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カムナビ(上)
梅原克文
目 次
第一部 胎 動
第一話 青い土偶
第二話 古文書
第三話 秘 祭
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神火《しんか》、屡至《しばしばいた》りて、徒《いたずら》に官物《くわんもち》を損《そこな》ふ。此《これ》は、国郡司等《こくぐんじども》の
国神《くにつかみ》に恭《うやうや》しからぬ咎《とが》なり。
『続日本紀』天平宝字七年九月の条
一立方インチごとの空間のすべてが神秘である。
ウォルト・ホイットマン
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第一部 胎 動
第一話 青い土偶
本来なら火葬炉の扉を開けた時、見られるような光景が展開していた。火葬炉と違う点は、彼≠ェ深夜、野外で生きながら燃えているということだ。
明滅する強烈な光≠フ中で、まず彼≠フ毛髪が燃え、次いで衣服が燃え上がった。木綿やポリエステルの繊維が数秒で炭化する。すでにボロ雑巾《ぞうきん》の断片を身体に巻き付けているようにしか見えない。
顔面や手の皮膚も、あっと言う間に焼けただれた。月面のクレーターのような惨状をさらしている。
当然彼≠ヘ悲鳴をあげた。だが、その音波は周囲のアカマツやクスノキ林の中に吸収されただけだった。
周辺には人家もない。付近には道路と街灯があるだけだ。遠くに円錐形《えんすいけい》の山のシルエットが見える。
明滅する光≠ヘそのままストロボ効果を生みだしていた。焼かれている彼≠断続的に浮かび上がらせる。
顔面や腕の皮膚が半分以上、むけていた。肉や血管が直接のぞいているのだ。理科室の人体解剖モデルの実物が出来上がろうとしていた。
発散する白い蒸気が、彼≠地獄のオーラのように包んでいた。体内の水分が一滴残らず蒸発しようとしている。
彼≠ヘ悲鳴をあげ続けた。手を振り回す。狂人が操るマリオネット人形のような動きで、その場から逃れようとする。
その時彼≠フ脳髄を満たしているのは純粋な苦痛だけだった。理性も何も、消し飛んでいる。自己防衛本能が「逃げろ!」と叫んでいた。
だが、生きながらの荼毘《だび》は容赦なく続いた。彼≠フ肉体から水蒸気と共に、煙や炭粉が噴出した。それを自ら吸い込んでしまう。喉《のど》の気管粘膜に、炭粉が付着して黒くなっていく。
煙の中の一酸化炭素を吸ったため、血中の一酸化炭素濃度も上がった。七〇パーセントの濃度に達する。それは人間が意識を保てる限界点だった。
彼≠ヘ失神し、苦痛から解放された。悲鳴のサイレンが消える。建物が倒壊するような感じで、仰向《あおむ》けに倒れていった。
眼球はゆで卵の状態になっていた。固まりきらないゲル状の水晶体が白い液体となって噴出し、顔の両側を伝い落ちる。
腕時計のガラスが破裂した。地面に四散したガラス片は溶けて、玉状になっていった。
彼≠フ指先は、すでに皮膚も肉もなくなり、先端から細い骨が露出している。そこからは火花が散り始めた。
この時点で魂の抜け殻と化していた。彼≠ヘ四〇年足らずの生涯を終えたのだ。
蒸気圧で頭蓋骨《ずがいこつ》が破裂した。同時に左の眼球がバネ仕掛けの玩具《おもちや》のように飛び出す。だが、視神経がまだ焼き切れていないので、ひも状の神経の先端にぶら下がり、耳の上で振り子のように揺れた。
眼窩《がんか》や耳孔からは、溶けだした脳みそが灰色の液体となって滴り落ちた。それらは、すぐに黒こげのお好み焼きのような状態に変わった。
肉体がじわじわと縮小していった。内部のさまざまな塩類や化学成分に火が点《つ》き、蒸発して、炎の色が変化し始めたのだ。
全体的には黄色とオレンジ色の炎が優勢だ。だが、あちこちにブルーグリーンの炎や、パープルの炎が出現する。それらは銅が燃える時や、カリウムが燃える時の発色だった。
究極のかがり火によって、彼≠ェ生前まとっていたものすべてが、てきぱきと拭《ぬぐ》い去られていた。顔面は形を失い始めた。飛び出した眼球も焼けこげて地面に落ちた。
頬の肉が剥《は》がれ落ち、歯と頭蓋骨の一部が露出する。骨は炭素化合物が燃焼するにつれて黒化していった。
虫歯|充填《じゆうてん》用のアマルガムは溶けて、もう跡形もなかった。歯科用の金歯も高熱に耐えられず、むき出しの歯の間から流れ落ちていく。
金歯の内部には、さらに耐熱チタンがあった。それはデンタル・ポストと呼ばれるもので、人工歯冠を小さな歯根にかぶせるために用いられる。
その耐熱チタン製デンタル・ポストすらも、あまりの高熱に溶けていった。クロームに輝く水弄《みずあめ》のようだ。
口中に残ったのは生来の歯だけだった。表面が炭素化合物のせいで黒くなっている。
さらに毛髪や露出した骨から溶けだした珪酸塩《けいさんえん》が、透明な液状の粒に変わって、周辺に飛び散っていった。これらはやがて冷えて固まった時、中空で小粒のビーズ玉のような物質となる。監察医が火葬スラグ≠ニ呼ぶものだ。
明滅する光≠ェ消えた。
彼≠フ目のない眼窩は生前、自分であったものが黒煙と化して昇っていくのを見上げていた。
空はきれいなコバルトブルーだった。だが、早朝に小雨が降ったらしく、路面は濡《ぬ》れていた。
葦原志津夫《あしはらしずお》は立ち止まった。
そこは道路と雑木林によって挟まれた場所だった。雑木林はアカマツやクスノキ、ミツバツツジなどで構成されている。北関東ではありふれた樹木だ。
志津夫は何度も瞬《まばた》きした。場所を間違えたのかと思ったのだ。
回転する赤色灯が、いやでも目についた。道路に停まっているのは白黒のパトカーが二台。白黒のワゴンが二台。いずれも「茨城県警」とドアに書かれている。他に赤色灯を付けたグレーと黒の覆面パトカーが二台。
少し離れたところにマイクロバスが一台と、四台の乗用車、ワゴンが一台ある。こちらは警察の車ではないらしい。
アスファルト道路から外れた場所には二〇人ほどの野次馬と、紺色の制服を着た警官が四人いた。彼らは円形の空間を取り巻いている。
話し声の様子から、彼らの興奮ぶりがうかがえた。見えない炎が一帯にみなぎっているような雰囲気だ。
それは、どう見ても警察による現場検証の光景だった。縄文遺跡の発掘現場には見えなかった。
志津夫は、パトカーや人垣の向こう側にも視線を向けた。そこを見て、安心する。
ちゃんと発掘中の縄文遺跡があった。場所を間違えたわけではなかったのだ。
定石どおりのグリッド発掘法が行われていた。方眼用紙のように地面を麻糸で仕切ってあるのだ。一区画が一辺一メートルの正方形グリッドになっていた。
半分以上の区画は青い防水ビニールシートで覆われていた。出土中の遺物を守るためだ。あまり知られていないが、遺物の取り扱いというのはなかなか面倒なものなのだ。
だが、今、志津夫の好奇心は発掘中の遺跡よりも、人垣に向いた。自然に、そちらへ歩きだしてしまう。
誰も志津夫には注意を払わなかった。それどころではないらしい。
葦原志津夫は一七五センチ、六〇キロの体格だった。最近なら中肉中背ぐらいに分類されるだろう。年齢は三〇歳だが、それより若く見えた。
短い頭髪を自然な七三分けにしている。その下には二枚目半の顔があった。やや鼻が大きくて不格好だが、澄んだ目と引き締まった唇、全体のバランスの良さが、彼を魅力的に見せていた。
やや寂しそうな陰のある男だった。女性から見たら母性本能をくすぐられるタイプかもしれない。
服装は柄シャツ、青灰色のサマージャケットに、チノパンだ。それに肩かけ式ソフト・アタッシュバッグをぶら下げている。
志津夫は牛革キャンピングシューズで、濡れた路面に靴跡をプリントしつつ、人垣の中へ入っていく。
だが、志津夫が近づくと、逆に警官が大声で言った。
「はい。さがって、さがってください!」
腕章を巻いた制服警官が両手を広げて、野次馬を追い立てようとする。両手には白い手袋をはめていた。
別の制服警官が黄色い幅広のテープを張り巡らしていった。黒い文字で「茨城県警」とプリントされたテープだった。それで立入禁止区域を設定するのだろう。
志津夫はテープが張られた直後に、その前に立っていた。
テープで囲まれた場所には、黒い物体が転がっていた。全長一メートル半ぐらいのサイズだ。最初は、それが何なのかわからなかった。
わかった時には心臓を蹴《け》り上げられたような気がした。志津夫は目を見開き、思わず一歩下がる。
焼死体だ。それが地面に転がっているのだ。まるでナパーム弾の犠牲者のようだった。
骨格がむき出しになり、真っ黒に炭化していた。わき腹の辺りだけはあまり熱を受けなかったらしく、肉の紅色がのぞき、水疱《すいほう》だらけになっている。
衣服はほとんど残っていない。毛髪もない。顔面の肉も半分以上そげ落ちており、眼窩や歯がむき出しだった。
歯の間からは、黄金色やクロームに輝く物質が、何本もの細い糸状になって流れだしていた。それらは途中で固まったらしく、顔の側面に貼りついている。同じものが地面にも十数滴ほど落ちていた。
奇妙なのは、その焼死体が仰向けの状態で、両手両足をよじらせていることだ。左手は拳《こぶし》にして、アッパーカットのように突き出している。右手も拳を握っており、自分の顎《あご》を殴っているみたいだ。拳からは、手の骨の一部がのぞいていた。
周囲の地面も奇妙だった。そこだけ雑草がなく、赤茶色の土層がむき出しになっている。遺体だけでなく、半径一〇メートルほどの範囲も焼き尽くされていた。
植物がない代わりに、溶けかけて半透明になっているものが、いくつもあった。高熱で原型を失った石らしい。直径一ミリほどのビーズ玉のようなものも四散している。
志津夫は吐き気を覚えた。腐ったものを食べたみたいに顔が歪《ゆが》んでくるのが、自分でもわかる。これは、さわやかな五月末日の午前九時に見たい光景ではなかった。
周囲からも「うげえ」といった声が時折、聞こえる。テレビや映画だと必ず気の弱い者が一人いることになっていて、そいつが嘔吐《おうと》する場面だろう。今この場に、そういう人間はいないらしく、お決まりの光景にはならなかった。
野次馬たちは、いずれも二〇歳前後の若者だった。皆、日射病防止のために麦わら帽などをかぶっている。遺跡の発掘調査に参加していた学生だろう。
立入禁止テープの内側には、グレーのスーツにネクタイという標準的な服装の男が二人いた。一人は携帯受令機のイヤフォンを耳に差し込んでいる。もう一人は警察手帳を広げていた。説明されなくとも、彼らが刑事であることはわかった。
志津夫は三〇年生きてきて、本物の刑事というものを生まれて初めて見た。
あまり、かっこよくはなかった。二人とも中学校の教師みたいな雰囲気だった。四〇歳前後の方が体育≠ナ、三〇歳前後のメガネをかけた方が数学≠ニいった感じだ。
数学≠ェ言った。
「……しかし、本当にこういう風になるもんなんですか?」
体育≠ェ答えた。
「ああ。筋タンパク質が固まったせいだ。以前、監察医と仕事した時に教えてもらった。高熱にさらされると死後、数時間でこうなるそうだ……」
体育≠ヘ両手を拳にして、腕や足をよじらせた。焼死体の姿勢を真似たのだ。奇怪な阿波踊りといったポーズになる。
その会話を聞いて、野次馬の誰かが「へえ」と呟《つぶや》く。
志津夫も納得した。最初見た時は、この人物は両腕両足をよじらせながら焼死体になったのか、と思ったほどだ。だが、実際には死後の化学反応によって、こういうポーズになったのだ。
ふと志津夫は右手の甲に痒《かゆ》みを覚えた。
そこを左手の指で掻《か》いた。右手の小指の付け根辺りだ。
実は、志津夫はそこだけ皮膚が固くなっているのだ。
志津夫が手の甲を掻きながら、現場を見ていると、鑑識課員たちが事務的な表情でやってきた。彼らは帽子をかぶり、背中に「茨城県警」とプリントされた紺色の制服を着ている。
鑑識課員たちは、「1」「2」「3」などの数字の入った三角形のプラスチック板を死体のそばや、その周囲に点々と置いていく。「9」まで置くと、彼らはカメラを構えて写真を撮り始めた。手慣れた感じだ。
志津夫はそれを見ているうちに、遺跡の発掘調査のやり方と似ているなと思った。職業意識が芽生えてくる。これは滅多にない映像資料ではないか。
志津夫はソフト・アタッシュバッグを地面に置くと、デジタルカメラを取り出した。デジカメと言っても、平べったいデザインの安物ではない。一眼レフ型の高級品だ。
電源を入れて、ファインダーをのぞく。レンズを標準から望遠に切り替えて、撮影を始めた。
オートフォーカスとオートホワイトバランス機構に任せて、シャッターを押しまくった。撮影するたびに一・八インチ液晶モニターに、六〇〇万画素の映像が二秒間、再生される。
焼死体は、鮮明に記録されていた。全体が黒っぽく炭化しており、わき腹にだけ深紅の肉質が残っているのも、ちゃんと映っている。周辺の地面に小さなビーズ玉のようなものが散らばっているのも、カラー液晶画面で確認できた。
角度を変えながら、一〇枚撮ったところで、突然ファインダーが真っ黒になった。障害物が出現したらしい。
志津夫は顔を上げた。
障害物と対面した。四〇代前半ぐらいの警官だ。色黒で、右の頬に少しシミがある男だった。
「あんた何してるんです?」
警官は不審な目で睨《にら》みつけた。焼死体を指さし、
「あんなもの撮って、どうするんです?」
「あ、いや……」
志津夫は口ごもった。ふと気がついて、周囲を見回す。
警官や刑事、鑑識係、野次馬たち十数人の視線が、志津夫一人に集中していた。遅まきながら事態に気づいた。
彼らの目には、志津夫は一〇〇パーセント不審人物に見えただろう。警察関係者でもないのに、無惨な焼死体を熱心に撮影していたのだ。死体写真マニアとか、そういった類《たぐい》の変態かと思われても仕方がないシチュエーションだ。
色黒の中年の警官は、両手を腰に当てて、志津夫に顔を近づけてきた。不審感丸だしの表情で、言った。
「あんたマスコミの人間じゃなさそうだな。普通、マスコミは死体の写真なんか欲しがらないぞ。そんなもの新聞や雑誌に使えないからな」
志津夫は苦笑した。後頭部を掻いて、答える。
「研究の参考資料にと思って」
「研究? 何の?」
「ぼくは東亜文化大学の講師です。専攻は比較文化史学。まあ、考古学の一種だと思ってくれて結構です」
「考古学? あんた大学の先生?」
「そうです」
「考古学者が何で焼死体の写真なんか撮るんです?」
「現代人と縄文人の比較資料になると思ったんです。つまり縄文遺跡から焼死体らしい人骨が出ることもあるんです。だから、現代人の焼死体の写真も撮っておけば、比較材料として、いずれ役に立つこともあるかと思って……」
警官は志津夫を凝視した。まだ信用していない表情だ。やがて振り返って、後方の刑事たちと目で相談した。
他の刑事や警官は、今の会話を聞いたらしく、志津夫への不審感はとりあえず解消したようだ。しかし、体育≠フ教師みたいに見える刑事が目くばせで、警官に尋問を続けるよう指示した。
四〇代の色黒の警官は、これが自分の仕事だと了解し、志津夫に向きなおった。
「一応、身分証明になるものを見せてくれませんか?」
志津夫は肩をすくめて、言われたとおりにした。ソフト・アタッシュバッグを開く。中にはノートパソコンや携帯電話が収まっていた。セカンドバッグを取り出すと、その中身を相手に渡して言った。
「これが免許証です。これが職員証。これが健康保険証。これは、あ、いや、違った」
「ん? ポケベル?」
警官が訊《き》いた。
確かに知らない者にはポケットベルと勘違いされてしまう機器だ。カード状の形態で、表面が白いプラスチック樹脂で覆われ、液晶画面と小さなボタンが付属している。
志津夫はそれを見せて、
「いや、GPSです」
「え? ジーピー?」
「GPS。グローバル・ポジショニング・システム。人工衛星からの電波を捉《とら》えて、現在位置を割り出すものです。ほら、カー・ナビゲーションと同じ仕掛けですよ」
GPS=全地球測位システムはアメリカ国防総省が開発したものだ。軍事衛星ナブスタからの電波を利用して、自分の緯度経度を即座に知ることができるものだ。衛星は六軌道に四個ずつ計二四個が周回していて、電波の恩恵を地上に振りまいている。湾岸戦争で、その実用性が確認されて有名になったものだ。
志津夫は言った。
「ただし、これはカー・ナビゲーションと違って地図は出ないんです。緯度経度の数値が出るだけで」
志津夫は実演した。ボタンを押す。
GPSは高度二万キロからの複数の電波を捉えて、計測した。二秒後に電子音がして、液晶画面に数値が出た。
[N、36、09、12]
[E、140、09、03]
警官は首をかしげて、
「そんなもの何に使うんです?」
その質問には、もう慣れていた。志津夫はやや得意げな口調で、説明する。
「由緒不明の小さな神社というのが、各地にありますよね。そういうのは、神社になる以前は縄文時代からの祀《まつ》り場だった可能性があると、ぼくは考えているんです。そこでGPSで緯度経度を測定することを思いついたんです。実際に測定してみると、縄文遺跡を中心にきれいに神社が東西南北に並んでいたりする。他にも夏至や冬至のラインに沿って並んでいる実例もある。これらは古代の太陽信仰の名残ではないか、というのが、ぼくの仮説です」
警官の瞬《まばた》きの回数が増えた。免許証、職員証、GPS、志津夫の顔を何度も見比べている。
やがて納得したらしく免許証などを返した。
「考古学者ってのは土を掘ってばかりいるのかと思ってたけど」
「ぼくの場合、掘るのは専門外ですが、学生時代はアルバイトでよく手伝いましたよ」
志津夫は笑顔で答え、次いで焼死体を見た。だが、そっちを見ると、せっかく浮かべた笑顔がまたひきつってしまう。吐き気がしてきたので、咳払《せきばら》いでごまかした。
志津夫は死体を指さして、質問した。今度は自分が訊く番だと、自然に考えたのだ。
「ところで、あれは何です? あの金色のやつですよ。死体の奥歯の間から流れている糸みたいな、あれは?」
「後でテレビで観るか、新聞で読んでください」
警官はそう答えて、志津夫に背中を向けた。
志津夫は粘った。
「これは焼身自殺ですか? でも、そうだとしたらガソリンか灯油を入れたポリタンクとかが、その辺に転がっていそうな気がするけど、そういうものは?」
「ですから、テレビで観るか、新聞で読んでください」
警官は、それっきり沈黙してしまった。
一瞬、志津夫の目に怒気が現れた。しかし、数秒後あきらめ顔になり、肩をすくめた。
ここは記者会見の場ではないし、志津夫もマスコミ関係者というわけではない。これはプロたちの習慣なのだろう。捜査現場で野次馬が質問しても取り合わないのだ。
ふと視線を別の方向に向けた。
そこにも尋問を受けている男がいた。志津夫と違って、彼はテープの内側にいた。私服刑事にあれこれ訊かれているのだ。
彼はメタルフレームのメガネをかけており、やや出っ歯だった。年齢は三〇代前半ぐらい。服装はペールブルーの作業用ジャンパーにグリーンのネクタイで、技術系サラリーマンといった風情だ。
充血した目をしていた。目の下にもくまができている。夜勤あけらしく、疲労と睡眠不足で顔がむくんでいた。
彼は船酔いでも患っているような表情だった。さっきから視線を死体の方に向けようとしない。状況から見て、彼が第一発見者のようだ。
志津夫は何となく、その男にもカメラを向けてシャッターを切った。デジタルカメラだと、こういう衝動的な撮影が可能だ。あとで不要だと判断した映像はボタン一つで消去できるから、つい気楽に撮ってしまうのだ。
志津夫は、さらに周辺を見回した。ここに来た本来の目的を思い出したからだ。彼≠フ姿を探し求めた。
