TITLE : 「みにくいあひるの子」だった私
講談社 電子文庫パブリ
「みにくいあひるの子」だった私
梅宮アンナ
「みにくいあひるの子」だった私
梅宮 アンナ
● 目 次
I 私はだれ?
自分の顔
赤茶色の髪
アメリカ式
外国人恐怖症
“夜の帝王”
父の大後悔
闘 病
名門幼稚園
アニメの靴
スッポンポンで
空っぽの家
カギっ子の楽しみ
過去の記憶
夕食はミカン一つ
マイペース
浮いた存在
学校嫌い
私一人が「校庭百周」
なくした宿題
悪口が書かれた手紙
晴れやかな気分
II なにかが許せない
みじめになるだけ
初めての彼
校舎裏に呼び出し
学習院の男の子を品定め
父のげんこつ
家 出
高校進学拒否
制服をビリビリに
家庭崩壊
ハワイ留学
猛勉強
別天地
「悪魔の女」
III 夢と現実
酔っぱらい運転
「パパに殺されちゃう」
ナンパでの出会い
水商売
ヤンママへの憧れ
「モデルになりませんか」
夢は日航のスチュワーデス
読者モデル
嘘から出たまこと
モデルへの道
プロの仕事とは
型破り
『JJ』の顔
成功の秘密
『JJ』は一つの学校
IV モデル失格!?
「みにくいあひるの子」
アンデルセンの自伝
シャネルの生き方
成人式のプレゼント
サーファーくんとの別れ
お見合い
「顔がバタくさい」
皮肉な朗報
仕事よりスノボー
「モデルはあなたの天職」
CMスポンサー
親友の結婚式
サイン
テレビの世界
V 遠まわりした道
あの彼
父の誤算
土下座
バッシング
写真集
「もっといい服を着てちょうだい」
彼の背景
沖縄の店
睡眠薬
ケーキ入刀
逃 亡
飛躍のチャンス
弱 音
マネージャー
二回目の危機
真の自立
I 私はだれ?
それからあとは、ますますつらい日がつづきました。あひるたちはよってたかって、あわれなあひるの子をおいだそうとしました。
――アンデルセン『みにくい あひるの子』より
ハーフの自分の顔が大嫌いだった子供時代
自分の顔
あっ、私はみんなと違うんだ――。
小学校に入学したとたん、私は自分の顔が大嫌(だいきら)いになってしまった。
自分の顔の造作(ぞうさく)がほかのみんなと違っていることに最初に気づいたのは、小学校入学時に撮(と)った集合写真を見たとき。
みんながそれぞれに違った私服を着ていたからだろうか、幼稚園に通(かよ)っていたころは、そんなことは思ってもみなかったのに。
私立の女子校に入って、全員が同じ制服を着せられたとたん、集団の中で私の顔だけがポカッと浮き上がって見えた。
少なくとも自分にはそう見えて、それがとてもショックだった。これが、自分の顔だちがほかのみんなとは違っていることに最初に気づいた瞬間で、それはとてもいやな体験だった。
モデルの職業につくまで、写真はもちろん、鏡(かがみ)、ショーウィンドウなど、自分の顔が映(うつ)るものはなんでも嫌い、ずっと見るのを避(さ)けていた。だから、私の学生時代の写真は極端(きよくたん)に少ない。
それにもう一つ、いやでたまらなかったのが、「アンナ」という奇妙な名前。
私の年代でもまだ、女の子は終わりに「子」のつく名前が多く、「小百合(さ ゆ り)」とか「明美(あけみ)」とか、「子」がつかない人もいたけれど、自分の名前だけがとびきりヘンで、なぜ「子」がつかないんだろうとしきりに悩(なや)んでいた。「アンナ子」ではおかしいし……おまけにカタカナ。
教室で作文を読まされるときなど、題名のあと、「何年何組、梅宮(うめみや)アンナ」という、その「アンナ」が口からスムーズに出てこず、ついモグモグと口ごもってしまう。そのころは、自分の名前を口にするのもいやだった。
母がアメリカ人だというのもすごくいやだったけど、顔がいやだ、名前がいやだということは、親には言えない。子ども心にも、それは言ってはいけないこと、それを言ったら親を傷つけること、その存在を否定(ひてい)することになると、それとなく自覚していたみたい。それだけに、よけいに自分の中に抱(かか)え込むことになり、私は顔と名前の二重のコンプレックスにさいなまれていた。
自分の顔がみんなと違うことに気づくと、いつでも、どこでも、他人からジロジロと見られているような気がしてならない。それはもう自分の顔をなめられているような、じつにいやーな気持ちだ。
そのころは東京・渋谷区の代々木(よよぎ)に住んでいて、小田急(おだきゆう)線の参宮橋(さんぐうばし)から新宿で山手(やまのて)線に乗り換え、目白(めじろ)にある私立の女子小学校まで電車で通っていた。
通学途中など、名前は黙(だま)っていればわからないけれど、この顔は隠(かく)しようがないから、道を歩くときも、電車の中でも、私はいつもうつむいてばかりいた。当時の自分の登下校の様子で思い出すのは、下を向いて逃げるように早足で歩く姿ばかり。
参宮橋駅から自宅まで徒歩で十五分の道すがら、必ずいじめっ子に遭遇(そうぐう)する。私が帰宅するのを待ちかまえていて、「ヤーイ、外人、外人」とはやしたてては、ときには石をぶつけたりする。それを避けるため、さらにずっと遠まわりして帰らなければならなかった。
小学校から中学校を卒業するまで、私はなに一つ自分に自信のもてない日々を送っていた。
赤茶色の髪
まさか、そんなはずはない……。
生まれたときの私の髪の色は、父の意に反して、真っ黒。
職業がら、いまは褐色(かつしよく)に染(そ)めているが、私の髪の本来の色は黒。でも、三歳ごろまでは、派手(はで)な赤茶色をしていた。いや、させられていた。
父は若いころからアメリカが好きで、それこそ自分がアメリカ人になってしまいたいくらいに好きだったみたい。だけど、日本人としての自分の顔はどうしようもない。白人の女性と結婚して金髪の子どもをつくるというのがせつなる願いだったというから、わが父親ながら、おかしな人だと思う。
アメリカ人の白人女性である母を見初(みそ)めて結婚したのは、まずは予定どおり。もっとも、バツ一同士、しかも、できちゃった結婚だったそうだけど。
自分の子どもは、絶対にかわいい子がほしい――父はそう思っていたと言うけれど、それはどこの親も同じ、わざわざみにくい子を望(のぞ)む親などいない。でも、「きっと金髪でかわいいだろう」と思ったあたりが、単純明快な父らしいところ。それが間違いのもと。
スペイン系の血をひく母(ドイツ系とのハーフ)の髪の色も黒かったが、母の兄の髪は褐色だったので、隔世遺伝(かくせいいでん)かなにかで絶対に金髪の子が生まれるに違いないと確信していたらしい。あまりに有頂天(うちようてん)になりすぎて、生まれてくる子どもに、さらに生粋(きつすい)の日本人である自分の血が混(ま)じることはすっかり忘れていたようだ。
生まれてきた娘の髪が黒かったことに、父はあせった。父は、娘の髪の色を人工的に変えるよう母に命じた。母は、オキシドールを使って私の髪の毛を脱色させ、レモンの汁から、はてはコカ・コーラまでぶっかけてゴシゴシモミモミ、私の頭をさんざんいじくりまわして、なんとか父の希望どおりの赤茶色に仕立てあげたのだった。
新しく生えてくる毛は黒だから、定期的に脱色しなければならない。私は自宅の庭のすみで、いつも頭にオキシドールをかけられていたような気がする。
父はそれでもなお私のストレートヘアが不満で、パーマまでかけさせた。おかげで私はどこから見ても巻き毛の外国人の子ども。
私はそんな親たちのお人形さんごっこがいやだったかというと、そのころは自分も一緒になって楽しんでいたのだから、一家そろってノーテンキ。
アメリカ式
幼稚園のころ、私は最低でも日に三度は着替えていた。
髪の色だけではない。父と母は私をなにからなにまでアメリカ式に育てようとした。洋服も靴(くつ)も帽子(ぼうし)もブランド品。ファッションモデルをしていた母の希望とセンスもかなり入っていたと思う。
朝、幼稚園に行くとき、幼稚園から帰宅したあと、母とお出かけするとき、夕方の部屋着、さらに寝るときのパジャマまで入れれば、日に少なくとも四回は着替えていた。
いまもそうだけど、父は仕事で家にいないことが多く、母は家事が苦手(にがて)な人だから、毎日のようにデパートなどで買い物をしたあと、外食して帰る。これが日課のようになっていた。
私が通(かよ)っていた幼稚園には制服がなかったので、最初のころは毎日、違った服を母が選んで私に着せていたが、やがて自分自身で、今日はこの服を着ていこう、この服なら、この帽子にして、靴はこれにしよう……などと、コーディネイトみたいなことをするようになり、それがとても楽しみだった。
ほかの子がゲームなどに夢中(むちゆう)になっていたころ、私は母にねだってデパートに連れていってもらっては、洋服ばかりあさっているような、いまから思うと、ずいぶん生意気(なまいき)で、おかしな幼稚園児だった。
父のアメリカかぶれのきわめつけは、寝かせ方。
日本では赤ちゃんを仰向(あおむ)けに寝かせるため、ゼッペキ頭の人が多いといわれる。父は娘の頭がそうならないようにと、アメリカ式にうつ伏(ぶ)せに寝かせるようにした。それも、いびつにならないよう、それこそ一時間ごとに左右の向きを変えて気を配(くば)った。もちろん、やらされていたのは母だけれど。おかげで、私の頭は、ショートヘアにしても気にならないくらい、いい形をしている。
赤ん坊のときからうつ伏せに寝かされたクセで、いまだにうつ伏せでないと安心して眠れないのは、ちょっと困りもの。
外国人恐怖症
娘をアメリカ人のように育てたかった両親が、三歳になった私を、英語がしゃべれなければと考え、通常の幼稚園ではなく、アメリカン・スクールの保育園に入れたのは当然のなりゆきだったかもしれない。父親の仕事の関係で七歳のときに来日した母も、子どものころはアメリカン・スクールに通(かよ)っていた。
当の私にとってみれば、単身、動物園のオリの中に放り込まれたも同然。
母はアメリカ人だったが、家での日常会話はすべて日本語。自分の頭の中で考えるのも、日本語でやっていたと思う。七歳のとき以来、ずっと日本で生活してきたのだから、外見はともかく、内面は日本人そのものといってもいい。
よく、両親の国籍(こくせき)が違い、物心ついたころから両方の言語を使っていると、子どもは自然にバイリンガルになるといわれるが、私の場合は、完全に日本語オンリーで育てられたから、いくら顔だちが外国人風でも、いくら髪の色を染(そ)めたって、日本語しか理解できない。
アメリカン・スクールの児童はほとんどが在日外国人の子女(しじよ)で、先生も外国人。おそらく“帰国子女”だろう、私のほかに日本人の子も二人ほどいたが、みんな英語でペラペラやっているから、私にはまるでチンプンカンプン、別の星に迷(まよ)い込んでしまったみたいで、私だけいつもカヤの外。頭の中がすっかり混乱(こんらん)してしまって、三歳にして外国人恐怖症(きようふしよう)になってしまった。
アメリカン・スクールにはそれでも一年間通ったが、私だけはどうしてもみんなの輪の中に入ることができず、いつも砂場で一人寂(さび)しく、山をつくってはこわし、家をつくってはこわししていた。
私自身がアメリカン・スクールに行くのをいやがっていたし、父の母親もそうした孫(まご)の育て方に反対していた。そのうえ、アメリカン・スクールの先生からも、引導(いんどう)を渡された。
「おたくのお子さんは、日本の幼稚園に行かせたほうが、精神的にもいいと思いますよ」
これで父もようやく目が覚(さ)めたみたい。四歳からは、晴れて日本の幼稚園に通わせてもらえることになった。
“夜の帝王”
そんな父も、結婚したこと、子どもをつくったことをすごく後悔(こうかい)したときがあったようだ。それも、私が生まれて一年半しかたっていないころのこと。
私が生まれたのは、昭和四十七年(一九七二年)八月二十日の夕方、体重三千六百グラムの、ふつうよりちょっと大きめの赤ん坊だった。
その日、父は朝からソワソワして、地に足がつかない状態だったという。
母が入院していた産婦人科医院の前は、ゆるやかな坂になっている。じっとしていられない父は、それまでに一度もすべったことがないスケートボードで、坂を下(くだ)ってはのぼり、のぼっては下りを繰(く)り返して、わが子の誕生を待ちわびていたという。
とくにスケボーがしたかったわけではなく、たまたま目の届(とど)くところにあっただれかのを勝手に拝借(はいしやく)して、じっとしていられない気持ちをなだめていたのだろう。
あまりの落ち着きのなさに、母の担当医の先生もあきれはてて、父に精神安定剤の注射をしてくれたそうだ。
母と結婚する前の父は、“夜の帝王”と異名(いみよう)をとるほどの遊び人で、毎日、夜の銀座あたりをフラフラしていたと聞く。父が母と出会ったのも、銀座のクラブ。母の本業はファッションモデルだが、アルバイトにホステスをしていた。ちなみに、父の最初の結婚相手も銀座のバーのママだとか。
あまりに遊びすぎた罰(ばち)が、自分にではなく、生まれてくる子どもに返ってくるのではないか、五体満足でなかったら……。
父は本気で心配していたようで、そのときの不安、落ち着きのなさには、そうしたこともあったようだ。
私の泣き声を聞いた瞬間、父は喜びのあまり思わず飛び上がって、その拍子(ひようし)にドアの上のところかなにかに思いきり頭をぶつけ、大きなコブをつくったという。
ところが、私が生まれてまもなく、父の肺(はい)にガンが見つかった。
父の大後悔
「ああ、罰(ばち)はこれだったのか。おれが死んだら、妻子が路頭(ろとう)に迷(まよ)うことになる。こんなことなら、結婚するんじゃなかった。子どもなんかつくるんじゃなかった」
父の父、つまり私の祖父(そふ)は内科医で、親戚(しんせき)には脳外科(のうげか)医や歯科技工士もいる。品川区の戸越銀座(とごしぎんざ)に祖父が開業していた梅宮(うめみや)医院があり、いまは父の妹(私の叔母(おば))のご主人が継(つ)いでいる。
私が生まれた代々木上原(よよぎうえはら)の産婦人科医院は、親戚ではないけれど、お医者さん仲間の関係で、昔(むかし)から家族ぐるみの付き合いをしていた(のちに、ここが私の“緊急避難(きんきゆうひなん)場所”になる)。
親族にもお友だちにもお医者さんが多い中で、医者の長男のくせに映画の道に進んだ父は、一族の中でも特殊(とくしゆ)な存在だったに違いない。
祖父は戦前、満州(まんしゆう)(現在の中国東北部)で医者をしていたそうだが、まだ子どもだった父は、零下(れいか)何十度の雪の降る夜でも急患(きゆうかん)だからと出かけていく父親の姿を見て、「おれは医者だけはいやだ」と思うようになり、それで父親のあとを継がなかったのだと公言(こうげん)している。でも、本当のところは、たんに勉強嫌(ぎら)いのなまけ者だったからではないかと思っているのだけれども……。
父は当時売り出し中だった石原裕次郎(いしはらゆうじろう)さんに憧(あこが)れていた。大学在学中の二十歳(は た ち)のときに東映(とうえい)のオーディションに応募(おうぼ)したところ、運よく合格した。それで、そのまま映画の世界に進むことになったのであって、それほど強い動機があったとは思えない。
もともと体力があった父は、自分の身体(からだ)に気をつかったことなどなく、定期的な健康診断など受けたこともなかったと思う。親族に医者がいなかったら、自分の病気に気づいたときには確実に手遅れになっていただろう。そのときでさえ、「長くてもあと一年の命」といわれたという。
当時、そのことを知っていたのは、担当医以外では祖父母だけで、本人には告げられていなかったが、その後に受けた治療(ちりよう)などから、父は自分の病気に気づいていたそうだ。そして、大後悔(だいこうかい)――。
もともと親の反対を押し切って結婚したから、自分が死んだあと、嫁と子どもの面倒(めんどう)は見てはもらえないのではないかと思い、それがすごく気がかりだったのではないだろうか。
闘 病
本人は気づいていたようだが、母はそのことをまったく知らず、一人でお気楽だった。いまの時代なら、放射線治療(ほうしやせんちりよう)などを受ければ、真っ先にガンではないかと疑うものだけれど、当時はいまのように情報がたくさんあるわけではない。
周囲の深刻そうな表情には気づいていたようだが、なぜみんなそんな顔をしているのか不思議(ふしぎ)でならなかったというから、のんきなものだこと。
それにしても、何度も放射線を浴(あ)び、それも通常の三倍もの量の治療を受け、激(はげ)しい脱力感(だつりよくかん)と嘔吐(おうと)で、父の闘病生活はそうとうにつらかったと聞いている。ただ、ふつうとは違っていたのは、父の髪の毛がまったく抜けることがなく、これには関係者の人たちもびっくりしたそうだ。
なにより驚いたのは、あちこちに転移していて、長くてあと一年といわれていたガンに、父が打ち勝ったこと。
結婚するんじゃなかった、子どもをつくるんじゃなかった――後悔(こうかい)はしたけれど、いまさらそんなことを言ってもはじまらない。「妻子のためにも、死んでなるものか」という気持ちに切り換えたからこそ、父はどんなにつらい治療にも耐(た)えることができたのではないだろうか。
「病(やまい)は気から」という言葉があるが、父の場合、「病気を気合で治(なお)した」。現在でも、国立がんセンターで過去にガンで治った人の十人に父の名前が残されている。
私はいまでもときどき、自分は父の存在を知らずに育っていたかもしれないと思うことがある。そのとき父が亡(な)くなっていたら、その後の私の人生はどうなっていただろうか……と。私は父のそのときの勇気と頑張(がんば)りに敬意を表(ひよう)し、感謝しなければならない。
重病に打ち勝ってからは、名誉(めいよ)ある“夜の帝王”の称号をすっぱりと返上、正反対のマイホームパパに、それもしょっちゅう「だれのおかげでメシが食えると思っているんだ」と怒鳴(どな)りちらし、かわいい娘にも容赦(ようしや)なく手をあげ、自分流のやり方でわが子を溺愛(できあい)する、頑固(がんこ)オヤジに変身した。
名門幼稚園
恐怖(きようふ)のアメリカン・スクールを脱(だつ)し、日本の幼稚園に通(かよ)うようになってからは、まさに親の着せ替え人形の世界。
小学校に入る前は、自分がほかの子と違っているとは思っていなかったので、自分でも、そうしたことをぞんぶんに楽しんでいた。
渋谷区広尾(ひろお)の、いわゆる“お受験”で有名な幼稚園だったから、お昼ごろともなると、周辺の道路はお迎(むか)えの車でいっぱい。それも、ほとんど外車ばかり。二十五年も前のことで、当時の私には車の知識などないから気にもとめていなかったけど、いまとあまり変わらない光景だった。
まさに親の見栄(みえ)の張り合いの場で、子どもに着せる服も、高級ブランド品のオンパレード、みんなが親の着せ替え人形同然だったから、私の顔がほかの人とちょっとぐらい違っていても、とりたてて目立つ存在ではなかった。
そうした環境の中で、私はとても幸せな幼稚園時代を楽しませてもらった。まさに、わが世(よ)の春――。
たまに、休みの日に父がデパートに連れていってくれることもあった。食いしん坊の父と行くときは、必ず地下の食品店街を見てまわる。ただ、父と一緒だと、いつもファンが集まってきて、まわりに人だかりができてしまうのがたまらなかった。
父の仕事のことは子どもなりに理解していたと思う。でも、あまり寄(よ)ってこられると、がまんできなくなって、「パパに近寄っちゃだめ、あっちへ行ってよ」などとわめきちらしたこともある。たまの父との外出だったから、父を独占(どくせん)したかったのだ。
アニメの靴
なにかをねだって、親から「だめ」と言われた覚えがほとんどなく、それどころか、私がおねだりをする前に、親のほうが気をきかせて、買い与(あた)えるといった感じだった。デパートの売り場などで、私がなにかを興味深(きようみぶか)げにじっと見ていようものなら、親のほうが、「ああ、この子はこれをほしがっているんだな」と早合点(はやがてん)して、その商品をどんどんレジに持っていってしまう始末(しまつ)。
洋服が好きで、自分でコーディネイトしていたとはいっても、そこはやはり子どものこと、どうしても人気アニメのキャラクターに目がいってしまう。そのころ、男の子だったら「ガッチャマン」、女の子だったら「キャンディ・キャンディ」が人気ナンバーワン。でも、私は、男の子に人気の「ガッチャマン」のキャラクターをあしらった靴(くつ)がほしくてたまらなかった。
母のファッションセンスからしたら、アニメの絵が入った靴など許(ゆる)しがたいシロモノ。「そんな下品(げひん)なもの」と吐(は)き捨てるように言って、これだけは絶対に買ってはくれなかった。その種の靴は、デパートにも売っていなかった。
やむなく父に頼(たの)んだところ、「ママにはないしょだぞ」ということで、そういうものを売っている街(まち)の靴屋さんに連れていって買ってくれた。私がすごく喜んでいると、すぐに母に見つかって、捨てられてしまった。
それが悲しくて大泣きしていたところ、父が、「もう絶対に見つかるんじゃないぞ」と言って、もう一度買ってくれた。母に見つかったら捨てられてしまうから、隠(かく)しておかなければならず、せっかく買ってもらったのに、はくにはけない靴になってしまった。
その靴は、父に買ってもらったものの中でも、忘れられないものの一つになっている。
そんな具合で、私は幼稚園のころ、がまんというものをした記憶(きおく)がない。しかし、こんなことは少しも自慢(じまん)にはならない。はたして、子どもの心の健全な発達という面で、そうやってなんでもものを買い与えることがいいことなのかどうか、その後の自分を見ると、大いに疑問。
ふつうの子どもには、親になにかねだって拒絶(きよぜつ)されたとき、泣いてダダをこねれば買ってもらえるかもしれないという知恵がある。でも、かりに母がだめでも、父に言えばなんとかなったから、私にはそういう知恵がまったく発達せず、そのせいか、小学校に入っても言うべきこともきちんと言えないような子になってしまい、人に甘(あま)えるのが下手(へ た)な人間になってしまったと思う。
スッポンポンで
ああ、もうだめ。私の人生は終わりだ――。
まだ幼稚園のころだったが、毎週火曜、夜の七時半からはじまる「みつばちマーヤの冒険」というアニメを見るのが楽しみだった。
ところがある日、これから「みつばちマーヤ」がはじまるというのに、母に「お風呂(ふろ)に入りなさい」と言われた。私としては、どうしても「みつばちマーヤ」が見たいので、「いやよ」と言って、テレビの前から離れようとしない。
「早く入りなさい」
「いやよ。あとで」
「いますぐ入りなさい」
「いやだってば」
数回、押(お)し問答(もんどう)を繰(く)り返していたところ、突然、母がプッツン、いきなり私の洋服を全部脱(ぬ)がすや、スッポンポンにしたうえで、玄関から外に放り出してしまった。中から鍵(かぎ)をガシャン。
間(ま)が悪いことに、うちの前に自動車販売店があって、パンツまで脱がされて素(す)っ裸(ぱだか)のところを、そこの人たちにばっちり見られてしまった。
恥(は)ずかしくて恥ずかしくて、極限的(きよくげんてき)なパニック状態。私の人生はもう終わりだとまで考えた。
「ママ、入れて、中に入れて!」
激(はげ)しく玄関ドアを叩(たた)きながら泣き叫(さけ)んだが、簡単には開けてはもらえなかった。そんな大騒ぎをしたおかげでよけいに目立ち、恥ずかしい姿をより多くの通行人の前にさらすことになってしまった。
アメリカ式というか、あるいはスパルタ式というか、一見(いつけん)、お気楽屋のように見えて、母の子育てには厳(きび)しいところもあった。いちいち詳(くわ)しい理由までは覚えていないが、幼稚園のころから、お仕置きとして、スリッパやベルトでしょっちゅう叩かれていた。
父も私の顔面にすぐに手を出すほうだったから、私はかなり大きくなるまで、どこの子どもも親の言うことをきかなければ叩かれるものだと思っていた。
空っぽの家
家の中に入っても、だれもいない。おやつもない。そんな空(から)っぽの家がいやでいやで、友だちの家がうらやましくてたまらなかった。
小学校に入ったとたん、私のまわりは事情が一変してしまったのだ。
まず、みんなと同じ制服を着せられることになり、しかも、選択(せんたく)の余地(よち)はなく、毎日毎日、同じ服。それまで、子どもながらに洋服が趣味で、自分で着る服を選んでいた私にとっては、それこそ羽をもがれた鳥も同然。
入る前は小学校の制服がとても気に入り、入学を楽しみにしていたが、入学時に撮影(さつえい)したクラス全員の記念写真を見た瞬間、自分の顔だけが浮き上がっていることに愕然(がくぜん)とさせられたのである。
そのほかにも、いやなことがいくつか重なった。電車通学するようになって、駅からの帰宅の途中、いじめっ子から「外人、外人」とはやしたてられ、石をぶつけられたりしたのもその一つだが、一番の変化は、典型的(てんけいてき)なカギっ子になって、寂(さび)しい思いを強(し)いられるようになったこと。
幼稚園への娘の送迎(そうげい)から解放され、自由になった母は、とたんに自分の趣味に没頭(ぼつとう)するようになった。手芸、パッチワーク、料理……と、週に三、四日は習いごとに打ち込むようになり、土曜もお友だちと買い物を楽しんだりして、家にいることがほとんどなくなった。
空っぽの家――これが、私の小学生時代の記憶(きおく)として残っている心象(しんしよう)風景だ。
平日、私が学校から帰るのは午後三時ごろだが、この時間に母はいたためしがない。友だちの家では、チャイムを押せば、お母さんが中からドアを開けて、「お帰りなさい」と出迎(でむか)えてくれる。私はいつも鍵(かぎ)をもたされていて、自分でガチャガチャやらないとドアは開かない。
私は小さいころから忘れ物が多く、出がけに鍵を忘れていくこともよくあった。
「わっ、家に入ることができない」
足に生温(なまあたた)かい感触(かんしよく)。玄関前でがまんしていたオシッコをもらしてしまったのだ。オシッコをもらしたことは一度か二度くらいだったと思うが、がまんできずに庭のすみでしたことは数知れない。私にしたら、それはとてもみじめな思い出だ。
これで、兄弟でもいれば、寂しさもまぎれただろうに。だから、そのころは、兄弟がほしくてしかたがなかった。
「おまえ、弟か妹をほしいとは思わないか」
幼稚園のころ、そんなふうに、両親から真剣に聞かれたことがある。
「いらないよ、そんなもの」
そのときは自分が幸せだったし、親の愛をずっと独(ひと)り占(じ)めしていたいという気持ちが強かった。
「じゃあ、生まれたらどうする?」
「乳母車(うばぐるま)に乗せて、坂の上から落としてやる」
自分では覚えていないが、私はそんな残酷(ざんこく)なことを言ったという。そのせいで両親が次の子どもをつくらなかったとしたら、身から出たサビ。それこそ罰(ばち)が当たったのかもしれない。
カギっ子の楽しみ
自分で買ってきて、お湯を沸(わ)かしてつくったカップラーメンをすすり、「よっちゃんいか」をほおばりながら「土曜ワイド劇場」の再放送を見る……。
そんなカギっ子の私にも、楽しみがあった。それは、テレビ朝日で午後一時からやっていた「土曜ワイド劇場」の再放送を見ることだった。
推理ドラマが中心だが、新作はいまでも毎週土曜日の夜九時から放映されているし、その古いものの再放送も、いまだにお昼にやっている。その再放送を見るために、私はなんとしても一時までに、必死になって帰った。
いま思うと、色恋ざたのはてに人を殺すといったドラマには、残忍(ざんにん)な場面、お色気シーンもけっこう多く、とても小学校低学年の、それも女の子が夢中(むちゆう)になるような番組ではないが、なぜかそれが私にはすごく刺激的(しげきてき)で、わくわくしながら見ていた。
なにかの都合(つごう)で帰宅が遅れたり、鍵(かぎ)を忘れて家に入ることができなかったりして、それを見逃(みのが)したときなどは、取り返しがつかないような損をした気分になる。
「土曜ワイド劇場」を見るとき、私には必要なものがあった。それが、カップラーメンと駄菓子(だがし)。
父が家にいるときは、必ず父が手をかけた料理をつくってくれる。父がいないときは、ほとんど母と一緒に外食していたから、学校にあがる前から、高級レストランの味も知っていた。
でも、どこの家にもあるカップラーメンが、わが家にはなかった。自分で買っておやつがわりに食べていると、「そんなもの、身体(からだ)に悪いからやめなさい」と、母からきつい禁止令。私はどんな高級レストランの料理よりもカップラーメンのほうが好きだから、やめられない。午後一時から五時ごろまでの親がいない時間帯は、絶好のチャンスというわけ。
駄菓子には「都(みやこ)こんぶ」とか「よっちゃんいか」とか、独特の臭(にお)いを発するものがあり、私はそれらが大好きなのに、母はその臭いが大嫌(だいきら)いで、家ではこれも禁止、買ってはもらえなかった。
母がいないときは、心おきなくそれができる。これが、その当時の私の最高の楽しみだった。
食べたあとの空(から)カップを始末(しまつ)しておくという知恵はないから、すぐ母にバレて、いつも叱(しか)られていた。叱り方はアメリカ式だから、スリッパでお尻(しり)をポンポン叩(たた)かれる。それでも私はやめなかった。おかげで、いまだに一番の好物はカップラーメン。
CMの撮影(さつえい)のときなど、立派なお弁当が出ることが多いが、私のことを知っているスポンサーさんは、そんなときには必ずカップラーメンにお湯を入れてもってきてくれる。お弁当に比べたらずっと安上がりだが、私にはそれが最高のご馳走(ちそう)なのだから。
「土曜ワイド劇場」を一週間に一度、続けて見ていると、おもしろいことに気づく。それは、「土曜ワイド劇場」に特定の女優さんが立て続けに出てくること。子どもながらにそれが不思議(ふしぎ)で、父にそのことを聞くと、
「あれはね、その女優さんが日ごろからプロデューサーとかディレクターなんかと仲よくしているから、よく使ってもらえるんだよ」
当時は、「仲よく」の正確な意味も知らず、「ああ、そうなんだ」と納得(なつとく)していた。
過去の記憶
「そんなに寂(さび)しかったなら、なぜそのときに、ママやパパにそう言ってくれなかったの」
大きくなってから、その当時の寂しかった思いを母に打ち明けたことがある。
カギっ子にはそれなりの楽しみもあったが、基本的には、帰ってきても親がいない空(から)っぽの家というのは、寂しくてやりきれないもの。とくに自分で鍵(かぎ)を開けるのがいやで、鍵がはずれるときのガチャッという音は、いまでも私の耳にはすごく冷たく響(ひび)く。
でも、母の返事はあっけらかんとしたものだった。そう言われてあらためて気がついたが、たしかにそうした寂しさを、私は親に訴(うつた)えたことがなかった。おそらく、そのころの母の毎日があまりにも楽しそうだったので、言いたくても言えなかったのかも。だとしたら、なんと心のやさしい子どもだこと。
でも、不思議(ふしぎ)なことに、母は、私が言うほどに家にいなかったことは絶対にないと言いはる。私の記憶(きおく)では、土・日を除(のぞ)くと、週に四日は留守(るす)だったという印象があるけど、母に言わせると、いろいろな習いごともけっしてかけ持ちでやっていたわけではないから、出かけていたのはせいぜい週に二日くらいだった、と。
毎日のように母と一緒にデパート通(がよ)いをしていた幼稚園時代があまりにもハッピーだったところに、小学校に入ってからいくつかいやなことが重(かさ)なったため、空っぽの家の寂しさばかりが極端(きよくたん)にふくらんで、私の当時の記憶を大きくゆがめているのかもしれない。
そういえば、私にはところどころ過去の記憶が脱落(だつらく)しているところがあって、たとえば、私が生まれたときからわが家には必ず犬がいて、私も大好きだったのに、カギっ子時代の寂しさをペットにいやしてもらったという記憶がない。玄関を入ったときに、「お帰りなさい」と言って出迎(でむか)えてくれる母がいなかったとしても、犬がすっ飛んできて出迎えてくれたはずなのに、そういう場面がまるで浮かんでこない。
それに、物心(ものごころ)ついたときから、うちにはお手伝いさんが来ていて、母が留守にするときは、お手伝いさんに頼(たの)んでいったと思うのに、一人で鍵を開けて入った空っぽの家の記憶ばかりが強く残っている。これはどうしたことなのだろう。
夕食はミカン一つ
毎年十月十日が運動会と決まっていたので、父はかなり前からこの日には仕事の予定をはずし、しかも、朝早くから大いにはりきって、おにぎりを百個ほどもつくってもってきてくれた。
父の不在がちについては、もちろん寂(さび)しいことだったが、幼稚園に入る前からずっとそうだったので、それは理解していた。でも、やはりふつうの家のように、朝、会社に行って、夕方帰ってくるお父さんに憧(あこが)れていたのは事実。
空(から)っぽの家では寂しい思いをしていたが、参観日とか運動会とか、学校のイベントには必ず父が来てくれたので、それがとてもうれしく、自分の親だけが来ていないという寂しさは味わわずにすんだ。
父は、大病をしてから家族第一主義に切り換えたと言っているが、私もいまの仕事をするようになって、この世界のスケジュールの調整がどんなにむずかしいことなのかよくわかるようになった。たぶん、いろいろと無理をし、あちこちに頼(たの)み込んで、家族のためになんとか都合(つごう)をつけてくれたのだろう。
運動会の日には、おにぎりのほかにおかずもいろいろと手をかけたものを用意してきて、私の仲よしグループの家族にもふるまう。
父が家にいるときは、食事は必ず父がつくるが、つくるだけでなく、素材(そざい)の買い出しからあとかたづけまで、すべてを自分でやってしまう。だから、私の知っている範囲(はんい)では、母ほど楽な主婦はいない。
母は赤ん坊だった私にミルクを与(あた)えたことが一度もないという。夜中のミルクやりから、おむつの交換、入浴まで、そういうことはすべて父がやっていたという。私が夜泣きをしても、あやすのは父、母はスースーと寝たっきり。父だけでなく、母自身もそう証言しているから、それは事実だったのだろう。
私が中学生のころの話だ。たった一回だけの話だが、夕方、母に、
「ああ、おなかがすいた。ねえ、ママ、ごはんつくってちょうだい」と頼んだところ、
「それなら、これでも食べていなさい」
そう言って渡されたのは、なんと一個のミカン。
発育ざかりの子どもの夕食が、ミカン一つ!
