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カムナビ(下)
梅原克文
目 次
第二部 降 臨
一の巻 覚 醒
二の巻 接 近
三の巻 再 会
四の巻 熱田祭
五の巻 鳴 動
六の巻 三輪山
七の巻 蛇 神
八の巻 真 相
九の巻 カムナビ
十の巻 終 息
[#改ページ]
第二部 降 臨
一の巻 覚 醒
もしも宇宙空間の一点にカメラを固定して、それ≠ェ眼前を通り過ぎる瞬間を捉《とら》えようとしても、非常に難しいだろう。
スピードが速すぎるからだ。
実に秒速一六キロ。地球の大気圏内では、まず不可能な速度だ。だから、超高速度撮影でも、フィルムの一コマに、ぶれた影のようなものが映るだけだろう。
だが、この秒速一六キロというハイスピードは、どうしても必要だったのだ。最終的には太陽系を脱出する予定であり、その外も調査対象としているからだ。
思えば永い旅路だった。
出発したのは、一九七七年九月。彼らはアメリカのフロリダ半島から打ち上げられた双子の兄弟だった。
二年後の七九年、兄弟は共に木星に到達した。
木星は赤茶色の巨球だった。アンモニアの結晶が雲となって巨大な渦巻きを成し、刻々と形を変えていた。木星の衛星イオが表面からガスの噴流を上げて、兄弟に祝砲を撃ってくれた。
この時、兄弟は木星の重力に引かれて、コースが変わった。もちろん、それは計算どおりだった。
同時に木星の巨大な重力によって、兄弟は加速していった。木星に重力カタパルト≠ノなってもらったのだ。このスウィング・バイ航行によって、秒速一六キロという超高速が達成された。
次の目的地は土星だった。
八〇年と八一年、兄弟は相次いで土星に到達した。これも赤茶色の巨球だった。違うのは、何重ものリングが赤道を取り巻いており、縞模様《しまもよう》の帽子をかぶったような姿を披露していることだ。太陽系内でもっともファッショナブルな星だ。
ここで事故が起こった。
兄弟のうち兄≠ェ土星の重力をうまく利用できなかったのだ。そのため、あさっての方向へと漂流を始めてしまった。
残念ながら、兄≠助ける術《すべ》はなかった。猛スピードで漂流していった双子の片割れは、その後、太陽系の黄道面を離れて、宇宙空間の深淵《しんえん》へと向かい、行方不明となった。
だが、弟≠ヘ、兄≠失った悲しみに拘泥することはなかった。黙々と次の目的地、天王星に向かったのだ。
八六年、弟≠ヘ天王星に到達した。それは極細のリングを持った星だった。土星の雄大なリングに比べたら、ほんの申し訳ぐらいの代物だ。
また、今までの惑星は赤茶色だったのに対し、天王星はきれいなブルーだった。これは上層の大気がメタンを含んでいるため、メタンが赤色光を吸収してしまい、ブルーの光しか残らないという事情によるものだ。
そして天王星にも別れを告げて三年後、八九年に、海王星に到達した。
この星も、きれいなブルーだった。また、以前から予測されていた通り、極細のリングを持った星でもあった。その素材は一ミクロンぐらいの微粒子だ。
海王星の衛星トリトンのそばも通過した。その写真を撮り、各種の機器によって、大気圧や温度なども測定した。
出発してから、実に四五億キロもの超長距離の旅だった。それを、わずか十二年で走破したのである。
だが、旅路はまだまだ終わらないのだ。
次は太陽系の外が調査対象だ。そこにも未知の何かがあるらしいからだ。
現在の科学者たちは、我々の太陽系の周縁部について、こう予測している。
我々の太陽系は、希薄なガス状の星間物質の中に閉じこめられている。これは、すでに観測済みである。ということは、太陽系の周縁部には内と外とを隔てる境界面があるのではないか、と予測できる。科学者たちは、その境界面をヘリオポーズと名付けたのだ。
だから、弟≠フ次の役割は、太陽系の内と外とを隔てる境界面、ヘリオポーズを見つけることと、そこにある星間物質を計測することなのだ。
弟≠ヘ二酸化プルトニウム燃料の原子力電池を搭載している。だから、西暦二〇一五年辺りまでは機能して、観測データを送れるはずだった。
だが、今、弟≠ヘ予定にない画像を撮影したところだった。真っ白な露光オーバーのような画像だ。
これはありえない現象だった。
太陽から遠ざかれば遠ざかるほど、その空間は暗くなるのが当たり前だ。たとえば海王星の写真を撮る時などは、シャッターを長時間、開けっ放しにしなければならなかったぐらいだった。
ましてや、この付近は太陽系の最外縁だ。海王星の軌道よりも、さらに暗い宙域のはずだった。
だが、今、弟≠ヘ非常識な強い光を検出したのだ。
それ以外のデータも変だった。分光計が、多量の赤外線を検出していた。結像偏光計、低エネルギー荷電粒子測定器、プラズマ測定器も異常な数値を検出した。
もうすぐ太陽系周縁の内外を隔てる境界面、ヘリオポーズに接近するという、歴史的な瞬間なのである。なのに、ことごとく予想外のデータが飛び込んできたのだ。
今、NASA(アメリカ航空宇宙局)の探査機「ボイジャー2号」は一九七七年に地球を離れて以来、もっとも予定外の任務を果たしていた。計測したデータの数々は、直径三・七メートルのパラボラアンテナによって、地球に送信した。
再び地上≠ニ接触≠ェとれた。
長い長い待機だったような気もするし、ほんの一瞬のことだったような気もする。
だが、どちらだろうと大して違いはない。時間の尺度など便宜的なものだ。
寿命もなく、死もない存在にとっては、時間の単位そのものが無意味だ。
いくら待たされたところで苛立《いらだ》ったりはしない。
元々そんな感情など無縁だった。
接触がなければ、ただ待ち続けるだけなのだから。
だが、今回の接触は強かった。地上との間に太い柱が突き立ったようだ。
これほど強い接触が復活したのは、久しくなかったことだ。時間の尺度など無縁な存在にとっても、それは認識できた。
祝砲の一つも撃つべきだろう。
ただちに、その身体≠動かした。
その夜、長野県南部を猛暑が襲った。
その猛暑は、最初は風をほとんど伴っていなかった。まるで一帯の空気そのものが炭火と化したかのように、じわじわと気温が上がっていったのだ。それは皮膚を通して、細胞の一個一個にまで浸透してくる遠赤外線のような暑さだった。
本来なら、夜中から夜明けにかけては、気温が下がり続けるはずである。だが、この日の気温低下は午前一時が最後となった。後は気温が上昇する一方だった。
温度差さえ無視するなら、それは原子炉のメルトダウンに似た感じだった。どこかにとてつもない熱源が存在し、それの一部が破れて、膨大な熱が溢《あふ》れ出しているようだ。
山々では、夜行性ではないカワセミやオオヨシキリなどの小鳥も目を覚まし、鳴き声を立てた。フクロウやミミズクなどの夜行性の鳥も突然の暑さにとまどい、ノネズミなどの獲物を追うのを一時中断したほどだ。
それゆえカジカガエルもより鳴き声を高めた。低気圧に反応したのだ。
気温の上昇は、次々に様々な影響を引き起こしていた。まず空気の膨張をもたらした。次に膨張した空気は軽くなり、上昇気流が発生する。そして地上の空気が上昇した分、その付近は空気密度が薄くなり、低気圧になるのだ。
それゆえカジカガエルたちは、気圧の変化に敏感に反応し、ボリュームを上げだしたのだ。いわゆる「カエルが鳴くと雨が降る」という現象だ。
森林地帯では、葉っぱの葉脈が開きだした。植物群は盛んに水分の蒸発を始めて、気温上昇に歯止めをかけようとした。都会では望めない温度調節機構だ。
だが、その猛暑はそれすらも、はねのけるほどの熱量をもたらしていた。また、水分の蒸発によって冷えた空気は、一帯に発生した上昇気流によってすぐに上空へ運ばれてしまい、結果的には温度調節の役には立たなかった。
息苦しい熱帯夜になり、付近の多くの住民がうなされた。誰もがシーツを寝汗で濡《ぬ》らし、一度は目を覚ましていた。水や冷蔵庫のジュース類を飲み干し、エアコンの電源を入れた者も多かった。とりあえず、それで眠れた者は幸せと言えた。
気象病≠患う人々は、そうはいかなかった。リューマチ、神経痛の老人たちや、骨折患者などだ。彼らは気圧の急低下によって、ずきずきするような苦痛を味わい、一晩中|呻吟《しんぎん》する羽目になったのだ。
徐々に風が吹き出した。陸地のど真ん中で突然、低気圧が発生したため、周囲の湿った空気がなだれ込んだのだ。
また岐阜県南部や、愛知県北部、静岡県北部からも風は発生していた。風は、異常な気温上昇の中心地である神坂峠《みさかとうげ》を目指して吹き始めた。
当然の結果として、それらの異常は次々に周辺のロボット気象計に感知されていった。天気予報のテレビ番組でおなじみのアメダスだ。
そのアメダス・ボックスは、神坂峠から東に六キロほど離れた、国道二五六号線沿いに設置されていた。
外見は、日本全国に約一三〇〇ヶ所も設置されている同類たちと何の違いもなかった。プロペラ飛行機型の風向風速計、太陽電池による日照時間計測器、温度計、雨量計測器、コンピュータ、モデムなどだ。風向風速計以外の計測器は、鍵《かぎ》のかかったボックスに収められている。
今、そのアメダス内部では白金抵抗式温度計が興奮状態に陥っていた。これは金属内部を流れる電気量が温度によって変化することを利用した計測機器だ。表示板のデジタル数値が目まぐるしく点滅して、二〇℃から三〇℃へと駆け上がっていた。
風向風速計もプロペラを忙しく回転させ始め、夜間においては異例の風を記録していた。今、ロボット気象計が記録しているのは、夜間には滅多にない「海風」だった。
通常、夜は「陸風」といって陸から海に向かって風が吹くのだ。陸地は夜になると放射冷却で気温が下がってしまう。一方、海上は昼間の気温を保ちやすいので、海側で上昇気流が発生し、陸地から風を吸い寄せることになるのだ。
だが、これは海から陸に吹き込む「海風」だった。よそから低気圧が移動してこない限り、気象学の常識ではありえない風だ。
ロボット気象計の周辺には、高さ三〇メートルのアスナロの木が一群を成しており、やはり風で枝葉をざわめかせていた。アスファルト道路上では細かい土埃《つちぼこり》が舞い狂っていた。
(葦原志津夫《あしはらしずお》の研究ノートより、抜粋)
邪馬台国《やまたいこく》。
それは三世紀の大和盆地にあったのだ。
つまり奈良県|桜井《さくらい》市の纏向《まきむく》遺跡であろう。ここが「女王の都するところ」であろう。
となると、奈良県桜井市にある有名な箸墓《はしはか》古墳の重要性も再浮上してきた。畿内派論者から「女王ヒミコと女王トヨの墓ではないか」と言われてきた前方後円墳だ。
全長二七五メートル、後円部直径一五〇メートル、推定体積は三七万立方メートル。
この箸墓古墳の築造には一七〇万人もの人手が必要だった、と計算されている。現在の奈良県の総人口より三〇万人も多い人数だ。
倭人伝《わじんでん》にはヒミコの墓は「径百余歩」と記されている。これは「直径一五〇メートル」と換算できる。この数値は、箸墓古墳の後円部直径と一致するのだ。
また、最新の年代基準で考えても、箸墓古墳の築造は三世紀半ばとなる。築造年代も、ヒミコの墓として一致するのだ。
だが、箸墓古墳を発掘調査できる機会は永遠にないかもしれない。宮内庁が、箸墓古墳を第七代|孝霊《こうれい》天皇オホヤマトネコヒコの皇女ヤマトトトヒモモソヒメの陵墓に指定しているからだ。
したがって我々は箸墓古墳を眺めることしかできない。よだれを垂らしつつ。
もう一度、結論をまとめよう。
三世紀・邪馬台国と、四世紀・大和王朝は同じ奈良県にあった。だが、両者は別勢力であり、ストレートに連続してはいなかった。大和王朝は邪馬台国の後継政権と言うべき王朝であり、前王朝を踏襲してはいるが、何から何まで同じというわけではないのだ。
その証拠が「鏡文化」と「非・鏡文化」の違いである。
また、「大嘗祭《だいじようさい》の謎」も、これを手がかりに解けると思われる。
大嘗祭とは、天皇の皇位継承の儀礼である。この儀礼では、東に悠紀殿《ゆきでん》、西に主基殿《すきでん》という仮設の建物を配置する。そして新しく天皇に即位する者は、双方の建物でまったく同じ儀式を二度、行う。
これは、海外にも類例のない不可思議な即位式である。
なぜ、新天皇はまったく同じ儀式を二つの建物で、二度繰り返すのか? 常識的に考えるかぎり意味不明の儀式である。
これは昔から「大嘗祭の謎」とされてきたものだ。だが、宮内庁もこれについて説明はしていない。
もちろん「大嘗祭の謎」については、様々な仮説が出ている。中国から輸入された陰陽五行説の影響だとか、そういった考え方だ。しかし、納得のいく説明は、まだないように思える。
筆者の仮説は、こうだ。
大嘗祭とは、過去に二人の支配者が並立していたことを反映している儀式ではないか。
たとえば、かつては祭礼担当の巫女王《ふじよおう》と、実務担当の国王の二人が並立していた証拠かもしれない。だから、儀式用の建物も二つ必要だった。
つまり、元々は前王朝・邪馬台国の儀式だったのだ。
魏志《ぎし》倭人伝には、こうある。
(卑弥呼《ひみこ》は)年はすでに長大なるも、夫婿《ふせい》なく、男弟あり、たすけて国を治む
祭礼担当の巫女王と、実務担当の国王の二人が並立していたことを、うかがわせる一節である。
だが、邪馬台国が倒れた後、大和王朝は、大嘗祭を新天皇の即位式として受け継いだわけだ。それからは、天皇は実務と祭礼の支配権を一人で兼任する形になった。
つまり、本来は二人用≠フ儀式だったものを、一人用≠ノアレンジしてしまったわけだ。だから、大嘗祭では、新天皇が一人で同じ儀式をわざわざ二度繰り返すという不自然な構成になってしまったのではないか。
疑問は、まだ山のようにある。
なぜ、大和王朝は徹底的に「前王朝・邪馬台国」を文献資料から抹殺したのか?
なぜ、そこまでして邪馬台国の存在そのものを隠さねばならなかったのか?
残念ながら、その点はまだ完全には解明できないでいる。
実は、この論考ノートは、今の考古学学会や民俗学学会には到底、提出できないような内容に踏み込むものである。
しかし、様々な角度から、邪馬台国の謎に迫っていけば、真相は見えてくるのではないだろうか?
謎の一つは、魏志倭人伝の記述の不可解さだ。
倭人伝の記述のとおりに邪馬台国の位置を計算すると、日本列島の実状とまったく合わなくなってくるからだ。
たとえば倭人伝に出てくる末盧国《まつらこく》は、今の佐賀県の東|松浦《まつら》半島だと推定できる。
同様に伊都国《いとこく》は、今の福岡県の糸島半島だと推定できる。
(弥生時代の国名の発音が、現在も地名の中に残っているのは感慨深い)
ところが、伊都国から先は、日本列島の形を無視しているとしか思えない、ファンタスティックな記述になっていくのだ。
東南、奴国《なこく》に至る百里。東行、不弥国《ふみこく》に至る百里。南、投馬国《とまこく》に至る、水行二十日。南、邪馬台国に至る。女王の都するところ。水行十日、陸行一月
倭人伝の、この記述通りに日本地図を書くと「南北方向に細長く伸びた日本列島」が出来上がってしまうのだ。
おまけに、こんな記述まである。
その道里を計るに、(邪馬台国は)まさに会《かい》稽けい郡東冶県(福建省福州)の東方にある
つまり「邪馬台国は台湾と同緯度にあり、東シナ海にある」という意味の記述だ。
倭人伝の編纂《へんさん》者、陳寿《ちんじゆ》は、やはり「南北方向に細長く伸びた日本列島」をイメージしていたのだ。
なぜ、こんな勘違いが生まれたのか?
倭人伝には、こういう一節がある。
倭の地は温暖で、冬も夏も生野菜を食す。皆、徒跣《とせん》
「日本は温暖で、冬も夏も生野菜が食べられる。人々は裸足《はだし》である」
また倭人伝には、こういう記述もある。
(倭人の男子の)衣は横幅、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし。婦人は、衣を作ること単被のごとく、その中央を穿《うが》ち、頭を貫きて、これを着る
「倭人の男子の衣服は横幅の広い布を身体に巻きつけ、しばるだけで縫い合わせはしない。女子の衣服は単衣のような物の真ん中に穴をあけ、頭を通して着るぐらいである」
この記述は、日本史の教科書にも必ず書かれているものだ。
だが、常識のある人間なら少し考えれば、この記述は信じられないと思うはずだ。
この記述が正しければ、「三世紀の日本列島は冬に雪も降らないほど暖かかった」ということになる!
何しろ「気候は温暖。冬でも生野菜が食べられる。人々は裸足で歩く。衣服は腰布や貫頭衣といった一枚布の薄着だった」というのだから。
まるで、日本が亜熱帯の国であるかのように描写されているのだ!
そんなことがありうるのか?
山口大学の山本武夫名誉教授は、「女王ヒミコの時代、三世紀は、冬に相当する小氷河期の中でも最大の小氷河期であった」と述べており、当然、倭人伝のこの記述を疑問視している。
それに、たとえ小氷河期ではなかったとしても、「冬に雪も降らないほど暖かい日本列島」など想像もできない。
日本中で雪が降らないところといえば沖縄県しかない。そのため「邪馬台国=琉球説」が出たほどだ。しかし、琉球説は琉球列島の面積の狭さ、人口の少なさ、遺跡の数の少なさなどから見て、可能性はゼロだ。
面積、人口、古墳の数、古墳の規模などの諸条件が当てはまるのは、やはり九州か近畿といったところなのだ。
要するに、どう考えても倭人伝の記述は不可解なのだ!
「気候は温暖。冬でも生野菜が食べられる。人々は裸足で歩く。衣服は腰布や貫頭衣といった一枚布の薄着だった」
繰り返すが、三世紀は地球全体が小氷河期だったのだ。
本来なら、魏志倭人伝は当時の日本列島がいかに寒々とした気候だったか、を記述しなければならないのだ。
では、倭人伝の内容はウソなのか?
しかし、倭人伝の記事がいいかげんな伝聞情報ではなく、事実であることが、はっきりする日がやってきた。
まず佐賀県、|吉野ケ里《よしのがり》遺跡の出土だ。
そこから倭人伝に記述された通りの楼観(物見やぐら)と城《じよう》柵さくの跡が出現したのだ。
倭人伝には、こうある。
宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す
従来、楼観の柱穴の跡は日本列島のどこにも見あたらなかった。それゆえ「倭人伝の虚構だ」と学者たちは疑っていたのだ。
作家の松本清張氏も「邪馬台国・清張通史1」という本で、「弥生時代の日本に楼観などはなかった」と主張した。
だが、楼観と城柵の跡は出土したのだ!
六個の柱穴を調べた建築学者は「高さ一〇メートル以上の木造建築物が建っていた」と判定した。実在が証明されたのだ。
現在では、復原された物見やぐらが、佐賀県の観光の目玉になっている。
もちろん楼観は奈良県にもあった。
奈良県の唐古《からこ》・鍵《かぎ》遺跡から出土した壺形《つぼがた》土器の破片には、三層の楼観が描かれていたのだ。屋根の上と軒先に中国風の渦巻き飾りがついた建物の絵である。
この楼観も現在、復元されている。
宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す
倭人伝には、こうある。
正始元年(西暦二四〇年)、帯方郡(今のソウルの北方)の役人、梯儁《ていしゆん》を遣わし、詔書・印綬《いんじゆ》を奉じて、倭国に詣《まい》り、倭王に拝仮し……
倭王とは、もちろん「親魏倭王《しんぎわおう》」の金印を魏から受けた女王ヒミコだ。
梯儁は奈良県に行って、倭王ヒミコに会い、金印を渡したのだ。
これは事実だったのだ。梯儁は日本に上陸し、九州から大和盆地までを旅して、「宮室や楼観や城柵があり、兵が守る倭国」を目撃したのだ。そして帰国後、その事実を報告した。
倭人伝は、やはり実際に見聞したドキュメンタリーだったのだ。
だが、同時にこの事実は、とんでもない結論を引き出してしまうのだ。
「邪馬台国は亜熱帯気候だった」という数々の記述も、梯儁などが実際に見聞した事実だった、という結論だ。
もし、そうだったとしたら?
その原因は、何なのか?
おそらく、局部的な異常気象だろう。三世紀は地球全体が小氷河期だったのに、日本列島だけは亜熱帯なみに暖かい、という異様な状態だったのではないか?
残念ながら、この超異常気象は、現在の科学ではまだ説明不可能なものらしい。
倭人伝の編纂者、陳寿は科学的な人物だったと思われる。何しろ当時の学者であり、『三国志』の編纂者なのだ。
陳寿は使者の報告書を読んで、「亜熱帯の国が、朝鮮半島のすぐ近くの緯度付近にあるわけがない」と考えたのだ。「使者たちが文章にする時に書き間違えた」と判断したのだ。
そこで陳寿は「東…水行…陸行」という使者たちの文章を、次々に「南…水行…陸行」と書き改めたのだ。
(実際には、それは「瀬戸内海を東に向かって水行し、大阪湾から上陸し、陸行で大和盆地の女王の都に至る」という記述だったのだろう)
さらに陳寿は、「邪馬台国が亜熱帯気候だった」という報告内容と、自分の距離と方角の計算とをつき合わせて、「邪馬台国は台湾と同緯度にある」と判断し、そう書いたのだ。
その道里を計るに、(邪馬台国は)まさに会稽郡東冶県(福建省福州)の東方にある
古代日本に存在した局部的な亜熱帯気候。
それが陳寿の科学的な判断を狂わせたのではないか?
かくて、後世の研究家を大混乱に陥らせた文書『倭人伝』が出来上がったのではないか?
もしかすると、これもカムナビの一種かもしれない。
すなわち広範囲のマイルドなカムナビ、神の火が、邪馬台国を覆っていたわけだ。
(追加)
筆者は、茨城県|新治《にいはり》郡で不思議な現象が起きたことを知った。
五月終わりの深夜一時に、アメダス(ロボット気象計)が突然、摂氏三九度を記録したというのだ。
摂氏三九度とは、まるで亜熱帯のような気温ではないか。
原因は不明のままだ。
もしかすると、あれもカムナビではなかったか?
あれは、古代日本において、しばしば発生していた亜熱帯気候の復活ではなかったか?
(以上、葦原志津夫の研究ノートより)
葦原志津夫が洞窟《どうくつ》から出て、最初に見たものは炎だった。
大がかりなキャンプファイヤーのようなありさまだ。一帯がイエローオレンジの光で満たされている。炎の眩《まぶ》しさに目を細めてしまった。
この登美彦《とびびこ》神社奥宮の出入口は、枯れ草の山で隠してあった。だが、それらが今、燃え上がっているのだ。
パチパチという、枯れ草がはぜる音がした。焦げた匂いが鼻をつく。つい煙を吸って、咳《せ》き込んでしまった。
当然、洞窟の出入口の左右両側から、炎の輻射熱《ふくしやねつ》を受けてしまう。体感温度が一気に上がり、全身が汗ばんできた。
志津夫は瞬《まばた》きしながら、周囲を見回していた。自分がどこにいるのか、何が起きているのか、認識できない。眠りから目覚めた直後に、しばしば起こる見当識障害だ。
やがて彼の視線が足元の地面を捉《とら》えた。その目が見開かれていく。
さっきまで地面は雑草だらけだった。それらが、きれいになくなっている。代わりに、地面は灰色の粉で覆われていた。
地面には不定形な半透明のガラスの塊が、いくつもあった。視線を走らせると、同じものが周辺に数え切れないほど散らばっている。いずれも何かが溶けて流れだし、固まりかけてガラス化したものだ。
中にはまだ液体の状態を保って、ゆっくり地面を這《は》っているものすらある。湯気を立てるアメーバといった感じだった。それらも急速に半透明化しつつあった。
その材料は、地面の小石だろう。石が溶けて流れ出し、ガラスに変質したのだ。
志津夫は、茨城県で刑事から聞いた話を思い出した。
『……理論的には、どんな物質でもガラスになるんだそうです。溶かしてから急激に冷やすと、固体でも液体でもない両者の中間状態になる。それがガラスの正体だそうです……』
思考が弾《はじ》けた。純度の高いブルーガラス。その製造温度は摂氏一二〇〇度。
志津夫は奇声をあげた。記憶が一気に蘇《よみがえ》った。ここがどこで、自分が何をしていたのか思い出したのだ。
慌てて、振り返る。
洞窟の奥に、例のブルーガラス土偶があった。直立した姿勢で、炎の照り返しを浴びている。
大きな目玉を、志津夫に向けていた。さっきまで、それは不気味な声≠発し、志津夫に呼びかけていたのだ。
だが、今は、土偶からは何も聞こえず、何も感じなかった。その土偶は、すでに志津夫に対する役目≠終えた、といった感じだ。沈黙している。
志津夫は今、完全に思い出した。自分が何をしたのかを。
どうやら志津夫の試みは、うまくいったらしい。つまり青い土偶に触れることで、身体のウロコ面積を増やすことだ。それによって、真希《まき》や祐美《ゆみ》のような超常能力を得ようと考えたのだ。
今この場の状況は、どう見ても高熱が発生したことを物語っていた。つまり、カムナビを呼んだらしいのだ。これが自分に備わった力≠ネのだろうか?
だが、志津夫自身には高熱を呼び、コントロールした覚えなどないのだ。
志津夫は心臓が跳ねまわりだすのを感じた。まるで釣り上げられたばかりの魚みたいに、胸郭の中で暴れだす。
右手を持ち上げ、手の甲を見た。意外にも、そこにはウロコはなかった。皮膚炎の跡のようになっているだけだ。
しかし、手の甲以外の部位に関しては、まだわからない。まず自分の全身を確認しなければならない。
すぐには行動に移れなかった。とっくに覚悟は決めたはずなのに、いざとなると躊躇《ちゆうちよ》してしまう、あのジレンマを味わった。
思い切って、ペールグリーンのサマージャケットを脱いだ。右手で左腕を覆う縦縞《たてじま》シャツの袖《そで》を手探りする。カフスボタンを外した。
何回か深呼吸する。気を静めたところで、左腕の袖をめくった。
志津夫の口から、呻《うめ》き声が漏れた。
自分の腕を振り回し、飛びのいてしまう。まるで、腕に汚物が付着しているかのような行動をとってしまった。
だが、それは離れなかった。当然だ。志津夫自身の皮膚なのだから。
先ほど見た真希の肌と、そっくりになっていた。小さな三角形のウロコが、前腕の半分以上を覆っていた。色はグリーンとレッドブラウンで、両者が重なり合い、おぞましい縞模様を描き出している。
さながら、自分の左肩から蛇が生えているような光景だった。慌てて、シャツの袖を元に戻す。正視に耐えなかった。
目眩《めまい》がした。全身に震えが走る。少し足元がふらついた。
真希の話では、医者たちも、このウロコには首をひねるだけで治せなかったという。その事実を、あらためて噛《か》みしめるしかなかった。もう元の身体には戻れないのだ。
夢なら覚めて欲しかった。自分は、とんでもないことをしでかしたのではないか。これから一生、後悔しながら生きることになるのではないか。
足音が聞こえてきた。
振り返ると、闇の彼方《かなた》に、炎とは別の光が現れた。ハンディライトだ。誰かがここまで登ってきたのだ。
その光は細い円錐形《えんすいけい》のスポットとなり、志津夫の顔を照らした。思わず彼は片手をバイザー代わりにして、目を光から守った。
ライトを持った相手が激しく息を吸い込むのが聞こえた。次いで女の叫び声がした。
「どうやって逃げ出したの!」
名椎《なづち》真希だった。小石を蹴飛《けと》ばしながら、接近してくる。
だが、彼女の足が止まった。ライトを足元に向ける。異変に気づいたのだ。
付近の石が片っ端から溶けて、ガラス化していた。誰かが多量の水弄《みずあめ》をばらまいていった跡のようだ。
真希は声も出ず、足元を見回していた。彼女の美貌《びぼう》がショックで歪《ゆが》んでいる。眉間《みけん》に深い縦じわが出来ていた。
真希の背後から、もう一人の人影が現れた。片手にハンディライト、片手に赤い消火器ボンベを持っている。荷物がある分、遅れたらしい。
登美彦神社の宮司、名椎|善男《よしお》だった。
彼は水玉模様のパジャマ姿だった。肩で息をしている。べっこう縁のメガネにも汗の玉が付いていた。六〇歳を過ぎているため、ここへ駆けつけるために体力を絞り尽くしたらしい。
「こ、これは……」
善男は見回しながら、呟《つぶや》いた。何度か咳き込み、息を整えた。
幸い枯れ草は、樹木から離れた位置で燃えていた。今のところ、燃え移りそうな気配はなかった。だが、山火事の危険が皆無というわけでもない。
善男は言った。
「明るいから、もしやと思ったが、やはり燃えとったか」
善男はハンディライトを地面に置き、消火器のホースと噴射レバーを握り、構えた。消火剤の泡を噴出させる。それを繰り返し、枯れ草の火を消しながら、移動していった。
真希は地面にしゃがみ込んでいた。溶けてガラス化した石を、仔細《しさい》に観察している。
真希は唖然《あぜん》と呟いた。
「まさか、カムナビ?……やっぱり、あの時だわ。空が光ったように思ったけど、あれは気のせいじゃなかったんだわ」
彼女は唇を噛むような表情になった。立ち上がる。地面が焼けているところを避けて、志津夫に迫ってきた。
真希は彼の胸ぐらをつかみ、激しく揺さぶった。
「縛り上げたのに、どうやって逃げ出したの? それに、ここで何があったの?」
志津夫は答えられなかった。まだ今の状況に思考が追いつかない。漫然と首を振るだけだ。
真希は舌打ちした。軽蔑《けいべつ》するような目になっている。
ふと彼女は、自分がつかんでいる志津夫の縦縞シャツを凝視した。正確には、その内側にあるものに着目したのだ。
真希は猛然と、志津夫のシャツのボタンを外し始めた。ボタンが一個ちぎれて飛んだ。シャツの前を開き、白い下着を露出する。そして下着を持ち上げ、彼の上半身にライトを当てた。
真希は呻いた。
志津夫も悲鳴をあげた。
善男も消火作業の手を休めて、叫んだ。
「何だ、それは!」
志津夫はまた奇声をあげて、飛びのいた。思わず自分の胸や腹にさわる。その異様な眺めと、触感に心底から震えた。
蛇のウロコへの嫌悪感は、理屈では説明できないものだった。遠い昔、人類の先祖が矮小《わいしよう》な哺乳類《ほにゆうるい》だった頃、恐竜に怯《おび》えながら暮らしていた時の名残かもしれない。
志津夫は慌てて下着を下ろした。ウロコが視界から消える。
「やっぱり……」
真希がそう言った。
志津夫が顔を上げると、真希が人差し指を突きつけてきた。彼女の瞳《ひとみ》が周辺の炎を反映し、燃えているようだった。
「あなたも、そうなったの……。しかも、カムナビが蘇ったんだわ。私にはまだ、それができないのに……。なぜ? なぜ、あなたが?」
だが、志津夫は首を振った。答えられる問いは、何一つなかった。逆に質問した。
「いったい、何が起きたんだ? ぼくにも何か妙な力≠ェついたのか? いや、それよりもだ……」
志津夫は、真希が突きつける人差し指を払いのけた。彼女の脇をすり抜ける。奮然と、名椎善男に詰め寄った。
老人は消火器ボンベを持ったまま、立ちすくんでいた。志津夫の怒気が伝わったらしく、身体が硬直している。いざとなれば消火剤の泡を目潰《めつぶ》しに使って逃げられるはずだが、それも思いつかないらしい。
志津夫は敬老精神を忘れ、善男の胸ぐらをつかんだ。力任せに引き寄せる。互いの鼻先がくっつきそうになった。
志津夫は叫んだ。
「なぜ、今までウソをついていたんです! それに、父さんはどこだ! 言え! 答えろ!」
……その日の午前二時。東京は天気予報のとおり快晴で、穏やかな夜を迎えていた。だが、夜空は大都会の照明光を反映して白っぽく、星はほとんど見えなかった。
赤レンガ造りのJR東京駅は、終電が出た後の静寂に包まれていた。近辺は丸の内や大手町などのオフィス街で、夜間は人口が限りなくゼロに近づく地域だった。鉄筋コンクリートに埋め尽くされた風景を、街灯の群れがスポットの列で照らし出している。
ビル群の窓はほとんどが暗かった。いくつか点灯している窓は、商社や証券会社の海外部門だ。たまに道路を行き交う車も長距離トラック便ばかりだった。
そのビルは、JR東京駅から徒歩二分ほどの線路沿いにあった。そこの五階の窓にも灯があった。
NTTデータ大手町ビル。地域気象観測センター、通称アメダスセンターだ。
ここが、日本全国に一三〇〇ヶ所もあるアメダスからのデータを集信・配信する場所だった。当番者は三人一班・三直四交代制で、二四時間、システムの監視と運用に当たっている。
ちなみに日本国内では、雨量観測だけのロボット気象計が一七キロ四方に一ヶ所の割合で設置されている。気温、風向風速、日照時間も合わせて観測するロボット気象計だと二一キロ四方に一ヶ所の割合で設置してある。
これだけ、きめ細かい気象観測網を持つ国は世界で唯一、日本だけである。逆に言うと、日本は地形が複雑で、いつどこでイレギュラーな気象変化が起きるか、まったくわからない国土なのだ。そんな国で気象予報をしなければならないがゆえに産まれたのが、アメダスだった。
アメダスセンターでは、午前二時〇〇分にシステムがいつもどおり稼動し始めていた。毎時〇〇分に、一日二四回行われる作業だ。
コンピュータ・ディスプレイ画面に「アメダスデータ集信開始」のメッセージが自動的に表示された。中継器となるGDC、CCUなどのサブ・コンピュータのパネル上にあるオレンジ色のランプ数百個が、一斉に点滅を始める。全国約一三〇〇ヶ所にあるロボット気象計から観測データの大群が、押し寄せている光景だ。
メイン・コンピュータの自動集信が終わるまで、約七分かかる。その間、当番者たちはVDT画面を見守り続けた。
アメダスはNTTの一般電話回線を利用している。そのため大量のデータを一度に集信する時に回線が混雑し、一部のデータが届かないことも起こるのだ。それをチェックし、必要なら復旧作業をするのが当番者たちの役割だ。
やがて滞りなく、すべてのデータがそろった。そこでメイン・コンピュータはデータに「文字化け」などがないかをチェックする。いつもどおり、すべて正常だった。
VDT画面には簡略化された日本地図が表示された。画面の上端には日付けの表示。右端には[CLEAR][RAIN][WIND][TEMP][SUN]などのパラメータ表示が出た。
当番者たちは画面を見て、うなずいた。後はこのデータを配信するだけだ。配信先は気象庁、全国の気象台、一部の測候所、NHKなどの報道機関や民間気象会社などだ。
配信は一日二四回、毎時二〇分に行われる。時計を見ると午前一時一三分。あと七分もあった。
当番者の一人があくびした。痩《や》せていて、銀縁メガネをかけた二〇代後半の男だ。
彼は退屈しのぎに端末のキーボードを叩《たた》いた。パラメータの中の[TEMP]を指定する。
画面に、等温線が表示された。等温線とは温度が同じ場所をつないだもので、見た目は天気図の等圧線そっくりだ。これはコンピュータが自動的に描き出した図だった。
別の当番者が喋《しやべ》りだした。こちらは丸顔で三〇歳前後の男だった。メガネはかけていない。
「……で、話の続きだけどさ。まいったよ。ひでえ女だった。ウンともスンとも言わないんだ。ロウ人形を抱いているようなもんでさ。まったくもう……。おい?……どうしたんだ?」
丸顔≠ェ不審な顔で訊《き》いた。
その日も、いつもどおりの業務のはずだった。だが、そうならなかった。
銀縁メガネ≠フ当番が目を見開き、身をのりだして、画面を凝視していたのだ。鼻が今にもディスプレイ画面にくっつきそうだった。
彼のメガネ・レンズ表面には、等温線の赤い同心円が映り込んでいた。いくつも、いくつも。
彼は言った。
「何だ、こりゃ?」
名椎善男は答えた。
「知らん!」
志津夫は相手の胸ぐらをつかんだまま、
「知らないはずがないでしょう!」
善男はあくまで首を振り、
「本当に知らんのだ。わしも、正一《せいいち》さんとはもう何年も会ってない。向こうから一方的に電話がかかってくるだけで、居所は知らん」
善男は自分を取り戻したようだ。志津夫の手を振り払おうとする。
「手を離しなさい。これでは話もできんずら」
善男に言われて、志津夫は渋々離した。本当は怒りに任せて、相手を揺さぶりたいところだが、自制した。今の様子ならば、ある程度は情報が聞けそうだったからだ。
善男は、手にしていた消火器ボンベを地面に置いた。乱れたパジャマの襟を元に戻す。
枯れ草の一部がまだ燃えていた。だが、老人は、それは消さなかった。照明の代わりになるからだろう。
傍らに立っている真希は、また例の癖を始めていた。五〇〇円硬貨をポケットから取り出すと、親指で真上に弾く。落ちてきたコインをキャッチした。
彼女が言った。
「善男おじさん。もう手は離したわ。だから、質問に答えてくださらない?」
善男は一息つくと、志津夫の顔を見つめ返した。炎に照らされたその顔には、先ほどテトオシの秘祭を行っていた時の威厳が蘇《よみがえ》っていた。だが、唇が少し歪《ゆが》んでおり、残念そうな表情も混じっている。
善男が言った。
「志津夫さん、あんた、テープレコーダーで盗聴したんだろう? わしと正一さんの会話を聞いたんだろう?」
「ええ」
志津夫は、真希の方を見た。彼女は平然と見返してくる。もちろん真希が善男にテープを聞かせたのだ。
善男は言った。
「だったら、わかるはずだ。向こうが一方的にかけてきて、一方的に切ったんだ。わしがその後、正一さんに電話をかけ直したりしたか?」
「いいえ」と志津夫。
「そうだろう。わしは相手の電話番号を知らないから、こちらからはかけようがない。正一さんの居所も知らないんだ」
志津夫は、うなずく。
「……そう言えば、そうみたいですね。……でも、なぜ、父から連絡があったことを今まで教えてくれなかったんですか?」
善男は視線をそらした。小さく、ため息をつく。
老人は、しばらくの間、顔をそむけたまま黙っていた。やがて意を決したらしく、喋りだした。
「私と正一さんは相談の上で、あんたをこの奥宮に近づけさせないことに決めたんだ」
「なぜ?」と志津夫。
善男は遠くを見る目になった。記憶が蘇っている時の表情だ。
「……あれは三〇年前ずら。生まれたばかりのあんたがヒナマキとテトオシの儀礼を受けた直後だ。家の中の茶碗《ちやわん》やコップが誰もさわっていないのに、ひとりでに飛び回って割れたりとか、異常な現象が続けて起きた。ポルター何とかとか……」
「ポルターガイスト?」と志津夫。
「そう。それだ」
ポルターガイストとは、騒霊現象と訳されているものだ。品物が勝手に動き回ったりする超常現象である。昔からこれの目撃談の記録は無数にある。もちろん現実にありうるか否かは、未《いま》だに確証がない。
善男は言った。
「……とにかく、それが起き始めた。わしも目撃したよ。本当に見えない幽霊が、そこら中でいたずらしているみたいだった。
それで正一さんは危険だ、と言いだした。村の皆も賛成した。
実は、この日見加《ひみか》村には古くからのしきたりがある。正一さん夫婦はそれに従って出産の時だけ、ここに戻っていた。そして運の悪いことに、あの夫婦はもう一つのしきたりにも従わねばならなくなった。つまり、赤ん坊の周りでおかしなことが起き始めたら、その子は必ず村から遠ざける、と決まっていた。
だから、正一さん夫婦は赤ん坊のあんたを連れて、この土地を離れた。以後、この土地にはできるだけ近づかないようにしていた……」
「何だって?」
「何ですって?」
志津夫と真希が同時に言った。そして同時に顔を見合わせた。
志津夫は老人に問い返す。
「名椎さん、どういうことですか? そのことと、ぼくのウロコや、秘祭と、どういう関係があるって言うんです?」
だが、善男は首を振った。
「あいにくだが、詳しいことは、わしにはわからん。正一さんには何もかもわかっていたらしいが、わしには説明してくれなかった。まあ、学問のないわしに言っても無駄だと思ったのかもしれんが……」
「そんな……」
志津夫は頭を抱えてしまった。もどかしさのあまり髪の毛をすべて引きちぎりたくなる。だが、すぐに別の質問が浮かんだ。
志津夫は老人を指さし、
「それじゃ、母さんは? 母は、ここのテトオシ儀礼のことは?」
善男は無表情なまま答えた。
「知らないずら。確か体調が悪かったせいで、奥宮でのヒナマキにもテトオシにも参加してないし、正一さんも結局、教えていないはずだ」
「じゃあ、母は、ぼくを連れてこの土地を離れなければならなかった理由は、承知していたんですか?」
善男は首をひねる。
「いや、どうかな? 佳代《かよ》さんは隣の阿智《あち》村の出身だからな。ただ、赤ん坊のあんたの周りでおかしな現象が起きていたから、薄々は感づいていたかもしれん。日見加村には近づかない方がいいと、そのぐらいには感づいていたずら」
志津夫は、老人を睨《にら》みつけた。
「父から連絡があったことは、ぼくの母には全然教えてなかったんですね。そうでしょう?」
善男は目をそむけた。そのことでは、さすがに罪悪感を覚えていたのだろう。
「ああ、可哀想だが、知らせなかった。正一さんに口止めされていた」
「なぜ?」
善男は、呻《うめ》き声をあげた。重度の神経痛に悩んでいるような顔になってしまう。
志津夫は再度、訊く。
「なぜ、口止めされたんです? なぜ、母にも、ぼくにも黙っていたんですか?」
老人は、やっと口を開いた。
「……何しろ……。あんな姿に……なってしまっては……」
志津夫は腰骨を電気で打たれたような反応を示した。そうなのだ。もう予想していたことだったのだ。
志津夫は歯を食いしばった。顔を歪めたまま、縦縞《たてじま》シャツの左袖《ひだりそで》を引っ張る。
人間の腕とは思えない代物が露出した。志津夫は顔をそむけて、訊いた。
「あんな姿って、これですか?」
善男は一瞬だけ、志津夫の左腕を見た。小さく、うなずく。すぐに目を逸《そ》らした。
志津夫も、すぐに袖を元に戻した。かなり慣れてきたが、それでも我が身がおぞましかった。身震いする。
真希は肩をすくめて、苦笑した。彼女だけは平然としていた。昆虫を異常に怖がる子供を見るような、余裕のある表情だ。
志津夫は一歩、前に出て、善男に詰め寄った。半ば本気で怒りかけていた。
「なぜ、青い土偶を使ったヒナマキとテトオシの秘祭を続けたんですか? こんな風になる人間も出ると、父のことでわかっていたのに、なぜ?」
老人は吐息をついた。
「いや……。それは、その……。長年の慣習というものは、変えられるものではないずら。それに正一さんの場合、ここの奥宮とは別の洞窟《どうくつ》に入り込んで、その結果、身体が変化してしまったそうだ。ならば、そこに行かない限りは、あんたも大丈夫だと思っていた」
志津夫は目を見開いた。また新しい情報だった。
志津夫は息急《いきせ》き切って、
「別の洞窟? どこです、それは?」
「それは知らん。正一さんが教えてくれんのだ」
志津夫は舌打ちした。肝心のところになると、正一だけが情報を握っているらしい。善男も全貌《ぜんぼう》については知らないことが、わかってきた。
「ちくしょう! あのクソ親父、どこにいるんだ!」
志津夫は天を仰いで、叫んだ。声は周囲の山並みにこだまし、少しだけエコーが返ってくる。どこにいるんだどこにいるんだどこにいるんだ……。
志津夫は、さらに叫んだ。
「やっぱり昼間、母さんの墓参りをしてたのは、親父だ。おれを見て、逃げやがったんだ!」
また山並みからエコーが返ってくる。逃げやがったんだ逃げやがったんだ……。
ふと志津夫は額の汗を拭《ぬぐ》った。いつの間にか、不快指数が高くなっている。まるで蒸し風呂《ぶろ》のようだ。
志津夫は、自分の指にからみつく汗の玉を見つめた。唖然《あぜん》と呟《つぶや》く。
「何だか暑いな……」
「そう言えば、そうね……」
真希も同意した。彼女も首筋の汗を拭った。周囲を不思議そうに見回している。
まるで、梅雨と真夏日が同時にやってきたような気候なのだ。犬みたいに、舌を出して喘《あえ》ぎたくなる。
善男も不審な顔で言った。
「この辺りは標高八〇〇メートル付近のはずなんだがな。それが、こんなに暑いなんて……。まさか……」
善男と真希の視線が、一点に集まった。志津夫にだ。彼は自分の顔を指さした。
「ぼくが? 何だと言うんだ? この暑さと、ぼくと何か関係があると? そんな……」
絶句してしまう。だが、否定できない現象が起きているのだ。足元を見ると、現に溶けてガラス化した小石の群れがある。
真希が夜空を見上げた。つられて、志津夫と善男も見た。
さっきまでは満天の星だった。だが、今は周辺部からペールブルーの雲が湧き上がっている。煮立っている鍋《なべ》の蓋《ふた》を開けた瞬間、湯気が上がるが、あれによく似た感じだ。
彼女は呟いた。
「気温がどんどん上がっている。まるで三世紀の邪馬台国みたいに……」
「え?」
志津夫は振り返った。自分の脳髄を他人に引きずり出されたような気がした。
「何だって? 今、何と言った?」
真希が平然と答える。
「気温が上がっている、と言ったのよ。まるで三世紀の邪馬台国みたいに」
志津夫は口を大きく開けて、
「それは、ぼくだけの仮説なんだが……。君も?」
真希は鼻息で応《こた》え、うなずいた。
「三世紀は地球全体が小氷河期に覆われていたことは、私も知っているわ。ヨーロッパの気象学者たちが、サブアトランティックと呼んでいる寒冷期だった。だから、魏志倭人伝が、三世紀の邪馬台国を亜熱帯気候のイメージで描いているのは、変だと気づいた。だから、こう推測したのよ。もしかすると三世紀の日本列島は超異常気象による亜熱帯気候に覆われていたんじゃないか、と。倭人伝は、それを報告したドキュメンタリーかもしれない、と……」
彼女は首を振った。強いショックを受けた表情だった。呆然《ぼうぜん》と呟く。
「何てこと……。もしかすると、邪馬台国が復活しようとしてるんだわ……」
善男も口を半開きにしたまま、真希や志津夫を見ていた。そして汗を拭いながら周囲を見回し始めた。
老人も、今の話をおぼろげながら理解したのだ。それで、この付近に熱源があるのかと思い、探しているらしい。もちろん視界の範囲には、燃え続ける枯れ草以外に熱源などなかった。
真希は突然、志津夫に向かって突進した。彼の胸ぐらをつかむ。
「何よ、これ! こんなことってありなの! あなたが後継者だなんて。あなたが悠紀殿《ゆきでん》の主だなんて」
志津夫は目を見開き、問い返した。
「悠紀殿だって? つまり、大嘗祭《だいじようさい》の悠紀殿のことか?」
真希は大きく、うなずいた。
「そうよ。悠紀殿の主こそ、本当の日本の大王《おおきみ》だったと、私は考えてる。それが祭礼担当の巫王《ふおう》よ。たとえば女王ヒミコや女王トヨよ。そして、私がそれになるはずだったのに!」
白川《しらかわ》祐美は喉《のど》に焼けるような痛みを感じた。呻き声をあげる。やがて脳波がベータ波に変わり、意識が戻った。
小柄な身体をよじり、目を開けた。天井の小さなナイトランプがオレンジ色の光を投げかけている。
見慣れた自分の部屋だった。本棚には、動物のぬいぐるみなどが数多く並んでいた。窓はレース付きカーテンで覆われている。
彼女は異様に蒸し暑いのに気づいた。真夏の熱帯夜のようだ。掛け布団は寝ている間に、はねのけてしまったらしく、ベッドから落ちていた。
下着とジャージが寝汗で湿っていた。祐美はパジャマもネグリジェも持っていない。衣類は男っぽいものばかりを愛用しているのだ。
咳《せ》き込んだ。喉の粘膜が渇ききっているのだ。
ベッドから出た。窓際に行く。
カーテンとアルミサッシの窓を開ける。暑い風が吹き込んできた。思わず顔が歪《ゆが》む。
フェーン現象だろうか、と思った。突然の気温の上昇について説明できる言葉は、それしか思いつかなかった。
窓の外に見えるのは、東京都|杉並《すぎなみ》区の市街だった。古くからの住宅と、モダンな住宅とが雑然と同居している。視界の一角にはキャベツ畑があった。
電線が熱風にあおられて、揺れ動いている。かすれた笛のような音を立てていた。
祐美は中性的で可愛らしい丸顔の持ち主だ。だが、その表情は歪んだままだ。眉間《みけん》にしわが寄ってくる。
おかしい。天気予報は確認したはずなのに。
彼女は部屋を出ると、台所に向かった。水道の水を飲み、とりあえず渇きをいやした。
そして居間に向かった。夕刊がまだ放置してあるはずだ。
居間の蛍光灯を点《つ》けた。そこは八畳で、統一性のないインテリアになっていた。神棚があり、床の間にはテレビとビデオデッキと、骨董品《こつとうひん》の掛け軸。畳の上に絨毯《じゆうたん》が敷かれて、ソファーが置いてある。
祐美は座り込み、テーブルから夕刊を取り上げた。
天気図を見る。昨日の正午の図で、典型的な帯状高気圧型≠ノなっていた。
これは晩春によく見られるパターンだった。いくつかの移動性高気圧が連続して、東西に並ぶ状態だ。その結果、本州、四国、九州は晴れる。逆に北海道と沖縄は低気圧と前線に覆われて天気が崩れるのだ。
昨日の正午の天気図は、三つの高気圧が、東西に並んでいる様子を示していた。本州に低気圧は一つもない。
彼女は目を見開き、首を振った。信じられない事態だ。
予報も、「穏やかな初夏の日本晴れ」と書いてあるのだ。夜中に突然、熱風が吹きそうな気配など、天気図からも感じられない。
ふと鼓膜に何かを感じた。かすかな音だ。
最初は耳鳴りかと思った。
耳鳴りとは、自分の脳波が鼓膜から再生される現象だ。専門的にはリファレンス・トーンと呼ばれている。
だが、その音は耳鳴りにしては低すぎた。大型の音《おん》叉さでも鳴らしているような感じだ。しかも、異音は徐々にボリュームを上げている。音源は近くにあるらしい。
祐美は立ち上がった。何なのか確かめようと思い、居間から廊下に出ようとした。
突然、眼前を黒い影が通過した。祐美は悲鳴を上げて、飛びのく。
黒い影はジャラジャラという金属音と足音を響かせて、玄関に向かった。蛍光灯が点灯する。明るくなって、影の正体は祐美の父親、白川|幸介《こうすけ》だとわかった。
「な、何だよ、父さん。脅かすなよ」
祐美はトレードマークの男の子みたいな口調で、言った。
だが、幸介は聞いていなかった。彼は片手に鍵束《かぎたば》をつかんでおり、サンダルを履こうとしていた。
できなかった。焦り過ぎて、足をサンダルの中に収めることもできない。片手に持った鍵束が派手に金属音を奏でている。
「父さん?」
祐美が呼びかけたが、無視された。
幸介の目つきは異様だった。興奮のあまり、焦点が合っていない。歯で下唇を噛みしめている。
普段は口ひげの似合うモダンな神主といった容貌なのだ。だが、今は普段のダンディズムのかけらもなかった。
幸介は一声、呻《うめ》くと片足にサンダル、片足は裸足《はだし》という状態のまま、ドアの鍵を開け、外へ飛び出していった。正面にある社務所を迂回《うかい》し、本殿に向かって猛然とダッシュしていく。玉砂利を踏み散らす音が遠ざかっていった。
「ちょ、ちょっと待って……」
祐美は言いかけたが、幸介の耳には届いていなかった。いつもの冷静かつ厳格な父とは、別人のようだった。
わけがわからないまま、とりあえず彼女も追いかけることにした。下駄箱の上にあるハンディライトを取り上げ、自分のサンダルを履くと、外に飛び出す。
とたんに蒸し暑い空気に包まれた。六月上旬の夜だとは信じられない気温だ。透明な毛布で、全身をくるまれているみたいだ。
祐美は比川《ひかわ》神社の境内を駆けていった。ここは広さは三〇メートル四方ぐらいで、周囲はコウヨウザンの木が立ち並んでいる。
鳥居や本殿は、もっともシンプルな神明《しんめい》造りだ。狛犬《こまいぬ》や手水舎《てみずや》などもワンセットそろっている。要するに、どこにでもあるような神社なのだ。
ここも秋には祭りが催され、金魚すくいや、たこ焼きの屋台などが並ぶ。正月になれば、初詣《はつもうで》の参拝客が並ぶ。表面を見るかぎり、何の変哲もない神社に過ぎない。
ただし、近所のお年寄りには人気のある神社だった。ここに参拝し、宮司の祈祷《きとう》を受ければ、大病をわずらうことなく長生きできる、と語り継がれているのだ。ゆえに、おさい銭や祈祷料の収入は、かなりのものだった。普通ならば、霊感商法として摘発されかねないケースだろう。
だが、この比川神社が摘発されたことは、一度もなかった。被害者が皆無だからだ。今も長生きを続けている老人たちは皆、ここの御利益《ごりやく》にあずかったと信じている。
その御利益を振りまいた当人、白川幸介は今、拝殿を通過し、本殿に駆け込んでいった。片足にサンダル、片足は裸足、しかも浄衣《じようえ》すら着けず、縦縞《たてじま》のパジャマ姿のままなのだ。普段ならば絶対にありえない行動だった。
彼は鍵束から鍵を探り当てようとしていた。だが、暗いのと焦りのせいで、目的の鍵がなかなか見つからないありさまだ。
そこへ祐美が追いついた。ライトで幸介の手元を照らしてやる。
「父さん、何なの?」
相変わらず、父は答えない。質問は受けつけない状態だった。
そこで祐美も気づいた。あの大型の音叉のような音だ。彼女は、ゆっくりとライトを音源に向けた。
神明造りの本殿だ。胃袋を直接、揺さぶるような重低音を感じた。
幸介がついに鍵を見つけて、南京錠に差し込み、回した。本殿の扉を開ける。例の異音が一気にボリュームを上げる。
祐美は目を見開いた。
ここの本殿のご神体は、他のどこにもない珍品だった。考古学者が見たら、腰を抜かすだろう。
弥生時代の銅鐸《どうたく》なのだ。しかも、表面が厚さ五ミリのブルーガラスで覆われている、という世に二つとない代物だ。高さ五〇センチ、開口部の直径は二〇センチほどだ。
銅鐸の置かれ方も独特だった。博物館での展示方法とは逆で、開口部を上にしてあり、胴体中央部の二つの飾り穴に支持棒を通して、宙吊《ちゆうづ》り状態にしてあった。支持棒は他の頑丈な台座に固定されていた。
今、その銅鐸が音を発していた。玄妙な腹にしみる重低音だった。
銅鐸の内部は七分目ほどの水で満たされていた。幸介が毎日取り替えているのだ。
今、水の表面は波立ち、幾何学模様を描いていた。それは震動の複雑さを物語っていた。
幸介がそのブルーガラスの表面に手を伸ばしかけていた。彼は何度か唇をなめて、弾む呼吸を整えようとした。まるで、高いところから飛び降りようとしているような用心深い態度だ。
祐美は口を半開きにしたまま、その様子を見つめていた。父がこんなに怯《おび》えているのは初めて見た。
指を触れた。
音が止まった。電源を切られたCDプレーヤーのような唐突さだ。水の表面に浮かんでいた幾何学模様も消える。
幸介は吐息をついた。だが、休息したのはほんの二、三秒のことだった。
「まさか……」
幸介はそう呟《つぶや》くと、また間髪を入れず駆け出していく。本殿の扉に鍵をかけ直すのも忘れていた。
「ちょっと鍵、父さん、鍵!」
祐美が呼びかけたが、また無視された。慌てて追いかける。
「まさかって、どういうこと? まさかって……」
祐美はそこで言い淀《よど》んだ。最悪の可能性に初めて、思い当たったのだ。心臓が胸郭の中で跳ね上がる。立ち止まってしまった。
「まさか、あれ? あれのこと?」
他人にはわからない話題だ。この親子の間でしか通じない話題。
祐美は、あらためて玉砂利を蹴《け》ってダッシュし、父を追いかけた。途中、片方だけのサンダルが転がっているのに出くわした。父の足から脱げたものだ。
ライトを彼方《かなた》に向けて、父を捜す。見つけた。幸介は境内の端っこにある摂社《せつしや》に向かっていたのだ。
摂社とは、本社と縁故の深いゲスト扱いの神の社《やしろ》だ。境内に犬小屋ぐらいの社殿が建っていて、一応これにも小さな鳥居と、さい銭箱が付属している。信心深いお年寄りは、これらの摂社にも参拝するのだ。
祐美がライトを向けると、その小さな社殿が浮かび上がった。これも神明造りで相当に古びていた。外壁が真っ黒に煤《すす》けているような状態だ。
祐美は社殿を見て、立ち止まった。思わず「げっ」と言った。
小さな摂社の屋根から煙が立ちのぼっている。こげているのだ。電気ストーブから出るような輻射熱《ふくしやねつ》を、顔に感じた。
幸介が九〇度ターンした。手水舎に向かったのだ。ポリバケツを拾い上げ、清めの水を汲《く》んだ。
両手でバケツを抱えて、走ってきた。水しぶきが派手に飛び散る。バケツの中身の半分以上が玉砂利にこぼれただろう。
祐美は、その間、成す術《すべ》がなかった。摂社と父とを交互にライトで照らしているだけだった。
幸介が、バケツの水を摂社の屋根にかけた。こげかけた木材が水と反応し、音と白煙を噴出する。火事場特有の臭いが辺りに漂った。どうやら消火は間に合ったようだ。
幸介が大きく吐息をついた。額の汗を拭《ぬぐ》う。それは冷や汗と、暑さによる汗とが半々のようだ。
祐美は問いかけた。
「父さん、まさかって何? まさか、あれ?」
幸介は娘の顔を見た。ようやく焦点の合った視線を返してきた。普段の冷静さと威厳を取り戻している。
「そうだ」
幸介が簡潔に答えた。
祐美は、その時の父の顔を見て、デスマスクを連想した。死人の顔を石膏《せつこう》などを使って型取りしたものだ。無表情そのものだが、かえって彼の内面を現している。危機を目前にした緊張感に溢《あふ》れていた。
「……まずいな。とうとう、きたか……」
幸介はそう言い、ポリバケツを投げ捨てた。白煙が収まりつつある摂社に近づく。低い屋根に手を触れた。
「……なのに、今は私と祐美しかいない。最悪のタイミングだ。せめて男の子がもう一人欲しかったのに」
祐美は膨れっ面になった。
「悪かったね。女で」
祐美は鼻を鳴らした。父の、その台詞《せりふ》は幼児の頃から聞かされていた。せめて男の子がもう一人欲しかったのに=B
だが、幸介は自分の思考の中に沈んでいて、娘の不満など聞いていなかった。
幸介がこげかけた摂社の壁を撫《な》でていた。黒っぽい埃《ほこり》を払うと、社殿の名前が現れる。「荒吐《あらはばき》社」と表記してあった。
幸介は鍵束《かぎたば》から鍵を探り当て、南京錠に差し込んだ。社殿の扉を開ける。
祐美は、ライトで摂社のご神体を照射した。ここにおさい銭をあげて参拝するお年寄りたちも、ご神体が、これだと知ったら、さぞ驚くだろう。あるいはさらに熱心に参拝してくれるだろうか。
それは表面が厚さ五ミリのブルーガラスで覆われた遮光器土偶だった。
窓の外には黒々とした皇居の森があった。その遥《はる》か向こうには、チェスのコマみたいな新宿の超高層ビル群のシルエットが並んでいる。
東京大手町の気象庁本庁ビルから見える夜景は絶景と言えた。夜空は暗いが、逆に地上は無数の星くずで埋め尽くされているような感じだ。
だが、今、予報現業室にいる四人の男たちは、誰もそんなものは見ていなかった。
この気象庁本庁予報課は、日本を含むアジア・太平洋全域の天気監視と、全国の予報を担当しているセクションだ。
室内にはパソコンが六台あり、VDT画面には高層気象データ図や、気象衛星「ひまわり」から撮った衛星写真が映っている。デスクの上も各種の天気図が占拠していた。
壁にも衛星写真や、コンピュータがプリントした各種の天気図が貼られている。それらは一時間おきに新しいものが貼られており、二四時間前のものは棄てられていた。
ビープ音が時折、響いている。ファクシミリや、アメダス・データなどを受信していることを示す音だ。
壁のアナログ時計は、午前二時三五分を示していた。この時計には赤い短針が別にもう一本あり、二四時間刻みの目盛りで一七時三〇分を指している。これはグリニッジ標準時だった。海外の気象機関と情報交換する時は、グリニッジ標準時を単位にするからだ。
四人の予報当番は、パソコンからプリントしたアメダス実況図に見入っていた。全員、目を見開き、唇の線を歪《ゆが》めている。
彼らの職種はA当番、F当番、S当番、R当番と呼ばれている。それぞれ「ANALYSIS、解析担当官」「FORECAST、予報担当官」「SATELLITE、衛星担当官」「RAIN、雨担当官」の略だ。
予報現業室は、この四人で当直の一班を構成している。そして夜間はA当番が班長を兼ねるわけだ。
これが昼間なら五人目のP当番が加わり、P当番がリーダーとして予報を統括する。Pは「PROGNOSIS、予想」の略だ。
「何だ、こりゃ?」
A当番が言った。三〇分ほど前にアメダスセンターの当番者が言ったのと、同じ台詞《せりふ》だった。
A当番は苛立《いらだ》たしげにシャープペンシルで、アメダス実況図を叩《たた》いた。
そこには季節はずれの三〇℃もの等温線の円が表示されていた。その周辺にも二八℃、二六℃、二四℃、二二℃、二〇℃の等温線の円が描かれていた。
しかも、一ヶ所ではない。この超異常気象は全国五ヶ所に同時多発していた。東京都心部、長野県|下伊那《しもいな》郡、愛知県名古屋市、三重県伊勢市、奈良県桜井市だ。長野県下伊那郡、愛知県名古屋市、奈良県桜井市は気温が三三度に達している。東京都心部と三重県伊勢市も、気温が二九度まで急上昇していた。
しかも、その範囲は驚くほど狭いのだ。東京で言えば、北限は埼玉県大宮市、南限は神奈川県横浜市、東は千葉県習志野市、西は小金井市までの付近だった。要するに直径六〇キロメートルほどの範囲だけが、異常な気温上昇を起こしているのだ。
そして、そのエリアの外は、一気に一八℃まで気温が下がっているのだ。そのため二八℃から二〇℃までの等温線は、異様に幅が狭くなっている。これが地図の等高線だったら、恐ろしく細長い山が屹立《きつりつ》している状態に相当するだろう。
S当番が言った。
「いつものフェーン現象じゃないんですか?」
フェーン現象とは、山腹を昇るとき雨を降らせて乾燥した空気が、反対側の山腹を下るとき断熱圧縮によって温度が上昇する現象のことだ。
F当番が首を振る。
「六月の太平洋側でフェーンだって? これは違うぞ。フェーンなら日本海側では雨が降るし、太平洋側に向かって山越えの風が吹いてるはずだ。だけど、そんな観測データは、日本海側にはない」
F当番がアメダス実況図を指で突っついた。日本海側の辺りだ。その付近の雨量はゼロだった。
電話が鳴った。「内線」のランプが光っている。R当番が受話器をとり、相手と話し始めた。
A当番はそれを横目で見ながら、訊《き》く。
「大規模な火事というわけでもないんだな?」
F当番がまた首を振る。
「直径はざっと六〇キロはあるんですよ。これだけの面積が燃えるまで何日かかると思います? この異常は午前一時と二時の間に、あっと言う間に同時多発したんです。それに……」
F当番が窓際に行った。アルミサッシの窓を開けた。
暑い空気が雪崩れ込んできた。エアコンで調節された室内の気温を台無しにしていく。
見えるのは、いつもどおりの夜景だった。数億のダイヤモンドを鏤《ちりば》めたようだ。眠らない大都会の眺めをあらためて認識する。
F当番が外に手を振った。
「火事じゃない。これが火事のせいなら、都内に消防車のサイレンが鳴り響いているはずだし、テレビもラジオもとっくに放送してますよ」
F当番は窓を閉めて、
「……残念ながら、これの正確な発生時刻はわかりません。臨時報は気温を監視していないから」
アメダスは、一〇分ごとに自動計測を行っている。その時、雨量や風速値が一定基準を越えた場合は、プログラムの臨時報ルーチンが作動し、センターに緊急送信する。だが、気温の急上昇は、臨時報の監視対象外だった。
S当番が訊いた。
「じゃ、結局何なんです?」
F当番がまた首を振る。
「わからん」
A当番が言った。
「感じとしてはヒートアイランドに似てるんだがな。しかし、東京や名古屋はともかく、長野県や三重県や奈良県は条件が当てはまらんぞ。どうしてなんだ?」
ヒートアイランドとは、大都市で起きる高温化現象で、人間が作り出した気候である。たとえば東京の場合、都市部とそれ以外の地域との気温差は最大一〇℃にもなるのだ。原因はビルや舗装道路が熱を蓄積しやすいこと、樹木が少ないこと、エアコンの熱の排出、大気汚染物質による温室効果、高層建築による風通しの悪さなどだ。
したがって、大都市化していない長野県や三重県や奈良県のような地域では、ヒートアイランドなど起きるはずがない。
電話を受けていたR当番が、受話器を置いた。他の三人に言う。
「さっきから、電話がかかりっぱなしだそうです。真夜中に突然、気温が摂氏二九度まで上がったのはどういうわけだ、と問い合わせが殺到しているそうです。それと、気象病の人たちが急にリューマチなんかが痛み出したそうで、それの苦情も来てます。予報と違うって……」
痩《や》せた四人の予報官たちは、ため息をついた。
気象庁の予報官と言えば、気象大学を首席で卒業したエリート中のエリートたちだ。
彼らには一つの共通項がある。全員、痩せていることだ。
この四人も例外ではなかった。何しろ自分の出した予報が当たるか当たらないかで一年中、気をもんでいなければならない職種なのだ。だから、現役の予報官たちは職業上のストレスゆえに、絶対に太ることができない。
普段から苦情には慣れているはずの彼らも、この事態は手に余った。骨と皮だけになりそうな気分だ。
A当番が歯ぎしりしそうな顔で言った。
「誰かがアメダスにイタズラして、苦情電話も全部イタズラで……と言いたいところなんだが、どうも違うみたいだな」
アップテンポのヘビーメタルが一段落した。代わってカーラジオは、女性のディスクジョッキーの声を伝えた。
『……何だか変だね。今、曲がかかっている間に窓の外をのぞいたんだけど、確かに凄《すご》く暑いんだ。さっきリクエストくれた名古屋市の新村登代子さんの言うとおりだったよ。
気象庁からのデータによると、これが発生しているのは、東京都心部、長野県下伊那郡、愛知県名古屋市、三重県伊勢市、奈良県桜井市だって。ちなみに長野県下伊那郡、名古屋市、奈良県桜井市は気温が三三度だって。東京都心と三重県伊勢市も、気温が二九度だって。
フェーン現象かな……。なんてね。実はフェーン現象の意味もよくわからないんだけど。さて、次の曲は……』
カーラジオの音が途切れた。
名椎真希が電源スイッチを切ったからだ。彼女はダッシュボードのサングラスを取り上げて、顔にかけた。フェアレディZから降りて、言った。
「お聞きのとおりよ。ここだけじゃないわ。全国五ヶ所で同時発生したのよ」
志津夫と名椎善男は、そう言われても返す言葉がなかった。この異常気象と、自分たちの行動との間に何らかの相関関係があると聞かされても、すぐには受け入れがたいものがある。
場所は舗装道路の終点で、神坂峠へと登る山道へつながる地点だ。秘祭参加者たちが臨時の駐車場にしている場所でもある。今は、真希の黒いフェアレディZが一台あるだけだ。
深夜三時だというのに、周辺の森林からは鳥の鳴き声が聞こえた。突然の気温上昇に目が覚めて、不満を訴えているのだろう。
風が強くなり始めていた。ケヤキやハンノキが枝葉を揺らし、不気味なダンスを始めたように見える。
涼感がまったくない熱風だった。大気そのものが電熱器のニクロム線と化したような感じだ。じっとしていても血管が膨張し、額から汗が滲《にじ》んでくるのだ。
街灯の寂しい光の下で、志津夫、善男、真希の三人は立ちつくしていた。それぞれの思考の中に沈み込んでいる状態だ。
志津夫には、いくらか超常現象への心の備えがあったし、何度か実際に経験もしている。三世紀の日本列島を超異常気象が覆っていた可能性も、すでに考察していた。だが、自分がその引き金を引いてしまったなどとは、未《いま》だに信じがたいのだ。
精神異常者が「テレビ局の電波が自分を操っている」と主張することがある。俗に「電波系」と言われる人たちだ。そうした台詞を聞くのに近い違和感があった。
善男は黙り込んだままだった。この老人は志津夫に真相を告白し、枯れ草の火事を処置し終えると、後はショック状態に陥ったようだ。
善男にとっては何から何まで、理解の範囲を越える事態のようだ。古代からのテトオシ儀礼を祭司として受け継いできたことが、こんな結果に発展するとは予想もできなかったのだろう。
善男は呆然《ぼうぜん》とするあまり、消火器ボンベも洞窟《どうくつ》神社の前に置き去りにしそうになったほどだ。結局、志津夫が代わって自分のアタッシュバッグと共に重たい消火器も、ここまで運んだのだ。
志津夫と善男が沈黙しているため、真希は多少、苛立《いらだ》った様子だった。彼女はまたコイン・トスを始めていた。
それは異様な眺めだった。美女が夜中に濃い色のサングラスをかけた状態で、五〇〇円玉を空中に弾《はじ》いてはキャッチしているのだ。
付近には街灯の明かりしかないのだ。暗い山中でサングラスをかけて出来るような芸当ではないはずだ。だが、彼女は一度も失敗せず、キャッチし続けている。
さすがに志津夫も、その異常さに気づいた。質問する。
「あんた、見えるのか? 夜にサングラスなんか、かけて?」
「ええ。もちろん」
真希は即答した。片頬だけ笑って、
「鈍いわね。今まで変だと思わなかった? 私が、こんな暗い山道でサングラスをかけているなんて、不自然だと」
「そう言えば……」
志津夫はうなずく。今日は次々にいろんな真相が見え始めたので、そういったことを気にする余裕がなかったのだ。
真希が言った。
「これもウロコの御利益みたいね。……映画館のような暗いところにいきなり入ると、普通は眼が慣れるまで時間がかかるでしょ? でも、今の私は平気なのよ。夜に、こんなサングラスをかけていても大丈夫だしね」
真希は微笑し、その辺をモデル風に歩いてみせた。五メートルほど離れてからターンする。両手を両腰に添えて身体を斜めにし、顔だけを志津夫に向けて、ポーズを取る。
ポーズの決め方が様になっていた。同時に、彼女は完全に周囲が見えているのだ、ということも納得できた。
名椎善男は、唖然《あぜん》と真希の振る舞いを見ていた。話の内容になかなかついていけない様子だった。首を振っている。
ふと志津夫は、最近の父、正一を捉《とら》えたビデオ映像を思い出した。正一も濃いサングラスをかけていたのだ。しかも茨城県で聞いた話では、父は夜もサングラスを外さなかったらしい。
「まさか……」
志津夫は呟《つぶや》きかけた。
「え?」と真希。
志津夫の顔が強張《こわば》っていた。ひきつりそうになっている。歪《ゆが》めた唇から、その言葉を吐き出す。
「……そう言えば、蛇は赤外線を感知できるそうだ。つまり、それに近い能力なのか? 親父も、君も、それを得たとでも言うのか?」
真希は手でサングラスの位置を修正した。志津夫の方をのぞき込むようなポーズになる。
「へえ。それは知らなかったわ。確かに、私には体温がある生き物や、車のエンジンの熱が優先的に見えるような気はするけど……。そう言えば、このコインも私の体温で暖まったものだわ。あなたの言うとおりかもね」
「言うとおりかもね、だと!」
志津夫は叫んだ。
「ということは、ぼくもそうなるってことか! 赤外線でものを見るようになるのか? どんどん人間の領域から外れていくってことじゃないか!」
思わず、両腕で自分の身体を抱きしめるようなポーズになった。自分の中の人間≠つなぎとめて維持したかったからだ。皮膚に生じた例のウロコに乗っ取られる恐怖を感じた。身体が震えてくる。
志津夫は何とか気を取り直すと、真希に詰め寄った。
「いったい何がどうなってる? カムナビって何だ? このウロコは何だ? なぜ、急に気温が上がりだしたんだ?」
真希は腕組みした。
「まだ、私にも全体像はわからない。でも、これだけは言えるわ。私と、あなたはパートナーになるのよ」
「何だと?」
真希は片手を伸ばし、志津夫の胸ぐらをつかんだ。自分の方に引き寄せる。さっきも洞窟神社の前でそうしたのだ。
「何を……」と志津夫。
「黙りなさい!」
真希は、志津夫の身体を激しく揺さぶってきた。サングラス越しに強い憎悪の視線を感じた。
「本当は殺してやりたいのよ。私が狙っていたものを、なぜ、突然あなたが横取りしちゃうわけ? そんなのありなの? カムナビを呼んで、その辺の小石を溶かしてガラスにしたのは、あなたに決まってるのよ。この亜熱帯のような気温も、あなたのせいよ。少なくとも、スイッチを入れるような役割を、あなたはやったのよ。なのに、何も覚えがないですって?」
彼女は歯をむき出しにして、言った。いわば志津夫に巨額の遺産を横取りされた心境なのだろう。
志津夫は、相手の手をふりほどいた。
「ああ、何も覚えなんかない。さっきも言ったとおり、気がついたら洞窟の前が火事になってて、小石が溶けていた。何一つ身に覚えはない……」
真希が、いきなり志津夫の腕をつかんだ。袖《そで》をまくり上げる。爬虫類《はちゆうるい》のような固い皮膚が露出した。
「これでも身に覚えがないと?」
「よせ! やめろ」
志津夫は慌てて、袖を元に戻した。自分の腕を握りしめて、震えた。
「こんなもの見たくない」
真希は嘲笑《ちようしよう》した。
「自分で選んだ道でしょう。何を今さら」
「ああ、後悔してるよ」
志津夫は両手で頭を抱え込んだ。髪の毛を掻《か》きむしってしまう。
やめておけば良かった。その思いが後頭部に鉛の重さで居座っている。あの時、青い土偶になど触れずに、普通の人生へと引き返せば良かったのだ。だが、いくら悔やんでも、もう遅かった。
体内に放射性廃棄物が溜《た》まり、その毒性に侵されていくような気分だった。懊悩《おうのう》のあまり、つい独白してしまう。
「ぼくがカムナビの後継者? そんなものに成りたいと、誰が頼んだ……。ぼくはただ君や、白川祐美に対抗できる力≠ェ欲しかっただけだ」
足元の小石を蹴飛《けと》ばす。石は一〇メートルほど転がっていき、街灯が照らす範囲から消えた。
志津夫は呻《うめ》いた。
「邪馬台国の復活だって? こんな大騒ぎを起こす気はなかったんだ。元に戻る方法はないのか?」
真希が言った。
「一つあるわ」
「え?」
志津夫は頭を上げて、彼女を見た。
真希は妖《あや》しい笑みを浮かべていた。サングラスを下にずらして、瞳《ひとみ》を露出する。さっきまで志津夫に憎悪をぶつけていたのに、今は女の色香を漂わせているのだ。
「私と一緒に来るのよ」
「どこへだ?」
「私が行くところへは、どこへでも。だって、パートナーなんだから」
「意味がわからんぞ」
志津夫は激しく首を振った。
真希が両手を広げて、
「私と一緒にすべての謎を解明するのよ。そうすれば元に戻る方法だって、つかめるんじゃない?」
志津夫は、思わず相手を凝視した。胸中に、彼女の台詞《せりふ》が反響する。
真希の言うことは一理あると思えた。ここで無為に過ごしても、何の解決にもならない。手に入る情報は細大漏らさず集めるべきだろう。当然、その過程には父の正一を捜し出すことも含まれる。
心が動きかけた。新たな昂揚《こうよう》感が溢《あふ》れてくる。治療方法の手がかりもどこかにあるのでは、と思えてきた。
「さあ、行きましょう」
真希はまたコインを弾いて、キャッチした。そしてフェアレディZに向かって歩きだす。愛車の運転席に乗り込んだ。
三〇〇〇ccツインカムターボ・エンジンを始動した。太い排気音が腹に響く。ヘッドライトが点灯し、周辺の闇を一掃した。
真希が開けっ放しのドアに手をかけて、
「選択肢は一つでしょう? さあ、私と来るのよ」
志津夫は動けなかった。真相への好奇心と、元の身体に戻りたいという欲求が足を前進させようとする。だが、真希という女への警戒心が足をその場に釘付《くぎづ》けにする。後者がやや勝っていた。
真希が五〇〇円玉を親指と人差し指でつまんで、差し上げた。挑戦的な目で、志津夫を睨《にら》みつける。また、彼に首絞め≠行い、脅すことを考えているらしい。
だが、彼女の目の光が和らいだ。視線をそらす。コインをポケットにしまった。
ずらしていたサングラスをかけ直して瞳を隠し、言った。
「……やめた。今やったら、茨城の事件みたいに焼死体にされるかもね。いくら、あなたには身に覚えがないと言っても、無意識にやるということがありうるわ」
彼女は顎《あご》で、指示してきた。
「さあ、来なさいよ。それとも怖いの? いい年した大人のくせして」
志津夫は腹を蹴飛ばされたような感覚を味わった。挑発だとわかっていたが、理性が消えた。一歩、前に踏み出す。
二歩目を踏みだそうとした。
できなかった。肩をつかまれたからだ。思いがけず強い力だった。
10
振り向くと、名椎善男がいた。
善男は、志津夫の魂を射抜くような目をしていた。その瞳に吸引されそうだ。今まで老人は口出しも出来ずに黙っていたが、今は違っていた。肩をつかむ握力にも、年齢を超越したものが感じられた。
「行っちゃいかん」
「しかし……」と志津夫。
「いいや、行っちゃいかん」
善男は確信を込めて言った。ゆっくり首を振る。その様子はますます映画「ロッキー」の老トレーナー役、バージェス・メレディスに似てきたように思えた。
善男は言った。
「わしには難しいことは、わからん。学問もないから、あんたとは議論もできん。だが、年寄りだからこそ、わかることも世の中にはある。行っちゃいかんのだ。行ったら、きっと後悔するずら」
老人は、真剣な眼差《まなざ》しで訴えてきた。
志津夫は、すぐには返答できなかった。
直感は、この年寄りの言うことが正しいと告げていた。真希は典型的なトラブルメーカーだ。彼女と共に行動することは騒乱を拡大するだけで、それを収拾することにはつながらないだろう、とも思えるのだ。
ふいに熱風が顔にぶち当たってきた。風呂《ふろ》の浴槽から立ちのぼる蒸気の熱さを備えている。
その風の熱さが、志津夫を刺激した。ある決意をうながしてきたのだ。アドレナリンが血管を駆けめぐり、鼓動を早めた。
志津夫は言った。
「しかし、このままでは気温が上がりっぱなしになるかもしれない。そうなったら日本中が大混乱になるでしょう。今後どれだけの悪影響が出るか、わからない。もう、ぼく一人の問題じゃないのでは……」
「いや、それでも行くべきじゃない」
老人が肩をつかむ手に力を込めた。
志津夫と、善男は睨み合う格好になった。両者とも、しばらくはそのまま凍りついてしまう。無言の対決といった状況だ。
志津夫は老トレーナーと対立する若いボクサーの気分を味わった。老人の言うことは正しいとも思えるのだが、全面的に納得もできない。その相克で身動きできなかった。
そこへ真希が車のホーンを二度鳴らして、介入してきた。
「善男おじさん、本人はもう行く気になってるのよ」
善男が、志津夫の目をのぞき込んでくる。
「本当に行くずら?」
志津夫は、すぐには答えなかった。
彼の内部では、ある思考が醸成されつつあった。それは思考の範囲を越えて、情念のレベルにまで高まってくる。それは元々、志津夫の人格の中にインプットされていたものだった。
「……多すぎる」と志津夫。
「え?」
善男が聞き返した。老人は、とまどった表情だ。
「旧石器遺跡の数が多すぎるんです」
「何の話だ?」
志津夫は深呼吸した。とうとう、己に憑依《ひようい》しているものを自覚したのだ。それは十数年の時間をかけて、自我の中に形成されたものだった。今それが噴出しかけている。
志津夫は説明を始めた。
「同志社大学の森浩一教授も指摘していることですが、常識では説明できない現象が、旧石器時代に起きているんです。つまり、今から四万年前から一万年前の時代だ。
日本における旧石器時代の遣跡の数は、二万を超えている。これは異常な多さなんです。あの広い中国大陸に、旧石器遣跡は一〇〇〇ぐらいにすぎず、朝鮮半島に至っては一〇〇ぐらいだ。なのに、この狭い日本列島から、旧石器遣跡が二万以上も出てきた。
旧石器時代の、この異常な人口集中は、どう説明すればいいのか? 森教授は、やはりこの日本列島には、大陸のいろんな地域の人たちが集まってくる、それなりの理由があるから、集まってきたのだと考える≠ニいった発言をしている。
だが、人々が集まってくる理由とは何なのか? 日本列島が、それほど当時の人々を惹《ひ》きつけた理由は何なのか?」
志津夫に問われて、善男は瞬《まばた》きした。視線が宙に泳いでしまう。
「そんなことを訊《き》かれても、学問のないわしにはわからんが……」
志津夫は首を振り、
「いや、善男さんがわからないだけじゃないんです。このクイズに正解を出した者は、まだゼロなんです。今のところ、考古学者たちにも説明できない謎の一つなんです」
「なるほど」
真希が言った。フェアレディZの運転席で、髪の毛をいじくっている。彼女は何度もうなずいて、
「旧石器時代から、すでに何か≠ェ日本にいた可能性もあるわけね。それこそがアラハバキ神だったかもしれないわ。それに惹きつけられた旧石器人たちが当時、地続きだった中国大陸から日本列島に渡ってきた。やはり実在したのよ」
志津夫は首を振って、
「いや、まだ、わからん。ただ、可能性は考えてもいいだろう。
君の言うアラハバキ神が、旧石器時代に地球上に降りてきたのかもしれない。そして日本列島に住み着いたのかもしれない。その存在が旧石器人たちを惹きつけたのかもしれない。
それは、その後も形を変えて、人々と共存していた可能性もある。縄文時代になると、そのアラハバキ神が縄文人たちと協力して、ブルーガラス土偶を造ったのかもしれない。たぶん、それに神の分身を宿らせて、特別な依代《よりしろ》としたのだろう」
志津夫は自分の手を見つめた。
さきほど、そのアラハバキ神の断片≠ニ接触したばかりだ。確かに青い土偶から何か≠ェ乗り移ってくるのを皮膚で感じた。
その直前には、古代日本の光景もヴィジョンとして観た。典型的なステップ式ピラミッドの映像だ。円錐形《えんすいけい》の山を階段型に加工した構造物だった。
志津夫は確信していた。あれは縄文時代の光景を、のぞき見たのだろう、と。すべての考古学者の夢を自分は一瞬、実現したのだ。
志津夫は説明を続けた。
「さらに弥生時代の銅鐸《どうたく》文化や、鏡信仰や、玉や、剣、矛への信仰も利用していたのだろう。おそらくは三種の神器《じんぎ》≠ニされた品物も、アラハバキ神の本体が宿った特別な依代だったのかもしれない」
「鋭い」
サングラス姿の真希が言った。突然、拍手を始める。楽しそうに笑い声をあげた。
「実は、私もそう考えていたのよ。あの青い土偶ですらも、何かが宿っているんだもの。三種の神器≠ニもなれば、それ以上の……。いいえ、究極の依代じゃないかしら」
「まあね」
志津夫は、どんどん深みにはまっていくのを自覚した。だが、自分で自分を止められないのだ。饒舌《じようぜつ》な別人格が取り憑《つ》いたみたいに、喋《しやべ》り続けた。
「神社の神様は、元々は蛇だった。だが、その蛇神信仰は、どんな実体を持ち、どんな裏づけを持っていたのか? ぼくは、その真相を知りたいと思っていた。
だが、謎は、それだけじゃない。他にも、いっぱいある。
たとえば魏志倭人伝の謎だ。三世紀は地球全体が小氷河期だったのに、当時の日本列島は亜熱帯気候だった、と倭人伝が記録した謎だ。今、起きている気温上昇は、それと同じものなのかどうか……」
「同じよ。決まってるわ」
真希が口をはさむ。
志津夫は彼女を無視して、喋り続けた。
「それに、あのブルーガラス土偶を生んだ、カムナビの謎もある。また、カムナビ山の山頂部を調べたら、岩盤全体がガラス化していた謎もある。いずれも説明不可能な高熱発生の跡だ。山の頂上がガラス化している実例は、日本だけでなく、ミクロネシアのパラオ島にもある。
また、カムナビ山が古代のステップ式ピラミッド、つまり階段型ピラミッドであった可能性もある。奈良県の三輪山周辺では古来、明神の巳《みい》さんが、三輪山を七巻き半している、という伝承がある。遠い昔から人々が円錐形の山に、とぐろを巻く蛇をイメージしていた証拠だ。同時に、これはステップ式ピラミッドが、とぐろを巻いた蛇神のシンボルだったことを伝えるものだろう。
そうした真相の端々が、あちこちに見え隠れしているんだ。だが、全貌《ぜんぼう》がなかなか見えてこない!」
志津夫は右拳《みぎこぶし》で、左手のひらを叩《たた》いた。苛立たしげな動作だ。歯をむき出しにしている。
善男は、志津夫の肩から手を離してしまった。志津夫が、古代の謎をまくしたてるのを、唖然《あぜん》と見つめている。志津夫が全身から発する好奇心と知識欲の波動が、老人を圧倒したようだ。
志津夫は喋り続けた。
「ぼくは今ある価値観が、すべてだとは思っていない。欧米流の科学的合理主義が、すべてだとは思っていない。古代には、今とは別の世界観や宇宙観、科学観が、実体のあるものとして存在したのではないか、と思う。だとしたら、その正体を確かめるべきだと思っていた。
そして最大の謎は親父だ。なぜ、失踪《しつそう》したのか? 今、親父の身に何が起きているのか?
また、これら一連の謎と、どう結びつくのか?
その答えが今、一斉に現れようとしているんだ! やはり確かめなくては!」
「そうよ! そのとおり」
真希がまた拍手した。思うつぼ、といった表情だ。車のクラクションを景気づけに鳴らす。
「さあ、行きましょうよ。真相と、ウロコの治療法を捜しにね」
「ああ」
志津夫は、うなずいた。
名椎善男は黙ったまま、立ちつくしていた。不機嫌さと無念さとが入り混じった顔だ。黙って、志津夫を見つめている。
だが、もう志津夫は考えなおす気はなかった。ここまで大演説をぶって、自分で自分を鼓舞した以上、もう後に引けるはずがなかった。今、喋ったのは自分なのか、己に取り憑《つ》いた業なのか、自分でもわからない。たぶん両方なのだろう。
志津夫は歩き出していた。足が勝手に動く感覚だった。フェアレディZに向かう。
唐突に、志津夫の両足が不快感を訴えた。筋肉の中に猛毒を注射されたみたいだ。力が抜けていく。
よろめいた。殴られて脳震盪《のうしんとう》を起こしたボクサーみたいな足取りになる。
地面に両膝《りようひざ》をついてしまった。前のめりに倒れそうになるのを、慌てて両手で支えた。四つん這《ば》いになってしまう。
「どうしたの?」
真希が不審な顔で言った。運転席から、外に降り立った。
「あ、いや……」
志津夫は四つん這いのまま、顔だけを上げた。唖然とした表情だ。
「あ、足が……」
「足がどうしたの?」と真希。
「力が入らない……」
ふいに、真希が顔を上げた。志津夫の後方を見る。
彼女は口を大きく開き、「あ!」と叫んだ。志津夫の背後を指さした。そこに凶悪犯でも見つけたような態度だ。
志津夫も首をねじ曲げ、背後の老人を振り返った。
11
東京千代田区大手町の気象庁本庁ビルの予報現業室は、うなり声のコーラスで満たされていた。
予報官たちはパソコンのVDT画面に、最新のアメダス実況図を呼び出したり、プリンターに印刷させたりしていた。彼らは実況図をチェックしては、髪の毛を掻《か》きむしっていた。
ちなみにアメダスセンターでは、コンピュータが自動集信する以外に、手動操作で特定のロボット気象計から観測データを集めることもできるのだ。そこで今は、異常高温が現れた五ヶ所のエリア内のデータを三〇分ごとに集めて、気象庁本庁ビルに送信してもらっていた。
F当番がアメダスの気温実況図を指さし、言った。
「各地のヒートアイランドに似たエリアは、依然として直径六〇キロの円形のままです。その周りで今、風が渦をまいてる」
A当番はアメダスの風向風速実況図を指先で叩き、
「渦の直径はざっと四倍の二四〇キロか。上昇気流。低気圧。気象病の人たちが苦しむ。風は低気圧に逆時計回りで流れ込む。ここらはおなじみのパターンではあるんだが」
A当番が指先を逆時計回りに回転させた。図上では風向風速を示す記号が、それに沿った渦をすでに構成している。
地球は二四時間に一回、自転している。そのため、風は常に大地に置き去りにされる形になる。いわゆる「コリオリの力」だ。その影響で、北半球で低気圧に吹き込む風は、常に逆時計回りの渦を成すのだ。
A当番は首をひねり続ける。
「なぜなんだ? アーベント・テルミック……じゃないよな。あれは夕方の森林地帯のものだ。今は真夜中だし……」
アーベント・テルミックとは「夕方の熱上昇気流」の意味だ。
森林地帯は日中に太陽の熱を蓄積する性質がある。そのため夕方になり、大気が冷えてくると、森林に蓄積された暖かい空気が上昇を開始する現象が起きるのだ。これは広い範囲に亘《わた》って発生するのが特徴だ。
F当番が首を振って、
「これは違うでしょう。発生時刻は深夜二時だったし、熱量がけた違いだ。アーベント・テルミックじゃありません」
S当番が自分の専門分野である衛星写真を引っ掻き回しながら、
「おかしいな。小笠原気団だって、おとなしいし、今時こんな熱気を運んでくるわけがないし……」
R当番がパソコン画面をチェックしていた。画面にはアメダスの雨量図が表示されていた。雨量の多い地域は、青い棒が伸びている表示方式だ。
R当番が言った。
「関東全域は雨量ゼロ。今のところ特に異常はないですね。他の地域も……まだ雨量はゼロだな」
R当番がVDT画面を指でつつき、
「でも、この天気、すぐ崩れるでしょうね。東京から東海、近畿までが雨だらけになるかも」
「当たり前だ」
F当番が天井を仰いだ。
今後どうなるかは、予報官たちには、すべて見えていた。
低気圧に流れ込んだ空気は上昇気流に引きずられて、どんどん上空に昇るのだ。その結果、地上の湿った空気が上空で冷やされて、積雲か積乱雲が発生する。雨か雷雨になる可能性は、すでに八割を越えたはずだ。
R当番が電話を取り上げた。
「上空でCAT(晴天乱気流)も吹きまくるな。空港に早めに通報しときますよ」
班長を兼任するA当番がうなずく。
「ああ、頼む。……予報も全部やり直しだ。各自、データをまとめなおしてくれ」
S当番が訊《き》いた。
「でも、この異常気象については、どういうコメントを発表するんですか?」
A当番は沈黙した。
12
志津夫は四つん這いで動けないまま、首だけ後方にねじ曲げていた。
見ると、名椎善男が胸の前で両手を合わせて合掌していた。
だが、奇妙な合掌だった。普通、合掌と言えば指先を天に向けるものだ。だが、善男は指先を志津夫へ向けているのだ。まるで指先から、何らかのパワーを放射しているような姿勢だった。
志津夫は事態を認識した。
自分の両足を麻痺《まひ》させたのは、この老人なのだ!
世界がひっくり返ったほどの衝撃を受けた。すぐには、この新しい現実を受け入れられない。口が開閉するだけで、なかなか声が出なかった。
志津夫は、やっとの思いで言った。
「善男さん? まさか、あなたが……」
真希がサングラスを額へ跳ね上げた。一歩、前に出て叫ぶ。
「そうか! やっぱり善男さんも、そういう真似ができるのね」
善男は渋面を浮かべていた。異様な力≠振るいながら、それを誇示しているような雰囲気はまったくない。むしろ悲しげな感じに見えた。
やがて善男が言った。
「日見加村の者は大人になると、身体にウロコができて、こういう力≠持てるようになる。もっとも、他人を足止めできるほどの力≠ェあるのは、わし一人だが……」
志津夫も真希も無言だった。どう反応していいか、わからない。
志津夫の脳裡《のうり》では、名椎善男の人物像が破裂し、崩壊していった。
今までは、彼のことを田舎暮らしを愛する神主だとばかり思っていた。山奥のこの土地で生まれ育ち、この土地に骨を埋める人生を受け入れている、慎み深い古老だとばかり思っていた。確かに秘祭を執り行っていた時の、善男の威厳のある態度には驚いたが、今まで知っていた人物像を修正するほどではなかった。
だが、今、志津夫の眼前にいる名椎善男は、まったく別人に見えた。古代からの密儀だけでなく、神秘的な力≠燻け継ぐ古代|巫王《ふおう》の末裔《まつえい》のようだ。
志津夫は四つん這いのまま、言った。
「じゃ、あの秘祭はこれだったんだな。この力を受け継ぐために……。これを植えつけるために……」
「単純に言えば、そういうことずら」
善男は、うなずいた。
老人の顔のしわが深い陰影を生んでいた。今までとは異なる、重厚な雰囲気を感じた。いざという時は、超自然の力≠操れる自信があるからだろう。
善男は合掌した指先を志津夫に向けたまま、説明を始めた。言葉を一語一語、ゆっくり並べていく。
「放っておけば、この日見加村も過疎化していくのは避けられないずら……。若い者を、こんな山あいの村につなぎ止めておくのは、並大抵のことではない……。だから、日見加村の村民であることに、優越感とかエリート意識とか、そういったものを与えてくれるような何かが要る……。となると、他に手がなかった……。昔からのテトオシの儀式を、どうしても続けるしかない……」
そこで言葉が途切れた。しばらくは誰も何も言わなかった。
沈黙を破ったのは真希だった。鼻を鳴らして、言う。
「やっぱりね……。私はね、今まで日見加村の連中を見張ってたのよ。村から外へ出かける人を見つけると一日中、尾行してた……」
彼女は首を振り、髪の毛を揺らした。声を張り上げて、言う。
「驚いたわ! 皆、パチンコ屋に行って勝つ確率が異常に高い。全員が三回に二回の割合で勝ってる。そうでしょう?」
真希は老人を指さした。
善男は、わずかだが苦笑した。軽犯罪を見破られた時の面はゆさがあるからだろう。静かに答えた。
「……ここは農業以外は何の産業もない村だ。収入をおぎなう程度のアルバイトは許されるずら」
そこで、善男は大きく首を振った。真希の目を真正面から見返す。
「だが、わしは皆を諌《いさ》めてきた。アルバイトに熱中するんじゃない、と。わしらの本業は農業だ、とな。皆、それはちゃんと守ってくれた……」
「あら、そう。聞き分けのいい人ばかりで良かったわね」
真希はせせら笑うように言った。両手をくびれたウエストに当てる。上体をやや前に傾け、挑戦的な物腰を取った。
「だけど、テトオシ儀礼をやっていると、時々、私や葦原志津夫さんのように、強すぎる力を持つ者も現れてしまうのよ。そうなんでしょう? ただそこにいるだけで、異常な現象が起きてしまうような人間がね。そこで、そういう赤ん坊と、その親は村から追い出す。将来、大きなトラブルのタネになるからでしょう? しかも、本人には何一つ教えないままにしておく。それが日見加村の古くからのしきたりってわけね?」
善男は喉《のど》に固形物が引っかかったような顔になった。図星だったのだろう。明らかに、答えに窮している。
志津夫は四つん這《ば》いのまま、善男の表情を観察していた。そして首だけ動かし、真希を見て、言いかけた。
「じゃ、君も……」
「冗談じゃないわ!」
真希は片足を持ち上げ、地面に叩《たた》きつけた。空手の試し割りでもやっているような勢いと動作だった。
彼女の黒い瞳《ひとみ》は燃え上がっていた。憤然とした態度で、名椎善男に歩み寄っていく。老人を指差し、糾弾した。
「冗談じゃないわ。つまり私が、こんなウロコだらけの身体になったのは、あなたたちのエゴイズムのせいじゃないの! おまけに誰も、私に真相を教えてくれなかった。子供の頃からウロコだらけの自分の身体を見る度に、私がどれだけ悩み、苦しんだと思う? 年頃の女の子にとっては地獄だったわ!」
志津夫は真希の告白を聞き、呆然《ぼうぜん》としていた。
「じゃ、君も……」
そう言いかけて、舌が止まってしまった。
どうやら真希も志津夫も、まったく同じ境遇だったらしい。つまり赤ん坊の頃、周囲にポルターガイストのような超常現象を巻き起こしていたのだ。それで志津夫は、生後すぐに日見加村を離れることになったのだ。
その後、志津夫の場合は、目に見えるような異常など何もなかった。だが、真希は不運にも、子供の頃から全身にウロコが発症したらしい。両者の人生は運によって天地ほども分かれていたのだ。
志津夫は言った。
「君も、そうなのか。だが、ぼくの場合はウロコが急に広がったのは、あの茨城県で青い土偶に触ってからだが……」
真希は、志津夫の台詞《せりふ》を無視した。親指でコイン・トスをやる。弾《はじ》いた五〇〇円玉を巧みにキャッチした。その拳《こぶし》を老人に突きだした。
「ちょうどいいわ。今ここで復讐《ふくしゆう》してやる!」
真希の拳が震え始めた。力一杯コインを握りしめたのだ。
同時に、善男が両手で首と胸をおさえた。気管が閉塞《へいそく》したのだ。目と口が大きく開く。
老人は舌を突き出した。酸素を吸引しようとしたようだが、無駄だった。眼球がひっくり返り、白目になっていく。体力の衰えた老人にとって、耐え難い責め苦だったろう。
善男は、地面に両膝《りようひざ》をついた。手で首をおさえたまま、前方に倒れ込む。そのまま鼻面を大地に叩きつけてしまった。
老人はうつ伏せのまま、何とか両手を伸ばして、合掌のポーズを取ろうとしていた。それで自分の力≠発動させて、真希の首絞め≠ノ対抗しようとしたのだろう。
だが、善男は苦悶《くもん》のあまり、手のひら同士をくっつけることすら出来なかった。結局は自分の首をおさえてしまった。窒息の恐怖に、本能が耐えられなかったようだ。
真希は握り拳を天空に突き上げ、呪詛《じゆそ》の言葉を吐いた。
「今まで復讐を控えていたのは、真相を探る手がかりが欲しかったからよ。つまり、カムナビにつながる手がかりをね。でも、それも、もう終わった!」
善男は顔を地面に突っ伏したまま、痙攣《けいれん》し始めた。クモの巣に引っかかった虫けらみたいだ。両足がバタフライ泳法のドルフィン・キックそっくりに動き、地面を打ち続けている。
一方、志津夫は麻痺状態が消えて、自分の両足が動くことに気づいた。善男の合掌ポーズが解けたせいで、老人の力≠フ放射は消えたのだ。
彼は慌てて立ち上がった。真希に向かって右手を突き出し、叫ぶ。
「やめろ! コインを放せ」
とたんに真希の腕が跳ね上がり、握り拳が開いた。まるで手の中に火薬があって、それが爆発したようだ。
彼女の手から銀色の硬貨が跳ね上がった。それは地面に落ちて転がり、止まった。
同時に、善男の痙攣が止まった。酸素を貪《むさぼ》り、咳《せ》き込みだす。何とか四つん這いになった。
志津夫は真希に向かってダッシュしようとしたが、その足を止めた。どういうわけか、わからないが、殺人事件にならずに済んだようだ。安堵《あんど》の吐息をついた。
だが、真希は不審な顔で言った。
「え?」
彼女は自分の手と落ちた五〇〇円玉を見比べていた。納得がいかないような表情だ。
どうやら、真希は首絞め≠中止するつもりなどなかったらしい。なのに突然、パワーのスイッチとなる硬貨を、無意識に離してしまったようだ。
真希は慌てて落としたコインを拾おうとした。身をかがめる。
反射的に、また志津夫が彼女に右手を伸ばし、叫んだ。
「やめろ! 拾うな」
真希の動作が停止した。上半身を折り曲げており、右手の指先が地面に触れている。そのまま凍りついた。まるで、子供の遊びの「ダルマさんがころんだ」でも、やっているような感じだった。
その光景には、リモコン操作に酷似した雰囲気が濃厚に漂っていた。そうとしか表現できないものだ。
何しろ真希は、善男に強い殺意を抱いているのだ。その憎悪は並大抵のものではなく、他人が制止しても、まず無駄だろう。聞く耳など持たないはずだ。
にも拘《かかわ》らず、志津夫が片手を伸ばして「やめろ」と言っただけで、真希の全身にストップ・モーションがかかってしまったのだ。
真希が、かがんだ姿勢のまま、表情を歪《ゆが》めた。
「そ、そんな……」
彼女の身体が小刻みに震え始めた。どうやら、自発的に動こうとしているらしい。だが、金縛りに遭ったような状態らしい。
志津夫が唖然《あぜん》と、その様子を見ていた。そして、自分が伸ばしていた右手と、真希とを見比べる。関連性に気づいたのだ。
驚きの感情がパルス波となって、彼の全身を駆けめぐった。さらに背骨の中を、何かが上昇してくる感覚があった。今まで味わったことのない体験だ。
「え? ぼくか? ぼくがやったのか? ぼくが、やめろと言ったから?」
真希が動けないまま、叫んだ。
「そのとおりよ! あなたがやってるのよ!」
13
志津夫は自分の両手を見つめていた。
今、確かに何かを感じた。自分が何かのパワーを放射したような感覚だ。しかも、眼前の光景は、彼が超常現象を起こしたことを明白に物語っている。
真希は、両足と右手を地面につけた不自然な姿勢で固まっていた。全身を小刻みに震わせている。何とか硬直状態から脱しようとしているらしい。だが、身震いするだけで精一杯のようだ。
志津夫は悟った。突然、起きたこの金縛り現象も、超自然のパワーが介在しているのだろう、と。
先ほど、名椎善男も、志津夫の両足を麻痺《まひ》させて倒れさせるという、芸当をやってのけた。真希も、手を触れずに他人を窒息させることが可能だ。また、山梨県で出会った白川祐美の場合は、衝撃波のようなものを発射できるらしい。
それらと同じパワーが、志津夫にも宿ったのだ。ただし、彼の場合は今まで見聞きしてきたものとは、別種の効果を持つようだ。つまり、リモコンのように、他人の行動を支配できる能力らしい。
善男が四つん這《ば》いの姿勢で、咳き込みながらも、志津夫たちの様子を見ていた。目を大きく見開いている。驚愕《きようがく》と悲しみが混じった表情だった。
これは、老人にとってはもっとも歓迎したくない事態だっただろう。こうなるのを恐れたからこそ、葦原志津夫の一家も、名椎真希の一家も、日見加村から追放したのだ。なのに、その努力は水泡に帰したわけだ。
真希は依然として、彫像になったみたいに動けないまま、呻《うめ》き続けていた。何とか呪縛《じゆばく》を解こうとしているようだ。だが、なかなか思うようにならないらしい。
その様子を見て、志津夫は詰めていた息を吐き出した。そして彼は、老人の方へ駆け寄った。
凍りついた真希のことは放っておくことにした。彼女を「解凍」するのは後回しでいい。それよりも窒息しかけた老人が心配だ。
志津夫はしゃがみ込み、老人の肩に手を当てた。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ……」
善男の顔は汚れていた。夜目にも赤く染まっているのがわかる。倒れた時に顔面をぶつけて、鼻血が出たのだろう。
「血が……」
志津夫はポケットからティッシュペーパーを取り出し、善男の顔にあてがった。
老人は咳き込みつつも、自分で血をふき取った。今のところ、心臓発作などの深刻な被害はないようだ。
それを確認して、志津夫はまた吐息をついた。
ふと背後に気配を感じた。志津夫は慌てて片膝立ちのまま、振り返る。
真希が仁王立ちになっていた。彼女は軽く息を弾ませている。肩が上下していた。
彼女の整った美貌《びぼう》には憎悪がみなぎっていた。セミロングの黒髪が風にあおられ、逆立っている。頭部から火炎が噴出しているような眺めだった。
真希は片手の指先に、コインを持っていた。どうやら、自力で金縛り≠ゥら脱出したようだ。
「まだ、やるのか!」
志津夫は叫んで、立ち上がった。一歩、下がり、身構える。全身が緊張し、熱くなった。
だが、彼女はゆっくりと硬貨をポケットにしまった。大きく息を吐く。
「……いいわ。今は許してあげる。どうせ、また、あなたに邪魔されるだけだもの」
真希も一歩、下がった。腕組みする。志津夫の全身を頭から爪先《つまさき》まで観察した。
彼女は呟《つぶや》いた。
「そうか……。あなたも力≠持ったの。しかも、人を金縛りにできる……」
彼女は肩をすくめた。両手を軽く左右に開くポーズを取る。
「でも、あいにくだけど、決定的に優位に立てるような力じゃないみたいよ。だって、ご覧のとおり、私は脱出したわ。必死に抵抗すれば何とかなったもの」
そして真希は再び、怒りに火が点《つ》いたようだ。きつい目で、善男を振り返る。老人を指さして、叫んだ。
「これで終わりだと思ったら、大間違いよ! いずれ、あなたたちの自分勝手な行動に決着をつけてやる!
あなたたちは村の過疎化を防ぐことができれば、それで良かったんでしょう。だけど、そのために私の人生の前半は無茶苦茶になったのよ。そのことを必ず後悔させてやる!」
善男は何も言い返さなかった。無言のまま、鼻血をティッシュで拭《ぬぐ》っている。その目には惨めさと悲哀の色が浮かんでいた。
志津夫の胸にも後悔の念が湧き上がっていた。やはり自分は、とんでもない間違いをしでかしたような気がしてきた。
もしも、あの時、洞窟《どうくつ》の奥宮から引き返していれば……。力≠得ることなどあきらめて、引き返していれば……。平凡な人生へと引き返していれば……。
14
空の透明度が増してきていた。純粋な紺色になる。もうすぐ夜明けだった。
地平線付近がイエローオレンジに輝きだしている。昇ってくる直前の太陽によるハレーション効果だ。
愛知県名古屋市の南側の空には、ほとんど雲は見られなかった。逆に、北側にはブルーグレーの水彩絵の具をにじませたような雲が湧き出していた。空は青い部分と雲とによって二分され、両者の勢力争いの様相を呈している。
……二五歳の消防士、相川旭《あいかわあきら》は空など見ていなかった。眼前に出現した異様な光景に、魂を奪われていたからだ。もう一人の消防士、水野正昭《みずのまさあき》も同様だった。
その建造中の冷凍倉庫は二階建てで、ジャングルジムのような骨組みを外気にさらしていた。高さ七メートル、奥行き四〇メートル、幅二〇メートルほどだった。今は、明るくなってきた空をバックにシルエットとして浮かび上がっている。
最初、遠くからこの倉庫の骨組みを見た時は、目の錯覚かとも思った。形が歪《ゆが》んでいるように見えたからだ。
だが、錯覚ではなかった。骨組みの最上部が溶けかけていたのだ。向かって右側の端から七、八メートルほどの部分だ。
十数本の鉄骨が、ガスバーナーであぶられたチーズのような惨状をさらしていた。鉄骨は、どれも本来は直線状の部品だったのだろう。だが、今は前衛芸術家の彫刻みたいな形状になり果てていた。
作業員たちの足場になっているキャット・ウォークも、ひん曲がっていた。高熱に耐えられなかったのだろう。
地面を見ると、何本かのキャット・ウォークが乱雑に転がっていた。支えを失い、建物から落ちたものらしい。
地面には黒い水たまりのようなものも、いくつかあった。どれも不気味な湯気をたてている。溶け落ちた鉄骨の一部だろうと想像できた。
付近一帯には、強烈な熱気が漂っていた。相川旭は自分の顔が紅潮してくるのを感じた。溶鉱炉のかまどの前に立っているような気分だ。
なのに周囲を見回しても、火の気はまったくないのだ。炎を上げているものもない。
ようやく先輩の消防士である水野が、相川に声をかけてきた。
「おまえ、展望塔で何を見たんだって?」
相川は答えた。
「だから、光ですよ。金色の光。それが揺れ動いているみたいに見えたんです。ちょうど、この川並町の辺りだった」
「もう一度|訊《き》くけど、それは雷じゃなかったのか?」
相川は空を指さした。
「こんなに晴れてるのに、雷ですって? そんなことあるわけないでしょう。第一、雷ならゴロゴロ音がするでしょう。でも、何も聞こえなかった。ただギラギラと何か細長いものが揺れながら光ってた。おそろしく長くて空の彼方《かなた》まで続いているような感じだった……」
相川の脳裡《のうり》では、あの時、見た閃光《せんこう》が繰り返し繰り返し再生されていた。垂直な金色の針。それが揺れ動いている。
非現実的な光景だった。突如、針状の純粋なエネルギー体としか言いようがないものが視界に現れたのだ。眼の錯覚かと、何度か瞬《まばた》きもした。だが、それは消えなかった。
この世界の秩序に従わない存在が、姿を現したのだ。見た瞬間、全身の血液が沸騰し、眠気が吹っ飛んだ。
「で、慌てて警報を鳴らして、皆を呼んだ。だけど、皆が展望塔に来た時にはもう消えていたんです」
相川は悔しそうな顔になった。
もう少し早く警報を鳴らすべきだった。その閃光は四〇秒ほどしか持続しなかったからだ。奇妙なことに、その光条は最初、東の空に向かって二〇度ほど傾いた状態だった。それが徐々に垂直になり、やがて西の空に傾いていって、消えた。他の消防士たちが駆けつけた時には、そこには黎明《れいめい》の群青色の空が広がっているだけだった。
他の者は目撃しそこねたと知り、相川は唸《うな》り声をあげたものだ。カメラを持っていなかったから、写真一枚撮ることもできなかった。
相川は現場を指さして、
「そして、ここに来てみたら、このありさまだ。……何かが起きたんですよ」
「何がだ?」
「さあ」
相川の声はかすれていた。熱気とショックで、喉《のど》の粘膜が渇きっぱなしだ。
相川は、つい怖々と振り返ってしまう。異様な破壊現場に、また眼が吸い寄せられてしまった。
十数本のねじ曲がった鉄骨の群れが、理性を揺さぶってきた。巨神が雲の間から手を伸ばして、つかみ潰《つぶ》していった跡のようだ。これが人間業であるはずがない。
想像力が勝手にイメージをつむぎ出す。もしも高熱が発生した時に、この場に居合わせていたら、どうなっていたのか? 中まで、じっくり火の通ったウェルダンだ。湯気の立つステーキの出来上がり。付け合わせにポテトとニンジンはいかが?
