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別れの十二か月
梅田みか
目 次
一月  積木の部屋
二月  いつもと同じ朝
三月  夜の探険
四月  シーツの間で
五月  スイッチ
六月  サン・バーン
七月  美しい脚
八月  君がいた夏
九月  指輪の行方
十月  プロポーズ
十一月 一週間記念日
十二月 聖 夜
あとがき
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一月 積木の部屋
ダンボールだらけの床を、私はつま先立ちでよろよろと横切る。一晩中テーブルがわりにされていた箱の上には、紙皿やプラスチックのフォーク、パーティー用のカラフルなワイングラスが散乱したままだ。
冷暖房費のかさむ二十畳ほどのワンルームはコの字型に折れていて、ベッドからひとつ目の角を曲がると、絵に描いたようなシステムキッチンにぶつかる。私は貯水型浄水器の蛇口をひねって、たったひとつまだ出したままのグラスに注ぐ。飲み干すのに五秒もかからなかった。
キッチンの脇《わき》のドアが、この部屋で唯一独立しているバスルームだ。小さいが、ビジネスホテルのような圧迫感もなく、何でも必要なものに手の届く機能性がある。いつも膝《ひざ》をかかえてつかっている象牙《ぞうげ》色のバスタブに人肌のお湯をはる。真のリラックスを得るには狭すぎる空間だが、シャワーだけですますよりましだ。ひどい近眼と軽い乱視が交ざった上に寝起きの悪い目をこすりながら、みるみるうちに嵩《かさ》を増していく水流の行方《ゆくえ》をぼんやりと眺めている。
ふだんから物が少ないとはいえ、バスルームから戻った私の部屋は、いつもよりがらんとして見える。昨日昼過ぎから、親しい友人や仕事仲間の好意に甘えて、五人がかりで大方の荷作りを済ませた。
ここ数年、物欲というものがまるでなくなり、三年前この部屋に運び込んだときとダンボールの数も中身もほとんど変わっていない。そもそも、当時二十五歳の収入にしては少々広すぎるこの部屋を選んだのも、住居ぐらいしかお金を使う用途が思いつかなかったからだ。
あの人さえいれば、何もいらなかった。私に必要なのはあの人との空間だけだった。あの人と愛《いと》しいひとときを過ごすためだけの場所として、私はここを選んだ。私自身との釣り合いや住み心地など部屋探しの条件にさえのぼらなかった。
昨夜はそのまま、私の引越し前祝いを兼ねた新年会になだれ込んだ。床には、パーティーの唯一の残骸《ざんがい》として、ボトルに半分ほど残ったヴーヴ・クリコが置いてある。無理にねじ込まれたコルクをはずすと、まだ華やかさの残る香りが立ちのぼる。私はボトルを持ってバスルームに戻り、量も温度もちょうどよく溜《た》まったバスタブに注ぎ込む。
ほんのりとめかしこんだ湯気に包まれて、私は寝間着がわりの綿シャツを脱ぐ。足取|覚束《おぼつか》なくなった四人を送り出したあと、どうやって眠り込んだのか憶《おぼ》えていないが、下着はつけていなかった。洗面台に置き忘れていたバレッタで大ざっぱに髪をまとめ、ざぶんと音を立てて生ぬるい液体に肩をうずめる。
濡《ぬ》れてはりついたページをはがしながら文庫本を読んだり、迎え酒の缶ビールを片手にためいきをついたり、コードレスホンで女友達との長電話につきあったり、いつも私の好き勝手に過ごさせてくれたこのバスタブに浸《つ》かるのもこれで最後だ。もうここに潜って涙を隠す必要もない。私は心おきなく37度の香水にゆったりと身を委《ゆだ》ねた。やわらかに流れていくのは、一日を穏やかな気持ちでおくるための欠かせない時間だ。
バスタブから上がり、アベンヌウォーターのスプレイを顔や全身に吹きつける。肌に残った水滴に乳液をたっぷりとなじませ、顔と首筋をかるくマッサージする。上下ともに面積が非常に少ないごく簡単な下着をつけ、バスルームのドア全面に貼《は》りつけられた鏡の前に立つ。
一年中変わることのない、一日のはじまりの私の儀式である。でも、今日はどこかが違っていた。私は、鏡の中の自分に思わず目を奪われた。顔全体、特に目と肌が違っている。引き締まった輪郭の中の表情は優しさと余裕に満ち、紅潮した肌は朝日を浴びて輝く。そこにびっしりと生えたうぶ毛の一本一本までが、今朝の私を引き立てている。その変化をもたらしているのは私の決意だけだった。
私は一段と青白く澄んだ眼を意識して、唇の両脇の筋肉をほんの少し動かして絶妙の微笑をつくる。頬《ほお》にかかるゆるすぎるウェーブのついた髪が、完璧《かんぺき》な微笑にはかなげな深みを加える。
私は微笑するのをやめ、視線を自分の身体にうつす。このところ心身ともに忙しく、ろくなものを食べていない上、酒量は限界まで増えていたから、体型を維持している自覚はまるでなかったが、こちらもまずまずの出来だった。
もともと太る体質ではなく、必要以上のダイエットをした経験はない。時代劇の桃割髪がよく似合いそうなほっそりした瓜《うり》ざね顔と母から譲り受けた贅肉《ぜいにく》のつかない手足のおかげで、私のことをツィギーみたいな体型だと思っている人も多かった。でも尻《しり》から太腿《ふともも》にかけては体重の増減にかかわらずいつもふっくらとした丸みをたたえている。若い頃は気になって仕方がなかったものだが、二十歳を過ぎて考えが変わった。
私を初めて抱く男たちが、揃《そろ》いも揃って申し合わせたように、そのボリュームある部分を発見した瞬間、感嘆の声をもらすのが私は嬉《うれ》しかった。人の魅力の六〇パーセントくらいは意外性で決まるものなのだ。そして、その声を聞くまでの男とのプロセスが、私は何より好きだった。
あの人も、三年前、私に感嘆の声を上げた一人だった。服の上からでは決してわからない本当の私に、あの人は眩《まぶ》しそうに目を細めた。それから、とても大切なものに触れるようにそっと、左足の甲に口づけた。
私はそのとき、自分がこれまで生きてきたのは、すべてこの瞬間への道のりだったと気付いた。同時に、その幸福を与えてくださったのが神ならば、私は今すぐ天上まで昇っていって感謝のキスを何度もしたいと思った。
それまで月並みに、十代には十代なりの、二十歳になれば二十歳なりの審美眼を持って男性とつきあってきた。が、私にとってあの人は最初の男に違いなかった。一点の曇りもない最愛の相手に抱かれる幸せを、私はあの人に教えてもらった。ただ共に存在しているという事実だけで、私はいつまでも幸福でいられた。あの人と辿《たど》り着いてしまう向こう岸などどこにもないと信じた。
けれど気がつけば、窓の外は雨が降っていた。激しさを増す雨足とともに、互いの心が離れていくのを感じていた。二人の間をつなぎ止めているのは蓮《はす》の糸のようないたわりだけだった。それでも側に居続けたのは、臆病《おくびよう》だからか、愛していたからか、その答えは今でもわからないままだ。
下着姿の上に、ワンサイズ上の501と古着屋で買ったボーダーシャツを着る。例年なら元旦から四、五日の間は仙台の実家で過ごし、今頃|綺麗《きれい》な着物を祖母に着付けられているところだ。私はおせち料理のかわりに、冷蔵庫に今朝の分まできっちり残しておいたトマトジュースの缶詰を開け、大量の胡椒《こしよう》を振り入れる。喉《のど》を通る冷え過ぎたジュースとまだあたたまりきらない部屋の空気に私は身震いした。
あわただしく過ぎた暮れにひきかえ、新しい年を迎えたとたん、時は借りてきた猫のようにおとなしくなる。人々をせっついたりひっかいたり、噛《か》みつくのもやめる。クラスの中でいちばんおっとりした生徒にペースを合わせる社交ダンス教師みたいに、ゆったりと進みはじめる。
一刻も早くこの部屋を出ていきたいという私の急《せ》いた気持ちさえ、カレンダーを境にスローダウンしていくのがわかる。こんなことなら、引越業者の言い分などかまわず、年末のうちに済ませてしまえばよかったと後悔した。考える暇もないままに移された知らない部屋で、膝をかかえて思い切り泣きたかった。
ため息まじりに見回したダンボールのジャングルジムには、意味のあるものは何もなかった。あるのは、私の記憶の中の出来事だけだった。でもその記憶を後ろ向きにたどる水路は残されていないのだ。
ぼんやりと腰かけたベッドの脇に、まだ封のされていないダンボールがいくつか見える。荷作りの途中でガムテープが足りなくなってしまったせいだ。私は座ったまま足を伸ばして、いちばん手前の箱のふたをつま先で押し上げてみた。
かろうじて中身を確認できるところまできて、私は眠っていた猛獣を突ついて起こしてしまったような殺気に足を引込めた。それは私が最後まで、捨てるかどうか迷っていた箱だった。このマンションの一階にあるダスターまで、この箱をかかえて何度往復したか知れない。
私とあの人とのシーンを切りとったフレームを、部屋のいたるところから引き剥《は》がし、ひとつひとつ布や紙で梱包《こんぽう》し箱に詰める。そのときの、自分の身体を端から二センチずつナイフで切りとられていくような生々しい感覚は、今も容易に胸によみがえる。
でもそれを箱ごと、火の中に封印してしまうことは私にはできなかった。私の三年間をそんな子供じみた儀式で終わらせることはしたくなかった。もうすでに全身に転移したガン細胞を、ただ気休めのためだけに一部分切除するような行為はするべきではない。
それならいっそのこと、私はこの痛みと心中する。私のために、そしてあの人のために、ぱっくりと口を開いた傷口から血を流す。いつか痛みを痛みとも感じなくなるそのときまで、私は耐え続ける。
キッチンの引き出しの奥にあったビニールテープで、私はダンボールの口を封じた。転居先でわかりやすいように、ダンボールにはマジックでそれぞれの中身を記してあったが、その箱だけは名前がついていなかった。私は思案した挙句、割れもの、とだけ小さく書いた。
重い箱を力一杯引きずった拍子に、私の足が積み上げられた本をばらばらと倒した。しんと静まりかえった色のない部屋に重量のある音が響いた。私は麻紐《あさひも》をとって、くずれ落ちた本をまとめにかかる。無秩序に散らばった活字の山は、どれも読みかけの本ばかりだ。
中途半端が好きだな。
本を買い込んでは全て少しずつ読みかじって投げ出してしまう私を見て、いつもあの人は言った。そして最後にこの部屋を訪れた夜には、こうつけ加えた。
俺《おれ》との恋愛もそうだった。
冗談まじりの、笑顔に溶けた何気ない言葉だった。でも私にとってそれは、ピリオドの崖《がけ》に突き落とす鋭い刃だった。ぎざぎざした先端を喉元に押しつけられたとき、私に残された道は銃爪《ひきがね》を引くことだけだった。
水面から断崖《だんがい》を見上げ、もう一度死にもの狂いでよじ登れば、そこに新たな世界が開けるかもしれない。唇を紫色にしてぶるぶると肩をふるわせながら、私は何度思い描いたことか。でも、もう戻れないことをいちばんよく知っているのは私自身だった。
ぜんまい仕掛けのアンティークの目覚まし時計が、半分かすれたベルで本来私が起きるはずだった時刻を告げる。そう思うとずいぶん膨大な時間をもてあましてしまうような気がした。私はサイドテーブルにぽつんと残されたスタンドミラーを覗《のぞ》く。
ノーメイクなのに、綺麗だね。
私が憶えている限り、いちばんよく耳にしたあの人の褒《ほ》め言葉だ。朝でも昼でも夜でも、あの人がそう言って目を細めるのはとても機嫌のいい証拠だった。私の顔をなでた、お洒落《しやれ》な外国煙草のような細長い指の感触も、頬や唇が憶えている。
けれど、彼は最後まで、私の化粧っ気のない顔が巧みな薄化粧によるものだと気づかなかった。私は上手なナチュラルメイク、ではなく、まったく化粧をしていないように見える工夫を自分の顔に施していた。
だからそれが、あの人以外の声であったなら、本来私への最高の褒め言葉であるはずだった。でも、それをあの人が言う度に、私は胸の奥に電気が走るようなダメージを受けた。少しずつ、ほんの少しずつ、微笑の下で確実に傷ついていく。
私はベッドサイドのベンデルの化粧ケースを開ける。ミントグリーンのベースクリームを伸ばし、白浮きしない肌と同色のパウダーをはたく。それよりワントーン落としたフェイスパウダーで輪郭を強調する。週に一度形を整える眉《まゆ》はライトブラウンのペンシルで一本一本自然な感じに描き足す。いつも鮮やかすぎて子供っぽく見えがちな唇はベージュ系の口紅で赤みをとる。
これだけの作業をするのに、ほんの五分もかからない。誰だって、十年間来る日も来る日も同じことを欠かさず繰り返していれば上達もするし手際だってよくなる。でも、そんな身体の一部のような手慣れた行為さえ、今日は大役をやりとげるための重要なプロセスだった。
さっきまでよく晴れて、この部屋での最後のひとときにふさわしい黄色がかった日射しが入り込んでいたのに、空はやるせない雲に包まれはじめている。私は自分の気持ちが、天気につられないようにしようと思った。ベランダのガラス戸を開け、白い冬の凜《りん》とした空気を胃のあたりまで入れた。
環状道路沿いに建っているマンションの、私の部屋はちょうど高速道路と同じ高さに位置する四階だ。ふだん夜中まで交通量が激しく、とても窓を開ける気にならないが、さすがに今日は数えられるほどの乗用車ばかりでトラックもタクシーも走っていない。
今度住むところは、今の立地より数段不便で、部屋も三分の二くらいの広さしかない。けれどそのかわり収納が豊富でキッチンも使いやすく、部屋の割に広く陣取った出窓には、淡い色の花を飾るといいだろう。周囲は緑が多く、安心して洗濯物が干せるし、近所には物価の安い商店街や良心的なクリーニング店もある。
クリスマスの翌日、半分仕事納めだった不動産屋で、それも一軒目に探しあてたとは思えないほど、私が住居に求めるものはほとんど揃っていた。そこに欠けているのはあの人だけだった。
部屋の中で、電話が鳴るのが聞こえた。でも、私はあわてて入って受話器をとったりはしない。相手が誰であろうと、応《こた》える必要のないコールだった。今日だけは、すべて予定通りに事を運ばなくてはならない。変更は許されない。
行き場のない電子音はきっかり七回で止んだ。あの人だった。何か急用か他愛ない都合で、私との約束に遅れるという電話だ。でも事前に連絡がつきさえしなければ、あの人は必ずやってくる。見かけほどルーズではなく、情の深さより誠意が勝つ人だ。私の決意を半ば察して、でもまるで気づかないふりで、約束の地に現れる。私は部屋に戻り、壁につながる電話のコードを引き抜いた。
足元のあちこちから、目に止まった不用なものを片づけていきながら、玄関脇のクロゼットに向かう。その中には、ただ一着だけ、別れのための服が残されている。そして丈の合うコートと色うつりのいいスカーフ、それに靴も一足だけ、すでに揃えてあった。
私は棺桶《かんおけ》のような白木の扉を開き、ハンガーごと取り出す。濃紺のサージがつつましい光沢を出している。何の変哲もないワンピースだが、見る人が見ればかなりの時間とお金をかけて求めたものだとわかるはずだ。そのすっきりしたデザインと同じくらい、その服には何の思い入れも思い出もエピソードもなかった。
あの人との最初のデートに着た服、あの人にはじめて似合うと褒められた服、そしてあの人のために選び、あの人の隣にいることを想像して買い求めた服。これらの記憶が縫い込まれた服を身につける気にはならなかった。さんざん考えた末に選ばれたのが、私自身、好きでも何でもないこの服だった。
服の裏地の、冷やりとする感じが肌に快い。昨年か一昨年、クリーニングに出したまま放っておいたにもかかわらず、服はさらさらと私になじんだ。姿見にうつしてみると、以前着たときよりしっくりした印象で、私は鏡の中の自分に意外な好感を持った。けれど、今日限り二度と、この服に手を通すことはないだろう。
昨日買物から帰ったときのままになっているデパートのキャリーバッグから、品のいいグレーのストッキングを取り出す。いつも冬の間はタイツばかりはいていて、薄い絹を傷つけないように用心して足を通すのは久しぶりだった。ストッキングの入っていた袋をキャリーバッグに戻しそれごと捨てようとすると、まだ何か、底に入っている。
私はようやく、ふと目に止まって何気なく買ったレースのカフスのことを思い出した。シャネル以前のような複雑なレース使いと、すがれたオリーヴ色が気に入ったのだ。私は手にとってもう一度眺めてから、ためしに袖口《そでぐち》にあててみる。シンプルすぎる私の服に、そのカフスはぴったりと収まった。
装いの中に、レースを少しでもあしらうということは、女の敬愛の証《あか》しだ。そして同時に、晴れやかな場で威儀を正す気持ちの表れでもある。子供の頃からずっと、レースは女の自己表現の象徴だった。この古き時代の愛情こそ、今の私に必要な小道具だった。
どこまでも続くレースの編目模様のように生涯交じりあっていけるとしたら、それは恋ではなく奇蹟《きせき》だ。人は、いちばん好きな人とは決して結ばれない。私があの人との三年間で学んだ、ただひとつの真実だった。そして私は、あの人への愛しさを抱えたままこの部屋を出ていく。
玄関から振り返った部屋は、私がそこで寝起きしていたとは信じられない他人の顔で見送っていた。そこには私とはるかにかけ離れた空間が拡がっているだけだった。私は冷たいノブをまわして、冬へと歩き出した。
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二月 いつもと同じ朝
まちがいなく今日、二人はいつもとちがう朝を迎えている。それだけで、十分だった。
「お早よう、ございます。」
こんなとき、昨夜の二人きりの時間を顔に出すのは決まって男の方だ。互いの肌をあたためあった男女は、男性側を見ていればわかる。
「お早よう。」
ようするに彼は、ベッドの中からちょうど三時間後、二人が会議室で顔を合わせたりするのは間抜けなことだと思っているのだ。甘美でスリルのある一瞬を楽しめないのは何故《なぜ》だろう。
彼は昨日も着ていたワイシャツに同じネクタイをしている。誰も気にとめていないのは、彼が夜通し仕事をしていて、会社で朝を迎えることがよくあるせいだ。私は開店したてのデパートで試着もせずに買った何の飾り気もないウールのスーツを着ている。大急ぎで服を選ぶときには、どうしても無難な茶系を選んでしまう。
「寝不足ですか?」
彼の席の後ろを通りすぎながら、もちろん彼にだけ言った言葉に、返事をしたのは向かいの席の上司だった。一年中、寝不足なのだ。自分の席について彼の方を見ると、これ以上ないくらいの完璧《かんぺき》な無表情。私がもし、昨日と同じ小花模様のブラウスを着てこの部屋に入ってきたなら、彼はあんな顔をしていられないはずだ。
おそろしくつまらなかった映画の試写会場を出ると、映画と同じくらいひどい北風が吹いている。
「ひどいね。」
彼が言ったのが映画のことなのか北風のことなのかわからなかったが、考えるより先にうなずいた。
「めし、喰《く》うでしょ。」
もしもこのまま帰ったら、私は部屋に入るなり冷蔵庫のものを片っぱしからやけ喰いするに違いない。もちろん、私はまたうなずいた。寒さに勇気を借りて、彼の手を握りしめてしまいたい。私の指が、彼の右手に触れようとした瞬間、その右手はタクシーを拾うために宙に浮いた。
どんな商売でも、二月は一年中でいちばん売り上げが悪い、という定説を証明するかのように、車の窓から見える街はどこもがらんとしていた。タクシーが行先のにぎやかなはずの街に着いても、その様子は変わらない。
「何か、人が少ないね。」
車を降りながら彼が言う。いくらでも交通費が請求できる会社にいながら、タクシーの領収書をもらわない人は大好きだ。
「二月だもん。」
私の唐突な言葉に彼はちょっと目を細めて笑った。もしこの人が悪人だったら、世界中の人が信じられなくなるだろう。そう思ってしまうくらい優しい笑顔。見る度に、なぜ自分がこの人に魅《ひ》かれたのかがわかるような気がする。
「喰えないもん、なかったよね。」
「うん。ミント以外。」
ガムやキャンディ、アイスクリーム、カクテルはもちろん、アイスティーに一枚浮かんだミントの葉だって許さない。
「知ってた。」
彼の言葉を聞いて、私は不覚にも満面の笑みを表情全体に浮かべてしまった。二人で一緒に会社を出てから今まで、いつもは煙草と交互に噛《か》んでいるミントガムを、彼が一つも口にしていないことに気付いてはいたのだ。けれどそれが、ミントの嫌いな私への配慮と考えるのは、あまりに自分本位だった。
「どうして?」
単なる偶然ではなかったのだ。
「え、だって、言ってたでしょ。会議のとき。」
商品開発の企画会議中に、なぜ私の嗜好《しこう》が話題になったのだろう。そんなことがあったような気もするが、脈絡はまるで憶《おぼ》えていない。でもそんなことはどうでもいい。問題は彼が憶えていたという事実。
扉を開けると、そこは静かなジャズの流れる和食の小料理屋だった。
「わ、素敵。」
ちょっと気取った大学生たちがいりびたりそうな、今風の高級居酒屋を予想していた私は思わず声をあげた。二人が通されたのは、明らかにいちばん最初に予約席に選ばれるだろう右奥のテーブル席だった。
「いいだろ、ここ。」
「知らなかった、こんなお店があるの。」
「俺《おれ》も久しぶり。ずいぶん前、よく来たんだ。」
「どのくらい前?」
「うーん……あの木が、まだ俺の背の半分ぐらいしかなくて。」
窓に背を向ける形で座った私は、彼が木にうつした目線に倣《なら》って振りかえった。ガラスの向こうは小さな中庭になっていて、白樫《しらかし》の木が一本、強い風に揺れている。木は、もう彼の背をはるかに越えて、伸び伸びと育っていた。
「そっちに、座っていい?」
「何?」
「となりで、飲んでもいい?」
「ああ……いいよ。」
店内に背を向けて、並んでスツールに座ると、二人だけの世界になる。木と、風と、かすかにガラスに映る私と彼、そして彼の思い出。その中で彼は誰と並んでいるのだろう?
