が妻としては是れより以上に粧《よそほ》はるべきならねども、若き心には情なく箍《たが》のゆるびし岡持に豆腐《おかべ》の露のしたゝるよりも不覚《そゞろ》に袖をやしぼりけん、兎角《とかく》に心のゆら〓〓と襟袖口のみ見らるゝをかてゝ加へて此前の年、春雨《はるさめ》はれての後《のち》一日、今日ならではの花盛りに、上野をはじめ隅田川へかけて夫婦《ふうふ》づれを楽しみ、随分とも有る限りの体裁《ていさい》をつくりて、取つて置きの一《九》てう羅《ら》も良人《をつと》は黒紬《くろつむぎ》の紋つき羽織、女房《にようばう》は唯一筋の博多《はかた》の帯しめて、昨日甘えて買《かう》て貰ひし黒ぬりの駒下駄《こまげた》、よしや畳は擬《一〇まが》ひ南部《なんぶ》にもせよ、比《くら》ぶる物なき時は嬉しくて立出《たちいで》ぬ、さても東叡山《とうえいざん》の春四月、雲に見紛《みまが》ふ木《こ》の間《ま》の花も今日明日ばかりの十七日成りければ、広小路《ひろこうぢ》より眺むるに、石段を下《お》り昇《のぼ》る人のさま、さながら蟻の塔《たふ》を築《つ》き立《た》つるが如く、木《こ》の間《ま》の花に衣類《きもの》の綺羅《きら》をきそひて、心なく見る目には保養《ほやう》この上も無き景色なりき、二人は桜が岡に昇りて今の桜雲台《二あううんだい》が傍《そば》近く来《き》し時、向うより五六輛《りやう》の車かけ声いさましくして来《く》るを、諸人《しよにん》立止まりてあれ〓〓と言ふ、見れば何処《いづこ》の華族様なるべき、若き老いたるこき交《ま》ぜに、派手なる曙《あけぼの》の振袖緋無垢《ふりそでひむく》を重《かさ》ねて、老《ふ》け形《がた》なるは花の木《こ》の間《ま》の松の色、いつ見ても飽かぬは黒出《くろで》たちに鼈甲《べつかふ》のさし物、今様《いまやう》ならば襟の間に金ぐさりのちらつくべきなりし、車は八百膳《一二やほぜん》に止まりて人は奥深く居るを、憎《に》くさげな評いうて見送るもあり、唯大方《おほかた》にお立派なといひて行過ぐるも有りしが、美尾《みを》はいかに感じてか、茫然《ぼんやり》と立ち眺め入りし風情《ふぜい》、うすら淋しき様に物おもはしげにて、何《いづ》れ華族であらうお化粧《つくり》が濃厚《こつてり》だと与四郎の振かへりて言ふを耳にも入れぬらしき様《さま》にて、我れと我が身を打ながめ唯悄然《しよんぼり》としてあるに与四郎心ならず、何《ど》うかしたかと気遣《きづか》ひて問へば、俄《にはか》に気分《きぶん》が勝《すぐ》れませぬ、私は向島《むかうじま》へ行くのは廃《や》めて、此処から直ぐに帰りたいと思ひます、貴郎《あなた》はゆるりと御覧なりませ、お先へ車で帰りますと力なささうに凋《しを》れて言へば、夫《そ》れはと与四郎案《あん》じ始めて、一人では何も面白くは無い、又来るとして今日は廃《や》めにせうと美尾がいふまゝ優しう同意して呉れる嬉しさも、此折何《このをりなに》とも思はれず、切《せ》めて帰りは鳥《とり》でも喰べてと機嫌を取られるほど物がなしく、逃げ出すやうにして一散《さん》に家路《いへぢ》を急げば、興《きよう》こと〓〓尽《つ》きて与四郎は唯お美尾《みを》が身の病気《いたつき》に胸をいためぬ。
はかなき夢に心の狂ひてより、お美尾は有りし我れにもあらず、人目《ひとめ》無ければ涙に袖をおし浸《ひた》し、誰れを恋ふると無けれども大空《おほそら》に物の思はれて、勿体《もつたい》なき事とは知りながら与四郎への待遇《もてなし》きのふには似ず、うるさき時は生返事《なまへんじ》して、男の怒れば我れも腹だゝしく、お気に入らぬ物なら離縁して下され、無理にも置いてとは頼みませぬ、私にも生れた家《いへ》が御座んするとて威丈高《ゐたけだか》になるに男も堪《こら》へず箒《はうき》を振廻して、さあ出て行けと時の拍子《ひやうし》危ふくなれば、流石《さすが》に女気《をんなぎ》の悲しき事胸に迫りて、貴郎《あなた》は私をいぢめ出さうと為《な》さるので御座んすか、私が身はそも〓〓から貴郎に上げた物なれば、憎《にく》くば打つて下され、殺して下され、此処を死に場に来た私なれば、殺されても此処は退《の》きませぬ、さあ何となりして下されと泣いて、袖に取すがりて身を悶《もだ》ゆるに、もとより憎《に》くゝは有らぬ妻の事、離別などゝは時の威嚇《おどし》のみなれば、縋りて泣くを好《よ》い時機《しほ》に、我まゝ者奴《ものめ》の言《一三》ひじらけ、心安《こゝろやす》きまゝの駄々《だゞ》と免《ゆる》して可愛《かはい》さは猶日頃《なほひごろ》に増《まさ》るべし。
(五)
与四郎が方《かた》に変る心なければ、一日も百年も同じ日を送れども其頃より美尾《みを》の様子の兎《と》に角《かく》に怪《あや》しく、ぼんやりと空を眺めて物の手につかぬ不審《いぶか》しさ。与四郎心をつけて物事を見るに、さながら恋に心をうばゝれて空虚《うつろ》に成《なり》し人の如く、お美尾《みを》お美尾と呼べば何《なに》えと答ふる詞《ことば》の力なさ、何《ど》うでも日々を義務《つとめ》ばかりに送りて身は此処に心は何処《いづこ》の空《そら》を◆《さま》◆《よふ》らん、一々気にかゝる事ども、我が女房《にようばう》を人に取られて知らぬは良人《をつと》の鼻の下と指さゝれんも口惜《くちを》しく、いよ〓〓真《まこと》に其事あらばと恐ろしき思案《しあん》をさへ定《さだ》めて美尾が影身《かげみ》とつき添《そ》ふ如く守《まも》りぬ。されども是《こ》れぞの跡もなく、唯うか〓〓と物おもふらしく或時はしみ〓〓と泣いて、お前様《まへさま》いつまで是《こ》れだけの月給取つてお出遊《いであそ》ばすお心ぞ、お向う邸の旦那さまは、其昔し大部屋《一おほべや》あるきのお人成《ひとなり》しを一念《ねん》ばかりにて彼《あ》の御出世《ごしゆつせ》、馬車に乗つてのお姿は何《ど》のやうの髭武者《ひげむしや》だとて立派らしう見えるでは御座んせぬか、お前様も男なりや、少しも早く此様《このやう》な古洋服にお弁当さげる事をやめて、道を行くに人の振かへるほど立派のお人に成つて下され、私に竹《二》の皮づゝみ持つて来て下さる真実《しんじつ》が有らば、お役所がへりに夜学なり何なりして、何《ど》うぞ世間の人に負けぬやうに、一ツぱしの豪《えら》い方に成つて下され、後生《ごしやう》で御座んす、私は其為になら内職なりともして御菜《おさい》の物のお手伝《てつだ》ひはしましよ、何《ど》うぞ勉強して下され、拝《をが》みますと心から泣いて、此ある甲斐《かひ》なき活計《くらし》を数へれば、与四郎は我が身を罵《のゝし》られし事と腹だゝしく、お為《ため》ごかしの夜学沙汰《やがくざた》は、我れを留守にして身の楽しみを思ふ故ぞと一図《づ》にくやしく、何《ど》うで我《おれ》は此様《このやう》な意気地《いくぢ》なし、馬車は思ひも寄らぬ事、此後辻車《このごつじぐるま》ひくやら知れた物で無ければ、今のうち身の納《をさま》りを考へて、利口で物の出来る、学者で好男子《いろをとこ》で、年の若いに乗かへるが随一であらう、向うの主人もお前の姿を褒《ほ》めて居るさうに聞いたぞと、碌でもなき根すり言、◆《なま》怠《け》者《もの》だ◆怠者だ、我は◆怠者の意気地《いくぢ》なしだと大の字に寝そべつて、夜学はもとよりの事明日《あした》は勤めに出るさへ憂《う》がりて、一寸《すん》もお美尾の傍《そば》を放れじとするに、あゝお前様は何故その様に聞分けては下さらぬぞと浅ましく、互ひの思ひそはそは《三ヽヽヽヽ》に成りて、物言へば頓《やが》て争ひの糸口《いとぐち》を引出《ひきいだ》し、泣いて恨んで摺《す》れ〓〓の中に、さりとも憎くからぬ夫婦《めをと》は折ふしの仕《し》こなし忘れがたく、貴郎《あなた》斯《か》うなされ、彼《あ》あなされと言へば、お美尾お美尾と目の中へも入れたき思ひ、近処合壁《きんじよがつぺき》つゝき合ひて物争ひに口を利《き》く者は無かりし。
ありし梅見《うめみ》の留守のほど、実家の迎ひとて金紋《四きんもん》の車の来《き》し頃よりの事、お美尾は兎角に物おもひ静まりて、深くは良人《をつと》を諌《いさ》めもせず、うつ〓〓と日を送つて実家への足いとゞしう近く、帰れば襟に腮《あご》を埋《うづ》めてしのびやかに吐息《といき》をつく、良人《をつと》の不審《ふしん》を立つれば、何《ど》うも心悪う御座んすからとて食もようは喰べられず、昼寝がちに気不精《きぶしやう》に成りて、次第に顔の色の青きを、一向《ひとむ》きにて病気とばかり思ひぬれば、与四郎限りもなく傷ましくて、医者にかゝれの、薬を呑めのと悋気《りんき》は忘れて此事に心を尽しぬ。
されどもお美尾が病気はお目出度《五めでたき》かた成《なり》き、三四月の頃より夫《そ》れとは定《さだ》かに成りて、いつしか梅の実落る五月雨《さみだれ》の頃にも成れば、隣近処の人々よりおめで度《た》う御座りますと明《あき》らかに言はれて、折から少し暑くるしくとも半天《はんてん》のぬがれぬ恥かしさ、与四郎は珍らしく嬉しきを、夢かとばかり辿《たど》られて、此十月《ぐわつ》が当《あた》る月《つき》とあるを、人には言はれねども指をる思ひ、男にてもあれかしと果敢《はか》なき事を占なひて、表面《うはべ》は無情《つれなく》つくれども、子安《こやす》のお守り何くれと、人より聞きて来た事を其まゝ、不案内《ふあんない》の男の身なれば間違ひだらけ取添《とりそ》へて、美尾が母に万端《ばんたん》を頼めば、お前さんより私の方が少し功者《こうしや》さ、と参られて、成るほど成るほどと口を噤《つぐ》みぬ。
(六)