ただし、母の名誉(めいよ)のために言っておくけど、母はけっして料理ができないのではない。
いまでも日本語は読めず、読む新聞は英字新聞の母だけど、料理学校にせっせと通(かよ)って、和・洋・中華のすべての料理に関して、一級の知識と技術をモノにしている。だから、舌(した)は肥(こ)えているし、どんなレストランの料理でも、その素材を正確に言い当てることができる。
ただ、ものすごい面倒(めんどう)くさがり屋で、自分と娘とわずか二人分の食事をつくるのも面倒なら、食事のあとの食器洗いも面倒、それくらいならレストランにでも行っちゃいましょう、というタイプなのである。
私はどうかというと、カップラーメンが世界一のご馳走(ちそう)だと思っているくらいだから、当然、料理感覚はゼロ。お湯を注(そそ)ぐだけなんだから。
一度、父の本を見て、「辰(たつ)ちゃんのうまい丼(どん)」とかいうのに挑戦したことがあるが、母に「もうやめたほうがいい」と言われてしまった。
母は、「あなたは仕事をもっているんだから、なにも自分でつくらなくてもいい」と言う。それが母のポリシーだったのだろうが、私としては、家事をやらないことを仕事のせいにしたくないという気持ちもある。
私のところには、調理器具はすべてそろっている。それで、たまに本を見ながらつくってみるが、つくるのにはすごく時間がかかって、食べるのはあっという間(ま)だったりすると、ばかばかしくなって、やはり長続きはしない。このあたりは、私も母の血をひいているのだなと、つくづく思う。
マイペース
幼稚園のころから、塾に通(かよ)わされていた。
それは私立の小学校に入るため、つまり“お受験”用の塾で、同じ幼稚園のほかの園児たちもたいてい同じようだったから、当時はそれが当たり前だと思っていたし、両親もそう思っていたと思う。
そして、小学校受験――。
子どもの私には、どれが受験だったのかすらわからないけれど、成城(せいじよう)とか聖心(せいしん)とか、とにかくいろいろな有名小学校を受験させられては、ことごとく落ちていたような気がする。
小学校のことだから、おそらく“お受験”でもっとも重視されたのは協調性。みんなで仲よく、先生の言うことをよく聞く。私にはそれがまるでなかったらしい。アメリカン・スクール時代から、人の輪の中に入っていけない子どもだったし、幼稚園時代は母べったり。ほかの同年代の子と遊んだことがあまりないのだから、協調性に問題があったのだと思う。
いまでもそうだけど、私は子どものころから、他人にあわせることが大の苦手(にがて)、自分のペースでしか行動できないところがあった。急ぐのもせかされるのも嫌(きら)い、その電車に乗らなければ遅刻するというときでも、走っていって無理に乗ろうとはしない。
ただし、足が遅かったわけじゃない。かけっこはクラス一、運動会のときはいつもリレーのアンカーをやっていたほど。
話すスピードも自分のペース。通常はふつうの人よりずっと遅くしゃべる。ただし、電話だと一転して早口になるけど。ごはんを食べるのも、一時間以上かかっていた。それも、好き嫌いだらけ。野菜は絶対に食べられなかったし、お寿司屋(すしや)さんに連れていってもらっても、カンピョウ巻きしか食べない子だった。だから、寿司屋のおじさんに、「アンナちゃん、ここになにしにきたの」なんて皮肉(ひにく)を言われたことも。
いまでも、カップラーメンやマックが最高のご馳走(ちそう)。
とにかく、周囲に同調して、そのスピードにあわせようという意識はゼロ。子どもって、たいていそういうものだけど、とくにがまんの経験がないから、自分の気に食わないことを強制されるのがいやで、私の場合はやっぱりそれが極端(きよくたん)だったと自分でも思う。だから、いまから思えば、生徒のしつけに厳(きび)しいことで有名な小学校に合格したのさえ不思議(ふしぎ)なくらいだ。
先生が通知表のコメントを書く欄(らん)には、毎回のように、こんなようなことが書かれていた。
「アンナさんは集団行動が苦手なようなので、もっと集団生活に慣(な)れるように、お父様、お母様からも、よろしくご指導をお願いします」
私にしてみれば、自分のペースと先生たちが考えているペースがあわないだけ、べつに反抗しているつもりはないのに、それが先生の目には、行動が異常、反抗的と映(うつ)ったようだ。
浮いた存在
小学校の一年から、うちには家庭教師が来ていた。環境だけはそろっていたけど、私は勉強というものをまったくしない子どもだった。
私は父や母から「勉強しろ」と言われた記憶(きおく)はない。いったん入ってしまえば小学校から短大までエスカレーター式に進学できる学校だから、そんな必要はないと思っていたのかもしれない。
その家庭教師から勉強を教わったという記憶もほとんどない。
私には小さいころから空想癖(くうそうへき)があって、授業中も、先生の話を聞いているふりだけして、いつも別のことを考えていた。これは小学校から中学校までずっと同じ。こういう空想好きの子どもだったから、黒柳徹子(くろやなぎてつこ)さんの『窓ぎわのトットちゃん』は、私の大好きな本の一つだ。
試験の成績はいつも0点に近かった。とくに算数なんかは、最初のところが理解できないと、あとはずっとわからないままで、特別に勉強をやりなおさないかぎり、途中からわかりだすということはない。
返ってきた答案用紙は、もちろん親に見せることなく、たいていはすぐ捨てていた。通知表には、五段階評価で1とか2ばかりが並んでいた。通知表だけは見せていたけど、不思議(ふしぎ)と成績のことで親からなにかを言われたことはない。
「あーあ」
親の口から出るのは、ため息ばかり。
高学年になったころには、1を自分で勝手に4に直して見せたりしていた。数字の不自然さから、この小細工(こざいく)もバレていたのかもしれないが、なにも言われなかった。
自分の顔がいやで、いつも下ばかり向いていたし、クラスのみんなともあまり話をするほうではなかった。子ども同士ならそれほどでもないが、先生でもなんでも、そこに大人がからんでくると、とたんに殻(から)を閉じた貝のようになってしまう。授業中に手をあげて発言するなんて、私にはとても考えられないことだった。そして、学校が終わると、友だちと遊ぶこともなく、すっとんで帰り、「土曜ワイド劇場」。
いまから思えば、私はずいぶんとヘンな小学生だったものだ。
いまでも私は、何人かの人と会っているとき、ふと気がつくと、集団の中で自分だけがうわの空、まったく別のことを考えているなんていうことがある。バラエティ番組に出ていながら、自分だけ別のことを考えていて、そんなときにいきなり質問されれば、答えがしどろもどろになるのは当然。番組のスタッフにしてみれば、ずいぶん失礼な話で、これではなんのために出ているのかわかったものではない。
私はそのころから、親戚(しんせき)と会うのもあまり好きではなかった。「医は仁術(じんじゆつ)」という言葉のとおりの祖父(そふ)は、私が小学生のころに亡(な)くなったが、祖母(そぼ)はいまも健在で、父も祖母の前では頭があがらない。その祖母も私のことはとてもかわいがってくれるし、叔父(おじ)や叔母(おば)たちも、私がハーフだからどうこうということはまったくない。
ただ、十三人いるいとこが、そろいもそろってみな成績がよく、お行儀(ぎようぎ)のいい子たちばかり。いまでもお正月とか法事(ほうじ)などの行事のときは一族が祖母の家に集まるが、そういうとき、子ども同士でも学校のことや成績のことが話題になる。
ここでも勉強嫌(ぎら)いで成績が悪い私だけが会話の中にスムーズに入ることができず、浮いてしまう。その居心地(いごこち)の悪さといったら……。
向こうにはそんな気がなくても、私のほうは、なんとなく見下(みくだ)されているような気分になって、それがとてもつらくて、日に日に親戚から遠ざかってしまった。
コンプレックスは、学年があがるにつれてどんどんひどくなり、そこから出てくる“行動の異常性”から、私はますます浮いた存在になっていった。
学校嫌い
六年生になって担任がかわったとたん、私にとって学校は憎(にく)むべき存在に変わってしまった。
勉強嫌(ぎら)いだし、成績は悪かったし、集団生活にもなじまない子どもだったけど、五年生までは、学校に行くこと自体をそれほど苦痛に思ったことはなかった。
通学途中にあったいじめも、いつのまにかなくなり、クラスメイトからのいじめにあうこともなかった。もっとも、われ関せずのところがあったから、ひょっとしたら本当はいじめにあっていたのに、私自身がそれに気づかなかっただけなのかもしれない。
一年から五年まではほとんどクラス替えがなく、担任もずっと同じ女の先生だった。とてもいい先生で、勉強嫌いの私が学校嫌いにはならなかったのも、この親切でやさしい先生のおかげだったと思っている。ところが、五年から六年になるときにクラス替えがあって、男のM先生にかわった。
私にとって初めての男の先生だったけど、最初のころはべつになんとも思っていなかった。ただ、それまで女の先生からは「梅宮(うめみや)さん」と「さん」づけで呼ばれていたのが、急に「梅宮」と呼び捨てにされるようになったことには、いくらか抵抗を感じていた。でも、クラス全員に対して呼び捨てだから、慣(な)れてしまえばなんということもない。
二ヵ月ほどたったころから、この先生の生徒に対する態度に、相手によって違いがあることに気づくようになった。
先生だって人間、聞き分けのいい子、勉強のできる子をかわいいと思うのは当然かもしれない。クラスの中では勉強ができる子はほとんど決まっているから、結局のところ、特定の生徒ばかりをえこひいきするようになる。
勉強ができない生徒に対して、とても意地の悪い接し方をする先生だった。宿題もほとんどやらず、できが悪かった私が一番の標的にされたような気がする。
私のようなハーフの顔が気に入らなかったのか、とにかく、見る目つきから違っていて、ばかにしたようなまなざしで、見下(みくだ)すような態度なのだ。少なくとも私にはそう感じられた。
思い込みだとか、気のせいだとか、被害妄想(ひがいもうそう)だとか言われるかもしれない。なにごともなければ、私にとって、たんに「こわくて近よりがたい、いやな先生」という程度ですんでいただろう。
いまだに忘れがたい屈辱的(くつじよくてき)な仕打ちがいくつか重(かさ)なったことを考えると、私としてはそれだけでかたづけることはできない。
私一人が「校庭百周」
夏休み前に一つの事件が起こった。
そのころ、「ドロケイ」という遊びがはやっていた。泥棒(どろぼう)と刑事に分かれて、追いかけっこをするという単純なものだが、女の子でもみんな遊びたいさかりだから、十分間の休み時間にも廊下(ろうか)で騒ぎまわっている。
いちおう、廊下は右側通行で、走ってはいけないという規則があるが、だれも守りはしない。そこにM先生がやってきた。
あまりみんなと一緒に遊ぶほうではなかったけど、そのときはたまたま仲間に入っていた。そんな中で私だけがとっつかまって、さんざんいびられるはめになった。
「梅宮(うめみや)、おまえ、そんなに走りたいか。そんなに走りたいなら、もっと走らせてやる」
「え?」
私は外に連れ出されて、真夏の炎天下(えんてんか)、校庭を百周しろと言いつけられた。もちろん、私一人だけで、ほかの子たちにはまったくおとがめなし。いかにも私だけが狙(ねら)い撃(う)ちされたとしか思えない。
はじめは冗談(じようだん)かと思った。まさか本当に百周も走らされるとは思っていないから、かけっこは得意だし、ちょっとぐらいなら授業もサボれるからいいかなと、軽い気持ちで走り出した。
でも、すぐに暑さにまいって、五周で完全にへばってしまった。グラウンドにへたりこんでいると、どこからともなく、
「梅宮、なにやってんだ、ばかやろう。まだ五周じゃないか。走れ!」
ちゃんと見張っていて、メガホンで叫(さけ)んでいるではないか。
なんだ、見てたのか――。
最終的には何周走ったか覚えていない。ほとんどヨタヨタと歩いていただけだが、午後の五、六時間目の間じゅう、ずっと校庭をまわらされたのだ。
なくした宿題
あっ、バッグがない。あの中には、宿題のノートも……。
夏休みの終わりごろ、学校の仲よしグループで一緒に旅行するのが毎年の行事になっていた。数は少なかったけれど、私にも同級生に仲よしの友だちはいた。その仲よしグループにそれぞれの母親が引率(いんそつ)するという小旅行で、母親同士も仲よしグループだった。
この旅行には、夏休みの宿題をお互いに見せ合い、写(うつ)し合うという、私たちにとって大事な目的もあった。
その年の行き先は、伊東(いとう)温泉(静岡県)のホテルサンハトヤだった。
夏休みの宿題の中に、休みの間、毎日一句ずつ俳句(はいく)をつくるというものがあった。四十日だから、全部で四十句。私にしてはめずらしく熱心に取り組んで、ほとんど完成していたが、いちおう、それまで書いたノートを持参することにした。
八月二十五日、集合場所は新宿駅。私と母は父の車で小田急(おだきゆう)線の代々木八幡(よよぎはちまん)駅まで送ってもらい、電車で新宿に向かった。ところが、一駅過ぎたところで、私のバッグがないことに気づいた。代々木八幡駅で座(すわ)ったホームのベンチに忘れてきてしまったのである。電車を待っている間にもほかのことを考えていて、乗り込むときには脇(わき)に置いたバッグのことなどすっかり忘れていた。空想好きと忘れ物は私の得意ワザ。
あわてて電車を降り、逆方向の電車で引き返したが、ベンチにはバッグの影(かげ)も形(かたち)もなかった。
「どうしよう、どうしよう。ねえ、ママ、どうしよう」
頭の中は真っ白、動転しておろおろするばかり。そのバッグの中には、お財布(さいふ)も入っていた。八月二十日の誕生日に父からお小遣(こづか)いをもらったばかりだったので、いつもの十倍近いお金が。でも、お金のことなんかより、宿題のことで頭がいっぱいだった。
だれかがお財布だけ抜き取ってあとは捨てていったかもしれないと、ワンワン泣きながらホームのゴミ箱まであさってみたが、とうとう見つからなかった。せっかくやった宿題が水の泡(あわ)。もう行楽(こうらく)どころではなく、最悪の旅行だった。
残りの五日間で必死になって俳句をひねったけれど、結局、十句しかつくることができないまま九月一日を迎(むか)えた。やむなく父に頼(たの)んで、紛失(ふんしつ)したことを証明する先生への手紙を書いてもらった。
「八月二十五日、小田急線代々木八幡駅のホームのベンチに宿題が入ったバッグを置き忘れ、紛失してしまいましたので……」
授業がはじまる前に職員室に行って、父が書いてくれた手紙を見せたときのM先生の言葉を、私はいまだに忘れることはできない。それも足を組み、ふんぞり返ってタバコをプカプカふかしながら、
「おまえは本当に卑怯者(ひきようもの)だな。親まで使って嘘(うそ)なんかつきやがって。どうせやってないんだろう。正直に言えよ、やってきませんでしたって」
私は思わずわが耳を疑った。あっけにとられて、弁解の言葉すら出てこなかった。出てくるのは、涙と鼻水ばかり。
まさか、そういう受け取り方をされるとは夢にも思っていなかったし、この先生ににらまれ、問いつめられたら、いくらそうではなくても、反論なんかできるものではない。
私は言葉より涙のほうが先に出るたちだった。なにも答えられず、涙と鼻水にまみれていると、
「やっぱり、宿題なんか最初からやらなかったんだな」
ネチネチしたいびりから、なかなか解放してもらえなかった。
同級生の中で、宿題を忘れたとか、なにかいたずらをしたとかで、この先生から私のような叱(しか)られ方をしたことがある生徒は、ほかにいなかった。
みんな全般的にお行儀(ぎようぎ)がよく、私は先生にとっては気に食わない目立ち方をしたかもしれないが、それにしたって……。私には、文字どおり、一生残る心のキズで、あのときのことを思い出すと、いまだに悔(くや)し涙をがまんすることができない。
悪口が書かれた手紙
彼女が犯人だったら、絶対に名乗り出るはずがない。お気に入りの彼女が犯人だなんて、先生なんかにわかるはずがないじゃん……。
私は日ごろのうっぷんを晴らすかのように先生を見やりながら、そう思っていた。
それは、ある日の六時間目の授業が終わり、掃除(そうじ)の時間に起きた出来事だった。
掃除当番の生徒が小さな紙切れを拾(ひろ)った。だれかに宛(あ)てた手紙のような文面で、そこにはM先生に対する悪口が書きつらねられていたという。内容が内容だけに、拾った生徒はそれをM先生のところに届(とど)けた。
私がそのことを知ったのは、翌日のホームルームの時間だった。先生は届けられた紙切れをヒラヒラさせながら言った。
「昨日(きのう)、掃除当番が教室でこの紙切れを拾って届けてきた。ここにはおれの悪口が書いてある。これを書いたものは正直に名乗り出なさい」
私はそれを聞いて、このクラスには私以外にも先生のことをよく思っていない生徒がいたことを知り、思わず心の中でバンザイをした。うれしくてしかたがなかった。
クラス全員の顔を見まわして、それを書いたのがだれか、ほぼ特定することができた。先生にはわからなくても、生徒同士ならわかりあえることもある。
それは、成績もよく、お利口(りこう)で、先生からとくに気に入られていた生徒だった。
「この手紙を書いた者は出てきなさい」
先生は何度も繰(く)り返したが、教室内はシーンとしたままだった。そして、最後にこう宣言した。
「犯人が名乗り出るまで、おれは授業をやらないからな」
そう言い残すや、さっさと教室を出ていってしまった。
「やったー!」
私は思わず大声をあげた。喜んでいるのは私だけだった。ことの重大さに恐(おそ)れをなしたか、みんなうつむいたまま黙(だま)りこくっていた。
先生が教室に来ないのはその日だけかと思っていたが、翌日も、その次の日も教室に姿を見せなかった。小学校は担任の先生がほとんどの教科を教える。その間、臨時で音楽の先生が私たちの授業を見てくれていた。
この先生は私の言うこともよく聞いてくれて、学校でこんな安らぎを覚えたのはひさしぶりのことだった。
M先生が来なくなって四日が過ぎ、このまま音楽の先生が担任になってくれたらいいのにと思うようになっていたころになって、M先生から私に呼び出しがかかった。そのころには、もう、なんで自分が呼ばれたのか、察(さつ)しもつかなくなっていた。
「梅宮(うめみや)、おまえなんだろ、この手紙を書いたのは」
これには愕然(がくぜん)。いきなり落とし穴に突き落とされたような気分だった。
「私じゃありません」
何度も否定(ひてい)したが、信じてはもらえなかった。
私はその手紙の中身を見てはいない。先生から、先生の悪口が書いてあったと聞いただけで、具体的な内容も知らない。その手紙の筆跡(ひつせき)が私のものと似ていたのかどうかもわからないが、この先生はそうしたことをよく調べたうえで私を疑ったのだろうか。
先生が最初に言ったとき、みんなが神妙(しんみよう)な面持(おもも)ちだった中で、私だけがほくそえんでいたから、それが顔色に出ていて、先生はそれを見逃(みのが)さず、私に目星をつけたのかもしれない。
四日も授業に出てこなかったくらいだから、そこにはそうとうなことが書かれていて、先生にとってはすごくショックだったのかもしれない。六年生の二学期で、クラスの中にはほかの中学を受験する生徒もいた。そんな大事なときに先生が授業放棄(ほうき)だなんて、いまなら大問題になっていたはず。
手紙事件はそのままうやむやになってしまったが、先生はいまでもあれを書いたのは私だと思っているに違いない。まったくやりきれない。
晴れやかな気分
出席簿の角の固いところで、こめかみのあたりを突かれたときには、目から火花が飛んだ。
この先生には数えきれないくらい痛い目にあわされている。廊下(ろうか)を走った、大声をあげて笑った、といった程度のことでも、出席簿で頭を思いっきりガツンとやられた。
この学校には髪型、服装、持ち物、態度など、とてもたくさんの規則があって、たしかに廊下を走ったり大声で騒いだりすることも禁止されていた。それを破ったのだから、規則違反には違いない。
でも、この先生の処罰(しよばつ)の仕方はとても平等(びようどう)とは思えず、たとえば大声で笑うからには相手がいたはずだが、同じことをしても、罰を受けるのは不思議(ふしぎ)と私だけだった。
いまにして思えば、ほかの子は、先生の気配(けはい)を察(さつ)すると、さっとやめて知らん顔できたのに、要領(ようりよう)が悪く、自分のペースでしか行動できない私にはそれができなかったので、結局のところ、私だけが見つかって、代表で叱(しか)られていたのかもしれない。
なくした宿題のことも、この手紙事件のことも、私は父や母に訴(うつた)えたが、「そんなことはないだろう」と、まともに相手にはしてもらえなかった。
参観日のとき、父が先生に「娘がこんなことを言っているんだが……」と問いただしてくれたようだが、私への報告は、つれないものだった。
「先生はそんなことはないと言っている。やはり、おまえの思いすごしだ。考えすぎだよ。もっと気楽にやれ」
両親に相談しても、まともにとりあってもらえないので、話す気も起こらなくなってしまった。
M先生からは、「おまえ、親に言いつけただろう」と言われ、結局、倍返しで痛い目にあわされた。
そのころにはすっかり学校嫌(ぎら)いになっていたが、なんとか学校へだけは行っていた。一刻も早く六年生を終えて、この先生から逃(のが)れたい、中学生になりたいと心から願いつつ。
小学校の卒業式の日は、入学以来、もっとも晴れやかな気分だった。うれしくてたまらず、「ざまーみろ、ざまーみろ」と何度もつぶやいていた。
II なにかが許せない
あひるの子は、つよい風にふきとばされそうになりながら、畑をこえ、野原をこえて、むちゅうではしりました。
――アンデルセン『みにくい あひるの子』より
中学校の父兄参観日に来てくれた父と
みじめになるだけ
「あっ、ママ、あの車!」
私たちの前方、赤信号で停止している車を指さしながら、思わず叫(さけ)んでいた。私は十六歳、一年遅れで入った高校一年生のときだった。
「あら、うちのアウディにそっくりね」
そっくりどころではない、そのものだ。それは、西麻布(にしあざぶ)方面から246(国道二四六号線)を、母が運転する車で松涛(しようとう)の自宅へ帰る途中、渋谷警察署のちょっと手前の交差点での出来事。
私たちの車は、ちょうどその車の左横に並(なら)んだ。隣(となり)のアウディの運転手は、間違いなく、そのころ付き合っていた彼。ふっと目があった。
父も母も車が好きで、わが家には家族の人数より多くの車があった。そのうちの一台を、父の許可を得たうえで彼に貸してあった。だから、彼が運転していても、それはいい。問題は、助手席に私の知らない女の子が座(すわ)っていたこと。
許(ゆる)しがたい裏切り……。
そんな思いが頭の中を駆(か)けめぐった。
信号が青に変わると、彼の車は私たちの車の前に割り込んで、逃げるように左側の路地(ろじ)に入っていった。
「だれよ、あの女。ねえ、ママ、早く追いかけてよ」
母にも事態は理解できたはず。でも、母は首を左右に振って、応じてはくれなかった。私は無我夢中(むがむちゆう)で、発進しかけた車から道路上に飛び出していた。母の制止も、そのときの周囲の状況も、私の耳と目から完全に消えていた。
行(ゆ)き交(か)う車の間を、どんなふうにしてすり抜けていったかは覚えていない。とにかく、その路地に入っていって追いかけた。ほどなく、路地の渋滞(じゆうたい)で立(た)ち往生(おうじよう)していた彼の車に追いつくことができた。
私はその窓ガラスをトントン叩(たた)いた。でも、彼はドアを開けてくれない。
突然、助手席に乗っていた女が車から飛び出し、走り去った。続いて、彼も彼女を追うようにして、細い路地を駆けていってしまった。あとに残されたのは、私と空(から)っぽのアウディだけ。それ以上、追いつづける気力は失(う)せていた。
車の脇(わき)にたたずみ、放心状態で泣いていると、母が駆けつけてきた。
「ママ、さっきはなんで追いかけてくれなかったの?」
涙ながらに抗議した。
「追いかければ追いかけるほど、あなた自身がみじめになるだけだからよ。さあ、帰るわよ」
「この車、どうするの?」
まだ免許をもっていなかったから、私が運転して帰るわけにはいかない。
「そんな車、捨てちゃいなさい」
簡単に言うけど、アウディだよ……。
私は、母にひきずられるようにして家に帰った。
初めての彼
その彼は、私にとって、生まれて初めてラブレターをもらい、初めて二人だけでデートをした相手だった。
彼と知り合ったのは、それより二年前、私はまだ中学三年生で、彼は高校二年生だった。
夏休みが終わり、新学期がはじまってしばらくたったある日の朝、目白(めじろ)駅のホームで、前から歩いてきた男の子にいきなり声をかけられた。
「これ、読んでほしいんだけど」
相手は二人いて、そのうちの一人が私に向かって手紙らしきものを差し出した。いつも下ばかり向いて歩いていた私には、まったく見知らぬ顔。でも、その制服が、あの優秀な開成(かいせい)高校のものであることは、私にもわかった。
目の前で起こっている事態がさっぱりわからないまま、渡された手紙を手に、しばらくボーッとしていた。ふと気がついたときには、二人の姿はなかった。
その手紙には、一言、「惚(ほ)れた!」と書かれていた。
へーっ、これってラブレターじゃん。
当時はいつもゆううつがちな毎日だったけど、その日だけは上機嫌(じようきげん)。帰宅後、私は得意になってその手紙を母に見せた。
「あらまあ、開成! いいじゃない、お付き合いしてみたら」
開成高校といえば、東大合格率ナンバーワンの秀才校(というイメージ)。当時の私にはそれほどピンとこなかったけど、母は「開成」と聞いただけで目を輝(かがや)かせていた。単純そのもの。
そのころ、自分のペースでしか行動できない私は、規則にがんじがらめの学校にますます嫌気(いやけ)がさし、精神的にもかなり荒れていた。両親ともあまりうまくいっていなかった時期。母は、“いいとこのお坊(ぼつ)ちゃん”と交際すれば、少しはいい子になるのではと思ったのかもしれない。
あまりうまくいっていなかったとはいっても、そこはアメリカ式の習慣で、そういうことはなんでも母親に話していた。母はそんな調子だったけど、母から事情を聞いた父は、すぐに大賛成(だいさんせい)とはいかなかった。
それまでは特定の男の人との付き合いはなかったけれど、友だちの関係で、私のところにも男の子から電話がかかってくることがあった。その電話を父がとったときにはもう大変。
「アンナさん、いますか」
黙(だま)ってガチャン。さもなければ、相手の名前から用件まで根掘(ねほ)り葉掘(はほ)りくどくどと問いただすから、いやがって向こうから切ってしまう。
それくらいうるさかった父も、母の説得もあって、この開成くんとの交際はしぶしぶ認めてくれた。
手紙をもらった翌日、また向こうから声をかけてきて、交際がはじまった。
私にはそうした経験がまったくなく、今後もありえないだろうと思っていたから、目の前のニンジンに夢中(むちゆう)で飛びついたといった感じ。それこそ有頂天(うちようてん)。
彼を両親にも紹介し、私も向こうの両親に紹介されて、親公認の交際となった。
彼との最初のデートのとき、心配した父がそっとあとをつけ、まるで探偵(たんてい)みたいに双眼鏡(そうがんきよう)を使って私たちの様子を監視していたという。この話をあとで聞かされたときには、びっくり仰天(ぎようてん)してしまった。