相川が振り返ると、水野も溶けかけた鉄骨群を見上げっぱなしだった。眼がいっぱいに見開かれている。彼も相川と同じことを考えていたに違いなかった。
どこからか小鳥のさえずりがする。それを聞いているかぎりは、さわやかな朝だと感じられた。だが、タイかベトナム辺りを思わせるような気温と、眼前の光景とが、それを裏切っていた。
やがてバンの一群がエンジン音を響かせ、その場に到着した。全部で五台だ。そのうちの二台は赤い回転灯を光らせたパトカーで、現場調査のためだ。
残りの三台は、車体にそれぞれ異なるテレビ局のマークがデザインされていた。消防署から通知を受けて、現場に駆けつけたのだろう。
彼らテレビ局員たちは、溶けた鉄骨群を見るなり、奇声をあげた。
15
白川祐美は目を見開いていた。
二〇インチのテレビ画面には、岡本太郎が設計に口出ししたような代物が映っていたからだ。それは名古屋市内で建造中の冷凍倉庫の骨組みだという。だが、原型からは程遠い姿に変わり果てていた。
マイクを持った若い男性リポーターが喋《しやべ》っている。額に汗の玉が浮いていた。
『……ご覧のとおり、周辺には火の気もなく、火事が発生したというわけでもないのですが、鉄骨が溶けて、崩れかけています。今のところ、ここで何が起きたのか、よくわかっていません……』
リポーターの背後には、腕組みしている制服警官や、消防署員らしい男たちがいた。彼らは溶けた鉄骨群を指さしては、顔をしかめ、首をひねっている。
確かに、首をひねるしかない光景だった。まるで巨大な火の玉が、その骨組みを通り抜けたみたいだからだ。二階の右端と、その真下にある一階の上半分とが、熱にあぶられて溶け落ちている。一階の鉄骨も歪んでいる。
画面の中のリポーターが言った。
「そう言えば、名古屋市も依然としてフェーン現象らしい猛暑に覆われております。昨夜から始まったものです。私もこうして立っているだけで、汗まみれになってしまうほどです。……ええ、以上、現場からでした」
画面がテレビ局のスタジオに切り替わった。毎朝、見慣れた男女アナウンサーたちの顔が映った。
白川幸介はリモコンを持って、テレビのボリュームを下げた。アナウンサーたちは口を開閉させるだけになり、何も聞こえなくなった。
幸介は充血した目で、口ひげを撫《な》で始めた。興奮した面持ちだ。すでに服装はパジャマから、紺色の作務衣《さむえ》に着替えて、座椅子の上であぐらをかいている。
彼の目が血走っているのは寝不足だからだ。今朝までラジオにかじりついて、異常気象についての情報をメモし続けていた。
場所は、白川家宅の居間だった。八畳間で、神棚があり、床の間にはテレビとビデオデッキと、骨董品《こつとうひん》の掛け軸がある。
壁のエアコンが冷風を吹き出していた。室温を摂氏二七度に保っている。六月初めだというのに、冷房が必要な陽気になってしまったのだ。
幸介は両切りのピースをくわえて、火を点《つ》けた。煙を吐き出し、
「これは絶対に火事じゃない。だいたい火事で鉄骨まで溶けた、なんて話は聞いたことがない。そもそも鉄骨の骨組みだけで、燃えやすいようなものは何もないじゃないか……」
幸介は手のひらでテーブルを叩《たた》いた。
「これは、あれだ! 始まったんだ、カムナビが!」
祐美は横座りの姿勢のまま、返事もせず、相槌《あいづち》も打たなかった。だが、内心ではうなずいていた。彼女の心臓は鼓動を早めていた。
始まったのだ。
幸介は、くわえタバコのまま宙を睨《にら》んでいた。やがて、けわしい表情で言った。
「猛暑、倉庫の火事。まさに続日本紀《しよくにほんぎ》の記述そのままだ」
祐美がそれを受けて、暗唱した。
「天平宝字《てんぴようほうじ》七年、つまり西暦七六三年、九月の条」
幸介はうなずいて、
「弘仁《こうにん》五年、つまり西暦八一四年の春もだ。東北地方で神火と共に蝦夷《えみし》による反乱が起こったと、続日本紀に記録されている」
彼はタバコで、テレビを指した。
「……おそらく今、見たような現象だろう。謎の高熱が発生し、大和王朝の倉庫を焼いた。それと相前後して蝦夷の反乱が起きる。カムナビを呼ぶための知識が、まだ地方には残っていた証拠だろう。……もちろん記録から抹消されたカムナビ事件も数多くあった。それらは、うちの先祖が関わったものだ……」
祐美が、ため息をついて言った。
「もう耳にタコ……と言いたいところだけど、そうも言ってられなくなったか……」
「当たり前だ」
幸介は深々と煙を吸い込み、吐き出した。
「現世の秩序を守らなければならない。たった二人しかいないが、それでも守らねばならない。せめて男の子がもう一人欲しかったのに……」
祐美は眉《まゆ》を逆立てた。父親を指さし、睨む。
「それは本当に耳にタコだよ。性転換手術は可能だけど、私にやれって言うの? 男になった私が見たいって言うの?」
「何も、そこまでは言ってない」
幸介は、娘を横目で睨んだ。そして話題を打ち切り、テーブルの上にあった地図帳を広げた。
祐美は鼻で笑ってやった。だてに二一年も、この頑固親父の娘をやってきたわけではないのだ。
幸介は地図帳の中から、関東、中部、近畿を一目で見渡せるページを出した。彼が徹夜でメモし続けた紙片と見比べ始める。
その様子は生き生きしていた。幸介が使命感に燃えているのが傍目《はため》にもわかった。彼には、軍人や警官の家系に生まれた男性と似たところがある。自分こそが現世の秩序を守る資格がある、という強烈なヒロイズムに酔っているのだ。
彼は地図を見ながら呟《つぶや》いた。
「……いったい、どう考えるべきかな? やはり名古屋の熱田神宮が狙われるのか?」
「父さん、楽しそうだね」
祐美はテーブルに頬杖《ほおづえ》をついて、言った。
幸介が顔を上げた。虚をつかれた表情だ。呼吸が止まった状態で、娘を見返している。
祐美が続けて、言った。
「何だか楽しそう。本当はこういうことが起きるのを待ち望んでいたみたい……」
「バカな!」
幸介はタバコにむせ始めた。咳《せ》き込む。両切りピースを灰皿に押しつけて、消した。
その様子に、祐美は苦笑した。
幸介が言い返した。
「……何をバカな。本当は起きなければ、それにこしたことはないんだ。だが、万が一の事態に備えていたんじゃないか。……そういうことだ」
幸介はそう言い、また地図とメモを見比べ始めた。これで、この話題はお終《しま》いというわけだ。
祐美も、それ以上は追及しなかった。たぶん、父の心境は戦争が始まった時の軍人の心理に近いのだろう、と思った。使命感と興奮、不安、恐怖などのカクテルだろう。
幸介は地図とメモを見つめ、呟き始めた。
「結局、東京と三重県伊勢市で、気温が二九度まで急上昇した。それと気温が三三度まで上がったのは奈良県桜井市と名古屋市。よりによって意味深な場所ばかりだ。それと、なぜか長野県の南部もだ……」
「長野県? 南部?」
祐美は思わず、のぞき込んだ。その言葉に、強く反応してしまう。目を見開いた。
「それって、どの辺?」
幸介が地図の一点を指さして、
「長野県下伊那郡だ。岐阜県との境でもある……。ここはあの葦原正一さんの生まれ故郷じゃないか。確か墓参りに行くとか言ってたが、何か関係があるのか?……どうしたんだ、祐美?」
「え?」
祐美の小さなヒップが跳ね上がりそうになった。横座りの姿勢が崩れそうになる。顔色が変わっているのが、自分でもわかった。
幸介は娘の顔をのぞき込んだ。
「えらく心配そうな顔だな。やっと、おまえも事の重大さが飲み込めてきたのか?」
「ま、まあね」
ごまかした。だが、祐美の小柄な身体は全身が心臓と化していた。自分の鼓動が爪先《つまさき》から脳天まで轟《とどろ》いている。
祐美は立ち上がった。居間に父を残して、独りで洗面所に行く。
祐美は鏡と対面した。
可愛い丸顔がそこに映っていた。目が大きくて、ちょっと垂れ気味。鼻と唇は小さめだ。あえて悪口を言うなら、可愛いタヌキ顔というところだ。
小柄で、身体の線も細いタイプだ。身長は贅沢《ぜいたく》を言わないが、もう少しバストとヒップにメリハリが欲しい、と本人も日頃から思っている。
今、鏡の中の顔は青ざめていた。さっきは長野県の南部と聞いて、頭を鈍器で殴られたようなショックを受けた。それが、まだ体内に居座っている。
長野県南部の下伊那郡。そこは葦原正一の生まれ故郷であり、その息子、葦原志津夫の故郷でもある。
そして祐美が、志津夫の留守番電話にメッセージを吹き込み、教えてしまったのだ。志津夫の父、正一が墓参りに向かうことを。
父に内緒で、祐美は志津夫に「密告」したのだ。ほんのいたずら心だった。それに志津夫へのお礼の気持ちもあった。
甲府市で、旧辞《くじ》を取り返した翌日、祐美はテレビを観て驚いたのだ。江口泰男《えぐちやすお》が自首していたからだ。それで祐美は確信した。きっと、現場にいた志津夫が自首するよう説得したのだろう、と。
これで、伸雄《のぶお》おじさんも少しは浮かばれるだろう。そう思うと、志津夫に少しだけお礼がしたかった。彼に少しだけ情報をやろうと思った。
それに、もしかしたら、いずれは彼も仲間≠ノなってくれるかもしれない。それなら大歓迎だ。実は初対面の時から、彼に対する好意が胸中に生じていた。線香花火のような、ほのかなときめきだ。
ところが、昨夜はブルーガラスの銅鐸《どうたく》が警報みたいに鳴り出した。ブルーガラス土偶をご神体とする荒吐社の屋根もこげた。呼応するように、全国各地で気温上昇が始まった。
そして志津夫が今いるはずの長野県南部も異常気象に覆われているのだ。
祐美は、いつの間にか両手で心臓を押さえるようなポーズになっていた。
自分が何か、とんでもない失敗をやらかしたような気がする。もしかしたら、カムナビの復活に手を貸してしまったのではないか?
よりにもよって自分が、その引き金を引いたのではないか? 志津夫がその引き金だったのではないか?
一方で、まさか、と打ち消す気持ちもあった。これは過剰反応だと思った。危機が迫ってきて、必要以上にうろたえているのだ。そうに違いない。
顔を洗った。男の子みたいに短い頭髪も、少しブラッシングする。
気を取り直してから、台所に向かった。濃いコーヒーでも飲もう。それで、すっきり目が覚めるし、気分も落ち着くだろう。
台所には、すでに幸介が居座っていた。緑茶を飲みつつ、電話をかけているのだ。相手が出たらしく、話し始めた。
「ああ、やっと出たか、正一さん。今まで何やってたんです? 何度もかけたのに。携帯電話の電源を切ってたんじゃないんですか?……ああ。そんなことだろうと思った。今どこに?……やっぱり長野県か」
祐美は身体が凍りつくのを感じた。幸介は、葦原正一と話しているのだ。正一の息子、志津夫がこれを知ったら、どんな顔をするだろうか、と思った。
幸介は口調を詰問スタイルに変えて、言った。
「訊《き》きたいことがある。私に今まで黙っていたことがあるんじゃないか? もう隠し事はなしにしてもらいたい。テレビで観たはずだ。続日本紀の記述そのままの天変地異といった状況になっているじゃないか」
祐美は何気ないふりを装い、コーヒーカップを手にした。
幸介が言った。
「……さあ、喋《しやべ》ってもらおう」
しばらく沈黙があった。やがて彼の顔色が変わった。
「……何?」
コーヒーを入れようとした祐美の手の動きも止まってしまった。蒼白《そうはく》な顔で、電話中の父を凝視してしまう。
幸介は問い返した。
「……それで?」
幸介の眉間《みけん》にしわが寄っていく。一心不乱に、相手の話に耳を傾け続けている。元々、猛禽《もうきん》類に似た容貌《ようぼう》なのだが、その顔立ちがますますワシやタカそっくりになってきたようだ。
祐美は悪い予感が当たったような気がした。
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二の巻 接 近
長距離便のトレーラートラックが通過していく。電飾で飾り立てたトラックが多かった。「ご意見無用」だの「流れ星見参」だのといったネオン文字が輝いていた。
葦原志津夫は、走り去っていくトラックの後部を、目で追いかけていた。その異様な現象に唖然《あぜん》とする。
路面に、トラックの赤いテールランプが映っているのだ。まるで路面に水たまりがあって、それが光を反射しているようだ。しかも、その水たまりはトラックの後ろを高速で移動しており、トラックを追いかけていくように見える。
逃げ水≠セった。夏の路面に見られる蜃気楼《しんきろう》の一種だ。この異常な熱気は、六月上旬の夜明け前の時間帯に逃げ水≠ワで作りだしているのだ。
志津夫は顎《あご》に垂れてきた汗をハンカチで拭《ぬぐ》った。町全体がサウナ風呂《ぶろ》と化したようだ。
謎の熱気は、ここ愛知県|小牧《こまき》市にも押し寄せていた。というよりも、逃げ水≠フように、熱気が志津夫を追いかけ回しているような感じがしてきた。
東を見ると、地平線の辺りが薄い紫色になっていた。そこから上空に向かって紫色が濃くなり、美しいグラデーションを成している。
地平線のすぐ上には、カフス・ボタンのような金星が見えた。明けの明星が太陽の先兵として、昇ってきたのだ。
志津夫はドライブインの前に立っていた。ドライブインそのものは電灯が消えている。看板や窓は真っ暗だ。
自動販売機の列だけが電飾のように輝いていた。二四時間無休で、多数の商品見本を展示している。これは海外では見られない、日本特有の光景だ。
志津夫は財布からコインを取り出し、自動販売機に投入しようとした。
だが、寸前で、手の動きが止まった。あるイメージが浮かんだのだ。
山梨県で出会った丸顔の美少女、白川祐美だ。彼女は故障した自販機を作動させたのだ。あれも超常能力の応用だろう。
もしかすると祐美はコインを入れなくても、自販機を作動させることができるのではないか。そうだとすると、普段の彼女は無料でジュース類を入手しているのかもしれない。
そして今の自分ならば、同じことができるのではないか。
志津夫はコインを胸ポケットに入れた。一度、火が点いた好奇心は、もう止めようがなかった。
まず、見よう見まねで、伯家流の秘印を両手で結んだ。両手の親指と人差し指で、正三角形を作ったのだ。それを自動販売機の選択ボタンに近づける。
缶コーラをイメージした。それが一本、落ちてくる様子を思い描きつつ、両手の指先でボタンを押す。
何も起こらなかった。
三回、四回と試した。無駄だった。機械は志津夫の邪念を無視するかのように沈黙している。
志津夫は、ため息をついた。
「ぼくには万引きの才能はないってことか……」
どうやら志津夫が得たパワーには、物理的な作用力がないらしい。その点で、真希や祐美とは異なっていた。
今までの経緯から判断すると、志津夫が得たパワーは、人間や生物を相手に威力を発揮するらしい。つまり、相手を金縛りにしたり、一時的に相手の行動を支配したりできるのだ。だが、逆に機械などに対しては、何の影響力も持たないようだ。
いささか失望した。結局、志津夫は代金を払って缶コーラ二本を買った。それを小脇に抱えて、だだっ広い駐車場を歩きだす。
志津夫は首を振り、呟《つぶや》いた。
「まあ、真希さんや祐美さんに比べたら、ぼくは若葉マークだからな……」
彼の頭上には、「P」と記された大きな看板があった。他に「小牧東インターチェンジまで1キロ」の標識が水銀灯に照らされている。
名椎真希は水銀灯の真下にいた。フェアレディZの外に立ち、ボンネットの上に地図と手帳を広げている。シャープペンで手帳に何か書き込んでいた。
志津夫は黙って、缶コーラを差し出した。真希は顔を上げて、ありがとう、と言い、コーラを受け取った。二人とも、黙ったまま炭酸の刺激を喉《のど》に送り込んだ。
さすがに真希も睡眠不足がこたえている様子だった。赤くなった目を時々こすったりしている。
志津夫は車の助手席から、道路マップを取り上げた。指で地図上の通過点をなぞっていく。
志津夫と真希は、夜明け前に長野県の神坂峠を出発した。そして中央自動車道を通って、岐阜県南端を一時間で突っ切った。今はここ、愛知県北東部の小牧市に着いたところだった。
志津夫は地図に当てた指を、さらに西へ移動させた。
ここから西に五キロ進むと、東名高速道路との合流地点だ。その向こうには春日井《かすがい》市と名古屋市の市街地が広がっている。
志津夫が言った。
「このままだと行き先は名古屋か? そろそろ教えてくれてもいいんじゃないか?」
真希が鼻で笑った。返答はない。
志津夫は憤然として、道路マップで車の屋根を叩《たた》いた。
「いいかげんにしてくれ! 私についてくれば真相がわかる≠ニか、真相がわかれば、身体を元に戻す方法もわかるんじゃないか≠ニか君が言うから、ついてきたんだ。それにパートナーだと言ってたじゃないか。相棒に何も教えないなんて、そんなパートナーがあるか!」
「わかったわかった。いい子だから、かんしゃくなんか起こさないの」
真希は微笑んだ。両手を頭上に差し上げて、伸びをする。豊かなバストが見応《みごた》えのある曲線となって、突き出た。
彼女は地図と手帳を畳むと、運転席に座った。ドアを閉めて、イグニッションを回す。三〇〇〇ccのエンジンが低音で唸《うな》り始めた。
それを見て、志津夫もフェアレディZの助手席に座り、ドアを閉めた。すぐ出発するのかと思ったのだ。
だが、真希はハンド・ブレーキを解除しなかった。代わりにエアコンの電源を入れる。吹き出し口から、涼感のある風が送り込まれてきた。
「じゃあ、志津夫君にお話してあげるね」
彼女は微笑んだ。
第三者がこの様子を見たら、グラマー美女と仲良くドライブ中といった場面だろう。志津夫は羨《うらや》ましがられる立場のはずだ。実際、空が明るくなりかけている今は、彼女が常人離れした皮膚と能力の持ち主だとは思いにくくなってきたほどだ。
真希が言った。
「気温が上がったのは、全部で五ヶ所よね。そのうち伊勢市、名古屋市、東京都心には共通点があるわ。何だか、わかる?」
志津夫は顎を指でこすって、
「そうだな。……あえて言うなら、古くからの有名な神社があるってことだな。伊勢市には伊勢神宮、名古屋市には熱田神宮、東京だといっぱいあるから、どれだか、わからんが……」
真希が言った。
「半分、正解ね」
「じゃ、残りの半分は?」
「それらの神社のご神体は何かしら? 伊勢神宮、熱田神宮、そして皇居とくれば……」
志津夫は目を見開いた。数秒ほど呼吸が止まる。苦手な人物と偶然、道で遭遇した時のような表情になった。
ゆっくり、その言葉を口にした。
「……三種の神器か? やっぱり?」
真希は短く一回だけホーンを鳴らした。
「正解」
真希は微笑して、
「そして奈良県桜井市とくれば、蛇神信仰の総本山みたいな三輪山《みわやま》と、その山をご神体とする大神《おおみわ》神社がある。そして長野県南部は、あなた自身がさっきまでいた場所よ。……さあ、この符合をどう解く?」
志津夫は、すぐには言い返せなかった。思考が混乱し、脳髄でつっかえたり、逆流したりしている。とりあえず、思いつくままに、言葉を並べた。
「どう解くと言われても、わからんな……。つまり青い土偶以外にもアラハバキ神の依代《よりしろ》はある、ということか? 三種の神器も、そうした依代の一種で、それが影響していると?」
「あなた自身も、その可能性を口にしていたじゃないの」
真希は明るくなりかけた空を見て、言った。
「普通、三種の神器と言えば、古代天皇家の王権のシンボルとされているわね。八咫鏡《やたのかがみ》、草薙剣《くさなぎのつるぎ》、八尺瓊勾玉《やさかにのまがたま》。でも、これらは、ばらばらに保管されている。八咫鏡は伊勢神宮、草薙剣は熱田神宮、八尺瓊勾玉は皇居。……でも、考えてみると、変な話よね」
真希は肩をすくめて、
「大事な王権のシンボルならば、全部一ヶ所に集めて、手元で保管するべきでしょう。外国の例を見ると必ず、そうしているわ」
彼女は人差し指を立てて、
「では、質問……。なぜ、日本だけがそうしなかったの? 比較文化史学者は、この問いにはどう答えるの?」
志津夫は缶コーラを一口飲み、喉を潤した。その質問ならば、答えられる。
「祟《たた》るからさ」
「祟る? 何が、何に?」
「三種の神器が古代天皇家に祟ったからだ。それで遠ざけたんだ」
現在の学者の間では、三種の神器は、古代天皇家が他の氏族から取り上げた王権のシンボルだ、という見方が有力である。三種の神器をめぐるタブーも、シンボルを取り上げられた氏族たちの怨念《おんねん》から生まれたものだろう。それゆえ古代天皇家は、その怨念を恐れて、我が身から遠ざけて別々の場所に保管させたのだろう、と推測されている。
たとえば実質的な初代天皇である崇神《すじん》天皇ミマキイリヒコも、この点で興味深い行動をとっている。
三種の神器の一つに、八咫鏡がある。これは皇祖神アマテラスの象徴だ。
この八咫鏡を、ミマキイリヒコは最初のうちは身近な王宮に祀《まつ》っていたのだ。だが、ある日、彼は「神と寝起きするのは畏《おそ》れ多い」として、鏡を別の場所へ運ばせて祀らせた。そして最終的には、八咫鏡は伊勢神宮に祀られることになったという。
だが、日本書紀の神代記を見ると、これと矛盾する記述がある。
アマテラスが天孫アマノオシホミミノミコトに八咫鏡を授けた時、次のように述べているからだ。
吾《あ》が児《みこ》、此《こ》の宝鏡《たからかがみ》を視《み》まさむこと、吾《あれ》を視《み》るがごとくすべし。与《とも》に床《ゆか》を同《おな》じくし、殿《おおとの》を共《とも》にして、斎鏡《いわいのかがみ》と為《な》すべし
現代語訳すると、
わが子がこの宝鏡を見ること、この私を見るようにすべきである。共に床を同じくし、部屋を一つにして、祭りのための鏡とせよ
だが、崇神天皇ミマキイリヒコは、皇祖神アマテラスの言葉に逆らい、鏡を我が身から遠ざけたのだ。なぜなのか?
つまり、この行動は、ミマキイリヒコがアマテラスの子孫ではないことを意味するものだろう。彼は鏡の正当な所有者ではないのだ。だから、彼は鏡に祟られるのを恐れて、我が身から遠ざけたのだ。
では、八咫鏡の最初の所有者だった皇祖神アマテラスとは、何者なのか?
当然、その人物は、ミマキイリヒコとは血縁関係のない人物であろう。そして大和王朝よりも古い王朝の女王であろう。となると、その有力候補として、いやでも名前の挙がる人物がいる。
邪馬台国の女王ヒミコである。つまり、太陽神アマテラスとは、ヒミコを神格化した神なのだろう。
そもそも日本の神道では、歴史上、実在した有名人を神として祀る例が多い。ところが、日本で最初に海外から認められた女王ヒミコを祀る例は、まったく見られないのだ。これは非常に不自然なことだと言える。
しかし、皇祖神とされるアマテラスが、女王ヒミコを神格化したものだと考えると、どうだろうか?
すべての辻褄《つじつま》が合ってくるのだ。女王ヒミコは、ちゃんと日本の最重要な女神として祀られ続けてきたことになるのだから。
そう考えると、崇神天皇ミマキイリヒコの行動も納得できる。彼は、女王ヒミコの血縁者ではなかったのだろう。だから、ヒミコの鏡に祟られるのを恐れて、鏡を遠ざけたのだ。
また崇神天皇ミマキイリヒコは、鏡だけでなく、倭大国魂神《やまとのおおくにたまのかみ》を象徴する八尺瓊勾玉も、王宮から離して祀っている。
ところが、それでも八尺瓊勾玉の祟りのせいで、皇女ヌナキイリヒメは髪の毛が全部抜けて、痩《や》せ衰えてしまったと、日本書紀には書かれているのだ。この逸話も、王権のシンボルを奪われた氏族たちの恨みが、どれだけ深いかを物語るものであろう。
さらに大和王朝は、草薙剣も王宮から遠ざけて、最初は伊勢神宮に祀った。
記紀神話によれば、草薙剣とは、英雄スサノオが怪物ヤマタノオロチを退治した時に、その尻尾《しつぽ》から取り出した剣である。この剣を、スサノオが姉のアマテラスに献上したという伝説があるのだ。
その後、この草薙剣は英雄ヤマトタケルが武器として愛用した。そしてヤマトタケルの死後、この剣は愛知県名古屋市の熱田神宮に祀られたと言う。いずれにせよ、大和王朝は、この剣も遠ざけたわけだ。
これらのエピソードは、大和王朝が新興勢力であることを示すものだ。古くからの神々や、そのシンボルと同居できないのだから。
志津夫の説明が終わると、真希は拍手した。だが、やや小馬鹿にした感じだ。彼女も、すでにこのぐらいは知っていたのだろう。
「さすが学者先生。わかりやすい説明だわ。要するに三種の神器は本来、邪馬台国の王権のシンボルだったのに、大和王朝が奪い取った。ゆえに、これらの品物は大和王朝に対して祟ると、こういうわけね」
「少なくとも、昔の人はそう思っていたんだろう」
「ええ。私も、祟りがあったのは事実だと思うわ。現に今だって、祟っているじゃない」
志津夫は喉《のど》に固いものが詰まったような気分になった。思わず、真希を振り返る。目を見開き、訊《き》き返した。
「こんな祟りがあるのか? この異常気象が、それだと?」
「まあ、その一種だろうと思うわ」
真希は平然と答えて、
「だって、伊勢市、名古屋市、東京の三ヶ所よ。そして大和王朝のお膝元《ひざもと》だった桜井市もね」
彼女は片手の指を順に立てていった。合計四本の指を立てる。次いで指を一本曲げて、三本にして、それを示した。
「古代において三種の神器とまで呼ばれ、重要視された品々なのよ。青い土偶よりも、遥《はる》かに強力な依代だったと思うわ。アラハバキ神の本体か、それに近いものが乗り移っているかもしれないし、この異常気象も、その影響じゃないかしら」
真希は地図帳をめくって、日本列島の全体図を出した。それを指さしていく。
「特に気温が摂氏三三度まで上昇したのは、熱田神宮のある名古屋市と、三輪山のある桜井市。今は、この二つが重要なキーポイントになってるみたいね。他の二ヶ所は二九度だから、これらは、おまけってところだと思う」
志津夫は眉間《みけん》にしわを寄せて、
「つまり、これから名古屋市に行くつもりか?」
「ええ。ちょうどいいわ。今日は六月五日で熱田祭があるの。見物しましょうよ」
「見物して、どうなる?」
真希は返事しなかった。またモナリザの微笑≠演じている。その沈黙を楽しんでいるようだ。
志津夫はある可能性に思い当たった。後頭部が急激に熱くなってくる。事件≠フ予感がした。
「まさか、君は妙なことを考えてるんじゃないだろうな?」
「妙なことって?」
「熱田神宮にはプロの警備員もいるぞ。何しろ、ご神体が三種の神器の一つ、草薙剣なんだ。当然、盗まれたら一大事だから、厳重に見張っているはずだ……」
真希は無言でハンド・ブレーキを解除した。さらにギア・セレクターをつかんで、Dに動かす。アクセルを踏み込んだ。
フェアレディZは発進した。タイヤが唸《うな》り、後方へ摩擦による白煙を吹き上げる。
志津夫は強烈な加速Gで、頭がヘッドレストに押しつけられてしまった。思わず、叫んだ。
「おい、人の話を聞けよ!」
ふいに、車内に光が差してきた。
太陽の上端が地平線上に現れていた。それが放つ十字形の光が目に突き刺さってくる。東の空は金色とイエローオレンジに染まり、明けの明星も光の奔流にかき消されようとしていた。
その積乱雲は、核実験のキノコ雲に似た形をしていた。大小いくつも膨れ上がっていく。日本列島の上空に白い悪魔が湧き上がっているような光景だ。
時折、積乱雲の中には無音の電光が走る。一度だけ、赤い稲妻が雲の上方に向かって飛ぶのが見えた。
「変だな」
機長が呟《つぶや》いた。
B747―400機のコクピットからも、その積乱雲は視認できた。
「何です?」
副操縦士《コ・パイ》が訊いた。
コクピット内は、絶え間ないエンジンの轟音《ごうおん》に包まれていた。最新のCF6―50ハイバイパス・ターボファン・エンジンだ。だが、会話の妨げになるほどの騒音ではない。
機長が言う。
「今、雲が揺れ動いて見えたんだ。こんなところで、陽炎《かげろう》でも起きているのかと思いかけたんだが……」
副操縦士は前方を黙視していたが、首をひねった。
「普通のCb(積乱雲)に見えますけどね」
大和航空二〇一便、福岡発名古屋行きは高度三万三〇〇〇フィートを通常通り、巡航しているところだった。
離陸した後は、機長も副操縦士もスイッチ類には手を触れず、すべてFMS(フライト・マネージメント・システム)に任せきりだった。CDU(コントロール・ディスプレイ・ユニット)、オートパイロット、フルレジーム・オートスロットル、EHSI(電子式水平位置指示器)、EADI(電子式姿勢指示器)、EICAS(電子式エンジン計器&警報システム)、IRS(レーザージャイロ慣性航法システム)などが一体となって、この巨体を運行しているのだ。
コクピット・クルーも二人しかいなかった。これも自動化が進んだおかげだ。操縦パネルも、旧型ジャンボジェットに比べると驚くほど単純化されている。
また、旧型なら機長席と副操縦士席の正面には操縦桿《そうじゆうかん》があるはずだが、新型にはそれもない。代わりにシートの脇に、テレビゲーム用のジョイスティックそっくりのサイド・スティックがある。
これは外見だけでなく、作動原理もテレビゲーム用のものと同じだった。スティックをどの方向に、どれだけ傾けたかを電子的に感知し、コンピュータが油圧操作で舵《かじ》を動かす仕掛けだ。
機長はCDUのキーボードを叩《たた》き、気象レーダーを画面に表示させた。
CRT画面には、雲が浮かび上がった。カラー画像で地図の等高線のように色分けされている。グリーン、レッド、イエロー、マジェンタ(深紅色)で雲の強さ≠示している。
マジェンタに映っているところは、凶暴なタービュランス(乱気流)だった。対流の強さを、レーダーがドップラー効果で測定しているのだ。
大多数の一般人は、未《いま》だにレーダーのことを「航空機の位置を捕捉《ほそく》する装置」だと思っている。だが、レーダーには雨や雲をリアルタイムで捉《とら》える機能もあるのだ。
電波は波長によっては雨滴に反射したり、雲の水蒸気に反射したりする性質がある。だから、エコーが発信元に返ってくるまでの時間で、雲や雨域までの距離が測定できる。またエコーの強さは、水滴の直径の六乗に比例するため、雨粒の大きさなども測定できるのだ。
B747―400機の正面に見える積乱雲は、横に大きく発達し始めていた。雲の最上部は成層圏に達して、水平に広がり始めている。上方から鍾乳石《しようにゆうせき》みたいに垂れ下がっている雲もある。雲の下方には西側から見た伊勢湾がのぞいていた。
副操縦士が肩をすくめて言った。
「今、雲の中は地獄だろうな。あれに突っ込む前に降りられるんだから、幸せですね」
CRT画面に「DESCENT」の表示が出る。降下し、着陸コースに入るのだ。オートパイロットが減速を始める。
CRT画面のアナログ式高度計と速度計が反応した。針が逆時計方向に回りだし、降下と減速を始めていることを告げた。
ADI(姿勢指示計)も下から黒い面が上がり、赤い機体マークがその中に飲み込まれている。水平飛行から、下向きの降下体勢に入ったのだ。
正面の眺めも一転した。積乱雲の下に潜り込んでいくような感じだ。やがて雲間に名古屋空港が姿を見せるだろう。
機長はすべてが順調なのを見て、うなずいた。
体格のいい四〇歳の彼は、元航空自衛隊のジェット戦闘機パイロットだった。アクロバット・チーム「ブルー・インパルス」に所属し、超音速で大空を飛翔《ひしよう》していたのだ。
しかし、戦闘機パイロットは大変な激務であるため、三〇歳という若さで引退を余儀なくされる。その後は民間航空に転職するケースも多く、彼もその道を辿《たど》った。
本音を言えば、機長は今でもアクロバット飛行をやりたかった。しかし、自分が危険な飛行に挑むことは、もうないこともわかっていた。今後は、滑走路への接地《タツチダウン》を乗客に感じさせないような、精妙な操縦を目指さなければならない。海外にはそういった名人芸を誇る旅客機パイロットもいるという。
隣の副操縦士は、最初から民間航空を選んだ男だった。三二歳の彼は、事故を想定したシミュレーション訓練以外は、危険な体勢での飛行など経験がないのだ。
機長は、目前に迫った着陸に集中しようとした。コンピュータがすべてを補助してくれるものの、やはり離陸と着陸は機長の手で行われるのだ。空飛ぶシロナガスクジラのような巨体を己の手で操る十数分間だけが、今の彼の生きがいだった。
トラブルは突然やってきた。機首が蹴飛《けと》ばされたように跳ね上がったのだ!
正面の眺めが一転した。積乱雲の上端と真っ青な成層圏が見えた。急激なGで、身体がシートに押しつけられる。
機長と副操縦士は訳がわからず、悲鳴とも怒号ともつかない叫びをあげた。
画面のADIは青一色になっていた。つまり、機体は四五度以上の角度で、上を向いているのだ。
ADIの表示が一転した。今度は黒一色になる。機体が四五度以上の角度で、下を向いたのだ。わずか数秒の間に急上昇と急降下を行っていた。
Gの変化で、今度は機長たちの身体が宙に浮きそうになる。胸や肩にシートベルトが食い込む。
そこへまた、急上昇しようとするGの変化を感じた。コンピュータが無理矢理、着陸コースに戻そうとしたせいだ。ADIの青い面と黒い面が狂ったように上下し、回転していた。
「CATだ!」
機長が叫んだ。
CAT、クリアー・エアー・タービュランス、晴天乱気流のことだ。
CATの恐ろしさは、一般人にはあまり知られていない。昭和四一年、羽田空港を出発した英国航空B707機が雲ひとつない快晴の御殿場上空で突如、空中分解を遂げるという事故が起きている。原因はCATが7・5Gもの力で襲いかかったことだ。機体はわずか一〇〇〇分の七秒でへし折られてしまった、と推測されている。
「タービュランス・モード!」
機長は叫び、自分でCDUを操作した。規定どおり、コンピュータに対応させようとしたのだ。
だが、CATはそれを嘲笑《ちようしよう》するかのように、機体を急上昇させ続けた。コンピュータが、鈴の音色に似た警報音を鳴らす。自動操縦では、もはや対処できないことを告げていた。
再び、急降下の体勢に入った。窓の正面には、太平洋が巨大な碧玉《へきぎよく》の壁となって立ち上がってくる様子がはっきり見えた。
機長は画面の速度計を見た。GS(対地速度)は三一〇ノット(約五七四キロ)。瞬間的に、一〇〇ノットも減速したのだ。しかも、次の瞬間には急降下による加速が始まった。
機長は叫んだ。
「オートを切る!」
「はい!」
機長はサイド・スティックを握った。そっと手前に引き、機体を立て直そうとする。
「おまえはパワー調節しろ! おれがリカバリーする!」
B747―400機は、かつて機長が戦闘機でアクロバット飛行を演じていた時ですら、味わったことのない状況に突入していた。木の葉のように揺れるという表現があるが、そんな言葉すら生やさしい。巨大な猛獣に機体を殴られ、ひっ掻《か》かれて、セミモノコック構造のアルミ合金製胴体が、今にも破れそうな感じだ。フラッターと呼ばれる、乱流による振動のせいだ。
機長は飛行姿勢の維持に全力を傾けた。リカバリー(姿勢回復)のためのスティック操作は最小限度でやらないと、かえって危険だ。ジャンボジェット機に働く慣性力は巨大過ぎるため、一度弾みがつくとコントロール不能になるのだ。といって少しでも気を抜けば、機首が上がって垂直姿勢になったり、急降下してしまう。その微妙なバランスを見抜かなければならない。
B747―400機は急降下と急上昇を果てしなく繰り返し始めた。ジェットコースターの乗り心地にそっくりだった。今ごろ、客室《キヤビン》は阿鼻叫喚《あびきようかん》のありさまだろう。だが、どうしようもない。
長い時間が過ぎたようだが、実際は六〇秒ぐらいだったろう。
ようやく水平飛行に戻った。フラッターによる振動も消える。目に見えない猛獣は去ったのだ。
機長と副操縦士の顔は汗まみれになっていた。窓の外を見回し、計器パネルにも目を走らせる。
ADIは下から黒い面がわずかに上がっており、赤い機体マークがその中に飲み込まれていた。つまり、現在、機体は水平飛行よりも、やや下向きの姿勢になっているのだ。
ところが、逆に高度計は機体が上昇を続けていることを表示していた。二万七〇〇〇フィート、二万八〇〇〇フィート、二万九〇〇〇フィート……。三万フィートを越えた。
「上昇気流? こんなところで?」
機長は外を見回しながら、言った。顎《あご》からは汗が飛び散っている。アクロバット飛行経験のある彼の場合、精神的に立ち直るのが早かったのだ。
一方、アクロバット飛行経験のない副操縦士の方は、顔面をひきつらせていた。まだ発語能力が回復しないらしく、何一つ言葉が出ない。
ふと機長は彼方《かなた》の積乱雲を見た。何かの動きを感じたからだ。大量の雲が、かすかに揺らぐのが見えた。
「陽炎《かげろう》だ。やっぱり陽炎だ。見間違えじゃなかったんだ」
機長が言った。そして、すぐに首をかしげた。
「しかし……。この高度で陽炎だと?」
突然、無線を通じて、英語で呼び出しが来た。名古屋空港の管制塔からだ。なぜ、フライトプランを守らないのか、と問いかけてきた。
空の彼方から、大型ジェットエンジンの金属音が聞こえてきた。
志津夫はフェアレディZのダッシュボードに手をついて、前方の空を見上げた。フロントウインドウの向こう側に音源を捜す。
金属製の巨鳥が羽ばたくことなく、ゆっくりと降りてくるのが見えた。ジャンボジェット機だ。機体底面のハッチが開き、折り畳み式の着陸装置が油圧でせり出してくる。名古屋空港を目指しているのだろう。
いい天気だった。ジャンボ機の真上には、入道雲が膨れ上がっており、ほとんど真夏日のような眺めだ。空の旅には絶好のコンディションに見える。
だが、実際には今、志津夫が見ているジャンボ機は、墜落寸前の乱高下を繰り返した直後だったのだ。
客室では泣き喚《わめ》いている乗客が大勢いた。それを、スチュワーデスたちが必死になだめているところだった。中には男性客に抱きついたまま、呆然《ぼうぜん》としているスチュワーデスも一人いた。抱きつかれた男性客も目の焦点が合っておらず、この事態を役得として楽しむような余裕などなかった。
もちろん、ジャンボ機の内部がそんな大混乱に陥っているなどとは、地上を走っている志津夫には知る由もなかった。
フェアレディの三〇〇〇ccエンジンは、安定した唸《うな》りを立てていた。遠近法の中を、弾丸の勢いで突っ走っていく。風景が左右に流れていった。
早朝のハイウエイは空いていた。たまに見かけるのは、大型トレーラートラックばかりだ。乗用車は、真希が運転する黒いフェアレディZだけだ。
志津夫は助手席シートに座り直すと、言った。
「本当にパートナーだと思うなら、ちゃんと目的を教えてくれないか? どう考えても、君がただの祭り見物のために熱田神宮に行くとは思えない。さっきまでの話の流れから見ても、やっぱり君の目的は……」
そこで唇をなめて、
「目的は草薙剣?」
真希はフェアレディZを時速一〇〇キロで走行させながら、横目で志津夫を見た。微笑み、少し肩をすくめる。
志津夫は苛立《いらだ》ちのあまり、つい彼女の肩をつかんで揺さぶりたくなる。だが、そんな真似をすれば、交通事故の元だ。
代わりに、彼は両手でダッシュボードを叩《たた》いた。次いで、手と手を組み合わせて、ねじるようなポーズになり、言った。
「ああ、確かに、ぼくは言ったよ。ぼくは古代の真相をすべて知りたいとね。それにウロコの治療法も捜したいとね。だけど、犯罪に手を貸すと言った覚えはないからな。それに君の力≠ヘ認めるが、その力≠セけで、国宝中の国宝を盗み出せると思うか?」
唐突に、真希は話題を転じてきた。
「ねえ、気がつかないの? これまで、あなたが辿《たど》ったルートよ」
「え?」
志津夫は怪《け》訝げんな表情になる。
真希は地名を暗唱し始めた。
「茨城県新治郡。山梨県甲府市。長野県神坂峠。そして愛知県名古屋市。……これは過去にある人物が通ったルートよ。では、問題です。その人の名前は?」
志津夫は黙り込んだ。その答えはわかっていた。だが、即答するのをためらってしまう。それを答えると、強盗犯の仲間入りから絶対に逃れられないような気がした。
「学者先生なのに、わからないって言うの?」
真希が挑発する。
志津夫は仕方なく答えた。
「……ヤマトタケルだ」
真希が短くホーンを鳴らした。
「正解。ちなみに、草薙剣の使い手でもあった」
志津夫は少し唸って、腕組みした。サイドウインドウの向こう側を見つめる。小牧市の市街地風景が後方へ流れていく。
ヤマトタケル。
日本神話の英雄の一人だ。第十二代|景行《けいこう》天皇の皇子で、本名はオウスノミコトだったとされている。
彼は、まつろわぬ者ども、つまり大和王朝に服従しない蝦夷《えみし》などの原住民族を征討するため、日本各地を駆けめぐった人物だという。だが、これだけの活躍があったのに、当人は奈良県には帰郷できず、天皇にも即位できなかった。最後は岐阜県と滋賀県の境目にある伊吹山に登り、地元の神に祟《たた》られて、その後、衰弱死するという悲劇の生涯を終えた。
ちなみに現代の史学では、ヤマトタケルは架空の人物だ、というのが定説になっている。これは何人もの将軍たちのエピソードを元に、それらをつなぎ合わせて、英雄神話としてアレンジした物語ではないか、と言われている。
志津夫は言った。
「そうだ。ぼくも気がついてはいたんだ。神坂峠の日見加村に来た時、気がついた。これはヤマトタケルの東征ルートの帰り道と同じだと。この後、名古屋市に寄るはめになったら、いよいよ東征ルートそのままだと……。冗談で言ったつもりだったのに、まさか、本当になるなんて……」
志津夫は憮然《ぶぜん》としていた。唸ってしまう。
「なぜ、そうなったのかしらね」
真希がまた挑発的に言った。横目で、志津夫を見る。からかいの視線だ。
彼女は情報や推測の面では、志津夫よりもかなり先を行っているらしい。それを誇示して、精神的に優位な立場を占めたいようだ。
志津夫は苛立ち、自分の膝《ひざ》を指で叩いてしまう。内臓のどこかが痒《かゆ》いような気分だった。だが、今はどうしようもなかった。彼女から情報を聞き出さねばならない。
志津夫は、真希の方に顔を寄せて、
「ぼくはただ親父の行方を捜し、青い土偶を捜していただけだ。それをやっていたら、ヤマトタケルのルートを辿ることになったんだ。なぜだ?」
真希は微笑した。
「私の推測では、ヤマトタケルもブルーガラス土偶を追っていたからよ」
「何だって?」
志津夫は眉間《みけん》にしわを寄せた。真希の言葉を、すぐには腹の中で咀嚼《そしやく》できない。
真希は左手を挙げて、黙るように指示して、
「まあ、学者先生相手におこがましいけど、私の新説を聞いてちょうだい。……私はヤマトタケルは実在の人物である、と考えていたの。ただし第十二代景行天皇の皇子だというのはウソでしょうね。ヤマトタケルは、本当は邪馬台国系の血筋の皇子かもしれないと思っていたの。彼の悲劇的な人生も、そこに由来すると」
「ああ。そういう可能性を主張する人もいたよ。いわゆる在野の考古学者たちだ」
「知ってるの?」
「まあね」
志津夫は、うなずいた。
彼も、ヤマトタケル実在説については考えていたのだ。それに関する本も数多く読んだ。そこから思いついたこともノートに書き込んでいる。
しかし、今は、真希がどういう意見を持っているのか。やはり、そちらの方が気になった。
志津夫は言った。
「いや、ぼくの知識よりも、まず君のご高説をうかがおうじゃないか」
「じゃ、うかがってもらうわ。……まず、ヤマトタケルの叔母《おば》は、ヤマトヒメノミコトよ。彼女は伊勢神宮の斎王だった」
真希は左手の人差し指と中指の二本を立てて、
「伊勢神宮は、内宮《ないくう》と外宮《げくう》の二つの神社で構成されているわね」
「ああ」
「内宮には八咫鏡《やたのかがみ》がご神体として祀《まつ》ってあるわ。これはアマテラスオオミカミを象徴し、女王ヒミコを象徴する品物よ。つまり内宮は女王ヒミコを祀った神社ね。これについては問題ないわ。
問題は、外宮に祀られているトヨウケノオオミカミよ。この神の正体は、誰なの? この神と古代天皇家とのつながりは、まったく不明。古事記や日本書紀を読んでも、このトヨウケノオオミカミは、ほとんど何の役割も果たしていないキャラクターよ。なのに、こんな正体不明の神を、なぜ、伊勢神宮は主役として祀っているの? それも女王ヒミコとほとんど対等のランクで祀ってあるのよ。これは、どういうこと?」
志津夫は、うなずいた。
「それを指摘していた人たちもいるよ。いわゆる在野の考古学者たちだけど」
「じゃ、知ってたのね」
志津夫は大きく息を吸い込んだ。そして嘆息する。呟《つぶや》いた。
「ここがアカデミー考古学者と、在野の考古学者の分かれ道なんだよな。もしくは分水嶺《ぶんすいれい》と言うべきか……」
真希が微笑して、
「やっぱり知ってるんじゃない」
「ああ」
「もったいぶらないで、言って」
志津夫はもう一度、深呼吸した。それを言うのは、アカデミー考古学者の立場を捨てることになる。だから、心理的なギア・チェンジが必要だったのだ。
彼は声を張り上げて、言った。
「邪馬台国の二代目女王トヨだ! それがトヨウケノオオミカミの正体だ」
真希が短くホーンを鳴らした。
「正解。つまり、伊勢神宮の内宮と外宮とは、邪馬台国の初代女王ヒミコと二代目女王トヨの怨霊《おんりよう》を鎮めるための神社だったのよ」
「ああ。たぶん、そうだろうね」
志津夫は両手を後頭部に当てて、その付近を掻《か》きむしり始めた。その辺りに静電気が生じているような感覚がある。
彼は天井に向かって一度、息を吹き上げた。そして今まで胸に溜《た》まっていたものを、一気に吐き出し始めた。
「内宮と外宮は、古くは同格の神社で、二所皇太神宮と呼ばれていた。江戸時代の国学者、本居宣長《もとおりのりなが》も、内宮と外宮は本来対等であったのだろう≠ニ述べている。
これらの状況証拠を考えると、アマテラスオオミカミとトヨウケノオオミカミという二人の皇祖神と対応するような、二人の女王が古代日本にいた、と考えるべきだろう。これは女王ヒミコと女王トヨのイメージに、あまりにもぴったりと一致し過ぎているんだ。
それに古事記や日本書紀を調べると、女性の名前では『トヨ』が付く名前がもっとも多い。つまり、『トヨ』は古代日本ではポピュラーな女性の人名だったわけだ」
真希は大きく、うなずき、
「そうよ。……そしてヤマトタケルの叔母、ヤマトヒメノミコトは伊勢神宮の斎王だった。彼女は、三種の神器のうちの二つ、八咫鏡と草薙剣《くさなぎのつるぎ》を保管していた。つまり、邪馬台国から奪ったシンボルを二つも保管していた。でも、二つとも彼女には祟《たた》らなかったのよ。なぜ?」
志津夫は人差し指で、自分のこめかみを叩《たた》いた。そこに脳細胞の働きを調節するスイッチがあるような仕草だ。
彼は首を振って、言った。
「この話のゴールが見えてきたよ」
「本当? さすがに鋭いわね」
「何だか、誘導尋問に引っかかった気分だ」
「質問に答えて。……邪馬台国から奪ったシンボルを二つも保管していたのに、二つともヤマトヒメノミコトには祟らなかったのよ。なぜ?」
志津夫は知的興奮を味わった。真相を知りたいという欲望が、真希の新説を得て、かなり満たされた気分だ。
志津夫は答えた。
「ヤマトヒメノミコトは大和王朝の皇女じゃないからだ。前王朝・邪馬台国の皇女だ。だから、邪馬台国のシンボルである八咫鏡と草薙剣は、彼女には祟らないんだ。少なくとも、昔の人々は、そう考えたんだろう。だから、彼女は、邪馬台国シンボルの保管係を押しつけられた」
真希が微笑して、ホーンを鳴らす。
「正解。そしてヤマトヒメノミコトは甥《おい》のヤマトタケルに草薙剣を渡した。ヤマトタケルは、邪馬台国のシンボルだった草薙剣を恐れることなく受け取り、使いこなすことができた。他に、そんな真似ができた皇子は一人もいないわ。では、甥っ子のヤマトタケルの正体とは?」
志津夫はまた両手を後頭部に当てて、掻きむしった。さっきから、その付近がやたらと痒《かゆ》くなるのだ。唸《うな》りつつ、言った。
「わかったよ。つまり、ヤマトタケルも大和王朝の皇子ではなかった。本当は邪馬台国系の血筋の皇子だった。女王ヒミコと女王トヨの家系なんだ」
真希がまた、ホーンを鳴らす。大きく、うなずいた。
「正解。おそらく、ヤマトタケルは密《ひそ》かに邪馬台国の復活を狙っていたんでしょうね。そのためにはカムナビの復活が必要だった。だけど、その方法がわからないので、青い土偶を信仰する一族たちと連絡をとって、知識を得るために、日本各地を探索していたのかもしれない。だから、青い土偶を求めて移動した私やあなたも、結果的にヤマトタケル・ルートを辿《たど》ることになった……」
そこで真希は、ため息をついて、
「……でも、ヤマトタケル自身は、志を果たせずに死んだわ。彼は伊吹山の蛇神に祟られて衰弱死した。たぶん、それはカムナビの復活に失敗した、という意味でしょうね」
真希は少し悲しげな表情になった。遠い古代の皇子に思いをはせているらしい。
志津夫は、そんな真希の横顔を観察していた。
古代史ファンには、ヤマトタケルのファンも多い。彼が謎だらけの悲劇の英雄だからだろう。真希も、このヒーローには特別な思い入れがあるらしい。
志津夫は言った。
「かくて英雄伝説が生まれ、語り継がれた、か……」
「たぶんね」
だが、そこで真希は一転して、楽しげな表情になった。どこかで聞いたようなメロディーを、鼻歌で演奏し始めたのだ。アメリカのテレビドラマのテーマ曲らしい。
志津夫は怪《け》訝げんな顔になった。相手の態度の急変ぶりが、あまりにも不可解だった。思わず、訊《き》いてしまう。
「何だい?」
真希はステアリングを指で叩き、その曲のリズムを取りながら、言った。
「でも、よく考えて。……ヤマトタケルには各地に現地妻が何人もいたと、記紀神話にも書かれている。つまり各地に、彼の子孫が散らばって、今も残っているかもしれないということよ。ヤマトタケルは神坂峠にも寄っているわ。とすれば、神坂峠にも現地妻がいたかもしれないし、彼の子孫は今も生き延びているかもしれないわ」
その言葉が志津夫の胸に浸透するまで、少し時間がかかった。神坂峠、日見加村、葦原正一の出身地、自分の生まれ故郷……。
やがて志津夫は目を見開き、真希を見た。
「まさか……」
今の話が本当ならば、古代と現代とが、遺伝子によって結ばれているということだ。伝説の英雄と、自分自身とが、遺伝子でつながっている可能性があることになる。
真希は横目で見て、微笑していた。志津夫の反応を楽しんでいるらしい。
志津夫は両手を握りしめていた。無意識に怒り肩になってしまう。彼女を見つめ返した。
「それが日見加村の住民だと? 考えすぎじゃないのか?」
「そうかもしれない。でも、当たっているかもしれない。日見加村の出身である私や、あなたはヤマトタケルの子孫かもしれない。そして、あなたは本来の力≠ノ目覚め始めた。だから、ヤマトタケルが武器とした草薙剣が今、強く反応しているんじゃないの? 名古屋市が特に気温が上昇しているのも、そのせいよ」
真希はパワーウインドウを下げた。
とたんに暑い風が車内に吹き込んだ。やかんの口から吹き出る湯気を浴びせられたような気分になる。エアコンに慣れて脆弱《ぜいじやく》になった現代人には、耐え難い気温だった。
志津夫には、まさしくそれは古代の熱風そのものであるように感じられた。つい唸《うな》ってしまう。
彼は片手で自分の胸を押さえて、無意識に呟《つぶや》いていた。
「ぼくが? ヤマトタケルの子孫? 悪い冗談に聞こえるが……」
だが、今の状況を考えると否定しきれない気分だった。心臓をカクテル・シェーカーみたいに揺さぶられている感じがした。
白川祐美は自分の頭を叩いて、言った。
「あちゃァ」
父、白川幸介が振り返り、訊いた。
「どうした?」
「私の部屋の窓、鍵《かぎ》、閉めてない。今、思い出した」
「何だと……」
幸介がうんざりした顔で言った。
「何日、留守にするか、わからないんだぞ。ちゃんと戸締まりしろ、と普段から言ってるだろうに」
「だって、父さんがせかすからだよ。着の身着のままでいい、すぐ出発だって言うから」
「それはそうだが……。まあ、大事なものは、あの重たい金庫の中だから心配ない。それに、神社に泥棒に入るような、ばちあたりもいないだろう。……おや、きれいじゃないか」
幸介は窓の向こうを指さした。
祐美も、東海道新幹線こだまの車内で、目を見開いた。
それまで窓外には、標高一一八八メートルの愛鷹山《あしたかやま》しか見えなかった。だが、今は富士山が姿を現していた。
空は透明感のあるブルーだった。それをバックに、左右から雄大な裾野《すその》の線が上昇していく。稜線《りようせん》はやがて蒼穹《そうきゆう》の一点に向かって収束し、美しいコニーデ型の休火山を造りだしていた。
山頂には白髪頭のような万年雪。中腹はグレーとパープルの絵の具をなすりつけたような色合いだ。下部は木々の濃いグリーンに覆われている。
付近の空に雲は少ない。おかげで富士山の全容を眺めることができた。
一方、進行方向の空は不気味な様相を呈していた。積乱雲が巨大なアメーバや鍾乳石《しようにゆうせき》を思わせる形状で、増殖を続けている。青空を食料として食い尽くしそうな感じだ。
西に低気圧の中心があるのは確実だった。例の熱気がそこに広がっていることも確実だろう。
祐美は、そうした窓の外の風景をしばらく観察していた。
彼女の服装は半袖《はんそで》の黄色いTシャツに、ブルージーンズという活動的なスタイルだった。相変わらず野球帽も愛用している。胸の膨らみに目を止めなかったら、男の子にしか見えない。
父の幸介はゴルフウエアを着ていた。シャツは白とブルーの縦縞《たてじま》で、グリーンのスラックスという姿だ。今の彼は神主というより、休暇中の社長か重役みたいに見える。口ひげとゴルフウエアとが、英国紳士風の雰囲気をかもし出していた。
祐美が言った。
「本当に確かなの? 名古屋だって言うのは? それに志津夫さんが引き金になった、という話も」
幸介が答える。
「もう、間違いないだろう。葦原正一さんは昨日、長野県の日見加村に墓参りに行ったそうだ。その時、もう少しで息子の志津夫君に見つかるところだった、と言っていた。なぜ、そんなにタイミング良く、彼が現れたのかはわからんそうだ」
それを聞いて、祐美の表情が暗くなった。伏し目がちになってしまう。
だが、幸介は、娘の顔色の変化に気づかなかった。彼は、ささやき声に変えた。周囲に聞かれたくない話だからだ。
「……しかも、その日の深夜に全国各地で、気温の急上昇が始まった。やはり、これは広範囲で低温のカムナビだろうな。魏志倭人伝に記録された、三世紀の日本列島と同じ状態が再現されているんだ。
もしかすると、あの志津夫君という男が、それを呼ぶ体質を持っていたのかもしれない。となると、神坂峠で発生した熱気は、志津夫君についてまわっている可能性がある」
「そんなことが……」
祐美は抗弁しかけた。大きな目を見開いている。
幸介は首を振った。
「ないとは言い切れない。何しろ、神坂峠で発生した熱気は夜明け前から、移動を始めているんだ。そして名古屋市まで進んで、そこの熱気と合体した。他の熱気は発生以来、移動などしていないのに、神坂峠で発生した熱気だけは異常な動きを見せている。これには何か因果関係がある、と考えるのが自然だろう」
そこで幸介は、ため息をついて、
「正一さんも、我々にさっさと白状してくれればよかったんだ。志津夫君が、実は危険な存在になりうるということを。……まあ、できるだけ息子を巻き込みたくない、という配慮だったんだろうが……」
「本当にね」
祐美は舌打ちしそうになった。自分の失敗が、重くのしかかってくる。汚水の中に沈み込んでいくような気分だ。吐き気までしてくる。
今朝の悪い予感は当たったのだ。
実は祐美が、志津夫に情報を与えてしまったのだ。彼の父、正一が墓参りに行くと、留守番電話に吹き込んだ。ほんのいたずら心と、ほんのお礼の気持ちだった。
その情報を頼りに、志津夫は神坂峠に向かったのだろう。そして正一の行方を捜すうちに、何かが起きたらしいのだ。眠っていた彼の体質を目覚めさせる出来事が。
祐美としては、いずれ志津夫に仲間になってほしかったのだ。祐美が名づけた〈カムナビ防止委員会〉のメンバーになってくれたら、と期待していた。志津夫に情報を漏らしたのは、そういう意図もあったのだ。
しかし、それが完全に裏目に出てしまったらしい。
祐美は苦汁を飲んだような表情になった。父から顔をそむける。この表情を見られたら、彼女が何をしでかしたのか、父に見破られそうな気がしたからだ。
幸介が話題を変えた。だが、これは、いつもの愚痴だった。
「……明治維新の頃に、強いチ≠持ったものがいれば、伊藤博文の目を回させてやれたものを。そうすれば、もっと大勢で組織的に立ち向かえただろうに……。だが、仕方がない。二人だけで何とかやるさ」
今、幸介はチ≠ニいう言葉を使った。これは、大部分の日本人は使わなくなった単語である。
三省堂発行の「時代別国語辞典・上代編」によれば、
古代日本人を支配した超自然的霊格におおよそチ、タマ、カミの三種があり、チの観念がもっとも古く発生し、タマがこれに次ぎ、カミがもっとも新しいという
チ≠ニは後世において、血、乳、父などの語源になった古代日本語だ。生命エネルギー体を指すと同時に、生命を生み育てる根源力を持ったものだ。霊という字も、かつてはチという訓読みがあったほどだ。
たとえば「ちから」という単語も、本来は「チ・カラ」という二つの単語の合成かもしれないと言われている。つまり、「ちから」とは「エネルギーのカラ、エネルギーの入れ物」といった意味だったわけだ。それが、いつの間にか「エネルギーそのもの」を指す単語になったらしい。
そして今、幸介が言ったチ≠ニは、古代日本語そのままの意味で使っている単語だった。宇宙の原初のエネルギー体≠ニいう意味である。
幸介がまた言った。
「だが、仕方がないな。私とおまえだけでも何とかなるだろう……」
炯々《けいけい》とした眼光が、彼の目に宿り始めた。
祐美は父の顔をちらりと見て、思った。ケンカ慣れしたヤクザでも、この目を見たら回れ右したくなるだろう、と。甲府市で出会った葦原志津夫も、父の眼光にびびっていたぐらいだ。
伯家流神道《はつけりゆうしんとう》の長年の行法のせいだった。それで時々、父の形相は常人離れしたものになるのだ。
祐美は憂鬱《ゆううつ》になる。いずれ私も、こんな目つきになるのだろうか、と。自分たちが受け継いだ伯家流神道の行法とは、決して幸せをもたらすものとは言えないような気がしてくるのだ。
伯家流神道の行法。これは息吹永世《いぶきながよ》という呼吸法がそのほとんどを占めている。
これは古神道の流派全般で言う「内清浄《ないしようじよう》」に当たる。
つまり、「呼吸による魂のミソギ」のことだ。
医学用語で言うなら、これはハイパー・ヴェンティレーションである。主に素潜り漁師などが行う技法だ。激しい深呼吸を繰り返すことで多量の酸素を体内に取り入れる方法だ。
だが、ハイパー・ヴェンティレーションは長時間行うと、血液中の二酸化炭素が減少し、血液がアルカリ性になるという副作用がある。呼吸アルカリ血症と呼ばれるものだ。
この呼吸アルカリ血症は軽度だと、マラソン選手が経験する「ランナーズ・ハイ」という快感状態を引き起こす。また、カラオケ愛好家たちも、実は同じ軽度の快感状態に陥っていると言われている。長時間歌う行為は、ハイパー・ヴェンティレーションに近い行為だからだ。
この呼吸アルカリ血症だが、重度になると危険である。手足のしびれ、痙攣《けいれん》発作、失神などの症状が起きるからだ。
実は近年のカルト教団は、この症状を利用してきたのだ。つまり、善男善女たちにハイパー・ヴェンティレーションを行わせて、呼吸アルカリ血症に導き、快感状態から痙攣発作までを体験させる。そして、今のが神秘体験だと説明してやれば、善男善女は一発で騙《だま》されるというわけだ。
元々、こうしたハイパー・ヴェンティレーションの行法は、世界各地の宗教儀式の中に存在していたものだった。近年のカルト教団は、その知識を流用し、信者獲得の常套《じようとう》手段としてきたわけだ。
だが、伯家流神道の内清浄は、それよりもさらに奥深いレベルに入り込むものだった。
伯家流の場合は、天津微手振《あまつみてふり》と呼ばれる一連の動作を併用して集中力を高め、痙攣発作が起きる寸前の状態を長く維持することで、体内に潜んでいるチ≠誘発しやすくするのだ。さらに自分の意識とチ≠ニの結びつきを深めて、コントロールするための回路も作るのである。
実は、これこそが古代から伝わった本当の秘儀だったのだ。つまり呼吸アルカリ血症による異常な症状は目的ではなく、目的のための準備段階だったのだ。
当然、伯家流神道の内清浄は恐ろしく苛酷《かこく》な行法となる。コツがつかめないまま、呼吸アルカリ血症による痙攣発作だけを起こして、失神することも多いからだ。
大部分の神道家が、この技法を知ったら、さぞ驚くだろう。一般の神道系の行法に、こんなハードなものは存在しないからだ。
実際、伯家流の内清浄の場合、目に見える形で結果を出すまでが大変、難しいのだ。それで段々と真面目に修行する人間も少なくなっていた。
一時は、この内清浄の行法は白川家一族の間でも忘れ去られる寸前になっていた。特に幕末頃から明治にかけての時代は、有名無実と化していた行法だ。
だが、白川幸介の亡父、祐介《ゆうすけ》が内清浄の行法を完全に復活させたのだ。それゆえ幸介は常日頃から亡父に感謝していた。古代からの秘儀を受け継げるというだけで、幸介にとっては至福の出来事なのだ。
だから、幸介は、娘の祐美にも繰り返し言っていた。「あのじいさまがいなかったら、カムナビが来た時に誰も止められなくなっていただろう」と。
祐美は、その台詞《せりふ》も聞き飽きていた。だが、今日は考え直したところだった。
今の彼女は使命感が半分と、すべてを投げ出して、どこかへ逃げ出してしまいたい気持ちが半分というところだ。しかも、トラブルの引き金を引いたのは自分らしいときている。それを思うと、重圧感でバストの膨らみが潰《つぶ》れそうだった。
幸介が言った。
「後で、神坂峠も調べないといかんな。だが、今はとにかく名古屋だ。どうせ熱田神宮を狙っているんだろう。我々の先祖が守ってきた領域を、我々も守るんだ」
幸介は背もたれに身体をあずけ、目を閉じた。彼の体内では、感情の波が湧き立ち、ぶつかり合っているらしい。たった今、歴史を背負ったような万感の思いを味わっているのだろう。
車両がトンネルに入った。窓ガラスが鏡面に変わる。
祐美は鏡像の自分と対面した。野球帽をかぶった可愛らしい丸顔だ。だが、己の運命を呪っている顔でもあった。
父一人子一人の生活。それがもう一〇年も続いている。その寂しさにも、まだ慣れきってはいなかった。
祐美は母と死別したわけではない。母、満智子《まちこ》は一〇年前に家を出ていき、事実上、父と離婚した状態なのだ。
祐美の母、満智子は夫と娘の両方を気味悪がって、しまいに耐えられなくなったのだ。何しろ尋常でないことが頻発する家庭だったからだ。家の中で突風が吹いたり、スプーンやフォークがひん曲がってしまったり、電気製品が故障ばかりするのだ。
もちろん、その原因は幸介と祐美にあった。彼ら父娘が無意識にチ≠発動することがあるのだ。それが絶え間ないポルターガイスト、騒霊現象を引き起こしていたわけだ。
母は、祐美が十二歳の時に出ていった。母は心労のあまり実家にこもり、比川神社に帰ろうとはしなかった。祐美が会いに行っても、娘を恐がり、会おうともしないありさまだった。
それで祐美は、父を責めたこともあった。泣き叫んだものだ。
「何で、こんな変なことを私に教えたのよ! 母さんに嫌われちゃったじゃない!」
だが、父の幸介は「これは、どうしても必要なことなんだ。今にわかる」と繰り返すだけだった。
祐美は中学を卒業するまでは、この運命に耐えていた。
だが、高校に入ってから、我慢していたものが爆発した。夜遊びの常習者となり、不良グループとも関わった。一時期は完全に自暴自棄になり、覚醒剤《かくせいざい》にまで手を出して補導され、高校も中途退学したのだ。そこから立ち直るのに、一年の時間が必要だった。
そして、今の祐美はもう諦念《ていねん》の境地に達した。母とはもう解り合えないのだ、と。自分の運命が呪わしいが、それを受け止める強さを備えなければならないのだ、と。
車両がトンネルを出た。
とたんに、紺碧《こんぺき》の空が広がった。富士山が圧倒的な量感で、視界に迫ってくる。
だが、進行方向の空だけは、雲が大輪の花を次々に咲かせていた。刻一刻と形を変え、蒸気の拡大再生産を繰り返している。その付近に低気圧があり、周辺から湿った風を呼び寄せているのが実感できる眺めだ。
祐美は呟《つぶや》いた。
「なるほど、あの雲が居場所を示している。あそこにいるのか……」
できれば、祐美は志津夫と対立、あるいは対決などしたくはなかった。何とか相手を説得して、回避する方法を見つけなくてはならない。そのためには、父とは別行動をとって、先に志津夫を見つけなくては……。
志津夫にもらった名刺には携帯電話の番号が書いてある。だが、祐美は、それにかけるつもりはなかった。事情が変わったからだ。彼も素直に居場所を吐いてはくれないだろう。
予報官の一人、A当番が疲れきった顔で眼をこすりながら、言った。
「じゃ、後は頼んだぞ。……あ、仮眠室の毛布やシーツは取り替えなくていいと言っといてくれ。手つかずで、きれいなままだからな」
「ああ、ご苦労さん」
もう一人のA当番が答えた。彼は昼勤組だ。夜勤組とは対照的に元気そうな顔色だった。
「じゃあな。夜までに、この忌々しいのを追っ払っといてくれよ」
夜勤組の予報官四人は口々にそう言い、予報現業室を出ていった。八人いた頭数が四人に減った。夜勤組から昼勤組へ引き継ぎをしたのだ。
東京大手町の気象庁ビルからの眺めは、いつもと変わらなかった。窓の外には皇居の森があり、首都高速が高層ビルの谷間を綱渡りしている。車の騒音レベルも同じだった。
だが、窓ガラスを開ければ、東京も異様な熱気に包まれているのがわかる。依然、謎の気温上昇は各地で続いているのだ。
予報現業室に残った昼勤組の四人は、やはり全員が痩《や》せていた。一年中ストレスで太ることができない職種だからだ。
昼勤のA当番(ANALYSIS、解析担当官)、F当番(FORECAST、予報担当官)、S当番(SATELLITE、衛星担当官)、R当番(RAIN、雨担当官)の四人は、デスクに山を成している資料図や衛星写真を分類し始めた。それらを一枚一枚のぞき込んでは人生最大の驚異といった表情を浮かべ、ため息をつく。
予報官たちの口からは、さっきから同じ台詞《せりふ》が何度も出ていた。「信じられない」の一言だ。そう言っては首を振る。まるで、その台詞にどんなニュアンスや表情を添えることができるかを競っているみたいだ。
F当番が言った。
「とりあえず異常なエリアは、五ヶ所から四ヶ所に減ったわけだ。長野県南部に発生した気温上昇エリアは昨夜四時から今朝七時にかけて、岐阜県南部を通過して、名古屋市に移動し、そこで名古屋の気温上昇エリアと合体したと、こういう感じだ」
S当番が地図を見ながら、大きく首をひねって言った。
「……変だな。本当に変だ。これは台風なみのスピードで動いたんだもんな……。だいたい時速一〇〇キロってところか。しかも地図で見ると、これはちょうど中央自動車道の真上に沿って動いていった感じがするが……」
F当番が言った。
「こいつは高速道路を好む異常気象だとでも言うのか? そんなの初耳だな」
S当番が苦笑し、答えた。
「ぼくも初耳です。何だか、そんな風に思えただけですよ」
紅一点のR当番がコンピュータ端末に気象レーダーの映像を呼び出して、言った。
「おかげで長野県南部から岐阜県南部にかけて今、大雨が降り出しました。雨粒も直径四ミリもあります。熱気が突然消えたから、取り残された積乱雲が冷えたんですね」
それまで黙っていたA当番が発言した。
「言いにくいんだが、ノアは故障してるんじゃないだろうな? これだと上空の気温も相当高いってことだぞ」
彼は高度八〇〇キロからの赤外線画像の写真を頭上に差し上げ、全員に示した。
それは気象衛星「ノア」が撮影したものだった。高度一〇キロ、平均気圧五〇〇ヘクトパスカル付近の赤外線映像だ。関東地方の地形図が白い線で重ねてあり、東京都心部がレッド、他はグリーンだった。
ノアのAVHRR(改良型高分解能放射計)、HIRS(高分解能赤外線放射計)は地上の気温だけでなく、上空の気温を測定する機能も持っている。地上から地上一〇キロまでの気温を一キロ刻みで測れるほどの高性能だ。
さらにA当番が言う。
「東京都心の地上気温が摂氏二九度だ。ということは、高度一〇キロ付近では、マイナス三六度ぐらいのはずだ。だが、この画像解析値では、マイナス二五度になってるぞ」
対流圏では、高度が一キロ上がるごとに、気温が平均で六・五度下がるという性質がある。つまり、高度一〇キロ付近では、地上気温より六五度ほど低くなるのが、通常の状態だった。
F当番が答えた。
「つまり、高度一〇キロ付近も、通常気温より一一度も高い……。これが事実なら、確かにヒートアイランドとは別次元の現象ですね。ヒートアイランドの場合は、都市部の地上付近だけがドーム型の熱気で包まれる状態だから」
紅一点のR当番が言った。
「じゃ、何です、これは? フェーンでもない。アーベント・テルミックでもないし……」
S当番が言った。
「もちろん、そんなものじゃないですよ。これが事実なら、円筒形の熱気が発生しているんだ。地上から成層圏との界面まで、直径六〇キロ、高度は少なくとも一〇キロ以上の円筒形の熱気なんだ」
A当番が首を振り、衛星写真をデスクに投げ出した。
「信じられん! 地上の熱気はアメダスが記録しているから、事実だろう。だが、こんな上空までなんて……。普通はノアのセンサーの故障をまず疑うものじゃないか?」
S当番が首を振った。SATELLITE、衛星は彼の領分だ。
「ノアとラジオゾンデの計測値との誤差は、常に摂氏一度以内ですよ」
ラジオゾンデとは、気球観測装置のことだ。それを上空に上げて、高度三〇キロまでの気温、気圧、湿度などを実測するわけだ。当然、現場での実測だから、データはより確実と言える。
続けてS当番が言った。
「ぼくはノアの実績を信用しますね。たぶん、次にノアからの画像が入った時、実証できるんじゃないですか」
紅一点のR当番が言った。
「上空で、こんなに気温が高いんじゃ、核になる氷の結晶もできにくいから、なかなか雨は降りませんね。でも、これ≠ェまた移動したら、取り残された雲は気温が下がって雨になる……。すべてはこれ≠フ動きしだいってことよね。雨は私の担当だけど、こんなんじゃ責任は持てません」
S当番がうなずく。
「ああ、大変だね。同情するよ」
「他人事みたいに言わないで。私たち全員の問題じゃないの」
R当番が口をとがらす。
S当番はそれには答えなかった。衛星写真を見ながら、唸《うな》って、
「ううん。これは絶対にヒートアイランドじゃない。やはり気温が上昇しているのは円筒形の空間なんだ。いわばヒートシリンダー[#「ヒートシリンダー」に傍点]だ」
A当番が遮った。
「待て。勝手に名前なんか付けるな。皆これが既成事実だと認めてしまったような態度だな。私はまだ認めないぞ。もっと慎重であるべきだ」
F当番が訊《き》く。
「どうするんです?」
A当番は電話に手を伸ばして、
「筑波《つくば》の連中をたたき起こす。今すぐ東京上空にラジオゾンデを上げさせる」
茨城県筑波研究学園都市には、高層気象台がある。毎日二回ラジオゾンデを上げて、高層大気の計測を行っているのだ。
A当番が片手に受話器を持ち、片手で庁内用の電話帳をめくり始めた。
その様子を見ながら、S当番は小声で呟《つぶや》いた。
「無駄な観測だと思うけどな……」
すでにS当番の胸中には、ヒートシリンダーという用語が確信と共に定着していた。彼の脳裡《のうり》ではコンピュータ・グラフィックスのようなイメージが描かれ始めた。
それは赤色の超巨大な円筒形だった。何の前触れもなく、そんなものが日本上空に五本も出現したのだ。そのうちの一本は長野県南部から愛知県名古屋市へ移動し、他の一本と合体した。そして今も、これは日本列島の四ヶ所に居座り続けているのだ。
いったい、これは何なのか? 自分の専門知識の範囲で、この正体を解明することはできるのか?
S当番は難解な知恵の輪でも与えられたような顔になっていた。赤外線画像の衛星写真を睨《にら》みつけている。そのまま彼は身動きしなくなった。
目覚まし時計の電子音が聞こえる。
名椎真希は意識が暗黒から引き戻されるのを感じた。目を開ける。
暗闇にデジタル時計のグリーンの数字が浮かんでいる。
PM4‥45。
手探りでボタンを押し、電子音を止めた。枕元の照明を点《つ》ける。
一流ホテルの客室が出現した。ダブルベッド、テーブル、二脚の椅子、テレビと幅の広いデスク、冷蔵庫などが備えてあった。窓は厚地のカーテンで完全に遮ってある。
室内はエアコンが効いていて、快適だった。だが、ホテルの外は例の猛暑に包まれているはずだ。名古屋市ごと釜《かま》ゆでにされているような状態だろう。
真希は浴衣《ゆかた》を脱ぎ、裸身をさらすと浴室に行った。浴室は広く、壁には大きな鏡があった。そこに同性からも羨望《せんぼう》の眼差《まなざ》しで見られそうなプロポーションが映った。
重たげな乳房に、ハチの胴体のようにくびれたウエスト、量感のあるヒップ。長い手足も申し分なかった。恥毛は割れ目の周囲だけで、縦一筋。裸婦デッサンのモデルにぴったりだろう。
だが、同時に、すべての同性も異性も真希の皮膚を見て、顔をそむけるだろう。胴体の四割を密生したウロコが占めているのだ。しかもウロコ全体が、茶色と緑色の縞模様《しまもよう》を描き出している。それは上腕の一部や、手の甲にも及んでいた。
真希は熱いシャワーを浴び始めた。通常の皮膚の部分はお湯がゆっくり滑り落ちていく。だが、ウロコの部分はむしろ、お湯を弾《はじ》き返している。そのため全身を包む水流の速度が一定しない状態だった。
身体を洗い終わると、眠気も覚めた。バスタオルで全身を拭《ふ》く。湯気で曇り始めた鏡も拭いた。
真希は鏡で、自分の全身を点検した。もう見慣れてしまった身体だ。ウロコが生えだして、すでに十五年近くになるからだ。
もちろん不便なことは多々ある。この肌ではプールにも海水浴にも行けない。また、燃えるような恋も期待できない。
彼女の男性体験と言えば、金で買ったホストクラブの男に限定されていた。だが、一度寝た相手も、二度目は嫌がることが多かった。理由はわざわざ聞かなくても、わかっている。
真希は、鏡に映る自分の目を凝視した。だが、その実、自分の過去をのぞき込んでいたのだ。黒真珠のような瞳《ひとみ》の奥には、彼女を突き動かすものが蠢《うごめ》いている……。
真希には幼児の頃から少女時代まで楽しい思い出など、ほとんどなかった。
両親が大嫌いだった。母の名椎|洋子《ようこ》のことも、義父の野田伸太郎《のだしんたろう》のことも、腐敗した生ゴミさながらに嫌っていた。故人となった彼らを、今も憎み続けていた。
義父はトラック運転手で、母より一〇歳近く年下の男だった。毎晩、大量の酒を飲んでいた半アル中だった。外で飲んで家にたどり着けず、騒ぎになることもあった。
やたらと暴力をふるう義父でもあった。真希が小学一年生だった頃、義父が母を殴り倒して、小さな真希が母の下敷きになったこともあった。真希自身も義父によく殴られた。泣き暮らす毎日だった。
母も真希に対して全然、優しくはなかった。他人の前で、娘に優しいふりをするだけなのだ。実態はほったらかしにされていた。「言うことをきかないと、捨てちゃうからね」と、母によく脅された。
どうやら、真希の母は母性愛というものが磨耗していたらしい。その理由も、だいたい想像がついていた。
真希の実父、名椎|良二《りようじ》は真希が一歳の時に亡くなっていた。その後、母は生活費を稼ぐために様々な仕事をしながら、女手一つで幼い真希を育ててきたのだ。
そんな生活の中で、母は疲れ果ててしまったらしい。娘の真希を厄介者としか見なくなったようだ。
やがて真希が六歳になった頃、母は野田伸太郎の内縁の妻となった。そして伸太郎のような暴力的な人間と長期間つき合っているうちに、その悪影響も受けたようだ。もはや娘に愛情を注ぐような態度は一切なくなっていた。
真希は小学一年生の頃、「生まれ変わるとしたら、何になる」という課題で作文を書いた。
「あるあさ、おきたらわたしはおばけになっていた。おばけだから、みんなをくるしめてやるのが、わたしのしごとだ」
その作文に、担任の若い女教師は驚いて、真希と二人きりで話し合った。
そして教師は二重にショックを受けた。真希は「親指姫」や「桃太郎」といった誰もが知っているような「お話」を一切知らなかったからだ。親の膝《ひざ》に抱かれて、読み聞かせをしてもらった経験がないのだ。それゆえ物語というものに、まったく興味を示さない子供でもあった。
若い女教師は再三、真希の家を訪れて、母の洋子に子育てについて進言した。だが、馬耳東風そのものだった。やがて学年が変わり、その女教師は担任ではなくなった。そうなると、彼女も結局、何も言ってはくれなくなった。
小学六年以降は、別の地獄が加わった。真希の全身の皮膚がウロコ状に変わっていったからだ。
元々、真希の左手の甲には一ヶ所だけ、固くなっている部分があった。面積は切手一枚分ほどで、茶色と灰色の部分が混ざり合っていた。これは生まれつきのものだった。
そこ一ヶ所だけなら別に問題はなかった。他人から、ちょっと珍しがられる程度だったからだ。ところが、徐々にその面積が広がり、やがて全身のあちこちにまで発症していったのだ。
しまいには真希の外見は、「ウロコ肌の怪物少女」と化した。
おかげで仲の良かった友だちも、遠ざかっていった。クラスメイトから「蛇女」と罵《ののし》られ、いじめの対象にもされた。
医者たちは、このウロコに対して、まったく無力だった。原因も治療方法も一切わからない、と言うだけだ。真希は、美少女と言える顔立ちに恵まれていただけに、余計に悲惨な思いを味わった。
その時、かつて自分が書いた作文が、真希の脳裡《のうり》に蘇《よみがえ》った。
「あるあさ、おきたらわたしはおばけになっていた。おばけだから、みんなをくるしめてやるのが、わたしのしごとだ」
あの作文は、この運命を予言していたような気がした。
私はお化けだ。人間ではないのだ。だから、人間らしい幸福や、普通の人生には縁がないのだ。
真希は、中学校にも行かなくなった。だから、ほとんど休学した状態で、卒業した。その後はアルバイトからアルバイトへと渡り歩き、暇な時はゲームセンターなどで遊び、眠る時だけ自宅のアパートに戻るという生活を送った。同世代の男女が青春を謳歌《おうか》しているのを、横目で見ながら。
こういうタイプの一〇代女性は、「悪い男に弄《もてあそ》ばれて、利用される」というパターンが多いのだろう。だが、真希の場合、それはなかった。ウロコ状の肌がコンプレックスとなり、徹底的な男嫌いで通していたからだ。
そして十八歳の時、ついに人生の転機がやってきた。
それは真希がパチンコ屋で暇つぶしをしている時だった。妙に全身のウロコがむず痒《がゆ》くなったのだ。それでハンドルを操作しながら、無意識に衣服の上から胸や腹を掻《か》いていた。
その時、彼女は左手に五〇〇円玉を持っていた。特に理由はなく、手持ち無沙汰《ぶさた》をまぎらわせるためだ。
パチンコ玉の受け皿は空になりかけていた。二〇〇〇円で買った玉は、すでに全滅寸前だ。
彼女は苛立《いらだ》ち、左手を握りしめた。そして左拳《ひだりこぶし》で、パチンコ台盤面のガラスを軽く叩《たた》いて、言った。
「ちぇっ。ちゃんと入れよ」
次の瞬間、真希は目をいっぱいに見開いた。
唐突に、盤面の玉の流れが変わったのだ。パチンコ玉が重力を無視して、すべて盤面中央に集まっていく。
電飾が点滅した。台が玉を次々に吐き出す。金属音が切れ目なく響いた。
真希は感電したみたいに、ハンドルから右手を離した。椅子から飛び上がりそうになったほどだ。
再度おそるおそるハンドルを握った。ハンドルを回すと、機械がパチンコ玉を打ち出した。盤面を跳ね回っている。
だが、一向に玉が「当たり」の穴に入りそうな気配はない。
真希は左拳で軽く盤面のガラスを叩いてみた。小さな声で「入れ」と命令した。玉が盤面の中央部に集まる映像もイメージしてみた。
不思議な現象が再現された。
パチンコ玉はまるで強力な磁石に吸い寄せられるような動きを見せたのだ。またもや電飾が点滅しっ放しになり、玉がいくらでも飛び出してくる。空っぽだった受け皿が、たちまち満杯になった。
真希は驚きのあまり、口が開きっぱなしになってしまった。やがて、思わず笑いだしてしまう。ガラガラと音が鳴る玩具《おもちや》を喜ぶ赤ん坊のような状態だ。
ふと彼女は自分の左拳に目を留めた。さっきから汗ばんだ左手で、五〇〇円硬貨を握りしめているのに気づいたのだ。
直感が閃《ひらめ》いた。試しに手を広げてみる。
とたんに、パチンコの玉を制御できなくなった。玉は重力と釘《くぎ》の反発力だけに支配されて、跳ね回りつつ下方へ落ちていく。
真希はコインを握りしめた。すると、不可視のパワーが復活した。金属玉が彼女の念力を受け取り、盤面の中央に集まっていく。最底辺まで落ちた玉までも上昇して、編隊飛行に加わった。
電飾が点滅し続けた。
真希は自分がパチンコ玉をコントロールしているのを、はっきりと感じた。
また、五〇〇円玉が力≠解放するスイッチであることも認識した。
後で、これは「刷り込み」、「インプリンティング」と呼ばれる現象だとわかった。たとえば鳥の雛《ひな》は生まれて初めて見たものを親だと思い込む習性があるが、そういう実例を指す言葉だ。
似たような現象は、人間にも起きることがあるのだ。真希の場合は、初めて力≠放出した時にコインを握っていたことが、潜在意識に刷り込まれたらしい。
彼女は、パチンコ台を早々に打ち止めにした。そして交換所で、三枚の一万円札を手にすることができた。
その瞬間、真希は自分が貧苦から解放されたのを知った。もうアルバイトする必要など一切ないのだ。
彼女は交換所を後にすると、繁華街を歩き出した。だが、興奮は醒《さ》めなかった。それどころかかえって気持ちが高ぶってくる。
自然に小走りになった。ついには全力で走りだしてしまった。
真希の口からは意味不明の奇声が飛び出した。通行人たちが驚いて、振り返る。だが、まったく気にならなかった。長髪をなびかせて、繁華街を走り続ける。
幼い時の作文が脳裡に蘇る。
「あるあさ、おきたらわたしはおばけになっていた。おばけだから、みんなをくるしめてやるのが、わたしのしごとだ」
あの作文は、自分の運命を予知したものだったのだ。
私はお化け。身体にできたウロコは不思議な力≠フ源。これが私に与えられた運命。
真希は、そう確信した。身体の奥では、目覚めたばかりの未知のパワーが脈動していた。昂揚《こうよう》感のあまり、走り続けるのをやめられなかった。
真希の生活は変わった。毎日、パチンコ店をはしごする女パチプロの誕生だ。財布が一万円札で膨れ上がった。
とりあえず、彼女はブランド物の衣服やアクセサリーを一通り買いあさった。
そして真希は、母の名椎洋子を寿司屋に連れだした。母は、突然の娘の大盤振る舞いに驚いた。だが、真希は「ホステスを始めて、それで稼いでいる」と偽った。
もちろん真希は親孝行したかったわけではない。大盤振る舞いは、母親の過去を聞きだすためだった。
自分のウロコや力≠ノは、自分の出生の秘密が関わっていると、直感が囁《ささや》いたのだ。それを確かめれば、さらに強い力≠ェ手に入るのではないか、と真希は思ったのだ。
実際には、それは根拠のない思いこみだった。専門用語で「血統妄想」、「ファミリーファンタジー」と呼ばれるものだ。「自分は、本当は高貴な家柄の子供だ」と信じたがる症状を指す。真希は、これに取りつかれたのだ。
真希は生まれて初めて、母の出身地などについて詳しく質問した。今まで母が語りたがらなかった過去を探り出そうとしたのだ。
狙い通り、母はアルコールで口が軽くなり、ついに喋《しやべ》り始めた。
母の洋子は長野県南部の日見加村というところの出身だった。だが、何かのきっかけで、夫の名椎良二と、生後間もない赤ん坊の真希と共に、そこを出ることになったらしい。
やがて、日見加村を離れた名椎一家は神奈川県に移り住んだという。ところが、真希が一歳児の時に、夫の良二が交通事故で亡くなり、母は未亡人となったという。
だが、その日見加村とは、どういう村なのか。それについて、母は喋りたがらないのだ。何かを恐れているような感じもした。村に対して、何か迷信的な恐怖を抱いているらしい。
真希の胸の中で、確信が膨れ上がった。
母の故郷だ。きっと、そこに何かがあるのだ。
地図で長野県南部を確認した。そこは山深い地域で交通機関も少なく、車がないと身動きが取れないと、わかった。そこで真希は二ヶ月かけて自動車の運転免許を取得した。
教習所では、学科試験で苦労する羽目になった。何しろ彼女は中学校にも、ろくに通っていなかったため、テキストを開いても読めない漢字の方が多かったのだ。辞書を引いてばかりの苦闘の日々が続いた。
ようやく真新しい免許証を手にすると、真希は東海道新幹線に飛び乗り、乗り換えを続けて、最後はレンタカーを借りて、日見加村に到着した。
早速、真希は自分と同じ「名椎」という名字の家を訪ねた。
出迎えてくれたのは、名椎善男という老人で、地元の神社の神主だった。
真希の自己紹介を聞くと、老人は目を見開いた。しばらくの間、真希を凝視し続けた。そして長野弁で言った。
「そうずら。真希ちゃんか。洋子さんの娘さんか。覚えてる覚えてる。いや、べっぴんさんになったな」
話をするうちに、名椎善男は、真希の遠縁の人物だとわかった。善男は、母の洋子のことも、赤ん坊だった頃の真希のことも知っていた。だから、洋子と真希のことも時々、思い出しては気にかけていたという。
おかげで真希は、自分のルーツについて大ざっぱな情報を仕入れることができた。すでに真希の祖父母たちは亡くなっていることも確認できた。また、真希の遠縁の親戚《しんせき》は名椎善男を含めて数人ぐらいだということも確認した。
だが、特に変わった話は聞けなかった。ここには何もないのだろうか、と落胆しかけた。
ところが、真希はレンタカーで神坂峠に向かっている時、何かを感じた。うなじの毛が逆立つような感覚≠セ。それに引き寄せられるように、山道につながる場所に出た。
真希の目には山が脈動しているように見えた。まるで、どこかに原子炉でも隠されていて、それが発するエネルギーが感じられるみたいだ。
真希は、自分の内部に芽生えた感覚≠信じた。その感覚≠ノ導かれるまま、彼女は車を降りて、山道を登った。途中、道を外れて、山林の中をさまよう。
そして発見したのだ。登美彦神社の奥宮を。
彼女は洞窟《どうくつ》の内部に入り込んだ。そこで、布に包まれたご神体らしいものを見つけた。震える手で、その布を取り去る。
真希は口を半開きにして、それを見つめた。
表面がブルーガラスで覆われた縄文土偶だ。不透明だが、鮮やかなスカイブルーだった。こんなものを見たのは生まれて初めて……。
いや、違う!
真希は首を振った。目を見開く。瞳《ひとみ》がパチンコ台の電飾さながらに輝いた。
思い出した! 私はここにいた。ここで、この土偶を胸に載せられたのだ。その時、何かが感染した。それも体内の奥深いところにだ。私と、その何か≠ヘ、かなり相性が良かったらしいのだ。
真希は手を伸ばし、青い土偶に触れた。十八年ぶりに。
その瞬間、力≠フ源泉が開いた!
意識が素粒子と化し、大気圏外にまで拡大していく。衛星軌道から地球を見下ろす感覚。全宇宙と一体化したようなエクスタシー。
時を越えたヴィジョンを観た。遥《はる》かな古代、宇宙空間から降ってきたアラハバキ神たち。そして自分はこの肉体を、彼らに依代《よりしろ》として捧《ささ》げたのだ。
我に返った。気がつくと、真希の手の甲にもウロコが生じていた。衣服の中をのぞくと、胸や腹のウロコの面積も広がっていた。
真希は、より強い力≠得たのを自覚した。未知のパワーが体内にみなぎり、暴れ出そうとしているような感覚だ。
彼女は青い土偶から手を離すと、洞窟の外に目を向けた。アカマツの枝が見える。成人男性の腕ぐらいの太さだ。
真希はポケットから五〇〇円硬貨を取り出した。それを握りしめる。
アカマツの枝に見えない圧力≠ェ加わり始めた。木の細かい繊維が弾け飛び、乾いた音が響く。最後には根元から、へし折れてしまった。枝は地面に落下し、バウンドした。
真希の唇の線がV字になった。顔に薄ら笑いが浮かぶのを止められない。その気になれば、この力≠ナ人を殺すこともできるだろう。
「あるあさ、おきたらわたしはおばけになっていた。おばけだから、みんなをくるしめてやるのが、わたしのしごとだ」
真希の「血統妄想」、「ファミリーファンタジー」は現実となったのだ。
真希は青い土偶を布に包み直すと、それを持って下山した。そして土偶を、名椎善男に突きつけたのだ。
老人は完全に狼狽《ろうばい》した。慌てて土偶を奪い返す。我が子を誘拐されそうになった親みたいな反応だった。
そして真希は、老人を問いつめて、彼の口から真相を聞くことになった。
この村では大昔から、青い土偶を使った秘祭ヒナマキ≠ニテトオシ≠ェ行われてきたこと。赤ん坊の頃の真希にも、善男が自ら儀式を行ったこと。この村の住人たちは皮膚の一部がウロコ状になっている者が多いこと。だが、真希の母、洋子の場合は村人の中でも珍しい例で、ウロコは生じなかったこと。
さらに重要なこともわかった。真希のようにウロコが全身の半分近くにまで達している人間は、この村には一人もいないのだ。
彼女の確信は深まった。自分は特別な人間=A選ばれた存在≠ネのだと。
その後の会話は名椎善男に説得される形になり、真希は老人と約束する羽目になった。秘祭ヒナマキ≠ニテトオシ≠ノついて他言しない、という約束だ。
彼女は、それを受け入れた。むしろ、その方がいいのだ。この秘密を世間に知らせる必要など、まったくないからだ。
翌日、真希は神奈川県に帰った。
そして同じ日に、真希の義父と母は死んだ。
夫婦でアーケード街を歩いている時だった。衆人環視の中、突然、野田伸太郎は胸を掻《か》きむしり始め、苦悶《くもん》しながら絶命したのだ。その直後、夫の様子にうろたえていた名椎洋子もまったく同じ症状に苦しみながら、この世を去った。
病院の医師によって、二人とも心臓発作と判断された。当然、娘の真希には何の嫌疑もかからなかった。警察に尋問されることも、逮捕されることもなかった。
真希にしてみれば、これは処刑だった。親らしいことなど、ろくにしてくれなかった二人だ。苦悶死こそが、ふさわしい。
同時に、彼女は、この世のモラルを超越した快感を味わった。重力から解放されて、雲上を散歩しているような昂揚感だ。
自分は神になれる、と確信した。もう誰にも支配されない。支配するのみの存在にまで昇りつめるのだ。
「あるあさ、おきたらわたしはおばけになっていた。おばけだから、みんなをくるしめてやるのが、わたしのしごとだ」
邪魔者を片づけたところで、真希は猛勉強を始めた。古代日本史、考古学、民俗学、文化人類学などの分野だ。
その学習過程で真希にも、わかってきた。青い土偶は、古代に未知の高熱発生技術が存在した証拠なのだ、と。そして、その高熱発生技術こそが神の火、カムナビであろう、と推測した。
真希は夢想に耽《ふけ》るようになった。いつかはカムナビの秘密も手に入れる機会があるはずだ、と。
そうなったら、まず手始めにやることは決まっている。
カムナビで日見加村を焼き払い、全住民を皆殺しにすることだ! なぜなら、彼女の不幸な境遇は、日見加村の連中のエゴイズムが生んだものだからだ。
真希は猛勉強の傍ら、時々、日見加村にも出かけるようになっていた。そして遠方から双眼鏡で、村民たちを観察することも続けていたのだ。彼らが、さらに何らかの秘密を隠していると思えたからだ。
そして観察するうちに、真希は悟ったのだ。彼女の不幸な境遇の原因を。
日見加村では村の過疎化を防ぐために、赤ん坊に力≠フ源であるウロコを植えつける秘祭を続けてきたのだ。この力≠ェ日見加村の住人にある種のエリート意識を与えてくれる。村人の中には、パチンコ店に行って少なからぬ利益を稼いでくるという、強い力の持ち主もいる。これが若い世代の流出を防ぐための地域の絆《きずな》だったのだ。
だが、青い土偶を使った秘祭を行っていると、何十年かに一回ぐらいの割合で、強すぎる力≠持つ子供も生まれてしまうらしいのだ。そして、そういう子供は将来、災いの種になる、と言い伝えられていたようだ。そこで、その子供は村から追放してしまうのだ。当人には何一つ知らせないまま。
だから、当人は自分が追放されたとは知らず、自分に備わった特殊な力≠ノも気づかないまま、別の土地で一生を過ごすことになるのだろう。実際、何も知らされなければ、せっかくの力≠燻蔵状態になる確率が高いはずだ。真希の場合は偶然にも力≠ェ覚醒《かくせい》したが、それは大変な幸運だったらしい。
何のことはない。真希の不幸な境遇は、すべて日見加村の連中のエゴイズムが作りだしたものではないか。自分は、村の過疎化を防ぐための犠牲にされただけだ。
そうした真相に気づいた時、真希の脳髄は溶鉱炉の温度で燃え上がった。
双眼鏡を地面に投げつけ、踏みにじり、蹴飛《けと》ばした。近くにあった樹木を殴りつけた。手に傷ができて、血が流れた。
今になって、母の態度も理解できた。母が娘の真希を疎ましがり、厄介者としてのみ見るようになったのも、そのせいだったのだろう。「この娘さえ生まれなければ、前夫の良二と幸せに暮らしていたはずなのに」。母の本音は、それだったのではないか。
すべてを看破した時、真希の怒りは頂点に達した。日見加村のエゴイストどもを、絶対に許すつもりはなかった。必ず天誅《てんちゆう》を加えると決意した。
しかし、今はまだ復讐《ふくしゆう》を手控えていた。
日見加村の連中も、わずかながら力≠ヘ持っているのだ。真希一人で、彼ら全員を敵にまわすのは危険過ぎるだろう。いざという時どんな反撃を喰《く》らうか、まったく予測できないと思えた。それゆえ彼女は慎重になっていたのだ。
しかし、カムナビのような力≠ェ手に入れば、話は別だ。その時は一気に復讐を果たせるだろう。
さらに日が経つにつれて、真希は復讐以外のことも夢想するようになった。
つまり、真希にはまったく新しい世界を生み出せる可能性があるのだ。誰も、彼女には逆らえず、彼女の意志のみが法律となるような新世界だ。
手始めに、宗教団体を経営するという手もあるだろう。何しろ教祖様が目を惹くような美女である上に、本物の神通力を持った存在なのだ。信者になりたがるバカな男は、いくらでもいるだろう。真希の意志を神の意志だ、と信じるような部下も、いくらでも手に入るだろう。すべては私の思いのまま……。
……真希は回想から覚めた。
現在の自分を意識した。ホテルの浴室で、胸や腹にウロコが生えたグラマラスな裸身を鏡にさらしている。特異な画風で知られるスイスの画家、H・R・ギーガーにデザインしてもらったような姿だった。
彼女はふいに不機嫌な顔になった。細い眉《まゆ》の線が逆立っていく。右拳《みぎこぶし》を握ると、それで軽く鏡を叩《たた》いた。鏡像の全裸美女もジャブを返してきた。
そうよ。私がおばけに……。いいえ、私が女王になるはずだったのよ。私は特別な人間≠ネのだから。そのはずだから。
なのに、あの葦原志津夫が、その予定をぶち壊しにしてしまったのだ!
真希自身はカムナビを呼ぶ力を、まだ得ていないのだ。
なのに、新参者に過ぎない志津夫があっさり、それを得たようだ。カムナビの後継者は志津夫らしいのだ。
それを知って、真希の自我と自信が崩壊しかけた。ずっと待ち続けたチャンスが遠のいていったため、身体の芯《しん》まで冷え切った感じだ。いっそのこと、すぐに志津夫を首絞め≠ナ処分しようかと思ったほどだ。
だが、真希は立ち直りが早かった。もう少し辛抱強く待つべきだと、自分に言い聞かせた。いずれ彼女がカムナビを手に入れるチャンスもあるはずだ。
それに真希がカムナビを入手できなくても、いいではないか。志津夫を手なずけてしまえば結局は同じことだ。そう考え直したのだ。
彼は怯《おび》えきっている。そりゃ、そうよ。だって、彼はウロコ肌の世界においては新米だからよ。一方、私は蛇神の世界では十五年選手のベテラン。精神的に余裕たっぷり。
真希は笑みを浮かべた。一〇代の男の子を誘惑するようなスリルを感じる。
今の志津夫は肉体の変容に直面したばかりで、心が対応できないでいるのだ。支えになるものや、頼れる拠《よ》り所が何もない。恐ろしく不安定な心理状態だろう。
大丈夫よ。怖がらないで。私が支えになってあげるわ。私たちなら、似合いのカップルになれるでしょう。
真希はセミロングの髪の毛を、ヘアドライヤーで乾かした。ブラッシングし、クリームで形を整える。耳に大きな金色のイヤリングもつけた。
スーツケースを開けると、白の下着を選び、紫のジャケットとスラックスを選んだ。
指だけが外部に出る黒革の手袋をはめる。これを着けないと、手の甲のウロコが丸見えだからだ。愛用のサングラスもかける。
片手で五〇〇円硬貨を弄《もてあそ》びながら、部屋を出た。
廊下の内壁は落ち着いたベージュ系統で統一されていた。床の絨毯《じゆうたん》は赤だ。
隣の部屋の呼び鈴を鳴らした。ドアが開く。志津夫が目をこすりながら、現れた。服装はホテルの浴衣だ。
端正な二枚目半の顔だ。だが、それも充血した目のせいで台無しだった。よく眠れなかったらしい。いかにも学者的で、神経質な面が浮き彫りになっている。たぶん自分のウロコ肌に触っては、不安と恐怖におののいていたのだろう。
真希は最大限に艶《つや》やかな微笑を浮かべた。母性的な雰囲気をたっぷり込めて。
「さあ、出かけるわよ。真相を突きとめたいんでしょ。身体を元に戻す方法を知りたいんでしょ。なら、着替えて、ついてらっしゃい」
真希は右手の親指で、コインを空中へ弾《はじ》いた。
白い雲の群れが果てしなく膨張している状態だった。ここに低気圧の中心があるからだ。だが、謎の熱気に覆われているため、雨が降りそうな気配はない。
その雲の下に名古屋市街が広がっていた。
上空から見下ろすと、名古屋市の都市計画は乗用車優先であることが、一目でわかる。片側五車線ぐらいある超ワイド・サイズの道路が張り巡らされているからだ。
その市街の一角に熱田神宮があった。境内の面積は約二〇万平方メートル。外側を一周すると約二・四キロもある。
周囲は石垣と石塀と、森林で囲まれていた。樹木の種類はクスノキ、カシ、イチョウ、ケヤキなどである。それらの木々は、近くにある七階建て名鉄神宮前駅ステーションビルと背比べしているようだった。
ステーションビルの隣には、五階建ての宴会会場ビルがあった。薄いピンク色の壁と、大きなガラス窓とで覆われている建物だった。
ビルの二階は喫茶店だった。夕刻の今、客の入りは五割ぐらいだった。
その喫茶店の窓際の席に、真希と志津夫が座っていた。
神宮前の歩道を見下ろすには、絶好の場所だ。熱田神宮の東側にある勅使門もよく見える位置だ。
真希は腕時計を見て、
「六時二五分か。日の入りは七時四分。もう少し待ちましょう」
彼女はコーヒーカップを口に運んだ。大きなサングラスをかけているので、今は無表情な感じがする。
志津夫は、テーブル上に置いた両拳を握りしめていた。肩が上下している。息が荒くなりそうになるのを必死で抑制していたのだ。吐き気に似たものも、こみ上げてくる。
彼は呻《うめ》くように言った。
「本気なのか?」
真希が答えた。
「もちろんよ。都合のいいことに、今日は数十万人の参拝客の中に紛れ込めるし」
「だからって、盗みだせるとは到底、思えないが」
「やってみせるわ。どうしても必要なのよ。草薙剣《くさなぎのつるぎ》が」
真希は強い口調で言い切った。窓から歩道を見下ろした。
歩道は人、人、人で埋め尽くされている。浴衣姿で団扇《うちわ》を持った娘たち。家族連れ。若いカップル。老夫婦。その間を、法被《はつぴ》を着せられて鉢巻きをした子供たちが駆け回る。
屋台も、道路に沿って視界の彼方《かなた》まで並んでいる。たこ焼き、クレープ、フランクフルト・ソーセージ、トウモロコシ、リンゴアメ、金魚すくいなどだ。
参拝者たちは、猛暑のせいで多少ばて気味の表情だった。ハンカチやタオルで流れ出る汗を拭《ふ》いている者が多い。
だが、境内のどこかから太鼓の演奏が始まると、人々の表情に活気が出てきた。連打されるビートが、非日常の雰囲気を自然に演出するからだ。
どこかのスピーカーから拡声されたアナウンスが響きわたる。「……チエちゃんのお父さんかお母さん。熱田警察署、現地警備本部まで、お越しください」。そうした音声も非日常の演出に一役買っていた。
だが、志津夫は祭りを楽しむ気分にはほど遠かった。
人混みの中には、制服警官たちも目立つからだ。熱田祭の人出は数十万人だという。そのためトラブルに備えて、警察も大量の人員を配置しているのだ。
志津夫は言った。
「しかし、たった二人で何ができる? 警備員や警官はどうするつもりだ。大勢でかかって来たら、君の力≠ナも対処できるとは思えないが」
「だから、この数十万人の人出が私たちの味方なのよ。参拝客が目の前で苦しみだしたら、真面目な警官や警備員はどうするかしら? 当然、介抱するでしょうね。警備もお留守になるわよね」
志津夫は目を見開いた。真希のサングラスの下から、毒虫が現れたのを見たような気分だ。
「君は……無関係な人も巻き込むつもりか?」
「たとえばの話よ。方法は臨機応変に考えるわ。要するに警備員や警官の注意を他にそらすことができれば、何だっていいのよ」
「まあ、そうだが……」
志津夫はため息をついた。斜め前方を見上げる。
そこには熱田神宮を取り巻く巨木の垣根があった。七階建てのビルに匹敵する高さで、神宮の周りをガードしている。本殿は、その森林の中にある。
そして、ご神体とされる草薙剣は、その本殿の中に祀《まつ》られているのだ。
真希が言った。
「やはり、草薙剣こそ問題解決の糸口だと思うの。ちなみに古代日本語でクサと言えば……」
志津夫が引き継いだ。
「……クサは強調する言葉、ナギは蛇のことだ。つまり、古代日本語でクサナギノツルギと言えば、意味は強力な蛇の剣≠セ。まあ、これは広辞苑に載ってる解釈だけど」
「そのとおり。問題はなぜ、そんな名前が付いたのかよ。強力な蛇の剣≠ネんて、あまりにも意味深《いみしん》よね」
真希は左手の黒い手袋を脱いだ。手の甲に生えた蛇のウロコが一瞬、のぞく。すぐに手袋を元通りに、はめ直した。
志津夫の心臓がエイト・ビートを演奏し始めた。一瞬、背筋に電流が走り、震える。
思わず自分の右手の甲を撫《な》でた。そこにも少しウロコの萌芽《ほうが》らしいものが見えるのだ。いずれ志津夫も手袋が必要になるのかもしれない。
真希が言った。
「私たちの身体に何が起きているのか。これを解明するためには、蛇神信仰とカムナビの謎を解かねばならない。そうでしょう? そのためにも強力な蛇の剣≠フ実物が要るわ。
今、何が起きているのか。この異常気象は何なのか。それらの謎も、カムナビを本格的に蘇《よみがえ》らせれば、その正体もはっきりするし、このウロコとの関連性もわかるでしょう。そのためには鍵《かぎ》となる強力な蛇の剣≠手に入れて、三輪山まで運ばないと……」
志津夫は唸《うな》ってしまう。吐息をつくと、喋《しやべ》り始めた。
「言いたいことはだいたい、わかったよ……。確かに、大和王朝は三輪山を恐れ続けたというエピソードが、古事記や日本書紀にいっぱい載ってる。そして、三輪山の神は蛇神だと、記紀神話にはしつこいくらい繰り返し書いてある。とすれば、三輪山といちばん縁の深い依代《よりしろ》は、強力な蛇の剣≠ナある草薙剣だったのかもしれない。それこそ本物の蛇神が宿る剣だった。少なくとも、昔の人々はそう信じていた」
「ええ。それが何らかの重要なスイッチだったかもしれない。そんな気がしてならないわ。だから、三輪山から引き離したし、大和盆地からも遠ざけたのよ」
真希は満足げな笑みを浮かべた。
志津夫の方は依然、不機嫌な表情だった。下唇を噛《か》んでしまう。
神坂峠の洞窟《どうくつ》神社で、青い土偶を前に躊躇《ちゆうちよ》していた時のことを思い出す。あの時やめておけば……。普通の人生に引き返していれば……。
志津夫は頭を抱えて、言った。
「どうも落ちるところまで、落ちてしまう気分だな。本当に盗み出すつもりか? これは立派な強盗だぞ。その上、最高級の国宝だぞ。値段のつけようがない代物を盗み出すんだ」
「ええ。そうよ」
真希は平然と、うなずく。
志津夫はコーヒーで喉《のど》を湿した。だが、いくら飲んでも喉の粘膜が潤わない感じだ。
「確かに学者の端くれとしては、草薙剣の実物は見てみたいさ。しかし、盗み出すとなると……」
「大丈夫。私の力≠ネらば、できるわ」
「ぼくも手伝うんだぞ。やるか、やらないか一週間ぐらい考えさせてもらいたいね」
「そんな暇はないわ。やるなら、今夜がチャンスだもの」
真希はテーブルに両肘《りようひじ》をつき、頬杖《ほおづえ》した。それは同時に豊かなバストが強調されるポーズでもある。志津夫の顔をのぞき込む表情に、色気があった。
志津夫は彼女のプロポーションに吸引力を感じながらも、理性で抵抗する。いくら外見が魅力的でも、この女は化け物に変わりつつあるんだぞ。まあ、ぼく自身もそうだけど……。
志津夫は言った。
「真実って言うのはトカゲだな。尻尾《しつぽ》をつかむことはできる。でも、尻尾だけ残して本体は消え失せるんだ」
真希が微笑んだ。
「おもしろい言い方だわ……。で、どうするの? 尻尾だけで我慢できる? 今さら、そんなことができる? 私にはできないわ」
志津夫は、神坂峠での会話を思い出した。そうだ。おれは名椎善男さんに言った。
(その答えが今、一斉に現れようとしているんだ! やはり確かめなくては! ぼくは今まで、その答えを追い求めていたんです!)
老人は言葉を失い、立ちつくしていた。その時の善男の表情が、脳裡《のうり》に浮かぶ。悲哀に満ちた瞳《ひとみ》をしていた。
志津夫は回想を振り切った。両手でテーブルの端をつかむ。それでも、すぐには台詞《せりふ》が出てこない。決断のためには、さらに深呼吸五回分の間が必要だった。
真希は、期待に満ちた様子だ。口元に笑みがこぼれるのを我慢できないようだ。美女にこうした態度をとられると、男としては逃げようがなかった。
志津夫は右手を拳《こぶし》にして、自分の太ももを叩《たた》いた。
「良かろう」
瞳が充電されたみたいに輝いていた。決意が溢《あふ》れている。
「こうなったら、行けるところまで行ってみる。草薙剣も見てみたいし、このウロコも治したい。まず、すべてを明るみに引きずり出すべきだ。それをやらないと何一つ前進しない」
「そうよ!」
真希は手を叩いた。
「やりましょう! 私たちは最高のパートナーになれるわ」
真希が右手を差し出してきた。志津夫も右手を差し出し、握手する。真希は強い力で握ってきた。絶対に志津夫を離さない、という決意が伝わってきた。
志津夫は喉が渇いているのを自覚した。カップに残っていたコーヒーを飲み干す。それでも喉を潤すには足りなかった。
ちょうど近くにウエイトレスがいた。通路を隔てたテーブルのところだ。その卓へオレンジジュースを運んできたところだ。
志津夫はウエイトレスに呼びかけて、コーラを追加注文した。ウエイトレスが注文を復唱してから、厨房《ちゆうぼう》に向かって、歩み去っていく。
志津夫は通路を隔てたテーブルの客を一瞬、見た。一〇代の男の子らしい。黄色いTシャツにブルージーンズを着ている。ジャイアンツの野球帽から短めの頭髪がはみ出している。
志津夫は自分のテーブルに視線を戻した。冷水のコップをつかもうとする。
できなかった。記憶が警鐘を鳴らした。頭蓋骨《ずがいこつ》が音《おん》叉さのように震えだす。たった今、視界に入った人物に、見覚えはなかったか?
志津夫は慌てて、隣の席を振り返った。
彼女と再会したのだ!