月給の八円はまだ昇給の沙汰《さた》も無し、此上小児《ちひさい》が生れて物入《ものい》りが嵩《かさ》んで、人手《ひとで》が入《い》るやうに成つたら、お前がたが何とする、美尾は虚弱の身体《からだ》なり、良人《をつと》を助けて手内職といふも六ツかしかるべく、三人居縮《すく》んで乞食のやうな活計《くらし》をするも、余り賞《ほ》めた事では無し、何なりと口を見つけて、今の内《うち》から心がけ最《も》う少しお金になる職業に取かへずば、行々《ゆくゆく》お前がたの身の振かたは無く、第一子を育つる事もなるまじ、美尾は私が一人娘、やるからには私が終りも見てたひたく、賛沢を言ふのでは無けれど、お寺参りの小遣《こづか》ひ位《ぐらゐ》出しても貰はう、上げませうの約束でよこしたのなれども、元来呉《もとよりくれ》られぬは横着《わうちやく》ならで、何《ど》うでも為《す》る事のならぬ意気地《いくぢ》の無さ故、夫《そ》れは思ひ絶つて私は私の口を濡らすだけに、此年をして人様の口入《くちい》れやら手伝ひやら、老恥《おいはぢ》ながらも詮《せん》の無き世を経《へ》まする、左《さ》れども当て無しに苦労は出来ぬもの、つく〓〓お前夫婦の働きを見るに、私の手足が働かぬ時に成りて何分《なにぶん》のお世話をお頼み申さねば成らぬ暁、月給八円で何《ど》う成らう、夫《そ》れを思ふと今のうち覚悟を極《き》めて、少しは互ひに愁《つ》らき事なりとも当分夫婦別れして、美尾は子ぐるめ私の手に預り、お前さんは独身《ひとりみ》に成りて、官《一》員さまのみには限らず、草鞋《わらぢ》を履いてなりとも一廉《かど》の働きをして、人並《なみ》の世の過ごされる様に心がけたが宜からうでは無いか、美尾は私が娘なれば私の思ふやうに成らぬ事は有るまじ、何もお前さんの思案一つと母親がお美尾の産前《さんまへ》よりかけて、万《よろ》づの世話にと此家《このや》へ入り込みつゝ、兎もすれば与四郎を責めるに、歯ぎしりするほど腹立しく、此老婆《ばゞ》はり仆《たふ》すに事は無けれど、唯ならぬ身の美尾が心痛《しんつう》、引いては子にまで及ぼすべき大事と胸をさすりて、私《わたし》とても男子《をとこ》の端《はし》で御座りますれば、女房子位過《ぐらゐす》ぐされぬ事も御座りますまいし、一生《しやう》は長う御座ります、墓へ這入るまで八円の月給では有るまいと思ひますに、其辺格別《そのへんかくべつ》の御心配なくと美事《みごと》に言へば、母親はまだらに残る黒き歯を出して、成るほど〓〓宜《よ》く立派に聞えました、左様《さう》いうて呉れねば嬉しう無い、流石《さすが》は男一疋、その位《くらゐ》の考は持つて居て呉れるであらう、成るほど成るほどと面白くも無い点頭《うなづき》やうを為《す》る憎《に》くさ、美尾は母《かゝ》さん其やうな事は言うて下さりますな、家の人の機嫌そこなうても困りますと迂路《うろ》〓〓するに、与四郎は心おごりて、馬鹿婆めが、何《ど》のやうに引割《ひきさ》かうとすればとて、美尾は我が物、親の指図なればとて別れる様な薄情にて有るべきや、殊更今より可愛《かはゆ》き物さへ出来《いでこ》んに二人《ふたり》が中は万々歳、天《二あま》の原ふみとゞろかし鳴神《なるがみ》かと高々《たかだか》と止《とゞ》まれば、母を眼下に視下して、放れぬ物に我れ一人さだめぬ。
十月中《なか》の五日、与四郎が退出間近《まぢか》に安らかに女の子生れぬ、男と願ひし夫《そ》れには違へども、可愛《かはゆ》さは何処《いづこ》に変りのあるべき、やれお帰りかと母親出《はゝおやで》むかうて、流石《さすが》に初孫《うひまご》の嬉しきは、頬《ほう》のあたりの皺《しわ》にもしるく、これ見て下され、何と好《よ》い子では無いか、此まあ赤い事と指《さし》つけられて、今更ながらまご〓〓と嬉しく、手をさし出《いだ》すもいさゝか恥かしければ、母親《はゝおや》に抱《いだ》かせたるまゝさし覗いて見るに、誰れに似たるか彼れに似しか、其《その》差別《けじめ》も思ひ分《わか》ねども、何とは知らず怪《あや》しう可愛《かはゆ》くて、其啼く声は昨日《きのふ》まで隣の家に聞きたるのと同じ物には思はれず、さしも危ふく思ひし事の左《さ》りとは事なしに終《をは》りしかと重荷《おもに》の下《お》りたるやうにも覚ゆれば、産婦の様子いかにやと覗《のぞ》いて見るに、高枕《三たかまくら》にかゝりて鉢巻にみだれ髪の姿、傷ましきまで窶《やつ》れたれど其美くしさは神々《かうがう》しき様に成りぬ。
七夜《や》の、枕直《まくらなほ》しの、宮参《みやまゐ》りの、唯あわたゞしうて過ぎぬ、子の名は紙へ書きつけて産土神《四うぶすな》の前に神鬮《みくじ》の様にして引けば、常盤《ときは》のまつ、たけ、蓬莱《ほうらい》の、つる、かめ、夫《そ》れ等は探《さ》ぐりも当《あ》てずして、与四郎が仮の筆ずさびに、此様《このやう》な名も呼よい物と書いて入れたる町といふをば引出《ひきいだ》しぬ、女は容貌《きりやう》の好《よ》きにこそ諸人《しよにん》の愛を受けて果報《くわはう》この上も無き物なれ、小野《五をの》の夫《そ》れならねどお町は美くしい名と家内《かない》いさみて、町《まち》や、町や、と手から手へ渡りぬ。
(七)
お町は高笑《たかわら》ひするやうに成りて、時は新玉《あらたま》の春に成りぬ、お美尾は日々《ひゞ》に安からぬ面《おも》もち、折には涕《なみだ》にくるゝ事もあるを、血《ち》の道《みち》の故《せゐ》と自身《みづから》いへば、与四郎は左《さ》のみに物も疑はず、只この子の成長《おほきう》ならん事をのみ語りて、例の洋服すがた美事《みごと》ならぬ勤《つと》めに、手弁当さげて昨日も今日も出《いで》ぬ。
お美尾の母は東京の住居《すまひ》も物うく、はした無き朝夕《てうせき》を送るに飽《あ》きたれば、一つはお前様がたの世話をも省《はぶ》くべき為、つね〓〓御懇命《ごこんめい》うけましたる従《じゆ》三位《み》の軍人様の、西《一にし》の京《きやう》に御栄転《ごえいてん》の事ありて、お邸《やしき》彼方《かなた》へ建築《たて》られしを幸《さいは》ひ、◆《そ》処《こ》の女中頭《ぢよちゆうがしら》として勤《つと》めは生涯のつもり、老《おい》らくをも養《やしな》うて給はるべき約束さだまりたれば、最《も》う此地には居ませぬ、又来る事があらば一泊《ぱく》はさせて下され、その外《ほか》の御厄介には成りませぬと言ふに、与四郎は左《さ》りとも一人の母親なれば、美尾が心細さも思ひやりて、お前も御老年《ごらうねん》のこと、いかに勤めよきとても、他人場《たにんば》の奉公といふ事させましては、子たる我々が申訳の言葉なし、是非に止まり給へと言へども、いや〓〓其様《そのやう》の事はお前様出世《まへさましゆつせ》の暁にいうて下され、今は聞ませぬとて孤身《みひとつ》の風呂敷づゝみ、谷中《やなか》の家は貸家の札《ふだ》はられて、舟路《ふなぢ》ゆたかに彼《か》の地へと向ひぬ。
越《こ》えて一ト月、雲黒く月くらき夕ベ、与四郎は居残《ゐのこ》りの調べ物ありて、家《いへ》に帰りしは日くれの八時、例《いつも》は薄くらき洋燈《らんぷ》のもとに風車犬張子《かざぐるまいぬはりこ》取ちらして、まだ母親《はゝおや》の名も似合ぬ美尾が懐おしくつろげ、小児《ちご》に添《そ》へ乳《ぢ》の美くしきさま見るべきを、格子の外《そと》より伺《うかゞ》ふに燈火《ともしび》ぼんやりとして障子《しやうじ》に映《うつ》るかげも無し、お美尾お美尾と呼ながら入《い》るに、答へは隣の方に聞えて、今参りますと言ふ句《く》は似たれど言葉は有らぬ人なりき。
隣の妻の入来《いりく》るを見るに、懐には町を抱《いだ》きたり、与四郎胸さわぎのして、美尾は何処へ参りました、此日暮《このひく》れに燈火《あかり》をつけ放《はな》しで、買物にでも行きましたかと問へば、隣の妻は眉を寄せてさあ其事で御座んすとて、睡《ねぶ》り覚《さ》めたる懐中《ふところ》の町がくすりくすりと嘩泣《むづか》るを、おゝ好《い》い子好《い》い子と、ゆすぶつて言葉絶えぬ。
燈火《あかり》は私が唯今点《つ》けたので御座んす、誠は今までお留守居《るすゐ》をして居ましたのなれど、家《うち》のやんちやが六ツかしやを言ふに小言《こごと》いふとて明けました、御新造《ごしんぞ》は今日の昼前《ひるまへ》、通《とほ》りまで買物に行つて来まする、帰りまで此子の世話をお頼みと仰《おつ》しやつて、唯しばらくの事と思ひしに、二時になれども三時はうてども、音も無くて今まで影の見えられぬは、何処まで物買ひにお出《いで》なされしやら、留守たのまれまして日の暮れし程心づかひな物は無し、まあ何《ど》うなされたので御座んしよな、と問ひかけられて、それは我れより尋《たづ》ねたき思ひ、不常《ふだん》着《ぎ》のまゝで御座りましたかと問へば、はあ羽織だけ替《か》えて行かれたやうで御座んす、何か持つて行ましたか、いえ其《その》やうには覚《おぼ》えませぬと有るは、はてなと腕の組まれて、此遅くまで何処にと覚束《おぼつか》なし。
無器用《ぶきよう》なお前様が此子いぢくる訳にも行くまじ、お帰りに成るまで私が乳を上げませうと、有さまを見かねて、隣の妻の子を抱いて行くに、何分《なにぶん》お頼み申ますと言ひながら、美尾の行衛《ゆくえ》に心を取られてお町が事はうはの空《そら》に成《なり》ぬ。
よもや、よもや、と思へども、晴れぬ不審《ふしん》は疑ひの雲に成りて、唯一《ひ》ト棹《さを》の箪笥の引出しより、柳行李《やなぎごり》の底はかと無く調べて、もし其跡の見ゆるかと探ぐるに、塵一はしの置場《おきば》も変らず、つね〓〓宝のやうに大事がりて、身につく物の随《ずゐ》一好《す》き成りし手綱染《二たづなぞめ》の帯あげも其まゝに有けり、いつも小遣ひの入れ場処なる鏡台の引出しを明けて見るに、これは何とせし事ぞ手の切れるやうな新紙幣《あたらしき》をばかり、其数およそ二十も重《かさ》ねて上に一通《つう》、与四郎は見るより仰天《ぎやうてん》の思ひに成りて、胸は大波《おほなみ》の立つ如く、扨《さて》こそ仔細《わけ》は有けれと狂《くる》うて、其文開《そのふみひら》けば唯一《ただひ》ト言《こと》、美尾は死にたる物に御座候、行衛《ゆくへ》をお求め下さるまじく、此金《これ》は町に乳の粉をとの願ひに御座候。
与四郎は忽《たちま》ち顔の色青く赤く、唇を震《ふる》はせて悪婆《あくば》、と叫びしが、怒気心頭《どきしんとう》に起つて、身よりは黒烟《くろけぶ》りの立つ如く、紙幣《しへい》も文《ふみ》も寸断《ずた》〓〓に裂《さ》いて捨てゝ、直然《すつく》と立しさま人見《ひとみ》なば如何《いか》なりけん。
(八)