だが、目当ての人物はどこにもいなかった。用事が出来て、この場を離れたのだろうか。
志津夫は男子学生の一人に話しかけた。
「あ、ちょっと、すいません。竜野《たつの》助教授は、どこです? ぼくは葦原志津夫といって、ここで竜野先生と会う約束だったんですが……」
男子学生は振り返った。彼は麦わら帽をかぶっており、その下から長髪を伸ばしていた。色黒で、ロック・ミュージシャン風のルックスだ。
その学生は答えた。
「竜野先生ですか? 今いないんですよ」
「いない? じゃ、どこか別の場所に出かけたと?」
「いや、そうじゃなくて、まだここに来てないんです。今日は、まだ誰も竜野先生の姿を見てないんです」
学生は首をひねり、
「……遅刻かな? あの先生にしちゃ珍しいんだが……」
その時、志津夫の耳に、刑事の声が耳に入った。
「これ、もしかして金歯じゃないですか?」
志津夫は振り返った。
今、問いを発したのは、数学≠フ教師みたいなメガネをかけた刑事だった。彼は、焼死体の口元を指さしている。そこには歯の間から流れだした、黄金色に輝く糸状の物質があった。
しゃがんでいる鑑識課員は首をひねって、答えた。
「さあ、どうですかね? 金歯が溶けた死体なんて、見たことないけど……」
体育≠フ教師みたいな刑事が、答えた。
「これも監察医から教わったんだがな。金歯っていうのは、なかなか溶けないものだそうだ。人間を火葬場で焼いても、金歯だけはそのままの形で残るそうだ……」
「そんな! 金歯だって!」
誰かが叫んだ。
志津夫は振り返った。刑事や警官たちも、振り返る。
叫んだのは、メガネをかけた小太りの学生だった。食事だけが生き甲斐《がい》といったタイプに見える。彼は大きく口を開けて、焼死体を指さしていた。
彼ら学生たちの緊迫した声音が、志津夫の鼓膜に突き刺さってきた。
「やっぱり、そうだよ。歯の間から流れて、垂れ下がってるじゃないか。あれは金歯が溶けたんだよ。そんな……まさか……あれ、竜野助教授じゃないか?」
「そんなバカな。竜野先生は、単に遅刻してるだけだろう?」
「でも、竜野先生は左の奥歯が上下とも金歯なんだよ。今時、珍しいだろうって言ってた。おれ見せてもらったことあるんだ」
「ちょっと待て」
体育≠ェ片手を上げて、声をかけてきた。
「その竜野先生ってのは……」
だが、刑事は質問を言い終えることができなかった。
「そんな! あれが竜野先生!」
志津夫が叫んだ。呆然《ぼうぜん》とした表情で、焼死体を見つめた。口が半開きになってしまう。
頭の中が、抽象画に変わった。思考が七転八倒する。デジタルカメラを持つ手が震えた。
学生や刑事たちを見回して、志津夫は言った。
「そんな……。ぼくは竜野助教授に呼ばれて、ここへやって来たのに。親父の所在をつかんだから教えてやるって言われて、ここへ来たのに……」
それに呼応するように、木々がざわめいた。ケヤキやハンノキが枝葉を揺らし、マラカスに似た音を演奏する。風がかすれた笛のような音を立て始める。
群青色の空にも、いつの間にか積乱雲が湧き出していた。数秒ごとに形を変えているのがはっきり見えた。
遠くには竜神山と、筑波山を構成する男体山《なんたいさん》と女体山《によたいさん》の頂が見えていた。
志津夫は無意識に、デジタルカメラのシャッターを押してしまった。カメラは焼死体を六〇〇万画素の映像情報に置き換え、PCカードに記録した。
茨城県|新治《にいはり》郡は県のほぼ中央部にある。
近くには筑波研究学園都市が建設され、常磐《じようばん》線沿線も住宅地が造成されて、人口増加が著しい場所だ。かつては農業地域だったが、急速に都市化が進んでいる。
しかし、竜神山から筑波山にかけてはまだ自然が残っていた。その一帯には風光|明媚《めいび》という、昔ながらの言葉が当てはまるだろう。低い山々や森林に囲まれた地域で、人の心をなごませる景色と言えた。森が吐き出すフィトンチッドの香りも胸いっぱいに吸い込める。
今は五月の終わりで、季節の風物も顔を見せている。小川では色鮮やかなカワセミが小魚を獲る姿も見られた。
タニウツギのピンクの花、サラサドウダンの紅色の小花、フジの花なども咲いていた。野山がカラフルに彩られる時期でもある。梅雨に入る前の今なら、森林浴に加えて風景も楽しめた。
新治大学は、そこから少し離れた筑波研究学園都市の北端にあった。ここは片側三車線の整備された道路と、ビル群に覆われている地域だ。宇宙開発事業団や国立公害研究所など、かつては東京に集中していた官庁・研究機関が七〇年代から、ここに移転しているのだ。
新治大学構内の建物はどれも鉄筋コンクリートの四階建てだった。
構内に人影は少なく、閑散としていた。すでに昼食の時間は過ぎているので、学生は教室に戻ったのだろう。あるいは、今日は休講が多発したのかもしれない。
葦原志津夫はF棟の一階を訪れた。築一〇年といった建物で、廊下の内装は白とレッドオーカーに塗り分けられている。落ち着いた雰囲気が漂っていた。
第一考古学研究室の札を探し、ノックした。
そこで厳粛なムードは消えた。甲高い女性の怒鳴り声がしたのだ。
志津夫は感電したみたいに後ろへ下がってしまった。自分が怒鳴られたのかと勘違いしたのだ。
数秒後、そうではなかったことに気づいて、あらためてドアを開けた。
「私がチェックするから、いいわ!」
さっきの女性の声が響いた。耳に突き刺さるソプラノだ。
「遺物台帳はこっちのコピーを使って……。あ、ポスターカラーがないじゃない。墨汁も切れかけてる。誰か買ってきて」
男子学生の一人が首をすくめて、部屋を出ていこうとした。志津夫は、彼のためにドアを大きく開けてやった。
部屋は二〇畳ほどの広さだった。細長い机と椅子が並んでいる。十数人の学生が作業中だった。
学生たちは筆やヘラを握っていた。パレット・ナイフで絵の具を混ぜている者や、ボールに入れた石膏《せつこう》の粉を溶いている者、石膏の接合部をサンドペーパーで削っている者もいた。
知らないものが見たら、美術工芸科と勘違いしそうな光景だろう。彼らは白い石膏で型取りしたり、それにポスターカラーやアクリルカラーで色を塗ったりしているからだ。
これは遺物の復原作業だった。遺物は展示・公開の場に出ることが多いので、これも覚えなければならない仕事なのだ。
部屋の中央には講師らしい女性が立っていた。たった今、大声を出したのは彼女だった。
年齢は、志津夫と同じで三〇歳ぐらいに見える。身長は、志津夫より頭一つ分低かった。
彼女は色白で、顔は卵形だった。目は大きめだが、鼻筋がやや低い。それで美人コンテストには出そびれた感じだ。
メタルフレームのメガネが、彼女に知的な雰囲気を与えていた。髪の毛は後頭部で束ねて、ポニーテールにしている。
彼女の服装はチェックの長袖《ながそで》シャツにジーンズ、スニーカーという活動的なスタイルだった。なぜか、右手の甲に、大判のガーゼ付きバンソウコウを貼っている。
彼女は、まだ復原していない土器の破片群を指さして、
「これ変よ。縄文土器がテカテカ光ってるなんて……。また、バインダー液に浸《つ》け過ぎたんでしょう?」
そう言われて、太った学生が頭を掻《か》いていた。いかにも不器用そうな若者に見える。入学前は、考古学科で工芸教室のような作業が待っているとは予想していなかったのだろう。
志津夫は苦笑した。彼もアルバイト中に、同じ失敗経験があるからだ。近づいていき、その太った学生に声をかけた。
「もう一度よく水洗いするんだ。そうすれば元に戻る」
彼女は振り向いた。たった今、志津夫に気づいたらしい。
学生たちの視線も、集中してきた。
女性講師が質問する。
「あなたは?」
志津夫は頭を下げると、
「葦原志津夫と言います」
名刺を出し、勤務先や専攻などを自己紹介した。
彼女は名刺を持たなかったので、口頭で自己紹介した。
「小山麻美《こやまあさみ》です。この研究室の講師です」
志津夫はうなずき、
「じゃ、ぼくのことは聞いてませんか? こちらの竜野助教授に呼ばれたんです。竜野先生は、今日は新治郡の石上遺跡にいると聞いたので、ぼくは『朝一番で直接そこへ行きます』と昨夜、電話で本人に伝えておいたんですが……」
小山麻美は志津夫を見つめていた。やがて、首を振った。
「いいえ。聞いておりませんが」
「え? 聞いてない?」
志津夫は少し首をかしげた。だが、それ自体は不思議がることでもなかった。竜野助教授が言い忘れただけかもしれない。
問題は、ここからだった。志津夫は思わず、顔をしかめてしまう。
脳裡《のうり》に今朝、見たばかりの焼死体が浮かんだ。まるで殺虫剤を浴びたハエみたいに、もがきながら死んだようなありさまだった。まさか、あれが竜野助教授の変わり果てた姿だなんてことは……。
続きを言うべきかどうか、少し迷った。おかげで、不自然に間が空いてしまう。
小山麻美が訊《き》いた。
「どうかしましたか? 竜野先生へのご用事というのは?」
「ええ……」
やはり言わないと、話が先に進まなかった。志津夫は息を吸い込み、口にした。
「……実は遺跡に行ってみると、竜野先生はいなかったんです」
「いない?」
「ええ。しかも、遺跡の隣には真っ黒こげに焼けた人間の死体が転がってるわ、その焼死体の口からは溶けた金歯らしいものが、よだれみたいに垂れ下がってるわ、警察が現場検証しているわ、とにかくわけがわからなくて……」
「焼けた死体? 警察?」
太った学生が言った。とたんに研究室の中がざわめきの波動に包まれた。一斉に私語が始まり、志津夫にも質問が飛ぶ。
遺跡に死体? 焼死体? やっぱり本当だったのか。見たんですか、その死体? さっき携帯電話で、横井が死体を見たって言ってたけど、またあいつ、おれをかつごうとしてるなと思ってた。そう言えば、昼休みに警察が来てたぞ。竜野助教授って確か奥歯が金歯じゃなかったか。まさか。
「静かに!」
小山麻美が叫んだ。
「野次馬気分になるのはいいけど、現地説明会も展示会も三日後に迫ってるのよ。今日怠けたら、ラスト一日は確実に徹夜よ。作業を続けてちょうだい。詳しいことがわかりしだい、皆にも伝えるから」
小山麻美の指示に、学生たちは「えぇぇ」という不満げな声や、ため息、ブーイングを返した。だが、正面から異を唱える者はいなかった。
結局、学生たちは不承不承という感じで作業を再開した。ボールに入れた石膏をこねまわし、パレットの絵の具をかき混ぜ、復原した石膏部分に絵筆で着色し始める。スケジュール的に苦しい様子が伝わってきた。
小山麻美は志津夫を振り返った。
「ちょっと外に出ましょう」
志津夫と小山麻美は管理・収納室に移動した。
銀行の貸し金庫室に似ていた。ファイル・キャビネットや、引き出し型の収納箱が並んでいるからだ。それらの中身は遺物台帳や地図、実測図、日誌、写真、フィルム、カラースライドなどの山だ。
小山麻美は遺物台帳を一冊抱えていた。それをキャビネットにしまうと、小さな事務机の方に行った。椅子が二脚あり、一つを志津夫にすすめて、自分も座った。
「ここなら邪魔が入らないですから」
麻美は微笑した。目の下にくまができている。睡眠不足のようだ。
「変な噂になると困るんです。学生たちが気もそぞろになって作業が手につかなくなって、スケジュールが消化できなくなるから」
「まあ、気持ちはわかりますよ」
志津夫は答えながら、肩かけ式ソフト・アタッシュバッグを床に下ろした。自分も椅子に座る。
それとなく彼女を観察した。小山麻美は一度、予定を立てると頑として、それを守ろうとする性格かもしれない、と思った。一種の完全主義者だ。さきほど学生を怒鳴っている時も少しヒステリックに感じられた。
志津夫は言った。
「ぼくも不確定ないいかげんな情報をばらまいたりはしません。ただ、それはそれとして竜野助教授は? 今、所在はつかめないんですか?」
「ええ」
麻美は視線を斜め下にそらした。学生たちの前にいる時とは異なり、不安げな表情になる。
彼女は、事務机に積んであったユポ紙製のラベルを手にした。
耐水性のユポ紙は、発掘調査などで欠かせないものだ。ユポ紙は水を吸収しない性質があるので、泥がついても水で洗える。
麻美はユポ紙ラベルをいじくりながら、
「竜野先生はここにはいません。どうも自宅にもいないらしいんです。さきほど警察の人が見えたんですけど」
「やっぱり、ここにも来たのか。……実は、竜野先生の自宅には、ぼくもさっき電話したんです。で、奥さんから話は聞きました。昨夜は用事があるからビジネスホテルに泊まると、自宅に電話があったそうです。でも、それっきり連絡はないそうです。……奥さんも心配そうな声だったな……」
「完全に行方不明だと?」
「どうも、そうらしいんです……」
志津夫はそう答え、唸《うな》ってしまう。午前中に見た光景が蘇《よみがえ》ってきた。
焼きすぎたサンマ同然に炭化した人体。それでいて何かを自己主張するかのように、黒こげの左手を拳《こぶし》にしてアッパーカットのように突き出していた。
志津夫の顔が歪《ゆが》んでくる。つい呟《つぶや》いてしまう。
「それじゃ、やっぱりあの死体が? そう言えば、あれは何となく丸顔だったような気がしたな。その上、左の奥歯の位置から溶けた金らしいものが流れ出していたし……」
「本当にそういう死体を見たんですか?」
小山麻美が睨《にら》みつけるような顔で訊いた。
「ええ。見ました。しかし、黒こげだから、誰なのかは、はっきりしませんでした」
志津夫は首を振った。
脳裡に、竜野|孝一《こういち》の容貌《ようぼう》が浮かんでいた。何となく南方系に見えるルックスだった。丸顔で色黒、目は大きめで、唇が分厚い。頬に少し吹き出物があった。
精力的な印象の男だった。学者よりも商社マンが似合いそうな顔つきだ。
竜野助教授と初めて会った日のことも、思い出した。都内のホテルだ。そこが日本考古学協会の発表会会場となったからだ。
竜野は、辛辣《しんらつ》なことを学会会場で平然と言い放った。
「発表会なんか見なくていいよ。どうせスライド大会なんだから。……君も、本の頒布が目当てだろう? 今日は、我々のクリスマス・イブ。お偉方がサンタクロースになって、本を自慢げにばらまいてくれる日だ」
「ええ。まあ」
志津夫は苦笑して、答えた。
竜野は続けて、
「どうせ日本考古学協会の意義なんて、それだけだよ。志のある連中は独自に勉強会をやってるもんな」
その後、志津夫と研究テーマが似通っていることがわかり、竜野が行政団体の職員たちとやっている勉強会に顔を出す約束もした。その約束はまだ果たしていない……。
……志津夫は回想から覚めた。
彼は首を振り、言った。
「いや、まだ何も証拠はないから、うかつなことは言っちゃいけないか。さっき、あなたにも、そう言ったばかりだし」
「ええ」
麻美はユポ紙ラベルを対角線に沿って折り曲げたり、元に戻したりした。神経過敏な中学生みたいだった。
彼女がユポ紙ラベルを折り曲げるたびに、右手の甲に貼ってある大判のガーゼ付きバンソウコウも伸縮していた。
志津夫はそれを見ながら、
「まあ、それは警察に任せるとして、何か竜野先生から聞いていませんか?」
「何をですか?」
麻美が見返してくる。
志津夫は口ごもった。舌にサンドバッグがぶら下がっている。
麻美が再度、訊《き》いた。
「何ですか?」
「いや、その……」
志津夫は言葉を選ぼうとして、また口ごもった。この話題を話す時は、いろんな感情がブレンドされてしまい、言葉が出にくいことがあるのだ。
一度、深呼吸して、胸のわだかまりを追い払う必要があった。そして、志津夫は喋《しやべ》り出した。
「竜野先生は、ぼくの父の所在をつかんだと電話で言っていたんです。……その、話すと長くなるんですが……」
志津夫は少し、うつむきかげんになった。片目をつぶり、眉《まゆ》の辺りを掻《か》きながら、
「ぼくの父も行方不明でしてね。……ただし、こっちは昨日や今日の話じゃなくて、もう一〇年ぐらいになる。……何か事件に巻き込まれたのか、それとも失踪《しつそう》したのか、生きてるのか、死んでるのか、それもわからない状態で……」
言葉が出にくくなるのは情報がないせいだった。この事件を自分の中で、どう位置づければいいのかわからない。父親に対して怒ればいいのか、父親を事件に巻き込んだ誰かに対して怒ればいいのか、それすら不明だからだ。
「まあ、そうだったんですか……」
麻美は目を見開いた。彼女は本当に驚いているように見えた。
志津夫は上目づかいになって、
「じゃ、あなたは何も聞いてない?」
「ええ」
麻美は軽くうなずいた。また、ユポ紙をいじくりだす。
「本当に何一つ? 葦原|正一《せいいち》という名前に聞き覚えはありませんか? 竜野先生の口から、その名前が出たことは?」
志津夫は思わず身をのりだしていた。目が切迫した輝きを帯びている。一〇年間の空白が埋まるか埋まらないかの瀬戸際だ。
埋まらなかった。麻美は首を振った。
「いいえ。私は初耳です。残念ですけど、何も聞いてなくて……」
麻美がユポ紙をねじった。端が少しちぎれた。
志津夫は彼女を見つめた。そして目をそらして、ため息をつく。
志津夫は苛立《いらだ》ちのあまり、人差し指で事務用デスクの表面を叩《たた》きだした。モールス信号でも打つような動作だ。もしも誰も見ていなかったら、ネズミ花火みたいに円を描いて走り回ったかもしれない。
これは一〇年ぶりに得た、唯一の手がかりだった。なのに、消えかけている。気力が萎《な》えてきた。
志津夫は肩を落とした。
「竜野先生は『電話じゃ詳しいことは言えない』の一点張りだった。で、『明日は石上遺跡にいる』と言うので、ぼくも『じゃ、直接そこへ行きます』と返事したんです。なのに、ぼくは身元不明の焼死体にしか会えなかった。……いったい、どうなってるんだ?」
「そう言われても、私は何も知らないので……」
麻美は顔を伏せた。
しばらく沈黙が続いた。空気が古くなったレモンのような苦味を帯びてくる。やがて、その気まずい雰囲気に耐えられなくなってきた。
志津夫は大きくため息をついた。
「しょうがないですね」
彼は立ち上がった。ソフト・アタッシュバッグを床から、取り上げて、肩にかける。
「……じゃ、何かわかったら、連絡してください。携帯電話でもいいですよ。番号は名刺に書いてありますから」
一礼して、回れ右した。ドア・ノブに手をかけたところで、身体が止まった。
唐突に、脳裡《のうり》で竜野助教授の声が再生された。電話越しに聞いたやや甲高い声だ。それは、はっきりと言っていた。
「そうだ!」
志津夫は振り返る。
椅子から立ち上がった麻美が一歩、飛び下がった。瞬《まばた》きしている。
「何か?」
志津夫は人差し指を立てて、訊いた。
「あれは、ご存じでしょう?」
「何ですか?」
「ぜ・ん・だ・い・み・も・ん・の・ど・ぐ・う」
志津夫は、一音ずつ、ゆっくり区切って発音した。
「前代未聞の土偶。竜野先生は、そう言ってたんです。『前代未聞の土偶も見せてやるから来い』と、ぼくに言ったんです。それは知ってるでしょう?」
小山麻美は手にしていたユポ紙を引きちぎった。急に、視線を室内の床のあちこちに向け始める。
一見すると、それは落とし物でも探しているような仕草だった。精神的に動揺しているような感じにも見えた。志津夫には、どちらとも判別しにくかった。
彼女は答えた。
「いいえ」
「え?」と志津夫。
「私、聞いてません」
「知らないんですか?」
「ええ。知りません」
「そんな……」
志津夫は、相手を凝視した。すぐには、信じられなかった。何か珍しい出土物があったら、それは発掘に携わった当事者たちの間で、話題になるのが普通だろう。
志津夫は、相手を指さした。
「だって、あなたは竜野助教授の直属の部下みたいなものでしょう? 竜野先生が、前代未聞の土偶だと騒いでいたんだ。あなたが知らないはずはない」
「申し訳ありませんが……」