10
やっと反応があった。
葦原志津夫が、自分を振り返ったのだ。彼は「あ!」と小さく驚きの声を発した。祐美を指さし、目と口を開き、硬直していた。
白川祐美は愛らしい丸顔に微笑みを浮かべた。実は、自分の魅力にちょっと自信を失いかけていたのだ。志津夫が、なかなか自分の存在に気づかなかったからだ。
だが、やはり志津夫は覚えていてくれた。また、彼の瞳に驚きだけでなく、自分への好意も含まれているのを確かに感じた。
志津夫は前回、会った時に比べるとやつれた感じだった。目が充血していて、頬も少しこけている。本来、二枚目半の容貌《ようぼう》なのに、睡眠不足のせいで損をしていた。
祐美は財布から千円札を出した。それを示して、微笑む。男の子みたいな口調で言った。
「私も夏目漱石は好きだよ。伊藤博文よりはね」
その台詞で、志津夫は驚きから覚めたらしい。苦笑する。
「ああ、ぼくもファンだ。伊藤博文よりはね」
祐美も微笑する。二人きりで話題を共有した喜びだ。財布に千円札をしまった。
志津夫の真向かいに座っているグラマー美女が、サングラスを外した。切れ長の大きな目が現れる。男を悩殺するのに、威力を発揮しそうな目だ。
長身でバストの大きい美女は、祐美に不審な目を向けた。
祐美も不審な視線を返してやる。気に入らないタイプだ。胸がでかけりゃ、いいってもんじゃないのよ。ホルスタインじゃあるまいし。
グラマー美女がアルトで、志津夫に訊く。
「この人、誰なの?」
志津夫がグラマー美女に視線を戻し、ため息をついた。頭の中で言葉を選んでいるらしい。やがて言った。
「白川祐美さんだ。伯家流神道を継承する一族の末裔《まつえい》だよ」
グラマー美女は目を見開いた。そして訳知り顔で、うなずいた。祐美に顔を向けて、じっくりと観察してくる。
女は口を開いた。
「そうなの。あなたが甲府で旧辞《くじ》を奪っていったという人ね」
祐美の顔がこわばった。目に警戒の色が現れる。女と志津夫とを見比べる。
祐美は事態を理解した。志津夫は何もかも、このホルスタイン女に喋《しやべ》ったのだ。そして、この女も真相に深入りしている。油断できない相手が一人、増えた。
今度は祐美が、志津夫に訊いた。
「そっちの人は誰?」
志津夫は少し、考え込んだ。言葉を選ぶのに苦慮したみたいだ。そして言った、
「名椎真希さんだ。カムナビと、ブルーガラス土偶のマニアだそうだ」
祐美の顔がさらにこわばった。思わず歯ぎしりしそうになる。心臓が忙《せわ》しく脈動を始めた。
ついに来るべき時が来た、と思った。やはり、こういう人間はいたのだ。何かのきっかけでカムナビや、その産物であるブルーガラス土偶について知った人間。そして、何らかの不遜《ふそん》な考えに取りつかれた人間。
祐美は今まで、このことで空想に耽《ふけ》っていたのだ。白川家一族の敵がもし現実にいるとしたら、どんな奴だろうか、と。
空想の中の敵は、たいてい長身だった。小柄な祐美を見下し、侮蔑《ぶべつ》の表情を浮かべるような奴だ。男ならば痩《や》せていて、唇が薄いタイプが思い浮かんだ。女ならば、これみよがしに大きなバストを見せつけて、祐美の中性的なプロポーションを鼻で笑うようなタイプだ。
予想は当たった。今まさに想像していたとおりの女と遭遇したのだ。
祐美は、真希を睨《にら》みつけた。真希も険悪な視線を返してくる。女同士の間に電子レンジが発する高周波が飛び交ったみたいだった。一目で、お互いを嫌いになった。
女二人に挟撃された志津夫は、とまどった表情を浮かべていた。板挟みの彼は少々、不安になったようだ。両者を見比べている。
祐美はグラスをつかみ、オレンジジュースをストローで勢いよく吸い込んだ。飲みながらも、視線は真希に固定し、睨みつけていた。
自分が強敵を迎えたらしいことが、よくわかった。この女から強いチ≠感じるからだ。
また、志津夫にも同じチ≠フ片鱗《へんりん》を感じた。前回、甲府市で会った時には感じなかったものだ。
今の祐美は、この二人を見つけた僥倖《ぎようこう》に感謝したい気分だった。
彼女は、さっきまで熱田神宮の境内の一角にいたのだ。夕暮れの熱気の中、木陰で内清浄の行法を行っていた。つまりハイパー・ヴェンティレーションだ。
激しい過呼吸を繰り返した。血液中の二酸化炭素が減少し、呼吸アルカリ血症による目眩《めまい》が始まる。周囲の景色が七色に輝き、ハレーション効果に包まれているように見えた。同時に、体内に潜んでいるチ≠ェ誘発される。
感覚≠ェ研ぎすまされた。最初それは嗅覚《きゆうかく》に似た感じだった。何か≠悪臭として感じ取ったのだ。
その悪臭の方角に向きなおると、今度は視覚的な情報も見えた。黒い波線のようなものだ。それが十数本、東の方向から、のたうちながら、自分の方へ伸びてくる。祐美だけが感知できる映像だった。
祐美は確信した。白川家一族の敵が、すぐ近くにいると。
その時、父の白川幸介は熱田神宮の社務所に、顔を出しに行っていた。知り合いがいるから挨拶《あいさつ》してくる、というのだ。だから、その間に、祐美は一人で志津夫を捜そうと試みていた。
父は、まだこのことに気づいていない。自分が一足先に接触してみよう、と思った。
祐美は感覚≠ノ導かれて、歩きだした。そして、この喫茶店にいた志津夫たちを探し当てたのだ。
祐美は、志津夫と謎の美女の隣席に座り、彼らの会話に耳を傾けていた。このグラマー美女は、いけ好かない奴だとわかった。どうやら主犯は、この女かもしれない。志津夫は利用されているだけだろう。
志津夫を救い出さなければ。
そこで祐美は、大きなため息をついた。今朝から、ずっと落ち込んでいたのだ。間違えて、原発に時限爆弾でも仕掛けてしまったような気分だ。時間を巻き戻せるものなら巻き戻して、やり直したかった。
祐美は目を伏せて、言った。
「……私、後悔してる」
志津夫は瞬《まばた》きして、
「後悔? 何を?」
「あなたのお父さんが墓参りするらしいなんて言ったばかりに、あなたが妙なことになったみたいだね」
志津夫が生唾《なまつば》を飲み込んだ。片手で、自分の胸の辺りに触れる。そこに悪性のガン細胞でも生じているような態度だ。
祐美はその反応を見て、彼に異変が起きていることを確信した。まちがいない。彼も、父親の葦原正一と同じく不気味な症状を呈しているのだ。それを思うと、祐美は身震いしそうになる。
「いったい、君は誰の味方だ?」
志津夫が言った。眉間《みけん》にしわを寄せて、苛立《いらだ》った表情を見せる。椅子から身をのりだしてきた。
「だって、そうだろう? 旧辞を奪っていったかと思うと、今度は、ぼくの父の居場所について、手がかりをくれたりする。いったい、どういうつもりだ。何が目的で……」
「だから、後悔してるって言ってるでしょ」
祐美はオレンジジュースをストローでかき回す。角氷がぶつかり合い、涼しい音を奏でる。
ジュースをもう一口飲んで、言った。
「何て言うか……。本当は、あなたに仲間になって欲しかった。私と父と葦原正一さんの三人じゃ少なすぎるもの」
志津夫は不審な顔で、
「仲間って、何の仲間だ?」
「カムナビ防止委員会」
「何だって?」
志津夫が聞き返した。口が半開きだ。こんな答えは予想していなかったようだ。
真希も同じような表情だ。祐美を驚異の目で見ていた。同時に、瞳《ひとみ》に宿っている敵意も増してきた。
祐美が言った。
「私が勝手にそう呼んでるだけだよ。カムナビ防止委員会とね。名前を付けるとしたら、それしかないよ。それに……」
「それに……何だい?」
祐美の顔が赤らんできた。耳たぶに火が点いたようだ。そこが燃え上がっているような感じがする。
彼女は照れ隠しにストローに吸いついた。ジュースを飲んで、言った。
「まあ、とにかく仲間が少なすぎるんだよ。あなたなら、いい仲間になってくれるかな、と思ったんだ。少なくとも敵になってほしくはないな」
突然、真希が言った。
「ふうん」
うなずいている。祐美と視線を合わせてきた。女の直感が働いた表情だ。さらに視線の高周波を飛ばしてくる。
祐美も高周波を返した。
同時に確信した。この女は志津夫を誘惑したがっているのだ。そして彼をカムナビの発生源として利用したいのだ。まちがいない。
11
志津夫にとって祐美と再会できたのは、嬉《うれ》しいハプニングだった。だが、同時に、この小柄な丸顔の美少女に対しては怒りもあるのだ。
何しろ甲府市では、彼女が発する謎の力で吹っ飛ばされ、気絶してしまった。志津夫は手も足も出ず、旧辞も入手できなかった。
それを思い出すと切歯扼腕《せつしやくわん》ものだった。体温が一桁《ひとけた》、上がりそうだ。史学者として垂涎《すいぜん》の文献資料を目の前にしながら、それを逃したのだから。
志津夫は苛立ちを隠せず、つい歯をむきだしにしてしまった。祐美を睨みつけて言う。
「ところで……。今、あらためて旧辞を見せてくれ、と頼んでも……」
「ダメ。私の父が許すわけないよ」
祐美は首を振った。丸顔に天使の微笑みを浮かべている。
志津夫は舌打ちし、酢を飲んだような顔になった。身体が少し震える。そして右手を持ち上げかけた。
自分が身につけたばかりの力≠、つい意識してしまった。この右手を祐美に向けて、相手を金縛りにする場面が、脳裡《のうり》に浮かぶ。やれば成功するだろう。
だが、そんなことをしたところで、今すぐ旧辞が手に入るわけではないのだ。彼女が今それを持っていないのは明白だった。それに相手の行動を支配したとしても、その効果がどれだけ持続するのかも、よくわかっていないのだ。
結局、志津夫は手を下ろして、吐息をついた。肩の線が下がる。
今、正面から勝負する必要はないだろう。それに祐美が放つ衝撃波に比べると、志津夫の力≠ヘまだ未熟なものに思えた。下手すると山梨県での時のように、また吹っ飛ばされて気絶するだけだ。
真希は無言だった。またサングラスをかけると、テーブルに頬杖《ほおづえ》をつく。とりあえず成り行きを見守るつもりらしい。
一方、志津夫の頭の中ではクエスチョン・マークがいくつも膨らんできた。気がつくと、それが口から飛び出した。
「教えてくれないか。君たちと、ぼくの父とはいったい、どういう関係なんだ?」
祐美は首を傾ける。どう答えるべきか、迷っているらしい。数秒おいて言った。
「まあ、だいたいは協力関係だよ。でも、あなたのお父さんは、あなたの危険性については、私たちにも黙っていた。今度のような事態になって、ついに白状したけどね。まあ、お父さんは、あなたを引きずり込みたくなかった、という配慮なんだろうけど」
「親父は、どこだ? どこにいる?」
志津夫は周囲を三六〇度、見回した。祐美の台詞《せりふ》や態度から、この付近にいると直感したからだ。
親父をとっつかまえて首の骨が抜けるまで揺さぶってやらないと、気が済まなかった。何しろ謎ばかり残して、当人は姿を消したままなのだ。こちらも旧辞に劣らず、歯がゆくてならない。
祐美が答えた。
「もうすぐ会えるよ。あなたと話をしなければならないと、本人が電話で言ったそうだから」
「じゃ、親父の今の住所は? 電話番号は?」
「携帯電話は持ってるけど、番号は言う必要ないね。今夜中に会うことになるんだから。慌てなくてもいいよ」
志津夫は唸《うな》った。
「今夜中だって?」
「そうだよ」
祐美は簡潔に答えた。今はまだ喋れないこともある、と言いたげな顔だ。
志津夫は繰り返し、言った。
「今夜中? そろそろ夜になるぞ」
窓の外を見下ろした。熱田神宮の境内と道路とを視界に捉《とら》える。
空が暗くなり、藍色《あいいろ》に染まり始めたところだった。街灯や屋台の提灯《ちようちん》が、地上を明るく浮かび上がらせている。道路には法被《はつぴ》姿の子供と、その子を連れた夫婦と、浴衣《ゆかた》姿の娘たちが目立っていた。
だが、サングラスをかけた、それらしい中年男は見あたらなかった。
志津夫の脳はクエスチョン・マークの生産工場になった。次々に疑問をぶつけた。
「他にも訊《き》きたいことがある。そもそも、君たちと親父とは、どういうきっかけで知り合ったんだ?」
祐美は口にストローをくわえたまま、黙ってしまった。迷っている様子だ。
だが、五、六秒後に、うなずいた。もう教えても構わない、と思ったようだ。祐美は説明を始めた。
「私は、こう聞いてる……。葦原正一さんは、今から一〇年前にあるカムナビ山に登り、ある洞窟《どうくつ》に入り込んだ。で、そこにいたアラハバキ神と接触し、感染した。より深いレベルでの感染だったそうだよ。その後、家族には連絡せず、失踪《しつそう》した。自分の姿を家族には見せたくなかったから……」
志津夫は思わず、問いかけた。
「何だって? それはどういう……」
祐美が片手を上げて、制止するポーズをとった。
「詳しいことは本人から直接、聞いて。
……そして失踪した後、正一さんは一度だけ実験のつもりで、カムナビを呼んだそうだよ。カムナビの原理を、どうしても実際に確かめる必要があったんだって。それで、今から一〇年前の深夜、山梨県甲府市の近くにある帯那川《おびながわ》の河原でやったそうだよ」
志津夫は目を見開いた。宙の一点を睨《にら》んだ。甲府市での記憶が蘇《よみがえ》ってくる。
「帯那川……。そう言えば、あの佐治《さじ》という刑事さんが言ってた。一〇年前に、そこで大量の河原の石が溶けて、ガラス化していたとか。中には、きれいなブルーガラスになってしまったものもあったとか。黒こげになったダックスフントも発見されて、首輪の一四金のバックルも完全に溶けていた。つまり、発生温度は摂氏一二〇〇度以上だろうと……。あれも親父がやったと?」
祐美がうなずいて、
「ええ……。そして、その謎の高熱発生は、山梨県ではテレビや新聞で報じられた。それを観て、伯川《はくかわ》神社の宮司だった白川伸雄さん、つまり私の叔父《おじ》さんが興味を持った。謎の高熱発生≠ニなると、白川家一族にとっては一大事なんだ。だから、叔父さんは私の父に連絡した。さっそく、父と伸雄叔父さんは現場の河原を見に行った……」
祐美は肩をすくめて、
「ちなみに私は当時、小学五年生だったから、父は連れていってくれなかった……。で、父と伸雄叔父さんは現場の河原で、不審な人物と出会った……」
志津夫は唸り、
「それが、ぼくの親父だった?」
祐美がうなずいて、
「で、私の父は葦原正一さんを怪しんで、つけ回した。それがきっかけで、父と正一さんは知り合うことになった……。まあ、細かいことは、後で本人から聞いてよ」
志津夫は大きく、うなずいた。話の辻褄《つじつま》は合っているように思えた。ようやく納得できる情報を得て、胸のつかえが少し減った。
真希は黙ったままだが、彼女も聞き耳を立てて、うなずいていた。当然、彼女にとっても興味のある話題だからだ。
そこへウエイトレスがコーラを運んできた。会話が一旦《いつたん》、中断した。
ウエイトレスが立ち去ると、志津夫はストローも使わず、グラスを手にして貪《むさぼ》り飲んだ。喉仏《のどぼとけ》が上下し、音を立てる。
今ならコーラの一リットル入りボトルでも空にできそうだった。喉が砂漠化している。次々と意外な出会いがあり、真相が見えつつあるせいで、興奮状態なのだ。
一気に飲み干して、志津夫は息をついた。そして祐美に訊く。
「いったい、カムナビって何なんだ?」
祐美は肩をすくめる。
「それを説明する義務はないね」
志津夫は鼻を鳴らした。そして真希の方にも一瞬、皮肉な視線をむける。
「最近の女の子は皆、隠し事が好きなんだな」
祐美は口をつぐんだままだった。この話題についてはノーコメントを貫くらしい。
さらに志津夫は訊いた。
「じゃ、この質問なら答えてくれるだろう? 腑《ふ》に落ちないことがある……。文献によれば、君の先祖は明治政府によって宮中から追放され、天皇家との関係を絶たれたそうじゃないか。その時、自分たちの力≠見せなかったのか? 伊藤博文を吹っ飛ばして、あの力≠実演しなかったのか?」
祐美は苦笑いを浮かべた。
「それ、耳にタコ」
「え?」
祐美は肩をすくめて、
「父から散々聞かされたよ。……つまり、その頃の白川家は最低だったそうだよ。行法のコツと言うか、真髄と言ったものが忘れ去られていて、強いチ≠フ持ち主がいなかった。だから、実演しても、伊藤博文たちから手品呼ばわりされたって……」
「チ=H」
志津夫は眉間《みけん》にしわを寄せる。だが、すぐに思い当たった。うなずく。
「ああ、血液の血じゃなくて、古代日本語のチ≠ゥ? 超自然的なエネルギーの概念か?」
「概念じゃない。実在するよ」
「ああ、それはわかってる。山梨じゃ身をもって知ったよ。……そうか、あれもチ≠セったのか……」
志津夫は、真希をちらりと見た。
真希は依然、沈黙したままだった。サングラスの奥から、油断なく祐美を観察しているらしい。
志津夫は、真希が起こした超常現象についても思い起こしていた。彼女は茨城県でも、長野県の神坂峠でも、志津夫に首絞め≠やったのだ。思い出しただけでも息苦しくなってくる体験だったが、あれもチ≠フ利用法の一種だ。
そして今や、志津夫もウロコ人間≠フ仲間入りを果たしていた。彼自身も不可思議なパワーを発揮し始めているのだ。昨日までの自分がただの人間だったことを考えると、何とも奇妙な気分だった。
志津夫は不審な顔になり、祐美を指さして、
「まさか……。君ら白川家の連中にもウロコがあるのか?」
祐美は首を振って、
「いいや。私たちのチ≠ヘ、ウロコとは無関係だよ……。まあ、聞いてよ」
祐美は野球帽のつばをつかんで、かぶりなおした。話題を強制的に変えてくる。
「この場に私の父がいたら、こう言うわ。草薙剣は渡さない、と」
志津夫は少し身をのりだして、祐美の丸顔をのぞき込んだ。
「ぼくらの話を聞いてたのか?」
「ええ」
しばらくの間、両者は見つめ合った。彼女は視線をそらさない。まっすぐ見つめ返してくる。
志津夫は胸に突風が吹き込んでくるのを感じた。波乱の予感だ。
これから始める強盗犯罪で、もっとも頭が痛いのは警備員や警察官たちの存在だ。なのに、今は、それ以上の障壁がそびえ立ったわけだ。山梨県での時のように、自分が祐美に吹っ飛ばされるイメージが脳裡《のうり》に浮かぶ。
祐美が言った。
「父に言わせると、これは白川家一族のマニュアルどおりの対応なんだって。今みたいな異常気象が起きたら、草薙剣を狙う連中も現れるんだって……。ちなみに、過去に草薙剣を盗みだそうとした連中は、いっぱいいた。壬申《じんしん》の乱の時にも盗まれそうになったし、記録に残ってない事件も数えたら、それこそ無数にあった。でも、うちの先祖が阻止してきたんだって」
祐美は嘆息して、首を振り、
「ね。だから、こんなこと、やめようよ。やめてくれたら、旧辞も見せてあげられるかもしれない。今すぐはダメだろうけど、私の父に信頼されるようになったら、見せてもらえるよ、きっと」
祐美は懇願する表情で言った。志津夫との無用のトラブルを避けたいようだ。その意志は充分に伝わってきた。
「ふん」
鼻息が返った。
志津夫はその音に反応して、正面を振り返った。そして胃の中に氷柱ができた気分を味わった。
鼻息を発したのは、もちろん真希だった。いつの間にか彼女はサングラスを外していた。しかも、指先に五〇〇円硬貨を持っていた。
真希の超常能力のスイッチ≠セ。それを目の高さに差し上げる。指だけが露出する革手袋をはめているせいで、手袋の黒とコインの銀色とが対照的な色合いを成していた。
彼女は大ぶりのコインと祐美とを見比べた。口元に、サディスティックな笑みを浮かべている。祐美に首絞め≠試そうとしているのは、まちがいなかった。
志津夫は、さらなる波乱を予感した。
12
真希は、祐美の小柄な肢体を観察していた。ショートヘアに野球帽、Tシャツ、ジーンズといった装いも観察した。胸の膨らみに気づかなかったら、十代の少年みたいな外見だ。
真希は相手のコンプレックスを見抜くことができた。つい、そこを突っついてみたくなる。我慢できなかった。
真希は祐美に蔑《さげす》みの視線を送り、言った。
「大人の話を盗み聞きなんて、悪い子だわ」
とたんに祐美は三白眼で睨《にら》んできた。両手は拳《こぶし》になり、肩の線も上がる。真希の狙いどおり、今の言葉がプライドに突き刺さったようだ。
祐美が言った。
「私は二一歳。大人だ」
「へえ。全然そうは見えないけどね」
真希は、せせら笑った。
ところが、祐美は挑発にのって多弁になったりはしなかった。沈黙し、片頬に笑みを浮かべる。視線だけで宣戦布告してきた。
それで真希も、相手の精神年齢の高さを悟った。彼女も顎《あご》を引き、上目づかいになる。また女同士で、視線の押し相撲になった。緊迫した空気が漂い出す。
志津夫は再度、女二人に挟撃されて、とまどっている様子だった。眼球だけ左右に動かして、両者を見比べている。彼は何とか仲裁するための弁舌を考えているようだが、まだ言葉が浮かばないらしい。
真希は、志津夫に口出しされたくなかった。これは私たちだけの闘い、私たちだけのゲームだ。
それに、この小柄な娘の力≠ェどんなものか試しておくべきだとも思った。志津夫の話では、祐美は手も触れずに彼を吹っ飛ばし、失神させたそうだ。だが、真希自身はそれを経験していないので、まだ半信半疑だったのだ。
是非、祐美のパワーを試してみたかった。だが、これだけ人目がある場所で、あまり派手な真似もできない。何か、ちょっとしたゲームのようなことで実験するべきだろう。
「ふふん」
真希は鼻息で笑った。ある方法を思いついたのだ。大ぶりの銀色のコインを、祐美に突き出した。
「ねえ、コイン・トスをやらない? つまり、コインで賭《か》けをするの」
祐美は不審な顔で、
「賭け?」
「そうよ。こんなのは、どう? オモテが出たら、あなたが知っていることを全部話すの」
志津夫が、やや驚いた顔で真希を見つめた。すぐには真意が飲み込めないのだろう。
祐美も瞬《まばた》きしていた。だが、やがて彼女の目には理解の色が現れた。これが腕試し≠ナあることに気づいたようだ。
祐美が訊《き》いてきた。
「ウラが出たら、どうするんだよ?」
真希は、もっとも挑発的な台詞《せりふ》を思いついていた。微笑んで、言う。
「私たち、草薙剣をあきらめてもいいわ」
真希の真向かいでは、志津夫が口を半開きにしていた。意外な展開に驚き、目を見開いている。
やがて彼は「あっ」と言いかけた。これが一種の腕試し≠ナあることに気づいたようだ。
祐美は、ストローをくわえたまま顔を上げた。ストローが水平になり、くわえタバコのようなポーズになる。真希と睨み合った。
どうやら祐美は、この申し出にとまどっているようだ。だが、数秒で心は決まったらしい。
祐美はストローを空のグラスに戻した。野球帽を半回転させて、つばを後ろにしてキャッチャー風にかぶる。
彼女は両手を膝《ひざ》の上にのせた。そのせいで、祐美の可愛い手がテーブルの下に隠れた。
「いいよ。受けてやる」
真希が嫣然《えんぜん》と微笑んだ。芝居がかった台詞回しで言った。
「世の中には二種類の人間がいるわ。運のいい人と悪い人よ」
真希は五〇〇円玉を二枚、持っていた。一枚は左手に握り、もう一枚を右手親指の爪に載せる。
志津夫は、真希の手元を凝視していた。どうやって真希や、祐美が硬貨をコントロールするのか、その瞬間を確認したかったのだろう。一心不乱に見つめている。
真希は、親指でコインを弾《はじ》いた。
ピィンという金属音。五〇〇円硬貨は宙を舞い、体操選手のフィニッシュのように高速回転する。窓越しに差し込む赤い夕陽を反射し、ストロボのように点滅した。
真希が右手のひらでキャッチする。
彼女の形相が変わった。目を見開いている。脳天に斧《おの》が刺さったような顔になってしまう。
「そんな……」
「え?」
志津夫もそう言い、怪《け》訝げんな顔で真希の手元をのぞき込んでくる。
ウラだった。
真希は唇を噛《か》んだ。自分は脳裡でオモテのイメージを描いていたのだ。なのに、コインは彼女の意志を裏切った。
真希は顔を上げた。
祐美が大仰《おおぎよう》に肩をすくめた。丸顔いっぱいに微笑を浮かべる。自慢げな態度だ。
真希は即座に、左手に力を入れて、手の中のコインを握りしめた。すると、右手のひらの五〇〇円硬貨がまるで生命を持ったかのように、自ら跳ねた。オモテにひっくり返ったのだ。
すかさず、祐美が椅子から立ち上がった。今までテーブルに隠れていた、彼女の両手が露出する。それは指が正三角形に組まれた手印だった。
志津夫は、祐美の両手を指さした。口を開き、言いかける。
「それは伯家流神道の……」
志津夫の言うとおりだった。祐美はテーブルの下で、両手の親指と人差し指による正三角形を作っていたのだ。彼女は、その手印をまるで射撃の照準でも合わせるような感じで、真希の方に向けた。
真希の手のひらのコインが、またひとりでに跳ねた。ウラになる。
真希も、また左手のコインを強く握る。
硬貨が自らジャンプして、オモテになる。
祐美も鼻息で、気合いを入れた。
またコインが自ら跳ねる。
ついに真希の手のひらから、はみ出した。五〇〇円硬貨は重力に捉《とら》えられて、落下する。床を転がり始めた。
志津夫は唖然《あぜん》とした表情だった。彼には参加できない領域だ。彼の持つチ≠ノは物理的な作用力がないからだ。この不可思議な対決を見守ることしかできなかった。
コインは転がったあげく、志津夫の牛革キャンピングシューズにぶつかり、止まった。
祐美は手印を解いた。真希を指さして、
「やっぱり、お互いイカサマだったか。でも、最初に出たのはウラだからね。約束は約束だ。草薙剣はあきらめなよ」
「ふん」
真希は強い鼻息を返した。みぞおちの辺りが燃え出すような気分だった。
彼女は、この賭けに絶対の自信があったのだ。だが、結果は負けだった。
どうやら真希の隙をついて、祐美の念力が介入し、コイン・トスの結果を変えてしまったらしい。それを許してしまった自分が腹立たしかった。唇の線が歪《ゆが》んだ。
祐美が両手を腰に当て、顎を突き出すようにして、
「約束、守れよ。先に言い出したのは、そっちだぞ」
真希は無言で、相手を睨《にら》みつけた。この年下の小娘の生意気さに、猛然と腹が立ってきた。
実際には、コイン・トスなど腕試し≠フ口実に過ぎなかったのだ。協定もなければ、契約書もない。従って、破棄しても罰則はないのだ。
この程度の腕試し≠ノ負けたぐらいで、真希がひるむ必要などなかった。本番≠ヘ、また別だからだ。
彼女の左手に、もう一枚の五〇〇円玉があった。それを見つめるうちに殺意が生じた。
真希は悠然と微笑し、胸中で呟《つぶや》く。さっさと死ぬがいい、やせっぽちのおちびさん。
コインを握りしめようとした。
「やめろ! 握るな!」
志津夫が右手を伸ばし、叫んだ。
真希の全身が瞬時に冷凍されたようだった。さっきまで自由に動いた身体が、今は指一本すら動かない。金縛り≠ノ陥ったのだ。
真希は唸《うな》った。首も動かないので、横目で志津夫を睨む。口だけ動かして言った。
「また、やったわね。私はビデオデッキじゃないのよ。勝手にポーズ・ボタンなんか押さないで!」
だが、志津夫は席から立ち上がって、真希の両手を押さえ込んだ。金縛りが解けた時の用心らしい。確かに手をつかまれたままでは、真希は力≠発揮できない。
真希は再度、唸った。必死に抵抗しようとする。だが、全身がコンクリート漬けになったみたいだ。少し首を震わせるぐらいにしか、身体を動かせない。
この金縛り≠ヘ神坂峠でも経験していた。あの時も抵抗し続けて、自力で脱出したのだ。今回もできるはずだった。
努力が実を結んだ。真希の神経細胞にパルス電流が戻ってくる。行動の自由を取り戻した。
真希は、すぐに志津夫の手を振り払おうとした。だが、彼は離そうとしない。
「何よ!」
真希は反抗しようとした。しかし、彼女には成人男子に逆らうほどの筋力はなかった。どうしても振りほどけない。
志津夫は言った。
「やめろ! こんなところで。だめだ。やらせるわけには……」
祐美は立ちつくしていた。二人のもみ合いに目を見開いている。とまどった表情だ。
真希は、志津夫の妨害行動に憤激した。一度は彼の顔を引っ掻《か》こうとする。
だが、実行する前に、祐美の丸顔が目に入った。
それで、いやでも気づいた。もみ合いを続けていたら、自分の力のスイッチ≠ェ何であるか、この祐美という娘に悟られてしまうだろう。いわば弱点を見抜かれてしまうのだ。
真希は腕の力を抜いた。あきらめ顔になる。祐美に見られないよう、志津夫の身体の陰で手をひっくり返し、彼にコインを渡してやる。
志津夫は超常能力のスイッチ≠受け取って、安堵《あんど》した表情になった。肩の線が下がり、大きなため息をつく。眼前で知人の女性が死ぬなんて、彼には耐えられない様子だった。
ふと志津夫は何かを感じたらしく、斜め後ろを振り返った。真希も、つられて見る。祐美も振り返った。
店内にいた七、八人の客と二人のウエイトレスが、志津夫や真希たちを見ていた。皆、目を限界近くまで見開いている。黙り込んでいた。
他の客たちには、痴話|喧嘩《げんか》でも始まったのか、と思われたようだ。確かに男一人に女二人の組み合わせで、言い争って、もみ合いをやったのだ。それがいちばん、ありがちな解釈だろう。
志津夫はわざとらしく咳払《せきばら》いを始めた。気恥ずかしさを覚えたのだろう。他の客たちに背中を向けてしまった。
真希は平気だった。顔色一つ変えない。
彼女は超常能力を得て以来、強烈なエリート意識を持ったのだ。普通の人間たちなど動物園のサル同然に思えるようになった。だから、サルに変な目つきで見られても、別に動揺はしない。
祐美も同じ心境なのか、周囲の視線を気にする様子はなかった。あるいは白川家一族の彼女の場合、強い使命感でも抱いているのかもしれない。その使命感や信念などのせいで、他人の目線を無視できるのかもしれない。
志津夫だけが気まずそうな顔をしていた。無言で、二人の女を見比べている。
やがて、志津夫は祐美に向きなおった。一呼吸してから、残念そうな表情で言った。
「その……。今は……席を外してくれないか。こっちは、こっちで考える時間がほしい。相談する時間も欲しいんだ」
「……ああ。わかったよ」
祐美は失望した顔で、答えた。肩の線が下がっていく。志津夫と真希の結びつきが、すぐには解けそうもないと知って落胆したようだ。
真希は鼻で笑ってやった。今のは女としての自尊心をくすぐられる場面だ。
祐美が睨んできた。真希も視線のレーザービームを返す。この険悪な雰囲気は確かに痴話喧嘩そっくりだった。あるいは本質は、それなのかもしれない。
睨み合いを先に中止したのは、祐美だった。彼女は窓の外を指さした。志津夫に言う。
「熱田神宮の拝殿に行く途中で、お父さんと会えるよ。そして、あなたは、きっと考え直すことになるんだ」
祐美はテーブル上のオレンジジュースの伝票をつかんだ。真希のそばをすり抜けて、レジに向かう。すれ違う瞬間も、女同士の視線の激突が生じた。
祐美はレジに伝票を置いた。当然のことながら、彼女は店員に好奇の目で見られていた。だが、祐美は一切、気にせず、財布から小銭を出し、精算した。
祐美は店を出る直前、振り返った。再び、真希と視線が合う。
女同士の間に、また反発し合う斥力《せきりよく》が生じた。互いの髪の毛が逆立ちそうな雰囲気だ。視線のメッセージが飛び交った。
次は遠慮しないわ。
そっちこそ覚悟しろよ。
祐美は先ほどコイン・トスの直前に、野球帽の前後を逆にしてキャッチャー風にかぶった。今、彼女は再度、帽子のつばをつかんで半回転させ、元に戻した。そしてガラス・ドアを押し開けて、姿を消した。
窓の外では、すでに日が沈みかけていた。空は美しいパープルに染まっている。積乱雲が巨大な青い綿菓子となって、頭上を覆っていた。
地上では屋台の看板や、提灯《ちようちん》が照り映えている。太鼓のビートが高まり、縁日の気分を盛り上げていた。
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三の巻 再 会
夜になった。
熱田神宮の勅使門の付近は、絶え間ないノイズに包まれていた。足音、ざわめき、車のエンジン音、クラクション。
騒音にくわえて、真夏に等しい熱気も参拝客たちを包んでいた。空気だけでなく、地面までも熱く焼けているような感じだ。
時折、街並みが揺らいでいるように見えた。眼前を歪《ゆが》んだ透明プラスチック板が通過していくみたいな眺めだ。夕暮れだというのに陽炎《かげろう》が起きているのだ。
真希は右肩に革のショルダーバッグを担いでいた。いささか膨れっ面になっている。そのため、せっかくの美貌《びぼう》が崩れていた。
彼女は片手で顔を扇《あお》いで、
「それにしても暑いわね。鉄板の上で、お好み焼きにされてる気分だわ」
真希は唇の線を歪め、横目で志津夫を睨《にら》んだ。
「まったく、これがカムナビの復活だと思うからこそ我慢してるんだけど、本当は温度調節してほしいわ」
志津夫も猛暑のせいで、うんざりした顔をしていた。柄シャツの袖《そで》を途中まで、まくり上げながら、言った。
「だから、言ってるだろう。身に覚えはないと。ぼくがこの異常気象を呼んでいると言われても、何の実感もないんだから」
彼は首を振って、
「それよりも親父だ。ここにいるんなら、一つ顔を見てやろうじゃないか」
志津夫は怒り肩で、熱田神宮の境内へ歩きだした。唇の線が真一文字になる。
ついに一〇年目にして、念願の再会だ。だが、全然、嬉《うれ》しくはなかった。それどころか志津夫は最高に不機嫌だった。
父、正一は最初から真相を隠したりせず、何もかも教えてくれれば良かったのだ。それだったら、志津夫も神坂峠には近づかなかったろう。こんなウロコだらけの身体になって、しかも異常気象を呼び起こす、などということもなかっただろう。
もちろん正一には、正一の言い分があるだろう。とりあえず会ってみないことには、どうしようもない。自然と早足になりかける。
だが、熱田祭の人出は毎年、数十万人だと言われているのだ。当然、勅使門の付近も大勢の人出で渋滞していた。とてもスムーズに歩ける状態ではなかった。
志津夫は苛立《いらだ》ちながらも、人の流れに合わせて勅使門から境内に入った。真希もショルダーバッグを担いだ姿で、後についてくる。
ここは本来なら参拝客のルートではない。勅使門という名前のとおり、朝廷からの勅使が通るための出入口で、いわばVIP専用口だ。今は一般客にも開放されているので、ここを通る人が多くなったのだ。
ちなみに、熱田神宮における本来の参拝ルートとは東門、西門、南門などから入るコースである。祭りの当日には、それらの門前に三六五個の提灯《ちようちん》を半球状に組み上げた「献灯まきわら」が飾ってある。これは直径三メートルもあり、観光客がカメラのストロボを浴びせる対象物だった。
さらに第一鳥居と第二鳥居の中間には、高さ八メートルの佐久間|灯籠《とうろう》や、校倉造《あぜくらづくり》の外観の宝物館などもある。
だが、観光客ではない志津夫と真希は、それらは無視した。
二人は大きな案内図の前で立ち止まった。じっくり眺めて、境内の地理を確かめる。
志津夫は首をひねる。
「この中のどこで待ちかまえているんだ?」
真希も案内図を指さし、
「そうよね。広すぎるわ。それとも、向こうから見つけてくれるの?」
志津夫は、しばらく唸《うな》っていた。やがて言った。
「とりあえず、拝殿に行けばいいんだろう。あの祐美っていう子も、拝殿に行く途中で、親父が待ち構えているようなことを言ってたし」
「うん。そうしましょう」
真希はうなずいた。彼女は志津夫に向き直ると、
「でも、忘れないで。私たちの目的は草薙剣《くさなぎのつるぎ》よ。親子の涙の再会劇じゃないわ」
今度は志津夫が横目で睨む番だった。
「何が涙の再会劇だよ。ぶっ飛ばしてやりたいぐらいだ」
「そう来なくちゃ」
真希は微笑む。
志津夫は案内図を指で辿《たど》り、勅使門の付近から直接、神宮会館の前に出る道を見つけた。それが拝殿までの最短ルートらしい。
そのルートに沿って、志津夫と真希は歩きだした。結局これが正解だった。人影の少ない裏道だったからだ。
地面も、この付近は玉砂利ではなく、アスファルトの舗装道路だった。関係者専用の駐車場が見えてくる。黒のクラウンやセドリックが停まっていた。
神宮会館、神宮宮庁、斎館などの建物の前に出た。いずれも白い鉄筋コンクリートの二階建てで、普通の建物と大して変わらない。だが、玄関の庇《ひさし》だけは蓑甲《みのこう》、鬼板《おにいた》、懸魚《げぎよ》などで飾られた神社風で、しめ縄が張ってあった。
この付近だと、すれ違う相手も参拝客ではなく、袴《はかま》姿の男女が多かった。熱田神宮の神職たちだ。禰宜《ねぎ》や権禰宜《ごんねぎ》、巫女《みこ》などだ。
大規模な神社になると、宮司だけでは運営の人手が足りなくなるのだ。そこで宮司の下に権宮司という職階名があり、その下が禰宜、権禰宜となっている。また、巫女は特に資格認定などはないので、アルバイトでやっている女性も多い。
彼ら神職とすれ違いながら、志津夫と真希は黙々と歩いていた。二人とも、もの思いに耽《ふけ》るのに忙しかったからだ。
志津夫の頭の中では、父親と会った時に言う台詞《せりふ》が渦巻いていた。
なぜ、今まで失踪《しつそう》していたんだ? カムナビって何だ? 青い土偶の正体は? なぜ、おれはウロコだらけの身体になっちまったんだ?
疑問はトレーラートラック一台を満載にするほど蓄積されていた。その数々が、これから解けようとしているのだ。昂揚《こうよう》感と不安で心臓が高鳴り、志津夫は悲愴《ひそう》な表情になっていた。
一方、真希は楽しげな顔だった。黒い瞳《ひとみ》が輝いている。志津夫と正一の間にトラブルが起きるのは確実だから、それを野次馬気分で見物するつもりなのだろう。
神宮会館の前を通過すると、足元がアスファルトから玉砂利に変わった。周辺にもクスノキ、タブ、ムクの老木が茂っていた。神苑《しんえん》と呼ぶにふさわしい雰囲気を醸し出している。
だが、玉砂利の参道は、参拝客であふれていた。視界に入ってくる頭数だけでも四、五百人はいる。彼らの足音、話し声が混じり合い、雑踏に特有の音響を生み出していた。
この渋滞ぶりを見れば、やはりスピーディーな移動は無理だとわかった。志津夫は舌打ちすると、参拝道から外れるコースを採った。
参拝道の周辺には、高さ二メートルほどの老木が散在していた。その老木の間へ、志津夫と真希は入っていったのだ。
木々の間には、いくつかの摂社《せつしや》や末社《まつしや》が建っていた。
摂社とは、本社の主祭神と縁故の深い神を祀《まつ》った神社だ。末社はゲスト扱いの神を祀った神社だ。いずれも高さ二メートルほどの鳥居と、犬小屋ぐらいの本殿と、さい銭箱で構成されている。ほとんどの参拝客からは無視されている存在だ。
志津夫と真希は、それら摂社や末社の後ろ側を通過していった。おかげで参拝客に邪魔されず、時間を節約できた。
視界が開けた。玉砂利を敷いた広場のような場所に出たのだ。テニスコートを三面ぐらい造れそうな面積がある。
その広場の向こうに神楽殿の正面が見えた。拝殿に通じるルートの一つだ。
「こっちだ」
志津夫が言い、人の群れをかき分けつつ進んだ。
真希が革のショルダーバッグを背負いなおし、慌てて追いかける。
灰褐色の塀に突き当たった。高さは大人の背丈ほどで、そばに「信長塀」の立て札がある。
これは織田信長が奉納したために、この呼び名が付いたものだ。材質は土と石灰を油で練り固め、瓦《かわら》を厚く積み重ねた練塀《ねりべい》だ。第三鳥居の東西に伸びる形で建てられている。
信長塀に沿って歩くうちに、第三鳥居が見えてきた。高さ八メートル、幅六メートルほどの木造で、シンプルな神明《しんめい》鳥居という様式だった。
鳥居の前後には縁日の屋台が並んでいた。たこ焼き、トウモロコシなど昔ながらの商品の他に、クレープ、サツマスティックなどの新顔もあった。
参拝道は屋台と提灯で埋め尽くされていた。彼方《かなた》まで遠近法を成している。
第三鳥居に近づくにつれて、太鼓の音が大きくなってきた。小刻みだが力強いビートだ。その音が樹木に包まれた神聖な空間を彩り、ハレの日をいやでも盛り上げていく。
だが、そのビートもある瞬間から、志津夫の耳には聞こえなくなった。
第三鳥居の下に、一人の男が立っていたからだ。
大柄で、がっしりした体格だった。今夜は気温が摂氏三三度もあるというのに、長袖《ながそで》の黒いシャツを着て、黒い手袋をして、黒いスラックスをはいていた。この猛暑をまったく苦にしていない様子だった。
その男の目は大きなガーゴイル・サングラスで覆われていた。顔の下半分は口ひげと顎《あご》ひげで覆われている。
その男も、志津夫の存在に気づいたようだ。男がサングラス越しに、志津夫を見つめ返したのを明瞭《めいりよう》に感じた。
志津夫の足が止まった。呼吸も止まった。心臓も停止した気分だった。
熱田神宮、第三鳥居の上空には藍色《あいいろ》の夜空が広がっていた。
そこに金色の巨大なヒマワリの花が咲き乱れ始めた。ワンテンポ遅れて、爆発音も響く。打ち上げ花火だ。
花火に元気づけられたのか、祭り太鼓の連打音もさらに盛り上がった。アルコールが入っていなくとも、この光と音のショーで充分酔えそうだった。
だが、志津夫には花火見物する余裕などなかった。一歩また一歩と、父、正一に迫っていく。
真希も後方からついてきたが、志津夫は彼女の存在を忘れていた。一〇年ぶりの父親を観察するのに忙しかったからだ。
葦原正一は一〇年前に比べると、やや痩《や》せていた。その全身から不健康なムードが漂ってくる。あるいは体調を崩しているのかもしれない。
正一は大きなサングラスをかけていた。だが、これがどうも似合っていない。そもそもファッションとしての意図が感じられない。仕方なく着用している風情なのだ。
また、以前の正一は、いかにも学者風で、かつ貫禄《かんろく》のあるムードがあった。だが、今は貫禄も品性もレベルダウンしたように見える。一〇年間の失踪は、父の人間性までも大きく変えたような印象があった。
父との距離が、あと一〇メートルに迫った。
その時、志津夫の脳裡《のうり》でフラッシュ・バックが始まった。子供の頃の記憶だ……。
……幼稚園児の頃だ。志津夫もたいていの子供と同じで、粘土細工が好きだった。飽きもせずに粘土をこねくり回した。
ある日、志津夫は奇怪な造形物をこしらえた。
不格好な人形だ。手足は太く短く、プロポーションは悪夢のごとく狂っている。目に当たる部分は競泳用ゴーグルのような形状だ。誰が見ても、縄文式の遮光器土偶だった。青森県の|亀ケ岡《かめがおか》遺跡から出土したものと酷似していた。
まだ、ひげを生やしていなかった頃の父は、その土偶を見て恐怖に近い表情を浮かべた。そして言った。
「なぜ、こんなものを作ったんだ?」
志津夫は答えた。
「勝手にできちゃったんだ」
「勝手にだと?」
「うん。あのね、粘土をこねてたら、こうなっちゃったの」
父は、しばらく黙り込んでしまった。脳細胞同士が軋《きし》み合っているような顔だ。やがて言った。
「こんなものを作らなくてもいいだろう? 他のものを作れよ。飛行機とか、車とか」
「うん」
だが、翌日も志津夫は作ってしまった。
今度は縄文時代のハート形土偶だ。顔がハート・マークに似た形のものだ。群馬県郷原遺跡から出土したものと酷似していた。
その翌日は山形土偶を作った。頭部が三角形の山のような形で目、眉《まゆ》、鼻が顔面中央に小さく表現されている様式で、関東地方を中心に出土するものだ。
さらに木菟《みみずく》土偶も作った。ハート形の顔面にボタン形の目と口があり、耳の位置に目と同じ大きさのボタン形の文様がある。これは当時の大型耳飾りの表現だろう、と推測されている。
父親は息子の作品を見て、激しく動揺した。息子を睨《にら》んで、尋問した。
「父さんの書斎に入ったんだろう? そして図鑑の写真を見て、真似して作ったな? そうだろう?」
「ちがうよ。こねてたら、こうなったんだよ」
「ウソだ」
「ウソじゃないもん」
「そんなバカな……」
父は信じようとはしなかった。だが、その口振りとは裏腹に、父にはわかっていたのだ。息子はウソなどついていないことを。息子の指が勝手に縄文人の造形物をこしらえているのだ、ということを。
志津夫は熱田神宮の境内を歩き続けていた。
あの時、なぜ、自分があんなものを造ったのか、わかりかけてきたような気がした。それを見た父が動揺していた理由も、わかってきた。
サングラス姿の父との距離は、あと七メートルに迫った。また、別の記憶が蘇《よみがえ》った。
……小学生にとって、夏休みは永遠とも言えるぐらいに永く感じられた。特に八月に入ると、近所の遊び友達が一斉にいなくなるので、余計に時間が間延びしてしまう。お盆が近づくと子供たちは皆、田舎へ行ってしまうのだ。おじいちゃん、おばあちゃんの家で夏を過ごすのだ。
そうなると、志津夫は独りぼっちになる。暑い暑い夏、セミがうるさい夏、寂しくて仕方がない夏。
「ねえ、うちも田舎へ行こうよ。おばあちゃんのところへ行こうよ。ねえ、ねえ」
志津夫は母に、そう言う。だが、聞き入れられなかった。母は答えた。
「おばあちゃんのところに行っても、何もないのよ。遊ぶところもないし、子供もいないし、つまらないわよ」
そこで志津夫は父のところに行って、問いつめた。
「どうして、うちは田舎に帰らないんだよ。かずちゃんちも、あきちゃんちも皆、田舎に帰ったんだ。何で、うちだけ帰らないんだよ」
まだ、ひげを生やしていなかった頃の父は答えた。
「おばあちゃんをあまり、わずらわせたくないのさ。よし、今度の日曜日は遊園地に行こう」
「ちがうよ。田舎に行きたいんだよ。田舎だよ。田舎」
お盆が過ぎると、子供たちは都会に帰ってくる。そして自分の田舎の話をするのだ。なのに志津夫だけ、その話題を持ち出せないのだ。そんなのは不公平だと思えた。
だが、その後も葦原家が里帰りすることはなかった。祖母はいつも春や秋の過ごしやすい時期に、自ら上京してくるのだ。葦原家の一家が祖母の住む長野県日見加村に行くことはなかったのだ。
志津夫が高校一年の時、祖母が亡くなった。その時は、さすがに葬式や通夜のために一家は帰郷した。
だが、その後は母、佳代が亡くなった時まで、また帰郷することのない日々が続いた。
志津夫は熱田神宮の境内を歩き続けていた。
今になって葦原家が里帰りしなかった理由がようやく、わかってきた。
黒ずくめの姿の父との距離は、あと四メートルに迫った。また、別の記憶が蘇った。
……高校生の頃だった。当時、志津夫は「邪馬台国・九州・東遷説」に熱中していた。それを主張する本を三〇冊ぐらい買った。高校生には一大出費だった。
志津夫はこれだけ投資してデータを集めたからには、必ず親父の鼻を明かしてやれる、と思った。プロの考古学者を論破してやるのだ。そう思うと革命思想に目覚めて、反政府ゲリラ軍に参加したような興奮を味わった。
だが、討ち死にした。
その頃、すでにひげを生やしていた父は言った。
「考えてみるがいい。中国の史書は、すべて中国から見た政治的な意味合いで書かれているんだ。つまり中国の史書においては、ある国についての記述量と、その国の面積とが明らかに正比例しているんだ。外交の記録だから当然そうなるんだ。
その前提で、『東夷伝の中の倭人伝』という中国側の視点で読んでみろ。邪馬台国の記述は、東夷伝の他の国々と比べても、非常に詳しく、量が多いんだ。字数からいっても馬韓・辰韓・弁韓などの朝鮮半島の南半分の三国と、ほぼ同じ量の記述がなされている。つまり、朝鮮半島の南半分と、邪馬台国を中心とする倭国連合とは、ほぼ同じ面積であり、ほぼ同じ国力だと中国側が認識していた証拠だ。
朝鮮半島の南半分といえば、九州の面積のざっと二倍だぞ。邪馬台国を中心とする倭国連合が、九州だけの話だと解釈するのは苦しいんだ。九州だけではあまりにも狭すぎる。倭人伝の記述量は、日本列島の西半分の面積に対応している、と考えるのが自然だ。
だから、中国の学者は全員、邪馬台国・畿内説なんだ。そもそも魏志倭人伝は中国の文献だぞ。それを分析する眼力は、我々より中国の学者たちに一日の長があるに決まっている。彼らの見解の方が理に叶《かな》っているんだ。まちがいない」
そんな具合にことごとく論破され、ワンサイド・ゲームに終わった。プロ考古学者の父が巨大な壁となって、立ちはだかっていた。若造の鼻っ柱はへし折られ、ノックアウト負けの屈辱感を味わった。いつか、この借りは返す、と誓ったものだ。
だが、大学に入ってからは結局、志津夫も「邪馬台国・畿内説」を受け入れた。ただし、アカデミズム流儀の「畿内・自生説」ではなく、在野の考古学者たちが唱える「東遷・畿内説」に注目するようになった。
志津夫は、ついにサングラス姿の父の正面に立った。
互いの距離は一メートルしかない。もう一歩、踏み込めばパンチの射程距離だ。そのせいか、志津夫の両手が拳《こぶし》になってしまう。
正一は逃げたりしなかった。ブロンズの彫像のように動かず、無言のままだ。大きなサングラスのせいもあって、無表情に見える。
志津夫の隣に真希が立った。そうするのが当然という態度だった。正一に会釈する。
正一は初めて動きを見せた。首を動かし、視線を彼女に向けたのだ。真希の美貌《びぼう》とプロポーションに目が引き寄せられるのは、男性なら当然の反応だろう。
だが、正一は、すぐに視線を息子に戻した。
志津夫の脳裡《のうり》では、単語が暴風雨のように荒れ狂っていた。カムナビ。なぜ? 失踪《しつそう》。なぜ? ウロコ。なぜ? 青い土偶。なぜ? なぜ? なぜ?
だが、いざ父に会うと言葉を失った。何から話すべきか、迷ってしまう。正一も同じ失語状態に陥ったらしい。
夜空では、打ち上げ花火が金と銀の大輪を描いていた。その爆発音と、祭り太鼓の音とが共鳴し合う。
父も子も黙り込んだままだった。沈黙が無限の重量で、この場にのしかかってくる。そんな状態が一〇秒以上、続いた。
やがて父は年長者の立場上、自分が口火を切らねば、と思ったようだ。ついに再会の第一声を発した。
「……久しぶりだな、志津夫」
今までのことを考えると、何とも平凡な挨拶《あいさつ》だった。
志津夫は唖然《あぜん》とした顔で言った。
「久しぶり? 久しぶりだって?」
「ああ」
父はサングラス姿のまま、よく響くバリトンで答えた。志津夫の声質とも似ている。一〇年経っても、その声だけは変わっていなかった。
正一は言った。
「東亜文化大の講師になったそうだな。就職、おめでとう」
志津夫は目を限界まで見開き、
「久しぶり? 久しぶりだって?」
「就職祝いとかも何一つしてやれなかった。悪かったと思ってる。だが、最後の忠告だけは出来る。私と一緒に引き返すんだ」
「久しぶり? 久しぶりだって?」
志津夫は同じ台詞《せりふ》を繰り返していた。まったく会話になっていなかった。
志津夫の腹の中は、今や活火山と化していた。口から溶岩があふれそうな気分だ。サングラス姿の父親を睨《にら》みつける。
その傍らで、真希は志津夫と正一とを見比べていた。そして肩をすくめる。親子|喧嘩《げんか》の開始ゴングが鳴った、といった表情だ。
志津夫は父を指さして、
「はっきり言うけど、そのサングラスは似合わないよ」
「自覚してる」と正一。
「だったら、外したら、どうなんだ? 一〇年ぶりに、一人息子に会ったんじゃないか」
正一は慌てて、サングラスを手で押さえた。それを取られるのを極度に恐れているようだ。一歩、下がった。
「今は外せない」
「外せない? なぜ?」と志津夫。
「おいおい説明する」
「夜そんなものかけていたら不便だろう?」
正一は首を振り、
「そうでもないさ」
唐突に、真希が口をはさんだ。
「きっと私と同じで、夜目がきくようになったのよ」
正一の視線が、真希に向いた。
真希は微笑んだ。人目を惹《ひ》く美貌がより映える。通行人の男性の中には、彼女を振り返る者もいた。
真希がお辞儀し、挨拶した。
「初めまして。名椎真希です」
それを聞いて正一はうなずいた。サングラス越しに、彼女を凝視する。
確かに、真希は見つめるに価する美人だ。だが、正一は美貌に惹かれたわけではないようだ。彼女の人品骨柄を見定めようとしている態度だった。
正一が口を開いた。
「あなたが真希さんか。名椎善男さんから、話は聞いた。登美彦神社の奥宮で、志津夫に何が起きたのかも聞いたよ」
真希は微笑み、
「多彩な情報網をお持ちのようね。それを少し分けてくださらない? 白川家一族とどういうご関係なのかも詳しく、お聞きしたいわ」
「ぼくも聞きたいね」
志津夫は一歩、前に出た。
「なぜ、今まで行方をくらましていた! 答えろ!」
志津夫の顔が仁王像めいた形相に変わった。脳みそが沸騰する感覚だ。両手で、父の胸ぐらをつかんだ。
「昨日は、日見加村へ母さんの墓参りに行ったんだろう? で、ぼくを見て、慌てて逃げ出した。そうだろう? そうなんだろう!」
志津夫は、父の胸ぐらをつかんだまま、前後に激しく揺さぶり始めた。親に対して、こんな真似をしたのは、もちろん初めてのことだった。
だが、中止せざるを得なくなった。
正一の身体がふらついたからだ。急にバランスが崩れかける。アッパーカットを喰《く》らった時のボクサーにそっくりだ。
正一は咳《せ》き込んだ。よろめき、第三鳥居の柱に片手を当てる。それで体重を支えた。
志津夫は父親の異変に気づいて、揺さぶるのを中止した。呼びかける。
「父さん?」
志津夫は慌てて、正一の腋《わき》の下に両手を入れた。父の体重を支えてやる。正一は、大柄な体格とは裏腹に、体力というものを失っている感じだ。
「父さん?」
志津夫は怪《け》訝げんな表情になる。父に触れた時の感触が妙だった。哺乳類《ほにゆうるい》特有の体温の暖かみが感じられないのだ。
志津夫は言った。
「父さん? 身体の調子でも悪いのか?」
志津夫の怒りは急速に萎《な》えてしまった。もしや病人に乱暴な真似をやりかけたのでは、と思うと、自責の念にかられた。
真希が近寄って、正一の様子をのぞき込んだ。彼女は、正一がサングラスで隠している部分を、側面から観察しようとしたのだ。
だが、正一はそれに気づいたらしく、サングラスを片手で押さえた。
参拝客たちが不思議そうな顔で、正一や志津夫たちに視線を向けてくる。実際この三人組の緊迫したムードは、祭りの夜にはまったく似つかわしくないからだ。
だが、今は頭上の空が、花火の閃光《せんこう》と爆発音に彩られている真っ最中だ。それに気を取られて参拝客たちは、すぐに志津夫たちのことを忘れてしまうようだ。人の流れのベルト・コンベアーが中断することはなかった。
正一は第三鳥居の柱から手を離した。自力で立って、言う。
「いや、大丈夫だ。……ここは人目がある。ちょっと参道から外れよう」
正一は先に歩きだした。だが、どこか重心が不安定な感じだ。
志津夫は不審と驚きで、目を見開いてしまう。
以前の父は、鉄でできているみたいに頑健そのものだったのだ。八月の炎天下で連日、発掘作業を指揮しても、夏ばて知らずで食欲|旺盛《おうせい》な男だった。それに比べると、今は別人を見ているようだ。
だが、その疑問も、今は後回しにするしかない。
とりあえず、志津夫は正一の後についていった。真希も革のショルダーバッグを背負いなおし、追いかける。
境内の参道と参道の間は、クスノキ、タブ、ムクなどの老木が茂っていた。そこも歩こうと思えば歩けるのだ。しかし、ほとんどの参拝客はどんなに混雑していても、参道のみを歩いて行く。それが神社の作法であることを、何となくわかっているのだろう。
作法を守らない三人組は、人影のない老木の間にやってきた。確かにここならば、人目を気にせずに話ができる。
正一は適当な場所まで来ると、振り返った。志津夫と真希が、自分についてきたのを確認した。
真希はショルダーバッグからハンディライトを取り出した。点灯して、闇を追い払うと、ライトを志津夫に差し出した。
「ほら。私は平気だけど、あなたには暗すぎるでしょう?」
「ああ。ありがとう」
志津夫は受け取った。確かに通常の視力しか持たない身では、この付近は真っ暗に近かった。ライトで、正一の胸の辺りを照らすことにする。
そして志津夫と真希は沈黙した。正一の身には、ウロコ以外にも何か異常が起きているのは、まちがいない。そして、その異常は下手すると、志津夫や真希の身にも起こるかもしれないのだ。
それを思うと、志津夫は叫びだしたくなる。いったい自分はこれから、どうなってしまうのか? やはり、このウロコの治療方法はないのか?
真希も、こんな事態は予想していなかったようだ。黙って、正一の説明が始まるのを待っていた。
サングラス姿の正一が口を開いた。
「おまえたちの狙いは草薙剣だろう? それがカムナビの謎を解く鍵《かぎ》だと思っているんだろう?」
「ええ」
真希が、うなずいた。
正一は首を振り、
「やめた方がいい」
「なぜですか?」
「今は二〇世紀だ。科学と秩序の時代だ。三世紀以前の混沌《こんとん》を呼び戻す必要なんか、どこにもない」
「それは呼び戻してみないと、わからないでしょう」
真希は腕組みし、嫣然《えんぜん》と微笑んだ。
「いかん!」
正一は強く首を振り、片手も振った。拳銃《けんじゆう》をイタズラしている子供を見たような態度だった。
志津夫は黙ったまま、正一の反応を観察していた。父の口から、いったい何が語られるのか。今は、それを聞かねばならない。
唐突に、真希が話題を変えた。
「善男さんから話は聞きました。あなたはどこかの洞窟《どうくつ》に入って、ウロコだらけの身体になったそうですね? それって、甲賀三郎伝説に出てくる信州の蓼科《たてしな》山ですか?」
正一はまた首を振った。
「ちがう」
「じゃ、どこです?」
正一は一瞬、言葉に詰まった。そして答えた。
「場所は言えない。また犠牲者が出るだろうから」
やっと志津夫が訊《き》いた。
「いったい、何があったんだ、父さん? つまり一〇年前に、その場所に行ったと?」
「行った。大失敗だったよ」
「どんな失敗?」
正一は横を向いた。かすかに、唸《うな》り声をあげている。機嫌の悪い時の犬が発する音に似ていた。両手を握りしめていた。
思い出したくない過去なのだろう。この件で、己の失態を責め続けていたことが充分にうかがえた。唸り声も無意識に出たもので、当人は自覚していないのかもしれない。
やがて、正一は喋《しやべ》りだした。
「……詳しくは言えないが、私はあるところで、古文書を手に入れた。旧辞《くじ》の一部分の写本だった」
「旧辞の!」
志津夫が叫んだ。その単語を聞くと、どうしてもパブロフの犬の実験さながらになってしまう。興奮せざるを得なかった。
正一は、うなずいて、
「ああ……。とんでもない内容だった。これを世間に出すべきではないと思った」
真希が訊いた。
「何が書いてあったんです?」
正一は首を振った。
「言っただろう。世間に出すべき内容ではない、と。だから、詳しくは言えない」
今度は志津夫が唸った。苛立《いらだ》たしげに、片足で地面を踏みつける。キャンピングシューズの跡が土に刻印された。
「それじゃ、話にならない」
正一が片手で制した。
「まあ、待て。……私は旧辞の内容を隠さねばならなかった。だが、それとは別に、私一人だけで旧辞の内容を確かめなければならなかった。真相を調べる必要があった」
志津夫は首をかしげて、
「なぜ?」
正一は黙り込んだ。少し迷っているような感じだ。だが、結局、言った。
「おまえを救うためだ」
「ぼくを?」
「そうだ。おまえは赤ん坊の頃、テトオシの儀礼によって、普通よりも深いレベルまでアラハバキ神に感染したんだ。このまま放っておいたら、いつかトラブルを招くような気がしていた。だから、それを防ぐためにも、真相を探る必要があった。
私は、ある山に登った。場所は言うわけにはいかない。入山禁止になっているカムナビ山だとだけ言っておこう。
そして、その山をくまなく調べるうちに、地下の玄室につながる出入口を見つけた。巧妙に隠された出入口だった。あれを発見したのは古墳時代の初期以降、私が最初だろう……」
そこまで言って、正一は両手で頭を抱え込んだ。まるで自分の頭蓋骨《ずがいこつ》が割れそうな態度だった。苦悩のあまり、そうせずにはいられないようだ。また、唸り声が漏れる。
志津夫と真希は黙っていた。正一の告白の続きを待つしかないからだ。
やがて正一は語り始めた。唇が少し震えて、言葉が切れ切れになっていた。
「その地下の玄室の中で私は……蛇神と会った……」
真希が訊いた。
「どんな?」
「少なくとも古代人が蛇神だと認識したものと出会った……」
「だから、どんな?」
「大きなブルーガラスの土偶だった。それに宿ったアラハバキ神だ。もしくはアラハバキ神の分身だろう。彼らの正体を、私はかいま見た……」
真希が苛立って、言った。
「だから、どんなものだったんですか? 彼らの正体は?」
正一は、ゆっくり言葉を選びながら、喋った。
「土偶に触れた瞬間、彼らの意識や記憶が一瞬、私の中に雪崩れ込んできた……。それで、わかったんだ……。彼らは古代人のリクエストに応《こた》えて、蛇神になった連中だと。
何しろ古代は、世界中どこもかしこも蛇神信仰だった。エジプトのラー、インドのナーガ、メキシコのケツアルコアトルも蛇神だ。台湾の先住民パイワン族も、儀式用の晴れ着に蛇の絵を刺繍《ししゆう》する。オーストラリアの先住民アボリジニも、蛇は我らの先祖だ≠ニいう古代からの信仰を、今も守っている。
日本の縄文式土器も、本当は『蛇ウロコ式土器』が正しい呼び名だろう。神社のしめ縄も、蛇がシンボル化されたものだ。
それどころか、わらで作った蛇を荒神さん≠ニ呼んで、ご神体とする蛇神信仰も日本の各地にある。荒神という名称から見ても、たぶんアラハバキ神信仰の名残だろう。
日本にも弥生時代の頃まで、蛇巫女がいたことは確実だ。『常陸国風土記《ひたちのくにふどき》』には、蛇神の妻となったヌカビメという女性の話が書かれている。これは古代に蛇を飼う蛇巫女が実在していて、そこから生まれた民話だと考えられている。
『日本書紀』に記述された『箸墓《はしはか》伝説』も、皇女ヤマトトトヒモモソヒメが三輪山の蛇神の妻となる話だ。これもモモソヒメの正体が、蛇を飼う蛇巫女だったことを伝える話だろう。
そして多くの邪馬台国・畿内派論者が指摘するとおり、モモソヒメの墓とされている箸墓古墳こそ、女王ヒミコの墓である可能性が高い。つまり、ヒミコとモモソヒメは同一人物であり、彼女は古代日本における蛇神信仰のローマ法王的な存在だったのだろう。
詳しい説明は省略するが、蛇神崇拝は、おそらく三万五千年前の石器時代まで遡《さかのぼ》る最古の精霊信仰だ。当時のモンゴロイド人種の先祖が、太平洋沿岸を移動していくうちに広めていった文化だ、と考えられる。
だから、彼らアラハバキ神も、そうした古代人たちの信仰を利用したのだろう。彼らは蛇の遺伝子を自分の体内に取り込んで、蛇に近い姿を得たわけだ。それ以後、彼らは本物の蛇神として実在していた」
真希が重ねて、叫んだ。
「そのぐらい私だって、見当はついてるわ! それは具体的に、どんなものだったの?」
正一は首を振った。アラハバキ神について直接、説明するつもりはないようだ。その点を省略して、話し続けた。
「私は慌てて逃げ出した。出入口を元通りに封鎖して隠した。だが、完全には逃げ切れなかったんだ」
志津夫が訊《き》いた。
「逃げ切れなかった? どういうことだい?」
正一は答えなかった。やがて、片手で髪の毛を掻《か》きむしりだした。それを言葉にするのが辛《つら》いらしい。
志津夫には、その意味がわかっていた。ついに直面することができた真実は重たく、苦いものだった。
「つまり、父さんは、そいつに取り憑《つ》かれたということか? それでウロコが身体中に生えたと?」
正一は重々しく、うなずいた。取り憑かれた時の、具体的な描写はしなかった。それは言いたくないらしい。その点を避けて、彼は説明を続けた。
「平安時代の甲賀三郎伝説も、こうした実話が元で生まれたのだろう。『平家物語』や『源平盛衰記』にも、身体にウロコの生えた人々の話が出てくる。緒方惟義《おがたこれよし》の先祖の話として、記録されているものだ。当時は肌にウロコが生じると、それを神紋と呼び、神からの授かりものだと解釈していた。それは真実の一面を伝えたものだったわけだ」
志津夫は身体が震えるのを感じた。二日酔いに似た吐き気がこみ上げてくる。
「父さん、ぼくも今じゃ身体がウロコだらけなんだ」
「ああ。知ってる」
「これを治す方法は見つからなかったのかい?」
正一は即座に首を振った。
「私の知るかぎりでは、ない」
「そんな……」
志津夫の顔が激しく歪《ゆが》んできた。後悔の念が無数のピラニアの歯のように、魂に喰《く》らいついてくる。もう一人の自分が叫ぶ。青い土偶に触るなんて、やめておけばよかったのだ。大バカ野郎め。
だが、青い土偶に触ったからこそ、志津夫は隠されてきた真相に肉迫できたのだ。いったい、どっちがベターな選択だったのか。たぶん、その答えは永久に出ないだろう。
真希が、志津夫の肩をつかんで、
「慌てないでよ。お父さんは『私の知るかぎりでは、ない』と、そう言ったのよ。まだ、どこかに治療方法があるかもしれないわ」
正一は首を振って、
「私に言わせれば、それは天皇陵やカムナビ山の発掘許可を得るのと同じだ。つまり、望み薄だ」
真希が必死で否定する。
「望み薄と、望みがないのとでは、大きな違いだわ」
正一は無言で首を振った。議論の余地なしといった態度だ。
三人は沈黙してしまった。それぞれの思惑に耽《ふけ》ってしまったのだ。正一は、息子を思いとどまらせるように説得する方法を考えているのだろうし、真希は志津夫を利用する方法を考えているに決まっていた。
そして志津夫は後悔の念と、やはり真相を知りたかったという好奇心の間で引き裂かれていた。今にも人格が二つに分裂しそうだった。
葦原正一は顔に手をやり、ガーゴイル・サングラスの位置を修正した。
彼は、自分の風体が怪しげに見えることを承知していた。ひげ面にサングラスだし、大柄な体格のせいもあって、我ながら子供向けテレビドラマの悪役みたいだと自覚していた。
しかし、顔面に生じた異常≠隠すには、この大きなサングラスを着用するしかないのだ。
正一は、自分の手にはめている黒い革手袋も、あらためて意識した。指だけが外に露出するオープンフィンガー・タイプだ。これも手の甲に生じたウロコを隠すためなのだ。
彼の耳に、大勢の人々が発する笑い声や歓声が飛び込んできた。
振り向くと、相変わらず参道は笑顔の人々で充満していた。誰もが祭りの夜を楽しんでいる。深刻そうな表情をした人間など一人もいなかった。
その様子が、正一には真昼のような明るさで鮮明に見えていた。彼は濃い色のサングラスをかけているのだが、まったく視力の妨げにはならないのだ。
ただし、その映像はモノクロだった。今の正一は真っ暗闇でも見通せるが、色彩は判別できない。夜は常にその状態になるのだ。
正一は一歩、前に出ると、息子の肩を叩《たた》いた。
「志津夫、引き返そう。私と一緒に、ここを出るんだ」
志津夫は動かなかった。端正な顔を歪ませている。納得できない心境らしい。
「引き返して、どうなると?」
正一は言った。
「真相を教えてもいい」
志津夫は目を見開いて、
「本当かい?」
「ああ、おまえ一人になら教えてもいい」
「あ、ちょっと待って」
真希が進み出てきた。セミロングをかき上げ、ボリュームのある胸を突き出し、そのまま親子二人の間に割り込みそうな勢いだ。
「私はだめなの?」
正一は彼女を振り返った。少し言葉に詰まった。だが、肯定した。
「ああ」
「なぜ?」
「私は息子と話がしたいんだ」
「そうはいかないのよ」
真希は右手の人差し指を立てて、左右に振った。見ると、彼女は正一と同じタイプの革手袋をはめていた。
「私と志津夫君は一心同体なの。パートナーなのよ。深い絆《きずな》で結ばれているの。私にも話を聞かせてもらわないと……」
正一は不審な表情になってしまう。真希は異分子そのものだ。彼女のような女が絡んできたことが、どうしても解せない思いだった。
正一は、志津夫に訊いた。
「ちゃんと訊いておきたいんだが、こちらのお嬢さんと、おまえとは、どういう関係なんだ?」
志津夫は複雑な表情を浮かべた。答えに窮しているらしい。少し唸《うな》った。
真希も志津夫に視線を向けた。彼がどう答えるのか、興味深げな表情だ。
志津夫は言葉を濁した。
「どう、と言われてもねえ……」
「どうなんだ? おまえの恋人というわけか?」
「まさか。違うよ」
「じゃ、何だ?」
「友達というわけでもないな。まあ、同盟関係だ。一時的に手を結ぼうということだよ。真相解明と、ウロコの治療法のために」
「そうか……」
正一は少し安堵《あんど》した。息子は、この女の尻《しり》にしかれているわけではないのだ。それなら希望が持てるだろう。
唐突に、真希が自分の黒い革手袋を脱いだ。ワニ皮のようなウロコが露出する。彼女の美貌《びぼう》には似つかわしくない代物だ。手の甲を見せびらかす。
志津夫の表情が歪んだ。真希から顔をそむけてしまう。
正一は、それを直視した。彼にとっては一〇年前から見慣れた代物だからだ。
真希は言った。
「私はなぜ、こうなったのか知りたいの。いったい古代に何が隠されているのか知りたい。カムナビとは何なのかも知りたい」
真希は、すぐに手袋をはめなおした。凄《すご》みのある微笑を浮かべて、言う。
「だから、断固やるわ。草薙剣をいただく。あれをスイッチにすれば、何かがつかめると思う」
「いけない!」
正一は強く首を振った。次いで彼は志津夫に向き直った。黒い革手袋をはめた手で、息子の両肩をつかんだ。
「何を吹き込まれたか知らないが、私の言うことを信じろ! 今まで姿をくらましていたことは、謝る……。わかってくれ。こんな……こんなウロコだらけの姿を、おまえや母さんに見られたくはなかった……。これ以上、私のような犠牲者を増やすわけにもいかなかったんだ。誰にも知られないよう、隠さねばならなかった。おまえも草薙剣なんかに手を出すんじゃない」
志津夫は無言だった。イエスともノーとも言わなかった。ただ頬が少し痙攣《けいれん》した。
真希が志津夫の後方に立ち、顔を寄せてきた。正一の鼻孔にも、香水の甘い香りが漂ってくる。
彼女が魅惑的なアルトで囁《ささや》いた。
「今まで一〇年間も家族をほったらかしにしてきた人の言うことを信じられると思う?」
正一は渋面になった。唸ってしまう。いちばん痛いポイントを突かれてしまった。
真希も、背後から志津夫の肩に片手をかけて、言った。
「話をすると言ったって、いいかげんなウソを並べるだけかもしれないわ。それにお父さんが真相だと思いこんでいるだけで、実は勘違いした情報を聞かされるかもしれない。だったら、自分の目で確かめるのが、いちばんよ。私たち自身で真相を見つけるの」
正一は焦りを感じた。おかげで一〇年間、冷えきっていた身体に、人間なみの体温が蘇《よみがえ》るような錯覚を覚えたほどだ。
この真希という女は真性の魔女だ、と思った。相手の弱みを見抜いて揺さぶり、コントロールすることに才覚を発揮するタイプのようだ。
正一は再度、志津夫の肩を揺さぶった。
「私を信じろ!」
真希も言った。
「ウロコの治療法を見つけるべきだわ」
「今までのことは謝る。何度でも謝るから……」
「あなたのお父さんを治すためでもあるのよ。だからこそ、すべての真相を突きとめなければ……」
真希は素早く別の角度から、正一の言葉を覆してしまう。真希の話を聞いていると、正一まで彼女によって説得され、洗脳されてしまいそうだった。
正一は苛立《いらだ》ち、叫んだ。
「治療法なんかない! それにカムナビが蘇ったら、大勢の死人が出る」
それまで黙っていた志津夫が、ようやく口を開いた。
「父さん。だから、カムナビって何なんだ?」
「だから、オルバースのパラドックスだ!」
その瞬間、その場の空気が凍りついた。
正一は、自分の言葉が音の塊となって、周囲の老木の間をビリヤード・ボールのように跳ね回るのを感じた。それが、志津夫たちの頭蓋骨《ずがいこつ》にも衝突したのを感じた。
「え?」と志津夫。
「何ですって?」と真希。
「あ、いや……」
正一は片手で、自分の口を押さえた。そのポーズのまま、全身を硬直させてしまう。失態の味は苦かった。
「オルバース?」と志津夫。
「パラドックス?」と真希。
「何のことだ?」
「初耳だわ」
今度は、志津夫が正一の肩をつかみ返した。その瞳《ひとみ》に不審と興奮とが宿っている。
「父さん、何だ、それは?」
正一は激しく、首を振った。
「何でもない」
「何でもないわけ、ないだろう!」
正一は息子の手をふりほどいた。一歩、下がる。
正一は自分で、自分を殴りたくなった。ちゃんと息子を説得するつもりだったのだ。なのに焦ってしまい、まだ言うべき段階ではないことを言ってしまった。より苦いものが口中に広がっていく。
志津夫が言った。
「何なんだ? 教えてくれよ、父さん」
だが、正一は説明しなかった。一瞬、真希の方を見て、舌打ちしてしまう。この女には聞かせたくない話だ。
もしも、この女が真相≠知ったら、どうなるだろう? 彼女は理性のブレーキを完全に外してしまうような気がしてならない。どうも、この女には危険な匂いがする。下手すると、際限のない破滅を呼び込むような気がしてならないのだ。
ふいに正一は目眩《めまい》を感じた。身体がふらつく。ついには、その場にしゃがんで片膝《かたひざ》をついてしまった。まるで自分が九〇歳の老人になったような気がした。
志津夫も慌てて、しゃがみ込み、父の肩に手をかけた。
「大丈夫か、父さん?」
「ああ、大丈夫だ……」
正一は呼吸を整えた。歯を食いしばり、目眩に耐える。地面に片膝をついた姿勢のまま、説明した。
「私は今までに二度、カムナビを呼んでしまった。二度目に呼んだのは茨城県だったが……」
志津夫が言った。
「ああ。それは小山さんという女性の口から、聞いたよ。カムナビを呼び出したのは父さんで、竜野助教授を殺した犯人は彼女だったと」
正一は、うつむいて、
「そうか……。聞いたのか……。結局、小山さんに罪を背負わせることになった。とんだ結果になったものだ。今さら、どうすることもできないが……」
正一の脳裡《のうり》に、あの夜の光景が蘇った。直感像記憶と呼ばれるものだ。
カムナビの中で炎上する人体。溶けていく金歯。こちらの顔面まで焼けそうな光と熱の饗宴《きようえん》。
それが消えると、辺りは真の闇になった。ハンディライトを点けると、黒こげの死体と黒い煙が目に入った。ステーキになった人肉の異臭が漂う。
そして立ちつくしている小山麻美《こやまあさみ》。メガネの似合う知的な女性。彼女の瞳が復讐《ふくしゆう》の喜悦に輝いて……。
正一は首を振り、回想を追い払った。もう、あの事件は取り返しがつかないのだ。それよりも今は、息子を説得しなければ。
正一は話し続けた。
「……私はカムナビを二度も、呼び出したために、どうやらチ≠削り取られたらしい。つまり生命力の根源を喪失したらしい。本来、私にはそれだけの素質はないのに、無理を重ねてしまったようだ……」
正一は肩で息をしながら、言った。
「だが、まだ、くたばりはしないさ。体調が悪いだけだ。それで……」
「だからさ、父さん、オルバースのパラドックスって何のことなんだ?」
正一の呼吸が止まった。サングラス越しに息子の顔を見つめる。あらためて、さっき口をすべらせたことを後悔した。
正一は小さく、ため息をつく。何とか話題をそらそうとした。
「おまえが強情を張る時の顔は、わかってるんだ。唇が、への字になるんだ。四歳の時から変わってないよ」
志津夫は自分の唇に触れた。父の言うとおりになっていたのに気づいたようだ。ちょっと悔しそうな顔になる。
正一は言った。
「覚えてるか? おまえは高校時代、邪馬台国九州説にはまって、私に挑戦してきた」
「ああ、覚えてる」
志津夫は渋面になった。当人にとっては屈辱の思い出だろう。
「だが、私に論破されて、一言も言い返せなくなったな。あの時も、おまえはそんな顔をしていた」
「ああ。今じゃ、ぼくは東遷・畿内説にくら替えしたよ……。何が言いたいんだよ? それと、これとは話がちがうだろう」
「同じだ……。本当は、おまえを説得して、あきらめさせなければならないんだ。このまま進めば、おまえはどうなることか……」
正一は首を振る。どうも、自分の思い通りに事が運ばない。一〇年前の一件以来、そういった呪いでも染みついたみたいだ。
やはり決断しなければならなかった。今が、その時だろう。だが、公衆の面前で自分の股間《こかん》をさらけ出すほどの抵抗感を覚える。
正一は地面に片膝をついたまま、しばらく唸《うな》っていた。自分の胃袋を、自分で雑巾《ぞうきん》みたいにねじっている気分だ。
「どうしたんだよ、父さん?」
志津夫が問いかけ、肩を揺さぶってきた。
真希も興味津々といった顔で、正一を観察している。だが、彼女の目には同情はなく、好奇心の塊だった。
ようやく、正一は決意した。真実を見せるのだ。そのショックで、息子を思いとどまらせることができるかもしれない。
やがて正一は言った。
「仕方ない。見せてやる」
正一は拳《こぶし》で地面を叩《たた》いた。深呼吸し、気合いを入れ直す。自力で立ち上がった。
「志津夫、さっき言ったな? なぜサングラスを取らないのか、と」
志津夫も立ち上がって、
「ああ、言った」
「本当は見せたくないんだ。だが、おまえを思いとどまらせるためには……他に手がないようだ……」
正一はサングラスに手をかけた。ゆっくりと取り去る。志津夫にとっては、一〇年ぶりに見る父の素顔になるはずだ。
真希は手にしたハンディライトを、正一に向けた。
志津夫は呻《うめ》き声をあげた。
真希も激しく息を吸い込んだ。
その異変は、正一の目の下に起きていた。
左右の両目の下に、それぞれ直径二ミリほどの穴≠ェ開いていたのだ。穴の深さは三ミリぐらいで、奥には柔らかそうな肉質がのぞいている。
何とも奇怪な穴≠セった。まるで左右の目の下に、もう一対の小さな目が存在するように見えるのだ。
また、穴≠フ周辺には例のウロコも生えていた。小さな三角形の連なりだ。正一は、その付近も蛇の皮膚に似た状態に近づいているのだ。
普通ならば、映画で使われる特殊メイクによる作品≠ゥと思いかねないものだった。だが、正一がわざわざ、そんなものを自分の顔にこしらえる理由などない。
正一が、それを見せたのは五秒間ほどだった。すぐにサングラスをかけて、穴≠ニウロコを隠した。
「父さん、それは何だ!」
志津夫が叫んだ。父親のサングラスを指さして、訊《き》いてくる。
「傷か? いや、それにしては変だ。左右対称に、目の下に出来ている。何なんだ!」
正一は唇をなめた。今の自分が、いかに異常な状態にあるかを言わねばならないのだ。後頭部の髪が逆立ちそうな感じだった。
だが、表面上は冷静さを装った。正一は、ゆっくりした口調で説明した。
「蛇は、目の下にピットというものがある。英語で穴≠フ意味だ。これは赤外線を見るための器官だそうだ。
つまり、私にもピットができたということだ。おかげで夜、こんな真っ黒なサングラスをかけていても平気なわけだ。おまえの顔だって、遠くから見分けがついた……」
あらためて、正一は自分が得た赤外線視力の、奇妙な見え方≠再認識した。
今の彼は、夜間に濃いサングラスをかけているのだ。これだと目隠し同然の状態だから、網膜には何一つ映らない。
だが、代わりにピットが赤外線で画像を捉《とら》えていた。その赤外線イメージは網膜を通さずに直接、大脳の視覚神経野に中継され、脳内で映像として再構成されているのだ。
言ってみれば、正一の額の裏側に、まるで四インチサイズのモノクロ液晶テレビ画面が張りついているような状態だった。そこに周囲の光景が映っているような見え方≠ネのだ。
だから、志津夫と真希とが思わず顔を見合わせる様子も、正一には額の裏のモノクロ画面≠ナ完璧《かんぺき》に見えていた。二人が口を半開きにし、不審と驚愕《きようがく》で目を見開く様子も、すべて見えていた。
志津夫は首の辺りを震わせながら、
「ピットだって?」
「そうだ」と正一。
真希も唖然《あぜん》とした顔で、
「赤外線?」
「そうだ」と正一。
「そんなことが……」と志津夫。
志津夫と真希は絶句していた。すぐには、言葉が出てこないようだ。
正一は深々と吐息をついた。そして、語り始めた。
「生物学者が私の話を聞いたら、さぞ驚くだろうな。……本で読んだが、温血動物には赤外線を見る能力はないんだ。温血動物の場合、自分の眼球も体温による赤外線を発しているから、それが邪魔になる。だから、進化の過程で赤外線を見る能力を獲得したくても、不可能だったわけだ」
正一は、もう一度、深いため息をついた。地獄から出てきた亡霊がつくような、ため息だ。
周辺は、数十万人の参拝客たちの足音、話し声で満たされていた。だが、正一の周りだけは、完全な静寂で包まれているような感じだった。そこだけ音のブラックホールと化したみたいだ。
正一は右手の人差し指と中指で、自分の二つのピットの位置を指した。
「これが何を意味するか、わかるか? すでに私は温血動物の領域から滑り落ちたんだ。体温を失ったんだ。特にピットがある目の辺りは、まるで死人のように冷たい」
真希がまた激しく息を吸い込んだ。形相が一変し、美貌《びぼう》が歪《ゆが》んでいる。今の説明に恐怖を覚えたのだろう。
彼女は慌てて、自分の目の下を片手の指先で探った。
真希の目が大きく見開かれていった。真円に近くなる。その驚愕の表情を見れば、彼女の身体にも、同じ異変が起きているのは明白だった。
正一は真希を指さして、言った。
「そうか。あなたも目の下が冷たくなっているわけか? ならば、ピットができかけているのかもしれん」
志津夫が真希を振り返った。呆然《ぼうぜん》と呟《つぶや》く。
「まさか……」
志津夫も慌てて、自分の目の下に指先で触れた。その辺りを撫《な》で回す。
志津夫は、すぐに安堵《あんど》のため息をついた。表情がやわらぎ、肩の線が下がる。どうやら息子の目の下は体温を保っていたようだ。
だが、正一は、この件に関しては悲観的だった。今の志津夫は一時的な小康状態に過ぎないかもしれない。いずれは、父親と同じ身体になるかもしれないのだ。
正一は黒い手袋をはめた手を伸ばした。志津夫の片手をつかむ。そして自分の顔に引き寄せた。
息子の指先を、自分のサングラスの内側へと誘導した。ピットの位置に触れさせる。
ピットが、息子の指で塞《ふさ》がってしまった。当然、正一の赤外線視力は失われた。
だが、息子が今、どんな表情を浮かべているかは想像がついた。相手の手が細かく震え始めたからだ。
今、志津夫は、塞がらない傷口に触れているような感触に、驚いていることだろう。そして父親の肌が爬虫類《はちゆうるい》のように冷たいことにも、ショックを受けているだろう。
志津夫が手を引っ込めた。
正一の視力が回復した。
息子の顔は恐怖そのものだった。口が大きく開いている。自分の指先と、父親とを見比べている。
やがて志津夫は呟いた。
「そんな……こんな状態で、どうして生きてられるんだ? こんな冷たい身体で、どうして人間が生きてられるんだ……」
正一は屈辱に似た思いを味わった。この気持ちは形容できないものだった。一〇年ぶりに再会したと思ったら、父親が怪物化している事実を、息子に触覚で確かめさせねばならないのだから。
正一は言った。
「志津夫。おまえは、こんな身体になりたいのか?」
志津夫は、自分の指先を見つめていた。そこには、父親の皮膚の不気味な感触がへばりついている。もう二度と取れそうにない気がした。
その感触はたとえようもないほど冷たかった。やがて冷感が指先から腕に広がり、身体中に伝染してきた。全身がドライアイスと化していく気分だ。
傍らの真希も同様らしい。目を見開き、指先で自分の目頭を撫でている。彼女も同じ冷感を我が身で味わい、相当なショックを受けたようだ。
志津夫はサングラス姿の正一に視線を向けた。そして相手の異常さに、あらためて気づいた。
今、名古屋市は記録的な猛暑に包まれている。だから、志津夫も、真希も、参拝客たちも全員、汗まみれだ。
なのに、正一は一滴の汗もかいていないのだ。
父は黒の長袖《ながそで》シャツに、黒のスラックス、黒の革手袋という暑苦しいスタイルだ。そんな格好で、真夏日なみの気温の中、平然としている。父が、完全に人間の領域から外れていることは明らかだった。
正一は、手でサングラスの位置を細かく修正しながら、喋《しやべ》りだした。
「こんな冷え切った……気持ちの悪い身体になって、母さんのところへ戻れると思うか? 自分の息子と会えると思うか?……私にはできなかった。何だか、ひどく恥ずかしいような気持ちになって、どうしても戻れなかったんだ。自分の過ちのせいで、こうなったんだから、完全に自業自得だ。その点も恥ずかしかったんだ……」
正一は横を向いた。サングラスの下に指を入れて、目の辺りをこすっている。そして言った。
「今日こそは、おまえや母さんに会って、伝えなければ、と思うんだ……。毎日そう思うんだ……。だが、足が動かない……。それで一日延ばしにしていた。そのうちに、母さんは交通事故で逝ってしまった……。私は母さんに一言、謝罪したかった。心配をかけて、すまなかったと……。だが、それもできないままになってしまった……」
正一の言葉は途切れがちだった。うわずった声に、一〇年分の無念さが滲《にじ》み出ている。サングラスの下は涙目かもしれない。
志津夫は言葉が出なかった。頭や胸に生ゴミでも詰め込まれたような気分だった。
父親の身体に何か異常が起きているのでは、と予想はしていた。だが、これほどとは思っていなかったのだ。
本当は失踪《しつそう》していた件について、父を激しく糾弾するつもりだった。だが、非難の言葉は、すべて消え失せた。
志津夫は自問せざるを得なかった。自分が父の立場だったとしたら、どうなるだろう?
やはり、同じ行動を採るのではないか? 異常な身体に変わったことを家族に知られるのは、やはり躊躇《ちゆうちよ》しただろう。そして日が経つにつれて、ますます家族とは再会しにくくなる、という悪循環に追い込まれただろう。職場に戻れないことを覚悟し、通常の人生に戻れないことを覚悟したのではないか?
そして、それは今、志津夫に降りかかった運命でもある。自分も多量のウロコに感染したのだ。もう職場である大学には戻れず、普通の人生には戻れないかもしれない。
志津夫の唇がわなないた。これ以上、質問するのが恐ろしい。だが、訊《き》かないわけにはいかなかった。
志津夫は言った。
「父さん、ぼくは、これからどうなるんだ?」
正一は横を向いたまま、
「どうにもならない。治療方法はないんだ。ただし、余計なことをしなければ、今よりも悪化することはないだろう」
「余計なことって?」
「カムナビを蘇《よみがえ》らせようとか、封印されている神器を手に入れようとか、その手の行動だ」
「じゃ、ぼくはこれから、どうすればいいんだ?」
「今なら素知らぬ顔をして、大学に戻れるんじゃないか? そして今までどおりの生活を続ければ……」
志津夫は首を振った。
「できないよ。もうプールにも海にも行けない。銭湯も温泉もだめだ。口の軽い女とは、つき合えない。夏も長袖を着なけりゃならない。いずれは誰かに気づかれて、妙な噂も立てられるだろうし……」
「だろうな」
「じゃ、どうすれば……」
「私のようになるしかあるまい。過去を捨て、職も捨てるわけだ」
「そんなバカな……」
志津夫は激しく首を振った。頬の肉が一瞬、ゼラチンみたいに揺れたほどだった。
怒りがこみ上げてきた。顔面が熱くなってくる。この不条理な状況に許せぬものを感じた。
「何もせずに、ただ行方不明になれと? そんなバカな! 何とかするべきだ。真相を探って、治療法を見つけるべきだよ」
志津夫は、正一を指さした。
「父さん。確かに以前、邪馬台国論争をやって、ぼくは父さんに負けたよ。しかし、これは違う! メンツの問題とか、プライドの問題とかじゃないんだ。人生がかかってる問題じゃないか。治療法を探し続けるべきだ」
正一は、ため息をついた。頭部を前に垂れてしまう。首の筋肉が切れてしまったような感じだ。
父は、自分の身体の異常性を見せつければ、息子を思いとどまらせることができると思ったのだろう。邪馬台国論争の一件も、息子を説得する材料として持ち出したのだろう。だが、志津夫の心には逆効果となって働いた。
志津夫は言った。
「父さんだって治せるものなら、治したいだろう? 赤外線の視力なんか、あったって全然、嬉《うれ》しくなんかないだろう?」
「当たり前だ……。まあ、夜道を歩く時だけは便利だが」
父は苦笑してみせた。かなり自虐的な表情だ。
志津夫は首を振って、
「ああ、便利だろうさ。でも、そのせいで、今までの人生を失うなんて引き合わないよ」
「そうよ!」
真希が突然、叫んだ。彼女は、ようやくショックから覚めたらしい。瞳《ひとみ》に精気が蘇っていた。勢い込んで、喋りだす。
「そのとおりよ! 治療法を探すべきよ。前進できる限り、進み続けるべきだわ」
そして真希は再度、自分の目頭に指先で触れた。首をすくめて言う。
「確かに、ここが冷たくなってるわ。ちょっと、びっくりしたけどね……。確かに私も夜目がきくようになっている。そうか。赤外線か。ピットか……。それは気がつかなかったわ……」
真希は深呼吸し、豊満なバストを突きだした。気合いを入れ直したようだ。今まで黙っていた分を取り返すかのように、喋りだす。
「でも、もう大丈夫。自分がどうなっているか、ちゃんと現実を受け入れたわ。つまり、私もどんどん人間離れしているってことね。放っておけば、この美貌も崩れていく。私もサングラスが要るわけね」
真希は少し笑った。
だが、一転して、真顔になる。彼女は両手を拳《こぶし》にして、叫んだ。
「冗談じゃないわ! 必ず治療法も見つけてやる」
正一はまた首を振った。
「だから、治療法はないんだ。私はこうなって一〇年経つんだ。あったら、とっくに我が身で試している」
真希が正一を指さし、
「それは葦原正一は語る≠ニいった経験談に過ぎないわ。治療法が存在しないことの証明にはならない」
正一の呼吸が止まった。何か言い返そうと口を開きかける。だが、言葉にならなかったらしい。
志津夫は、真希の切り返しに感心した。彼女の顔を見る。
真希も満足そうな微笑みを返した。親指を立てるサインを送ってくる。彼女は、志津夫の決意を喜んでいるのだ。
志津夫も真希に対して、うなずいた。当然だという思いが強くなる。ここまで来て探求をやめるなんて、納得がいかなかった。
志津夫は父に向き直った。言葉を選びながら、言う。
「やっぱり……ぼくは行くよ……。ぼくのウロコも、父さんのも、きっと治してやるさ……。それに知りたいんだ。この日本列島には何が存在していたのか。カムナビとは何なのか。蛇神信仰の実体とは何だったのか。倭人伝が記録した、三世紀の日本が亜熱帯気候だった、という話は何だったのか。その答えが今、一斉に現れようとしているんだから」
「やはり、そう来たか……」
正一は首を前に垂れたまま、言った。
「本当は、おまえと二人きりで話したかった。このまま進めば、おまえは白川さん親子と、ぶつかることになる。それを止めたかったんだが……」
そして正一は首を垂れたまま、横を向いた。その姿勢で喋り続ける。
「一〇年前、私がアラハバキ神の分身と出会ったことは言ったな……。
その時アラハバキ神は、こんな風に言った。『後継者を我らの元へ』と。つまり、彼らの力を受け継げるような後継者を連れてこい、と要求した」
正一は志津夫を指さして、
「つまり、志津夫、おまえのような人間のことだ。生まれつき深いレベルでアラハバキ神に感染したような人間を連れてこい、と彼らは要求したんだ」
「ぼくのような人間?」
志津夫は口が半開きになっていた。驚きと戸惑いが、頭の中で交錯する。
昨日までの志津夫の立場は、エキストラ扱いと言ってよかった。それが突然、主役を割り当てられていたことが判明したのだ。その真相に一瞬、目眩《めまい》がした。
正一は、うなずき、説明を続けた。
「だが、おまえを巻き込みたくはなかった。もし私の変わり果てた姿を、おまえに見られたら、おまえの好奇心を刺激するだけだ。おまえは自ら真相を探り出そうとするかもしれない。
だが、そうなったら、結局はアラハバキ神の要求に応《こた》えてしまう結果になりかねない。つまり、おまえの行動によっては、カムナビにまつわる秘密が復活してしまうかもしれない。世の中が大混乱に陥るかもしれない。
私は、それを恐れた。だから、行方をくらました……。今の私に言えるのは、それだけだ……」
それっきり父は黙り込んだ。万策尽きたらしい。うつむいたまま身動きしなくなる。
志津夫は、しばらく父を見つめていた。いろいろな思いが胸中を吹きすぎていく。
今、正一は謎の病魔に冒されており、それに対して手も足も出ないありさまだった。かつての父らしい覇気はなく、息子に対しても無気力な台詞《せりふ》を繰り返し、後ろ向きな態度を取るだけだ。昔の正一とは別人に成り下がっていた。
父がそうなってしまった心境も、多少は理解できなくもない。この一〇年間に、さぞ悲惨な経験をしたのだろう。そのせいで、気力も体力も削り取られたらしい。
だが、志津夫には納得できなかった。必死に探し回れば、自分の身体も、父の身体も救える方法がどこかにあるのではないか? そういう思いを止められない。
何よりも、隠され続けてきた真相への好奇心が、胸一杯に膨らんでいた。それが体内で爆発寸前になっている。
志津夫は言った。
「ぼくは……行くよ。父さん、ひとまず、さよならだ。それと……忠告、ありがとう」
正一は、三〇歳になった息子を見つめた。
志津夫の顔立ちは、やはり若い頃の正一に似ていた。七三分けの短い頭髪、知性と頑固さを備えた目、やや大きめの鼻、引き締まった唇が特徴として数えられる。
ただし正一は横幅がある体躯《たいく》なのに対し、志津夫は細身だった。
志津夫は回れ右すると、歩きだした。真希というグラマー美女もショルダーバッグを抱え直し、一緒についていく。
一〇メートルほど離れたところで一度、息子は振り返った。片手を上げて、バイバイの仕草をする。
天空に次々に上がる花火が、赤外線のシャワーを振りまいていた。
葦原正一の額の裏のモノクロ画面≠ノは、それらが壮大華麗なストロボ光として観えていた。おかげで照明には不自由しない状態だ。
正一は赤外線映像で、志津夫の表情の細部まで確認していた。息子の顔は決意に溢《あふ》れている。気負いのせいで、自信ありげな笑みまで浮かべていた。
正一は視線を下げて、首を振った。失意と後悔が、全身を包んだ。
話題選びを失敗したのだ。息子の高校時代のことなど持ち出すべきではなかった。正一の身体に生じたピットや、赤外線視覚や、体温低下についても言うべきではなかった。
かえって、志津夫を挑発してしまったらしい。息子は今や鞭《むち》を喰《く》らった競走馬みたいに、いななきそうな雰囲気ではないか。そのぐらい予想できなかったとは……。
顔を上げると、志津夫と真希のカップルが再び背を向け、歩きだしていた。息子の足取りにも、不退転の決意がうかがえた。もう哀れな親父を振り返ったりはしないだろう。
正一は再び、しゃがみ込んで片膝《かたひざ》をついてしまった。体力のストック切れだ。老化が通常よりも急激に進んでいるらしい。
深々と吐息をついた。つくづく葦原正一という男も、彼の人生も嫌になってきた。すべてを投げ出してしまいたかった。
希望的観測。今、その言葉が正一の胸で、虚《むな》しく響いていた。
おれは、あまりにも楽天的過ぎたのだ。そのせいで、こんなことになった。やはり最悪の事態に備えて、白川幸介にも相談しておくべきだったのだ。
今回の一件で、正一は幸介にさんざん非難された。電話回線越しに罵倒《ばとう》された。おかげで、サンドバッグ代わりに長時間殴られ続けたような気分だった。
白川伸雄が生きていれば、正一をフォローしてくれただろう。だが、すでに彼はこの世にいない。三日前、旧辞に目がくらんだ古代史マニアに、命を奪われたというのだ。
正一にとって、伸雄は数少ない友人であり、理解者だったのだ。その彼を失ったことで、正一はすっかり意気消沈していた。
そして今、正一は息子を止めるのに失敗した。一〇年間の苦労は水泡に帰した。
もちろん、こうなることは予測できたのだ。一〇年間も音沙汰《おとさた》なしだった父親が、ろくな説明もせず、ただ「自分の言うとおりにしろ」と主張したのだ。耳を傾けてはもらえまい。むしろ不信感しか抱かれないだろう。
それでも正一は、息子が賢明に振る舞ってくれることを願った。
あいつはバカじゃない。何かのきっかけで考え直すかもしれない。その可能性も、いくらかは残っているだろう。
しかし、本当のところ、今後どうなるかは、まったくわからなかった。
志津夫と真希はたった今、拝殿代わりの外玉垣《とのたまがき》御門に向かった。
そこには白川幸介と、祐美が待ちかまえているはずだ。
正一は自分に言い聞かせた。今後どういう展開になり、どういう結果になろうとも、自分には見定める義務があると。
自分を叱咤《しつた》し、立ち上がろうとした。だが、二、三歩よろめいただけで、また片膝《かたひざ》をついてしまった。
正一は両手で目の辺りを押さえるようなポーズを取った。呻《うめ》き声をあげる。まるで眼球にフォークを突き刺されているような激痛だった。
彼は度々、こうした発作に襲われるのだ。原因は、目の下にピットを得たことに関連しているようだった。つまり、人体に存在するはずのない赤外線視覚器官を得たために、神経細胞のどこかに余計な負担がかかっているらしいのだ。
正一は、しばらく身動きできなくなった。
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四の巻 熱田祭
志津夫と真希は玉砂利を踏みつつ、移動していった。参道は参拝客で溢《あふ》れており、彼らと共に歩いていると、ベルト・コンベアーに乗せられているような感じだった。
二人は第三鳥居と「信長塀」を通過した。神符授与所の前に出る。
ここは要するにお守り売場だ。木造の平屋建てで、ちょっとした屋敷ほどの規模だった。窓口に袴姿《はかますがた》の巫女《みこ》たちが七、八人いて、客の相手を務めている。
参道を進むうちに、門の形をした拝殿が見えてきた。その向こう側には、さらに巨大な本殿のシルエットが浮かび上がっている。
志津夫は、その壮麗な建築物を見て、立ち止まってしまった。本殿の意外な大きさに驚いたのだ。
本殿は高さ一〇メートルほどで、弥生時代の埴輪《はにわ》家そのままの形だった。日本の原初的な建築様式で、天地根元造という形式だ。
屋根には堅魚木《かつおぎ》と呼ばれる丸太が一〇本載っていた。長さ二メートル、直径三〇センチほどの木材だ。それらは屋根の棟の上に、棟と直角の方向に並べられていた。
この堅魚木とは本来、棟木や萱葺《かやぶき》の重しとして生まれたものだ。名前のとおり、かつおぶしに似た形をしている。
本殿の手前には拝殿があった。こちらは門の形で高さ五メートル、左右に二〇メートルほどの長さで広がっている。これも屋根には堅魚木が一〇本、載っていた。
拝殿の中央には、大きなさい銭箱が設置されていた。その両側には、高さ一メートルの巨大提灯が二つ下がっている。提灯は煌々《こうこう》と輝き、柏手を打つ参拝客を出迎えていた。
拝殿の左側上空には、金色のヒマワリの花が次々に咲き乱れていた。打ち上げ花火だ。爆発音が腹に響く。近くから聞こえる太鼓のビートと張り合っていた。
志津夫は呟《つぶや》いた。
「でかい建物だな」
「ええ。本当にね」
真希も、うなずく。そして志津夫の肩をつっついて、
「ねえ、知ってた? 熱田神宮には本来、拝殿はなかったのよ。ここだけでなく、伊勢神宮も同じ構造よ」
「え?」
志津夫は不審な顔で振り返った。
真希が拝殿を指さして、説明する。
「今でこそ参拝客用に、さい銭箱も置いてあるけど、あれの正式名称は外玉垣《とのたまがき》御門で、本当は拝殿じゃないの。つまり、熱田神宮も伊勢神宮も、平安時代以前は一般人が参拝することをまったく考慮していない造りだったのよ」
志津夫はあらためて、外玉垣御門を見つめた。口を開く。
「じゃ、ここは一般人に参拝させない神社だったのか?……いや、と言うよりも参拝してはいけない神社だったと?」
真希が答えた。
「ええ。本来の目的は忌まわしいものを封じ込めるためだったんでしょうね。つまり、邪馬台国のシンボルをね」
志津夫は、うなずいた。
たぶん、真希の言うとおりだろう。拝殿も、さい銭箱もなかった神社となると、その存在意義は他に説明のしようがないように思える。
人の流れに押されて、また志津夫と真希は歩きだした。やがて、拝殿の左側の広場で、コンサートが催されているのを目にした。
小学生の男女二〇人ほどが大太鼓や小太鼓をリズミカルに叩《たた》いていた。全員、法被《はつぴ》に鉢巻《はちま》き姿だ。「尾張新次郎太鼓保存会」というのぼりが立っている。彼らが祭《まつり》囃子《ばやし》の主役だったわけだ。
拝殿の前は、人間の流れがピークに達する場所だった。これから参拝する者と、参拝を終えて、おみくじを引く者とが入り乱れている。この広場では直進するのは不可能に近い。
結局、志津夫と真希は、より人の数が少ない方へと進み、拝殿に向かって左側の端に来てしまった。
そこは壁になっており、日本酒の樽《たる》が並んでいた。高さ五〇センチほどの樽が五段重ねにしてあり、全部で四〇個ぐらいはある。壮観な眺めと言えた。氏子からの寄進だろう。
この位置からだと、拝殿の下から、その奥を覗《のぞ》き見ることができた。
拝殿すなわち外玉垣御門の奥には、玉砂利の広場があった。中重《なかのえ》と呼ばれるスペースで、祈祷《きとう》や祭典の多くはここで行われる。
中重の奥に内玉垣《うちのたまがき》御門が見える。本殿は内玉垣御門の、さらに後ろだった。
本殿の両側には、二つの小さな神殿が見えた。東宝殿と西宝殿と呼ばれているものだ。計三つの建物が横に連なる形だった。
左右対称の美学がそこにあった。様式はちがうが、インドのタージ・マハール宮殿に似たシルエットだ。草薙剣《くさなぎのつるぎ》を納める社殿となると、やはり格式の高さというものが必要なのだろう。
志津夫と真希は、日本酒の樽が積み上げられている壁に沿って前進した。そこは、さらに人の密度が低い場所になっている。
前方に、木製の板垣が見えてきた。「立入禁止」の立て札もあった。
もちろん真希の狙いは、「立入禁止」の札の向こう側にある。そこは本殿への関係者専用通路だからだ。
通路の内側には、青い制服を着た大柄なプロ警備員が二人いた。今この場を見張っているのは、彼らだけだ。
だが、周辺を見回すと、他にもパトロール中の警備員たちがいた。全部で十人はいるだろう。油断なく、参拝客を見張っている。
その上、今夜は無料奉仕のボランティア警備員までいた。
口ひげを生やした、目つきの鋭い中年男と、野球帽をかぶった丸顔の美少女だ。そのコンビは「立入禁止」の札の前で、志津夫と真希を待ち受けていた。
白川幸介と白川祐美の親子だった。
熱気のせいで、参拝客たちの額は汗ばみ、ワックスを塗ったように光っていた。
志津夫、真希、白川幸介、祐美の四人も例外ではなかった。皆、汗まみれで、シャワーの直後みたいに、顔面に多量の滴がくっついているのだ。
鼻孔から吸い込む空気も、ぬるま湯のようだった。下着も濡《ぬ》れて、肌に張りついてしまっている。そんな猛暑の中で、四人は対峙《たいじ》していた。
周囲の華やいだ空気とは異質な空間が、その場に生じていた。触れれば切れるような緊張感だ。特に真希と祐美の間には、青白い稲妻が発生している雰囲気があった。
最初に口火を切ったのは、志津夫だった。頭を下げて、挨拶《あいさつ》する。
「こんなに早く再会できるとは思ってませんでした」
幸介が微苦笑した。
「ああ。私もだ」
志津夫も微笑んで、言った。
「神祇伯《じんぎはく》の子孫に、お目にかかれて光栄です」
神祇伯とは、かつて宮中に存在した位階である。今風に言うなら宗教大臣といった地位だ。白川家一族は代々、それを世襲してきた家柄だった。
幸介の眼光が鋭さを増した。
「それは皮肉で言っているのかね?」
志津夫は内心たじろいだ。甲府市で初めて会った時も、そうだった。どんな体験が、こんな迫力のある人物を作り上げるのだろうか、と思った。
志津夫は首を振った。
「いいえ。とんでもない。明治四年の大嘗祭《だいじようさい》の時まで、宮中を取り仕切っていたのは、あなた方の一族だ。そして元々は二人用の儀式だった邪馬台国の大嘗祭を、一人用にアレンジして皇位継承の儀礼としたのも本当は、あなた方でしょう?」
幸介は志津夫を直視したまま、言った。
「忠告しておこうか、志津夫君。余計なことに首を突っ込むのは、その辺で終わりにしておくべきだ」
「つまり、依然として、ぼくは部外者扱いですか? 旧辞《くじ》も、ぼくには見せられないと?」
「そういうことだ。君も、そちらのお嬢さんも信用できないんでね」
真希がそこで口をはさんだ。
「信用されなくても結構よ。こっちから願い下げだわ」
そこで志津夫は片手で、真希を制するポーズをとった。
彼女は肩をすくめて半歩、下がった。
それを確認してから、志津夫は幸介に向き直った。
「さっき、父に会いましたよ」
「ふむ。久しぶりの対面だったわけだ。で、どう思ったね?」
「あんな風にはなりたくないですね」
「では、どうするつもりだ?」
「治療方法を探します。そして父の身体を元に戻します。もちろん、ぼくの身体も」
志津夫は断言した。表情に決意が滲《にじ》み出ていた。顔がスチールで出来ているみたいに、硬くなっている。
志津夫の答えに、幸介は失望したようだ。祐美も、ため息をついた。親子そろって首を振る。
幸介が言った。
「治療方法? そんなものはない」
真希が言った。
「あなた方が勝手に、そう決めつけているだけじゃないの?」
幸介は苦笑して、
「もし、あるのなら、とっくに葦原正一さんに試しているところだ」
「それは、治療方法をまだ見つけていない人間の言い訳じゃないかしら」
「残念だが、言い訳ではない。ところで……」
幸介は真希を見た。頭から爪先《つまさき》まで全身を観察してから、言う。
「あなたが名椎真希さんだね。どうも、あなたが志津夫君をあおっているそうだが……」
「あおる? 私が? ただ、忠告しているだけよ」
真希は両手を広げた。演説口調になって、言う。
「最初は父親が泣き落とし。次はあなたたちが実力行使ね。……話は聞いたわ。伯家流神道《はつけりゆうしんとう》の生き残りだそうね。やっぱり、そういう連中がいたのね。『続日本紀《しよくにほんぎ》』には神火という現象が記録されているけど、全国的な被害をもたらすところまでは広がらずに、終息したらしい。江戸時代に記録されている狐火《きつねび》という現象も同様だわ。なぜなのかと思っていたけど、今わかったわ。カムナビの復活を妨害する連中がいたからね」
真希は自分の台詞《せりふ》に自分でうなずくと、幸介を指差し、
「あなたたち、天皇家との縁は一三〇年ぐらい前に切れたんでしょう? ご苦労なことだわ」
「本当だよね」
唐突に祐美が言い、ため息をついた。この場では初めての発言だった。例の男の子みたいな口調で、言った。
「本当に、ご苦労だよね。私だって普通のサラリーマンの子に生まれたかったよ。そしたら、せっかくのお祭りなんだから、今頃は彼氏と、たこ焼き食って、金魚すくいやってたのに」
真希が鼻で笑って、
「じゃ、そうしたら? 金魚すくいしてなさいよ」
「あんたこそ綿菓子でも食ってな。カムナビのことなんか忘れなよ。それで丸く収まるんだ」
真希は祐美を睨《にら》みつけた。祐美も睨み返す。女同士の会話は、意地の張り合いといった様相を呈してきた。
今度は、幸介が娘を片手で制した。そして彼は志津夫に向かって、言った。
「確かに、天皇家との縁は一三〇年も前に切れた。だが、元々、我々が守ろうとしてきたのは天皇家でもないし、日本の国家体制でもないんだ……。もっと大きな目的がある。我々は現世の秩序を守ろうとしているんだ。世の中には封じた方がいい真実もある」
志津夫の胸に、幸介の言葉が染み込んできた。やがて、それは胸一杯に広がってくる。なぜか、十全の説得力を感じた。
『我々は現世の秩序を守ろうとしているんだ。世の中には封じた方がいい真実もある』
先ほど父、正一も言った。
『今は二〇世紀だ。科学と秩序の時代だ。三世紀以前の混沌《こんとん》を呼び戻す必要なんか、どこにもない』
そう言われると、そんな気もしてくるのだ。志津夫は好奇心と用心深さの間で、板挟みになってしまう。自分は思慮が足りないのだろうか、とも思える。自分は、火薬倉庫の中でタバコを吸っている間抜けに過ぎないのか、と。
志津夫は脳裡《のうり》で、自問し続けてしまう。どちらが良かったのか? 何も知らないまま平凡な人生を送るべきだったのか、あくまで古代の真相を追うべきなのか。気持ちがぐらつきそうになってしまう。
だが、一つだけ確かなことがあった。
志津夫は左腕の袖《そで》をめくりあげた。
祐美がいやな顔をする。
幸介の顔は微動もしなかった。平然と、志津夫の腕を見下ろす。
志津夫もまだ、この眺めに慣れることができない。肘《ひじ》から上の上腕部がウロコだらけなのだ。コンピュータ・グラフィックス技術のモーフィングのように、今にも自分の腕が蛇の姿へと、連続的に変わっていくような錯覚に陥りそうだ。
志津夫は、腕のウロコをたっぷり幸介に見せつけた。そして袖を下ろして、言った。
「あなたに当事者の気持ちは、わからないでしょう。ぼくとしては、治療法がある可能性に賭《か》けるしかないんだ」
幸介は大きく首を振った。
「だから、治す方法などないんだ。その姿で生きていくしかない。君のお父さんと同じように……。あるいは甲賀三郎のように、と言うべきかもしれんが」
「そう言えば、父はいったい、どうなってしまったんです? 口じゃ強がってたけど、身体の方はかなり弱っていたみたいだ。ぼくも、ああなると?」
幸介が鋭い眼光を維持したまま、答えた。
「なるのかもしれない……。お望みなら、私が君たち三人を安楽死させてもいい」
「な……」
志津夫は絶句する。相手を凝視してしまった。
幸介は泰然と見返してくる。彼が本気で言っているのは明らかだった。
この中年男は、常識的なモラルなど捨ててしまっているのだ。人命の一つや二つ、消しゴムの消しかす程度だと見なす視点で喋《しやべ》っている。この男こそ、半人半怪の化け物みたいに思えてきた。
真希がヒステリックに笑いだした。さすがに、幸介の言いぐさにショックを受けたらしい。ショックが強すぎると、それを相対化する心理が働いて、かえって笑ってしまうといった状態だろう。
発作的な笑いが収まると、真希は形のいい眉《まゆ》を逆立てた。猛然と言い返す。
「冗談じゃないわ! 私はごめんだわ。カムナビや蛇神信仰にまつわる謎を、すべて解明すればいいのよ。それで治す方法も自然とわかるはずよ」
真希は手で払いのける動作をして、
「さあ、どいてよ。……本当はどこからでも進入できたんだけど、ちょっと、あなたたちにつき合うのも、おもしろいかなと思っただけよ。さあ、どいて」
祐美が言った。
「さっきの賭けはどうなったんだよ? ウラだから草薙剣はあきらめるはずだろう?」
突然、真希がコイン・トスをやった。手の中に五〇〇円玉を握っていたのだが、それを瞬時に弾《はじ》き飛ばしたのだ。
空中で高速回転したコインを、真希は右手のひらで受けた。
オモテだった。
真希は微笑する。誇らしげに言った。
「ほら、オモテよ。世の中には二種類の人間がいる。運のいい奴と悪い奴よ」
真希は「悪い奴」と言いながら、祐美に五〇〇円硬貨を示した。
一方、祐美は凍りついていた。今回は意表をつかれて、介入する暇がなかったのだ。
祐美は舌打ちすると、両手を組んだ。親指と人差し指で正三角形を作り、真希に向ける。嫌悪を込めて、言った。
「草薙剣を奪っても、何もいいことなんかないよ」
真希の右手のひらでコインが跳ねた。ウラになる。
真希が左手で五〇〇円玉を握りしめる。
コインは跳ねて、オモテになった。
だが、またウラになる。元気のいい子犬のような動きだった。
真希は五〇〇円硬貨をつかんで、そのダンスをやめさせた。彼女の両目に青白い炎が灯《とも》った。苛立《いらだ》たしげに叫ぶ。
「こんな遊びを続けても意味ないわ!」
「ああ。そのとおりだよ」
祐美は言い返した。あらためて、両手で作った秘印を、真希に向け直した。
志津夫は反射的に一歩、下がった。拳銃《けんじゆう》を突きつけられたような気分になったからだ。
彼は、すでに祐美のチ≠フ威力を思い知らされている。山梨県で、志津夫は五、六メートル後方に吹っ飛んで気絶したのだ。あの時、何が起きたのか、詳細は未《いま》だにわからない。
逆に真希は一歩、前に出た。ボリュームのある胸を突き出す。自信ありげな態度だ。
真希は両手にそれぞれ持っているコインを握りしめた。
祐美の顔色が変わった。目が限界まで見開かれる。唇の線が激しく歪《ゆが》んだ。
祐美は両手の指で正三角形を形作っていたが、その秘印が解けた。右手で自分の首をつかみ、左手で胸を押さえた。
「どうした?」
幸介が娘の異常に驚き、言う。
だが、祐美は口を開閉させるだけだ。声が出ない状態らしい。夜目にも、その丸顔が紅潮するのがわかった。
祐美は左手で幸介の肩につかまった。だが、立っていられなくなったようだ。地面にうずくまってしまう。
「おい? どうしたんだ?」
幸介は驚きつつも、祐美を介抱する。
志津夫は、その様子を見ているうちに、自分まで息苦しくなってきた。昨夜は、彼も真希に首絞め≠やられたのだ。その時の苦痛が蘇《よみがえ》る。
今、祐美の気管には圧力がかかり、閉塞《へいそく》しているのだ。気管とは喉頭《こうとう》から肺に通ずる円柱状の管で、呼吸の際の空気の通路だ。
祐美は地面に這《は》いつくばり、玉砂利を指先で引っ掻《か》き始めた。咳《せ》き込むこともできないようだ。窒息の恐怖と相まって、完全にパニックに陥っているのだろう。
「きさま!」
幸介が叫んだ。凄《すさ》まじい形相で、真希を睨む。彼も、真希のチ≠ェどういう性質なのか気づいたようだ。
今度は、幸介が秘印を結んだ。両手で伯家流の正三角形を形作り、真希に照準を定める。
真希はさらにコインを握りしめた。
祐美に生じたのと同じ現象が、今度は幸介にも襲いかかった。
彼は瞬《まばた》きした。そして一秒後、彼の秘印も崩れた。
幸介も自分の首をつかんだ。眼球が飛び出しそうな表情だ。掻きむしるような動作を始める。だが、喉と胸の内奥に生じた圧力は消えないらしい。
志津夫は呆然《ぼうぜん》と、その様子を見守っていた。どうやら、白川家一族もチ≠フ発現の仕方について、すべて知っていたわけではないらしい。幸介も祐美も、こうした攻撃方法があるとは予想もしていなかったようだ。
真希は嘲笑《ちようしよう》した。声音が漆黒に輝くような、笑い。彼女のサディスティックな面が露《あらわ》になっている。
花火の炸裂《さくれつ》音。太鼓のビート。二つの低周波が、交互に襲いかかってきた。志津夫は、一帯の空気が地震みたいに揺さぶられているのを感じた。
板垣の向こうには、さっきから二人の制服の警備員が立っていた。彼らは不審な顔をしていた。中年男と、野球帽をかぶった美少女が苦悶《くもん》する様子を見たからだ。
二人の警備員はお互いに言葉を交わした。急病人かと思ったのだろう。彼らは、板垣のドア部分を開いた。こちらに向かって歩いてくる。
真希が言った。
「何が伯家流神道よ。大したことないじゃない。……さ、行こう」
真希は、志津夫の袖《そで》を引っ張る。先に立って、歩きだそうとした。
できなかった。幸介が突然、前に立ち塞《ふさ》がったのだ。
「な、何よ」と真希。
幸介はパニックに陥ってはいなかった。炯々《けいけい》とした眼光で、真希を睨《にら》みつける。
今の彼は、窒息の苦痛と恐怖のさなかにあるはずだ。だが、娘とちがって、彼はそれに耐えている。常人離れした精神力だった。
幸介は再びポーズをとった。両手の親指と人差し指で、正三角形の秘印を結ぶ。真希を吹っ飛ばして気絶させるか、あるいは殺すつもりだろう。
「待て! やめてくれ!」
思わず、志津夫は叫んだ。同時に、右手を幸介に向けた。彼のスイッチ≠ェ無意識に発動したのだ。
とたんに、幸介の両腕が左右に開いた。バネ仕掛けの玩具《おもちや》みたいな急激な動作だ。
突然、幸介は両腕を左右に広げ、バンザイをやりかけているような姿勢になっていた。唖然《あぜん》としている。今のが、本人の意志とは無関係な動きであることは明らかだろう。志津夫が、幸介の神経細胞に介入して、一時的に行動を支配したのだ。
だが、幸介が戸惑った表情を浮かべたのは一、二秒ほどだった。彼の瞳《ひとみ》には、すぐ輝きが戻ってくる。集中力のオーラが、全身から放散されたようだ。
幸介の両腕が動き始めた。志津夫の介入をはねのけつつ、再び両手を前方に伸ばしてくる。伯家流の秘印を結ぼうとしていた。
「やめろ!」
志津夫は叫んだ。再度、相手の行動に介入しようとする。だが、今回はできなかった。
相手とのレベルの違いを感じた。言うならば、幸介の「技術」は百戦錬磨の達人クラスなのだろう。若葉マークの志津夫のパワーなど、すぐに跳ね返されたようだ。
真希も一歩、後ろに下がった。相手にプレッシャーと恐怖を覚えたようだ。これだけ、しぶとく彼女の首絞め≠ノ抵抗する人間は初めて見たのだろう。
志津夫は焦った。このままでは相打ちになるかもしれない。また、これ以上、祐美が地面に這いつくばって、窒息に苦しんでいるのも見ていられない。
本当に自分にチ≠ェあるなら、カムナビの後継者だと言うのなら、今この局面をどうにかしなければならないはずだ!