浮世《うきよ》の欲を金に集めて、十五年がほどの足掻《あが》きかたとては、人には赤鬼《あかおに》と仇名《あだな》を負《おは》せられて、五十に足《た》らぬ生涯のほどを死灰《しくわい》のやうに終《をは》りたる、それが余波《なごり》の幾万金《いくまんきん》、今の金村恭助《かなむらきようすけ》ぬしは、其与四郎が聟《むこ》なりけり。彼《あ》の人あれ程の身にて人の姓《せい》をば名告《なの》らずともと誹《そし》りしも有けれど、心安《こゝろやす》う志《こゝろざ》す道に走つて、内《うち》を顧《かへり》みる疚《やま》しさの無きは、これ皆養父《やうふ》の賜物《たまもの》ぞかし、されば奥方《おくがた》の町子おのづから寵愛《ちようあい》の手の平《ひら》に乗って、強《あなが》ち良人《をつと》を侮《あなど》るとなけれども、舅 姑 《しうとしうとめ》おはしまして万《よろ》づ窮屈《きゆうくつ》に堅《かた》くるしき嫁御寮《よめごれう》の身と異《こと》なり、見たしと思はゞ替《かは》り目毎《めごと》の芝居行《ゆ》きも誰れかは苦情《くじやう》を申《まうす》べき、花見、月見に旦那さま催《もよほ》し立てゝ、共に連《つ》らぬる袖を楽しみ、お帰りの遅き時は何処までも電話をかけて、夜は更くるとも寝給《ねたま》はず、余りに恋しう懐かしき折は自《みづか》ら少しは恥《はづ》かしき思ひ、如何なる故ともしるに難けれど、旦那さま在《おは》しまさぬ時は心細さ堪えがたう、兄とも親とも頼母《たのも》しき方《かた》に思はれぬ。
左《さ》りながら折《をり》ふし地方遊説《ちはういうぜい》などとて三月半年《みつきはんとし》のお留守もあり、湯治場《たうぢば》あるきの夫《そ》れと異《こと》なれば、此時には甘ゆる事もならで、唯徒《いたづ》らの御文通《ごぶんつう》、互ひの封のうち人には見せられぬ事多かるべし。此御中《おんなか》に何とてお子の無き、相添《あひそ》ひて十年余り、夢にも左様《さやう》の気色《けしき》はなくて、清水堂《きよみづだう》のお木偶《一でく》さま幾度空《いくたびむな》しき願ひに成けん、旦那さま淋しき余《あま》りに貰ひ子せばやと仰《おつ》しやるなれども、奥さまの好《この》み六づかしければ、是れは御縁は無くて過ぎゆく、落葉の霜の朝な〓〓深くて、吹く風いとゞ身に寒く、時雨《しぐれ》の宵は女子《をなご》ども炬燵《こたつ》の間《ま》に集めて、浮世物がたりに小説のうはさ、ざれたる婢女《をんな》は軽口《かろくち》の落しばなしして、お気に入る時は御褒賞《ごはうび》の何うや彼や、人に物を遣り給ふ事は幼少《ちひさい》よりの蕩楽《だうらく》にて、これを父親《てゝおや》二もなく憂《う》がりし、一《ひ》ト口《くち》に言はゞ機嫌かひの質《たち》なりや、一《ひ》ト言《こと》心に染《そ》まる事のあれば跡先も無く其者可愛《そのものかは》ゆう、車夫の茂助《もすけ》が一人子の与太郎《よたらう》に、此新年《はる》旦那さま召おろしの斜子《二なゝこ》の羽織を遣《つか》はされしも深くの理由《わけ》は無き事なり、仮初《かりそめ》の愚痴《ぐち》に新春着《はるぎ》の御座りませぬよし大方《おほかた》に申せしを、頓《やが》て憐みての賜《たまは》り物、茂助《もすけ》は天地に拝《はい》して、人は鷹《たか》の羽《は》の定紋《ぢやうもん》いたづらに目をつけぬ、何事も無くて奥様、書生の千葉が寒かるべきを思《おぼ》しやり、物縫ひの仲といふに命令《いひつけ》て、仰《おほ》せければ背《そむ》くによし無く、少しは投《なげ》やりの気味にて有りし、飛白《かすり》の綿入《わたい》れ羽織ときの間に仕立させ、彼《か》の明《あく》る夜は着せ給ふに、千葉は御恩のあたゝかく、口に数々《かずかず》のお礼は言はねども、気の弱き男なれば涙さへさしぐまれて、仲働《なかばたら》きの福に頼みてお礼しかるべくと言ひたるに、渡《わた》り者の口車《くちぐるま》よく廻りて、斯様《かやう》〓〓しか〓〓で、千葉は貴嬢《あなた》泣いて居りますと言上《ごんじやう》すれば、おゝ可愛い男と奥様御《ご》贔屓《ひいき》の増《まさ》りて、お心づけのほど今までよりはいとゞしう成りぬ。
十一月の二十八日は旦那さまお誕生日なりければ、年毎《としごと》お友達の方々《かたがた》招き参らせて、座の周旋はそんじよ夫《そ》れ者《しや》の美くしきを撰《え》りぬき、珍味佳肴《ちんみかかう》に打とけの大愉快《おほゆくわい》を尽させ給へば、髭むしやの鳥居さまが口から、逢《三》うた初手《しよて》から可愛《かはい》さがと恐れ入るやうな御詞《おことば》をうかゞふのも、例の沢木さまが落人《四おちうど》の梅川《うめがは》を遊《あそば》して、お前の父《とゝ》さん孫いもんさむとお国元《くにもと》を顕《あら》はし給ふも皆この折の隠し芸なり、されば派手者《はでしや》の奥さま此日を晴れにして、新調《しんてう》の三枚着に今歳《ことし》の流行を知らしめ給ふ、世は冬なれど陽春《やうしゆん》三月のおもかげ、散り過ぎたる紅葉《もみぢ》は庭に淋しけれど、垣の山茶《さゞん》花《くわ》折しり顔に匂ひて、松の緑のこまやかに、酔ひすゝまぬ人なき日なりける。
今歳《ことし》は別《わ》きてお客様の数多く、午後三時よりとの招待状一つも空《むな》しう成りしは無くて、暮れ過ぐるほどの賑ひは座敷に溢れて茶室の隅へ逃《のが》るゝもあり、二階の手摺《てす》りに洋服のお軽女郎《五かるぢよらう》、目鏡が中《六ちゆう》だと笑はるゝもありき、町子はいとゞ方々《かたがた》の持《もて》はやし五月蠅《うるさ》く、奥さん奥さんと御盃《おさかづき》の雨の降るに、御免遊ばせ、私は能《よ》う頂きませぬほどにと盃洗《はいせん》の水に流して、さりとも一盞《ひとつ》二盞《ふたつ》は逃れがたければ、いつしか耳の根あつう成りて、胸の動悸《どうき》のくるしう成るに、外《は》づしては済まねども人しらぬうちにと庭へ出でゝ池の石橋を渡つて築山《つきやま》の背後《うしろ》の、お稲荷《いなり》さまが社前なるお賽銭箱《さいせんばこ》へ仮初《かりそめ》に腰をかけぬ。
(九)
此家《こゝ》は町子が十二の歳《とし》、父の与四郎抵当《ていたう》ながれに取りて、夫《そ》れより修繕《しうぜん》は加へたれども、水の流れ、山のたゝずまひ、松の木《こ》がらし小高《こだか》き声も唯その昔のまゝ成けり、町子は酔ごゝち夢のごとく頭をかへして背後《うしろ》を見るに、雲間の月のほの明るく、社前の鈴のふりたるさま、紅白の綱ながく垂れて古鏡《こきよう》の光り神さびたるもみゆ、夜あらしさつと喜連格子《一きつれがうし》に音づるれば、人なきに鈴の音《ね》からんとして、幣束《へいそく》の紙ゆらぐも淋し。
町子は俄《には》かに物のおそろしく、立あがつて二足三足《ふたあしみあし》、母屋《おもや》の方《かた》へ帰らんと為《し》たりしが、引止められるやうに立止まつて、此度《このたび》は狛犬《二こまいぬ》の台石《だいいし》に寄かゝり、木《こ》の間もれ来《く》る座敷の騒ぎを遙かに聞いて、あゝあの声は旦那様、三味線は小梅《こうめ》さうな、いつの間《ま》に彼《あ》のやうな意気《いき》な洒落《しやれ》ものに成り給ひし、油断のならぬと思ふと共に、心細き事堪《た》へがたう成りて、締《しめ》つけられるやうな苦しさは、胸の中の何処《どこ》とも無く湧き出《いで》ぬ。
良久《やゝひさ》しうありて奥さま大方酔《おほかたゑひ》も覚《さ》めぬれば、万《よろづ》におのが乱るゝ怪《あや》しき心を我れと叱りて、帰れば盃盤狼籍《はいばんらうぜき》の有さま、人々《ひとびと》が迎ひの車門前《もんぜん》に綺羅星《きらほし》とならびて、何某様《たれさま》お立ちの声にぎはしく、散会《ひけて》の後《のち》は時雨《しぐれ》に成りぬ。
恭助《あるじ》は太《いた》く疲れて礼服ぬぎも敢《あ》へず横に成るを、あれ貴郎《あなた》お召物《めしもの》だけはお替《か》へ遊ばせ、夫《そ》れではいけませぬと羽織をぬがせて、帯をも奥さま手《て》づから解《と》きて、糸織《いとおり》のな《三》へたるにふらんねるを重《かさ》ねし寝間着の小袖《こそで》めさせかへ、いざ御《お》就蓐《やすみ》と手をとりて助ければ、何其様《そのやう》に酔《ゑ》うては居ないと仰《おつ》しやつて、蹌踉《よろめき》ながら寝間《ねま》へと入給《いりたま》ふ。奥さま火のもとの用心をと言ひ渡し、誰れも彼れも寝よと仰《おつ》しやつて、同《おな》じう寝間へは入給《いりたま》へど、何故《なにゆゑ》となう安からぬ思ひのありて、言はねども面色《おもゝち》の唯ならぬを、旦那さま半睡《はんすゐ》の目に御覧《ごらん》じて、何故寝ぬか、何を考へて居《ゐ》るぞと尋《たづ》ね給ふに、奥さま何とお返事の聞かせ参らする事もあらねど、唯々《たゞただ》不思議な心地が致しまする、何《ど》う致したので御座りませう、私にも分りませぬと言へば、旦那さま笑つて、余り心を遣ひ過ぎた結果であらう、気さへ落つけば直ぐ癒《なほ》る筈と仰《おつ》しやるに、否《いな》それでも私は言ふに言はれぬ淋しい心地《こゝち》がするので御座ります、余り先刻《さきほど》みな様のお強《し》ひ遊ばすが五月蠅《うるさ》さに一人庭へと逃げまして、お稲荷さまのお社《やしろ》の所で酔《ゑ》ひを覚まして居《を》りましたに、私は変な変な、をかしい事を思ひよりまして、笑つて下さりますな、何《ど》うも何《なん》とも言はれぬ気持に成ました、貴郎《あなた》には笑はれて、叱かられる様な事で御座りましよと下《した》を向《む》いて在《おは》するに、見れば涙の露の玉、膝にこぼれて怪《あや》しう思はれぬ。