「ねえ。」
私が同じ言葉を言おうとした瞬間、彼の方が口にした。
「今日さあ、何で俺のこと、誘ったんだっけ。」
ずっとあなたが好きだったなんて言えるはずがない。
「映画、好きだって、言ってたから。」
「まあ……そりゃそうだな。」
相撲《すもう》部屋のおかみさんのような下町風美人が注文を取りに来た。全然相談しなかったのに、彼が食べたかったものが私の食べたいものだった。燗《かん》をした日本酒が運ばれてきて、二人は音を立てずに乾杯をした。
「温かいね。」
「おう。」
熱い透明の一口一口が、無口な彼を饒舌《じようぜつ》にしていく。その度に無表情の壁が少しずつ溶けていく。高校時代のラグビーの話、大学で夢中になったサーフィンの話、ヤクルト・スワローズが滅茶苦茶に弱かった頃から日本一になるまでの話。耳を傾けているのは私と、白樫の木だけだ。私はほほえみ、木は風に揺れていた。
いくつかの要素が重なり合って、実際以上に美味だった酒と肴《さかな》を堪能《たんのう》した後、彼は私に何の断わりもなく、茶そばを二人前注文した。私が意見しようとするのを彼がさえぎる。
「ここのそば、美味《うま》いから。それに、酒のあとは胃の足しになるもんを喰ってやらないと。」
「はい。」
本当は、飲んでから食べるのは苦手なのだが、私は素直に返事をしてしまう。彼はいつも、飲んだあとに何かしら主食となるものを食べるのが習慣だった。
「もう少し、食べる癖つけた方がいいよ。やせてるもんなあ。」
彼とは年齢がいくらもかわらないのに、今夜はずっと年上みたいだ。言葉通り美味《おい》しかったそばを食べ終え、彼が先に立ち上がった。おかみさんに御馳走様《ごちそうさま》を言い、きっと一生忘れられない場所になるだろう、と私は、白樫の木を振り返った。店の扉がきちんと閉められるのを待ってから、彼にあらためて礼を言う。
「寒い。」
ほどよい酒気が一遍に吹きとぶような冷たい空気に、私は思わず胸元を押さえた。でも、衿《えり》ぐりの大きく開いたコートと透かしの多く入った織りのショールでは太刀打ちできそうもない。
「これ、貸してやろうか。」
彼がスーツの上に着たステンカラーコートの前たてをつまんで言う。どんな人気俳優が演じても浮いてしまいそうなシーンだが、彼は誰にも負けないはまり役だ。
「だって、寒くないの?」
彼はさっさとコートを脱いで、私の肩にかける。かすかだが、ラルフローレンのコロンの匂《にお》いがする。私はコートのすそが地面についてしまわないことを願った。
「男の着るものって、シャツやネクタイでぴっちりガードされてるから、こういう日は強いんだ。」
大きな交差点につながる通りに入っても、依然人影はほとんどない。
「二人でつまらない映画を見てる間に。」
試写会場を出てから、二人とも今夜の映画については口をつぐんできたのに、彼の方からついに本音を言ったので私は声を上げて笑った。
「戒厳令でも出たんじゃないか?」
私は笑うのを止めた。
「本当に、そうだったら、いいな。」
私の言葉が、北風に消されて彼に届かなければいいと思った。十歩ほど進んで、おそるおそる顔を上げると、彼は私を見下ろして唇のはしをちょっと上げて見せた。ほほえみというには頼りないが、無表情でないことは確かだった。
数秒後、私は先程未遂に終わった彼の手を握りしめるという行為を難なく成功させていた。その瞬間、これまで塞《せ》き止められてきた感情の川が、風の力を借りて流れ出す。私は精一杯背伸びをして、彼の唇を奪った。ちょうど、防衛庁の門の前だった。
「ばあか。」
彼は少年の笑みを思い出している。私も、少女の頃のように笑った。
「どっか、行くか。」
「うん。」
私は生まれてから一度も不幸な目になどあったことのない少女の顔でうなずいた。
冬の午前らしい、今にも結晶になりそうな冷たい空気の中、私は気分がすぐれないでいる。二度目のデートを、理由は何であれ直前になって中止されたりすれば、誰だって悲しい一夜を過ごす。早く着きすぎて、まだ三人しかいない会議室に、彼が入ってくる。
「若林くん。君、意外だなあ。」
朝の挨拶《あいさつ》も抜きに、上座の部長が言う。
「何がです?」
彼より早く、ゴルフ焼けが肌に沈着しきった顔に私がたずねる。
「いやね、日曜日、ゴルフのあと一緒に風呂に入ってね。彼、顔に似合わず胸毛があるんだよ。」
私はほほえみそうになるのを適度にこらえ、少々の驚きをブレンドして表情をつくる。この部屋で、その小さな秘密を知っていたのは私だけなのだ。もちろん、その胸に顔をうずめたのも私だけ。えも言われぬ優越感に、私の機嫌はすっかり元に戻った。
その場がほかの話題と興味に移行するのを待って、そっと彼の顔をのぞくと、遠い目をした無表情が見える。私は一週間前の感触を思い出して、そっと唇をなめた。
店の後ろの方で高らかな笑い声が起こるのを聞いて、私達は会話を中断した。彼はほんの少し首を動かして後方をうかがったが別に何も言わない。私はちょうどなくなった白のグラスワインをもう一杯頼む。
「どうした。疲れてんのか。」
どんなに巧妙に欠伸《あくび》をかみ殺しても、お互いにしか関心を向けていない同士なら、小鼻のかんじでわかる。
「うん、この頃、何か忙しくて。夜、よく眠れないの。」
彼は何度かうなずいて、クラッシュアイスに注がれたブランデーを飲み干す。食後酒には必ずこれを飲む。
「最近は、女の子も企画書地獄だからな。でも、眠れないのはつらいね。」
さっき笑い声で会話をとぎれさせた一行が帰っていく。誰が誰だかわからないお揃《そろ》いのような服を着て、まだ笑っている。
「やっと眠っても、二時間ぐらいで起きちゃって、一度起きちゃうと目が冴《さ》えて眠れないの。」
「ああ。俺もあったなあ、そういうの。」
私は一度だけ眺めた彼の優しい寝顔を瞳《ひとみ》にうかべた。
「うん。ちょうど、同じ年齢ぐらいの頃。会社入って、三、四年目。」
さっきの女性グループとすれ違いに、今度はスーツがお揃いのサラリーマンが同じ人数入ってくる。今夜はどうやらついていないらしい。
「ちょうど、変わり目なんだよ。責任ある仕事が増えてきて、もう勉強では済まされなくなる。下に新人も何人かついて、もう若いからって許されなくなる。」
「そうだね。二十五歳は仕事の曲がり角。」
私の言葉に、彼は笑った。
「でもそんなに眠れないと、肌も曲がり角になるよ。」
彼が私の顔を見る。会社を出るときにきちんと化粧を直してきたかどうかを思い出すまで気が気ではなかった。私は左の頬《ほお》に手をやって、すべすべとしたいつもの感触を指の腹で確かめる。
「大丈夫よ。」
カウンターの下で、彼の手を握りしめた。そして、かすかだが握り返してくれるのを感じる。
「また、いっしょに眠りたいな。」
彼が後ろの席に陣取ったサラリーマンの笑い声に気を取られた隙《すき》に、私はつぶやいた。彼が聞こえないふりをしているのか、何も答えないでいるのか、わからないまま数秒が過ぎる。
「何で、こんな話になっちゃったのかな。さっきまで、仕事の話、してたのに。」
「疲れてるのかって、聞くから。」
「そっか。俺か……。」
彼はクラッシュアイスを何個か口に入れて噛《か》んでいる。
「何で、俺なの。」
私は少しぬるくなってきた白ワインを飲む。一口にしては多すぎる量だった。喉《のど》いっぱいにブドウの酸味が広がるが、顔には出さない。
「岡崎とか、高木とかと、どこが違うの。」
彼は彼の同僚で、私とも飲み友達の男性社員の名前を次々に口にする。
「どこもかしこも違うわ。」
早くグラスを空にしてこの店を出たいのに、彼はまたお替わりを注文している。
「普通に、話せなくなったりするの、いやなんだ。」
あの夜以来、彼と社内で話す機会が減っているのは確かだった。それが特に気まずい雰囲気でないかぎり、つとめて意識しないようにしてきた。
「ああいうふうになると、いろいろ不自由なことが増えてくるもんだ。」
私は白ワインのグラスをあけ、もうちっとも飲みたくないのに同じものを頼む。
「そんなの、なってみなきゃわからないじゃない。」
いっそのこと、後ろの席の何の意味もない噂《うわさ》 話《ばなし》に交じっている方がましだ。
「だから、あえてはじめることはないと思うんだよ。」
「じゃあ。」
私は彼に対して、この二週間抱き続けてきた不安を口にしようとしている。
「私と、そうならなければよかったと思うの?」
彼は細かい氷にひたひたと拡がる茶色い液体を一気に半分ぐらいまで飲んだ。
「ああ。少し、そう思う。」
彼の言葉は容赦なく私を打ちのめした。涙腺《るいせん》の途中まで涙があがっていくのを感じて、唇の内側を痛いほど噛んだ。彼はちらりと私の表情をうかがい、また酒を飲んだ。
「仕事はもちろん認めているし、話をしたり、飲んだりするのも楽しい。そういうことが普通にできなくなるんだ。うまくできる奴《やつ》も沢山いるけど、俺の性格なんだ。」
一人で立ち上がって帰ってしまったりするのが格好悪いことはわかっている。けれど、あとグラス一杯分この片明りの席に座っていたら、自尊心を保ちつづけるのは不可能だった。半ば予想できた結末にもかかわらず、私の心はひどく動揺し、脈拍がこめかみにひびく。
「ごめんよ。」
私はかろうじて笑顔らしきものをつくり、首を横に振る。
「もう、出る、ここ。」
声がふるえないように気をつけたが、うまくいったかどうか自信はない。私が先に立つと、すぐに彼も立った。私は先に歩いて、預けてあったコートを自分で着る。
このまま、にっこり笑って今夜の礼を言い、別れの挨拶ができるほど落ち着いていられたらどんなに楽だろう。けれど、彼への思いを、たった一夜の幸福感で埋めつくすのは、私には荷が重すぎた。
「ごめんなさい。」
道を歩いていていきなり泣き出してしまうなんて、ただの感情の起伏が激しい女のようでいやなのだ。でも、もう睫毛《まつげ》にたまりはじめた涙で目の前がよく見えない。
「俺が悪いんだよ。」
今すぐそばに来て、抱きしめてくれないなら、どんな心を込めた言葉もいらない。
「私が、何か迷惑をかけたの。」
「かけてないよ。これから、俺がかけそうだから。」
彼が、仕事でも、恋愛でも、人に迷惑なんかかけるはずがない。もう返す言葉が見つからなかった。涙が止まらない私は、人通りの少ない街と季節に深く感謝した。
「車に乗ろう。とりあえず、帰ろう。」
もはや声をあげないで泣くのが精一杯の私の肩に彼の手が触れる。顔を上げると、涙のフィルターを通して、彼の無表情が見える。私にもこういう表情ができればいいのに、と思った。
「祐天寺《ゆうてんじ》経由、荻窪《おぎくぼ》。」
タクシーに乗ると、もう涙は出なかった。
「祐天寺は、どのへんですか。」
運転手が前方を見据えたまま聞く。彼が私を見る。私は何も答えない。彼は一度送って行っただけで家の場所を覚えてしまうような人ではないらしい。彼を困らせたいのではなく、ただもう一度だけ、キスをしたかった。でも、彼はほんの少し眉《まゆ》をひそめて、ただ前を見つめている。
「左に、寄せて下さい。次の信号で、一人降ります。」
彼が私を見ている。けれど、表情が変わっていないのもわかる。
「帰らないの。」
「もう少し、飲んでくから。」
「帰った方が、いいと思うよ。」
車は車線を変更し、スローダウンする。
「もっと、いい酒を飲めよ。そんなの、似合わないよ。」
「酒にいいも悪いもないわ。飲みたいから飲むだけ。」
私の声は自分でも驚くほど澄んでいて、言葉も歯切れがよかった。
「お世話様。」
彼にさよならを言いたくなくて、私は運転手に向かってだけ言葉をかけた。ドアが閉まるとすぐに信号が変わって、彼の乗った車が発進する音が聞こえる。追いかけてくれないのが嬉《うれ》しかった。
あの夜と同じ北風が私の首筋を襲った。さっきの店に、スカーフを忘れてきたことに気付く。もしあったとしても、私の寒さには何の役にも立たない。
あてもなく、ただ佇《たたず》んでいるわけにもいかず歩いていくと、ビルの地下にバーの看板が明りを灯《とも》していた。私は迷わず地下に続く階段を降りた。洒落《しやれ》たつくりのドアを開けると、客は一人もなく、初老のバーテンダーがカットグラスを磨いている。
「一杯だけ、いいですか。」
ひょっとするともう閉店時間かと気遣うと、バーテンダーはにこやかに私を迎えた。時計を見れば、まだ十二時前だった。酒を注文し、コートを脱ごうか迷ったがそのままで座る。間もなく運ばれてきたグラスを手に取ると、クラッシュアイスの中にあの人があふれていた。
エレベーターが開き、会議室に向かう廊下を歩いていると、彼が反対側の階段を上がってくる。私は自分の目が腫《は》れているのを悟られないことを祈った。
「おう。」
昨夜の涙が、彼に会えた喜びにやわらげられていく。私は手を少しだけ振った。
「お早よう。」
「悪かったな、昨日。」
会議室のドアをはさんで一メートル手前の彼が言う。
「少しは悪いと思ってるの?」
私が笑うと、彼がまぶしそうな笑顔になる。今の私には、この笑った顔より大切なものなど何もないような気がした。
「かなり。」
次の言葉が聞きたいのに、私は会議室のドアを開けてしまう。すでに十数人のメンバーがほぼ顔を揃えている。私の感情ぐらいでこわしたりしてはいけない朝の、風景。
「お早ようございます。」
午前中の真新しい日射しの中で、白い風が吹いていた。
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三月 夜の探険
明彦の母親に会うのは確か四度目だが、これまではニューグランドかどこかのラウンジでお茶を飲むのが普通だった。外人墓地のすぐ脇《わき》にある明彦の家に来たのは初めてのことだ。
「さあ、お上りになって、依子さん。」
セミロングの髪を大きなウェーブでまとめ、生え際までスプレイでかっちり仕上げてある。ちょうど白髪染めのコマーシャルに出てくる女優みたいに見える。注意して見ないかぎり、年齢よりはるかに若々しく、美人だ。
門からかなり急な段差をいくつも上がっていくと、玄関の重厚な木の扉から明彦が顔を出す。外で会うときよりさらに無邪気な笑顔を見て、依子は少し腹が立った。
三日前、明彦は急に、自分のメタリックブルーのポルシェを黒に塗りかえたいと言ってメーカーに出してしまった。彼のばかばかしい気まぐれのおかげで、当然来るはずの迎えの車がなかったのだ。駅まで迎えに行くと言った明彦を断わって、雪《ゆき》ケ谷《や》の自宅からタクシーで来たのだが、やっぱり父親のベンツでもいいから乗せてきてもらえばよかった。
「主人も楽しみにしていますの。朝からゴルフに出かけてしまって、じきに戻りますから、夕食はご一緒できますわ。」
表情はにこやかだが、笑いじわを気にして顔の上半分をあまり動かさない。一滴何千円もする美容液や化粧品、エステティック、この女の顔には年間いくらかかっているのだろう。
一人暮らしの学生が充分生活できそうなくらい広々とした玄関には、一体何人の人がこの家に住んでいるんだろうと思うほどの靴が並んでいる。サイズも形も色とりどりにずらりと揃《そろ》った中には、まるで同じ靴も二、三足あった。
今年最初に袖《そで》を通した春物のサックスブルーのスーツに合わせた淡い発色のパンプスを、依子は靴の列の一番はしに脱いだ。明彦のものらしい大きな男物のスリッパが乱雑に脱ぎ捨てられているのを見て、少しほっとした気持ちになる。
応接間に通されるとすぐ、メイドが香りのよい中国茶を運んでくる。依子は、手《て》土産《みやげ》に持ってきたステットラーのチョコレートの箱を渡す。彼女は男好きのする幸薄い顔立ちで、にやにやと明彦の様子をうかがいながら部屋を出ていく。明彦はあわてて、春休みのフットボール部の練習がいかに大変かを話しはじめる。
「来月から四年だからさ、ほとんど活動できなくなるだろ。実質的には最後の強化練なんだ。」
明彦はマジョリカ焼きの上品なカップに注がれたお茶を一口飲んだ。
「でも、三月も末になれば、依子とドライブに行く暇ぐらいあるぜ。」
身体がすっぽり埋まってしまいそうなマレンコのソファに腰かけて、依子もお茶を飲んでみる。茉莉花茶《ジヤスミンちや》の香りがする。
「どこへ行きたい?」
「別に、どこでも。」
「山梨の≪翁《おきな》≫にそば喰《く》いに行ってもいいし、下田《しもだ》でうまい魚で飲むか、あ、ちょっと遠出して、越後湯沢《えちごゆざわ》のクアハウスに焼きにいくっていうのは?」
興味なさそうに首を傾げる依子の隣で、明彦が得意気に話し出す。パイプオルガンみたいに大きな柱時計が神経質な機械音をたてて五時を告げた。
「そのクアハウス、すごい新兵器があるんだ。誰にも言うなよ。」
別に誰も興味を持っていないのに、明彦が本気で不安そうに声をひそめるので依子はうなずいた。
「普通の日焼けサロンとちがって、せまいカプセルなんか入んなくていいんだ。サウナみたいな部屋で、専用のオイルを塗って焼くと、二十分で小麦色。」
依子が閉所恐怖症で、日焼けサロンに一緒に行けないのを明彦はいつも残念がっていたのだ。
「行ったこと、あるの?」
依子がたずねると明彦は首を横に振り、でも信用のおける奴《やつ》から紹介のカードをもらったから安心だという。その信用のおける奴が誰なのか聞くと、依子が会ったことのないモデルの友達の名前をもごもごと口にした。
「黒くなりたいだろ?」
「来月の半ばになれば、海で焼けるじゃない。」
「だから、先がけて下地をつくるんだよ。最近は紫外線もけっこうヤバいからな。」
明彦はリブ編みの白いコットンセーターの袖をまくりあげて、ほどよい筋肉がはりついた腕をながめる。昨年の暮れに、二人でハワイに出かけたときの日焼けが、まだ少し残っている。
「黒くなりたいよな。」
明彦がしみじみと言う。依子も何の意味もなく幾度かうなずいた。灰皿が見当らず煙草を吸ってもいいかと聞くと、お袋が禁煙中だから目の前では吸わないでくれと言う。明彦は灰皿をとりにいったついでに、飾り棚の横の空気清浄器のスイッチを入れてきた。掃除機が吸い込むような音がうるさくて全然吸った気がしない。
先程のメイドがお茶を下げにきた。依子が小声でビールが飲みたいと言うと、明彦は瓶入りのバドワイザーを二本持ってくるように頼む。依子からは見えない側の目でウィンクしたような気がする。
衛星放送でタヒチかパラオで撮影したらしい環境ビデオを見ながら三本目のビールを飲んでいると玄関のチャイムが鳴った。家族揃っての、夕食の時間だ。
「大学の方はどうだね?」
依子のグラスに赤ワインを注ぎながら明彦の父親が訊《たず》ねる。今年の正月、フロリダで植毛手術を受けてきたばかりで、シルバーグレイの髪がふさふさしている。
「順調です。」
あとお皿一枚分も余地がないくらいぎっしりと並んだ料理をながめながら、依子は答えた。長方形の六人がけの食卓に、依子は明彦と並んで座り、仲むつまじい夫婦と向かいあっている。
「明彦は学校でちゃんとやっていますか。」
依子は瞳《ひとみ》の隅に明彦を写してから微笑し、ええ、とうなずく。自慢の息子は心配しなくてもフットボール部の花形スターだ。ノートの集まりもいいし、カンニングの技術は大したものだから、留年することはまずないだろう。親父《おやじ》さんは満足そうに赤ワインを飲んでいる。
「そうだ、明彦から聞いたんだが、依子さんは今年のカレッジカレンダーのモデルになっているそうだね。」
親父さんが目を細めて依子を見る。顔や、がっしりした体格も似ているが、中身まで似たもの親子だ。依子がカレッジカレンダーのモデルに決まったときの明彦の喜びようといったらなかった。友達に彼女を紹介するときの、実にわかりやすい肩書きがついたのだ。
「まあ、素晴らしいじゃないの。」
お袋さんもにこにこしている。
「それで、何月のモデルなの?」
「今月のです。」
「あら。」
お袋さんの目が一瞬くもる。
「三月って……少し、中途半端よねえ? 五月か、そうでなかったら八月ならよかったのに。」
明彦が吹き出したのに、お袋さんはためいきをついて何度もうなずいている。依子は黙って、カットグラスの大きなボウルに盛られたアンティチョークとセロリのサラダを取り分ける。
サラダには、手づくりらしいフレンチドレッシングとは別に、カロリーハーフのマヨネーズが添えられている。依子がドレッシングの方に手を伸ばしかけたとたん、家族全員が口々に、最近のカロリーカットのバターやマヨネーズは普通のものとほとんど味が変わらない、と言い出したのであわてて同意する。
けれど、本物との違いは明らかだ。本物とニセモノほど、似て非なるものはない。この家の人は全員、マヨネーズメーカーと親しい関係にあるか、コカコーラとダイエットコークの区別もつかない味覚の持ち主か、のどちらかだ。
「フレンチ・ポテト、もっと召しあがる?」
明彦から、依子の大好物だと聞いていたにちがいない。その日の上品なディナーメニューに、どう考えてもフライドポテトの器だけが浮いている。何気なく明彦に目をやると機嫌よく笑っていたので依子も笑顔でポテトを断わった。
「いかがです?」
向かいの席にポテトの山を向けると、親父さんは両手を肩の高さまで上げて降参のポーズをとる。
「栄養士に止められているんだよ。特に油で揚げたものはね。それから肉と、甘い物だ。」
親父さんはさして美味《うま》くなさそうに|魴※[#「魚+弗」、unicode9b84]《ほうぼう》のグリルをフォークでつついている。まだ明彦とつきあい出してまもなく、親父さんの会社の近くで三人でランチをとったときは、五〇〇グラムのサーロインステーキだった。確か、デザートに出た巨大なチョコレートムースまでたいらげていたはずだ。
テーブルナプキン越しにも見てとれる腹の贅肉《ぜいにく》を、依子はながめた。明彦もいずれ、同じ道をたどるのだろうか。親父さんのグラスが空になったので、依子は左手を伸ばしてワインのボトルをとった。お袋さんが、今目が覚めたようにあたりを見まわしている。
依子の注いだワインのボトルは、グラスの三分の二ほどで空になった。依子が口にするまでもなく、メイドがすぐに別のボトルを持ってきた。結局、何も終わらない。依子は、決定的なエンドマークなどどこにも存在しないような気がしている。
「そういえば。」
親父さんが口をぬぐうと、ナプキンにバターソースと赤ワインのあとがべっとりつく。
「依子さんのお父さんにお会いしたよ。ええと、あれはどこかの映画会社のパーティーかな。」
二人して、週に二度も三度もパーティーに出席していれば、どこかで顔を合わせても不思議はない。むしろ、はちあわせしない方がおかしいくらいだ。
「それで、話していたんだが、やっぱり卒業と同時に結婚、というのが一番自然なんではないかとね。」
依子はデザートがわりに出されたチーズの中から青カビのを選んでとった。明彦はまだレバパテをバケットにつけて食べている。
「婚約したのが二年のときだからねえ、それを考えると遅いようだが、学生結婚というのは問題が多いものだ。」
「ええ、そう思います。」
大学一年の終わり頃、すぐにでも結婚させなければ家出すると騒いで、双方の親のアメリカンエクスプレスで都内のシティホテルを転々とした。着替えなど持ち出す気もなく、毎日買ったばかりの服と靴で過ごした。どちらのゴールドカードも止められることはなかった。二週間ほど経つと、身のまわりの荷物が増えすぎて、ホテル暮らしをするのも面倒になった。二人は何事もなかったようにそれぞれの家に戻った。
一か月後、外苑前《がいえんまえ》の料亭で結納《ゆいのう》がかわされた。もともと二人の結婚には何の支障もなかった。強いて言えばいくらか時期が早すぎることぐらいで、お互いにこれ以上ない相手と恋をしたことに変わりはなかった。
「豪華な結婚式をやりましょう。」
しばらく前から何も食べずにグレープフルーツジュースのペリエ割りを飲んでいたお袋さんが急に口をはさんだ。左手の筋ばった小指からこぼれ落ちそうに大きなエメラルドが黒光りしている。なぜ薬指にしないのだろう。依子は自分の左薬指のルビーとダイヤの婚約指輪に目を落とす。
「そうだわ、卒業式の謝恩会の翌日に、同じ会場で式を挙げるというのはどう? 招待客を前の日よりたくさん招《よ》んで。」
「そりゃあいいかもしれないね。」
そう言ったのが明彦かと思って依子は一瞬ぎくっとした。声の主はもちろん親父さんの方だった。明彦はフライドポテトをつまんだ指についたケチャップをいつまでもしゃぶっていた。
その夜、もちろん明彦の隣ではなく、壁を隔てたゲストルームで、依子はなかなか寝つけなかった。普段なら、本を読むか、寝酒がわりにバーボンでも飲むか、というところだが、あいにく今夜は他人の家だった。時計を見るともう二時を過ぎている。
床暖房のきいた部屋を一歩出たところで、あまりの寒さに依子は立ち止まった。暦は春でも、真夜中の春はまだ遠いらしい。お袋さんがわざわざ代官山《だいかんやま》のキッドブルーまで出かけて買ってきたというグレーと白のストライプのパジャマの上に、階段の手すりにあった明彦のトレーナーを着る。
ふたまわりほどだぶだぶの、それもUNIVERSITE PARIS SORBONNE≠ニでかでかとロゴの入ったトレーナーを着ると、パジャマパーティーをしてうかれている無自覚な女子高生になったような気分だ。
足音をまるで立てない猫のような足どりで階段を降りると、一方の壁には大きな絵がかかり、あとの三方はすべて同じ形のドアだった。どのドアがどの部屋に続いているのか依子には見当もつかない。常夜灯のひとつもなく、ドアや額縁がぼんやり見えるのがやっとだ。
二階にバスルームもキッチンもあるから夜中に突然シャワーを浴びたくなったり、お腹がすいて夜食をつくりたくなっても大丈夫なのよ、というお袋さんの言葉を依子は思い出していた。引き返すのもくやしいような気がして、依子は三つのドアをすべて開けてみることにした。はじめの二つは音も立てずに開いたが、一番奥のドアには鍵《かぎ》がかかっている。
なぜ、一つの部屋だけ鍵がかかっているのだろう。住んでいる人は皆二階に上がったのだから、誰かが眠っているわけではない。そもそも、誰も降りてこないはずの夜中に、鍵をかける必要のある部屋などあるのだろうか。
それとも、誰か、依子の目には触れなかった誰かが眠っているのだろうか。住み込みのメイドか、どこからかあずかっているホームステイの留学生か、そうでなければ、依子には死んだと言っていたおじいさんが実は生きていて、この部屋で生活しているとか。
そもそも、この部屋はいつも鍵がかかっているのではなく、今夜だけ、依子がいるために鍵をかける必要があったのかもしれない。今、こうして依子が階段を降りることもちゃんと予測していたとしたら。
依子は開かないドアをあきらめて、半開きになった二つのドアの中身にとりかかる。視力のいい依子の眼が闇《やみ》に慣れて、先程の絵がパステル調のシャガールであることを判断できるようになるのに三分とかからなかった。
左側のドアの向こうは、明彦の父親の書斎だった。角にはクラシックなつくりの木のデスクがあり、壁につくりつけた本棚には様々な国の言葉の本がぎっしり詰まっている。何の会社の社長なのか詳しく知らないので、並んでいる本の脈絡も見当がつかないが、たぶんこの部屋にある本の三分の一も読んでいないはずだ。
ドアを閉めようとしたとき、依子はデスクの脇にあるサイドワゴンに置かれた葉巻の箱に目を止めた。無類の煙草好きである父のおかげで、大抵の葉巻やパイプ煙草は吸ったことがあった依子も見たことのない銘柄だった。依子はもう一度部屋に入り、一本失敬することにした。
葉巻の箱を開けると、やはり嗅《か》いだことのない匂《にお》いが依子を誘った。葉巻が三本しか減っていないので少し気が引けたが、上段の一本を手にとった。すると、葉巻が並んでいるはずの二段目に焦茶色の列はなく、かわりに何か白いものが見える。隣の葉巻をもう一本はずすと、それは触れて確かめるまでもなく、コンドームだった。
依子は葉巻をすべて元通りに戻し、箱のふたをぱちんと音がするまで閉めた。どうして書斎にコンドームを隠す必要があるのだろう。どう考えてもベッドサイドか、少なくとも寝室のどこかに置いた方が便利だ。それとも、明彦の父親は書斎でセックスする趣味でもあるのだろうか。または、母親以外の女性と、ベッドルームに行く暇もなくはじまってしまうときのためなのか。どちらにしろ、コンドームと一緒の箱に入った煙草を吸う気にはなれない。