そう思った瞬間、志津夫の意識がぼやけた。テレビ画面に現れるような電気的誤信号《グリツチ》の横縞《よこじま》ノイズが、全世界を埋め尽くしたみたいだった。
気象衛星「タイロスN型ノア8号」は、無数の星辰《せいしん》が浮かぶ大海を飛んでいた。
上方は真空の闇と太陽や月、星々の光点で埋め尽くされている。下方には巨大な円弧を描くブルーの地球があった。その両者の間で「ノア」は引力と遠心力の双方によって宙吊《ちゆうづ》りにされながら、絶えず地平線の向こうへ飛び続けている。
この「タイロスN型ノア8号」は現代科学の最高水準に達した機器の一つだった。
ただし、美的とは言い難い形態だった。ブルドーザーに片翼だけの羽を付けたみたいだ。機能だけを優先した不格好なデザインであり、これが許されたのは、空気抵抗ゼロの世界で働く機械だからだ。
片翼だけの羽に見えるのは太陽電池板で、これは幅二・四メートル、長さ五メートルもある。外側にはニッケルカドミウム電池、姿勢制御の噴射に使うヒドラジンとチッソのタンク、アンテナなどが付属している。アンテナはUHF用、VHF用、Sバンド用の三種類だ。
機体の最前部は、ブルドーザーのショベルによく似ている。この部分に主な観測装置が収められている。
AVHRR(改良型高分解能放射計)、HIRS(高分解能赤外線放射計)、SSU(成層圏測定用放射計)、MSU(マイクロ波放射計)、SBUV(太陽紫外線後方散乱測定装置)、ERBE(地球放射束検知システム)の六種類だ。
ちなみに気象衛星と言えば、一般人には「ノア」よりも「ひまわり」の方がおなじみだろう。
「ひまわり」はいわゆる静止衛星だ。地球の自転速度とシンクロしているため、地球から見上げると上空に静止しているように見えるものだ。高度は三万五八〇〇キロで、日本を含むアジア、太平洋、オーストラリア付近までの可視画像と赤外線画像を三時間ごとに撮影している。新聞やテレビで毎日、お目にかかるあの映像だ。
一方、「ノア」は、「ひまわり」よりずっと低い極軌道衛星だった。高度は八〇〇キロ。軌道は地球の自転方向とは直角で、北極と南極を必ず通過するコースだ。一〇二分で地球を一周しており、同一地点の上空を約十二時間ごとに通過している。観測範囲は、東西約三〇〇〇キロの帯状の範囲だ。
今、「ノア」の真下には日本列島が現れていた。北海道、本州、四国、九州がおなじみの配置で並んでいる。巨神が弓形にねじ曲げたような形だ。西には朝鮮半島と中国大陸が広がっている。もちろん、これらも観測対象の一つだ。
「ノア」のコンピュータはTOVS(垂直探査システム)を起動し、可視光線から赤外線までの十四チャンネルの波長帯を開いた。四チャンネルのマイクロ放射計も開く。海面から一〇ヘクトパスカルの高さまでの温度や水蒸気量の垂直分布を計測した。
「ノア」は「ひまわり」よりも高度が低い分、より詳細なデータを計測できる。地上の気温だけでなく、高度二キロ(平均気圧八五〇ヘクトパスカル)、高度八キロ(平均気圧五〇〇ヘクトパスカル)の気温なども同時に測れるのだ。
今、「ノア」の「目」に映った日本列島はレッド、オレンジ、イエロー、グリーンなどの四色に色分けされていた。コンピュータが、それを記録する。
奇妙な温度分布画像だった。東京都心部、愛知県名古屋市、三重県伊勢市、奈良県桜井市だけがレッドになっている。それ以外の地域はイエローかグリーンだった。
常識ではありえない画像だった。だが、シリコンチップの頭脳は別に気にしなかった。後は、これを地上に向けて送信することだけが「ノア」の仕事だ。
唐突に、強烈な光が「ノア」の視界に飛び込んできた! HIRS(高分解能赤外線放射計)が露光オーバーになる。だが、その寸前に、光の中心が名古屋市にあることだけは記録できた。
「ノア」の三二ビットCPUは、この突発事態にも慌てることなく、画像情報を地上に送信した。
白川幸介は一瞬、視界が真っ白に輝くのを感じた。誰かがキセノン放電管を一〇〇個ほど、この場に持ち込んだような輝度だった。
同時に、彼の気管にかかっていた不気味な圧力も消えた。思わず何度も咳《せ》き込んだ。炭酸ガスを吐き出し、清水のような酸素を吸い込む。
気がつくと、周囲一帯が強烈な光に包まれていた。陰影のない平板な光景になっている。
真希という女も唖然《あぜん》とした顔だった。片手をバイザー代わりにして目を保護しながら、片手で幸介の頭上を指さしている。
志津夫も、真希と同じ状態だった。口を半開きにしている。さっきまでの会話や、超自然のパワーによる闘いのことも忘れてしまったようだ。
その場に詰めかけた参拝客全員も、同じだった。眩《まぶし》い光から目を守りつつも、拝殿の方向のみを凝視しているのだ。いつの間にか、小学生による太鼓演奏も中断していた。全員にストップモーションがかかった状態だ。
祐美も片膝《かたひざ》をついた姿勢で、空を見上げていた。彼女は、さっきまで窒息の恐怖でパニックに陥っていたのだ。だが、今は口を大きく開けて、間抜けな表情になっている。
幸介も振り返った。
その閃光《せんこう》は、眼底にネガ・フィルムのように焼き付いた。
拝殿の真上に、垂直な光の棒が出現していた! それは拝殿から遥《はる》か上空まで貫き通す金色のビームだった。ダイヤモンドに匹敵する高密度を備えた棒のようだ。
だが、それでいて、その光柱≠ヘ揺れ動いていた。超ロングサイズの光柱≠ェ、拝殿の屋根でフラダンスを踊っているかのようだ。
幸介は顔面に凄《すさ》まじい熱気を感じた。光柱≠ェ発する遠赤外線だ。気温が一段と上がっている。汗が額や頬から流れ落ちた。
幸介は瞬きすることも忘れて、光柱≠ノ見入っていた。思考は停止し、身体も動かない。その驚くべき光量に魅入られてしまったのだ。
「カムナビ……」
思わず、そう呟《つぶや》いていた。
突然、幸介の脳裡に『日本書紀』の一節が浮かんだ。神武即位前紀だ。
黄金《こがね》の霊鵄有《あやしきとびあ》りて、飛《と》び来《き》たりて皇弓《みゆみ》の弭《ゆはず》に止《とま》れり。其《そ》の鵄光《とびて》り曄焜《かがや》き、状流雷《かたちいなびかり》の如《ごと》し。是《これ》に由《よ》りて、長髄彦《ながすねひこ》が軍卒《いくさびとども》、皆迷《みなまど》ひ眩《まぎ》えて、復力戦《またつとめたたか》はず
初代神武天皇イワレヒコに光り輝く何かが味方し、逆賊ナガスネヒコの軍勢を戦意喪失させた、というエピソードだ。戦前の教科書には、この場面が史実として挿し絵に描かれていた。もちろん戦後は神話として片づけられてしまい、史実と考えるものはいなくなった。
だが、幸介は今それを現実に見ていた。これが神武イワレヒコに味方したかどうかは、ともかく、やはり実在する現象だったのだ。
幸介は呟いた。
「かたち、いなびかりのごとし……。確かにいなびかりと、間違えそうだ……」
その光のショーが始まって一〇秒後、ついに拝殿の屋根は限界温度に達した。銅葺《どうぶ》きの表面が溶けて、流れだしたのだ。さらに一〇本ある堅魚木《かつおぎ》が次々にオレンジ色の炎を噴き出す。爆発したような勢いだった。大量の火の粉も四散する。
悲鳴。怒号。「火事だ!」という叫び声。幸介自身も意味不明の叫びをあげていた。
同時に、揺れ動く光柱≠ヘ消失した。まるで別世界から来て、また去っていったかのようだった。拝殿の火事を置きみやげにして。
拝殿の真下や近くにいた人々の頭上に火の粉が襲いかかった。溶けた銅の滴も追加された。
さらに悲鳴のボリュームが上がる。平和な祭りの夜が一瞬にして、パニック状態に転じてしまった。
カムナビが出現した時は、真希も呆然《ぼうぜん》自失していた。揺れ動く金色のビームに見とれてしまう。現世を超越した美しさが、そこにあった。
だが、カムナビが消えて、拝殿の屋根が燃え上がっているのを見て、真希は我に返った。辺りを見回す。
人々の視線は、炎上する堅魚木だけに集中していた。他のものはまったく眼に入らない状態だ。人間の心理としては当然だろう。
白川幸介や祐美も同じだった。青い制服を着た警備員たちも例外ではなかった。皆、オレンジ色に燃えている拝殿の屋根を凝視しているだけなのだ。
真希は、チャンス到来を確信した。彼女は精神的な瞬発力が高く、気持ちの切り替えが早いタイプだ。
まず、両手の五〇〇円玉をポケットにしまった。ショルダーバッグを肩に担ぎ直す。
振り返ると、虚《うつ》ろな目になっている志津夫がいた。彼の胸ぐらをつかんだ。
「今よ! さあ、早く!」
「あ……ああ」
志津夫は痴呆《ちほう》じみた顔になっている。普段の彼らしからぬ様子だ。まるで、立ったまま意識を失っていたような感じだ。
真希は怒鳴る。
「あなたが呼んだカムナビでしょ! さあ、今のうちに」
真希は志津夫を引っ張り、「立入禁止」の札に迫った。
そこは普段なら、木製の板垣が侵入者を阻んでいる場所だ。だが、今はちょうどドアの部分を警備員が開けたところだった。その奥は広い玉砂利の道になっている。
真希は志津夫の手を引っ張り、関係者専用通路へと侵入を遂げた。
もちろん板垣のそばには、大柄な警備員二人が立っていた。だが、彼らも炎上する拝殿に注意力を奪われていたのだ。真希と志津夫の侵入には、まったく気づいていなかった。
志津夫は、最初は手を引っ張られているだけだった。だが、途中から真希の手を振り払い、自ら走り出した。
志津夫の目に知性の光が戻った。彼も、これは絶好のチャンスだと気づいたのだ。
真希は、その様子を見て微笑む。彼は、私の手の内にある。もう離さないわ。
二人は玉砂利の道を走った。右側の外玉垣と、左側のマツやケヤキが後方へ流れ去っていく。自分の息づかいと心臓の鼓動しか聞こえない状態だ。
先行する真希は、まず外玉垣の上端に飛びつき、そこに両手をかけた。この玉垣は大人の身長ほどの高さがあった。ちょうど腰の高さには横木があったので、そこに片足をかけて、上っていく。
こんな真似をするのは小学生の時以来だろう。スカートをやめて、スラックスをはいてきたのは正解だった。
真希は外玉垣の上端に片足をかけた。次いで乗り越える動作に移ろうとした。
彼女の隣では、志津夫も遅れて、垣根の上端に両手をかけていた。
突然、大きな破裂音が聞こえた!
反射的に、真希は振り返る。
見ると、拝殿の屋根にある堅魚木の一本が棟木から外れたところだった。バランスを崩し、向こう側へ滑っていく。何かが破裂したような音がした! 次いで重いものが地面に落ちて、激しくバウンドする音が響いた。群衆のどよめきが、ここまで聞こえた。
拝殿の屋根では、残る九本の堅魚木も勢いよく炎を噴き上げている。周辺は、真昼の明るさで照らし出されていた。
真希は微笑む。このありさまでは、誰一人として、私たちに注意を払う余裕などないだろう。
人々は我先にと、炎上する拝殿から逃げだそうとした。だが、途中で転倒して、後続の者に踏みつぶされる事故も起きた。
夜空では打ち上げ花火の連発打ちが始まった。皮肉にも、この火事に呼応するようなタイミングだった。拝殿の屋根から上がる火炎も、花火の炸裂《さくれつ》音に合わせて踊っているようだ。
火の粉が舞い散り、火事が燃え広がる可能性も出てきた。熱田神宮の境内は二〇万平方メートルもあり、樹木で覆い尽くされているのだ。もしも延焼が始まったら、手がつけられなくなるだろう。
白川幸介は、その光景を見ながら、今朝のテレビニュースを思い出していた。建設中の倉庫の鉄骨群が溶けてしまった映像だ。あれにも、今のような光柱≠ェ襲いかかったのだろう、と想像できた。
そして幸介は我に返った。志津夫と真希の姿を探す。その場で三六〇度回転した。
野球帽をかぶった祐美なら、その場にいた。娘はまだ唖然《あぜん》としている様子だ。
だが、視界の範囲に、志津夫と真希はいなかった。
幸介は、自分の失態に舌打ちした。
カムナビや火事に気を取られて、つい彼らから目を離してしまった。その隙に、志津夫と真希に出し抜かれたようだ。幸介は祐美に向かって、怒鳴ろうとした。
その時、拝殿の棟木がはぜて、火炎の中で破裂音を発した。
振り返ると、屋根飾りの堅魚木の一本が、棟木から外れてバランスを崩し始めたところだった。長さ二メートル、直径三〇センチ、重量が数十キロはある丸太材だ。爆発したように火の粉を噴出している。
ついに自重を支えきれなくなった。堅魚木が一塊の炎となって、高さ五メートルある屋根のスロープを滑り落ちてくる。
遠巻きに見ている群衆から、悲鳴とも歓声ともつかない声が漏れた。直接、自分が傷つくわけではないから、もう野次馬気分なのだろう。
だが、幸介はそういうわけにはいかなかった。
拝殿の前で、泣き叫んでいる幼児に気づいたからだ。
四歳ぐらいの女の子だった。ショックを受けて、座り込んだまま動けない様子だ。丸顔に、おかっぱ頭だ。
幸介は驚きと焦りのあまり、後頭部が灼熱《しやくねつ》に包まれた。その子が、幼い頃の祐美によく似ていたからだ。一瞬、背後にいる本物の祐美のことを忘れてしまった。
このまま放っておけば、もちろん女の子は燃え上がる堅魚木の下敷きだ。命は助かるまい。
気がつくと、幸介は拝殿の正面に向かってダッシュしていた。この場合は接近しないと、女の子も一緒に巻き込む危険があるからだ。走りながら、両手の指で正三角形の秘印を結んだ。
眼前に、オレンジ色の炎を噴き上げる丸太材が落ちてくる。女の子の後頭部を狙っているかのようだった。
幸介はぎりぎりのタイミングで、間に合った。
両手から遠当て≠放った! 放出されたチ≠ェ衝撃波と化す。空中に円盤形の波動が生じ、それが風景を歪《ゆが》ませながら、飛んでいった。
それは流体力学で、マッハディスクと呼ばれる現象だった。音速の流れに生じる大気の壁≠セ。通常、肉眼では見えないものだが、この時はマッハディスクが、瞬間的な陽炎《かげろう》のように、拝殿付近の風景を歪ませるのを視認できた。
長さ二メートルの丸太材に、衝撃波が命中した。堅魚木は落下中に、直角にコースを変えた。巨神が蹴《け》り飛ばしたみたいだった。
同時に、幸介自身も反作用を受けていた。彼の両手は、不可視の衝撃力によって激しく弾《はじ》かれたのだ。バンザイをやりかけているようなポーズになり、後ろに一歩下がってしまう。
物理学で言う「作用・反作用の法則」が働いたのだ。銃を発射すると、反動で銃身が跳ね上がることは絶対に避けられない。それと同じ原理で「反作用」が発生したので、幸介は両手で受け流したのだ。
一方、堅魚木は、ゆっくりと跳ねていき、地面に倒れた。その大きさに見合ったスローモーションな動きだ。何度かバウンドしてオレンジの炎と、火の粉と、鈍い衝突音をまき散らした。
見物していた連中の口から、どよめきが上がった。眼前で何らかの超常現象が起きたことは、一目|瞭然《りようぜん》だったからだ。
幸介は舌打ちした。本来なら一般人に見せてはならないのだ。それは自分にも祐美にも、厳しく諌《いさ》めていたのに。
女の子は無事だった。四歳ぐらいの彼女は、自分が命拾いしたことに気づいていない。ひたすら泣きわめいているだけだ。
それを見て、幸介は自分に言い訳した。非常時だったから、仕方がなかったのだ、と。それに、この子があまりにも幼い頃の祐美に似ていたせいもある。それで身体が勝手に動いてしまったのだ、と。
幸介は一息つこうとした。
できなかった。頭上から轟音《ごうおん》が降ってきたのだ。
見上げると、二本目の丸太材が炎に包まれながら、屋根から滑り落ちてくるところだった。まるで、その堅魚木に意地悪な人格が乗り移ったかのようだった。幸介に照準を合わせて、ミサイルのように突進してくる。
もう精神集中する余裕も、遠当て≠フ構えを取る余裕もなかった。
悲鳴が響いた!
真希と志津夫は凍りついた。二人は内玉垣《うちのたまがき》の上端に、両手と片足をかけた姿勢だった。顔を上げ、炎上する拝殿を見つめる。
一〇秒ほど前、拝殿の屋根から一本目の堅魚木《かつおぎ》が、さい銭箱のある向こう側へと滑り落ちていった。そして今、続けて二本目の堅魚木も滑り落ちた。
その直後、悲鳴が聞こえたのだ。男の声だった。さらに重い物体が地面にバウンドしたような音もした。
真希と志津夫は顔を見合わせた。表情で、互いに同じことを考えているのがわかった。誰かが燃え上がった木材の下敷きになったのか、と思ったのだ。
だが、すぐに群衆のどよめきにかき消されてしまった。結局、それが悲鳴だったかどうかは確認できなかった。
真希は首をひねった。だが、すぐに忘れた。今は赤の他人に関わっている時ではない、と思い直したのだ。
「行きましょう」
真希はそう言って、地面に向かって革のショルダーバッグを投げ落とした。そして内玉垣の上から飛び降りた。志津夫もそれに続く。
だが、垣根はまだ二重に存在する。本殿に入るには、それらも乗り越えねばならないのだ。
熱田神宮では、本殿の外側を瑞垣《みずがき》が囲んでいる。さらに、その外側に三重の玉垣がある。全部で四重の柵《さく》がめぐらされているのだ。
玉垣の中でもっとも内側にあるものは、蕃垣《ばんがき》と呼ばれていた。その外側にあるのが内玉垣《うちのたまがき》で、さらにその外側にあるものを外玉垣《とのたまがき》と呼ぶ。
現在、さい銭箱が配置してある拝殿も、本来は外玉垣御門という名称だ。もちろん、これら玉垣の中は一般人立入禁止である。
真希と志津夫は外玉垣と内玉垣を乗り越えたところだった。続けて、蕃垣と瑞垣も越える。
四重もの柵を越えて、ついに本殿に肉迫することができた。ここは熱田神宮の神職の者も、滅多に入れない場所なのだ。
さすがに、真希も志津夫も息が弾んでいた。走ったり、柵越えをしたりと軽い運動をしたせいだ。
彼女は肩を上下させながら、感慨深げに呟《つぶや》いた。
「ここね」
真希の瞳《ひとみ》が輝いた。大きな本殿を見上げる。
この本殿の屋根にも、やはり堅魚木と呼ばれる丸太が一〇本載っていた。銅板|葺《ぶ》きの屋根はエメラルドグリーンだが、今は夜なので判別できない。
本殿は高床式で、正面に階段があった。蓑甲《みのこう》に飾られた庇《ひさし》が、その上に張り出している。大人の太ももほどの太いしめ縄と、紙垂《かみしで》とが、この建物を神域としてガードしていた。
花火の炸裂《さくれつ》音や、人々の悲鳴や怒号などが周辺を包んでいた。だが、この本殿の周りだけは静謐《せいひつ》な空間が保たれているようだ。まるで四重の玉垣がバリアーとなって、外部の雑音がシャットアウトされているようだ。
真希は胸の高鳴りを覚えていた。体内で、心臓が上下に飛び跳ねているようだ。ついに古代の謎の一端に触れることができるのだ。
彼女は躊躇《ちゆうちよ》することなく、階段を上がった。正面扉の前に立つ。そこには直径五センチはある太いかんぬきの鉄棒と、ノートパソコンほどもある特大の南京錠があり、神域を物理的に守っていた。
隣に立った志津夫が目を見開く。
「おい、これは相当なもんだぞ。ハンマーでもないと開けられやしない。どうやって?」
真希は微笑んだ。余裕たっぷりの表情だ。彼女にしてみれば、こんな防備は砂の城も同然だ。
「金庫破りぐらい任せておいて」
彼女はポケットから銀色のコインを取り出した。一度、親指で宙に弾き上げて、キャッチする。
五〇〇円玉を手の中に握り込んだ。その手を細かく震わせ始める。まるで感電でもしたような仕草だった。
その直後、特大の南京錠も細かく震動を始めた。その震動が目に見えて激しくなっていく。まるで大昔の電気洗濯機みたいなありさまだ。
志津夫は傍らで、目を見張っていた。彼女の「金庫破り」に相当、驚いたようだ。
真希は南京錠に指一本触れていない。なのに、彼女が手を細かく震わせる動きと、南京錠の震動とがシンクロしているのだ。
今、真希は手のひらに南京錠の内部メカニズムを感じ取っていた。メカニズムのもっとも弱い部分を触感≠ナ探り当てたところだ。そこへ徐々に負荷圧力を加えていく。
南京錠の内部から破裂音がした!
真希は手を細かく震わせるのをやめた。その直後、南京錠の振動も止まった。
真希は確信に満ちた態度で、片手を伸ばし、特大の南京錠を引っ張った。何の抵抗もなく、U字型の鉄棒が外れた。重々しい音とともに地面に落ちる。もう壊れて用を成さなくなっているのは明白だ。
志津夫は驚きのあまり、言葉が出ない様子だった。真希を畏怖《いふ》の目で見ている。というよりも、化け物を見る目だった。
それが不愉快だったので、真希は言った。
「何よ、その目は?」
「だって……」
「だって、じゃないわ。よく人のことを、そんな目で見られるわね。あなただって同じじゃない。いいえ、それ以上よ。あなただって、さっきカムナビを呼んで、拝殿を火事にしちゃったのよ」
そう言って、真希は背後を指さした。
拝殿の屋根は、今も燃えている真っ最中だった。夜空にオレンジ色の炎を噴き上げている。残りの堅魚木も続けて落下しそうな不安定な状態のようだ。
彼女は大きく息をついた。さっき味わった驚愕《きようがく》と興奮が蘇《よみがえ》ってきたのだ。感心した表情で、首を振った。
「すごいわ! やっぱり、やれば、できるじゃないの!」
彼女は独り、うなずくと、
「あれがカムナビだったのね。日本書紀の『金の鵄《とび》神話』そのものだった。……状流雷《かたちいなびかり》の如《ごと》し。是《これ》に由《よ》りて、長髄彦《ながすねひこ》が軍卒《いくさびとども》、皆迷《みなまど》ひ眩《まぎ》えて、復力戦《またつとめたたか》はず……。確かに稲光に似ていたし、あれじゃ皆、驚いて見とれてしまって、身動きできなくなるはずよ」
真希は再度、叫んだ。
「やっぱり、やれば、できるじゃない! まったく憎たらしくなってくるぐらいだわ」
彼女の目に険が現れていた。志津夫を睨《にら》みつけてしまう。
真希は、カムナビを呼ぶ力は自分が手に入れるべきだ、と思っていた。昨日や今日の話ではなく、五、六年前からそう思っていた。
なのに、正一と志津夫だけがそれを入手して、自分はまだ入手できないのだ。嫉妬《しつと》のあまり胃の辺りがこげて、煙が出そうだ。
志津夫は首を振った。両手で頭を抱えている。明らかに自信のない態度だ。
「いや……それが覚えてないんだ……。何も自覚症状はないんだ。何だか気が遠くなって……。気がついたら、真っ白な光が現れて、火事になってて……」
「何だか要領を得ないわね」
真希は鼻を鳴らした。いささか軽蔑《けいべつ》の眼差《まなざ》しになってしまう。
真希は志津夫を放っておき、作業に取りかかった。
まず太いかんぬきの鉄棒をスライドさせた。金属同士がこすれ合う嫌な音が響く。
次いで観音開きの扉を手前に引っ張る。だが、なかなか開かなかった。
一方、志津夫は伏せていた顔を、ふいに上げた。瞳が輝いている。何かに気づいたような表情だ。
普段の自信こそ損なわれていたが、学者としての知性までは失っていないらしい。彼は喋《しやべ》りだした。
「……さっき見た、あの光だけど揺れ動いていたな……。ぼくは甲府で、ある神社の縁起絵巻帳の一部を見た。その話はしたね? デジタル写真も見せたはずだ」
「ええ」
「その絵にも、光り輝く蛇が逆立ちして身体を揺らして、ダンスしているような絵が描いてあった。口からは炎を吐いていた。今、その絵巻帳を連想したんだが……」
真希も作業の手を止めた。その絵を思いだし、瞬《まばた》きする。
「ええ。言われてみれば、イメージはぴったり合うわね……。まあ、いずれ真相はわかるでしょう。それより今は……」
真希は肩に力を入れて、唸《うな》った。
やたらに重たい扉だった。普段は閉め切ってあるからだろう。志津夫も見かねて、手伝ってくれた。
二人で力を合わせた。観音開きの扉を全開にする。少し埃《ほこり》っぽい匂いがした。
熱田神宮の本殿の中は、かなり広かった。テニスの試合ぐらい、できるだろう。床は整然とした板張りだった。
ちょうど背後の火事の炎が、照明光として役に立ってくれた。板張りの床に、真希と志津夫の巨大な影が揺らめきながら、映っている。
本殿の広大な空間の中央には、唐櫃《からびつ》が一つあるだけだった。他には何もない。それがお目当ての品物の容器だと、すぐにわかる状況だ。
唐櫃とは、脚のついた櫃のことだ。脚は外反りの形のものが、計六本付いている。
その唐櫃は高さ一メートル、奥行き一メートル、幅二メートルほどだった。表面は黒い漆塗りで、艶《つや》やかに光っている。赤い絹の紐《ひも》で、全体を十文字に結んであった。
真希と志津夫は無言で、それに近づいた。しばらく凝視してしまう。真希は何度も生唾《なまつば》を飲み込んだ。
何しろ一六〇〇年間も、謎のベールに包まれていた神器だ。その実物と対面しようとしているのだ。期待感が膨らみ、禁域を侵す暗い喜びを感じた。
真希はショルダーバッグから、ハンディライトを取り出し、点灯した。志津夫にそれを手渡して、臨時の照明係を任せた。
彼女は、さっそく赤い絹の紐を外しにかかった。そして、蓋《ふた》を取る。蓋の内側は赤い漆塗りだった。火事の炎の光を反射し、照り輝いている。
唐櫃の中は、赤土で充満していた。知らない者には奇妙な眺めだろう。
志津夫がそれをライトで照らし、言った。
「江戸時代の文献『玉籤集《ぎよくせんしゆう》』に書いてあった。当時の神官たちが、こっそり草薙剣をのぞき見したそうだが、それによると神剣の入れ物は赤土で何重にも包まれていたとか……」
「ええ。だから、持ってきたのよ」
真希はショルダーバッグから、園芸用スコップを二つ出した。志津夫にも手渡す。
さっそく彼女はスコップを赤土に突き立てた。
コツンという軽い音がした。スコップの先端が三センチほど赤土に食い込んだだけで、何かにぶつかったのだ。
「え?」
真希はそう言い、スコップと手で赤土の表層を取り除いた。
白色の容器の一部が姿を現した。
「これか!」
「これね!」
志津夫と真希は相次いで叫んだ。さらにスコップで赤土を取り除いていく。
作業しながら、志津夫が言った。
「意外に浅く埋めてあるんだな……。そうか。江戸時代に神官がのぞき見した後は、ただ土をかぶせた程度にしてあったんだな」
赤土の表層を完全に取り除いた。そして、その容器を取り出した。
白い絹の細長い袋だった。入帷子《いれかたびら》と呼ばれるものだ。
触ると、中に固い感触がある。細長い直方体の箱が入っているのだ。真希は袋の口をしばっている紐を解いた。中身を取り出す。
それは木製の細長い箱だった。長さは一メートル以上ある。材質からして、いかにも頑丈そうに見えた。
志津夫が言った。
「コウヤマキの箱か。日本では大昔から棺桶《かんおけ》の材料に使われてきた木だ」
真希はハンディライトを手にして、箱を照らした。目を見開く。
「見て! ここに!」
箱の蓋に文字が書いてあった。一部がかすれている。
だが、確かに「草薙剣」と記されていた。
「これが……」
真希はしばらく凍りついていた。瞳がネオンサインのように輝きそうな表情になる。
伝説の神剣が今、現実に自分の手中にあるのだ。これこそ邪馬台国のシンボルであり、蛇神のシンボルであり、大和王朝に祟《たた》りをなした剣なのだ。数々の神話を生んだ源なのだ。
真希の呼吸が弾んでくる。全身にアドレナリンがみなぎるのを感じた。あるいは、神剣が発しているパワーに、自分も感染したのだろうか?
真希はゆっくり、うなずいた。自分で自分の心に確認を入れたのだ。まず、どんな剣か、この目で見なければならない。
真希は箱を縛っている紅紐を外そうとした。ここの宮司が見たら、卒倒しかねない光景だろう。
だが、志津夫の手が妨害してきた。真希の手首をつかんで、紐から引き剥《は》がしたのだ。
志津夫は大きく首を振っていた。何かを恐れているような表情だ。
真希は不審な顔で訊《き》いた。
「何よ?」
「まだ、開けない方がいい」
「だって中身を確かめないと……」
「これだけ厳重に封印してあったんだ。これが草薙剣であることは、もう確定してる。でも、今、開けるのは危険だ」
「どういう意味?」
「その……」
志津夫は舌で唇をなめた。必死に脳髄から、言葉を検索しているらしい。やがて言った。
「もしも、またカムナビが現れたりしたら、それも次々に現れたりしたら、どうなると思う? そんなことになったら、はた迷惑なだけじゃないか?
江戸時代の『玉籤集』にも、草薙剣の呪いについて書いてあった。のぞき見した神官たちは次々に病死したと言うんだ。その話を鵜呑《うの》みにしているわけじゃないが、今までの経験から考えると、慎重に行動するべきだと思う……。それに早く、この場を離れないと、あの親子が追ってくる。どういうわけか、まだ追ってはこないけど、いつやって来るか、わからないんだ」
真希は沈黙した。
10
白川幸介の喉《のど》から、苦悶《くもん》の呻《うめ》き声が漏れていた。歯と歯ぐきが完全にむき出しになっている。断末魔の形相に近いものがあった。
何しろ重さが一〇〇キロ近くある丸太の突進を右の太ももで受けたのだ。大腿骨《だいたいこつ》が折れる時のボキリという異音を、幸介ははっきりと聞いた。膝関節《しつかんせつ》もおかしな角度で曲がったから、そこにもヒビが入っただろう。
その上、バウンドした堅魚木《かつおぎ》に押し倒される形になった。仰向けになった腹部を丸太に強打されたので、肋骨《ろつこつ》にもヒビが入っただろう。その時、胃袋の中身も逆流しかけた。
そして火炎に包まれた丸太は、今も幸介の両足太ももに載ったままなのだ。あちこちを骨折して、さらに生きながらバーベキューにされるという、おまけまで付いた。
普通の人間ならば、絶叫していただろう。幸介が並外れた精神力の持ち主だからこそ、呻き声だけで堪えているのだ。泣き叫ぶのは、みっともないという最後の理性が働いていた。
「父さん!」
祐美が叫び、駆けつけてきた。だが、燃え上がる炎の威力に負けてしまう。一、二歩下がってしまった。
青い制服姿の警備員も何人か集まってきた。だが、彼らも手を出しかねていた。
「うわ!」
「こりゃ、ひでえ!」
そんなことを口走るだけだ。数人がかりならば、この丸太を持ち上げることぐらい可能だろう。だが、その間に炎で手が火傷《やけど》だらけになってしまう。今は皆、遠巻きに見ることしかできない。
「おい、消火器! 消火器!」
誰かが言った。一人が回れ右して、神符授与所にダッシュしていく。消火器を取りに行ったのだろう。
幸介は決断せざるを得なかった。
「どいてろ! 祐美」
幸介は再び、両手の親指と人差し指で正三角形を作った。強烈な遠当て≠一発、放つ。腹の上から、丸太が軽々と吹っ飛んだ。
燃え上がる堅魚木は、一・五メートルほど空中を飛行した。制服の警備員たちの足元に着地し、彼らの足を潰《つぶ》しそうになる。彼らは奇声をあげて、飛び退いた。
同時に、幸介の両手が激しく頭上へ弾かれた。「反作用」だ。
さらに彼の全身も、丸太とは逆方向に滑っていく。一メートル以上、移動した。玉砂利が後頭部と肩に食い込み、痛んだ。
「何だ?」
「どうなってんだ?」
間近で見ていた連中が、口々にそう言った。彼らは、手品を見せられたような表情を浮かべていた。燃え続ける丸太と、仰向けになっている幸介とを、ただ見比べているだけだ。
今日の幸介は、普段の戒めを二度も破るはめになってしまった。だが、カムナビの出現直後であることや、火事場の喧噪《けんそう》が救いになるだろう、と幸介は思った。トラブルの連続で、人々の記憶は混濁するだろうから、幸介が起こした超常現象についても、詳しく覚えている者はいなくなるだろう。
「父さん!」
祐美が、幸介の肩に手をかけた。抱き起こそうとする。
「祐美。私のことはいい。もう大丈夫だ」
幸介は言った。だが、骨折と火傷の激痛に唸《うな》る。起きあがれそうもない。
「大丈夫じゃないよ、父さん!」
「大丈夫だ」
「これで大丈夫なわけないだろ!」
「それより志津夫君たちだ。どこへ行ったんだ?」
「え?」
祐美は狼狽《ろうばい》して、周辺を見回した。今まで、そのことは意識から抜け落ちていたらしい。トラブルの連続だったから、それで思考活動が停滞していたようだ。
幸介が訊いた。
「見失ったのか?」
「……みたい」
祐美は青ざめた顔になった。肩の線が下がっていく。自分の失態に気づいたのだ。
「じゃ、捜せ! 追いかけろ! わかってるだろう!」
「う、うん。じゃね、父さん!」
祐美は片手を挙げて、回れ右した。駆けていく。ビデオテープの早回し再生そっくりの滑《こつ》稽けいな走り方だ。彼女がどれだけ慌てているかが、その動作に表れていた。
幸介は娘を見送った後、地面を右拳《みぎこぶし》で殴りつけた。今度は悔しさのあまり、呻いてしまう。
しかし、大腿骨骨折に、膝関節や肋骨にもヒビが入ったとなると、自分一人では身動きもできない。このまま救急車のお世話になるしかないのだ。
ちなみに幸介は、傷の治りだけは早いはずだ。それは自信がある。日頃から内清浄の行法で体内にチ≠蓄えているから、いわば超健康体を保っている状態なのだ。
だが、それでも骨折となれば、数日間の入院は避けられまい。その間に、一大事になってしまったら、いくら後悔しても足りないだろう。
幸介は、視線を拝殿の方に向けた。さきほど自分が助けた女の子を、もう一度、確認しようとしたのだ。
だが、地面に寝ている姿勢では、視界が悪すぎた。野次馬たちの陰に隠れてしまい、どこにいるのか、わからない。たぶん親がすぐに保護しただろうから、心配はないはずだ。
三〇歳前後ぐらいの警備員が、幸介のそばにやってきた。鼻の脇にほくろのある人物だった。しゃがみ込んで、幸介に訊《き》いた。
「大丈夫ですか?」
「何とか……」
幸介は脂汗を垂らしながら、答える。
「今、救急車を呼びましたから」
「ああ。ありがたい」
警備員は、さらに幸介の顔をのぞき込んできた。瞳《ひとみ》が好奇心で輝いている。手品を見て、興奮している子供の顔そっくりだ。
「ところで、さっきのは何です? 突然、丸太が吹っ飛んだみたいに見えたけど」
「え。どうだったかな? 覚えていないが」
幸介は視線を外して、とぼけた。一瞬起きただけの超常現象など、この火事騒ぎのせいで忘れさられるだろう、と思った。だが、計算違いだった。
ほくろのある警備員は、こう言ったのだ。
「何だか遠当て≠ナも見ているみたいだったけど……」
幸介の呼吸が止まった。図星をさされてしまったからだ。目を見開き、相手を見つめてしまう。
この警備員は、幸介が起こした現象に、異様なまでの関心を示していた。幸介と、燃え上がる丸太を何度も見比べているのだ。
幸介は言った。
「何の話か、わからんが……」
「いや、おれもよくわからんのですよ」
ほくろのある警備員は、頭を掻《か》いた。
「……おれ、合気道やっているんだけど、昔の合気道の奥義に『合気遠当ての術』というのがあったそうです。何でも、手を触れずに相手を吹っ飛ばしてしまうという秘術だそうです。もちろん、そんなもの実際に見たことはないし、半信半疑だけど……。でも、その技が伝説だとしても、じゃあ、どうして、そういう伝説が生まれたんだろうか、と思っていた。何か、根拠はあったんだろうか、と……。で、今、丸太が吹っ飛んだのを見て、まさかと思ったんですが……」
幸介は少し沈黙していた。どう答えようか迷ったのだ。結局こう言った。
「さあね。私には何のことだか……」
「そうですか……」
ほくろのある警備員は落胆した顔になった。彼は、しばらく幸介の怪我の度合いを観察していたが、やがて立ち上がった。今度は燃えている丸太の方を見物に行ったのだ。
幸介は吐息をついた。
やはり、人前で見せたのはまずかった。今時の若い世代は、遠当ての術≠ニいう言葉自体、知らないだろうと思っていた。だが、そうでもなかったようだ。実は、これは古神道から世間に流出した言葉なのだ。
余計な好奇心を持つ男を追っ払うことができて、幸介は安堵《あんど》した。
しかし、すぐに胸中が、コールタールに似た重苦しい物質で満たされた。自分自身を叱りつけたくなる。
幸介は日頃から、自分にこう言い聞かせてきた。大義のために、小さな犠牲はやむを得ない。数十万人の命を救えるのなら、一人や二人の命ぐらいは犠牲にできるはずだ。自分は、いつでも非情に成りきれる覚悟ぐらいはある、と。
なのに、このありさまは何だ? 幼児一人の命は救ったが、そのために自分は身動きできなくなったではないか。その結果、カムナビを止められなくなり、際限なく犠牲者が出るはめになったら、どうするのだ? そうなったら、今までの刻苦勉励は何のためだったのだ?
幸介は拝殿と、その奥にある神明造りの本殿のシルエットを見上げた。拳を握りしめ、何かに噛《か》みつきそうな表情になった。
今まさに奪われようとしているかもしれないのだ。一六〇〇年間、封印されていたものが。
11
志津夫は目を見張った。片手に持ったペン・ライトのわずかな照明光で、はっきり目撃した。
鉄条網がある一点を境に、自ら逆方向にねじれていくのだ。しかも濡《ぬ》れたトイレットペーパーのようなもろさで、それは細くなり、最後には甲高い音を発して千切れた。同じように、続けて五、六本の針金が次々に切断されてしまった。
真希が握っていた右手を広げた。手の中のコインをポケットに収める。
彼女のチ≠ェ鉄条網をもろい物質に変えて、切断してしまったのだ。さっき南京錠を壊した時も、同じような要領でやったのだろう。これは一時期、流行した「念力によるスプーン曲げ」などの比ではなかった。
志津夫はあらためて、自分が常軌を逸した世界にいるのを感じた。奇怪な能力を持つ美女とコンビを組み、最高級の国宝を盗み出したのだ。
数日前までの日常風景は、遠ざかっていく一方だった。学生たちに講義し、GPSで神社同士の位置関係を測定し、論文用のメモをノートパソコンに入力する日々だ。平和で堅実な人生だった。
もう、あそこには戻れない、と強く感じた。まるで己の運命が竜巻のようなものに巻き込まれ、宙に舞い上がり、次に着地する場所はまったく予測できない、といった感じだ。父も、こんな心境で生きてきたのかもしれない。
真希が園芸用スコップで、切れた鉄条網を払いのけ始めた。フェンスの上に通路を空ける。真希が先にフェンスによじ登り、向こう側に飛び降りた。
志津夫はフェンス越しに、草薙剣の入った箱を、彼女に手渡した。彼も口にペン・ライトをくわえると、フェンスをよじ登る。向こう側へ飛び降りた。
志津夫と真希の二人は、七分ほど前に本殿から、ご神体を強奪したところだった。そして、そのまま北の方角へ進んできた。
熱田神宮の本殿の周辺は、マツやクスノキなどの鬱蒼《うつそう》とした森林ゾーンだ。だが、真希には赤外線視力がある。そのおかげで二人の脱出はスムーズだった。
今のところ、白川幸介と祐美の親子は追撃してこない。その理由もわからない。しかし、のんびりもしていられない状況だ。
二人の前方に光が見えてきた。車のエンジン音も聞こえる。道路が近い証拠だ。
真希と志津夫は、センリョウやサカキの枝葉のカーテンを突き破る。それが最後の障壁だった。ついに市街地に出たのだ。
今まで暗闇にいたので自動車のヘッドライトが、やたらに眩《まぶ》しかった。網膜が焼かれそうな感じだ。
目が光に慣れてくると、交差点と信号機が見えた。ここは国道十九号線とクロスするポイントで、ちょうど熱田神宮の真北に当たる位置だった。
眼前の歩道内には、小さな公園が設けられていた。幅三メートル、高さ一メートルほどの人工の滝が、水音を響かせている。町並みに潤いを与えようと、市役所の誰かが発案したのだろう。
道路の向こうには高層マンションの窓明かりが並んでいた。典型的な地方都市の夜景だった。
この北側には神宮境内への出入口はない。そのため参拝客もいないし、お好み焼きやチョコバナナなどを売る屋台もない。
だから、歩道も渋滞などしておらず、通常の人通りに過ぎなかった。それゆえ真希と志津夫の脱出路は、ここしかなかったわけだ。
何人かの通行人が、いぶかしげな目で真希と志津夫を見ていた。何しろ二人とも、全身が細かい葉っぱにまみれているからだ。まるで男女のゲリラ兵士を思わせる格好だ。
その上、珍妙な手荷物も持っていた。園芸用スコップや、細長い箱だ。スコップは真希がすぐにショルダーバッグに隠したが、長さ一メートル以上もある細長い箱は隠しようがなかった。
車道にはヘッドライトを光らせた車が列をなしていた。ちょうど赤信号になり、近くに一台の車が止まった。青い塗装のレガシィ・ツーリングワゴンだった。
真希は微笑した。獲物を見つけた目だ。草薙剣の箱を、志津夫の手に押しつけた。
彼女は五〇〇円硬貨をポケットから取り出した。嬉々《きき》とした表情で、青いレガシィに駆け寄る。
志津夫には、彼女の考えがすべて読めていた。だが、今は止める理由がない。逃走用の車が必要だからだ。
真希が助手席の窓をノックした。かがんでいるので彼女の豊かなバストが、より強調される眺めだ。
レガシィのパワーウインドウがモーター音を唸《うな》らせて、下がった。FMラジオがつけっぱなしだった。女の子のボーカルが元気良く弾むような曲をやっている。
ドライバーは、ロイド・メガネをかけた中年男性だった。彼は突然の美女の来訪に、笑みを浮かべた。悲喜劇が迫っているとも知らずに。
真希がこぼれるような笑顔になり、手の中のコインを握りしめた。
遠くから、打ち上げ花火の炸裂《さくれつ》音が轟《とどろ》いた。名古屋市の上空に、また大輪の花が咲いた。
12
白川祐美は片手で野球帽のつばをつかみ、センリョウやサカキの枝葉のカーテンを突き破った。細かい葉っぱにまみれた姿で、名古屋市街に出る。
彼女は肩で息をしていた。熱湯でも浴びたみたいに、顔面が汗の滴だらけだ。猛暑の中を走ってきたせいだった。手の甲で、顔の汗と葉っぱとを拭《ぬぐ》う。
祐美は歩道に立っていた。小さな公園、車道、高層マンションの窓明かりなどが見える。眩しさに我慢できず、野球帽のつばを下げて、バイザー代わりにした。今まで原始時代の森林のようなところをさまよっていたのに突然、車のヘッドライトの縦列の前に飛び出してしまったからだ。
祐美は目をしばたたかせながら、懸命に歩道を見回した。だが、周囲にいるのは無関係な通行人ばかりだった。志津夫と真希の姿はない。
祐美は歯をむき出し、唸《うな》ってしまう。焦りのあまり、髪の毛が逆立ちそうだった。
祐美の脳裡《のうり》には、一〇分ほど前に見たカムナビが再生されていた。その衝撃は、まだ彼女の心臓を震わせていた。
あの光柱≠見た瞬間、現世の秩序などパンティーストッキング一枚分ぐらいの薄皮だと思い知らされた。それは容易に剥《は》がれるものだった。その向こうには灼熱《しやくねつ》地獄が無限大に広がっているのだ。
すでに祐美は父、幸介からカムナビの脅威を飽きるほど聞かされていた。葦原正一からも、彼がアラハバキ神に取り憑《つ》かれた時に観たヴィジョンについて、聞かされた。
さらに祐美は、正一の仮説も聞いていた。オルバースのパラドックス≠アそ、カムナビの正体だというのだ。
正一の仮説が本当だとしたら、全世界的な一大事だ。カムナビが本格的に蘇《よみがえ》ったら、それは珍奇な超常現象≠ニいったレベルでは済まなくなるだろう。
たとえば日本列島全体と韓国の一部が、焦土と化す危険もある。最終的には、地球全体が巨大な焼きおにぎりに成り果てるかもしれない。まさしく現世の崩壊だった。
祐美は、そのことをずばり志津夫に打ち明けたかった。聡明《そうめい》な彼なら、その危険性を理解してくれるにちがいない。
だが、志津夫のそばには、あの真希という女がいた。でかい乳房と、分厚い唇だけが取り柄のホルスタイン女だ。しかも、あの女には、モラルというものを持ち合わせていないような危うい雰囲気がある。
そして予想どおり、真希はエゴイズムの固まりだった。さっきも祐美の首を絞めて窒息させて、平然としていた。人間的な情のかけらも感じられなかった。あの状態が続いたら、まちがいなく自分は殺されていただろう。
祐美は身震いし、思った。
やはり、あの女にはモラルもなければ大義もない。彼女のエゴにとって邪魔だという理由だけで、人殺しが出来るのだ。あの女には、絶対に誰かの命を奪った前科があるはずだ。祐美は、そう確信した。
真希には、カムナビの真相を教えるわけにはいかなかった。それを知ったら、あの女はますます、おもしろがるだけだろう。かえって、手がつけられなくなる可能性が高い。
あの女のおかげで、志津夫に真相を伝えることもできないままだった。熱田神宮の勅使門前の喫茶店で邂逅《かいこう》した時に、彼だけ外に連れ出して何もかもぶちまけるべきだったかもしれない。だが、あの時点では、それをやる決心がつかなかった。祐美一人の単独行動だったせいだ。
そして今、真希の計画どおり、草薙剣も持ち去られようとしていた。すでに、それは確認済みだ。
祐美が神宮本殿を見たら、扉が開けっ放しになっていたからだ。その時は、ここの警備員は何をやっているんだよ、と喚《わめ》きたくなった。たぶん皆、カムナビの出現と、拝殿の火事のせいで動転しているのだろうが。
とうとうスイッチ≠ェ奪われてしまったのだ。一六〇〇年間も封印されていたものだ。祐美は焦りで、全身の血液が沸騰しそうだった。
焦りのせいだけでなく、現実に今夜は暑かった。まるで名古屋市の地下に巨大な電熱器が埋め込んであるみたいだ。犬みたいに舌を垂らして、あえぎたくなる。
必死で周辺を見回した。今の祐美には、普段の可愛らしさは微塵《みじん》もなかった。血に飢えたヤマネコのような雰囲気だ。
ポケットの携帯電話が鳴り出した。
だが、今は誰かとお喋《しやべ》りしている暇はなかった。電源を切って、ベルを止める。また電話機をポケットに放り込んだ。
祐美は激しい息づかいを続けていた。それがハイパー・ヴェンティレーションの効果をもたらし始める。呼吸アルカリ血症による快感と目眩《めまい》が、さらに増した。内清浄の行法と同じ状態になり、チ≠ェより「励起」された。
ちなみに「励起」とは物理学用語だ。「熱や光、放射線などによって、原子・分子などがエネルギーの低い状態から、よりエネルギーの高い状態に移ること」を指す。
祐美は、この「励起」という言葉が気に入っていた。チ≠ェ活性化する時の様子を表すには、ぴったりだからだ。
チ≠ノよって祐美は、すでに鋭敏な霊感を得ていた。だから、熱田神宮を囲む暗い森林地帯も、難なく突破できた。鉄条網が切断されている箇所も暗闇で識別できた。正確に真希と志津夫の足跡を追走してきたのだ。
今、鋭敏化した祐美の感覚が、また何かを伝えてきた。それに従い、彼女は公園内の人工の滝を迂回《うかい》して、車道に出た。辺りは車のエンジン音で充満している。
祐美の瞳孔《どうこう》が、やっと光に慣れてきた。
そこで奇妙な光景を見た。
車道の脇で、歩行者が這《は》いつくばっているのだ。ロイド・メガネをかけた中年男性だった。喉《のど》を押さえて、咳《せ》き込んでいる。喘息《ぜんそく》の発作でも起こしたみたいだ。
祐美は直感した。真希の仕業だ。視線を、その男の前方に向ける。
青い塗装のレガシィ・ツーリングワゴンが停車していた。運転席には短髪の男が乗っている。
助手席には今、スラックス姿の長身の女が乗り込むところだった。ドアを閉めた。女の髪型はセミロングで、後ろ姿や物腰に見覚えがあった。
一瞬、女が振り向いた。彼女の目が驚きで、見開かれる。予想どおり、名椎真希だった。
祐美は舌打ちする。あのホルスタイン女め。強盗をやらかして、車を手に入れたんだ。
真希が大きく口を開けた。何か叫んだらしい。
志津夫も振り向く。そして彼も祐美の姿を認めたようだった。志津夫は驚くと同時に、この状況にとまどっているような表情だ。
祐美は悲しく、やり切れない気分だった。志津夫に真相を伝えたいのだが、これでは彼とは敵同士だ。だが、今はとにかく足止めしなければならない。
祐美は野球帽を半回転させた。つばを後ろにしてキャッチャー風にかぶり直す。気合いを入れ直したのだ。
両手の親指と人差し指を正三角形に組んだ。体内のチ≠、さらに励起した。目標との距離を詰めるために、走り出す。
天空の彼方《かなた》では、打ち上げ花火が炸裂していた。名古屋市民の頭上の空間が、金銀の粒子で彩られる。
レガシィの助手席から、真希が祐美を睨《にら》んだ。視線がナイフの切っ先みたいに突き刺さってくる。彼女は片手を顔の前に持ち上げて、握りしめた。
突然、祐美の気管が閉塞《へいそく》した。例の首絞め≠セ。
祐美の構えが崩れた。反射的に、喉に片手を当ててしまう。走っていたため、身体のバランスも崩れた。前のめりに転んだ。
またパニックが爆発した。実は、祐美には閉所恐怖症の気があるのだ。映画を見ていても、登場人物が狭い空間に入る場面を見ると、吐き気がする。今も、それに近い恐怖を味わった。
祐美は、声なき悲鳴をあげていた。理性では早く遠当て≠やって、車を止めなければ、と思う。だが、全身の筋肉がこわばってしまった。身動きができない。
「あの、お嬢さん?」
声がした。
顔だけ振り向き、見上げると、ロイド・メガネをかけた中年男性だとわかった。さっきまで彼は四つん這いになり、咳き込んでいたのだ。
「あの、どうしたんです? まさか、あなたも?」
交差点の信号が青になった。一斉にエンジン音が高まり、大気が排気ガスで汚され始める。
レガシィ・ツーリングワゴンも前進を始めた。
同時に、祐美の気管を押さえていた圧力も消えた。咳き込み、酸素を貪《むさぼ》る。猛暑で生暖かい空気だし、排気ガスも混じっていたが、最高にうまかった。
ようやく祐美は身を起こした。片膝立《かたひざだ》ちになる。
見ると、レガシィが二〇〇〇ccエンジンを唸らせて、遠ざかっていくところだった。しかも、運転席の志津夫が左腕を伸ばして、真希を制止するようなポーズを取っている。どうやら彼が自分の超常能力で、真希に首絞め≠やらせないよう、妨害してくれたようだ。
じっくり狙う暇はなかった。祐美は伯家流神道の秘印を結ぶと、それを前方に突き出した。
最大パワーで遠当て≠放った。衝撃波が大気を揺るがす。マッハディスクが発生し、それが大気の屈折率を変えて、市街地の風景を歪《ゆが》ませた。
レガシィのリアウインドウが一瞬にして破裂した。まるで散弾銃で狙撃《そげき》したようなありさまだ。さらにハッチバック・ドア自体も、蹴飛《けと》ばされたように跳ね上がった。
同時に、祐美自身も「反作用」を受けていた。彼女の両手が後方へ弾かれたのだ。バンザイに似たポーズになる。
普通は、それで「反作用」を受け流せるはずだった。だが、今回は受けきれず、祐美は片膝立ちの姿勢から、後方にひっくり返ってしまった。可愛いヒップで、しりもちをつく。
とっさに彼女は背中を丸めて、両腕で後頭部をかばった。おかげで頭をアスファルトに打ちつけるのは免れた。
急ブレーキの音が響いた。びっくりした志津夫が、反射的にレガシィのペダルを踏み込んだらしい。
例のロイド・メガネをかけた中年男は、とばっちりの被害を受けていた。祐美のそばにいたため、鼓膜が衝撃波に叩《たた》かれたのだ。両手で耳を押さえて、渋面になる。
「な、何が? いったい? 何が?」
ロイド・メガネの男は地面に腹這いになってしまった。それで不可解な危機から逃れようとしたのだろう。
一方、祐美は跳ね起きた。今の攻撃の成果を確かめる。
レガシィ・ツーリングワゴンは停車していた。ハッチバック・ドアを跳ね上げたままの状態だ。周囲には強化ガラスの破片が四散している。
志津夫と真希は唖然《あぜん》とした顔で、後方を振り返っていた。突然、車の後部が破裂して、そこだけオープン・カーの形になってしまったのだから、当然だろう。
だが、運転に差し支えるような、致命的被害はなかったようだ。志津夫は正面に向き直ると、アクセルを踏み込んだらしい。レガシィは再び発進しかけた。
一方、助手席の真希は再度、祐美を睨みつけた。酷薄な表情だ。また彼女は片手を顔の前に持ち上げて、握りしめた。
祐美の胸の奥に圧力が生じた。またも気管を押し潰《つぶ》されたのだ。だが、三度目になると、多少は心の備えができていた。
祐美は続けて遠当て≠やった。今度は照準を下げて、タイヤを狙う。衝撃波が国道十九号線を揺さぶった。
だが、前回より標的が狙いにくくなっていた。レガシィの後ろに、ちょうど二トントラックが走り込んできたからだ。
おかげで衝撃波のほとんどが、その後続車にぶつかってしまった。トラックの左側のタイヤが二輪ともパンクした。派手な破裂音が響く。ドアミラーも炸裂し、ガラスの破片が飛び散った。
同時に、名古屋市の上空に赤、緑、銀の花火が三連発で上がった。
祐美も「反作用」を両手で受け流しつつ、一歩、下がった。そして窒息の苦痛に耐えつつ、舌打ちする。
外れた。レガシィには、ほとんど被害を与えられなかった。
一方、祐美に誤爆された二トントラックはバランスが狂い、傾いていた。左側のタイヤが二輪ともパンクしたからだ。弾力を失ったトラックのタイヤは、リムと地面の間で押し潰されている。すぐに停車した。
たちまち、二トントラックの後ろは交通渋滞になってしまった。十数台の後続車が、一斉にクラクションの交響楽団と化す。辺りは喧噪《けんそう》に包まれてしまった。
その間にレガシィ・ツーリングワゴンは信号交差点を通過していた。加速していく。堀川を渡る白鳥橋へ向かっていた。
とたんに、祐美の気管にまた空気が流通するようになった。喉を押さえて、咳き込み、新鮮な酸素を貪《むさぼ》る。今日は喘息《ぜんそく》持ちになった気分だ。
呼吸が楽になったところで、祐美はまた両手の指で正三角形を作った。遠近法の彼方に狙いをつけようとする。
だが、祐美は呻《うめ》いてしまった。唇の線が歪んでいる。
レガシィは、あまりにも遠すぎる位置にいた。多数の赤いテールランプの群れの中にまぎれ込んでいる。これでは十中八九、外してしまうだろうし、他の車や、信号機、ビルのネオン看板なども巻き添えになるだろう。
祐美は周囲を見回した。
「タクシーは? どこ?」
大量の車の列を見渡してみた。だが、運悪く、タクシーは一台も見あたらない。普通の乗用車かトラックばかりだ。
ふと祐美は、一台の軽四輪車に目を止めた。瞳が輝く。両手の親指と人差し指で正三角形を形作った。
「なら、私も……」
自分も自動車強盗をやろうかと思ったのだ。だが、二歩、踏み出したところで足が止まった。
彼女に出来る芸当は遠当て≠セけだ。車内にいるドライバーに対して、それをやったら、どうなるのか? 想像力が膨らみ、そのイメージが脳裡《のうり》に描かれた。
そこで祐美は唇を噛《か》み、心底から残念そうな表情になった。首を振る。
できないと思った。狭い車内では衝撃波の逃げ場がない。遠当て≠浴びたドライバーは強化ガラスの窓や、窓枠などに頭をぶつけて、ひどい打撲傷になるし、血も流れ出るだろう。何の恨みもない人間に対して、そんな真似は出来そうもなかった。
だからといって、見ず知らずのドライバーに、いきなり「協力してくれ」と頼んでも無駄だ。ほとんどの日本人は、そこまで親切でお人好しではないのだから。
祐美は両手を拳《こぶし》にして、天空を仰いだ。ちくしょう、と男の子みたいに叫ぶ。地団駄踏んでしまい、下手くそなタップダンスみたいになった。
祐美の背後では、例のロイド・メガネをかけた中年男が膝立ちになり、呆然《ぼうぜん》としていた。彼にとっては厄日だったろう。窒息しかけて、愛車を奪われ、二度の衝撃波で耳を痛めてしまったのだ。彼は口を開けて、狂乱のダンスを踊る美少女を眺めていた。
祐美は、その男の視線など気にしている余裕はなかった。
草薙剣を奪われてしまった。
これがどんな結果を招くかは、祐美にもまだ完全に予測はできない。だが、破滅への扉が開いたことだけは確かだろう。
祐美としては本当なら、志津夫を真希に奪われたことを悔しがりたいところだ。だが、今はそんな個人的な感情など消し飛んでいた。大規模な破滅の可能性が迫っているからだ。
上空では打ち上げ花火のクライマックスが始まった。金、銀、赤、緑の光子が、二〇連発で狂喜乱舞する。熱田祭をフィナーレに向けて、盛り上げていた。
祐美の耳には、それら花火の炸裂《さくれつ》音が、真希の嘲笑《ちようしよう》のように聞こえていた。
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五の巻 鳴 動
その一連の写真は、気象衛星「タイロスN型ノア8号」が送信してきたものだった。高度八〇〇キロからの映像だ。
愛知県から太平洋に向かって知多半島と渥美半島が、カニのハサミに似た形で突き出している様子が明瞭《めいりよう》に捉《とら》えられている。地表はレッドとオレンジに彩色され、海はブルーグリーンに彩色されている。白い積乱雲がコーヒーに落としたクリームそっくりの渦巻き形で、その周囲を覆っていた。
一枚目と二枚目、四枚目の写真は、すこしずつアングルがずれている。それを除けば同じ映像と言えた。
問題は三枚目の写真だった。それは不可解な状況を映していた。
「露光オーバーだな」
P当番(PROGNOSIS、予想担当官)が言った。
彼の言うとおり、そう見えた。愛知県の知多半島の根元付近が真っ白に映っている。画像全体も白っぽくなっていた。ハレーションを起こしているのだ。
東京大手町の気象庁予報現業室では、その一連の衛星写真を、予報官たちが囲んでいた。
本来なら彼らは昼勤組だ。だが、この異常な事態の連続に、彼らは徹夜で粘ることを決意したのだ。どうしても情報収集と、情報整理に忙殺されてしまうため、半日ごとに次の班に引継をするのは、かえって面倒になってきたからだ。
S当番(SATELLITE、衛星担当官)が、白っぽく映った写真を指さして、
「確かに、この写真は露光オーバーです。しかし、その前後の写真は正常に撮れている。ですから、センサーの露出調節の失敗とは考えられません。撮影した瞬間に、名古屋市辺りで何か強力な光が発生したとしか思えないんですよ」
A当番(ANALYSIS、解析担当官)がうんざりした顔で、
「じゃあ、何だ? 君はまた、お得意の新しい言葉を造る気か? ヒートシリンダーの次は何だ? プラズマ・ストロボか?」
S当番は苦笑し、
「いや、そういうつもりは、ないんです。でも、この露光オーバーはやっぱり変だ」
紅一点のR当番(RAIN、雨担当官)も神妙な顔でうなずき、
「そうね。誰かが名古屋辺りで、バカでかいストロボでも焚《た》いたみたい」
F当番(FORECAST、予報担当官)が不審な顔で、
「誰がそんなことをやるんだ? 第一、地上に強力な光源を置いたとしても、高度八〇〇キロの衛星が、露光オーバーすると思うか?」
「そうですよね」
S当番は腕組みし、大きくうなずいた。独り言のように言う。
「地上から高度八〇〇キロまで、これだけ強烈に届く光なんて、ちょっと想像もできない。軍事用レーザーも、これほどの出力があるという話は聞いたことがない。……もしかすると、光源は意外に衛星から近いところにあったんじゃ……」
「近いところだと?」
P当番が呆《あき》れ顔で言った。
四〇代前半の彼は、今この場におけるチームリーダーだった。彼は、この道二〇年のベテランだ。庁内においては、彼の直感は一台十億円のスーパーコンピュータによる数値予報よりも尊重されているのだ。
P当番は、若いS当番を睨《にら》みつけた。
「高度八〇〇キロの軌道上でストロボを焚いて、イタズラした奴がいるとでも言うのか? どこの暇人だ?」
S当番も、さすがに言葉に窮した。しばらく唸《うな》ってしまう。
P当番は、二〇代後半の部下が黙ったのを見て、首を振った。実のところ彼自身にも、さっぱり現状を把握できないのだ。振り向いて、A当番に言う。
「今のところ、この写真の件は後回しだ。それよりも、この……これは何と言ったっけ?」
A当番が憮然《ぶぜん》とした顔で、
「ヒートシリンダー」
「そう。それだ。これのせいでジェット気流が蛇行を始めるかもしれん。当面は、それが問題だ」
P当番は気圧配置図を叩《たた》いた。
ジェット気流とは、地球の自転などのせいで生じている強風帯のことだ。地表から数キロメートルの高さに何本も存在している。最大風速は毎秒一〇〇メートルを越すこともある。
F当番もうなずき、言った。
「そうですね。今、ヒートシリンダーのある地域は熱で空気が膨張するせいで、絶え間ない上昇気流を作りだしている。地上の空気を上空へと送り込み続けている。となると、上空のジェット気流が、その気圧に押されていくはずです」
P当番がうなずき、テーブル上の地球儀の周囲で指をジグザグに動かした。
「そうだ。だから徐々にコースが乱れて、北半球を蛇行し始める。そうなると北半球の国々が皆、悪影響を受ける」
全員が苦い顔になってきた。彼らの手に余る事態が、さらに拡大していくからだ。
実は、気象災害は全地球規模で一斉に発生することが多い。その原因がジェット気流の蛇行だからだ。
ジェット気流が蛇行すると、どうなるか。北極の寒気が温帯地方に運ばれて冷害を引き起こしたり、赤道直下の暖気が温帯地方に運ばれて猛暑をもたらしたりといった異常気象が、世界各地で一斉に起きるのだ。一度これが始まったら、元に戻るまでかなりの月日が必要となる。
紅一点のR当番が、テーブル上の地球儀を回しながら、言った。
「予測できる範囲は韓国、北朝鮮、中国、モンゴル、ロシア南部、イラン、イラク、イタリア、フランス、スペイン、イギリス、北アメリカ、カナダ……といった辺りですね」
A当番が力のない声で言った。
「各国に警戒を呼びかけないと……」
「ああ、そうだな」
「まったくだ」
「早めに、そうしよう」
皆、口々に言い合った。
だが、一人だけ、その会話に加わっていない予報官がいた。
S当番だ。彼は露光オーバーの写真を手にしたまま、部屋の隅に立っている。そこには小さなテーブルがあり、ポータブル・テレビが置いてあった。
彼は、そのテレビを凝視していたのだ。
画面には、火事の映像が映っていた。大きな神社の建物だ。それが炎に包まれている。
手前には銀色の防火服を着た消防士たちがいた。彼らが炎に向かって、放水している。水は放物線を描いて、炎の上に落下していた。
その映像には字幕が重なっていた。
『打ち上げ花火が落ちた? 名古屋・熱田神宮で原因不明の火事』
S当番はボリュームのつまみを回した。アナウンサーの声が聞こえてくる。
『……燃えました。しかし、神宮境内にある消火栓を利用して放水した結果、無事に鎮火しました。なお、この火事で数人のけが人が出た模様です。救急車で、近くの病院へ……』
S当番は手にしていた露光オーバーの写真を胸の高さに持ち上げた。それとテレビ画面に映る火事の映像とを何度も見比べる。やがて、呟《つぶや》いた。
「名古屋だって? まさか?」
やがて、衛星写真に見入ってしまう。そして、また呟いた。
「おかしいな……。おれの目が狂ってるのかな? 地上からの光じゃなくて、宇宙空間からの光みたいな気がするんだが……」
白川幸介は極限まで目を見開き、唸《うな》っていた。麻酔なしで外科手術されているような表情だ。
彼は白とブルーの縦縞《たてじま》のゴルフウエアに、グリーンのスラックスを着用していた。そのスラックスの太もも部分は、こげて消失している。露出した肌は炎症を起こして、真っ赤になっていた。
右足の膝《ひざ》も変な角度で、ねじ曲がっている。その激痛は想像するにあまりあった。
幸介は担架に載せられ、運ばれているところだった。彼を運んでいるのは二人の制服警官だ。
他にデジタル無線機を持った三人目の太った警官がいた。彼が野次馬をかき分けつつ先導している。気温が高いので、警官たちは半袖《はんそで》の制服姿だ。
場所は、拝殿から見て南西に三〇メートルほど離れた位置だった。神楽殿と斎館の二つの建物に挟まれた広い空間だ。ここから、さらに南西に進むと、一般の神社の社務所に当たる神宮会館の正面に出る。
この場所で、葦原正一は運ばれている幸介を発見した。
「白川さん!」
正一は叫んだ。駆け寄ろうとする。
だが、デジタル無線機を持った制服警官に止められてしまった。
「何です、あんたは?」
幸介が口添えしてくれた。
「その人は、私の友人だ」
そう言われて、太った警官は正一を見つめなおした。やや顔をしかめる。
確かに、正一は怪しい風体だった。サングラスにひげ面で、オープンフィンガーの手袋をはめた中年男なのだ。しかも、この猛暑の中で、ただ一人長袖のシャツを着ている。どうしても常人離れした雰囲気が漂うのだ。
太った警官は、正一と口ひげの幸介とを見比べた。やがて警官は納得したらしく、正一にどうぞ、という身振りをした。
正一は、担架を運ぶ警官たちと歩調を合わせて、上半身をかがめた。
「大丈夫ですか?」
「ああ、何とかな」
幸介の顔は汗まみれだ。口ひげも先端まで濡《ぬ》れている。猛暑のせいもあるが、骨折の痛みや火傷《やけど》で、アドレナリン分泌が促進されているのだろう。
正一はここに至るまでの経緯を思い返した。
熱田神宮の拝殿にカムナビが出現したのを、正一も目撃したのだ。屋根の堅魚木《かつおぎ》が炎に包まれた光景も見た。
その後、屋根の丸太材が滑り落ちてきた。その一本目は幸介が遠当て≠ナ弾《はじ》き飛ばした。だが、二本目が幸介の足を直撃して、彼が倒れ込んだのも見た。
しかし、大勢の人々が我勝ちに逃げようとしたため、正一もその波に押されてしまった。気がついたら、第三鳥居の辺りまで流されていた。だから、その後、拝殿付近で何がどうなったのか、詳しいことは知りようがなかったのだ。
人の数が減ったところで、正一は拝殿へ引き返そうとした。
ところが、運悪くヘビー級の体重を持つ警備員が立ちふさがった。「関係ない人は下がって!」と怒鳴られた。ミドル級の正一としては、強行突破はあきらめるしかなかった。
やがて現場には、部外者を締めだすためのロープが張られてしまった。消防士が来た時、野次馬が消火活動の邪魔になるからだろう。そういうマニュアルが出来上がっているらしい。
以後、正一はロープの外から、負傷した幸介の様子を見守ることしかできなかった。
付近には息子の志津夫や、名椎真希や、白川祐美の姿は見えなかった。彼らが今どこにいて、何をしているのか。まったく情報は得られなかった。
正一は携帯電話で、祐美に連絡を取ろうとした。だが、呼び出し音が虚《むな》しく響くだけだった。それで一旦《いつたん》あきらめた。
後は何とか、幸介から詳しい話を聞くしかなかった。だが、そのチャンスがつかめない。
やがて幸介は担架で運ばれていった。ところが、正一は大勢の野次馬に視界を塞《ふさ》がれてしまった。そのため幸介の姿を見失ったのだ。
そして今、やっと正一は幸介と再会できたわけだ。
幸介は、正一の腕をつかんだ。
「祐美を知らないか?」
正一は首を振った。
「いや、知らない。さっきから電話してたんだが、出ないんだ」
「祐美は追いかけていったんだよ、君の息子さんを……」
正一の顔が大きく歪《ゆが》んだ。
「何? じゃ、今どこへ?」
「それはわからん。もう一度、祐美に連絡してくれ。今どうなったのか、知りたい」
「ええ」
ちょうど、その時、正一の胸ポケットの携帯電話機が鳴り出した。慌てて取り出し、通話ボタンを押す。
「はい、葦原です」
祐美の声が耳に飛び込んできた。
「あ、葦原さん……。やられたァ!」
その一言で事態を理解できた。正一の脈拍数が倍に跳ね上がる。わざわざ問い返すまでもなかった。
祐美が続けて言った。
「草薙剣《くさなぎのつるぎ》を盗られた! 追いかけたんだけど、車で逃げられたんです」
いつもの祐美の声よりトーンが高い。悔しさのあまり、興奮している様子がうかがえた。
正一は一瞬、虚脱状態に陥った。携帯電話を持つ腕も徐々に下がってしまう。
耳の奥で、自分の鼓動を聞いた。まるで心臓が耳元に引っ越したようだ。
志津夫と真希は、とうとうやってしまったのだ。古代大和王朝が恐れ続けた邪馬台国の遺産の一つを、盗み出したのだ。
日本には古来から、依代《よりしろ》という言葉がある。神が宿っているとされるご神体のことだ。
各地に残されたブルーガラス土偶などは、そうした依代の一種だろう。そして、これらには実際にアラハバキ神の分身が取り憑《つ》いていたのだ。
ただし、青い土偶などに取り憑いているのは、アラハバキ神の中でも下《した》っ端《ぱ》らしい。将棋の駒で言えば「歩」ぐらいだ。だから、それほど脅威を感じる必要はない。
しかし、古代大和王朝が恐れ続けた三種の神器《じんぎ》ともなると、そのレベルは桁違《けたちが》いだろう。将棋の駒で言えば「飛車」か「王将」のランクではないか。いわば究極の依代なのだ。
「葦原さん?」
担架上の幸介が呼びかけてきた。顔が苦痛に歪んでいる。同時に、心配そうな表情も浮かべていた。
正一は幸介に視線を向けた。
それは直接、口にできない話題だった。警官がそばにいるからだ。だが、正一の表情や態度だけで、情報は伝わったようだ。
幸介が目を見開いた。
「まさか? やられたのか?」
正一は無言で、うなずいた。
幸介は呻《うめ》いた。骨折どころか、両手両足を失ったような表情になる。宙の一点を睨《にら》みつけた。
「何てことだ! 私は動けないし、その上……」
幸介は歯ぎしりまで始めた。派手な音がする。歯が全部、砕けちりそうだ。
警官たちは怪《け》訝げんな顔になっていた。だが、自分たちには無関係な話題だと悟ったらしい。その後は耳がないような表情を装った。
一方、正一は複雑な気分だった。本来なら彼も幸介のように悔しがるべきだろう。地団駄の一つも踏むべきだ。だが、そういう感情が、あまり湧いてこないのだ。
むしろ諦念《ていねん》した心境になりかけていた。志津夫たちによる強奪を阻止できなかったことを、心の一部はもうあきらめてしまったのだ。たぶん体力が衰えているせいで、精神的なスタミナが萎《な》えているのだろう。
正一は自分の自我が、根っこの腐った歯のようにぐらついているのを感じた。首を振り、何とか自己を取り戻そうとした。
正一は携帯電話で、祐美に言った。
「幸介さんは足を折った。それに火傷もしている。だが、命に別状はなさそうだ」
「そうですか……。それなら良かった……」
祐美が返事した。急に、声に張りがなくなっていた。何しろ肉親が重傷を負う瞬間を目撃したばかりだ。そのショックが、今になって効いてきたらしい。
正一は続けて言った。
「今、幸介さんは担架で運ばれているところだ」
幸介が正一を指さし、言った。
「祐美に言ってくれ。私は心配ない、と。それよりも追いかけろ、と!」
正一は、祐美に伝言した。
「幸介さんは追いかけろ、と言ってる」
「ちゃんと聞こえました」と祐美。
「聞こえた、と言ってる」
正一は伝言役に徹した。そして携帯電話を見て、こんなことをする必要はないと気づいた。電話機を幸介に手渡そうとする。
だが、幸介は受け取らなかった。再度、正一を指さし、懇願の表情で言った。
「葦原さん、もちろん、あんたも行ってくれ。私がこんな状態なんだ。あんたが代わりに追いかけてくれ」
正一は、ため息をついた。そう言われるだろう、と思っていた。それに言われなくても、そうするつもりでいた。
もしも三輪山に眠るものが蘇《よみがえ》ったら、どうなるのか。その時は正一の仮説が実証されることになるだろう。
そして大破滅への引き金も引かれるだろう。それを思うと、爬虫類《はちゆうるい》のように冷えきったはずの全身が熱くなりそうだった。
正一は電話越しに言った。
「祐美さん、今のも聞こえたか?」
「ええ。感度良好」
「私も一緒に行く。息子の不始末を何とかしなければなるまい。行き先はわかっているんだ」
「ええ。たぶん奈良県桜井市。三輪山ですね。あそこも気温が上がってるし、やっぱり何かあるんだ」
祐美は、ため息をまじえて応《こた》えた。
幸介が苛立《いらだ》たしげに、指で正一の腰を突っつき、言った。
「この事態がどういうことか、わかってるんだろうな? 葦原さん、場合によっては……」
幸介はそこまで言いかけて、口をつぐんだ。そばに警官がいるので、そこから先は言えないようだ。
遠方から、救急車のサイレンが聞こえてきた。たぶん白川幸介や、その他の負傷者を迎えに来た車両だろう。
幸介は今も苦痛に呻きながら、担架で運ばれ続けていた。
サングラス姿の葦原正一は無言で、幸介に付き添っていた。
太った警官は一行を先導しつつ、デジタル無線機を相手に喋《しやべ》っていた。救急車との打ち合わせらしい。
「……はい。このまま神宮会館前の駐車場に行きます。はい。そこで、お願いします」
やがて大きな建物の正面が見えてきた。神宮会館だ。
建物の玄関は蓑甲《みのこう》、鬼板《おにいた》、懸魚《げぎよ》などで飾られて、しめ縄も張ってあった。一見すると、ここが拝殿や本殿であるかのように勘違いしそうな建物だ。
そこを過ぎると、広い駐車場があった。
すでに六人の負傷者が駐車場に座り込んだりして、救急車を待っていた。彼らは包帯やバンソウコウなどで応急手当をされているが、自分の足で歩ける連中だった。彼らを介抱している家族や友人、恋人らしい人々もいる。
担架の前部を運んでいる警官が言った。
「おい、ここで一度、下ろすぞ」
「わかった」
後部のもう一人も答えた。
幸介は担架ごと、ゆっくりとアスファルトの路面に下ろされた。荷物がなくなると二人の制服警官は幸介から離れて、思い切り背筋を伸ばしていた。彼らにとっては、今が休憩するチャンスだろう。
正一も、この機会を利用して、携帯電話を使った。さっきから回線はつながったままなので、すぐ祐美に言った。
「もしもし。こっちは今、神宮会館前の駐車場だ」
祐美が応える。
「そうですか。でも、この人出じゃ熱田神宮の出入口の付近は身動きがとれないですよ。特に西門は、すごい混雑してるのが、ここからも見える」
「そうか。なら、私は東の神宮前駅の側から回り込んで、そっちへ向かう方がいいかもしれないな」
「ええ。そうしてください」
地面に寝かされた幸介が、正一に手招きした。今が警官に聞かれたくない話をするチャンスだからだろう。
正一は祐美に言った。
「あ、ちょっと待った。幸介さんが呼んでるから」
正一は幸介に近づき、地面に片膝《かたひざ》をついて身をかがめた。
「何です?」
幸介は険しい顔だった。眼光がより鋭さを増している。低い声で言った。
「今さら言うのは何だが、息子さんのことは、早く私にも話して欲しかったよ。そうすれば、早いうちに対策を相談できたはずだ。息子さんが普通の人生を送れるように協力できたはずだ。だが、こうなっては万一の事態も覚悟してもらうしかないな」
正一は相手を見返した。憮然《ぶぜん》としてしまい、言葉が出ない。幸介の非情な言葉は頭では理解できるが、感情はまだ納得しようとしないのだ。
幸介がさらに言った。
「葦原さん、あんたは事の重大さがわかっているのか? 本当にわかっているのか?」
「わかっているつもりだが……」
正一は語尾が消えそうになってしまう。感情の整理がつかないせいだ。
幸介は追い打ちをかけてきた。
「どうだか? さっき草薙剣を盗られたと聞いた後、あんたの様子ときたら、完全に投げやりになっているように見えた。すべてをあきらめてしまったみたいに見えた」
正一は返事ができなかった。図星だからだ。少し視線をそらしてしまう。
幸介は鼻を鳴らした。相手に非難のまなざしを向ける。
「あんたの本心はいったい、どこにあるんだ? 本当に彼らを阻止するつもりがあるのか? 何だか、そうは思えない節もあるぞ。実際、一〇年前も山梨で、あんたはカムナビを呼んでしまったぐらいだからな。あんたは、ただ自分の好奇心を満足させたいだけなんじゃないか?」
正一は返答に詰まってしまった。多少は当たっているからだ。確かに、正一は好奇心にかられて行動してきた面もあったのだ。
だが、こういう時は、逆に詰問してしまう手がある。正一は、さきほど拝殿の前で納得できない光景を見てしまったのだ。あれを材料にして反撃だ。
正一は幸介に視線を戻して、訊《き》いた。
「白川さん。なぜ、あの女の子を助けたんです?」
幸介が目をむいた。呼吸も止まったようだ。骨折した足を踏んづけられたような顔だ。
正一は続けて、言った。
「私は見ていたんだ。あなたが拝殿前にいた四歳ぐらいの女の子を助けようとして、その結果、自分が大怪我をするはめになったのを」
正一が手にしている携帯電話からも、祐美の声が言った。
「そうだよ。私も見てたよ」
正一はさらに言った。
「幸介さん。普段のあなたの口振りから言えば、大義のためには見ず知らずの子供なんか平気で見殺しにするべきでしょう。それがあなたの信条のはずだ。なのに、なぜです?」
幸介は返事をしなかった。顔をそむけてしまう。ばつの悪そうな表情だ。
正一は続けて言った。
「おかげで、あなたはこれから入院じゃないですか。あなたはこの名古屋で足止めを食らい、今後のことは私や祐美さんに任せるしかなくなった。要するに、あの女の子を助けた行為は、あなたの普段の信条に反するとしか思えない。そしてご覧のとおり、この大事な時に、あなたは何の役にも立たない怪我人になってしまった。なぜです?」
祐美も電話越しに言った。
「そうだよ。なぜだよ?」
幸介は脳細胞が硬直したような顔になっていた。口を開きかける。だが、また閉じた。
やがて幸介は目を閉じた。大きく首を振って、言う。
「それと、これとは別だ。私は……。私は……。私は失敗したようだ……」
正一が言った。
「あの四歳ぐらいの女の子は、祐美さんと顔立ちがよく似ていましたね」
幸介は目を閉じたまま、呻《うめ》いた。もちろん骨折や火傷《やけど》の痛みのせいもあるだろう。だが、それだけではないはずだ。
正一は続けて、言った。
「たぶん、そのせいで、あなたの親心という奴が出てしまったんだ。どうしても見捨てることができなくなった……」
正一は、さらに続けた。
「私だって、ただ好奇心だけで行動してきたんじゃない。息子をこの奇怪なトラブルから救いたかったんだ。結局、裏目裏目に出てしまったが……」
幸介は目を見開いた。手を伸ばし、正一の肩をつかんだ。揺さぶってくる。
「ならば、次は裏目にならないよう行動してもらおうか!」
正一は無言で、うなずいた。これで、お互いに責任のなすり合いは帳消しだ。
幸介は、正一の手から携帯電話をもぎ取った。娘に呼びかける。
「祐美」
「何、父さん?」
「肝心のものを盗られたんだな」
「……まあね。一足、遅かった。車で逃げたんで、その車の後ろの部分は壊してやったけど、車そのものは平気で走っていっちゃった。その後、他の車が邪魔になって、うまくいかなかったし、タクシーも拾えなかったし……」
「わかった。それはもういい。だが、次に追いついた時は手加減するな」
返事がない。
祐美は突然の重責に、言葉を失ったのだろう。彼女が携帯電話を持ったまま立ちつくしている様子が、目に見えるようだ。
幸介は苛立《いらだ》った顔になった。
「これだから女の子は……。せめて男の子がもう一人欲しかったのに」
祐美が電話の向こうで、わめいた。
「……うるさいな。もう、その台詞《せりふ》は聞き飽きた。やるよ。やればいいんだろう! 何だよ、自分だって肝心な時に大怪我して……」
「わかってる。だから、おまえはこんな情けない親父の真似なんかするな!」
幸介は通話ボタンを押して、電話を切った。苦い表情で、それを正一に突き出す。
正一はため息をつき、電話機を受け取った。
救急車のサイレンがさらに甲高く鳴り響いた。赤い回転灯が現れ、その場にストロボ効果をもたらす。これで幸介も局部麻酔の恩恵に預かり、苦痛から解放されるわけだ。
正一は立ち上がった。夜空を見上げる。その様子はサングラス越しに、名古屋市上空の打ち上げ花火を見ているようだ。
だが、正一の頭脳は、その遥《はる》か向こう側にあるものについて考察していた。
志津夫の胸ポケットから電子音が鳴り響いた。携帯電話のベルだ。
ちょうどその時、志津夫は真希と共にフェアレディZに乗り込んだところだった。サイドウインドウの外では、赤い制服姿のベルボーイが頭を下げていた。
そこはホテルの駐車場だった。水銀灯が、辺りをオレンジ色に染めている。何台かの乗用車やタクシーが、眼前を通過していった。
ここは地下ではなく、ホテルの一階全体が駐車場になっていた。頭上には地上一六階のホテルの建物がある。
前方の空間が空いたので、運転席の真希がミッションをDに入れた。アクセルを踏む。パワフルな排気音と共に、フェアレディZは発進した。
志津夫は胸ポケットから、鳴り続ける携帯電話を取り出した。最初は、大学の同僚の誰かだろうか、と思った。志津夫が行方不明になったのに気づいて、かけてきた可能性がある。
だが、違った。通話ボタンを押すと、さっき別れたばかりの男が喋《しやべ》った。
「志津夫か? 私だ」
子供の頃から聞き慣れた声だった。よく響くバリトン。
「父さん? 父さんか?」
「そうだ」
運転席の真希が一瞬、志津夫を振り返った。
「あなたのお父さんから?」
「そうだ」
志津夫は真希に対して、うなずいた。
前方の視界が変わった。屋内駐車場のオレンジ色が消え失せる。代わりに、名古屋市の夜景が広がった。
片側五車線の超ワイドな道路は、ヘッドライトの洪水だった。両側は、ビル群の光り輝く崖《がけ》だ。その中を、他の車群に押し流されていくような状態で、フェアレディZは走り出した。
志津夫と真希が熱田神宮を脱出してから、今までに三〇分が経過していた。
二人はレガシィ・ツーリングワゴンで現場から逃げた。だが、一キロほど走って、すぐに乗り捨ててしまった。
何しろ祐美の放った衝撃波のせいで、ハッチバック・ドアが壊れ、後部が開きっぱなしだったからだ。これでは、いつ警察に目をつけられてしまうか、わからない。だから、白鳥橋を渡って、東海道・山陽新幹線の高架線をくぐったところで、レガシィは捨てたのだ。
そして二人はタクシーを拾って、ホテルに戻った。各々、浴室のタオルで汗だけ拭《ふ》いて、荷物をまとめ、チェックアウトした。そして今は真希の愛車に草薙剣を載せて、自分たちも乗り込んだところだった。
志津夫は携帯電話のモニターボタンを押した。これで相手の声が電話機の背面スピーカーから再生されるから、真希にも聞こえる。また、マイクから口元を離した状態でも、こちらの声がちゃんと集音されるわけだ。
志津夫は父に問い返した。
「父さん、なぜ、この電話番号を?……あ、そうか。祐美さんに以前、名刺を渡したからだ」
「そうだ……。ところで、やったらしいな」
一瞬、志津夫は言葉に詰まった。
隣の運転席では、真希が肩をすくめて、皮肉な微笑を浮かべた。
もちろん志津夫には、父の言葉が何を指しているか、すぐにわかった。ただ、それにどう反応するべきか、自分でも迷ってしまった。
何しろ強盗をやらかしたのだ。それも国宝中の国宝を盗んだのだ。自分が犯罪を行ったという事実が改めて、のしかかってくる。トレーラートラックが頭上に載ったようだった。
結局、志津夫は答えた。
「まあね」
正一が性急に訊《き》いてくる。
「で、現物は確認したのか?」
「いや、何が起きるか、わからないと思ったんでね。用心して、まだ箱の中にしまってあるよ」
「そうか。それなら、いい」
正一のため息が聞こえた。心底、安堵《あんど》したらしい気配だ。
志津夫は後部座席を振り返った。そこには赤土が少し付着したコウヤマキの箱がある。蓋《ふた》には、かすれた文字で「草薙剣」と記されていた。
正一が訊いてきた。
「……ところで、あの熱田神宮に現れたカムナビは、やっぱり、おまえか? おまえが呼んだんだな?」
「そうらしい」
「らしいとは? どういう意味だ?」
「どうも自覚症状がないんだよ。だけど、神坂峠の登美彦神社の奥宮でも、ぼくが意識を失いかけた後で、辺りの地面の石が溶けてガラスになっていた。今回も、ぼくのそばで起きた。だから、ぼくが介在しているのは間違いないだろうね」
「そうか」
父は、そこで沈黙してしまった。何か考え込んでいるらしい。
真希が口をはさんだ。
「今さら何の用なの?」
志津夫も訊いた。
「父さん、用件は何だい?」
「……今、女の声が聞こえたが、そこに、名椎真希さんという女性も一緒か?」
「同じ車に乗ってる」
「そうか。……もう一度、頼みがある。どこかで、おまえと二人きりで話ができないか?」
「なぜ?」
「なぜでもだ。その真希という女性のいないところで、おまえと話をする必要がある」
「なぜ?」
「なぜでもだ」
志津夫は沈黙してしまう。運転席の真希と顔を見合わせてしまった。
真希は正面と、志津夫の顔を交互に見ていた。彼女は、片側五車線もある道路に慣れていないので、注意深く運転していた。その一方、頭の中では、今の会話を分析しているようだった。
やがて真希は言った。
「たぶん、罠《わな》よ」
聞こえよがしに、大声で続けた。
「そうでしょう? 草薙剣を取り返すための罠よ」
正一が言った。
「私は息子と話がしたいんだが」
真希が答える。
「ええ。じゃ、話すといいわ。今、奈良県桜井市に向かってるの。だから、そこで会えばいいのよ」
「そういうことか……」
「ええ。そういうことよ」
「志津夫、おまえはどうなんだ?」
志津夫は携帯電話と、隣の真希とを見比べた。二つの選択肢の間で再度、魂が振り子の状態になってしまう。
今すぐ父と二人きりで会って、正一の口から真相を聞きたい、とも思う。だが、真相を自分で暴き出したい気持ちもますます強まってくる。やはり三輪山に行き、自分の目で確かめる方に魅力を感じた。
「そうなんだよな……」
志津夫は呟《つぶや》いた。
「どうせ、ここから奈良県まで二時間か三時間ぐらいだ。どうせ、すぐに、ぼくらを追ってくるんだろう、父さん?」
正一は電話の向こうで沈黙している。きっと渋面を浮かべているだろう。
志津夫は深呼吸した。気持ちを静め、冷静になろうとした。だが、好奇心の熱は冷めない。かえって温度を上げるばかりだった。
志津夫は言った。
「もうだめだ。我慢できないね。何があるのか、何が隠されていたのか、全部、確かめてやる! このウロコの肌にも我慢ならない。治す方法は、きっとあるはずだ!」
真希がホーンを短く鳴らす。
「そう! その意気よ」
志津夫は電話機に向かって、言った。
「OK、父さん。これで決まりだ」
正一は、しばらく沈黙していた。かすかに、ため息が聞こえたり、苛立《いらだ》ったような息づかいが聞こえてくる。
やがて強い口調で、正一は言った。
「なら、仕方がない……。三輪山で会おう。そこで、どれほど危険か、わからせてやる」
それを聞いた瞬間、志津夫の背中に冷たい電流が走った。それが腰から首筋を駆け抜ける感じだ。
茨城で出会った大学講師、小山麻美の話を思い出した。彼女も、大学構内で葦原正一の、そういった台詞《せりふ》を聞いた、と語った。
『よかろう。ならば、どれだけ危険か、わからせてやる』
その夜、竜野助教授は黒こげの死体になったのだ。
志津夫は真希と顔を見合わせた。彼女も、今の正一の台詞と、過去の正一の台詞の類似性に気がついたようだ。目を大きく見開いている。
今、父は何を考えているのだろう。それを思うと、志津夫は不安になってきた。だが、すでに運命のルーレットは回りだしていた。引き返すには遅すぎた。
志津夫は最後通牒《さいごつうちよう》のつもりで言った。
「じゃ、三輪山で会おう。先に行くよ。父さん」
志津夫は携帯電話の通話ボタンを押した。回線が切れた。
さらに志津夫は電源ボタンも押した。パイロットランプが消える。これで、正一が再度かけても、つながらないわけだ。
真希が左手の人差し指を唇に当てて、投げキッスした。
「歓迎するわ、相棒」
彼女が手を伸ばしてくる。志津夫の右手に重ねて、握りしめてくる。
真希は運転しつつ、志津夫を横目で見ては含み笑いした。妖艶《ようえん》な雰囲気が漂い出す。女の武器を最大限に利用するつもりだろう。
志津夫も決意し直した。今は、この女と突き進んでみよう、と。
志津夫も彼女の手を握り返した。
正一はモーションを起こした。フリスビーを投げる時のようなバックハンド・スローだ。
携帯電話が宙を飛んだ。一〇メートルほど滞空する。アスファルトの車道に落下し、転がった。
「わ、何を! もったいない」
祐美がそう叫んで、投げ捨てられた電話機を追いかけていった。
周辺の通行人が次々に振り返った。何事か、といった顔だ。だが、必要以上に他人には関わろうとしないのが現代人の特徴であり、その点は名古屋人も同じだった。皆、素知らぬ顔で通り過ぎていく。
正一は首を振って、呟いた。
「あいつはバカじゃない。バカじゃないんだ。そう思う。そう思うんだが……」
車のヘッドライトの光輪が次々に現れては辺り一帯を照らし、通過していた。その度にサングラス姿の正一はシルエットになる。
彼が立っているのはJR熱田駅の前だった。ここは熱田神宮の北東側だ。この付近には神宮境内への出入口はないので、夜店もない。通行人の数も普段とそれほど変わらなかった。
道路の向こうを見ると、商店街があった。その後方を見上げると、神宮境内の樹木が浮かび上がっている。日本中に生息するシキミが枝葉を広げていた。クスノキも葉腋《ようえき》に黄緑色の花を咲かせている。
木々は激しく揺れていた。熱風が吹き荒れているせいだ。異常気象が、海からの風を呼び込み続けているのだ。
祐美は、地面から携帯電話を拾い上げた。それについた埃《ほこり》を払う。そして正一を見つめた。
彼は首を前に垂れて、立っていた。サングラスに、ひげに、全身黒ずくめの格好なので、不良中年めいた感じだ。元は高名な考古学者だと言っても、今は信じる者はいないだろう。
祐美は、しばらく正一を見つめていた。やがて電話機の通話ボタンを押した。小さな液晶画面が空白になる。
彼女は自分のジーンズの尻《しり》ポケットに電話機をしまった。今、正一に返しても、また投げ捨てるだろう。
祐美も、今の父と子の会話は聞いていた。携帯電話のモニター機能がONになっていたから、志津夫や真希の音声も大きなボリュームで再生されていたのだ。
祐美としては、残念な気持ちが半分と、安堵《あんど》感が半分だった。
結局、志津夫は奈良県へ向かう意志を変えなかったのだ。そのことに彼女は失望した。
しかし、志津夫は、古代への好奇心とウロコ肌の治療法を目的に動いている、と再確認できた。彼と真希との間に明確な恋愛感情などは、まだ生まれていないらしい。そこが祐美にとっては嬉《うれ》しい情報だった。
正一は深呼吸を始めた。興奮を鎮めようとしているらしい。彼は体力の余裕があまりないらしいので、無理は禁物なのだ。
祐美は一応、確認のために言った。
「すぐ追いかけるんでしょう」
「ああ」と正一。
「じゃ、車を借りてくる。奈良県まで電車でも行けるけど、いざという時の機動力を考えると、やっぱり車だから」
「ああ」
「じゃ、待っててください」
祐美は熱田駅前を後にした。
……十八分後、祐美は赤いミラパルコを運転して、正一の前に現れた。六六〇ccエンジンが軽快な音を立てている。
祐美はサイドウインドウを下げた。
「乗ってください」
だが、正一は身動きしなかった。明らかに、とまどった様子だ。視線を左右に動かし、車の前部や後部を繰り返し見ている。
「どうしたんです?」と祐美。
正一はやっと口を開いた。
「祐美さん、これはレンタカー?」
「そうです」
「他にはなかったのか? もっと大きな車は?」
祐美は首を振って、言った。
「私、免許を取ってからは軽四しか運転したことがないんだ。だから、これにしたんだけど……」
正一は肩の線が下がってしまった。明らかに落胆した様子だった。
祐美は不審な顔になり、訊《き》いた。
「どうしたんです?」
「……それが、名椎善男さんという人の話によると……」
「ああ。長野県日見加村の宮司だという人ね」
「ああ。その人の話によると、名椎真希という女の愛車は、フェアレディZだそうだ」
祐美は唇を噛《か》んでしまう。悔しそうに、自分がつかんでいるステアリングを見つめた。あのホルスタイン女が、そんな車に乗っているとは思わなかった。
スポーツクーペと軽四とでは、馬力も加速性能も五、六倍は違う。彼女にとっても、正一にとっても、これは計算違いだった。
祐美が言った。
「でも、私、これより大きい車だと慣れてないから、事故っちゃうかもしれないんだ……。あ、そうだ。葦原さんが、もっと大きな車を運転すれば?」
「いや、申し訳ないが、私は気分が悪いし、体力もないから、とても運転できる状態じゃない」
正一は手でサングラスを押さえて、
「それに、このサングラスのせいもある。つまり、これをかけたままだと、私は赤外線の視力に頼ることになるが、それだと色盲状態なんだ。信号の赤と青も区別しにくい。
だが、だからといって、これを外したら、隣に座っている君は不愉快だろう。私の素顔なんて、あまり見たい代物じゃないはずだ。それに、どっちみち私の体力では保《も》たないだろうし……」
「じゃ、電車ですか?……でも、それも一長一短だな。スピードは電車の方が早いかもしれないけど、現地での、いざという時に機動力がないと……」
正一は、ため息をついた。首を振って、言う。
「仕方ない。高速を利用してノンストップで行けば、軽四でも二時間ぐらいで行けるだろう。そんなに差はつかないと思う。それに賭《か》けるしかないな」
正一は助手席のドアを開けた。大柄な身体をシートに預ける。ミラパルコの車体は、少し左に傾いた。これだけでも加速性能と最高速度は落ちたはずだ。
祐美が舌打ちして、言った。
「もっと大きい車に、普段から乗り慣れていれば良かったよ」
祐美は苛立たしげにアクセルを踏んだ。床板ごと踏み抜くような勢いだ。六六〇ccエンジンは、彼女に代わって唸《うな》り声をあげた。
祐美は深呼吸すると、可愛い丸顔の頬を、両手で叩《たた》いた。野球帽も深くかぶり直す。
「行きましょう」
祐美はミッションをDに入れた。アクセルを踏む。赤いミラパルコを発進させた。
車は、名古屋市街の夜景の中に滑り込んでいった。無数のイルミネーションに彩られたような眺めだった。
祐美にとっては、片側五車線もある広い道路は物珍しかった。日本国内とは思えない光景なのだ。だが、気分の浮き立つドライブではなかった。
祐美は丸顔を歪《ゆが》めて、言った。
「まったく、そんなに重要なものなら、ここに自衛隊の基地でも造ればいいんだよ。もちろん一般人の参拝も禁止すればいい。元々、熱田神宮は拝殿なんかなくて、一般人に参拝させる神社ではなかったんでしょう」
正一はうなずく。
「ああ。元々、熱田神宮も、伊勢神宮も私幣禁断《しへいきんだん》≠セった。昔は、一般人参拝禁止のことをそう呼んだ。たぶん、忌まわしいものを封じ込めるのが目的で、建立された神社だったからだろう」
正一は首を振って、
「ところが、平安時代の終わりになると、タブーの本当の意味が忘れられたらしい。だから、熱田神宮も、伊勢神宮も一般人の参拝を受け入れるようになったんだ。さらに室町時代になると、いわゆるお伊勢参りが一種の観光旅行として定着してくる。結局、神職に従事する者も、観光客を収入源として当てにせざるを得なくなったからだ。
一方、そういう状況になっても、絶対にお伊勢参りだけはしなかった人々がいる。歴代の天皇たちだ。どうやら、天皇家だけのタブーがあったらしいが……」
「うん。それは知ってます。父から聞いたから……。天皇のお伊勢参りなんて明治時代まで一度も実例がないって。理由は、女王ヒミコと女王トヨの怨霊《おんりよう》を恐れ続けたからだと。だから、皇祖神アマテラスを祀《まつ》る神社のはずなのに、天皇自身は絶対に伊勢神宮には参拝しなかった。それで、事情を知らない一般の研究者たちは、天皇家の矛盾した行動を不思議がっている」
「そうだ。そのタブーを史上初めて破ったのは、明治天皇だった。たぶん、その頃になるとタブーの意味も忘れ去られていたんだろう。それと時代の流れだろう。女王ヒミコの怨霊なんか信じる気にはなれない、といった時代の空気だろう……」
正一はさらに大きく首を振って、
「本当は怨霊なんかじゃなかった。もっと危険なものだったんだ。だから、タブーが必要だったのに……」
祐美は大きく、ため息をついた。
「今もタブーがあって欲しかったな。それだったら熱田神宮も、もっともっと厳重に守られていたはずだもの。私と父さんの二人だけで、ここを守るなんて、どだい無理だったんだよ。今だって、私と葦原さんの二人だけで軽四で追いかけてる。これはコメディ映画かよ……」
祐美は苦笑を漏らした。絶望的な状況になってきたので、笑ってごまかしたかったようだ。
正一も思いは同じだ。首を振って、言う。
「長すぎたんだ。あまりにも、今まで隠し続けてきた時間が長すぎた。だから、本来の意味も重要性も何もかも皆、忘れ去られてしまった……」
東京都心の大手町には、夜と雨とが訪れていた。埃《ほこり》っぽい空気が、この時だけは清浄な感じになる。
車のヘッドライトと街灯の明かりが、眠らない街を演出していた。だが、省エネの呼びかけが効いているせいか、オフィスビルの窓の七割ぐらいは暗かった。
気象庁の予報現業室の窓は、まだ明かりが点灯していた。内部には昼間のチームが引き続き、夜も協議を続けていた。
F当番(FORECAST、予報担当官)がコンピュータ端末をのぞき込んで、
「今度は三重県の西か……」
画面の気温分布図は、色分けされていた。三重県の西部と、奈良県の桜井市付近がレッドだ。三重県の北部はオレンジ。その他はイエローかグリーンだった。
F当番が画面に指を走らせる。
「三重県の北部はさっきまで摂氏三三度だったけど、今は二六度まで下がった。このヒートシリンダーは、このままだと奈良県の奴と合体するのは間違いないと思うが……」
A当番(ANALYSIS、解析担当官)は画面を見ながら、コーヒーをすすっていた。投げやりな顔で言う。
「わからん。現れたり、消えたり、移動したり、合体したり……。要するにさっぱり、わからん。このコースに何か意味があるのか? 何か法則性があるのか? それとも何の意味もなく、この化け物は移動しているのか? おかげで近畿地方の予報も全部外れてしまったぞ。それに、これがジェット気流の蛇行に今後どう影響するのか……。また予測が難しくなってきたぞ……」
A当番はテーブルに座り込むと、また頭を抱え込んだ。かすかな、唸り声が聞こえる。
紅一点のR当番(RAIN、雨担当官)がキーボードを叩き、画面を切り替える。雨量分布図になった。東京都心や、名古屋市、三重県伊勢市の各地域から青い棒が伸びた。
R当番が言った。
「でも、今後はある程度、予想できますよ。明日は、三重県北部と西部は気温が下がって積乱雲が雨に変わる。その他は晴れ。奈良県はほぼ曇りで、引き続き異常乾燥警報を出す必要があります」
「それは予報じゃない。正確には、後追いに過ぎん」
P当番(PROGNOSIS、予想担当官)が最高に不機嫌な顔で言った。
「このヒートシリンダーの原因や、性質だ。それを解明しないと、この先も延々、引っかき回されるんだぞ。おれたちは幼稚園児よりも役に立たないってことになる。子供が靴でやる天気占いの方が、ずっとましだって言われるだろうよ」
S当番(SATELLITE、衛星担当官)だけは、一同とは離れた場所に座っていた。無言で、テーブル上の衛星写真の数々を見つめ、気象学のテキストと見比べている。さっきから、ぶつぶつと呟《つぶや》いていた。
「……そうなんだ……結局、この熱はどこから来るのか……答えは一つしかないはずなんだ……」
徐々にS当番の声が高くなっていた。瞳《ひとみ》がミラーボールみたいな、きらめく反射光を放っているようだ。
「……原点に帰って考えるしかないはずなんだ……すべての気象現象の要因は何か……その答えは一つしかないんだから……そうなんだ! これしかないんだ!」
最後にはS当番は叫んでいた。興奮のあまり、テーブルを叩く。
全員が一斉に振り返った。狂人でも見るような眼になっている。
「何だ?」とP当番。
S当番は立ち上がり、
「謎が解けた! いや、少なくとも謎の一端に近づいたと思います」
彼は全員を見回して、
「すべての気象現象の要因は何か? そこに戻るしかないんです。繰り返します。すべての気象現象の要因は何か?」
一同は顔を見合わせた。やがてP当番が答えた。
「太陽に決まってる」
S当番が大きくうなずく。
「そうです。太陽の光と熱です。それが気温の上昇をもたらし、上昇気流、低気圧、風、雲、雨、雷の要因になる。気象現象にエネルギーを提供しているのは太陽なんです」
彼は気象学テキストを広げて、
「太陽から地球全体に入射するエネルギーは、一日あたり三・六七×一〇の二一乗カロリー。一平方センチあたりだと毎分二・〇カロリー。電力にして〇・一四ワット。これを太陽定数と呼ぶ。ただし、この太陽定数は赤道直下の値だから、日本だと毎分一・〇カロリーぐらいだ」
F当番が言った。
「ああ、試験勉強で丸暗記したな」
S当番が続ける。
「しかし、話はもう少し複雑になる。太陽定数は、そのまま地上に当てはめることはできないことだ。大気中の塵《ちり》や雲、地面、海面が、太陽からの光や熱を反射してしまうからだ。この段階で、光や熱の三四パーセントが宇宙空間に逆戻りする。これがいわゆるアルベドだ」
紅一点のR当番が言った。
「アルベド、地球反射率、コンマ三四……。試験勉強で丸暗記したけど、それが何なの?」
S当番が片手を挙げて、
「まあ、聞いてくれ。我々が丸暗記したとおり、アルベド、地球反射率は三四パーセントだ。その結果、反射しなかった残り六六パーセントの光や熱が地球に与えられる。だから、日本列島での熱量は、一平方センチあたり毎分〇・六六カロリーだ」
彼は笑顔で、一同を見回す。
「……で、考えたんですが、何かの原因で、ある区域の大気反射率がゼロ・パーセントになったとしたら? そしたら、どうなるか? 当然、六六パーセントだった熱入射量が一〇〇パーセント近くに跳ね上がる。カロリー量は一・五倍になるんだ。当然、気温は上がる」
一同は唖然《あぜん》とした表情だった。S当番以外は、お互いの顔を見合わせている。
すぐA当番が反論した。
「……しかし……大気反射率がゼロになったら、紫外線なんかも一〇〇パーセント入射してくるぞ。それはオゾン・ホールの状態じゃないか」
オゾン・ホールとは、オゾン層に開いた穴のことだ。
このオゾン層とは、高度一五キロから五〇キロ付近に存在するオゾン濃度の高い領域だ。地球規模から見れば極薄の膜≠セ。だが、これによって、地球上の生物は宇宙空間に満ちている有害な紫外線から守られているのだ。
オゾン・ホールは文字どおり、このオゾン層に穴が開いた状態だ。現在、オゾン・ホールは北極と南極の上空に存在する。この穴が大気汚染によって今も拡大し続けている事実は、しばしばテレビニュースでも報道されている。
F当番も反論する。
「そのとおりだ。もしも大気反射率がゼロになったら、おれたちは生きてられないぞ。赤道直下でも温帯地方でも、紫外線で全身が火膨れになって、あっと言う間に人類は全滅だ」
S当番は得意げに、人差し指を立てて左右に振った。
「だから、ぼくが言いたいのは、赤外線に対してだけ大気反射率がゼロ・パーセントになっている状態なんです。熱を伝えるのは主に赤外線だ。だから、その赤外線だけ素通しになっている状態なんです。
つまり直径六〇キロの円内で、一平方センチあたり毎分〇・三カロリーずつ熱量が増えるはずだから……」
電卓を叩き始めた。一〇秒後に答えを出した。
「……ざっと一分当たり八億五五九〇万キロカロリーもの熱量が増える。これだけの熱量が加わり続けたら、当然、気温は真夏なみに上がるでしょう。たぶん、これで計算は合うはずだ。
要するに赤外線だけを素通しにする円形の穴が、大気層に開いているような状態なんだ。これで円筒形の熱気という形状も説明できる。この現象を説明できる仮説は、これしかない」
S当番はエネルギッシュに拳《こぶし》を振り上げ、力説した。
全員、瞬《まばた》きを繰り返していた。S当番の三段論法ならぬ、三段跳び論法のような思考法に、すぐにはついていけなかったようだ。
やがて腕組みする者、顎《あご》を掻《か》く者、こめかみを指で突っつく者など、様々な反応が見られた。確かに、この不可解な現象を説明するとしたら、S当番の仮説は筋が通っているように思えた。
「おもしろい仮説だが、無理があるな」
やがて、P当番がそう言った。
全員が彼を振り返る。
S当番が興奮した面持ちのまま、
「どこが無理なんですか?」
P当番が重々しく宣告した。
「この異常気象が始まったのは、真夜中だからだ。そして夜になった今も継続している、という点だよ」
P当番は片手で、相手をなだめるような手つきになって、
「もし昼間に、この現象が始まったというのなら、太陽からの赤外線が素通しになったという仮説は説得力がある。だが、これは地球の影の面で始まったんだ。太陽が見えない状態で、気温が上がりだしたんだ。だから、今の仮説は当てはまらない」
S当番の肩の線がゆっくり下がっていった。顔もうつむいてしまう。
「……そうなんですよね」
一気に落ち込んだらしい。
しかし、S当番は立ち直るのが早かった。顔を上げると、一気にまくし立てた。
「仕方ない。今の仮説は引っ込めます。しかし、しかしですよ。これは残念ながら正解じゃなかったけれど、正解にかなり近いところまで辿《たど》り着いているような気がするんですよ……」
彼≠ヘ半覚醒《はんかくせい》状態で、夢を観ていた。
夢の内容は、亜熱帯のような温暖気候の世界だった。大部分の人々は裸足《はだし》で、一枚布の薄着だった。冬でも生野菜が食べられた。稲作による米食も定着しつつあった。
だが、決して楽園だったわけではない。
身分の差のある封建社会だった。身分の差はアクセサリーの数や質で区別されていた。
アクセサリーとして使われていたのは、主にヒスイの勾玉《まがたま》の首飾りや、銅釧《どうせん》と呼ばれる腕輪だった。また、ブルーガラス製の管玉《くだたま》の首飾りや、管玉をヘッドバンドにした王冠もあった。
管玉とは、マカロニのように内部が中空になったチューブ状のガラス製品だ。その中空に糸を通して、全体を束ねて、首飾りやヘッドバンド式の王冠などの装飾品にしていたのだ。彼≠フ世界では、それらは宝石に相当する装身具であり、身分証でもあった。
また、彼≠フ世界では、クニ同士の戦争も珍しくなかった。
戦闘の際の武器は鉄剣や銅剣、銅矛などだ。だが、これらも普段は実用品というより、権力の象徴品だった。
大部分の兵士たちは、戦闘の際には前時代の槍《やり》をまだ使っていた。棒の先端に黒曜石の刃を取り付けただけの代物だ。
決して、楽園ではなかった。医療技術など存在しないから、怪我や病気による死亡率も高かった。平均寿命も四〇歳ぐらいだろう。
だが、彼≠ノとっては、ここが唯一の世界だった。これ以外の世界など考えることもできないのだ。
眠りながらも、彼≠ヘ少し身じろぎした。何らかの警報を聞いたのだ。それは、彼≠目覚めさせようとしているようだ。
同時に、別の警報も作動したようだった。それは彼≠ェ目覚めることに対して警戒を呼びかけるための警報だった。
だが、問題は、今となっては誰もその意味を理解できないことだろう……。
二五歳になったばかりの加島俊一《かしましゆんいち》は四つん這《ば》いになっていた。白い合成樹脂の床に耳を当てているのだ。
彼は銀縁メガネの似合う優男《やさおとこ》だった。不審な表情で言う。
「ほら、聞こえるでしょう? 地面の下だ」
「うん……。そう言えば……」
五〇歳になる守衛の山沢努《やまざわつとむ》も四つん這いで、床に耳を当てていた。
彼はひげの濃さが目立つ、いかつい顔の男だ。やがて、顔を上げて、うなずいた。
「聞こえた……。何かが一瞬、震動したような……」
「そうでしょう。空耳なんかじゃない」
二人は、うなずき合った。だが、すぐに二人とも首をかしげた。
「何の音だ?」と山沢。
「さあ?」
加島にも答えようがなかった。
ここは奈良県立桜井考古学研究所の一室だった。部屋の面積は二〇坪ほどだ。壁や天井は白い塗料で覆われており、清潔感のある内装だった。
加島のデスクには、コンピュータとプリンター、熱ルミネセンス分析装置などが載っている。一見すると、普通の事務用オフィスと大差ない。だが、他のデスクには光学顕微鏡や、すり鉢、乳棒、フッ化水素酸の容器やビーカーなどが並んでおり、それで分析室であることがわかる。
この部屋は、年代測定のために設けられたものの一つだった。他にも年輪年代測定法や、C14放射性炭素年代測定法や、熱残留磁気年代測定法を行っている部屋もある。
この桜井考古学研究所は、最初は博物館だった。だが、地元から出土する埋蔵文化財の量が、あまりにも多すぎたのだ。一々よそへ運び出して、民間会社に分析を依頼するのは面倒になった。そこで、地元に専用の研究所を置いたのだ。
そのおかげで、加島は出身地に帰郷することになったのだ。今は地方公務員として、年代測定の仕事をしている。
今日の彼は、夜になってから耳鳴りが気になり始めていた。それを追い払おうと耳を押さえたり、頭を振ったりもした。そして、さっさとノルマを片づけて帰宅しよう、と思い直した。
作業は終盤を迎えていた。弥生式土器の破片から石英粒子を分離し、フッ化水素酸でエッチングしたところだ。試料はガラス粉末のような状態になっている。それを分析装置の試験台に置いた。
光学フィルターと光電子増倍管を組み合わせた蓋《ふた》を、上にかぶせた。大きな懐中電灯を逆さまに取り付けたように見える代物だ。
コンピュータ付属のマウスを握った。テーブル上を滑らせる。クリック・ボタンを押そうとした。
できなかった。加島は振り返った。目を見開き、周囲を観察した。
確かに、何か音が聞こえたのだ。これは耳鳴りではないとわかった。ボリュームも徐々に上がっているようだ。
何か大きく重たいものが震動しているような音だ。それが三〇秒おきぐらいに鳴っている。
念のため、加島は跪《ひざまず》いて、床に耳を当ててみた。今度こそ明瞭《めいりよう》に聞こえた。震動音だ。
不審な音波に、加島は首をひねった。誰かが機械装置の電源でも切り忘れたのかと思った。それで加熱された装置が膨張して、音の原因になっているのだろうか?