奥さまは例に似合《にあは》ず沈みに沈んで私は貴君《あなた》に捨てられは為《せ》ぬかと存じまして、夫《そ》れで此様《このやう》に淋しう思ひますると言ひ出《いづ》れば、又かと旦那さま無造作《むざうさ》に笑つて、誰《た》れか何か言うたか、一人で考へたか、其様《そのやう》なつまらぬ事の有る筈は無い、お前のおもうて呉《く》れるほど世間は我《わ》しを思うて呉れぬから、まあ安心して居《ゐ》るが宜いと仔細《わけ》も無い事に言ひ捨つれば、夫《そ》れでも私は其やうな悋気沙汰《りんきざた》で申《まをす》のでは御座りませぬ、今日の会席《くわいせき》の賑かに、種々《いろいろ》の方々御出《かたがたおいで》の中に誰れとて世間に名の聞えぬも無く、此のやうのお人達みな貴郎《あなた》さまの御友達かと思ひますれば、嬉しさ胸の中におさへがたく、蔭ながら拝《をが》んで居《ゐ》ても宜いほどの 辱 《かたじけな》さなれど、つく〓〓我が身の上を思ひまするに、貴郎《あなた》はこれより彌《いや》ます〓〓の御出世を遊して、世の中広うなれば次第に御器量《ごきりやう》まし給ふ、今宵小梅が三味に合せて勧進帳《四くわんじんちやう》の一くさり、悋気《りんき》では無けれど彼《あ》れほどの御修業《ごしゆげふ》つみしも知らで、何時《いつ》も昔しの貴郎《あなた》とおもひ、浅き心の底はかと無く知られまする内《うち》、御厭《おいと》はしさの種《たね》も交《まじ》るべし、限りも知れず広き世に立ちては耳さへ目さへ肥え給ふ道理、有限《あるかぎり》だけの家の内に朝夕物おもひの苦も知らで、唯ぼんやりと過しまする身の、遂《つ》ひには厭《あ》かれまするやうに成りて、悲しかるべき事今おもうても愁《つ》らし、私は貴郎のほかに頼母《たのも》しき親兄弟も無し、有りてから父の与四郎在世《ざいせ》のさまは知り給ふ如く、私をば母親似の面《おも》ざし見るに肝《五かん》の種とて寄せつけも致されず、朝夕《あさゆふ》さびしうて暮しましたるを、嬉しき縁《こと》にて今斯《か》く私が我まゝをも免《ゆる》し給ひ、思ふ事なき今日此頃、それは勿体ないほどの有難さも、万一身《もしみ》にそぐなはぬ事ならばと案じられまして、此事をおもふに今宵の淋しき事、居ても起ちてもあられぬほどの情なさより、言うてはならぬと存じましたれど、遂《つ》ひ此様《このやう》に申上て仕舞ました、夫《そ》れは何《いづ》れも取止めの無き取こし苦労で御座りませうけれど、何《ど》うでも此様な気のするを何としたら宜《よ》う御座りますか、唯々心ぼそう御座りますとて打なくに、旦那さま愚痴の僻見《ひがみ》の跡先なき事なるを思召《おぼしめし》、悋気《りんき》よりぞと可笑《をか》しくも有ける。
(十)
我れと我が身に持て悩みて奥さま不覚《そゞろ》に打まどひぬ、此明《このあけ》くれの空の色は、晴れたる時も曇れる如く、日の色身にしみて怪《あや》しき思ひあり、時雨《しぐれ》ふる夜の風の音は人来て扉《とぼそ》をたゝくに似て、淋しきまゝに琴取出《いだ》し独り好みの曲を奏《かな》でるに、我れと我が調哀《てうあは》れに成りて、いかにするとも弾くに得堪《えた》へず、涙ふりこぼして押やりぬ。ある時は婦女《をんな》どもに凝る肩をたゝかせて、心うかれる様な恋のはなしなどさせて聞くに、人の顎《あご》のはづるゝ可笑《をか》しさとて笑ひ転《こ》ける様な埒《らち》のなきさへ、身には一々哀れにて、我れも思ひの燃ゆるに似たり、一夜仲働《ひとよなかばたら》きの福《ふく》こゑを改《あらた》めて、言はねば人の知らぬ事、いうて私の徳にも成らぬを、無言《むごん》にゐられませぬは饒舌《おしやべり》の癖、お聞きに成つても知らぬ顔に居《ゐ》て下さりませ、此処にをかしき一条の物がたりと少し乗地《一のりぢ》に声をはずますれば、夫《そ》れは何ぞや、お聞なされませ書生の千葉が初恋の哀れ、国もとに居《を》りました時そと見初《みそ》めたが御座りましたさうな、田舎《ゐなか》者《もの》の事なれば鎌を腰へさして藁草履《わらざうり》で、手拭ひに草束《くさたば》ねを包んでと思召ませうが、中々左様《なかなかさう》では御座りませぬ美くしいにて、村長の妹といふやうな人ださうで御座ります、小学校へ通ふうちに浅からず思ひましてと言へば、夫《そ》れは何方《どちら》からと小間使《こまづか》ひの米《よね》口を出すに、黙つてお聞、無論千葉さんの方からさとあるに、おやあの無骨さんがとて笑ひ出すに、奥様苦笑《にがわら》ひして可憐《かはい》さうに失敗《しくじり》の昔し話しを探《さぐ》り出したのかと仰《おつ》しやれば、いえ中々其やうに遠方《ゑんぱう》の事ばかりでは御座りませぬ、未だ追々にと衣紋《二えもん》を突いて咳払《せきばら》ひすれば、小間使《こまづか》ひ少し顔を赤くして似合頃《にあひごろ》の身の上、悪口の福が何を言ひ出すやらと尻目《しりめ》に睨めば、夫《そ》れに構《かま》はず唇を嘗《な》めて、まあお聞遊ばせ、千葉が其子《そのこ》を見染《みそめ》ましてからの事、朝学校へ行まする時は必ず其家《そこ》の窓下を過ぎて、声がするか、最《も》う行つたか、見たい、聞たい、話したい、種々《いろいろ》の事を思うたと思し召せ、学校にては物も言ひましたろ、顔も見ましたろ、夫《そ》れだけでは面白う無《な》うて心《三》いられのするに、日曜の時は其家《そのや》の前の川へ必らず釣をしに行きましたさうな、鮒《ふな》やたなごは宜《い》い迷惑な、釣るほどに釣るほどに、夕日が西へ落ちても帰るが惜しく、其子《そのこ》出て来よ残り無くお魚を遣つて、喜ぶ顔を見たいとでも思うたので御座りましよ、あゝは見えますれど彼《あ》れで中々《なかなか》の苦労人といふに、夫《そ》れはまあ幾歳《いくつ》のとし其恋出来てかと奥様おつしやれば、当《あ》てて御覧あそばせ先方《むかう》は村長の妹、此方《こちら》は水許《みづばかり》めし上るお百姓、雲《四》にかけ橋、霞に千鳥などと奇麗事《きれいごと》では間に合ひませぬほどに、手短《てみじ》かに申さうなら提燈《ちやうちん》に釣鐘《つりがね》、大分《だいぶ》其処に隔てが御座りまするけれど、恋に上下《じやうげ》の無い物なれば、まあ出来たと思しめしますか、お米《よね》どん何とと題を出されて、何か言はせて笑ふつもりと悪推《わるずゐ》をすれば、私は知らぬと横を向く、奥様少し打笑ひ、成り立たねばこそ今日の身であろ、其様なが万一《もしも》あるなら、あの打かぶりの乱れ髪、洒落《しやれ》気《げ》なしでは居《ゐ》られぬ筈、勉強家にしたは其自狂《やけ》からかと仰しやるに、中々《なかなか》もちまして彼男《あれ》が貴嬢《あなた》自狂《やけ》など起すやうな男で御座りましよか、無常《むじやう》を悟つたので御座りますと言ふに、そんなら其子《そのこ》は亡《な》くなつてか、可憐《かはい》さうなと奥さま憐《あはれ》がり給ふ、福は得意《とくい》に、此恋いふも言はぬも御座りませぬ、子供の事なれば心にばかり思うて、表向《おもてむ》きには何とも無い月日《つきひ》を大凡《おほよそ》どの位《くらゐ》送つた物で御座んすか、今の千葉が様子を御覧じても、彼《あ》れの子供の時ならばと大抵《たいてい》にお合点《がてん》が行ましよ、病気して煩《わづら》つて、お寺の物に成ましたを、其後《そのご》何と思へばとて答へる物は松の風で、何《ど》うも仕方が無からうでは御座んせぬか、さて夫《それ》からが本文《ほんもん》で御座んすとて笑ふに、福《ふく》が能《い》い加減《かげん》なこしらへ言《ごと》、似《に》つこらしい嘘を言ふと奥さま爪《つま》はじき遊ばせば、あれ何しに嘘を申ませう、左《さ》りながらこれをお耳に入れたといふと少し私が困りの筋《すぢ》、これは当人《たうにん》の口から聞いたので御座りますと言へば、嘘をお言ひ、彼男《あれ》が何《ど》うして其様《そのやう》な事を言はう、よし有《あ》つてからが、苦い顔でおし黙つて居《ゐ》るべき筈、いよ〓〓の嘘と仰《おつ》しやれば、さても情ない事その様に私の事を信仰《しんかう》して下さりませぬは、昨日《きのふ》の朝千葉が私を呼びまして、奥様が此四五日御すぐれ無い様に見上げられる、何《ど》うぞ遊してかと如何《いか》にも心配らしく申《まをし》ますので、奥様はお血《ち》の故《せゐ》で折《をり》ふし鬱《ふさ》ぎ症《しやう》にもお成り遊すし真実お悪い時は暗い処で泣いて居《ゐ》らつしやるがお持前と言うたらば、何《ど》んなにか貴嬢《あなた》吃驚《びつくり》致しまして、飛んでも無い事、それは大層《たいそう》な神経質で、悪くすると取かへしの付かぬ事になると申まして、夫《そ》れで其時申ました、私が郷里の幼な友達に是《こ》れ〓〓斯《か》う言ふ娘が有つて、肝《かん》もちの、はつきりとして、此邸《こゝ》の奥様に何《ど》うも能《よ》く似て居《ゐ》た人で有つた、継母で有つたので平常《つね》の我慢が大抵《たいてい》ではなく、積《つも》つて病死した可憐《かはいさう》な子と何《いづ》れ彼《あ》の男の事で御座りますから、真面目な顔であり〓〓と言ひましたを、私がはぎ合せて考へると今申た様な事に成るので御座ります、其子に奥様が似ていらつしやると申たのは夫《そ》れは嘘では御座りませぬけれど、露顕《ろけん》しますと彼男《あれ》に私が叱られます、御存じないお積りでと舌を廻して、たゝき立《たて》る太鼓の音さりとは賑はしう聞え渡りぬ。
(十一)
今歳《ことし》も今日十二月の十五日、世間おしつまりて人の往来大路《ゆきかひおほぢ》いそがはしく、お出入《でいり》の町人《ちやうにん》お歳暮《せいぼ》持参するものお勝手《かつて》に賑々《にぎにぎ》しく、急ぎたる家には餅つきのおとさへ聞ゆるに、此邸《こゝ》にては煤取の笹《一》の葉座敷にこぼれて、冷《二》めし草履《ざうり》こゝかしこの廊下に散みだれ、お雑巾《ざふきん》かけまする者、お畳たゝく者、家内《かない》の調度《てうど》になひ廻るも有れば、お振舞《ふるまひ》の酒《さゝ》に酔《ゑ》うて、これが荷物に成るもあり、御懇命《ごこんめい》うけまするお出入《でいり》の人々お手伝《てつだひ》お手伝ひとて五月蠅《うるさ》きを半《なかば》は断《ことわ》りて集まりし人だけに瓶《三かめ》のぞきの手ぬぐひ、それ、と切つて分け給へば、一同手に手に打冠《うちかぶ》り、姉さま唐茄子《四たうなす》、頬かぶり、吉原《五よしはら》かぶりをするも有り、旦那さま朝よりお留守にて、お指図《さしづ》し給ふ奥さまの風を見れば、小褄《こづま》かた手に友仙《いうぜん》の長襦袢下に長く、赤き鼻緒の麻裏《あさうら》を召て、あれよ、これよと仰せらる、一しきり終りての午後《ひるすぎ》、お茶ぐわし山と担《かつ》ぎ込めば大皿の鉄砲《てつぱう》まき分捕次第《ぶんどりしだい》と沙汰《さた》ありて、奥様は暫時《しばし》のほど二階の小間《こま》に気づかれを休め給ふ、血《ち》の道《みち》のつよき人なれば胸ぐるしさ堪へがたうて、枕に小抱巻仮初《こがいまきかりそめ》にふし給ひしを、小間づかひの米《よね》よりほか、絶《た》えて知る者あらざりき。