小山麻美は、志津夫を睨《にら》んだ。少し肩が上下しているように見える。彼女は、急に息が弾んできたみたいだ。
麻美は言った。
「私は存じません」
志津夫は食い下がった。
「本当に聞いてないんですか? 土偶ですよ。何か今までにない珍しい形の土偶とか、何かそういうものは出てないんですか?」
小山麻美は力強く首を振った。志津夫を真正面から凝視する。
「私は知りません」
葦原志津夫はF棟から外に出た。背中が丸まってしまい、地面ばかりを見ている。失望感が強すぎて、そんな姿勢になってしまうのだ。
大学構内の路面には、合成樹脂製の青いベンチが並んでいた。
志津夫はベンチに腰掛けた。ソフト・アタッシュバッグを肩から下ろす。
初夏のセルリアンブルーの空が目に入った。凸レンズ型の雲が連なって、流れていく。かすかな風が頬を撫《な》でた。
構内の芝生にはヤマアジサイが植えられていた。枝先に白い小花をつけている。
だが、志津夫は花鳥風月を愛《め》でる心境ではなかった。無意識のうちに、ロダンの彫刻作品「考える人」のポーズになってしまう。
手がかりゼロの状態だった。警察も、竜野助教授の行方をつかみかねているらしい。後は、本人が生きていて、いずれ姿を現してくれることを願うしかない。
つい独り言が出た。
「ぼくは何のために、ここまで来たんだ?」
苛立ちが溶岩のように熱くなり、腹に蓄積されていた。
昨夜から睡眠不足が続いていた。失踪した父について、どんな情報があるのかと気になり、度々目が覚めたからだ。今朝は充血した目をこすりながら、JR上野駅から常磐線に乗り、千葉県を横断し、この茨城県に到着した。
なのに、自分を呼び寄せた竜野助教授は、行方不明。遺跡のそばには、黒こげの奇妙な焼死体。女性講師の小山麻美に会ってみれば、失踪した父の情報も、前代未聞の土偶とやらも知らないの一点張り。
すべての当てが外れてしまった。といって、すぐ帰宅する気にもなれない。何か他にも手がかりはあるのでは、と期待する気持ちも捨てられない。
志津夫は、中途半端な状態を持て余しつつ、舗装された路面の一点を見つめていた。
志津夫の父、葦原正一は生きていれば、五九歳のはずだった。
著作が五冊ある。『古代史への新しい光』といったタイトルのものだ。表紙カバーの折り返しに著者近影が載っている本もある。
正一は、肩幅の広いがっしりした体格の持ち主だった。口ひげと顎《あご》ひげが印象的で、貫禄《かんろく》のある容貌《ようぼう》だ。体格以外は息子と相似形だった。
正一は四〇歳を過ぎて、本を出すようになった。その時から、重厚さを意識して演出するようになった。彼が、ひげを生やし始めたのも、そのせいだ。
しかし、中学生だった息子の目には、それが過剰演出で、もったいを付けすぎているように見えたものだ。
志津夫は中学生になると、父の著作を読むようになった。それらの本には、日本史の教科書は実はあまり当てにならないものだ、と書かれていた。そして父は縄文時代、弥生《やよい》時代、古墳時代に至るまでを論じ、新説を展開していた。
だが、正一は息子が、自分の本を読むのを嫌がった。
「こんなもの読むな」
よく響くバリトンで、そう言った。本を取り上げる。
当時、身長が伸び始めて、声も父に似たバリトンになりかけていた志津夫が口をとがらす。
「なぜ? 結構おもしろいよ、父さん」
「おまえには早すぎる。今の日本史の教科書とは違うことが書いてあるんだ。受験勉強の邪魔にしかならん」
「そんなことないって。教科書は教科書、父さんのは父さんのだ」
「いいから、やめろ」
しかし、志津夫は父に隠れて、考古学や古代史の世界を本で漁《あさ》っていた。
志津夫が高校生になると、正一は「考古学には、もうロマンはない」などと言い始めた。彼の言い分はこうだ。
考古学科の学生と言えば、一昔前は「シュリーマンの伝記を読んで憧《あこが》れて」というロマン派≠ェよくいた。他にも教養派≠ニか何となく派≠烽「た。
ところが最近は別のタイプが現れた。
「発掘現場でアルバイトをやったら、いい稼ぎになったので、これを仕事にしようと思います」などと言う奴だ。
正一たちの世代の学者は、それを聞いて憮然《ぶぜん》としているのだ。正一たちは若い頃、先輩からさんざん「考古学じゃメシは食えないぞ」と聞かされてきた。だが、それでも好きなものはやめられないという気持ちで続けたのだ。
だが、今は他の学科の教授から、こう言われるのだ。「考古学はいいですね。学生の売れ残りがなくて」と。
確かに考古学科を卒業すれば、今は食いっぱぐれがないのだ。
日本中で宅地開発をやってるからだ。その時、遺跡が出ると発掘調査をして、できるだけ資料を採集した後、宅地造成のために遺跡を破壊するのが、お決まりの手順だ。だが、こういう時ちゃんと発掘調査を指導できる人間の数は少なすぎるのが現状だ。
それで考古学科は学生の売れ残りがゼロになった。地方行政団体へ確実に就職できる専門学校といった状態だ。
正一は嘆いていた。
「おかげで、こっちも学生たちに講義するよりも先に、現場でベルトコンベヤーの動かし方から教えてる。これじゃ学問の場とは言えないぞ」と。
しかし、志津夫は高校二年の終わりになって、進路を決めた。
「比較文化史学をやるよ。いわば掘らない考古学さ。こっちなら、まだまだロマンは残ってるよ」
息子にそう言われた時、正一は闇討ちに遭ったような表情を浮かべた。志津夫をまじまじと見つめる。そして、首を振った。
「そんな方向に進んだって、メシは食えないぞ」
志津夫は眉間《みけん》にしわを寄せた。
「父さんもそう言われながら、やってきたんだろう?」
正一は髪の毛を掻《か》きむしった。地層調査用のボーリングステッキを頭の中にねじ込まれたような顔だった。さらに、あれこれ言葉を並べて、息子を思いとどまらせようとした。
その時になって、志津夫も気づき始めた。正一は自分が考古学者なのに、息子が考古学方面に興味を持つことには反対なのだ、と。
「なぜだい? 父さんだって、自分の好きな道を進んだわけだろう。ぼくだって、そうするだけの話だよ」
志津夫はあくまで、そう言った。
正一は唸《うな》っていた。説得力のある言葉は何一つ思いつかないようだった。
やがて父は視線をそらした。目が暗い光をたたえていた。まるで、この世の外を見ているような感じだった。
「よかろう。好きにするがいい」
そう言って正一は書斎に閉じこもった。その件について話し合うことは二度となかった。父がいったい何を考えていたのかは、とうとうわからずじまいだった……。
……目の前を二人の女子学生が通過していった。テニス・ラケットを抱えた彼女たちは時々、ベンチに座った志津夫を振り返っている。変質者でも見るような怪《け》訝げんな顔だ。
志津夫は回想から覚めた。
首を振って、過去を追い払った。両手で顔をこする。いつの間にか怖い表情を浮かべていたのかもしれない。それで不審人物だと思われたのだろう。
志津夫は、目の前の現実に考えを集中しようとした。今は記憶を再現しても、意味がないのだ。何かしら手がかりをつかみたかった。このまま手ぶらで帰ることは、どうしてもできなかった。
志津夫は眉間にしわを寄せて、呟《つぶや》く。
「もしかして……あの女、何か隠してるのか?」
確かに小山麻美には腑《ふ》に落ちない点があった。
昨夜、竜野は、志津夫の父の話や、前代未聞の土偶という話を電話で伝えてきたのだ。そして麻美は、竜野助教授の部下なのだから、上司からいろいろな情報を聞かされていて当然の立場だ。なのに、まったく知らないというのだ。
どうも不自然すぎた。しかし、問いつめようと思っても、何も材料がない。それにあまり、しつこく彼女につきまとうと、時節柄ストーカー扱いされそうだ。
他の講師や助教授、学生たちに聞き込みしようかとも思った。しかし、それをやっても可能性は薄い感じがした。
もしも、それで真相がつかめる程度のことなら、小山麻美は観念して、すぐに喋《しやべ》っただろう。一応は他の人間にも訊《き》いてみるつもりだが、たぶん無駄手間に終わりそうな気がした。
ガラス窓を爪で引っ掻いているような気分だった。ガラスの向こう側にあるものには、どうしても触れられず、爪による不愉快な摩擦音ばかりが耳に残る。そんな状態だ。
できれば、あの管理・収納室を調べたかった。あそこには遺跡からの出土物が保存されているはずだ。もしも前代未聞の土偶とやらが実在するなら、あそこにあるはずだ。
そして、それが見つかったら、隠された糸口もつかめるだろう。どうも失踪《しつそう》した父の件も、それが関係しているような気がする。
だが、この大学では、志津夫は部外者だった。しかも、管理・収納室の責任者は小山麻美ときている。自由に調べさせてはくれないだろう。
あの黒こげの焼死体も気になった。どこの誰なのかは、まだわからない。ただ、溶けた金歯の跡らしいものが、竜野助教授である可能性を示唆しているだけだ。
結局、思考は出口のない迷路に入り込んだ。やがて、常識はずれの空想に陥る。
もしも志津夫が刑事や調査官などの職業に就いていたら、何らかの捜査権限がある立場なら……。その場合は小山麻美により突っ込んだ尋問を行うだろう。管理・収納室にでも、どこにでも踏み込んで調べるだろう。
「……待てよ」
志津夫は呟いた。
傍らの肩かけ式ソフト・アタッシュバッグを見下ろした。ジッパーを開けて、一眼レフ式デジタルカメラと、ブラックに塗装されたA4サイズのノートパソコンを取り出した。
志津夫は、それを見つめた。より正確には、自分の記憶をのぞき込んでいた。脳裡《のうり》に、デジタル写真の映像が浮かんでいる。
「……これ、使えるかな?」
志津夫はノートパソコンの縁を撫《な》でた。
これを誰かに見せれば……。たとえば事務室の者にかけ合うのだ。この写真を見せれば……。そして何か適当な口実があれば……。
志津夫の瞳《ひとみ》が輝きだした。電球が内蔵されているみたいだった。全身が活性化した気分になる。
志津夫は微笑し、言った。
「賢者は自分に与えられる、より多くのチャンスを作る。フランシス・ベーコン」
葦原志津夫が押しかけた場所は、新治大学の事務室だった。
通常のオフィスと大差なかった。十五メートル四方の空間に、机と椅子、本棚、ファイル・キャビネット、パソコン、人間が詰め込まれている。会話のノイズや電話のベルの音などが一定のボリュームで漂っていた。
「ほら、これが証拠です」
志津夫はノートパソコンを操作し、画像を呼び出した。カラー液晶画面を相手に示す。
その画像には五人の男が映っていた。いずれもスーツとネクタイ姿だ。真ん中にいるのは丸顔で色黒、目は大きめで、唇が分厚い人物だった。竜野孝一助教授だ。
その右隣には志津夫自身が映っている。まあまあの好男子に映っていた。だが、普段スーツとネクタイを着慣れていない人間であることも、何となく伝わってくる映像だ。
日本考古学協会の学会会場での一コマだった。場所は都内のホテルだ。内装はベージュで統一されている。背景には会議場のステージが映っていた。
志津夫は言った。
「ぼくがデジタルカメラを持っているのを見て、みんなが撮ろうと言い出したんです。その時の写真です」
吉野《よしの》という名の事務員は、うなずいた。分厚い唇とギョロ目の持ち主だった。年齢は志津夫と同じぐらいだろう。
彼はノートパソコンの画面と、志津夫本人とを何度も見比べた。思い悩んでいるらしく唸っている。
志津夫は、デスクに置いた自分の職員証、免許証なども示した。
「ほら、ぼくの身元は確かでしょう。ご覧のとおり、ぼくは竜野助教授とも、親しいんです。これを見てもらえば、説明するまでもないけど」
「でも、ねえ……」
吉野は渋い顔だ。
志津夫は言った。
「ぼくは、竜野先生の研究室にも何度も入ってるんです。ほら、壁にニューギニアで買ってきた、お面が飾ってあるでしょう」
吉野は顔を上げた。思わず笑みがこぼれていた。
「ああ。あれ、見たんですか」
「ええ。もちろん。直径が四〇センチぐらいの、まん丸な形で、目玉が大きくて、何となく竜野先生本人に似ているやつですよ」
「そうそう。あれ、本人にそっくりですよね。あの先生、やっぱり先祖はニューギニアかどこかじゃないかと思うんだが……」
しかし、そこで吉野は首を振った。
「でも、ねえ。本人の許可なしじゃ、まずいですよ。それに今、本人が行方知れずみたいだし、発掘中の遺跡には今朝、死体が転がっていたとかで、どうも妙な具合だし……」
「責任は、ぼくが取ります。それに、ぼくと竜野先生の仲なら、本人も本気で怒ったりはしませんから」
志津夫は熱弁を振るい始めた。
「……あれは、ぼくが竜野先生に去年あげたものなんです。ぼくが撮った土偶の写真です。だけど、うっかりして、ぼくは写真をなくしてしまい、画像ファイルも消しちゃったんです。しかも、土偶の現物まで取り扱いミスで、破片が紛失して、完全な復原ができなくなったんです……。ああ、まったく何てことだ……」
困っている様子を熱演した。頭を抱え込んだり、拳《こぶし》を握りしめて震わせたりと、ボディランゲージの全パターンを並べた。
「あれは大事な大事な資料だっていうのに……」
志津夫は、ノートパソコンの画面に映っている竜野助教授を指さした。
「残ってるのは、竜野先生にあげた写真だけなんです。きっと研究室の本棚に入れて、そのまま忘れてるに決まってるんだ。あの先生は、一番下の段を大きな封筒のファイル用にして、そこに写真とかを保存してる。だから、それを探して、もう一度カメラで撮り直すだけなんです。あれがないと、次の論文につける一番肝心の映像資料がないままになってしまう。……何とか、お願いしますよ」
志津夫は、合掌して拝んだ。
吉野は依然、渋面だった。
しかし、志津夫は手応《てごた》えを感じていた。内心では、笑みを浮かべていた。
この吉野という事務員は、お人好《ひとよ》しを絵に描いたような男だった。志津夫にとっては好都合だ。
「どうぞ」
吉野が鍵《かぎ》を抜いて、『竜野孝一』とプレートのあるドアを開けた。次いで壁の照明スイッチを入れる。
室内は五メートル四方ぐらいの面積だった。クリーム色の内装がきれいで、シミ一つなかった。窓にはグリーンのカーテンがかかっていて、外の景色は見えない。
壁には、例のニューギニア土産のお面が飾ってあった。お面は大きな目玉を見開いて、侵入者である志津夫を睨《にら》みつけた。
机の上にはパソコンとプリンターがあり、本や雑誌、資料入り紙袋が積み上げられている。辞書類は本人が学生時代から使い込んだものらしく、表紙がぼろぼろになってしまったものが多かった。
壁の一面は金属製の本棚で埋まっていた。上の四段には考古学関係の本が、びっしり並んでいる。だが、それらに用はない。
志津夫は、本棚の最下段を見た。それこそ、お目当ての資料ファイルの山だ。角形二号の茶封筒が並んでいた。
これらの封筒の中身は、竜野助教授の手書きメモや、ワープロ原稿、遺物や遺跡のカラー写真の数々などだ。以前に見せてもらったことがあるのだ。
吉野が言った。
「さっきも言ったとおり、私が見張ってますからね。何も持ち出さないでくださいよ。その土偶の写真の撮影だけにしてください」
「もちろん」
志津夫は笑顔で答えた。
ソフト・アタッシュバッグを床に置くと、一つ目の本棚に向かった。
下の段の左端から、茶封筒を取り出しては、中身を抜き出し、トランプのリフル・シャフルのようにめくった。紙同士が弾《はじ》け合う軽やかな音が響く。
吉野は戸口に寄りかかって、腕組みしていた。退屈そうに、志津夫の行動を監視している。
志津夫は、茶封筒の中に保存してあったカラー写真を次々に見つけだしていた。
いずれも縄文時代の産物を撮ったものだ。特に縄文後期のものが多かった。
顔面がハート形の土偶は、群馬県郷原遺跡出土のものだ。中期後半の加曾利E1式、E2式の影響を色濃く残すものだ。
木菟《みみずく》土偶もあった。ハート形の顔面にボタン形の目と口があり、耳の位置に目と同じ大きさのボタン形の文様がある。これは当時の大型の耳飾りの表現らしい。
頭頂部には、こぶ状の突起が二つか三つある。これは結髪であり、当時の婦人の髪型らしい。鹿角や鹿骨のヘア・ピンや鹿角のクシが盛んに作られたのもこの時代だ。
だが、どれも既知のものばかりだ。前代未聞などという大仰《おおぎよう》な表現が似合うものは、一つもない。
志津夫は、ため息をつき始めた。うまく事務員を言いくるめて、この部屋を調べることに成功した。だが、必ず何かが見つかる保証はないのだ。
戸口で見張っている吉野が、腕時計を見始めた。さっさと事務室に戻って一服したいらしい。
志津夫は、本棚の中央付近の茶封筒を取り出した。中身を抜き出すと、写真だった。
呼吸が止まった。心臓も一拍分、停止した。
目の中に飛び込んできた映像が、網膜にネガフィルムのように焼きついてしまう。
「何?」
思わず志津夫は、そう呟《つぶや》いていた。
「え? 何です?」
吉野も顔を上げた。
だが、志津夫は答えなかった。写真を凝視するのに忙しかったからだ。彼の見開かれた瞳《ひとみ》の奥はブルー一色に染まっていた。
その写真は遮光器土偶の首だった。大きなサングラスをかけたような顔面で、頭部には蛇がのっているような形状だ。
奇怪なのは土偶の色だった。
表面が鮮やかなブルーガラスなのだ! そのガラス層は透明度こそ低いが、色あいは秋空のスカイブルーそのものだった。魅力的な発色といえた。
写真には、マイルドセブンの箱と竹製ものさしが一緒に写っている。ものさしの目盛りから、土偶の顎《あご》から頭頂部までは一〇センチぐらいとわかった。
土偶の形が少し歪《ゆが》んでいるのは、熱で表面が溶けたせいだろう。顎の先にはブルーガラスの玉ができている。どうやら表面が溶けてガラス化した時に、垂れ下がったものらしい。
「まさか……」
志津夫はそう呟いていた。目と口が大きく開いている。縄文時代の地層から、ピカソの絵が出てきたのを目撃したような顔だ。
「こんなもの……」
あるはずがない、と言いかけた。その言葉を飲み込む。
前代未聞の土偶
これだ。この言葉に、まさにぴったり当てはまる代物ではないか。
「……あ、いや、これらしい。うん、これだ」
慌てて作り笑いした。顔を吉野に向けて大きく、うなずいて見せる。
吉野も、無表情にうなずいた。
うまく、ごまかせたようだ。
志津夫はその写真を裏返した。走り書きのメモがあった。
9×年5月26日 新治郡石上遺跡
4A区 501W層、茶褐色土層
SX―13
クロノサイエンス
その一つ一つの意味は、志津夫にはすぐに判別できた。
4A区とはグリッド方式による区画分けのことだ。遺跡全体を方眼紙のように正方形の区画で仕切って、縦軸を英字、横軸を数字にして区別するものだ。
501W層と茶褐色土層は、地層の深さと特徴を示す表記である。
SX―13は、この発掘を行った新治大学調査団が独自に定めた分類記号だろう。
クロノサイエンスは、志津夫にとってはおなじみの会社名だった。遺物の年代測定などを引き受けている民間企業だ。所在地は、この筑波研究学園都市だった。志津夫もしばしば、そこへ出かけている。
二枚目の写真も見た。一枚目の写真と同じ青い土偶の首と、弥生時代の管玉《くだたま》とが並んで写っていた。
管玉とは、弥生時代のブルーガラス製品である。これは細い棒状で、マカロニのような中空の構造だった。弥生時代には、この管玉にひもを通して首飾りにしたり、ヘア・バンド風の王冠として使っていたらしい。
二枚目の写真に写っているのは、共にブルーガラスの製品というわけだ。たぶん、管玉と土偶の両者を並べて、比較する目的で撮った写真だろう。
何しろ色合いがまったく異なっているからだ。その違いは一目で区別できた。
管玉のブルーガラスは、内部に無数の気泡があるのだ。それらは、まるで黒い粒子が混じっているようだった。だから、全体的には、くすんだ青色になっていた。