いずれにせよ、これでは仕事が手につかない。
壁のアナログ時計は、午後九時二分前を示していた。秒針をゆっくり回転させている。
仕方なく、加島は内線電話をかけた。そして守衛の山沢に、この部屋に来てもらって、彼にも震動音を確認してもらったのだ。
今、加島と山沢の二人は、お互いに不審な表情を見合わせていた。四つん這いで睨《にら》めっこでもしているみたいだった。これが普通の状況なら、お互いの表情を見て、笑いだしたかもしれない。
だが、二人はまったく笑わず、口々に言った。
「何なんだ?」と山沢。
「さあ?」と加島。
山沢は、すぐに部屋から廊下に出た。今度は廊下の床に耳をくっつける。
加島も真似をしてみた。聞こえた。鈍い震動音だ。
昼間だったら、会話の音声などに紛れて聞き取れなかっただろう。今は所内に人間がほとんどいない夜だから、これに気づくことができたのだ。
山沢が言った。
「ここで聞いても、音の大きさは変わらないな。この建物の地下かな? 水道管か何かが音を出してるのか?」
加島が応《こた》えた。
「だとしたら、水道局にでも電話した方がいいですかね? もしも何か事故につながったら、大変……」
議論は終わった。
足下から、何かが突き上げるような衝撃を感じた! 雷鳴に似た轟音《ごうおん》だ。謎の震動は突然、ボリュームを一〇〇倍ぐらいに上げたのだ。
加島と山沢は、ムチでひっぱたかれたような反応を示した。四つん這い状態から飛び上がる。慌てて周囲を見回した。
屋内には何ら異常はなかった。
「これは?」と加島。
「今のは地震?」と山沢。
また、地鳴りがした。たった今、桜井考古学研究所のそばをプロントザウルスが通過して、大音量の足音を響かせているような感じだった。
加島は分析室へ飛び込んだ。山沢も続く。
窓を見た。それはブラインドで閉じられており、外の風景を隠している。
加島はブラインドを巻き上げた。アルミサッシの窓を開ける。季節はずれの熱風が吹き込んできた。
窓の外に箸墓《はしはか》古墳が見えた。夜空の下に、ドーム型となって広がっている。後円部直径一五〇メートル、高さ二二メートルの壮大で優美な姿だ。
その手前には溜《た》め池があった。これは、かつては濠《ほり》として、古墳の周りを取り巻いていたものの一部だろう、と言われている。
ドーム型の箸墓古墳には異変が起きていた。そのシルエットが一瞬、ぶれる。トラッキングのずれたビデオ映像のようだ。
同時に、低い雷鳴のような音が轟《とどろ》いた。手前の溜め池に大きな波紋が広がる。その音源と震動源は明白だった。
山沢が驚愕《きようがく》しきった顔で、
「何だ? 古墳が鳴ってるのか……」
「……そうらしいですね」
加島も呆然《ぼうぜん》と答えた。唐突に遭遇した奇現象のせいで、身体が凍りついていた。ただ古墳を見つめることしかできないありさまだ。
ふと加島は、片手を額に当てた。記憶の淵《ふち》から何かを思い出しかけた。
「そう言えば……」
山沢が振り向いて、
「え? 何か?」
加島は片手で頭を叩《たた》きながら、
「そう言えば、古墳が雷みたいな音を発したという話はあったな。確か続日本後紀《しよくにほんこうき》に……」
「何、この音は?」
名椎真希は運転しながら、そう呟《つぶや》いた。
葦原志津夫も顔を上げた。彼は膝《ひざ》の上にノートパソコンを載せて、キーボードを叩いているところだった。今までの研究ノートの内容を修正していたのだ。
それは低い単発の震動音だった。よく言われる、腹にしみるような音だ。名古屋市で聞いた打ち上げ花火の爆音にも似ていた。
フェアレディZの内装を見回した。インスト・パネルが、バックライトの輝きで浮かび上がっている。だが、エラー・ランプ類は点灯していない。
志津夫は車の内外を見回し、言った。
「今のはエンジンのバックファイアじゃないのか? 何だ?」
名椎真希が叫んだ。
「車の音じゃないわ!」
真希はブレーキを踏んだ。黒い流線型の車体がスピードを落としていく。国道一六五号線の路側帯に停車した。
真希がドアを開けて、運転席から飛び出していった。暑い風が車内に吹き込んでくる。
志津夫もパソコンを座席に残し、車外に出た。とたんに、例の熱気が全身を押し包んでくる。
また、音≠聞いた。
最初は雷鳴が一発、鳴り響いたのかと思った。だが、それ以前に空が稲妻のストロボで光る現象は起きていない。空を見上げても、それらしい雷雲も見あたらない。
音の伝わり方も変だった。頭上から音が降ってくるといった感触ではない。どちらかと言うと、水平に伝わってきたのだ。
場所は奈良県桜井市の東部だった。北側と南側を山に挟まれている。人家の明かりよりも、森林や山々のシルエットの方が目立つ風景だ。
交通量も平均的だった。車間距離が自然に一〇〇メートル以上、空くぐらいだ。車のヘッドライトが道ばたのクスノキを照らし出しては通過していく。
今は、他の車も次々と停車していた。ドライバーたちも、ただならぬ異音に気づいたのだろう。
また、音≠ェした。バスドラに似た低い破裂音だ。
ほぼ一〇秒間隔で鳴っていた。西の方向から聞こえてくる。音源は桜井市の中心部辺りのようだ。
その方向に視線を向けると、夜空の下に明るい光のドームが浮かんでいるように見えた。市街地特有の眺めだ。
突然、真希が四つん這《ば》いになった。片耳を地面に押し当てる。
「きっと、地面の下からよ」
そう言って、彼女は目を輝かせていた。
「え?」
志津夫も同じポーズを取った。片耳を地面に当てる。そして事態を理解した。
音≠、頭蓋骨《ずがいこつ》でダイレクトにキャッチしたのだ。脳細胞を揺さぶられた。これは地面の下で発生しているのだ。
志津夫は言った。
「何だ、これは? 地震?……いや、地震にしては震動の仕方が単発的だな……。何だ?」
「もしかすると、これがあの音かもしれない」
真希が答えた。
「え?」
志津夫は身を起こして、訊《き》いた。
真希は地面に片耳を当てたまま、興奮した面もちで言った。
「続日本後紀《しよくにほんこうき》よ。仁明《にんみよう》天皇の承和十年、八四三年四月の条。その年の三月十八日、奈良県の楯列陵《たてなみのみささぎ》が大きな音を出したという話よ」
「ああ。あれか」
志津夫は思い当たった。古い文献には、そうした説明不能の事件がしばしば記録されている。古墳が発する怪音≠焉Aその一つなのだ。
真希が続けて、言った。
「そうよ。そして、この異変は調査の結果、こう解釈された。つまり、今まで神功《じんぐう》皇后陵と成務《せいむ》天皇陵とを間違えて、祀《まつ》っていたのだ、と。陵が鳴動したのは、その間違いに対する怒りであろう、と」
「つまり、どれが誰の墓なのかを把握できなくなっていたわけだ。それを物語るエピソードだと解釈されているけどね」
志津夫は一応、史学の立場から説明した。
真希は首を振って、
「いいえ。それだけじゃないわ。古墳の中には先住民の豪族の墓だったのに、天皇陵に比定されてしまったものも多いはずよ。本当は先住民の怒りだったんじゃないの? つまり、邪馬台国の、あるいはそれ以前からの……」
真希は身を起こし、立ち上がった。空を見上げ、突然、両手を大きく広げて、笑いだす。そのまま踊りだしそうな感じだ。
真希はヒステリックに笑いながら、
「蘇《よみがえ》りつつあるのよ。三世紀がね。さらに、それ以前の時代がね。今までは痕跡《こんせき》しか見えなかったけど、姿を現そうとしている。私たちは、それに立ち会うんだわ」
真希は狂笑しつつ、国道の北側を見た。そして凍りついた。血相を変えている。
「見て! あそこ! 何か光ってる!」
彼女は指さした。そこには山のシルエットが見えた。
三輪山だ。
標高四六七メートル。なだらかな傾斜を持つ三角形のシルエットだった。全体がきれいな円錐形《えんすいけい》をしているため、そう見える。ピラミッドのシルエットそっくりだった。
今、その三輪山の西側の中腹に、異変が起きていた。
薄い光が現れていた。スギ林の陰に大きなホタルでも隠れているかのようだ。だが、ほんのわずかな光量なので、注意しないと見逃してしまうだろう。
それに真希は、いち早く気づいたのだ。あるいは彼女が赤外線の視力を持っているからかもしれない。蛇のピットは摂氏〇・〇〇一度の温度変化も識別できるという。真希の能力も、それに近づいているのかもしれない。
真希が言った。
「あれって、三輪山の禁足地の辺りじゃない?」
「ああ。そうみたいだ」
志津夫も目をこらした。だが、彼にはぼんやりした光の塊にしか見えなかった。それが何なのかは、よくわからない。
真希が言った。
「光明山《こうみようさん》」
「え?」と志津夫。
真希が繰り返し、言った。
「光明山よ。三輪山は旧名が三諸山《みもろやま》だけど、もう一つ光明山という旧名もあったのよ。三輪山には光が現れるという、古くからの伝承もあったからよ。これが、それじゃないかしら?」
「ああ……。あるいはね」
志津夫は見上げているうちに、何かを感じた。
彼は数年前にも、この山に登ったことがあった。その時は一般参拝客用の登坂コースを辿《たど》ったのだ。
だが、今は前回、感じなかったものを感じた。まるで、この山に内蔵されている原子炉が目覚めたような雰囲気なのだ。そして目に見えない磁力線を放射しているみたいだ。磁力線は空中で壮大なカーブを何重にも描き、山を取り巻いている。
そんなイメージが一瞬、見えた。もちろん現実の光景ではなく、幻覚だろう。だが、背骨がぐらつくような目眩《めまい》を覚えた。
唐突に、真希が叫んだ。
「そうだ! 草薙剣!」
彼女は回れ右して、ダッシュした。フェアレディZに駆け戻っていく。
慌てて、志津夫も追いかけた。心配になる。まさか、今この場で開けようというのか?
志津夫の予想は当たった。真希は後部座席にあったコウヤマキの箱を取り出したのだ。箱を縛ってある紅紐《べにひも》を解こうとしている。
「だめだ!」
志津夫は叫び、真希の手を押さえた。
真希が不審な顔で、見返す。
「な、何よ」
「だめだって」
「どうして? もう三輪山まで来たのよ。もう目の前じゃない。きっと草薙剣にも何か変化が現れているんじゃないの? ねえ、見てみようよ」
志津夫は唸《うな》った。
うまく説明できないのだが、草薙剣の封印を解くのはギリギリまで避けたかった。今やったら、それこそ取り返しがつかなくなるような気がしてくる。封印を解かねばならない事態があるとしても、先延ばしにしたかった。
話題をそらすべきだ。志津夫は脳裡《のうり》から情報を検索した。そして、それ≠引きずり出した。
「いや、もう少し待て。せめて禁足地まで待とう。もし何か起きるなら、草薙剣自身が何か異変を起こすんじゃないか?」
「そんな……」
志津夫は強引に話題を変えた。
「日本書紀にはおかしな記述があるんだ。君は気づいていないかもしれないが」
「え?」
真希が見つめてきた。好奇心を刺激されたようだ。微笑んだ。
「何? 何が言いたいの?」
その隙に、志津夫は箱を奪い取った。紅紐を再び巻きつける。彼の額には冷や汗が浮き出ていた。
志津夫はその汗を拭《ぬぐ》って、
「以前から、変だと思っていたことがあるんだ」
「だから、何なの?」
志津夫は説明を始めた。
「日本書紀、敏達《びだつ》天皇紀十年|閏《うるう》二月の条だ。
辺境の東国において、蝦夷《えみし》らが不穏な動きをした。そこで敏達天皇は、遠い昔に景行《けいこう》天皇と蝦夷たちとの間にかわされた約束を楯《たて》にゲリラ活動をやめろ、と迫った。すると蝦夷のリーダーであるアヤカスは恭順した。もし約束を破れば、蝦夷の子孫が絶えても仕方がないと、そう誓約したという。
しかし、この時、蝦夷たちが誓約した対象は三諸山だったんだよ。つまり、三輪山の古い名前だ。これは通説では説明できないエピソードなんだ。
まず、蝦夷とは縄文人の子孫であり、アイヌ民族の遠い先祖だ。これは頭蓋骨《ずがいこつ》の形が類似するから、ほぼ確実だ。彼らが最初の日本原住民なんだ。
そして敏達天皇の時代、蝦夷たちは東北地方に住んでいた。だから、普通に考えると、彼らにとっては近畿地方の三輪山なんて、どうでもいい山のはずだ。なのに、その蝦夷たちが奈良の初瀬川の中流で、三輪山に向かって誓約したと、日本書紀には書かれているんだ。もしかすると、この辺りの場所かもしれない」
志津夫は南の方向を指さした。
人家の明かりが点在する夜景が広がっている。その向こうに、初瀬川の水面がかすかに光っているのが見えた。対岸の街灯を反射しているのだ。
志津夫は話を続けた。
「……万葉集にも、こんな歌がある。
三諸の、神のおばせる、初瀬川、みおし絶えずは、我忘れめや。
どうやら、初瀬川の水で身を清めてから、三輪山に誓う風習があったらしい。
だが、普通に考えると、蝦夷たちは敏達天皇に向かって誓約するのが筋道のはずだ。なのに、なぜか蝦夷たちは三輪山に対して誓約した。
逆に言うと、三輪山は蝦夷たちにも、それだけの深い影響力を有する山だったことになる。だが、なぜ、三輪山には、それほどの影響力があったのか? それを説明する答えは、まだない」
真希は、うなずいた。本気で感心したらしい。
「さすがに、いいところに目をつけるわね。おもしろい指摘だわ。で、あなたの答えは?」
志津夫は微笑んだ。うまく話題をそらすことができたようだ。思わず得意げな顔になる。右手の人差し指を立てた。
「じゃあ、一つ、大胆な仮説を披露しようか?」
「ええ。披露して」
志津夫は息を吸い込み、講義口調で喋《しやべ》り出す。
「……つまり、三輪山は元々蝦夷たちの聖地だった。そう考えれば、説明がつくのではないか。そう思える。
さっきも言ったが、元々の日本原住民は縄文人であり、後の蝦夷たちだった。これは頭蓋骨の形などの証拠が残っているから、確実だ。
だが、その後、頭蓋骨の形が異なる弥生人たちが、日本列島に侵入してきた。彼ら弥生人たちは各地で蝦夷たちと武力衝突したり、混血したりしたんだろう。そして、いろいろな経緯を経て、弥生人の血の濃い連中が、この大和盆地を乗っ取ったんだ。
そして、ここに邪馬台国が築かれた。その次に邪馬台国も滅ぼされて、大和王朝に取って代わられたわけだ。
だが、それ以前は大和盆地も蝦夷たちの住処《すみか》であり、三輪山も蝦夷たちの聖地だったんだ。当然、彼らは大和盆地を離れた後も、あの山は恐ろしい蛇神の山だという伝説を、子孫に語り継いでいたんだろう。
ゆえに、蝦夷も三輪山への誓いだけは破るわけにはいかなかった。その恐怖心ゆえに、全国共通の誓約の対象として長い間、使われ続けていたんだ」
「ううん。満点!」
真希が激しく拍手を始めた。
「そうよ! そのとおりよ。きっと」
真希は駆け寄り、志津夫に一瞬、抱きついた。ボリュームのある乳房が押しつけられる。その感触の強烈さに、彼の息が止まった。
真希は、志津夫の両肩をつかんで揺さぶった。
「たぶん、ここに縄文時代の昔から人々を恐れさせた何かがあったのよ。つまり、ここにカムナビを呼ぶ本家本元があるのよ。アラハバキ神につながる何かがね。蛇神信仰の本家本元よ。おそらくは地球外の生命体が……」
「ああ。だからさ、そのタイミングがくれば、草薙剣自身が反応するだろう。神坂峠の青い土偶も、やはり君や、ぼくが現れた時だけ強く反応したんだ。だから、そのタイミングが訪れるまでは封印しておけばいい。どうせ今夜中に決着がつくんだ」
「そうよね」
真希は納得したようだ。ほれぼれとした表情で、志津夫を見つめた。
志津夫も安堵《あんど》のため息を漏らした。これで、封印を解くことを、当面は真希もあきらめてくれただろう。
だが、志津夫の胸中には、明確な理由もないのに破滅の予感が生じていた。もしかすると父や、白川幸介が正しいのではないか。自分は好奇心にかられて、間違った方向に突き進んでしまったような……。
10
国道一六五号線は空いていた。桜井市の東の端あたりなので、人口も少ない地域だからだ。さっきから信号も、すべて青だった。
彼方には三輪山のスカイラインが浮かんでいた。定規で描いたような三角形のシルエットだった。その端正なラインに、古代の人々は神≠見たのかもしれない。今もそう思わせる雰囲気があった。
白川祐美は左手に携帯電話、右手にステアリングを握り、言った。
「だから、私は普段、軽四しか運転したことがないんだよ。これより大きいのに乗ったら、事故を起こすかもしれない」
その祐美を、助手席の葦原正一が見守っていた。
彼の素顔の大部分はサングラスとひげで覆われている。だが、口元がひきつっている。不安な表情になっているのは隠せなかった。
何しろ、夜間に制限速度六〇キロの国道を二〇キロオーバーで走行しているのだ。しかも、ドライバーは電話しながらの片手運転だ。
正一は言った。
「こんな状態こそ危険だと思うがね」
「え?」と祐美。
「モニターボタンを押すんだ。そうすれば、私が電話機を持って、君は両手で運転しながら、話せるだろう?」
「あ。そうか」
祐美は舌を出し、
「じゃ、お願いします」
正一は電話機を受け取った。思わず安堵の吐息が出た。電話機のモニターボタンを押す。
すぐに電波で中継された白川幸介の声がした。
「葦原さん、じゃ、あなたは運転できないのか? あなたなら軽四より大きいのに乗れるのでは?」
正一は答えた。
「乗れないことはないが、体力に自信がない状態でね」
祐美も口をはさむ。
「つまり、運転中に意識を失って事故っちゃう危険もあるってことだよ」
正一が追加した。
「それに、このあと山登りがある。標高四六七メートルだが、今の私の体力ではヒマラヤ山脈も同然だ」
祐美も言う。
「そうなんだ。チョモランマも同然だってさ。だから、体力を温存してもらわないと」
電話機から、幸介の舌打ちの音がした。
「何てことだ。せめて男の子がもう一人欲しかったのに。それなら大きい車だって、普段から乗り慣れていただろうに」
祐美が烈火の勢いで怒鳴った。
「もう、その台詞《せりふ》は聞き飽きた! そんなに男の子が欲しけりゃ自分で産め! でなきゃ、さっさと再婚相手を決めろ!」
電話機からは唸《うな》り声がした。言葉に詰まったらしい。
正一は、つい苦笑しかけた。口の中で、笑いをかみ殺す。
このドライブは快適とは言えなかった。体調も悪いし、緊張と不安のあまり、シートに落ち着いて座っていられない状態だったのだ。だが、今は白川親子のおかげで多少、気分がほぐれた。
やがて幸介が咳払《せきばら》いしてから、重い口調で言った。
「葦原さん、聞いてくれ」
「ええ。聞いてます」
正一は真顔に戻った。相手の話し声の調子で、わかったのだ。楽しい会話は、もう終わりだと。
幸介が言った。
「何としても止めなければならない。今の時代にカムナビを蘇《よみがえ》らせる理由など何もないし、あの真希という女は、まったく信用できないとわかった。あんな女の自由にさせても、何の意味もない。大混乱を招くだけだ」
「わかっています」
正一は死刑囚が執行日の朝を迎えた心境を、味わっていた。
ある意味では一〇年間この運命から逃げ続けてきたとも言えるだろう。そのツケがまわってきたのだ。そして、その支払い方法は一括払いしか選択肢がないのだ。
正一は大きく息を吸い込んでから、言った。
「たぶん私の命と引き換えに、あの女を止めることになるでしょう」
幸介は沈黙した。祐美もだ。
六六〇ccエンジンの音と、タイヤと道路の摩擦音だけが聞こえていた。急に、会話が途切れたせいで、より沈黙が重たげに感じられる。その状態が一〇秒ほど続いた。
道路は緩やかなカーブが続いていた。右側がカエデや、カラマツ、ケヤキなどの樹木が密生していて、森林の壁のようになっている。
正一が言った。
「私がいなくなったら、志津夫の面倒を何とか見てくれませんか?」
三秒ほど沈黙があった。短くて長い沈黙の後、幸介が答えた。
「引き受けよう」
祐美も運転しながら、口をはさんだ。
「引き受けます」
「おまえは黙ってろ」と幸介。
「何でだよ」
正一は、また少し苦笑した。
この親子と知り合えたのは幸運だった。おかげで、孤独な放浪者ではなくなったからだ。後を託せる人物が白川幸介のような人物である点も、ありがたかった。盤石の心強さだ。
正一は、二人に対して言った。
「幸介さんにも、祐美さんにもお礼を言っておきます。ありがとう。これで不始末の借りは返せるでしょう……。そろそろ三輪山だ。吉報を待っていてください」
幸介が答えた。
「ええ。頼みます。まったく、あの真希という女は危険すぎる。まるで腹の中に、けだものが棲《す》み着いているような印象だった。たぶん、あの女なら、我々に始末されても仕方のないような過去があるのでは? そんな気がしたが……」
「たぶん、そうでしょう。だが、そうでなくとも、この罪は私が背負います」
少し沈黙が長引いた。幸介が、何とか激励の言葉を選ぼうとしている気配が伝わってくる。だが、結局は平凡な言葉しか選べなかった。
「……では、頑張ってください」
「……ええ。では、これで」
正一は通話ボタンを押した。携帯電話をダッシュボードに載せる。
たぶん、これが幸介との最後の会話になるだろう。
幸介は楽しいお喋《しやべ》り相手だった。二人で、よく考古学談義、古代史談義に耽《ふけ》ったものだ。また、幸介からは伯家流神道についても教わった。ただし、正一は体力が弱っているため、内清浄などのハードな行法を我が身で試すことはできなかったが。
正一は目を閉じた。記憶が再生され始める。
一〇年前のことだ。正一は失踪《しつそう》後、カムナビを呼ぶ実験を行った。これを阻止するためにも、どんなものか試したのだ。
実験場所は、山梨県甲府市の近くにある帯那川の河原だった。
そして深夜の河原に、天空と地上を結ぶ光の柱が出現した! オルバースのパラドックスが破れたのだ。
光条は揺れ動きつつ、河原の石を次々に溶かし、川の水を沸騰させた。辺りは熱気と湯気に包まれ、サウナ風呂《ぶろ》と化した。溶けた石の中には、高純度のブルーガラスになってしまったものもあった。
ちょうど、その河原に迷子のダックスフント犬が居合わせたのは、不幸な偶然だった。犬は黒こげの焼死体になり、首輪の十四金のバックルも完全に溶けてしまった。
一夜明けると、近辺の誰かが謎の高熱発生≠通報したらしく、警察が来て、現場検証を行った。地元のマスコミも取材に来ていた。
だが、正一は警察やマスコミは避けたかったので、その日は遠くから見るだけにしておいた。そしてカムナビを呼んだ翌々日、その威力を確かめるため、現場に足を踏み入れた。
そこで出会ったのだ。
伯川神社の宮司である白川伸雄と、その親戚《しんせき》の白川幸介に。
河原で邂逅《かいこう》した瞬間、正一は相手に強いチ≠感じた。思わず立ちすくんだものだ。
相手も同じものを感じたらしい。幸介は真っ直ぐ、正一を目指して歩いてきた。そして話しかけてきた。最初は、お天気の話題だった。
やがて幸介は、「古代ではウロコ肌が神紋とされていた話題」を持ち出した。
その時、正一は感電したような過剰反応を見せてしまった。
さらに幸介は「蛇神信仰」、「カムナビ山の入山禁止タブー」、「日本やミクロネシア諸島のカムナビ山に見られる、説明不可能な高熱発生の跡」、さらに「古代日本語のカムナビが、謎の光と熱であったという仮説」なども持ち出した。次いで、それらとこの河原で起きた高熱発生の事件とを結びつけて、説明した。
正一は動揺し、頬をひきつらせていた。
この男は何者だ? なぜ、こんなことを詳しく知っているのだ? しかも、なぜ、こんな話題を自分に対して持ち出してくるのか?
やがて、幸介は確信に満ちた顔で言った。
「あなたでしょう? カムナビを呼んだウロコ肌の持ち主は? その手袋を取って、手を見せてくれませんか?」
正一は、さらに動揺した。脱力感が下半身に生じた。その場で凍りついてしまった。
同時に、幸介の形相が殺気立ってきた。彼は正一を危険人物と見なして、殺す覚悟を決めたようだった。両手の親指と人差し指を正三角形に組み合わせたポーズを取った。
だが、「葦原正一」という名前を聞いて、傍らにいた白川伸雄が「ちょっと待て」と幸介を止めたのだ。
大変な僥倖《ぎようこう》だった。伸雄は、正一の著作を読んでいたのだ。かねがね考古学者の葦原正一には尊敬の念を抱いていたという。
おかげで正一は命拾いをした。慣用句をもじるなら「学問は身を助ける」といったところだ。
そして正一と幸介、伸雄の三人は、じっくりと時間をかけて話し合った。その結果、敵対する人間同士ではないと、お互いに確認し合ったのだ。
その後、正一と白川家一族との間には奇妙な同盟が結ばれた。お互いに干渉はしない。だが、古代の秘密を封じるためならば、協力はするという関係だ。自然に、そうした協定が生まれた。
目を開けた。意識が一〇年前から現在へ戻ってくる。
正一は背筋を伸ばし、気合いを入れ直そうとした。いつまでも思い出に浸っているわけにはいかない。
彼は顔をあげた。
「ん?」
祐美が振り返り、
「何です?」
正一はミラパルコのサイドウインドウを下げた。暑い風が吹き込んでくる。上空で特大のヘアドライヤーが稼動しているみたいだった。
だが、正一にとっては眠気を払う心地いい風だった。何しろ彼は体温がほとんどないからだ。変温動物と同じ状態のため、エアコンの冷風を浴び続けると、どうしても眠くなってくる。
その音≠ヘ、すぐに耳に飛び込んできた。
巨大な和太鼓を一発、叩《たた》いたような音。雷鳴と間違えそうな音。だが、水平に伝わってくる音だ。
祐美が辺りを見回して、
「今のは?」
正一が言った。
「ちょっと車を停めてくれ」
直ちに祐美がブレーキを踏んだ。ミラパルコが徐々にスピードを落としていく。路側帯に停車した。
「これは、もしかすると……」
正一は口走りながら、車の外に出た。すぐ四つん這《ば》いになり、片耳を地面に押し当てた。
また聞こえた。地面が超巨大ティンパニのように震えたのを、頭蓋骨《ずがいこつ》で感じたのだ。単発の振動音だ。明らかに地震とは異なるものだった。
祐美も、正一の様子を見て、自分も車から降りて、彼の真似をした。事情を知らないものが見たら、車体の下をのぞき込んでいる男女二人組だと思われただろう。
また震動が来た。
祐美が目を見開いた。
「聞こえる」
「ああ」と正一。
「これは何?」
「あれかもしれない。続日本後紀《しよくにほんこうき》にも出てくる、奈良県の楯列陵《たてなみのみささぎ》が大きな音を出したという話だ。古墳が出す怪音だ。あれは実話だったんだ……」
正一は立ち上がり、夜空を見上げた。
三輪山のシルエットが、そこにそびえていた。古来から「三諸《みもろ》の神奈備《かむなび》」などと表記されてきた山だ。人間の営みを超然と見下ろし続けてきた神の火の山、カムナビ山。
正一の唇の線が歪《ゆが》み、歯がむき出しになった。表情が変わっている。
その山腹の森林地帯に、何かが見えたのだ。麓《ふもと》から二合目付近だ。
それは肉眼では捕捉《ほそく》できなかっただろう。だが、正一の額の裏の液晶モノクロ画面≠ノは、小さな影が移動している様子がかすかに映ったのだ。
実は、赤外線は可視光線よりも透過力が強いのだ。だから、遠方を観察する場合は、赤外線の方がより鮮明な画像が得られる。また、その透過力の強さゆえに、枝葉などが視界を遮っていても、時には見通すことも可能だ。
現在の正一のピットは蛇のそれと同等の性能だった。摂氏〇・〇〇一度ぐらいの温度変化をも捉《とら》えられるのだ。ゆえに、その人影らしきものの位置を見破ることができた。
また、もう一ヶ所、三輪山の西側の中腹にも、何かが見えた。薄い光のようだ。だが、今、正一が立っている場所からは角度が悪いらしく、細部は確認できなかった。
ふと隣を見た。
祐美がやはり同じ方向を凝視していたからだ。ただし、彼女の場合、見えているわけではなく、何かを感じ取っているらしい。たぶん励起したチ≠ェ、祐美のレーダーになっているのだろう。
正一は言った。
「どうやら、ぎりぎりで追いつけそうだな……」
また、桜井市に異音が轟《とどろ》いた。
11
そこは三輪山の南側の山腹だった。道らしい道はなく、ひどく登りにくい。だが、鉄条網で覆われた禁足地へは、こちらの方が最短ルートのはずだった。
志津夫は五〇センチほど断崖《だんがい》になっているところを先に這い上がった。そして下にいる真希から草薙剣の入った箱を受け取る。それを地面に置くと、今度は真希に手を差し伸べた。
真希が手を握り返してきた。彼女は、例の指だけが露出する革手袋をしている。お互いの指同士が触れ合った。
志津夫は瞬《まばた》きした。
真希の手が爬虫類《はちゆうるい》のように冷たいからだ。もしかすると彼女も父、正一と同じ症状が始まったのかもしれない。体温を失い、温血動物の領域から外れているのかもしれない。
志津夫は真希を引っ張り上げてから、すぐに手を離そうとした。
だが、真希は離さない。逆に指をからめてくる。
志津夫は思わず、振り返った。二人ともハンディライトを持っており、光輪がお互いの顔を照らす。
真希が上目づかいになって、妖艶《ようえん》に微笑んだ。
「いいじゃない。手ぐらい、つなぎましょうよ」
志津夫は無言だった。
すでに真希の手は死人の冷たさに近づいているのだ。さっきまで忘れていた不安な感情が蘇り、背筋を登ってくる。志津夫の身体も放っておけば、ウロコ肌のまま冷血動物に変わっていくかもしれないのだ。
真希が不審げな目になり、
「どうしたの?」
「いや……その……」
志津夫は少し口ごもった。だが、適当な口実も思いつかない。結局、本当のことを言った。
「君の手が冷たくなってるんだ。それで、びっくりしたんだ」
「え?」
真希は自分の右手に、左手で触れた。それから頬に触ったり、首筋に触ったりもした。最後は目の下にも触れた。例のピット、赤外線視覚器官が生まれるかもしれない箇所だ。
志津夫も指で、自分の目頭に触れた。ありがたいことに体温が感じられる。思わず、安堵《あんど》のため息が漏れた。
だが、根本的な動揺は消えなかった。今の真希の状態は、自分の将来の姿かもしれないからだ。
真希が再び冷たい手で握ってきて、言った。「大丈夫よ」
「大丈夫だって?」
志津夫は問い返した。
「常識なんか捨てて」
「そんなこと言ったって……」
「なってみれば、意外と平気よ」
「そんなこと言ったって……」
志津夫は再度、手を振り払った。理性の電源を入れ直そうとする。己を取り戻し、自分の立脚点を思いだそうとした。
「言っておくけどね」
「何?」
真希は微笑む。
志津夫は息を吸い込み、言った。
「ぼくは元に戻る方法を探しているんだ。治療法を探しているんだ。もちろん古代の真相も知りたいさ。だが、ウロコは要らないし、ピットも、赤外線の視力も、妙な力も要らないんだ。ぼくが欲しいのは真相と治療法だ……。だけど、もしかすると君は違うのかもしれないが……」
志津夫は相手を不審な目で見る。
真希は笑った。だが、笑ったのが演技なのか本心なのか、判然としない。
「そうね。確かに、あなたに比べると、私は許容量が大きいみたいね。まあ、一つは慣れの差ね。あなたは昨日、ウロコ肌になったばかりだから」
「そういう問題か?」
「そういう問題よ。たぶん、あなたも段々と慣れていくわ」
「あまり、慣れたくないね」
「つまらない男ね」
「え?」
志津夫は、やや怒気をむき出しにしてしまう。脳裡《のうり》で、これは挑発だ、と囁《ささや》く声がする。だが、わかっていても、男としては美女の嘲《あざけ》りに反応してしまうのだ。
真希は言った。
「私は人間を超えつつあるのかもしれないのよ。人間以上の何かに進化しようとしているのかもしれない。最終的には、私の世界が、いいえ、私たちの世界がやってくるかもしれないのよ」
彼女は淡々と喋《しやべ》った。明日の天気は晴れね、といった台詞《せりふ》を喋る感じだ。自明のことを語っているかのような雰囲気だ。
「君は……」
志津夫がそう言いかけたが、言葉にならない。
以前から感じていたことだが、真希はこの世に怨念《ルサンチマン》を抱いているタイプだ。そういう人間は世界を一新することに情熱を燃やすものだ。そして、実現のために具体的な力≠欲するものだ。
志津夫は言った。
「神坂峠で、君は言っていたな。日見加村の連中に復讐《ふくしゆう》してやる、と。カムナビの秘密を手に入れたいのも、それが本当の目的なんだな? あの光と熱で村を焼く気か?」
真希は笑みのまま、答えなかった。
志津夫は片手を振り、言った。
「悪いが、それには協力できない。いや、それどころか、君がそんなことをやろうとしたら、ぼくは阻止しなければならない。君の気持ちもわかるが、そこまでする必要があるとは思えない」
「ええ。そう言えば私、そんなことを言ったわね」
彼女は嫣然《えんぜん》と微笑んだ。そして顔を寄せてきた。甘い香りが漂ってくる。
「神坂峠で、私はこうも言ったのよ。私の愛人にしてあげてもいい、と。あの言葉はまだ有効なんだけどな」
志津夫は、本能的な反応を示してしまう。彼女の豊かな胸元を見て、生唾《なまつば》を飲み込む。真希は、男の妄想を刺激するのにぴったりのプロポーションだからだ。
志津夫は首を振り、邪念も振り払おうとした。色仕掛けで自分を見失うほど、ぼくは落ちぶれちゃいないぞ。第一、彼女の肌も、ぼくの肌も人間離れした状態だ。あまりロマンティックなベッドシーンにはなりそうもないだろう。
志津夫は息を吸い込んで、
「やっぱり、君はぼくを利用したいだけか? カムナビの秘密を突き止めるのに、ぼくが必要だから、神坂峠から連れ出したのか? 治療法を探すというのは口実か?」
「いいえ。治療法があるかないかは、まだわからないわ。それは、これから確かめることよ。でも……」
「でも、何だ?」
「あなた、覚悟はある? もしも治療法がないとわかったら、その時はどうするの?」
志津夫は言葉に詰まった。
彼女の言葉は、耳にリベット打ちの釘《くぎ》のように深く突き刺さった。それは志津夫にとっては、学者人生の完全な終わりを意味していた。
真希はまた冷たい手を、志津夫の手に重ねてくる。志津夫も振り払わなかった。
真希は微笑し、
「ものは考えようよ。その時は、安月給の学者先生に戻らなくてもいいということよ。予備校講師のアルバイト、地道な調査、論文書き。そんな日常に戻らなくてもいいのよ。新しい世界が、私たちの前に開けると思えばいいのよ。新しい世界が」
志津夫は気づいていた。これは誘導尋問のようなものだ。だが、そうわかっていても、聞き返さずにはいられない。
「どんな世界だ?」
「私と一緒に、すべての真実を手に入れるのよ……。たぶん、それがわかった時には、今までの価値観は崩壊する。今までの価値観や世界観はすべて滅んで、新しい世界がやって来る……」
真希は陶然とした表情で言った。彼女の瞳《ひとみ》が、カムナビに匹敵するほどの輝度で光り輝いているようだった。
志津夫は氷像と化したように動けなくなった。真希の台詞には魅了されるものがあったからだ。
ふいに、志津夫は神坂峠の洞窟《どうくつ》神社での出来事を思い出した。洞窟に入った時、ヴィジョンを観たのだ。三六〇度すべての方向に映像が展開した。
セルリアンブルーの空。高さ一〇〇メートル前後の円錐形《えんすいけい》の山。それを人工的に加工して、階段型に造形したような構造物。段の垂直な部分は多数の石で固めてある。
それが真相の一端だった。縄文時代から弥生時代にかけてのカムナビ山とは、円錐形の山を階段型に加工したステップ式ピラミッドだったのだ。志津夫はその姿を、時空を越えて目撃したのだ。
志津夫は、あのヴィジョンに激しく惹《ひ》きつけられてしまったのだ。古代から連綿と続く蛇神信仰の源泉や実体を知りたい、と渇望した。隠されてきた真実を暴き出したくてたまらなくなった。
だからこそ、ブルーガラス土偶に触れて、自らウロコ肌に感染する危険まで冒したのだ。毒を食らわば皿まで、という古いことわざが頭をよぎる。自分で始めたことなのだ。最後まで追及してみるべきだ。
その思いがあらためて、強くなってくる。真実に触れることが出来るなら、ウロコ肌やピット、体温の低下ぐらい、大したことではないとも思えてくる。真希の熱情に感染して、少し酩酊《めいてい》した気分だった。
ふいに真希が、志津夫の顔に手を伸ばしてきた。彼女の顔が接近してくる。
志津夫は、相手の瞳に映った自分の顔を見た。凹面鏡の原理で歪《ゆが》んだ顔だ。何かに取り憑《つ》かれたような表情。
柔らかな唇の感触。上質のホットケーキの生地の感触。それにかかったシロップの甘さと香りがする。
志津夫は目眩《めまい》を感じた。お互いの唇を離そうとしても、できない。発掘した土偶や土器の破片を接着するのに使うエポキシ樹脂で、くっつけられたみたいだな、と突飛な比喩《ひゆ》を頭の片隅で考えていた。
12
S当番(SATELLITE、衛星担当官)は雑誌をめくっていた。
場所は気象庁の自動販売機コーナーだった。通路の外れにあり、ベンチと灰皿が備え付けてある。周囲には人の姿はなく、寂しい雰囲気が漂っている。
S当番はベンチに座り、缶コーヒーを飲んでいた。一口飲むたびに、ため息をついている。頭の中は、謎の超異常気象のことで充満しているのだ。
彼の膝《ひざ》の上には、ポピュラーサイエンス誌「ガリレオ」があった。夕食時に外出した時、書店で買ったものだ。
S当番は、目次のタイトルを目で追ってみた。
『インフルエンザ・ウイルスは宇宙からの侵入者か?』
『ホロフォニクスは海洋開発を変える!』
『ポリウォーターは実在した! ただし超高圧、超低温の環境下に』
『ボイジャー2号は今、太陽系外縁に到達』
『光は、全宇宙における電磁波のデファクトスタンダード(事実上の標準)』
『天文学者の頭痛のタネオルバースのパラドックス≠ヘ、本当に解決したのか?』
だが、手でページをめくっていても記事の内容が、彼の頭には入ってこない。結局、雑誌を膝の上からベンチに追いやった。また缶コーヒーを一口飲む。
さっきからS当番は苛立《いらだ》ちのあまり、爆発しそうだった。身体中を掻《か》きむしりたくなる。全身の皮膚が水虫に冒されたような気分だ。
謎の熱は、どこから来るのか?
その問いが頭にこびりついて、離れない。
熱源は何なのか?
そう問い続ける。
だが、答えは出ない。
自分の脳みそを雑巾《ぞうきん》みたいに絞り尽くして、追いつめているような感じだった。こんな状態が続いたら、遠からず発狂しそうだ。
彼は何とか別の情報で気分を変えようと思った。またポピュラーサイエンス誌「ガリレオ」を手に取る。ページをめくり、活字を目で追ってみた。
ふいにページをめくる手が止まった。
S当番の顔色が変わっていた。目が大きく見開かれていく。
いつの間にか片手でコーヒーの缶を握りしめていた。徐々に握力が加わり、スチール缶を変形させていく。
最後には、スチール缶を完全に握り潰《つぶ》してしまった。コーヒーの茶色い溶液が手からベンチに滴り落ちた。
やがてS当番は顔を上げた。目が虚《うつ》ろで、その視線は何も見ていない。呟《つぶや》き始める。
「これが関係あるのか……。そんなバカな……。おれはいったい何を考え始めたんだ……。そんなバカな……。おれは、どうかしてるんじゃないのか……」
13
長野県東部には南佐久《みなみさく》郡|臼田《うすだ》町というところがある。
その臼田町の中心部から国道一二一号線を通って南西に向かい、大曲川の上流を目指すルートを登っていく。すると、山道の途中でT字路の分岐点にぶつかる。
スキー客たちは、このT字路を必ず右に曲がる。蓼科《たてしな》アソシエイツ・スキー場につながる道だからだ。
だが、このT字路を左に曲がると、度肝を抜かれるような構造物に出くわす。
巨大なお皿がモーター音の唸《うな》りと共に、立ち上がってくる光景が見られるのだ。そのお皿の面積ときたら、上で小学生の草野球試合ができそうなほどの広さがある。
直径六四メートルの可動式パラボラアンテナだ。世界でも指折りサイズの大きさである。
ここが宇宙科学研究所の臼田観測所だ。
現在、世界にはNASA(アメリカ航空宇宙局)が打ち上げた探査機「ボイジャー2号」からの情報を受信する設備が、三ヶ所ある。オーストラリアにあるNASAのキャンベラ観測所、オーストラリアのパークス天文台、日本の宇宙科学研究所の臼田観測所だ。
何しろ「ボイジャー2号」は、最終的には、百数十億キロの彼方《かなた》から情報を送信してくるのだ。その微弱になった電波を捉《とら》えて、解析しなければならない。そこで複数のステーションでの観測結果を重ね合わせて、信号の雑音に対するS/N比を向上させる必要があるのだ。
ボイジャーの場合、電波の波長はSバンドとXバンドを使用している。Sバンドは波長十三センチで、電子レンジにも使われているマイクロ波帯だ。Xバンドは、そのSバンドの四分の一の波長だ。
観測所では旧式のコンピュータが並び、モニター・スピーカーが雑音を発していた。スピーカーは規則的なリズムを奏でており、それが人工的な電波であることを示している。
旧式のアナライザー機器の画面が、波長スペクトルを折れ線グラフ形式で表示していた。これも特定の波長帯のところだけ、折れ線の山が高くなっているので、人工の電波であることがわかる。
ここに見学に来る学生たちは全員、驚く。旧式のコンピュータや、旧式の計器が多いからだ。七〇年代にNASAがここに運び込んできたコンピュータに至っては、背の高い大きなラック二台に入った外形で、いかにも骨董品《こつとうひん》めいた感じだ。
「今時、こんなもの使ってるんですか!」と学生たちは必ず言う。
だが、実は、これでいいのだ。旧式の機械は確かに扱いに手間がかかるが、それを除けば最新機種とほぼ同等の性能を発揮してくれるからだ。ならば、今まで使い慣れたシステムの方が効率がいいわけだ。
逆に、研究現場に最新型の機械を入れても、それが有効に働いてくれた場面など、滅多に見られないものだ。つまり、人間が最新機種を使いこなせるようになるまで、時間がかかるからだ。そして、よりよい研究結果を出せるようになるまでは、さらに時間がかかる。
つまり、最新機種の導入は、かえって研究効率を落としてしまうのだ。そうした現実を、現場の人間は経験で知っているわけだ。
というわけで、臼田観測所の所員たちは、一般社会から取り残された骨董品機種と、最新機種とを均等に使いつつ、データの記録を採り続けてきた。
今、観測所は普段と違い、喧噪《けんそう》に包まれていた。
所員たちは「故障だ」「いや、そうじゃない」などと盛んに怒鳴り合っている。全員、顔から湯気が出そうな雰囲気だった。両手に記録用紙の束を抱え、口にサインペンをくわえ、血相を変えて、どこかへ駆け出していく者が二人いた。
……彼≠セけは、頭を冷やそうと窓を開けた。
山地の空気が頬に心地よかった。見上げると巨大パラボラアンテナのシルエットがある。星空をバックにそびえ立っていた。
彼≠ヘ呆然《ぼうぜん》とした表情で、自問した。そんなことありうるのか[#「そんなことありうるのか」に傍点]、と。
しかし、オーストラリアのキャンベラ観測所も、パークス天文台も、ほぼ同じ受信結果だったのだ。信号を重ねてS/N比を上げるまでもないほどだった。
ふいに胸ポケットの携帯電話が鳴った。
彼≠ヘ電話機を取り出し、返事した。
「はい」
「こちらは東京の気象庁。臼田観測所、直ちに応答せよ」
「何だ、おまえか」
「そうだ。久しぶりだな」
相手の名前を訊《き》くまでもなかった。声を聞けば、幼なじみだとわかる。今は気象庁のエリート、気象予報官のS当番になった男だ。
彼≠ヘ訊いた。
「何の用だ? まだ、スキーシーズンには早すぎるぞ」
「ああ、もちろんだ。別の用事なんだが……」
「何だ?」
「それがな、何て言えばいいのかな……」
「何だよ。はっきり言え」
「つまりだな……。最近、そっちで何か変わったことは起きてないか? たとえば、ボイジャー2号が妙な観測データを送ってきたとか……」
「何!」
彼≠ヘ大声で叫んだ。周りの人間が一斉に振り向くほどのボリュームだった。
「どうしたんだ?」と気象予報官。
彼≠ヘ周囲を見回すと、マイクの部分を手で覆った。声を潜めて、訊く。
「おまえ、どうして、それを知ってるんだ?」
「じゃ、何かあったのか?」
「その前に、どうして、おまえがそれを知ってるんだ?」
「いや、知ってるわけじゃなくて、当てずっぽうなんだ。説明すると長くなるから、後回しだ。まず、そっちの情報を教えてくれないか?」
彼≠ヘ生唾《なまつば》を飲み込んだ。首を振って、
「……悪いが、言えない。まだ部外秘だ」
「……どうしてもダメか」
「ああ」
「おれと、おまえは幼稚園から高校までずっと一緒だったな」
「ああ」
「それでもダメか」
「それと、これとは関係ない」
「ちくしょう」
幼なじみの気象予報官は唸った。電話の向こうから、悔しそうな雰囲気が伝わってくる。
だが、彼≠ノも観測所所員としての守秘義務というものがある。どうしても言うわけにはいかないのだ。
気象予報官が言った。
「じゃ、当たり障りのないことを一つだけ教えてくれ。それなら、いいだろう?」
「質問によるな」
「じゃ、これだけ教えてくれ。今、望遠鏡で夜空を観察したら、その異変か何かが起きているのを目で確認できるか?」
彼≠ヘ少し迷った。だが、この程度なら構わないだろうと思い、答えた。
「いや、できない」
「……そうか。できないのか。だが、ボイジャーは捉えているんだな? すると、そっちやNASAは今、大騒ぎなんだな?」
「質問は一つだけのはずだぞ」
14
(葦原志津夫の研究ノートより、抜粋)
大急ぎで、このノートを修正しておこう。名古屋市から奈良の三輪山に着くまで、車で二時間ほどしかないからだ。
やはり三世紀の邪馬台国は、亜熱帯気候のような状態だったらしい。
そして、今それが再現されているのだ。しかも、筆者自身に、それは付いてまわっているのだ。あるいは草薙剣《くさなぎのつるぎ》に付いてまわっているのかもしれないが。
熱源はまだ不明だ。しかし、三輪山に眠る何かを暴けば、その正体がわかるのかもしれない。答えは三輪山まで持ち越しだ。
実のところ、まだ信じられない気分だ。一学者の妄想かもしれなかったことが、これだけ大々的な規模で現実になるとは! しかも、筆者自身が当事者だったとは!
今、車の窓から、夜空を見上げたところだ。分厚い入道雲があちこちに湧き出している。異常な熱気が上昇気流を生みだしたせいだろう。
たぶん、これで年輪が生み出す矛盾も説明できるかもしれない。
年輪年代測定法というものがある。
木材の年輪から、その年輪ができた年を割り出す方法だ。木の年輪幅は気温や雨量、日照時間の影響で一年ごとに違う。そこで、伐採年のわかっている現生木を基準点にして、年輪のパターンが共通する古い木材と照合していき、さらに古い発掘木材へとデータをつないでいくやり方である。その結果、現在はヒノキなら紀元前九一二年まで年代を特定できる。これは縄文晩期から弥生初期の時代に当たる。
つまり、この方法で木材の年代を測定できるし、弥生時代以降の気候も、この方法で測定できるのだ。
ところが、弥生時代から古墳時代にかけて、亜熱帯気候があったような広い年輪幅などは、明確に現れていない。この矛盾は、どう説明するべきかと思っていた。
だが、今は説明できる。
つまり、日本列島全体が亜熱帯気候だったわけではない。今現在、起きているのと同じような局部的な亜熱帯だったのだ。
局部的な気温の上昇が起きると、どうなるか? 空気が膨張し、上空へ昇っていく。そして上空では入道雲が発生しやすくなる。
だから、気温は高いが、曇り空なので、日照時間は短くなる。結果として樹木は太陽光線を浴びる時間が少ないため、年輪幅はあまり生長しなかった。それで亜熱帯気候だった証拠も、年輪にはなかなか残りにくかったのだろう。
では、蛇神たちが古代日本に局部的な亜熱帯気候を呼んだ理由は、何だったのか?
それについても、仮説を思いついた。
古代は世界中に蛇神信仰があった。これが最古の精霊信仰なのだ。
そのため、地球上に降りてきたアラハバキ神たちも、古代人のリクエストに応《こた》える必要を感じたのだろう。だから、彼らは蛇の遺伝情報を取り込み、本物の蛇神になってしまったらしいのだ。
ところが、蛇は変温動物であり、冬は活動力が鈍り、冬眠する。従ってアラハバキ神や、彼らに感染した人間も、蛇の遺伝情報を共有するため、体温を失ってしまい、冬は活動が鈍ってしまうはずだ。
だから、それを防ぐために、彼らはマイルドなカムナビを呼んで、局部的な亜熱帯気候を生み出したのではないか。
(筆者は先ほど、身体が蛇同然の冷血動物の状態になってしまった父と、再会したばかりだ。恐るべきことだ! そして筆者も今、感染中なのだ。何としても治療法を探さねばならない!)
やはり奈良県桜井市の三輪山がキーポイントだろう。
ここが、日本最古の蛇神信仰の発祥地である可能性が高いからだ。
古事記や日本書紀にも再三再四、三輪山の神は蛇神である、と繰り返し書かれている。これは古代からの常識だったようだ。
三輪山周辺にも古来、「明神の巳《みい》さんが、三輪山を七巻き半している」という伝承がある。遠い昔から人々が円錐形《えんすいけい》の山に、とぐろを巻く蛇をイメージしていた証拠だろう。
古事記のオオクニヌシノ神のエピソードにも、興味深いものがある。
オオクニヌシノ神は相棒だったスクナヒコナノ神を失って気落ちしていたという。そこへ現れた第二の援護者が蛇神であり、三輪山のオオモノヌシノ神だった。その蛇神は、「記紀」の叙述によれば「光《てら》して、より来る神」であったという。
三輪山で、何か強烈な光が目撃されたのではないだろうか。そして日本の古典に「蛇神=光り輝くもの」という等式が残されたようだ。
これと符合するのが、秋田県|鹿角《かづの》市の黒又山《くろまたやま》(通称クロマンタ)である。ここも、きれいな円錐形の山であり、カムナビ山の条件を満たす山なのだ。
黒又山には、不思議な事実がある。昔も今も、黒又山だけは、きれいな円錐形を保っている点だ。周辺の他の山は風化して、どんどん頂上の形が崩れていくのに、黒又山だけが例外なのだ。
この黒又山を調べた研究チームがある。日本環太平洋学会だ。同志社大学や秋田大学、東北学院大学の教授などから構成されたチームである。日本環太平洋学会は、古代日本にピラミッド文化が存在した可能性を探っているグループである。
調査によれば、黒又山の頂上はデイサイト(石英安山岩)と呼ばれる岩盤だった。しかし、付近の山のデイサイトは柔らかく、そのせいで風化し続けているのに対し、黒又山のデイサイトは異様に硬く、ハンマーを使わないと試料採取ができないほどだったという。この硬いデイサイトが、山の風化を防いでいたらしいのだ。
だが、なぜ、黒又山だけが、これほど例外的に硬い岩盤になっているのか? 一つ、考えられるのは、岩盤の表面に高熱処理を施せばガラス結晶質になるので、風化しにくくなる、という説だ。
しかし、その高熱の原因はと言うと、まったく説明できないのだ。黒又山には火山噴火の形跡はないし、溶岩の跡もない。もちろん山火事ぐらいでは、岩盤がガラス結晶質になることはない。
これと似たような実例が、ミクロネシアのパラオ島にもある。ア・ケズ≠ニ呼ばれる禿《は》げ山だ。
これらの山には、台形状の山頂部を中心にして四方へテラス状の張り出しがあり、その下にも何段ものテラス状の張り出しがある。全体に階段形であり、どう見ても自然の山には見えず、人工的なステップ式ピラミッドの雰囲気が漂っているのだ。
そして、これらも昔から風化せず、形が崩れない山々である。
ア・ケズ≠フ特徴は、頂上付近の岩盤表面に、高熱によって溶けた跡が明白に残っている点だ。だが、これも火山噴火の形跡はなく、溶岩の跡もない。やはり高熱が発生した原因は不明である。
これらの点でア・ケズ≠ニ、黒又山とはよく似ているのだ。
さらにミクロネシアのパラオ島には、こんな言い伝えがある。
「大昔ア・ケズ≠ナは巨大な蛇が焼き殺された。その時の熱で、山の岩盤に溶けた跡が残った」と。
ここにも蛇の伝説≠ェ顔を出すのだ。
山頂で噴火以外に、これほどの高熱が発生する原因は何なのか? 環太平洋学会に参加した理工系の専門家たちも、この問題には首を捻《ひね》るだけで答えられないそうだ。
カムナビ山。
神の火の山。
いつまでも風化せず、きれいな円錐形を保ち続ける山。
日本各地に残るそれらは、今もほとんどが神域として、入山禁止のタブーで守られている。三輪山にしても、禁足地と呼ばれる部分は鉄条網で囲まれて、一般人立入禁止である。
それゆえカムナビ山は、学者たちも調査できなかった未知の領域だった。
だが、秋田県の黒又山の場合は、かつてのタブーが忘れ去られたと思われるケースだ。言うならば、おあつらえ向きの調査可能な素材が見つかったわけだ。
そこで、この黒又山を調べてみたら、山頂に原因不明の高熱発生の跡があったのだ。謎の高熱が岩盤表面をガラス化させて、カムナビ山を風化から守り、現在まで、きれいな円錐形を維持していたのだ。
これは何なのか?
どうやら、説明不能の超常現象が古代日本や古代ミクロネシアに存在したらしい。また、これらは太平洋沿岸一帯に、蛇神信仰と共に存在していたものであるらしい。
もしも高熱が発生した瞬間が目撃されていたら、それは、どんな風に見えただろうか?
実は、筆者は、もう見てしまった。
それは揺れ動く光の柱だった。巨大な光り輝く蛇が身体をクネクネさせているかのようだった。
直後に、熱田神宮の拝殿屋根の銅板が溶けて、流れだした。その点から見ても、かなりの熱量だろう。
だが、光と熱の発生源はまだわからない。
それでは、記紀神話に隠された真相について、仮説を立ててみよう。
(ただし、材料となるデータが不足しているので、ここから先は筆者の想像力の産物が多くなる。そのことは念頭に置いてほしい)
二世紀の近畿地方は「銅鐸《どうたく》文化」だった。だが、三世紀になると「北九州・鏡文化」が東へ東へと侵略してきて、近畿地方を征服し、「銅鐸文化」を滅ぼした。
これが「神武東征神話」の元になった事件であり、魏志倭人伝に記録された「二世紀・倭国大乱」に相当する事件だったのだ。
それでは、神武イワレヒコがやってくる前は、誰が大和盆地の支配者だったのか?
記紀神話によれば、この時代の大和盆地にはもう一人の天孫であるニギハヤヒという人物がいた、と記述されている。
このニギハヤヒは、神武イワレヒコよりも先に、神々が住む高天原《たかまがはら》から大和盆地に降臨したという。そしてニギハヤヒは、大和盆地の原住民トビノナガスネヒコの妹、トビヒメ(紀ではミカヤシキヒメ)を妃として、物部氏の祖であるウマシマジが産まれた、とも書いてある。
現在も、大和盆地の北端には「|登美ケ丘《とびがおか》」という地名が残っている。その辺りから「富雄川《とみおがわ》」が大和盆地中央に向けて、流れている。おそらくトビノナガスネヒコなる人物は、この辺りを拠点としていたのだろう。
弥生時代の地名が、今も使われている実例は豊富にあるので、これらの地名もその可能性が高いと思われる。また、弥生時代は地名イコール人名だった例も多かったことが、記紀などにも記述されている。
おそらく二世紀末の大和盆地では、ニギハヤヒが政治的首長となり、その義兄の蛇巫《へびふ》ナガスネヒコが法王の地位にいたのだろう。
前述したが、古代日本語で「トビ・トベ」と言えば、「蛇・蛇神」を意味する言葉だ。
そして古代日本語には他にも「蛇」や「蛇神」を意味する、「ナガ・ナギ」という言葉もあった。草薙剣も、元は「強力な蛇の剣」という意味であろう、という説が広辞苑にも書かれている。
つまり、トビノナガスネヒコとは、蛇神を意味する「トビ」と「ナガ」の両方を名前に持つ男だったわけだ。
では、何ゆえ、こんな名前がついたのだろうか?
答えは、彼の正体が蛇巫王《へびふおう》であるからだろう。アラハバキ神に感染した、蛇のウロコ肌を持つ男だったからであろう。
当然、ナガスネヒコは超常現象を起こし、カムナビを呼ぶ力を有する人物だったのだろう。
さて、その大和盆地へ神武イワレヒコがやってきた。
前述したが、神武イワレヒコの正体は、大和盆地の東南の磐余《いわれ》地方に住み着いた豪族だと思われる(紀によれば、磐余地方に住み着く前はヒコホホデミという名前だった)。
時代的には、女王ヒミコ登場以前の二世紀の人物であり、「倭国大乱」の時に勇名をはせた豪族であろう。あるいは、イワレヒコは北九州軍の司令官だったかもしれない。
だが、イワレヒコ自身は生前に、天皇や、スメラミコト、オオキミなどの称号で呼ばれたことはなく、一豪族にすぎなかったようだ。
イワレヒコ軍は、今の東大阪市の付近を拠点にして生駒山《いこまやま》を越えて、大和盆地に攻め込もうとした。だが、この初戦は惨敗に終わった。
この時、イワレヒコの兄、イツセノミコトが戦死している。死ぬ間際にイツセノミコトは、こう言ったという。「私は日の神の子孫であるのに、日に向かって戦ったのが良くなかった。だから、迂回《うかい》して日を背にして、敵を討とう」と。
そこでイワレヒコ軍は紀伊半島を迂回するコースを採った、という。
筆者には、このイツセノミコトの言葉が気にかかるのだ。
「日に向かって戦ったのが良くなかった」とは何を意味するのか?
確かにイワレヒコの軍勢は東征したのだから、朝日の方向に向かっていたわけだ。これは、よくある神話的な理屈、イワレヒコが天孫族であるという正当性を印象づけるための理屈のようにも思える。
だが、本当は「日のような熱、太陽のような熱」の意味だったかもしれない。カムナビが襲いかかってきて、彼らは惨敗したのかもしれない。
そしてイツセノミコトは、カムナビを太陽からやってきた何かだ、と誤解したのかもしれない。だから、朝日を背にすれば大丈夫だと、素朴に発想したのではないか。
さて、イワレヒコ軍は再度、大和盆地に南東側から攻めた。だが、この時は、奇妙な成り行きになっている。
カムナビがなぜか、ナガスネヒコ軍に自爆したらしいのだ。
記紀神話では、こう記述している。
イワレヒコ軍と、ナガスネヒコ軍との激戦のさなか、天雲の中より金色の霊妙な鵄《とび》が飛び立って、イワレヒコの弓にとまった。その閃光《せんこう》のためにナガスネヒコ軍は目がくらんで敗退した、と。
いったい、何が起きたのだろうか?
おそらく、ナガスネヒコは蛇神との同化が進みすぎていたのではないだろうか。その悪影響で、身体だけでなく、精神にも異常をきたしかけていたかもしれない。
きっと首長ニギハヤヒも、破滅の予感を感じていただろう。
そしてイワレヒコ軍との二度目の戦いが始まった。だが、その時点でのナガスネヒコは、まともな精神状態ではなかったのだろう。自分の国土が侵略されていることすら理解できなかったのだろう。そしてようやく、ナガスネヒコがそれを理解した時、破滅が始まった。
ナガスネヒコは間違えて、自分の軍勢にカムナビを命中させたのだろう。続けざまに何度も何度も。
ニギハヤヒは戦慄《せんりつ》した。このままではすべて終わりだ。選択肢は一つしかなかった。ナガスネヒコを殺すことだ。
日本書紀にも「ニギハヤヒが、義兄のナガスネヒコを殺した」と明記されている。
かくて、ナガスネヒコは死んだ。それと同時にカムナビも消えた。
戦争は終わった。だが、近畿ナガスネヒコ軍は、カムナビの自爆によって壊滅的な被害を受けていた。
当然、ニギハヤヒとしてはイワレヒコ軍に投降し、帰順を誓うしかなかった。そして自分の政治力と影響力で、今後はイワレヒコの統治に協力することを申し出た。
かくて、ニギハヤヒは生き残り、その息子のウマシマジは物部氏の祖となったわけだ。
前述したが、古代日本語で「トビ・トベ」と言えば「蛇」や「蛇神」のことだ。「金のトビ」の本来の意味も「金の蛇神」であろう。
筆者が熱田神宮で目撃したような、蛇のようにクネクネ揺れ動く光の柱だったのだろう。それを「金のトビ」と表記したのだろう。
だが、後世に編纂《へんさん》された記紀神話では発音が「トビ」であることから「鵄」の漢字を当ててしまい、真相が不明になってしまったようだ。
さて、こうして、イワレヒコ一族とニギハヤヒ一族は手を組むことになった。
だが、両者の力を合わせても、近畿と、その周辺諸国を統治するのは難しかっただろう。その後も乱世が続いたに違いない。
やはり人々を従わせるには、三輪山の蛇神の威光が必要不可欠だったのだ。その威光を背負った蛇巫《へびふ》がいなければ、人心を一つにまとめることはできない状況だった、と推察できる。
したがってイワレヒコ一族は天皇、スメラミコト、オオキミといった称号や地位は、なかなか得られなかったはずだ。人心を一つにまとめるには、イワレヒコ一族では駄目だったのだ。ナガスネヒコに代わる蛇巫が、どうしても必要だったらしい。
かくて、一人の女性が三輪山に登ったのだろう。たぶんアラハバキ神の感染源となるものが、三世紀の三輪山のどこかに残っていたのだろう。それを利用したのだろう。
そして彼女は蛇神に感染し、蛇巫女《へびみこ》となったわけだ。
それが邪馬台国の初代女王ヒミコであろう。彼女が再び、大和盆地に亜熱帯気候をもたらしたのだ。人々は蛇巫の女王を畏怖《いふ》し、おかげで乱世も治まったのだろう。
そしてヒミコ亡き後は、トヨが二代目女王の座を受け継いだのだ。
これと対応するエピソードが、日本書紀には載っている。第七代孝霊天皇オホヤマトネコヒコの皇女ヤマトトトヒモモソヒメの話だ。
モモソヒメは、三輪山のオオモノヌシノ神の妻になったという。だが、ある日、その神の本当の姿が蛇だとわかり、モモソヒメが驚きの声を上げると、神は「私に恥をかかせたな」と怒り、三輪山へ飛んでいった。モモソヒメはショックで、へたり込んだ。その時、彼女は箸《はし》で女陰《ほと》を突いて、死んでしまったという。
ゆえにモモソヒメの陵墓には、箸墓古墳という名がついたというのだ。
皇女モモソヒメが蛇神の妻になったという、この神話は何を意味するのか?
おそらく、これはウロコ肌の蛇巫女が実在したことを伝える話だろう。この皇女モモソヒメには、女王ヒミコと女王トヨのイメージが投影されている、と考えられる。
そしてモモソヒメの陵墓とされる箸墓古墳と言えば、築造年代やサイズなどの様々な条件から、女王ヒミコと女王トヨの墓として比定できる古墳である。
後に、女王ヒミコは伊勢神宮内宮のアマテラスオオミカミとして祀《まつ》られた。女王トヨは伊勢神宮外宮のトヨウケノオオミカミとして祀られたわけだ。伊勢神宮が内宮と外宮の二つに別れている理由は、邪馬台国の二人の女王を祀るためだったのである。
古代の人々は、二人の女王の怨霊《おんりよう》がこの世に祟《たた》りを成すことを、さぞ恐れただろう。現在の伊勢神宮の荘厳な造りも、邪馬台国への畏怖の表れかもしれない。つまり、「後世の人間は二人の女王に敬意を払っていますよ」という意思表示なのだろう。
だが、邪馬台国の政権は長くは続かなかった。二代目女王トヨは、新勢力のリーダーである崇神ミマキイリヒコに暗殺されたようだ。
(古事記と日本書紀の原典である旧辞《くじ》に、そう書かれていたという。これは、筆者が山梨県在住のある人物から聞いた話だ)
おそらくトヨには、ヒミコほどの「実力」はなかったのだろう。彼女の場合、亜熱帯気候をもたらす力も、弱かったのかもしれない。
そうなると、人々の心は女王トヨから離れがちになっただろう。倭人伝の一節を借りれば「よく衆を惑わす」ことができなかったのだ。また、カムナビへの畏怖も忘却され、やや薄れつつあった時期かもしれない。
その時、崇神ミマキイリヒコは「ついにチャンス到来」と思っただろう。そして女王暗殺と、武力クーデターを実行し、成功したのだ。
かくて邪馬台国は滅ぼされ、大和王朝に政権が移っていったのだろう。
記紀神話には、崇神天皇ミマキイリヒコの時代に発生した疫病の記述がある。
国内《くぬち》に疾疫《えやみ》多く、民死亡者《おおみたからまかれるひと》有りて、且大半《なかばにす》ぎなむとす
疾病により大和盆地の過半数の住民が死んだという。そして疫病の正体は、三輪山に宿る蛇神の祟りだったと記述されている。
いったい、それはどんな病気だったのか。それについての詳しい記述はない。だが、三輪山の蛇神が祟って疫病を起こした、とくれば想像はつく。
ウロコ肌だ。
おそらくは蛇神信仰の先住民で、ウロコ肌の感染者がいたのだろう。
そして崇神ミマキイリヒコの命令で、感染者は殺されたのだろう。最終的にはウロコ肌ではなくても、瘡蓋《かさぶた》があるというだけの無関係な者まで疑われて、殺されたのだろう。かくて、大和盆地の住民の過半数が虐殺される事態に発展したのかもしれない。
しかし、ミマキイリヒコとしては、徹底的にやらざるを得なかったのだろう。放っておけば、またカムナビの復活につながるし、手がつけられなくなる。だから、その前に芽を摘んだのかもしれない。
こうしてミマキイリヒコは、三世紀以前の世界と、四世紀以降の世界とを切り離したのだ。
蛇神や、蛇巫女に支配されるような混沌《こんとん》の時代を終わらせたのだ。そうした混沌たる世界が二度と蘇《よみがえ》らぬよう、それを神話の中へ封じ込めたのだ。
だから、ミマキイリヒコには特別な称号がついたのだ。
「ハツクニシラシシ・ミマキノスメラミコト」
「初めて国を統べるミマキ大王」と。
(以上、葦原志津夫の研究ノートより)
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六の巻 三輪山
奈良県桜井市は大和盆地の南端に位置している。人口は約六万三千人。
全体的に見て、人家よりも田畑や防風林の方が多い風景だった。田園地帯と言っていい。
主要な産業は、製材業と木工業、他に「三輪そうめん」などの名物があるだけだ。したがって大工場もなければ、高層ビルもない。わずかにJR桜井駅の周辺だけはビジネスビルや商店が密集していて、にぎやかなぐらいだ。
市内で最も目立つ建築物は何か? それはビルでも体育館でもなかった。
大鳥居だった。高さ三二メートル、柱間二三メートル、重量一八五トンもあるという常識外れな超大型サイズだ。当然、木造ではなく、黒い鋼板製だった。
桜井市内で車を走らせると、いやでもこの大鳥居が目に入る。夜間もライトアップされるので、今では市のシンボルのようだ。
この大鳥居の奥に鎮座するのが、大神《おおみわ》神社だ。こここそが日本最古の神社だ、とも言われている。
大神神社は拝殿があるだけで、本殿がない。代わりに、「三諸の神奈備」とも呼ばれてきた三輪山自体を本殿としているのだ。これは神社の最も古い形態ではないか、と言われている。
事実、三輪山の山頂や、その周辺からは縄文時代の祭祀《さいし》遺物も出ているぐらいだ。つまり、数千年前から、この山は信仰の対象だったらしいのだ。
その信仰の強さは、今も息づいている。大神神社を中心とする主要神社が行う祭典は、元旦の御神火祭から、節分祭、大神祭り、鎮花祭、おんぱら祭など、年間に二六もあるのだ。それらが今まで厳粛に維持されてきたのである。
言ってみれば、ここは産業の街ではなく、古代祭祀の街なのだ。
今、その古代祭祀の街に異音が轟《とどろ》いていた。
地面の裏側を巨神がハンマーで叩《たた》いているような低い衝撃音だ。ほぼ一〇秒間隔に一回の割合で鳴っている。市内全域で聞き取ることができるほどの大音量だった。
最初、異音を発しているのは箸墓《はしはか》古墳だけだった。だが、やがて他の古墳も共振したかのように、音を出し始めた。
それらは纏向《まきむく》遺跡の近くにある石塚古墳、勝山古墳などだった。前方後円墳だが、前方部がバチ形で、古墳の発生期のものと考えられているものだ。いずれも邪馬台国や、その直前の時代のものである可能性が高いという。
怪音は、まるで怨念《おんねん》でも伝えるかのように、平和な夜をかき乱していた。
人々は、いつものテレビ番組など観ていられなかった。首をかしげながら、次々に外に出てきたのだ。そして凄《すさ》まじい熱気にあえぐ羽目になった。
近畿の田園風景の中を、まるで沖縄付近のような熱い風が吹き荒れているのだ。電線がかすれた笛のような音を立てる。スギやケヤキが枝葉をこすり合わせて、マラカスみたいな音を演奏していた。
夜空には、季節はずれの入道雲が湧き出していた。巨大な生クリームで飾りつけされたような眺めだ。星空と雲の面積の割合は半々ぐらいだった。
人々は汗まみれの顔で、怪音の発生源について話し合った。やがて携帯電話などを介して、古墳が発する音だという情報が、桜井市全域に伝わっていった。だが、その原因となると誰も説明できなかった。
やがて箸墓古墳の周辺の道路には、野次馬たちが列をなし始めた。たちまち人垣が形成されていき、人数は千人を越えた。皆、口々に疑問を発し、首をかしげ、額の汗を拭《ぬぐ》っている。
当然、警察もこの騒ぎを放っておけず、三台のパトカーが出動してきた。サイレンを鳴らし、赤い回転灯を光らせている。野次馬をかき分けつつ、進んできた。
制服警官がマイク片手に拡声スピーカーで言った。
「皆さん、通行の邪魔になります。何かあった時に危険ですから、解散してください」
だが、群衆はその場を去ろうとしない。誰もが不安な顔で、説明を求めた。
「何だ、これは?」
「この音は何だ?」
「誰か、どうにかしろよ」
そして、なぜか人々は東の方を見上げてしまうのだ。
そこには三輪山が鎮座していた。大量のスギの木に覆われていた。だが、それでも秀麗な円錐形《えんすいけい》は目立っていた。
人々はどうしても、そちらにも視線が行ってしまうのだ。なぜなのか、本人たちにも説明できなかった。口を半開きにして、凝視してしまう。
その三輪山の麓《ふもと》近くには、高さ三二メートルの大鳥居がいつものようにライトアップされて、夜闇に浮かんでいた。
大鳥居の付近でも、大勢の人々が右往左往していた。皆、不安を解消するための情報を求めているのだ。道ばたで額を寄せ合い、大鳥居越しに三輪山を見上げていた。
その中に、一人の老婆がいた。年齢は七〇歳を過ぎたぐらいで、顔もしわだらけだ。だが、腰は曲がっていない。直立不動の姿勢で、三輪山を見上げていた。
彼女は言った。
「やっぱり、オオミワはんのたたりやないか?」
その口調と顔は半分冗談、半分真面目といった感じだ。
地元のお年寄りたちは畏敬《いけい》を込めて、三輪山の蛇神を「オオミワはん」と呼んでいる。
また、お年寄りたちは、こうも言う。「オオミワはんは、神武はんより先や」と。つまり、「初代神武天皇イワレヒコが大和盆地にやってくる前から、三輪山の蛇神はここにいた」という意味だ。古代天皇家のお膝元《ひざもと》だというのに、そうした不遜《ふそん》とも言える口伝が残っているのだ。
奈良県出身の作家、司馬遼太郎氏も『歴史の中の日本』という本で、こう書いている。
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現に、わが奈良県人は、同じ県内にある神武天皇の橿原《かしはら》神宮よりも、三輪山の大神神社を尊崇して、毎月ツイタチ参りというものをする。かれらは「オオミワはんは、ジンムさんより先や」という。かつての先住民族の信仰の記憶を、いまの奈良県人もなおその心の底であたためつづけているのではないか。ついでながら、三輪山は、山全体を神体とする神社神道における最古の形式を遺している。こういうものを神南備山《かんなびやま》という。
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この「ツイタチ参り」とは、大神神社に毎月一日に参拝する風習だ。今も地元のお年寄りたちによって続けられている。これだけ頻度の高い参拝風習は、全国でも珍しいだろう。
一方、隣の橿原市には、初代神武天皇イワレヒコを祀《まつ》る橿原神宮がある。だが、そちらにはツイタチ参りと比較できるような、毎月の参拝風習などはない。
この点を見れば、どちらが地元の住民たちから、より重視され続けてきたかは明らかだろう。
そして今、三輪山は隠されてきた本性を現そうとしていた。
頻度の高い参拝風習も、そこに由来していた。元々は蛇神の怒りや祟りを恐れるがゆえに、その怒りを静めようという目的で生まれた参拝風習だったのだ。
その恐怖が千数百年ぶりに蘇《よみがえ》ろうとしていた。
そのおぼろげな光は、ミニチュアの神社社殿の中から漏れていた。
暗闇の中、志津夫と真希はハンディライトで、それを照らし出す。
高床式の神明造りの社殿だ。高さ一メートルほどの木造で、大きな犬小屋といったサイズだ。しめ縄が飾られて、屋根には堅魚木《かつおぎ》が三本載っていた。
志津夫が興奮した面もちで言った。
「ここにも社殿があるのか」
志津夫は肩で息をしていた。気温が上がっている上に、ここまで休みなしに登山してきたからだ。顔の汗の粒を、タオルで拭う。
真希もタオルで顎《あご》や頬を拭《ふ》いていた。息も絶え絶えの状態だ。
タオルは、途中のコンビニで買ったものだ。登山ゆえ必要になるだろうと予測したのだ。だが、バスタオルにするべきだったかもしれない。
ここは三輪山の四合目辺りだった。この場所こそ禁足地のど真ん中だ。入山禁止や一般人立入禁止といったカムナビ山のタブーで、千数百年も守られてきた場所だった。
ここだけ台形状の岩盤がテラス風に張り出した形になっていた。広さはテニスコートほどだ。その岩盤の中央付近に、ミニチュアの社殿が建てられていたのだ。
彼方《かなた》からは轟音《ごうおん》が響いた。例の怪音だ。まるで大和盆地の地盤が駄々をこねているようだ。依然として一〇秒ほどの間隔で続いている。
だが、この位置からは音を発している古墳群などは見えない。周囲がスギの森林で覆われているからだ。夜空に反映している街の灯《あか》りで、JR桜井駅の方向を推測できるぐらいだ。
志津夫は草薙剣《くさなぎのつるぎ》の入った箱を脇に抱えたまま、岩盤の上を歩きだした。社殿を目指す。
途中から、彼は小走りになった。遊園地の開園に一番乗りした子供の気分だ。カムナビ山の中でも最も謎に包まれたカムナビ山、三輪山のご神体と対面できるのだから。
真希もつられて加速していった。彼女も思いは同じだろう。
二人同時に、社殿に飛びついた。
正面の扉は封じられていた。だが、格子戸なので、小さい隙間が多数ある。
志津夫がライトを向けると、網目状の影が内部で躍った。そして、中に収められているものも見えた。
青くて、大きな物体だ。人間の頭部に似ているが、目に大きなサングラスをかけているような形状だ。他にも、割れた青い土器の破片が数十個あった。
「ブルーガラス……」
志津夫は思わず、そう呟いた。
社殿の床にあったものは、ブルーガラスに覆われた土器の断片だった。それらは、元々は全体で一つの品物だったようだ。
その総体として、大きな青い土偶が、すぐに思い浮かんだ。これは破壊されたブルーガラス縄文土偶なのだ。
しかも、不思議なことに土偶は自ら発光していた。ライトを外に向けても、社殿の内部は明るい青で満たされている。これが遠方から、かすかに見えたらしい。
真希が訊《き》いた。
「ここの土偶も壊してあるのね」
志津夫が答える。
「誰かの命令かもしれない」
「誰? 崇神ミマキイリヒコだと?」
「さあ、そこまではわからない。だが、壊して、これが持つ力を封じたかったんだろう。わざと壊されたと思われる土偶や銅鐸《どうたく》なんて、考古学者にとっては珍しくないからね……」
志津夫は、ため息をついた。やや失望を感じる。期待した割に、この社殿は大したものではなかった。
彼は草薙剣の箱を地面に置いた。そしてハンディライトを周辺に向けてみる。
「この社殿だけか? 他には何もないのか?」
社殿の後方を照らした。巨大な何かが浮かび上がった。
大きな丸石が二つあった。直径一・五メートルぐらいだ。しめ縄が巻いてあり、それで普通の石ではないとわかった。石の表面は四分の一ぐらいが濃緑色のこけで覆われている。
さらに、その後ろには、より大きな立石があった。高さは二メートル、幅は六〇センチほどだ。山を背にして鎮座している。やはり上部に、しめ縄が何重にも巻いてあった。
その立石は、今にも動き出しそうに思えた。逆に言うと、それだけ不安定に見えたのだ。山の崖面《がけめん》によりかかって、かろうじてバランスをとっている感じだ。
真希が言った。
「これが三輪山禁足地の磐座《いわくら》ってわけね……」
磐座とは、儀式や祭りの時に、神がそこに降りるとされた石だ。古代人は、巨石に神秘性を見いだし、神が宿る依代《よりしろ》と考えたのだ。
志津夫と真希の二人は、しばらく二つの丸石と、立石とを眺めていた。
やがて真希が不審な目になり、言った。
「変ね。何も起きないじゃない」
「うん」
志津夫はうなずき、石の周辺をライトで照らした。だが、むき出しの崖面と、足下の岩盤と土、雑草ばかりだ。他に目立つものはなかった。
真希が明らかに苛立《いらだ》った様子で、
「まさか、これだけ? 壊れた青い土偶と、磐座だけ? 本当に、これだけしかないの? そんな……。これだけってことは絶対にないはずよ!」
真希の声のトーンが跳ね上がる。納得のいかない顔で、ライトを周囲に向けた。
だが、光輪が浮かび上がらせたもので、特別なものはなかった。地面と雑草、スギ林だけだった。
真希が歯ぎしりしそうな表情で、言った。
「変よ。これだけの怪現象が起きたのよ。気温は上がるわ、変な音は鳴り響くわ。なのに、ここには何もないっていうの? まさか……」
彼女は周囲にライトを浴びせ続けた。焦った口調で言う。
「私の見込み違いだって言うの? ここまで来て、そんなバカな……」
真希の息づかいが荒くなった。彼女の妄執の対象物が、カムナビの秘密がここにあるはずだと、今まで信じ切っていたのだ。なのに、その執念は裏切られたようだ。
志津夫も周囲をライトで探って、言った。
「うん。確かに変だが……しかし、これしかないみたいだな」
志津夫は、いつの間にか背筋がゆるんでいた。姿勢が猫背になる。肩の線も下がった。
わざわざ禁足地に入ったのに結局、大した収穫はなかったのだ。がっかりしたが、同時に安堵《あんど》感もあった。古代の秘密を暴くなど、そう簡単なことではなかったのだ。
志津夫は、無意識に皮肉っぽい苦笑を浮かべていた。
「やっぱり何もないよ」
彼はそう言って、真希の方にライトを当てた。向こうも光を返してくる。
唐突に、真希が言った。
「何よ。その目は?」
「え?」
志津夫は目を見開いた。
真希は、長年の妄念に点火したような顔だった。その美貌《びぼう》がより一層きついものに変わっている。
「何よ。その目は? 私が間違っていたとでも言うの?」
「い、いや……」
「そんなはずはないわ。名古屋市や、伊勢市や、東京と並んで、ここも気温が上がった。特に、この桜井市は気温が高くなったのよ。だから、ここには何かが、何かがなければならない……」
そこまで言いかけた。だが、後が続かなくなったらしい。悔しさのあまり、眉間《みけん》や頬に深いしわが寄っていた。
志津夫は、ため息をつき、ライトの向きを彼女から外した。真希はヒステリーを起こしかけている。つき合ってられなかった。
志津夫は振り返って、社殿の方を照らした。その他の方向にも光輪を走らせる。だが、何も変わったものはない。
「ん?」
志津夫は眉《まゆ》をひそめた。自分のライトを社殿に当てなおした。
今、ライトのせいで、社殿の向こう側の地面に、長い影が伸びていた。縁束《えんづか》と呼ばれる柱の影も、その中に含まれている。社殿を縁の下で支えるための柱だ。
柱の数は、全部で四本しかない。にも拘《かかわ》らず、たった今、柱の影が突然、五本に増えたのだ。マジックを見せられたような感じだ。
志津夫はしゃがみ込んだ。社殿の縁の下を照らしてみる。
そこに手品のタネがあった。地面の下から、もう一本、余分な柱が突き出ていたのだ。
「何?」
真希も一緒にしゃがみ込んだ。それを見て、目を大きく見開く。
それは単体の背の低い柱だった。高さは三〇センチぐらいだ。それは社殿とは接触していないので、重量を支える役目は果たしていない。柱の上部には、社殿に似せたミニチュアの屋根がかぶせてある。
素人目には、無駄な柱にしか見えなかっただろう。手違いの産物が、そのまま残されたみたいだった。
だが、比較文化史学者の志津夫には、重要な意味を持つものだった。彼の目も大きく、見開かれている。
真希も四つん這《ば》いになり、社殿の下側へと、にじり寄った。目を見開いたまま、言いかける。
「これは、もしかして……」
志津夫は、うなずく。
「……心《しん》の御柱《みはしら》だ」
「心の御柱」とは、伊勢神宮の正殿中央床下に存在する、謎の柱である。
これは、正殿の本体とは触れていないため、建物の重量を支える役には立っていない。つまり、存在意義のわからない不思議な柱なのだ。
また、伊勢神宮には、他にも不思議な慣例がある。
二〇年に一度、遷宮することだ。つまり、神器の八咫鏡《やたのかがみ》を内宮に遷したり、外宮に遷したりするのだ。そのたびに内宮も外宮も、社殿を建て直すことになっている。
遷宮の際には、まず「心の御柱」のための木材が山から伐採される。造営する時も、まず最初に「心の御柱」を建てるのだ。これらの点から考えても、よほど重要な意味のある柱なのだろう。
さらに二〇年後、その宮が壊されて、隣に新たな宮が建てられた後も、「心の御柱」だけは残される。その上に小屋を建てて、守られるのである。
一見すると、背の低い無意味な柱に過ぎないものである。なのに、これだけ丁重に扱われるのだ。
この「心の御柱」とは何なのか?
残念ながら、一般人がその秘密を知る機会はない。
これは今も、伊勢神宮の「秘中の秘」とされているからだ。高位の神職の者のみが、その「秘中の秘」を口伝で教わることができるという。
真希と志津夫は膝をついて、社殿の下をのぞき込んでいた。
その心の御柱は、スギから伐採された四角柱の木材だった。地面からの高さは三〇センチほどで、社殿の屋根のミニチュア版が載せてある造形だ。
床下の地面は砂地だった。だが、天然の砂地ではないらしい。穴を掘り、ここに柱を建ててから、砂で埋めたようだ。
辺りには、依然として例の怪音が一〇秒間隔で轟《とどろ》いていた。桜井市の夜空を震わせている。音だけ聞くと、雷鳴と勘違いしやすいだろう。
真希は目を細めて、床下の柱を凝視していた。彼女の胸中に、ある疑念が湧いてきたからだ。呟《つぶや》くように言う。
「心の御柱って、伊勢神宮独特のものだと言われてきたわね?」
「ああ」と志津夫。
「でも、ここにもあった。……もしかすると、こっちがオリジナルじゃないの?」
志津夫が唸《うな》った。首をひねりつつ、
「……あるいは……かもしれない。ここが日本最古の神社だと言われているからな」
「そもそも心の御柱って、何なの?」
「言挙げせず、だ」
「え?」
真希が振り返った。
志津夫は肩をすくめて、
「神道の不文律だよ。神道に秘められた真理は、人々には告げてはならないという戒めがある。それを言挙げせず、と言うんだ」
志津夫は首を振ってしまう。
「考えてみると妙だね。教義を秘密にしなければならない宗教なんて珍しい。しかも、そんなものが、この日本で二〇〇〇年近くも信じられ、守られてきたんだからな。……この心の御柱も、やはり言挙げせずで、その上、伊勢神宮の秘中の秘とくる……」
真希は、心の御柱に視線を戻した。
ふいに、脳内で閃光《せんこう》が弾《はじ》け飛んだ。何もかも説明できるような気分になる。たった今、自分の目がX線を放ち、この柱のレントゲン写真を撮ったみたいだった。
思わず彼女は呟いた。
「そうか……」
志津夫が訊《き》いた。
「どうしたんだい?」
「こうは考えられない?」
真希は顔を上げると、喋《しやべ》りだした。
「つまり、心の御柱は抜いてはいけないことになっている。そうでしょう? 伊勢神宮でも一度、建てた心の御柱は抜いたりしないんでしょう? 宮を壊した後も、柱だけを守るための小屋をわざわざ建てるぐらいだから」
「ああ」
真希の目は尋常でない輝きを見せ始めた。唇の端がつり上がる。花が満開になったような笑みを浮かべた。
「なぜ抜いてはいけないの? 逆に言うと、もし抜いたら、どうなるの?」
その言葉の意味合いが、徐々にお互いのハートに浸透していった。ぬるま湯につかっているうちに、全身が暖まってくる感覚に似ていた。まだ言葉にはならないが、理解しかけた状態だ。
志津夫が片手で制した。
「待て。……つまり、それは……」
「ええ。そういうことよ」
真希は会心の笑みを見せた。答えを見つけた喜びで、脳髄に痺《しび》れを感じた。瞳《ひとみ》がより強い輝きを放っている。
彼女は続けて言った。
「つまり、心の御柱を抜いてはいけない、というタブーの意味は何か? 問題は、それよ。もしかすると、邪馬台国の二人の女王ヒミコと、トヨの怨霊《おんりよう》を鎮める意味があったかもしれない。あるいは、カムナビが関わっているタブーだったかもしれない。
そして伊勢神宮では、このタブーが守られ続けてきた。外部の者には、言挙げせずの決まり文句で、タブーの意味も秘密にしてきた。……でも、タブーが生まれた原因は何?」
「それが、ここか? もしかすると……」
志津夫が眼前の柱を指さした。生唾《なまつば》を飲み込む。
「そうよ。タブーの発生源がこの三輪山だとしたら、どう? 当然これも、やはり抜いてはいけない柱のはずよ。では、なぜ、抜いてはいけないの?」
志津夫が、その推論の最後を引き継いだ。
「つまり、これが何かを封じ込めているのか? 封じ込めるための装置なのか? 原理や、メカニズムとかは、よくわからないが……。いや、ちょっと飛躍しすぎてるぞ」
「きっと、そうよ! それがタブーを生んだのよ!」
真希が、志津夫の腕を握った。強く揺さぶる。
「もちろん、ただ抜いただけでは効果はないわ。でも、今は、あなたや草薙剣に反応したせいで、この辺りは亜熱帯気候となり、古墳もあんな音を発している。これは何かの兆候よ。もしかすると、あの音は警報ブザーか、サイレンのようなものかもしれない……」
ちょうど、一〇秒間隔の異音がまた轟いた。近辺で、誰かがダイナマイトの無駄遣いでもしているみたいだった。
真希は、心の御柱を見つめた。
気のせいか、それが聖なる力を秘めた栓のように見えてきた。いわば王冠の蓋《ふた》だ。これを抜けば、炭酸ガスならぬ古代の未知なるパワーが、この世にあふれ出しそうな気がしてきた。
「だから、今、抜けば……」
そう真希は言いかけた。
「ああ、今、抜けば……」
志津夫もそう言いかけた。
彼女は、心の御柱に片手を伸ばした。指先を近づける。
触れた。
白川祐美はハンディライトを前方に向けた。
光輪の中に、高さ一メートルほどのミニチュア社殿が浮かび上がる。その両側に、しゃがみ込んで、社殿の下をのぞき込んでいる男女二人がいた。
志津夫と、真希だった。二人とも突然スポットライトを浴びせられて、唖然《あぜん》とした表情だ。
しかも真希は、社殿の下に片手を伸ばしていたのだ。そこにある何か≠ノ触れているのだ。
それを見た瞬間、祐美は危機を感じた。ソプラノで叫ぶ。
「それにさわるな!」
祐美は軸のずれたモーターのような震動を、胸の辺りに感じていた。それはチ≠ェ伝える情報を、脳が翻訳≠オようとした結果だろう。
祐美は背負っていたリュックサックを振り捨てた。憤然と地面を蹴《け》る。スギ、カラマツ、ケヤキなどが繁《しげ》る森林から、飛び出した。
そこは岩盤だった。広いテラスのように張り出している場所だ。
祐美は、ここは古代からの祀《まつ》り場だと直感した。こうした場所にある巨石を磐座《いわくら》として祀る実例が、日本中にあるからだ。
「さわるな! 離れろ!」
祐美は再度、叫んだ、歯がむき出しになっている。丸顔の顎《あご》から、汗の滴が飛んだ。
周囲は暗いので志津夫や真希には、祐美の姿はほとんど見えないだろう。だが、甲高い声、小柄で中性的なプロポーション、野球帽をかぶったシルエットは特徴的だった。それで彼らにも、祐美だと識別できたはずだ。
志津夫も真希も、完全に虚をつかれた様子だった。口を半開きにしたまま動けない。呆然《ぼうぜん》と、祐美を見つめている。
その間に祐美は距離を詰めた。登山のせいで呼吸が、すでに激しくなっていた。それが内清浄の技法、ハイパー・ヴェンティレーションの効果を生んでいた。たちまち呼吸アルカリ血症による酩酊《めいてい》状態に陥る。
多少、足下がふらついた。だが、すぐにバランスを取り戻す。社殿の七メートルほど手前で立ち止まった。
祐美は、ライトを前方に放り投げた。それは転がり、ちょうど志津夫と真希たちを照らす角度で止まった。
彼女は両手の親指と人差し指で正三角形を作った。チ≠さらに励起する。体内に内蔵された原子炉が運転を始めた気分だ。
真希は四つん這《ば》いの姿勢から、祐美を睨《にら》み返した。志津夫と違い、彼女は自失状態から覚めていたのだ。
すでに名古屋で遭遇した時から、真希と祐美とは、お互いに敵同士だと認め合った仲だ。その認識があるので、彼女は反応が早かったのだろう。
真希は、いち早く回れ右した。社殿の後方に向かってヘッド・スライディングする。
祐美は叫んだ。
「熱田神宮のお返しだ!」
遠当て≠放った。
球状衝撃波が弾《はじ》け飛んだ。フルパワーではなく、その半分ぐらいの威力だった。志津夫を傷つけたくないので、怒りながらも力をセーブしたのだ。
大気が光り輝いたように見えた。光環現象≠ニ呼ばれるものだ。
火山の噴火を撮影したビデオテープに、そうした映像が映ることがある。噴火の際の衝撃波によって、大気の屈折率が変わり、周辺の光のコントラストが強く変化するのだ。その時、あたかも大気そのものが光り輝いたように見える現象だ。
波打つ光が一瞬にして、空間を駆け抜けた。
祐美は、同時発生した反作用≠ナ両手を強く弾かれた。それを斜め上方に受け流す。だが、体重の軽い彼女は受けきれず、後ろへ二、三歩よろめいた。
志津夫は紙人形の軽さで吹っ飛んだ。社殿のそばにいた彼は、衝撃波をまともに食らった。空中で一回転する。悲鳴をあげる暇もなかったようだ。
志津夫の傍らにあった草薙剣の入ったコウヤマキの箱も、同じ運命を辿《たど》った。だが、こちらは社殿や丸石にぶつかったりして、複雑なバウンドを繰り返した。
志津夫は宙返りしてから、大きな丸石の上に着地した。直径一・五メートルもある磐座だ。だから、着地場所になるだけの面積はあった。
だが、志津夫は背中から落ちてしまった。後頭部と肩甲骨を打ってしまう。石には、しめ縄が巻いてあったが、クッションとしての効果はあまりなかったようだ。
ミニチュアの社殿も、衝撃波のせいで激しく震動した。二トントラックが衝突したような異音が響く。社殿の扉に、ひびが入り、格子の数本が破裂した。
床下の心の御柱も震えた。だが、こちらは背丈が三〇センチほどしかないので、さほど影響は受けなかった。
一方、真希は社殿の後ろにヘッド・スライディングしたおかげで、大きな被害を免れていた。それどころか衝撃波の余力に助けられて、地面ぎりぎりを五メートルほど水平飛行したのだ。ただし着地の際、顔と胸を打ち、呻《うめ》くはめになった。
「祐美さん!」
後方から葦原正一の声がした。同時に、新たなライトの光が出現する。
サングラスに、ひげ面の正一が現れた。今この場にいる人間の中で、最も大柄な体格の持ち主だ。だが、体力では最も小柄な祐美にも負けている。それゆえ肝心な場面で出遅れてしまったのだ。
「いかん! 祐美さん!」
正一は喘《あえ》ぎ、咳《せ》き込みながらも、小走りでやってきた。彼女の細い肩をつかむ。
「やめるんだ。ここの社殿を壊しちゃいかん! ここで、そんなことをしたら、何が起きるか……」
「そ、そうですか?」
祐美はとまどった表情だ。つい激情にかられて、闇雲に仕掛けてしまった。それが良かったかどうか、少し後悔する。
「ん? 志津夫!」
正一がライトを向けた。磐座として祀られている丸石を照らしだす。
そこに照明が当たり、志津夫の姿が露《あらわ》になった。
彼は、丸石の上で仰向けに寝ていた。両手両足を広げており、完全に無防備な状態だ。目は閉じており、かすかな呻き声がする。
どう見ても、志津夫は気絶しているか、それに近い状態だった。最低、数分間は動けそうもないようだ。
それを見て祐美は、自分の口に両手を当ててしまう。友人の車に対して追突事故でも起こした気分だ。
「まずい。志津夫さん? やりすぎた? 甲府で吹っ飛ばした時と、同じぐらいの加減だったんだけど……」
正一が呼びかけた。
「おい? 志津夫?」
だが、返事がない。丸石の上で失神中か、半覚醒《はんかくせい》状態をさまよっているらしい。
正一は、息子の様子を見て瞬《まばた》きしていた。こんな展開になったことにとまどっているようだ。一歩、前に踏み出そうとする。
「待った!」
今度は祐美が、正一のがっしりした肩をつかんだ。
「あの女の姿が見えない。まだ油断できない。ちょっと下がってて」
祐美は、さっき放り投げたライトを拾った。
その時、名案を思いついた。彼女はライトを口にくわえたのだ。次いで両手で伯家流の秘印を組む。これなら照明光と武器とを同時に使えるわけだ。
祐美は、その体勢のまま、カニのような横歩きで左に移動した。
さっきの光景を思い出す。あのホルスタイン女は、自分一人だけ社殿の後ろへ飛んで逃げた。やはり、あの女の本性はエゴイズムの塊なのだ。
だが、問題は、その真希の姿が今どこにも見当たらないことだ。
祐美は、地面に片膝《かたひざ》をついた。社殿を照らしてみる。縁の下にも光を当てた。正一も意図を悟って、自分のライトで協力してくれた。
だが、社殿の柱の影が、地面に長く伸びただけだった。人影はない。
代わりに、祐美は五本目の柱があるのを再発見した。地面から突き出た高さ三〇センチほどの代物だ。建築学的には無意味な柱だ。
正一が呟《つぶや》いた。
「心の御柱だ……。ここにも……」
彼は何度もうなずいていた。何かを悟ったらしい。だが、説明はしなかった。
祐美が付け加える。
「あれにさわってたんだよ。もしかすると引き抜くつもりだったのかも……」
祐美は口にくわえたライトを動かし、光輪で左右方向も照らした。やはり、真希の姿はない。
他に視界を塞《ふさ》いでいるものと言えば、社殿の後ろにある二つの磐座だ。どちらも、しめ縄で飾られた直径一・五メートルほどの丸石だ。人間が隠れるには充分な大きさがある。
さらにその奥には立石があった。高さは二メートル、幅は六〇センチほどだ。だが、こちらは山の崖面《がけめん》によりかかっていた。その後ろに人間が隠れることはできない。
祐美は確信した。あのホルスタイン女は丸石の後ろにいる。
ふと横目で見ると、正一も同じ考えのようだ。丸石を照らして、祐美に対して、うなずく動作を見せたのだ。どうやら、彼の赤外線視力も、そこに人影を捉《とら》えているらしい。
真希は磐座の陰で、右の頬を撫《な》でていた。
痛みと濡《ぬ》れた感触で、出血しているとわかった。たぶん、すり傷で、大したことはないだろう。
だが、プライドについた傷は大きかった。奥歯を噛《か》み鳴らしそうになる。
幸い、肉体的な被害は頬の傷ぐらいだった。祐美が衝撃波を放った時、真希はとっさに社殿の後ろへ飛んだ。それが正解だった。
おかげで衝撃波の大部分は社殿にぶつかった。また、その余波に押されて、真希は地面すれすれを水平飛行したのだ。ほとんど衝撃波サーファーといった状態だった。
着地の際は頬と、手のひらと乳房を地面にすりつける羽目になった。だが、その直後、四つん這《ば》いになり、丸石の陰に転がり込んだ。おかげで反撃体勢を立て直すことができる。
真希は物陰で傷の具合を確かめながら、正一と祐美の会話を聞いていた。やがて正一がライトを向けたらしく、隣の磐座が明るくなった。
隣の丸石の上には、志津夫が倒れていた。かすかに呻いている。吹っ飛ばされて、頭を打ったようだ。しかし、この状況では、どうせ彼は役に立たない。
さらに祐美と正一の会話が続いていた。そして祐美は、真希の姿が見えないことを怪しんだ。当然、真希を捜し始めた。
その間、真希は四つん這いのままだった。低い姿勢で、音を立てないよう少しずつ場所を変えていく。
ふいに片手に触れたものがあった。四角柱の形状をしていた。草薙剣を入れたコウヤマキの箱だと、直感した。
だが、今は構っていられない。
ジーンズのポケットを探った。五〇〇円玉を取り出す。
コインは体温で暖まっていた。手の中に、しっかり握り込む。彼女にとって最も心強いスイッチ≠セ。
真希の内部では、あらためて祐美に対する怒りと、憎悪が湧き上がる。体内で励起したチ≠ニフィードバックし合い、増幅し合った。
やはり熱田神宮で息の根を止めておけばよかった。あいつの父親ともども、さっさと葬るべきだった。
真希は眉間《みけん》にしわを寄せた。そう言えば白川幸介とかいう男は、どうしたの? どこかに伏兵として潜んでいるの?
だが、それを考えている暇がなかった。
二つの光輪が動き回り、辺りを照らしていたが、やがて真希が隠れている磐座にライトが集中してきたのだ。そろそろ気づかれたらしい。考えてみると、向こうには赤外線視力の持ち主もいるのだ。真希の影も、もう捉えられたかもしれない。
足音が迫ってくる。ライトの角度も変わり、より明るくなってきた。祐美が接近してきたのだろう。
一気に緊張感と不安、闘争心が高まる。真希は、自分の頭蓋骨《ずがいこつ》が音《おん》叉さみたいな音を立てるのを感じた。
祐美の足音とライトは大きな円を描いて、迂回《うかい》するコースをとっていた。距離をおきながら、横から回り込むつもりだろう。
まずいと思った。
このままでは分が悪すぎる。祐美の衝撃波は瞬間的に襲ってくるのだ。一方、真希が行う首絞め≠ヘ、じわじわと効いてくる性質のものだ。もうお互いの手の内はわかっているのだ。
この状況では、同時に攻撃≠仕掛けたら、絶対に不利だ。それがわかっているから、祐美も接近してくるのだろう。祐美にしてみれば、先に衝撃波で真希を吹っ飛ばせば、真希の精神集中を妨害できるのだから。
別の手で逆転を狙うしかない。だが、別の手とは……。
その時、また片手に触れたものがあった。草薙剣を入れたコウヤマキの箱だ。
名案が閃《ひらめ》いた。こちらも瞬間的な攻撃を仕掛ければいいのだ。首絞め≠セけにこだわる必要などないのだ。
案の定、祐美がライトを構えて、近づいてきた。磐座の後ろに回り込んで、とどめを刺すつもりだろう。
真希は片膝立ちになると、そっと箱を持ち上げた。肩にあてがい、両手で抱えて、ライフル射撃に似た構えを取っていた。低い姿勢で、待ち伏せする。
幸い、周囲は暗い。こちらの意図は見抜かれにくいはずだ。
深呼吸した。勝負どころだ。歯をくいしばる。
殺《や》られる前に殺れ。そんな言葉が脳裡《のうり》で点滅した。
祐美は口にライトをくわえ、両手の親指と人差し指で正三角形の秘印を結んだ姿勢で、磐座に接近していった。
近づくにつれて、恐怖が増してきた。真希のチ≠ノよって首絞め≠受けた時の苦痛が蘇《よみがえ》る。
祐美はサイドステップを踏んで、磐座の横へ回り込んだ。丸石が邪魔で、遠当て≠フ射角が塞《ふさ》がれてしまうからだ。
あらためて自分と真希との武器の差に気づいた。遠当て≠ヘ、丈夫な障害物があると遮られて役に立たないのだ。
一方、真希の首絞め≠ヘ、障害物には左右されない。物陰から、相手の喉《のど》を狙えばいいからだ。
今のところ真希は隠れたままで、動きを見せなかった。ならば、さっさと決着をつけなければならない。そして、こんなことは、終わりにしなくてはならない。
最終的には、真希を処分≠キることになるのだろう。さぞかし後味の悪い思いをするにちがいない。夜毎、悪夢にうなされるかもしれない。
だが、今は、それを決断しなければならない局面なのだ。自分にそう言い聞かせる。
祐美は丸石の後ろ側に回り込んだ。
その瞬間、顎《あご》に一撃を食らった!
祐美の口からライトが吹っ飛んだ。全世界がフェイドアウトしていく。
……脳裡にあるのは様々な思い。甲府で女子大生の振りをして、初めて志津夫と会ったこと。志津夫が殺人犯のトリックを見破ったこと。彼の明晰《めいせき》さに驚嘆し、一目惚《ひとめぼ》れしたこと。さらに志津夫が祐美の正体までも見破っていたと知り、彼に対して崇拝に近い感情まで抱いたこと。だが、父にうながされ、仕方なく祐美は伯家流の秘印を突き出した。志津夫は言った。「ぼくは自動販売機じゃないぞ。ウーロン茶は出ない」。祐美が微笑し、低い声で言った。「ごめんね。バイバイ」。志津夫は五メートルほど後方に吹っ飛んでいった。そして彼は気絶した。まずい。今度は私の番かよ? 運命は回る車っていうやつかよ? でも、今ここで私が気絶したら、誰があの女を止めるんだよ。しっかりしなければ……。
祐美の意識は真っ暗な深海へと沈んでいった。
電球の光が目に飛び込んだ瞬間、真希はコウヤマキの箱を構えたまま、後ろ足で地面を蹴った。
ライトを狙った。全体重をかけた一撃!
箱の先端がライトを吹っ飛ばした。同時に、真希は重い手応《てごた》えを肩に感じた。祐美が後方によろめき、やがて倒れていくさまがスローモーションのように見えた。
ボクシングの試合でも、顎へのフックやアッパーカットがKOパンチになるケースが多い。顎を打たれると頭部がぐらぐらと揺れ動いてしまい、脳震盪《のうしんとう》を起こすからだ。それでボクサーは立っていられなくなり、時には気絶するのだ。
真希には、そうした知識はなかった。だが、本能的にライトを狙い、その結果、顎への一撃となったのだ。その上、四九キロの体重による体当たり効果まで加わった。
「祐美さん!」
正一の声がした。彼のライトが地面の上で失神している祐美を照らした。
野球帽をかぶった生意気なチビ女は、完全にノックアウトされていた。仰向けで、口は半開きのまま、白目をむいている。胸がかすかに上下しているが、それ以外は微動もしない。
祐美は完全にグロッキー状態だった。しばらくは気絶したままだろう。
「あいにくだったわね」
真希は鼻を鳴らし、勝利宣言した。
足音が近づいてくる。正一だ。
真希は手にした箱を下ろすと、すばやく地面のライトを拾った。正一を照らし返す。
真希は言った。
「近寄らないで」
正一は無言だった。彼はサングラスと、ひげ面のため表情がわかりにくい。だが、彼が歯を食いしばっていることは隠しようがなかった。手も、かすかに震えている。
正一の脳裡はネズミ花火が一〇〇個分ほど舞い狂っているような状態だろう。悔しさと、自責の念でいっぱいのはずだ。
真希はジーンズのポケットを手探りした。銀色の硬貨を取り出す。
彼女は言った。
「あなたの魂胆はわかっているわ。だって、電話で言ってたでしょう。どれほど危険か、わからせてやる≠ニ。知ってるのよ。あなたは竜野助教授にも、同じことを言った。その夜、助教授は黒こげの死体になったわ」
真希はコインを親指で宙に弾《はじ》いた。片手でキャッチする。
彼女は続けて言った。
「いざとなれば体力の限界に挑戦して、カムナビを呼び、私を殺すつもりだった。そうでしょう? でも、今やったら、息子の志津夫さんも、この祐美という小娘も巻き込みかねないんでしょう? だから、何もできずに突っ立ってるんでしょう?」
真希は嘲笑《ちようしよう》した。
「わかってるのよ。茨城県で焼死体が出た現場は見てきたもの。かなり広い範囲の地面が焼けこげていたわ。熱田神宮では、ついに現物を見たしね。あの光は本当に蛇みたいに揺れ動くから、ピンポイントで一点を狙うなんて難しいんでしょうね」
真希は手の中のコインを握り込んだ。
同時に手のひらや指に、正一の気管の感触を味わった。まるでリモコン操作用の特殊な手袋を、はめているみたいだ。徐々に握力を込めて、手の中に感じるそれ≠潰《つぶ》していく。
正一が大きく口を開けた。サングラスで目は見えないが、おそらく目も極限まで見開かれているだろう。彼の気管が閉塞《へいそく》したのだ。
正一は両手で喉を押さえた。さらに掻《か》きむしるような動作まで始める。首にアフリカ象の足が載ったような反応だ。
真希は言った。
「どうするべきかしら?」
正一は身体を二つ折りにした。よろめき、足が勝手に動いて、その辺を歩きまわる。やがてバランスを崩して、横倒しになった。
真希が言った。
「あなたがいちばん邪魔者かもね」
正一は地面に倒れた状態で、胸を掻きむしり、もがいていた。殺虫剤をかけられた時のハエそっくりの動きだ。サングラスがずれて、外れそうになる。
「死んでもらおうかな?」
真希の瞳《ひとみ》は暗赤色の炎を噴き出しているようだった。舌なめずりする。
彼女にとっては三人目の殺人だった。だが、何の動揺もなく、実行できるだろう。あらためて通常の倫理観など、無意味だと思っただけだった。
地球上では毎日、多くの人が生まれては死んでいる。それを考えれば、人命は地球よりも重くはなかった。塵芥《じんかい》よりも軽いのだ。
もがいていた正一の動きが、急に鈍くなった。そろそろ限界が近づいたようだ……。
ふいに真希は握っていた手を開いた。大ぶりの銀色のコインが露出する。
同時に、正一が大きく息を吸い込む音がした。酸欠から解放されたのだ。直後、彼は激しく咳《せ》き込みだした。
真希は鼻で笑うと、再びコインを握り込んだ。だが、今度は手の中に、正一の気管の感触はなかった。代わりに正一の首の周囲にある頸動脈《けいどうみやく》を感じていた。それに圧力を加えていく。
正一は咳き込むのをやめた。四つん這《ば》いになり、顔を上げる。サングラス越しに真希を見つめ返してきた。
そして正一は、自分の首筋を撫《な》で始めた。真希の握り拳《こぶし》を凝視している。
彼にして見れば、さぞ不思議に思っていることだろう。今の正一は首の周りに圧力を感じているからだ。真希の意図が、すぐには理解できないに違いない。
やがて、真希の狙いどおりの効果が現れた。突然、正一の頭が前方に垂れ下がったのだ。そのまま倒れ込む。泥酔したようなありさまだった。
真希は再び、鼻で笑うと、手を開いた。五〇〇円硬貨を指先で弄《もてあそ》ぶ。
念のため、真希は正一のそばまで歩いて、倒れている彼にかがみ込んだ。首の辺りを探り、脈を確認する。正一の鼓動が感じられた。
真希は、うなずいて、
「頸動脈を絞めると失神するって、本当なのね……」
これは組み技格闘技の世界で、「落ちる」と呼ばれる現象だった。頸動脈を絞められると、脳に酸素が回らなくなって失神するのだ。だが、相手が気絶した段階で、すぐに頸動脈を離せば後遺症も残らず、安全である。
真希は言った。
「もう少し生かしといてあげる。貴重な情報源だものね」
真希は振り返った。
そこには大きな二つの丸石があった。この禁足地で信仰の対象となってきた磐座《いわくら》だ。直径一・五メートルほどで、しめ縄で飾られている。
向かって右側の丸石の上では、志津夫が気絶していた。仰向けで大の字の体勢で、目は閉じられている。胸がかすかに上下しているので、命に別状はなさそうだ。
向かって左側の丸石の隣には、野球帽をかぶった白川祐美が仰向けに倒れていた。この生意気なチビ女も失神中だ。当面は真希の邪魔をする恐れはない。
草薙剣《くさなぎのつるぎ》を収めたコウヤマキの箱が、祐美のそばに落ちていた。だが、今はそれに対する関心は薄くなっていた。もっと差し迫った問題がいくつもあるからだ。
真希は、自分の指先につまんだコインと、祐美とを見比べた。瞳に赤紫色の炎が宿ったようだ。このチビ女をさっさと始末するべきだろうか?