もうひとつのドアは、今夜夕食をとった食堂につながるキッチンだった。台所はすっかり片付けられていて、今夜使った皿やグラスも、きちんと所定の場所に置かれている。よく使い込んだオールドファッションのシステムキッチンの手前には、大男が一人らくらく出入りできるようなワインレッドの冷蔵庫が大きく場所をとっている。
依子は少し迷ってから、その重い両開きのドアを開けた。しばらく何の明りもない場所にいた依子の眼には、冷蔵庫の中のみかん色の明りがまぶしい。その白いスペース中にところせましと並んだ食糧の多さには少々驚いたが、明彦の体格の良さを考えれば納得できる。依子が予想も想像もつかなかったのは、上段の中央に置かれたフライドポテトの皿だった。
冷めたフライドポテトほどまずいものはない。こんな明白な事実は小学生でも知っている。フライドポテトが余ったからといって、冷蔵庫で保存する人がどこにいるだろう。育ち盛りの子供を何人もかかえた中流家庭ならまだしも、明彦の家で、冷えきったフライドポテトを捨てない理由があるだろうか。
答えはひとつしかない。依子に見せるためだ。今夜依子がこうして冷蔵庫を見に来なければ、明日の朝食で出すつもりかもしれない。もちろんハッシュドブランか何かに姿を変えて、もっともらしく依子に食べさせるのだ。
依子は一番下の段にあった缶ビールを一本取り出して、一気に半分ぐらい飲んだ。冷蔵庫を閉めると、あたりはまた元の闇に逆戻りした。依子は缶ビールを持ったまま、足音を気にすることもなく階段を上がった。
依子はゲストルームを通り越して、明彦の部屋のドアを開けた。部屋に入ると、床には親父さんがトルコで買ってきた大きなキリムが敷かれている。勉強机の椅子《いす》には服の山ができていて座れる状態ではない。壁のほとんどを高級オーディオセットが占領し、ブルース・スプリングスティーンの白黒の大きなポスターが貼《は》りついている。
窓際のセミダブルのベッドに、明彦が大きな身体を胎児のように丸めて寝息を立てている。ベッドの頭上のコルクボードに、昨年のクリスマスパーティーやハワイ旅行の写真が画鋲《がびよう》で止めてある。依子のべろべろに酔った写真や、セミヌードもあった。依子は明彦のトレーナーを脱ぎ、服の山の一番上に積んで部屋を出た。
ゲストルームのやわらかすぎるベッドに横たわり、依子はしみひとつないグレーの天井を見上げる。クモの巣のような幾何学模様がだんだん立体的に浮き上がり、依子は恐くなって目をつぶった。眠りに落ちる前に、明彦を好きになった理由をひとつでも思い出そうとしたが、何も浮かんでこなかった。
翌朝、依子は咳《せ》き込んで目覚めた。もともと身体が弱く、虚弱体質なせいか、他人の家に泊まると、必ずといっていいほど身体の調子がおかしくなる。その家が清潔であろうがなかろうが、自分の家とは空気やほこりが全く違うのだ。そのため依子は以前から外泊を極端に嫌い、それが今日まで明彦の家への訪問を遅らせてきた理由になっていた。
簡単に身づくろいをして、同じ階のバスルームに向かう途中でお袋さんに出くわした。
「よく眠れまして?」
昨日と寸分違わぬ髪と化粧でほほえむお袋さんに依子はお早ようございます、とだけ言ってバスルームへ急いだ。
洗面台の石けん箱の陰に、依子が明彦に結納がえしに贈ったブルガリの腕時計が置き忘れられているのが見える。依子は時計を手にとって、かわりに自分のルビーのリングを置いた。
こんなささやかな抵抗さえ、何日も発見されないにちがいない。たとえ発覚したとしても、朝食を終える頃には何もかもが元通りだ。依子は急に軽くなった左手を窓にかざした。指輪の幅だけ細くなった薬指が、朝の光に白く映えていた。
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四月 シーツの間で
「あなたはお忘れかもしれないけど。」
「そんな言い方はよせよ。陰険なときの君は嫌いだ。」
「結婚できるめどのない人とはこれ以上つきあえないって、二年前に言ったはずよ。」
「ああ。覚えてるよ。」
「そのときあなた、何て言ったと思うの。」
「君の三十歳の誕生日までに妻に話す。」
「それで? 現実はどうだったのかしら。」
「君は今日、三十一歳になった。」
今日が沙織の誕生日だからこそ、貴之はわざわざ出張を日帰りに切り上げたのだ。普段は沙織の部屋で過ごす夜も、こうして横浜のホテルに場所を移した。
「そのとおりよ。」
貴之が贈ったばかりのダイヤのピアスは、沙織の耳たぶではなく、ガラスのサイドテーブルの上にある。貴之が軽い気持ちで、何か誕生石のアクセサリーでも、と思ったのが甘かった。四月の誕生石がダイヤモンドであったことも、ダイヤという石が女にとっては結婚と密接に結びついたイメージであることも計算違いだった。
「何度同じことを繰り返したら気がすむのよ。一度目の約束は、つきあいはじめて一周年記念日まで。二回目はあなたが三十五歳になるまでに。そして今度は私が三十歳になるまでに。」
きっと会社の同僚にも同じような早い口調でこのセリフを愚痴っているのだろう。
「あなた、私のこと馬鹿だとでも思っているの。」
確かにそういうところはあったが、沙織に関しては、女は少々馬鹿な方が可愛《かわい》い、という程度だ。
「とんでもない。君は俺《おれ》が知り合った女性のなかで、数少ない聡明《そうめい》な女性だよ。」
それを聞いて沙織は、この口論がはじまってからはじめて笑顔を見せた。数あるほめ言葉の中で、頭がいいといわれるのが一番好きなのだ。
「だったら、もういい加減にしたらどう。毎度毎度、私がはいそうですかっていつまでも待っていると思う?」
貴之はルームサービスのバーセットでオールドパーの水割りをつくって飲んだ。濃すぎてうまくもなんともない。
「いや、あのときは急に、妻の父親の具合が悪くなったんだ。肝臓ガンで、もう長くない。妻はずっと父親っ子で、ファザコンの気もあって、ものすごく落ち込んでる。ねえ、俺だって鬼じゃないんだから、何もそんなときに言い出すわけにいかないさ。」
「だからあれから、もう一年も猶予をあげたじゃない。まったく、どっちを向いてもいい顔をして。八方美人は八方|塞《ふさ》がりと同意語だって知らないの。」
貴之がグラスにもう一度ミネラルウォーターを足し、ちょうどいい色に交ざりあうのを待って、沙織がひったくるように一口飲んだ。
「娘の小学校受験の次が奥さんの子宮|筋腫《きんしゆ》の手術、そのあとがお義父《とう》さんのガン。よくも次々に考えつくわね。」
「本当なんだよ。俺が別れを切り出そうとする度に、信じられないような事が次々に起こるんだ。」
「絶妙のタイミングでね。」
沙織が窓際まで歩いて、恋人たちの素敵な夜を演出する夜景を眺める。でもガラスに写してこちら側の様子を見張っているのがわかる。
「妻の親父《おやじ》さんが亡くなって、落ち着いたら話すよ。だからあと、半年、いや一年。」
「もうたくさん。」
さすがに、沙織の判断は正しい。死んだら死んだでしばらくはそんな話の出る幕などありえない。貴之が黙っていると、沙織は静かに振り返った。
「こうなったら私、出るとこに出るわ。」
ここから飛び降りて死んでやる、と言われるよりましだが、小鼻をふくらませた女にこんなセリフを吐かせている自分が情けない。
「ちょっと待てよ、出るとこってどこだよ。」
「家庭裁判所。」
「馬鹿なこと言うなよ。そんなことしたって君に勝ち目ないんだから。」
「そんなことは問題じゃないの。」
「じゃあ何が目的なんだ。」
「家裁に行けば、とりあえずあなたのお家に通知がいくでしょ。いくらあなたの奥さんの勘が悪くったって、さすがに事の重大さがわかるわよ。」
「何を考えてんだよ。」
おそらく、何も考えてなどいないのだ。沙織より、さらにいくらか頭の弱い女友達の入れ知恵か、安っぽい不倫ドラマの影響だ。
「そんなことをして、一番傷つくのは君なんだよ。」
「もう傷つく場所なんか残ってないわよ。」
「じゃあ俺にどうしろって言うんだよ。時期も考えずに別れ話をして、妻を不幸にした自責の念にかられた俺と一緒になって、君は幸せなのか。」
必死になって話に筋を通そうとすると、口数が多くなる。
「一人の女を六年も日陰者にしておいて、よくそんなことが言えるわね。」
「だから、君と一緒にならないと言ってるわけじゃない。ただ、もう少し俺の立場も理解してくれよ。」
「結局。」
沙織はダイヤのピアスを手にとって、手相に新たな線を刻み込むようにぎゅうっと握りしめた。
「あなたは私のことなんか好きじゃないのよ。」
「心にもないこと言うなよ。」
「でも、本気じゃなかったのよ。」
「本気だったよ。」
「本気、だった、ですって? どうして過去形なんか使うの? 本気、だった、けど、今は本気じゃない、そういうことなのね。」
「いちいちあげ足をとるなよ。」
「平行線ね。今日はもう帰って頂戴《ちようだい》。」
沙織はいつもの癖で、ここが自分の部屋のような言い方をした。でも、貴之は帰るわけにはいかなかった。まだ会ったばかりだし、今日はもともと泊まりがけの出張のはずだったのだから急いで帰る必要もない。第一、沙織が帰れとか帰るなとか言ったときは行動を起こさない方がいい。
「わかった。帰るから、とりあえず風呂にだけ入らせてくれ。京都はもうずいぶん暑いからね、歩きまわって、汗をかいた。」
貴之は沙織の返事を待たずにネクタイをはずした。
「汗を流したらすぐに帰るよ。」
沙織は何も言わなかった。が、貴之が風呂に浸《つ》かって数分も経たないうちに浴室のドアから顔を出した。
「一緒に入ってもいい?」
「ああ。いいよ。」
沙織は、恋人と喧嘩《けんか》をしたときしばらく一人になりたいという女ではない。特に、季節の行事や二人の記念日などがきっかけになることが多いが、理由はどうあれ一度喧嘩をはじめたら、二時間でも半日でも一週間でも、とにかく沙織につきあい続けなくてはならない。途中で馬鹿馬鹿しくなることも多いが、それでも貴之が投げ出さないのは、やはり愛しているからだろうか。
「私の知らないうちに、ずいぶん日焼けしてるのねえ。」
湯舟に片足を入れながら、沙織が言う。このところ、つきあいや接待のゴルフが頻繁なことも、沙織の苛立《いらだ》ちにひと役買っている。
「ああ。四月の日射しは一年中で最も紫外線が強いんだ。」
「ゴルフ焼けなんて格好悪い。今度つきあうなら絶対、海の似合う人にするの。」
貴之は笑って沙織の水滴がはじける白い肩をなでた。一緒にゴルフ場をまわることがあっても、強力な日焼け止めや帽子でかたくなに守っている沙織の武器だ。白い肌は七難をかくす、という古い言葉を信じ続けている女だ。それもあながち嘘《うそ》ではないな、と貴之は沙織の肌に触れる度にそう思う。
「何だか、あなたの肌、前より若々しくなったんじゃない。」
「焼けてるから、そう見えるんだろ。」
「ううん、違う。私とつきあいはじめた頃はもっと、頼りないかんじの肌だったのに。」
「じゃあきっと、君のお陰だよ。」
「私じゃなくて、もっと若い娘がいたりして。」
「どこにそんな時間があんだよ。」
「わからないじゃない。今日だって、京都でデートしてきたのかもしれないし。」
「君だって商社で仕事をしてるんだから、営業の忙しさくらい想像がつくだろ。」
「でも、死にもの狂いで時間をつくったらもう一人ぐらい可能かもしれないじゃない。」
沙織は貴之の顔にひとつかみの湯を投げつけた。
「私、あなたが浮気したら即、別れるわよ。その日のうちに。」
「おい。君と家庭と仕事、これで俺の時間ははちきれそうだよ。」
「何か、私のせいで自分の時間がないみたいな言い方。じゃあさっさと私と別れてプラモデルでも何でもやればいいじゃない。」
「プラモデルじゃなくてラジコンカーだよ。」
「どっちだっておんなじよ。」
「全然違う。」
「あんなおもちゃに五万も十万もかけるなんて馬鹿みたい。」
「そのぐらいかけないとスピードが出ないんだよ。」
「馬鹿みたい。」
「馬鹿馬鹿って言うな。」
自分でも子供じみた趣味だとは思いながら、貴之はここ二、三年ラジコンカーを組み立てたり操ったりするのに凝っていた。相当の金と週末を費やすため妻からもいつも文句を言われていたが、これは女には理解できない種類の事柄だと思った。専用のサーキットで、自分が時間をかけてチューンナップした愛車がピンカーブをクリアしていくのを見ると、普段吐き出せないものが一杯に詰まった胸がすっとするのだ。
「今だって、お風呂くらいゆっくり一人でつかりたいって思ってるんでしょ。」
「ちょっと黙っているとそうやって言いがかりをつける。」
「私のことを考えてないのがわかるからよ。」
「ちゃんと考えてるよ。」
「じゃあ、どうちゃんと考えてるの? 昨年の誕生日の約束は? 一年待たせてもまだ煮えきらない言い訳は?」
「どうして君のこと考えてないなんて思えるのか俺の方が不思議だよ。」
「誰が考えたってそう思うわ。ここのホテルに泊まってる全員に聞いたっていいわ。思われても仕方のないようなことをあなたはしてるんだから。」
「じゃあ何で君の方から離れていかない。」
「今度は開き直るのね。いつもそう、あなたって。」
沙織が両の掌で顔を覆ったので一瞬泣くのかと驚いたが、再び現れた表情に変化はなかった。涙で水増しされるべき恋愛を続けている割に、沙織は滅多に泣かなかった。一人でいるときは定かではないが、少なくとも貴之の前ではもう思い出せない程長いこと涙を見せていない。もしかするとこれが二人の関係を長引かせる原因のひとつかもしれない。
「はあ、こんなに熱いお湯に入っててよく平気ね。」
沙織は前に組んでいた膝《ひざ》を立て、上半身を水面に出した。コールドクリームを塗ったばかりのつるりとした頬《ほお》が桃色にそまりかけている。不思議なことに、妻は化粧すると綺麗《きれい》に見え、沙織は化粧を落とすと綺麗に見える。
「先に出てていいよ。」
「やっぱり。一人でゆっくり入りたいと思ってる。」
「君がのぼせたって言うからだろう。」
「私のために、少しお湯をぬるくしようとか、そういう風には考えられないわけ?」
「いいよ、じゃあ、俺が出るから。」
貴之が勢いよく立ち上がると、大量の湯が沙織の髪や顔にかかった。何か文句を言いそうに見えたが、沙織は黙って顔をひとぬぐいしただけだった。貴之は蛇口をひねってバスタブに水を足した。
「好きなだけうめてゆっくりすればいい。」
シャワーで冷水をざっと下半身に浴び、貴之は沙織を残して浴室を出た。一応身支度をすませ、氷のすっかり溶けた水割りの残りを飲んでいると沙織が出てきた。
「あらあ。もう帰ったのかと思ったわ。」
「思ってもいないことを口にするのは君の悪い癖だ。」
「帰らないんなら私が出て行ってもいいのよ。」
「いい。バスローブの君より俺の方が支度が早い。」
上着を羽織り、一泊用のボストンバッグを持ちさっさと部屋を出た。そのまま帰るのも味気なく、地下のバーで一杯やることにした。バーはひっそりと静かで、二人のバーテンダーを囲む半月形のカウンターには一組の男性客しかいなかった。スツールに腰かけて見ると、大きな壺《つぼ》のような焼物の花器に、桜がたっぷりと活けてある。
「吉野です。」
枝の筋々から溢《あふ》れ咲く五弁の白い花に見惚《みと》れている貴之の視線に、銀髪のバーテンダーが応《こた》えた。酒を注文し、かすかな花の香りを楽しみながら一杯目を飲み終えたところで沙織が横に立った。沙織はバーテンダーにだけ笑みをつくって、待ち合わせのように貴之の右隣に座った。
「今晩は。」
髪はまだ湿ったまま簡単に束ねてあり、いつもの半分ぐらいしか時間をかけていない化粧がしてあった。
「濡《ぬ》れた髪でこんなところに来るのはよせ。安娼婦《やすしようふ》じゃないんだ。」
「この人と、おんなじものね。」
「じゃあ俺は何か違うのくれ。」
「じゃあ私もそれにして下さい。」
バーテンダーは全く動じず、二人の注文にいちいち承知しました、と答えた。貴之は大きなため息をひとつついた。
「よくやるなあ、お前。」
「お前って呼ばないで。」
「なあ、意地になってんじゃないのか? 本当はもう、俺のことなんてどうでもいいのに、ただ意地でやってんじゃないのか? ここ、馬鹿だから。」
「そう思うのはあなたの勝手よ。でも私はあなたを愛しているし、何よりもあなたが欲しいの。」
「意地な愛し方なんて、つまらないね。」
「そうかしら。私はけっこう気に入っているのよ、これでも。」
「愛される方はたまらないさ。」
二つ並べて出されたカクテルはビトゥイーン・ザ・シーツだった。こんな口論を繰り返しながら、毎度同じシーツの間で眠ることを見透かされたようで貴之は恥ずかしくなった。しかし、ブランデーとラムのよい香りで、気分は悪くなかった。沙織の方にだけ、桜の花びらが一枚、浮かべてある。
「わあ、きれい。」
「目の前の桜も見ないで。」
「私にとっては、枝いっぱいの花より一枚の花びらが大切なときだってあるの。」
「女心はわからんね。」
「あなたになんか一生かかったってわからないわ。」
「空恐しくて、わかりたくもないね。」
「はいて捨てるほどいる独身男より一人の妻子持ちを選んだ女の気持ちなんて。」
「桜と恋愛を一緒にするなよ。」
「おんなじじゃない。もうじき散っちゃうもの。」
沙織は花びらが動いたり沈んだりしないように気をつけながら、すうっと一口だけ飲んだ。ひょっとするとこの女は、憧《あこが》れの人から贈られたブーケをドライフラワーや押し花にしてとっておくタイプかもしれない、と貴之は思った。もし自分がプロポーズしていたら、そのとき飲んだシャンペンのコルクを持ち返り、毎年記念日が来る度に眺めるだろう。
「こんなことなら一年目で散っておけばよかった。」
「俺と別れたいと思ってるのか。」
「そう思うこともあるわ。」
「これからはどうだい?」
「私があなたに何を求めるかによるわ。幸せになることを望むのか、愛されることを望むのか。」
「愛することと幸福にすることは同じだと思っていたよ。」
「そう単純にはいかないわ。」
「俺は愛されれば幸せになれると信じたいね。」
「私だってそう思っていたの。」
「俺は君を愛しているし、幸せにしたいとも思う。」
「でも奥さんとも別れられない。」
「それが現実だ。」
沙織に対して何か真実を口にする度に身体の中から生気が抜けていくようだった。
「ねえ、私がどうしてあなたと別れないか、わかる?」
「理由なんかあるのか?」
「知りたい?」
「ぜひともね。」
貴之は気絶したりしないように、カクテルグラスに残った半透明の液体を不味《まず》い水薬のように一気に飲んだ。
「もし、私がこれ以上ないくらいすっきりと、美しく身を引いてあげたりしたら、あなたは一生私のことを忘れられなくなるわ。私と別れたとたん、死ぬまで私と別れられなくなるの。」
貴之は今まで最悪の事態など存在しないと思って生きてきた。今さらこの年齢になってそれが間違いでしたと言われても、すんなり受け入れるわけにはいかない。
「恐ろしいと思わない?」
貴之はつかの間、沙織の無邪気な笑顔を憎んだ。しかしその憎しみのおかげで我を取り戻した。バーテンダーに合図をしてサインを済ませ、バーの闇《やみ》から外に出た。部屋に戻るエレベーターの中で沙織が言った。
「私とつきあいはじめたのって、あなたが結婚して何年目だった?」
「四年目かな。」
「やっぱり。」
沙織は幸せそうな笑みを浮かべて、貴之の腕をとった。
「結婚四年目の男はこの世でいちばん恋に落ちやすい人種なんですって。」
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五月 スイッチ
五月十日[#「五月十日」はゴシック体]
ことのはじまりは、僕が時たま思い出したように仕事をもらっていた雑誌が十周年を記念して開いたかなり盛大なパーティーだった。
僕はまだメジャーにはなりきれていないスタイリストで、世の中はまだまだスタイリストは小綺麗《こぎれい》で小まめな女の子のするもの、大の男が生涯をかける仕事ではないと信じて疑わない人でいっぱいだった。そんなに服や小物にこだわるなら、一日中街角のブティックにつっ立って客のコーディネートの相談にでも乗っていればいいじゃないかと思っている人も大勢いた。
そんな不当な評価を少しでも覆《くつがえ》すために、僕は名の通った雑誌のレギュラーページが欲しかった。パーティーなど、甘く煮た椎茸《しいたけ》の次に嫌いな僕が会場に足を向けた理由はただそれだけだった。
実際出かけてみると、半ば予想はしていたものの、僕は知らない人の波に悲鳴もあげずにおぼれていた。息も絶え絶えになった頃、かろうじて面識のあった女性編集者を発見したときは、そのえらの張った顔が天女さまのように見えた。そして、天女さまがお連れになっていたのが彼女だった。
僕たちはお互いに、駆け出しという程初々しくはないが、メジャーにもなりきれないスタイリストとカメラマンという肩書きで簡単に紹介を受けた。つまり彼女もこのパーティーに僕と同じ動機でやってきておぼれかけていた一人だったというわけだ。
「まだまだ、カメラは男だけの世界だと信じて疑わない人が多いんです。」
なるほど、と僕は思った。
「そんなにレンズや写真が好きなら、自分でヌードでも撮らせてればいいじゃないかと思っている人も大勢います。」
いろんな言い方があるものだ。
彼女は二十六歳で、僕より三つ年下だった。自ら望んで就いた仕事をしている女性は大抵年齢より二つ三つ若く見えるものだが、彼女は今時めずらしい老け顔で、張り気味な頬骨《ほおぼね》から唇にかけての線が落ち着いた大人の女性らしかった。
微妙な線ばかりでつくられた彼女の顔は、全体に上品で色素が薄く、ともすればぼんやりした印象になりがちなのに、なぜかそこらの男顔の女たちよりずっと強い意志を感じさせた。
「出ませんか? 空気がよくなくて、気分が悪くなりそうなの。」
そう言った彼女との間には、確かに一メートルほどの距離があったのに、僕には耳元でそっとささやかれたように聞こえた。錯覚を打ち消そうともせず、僕は彼女の言葉どおりに行動した。近くのブラッセリーでワインと軽い食事を注文するまで、お互いの名前も正確に憶《おぼ》えていなかった。
きちんと向かい合って座ると、二人とも急に照れてしまって無口になった。パーティーは、人の様々な感覚を麻痺《まひ》させてしまう。僕たちは初対面でいきなり二人きりにされた男女が交わすような会話をはじめた。いくつかの話をつないでいくうちに、他愛のない共通点が明らかになった。映画の趣味や食べものの嗜好《しこう》、生活のリズム、それに人生に対する大まかな考え方が似ていた。
それらは確かに重要な接点ではあったが、僕にとっては大いなる二の次だった。僕は真正面から彼女の顔をただ見ていた。そして、自らの重大な発見に魅《ひ》きよせられた。
彼女の繊細な顔を最も特徴づけているのは、美しくなだらかな眉《まゆ》だった。茶色がかった薄い眉にはあとから描き足した跡は見られず、彼女自身その美しさを十分知った上で、毎日入念にとかしあげ手入れされているのがわかる。
その眉と眉の間に、会話のはずみのほんのわずかな瞬間、縦にうっすらとした皺《しわ》が幻のように浮かび上がる。それは何かの拍子に彼女がほんの少し表情を動かすときや、僕の話にあいづちをうったり質問を切り出したりする合図だったりする。
その皺は、明らかに彼女と不釣合だった。彼女の顔の他のどの部分にも、それ以外の皺はみじんも見当らない。彼女の年齢からすれば当然あるはずの目尻《めじり》の笑い皺さえなく、どちらかといえば皺がなさすぎて不自然なくらいなのだ。
その美しい顔に、なぜそんな皺が現れるのか、僕には不可解だったが、次第にそんなことはどうでもよくなった。問題は、その皺が浮かび上がる瞬間の表情が、彼女の中で最も魅力的な顔であるという事実だった。
その一点に吸い寄せられていく僕をもてあそぶように、その皺は浮かんでは消え、また浮かんでは消えた。僕はその皺の向こうにとてつもない何かを察知した。それが一体何なのか、頭で考えるより先に身体が答えを出した。僕は彼女の皺に勃起《ぼつき》していた。
五月十一日[#「五月十一日」はゴシック体]
今日、はじめて昼間の光の下で彼女に会った。僕は彼女に対して出来るかぎりの好印象を与えておきたいがために、初対面で自宅の電話番号を聞き出すような馬鹿な真似をするわけにはいかなかった。そもそも、そんな若僧じみた行動がしっくりくるには年齢《とし》をとりすぎている。
迷惑になりにくい昼食あとの時刻を選んで、彼女の名刺にあった連絡先の番号を回した。一度会っただけだが、彼女の肉声ははっきりと記憶され、受話器の向こうでそれが再生されたときには懐しさに震えた。
「あなたのオフィスの六〇〇メートルほど南に、公園がありますね。」
公衆電話ボックスの汚れきったガラス越しに、僕は彼女のオフィスが入っている雑居ビルを見上げた。
「僕は今からそこへ行って、ちょっとした散歩と休憩をするつもりで、もしつきあってもらえたら有難いんです。」
幸い彼女は紫外線を執拗《しつよう》に恐れて、太陽を遮断して生きていくタイプではなかった。むしろ、こんなまたとない快適な午後を建物の中で過ごさねばならないことに無念と憤りを感じているはずだった。
「そういうことでしたら、十五分後に指定の場所にまいります。」
喜びを隠しきれないときかえって妙に真面目くさってしまうような口調で彼女は僕の誘いを受けた。返事をもらうまで一呼吸もかからなかった。
まだ皮膚にやわらかな五月の陽射しの中で、彼女の瞳《ひとみ》はガラス玉かビーズのように見える。美人なのに肌にあたたかみがあり、田舎の貴婦人の雰囲気を持っている。昨日の深い色合いのパンツスーツとはがらりと違う、軽快な原色のミニスカートが公園の緑に映える。
「ひょっとすると今日は、今年いちばん心地のいい午後かもしれないわね。」
彼女は僕の渡した缶入りのアイスミルクティーを一口飲んだ。ここはそんなに広くはないが、噴水とブランコとベンチ、必要なアイテムがきちんと揃《そろ》ったバランスのいい公園だ。
「あなたが誘い出してくれなかったら、三六五分の一のチャンスを逃がすところだったわ。」
彼女が僕を振り返ると同時に絶妙のそよ風が吹いて彼女の髪がフレアスカートのようにふわりと舞い、陽射しに透けた。日中よく見ると彼女のまっすぐな髪は全くむらのない栗色で、真中で分けて肩にかかるあたりで微妙に巻いている。
「今夜、僕の部屋で食事をしましょう。」
少しとまどった様子のあと、彼女は缶の飲み口を唇にあてたままうつむいた。僕は陰になった彼女の眉間《みけん》に、あの愛らしい皺がひょっこり顔を出すのを期待したがよく見えない。
「最高のイタリア料理です。貧乏しているとペペロンティニだけは上手《うま》くなるんです。」
彼女は顔を上げておかしそうに笑った。
「唐辛子とニンニクと、オリーヴオイルね。」
彼女はペペロンティニに目がない上に、常備した材料で手早く上手い料理を作ってもてなすような男が好みなのだ、と僕は確信した。
「ぜひ、食べてみたいと思うけど。」
言葉より先に、彼女の心はもう決まっているのがわかる。あとは日が暮れるのを待つばかりだ。僕のほほえみを受けて、彼女は淡く微笑した。若い女が可愛《かわい》いのは笑顔で、ある程度の年齢の女が最も美しいのはほのかな微笑だ。でも彼女の場合は違っていた。その微笑のあと、まぶしそうに空を見上げた顔の、一筋の飛行機雲のような皺こそが彼女を最も引き立てる。この不可解な事実が知らぬ間に僕を非日常的な精神へと導いていた。
五月十二日[#「五月十二日」はゴシック体]
今朝、僕が彼女の中に小さな種子を見つけたのは、ほんのちょっとしたきっかけからだった。ブラインドで縞《しま》になった朝の光につつまれて目覚めた僕は、隣でタオルケットにくるまれて眠る彼女を眺めた。彼女の眠りは深かった。それは初めて訪れた男の部屋で見せる寝顔にしてはずいぶん安らか過ぎる。しかも、まだよく知り合ってもいない男の前で股《また》を開いた女にしては。