ところが、土偶の表面を覆っているブルーガラスは、気泡がまったく含まれていない。そのためヒスイかと見まがうほど、純度の高いコバルトブルーに発色しているのだ。
ますます前代未聞の土偶≠セった。
続いて、三枚目の写真を見た。
志津夫は喉《のど》の奥で、唸《うな》ってしまう。
「どうしたんです」と吉野が声をかけた。
「……あ、いや……何でもないです……」
志津夫は首を振り、何とか返事した。
実際には叫びだしたい気分だった。つい垂直ジャンプしそうになる。腹筋に力を込めて、その衝動をねじ伏せた。
あらためて、写真を凝視した。
写真の被写体は、ある人物の上半身だった。肩幅の広い初老の男だ。短い頭髪を七三分けにして、大きなガーゴイル・サングラスをかけている。
彼はやや斜めを向いて、撮影者の方に向かって、片手をあげて、顔を隠そうとしていた。手には黒革の手袋をはめている。被写体の当人は、写真を撮られるのを断ろうとしているようだった。
背景には竜神山が写っている。たぶん撮影場所は石上遺跡の近くだろう。
被写体の顔の上半分は、サングラスで隠れていた。だが、口ひげと顎《あご》ひげ、唇、鼻、耳の形状は、志津夫にとって見慣れたものだった。彼がものごころがついた時から身近な人物だ。
「父さん……」
志津夫は口の中で、呟いた。
その人物は志津夫の記憶にある正一よりも痩《や》せていた。以前の正一は、もっとがっしりした体格だった。
だが、正一は生きていれば今は五九歳になるはずだ。とすれば、被写体の父親は、現在の年齢相応の体格と言える。
つまり、これは最近、撮影されたものなのだ。
竜野助教授は、葦原正一の所在をつかんだどころではなかったのだ。正一本人に会い、写真も撮ったのだ。おそらく会話も交わしただろう。
志津夫の呼吸が荒くなってきた。写真を持つ手が少し震える。一〇年ぶりに得た手がかりだった。
頭の中に疑問符がどっとあふれ出てくる。
竜野助教授がこの写真を撮ったという事実から考えると、父は拉致《らち》誘拐などの事件に巻き込まれたのではないらしい。とすれば、自ら身を隠したということなのか? 一〇年間も行方をくらましてきたということなのか? だが、何のためなのか? 志津夫にはまったく思い当たるふしがない。
その茶封筒の中身をさらに調べた。だが、それ以外に、変わったものはなかった。
あらためて、一枚目の写真の裏を見た。そこに走り書きされた「クロノサイエンス」の文字を確認する。
おかげで、前代未聞の青い土偶≠フ行方はつかめた。この会社に、年代測定を依頼したに違いない。
10
葦原志津夫は、クロノサイエンス社の分析室にいた。
鉄製の頑丈そうなドアが印象的な部屋だ。面積は十五メートル四方ぐらい。コンピュータ端末機と、それに接続してある各種分析装置が並んでいる。
室内で、いちばん目立つのは表面電離型質量分析装置だ。金属製の球体と円盤、円柱などが組み合わさって、パイプやケーブルで飾られている。なぜ、この装置がこんな形状になるのか、志津夫には未《いま》だによくわからない。
他にも走査型電子顕微鏡や、X線分析解析装置、NMR(核磁気共鳴吸収分析)装置、オージェ電子分光分析装置などがあった。いずれもコンピュータ端末機とワンセットのタイプだった。
「まあ、見てくれ」
志津夫は椅子に座って、机にデジタルカメラとノートパソコンを並べた。カメラからPCカードを抜き取る。それをパソコンのスロットに挿入し、タッチパッドを操作して、画像を呼び出した。
白衣姿で椅子に座っている大林真《おおばやしまこと》が、カラー液晶画面をのぞき込む。
大林は白衣を着用することで、かろうじてクロノサイエンス社の技術屋らしく見える男だった。もし普段着の彼にいきなり会ったら、化学分析の専門家だとは誰も思わないだろう。
何しろ頭髪を一〇〇パーセント茶色に染めているからだ。右の耳たぶには金色のピアスをしていた。
色黒で、ひねくれた感じの顔立ちだった。やたらと意味ありげにウインクする癖がある。
分析室内には、他にも技術者たちが七、八人ほどいた。彼らは全員、生まれつきの黒髪だし、ピアスもしていなかった。それを見れば、大林真は例外中の例外みたいな存在だとわかる。
大林は、志津夫とは大学で同期生だった。一般教養の科目で、よく同じクラスになったのだ。互いの仕事に関連性があるため、卒業後もつき合いが続いている仲だ。
「これなんだ」と志津夫。
カラー液晶画面に、葦原正一の姿が映った。ひげ面にサングラスをかけている。つい四〇分ほど前に新治大学の『竜野孝一』の研究室で、撮影したものだ。
「この人、誰だい?」と大林。
「見たことないか?」と志津夫。
「ああ」
「ぼくの親父だ」
大林は目を見開いた。視線が画面と志津夫とを何度も往復する。
「これが? 行方不明になったっていう君の親父さん?」
「ああ。竜野助教授が撮った写真だ。……その様子じゃ、君は何も聞いてないんだな。OK、質問するまでもなかったな。じゃ、次はこれだ」
志津夫はタッチパッドを操作した。
カラー液晶画面に、ブルーガラス土偶のデジタル写真が表示された。デジタル映像で見ても、その鮮やかなコバルトブルーの発色が網膜に焼きつくようだった。
大林はうなずき、
「ああ。これは覚えてるよ。竜野助教授本人が持ってきたし、こんな青い土偶なんて、初めて見たしな」
大林は、いつもの癖でウインクした。なぜか今日の彼は、右手の甲に大判のガーゼ付きバンソウコウを貼っていた。
志津夫は、一瞬そのバンソウコウが気になった。そう言えば、小山麻美も同じような部位に、同じような大判のバンソウコウを貼っていたからだ。
だが、すぐに忘れた。そんなことより、もっと重大な問題がある。
志津夫は慌てて周囲を見回した。
「どこにあるんだ? 土偶は?」
大林が首を振り、
「ないよ。土偶は竜野先生がすぐ持って帰った。分析には五〇ミリグラムあれば充分だからね。土偶の首の後ろを二センチほど削って、それを使ったんだ」
「そうか」
志津夫は舌打ちした。画面を指さし、
「じゃ、この土偶の年代測定は、もうやったんだな?」
「うん。熱ルミネセンス分析法。つまり、おれがやったわけだ」
「年代は?」
そこで大林は唇を歪《ゆが》めた。唸り、首をひねっている。
「あれ? 言っていいのかな? 一応これは顧客の秘密だし、企業秘密でもあるよな。守秘義務というやつに反さないかな?」
「ぼくも顧客だぜ」
「でも、竜野先生からは部外者には言うな、と口止めされたし、それも料金のうちだし、おれの給料のうちだからなあ」
志津夫は深呼吸して、気合いを入れ直した。大林の肩をつかんで、言う。
「ぼくは部外者じゃない。竜野先生とは同業者だし、第一ぼくは彼に呼ばれて、ここに来たんだぞ」
「ふうん」
大林は、納得していない表情だった。
志津夫は、必死に説得を始めた。
「竜野先生は、『詳しいことは会ってから話す』と電話でも言ってた。『前代未聞の土偶だから、びっくりさせてやる』とも言ってた。ところが来てみたら、竜野先生は行方不明なんだ。この土偶もどこにあるのか、わからないときてる。竜野先生は、ぼくの親父とも会って写真を撮ったらしいが、これ以外は何も情報がない」
「ふうん。先生も土偶も、どこに消えたんだ?」
「さあね」
志津夫の脳裡《のうり》に映像が浮かんだ。石上遺跡に転がっていた、真っ黒に炭化した焼死体だ。デジタルカメラで記録した、あの画像を大林に見せたい誘惑にかられた。「こうなったのかもしれない」と言いたくなった。
志津夫は首を振り、その誘惑を捨てた。今その話題を持ち出すと、かえって説明に手間取りそうだからだ。話を元に戻す。
「とにかく、ぼくは部外者じゃなくて、当事者なんだから。……で、年代は? いつなんだ?」
大林の顔に笑みが浮かんだ。ウインクする。
「当ててみなよ」
「さっさと言ってくれよ。もったいつけてないで」
さすがに志津夫は、うんざりした顔になる。
だが、大林はいたずらっぽい笑顔のままで、
「いや、実はな。竜野助教授も、これを聞いたときは、びっくりしてたんだよ。えらく興奮してたし、その後も妙にうきうきしてた。それを思い出したんだ」
「だから、年代は、いつなんだよ!」
志津夫は苛立《いらだ》って大声を出した。思わず平手で、机を叩《たた》いてしまう。
大林が答えた。
「三〇〇〇年前だ」
「え?」
志津夫は目をむいた。身体が硬直するのを感じる。ウレタン樹脂で、全身を固められてしまった気分だ。
何度も瞬《まばた》きして、大林を見た。相手の真意を推し量ろうと、目を直視する。
「……今、何て言った?」
「正確に言うと、約三〇〇〇年前で誤差がプラスマイナス三〇〇年。つまり三三〇〇年前から二七〇〇年前までの間だ」
志津夫は硬直した身体を動かした。大林の肩をつかみなおし、相手の顔をのぞき込む。唖然《あぜん》とした表情だ。
「おまえ、マジで言ってるのか?」
「ほら、やっぱり、びっくりしたじゃないか」
大林は、悪ガキがいたずらに成功したような表情で、志津夫を指さした。次いで、不思議そうな顔になり、志津夫の目をのぞき込んできた。
「でも、どうして、そんなにびっくりしなきゃならないんだ?」
11
遺物の年代測定には、さまざまな方法がある。
例を挙げると、C14放射性炭素測定法、年輪年代測定法、熱残留磁気測定法、フィッショントラック測定法、熱ルミネセンス測定法などだ。
これらの測定法は、分析する資料によって向き不向きが分かれている。
熱ルミネセンス測定法の場合は、土器、土偶、焼土、焼石などの年代測定に向いている。より正確に言うと、それらに含まれている石英の粒子を測定するのだ。
石英などの結晶は熱を受けると、蛍光を発する性質がある。これは石英の格子欠陥に捕獲されていた電子が、熱によって解放されるためだ。
また、石英は摂氏五〇〇度以上の熱を受けると、内部の捕獲電子がすべて放出されてしまい、電子量がゼロになってしまう。そして、そこを起点として、再び周囲の土からの微弱な放射線を受けて、電子の蓄積が始まるのだ。
熱ルミネセンス法は、この電子の蓄積量によって、年代を測定する方法である。
具体的には、土器などに含まれる石英の粒子(〇・一ミリ程度)を分離して、表面をフッ化水素酸でエッチングして、試料とする。それを測定装置の試料台上で、五〇〇度まで徐々に加熱するのだ。すると、捕獲電子が解放されて、発光し始める。
年代が古い石英ほど捕獲電子の量も多いので、より強く発光するわけだ。
この蛍光を、光量読取装置で測定する。そして測定データを基に、付属のコンピュータにグラフ曲線を描画させるのだ。
このグラフは縦軸が石英の発光量で、横軸が加熱温度だ。横軸の温度目盛りは摂氏一〇〇度から五〇〇度までである。
この時、描かれるグラフ曲線をグローカーブと呼んでいる。石英の場合は、このグローカーブの三三〇度から四〇〇度までのグラフ上の面積を、年代測定の目安となる発光量と見なすのだ。
大林真は鼻歌まじりで、コンピュータのキーボードを叩きだした。いつもながら茶髪にピアスの彼が、そういう作業をやっている様は妙な光景だった。
VDT画面が垂直に二分割された。画面右側に一種類だけグラフ画像が現れた。
大林が言う。
「これが青い土偶から検出したグローカーブだ」
志津夫は、画面を凝視した。そのグラフ曲線は、細長くて高い山の形だった。中国製の掛け軸の絵によく描かれるような山の輪郭に似ている。
さらに大林がキーボードを叩く。
今度は画面左側にグラフ画像がいくつも縦列に並んだ。それぞれ微妙に曲線の高さが異なるグラフ画像だった。画像の下には[AD500][AD400]などの数字がある。紀元五〇〇年、紀元四〇〇年を示すものだ。
大林が指さし、
「こっちは比較サンプルのグローカーブだ。土の中の石英粒子が一年三六五日の間にどれだけ電子を蓄えるかといった実験や、他の年代測定法も参考にして得たデータだ。……さて、それじゃタイムマシン・スタート」
大林はカーソル・キーの「→」を押した。
画面左側で縦列に並んでいるグラフ画像群が動き出した。縦列の画像が画面の上から現れては、画面の下へ消えていく。いわゆる画面のスクロールだ。
画像ファイルの下にある数字が変わっていく。[AD300][AD200][AD100][AD0]。
それにつれて低い山を描いていたグローカーブの曲線が、段々高い山に変化していく。つまり石英の電子量が増えているわけで、その分、年代が古くなっているのだ。
画像ファイルの下にある数字が変わっていく。[BC200][BC300][BC400]……。
画像ファイルの数字が、[BC1000]になった。
そこで大林は画像ファイルのスクロールをやめた。今度は右手でマウスを操作する。
青い土偶のグラフ画像の複写イメージを作った。その複写イメージを、画面左の[BC1000]グラフ画像のところに移動させる。
二つのグローカーブの曲線が重なった。
完全に一致した。両者はまったく同じ曲線で、一ミリの狂いもなかった。
大林が右手を上げて、バスガイドの口調を真似て、言った。
「皆様。長らくお待たせいたしました。紀元前一〇〇〇年。現代から三〇〇〇年前でございます。お忘れ物などありませんよう、身の回りをお確かめください」
彼は、いつもの癖でウインクした。
「何てことだ!」
志津夫は叫んだ。椅子から立ち上がり、頭を両手で抱える。自分の脳も熱ルミネセンス分析法にかけられ、加熱されている気分だ。
あまりの声の大きさに、室内にいた他の技術者たちが振り返ったほどだ。不審な顔で、志津夫の方を見ていた。
志津夫は振り向き、訊《き》いた。
「本当なのか? おまえ、試料をまちがえたんじゃないのか?」
大林はあきれた表情で、
「あのきれいなブルーの土偶を? 他の試料とまちがえるだって? そんなことありえないね」
志津夫は慌てて、周囲を見回した。
「その試料はどこにあるんだ? 土偶のかけらは?」
「もう捨てたよ」
「何だって!」
志津夫はまた怒鳴ってしまう。
大林が肩をすくめる。
「だって、測定のための電子は絞り尽くした後なんだ。もう何の役にも立たないから……」
それでも志津夫は、周囲を見回し続けた。
「ゴミ箱に残ってないのか?」
大林が首を振る。
「三日か四日前にゴミに出したんだ。今ごろは町外れの焼却炉かどこかだよ。もう捜しようがないと思うけど……」
志津夫は背骨が一本外れたような気分になった。椅子に座り込んでしまう。
次いで拳《こぶし》を握りしめて、唸《うな》り声をあげた。歯ぎしりする。大林をぶん殴りたいような顔になっていた。
「な、何だよ」
大林が椅子から腰を浮かしそうになった。身の危険を感じたようだ。慌てて、抗弁する。
「だって、スープを取った後のトリガラなんて、普通は捨てるだろう」
「まあ、それはそうだが。……いや、何でもない……」
志津夫は目をそらした。
こんなことで、大林を責めても、どうしようもないのだ。彼は、何も知らず、日常の業務をこなしただけだ。それに測定のために、すりつぶしてしまった試料では、証拠としての信憑性《しんぴようせい》も薄いだろう。
志津夫は机に肘《ひじ》をついて、片手で顔面を覆ってしまった。ぶつぶつと呟《つぶや》いてしまう。
「三〇〇〇年前だって? つまり縄文時代後期から晩期? 三〇〇〇年前?」
大林がうなずいて、
「そうだよ。……何か不都合なことでもあるのか?」
志津夫は顔を上げた。だが、大林の質問は耳に入っていない。
眼球が飛び出しそうなほど、見開かれていた。体温が上がり、額に汗がにじんでいる。呟き続けた。
「これは、あれなのか……。ついに見つけたのか……。もしかして、局所的なカムナビ……。そういうものが存在したのか……。これは実在が証明できるということなのか……」
「おい、どうしたんだよ? もしもし? おい、聞こえるか? もしもし?」
大林が呼びかけていた。志津夫の顔の前で、片手を振っている。
それで、志津夫は我に返った。相手の顔を見つめる。
「あ、いや、何でもない。何でもないんだ……。何でもないから……」
大林は不審な顔で、
「何でもないわけないだろうが……。何をそんなに、びっくりしてるんだよ? そう言えば、竜野先生も三〇〇〇年前という鑑定結果を聞いて、驚いて、何度も聞き返してたな。いったい、何なんだ?」
志津夫は大きく息をついた。目の色が険しくなってくる。
大林に言うべきかどうか、迷ってしまった。何しろ常識外れな話題だからだ。こんな話を、自然体で受け止めてくれるだろうか。
しかし、このまま「はい、さよなら」というわけにもいかない。相手は友情に免じて、守秘義務を犯してくれたようなものだ。志津夫も説明する義務を感じてしまう。
志津夫は片手で、相手を押さえる仕草をして、
「まあ、落ち着け」
大林は苦笑して、
「それは、おれの台詞《せりふ》だ。おまえこそ、落ち着いて、ちゃんと説明しろ」
志津夫は自分を指さして、訊いた。
「今のぼくをどう思う?」
「どうって?」
「ぼくが狂ってると思うか?」
「さあね。……じゃ、おれの好物が何だかわかるか?」
「たこ焼き」
「おまえは正常だ。ちゃんと覚えてるじゃないか」
そう言って、大林は志津夫の肩を叩《たた》き、笑った。
志津夫も苦笑を返した。大林の好物なら忘れるはずがなかった。大林は学生時代、たこ焼き用の鉄板を購入して、たこ焼きパーティーをしょっちゅう開催していたからだ。
大林が、顔をのぞき込んで、
「いったい、何を悩んでるんだよ? それとも友だちにも相談できないようなことか?」
「いや……」
志津夫は再び、苦笑した。そして一息つく。説明する決心を固めた。
自分のノートパソコンを手元に引き寄せた。タッチパッドを操作する。デジタル画像を表示させた。
画面には、ブルーガラスの土偶の首と、同じくブルーガラスの管玉《くだたま》が並んで映った。これは新治大学の『竜野孝一』の研究室で撮影した、二枚目の写真だった。
志津夫は液晶画面を指さし、言った。
「こっちの棒みたいなのは管玉といって、弥生時代のブルーガラス製品だ」
大林がうなずき、
「ああ、知ってるよ」
「よく見てくれ。この管玉と土偶とは色合いが違うだろう」
「そうだな。管玉の方が黒い粒がいっぱい混じってて汚い感じだな。土偶の表面のガラスは黒い粒もなくてずっと、きれいなスカイブルーだ」
「それが問題なんだ」
「どう問題なんだ?」
志津夫は、ため息をついた。画面上の管玉を指さし、説明を始める。
「弥生時代の管玉は、気泡による黒い粒が混じっていて色合いがくすんでいる。そのことから、製造温度は摂氏一一〇〇度と判定されている。これは同じ色合いのブルーガラスを造った実験で、確認されているんだ」
志津夫は、今度は画面上の青い土偶を指さして、
「理想を言えば、温度を一二〇〇度にすると、気泡がなくなって純度の高いきれいなブルーガラスになる。ちょうど、この土偶みたいにだ。だけど、弥生時代には、そこまで窯《かま》の温度を上げる技術はなかった……」
「え?」
大林が瞬《まばた》きした。画面と志津夫を交互に見比べている。この大矛盾がおぼろげに理解できたらしい。
志津夫は続けて、
「この土偶の表面をよく見ろ。君も言ったとおり、気泡による黒い粒もなくて、管玉よりもずっと純度の高いブルーガラスじゃないか。つまり、この土偶の製造温度は一二〇〇度と判定できる」
「ちょっと待て。……ということは……」
大林が両手を自分の茶髪に持っていった。髪の毛を掻《か》きむしりだす。
「そうだよ!」
志津夫が机を叩いた。
「つまり、このブルーガラス土偶は、弥生時代はもちろん、それ以前の縄文時代にも造れるはずがないものなんだ。縄文時代に一二〇〇度もの高熱を発生させる技術なんかあるわけないんだ。
ところが、君は、このきれいなブルーガラス土偶の製造年代を、三〇〇〇年前と測定したんだ! というより熱ルミネセンス分析法が、そう測定したんだ。縄文時代後期から晩期だと……」