例の地鳴りがまた桜井市全域を揺るがした。巨大なハンマーが振り下ろされたような震動音。それが真希を急《せ》き立てているかのように思えた。
さっさと抜け。地鳴りが、そう語りかけてくる。
真希は例のミニチュア社殿を振り返った。高さ一メートルほどで、内部にブルーガラス土偶が収められているものだ。
真希が肩をすくめて言った。
「OK。こっちが先ね」
彼女はコインを親指で弾いた。宙に跳ね上がった硬貨をキャッチする。それをポケットにしまうと、歩き出した。
社殿のそばまで来ると、かがみ込んだ。その縁の下をのぞき込み、ライトを当てる。
心《しん》の御柱《みはしら》があった。高さ三〇センチほどで、四角柱の木材だ。頂上部には社殿の屋根のミニチュア版が載せてある。
例の地鳴りが一際《ひときわ》ボリュームを上げたような気がした。はやし立てているように聞こえる。抜け、抜け、と。
真希はハンディライトを地面に置いた。両手を伸ばして、心の御柱をしっかりとつかむ。腕に力を込めていく。
意外にも、柱はあっさりと地中から姿を表した。腐った奥歯も同然のもろさだ。二〇センチほど引き抜いたところで、真上にある社殿にぶつかった。
そこで真希は柱を前後に揺さぶり始めた。下が砂地だから、それができるのだ。柱の表面から砂粒が剥がれ落ちてくる。
また遠くから地鳴りが聞こえた。それと同期を取っているかのように、真希の身体も震える。自分でも説明のつかない現象だ。
真希は柱を揺さぶり続けた。やがて、それは斜め四五度の角度になった。この状態なら、真上の社殿に引っかからずに、柱を引き抜けるだろう。
彼女は微笑した。
「ついに真相に迫る、か」
大きく息を吸い込むと、腕に力を入れた。
一気に抜いた。
[#改ページ]
七の巻 蛇 神
「音が……止まった……」
加島俊一は、そう呟《つぶや》いた。
二五歳の加島は、両耳に両手をあてがい、パラボラアンテナのような形にしていた。かすかな音でも聞き逃すまいとしたのだ。銀縁メガネの奥にある目が、瞬《まばた》きを繰り返している。
隣では、五〇歳の守衛、山沢努も同じポーズをとっていた。彼は、いくら剃《そ》ってもひげの濃さが目立つタイプの男だ。
音を聞き取ろうとしていたのは、彼ら二人だけではなかった。
一〇〇〇人を超える野次馬たちも箸墓古墳の周辺道路に立ちつくしているのだ。ほぼ全員が耳に手をあてがっていた。そして近くにいる者と顔を見合わせている。
「何か聞こえるか?」
「いいや」
そんな会話が繰り返されていた。
聞こえるのは、季節はずれの熱風の音だけだった。その風圧が電線を笛のように鳴らし、防風林の枝葉をざわめかせる。それ以外は、野次馬たち自身の私語ばかりだ。
眼前には、精緻《せいち》に整えられた前方後円墳のドーム型が、古代からの静寂を保っていた。後円部直径一五〇メートルの箸墓古墳だ。その手前には、溜《た》め池が広がっていた。
山沢が言った。
「音が止まった……。あんなに、地鳴りみたいにやかましく鳴っていたのに……なぜ?」
「さあ?」
加島は首を振る。溜め池を見下ろした。
さっきまで、池の表面には一〇秒間隔で、波紋が生じていたのだ。波は池の外縁で発生し、水面中央部に向かって集束し、そこでぶつかり合っては、エクスクラメーション・マークそっくりの水しぶきを上げていた。
今、溜め池は穏やかな海に似た状態だった。無数の小さな三角波が持ち上がっては消えている。
「どうなってるんだ?」
群衆は口々に疑問をぶつけ合う。だが、答えが得られるはずもなかった。
パトカーの警官が拡声器を通して、言った。
『いざという時の交通の邪魔になります。音も消えたようですから、解散して、帰宅してください』
誰かが言った。
「そんなこと言ったって、また鳴り出したら、どうするんだ? 安眠妨害だぞ」
そうだ、そうだと唱和する声が多発した。だが、デモ行進の際のシュプレヒコールのような力強さは欠けていた。
皆、内心では怯《おび》えているらしく、まったく気勢が上がらないのだ。かといって解散して、帰宅する気にもなれないようだ。群衆は中途半端な状態におかれてしまい、このままではエンドレスの集会になりそうだった。
加島は箸墓古墳を見つめ直した。
ほんの少し前までは、古墳がまるで巨大な心臓と化して、鼓動しているようだった。そのドーム型シルエットが一〇秒間隔で、ぶれて見えたのだ。今はそれもなくなった。
加島と山沢は一時間ほど前から、桜井考古学研究所の外に出て、一連の異変をずっと観察していた。おかげで加島は帰りそびれた。山沢も半ば職場放棄に近い状態だ。
加島は呟いた。
「変だな……」
山沢が応《こた》えた。
「そりゃ変に決まってるだろうさ。古墳が鳴り出すわ。また急に静かになるわ……」
「いや、そういう意味じゃなくて……」
「どういう意味だ?」
加島は額を掻《か》きながら、
「確信があるわけじゃないんです。ただ……」
「ただ?」
「もしかしたら、古墳が音を出したのは警報ブザーのようなものじゃないか、と。そう考えたんです」
「警報ブザー?」
山沢は、箸墓古墳を見つめ直した。土のドームは沈黙を返すだけだ。
初老の守衛は、首をかしげた。
「何の警報だって言うんだ?」
加島は首を振って、
「はっきりとはわかりません。でも、この場から、さっさと逃げた方がいい。そんな気がしてきたので……」
彼≠ヘ目覚めた。
だが、せっかく目を開けたのに、何も見えなかった。水深一万メートルの深海に匹敵するほどの濃密な闇だ。
さっきまで、彼≠ヘ半覚醒《はんかくせい》状態だった。夢と現実の狭間《はざま》をさまよっていたのだ。
実は、彼≠ヘ強制的に冬眠させられていた状態だった。古代人の知恵によって彼≠ヘ眠らされ、今まで別世界に封じ込められていたのである。
これこそが「心の御柱」の秘密だった。現代では完全に失われたテクノロジーだ。
では、その「心の御柱」のメカニズムとは、いかなるものなのか。
それを理解するには、まず、以下の例をアナロジーとして考えねばならない。
人体の神経細胞には、脳が発する微弱な電流パルスが流れている。そのため人体の各所には電流の交差点が発生しており、それが人体の健康状態と深く関わっているらしいのだ。
これが東洋医学で言うツボ、経穴である。ここを指圧したり、針を打ったり、さらには打った針に弱電流を流すことで、様々な治療効果が得られるのだ。針麻酔も、その効果の一つである。
しかし、なぜ、ツボや針麻酔は効くのか。その詳しい原理やメカニズムとなると、未《いま》だに完全には解明されていないのだ。
しかし、ツボや針麻酔の有効性については、もはや誰も疑う者はいない。すでに多くの病人たちを治療した実績で証明されているからだ。
このツボや針麻酔のアナロジーこそが、「心の御柱」の原理やメカニズムを理解する鍵《かぎ》なのである。
つまり、カムナビ山に存在するチ≠焉A人体の神経細胞に流れる電流パルスと同様の現象を発生させているのだ。
ゆえに、チ≠フ交差点、チ≠フツボとも呼ぶべき地点が、三輪山などにも存在するのである。
中国の風水学にも、これと似たような思想がある。人体と同様に、大地にもツボが存在するという考え方だ。風水学では、その地点を龍穴≠ニ呼んでいる。
実は三輪山の禁足地にも、こうした「大地のツボ」があったのだ。
禁足地の中央に建てられていたミニチュア社殿が、それだ。この社殿こそ「大地のツボ」を示す座標物だったのだ。
とすれば、その地点に埋められた「心の御柱」とは何か。
「ツボに打った針」そのものである。
これによって、三輪山の地中には「針麻酔」に似た効果が生みだされていたのだ。これが彼≠長い年月に亘《わた》って眠らせ、別世界に封じ込める役割を果たし続けていた。
「心の御柱を抜いてはならない」という古代からのタブーも、ここから生まれたのである。
……今、「針」は完全に引き抜かれていた。
彼≠煌ョ全に目覚めていた。今では、はっきりした自意識も持っていた。自分は長い間、眠っていたらしいと気づいたのだ。
いったい、どれだけの時が経ったのか? また、ここはどこなのか?
彼≠ヘ首を持ち上げて、身体を蠢《うごめ》かせた。目頭の下にあるピットが赤外線を捉《とら》えようとした。摂氏〇・〇〇一度の温度変化をも感知する敏感な器官だ。
だが、そのピットを使っても、何も見えなかった。
彼≠ヘ身体を蠢かせて、周囲を探り始めた。
真希は「心の御柱」を手にしたまま、凍りついていた。
柱自体は、長さ九〇センチほどの四角柱の木材だった。しかも、あっけなく抜くことができたのだ。
彼女は周囲を見回し、言った。
「音が……地鳴りが止まった……」
確かに、桜井市に静寂が戻っていた。例の地鳴りは聞こえなくなったのだ。まるで、誰かにスイッチを切られたかのようだ。
十数秒ほど沈黙が続いた。彼女は次に何が起きるのかと、待ち続けていた。
真希は、体内の導火線に火が点いた気分だった。じっとしていても、身体が火照ってくる。アドレナリンが全身に回り始めた。
期待と不安で、鼓動がアップテンポになっていく。ティーンエイジャーの女の子が、憧《あこが》れのロック・ミュージシャンに会える時の心境に似ていた。ついに待ちこがれていた瞬間が訪れたのだ。
志津夫や祐美、正一の三人は気絶したままだった。微動もしない。彼ら三人は不運にも、その場に居合わせながら、決定的な瞬間を見逃してしまうわけだ。
その音は背後から、やってきた。巨大な歯車が回りだしたような音と震動だった。
真希は思わず飛び上がった。手に持っていた心の御柱≠ニライトを落としてしまう。慌ててライトだけ拾った。振り返り、それに照明光を当てる。
それは、この場で最も大きな磐座《いわくら》、立石だった。高さ二メートル、幅六〇センチほどで、山を背にして鎮座している。上部には、しめ縄が巻いてある。表面のあちこちに濃緑色のこけが付着していた。
だが、どこか不安定な代物だった。かろうじて、山の崖面《がけめん》によりかかっている印象があった。
その立石が動き始めていた。ゆっくりと、こちらに向かって倒れ込んでくる。
地面の土砂が、岩盤と立石の間に挟まれて軋《きし》んでいた。地面の小石群も、立石のあまりの重量に潰《つぶ》れていき、破裂音を響かせている。大型戦車が進軍してくるような迫力があった。
彼≠ヘ後頭部と首筋を磐座の裏側に密着させていた。斜めの天井や壁に全身をあてがい、渾身《こんしん》の力を込めて押していく。少しずつだが、立石は動いた。
やがて岩盤と立石との隙間から、光が差し込んできた。最初は眩《まぶ》しくて、網膜が焼けそうな感じがした。長いこと光を見ていなかったせいだ。
隙間からは、新鮮な暖かい外気も流入してきた。彼≠ノとっては好ましい事態だ。外に出られるのだ。
しかも、温暖な気候は変わっていないらしい。その点も彼≠ノとっては好ましいことの一つだった。
ついに立石のバランスを崩した。後の仕事は重力が引き継いでくれる。巨石は外側に向かって、ゆっくりと倒れ込んでいった。
同時に、彼≠ヘ空中にいた。それまでは彼≠フ肉体は立石と、隧道《ずいどう》の天井や壁との間とで、つっかえ棒になっていたのだ。なのに、支点の一端が消えたからだ。
彼≠ヘ再び、斜めになっている隧道の中へ落下した。全身のあちこちを強打してしまう。わずかに残った痛覚が、その激痛の断片を伝えてくる。
だが、心中では快哉《かいさい》の叫びをあげていた。これで外に出られるのだ。
真希は凍りついたままだった。高さ二メートルもの磐座がバランスを崩す瞬間を見守ることしかできない。
ついに倒れ込んだ。ビルの基礎工事の音に匹敵するほどの衝撃音が轟《とどろ》く。足裏にその震動を感じた。
同時に、真希も半歩、飛び退いた。顔がひきつってしまう。
土砂や、濃緑色のこけが粉塵《ふんじん》となって舞い上がった。一瞬、ほとんど何も見えなくなる。コンサート用のスモークマシンを作動させたようなありさまだ。
やがて粉塵がおさまってくると立石があった崖面には、洞窟《どうくつ》が出現していた。高さは二メートル、幅六〇センチほどの穴で、ほぼ磐座と同サイズだ。今まで立石によって、蓋《ふた》をされていたらしい。
真希はライトを向けた。肉眼視力と、芽生え始めた赤外線視力の両方で、そこを観察する。
洞窟の中は最初、暗黒そのものに思えた。だが、すぐに下りのトンネルへの出入口だとわかった。ライトが照らすのは、斜め下へ続く天井だけだからだ。
トンネルの天井や壁は、多数の石が埋め込まれていた。それらが補強材になっているようだ。古墳の葺《ふ》き石工法に似ていた。
粉塵の乱舞が、かなりおさまってきた。大気が透明度を取り戻し始める。
真希は、自分の呼吸が激しくなるのを感じていた。このトンネルの奥に何かがあるのだ。それを確かめるために、ここに来たのだ。
彼女は一歩、踏み出した。恐れる気持ちはない。好奇心のみだ。二歩目も踏み出す。
突然、吠《ほ》えるような大音声が、洞窟の奥から響きわたった! 人間の声とも獣の声ともつかないような、多数の倍音を含んだ吠え声だった。
真希の背筋に電流が走った。思わず身震いする。期待、不安、歓喜などが、体内で複雑にミックスされていた。
そして洞窟の中から、それ≠ェ姿を現した。驚くべきことに、それ≠ヘ一気に三メートルもの高さに跳ね上がったのだ!
真希は目を限界まで見開いた。一瞬、言葉が出なくなる。
次の瞬間、ソプラノで絶叫した。大口を開けて、後ろへ飛び退こうとする。だが、足がもつれて、しりもちをついてしまった。
それ≠フ気味悪さは形容し難いものだった。異なる生物同士を無理矢理、接合したようだ。神をも恐れぬ産物に思えた。
彼≠ヘ眉間《みけん》にしわを寄せた。目の前の光景が理解できなかったのだ。
夜なのに不可思議な光が、地面に放たれていた。まるで光が円錐形《えんすいけい》に固体化したような状態だ。炎のように揺らめいたりすることがないのだ。
現代人なら、それは地面に落ちた乾電池式ハンディライトの光だと気づくはずだ。だが、彼≠ノは、そうした知識がなかった。ただ、奇妙な光としか認識できなかった。
その上、彼≠フ肉眼は長年、暗闇にあったため、まだ光に適応できないでいた。そこで主に赤外線視力に頼って、その場の状況を把握することになった。
彼≠ヘ高い位置から、長髪の若い美女を見下ろした。その女はたった今、悲鳴をあげて、しりもちをついたのだ。大きな目に、厚めの唇、量感のあるバストなどが印象的だ。
女は、彼≠フ姿を見て、恐怖したらしい。だが、無礼なことに彼≠フことを敬うような態度は、まったく見せない。それが不審だった。
女が顔に入れ墨を一つも入れていないのも、彼≠ノは奇妙に思えた。彼≠ノとって、顔面の入れ墨は名刺代わりだ。それによって、どの部族かを識別できるからだ。
女の服装も見慣れないものだった。貫頭衣の一種らしいが、人体の形状にぴったりと合わせてあり、全身を無駄なく包むようになっている。どうすれば、こんな衣服を作れるのか、彼≠ノは見当もつかなかった。
この女は異国の者だ。
そう彼≠ヘ結論した。おそらく海の彼方《かなた》にあると言われる異国から、この地へやって来たのだろう。
見ると、手前にある丸石型の磐座《いわくら》の上や地面にも、三人の人間がいた。だが、こちらは倒れたまま動かないし、声も発していない。気絶しているようだ。
その三人も、悲鳴をあげた女と同類で異国の者らしい。顔に入れ墨がないし、見慣れない衣服や冠を着用しているからだ。
突然、長髪の若い美女が立ち上がった。気を取り直したらしい。
女は左手を腰に当てて、胸を張り、威厳のある態度を見せた。どうやら恐怖を克服しつつあるらしい。顔をひきつらせながらも、自信ありげな表情だった。
女が叫んだ。
「私に従いなさい!」
同時に、女は右手を拳《こぶし》にして、彼≠ノ突き出した。何かを握っているようだ。
彼≠ヘ瞬《まばた》きした。女の言葉が聞き慣れない言葉だったからだ。意味も不明だ。だが、それでいて、彼≠ェ使っている言葉と似ているような気もした。
女は一気に喋《しやべ》りだした。
「あなたは、私に従うのよ。これからは、私の命令どおりに動くの。そうね。私のペットにしてあげるわ」
女は妖艶《ようえん》に笑った。その指先に小さな銀色の円盤が現れた。金属製の品物らしい。それを彼≠ノ向かって、突き出した。
「そうよ。ペットがいいわ。それにあなたなら当然、古代の真相も知っているだろうし、他にもいろいろと役に立ちそうだしね」
女は小さな円盤を右手の中に握った。
「まず、私には逆らえないことを覚えてちょうだい」
女は右手に力を込めたらしい。
同時に彼≠フ首にも変化が現れた。
彼≠フ喉《のど》に見えないリングがはまったようだった。しかも、その透明な首輪は直径を狭めていく。おかげで首が真ん中から、くびれていくのだ。しまいには、太めの砂時計のような形状に変わった。
女は微笑した。他人の苦しみを見て喜ぶような、酷薄な性格らしい。それがむき出しになっている。
彼≠ヘ片手を伸ばし、自分の首に触れた。今、自分の身に起きている奇現象を確認する。いぶかしげな表情を浮かべた。
彼≠ヘ再び、女を見下ろした。その顔に苦悶《くもん》はなかった。背中が痒《かゆ》いような、その程度の不快感でしかないからだ。
長髪の美女の形相が変わった。大きな目を、さらに大きく見開いている。不審と驚愕《きようがく》が、彼女の脳裡《のうり》を占めているようだ。
女は、右手に渾身《こんしん》の力を込めた。腕全体が震え出したほどだ。
その震動は、彼≠フ首にも伝わった。両者は不可視のチ≠ナつながれているため、同じ震動周波数を共有したのだ。
やがて震動は、彼≠フ頭部や上半身をも揺さぶりだした。だが、相変わらず彼≠ヘ平然としていた。何の痛痒《つうよう》も感じないからだ。
ついに眼前の美女の顔が歪《ゆが》んだ。自信たっぷりの態度が吹き飛ぶ。怯《おび》えの色が目に現れた。
女の右手の震えが止まった。握力も緩んでしまったようだ。
同時に彼≠フ頭部や上半身の震動も止まった。首に生じていた、くびれも消えて、元の形に復元していく。
女は一歩、二歩と下がっていた。頬がひきつりだした。
彼≠ヘ思った。この女は、今やったような首絞め≠フ呪力《じゆりよく》によって、誰に対しても優位に立ってきたのだろう。だが、それが効かないとなれば、凡百の人間と変わらないわけだ。今は無力感を味わっているのだろう。
彼≠ヘ女を睨《にら》んだ。瞳《ひとみ》に殺気が漂う。ギラギラした輝きを放ち始めた。
この長髪の美女は敵だ。彼≠ニしては、そう判断するしかなかった。妖《あや》しい術を使う敵対者だ。
彼≠ヘ自分の胴体を逆U字形に跳ね上げた。こんな風に身体を動かすのは久しぶりだが、特に不調もない。
彼≠ヘ、長い胴体を水平方向に円弧を描いて、飛ばした。ムチの動きにそっくりだった。
真希は胸と腹を強打された。次の瞬間、交通事故の被害者のような勢いで吹っ飛ばされていた。一〇メートルほど水平飛行する。
彼女の身体はスギ林の間を突き抜けていき、一本の幹に背中と後頭部がぶつかった。ようやく止まった。そのまま前方へ倒れ込む。
真希は樹にぶつかった際に、ハンマーで殴られたようなショックを味わっていた。頭蓋骨《ずがいこつ》が教会の鐘のような音色を鳴らしている。
意識が朦朧《もうろう》としかけていた。目に被膜がかかったようになっている。
真希は自分の失態が信じられなかった。こんなバカな。私は無敵の存在のはずよ。古代の遺産を復活させて、継承する資格があるはずよ。私がオオキミになるはずよ。
だが、土壇場ですべてが狂いだしていた。洞窟《どうくつ》から出現した怪物は予想外だった。さらに、この怪物を自分が制御できなかったことも、彼女の計画を越えていた。
真希の中に、初めて後悔の念が湧いてきた。どうやら、取り返しのつかない間違いを犯したらしい。魂が凍《い》てつく気分だ。
「パンドラの箱」というお伽噺《とぎばなし》を思い浮かべてしまう。あるいは「自分の姿をのぞくな」と妻イザナミが、夫イザナギに頼んだ神話を思い浮かべてしまう。強いタブーと、それを犯した結果、悲劇が生まれるというストーリー・パターンだ。いつの間にか自分は、そうした神話的な起承転結の中に閉じこめられていたのだ。
いったい、どうすればいいの? その一言が脳裡を占めてしまう。
だが、解答は出ない。
彼女は何とか起きあがろうとした。できなかった。せいぜい仰向けになるのが精一杯だった。
やがて、真希の意識は途切れていった。すべてが暗闇の中に吸い込まれていく……。
彼≠ヘ、長髪の美女が宙を舞うのを見守った。小石のような軽さで一〇メートルほど飛んでいく。スギの幹に叩《たた》きつけられてから、倒れ込んだ。
とたんに、女の姿が見えなくなった。この台地と森林地帯の間に段差があるからだろう。その段差の下に、女の全身が隠れたらしい。
邪魔者が消えて、彼≠ヘ満足そうにうなずいた。普通の人間の分際で、彼≠どうにかしようなどと考えること自体、間違いなのだ。パワーが違いすぎるから、彼≠フ自由を奪おうと思ったら、最低でも一五人ぐらいの人間が必要だろう。
いや、たとえ千人いようと、一万人いようと、彼≠押さえ込むのは不可能だった。
それを証明するべく、彼≠ヘ天を仰いだ。吠《ほ》える。犬の遠吠えに似ていた。
もちろん、本当は音声で呼びかけたのではない。真空の宇宙空間にいる存在に、音声が届くわけがないからだ。だが、気分的には吠え声をあげる方が、相応《ふさわ》しいシチュエーションだった。
次の瞬間、夜空の一点が輝いた。まるで空に穴が開いて、その向こう側にキセノン放電管が存在するかのようだった。
暗い空から、輝く光条が照射された。高密度の金色の針のようだ。
そのビームは揺れ動きながら、彼≠フ眼前の森林に命中した。距離は三〇メートルほどしか離れていない。先ほど、宙を飛んだ美女が叩きつけられたスギの木の向こう側の地点だった。
強烈な光が、辺りを平板なシルエットに変えた。樹木の影だけが視界に映り、遠近感が失われたほどだ。普通の人間なら、思わず手のひらをバイザー代わりにして、目を保護するところだろう。
ビームに触れたスギ林は、一瞬にして燃え上がった。まるで内部にガソリンでも詰まっていたかのような勢いで、炎が噴出する。
光柱そのものは四、五秒ほどで消えた。だが、辺りはたちまち山火事になり、周辺が明るくなってきた。もうハンディライトなど不要だろう。
それも彼≠フ意図したことだった。照明光が欲しかったのだ。
目的は、もう一つあった。「試し撃ち」だ。いかに使い慣れた武器だとは言っても、準備運動もなく、いきなり本番というわけにはいかなかった。いつもどおりの調子で出来るかどうかを確認したのだ。
彼≠ヘあらためて周囲を見回した。他に邪魔者はいないかと警戒する態度だ。
だが、横たわったままの三人の男女しか見当たらなかった。彼らは丸石の上や地面の上に寝ているだけで、さっきから動きがない。彼≠焉Aその三人には関心はなかった。
丸石のそばには細長い箱もあった。だが、彼≠ヘ、それにも関心はなかった。見慣れない箱だったため、彼≠フ大事な所有物を入れてあるとは思いもしなかったのだ。
他に、地面には不可思議な円筒も落ちていた。冷たい光を放つ代物だ。もちろん乾電池式ハンディライトだったが、彼≠ノは理解できないものだった。
彼≠ヘ、光っている円筒をのぞき込んだ。首をひねってしまう。こんなものは初めて見た。
興味を引かれた彼≠ヘ、その円筒を指先で突っついてみた。
何回か繰り返すうちに偶然が作用した。押しボタン式スイッチに圧力を加えてしまったのだ。
軽い音がして、光は消えた。
彼≠ヘびっくりして、後ろに下がった。しばらく息を潜めて、様子を見る。一〇秒ほど経過した。
だが、それっきり光は蘇《よみがえ》らなかった。その円筒は唐突に死んでしまったようだ。生き返りそうな雰囲気はない。
彼≠ヘ不審な思いにかられて、首を捻《ひね》っていた。だが、やがて、興味をなくした。その円筒が何であれ、もはや何の役にも立ちそうにないからだ。
彼≠ヘ天空を見上げた。もう一発、景気づけにカムナビを呼ぶ。
夜空から金色の光条が出現した。辺り一帯が、カメラ用ストロボを一〇万個ほど点滅させたような光で満たされた。ミニチュア社殿や磐座などが昼間のような明るさで浮かび上がる。
揺れ動くビームは、洞窟《どうくつ》の背後にある森林に命中した。そこからも炎が上がる。山火事の萌芽《ほうが》がまた一つ増えた。
彼≠ヘ「試し撃ち」の成果にうなずいた。
彼≠ヘ、より見晴らしのいい場所を求めて、テラス状台地を後にした。長い身体をS字形にくねらせながら、暗い森林に分け入っていく。
やがて、その怪異な姿は、樹木の間で蠢《うごめ》くシルエットへと変わっていった。
その声は、志津夫の名前を連呼していた。地平線の彼方《かなた》から呼びかけてくるような感じの声だった。途中で、いくつもの山脈にぶつかるらしく、エコーを伴っている。
次に志津夫が感じたのは震動だった。そのせいで、彼の頭部が揺れていた。首がバネ仕掛けになっている人形になったみたいだ。
次に聞いたのは、誰かがセロファンを丸めて、くしゃくしゃにしているような音だった。ひどく耳障りだった。やめろ、と言いたくなる。だが、声が出ない。
光が見えた。ようやく志津夫の目が開きかけたのだ。
サングラスに、ひげ面の男の顔が眼前に出現した。縄文人の末裔《まつえい》みたいな造形だ。その顔が叫ぶ。
「志津夫! 目が覚めたか?」
唸《うな》り声で応《こた》えてしまった。まだ、それしか喉《のど》から絞り出せない。
「大丈夫か?」と正一。
「と……と……父さんか? いてて」
志津夫は思わず後頭部に片手を当てた。打撲傷の鈍痛を感じた。幸いなことに出血はないようだ。
志津夫は背中や腰骨にも痛みを感じ、呻《うめ》いた。以前、徹夜作業の後で腰痛になったことがあったが、その時の感覚を思い出した。背中全体がコンクリートみたいに固まってしまったようだ。
父が呼びかける。
「大丈夫か? 立てるか?」
「ああ、何とか……」
そう言って、身を起こし、磐座《いわくら》の上から落ちそうになった。慌てて、両手と背中で体重を支え直す。正一も両手で抱き止めてくれた。
正一に手を貸してもらい、志津夫は丸石から地面に足を降ろした。三輪山の神聖な磐座に腰掛ける形になる。
ふいに志津夫は、夜なのに辺り一帯が明るくなっていることに気づいた。その原因もすぐにわかった。
前方の森林から大きな炎が上がっていた。炎は、すでに大人の身長を上回るほどの高さに成長している。すでに二〇本ほどの樹木が燃えているようだ。多量の火の粉が夜空に舞い上がっていた。
同時に、生木が熱で弾《はじ》ける音が盛大に奏でられていた。それは先ほど夢うつつに聞いた音だった。誰かがセロファンをくしゃくしゃにしている音ではなかったのだ。
志津夫は目を見開いた。さっきまでは火事の片鱗《へんりん》もなかったのだ。なのに、状況は一変していた。
しかも、周囲に溢《あふ》れる光や音の量が多すぎるのだ。それで山火事は一ヶ所ではないと気づいた。
彼は背後を振り向いた。
やはり、背後の森林にも火災は発生していた。直径一〇メートルほどの面積が炎に包まれている。こちらの火の勢いも負けず劣らずという感じだ。スギの枝が弾け飛ぶのも見えた。
志津夫は、前後から熱波を感じた。もし意識不明の状態が続いていたら、ここで脱水症状を起こして死んでいたかもしれない。
さらに、志津夫は意外な光景を目にして、驚きの声を発した。
高さ二メートルはある立石が倒れていたのだ。さっきまで、その磐座は山を背にして崖面《がけめん》によりかかる形で鎮座していたものだ。
倒れた立石の向こう側では、山火事が派手な炎を噴き上げていた。おかげで、付近は明るく照らされていた。立石の裏側も丸見えになっている。そこは赤茶けた土にまみれていた。
志津夫は、さらに目を大きく見開いた。
さっきまで立石があったところに、黒い穴が開いていたのだ。洞窟の出入口らしい。穴の奥は斜め下へと伸びており、地下道のようになっているらしい。
倒れた立石のそばには野球帽をかぶった白川祐美が、しゃがみ込んでいた。片手にハンディライトを持っている。それで地面を照らしていた。
祐美が振り返った。顎《あご》の辺りに黒いあざができている。志津夫が失神している間に、誰かと殴り合いの喧嘩《けんか》でもやったみたいだ。
祐美が可愛い丸顔を歪《ゆが》めて、訊《き》く。
「大丈夫?」
「ああ。大丈夫だが……」
志津夫は洞窟を指さした。
「あれは?」
その問いに、正一が背後を指さした。力のない声で言う。
「やられた……」
志津夫は振り返った。
そこには例のミニチュア社殿があった。社殿自体には問題はなかった。
問題は、社殿のそばに長さ一メートル弱の四角柱が横たわっていることだ。その柱の一端には、社殿の屋根を模した飾り屋根が付いている。
志津夫はしゃがんで、視点を低くした。社殿の下をのぞき込む。
社殿の下には何もなかった。砂地を掘り返したような跡が残っているだけだ。そして、そばには飾り屋根の付いた柱が転がっている。何が起きたのかは一目|瞭然《りようぜん》だった。
志津夫が独り言のように呟《つぶや》く。
「じゃ、やっぱり抜いたのか? 心の御柱を? 真希さんが?」
正一は無言で、うなずいた。父は、そのことに衝撃を受けているらしい。言葉数も少なくなっている。
「彼女はどこだ! あの真希さんは?」
志津夫は見回した。山火事のオレンジ色の炎が、網膜に焼きつきそうだ。だが、周囲三六〇度を見渡しても、四人目の人影はなかった。
「どこだ?」
正一は首を振って、
「わからん」
「わからないって?」
「私と祐美さんが目覚めた時には、もういなかったんだ!」
正一が突然、大声で怒鳴った。今まで溜《た》まっていたものがあるらしい。それを一気に吐き出すような勢いだ。
「すでに心の御柱は抜かれていた。後は見ての通りだ。磐座が倒れていて、あの洞窟が現れていた。なぜか、周りは山火事だった。そして、なぜか、草薙剣の箱は置き去りだった……」
正一が指さしたので、志津夫はその方向を振り返った。
「草薙剣が? いてて」
志津夫は後頭部を片手で押さえた。しゃがみ込んでしまう。たぶん、この打撲の痛みは数日間、尾を引くだろう。
志津夫は顔を上げた。とたんに、その品物が視界に飛び込んできた。祐美の背後にある細長い箱だ。
志津夫は思わず駆け寄った。木箱に触れる。
それは確かに、志津夫が熱田神宮から持ち出した代物だった。材質は堅牢《けんろう》なコウヤマキの木だ。長い年月のせいで、茶渋のような色合いになっている。
「箱の中身は?」
祐美はうなずいて、
「ちゃんと入ってる。開けた形跡はないし、振ると重みがあって、ゴトゴト音がするし」
「え?」
志津夫は不審のあまり、顔が歪んでしまった。再度、辺りを見回す。だが、視界の中にセミロングヘアのグラマー美女は入ってこなかった。
志津夫は言った。
「そんな……。苦労して、せっかく手に入れたのに、なぜだ? 草薙剣を放り出して、あの女、どこに行ったんだ?」
祐美が吐き捨てるように答えた。
「あんなバカ女が、何を考えているかなんて、わかるわけないじゃん!」
それでも志津夫は周囲を見回し続けた。だが、真希の姿はない。
彼女の行動は不可解そのものだった。おかげで、今や彼の頭の中は疑問符だらけのありさまだった。筋の通った現実がどこにも見えないのだ。
やがてオレンジ色の炎の群れを見回すうちに、もう一つ疑問符が湧いてきた。
志津夫は訊いた。
「この山火事は? まさか、ここでもカムナビが?」
祐美が答える。
「……うん。そうかもしれない。私や正一さんが目を覚ました時には、もう火事になっていたから……。それより、そこをどいて! 余計な足跡をつけないで」
「え?」
志津夫は言われるままに数歩、後退した。
祐美は地面にライトを当てた。
それは洞窟の出入口前の地面だった。
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地面には、奇妙な跡が残っていた。長いS字カーブが連続して重なり合っているのだ。見た目の印象としては、太くて長いものが引きずられていった跡のように見える。
祐美が言った。
「ね、変だろ? しかも、新しいよ。これは付いたばっかりの跡だよ。それに、これ……」
祐美がライトを当てたのは一見、サルの足跡のようだった。それらが一〇個ほどランダムに配置されている。それらは何かを引きずったような跡と同時に、そこにスタンプされたものらしい。
祐美が自分の片手を伸ばした。その足跡の一つに、片手をあてがう。
意外にも、足跡と祐美の手は相似形だった。大きさは地面にスタンプされた跡の方が、祐美の手よりも三割ほど大きい。
志津夫の表情が歪んでいった。
「これは人間の手の跡みたいだが……」
彼も片手を伸ばして、地面の「手の跡」と重ねてみた。ほぼ同じ大きさだった。たぶん成人男性の「手の跡」だろう。
いつの間にか、正一もそばにいた。彼も中腰になって、地面をのぞき込んでいる。息づかいを荒くして、言った。
「手の跡だと? じゃ、誰かが四つん這《ば》いで、そこの洞窟《どうくつ》から出てきたのか? そんな感じだが……」
祐美が首を振った。
「四つん這いじゃない。だって、足跡とか、膝《ひざ》の跡とか、それらしいものがないもの。手の跡以外には、この太い消防ホースみたいなものを引きずったような跡しかないし……」
志津夫は、うなずいて、
「ああ。確かに、そんな風に見えるな……」
彼は生唾《なまつば》を飲み込んだ。その音がいやに大きく響いた。奇妙な地面の跡によって、妙に想像力をかき立てられてしまい、不安の度合いが強まってきた。
祐美は立ち上がって、ライトの照射方向を変えた。光輪を移動させて、奇妙な「手の跡」と「引きずった跡」を追いかける。
何者かが残した「跡」は、六、七メートルほど進むと、「引きずった跡」だけになっていた。途中から、地面に手をつくのはやめたらしい。
「引きずった跡」は二つの丸石の間を通過して、次に社殿の後ろをかすめていた。最後は森林地帯へと向かい、雑草が潰《つぶ》された痕跡《こんせき》を残している。そこから先は「跡」が不明瞭《ふめいりよう》になり、行方知れずになっていた。
正一も立ち上がって、サングラスを下にずらした。赤外線視力だけでなく、肉眼でも、その「跡」を確認したかったのだろう。
彼の目にも、未知なるものへの怯《おび》えが表れていた。口も半開きだ。サングラスが少し、震えた。
正一は言った。
「つまり、こういうことなのか? あの真希という女は、我々全員が気絶している間に、心の御柱を抜いた。すると、この立石が倒れて、洞窟が現れた。洞窟の中からは何かが出てきた。そして、その何かがカムナビを呼んで、山火事になった……。その後、何かと真希は、この場を立ち去った……」
志津夫も立ち上がった。蒼白《そうはく》な顔で、質問する。
「何かって? 何が出てきたんだ、父さん?」
正一は顔をそむけた。
「わからん。何かだ。そうとしか言いようがない……」
「バカな……」
志津夫は、冷たい悪寒を背筋に感じた。直接、その何か≠見ていないだけに、かえって想像力が膨らんでいく。
ふいに、正一は倒れた立石にハンディライトを向けた。磐座の周りを歩きつつ、露出した裏側や、周囲の側面を照らし出す。何かを探そうとしているらしい。
「ん? これは?」
正一の足が止まった。その場にしゃがみ込む。立石側面の一点にスポットライトを当てていた。
志津夫と祐美も反射的に駆け寄り、その部分をのぞき込んだ。目を大きく見開いてしまう。
立石の側面には文字が刻まれていた。すべて漢字で、九文字あった。長い間、風雨にさらされていたせいか一部が消えかかっていたが、読解する支障にはならなかった。
登美能那賀須泥毘古
正一が呟《つぶや》いた。
「万葉仮名か……」
万葉仮名とは、日本語の発音を漢字で表記する方式だ。漢字の意味とは無関係に、音節だけを取り出して、利用したものだ。かつては、それが文字の標準方式だった。
正一が読み上げた。
「ト、ビ、ノ、ナ、ガ、ス、ネ、ヒ、コ……。トビノナガスネヒコ?」
志津夫が叫んだ。
「ナガスネヒコ! ここに? この三輪山に祀《まつ》られていたと?」
祐美が唇を歪《ゆが》めて、叫んだ。
「やっぱり、そうか!」
志津夫は思わず、彼女を振り返った。相手の細い肩をつかんで、訊く。
「やっぱりだって? 知ってたのか?」
「と言うより、うちの親父の推測だよ。もしかすると、ここにナガスネヒコを封じ込めたんじゃないかって」
「封じ込めた?」
志津夫は唖然《あぜん》とした顔で、洞窟を振り返った。立ち上がって、その奥を照らしてみる。
かなり深い隧道《ずいどう》のようだ。まず、傾斜二〇度ぐらいの下り坂になっていた。三メートルほど下りたところで、水平のトンネルに代わっているらしい。奥がどうなっているかは、わからない。
天井や壁には、多数の石が埋め込まれていた。古墳の葺《ふ》き石工法そっくりだ。
志津夫の背後では、正一がますます荒い息づかいになっていた。彼の呟《つぶや》きが聞こえてくる。
「ナガスネヒコ……神話では、初代神武天皇イワレヒコの最大のライバル……最後は義理の弟ニギハヤヒに殺されたはず……。まさか、この跡はナガスネヒコの足跡?」
正一は立ち上がり、周辺の地面を見回し始めた。
辺り一帯に「手の跡」と「引きずった跡」とが交錯していた。それは見る者の神経を逆撫《さかな》でする光景だった。どんな生物が、こんな痕跡《こんせき》を地面に残したのか。
正一は両手で頭を抱え込んでしまった。息づかいの荒さが最高潮に達している。それを抑制しつつ、喋《しやべ》り続けた。
「トビ、トベも、ナガ、ナギも、古代日本語で蛇を意味する言葉だ。トビノナガスネヒコ。蛇を意味する単語を二つも、名前の中に持つ男……。これはナガスネヒコが這いずった跡なのか……」
志津夫が叫んだ。
「そんなバカな!」
彼は首を振った。芽生え始めた自分の想像力を追い払う。父親に反論した。
「この中でナガスネヒコが生きていたとでも? だって、こういう洞窟とか、地下遺跡とかは酸欠になっているはずだ。生物が生きていられるはずがない」
「え?」
祐美が振り向いた。怪《け》訝げんな顔をしている。
志津夫は人差し指を立てて、言った。
「これは考古学の常識だ。そうだろう、父さん?」
「ああ。それは、そのとおりなんだが……」
正一は一応うなずいた。だが、納得したわけでもないらしい。両手で頭を抱え込んだまま、細かく首を振り続けている。
志津夫は、祐美に向かって説明した。
「たとえばハリウッド映画だと、発見したばかりの地下遺跡に、主人公の考古学者がいきなり飛び込んでいく場面が出てくる。だけど、そんなことをしたら、本当は酸欠で死ぬんだ。洞窟や地下遺跡は長期間の化学反応によって酸素がなくなってしまい、二酸化炭素が一〇〇パーセントという状態になっている」
志津夫は洞窟を指さして、
「要するに、この中で生物が生きていられるはずが……」
志津夫の言葉は遮られた。
その吠《ほ》え声は山頂の方角から聞こえた! 人間の声とも獣の声ともつかないような、多数の倍音を含んでいた。
志津夫は思わず、その方向を振り返った。正一や祐美も、同じ反応を示した。目を限界まで見開いている。
志津夫の背筋に電流が走った。呆然《ぼうぜん》とした表情で、呟く。
「何だ、今のは?」
正一や祐美は沈黙していた。今この三輪山に何か≠ェいることが、これで証明されたようなものだからだ。志津夫の学者としての意見など、あっさり覆されたのだ。
志津夫は再度、言った。
「何だ、今のは?……いや」
そこで彼は強く首を振った。
「いや、それよりも是非、訊《き》きたいことがある!」
志津夫は正一に詰め寄った。父親の胸ぐらを両手でつかむ。叫んだ。
「父さん、カムナビって何なんだ! 教えろ!」
だが、祐美が志津夫の腕をつかんで叫んだ。
「喧嘩《けんか》してる場合じゃないよ! 火がそこまで来てる!」
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八の巻 真 相
ファクシミリが何かを受信し、プリントしている。たまに、誰かのため息が聞こえる。それ以外はほとんど音もなく、静かだった。
東京大手町の気象庁予報現業室は、沈滞しきっていた。倒産寸前の役員会みたいな雰囲気だ。
五人の予報官は皆、疲労|困憊《こんぱい》していた。目は充血し、精気がない。姿勢も悪く、椅子の背もたれによりかかるか、極端な猫背になるかのどっちかだ。
唐突にドアが開いた。
「オルバースのパラドックス≠セ!」
開口一番、S当番(SATELLITE、衛星担当官)は、そう言った。
彼は満面に笑みだった。一人だけ異様な興奮状態にあるのだ。両手には、雑誌やらパソコンからプリントアウトした資料やらを抱えていた。
S当番は、今にもスキップしそうな足取りで部屋に入ってきた。鼻歌で映画「スター・ウォーズ」のテーマを演奏している。
彼は資料を会議卓に置いた。笑顔で、全員を見回す。まるで、自分がこれから会議の議長を務めるような態度だった。
「オルバースのパラドックス≠ナす!」
彼はそう繰り返した。
予報を統括するP当番(PROGNOSIS、予想担当官)は不審な顔で、S当番を睨《にら》んだ。
「何だって?」
A当番(ANALYSIS、解析担当官)がバンザイのポーズで言った。
「何だ何だ? また君は新しい言葉を発明する気か? ヒートシリンダーの次は何なんだ?」
S当番は首を振り、
「いや、これはぼくが発明した言葉ではありません。一八二六年、ハインリッヒ・W・M・オルバースが言い出したことです」
F当番(FORECAST、予報担当官)が首をかしげて、
「はて、どこかで聞いたような名前だが……」
紅一点のR当番(RAIN、雨担当官)も顔を上げて、
「何だったかしら? オルバース? パラドックス? よく思い出せないけど……」
S当番は大きく首を振って、
「知らなくて当然です。ハインリッヒ・W・M・オルバースは、ドイツの天文学者です。我々とは専門分野が違うんです。まあ、聞いてください」
S当番はポピュラーサイエンス雑誌を開いた。そこに書いてある内容を要約して、説明した。
「オルバースは、一八二六年に、こういう謎を提示した。
宇宙には無数の星が存在する。だとすると、夜空のどこを見ても、そこには必ず星が見えるはずだ。つまり、全天空が無数の星で照らされて、太陽の表面のような灼熱《しやくねつ》の輝きで満たされることになる。その結果、地球上の気温は果てしなく上昇し、生命の存在など不可能になる。
だが、実際には夜空は暗い。これは、なぜなのか?」
S当番は全員を見回した。
誰も返答しなかった。どう反応すればいいのか、わからない様子だ。お互いの顔を見合わせたりしている。
S当番は言った。
「では、より詳しく説明しましょう。つまり……」
オルバースのパラドックス=B
この謎はその後、一七〇年間に亘《わた》って、天文学者たちの頭痛の種になってしまったものだ。
これを説明するために、様々な仮説が出た。だが、後になって、その仮説は間違いと分かり、また振り出しに戻るということの繰り返しだった。
オルバースのパラドックス≠解く最初の考え方は、宇宙空間には無数の星が存在するわけではないとする説だ。実際オルバースの時代には、星の数はせいぜい二億〜三億個と考えられていた。
しかし、一九二〇年代になると、我々のいる銀河系だけで三千億個の星があり、さらに銀河系の数も、数千億個も存在することがわかった。つまり星の数は三千億×数千億個なのだ。
なぜ、こんなにたくさんの星が存在するのに、夜空が暗いのか? かえって疑問は深まるばかりだった。
二〇世紀の初めには、こういう仮説が出た。多くの銀河系は塵《ちり》でできた雲を含んでおり、宇宙空間のあちこちに薄い塵の層が存在することが、わかったからだ。そこで、この塵が光を吸収するため、夜空は暗いのだと学者たちは考え始めたわけだ。
しかし、この仮説も否定された。
もし、塵が膨大な光を遮っているのであれば、やがては塵そのものが高温になり、塵が光り始めるはずである。つまり輝く星にくわえて、輝く塵が夜空を満たすことになる。これではまたオルバースのパラドックス≠ノ直面することになる。
二〇世紀後半になると、新しい論点が加わった。膨張宇宙論だ。
現在、銀河系同士は互いに遠ざかりつつある一方である。したがって、星同士も遠ざかっていくため、星が放射する光の波長は、エネルギー値の低い赤色側へずれていくのだ。これがドップラー効果と呼ばれるものだ。
つまり、星が放射する光の大部分が赤色の方へずれるため、エネルギー値が低くなり、夜空を明るく照らすことができないというわけだ。一時期、多くのポピュラーサイエンスの本が、これを定説として紹介していた。
ところが、これも間違いだったのだ。
学者たちは、この仮説を検証しようと大変な労力を費やして、宇宙の膨張による光の損失量を計算した。その結果、この損失量は、オルバースのパラドックス≠説明するには、あまりにも少なすぎることを発見した。
つまり、たとえ宇宙が膨張し続けていても、やはり夜空は灼熱の輝きに満たされるはずなのだ。
というわけで、二〇世紀末になっても、未《いま》だに、はっきりした定説はなく、このパラドックスは解けないまま残されているのだ。
S当番は、ひととおりの説明を終えた。
だが、説明を聞き終わっても、他の予報官たちは瞬《まばた》きするだけだった。S当番が、この話を持ち出した意図が、さっぱりつかめないらしい。
A当番が言った。
「いったい、何が言いたいんだ? 私にはよくわからないが……」
紅一点のR当番も言った。
「私も時々、あなたにはついていけなくなるわ。だって、それは天文学の話でしょう? 私たちは気象庁よ」
F当番も大きく首を振って、
「おれにも関連性がよくわからん」
P当番も同意する。
「私もだ」
S当番は何度も、うなずいた。
「ええ。そうでしょう、そうでしょう。実際、すぐには信じられないでしょう。ぼくにしても、まだ仮説の域を出ないんです。しかし……」
彼は人差し指を立てた。急に芝居がかった感じになる。
「しかし、いくら考えても、他に熱源を見つけることができないんですよ。太陽以外に、これだけの熱を地球上に送り込んでくるものの正体です。
オルバースのパラドックス≠ノよれば、全天空が無数の星で照らされて、太陽の表面のような灼熱の輝きで満たされることになるはずです。しかし、そうはなっていない。ということは、何か≠ェ星々の光と熱を遮断しているからでしょう」
S当番は、全員を見回した。理解と同意を求める顔だ。
他の四人の予報官たちは、S当番を見つめ、次いでお互いの顔を見つめた。砂時計の砂が落ちていくぐらいの速度で、少しずつ理解の波が広がっていた。おぼろげながら、S当番が辿《たど》り着いた結論に、気づき始めたのだ。
S当番は、みんなのそうした反応を待ってから、言った。
「要するに熱源は、全宇宙に存在する星々の光と熱なんです。それが、この異常気象の原因です」
予報官全員が、口を半開きにしていた。脳みそが高熱で溶け始めたような表情だ。
S当番の思考プロセスは、常人のレベルから遥《はる》か高みを飛んでいた。すでに地球軌道を離れて、太陽系をも脱出しそうな感じだ。他の予報官たちには到底、追いつけない発想だった。
S当番は両手を拳《こぶし》にして、熱弁を振るい始めた。
「つまり、何かが、全宇宙にみなぎる星々の光と熱を遮断していたんでしょう。それこそオルバースのパラドックス≠フ正体です。
……では、質問です。もしもオルバースのパラドックス≠ェ一部、破れたら、どうなるか? もしも穴が開いたら、どうなるのか? その穴から遠赤外線のビームが、地球上に送り込まれる結果になるのではないか?」
S当番は、ゆっくりと一人一人の顔を凝視していった。
A当番とF当番は、狂人を見る目だった。紅一点のR当番は、脳みそが蒸発したような表情になっている。リーダー役のP当番だけは、テーブルの端を両手でつかみ、睨《にら》んでいた。
S当番は両手を広げて、だめ押しの演説をした。
「どうです? これなら、円筒形の熱気が発生した原因を説明できる。これがヒートシリンダーの正体では? ここで名付けさせてもらいますが、これはオルバース・ホール≠ニでも言うべき現象ではないかと……」
「ちょっと待て!」
リーダー役のP当番が立ち上がった。片手で制止するポーズを取る。
「その説だと、今まで宇宙空間の光と熱を遮っていた何か≠ェ存在すると、最初から決めつけることになるぞ」
「ええ。そうです」
S当番は平然と答えた。
P当番は呆《あき》れ返った顔になった。相手を指さす。
「そうですだと? では、その何か≠ニは何だ? それを説明しないと、ただの奇抜な思いつきでしかないぞ」
「ええ。それ≠ノついては、こう考え始めたところです……」
S当番はコンピュータからプリントアウトした用紙を手に取った。喋《しやべ》り出す。
「まず、光とは何か、可視光線とは何か、です。これについて調べなおしました。すると、おもしろいことがわかってきました。
では、皆さんに第一の質問です。
光とは何か?」
F当番が肩をすくめて、
「電波の一種だろう?」
「そうです」
S当番は笑顔になり、用紙を広げて、読み始めた。
「つまり波長が約七八〇〇オングストロームから三八〇〇オングストロームの電磁波です。より正確には、七八〇〇×一〇のマイナス八乗センチメートルから三八〇〇×一〇のマイナス八乗センチメートルまでの、狭い波長領域の電磁波。それが光、つまり可視光線です。
では、第二の質問。なぜ、人間の目はこんな狭い波長領域しか知覚できないのか?」
S当番は一同を見回した。
誰も答えられなかった。数秒間、沈黙が続く。
S当番が言った。
「答えは、太陽です。太陽がまさにこの波長領域で、最大の放射を行っているからです。約七八〇〇オングストロームから三八〇〇オングストロームの電磁波をね。だから、太陽が放射する、この波長領域に適応させて、我々は目≠ニいう器官を発達させたわけです。
では、第三の質問。太陽はなぜ、この波長を主に放射するのか?」
また、反応は同じだった。答えるものはいない。
S当番が自ら答えた。
「答えは、すべての原子が持つ電子です。
物質の最小単位は原子です。そして原子は中心にある原子核と、その周りの電子から成っています。この電子から発している放射が、やはりこの波長領域で最大の放射を行っているからです。
つまり可視光線とは、この宇宙でもっともありふれた電磁波です。いわば電磁波界のデファクトスタンダード、事実上の標準なのです。
だから、もしも地球外生命体が存在するとしたら、彼らも同じデファクトスタンダードを利用するために、我々の眼球と同じような目を持っているはずです」
彼は自分自身の瞳《ひとみ》を指さして、微笑んだ。さらに、用紙にプリントしたデータを読んでいく。
「……また、この波長領域は、緑色植物にとってはエネルギー源になっています。緑色植物が行う光合成とは、可視光線をエネルギー源として用い、二酸化炭素から炭水化物と酸素を生成するシステムです。
つまり光合成もまた、この宇宙におけるデファクトスタンダードを利用した生体システムなのです。この宇宙でもっともありふれた電磁波をエネルギー源にすれば、子々孫々に至るまで食うには困らない、ということです」
そこで、S当番は一息入れた。全員を見回す。演出的な間を置いたようだ。
S当番は言った。
「では、第四の質問。他にも、可視光線をエネルギー源とする生物は存在するのか?」
四人の予報官は黙ったままだった。唖然《あぜん》と、S当番の話を聞いているだけだ。
また、S当番は、問いに自分で答えた。
「答えは、イエス。存在します。
光合成細菌と呼ばれる微生物が、それです。沼土などに存在する、ごくありふれた微生物です。形態や大きさはさまざまで、色によって紅色細菌と緑色細菌とに分けられます。これらの細菌は植物とは異なり、酸素は発生させませんが、栄養は光合成で得ている微生物なのです。
では、第五の質問。さらに他にも、可視光線をエネルギー源とする生物は存在するのか?」
誰も答えなかった。S当番が辿り着こうとしている結論が何なのか、薄々わかり始めたのだ。だが、それを率先して、口にするのは憚《はばか》られる雰囲気だ。
今度も、S当番自らが答えた。
「答えは、保留付きでイエス。つまり、存在する可能性があるということです。
つまり、この宇宙で、もっともありふれた電磁波をエネルギー源にする生命体です。緑色植物や、光合成細菌の他にも、そういう生物が存在しても、別に不思議ではないでしょう? 我々が、まだ気づいていないだけであり、それが存在する可能性は高いと思われます」
S当番は、そこで天井を指さした。彼自身も天を見上げる。
「……では、たとえば、それが宇宙空間に存在するとしたら?」
彼は酔っぱらったような表情だった。熱病に浮かされたみたいに、怪しい目つきになっている。今にも唇の端から、よだれがこぼれそうに見えた。
「たとえば、まるで極薄のガスのような生物が、宇宙空間に存在していたら、どうでしょう?
それが太陽系を外側から覆い、さらに太陽系内部にまで浸透していて、宇宙空間にみなぎる光と熱を吸収して、エネルギー源にしていたとしたら、どうでしょう?
それは結果的に、宇宙空間の灼熱《しやくねつ》地獄から、我々地球上の生物を守る役割を果たしているのではありませんか?
その生物こそがオルバースのパラドックス≠フ正体ではありませんか?」
S当番の目は、狂気をたたえていた。すでにこの世を見る目つきではなかった。瞳《ひとみ》の焦点が常識を飛び越え、現世の淵《ふち》も飛び越えている。
他の予報官たちは、気を飲まれてしまっていた。S当番に対して、何一つ反論できない。そもそも、する気にもならない。
S当番の独演会は続いた。
「では、今、その生物の肉体にトンネル状の穴が開いたとしたら、どうなるでしょう? その場合は宇宙空間にみなぎる遠赤外線も、地球の近くまで誘導されてくるでしょう。
そして、地球を守る最後のフィルターに穴が開いたら、どうなるか? その遠赤外線は太いビームとなって、地球上の一点に命中するのではありませんか?
つまり、直径六〇キロの遠赤外線のビームが出現するのです。これがヒートシリンダーの正体では……」
「やめたまえ!」
P当番が怒鳴った。両手で会議卓を叩《たた》く。たまりかねた様子だ。
「は?」
S当番は、やや現実に引き戻されたようだ。彼の視線は宇宙の彼方《かなた》へ飛んでいたような状態だったが、今はこの予報現業室にピントを結んでいた。
「あ……いや……」
P当番は当惑した顔だった。額に片手を当てている。言葉を選ぼうとしているようだ。
やがて、P当番が言った。
「君は、ちょっと疲れているんだろう。帰って、ぐっすり寝たまえ。その方がいい」
「いや、確かに疲れてはいますが、気分|爽快《そうかい》です。ついに突破口を見つけました。清々《すがすが》しいと言いたいぐらいだ」
「いや、それでも帰りたまえ。これは命令だ。明日も明後日も有給休暇にして、ゆっくり休むことだ」
「待ってください」
S当番は会議卓に両手をついて、身をのりだして、
「これが正解ですよ! これで、ようやく辻褄《つじつま》が合ってきたんだ。
我々は、恐ろしく巨大な生物の腹の中にいるんだ! そして、その生物に何かが起こると、それまで遮断されていた外宇宙の熱が、地上に降ってくるわけで……」
P当番の形相が変わった。激昂《げつこう》し、最大ボリュームで絶叫する。
「君は頭がおかしい! 今すぐ病院に行きたまえ!」
(葦原正一のノートより、抜粋)
私の体験は大変、説明しにくいものだ。なぜなら、我々人類が使っている言語の語彙《ごい》が貧弱すぎるからだ。この体験について説明するには役に立ちそうもない。
だが、それでも思いつく限りの言葉で、記録を残しておこう。いつか誰かが、このノートを発見し、正しく理解してくれるかもしれないではないか。
その事件は、私が某カムナビ山に登った時に起きた。
だが、詳細は語るまい。誰かが余計な好奇心を起こして、悲劇を繰り返す可能性があるからだ。だから、ヒントとなるようなデータは一切、記述しない。
とにかく、私は登山し、地元の人も知らない領域へと足を踏み入れた。ある古文書の記録を頼りに計五回もそこに登山し、ついに探し当てたのだ。
そこには古ぼけた小さな社殿があり、崖《がけ》に接触している磐座《いわくら》があった。元々、そこは入山禁止の山だし、社殿の周囲には道らしい道もないので、今まで誰も気づかなかったのだろう。
そして、社殿の下には、心《しん》の御柱《みはしら》があった。
私は古来からのタブーを侵した。心の御柱を抜いてしまったのだ。すると、しめ縄の張られた丸石が少し動いて、洞窟《どうくつ》への出入口があることがわかった。
私は興奮の極みにいた。その辺にあった木材をてこの代わりに使い、丸石を動かして、隙間を広げた。
私は禁断の扉を開けたのだ。今から思えば、愚かな行為だった。
洞窟の奥には、巨大な青い土偶が祀《まつ》られていた。高さが一メートルもある最大級の遮光器土偶だった。表面が不透明なスカイブルーのガラスで覆われており、大変、美しい色合いだった。
土偶のデザインも見慣れないものだった。全身に蛇がからみついているような外形なのだ。
また、顔には入れ墨のような紋様があり、目の下には蛇のようなピットがあった。首には勾玉《まがたま》のようなネックレスをしていた。
私は興奮のあまり、不注意にも手を伸ばし、青い土偶に触れてしまった。そのせいで、土偶の中で眠っていた何かを目覚めさせてしまった。
自分の皮膚に何かが感染するのを感じた。
さらに、その直後に起きたことは、何と言って表現すればいいのだろうか。
言うならば、全宇宙規模の情報の微粒子だろうか。それが一瞬にして、私の意識へと雪崩れ込んできた。この宇宙の真相が一度に、私の内部で炸裂《さくれつ》した。
だが、あまりにも異様すぎるイメージだったため、私はそれを受け入れることができなかった。驚愕《きようがく》のあまり、しばらく動けなかったほどだ。
しかも、身動きできない私に、青い土偶が呼びかけてきたのだ。
それは声ではなかった。思念が直接、私の脳に流れ込んできたような感じだった。今、思えば、それもチ≠フ作用なのだろう。
土偶は、こう言った。
「後継者を我らの元へ」と。
少なくとも私には、そう聞こえた。
また、土偶は、古代におけるカムナビ山の映像も、私の脳内に送り込んできた。
それはステップ式ピラミッドの姿だった。直径の異なる円盤を大きいものから順に積み上げて、最後にもっとも小さい円盤を頂上に積んだような階段形だ。円錐形《えんすいけい》の山に大規模な工事を施して、階段型ピラミッドとして造り変えたものだった。
(縄文時代の日本に、こうした大規模なステップ式ピラミッドが存在した可能性については、今までも言われてきた。これは決して、いいかげんな仮説ではない。たとえば同志社大学を中心とする日本環太平洋学会も、この問題に取り組んでいる。この環太平洋学会というのは、「古代日本のピラミッド文化と、古代太平洋沿岸地域のピラミッド文化」を研究テーマにしており、現職の大学教授らで構成されている)
青い土偶が、私に観せたヴィジョンも、そうした古代ピラミッドの実像だったようだ。
土偶は、また言った。
「後継者を我らの元へ」と。
土偶は、こうも言った。
「強いチ≠持つ者を、我らの元へ。アラハバキ神の縁者となる者を、我らの元へ」と。
その思念は複雑なエコーとなって、私の頭の中に響きわたった。
どうやら、私の息子の志津夫のような人間を要求しているらしい。そういう人間を、カムナビ山などのキーポイントとなる場所に連れてこい、と言っているらしいのだ。
私は慌てて、土偶から手を離した。焦りと不安のあまり、頭が焦げつきそうな気分だった。
私は洞窟の外に逃げ出そうとした。
それでもなお、土偶は私に呼びかけ続けてきた。
だが、私が外に出ると、呼びかけは消えた。もしかすると、土偶が放つチ≠ヘ、密閉された空間でのみ有効なのかもしれない。
私は木材をてこ代わりに使って、磐座を少しずつ移動させて、再び洞窟を塞《ふさ》いだ。さらに抜いてしまった心の御柱も、元の場所に埋め直した。
その直後、私は胸にかゆみを感じた。まさかと思い、シャツの胸をはだけた。
おぞましい眺めだった。私の肌が蛇の表皮のようなウロコだらけになっていた。それは全身の半分近くにまで増殖していた。先ほどの土偶に触れたせいで、感染の度合いがより強く、より濃くなってしまったのだ。
あの瞬間から、私の人生は崩壊した。
忌まわしい思い出は、ここまでにしておこう。これ以上、書き連ねるのは辛《つら》いからだ。
それよりも私が知った、驚愕の事実を紹介しよう。
遠い昔、地球上に降りてきた異質な生命体があった。
年代的には、それは三万五千年ほど前のモンゴロイド人種の先祖の時代に始まったのだ。年代区分で言うと、旧石器時代から縄文時代にかけてである。
地理的には、主に太平洋沿岸だった。どうやら彼ら≠ヘ、海沿いの地域を好んだようだ。
ちょうど同じ頃、モンゴロイド人種の先祖たちも太平洋沿岸に沿って、移動していた。当然、両者の出会いがあちこちで起きた。
そして、その時代こそは蛇神信仰の全盛期だった。古代においては、蛇神信仰こそが原初の精霊信仰だったのだ。
ゆえに、地球上に降臨した彼ら≠焉A古代人の蛇神信仰のリクエストに応《こた》える形を採った。蛇の遺伝子を取り込み、「実在する蛇神」となったのだ。
では、地球上に降りてくる以前の彼ら≠ヘ、どんな生命体だったのか?
その答えは、まさに驚天動地だ。
私が観たヴィジョンは、太陽系規模の超生物だった。
彼ら≠ヘ、普段は太陽系全体を包み込んでいる。つまり、超巨大なボール状のフィルターのような形態なのだ。
彼ら≠フ栄養源は何か。
宇宙空間にみなぎる星々の光だ。
これは極めて自然な捕食システムと言える。光、つまり可視光線は、この宇宙でもっともありふれた電磁波だからである。
だから、彼ら≠ヘ進化の過程で、無尽蔵に存在する可視光線を栄養源とするようになったわけだ。
実は、地球から見える星々の光は、彼ら≠ノ食い尽くされた跡の残滓《ざんし》に過ぎない。今まで我々が見上げてきた星空とは、本来の光量よりも数億分の一に弱められた星の光だったのだ。
もしも彼ら≠ェいなかったら、どうなっていただろうか。当然、地球に夜空などなかっただろう。天文学者オルバースが考えたとおり、光り輝く灼熱の空になっていたはずだ。
つまり、彼ら≠ヘ宇宙空間の灼熱地獄から、地球上の生物を守っているのだ。
いわば「神の義務」を背負っているのだ。
彼ら≠アそが、すべての生命の源だった。彼ら≠ェ生成したアミノ酸が、隕石《いんせき》などに付着して、それが惑星の表面に着地した時、新たな生命種が誕生していくからだ。
地球上に誕生した光合成細菌や緑色植物は、彼ら≠フ直系とも言えた。つまり、可視光線を栄養源とするシステムは、元々は彼ら≠フオリジナルであり、光合成細菌や緑色植物は、彼ら≠フやり方をお手本にしたわけだ。
(これと似たような仮説は、イギリスの天文学者フレッド・ホイルと、セイロン出身の天文学者チャンドラ・ウイックラマシンジたちも主張している。
それによると地球上の生命の源は、彗星《すいせい》の内部で生まれたアミノ酸だという。それが隕石に付着して、地球上に降りてきて、原始的な生命が誕生したという説だ。この仮説は、ある程度当たっていたわけだ)
しかし、前述したとおり、宇宙空間は灼熱地獄である。そのままでは惑星の表面も高熱にさらされてしまう。
こんな状態では、新たな生命種が育つことなど不可能である。誰かが宇宙空間にみなぎる可視光線と赤外線から、惑星上の新たな生命種を守ってやらねばならない。
そのために彼ら≠ヘ「オルバースのパラドックス」をつくり出したのだ。
それもまた「神の義務」なのだ。
天文学者は、彼ら≠ェ生命体だとは知らずに、すでに名前を与えていた。
「ミッシング・マス、見えない質量」と呼ぶものだ。あるいは「ダーク・マター、暗黒物質」とも呼ぶ。
「ミッシング・マス」は見ることもできず、現代科学では検出することもできない。だが、多くの科学者が、その存在を確信しているものだ。
たとえば典型的な銀河は、巨大な渦巻き状の形をしており、その直径は数千光年から数万光年である。これら銀河は回転しており、当然そこには遠心力が発生している。
だから、もしも、すべての星々が遠心力だけに支配されていたら、銀河の渦巻きは、やがて壊れたプロペラのように飛び散ってしまうはずだ。
だが、昔から、そうはなっていないのだ。各銀河は一定の大きさの渦巻き形を、今も維持し続けている。
ということは、銀河の渦巻き形を維持するための重力を、銀河自身が持っていることになる。当然、それだけの重力を発生させるだけの質量を、各銀河は備えているはずだ。
ところが今、天文学者たちは奇怪な事実に直面している。
いくら望遠鏡で観察しても、計算上必要な質量のうちの、わずか一〇パーセントしか探知できないからだ。
いったい残りの九〇パーセントの物質は、銀河のどこに隠れているのか?
これが「ミッシング・マス」、あるいは「ダーク・マター」と呼ばれている、現代天文学の最大の謎である。
そして、この「見えない質量、暗黒物質」を、未《いま》だに現代科学は検出できないでいるのだ。
実は、この「見えない質量」の役目を果たしているのも、彼ら≠セった。
彼ら≠ヘ、銀河の遠心力に拮抗《きつこう》しうる求心力をも生み出していたのだ。彼ら≠ェ放射するチ≠アそが、銀河系や銀河団をつなぎとめるロープだったのである。
これもまた「神の義務」なのだ。
古代日本の人々は、彼ら≠ノある名前を与えていた。
アラハバキ神。
この神は、全国各地で信仰されてきた神である。表記も、「荒吐神」「荒覇吐神」「荒脛巾神」など数種類が存在する。
また、各地の神社の境内には、「客人《まろうど》大明神」「客人社」「門客人明神社」などの、小さな社殿が付属していることが多い。不思議なことに、これらも昔から「アラハバキさん」と呼ばれているのだ。全国共通の呼び名である。
このアラハバキ神こそは、日本の宗教民俗学にとって長年の難問だった。古くは江戸時代の国学者、菅江真澄《すがえますみ》から、「日本民俗学の父」と呼ばれた柳田国男にいたるまで、様々な学者が、この神の正体を解明しようとして、挫折《ざせつ》してきた。
柳田国男でさえも、とうとうアラハバキ神に関しては「神名、由緒ともに不明」と完全に匙《さじ》を投げてしまったくらいだ。
つまり、本質や由来がまったく不明の神が、日本各地で信仰されてきたのである。何とも不可思議な信仰としか言いようがない。
だが、謎を解く手がかりはあったのだ。
それは伊勢神宮における矢乃波波木神、ヤノハハキ神だ。
土地の守護神と言えば、日本でも外国でも皆、共通している点がある。それは蛇神であり、聖域の外側に鎮祭されるものと決まっているのだ。
伊勢神宮のヤノハハキ神の在処《ありか》も、内宮《ないくう》の一番外側の荒垣である。これは蛇神の条件に、ぴったり当てはまっているのだ。
しかも、ヤノハハキ神は、本社殿から見て東南の位置に祀《まつ》ってあるのだ。東南は昔風に言えば「辰巳《たつみ》」、つまり「蛇の方角」だ。
また伊勢神宮ではハハキ祭という祭りも行うが、その時刻は「巳刻《みのこく》」、午前九時から一一時と定められている。「巳刻」、つまり「蛇の時間」だ。
何とハハキ神とは、「蛇の方角」に配置されて、「蛇の時間」に祭りを行う神なのだ!
となると、ハハキ神が、伊勢神宮においても蛇だと認識されていたことは間違いないのだ。
これこそアラハバキ神の正体を、今に伝えるものではないか。すなわち旧石器時代や、縄文時代から信仰されてきた、もっとも古い蛇神の名前だ。
伊勢神宮では、人類最古の蛇神信仰の残滓が今も保存されていたのである。
このアラハバキ神に感染した人間が、かつては少なからずいたようだ。
そうした人々は、蛇のウロコのような肌を持つがゆえに、蛇神の化身と見なされたのだろう。古代では蛇巫女《へびみこ》や蛇巫《へびふ》として尊重されたのだろう。
また、これら蛇巫たちは、宇宙空間の彼方《かなた》にいる「本体=アラハバキ神」と交信する能力も持っていた。それゆえ、彼らは宇宙空間にみなぎる高熱の一部を地球上に照射させて、小氷河期のような寒い時代にも、地上に局部的な亜熱帯気候をもたらしていたのだ。
さらに感染者たちは、カムナビ=神の火までをも出現させたのである。
ところで、このノートを読む人は、そろそろ、不思議に思っているだろう。
なぜ、私がそこまで確信を持って言えるのか、と。
答えは、私自身がアラハバキ神と交信して、カムナビを呼んだことがあるからだ。
最初にも書いたが、神との交信について説明するのは難しい。
一生を真っ暗な海底で過ごす深海魚たちに、青空の透明感や、太陽や月、星の輝きについて、いくら説明したところで無駄だろう。それと似たような徒労感を覚えるのだ。
そのことを一言、断った上で、持ち前のボキャブラリーをできる限り駆使してみよう。
まず、すなおに感じたとおりに言うなら、それは通路≠ナある。
通路≠ヘ、私の脳天から天空へと突き抜けていき、深宇宙の淵《ふち》にまで通じている。必要に応じて、そういうものが現れるのだ。
それは私という存在と、アラハバキ神とをつなぐ回線だ。切れ目のない光のチューブ。あるいは無数のリングの連なりだ。
私は時々、不可思議な体験をしている。自分の肉体を地上に置き去りにしたまま、この通路≠上昇していくのだ。その時は意識だけの存在となっているようだ。
まるで合わせ鏡に映る無限の回廊へと入り込んだような体験だった。あるいは光の網目で出来たトンネルをくぐっていくようだった。
通路≠突き進む時、私は自由を実感する。肉体という重たい枷《かせ》を脱ぎ捨てた解放感だ。地上のあらゆる拘束や、しがらみも脱ぎ捨てた解放感だ。
その時は、自分が骸骨《がいこつ》になったような気がするほどだ。文字どおり、「肉を脱ぎ捨てた」のを感じるからだ。真の意味で、一人の人間が「裸体」になる体験だ。
骸骨と化した私は、通路≠猛スピードで上昇していく。足下には、青い地球がある。衛星写真などで観たことのある、おなじみの光景だ。
さらに火星や、木星、土星をも足下に観る。骸骨と化した私は、望むなら太陽系一周ツアーをも体験できるのだ。
そして私は、太陽系全体を包むアラハバキ神と出会うのだ。
だが、この相手こそ、私のボキャブラリーが通用しない存在なのだ。あまりにも巨大すぎて、生物としての存在感などつかめないのだ。
今までに私は何度も、アラハバキ神の内奥をのぞいている。だが、そこには光と音の波動があるだけだった。それらは芸術的なハーモニーとして感じられた。
だが、私が神を理解する手がかりにはならなかった。こうした存在がいったい何を感じ、何を考えているのかは、私たちには永遠の謎だろう。
しかし、アラハバキ神の波動の中に、過去の交信記録のようなものが多少、残っていた。
おかげで私はカムナビや、古代に存在した亜熱帯気候の真相について知ることができた。それらは、アラハバキ神が維持しているオルバースのパラドックス≠一部分、破った時に起きる現象だった。
つまり、アラハバキ神の隙間から、宇宙空間にみなぎる星々の光や熱が、地球上に送られるのだ。
そして私自身も、それを実験した。つまり、アラハバキ神にカムナビをリクエストしたのだ。
私は家族の元から失踪《しつそう》した後、山梨県の河原でカムナビを呼んだことがある。
だが、断っておくが、決して好奇心から、やったことではない。カムナビが、どれほど恐ろしいものか実際に確認するためだった。
私は、これ以上トラブルを大きくしたくないのだ。つまり、何があろうと息子の志津夫を「後継者」などにはしたくない。
志津夫は、生まれつき強いチ≠潜在能力として持ってしまったらしい。彼が赤ん坊の頃、しばしば周りにある皿や茶碗《ちやわん》などの食器が宙に浮かび上がった。「騒霊、ポルターガイスト」などと呼ばれる現象だ。
志津夫が成長するにつれて、それは起こらなくなった。だが、今となっては安心もできない。あの青い土偶が、志津夫のような人間を連れてこい、と要求していたからだ。
その要求に従ったら、どんなことになるのだろうか。たぶん余計なトラブルを招くだけだろう、と思える。
そもそも今の世の中に古代のテクノロジーなど不要だろう。そんなものを復活させて、何になるのか。
志津夫には平凡な人生を歩ませるべきだ。それが親として、人間として妥当な考え方のはずだ。
繰り返すが、私が山梨県の河原でカムナビを呼んでみたのは、私が防ごうとしているものは何なのかを知りたかったからだ。
初めてカムナビを実際に試した時、私は恐れおののいた。
まさか、これほど大がかりなメカニズムだとは思わなかったからだ。
まず第一段階だが、アラハバキ神は地球周辺で自分たちを凝集させて、地球だけを守るフィルターを構成する。つまり、事前の準備のために、地球だけをガードするのだ。
元々彼ら≠ヘ太陽系内部にも極薄のガスのように分布している。だから、凝集ポイントを地球周辺に絞ることも可能なのだ。
第二段階で、アラハバキ神は太陽系の外側を覆うフィルターに隙間を開ける。
当然その隙間からは、外宇宙からの可視光線と赤外線が襲来してくる。それらは約六時間かかって太陽系内を横断してくる。秒速三〇万キロのスピードを持つ光と言えども、広い太陽系を横切るには、それだけの時間がかかる。
そして光と熱は地球周辺のフィルターにまで誘導されてくるわけだ。
これで第二段階は終わり、いよいよ最後の段階だ。
アラハバキ神は、地球周辺を覆う自分の身体に小さな穴を開けるのだ。そして、私が指定した山梨県内の河原の一点に、全宇宙にみなぎる光と熱を送り届けてきた。その壮大な仕掛けを考えると、すばらしく正確な射撃ぶりと言えただろう。
私は戦慄《せんりつ》した。
これがカムナビの真相だったのだ。
これによって、他の様々な謎も説明がついた。
前述したが、古代においては超異常気象といったものが度々、発生していたらしい。つまり、地球全体が小氷河期であっても日本列島の一部分だけは亜熱帯気候だった、と考えられるふしがあるのだ。
そうした超異常気象も、カムナビが原因だった。その場合は、マイルドで広範囲な赤外線のカムナビを、日本列島の一部に照射したのである。
おかげで魏志倭人伝《ぎしわじんでん》には、「倭の地は温暖で……」と記録されてしまったのだ。
倭人伝を読むと、中国側が「三世紀の日本列島は異様に暖かい気候で、雪など降らないし、人々は一枚布の薄着で暮らしている」と記述している。
この記述は長い間、中国側の勘違いだ、と考えられてきた。
だが、勘違いなどではなかったのだ。事実をそのまま伝えた記述だったのだ。
そのせいで当時の中国人たちは、日本の地形を完全に誤解したのである。
つまり、使者たちが全員、「日本は異様に暖かい島国だった」と報告したためだ。だから、倭人伝の編纂者である陳寿は、「そんなに暖かい亜熱帯の国が、朝鮮半島のすぐ近くにあるわけがない」と考えたのだ。
そのため、倭人伝は以下のようなイメージで記述されてしまったのだ。
「日本列島は南北方向に細長く伸びた形である。そして邪馬台国《やまたいこく》は、朝鮮半島から見ると、遥《はる》か南の彼方《かなた》にある亜熱帯の国である。ちょうど台湾から見た場合は、東の方向に位置している」と。
かくて、倭人伝の記述と、現実の日本列島の形は、まったく噛《か》み合わなくなったのだ。
おかげで後世の人々は大混乱に陥り、邪馬台国の所在地を巡って、果てしない論争を繰り広げる羽目になったのである。
(以上、葦原正一のノートより)
アラハバキ神は五日前にも、葦原正一の二度目のリクエストに応《こた》えていた。
目標は、日本列島の茨城県の一点だった。その時は、一人の大学助教授を焼死体に変えた。
さらには彼の金歯までも溶かしてしまった。
おかげで説明不可能な難事件となり、現場検証した刑事たちを不思議がらせた。
だが、その直後から、アラハバキ神は異常な行動を取っていた。
本来なら彼ら≠ヘ、その後、元の状態に戻るべきだった。つまり、宇宙全体にみなぎる光熱から地球だけをガードする状態から、太陽系全体をガードするという、普段の体勢に戻るべきだった。
だが、今回に限ってアラハバキ神は、そうしなかった。地球だけをガードする状態を五日間も維持していたのだ。
理由は、強いチ≠フ作用を地球上に感じたからだ。
それは葦原正一のような「偶然の異分子」が発するチ≠ナはなかった。「アラハバキ神の縁者」となれそうな者のチ≠セった。「後継者」になれそうな者が復活している予感があったのだ。
ゆえに、アラハバキ神は、いつでもカムナビを地上に落とせる体勢を維持していた。
地球は太陽の周囲を公転しているので、アラハバキ神もそれに動きを同調させながら、機会が来るのを待ち続けていた。
そして、地球の日本時間で言う昨夜、今度は「同類」から通信が来た。
それは神坂峠の青い土偶に宿っている「同類」だった。遠い昔に地球上に降りた、アラハバキ神の分身だ。両者の関係は言うならば、「司令官」と「兵隊」のようなものだ。
その「兵隊」からの通信によれば、遺産を受け継ぐに相応《ふさわ》しい男が蘇《よみがえ》り、その影響で地球上の「兵隊」たちも目を覚ましつつあるという。どうやら一七〇〇年前の状況が復活したらしいのだ。
アラハバキ神は祝福の意味も込めて、フィルターである自分の身体に、大きめの穴を開けた。赤外線を多めに透過させる穴だ。これによって、ソフトで広範囲なカムナビが発生し、地上の気温が上昇し始めた。
これは、邪馬台国の時代にもアラハバキ神がしばしばやっていたことだ。
理由は、アラハバキ神の感染者が同時に蛇の遺伝子も共有しているため、身体が冷血化していたからである。だから、気候が寒冷になると、感染者たちは眠ってしまいがちだった。
そこで、それを防ぐためにアラハバキ神は広範囲の赤外線ビームを送り込んでいた。かくて、古代の日本列島の一部に亜熱帯気候をもたらしていたのだ。
今回は「後継者」が復活したらしいので、アラハバキ神は祝砲としてカムナビを二発、落としてやった。
一発は長野県の神坂峠の洞窟《どうくつ》付近に落ちた。もう一発は、名古屋市内で建設中だった、倉庫の鉄骨を溶かした。
そして今日、日本列島が夜を迎えた頃、アラハバキ神は新たな通信を受け取った。
それは通信というより、「何とかしてくれ! 助けてくれ!」といった悲鳴だった。誰が発しているかはわからなかったが、アラハバキ神と親密な縁のある者らしい。
そこでアラハバキ神は、自分の身体に穴を開けて、カムナビを送り込んでやった。自分の分身を受け継ぐ者ならば、いつでも助けてやるという神意を示したのだ。
この時の光熱ビームは、名古屋市の熱田神宮の拝殿に命中し、炎上させた。その結果、白川幸介が怪我をする羽目になった。
そして、今、アラハバキ神は懐かしい知人からの指令を受け取ったのだ。
かつての邪馬台国の首長だ。彼≠ェ久々に蘇ったのだ。
地上の彼≠ヘ興奮した様子で、カムナビを要求してきた。
さっそくアラハバキ神は要請に応え、自分の身体の一部分に穴を開けた。遮断されていた外宇宙の光と熱がビームとなって通り抜けていった。
光熱ビームは、大気層を薄い紙のように突き破り、地表を直撃した。熱波が大気を揺るがした。
宇宙空間から見ると、それは大気圏の上層面に円形の波紋をつくり出すという光景となった。ちょうど、池に小石を投げ込んだ時に出来る波紋に似ていた。
カムナビの標的は日本列島のほぼど真ん中、奈良県桜井市だ。そこを狙うのは一七〇〇年ぶりのことだった。
彼≠ヘ、三輪山の山頂に辿《たど》り着いた。標高四六七メートルの地点だ。
人間ならば、ここまで登るのに大汗をかいてしまうところだ。だが、彼≠フ肉体は冷血化しているので、汗は無縁だった。
洞窟の位置から、登頂までに要した時間も、わずか十五分ほどだった。人間の二本足よりも、遥かに効率のいい推進システムを持っているためだ。
登頂した彼≠ヘ、すぐに怪《け》訝げんな表情を浮かべた。
どこかから、かすかな震動音が聞こえてくるのだ。低いモーターのような唸《うな》りだ。あるいは質の悪い音《おん》叉さか、鐘が鳴っているような感じだ。
彼≠ノとっては、不快な音波ではなかった。それどころか聞き覚えのある音だ。
音源を探すため、彼≠ヘ平たい山頂を移動した。そこはテニスコート四面分ほどの面積があった。
山頂部のあちこちに、しめ縄で飾られた巨石が点在していた。いずれも磐座《いわくら》として信仰されてきたものだ。その周辺をスギやムクロジ、ソヨゴなどの樹木が彩っている。
やがて、彼≠ヘ日向御子《ひむかいみこ》神社を見つけた。犬小屋ほどの社殿と、小さな鳥居、さい銭箱から成る末社だ。周りは瑞垣《みずがき》で囲まれている。名前から見ても、古代の太陽信仰の名残だと言われる社殿だ。
だが、彼≠ヘ日向御子神社を見て、不思議そうな顔になった。こんなものは見覚えがないからだ。どうやら、彼≠ェ眠っている間に建立されたらしい。
社殿に顔を近づけて、赤外線の視力で観察した。先ほどから気になっていた震動音を感じた。ここが音源なのだ。
彼≠ヘ、うなずいた。
さっそく、自分の長い胴体を活用した。胴体の先端を空中に振り上げる。ムチのようにしならせて、瑞垣を叩《たた》いた。社殿の扉も叩いた。
木造の薄い壁と扉は簡単に壊れた。予想どおり、大して頑丈なものではなかった。
同時に、社殿の中から転がり出たものがあった。地面に落ちる。
彼≠ヘ、片手を伸ばし、それを持ち上げた。赤外線の視力で観察する。
近畿式の銅鐸《どうたく》だった。震動音の源は、これだったのだ。
高さ五〇センチほどの中型サイズだ。本体には区画突線と呼ばれる縦横の直線が刻まれている。その他、渦紋、鋸歯紋《きよしもん》などの紋様もあった。
本体の上面には、垂直に立つ薄い半円形の部分があった。鈕《ちゆう》と呼ばれているものだ。
彼≠ヘ、うなずいた。これなら、よく知っている。
これは強いチ≠ノ共鳴するように造られた祭器だ。祭りを盛り上げるための楽器だとも言える。また、祭りの開幕を遠方に知らせるための通信器も兼ねていた。
彼≠ヘ、銅鐸をひっくり返すと、開口部を上に向けた。そして薄い半円形の鈕の部分を地面に突き刺す。逆立ち状態にして、固定し、手を離した。
突然、銅鐸の震動音はボリュームを上げた。逆立ち姿勢にされたことに反応したのだ。激しい震動のせいで、銅鐸が二重にぶれて見えるほどだ。
まるで製作者の怨念のようだった。一七〇〇年ほど経っても、銅鐸は枯れることなく、何かを伝えようとしていた。
彼≠ヘ、自分が行った処置に満足感を味わった。これで、近辺にある他の銅鐸たちも震動を始めることだろう。祭りの開幕を告げると同時に、彼≠ェ目覚めたことも知らせるだろう。
彼≠ヘ銅鐸と社殿から離れていった。
次に、彼≠ヘ山頂の奥津磐座《おくついわくら》を見つけた。
奥津磐座とは、差し渡し二メートルはある巨石が多数、日時計のような形に並んでいるものだ。古来から神の宿る依代《よりしろ》として信仰されてきたものだ。
その風景は、彼≠フ記憶と一致していた。違う点は、現在の巨石群には、しめ縄が張られていることと、周囲に立入禁止の柵《さく》が設けてあることだ。
それは彼≠ノ、ふさわしい玉座と言えた。ストーンサークル風の巨石の配置は、ちょうど彼≠フ肉体を載せるのに、都合が良かったからだ。その場で身体を波打たせた。
この光景を、地元の信心深い老婆たちが見たら、這《は》いつくばるに違いない。「オオミワはんが現れた」と叫ぶだろう。
彼≠ヘ南東の空を見上げた。一声、吠《ほ》える。
古代部族の吠声《べいせい》だった。これは日本書紀にも記録されているものだ。たとえば九州の隼人《はやと》族なども、こうした吠声を自らのトレードマークとしていたという。
三輪山の山頂から、その声は響きわたった。付近の巻向山《まきむくやま》から、少しこだまが返る。
知識のある者が聞いたら、これは狼の遠吠えのスタイルだと気づいただろう。
実は、明治時代まで日本列島にも狼はいたのだ。ましてや、彼≠フ時代では、狼の遠吠えは日常的なBGMだった。だから、古代の人々が狼の声を真似して、威嚇や情報伝達に利用するようになったのは、自然の成り行きだったわけだ。
彼≠ヘ返答を待った。身体をくねらせながら、周囲の音に耳を傾ける。
いつまで待っても返答はなかった。
彼≠ヘ、とまどっていた。仲間からの返答がないのだ。近隣に住む犬や狼たちも、まったく呼びかけに応《こた》えない。
代わりに聞こえてくるのは、怪音だった。甲高くて、二段階に高低する「ピー・ポー、ピー・ポー」という音。
それはパトカーのサイレンだった。
今夜の桜井市では、多くの市民が異音を発する古墳に引き寄せられて、野次馬と化していた。当然、道路に車両や市民が溢《あふ》れていた。だから、道を空けさせるために、パトカーはサイレンを鳴らさざるを得なかったのだ。
現代人にとって、サイレンは日常的な音に過ぎない。それを聞いたところで、特に不安や恐怖を覚える人はいない。
だが、彼≠ノとっては未知なる音波だ。最初は、その怪音に首をかしげていた。記憶にある音色と次々に照合していくが、一致するものはない。
やがて彼≠ヘ怪音に対して、脅威と恐怖を感じ始めた。
彼≠フ知能は、怪音を「怪獣の鳴き声」だと結論したのだ。音量から判断して相当、図体《ずうたい》のでかい動物をイメージしてしまった。得体の知れない異国の怪物が、この地に侵入してきたらしい。彼≠ヘ完全に、そう信じ込んでしまった。
だが、その怪獣たちの異形を見ることはできなかった。
三輪山を覆い尽くしているスギ林が、視界を遮っているからだ。おかげで下界の様子がまったくわからない。
これもまた、彼≠ノは解《げ》せない事の一つだった。以前は山頂からヤマトの地を一望できたのだ。なのに、いつの間に、これだけの樹木が生えてしまったのか不思議でならない。
とにかく、邪魔な山林を除去して、視界を確保しなければならない。それが先決だ。
彼≠ヘ吠えた。同時に、体内から宇宙空間の彼方《かなた》へ伸びる通路≠通じて、昔なじみに信号を送った。
地球軌道の近辺にいるアラハバキ神たちは、即座に反応した。彼≠轤ヘ現在、最後のフィルターの役目を果たす一群だった。
彼ら≠フ外側には、苛烈《かれつ》な外宇宙の光熱が充満していた。そこは人類が未《いま》だに知らない灼熱地獄だった。
アラハバキ神たちは、ガス状の肉体の一部に穴を開けた。さらに光波のノイズ成分も吸収して、レーザーのような均一波長に整えてやった。これで光が拡散しにくくなるわけだ。
穴を通り抜けたカムナビは、さながら超ロングサイズの金色の針だった。それは青い地球の一点に突き刺さった。
この天空の劫火《ごうか》を阻むものなどなかった。大気層など一瞬にして、突き破る。
同時に、大気層の上面には陽炎《かげろう》が出現した。宇宙空間から見下ろすと、近畿地方の上空に円形の波紋が生じる眺めとなった。弓形の日本列島の中央部が、蜃気楼《しんきろう》のように揺れ動いている。
さらに、カムナビは大気中に入ると「サーマル・ブルーミング現象」を引き起こした。ビーム軌道が揺れ動くのだ。これにより、狙いが定まりにくくなるのが唯一の難点だ。しかし、大きく外すことはなかった。
カムナビは、三輪山の山頂付近に落ちた。光熱ビームの直撃だから、樹木は燃える暇もないほどだ。外宇宙からの情熱的な吐息を浴びて、山林は短時間で炭化していった。
後には、くすぶった煙を上げる木炭の森林≠ニ、余熱で燃え始めた周辺の木々が残った。
やがて、脆弱《ぜいじやく》な木炭の森林≠ヘ自らの重みに耐えられず、崩れていった。せんべいを食べる時のような小気味よい音を立てて、砕け散っていく。一度それが始まると、後はドミノ倒しのように、次々に倒壊した。粉塵《ふんじん》が舞い狂った。
空中の炭粉は、極めて引火しやすい性質を持っている。しかも、周辺は山火事になりかけていた。そのため、引火が引火を呼ぶ連鎖反応が起きた。炭塵爆発と呼ばれる現象だ。
あちこちでミニサイズの爆発が始まった。爆竹を焚《た》いているような光景だ。煙と硝薬のような匂いが辺り一帯を包み込んでしまう。
やがて、それらが収まり、煙が空へ昇っていくと、一気に眺望が開けた。南東側から、桜井市を見下ろすアングルとなった。
彼≠ヘ一目見るなり、口を大きく開けてしまった。驚愕《きようがく》の極致といった表情だった。
眼前に広がる光景は、彼≠フ理解を越えていた。
地上の大部分が、不可思議な光の点に覆われていたのだ。
まるで夜空の星々や星雲が、地上に降りてきたような眺めだった。それらが規則正しく人工的な方眼状に配置されているのだ。その上、多数の星々が方眼に沿って移動しているではないか。
それらの正体は街灯や、家屋の窓から漏れる電灯、自動車のヘッドライトなどだった。二〇世紀末における平凡な夜景だ。
だが、彼≠ヘ、電灯の輝き方というものを知らなかったので、すっかり困惑してしまった。
彼≠フ知識では、光る物体と言えば鏡や、剣や、矛ぐらいしか思い浮かばない。だが、眼前に広がる方眼状の巨大構造物の輝きは、あまりにも異質だった。それらは反射光ではなく、自ら光を放っているらしいからだ。
ふと彼≠ヘ思い出した。
さきほど彼≠ェ洞窟《どうくつ》から出てきた時にも、地面に不思議な光を放つ円筒があったではないか。だが、指先で突っついたら、その円筒は死んでしまい、光も消えた。何とも不可解な代物だった。
今、思い出した。あの円筒も冷たく硬質な光を放っていたではないか。あれは何だったのか?