なんて親だ――。
校舎裏に呼び出し
「中学に来たら、たぶんあなたはいじめにあうから、覚悟(かくご)していてくださいね」
まだ小学校を卒業する前、中学の生活指導担当の先生がわざわざ小学校の校舎までやってきて、私にこんなアドバイスをした。
私は、ようやく小学校の担任の理不尽(りふじん)な仕打ちから逃(のが)れ、念願の中学に進んだ。そこで私を待っていたのは、上級生からのいじめだった。
小学校の六年間、少なくとも私の意識では、同じ生徒からのいじめには一度もあったことがなかったから、急にそんなことを言われても、実感がわかない。でも、入学して一週間ほどたったところで、すぐに実感できた。
呼び出しにあい、連れていかれた校舎の裏には、三十人ほどの上級生がいた。ぐるりとまわりを取り囲まれ、真ん前の椅子(いす)にスケバンみたいなのが腰かけていた。こちらはすっかりおじけづき、そのときになにを言われたかも覚えていない。
自分たちが退学させられるのがこわかったのか、暴力をふるわれることはなかったが、たっぷりと一時間ぐらい立たされて、いびられていたような気がする。
その後も何度か呼び出しにあった。言われることといえば、おまえのスカートは短すぎるだの、靴(くつ)が校則違反だの、髪の毛がどうだの……大きなお世話(せわ)だ。
目の前の彼女たちを見れば、私よりもっと短いスカートをはいているし、こっちよりずっとひどい校則違反だらけの格好(かつこう)、人のことを言えた立場じゃない。
髪型は三(み)つ編(あ)みでなければならないとか、スカートの丈(たけ)は膝下(ひざした)何センチとか、靴下や靴の色だとか、細かい規則がいっぱい決められている。だれだって探(さが)せば一つや二つの校則違反は見つかる。
母が三つ編みは髪が不潔になりやすいからと嫌(きら)っていたため、私は三つ編みしないで登校したこともある。これもりっぱな校則違反。
中学になると、弁当や体操着など、ほかの用具も増えて、通常のカバンだけでは入りきらなくなる。そういうときは、有名スポーツメーカーの名の入ったバッグとか、自分が好きな洋服屋のブランド名が入ったビニール袋などに入れて持ち歩きたくなる。この学校では、そうしたものはいっさい禁止。風呂敷(ふろしき)に包んでいかなければならない。いまどき、中学生に風呂敷だなんて、時代遅れもいいところだ。
衣替(ころもが)えは六月一日だけど、五月にもなると、けっこう暑い日が多くなる。冬服は、ジャンパースカートの上にセーラー服を着せられるから、四月でさえ暑くてやりきれないときがある。暑い日に夏服用のスカートをはいていったら、それがバレて、たちまち“呼び出し”にあった。夏用スカートでもふつうにしていればわからないが、手をあげたりすると、すぐわかってしまう。
「おまえが歩いていると、ムカつくんだよ」
そんなふうに言われたこともあった。この顔は自分でも嫌いだったから、それは納得(なつとく)できた。でも、私の責任じゃない。
私の顔は小学校にあがったころよりさらに外国人っぽくなっていたと思う。それが他人には「大きな顔をしている」と映(うつ)るらしい。
こんな小心者(しようしんもの)をつかまえて、「態度がでかい」とか「生意気(なまいき)だ」……。その実態はコンプレックスのかたまりで、人一倍、泣き虫だというのに。
この呼び出しは私だけでなく、なんとなく目立つ新入生を順番に呼び出してはいびっていたようだった。私が最初に呼び出された次の日には友だちが呼ばれ、彼女は机の上に正座(せいざ)させられていた。
このスケバン・グループはいくつかあるらしく、友だちの関係から、たまたま別のグループのリーダー格と知り合いになった。その彼女に、いつもこんな目にあってるんだけど、と泣きついたところ、
「わかった。私にまかせておいて」
効果てきめん。それ以来、私に対する呼び出しはぷっつりとなくなったのだから、驚いてしまう。これには大いに助かった。
私自身、いじめにあったと感じていなかったが、靴を隠(かく)されたり、体操着がなくなっていたりしたことは何度かあった。
私の意識としては、「靴なんか、また買えばいいじゃん」。新しいのを買う絶好のチャンス。体操着をとられたら、それは体育の時間をサボる口実(こうじつ)になる。教科書を隠されたときなど、「やったー」なんて、思わず叫(さけ)んでしまったくらい。これでは、いじめるほうも、いじめがいがないというもの。
筆箱の中の消しゴムに画鋲(がびよう)がいっぱい刺(さ)さっていたとか、いやがらせめいたこともあったけど、こんなのはいじめというより、ちょっとしたいたずら。さすがに、トイレで用を足しているところを上からのぞかれたときにはすごくショックで、そのまま家に帰ってしまったけれど。
学習院の男の子を品定め
毎朝、始業前の楽しみは、教室の窓から外を通る学習院(がくしゆういん)高等科の男子生徒の品定(しなさだ)め。
「ほら、見て見て、あの人、かっこいいね」
「あっちの人は?」
「えー、全然」
中学・高校の校舎は道路に面していて、二階が中学校。目白(めじろ)通りをはさんだ向かい側が学習院のキャンパス。こっちの窓は女子生徒の花ざかり。そんな見苦しいまねをするのはもちろん校則違反だけど、朝から大騒ぎ。学習院の学園祭に行くのも楽しみだった。
いくら校則でしばってみたところで、十代半(なか)ばのエネルギーを抑(おさ)えつけるなんて、とても無理な話。そのほうがよっぽど不自然だと思う。
“お嬢(じよう)さん校”として有名なその学校にも、複数のスケバン・グループのようなものがあったわけだし、生徒手帳の校則の端(はし)から端まできっちり守っていた生徒など、一人もいなかったはず。
学校が終わって帰るときなど、多くの生徒が目白駅のトイレで着替えたり、化粧(けしよう)をしたりしていた。そのまままっすぐ帰宅するはずはなく、みんなで新宿とか渋谷とかに遊びにいくことになる。
私は集団行動が苦手(にがて)だし、好きでもないから、そういうのには加わらなかったけど、ほかのみんなは下校時だけだったのに、私は朝、うちから化粧をして通学していた。このごろの中高生のような“ヤマンバ”ではなく、口紅(くちべに)なんかもごくマイルドなもの。自分のみにくい顔を少しでもやわらげるのが目的で、目立たなくするつもりでやっていた。
結果的には、学校で一人だけ口紅などをつけているものだから、よけいに目立ってしまったみたいだけれど。
朝、校門のところに竹刀(しない)を手にした男の先生が立っていて、登校してくる生徒を一人ずつ検査していた。スカートが短いとか、その髪はなんだとか、さらにはカバンの中身までチェック。私はよくそれにひっかかっていた。
私は校則の詳(くわ)しい内容もほとんど知らず(興味(きようみ)がない)、完全に無視して、自分のセンス(あるいは母のセンス)で服装や髪型などを決め、持ち物も自分なりに工夫(くふう)して通学していた。それは幼稚園のころからしていたことで、だれに迷惑(めいわく)をかけるわけでもないから、悪いことだという意識もなかった。
それほど規則がうるさかったけれども、不思議(ふしぎ)と退学させられる生徒はいなかった。退学者を出すと評判が悪くなる、ということだったのだろう。そのかわり、ちょっとした校則違反でも、たとえば、ポケットの中にアメ玉一個入っていても、親が呼び出しをくらい、始末書(しまつしよ)を提出させられることになる。
母には、規則に違反することを極度(きよくど)に嫌(きら)うところがある。それがいいとか悪いとかではなく、規則なんだから守らなければならない、という考え方。いかに自由を規制し、個性を殺してしまうような校則でも、私がそれに違反して親が呼び出しを受けたときなど、母はとても強く怒(おこ)った。
その母ですら、学校側に文句(もんく)を言ったことがあった。
中学二年生のころ、キョンキョン(小泉(こいずみ)今日(きよう)子(こ)さん)の影響(えいきよう)かなにかで、ベリーショートの髪がはやったことがあった。私は真似(まね)をして切ってみた。もちろん学校では禁止。当然、校則違反で呼び出し。このときは母も黙(だま)って引き下がることなく、
「三(み)つ編(あ)みよりショートカットのほうがよっぽど清潔でしょう。あなたがたは生徒が清潔ではいけないというんですか」
母は、呼び出しがあってもめったに学校に行こうとせず、かわりに父が行くことが多かった。父は仕事が不規則だから、「明日、学校に来るように」と言われても、都合(つごう)がつかないこともある。そんなときは、
「ぼく、ちょっと明日はだめなんで、明後日(あさつて)にしてください」
学校に断(ことわ)りの電話を入れていた。
呼び出しを受けたことで、父からきつく叱(しか)られたという記憶(きおく)はほとんどない。学校の規則には反していても、外に出たら、非常識どころか、ごくふつうに通用することだから、父は叱らなかったのだと思う。
私が早弁(はやべん)をして呼び出されたときなど、先生と父との間でこんなやりとりがあったとか。
「おたくでは朝ごはんをきちんと食べさせていないんでしょうか」
「食べさせてますよ。あのねえ、先生、そうおっしゃるけど、十四や十五の育ちざかりに、食欲旺盛(おうせい)なのは当たり前でしょうが」
母もそうだったし、父もこのとおり。だから、教職員の間では、「子が子なら、親も親だ」と言われていたようだ。
学校をサボると、すぐに家に電話がいって、やはり親が呼び出されることになる。それでは父に迷惑をかけることになるから、学校嫌いの私もとりあえずは登校していた。そのかわり、しょっちゅう具合が悪いと嘘(うそ)をついて、保健室に行ったり、早退したりしていた。
登校拒否(きよひ)の人は、朝、本当に吐(は)き気(け)がしたり、おなかが痛くなったりするらしいけど、私のは嘘ばっかり。嘘でもつかなければ、やってられなかった。
中学二年、三年と進むにつれて、私の行動はひどくなっていった。学校のなにもかもおもしろくなくて、授業が終わったあとも、気のあった二、三人の仲間と、連日のように渋谷あたりをブラブラしていた。お酒を飲み出したのも、中学二年のときだった。
私は自分が本質的に勉強嫌いだとは思わない。私にとって、勉強に意欲がわくような環境じゃなかったんだと思う。ちょっと弁解がましくなるけど。
父のげんこつ
私は、親から殴(なぐ)られるのは愛の証(あかし)だと思っていた。
父は私の顔面をげんこつでよく殴った。
でも、どんなに忙(いそが)しくても、授業参観日や運動会には必ず時間をつくって来てくれたし、家族旅行にもよく連れていってくれた。母に対してもそうだったけど、とくに私に対しては、けっして手を抜くことなく、すごくマメな父親だった。いまになって、いろんなよその父親のことを知ってみると、わが家の父は特別だったと思う。
中学生になって給食がなくなり、弁当になったとき、私のお弁当をつくってくれたのも父だった。朝、家にいるときは必ずつくってくれた。お手軽なコンビニ風の弁当なんかではなく、すごく手をかけた重箱入(じゆうばこい)りのノリ弁。
ノリを大きいままベタッと敷(し)くのでは、まだまだ愛情が足りない。父のは、縦(たて)二・五センチ、横一・五センチくらいに小さく切ったノリを、ごはんの上にびっしりとすきまなく張りつけていく。それが三段重(さんだんがさ)ね。おかずには、肉、魚、野菜、海藻(かいそう)類などがバランスよく入っている。私は野菜がまったく食べられない子だったけれど……。
ふだんの生活の中で自分が父に愛されていたことが実感できるから、こちらが悪いことをして叩(たた)かれるのは当然だと受けとめていた。私は自分の思ったとおりにしか行動できないたちだから、同じことで何度も叩かれていた。
叩かれたときには、「ちくしょう」と思うけど、学校に呼び出されたことで叩かれた覚えはなかったから、父が私を叩くにはちゃんとした理由があり、私なりに納得(なつとく)できていたと思う。
父や母に叩かれるのは当たり前と思っていたけど、他人に叩かれる筋合(すじあ)いはない、というのが、そのころの私の論理。両親以外の人から叩かれた経験は、六年生の担任しかなく、それは私には絶対に許(ゆる)しがたいことだった。
開成(かいせい)くんと付き合うようになって数ヵ月ほどたったころ、ちょっとした口げんかになったときに、彼がいきなり私に手をあげた。さすがにショックで、私はすぐさま両親に泣きついた。
父に言いつければ、「おれの大事な娘を、よくも」と、私のかわりに殴り返してくれるに違いない、私はそう確信して、彼を父の前に突き出した。
父はけんかにいたった事情を聞くこともなく、私を殴った彼をとがめるわけでもなく、こう断言した。
「アンナ、悪いのはおまえだ」
これにはずっこけてしまった。
「なんで? パパ、殴られたのは私だよ」
「おまえが生意気(なまいき)な口をきいて、相手を怒(おこ)らせたんだ。だから、悪いのはおまえだ。もちろん、アンナだけが悪いんじゃない。しかし、けんかというのは両成敗(りようせいばい)だから、お互いの責任だ。おれは知らん。口出しはせん」
いまなら納得できるけど、そのころはとうてい理解できなかった。
ええっ、「おれは知らん」なんて、パパは私を愛していたんじゃなかったの?
絶対に味方してくれると信じていたのに冷たく見放されて、いっぺんに父親の愛情を失(うしな)ったような気がした。
十五歳の冬、このとき、私は発作的(ほつさてき)に家を飛び出していた。
家 出
家出をしたって、身を寄(よ)せるところは決まっている。私が生まれた代々木上原(よよぎうえはら)の産婦人科医院しかない。歩いても行ける距離だった。そこに私をとてもかわいがってくれる十二歳年上の娘さんがいて、私も彼女をお姉さんのように慕(した)っていた。
父にはヘンなところがあって、夫婦げんかをしても、母に「出ていけ」とはけっして言わない。
「そんなにいやなら、おれが出ていく」
出ていく先は、やはり代々木上原の産婦人科医院。一家そろって、勝手にそこを駆(か)け込(こ)み寺(でら)にしていたのだから、向こうにしたら迷惑(めいわく)もいいところ、たまったものではない。
私がまだ赤ん坊だったころ、父は母とけんかをして家出をしたものの、私のことは放っておけず、夜中にそっと窓から忍(しの)び込み、私を盗(ぬす)み出して、駆け込み寺に駆け込んだという。
私が家出をしたって、両親にしてみれば行き先は知れたもの。とりわけ親戚(しんせき)が苦手(にがて)だった私には、自宅以外では、そこが唯一(ゆいいつ)の安らぎの場。
その日は母からそこに電話がなかったから、自分の行き先はバレていないのだろうと思っていた。翌日はそこから学校に行き、この日もやはり連絡はなかった。私はすっかり親に裏切られたと思い込んでいたから、他人の家の迷惑もかえりみず、このままこの家の子になってもいいだなんて、のんきなことを考えていた。
その翌日もそこから通学し、学校を終えて、午後、渋谷駅に降りたったところ、改札口の前に母が立っているではないか。私が帰ってくる時間を見計(みはか)らって、待(ま)ち伏(ぶ)せしていたのだ。
「アンナ、もう帰ってきてよ」
「だれがあんなうち。帰らないわよ」
「お願い。もういいじゃない、かんべんしてやってよ」
目に涙を浮かべている。でも、私の気持ちはまだ完全にはおさまっていなかった。娘がひどい目にあっているのに、助けようとしない親なんて……。
「帰りたくないよ」
泣いている母を置き去りにして、私は繁華街(はんかがい)の中に走り込んだ。
いったんははねつけたものの、寂(さび)しそうにたたずむそのときの母の姿が目に焼きついて離れない。さすがにかわいそうに思い、家出四日目ぐらいで自分から家に戻(もど)った。そのころには、客観的に見れば、けんか両成敗(りようせいばい)というのも間違ってはいないなと思えるくらいの冷静さを取り戻していた。
私が戻ったとき、父は家にいたが、娘の身勝手さを怒(おこ)るでもなければ、謝(あやま)るでもなく、照(て)れくさかったのか、なにも言わなかった。私や母に自分から「ごめんなさい」とは絶対に言わない父だった。家出の話題、その原因となった話題もいっさいなく、すぐに以前と同じ日常の会話がはじまった。四日間、まるでなにごともなかったかのように。
アメリカ式というのは、やるだけやってしまえば、あとはもとどおり、いつまでもひきずることがない。私の家族は、いつもこんな調子だった。
高校進学拒否
「私はもう高校には進みたくありません」
私はエスカレーターに乗って高校まで行く気にはなれなかった。この学校の空気がいや、なにより自由を奪(うば)われるのがたまらない……私にはもう限界だった。
学校の進路相談で先生にそう申し出たときには、理由くらいは聞いてくれるだろうと期待していた。かたちだけでも引きとめてくれるのではないかと。その中学の生徒四百人のうち、上の高校に進まないのは十人程度にすぎなかった。
先生の答えは、
「うん、そうだな。おまえはもういいよ」
やっかい払いができて、せいせいしたと言わんばかりの口調(くちよう)。
どうして、「なぜなんだ」って聞いてくれないの……。
聞かれたら、この学校のこういうところが私にはあわないんです、こういう校則はおかしいと思います……そんなふうに、言ってやりたいことがいっぱいあったのに。「おまえはもういいよ」なんてあっさりと言われたんじゃ、こちらはなにも言えなくなってしまう。
高校に進む気がないことを母に告(つ)げたときは、猛烈(もうれつ)に反対された。
「お願いだから、そのまま高校も行ってちょうだい。黙(だま)ってたって短大まで行けるんだから、そのつもりで選んだんだから、お願いだから、やめるなんて言わないで」
中学生になってから、私はだんだんと学校での出来事を母に話さなくなっていた。母は、娘はちょっとおかしいのでは……と思いはじめていたようだが、まさか高校に進学しないなんて言い出すとは、夢にも思っていなかったに違いない。母が私をあつかいかねて、ノイローゼ気味になっていったのは、そのころからだ。
父は、最初は黙りこくったままなにも言わなかった。明らかに反対の意思(いし)表示だったけど、結局は、「まあ、おまえが自分の責任で考えて決めたことなら……」と、娘の意思を尊重(そんちよう)してくれた。
「で、なにがしたいんだ」
私の口からとっさに出た言葉が、
「パパ、私、アメリカに行きたい」
もう少し自由な環境で勉強がしたいとか、アメリカなら自分の個性で生きることができるとか、口では格好(かつこう)のいいことを言っていたけど、実際のところは、アメリカなら学校の制服はないだろうし、くだらない校則に振りまわされることもないだろうという単純な理由。
高校に進まなくても、どうせなにかしなければならない。私はアメリカに行くための準備ということで、とりあえず語学の専門学校に通(かよ)うことにした。
制服をビリビリに
学校をやめて真っ先にやったのが、もう着ることのない制服をずたずたに切り刻(きざ)むこと。
中学を卒業した日のはればれした気持ちを、私はいまでも忘れない。
ハサミで切れ込みを入れておいて、両手で力まかせに引き裂(さ)く。このビリビリッといくときの爽快感(そうかいかん)。部屋で一人でニタニタしながらやっていたんだから、考えてみたら、ちょっとこわいものがある。切りくずをごみ袋に突っ込んで、カバンや教科書ともども、生ゴミと一緒に出してしまった。
ざまあみろ、いい気味だ――。
これこそ自由! 次にしたのが、髪にパーマをかけ、耳にピアスの穴をあけたこと。ピアスの穴は、片方に七つ、もう一方に二つ。
耳たぶのほうから上に向かって順にあけてもらうのだけど、上にいくにつれて痛くなる。片方に七つもあけたのは、やけっぱち、どこまであけられるか試(ため)してやろうという気持ちもあった。七つ目で痛くてたまらなくなり、やめた。もちろん、いっぺんに七つあけるのではなく、一回に二つか三つぐらいずつやっていく。
耳のピアスは、中学のときに一度やっている。そのとき、何人かの友だちからこう言われた。
「耳に穴をあけると、運命が変わっちゃうっていうよ」
「へえー、そうなの」なんて、ばかにして受け流していた。
ピアスが校則違反なのはいうまでもない。穴をあけて家に帰ったら、母に見つかってすごく叱(しか)られた。猛烈(もうれつ)な剣幕(けんまく)で、
「あんたなんか、出ていきなさい」
外に追い出され、内側から鍵(かぎ)をかけられてしまった。本当に運命が変わってしまうんだなあ――ヘンに感心しながら、駆(か)け込(こ)み寺(でら)に向かった。
そのときは、すぐにピアスをはずした。それは母から言われたからというより、しくしくと痛んでがまんできなかったから。すぐにはずせば、穴は自然とふさがってしまう。
七つも穴をあけたときには、予想外に母はそれほど怒(おこ)らなかった。
「いい加減(かげん)にしたら」といった程度。卒業して自由の身になれば、校則違反ではなくなる。なんの規則にも違反していないから、母としても怒りようがないというわけ。規則を守らないのが嫌(きら)いなのだ。
私はピアスがよくよく体質にあわないのか、七つの穴からは、三ヵ月から四ヵ月たっても血が止まらなかった。結局、みんなはずしてしまって、いま入るのは一番下の一つだけ。
家庭崩壊
制服が死ぬほどいやだったのに、また制服に飛びついて、私の信念なんて、じつにいい加減(かげん)なもの。
渋谷のその語学学校に通(かよ)うようになった本当の理由は、とても矛盾(むじゆん)している。その語学学校にも制服があった。赤いタータンチェックのブレザー、ネクタイにハイソックスという、いかにもイギリスかアメリカ風のかわいい制服。それに飛びついてしまっただけのこと。語学の学校ならほかにもいくらだってあったのに。
そこには三ヵ月ほど通ったが、最初からそれほどの意気込みでのぞんだわけではないから、アメリカに行くという計画も、しょせんは十五歳の子どものこと、親と離れるのがこわくなり、だんだんと冷(さ)めてきた。それに、アメリカ風の制服も二ヵ月ほどであきてきたので、語学学校をやめてしまった。
あれほど熱望していた自由なのに、学校に行く必要がなくなると、ほかにやることがなにもない。まるで空虚(くうきよ)そのもの。
校則だらけの学校から解放されたら、いろんなことをいっぱいやろうとはりきっていたのに、情(なさ)けないことに、自分ではやることがなにも見つけられない。友だちはみんな学校に行っているから、学校をやめると、だんだん行き来がなくなる。ふと気づいたら、まわりには友だちが一人もいなくなっていた。
どうせ学校には行かないんだから、いつまで寝ていてもいいようなものだけれど、不思議(ふしぎ)と目が覚(さ)めて、八時にはベッドから出てしまう。
「太陽をばかにするな。太陽があるから、米が育ち、緑が生まれるんだ」
それが父の口癖(くちぐせ)。小さいころから早寝早起きでしつけられたから、身についた習性は、そう簡単には変わらない。そのかわり、夜は十二時には必ず寝ていた。
八時に起きても、なにもやることがない。私もイライラなら、母のイライラも最高潮(さいこうちよう)。ちょっとしたことで、すぐけんかになり、口だけではすまず、お互いに髪を引っ張りあったり、服をひきむしりあったり。母を突き倒したり、殴(なぐ)ったりしたこともある。
まさに家庭内暴力。
母は当然、娘から暴力をふるわれたことを父に言いつける。すっかりずる賢(がしこ)くなっていた私は、父の前ではいい子をよそおう。いくら母が訴(うつた)えても、現場を見ていないから、父は私を叱(しか)れない。
「アンナ、どうしてそんなことをするんだ」
「パパ、私、そんなことやってないよ。ママって、このごろ、ちょっとおかしいんじゃないの」
それでおしまい。自分の言い分を信じてもらえない母は、悔(くや)しさのあまり、ノイローゼがどんどんひどくなっていく。
母はラテン系の血のせいなのか、激(げき)しやすいところがある。
中学三年のときに、こんなことがあった。そのころには、私の部屋に専用の電話があり、友だちと長電話をしていたとき、母が私になにか用を言いつけた。こっちは電話に夢中(むちゆう)だったから、「はいはいはい。わかったわよ」と、母をばかにしたような言葉を返した。
しばらくして、まだ話し中なのに突然、プッと電話が切れた。横を見ると、ハサミを手にした母が恐(おそ)ろしい形相(ぎようそう)で立っていた。私の態度にプッツンし、ハサミで電話線までプッツンさせてしまったのだ。その勢いで、髪の毛までやられそうな雰囲気(ふんいき)だった。
ふつうなら、あとで私が父に叱られるところだけど、このときも反対に母が怒鳴(どな)られた。
「あと先も考えずになんてことするんだ。この電話線、どうするんだ、ママ!」
これには母もそうとう悔しかったのだろう、しばらく泣きわめいていた。
娘に暴力をふるわれただけで大ショックなのに、それを父に信じてもらえないのだから、ふつうの精神状態でいろというほうが無理な話。
母は完全なノイローゼ状態、家にいるとしょっちゅう泣いてはギャーギャーわめくから、私はたまらず、あてもないのに外に飛び出していく。
一人じゃこわくてなにもできないのに……。
中学生のときは、それこそパーティづくし。毎週のように、ディスコ、いまでいえばクラブで大学生が主催(しゆさい)するパーティがあって、そこに友だちと参加していた。渋谷の街(まち)に行けば、そのころ知り合った人たちがいっぱいいる。中にはチーマーとか、不良みたいなのとか、クスリにはまっている女の子もいた。聞けば、クスリで死んじゃった子もいるという。ドラッグを売買しているのまでいた。顔をぼこぼこに腫(は)らした女の子もいた。クスリがらみで、殴る蹴(け)るの暴行を受けたのだという。
そういう人たちとは、こわくてとても一緒に遊ぶ気になれない。かといって、たまに学校時代の友だちに会っても、もうすっかり話題についていけなくなっている。周囲から自分だけ完全に取り残された感じだった。
ハワイ留学
語学学校をやめたあと、七月からは、中学時代に通(かよ)っていた塾に、また顔を出すようになった。勉強がしたいというより、とりあえずなにかをしていなければというあせり。
八月には、ハワイに留学することに。でも、その実態は……。
中学三年のとき、私と同じような考え方で学校をやめていった子がいた。彼女もプータロー同然、お互い同情しあって、意気投合。
その子の家はお金持ちで、ハワイに別荘をもっていた。夏休みに一家でハワイの別荘に行くというので、それに便乗(びんじよう)、その別荘に寝泊(ねと)まりしながら、彼女と一緒に向こうの語学学校に一ヵ月ほど通うということで、両親から了承(りようしよう)をとった。
クラスは彼女と別々だったけど、ハワイで語学学校に通うようになった。なんと、そこでもいじめにあうことになる。
私のクラスに日本人の女の子がいて、彼女がボス的存在だった。十分間のブレイクタイムにキャンディが出る。それを彼女が配(くば)るのだが、私のところにきたら、
「あんたにはあげない」
そんなふうにされたら、なんだか急にばかばかしくなって、次の日から通うのをやめてしまった。一ヵ月の予定が、十日で帰ってきてしまった。
開成(かいせい)くんとの付き合いはまだ続いていたし、時間をもてあましていたから、西日暮里(にしにつぽり)の彼の学校の前で待っていたこともある。彼は大学受験を控(ひか)えていたから、かなり邪魔(じやま)をしてしまったかもしれないけど、当時はそんな意識はもうとうない。会ってなにをするわけでもないが、会えばそれなりに楽しかった。
猛勉強
よし、私は東横学園大倉山(とうよこがくえんおおくらやま)高校に入って、あの制服を着るんだ!