僕は彼女の薄い頬をなでて眠りの海から引き上げにかかった。すると、悲しい夢を途切れ途切れに見ているように、あの皺が彼女の寝顔に現れはじめた。そのとき、僕の中にある感情が生まれた。さらに浅い眠りを破ると、彼女は微笑して僕の首筋に顔を埋める。
「自分でしてごらん。」
神かけて、僕はほんの遊び心でつぶやいた。言ってしまってから、彼女が怒って帰ってしまうのではないかと不安にならずにはいられなかった。彼女が冗談とかわして、一笑にふすことを願った。
一小節の沈黙のあと、肩の上の彼女が僕を見上げた。その顔を見た僕は、これまで自分を惑わしてきた不可解なもののルーツを悟った。彼女の眉は、今まで見たことがないほど弓なりに反り上がり、その頂点にはもはやその意味がはっきりと見てとれる皺がくっきりと存在している。
「自分で、してごらん。」
僕はもう一度言った。彼女の唇が堪え難い悦《よろこ》びとかすかな恐怖に震える。
「しなくちゃ、いけないの?」
か細い声だったが、ささやきほどの甘さはなかった。もはや彼女は最も淫《みだ》らな表情を隠そうともしない。
「そう。しなくちゃいけない。僕に、よく見えるように。」
彼女は思わず目をきつく閉じて、官能の幕開けにふさわしい声をもらす。昨晩耳にした申し訳程度のあえぎとは声の温度がまるで違った。白いタオルケットの下で、彼女の手が身体の曲線にそって降りていく。指が、触れるまでもなく潤っているに違いないあたりをうごめいている。
僕は布ごしにその指先と振動を眺めながら身体を起こし、タオルケットからはみ出した彼女の足首に向かう。僕の手首と同じ位の太さしかない。両の足首に指をまわすとちょうど中指と親指がぐるりとまわった。つかんだ手に力を込めると、彼女は息をのみ、内腿《うちもも》の筋肉を緊張させた。
僕はひと思いに、抗《あらが》う両足を彼女の肩幅よりも大きく拡げてしまう。必死に閉じようとする足の力に比例して、彼女の右手の動きは速さを増す。いやがる言葉と裏腹に、彼女の身体は快感によじれる。
「そういうわけか。」
彼女は閉じていた目を見開いておびえる。
「いつも一人でこういう事ばかりしてるからそんないやらしい顔になるんだ。」
鼻で笑うと、彼女は泣き声のような小さな悲鳴をあげ、敵にすがるような目で僕に訴えた。僕はおかまいなしにタオルケットを膝上《ひざうえ》までまくりあげる。彼女は腰を引いて隠そうとしたが、結果、蛙《かえる》のような余計恥ずかしい格好になっただけだった。
「お願い……許して……。」
哀願しながらも、彼女の細い指は巧みに動き続け、ますます滑りがよくなっていく。彼女のせつない眉の間の皺はいよいよ本性をあらわし、彼女の端整な顔を淫売女《いんばいおんな》に変えていく。
「正直に言いなさい。もっと恥ずかしい格好がしたいって。」
彼女の片足をベッドの端まで拡げて床に落とすと、昨日彼女のはいていたストッキングが脱いだままの形で息をひそめている。僕はそれを拾い上げ、床の上の彼女の左足を絹で愛撫《あいぶ》する。その足を持ち上げ、彼女の空いている方の手をつかみ、ストッキングで手首と足首を何重にも縛り上げる。
その途端、ふだんは理性的に閉じられ、清楚《せいそ》なスイトピーのような唇が花を開き、ぬらぬらと濡《ぬ》れたピンク色の舌がナメクジのように這《は》いはじめる。笑っているようにも見える大きく開いた口ががつがつとわななき、初めて僕の名前を呼んだ。
五月十五日[#「五月十五日」はゴシック体]
賢さと理性を惜しみなくあらわす知的な容姿が、僕の高圧的な辱しめをスイッチに、みるみる艶《つや》を出していく。その豹変《ひようへん》を見届けるのは、奇妙な生き物が殻を脱ぎ捨てていく様を観察する飼育者のような気分だ。
「どうして……こんなことするの。」
市松模様のスカーフを結ばれたこめかみに手をやって、彼女は絹の下で宙を見つめている。
「君がそうしてほしい顔をしてたからさ。」
僕は昨日彼女のために買い求めたパープルの口紅を二センチほど繰り出し、すでに半開きになった彼女の唇にたっぷりと塗りつける。どちらかといえば血色の悪い彼女の顔に灰色がかった紫の唇を加えると、そこに不健康な地下室の空気が生まれ、絶妙な卑猥《ひわい》さを生む。
そして、僕が人工的な匂《にお》いの中で唯一認めているゲランのサム・サラを、幸薄い平坦《へいたん》な耳たぶに浸す。東洋の風俗絵巻を思わせる香りが、彼女のかすかな体臭と交ざり合って、即座にその性質を際立たせていく。
「立って。」
今月に入ってすぐ、初夏らしい陽気に誘われて、広尾《ひろお》のファニチュアショップでつい大枚をはたいてしまった革張りの白いソファに腰かけた彼女を抱きおこし、手錠がわりの僕のネクタイをつかんで引く。二、三歩のところでその手をがくんと床に押しつける。彼女は小さなうめきを洩《も》らし、骨格の細い膝をつく。
「いい格好だな。」
必然的に盲目の獣にされた彼女は小さくいやいやをしながら、それでも腰が小さくグラインドしている。視界を塞《ふさ》がれ手の自由を奪われてもまだ口紅と香水で男を誘い、四つん這いで床をはいまわり、よがって腰を動かす女。
「いやらしい女だな、お前は。」
僕は彼女が唯一身につけているチャコールグレイの細いプリーツスカートをまくりあげる。まるで裸ではなく、衣服の唐突な一部分だけを着せられている方が数段恥ずかしいという事実を、僕は彼女の興奮の度合から学んだ。彼女はセックスのために服を脱がされるのではなく、辱しめられるためにスカートを穿《は》かされているのだ。
「こんなお固い服を着ているくせに、そんなに濡らしてどうするんだ。」
僕は指の腹で卵の白身のような感触を好きなだけ楽しむ。もちろん、匂いを確かめたり味見をしてみることも忘れない。セックスと料理は手順もやり方もよく似ている。僕の手の中でいちばん長い指が出入りする度、激しく首を振って抵抗する彼女の姿は犯される女教師のような風情だ。
「化粧室へ行ってもいい?」
僕の掌の中で気をやった彼女は荒い息遣いで独り言のように言う。手錠をほどき、口紅ですっと描いたような一筋の赤い跡を優しくさすってやると、彼女は甘えて僕の胸に盲目の顔をうずめる。
僕は彼女の手を引いて、化粧室のドアを開け、便器に座らせる。ドアを閉めようとした彼女の手を、僕は冷たく制した。
「開けたまま。」
五月十八日[#「五月十八日」はゴシック体]
彼女を僕に引き合わせた編集者と仕事をした。昼食のとき、例のパーティーのあと二人で消えたようだがその後どうなったのかと聞かれた。食事をして帰ったと答えたが、事実を述べているのに嘘《うそ》をついたような気分になった。彼女が今、僕の部屋のテーブルの足に縛りつけられていると知ったら一体どう思うだろう、と考えたら笑いがこみあげてくる。
「すぐに戻るよ。」
僕が仕事に出ようとすると、テーブルの下で彼女は哀願した。
「お願い……こんな格好で一人でいるのはいやよ。」
彼女は今日久しぶりの休日で、僕もそれに合わせて仕事を調整し、一日二人でゆっくり過ごすつもりだった。ところが昨夜遅く入った電話一本でその計画はあっけなくつぶれてしまった。
「駄目だね。僕が帰ってくるまでそのままでいるんだ。」
両手首とふくらはぎをきつく縛られ、まる焼きにされる豚のように不様な彼女を見下ろす。彼女にとっては、自由を奪われた姿を僕に見られることこそが快感のよりどころであり、放置されることはただの屈辱なのだ。放置に悦びを感じるマゾヒストも多いが、どうやら彼女はその類ではないらしかった。
夕方帰宅すると、彼女は今朝と同じ姿勢で力なく僕を見上げた。怒る気力もないらしい彼女を自由にしてやると、何も言わずにトイレを使った。
「どこでもいいから、外に連れていって。」
いらいらとした早口で彼女が言う。
「連れていってもいいが、条件がある。」
僕がポケットから取り出した拳《こぶし》を開くと、彼女は思わず小さなため息のような声を飲み込む。
「これを入れて歩くならね。」
僕はその乳白色の小さな繭を彼女の目の前に差し出し、ポケットの中のスイッチを入れた。蛾《が》を生み出す寸前のように小さく振動しはじめた繭を、彼女はじっと見つめている。彼女の感情が高まるのに合わせ、僕はバイブレーションを強めていく。
「言われた通りにするんだ。」
彼女が、ごくわずかだがはっきり肯定の意志が見てとれる分だけ、頭を縦に動かした。僕が繭を渡すと、彼女は椅子《いす》に片足を上げ、最も敏感な粘膜の中に埋めていく。小型のバイブレーターを入れたまま外を歩くのだと想像した時点で、いくらか湿ってきたに違いない。
玄関を出ると、彼女は僕の腕にすがり、不安そうにこわごわと歩きはじめる。生理になったばかりの少女が、はじめてタンポンを入れたときのように、何も感じないはずの違和感を探している。
僕は彼女の期待に応えて、ときどきポケットに手を入れ、機械的な愛撫を彼女におくった。そして、二、三度入ったことのある火の気のないバーの前で一気に最高の強度までスイッチを引き上げる。彼女は不自然に膝からがくんと止まった。
「入ろう。」
彼女と離れないように気をつけながらドアを開け、彼女を先に店に入れる。カウンターの客のうち半分くらいがこちらを振り返ったが、誰も彼女が、今まさにうごめく繭の愛撫を受けていることを知らない。彼女は理科の実験室で迷路に入れられたハムスターみたいにぴくぴくとあたりを見まわしている。
スツールに座り、バーテンダーに向かって平然とマルガリータを注文した彼女は、僕の方に向き直り、耳元で吐息まじりに言った。
「ごめんなさい……いきそうなの。」
僕はスイッチを止めた。彼女は途端にうつむいて、しくしくと泣き出した。驚いてシェイカーを振る手を止めたバーテンダーに、僕は軽くほほえんで見せた。
五月二十日[#「五月二十日」はゴシック体]
「私の話を、全然聞いてないのね。」
荒い語気にくらべて、彼女の薄い眉はなだらかなままだ。それは早朝の撮影に出かける彼女を送って、駅の脇《わき》にある喫茶店でコーヒーをすすっていたときだ。僕はちょうど、次はどんな遊びで彼女を苛《いじ》めようか思案しているところだった。
「あなたは私に興味がないのよ。私自身にも、私の仕事にも。」
コーヒーカップの底に何か洒落《しやれ》たジョークでも書いてあるのか、彼女は飲み終わったカップをじっと見つめている。そう言えば、僕は彼女の仕事について何もコメントした憶えはないし、彼女が僕に話したこともほとんど印象にない。でもそれが何だというのだ。どんな小さな子供だって興味のない人間を苛めたりするものか。
「そんなこと言ったって、さっきまで君は僕の前で恥ずかしいことをしてた女なんだよ。」
静かな店内に少し前かがみになって僕は言った。彼女はやっとこちらに顔を向けた。
「ひどいこと……言うのね。」
彼女は怒ってはいなかったが、少し悲しそうな顔をした。でも、あの皺がある限り、僕は普通の感情には戻らない。
「認めたらいいじゃないか、自分がマゾだって。」
テーブルの脇を通り過ぎたアルバイトのウェイトレスが驚いてこちらを見た。彼女は知らん顔で窓の外に目をやった。ウェイトレスが足早に離れるのを待って、彼女は僕を冷たく睨《にら》んだ。
「夜の話を明るいうちにむしかえすのは最低だわ。」
今度は僕が、やれやれ、と窓の外を眺める。彼女とこんな話をする意味も必要もない。なぜなら、僕のしてきた行為こそが彼女を愛する唯一のかたちであり、彼女の愛され方なのだ。
「ルール違反よ。」
彼女はまるで別人だった。僕の命令どおり四つん這いで床をはいまわっているのと同じ女とは信じられない。彼女はただの、普通の小綺麗なワーキング・ガールに見える。彼女の方がよっぽどルール違反だと思った。
「プレイはプレイ、生活は生活、きちんと分けられない人とはつきあえないわ。」
僕はショックだった。僕は彼女とプレイを楽しんでいるつもりなど毛頭なかったのだ。僕は決して、誰とでもあんな戯れに興ずるわけではない。彼女とはそうすることが自然なつながりだった、それだけのことだ。
「あなたがしてることは、電車の中の痴漢行為を許したからって駅に降りても追いかけてくるようなものよ。」
こんなに饒舌《じようぜつ》な彼女を、僕ははじめて見た。僕を魅了した皺すらも、もうどこにも見当らない。彼女はことりとも音を立てずに立ち上がった。
「約束が違う……というより、私の計算違いね。」
さよならの言葉もなく彼女が行ってしまっても、追いかけようとは思わなかった。僕が追うまでもなく、彼女はきっと戻ってくる。僕にいたぶられるために、あの卑猥な皺を浮かべて僕の部屋のドアを開ける。僕は冷たいコーヒーで唇を濡らし、彼女との時間を反芻《はんすう》した。
すると、不意に昨夜見た夢の断片が、急旋回した記憶の糸をたぐって再生された。さびれた工場のこわれかけた塀に、握りこぶしほどの穴が開いている。その穴にむけて彼女は尻をつき出し、馬乗りの馬のように地面に手をつく。彼女の陰部だけがむき出しになった塀の向こう側から、顔の見えぬ男たちが次々と彼女を……。
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六月 サン・バーン
けたたましいノックの音で目が覚めると、極彩色のベッドカバーとソファが目に入った。
異国にいることをとっくに思い出しているにもかかわらず、真理子はドアの向こう側に対して、日本語で返事をした。
「ブレックファスト。」
南の島は、何語を使うにしても、単語だけわかればいいから気が楽だ。日本でも、いっそのこと、こうなったらいい。
「ヴィナカ。」
朝食のルームサービスを持ってきた感じのいい青年に、真理子はこの土地の言葉で礼を言った。黒い肌に、白い制服がとてもよく似合う。
日本ではまだ、生あたたかい雨が降ったりやんだりしている季節だが、ここはいつでも夏だ。雨季が終わって、天気のいい日が続いている。
真理子は、朝食をのせた銀の盆ごと、ベランダの白いテーブルの上に置いた。まだ午前中、それも早い時刻なのに、日よけの外は早々と強い陽射しが、ヤシの緑や海の青に反射している。
ずっしりと重い、やはり銀製のポットをとり、ボーンチャイナのカップにそそぐ。コーヒーに似た、カヴァという飲みものだ。
この島の飲みものは、すべて同じ独特な香りがする。あとで気づいたのだが、水自体に香料が入っているためだ。はじめのうちは気になって仕方がなかったが、そのうちに慣れて、おいしいとさえ思うようになった。
東京では一年中、朝食をとることなど一日たりともなかった。けれど、この島で生活していると、朝起きると自然にお腹がすいている。どちらかといえば、お腹がすいて起きるというかんじだ。
カップとおそろいの、白いプレートには、やや固まり気味のスクランブルエッグとぶ厚いハム、それにパイナップルが二切れ、添えられている。昨日はベーコンエッグで、その前は半熟卵、心のこもったサービス。
名前を知らない、小さな鳥のさえずりをBGMに、真理子は朝食をとった。黒くて、目のまわりが黄色い愛らしいこの鳥は、多分日本にはいない種類だろう。
三分の二ほど朝食を終えると、真理子の足元をうろうろしていた鳥は、満を持したように、テーブルに飛びのり、ライブレッドの屑《くず》をついばみはじめた。朝食をとるのもめずらしいが、鳥と一緒に食事をするなんて機会はなかなかない。真理子は、鳥たちが一日五食食べても食べきれないくらい充分な食糧を残して、煙草に火をつけた。
真理子の生活の中で、唯一銘柄が決まっているものが煙草である。これだけはカートンで大量にバッグに入れた。日本からの旅行者の中で、真理子の荷物は誰よりも小さく、預ける必要も感じずに自分で機内に持ち込んだ。親切な隣の席の紳士が、座席の頭上のクロゼットに入れてくれたとき、あまりの軽さに拍子抜けしていたのを思い出す。
しかし、二週間近く経ってみると、ずいぶんたくさん詰めたつもりでも、もはやその半分近くが煙になっている。まだしばらく発つつもりはなかったし、真理子はなるべく長持ちさせるために一日の煙の本数を減らすよりほかはなかった。
料理を食べ終えてもさして軽くならない朝食盆を部屋のテーブルに運ぶ。歯磨きと洗顔をすませ、海辺に出る準備にとりかかる。
以前読みはじめてはやめ、また読みかけては挫折《ざせつ》することを繰り返していた長編小説を一冊と、ホテルに備えてあるタオルの中から一番小さなフェイスタオルを、ナイロン製の小さなデイパックに入れる。ビーチタオルはビーチで貸してくれる。煙草とライターをダンガリーシャツの胸ポケットに入れ、冷蔵庫の缶ビールを手に持ち、部屋を出る。
このホテルは、小さな島の真中にあり、三六〇度ぐるりの海岸すべてがプライベートビーチになっている。真理子は今までに、いくつかの南太平洋の島を訪れたが、その中でこの島を最も気に入っている点は、日本人がほとんどいないことだ。日本人向けに設定されたツアーがまだないせいだが、こんなに気候と雰囲気のいい島がいつまでも放っておかれるはずがない。あと二、三年もすれば、ほとんどの現地人が日本語をおぼえ、日本人向けのサービスが充実した日本人の島に変わっていくのだ。
「ブラ。」
前から歩いてきた、真紅のパレオをまとった中年の女性が、ビーチに向かう真理子に声をかける。ハワイの≪アロハ≫のように、TPOや時刻を問わず、あいさつにも、礼にも、愛情にも、何にでも使える貴重な言葉だ。
「ブラ。」
真理子は、はじめは抵抗のあったこの言葉をごく自然に口にした。異国での、人間の学習能力は大変なものだ、と我ながら感心する。
深緑のサングラスをかけたままタオルの上に身体を横たえると、そこはまさに天国だった。この天国のおかげで、あと一年ぐらい、何も幸せなことがなくても生きていけそうな気がした。
急な、旅だった。バカンス、というよりは命からがら、逃げてきたといった方が正しい。あとたった一日、日本に残っていたとしたら、本当に息絶えていたかもしれない、と、今真理子は天国で思っている。
飲み終えたビールの缶を灰皿がわりに、真理子は貴重な煙草を一本、吸った。ビールがなくなり、煙草もなくなるときが来たら、自分はまた、元の生活に舞い戻るのだろうか。この天国が、永久には続かないことを真理子は知っていた。
でも、今は考えても仕方ない、と思った瞬間、真理子は強い睡魔に襲われた。誘惑に逆らう理由は何もない。真理子は何の迷いもなくまどろみの舟に乗る。
考えようと、考えまいと、いつか、終わりがやってくる。
「すみません。」
一瞬にして眠りをさえぎられたと思ったが、それは真理子の思いちがいで、すでに太陽は真上を少し過ぎていた。
「すみません、昼寝の邪魔を。」
彼は東京の人だった。彼が東京以外からやって来た日本人ではないことが、真理子にはすぐにわかった。日本人と東京人では、全く人種がちがうのだ。
「そのままでいると、サン・バーンになります。」
彼は、時候のあいさつもなしにそう言った。
「サン・バーン?」
真理子は久しぶりに聞いた日本語に、明らかにとまどっていた。
「日焼け、ではなく、やけどです。放っておくと、あとで大変なことになる。」
シャツの下に着ていた、面積の少ないビキニからはみ出した胸元が、太陽で赤く染まっている。言われてみれば確かに、肌が少しヒリヒリしているようだった。
「眠るなら、木かげがいいですよ。」
真理子とペアルックのようなダンガリーシャツにカーキ色の短パンをはいた東京の人は、三十代後半か四十代か、が微妙なところだった。かなりアクが強く、鋭い目とうすい唇が印象的で、この人なら悪役の俳優として、そこそこ売れるんじゃないかと真理子は思った。
「東京から、ですね。」
真理子が言うと、彼は顔に似合わず、子供のような反応をした。
「当たりです。」
そのへんのゴルフ焼けとはちがう浅黒い顔にぱっと表情が加わった。
「それも、東京に住んでいるだけじゃなくて、東京で生まれ、育ったのでしょう。」
それが彼にとってさらに真実だったようで、こわい顔は完全な笑顔に変わった。
「読心術でも?」
こわい顔の人の心が優しいというのはきっと本当だ。
「私もそうなので、わかるのです。どこにいても、同じ人種はすぐにわかります。」
真理子は彼の言うとおりにビーチタオルを木かげまで引っ張っていきながら答えた。
「それじゃあ、同じ人種のよしみってことで。」
お食事でも、という月並みな誘いを想像したが、それははずれだった。
「本を、貸してもらえませんか。もちろん、読み終わってからでいいんですが。」
きっと、持ってきた本を、みんな読んでしまって、退屈なのだ、と真理子は察した。何せ、何も娯楽のない島だから。
「部屋に、行きの飛行機で読んできたのがありますけど、それで?」
言ってから真理子は、それがかなり通俗的な女性向けの恋愛小説だったことを思い出し、日焼けの下で赤面した。でも彼はそんなことはおかまいなしだった。
「どんなジャンルの本でも、かまいません。ただ、英語はできないので、日本語の本であれば。」
東京の人はとかく、英語が苦手なものだ。真理子は木かげのタオルはそのままに、彼を自分の部屋に案内した。歩いていくうちに、同じホテルに滞在しているとはいえ、彼の部屋は全く反対側にあり、真理子の部屋とはかなりの距離があるのがわかった。
「だから気付かなかったのね、今まで。」
彼を部屋のドアの前に待たせて、真理子は本を取りに入った。この島に来てからエアコンはつけないと決めている。ベランダの戸を閉め切った部屋の中は、日本の梅雨と変わらないむし暑さだ。
「持っていらしたのとはずいぶん違うかもしれませんが。」
真理子が本を差し出すと、彼は丁重な礼を言った後、思い出し笑いか照れ笑いのような表情で言った。
「本は、一冊も持ってこなかったんです。」
普段、本らしい本を読んだことのない人でも、リゾートの旅には必ず持参するものだ。
「どうして?」
真理子はごく素朴な疑問を口にした。
「何もしないこと、が目的だったのです。」
彼は真理子の本に、なぜか愛《いと》おしそうに触れながら答えた。
「実は、仕事柄ひどい活字中毒になりまして。いつ、どこで何をしていても本や雑誌を読んでいないといられないんです。それを治すために来たんですよ。」
彼は有名な出版社の優秀な雑誌編集者なのだった。
「それなのに、今度は何もしないでいることに縛られて苦しくなってしまった。情けない、もうギブアップですよ。」
ほらね、という風に彼は本をちょっと上げて見せた。真理子は何だか、ギブアップの片棒をかついだようで気まずかった。
「何もしないことほど難しいものはない。」
真理子は相槌《あいづち》を打つタイミングを何度も失いながら、黙って聞いていた。
「東京で仕事に追われていると、ああもう何もしないでぼうっとしていたい、と思うでしょう。でも本当はこちらの方が難しい。」
「私も同じです。」
真理子はやっと口をはさんだ。
「ただ、あなたとは目的が違うの。私の場合、本を読むのは大いに結構だし、できるものなら仕事をしたっていいわ。」
真理子はもうすぐそこまで近づいてきた自分のバスタオルの位置を確認しながら歩いた。三六〇度似かよった風景で、ついつい方向音痴になる。
「じゃあ、あなたは何から逃げてきたんです?」
彼の質問に答えるつもりもなく真理子がほほえむと、ちょうど真理子のバスタオルに到着した。会話を引きずることもなく、軽い会釈で二人は別れた。
夕方部屋に戻る頃には、昼間指摘された真理子の肌はますます赤く腫《は》れ上がった。その部分だけが別の生き物のように、呼吸してうずいている。
真理子は特にひどい胸元と顔に、ヴィッテルのスプレイを何度も吹きつけながら、憂鬱《ゆううつ》な顔でベッドに横たわった。何日も徐々に日陰で焼いていたからもう大丈夫だろうと油断したのがいけなかった。部屋の備品のしおりにも、そこだけは五か国以上の言語で注意書きしてある。
≪この島は見た目よりひざしが強くためサン・バーン(やけど)にはご注意して下さい≫
このホテル中探しても日本語の表記はこれだけしか見当らない。きっとこの土地の人が訳したままなのだろう。
彼も、この奇妙な日本語を読んだのだろうか、と真理子は思った。きっと活字中毒の禁断症状で、夜中に何度も繰り返し、この一節を読んでいたに違いない。その様子があまりに鮮明に想像できて真理子は笑った。憂鬱が少しやわらいだかわりに、夕食をとる必要を感じた。
いつもは、ホテルのフロント近くのテラスで食事をする。ここは昔、トウモロコシ栽培のためにインド人が多数移住してきた島で、本格的なインド料理が食べられる。特に近海でとれた魚を使ったフィッシュカレーは美味だ。
でもこの肌では今夜どこにも出かけたくない。真理子は冷蔵庫の隅にあったチョコレート・バーを探してほおばった。一日くらい夕食をぬいたって大したことはない。
そう思ったとき、ノックの音がした。返事もせず無愛想にドアを開けると、太ったメイドがハイビスカスを一輪持って立っている。真理子はときどき夕食から戻ってくると枕元に花が添えられていたのを思い出した。どうやらこのホテルのサービスのひとつらしい。
「サン・バーン?」
メイドは真理子を見てすぐにそう言った。真理子は憂鬱と空腹に新たにいら立ちまで加わって、花を受けとるやいなやドアを閉めてしまった。先程よりさらに腫れて痛む胸元を見下ろして真理子はため息をついた。
またノックの音がした。もう開けるのもよそうかと考えたがノックは執拗《しつよう》に続いた。無視する方がよっぽど体力がいると悟ってドアを開けると彼が立っていた。缶ビールとポテトチップスを一袋、それにドラッグストアの包みを持っている。
「ひどくなってなきゃいいと思ったんだけど。」
真理子は肩をすくめて答えた。彼は包みを開けて、買ってきたやけど用の薬を取り出す。クリームと、軟膏《なんこう》と、スプレータイプがあった。彼がそれぞれの効能や長所を説明しはじめたが早口でほとんど何もわからない。
「入って下さい。」
さえぎって真理子は彼を部屋の中に招き入れた。彼は自分の部屋との間取りやカーテンの色の違いをぶつぶつ言いながらソファに腰かけた。
「有難うございます。心配していただいて。」
真理子は自分も冷蔵庫からビールを出してプルを引いた。彼はポテトチップスの袋を音を立てて開けている。真理子は彼が、昼間の話の続きをしたいのだと思った。
「食べ物アレルギーってご存知?」
唐突な言葉に、彼は真理子の顔を三十秒くらい見つめてから答えた。
「あの、タマゴが喰《く》えないとか?」
真理子は彼の前に座ってビールを飲み、チップスをつまんだ。海外のスナックらしい味がした。
「いたよ、昔、僕の友達でも。」
牛乳が飲めない子ほど目立たないが、卵が食べられない子供もクラスに必ず一人はいる。
「人間の身体は、ひとつひとつの食べ物に対して、まったく違う反応をするように出来てるの。」
真理子は学校の先生のような口調で言った。
「すごく微妙な症状だから、なかなか発見しづらいんだけど、ある特定の食べ物を食べた後で、顔がほてったり、胸がむかむかしたり、頭やお腹が痛くなったりするの。」
「へえ。」
彼は感心してもいるが、あなたが何を言いたいのかわからない、といった表情をした。かまわず真理子は続けた。
「最近は、ほんの少し血を採るだけで、すべての食物アレルギーがわかるんですって。」
彼は何度かうなずいて、手に持ったぎとぎとしていかにも身体に悪そうなチップスを眺めた。
「でも、信じられないことにね。」
彼はチップスを口には入れずに開いた袋に置いた。
「自分がアレルギーを起こすような、まさにその食べ物を身体が要求して、ついには中毒になってしまうこともあるの。」
「具合が悪くなるのがわかっているのに食べなきゃいられないんだ。」
彼は神妙な顔になった。
「あなたが、ポテトチップスアレルギーになるようなものよ。」
あっという間に半分ほど空になったチップスの袋を見て真理子が言うと、彼は笑った。
「そんなことになったら、どうすればいいのかな。」
「さあ。」
真理子はビールを一口飲んだ。
「でもさ。」
今度は彼の方が先に口を開いた。
「人間て、そんなに強いものじゃないから。」
彼は大きく一口、チップスをかじった。
「きっと、食べちゃうんだろうね。」
「その度に、具合が悪くなって後悔するのよ。」
「それでも、食べちゃうんだよ。」
その通り、真理子は心の中でつぶやいた。
「こわいでしょ。」
真理子のユーモアを含まない言葉が彼の笑顔を消した。