大林は口を開けっ放しにしていた。茶髪の頭を掻きむしる手も止まっている。誰かにポーズボタンを押されたみたいだ。
志津夫は、あらためて、ノートパソコンの画面を凝視した。
画面の中の土偶は嘲笑《ちようしよう》しているように見えた。三〇〇〇年の時を越えて、志津夫の狼狽《ろうばい》ぶりを眺めて楽しんでいるようだ。
志津夫は呟いた。
「前代未聞だ……。確かに……」
12
「そんなバカな! こりゃ、どういうことだ?」
今度は大林真が叫んだ。目が見開かれたままだ。
周囲にいる白衣の技術者たちが、また振り返った。彼らには迷惑な日になっただろう。仕事場に、酒乱の人間でも紛れ込んできたような顔をしていた。
志津夫はそれに構わず、大林を真正面から見据えて、訊《き》いた。
「念のため確認しておくが、測定の手順とかにミスはなかっただろうな?」
大林は思い切り、首を左右に振った。頬の肉がゼリーみたいに震えたほどだ。
「それはない。もし、この測定結果が間違いだって言うんなら、熱ルミネセンス法そのものが否定されてしまう。過去に積み上げてきたデータもノウハウも全部、無駄だったことになる。ミスはない」
「絶対に?」
「ない。断言してもいい」
大林は真正面から睨《にら》み返した。真剣そのものといった表情だ。
志津夫は、ため息をついた。本職の技術者がそこまで言うのなら、疑う理由はなかった。また、ノートパソコン画面の青い土偶を見つめた。
「前代未聞か……」
志津夫はその台詞を繰り返してしまう。
「やっぱり、これのことだったんだ」
大林が金色のピアスをいじくりだした。首をひねって、
「しかし、どういうことなんだ、これは? つまり三〇〇〇年前に摂氏一二〇〇度の高熱を発生させる技術があったということか?」
志津夫は慌てて、言った。
「いや、今は結論を急がない方がいい。いずれ、何らかの説明はできるさ」
「まあ、そうだな。これじゃ、考古学じゃなくて、トンデモ本だぞ」
「ああ。だから、しばらく、このことは黙っててくれ。他言無用だ」
志津夫は合掌して相手を拝んだ。
「ああ」
大林はうなずき、吐息をついた。次いで茶髪の後頭部を掻き、周囲を見回した。
まだ何人かの技術者が、こちらの方を盗み見ていた。志津夫や大林が突然、大声で怒鳴ったりしたからだ。しかし、広い部屋だから、話の内容までは聞こえていないだろう。
大林は、まだ混乱|醒《さ》めやらぬといった顔だった。液晶画面のブルーガラス土偶を睨み、茶髪を掻きむしって、
「でも、どういうことなんだ? 一二〇〇度の高熱だぞ。縄文時代だぞ。縄文時代に土偶や土器を焼く時の方法というと……」
「野焼きだ。地面の上で焚《た》き火をして、それで焼いたんだ。温度もせいぜい九〇〇度。縄文遺跡から窯が出土した例はないから、野焼きしかないんだ。一二〇〇度なんて……」
志津夫はそこまで言いかけて絶句した。
大脳を電光が横切る。啓示に似た閃《ひらめ》き。胸の中に真っ黒な暗雲が湧いてくる。
「まさか……」
そう呟《つぶや》いたきり、また言葉が出なくなる。
「どうしたんだ?」大林が訊く。
だが、志津夫は聞いていなかった。意識に言葉の意味が届いていないのだ。
胸郭を満たした暗雲は膨れ上がる一方だった。それは志津夫の全身に広がり、毛穴から外へとはみだしていくようだった。自分の周辺の空気までが、それに染まって灰色に変わっているみたいだ。
「金歯だ」
「え?」
「入れ歯の金歯、溶けていた」
「話が見えないぞ。何のことだ?」
「連中が言っていた。金歯というのは、なかなか溶けないと。人間を火葬にしても金歯はそのままの形で残ると。でも、あの金歯は溶けた……」
「何言ってんだか、さっぱりわかんないよ」
大林は、不審な表情を浮かべている。志津夫が正気を失ったのではないかと疑っている目だ。
志津夫は首を振り、
「いや、ぼくも何が言いたいのか、自分でもよくわからないんだが……」
志津夫は、大林の胸ぐらをつかんだ。
「金が溶ける温度は何度だ?」
「それが何の関係があるんだ?」
「後で説明する。今は何も訊かないで、教えてくれ。金の溶ける温度は?」
大林は茶髪の頭を掻いて、
「おれは金属分析はやってないんだ。ちょっと待て」
志津夫の手を振り払って、大林は立ち上がり、他の技術者に呼びかけた。
「遠藤《えんどう》さん。ちょっと教えてください」
「あん?」
振り向いたのは、分厚いメガネをかけた四〇歳ぐらいの男だった。若はげらしく、髪の毛の最前線がだいぶ後退している。
大林が訊く。
「遠藤さん。金の融点は何度でしたっけ?」
「金?」
遠藤は二回瞬きした。即答する。
「摂氏一〇六四度だ」
志津夫はそれを聞くなり、立ち上がった。自分で質問する。
「融点というのは、溶ける温度ですね?」
「ええ」と遠藤がうなずく。
「じゃあ、入れ歯用の金歯も一〇六四度で溶けると?」
「いや、一〇六四度というのは純金の場合です。金歯はそうじゃないでしょう」
そう言って遠藤は笑った。
「だって、純金の歯じゃ柔らかすぎて、満足にものが食えっこない」
「じゃ、金歯というのは?」
「合金に決まってますよ。他の金属も混ぜてあるんだ」
志津夫は思わず机に手をついて、遠藤の方へ身をのりだしていた。切迫した表情だ。
「その合金の融点は?」
遠藤は首をかしげて、
「いや、そこまで詳しいことは知らないんでね。でも、硬度を上げるためには、より融点の高い金属を混ぜるはずだ。だから、金歯の融点となると一二〇〇度か、一三〇〇度ってところでしょう」
志津夫の脳天にレーザービームのようなものが突き刺さった。それは背骨を貫通して、全身を痺《しび》れさせていた。
「一二〇〇度……あの金歯……完全に溶けていた……」
そう呟いたきり、志津夫はしばらく硬直していた。魂が肉体から抜け出したような表情だ。
志津夫の頭の中では、スロットマシンのように言葉を印刷した回転ドラムが回っていた。
三〇〇〇年前、縄文時代後期、土偶、高純度のブルーガラス、製造温度、一二〇〇度、焼死体、溶けた金歯、合金、融点、一二〇〇度。
「まさか……これも、あれなのか? カムナビ?……だって、何もない野原の真ん中で一二〇〇度……三〇〇〇年前と、昨日の夜と、同じ場所で起きた……」
「さっきから何をぶつぶつ言ってるんだよ? 説明しろ」
大林に肩を揺さぶられ、はっと我に返る。
そこで志津夫は、大林や遠藤らの異様な視線に気づいた。発狂しかけている人間を見るような目だった。
慌てて、遠藤に一礼した。
「どうも、ありがとうございました」
志津夫はそう言って、荷物をまとめにかかる。ノートパソコンのALTキーとF4キーを押し、リターンキーを叩《たた》く。ウインドウズが終了処理を始めた。パソコンとデジタルカメラをソフト・アタッシュバッグに収めて、肩にかついだ。
「じゃあ、邪魔したな」
志津夫はそう言い残して、立ち去ろうとする。
「ちょっと待てよ」
大林が腕をつかんできた。
「説明しろ。これじゃ気になって、こっちも仕事にならん」
志津夫は大きくため息をついた。
「それが……話すと、かなり長くなるんだ。それにぼくだって、まだ何が何だか……どう整理すればいいのか……」
志津夫は、大林がつかんできた手を振り払って、言った。
「とにかく今は、ちゃんとした説明なんてできるわけがない……」
だが、大林はあきらめず、また志津夫の肘《ひじ》をつかむ。
「待てよ。金歯って何のことなんだ? せめて、それだけでも……」
志津夫は唸《うな》った。これ以上、説明すると本当に狂人扱いされそうだ。
だが、その時、名案を思いついた。どうせなら、大林との取引材料にする手があるではないか。相手に向きなおった。
「わかった。じゃ、代わりにおまえの車を二、三日貸してくれ」
「え?」
「レンタカー代を浮かしたいんだ。貸してくれたら、手短にぼくが知ってる範囲で説明してやる」
「ふうん……。まあ、そのぐらいなら、いいけど」
「先に車のキーを寄こせ」
大林はやや不満そうな顔だが、ポケットからキーを出した。
「ん?」
志津夫はキーを受け取ろうとして、大林の手に注目した。右手の甲に大判のガーゼ付きバンソウコウが貼ってある。そう言えば今日はたびたび、それが目についた。
新治大学の講師、小山麻美のことも思い出した。彼女もその位置に大判のバンソウコウを貼っていたからだ。
志津夫はキーを受け取り、指さして訊《き》いた。
「ところで、その手は、どうしたんだ? そのバンソウコウは?」
「あ、これか?」
大林が大判のバンソウコウを剥《は》がした。
志津夫の目が見開かれた。
大林の手の甲には、ウロコのようなものができていた。全体の形は直径二センチほどの円形だ。その中に赤っぽい色で、まるで細かい三角形の模様が描かれているみたいだった。よく見ると三角形の模様の中には、茶色や灰色も混ざっている。
大林は言った。
「あ。だいぶ小さくなったな。この分なら、すぐ治るな」
「それは?」
大林は首を振る。
「わからん。なぜか、こうなったんだ。アレルギーにでもなったのかな。でも、段々小さくなっているから、そのうち治るだろう」
「いつからだ?」
「いつだったかな?」
大林は眉間《みけん》にしわを寄せた。
「もう一週間ぐらいになると思うが……。そうだ。例の青い土偶の検査をした頃だ。あれの翌朝だったかな……」
思わず志津夫は大林の右手をつかんで、それをのぞき込んだ。
その三角形のウロコ状の形が、妙に気になった。見れば見るほど胸騒ぎがしてきた。
大林が不審な顔で、訊いた。
「どうしたんだ?」
「あ、いや……」
志津夫は口ごもった。相手の手を離す。
志津夫は、自分の右手の甲を見た。小指の付け根辺りだ。
そこには一見、瘡蓋《かさぶた》のようなものがあった。直径三ミリぐらいだ。
いつから、こうなったのかは志津夫自身も覚えていなかった。特に気にしたこともなかった。だが、今は別のものに見えていた。
よく見ると、それも小さな三角形の連なりなのだ。触ってみると、異様に固い。人間の皮膚とは異質な感じがする。
大林が言った。
「あれ? 何だか、おれのと似てるな。それはいつからだ?」
志津夫は首を振った。
「わからん。生まれつきらしい……」
志津夫は改めて、自分の右手の甲を凝視した。胸の中で、何かが跳ね回っているようだ。不安な気持ちが高まってくる。
だが、なぜ、こんな風に胸騒ぎがするのか、自分でも説明できなかった。
13
カーブにさしかかった。志津夫はパジェロのアクセルをゆるめた。
二八〇〇ccのディーゼルターボ・エンジンが反応し、騒音と速度を落としていく。四輪駆動車特有の高い重心位置のせいで、カーブでの走行は不安定に感じられた。
運転パネルのデジタル時計が、午後五時一分を表示していた。だが、五月末日の太陽はまだ高い位置にある。開いた窓からは樹木の香りと涼しい風が飛び込み、志津夫の頬をかすめた。
道路の両側の地面はオオバコ、ミチヤナギなどの雑草で覆われていた。ヤマブドウの黄緑色の小花、スイカズラの白い花も点在している。
カーブをまわりきった時、志津夫の視界に二台の乗用車が飛び込んできた。
サニーとカローラだ。縦列に並んで停車している。二台とも似たようなシルバーグレーに塗装されていた。
道路脇には、二人の男女が立っていた。
男の方は、メタルフレームのメガネをかけていた。年齢は三〇代前半ぐらい。
女の方は地図帳らしい薄い本を広げていた。
背の高い女だった。隣にいる男とほぼ肩を並べている。身長一七〇センチ弱ぐらいあるだろう。
彼女はサングラスをかけていた。だが、面長な顔の輪郭、高い鼻、引き締まった唇が、彼女の美貌《びぼう》を物語っている。セミロングの黒髪が風になびいていた。年齢は二〇代後半ぐらいのようだ。
手足も長く、胸から腰にかけての曲線も魅惑的だった。服装は紫のブラウス、青のタイトスカート、ローヒールの靴だった。耳には大きな金色のイヤリングをしている。荷物は革のショルダーバッグだ。
志津夫は平均的な男性の反応が出て、彼女の脚線美にも目が向いてしまう。雌鹿のようにひきしまった足首の持ち主だ。
ふと、志津夫はメガネの男に視線を向け直した。何かが引っかかった。
志津夫の脳裡《のうり》に、午前中の記憶が蘇《よみがえ》った。あの男、見覚えがある。
パジェロを停車させた。ハンドブレーキを引く。
志津夫は助手席にあったノートパソコンを膝《ひざ》に載せて、電源をONにした。ハードディスクがミニサイズのルーレットのような音を立てた。カラー液晶画面に青空の絵と、フォルダの絵が浮かび上がる。
志津夫は、PCカードに記録されている画像を呼び出した。
カラー液晶画面が、六分割された。そこに、午前中に撮った焼死体の画像が、六枚一組で再生された。目のない眼窩《がんか》、むき出しの奥歯の位置から垂れ下がった金の糸、天に向かって突き出した黒こげの拳《こぶし》。
ページを切り替えるうちに、やっと生きている人間の画像が出た。私服刑事が二人と、尋問を受けている男が一人だ。彼らは黄色いテープの内側に立っている。
その画像を拡大する。
尋問されているのはメタルフレームのメガネをかけた、やや出っ歯の男だった。年齢は三〇代前半ぐらい。充血した目をしていた。
志津夫はうなずく。今、道路脇に立っているメガネの男と同一人物だ。
彼が焼死体の第一発見者なのだろう。それで午前中、刑事に尋問されていたらしい。
志津夫は満足げな顔で、うなずく。ちょうどいいタイミングで再会できた。彼からも焼死体を発見した時の状況を訊くべきだった。
その上、誰だか知らないが、美女も一人おまけに付いているではないか。
志津夫は4WD車のエンジンを切った。車を降りて、小走りに駆けていき、男女二人に声をかける。
「すいません。ちょっと、うかがいたいんですが……」
「あ? はい」
メガネの男が顔を上げて、返事をした。志津夫の目当ては自分だと、直感的に悟ったらしい。
サングラスの女も、志津夫を振り返った。
ふいに、彼女は変わった動作をした。何かを片手の親指で弾《はじ》き上げたのだ。
それは銀色の五〇〇円硬貨だった。コインは垂直上昇、垂直降下して、彼女の手のひらに軟着陸した。
よく見ると、女は黒い手袋をしていた。手のひらだけを包んで、指は外に出るデザインのものだ。女性らしからぬ装いに思えた。
志津夫は彼女を見つめた。疑問が湧いてくる。
何者だろうか、と思う。発掘に参加している女子学生ではないようだ。地図帳を開いているところを見ると、通りすがりに道を訊いている感じだが。
志津夫は、すぐに視線をそらした。面識のない女性をじろじろ見るのも失礼だろう。
志津夫はメガネの男に再度、声をかけた。
「すいません。ちょっと訊きたいことがあって……」
「はい。何ですか?」
メガネの男が問い返す。
志津夫は遺跡の方向を指さし、
「今朝、この先で焼死体が出ましたね。もしかして、あなたが焼死体の第一発見者なんですか?」
「ええ。そうですが……」
志津夫はうなずくと、名刺を出した。自己紹介する。
「東亜文化大の講師で、葦原志津夫といいます」
男は名刺を受け取り、それを見た。
サングラスの女も興味を抱いたらしい。首を伸ばして、名刺をのぞき込んだ。いい香りがした。柑橘系《かんきつけい》だ。
突然、男が言った。
「あ、そうか、思い出した」
男はメガネの位置を修正して、志津夫を見つめ、
「……そう言えば、あなたも午前中、あの現場にいましたね。あなたは写真を撮っていて、それで警官に文句を言われていた」
志津夫は苦笑する。
「そうです」
メガネの男が指さして、
「……確か、あなたは考古学者とか……」
「考古学者?」
サングラスの女が魅力的なアルトで言った。
彼女はサングラスを下にずらして、大きな目をのぞかせた。黒い真珠のような瞳《ひとみ》と、長いまつげが印象的だ。予想どおりのエキゾチックな美貌だった。
志津夫は反射的に、彼女にも笑みを返した。男性なら当然の反応だ。
「そうです。正確には比較文化史学と言いますが、まあ、考古学の一種です」
「ふうん」
彼女がうなずく。微笑んでいる。唇がきれいな三日月の形だ。
だが、志津夫は、彼女の瞳の奥から、一瞬きつい視線が放たれるのを感じた。レーザービームに似た感じだ。
彼女は、すぐにサングラスで目を隠した。自分の表情を読みとられたくないかのようだ。喋《しやべ》りだす。
「ちょうど良かったわ。こんなところで専門家に会えるなんて幸運ね」
彼女も名刺を二枚、取り出した。志津夫と、メガネの男に手渡す。
志津夫は、名刺を確認した。
名前は安土真希《あづちまき》。
肩書きは昭和堂出版、サプリメント編集部、フリー記者。
志津夫は訊《き》いた。
「サプリメントって、あの隔週刊誌の? フリー記者?」
「ええ」
安土真希は微笑んだ。
「以前から、石上遺跡は取材するつもりでいたんです。でも、ここで謎の焼死体が出たと、お昼のテレビニュースでやってたの。それで何事だろうと思って、飛んできたんです」
「ああ。なるほど」
志津夫はうなずいた。
あらためて彼女の手に注目してしまった。指だけが外部に出る黒の手袋をはめているのだ。珍しいファッションだろう。
だが、現代女性の装いについて考えている時ではなかった。
志津夫は、メガネの男に向き直り、質問を再開した。
「あなたが第一発見者なんですね。それじゃ、遺跡の発掘チームが、ここにやって来る前に見つけた、ということですか?」
「ええ。朝の七時にね。まいったなあ。あんなものに出くわすとは思わなかった。まいったなあ」
男は首を振った。どうやら「まいったなあ」が口癖らしい。
彼のアクセントは平板で、茨城弁の特徴が感じられた。地元の人間らしい。
志津夫は瞬《まばた》きして、
「朝の七時ですか? そんなに朝早くから、この付近で何をしてたんです?」
「アメダスの保守点検ですよ」
メガネの男は力のない苦笑を見せた。彼は、この場の三人の中で、最後に名刺を取り出した。
「坂田《さかた》と言います」
男の名前は坂田|充《みつる》。
肩書きは茨城県地方気象台、防災業務課の調査官だった。
14
「摂氏三九度? ここで?」
志津夫はアメダスフェンスの前で振り返り、言った。
彼の目は限界まで見開かれていた。空を飛ぶクジラでも目撃したような表情になっている。
安土真希もサングラスをずらして、黒い瞳をのぞかせた。彼女も驚きの表情を浮かべて、問い返した。
「ここで? 夜中の一時に、ここで?」
「ええ」
坂田はうなずいた。充血した目をこすりながら、説明した。
「まったく妙なんですよ。だって、五月三一日の深夜ですよ」
坂田は、周辺を手で示しながら、
「午前〇時、ここの気温は一三度だった。なのに、その一時間後、午前一時に三九度まで跳ね上がった。しかも県内で、そんな異常を検出したのは、ここ一ヶ所だけなんです」
坂田はフェンスの中を指さした。
そのアメダスは、道路から一〇〇メートルほど離れた小高い丘陵の上に設置されていた。
プロペラ飛行機型の風向風速計と、観測装置の入った白いボックスだ。その周囲を、鉄条網付きのフェンスが囲んでいる。フェンス内には電柱が一本立っており、アメダス・ボックスからの電線と電話線を中継していた。
アメダスとは、ロボット気象計のことだ。日本列島全土に、約一三〇〇ヶ所も設置されている。海外には例のない、日本だけの気象観測システムである。
正式名は Automated Meteorological Data Acquisition System。
志津夫はアメダス・ボックスを凝視していた。体内には異様な興奮が湧き上がってくる。さまざまな単語が再び、打ち上げ花火さながらに炸裂《さくれつ》していた。
三〇〇〇年前の縄文時代、純度の高いブルーガラス、製造温度、摂氏一二〇〇度。
焼死体、溶けた金歯、融点、一二〇〇度。
五月三一日の深夜、気温の急上昇、三九度。
志津夫は脳裡《のうり》で呟《つぶや》いていた。まさか? これも、あれなのか? ここでも起こったのか?