十六歳といえば、一般的にはまだ学校に通(かよ)っている年代。惰性(だせい)で塾通いは続けていたけど、渋谷の街(まち)を歩くたびに、あれほどいやだった女子高生の制服がやたらと気になるようになった。
いい気なもので、とくにハワイから帰ってきたころは、自分もまたああいうのを着てみたいな、なんて思うようになっていた。
「あっ、あれ、いいな」
街を歩いていた女子高生の中に、あれなら自分も着てみたいと思った制服が一つだけあった。当人に声をかけて、どこの学校か聞こうと思ったが、でも、その勇気はなかった。
よく見て覚えておいて、本屋に走った。そのころけっこう売れていた『女子高制服図鑑』なるものがあった。その図鑑をパラパラやって、目に焼きつけていた例の制服と同じものを探し出した。
東横学園。それも二つあって、等々力(とどろき)校と大倉山校。さっそく、受験雑誌で偏差値(へんさち)を調べた。世田谷区の等々力校のほうは、私の偏差値ではお呼びでない。横浜の大倉山校なら、頑張(がんば)ればなんとかなるのではないか――。失礼な話だとは思うけど、受験雑誌によればそんな感じだった。
勉強嫌(ぎら)い、成績最低、おまけに半年のプータロー生活、合格する自信などない。季節はもう秋、十月に入っていた。中学の推薦(すいせん)をもらうのは不可能だし、内申書(ないしんしよ)をよく書いてくれるはずもない。
自分で努力しなければならない。なんとしても翌年の二月に受験して、関門を突破しなければならない。
私は猛然(もうぜん)と勉強をはじめた。午前十時から午後六時まで、それまで通っていた塾で講義を受け、夜は家庭教師に見てもらう。生まれて初めての経験だった。
小学校から中学に進むときにも、いちおう試験があった。それで落ちることはないと聞いていたから、もちろん受験勉強はしていない。そのときの算数の点数が十八点だったことを覚えている。私にしたら、これでもいい点のほう。ほかの科目はもっと悪かったと思う。
十月から二月までの数ヵ月間は、だれからもなにも言われず、まったく自分の意志でやった勉強。動機はちょっと、いや、だいぶ不純だったかもしれないけど、こんなに学校に行きたくなる自分にびっくりしていた。
『制服図鑑』でほかの学校も調べたけど、結局、気に入ったのはそこしかなかったから、東横学園一本ヤリ、ほかの学校はいっさい受験しなかった。落ちたら、またプータロー……。
試験を終えたあとも確かな自信はなかった。
忘れもしない二月二十日。自分で見にいった合格発表の掲示(けいじ)の中に自分の受験番号を見つけたときには、言い知れぬ達成感を味わった。
この合格を一番喜んだのは、私ではなく、母だったかもしれない。うれしければうれしいで、また泣いてばかり。
一年前、高校進学しないと言ったとき、娘の気持ちを尊重(そんちよう)しながらもムッツリしていた父は、このときばかりは笑顔(えがお)で喜んでくれた。
別天地
「ああ、いいよ、いいよ、持っていきな」
全国的に見れば、横浜も大きな都会だけど、生まれたときから渋谷の周辺しか知らず、小・中学校があった目白(めじろ)ですら、寂(さび)しいところという印象があった。横浜の中心から離れた東急東横(とうきゆうとうよこ)線の大倉山(おおくらやま)は、とんでもない田舎(いなか)に思えた。
それがいやだったのではなく、私の目にはむしろ新鮮に映(うつ)った。
入学して間もないころ、学校の近くのコンビニエンスストアで買い物をして会計がすんだあと、「あっ、これもお願いします」と、ガムを追加で買おうとしたら、店のおばちゃんが「お金はいいよ」という。
電車通学できるくらいの距離なのに、都心からちょっと離れただけで、人の気持ちはこうも変わるものかとびっくりした。計算が面倒(めんどう)、ということではないはず。いろいろ買ったからおまけしてくれたのかもしれないけど、渋谷なんかでは絶対に考えられない出来事だった。
「あんたを外国人だと思ったんじゃないの」
友だちの言うとおりかもしれないけれど。
私は大倉山がすっかり気に入り、ここなら卒業まで楽しく過ごせそうな気がした。
学校は山の上にあり、かなりの急坂をのぼっていかなければならない。雪が積(つ)もると歩けなくなるから、学校が休みになる。私はこれも気に入った。
学校の環境も、前の学校とは正反対、生徒の中には、ヤンキーもいれば、優等生もいるし、いろいろな人がいて、それが日本の平均的な高校の姿だったと思う。先生と生徒の距離もぐっと近い。
「おい、彼氏とどうだ、うまくいってるか」
先生のほうからそんなふうに声をかけてくれるなんて、清く正しく、男女交際なんてもってのほかという前の学校では、とても考えられないような光景。
父は、私が高校に入っても、時間があるかぎり、お弁当をつくってくれた。それを一時間目が終わったところで食べてしまっても、だれも文句(もんく)を言ったりしない。親が呼び出しをくらうことはない。
父の、いわゆる「辰(たつ)ちゃん弁当」はすぐに評判になって、生徒だけでなく先生までがつまみ食いにくる始末(しまつ)。みんなにとられて、私のぶんが半分になってしまうこともあったけど、かわりに自分たちのを分けてくれるから、おなかがすいて困ることはない。
自分の意志で選び、自分なりに努力して入った学校だから、よけいに心地(ここち)よく感じられたということはあるかもしれないけど、とにかく大倉山は別天地だった。
「悪魔の女」
「うちの息子は東大に行くはずだったのに、受験に失敗したのは、おまえのせいだ」
私は一年遅れながら高校に合格したけれど、付き合っていた開成(かいせい)くんは大学受験に失敗して、浪人する羽目(はめ)になってしまった。
彼の父親の怒(いか)りはふつうではなかったと思う。
彼はしょっちゅうわが家に来ていたし、私も向こうの家に遊びにいったりしていて、とくにお母さんにはかわいがってもらっていた。自分の息子が大学受験に失敗したとなると、とたんに考え方も変わってくるのだろうか。
私も彼を学校の前で待ちかまえていてはデートに誘(さそ)っていたから、彼の勉強時間を奪(うば)うことになったのも事実。言(い)い訳(わけ)はできない。それこそ、「悪魔の女」くらいに思われてもしかたがない。
彼の父親は、彼に対して、開成から東大へというコースを思い描(えが)いていた。それが狂(くる)ってしまったのだから、その落胆(らくたん)は理解できる。私のほうが高校に受かったものだから、よけいに頭にきたのかもしれない。
もちろん、私だけが責(せ)められたわけではない。
「大事な時期に、あんなフーテン女にうつつを抜かしやがって、おまえなんかもう息子じゃない、勘当(かんどう)だ」
父親は息子を家から追い出してしまった。
行くあてをなくし、途方(とほう)にくれた彼は、わが家に転(ころ)がり込んできた。もともと家によく来ていたし、うちの家族は親しくなるとだれとでも親戚(しんせき)のような付き合いをする人たち。頼(たよ)ってきたものを追い返すわけにもいかない。
両親は部屋を与(あた)え、彼が運転免許をもっていたから、うちで使っていない車まで貸し与えて、面倒(めんどう)を見ることになった。
彼は、その恩を仇(あだ)で返すことになる。
勉強もせず、その車で女の子と遊びまわっていたとは。
彼とはそこで終わり。路地(ろじ)に放置していた車は、業者に頼(たの)んで引き上げてきてもらったし、彼から車のキーも返してもらった。うちにあった彼の持ち物も、まとめて送り返した。
私から見れば、神様は残酷(ざんこく)、彼から見れば、悪いことはできないもの。こんな広い東京の中で、よりによって、どこかの女の子を乗せて調子よく走っているときに、私と母が乗った車と出くわすなんて。
「追いかけるほど、あなたがみじめになるだけよ」
母の言葉の意味がわかるのは、もう少しあとになってから。しばらくは泣いてばかりいた。
すぐにキレる性格で、息が止まるほどミゾオチを蹴(け)られたこともあるけれど、私にとっては生まれて初めての彼。失恋の悲しみというより、裏切られたことに対する悔(くや)しさだった。
こんなときに、世(よ)の父親というのは、娘にどういう接し方をするのだろうか。私の父は一言、
「めそめそ泣いてばかりいるんなら、早く寝てしまえ。もう、どうにもなるもんじゃなし、寝るしかないだろう」
III 夢と現実
湖につくと、およいだり、もぐったりしましたが、あひるの子があんまりみにくいので、だれもあいてにしてくれませんでした。
――アンデルセン『みにくい あひるの子』より
ヤンママに憧れていた16歳のころ
酔っぱらい運転
「こらっ、起きろ!」
いきなり毛布をはぎとられ、腕をつかまれて、ベッドから引きずり出された。
赤鬼のような形相(ぎようそう)の父の顔――。でも、なにがなんだかさっぱりわからない。頭には鈍(にぶ)い痛み。どうやら二日(ふつか)酔(よ)いの気配(けはい)……。
私は十八歳、一年遅れているから、まだ高校二年生。それが二日酔い? そう、私は中学二年のときからお酒を飲んでいた。
「なに、ねえ、パパ、なによ。そんなに引っ張ったら、腕、もげちゃうよ。痛い、やめてよ」
「うるさい。このばかやろう。こっちへこい」
腕をわしづかみにされたまま、部屋から引き出され、さらに階段も引きずりおろされて、連れていかれたのはガレージだった。私には、まだ事態が理解できない。
「アンナ、これはなんだ」
母が乗っていた白いムスタングのオープンカー。別の車に乗り換えて、これはもう売ってしまうというから、「それなら使わせて」ということで、その当時、私が乗りまわしていた。
運転免許をとってまだ半年しかたっていない。
「なにって、パパ、車じゃん」
目は覚(さ)めきっていないし、頭ももうろう。視界はぼんやりしていて、よく見えない。
「ばかやろう、目を覚ましてよく見ろ」
頭をどつかれて、ふとわれに返った感じ。見れば、車はあちこちボコボコの無残(むざん)な姿ではないか。
「あれっ、どうしたの、これ。ひどいじゃん」
「なにがどうしたのだ。おまえ、昨日(きのう)どこへ行っていた」
そう言われても、急には思い出せない。たしか友だちに誘(さそ)い出されて、この車で青山(あおやま)に行った……。
「このドア、開けてみろ」
「ん?」
いくら引いても動かない。鍵(かぎ)はかかっていない。窓ガラスが半分開いていたから、頭を突っ込んで内側から開けようとしてみたが、やはり開かない。
「あれっ、ねえ、パパ、どうしちゃったんだろう」
「こっちが聞きてえよ。どこかにぶっつけたから、開かなくなっちまってるんだ。ドアだけじゃないぞ。そこらじゅうボコボコじゃないか。どうしたのか説明してみろ」
青山へ行って、友だちと合流したら、みんな酔っぱらっていて、一緒に飲もうという。お酒を飲むつもりなら、私は車では行かないから、
「まずいよ。車で来ちゃったから」
「そんなの、どっかに置いてけばいいじゃん」
「それもそうだよね」
みんなとすごい勢いで酒盛(さかも)り。それから先の記憶(きおく)は全然ない。気がついたら、父に叩(たた)き起こされて、ひきまわされていた。
意識がはっきりしているくらいなら、当然、車をどこかの駐車場にでも預(あず)けて、タクシーで帰宅したはず。
完全に酔っぱらっていたから、渋谷の自宅まではいくらの距離もないから大丈夫(だいじようぶ)と、軽い気持ちで運転して帰ってきてしまったのだと思う。そんなのは弁解にもならないし、それが運転と呼べるものなら……の話だけど。
状況から判断すると、自分ではまっすぐ走っているつもりが、車までフラフラの千鳥足(ちどりあし)、ボカンボカンとあちこちにぶつかりながら、どうにか自宅のガレージまでたどりついたらしい。ドアが開かなくなってしまったから、窓ガラスをなんとか半分下ろし、そこから車の外に脱出して、家の中に転(ころ)がり込んだ……たぶんそんなところだろう。
ほかの車や人にぶつからなかったのは、向こうがちゃんとよけてくれたからだろうか。塀(へい)や電柱はよけてくれないから……。
途中でパトカーにつかまっていたら、間違いなく留置場(りゆうちじよう)入り。週刊誌、ワイドショーをにぎわすことに。
「梅宮辰夫(うめみやたつお)の娘(十八歳)、酔っぱらい運転でつかまる。まだ高校生だった……」
それはかろうじてまぬかれたけど、父の 雷 (かみなり)は強烈だった。
「今日から一年間、おまえは運転禁止だ」
免許証を巻き上げられ、ボコボコのムスタングは、そのまま廃車(はいしや)。
いまにして思えば、若気(わかげ)の至(いた)りとはいえ、たいへんなことをしてしまった。大反省(だいはんせい)して、その後は酔っぱらい運転はいっさいしていません、はい。
「パパに殺されちゃう」
「パパ、ママ、私を探(さが)さないでください」
書き置きをしたのは、それから半年近くたってからのこと。
自由な校風の中で目いっぱいエネルギーを発散させていた。親から車の運転を禁止されたけど、運転したいさかりを半年近くもがまんし、夏休みを迎(むか)えた。たまたまお盆休みに両親が二泊三日で大阪に旅行し、私が留守番(るすばん)をすることになった。
夕方には両親が大阪から帰宅することになっていた留守番三日目、とても蒸(む)し暑い夏の日だった。その日は予備校で英会話の勉強がある日。でも、吉祥寺(きちじようじ)の予備校まで電車で行くのはかったるい。両親の留守をいいことに、父のベンツを拝借(はいしやく)して、それで行こうと考えた。
ベンツのキーはあったけど、取り上げられていた免許証がない。父の書斎(しよさい)を探しまわると、机の引き出しにそれを発見。これさいわいと自分のポーチに入れて、ベンツでさっそうと予備校へ。
なんて、かっこよくいかなかった。予備校の前の有料駐車場に乗り入れたところで、先に駐車していたどこかの車にドスン。あわてて降りてみたら、右のウインカーがむしりとられるように壊(こわ)れていた。もう、目の前が真っ暗。
運転禁止を破り、さらに父の車を無断で……二重の罪(つみ)を犯(おか)したうえに、壊してしまった。
このままじゃ、私は間違いなく父に殺されちゃう。なんとかしなきゃ。
本気でそう思った。
こちらの車はウインカーが壊れただけだったが、相手の車はペコンとへこんでしまった。でも、表(おもて)ざたになったら、いやでも父に知れてしまう。警察ざたになるより、そっちのほうがはるかにこわかった。
ここは、逃げるしかない!