「私の場合、それが彼だったの。」
真理子は思い出すのもつらそうな顔になる。
「彼に会うと具合が悪くなるのがわかっているのに、会わなくてはいられないの。」
彼は一瞬、真理子が冗談を言っているのかと表情を追ったが、すぐに打ち消した。
「つきあって半年くらいで気付いたの。彼に会う度に必ず身体のどこかがおかしくなるの。生き方や話し方や考え方、すべてのリズムがこれ以上ないくらい合わなかったのね。」
真理子は今まで、親友にも、家族にもこの悩みを打ち明けたことはなかった。身近であればある程、言い出せない種類の事柄だった。
「最初の一年くらいは、それでも楽しかったの。彼ははじめてのタイプで、新鮮な魅力があったわ。でも、次の年からはもう、地獄だった。」
彼はもうすっかりチップスを食べるのをやめていた。
「毎日、毎日、心がめためたに傷つけられているのに、一緒にいなくてはいられないの。何よりこわいのは、私が彼をひどく好きなこと。」
彼は少々浮き世離れした真理子の話を半分あきれて、半分興味深く聞いていた。
「まさかって思うでしょうけど、本当なの。私もはじめのうちは何かの間違いじゃないかと思ったわ。でも、あるのよ。」
真理子は言葉を切って、彼の目を真正面から見た。
「自分に最も害のある人間を愛してしまう。」
真理子は悲し気にうつむいた。
「治療法は、あるのかな。」
彼は注意深く口をはさんだ。真理子はこの話を切り出してからはじめて少しほほえんだ。
「アレルギーを起こさない食べ物を食べて暮らすこと。」
それが充分すぎる真理子の逃亡の理由だった。彼はしばらく黙ってビールを飲んでいたが、やがて立ち上がった。
「早く、治療するといいですよ。」
彼はビールとチップスの残骸《ざんがい》をテーブルの隅に片付ける。
「サン・バーンも、それからアレルギーも。」
真理子は晴れやかな顔で、ええ、そうします、と答えた。
彼が出て行ったあと、真理子は手を念入りに洗ってから、三種類の薬の中からクリームを選んで肌に塗った。その途端から、肌の表面がひんやりとして、明らかに効果があるのがわかる。チューブに書いてある成分表示をまじまじと見つめたが、読めたのはmen-thol≠セけだった。
肌の腫れがひいていくのと同じ速度で、真理子の心も軽くなっていく。真理子はサン・バーンの部分に触れないようにそっとTシャツに着替え、ベッドに横たわった。夜気で冷えたシーツが肌に快い。今夜は眠れないかもしれない、と思った途端、気だるい夢が真理子を包んだ。
翌朝、真理子はいつものルームサービスの朝食を終えてすぐに、荷物をまとめてホテルをチェックアウトした。日本に向かう便があるのは木曜日だけで、今日がその、木曜日だったからだ。
一度帰りたいと思うと、もうあと一週間、ここに滞在する気にはなれなかった。無性に東京に戻りたくなったのは、きっと東京の人に会ったせいだ。フロントの前で真理子は立ち止まった。彼にあててメッセージを残そうと自分の連絡先を書いたメモを、少し迷ってから掌につぶした。
モーターボートが少し立派になった程度の船で空港のある島に向かうと、また強い日射しが真理子の肌を攻撃してくる。ここでぶり返しては元も子もない。真理子はあわてて帽子とサングラスをつけ、トレーナーシャツの袖《そで》を下げた。
まさにさびれた、という表現がぴったりの空港で出国手続きを終え、がらんとしたロビーのベンチで煙草を吸った。意外に早い帰国に、バッグの中にはまだ相当な量の煙草が残っている。真理子はこんなことなら思う存分吸っておけばよかったと思った。
近くに灰皿が見当らず、少し気は引けながら短くなった煙草を足元に捨て、スニーカーで踏みつぶした。不意に人の気配を感じてあわてて吸殻をベンチの裏側にかくし顔を上げると、彼が立っていた。
真理子は、やっとお迎えが来た幼稚園児のように笑って、彼を見上げた。やっぱり、東京の人は考えることも同じだ。彼は、悪役がいきなり善玉になってしまうくらいにっこりと笑って、真理子の本を目の前に差し出した。
「とうとう、読まずにすみました。君のおかげだ。」
彼の天下無敵な笑顔と共に、真理子もまた、同じ第一歩を踏み出していた。
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七月 美しい脚
口数多くつかみどころなし、これがユミに対する簡潔な評価だった。美容師の職を奪われるほどの理由になるのかどうかは別として、ユミはこの評価をおとなしく受け入れた。渋滞とか、校則とか、どうしようもないことにはじたばたしない主義だ。
問題は、ユミがくびになったことだった。右往左往した挙句、結局、ユミはチアキと同じ店で働くことになった。ちょうど、アルバイトに欠員が出たのだ。次に勤める美容院が見つかるまで、という条件で引き受けた。
これまでも、毎晩店が始まってから終わるまでずっとカウンターの席にいたのだから、ユミの生活はほとんど変わらない。座っているか、立っているかの違いだ。立ちっぱなしは本業で慣れている。ただ、美容院のやわらかいリノリュームの床にくらべて、コンクリートの固さが膝《ひざ》にひびく。
≪アルバイト中は飯食べ放題≫というのがこの店の求人の売り文句だったが、ユミはキャベツの千切りとトマトのサラダを少しつまんだだけだった。ユミはどんなことがあっても太りたくないので、特に夜は節食に努めている。
なぜなら、チアキの好みは、やせていて、酒が強くて、無口な女。本人に聞いたことはないが、そうに決まっている。
どう考えても、チアキに似合うのはそんな女だ。いつもの店の、小さなステージの上で、ギターから高い電子音を出して歌っているチアキを見れば誰だってそう思うはずだ。
ところどころ、ピンクに染めた短い髪、ブラックジーンズに包まれた少女漫画の主人公のような足、頬《ほお》に影のある三角の顔。毎夜カウンターのどこかの席から彼を見つめる度に、ユミは昨夜より幸せな気持ちになれる。
チアキのことをよく知っている仲間は皆、人は見かけによらない、と言う。とんでもない格好と容姿で、とてもまともな歌を、チアキはうたうからだ。
ユミはチアキとつきあってみるまでもなく、そんなことはわかっていた。チアキは充分、見かけによる。外見も中身も同じくらいまともなのだ。
ユミはいつも、年齢より三つ四つ上に見られるけれど、それだって同じことだ。ユミは中身も、同年代より三、四年進んでいるから外見もついてくるのだと信じている。人は見かけによるのだ。
チアキの音に合わせて、ユミはバーボンソーダをかきまわす。音を通してだと、なぜこんなに素直に人を好きになれるのだろう。チアキとは、心も身体もつながっているけれど、それ以前に音でつながっているのだ。氷が、かすかな音を立てて溶けていく。
「ケイに、会ってもいいか?」
ステージの合間に、チアキが訊《き》いた。
「だめだよ。まだ、二か月半。」
チアキがケイと会わなくなって、まだ二か月半しか経っていない。まだ早い。
「半年の約束だもの。」
チアキがステージのあとに飲むブラックヴェルベットをつくりながら、ユミはわざとぶっきらぼうに答える。
「最近、性的意欲が減退してる。」
チアキは、ユミの返事を聞いているのかいないのかわからないような言い方だった。
「裸の男か女が隣にいても、何もする気にならない。」
チアキは多分、ユミのことを言っているのだ。チアキと一晩中一緒にいても、何もないことの方が多い。でもユミは、これは単に、まだチアキが女とのセックスに慣れていないせいだと思っている。
「年とったのかな。」
まるで似合わないセリフなのに、なぜかチアキの言葉に違和感がない。
「何だか、セックスなしでも生きて行けそうだ。」
セックスなしの人生、ユミは考える。それもいいかもしれない。そんなに、大したことじゃない。
失業中の身になると、日中何もすることがない。ユミはチアキと一緒に泳ぎに出かける。チアキは毎日、店に出る前に、スポーツクラブのプールで二時間ほど泳ぐ。
楽器を弾いているときの身のこなしも、演奏の一部なのだ、とチアキは言う。それには自分の筋肉のひとつひとつを美しく整えておかなければならない。それに最適なのは、ジムで鍛えることよりも、水泳なのだそうだ。健康的な、ミュージシャン。
ユミも、筋肉がついてしまうほど必死に、でなければ泳ぐのは好きだ。全身運動でカロリー消費になるし、何より、ここのプールの脇《わき》にはサウナがある。サウナの中でじいっとして、自分の限界を垣間《かいま》見ながら汗をかくのは快いものだ。
黙々と泳ぎ続けるチアキを採暖室のガラス越しに目で追いながら、ユミはひたすら汗を搾《しぼ》る。ここには、昨日飲み過ぎた酒や、日頃の美食のつけを払うために、恐るべき脂肪をかかえた人々がやってくる。
黄色がかったぶよぶよした脂肪の固まりの間にはさまれると、自分の身体までぶよぶよしてきそうで、ユミはあわてて両脚をマッサージする。ふくらはぎは合格だが、太腿《ふともも》がまだ太いのが不満だ。
ノルマを泳ぎ終えたチアキが、採暖室のドアを勢いよく開ける。一瞬入り込んだ外気に、人々の汗のしずくが熱を下げる。チアキはユミの顔を見もせずに、隣にどすん、と腰かけた。息を切らし、頭から水がしたたり落ちる。
社交辞令と陰口で構成された周囲のおしゃべりがぴたり、と止む。この空間におけるチアキの違和感には、果てのない噂《うわさ》 話《ばなし》を途切れさせるだけの威力があった。チアキの髪のピンク色の筋が、濡《ぬ》れて一段と華やかさを増している。
「今日、ケイを見かけたんだ。」
奇妙な沈黙を平然と破って、チアキが優しい声で言う。
「家の近所の古着屋で、ジーパンを試着していた。」
チアキが話すのを聞いて、押し黙った人々が、人は見かけによらない、と思っているのがわかる。
「でも、声をかけなかったんだ。」
ユミは、チアキがもっと、冷たい声をしていてくれたらよかったと思う。チアキのかすかなため息が深呼吸に聞こえるほど、そこは静かだった。
「髪形と、ファックのことだけ考えていた頃に戻りたいよ。」
採暖室にいたほとんどの人が、不愉快な顔で出て行く。もしかしたらちょうど熱さの限界だっただけかもしれない。急にがらんとした密室で、チアキは立ち上がり、ストレッチをはじめる。
汗が吹き出す、ほどよい筋肉がはりついた身体の動きは、異様といっていいほどの美しさだ。
「近頃、考えることが多すぎる。」
その通りだ、とユミも思う。ユミはチアキよりひと足先にサウナから出、軽くシャワーを浴びた。一番すいている左端のコースを選んで、ユミは片道二五メートルずつ、平泳ぎとクロールを交互に泳ぐ。かたよった筋肉がつかないように。
ユミはただ義務的に、ターンの数を数えていく。ほかに何ひとつすることがない。ターンの数を増すことと足し算を間違えないことだけを考える。ターン十四回でユミは泳ぐのをやめた。プールサイドから、チアキが帰るよ、とサインを出したからだ。
男性用と女性用の更衣室に別れるとき、チアキが言った。
「ケイの奴《やつ》、相変わらずきれいな脚をしていたよ。」
何日か経って、ユミはケイに会いに行った。チアキのアドレス帳にあった住所をたよりに、失礼だとは思いながら、いきなりの訪問をした。電話をかけてアポイントをとったりしたら、すぐにチアキに知られそうでいやだったのだ。
ケイが住んでいるのは、エレベーターのない五階建てのマンションの五階だった。多分二階に住んでいる人の家賃より一割は安いだろう。
表札を確認し、一呼吸おいてからブザーを押した。数秒待ったが、何の反応もない。今度は強めのノックを三回した。二回のノックはトイレの場合だけだ。
中で、何の物音もしなかったのに、静かにドアが開いた。ケイは、顔に何の感情も表さないまま、ユミを見た。
浅黒い肌で、子供のように青く澄みきった目がよけいに際立って見える。ふと視線を落とすと、チアキが言っていた通りの、すらりとまっすぐに伸びた美しい脚が目に入った。
「こんにちは、はじめまして。」
こんな挨拶《あいさつ》を、ユミはここ何年も口にしたことがない。
「こんにちは、はじめまして。」
ケイのオウム返しに、悪意は感じられなかった。子供が、人のすることをそっくりそのまま真似するような、作為のないかんじだった。
「チアキを、知ってるでしょ。」
どこか南国の王子様のような高貴なつくりの顔が、こっくりとうなずく。
「私がチアキに、あなたに会うなと言ったの。今は私が、チアキの恋人だから。」
ブロンズ像のような顔が、今度はかすかに上下する。
「チアキに会えなくて、悲しい?」
ユミが聞くと、またうなずいた。どうやら彼は、人見知りするか、もともと無口なのか、どちらかだ。
「でもね、チアキはまだあなたのことが好きなのよ。あなたに会えなくなって、混乱してるの。セックスもできないの。」
今度は、ケイがうなずくよりも早く、ユミが続けた。
「チアキに会ってあげて。あなたがチアキを元気にしてあげて。」
ケイはうなずくかわりに言った。
「カズキの頭文字をとって、ケイ。みんな、そう呼んでいるから。」
ユミが、少し言いにくそうに、あなた、という言葉を使っていたのを察したのだ。悪い人じゃない。ユミはほほえみで返した。
「三人で、仲良くやりましょう。」
ユミはきっぱりと言った。
「きっと、それがみんなのために、一番いいのよ。」
不意にユミは頭の中で、チアキとケイがセックスしている姿を想い描いた。今まで、男と女のセックスしか考えたことがなかったが、ユミの想像できる範囲では、そのどれよりも美しかった。
ユミとチアキと、ケイと三人ではじめて食事をしたのは、芝の桟橋付近にできたばかりの、店全体を温室に見立てたガーデンレストランだった。ケイが菜食主義者なのを考えて、ベジタリアン用のメニューのあるそこを選んだ。
ケイは、いい具合に色落ちしたブラックジーンズをはき、何の変哲もないグレーのシャツの袖《そで》をまくっていた。ソックスはなしで、じかに洗いこなれたスニーカーをはいている。さりげなさのオンパレードだ。
女性の目から見ても、ケイはいい男だった。今まで感じたことのないなよなよとした魅力があり、それでいて清潔感がある。ユミは、先週マンションで会ったときより、ケイの背が少し高いような気がした。
チアキは、ユミとケイの両方に対して、これ以上ない、というぐらい自然にふるまった。特にどちらかを立てるわけでも、特別なエスコートをするわけでもなく、三人でそこにいること自体が、すでにあたり前であるかのような素振りだ。
「みんな、ビールでいいか?」
ケイが、この間と同じようにうなずいた。ユミはチアキが自分の方を見てからうなずいた。
注文したものを待つ間、無口なケイがチアキに何か、ぼそぼそと途切れ途切れに話している。よく耳をすましてみると、ケイとチアキが共通のファンであるらしいミュージシャンの新譜が、いかに駄作であるか、といった内容らしい。あいにくユミは、そのミュージシャンの名前すら知らない。
この仕事には絶対向いていない、相当太り過ぎの女が、何回もほかのテーブルにぶつかりながら、コロナビールを三本、運んできた。
半月型に切ったライムを、瓶の小さな口から黄金色の液体の中に、ねじ込む。ケイがいるせいか、いつもなら何でもないような行為までが、ユミにはエロティックな光景に思えた。
「三人の、これからに。」
チアキが普段よりワントーン明るい声で乾杯の合図をする。ケイとユミは、コロナの瓶を上げ、無言で同意を示す乾杯をした。
それからは、男女が入り交じったごく普通のグループのように、それぞれの決めた食事をし、それぞれの役割に合った会話をし、ビールをおかわりした。
その間、ユミは両隣のテーブルから聞こえてくる会話を、聞かないようにするので必死だった。
片方のカップルは結婚の話をしており、もう片方は離婚の話をしていた。ケイとチアキとユミの昼食の会話は、ちょうどその、中間ぐらいだった。
ケイに再会してから、チアキは明らかに元気を回復していた。店での演奏にも熱が入り、客からのチップもずいぶん増えた。
常連の中にはレコード会社や放送局の人間もいて、チアキのレコードデビューの話ももちあがった。チアキは昼間、様々なオーディションを受けたり、デモテープを録《と》ったりするのに忙しくなった。
その間、ユミは客のために酒を水やソーダで割ったり、別の酒をまぜたりすることを続けた。でもユミは、酒をつくっている暇があったら、その分チアキを長く見つめていたかった。今、この瞬間のチアキを憶《おぼ》えておきたい。ユミは目を開いたまま祈った。
「すごくきちんと、手入れされている。」
猫が二、三匹寝そべったら埋まってしまうほどの小さな庭を見て、ケイが言った。都心から少し離れたところにあるユミの住まいは、古いが一軒家には違いなかった。ユミの庭は、芝が丁寧に刈られ、ぐるりにムラサキ色の小花が整然と植えられている。
「趣味なのよ。」
ユミは三人分の紅茶を用意しながら答えた。
「美容師だから、カットするのは得意なの。」
何度もこの家に来ているチアキに、庭をほめられたことは一度もなかった。ユミはケイに対して、チアキとは別の好感を持った。
二人はそれぞれ別の興味ある対象を見つけた。チアキはユミの本棚にあったマイク・アンド・ダグ・スターンの写真集を、ケイは庭に一本だけ咲いていたおしろい花を、注意深く眺めている。
「キッチンに、アップルケーキがあるんだけど。」
ユミが聞くと、二人はほとんど同時に嬉《うれ》しそうにうなずいた。ユミは紅茶を背の低い丸テーブルに置き、台所に戻った。昨日焼いたケーキの香ばしい匂《にお》いがまだ残っている。ケーキを切り分けている途中、親指の幅ほど開いた扉のすき間から、チアキとケイがキスをするシルエットが見える。
「お待たせ。」
ユミがお盆を持って出ていくと、チアキとケイが、抱擁したままの姿勢で振りむいた。
チアキを中心とした三角形は、微妙なバランスをとりながら少しずつ前に進んでいく。数秒ごとにわずかに形を変えるトライアングルには死角がなく、いつ、どんな方向から見ても絵になった。
「ものすごく、幸せだ。」
ユミの寝室で飲み明かした午前五時、チアキが言った。
「もしもこのまま、ずっと三人でいられたら、素敵だと思わないか?」
「いられるよ。」
ケイは間髪あけずにこたえて目を伏せる。そのあと、自分の胸に言い聞かせるように、そうに決まってる、とつぶやいた。
「僕にとっては、たまにしか起こらない気持ちなんだが。」
チアキは持っていたグラスを置いて、毛足の短い霜ふりのじゅうたんにごろりと横になった。
「よくある話らしい。」
ユミは、チアキの横にすべりこみ、骨ばった背中を抱きしめる。するとチアキが、座っていたケイを胸に抱き寄せた。
「つまり、むずかしいらしい。」
三人の心の中が交ざりあった半透明の沈黙が続く。
「短い日が終わりそうだ。」
チアキが口を開いた。ちょうど昇りはじめた生まれたての朝日が、冷えた横顔に温度を加える。
「しゃべり続けようよ。」
その言葉ではじまった三人のおしゃべりはドーナツみたいに終わりがなかった。チアキはユミとケイの手を握りしめ、二つの身体にぴったりとカーブを合わせる。重ねあわせたスプーンのように。
その途端、ユミは足元から這《は》い登ってくる異様な気配に思わず目をつぶった。
スプーンは、三本一組では存在しない。
ユミは鳥肌になった皮膚の突起を指の腹でなぞり、かろうじて乾いた空気を胸の中に入れる。チアキの冴《さ》えた笑いがほの暗い部屋に響いた。
一組のスプーンになって眠り込むケイとチアキを視界に置きながら、ユミはつるつるしたテーブルの上で手紙を書いている。どちらにあてた手紙なのか、ユミにもわからないまま、ペンだけが生き物のように動き続ける。
「君のせいじゃないさ。」
ケイは端整な造作をまるでくずさずに、チアキが去っていったことを告げた。
「飛行機だって、電車だって、二人がけって決まってる。三人一緒じゃ、どこにも行けない。ジェットコースターにだって乗れない。チアキもそう思ったんだよ。」
ケイはユミの手紙にあったフレーズを息もつかずにしゃべっている。彼のもの言いにはとげがなく、穏やかだ。
「君がいて、よかったよ。君がいなかったら僕にはもう何もない。」
薄く、無機質な唇が動いている。ユミは乾いて仕方がない唇を何度もなめた。
「私はずっとここにいるわ。チアキがどこへ行ってもわかるように。」
ユミはずっと前から決めていた答えのようにすらすらと話す自分に驚く。
「一緒に住む?」
ユミの言葉に、ケイがゆっくりと口を開いた。
「ぜひ、そうしたいよ。」
ユミがそっと目を伏せると、オリーヴ色の短パンツから、少し陽に焼けたケイの美しい脚が伸びていた。
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八月 君がいた夏
「昨年と同じ。」
七月分の小遣いをすべてはたいて買った赤い花柄のサングラスをかけた美和が言う。でも、砂の上についた三郎のコンバースの跡は昨年より一センチ大きい。
「昨年と同じ、場所があいてる。」
美和が指さしているのは、昨年の夏、浜辺にまるで魚の天日干しのようにびっしりと敷きつめられた海水浴客をかきわけ、やっと二人で寝そべるだけのスペースを見つけた岩の上だった。
「三郎。早くしないとあすこもとられちゃう。」
美和がせかしても、三郎は悠々としていた。平たい亀《かめ》のような形のその岩は、大人が寝ころがるには小さすぎ、小学生が登るには高すぎる。まさに美和と三郎のために用意された特別な岩だ。誰にも侵略されるはずがない。
美和は三郎の右手をつかんで駆け出した。昨年の美和は、こんなふうに平気な顔で、自分から手を握ったりはしなかった。髪ももっと短くて、ちょうどあごの下あたりでところどころ外側にはねていた。美和が髪を伸ばしはじめたとき、三郎は反対した。けれど美和は大人っぽくなりたい、と言って伸ばしつづけた。そのもくろみが達成されたかどうかは知らないが、三郎の目の前で美和の長い髪が揺れている。
三郎のローカットの白いコンバースには、薄汚れて灰色がかった砂があちこちから攻め込んでくる。美和は昨年と同じ、紺のビーチサンダルをはいているから大丈夫そうだ。
砂浜と岩場のちょうど境目にあるその岩に到着するまでには、三郎の足は二倍くらいの重みを引きずって、すでに人の魚で埋《うづま》りかけた浜辺を歩くのは一苦労だった。美和が三郎の手を離し、早々と平たい岩の上に白と青のチェックのビーチシートを広げている。
「少し、せますぎないか?」
岩に登りかけて三郎は言った。実際試してみても、美和と並んで身体を伸ばしてまだだいぶゆとりがあった昨年にくらべて、そこは明らかに窮屈だ。二人とも、中学一年から二年に上がる一年間でずいぶん背も伸び、体重もいくらか増えた。特に美和はここ半年で身長が六センチも伸び、ついに先月、三郎を追い越していた。
「でも、ほかにいい場所がないもの。それにここ、気に入ってるのよ。」
美和は別の場所を探そうともせず、さっさと太陽を浴びる準備をはじめた。買ってきたコーラやジュースを手に取りやすい位置に並べ、背中がいたくならないように自分の側にだけピンクのバスタオルを敷き、Tシャツを脱いだ。
Tシャツの下から現れた美和の真赤な水着姿に三郎は驚いていた。薄っぺらいやせた少女の胸が、ふっくらと丸みを帯びた線に変わっている。この浜辺で美和と最初のデートをしてから、どちらかに何か特別な用事がないかぎり毎日会っていたのに、三郎はこの大きな変身に微塵《みじん》も気づかないでいた。これは魔法だ、と三郎は目を伏せる。何かからかって洒落《しやれ》にしてしまおうと思ったがうまくいきそうもなかった。
美和をはじめて海に誘ったのは、ちょうど一年前の八月、彼女は同じクラスで図書委員をしていた。三郎は図書室で借りた本の期日を毎回毎回わざと遅れて、美和と話す機会をつくった。中学の入学式で一目惚《ひとめぼ》れしてから三か月半、絶えまなく続けた努力の成果が、この灰色がかった青い海に結集したのだった。
このあたりに並ぶいくつもの海水浴場の中で三郎がこの海岸を選んだのは、思いつきや行きあたりばったりでは決してない。三郎が小学校に上がる前、その頃はまだ仲の良かった父と母に連れられて、はじめて海を見たのがこの海岸だった。
渚橋《なぎさばし》を過ぎて最初の角を折れると、下り坂の向こうにごつごつとした岩に囲まれた砂浜が見える。白く並んだくじらの歯のような波が、岩にぶつかってはじける度に、もうとっくに忘れてしまった青い感情が胸の奥で叫び出す。三郎にとってここは、特別な海だった。
横浜にある三郎の家からこの海までは、自転車で来ると決めている。全力でこいでも二時間くらいかかるのだが、電車やバスを使うのは裏口から建物に入るようで気が引けた。今朝も、遠いから自分でこぐのはいやだという美和を、自分で緑色に塗りかえたお気に入りの自転車の後ろにのせて、三郎は渚橋を渡った。
「何か食べない? 私、お腹ぺこぺこ。」
美和は長いまつ毛をぱちぱちさせて言う。何かわがままを言うときや、自分の意見を通したいときに必ずやる仕草だ。三郎は近くのファミリーレストランまで、テイクアウトのホットドッグを買いに行くために立ち上がった。
「早く帰ってきてね。」
三郎はうなずいて、仰むけになった美和の胸のあたりをもう一度見る。さっきの驚きはときめきには変わらなかった。三郎は大量の汗と潮風でぐっしょりとしたTシャツを脱ぎ、自分の胸郭を見下ろす。少しはたくましくなったような気もするが、美和ほどの変化は見当らない。
脱ぎ散らかしたコンバースを拾おうとして、三郎はまた砂が入っては面倒だと思い直し、美和のビーチサンダルを内緒で借りた。少し小さかったが、ほんのちょっとした買い出しには充分こと足りる。
さっさと用事を済ませて自分も空に向かって目を閉じたかった。けれど三郎の意志に反して、勢いよく進み出たはずの足はたった五、六歩のところで止まってしまった。美和が見ていないかどうか確かめてから三郎は心おきなくある一点を見つめた。
岩の裏側にまわって一五メートルほど先に、三郎は昨年と同じ、ある風景を見た。
バドワイザーのロゴがでかでかと入った特大の浮き袋と、キャンプにでも来たかと思うほどに本格的な水色のクーラーボックス。この奇妙な二つの取り合わせが三郎の足を棒にしていた。
「まさか。」
胸の中の期待と不安が口からはみ出していた。どこにでもあるありふれた夏の正午、昨年とまるで同じ場所で特定の人と再会する確率をどうして信じられるだろう。三郎は、浮き輪とクーラーボックスと、砂浜の特等席に大きく場所をとったスヌーピーのビーチシートの持ち主を早く確かめたかった。これが単なる偶然の一致で、三郎の速まる鼓動とは全く別の人物がそこに座るのを見て、早くがっかりしたかった。
海に出ていく何組ものカップルに邪魔にされながら、三郎は息を殺してひたすら待った。けれど誰も帰って来なかった。三郎は、ホットドッグに向かう直線を三歩ごとに振りかえりながらゆっくりゆっくり歩きはじめる。
木と人にさえぎられて、そこだけが夢のように見えるぴかぴかした場所が、太陽を反射する一点の光でしかなくなる。三郎がもうこれで最後と振りかえったとき、光の中で夏の女神がうごめいた。彼女だった。どんなに遠目だろうと、三郎の瞳《ひとみ》のシャッターにずれはない。奇蹟《きせき》だ、と三郎は天を仰ぐ。
「そんなとこつっ立ってないで、座れば?」
それが三郎の聞いた最初のエンジェルヴォイスだった。
「大丈夫よ。男はオオカミだなんて全然思ってないから。」
彼女は顔を上げずに、濃いパールピンクのマニキュアを一心に塗っている。その爪《つめ》はどれも深く噛《か》まれて、形も表面もでこぼこでマニキュアが塗れる面積はほんのわずかだ。彼女以外のほかの誰がやっても不潔に映るだろう行為が、三郎はこんなに不揃《ふぞろ》いの爪も可愛《かわい》らしいな、と思っただけだった。
「座んないならさっさと行って。影になっちゃうの。」
マニキュアの瓶にふたをして、彼女は白いふちのサングラスを額の上にきゅっと上げる。フランスの雑誌に出てきそうな洒落たサングラスは、何度もブリーチして白っぽくなっている前髪にぴたりとおさまった。日に焼けた、南の島に似合いそうな顔立ちと、少しつき出てふてくされたように見える唇は昨年のままだ。