しかし、彼≠フ頭脳に、それ以上の分析的な思考など無理だった。逆に、混乱と怒りを助長しただけだった。
ここはヤマトの地のはずだった。彼≠フクニのはずだった。
なのに、見慣れぬ何かが、彼≠ないがしろにして、この地を侵略していた。光る何かと、奇怪な鳴き声とが、この地を蹂躪《じゆうりん》していたのだ。
彼≠ヘ、また吠声をあげた。
加島俊一の背中を、眩《まぶし》い光が照らし出した。振り返ると、この世のものとは思えない現象が起きていた。
空から、強烈なビームが降ってきたのだ。それは桜井考古学研究所の屋根を直撃した。光は前後左右にくねくねと揺れ動き、蛇のダンスのような動きを見せた。
その光条は大量の熱を発していた。そのせいで、大気が揺れ動いて陽炎を起こし、光自体が揺らめいているようだ。
金色の光柱は揺れ動きつつ、建物の屋根を焼き、次に庭の樹木にも引火させた。アルミサッシの窓ガラスも溶け始めている。輻射熱《ふくしやねつ》が周囲にあふれ出した。
加島は顔面が炙《あぶ》られるのを感じた。網膜までも焼けそうだ。耐えきれずに片手で顔をかばいつつ、後退した。
隣では守衛の山沢努も両手で顔を覆っていた。「何だ何だ!」と喚《わめ》いている。
光は消え失せた。それはやってきた時と同じように、唐突に去った。
そして加島は、自分たちの職場が火事になっているのを見た。
燃えているのは主に、庭のケヤキなどの樹木だった。植え込みのキョウチクトウは無惨にも灰と化している。建物の上部のコンクリート表面も黒こげだった。窓ガラスは溶けて、滴り落ちている。
そして加島の部屋からは、オレンジ色の炎が噴き出した。何かに引火したらしい。今日の残業の成果は、すべて灰燼《かいじん》に帰した。
加島は、眼球が飛び出しそうなほど目を見開いていた。何が起きたのか、まったくわからなかった。合理的な説明など何も思いつかない。
一つだけ確かなことは、加島と、守衛の山沢は建物の外に出ていたおかげで、命拾いしたということだ。
周囲の野次馬たちがどよめき始めた。ようやくショックから覚めたようだ。口々に喚きだした。どこかへ走りだした者もいる。
「見ろ!」
「今度は、あっちだ!」
群衆が、次々に南の方向を指さした。JR桜井駅がある付近だ。
その上空に今、間近に発生したものと同じものが出現していた。金色のビーム。それは地上に災厄をもたらそうと、熱心に踊り狂っているようだった。
ふいに加島は、光が奇妙な動きをしているのに気づいた。光線の角度が変わるのだ。まるで宇宙の彼方にある光源が、東から西へ移動しているようだった。
光は消えた。だが、今頃はJR桜井駅の付近は火事になっているだろう。
山沢が目を見開き、全身を硬直させたまま訊《き》いた。
「何なんだ? これは何なんだ? 何だ、いったい……」
加島は唖然《あぜん》としながらも、言った。
「これだったんだ……」
「え?」
山沢が振り向いた。
加島は南東の空を指さした。
そこには三輪山の端正なシルエットがあった。だが、今は山腹と山頂に、黄色とオレンジ色の光がある。遠目にも山火事が発生していることは明白だった。
加島は言った。
「ほら。さっき三輪山にも光が落ちて、山火事になったでしょう? あれは、たった今見たのと同じ現象ですよ。やっぱり、これだ! これなんだ!」
「これって? 何がこれなんだ?」
「いや、まだ、よくはわからない。だけど、これの警告じゃないですか? さっき古墳が地鳴りを起こしたのは、あの光がやって来るという警報だ。そうは思いませんか?」
「そんな……」
加島の中で何かが爆発した。
「だから、言ったじゃないですか! 早く逃げた方がいいって。さっきから何度も何度も言ったでしょう!」
そこで加島は我に返った。肩の線が下がり、顔が歪《ゆが》んでしまう。背後を振り返り、呟《つぶや》いた。
「でも、これじゃあな……」
眼前の道路は片側一車線しかなかった。そこへ、多くの野次馬が違法な路上駐車をやっている。おかげで、見渡す限り車の縦列になっており、ゴールデン・ウイーク時の高速道路なみだった。
加島は顎《あご》に垂れた汗を拭《ぬぐ》い、首を振った。
「車は無理だ。走って逃げるしか……」
「見ろ! まただ!」
野次馬たちが叫んだ。次々に指さす。
今度は北の方角だ。JR長柄《ながら》駅の近辺のようだ。
金色の光柱が天空を焦がしていた。それは稲妻のような音は発しなかった。静かに強い輝度で辺りを照らし、地上を焼くのだ。
この現象が、桜井市に集中的に起きているのは、間違いないようだ。そして、次の光がいつどこに出現するかは、まったく予想できないのだ。
よく見ると、光線の角度は、やはり変化していた。一見すると、宇宙の彼方にある光源が、東から西へ移動しているように見えるのだ。やがて消えた。
山沢が呟いた。
「あの光、動いていたぞ……」
「いや、ちがう……」
加島は言った。この時、彼は並外れた観察力と洞察力を示していた。
「毎回、同じような動きだ。規則正しい動きだ。もしかしたら、あれの発射ポイントは動いてないんじゃ?……動いているのは地球か? 地球の自転のせいで、光線の見かけの角度が変わって……」
甲高い悲鳴があがった。
振り返ると、二〇代の長髪の女性だった。彼女は走り出して、赤い軽四に乗り込んだ。エンジンを唸《うな》らせ、車を発進させる。
彼女は、とにかく、この場から逃げだそうとしたらしい。だが、無謀な行為だった。
彼女の赤い軽四は、路上駐車していた他の車の間に割り込んだ。そして、すぐに車体と車体とをこすり合わせる羽目になり、停まった。そもそも車で逃げられるようなスペースなどないのだ。
パニックの気配が徐々に伝染し始めた。車を乗り捨てて、自前の足で走り去る者が増えていく。家族が待つ自宅に戻ろうとする者もいただろう。
一方、あくまで車で逃げようと思った者は、クラクションの合奏を始めた。走りだした野次馬同士がぶつかるトラブルも続出した。お互いに興奮しているため、怒声が飛び交いだす。
警官たちは呆然《ぼうぜん》としていた。彼らは、こういう時こそ市民を誘導しなければならないはずだった。
だが、今は彼らも無力だった。空からビームが襲ってくるという事態について、警察学校で講義を受けたことなどないのだ。こんな状況では、国家権力も法律も拳銃《けんじゆう》も頼りにはならなかった。
パトカー内にいる警官は、デジタル暗号式無線機のマイクに怒鳴っていた。必死の形相で、本部に指示を乞うている。
加島は、自分の判断ミスを悔やみ始めた。歯ぎしりしてしまう。先ほど彼は直感的に気づき始めていたのだ。「古墳の怪音は、警報ではないか?」と。
だったら、山沢を放っておいて、自分一人だけでも逃げ出せばよかったのだ。なのに、そうしなかったばっかりに……。
また、天空の一角が輝いた。
葦原志津夫は両手で頭を挟んでいた。そうしないと頭蓋骨《ずがいこつ》がロケット花火みたいに、どこかへ飛んでいきそうだ。
志津夫の父、正一が語った真相は、衝撃的という言葉では到底、足りなかった。世界観、宇宙観の崩壊だった。
今まで義務教育やマス・メディアを通して、脳細胞に刷り込まれてきた唯物論的な宇宙像。それが砂の城のように崩れ去ったのだ。プトレマイオス的な天動説よりも、さらに時代錯誤なレベルへ後退したような宇宙像を突きつけられたのだ。
今まで志津夫は、カムナビの背後には恐るべき真相があるだろう、と睨《にら》んではいた。だが、これが真相だなんて冗談じゃない、と思った。自分たちはこの宇宙で恐ろしく矮小《わいしよう》な存在に過ぎないというのだから。
志津夫は歪んだ顔で、呟《つぶや》いた。
「何てことだ……」
首を細かく左右に振り続けていた。完全に自分を見失った態度だ。それが衝撃の大きさを物語っていた。
祐美と正一は、そんな志津夫を見て、自分たちも言葉を失った。二人とも彼から視線を外して、黄色とオレンジ色の炎に目を向ける。
今、志津夫、祐美、正一たちがいる場所からは、山火事が見下ろせた。炎の群れは禁足地の台地を前後に挟む形で燃えている。
おかげで周辺の照明光は充分、足りていた。ミニチュア社殿や、丸石、倒れた立石などの磐座《いわくら》も、すべて上から見渡せた。炎は合わせて、テニスコート四面分ほどの面積にまで広がっている。
だが、同時に山火事の輻射熱《ふくしやねつ》も、かなりの量に達していた。今や禁足地の付近は、溶鉱炉の正面に立っているような温度だろう。しかも、木材から噴き出す煙が目にしみるのだ。
当然、そんな場所にいられるはずがなかった。仕方なく、志津夫たちは禁足地の中心部から離れたのだ。
今、三人は、山火事から一五〇メートルほど離れた風上の場所にいた。参道を見つけたので、そこを登ったのだ。たぶん、この道は、地元の神職の者が利用する秘密の参道だろう。この道を移動しながら、志津夫は、正一から驚愕《きようがく》の真相を聞いたのだ。
草薙剣《くさなぎのつるぎ》を収めた細長い木箱は、垂直に立ててあった。今は祐美がそれに寄りかかる姿勢を取っている。
木箱を運んだのは志津夫だった。だが、志津夫は、正一の説明を聞くうちに自失状態に陥った。コウヤマキの箱は、彼の腕から転げ落ちた。それで今は、祐美が草薙剣を箱ごと管理しているのだ。
そして、たった今、正一は志津夫への長い説明を終えたところだ。後は、志津夫がそれを飲み込むのを待つだけだった。
正一はサングラス姿なので、一見すると無表情な感じだった。だが、両手の指を盛んに動かしたり、組み合わせたりしている。それが彼の苛立《いらだ》ちを表していた。
祐美も指先で木箱を叩《たた》いていた。歯ぎしりしそうな表情を浮かべている。
彼女の顎《あご》には黒いあざがあった。先ほど真希に食らったアッパーカットの跡だ。そのせいか傷ついたボクサーみたいな表情になっている。
志津夫は両手で頭を抱えたまま、呟き始めた。熱に浮かされたような感じだ。
「邪馬台国時代の亜熱帯気候……ブルーガラスの土偶……溶けた金歯……これがすべてをつなぐ真相……」
「そうだ」
正一が答えた。肩で大きなため息をつく。今まで胸に溜《た》めていたものを、ついに吐き出したのだ。
正一はサングラスの位置を修正した。首を振って、言う。
「とても、すぐには信じられないだろうが」
「当たり前だよ!」
志津夫は怒鳴り返す。空の彼方《かなた》を指さした。
ちょうど、タイミング良く、その方向にカムナビが出現した。無音の稲妻のように見えた。だが、稲妻と違うのは枝分かれしないことだ。ほぼ垂直に大地に突き立ち、灼熱《しやくねつ》のダンスを見せる。
志津夫は一瞬、硬直した。
「そんな……」
そして志津夫は宇宙の彼方を指さしたまま、喋《しやべ》りだした。
「それじゃ、そのバカでかい超生物こそ主役みたいじゃないか。そいつらがこの宇宙の主役であり、ぼくら人間は、そいつらに守られ、そいつらの体内で生かされているバクテリアかウイルスみたいなものだ。そんなことが……」
祐美が口をはさんだ。
「みたいじゃない!」
祐美は、木箱を腋《わき》の下に抱えて、近づいてきた。志津夫の正面に立つと、彼を見上げて、怒ったような調子で言った。
「みたいじゃない。そのものなんだよ!」
そう言って、木箱の一端を地面に叩きつけた。
志津夫は言葉を失った。力無く首を振る。足元の地面が溶けだして、希薄なガスに変質していくようだ。遊園地の絶叫マシンで体験した、無重量状態の頼りなさが腹の中で蘇《よみがえ》った。
彼方の空では、カムナビが消えた。だが、それはまた現れるだろう。そして志津夫の理性を揺さぶり続けることだろう。
精神分裂病に見られる症状で、作為体験というものがある。
これは「自分が何か外部の力によって考えさせられたり、支配されたりしていると感じる状態」を指す。たとえば「テレビ局が電波によって、自分をコントロールしている」といったタイプの妄想だ。
志津夫は、その作為体験の世界に放り込まれた気分だった。全世界の人間が共謀して、悪意に満ちたペテンを仕掛けているのだ。きっと、そうだ。
正一や祐美を見た。彼らは真顔で、自分を見据えている。志津夫が、この衝撃を受け止めるまで待つしかない、といった態度だ。
志津夫の人格の一部が、抵抗した。
ウソだ。全部、手の込んだイタズラだ。いや、悪夢だ。ぼくは茨城県に向かう電車の中で居眠りして、夢を見ているんだ。夢から覚めれば、竜野助教授は焼死体になんかなっていない。彼は笑顔で、ぼくを迎え、ぼくの父を最近、近所で見かけたという信憑性《しんぴようせい》の高い情報をくれる……。
悪夢は覚めなかった。
また天空に穴が開いたのだ。そこから金色の針が現れて、地上に突き刺さった。カムナビが好き放題に街を焼いているらしい。
パトカーや救急車のサイレンがいくつか重なり合って、聞こえた。スギ林で視界が遮られているが、市街がパニックになりかけている様子が想像できた。桜井市のあちこちで火事が発生しているらしいのだ。
ふいに志津夫の網膜と脳裡《のうり》には、二つの別々のイメージが映った。
一つは今、目撃しているカムナビだ。金色のビームが壮大な光のフラダンスを演じている。
一方、脳裡に映ったイメージは、甲府で見た縁起絵巻帳だった。その絵図には、円錐形《えんすいけい》のカムナビ山の周辺に、光り輝く蛇神が逆立ちしている姿が描かれていた。蛇神たちは地上に食らいついて、火を吐きながら、身体をくねらせ、ダンスしているようだった。
両者のイメージは、ぴったりオーバーラップするものだった。
天空のカムナビが消えると同時に、志津夫は呟《つぶや》いた。
「じゃ、やっぱり、あの縁起絵巻帳は、これを描いたものか?」
「絵巻帳?」
正一が反応し、問い返した。息子の肩をつかんで、訊《き》く。
「縁起絵巻帳って、おまえが甲府で見たという、あれか? 祐美さんから話は聞いた。蛇神が逆立ちしてダンスしているみたいな絵巻帳が残っていたそうだが」
志津夫はうなずき、答える。
「ああ。あの絵巻帳に、そっくりだ。そうだよ、そっくりだ……。だけど、なぜ、あの光は、くねくね動くんだ?」
「陽炎《かげろう》だ」
正一が簡潔に答えた。
「ええ?」
志津夫が眉間《みけん》にしわを寄せて、問い返す。
正一が身振り手振りを交えて、説明の残りを補った。
「陽炎だ。つまり、サーマル・ブルーミング現象だ。
たとえば、大気中で強力なレーザー光線を発射すると、どうなるか。
レーザーの通り道の大気分子が熱せられて激しく動き回り、陽炎を起こす。そして陽炎の中では、光は直進できない。だから、強力なレーザー光線は、自ら引き起こした陽炎のせいで、くねくね揺れ動いて、標的に当たったり外れたりを繰り返すそうだ……。カムナビも同じ現象を起こすんだ……」
正一は片手で、天空を指さした。
「想像してみるがいい。このサーマル・ブルーミング現象が、古代人たちの目にはどんな風に映ったのか……。それは、まるで巨大な金色の蛇神が、天から地上に降りてきて、地面に食らいつき、全身をくねくねさせて、地上に炎を吐き散らす。そんな風に見えたことだろう……」
志津夫は生唾《なまつば》を飲み込んだ。今、脳裡で二つの画像が完全に重なった。
今、肉眼で見たカムナビ。
縁起絵巻帳に描かれた蛇神の逆立ちダンス≠フ図。
志津夫は呟いた。
「ああ、見えた……」
正一が続けて、言った。
「これが金のトビ、つまり古代日本語で、金の蛇の恐るべき姿として、古代人の目に焼きついたに違いないんだ。蛇神が、光り輝くものというイメージで、古代人の胸に刻まれたのも、このサーマル・ブルーミング現象が目撃されたせいだ」
志津夫は、脳天が痺《しび》れる感覚を味わった。同時に納得もした。
現代人の志津夫にしても、サーマル・ブルーミング現象については、今が初耳だった。ましてや科学知識の乏しい時代には、あの揺れ動く光柱は、どう人々の目に映ったことか。「光り輝きながら、くねくね揺れ動く蛇神」と解釈されるのは、当然だと思えた。
そして、ようやく納得した。これは悪夢でもなく、作為体験のような妄想でもない。現実に起きている物理現象なのだと。
その時、山頂の方角から、また不気味な吠声《べいせい》が聞こえた。
志津夫たち三人は一斉に振り返った。そして、お互いの顔を見合わせる。形容しがたい不安と恐怖を覚えた。
先ほどから何回も、その吠《ほ》え声は聞いていた。どうやら洞窟《どうくつ》から出てきた「何か」は山頂まで登ったようだ。そして、そこで吠えながら、カムナビを呼んでいるらしいのだ。
「祐美! 止められなかったのか!」
突如、白川幸介は絶叫した。名古屋市金山救急病院の全フロアーに響くかと思われるほどのボリュームだった。
同室で、眠っていた七〇代の男性患者が飛び起きた。水浴びした犬みたいに身体を震わせる。やせた白髪頭の老人だ。
老人は、隣のベッドを見た。口ひげの中年男が寝ている。彼には見覚えがない人物だった。
その中年男は右足を添え木とギプスで固定されていた。火傷《やけど》した箇所には、包帯も巻いてある。特に、命に関わるような重傷ではないようだ。
窓の外は灰色だった。叩《たた》きつけるような、どしゃ降りだ。窓ガラスの表面を流れる雨粒によって、外の風景は迷彩模様のアニメーションになっている。
この雨は昼間の猛暑が去ったために降り出したものだ。上空の積乱雲の中には、今まで空中の水分が溜《た》まりに溜まっていたのだ。それが冷えて水滴の大群となり、名古屋市街に放出されていた。
老人は、隣のベッドの男に話しかけた。
「あ、あんた? いつから、ここに?」
「止められなかったのか!」
幸介は再び、大音声で叫んだ。
老人はミサイルでも飛んできたような反応を示した。座った状態から、反射的に逃げようとする。ベッドから転落した。
老人にとっては厄日だった。たまたま、常識を超越した人物と、同室になってしまったのだ。
病院内は騒然となった。廊下に慌ただしい足音のスタッカートが響く。
病室のドアが開く。
中年の看護婦が姿を見せた。ライトヘビー級の体格を白衣で包み、うつむくと二重顎になるような、たくましい女性だった。
その背後からも、三人の若い看護婦がのぞき込む。一人はメガネ、一人はショートヘア、一人は色黒だ。
中年の看護婦は、床に落ちた白髪老人に駆け寄り、抱き起こした。
「何ですか、いったい?」
老人は腰を押さえて呻《うめ》いた。隣のベッドを指さす。
「いや、この人が大声を出して。それで、びっくりして、落ちた……」
「何とかしろ!」
また、幸介が叫んだ。
思わず看護婦たちや老人は、片手や両手で耳を覆う。
とにかく声の大きい患者だった。普段から何か特別な発声訓練でもしているみたいだ。
看護婦は不審な顔で訊いた。
「あの? 何とかしろって、何をですか?」
だが、幸介は返事をしなかった。
幸介の目は開いていた。決して意識が混濁して、寝言を言っているわけではない。
だが、今の彼の五感は、この名古屋市の病院にはないのだ。励起したチ≠ェ、幸介と彼方《かなた》にいる肉親の祐美とを接続して、通信回線を開いていた。
要するに幸介は、娘の祐美の五感を通して、実況中継≠受けている状態なのだ。祐美の目と耳は、そのまま彼の目と耳だった。
彼にしても、こんな体験は初めてだった。
原因はおそらく、この八方|塞《ふさ》がりの状況のせいだろう。幸介は負傷してしまい、名古屋市内の病院に留まるしかなかった。肝心な時に、何の役にも立たない状態になってしまい、彼は歯ぎしりしていた。
せめて現場に居合わせたい。熱烈に、そう思い続けた。
その強い一念が、ついに引き金になったようだ。幸介のチ≠ニ、肉親の祐美のチ≠ニが同調し始めたらしいのだ。
中継≠ェ始まったのは、気絶した祐美が目覚めて、三輪山の禁足地周辺が山火事になっているのを見た瞬間からだった。
これには幸介も心底から驚愕《きようがく》した。いきなり自分の視覚と聴覚が、三輪山の中腹に飛んで行って、生中継≠ェ始まったからだ。
中継≠ヘその後も途切れることなく続いた。おかげで三輪山で何が起きているのか、幸介はすべて知ることができた。禁足地の磐座の後ろにあった洞窟から、何か得体の知れないものが出てきたことも、カムナビが連続して桜井市を襲っていることも、すべてリアルタイムで見聞きした。
さらに、もう一つ気がかりなトラブルがあった。祐美が、あの真希という女を見失ったことだ。この状況は、危険な野獣が市街に放たれたも同然に思えた。
幸介は、また叫んだ。
「祐美! とりあえず、あの女だけでも見つけだして、始末しろ!」
だが、この現象は、あくまで中継≠ノ過ぎなかった。娘の祐美が見聞きした映像や音声を、幸介が受信するだけだ。幸介側から送信する方法は今のところ不明なのだ。
しかも、この接続≠OFFにすることもできなかった。この現象がどういう風にして始まったのか、わからないからだ。当然、スイッチの切り方も不明だった。
したがって幸介は、他の患者や看護婦にとって迷惑な存在と化すしかなかった。つまり絶叫を続けることだ。
「いや。今は、あの女は後回しでいい。今はカムナビだ! そっちを止めろ! 祐美。何とかしろ。止めろ! 止めるんだ!」
志津夫の足が止まった。
身体が震えだしていた。摂氏三五度を越す熱気だというのに、極地の氷原にいるみたいな気分だ。
すぐに祐美と正一も立ち止まった。志津夫を振り返る。
今、三人が立っている山道は、神職用の秘密の参道のようだ。そこをハンディライトで照らしながら、登っているところだった。
草薙剣の箱は、祐美が肩に担いでいた。結局、彼女が自主的に管理係を務めることになったわけだ。
三人が立っている位置からは、もう禁足地の中心部は見えなかった。すでに例の洞窟から五〇〇メートル以上は離れている。
山火事の黄色い炎も、ほとんど森林によって遮られていた。今は炎の最上部が見えるぐらいだ。空中に舞い上がった火の粉が、飛び火する機会をうかがっていた。
正一が苛立《いらだ》った様子で、息子に叫んだ。
「どうした! さっき言っただろう。あの洞窟から何が出てきたのか、それを一刻も早く確かめなきゃならん。まず、正体を見ないことには、どうしようもない。あのカムナビも早く止めなきゃならないし……」
祐美も同調する。
「そうだよ! とにかく登ってみるしかないんだよ。それが先決だってば!」
志津夫は両手で頭を抱えてしまった。
今の彼は、真相に触れた喜びも少し感じていた。だが、後悔する気持ちが、その一〇〇倍以上あった。自分と真希は、とんでもないことをしでかしてしまったのだ。
脳裡《のうり》に、名椎善男が現れた。映画「ロッキー」の老トレーナー役、バージェス・メレディスに似た顔で言う。『……だが、年寄りだからこそ、わかることも世の中にはある。行っちゃいかんのだ。行ったら、きっと後悔するずら』
脳裡に、白川幸介も現れた。英国紳士風の口ひげをたくわえた、鋭い目つきの彼が言った。『我々は現世の秩序を守ろうとしているんだ。世の中には封じた方がいい真実もある』
志津夫は無意識に呟《つぶや》いた。
「何てことだ……何てこと……」
「今さら、遅いよ!」
祐美が叫んだ。
同時に、空の彼方がまた輝いた。金色の蛇神のショータイムだ。それは、この世の終わりまで永遠に続きそうな勢いだった。
それを、祐美が指さした。可愛い丸顔を歪《ゆが》めて、言う。
「私が止めなければならなかったのは、これだったんだ。現世の秩序が崩れるというのは、こういうことだったんだ。なのに、止められなかった。あんたのせいだよ! あんたと、あの真希という女のせいだよ!」
祐美は、志津夫を指さした。憤怒《ふんぬ》のあまり燃えだしそうな目だ。
彼女が出す衝撃波よりも、今の糾弾の方が効いた。志津夫は何も言い返せない。視線が宙を泳いでしまう。
夜空の光条が消えた。だが、小休止に過ぎないだろう。数秒後か、数分後には再開されるのだ。
突然、志津夫は不条理だ、と言いたくなってきた。腹の中で、噴火するものがある。それはマグマとなって脳天に昇ってきた。
志津夫は、正一に詰め寄った。サングラス姿の父親を睨《にら》みつける。
「なぜ、もっと早く教えてくれなかったんだよ!」
「信用できないからに決まってるじゃん」
祐美が代わりに答えた。志津夫と、正一の間に割り込んだ。野球帽の下から、きつい目で志津夫を睨む。
「あなたはともかくとして、あの真希っていう女を信用できたと思う? だって、あの女に真相を教えたら、さらに舞い上がっちゃいそうだもの。真相を知ったら、ますます三輪山に行きたがっただろうし、カムナビの復活にも、あの女はますます、ご執心になったんじゃないの?」
志津夫は返事ができなかった。熱くなった頭に、冷水をぶっかけられた気分だ。祐美の主張には理があった。
祐美が続けた。
「あの女の魂胆ぐらい、私にも見抜けるんだ。きっとカムナビの秘密だって、私利私欲に利用したいだけだったんだよ。そのために色仕掛けで、あなたのことも利用したかったんだよ。あの女が最終的に何をたくらんでいたかは知らないけど、要するにそういう魂胆だったんじゃないの?」
志津夫は言い返した。
「ぼくは、君と話してるんじゃない。父さんと話してるんだ」
祐美は、丸顔をさらに膨れっ面にした。鼻を鳴らす。
志津夫は小柄な祐美の頭越しに、正一を見た。苦しげな表情で、言った。
「確かに、あの真希さんという人は、ちょっとおかしかったよ。……いや、だいぶおかしかったよ。自分を追放した故郷の日見加村を憎んでいた。あの村をカムナビで丸焼きにしたいらしい。確かに、その気持ちもわからなくもないけど……。ちくしょう。おれは、いったい何を言ってるんだ?」
また頭を抱えてしまった。我ながら一貫性がなさ過ぎた。胸中で竜巻が発生している気分だった。
志津夫にとっては、真希はさっきまでラブシーンを演じた相手でもあった。甘い予感と、彼女のエロティックな魅力に陶然となりかけていたのだ。
だが、今、思い出してみると、真希のいくつかの言動は、あまりにも常軌を逸しすぎていた。
彼女は日見加村を憎みきっていた。頭の中には復讐《ふくしゆう》の一念だけだったようだ。
また、仮に真希がカムナビの秘密を手に入れて、日見加村への復讐を果たしたとしても、それで彼女の気が済むとも思えなかった。真希の中には悪魔的な情熱が燃えさかっているのを度々、感じたからだ。放っておけば、彼女は際限なくトラブルを巻き起こしたような気もする。
ふと気がつくと、祐美が志津夫を見上げていた。彼女は、形容しがたい複雑な目をしている。その瞳《ひとみ》に込められた感情は、非難三〇パーセント、同情三〇パーセント、意味不明の切実さ四〇パーセントといった割合に思えた。
志津夫は言った。
「やっぱり、ぼくのせいか? ぼくも悪いのか? ぼくにも責任があるのか?」
祐美は、野球帽のつばを手でつかみ、下げた。自分の目を隠してしまう。何か言いたいことがあるようだが、我慢しているようだ。
正一がバンザイのポーズを取って、宣言した。
「もういい! やめよう。終わりだ!」
正一は両手を伸ばし、志津夫と祐美の肩を押さえた。彼は首を振って、
「その話は一旦《いつたん》、中止だ。こんなことをしている間にも……」
正一は夜空を見上げた。
また、金色の輝線が夜空を切り裂いた。外宇宙の実相の一部が、この地上へと飛び込んできているのだ。
正一はそれを指さして、
「こんなことをしている間にも、街が破壊され、丸焼けになってしまうんだぞ!」
そして彼は大きく、ため息をついた。胃に穴が開いたような表情だ。首を振った。
「まさか、カムナビを連続して呼べるような奴が出てくるなんて、私も予想していなかったんだ。こんなことになるなんて……。だが、何とかして止めないと……」
「でも、どうやって……」
志津夫は、ついそう言ってしまう。
今日まで信じてきた現実が崩れ去ったショックは抜けなかった。ともすれば、意識はまだ目の前の現実を拒否しようとするのだ。
ふいに祐美が叫んだ。
「ちくしょう!」
彼女は足元の小石を蹴《け》った。八つ当たりだ。蹴りながら、叫ぶ。
「ちくしょう! あの真希っていう女も、どこへ消えたんだよ? やっぱり、あの女も頂上に登っていったのか? 見つけたら、ただじゃおかないぞ!」
名椎真希は唸《うな》りながら、目覚めた。上半身を起こそうとする。やがて地面に手をついて、四つん這《ば》いの姿勢になった。
身体のあちこちが不快感を訴えていた。まず後頭部と背中だ。そこに鈍痛が居座っている。
鼓膜の奥では耳鳴りがしていた。パトカーがサイレンを鳴らして、どこか遠方を走り回っているような感じだ。
彼女は片耳を手で押さえ、呟《つぶや》いた。
「え?……何?……何で、こんな……ひどい耳鳴りがするの?」
その上、サウナ風呂《ぶろ》にいるみたいに空気が熱かった。激しい喉《のど》の渇きを覚えて、咳《せ》き込んでしまう。
やがて喉の痛みは、粘膜の乾燥だけが原因ではない、と気づいた。煙の臭いがするのだ。口の中にも、いがらっぽい味が広がる。
見回すと、その理由がわかった。
周囲が、山火事に包まれていたのだ。オレンジの炎が踊り狂い、パチパチと彼らの祭《まつり》囃子《ばやし》を演奏している。もしも真希が目覚めずに、このまま失神していたら、焼け死んでいたかもしれない。
真希は苦悶《くもん》の表情になった。こんな場所にはいられなかった。とりあえず、低い姿勢で這い進み、炎から遠ざかろうとする。
やがて七〇センチほどの段差に突き当たった。ためらっている暇はない。そこを這い上がっていく。
岩盤がテラス状に広がる場所に出た。禁足地の中心部だ。
そこは樹木もなく、開けた空間だった。中央に小さな社殿があり、その奥には磐座《いわくら》がある。大きな丸石が二つと、直方体に近い石が一つだ。どれも、しめ縄が巻いてあった。
社殿の足元には、長さ一メートル弱の四角柱や、ハンディライトも転がっていた。ライトのスイッチはオフのままだ。
すでに山火事は、このテラス状台地の周囲をほとんど取り囲んでいた。燃え上がった木が次々に倒れており、炎のドミノ倒しといった状態になっている。それで燃え移るのが早かったのだろう。
とりあえず、真希は立ち上がった。衣服や手についた土を払う。火事のない台地の中心へと歩き出した。
火炎地獄から逃れたことで、真希の体内に安心感がわいた。吐息をつく。夜空を見上げた。
真希の全身に電流が走った。
暗い空に、黄金色のビームが出現した。それが上空から、自分の脳天めがけて突き刺さってくるように見えたのだ。
思わず彼女は飛び退いた。
だが、光条の狙いは、真希ではなかった。今いる場所から、かなり離れた地点のようだ。ビームは天空で揺れ動き始め、神秘的なダンスを演じた。
五、六秒後、遠方から爆発音が轟《とどろ》いた。音の壁が、頭蓋骨《ずがいこつ》にぶつかってきたような感じだ。どこかで可燃物に引火したらしい。その直後、天空の光も消えた。
「カムナビ……」
真希は呟いていた。三六〇度ターンして、周囲を見回す。
「いったい、何が……あ!」
真希は、自分の口を片手で押さえた。目が全開になり、瞳が飛び出しそうだ。
一気に記憶が蘇《よみがえ》った。
鮮明な映像が、次々に脳裡《のうり》で再生されていた。一連の出来事を思い出す。
真希は心《しん》の御柱《みはしら》を抜いたのだ。
すると桜井市に響いていた怪音が止まった。さらに立石の磐座が倒れて、洞窟《どうくつ》が出現した。
洞窟から出てきたのは、異形の化け物だった。真希は震え上がった。
だが、その怪物の正体が何であれ、カムナビの秘密を握っている可能性があった。そこで真希は、彼≠脅して、自分の奴隷にしようとしたのだ。
ところが、失敗した。必殺の首絞め≠ェ、この怪物には効かなかったのだ。
そして凄《すさ》まじい反撃が来た。真希は化け物の尻尾《しつぽ》による一撃を浴びて、空中を水平飛行した。背中と後頭部を木の幹に叩《たた》きつける結果になった。
倒れ込んだ真希は何とか仰向けになり、起きあがろうとしたようだ。その辺りで記憶は途切れていた……。
そして、たった今、彼女は記憶の鎖がつながったのだ。
真希は再度、天を見上げた。目を見開いてしまう。
また夜空が光ったのだ。まるで軍事衛星が軌道上からレーザー光線を発射して、地上を攻撃しているような眺めだった。どうやら、この超高熱ビームは、桜井市を連続して襲っているらしい。
ふいに、真希は自分の耳鳴りに疑念を抱いた。手をパラボラアンテナの形にして、耳にあてがう。
「これ……耳鳴り……じゃない。本物のサイレンだ!」
それは現実の音響だった。近辺を一〇台以上のパトカーや救急車、消防車などが一斉にサイレンを鳴らし、走っているのだ。その音を自分自身の耳鳴りだ、と勘違いしていたのだ。
樹木や火事が邪魔で、下界は見えなかった。だが、今の桜井市は大騒ぎだろう。阿鼻叫喚《あびきようかん》といったありさまではないか。
その映像が目に見えるようだ。爆発。火事。悲鳴。燃え上がる人々と家屋。逃げまどう烏合《うごう》の衆。
その光景を想像するうちに、真希は興奮してきた。欧亜混血風の美貌《びぼう》が、より輝きを増したように見える。それは彼女が、生まれ故郷の日見加村に対して計画していた制裁措置と、同じだったからだ。
だが、彼女は顔を引き締めて、空を睨《にら》んだ。疑問が湧いてきたからだ。
「このカムナビは誰が? 誰が呼んでいるの?」
もちろん、すぐに推測はついた。
真希は片頬を歪《ゆが》めた。うわずった声で言う。
「あの化け物?……そうよね。……そうよ。決まってるわ」
独りで、うなずく。納得した表情に変わった。
「だって、あのお人好しの葦原志津夫や正一の親子に、こんな派手なことができるわけないもの。あの祐美という小娘にだって、こんなことができるわけないし……」
そして辺りを見回して、彼女はさらに不審な顔になっていった。
誰もいない。
志津夫も、正一も、あの生意気な野球帽のチビ女もいない。
さらに見ると、コウヤマキの細長い箱もなかった。中身の草薙剣もない。
彼女は困惑した表情になっていった。眉間《みけん》に小さな山脈ができる。疑問は自然に、口をついて出た。
「何よ……。私を放り出して皆、どこへ行っちゃったの?」
この疑問も、すぐに答えが出た。
また、金色の輝線が頭上で輝いた。無音の稲光といった感じだ。桜井市の上空を照らし続ける。
反射的に、真希は見上げた。
「そうか。あれを止めるためか……。だから、私に構っている暇もない、か……」
彼女は、うなずいた。
やがて肩をすくめ、鼻を鳴らした。小馬鹿にしたような笑みを浮かべる。首を振った。
バカな奴らだわ。私が志津夫や正一たちの立場なら、真希のような危険な女は真っ先に吊《つ》るし首にするだろう。その方が後々、問題が残らないはずだ。
だが、彼らには、それが出来なかったのだ。あるいは真希の姿を見失ったのかもしれない。テラス状台地と森林地帯には段差があるし、志津夫たちよりも低い位置に彼女は倒れていた。それで、発見できなかった可能性もある。
真希は額や顎《あご》の汗を拭《ぬぐ》った。もともと気温が高くなっていた上に、山火事の熱波が周りから迫ってくるからだ。フライパンの上にいる気分だった。
ゆっくり考えている暇はない。さっさと逃げるべきだ。
真希はハンディライトを拾った。そして、火の手が上がっていない方向を目指して、ダッシュする。森林地帯へと駆け込んだ。
同時に、目の前が真っ白になった。一万個ほどのストロボを浴びせられた気分だ。思わず顔を覆ってしまう。
熱波も感じた。火事のそれとは比べものにならない。巨大なアセチレン・バーナーで炙《あぶ》られたようだ。
真希は悟った。またカムナビだ。偶然ここに落ちたのだろう。
真希は本能的に後ろを向き、駆け出した。光と熱の饗宴《きようえん》から逃れる。六、七メートルほど走った。
そのおかげで身の安全を確保できた。振り返る。真希の呼吸が停まった。
逃げ道はなくなっていた。そこにも火の壁が現れていたのだ。意地悪い妖怪《ようかい》のように炎が舞い狂っている。
真希は周囲を見回した。唇の端がつり上がり、歯がむき出しになる。美貌が歪んでいった。
山火事の熱気が三六〇度全方位から迫っていた。燃え上がった木が次々に倒れては、次の木を火事に巻き込んでいる。そうした炎のドミノ倒しが無制限に続いていた。
真希は必死の形相で見回し、逃げ道を探した。だが、見つからなかった。
絶望の二歩手前ぐらいの状況と言えた。このテラス状の台地にいれば、焼け死ぬ心配はないだろう。だが、焦熱地獄の外には出られないし、喉の渇きも癒《いや》せないのだ。
やがて真希は、あきらめ顔になった。肩の線が下がっていく。
何となく周囲を見回した。いつの間にか、彼女は茫漠《ぼうばく》とした表情になっていた。見るともなしに、あるものを見ていたのだ。
例の洞窟の出入口を……。
10
(アナウンサーが視聴者に向かって、一礼する。画面右上に、「奈良県の上空に怪光」とキャプションが出る)
(アナウンサーが喋《しやべ》りだす)
『ただいま、臨時ニュースが入ってまいりました。現在、奈良県の上空に、不思議な光が連続して出現しております』
(ビルの屋上から撮った映像。画面の右上に「NHK奈良支局ビルより撮影」とキャプションが出る。画面の下側には、五重の塔など、奈良市の有名な寺社建築物のシルエットが映っている。その向こう側の南の夜空に時々、光り輝くビーム状のものが出現し、揺れ動いている)
(奈良市民たちの映像。彼方《かなた》の空を指差し、驚きの表情や、不審な表情。彼らの音声も入る。「あれ、何やろうなあ?」、「雷にしては静かやし……」)
(ビルの屋上から撮った映像。画面の右上に「NHK大阪支局ビルより撮影」とキャプションが出る。画面には、大阪城がアップで映る。次にカメラが右にパンしていき、画面の下側に大阪市街地の夜景が映る。遠方の東の空に、光り輝くビーム状のものが出現している。大阪府と奈良県とを隔てる生駒山地の稜線《りようせん》が、逆光によるシルエットになっている)
『この不思議な光は、奈良県の桜井市付近に集中的に出現しているようです。落雷でしたら、ゴロゴロといった音がするはずですが、これにはそうした音がありません。また稲光なら一瞬、光るだけですが、これは数秒間から、長いものでは一〇秒間ほど光り続けるようです。
残念ながら、桜井市の警察署や消防署などへ電話しても、つながらない状態だそうです。今、桜井市付近で、何が起きているのか、詳しいことはわかっておりません。
現在、奈良県警と、気象庁は、この件については情報収集中とのことです。まだ正式の発表はありません。
この件につきましては詳しい情報が入りしだい、またお伝えします』
(画面右上に、「銅鐸《どうたく》が怪音?」とキャプションが出る)
(アナウンサーが喋りだす)
『こちらも不思議なニュースです。大阪府立博物館の中で、三〇分ほど前から、奇妙な音が発生している、ということです。リポーターの益田さんに伝えてもらいます……』
11
カムナビは、桜井市内で最も目立つ建築物にも襲いかかった。高さ三二メートル、重量一八五トンもある黒い鋼板製の大鳥居だ。
大鳥居は、揺れ動く灼熱《しやくねつ》の光条に飲み込まれてしまった。水平に広がる長さ四〇メートルの笠木の部分が、真上から高熱の直撃を受ける。黒い鋼板の表面が真っ赤に染まり、泡立った。
光熱ビームが去った後は、鳥居の笠木の左半分が溶けていた。ホイップクリームのようなもろさで、形が崩れかけている。溶けた鉄が、涙滴の形となって周囲に散り、火種となった。
火種は、周辺の樹木や家屋にくっつき、燃え始めた。その炎に炙《あぶ》られて、電柱の変圧器も黒こげになっていく。電線や電話線も次々に切れていった。
周囲一帯が停電していった。遠くから見ると、大きな火炎が出現した場所を中心にして、街灯や家屋の窓明かりが消えていくという眺めだ。紅《ぐ》蓮れんの炎が、電力を貪《むさぼ》っているかのようだった。
同じような火災が、桜井市内ではすでに三〇件以上も発生していた。焦熱地獄の絵図面そのままという光景も見られた。
もっとも激しく、大規模に燃えたのは、ガソリンスタンドだった。爆弾が落ちたかのようにオレンジの火球がいくつも膨れ上がり、キノコ形の黒煙を夜空に残していく。後には店員や客の焼死体と、焼けた乗用車の残骸《ざんがい》が残った。
また桜井市に多数ある材木置き場も、炎の餌食《えじき》となった。
桜井市は、明治期には木材の集散地であり、戦後も製材・木工業が主要産業だった。当然、周囲の山林から切り出された材木が、あちこちに積んである。つまり、燃料があらかじめ市内に配置してあるようなものだ。それらにも引火していったため、火災の勢いは増す一方だった。
地元の警察署は、五階建ての小規模なビルだった。今、そこはパニックに陥っていた。野戦本部さながらの雰囲気で、署長から巡査まで誰もが怒鳴り合っていた。
何しろパトカーの全車両から被害報告が入るのだ。110番のベルも鳴りっぱなしだ。もちろん警察署の窓からも、全市が炎熱地獄になりつつある様子が嫌でも見えていた。
今また、謎のビームが夜空に閃《ひらめ》いた。金色の死神のようだ。
その度に、警察署長は叫んでいた。ほとんど悲鳴だ。
「あの光は、いったい何だ!」
署長は、いわゆるキャリア組でまだ四〇歳未満だった。彼がこの地に赴任した時、前任者から、こう言われた。「神社の祭事の日を除けば、閑静で犯罪も少ない街だ」と。
事実、静かな日々だった。今夜までは。
今の署長には本来、背負っているはずの国家権力も、権威も、何もなかった。彼も、警察組織も、無力な存在に成り下がっていた。天空から投げ落とされる金色の火矢を、ただ見ているしかないのだ。
警察署の斜め向かいには、土木工学研究所があった。その敷地内には、直径一〇メートルほどのパラボラアンテナが設置されている。
これは緊急時の無線通信用アンテナだ。大地震や洪水などの被害を想定して、設置されたものだ。電話回線が使えなくなっても、これで他の市町村や府県と連絡が取れるはずだった。
しかし、せっかくの災害対策も無駄に終わった。すでに超高熱ビームが襲いかかった後だったからだ。
パラボラアンテナは溶けてしまい、無惨な姿をさらしていた。出来損ないのチーズ・ピザさながらだ。鉄骨も灼熱の液体となって、敷地内を這《は》っていた。
同じ頃、消防署も、よりひどいパニックに陥っていた。何しろ消防車の数は、全市で五台しかないのだ。人口六万三千人の街ならば、普通はそれで充分なはずだった。
だが、今夜は違った。火災の第一報が入ってから十五分後には、119番のベルが鳴りっぱなしになった。地図盤上に配置する火災発生マーカーも、すぐに数が足りなくなった。やがて、電話回線そのものが火事で焼けて、使用不能になった。
消防署の展望塔では、見張りの署員が発狂寸前になっていた。
展望塔からの眺めは周囲三六〇度、紅《ぐ》蓮れんの花畑と化していたのだ。しかも天空からは、火災の原因である謎のビームが絶えることなく降ってくる。湾岸戦争時のバグダッド市の報道映像を彷彿《ほうふつ》とさせた。
加島俊一は、阿鼻叫喚の中を走っていた。飛び散った汗が、銀縁メガネのレンズを汚している。
耳に入ってくるのは、ほとんどが悲鳴。目に入ってくるものは、ほとんどが炎だ。
たまに、その両方がいっぺんにやってくることもある。
全身が火だるまになった人間たちだ。走りながら燃え続け、転げ回ってもまだ燃え続けているのだ。やがて自分の肉体が燃えた時に出た煙を吸い込んで窒息するらしく、自らおとなしくなってしまう。
本来なら、加島はその火を消すために水道や消火器を探さねばならないはずだ。だが、人数が多すぎた。時には二〇人か三〇人の単位で、火だるまになっていたりするのだ。加島一人では成す術《すべ》がなかった。
できることはただ一つ。本能に任せ、逃げることだ。
加島は、すでに愛車のシビックを失っていた。桜井考古学研究所と共に火葬にされたのだ。これのせいで職場も失ったわけだが、今は感慨に耽《ふけ》っている暇もない。
加島は路上でヒッチハイクも試みたが、成功しなかった。すべてのドライバーが、スピード違反と信号無視を犯している状態だからだ。
中には、車を歩道に乗り入れて、集積所のゴミの山を跳ね飛ばしていくドライバーもいた。そうした車が突っ込んできた時は、加島も、もう少しで撥《は》ねられそうになったほどだ。
こういう非常時になると、見ず知らずの人間をわざわざ助けるような人格者などゼロだった。皆、自分と自分の家族、自分の恋人や友人ぐらいにしか情愛はわかないものらしい。
交通法規が有名無実になったため、市内の各地で交通事故も頻発していた。商店や民家に突っ込んで、ガソリンに火がつき、炎上している車も度々、目撃した。
とにかく加島は走るしかなかった。耳に入る悲鳴は、両手で塞《ふさ》いだ。火の手や爆発を避けつつ、本能でコースを選ぶ。
とにかく桜井市の外に出ることだと思った。例の光熱ビームは、桜井市の外にはあまり降っていないようだった。もっぱら三輪山を中心にした市街地エリアを標的にしているらしい。
となると、逃げる方向は決まっていた。この位置からだと北、北東、東のいずれかだ。
途中で加島は、彼と同じく走って逃げる人々と遭遇した。この連中も、たまたま車が入手できなかったのだろう。
老若男女様々な集団だった。悲鳴に混じって、疑問の声も飛び交った。
何が起きたの? テロか? 戦争か? 北朝鮮のミサイルじゃないか? 何で、こんな場所を狙うのよ? 知るもんか!
もちろん、これがミサイルなどではないことは、全員わかっているはずだった。明らかに、人知を越えた現象なのだ。しかし、今はそれについて話し合う余裕もない。
加島は逃げる途中、製材工場が燃えている光景や、農場のビニールハウスが溶けている場面に出くわした。ハンバーガーショップや、ファミリー・レストランが黒煙を噴出している光景にも出会った。大震災直後のような眺めだった。
そうした火災現場に出くわす度に、避難中の人の群れは離散した。別にリーダーがいるわけではなく、各自がバラバラに逃げているだけだから、逃げる方向も行き当たりばったりなのだ。途中で二グループか三グループに分裂してしまうこともあった。
ふと加島は立ち止まった。さすがに息が切れてきたのだ。顎《あご》から汗が滴っている。銀縁メガネも曇っていた。
汗を手で拭《ぬぐ》い、周辺を振り返った。
桜井市の中心付近は、何十ヶ所もの火事に包まれていた。オレンジ色の炎がまるで、アメーバ状の巨大生物みたいに繁殖している。つい数十分前まで、あそこが居眠りしているみたいに平和な街だったとは、信じがたい思いだ。
遥《はる》か彼方《かなた》を見ると、桜井市の東側にある三輪山があった。
今も、三輪山の山頂や山腹にも揺れ動く炎が見えた。ビームは、まず、あの山に命中したからだ。
また、加島の直感が囁《ささや》いた。この災厄は三輪山を中心にして起きている。つまり、三輪山がキーポイントだろう。
もっとも逆戻りして、それを確かめる気にはなれなかった。命の方が惜しい。
そこで加島は気づいた。
守衛の山沢努がいないのだ。さっきまで、加島の後ろを走っていたはずだ。なのに、いない。
いつ、はぐれたのだろうか。戻って、探すべきだろうか。そう自問する。
加島が首を振った。いや、とても人助けできる余裕などない。これは幸運だけが頼りのレースなのだ。自分の運を他人に分けたりしたら、共倒れになりかねない。
加島が立ち止まっている間に、他の人々は次々に彼を追い抜いていった。いつの間にか、加島一人だけがその場に取り残されていた。
息を整えると、加島もマラソンを再開しようとした。
また、光柱≠ェ出現した。
それも、加島の前方三〇メートルほどの至近距離だ。
灼熱《しやくねつ》の光は前後左右にくねくねと揺れ動き、路上を焼き、ビニールハウス農場を焼き、炎を吐き散らしていった。その光条が、人間などという生き物のことを斟酌《しんしやく》しているとは思えなかった。
加島は悲鳴をあげた。溶鉱炉をのぞき込んでいるような熱量だった。慌てて、自分の顔を両腕で保護する。
だが、それでも眩《まぶ》しさに耐えながら、何が起きているのか、前方を確かめようとした。悲鳴が聞こえたからだ。
光をバックに、影絵が展開していた。ストロボ効果によるコマ落としの映像だ。
焦熱地獄の中で、踊り狂っている人々が十数人いた。光が眩しすぎて、個々の顔は判別できない。だが、ウエストのくびれたプロポーションで、女性だと判別できる人も四、五人いた。
一〇秒ほどで、光柱≠ヘ消えた。
燃え続ける人体だけが残った。肉の焼ける異臭と、黒い煙が漂っている。
大部分の被害者は、すでに息絶えていたようだ。だが、燃えながらも、まだ生きている人々も二人いた。地面に倒れたまま、踊り狂っている。網にかかったエビなどが飛び跳ねる様子に似ていた。
正視に耐えない光景のはずだった。なのに、加島は目をそむけることができない。
燃えている人たちは、ほとんど呼吸もできない状態だろう。熱い燃焼ガスが硫酸のように喉《のど》と肺胞を焼いているに違いない。
やがて、生き残りの彼らも突然、動きが止まった。二人は、ほぼ同時に生命を焼き尽くされたようだ。
さっきまで人間だった物体が、もう微動もしていなかった。死因は一酸化炭素中毒だろう。人体の脂肪が燃料となって、炎だけが揺らめいている。
多数の焼死者たちは、もはや衣服も皮膚もなくなったような状態だった。髪の毛も炭化して、ほとんど残っていない。ピンクの肉質や骨が、身体のあちこちに見えている。
加島は思わず吐きそうになった。あまりにも無惨な光景に、声も出ない。
焼死者たちの周辺には、ビームに巻き込まれずに済んだ連中が、一〇人ほど取り残されていた。何人かは腰を抜かしたまま、立ち上がれないようだ。
やがて命拾いした連中は、野生動物さながらに絶叫した。一拍遅れて、恐怖が湧き上がったのだろう。立ち上がり、次々に逃げ去っていく。
今まで来た道を逆走する人々もいた。加島の脇をすり抜けて、桜井市へ向かっていく。
加島は、絶望感に苛《さいな》まれていた。恐怖や心細さ、といった言葉では、この気持ちは言い表せなかった。自分が収縮していき、しまいには消えてなくなってしまいそうだ。
たった今、焼け死んだ人々の不運と、自分の幸運とは、たかだか三〇秒ほど立ち止まったかどうかの差でしかなかった。こんな些細《ささい》なことで生死が決まり、運命が決まってしまったのだ。
加島は、人間の存在感の軽さに否応《いやおう》なしに気づかされた。
たとえば加島自身、何気なくハエに殺虫剤をスプレーしたりしている。また、毎日の通勤でも何匹ものアリを踏み潰《つぶ》していることだろう。
宇宙空間のどこかにいる何か≠ェ、地上を見下ろした時も同じなのだ、と彼は気づいた。その何か≠ノとって、人間などハエやアリ程度なのだろう。気まぐれに踏み潰したところで、その何か≠ヘ良心の呵責《かしやく》など覚えないに違いない。
加島の知性の部分は、そうしたニヒリズムの極致に達していた。それはただ、あきらめろ、と囁いていた。
実際、へたり込みたくなった。これでは何をしても無駄ではないか。汗だくになり、懸命に走ったところで、ビーム一閃《いつせん》でディ・エンドだ。
もう終わりだ。走ったあげくに死んでも、ここで死ぬのを待っていても結局、同じじゃないか。そう思いかけてしまう。
だが、次の瞬間、本能が叫んだ。
逃げろ! 生き延びた時の喜びの方が、悟りきった死よりも数段ましだ!
数秒後、加島は駆け出していた。今までとは直角の方向だ。ほぼ真東の方角だった。
加島は走り続けた。心臓が破れそうになっても、走るのをやめなかった。
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九の巻 カムナビ
葦原正一は前方に倒れ込み、四つん這《ば》いになってしまった。息づかいが荒く、肩を大きく上下させている。体力の限界に近づいているのは明らかだ。
志津夫は、正一の腕をつかまえた。立たせようとする。
「大丈夫か、父さん?」
「ああ」
何とか正一は立ち上がった。両手や膝《ひざ》に付いた土を払う。しかし、辛《つら》そうな表情だ。サングラスをかけていても、それは隠せない。
場所は、三輪山の山腹で七合目付近だった。三人は、一般客用の参道を見つけて、そこを登っているのだ。
この辺りにも、熱風が吹き荒れていた。スギやクヌギの枝葉がぶつかり合い、驟雨《しゆうう》に似た音を立てる。アカメガシワの黄色の小花が宙を舞う。
その風にあおられて、山火事も本格化しつつあった。火事の発生ポイントは、禁足地のある山腹と、山頂の二ヶ所だった。どちらも今、三人がいる場所からは、八〇〇メートルぐらい離れている。
だが、徐々に燃える範囲が広がっているのが、遠目にもわかる。三輪山にネオンサインの大看板でも取り付けたような眺めだ。
先行していた祐美が駆け戻ってきた。肩に例の木箱を担いでいる。それを一旦《いつたん》地面に下ろした。ハンディライトで、正一の顔を照らす。
「大丈夫ですか? ここで休んだ方がいいんじゃ?」
突然、彼方《かなた》から吠《ほ》え声が轟《とどろ》いた。現代人の知らない野生の響きだ。聞く度に鳥肌が立ちそうな声だった。
祐美は後頭部を誰かに叩《たた》かれたような反応を示した。振り返る。
正一も志津夫も、声が伝わってきた山頂方向を見上げた。
同時に、暗い夜空は金色の蛇神によってこがされていた。古代日本語の「あらぶるカミ」という言葉を連想させる光景だ。人間の力では如何《いかん》ともし難い超自然のパワーを、そう表現したのだろう。
今なお桜井市の様子は、スギ林に隠されてしまっているので、わからない。だが、パトカーや消防車のサイレンは聞こえていた。合計で一〇台分以上のサイレンが鳴っているようだ。そして市街地では、それを上回るほどのボリュームで悲鳴が響いていることだろう。
正一は首を振った。
「休んでなんか、いられるか。何とか登らないと。そして早く、これを止めないと、どうしようもない」
志津夫は、正一の肩を押さえて、
「父さんだけ、ここで休んでればいい。ぼくらが先に行くから」
正一は再度、首を振った。
「いや、だめだ。もしかすると、頂上に着いた時に、私の知識や経験が役に立つかもしれない。私も一緒に登らねば……」
正一は歩き出した。口から呻《うめ》き声が漏れる。相当、無理をしているようだ。
祐美も、正一の肩を押さえて、
「ここにいてください。私と志津夫さんだけで何とか……」
正一は首を振り、叫んだ。
「このままじゃ、桜井市が黒こげだ! しまいには日本列島も黒こげだ。いや、下手すると全世界も……」
「そんな……」
志津夫は絶句した。吐き気がしてくる。見えない圧力で、喉《のど》を潰《つぶ》されているようだ。
「全世界が黒こげ? そんなことがありうるのか?」
志津夫は蒼白《そうはく》な顔で、訊《き》いた。
突然、正一は息子の胸ぐらをつかんだ。そして喋《しやべ》りだす。期せずして、熱田神宮の時とは逆の立場になった。
「わからんのか。カムナビには弾数の制限なんかないんだ。全宇宙の星の数は、三千億かける数千億個と言われている。光も熱も、宇宙空間に無尽蔵に存在する。それを呼び込むだけだ。だから、もし頭のいかれた奴がカムナビを呼び続けたら、地球が焼きおにぎりになりかねん」
志津夫は絶句してしまう。自分たちの世界は、文字通り薄氷の上に存在するのだと悟った。足元を踏み鳴らしたら、とたんに溺《おぼ》れるぐらいに危ういのだ。
「そんな……。じゃ、どうすれば……」
自分の喉が限りなく細くなっていく感じがした。呼吸困難になり、吐き気が増してくる。堪《こら》えきれず、咳《せき》が出た。
ふいに祐美が甲高い声で叫んだ。
「そうだ! そうだよ!」
その可愛い丸顔が喜色でいっぱいになった。その場で何度もジャンプする。小柄な身体をゴムマリみたいに弾ませた。
「目には目、歯には歯だよ! あいつを焼き殺せばいいんだ。同じカムナビでね。それなら、頂上まで登る必要もないし」
彼女は野球帽を脱ぐと、それを片手で振り回し始めた。自分のアイデアに興奮しまくっている。
祐美は笑顔で、正一と志津夫とを交互に見比べ、言った。
「だって、そうでしょう? あなたたちもカムナビを呼んだじゃないの。熱田神宮では、志津夫さんがやったんでしょう。まあ、正一さんは体力的に弱っているみたいだから、ここは志津夫さんだね!」
志津夫は、完全に意表をつかれていた。口を大きく開けてしまう。自分自身を指さした。
「ぼくが? ぼくがやる?」
「そうだよ。さあ、さっさとやって。この三輪山の頂上辺りを狙えばいいんだ」
祐美は、電話をかけろといったぐらいの気楽な調子で、催促した。
「できるはずだよ! さっさとやって。すぐやって」
志津夫は顔が歪《ゆが》んでいった。唇の線が、への字形になったほどだ。
「無理だ」
「え? なぜ?」
祐美は、志津夫に迫ってきた。両腕をつかんで、食い下がってくる。
「なぜ、無理なの? できるはずだよ。だって、現にやったじゃない。熱田神宮の拝殿の屋根は丸焼けになったじゃない。おかげで私の親父は堅魚木《かつおぎ》の下敷きになって、入院したんだよ」
志津夫が目を見開き、
「え? そうだったのか! 道理で、ここに白川幸介さんが現れないわけだ……」
「そんなことは、どうでもいいんだ。一度できたんだから、二度目もできるはずだよ」
だが、志津夫は大きく首を振った。目が宙を泳いでしまう。この件に関しては自信のかけらもないのだ。
「無理だ」
「なぜ!」
志津夫は、ため息をついた。力のない表情で、喋りだす。
「熱田神宮の時は、ぼくは意識してカムナビを呼んだわけじゃないんだ。それ以前には、神坂峠でもカムナビを呼んだかもしれないが、それも意識してやったことじゃない。何というか……。ぼくの中にいる何か≠ェ勝手にやっているだけなんだ。制御方法とか、そういうものは、ぼく自身は全然つかんでいないんだ」
祐美は喉に固形物が詰まったような顔になった。せっかくの名案が挫折《ざせつ》しかけたからだ。
だが、彼女はへこたれなかった。すぐに、正一を振り返ったのだ。
「じゃ、正一さんは? 確かに体力的に弱っていて、カムナビを呼ぶのは危険かもしれないけど……でも……」
志津夫が目を見開いた。祐美の手をふりほどいて、父に迫った。
「危険? そうなのか、父さん?」
「ああ」
正一は苦しげに答えた。大柄な体格だが、今はかなりの猫背になっている。それが疲労の度合いを表していた。
「ああ。確かにもう一度、カムナビを呼ぶとなると、私の体力だと命がけになるだろう。しかし、それとは別の理由で、私にも無理だ」
彼も息子と同じで、大きく首を振った。
祐美が目を見開いた。せっかくの名案が潰れかかっているからだ。必死に食い下がる。
「なぜ? どうして?」
正一は天を仰いだ。夜空の裏側にいる超生物を、サングラス越しに睨んでいるようだ。彼は吐息をついて、言った。
「通路≠上がれないんだ」
「通路=H 何ィ? さっぱり、わかんないよォ」
祐美は、また野球帽を振り回した。不審な目で、正一を睨《にら》む。
正一は指で、こめかみを叩《たた》いた。脳髄から言葉を引きだそうとしているらしい。
「何と説明すればいいか……。とにかく、私の中から遥《はる》か彼方《かなた》まで伸びている通路≠フようなものがあるんだ。私の脳天から宇宙空間の彼方にまで、伸びている光の通路≠ネんだ。志津夫、おまえは、そういう感覚を味わったことはないのか?」
「ないよ」
志津夫は簡潔に答え、首を振った。
「熱田神宮では、意識が朦朧としただけだ。それ以外は何も覚えてない」
「そうか。では、まだ、おまえにもわかってもらいにくいだろうな」
正一はため息をついて、
「とにかく、通路≠ニしか言いようがないものがあるんだ。それが私とアラハバキ神とをつなぐ電話回線だ。実は、今も呼びかけようとしたんだ。私がカムナビを呼んで逆襲できないだろうか、と思って……」
正一は、また大きく首を振った。両手を拳《こぶし》にして、少し震わせている。悔しさの表れらしい。
「だが、無理だった……。通路≠フ入口は、頭の中に見えるんだが、その中に入れないんだ。門前払いだ……」
「どうして? なぜ?」と祐美。
正一は吐き捨てるような口調で、
「やはりアラハバキ神たちにとっては、さっき洞窟《どうくつ》から出てきた奴の方が、古い顔なじみなんだろう。そうなると、もう新参者の私の声など聞こえやしないんだ。完全に無視されている。電話をかけても、相手に受話器を取ってもらえないのでは、どうしようもない……」
祐美はしばらく硬直していた。口を開きかけて、また閉じた。どうやら事態を受け入れたらしい。
また夜空が輝いた。弾数無制限のビームが、また桜井市のどこかを襲ったのだ。
数秒遅れて、爆発音が轟《とどろ》いた。花火工場にでも引火したみたいな音量だ。夜空の雲にもオレンジ色の反射光が四度、五度と照り返す。
どうやら市街地の一角で、爆発による火球が現れたらしい。だが、依然としてスギ林が邪魔で被害状況は見えにくかった。
志津夫の全身が震えた。たった今、聞いた爆発音は腹にしみるほどのボリュームだったからだ。呟《つぶや》いた。
「今のは、もしかしてガソリンスタンド? 直撃したんじゃ……」
正一が歯ぎしりしながら、うなずいた。
「あるいはな……」
「だめだ!」
今度は、志津夫が叫んだ。両手を握り拳にして振り下ろし、自分の太ももを叩く。激情にかられた行動だ。
「もう、だめだ! 絶対にだめだ!」
彼は悲愴《ひそう》な顔で、正一と祐美を振り返った。二人を指さし、吠《ほ》えるように言う。
「だって、そうだろう? これから頂上まで登った、としよう。そしてカムナビを呼んでいる奴と対決することになった、としよう。でも、こっちには対抗手段なんか何もないじゃないか! 頂上まで行ったところで、ぼくらには何もできやしない。ぼくらが焼き殺されるんだ!」
志津夫は大きく吐息をついた。そして祐美を指さして、
「まあ、祐美さんには例の衝撃波があるよな。だけど、それで止められるのか?」
祐美は下唇を噛《か》んでしまった。すぐには即答できないようだ。やがて、言った。
「わからない。だけど、試してみるしかないよ」
志津夫は首を振り、言った。
「君も、あの足跡を見ただろう? いや、正確には手の跡と、大きな尻尾《しつぽ》みたいな跡だ。あんな跡を残すなんて、あれは、どういう代物なんだ? 本当に、ぼくらだけで何とかできるのか?」
志津夫の脳裡《のうり》では、未知の怪物のおぞましい姿が躍っていた。長い胴体が連続したS字形のカーブを形作り、どんな場所でも自在に這《は》い進んでいくような奴だろう。思い浮かべただけで背骨が氷柱になり、震えが走った。
「じゃ、どうすれば?」
祐美が問いかけた。
全員が沈黙してしまった。
絶望的な気分だった。これから、どうすればいいのか。何の対策も思いつかなかった。
志津夫は自分の胸を手で押さえた。呼吸が異様に苦しいのだ。すべての希望を断たれると、人間は息すらも自然には出来なくなってしまうらしい。
まるで肺の中に鉛を詰め込まれたようだった。酸素を取り込むことが、難事業に思えてくる。思わず咳《せ》き込んでいた。
「いや。待て!」
唐突に正一が叫んだ。志津夫を指さす。
「もしかすると……」
「え?」
志津夫と祐美が異口同音に言った。
正一は一息入れて、説明した。
「もしかすると、おまえが名古屋で強盗を働いたことが、少しは役に立つかもしれない」
志津夫は目を大きく見開いた。父の予想外の発言が、脳裡で何度もエコーする。
祐美も口を半開きにしていた。正一を見つめる。
同時に、三人は振り返った。彼らの持つハンディライトの光条が一点に集中する。
傍らの地面に、細長い箱があった。頑丈さでは定評のあるコウヤマキの木を材料にしたものだ。今なお厳重に古代の神器の一つを守り抜いていた。
やがて祐美は、手に持っていた野球帽を頭に被《かぶ》りなおした。正一を振り返り、言う。
「草薙剣《くさなぎのつるぎ》が?」
志津夫も訊《き》いた。
「これが? 役に立つと? これが?」
次の瞬間、志津夫は木箱に飛びついていた。
志津夫は、まず箱を縛っている紅紐《べにひも》をほどいた。そして本体のコウヤマキの箱を開けようとした。
だが、なかなか開けられなかった。
コウヤマキは、日本特産の一科一属一種の樹木である。近畿では弥生時代から棺桶《かんおけ》材として使われており、頑丈な木材の代表格なのだ。
そのコウヤマキの箱と蓋《ふた》とが、完全に噛《か》み合って固定されていたのだ。そのため、なかなか外れなくなっていた。
志津夫は、ついには細長い箱を岩石に立てかけた。そして全体重を込めて、足で何度も蹴《け》った。この光景を熱田神宮の神職の者が見たら、卒倒するだろう。
もちろん、正一と祐美は卒倒などしなかった。二人とも興味津々といった態度で見守っている。彼らは手にしたハンディライトで照明係を務めていた。
蓋に、少しひびが入った。木片や木くずが飛び散る。
ようやく蓋を開ける取っかかりができた。志津夫は、その隙間に指を差し込み、こじ開けた。
同時に中身が飛び出して、地面に転がり落ちた。金属音が響く。
同時に、正一と祐美がそれぞれのハンディライトを向けた。二つの光輪が重なり、その物体を照らし出した。
長さ一メートルほどの細長い物体だった。だが、全体が白絹の入帷子《いれかたびら》に包まれている。この絹布は、本来は衣服などを包むのに使うものだ。くすんだ色合いになっており、時代を感じさせた。
志津夫は右手で、その細長い物体を布ごとつかんだ。腹の中からエネルギーの塊が噴き上がってくるような気がする。ついに、古代の神剣を拝める機会が来たのだ。
白絹の入帷子の端をつかみ、引っ張った。引っ張るたびに、中身が回転する。
絹布を取り去った。中身が地面に転げ落ちた。
志津夫の目が限界まで見開かれた。細長いミラーボールのような輝きが網膜に飛び込んできたからだ。
正一も、祐美も一瞬、我を忘れてのぞき込んだ。彼らの顔にも、細かい光点が躍る。そのきらめきは剣の反射光だった。
志津夫は剣の柄《つか》を両手でつかみ、持ち上げた。
腕と肩に重量感がのしかかった。金属の剣を持つなど初めてのことだ。意外にも、その重みが心地よく感じられた。
志津夫は、ゆっくりと立ち上がった。剣を天に向かって突き出してみる。
草薙剣は、長さ一メートル弱の白い両刃剣だった。反りはなく、真っ直ぐな刀身だ。
だが、普通の剣とは大きく異なる点があった。
草薙剣は光を複雑に乱反射していた。まるで刀身に細かいストロボが埋め込んであり、それが点滅しているような光景だ。
志津夫は手首を返した。剣の角度を変えてみる。その度に、反射光の輝きも目まぐるしく位置を変えていく。
正一が生唾《なまつば》を飲み込んだ。慌ててサングラスを下にずらして、肉眼で剣を確かめる。
当然、彼の目の下にあるピットが露《あらわ》になった。だが、今はそれを気にしている余裕がないらしい。目をいっぱいに見開いて、剣を観察している。
やがて正一は剣を指さし、言った。
「これは……佐賀県の検見谷《けみだに》遺跡から出た銅矛と同じ造りだ!」
「え?」
志津夫と祐美が同時に言う。
正一が説明を続けた。
「つまりミラーボールみたいに、光を乱反射するデザインだ。確か、検見谷の銅矛の場合は、刃にヤスリで傷をつけて矢羽状の模様が刻んであるんだが……」
それを聞いて、志津夫は剣を自分の鼻先にもってきた。刀身の表面を観察し始める。
よく見ると、刀身には三角形による幾何学模様が彫られていた。一辺が一・五センチほどの三角形が多数、刻んであるのだ。鏡面のように磨かれた三角形と、わざとヤスリで傷つけて作った三角形とが交互に連なっている構成だ。
やがて志津夫は言った。
「いや。これは矢羽模様じゃない。これは三角形の模様だ……。そうか!」
志津夫は、剣を正一たちに向かって突き出した。
「三角形の蛇のウロコだ! それがモデルなんだ。まさにクサ・ナギ・ノ・ツルギ……。クサは強調する言葉、ナギは蛇のことだ。すなわち、強力な蛇神の剣……」
志津夫はまた手首を返した。反射光が躍り狂っているように、明滅を繰り返す。辺り一帯が荘厳な雰囲気に包まれた。
やがて、志津夫は唖然《あぜん》とした表情になった。その異常性に気づいたからだ。観察しながら、呟く。
「これは普通じゃないぞ。千数百年も経っているのに、まるでつい昨日、造ったばかりみたいだ。銀食器みたいに、ぴかぴかに光ってる。錆《さび》も汚れも関係ないんだ……」
祐美も目をいっぱいに見開いていた。うなずくと、言った。
「うん。何かが、この剣を守り続けているんだよ……」
志津夫は草薙剣に魅了されてしまった。この剣のきらめきには、現代人をも沈黙させる視覚効果があった。ましてや電球やネオンのない古代において、この剣はどのように人々の目に映ったことか……。
同時に、志津夫は自分の中に発電器のようなものが出現したのを感じていた。巨大な慣性力を持つ何かが、体内で回転している。この剣を持っている限り、二四時間でも走り続けられそうな気がした。
志津夫は理解した。
やはり、この剣にはアラハバキ神のチ≠ェ濃密に宿っているのだ。今、志津夫の肉体は、それに共鳴し始めているのだ。
志津夫は父を振り返った。今や、彼の目も草薙剣みたいに輝いているようだ。
「これなら、できるかな? あの洞窟《どうくつ》から出てきた奴も、この剣でなら切り殺せると?」
正一はサングラスを元の位置に戻した。目とピットを隠してしまう。興奮した面もちで、答えた。
「できるかもしれない……。いや、できるだろう」
その時、また爆発音が遠方から轟《とどろ》いた。パトカーや救急車、消防車などのサイレンも明瞭《めいりよう》に聞こえる。それらが市街地を走り回っている様子が、音の反響具合で伝わってきた。
今、桜井市は湾岸戦争時のバグダッド市さながらのありさまだろう。市民の悲鳴すらも聞こえそうな気がする。山林が邪魔で見えない分、かえって想像力をかき立てられた。
志津夫は吐息をついた。腹筋がスチールみたいに硬くなるのを意識する。
ついに回避できないものが、自分に回ってきたのだ。今までのツケだ。
神坂峠では、名椎善男から「行くな」と止められた。祐美や、正一や、白川幸介からも、「忘れろ、深入りするな」と止められた。それらをすべて無視して、ここまで来てしまったのだ。
そのあげくに志津夫は、お伽噺《とぎばなし》の「パンドラの箱」そのままの事態を招いた。封じておくべきものには、やはり手を出してはならなかったのだ。
「これは、ぼくの責任だな……。ぼくの役割でもある……」
志津夫は大きく息を吸い直した。他の二人を交互に見る。
「だって、他にいないだろう? 父さんは体力が続かない状態だ。そして祐美さんの細い腕じゃ、こんな重たい剣は振り回せない。体力に余裕があって、腕力にも余裕がある人間は……ぼくだけだ……」
正一と、祐美は無言だった。だが、返事をするまでもない状況だ。志津夫が決断するしかなかった。
「ぼくがやるよ……」
そう言った。
だが、非現実的な感覚が襲ってきた。脳裡《のうり》で自問自答する声がする。ぼくが得体の知れない化け物と闘う? 本気か?
「ぼくが、あの洞窟から出てきた奴を仕留める……」
自分で言った台詞《せりふ》なのに、他人事のような気がした。ノイズだらけのビデオ映像を観ているような世界に、志津夫は放り込まれてしまった。
「自分で蒔《ま》いたタネなんだ。やはり自分で刈ってみせる」
どうかしてるよ。こんなヒロイックな台詞は、ただの大学講師には似合わないよ。パソコンとデジタルカメラのローンに追われている、貧乏講師には似合わないって。
「これで、カムナビを呼んでいる奴の首を切り落とせば、片がつくはずだ」
その前にカムナビに当たって、おまえが焼け死ぬぞ。
「うるさい! だまれ!」
「え?」
正一と祐美が異口同音に言った。不審な顔になる。
志津夫は首を振った。
「いや、何でもない、独り言だ」
いつの間にか、もう一人の自分と対話していたのだ。志津夫は首を激しく振った。その動作で、弱気な自分をどこかに振り飛ばそうとした。
志津夫は両手を顔の高さに掲げ、草薙剣を垂直に立てた。
古代の神剣は反射光の明滅を続けていた。壮麗なダイヤモンドの棒のようだった。
そこは三輪山の山頂近くの南西部だった。
急に見晴らしが良くなった。カムナビによって、この辺りの樹木が炭と化して、倒壊していたからだ。
あちこちで炭化が発生していた。さらに、その炭化地帯の周りでも、森林が盛大に燃えていた。熱気が上昇気流となって、吹き上げてくる。煙が目にしみた。
志津夫は目を瞬かせながら、桜井市を見下ろした。
桜井市は「火の海」そのものだった。暗い平面に、オレンジ色の業火が無数に増殖している。陽炎《かげろう》のせいで、夜景全体が揺れ動いていた。
夜空から、また金色の光条が舞い降りてきた。桜井市の東端付近に命中する。やがて夜景の中に、新たなオレンジ色の大輪の花が咲いた。何かに引火したらしい。
今のカムナビで、また誰かが死んだのかもしれない。
志津夫は、そう思うと身震いした。
罪悪感がピラニアの大群みたいに、魂に食らいついてくる。とんでもない結果になってしまった。言ってみれば、天空の秩序を保つダムを壊してしまったような状態だ。
再び志津夫の脳裡で、名椎善男の台詞が再生された。
『だが、年寄りだからこそ、わかることも世の中にはある。行っちゃいかんのだ。行ったら、きっと後悔するずら』
続けて脳裡に、白川幸介の台詞も再生された。
『世の中には封じた方がいい真実もある』
だが、志津夫は「封じた方がいい真実」へ向かって、真希と共に突き進んでしまった。
志津夫の好奇心と、真希の狂った妄念。その両者が結びついて、破滅へのドアを開いてしまった。すでに何十人、あるいは何百人死んだのか、見当もつかない。
「くそ!」
志津夫は草薙剣で、手近な木に切りつけた。素人のいいかげんなスイングだったが、幹に深さ五センチほどの切れ目ができた。一七〇〇年前の古代の製品にしては、信じられないほどの切れ味だった。
今、草薙剣の刀身には、再び白絹の入帷子《いれかたびら》が巻いてあった。剣の先端だけが絹からのぞいている。
理由は、抜き身の状態だと、刀身が火事の炎を反射してしまうからだ。遠くから、それを発見されたら、不意打ちにならない。
志津夫は片手で額を押さえ、呻《うめ》いてしまう。
「なぜ、こんなことに? やっぱり、ぼくがいけないのか……。しかし、いや、でも、しかしだ……」
それ以上は言葉になりにくかった。
後悔の念は後から後から湧いてきた。名椎真希や、父に責任転嫁するための言い訳も際限なく湧いてくる。一方、それを否定し、自分の責任に引き戻す思考も止めどがなかった。
「ちくしょう!」
志津夫はまた呻き、剣を振るった。今度は空を切る。居合い抜きの達人が振るったような、鋭い風切り音が響いた。
志津夫の後ろからは、祐美と正一が登ってきていた。だが、彼らは沈黙していた。
二人は時折、顔を見合わせたりはする。だが、すぐに耳がないような顔に戻り、志津夫の独り言を聞き流していた。
祐美も正一も、志津夫を責めるような台詞は口にしなかった。今、それを言っても無駄だからだ。
カムナビを止めること。それがすべてに優先した。それ以外の話題は禁句なのだ。
だから、志津夫は話し相手もいない状態で時々、樹木に八つ当たりしながら、山頂へと向かっていた。まだ、気持ちの整理がつかない。いや、下手すると一生、後悔し続けるのかもしれなかった。
ようやく山頂が見えてきた。
その付近でも山火事が発生していた。おかげで照明光は充分で、山頂が宙に浮かんだ特設ステージのように見える。不気味な前衛演劇でも始まりそうな雰囲気だ。
しかも、その光の中に時々、細長い胴体が踊り回っているのが見えた。形容しがたい不気味さだ。
三人の足が、同時に止まった。誰もが顔をひきつらせていた。お互いの息づかいの荒さを聞いていた。
まだ、その何か≠フ全体像はわからない。だが、一部分を見ただけで、胸の中に嫌悪感が充満した。さながら、古代の邪神が夕食メニューとなる人間を待ち構えている、といった構図だ。
やがて、祐美が呟《つぶや》いた。
「あれかよ……」
彼女は可愛い丸顔を歪《ゆが》めた。身震いする。本音を言えば、これ以上は未知の怪物に近づきたくはないだろう。
山頂から、独特の吠声《べいせい》が響きわたった。その音響には、現代人の血をも騒がせる効果があった。失われた世界が蘇《よみがえ》りつつあるのを、志津夫は肌で感じた。
正一が一歩、前に出た。ここまでの登山で相当、疲れたらしく、激しく肩を上下させている。喘《あえ》ぎながら、山頂を観察していた。
やがて正一はうなずいた。
「よし。では、さっき言ったとおり、二手に分かれよう。私はこのまま真正面から登って、できる限り、相手の注意を引きつける。おまえたちは側面から不意打ちだ」
「ああ」
志津夫はうなずいた。父を見つめる。
正一もサングラス越しに見つめ返した。何か言いたげだ。少し唇が動きかけた。
志津夫も何か言うべきだと思った。だが、台詞が浮かんでこなかった。いったい、何を言えばいいのだろう。やはり父の忠告を無視したことを謝罪するべきなのか……。
やっと舌が動いた。
「父さん……」
「何だ?」
「その……」
言いかけて、また口が止まってしまう。自分でも、じれったくてならない。
亜熱帯地方のような颶風《ぐふう》が、志津夫の顔面を吹き撫《な》でていった。
また天空の一角から、白い輝線が閃《ひらめ》いた。光り輝く蛇神≠ェ天と地とを結んだ。サーマル・ブルーミング現象によって揺らめき続けていた。
志津夫は、自分を指さした。
「やはり、ぼくのせいか? ぼくのせいで、こうなったと? 父さんはそう思っているのか?」
天上からの眩《まばゆ》い光が消えた。夜空が本来の闇を取り戻す。だが、これも一時の平安でしかない。
正一が答えた。
「心の御柱を抜いたのは、あの真希という女だ。おまえじゃない」
「でも……」
「さあ、行くぞ」
正一は顔をそむけた。背中のリュックサックを外し、片腕にぶら下げる。木炭だらけになった坂を登り始めた。
だが、ふいに正一の足が止まった。そのまま、なかなか動きだそうとしない。下半身が氷漬けになったみたいだ。
やがて正一は背中を向けたまま、言った。
「志津夫……。その……」
「何?」
「その……母さんの……」
「母さんの何?」
志津夫は二歩、前に出た。無意識に、父親の表情をのぞき込もうとした。
だが、正一は顔を背けたままだった。彼は息子と目線を合わせないまま、言った。
「母さんの……臨終の言葉は何だったんだ? 私のことを……。私のことを何か言ってなかったか?」
「いや……」
志津夫は首を振った。
「交通事故だった。ぼくが病院に駆けつけた時には、もう……」
「……そうか」
「母さんは、父さんは必ず戻ってくる、と親戚《しんせき》の叔母《おば》さん連中にも言い張ってたよ」
正一は無言だった。
志津夫は言った。
「でも、母さんは不眠症気味で、酒も呑《の》んでたし、精神安定剤も飲んでた。あの日も精神安定剤が効いた状態で、車を運転していたらしい……」
「そうか……」
正一はサングラスの裏側に指を入れた。涙を拭《ぬぐ》ったのかもしれない。鼻をすすり上げて、言った。
「そうか……。私が追いつめたようなものか。何の連絡もしなかったからな……」
志津夫には答えられなかった。イエスともノーとも言いにくい。何を口にしても、言葉では本質を逃すような気がした。
正一は吐息をつくと、サングラスを外した。
彼の悲劇の源、ピットが露出した。目の下にある直径二ミリほどの穴だ。クレーターのような形状のそれは、何度見ても気味の悪さが拭えなかった。
正一の瞳《ひとみ》には暗い炎が灯《とも》っているようだった。彼は首を振り、言った。
「だが、どうしようもなかった……。一〇年前のあの日、私が秘密の一端に触れてしまった時から、こうなる運命だったんだろう。結局、私が最初の引き金を引いたんだ」
サングラスをリュックに入れると、正一は登り始めた。同時に、黒い上着を脱いでいく。
上着の下は、黒い長袖のシャツだけだった。続けて、シャツも脱いだ。上半身、裸になってしまう。
志津夫と祐美は呻いてしまう。予想はしていたが、やはり衝撃的な眺めだった。
正一の身体は、かなりウロコ化が進行していた。皮膚面積の三分の二は、蛇の表皮そっくりになっている。全体が茶色と灰色で、縞模様《しまもよう》を成している。これが病気ならば、末期症状の段階だろう。
正一の作戦は、自分の醜悪な肉体を利用して、洞窟《どうくつ》から出てきた何か≠フ注意を引きつけることだった。
確かに今の正一の姿を見たら、どんな相手でも当然、注目するだろう。だが、その後、相手がどう反応するかはわからない。サイコロを振ってみるしかないのだ。
同時に志津夫は、変わり果てた父を見て、ある程度は納得した。確かにこんな姿では、妻子のところへは戻りにくかっただろう。
もちろん、父に対して言いたいことは、まだ山ほどあった。母、佳代の死顔がどんなものだったか。その日から、今までの一〇年間、何があったか。言葉にしたら、一冊の本になる分量だ。
だが、それを言うチャンスは、もうないかもしれない。
どうやら父は囮《おとり》として死ぬ覚悟のようだ。それがわかっていて、志津夫は止められないのだ。
志津夫は血液が凍てついたような気分だった。全身が冷えきっていく。
自問していた。囮として死ぬべきなのは自分ではないのか? もちろん答えはイエスだ。自分と真希が大破滅を招くようにお膳立《ぜんだ》てしたも同然なのだから。
だが、囮役の交替は不可能なのだ。重い金属剣を振り回せるのは志津夫だけなのだから。
そこで我慢に我慢を重ねてきたものが、頂点に達した。もう耐えられなかった。
志津夫の目から悔し涙がこぼれた。一筋、頬を伝っていく。手で拭うこともしなかった。首を振って、水滴を飛ばす。
泣きながらも、頭の片隅で考えていた。これが無事に終わったとしても、もう自分は、昨日までの自分には戻れないだろう。父を犠牲にしてしまった罪悪感にハートを潰《つぶ》されてしまい、生ける屍《しかばね》のような状態に成り下がって、呆然《ぼうぜん》と余生を過ごすだけになるだろう、と。
傍らに立つ祐美は無言だった。横目で、志津夫の様子をうかがっていたのだ。やがて彼女も辛《つら》そうな表情になり、それを野球帽のつばを下げることで隠してしまった。
正一は南西の側から登り続け、山頂に近づいていった。すでに上着やシャツは、リュックに収めており、それを片手にぶら下げていた。
付近の地面には、高熱で炭化してから崩れた樹木が折り重なっていた。足元には炭火になって、燃え続けているものもある。
気温は摂氏四〇度ぐらいだろう。普通の人間なら、我慢できない暑さだ。
だが、正一の顔には汗の一滴すら浮かんでいなかった。彼の身体は、体温がなく冷え切った状態だからだ。むしろこのぐらいの温度の方が快適だった。
時折、彼の脳裡《のうり》に記憶のフラッシュバックがよぎっていた。己の奇天烈《きてれつ》な運命がダイジェスト版に編集されて、再生されるのだ。
一〇年前のあの日、禁断の地に入り込まなかったら、今頃は平穏な学者人生だったはずだ。考え直すチャンスはあったのだ。カムナビの秘密には、最初から危険な香りがあった。ことわざの「さわらぬ神に……」も、脳裡に浮かんでいた。
なのに、禁を破ってしまった。自分や家族の人生を台無しにした。その上、息子が自分の行方を追っているうちに、今夜のような最悪の事態にまで発展したのだ。
正一は、自分の責任について考えざるを得なかった。結局この大災害も、自分が蒔いたタネが元で始まったのかもしれない。
だから、息子の独断行動をあまり責める気にはなれなかった。自分も一〇年前に、そうした独断行動をやってしまったのだから。
実際、この一〇年間は、ひたすら後悔し続けてきた。懊悩《おうのう》のあまり胸を掻《か》きむしり、自分の心臓をえぐり出したくなるほどだった。眠れない夜ばかりだった。
だが、今の正一は、それらの感情を克服していた。魂が透明な炎のように純化された気分だった。覚悟を決めたのだ。目標に向けて、ひたすら集中力を高めていた。
山頂では、北側の山林が燃えていた。炎の規模は、3LDKで一戸建ての家が火事になったぐらいだろう。辺りは、夕暮れ程度の明るさに包まれていた。
先ほど山頂に見えた細長い胴体は、今は見えなかった。正一の位置からは死角になっているのだろう。
正一は立ち止まった。辺りを見回す。首をかしげた。
奇妙な震動音に気づいたのだ。それは低い周波数で、きれいな音質とは言えなかった。ヒビ割れした梵鐘《ぼんしよう》が鳴っているような感じだ。
不思議に思いつつも、また登山を再開した。すると、震動音もそれに合わせてボリュームが大きくなってきた。どうやら、音源は山頂に在るらしい。
山頂の南側に、小さな社殿が見えてきた。物置小屋ほどのサイズで、日向御子神《ひむかいみこがみ》を祀《まつ》るものだ。実際には、カムナビを畏怖《いふ》した古代人の祀り場の名残なのだろう。
やがて正一は、その日向御子神の社殿の前に立った。
社殿は破壊されていた。木造の扉がばらばらになっており、ビスケットの破片のようだ。しかも、社殿の中身は空なのだ。
そして社殿の前に、例の震動音を発している音源があった。
逆さまになった銅鐸《どうたく》だ。それが電気のこぎりさながらに激しく震動している。不気味な唸《うな》りを周囲に放っていた。
銅鐸のサイズは高さ五〇センチほどだ。それを逆さまにして、地面に突き刺してあるのだ。地中に埋まっているのは、本体の上面にある、鈕《ちゆう》と呼ばれるところだ。垂直に立っている薄い半円形の部分である。
一目見ただけで、状況は瞭然《りようぜん》としていた。
この銅鐸こそ、日向御子神社のご神体だろう。だが、何者かが社殿を壊し、銅鐸を取り出したのだ。そして銅鐸の開口部を上にして、地面に突き刺し、固定したのだ。
正一は、これと同じような銅鐸の飾り方を、すでに知っていた。白川幸介が運営している比川神社の社殿でも、同じような形で銅鐸を祀ってあったのだ。
幸介は、こう説明していた。「昔から、この銅鐸は警報器の代わりとして使っている。だが、もしかすると、本来の用途は違うのかもしれない」と。
事実、銅鐸の用途は未《いま》だに不明なのだ。古事記や日本書紀にも記述はなく、魏志倭人伝《ぎしわじんでん》にも記述されていない道具なのだ。
正一は、大きな震動音を発し続ける銅鐸を見つめていた。もしかすると自分は、「銅鐸の本来の使い方」を目撃したのかもしれない。そういった感慨に耽《ふけ》ってしまう。
そして当然の推測が、頭に浮かんだ。これが「銅鐸の本来の使い方」ならば、それを知っていて、実行した者がそばにいるはずだ。
正一は日向御子神社の彼方《かなた》を見た。東の方角だ。
三輪山の山頂はフラットな台地だった。面積はテニスコート四面分ぐらいだろう。
あちこちに、まだ火が燃え移っていない森林があった。それらが視界を遮るせいで、山頂のすべてを一望することはできなかった。
一〇メートルほど向こうには、暗いスギ林があった。スギ林の手前には、奥津磐座《おくついわくら》があった。差し渡し二メートルはある巨石が多数、円形に並んでいるものだ。
正一の背骨が一瞬、硬直した。思わず全身に震えが走る。
スギ林の中に何か≠ェいたからだ。それは細長い胴体を持っており、ゆっくり動き回っている。だが、辺りが暗いため、シルエットしか判別できない。
その何か≠ヘ、ふいに動きを止めた。林の中で、細長い胴体が逆U字形のカーブを作り、そのまま静止したのだ。
その何か≠焉A正一に気づいたようだ。そして好奇心を抱いたらしい。こちらを観察している気配が明瞭に伝わってくる。
正一は、相手の視線を意識した。物理的なものとして、それが飛んでくる感覚があった。顔面の皮膚が痛くなったほどだ。
その状態が数秒ほど続いた。顔面が痛みで痺《しび》れてくる。
突如、相手は姿を現した。まるで氷上をスピード・スケートの選手が滑ってくるような素早い動きだ。一気に距離を詰めてくる。
正一は悲鳴をあげそうになった。
かろうじて悲鳴は我慢した。
だが、正一の喉《のど》からは唸り声が漏れた。思わず二歩、飛び退いてしまう。そして身動きできなくなった。
もしも相手が、正一と似たようなウロコ肌の人間ぐらいだったら、そんなには驚かなかっただろう。だが、今、眼前に出現したものは、完全に人間の領域から外れていた。
上半身は人間だが、下半身は大蛇の姿だったのだ!
そいつの細長い下半身は、縦のS字カーブを連続して描き出していた。その動きが推進力を生みだしており、丸石の群れを乗り越えてきたのだ。全身が総毛立つような光景だった。
形容し難い気味悪さだった。異なる生物同士を無理矢理、接合した姿なのだ。
大蛇男≠ヘ、正一の正面で停まった。彼我の距離は二メートルほどだ。頭の位置は怪物の方が四〇センチほど高い。
正一は硬直したまま、身動きできなかった。目も口も大きく開けっぱなしだ。今、誰かに指でつつかれたら、倒れてしまいそうな心境だった。
怪物の下半身も静止し、上体の重みを支えていた。だいたい頭から尻尾までの長さは七、八メートルだろう。今、細長い胴体部分は逆W字の形を描いていた。
相手は衣服を着ていなかった。おかげで上半身と下半身の接合部がどうなっているか、正一は観察することができた。
異形の生物は、腰骨の辺りまでは人間の上半身と同じ外形だった。両手も二本備えている。
だが、両足はなかった。男性性器らしいものもない。
腰骨から下は一本の胴体であり、しかも急激に直径が細くなっているのだ。そして一メートルを過ぎた辺りで直径二〇センチほどの棒状になっていた。
細長い胴体の表面は、小さな三角形が連なるウロコ肌だった。ウロコは単一色ではなく、色の濃淡による区別があった。それによって全体に、輪状の模様が描かれたようになっている。
おそらく、この外形の元になった遺伝情報はマムシのものだろう。クサリヘビ科で、日本本土では唯一の陸生毒ヘビである。全長は約六〇センチで、身体の模様は灰褐色の地色に、暗褐色の輪状の斑紋《はんもん》が並ぶものだ。
また、大蛇男≠ヘ胴体だけでなく、顔面や上半身にもウロコが発生していた。その様子は、今の正一の肉体とよく似ている。
この怪物は、頭部や顔面にも奇妙な点が多かった。
髪の毛がほとんどなく、スキンヘッドなのだ。それも異様な雰囲気を強めていた。どうやら長い年月を経て、毛根が死滅したらしい。
さらに顔面も、現代人のセンスとはまったく異質な感覚で飾られていた。
目の周りに入れ墨の線があるのだ。それは左右外側に跳ね上がったような線を描いている。歌舞伎役者の隈取《くまど》りに似ていた。
正一の脳裡に、ある言葉が浮かんだ。黥《さ》ける利目《とめ》。
これは古事記に出てくる言葉だ。「目つきを、より鋭く見せる形の入れ墨」のことである。
実は弥生時代や初期古墳時代の日本人にとって、顔面への入れ墨は日常の風習だった。また、入れ墨の部位やデザインは、部族によって異なっていたという。このことは魏志倭人伝にも、古事記にも記述されている。
今、正一が目撃した入れ墨は、まさに古事記に記述された「黥ける利目」だった。
おかげで、この怪人の正体を確定できた。やはり、元々は古代の日本人なのだろう。あるいは磐座に刻まれていたとおり、トビノナガスネヒコその人かもしれない。
大蛇男≠ヘ、目の下に黒いくぼみも備えていた。正一と同じくピット、赤外線感知器官を有しているのだ。
この大蛇男≠焉Aアラハバキ神に感染した男に間違いなかった。しかも、感染の度合いが末期に達すると、どうなるかという見本でもあった。もしかすると、さらに時間を経た場合は、完全に人間の姿から離れてしまうのかもしれない。
大蛇男≠ヘ笑みを浮かべた。同時に、その細長い胴体が動き始め、8の字形に変わった。
正一はその瞬間、テレビ中継に似た気分を味わった。大蛇男≠フ網膜に映った自分が、観えたような気がしたのだ。
つまり、大蛇男≠フ視点から見れば、眼前に現れたのは、上半身が蛇のウロコだらけになっている初老の男性だ。顔の下半分はひげ面で、目の下には蛇特有のピットと呼ばれる黒い穴がある。
大蛇男≠フ笑みが親愛度を増していった。つまり、正一は同類と見なされたようだ。気を許してもいい存在だ、と認識されたらしい。
大蛇男≠ヘ片手を伸ばしてきた。正一に触れようとしているらしい。
正一は不安と焦慮で、全身が冷たくなった。元々、体温を失った冷血状態なのだが、それをも通り越した気分だ。
あれが、ナガスネヒコ?
祐美は胸中で、そう自問していた。
彼女は奥津磐座《おくついわくら》の陰で四つん這《ば》いになっていた。直径二メートルはある丸石だから、遮蔽物《しやへいぶつ》としては理想的だった。
今、祐美は丸石の横から、顔を半分だけ出していた。平坦《へいたん》な台地を見渡せる。
前方には大蛇そっくりのシルエットが浮かんでいた。山頂の北側で燃えている紅《ぐ》蓮れんの炎に照らされ、パイプ状の胴体を8の字形にして、くねらせている。
ところが、そうした蛇体の先端に存在するのは人間の上半身なのだ。恐るべき光景だった。
ギリシャ神話などに出てくる化け物を連想させた。上半身が人間の美女で、下半身が蛇のエキドナなどだ。だが、過去のどんな画家たちが描きだした化け物も、この大蛇男≠フ不気味さには負けていた。
祐美は、自然に歯を食いしばる表情になっていた。できれば、あんな気持ちの悪い怪物には近づきたくなかった。
隣にいる志津夫も、呻《うめ》き声を漏らしていた。彼は蛇神信仰についてはオーソリティーだ。だが、実在していた蛇神には、さすがに嫌悪を隠せない様子だった。
今、祐美と志津夫は、山頂部を南東側から登ってきたところだ。そしてスギ林や、巨石の陰を利用して、低い姿勢で進んできたのだ。
二人とも顔が汗まみれだった。山頂の北側で燃えている火事の熱波が、ぶち当たってくるからだ。ガスバーナーで炙《あぶ》られているような気がした。
祐美は、もう一度、胸中で自問した。
あれが、ナガスネヒコ?
もちろん、明解な答えは出なかった。
確かに洞窟《どうくつ》を塞《ふさ》いでいた磐座には、万葉仮名でトビノナガスネヒコの名前が刻まれていた。また、その名前には、蛇を意味する単語が二つも含まれているという。それらを考慮すると、この半人半蛇の化け物こそが、神話にも登場するナガスネヒコのなれの果てだろう。
だが、確たる証拠はない。しかも、それをじっくり検証する暇もなさそうだった。
唐突に、大蛇男≠ェ片手を伸ばした。どうやら眼前の中年男に親近感を持ったらしい。彼に触れるつもりらしい。
今、大蛇男≠フ正面には、体格のいい男が立っていた。サングラスを外し、上半身裸でウロコ肌をさらしている。囮《おとり》役の葦原正一だ。
正一の傍らの地面では、玄妙な振動音が発生していた。音源は銅鐸だった。それを逆さまに地面に突き刺して、固定してある。
こちらも奇怪な超常現象と言えた。だが、祐美と志津夫は、銅鐸に対しては一瞬、視線を向けただけだった。今は気にしている余裕などなかった。
古代の蛇巫王《へびふおう》は、同類に対して近づいていった。片手で、正一の肩に触れる。心なしか、正一が震えたように見えた。
大蛇男≠ェ音を立てて、息を吸い込んだ。何か喋《しやべ》ろうとしているらしい。
だが、怪物は途中で呼吸を止めた。首をかしげる。やがて苦しそうな唸《うな》り声をあげた。
どうやら、言葉が出ないらしい。もしかすると、蛇と同化しすぎたせいかもしれない。それで言葉を喋る能力も失ったらしい。
正一は顔がひきつっていた。だが、黙って囮に徹していた。下手に喋ると、どんなきっかけで相手を刺激するか、わからないからだろう。
実際、この半人半蛇の化け物が暴れ出したら、人間の四、五人ぐらい跳ね飛ばされるに決まっている。そうなれば、もうチャンスはない。だから、正一は黙ったまま、その場に立って注意を引く作戦のようだ。
祐美と志津夫は丸石の陰で、互いの目で相談した。今すぐ行動に出るか否かの判断だ。二人とも頬がひきつっていた。
闘う決心は出来ていたはずだった。だが、いざ、この怪物を目《ま》の当たりにすると、下半身の力が萎《な》えてきたのだ。理屈抜きの恐怖と嫌悪だった。
しかし、いつまでも磐座の陰で震えているわけにもいかない。この化け物を放置しておけば桜井市の犠牲者は増える一方だ。おまけに警察も、自衛隊も当てにならない状況だ。
祐美たちが何とかカムナビのスイッチを切るしかないのだ。
まず祐美が前に出た。忍び足で、戦場への第一歩を踏み出す。
すぐ後ろから、志津夫もついてきた。もちろん手には草薙剣を持っている。刀身には、光の乱反射を押さえるため白絹の入帷子《いれかたびら》が巻いてあった。
祐美は低い姿勢で接近し、大蛇男≠フ斜め後ろの位置に立った。緊張の極みといった顔つきだ。
彼女の隣で、志津夫も草薙剣に巻いた絹を取り去ろうとしていた。だが、光の乱反射を避けるため、完全には取らなかった。さらに彼は剣を背中に隠す姿勢を取って、反射光を最小限に押さえておいた。
半人半蛇の化け物は再度、息を吸い込んだ。何か発声しようとしているらしい。だが、不明瞭《ふめいりよう》な声しか出てこなかった。
「おォ、あァあァ、あァあァおォ」
そんな発音だった。抑揚やアクセントの付け方に、日本語らしさが感じ取れた。やはり何かを喋ろうとしているのだ。
だが、大蛇男≠ヘ唸り声をあげた。苛立《いらだ》っているらしい。自分で、自分の発声の不具合に腹を立てているのかもしれない。
大蛇男≠フ目が険しくなってきた。正一を睨《にら》みつける。目の周りに施した入れ墨のせいで、地獄から出てきた悪鬼のような形相になっている。
正一は身動きしなかった。というより、身動きできないようだ。
そろそろ囮で注意を引きつけるのは限界だ。これ以上、引き延ばすことはできない。
祐美と志津夫は、大蛇男≠フ胴体越しに、視線を送った。
やるよ。
正一がそれを受けて、かすかにうなずく。
やってくれ。
祐美は、自分の野球帽を半回転させた。つばを後ろにしてキャッチャー風にかぶる。気合いを入れる時の癖だ。
傍らの志津夫も、祐美の気合いを感じ取ったらしい。草薙剣を握りなおした。その手が少し震えている。
祐美は、両手を前方に伸ばした。親指と人差し指で伯家流の秘印を組む。指による正三角形が照準器となって、大蛇男≠フ怪異な姿を捕捉《ほそく》した。
祐美は、ゆっくり息を吸い込んだ。体内では、すでにチ≠フ励起が始まっていた。自分が爆発寸前のゴム風船になったように感じられる。
一瞬、祐美の脳裡で記憶のフラッシュバックが起きた。
山梨県で初めて、志津夫と会った。彼は自動販売機にコインを投入したが、機械が壊れていた。そこで祐美は弱出力の遠当て≠ナ機械の内部を揺さぶり、作動させてウーロン茶を出してやった。それで志津夫と会話するきっかけを作った。
その後いろいろな経緯を経て、祐美は志津夫に対し、恋患いになりかかった。だから、志津夫の留守番電話に、正一の居場所を吹き込んでやったのだ。これがきっかけで、志津夫も仲間になってくれればいいな、と夢想していた。
まさか、その情報提供が、今夜のような大惨事に発展するとは、まったく予測していなかった。もし父が、娘による情報漏れを知ったら激怒するだろう。
すべては祐美の不始末から始まった、とも言えるだろう。ならば、自分で片づけるしかないのだ。
祐美は心を決めた。思い切り叫ぶ。
「どいて!」
直後、正一は横に飛び退いた。祐美の射角の外に出たのだ。これで遠慮なく、祐美は攻撃できる。
大蛇男≠燉S美の大声に反応した。一瞬、細長い胴体を逆U字形に跳ね上げる。慌てて、振り返った。
次の瞬間、祐美が遠当て≠放った。
球面衝撃波が出現した。大気分子の玉突き衝突が連続して起きる。
大気中の衝撃波の厚みは四×マイナス一〇の六乗ミリである。あまりにも薄いので、肉眼では見えない。
だが、それが大気の屈折率を変えていく様子は、はっきりと目撃できた。空中に波紋が出現し、移動していったのだ。
地面からも小石や土や枯葉が、急激な負圧で吸い上げられ、宙に舞い上がっていく。その様子を見れば、衝撃波の現在位置は明白だった。
大気中に生じた波紋と、地面に生じたウエーブとが超音速で、古代の蛇神に襲いかかった。
面積の広い一撃なので、長い胴体のすべてを捉《とら》えることができた。全長七、八メートルはありそうな大蛇男≠ェ、宙に浮いた。竜巻に巻き込まれたようだ。
半人半蛇の化け物は長い胴体を蝶結《ちようむす》びにしたような形になって、水平方向に飛行した。そこにある磐座《いわくら》にぶつかる。
それも三輪山の山頂にある巨石群の一つだった。直径一メートルほどの丸石が円形に並んだ環状列石だ。
その丸石の群れに、大蛇男≠ヘ身体の一部を叩《たた》きつけられた。それでも勢いは止まらず、巨石群の向こう側に、転がる。スギ林に引っかかって、やっと止まった。
一方、祐美も衝撃波の反作用≠処理しようとした。いつものように両手が弾《はじ》かれた瞬間、手を頭上に差し上げ、バンザイのポーズで、反作用≠逸《そ》らそうとする。
できなかった。小柄な身体がバック転に近い状態で、後ろへ飛んだ。悲鳴をあげる。
何しろ、生涯で最大出力の遠当て≠やったのだ。その上、彼女の体重が軽いことも災いした。
彼女は後頭部から大地に落下した。衝撃で、眼球が一瞬ひっくり返る。
両手で後頭部を抱えてしまった。喉《のど》の奥で呻《うめ》き声を発する。自分のドジを、自分で罵《ののし》った。
志津夫は、うまく大蛇男≠退治してくれるだろうか? 祐美は激痛に耐えつつ、それを考えていた。
志津夫は、古代の蛇神と祐美とを見比べて、唖然としていた。両者は「作用・反作用の法則」によって、共に吹っ飛んでしまったのだ。
祐美は地面に横倒しになり、呻いていた。後頭部を抱えている。気合いを入れたのはいいのだが、入れすぎて照り返し≠フ被害を受けてしまったわけだ。
幸い、呻いているところを見ると、祐美は命に関わるほどの傷を負ったわけではないようだ。軽度の打撲傷だろう。それに、今は助け起こしてやる余裕がない。
前方を見ると、大蛇男≠ェ磐座の向こうに横たわっていた。長い胴体が不規則にからまっている。リボン飾りの失敗作品のような形だった。
怪物はそのまま動かなかった。向こうもある程度、ダメージはあったようだ。ボクシングで言えば、開始ゴング早々にダウンといったところだろう。
チャンスだ。志津夫はそう確信した。
草薙剣《くさなぎのつるぎ》に巻いてあった、白絹の入帷子《いれかたびら》を振り捨てた。刀身表面の細かい三角模様が、山火事の炎を乱反射する。まるで点滅するネオン棒を手にしているような光景だった。
志津夫は無意識に雄叫《おたけ》びをあげた。光り輝く両刃剣を上段の右側に振り上げた。アドレナリンが全身に回ってくる。
地面を蹴《け》り、ダッシュした。しめ縄を張った巨石の横から回り込む。
化け物の頭部を見つけた。地面に片頬をつけた状態だ。
志津夫は、一気にナガスネヒコに迫った。相手の首を狙いにいく。
彼は剣道などやったこともないし、そもそも真剣の扱い方もわからなかった。完全にド素人のチャンバラ剣法だった。右肩の上から、草薙剣を斜めに振り下ろす。
だが、寸前で、足元にあった長い胴体が跳ね上がった。
志津夫は足首をとられた。走りながら、よろめいてしまう。片足で二回続けて、跳ねてしまったぐらいだ。
当然、草薙剣の切っ先も狙ったポイントより、向こう側にずれた。地面に突き刺さってしまう。
それでも志津夫は、何とか踏みとどまった。地面に刺さった剣が、うまくバランスの支えになったのだ。
慌てて、剣を地面から引き抜いた。振り返って、青眼の構えを取った。時代劇でもよく見られる、剣の切っ先を相手の目に向ける基本の構えだ。
すでに半人半蛇の化け物は回復していた。その長い胴体がS字カーブを描き出している。頭部が上昇していった。二メートル以上の高みから志津夫を見下ろす体勢を取る。
自然に、志津夫は反り返るような姿勢になってしまう。輝く両刃剣の切っ先も上がっていき、上段構えになった。
志津夫の頭の中は、空きチャンネルのテレビ画面みたいな横縞《よこじま》ノイズの状態だった。奇襲作戦しか考えていなかったからだ。それが失敗した場合の保険はなかった。
大蛇男≠ェ目を大きく見開いた。例の呼吸音を響かせてから、大音声で吠《ほ》えた。
彼≠ヘ怒りと興奮の頂点にいた。眼前にいるクサナギノツルギを持つ若い男に一声、吠えかかる。
そこまで彼≠ェ怒った原因は、またも[#「またも」に傍点]裏切りに遭ったせいだった。
彼≠ヘ、先ほど山頂に現れたウロコ肌の男を、てっきり仲間だと思い込んでいた。だが、そいつも裏切り者であり、囮《おとり》だった。道理で喋りかけても、不自然な反応しかなかったわけだ。
そして、彼≠ェ囮に注意を引かれているうちに、伏兵たちは背後に回り込んでいた。しかも、その伏兵は例の秘術を使う相手だった。すなわち、チ≠ノよって風の固まりを作り、それをぶつけてくる技だ。
過去にも同じ技を使う連中と、彼≠ヘ闘っていた。彼≠フ土地に侵入してきた連中の何人かが、そうした秘術を行ったのだ。
彼≠ヘ、そうした敵を焼き払うべく、カムナビを呼んだのだ。残念ながら、光条の狙いはなかなか定まらず、味方の軍勢を誤爆したこともあった。だが、そのぐらいの犠牲は仕方がない、と彼≠ヘ思っていた。
だが、彼≠フ妹の夫、すなわち義理の弟は潔癖な性格だった。彼≠ェ誤爆した責任を激しく非難した。あげくに義弟は今までの恩も忘れて、最後の瞬間に彼≠裏切ったのだ。
気がつくと、彼≠ヘ地の底に閉じこめられていた。いくら探しても、出口は見つからなかった。やがて意識が朦朧《もうろう》としてきて、その後は半睡状態が長い間、続いていたようだ。
そうした屈辱の記憶が一気に、彼≠フ脳裡《のうり》に溢《あふ》れ出した。敵への怒り、裏切り者への憎悪が体内で膨れ上がる。
今、彼≠ヘまたも例のチ≠フ秘術を使う者と遭遇していた。そして風の固まりによって、吹っ飛ばされてしまった。何とか意識が戻り、立ち直ったが、そこへ第三の敵が現れた。
そいつは若い男だった。異国風の奇妙な衣服を着ている。顔に入れ墨が一つもなかった。装飾品らしいものは、左手首に巻いた銀色の腕輪だけだ。
あろうことか、この三番目の敵は彼≠ェ愛用していた剣を手にしていた。それで彼≠フ首を狙っているらしい。
思わず彼≠ヘ片手を伸ばした。「クサナギノツルギ、強力な蛇神の剣」を奪い返そうとしたのだ。
だが、敵は剣を軽く振った。鋭い先端で威嚇し、追っ払おうとする。
彼≠ヘ後退せざるを得なかった。この剣の切れ味なら熟知している。達人が持てば、人間を一刀両断にできるほどなのだ。
彼≠ヘさらに激怒し、唸《うな》りだした。クサナギノツルギは彼≠フ所有品なのだ。なのに、その剣で命を狙われている。あまりにも不条理過ぎて、納得がいかなかった。
彼≠ヘ歯ぎしりを始めた。それは、ただの歯ぎしりではなかった。渾身《こんしん》の力で顎《あご》を噛《か》み合わせたのだ。
彼≠フ歯が一本、折れ砕けて、敵の足元に飛んだ。
志津夫は地面に落ちた歯を見て、呆《あき》れ返った。この古代人の情動の強さときたら、現代人の尺度を越えていた。こんな奴と闘わねばならないのだ。絶望的な気分になってくる。
突如、半人半蛇の化け物は暴れ始めた。直径二〇センチはあるパイプ状の胴体をムチのように、しならせる。縦方向に逆U字形のうねりが発生した。
太いムチの一撃が、志津夫の足元に飛んできた。まるで消防車の消火用ホースに襲われたような光景だった。回避できない。
志津夫の太ももに命中した。バットで殴られたほどの衝撃力だった。跳ね飛ばされ、横倒しになってしまう。肺の空気が全部、排出されてしまった。
「志津夫!」
父の声がした。スギ林の陰で、この奇怪な戦闘を見守っているのだ。だが、志津夫は返事をする余裕もなかった。
さらに第二撃が襲ってきた。今度は横倒しの状態で、胸と顎を強打された。仰向けの状態で、地面の上を滑走してしまう。二メートルほど移動して、やっと止まった。
志津夫は脳震盪《のうしんとう》を起こしかけていた。だが、右手に持った剣は放さなかった。唯一の武器を失ったら終わりだと思ったのだ。
続けて、第三撃がきた。
だが、今回は防いだ。志津夫は倒れた状態のまま、無意識のうちに左手を突き出し、叫んだ。
「止まれ!」
突然、大蛇男≠フ動きにストップ・モーションがかかった。その長い胴体が瞬時に凍結したみたいだ。尻尾《しつぽ》の先端だけは慣性が働いて、志津夫の腰にぶつかってきたが、大した威力はなかった。
志津夫のチ≠ェ発動したのだ。
彼の力≠フ場合、祐美や真希と違って、物理的な作用力は持たない。だが、代わりに、相手の神経細胞に介入し、リモコンのように行動を支配できる能力だ。それは蛇神に対しても有効だった。
ただし、その効力は短時間しか続かないようだ。つまり、これがもっとも効くのは発動した直後であり、後は時間が経つに従って、支配力は弱まっていくらしい。だから、効果を持続させるには、何度も何度もパワーを再発動する必要があるようだ。
志津夫はチャンスと見て、素早く立ち上がった。剣を振り上げるモーションを起こすのも、もどかしい。気がつくと、草薙剣をそのまま槍《やり》のように突き出していた。
大蛇男≠ェ悲鳴をあげた。剣の切っ先が細長い蛇体に突き刺さっている。ついに一矢《いつし》報いたのだ。
志津夫は光明を見た。草薙剣の切れ味は驚異的だった。剣が蛇神の胴体を貫いた瞬間も、ハンバーグ・ステーキにフォークを突き刺したぐらいの抵抗感しかなかった。
志津夫は、剣の柄《つか》を両手でしっかり支えた。斜め上に突き出す。
蛇体の肉があっさり裂けた。長い胴体の半分辺りの位置に、大きな傷口ができる。さらに悲鳴があがった。
だが、血は流れなかった。やはり、この怪物は、普通の生命体の領域からは外れているのだ。
志津夫は輝く両刃剣を振り上げた。もう一撃やれば、前半分と後ろ半分に分断することもできるだろう。
だが、志津夫が半人半蛇の化け物に与えた麻痺《まひ》効果は、すぐに消えてしまった。怪物は長い胴体でS字カーブを描きつつ、後退したのだ。相手は初めて動揺した表情を見せた。
両者は、そのまま睨《にら》み合いになった。時間の流れが減速していくようだ。
今度は、志津夫がプレッシャーをかける立場だった。彼が一歩前に出ると、大蛇男≠烽サの歩幅の分、後ろに下がる。その繰り返しになった。
だが、志津夫は肉体的には苦しい状態にあった。太ももと胸、顎が打撲の痛みを訴えている。顎には黒っぽいあざができつつある。長期戦になると、志津夫の方が不利だろう。
志津夫は左手を剣から離して、相手に突き出した。チ≠発動して、相手を麻痺させようとする。そのために特定のポーズを取る必要があった。彼の場合は片手を相手に突き出すことだ。
とたんに蛇神は一声|吠《ほ》えると、後退し始めた。細長い胴体が縦のS字カーブを描きだした。カーブの波動は次々と連続して、流れていく。
その動きによって、大蛇男≠フ身体が猛スピードで遠ざかっていった。わずか二秒ほどで、一気に十数メートルも離れていったのだ。尻尾も素早く巻き戻してしまい、その場でとぐろを巻いた。まるっきり蛇の動きそのものだ。
志津夫は瞬《まばた》きしていた。まさか、こんなにあっさり逃げ出すとは思わなかったのだ。
「ま、待て!」
慌てて、叫んだ。
同時に、怪物の動きが止まった。また相手の行動をリモート・コントロールしたのだ。これが最後のチャンスだろう。
ここで逃がしたら、かえって厄介だ。この化け物が市街地に降りたら、市民を巻き添えにして闘うことも躊躇《ちゆうちよ》しないだろう。もし人質を取られたら、ますます退治するのは難しくなる。
志津夫は地面を蹴《け》った。大蛇男≠ノ向かって、剣を振り上げた。追撃にかかる。
次の瞬間、視界が真っ白になった。ほとんど眼球にキセノン放電管を突っ込まれたような輝度だった。目に激痛が走る。視神経や大脳の一部まで焦げたような感じがしたほどだ。
反射的に、目をつぶり、両腕で顔を覆った。何が起きたのか、すぐにはわからなかった。脳細胞までパンクした感じだ。
「カムナビだ! 逃げろ!」
父の声が、そう言った。
それで、事態を把握できた。
怪物が一旦《いつたん》、距離を取ったのはカムナビを呼び寄せるための準備だったのだ。自分が光熱ビームに巻き込まれないための用心だったのだ。敵は、これで逆転を狙うつもりだったのだ。
志津夫は飛び退いた。とにかく後退するしかない。
だが、不運にもビームは、彼を追ってきた。サーマル・ブルーミング現象によって、光条が激しく揺れ動いていた。その不規則な動きを予測することは不可能だ。
志津夫は一時的に失明したので、状況を知覚していなかった。だが、この時、彼が後退した動きとカムナビの動きとは、完全に同調していたのだ。
一瞬、草薙剣の刀身がカムナビの中に飲み込まれた。あと十数センチで、志津夫の手も焼き尽くされただろう。宇宙空間に満ち満ちている光と熱を、間近で体感した。
志津夫は凄《すさ》まじい熱波に、悲鳴をあげた。両腕で顔を覆いつつ、さらに飛び退く。そこでバランスを失い、尻《しり》もちをついた。
同時に、カムナビは消えた。
志津夫は僥倖《ぎようこう》を拾ったと言える。間一髪で焼死体にならずに済んだのだ。
だが、別の被害を受けていた。
「目が……」
志津夫は呻《うめ》いた。左手で、自分の目を覆った。眼球の痛みが取れないのだ。
思わず全身が熱くなる。恐怖と焦りのあまり、自ら燃えだしそうな感じだ。
「目が……」
志津夫は、目は開けているのだ。
なのに、全世界が真っ暗闇だった!
たぶん一時的な失明だろう。時間が経てば、回復するのだろう。だが、問題は、今はそんな時間の余裕がないことだ。
突然、視力を失い、志津夫はパニックに陥りかけた。心臓が身体いっぱいに脹《ふく》らみ、弾《はじ》けそうだ。
この不安と恐怖は、形容し難いものがあった。いつ側面や後ろから、敵が襲ってくるか、わからないのだ。いや、それどころか正面からの攻撃にも対処できそうにない。
志津夫は、何とか片膝立《かたひざだ》ちの姿勢を取った。両手で草薙剣を握りしめる。剣をあちこちに突き出し、振り回し、周囲の様子を探ろうとした。
「志津夫! どうした?」
父の声が、暗闇の彼方《かなた》から聞こえた。すぐに正一は事態を察して、叫んだ。
「目が見えないのか? そうなのか? 志津夫!」
実際、志津夫の行動は、誰が見ても失明した人間のそれだった。剣を闇雲にあらぬ方向へ突き出しているだけだ。「手探り」ならぬ、「剣探り」の状態だ。
突然、志津夫の鼓膜が、その音を捉《とら》えた。
地面と雑草の上をスライドしてくる摩擦音だった。パイプ状の長い胴体が、S字形を描きながら接近しているのだ。その不気味な様子が目に見えるようだった。
だが、実際には何も見えないのだ。その音が聞こえる大ざっぱな方向へ、両刃剣を突き出すだけだ。
にわか盲人になった不安と恐怖で、志津夫は胃袋が極限まで、よじれる感覚を味わっていた。
10
祐美は、コブのできた後頭部を片手で押さえながら、上体を起こした。
突然、カムナビの白光を見たせいで、彼女の瞳孔《どうこう》は開いていた。網膜がすぐに対応できない。目をしばたかせていた。
やがて、彼女は目を見開いた。
磐座《いわくら》のそばにいる志津夫を見つけたからだ。彼は尻もちをついた感じで、座り込んでいる。特に大けがなどはしていないようだ。右手には、ちゃんと草薙剣も持っていた。
祐美は安堵《あんど》のため息をついた。もし今の光熱ビームで、志津夫がバーベキューになっていたら、事態は絶望的だからだ。
だが、志津夫の次の一言で、祐美は新たな危機を悟った。
「目が……」
そう言って、志津夫は左手で、両目を押さえたのだ。やがて顔から手をどけると、今度は必死に目を見開き、辺りを見回そうとしている。
「目が……」
志津夫は繰り返し、そう言った。
彼は片膝立ちになると、草薙剣を突き出したり、振り回したりした。周囲に何か触れるものがないか、捜している。完全に盲人の仕草だ。
祐美は背骨が熱くなった。喉《のど》に何かが詰まったような感じがした。まさか、彼は? 失明?
「志津夫! どうした?」
正一も、スギ林の陰から呼びかけた。そして彼もすぐに事態を察して、叫んだ。
「目が見えないのか? そうなのか? 志津夫!」
もう事態は明白だった。志津夫は、カムナビを間近で見て、失明したのだ。
彼女は焦慮のあまり、後頭部の痛みも忘れた。このままでは志津夫に勝ち目はない。
すかさず半人半蛇の怪物が、志津夫に近づいてきた。入れ墨をした顔がサディスティックに笑っている。長い胴体で水平にS字形を描きながら、志津夫の側面から回り込もうとしていた。
志津夫の顔がひきつった。蛇神の音と気配を察したのだろう。
慌てて、彼は光り輝く両刃剣を突き出した。だが、完全に見当違いの方向だった。
敵の蛇体は全長七、八メートルあるのだ。地面との摩擦で音が発生するのは、全体の中のほんの一部分に過ぎない。だから、フェイントをかけて、尻尾で逆方向から襲う芸当もできるだろう。
祐美はただちに前方にダッシュした。まず、射撃位置を確保したのだ。志津夫を衝撃波に巻き込まないようにするためだ。
両手の指で正三角形を作る。遠当て≠ハーフパワーで発射した。
球状衝撃波が大気の屈折率を変えていく。のたうつ光の波紋が、蛇神を直撃した。
大蛇男≠ヘ宙に浮いてから、地面を転がった。さらに自分自身の弾力で、跳ね回ってしまう。極太のうどんが一玉、投げ出されたみたいだった。
同時に祐美は、反動で両手を弾《はじ》かれた。だが、今回はハーフパワーだから、容易に受け流すことができた。両手を頭上に跳ね上げ、反作用に逆らわずに上方へ逃がす。
しかし、ハーフパワーゆえに、敵にも大したダメージは与えられなかった。ナガスネヒコも一旦《いつたん》は倒れたが、すぐに上体を起こしたのだ。
そして細長い下半身を使いこなして、一八〇度、回頭した。すぐに祐美の姿を発見する。今の衝撃波が彼女の仕業だと気づいたようだ。
とたんに、古代の怪物の形相が変わった。元々、目の周りの入れ墨のせいで凶暴な人相に見えるが、それがさらに迫力を増した。ドリルの刃先のような視線を、祐美にねじ込んでくる。
祐美は、反作用を逸《そ》らすためのバンザイ・ポーズのまま、凍りついてしまった。内臓が冷凍食品みたいに冷たくなる。
あらためて、大蛇男≠フ怪異な姿に震えあがった。その上、敵はカムナビも呼べるし、細長い胴体を振り回して打撃も使えるのだ。凄《すさ》まじい威圧感を覚えた。
とりあえず、祐美は遠当て≠出せるように、構え直した。だが、同時に絶望感を覚えた。こんなことをいくら繰り返しても、無駄だ。首と胴体を切り離しでもしない限り、こいつは死なないだろう。
志津夫が叫んだ。
「おい、今の音は何だ! いったい、どうなってるんだ! 誰か教えてくれ! 見えないんだ!」
祐美は一瞬、彼を見た。
声につられて、大蛇男≠熕Uり返った。祐美に背中を向けてしまう。
志津夫は依然として片膝立ちだった。草薙剣を前方に突き出し、何もない空間を探っている。無力な盲目状態が続いているのだ。
祐美の脳裡《のうり》で、思考が閃《ひらめ》いた。こうなったら、自分が草薙剣を使うしかないのではないか? あの切れ味ならば、女の腕力でも化け物を一刀両断できるのではないか?
だが、そのアイデアを実行する暇はなかった。第三の人物が日向御子神社の陰から、飛び出してきたからだ。
顔はひげ面で、裸の上半身がウロコに覆われている初老の男。葦原正一だった。
彼は日向御子神社の正面に突進した。そこにある銅鐸《どうたく》に飛びつく。さっきから不思議な震動音を響かせていたものだ。
銅鐸を一気に引き抜いた。そして正一は、古代の祭器を脇に抱えて、ダッシュしたのだ。
祐美は思わず叫びそうになった。が、両手で口を塞《ふさ》ぐ。
すでに正一は、大蛇男≠フ真後ろに迫っていた。どうやら奇襲を企てているらしい。今、彼女が叫んだら、それを台無しにしてしまうだろう。
しかし、祐美には、正一の行動は無謀だとしか思えなかった。
11
正一は決死の形相でダッシュした。
すでに全身に疲労がたまっており、腕や足の筋肉も半分、溶けかかっているような感じがする。だが、無理を押して、全力で走った。これが本当に最後のチャンスだからだ。
志津夫は失明状態に陥った。祐美の遠当て≠焉A時間稼ぎぐらいにしか役に立たない。こうなったら起死回生の一撃は、正一が放つしかなかった。
正一は、銅鐸を脇に抱えていた。だが、ただ抱えているのではなく、開口部を前方に向けていた。作戦上、この方が都合がいいからだ。
彼が手にしている銅鐸は、例の振動音を放ち続けていた。今そのボリュームがさらに上がっている。
古代の蛇神が音に反応した。振り返る。
だが、その時には正一は、長い胴体を飛び越えていた。怪物に肉迫し、銅鐸を頭上に振り上げる。
次の瞬間、祐美の「あっ!」という叫び声が聞こえた。まさか、正一がそんな行動を取るとは予想できなかったのだろう。
正一は、銅鐸を振り下ろし、大蛇男≠フ頭部に被《かぶ》せたのだ!
銅鐸の形は梵鐘《ぼんしよう》に似ている。開口部がより広くなっており、底の方は狭くなっている。つまり人間の頭に被せるのには、ぴったりの形状なのだ。
正一は銅鐸を左手で下に引っ張り、右手のひらをハンマーにして底部を強く叩いた。その衝撃で、さらに怪物の頭を銅鐸の底まで押し込む。
当然、相手は抗議の叫びをあげた。首を振り回し、両手で銅鐸を外そうとする。
だが、正一はだめ押しを加えた。銅鐸を抱えて、腰を落とし、座り込んだ。自分の体重を利用して、さらに蛇神の頭を深く、銅鐸に押し込んだのだ。
目隠し用ヘルメットが完成した。これで蛇神も視力を失ったわけだ。
とっさに思いついたアイデアは大成功だった。思わず、正一は笑い声をあげたほどだ。こんなにうまくいくとは思わなかった。
だが、その直後、大蛇男≠ヘ激烈な反応を見せた。ロデオ用の暴れ馬さながらに跳ね回る。長い胴体がS字、8字、逆U字と様々なカーブを描いた。
さすがに正一も、このロデオ競技にはつき合えなかった。彼の大柄な身体が、サッカーボールの軽さで宙に舞った。大地に、うつ伏せに落下する。
祐美がそれを見て、短い悲鳴をあげる。
志津夫も怒鳴った。
「何だ! どうなったんだ!」
彼は依然として「手探り」ならぬ「剣探り」の作業を、孤独に続けていたのだ。
正一は地面に倒れたまま、すぐには動けなかった。腹と顎《あご》を打ってしまったのだ。激痛のあまり、呻《うめ》いてしまう。
そして正一の受難はさらに続いた。半人半蛇の化け物は、その細長い胴体を振り回して、正一の位置を探り当てたのだ。
次の瞬間、怪物は正一の胴体にパイプ状の蛇体を巻きつけてきた。そのままひっくり返されて、胸や腹に三重四重に蛇体がからんでくる。極太のロープで縛られるような状態だ。
今度は正一が悲鳴をあげる番だった。蛇の中には、この方法で獲物を捕まえる種類もあると言う。正一は、それを身を以て体験する羽目になったのだ。
志津夫が叫んだ。
「どうなってるんだ」
正一が息子に応えた。
「やったぞ!」
「え?」と志津夫。
一方、大蛇男≠ヘ盲目状態から脱出しようとしていた。両手で銅鐸の縁をつかみ、外そうとしている。だが、抜けないらしい。悔しがる吠《ほ》え声が、銅鐸の内側から響いた。
正一は横倒しにされた状態で再度、言った。
「やったぞ! 志津夫」
「え? 何をやったんだ? 父さん?」
志津夫は父の声が伝わってきた方向を振り返った。彼の顔は不審と不安とで、歪《ゆが》んでいる。
祐美が慌てて、正一の言葉を補足した。
「化け物の頭に銅鐸を被せた! あの音がそれだよ! 聞こえるでしょ? あの振動!」
12
志津夫は振り返った。
目は開いているのに、全世界が暗闇だった。これほど不安な状態はなかった。南極の氷原に独りぼっちで置き去りにされたような心細さだ。
だが、ようやく指標を手に入れた。
聞こえる。性能の悪い音《おん》叉さのような音。あまり快適とは言えない音。
だが、今の志津夫にとっては、夜間飛行の航空機を導くビーコン送信機だった。あの音が大蛇男≠フ頭部の位置を示しているのだ。
震動音に対して、草薙剣を青眼に構えた。
祐美が指示する。
「そう、その方向! 距離は六、七メートル。足元には邪魔になるような、石も木もない。あいつの胴体もない。高さは、あなたの胸の位置ぐらい。スイカ割りの要領でいける!……それとも私がやる?」
「いや、君には、この剣は重すぎる。どいてろ!」
志津夫は両刃剣を上段に振り上げた。依然、視界はゼロに近く、ぼんやりとした影のようなものしか見えない。だが、音によってある程度、目標を把握できた。
地面を蹴《け》った。走りだす。歩数は六歩を数えた。
正一が指示した。
「そこだ!」
志津夫は剣の重さを利用して、振り下ろす。
派手な金属音がした! 同時に、切っ先が右方向へ弾かれる。剣先が地面に突き刺さった。手応《てごた》えで、銅鐸の曲面の端をかすめたとわかった。
「惜しい!」
祐美が叫ぶ。
「もうちょい左!」
志津夫は舌打ちする。両刃剣を振り上げなおした。
だが、目隠し状態の怪物も攻撃されたのを知り、すでに反応していた。尻尾《しつぽ》をしならせて、振る。鋭い風切り音がして、志津夫の膝《ひざ》の横に命中した。
志津夫は腰砕けの形になった。正座に近い形で、両膝を地面についてしまう。
さらに胸には、蛇神の尻尾が巻きついてきた。まるで、腋《わき》の下に極太ロープがからんだような形になった。これでは剣を振り下ろす動作ができない。
その上、志津夫は横へ引きずり倒された。むち打ち状態になり、衝撃で目眩《めまい》がする。
「志津夫さん!」
祐美が叫ぶ。だが、彼女の遠当て≠ヘこの状況では、何の役にも立たない。祐美のサポートは当てにできないのだ。
「何とかしろ!」
正一も叫ぶ。彼自身も蛇体にぐるぐる巻きにされている。これ以上、息子の手助けはできないのだ。
志津夫は草薙剣を逆手に持ちかえた。大蛇の身体に突き刺す。白身魚ぐらいの柔らかさで、切り裂くことができた。
大蛇男≠ェ悲鳴をあげ、胴絞めを緩めた。
その瞬間だった。志津夫はチャンスを悟った。
たった今、彼は、ナガスネヒコの悲鳴を間近で聞いたのだ。銅鐸《どうたく》の振動音も、顔の皮膚で感じたほどだ。
つまり、相手の首は目の前にあるのだ。しかも、視力もやや回復していた。銅鐸の形状がぼんやりと見えている。
祐美と正一も同時に叫んだ。
「目の前だよ!」
「真正面! 一メートルもない!」
志津夫はもう一度、草薙剣を逆手のまま振り上げた。無意識に雄叫《おたけ》びをあげる。剣を渾身《こんしん》の力で、振り下ろした。
金属音が響いた! 両手に重たい手応えがあった。剣の切っ先が、銅鐸を貫いたようだ。その直後、怪物の悲鳴も聞いた。
大蛇男≠ヘ抵抗しようとした。だが、かえって、悪い結果を招いた。自ら剣に向かって首を持ち上げてしまい、傷口をさらに深くしたのだ。
志津夫は、とっさに両足を持ち上げた。相手のパイプ状の胴体を、下から両足で挟み込む。逃げられないように固定した。
格闘技に詳しい人間が見たら、「クロス・ガード・ポジションを取った」と評する場面だろう。代わりに、正一が簡潔に評した。
「いいぞ! その調子だ!」
志津夫は、さらに両腕に力を込めた。自分の肩の筋肉が盛り上がるのを感じる。
まるで牛肉の塊に、特大の包丁を差し込んでいるみたいだった。さらに圧力を加えていく。
刃先が容赦なく、敵の脳髄に突き刺さっていくのが実感できた。いやな感触だったが、今はやるしかない。
「やった!」
祐美が簡潔に状況を知らせた。手を叩《たた》く。
志津夫にもわかった。回復しかけた視力によって、その状態が見えたのだ。
今、草薙剣は銅鐸ごと化け物の頭を貫いていた。完璧《けんぺき》に仕留めていた。
普通なら、銅鐸を剣で貫くなど不可能だろう。だが、草薙剣は串刺《くしざ》しにしてしまった。これが神剣の威力なのだろう。
半人半蛇の化け物は痙攣《けいれん》していた。その振動を、志津夫は両手と両膝で感じた。断末魔というやつだ。
だが、古代の蛇神の断末魔には、まだ続きがあった。
志津夫は周囲に凄《すさ》まじい熱波を感じた。それが何なのか、すぐに悟った。
13
三輪山の山頂に、太陽が出現したようだった。ほとんどの物体が影絵のように見えてしまう。
金色の太いビームが三本、東の空から舞い降り、磐座《いわくら》を直撃していた。丸石に巻かれた、しめ縄が一瞬にして燃え上がる。天から炎の津波が押し寄せたみたいだ。
三本の光柱は、ほぼ正三角形を成して、揺れ動いていた。三角形の一辺の長さは、三〇メートルほどだ。たちまち、周辺のスギ林がオレンジ色に染まった。
まさに天から神罰が下ったような光景だった。旧約聖書の挿し絵をリアルに描き直したような眺めなのだ。
しかも、ビーム群は、ただ出現しただけではなかった。徐々に互いの距離を狭めている。光柱の群れは山頂の一点、蛇神のいる場所に向かって、集束しようとしていた。
祐美は、周囲からの熱波に押されていた。つい二、三歩下がってしまう。
祐美は眩《まぶ》しさのあまり目をかばいつつ、叫んだ。
「カムナビ! 危ない! 逃げて!」
志津夫も輻射熱《ふくしやねつ》を肌で感じて、気づいたようだ。彼は奇声をあげると、蛇神の胴体を両足で蹴った。その反動で、地面に転がる。
同時に、大蛇男≠フ上体が仰向けになって倒れた。両手を広げたまま、痙攣している。悲鳴は止まっていた。
銅鐸ヘルメットが被さったままなので、化け物の表情を見ることはできない。だが、絶命寸前であることは明白だった。何しろ、草薙剣が脳髄を串刺しにしたままなのだ。
一方、正一は呻き声をあげた。彼は依然として、全身をパイプ状の蛇体にぐるぐる巻きにされた状態だ。必死にもがいている。だが、頭と手足の先端が外に露出しているだけで、立ち上がることもできないようだ。
それを見て、祐美は差し迫った危機に気づいた。
志津夫なら心配ない。今すぐ走って、カムナビから逃げられるだろう。だが、正一は逃げるに逃げられないのだ! 今回の功労賞ものの人物だというのに。
「正一さん!」
思わず、叫んだ。だが、絶望感が全身を締めつけた。彼女も身動きできない状態に陥った。
志津夫も起きあがり、叫んだ。
「父さん! え? どうなってる?」
彼は必死に目をこすっていた。まだ視力が完全ではないようだ。だが、父親の危機は察したようだ。
「ちくしょう! 何てこった!」
志津夫は叫んだ。正一に向かってダッシュする。大蛇男≠フ長い胴体に飛びついた。それをほどこうとする。
だが、恐ろしく困難な作業だと、祐美は気づいた。志津夫は蛇体を満身の力で引っ張っている。なのに、成果は上がらず、ほとんどほどけないのだ。
何しろ正一の肉体をからめ取った胴体は直径二〇センチもあり、長さも全体で七、八メートルはある。この極太ロープの総重量は、成人男性三人分か四人分に匹敵するだろう。それが正一の全身を緊縛していた。こんなものを短時間で、ほどくのは不可能だ。
「ちくしょう!」
志津夫は狙いを変えた。大蛇男≠フ上半身めがけて駆け出す。
相手は銅鐸ヘルメットごと頭部を串刺しにされた状態で、まだ生きていた。感電しているみたいに、上半身を痙攣させている。
志津夫は蛇神の頭を蹴飛ばした。何度も何度も。
「やめろ! これを止めろ!」
だが、何の効果もなかった。カムナビの勢いは一向に衰えないのだ。ビームが、大蛇男≠フ制御を離れていることは明らかだ。
志津夫は父を振り返った。天を指さす。
「父さん! 止められないのか! これを!」
正一は首を振った。
「無理だ! 一度、宇宙空間に開いた穴だ。すぐには閉じられない!」
「何だって?」
志津夫は地団駄踏んでいた。文字どおり尻《しり》に火が点《つ》いたような動作だ。
彼は必死に辺りを見回した。ふいに目を輝かした。
「……いや。待て。これだ!」
志津夫は草薙剣に飛びついた。それは今も蛇神の頭を貫通していた。確かに、この神剣の切れ味なら大蛇の胴体を切断して、正一を救い出せるかもしれない。
彼は思い切り、引き抜こうとした。
できなかった。銅鐸と頭蓋骨《ずがいこつ》の間に何か異物がはさまっているようだ。それが邪魔になって、あるところで引っかかっているらしい。
「ぬ、抜けない」
志津夫は呻《うめ》いた。顎から汗が滴り落ちる。
「そんな。じゃ、どうすれば?」
すでに光熱ビームの角度は斜めから垂直になっていた。地球が自転しているために、見かけの角度が変化するのだ。
カムナビの一本が日向御子神社の社殿を巻き込んだ。爆発したような勢いで、炎が噴き出す。社殿全体が瞬時に発火点を越えたのだ。
その火の粉が飛んできて、祐美は本能的に飛び退いた。おかげで、呪縛《じゆばく》が解けた。自分が何とかしなければ!