予備校どころではない。私は壊れたウインカーの破片(はへん)をかき集めて運転席に戻(もど)り、大急ぎで駐車場の出口に向かった。こういうのを“当て逃げ”というんだろう。
どこをどう走ったか、よく覚えていない。とにかく一目散(いちもくさん)に自宅に逃げ帰った。しばらく一人で泣きながら、どうしよう、どうしようと部屋の中を歩きまわっていた。ふと、そのころ付き合っていた彼の友だちがベンツの代理店に勤(つと)めていることを思い出し、すぐに電話を入れた。
「パパのベンツ、無断で乗って壊しちゃったんだけど、どうしたらいい。ねえ、ヤナセに勤めてる友だち、いたよね」
「落ち着いて、落ち着いて。車から車検証を持ってきて、読んでくれる?」
車検証を持ち出してきたけど、気がすっかり動転していて、なにをどう読んでいいのかわからないから、ファックスで送った。
彼とその友だちがやってきた。
「あいにく今日は工場がお盆休みで、だれもいないんだよ」
「それじゃあ、困る。もうすぐパパたちが帰ってくる。車を運転したことがバレたら、そのうえ、ぶつけたなんてわかったら、私、パパに殺されちゃう」
私は自分のことしか考えていない。
「大丈夫(だいじようぶ)、なんとか工場は開けてもらえると思うし、そうすれば部品も調達できる。とりあえず、車を借りるよ」
とにかく待っているしかなかった。私はうまくいかなかったときには本気で家を出るつもりで、身支度(みじたく)をととのえ、書き置きをした。
「私を探さないでください」
私はよくよく運がいいのかもしれない。酔(よ)っぱらい運転して人身事故にいたらなかったのも、あの状況から考えたら奇跡(きせき)に近い。
戻ってきた車には、ちゃんとウインカーがついていた。まるでなにごともなかったかのように。見事としかいいようがない。
よくほかのところに傷がつかなかったものだ。私って、よほどぶつけ方がうまいんだな……なんて、当て逃げされた被害者のことなど考えもしないで、胸をなでおろしていた。免許証をもとの場所に戻して、あとは知らん顔。
間一髪(かんいつぱつ)とはこのこと。両親が帰宅したのは、それから四十分後だった。バレやしないかと内心(ないしん)ビクビクしていたけど、いまだになにも言われていない。
「ねえ、パパ、私、もう半年もがまんしたんだから、そろそろ免許証を返してくれてもいいんじゃないかな」
懲(こ)りない女、バレてないとわかったら、いい気なもんで、もうこの始末(しまつ)。甘(あま)い男、それはパパ。
「うーん、そうだな。よし、わかった。許(ゆる)す」
免許証まで返してもらっちゃった。
ナンパでの出会い
「おれ、サーフィンで有名になるんだ」
私より一つ年上、赤坂(あかさか)にある高校の夜間部に通(かよ)っているというのも、私には、ちょっと新鮮な驚きだった。
このウインカー事件のときに私を助けてくれた彼とは、それより少し前、渋谷のゲームセンターで知り合った。いわゆるナンパされた。お互いグループ同士だった。
土曜日の夜、女の友だちと二人でカラオケボックスに遊びにいった。当時、カラオケがブレイク直後で、二時間、三時間待ちは当たり前だった。同じビルのゲームセンターで時間をつぶしていると、やはり二人組に声をかけられ、その夜は合同カラオケで盛り上がった。
彼のことは、真っ黒に日焼けしているということ以外、とくに印象もなかったし、こちらはそのときだけのつもりで、電話番号を教えたのも忘れていた。当時は、その程度でも電話番号を交換するのがふつうだった。
一週間後に彼から電話があった。それまでにもそういうケースは何度かあったけど、相手からあとで電話をもらったのは、それが初めてではなかったかと思う。それだけに、「へえーっ」という軽い気持ちで、デートの誘(さそ)いに乗ったのがはじまり。
付き合うようになったら、ただ格好(かつこう)つけてやってるだけでなく、サーフィンに一途(いちず)に打ち込んでいる人だとわかった。しかも、夜学に通って勉強しているという。
私自身も含(ふく)めて、こういう努力家は私のまわりにはいなかっただけに、よけいにひかれるものがあった。もちろん、ちょっとミーハーな気分もあったけれど。
私が付き合う人は、家族ぐるみで迎(むか)えるのがわが家のしきたり。彼もすぐ両親に紹介した。父は、交際に反対はしなかったけど、あまり気に入ってない様子だった。これはあとで聞いたことだけど、
「ちょっと夢を追いすぎていて、現実味に欠けるところがなあ……」
私は彼のそういうところにひかれたのだ。
毎週というほどではないけど、湘南(しようなん)海岸の波乗りの場所に連れていってもらったこともある。私は運転禁止中だったから、彼の車で行って、彼がサーフィンしている間、私は浜でポカンとそれを見ているだけ。波の加減(かげん)かなにか知らないけど、朝暗いうちから出かけて、午前九時ごろにはあがってしまう。
それまで、スポーツとか、そういう健康的な体験があまりなかったから、それでもけっこう楽しかった。
冬はスノーボード。スノボーがまだはしりのころで、彼に教えてもらって、私も挑戦してみた。途中ちょっとブランクがあるけれど、いまでも一番の趣味はスノーボード。これでもかなり年季が入っている。
水商売
一体につき二千円――。
サラリーマンの軍団をつかまえようものなら、すごくいいお金になった。おまけに日払い。客引きほどおいしい仕事はなかった。とにかく、お金をためなくちゃ。
翌年の高校三年のときに、私の卒業旅行に彼と二人でハワイに行こうという話になった。まだ高校生の分際(ぶんざい)で、二人だけで旅行、それも海外旅行だなんてとんでもない、両親が許(ゆる)してくれるはずがなかった。お金を出してもらうわけにもいかない。
父は、お金には厳(きび)しく、財布(さいふ)のヒモはとても固かった。母にせがんでも、
「パパに言いなさい」
母はお金をビタ一文(いちもん)出さない人だった。
父からもらっていたわずかなお小遣(こづか)いは、ほとんど食べるもので消えていた。私としては、むしろ洋服を買いたかったんだけど。
来年三月の卒業旅行までに、とにかくお金だけはためておこうということで、お互いアルバイトをはじめた。旅費は各自で稼(かせ)ぐというわけ。
その前からもアルバイトはいろいろやっていたけど、一番きつかったのは、神宮(じんぐう)球場のコーラの売り子。客席の間を「コーラはいかが」。二日しかもたなかった。レストランのウェイトレスは、指輪をしていてはいけないと言われ、「やってられないわ」。これもすぐやめた。
そのうちに、悪い友だちが耳よりな話をもってきた。女が効率よく稼ごうと思ったら、やっぱり水商売。というわけで、クラブのホステス。
たしかにいいお金にはなるけど、衣装(いしよう)は自分で用意しなければならない。それもブランドものの高級スーツ。衣装によけいにお金がかかるし、高校生が高級スーツなんて買っていたら、なにかおかしなことをやっているに違いないと思われて、母にすぐバレてしまう。未成年だとわかったら、店の中にも入れてもらえなくなった。
今度は路上で「一体二千円」の客引き。お客さんを一人、店に連れてきたら二千円の報酬(ほうしゆう)というわけ。マグロじゃないけど、一体、二体なんていうところがおかしい。
「きみと一緒なら行ってもいいよ」
私は店の中には入れない。
「あと三十分ぐらいしたら必ず行くから、先に入っていて」
もちろん、嘘(うそ)っぱち。強引(ごういん)に店に送り込む。
私も嘘はいっぱいついてきたけど、相手をだますような嘘はいやだった。しかも、親にも言えない。たしかにいい“商売”だったけど、それがうしろめたくて、これまた数回しかやらなかった。
私はどこでも本名を名乗っていたから、父親がだれだかすぐバレてしまう。店の人から、
「昨日(きのう)、店にあんたのオヤジが来てたぞ」
「げっ、マジ!?」
一瞬、身体(からだ)の中を電気が走った。私をからかうための冗談(じようだん)だったんだけど。
私にもっともぴったりだったのが、アイスクリーム屋さん。このときの旅費稼ぎは、ほとんどがこれだった。ハーゲンダッツの青山店。これなら堂々と親にも言える。自宅から自転車で通(かよ)えるところだったので、時給千円と割(わり)がいい夜九時くらいから十二時までの夜番をやった。
ときどき父が買いにきたのは、やはり心配して様子を見にきたのだと思う。その娘がバイトをしている本当の目的も知らないで。
私としては、そうやって少し監視されているくらいのほうが、気が落ち着いた。やましいことはしていないということを、しどろもどろで説明する必要がないから。
五万八千円のツアー代金に多少のお小遣い、旅費はたまったけど、彼と二人で行くとはやはり言えない。学校の友だちと行くと言ってやっと許可を得た。それでも両親はしぶしぶだった。
アリバイ工作に、カメラを二つ用意した。彼との二人用と、親に見せるため用。親用は、同じツアーで来た女の子と行く先々で一緒に写真を撮(と)ってもらう。それが私の“お友だち”というわけ。
ヤンママへの憧れ
茶髪、ガングロの女の子が、ベビーカーに自分の赤ちゃんを乗せて、渋谷の街(まち)を歩いている。そんな光景を見ると、うらやましくてたまらない。そのころから、私はヤンママというものにすごく憧(あこが)れていた。
当時の友だちには、十五歳のときに子どもを産(う)んだ子もいた。十五歳では正式な結婚はできない。赤ん坊の父親はどこかに逃げちゃったという。十五歳にして、シングルマザー。
その彼女はそんなにつらそうでもなく、彼女なりに楽しく子育てをしていた。とくに気負(きお)ったところもなく、自然で、そういうところもすごくうらやましかった。
十六、七歳ごろになぜそんなことを考えたかわからないけど、年齢がいってからの子育てはすごく大変だから、子どもを産むならできるだけ若いうちがいいと思っていた。
十五歳で産んだとしたら、いまの私の年齢になったときには、もうそれほど手がかからなくなっているから、こっちも若いうちにいろいろなことができる。子どもとはあまり年齢も違わないから、友だち同士のような関係でいられる……なんて。
いまならそんなに甘(あま)いものではないとわかるし、若い親による幼児虐待(ぎやくたい)なんていうニュースもよく耳にする。でも、当時は本気でそう思い、ヤンママに憧れていた。
知り合いのアメリカ人女性に、こんなことを質問したことがある。
「アメリカ人ってすぐ離婚するのに、どうしてすぐ結婚するの」
すると、こんな返事。
「愛しているから結婚するのよ」
すごく自然で、すばらしい考え方だと思う。日本人は結婚というものをあまりにも重大に考えすぎていて、それで自分をがんじがらめにしすぎているような気がする。
私自身は、これまで付き合った相手と結婚したいと思ったことは、一度もないのだけれど……。
「モデルになりませんか」
「ねえねえ、モデルをやってみる気ない?」
渋谷の街(まち)、制服のせいかもしれない。高校に入ったとたん、背後から声がかかるようになった。
最初に声をかけられたときのことは、いまでも忘れない。
幼稚園のころから、母に連れられてデパートめぐりをしていたから、渋谷の街は自分の庭のようなもの。スカウトマンと称する人たちがウジャウジャいて、街を歩く若い女の子にかたっぱしから声をかけている。うさんくさそうなのも少なくない。そんな光景も、私にはめずらしいものではなかった。
中学生のときも、プータローをしているときも、自分が声をかけられたことはなかった。声をかけられているのに気づかなかったのかもしれない。そのときも、自分が呼びとめられているとは夢にも思わなかった。
ああ、まただれかひっかけられているな……。
うしろからのその声は何度も続き、その場を通りすぎたはずなのに、いっこうに遠ざからない。
「ねえ、きみ……」
いきなり肩をポンポンとやられたときには、飛び上がるほどびっくりした。
この顔のせいで、あちこちでつまはじきにされるんだと思っていたから、自分の顔が嫌(きら)い、自分にまったく自信がない。いたって引っ込み思案(じあん)。自分一人か、気のあったごく少数の友だちと行動するのはいいけれど、大人とか、あまり親しくない人がからんでくると、とたんにぐぐっと腰がひけてしまう。
そんな私だったから、まさか自分がスカウトマンの標的になろうとは、思ってもいなかった。
「ええーッ、私ですかー。いえ、けっこうです」
調子っぱずれな声でそう言い残すと、その場を一目散(いちもくさん)に逃げ去った。なぜか、恥(は)ずかしくてたまらなかった。
この顔で女子高の制服を着ていると、渋谷の人ごみの中でも浮き上がってしまうみたい。それからも、ちょくちょく声をかけられるようになったけど、私はいっさい無視。わずらわしくて、すごくいやだった。
夢は日航のスチュワーデス
「教官!」
私もいつか堀(ほり)ちえみさんみたいに、風間杜夫(かざまもりお)さんみたいな教官と……。
高校二年のときに、東急東横(とうきゆうとうよこ)線の渋谷駅でスカウトマンに声をかけられたときも、
「またかあ」
ふと見たら、とてもかわいい女の子がスカウトマンと一緒で、そっちのほうに目がいってしまった。いつもだったら、立ち話もしないでさっさと走り去るところだけど、その女の子のせいで、思わず立ちどまった。
男の人に渡された名刺には「スターダストプロモーション」、裏を見ると、「ちびまる子ちゃん」の主題歌を歌っていた、そのころ人気絶頂のB.B.クィーンズなど、有名タレントの名前がいくつも書いてあった。
「それ、みんな、うちの事務所なんだよ」
その人の態度も、そのへんのあやしげなスカウトマンとは違っていた。でも、「ヘエーッ、そうなの」と思っただけで、話の相手にもならなかったのは、いつものとおり。だいたい、父の仕事がら、芸能界なんてめずらしくない。
家に帰って、その晩はみょうにそのスカウトマンのことが気になったのは、一緒にいた女の子のせい。
「あの子、スカウトの助手にしてはかわいすぎる。だれなんだろう」
そんなことも忘れかけていた数日後、またそのスカウトマンと出くわした。今度は一人だった。
「私、けっこうですから」
「じゃあ、とりあえず、連絡先だけは教えておいてよ」
当時は、ちょっと知り合ったらすぐ電話番号を交換するという風潮(ふうちよう)だったし、相手も信用できそうだったので、それには応じたけれど、私はタレントにもモデルにも、まったく興味(きようみ)はなかった。
そのあとも、彼と何度か出くわしたけれど、私の返事は一貫してノー。彼はまだ私がだれの娘なのかを知らない。
そのころ、私は自分の将来の仕事として、スチュワーデスになる夢を抱(いだ)いていた。それも日本航空にかぎる。動機はやっぱり単純そのもの。小学校時代は、テレビの「スチュワーデス物語」という連続ドラマに夢中だった。
「教官!」はともかく、高校生活も半分以上が過ぎたころには、スチュワーデスになりたいという気持ちはますます強くなっていて、あちこちに具体的な問い合わせをしたり、資料を集めたり、人の紹介で現役のスチュワーデスの人に会って、じかに話を聞かせてもらったり、あるいは、父に頼(たの)んでコネを探(さが)してもらったりしていた。
スチュワーデスとして採用されるには、最低でもどこそこの短大を出ていなければならないとか、具体的な学校名まで指定されている。私の偏差値(へんさち)では逆立(さかだ)ちしても受かりそうもないところ。そのころはスチュワーデスになるための倍率もすごく高く、結果的には、とても私なんかに首を突っ込める世界ではないとわかって、ギブアップするしかなかったけど。
読者モデル
女同士というのは、むずかしいところがある。
私が最初に雑誌に出たのは、高校二年、例のスカウトマンに会ってしばらくたったころ。
これは、スカウトマンの誘(さそ)いに乗ったものではない。話をもってきたのは、そのころ家庭教師としてうちに来ていた人で、たまたま『JJ』の編集部にその人の友人がいた。なにかのきっかけで、自分がいま勉強を見ている女子高校生にこんなのがいる、というようなことを話したら、じゃあ、一度会ってみたい、という話になったらしい。
私が梅宮辰夫(うめみやたつお)の娘で、しかもハーフだということで、編集者の興味(きようみ)をひいたのだと思う。『JJ』といえば、私が小学生のころからよく見ていた若い女性向けのファッション雑誌。そこに出ていたモデルさんたちは、私にとっては、まさに雲の上の人。
私の憧(あこが)れの雑誌だったから、出ることにした。
自分としては、モデルなんてとんでもない、ただ読者モデルの一人として出ただけだったから、一回かぎりのつもりだったし、初めての経験で緊張していたせいか、写(うつ)りも気に入らなかった。それは編集者も同じだったと思う。
そのあとでちょっと気になったことがあった。
『JJ』は、私だけでなく、ほかの多くの生徒たちも見ていた。その雑誌に私の写真が出たことで、まわりからなにかしらの反応があるのではないか、私にはとても不満な写りだったので、みんなからばかにされるのではないかと思っていた。
それがまるで無反応。「アンナ、出てたじゃん」でもなければ、「どうやって出たの」でもない。「見たよ」と言ってくれたのは、たった一人だけ。どうして、この人たちはなにか言ってくれないんだろうと、すごく複雑な気持ちだった。
こういうことで、こんなところに出る羽目(はめ)になっちゃって……と、説明したかったのに。もちろん、聞かれもしないのに、自分から言い出すようなことではない。仲よしだった友だちと話していても、しばらくはすごく不安定な気分だった。これも、雑誌に続けて出る気になれなかった理由の一つ。
そんなに大げさに話題にするようなことではなく、私一人が意識過剰(かじよう)になっていただけなのかもしれない……。でも、『JJ』に出るなんて、私にしたら、人生の大事件だった。
嘘から出たまこと
「毎月『JJ』に出してもらえるんなら……」
私としては、スカウトマンを追っぱらう口実(こうじつ)のつもりで口走っただけなのに……。
「あんた、ひどいじゃないか。おれにはあれだけ断(ことわ)っておきながら、ちゃんと出てるじゃないか。いったいどこの事務所に入ったんだ」
雑誌が発売されてすぐ、うちに怒(いか)りの電話が入った。例のスカウトマンからだった。
どこかの芸能事務所に入ったわけではなく、じつは家庭教師の先生の友だちで……懸命に弁解したけど、なかなか引き下がろうとしない。電話番号なんか教えるんじゃなかったと後悔(こうかい)したけど、もはや手遅れ。
「本当にやる気はないの?」
「ありませんよ。私、ほかにやりたいこともあるし」
「とにかく、一度、ゆっくり話をしようよ。うちの事務所にきてくれないかな」
「それじゃあ、毎月『JJ』に出してもらえるんなら考えてみますよ」
そんなことが実現するはずがない。そのくらい突拍子(とつぴようし)もないことを言えば、「この小娘、ばかも休み休み言え」と、相手もあきらめてくれるに違いないと思い、口から出まかせで言っただけの話。
とくにしつこくつきまとわれていたころは、モデルなんて私の眼中にはまったくなかった。そんな“暴言”を吐(は)いたあとは、ぷっつりと連絡がとだえたので、やっとわかってもらえたなと思い、そのスカウトマンのことはそれっきり忘れていた。
嘘(うそ)から出たまこと。そんな空想話が本当に実現してしまうんだから恐(おそ)ろしい。冗談(じようだん)も注意して言わないと、とんでもないことになりかねない。
あとでわかったことだけど、そのスカウトマンと最初に会ったときに一緒にいた女の子は、その事務所に所属している女優さんだった。「同年代の女の子から見て」ということでお手伝いしていたそうだ。彼女が先に私を見つけて、スカウトマンに声をかけるよう勧(すす)めてくれたのだという。
モデルへの道
「『JJ』の仕事ができることになったから、約束どおり、うちの事務所と契約(けいやく)してくれるね」
嘘(うそ)でかためた卒業旅行も無事終了、高校も無難(ぶなん)に卒業の運びとなった。
スチュワーデスへの道は、指定された短大に入れそうもないのであきらめたけど、なにもしないわけにはいかないから、とりあえず、御茶(おちや)ノ水(みず)にある文化学院という専門学校に通(かよ)うことになった。カールスモーキー石井(いしい)(石井竜也(たつや))さんなどが出た、一風(いつぷう)変わった人たちがいるアート系の学校。
思いがけず、例のスカウトマンから連絡があった。
私としては、しつこいスカウトマンを追い払って、スカウトの話はとっくに終わったものと思っていた。自信もなければ、心の準備もない。その種の勉強もなにもしていない。
ただ、そのときの私には、働くあてが必要だった。
高校三年のとき、なにかのことで父とけんかになり、ひっぱたかれたあげく、例によって、いつもの決まり文句。
「ばかやろう。だれのおかげでメシが食えてると思ってるんだ」
そのときは私も本気で頭にきて、口にこそ出さなかったけど、心の中では、思いきり怒鳴(どな)り返していた。
「ちくしょう。だれがおまえの金なんかでメシを食うかよ。小遣(こづか)いだって、もらうものか。どうせろくな額もくれないくせに」
実際にはもらっていたんだけど、もともとちょっぴりで、好きな洋服も買うことができない。そのときこそ、絶対に自活しようと強く心に誓(ちか)った。高校を出たからには、きちんとした仕事につかなければいけないだろうと思っている矢先だった。
私はこうしてモデルへの道を歩むことになる。もうそろそろ十九歳も終わりごろのことだった。
プロの仕事とは
ただまっすぐに立つだけのことが、こんなにむずかしかったとは……。
プロのモデル初日は、まさに最悪。
撮影(さつえい)の前日はほとんど眠れない。カメラの前に立ったら、笑えない。笑おうとすればするほど、顔がこわばってしまう。肩もまっすぐにならない。カメラマンの要求を、なに一つ、満足にこなすことができなかったのだ。
その日、私は家に帰って、おいおいと泣いた。自分が情(なさ)けなくて、悔(くや)しくて、ふがいなくて。
高校二年のときは、しょせんそのときかぎりのアマチュア。事務所と契約(けいやく)して、まがりなりにもプロになったからには、素人(しろうと)臭(くさ)さなんか、なんの売り物にもならない。考え方が甘(あま)かった。
この屈辱感(くつじよくかん)が最初のバネになったような気がする。
事務所の人からは、鏡(かがみ)をよく見て、ポーズの練習をするようにとのアドバイス。私は鏡を見るのが嫌(きら)いだった。こうなったら、自分なりのやり方でやってみたいと思った。
私は子どものころから、『JJ』をはじめ、いろいろなファッション雑誌を見てきたから、自分ではできないにしても、人がやっていることを見る目はあったと思う。
高校生くらいになると、四分六(しぶろく)くらいに構(かま)えてニッと笑うという、日本人のモデルの伝統的な表現法に、どことなく不自然さを感じるようになっていた。
私は鏡を見て、ありきたりのポーズをつくって、笑顔(えがお)をつくって、というような練習をする気にはなれなかった。
どうやったら自然さを表現できるようになるかを、必死になって考えた。仕事をしながら文化学院に通(かよ)っていたのは、それなりに有益(ゆうえき)だったと思う。
そのときに私が教材として選んだのは、外国のファッション雑誌だった。『ヴォーグ』『エル』『マリー・クレール』などをかたっぱしから読みあさった。とくにモデルがどんなポーズをとっているかに焦点(しようてん)を当てて。
すぐに気づいたのは、いわゆる“ニコパチ”ポーズがほとんどないことだった。
型破り
「わっ、このフリフリ、どうやって表現するの?」
精神的に少し余裕(よゆう)が出てきたころのことだけど、私が『JJ』の仕事の中でまず挑戦したのは、目線をカメラからはずすこと、笑うのをやめること。
そのときの洋服にもよるけれど、たとえば、スカートのときは笑い、パンツスーツのときは歯を見せないようにするというように、ちょっとずつ変化をつけてみた。
おもしろいもので、言われるままにやっているとなかなかできないことも、自分なりに工夫(くふう)してやってみると、少しずつできるようになる。自分で工夫してやったことが、編集者に認められると、やりがいも出てくる。
従来の考え方からすれば、雑誌のファッションモデルがカメラから視線をはずし、笑顔(えがお)をつくらないでいるなんて、考えられなかったかもしれない。芸術写真のモデルではないんだから。
『JJ』はもともとコンサバティブな雑誌で、そんなに大きな冒険をするようなことはしない。私の場合、与(あた)えられた服をそのまま着たのでは、ミスマッチもいいところ、とても表現しきれないシチュエーションも出てくる。
そのままではとても服のよさを引き出すことはできないと思ったから、その場その場の思いつきで適当にアレンジをしてみた。ボタンがあったらはめる、ヒモがあったら締(し)めるというのではなく、ときにはボタンをはずしてみる、ヒモを垂(た)らしてみる……といった具合に。
従来のモデルのあり方からしたら、これはとんでもないタブーだったと思う。
私にとってラッキーだったのは、そのころがちょうどモデルの世代交代期で、読者の意識の変化にあわせて、誌面構成も変わりつつある時期だったこと。
ごく簡単にいってしまえば、「かわいい」系から「かっこいい」系への変化。絵に描(か)いたような美形より、ちょっとバランスがくずれ、どこかにアクセントがあるような感じが受けるようになりつつあった。幸運にも、自分はそこにマッチしたらしい。
型破りをやったことに対する周囲からの抵抗や反発というのはほとんどなく、やってみたら受けたから、みんなも自然とそういうふうにするようになったという感じだった。
『JJ』の仕事がおもしろくてたまらなくなるのに、それほど時間はかからなかった。そのぶん、文化学院のほうは、徐々におろそかになっていった。
『JJ』の顔
世(よ)の人はこれを“親バカ”と言うそうだけど。
父は私が表紙になった『JJ』を、二十冊もまとめて買い込んだ。私の一番のファンは、なんといっても、梅宮辰夫(うめみやたつお)。
中ページをやっていれば、次は表紙……。
『JJ』の表紙を飾(かざ)るということは、『JJ』の顔になること。
『JJ』にしろ、ほかの雑誌にしろ、表紙を飾るようになるというのは、並(なみ)たいていのことではない。駆(か)け出しの私なんかには無縁(むえん)の話、もっともっとキャリアを積んでからのことだと思っていた。
表紙をやれたら、そこでいったん『JJ』のモデルをやめてみようと考えていた。人間の欲ははてしがない。さらに続けていたら、自分がどんどん欲のかたまりになってしまうようで、それがこわかったし、ほかのことにも挑戦してみたかった。
この世界に入ってしばらくすると、ただキャリアを積(つ)んだから表紙をやれるというものでもないことがわかってきた。世の中のトレンドとニーズ、それに運が大きくからんでくる。
私が駆け出しのころ、目の前にはブレンダさんというトップスターがいた。メイクルームに入っても、スタッフはブレンダさんにかかりっきり。こちらにはかまってもくれない。私が一ポーズのところ、ブレンダさんは三ポーズ。そんなブレンダさんがうらやましくて、私も早くああなりたいと願っていた。
私のところに表紙の話がきたのは、意外と早かった。初めて『JJ』に登場してから、一年もたたないうちのことだった。
表紙の撮影(さつえい)が終わったときには、やめようなんて気持ちはどこへやら。こわいもの知らずというか、さらにトップを目指す欲のかたまりになって、結果的に、無我夢中(むがむちゆう)で五年間を突っ走ることになった。
自分でも精いっぱい頑張(がんば)ったつもり。ときには、私のセンスとはあわず、着たくない服もあった。それを着こなして、いかにかっこよく見せるかがモデルの才能、腕の見せどころと、自分なりに工夫(くふう)もした。
雑誌の中で自分が着た服がよく売れたというニュースは、なによりの喜びだった。それにつれて、雑誌モデルとしての自信もついていった。
少し先の話になるけど、二十三歳ごろ、まさに私が乗りに乗っていた一九九五年、『JJ』の売り上げも、空前の九十五万部を記録した。
成功の秘密
モデルとして成功して仕事は増えたけど、いつでも貯金はゼロ、入ってきたお金はすぐにピョーンと出ていくという具合だった。
成功の一つの要因は、私物を持ち込んで公開したことだと思う。
『JJ』にかぎらず、ファッション写真では、全体の雰囲気(ふんいき)がとても大事。モデルもただ服だけを着て立っていればいいというわけにはいかない。バッグとかアクセサリー類も必要になってくる。いつも同じものを使うというわけにはいかないから、スタイリストが用意できるものもかぎられてくる。
あるとき、渡された洋服にマッチする小物がなかったので、やむなく自分の私物の中から適当なものを選んで、それを現場に持ち込んだ。
それを何回かやっているうちに、読者からの反響も大きくなるし、スタイリストの人もそのほうが楽。編集者がそう決めたことではなく、自然にそういう傾向(けいこう)が一般化していった。
有名なタレントさんの私物には私もすごく興味(きようみ)があって、ついチェックしてしまう。仕事で着ている服よりも、バッグの中身を知りたいと思ってしまう。それが、ごくふつうの人間の心理だと思う。とくに女の子にはそれが強い。
次々に新しいものも見たい。
モデルが私物を公開するのが当たり前というようなやり方が定着してしまうと、今度はこちらが大変。持っていたものはすぐに底をついてしまう。読者の要求にあわせて、次々に新しいものを買い足していかなければならない。仕事は急激に増えていったけど、新しい仕事のたびになにかを買わなければならない状態になってしまった。
収入より出ていくほうが多くなることもしばしばだったけれど、それも自分自身への投資には違いなかった。
『JJ』は一つの学校
ほかのモデル仲間とは、あまり仲よくしすぎないこと。
『JJ』のモデルは女の世界だから、型破りなことをやっていると、嫉妬(しつと)、あつれき、葛藤(かつとう)など、いろいろとやっかいなこともある。私はそれまでの苦(にが)い経験の数々から、そういうことから身を守る術(すべ)を自然に身につけていたような気がする。
ほかのモデル仲間と仲よくしたって、どうせ陰(かげ)で悪口を叩(たた)かれるのがオチ。仲よしの友だちは、やはりほかの分野の人でないとだめ。とくに女はそう。
高校時代もそうで、仲がよかったのは、同じ学校の子より、塾などで知り合った別の学校の子が多かった。
ロケバスの中などでも、私はいつも一人、すみっこのほうで本を読んでいた。仕事の現場では、ふつうに話をするけど。
私だって、本当はみんなとワイワイ仲よくやりたいんだけど、仲よくしていたのが、いったんなにかあると、よけいにトゲトゲしくなって、仕事で必要なときでも口をきかなくなったりしてしまう。
そういうのは私にはとても心の負担(ふたん)になるし、それではプロとはいえないと思う。それくらいなら、最初から少し距離をとって付き合っていたほうが無難(ぶなん)。
人から見たら、私はすごく付き合いづらい人間だと思う。自分でさえ、自分と付き合うのがいやになることがあるくらいだから。
昨日(きのう)言っていたことと、今日言うことが、平気で違っていたりする。自分のしたいことがなかなか決まらない。目標も決まらない。決めても、すぐ変わる。人前でうまくしゃべれない。アップアップの状態で声も出ないときもある。けっこう複雑かなと思うことがあるけど、すごく単純だったりする。
母はいつも前向き、プラス思考、上昇志向の人だけど、私は正反対で、はためには自由奔放(じゆうほんぽう)に見えるらしいけど、自分では、窮屈(きゆうくつ)に生きてるなあと思うことがある。
自分で自分に疲れてしまうことが多い。自分がそうなんだから、他人はもっと疲れるに違いないと思うから、こちらからは少し身をひいた状態で対応することになる。それでまた、「いやな女」と思われることになるけど、少なくとも自分への被害(ひがい)は少ない。
そんな私にとって、唯一(ゆいいつ)の例外的存在が、梨花(りんか)。この世界でたった一人の友だち。彼女とは、スカウトされてデビューした時期も同じ、事務所も同じ、年齢もほぼ同じ(私のほうが一つ年上)。
同じ『JJ』にいたころは、もちろんライバルだったから、ほかのモデルの子たちと同じように、距離をおいて付き合っていた。梨花もまた、私と同じように、ほかのモデルの子とは仲よくしていなかった。その部分で私と通じるものがあったのかもしれない。
ここ二、三年、お互い大人になり、余裕(よゆう)がもてるようになってから、梨花とはとても仲よくなった。彼女は、「いいものはいい、悪いものは悪い」と、自分の感情をストレートに話してくれる。それが、私にとっては心地(ここち)よい。
とにかく彼女は、人のことをよく観察し、的確な指摘をしてくれる。そして、私のために泣いてくれる女の子。
彼女とは、かれこれ十年近くになるけど、いまでも、なにかあると長電話している。二人とも、ちょっとわがまま同士、自分の気持ちを隠(かく)さずに付き合えて、すごく落ち着く。キズをなめあってるとも言えるかもしれないけれど。
『JJ』では、私はいろいろなことを学んだし、手さぐり状態の中で、自分でもそれなりに努力したつもり。子どもから大人に脱皮(だつぴ)する時期でもあったし、私にとって『JJ』は、すごくためになる学校だったと思う。
この『JJ』時代の五年間、私の人生における一大事に巻き込まれることになる。
IV モデル失格!?