慌てて周辺を見回した。
スギ、アカマツ、ケヤキなどの樹木の枝葉が目に入った。濃淡さまざまなグリーンの展覧会だ。
地面も見た。褐色の土と、ちぎれた落ち葉、雑草類が広がっている。今朝は小雨が降ったらしく、土と落ち葉は濡《ぬ》れていた。何人分かの靴跡がプリントされている。
志津夫は足跡を指さし、
「これは坂田さんのや、刑事さんたちの?」
「そうです。警察も一応、この付近を見回ってくれたんです」
坂田はそこで肩を落とし、
「……しかし、刑事さんたちは、別に何もないな、と言ってました。実際、私が今朝初めて、ここの地面を見た時は足跡一つなかったんだ」
志津夫は腕組みして、唸《うな》り、
「確かに焚《た》き火したような跡もない」
真希も周囲三六〇度を見回してから、言った。
「山火事が起きたような跡もないわ」
坂田が肩をすくめて、言った。
「そうでしょう? キャンプファイアーの跡とか、この付近一帯が火事だったんなら納得しますけどね。何もないんです。これじゃ、どう考えればいいのか……」
坂田は両手を広げてみせた。文字どおり、お手上げといった感じだ。
志津夫はアメダ・スボックスを指さして、
「故障した可能性は?」
坂田は首を振って、
「もう調べましたよ。持参した温度計とつき合わせたり、テスターで試験したりね。コンピュータもチェックしました。でも、故障の可能性はないですね」
「温度計というのは、やっぱりアルコール式の?」
「いや、白金抵抗式です。金属の中を流れる電流の量によって温度を測るんです。人間が肉眼で見るならアルコール式がいいですが、コンピュータに目はありませんから、電流計測式の方が都合がいいわけです」
今度は真希が、坂田に質問した。
「その三九度になったという話ですけど、午前一時に急に気温が上がったんですか? それとも〇時から一時にかけて徐々に上がったんですか?」
「いや、残念ながら、それはわからないんです。臨時報≠ヘ気温を監視していないから」
真希が口元を少し歪《ゆが》めて、問い返す。
「臨時報=H」
坂田が説明を始めた。
ロボット気象計は、毎時〇〇分になると全データを一斉に、東京大手町にあるアメダスセンターへ送る。気温、風向風速、雨量、日照時間などだ。
また、ロボット気象計は、一〇分ごとに雨量と風速の自動計測も行っている。雨量や風速値が一定基準を超えた場合は、コンピュータ・プログラムの臨時報サブルーチン≠ェ作動し、アメダスセンターに緊急送信するのだ。
坂田は言った。
「……だから、大雨や強風が発生したら、一〇分以内に東京のアメダスセンターにデータが来るんです。しかし、気温が急上昇したり、急低下しても、コンピュータは反応しないんです。だから、昨夜の午前〇時から午前一時の間に、急激に温度が上昇したのか、徐々に温度が上昇したのか、それはわからないわけです」
坂田は、その辺に手を振って、
「……夜明け前には、この辺りに小雨が降ったことは観測されています。そのせいで、気温も一八度まで下がったそうです。実際、ぼくが今朝ここに来た時も、そんなに暑いとは感じなかったな……」
志津夫は、石上遺跡がある方向を振り返った。
だが、樹木に視界を遮られている。ここから遺跡を直接視認することはできないのだ。
志津夫は遺跡の方向を指さし、訊《き》いた。
「例の焼死体が出た場所と、ここは一〇〇メートルぐらいしか離れてませんね。あそこで火事になっていた時に、その熱がここまで伝わるものですか?」
坂田は首を振る。
「そんなことは、ちょっと考えられないですね。……といって誰かがイタズラしたような形跡も全然ないし……。まいったなあ」
坂田は後頭部を掻《か》いた。生あくびも漏らす。かなり疲れた顔だ。
志津夫は黙り込んでしまった。フェンスに顔を向け、プロペラ飛行機型の風向風速計と、白いアメダス・ボックスを凝視する。
白金抵抗式温度計は昨夜、ここで何を感知したのだろうか?
その時の異常な状況を、志津夫は想像しようとした。
深夜の丘陵と森林だ。星明かりと遠くの街灯以外は、ほとんど光のない暗闇に包まれていただろう。
そこへ襲いかかってきた局部的な熱波。摂氏三九度。一〇〇メートルほど離れた野原では人体が黒こげになり、金歯が溶けている。摂氏一二〇〇度。
想像するうちに、志津夫は自分の体温も上がってくるのを感じた。頭蓋《ずがい》の中はすでにサウナ風呂《ぶろ》も同然だ。呼吸も荒くなってくる。
この事件は長年、志津夫が探し求めていたものだった。しかも、今まで想定していたイメージと、ぴったり適合しているのだ。
ふいに笑い声がした。そのせいで、志津夫は我に返った。
振り返ると、真希が手で口を押さえていた。喉《のど》の奥で、笑っているのだ。
「何だか、おもしろくなってきたわね。わざわざ来た甲斐《かい》があったわ」
彼女は、また親指でコインを垂直上昇させた。五〇〇円玉は空中で回転し、陽光をストロボのように反射した。落ちてきたところをキャッチする。
そして真希はフェンスの周りを歩き始めた。しゃがんでは地面を観察したりしている。にわか探偵のつもりらしい。
志津夫は天を仰ぎ、軽く首を振った。自分に言い聞かせる。落ち着け、この興奮は胸にしまっておくべきだ。この事件は、志津夫にとっては待ち望んでいた現象だが、他人には言いにくい性質のものなのだ。
志津夫は深呼吸すると、坂田の正面に立った。一礼する。
「……ありがとうございました。いろいろと参考になりました」
坂田が瞬《まばた》きする。
「は? 考古学の方面で役に立ちますか? アメダスの話が?」
志津夫は深呼吸して、答えた。
「役に立つかもしれません……」
フェンス脇に立っている真希が、いつの間にかサングラスをずらして、黒い瞳《ひとみ》を露出していた。志津夫の様子を、興味深げに観察していたのだ。
15
葦原志津夫はパジェロのエンジンを切った。いつもどおりソフト・アタッシュバッグを肩にかけて、車から降りる。
パジェロの後ろには、安土真希が運転するサニーが停まった。彼女もサングラス姿のまま、車から降りてくる。志津夫と共に現場≠ノ向かって、歩き出した。
時刻は、午後五時四〇分になっていた。太陽が西の空で照明効果を高めようと躍起になる時間帯だ。
樹林で覆われた一帯が、薄いオレンジ色に染まっていた。画家のミレーが好んで描いたような色合いであり、風景だった。
ただしミレーが好んで描いたのは農民たちだった。警察の現場検証をモチーフに選ぶことは拒絶しただろう。
現場≠ノは刑事や警官たちが、まだ粘っていた。二台のパトカーと一台の覆面パトカーとが赤と青の回転灯を明滅させ続けている。
鑑識のワゴンも残っていた。紺の制服を着た鑑識課員たちが、ピンセットを持って地面にかがみ込んでいる。何かを回収してはポリエチレン袋に入れていた。
現場に張られたテープの内側には、もう焼死体はなかった。どこかに運ばれて、解剖されているのだろう。
遺体の代わりに、人の形が白いビニールテープで描かれていた。テープの要所要所は、釘《くぎ》で地面に留めてあるらしい。
現場≠フ向こう側には、遺跡発掘チームがいる。二〇歳前後の学生たちで構成されていた。人数は一〇人ほどだ。
だが、学生たちは発掘作業など一切、やっていなかった。やはり事件が気になるのだろう。遠巻きに現場≠見ながら、二、三人ずつ額を寄せ合い、話し込んでいる。
今朝、見かけた刑事のコンビの姿もあった。中学の教師みたいに見える二人だ。志津夫は勝手に、体育≠ニ数学≠彼らの担当科目に割り当てていた。
体育≠フ方は上山仁史《かみやまひとし》、数学≠フ方は前田正道《まえだまさみち》だった。午前中に名刺をもらい、名前を知ることができたのだ。
ふいに上山の方が振り返った。四〇歳前後ぐらいで、スーツの下に筋肉が盛り上がっているような精悍《せいかん》なタイプだ。片手には携帯電話を持っている。
「あ、あんたか」
向こうから声をかけてきた。
上山は、志津夫の背後にも視線を向けた。安土真希を見たのだろう。彼女の魅力に、瞳孔《どうこう》が吸引されたらしい。
だが、彼は、すぐ志津夫に顔を向けなおした。近寄り、話しかけてくる。
「ええと、あんた、名前は葦原さんだったね。あんたに、ちょっと訊きたいことがある」
志津夫は少し顔がこわばった。
午後、新治大学で、事務員にウソをついて、竜野助教授の研究室の鍵《かぎ》を開けさせたからだ。そのことがもう刑事たちに伝わっているのでは、と危惧《きぐ》してしまう。
「何ですか?」
志津夫は平静を装い、訊き返した。
「歯形が一致したんだ」と上山。
「え?」
「つまり、焼死体の歯と、新治大学の歯学部で保管している歯のX線写真とを照合したところ、一致したそうだ。これで身元はわかった。同時に、家族には辛《つら》い知らせを持っていかなきゃならないわけだ」
上山は事務的な顔で、そう言った。こんなことには慣れっこだという感じだ。
志津夫は唾《つば》を飲み込んだ。
焼死体が誰なのか、答えは聞かなくてもわかった。だが、一応は質問した。
「誰ですか?」
今度は前田刑事が前に出てきた。三〇歳前後ぐらいで、メガネをかけた彼が答えた。
「あなたをここに呼んだ人ですよ。つまり、あなたは自分の友人を、研究用の比較材料として撮影したわけだ」
志津夫の唇の端が歪《ゆが》んだ。
「そうでしたか……。やっぱり竜野助教授だったのか……」
遺体のあった場所を見る。そこには溶けた金歯の跡はなかった。すでに現場の土ごと回収したのだろう。それも考古学者がよくやる方法と同じだった。
志津夫は深々とため息をついた。
「そうでしたか……。何と言えばいいのか、わからないな……」
しばらく沈黙した。竜野とは友人と言えるほどのつき合いはなかった。だが、知り合いが、すでにこの世を去ったという事実を噛《か》みしめなおした。
ふと、背後から視線を感じた。振り返ると、サングラス姿の真希が腕組みして、志津夫や刑事たちを見守っていた。
彼女は、今は口出しするつもりはないらしい。黙ったまま、志津夫たちの会話に耳を傾けているようだ。
志津夫は顔を刑事たちに向けて、
「で、原因はわかったんですか? 自殺なのか、他殺なのか、事故なのか……」
前田が首を振った。
「そこまでは特定できていないんです。……どうせ、新聞やテレビに出るから言うけど、死因は一酸化炭素中毒らしい。煙や炭粉を吸った形跡が、気管の粘膜にあったそうです。要するに生きたまま燃えて、自分の身体から発生した煙や炭粉を吸い、一酸化炭素も吸い込んだわけだ。やがて血中の一酸化炭素濃度が上がって意識不明になって倒れて、あとは焼死した。そういうことらしい」
志津夫の脳裡《のうり》にその映像が浮かんだ。
さながら人間ロウソクの姿だ。燃えながら絶叫する姿。倒れて、こげた頬の間から金歯が溶けて流れ落ちる。昨夜、竜野孝一助教授は文字通り生き地獄の中にいたのだ。
上山は携帯電話を上着のポケットにしまった。代わりにチョコレート色の警察手帳を出す。
「だから、あなたのお父さんが失踪《しつそう》したとかいう話も、あらためて確認したいんでね……。竜野助教授は、あなたのお父さんの所在をつかんだと、電話で言っていたそうだね」
「ええ」と志津夫。
「そう言えば大学の方に話を聞きに行くとか言ってたけど、そのことで何か手がかりはあったの?」
志津夫の呼吸が止まった。冷や汗が数ミリグラム放出された。
思わず、こう返事しそうになった。
前代未聞の土偶ですよ、刑事さん。表面がきれいなブルーガラスのね。しかも製造温度が金歯の溶ける温度と同じなんですよ。
だが、志津夫の口から、その言葉は出なかった。言うべきではないと、とっさに思ったのだ。
「いや、何も。何もなかったです」
自然な感じで首を振る。がっかりしたような表情も追加する。
「誰も、ぼくの父の話なんて知らないそうです。竜野先生は、このことをぼく以外には喋《しやべ》ってないらしい」
ため息をつき、肩を落とした。いいぞ。もっともらしい態度だ。
志津夫は、今はウソをつき通そうと決意した。縄文時代の土偶は、考古学者や比較文化史学者の領域だ。警察の守備範囲じゃない。それに父親に疑いがかかるような事態は、ぎりぎりまで避けたい。
志津夫はまた背中に、真希からの視線を強く感じた。好奇心の波動が伝わってくる。志津夫の父親が失踪中と聞いて、彼女はますます興味を持ったのだろう。
上山は少し首をかしげて、志津夫を見ていた。特に疑っている様子はないようだ。彼らにしても、まだ暗中模索なのだろう。
「そうですか」
うなずくと手帳を閉じて、
「ところで、あなた、お父さんの写真を持ってたでしょう?」
志津夫の心臓が跳ね上がる。
思わず、こう返事しそうになったのだ。
ええ、ありますよ。竜野助教授の研究室で見つけたものです。この近辺で、最近の親父を撮ったものらしいんですよ。
だが、言わずに我慢した。
志津夫は首をかしげると、
「え? 写真ですか?」
「ほら、午前中に我々にも見せたじゃないですか?」
「あ、あれですか」
安堵《あんど》する。だが、腋《わき》の下には冷や汗が流れていた。
志津夫はソフト・アタッシュバッグを開いた。手のひらサイズの写真を一枚取り出す。それは、葦原正一の本の表紙カバーに付いていた著者近影だった。
写真は今から一〇年前、四九歳の頃の正一を記録していた。広い肩幅と、ひげ面が印象的だ。
二人の刑事は写真を受け取り、見入った。瞳《ひとみ》が底光りするような目つきになる。
やがて、刑事たちは首をかしげた。互いの目で何か相談したりもした。
志津夫は、つい怪《け》訝げんな顔になる。親父について、何か情報でもつかんだのか? そう問いかけたくなる。
志津夫の様子に気づいて、メガネの前田が言った。
「あ、いやね。さっき学生から聞いたんですよ。あなたがここを立ち去った後、昼飯時に遅刻してきたという、えらい間抜けな学生でね。彼は昨日、竜野助教授と年輩のひげ面の男とが一緒に歩いているのを見た、と言ってるんです……」
志津夫の指がソフト・アタッシュバッグにきつく食い込んだ。
16
その学生は、桑名旭《くわなあきら》という名前だった。
度の強いメガネをかけていた。痩《や》せた秀才肌の若者だ。服装はジーンズに黒のTシャツだ。胸にバットマンのマークがプリントされている。
今、桑名は葦原正一の写真を手にして、見入っているところだった。さっきから首をかしげている。むち打ち症でも患っているような角度だ。
空は、燃え上がるような赤一色で染められていた。夕陽のおかげで、この場にいる人々の顔も火照ったような色合いになっている。
「どうです?」
上山刑事が訊《き》いた。
「違うんですか? 桑名さん?」
メガネをかけた前田刑事も訊いた。
桑名は唸《うな》り声を返しただけだった。一言も答えない。
見ている志津夫は苛立《いらだ》ち、歯噛《はが》みしていた。この学生の胸ぐらをつかんで、揺さぶってやりたい衝動にかられる。
安土真希もサングラスを下にずらして、桑名を観察している。半ばおもしろがっているような表情だ。
一〇人ほどの学生も、その場に集まっていた。全員、目を見開いて、バットマンTシャツを着た仲間を注視している。視線の圧力を感じるほどだ。
上山刑事が言い添えた。
「まあ、これは現在の写真ではなく、一〇年前のものだそうです。その点を考えて、これの一〇年後を想像したら、どんな感じです?」
桑名は、ようやく顔を上げた。メガネをいじりながら、自信なさそうな顔で答える。
「それなら、この人かもしれない……。でも、断定はできないですね。この写真の人はサングラスをかけてないけど、ぼくが見たのはサングラスをかけた人だったから……。それと、この写真よりも痩せている感じだったな」
「そうですか……」
上山刑事は、ため息をついた。表情にも失望感が表れている。
志津夫も詰めていた息を吐き出した。だが、彼の場合は安堵《あんど》感を味わっていた。どうやら葦原正一に殺人容疑がかかることは避けられたようだ。
志津夫は、肩にかけているソフト・アタッシュバッグを見下ろし、手で撫《な》でた。この中のノートパソコンには、葦原正一のデジタル写真が収まっているのだ。正一がサングラスをかけて、やや痩せた体型になった最近の姿だった。
後で、このデジタル写真を、桑名という学生に見せる必要があった。ただし、このことは絶対に警察には知られないよう配慮しなければならない。
桑名が、上山刑事に写真を返した。
上山は写真を回収すると、志津夫のところにやってきた。一〇年前の正一の映像を示して、言った。
「この写真、しばらく貸してください」
志津夫は思わず上目づかいで、刑事を見てしまう。危機感が強まってきた。
「つまり、ぼくの父を疑っていると?」
「いや、そういうわけじゃ……」
「そう聞こえましたよ。竜野助教授殺しの犯人かもしれないと。でも、それ以前に、これが他殺だという証拠はあるんですか?」
二人の刑事は互いの目を見た。ちょっと肩をすくめる。
やがて前田が代表して、言った。
「いや、結果的には、あなたのお父さんを探せるかもしれないし、お父さんの潔白を証明できるかもしれないんですよ」
志津夫は首を振った。ここは怒ったふりをする方が得策だと判断した。そうすればいろいろと情報を引き出せるだろう。
刑事たちに人差し指を突きつけ、声を高くする。
「ぼくは身内を疑われているんだ。説明してもらう権利があると思いますが」
「疑ってるわけじゃない」と上山。
「でも、そうなんでしょう」
「まあ、可能性は、幅広く取っておくに越したことはないけどね」
「やっぱり疑っているんじゃないですか」
刑事たちは苦笑した。素人をどうあしらおうかと考えているらしい。余裕の表情だ。
志津夫は、そこへたたみかけた。
「金歯が溶けてましたね。あれをどう説明するんですか?」
とたんに刑事たちの笑みが消えた。鋭い目つきで、志津夫を見つめ返した。どうやら彼らの間でも、この問題が浮上しているらしい。
志津夫は、情報入手のチャンスだと確信した。続けて、言う。
「ちょっと調べてきたんです。金歯の溶ける温度は摂氏一二〇〇度から一三〇〇度だそうです。かなりの高熱だ。それに、あなた方も言ってたじゃないですか。火葬にしたぐらいじゃ金歯は溶けない、と。そのままの形で残るものだ、と……。では、竜野助教授の金歯が溶けていたのを、どう説明するんです? 他殺にしろ自殺にしろ事故死にしろ、どうして、こんな高熱がここで発生したんです?」
志津夫は刑事たちを指さし、詰問した。立場が逆になったような快感を覚えた。
学生たちもざわめき始めた。声が聞こえる。一二〇〇度から一三〇〇度だって? そんな熱がどうして、ここで?