奥さまとろ〓〓してお目覚《めさむ》れば、枕もとの縁がはに男女《なんによ》の話し声さのみ憚《はゞ》かる景色《けしき》も無く、此宿《こゝ》の旦的《だんつく》の、奥州《六おうしう》のと、車宿《くるまやど》の二階で言《いふ》やうなるは、奥さま此処にと夢にも人は思はぬなるべし。
一方《かたかた》は仲働《なかばたらき》の福《ふく》のこゑ、叮嚀に叮嚀にと仰《おつ》しやるけれど、一日業《わざ》に何《ど》うして左様《さう》は行渡《ゆきわた》らりよう、隅々隈々《すみずみくまぐま》やつて居《ゐ》てお溜《たま》りが有らうかえ、目に立つ処をざつと働いて、あとは何《いづ》れも野《の》となれさ、夫《そ》れで丁度能《ちやうどい》い加減《かげん》に疲れて仕舞《しまふ》、そんなにお前正直で勤る物かと嘲笑《あざわら》ふやうに言へば、大きにさといふ、相手は茂助《もすけ》がもとの安五郎がこゑなり、正直といへば此処の旦的《だんつく》が一件物《けんもの》、飯田町《いひだまち》のお波《なみ》が事を知つてかと問ひかけるに、お福は百年も前からと言はぬばかりにして、夫《そ》れを御存じの無いは此処の奥様お一方《ひとかた》、知《七 》らぬは亭主《ていしゆ》の反対《あべこべ》だね、まだ私は見た事は無いが、色の浅黒い面長《おもなが》で、品が好《よ》いといふでは無いか、お前は親方の代《かは》りにお供を申すこともある、拝《をが》んだ事が有るかと問へば、見た段か格子戸に鈴の音がすると坊ちやんが先立《さきだち》で駆け出して来る、続いて顕《あら》はれるが例物《れいぶつ》さ、髪の毛自慢の櫛巻《八くしまき》で、薄化粧のあつさり物、半襟つきの前だれ掛とくだけて、おや貴郎《あなた》と言ふだらうでは無いか、すると此処のがでれりと御座つて、久しう無沙汰をした、免《ゆ》るせ、かなんかで、入口の敷居《しきゐ》に腰をかける、例のが駆け下りて靴をぬがせる、見とも無いほど睦《むつ》ましいと言ふは彼《あ》れの事、旦那が奥へ通ると小戻《こもど》りして、お供さん御苦労、これで烟草《たばこ》でも買つてと言つて、夫《そ》れ鼻薬《はなぐすり》の出る次第さ、あれがお前素人《しろうと》だから感心だと賞めるに、素人も素人、生無垢《きむく》の娘あがりだと言ふでは無いか、旦那とは十何年の中で、坊ちやんが歳もことしは十歳《とを》か十一には成《なら》う、都合《つがふ》の悪いは此処の家には一人も子宝が無《な》うて、彼方《あちら》に立派の男の子といふ物だから、行々《ゆくゆく》を考へるとお気の毒なは此郎《こゝ》の奥さま、何《ど》うも是れも授り物だからと一人が言ふに、仕方が無い、十分先《せん》の大旦那がしぼり取つた身上《しんしやう》だから、人の物に成ると言つても理屈は有るまい、だけれどお前、不正直は此処の旦那で有らうと言ふに、男は皆あんな物、気が多いからとお福の笑ひ出すに、悪く当《あて》つ擦《こす》りなさる、耳が痛いでは無いか、己《お》れは斯《か》う見えても不義理と土用干《九どようぼし》は仕た事の無い人間だ、女房をだまくらかして妾《めかけ》の処へ注《つ》ぎ込む様な不人情は仕度《したく》ても出来ない、あれ丈腹の太い豪《えら》いのでは有らうか、考へると此処の旦那も鬼《一〇》の性《しやう》さ、二代つゞきて彌々根《いよいよね》が張《は》らうと、聞人なげに遠慮なき高声、福も相槌《あひづち》例の調子に、もう一ト働きやつて除《の》けよう、安さんは下廻《したまは》りを頼みます、私はもう一度此処を拭いて、今度はお蔵だとて、雑巾がけしつ〓〓と始めれば、奥さまは唯この隔《へだ》てを命にして、明けずに去《い》ねかし、顔みらるゝ事愁《つ》らやと思しぬ。
(十二)
十六日の朝ぼらけ昨日の掃除のあと清き、納戸《なんど》めきたる六畳の間に、置炬燵して旦那さま奥さま差向《さしむか》ひ、今朝の新聞おし披《ひら》きつゝ、政界の事、文界の事、語るに答へもつきなからず、他処目《よそめ》うら山《やま》しう見えて、面白げ成しが、旦那さま好き頃と見はからひの御積《おつも》りなるべく、年来足《としごろた》らぬ事なき家に子の無きをばかり口惜《くちを》しく、其方《そなた》に在《あ》らば重畳《ちようでふ》の喜びなれども万一《もし》いよ〓〓出来ぬ物ならば、今より貰うて心に任《まか》せし教育をしたらばと是《こ》れを明《あけ》くれ心がくれども、未《いま》だに良きも見当らず、年たてば我れも初老《はつをい》の四十の坂、じみなる事を言ふやうなれども家の根つぎの極まらざるは何かにつけて心細く、此ほど中《ぢゆう》の其方《そなた》のやうに、淋しい淋しいの言ひづめも為《せ》では有られぬやうな事あるべし、幸ひ海軍の鳥居《とりゐ》が知人の子に素性《すじやう》も悪るからで利発《りはつ》に生れつきたる男の子あるよし、其方《そなた》に異存《いぞん》なければ其れを貰うて丹精《たんせい》したらばと思はるゝ、悉皆《しつかい》の引受けは鳥居がして、里かたにも彼《あ》の家にて成るよし、年は十一、容貌《きりやう》はよいさうなと言ふに、奥さま顔をあげて旦那の面様《おもやう》いかにと覗《うかゞ》ひしが、成程《なるほど》それは宜い思し召より、私はかれこれは御座りませぬ、宜《い》いと覚《おぼ》しめさばお取極《とりき》め下さりませ、此家《こゝ》は貴郎《あなた》のお家で御座りまする物、何となり思しめしのまゝにと安らかには言ひながら、万一《もし》その子にて有りたらばと無情《つれなき》おもひおのづから顔色に顕《あら》はるれば、何取《とり》いそぐ事でも無い、よく思案《しあん》して気に叶《かな》うたらば其時の事、あまり気を鬱々《うつうつ》として病気でもしては成らんから、少しは慰めにもと思うたのなれど、夫れも余り軽卒《けいそつ》の事、人形や雛では無し、人一人翫弄《もてあそび》物にする訳には行くまじ、出来そこねたとて塵塚の隅へ捨てられぬ、家の礎《いしづゑ》に貰ふのなれば、今一応聞定《さだ》めもし、取調べても見た上の事、唯この頃の様に鬱《ふさ》いで居たら身体《からだ》の為に成るまいと思はれる、これは急がぬ事として、ちと寄席《よせ》きゝにでも行つたら何《ど》うか、播摩《一はりま》が近い処へかゝつて居《ゐ》る、今夜は何《ど》うであらう行かんかなと機嫌を取り給ふに、貴郎《あなた》は何故そんな優《やさ》しらしい事を仰《おつ》しやります、私は決して其やうな事は伺ひたいと思ひませぬ、鬱《ふさ》ぐ時は鬱がせて置いて下され、笑ふ時は笑ひますから、心任《ま》かせにして置いて下されと、言ひて流石《さすが》打つけには恨みも言ひ敢《あ》へず、心を籠《こ》めて憂はしげの体《てい》にてあるを、良人《をつと》は浅からず気にかけて、何故その様な捨てばちは言ふぞ、此間から何かと奥歯《おくば》に物の挟まりて一々心にかゝる事多し、人には取違へもある物、何をか下心《したごゝろ》に含んで隠しだてでは無いか、此間の小梅の事、あれでは無いかな、夫《そ》れならば大間違ひの上なし、何の気も無い事だに心配は無用、小梅は八木田《やぎた》が年来《としごろ》の持物で、人には指をもさゝしはせぬ、ことには彼《あ》の痩せがれ、花は疾《と》くに散つて紫蘇葉《二しそは》につゝまれようと言ふ物だに、何《ど》れほどの物好《ものず》きなれば手出しを仕様ぞ、邪推《じやすゐ》も大抵にして置いて呉れ、あの事ならば清浄無垢《しやうじやうむく》、潔白な者だと微笑を含んで口髭を捻《ひね》らせ給ふ。飯田町《いひだまち》の格子戸は音にも知らじと思召《おぼしめし》、是れが備《そな》へは立てもせず、防禦《ぼうぎよ》の策は取らざりき。
(十三)
さま〓〓物をおもひ給へば、奥様時々お癪《しやく》の起る癖つきて、はげしき時は仰向《あほのけ》に仆《たふ》れて、今にも絶え入るばかりの苦るしみ、初《はじめ》は皮下注射《ひかちゆうしや》など医者の手をも待ちけれど、日毎夜毎に度かさなれば、力ある手につよく押へて、一時を兎角《とかく》まぎらはす事なり、男ならでは甲斐《かひ》のなきに、其事あれば夜といはず夜中と言はず、やがて千葉をば呼立てて、反《そり》かへる背を押へさするに、武骨《ぶこつ》一遍律義男《ぺんりつぎをとこ》の身を忘れての介抱《かいはう》人の目にあやしく、しのびやかの囁《さゝや》き頓《やが》て無沙汰に成るぞかし、隠れの方の六畳をば人奥様の癪部屋《しやくべや》と名付《なづ》けて、乱行《らんぎやう》あさましきやうに取なせば、見る目がらかや此間の事いぶかしう、更に霜夜の御憐れみ、羽織の事さへ取添《とりそ》へて、仰々《ぎやうぎやう》しくも成《なり》ぬるかな、あとなき風も騒ぐ世に忍ぶが原の虫の声、露ほどの事あらはれて、奥様いとゞ憂き身に成りぬ。
中働《なかばたら》きの福かねてあら〓〓心組《ここゝぐ》みの、奥様お着下《きおろ》しの本結城《ほんゆふき》、あれこそは我《わ》が物の頼《たの》み空《むな》しう、いろ〓〓千葉の厄介《やくかい》に成たればとて、これを新年着《はるぎ》に仕立てて遣《つか》はされし、其恨《うら》み骨髄《こつずゐ》に徹《とほ》りてそれよりの見る目横にか逆《さか》にか、女髪結の留《とめ》を捉《と》らへて珍事《ちんじ》唯今出来《しゆつたい》の顔つきに、例の口車くる〓〓とやれば、此電信の何処《いづく》までかゝりて、一町毎に風説《うはさ》は太りけん、いつしか恭助《きようすけ》ぬしが耳に入れば、安からぬ事に胸さわがれぬ、家つきならずば施《ほどこ》すべき途《みち》もあれども、浮世の聞え、これを別居《べつきよ》と引離《ひきはな》つこと、如何《いか》にもしのびぬ思ひあり、さりとて此ままさし置かんに、内政《ないせい》のみだれ世の攻撃《こうげき》の種《たね》に成りて、浅からぬ難儀現在《なんぎげんざい》の身の上にかゝれば、いかさまに為《せ》ばやと持てなやみぬ、我まゝも其まゝ、気随《きずゐ》も其まゝ、何かはことごとしく咎めだてなどなさんやは、金村《かなむら》が妻と立ちて、世に恥《はづ》かしき事なからずばと思《おぼ》せども、さし置がたき沙汰《さた》とにかくに喧《やかま》しく、親しき友など打つれての勧告《くわんこく》に、今日は今日はと思ひ立ちながら、猶其事に及ばずして過行く、年立かへる朝《あした》より、松《まつ》の内過《うちす》ぎなばと思ひ、松とり捨つれば十五日ばかりの程にはとおもふ、二十日《はつか》も過ぎて一月空《げつむな》しく、二月《ぐわつ》は梅にも心の急《いそ》がれず、来《く》る月は小学校の定期試験とて飯田町《いひだまち》のかたに、笑《一ゑ》みかたまけて急ぎ合へるを、見れども心は楽しからず、家のさま、町子の上、いかさまにせん、と許《ばかり》おもふ、谷中《やなか》に知人の家を買ひて、調度万端《てうどばんたん》おさめさせ、此処へと思ふに町子が生涯あはれなる事いふばかりなく、暗涙《あんるゐ》にくれては我が身が不徳《ふとく》を思ししる筋なきにあらねど、今はと思ひ断《た》ちて四月のはじめつ方、浮世は花に春の雨ふる夜、別居の旨《むね》をいひ渡しぬ。