あひるの子は、おきあがって、はばたきました。つばさが、まえよりもずっと力づよく風をうち、あひるの子のからだは、ぐんとたかくまいあがりました。
――アンデルセン『みにくい あひるの子』より
すっぴん同士の漫才師とモデル
「みにくいあひるの子」
卵の殻(から)を破って、かわいいひよこが次々に顔を出したのに、最後まで残った卵から出てきたのは、なんとも不格好(ぶかつこう)で灰色をした、みにくいひよこ。
ほかの子たちは、みんなからかわいがられたのに、この不格好な子だけは、ほかのあひるやめんどりたちに噛(か)みつかれたり、つまはじきにされたり。兄弟や、はては親にまでうとまれ、鳥番(とりばん)の女の子にも蹴(け)とばされて、とうとうそこから逃げ出してしまった。
やがて、池でガンの群(む)れと出会うが、ガンたちは、漁師に鉄砲で撃(う)たれてバタバタと死んでいく。あひるの子は、じっと身をひそめ、静かになってから池を飛び出し、畑を越え、野原を越えて、夢中(むちゆう)で走り、やっと一軒の小屋にたどりついて、中に入ってみると、そこにはおばあさんと猫とめんどりが暮らしていた。
この家では、猫が旦那(だんな)さんで、めんどりが奥さん。二人は、「世の中は二人のためにある」というのが口癖(くちぐせ)。あひるの子が、別の考え方もあると言っても、彼らは「生意気(なまいき)な口をはさむんじゃない」と、いっこうに耳を貸そうとしない。泳いだり、水にもぐったりするのはとても気持ちがいいものだと言っても、ちっとも聞いてもらえない。
「広い世の中に出ていきたい」
みにくいあひるの子は、そう言い残し、一人で小屋をあとにした。
湖に着いて、泳いだり、もぐったりしたけど、あまりにもみにくいので、だれも相手にしてくれない。その湖で美しく優雅(ゆうが)な白鳥に出会う。でも、白鳥たちはすぐに空に飛び立っていってしまった。それを見ているうちに不思議(ふしぎ)な気分になって、自分も羽ばたいてみるけれど、飛ぶことはできない。
やがて冬になり、寒さにこごえて気を失(うしな)っているところをお百姓(ひやくしよう)さんに助けられ、その家で目を覚(さ)ます。そこで、せっかく子どもたちが一緒に遊びたがっているのに、あひるの子は、またいじめられるんじゃないかとおびえて逃げまわり、家の中をめちゃめちゃにしてしまう。とうとう怒(おこ)ったおかみさんにも追いかけられて、あひるの子は、木戸のすきまから外に逃げ出した。
茂(しげ)みの下でじっとうずくまり、厳(きび)しい冬の間、語りつくせないほどみじめでつらい思いをじっと耐(た)えて過ごし、やがてひばりが鳴く春を迎(むか)えた。
みにくいあひるの子は、起き上がって羽ばたいてみると、翼(つばさ)は前よりもずっと強く風を打ち、高く舞(ま)い上がることができた。
大空を飛んで、大きなお屋敷(やしき)の庭の池に降りたつと、向こうの茂みの陰(かげ)から、三羽の白鳥が出てきた。優雅に、すべるように。
あひるの子は、以前に見た白鳥のことを思い出し、どうせほかのあひるたちにつつかれ、鳥番に蹴とばされるくらいなら、あの立派な白鳥に殺されたほうがましだと覚悟(かくご)を決めて、近づいていく。
「どうかぼくを殺してください」
そう言って頭(こうべ)を垂(た)れたとき、水面(みなも)に映(うつ)ったのは、灰色のみにくい鳥ではなく、美しい白鳥の姿だった。
アンデルセンの自伝
小学校に入学したとき、かわいい制服姿の新入生の中で、一人だけ異様(いよう)な顔の子がいた。
その学校には、生まれつき蹴爪(けづめ)(鳥の足のうしろについている突起(とつき))を持っているだけで、自分を皇帝(こうてい)だと思い込んでいる七面鳥(しちめんちよう)もいたし、この世は二人だけのためにあると考えていて、みにくいあひるの子の言うことになど耳を貸そうともせず、喉(のど)をごろごろ鳴らせること、卵を産(う)めることが最高だと思っている猫とめんどりもいた。
そんなせまい考え方の中で苦しみながら、みにくいあひるの子は、さわやかな空気、太陽の光、外の世界への憧(あこが)れをどんどんふくらませ、やがて自分から広い世の中に出ていく。
現実の外の世界は楽しいことばかりではなかった。湖で泳いだりもぐったりしても、あまりにみにくいので、だれも相手にしてくれない。寒さにこごえているところを助けてくれる人がいて、せっかく仲よく遊ぼうと言っているのに、さんざんつまはじきにされてきたため、心がゆがんでしまっていて、相手の気持ちを理解することができず、わざわざ自分から、もっと厳(きび)しい状況の中に飛び込んでいく。
まるで、私のことを書いたのではないかしら――。
だれでも知っているアンデルセンの童話。子どものころ読んだ絵本は、かなり子ども用にアレンジされているようで、この機会に原作に忠実な翻訳(ほんやく)で読んでみたら、それまで気づかなかったいろいろなことが見えてきた。
自分自身のこれまでの体験や、いまの年齢のせいかもしれないけれど。
アンデルセンが三十代後半のころに書いたこの物語には、作者の実体験が凝縮(ぎようしゆく)されていて、自伝的作品といわれている。
デンマークの小説家アンデルセンは、貧(まず)しい靴職人(くつしよくにん)の子として生まれたといわれているけれど、貧しさで苦労したという話はあまりない。それより、夢見がちで空想癖(くうそうへき)があって、ふつうの子とはかなり違ったエキセントリックなところがあったらしい。
五歳で学校に入る。でも、厳しい校則に違反したかどうかは知らないけれど、なにかの罰(ばつ)で先生にムチで叩(たた)かれたら、すぐにやめて別の学校に移っている。
えらい!
「ぼくは本当は身分が高い家の子だから、大きくなったら、きみたちをぼくのお城で働かせてあげるよ」
学校では、まわりの子にそんなふうに言いふらしていたというから、だれからも相手にされなかったのは当然だったかもしれない。彼はほかの子どもとは一緒に遊ぶことがなく、十歳ぐらいで父親が三十四歳という若さで亡(な)くなったあとも、それほど苦労することなく、自由気ままに暮らしていたという。
お芝居(しばい)が好きで、子どものころからビラ配(くば)りをしたり、人形をつくったり、ときには舞台(ぶたい)にも立たせてもらったり。
アンデルセンが属するキリスト教の教派では、十四歳で成人式(堅信礼(けんしんれい))を迎(むか)えることになっていた。その前に教会で信仰(しんこう)に関する教育を受けたときも、彼はだれからも相手にされなかったという。
“常識”の中におさまりきらないところがあったから、仲間はずれにされていたのかもしれない。
成人式を終えると、母親の制止も聞かず、さっさと故郷(こきよう)を飛び出し、デンマークの首都コペンハーゲンへ。
でも、王立劇場の俳優(はいゆう)になりたくて志願しても、頭がおかしいんじゃないかと思われて、追い払われてしまう。その後、通(かよ)いはじめた演劇関係の学校もやめさせられて、十七歳のときに役者になることを断念。それから、作家を目指して勉強をはじめる。
このあたりは、たしかに「みにくいあひるの子」を思わせるところはあるけど、私の中では、自分自身の体験と重(かさ)なりあってしまう。
みにくいあひるの子が、じつは白鳥だったというのは、さんざん苦労して、作家としての栄光をつかむという形式的なものではなく、それはアンデルセンにまつわる「出生の秘密」に関係があるらしい。
アンデルセンは、実際は国王の落とし子ではないかという説がある。母親は貴族の婦人。正式な子ではなかったために、適当な人に預(あず)けられ、育てられた。少なくとも、当の本人はそう思っていたのではないかと。
だとすれば、彼の言葉も、ただの口から出まかせではなく、それなりに根拠(こんきよ)があってのことだったということになる。
あひるの卵の中に一つだけ白鳥の卵が混(ま)じっていたという設定、でも、なぜ混じっていたかは書かれていないという点も。
そう考えてくると、最後のところで、みにくいあひるの子が一度は死を決意したという、いかにも唐突(とうとつ)な設定も、なんとなく重みをもってくる。
アンデルセンの出世作『即興詩人(そつきようしじん)』が刊行されたのは、彼がちょうど三十歳のとき。それまでの作品はすべて不評。そのうえ、アルコール中毒で入院していた母親は廃人(はいじん)同様。お金もない。物質的にも精神的にもすごく苦しい時期だった。
それが、二十代前半から中盤にかけてだったというところが、私には身につまされる。私なんかと比較するのはおかしいかもしれないけれど……。
シャネルの生き方
「働こうと働くまいと、おまえの勝手だ。好きにすればいい。だけど、いくら仕事がないからといっても、もうお金はやらない。この家に住むことはいい。そのかわり、自分の生活費として、毎月きちんとお金を入れなさい」
私が二十歳(は た ち)になったとき、父はピタリとお小遣(こづか)いをくれなくなった。家に生活費を入れろとも言う。
でも、事務所と契約(けいやく)、つまり、就職(しゆうしよく)もしたことだし、住むところはまだとしても、自活するのは当たり前のことだと、私もその意見には賛成(さんせい)した。
私がモデルの仕事をはじめたのは、とにかく洋服をたくさん着たかったから。とくにシャネルの洋服が着たかった。
親からもらうお小遣いは、ほとんど食べ物に消えていた。学生のアルバイト程度では、私がほしかったシャネルの服やバッグには、とうてい手が届(とど)かない。本当は、ごはんなんか食べなくてもいいから、シャネルがほしかったのに。食べ物をがまんしても、結局は買えないから、食べるのはやめなかったけど。
中学・高校時代からシャネルの服が着たくて、ショッピングのとき、母に、「ママ、これ買って」とよくせがんだけど、
「あなたにはまだ早い」
と、買ってはもらえなかった。
おしゃれに関しては、幼稚園に入る前から母の影響(えいきよう)が大きかった。中学から高校のころには、母がもっているシャネルやエルメスのバッグのエレガンスに憧(あこが)れていた。
母はそれらをとても大事に使っていたから、貸してとも頼(たの)めない。高校生のころ、両親の海外旅行のお土産(みやげ)にエルメスのスカーフをもらったときには、すごくうれしかった。
モデルをはじめてからも、事情はあまり変わらなかった。『JJ』のモデルといっても、最初はせいぜい一、二カットかそこら。スタートから、なにもかも順調だったわけではない。いろいろな経費を引かれ、源泉徴収(げんせんちようしゆう)されて、手取り額はさらに減ってしまう。それだけでは、とてもやってはいけない。歩合給(ぶあいきゆう)だから、仕事がなければ収入もない。シャネルが買えるわけがない。
自分のお金で初めてシャネルのスーツを買ったのは、リサイクル・ショップだった。たしか二十万円くらい。
私がシャネル・ブランドが好きなのは、一つには従来の習慣(しゆうかん)にはとらわれない柔軟(じゆうなん)な発想、ゆとりの遊び心とおしゃれ感覚。創始者のココ・シャネルという人の生き方からして、憧れの的(まと)だった。
フランスのソーミュール市で生まれたココことガブリエルは、十二歳のとき、母親と死別、父親は失踪(しつそう)、修道院(しゆうどういん)で育てられた。二十歳のときに小さな衣料品店のお針子(はりこ)さんになり旅まわりの歌手などをして苦しい青春時代を過ごし、二十七歳でパリで帽子店(ぼうしてん)を開店させたのが、シャネル・ブランドのはじまり。
第一次世界大戦以後、一般的になった女性の社会進出にあわせて、新しい女性のための動きやすい服を考案した人でもある。大戦前は、たとえば競馬(けいば)を観戦にいくときなど、女性はコルセットで締(し)めつけ、おおげさなドレス、大きな帽子に身を包んで出かけていたが、シャネルは、乗馬服のような活動しやすい格好(かつこう)で出かけていたという。女がズボンをはくなんて、はしたないと考えられていた時代、ジャージをとりいれて、活動的で機能的な洋服を次々に考案・発表して、シャネルの店はパリでも人気ナンバーワンのオート・クチュールとなった。
晩年は恵(めぐ)まれない面もあったようだけれど、一九七一年に八十七歳の生涯(しようがい)を閉じるまで、柔軟な発想で自由奔放(じゆうほんぽう)に生きた人生に、私はすごく共感を覚える。
私が小・中学生のころに憧れたのは、黒柳徹子(くろやなぎてつこ)さんの『窓ぎわのトットちゃん』。柔軟な発想、天真爛漫(てんしんらんまん)、自由奔放、奇想天外(きそうてんがい)……シャネルの生き方とどこか共通するところがあるような気もする。私はあの本を読んで、本当に勇気づけられた。
「なんだ、勉強なんかしなくたっていいじゃん」って。
アンデルセンといい、トットちゃんといい、私の解釈(かいしやく)、間違ってたかな?
成人式のプレゼント
成人式を迎(むか)えて、私には二つの選択肢(せんたくし)があった。晴れ着と車、どちらがほしいかと父に言われた。そんなの、もちろん車に決まっている。
それは、二十歳(は た ち)のときの忘れられない思い出。
免許証は返してもらったものの、自分専用の車はなかった。ほしかったけど、洋服も買えないくらいだから、自分で買えるはずがない。酔(よ)っぱらい運転の事件があったあとだし、二十歳の誕生日も過ぎていたから、父にお金をせびるわけにもいかない。逆に私のほうから生活費を入れなければならない立場。
向こうから買ってくれるというなら、せっかくの好意を断(ことわ)る理由はどこにもない。
買ってもらったのは、気前よくBMW320。もううれしくてうれしくて、夢中(むちゆう)で乗りまわした。
そのBMWで横浜方面を一人で走っているときだった。交差点を右折しようとしたら、直進してきた対向車と派手(はで)にガチャーン。相手はトラック。
買ってもらったばかりなのに、車の左前の部分はグシャグシャ、被害(ひがい)はエンジンにまで及(およ)んだ。私にケガはなかったけど、心の中はめちゃくちゃ。極度(きよくど)のパニック状態におちいってしまった。
車の中でわんわん泣いていると、向こうの車から降りてきた作業員風の人が、やさしい言葉で言うことには、
「おねえちゃん、示談(じだん)でいいよ」
こんなときの知識もまったくなかったし、頭の中は真空、なにをどうしていいかわからないから、なにからなにまで相手の言いなり。なぜぶつかったのかよくわからないけど、状況からして、こちらの不注意と言われても弁解(べんかい)できない。警察に来られたら、今度は本当に免停(めんてい)になると思った。
でも、あとからが大変。警察に届(とど)けなかったから事故証明もなく、保険の請求もできない。最終的には、ふだんからお世話(せわ)になっているディーラーの人が、うまく処理してくれたけど。
子どもにあまり分不相応(ぶんふそうおう)なものを買い与(あた)えると、ろくなことはないみたい。
サーファーくんとの別れ
「アンナ、いい加減(かげん)にしろ。この電話代、見てみろ」
その月の請求書の金額は十五万円を超えていた。父が怒(おこ)るのも当然だった。
モデルをはじめてからも、サーファーくんとの付き合いは続いていた。その彼が、ワーキング・ホリデイでオーストラリアに行くことになった。二年間ぐらい、向こうで働きながら、プロを目指してサーフィンの練習に励(はげ)むという。
彼が出発するときに、一緒にロサンゼルスに行く計画を立てた。なぜロスだったかというと、そこにわが家の駆(か)け込(こ)み寺(でら)だった産婦人科医院の娘さんが留学していたから。
彼女は十二歳年上だったけど、私を実の妹のようにかわいがってくれた。彼女との思い出で忘れられないのは、私の十五歳の誕生日に、「マハラジャ」でバースデイ・パーティを開いてくれたこと。お酒が出る席でまさか十五歳とは言えないから、二十歳(は た ち)と嘘(うそ)をついて。彼女からボディコンの服とルイ・ヴィトンのバッグを借り、それに身を包んでいったら、バレなかった。彼女にはいろいろな遊びを教えてもらった。
彼と二人でロスの彼女を訪(たず)ね、そこで数日過ごしてから、彼はオーストラリアへ、私は日本へ、泣き別れ。彼が二年間も帰ってこないかと思うと、この世(よ)の終わりと思えるくらい悲しかった。
半年後くらいに、私のほうからオーストラリアまで会いにいった。現地で十日間ほど一緒に生活してきたけど、その十日間がとても楽しかっただけに、別れがよけいにつらくて、向こうの飛行場から飛行機の中、そして、成田(なりた)に着けば着いたでまた悲しくなって、恥(はじ)も外聞(がいぶん)もなく、声をたてて泣きどおしだった。
飛行機の中では、見るに見かねてか、うるさくてたまらなかったのか、隣(となり)のオーストラリア人のおばちゃんがハンカチを貸してくれた。その親切で、悲しみによけい火がつき、すぐに涙でハンカチが絞(しぼ)れるほどに。
東京に戻(もど)ってからしばらくは、毎日のように国際電話。おかげで、電話代は目玉が飛び出るくらい。手紙もひっきりなしに書いた。
でも、恋愛には、一緒にいないと成立しない部分がある。距離が離れると、日々に関係が薄(うす)くなり、しだいに疎遠(そえん)になる。
私がモデルの仕事をやるようになって、少しずつ売れてくるにつれて、彼は、「アンナが変わってしまう」「遠くに行ってしまう」と口癖(くちぐせ)のように言っていた。まして離ればなれでは、心まで離れていってしまう。
向こうには経済的余裕(よゆう)がないから、電話がかかってくることはほとんどない。そのうちに、こちらからかけても、留守(るす)でだれも出ないことが多くなる。手紙を書いても、返事はこない。
私は、「やることは変わっても、気持ちは変わらない」と言っていたし、その自信はあったけれど、相手からの反応が弱くなってくると、気持ちにも変化が起こってくる。
結局、離ればなれになって一年くらいたったところで、二人の付き合いは、どちらからともなく終わってしまった。二十一歳の冬、向こうは夏のまっさかりのころだった。
お見合い
なんだ、テレビで見たまんまじゃん。あれって、本当だったんだ。
サーファーくんとの関係がなくなりつつあったころ、私は一度だけ、お見合いを体験している。
ヤンママ、結婚への願望は消えていなかったけれど、彼との間は遠ざかっていく。それが寂(さび)しくてたまらないときだった。
母の友だちの紹介、相手は脳外科(のうげか)のお医者さんだった。親戚(しんせき)にもお医者さんはいたけれど、「その若さで脳外科のお医者さん? へえー、すごいなあ」なんて、ヘンに感心してしまっていた。半分はめずらしさ、半分は、お見合いのシーンはテレビ・ドラマなんかでよく見るけど、実際はどうなんだろうかという好奇心(こうきしん)から。相手にはすごく失礼だったけど、それが本当のところ。
実際にその場にのぞんだら、「じゃあ、このへんで若い人たちだけに……」なんて、あまりにもテレビドラマで見たとおりだったから、思わず吹(ふ)き出しそうになって、笑いをこらえるのに苦労した。こっちも着物なんか着込んじゃってたし。
二人で食事をすることになったけど、彼は大金持ちの息子で、自宅にローストビーフを焼く係の人がいるとか、お父さんが御茶(おちや)ノ水(みず)に広い土地をもっているとか、駐車場も経営しているとか、マンションもいっぱい所有しているとか……相手の話す内容が、まるで現実感がない。
「アンナさんは、ぼくにとっては、雲の上の存在です」
そう言われたときには、ゲッと思った。私にとって相手は、雲の上どころか、それよりずっと上の、よその星の人みたい。
彼が汗をふきふき、私を一生懸命に楽しませようとしてくれる努力はわかるけど、飛ばすギャグも寒かった。
私が「ちょっと電話してくるから」と中座(ちゆうざ)して、家に電話を入れたら、母はまだ帰っていなくて、かわりに父が出た。母は、このお見合いのことを父に告(つ)げてなかったらしく、えらく怒(おこ)って言った。
「おれはそんなこと聞いてないぞ。いいから、すぐ帰ってこい。その席には戻(もど)らんでいい。そのまま帰ってこい」
そういうわけにもいかないから、席に戻って、ありもしない嘘(うそ)。
「すみません、私、門限があるから、遅くなると叱(しか)られちゃうんです」
私は断(ことわ)ったのだけれど、彼は家まで車で送っていくと言ってきかない。
「おうちどこだっけ」
「松涛(しようとう)です」
「寝るときにするのは?」
「えっ?」
「ああ、あれは消灯(しようとう)か――」
うわわわわ!
その日は、なんとか彼を振りきって帰宅した。母はいまだにこんなことを言っている。
「あのうちのローストビーフ、食べてみたかったわ」
たしかに、当時の私は若すぎて、相手のことが理解できなかった。いまにして思えば、彼はいい人だったし、いまの自分なら、彼の言葉に素直(すなお)に笑うことができたと思う。
「顔がバタくさい」
「きみ、いまの顔じゃないんだよね」
CMモデルの仕事は、オーディションを受けることからはじまる。それに受からないことには、仕事がはじまらない。二十歳(は た ち)前後のころは、それこそオーディションばかり、それもことごとく落ちていた。
いちおうプロのモデルとして『JJ』に出てはいたけど、それとCMモデルとはまったく別もの。
帝人(ていじん)、東(とう)レ、カネボウなど、おもな水着系のオーディションもみんな受けたけど、すべてハズレ。ただ落ちるだけでなく、いやな思いをさせられることも少なくない。あるテレビ局のマスコット・ガールのオーディションを受けたときなど、
「あなたの顔はいまの顔じゃないから、ちょっとね」
いまの顔って、どんな顔よ!
思わず怒鳴(どな)り返したくなる。
「顔がバタくさい」とは、あちこちで言われた。私はトーストじゃないって。落ちて落ちて、落ちまくった。
「この業界は、百回受けて、一つ受かればいいほうなんだよ」
事務所からはそう言われていた。三十回落ちたって、チャンスはあと七十回もある……そうはいっても、落ちるたびに自分を否定(ひてい)されるわけだから、しだいにゆううつになってくる。
当時、父が家族旅行をテーマにしたシリーズもののテレビ番組に出ていた。その一回目の撮影(さつえい)で家族みんなでハワイに行っていたときに、東京の事務所から電話がかかってきた。
皮肉な朗報
「すぐ戻(もど)ってきてくれないかな」
そのときには、すでにテレビ局の仕事は終わっていたけど、そのあと家族で二、三日、のんびりしていく予定になっていた。
「どうして戻らなければいけないんですか」
「受かりそうなのがあるんだよ、わりと大きな仕事でね」
事務所は、下手(へ た)な鉄砲(てつぽう)じゃないけど、いろいろなオーディションにかたっぱしから私の写真を送りつけていた。
私は知らなかったけれど、その中に「いちこし」という有名な着物メーカーのモデル募集があった。その写真選考(せんこう)で、私が最終審査までいっているから、すぐに戻ってきてほしいというわけ。
でも、それはあくまでも写真でのこと。実物の顔を見たら、相手も……。
「帰ったって、どうせ受かりっこないから、すみませんけど、かんべんしてください。今度の家族旅行は前からの予定ですから」
帰国したら受かるという保証があるならべつだけど、すでにオーディションというオーディションに落ちまくっているから、完全なる自信喪失(そうしつ)、すっかり嫌気(いやけ)がさしていた。
事務所との契約(けいやく)も完全歩合制(ぶあいせい)、いくらオーディションを受けたって、落ちればまったくお金にならない。これでは、そのへんでアルバイトでもしていたほうがよっぽどまし。アイスクリーム屋さんのほうが、ずっといいお金になっていた。これじゃあ、事務所に所属していたって、なんの意味もない。今度落ちたら、事務所をやめようと思っていた。
私は会社の意向を無視して、家族とのスケジュールを優先させてしまった。
両親にはもちろんないしょ。父が聞いたら、「ばかやろう」と一喝(いつかつ)、そのまま首根っこをひっつかまれて、空港に連れていかれ、無理やり成田(なりた)行きの飛行機に押し込まれていたはず。
どうせ着物のモデルなんて、受かるはずがない……。
それが、さんざんバタくさい顔と言われつづけた私が、純日本的な着物のモデルに採用されることになったのだから、皮肉(ひにく)といえば皮肉。やめるつもりのところを、着物にひきとめてもらったようなもの。
もっとも、このときは、伝統的な形そのままではなく、若い子向けに少しアレンジしたもので、発表会のときには純粋(じゆんすい)な外国人モデルもいたくらいだった。
仕事よりスノボー
私は事務所の言うことを聞かないことがよくある。これはごく最近のこと。
スケジュールの合間を縫(ぬ)うようにして、友だちのみやびちゃんと二人で、三泊四日の予定で新潟のほうにスノーボードに出かけた。ところが、「すぐ帰ってきてほしい」との電話。まだろくに楽しんでいないのに。
「オーディションの最終選考(せんこう)まで残っていて、とてもいい感触(かんしよく)だから、いま顔を出してあいさつしておけば、印象がもっとよくなって受かるかもしれない」
相手は、なんと資生堂(しせいどう)。私の事務所のCM部の人が目の色を変えるのも当然。でも、
「私にはスノーボードのほうが大切ですから、行きません」
たしかに“スノボー命”、それに私だけ途中で帰ってしまったら、一緒に来た友だちにも失礼。
私だってモデルの仕事をすでに十年ほどやってきている。資生堂の仕事よりスノーボードのほうが大事だなんて、本気で思うはずがない。私にしてみたら、天にものぼる気持ち、夢みたいな話だ。
夢みたいな話だからこそ、予選でどこまで行こうと、私が選ばれるはずはないと確信していた。わざわざ途中で帰って、それで落ちたらショックは倍増する。自分を守りに入ったというわけ。
だって、自分の恋愛関係のことでマスコミの大騒動に巻き込まれ、芸能週刊誌やワイドショー番組などでさんざんスキャンダラスに報道されつくしたあとだ。モデルとしてより、そっちのほうではるかに有名になってしまった身。イメージを大切にする大手化粧品メーカーが使ってくれるとは、とうてい思えなかった。
一緒に行ったみやびちゃんにその話をしたら、彼女も少し芸能関係の経験があるから、
「それはだめだよ。いまからでも帰ったほうがいい。ねえ、私はいいから、すぐ一緒に帰ろうよ。絶対、そのほうがいいって」
あまりに心配して、熱心に勧(すす)めてくれるので、私もちょっと、いや、すごく気になってきた。だけど、
「いいよ。いまさらあいさつしなくても、私の悪名なんて知れわたっちゃってるんだし。どうせ落ちるに決まってるんだから」
友だちに、というより、自分自身に懸命に言い聞かせ、強引(ごういん)に納得(なつとく)させて、翌日もスノーボードを楽しんだ。正直言って、やっぱり気になりっぱなしだったけど。
そうして東京に帰ってみたら、なんと私が採用されたという。これにはびっくり仰天(ぎようてん)、どっと罪(つみ)の意識。
もちろん、スポンサーにあいさつしたからどうとか、そんなことに左右されるものではないと思うけど、でも、せっかく選んでくれた人にずいぶん失礼なことをしてしまったと、大いに反省(はんせい)した。もちろん、これも父に知れたら、
「ばかやろう、それでもおまえはプロか。そんな甘(あま)っちょろい気持ちでやっているんなら、とっととやめちまえ」
ぶっ飛ばされていたに違いない。もしかしたら、モデルの仕事にはめっぽう厳(きび)しい母のほうに、きつく叱(しか)られていたかも。
「モデルはあなたの天職」
「この仕事、私にあっていないから、明日、事務所の社長さんに言って、やめさせてもらう」
その後、三つ四つ、CMの仕事が決まったけれど、うれしいどころか、それまでにない壁(かべ)にぶつかって、途方(とほう)にくれてしまった。つくづく経験の浅さを痛感。
うれしい話であることは間違いない。でも、望(のぞ)むことと、実際にできることとは違う。
ビルの壁ほども大きな看板(かんばん)になって、日本中のあちこちに張り出されることになったり、雑誌のモデルならその雑誌だけのことだけど、広告となると、さまざまな雑誌に掲載(けいさい)されることになる。テレビCMも連日……。男女問わず、あらゆる年齢層の人の目にさらされることになる。考えただけで、腰のあたりがむずむずして、ひけてしまう。
CMはイメージが命。ところが、私は“スキャンダル女”だなんて、芸能マスコミにさんざん叩(たた)かれたあとだし、イメージは最悪。
うまくいかなかったらどうしよう。うまくやれる自信はない。うまくいかないに決まっている……。
考えれば考えるほど、責任があまりにも重くのしかかってくる。話が具体的になるにつれて、私はゆううつになるばかりだった。とうとう一人では耐(た)えられなくなって、泣きながら母に訴(うつた)えた。
「私、こんな大きな仕事、できないよ。無理だよ。せっかく私を選んでくれたけど、期待にはとてもこたえられない。やっぱり、アンナなんか使うんじゃなかったって思われちゃうに決まってる。ママ、私、本当につらいの」
CMの仕事だけでなく、モデルそのものを廃業(はいぎよう)しようと本気で考えていた。
そのとき、母に言われた言葉が、いまも耳にはっきりと残っている。
「アンナはモデルをやるために生まれてきたのよ。これはあなたの天職なんだから、絶対にやめるなんて思っちゃだめだし、やめたいなんて言ってもだめ」
数年前に『JJ』の仕事をやめたときは、マンネリから脱(だつ)したい、別の方向にも飛んでいってみたいという積極的な気持ちがあった。
そのまま続けることもできたと思う。でも、自分は落ちぶれてやめたくない。「いま、あの人は」と言われるようにはなりたくない。
タレントも歌手もそうだけれど、モデルの世界も、新しい人が次から次に出てくるから、いつもそういう不安がつきまとう。その不安をぬぐいさるには、自分から新しい場所に飛び出していくしかないと思った。
今回の一件では、あまりにもいろいろな問題が重(かさ)なって、自分の無力さ、非力(ひりき)さをまざまざと思い知らされることになった。押しつぶされそうになる私を支(ささ)えてくれたのが、母の一言だった。
いまでも、母の言葉で考えなおすことはよくある。人生においても、モデルという職業上においても、母は私の大先輩(だいせんぱい)。
事務所の社長から、こう言われたこともある。
「CMの仕事をもっとやりたいんだけど、アンナの場合、こわいからなあ。なにが起こるかわからない。途中で降りられたんじゃ、こっちが損害賠償(そんがいばいしよう)しなければならないから」
通常のCMの場合、契約(けいやく)を交(か)わすのは、クライアントと事務所。でも、私の場合は、梅宮(うめみや)アンナも含めた三者契約にしたいという。ようするに、私の事情でなにかあったときには、事務所はあずかり知らない、責任はすべて梅宮アンナにある、というわけ。
まあ、私もいろいろあるからなあ……。
CMスポンサー
「アンナちゃんさあ、それじゃあプロじゃないよぉー」
CMの仕事は、撮影(さつえい)したらそれで終わりというわけではない。そのCMが世の中に出ている間は、いろいろなことがくっついてくる。商品イメージを悪くしないため、たとえばテレビのトーク番組に出演しても、こういうことを言ってはいけない、やってはいけないと、スポンサーのほうから、いろいろな注文がつく。
ある番組で好きなタレントさんのことをほめたら、とたんにクレームがついた。理由は、そのタレントさんが、私のCMスポンサーとはライバル関係にある会社のCMに出ている人だったから。
いいものはいい。私の性格からすれば、そんな規制に対しては、「はい、わかりました」とは素直(すなお)に言えない。それくらいならやめたほうがいい、という考え方をしてしまう。そこをぐっとこらえなければならないから、人一倍、疲れる。
CMの場合、スチールと映像を別の場所で撮影することが多い。ニューヨークでスチール撮(ど)りしたかと思うと、すぐロスに飛んでCM撮りということもある。
それは、現地の有名なカメラマンに撮影してもらうためだから、当然、カメラマンやスタッフ、共演者などは英語をしゃべる人たち。私はネイティブの人のようには、うまく英語をしゃべれないし、聞き取ることもできない。でも、あいさつ程度のことまで通訳(つうやく)の人を通す必要はない。細かい指示のときだけしてもらえればいい。
なのに、会社がつけてくれた通訳の人は、なにからなにまで完璧(かんぺき)に通訳しようとするから、スタッフとのコミュニケーションのタイミングがずれてしまって、とてもぎこちなくなる。自分のペースでしか行動できない私にとっては、神経がすごく疲れる。
次の外国での撮影のときは、英語を話せる母に同行してもらおうと考えた。母なら気心が知れているから、プロの通訳さんには言えないようなことも平気で言える。母にはモデルの経験もあるから、スタッフとのコミュニケーションのタイミングも心得ている。いいことずくめ。われながら、グッド・アイデア。
私が母を同行したいと申し出たところ、スポンサー側からはノーの返事。