祐美は思い切ってダッシュした。距離にして六、七メートルほどを駆け抜けた。志津夫に向かって、怒鳴る。
「どいて!」
祐美は腰を落とし、遠当て≠フ構えを取った。
志津夫が振り返り、目を見開いた。
「え?」
「ちょっとだけ、我慢して! 全部いっぺんに吹き飛ばす。それで助ける!」
「あ! そうか。その手があったか!」
志津夫は目を輝かせた。彼は蛇体から離れて、後退した。
正一も首だけ動かして、うなずき、同意した。
「いいぞ! やれ!」
祐美は大きく深呼吸した。いつもの感覚を味わう。体内のチ≠励起し、ポンプで組み上げて、手のひらにまで誘導するような感じだ。
狙いを定めた。
できなかった。祐美は両手で伯家流の秘印を作ったまま、凍てついてしまった。
手のひらまで誘導したチ≠ヘ、行き場を失い、その場で脈動した。その度に祐美の両手が激しく上下動する。まるで操り人形になったような動作だ。
志津夫が訊《き》いた。
「どうしたんだ?」
正一も仰向けの状態で、催促する。
「早くやれ!」
祐美の丸顔が歪《ゆが》んだ。この行為の危険性に気づいてしまったのだ。
彼女は深呼吸しなおした。チ≠体内に引き戻したのだ。両手の脈動が止まった。
祐美は両手を下ろした。黒い瞳《ひとみ》が輝きを失った。自分の足元を見つめてしまう。
志津夫が祐美の肩をつかみ、揺さぶった。
「どうしたんだ!」
彼女は唇を歪めて、
「できないよ。こんな大きい奴ごと一緒に吹っ飛ばすとなると、フルパワーでやるしかない。でも、そんなことしたら、死ぬ。正一さん、バラバラになるかも……」
志津夫は顔面が極端に歪んでしまった。歯を食いしばり、両拳《りようこぶし》を握っている。唸《うな》り声が出た。
正一は横倒しの姿勢のまま一瞬、天空のビームを睨《にら》んだ。そして目を閉じる。すべてを諦念《ていねん》したような表情だ。
祐美は、周囲の眩《まぶ》しさが増したのに気づいた。おかげで、両腕で顔面を保護しなければならなかった。熱波で、露出している皮膚が燃えだしそうなのだ。
カムナビが三方から、彼らを取り囲むようにして迫っていた。ビーム同士の距離は一〇メートルもない。すべてを焼きつくそうという意志が、光自体に宿っているかのようだ。
正一が目を大きく見開いた。瞳にこれまでにない強い輝きがある。不退転の決意をうかがわせた。
正一は叫んだ。
「行け! 逃げろ!」
「父さん!」
志津夫は再度、駆け寄った。肉質の太いロープに飛びつく。それをほどこうと渾身《こんしん》の力を振り絞る。
だが、ほんの少し緩むだけだった。これをほどくには、やはり多数の人手が要るだろう。志津夫と祐美だけでは、どう見ても不可能なのだ。
志津夫は、今度はリモコン能力≠使おうとした。右手を大蛇男≠フ上半身に向ける。叫んだ。
「ほどけ! 父さんを離せ!」
不気味な蛇体が多少、動きかけた。外側に向かって自ら緩みそうな気配だ。だが、数センチ動いただけだった。
「動け! ほどくんだ!」
志津夫が再度、叫ぶ。だが、半人半蛇の化け物は、もう反応しなかった。何しろ瀕死《ひんし》の重傷を負っているのだ。動ける状態でないことは、誰の目にも明らかだ。
絶体絶命。その単語が、祐美の脳裡でネオン看板のように点滅した。点滅する速度が徐々に早くなっていく。
正一が再度、叫んだ。
「やめろ! もういい! 逃げろ! 一緒に死ぬ必要なんかない! それに、これは私が受ける報いだ!」
「そんな!」
志津夫が悲痛な顔で言った。先ほど、ようやく一件落着といった場面を迎えたのだ。だが、運命は皮肉な方向へ半回転してしまった。あまりにも不条理だ、と彼は言いたいのだろう。
祐美は自分の頭を抱え込むようなポーズのまま、無意識に歯ぎしりしていた。
理性的に考えれば、正一の言い分が正しかった。法律上でも、こういったケースは緊急避難と呼んでいる。自分が助かるために誰かを見殺しにしても、それは仕方がなかったとして、無罪となるのだ。
しかし、緊急避難を知識として知っているだけの状態と、現実にその決断を迫られる状態とでは、天と地ほどの開きがあった。まるで心臓を万力《まんりき》で挟まれてしまったようだ。
祐美は、また周囲を見回した。依然、熱波が凄《すご》いので、彼女は両腕で顔を保護する体勢を取り続けていた。
金色の太いビームが間近で、狂熱のダンスを繰り広げていた。正一たちを飲み込むために、より熱心に踊りだしている。説得も脅迫も通じない相手だ。
祐美はがっくりと頭を下げた。ついに万策尽きたのだ。
祐美は自分自身に言い聞かせるしかなかった。やはり、正一を見殺しにするしかない。他の選択肢はない。
次の瞬間、祐美は志津夫の腕に抱きついた。後ろへ引っ張る。
「逃げよう! もうどうしようもない!」
だが、志津夫は抵抗した。その場に踏ん張ってしまったのだ。
そうなると、女の子の筋力では成す術《すべ》がなかった。彼女の可愛い丸顔が、鬼面めいた形相になる。彼の耳元で叫んだ。
「あきらめろ! このォォ!」
周囲からは神の火≠ェ、さらに迫っていた。三本のビーム同士の距離は、もう五、六メートルほどだ。
辺り一帯が影のない光だけの異様な世界と化していた。眩し過ぎて、眼底が痛くなる。気温も溶鉱炉なみに感じられた。
志津夫は両手を伸ばし、父の片手をつかんだ。相手の手を押し包むようにして、振る。必死の形相で叫んだ。
「父さん! 母さんは、父さんが戻ってくると信じてた!」
正一も息子を凝視した。見納めだ、と言わんばかりの表情だ。答える。
「わかった。行ってくれ!」
祐美も再度、志津夫の片腕に抱きつき、引っ張った。弓なりに全身を反り返らせる。
「行こう! もうだめだってば!」
14
志津夫は、正一の手を離した。回れ右して、父に背を向ける。
志津夫の顔はデスマスクさながらだった。表情を浮かべる機能を忘れたかのようだ。
祐美が腕を引っ張り、叫ぶ。
「行こう!」
そこで志津夫の顔が一気に歪《ゆが》んだ。天に向かって、意味不明の叫びを発する。
魂をドリルでえぐられる痛みを味わった。怒りと悲しみが混じり合い、化学変化を起こしている。今まで経験したことのない感情だ。
ただただ自分の無力さが情けなかった。そして、こんな結果を招いた責任の重さに、胸が押し潰《つぶ》されそうだった。本来なら、死ぬべき人間は自分ではないか。再度そう思える。
だが、カムナビに対して、理屈抜きの恐怖を覚えているのも事実だった。まるで太陽の中心核から抽出された光柱だ。それが眼前に迫っている。
志津夫も両手で目を保護した。もう眩し過ぎて、ろくに目を開けていられないのだ。これ以上、瞳《ひとみ》を光にさらしたら、また失明するだろう。
すでに結論は出ていた。ここで全員が死ぬ必要などないのだ。逃げられる者は逃げるべきだ。
志津夫は喚《わめ》きながら、駆け出した。他にどうしようもないと、理性は主張した。その理性に対し、情けなさを感じた。
祐美も喚きつつ、志津夫の後を追ってきた。
揺れ動く光柱と光柱の間は、もう二メートルもなかった。そこを志津夫と祐美は相次いで、すり抜ける。両側からの熱波のせいで、耳を火傷《やけど》しそうだった。
文字通り、間一髪だった。あと三秒ほど遅れたら、二人とも助からなかったかもしれない。
ひたすら走った。背後からの熱波も依然、凄《すさ》まじかった。後頭部の毛髪だけアフロヘアになりそうだ。
志津夫は目頭に熱いものを感じた。途中から、目を閉じた。全世界を自分の中から締め出したかった。
悲鳴が響きわたった。正一の声だ。
思わず、志津夫の足がブレーキをかけた。勢いあまって、前のめりになる。
彼の背中に、祐美が追突した。おかげでバランスを崩してしまう。二人は重なり合って、倒れた。
だが、気にしている暇もない。志津夫は立ち上がると同時に振り返った。絶叫する。
「父さん!」
今、三本のカムナビは揺れ動きながら、三輪山の山頂で一つに融合していた。古代の蛇神は、どういうわけか断末魔のあがきで光熱ビームを呼んでしまい、自爆したのだ。葦原正一を道連れにして。
極熱地獄が出現した。その中で蛇体がのたうちまわっている。長い胴体がS字や、M字形のカーブを描いた。
おかげで正一も緊縛状態が解けて、地面に放り出された。だが、すでに遅かった。
15
正一の視界は真っ白だった。太陽の中に放り込まれたような高熱を味わう。
大蛇男≠燻ワ熱《しやくねつ》地獄に耐えられず、のたうちまわった。おかげで、正一は緊縛状態から解放された。地面に投げ出される。だが、すでに遅すぎた。
髪の毛が一瞬にしてアフロヘアのようになり、炭化する。思考が一瞬、止まった。
皮膚が焦げて、皮下脂肪に火がつくのを感じた。スラックスも、指だけが露出する革手袋も炎を吹き上げる。自分は燃えているのだ。
絶叫した。
だが、口の中の粘膜も数秒で乾燥した。悲鳴もあげられなくなる。眼球も乾燥して、用を成さなくなった。
正一は闇雲にもがくだけだった。地面を転げ回る。理性もすべて蒸発していた。
空《から》えずきも、こみ上げてきた。一酸化炭素の中毒症状だ。胃袋は吐き気の油田と化した。食道は吐き気のポンプだ。
心臓が本来ありえないスピードでビートを刻んでいる。うつ伏せのまま、意識が遠のいていく。同時に苦痛も遠のいていった。
突然、茨城県で竜野助教授が焼死した時の光景が、正一の脳裡《のうり》に再生されていた。
あの時、竜野は最初はカムナビの中で暴れ回ったが、一〇秒ほどで身動きしなくなった。今の正一と同じで、やはり一酸化炭素中毒に陥ったからだろう。後は骨が露出するまで焼き尽くされていった。
薄れかけた意識の中で、正一はこれで罪滅ぼしが終わったのを感じた。
確かに竜野助教授を極熱地獄へ突き飛ばしたのは、小山麻美だった。彼女が殺人の罪を背負ったのだ。
だが、正一がカムナビを呼ばなければ、竜野があんな凄惨《せいさん》な死に様を迎えることはなかった。やはり、正一にも殺人幇助《さつじんほうじよ》の責任はある。それを法廷では裁かれなかったが、運命が正一に裁きを下したのだ。
正一は死を目前にしながらも、ある程度の満足感を得ていた。カムナビの脅威から、多くの市民を救うことはできた。竜野と同じ死に様を迎えたことで、罪滅ぼしもある程度はできただろう。
そして苦難に満ちた人生から、これでやっと解放される時が来た。
よく言われるパノラマ視現象が始まっていた。生涯の印象的な記憶の数々が、超早回しで脳裡に再生されるのだ。
青年時代に、神坂峠の洞窟《どうくつ》で初めてヒナマキとテトオシの儀礼に参加した時の記憶。妻、佳代との幸せな日々。そして息子の志津夫が生まれて、家の中で騒霊現象が始まった時の驚き。あの時、すでに正一は自分の人生に暗雲が立ちこめるのを感じていた。そして禁断の洞窟に入り、巨大な青い土偶に接触して、より深く感染し、宇宙規模の真相を知った時の衝撃。河原での白川幸介と、白川伸雄との出会い。白川祐美と初めて会った時、彼女は丸々と太った一一歳の小学生だった。茨城で竜野を焼死させた場面。熱田神宮での息子との再会……。
志津夫は言った。「父さん! 母さんは、父さんが戻ってくると信じてた!」
正一には、それで充分だった。息子に答えた。「わかった。行ってくれ!」
正一の意識が最後に感じたものは充足感だった……。
16
志津夫は、カムナビの強い輝度のせいで、まともに目を開けていられなかった。手のひらをバイザー代わりにして、瞳を保護する。そして指の隙間から、かろうじて、それを見た。
正一と、大蛇男≠ヘ共に焦熱地獄に落ちていた。彼らのウロコだらけの皮膚が、焼けただれている。
皮下脂肪が弾《はじ》け、それに点火していた。線香花火に似たスパークが散る。皮膚が次々に破裂して、肉や血管がのぞいた。
正一よりも、蛇神の方がより派手に炎を噴出し始めていた。どうやら、蛇体の中身は水気が少ないらしい。その分、乾燥度が高くて燃えやすいのだろう。
大蛇男≠ヘ躍りまわり、跳ねまわった。超特大のネズミ花火だ。全身から炎と煙を噴き出し、辺りを一酸化炭素で満たしていく。
正一も、やはり地面を転がっていた。しかし、三本のビームの照射範囲の外には出られなかった。ついに途中で動きが止まってしまったのだ。
蛇神も上半身の部分が倒れた。躍り狂っていた長い胴体も活力を失い、倒れる。そのまま微動もしない。さすがに生命力の限界に達したようだ。
正一も同様だった。うつ伏せのまま、身動きもしない。すでに意識はないだろうし、呼吸も心臓も止まっているだろう。
大蛇男≠フ銅鐸《どうたく》ヘルメットも表面が溶けかけていた。銅が燃える時の、ブルーの炎を噴き出している。
銅鐸に刺さったままの草薙剣も赤く灼熱していた。チョコレートの棒が溶けていくみたいだ。すでに原形を失いかけていた。
カムナビが消えた。
とたんに辺りは暗転した。急激に光量が落ちたので、人間の瞳孔《どうこう》の絞り調整がついていけないのだ。
志津夫は目をこすった。盛んに瞬《まばた》きする。そんなことをしても大して効果はないが、やらずにはいられないのだ。
三〇秒ほど遅れて、視力が戻ってきた。山頂の様子が見えてくる。
正一と蛇神の身体からは、化学反応による黄色とオレンジ色の炎が噴き出ていた。時折、パープルの炎が現れる。体内のカリウムが燃えたためだ。
さらに、両者の肉体は体内で生じた煙が内圧となって、小さな破裂を繰り返していた。焼けた肉質の間から、骨の一部も露出している。さらに骨から溶けだした珪酸塩《けいさんえん》が透明な滴になり、周辺に飛び散った。火葬スラグ≠ニ呼ばれるものだ。
正一は、すでに生前の面影などなかった。頭髪も皮膚も失われ、肉も半分以上を失ったのだ。後頭部は、むき出しのドクロに近い状態だ。仰向けだったら、さらに凄絶な眺めになっていただろう。
肉が焦げた時に特有の臭いが、辺りに立ちこめていた。脂臭いとしか言いようがない。それに伴う煙も大気を汚染していた。
志津夫と祐美は声もなく、立ちつくしていた。二人とも口元が悲痛でわなないている。
祐美は自分の拳《こぶし》にかじりつきそうなポーズを取っていた。やがて丸顔を歪《ゆが》めると、陰惨な光景から目を背けてしまう。吐き気がこみ上げてきたらしい。
志津夫は目をそらさなかった。上体を折り曲げて、自分の両膝《りようひざ》を両手でつかむ姿勢になる。だが、顔は神の火≠ナ行われた荼毘《だび》に向けていた。
彼の顔は怒りと慟哭《どうこく》が混じったものになっていた。炎に照らされているせいもあって、仏教美術の仁王像みたいな表情だ。光と陰の対比が、余計にそうした印象を強めていた。
志津夫は身動きしなかった。荒い呼吸のせいで肩が上下するだけだ。ただただ燃えている父親の亡骸《なきがら》を見つめ続ける。
頭蓋骨《ずがいこつ》の中で、溶けた鉛が煮えたぎっているような気分だった。泣き叫びたい衝動が、胸の中で渦巻く。
しかし、その一方で、まだ冷静さを保っている自分も残っていた。その自分が問いかけてくる。
泣いたところで、どうなる? 死者が帰ってくるわけでもあるまい。それどころか今、泣き喚《わめ》くなんて、自己|憐憫《れんびん》の中に逃げ込む行為だ。自分の罪悪感をごまかしたい行為に過ぎない。そのぐらいお見通しだぞ。
もう一人の自分は、さらに糾弾してきた。
目をそらすな。これこそ、おまえに対する罰だ。おまえの好奇心のせいで、こういう結果を招いた。その責任から、目をそらすんじゃない。
志津夫は、その糾弾に全身全霊で応《こた》えていた。両腕と両膝が震えてくる。だが、それでも目をそらさなかった。
ふいに、ある記憶が蘇《よみがえ》った。二日前、母、佳代の墓参りをした時の記憶だ。
その時、志津夫は、誰かが先に墓参りした痕跡《こんせき》を見つけた。真新しい菊の花と線香、ロウソクが捧《ささ》げられていたのだ。ここに墓参りする人間と言えば……。
次の瞬間、記憶されていた事実≠ヘ、脳裡から消え失せた。まったく別のイメージに切り替わっていく。
それは、志津夫にとって都合のいい世界の映像だった。現実があまりにも過酷だと、人間の想像力は、理想的な過去≠勝手に捏造《ねつぞう》してしまうのだ。今まさに、それが起きていた。
……志津夫は振り返った。
白昼の墓地の中に、正一が立っていた。父はサングラスはかけておらず、目の下にピットも存在しなかった。いつものひげ面で微笑している。
さらに志津夫が視線を転じると、母、佳代がベージュ色の日傘をさして、立っていた。彼女も何ごともなかったかのように微笑している。量感のある頬にえくぼができる。
両親は共に半袖《はんそで》のシャツ姿だった。それで季節は夏だとわかった。
志津夫は眼前の墓石に目を転じた。
そこには「葦原家の墓」と刻まれていた。菊の花やロウソクが飾られ、線香の匂いが漂っている。どうやら、自分たち一家はお盆休みで里帰りしたらしい。
視線を、隣の墓石に向けた。
そこには小柄な丸顔の美少女がいた。白川祐美だ。彼女は両手の指を組み合わせて、正三角形を作り、墓石に一礼した。それが白川家の作法らしい。
祐美は自分流儀の墓参りを済ませると、志津夫たちを振り返った。笑顔で言う。
「さあ、行こう。もう腹ぺこだよ」
志津夫は思った。そうだ。忘れていた。これから四人で食事に行く約束だ。
白川祐美は葦原家と同郷で、墓地も同じ場所だった。だから、今日は一緒に里帰りして、墓参りしたのだ。
四人は談笑しながら、墓地の中を歩き出した。せっかくのお盆休みだ。羽を伸ばして、くつろがなければ……。
志津夫は我に返った。
瞳《ひとみ》に輝きが戻ってくる。激しく首を振った。自分の頬を叩《たた》いた。その刺激で、自我を回復させた。
燃え続ける正一と、大蛇男≠フ残骸《ざんがい》が、視界に入ってきた。パイプ状の胴体が、S字とC字の形をでたらめに配置したみたいになっている。それらに囲まれて、正一の遺体も炎を噴いて、黒こげになりつつあった。
志津夫はさらに首を振った。荒い吐息をつく。
今まさに、志津夫は白昼夢の中に入り込んでいたのだ。
それには夢や幻といった曖昧《あいまい》さはなかった。恐ろしくリアルな世界であり、線香の匂いまで嗅《か》いだのだ。もう少しで、そちらが現実だと信じ込みそうになったほどだ。
こういう異常な白昼夢が続くと、多重人格症が発症するとも言われている。まさしく今の志津夫は、そうなりかけていた。
志津夫は自分の頬を叩いた。何度も何度も。そして、炎上中の正一から顔をそむけた。
やはり、父の無惨な亡骸を凝視するのは耐え難い経験だった。そのせいで、志津夫の心は理想的な過去≠ヨと彷徨《さまよ》いだしたようだ。
気がつくと、志津夫は四つん這《ば》いになっていた。鼻水をすすった。号泣はしなかった。そこまで自分を見失うような真似は嫌だったからだ。
祐美が、志津夫の左肩に手をかけた。顔をのぞき込んでくる。心配そうな顔で訊《き》いた。
「大丈夫?」
「ああ」
志津夫は、うなずいた。
彼女の手を握り返した。セクシャルな意味あいはなかった。幼児が親の手に触って安心感を得ようとする行動と同じだ。
今は、祐美の手の感触がありがたかった。志津夫の意識を現実につなぎ止める錨《いかり》≠セ。彼女の手を握っている限り、心が別世界へ引きずり込まれることはないだろう。
志津夫の中で、また泣き喚きたい衝動が湧き上がった。発作のように高ぶってくる。さすがに今回は我慢ならなかった。
志津夫は最大ボリュームで一声、叫んだ。祐美の手を離すと、三輪山の山頂に正拳突《せいけんづ》きを一発いれる。
そして、また祐美の手を握りしめた。前回よりも、きつく握っていた。
彼女は文句は言わなかった。黙って、志津夫のしたいようにさせてくれた。
二人は彫像のように静止していた。
二人の背後では、古代の蛇神と、葦原正一と、日向御子神社の社殿がイエローオレンジの炎を噴き上げ続けていた。さらに周囲では、スギ林が山火事を続行していた。
17
名椎真希は、洞窟の出入口付近に座り込んでいた。ここにいれば天然の冷房を甘受できるからだ。
やや放心状態だった。当面の行動目標を失った上に、山火事のおかげで身動きもできないせいだ。できることと言えば、軽い打撲傷を負ったため、背中や足をさすることだ。当然、退屈していた。
ふいに胸騒ぎがした。近くで異変が起きているようだ。それを彼女のチ≠ェ捉《とら》えたのだ。
真希は立ち上がった。トンネルの外に出る。
依然として、この禁足地のテラス状台地の周りは、炎が取り囲んでいた。何しろ燃料となる木材は無尽蔵にあるのだ。この付近一帯が燃え尽きて、火事が収まるまで、まだ数時間を要するだろう。
真希は外に出たとたん、襲ってきた熱波にうんざりした。ガスレンジの中にいる魚の気分だ。おまけに喉《のど》の粘膜が干涸《ひか》らびている。今、コップ一杯の水にありつけるなら、どんな命令でも聞いてしまいそうだ。
視界の隅に強い光を感じた。反射的に振り返る。目を見開いた。
それは三輪山の山頂で起きていた。三本の揺れ動くカムナビが、そこに集中している。真希が感じた異変は、これだったのだ。
三輪山がきれいな三角形のシルエットとなって、夜空に浮かび上がっていた。山頂から凄《すさ》まじい光が放射されているようにも見える。荘厳かつ美麗な光景だった。
そして突然、金色のビームは休止した。
三分が経過し、六分が経過していった。その間、真希は山火事の熱気に炙《あぶ》られ続け、額の汗を手の甲で拭《ぬぐ》っていた。
何も起こらなかった。
先ほどまで、カムナビは頻繁に襲来していたのだ。少なくとも二分以上、間隔が空くことはなかったと思う。天の神が激怒しているような雰囲気だったのだ。
今は、それが消え失せていた。超自然のパワーは去ってしまったようだ。戻ってきそうな気配はない。
真希は直感的に悟った。
先ほど山頂に落ちたカムナビで大蛇男≠ヘ自爆したのではないか。おそらく志津夫たちが、そういう作戦を立てて、実行し、成功したのではないか。
一〇分が経ち、十五分が経った。依然として、夜空は静謐《せいひつ》さを保っていた。
真希は吐息をついた。切れ長の目を伏せてしまう。肩の線がどこまでも下がっていきそうだ。
もう結論は出た。やはり、カムナビは去ったのだ。例の蛇神も死んだに決まっている。
真希は虚脱感を覚えた。精気あふれる美貌《びぼう》が、急速に衰えたようだ。
思い返せば、昨夜から今夜までは苦労の連続だった。真希は志津夫を口説き落として、二人で草薙剣まで強奪した。この三輪山では、白川祐美とも死闘を演じた。突如、洞窟《どうくつ》の奥から現れた大蛇男≠燗Gにまわして、奮闘した。
だが、真希自身は、カムナビを呼ぶ力を手に入れることはできなかったのだ。結局、彼女がやったことは無駄に終わった。
喉の奥から、力のない笑い声が漏れてしまった。自分自身に向かって言う。
「本当に収穫ゼロとはね……。あきれたもんだね、真希」
心底うんざりした表情で、真希は周囲を見回した。
相変わらず、このテラス状台地の周りではスギや、カラマツ、コウヤマキ、アスナロなどが燃えていた。今の彼女は虜囚も同然だ。逃げ出すチャンスも逸したのだ。
森林が燃えながら、いがらっぽい煙を生産していた。彼女は咳《せ》き込んでしまった。煙が目に入って、涙が出てくる。
真希は小走りに駆け出した。しめ縄が張られた磐座《いわくら》の後ろへと回り込む。
そこには例の洞窟があった。大地が口を開けて、あくびしているような印象だった。
彼女は洞窟に入った。ここなら炎の輻射熱《ふくしやねつ》が遮断されるので、平時の気温が維持されている。
すぐ地面に腰を下ろした。一息つく。
真希は手にハンディライトを持っていた。気まぐれに、それを点灯した。隧道《ずいどう》の奥を照射してみる。
トンネルの天井や壁は、多数の石が埋め込まれていた。それらが補強材になっているようだ。古墳の葺《ふ》き石工法に似ていた。
洞窟の奥は、傾斜二〇度ぐらいの下り坂になっていた。坂は三メートルほどで終わり、さらに水平の隧道へとつながっている。そこから先は死角になって、見えなかった。
かなり深いトンネルのようだ。どうやら、例の大蛇男≠ヘ、この奥で眠っていたらしい。
真希は、先ほどの大蛇男≠フ顔を思い浮かべた。
その顔には明白な特徴があった。目の周りに入れ墨をしていたのだ。古事記や、魏志倭人伝にも記述された、古代日本人のファッションだ。
つまり、大蛇男≠ヘ、元々は古代日本人であり、同時に普通の人間だったのだろう。それがアラハバキ神と深いレベルまで同化してしまったわけだ。
真希は目を細めた。ある疑問が湧いてきたからだ。
問題は、あの大蛇男≠ェ、いつ、どこでアラハバキ神に最深度レベルまで感染したのか、だ。
そして、その答えが突然、脳裡《のうり》に浮かんだ。
彼女は好奇心満々の表情で、洞窟の奥をのぞき込んだ。無意識に舌なめずりする。呟《つぶや》いていた。
「もしかすると……。この奥にまだ何か……」
その言葉の続きは、彼女の脳裡で展開していた。
ここには、まだ何かが残っているのではないか。感染源は今も、この洞窟の奥にあるのではないか。
もし、そうならば、奥に入って、その何かと接触すれば、自分もアラハバキ神と一体化するレベルまで感染できるのではないか。カムナビを呼ぶ力が手に入るのではないか。
真希は立ち上がった。
どうせ今は火事のせいで、身動きもできないのだ。このまま無為に時間を過ごすなんて、バカらしい。念のため、この奥を確認しておくべきではないか。
真希は興奮を覚え始めた。心臓が火花を発しているような気分だ。
天井に頭をぶつけないよう注意しながら、第一歩を踏み出す。
そこで足が止まった。
もう一人の自分が、こう問いかけてきたのだ。
あの大蛇男≠ヘアラハバキ神と同化して、ほとんど蛇体に近い姿に変身していたではないか。もし、真希も感染レベルが深まったら、あれと同じ状態になるのではないか。
彼女は、しばらく硬直していた。視線が宙をさまよう。不安げな表情で、沈思黙考を続けていた。
やがて首を振った。
そうは思えない、と真希は結論した。
アラハバキ神に感染しても、完全に蛇体に変身してしまった例は少ないのではないか。
もしも、そういう実例が数多くあれば、古事記や日本書紀、各地の風土記などは、それを反映した内容になっているはずだ。平安時代の甲賀三郎伝説のような、人間が蛇体に変身してしまう怪異譚《かいいたん》の記録が、他にも多数あって然るべきだろう。
だが、そうはなっていないではないか。
ということは、先ほどの大蛇男≠ヘ、かなり特殊なケースだったのではないか。
真希は目を閉じて、深呼吸した。
ここが決断のしどころよね。何しろ、宝の山が目の前にあるかもしれない。それを逃す手はないわ。
彼女の脳裡に、鮮明な映像が浮かんだ。数分前まで見ていた、金色のカムナビだ。
あれをコントロールできるようになったら、まずは日見加村への復讐《ふくしゆう》を果たすのだ。自分の人生の幼児期と青春期は、日見加村の村民たちのエゴイズムによって台無しにされたのだから。
それにまつわる事実を一つ一つ思い出していった。徐々に、真希の怒りの温度が上がっていく。
真希は目を閉じたまま、歯噛《はが》みしてしまう。
おかげで、自分は力≠ノ目覚めるまで、どれほど苦しんだことか。思春期の女の子にとって、自分の肌が蛇のウロコだらけという状態がどれほどの苦痛だったか。彼女の魂は毎日、血の涙を流していたのだ。
だが、その間、日見加村の村人たちは、のんびりと幸せに生きてこられた。他の山村のように、過疎化に頭を痛めることもなく、平穏無事に生きてこられたのだ。
真希は目を見開いた。瞳《ひとみ》にぎらつくような輝きが戻っている。
いつもの癖で、ポケットから五〇〇円玉を取り出し、それを親指で弾《はじ》いた。銀色のコインが宙で舞う。落ちてきたところをキャッチした。
真希はライトで足元を照らしながら、洞窟の奥を目指して、出発した。
最初の三メートルは下り坂だった。そして身をかがめて、奥のトンネルへと足を踏み入れた。
そこは意外に広かった。水平の隧道になっていたのだ。天井は高さ二メートル半ぐらい。全体の長さは一〇メートル、幅四メートルといったサイズだった。
洞窟の中は涼しかった。空気は土臭いが、温度は申し分ない。さっきまで猛暑の中にいただけに、快適な気分だ。
もしも、志津夫がこの場に居合わせたら、「無茶だ!」と怒鳴っただろう。こういう閉ざされていた地下洞窟が酸欠状態になっていることは、専門家にとっては常識だからだ。
だが、真希に異常な兆候は現れなかった。呼吸は楽にできたのだ。
真希は前進した。さらに隧道の奥をのぞき込み、ライトで照らした。
すると、その先は、また三メートルほどの下り坂だった。そして別の水平なトンネルへつながっている。
「え? まだ、奥が?」
彼女は呟いた。首をかしげてしまう。こんなに深い洞窟だったとは予想もしていなかった。
その時、真希は手に持っていた硬貨を、無意識のうちにスラックスのポケットにしまおうとした。
だが、コインは指先から滑り落ちた。音を立てて、地面を転がっていく。どこかへ消え失せた。
「あ」
真希はそれに気づいて、ライトを向けた。地面のあちこちを照射する。土と岩盤と小石が見えた。
だが、落とした五〇〇円玉は発見できなかった。彼女が持つ、赤外線の視力でも捕捉《ほそく》できなかった。石ころの間にでも挟まったのかもしれない。
彼女は肩をすくめた。たかが小銭だ。別に惜しくはない。それよりも、宝探しの方を続行しよう。
真希は水平な隧道から、下り坂へと降りていった。
下り坂が終わると、また水平な隧道があった。勾配《こうばい》のない平坦な状態が一〇メートルほど続いている。最初に通過した階層と、そっくりだった。
以後、洞窟探検は、その繰り返しとなった。三メートルの下り坂と一〇メートルの水平なトンネルとが、交互に現れるのだ。一種の規則性を感じた。
進んでいくうちに、真希は驚きを味わった。すでに一〇〇メートルほど地下に潜ったはずだ。なのに、まだトンネルの奥が見えないのだ。どこまで潜っても、行き止まりの壁には出会わないのだ。
彼女は驚愕《きようがく》のあまり、口が半開きになっていた。呟いてしまう。
「何てこと……。三輪山に、こんな深い洞窟が……」
彼女は不審な表情を浮かべながらも、冥府《めいふ》のような地下通路を降りていった。どこまでも、降りていった。なのに、まだトンネルの終点には行き着かない……。
この時、真希はライトで地面をよくよく照らすべきだった。そうすれば、ある事実に気づいたはずだった。
すなわち、彼女がある階層から次の階層へ降りる度に、足元の地面には彼女が落とした五〇〇円硬貨が出現していたのだ! 何度も何度も、繰り返し繰り返し、同じコインが地面に出現していたのである!
だが、彼女は、その事実に気づかなかった。
第三者の視点から見ると、それは異様な光景だった。真希はまるでエッシャーの絵画の中に入り込んだようなありさまだったのだ。
エッシャーの作品は、視覚的なトリックを利用した特異な画風で知られている。たとえば、「階段を降りても降りても、また同じ場所に戻ってしまう」といった「悪夢の無限ループ階段」といった作品だ。そうした超現実的な世界を、画家のエッシャーは好んで描き続けた。
今まさに、真希はエッシャーの絵画のような世界にいた。
真希は無限ループ階層を降り続けていた。どこまでも、どこまでも……。
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十の巻 終 息
(リポーターが喋《しやべ》りだす)
『ええ、わたしは今、桜井市の上空にいます。まず、この様子をご覧ください』
(高度八〇〇メートルから見下ろした桜井市の映像。住宅やビルは少なめだ。田畑やビニールハウス農場、木材集積所、空き地などが多い。住宅やビルなどの建造物の半分ぐらいは燃え落ちて、倒壊している。ガソリンスタンドの爆発跡もあった。真っ黒に焦げた建材がバラバラに飛散しており、破れかけた看板で、かろうじて企業名が判読できる。道路の脇にも焼けたり、潰《つぶ》れたりした車やトラックの残骸《ざんがい》が数え切れないほど転がっている。眼下の空き地には赤十字のテントが建っており、人々の行列が出来ている)
『ご覧のとおり、まるで戦場のようです。つい一昨日、ここに戦車部隊が攻め込んだと言われたら、うなずいてしまいそうです。
……あ、今、桜井市の名物、大鳥居が見えます』
(大鳥居を見下ろした映像。黒い鋼板製で、高さ三二メートル、柱間二三メートル、重量一八五トンもある。だが、上部の笠木が溶けかけていた。この高度から見下ろすと、チョコレート細工の失敗作みたいだった)
『皆さん、おわかりになりますか? 上の方が溶けかけているんです。いったい、どういうことなんでしょうか? 火事ぐらいで、鉄が溶けるなどということが、ありうるのでしょうか? しかも溶けているのは上の方です。根本付近は、あまり被害がないようです。
……私にはわかりません。いったい、ここで何が起きたのか……。
……ええ、では、ちょっと、JR桜井駅の方を見てみましょう』
(焼け跡の中に黒い四本の線路だけが、ステンシル印刷のように浮かび上がっている。その周辺に広がるのは商店街や、ビルの残骸だ。建物はどれも焦げている。巨大なアセチレン・バーナーで火炎を吹きつけられたみたいだ。壁に大きな穴が開いている建造物は、可燃物が爆発したせいだろう。ほとんどの電線は切れて、道路に垂れ下がっている。四五度の角度で倒れかかっている電柱が一本あった)
『こちらも、ひどいですね。駅の建物は全焼してます。線路とホームしか残っていません。もちろん、ダイヤは全面運休です。商店街も、まるで大砲か何かで撃たれたみたいです。
……あ、ええ、今、見えているのは三輪山ですね』
(三輪山は、頂上のスギ林を無理矢理、刈り取られたみたいだった。炭化した木々が山肌を黒く染めている。頂上は岩盤がむき出しになり、そこに日向御子《ひむかいみこ》神社の社殿や、巨石が日時計型に並んでいる磐座《いわくら》が見える。頂上付近は、豪雨で洗い流されたせいか、割ときれいな印象だ。中腹には、やはり立石と丸石による磐座があった。立石は倒れており、その後ろの崖《がけ》に洞窟《どうくつ》の出入口が見える)
『昔から、神が宿る山と言われてきた三輪山ですが、今は中腹と頂上が山火事で焼けて、四分の一ほど禿《は》げ山です。かなり無惨な状態です。幸いにも事件の直後、夜明けから昼にかけて豪雨が降ったため、山火事も、市街地の火事も、半日ほどで鎮火したということです。
……ええ、ちょっと北の方も見てください。JR巻向《まきむく》駅の方にある箸墓《はしはか》古墳などは無事です。この位置からだと、ちょっと見えにくいんですが……』
(彼方《かなた》に、いくつかの前方後円墳が見える。そのどれかが箸墓古墳らしいが、遠いので見分けがつかない)
『以上が、上空から見た桜井市の様子です。……いったい、一昨日の夜、ここで何が起きたのでしょうか? 私の目には、まるで爆撃された跡のように映ります。しかし、どこか外国の軍隊に攻撃された、といった情報などはありません。となると、何でしょうか? 落雷でしょうか? それとも隕石《いんせき》が続けざまに降ったのでしょうか? 今の時点では、何もわからないとしか言いようがありません。
……ええ、では、以上、奈良県桜井市の上空からお伝えしました』
(スタジオのアナウンサーが喋りだす)
『はい、ご苦労様でした。ええ、ここで、もう一度、ビデオ映像を観てみましょう。これは桜井市の住人の方が撮影したものです』
(夜の桜井市。遠方では、すでに火事の炎が上がっている。突然、夜空を一本の光条が貫く。その金色のビームは揺れ動いており、ダンスでもしているみたいだ。光の真下で爆発が起きる。直径一〇メートルはあるオレンジ色の火球が出現し、凄《すさ》まじい音が轟《とどろ》く。画像は露光オーバーで真っ白になりかける。同時に画像が揺れだして、撮影者が動揺している様子が伝わってくる)
『ご覧のような映像が記録されています。見た限りでは、これは落雷ではないようです。隕石のようにも見えませんね。とにかく空から怪しい光線が降ってきたようだ、としか言いようがありません。現在様々な専門家の方々にも意見をうかがっているところです。しかし、まだ、どなたからも明確な回答はありません……。
……え? あ、今、JR桜井駅近くの赤十字テントと、つながったそうです。どうぞ』
(赤十字のテントの映像。背景には、燃え落ちた住宅の残骸《ざんがい》が遠近法を成している。青空を、ヘリコプターが爆音を響かせながら、横切っていく。画面の右端では、パトカーの赤い回転灯が点滅している。画面の左端では、腕章を着けた赤十字救護班の者と、制服にヘルメット姿の自衛官とが話し込んでいる。正面には、やせた二〇代半ばの女性リポーターがマイクを持ち、立っている)
『え? もう、つながったの?
はい。現地の桜井市にいる吉山です。謎の爆発や大火災の夜から数えて、二日目の朝です。逃げのびた住民の人々が、徐々にこちらに戻ってきている様子です。……しかし、皆さん、燃え落ちてしまった我が家と対面して、呆然《ぼうぜん》としているようです。また、家が無事だった人たちも、桜井市が全面的に停電しているため、現在は不自由な生活を強いられているようです』
(テントの映像。白衣姿の医者や看護婦が、包帯を巻いた負傷者を診察している。その脇では、大鍋《おおなべ》にスープが煮立っている。食パン、缶詰なども積んである。それらの配給を受けるため、行列が出来ている)
『幸い、上水道や下水道の被害は少ないそうです。ですから、飲み水やトイレの問題は、今のところ起きていません。これは被害が地上に限られており、地下の水道管などには、あまり影響がなかったせいです。
……また、三日前から始まった例の異常気象も収まり、昨日からは平年なみの涼しい気候に戻りました。停電していることを除けば、桜井市は徐々に落ち着きを取り戻しているようです』
(カメラの角度が変わる。地面に座り込み、両手で顔を押さえて、泣いている男性が映る。傍らには三歳ぐらいの女の子がいて、周りにいる大勢の人々をもの珍しそうに眺めている。女の子はテレビカメラに気づくと、無邪気に手を振った)
『ええ、しかし、ご家族を亡くされた方々が、あちこちで泣き崩れる場面が見られます。遺族の方々にとっては、逆にこれからが辛《つら》い日々かもしれません』
(リポーターが歩き出し、またカメラの角度が変わる。そこには、銀縁メガネをかけた二〇代半ばの青年が地面に座っている。目の下にくまがあり、疲れきった表情だ。衣服もかなり汚れていた)
(リポーターは、銀縁メガネの青年に話しかける)
『すいません。ちょっと、よろしいでしょうか? サンライズテレビの者ですが』
(青年は不機嫌そうな感じだったが、うなずいた)
『桜井市の方ですか?』
『ええ。実家は奈良市ですけど、住所はこっちです。でも、勤め先もアパートも焼けてしまった』
『そうですか。大変でしたね。失礼ですが、どちらにお勤めだったんですか。差し支えなければ、教えていただけませんか?』
『桜井考古学研究所』
『あ、すると考古学者の方ですか?』
『いや、分析屋です。年代測定とかの』
『そうですか。ところで一昨日の夜に、何が起きたのか、お話ししていただけますか?』
『わからないね』
『わからないとは?』
『古墳が大きな音を出した。それが止んだら、光、光、光だ。いや、ビームだ……。いや、レーザー光線みたいな……。でも、揺れ動いていたな。とにかく光だった。何でもかんでも焼き尽くす光だった』
『ええ。そういうお話や、ビデオ映像もあります。あなたは、それは何だとお思いですか?』
『知ってたら、莫大《ばくだい》なインタビュー料金を要求してるよ』
(リポーターはとまどい、困惑した表情になる。だが、すぐに微笑して、その場を取りつくろった)
『ええ。どうも、ありがとうございました。ええ、では、他の方にもお話を……』
(突然、リポーターとカメラの間に、若い男が割り込む。頭髪は天然パーマらしく、上向きにカールしている。円形フレームのロイド・メガネをかけていた。年齢は二〇代後半ぐらいだ。男は、リポーターからマイクを奪い取った)
『これ、実況中継なんだろう? じゃ、真相を教えてやる。いいか、よく聞いてくれよ。この事件は、オルバースのパラドックスが崩れたせいなんだ!』
(リポーターは慌てて、マイクを取り返そうとする)
『あ、あの、困ります』
『聞いてくれ! ぼくは気象庁の人間だ。今は謹慎中で、クビ同然だけど……。いいか。これは重大な話なんだ。東京のテレビ局や新聞や雑誌やマスコミ全部にかけ合ったけど、相手にしてくれなかった。だから、ここに来たんだ。今ならリポーターがいっぱいいるから、チャンスだと思って……。
……おい、ちょっと、カメラマンの人、何で撮るのをやめるんだ! ちくしょう。話を聞いてくれよ。最後まで放送してくれ! おれは真実を知ったんだ! 見抜いたんだ! これはオルバースのパラドックスが崩れたせい……』
(スタジオのアナウンサーが喋《しやべ》りだす)
『ええ、ちょっと現地で混乱があったようですね。また後ほど伝えてもらいましょう。
……え? あ、今度は桜井市役所前と、つながったそうです。では、どうぞ』
(薄い赤茶色の鉄筋コンクリート・ビルが映る。出入口や駐車場に赤十字のテントが建っている。警官や消防士が大勢いる。救急車がサイレンを鳴らしながら、画面の端へ消えていく。正面には、小太りの二〇代半ばの男性リポーターがマイクを持ち、立っている)
『あ、はい。桜井市役所前にいる坪井です。今のところ大きな混乱もなく、落ち着いた様子です。ええ、しかし、周囲を見回しますと、どこもかしこも焼け跡だらけです。ここが現代の日本だとは信じられないくらい、荒れ果てた感じです。……ええ、では、ちょっと、赤十字の方にお話を伺いたいと思います』
(リポーターが歩き出す。カメラもそれを追いかける。四〇代の体格のいい、だんご鼻の男性が現れる。赤十字救護班の現地リーダーらしい)
『こちらは安田喜典《やすだよしのり》さんです。ちょっと、お話を伺いたいんですが……』
『ええ』
(だが、突然、安田は振り返った)
『おや、また来てくれたな』
『は? 来てくれたとは?』
(安田は、斜め後ろを指さした。グレーのカローラ・ツーリングワゴンが到着したところだった。運転しているのは、初老の男性で、べっこう縁メガネをかけている。助手席には野球帽をかぶった若い女性がいる。車の後部には、段ボール箱や毛布などが満載されていた)
(安田は、そのワゴン車を指さした)
『いや、助かりますよ。あの三人が食料や医薬品なんかを寄付してくれるんです。昨日から徹夜でピストン輸送してくれているんです。感謝状ものだ』
『え? 三人? 二人しか乗ってませんよ』
『え?……あ、そう言えば、そうだ。はて? あの人はどうしたんだろう?……いやね。いつもサングラスをかけてる青年がいるんだ。どことなく学者風で、二〇代後半か三〇過ぎぐらいの人だが、あの人は……今は乗ってないみたいだな……』
白川祐美は反射的に手を挙げて、会釈していた。
赤十字救護班の安田喜典が、カローラ・ツーリングワゴンに向かって走ってきたからだ。彼は、だんご鼻が目印のような男だった。いかにも温厚で親しみやすい顔立ちだ。
安田の背後では、小太りの二〇代半ばの男性リポーターが困惑した表情を浮かべていた。インタビュー相手に突然、逃げられてしまったからだ。
だが、男性リポーターはすぐ気を取り直したらしく、顔を業務用に戻した。カメラに向き直る。全国の視聴者に対してアドリブで喋り始めた。
一方、安田はワゴン車の助手席側に到着した。にこやかに微笑し、一礼する。
「ご苦労様です。ありがとう。本当に助かります」
「いいえ。とんでもないです」
祐美は頭を下げて、車から降りた。黄色いTシャツにブルージーンズの姿だ。
彼女は野球帽のつばをつかみ、少し下げた。内心|忸怩《じくじ》たるものがあり、顔を上げられない。彼女にしてみれば、これはボランティアではなく、いわば罪滅ぼしだ。だが、それを説明することもできない状態だ。
安田は、運転席の男性にもお辞儀した。
ステアリングを握る、初老の男も頭を下げ返した。
運転席の老人はべっこう縁メガネをかけていた。小柄で、やや痩《や》せており、大きめの目と、薄い鼻の持ち主だ。映画「ロッキー」で老トレーナー役を演じた、俳優のバージェス・メレディスに似ていた。
安田は左右を見回して、訊《き》いた。
「ところで、いつもサングラスをかけている、あの人は? 確か葦原とかいう……」
祐美は、うつむきかげんで答えた。
「ちょっと疲れたそうで、休んでます」
「あ、そうですか。まあ、よろしく言っておいてください。……あ、我々が運びますから、お構いなく。その辺で休んでいてください。……おい、こっちに集まれ!」
安田は他の者に声をかけた。救護班のメンバーがやってきた。皆、口々に、ご苦労様、ありがとう、を連発する。
祐美は、さらに野球帽のつばをさげてしまう。いいえ、とんでもない。大したことじゃありません。そう答えながら、恥ずかしさで全身が熱くなる。身体中を掻《か》きむしりたくなった。
初老の男もワゴン車のエンジンを切って、運転席から出てきた。背中を伸ばし、腰を叩《たた》き始める。長時間ドライブを続けてきた証拠だ。
祐美は、その初老の男に顔を寄せた。小声で話しかける。
「やっぱり、テレビ中継してますね」
「ああ。志津夫君の言うとおりずら。彼は来なくて正解だったな」
名椎善男は長野弁で答えた。彼は、べっこう縁メガネを外して、レンズに息を吹きかけ、布で拭《ふ》き始めた。
彼は一昨日の夜明け前、長野県の神坂峠で志津夫に、こう言って、止めようとした。『行っちゃいかんのだ。行ったら、きっと後悔するずら』と。だが、結局、止めることはできなかった。
今の善男は、白いシャツに青のスラックス姿だった。宮司の制服である浄衣《じようえ》は着ていない。そのせいで、人の良い商店主といった感じに見えた。
善男はメガネを拭きながら、言った。
「私なら、テレビに映っても構わんよ。長野県のお人好しの神主が、わざわざ奈良県まで出かけてボランティアしている。ただ、それだけの話ずら」
祐美も微笑した。
「うん。それは私も大丈夫です。東京の巫女《みこ》さんがボランティアしているだけだから」
「それなら、いっそのこと二人とも堂々と映してもらおうか」
祐美は唸《うな》った。可愛い丸顔が渋面になる。
「いや、そこまではちょっと……。事情が事情だから……」
「まあ、そうだな……」
善男は、うなずいた。メガネをかけ直して、言う。
「……しかし、本当に、あんたらに会えて良かった。ボランティアでここに顔を出したら、ちょうど志津夫君と、あんたに出くわしたからな。内心では、もしかすると会えるんじゃないか、と思っていたがね」
「ええ」
祐美は、うなずいた。これまでの経緯を思い返した。
昨日の朝から、彼女は志津夫と共にボランティアを始めていた。このまま何もせずに被災地を離れるなど、到底できないような状況だったからだ。そこで、隣の橿原《かしはら》市でレンタカーのワゴン車を借りて、食料や包帯、医薬品などをピストン輸送していた。
そして昨日の夕方だった。この桜井市役所前に着いたところで、「志津夫君!」と大声で呼び止められた。それが名椎善男だった。
以後、トリオが結成された。三人はワゴン車に乗り、ボランティアを続けてきた。当然、祐美たちは、今までの経緯を善男に説明してきた。
「おや?」
善男が振り返った。テレビ局のリポーターの方を見る。
リポーターは、カメラマンを誘導して、市役所の建物の中へ入っていくところだった。一心不乱に喋《しやべ》っている。他の被写体を想定していたらしく、祐美や善男に興味はないようだ。
善男がリポーターの後ろ姿を指さした。舌打ちし、冗談めかして言う。
「残念。インタビューされそこなったか。……私はテレビに出たことは一度もない。チャンスだったのに」
「ええ。本当に残念だな」
祐美は言葉とは逆に、晴れやかな表情で言った。しかし、ふと横を見て、その顔が曇った。
仮設テントの脇に座り込み、呆然《ぼうぜん》としている老若男女だ。視界に入るだけで三〇人はいた。
彼らは顔も衣服も汚れていた。家を失い、着替えも失ったからだろう。まぶたを押さえて、うずくまっている人もいる。泣いている子供たちも二、三人いた。家族の誰かが犠牲になったのだろう。
祐美は苦汁を飲んだような顔になった。眼前の陰惨な光景に、居たたまれなくなった。
彼らの平和な家庭や、平穏な人生は崩壊したのだ。食料も包帯も傷薬も、彼らを癒《いや》す手助けにはならないのだ。それを思うと、無力感に苛《さいな》まれた。
すぐに逃げ出したい気分だった。だが、この場から逃げても、脳裡《のうり》に焼きついた被害者たちのイメージからは逃れられない。これは一生つきまとうだろう。脳髄に針が刺さっているような苦痛を感じた。
「考えすぎない方がいいずら」
善男がメガネの位置を修正しながら、話しかけてきた。
「私には難しいことはわからん。オルバースだの暗黒物質だのとかの話も、よくわからん。……しかし、話を聞くと、もっともっとたくさんの犠牲者が出ていたかもしれないんだろう? カムナビとやらのせいで、奈良県は全滅していたかもしれない。いや、それどころか、日本中が被害に遭ったかもしれない。それを、あんたたちが未然に食い止めた。立派な大手柄だ」
「ええ」
祐美はうなずいた。だが、野球帽のつばをさらに下げてしまう。
やはり災害を防いだ英雄の気分には、ほど遠かった。暗雲が全身につきまとっているような気がする。
彼女は、男まさりで快活そのものの性格だが、そうした本来の自我はどこかへ行ってしまった。事件∴ネ前の、無邪気な自分に戻れる日が来るだろうか? そう自問してしまう。だが、今は悲観的な答えしか出てこなかった。
そこへ、だんご鼻がトレードマークの安田が戻ってきた。
「あ、終わりました。いや。どうも、私が代表でお礼を申し上げます。ありがとうございます」
安田は深々とお辞儀する。腰を直角に折り曲げる最敬礼だ。
「いえ。とんでもない」
祐美は慌てて野球帽を取った。何度もお辞儀を返す。
傍らにいた善男もそれにならった。お互いに、頭を下げる回数を競い合う状態になった。
安田は建物の方を指さした。
「いや、こんな状況だから、ろくにおもてなしも出来ないが、市役所の空いてる部屋で、お茶でも飲んでいきませんか?」
祐美は顔を上げ、慌てて首を振った。
「いいえ。結構です」
「しかし、昨日からほとんど徹夜で、ピストン輸送してもらってるじゃないですか。あの、いつもサングラスをかけている葦原さんという人も疲れて、倒れたそうだし……」
「いいえ。大丈夫です。私たちもそろそろ一休みしますから」
「そうですか……」
安田は少し残念そうな顔になった。だが、すぐに笑顔で一礼した。
「では、ご苦労様でした」
「いえ、そんな……」
祐美は、罪悪感と恥ずかしさのあまり、つい足を小刻みに動かしてしまう。タップダンスでもやりかけているようだった。
安田に何度もお辞儀され、祐美と善男もお辞儀を返した。それで、やっと相手は二人を解放し、立ち去ってくれた。
祐美は吐息をついた。彼女は両腕と顎《あご》をワゴン車の屋根に載せて、よりかかってしまう。急に疲労感が襲ってきたのだ。
祐美は、そのままの姿勢で、
「本当に一休みしましょうか?」
善男も、うなずいた。
「うん。その方がいいずら。あんたも志津夫君も、これ以上頑張ったら、倒れるに決まってる」
「あ、あんたは!」
唐突に、大声が響いた。
祐美も善男も感電したような動作で、振り返った。
そこには五〇歳前後の中年男がいた。ひげの濃さが目立つタイプだ。目を見開き、口も大きく開けていた。右手で、祐美を指さしている。
男の左手は包帯に覆われており、額や右頬にもバンソウコウが貼ってあった。汚れた紺色の制服のようなものを着ている。だが、警官や自衛官などではなく、守衛か何かの服装のようだ。
中年男は、祐美に駆け寄ってきた。かなり興奮した面もちだ。だが、怒りや憎悪の雰囲気はなく、喜びの色が感じられた。
中年男は、祐美の細い肩をつかんだ。野球帽の下の丸顔をのぞき込んでくる。普通なら礼を失する行為だが、男は有無を言わせぬ態度で、そうしてきた。
男はまた叫んだ。
「やっぱり、あんただ! あの時の人や。きっと、そうだ。そうでしょう?」
突然の大声に、周囲にいた人々も振り返った。すべての視線が一斉に集まってくる。背伸びして、人の頭越しにのぞこうとする者もいた。
祐美は、まだ驚愕《きようがく》から醒《さ》めていなかった。口が半開きだ。瞬《まばた》きして、相手に訊《き》く。
「あの……どなたですか?」
「私だ! ほら、昨日の朝、助けてもらった者だ。……一昨日の夜、私はキーが付いたままの車を見つけて、それに乗って逃げようとしたんだ。ところがトラックにぶつけられて、ひっくり返ってしまった。で、そのまま車に閉じこめられてしまい、逃げ出せなかったんだ。トラックの野郎は薄情にも、そのまま当て逃げしやがった……」
その瞬間、祐美の脳裡で記憶が蘇《よみがえ》った。一秒一コマぐらいの映像として、完璧《かんぺき》に再生された。「あっ」と言いかける。
だが、すぐに口を閉じた。これは認めるわけにはいかないのだ。絶対に。
祐美は困ったような微笑を浮かべて、
「あのう、人違いじゃないですか?」
「人違いなもんか。あんたや。その野球帽も、その可愛らしい顔も覚えてる。忘れるもんか」
中年男は、祐美の肩から手を離した。二歩、後退すると、背筋を一直線に伸ばして、気をつけの姿勢を取った。そして深々とお辞儀する。
「いや、本当にありがとう! あなたは命の恩人だ」
「だから、人違いです」
「え?」
中年男は唖然《あぜん》と、祐美を見つめ返した。その視線が痛いくらい突き刺さってくる。
どうやら彼の脳裡には、祐美の容姿が鮮明に刻みつけられているらしい。それも天使のようなイメージで脚色されているようだ。
数秒おいて、男は一気にまくしたてた。
「そんなバカな……。だって、あんたでしょう? 逆さまの車を、ひっくり返して、私を助けてくれたじゃないですか? いったいどうやったのか知らんが、とにかく、あんたが、しっかり何かにつかまれと言うから、私はハンドルとハンド・ブレーキを握ったんだ。そしたら……」
中年男は腰を落として、ポーズを取った。両手のひらを前方に向けた姿勢だ。伯家流神道の秘印を再現していた。
「何んというか、あんたはこんな感じの姿勢になったな。すると奇跡が起きた。車がひとりでにひっくり返ったんだ。いや、というより、あんたが何かをやってくれたんだ……」
「だから、人違いで……」
「あ、名前も言ってなかった。私は山沢努といいます。桜井考古学研究所で守衛をしています。もっとも一昨日の夜、研究所は消えてなくなったんで、失業中だが……。まあ、そんなことはどうでもいい。とにかく、礼を言いたかった。あんたの名前も聞いておきたかった」
祐美は深呼吸した。
この山沢という男には悪いが、祐美は自分の本名を教えるわけにはいかないのだ。遠当て≠フ秘技についても、絶対に認めるわけにはいかなかった。ここは、きっぱりと否定するしかない。
祐美は顔面を引き締めると、一礼して、言った。
「申し訳ありません。私には覚えがないんです。人違いです」
「そんな……」
山沢は不審感のあまり、顔が歪《ゆが》んでいた。祐美を指さそうとする。だが、中途半端な位置で手が止まった。
「だって、その野球帽……」
「野球帽かぶってる人なんて、いくらでもいるでしょう」
「だって、その可愛らしい丸顔……」
「可愛らしい丸顔の人なんて、いくらでもいるでしょう。じゃ、先を急ぎますので……」
祐美は一礼すると、カローラ・ツーリングワゴンの助手席に滑り込んだ。
名椎善男も状況を察して、すぐ運転席に座った。キーをひねって、一六〇〇ccエンジンを始動させる。
周辺の人々がざわついていた。何だ何だ、という声が盛んに聞こえる。
善男はミッションを「R」にして、ワゴン車を一旦《いつたん》バックさせ、道路に出た。ステアリングを切り返して、ミッションを「D」にする。エンジンをふかして、市役所を後にした。
ワゴン車は、すぐに交差点にさしかかった。
十字路の中心には、制服の警官が立っており、交通整理をしていた。口にくわえたホイッスルを鳴らし、ラジオ体操のような動作を繰り返している。停電で、信号機がすべて止まっているせいだ。
祐美はルームミラーを動かして、後方を見た。
市役所前にはパトカー、救急車、テレビ中継車などが並んでいた。被災者や報道関係者がひしめき合っている。
それらを背景に、山沢が立ちつくしていた。彼は後頭部を掻《か》きながら、ワゴン車を見送っている。その寂しげな姿が徐々に遠ざかっていった。
祐美は嘆息する。
これで、あの中年男の人生には、奇怪な体験がさらに追加されてしまったわけだ。不思議な超能力を発揮して、彼の命を助けたというのに、そのことを認めずに去っていった謎の美少女だ。彼女は何者なのか? それを考え始めると、あの男は眠れなくなるだろう。
祐美はミラーに映る山沢に向かって、言った。
「ごめんなさい」
善男が運転しながら、訊いた。
「そんなことがあったのかね?」
祐美はうなずいて、
「ええ。昨日の夜明け頃のことです。まだ、マスコミが駆けつけて来る前です。私が遠当て≠ニいう技を使って、道路を塞《ふさ》いでいる車の残骸《ざんがい》を全部、片づけたんです。そうしないと救急車が通れないし、せめて、そのぐらいはやらないと、申し訳ないと思って……。その時は志津夫さんが私の背中を支えてくれた。つまり、反動で私が倒れて、頭を打たないようにサポートしてくれた……」
祐美の脳裡《のうり》に、記憶が蘇った。
あの時は、まだ市内のあちこちに焼死体が転がっていた。燃え続けている家屋も多かった。雨もどしゃ降りの状態だった。
そんな状況下で、志津夫は地面に片膝《かたひざ》をついた姿勢になり、祐美の背中を支えてくれた。そして、祐美が車の残骸を吹っ飛ばしたのだ。
さすがに、大型トラックには手こずった。道路から除去するまで、遠当て≠二〇連発ぐらいやらなければならなかったからだ。おかげで祐美の小ぶりなヒップと志津夫の顔面が、何度も激突した。
山沢努という男性を助けたのも、そうした除去作業の一つだった。だが、いろいろな出来事が次々に起きたものだから、ついさっきまですっかり忘れていたのだ。
祐美は少し笑って、
「今の山沢さんという人、志津夫さんのことは全然、覚えてなかったみたいだな」
善男も、うなずいて、
「よっぽど、あんたの印象が強かったんだろうな」
志津夫はガーゴイル・サングラスをかけていた。無精ひげが目立っている。肌にも色つやがない。
服装は汚れたジーンズに、汚れたTシャツ姿だ。しかし、被災地なので、こんな格好をしていても目立たなかった。
高さ三二メートルもある大鳥居を見上げた。一二階建てのビルに相当する、巨大なモニュメントだ。
これの形式は「明神鳥居」と呼ばれるものだった。最上部の笠木と呼ばれる横木が、両端に向かって反り上がっているのが、特徴だ。
しかし、今は笠木の左端が溶けて、垂れ下がっていた。何とも不格好なありさまだ。幼児が造った粘土細工の方が、まだましだろう。
彼方《かなた》では、青空の下で三輪山が三角形の稜線《りようせん》を描いていた。その形は今も秀麗そのものだ。だが、中腹と山頂はスギ林が焼失しており、円形脱毛症のごとき様相を呈していた。
足元のアスファルト道路には、涙滴形の鋼鉄のかけらが多量に散らばっていた。カムナビによって、大鳥居が溶かされた時に生じたものだ。志津夫が蹴飛《けと》ばすと、金属音を立てて、転がっていく。その音がより一層、侘《わ》びしさをつのらせた。
周辺の土産物屋なども、火事で燃え落ちていた。家屋の土台と、五、六本の柱だけが、かろうじて黒こげ状態で残っているだけだ。
周りを見渡しても、焼け跡ばかりだった。まともな家屋は半分に満たない。
幸い、ここは人口密集地ではないため、家屋と家屋とが離れているケースが多い。そのおかげで桜井市は、全焼する事態だけは免れたようだ。
歩道には焼けこげた車や、横倒しになったトラックが乗り上げていた。それらが事件当夜のパニックぶりを物語っている。誰も交通法規など守らなかったのだろう。まるで、内戦が勃発《ぼつぱつ》した場所のようだった。
志津夫は、サングラスの下の充血した目をこすった。睡眠不足のせいで、まぶたも腫《は》れ上がっている。身体が疲れきっているのだ。だが、眠れそうになかった。
また、脳裡《のうり》で自問が始まった。なぜ、こんなことになったのか? 結局、すべては自分の責任なのか?
答えは、イエスの濃度が濃いと思えた。自責の念が絶えることなく湧いてくる。
あの時、引き返していたら……。神坂峠の洞窟《どうくつ》神社になど入らずに引き返していたら……。親戚《しんせき》の名椎善男に止められた時に引き返していたら……。
一昨日の深夜のことも思い出した。正一が焼死体と化してしまったのだ。
もはや、生前の面影など一片も残っていなかった。長時間、燃え続けた後だったため、こげた骸骨《がいこつ》といった状態だ。髪の毛も皮膚もなく、肉質もほとんどなかった。
やがて三輪山に雨が降り始めた。焼けた遺骨に滴がぶつかる度に水が音を立てて蒸発し、白い蒸気が舞い上がった、おかげで亡骸《なきがら》の温度が下がり、触れることができた。
一方、ナガスネヒコは黒っぽい粉の固まりになっていた。通常の生命体とは異質なものに変わっていた証拠だろう。
蛇神の遺骸は、雨に打たれているうちに形が崩れていった。最後にはただの泥水になった。骨も残らず、流れ去ったのだ。
同様に草薙剣《くさなぎのつるぎ》や銅鐸《どうたく》も、溶けた金属の固まりになっていた。これらに宿っていたアラハバキ神の分身も消失したらしい。志津夫が触れても、超常的なチ≠フ波動はまったく感じられなかった。
志津夫は、自分の上着で正一の遺骸を包み、三輪山から運び出した。祐美も顔をしかめながら、手伝ってくれた。
山から下りて、真希の愛車フェアレディZに辿《たど》り着いた。とりあえず、亡骸を車のトランクに納めようとした。
だが、その頃になると、遺骸は手足の関節を徐々に曲げ始めていた。焼け残って付着していた筋タンパク質が、熱で化学変化を起こし、固まったせいだ。死者がスローモーションで、のたうちまわっているような光景だった。
祐美は、こらえきれずに嘔吐《おうと》した。志津夫は独力で、何とか亡骸をトランクに納めた。
志津夫がその作業を終えて、顔を上げると、夜明けの桜井市が目に入った。
雨のおかげで、市街を襲った業火《ごうか》も静まりつつあった。いくつかの炎があちこちに点在しているくらいだ。大気には焦げ臭い匂いと、雨の匂いとが混じっていた。
志津夫と祐美は呆然《ぼうぜん》とした顔のまま、炎上した市街を見ていた。どしゃ降りの中で、ただ立ちつくしていた。
父の人生は何だったのか、とあらためて自問してみる。だが、それを思い起こすと、全身が汚水に浸かっているような気分になった。
正一が真相に触れるために払った代償は、あまりにも高すぎた。人生と家庭生活を失った。カムナビから息子を守ろうとしたためだったのだが。
そして今、志津夫も父の足跡を辿《たど》っているのだ。これをどう受け止めればいいのか。まだ結論が出そうにない。
……志津夫は首を振り、回想から現実に戻った。
道路の彼方《かなた》に、グレーのカローラ・ツーリングワゴンが現れた。それは視界の中で見る見るうちに大きくなってくる。
ワゴン車の助手席にいる野球帽の女の子が、片手を振った。
グレーのカローラ・ツーリングワゴンが停車した。助手席のドアが開く。
「オッス」
白川祐美が片手を挙げて、挨拶《あいさつ》した。相変わらず男の子みたいな口調だ。車から降りると、自分よりも背の高い志津夫を見上げた。
「やっぱり、あそこでテレビ中継やってたよ」
志津夫は、うなずいた。安堵《あんど》のため息が出た。
「そうか……。途中で車を降りて、正解だったな。もしかすると全国に、この顔が流れたかもしれないからね」
「そんなに神経質にならなくてもいいのに」
「いや。同僚や友人知人には見られたくないんだ。何しろ、失踪《しつそう》しなきゃならないんだ。手がかりは残したくない」
志津夫はサングラスを外した。
充血した目が露《あらわ》になった。無精ひげのせいもあり、かなり荒《すさ》んだ感じに見える。二枚目半のルックスが台無しだった。
彼は自分の目頭をこすった。その付近に冷たい感触がある。
もしかすると、父のように赤外線感知器官のピットが出来つつあるのかもしれない。変身への恐怖が湧き上がってくる。思わず顔が歪《ゆが》み、少し身震いした。
祐美が眉間《みけん》にしわを寄せた。顔を近づけてくる。
「何? 何か異常でもあるの?」
「い、いや。今のところ、大丈夫だよ」
志津夫は慌てて首を振った。サングラスを胸ポケットにしまう。今は、この話題を口にしたくなかった。
名椎善男も、ワゴン車の運転席から出てきた。自分の腰を叩《たた》いている。ボランティア疲れだろう。
老人は、べっこう縁メガネに手をやり、位置を修正した。志津夫の様子をあらためて観察しているようだ。心配そうな表情で、言った。
「志津夫君」
「はい?」
「一休みしよう。ホテルかどこかで眠るんだ。これ以上は、あんたも身体が持たないずら」
「ええ。でも、父さんの遺体も、どうにかしないと……」
善男が首を振った。
「それも一休みしてからだ。やはり、私の村に運ぼう」
「そうですか……」
志津夫は吐息をついた。少し、うつむきかげんになる。
だが、すぐに顔を上げた。何かを決意したような、思い詰めた表情だ。
「じゃ、今すぐ運びましょう。その後、ぼくは東京に行きます。埋葬は、ぼくが帰るまで待っててください」
「え?」
祐美と善男が、異口同音に言った。
志津夫は彼らの顔を交互に見て、
「家と土地を処分してきます。その金を、被害者や遺族の救済のために使ってもらう。……とても足りないだろうけど、何もしないよりはましだ……」
祐美と善男は、しばらくお互いの顔を見たり、志津夫を見たりしていた。応答する言葉が出ないらしい。
志津夫は続けた。
「町田市のあの土地は、母が遠い親戚から、普通よりも安い値段で手に入れたものです。今は、ぼくのものです。どう処分しようと、ぼくの勝手なんです……」
祐美と善男は依然として黙っていた。しばらく沈黙が続いてしまう。
やがて二人はお互いの目を見て、うなずき合った。志津夫の気持ちを察してくれたようだ。
祐美が代表して、言った。
「そうなんだ」
「ああ、そうだ」
祐美は人差し指を振って、
「でも、だいぶくたびれているみたいよ。一晩休んでからでも……」
「遺体を日見加村に運ぶ方が先だ。そうしたら、一晩寝るよ。で、すぐ東京に行って、不動産屋に交渉だ」
志津夫は淀《よど》みなく返答した。すでに、結論は出ていた。だから、それに沿って行動計画も立ててしまったのだ。
「大学にも予備校にも、手紙で辞表を出してくる。まあ、いきなり行方不明になっても構わないんだけどね。勤務先に対しては無責任かなと思って」
志津夫は肩をすくめた。自然に吐息が出てしまった。
これで、今までの人生設計とは完全におさらばだ。もう学生相手の講義も、論文執筆も、主任教授たちへのご機嫌うかがいもしなくていいのだ。そう思うと清々した気分だ。
だが、同時に何とも言えない頼りなさも感じた。失業し、失踪することで、これほど空虚な気分になるとは思ってもいなかった。背骨を失ったような感じがする。たぶん父も、これを味わいながら生きてきたのだろう。
祐美が心配そうな顔で、訊《き》いた。
「でも、その後は、どうするの?」
「どうって?」
「全財産を寄付して、ボランティアを続けるのはいいよ。だけど今から一年後、二年後は、志津夫さんは何をしているの?」
志津夫は喉《のど》にトゲが刺さったような顔になった。口を開きかけ、すぐに閉じる。自分の思いを即座に表現できなかった。
彼はうつむいた。爪先《つまさき》で地面を蹴《け》ったりもした。やがて、言った。
「わからない……。わからないけど……。やはり、父さんの二の舞かな?」
「え?」
志津夫は少し考え込んでしまった。脳裡《のうり》で言葉を整理する必要があったからだ。顔を上げて、言った。
「つまり、ぼくの父は、カムナビの復活を阻止しようと行動していたんだろう? それなら、誰かが受け継がないと、父の努力は無意味になる」
「うん」
祐美は微笑した。自分の仲間が増えることが嬉《うれ》しいのだろう。
志津夫は続けた。
「……確かに、草薙剣は溶けてなくなった。でも、三種の神器はあと二つ残っている。たぶん、それらにも先住民族の怨念《おんねん》がこもり、アラハバキ神の分身が宿っているのかもしれない。また、それ以外にも歴史の表舞台から忘れ去られた神器もあるだろう。青い土偶だって、まだ他にも残っているだろうし、それらの危険性も消えてはいないだろう。
……しかもだ。ぼくの父の考えが正しいとすると、日本だけでなく太平洋沿岸全域に、カムナビの火種は残っていることになる……」
祐美は、ため息をついて、
「うん。そうだよ。いずれは、海外にも目を向けないとね……」
「ああ、まったく大変なボランティアをやってたんだな。君たちの一族も、父さんも……」
志津夫は、両手を握りしめてしまった。爪が手のひらに食い込み、腕が震えてくる。
ふいに自分への怒りが湧き上がり、脳裡が真っ赤になった。頭蓋骨《ずがいこつ》の中にマグマが噴き出す感覚だ。思わず歯を食いしばってしまい、険しい表情になる。
「……ぼくは、いい気なもんだったよ。古代の真相を暴いてみせるとヒーローぶっていた。神坂峠でも、善男さんの前で大演説をぶった。考え直すチャンスは何度もあったのに、平凡な人生に引き返すチャンスはあったのに……。でも、そうしなかった……」
志津夫は天を仰いだ。
「それで結局、ぼくは何をやらかしたんだよ!」
彼は叫ぶと、路面に落ちていた鋼鉄の固まりを蹴飛ばした。直径四センチほどの涙滴形が飛んでいき、不規則にバウンドする。大鳥居の根本にぶつかり、止まった。
キャンピングシューズを振り回し、続けざまに蹴った。だが、いくら蹴っても、胸のつかえは取れない。
さすがに息が切れてきた。志津夫は蹴るのをやめた。息を弾ませつつ、散らばった鋼鉄の玉を凝視している。
八つ当たりしても、惨めさが増幅しただけだった。魂まで腐乱していく気分だ。元気が出そうな材料は一つもなかった。
祐美と善男は何も言わず、見守っていた。実際、口出しできる雰囲気ではないからだ。立っている位置も、今までより一歩、後退している。
彼ら二人の視線を意識して、志津夫は理性を取り戻した。首を振る。
「……もちろん、この桜井市でのボランティアも続けるよ。こんな、ひどいことになってしまって……」
志津夫は、また周囲を見回した。
崩れた家屋ばかりだった。穴の開いた壁や、焼け残って、屹立《きつりつ》している柱が目につく。むき出しになった水道管も多い。
かまぼこ型のビニールハウス農場も、骨組みだけになっていた。溶けたビニールの残滓《ざんし》が垂れ下がっている。焼けこげた作物の断片も散乱していた。
まるっきり戦火の跡だった。もしくは大震災の直後のようだ。今の日本では、まずお目にかかれない光景だろう。
祐美が一歩、前に出た。可愛い丸顔をひきしめている。志津夫を直視して、言った。
「いいえ。ナガスネヒコは、あなたと正一さんが止めたじゃない。なら、それで帳消しだよ。もっともっとたくさんの犠牲者が出ていたかもしれない。それを未然に食い止めた。立派な大手柄だよ」
それを聞いて善男が、祐美を振り返った。肩をすくめ、微笑する。どうやら老人と彼女は、似たような話題を話していたらしい。
だが、志津夫は、ゆっくり首を振った。
「……死んだ人は帰ってこないよ。帳消しにはならない……」
志津夫の目は、人生に疲れきった敗残者のようだった。瞳孔《どうこう》がすぼみ、ピントを合わせる力もなくしている。徐々にうなだれてしまう。
「でも、何か、できることをやるしかないな……。ぼくがもっと悲観的な人間なら自殺してるだろう。でも、根が楽天家だから、自殺もできないんだ。おかげで何というか精神的に、なぶり殺しにされてる感じだよ……」
今まで黙っていた善男が口を開いた。
「志津夫君。すると、今後もずっと、この桜井市に住むのかね?」
志津夫は、うなずいて、
「あるいは、そうするかもしれません。何か、ぼくにできることを見つけるために……」
祐美が慌てた感じで、言った。
「ねえ、そんな風に決め込まなくてもいいのに」
「決め込んだわけじゃない。考え中だ」
その時、道路の彼方に黒っぽい乗用車が出現した。
車の屋根にはタクシーの標識が付いていた。ごく平凡な外観だった。時速五〇キロほどで、志津夫たちの方に接近してくる。
祐美は両手を広げて、
「あの……。だったら、うちの神社にきたら? 歓迎するよ。少なくとも衣食住の心配はないよ」
志津夫は、野球帽の下の丸顔を見つめた。
祐美は何か訴えるような目をしていた。同情や親愛感が混じった目だ。暖かみのある波動が伝わってくる。
志津夫は微笑した。笑みを浮かべたのは二日ぶりかもしれない。祐美の瞳《ひとみ》に、自分への好意を感じたのだ。
彼は冗談めかして言った。
「それもいいね。君のところで、神主の見習い修行か……」
タクシーがさらに近づいてきた。その車は志津夫たちの眼前で、急ブレーキをかけた。タイヤが軋《きし》み、甲高い音を立てる。
思わず三人は、タクシーを振り返った。
黒いタクシーは、志津夫たちの位置から七メートルほど通り過ぎたところで、停車した。後部ドアが開く。
客と運転手の会話が聞こえた。
「釣りはいらん。とっといてくれ」
「あ、そうですか。こりゃ、どうも」
後部ドアから、二本の松葉杖《まつばづえ》が束ねて、突き出された。腋《わき》の下を支える形式のオーソドックスな松葉杖だ。
続いて、紺のスラックスに包まれた左足が出てくる。三番目に出てきた右足は、ギプスで固められているらしく、伸びきったままだった。
その中年男は片手でドアにつかまり、片手で松葉杖を操って、地面に降り立った。束ねていた松葉杖を二つに分けると、それで両腋を支える。
彼は口ひげを生やしていた。白と青の縦縞《たてじま》のシャツが似合っている。
全身から、上品なオーラを漂わせていた。貴族的な雰囲気のある人物だ。現代では珍しいタイプだろう。
だが、彼の眼光には、あまり上品さはなかった。今にもストロボのように輝きそうで、常人離れしている。初対面の相手にも、強烈な印象を与える人物だ。
祐美が唖然《あぜん》と呟《つぶや》いた。
「父さん……」
「ご苦労だったな、祐美」
白川幸介が答えた。
「では、ありがとうございました」
タクシー運転手はそう言って、後部ドアを閉めた。
タクシーはエンジン音を響かせて発進した。黒い車体は、廃墟《はいきよ》がつくり出す遠近法の中を遠ざかっていく。後には、四人の男女が残された。
白川幸介は、眼前の三人を順番に見た。
向かって右端に立っているのは、娘の祐美だった。
その外見は野球帽をかぶった丸顔の美少女だ。だが、男の子と見まちがえる者も多いだろう。
祐美は驚きのあまり目をまん丸にしていた。数秒ほど凍りついていたぐらいだ。それが解けると、慌てて駆け寄ってくる。
「父さん! その足は?」
「平気だ。もう治りかけてる」
幸介はそう答え、向かって真ん中の男を見た。
葦原志津夫だ。今回、台風の目になった男だ。それも超弩級《ちようどきゆう》の熱帯性低気圧を呼んだのだ。
彼は一礼した。だが、挨拶《あいさつ》の言葉は出なかった。
志津夫は斜め下に顔をそむけてしまった。黙ったまま、後頭部を掻《か》き始める。悪事がばれた子供みたいな態度になっていた。
実際、幸介が現れたとたんに、志津夫は見る見るうちに表情が暗くなっていった。今も、幸介の顔を正視できないらしい。言うなれば、幸介の忠告を無視して、そのせいで天罰を喰《く》らったような気分だろう。
向かって左端の三人目は、見知らぬ老人だった。顔のしわから判断して、六〇代だろう。べっこう縁メガネをかけており、白いシャツに青のスラックス姿だ。
その老人には、年取った忠犬のような印象があった。いかにも純朴そうな人柄が、顔にも滲《にじ》み出ている。
幸介は質問した。
「そちらの方は?」
祐美が片手で、老人を示して、
「あ、こちらは、その……。つまり、電話でも少し話したけど……」
善男は一歩、前に出た。一礼し、自己紹介を始めた。
「名椎善男です。志津夫君や正一さんの遠縁の者です。長野の日見加村で、神主をしております」
幸介は胃袋を蹴《け》られたような気分になった。一瞬にして、多種多様な思考が脳裡《のうり》を駆けめぐった。そうか。この男が……。
だが、幸介は、表面上は眉《まゆ》を上げただけだった。できるだけ表情を変えないよう努めて、相手を観察した。
名椎善男自身は、人畜無害そのものに見えた。真希のような野獣性を秘めた雰囲気などは感じられない。自分の領分をわきまえて、善人として穏やかに半生を過ごしてきた人物なのだろう。
幸介は儀礼的に微笑んだ。
「そうですか。私の同業者ですな。娘からの電話で、少しは事情を聞きました。私は白川幸介。祐美の父親です」
「そうでしたか、あなたが……」
善男は、幸介を凝視した。彼も、祐美や志津夫から事情は聞いていたらしい。
老人はあらたまった感じで、背筋を一直線に伸ばした。幸介に向かって、丁寧に最敬礼する。まるで田舎の神父がローマ法王に拝謁したような態度だった。
「これはどうも。神祇伯《じんぎはく》の子孫の方に、お目にかかれるとは光栄です」
幸介は苦笑してしまった。
神祇伯とは、今風に言うなら「宗教大臣」といった地位だ。白川家一族は、その地位を世襲していた。神道の歴史においては名門の家柄だ。
幸介は右手を松葉杖から離して、振った。
「よしてください。とっくの昔に落ちぶれました。明治政府からはインチキ呼ばわりされて、神祇伯の位も廃止され、天皇家との関係を絶たれて、没落した……。そのぐらいはご存じでしょう」
「はあ、そうですか……」
善男は目をしばたいた。幸介に同情心を抱いたようだ。
一方、幸介は遠くを見るような目つきになった。独り言のように言う。
「そうですか。長野の日見加村ですか。神坂峠の近くか。あの辺は、縄文時代からの古代|祭祀《さいし》遺跡も豊富にあるし、ヤマトタケルも立ち寄った場所とされている。万葉集でも、神が住む場所として歌に詠まれている……。そうか、神坂峠か。うちの先祖も、その辺りにまでは目が届かなかったようだ……」
幸介は表情を引き締めた。眼光に殺気がみなぎり始める。
同時に善男も、笑顔が消えた。幸介が放射する、ただならぬ気配に気づいたようだ。
祐美と志津夫も顔を見合わせていた。もちろん幸介が怪我を押して、この場に来たのは物見遊山《ものみゆさん》などではないのだ。そのことに、若い彼らも気づいたのだろう。
幸介は老人を直視して、言った。
「名椎さん、是非、お訊《き》きしたいことがあります」
「は、はい?」
善男は少し怯《おび》えた顔で、答えた。
幸介の態度は、最有力容疑者を見つけた刑事そっくりだった。話を続ける。
「どうやら、アラハバキの秘祭が、あなたの村で受け継がれていたらしい。あなたは知らなかっただろうが、これはうちの一族にとっては大問題でね。過去には、暗殺命令が出たことが何度もあったぐらいです」
幸介は両手を前方に伸ばした。体重は、両脇の松葉杖と左足の三点で支えている。バランスを崩す心配はなかった。
幸介は両手の親指と人差し指で、正三角形を作った。それが照準器となる。標的は、名椎善男の心臓だった。
善男は硬直していた。直感的に、生命の危機を悟ったのだろう。顔が歪《ゆが》んでいた。唇の線が「へ」の字になったほどだ。
「父さん!」
祐美が叫んだ。ショックで丸顔がひきつっている。
「白川さん!」
志津夫も叫ぶ。一歩、前に出た。だが、それ以上は身動きできなかった。幸介の凄《すさ》まじい殺気に圧倒されたのだろう。
幸介は遠当て≠フ構えのまま、質問した。
「名椎さん、答えてください。あなたは今後どうなさるおつもりですか? 秘祭を続けるつもりですか? もし、あなたがそういうお考えなら、私は最後の手段を選ぶことになる。つまり、実力行使だ……」
名椎善男は、今まで日見加村以外の場所に住んだことはなかった。山間の村落で平穏無事に生きてきた男だった。
日見加村では暴力|沙汰《ざた》に巻き込まれることなどなかった。それは六つ子の父親になる確率に等しかった。そのぐらい平和な半生だった。
彼は農業と宮司とを兼業し、「土着の信仰」を守り続け、村の過疎化を防いできた。それが彼のすべてだった。
善男は、第二次大戦には従軍していなかった。兵役に就く前に、戦争が終わってしまったからだ。だから、銃器の類《たぐい》に触ったこともないし、銃口を突きつけられた経験もない。刃物を突きつけられた経験すらなかった。
だが、今の彼は、大口径ライフル銃で狙われたら、どんな気分かを実感していた。
白川幸介という男が放つ殺意は本物だった。獲物を見つけた肉食獣の眼光を放っている。一咬《ひとか》みで相手を絶命させる自信に満ちていた。
善男は、遠当て≠ノ関しては、祐美や志津夫から聞いた知識しかなかった。しかし、幸介の顔を見て、一〇〇パーセント確信できた。この男が本気になれば、自分の命は吹き飛ぶだろう、と。
突然の危機に接して、善男の内臓は締め上げられてしまった。喉《のど》の気管が細くなってしまい、いくら息を吸っても肺に酸素が入らない。心臓にまで痛みを覚えるほどだった。
幸介は冷たい目で睨《にら》みつけてきた。そして冷たい声で言った。
「……私は娘にこう指示しました。名椎真希と葦原志津夫の二人を殺せ、と。その指示はまだ取り消したわけではない」
祐美が再び叫んだ。
「そんな! 父さん! 今さら、どうして?」
志津夫も叫んだ。
「そうだ! だったら、ぼくを殺したら、どうです! 善男さんを狙う必要はない!」
幸介は構わず、話を続けた。
「志津夫君に関しては、保留中だ。ナガスネヒコを倒した功労者だからな。名椎真希という女も、いずれ捜し出して、私が処分する。残念ながら、祐美にはそれが出来なかったが……」
幸介は横目で、娘を見た。
祐美は、父と視線を合わせなかった。徐々にうなだれてしまう。噛《か》みしめた歯の間から、吐息が漏れた。
「せめて、もう一人男の子が欲し……。ま、それはいい」
幸介は、いつもの口癖を自分で打ち消した。善男に向き直り、言う。
「問題は、アラハバキの秘祭を受け継ぐ人物が、まだ残っていたということだ。名椎さん、あなただ」
祐美が間に割って、入ろうとする。
「そんな……。だって、名椎さんは、むしろ志津夫さんを止めようとして……」
「それと、これとは関係ない!」
幸介は一喝した。付近に窓ガラスがあったら、それが割れそうなほどのボリュームだった。
善男も祐美も志津夫も、その声量に圧倒された。一歩、下がってしまう。
善男は直感的に悟った。この幸介という男は、何か特別な呼吸法でも会得したのだろう。それで肺活量が倍増したようなのだ。
幸介は軽く首を振り、続けた。
「……まったく、亡くなった正一さんも長いこと騙《だま》してくれたものだ。彼は、こう言っていたんだ。あるカムナビ山で青い土偶に触れて、そのために自分はウロコ肌に感染したとね。間抜けなことに私は、それを鵜呑《うの》みにしていた」
幸介は伯家流の秘印を構えたまま、大きく首を振った。
「だが、真実の半分に過ぎなかった! 正一さんが本格的に感染したのも、志津夫君がそうなったのも、名椎さん、あなたが彼らにアラハバキの秘祭を施したからだ。そのせいで、彼らは、より感染しやすい体質になっていたんだ。要するに、あなたが最初のタネを蒔《ま》いた張本人だ。そして我々の一族は、そうしたタネを潰《つぶ》すことを職務としてきた」
幸介は左に視線を向けた。
そこには大鳥居があった。高さ三二メートル、柱間二三メートル、重量一八五トンもある代物だ。だが、今は巨神の指で、ひねり潰されかかったような形状になっている。
幸介は周囲の廃墟《はいきよ》も見回した。その顔には憤激が表れていた。大きく吐息をつく。
その動作の意味が、善男には痛いほどわかった。
幸介が睨みつけて、言う。
「この街のありさまを見るがいい! いったい何人死んだことか。こんなことにならないように、我々は見張り役を受け継いできたんだ」
祐美が再度、間に入ろうとする。
「待ってよ、父さん!」
「おまえは黙ってろ!」
幸介の一喝に、祐美も沈黙した。確かに止める方法などない。無理に止めようとしても、その前に、幸介は遠当て≠実行するだろう。
幸介が深呼吸した。同時に、何かを体内に充電しているような感じだった。
幸介は続けて、言った。
「あなた方の秘祭は文化人類学的に言えば、興味深いケースだ。東北地方の隠し念仏≠竅A沖縄のイザイホー≠ノ匹敵するかもしれない。あるいは、それらを上回る歴史があるんでしょうな」
幸介は両肩の肉を盛り上げた。気合いを入れ直して、言う。
「しかし、今日で終わりだ……」
突然、志津夫は右手を、幸介に突き出した。確信を込めて、叫んだ。
「あなたにはできない! 両手を左右に開け!」
とたんに、幸介の両手が勢いよく左右に開いてしまった。まるで見えないゴムひもによって、背後から両腕を引っ張られたような光景だった。本人の意志に反した動作であることは明白だ。
幸介は、志津夫を見た。舌打ちする。
「また、これか……」
幸介はそう言い放つと、深呼吸した。気合いを入れ直したようだ。左右に開いた両手を再び、前方へ伸ばしていく。指で正三角形の照準を作り、善男に向けた。
志津夫が右手を伸ばしたまま、表情を歪《ゆが》ませた。悔しげに言う。
「そんな……」
幸介は鼻息で返事をして、
「無駄だ。君の力は、もう見切った。私はこの道四〇年だ」
全員が彫像と化していた。もし誰かが動けば、即座に幸介は遠当て≠やりかねない雰囲気だった。
幸介は言った。
「また、カムナビを呼ぶか? 無駄だ。あれは正確な照準がつけられない」
そして幸介は善男に向き直り、言った。
「何か言い残すことがあれば、どうぞ。もし、ないのなら……」
善男は深呼吸した。徐々に決意が、彼の体内にみなぎり始めていた。幸介が自分を糾弾する理由は、完全に理解できた。
この場を逃れることはできないと悟った。宿命が巡ってきたのだ。そう自分に納得させた。
一度、そう思い定めると、張りつめていたものが切れて、楽になった。内臓を絞り上げていた不快感も消えた。呼吸も穏やかなペースに戻っていった。
善男は一歩、前に出た。両手を大きく広げ、全身を大の字にする。真正面から、幸介を凝視した。
その態度に、幸介も眉《まゆ》を上げた。不審な表情を浮かべている。
善男は言った。
「さあ、どうぞ」
祐美も志津夫も、善男の決意を悟り、口々に叫んだ。
「名椎さん!」
「善男さん!」
だが、善男は姿勢を変えなかった。
もう恐怖は感じなかった。明鏡止水の境地に達していた。堂々と、人生の最後を迎えようと決めたのだ。
善男は朴訥《ぼくとつ》な口調で喋《しやべ》りだした。
「私から、あなたに意見するようなことは何もありません……。今から考えれば、私は真希さんをよく監督するべきだった。よくよく注意しておくべきだった。そんな不心得な女だったとは、気づかなかった。……しかし、今から何を言っても手遅れずら。大勢の罪のない人たちが死んだ……」
善男は首を振った。次いで、志津夫に視線を向けて、
「日見加村の者に遺言を伝えてくれ」
「遺言だって? だって、善男さん……」
志津夫がそう言い、口を半開きにしてしまう。あまりの急展開に言葉が追いつかないらしい。
善男は構わず、言った。
「奥宮は閉鎖する。ヒナマキやテトオシも、もう二度と奥宮ではやらない。里宮に移し換える、と。それと息子の誠に伝えてくれ。私は納得して死んだ、と」
志津夫は無言のままだった。返す言葉が出てこないらしい。
幸介は構えを解かなかった。善男の真意をまだ疑っているようだ。
善男はさらに一歩、前に出た。その態度に、逆に幸介が気圧《けお》されたようだ。
善男は言った。
「さあ、どうぞ」
全員が凍りついていた。
その状態が一〇〇万年ほど続いたように感じられた。実際には五、六秒間ほどだろう。しかし、長い長い五、六秒だった。
幸介は、ゆっくりと両手を下ろした。盛り上がっていた肩の線も下がっていく。遠当て≠フ構えを解いたのだ。
「父さん……」
祐美が安堵した顔で言った。そして笑みを浮かべる。
志津夫も手で額を拭《ぬぐ》った。顔が冷や汗だらけだ。幸介に呼びかける。
「白川さん……」
善男も拍子抜けした顔になっていた。相手の態度の急変についていけなかったからだ。二重人格の者と対峙《たいじ》しているような気分だった。
善男は広げていた両手を徐々に下げてしまった。唖然とした表情で相手に確認する。
「あの……。やらないんですか?」
幸介は長い、ため息をついた。眼からも殺気が消えている。品のいい中年紳士の顔に戻っていた。
「どうやら私がここに来た目的は、もう達成されていたようですな……」
(葦原志津夫のノートより、抜粋)
桜井市のカムナビ事件から、すでに一年が過ぎた。長いようで、短い一年だった。
名椎善男氏は、今も約束を果たしてくれている。
長野県神坂峠付近にある、奥宮と称される洞窟《どうくつ》神社は、今は完全に閉鎖されている。ご神体であるブルーガラス土偶も、名椎氏の同意を得て、ハンマーで破壊した。その結果、土偶は十数個の破片となった。
白川幸介氏によれば、これでほとんど危険はなくなったという。
土偶の破片は再び布にくるんで、奥宮の神棚に安置された。
ただし、破片のうちの一個だけは別の布にくるんで、白川幸介氏が宮司を務める比川神社で預かることになった。
ところで筆者は、この時の光景から、ある事実を連想した。
縄文時代の土偶は、わざと破壊されたと思われる状態で出土することが多いのだ。どうやら、土偶を壊す儀式や儀礼が存在していたようなのだ。
何か呪術《じゆじゆつ》的な意味があって、破壊したのだろう。だが、その具体的な意味内容については、憶測の域を出ない。縄文時代の文献資料などないからだ。
ただ、筆者の目には、奥宮で行った破壊行為と、縄文時代の儀式とが重なって見えた。
これについて、白川幸介氏に話したところ、彼も「類似性があるかもしれない」と認めていた。
残念ながら、これについて世間に発表する機会はないのだが。
一つ記しておくことがある。
青い土偶を壊してから、約一週間の間に、筆者の皮膚のウロコが減っていったのだ。完全には消えなかったが、大判バンソウコウを身体のあちこちに貼れば、隠せるぐらいになったのだ。
一時は、目頭の下にピットもできかけていたが、これも消えた。
どうやら、感染源である青い土偶が力を失ったとたんに、感染者への影響も弱まったらしい。
これは即効性はないものの、カムナビ事件を未然に防ぐ方法としては、有効な手段だろう。
また、茨城県での父の行動も、これで多少は説明がつく。
つまり、小山麻美という女性が竜野助教授を殺害した後、青い土偶の首を復讐《ふくしゆう》の記念品として欲しがったというのだ。その時、父は、小山麻美が土偶の首を持ち去るのを容認してしまったのだ。もちろん、後で取り返す自信はあったのだろうが。
つまり、青い土偶は五体満足な状態で、初めてアラハバキ神の力≠発揮するらしいのだ。
だから、首だけの代物ならば、小山麻美にしばらく預けても、実害はないわけだ。そのことを、父は知っていたようだ。
マスコミは、あの事件を総称して、「桜井市怪光事件」と呼んでいる。
だが、世間では、事件の真相究明はまったく進んでいない。今も仮説と憶測が飛び交うだけだ。
今のところ有力候補に上がっている仮説は「自然発生プラズマ説」、「球雷説」、「竜巻によるマイクロバースト説」などだ。中には「異星人によるビーム攻撃説」、「某国の秘密兵器の実験説」などもある。それらをもっともらしく、でっち上げた本を出版して、大儲《おおもう》けした者もいる。
いずれも、真相からはほど遠いものだ。
ただし、一人だけ、「オルバースのパラドックスが崩れたからだ」と主張している人物がいるという。
ゴシップ雑誌の記事によると、その人物は、気象庁に勤めていた元・予報官だそうだ。彼によれば、「我々の地球や太陽系は、超巨大生物の腹の中に存在するのだ」そうだ。
なかなか鋭い直感と、聡明《そうめい》な頭脳の持ち主のようだ。
しかし、かわいそうなことに、彼は世間から半狂人扱いされているとのことだ。天動説が全盛だった時代に地動説を主張したガリレオ・ガリレイと同じ悲劇を、彼は味わっているわけだ。
どうやら真相が見えすぎてしまうのも、考えもののようだ。
本来なら、彼は気象庁の職員として今も地道に勤務していたはずだ。そして公務員として、まっとうな生涯を終えることができたのだ。
だが、真相に気づいてしまったために、彼はババ抜きのジョーカーを引き当てたのだ。
この不幸な元・予報官には、同情を禁じ得ない。
また、これは筆者の想像に過ぎないが、もしかすると他にも真相に気づいた人々はいるのかもしれない。実際、NASA(アメリカ航空宇宙局)の関係者などは気づいてもおかしくないのだ。
だが、彼らも真相を公開すれば、世間を混乱させることになると判断し、沈黙しているのかもしれない。
今後もこの状態が続くことを、筆者は願っている。
一年が経ち、桜井市も復興しつつある。ボランティア志願者が活動する機会も減りつつある。だが、筆者はできるだけ現地に顔を出すようにしている。
しかし、桜井市に出かける度に、依然として被災者や遺族が苦悩している姿と出会う。そして、筆者は陰鬱《いんうつ》な気分で帰ってくることになる。
だが、これこそ筆者が背負う十字架だ。今後も目をそむけるわけにはいかないのだ。
ちなみに、カムナビの熱で歪《ゆが》んでしまった大鳥居は、まだ修復されていない。家屋などの復興の方が最優先だからだ。
しかし、高さ三二メートルもある大鳥居が歪んでしまったありさまは大変、珍しい光景である。これを見物しようと、物見高い野次馬が日本全国から集まるのも事実である。
そこで、今のままの大鳥居を観光資源として保存しよう、という案も出ているそうだ。
事件は一応、終息した。
だが、あくまで「一応」に過ぎない。すべてが終わったわけではないのだ。
筆者の亡父、葦原正一の考えが正しいとすると、日本だけでなく太平洋沿岸全域に、その火種は残っていることになる。
中南米のメキシコ、マヤ・アステカ、グァテマラ、ホンジュラス、ペルーなどにも、ポリネシア諸島にも、インドシナ半島にも、古代ピラミッド文化の名残は存在するし、蛇神信仰も存在する。そこにもアラハバキ神の分身が、まだ眠っているかもしれない。
たぶん筆者たちの仕事に、まだまだ終わりはないのだろう。今後も異常気象の類《たぐい》には、要注意である。あるいは比川神社の銅鐸《どうたく》が警報を発したら、ただちに行動を起こさなければならない。
さて、いよいよ今月一杯で「葦原志津夫」という男は、姿を消す。
来月からは、「白川志津夫」に変わるのだ。
婿養子になる決心は、完全に固まった。
どうせ、まともな人生には戻れないのだ。となると、より良い選択肢はこれぐらいしかないだろう。たぶん、亡き父も賛成してくれるのではないだろうか。
祐美と一緒ならば、残りの人生も何とかやっていけそうな気がする。
不思議なのは、名椎真希の消息だ。
あれから一年が経つが、彼女は行方不明だ。彼女の所在に関する情報は何一つない。
おそらく、彼女は白川家の親子に命を狙われると考えて、姿を消したのだろう。
しかし、彼女の性格から見ても、カムナビの秘密を入手することを、そう簡単にあきらめたとは思えないのだ。
いったい彼女は今どこにいて、何をしているのだろうか。
(以上、葦原志津夫のノートより)
その「事件」が起きたのは、桜井市がカムナビに襲われた六月五日の翌日、六月六日だった。
その日は昼過ぎになると、激しい雨も止んでいた。太陽が顔を出し、六月の青空を演出した。午後三時頃には空中を漂う水滴がプリズムとなって、三輪山の上に虹《にじ》の架け橋が出現していた。
同日、同時刻、志津夫と祐美はレンタカーのワゴン車を借りて、ボランティアを始めていた。だから、彼ら二人は知る由もなかった。その頃、三輪山中腹の禁足地で、どんな「事件」が起きていたのかを……。
……その四人は浄衣《じようえ》と呼ばれる和服を着て、三輪山を登っていた。一目で神職の者とわかる制服だ。袴《はかま》の色は紫と水色で、それが階級を示していた。
彼ら四人の場合は、袴の色で二級、三級、四級にかけての階位だとわかった。
また、神職には他に、職制による階位もある。彼ら四人の場合、最上位に当たる宮司は一人もいなかった。その下の禰宜《ねぎ》、権禰宜《ごんねぎ》、出仕《しゆつし》といった、中位から下位の連中だった。
彼ら四人には、それぞれ身体的な特徴があった。小太りの者が一人。中肉中背で色白が一人。中肉中背で色黒が一人。痩《や》せていて銀縁メガネをかけている者が一人だった。
四人は時々、袴の裾《すそ》を持ち上げながら、三輪山の中腹へと登ってきたところだった。夜明けから昼にかけて、豪雨が降ったため、参道が泥だらけだったのだ。四人とも手には軍手をはめて、シャベルやスコップなどを持参していた。何らかの作業を予想しているらしい。
一行は禁足地に辿《たど》り着いた。その場を見るなり、驚きの声をあげた。今まで見たことのない光景が展開していたからだ。
崖《がけ》によりかかっていた大きな立石が倒れていた。そして、その背後に暗い洞窟《どうくつ》が口を開けている。何やら神秘的な眺めだった。
神職の者たちは当然、不思議がった。目を見開き、口々に言う。
「何だ、あれは?」
「磐座《いわくら》が倒れてる……。しかも、その後ろに……。あれは洞窟か?」
「知ってたか?」
「いいや、初耳です」
だが、彼らは、すぐには洞窟見物に行かなかった。
最年長で小太りの禰宜が社殿を指差し、呼びかけたからだ。
「おい、見ろ! 心《しん》の御柱《みはしら》が……」
全員の視線が、社殿に集中した。そこには狼藉《ろうぜき》の跡があった。
社殿の真下にあるはずの心の御柱がなかった。それは引き抜かれて、そばの地面に転がっていたのだ。どうやら不心得者が禁足地に侵入して、いたずらをしたらしい。
「あ、本当だ!」
「抜かれてる」
「誰だ、こんなことした奴は?」
神職の四人は周囲を見回し始めた。
だが、燃え残ったスギの林があるだけだった。日光が枝葉の間から差し込み、地面に斑点のような模様を作りだしている。雨の匂いと、樹木が焦げた時の匂いとが入り混じり、異様な臭気だった。
人の気配はなかった。犯人は、すでに逃げた後のようだ。
小太りの禰宜が言った。
「おい、まず、これを何とかしないと……。早く、埋め戻すんだ。心の御柱を抜いたままにしておいてはいかん」
「あ、はい」
四人は、ミニチュア社殿の真下を掘り始めた。持参したスコップやシャベルが役に立った。
作業しながら、銀縁メガネをかけた出仕が質問した。
「あの……」
禰宜が答えた。
「何だ?」
「なぜ、心の御柱を抜いたままにしておいてはいけないんです?」
「そういう口伝があるからだ」
「口伝?」
「ああ。抜いたままにしておくと凶事が起きる、という」
色黒の権禰宜が言った。
「凶事ねえ。確かに昨夜、起きたみたいだけど……」
色白の権禰宜も答えた。
「ああ……」
そこで全員の作業の手が止まった。
沈黙が下りた。彼らは、お互いの目と目を見合わせ始めていた。皆、形容しがたい表情を浮かべている。
何しろ昨夜、桜井市は謎の光熱ビームに襲われたのだ。彼ら四人もその恐るべき光景を目撃していた。天の神が金色の火矢を投げ落としてきたみたいだった。しかも、未《いま》だにあの超常現象の正体は不明だ。
現代人である神職の者たちも、今は迷信深くなっていた。だから、つい、こう考えてしまったのだ。「心の御柱が抜かれたことと、昨夜、起きた謎の大災害との間に、何か関連性があるのではないか」と。もう少しで、それを口にしそうになった。
だが、色黒の権禰宜が首を振った。
「まさか……」
そう言って、苦笑する。
他の三人も唱和した。苦笑も一緒にコピーする。
「ああ、まさかね」
「それこそ、まさかだ」
「そう。そうですよ」
その話題は打ち切られた。
彼らは黙って、心の御柱を埋め戻す作業に専念した。
もしも、彼らが柱を埋め戻す作業を後回しにして、洞窟を見物しに行ったら、とんでもない結果を招いていたかもしれない。以後の歴史を塗り変える結果になったかもしれない。
だが、神職の者たちは、代々伝えられてきたタブーを守ることを最優先した。その結果、彼らは本来の職責を果たしたのだ。
やがて柱を埋め戻す作業は終わった。時間にして、一〇分ほどで済んだ。
そこで、全員で拝礼儀式を執り行った。社殿に向かって作法通り、二拝二拍手一拝したのだ。
それが終わると、神職の者たちの視線は一ヶ所に集中した。例の洞窟だ。
四人は、洞窟へと足を運んだ。彼らの瞳《ひとみ》は好奇心で輝いていた。何しろ、今まで隠されていた謎の場所が突然、出現したのだ。興味津々といった表情になってしまう。
口々に言い合った。
「何があるんだ?」
「さあ?」
「のぞいてみりゃ、わかるさ」
「何だ、何だ」
期待に満ちた表情で、神職の者たちは洞窟の中をのぞき込んだ。
全員の顔が凍りつき、やがて失望へと変わっていった。
それは狭くて短いトンネルに過ぎなかった。ほんの三メートル下り坂になっているだけで、すぐ行き止まりになっている。奥には、無骨なむき出しの岩盤があるだけだった。
トンネルの天井や壁は、多数の石が埋め込まれていた。それらが補強材になっているようだ。人工的な細工の跡だろう。しかし、興味深いものは何もなかった。
色黒の権禰宜が言った。
「何だ、つまらん」
色白の権禰宜も答えた。
「ああ。お宝でも出るのか、と思ったけど……」
小太りの禰宜が締めくくった。
「まあ、世の中そんなもんさ……。さあ、次は山頂を見に行くぞ」
銀縁メガネの出仕が訊《き》いた。
「この倒れた磐座は、どうするんです?」
禰宜は肩をすくめた。
「そのうち、何とかするさ」
四人のうち、三人が洞窟に背を向けた。歩き出す。
だが、銀縁メガネの出仕だけは、その場を動かなかった。逆に、彼はしゃがみ込んだ。軍手を脱いで、素手で洞窟の地面に触れた。
指先で土をつまんだ。指同士をこすり合わせて、土の感触を確かめる。乾いた土くれが、落ちていった。
「乾いている……」
彼は呟《つぶや》いた。周囲を見回し始める。
「どこもかしこも、雨のせいでドロドロになってるじゃないか。なのに、ここだけ乾いている……」
彼は首をかしげた。
「いや、待てよ。さっきまで、どしゃ降りだったんだぞ。だったら、この中に水が流れ込んで池みたいになっても、おかしくない。でも、完全に乾いている……。どういうことだ?」
彼はメガネの位置を修正した。宙の一点を睨《にら》み始める。
「つまり、雨が止んでから、ここの磐座は倒れたのか?」
「おい、どうした?」
小太りの禰宜が呼びかけてきた。すでに他の三人は、この場を立ち去りかけていたのだ。不思議そうな顔で、こっちを見ていた。
銀縁メガネの出仕は立ち上がった。
「あ、はい」
「どうかしたのか?」
「いや、ちょっと変だな、と思って。まあ、いいです。大したことじゃない」
彼も歩き出した。
それを見て、他の三人も背中を向け、歩き始めた。
だが、三歩か四歩進んだところで、銀縁メガネの出仕は足が止まった。振り返ってしまう。顔面が蒼白《そうはく》になっていた。
たった今、彼は妙な気分を味わったのだ。
それは疲れきって眠った時に、よく起こる現象だった。夜中に突然、誰かの悲鳴を聞いて、それに驚き、飛び起きてしまうのだ。
だが、いくら耳を澄ましても、どこからも悲鳴の続きなど聞こえないのだ。結局、その正体は、疲れた脳が作りだした幻聴だったのだ。
それと、よく似ていた。今も、誰かの悲鳴を聞いたような気がしたのだ。だが、それでいて現実の音声ではないことも、彼にはわかっていた。
なぜか彼は身震いした。それが止まらない。自分の肩を抱きかかえるようにして、彼は歩き出し、その場を離れた。
洞窟は、地の底につながっているような大口を開けて、遠ざかっていく神職の者たちを見送っていた。
[#地付き](完)
この作品は、平成十一年九月、小社より刊行された単行本を加筆・訂正し、文庫化したものです。
角川文庫『カムナビ(下)』平成14年11月10日初版発行