「私、肉は食べないの。何か、血が汚なくなるみたいな気がすんの。」
そう言われて三郎は、手に持った二つのホットドッグの存在を思い出す。でも一体どうやって手に入れたのかは思い出せない。三郎はシートの脇《わき》の砂の上にホットドッグを置き、彼女の横に座る。コパトーンのココナッツの香りと、マニキュアの軽いシンナーの匂《にお》いがまざりあって、頭がくらくらする。
「一人なの?」
彼女はこくんとうなずいてにこっと笑った。近くで見ると、まぶたの上にアイテープを貼《は》ったあとが白く浮いている。三郎は、生涯こんなに勇気を出さねばならない場面は滅多にないのではないかと思った。
「昨年、一緒だった人は?」
彼女の口元から微笑が消え、また元のふてくされた表情に戻る。あてずっぽうでこんなことを言っているのではないことをわかってほしかったが、三郎には術《すべ》がなかった。今の自分のように彼女の隣の席に座って、真白なビキニの腰を抱いていたたくましい腕。
「地元の子?」
彼女は塗ったばかりのマニキュアにふうっと息を吹きかけながら聞いた。三郎は首を横に振った。
「だって、うちらがここに来たの、昨年一回だけだよ。」
彼女が自分の言葉を本気にして答えているのが嬉《うれ》しくて、三郎は思わず歯を出して笑ってしまう。笑うと急に子供っぽい印象になるのがいやで、ふだんから女の子の前ではなるべく笑わないように気をつけているのだ。
「シャッターチャンスは一回しかないもんだよ。」
三郎の粋がったセリフに彼女は笑って、例のクーラーボックスを開け、小さいサイズの缶ビールを二つ、取り出した。ほかに、ミネラルウォーターの瓶とサンオイル、チョコレートやビスケット、柿の種も見える。差し出された缶ビールは、決して断われない誘いを体現するかのように冷たい。プルを引くと、波しぶきのような泡が宙に舞う。
「ふられたの。」
彼女は顔を空にむけてごくごくと音を立ててビールを飲んだ。白い水着を引き立たせるためにあるような濃い肌色の首筋が脈を打つ。
「私がこんなだから、しょうがないんだ。」
生まれてからたった三度目に飲んだビールが喉《のど》に熱い。
「こんなって、何?」
咳《せ》き込みたいのをかろうじてこらえて、三郎はきいた。彼女は三郎を向き直ってまたにこっと笑う。慣れない酒気と、容赦ない日射しと、信じられない自分の大胆な行動に、視界が揺れた。
「私、中学んときからいろんな男とやっちゃって、無駄に数ばっかり増えちゃって。でも何ともなかったの。」
彼女は視線を三郎から水平線に移した。
「だけど、あいつのことだけは、本気で愛してた。」
昨年の彼女の、あの男に惚れきった眼が三郎の頭に浮かんだ。
「あいつに抱かれて、私、変われると思ったんだ。過去なんて、ちゃらにして、でも、だめだった。」
「変わる必要なんかない。」
三郎は自分の強い語気はきっと何かの間違いか、もののはずみだ、と思った。彼女は目との間隔がせまい眉《まゆ》をほんの少ししかめて三郎を見た。三郎はいらいらと胸にこみあげる怒りに似た感情に耐えきれず立ち上がった。もうすっかりどうでもよくなってしまった足元のホットドッグが、グレーヴィーの湯気を上げている。
「つきあってもいいよ。」
彼女は三郎をまっすぐに見上げる。彼女の身体が光と影になっている。
「今日から十日間、あんたが毎日来てくれたらつきあってもいいよ。」
三郎はホットドッグをつかんで歩き出す。彼女に背をむけた途端、雲をつくビッグウェーブが胸の中ではじける。満面の笑みがこぼれ落ち、人目さえなければ飛びあがりたいくらいだ。
「遅い。」
岩に戻ると美和は、たかがホットドッグを買うのに三十分もかかった三郎に相当腹を立てていた。その上美和のビーチサンダルを無断で借りた挙句どこかに忘れてきてしまったという事実を知ったときにはすでにヒステリー状態だった。三郎がたった三十分の間にこんなに大人になっていなければ、二人の仲はとっくに終わっていたかもしれない。
「新しい、もっと素敵なのを買ってあげる。」
三郎はホットドッグの包装紙についた砂を払って、ひとつを美和に差し出して言った。美和は黙って受け取り、添えてあったマスタードを山のようにかけてから三郎に返した。
「それ食べたら許す。」
喜んで、三郎は食べた。何の躊躇《ちゆうちよ》もなく真黄色の固まりを口に入れ、大きくかじりとった。三郎は信じ難い辛《から》さと幸せに思わず目を閉じた。
次の日の朝早く、三郎はまた緑色の自転車に飛び乗った。昨夜ほとんど眠れなかったおかげで無理して早起きする必要もなかった。
家を出る前、ずいぶん迷ってから色褪《いろあ》せた紺のTシャツを選んで着た。三郎が持っている服の中でいちばん世慣れて見えるシャツだと思った。Tシャツの胸ポケットに、この間こっそり自動販売機で買ってそのままになっていたマイルドセブンとライターを入れた。裸足のまま昨日のコンバースに足を入れると、わずかな砂がざらりとした感触を残している。
美和の重みがない分、そして三郎の心が夏の日のひまわりのように天に向かっている分、自転車は軽やかに走った。すでに汗ばんだ頬《ほお》をなでていく風も、空への階段を昇りはじめた太陽も、通り過ぎていく草や木の緑も、すべてがいつもと違う光を放つ。
途中、肉を食べない彼女のために、種なしブドウとスモモを一山ずつ買った。甘い菓子やラッカーで揚げたようなスナックより、新鮮な果物が彼女にぴったりだ。
木かげに自転車を止め、茶色の紙袋を抱えて浜辺に出ると、昨日とほんの一センチも変わらない位置に彼女が座っていた。まるで昨日からずっとそこを動いていないみたいだ。
「早いね。」
三郎がお土産《みやげ》を差し出すと彼女は想像以上に喜んだ。まぶしい太陽が白い砂に反射して目がうまく開けられなかったが、見なくても彼女の笑い方でわかる。
「早く来ないと、ここ、誰かにとられちゃうもん。」
ここはあの岩とは違うのだ。いつまでも自分たちのために場所を空けておいてはくれない。油断していたら、すぐに誰かにとられてしまう。
彼女は三郎からの果物をひとつひとつ丁寧にクーラーボックスの余白に詰め込んだ。どうやりくりしてもひとつだけ入らなかったスモモを、彼女は口元に持っていって一口かじった。
「おいしい。」
三郎の前に差し出された赤い実は、下の前歯が少しでこぼこした小さな歯型で水々しい果肉がむき出しになっている。たった今、そこに彼女の唇が触れたと思うと、下腹のあたりが妙なかんじになる。
三郎はあわてて、彼女以外のことを考えようと必死になった。白い波やせみしぐれ、昨年より小さくなった平たい亀のような岩、あまり似合わなかった美和の自慢のサングラス。彼女にまつわることでなければ何でもよかったのに、その試みはうまくいかなかった。結局三郎は彼女の肩までの髪に触れたらどんなにやわらかいだろうと考えていた。
「私、金髪になりたかったな。」
三郎の視線を察して彼女がつぶやいた。三郎は目の前の果肉におそるおそる近づき、ほんのおしるし程度にかじりとって彼女の手に返した。
「絶対、似合うと思うんだよね、私。」
それから、太陽が大勢の人間の頭上をコマ送りに通り過ぎ、どこまでも続くさざ波の中にすっかり沈んでしまうまで、彼女は何かのインタビューを再生するテープのように、あらゆる種類の事柄について話した。
彼女が十七歳で、霞《かすみ》という名前であること。この海の景色が好きで、三郎とほぼ同じ距離の片道をバイクで走って来ること。盲腸のあとを目立たなくするために毎年ビキニで焼いていること。一度砂浜に出たらもうどこにも行きたくなくなり、何でも手に入る大きなクーラーボックスが必要だということ。
三郎もいくつか質問に答えたが、どれも取るに足らないことばかりで、本当に話したいことは口にできなかった。それでも彼女は三郎の胸の煙草が封を切られていないことを見抜いていたし、三郎は彼女が見抜いているのを気づいていた。それに対する彼女の感情が嘲《ちよう》 笑《しよう》 や憐《あわれ》みでないことも知っていた。
「あんたがほんとに来てくれたから、帰ってカレンダーにしるしをつけるね。」
すっかり乾いてしまった水着の上から、オレンジ色の長袖《ながそで》のシャツをはおり、細いぴちぴちのジーンズをはいた彼女は、水着で見たよりずっと大人っぽく見えた。アキレス腱《けん》の両脇の縦長のえくぼを包んだのは三郎と色も形もお揃いのコンバースだ。
「十日目に星印をつけたら私、生まれ変われるかな。」
二五〇CCのバイクにエンジンをかけて、白いヘルメットをかぶった彼女の手が三郎の方に伸ばされ、三郎はそれを握った。夏の夜は青く、十四歳の三郎は恋をしていた。
真夏の朝早く、誰よりも早く彼女の目の前に現れたくて、三郎は毎日自転車で駆けつけた。一日中、お互いの日に焼けた肩にもたれたまま、ありふれた海岸の夏の日を過ごした。三か月も前から予定されていた家族旅行を断わって母親にこっぴどく叱《しか》られたことも、日毎に機嫌の悪くなる美和からの電話も、この素敵な日課にくらべたらほんの些細《ささい》なことだった。
よそよそしさが薄まった分、三郎と彼女の間にはある親密さが生まれていた。けれど、その程度だった。ただ白っぽい夏の陽光だけが、毎日あたたかくぎこちない二人を包んでいた。
けれど、九日目の朝だけは様子が違っていた。徐々にスピードを増す自転車を、今年一番強い風が左右に揺らし、三郎は何度も転びそうになった。空を見上げるとドライアイスの煙のような雲が、よってたかって太陽に覆いかぶさろうとしている。台風だ、と思った瞬間、気の早い一粒目のしずくが三郎の肩に落ちた。
普通の海水浴客であったら、すぐにまわれ右して家に戻ればそれでいい。でも三郎には約束と使命があった。とにかく急がなくてはならない。数秒ごとに色を変える雨足の中を、ただ一心に海に向けて走った。昨年と同じ八月、同じ場所で出会えた夏の女神に会うために。
やっと聖地にたどりついたときには、強風とスピードにシェイクされ続けた三郎の頭の中は、パンチドランカーのごとくわけのわからない音や光がわんわんしていた。自転車のキーもそのままに、三郎は砂浜へと駆け出した。砂浜は姿を茶褐色に変え、景色さえむしばんでいる。
雨のベールのむこうには、たったひとつの人影もない。三郎は激しい息づかいのまま絶望の空を見上げた。台風が、彼女との間を見事に切り裂いたのだ。すでに泥沼に変わり果てた地面に三郎はへなへなと腰を落とした。
「三郎。」
それが自分の名前かどうか一瞬判断に困るほど混乱した頭を三郎はかろうじて動かし、振り返った。彼女は細い肩ひもの、濡《ぬ》れる前はきっと淡いピンクだったのだろう膝丈《ひざたけ》のサンドレスを着て立っていた。
何も言わず、二人は近づいて、お互いの胸や腕や肩の中に落ちていった。彼女は三郎の頬から冷えきった髪をはなして、大きな茶色がかった瞳《ひとみ》で三郎を見つめた。
三郎は彼女にキスし、彼女も三郎の唇に生ぬるい唾液《だえき》を返す。長く、せつない、終わらないキスだった。彼女は三郎の首に腕をまわし、二人の下腹をこすりあわせる。三郎が彼女の乳房の形を感じているように、彼女も自分を感じていると思った。
「明日。」
はなした唇が動いて、彼女が言った。
「また、夏が終わる。」
二人のサーファーが、浜に置いたボードを取りに、二人の横を通り過ぎた。男達は会話するのをやめ、笑みをうかべてずぶぬれの二人を見守った。いつか自分も、あんな少年と少女のようなキスをもう一度したいものだと思いながら。
ついに一睡もできずに迎えた次の日の朝、三郎はばね仕掛けの人形のようにベッドから起き上がった。彼女との約束と八月に幕を降ろす空は、泣きわめいた一瞬あとに涙の理由さえ忘れてしまう子供のように上機嫌だった。
三郎は自転車のかごに、入念に磨いた大切なカメラを入れた。中学の入学祝いに父親にせがんで買ってもらったニコンで、まだ二、三度しか使っていない。滅多やたらくだらない写真をこのカメラで写す気はなかった。でも今日は、このカメラが活躍するにふさわしい日に違いない。
カメラが潮風で傷まないように、丁寧にタオルでくるみ、いつも水着を入れるのに使う、内側が防水加工された小さなバッグに入れ、三郎は砂浜へ降りていった。昨日、彼女と口づけた場所を通ると、顔が上気するのがわかる。そこでスローダウンした三郎の足はすぐにぴたりと止まった。
真中のピースだけが見つからないジグソーパズルのように、三郎の前に拡がった景色は一か所だけぽっかりと欠落していた。そこにはクーラーボックスも浮き輪も、そして彼女もいなかった。かわりに、見たこともないチョコレート色の肌をした男女が汚ならしい汗をかいて寝そべっている。
これが彼女の、夏の終わりだった。彼女のいない景色はそのまま、三郎への答えでもあった。待っていさえすれば解決する種類の問題でないのは明らかだった。三郎の心は空っぽになり、ぐるぐるとまわった。
三郎は軽い微熱を感じて、ふらふらとあの岩にむかった。岩に登り、コンバースを逆さまにすると、思ったより大量の砂がさらさらと落ちていく。三郎は途中からその砂の流れを掌で受けとめ、またコンバースの中に戻した。けれど、落ちてしまった砂時計を何度ひっくり返しても、夏の日は帰らなかった。
岩の上にできた小さな砂漠に、三郎は意味のない落書きを繰り返しながら、彼女との記憶の束をめくった。彼女の顔や姿、言葉と仕草をひとつひとつ思い出し、また思い出した。彼女のほかに、もう求めるものなど何もなかった。三郎はこの十日間を一生だと信じた。
三郎はもう一度、岩の上から砂浜を見渡した。彼女がいないことをあらためて確認しないうちに、三郎は視線を岩の上に落とした。
来年、また夏はやってくる。でも、今年よりもまた、さらにこの岩は小さくなっていく。誰も、いつまでも子供ではいられない。
三郎は、傾きかけた太陽に頬を染めていた。尻《しり》のポケットの中でよれよれになった財布から、一枚の紙片を引っぱり出した。何度も何度も取り出しては眺めたせいで、端がこすれて切れている部分もある。それは三郎の大切なカメラで撮った貴重な一枚だった。三郎はその中の小さな一点を指の腹でそっとなでた。
昨年の夏、この岩の上でシャッターを切った瞬間、三郎の目がとらえていたのは美和の笑顔ではなかった。ピントがはずれた美和の向こうに、大きなクーラーボックスと派手な浮き輪、そしてたくましい腕を見つめる彼女がほほえんでいた。
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九月 指輪の行方
工藤和也が成田空港について一番最初にしたことは、亜季実に連絡をとることだった。手荷物を受け取るカウンターに向かう途中、ボストンバッグから携帯電話を取り出し、自分が今、電波の届く位置にいることを確認する。
別に、一刻も早く声が聞きたいとか、一か月と十日のシンガポールロケの間中ずっと会いたいと思っていたとか、そんな感情では決してない。強いていえば、自分の帰国を最も弾んだ声で迎えられたいという気持ちである。
電話番号はとっくに頭に入ってはいたが、あえて分厚いシステム手帳を繰って彼女の勤める製薬会社の欄に目を落とす。途端に、いつか偶然見かけた亜季実の制服姿が頭に浮かんだ。白いブラウスに紺のジャンパースカートという、今時めずらしいほど簡素な事務服だ。しかしそれは亜季実の赤茶けた長すぎる髪と派手な顔立ちを余計に引き立て、奇妙な調和を生んでいた。
「工藤と申しますが、庶務課の坂口さんをお願いします。」
相変わらず無愛想なOLが、和也にも聞こえるようにわざと受話器の口を押さえずに亜季実を呼んでいる。男から電話のかかる若いOLは常に年上のOLに意地悪をされるものだ。ざわついた社内のノイズが保留のメロディーに変わると、一瞬の沈黙をおいて亜季実が出てきた。
「もしもし。」
「和さんなの!?」
やっと帰ってきた飼主の足にじゃれつく小犬のように、亜季実は喜びを声全体で表現している。
「いつ帰ったの!?」
「たった今。」
「今、どこからかけてるの?」
「空港についたばかりだ。真先に電話したんだよ。」
亜季実は嬉《うれ》しくてたまらないといった風にくっくっと笑った。いつも二人きりになると見せる、上唇の上にうっすらと筋の入る、卑猥《ひわい》な笑い方だ。
「嘘《うそ》ばっかり。ロケ先から一度も電話をくれない人が何言ってるの。」
言葉の上では和也を責めてはいたが、そんなことが二人の間に何の影響も及ぼさないことを和也は知っていた。亜季実とつきあうようになって一年半、和也が彼女に教育してきたのは、まさにこんなときのためなのだ。
テレビ局のプロデューサーという多忙な立場を必要以上に理解させ、デートの約束を寸前にキャンセルしたり、電話をするといってもできない状況にあったり、ことによっては一週間や二週間、続けて会えないこともあるということをいやという程思い知らせてきた。
はじめは泣いたりなじったりしていた亜季実も、近頃になってようやく物わかりのよい女に変わりつつあった。心の奥では和也と結婚したい意志があることも、口にはせずに耐えることもおぼえた。
こうなってくると亜季実は、和也にとって理想的な存在だった。人目を引くクールビューティーにつりあう適度な知性、それでいて面倒なことはいっさい言わない女。
「どこかで昼飯でも喰《く》おう。」
「今日? 今から?」
亜季実を喜ばせることを言うのは、和也にとっても気分のいいことに違いなかった。一か月以上放っておいたのだから、少しくらいの褒美《ほうび》をやるのは当然だ。
「おみやげも買ってきた。」
「本当!?」
「あたり前だろう。」
和也は先月、亜季実に誕生日のプレゼントも買ってやらないまま出発してしまったことを思い出した。鋭角的な冷たさを持つ亜季実の横顔が、八月の暑い盛りに生まれたものとはどうしても想像し難いが、星座が獅子《しし》座と聞いて納得した。それから亜季実のしなやかな裸体を見る度に、美しい雌のライオンを思い浮かべた。
「今回連れて行けなかったんだから当然だよ。」
和也は当初、この出張に亜季実も連れていくつもりだった。それを二十四歳の誕生日プレゼントにするつもりだったのだ。一週間ほど会社を休ませ、和也もロケ先でのスケジュールを調整すれば、二人きりのバカンスが過ごせるという計算である。ちょうどロケ隊の構成作家の枠に欠員が出たので亜季実をそこにまぎれこませるくらい和也の立場ではたやすいことだった。ところが土壇場になって音声のスタッフが一人増え、亜季実との約束はたち消えとなったのだ。
「何が食べたい?」
和也が聞くと、亜季実はため息をついた。
「私、だめなの。」
和也は耳を疑った。
「僕がいない間に、ダイエットでもはじめたっていうのか?」
和也が何かに誘って亜季実が何もかも放り出してとんでこないなんてはじめてのことだ。
「それ以上|痩《や》せようなんて無謀なことは人類のためにならないよ。」
亜季実は少し笑っただけで何も答えない。
「約束があるのか?」
「そう。ランチは駄目なのよ。」
それなら夜に会おうというのも、昼の約束を断われというのもどちらも格好が悪い。和也は電話を切ってしまおうかと考えたが思い留まった。
「ずいぶん忙しいんだな。」
「そんなことないのよ。だって急じゃないの。」
このまま話しているともっと嫌味を言いそうになる。和也は知らず知らず早口になっていた。
「それじゃあ午後の予定を都合して、六時に会おう。それでいいね?」
亜季実は咳《せき》ばらいをひとつした。
「六時半でもいい?」
「わかった。六時半にいつものところで。」
和也は亜季実の返事を聞かずにスイッチをオフにした。公衆電話だったら思い切り受話器を置いて八つ当たりできるのにと腹が立った。こんなことなら一緒に帰ってきたスタッフとビールでも飲めばよかったと後悔した。会社に戻れば仕事はいくらでもあったが、ロケから帰ってきた当日くらいあくせくせずにのんびり過ごしたい。
荷物を受け取り、タクシーの乗り場に近い自動ドアを出ると、残暑特有の胸が悪くなるような空気が顔にはりついてくる。ふりはらうように掌で顔を拭《ぬぐ》うと、最終ロケの前に剃《そ》ったきりの不精髭《ぶしようひげ》のざらりとした感触が残った。
まだ午前中のせいか、空港はすいていて、何人も待たないうちにタクシーの順番がまわってきた。和也は行き先を決められないまま乗り込み、とりあえず東京方面に頼んだ。車の中は真夏と同じぐらいクーラーが利きすぎている。
和也はもう一度携帯電話を取り出し、ダイヤルしなれた店の番号を手早く押す。七、八回のコール音の後、昼の準備に忙しそうな男の子が出てきた。
「店長を。」
和也は自分の苛立《いらだ》ちを隠そうともせず大きな声で言った。一人で乗った客がいきなりしゃべり出したので、運転手が驚いて少し振り返った。
「はい、お電話かわりました。」
相当待たせて出てきた低い声は、和也の大学時代の同級生の藤本だ。西麻布《にしあざぶ》のはずれでカフェレストランを開いている。昼は手頃なランチ、夜は本格的なバーになる。広さも雰囲気もなかなかだが、場所柄満席になることは少なく、和也にとって好都合な店だ。
「帰ってきたのか。」
「ああ。たった今。」
和也は公私合わせて週に三度は店に顔を出す。だから藤本は和也のスケジュールを時によっては本人以上に把握している。
「空港からお前の店に向かう途中だ。」
「どういうんだろうね、真先に俺《おれ》んとこ来るなんて。亜季実ちゃんならもういないぞ。」
藤本は意味ありげに声を殺して笑う。ちょうど二年前、藤本の店でバータイムのアルバイトをしていたのが亜季実だった。つきあうようになって何となく気まずくなり、店はやめさせた。
「昼飯を喰わしてくれ。」
「ああ。じゃあランチタイム済んで落ち着いてから一緒に喰おうや。着いたらビールでも飲んでてくれ。」
「じゃ、あとで。」
電話を切り、運転手に行き先を告げ、目を閉じた。普段移動中は貴重な睡眠時間なので乗物に乗った途端条件反射のように目を閉じる。しかし今日は七時間のフライトの間中眠っていたせいでそう簡単に睡魔は訪れてくれない。仕方なく窓の外に目を向け、高速道路から垣間《かいま》見える蒸し暑そうなグレーがかった景色を眺める。
意外な事故渋滞で、和也が藤本の店についたときにはもうランチタイムのピークを過ぎていた。
「よお。」
重いスーツケースをカウンターの隅におろして見上げると、藤本が厨房《ちゆうぼう》から顔を出した。
「何だお前、その格好。」
藤本はピンクやグリーンの入り交じった花柄のアロハシャツを着ている。いつも地味なグレーやブルーのダンガリーシャツを着ているところしか見たことがないだけに、そのシャツは目を見張るほど派手に映った。
「ははは、心境の変化さ。」
ぎょろりとした目が笑うと人のよさそうなみかん目にかわる。
「いんちきなアジア人みたいに見える。」
和也が悪態をついても藤本は全く気を悪くしていない風だった。
「シンガポールにもお前みたいなのがうようよいたよ。」
藤本は大笑いしながらバドワイザーの瓶を二本持ってカウンターの和也の隣に座った。和也は一気に半分ほど飲んだ。シンガポールで毎日飲み続けていたのと同じ銘柄とは思えないほど美味《うま》い。理由はすぐにわかった。きちんと冷えているからだ。
「疲れたか。」
「まあ、移動疲れだな。こっちにいるより雑用がない分、楽だよ。」
「どうせゴルフ三昧《ざんまい》の日々だったんだろう。」
和也の日焼けした顔を見て藤本が言う。
「まあな。宮仕えの唯一の特権だ。」
三種類のランチの中からヴィシソワーズとラムステーキを選び、サービスのグリーンサラダもつついた。何でもないメニューばかりだが、藤本のつくる料理は同じクラスの店に比べてどれも味がいい。
「亜季実ちゃんに電話したのか。」
「いや。」
和也は嘘をついてしまってから、亜季実と藤本が知らない間柄ではなく、あとで伝わる可能性もあることに気付いた。訂正しようか迷っているうちに何秒か経ってしまい、タイミングを逸した。
「お前が留守の間、一遍飲みに来てたぜ。」
「誰と。」
「会社の、女の子じゃないかな。」
「そう。」
「男かと思ったか。」
「それならほかへ行くだろう。」
和也がビールを飲み干すと藤本が先程電話に出たアルバイトに合図をしておかわりを持って来させた。
「結婚、しないのか。」
「考えたことないね。」
「いい娘じゃないか。」
「それとこれとは話が違う。」
「相変わらず独身主義だな。」
「だってお前、考えてもみろよ。」
和也はフォークを置いて藤本の方へ向き直った。やはりシャツの派手な色彩が目について仕方がない。
「ADやってディレクターやってAPやって、十年以上かかってプロデューサーの位置まで来た。やっと自分のやりたいようにできるっていうのに、今度は女房にあれこれ言われるんじゃたまんないね。」
一気にまくしたてながら和也はなぜこんなことを藤本に力説しなくてはならないのかと、だんだん腹が立ってきた。わざわざ自分のライフスタイルを語りにこの店に来たわけではない。それに、間抜けな妻子持ちに問われるならまだしも、藤本にとやかく言われる筋合はないはずだ。
「ま、とばされでもしたら考えるさ。」
和也は話を打ち切りたいあまり、つい本音を口にしたのを少し後悔したが、藤本は気にとめずうなずいていた。不意に、大学時代、恋愛をする度にすぐ結婚の約束をする癖のある和也に、毎回|執拗《しつよう》に反対していた藤本を思い出した。
「そもそも、俺たちは結婚には向かない人種だって、昔からお前が言ってたんじゃないか。」
藤本は苦笑いしている。昔より頬《ほお》がこけて、笑うと左右アンバランスな皺《しわ》がよる。
「そうなんだよ。ほんと、向いてないと思うんだよなあ。」
「そうだろ? 俺もお前のお陰で自分の本質に気付いたんだから。」
「でも、するんだよ。」
和也は無言で藤本を見た。藤本は目をそらしたままだった。
「いつ。」
「式は来年の二月だ。もう、一緒に住んでる。」
和也はやっと、藤本のらしくないシャツの意味を悟った。
「そうか。」
「ああ。」
和也は黙りこくったまま残りのランチをたいらげた。肉を噛《か》んでいるのに途中から何の味もしない。藤本の結婚する相手に心あたりがないわけではないが、和也以上に結婚を毛嫌いしていた彼の決意がどこから来るものなのか皆目手がかりもなかった。
帰りがけ、和也がランチの代金を払おうとすると藤本はサービスだといって受け取らなかった。無理に払うのも馬鹿らしいので簡単に礼を言うと、和也は足早に店を出た。
「おい。置いてく気か。」
振りかえるとアロハシャツの藤本がスーツケースを抱えて立っていた。顔を見合わせて二人は吹き出した。
「置いといてくれ。今夜、亜季実と寄るよ。」
藤本がドアの向こうに消えるのを待って、和也は深いため息をついた。腕時計をのぞいたが、日本時間に直すのを忘れていて針は見当はずれな方向を指していた。急いで時差を計算すると、亜季実との約束までまだ優に二時間あった。
昼間の風景にはなじみのない街をただぶらぶらと歩きながら、和也は藤本の言葉を振りかえった。そして、その事実に対する自分の動揺を思い知らされた。
なるべく早く結婚して、子供を三人以上つくる。休日は近所の公園にキャッチボールや鬼ごっこをしに行く。恥ずかしくて誰にも言ったことはないが、十代の頃から和也が思い描いていた将来の夢であった。
だから、若い頃から女性とつきあう度に結婚を想定してしまうのは全く冗談というわけではなかった。しかしうまくいかなかった。二十代も後半になると、そんな夢はどこかに消えてしまって、仕事に没頭するようになった。気がつくと独身貴族と呼ばれる立場に置かれ、自分もそれを認めていた。女性とのつきあいには切れ目がなかったが、結婚に結びつけようとは思わなくなった。
果たしてこれが、正解の道であったのかどうかはわからない。和也にとっては考える必要もないことだった。
できるかぎり暇をつぶしたつもりで約束のショットバーの入口に立つと、待ち合わせの時刻までまだ十五分あった。和也が亜季実との約束にこんなに早くやってきたのは、確か赤坂の料亭で彼女と初めての食事をセッティングしたとき以来だ。
それからは、その時その時で理由は異なるにしろ、自分で決めた時刻に間に合ったことはなく、まして亜季実より早く到着したことなど一度もない。