「家族旅行じゃなくて、仕事で行くんだよ。お母さんだって、どうせ買い物がしたいんでしょう」
アマチュア呼ばわりされて、ものすごいショック。
私はプロとしての仕事をしたいからこそ、そういう発想をしたのに、まったく理解されないどころか、完全に逆にとられてしまった。そう言われたときには、本当にやめてやろうかと思った。
でも、やめたら、自分のプロ失格を認めたことになってしまう。
プロの仕事というのは、極端(きよくたん)に言えば、手段はどうであれ、いい作品さえ残せればいいはず。気持ちよく仕事ができなければ、いい映像も写真も残せない。そのために母を連れていくことが、どうしてだめなのか。
こんな外国人みたいな顔をしているのに、勉強不足でネイティブみたいにしゃべれないのがいけないんだけど、それはまた別の問題。与(あた)えられた状況の中で、一番いい結果を得るためには……そう考えたうえで出した結論だったのに。
言葉が通じないもどかしさというのは、その壁(かべ)にぶちあたった人でないとわからない。それを、通訳さえあてがっておけば、こと足りると思っているらしい。日本の文化と西洋の文化はあまりにも違う。そういう中でよりよい仕事をするためには、ものごとをもう少し柔軟(じゆうなん)に考えてもいいのではないかしら。
たしかに、向こうの言い分もわかる。アメリカなんかでは、家族の写真を仕事場のデスクに置いておくのは当たり前のことだけど、日本では、それすら許(ゆる)されないような雰囲気(ふんいき)がある。職場に家族をもちこむなというわけ。だけど、そういう西洋式の習慣(しゆうかん)って、私は好きだし、日本もそうなってほしいと思う。
最終的には、母を同行させてもらえることになった。おかげで、すごく気持ちよく仕事ができて、満足度もそれまでになく高かった。これは必ずいい結果になって返ってくるはず。
それでも、なお文句(もんく)がきた。事務所の社長のところに、こんな連絡があったという。
「こういうことは今回かぎり、二度と認めませんからね」
親友の結婚式
「私、結婚するの。結婚式には絶対に来てね」
吉本興業(よしもとこうぎよう)に海原(うなばら)やすよ・ともこという姉妹コンビの漫才師(まんざいし)がいる。東京人にはピンとこないかもしれないけれど、彼女たちのおばあちゃんは、あの海原小浜(こはま)さん。
五年くらい前、仕事で大阪に行ったとき、テレビ局のスタジオで「アンナさんに会いたいという子がいるんですけど」と言われ、紹介されたのが、姉の海原ともこちゃんだった。彼女は私のファンで、『JJ』時代から切り抜きを集めているというバリバリのアンナ・ウォッチャーだった。
それ以来、ずっと仲よくさせてもらっている。一つ年上の彼女には、いろいろな面で本当にお世話(せわ)になっている。つらいときに何度も助けてもらっている。
ともこちゃんが結婚する。なにがなんでも駆(か)けつけなければ。幸(さいわ)い、式は半年以上も先のこと、スケジュールはまだ真っ白。
でも、現実はそう甘(あま)くはなかった。
結婚式まであと一ヵ月となったある日、事務所のCM部のほうから、結婚式の日を含(ふく)んだ期間中にCM撮(ど)りをやりたいという話がきた。もう最悪。ともこちゃんに事情を話せば、「CMのほうを優先して」と言うに決まっている。
私がCM部に対して出した結論は、ノー! 私にとっては、いくら大きなCMでも、親友のほうが大切だから。
私はめずらしく父にも意見を聞いた。
「自分にとって大事なほうを選べ」
父も私と同意見だった。
もちろん、相手が表面上だけのうすっぺらな友だちだったら、仕事を優先したと思う。ともこちゃんは、私の一生の友だち。もしも私が落ち目になっても、きっと彼女は私のそばにいてくれるはず。
式の当日、私はスピーチをしたけど、大泣きしてしまい、なにを言っているのかさっぱりわからなかったと思う。ただ一人、ともこちゃんを除(のぞ)いては……。
サイン
「ねえ、ママ、〇〇ちゃんだ。どうしよう、どうしよう。サインもらいたい、ねえ、どうしよう」
中学生のころ、たまたま母と一緒に入った喫茶店に、そのころ人気絶頂だった若手の女性歌手がいた。彼女の姿を見ただけで、頭の中はもうパニック状態。
大勢でわっと押しかけるのと違って、一人で有名人のサインをもらいにいくのは、意外と勇気がいるもの。
向こうはマネージャーとかスタッフらしい人たちを含(ふく)め、六人の集団。それでも、こんなチャンスはめったにない。好きな歌手だったから、紙を用意して、勇気をふるってサインをもらいにいった。
「すみません、サイン、いただきたいんですけど」
本人はちょっと手を出しかけたのに、横からマネージャーと思われる人が割り込んできて、
「いま打ち合わせをしているから。あとであなたの席にもっていってあげるからね」
クソーッ、むかつく。
内心(ないしん)、そう思ったけど、ぐっとこらえて、じっと待つ。約束どおり、あとで席にサインが届(とど)けられた。でも、それではだれが書いたものかわかったものじゃない。私は、まだかまだかと、ずっと彼らの様子を見守っていたけれど、彼女自身がその場でサインをした気配(けはい)はなかった。
私は絶対に違うと思って、家に帰ったあと、父にそのことを話した。
「これ、本人が書いたんじゃないよね」
翌日、父の事務所の人が、その歌手の事務所に電話をして、
「じつは、梅宮辰夫(うめみやたつお)の娘が……」
一方的にいきさつをまくしたてたうえで、こんな捨てゼリフを残したという。
「そういうことをするのは、十年早いんだよ。マネージャーによく言っておけ」
そんなこと言ってほしいなんて頼(たの)んでないのに……。
私だって、サインを求められたときに、状況によっては、その場で応じられないときもある。でも、あとでそっちに持っていくということだけはしないようにしている。相手の目の前で書くか、書けないときは書けないとはっきりお断(ことわ)りする。そのほうが誠実だと思っている。サインは、ファンの人に対する感謝と誠意の表現だと思っているから。
営業に行くときには、あらかじめ色紙に二、三百枚も書いておかなければならないこともある。前の晩に五百枚書いたこともあった。もちろん、全部自分で。
もっとも、五百枚ともなると、書いても書いても色紙の山が減っていかないのでうんざり。さすがにマネージャーにでも手伝ってもらいたくなる。でも、私のサインはマネージャーにもだれにも真似(まね)できない。もっと簡単なのにしておけばよかった……。
テレビの世界
それまで雑誌の世界で、のんびり、気ままにやってきた私には、とてもテレビのペースについていけなかった。
父と一緒にCMに出ていたときがあり、そのポスター撮(ど)りをしたときのこと。昨日(きのう)や今日の素人(しろうと)でもないのに、父はどういうわけか、カメラの前でかたまってしまって、ポーズも表情もとてもぎこちない。
スチール写真というのは、静止しているようでいて、じつは動きが表現されていなければならない。
役者というのは、カメラがまわっていれば動けるけど、カメラが動いていないと、動けなくなってしまう。おもしろいなあと思った。
それが、このごろ、テレビのバラエティやトーク番組に出させてもらうようになったら、今度は私のほうが、みんなの中で一人だけ浮いてしまっている。全体の流れに一人だけ乗れないでいる。最初のころに出演した番組なんか、録画されたのをあとで放送で見たら、とても目を開けて見ていられない。恥(は)ずかしくって、顔から火が出てしまうほど。
トーク番組といっても、ほとんど段取りが決まっていて、発言の内容なんかも、たいていは事前に打ち合わせてあることが多い。でも、番組がはじまると、頭の中で舞(ま)い上がってしまって、予定どおりに意見を求められているのに、打ち合わせした答えすらできない。しゃべるスピードも格段に遅い。司会者がとりつくろってくれているから、かろうじて番組がめちゃめちゃにならずにすんでいるようなもの。
テレビ出演も、最初のうちは断(ことわ)っていた。もともと芸能界にはあまり興味(きようみ)がなかったし、テレビが好きだったから、よけいに自分が出ることを考えたら大ごとのように思えて、こわかった。考え方が古いのか、そんなに簡単に出てはいけないものだと思っていた。
出たら出たで、なにかをしゃべらなければいけない。でも、大勢の人の中で、みんなにあわせてしゃべるのは大の苦手(にがて)。最初の誘(さそ)いがあってから一年間迷(まよ)った末に、やっと出演する決心をしたわけだけれど、それから慣(な)れるまでに、さらに一年かかった。
朝、マネージャーが迎(むか)えにきても、ドアの鍵(かぎ)をかけて、頭から布団(ふとん)をかぶって、「私、行かない!」……登校拒否(きよひ)そのもの。そんなことも何度かあった。
母は、モデルは私の天職と言ってくれたけど、芸能界の仕事を少しずつするようになって、その言葉の重みがよけいにわかるようになった。
じゃあ、次はドラマをやりましょう、次は歌……なんて言われても、とてもできない。あれもこれもと、なんにでも手を伸ばしていたら、結局のところ、なにも残らなかったということになりかねない。
人間の幅を広げていけば、自然といろいろなことに対応できるようになるのではないか。そのためにも、自分が一番得意とする分野をさらにきわめて、深め、広げていく努力を続けなければいけないだろう。人間としての内面も、もっと磨(みが)いていかなければならないとも思う。
V 遠まわりした道
あひるの子は、今までがまんしてきた悲しみや苦しみを、すべてわすれるほどのよろこびをかんじました。そして、このしあわせを、しみじみかみしめました。
――アンデルセン『みにくい あひるの子』より
あの彼
「尻軽女(しりがるおんな)、赤(あか)っ恥(ぱじ)の箱入り娘」……。
それまでの数年間、私は疲れきっていた。精神的なダメージから、正常な判断力もなくしていたと思う。それも、仕事以外のところで。
それにしても、なんで、こんな言われ方、しなければいけないの?
私が、あの彼と出会ったのは二十一歳のとき、テレビ番組で共演したのがきっかけだった。
サーファーくんと疎遠(そえん)になったあと、ある忘年会の席で紹介されたJリーグの現役選手と、ときどき一緒に食事をしたりしていた。結局、交際するまではいかなかったけれど、例によって両親に紹介したところ、スポーツマン・タイプが好きな父も気に入ったようだし、私も彼が所属するチームの試合にはせっせと通(かよ)った。
ただ、私が入れ込むほどには、このJリーガーさんからの反応はいま一つ。向こうにしたら、単なる熱心な“おっかけ”の一人、その程度だったのかもしれない。
Jリーガーさんは、ただ自分のことを話すばかりのタイプの人。私の話なんかにまったく興味(きようみ)を示さなかった。
そんな一方通行の関係に不満が募(つの)りつつあったころ、彼に出会った。
「へえー、それで、それで? ねえ、それから、どうしたの?」
こちらの話に熱心に耳を傾(かたむ)けてくれる彼の態度が、なおさら誠実に感じられた。それまでのもやもやした気持ちも、いっぺんに晴れた。私は、どうしても自分にないものにひかれてしまうところがある。
いま思うと、彼は私の人生で初めて私の話をとことん聞いてくれた人間だった。
彼も日本人とアメリカ人のハーフだったことも大きい。同じハーフでも、彼の生(お)い立(た)ちが私とはまるっきり違うことに大きな衝撃(しようげき)を受けた。境遇(きようぐう)の厳(きび)しさは、私なんかとは雲泥(うんでい)の差、比較の対象にもならない。
私はなんて傲慢(ごうまん)な子どもだったのだろう。それにひきかえ、この人はなんてかわいそうなんだろう。
正直言って、最初はそんな子どもっぽい同情心。
借金とか、女性関係とか、彼はそのころからいろいろ言われていたけれど、そんなたいへんな過去の話を聞けば、それも許(ゆる)せるというか、納得(なつとく)がいくというか、そういう負(ふ)の部分まで含(ふく)めて好きになってしまった。
私が補(おぎな)って、正してやるんだ、軌道修正(きどうしゆうせい)してやるのが私の使命なんだなんて、身のほど知らずの母性まではたらかせてしまったりして。
私は父に対する反抗心が強く、父とはまったく違うタイプの男性にひかれたのも事実。
父の誤算
「パパ、私、うちを出たいの」
好きな人とはできるだけ一緒にいたい。彼が住んでいる世田谷の一軒家に出入りし、私の持ち物も少しずつ運び込んでいたけど、もっとはっきりと同棲(どうせい)というかたちをとりたくて、父に申し出た。
父はテーブルをひっくり返すほどの怒(おこ)りようだった。彼と付き合うのさえ反対していたくらい。それが同棲すると言い出したのだから、もう大爆発。大げんかになった。
「でも、パパ、一緒に生活もしないで結婚までいって、はい、だめでした、なんてことになったら、戸籍(こせき)にキズがつくことになるじゃない。その前に少し一緒に住んで、やっていけるかどうか確かめたいの」
口から出まかせ、私も必死で食い下がった。いまなら、親の反対も理解できる。でも、そのときは頭の中が一つのことでいっぱい、ほかの要素なんて入る余裕(よゆう)はゼロだから、熱心に説得すればわかってもらえると本気で思っていた。
高校進学をやめると言ったときもそうだったけど、どんなに意見が食い違っても、他人に迷惑(めいわく)がかかることでなければ、父はいつだって、最後には私の言うとおりにさせてくれた。「勝手にしろ」というかたちで。このときもさんざん言い合ったけど、父にすれば、サジを投げた感じだった。
あとで聞いたら、父は私が絶対に三日以内に帰ってくると思っていたという。それが五年も続いてしまったのだから、大誤算(だいごさん)。
じつは、私は、この家を出たころのことについては、なにも記憶(きおく)にない。季節がいつだったのかもわからない。もっと小さいころのことでも詳(くわ)しく覚えているというのに……。それほどまでに余裕がなく、異常な精神状態におちいっていた。
土下座
「もう付き合いきれない。本当に無理。もう絶対にいやだ」
付き合いはじめて何ヵ月かたったころ、彼がマスコミから連日のように「誠意大将軍(せいいたいしようぐん)」と言われていた時期だった。まだ同棲(どうせい)はしていなかったときのことである。
ある日の昼間、私は彼の留守中(るすちゆう)、彼の世田谷の家の掃除(そうじ)をした。家中をきれいにして、最後にベッドのシーツも新しいものと交換した。
その日の夜、私は約束はしていなかったけど、ふと彼に会いたくなって、車で彼の家に向かった。そっと寝室をのぞくと、なんと、新しいシーツの上には、彼が、私の知らない女の子と二人で寝ている。
とんとんと、彼の肩を叩(たた)いて起こすと、さすがにばつが悪かったのか、その女の子は帰したけれど、その後はさっさと寝てしまい、翌朝早くに仕事が入っていたようで、早々に出かけてしまった。
「なにが誠意なの!? 聞いてあきれる」
私は家に帰ってから、もう一度、彼の家に引き返した。友だちにも手伝ってもらい、だれもいない彼の家から、せっせと運び込んだ自分の荷物を全部ひきあげた。当時ちょっと話題になったヴァンクリ(ヴァン・クリーフ&アーペル)の指輪を最後にテーブルの上に置いて、これで「さよなら」。
さっそく父にも報告した。
「彼の部屋に行ったら、ほかの女の人がいたの。私、別れることにしたから」
父はもう大喜び。
「よーし、よくやってくれた。梨元(なしもと)に電話するぞ」
本当に芸能リポーターの梨元勝(まさる)さんに電話してしまったから、大騒ぎ。父からすれば、これを機会にきちんと別れさせることができると思ったみたい。「これでアンナもあきらめがつくだろう」と。
その日の夜、彼は、あわてて私のところにすっ飛んできた。私が家の外に出ていくと、開口一番(かいこういちばん)、
「ごめんなさい」
このときばかりは、さすがの私も許(ゆる)すつもりはない。
「もう本当にいやなの」
すると突然、彼は路上にひざまずいたかと思うと、私に向かって土下座(どげざ)をした。
「本当に悪かった」
「…………」
「おれのこと、嫌(きら)いになっちゃったの?」
絶対に許せないとは思っていたけれど、「嫌い?」と聞かれて、「うん、嫌い」と答えられない自分がそこにいた。
結局、その女の子とはただ一緒に寝ていただけ、なにもなかったという言葉を信じて、それに、土下座までしてくれたんだからと、もとのサヤにおさまった。
自分自身、「ばかだなあ」と思いながらも。
私はこのときにわかった。この人はやっぱり芸能人、虚像(きよぞう)の世界で生きている。土下座なんて、ふつうの男の人だったら絶対にしないだろう。彼にとっては、いざとなれば土下座なんて、なんでもないことなんだろう。ここにカメラがあって、「よーい、スタート」でカチンコが鳴って、という設定なら、土下座なんて簡単なことなんだ。
このとき以来、私は男の人の部屋に一人で行くことができなくなってしまった。
バッシング
私たちの交際が明らかになってから、マスコミは彼の女性問題から金銭問題まで、あることないこと次々にあばきたてて、私ともども“バカップル”呼ばわりして、バッシングを開始した。
私たちが付き合うことで、だれにも迷惑(めいわく)はかけていないはずなのに、まるで社会の邪魔(じやま)ものであるかのように。
最初は、私のまわりでなにが起こったのか、さっぱりわからなかった。もう、右往左往(うおうさおう)するばかり。
彼がそんなふうに総攻撃されるようになったのは、明らかに私と交際するようになってから。これは私のせいではないかとずいぶん悩(なや)み、彼のためにも別れたほうがいいのではないかと考えたこともあった。
でも、そんな理不尽(りふじん)な周囲の声に押しつぶされるなんて、ばかげている。どうしても納得(なつとく)できない。そんないわれは、どこにもない。
そう思うようになってからは、外からの雑音も少しずつやわらぎ、気にならなくなった。
なかには、「これではアンナがかわいそう」などと、いかにも“善意”をよそおって、彼への攻撃を正当化しようとするマスコミもあったけど、それこそよけいなお世話(せわ)。私にそういうことができるのは父だけ。その父にさえ、私は反抗していたのだから。
本当に私のことを気づかって、アドバイスをしてくれた友だちもいたけど、そんなことも、私は承知(しようち)のうえだった。私だって欠点だらけの人間、相手もそれを承知で好きになってくれたんだから。
たしかに、私が彼に将来の夢を尋(たず)ねたときの、「お金持ちになること」という返事にはちょっとがっかりしたけど、彼がたどってきた過酷(かこく)な境遇(きようぐう)を考えたら、だれも責(せ)められないはず。
人を好きになるとか、愛するとかは、打算(ださん)じゃない。第三者から見たら欠点だと思われる部分だって、抵抗なく受け入れられる。好きな人のためなら、なんだってする。少なくとも、私はそう思っていた。その考え方は、いまも変わらない。
彼が金策(きんさく)している現場に同席して一緒に頭を下げたりしたのも、好き好(この)んでしたわけではないけれど、私には、二人のための当然の行動だと思っていた。
いま考えれば、彼の借金のあまりの大きさにびっくりするけど、そのさなかにいたころは、感覚はすっかりマヒしていた。億単位のお金なんて、私が一緒に頭を下げたくらいで、どうにかなるような金額ではないのに、私だって少しは手助けになると思い込んでいたのだから……。
写真集
ここで一つ話しておきたいのは、彼と二人の写真集のこと。
世間では、借金返済のためのものと思われているけど、あれはまったく別もの。私一人で考えて、純粋(じゆんすい)にメモリアルとしてやったものだった。
どうせやるなら、超一流のカメラマンに撮(と)ってもらいたいとも考えていた。
「やる必要がない。だれもやってないよ、そんなこと」
事務所の人は全員反対していた。
「だからやるんですよ」
事務所の力は借りられない。私は一〇四の番号案内で篠山紀信(しのやまきしん)事務所の電話番号を調べて、一人でアポをとって、篠山さんに会いにいった。
幸(さいわ)い、篠山さんは、若いころにモデルをしていた母を撮ったこともあり、話はとんとん拍子(びようし)に進んだ。
「アンナって、お母さんにそっくりだねえ」
昔(むかし)の母の写真まで見せてもらった。
それから日をあらためて、彼を篠山さんの事務所に連れていった。
「篠山さん、この本、売れますかねえ。いくらくらい儲(もう)かりますかねえ」
この彼の言葉には、さすがに温厚な篠山さんも怒(おこ)ってしまった。
「きみねえ、そういう考えだったら、ぼくはやらないよ」
まずい、このままじゃ、私の夢がこわれちゃう。私は平謝(ひらあやま)りに謝った。
「すみません、彼はそういう意味で言ったんじゃないんです」
なんとか考えなおしてもらい、メキシコのカボサンルーカスというロケ場所からなにから、全部篠山さんにセッティングしてもらった。
もっとも、最初はヌードになるつもりはさらさらなかった。父に写真集のことを話したら、
「アンナ、篠山紀信っていうのはなあ、裸(はだか)にさせるのがうまいんだぞ」
「パパ、なるわけないじゃん、アンナが」
ただ、すごくいい写真を撮ってもらったし、作品としては、とても気に入っている。写真集ができあがるまでの過程も、私の中のいい思い出になっている。
この写真集は、私にとって、お金の問題ではない。だから、どのくらい売れたのかも知らされなかったけど、そんなことは、私には関係のないことだった。
「もっといい服を着てちょうだい」
努力をしていれば、いつか報(むく)われる……よくそんなふうに言われるけど、いくら頑張(がんば)っても、どんなに努力をしても、どうしようもないことだってある。
世の中は自分たちのためだけにあるものではないから、身のほどを知らなければ、押しつぶされてしまう。
お金の問題が、まさにそれだった。
彼も必死だった。それは私にもよくわかった。でも、一度狂(くる)った歯車は、いったん止めて、もとに戻(もど)してからでないとだめ。そのまま突っ走っても、溝(みぞ)はどんどん深まるばかり。借金を返すために借金をしているような状態では、とても先行きは見通せない。それは、いまだからわかることだけど。
そういうものを抜きにして、私たちの愛ってなんなのだろうか、と考えると、意外なことに、なにも浮かんでこない。彼の金策(きんさく)に協力するのも一つの愛の形かもしれない。でも、そういうことを抜きにしたら、なにも残らないのでは……。
私は彼といるときには、服でも持ち物でも、いいものを身につけることができなかった。というより、すごく汚(きたな)い格好(かつこう)をしていた。私もファッションを売り物にしている以上、人前ではあまりみすぼらしい格好もできない。だから、シャネルやエルメスなどを買うことは買うけれど、それを彼の目の届(とど)くところには置けなかった。
「そんなお金があるくらいなら……」
すぐにそういう話になってしまうから。
私にとっては、それは営業服。自分への投資のようなもの。でも、「おれがこんなに苦労しているときに」という彼の気持ちも理解できる。
彼との同棲中(どうせいちゆう)も、両親とはちょくちょく会っていて、一緒に食事をしていた。そんなとき、母からよく言われた。
「あなた、モデルなんだから、もっといい服を着てちょうだい。お願いだから、買ってちょうだい。苦しいなら、お金をあげるから」
買えないんじゃない。買ってはいるんだけど、それを着たくても着られない現実があった……。
彼の背景
「あいつは軽薄(けいはく)だ」
彼は人一倍、他人に気をつかう。それがときに裏目に出て、私の父のような性格の人には、ご機嫌(きげん)とりとか、おべんちゃらと受け取られてしまう。
彼を父に紹介したとき、それはあるレストランでのことだったけど、先に来て待っていた父に向かって、彼は、
「パパーッ」
大声で呼びかけながら駆(か)け寄(よ)っていった。抱きつかんばかりの勢いで。彼としては、精いっぱいの親しみの表現のつもりだったと思う。私を愛してくれていればこその。
父の目には、それが軽薄と映(うつ)ってしまった。
父は、芸能界での彼の評判について、いろいろと耳にしていて、好ましくない印象を抱(いだ)いていた。そういう色メガネで見ていたところに、そんな、なれなれしいあいさつをしたものだから、ますます眉(まゆ)をしかめてしまった。
それから一ヵ月ほどたったころ、父の経営しているコロッケの店「梅辰亭(うめたつてい)」でボヤ騒ぎがあった。そのとき、彼は報道関係者からコメントを求められて(彼に感想を聞く筋合(すじあ)いではないと思うけど)、こう答えた。
「ぼくが火をつけたんじゃありませんよ。アハハ……」
父の受けがよくないことに気づいていた彼としては、ほんの軽いジョークのつもりだったのだろう。この発言が父の逆鱗(げきりん)にふれて、ますます墓穴(ぼけつ)を掘(ほ)ってしまった。
彼が「お金持ちになるのが夢」と言っていたのも、苦労して自分を育ててくれたお母さんを少しでも楽にさせてあげたいという気持ち、それにもう一つ、自分をさんざんさげすんだ人たちを見返してやりたいという気持ちから出たものだと思う。
一九九八年夏、沖縄のファッション・ビルにレストランや美容院などをオープンさせた。でも、そういう店を出すなら、まず需要(じゆよう)の多い東京でやってみて、成功したら、それを足がかりにして、故郷(こきよう)の沖縄にも支店を出すというのがふつうの順序だったと思う。
父が知り合いの人に頼(たの)んで、沖縄に彼が計画していた店が商売として成り立つかどうかを市場調査してもらったことがあったけど、結果はよいものではなかった。
それを無視して、彼がいきなり沖縄に店を出したのも、「おれをいじめた連中を見返してやりたい」という気持ちがあまりにも強かったから。リベンジに燃える彼にとっては、沖縄でなければならなかった。その思いがあまりにも強すぎて、正常な判断力をなくしていた……。そういうことではなかったのかしら。
そうした背景まで含(ふく)めて彼の行動を見ていけば、それなりに納得(なつとく)はできる。それが正しかったかどうかは、また別の問題だけど。
いまとなっては、親の言っていることは間違いではなかったなと実感できる。でも、そのときの未熟(みじゆく)な私の判断力ではどうしようもなく、彼を助け、支(ささ)えることが自分の役割だと思っていた。ふつうの人なら、そこまではやらないだろうと思うようなこともやってきた。
「おれはこの店を成功させて、借金を返したいんだ」
そう言われたら、うなずくしかない。どこに行っても、彼の名前ではお金を貸してくれないから、私は何度か保証人の欄(らん)に自分の名前を書いた。
当時、友だちの十人中九人までが、「やめたほうがいい」と言っていた。「アンナが苦労するだけだから」。残りの一人は、「そんなに苦労したいなら、勝手にしたら」。
私にとっては、ただまわりが騒いでるだけ、自分がかわいそうがられているらしいということもわかったけど、しょせん他人は無責任なものだからと、あまり相手にしなかった。あえて耳をふさいでいた。それが、よけいに自分自身を殻(から)に閉じ込める結果になったと思う。
マスコミのバッシングが一番きつかったときに、ビートたけしさんから言われた言葉が、いまでもはっきり記憶(きおく)に残っている。
「みんなが祝福(しゆくふく)してくれたときに、初めて自分の気持ちがわかるもんだよ」
そのころは、どういう意味かまるでわからなかったけど、つまり、みんなから反対されれば反対されるほど意地になってしまっているから、自分の本当の気持ちが見えなくなってしまっている、というわけ。
「それでも、私、変わんないもん」なんて憎(にく)まれ口(ぐち)を叩(たた)いていたけれど、本当に彼のことを好きだと思っていたのは、五年間のうち半分の二年半ぐらい、残り二年半は、完全に意地だけ。
二人で旅行らしい旅行もしていない。日曜日にデートをしても、二人の会話の中身は「このスパゲッティ、おいしいね」ではなく、保証人やら金利計算の話。隣(となり)ではカップルが楽しそうに笑っているのに、私たちのテーブルだけが、まったく異様(いよう)な世界。二十一歳のときのままごとのような生活が、そんなに長く続くはずがなかった。
沖縄に店を出す前、彼は世田谷の家を売って、私が借りていたマンションで生活することになった。そのころには、二人の心はほとんど離ればなれになっていた。
沖縄の店
彼の沖縄の店のオープン当日の夜、私はわんわん泣いた。
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
ワイドショーのリポーターや芸能週刊誌の記者たちでごった返し、華(はな)やいだ雰囲気(ふんいき)の中、私だけがやりきれない思いを抱(かか)えていた。
店はお昼の十二時オープン。でも、その日の朝九時の段階でも、解決できていない三千万円の借金問題があった。この問題を処理できなければ、店をオープンすることができない。見かけだけはそろっていたけど、内情は火の車だった。
このときは、私の両親も沖縄に来ていて、最終的に先方が出してきた条件は、
「アンナさんと梅宮辰夫(うめみやたつお)さんのサインがあれば、すぐに送金します」
私は、お金が払えなくて、店をオープンさせられないなら、それはそれでしょうがないだろうと思っていた。彼のほうも、私や私の父にこれ以上迷惑(めいわく)はかけられないから、「それなら、今日のオープンはあきらめる」と言ってくれるだろうと。
ところが、彼が父に向かって言ったのは、
「テレビや雑誌を呼んでしまった手前、オープンできないのは困る。すみません、梅宮さん、サインしてください」
私に対しては、いつもと同じように、「おまえはおれのことが好きじゃないのか。好きだったらサインするだろう。おれだったらそうする」という態度。
結局、父と私は書類にサインをした。
その夜、ふつうなら、店がオープンしてどんちゃん騒ぎといくところだろうけど、私はホテルの部屋でわんわん泣いていた。父も涙を流していた。私のせいで家族みんなを苦しめてしまった。それは、いまでも本当に申(もう)し訳(わけ)なく思っている。
最近、地方へ仕事に行った帰りの飛行機の中で、たまたまスポーツ新聞を見る機会があった。私の目に飛び込んできたのは彼の記事。
「借金は億を切りました。返済は順調です」
「!?」
私のところには、本来は彼のところへ届(とど)くはずの請求書などが、いまだに舞(ま)い込んでくる。そして、私はいまでも毎月百万円の借金を返済している。
睡眠薬
苦痛もなにもない、すごく簡単な凶器(きようき)がそこにあるのだから、私が一瞬でも、「もう死んでしまおう」と思っていたら……。
懸命に意地は張っていたけれど、精神的に強いほうではないから、つらいことがあってあれこれ考え出すと、涙が止まらなくなる。そういうとき、私はすぐに寝ることにしていた。両親から、「泣くぐらいなら、寝てしまえ」とさんざん言われていたから。
そのままではとても眠ることなんかできないから、どうしても薬のお世話になる。
アメリカのドラッグ・ストアでふつうに売っている睡眠薬だけど、日本でお医者さんが出してくれるものより、ずっと効(き)き目が強い。飲みすぎると、永遠に目が覚(さ)めないこともある。
実際、騒ぎになったことも数回ある。
しょっちゅう飲んでいるうちに効き目が落ちてくるから、どうしても量が増えていく。ある夜、自分では記憶(きおく)にないけれど、睡眠薬を飲んだあと、どうやら親友の阪本(さかもと)ヒロコちゃんに電話をしたらしい。翌日、目が覚めたら、目の前に彼女の顔があった。
ヒロコとは、学校は違ったけれど、中学のときに塾で知り合って、それ以来ずっと親しい付き合いが続いている。彼女は同い年だけど、すごく面倒見(めんどうみ)がよくて、私にとっては親友兼お姉さん的存在。なにかとお世話(せわ)になっている。
私の電話の様子がおかしかったので、心配して駆(か)けつけてくれたのだという。
「いくら揺(ゆ)すっても、ほっぺたを叩(たた)いても起きないんだもの……」
彼女が駆けつけたときには、彼も帰っていて、部屋には入れてもらえた。彼は、もちろん私が眠っているだけと思っている。そこに彼女がやってきて、揺すっても叩いても、私が目を覚まさない。彼女は彼に救急車を呼ぶよう頼(たの)んだけれど、彼は「いつも飲んでる薬だから」と言って、とりあってくれなかったという。
同じような状況で、父に電話をしたこともあった。父があわてて駆けつけたけど、そのときは、彼は留守(るす)。ドアに鍵(かぎ)がかかっていたので、父は入ることはできない。いくらチャイムを押しても、ドアをドスンドスン叩いても、私はいっこうに目を覚まさない。管理人さんを呼んだりして、大騒ぎになったらしい。
だけど、当時、どんなにつらい状況でも、フラフラになっても、仕事をキャンセルすることはけっしてしなかった。いまにして思えば、そんな状態で仕事に行くなんて、みんなに失礼なのだけれど。
ケーキ入刀
夫婦の共同作業って、こんな簡単なことから?