かねてぞ千葉は放たれぬ。汨羅《二べきら》の屈原《くつげん》ならざれば、恨みは何とかこつべき、大川の水清からぬ名を負ひて、永代《えいだい》よりの汽船に乗込みの帰国姿、まさしう見たりと言ふ者ありし。
*
憂《う》かりしはその夜のさまなり、車の用意何くれと調《とゝの》へさせて後《のち》、いふべき事あり此方《こなた》へと良人《をつと》のいふに、今さら恐ろしうて書斎の外《と》にいたれば、今宵より其方《そなた》は谷中《やなか》へ移るべきぞ、此家をば家とおもふべからず、立帰らるゝ物と思ふな、罪はおのづから知りたるべし、はや立て、とあるに、夫《そ》れは余りのお言葉、我に悪き事あらば何とて小言《こごと》は言ひ給はぬ、出しぬけの仰《おほ》せは聞ませぬとて泣くを、恭助振向いて見んともせず、理由《わけ》あればこそ、人並ならぬ事ともなせ、一々の罪状《ざいじやう》いひ立てんは憂《う》かるべし、車の用意もなしてあり、唯のり移るばかりと言ひて、つと立ちて部《へ》やの外《と》へ出給《いでたま》ふを、追ひすがりて袖をとれば、放さぬか不埒者《ふらちもの》と振切るを、お前様《まへさま》どうでも左様《さう》なさるので御座んするか、私を浮世の捨て物になさりまするお気か、私は一人もの、世には助くる人も無し、此小さき身すて給ふに仔細《わけ》はあるまじ、美事《みごと》すてて此家を君の物にし給ふお気か、取りて見給へ、我れをば捨てて御覧ぜよ、一念が御座りまするとて、はたと白睨《にら》むを、突のけてあとをも見ず、町、もう逢はぬぞ。
注 釈
大つごもり(上)
一 十二月三十一日。大晦日(おおみそか)。
二 左右の手をいっぱいにひろげた丈が一尋、一尋はおよそ六尺。
三 大きな木の台。ものを大げさに言う。
四 町家のくらし向き良き家の妻。貧しくとも官員の妻などにも言う。
五 自分の心持ちによって、人に対する態度の変わる人。
六 定ったもののほかに臨時の収入のこと。
七 奉公を始める前に二、三日、ためしにそこの家にいてみること。
八 煙草盆の灰ふきを煙管でたたく。
九 湯殿に桶を置きてたく風呂。
一〇 竹の皮の堅い鼻緒。俗にびんぼう鼻緒。
一一 歯の曲った下駄。
一二 物をそまつにせぬようになった。
一三 悪い事は早く聞こえること。
一四 昔は初日より二、三日たちし後、全狂言出そろう。
一五 新しき狂言。
一六 元小石川区にあり。今の文京区柳町のそば。
一七 世を憂き事にかけている。
一八 ここでははげた頭のことをいう。
一九 少ない元手《もとで》をやりくりする。
二〇 一日五厘ずつ持ってゆく私立学校。
二一 リューマチのような病気。足腰の痛むこと。
二二 下水の上に置きたる板。
二三 昔浅草今戸町で焼いていた素焼の土器。
二四 米を入れて置く木の箱。
二五 せんべいの竪焼のごとき蒲団。
二六 下腹、腰などの痛む病。
二七 布でつくった袋。ぜに入。
二八 荒壁の次に塗る壁。
二九 すべてに凶である日。
三〇 厄年の前の年、厄年と同様に忌みきらう年。
三一 流行の風邪。
三二 ともかくもの意。
三三 途中で遊ぶこと。
三四 草鞋のひものくい入りでできるきず。
三五 少しよくなれば気にも張合いが出ること。張弓、引つづいてと続けたる文章のあや。
三六 涙を止めた。
三七 三か月かぎりに借りること。
三八 天利、最初に利子を取られること。
三九 今の港区。目黒に近き所。
四〇 ふだんに奇麗にしていること。
四一 証文を書きかえること。
四二 利子が二重にたまること。前分の利子と後の分の天びきの利子。
四三 道路で売っている正月の餅。
四四 きげん。
四五 奉公中に暇をもらって家へ帰る日。正月の十五、六日、盆の十五日ごろがそのきまりになっていた。
四六 春の日永。
大つごもり(下)
一 縁を切る。
二 俗ににがみばしった好い男と言う。
三 品川の遊廓のことを言う。
四 品川近き町。
五 戸籍を別にすること。分家。
六 台所の神、荒神様へ上げる松一本でも自分の許しを聞くようならば。
七 貸長屋。
八 ふやして。
九 品川近くの町。車町とほど近し。
一〇 手拭いを取って丸めて。
一一 あいまい。
一二 いつもやること。おはこ。
一三 心の中。
一四 言い切って。
一五 二重になって、ひきだしのある硯。
一六 すっかりとは言わず。
一七 昔は十二時に師団所在地で発砲して正午を報じた。
一八 潮の満干の時、産をするという。
一九 西応寺町昔芝区にあり。今港区。
二〇 海の沖に出て釣りをすること。
二一 今の港区白金台町。
二二 針仕事に雇われている女中。
二三 お金はつかってもの意。
二四 にこにこしている顔。
二五 祝儀、心づけをやること。
二六 正月の元日二日三日。
二七 過去、現在、未来にわたっての愛着、苦悩の絶えぬこと。
二八 証人になって。
二九 昔の五十円は現在の五万円にもあたるが、さだかならず。
三〇 金がないための無分別で。
三一 いやなやつの去ったあとに塩をまくこと。
三二 数。
三三 金をまとめて封をすること。
三四 言ってやる。
三五 屠殺所へ連れて行かれる羊の思い。
三六 自分を守ってくれる神様。
たけくらべ(一)
一 遊廓吉原の大門の外にある柳、遊びに行った客が名残りを惜しんで見返るというのでこの名がある。
二 一定の廓の三方を囲んだどぶ川。
三 下谷龍泉寺町のあたり。
四 下谷金杉にありし神社。
五 商売はまるで利かぬということ。
六 大鳥神社あるいは大鷲神社、酉の市のある所。
七 客の下足札を幾つか一緒にしてがらんがらんと振る。
八 大籬は大きな女郎屋。
九 女郎の下についている番頭新造のまた下のもの。
一〇 大門からはいった所の七軒の引手茶屋。
一一 引手茶屋の女中。
一二 羽織も着物も唐桟織りのものを揃えて着ること。
一三 草履の裏皮に金がついていて、歩くとちゃらちゃら音がする。意気なものがはいたもの。
一四 帯を結ばず、そのまま巻いていること。
一五 程度の低い女郎屋。
一六 遊女の名前。
一七 地廻りとは廓の中をぶらぶらひやかして歩く連中。
一八 仁和賀とは春秋二期に催す吉原俄。芸妓や幇間(ほうかん)がいろいろ上な芸を屋台囃しで練って歩く。
一九 露八、栄喜はそのころ有名な幇間の名。
二〇 肩にちょっと手拭いを置く。
二一 投節のようなもの。子供も大人のまねをする。
二二 当時の流行歌、丸い卵も切りよで四角ぎっちょんぎっちょん云々。
二三 廓の非常門、常は上がっているが用のある時だけおろす。
二四 もぐりの弁護士。
二五 つけ馬、廓の勘定のできぬ客に払いを貰うために付いて行く男。
たけくらべ(二)
一 龍泉寺町の氏神。
二 大ぜいの人が味方につくこと。
三 元結よりの文次。内職に元結よりをしている子供、薄い紙の切ったので元結をよる。
四 木製の四角な枠に紙を張り、長い柄をつけ紙の表裏に絵画、字などを描き、祭の時などかつぐ。
五 緑がかった紺色金巾とは地の細い木綿。
たけくらべ(三)
一 ちぢれっ毛でつくった髢(かもじ)。この毛を入れて髷を結う。
二 下駄の底をくりぬき、後ろを丸く前を前のめりにして両方の側面に筋を入れたもの。高きも低きもあり。昔はたいてい赤か黒かに塗ってある。
三 まくこと。みんなに分け与えること。
四 吉原町附近の店屋。
五 浅草にあった芝居小屋。
たけくらべ(四)
一 小野照神社、下谷入谷町にあり。
二 くちなしの実で染めた色、黄色。
三 達磨、木兎、犬はり子などの玩具をたくさん、たすきにつける。
四 おかめの面の輪廓のみを紙に描きたるものへ、別に切りぬいておいた眉、眼、鼻、口などを、目かくしをした子供が、その顔へつけていく。見当違いにつきて面白きものなり。
五 五十軒町の引手茶屋。
六 内証は火の車との意。
七 浅草並木町。
八 羽子板でつく羽根のこと。
九 娼妓の健康診断場。そこの氷屋。
一〇 日歩いくらといって毎日利息を払う。
一一 忍ぶ恋路はさてはかなさよ、今度あふのが命がけ云々の端唄。
一二 金の威光をいう。
たけくらべ(五)
一 「我がものと思へば軽き傘の雪」云々と言える端唄の中の文句に「待つ身につらき置炬燵」とあるを取ったもの。
二 色々な形の板を並べて遊ぶおもちゃ。
三 十六の子の札と親とで勝負を争う。親の札を子の札が詰めてしまう遊び。
四 「北廓全盛見渡せば軒は提灯電気燈いつも賑ふ五丁町」などと歌い、剣舞のようなふりをする。明治二十七、八年の日清戦争のころの「日清談判破裂して、品川乗り出すあづま艦……」という歌の替え歌。
五 元結をよる内職をする子供。
六 家主。家を貸してくれている人。
たけくらべ(六)
一 太郎稲荷、吉原附近の中田圃といわれし所にあった稲荷明神。
二 神社の軒先につるした大きな鈴、そこから下がった紐なり繩なりを振って鈴を鳴らし、願い事をする。
三 このあたりまで田圃道であったのでその畦路をつたって歩く。畦路は田圃の中の細い道。
四 毎日貸した金の利子を取りにゆく。
五 羊歯の一種を根をつけたまま軒につるしておくもの。その下に風鈴などつけて夏の飾りものにする。