刑事たちは再度、顔を見合わせた。二人とも、喉《のど》に生ゴミでも詰まっているような顔になった。
志津夫が訊いた。
「どうなんです? ぼくは身内を疑われているんだ。野次馬じゃない。当事者なんだ。ぼくには知る権利がある。そうは思いませんか?」
上山が後頭部を掻《か》き始めた。少し唸り声をあげる。
刑事たちは、またお互いの目で相談した。数秒後、仕方ないな、という結論に達したらしい。二人はうなずいた。
前田が説明役を引き受けて、喋《しやべ》りだした。
「まあ、確かに、妙なんです。……実を言うと金歯だけじゃなくて、チタンも溶けていたんです」
「チタン?」
「ええ」
前田は自分の歯を指さして、
「金歯などを歯の根にかぶせるために、その間にデンタル・ポストというものを使うそうで、これはチタン製だそうです。つまり金歯の内側にチタンが入ってると思えばいい。このチタンも溶けていたんです」
志津夫は眉間《みけん》にしわを寄せて、
「どういうことです? つまりチタンの溶ける温度は?」
「ええと……」
上山は警察手帳を取り出した。付箋《ふせん》がいっぱい挟んであった。ページをめくり、そのデータを探す。
「……摂氏一六七五度だ。つまり、それ以上の熱がここで発生した、ということになる」
「一六七五度……」
志津夫の背骨に、電流が駆け上がってきた。視線が数秒間、宙をさまよってしまう。この新しい情報に、頭が少し混乱した。
学生たちも、ざわついた。当然だろう。彼らの指導教官は、尋常でない高熱によって焼死したとわかったのだ。
真希も、何度も瞬《まばた》きしていた。だが、彼女はすぐに笑顔を浮かべた。何かを期待しているような雰囲気だ。
志津夫は勢い込んで、訊《き》いた。
「つまり、それはどういうことなんです? それだけの熱を出すには、ガソリンや灯油じゃ無理でしょう?」
「まあね」
前田が肩をすくめた。
今度は、上山が説明してくれた。
「科研に訊いたんだが、溶接に使うアセチレン・ガスのバーナーなら、摂氏三〇〇〇度から四〇〇〇度の熱が発生するそうだ。また、大変珍しいケースとしてはロケット燃料を使用した可能性もあるだろう、と言っていた。ロケット燃料なら七〇〇〇度の高熱が発生するそうだから」
「じゃ、それらだということですか? もう結論は出たと? そう考えれば、何も問題はないと?」
「さあね……」
上山は首を振った。浮かない表情だった。少なくとも、二人の刑事は納得していない様子だ。
「どういうことです?」
志津夫が、さらに問いかける。
上山が片手を挙げて、制止するポーズを取って、
「まあ、慌てないで……。もちろん、こういう風に考えることはできる。たとえば誰かがアセチレン・バーナーを使った可能性とか、ロケット燃料を使った可能性だ。……しかし、そうだとしても、なぜ、わざわざ、そんなものを使ったのか、それがよくわからない。誰かを焼き殺したいと言うのなら、ガソリンをかけて火をつければ、それで済むことだ。アセチレン・バーナーなんて取り扱いも面倒だし、ロケット燃料も高価な代物だしね」
上山は黄色いテープを張って、立入禁止区域にした現場を指さした。
「ご覧のとおり、ここだけ雑草がなくなっている。きれいに焼かれて灰になって、今朝の雨に流されたらしい。おまけに石が溶けて流れ出しているような形跡まである」
前田が追加した。
「ちょうど石がガラスみたいになってるんですよ。かなりの高熱だろうね」
志津夫は振り返り、あらためて夕陽に照らされた現場≠凝視した。
刑事たちの言うとおりだった。
よく見ると、テープで円形に仕切られた現場には、雑草が一本もないのだ。その付近の石も、まともな形状を保っているものはほとんどない。高熱に溶かされて、半透明のお好み焼きのような状態で固まっている。つまり、ガラス化したのだ。
志津夫の心臓がダンスステップを踏み始めた。今朝、見た時はそこまで細かく観察していなかったのだ。
さらにガラスと言えば、嫌でも思い出すことがある。近辺の三〇〇〇年前の地層からは、高純度のブルーガラスの土偶が出土したらしいのだ。残念ながら実物には、まだお目にかかれないでいるが……。
前田が言った。
「さっき電話で専門家から聞いたんだが、理論的には、どんな物質でもガラスになるんだそうです。溶かしてから急激に冷やすと、固体でも液体でもない両者の中間状態になる。それがガラスの正体だそうです。もちろんガラス化しやすいものと、しにくいものはあるそうだけど……」
上山が後頭部を掻きむしりながら、言った。
「今、考えられる可能性としてはこうだな……。たとえば、犯人は竜野助教授を縛り上げてから、生きたままアセチレン・バーナーで焼いたんだ。竜野助教授は自分の身体から出た煙や一酸化炭素を吸って中毒死した。さらに、犯人は竜野助教授の金歯を溶かし、その内側のチタンまで溶かしていった。そして周辺の雑草も焼き払い、周辺の石ころも片っ端からバーナーで溶かしていった。……と、こういうことになる」
話を聞いていた学生たちから、うめき声が漏れた。メガネにバットマンTシャツの桑名に至っては、身体を折り曲げて「うえっ」と言った。
その様子を想像したせいだ。アセチレン・バーナーを使う殺人鬼が、彼らの指導教官を縛り上げてから、生きたまま焼き殺す残忍無類な光景。もしそうだとしたら、この場所には最大ボリュームの絶叫が響いたことだろう。
上山は両手を大きく広げた。呆《あき》れた表情だ。
「しかし、もし、そうだとしたら、なぜ、こんな手間のかかることをしたんだ? 証拠隠滅のためか? しかし、アセチレン・バーナーとかロケット燃料とかを使って、金歯やチタンを溶かし、地面まで焼き尽くさなければ隠滅できないものって、何だ?」
誰も答えられなかった。もちろん、上山刑事も返答など期待していない様子だった。ただ、疑問に思ったことを並べてみただけのようだ。
志津夫は訊いた。
「要するに何もわからないと?」
「まあ、そうだ」
「三〇〇〇年前にアセチレンやロケット燃料があるわけないし……」
思わず、そう呟《つぶや》いていた。
「え?」
上山が不審な顔で、志津夫をのぞき込む。
「いや、何でもないです」
志津夫は顔をそむけた。
前代未聞の土偶。やはり、このことはまだ黙っていよう。三〇〇〇年前に造られた高純度のブルーガラス。製造温度は摂氏一二〇〇度以上。
何となく全員が沈黙してしまった。この場で起きた現象が何なのか、それぞれ思いをはせてしまったのだ。だが、常識の範囲では何も思い浮かばない。
まるで、この現場≠ノ透明な分厚い壁ができているようだった。それが真実を遮断しているのだ。
上山が手にしていた写真を持ち上げて、言った。
「じゃ、このお父さんの写真をお借りします。いいですね?」
志津夫はふいをつかれて一瞬うろたえる。
「え? あ、はい」
うなずいた。
「じゃ、これで失礼します」
志津夫は軽く一礼すると、その場を離れることにした。
もう刑事たちから聞き出せるだけの情報は手に入れた。これ以上彼らにからむ必要もなかった。
振り返ると、志津夫は真希と対面した。
彼女はサングラスをかけ直すと、また五〇〇円玉を親指で弾いた。ピィィンという金属音がかすかに響いた。
17
志津夫の視線と、彼女の視線とが衝突した。
安土真希が黙って、微笑んでいるからだ。唇の線が逆さまの放物線を描いている。
思わず志津夫も、彼女に笑みを返してしまう。だが、三秒経ち、四秒経つと、彼は怪《け》訝げんな顔になった。
相手が笑顔のまま、沈黙しているからだ。話しかけてくる様子はなかった。
さっきから真希は、志津夫と刑事たちの会話を聞いていた。志津夫の父親が失踪《しつそう》中であることも知ったはずだ。だから、そのことで志津夫を質問責めにするのか、と思ったのだ。
だが、予想は外れた。彼女は何も質問しない。無言の笑みを向けてくるだけだ。
段々と、志津夫は気詰まりになってきた。沈黙が妙な圧迫感に変わってくる。
志津夫は、真希の笑顔を無視できず、自分から訊いた。
「あのう、何か?」
「いいえ。別に」
真希は肩をすくめた。だが、依然として、志津夫に笑みを向けている。
西の空では、太陽が徐々に位置を低めていた。赤い放射光が最高潮に達している。黄昏時《たそがれどき》の寂しさが漂っていた。
一〇人ほどいた学生たちは回れ右して、縄文遺跡の方に戻っていくところだった。もう日が暮れるから、発掘作業は終わりにして、道具類を片づけるのだろう。
警察官たちも撤収作業に入っていた。彼らは鑑識のワゴンや、パトカーの方に歩きながら、何か話し込んでいる。写真や証拠物件などの戦利品が、主な話題のようだ。
志津夫と真希だけが、その場に取り残され、佇《たたず》む形になった。
志津夫は咳払《せきばら》いした。次いで、警察官たちの方を片手で示して、
「あの、取材はしないんですか?」
「してるわ。ご心配なく」
「そうですか? じゃあ、まあ、がんばってください」
志津夫は軽く頭を下げた。
真希も会釈を返す。
志津夫は回れ右して、縄文遺跡の方に向かった。
せっかく美人と知り合えたのに惜しいな、と思った。だが、今はそれどころではないのだ。
志津夫は肩にかけたソフト・アタッシュバッグを軽く叩《たた》いた。この中にあるノートパソコンには、葦原正一の最近の姿が、デジタル画像で記録されている。
この写真を、桑名という学生に見せなければならない。同時に、桑名に口止めする必要もあった。このデジタル写真の存在や入手経路を、まだ警察には知られたくないからだ。
縄文遺跡に近づいた。一帯が方眼用紙のように仕切ってある。遺跡発掘で、必ず行われるグリッド法だ。
五人の学生が、そのグリッドの上に青い防水ビニールシートをかけようとしていた。出土中の遺物を守るためだ。
他の五人の学生は、道具を箱にしまっていた。測量用のスチールテープや布テープ、掘るためのスコップ、つるはし、ジョレン、移植ごて、竹べらなどだ。
硬質発泡ウレタンなどの薬剤や、パラフィンなどもあった。これらは遺物を土ごと固めて回収するなどの目的で使うものだ。
その様子を見ていて、志津夫はあらためて気づいた。警察の鑑識課員たちの方法論と、考古学の方法論とは類似しているのだ。
作業内容だけを比較すれば、両者がやっていることは同じと言える。警官たちは昨日の夜、死んだ人間の遺体や、その状況について調べており、学生たちは三〇〇〇年前に死んだ人間の骨や、その生活の跡を調べているのだ。
違う点は、警察はそれが殺人事件ならば犯人を逮捕するチャンスがあることだ。一方、考古学に従事する者は、殺人事件の痕跡《こんせき》を掘り起こしたとしても、すでに時効が成立しているわけだ。
志津夫は、道具を片づけている学生の一人に声をかけた。
「桑名君だったね。ちょっと、いいかな?」
相手が振り返った。例のメガネに黒いバットマンTシャツの若者、桑名旭だ。
「何です?」
「ちょっと、見てもらいたいものがあってね。ある写真なんだが……。悪いけど、ちょっと車まで、つき合ってもらえないかな?」
「ええ。いいですけど……」
桑名は瞬《まばた》きした。そして彼は首を傾けると、志津夫の背後ものぞき込んだ。少し嬉《うれ》しそうな顔になる。
彼だけではなかった。他の学生たちも、志津夫の背後にいる誰かを見つめている。目の保養だと言わんばかりの表情で。
志津夫の心臓が一拍分、停止した。慌てて振り返る。
サングラスをかけた長身の女が立っていた。彼女は足音も立てずに、忍び寄っていたのだ。
真希は、例の指だけ外に出る黒手袋をはめたまま、指先で五〇〇円硬貨をもてあそんでいた。その場にいる若者たちに、キャンペーンガールさながらの笑顔を振りまいている。
志津夫は絶句していた。頭の中で、真希を「魅力的な女」から「奇妙な女」に分類し直す。意識の底で何かがざらついた。
志津夫はどもりながら、彼女に訊《き》いた。
「あ、あの、何か?」
真希は平然と首を振る。
「いいえ。別に。気にしないで」
「ええ。気にはしないけど……」
そう言って、志津夫は周辺を見回した。
警察官たちは、すでにパトカーやワゴン車の周りに集まっていた。お互いに敬礼し合い、「ご苦労様です」を言い合っている。志津夫たちには注意を払っていない。
今こそ、例の写真を桑名に見せる絶好のチャンスだ。しかし、この状況では不可能だった。このフリー記者だという女にも見られてしまうだろう。
今の志津夫にとって警察は邪魔者だし、マスコミ関係者も邪魔者なのだ。なのに、この女の嗅覚《きゆうかく》は何かを捉《とら》えたらしい。血の匂いを嗅《か》ぎつけたホオジロザメみたいに、志津夫を追尾してくる。
志津夫は首の筋肉が凍《い》てついてしまった。だが、このまま何も言わず、行動しないわけにもいかなかった。
志津夫は振り返って、桑名に言った。
「あ、いや、何でもない。また、今度にするよ。じゃあ」
志津夫は片手を振って、学生たちから離れた。
若者たちは不審な顔をしていた。同時に、がっかりしたようだ。美人と知り合いになるチャンスが消えたからだろう。
志津夫は無言で、パジェロに向かって歩き続けた。背後からは、真希の足音がついてきた。
彼女は忍び寄るのはやめたらしい。堂々たる態度で尾行してくる。
志津夫は歩き続けた。真希も歩き続ける。
ついに志津夫は、道路に停めたパジェロに到着した。
彼女の足音も、依然として彼の背後に張りついてきた。子供がロープを使って行う電車ごっこみたいなありさまだ。
志津夫は、ため息をついた。振り返り、訊いた。
「あのう、何か用事があるのなら、そう言ってくれませんか?」
真希は笑いだした。笑い声もアルトだった。
志津夫は重ねて言った。
「警察に取材したら、どうです? だって、あなたはそのために来たんでしょう?」
「ええ。だから、取材してるのよ。あなたをね」
彼女は、いたずらっぽい笑みを浮かべる。
志津夫は即答できなかった。苦笑してしまい、頭を掻《か》く。
「まいったな。ぼくがそれほどのニュース・ネタですか?」
「もちろん」
「だって、安月給の大学講師ですよ。アルバイトで予備校の講師までやってる。パソコンとデジタルカメラのローンがあるから」
「あなたの経済状態には興味ないわ。でも、ここで焼死体が出た事件と、あなたのお父さんの失踪《しつそう》には興味があるわ」
「やれやれ……」
志津夫は首を振った。眉間《みけん》にしわを寄せ、上目づかいになる。
「じゃ、あなたも疑ってるんですか? ぼくの父が焼死体を作った犯人だとでも?」
「それはまだわからないけど……」
真希はサングラスを外した。初めて、その美貌《びぼう》をすべてさらけだした。
大きな目の輝きが印象的だった。顔立ち全体に野性味がある。内に秘めた芯《しん》の強さも感じられた。
真希が喋《しやべ》り出した。
「……金歯もチタンも溶けたなんて、おもしろいわ。だって火葬にしたぐらいじゃ、溶けないはずのものが溶けたんでしょう? 昨日の深夜に、アメダスが摂氏三九度を記録したことも、おもしろいし……」
「まあ、確かに不可解な事件だけどね」
「あなたは、この事件をどう思ってるんです?」
「わかりませんね。だって、ぼくは考古学者ですよ。刑事じゃない」
志津夫は空とぼけることにした。もちろん考えていることはある。だが、それを口にするのは憚《はばか》られた。
志津夫はアカデミズムの世界で給料をもらっている身だ。大学講師の肩書きが付いていると、公の場では言えない話題もある。
だが、真希は突然、その話題を持ち出してきた。
「じゃあ、知らないの? 古代において、説明不可能な高熱が発生した場所があるのよ。秋田県|鹿角《かづの》市の黒又山とか、ミクロネシアのパラオ島にあるア・ケズ≠ニ呼ばれる山々よ」
志津夫の首が感電したみたいに痙攣《けいれん》した。目を見開いてしまう。
まるで彼女に、自分の心の中を読みとられたような衝撃だった。たった今、志津夫はそれらの地名を思い浮かべていたのだ。
真希は、志津夫の反応を楽しんでいるようだ。指さして、言う。
「あら、その様子じゃ、知ってたのね? 知ってて、黙ってたのね?」
「あ、いや……」
志津夫は言いよどんだ。混乱し、返答に詰まってしまう。
真希は微笑み、片手で制止するポーズをとった。
「まあ、いいわ。あなたが知らないものとして、説明してあげるから……。
普通の山は時間が経つにつれて風化してしまい、形が崩れていくものよ。でも、黒又山のような例外もある。大昔から風化することなく、きれいな円錐形《えんすいけい》が保たれてきた山よ。でも、それは、なぜなのか?」
志津夫は言葉が出なかった。もちろん、その答えは知っている。だが、真希がどの程度の知識を持っているのか、そちらの方に強い興味が湧いた。
彼女は一拍、間をおいて言った。
「一九九二年、秋田県鹿角市の黒又山を、同志社大学を中心とする日本環太平洋学会が調査した。黒又山が、古代日本のピラミッドだった可能性を探るためよ。つまり、縄文人が自然の山を人工的に工事して、きれいな円錐形にしたのではないか、という仮説を検証するためよ。
そして興味深いことがわかった。
黒又山も、その近くにある黒森山も、頂上付近の岩盤はデイサイト、つまり石英安山岩だった。でも、黒森山のデイサイトは風化が進んでいて、頂上の形も崩れていた。
一方、黒又山のデイサイトは風化した跡がなく、頂上はきれいな円錐形を保っていた。また黒又山のデイサイトは異常に固くて、ハンマーで叩《たた》かないと資料採取ができないほどだった。
どちらも同じデイサイトなのに、この固さの違いは、なぜ生まれたのか?」
志津夫は黙っていた。もちろん答えは知っているのだ。だが、今は彼女の口から説明を聞きたかった。
真希が一拍おいて、言った。
「可能性として考えられるのは、岩石に高熱処理を施すことよ。そうすれば表面が溶けてガラス結晶質になり、固くなって、風化しにくくなるわ。
環太平洋学会の調査によれば、ミクロネシアのパラオ島にあるア・ケズ≠ニ呼ばれる山々も、同じケースだった。ア・ケズ≠ヘ頂上が台形状で、四方へテラス状の張り出しが階段型になって何段も続いている山よ。どう見ても、人工的に形を整えた雰囲気が濃厚な山なのよ。そしてア・ケズ≠フ岩盤表面には、やはり高熱によって溶けた後、固まった跡があった。
これらア・ケズ≠熨蜷フから風化することなく、階段型の形が保たれてきた山だった。黒又山と共通点のある山だったわけね。
でも、ここで新たな謎が浮上した」
真希は、そこでまた間をおいた。黒い瞳《ひとみ》を輝かせて、言う。
「黒又山にもア・ケズにも、火山噴火を示す形跡がないのよ。つまり、火山の熱で岩盤がガラス化したわけではなかった。
……だとすると、これらの熱の原因は何なのかしら? 物質をガラス化させるには、少なくとも摂氏一一〇〇度以上の高熱が必要だわ。だけど、山火事で木が燃えても、せいぜい九〇〇度よ。大昔にはアセチレン・バーナーもロケット燃料もあるわけないしね」
真希は、モナリザのような微笑を浮かべた。
「不思議な話よね。古代において、これだけの高熱を発生させたものは何なのか?」
真希は焼死体が出た現場≠指さした。
「あそこの地面にも、石が溶けてガラス化したものが残ってたわね。しかも死体が黒こげになって、金歯もチタンも溶けていたんでしょう? いったい、これは何なの?」
さらに真希は、志津夫も指さして、
「私は、ちゃんと聞いていたのよ。さっき刑事と話していて、あなたは言いかけてたでしょう? 『三〇〇〇年前にアセチレンやロケット燃料があるわけないし』って」
志津夫は返事をしなかった。真希の言葉にはハンマーパンチさながらの威力があった。それで頭蓋骨《ずがいこつ》を揺さぶられた気分だ。
空が、透明感のある藍色《あいいろ》に染まりつつあった。長い長い夜になりそうな予感がした。
18
葦原志津夫は言った。
「まさか、あなたがトンデモ本ライターだとは思わなかった」
安土真希が失笑して、首を振った。
「違うわ。私は本を出版したことなんて一度もないもの。そんな記事を書いたこともない。あくまでプライベートな興味よ」
「ふうん」
志津夫は首を振り、パジェロのドライバー・シートに背中を預けた。
二人は、車のシートをベンチ代わりにしているところだった。パジェロのドアは両サイドとも開けてあった。
フロントウインドウ越しに、北の空が見えた。空は青紫に染まり、星の光点と、ちぎれ雲とが入り乱れている。宵闇が濃いスクリーンになって、風景を覆い隠そうとしていた。
山あいの道路は閑散としていた。すでに警察関係者も、学生たちもそれぞれの車に乗って、この場を去った後だった。この場所から半径五〇〇メートル以内にいる人間は、志津夫と真希の二人だけだろう。
志津夫は手を伸ばして、天井のルームランプを点灯した。車内が明るくなる。
助手席の真希を観察しなおした。
外見は、背が高くて気の強そうな美人だ。ところが、その彼女が突然、古代の超常現象について話し始めたのだ。こんなことは、街頭で五つ子の姉妹と遭遇するぐらいに珍しい出来事だろう。
真希はバッグから、シャープペンを取り出した。それをマイクみたいに持って、志津夫の口元に突き出してくる。芸能リポーターの真似らしい。
「……では、今回の焼死体事件を、葦原志津夫先生はどう思います? 学者先生を代表して、どうぞ一言」