久しぶりに、必ず定時にやってくる亜季実を迎えることができる。和也は近道で先回りして身を隠すような快感とともに店のドアを開いた。
けれど、和也の魂胆は一瞬にしてものの見事に崩れ去った。亜季実はいつものようにカウンターに座って、和也にほほえみかけていた。それも、今来たばかりという風もなく、少し前からその場所の空気を吸っていたことがあたりの雰囲気でわかる。
「お帰りなさい。」
亜季実は平然と言った。和也は亜季実の肌が、自分の憶《おぼ》えより白くないことを見てとった。ひょっとすると夏の間に少し日に焼けたせいかもしれないし、今日のスーツが色白の映えない山吹色だからかもしれない。
「どうしてこんなに早くいるんだ?」
「和さんこそどうしたのよ、こんなに早く。」
和也はなじみのバーテンダーと挨拶《あいさつ》がわりにしばらく来なかった理由について二言、三言話した。いつも決まって飲んでいるビールを断わって、ジンのペリエ割りを注文する。
「六時と言ったのを六時半にしてくれと言ったのは君だ。俺が早く着くのはわかるが、君の方が早いというのはおかしい。」
和也はほとんど玩具《おもちや》を取りあげられた子供のような気分だった。
「私はいつも通り来ただけよ。」
亜季実は一体なぜそんなことを聞くのかといった顔で言った。
「いつも、私三十分前には来てるの。」
和也は亜季実を常に待たせていた。早いときで三十分、遅いときは一時間か二時間を過ぎることも度々だった。それなら亜季実は和也の遅刻分に足してさらに三十分、毎回待っていたことになる。
「俺がいつも遅れてくるのに、どうしてそんなことするんだ?」
和也は到底理解できなかった。亜季実の行為を単なる律義さや自分への愛情の深さと受け取るのは違うような気がした。
「初めて、和さんに誘われて待ち合わせをしたとき。」
亜季実は静かに組んでいた足をはずす。絹がかすかにこすれ合う音が聞こえる。
「私が時刻ぴったりにお店の重たい扉を開けると、和さんはもう来ていて、にこにこして私を見て、こうやって手をあげたの。」
亜季実は左手を肩より少し上のあたりまであげて見せた。
「扉を開けてそこに和さんがほほえんでいたあの一瞬の風景と、そのときの嬉しかった気持ち、今も忘れられないわ。」
亜季実は和也の顔を覗《のぞ》きこんで幸せそうに笑った。
「私も、あんなふうに和さんを迎えたいと思ったの。だから、遅れてくるのはわかっていても必ず早く来てた。もし、和さんがぴったりに来ることがあっても、待ってて迎える立場でいたかったから。」
和也は何も言うことがなかった。何かしゃべろうにも、どう対応していいかわからない。今まで亜季実との数えきれない約束を常にあとまわしにしてきた自分がいるだけだった。
「久しぶりよね。」
和也の胸中を察するような亜季実の助け舟に、和也は素直にうなずいた。亜季実はウエストまで届く波うつ髪をひとつに束ね、着ている服と同じような色のシェリー酒を飲んでいる。ふとグラスを持つ手に目をやると、いつもスクエアオフに手入れされていた爪《つめ》が短く切り揃《そろ》えてある。
「爪、切ったんだ。」
和也は亜季実の、長く伸ばした形の良い爪がとても好きだった。ほどよい丸みと光沢があり、ドロップと間違えそうな手触りをしている。特に真紅やローズのマニキュアを塗った彼女の爪は、豪華な宝石に負けない立派なアクセサリーだった。
「気がついた?」
亜季実はグラスを置いて、マニキュアも指輪もない自分の手をじいっと見た。
「私、好きじゃなかったの。」
「何が?」
「和さんの好きな、私の長い爪。」
和也は運ばれてきた飲み物を一口飲んだ。飲んでしまってから乾杯を忘れたのに気付く。
「本当は、マニキュアもしないで短く切って、ワイシャツのボタンが並んでるみたいなちっちゃな爪が好きなの。」
亜季実は爪の短さを確かめるように、手を握ったり開いたりするのを繰り返している。
「でも、つきあいはじめたときも爪を伸ばしていただろう?」
そう言いながら出来る限りの記憶をたどったが、和也が爪を伸ばすように言った覚えはない。亜季実は少女のような手で残りのシェリーを飲み終えた。
「和さんには、長いきれいな爪の女の人が似合いそうだなって、私が勝手に思ったの。知り合ってすぐに伸ばしはじめて、ようやく整ってきた頃につきあうようになって。」
「それで僕が何か、君の爪についてとやかく言ったことがあったか?」
亜季実は首を振った。
「いつも、ほめてくれたわ。」
亜季実はほどけて頬にかかった一筋のおくれ毛を束ねた髪の中に押し込んだ。でも、手を離すとまた目のところに落ちてくる。
「ただ、出発の前の日。」
亜季実は髪からピンを一本抜き、ほつれた髪を止め直す。
「帰りのタクシーの中で、私の手をまじまじと見て、和さんは言ったわ。」
和也は必死で自分の発言を再生しようとしたが、亜季実の方が一瞬早かった。
「本当に綺麗《きれい》な爪だ。指輪なんて必要ないな。」
亜季実はもうシェリー酒を飲まなかった。グラスを持つかわりに、カウンターの下で和也の手をぎゅっと握った。
「でも本当は、指輪が必要な女なのよ。だから、本来の姿に戻るわ。」
亜季実は隣の席に置いていた白い革のクラッチバッグを手に取って、立ち上がった。和也はカウンターの前方にずらりと並んだ酒のボトルのアルファベットを読んでいる。
「和さんにとって都合のいい女でいれば、そのうちほんとのいい女になれると思った。」
和也は座ったまま振りかえり、ごく淡く紅潮した亜季実の顔を見上げた。
「でも私は最後まで、上についた三文字がとれなかったわ。」
和也は、亜季実が店を出ていく後ろ姿は見なかった。木目の床を歩く細いヒールの音だけが心に響いた。
二杯分の金を払い、外に出ると、ようやく涼しい夜気がかすかにうごめきはじめている。煙草を買おうとポケットの小銭を探ると、亜季実に渡すはずだった贈物に触れた。和也は小銭と一緒に取り出して、脇《わき》のあき缶入れに向かって投げた。細い金の指輪がきらきらと宙に舞った。
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十月 プロポーズ
健二が妙子にプロポーズしたのは秋、少年野球の試合を見下ろす河原だった。妙子の住むマンションからほんの数分の位置にある。河原の多い田舎で育ったせいか、水辺にいると何となく落ちつく。高校を卒業して東京に出てきてから、五、六回も変えた住居はどこも川の近くにあった。
「愛してるよ、妙子。」
「うん。」
「愛してるよ、妙子。」
妙子は、健二が、こんなに愛してるを連発する人だと思っていなかった。だから、はじめてこのセリフを聞いたときには、ああ、一回聞いてしまったから、もうずいぶん長いこと聞けない。何だかもったいない気がしたのだが、もったいないどころか、それから妙子は一日に五十遍も同じセリフを聞く運命だった。
「愛してるよ、妙子。」
「知ってる。」
「知ってる、じゃなくて。」
「大好き。」
妙子は芝生の上の健二の手を握った。今頃は、オパールのような七変化の夕空が調和して、この川を最も美しく見せる季節だ。ボートをこぐカップルたちや草野球のノイズが、その風景に活気を与える。
「結婚したい。」
「うん。」
「結婚して。」
「幸せだろうね。」
「だろうね、じゃなくて。」
すぐ横でキャッチボールをしていた小さな兄妹のボールがころころと健二の足元に転がる。健二は立ち上がって、本格的なフォームで投げ返す。すっと背が高く、太腿《ふともも》のわりにふくらはぎが太い。野球選手体型だ。この人は自分の子供とも、こうしてキャッチボールをしたりするのだろうか。
「プロポーズされたのなんて、生まれてはじめて。」
妙子は自分も立ち上がり、健二のジャンパーのポケットに手を入れて歩き出す。今度趣味を聞かれたら、夕暮れの散歩と答えよう。
「なんでえ?」
「前のときは、私の方から結婚してと言ったの。」
「そうなんだ。」
「めちゃくちゃ、惚《ほ》れてたの。」
「へーえ。俺《おれ》には?」
「そうでもない。」
妙子は半分本気で言ったのに、健二は笑って、気を悪くした様子もない。
「そんなに惚れた相手と、何故《なぜ》別れたのか、聞かないの。」
「聞いたら、答えんの。」
「わかんない。」
健二は妙子の手が入っていない方のポケットから、煙草のボックスを取り、一本振り出して妙子に勧めた。街中で歩き煙草をするのはいただけないが、河原なら許されるような気がして妙子はその煙草を受けとった。健二はもう一本振り出して、妙子が彼の誕生日に贈った銀色のジッポのライターに火をつけ、立ち止まりもせず彼女の方に差し出した。風のない穏やかな日には、ライターを両手で囲んだりする必要もない。
「でも妙子って、ほんと若く見えるよな。どう見ても俺の方が上。」
テレビのリモコンスイッチで育ったせいだろうか、健二の話はいつも一瞬にして全く違う次元にうつる。つきあって一年も経ち、今ではずいぶん慣れたが、はじめのうちはこれが争いの種だった。
「見た目、だけね。」
妙子は昔から自他ともに認める童顔だった。鏡を見てもとても三十歳には見えない、ましてや離婚歴のある女になど。四歳年下の健二と並んでも、つりあいは悪くないはずだ。
「で、どうすんの。」
「どうすんのって、何。」
「結婚さ。」
妙子は左手の薬指の指輪に瞳《ひとみ》を落とした。きゃしゃな彼女の指に合わせたごく細い幅の、プラチナの結婚指輪だ。離婚したのは昨年のちょうど今頃、体育の日あたりだった。それから一年も経つのに、この指輪をはずさないのはなぜだろう。それに、結婚を申し込んだ女が前の夫との結婚指輪をしているのに何とも思わない健二だってどうかしている。
「またこんなもの、しなきゃならないんならねえ。」
「指輪?」
「うん。」
「新しいの、欲しいの。」
「欲しくない。」
「じゃあ、ずっと、それしてるんだ。」
妙子はあきれてものが言えない。普段はよく気がつくいい青年だし、会社でも仕事はきちんとこなしているようだが、妙子はときどき、まさにこんなとき、健二は少々頭が弱いのではないかと思うことがある。人に対して無関心というか、無神経というべきか、とにかく妙子には理解し難い発言や行動がよくあった。最初はいちいち指摘していたものだが、いくら説明しても妙子の意志は通じず、言葉のわからない者同士の会話のようになってしまう。妙子はこの難儀な教育をあきらめていた。
「何か、喰《く》いに行くか。」
時計を見ると、もう六時過ぎだった。ついさっきまで健二の着ているダンガリーシャツのような色だった空に、星がいくつかまたたいている。
「何がいい?」
「妙子は?」
「すごくこってりしたものでなければ、何でも。」
「俺、マクドナルドが喰いたい。」
「何よ、それ。」
妙子はめずらしくいやな顔をした。
「そんなもの、いつだって食べられるでしょう。二人でいるときくらい、もっとちゃんとしたものが食べたいと思わないの?」
「いつもちゃんとしたものを食べてるから、たまにハンバーガーが喰いたくなるんだ。」
「じゃあ、一人で食べに行って。」
「妙子お。」
ちょうどそのとき道路|脇《わき》に止めてあった健二のチャコールグレイのジープに到着した。妙子はよっぽど背を向けて自分の家に戻ろうかと考えたが、それも大人気なかった。健二は運転席に乗る前に、助手席のドアを開けてくれる。
「俺、妥協してもいいぜ。いいこと思いついた。」
結局妙子と健二は、通りがかりの自動販売機でビールとコーラを買い、宅配ピザの店に寄ってペパロニとマッシュルームのピザを焼いてもらって、車の中で食事をすることにした。これが健二の考えたぎりぎりの妥協案だった。
「どこで食べようか。」
「せめて、緑のあるところがいいね。」
「この先に公園があったな。」
「あそこなら、ピザの冷えない距離ね。」
健二がキーをまわすと、少し調子の悪そうなエンジン音が唸《うな》り出した。ずいぶん程度の悪い中古を二束三文で譲り受け、健二が自分で直したり、調整したり、部品を加えたりして乗っている車だ。彼はこのジープを≪リンダ≫と呼んで可愛《かわい》がっている。
「あ、まじい、これ右だったな。」
一度に車線を二つも変更して、危なげなく健二は近道の右折を成功させた。彼の、巧みな、というか、少し強引なドライビング・テクニックを見るのが、妙子は楽しみだった。ハンドルを握ったり、ギアを入れ換える度に盛り上がる健二の前腕の筋肉を眺めるのは最高だった。荒々しいエンジン音が快いBGMに変わる。
「前にも、健二と車の中で、ピザ食べたことあったよね。」
そう言った一秒後、妙子はそれが、前の夫との思い出だったことに気づく。でも別に、冷や汗をかくような問題ではない。
「そうだっけ。」
アメリカ映画で見てずっと憧《あこが》れていたドライブ・シアターに初めて行って、車の中で食べた二〇インチのアンチョビーのピザ。後半はキスばかりしていて、映画の中の恋の行方《ゆくえ》は今もわからないままだ。
「ほら、いつか、映画行った帰り。忘れちゃったの。」
「ああ。そうだったかも。」
まったく、自分が惚れていることをのぞけば、果たしてこの男に何か取り柄があるのだろうか。
「で、何の映画だっけ?」
妙子はもうどうでもよくなって、実在しない、もしくは少なくとも聞いたことのない映画のタイトルをつくって言ってみたが、健二は何度かうなずいただけで、口のまわりにピザソースをつけたまま、大きな一切れと格闘していた。妙子はためいきをついて、半分食べかけのピザを箱のはじに置いた。
「なあ、妙子。」
「なあに。」
「今日、帰り、うちにおいでよ。」
妙子は珍しい誘いに切れ長の目をわずかに見開いて健二の顔をのぞき込んだ。二人とも一人暮らしの恋人同士というのは、そのうちどちらかの家で同棲《どうせい》のような形になるのが自然な流れで、妙子と健二の場合、広さや便利さから見て収まるのは妙子の部屋の方だった。妙子は前の夫と暮らしたマンションに健二を入れることに何の抵抗もなかったし、健二の方も、自分の恋人が前の夫と寝ていたベッドには寝たくない、なんて考えたこともなかった。
「うちじゃ、だめなの?」
「うん、今日は、俺んち。」
「どうして?」
「いいもんがあんだよ。」
健二の部屋は独身男性の部屋らしく、あまり家事が好きではない妙子であっても掃除をしたい衝動にかられるように出来ている。だからよっぽどのことがなければ自分の部屋に連れて帰りたかった。
「こないださ、社員旅行の飲み会で、お酒が当たったの。」
「ビンゴでしょ。」
「当たり。」
先程思い当たらなかったが、健二の取り柄は運が強いところだ。ビンゴやくじ引きはもちろん、この間も競馬で二千円を五十万円にする大穴を当てていた。
「お酒って?」
「妙子が、俺とはじめて会った夜に飲んでいたお酒。」
健二の意外なセリフに、妙子は爪《つめ》の甘皮を気にしてうつむいていた顔を上げた。
「すごいじゃない。」
「来る?」
「本当に憶《おぼ》えているの?」
「確かめに来て。」
「そうねえ。」
「俺、来ると思うな、妙子。」
健二は、妙子が最も愛している形のよい唇のはしを絶妙な角度に上げ、完璧《かんぺき》なほほえみをつくってみせる。妙子は健二の愛するリンダがタイヤをきしませ、彼の家に向かって左折するのを黙って見守った。
生まれてはじめて、バランタインの三十年物を口にしたのは、妙子が十九歳の頃だった。こんなに美味《おい》しい飲み物がこの世にあったか、と真剣に感動したものだ。
妙子の三倍は齢《とし》を重ねたアパレルメーカーの二代目社長が、デザインの勉強をしていた妙子をデザイナーとして雇いたいと言って食事に誘ってきた。待ち合わせたのは相当の年収がある人しか入れないレストランバーで、キープされていたボトルがバランタインの三十年だった。
跪《ひざまず》いた蝶ネクタイのウェイターに、水割りにしますか、ときかれて、妙子はいいえ、オン・ザ・ロックでください、と言った。一生で、何回飲めるかわからない高級なお酒を、水で割ってはもったいないと思ったし、少し酔った方が、今日の相手と話をするのに都合がいいことも知っていた。
その男は、明らかに自分と寝たがっている。いくら世間知らずでも、その意図がわからないほど愚鈍ではなかった。それなら、酔ってどうでもよくなってしまう自分に期待して、妙子ははじめての酒に身をまかせた。この上なく美味な酒を飲み、それに合うだけの手の込んだ料理を食べ、質のよい絹のシーツの上で性欲を満たして眠る。これはそんなに悪いことではない、妙子は半ばぼうっとした頭でそう考えた。
店を出て、シルバーグレイのメルセデスで連れていかれたのは、すぐ近くのホテルの最上階にあるスイートルームだった。一晩寝るだけなのに、こんなにいくつも部屋はいらない。翌朝、記念にと二十万円もらった。セックスでお金をもらったとは考えなかった。頭と身体を使って相手に幸せな時間を提供する。それに対する報酬としたら、あたり前の額だ。妙子はその金を、その日中に使ってしまった。
その酒を、妙子は予想とは裏腹に、後に幾度となく飲むことになったが、飲む度に甦《よみがえ》るのはあの、十九歳の感情だった。守るものも、恐いものも、何ひとつなかったあの頃、そして、あの夜。
「水割りにする?」
「ううん、ロックで。」
雑貨屋の閉店バーゲンで二人で選んだ薄緑色のスペイングラスに、ウーロン茶みたいになみなみと注がれたバランタインを、妙子は一口飲んだ。その場で、酒と一緒に溶けてしまいたくなる。童話のトラも、溶けてバターになるのはさぞ気持ちがよかったことだろう。
「あのときも妙子、そうやって、氷を一個だけ入れて、飲んでた。」
「めずらしいね、健二がそんなことまで憶えているなんて。」
健二は自分用に、限りなく水で薄めたものを飲みながら、散らかったテーブルの上を乱雑に片づけている。
「俺、あの夜から、夢ん中、入りっぱなしだからさ。」
あの夜。別れの決意をした翌日、まるで夢遊病者のようにふらふらと出かけて行った夜の街、終わらないパーティー。妙子は最初に目の合った男と一晩を過ごそうと決めていた。悲鳴もあげずにつかみとられた心の半分をうずめてくれるなら、どんな男でもかまわなかった。どちらからも決して口にしようとはしない二人の出会いは、夢か幻のように身体の奥にしまわれた。
「夢の中の出来事は、全部、細かいとこまで憶えているんだ。現実の方は、忘れることあるけどね。」
「そう。」
何も、考えることはない。人は忘れる。信じられないくらいのスピードで、人は自分を忘れてくれる。妙子が決して忘れないことまで、すべて、きれいに。
妙子の指先が、浮かんだ氷に触れると、氷はくるくると、トパーズの液体に同化した。溶けていく。
慣れない酒で早々と寝息を立てている健二の横で、妙子は彼がさっき片付けたばかりのテーブルに向かい、来年の春夏ものの企画を立てた。もう十年近く、デザイナーとして勤めているメーカーでは、結婚後、嘱託の形をとっている。
恋人と一夜を過ごすとき、以前の妙子なら相手が先に眠ってしまうととても淋《さび》しく、身のおき場のない孤独を抱きしめたものだ。けれど健二とつきあうようになってから、ほんの一瞬のうちに夢の中へ入ってしまう彼に、ただでさえ寝つきの悪い妙子が追いつくことなど一度もない。そのうち妙子は、夜更けにぽっかりと浮いた一人の時間を、淋しさではなく前向きにとらえる方法を身につけた。
ちょうど、子育てに大変な母親が子供を寝かしつけ、その寝息に安らぎながら針仕事をするように、妙子は健二が眠りについてから、デザイン画を描いたり、企画書や手紙を書いたり、ときには料理をしたりして、有効な時間に変えていた。限りなく、二人に近い、一人だけの時間。
「妙子。」
「起きてたの。」
妙子はペンを置いて、健二の枕《まくら》に頬《ほお》を寄せた。
「ひとつ、聞き忘れたんだけど。」
「なあに。」
妙子は、大切なシルクのフレアスカートだけを脱ぎ、ブラウスのまま、ベッドの中の健二の右側にすべり込む。
「どうして、別れた。」
健二はとても眠たそうに、そんなことどうでもいいんだけど、という様子で言った。
「聞きたくないって言ったじゃないの。」
「いま、夢の中で妙子に聞いたの。」
「私、何だって?」
「妙子、答えなかった。」
「そう。」
「だから、ちょっとこっちで聞いてみようと思って。」
健二は、妙子の頭を自分の肩にのせ、やっとあごのあたりまで伸びた黒髪をなでた。
「一人で、あのマンションの部屋で、夜、お酒を飲んでいたの。」
妙子は、健二の首筋や耳に軽く唇をあてながら、ささやくような声で話しはじめる。
「そうしたら、近くでひどい物音がして。」
「何だったの?」
妙子はかぶりをふった。
「そのときはわからなかったんだけど、隣の部屋に強盗か何かが入ったって、翌日の新聞に出てた。」
健二は目を閉じていて、妙子はひょっとすると彼が眠ってしまったのかもしれないと思いながら先を続けた。
「明け方になって夫が帰ってきたとき、そういうことがあって、とても恐かった、と言ったの。」
今日の窓の外も、ちょうど明け方を迎えている。
「そしたら、恐かった、ということにかこつけて、帰りの遅い僕を責めているんだろう、と言われて。」
妙子は健二の肩を、しっかりと毛布でくるむ。
「それを聞いたとき、自分でもなぜだかわからないんだけど、夫への感情、好きとか、愛してるとか、大切とか、そういうものまで全部、すべての感情が終わってしまったの。それから一言も口をきかずに、そのまま、別れたわ。」
妙子は無表情のまま、一気に話した。健二の手がかすかに動いて、妙子の左手に触れる。
「私が、今も結婚指輪をはずさないのは、そのとき止まってしまった感情が、もう一度動き出してしまうのが恐いからかもしれない。」
長いため息のあと、同じくらい長い沈黙があり、そのあとで、妙子が言った。
「それだけよ。」
妙子が健二の横顔をのぞきこむと、健二は閉じた目はそのままで、口を開いた。
「飼い主をなくした犬みたいな目をしてたんだ。あん時の妙子。」
健二は静かに目を開き、まばたきを何度かした。
「何があったか知らないけど、ほっとけなかったよ。したら、あっという間にこっちがいかれちまって。」
口を大きく開けるのも面倒くさいといった風な健二のあくびを妙子は見ている。
「だから俺、妙子の幸せそうな顔が見られればいいんだ。別に相手が、俺じゃなくても、な。」
妙子の顔に、ぱっと朝の光が射したような笑みが広がった。
「OKよ。」
健二は枕の上で首を傾げる。妙子は上半身を起こして、精悍《せいかん》な野生動物のような健二の輪郭を真上から眺める。妙子の唇が、健二の顔に近づいていく。
「結婚、して。」
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十一月 一週間記念日
枯葉の中に、踏みつぶされて折れ曲がった吸殻が、芋虫《いもむし》のように見え隠れしている。今にも動き出しそうだ。
「幸せだわ。」
彼女は、秋なのに真夏のような色づかいをした花柄のアロハシャツを着ている。ベンチに腰かけると、破れたジーンズの間から細い膝《ひざ》がむき出しになる。その上に置かれた手つかずのチーズバーガーに視線をおとしたままだ。
「今、何と言ったんだ。」
私は自分の膝の上で冷めきったフレンチフライの匂《にお》いで気分が悪く、煙草に火をつける気にもならない。
「幸せだわって、言ったのよ。」
彼女はチーズバーガーを脇《わき》にどけて、足を組んで私の肩にもたれた。シャツのボタンを二つあけているせいで、衿《えり》のすき間からオリーヴの種のような乳首が見える。
「ずっと、続いていくと思うかい?」
彼女はこちらに向き直って、私の肩にあごを乗せ、悲しくも嬉《うれ》しくもないのにいつも潤んでいる瞳《ひとみ》を見開いた。
「思ってはいけないの?」
「続けたいと思うかい?」
「思うわ。」
私は缶ビールを飲み干すと、最後の煙草に火をつける。もう、煙草一本分の時間しかない。
「私の答えはノーだよ。」
空になった煙草のパッケージをくしゃくしゃにして放り投げると、公園の柵《さく》にぶつかってから植え込みの中に消えた。植物の名前をおぼえるのは得意ではないが、夏、そこには百日草が咲いていたはずだ。
「愛し合っているうちに別れよう。」
「私は別れたくないわ。」
「そんなに自分を偽るものじゃない。」
彼女は今やすっかりおびえた表情で私の肩にすがりついている。少しは心を動かされるかと思ったが、そうでもない。私は最後の煙草を投げすて、ほかの芋虫と一緒に枯葉の中に押し込める。
「本気なの?」
彼女が聞いたが答える必要もない。まわりは枯れ木ばかりだ。それに煙草も、ビールもない。どこもかしこも枯れきっている。
彼女は立ち上がって、私に背を向けて二、三歩足を運んで止まった。細い肩がふるえている。私には、彼女が泣いているのか、それとも笑っているのかさえわからなかった。
夏の日の午後、私はプールサイドの白いデッキチェアに寝そべって、忙しく泳ぎまわる人々の心地よい水しぶきを浴びていた。ジャグジーとサウナとクロールを十五分ずつ交互にくりかえしたあとのまどろみを破ったのは、中耳を裂くような女の泣き声だった。
顔と上半身を同時に起こすと、プールやジャグジーの中でも皆ほぼ同じような姿勢で一方を向いていた。私とは反対側のプールサイドで、髪の薄い小太りの男が泣いている女を必死でなだめている。男は女の肩に手をまわしたいに違いないが、女の方がはるかに背が高くて無理だった。
近くに立っていたスポーツクラブの監視員に事情を聞くやいなや、私はプールに飛び込んだ。彼女のコンタクトレンズが色つきであることを願いながら、舌の表面のようにざらざらしたプールの底に掌をはわせる。そこら中ににょきにょきと並んだ素足の林をかきわけながら、私は小一時間で目的を果たした。
透明の小さな宝物を返してやると、女は泣きはらした目のままで顔中に喜びを表した。それは私の四十年余りの人生の中で、最も美しい笑顔だった。私は我も言葉も忘れて、その天使の微笑に見とれた。
国籍がよくわからないココア色の肌を、彼女はしていた。髪も、肌とまるで同じような色で、頭蓋骨《ずがいこつ》の形がそのままわかるベリーショートだった。それは彼女にとてもよく似合っていて、ほかの髪形が思いつかないくらいだ。
「ありがとう、ございます。」
彼女が口に出す前に、隣の男が半ば迷惑そうに礼を言い、彼女の腕をつかんで引きずるようにして連れていく。彼女はこちらを何度か振り返ったが、そのうちあきらめておとなしく歩き出し、階段の向こうに見えなくなった。
帰りがけのフロントで、私は彼女の名前をたずねたが、誰も知らなかった。このスポーツクラブの会員でもない彼女が、あれだけの大騒ぎをした場所に再びやってくる可能性はほとんど考えられなかった。
残された手がかりは、私と彼女を引き裂いたあのいまいましい男が、大手のモデルエージェントのマネージャーであることだけだった。私は天使の微笑にふれたとき、彼女の目線が私とほぼ同じ高さにあったのを思い出し、彼女はショーのモデルだと確信した。
それから毎日、都心のどこかしらで開かれているファッションショーに出来る限り出かけた。仕事柄、マスコミ関係者とのつながりがないわけではなく、もっともらしい理由をつければ大抵チケットが手に入った。私はかねてから、モデルという職業を心の底から軽蔑《けいべつ》していたが、彼女がモデルだということは気にならなかった。
独得のウォーキングで近づいてくるモデルたちが、ただの栄養失調の集団にしか見えなくなってきた秋、私はついに彼女を発見した。あまりに目まぐるしく入れ替わるモデルたちの数は正確にはわからなかったが、少なくとも十数人いるうち、ただ一人髪が短いのが彼女だった。
黒人と白人のちょうど半々のような肌に、蒼白《あおじろ》いライトがあたり、彼女の細い首筋や浮き上がった鎖骨に妖艶《ようえん》な影を生んでいる。私は思わず大量の唾液《だえき》を飲みこみ、その音が周囲に聞こえないことを祈った。
彼女は、モデルにしては足がいくらか細すぎ、ほんの少し猫背だった。でも、完璧《かんぺき》でないところがかえってセクシーだった。乳房がまる見えのシースルーのブラウスを着ても品よくまとまる、さわやかな色気。
フィナーレのウェディング・ドレスを着た彼女が、ドレスと同じくらい純白の歯を見せて笑ったとき、私は思わず立ち上がり、彼女一人だけのために拍手を送った。彼女は明らかに私に気づき、天を仰いだ。モデルのウエストあたりまでしか背のない女性デザイナーが拍手をうけて、五十分ほどのショーは終了となった。