六 心をつかって美登利を取りもつこと。
七 吉原近くの日本堤にそいし町。
八 吉原土手のこと。
九 三の輪と千住大橋の間にある町。貧しき所。
一〇 仲の町のはずれにある場所。そこの写真屋。
たけくらべ(七)
一 水谷伊勢守の下屋敷のあったところ。
二 お寺のお坊さんの奥さんのこと。
三 日本橋の株式取引所のあった所。株屋のだれそれという意味。
たけくらべ(八)
一 坂本通りのこと。三島神社の前の大通り。
二 楊貴妃を失いし玄宗皇帝の悲しみを歌った長恨歌という詩。
三 浅草新吉原と浅草公園との間にある町。
四 芸者家の門に下げた提灯。
五 当たり前の幅より狭い後ろ七寸前五寸衽(おくみ)三寸に仕立てた着物。
六 江戸町、京町、角町、揚屋町、伏見町、あるいは仲の町。
七 一番多く客を取る女郎。
八 客を引くために女郎が鼠の鳴きまねをする。
九 女郎が店先に夜具を飾って全盛を誇る。
一〇 万年町、山伏町、新谷町、ともに貧民窟。
一一 あれは紀の国みかん船。かっぽれの一節。
一二 浦里、時次郎の新内節。
たけくらべ(九)
一 経文の始めに言う文句。
二 そう言ったような型どおりの。
三 左り褄は芸者のこと、長く着た着物の裾を芸者は左の手でとり、女郎は右の手で取る。
四 十一月のこと。
たけくらべ(十)
一 遊女屋で食物をあつらえる料理屋。
二 享保年間に没した玉菊という遊女を記念して年々の新盆に仲の町に切子燈籠を下げるしきたり。
三 仁和賀の狂言が変わることをいう。
四 吉原の西側に近い田圃にあった堀。
五 揚屋町の非常門のところから、龍泉寺町へはいる所にあった石橋。
六 田村屋は塩せんべい屋であったとのこと。
七 角海老楼という遊女屋には有名な時計台があった。
八 君が情の仮寝の床に枕はづかし夜もすがら。端唄「香に迷ふ」の一節。
九 水の谷の原の中にあった池。
一〇 顔のまん中の鼻をさして花に通わす、花がるたの賭博。
一一 ひいらいた、開いた、何の花ひらいた、れんげの花ひいらいた、開いたと思ったらやっとこさとつぼんだ、という童謡。
一二 おはじき、数多くの小さき貝でお互いにはじきっこをする。
一三 ちゅう ちゅう たこ かい な と二つずつ数えて十にする。
たけくらべ(十一)
一 昔は暗き通りに瓦斯燈をともす。
二 番傘と同じようにて、少しきゃしゃである。
三 昔目薬の広告にそんな形のがあった。
四 非難す。けなす。
五 あばたの顔。
六 当時の小学唱歌。
たけくらべ(十二)
一 鎌倉石の燈籠。
二 源氏物語にある紫の上の祖母。
三 おかっぱ頭の紫の上も出てきそうな。
四 今のつづり方。
五 勢当たり難くもあるべきに。
たけくらべ(十三)
一 こよりを逆によること。
二 藁の心。
三 黒八丈の略。
四 そんなふうに下駄を羽織の紐で結びつけているよりはの意。
たけくらべ(十四)
一 十一月初め酉《とり》の日を一の酉、と数えて次の酉の日を二の酉、三の酉まであると火事があるなど言う。
二 唐の芋のこと。
三 その時その時に売れそうなものを売る店。
四 嫌われる意味。
五 女郎の身近に使う女。
六 一方から簪を差し、その脚へ別に足を包むものをさし込む。
たけくらべ(十五)
一 持ちあつかいかねて困っている。
二 かいまき。袖がついて着物のように縫った夜具。
たけくらべ(十六)
一 大鷲神社の境内。
にごりえ(一)
一 下駄を爪先にかけてはくこと。
二 焼棒杭は火のつきやすいもの、すぐにまたもとに戻ることを言う。
三 来ない客をむなしく待つことを自らあざけって言う言葉。
四 植付けに適したほどの稲の新しいのに熱湯をかけてかわかしたもの、浅緑色にさえて女の髪かけなどにする。
五 見てくれと言わぬばかりに。
六 胸をひろげて。
七 帯をちゃんと結ばずに一ツ結んで下げておく締め方。
八 帯の下へ締める細い帯のこと。
九 女の髪、銀杏(いちよう)返しの上に毛をかけたもの。
一〇 左右の手を広げて端から端を計った長さおよそ六尺。
一一 善業の報いとして得た利益、慾ばりすぎること。
一二 都都逸「ばかにしゃんすな昔は花よ鶯鳴かせた事もある」
一三 花柳界などの門口に下げる丸い提燈。
一四 茶屋などの門口に縁起を祝って三角形に塩を盛る。
一五 料理の注文。
一六 便利なものだ。
一七 この店の随一。
一八 自慢らしい顔が憎い。
一九 新らしく開けた町。
二〇 離縁状。離縁状は三くだり半に書くという。
二一 注文を取りに来る小僧。
二二 兵子帯をしめた書生の一むれ。
二三 知らん顔して通ること。
にごりえ(二)
一 上が丸くなっていて、つばの狭い帽子、おおかたは黒。
二 昔は華族、士族、平民と階級のあったもの。
三 杯を置きたるまま酒をつぐこと。
四 作法の流儀。小笠原流と言って重きもの。
五 俗におひらという。椀の大きなもの。
六 常磐津(ときわず)の「積恋雪関扉」の中の関兵衛のせりふ。
七 滑稽。
八 武ばった様子。
九 いきな男、いなせな男。
一〇 思うままに穿鑿すること。
一一 起請。神仏に誓いを立て偽りのない旨を記した文書。
一二 誓いの詞を記した紙。
一三 沈んでいるということ。
一四 それだといって、を詰めた言葉。
一五 あげ足をとられて。
一六 古いものをかたづけること。悪口を言う。
一七 身分のよい方。
一八 昔仙台公に愛された女郎、愛するものに任せよという意味。
一九 ゆるやかな人。
二〇 いつもやること。おはこ。
二一 念を押すこと。
二二 うその誓い。
二三 四位の少将が昔九十九夜小町のところへ通ったこと。
二四 型にはまった女ではない。
にごりえ(三)
一 自分に関係のなきところで嫉妬をすること。
二 わがまま。あまたれる。
三 念仏を修する道場、陰気になってしまうとの意。
四 都都逸と同じ字数の郷土民謡ともいうべき歌。相撲甚句米山甚句など。
五 同じく酒席などで歌う歌。「沖の暗いのに白帆が見える」と歌い出すもの。
六 婦人病。
七 会わずに帰してしまってはの意。
八 幅もきいた男。
九 私のようなものと同じ。
一〇 間い詰められて。
一一 恋の病はなおりゃせぬという俗謡から。
一二 昔は木枕に小さな小枕を置いてそれを枕に寝る。その小枕を包んだ紙。
一三 心から泣くこと。
一四 袖ふり合うも他生の縁。
一五 くだものや。
一六 声の調子。
にごりえ(四)
一 溝板のやぶれ。
二 共通の棟の下に壁一重で何軒も建てた家。
三 九尺の間口、二間の奥行きの狭い家。
四 歯を黒く染める。昔は人の妻となれば歯を鉄漿(かね)にて染める。鉄漿は鉄片を茶の汁にひたし、これに五倍子(ぶし)の粉をつけて歯につける。いく日かたてばはげる。
五 鳴海絞の浴衣。
六 下駄の籐表を編む内職。
七 風の通る所。
八 能代塗の膳のこと、黄色っぽい塗りの膳。
九 なまの豆腐を四角に切りて水で冷したもの、青紫蘇を細かく切りて添う。
一〇 気持が悪いか。
一一 品物を売った先の払い。
一二 ばくち。
一三 飯。監獄で食べさせる飯。
一四 ともに吉原の遊廓の有名だった昔の遊女。
一五 涙が出そうな思い。
にごりえ(五)
一 八大地獄の一。罪を犯したものがここにおちて間断なく激苦を受ける所。
二 血の池。地獄にあると伝えられる、血をたたえた池。
三 同じく地獄にありという針を立てた山。
四 「蛇食ふと聞いて恐ろし雉子(きじ)の声」
五 方法。
六 閻魔を祭ってある堂。毎年一月十六日と七月十六日に参詣する。
七 酒のみ。
八 はやりの簪。
九 浅草にある町。
一〇 内職の一種、マッチの箱をつくる。
一一 奉公して雑布がけするものの意。
一二 いやなものを排斥するとき、嫌悪の情を表わすとき、非難するときの意。
一三 ごく薄い紙。
一四 とはいうものの。
一五 商家の奉公人。
一六 端唄。紀伊の国は音無川の云々。
一七 清元「北州千歳寿」の中の文句。
一八 都都逸の中の文句。
一九 端唄(はうた)。「我恋は細谷川の丸木橋、わたるにゃ怖し渡らねば、おもふお方に逢はれない」
二〇 ずっと遠くへ。遠くへ行ってしまいたい意味。
二一 この上。
二二 すくせ、前世からの因縁。
二三 夫婦喧嘩。
にごりえ(六)
一 真実がないの意。
二 商家の番頭の色の生白い男を言う。
三 怒り。
四 いざこざ。面倒なこと。
五 よごれに染まぬこと。
六 人に愛される愛敬。
七 紅色のはんけち。このころの流行のもの。
八 遠慮する事はかえってて無沙汰になる。いらぬ遠慮はせぬがよいということ。
九 貴人の用うる輿、りっぱな所へ嫁にゆく事はかなわぬという意。
にごりえ(七)
一 やっとの事。
二 昨日などもの意。
三 盆には仏をいろいろのもので飾る。
四 春秋の彼岸の日には隣近所へ牡丹餅団子など配り歩く風習。昔より近世まであり。
五 だんだんに暮れてゆくのに。
六 落ち込んだらしい。
七 ここでは悪口の意。
八 三尺帯。
にごりえ(八)
一 お盆。
二 棺に棒をつけてかついでゆくこと。
十三夜(上)
一 途中で拾った車。
二 幸福ものの一。
三 身分以上の慾。
四 どんな顔をして。
五 喜びをむだとさせること。
六 奏任官。良人の役。
七 中心。芯。出世の芽さき。
八 いたずらっ子。
九 座蒲団を敷けという意。
一〇 家主。家を貸している人。
一一 母親。
一二 腹腰のいたむ病。婦人病。
一三 喜ぶほどの意。
一四 手落ちはあるまいけれど。
一五 気軽にものの言えぬたち。
一六 単純な。
一七 陽気の替わり目。
一八 心の中で悲しく思う。
一九 宵から眠たがるたち。
二〇 みんながあやしてくれずに。
二一 さしも。さすがに。
二二 旧暦九月十三日の月を十三夜と言い、八月十五日の月を十五夜と言い、十三夜を後の月と言う。十五夜には団子十五に芋を添え十三夜には栗、えだまめを上げる。
二三 十五夜だけに団子を上げて、十三夜に上げぬ事を片月見と言う。十五夜に招き、十三夜に招かぬことも片月見と言う。
二四 行きわたり。つけとどけ。
二五 実家。家里。