お金の面だけではなく、精神的にも八方(はつぽう)ふさがりの状態であることがわかりかけてきたころ、ある芸能人同士のハワイでの結婚式に、二人で参列することになった。その式の最中、はっと気づいたことがあった。
「では、新郎新婦のケーキ入刀(にゆうとう)にまいります。夫婦になって初めての共同作業です」
どこの結婚式でも見なれた光景。まさにクライマックス。
そのとき、私の脳裏(のうり)を駆(か)けめぐったのは、「夫婦の共同作業って、こういう簡単なことからはじまるものだったんだ」。それが、すごく新鮮なことのように思われた。
じゃあ、私が彼と結婚したとして、なにが新鮮なんだろうか……。
それとなく、横に座(すわ)った彼の顔をうかがった。
こんなすてきな結婚式を目の前にしたら、自分たちの結婚のことをちょっとは考えるものだろう。この人は、私との結婚について、どんなふうに考えているのだろうか?
でも、彼は、クライマックスのシーンにはまったく関心がなく、出席者をウォッチングしている様子。このとき、なぜか私は、この人とはけっして結婚しないだろうと思った。
その夜、ハワイのホテルで彼と大げんかになった。原因は、私たちの結婚のことではなく、沖縄の店のこと。
そのころ、一ヵ月のうち一週間から十日ぐらいは、私がアメリカまで行って、店で売るための商品を買いつけていた。飛行機代から買いつけ代金まで、すべて私の自腹(じばら)。
届(とど)いた商品に値段を書いていくという作業も、洋服が好きだったからできたことだけど、そのうち、疲労感ばかりがたまっていった。
沖縄と東京とでは、物価の感覚がかなり違う。仕入れ値や経費にあった値段をつけていたのでは、ほとんど売れない。値段を下げれば赤字になる。事前のリサーチが甘(あま)かったと思うのだけど、彼もつい私に八(や)つ当(あ)たりして、店に客が入らないのは私の責任みたいな言い方になる。
「おまえがもっと店に顔を出さないからだ」
でも、アメリカでの買いつけのほかに、芸能人としての仕事は東京がメイン、そのうえ沖縄の店に来いと言われても、それは物理的に無理な話。
この手のけんかは、そのころは日常茶飯事(にちじようさはんじ)だったから、それが直接の原因ではない。それより、せっかくこんなすてきな結婚式に参列したあとだというのに、相変わらず、いつもと同じけんかをしているなんて、私たちって、いったいなんなのだろうか……と思わずにはいられなかった。
私たちの愛は完全に終わった――そのとき、私はそう確信した。
逃 亡
三人の“夜逃(よに)げ屋本舗(やほんぽ)”は、とても手際(てぎわ)がよかった。
本当の別れを決意した日、私は父にそれとなく聞いた。
「ねえ、パパ、私が帰っても、うちに私の部屋、もうないよね」
「おまえの部屋なんか、ママが改造して衣装(いしよう)部屋にしちゃったよ」
「パパの書斎(しよさい)、ほとんど使ってないんじゃない?」
「ばか言え。あいてねえよ」
彼には言わなかったけれど、両親にはそれまでに何度も「もう別れたい」と弱音(よわね)を吐(は)いていた。そのたびに父の“期待”を裏切ってきた。私はすっかり 狼 (おおかみ)少年。父にしたら、またいつものヨタ話ぐらいにしか思わなかったのだろう。私が彼と別れて家に戻(もど)るということをほのめかしても、私の話をハナから信用していない様子。
それまでだって、わざと嘘(うそ)をついたわけではない。私の気持ちがグラグラだったため、結果的にだましたことになってしまった。それも、一度や二度ではない。
父に本心を言うと、父の口からマスコミに流れるおそれもあった。そうしたら、カメラとマイクにどっと押し寄(よ)せられて、私の決意もどこかに吹(ふ)き飛んでしまう。
自分の口からテレビで言うまでは、父に黙(だま)っていることにして、友だち三人に手伝ってもらい、部屋から私の荷物だけをそっと持ち出した。夜逃げ同然。
ずっと私のことを心配してくれていた彼らは、ここぞとばかり、協力してくれた。
それから、彼と直接顔をあわせないようにするため、ホテルを転々とする生活が二ヵ月ほど続いた。
カギっ子にはカギっ子なりの楽しみ方がある。おかげで、私は泊(と)まりたくても泊まれないようなあちこちのホテルに泊まることができ、自分がおかれた状況をそれなりに楽しんでいた。
あるホテルに滞在して三日目、外出から戻ったら、部屋に大きなお花が届(とど)いていたことがあった。それは、彼とツーカーのあるマスコミからのもの。あわてて別のホテルへ、必死の逃亡者――。
もっとも、ホテル暮らしは事務所のさしがね、いえ、ご配慮。社長がポケットマネーで宿泊費の一部も負担(ふたん)してくれた。そのほかに友だちからの善意のカンパも。マネージャーがガードマン兼監視役だった。
飛躍のチャンス
「梅宮(うめみや)アンナ、だれ、それ?」
一連の騒動の中で痛感させられたのは、雑誌のモデルとして、ちょっとばかり有名になったのなんて、広がりがほとんどないということ。
その雑誌を読んでいる人たちの間では、アイドルであったかもしれないけど、それはほんのかぎられた範囲(はんい)でのこと。早い話、中年以上の人にとっては、よくてもせいぜい「ああ、梅宮辰夫(うめみやたつお)の娘ね」。
記憶(きおく)をなくすまでお酒を飲んで、青山(あおやま)の歩道で寝てしまったことがある。飲んだのは友だちと一緒だったけど、いつのまにか私一人だけになっていて、だれかに揺(ゆ)り起こされて、気がついたら、路上で朝を迎(むか)えていた。
「きみ、大丈夫(だいじようぶ)か」
サラリーマン風の中年の人が心配そうにのぞきこんでいた。考えてみれば、あぶない話だけれど、そのときも私の素性(すじよう)はバレなかった。
それが、この騒動があってからは、どこに行っても指をさされるようになった。私にしたら、まさに人生の大転換。自分から望(のぞ)んでいたわけではないけれど、この騒動で私の名前が売れたのは、まぎれもない事実。
芸能リポーターや週刊誌の記者の人たちとの付き合いも、初めてのことだった。かたくなに距離をおいていたころは、一方的に悪く言われるばかりだったけど、毎日のように追いかけまわされているうちに、私もだんだんと慣(な)れてきて、少しずつ話をするようになる。向こうもこちらの知らなかった一面に気づいてくれるようになり、お互いに理解しあえる。逆に仲よしになってしまった人もいる。
いま、雑誌のモデルばかりでなく、テレビ・ドラマやバラエティの仕事もするようになったし、大きなCMの仕事もくるようになったけど、それもこれも、彼との付き合いと、その後の騒動がなかったら、絶対にありえなかっただろう。
そう思うと、すごく不思議(ふしぎ)な気分になる。
雑誌のモデルは、あくまでもしゃべらないで表現する仕事。それが、しゃべるほうの現場からも声がかかるようになれば、表現方法にも幅が出る。私には苦手(にがて)の部分だけれど、その意味でも、私にとっては、人間として成長し、さらに飛躍するための大きなチャンスをもらったことになる。
弱 音
彼との五年間は、いまから思うと、まるで自分が自分でないような……空虚(くうきよ)な気持ちしか残っていない。五年間の最後のほうには、自分の身体(からだ)に針を刺(さ)してもなにも感じないような、すべての感覚が麻痺(まひ)したような状態になっていた。
ただ、彼から直接的に得たものがないわけではない。
それは、仕事に関して、彼の口から「疲れた」という言葉を聞いた記憶(きおく)が一度もないこと。私自身が芸能関係の仕事もするようになって、つくづくすごいなと思ったのは、彼は仕事上のことで絶対に弱音(よわね)を吐(は)かない。
こんな仕事、もういやんなっちゃった……なんて、平気で口にしていた自分が恥(は)ずかしい。
前の晩、どんなに遅く寝ようと、あるいは、どんなにきつい仕事が続こうと、次の日に早朝から仕事があれば、自分でさっと起きて、グチの一つも言わずに飛び出していく。終日ロケが続いても、絶対に文句(もんく)を言わない。不平もこぼさない。仕事に対する貪欲(どんよく)さはすごかった。
それで、ふと思い当たることがあった。
雑誌モデルの仕事は季節が逆、逆になっていて、夏物の服の撮影(さつえい)が真冬だったりすることがしょっちゅうある。体力的にもハードで、着ては脱ぎ、脱いでは着て、一日に八十着もの服を着たこともある。まだ二十歳(は た ち)くらいのときのことだったけど、朝九時からスタートして、終わったのは夜中の三時。
でも、全体を通してみると、そういうつらい思いをして、それこそ泣きながらやったような仕事ほど、いい仕上がりになっているし、内容が濃(こ)い。簡単に終わった仕事は、仕上がりも軽く、薄(うす)い。
仕事に取り組む姿勢は、必ず結果になってあらわれてくるものだということがよくわかった。
マネージャー
長嶋(ながしま)監督のコマーシャルで有名な警備会社の社員だったのをやめて、意気揚々(いきようよう)と芸能マネージメントの世界に飛び込んできて、人気タレントの担当になったのに、その半年後に担当させられたのが、この問題児だったとは。
その問題児にひきずられるようにして、スキャンダル騒動の中に放り込まれてしまったのだから、本人にしたら、とんでもない災難(さいなん)にあったようなもの。「こんなはずじゃなかった」とボヤきたくなる気持ちもよくわかる。
坂口(さかぐち)マネージャー、彼もそのころの私を支(ささ)えてくれた大事な一人。
最初に会った日、この人とずっと一緒に仕事をするようになるとは思っていなかったけれど、彼と同棲(どうせい)していること、彼の借金のこと、両親との関係……私は自分のことを洗いざらい打ち明けた。それも、ファミリーレストランの「デニーズ」で、えんえん三時間。「アンナ、激(げき)やせ」とかで、リポーターや記者に追いかけられていたころのことである。
マネージャーというのは、プライバシーも含(ふく)めて、担当するタレントのすべてを把握(はあく)していないとやっていけない。糸の切れた凧(たこ)のように、どこでなにを起こすかわからないような私の場合、とくにそう。
いまでも、このマネージャーだけには、なんでも話しておく。このときも、すでに社会人を経験してきた人だし、私より五歳年上。私が全面的に信頼(しんらい)を寄(よ)せるようになるまでには、それほど時間はかからなかった。
このマネージャーも、彼を 快 (こころよ)く思っていない一人。
父なんか、まだ先入観で見ているところがあったけど、坂口マネージャーの場合、私が現場に泣きながら来るとか、せっかく仕事を入れているのに、ギャラがことごとく彼の借金の穴埋(あなう)めに使われるとか、そういうことにじかに接している。モデル、タレントをもりたてるのが仕事のマネージャーとしては、それこそ目の上のたんこぶ。
彼との別れをもっとも喜んでいたのは、坂口マネージャーだったといえる。でも、けっして私のために喜んでくれたんじゃない。そんな甘(あま)い人ではない。父の場合、情緒的(じようちよてき)な部分が強いけど、マネージャーの場合は、仕事に直接からんでくるから、そのあたりはとてもシビア。
あのやっかいな騒動の中、私のワイドショー出演から、週刊誌の取材から、それこそなにからなにまで仕切っていた坂口マネージャーは、マスコミ関係者からはとても好意的な評価をされている。
かれこれ八年の付き合いになる。大げんかをして、一ヵ月近く口をきかないこともあるけれど、いまでは、この人なしでの仕事は考えられない。
そのかわり、これほど厳(きび)しいマネージャーも、ほかにいないのではないかと思う。私をほめてくれたことがない。お世辞(せじ)やおべんちゃらを言わない。相手を気づかうような嘘(うそ)も言わない。私が泣いていても、その傷口に塩を塗(ぬ)るようなことを平気で言う。
私がめそめそしていると、なぐさめるどころか、「そんなやつを選んだあんたが悪いんじゃないか」。私生活のことにまでずけずけと口を出す。
このマネージャーは,タレントをおだてたり、なだめたり、すかしたりして仕事をさせるようなことはしない。あくまでも、プロとしての自覚を要求する。
だから、恋人には絶対にしたくないタイプだけれど、私はこのマネージャーがだれよりも信頼できる。
私は、ほめてくれる人をあまり信用しない。とくに、できが悪かったと思っているときに、ほめ言葉のようなことを言われると、よけいに不信感をもってしまう。なぐさめてくれようとする気持ちはありがたいけど、信頼感は薄(うす)れていく。
私生活への干渉(かんしよう)も、体調が悪ければ仕事にさしつかえるわけだから当たり前だと思っている。もっとも、マネージャーだから許(ゆる)されることだけれども。
「あのときのあの態度は、よくないと思う。これからは、ああいう発言はしないでください」
「私、そんなつもりで言ったんじゃないけど」
「それはぼくにもわかる。でも、人はそうはとってくれませんから」
人生の先輩(せんぱい)から、こんなふうに、社会常識的なことをもう一度、教えてもらったりする。
これまでいろいろな芸能人のマネージャーさんを見てきたけど、私は本当にすばらしいマネージャーに出会えたと思う。
二回目の危機
ほかのあひるたちは、飼いならされた家畜(かちく)の立場に満足していたけれど、つまはじきにされたみにくいあひるの子は、そんな現状にあきたらず、外の世界に飛び出していく。そして、いろいろな試練(しれん)の末、やっと本当の仲間である白鳥の群(む)れに戻(もど)ってくる。
わが家にも、やっと、もとの家族らしい会話が戻った。
そのあと、急にはふんぎりがつけられず、多少の揺(ゆ)り返しもあったけれど、最終的には、二〇〇〇年七月、名実(めいじつ)ともに両親のもとに戻ることになった。二十一歳で家を出てから、七年ぶりの里帰りということになる。
もとの家には私の部屋はないから、完全な同居(どうきよ)というわけではない。偶然(ぐうぜん)、両親のマンションの部屋の隣(となり)が引っ越したので、私がそこに移り住んだというわけ。
小学校一年生のとき、そのマンションに引っ越して以来、その部屋に住むのが私の希望だった。いつか独立することになっても、あまり遠くに離ればなれになってしまうのは寂(さび)しい。よく、スープが冷(さ)めない距離というけど、これほどいい場所はないと思っていた。
「今度、お隣さんが引っ越すことになったの」
五年間の同棲(どうせい)生活にピリオドを打ったあと、二年間、目黒区のマンションで独(ひと)り暮(ぐ)らしをしていたけれど、母からその話を聞いたときは、私は迷(まよ)うことなく飛びついた。
家を離れても、両親とは頻繁(ひんぱん)に会っていた。でも、一緒にごはんを食べていても、家族らしい会話はほとんどなかった。昔(むかし)は、うれしいこと、楽しいことをあんなに語り合ったのに、私の口から出るのは泣きごとばかり。彼の前では口にできないグチを、両親にぶつけていただけ。
両親もそんな話にはあきあきしているから、
「だからやめとけと言ったじゃないか」
当たり前だけど、相談にのるという態度ではない。私が、口は開けていても、耳をふさいでいたのだから、お話にならない。とくに母は、楽しいことが大好き、悲しい話、苦しい話、とりわけ泣きごとが大嫌(だいきら)いなたちで、一刀両断(いつとうりようだん)、
「そんなにピーピー泣くんなら、やめちゃえばいいでしょ!」
たしかにやめるのは簡単。でも、やめたら自分の負けを認めたことになると、井の中のカワズは精いっぱい突っぱっていた。
中学卒業を前にして、私が高校には進まないと宣言したときを第一回目とすると、このころは、わが家における二回目のファミリー崩壊(ほうかい)の危機。
愛情の問題、男と女の問題について、両親とお互いに耳を傾(かたむ)け合い、真剣に話し合うようになったのは、彼と別れたあと。二十一歳から二十六歳という、もっとも必要な時期に、私はもっとも身近な相談相手を見失(みうしな)っていた。自分から殻(から)を閉ざしていた。
この五年間は、父にしてみたら、「する必要のない経験だった」ということになるけれど、いまさらそんなことを言ってもしようがない。もうあんなことは二度とないだろう。それだけでも、私には大切な体験。
真の自立
「おれ、アンナのことがわからなくなっちゃったんだ。ヒロコ、どう思う?」
最近、親友のヒロコの口から意外な事実を聞かされた。
私が彼と同棲(どうせい)をはじめたあとのこと、突然、私の父から彼女のところに、そんな電話があったという。いくらかお酒が入っていたようだけど。
「どう思うって、私に聞かれたって困りますよ」
「どうしたらいいか、わからないんだ。なにかヒントでもないかな……」
話しているうちに、父は泣き出してしまったという。
それほど私のことを……でも、こんなの、少しも父らしくない。父をそんなふうにしちゃったのは、私のせいなんだ。
あるとき、こんなことがあった。
「アンナ、今日は一緒に晩ごはんを食べにいこう」
「うん、パパ、わかった」
朝、そういう約束をして出かけたのに、途中で別の用事が入ってしまったので、父に食事に行けなくなったと電話を入れた。そのときは少し怒(おこ)っていたようだけど、
「そうか、わかった。で、お土産(みやげ)はなにがいい」
「じゃあ、お寿司(すし)をお願い」
夕方、帰宅したときには、両親はまだ外出から帰っていなかった。しばらく待っていたけど、おなかがすいてがまんできなくなったので、冷蔵庫にあるもので適当にすませてしまった。父にお寿司を予約していたことを忘れたわけではなかったけど。
両親が帰宅したとき、私はテレビを見ながらくつろいでいた。
「ほら、買ってきてやったぞ。おなかすいただろう」
「さっき食べちゃったからいい。だって、あんまりおなかがすいちゃったんだもん」
寝っころがったまま、ほとんど見向きもしなかった。その直後、顔のあたりになにかが猛烈(もうれつ)な勢いで飛んできて、床(ゆか)の上ではじけた。見れば、なんとトロ。バラバラになったシャリも。次はウニ、エビ、アナゴ……次々にお寿司が飛んでくるではないか。
あわてて飛び起きたら、真っ赤に怒った父の顔。
「ばかやろう。人に頼(たの)んでおいて、その態度はなんだ!」
お寿司を折りから一つずつつかみ出しては、私に向かってぶつけていたのだ。まさに“仁義(じんぎ)なき戦い”。すっかり震(ふる)えあがってしまった。
やっぱ、うちのパパはこうでなくちゃあ。
もう一つ、これは母から聞いたことだけれど、私が彼との別れを決意し、父に「帰っても、うちに私の部屋はないよね」とさぐりを入れたとき、私には「おまえの部屋なんかない」と言ったけど、父親の勘(かん)とでもいうか、これはいつもと違うと感じたらしくて、その電話の二日ぐらいあと、母にこう言ったという。
「おい、ママの服、すぐに全部捨てろ」
改造して母の衣装(いしよう)部屋になっていた私の部屋を、もとに戻(もど)せというわけ。
オヤジの直感って、すごいなあ。
私の持ち物も、出ていったときよりずっと多くなっていたから、またもとの部屋に戻るのは、自分でも無理だと思っていた。そのときは、荷物はどこかに預(あず)けるとして、次の部屋が見つかるまで、一ヵ月ほどいさせてもらえたらありがたいのにな、という気持ちだった。
だから、その話を聞いたときには、すごく感動し、感激した。私のことを、そんなに心配してくれていたなんて。それにひきかえ、私はなんて親不孝だったんだろう。
母の「いやよ!」の一言で、その話は消えちゃったそうだけど。母のほうも“仁義なき戦い”。
家を離れていた七年間は、親もとから自立しているようで、実際はべったりだったのではないかと思う。離れていたのは身体(からだ)だけ。自分の耳はふさいだまま、親に泣きごとばかりぶつけていたのだから。それを突っぱねるようで、本当はちゃんと受けとめてくれていたんだ。
私は、これまで生きてきた中で、いまほど両親の話を素直(すなお)な気持ちで聞けるときはなかった。少し遠まわりはしたけど、いまこそ、本当の意味での自立のときを迎(むか)えているような気がする。
去年のクリスマスの日、両親からクリスマスカードが届いた。
「アンナへ
一番の親孝行は、おまえがいつも笑っていることです。
パパとママより」
各章冒頭の文章は『みにくい あひるの子』(山内清子訳・偕成社刊)より引用しました。
[著者略歴]梅宮(うめみや)アンナ
一九七二年八月二十日、俳優の梅宮辰夫とアメリカ人のヴィクトリア・クラウディアの一人娘として、東京都渋谷区に生まれる。川村小・中学校を経て、東横学園大倉山高校に入学。
高校を卒業後、スカウトされて、ファッション雑誌『JJ』で本格的にモデルとしてデビュー、同誌上において、私物を公開するなど、新しいモデルのスタイルを切り開き、若い女性のファッションリーダー的存在となる。
現在は、資生堂、コカ・コーラなどのCM、ファッション誌、テレビ番組などでモデル、タレントとして活躍中。
本書は、二〇〇一年三月に、小社より刊行されたものです。
写真は、一部割愛いたしました。 「みにくいあひるの子」だった私(わたし)
電子文庫パブリ版
梅宮(うめみや)アンナ 著
(C) Anna Umemiya 2001
二〇〇一年六月八日発行(デコ)
発行者 畑野文夫
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
e-mail: paburi@kodansha.co.jp
製 作 大日本印刷株式会社
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