楽屋裏のドアから出てきた彼女は、何のデザインもない秋の空色のセーターに、黒のショートパンツとタイツをはいていた。黒で足がさらに細長くなりすぎて、遠くから見るとどこかバランスがおかしい。
三十分以上待っていた私にかけよって、彼女は左のこめかみにキスをした。ショーのせいで、頬《ほお》が紅潮している。毎日、彼女に会えたときのことを想定して買い求めていたサーモンピンクのブーケを渡すと、今度は唇にキスをした。
その日、まっすぐ二人で私の部屋に帰ったきり、彼女は自分の家に戻ろうとはしなかった。ごくあたり前のことであるかのように私の部屋に居続けた。年齢差を考えれば私が配慮すべきだったが、彼女がすべてだった。彼女の名前はレイカといった。
私は毎朝、新鮮なコーヒーの香りで目覚め、昼も夜もずっとレイカと抱き合って暮らした。夏の終わりから三つも溜《た》まっている翻訳の仕事が一ページも進んでいないことも、レイカと一緒なら気にならなかった。二人は離れられなかった。彼女は仕事に出かけることができずに仮病を使った。でも、仮病など使わなくても、二人とも立派な病気にかかっていた――恋の病に。
レイカは服や身のまわりのものを取りに行くでもなく、近所のスーパーマーケットで買った間に合わせの化粧品と私の服で過ごした。見た目よりさらにきゃしゃなつくりのレイカの身体には、当然私の服はどれもぶかぶかだったが、背丈は大体同じで着られないことはない。
私のシャツやジーンズを、レイカはラフに、しかも上品に着こなす。自分が着るとぴったりの服が、レイカにはたっぷりゆとりがあり、細いなりにまるみのあるシルエットに包まれるのを見て、私はいつもより強く、彼女が異性であることを意識した。
レイカが来てからは、部屋の中にあるすべてのものが違って見えた。無機質な静物ですら、彼女の前では静止していない。フォークも水さしも電話の受話器も、レイカが持てばそれはもう特別なものだった。便器を流れる水の音までが、リズミカルで軽快なメロディーになる。
私の目に狂いはなかった。レイカはまさに地上に堕《お》ちた天使そのものだ。まるで子供じみた無防備な素顔と、その下で密《ひそ》かに熟した女の淫靡《いんび》な影とが見事に調和し、互いに双方を引き立て合う。小動物のようにくるくると動きまわるライトブラウンの瞳が、まっすぐに私を見つめる。
私はただレイカを見ているだけで、これまで築きあげてきたすべての人生を迷わず捨ててしまえるほどの幸福感をおぼえた。私と同じ空気の中で、レイカが息をしているだけでいい。それが充分すぎる幸福の理由だった。
レイカが私の生活に加わって一週間目の朝、彼女ははじめて朝食をつくった。
「一週間記念日。」
レイカは自分のコーヒーカップを私のカップにあててカチンという音を立てた。
「こんなにずっと一緒にいるのに、全然飽きないなんて、嘘《うそ》みたい。」
レイカは少し黄味がくずれた方の目玉焼を自分の前に置いた。
「もうじき、君の方が先に飽きるよ。」
「どうして?」
「私は絶対飽きたりしないから。」
「どうして?」
私は起きぬけで半ばぼうっとした頭で、おそらくあまり適切でない言葉を口にした。
「君を、愛しているから。」
レイカは、はじめて会ったときのように白い歯を見せて私の首に腕を巻きつける。そして私の肩を、紅い歯型がくっきりと残るほど強く噛《か》み、すぐ上の左耳にささやく。
「も一回して。」
私は力を入れ過ぎたら本当に音を立てて折れてしまいそうなレイカの身体を抱く。私の胸にうずめたレイカのあまりに小さな頭は、猫を抱いたときの感触を思い出させた。私の服を巧みな手順で脱がせながら、レイカは本格的に甘えはじめる。
彼女が着ている私の白いTシャツを脱がせようとする手を、レイカの手が優しく制した。レイカは小さな乳房を気にして、セックスのときも上半身を決して見せない。下半身をむき出しにするのはまるで平気な様子なのに、胸はいつも隠していた。私と最初にセックスした夜も、レイカはセーターを着たままでパンティを脱いだ。
はじめのうちは不自然な気もしたのだが、すぐに私も何とも思わなくなった。確かに小さな胸ではあったが、私にとってはどうでもいいような事柄だった。もともと大きな乳房が好きなわけではなかったし、胸が小さいなんてことはレイカの魅力の前では欠点にすらならない。かえって彼女の姿を知的に見せるのに役立っているくらいだ。
Tシャツと同じ理由で、レイカは後背位を好んだ。私もそれに異存はなかった。なぜなら、シャツの裾《すそ》から見えかくれする腰から太腿《ふともも》にかけての部分は、彼女の中で最も女らしい線を描いている。私が上から見下ろせば、それは地上で最も素敵な景色だった。
二人の短すぎる歴史をうずめようとするかのように、その行為は速さを増し、数を重ねていく。レイカが子供の泣き声のような悲鳴をあげ、シーツの上にくずれ落ちる度に、私は蘭の花のような匂《にお》いを嗅《か》いだ。
「愛してるわ。」
生まれつきのカールした短い前髪が、うっすらと汗のにじんだ額にはりつく。
「あなたのそばにいられるだけでいいの。」
レイカは冷めきった目玉焼を流しに捨て、新しい卵を焼きはじめる。コーヒーがあたたまると、二人の記念日が再びはじまる。けれど私たちは、すぐ後に押し寄せる新たなる一週間を予想もしていなかった。
「食べても食べても太らない薬があったらいくらでも出すわ。」
カルシウム補給と空腹をまぎらわすための煮干しをかじりながらレイカが言った。私は枝のように細い彼女の肉体が、実はとても太りやすいのだということを悟った。
レイカはいつも空腹で、それに薄着だった。十一月の冷えた空気の中を、私のTシャツに薄っぺらいナイロンのコートをはおっただけの格好でせかせかと歩きまわり、いつも何か食べたがっていた。
この一週間で、レイカの体重は目に見えて増えていた。私の部屋で、私と同じペースで食べていたことを考えれば当然のことだった。私もレイカも料理が得意なわけではなかったし、食事をするために外に出かけるくらいなら食べない方がましだった。そうなれば方法はひとつしかない。
宅配ピザと、角のファーストフードから届けてもらうチーズバーガーにフライドポテト、ケチャップと大量のハラペーニョ、それにビールとシャンペン。これが二人の食事のすべてだった。
ジャンクフードのオンパレードに加えて、食習慣も最低だった。二人とも、どちらかが疲れ果てて死んだように眠るわずかな時間以外、ほとんど睡眠らしい睡眠もとらずに日々を過ごした。一緒にいる瞬間をやたらに眠ってしまっては罰があたるような気がした。まばたきするのも恐いくらいにお互いを見つめていた。
だからたとえ真夜中であろうと、空腹を感じたときが二人のディナータイムになる。私達の食事はアルコールも手伝ってだらだらと続いた。楽しい会話とささやきが、食後のアイスクリームをさらに甘くする。
名のついた病気を一度もしたことのない私でさえ、さすがに体調をくずしていた。腰のあたりが重いだるさを持ち、頭が常にぼやけて冴《さ》えることはなかった。日を追うごとに回数を増す催促の電話に対応するのも億劫《おつくう》になった。
レイカは、七日分のジャンクフードのつけを払うのに必死になった。バターなしのトースト、マヨネーズぬきのサラダ、メインディッシュぬきのフレンチコース。大好きなカフェ・オ・レも、砂糖とミルクを入れないアメリカンに変わる。
「あれもなし、これもなし。」
レイカはいまいましそうに言って、私に笑いかけた。やはり白い歯が見えたが、いつものようにはいかない。そのしまりのない笑いはすぐにため息に変わった。
それからまた一週間がすぎても、レイカの身体にはさして変化が見られなかった。努力が表れないばかりか、かえってさらに肉づきが良くなったように見えた。レイカの苛立《いらだ》ちは最高潮に達し、私に向かってミルクの入ったグラスを投げつけるまでになった。
私にはモデルの知り合いが何人かいるが、彼らは大抵完璧主義で、早寝早起きを守り、真面目にスポーツジムでひと汗流してから仕事に向かったりする。しかし、一旦《いつたん》何かの拍子でストイックのレールからはずれると、途端にとんでもない方向に動き出す。
レイカはキャンディとダイエット・コーク以外口にしなくなった。そして私の見ていない隙《すき》に大量に食べてはトイレに行って吐く。そのうち、私の前でも吐いてばかりいて口をきいてくれなくなった。私は仕事ばかりするようになり、調子は悪くなかった。
「ずっと、はじめの一週間ならいいのに。」
モデルの大敵のような生活がたたってレイカの肌にはピンク色の発疹《はつしん》が出ている。
「恋愛も、生活も、みんなはじめの一週間のままだったら、きっと、もっとうまくいくのに。」
レイカは肌を気にして、家の中でも凝った化粧をするようになり、ブルーのマスカラに涙をためている。まわりのあちこちに金粉やシャドウをつけた目を容赦なくこするので、手の甲があざのように青い。
「私だって、そうできたらいいと思うさ。」
私はペンを置き、床にぺたんと座りこんでいるレイカの隣にしゃがむ。
「でも、男と女だけじゃ生きていけないんだ。私にも君にも、仕事や生活がある。」
「あなたはいいわ。でも私はこれじゃあ仕事にも行けない。私のことを愛しているって言ったくせに助けてもくれない。」
私は彼女をまだ愛してはいたが、何しろ疲れきっていた。裸の彼女が隣にいても、性欲すらわかない。レイカの体重がどうにか少しずつ元に戻ってくるのを確認したとき、私は潮時だと感じた。
「気晴らしに。」
レイカはやせたことの満足感のおかげで元気だし明るかったが、ふらふらで、目が少しきつくなっている。
「遊園地にでも行かないか? 少し寒いけど。」
私の提案に、レイカは久しぶりに嬉しそうに笑った。
「二人でどこかへ出かけるなんて、はじめてね。」
レイカに言われて私ははじめてその事実に気付いた。なぜ今まで、こんな簡単なことに気付かなかったのだろう。でも、もっと早く気付いたところで答えは変わらない。
誰もが常に、自分たちに合った愛し方を見つけられるわけではない。誰だって、合わない仕事に就くこともあれば、寝るべきでない相手と寝ることもある。私とレイカの愛に間違いはなかった。ただそれが、今は終結に向けて進んでいる。それだけが明白な事実だった。
よく晴れた寒い土曜日、ただでさえさびれた小さな遊園地に人は少なかった。私はレイカの、マニキュアも指輪もない小さな手を握りしめる。反対側の冷えた手も、ときどき両手で包んであたためた。
「幸せだわ。」
レイカは自分に言い聞かせるような口調でつぶやいた。
「私、あなたといられるだけでいいの。」
ひとしきり遊んだあと、レイカが最後に乗りたがったのはメリーゴーランドだった。私は一緒には乗らずに、白い柵の外でビールを飲みながら彼女を見ている。
メリーゴーランドの乗り物の中から、レイカは白鳥を選んで乗った。白鳥の形をした造りものの片側に、席が二つついている。
「似合う?」
手を振るレイカに私は何度もうなずいて見せる。レイカがまた何か言ったが、風に消されて聞きとれない。やがてゆっくりと白鳥が泳ぎはじめる。
私にとって、レイカはこのメリーゴーランドそのものだった。美しく光り輝き、快楽とロマンにあふれ、この上ないゴージャスな気分になれる。けれど回転木馬に乗っているかぎり、どこにも行けはしないのだ。
メリーゴーランドが止まり、白鳥の王女のレイカが降りてくる。私は手を振って、彼女に声をかける。
「お腹がすいたろう。何か買ってくるよ。」
彼女の目にかすかな脅威を確認してから、私は背を向け、歩き出した。
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十二月 聖 夜
昔も今も、私はクリスマスを嬉《うれ》しがる癖がぬけない。いんちきな光を放つツリーに侵食されていく街、窓にスプレイされた雪、そこに映えるゴム製のヒイラギ。思わずこぼれる笑顔をキャンドルが揺らす。世代や国境さえ越えて、何かわくわくした波動を送り合う。人が、恋に乱れる夜だ。
けれど私は、日が暮れていくのが怖い。ずっと長いこと、夢にまで見たクリスマスイブが実現しようとしているのに、今夜がはじまるのが怖い。ちょうど一か月前のあの夜から、今年のイブは昨年までとまったく姿を変えてしまった。
「一体全体、どういうことよ、それって?」
私が彼とつきあいはじめたという噂《うわさ》は、まるでよく訓練されたクラスの電話連絡網のように駆けめぐった。
「ねえ、何て告白されたの? どうやって射止めたっていうの?」
驚きとショックを隠そうともしない女友達に追及されても、私はただちょっと首をかしげるだけだった。別に、内証にしようとか、人に言えないような手練手管を使ったとか、そういうわけではない。ただ、自分でもまだ半分夢のようで、嬉しい夢を人にしゃべってしまうと決して正夢にならない、そんな感じだった。
「とんだどんでん返し、十二月の奇蹟《きせき》ね。」
まさに、彼女たちの言う通りだった。今でも、その数分間の出来事を頭の中で何度も何度も反芻《はんすう》してやっと、現実だと判断がつく。ビデオテープが鮮明に再生すればするほど、それは嘘《うそ》のような存在感をもって私を混乱させた。
ヒステリックなロックばかり流れるカフェテリア、いつも約束するとはなしに集まってくる仲間たち。次から次へと口に運ぶカラフルなカクテルで、私はふわふわと立ち上がる。横切ろうとしたメインフロアの向こう側に彼はいた。私は酒気と音楽で高まりきった想いを視線に託す。星の光が地球に届くくらい、一万光年かけて、彼に私の心が伝わる。
彼は私の熱をとらえてほほえむ。背丈にくらべて長すぎる両腕を大きく広げて、彼が近づく。私は引力の法則に従ってその直線に吸い寄せられる。彼の翼が私を包む。シャツのボタンを三つはずした胸から見上げた私を彼の唇がふさぐ。スローモーション。
「イブのゴハンは誰と食べる予定になってんの?」
どんな騒音のなかでも、一言発するだけでそのフロアに彼がいるとわかる、妙に通る不思議な声質。私はずっと、この声を目印に彼の居場所を追いかけ必死でついてきた。ほんの一瞬耳にしただけで全身の細胞が浮き足立つこの声が、私に何か言っている。
「まだ決まってなかったら、俺《おれ》と一緒にいよ。」
その店に集う全員が、彼の腕の中の私を見ている。私ではなく、彼を射止めた女の子を見ている。でも私には音も聞こえず光も見えない。首から上の感覚が何もない。声を出したいのに言葉はなく、喉《のど》がかわいてもうるおせない。身体の臓器は機能するのをやめ、ただ心臓だけが全身に必要以上の血を送り続ける――フェイドアウト。
彼は、ある有名タレントの息子だった。でも、親の七光りで安易にデビューしてしまう通俗的な二世とはまるで違った。その事実をあからさまにするでも恥じるでもなく、淡々と自分の人生を楽しんでいた。
けれど確実に、彼はスターだった。彼がいるだけで、理由もなくその場が盛り上がり、どんな顔ぶれが並んでいても彼はごく自然に受け入れられた。そして遊びや宴が絶頂をむかえる頃、その中心にいるのは決まって彼だった。
彼はとにかく、騒がしい場所が好きだった。ディスコやシェーキーズや午後六時の駅前広場、女の子が熱狂するライヴやDJ、連夜どこかしらで開かれる満員電車のようなパーティー。ざわざわと人が集まる場所を求めて彼は動く。
私がつきあってきた男たちは皆、人の多いところや、隣にいる女の子の声がときどき聞きとれないような場を好まなかった。だから私はてっきり、ある程度の年齢を重ねた男というのはそういうものだと思い込んでいたが、彼に限っては二十代を半ば過ぎても、そんな場所がいちばんしっくりする。
彼はいつも、選びぬいたような二枚目のやさ男の友達と一緒にいた。メンバーは替わっても、彼らは大抵シックな趣味のいいスタイルで、ポイントカラーにオレンジを使いこなすようなタイプだった。
はじめ女の子たちは、そちらの二枚目めあてに寄ってくる。けれど、その夜の遊びが終わる頃には、そこに居合わせた女の子全員が彼に心を奪われている、といった具合。ついこの間まで、私もそのなかの一人でしかなかった。
誰もが彼の気を引いた。待ち伏せや嘘やつくられたハプニング、手のこんだ贈りもの。あらゆる手を使って彼の目に止まろうとした。もちろん、私だってそうしたかった。別に消極的な方ではなかったし、それまで誰かを好きになったときにはいつも自分で恋を切り開いてきた。
それなのに、今度はだめだった。完敗だった。彼を前にした私は、厳密に言うと自分であって自分でない。彼は今まで会った男たちとは爪《つめ》の色まで似ていない。世の中に、こんな素晴らしい人がいたのかと思った。それは恋というには大きすぎる感動だった。
その彼が、ただ見つめることしかできないでいた私に手をさしのべた。彼のまわりをいつも取り巻いていた、ゴージャスでぴりっとした美女たちではなく、特に目立たない私を選んだ。
そのときから私は、甘い雲の上を歩きはじめた。彼と一緒にいると、今にも息が止まってしまうのではないかと思うほど幸福だった。一生分の好きを使い果たしてしまうようだった。もう二度と恋など出来なくてもいい。彼と同じ空気を吸う一瞬一瞬が、私の恋い焦がれた胸に響く。
彼が私を連れ歩くようになって、私の身辺はにわかに騒がしくなった。嫉妬《しつと》と羨望《せんぼう》の矢を全身に受けた私を、彼のまなざしが優しく覆う。
「選んだのは俺なんだから、君は堂々としていればいいんだよ。」
彼がそう言ってくれると、私はいくらか救われる。けれど、ただ有頂天になってしまえるには、この恋は幸せすぎた。幸せの大きさと同量の不安が私にぴったりとつけてくる。
彼が、どうして私を選んだのか、たずねるのが怖い。ほんのちょっとした気まぐれかもしれない。この幸せがいつまで続くかと思うと涙が出そうになる。もう私には嬉し涙とほかの涙の区別さえつかない。
そんな私の隣で、彼は毎日上機嫌だった。十二月は、まさに彼にうってつけの季節だ。どこを歩いても街中に人があふれ、あらゆる場所に人混みがあるからだ。
「これは、キリストの生誕なんかじゃなく、買物の祭りだな。」
普段の節約へのアンチテーゼだとばかりに物を買いまわる人々を彼は目を細めて眺める。彼もまた、こちこちのクリスマス好きだった。毎日、誰かへのプレゼントや白銀のリースや家の前の木をすっぽり包むための虹色の電球などを買っては大切そうに抱えていた。
「プレゼント、何が欲しい?」
洒落《しやれ》たフランス雑貨のショップに隣り合わせたティールームで彼は大好物のブラウニーを食べている。何にも、と言うのも、何でもと言うのもいけないような気がして私はとまどう。
「好きだなあ、俺、君のそういうところ。」
彼は突然、満面の笑顔になる。いつも、少し寂しそうな視線で人を見るから、その分だけ笑顔が魅力的に映る。
「そういうところって、どんなところ?」
一級品の笑顔に助けられて、私は勇気を出して聞く。
「俺がはじめて君を意識したのはねえ。」
そこまで言って、彼はまたブラウニーを一口食べた。私の前にもまだブラウニーが半分くらい残っているが、私はもう甘いものどころではない。
「秋頃だったかなあ。麻布《あざぶ》辺りのクラブのオープニングパーティーがあって。」
そのときのことならよく憶《おぼ》えている。昼間大学のゼミに出席した帰り、例のやさ男の一人とばったり会い、彼も来るからと誘われた。でもちょうどその日は、洗練されているとは言い難いブラウスにカーディガンという格好だった。一度自宅に戻って着替える暇はなく、あわてて行きつけのブティックで秋物のワンピースを買ったのだ。
「まだ建物が出来立てで、スタッフのミスでフロアに釘《くぎ》のようなものが落ちてた。あぶないから拾って注意してやろうとした途端、君が先にそれを拾った。」
かすかにそんな記憶はあったが、特に取り立てて何かした意識はなかった。彼が何を言い出そうとしているのか見当もつかない。
「俺は君がその釘をどうするのか見ていた。周りの人に言って大騒ぎをするか、店の者に文句を言うか、そこらに適当に捨ててしまうのか。君、どうしたか憶えてる?」
私は首を横に振った。拾ったのもほとんど無意識でしたことで、釘の行方《ゆくえ》に記憶はまるでなかった。
「君は黙ってその釘を、自分の服のポケットに入れたんだよ。俺は、何て素敵な女の子なんだろうと思った。こんな子とつきあえたら幸せだろうなって。」
私は嬉しさのあまり真正面から彼を見ることができずに、皿の上のブラウニーに視線を置いた。すぐにうっすらとにじんだ涙で四角い茶色の塊にしか見えなくなった。そんな私を見て、彼は言った。
「俺の彼女、派手で、そういう細やかな神経が全くないやつでね。六年もつきあってて、俺のために何かしようなんて一度も思ったことないんじゃないかな。」
私の嬉し涙は、役目を果たすまでもなく悲しい涙に役柄を変えた。彼に彼女がいるという噂は何度も聞いたことがあったし、彼ほどの人がフリーであるはずがないとも思っていた。でも、彼が特定の女性を連れて現れたことは一度もなく、いつもその疑問を打ち消してきたのだ。
「それで、プレゼント、何にしようか。」
空白になった私に彼が笑いかける。さっきの笑顔とまったく変わらない。私には、怒ることも声を上げて泣くことも、彼を問い詰めることも出来はしない。私は顔を上げて、彼にほほえんで見せた。私がそばにいることで、彼が笑っている時間が増えるなら、それが私の、生きる価値なのだ。
「でもさあ、イブにデートの約束をしてるんでしょ? それって、そっちの彼女とはもう冷えきってるってことじゃない。」
私の話を聞いた友達は、別に無理に慰めているのではない、と断わってからそう言った。確かに彼は、イブの夜を私と過ごすと約束した。けれど、そんなたった一言の口約束だけが、不安を打ち消す拠《よ》りどころになっている自分がいやだった。
「二十歳そこそこからの六年なんて、腐れ縁みたいなものよ。有利なのはこっちじゃない。大丈夫よ。」
彼女が私をいたわったり元気づけたりすればするほど、私は身の置き場がなくなる。でもその悲しみと交互に、彼といられることの喜びも浮き上がる。彼はちゃんと私を見ていてくれた。思いつきや一時の感情ではなく、自分の気持ちをあたためた上できちんと私を迎え入れたのだ。
「でも前に、彼女いる人とつきあうくらいなら不倫の方がマシ、とか言ってなかったっけ?」
恋人のいる人とつきあうのははじめてだった。いつも、いくら好きになったとしても、彼女がいると聞けばたちまち興味が失せた。私より先につきあっている人がいるのだからあきらめよう、と思うのではなく、その男性に対しての感情そのものが褪《あ》せてしまうのだ。
でも、今度ばかりは、今までの私の経験や男性観はすべて崩れた。彼女の存在が確実になった今も、彼への気持ちは変わらない。変わらないどころか、不安と焦燥でますますスピードを増している。
彼を信じたい。今彼を失ったらどうなってしまうのかわからない。彼とずっと一緒にいられるなら、どんな辛いことだって耐えられる。恋人がいても、それがいずれ終息にむかうのであれば、私はいつまでも待ち続ける。
「それより、イブは何着ていくの? プレゼント、もう決めたの?」
力ない私の表情に、彼女はテーブルの上の私の手首をぎゅっと握った。
「とにかく、もっと楽しまなきゃ。クリスマスなんて油断してると通り過ぎちゃうのよ。」
約束のイブは、夕方から雪が照れくさいくらいに降り続く、今年いちばん寒い日だった。テレビの天気予報が、東京では二十八年ぶりのホワイトクリスマスだと嬉々《きき》として伝えた。
「金曜日のイブっていいよなあ。」
待ち合わせにぴったりの時刻に空を見上げて、彼が嬉しそうに言う。
「何か、特別な匂《にお》いがする。」
彼は傘を持たずにやってきた。二人で私の赤い傘に入って、ふるいにかけられた粉砂糖の雪の中を歩く。私は彼とつないでいる方の手だけ、手袋をはずしている。けれどそちらの手ばかりがあたたかい。
「静かだね。」
彼がぽつんと言った。雪のせいで道路には車が少なかったし、人は店や家の中でクリスマスを祝っている。常に周囲が騒がしい彼にとっては、しんと静まりかえった世界かもしれない。
「雪って、周囲の音を吸収する力があるんだよな。」
見上げると、彼は前を向いたまま、私の手をしっかりと握り直す。私がまた握り返す。彼と会う度に繰り返している他愛ない動作なのに、私の心臓は全く学習しない。まるで初めてのことのようにどきどきと波打つ。
「静かだと、自分が誰なのかわからなくなるってこと、ない?」
私にたずねながら、彼は自分の心に問いかける。ざわざわと人が群がる七色のライトの真中で、彼はいつも孤独なのだ。私は、こんな静かなところで彼と二人きりになったのは初めてだった。今なら、ずっと触れられなかった私の本当の言葉が言えそうな気がした。
「今夜、どうして私と一緒にいるの?」
彼は少し驚いて私を見た。それから、一体どうしてそんなことを聞くのか、といった顔で笑った。
「彼女のことなら気にしなくていいよ。」
私は彼の言葉に目を閉じた。
「だって、あいつ一人じゃ、絶対六年ももたなかったよ。」
私は、放心した身体を彼に気づかれないように、できるだけゆっくり、ゆっくり歩く。いつの間にか、私の甘い雲の上にも、雪が降り積もっていた。
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あとがき
『別れの十二か月』は、わたしが二十七歳から二十八歳にかけて書きおろした小説集である。わたしの小説がはじめて世の中に出版された、非常に思い出深い作品だ。
過去の作品を読み返す機会は滅多《めつた》にない。これまでに出版されたどの本も、あらためて手にとって読むことはなかった。すでに完成された作品にかける時間があったら、また新たな作品に向かっていかなくてはならない、そんな意識がどこかにあった。過去の作品の中にいるわたしは、未熟ではあるがいつも一生懸命に生きている。その一生懸命さが現在のわたしから見ると何だか気恥ずかしく、あえて遠ざけようとしていたのかもしれない。
今回『別れの十二か月』が文庫化されるというお話をいただき、わたしは本当に七年ぶりに、最初のページをそっと開いた。わくわくする期待と、何だかこわいような気持ちとが行ったり来たりしていた。けれど、読みはじめた途端、様々な先入観は一瞬にして吹き飛び、わたしは純粋にこの小説の世界に引き込まれていった。
そこにはもちろん、過去のわたしが存在した。大きな不安と根拠のない自信を抱え、迷いと確信の間で揺れながら、ただ小説を書くことの喜びだけが先立っていたわたしが。けれど、それはわたしが想像していた自分とはまったく違っていた。当時はさり気なく書かれた一行が、今のわたしには胸の奥にぐっと突き刺さるひと言であり、ごく自然につくられた設定やテーマが、今のわたしには至極|斬新《ざんしん》なものに映る。わたしはこの作品を読んで素直に感動し、この作品を書いた自分を誇りに思う。
過去の作品は、もうすでに終わってしまったものだから、決して変わらない記録であると思っていた。けれど、今のわたしが変わっていけば、過去に対する見方や視点も変わっていく。今のわたしが未来に向かって刻々と変わっていくように、過去の作品もより深いものに変わっていく。
過去は揺るぎない事実ではない。過去は変わる。作品も、出来事も、恋も、すべての過去が変わっていく。過去は常に、未来に向かって長い長い旅を続けている。だからこそ、わたしは今日も、明日に向かって歩きつづけることができるのだ。
過去の自分が作品としてきちんと形を残してくれるのは、この仕事をしているゆえの貴重な経験であろう。わたしは現在もこの仕事に携《たずさ》わっていられることに感謝し、過去の作品に負けない今の作品を生み出していくことを心に誓う。
わたしの作品に触れてくださった方々に、最上級の幸せを。
二〇〇一年一月
[#地付き]梅 田 み か
本書は、一九九三年十一月刊行の小社単行本を文庫化したものです。
角川文庫『別れの十二か月』平成13年2月25日初版発行
平成14年5月10日7版発行