二六 本物の襦子でなく、横糸に綿をつかったもの。襦子より悪し。
二七 ゆきかい。
二八 雇いつけの車。自家用。
二九 こうしているのもうわべだけの事という意。
三〇 内職のようなことをしてもの意。
三一 仕送り。貢ぐ。
三二 冗談をまぜる。
三三 一切。まるでなかったこと。
三四 今までたまっていたつらさ。
三五 動かぬ決心をつけての意。
三六 襦袢の袖の模様の墨絵の竹も涙に色が変わりはせぬかと思われる。
三七 邪見、無慈悲。ものを無愛想、乱暴に言うこと。
三八 今の女子学習院。昔貴族の家の娘などの行った学校。
三九 芸者を呼んで遊ぶ。
四〇 よそへ出る時。
四一 ぐずぐずしてはきはきせぬこと。
四二 言い分。自分の言いたいこと。
四三 正月七日まで門に立てる松。
四四 神田区にありし町名。今の千代田区。
四五 二人で一つの羽根を突くこと。羽根はむくの実に五つの鳥の羽根をつけたもの。
四六 落ちたと言ってを詰めて言った言葉。
四七 稽古にもやってないということ。
四八 妾とおなじ。
四九 百万べんも同じ事をいう事。
五〇 人の思う所もくやしく。
五一 馬鹿馬鹿しいと言っては、を詰めて言った言葉。
五二 ひるんでいることはない。
五三 油を絞ると同義。こらしめてやる。
五四 着る衣類。
五五 すまし込んでいる気か。
五六 妾と同じ。
五七 金色をした輪型のもの。丸髷の根にかける。
五八 ちゃんとした髪でなく、ぐるぐる巻にするとか、櫛巻にするとか。
五九 最後の運をとりはずす。
六〇 きりょうよしに生まれた不幸。
六一 勤めに出るのに弁当を持って行く人。
六二 身分の相違。
六三 親の光は七光、それにも増す光。
六四 元の下谷区、今の台東区。
六五 千代田区、元の神田区内。今ニコライ堂のあるあたり。
六六 文京区湯島から池の端の方へ降りる広い道。
六七 車夫を大ぜいおき客の求めにより車を出すところ。
六八 悪く言う。
六九 布切でつくった銭入れ。
七〇 曇った。
十三夜(下)
一 金を増してやること。
二 車屋の提燈は細長くできていて字が書いてある。
三 まぬけになったとの意。
四 今の千代田区、元の神田区内にあり。
五 しなかった。
六 商店の連合組合などで一棟の家屋の中に通路をつけ、各種の商品を陳列して正札をつけ、自由に客を出入りさせて売る所。
七 村田という安宿の家の二階にの意。
八 一日中。
九 さめざめと悲しくの意。
一〇 むやみやたらに。
一一 本朝の美人小野の小町。支那周の代の美女西施。
一二 允恭(いんぎょう)天皇の妃、弟姫。容姿秀麗、光が衣を通したほどの美人。よってこの名がある。
一三 着物の褄下のところを。
一四 縁の有る人。
一五 とうざん織。織物の名。
一六 商家の人は前だれをかけている。膝の前へかけるきれ。
一七 木賃宿。その日その日に宿賃を払う家。
一八 親々と違った異見。
一九 半紙の小型の紙。
二〇 ここでは遠慮する筈なれどとの意。
二一 浅草は東、駿河台は南。
二二 うるしで黒く塗った駒下駄。
わかれ道(上)
一 八丈縞の前だれのこと。
二 古くなった半纏(はんてん)のこと。
三 お初穂とは最初のもののこと。
四 織物の名、より糸で織ったもの。
五 紺の無地木綿のこと。
六 つり銭の上前などを盗むこと。
七 何かあるたびごとに。
八 笹を蔓模様に織り出した錦。
九 親類の一まき。はしくれ。
一〇 角兵衛獅子がかぶって歩く赤い切れについたお獅子。
一一 非人も乞食も同じようなもの。
わかれ道(中)
一 父母の死んだ日に魚など生臭いものを食べぬのを精進日という。
二 おはん長右衛門の物語。おはんは年若く、桂川を渡る時長右衛門の背に負われる。
三 独活の大きくなったのは役に立たぬ。
わかれ道(下)
一 小指の第二の関節が曲がらぬのをまむし指という。
二 目だけ出して頭の全部を包む頭巾。
三 風通織。裏表の模様の色が反対に織れる織物。
四 髪の結い方、主にお妾の結った頭。
五 羽織の前に立襟をつけ、前で合する羽織、主にお妾の着るもの、立派なものには、立襟の上のあたりに飾りの房をつける。
六 家の出入りにはき物をぬぐ所。
七 草履の裏に、木を薄く切ったものをつける。
八 後ろから両腕に相手の肩を抱くこと。
われから(一)
一 部屋の廊下にある出入口。
二 芝公園にあり、貴族趣味の人の行く料理店、多くの女を養いて客席へ出す。
三 越後地方の人はいとゑを間違いて発言す。
四 水曜日に決まった人の集まる会などをいう。
五 共通の目的の人々の集まる会場。
六 遊廓吉原の女どものこと。
七 山梨県郡内地方でできる織物、甲斐絹の一種、上流の家の夜の蒲団等に用う。
八 長煙管の竹を朱色に塗りたるもの。
九 昔の女の高枕の小枕のくくり目につけた房。
一〇 普通の羽織より長目の羽織を言う、だいたい派手なものを用う。
一一 雨戸のしまりの外に開きの口ありてサルにてしまりあり。地震などの用心につかう所。
一二 手燭の先の蝋燭を立てたる辺を紙にておおいたるもの。
われから(二)
一 木綿の一種。
二 勧工場といいたる雑貨店にて買いたるものをいう。
三 筆の名。
四 皿へ桃を盛ったようにコロリとすわった形。
五 籐で編んだ網をかけた火鉢。
六 蕎麦粉を湯にてときたるもの。寒き日などに食う。
七 紙を食う虫。銀のように光った小さな虫。
われから(三)
一 町方。商人などの家の方へ。
二 米の糠を縦二寸横一寸五分ぐらいの金巾または絹のもみなどの袋に入れて口を糸にてくくり、風呂にはいる時、それを湯にひたして顔を洗う。
三 白菊と言う白粉の名。
四 十軒店は日本橋にある人形店の多くある所。
五 新橋は芸者の多くいたところ。芸者に見違えられるという意味。
六 悪口。
七 須彌山(しゅみせん)の略。仏説の世界に於て世界の中心に屹立するという高山。その高さ水をいずること八万由旬(ゆじゅん 一由旬は四〇里とす)また水にいずること八万由旬、横の長さもまた同じ、またこの山を蘇迷盧(そめいろ)という。雪玉集に「富士の根は大かたにやは人のみん此世のうちのそめいろの山」。そのあたりより出たことか。
八 昔は日ごとに使う水を、井戸から水瓶に汲みおく。
九 二月の事をいう。
一〇 台所の明り取りに天井にあけたる窓。紐にてあけたてする。
一一 人力車のこと。
一二 繩の一種、昔折などを縛るに用いたる細き繩。
一三 台所口のこと。
われから(四)
一 楊貴妃は支那玄宗皇帝のもっとも愛したる奥方、才色すぐれた美人。小町は小野の小町、女流歌人、六歌仙の一人、絶世の美人。
二 観光繻子の略。黒繻子の安もの。
三 銀、亜鉛ニッケルの合金。
四 鼈甲の本物。
五 芸者にでも出ていた人ならばという意味。
六 遊廓。
七 豆腐など買いに行くもの、浅くて蓋があり手のついた桶。
八 三等官員以下。
九 一枚しかない着物。
一〇 下駄の畳表のこと、南部はよしとされている。そのにせもの。
一一 今の西郷の銅像よりも上野の山に登りたる所。
一二 昔山谷にありし有名な料理店。
一三 しらける。興がさめる。
われから(五)
一 邸などに奉公する小者などを客にして歩いていたもの。
二 竹の皮に包みたるみやげもの。
三 ちぐはぐになりとの意。
四 昔は自分の家に車夫を雇い切りにして、それに引かせる人力車には、車の後ろの所にその家の紋を金色にて描いてある。りっぱな車という意味。
五 お美尾の病気は病気ではなく、子供のできたことという意味。
われから(六)
一 官に仕える人。役人。
二 母が何と言おうと我々は我々と平気でいること。
三 産婦のために枕を高くすること。
四 自分の生まれた土地の神様、氏神さまも同じ。
五 小野の小町ではないが美しい。
われから(七)
一 西京。京都方面に。
二 斜めの縞を色変わりに染めたもの。
われから(八)
一 子育てのお守。
二 斜手織。絹織もりのの一種。織目が魚の卵.のように粒だっているもの。
三 新内の文句。
四 浄瑠璃、清元は「おかる勘平」、常磐津は「梅川忠兵衛」。
五 忠臣蔵七段目のお軽が二階で酔いをさますように、手すりの所で酔いをさましている。
六 きざなことという意味。
われから(九)
一 きつね格子のなまり。神社の社前などにある、四角に組んだ格子。
二 神社の前にあるあま犬こま犬と二つ並んだ獅子のような石でつくった犬。
三 古びたること。
四 長唄の「勧進帳」。
五 気に入らぬ。しゃくにさわる種。
われから(十)
一 乗地になって。調子に乗って。
二 襟の所を後ろへ突き上げて。
三 心がいらつく。
四 雲にはしごをかけること、春の霞に冬の千鳥をあしらうこと。達しがたき希望をいうたとえ。
われから(十一)
一 煤はきには笹の葉を用いて煤を払う。
二 煤はきの時、ごみになるのではく、藁でつくった草履。
三 手拭のはしをちょっと藍に染めたるもの。
四 唐茄子かぶりの略、頭からすっぽりかぶったもの。
五 吉原かぶりというのは手拭を二つに折りそれをまた二つに折りその折り目を上にして頭にのせる。
六 奥様をぞんざいに言う言葉。
七 「知らぬは亭主ばかりなり」という川柳。
八 束ねて櫛へ巻きたる、髪の結い方、無造作でいきな髪かたち。
九 夏の暑い天気の日に冬物を干すこと。
一〇 鬼のごとき心を持つ人。
われから(十二)
一 播摩太夫。寄席の芸人。
二 梅の花は散って。紫蘇に包まれ梅干になろうとしている。
われから(十三)
一 笑みかたむけて。
二 支那の戦国時代楚の国の憂国家、讒せられて汨羅江に投じたることをいう。
たけくらべ・にごりえ
樋ひ口ぐち一いち葉よう
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平成12年9月15日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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角川文庫『たけくらべ・にごりえ』昭和43年7月30日初版刊行