志津夫の舌は、すぐには動かなかった。会話の展開によっては、警察に言いたくない事情もすべて、さらけ出すことになる。さっき出会ったばかりの女性を、そこまで信用できるだろうか。
結局、志津夫は苦笑し、言った。
「学者先生の立場では言いにくいこともあるんですよ」
「ふうん」
真希はシャープペンを引っ込めて、バッグに戻した。特に失望した様子はない。逆に、艶《つや》やかな笑みを浮かべて、喋《しやべ》り出す。
「……じゃ、こういう話はどうかしら? さっき、大昔に謎の高熱が発生した実例として、秋田県鹿角市の黒又山の話をしたわね」
「ええ」
「黒又山というのは、きれいな円錐形の形で、それが崩れないまま保たれてきた山なのよ。こういう山を、古代日本人は聖地として崇《あが》めてきた風習があった。
『万葉集』にも、その証拠が見られるわ。神が宿る山として、歌の題材にされてきた奈良県|桜井《さくらい》市の三輪山《みわやま》よ。標高四六七メートル。ここも、きれいな円錐形の山だわ。
そして三輪山の麓《ふもと》には、日本最古の神社と言われる大神《おおみわ》神社がある。ここは拝殿だけで本殿がない。つまり、本殿の代わりに三輪山を拝む神社なのよ。こうした円錐形の山をご神体とする形式こそ、神社のもっとも古い形式だろう、と推測されているわ。
……そして古代日本語では、信仰の対象となる円錐形の山をこう呼ぶの……」
真希は、志津夫の顔を見た。二呼吸ほど沈黙した。わざとらしい間のおき方だった。
彼女は言った。
「……カムナビヤマ」
志津夫の耳に、その単語が重々しく響いた。鼓膜にエコー機能が生じたみたいに、耳孔で、その単語が反響し続ける。
カムナビヤマ。
カンナビヤマとも発音する。神名火山、神奈火山、神奈備山、神南備山など、様々な漢字の表記が存在する。『万葉集』にも、これらの表記が統一されないまま、ばらばらに登場するのだ。
真希が説明を続けた。
「カムナビ山は、大昔から神域とされてきた。管理している地元の宮司たちですら、入山できないところも多い。奈良県の三輪山の場合も、一定のルートを登ることしか許されないしね。三輪山には禁足地と呼ばれている場所があって、そこは鉄条網で囲ってあったわ」
唐突に、真希が笑いだした。片手で口を押さえている。
「……こんなことは、素人の私が史学の先生に言うことじゃないわね。あなたの方が、ずっと詳しく知ってるはずでしょう」
「ああ」
志津夫はうなずいた。
真希が言った。
「……いったい、カムナビ山には何があるのかしらね? 特に禁足地とされる場所には何があるの?」
「さあね」と志津夫。
「ああいう禁足地って、学者も入れない場所なのよね?」
「ええ」
「天皇陵とカムナビ山。これは日本の考古学の二大タブーね。天皇陵は宮内庁が掘らせてくれないし、カムナビ山は地元の神主さんたちが立入禁止にしている」
「ええ」
「こういう話もあるわ。……富山県にも典型的なカムナビ山があって、ある日そこに富山大学の教授が、登って山頂を調査した。そして弥生時代の儀式用土器を見つけたそうよ。ところが地元の神主たちが『神域を汚された』とカンカンに怒って、物議を醸したとか……。八〇年代頃の実話よ。今も、そんなありさまなんだわ。
その点、秋田県の黒又山は珍しいケースだったのよ。かつては、あそこも入山禁止の聖地だったみたいだけど、いつの間にかタブーが忘れ去られたらしい。だから、環太平洋学会の人たちが登って調べることもできた」
「ええ」
「ええ、ええって、うなずいてばっかりね」
「ええ」
志津夫はそう答えて、また苦笑した。
同時に、驚きと好奇心も芽生えていた。この真希という女性の着眼点が、志津夫のそれとほぼ同一だからだ。まるで、志津夫のプライベートな研究ノートを盗み見たのではないかと、疑いたくなるほどだ。
ふと志津夫は、竜野助教授が焼死体になった現場を振り返った。
太陽が山々の稜線《りようせん》の向こう側へ沈みかけていた。竜神山が三角形のシルエットになっている。さらに離れたところにはやはり円錐形《えんすいけい》を二つ並べたような筑波山の稜線があった。
志津夫は思った。あの山々も、かつてはカムナビ山と呼ばれて、聖地ゆえのタブーに包まれていたのだろうか? その可能性も考えられる。
真希が、志津夫の肩を叩《たた》いて、注意をうながした。
「ねえ、話を聞いて」
「どうぞ」と志津夫。
真希は片手を挙げると、
「では、ここで学者先生に質問。そもそもカムナビヤマって、どういう意味なの? 日本語としては意味不明の単語に思えるけど……」
志津夫は大きく首を振り、
「そんなにいろいろ知ってるんなら、今さらぼくに訊《き》くまでもないでしょう? いろんな説があることぐらい、わかっているはずだ」
「ええ。だから、葦原志津夫先生は、どの説を採用しているの?」
「民俗学の吉野裕子《よしのひろこ》博士の説かな?」
真希はうなずき、微笑した。
「やっぱりね。神の火の山≠セった、という説ね。……日本語の格助詞のノは、ナに転訛《てんか》するケースが多い。それを根拠にする説ね。だから、カミノヒヤマ、カミナヒヤマ、カムナヒヤマ、カムナビヤマと発音が変化していった……。私もそう思うわ。この吉野説がいちばん説得力がありそうね。でも……」
また真希は一呼吸おいて、
「……でも、それだと新たな疑問が出るわ。なぜ、きれいな円錐形の山が神の火の山≠ニ呼ばれたのか? その理由が説明できていないもの」
「吉野博士は『古代日本人は、円錐形の山を巨大な炎としてイメージしたのだろう』と言っているけど……」
「ええ。でも、もう一つ釈然としないわ。だって、カムナビ山というのは、火山でも何でもないような低い山ばっかりでしょう。ハイキング気分で登れるぐらいの山よ。それが、なぜ神の火の山≠ネの?」
「さあね」
志津夫はとぼけた。
だが、真希は満面に笑みを浮かべた。獲物をつかまえたような表情だ。
「では、秋田県の黒又山や、ミクロネシア版カムナビ山、ア・ケズ≠フ話をどう思う? 頂上の岩盤表面がガラス化して、異様に固くなっていた。つまり説明不能の高熱発生の跡が残っていた。おかげで、これらの山は岩盤表面がガラス化して、固くなり、今まで風化せずに、きれいな円錐形を保ち続けた。そして、こういう山がカムナビ山、神の火の山≠ニして、信仰の対象となった」
真希はそこで声を半オクターブ張り上げた。
「では、もう一度、質問。その高熱はなぜ発生したのか?」
彼女の声が、志津夫の理性に突き刺さった。耳に唇をつけられて直接、音波を送り込まれているような気分だ。
真希は言った。
「どう思います?……カムナビ山。神の火の山。その一つ、秋田県の黒又山を調べてみたら、山頂に説明不能の高熱発生の跡があった。
……これだけの証拠がそろったら、怪しいと思うでしょう?」
「ああ、そうだ」
志津夫はうなずき、答えてしまった。彼も常日頃から思っていたことだったのだ。それゆえ、誘導尋問に引っかかった感じになった。
真希が叫んだ。
「え! そうだ? 今、そうだって言ったの?」
「あ、いや……」
志津夫の喉《のど》の粘膜は乾燥しきっていた。
真希が、彼の目をのぞき込んでくる。また柑橘系《かんきつけい》の香りが漂ってくる。
彼女は声を低め、囁《ささや》くように言った。
「あなたも、そう思ってるの?」
真希は身をのりだしてくる。互いの鼻先が近づく。キスできそうな距離だった。
真希は満足げな表情だった。瞳《ひとみ》が喜色に輝いている。
「今、そうだって、言ったでしょう? じゃ、葦原さんも同じことを考えていたのね?」
志津夫は身体を引いた。まだ、どう対応すればいいのか、わからなかった。
一度、肯定したら、後はすべてを喋《しやべ》る羽目になりそうだった。そこまで、この女性を信用していいのかどうか、決心がつけにくかった。
下手をすると、父親の正一に殺人容疑がかかりそうな情勢なのだ。その上、自分も竜野助教授の研究室に不法侵入したし、それによって不正に入手した証拠もある。赤の他人に、自分の軽犯罪について告白する気には、なかなかなれなかった。
真希は、志津夫の反応を楽しんでいるようだった。陽気に笑うと、また銀色の五〇〇円玉を取り出し、指先で弄《もてあそ》び始める。コインを見つめながら、言った。
「それについて、学者先生は、どう思ってるんですか? 黒又山やア・ケズでの高熱発生の話も知ってたんでしょう? 学者先生って、こういう話は見て見ぬふり?」
「いいや。……つまり、ぼくの頭の中にはね、『未解決』と書いた箱があって、そこにしまってある」
「ふうん」
彼女は、横目で志津夫を見た。
「では、その箱の中を見せてもらいましょうか。この際あらいざらい全部」
「全部?」
「そう、全部。……さっき、あのバットマンTシャツの男の子に、写真を見てくれと、言ってましたね? それも『未解決』の箱の中なの? いったい、どんな写真が入ってるのかしら?」
志津夫は唸《うな》った。
言うべきか言わざるべきか。ハムレット的に悩んでしまう。魂が振り子と化して、左右に揺れた。
本音を言えば、志津夫は嬉《うれ》しかったのだ。同じテーマに関心を持つ人物に会えたからだ。長年、待望していた同志に、ついに邂逅《かいこう》できた。
しかも、その待望の同志はファッションモデル級の美女ときている。
真希が微笑んだ。
「素直に白状したら?」
19
安土真希はノートパソコンの画面を凝視していた。目は見開かれ、顔も紅潮している。特大のダイヤモンドでも見つけたような表情だ。
パソコンの画面には、青い土偶の首が映っていた。表面が不透明なブルーガラスで覆われた代物だ。一見すると、ヒスイで造られた工芸品のようだ。
場所は、「リオ」という名の喫茶店兼カウンターバーだった。収容人員は二〇人程度で、客席の半分が埋まっている。壁は暖色系でラテン系ミュージシャンのポスターが貼ってあった。
窓からは、筑波研究学園都市の夜景が見えた。埃《ほこり》っぽい空気の中にビルの森林が並んでいる。ビルの一つが、屋上に巨大なタバコの看板を掲げていた。
志津夫は自分のコーヒーを飲み干すと、
「……以上で、長い長い話は終わり。ご感想は?」
「感想?」
真希は顔を上げた。笑みが浮かんでいる。喜びのあまり、瞳が点滅しているような感じだった。
「感想は、最高よ。わざわざ来た甲斐《かい》があったわ」
彼女は片手でVサインを出した。次いで拳《こぶし》を握り、親指を上に突き上げた。
「……実はテレビのニュースを見た時、胸騒ぎがしたの。『縄文遺跡の近くで身元不明の焼死体が出た』とアナウンサーが言ったの。『かなりの高熱で、その死体は焼けていた』とね。その瞬間、閃《ひらめ》いた。すぐに駆けつけるべきだって」
そう言うと彼女はまたノートパソコンの画面に、視線を戻した。少し息が弾んでいる。彼女の興奮ぶりが伝わってきた。
志津夫はコップを手にして、冷水を飲んだ。あらためて、真希を見つめる。彼女の手も見つめた。
今も、真希は指だけが外に出る黒い手袋を着けている。食事中も、それを外さなかったのだ。不思議なファッション感覚に思えた。
真希がノートパソコンの向きを変えた。志津夫が画面を見られるように配慮したのだ。彼女はタッチパッドを操作した。
パソコンの画面に、葦原正一の姿が映った。サングラスをかけた、ひげ面の男が片手を挙げて、顔を隠そうとしている。死んだ竜野助教授が撮影した映像だ。
真希が言った。
「あなたのお父さんも、この近辺にいたわけね。焼死体が出たことや、この土偶と、どういう関連があるのか、まだわからないけど……」
真希は、また画面を切り替えた。青い土偶のデジタル写真に戻った。
「で、土偶の実物は行方不明なのね?」
志津夫は、うなずき、
「うん。……でも、隠してあるとしたら、たぶん……」
「たぶん?」
「たぶん新治大学の管理・収納室かなと思っているんだが……」
「やっぱりね。そこの鍵《かぎ》を管理している女性が怪しいわ」
志津夫は顔を上げた。真希と視線がぶつかり合った。二人とも同じ結論に達しているのだ。
真希はたった今、事情を聞いたばかりだった。だが、その彼女も、志津夫が疑った人物と同一人物を疑ったのだ。
今では志津夫も、はっきりと確信が持てた。その可能性を口にした。
「講師の小山麻美さん……。竜野助教授の直属の部下だもんな……。やっぱり青い土偶のことを知ってたんじゃないかな? 知っていて、隠そうとしていたんじゃないか? だとすれば、ぼくの父のことも知っていて、隠しているのかもしれない……」
「たぶん、そうよ。だって、直属の部下が、上司の新発見について何も知らないなんて、そんなこと普通ありえないわ」
真希は首を振り、ノートパソコンの画面をつついた。ちょうど青い土偶の頭の辺りだ。その付近は蛇がのっているようなデザインだった。
真希は指で、蛇の形を辿《たど》りながら、
「その小山麻美さんが、今もこれを隠し持っているかもしれないわけね。……もしかすると、ずっと隠し続けるつもりでは?」
「あるいは、そうかもしれない」
「たぶん、竜野助教授が焼死体になったことと関わりがあるからよ。それで隠してる。きっと、そうよ」
志津夫はうなずき、コップを手にして、冷水を飲み干した。
窓の外を見た。片側三車線もある広い道路には、車のヘッドライトと水銀灯とが遠近法を構成していた。道路の上には「40キロ制限」の標識がある。もちろん、それを守っている車は皆無だ。
志津夫は、視線を空のコップに戻した。
徐々に、感情と思考がベクトル合成されてきた。それらは、ある一点だけを指し示している。
志津夫は顔面をひきしめなおした。腹筋にも力を入れた。今後の行動が定まってきたのだ。
空になったコップを軽くテーブルに叩《たた》きつける。
「やっぱり小山さんとは、もう一度話さなきゃならないな」
「私も、そう思うけど……」
真希の目が光ったようだった。視線を下げて、パソコン画面を睨《にら》んでいる。
志津夫は、不審に思った。
相手の瞳の奥に、もう一つの人格が感じられたからだ。それは危険な雰囲気を漂わせていた。彼女には、まだ秘められた面もあるような気がした。
真希は目を伏せたまま、
「その管理・収納室だけど、そこに忍び込む方法はないかしら?」
志津夫は目を見開いて、真希を見た。こんな大胆な発言が出るとは思わなかった。
「いや、それはまずい。それじゃ完全に泥棒だ。不法侵入だ」
「でも、このままだと、ブルーガラス土偶が闇から闇へ葬られるかもしれない。その小山麻美という人は、やはり真相を知っているのよ。なのに、隠そうとしているみたい……」
真希もテーブルを平手で叩いた。
「やっぱり、このまま放っておくわけにはいかないわ。青い土偶の存在も、カムナビの謎も、あなたのお父さんの行方も、永遠に失われるかもしれない。それでもいいの?」
志津夫は唸《うな》った。腕組みする。うつむいてしまった。
不法侵入は論外だった。しかし、このままでは埒《らち》が明かないのだ。
志津夫は、今日の昼間の出来事を思い出した。事務員にウソをついて、竜野助教授の研究室を開けさせたのだ。我ながら、うまくいったと思ったが……。
志津夫は腕組みしたまま、肘《ひじ》をテーブルについた。
「……もうウソは通用しないな。竜野助教授の研究室なら、小山さんの部屋じゃないから、彼女を通して許可を得る必要もなかった。でも、管理・収納室の場合だと、事務員も『まず講師の小山さんの許可を取れ』と言うだろうし……」
志津夫は指でテーブルを叩き始めた。
「カギを開けさせる方法か……。待てよ……。待てよ……。元々、遺物は……」
自分の大脳前頭葉が光ったような気がした。指の動きが止まる。
志津夫は目を見開いた。その案を検討するうちに、胸の中で躍動するものを感じた。
彼の頬が徐々に緩んでいった。自分の額を片手で叩く。
「……そうだ。そうなんだ。ぼくも軽犯罪を犯したかもしれないけど、あの小山さんだって同じことなんだ」
真希が瞬《まばた》きして、
「どうしたの? 何か思いついた?」
志津夫は顔を上げた。唇の線が逆V字の形になっている。得意げに言った。
「文化財保護法第六五条だ」
「え?」
「つまり、これによると、遺失物法第十三条が適用される……」
志津夫は身振り手振りを加えて、説明を始めた。
真希が身をのりだしてきた。志津夫の顔を見つめ、話に聞き入っている。熱心な態度で一々うなずいた。
説明しながら、志津夫はプライドが、くすぐられるのを感じた。
つい三時間ほど前は、こんな夕食時を過ごすことになるとは、まったく思っていなかったのだ。何だかハリウッド映画みたいなシチュエーションだな、と思った。
何しろ、話題の合う知的な美女と、都合よく知り合ってしまったのだ。そして志津夫は初対面の彼女に胸襟を開き、すべてをさらけ出した。大学講師の身では口にしにくい、古代の超常現象についても語った。自分が犯した軽犯罪についても告白した。
そして、次は二人で協力し、謎だらけの殺人事件を解明しようとしているのだ。
志津夫は、この一件が片づいた後も、真希と仲良くやっていけそうな気がした。
志津夫の目は、真希の見事なプロポーションに吸引されていた。そのボリュームたっぷりの肢体は、金色のオーラを放っているようだ。
店内にいる他の男性客も、真希の美貌《びぼう》が気になるらしく、時々こちらを盗み見ていた。その様子に気づいて、志津夫は優越感の極みだった。
悪いね、君たち。彼女とぼくは、もう一心同体も同然なんだ。
20
新治大学の事務室は騒然としていた。
一〇人以上の人間が、無秩序に喋《しやべ》りまくっているのだ。関係者の出入りも激しく、電話も絶えず鳴り続けている。スリッパによる慌ただしい足音が響いていた。
今朝、発見された不可解な焼死体が竜野助教授だった、と判明したせいだ。この騒ぎの余波は夜中まで続くのかもしれない。
葦原志津夫は、その様子を横目で見ながら、事務室を出た。F棟の一階に向かう。
腕時計を見ると、夜の七時三四分だった。
西の空には白っぽい薄明の残滓《ざんし》があった。それ以外は漆黒のスクリーンに覆われ、星と雲が鏤《ちりば》められていた。
構内には、ほとんど人影はなかった。騒がしいのは事務室だけで、それ以外の場所は静かなものだ。窓の明かりも数えるほどしか点《つ》いていない。
その数少ない窓明かりの一つに向かって、志津夫は歩きだした。BGMに勇ましい行進曲が欲しい気分だ。
真相の近くに位置する人物は、ほぼ特定できた。揺さぶりをかけるための材料もある。後は、彼女を詰問するだけだった。
志津夫はF棟に入った。深呼吸し、気合いを入れ直す。対決の時だ。
第一考古学研究室をノックする。どうぞ、とソプラノの声が答える。中に入った。
小山麻美は作業台に肘をついて、座り込んでいた。目が虚《うつ》ろな感じだ。放心状態だったらしい。
「あ、あなたは昼間の……」
麻美がそう言いかけ、立ち上がった。メタルフレームのメガネの位置を修正する。
「ええ。葦原志津夫です。事務室で訊《き》いたら、こちらにいるだろうと言われたので」
志津夫は、あらためて彼女を観察した。
麻美の目は充血していた。卵形の顔にも精気がない。ポニーテールにしている髪も艶《つや》やかさが失せたみたいだ。
麻美の右手の甲には、相変わらず大判のガーゼ付きバンソウコウがあった。
その手に、志津夫は注目してしまう。
クロノサイエンス社の大林も、同じ右手の甲に大判のガーゼ付きバンソウコウを貼っていたのだ。青い土偶に触った翌日から、手の甲に小さな三角形のウロコ状のものが生えたからだという。
どうやら、青い土偶から何かが、大林に感染したらしい。そして小山麻美もまた青い土偶に触れて、同じ何かに感染した疑いが出てきたのだ。
とりあえず、志津夫は無難な話題から切り出すことにした。
「事務室で聞いたんですが、石上遺跡の現地説明会も展示会も中止だそうですね」
「え、ええ」
麻美は伏し目がちになった。メガネのフレームをいじりながら、
「竜野先生があんなことになって……。もうそれは知っておられるでしょうけど」
「ええ。刑事さんから聞きました」
部屋の中には、空虚なムードが漂っていた。志津夫が昼間ここを訪ねた時は、学生たちで埋まっていたが、今は彼女一人しかいないせいだろう。もの言わぬ遺物たちも、寂しい雰囲気を作るのに一役買っていた。
志津夫は尋問を始めることにした。まず、相手の気になるポイントを指さす。
「ところで、そのバンソウコウ、どうしたんです? 発掘の時に怪我でも?」
「え、ええ。そんなところです」
麻美は軽くバンソウコウを押さえた。
曖昧《あいまい》な答え方だった。やはり詳しい事情を自ら喋るつもりはないらしい。
志津夫の頭の中で、思考のチャンネルが忙《せわ》しなく切り替わっていた。どこから話を進めるべきだろう?
遠回しに世間話をしながら、誘導尋問するべきか。それとも単刀直入に切り込んで、動揺を誘うべきか。こういう経験に乏しいので、わからなかった。
小山麻美は不審な顔になる。彼女の方から質問してきた。
「あの、何かご用ですか?」
「ええ。用と言えば用なんですが……」
「何ですか?」
志津夫はため息をついた。誘導尋問しようかとも思ったが、慣れていないので要領がつかめないのだ。やはり直接ぶつけてみるしかないようだ。
「見てもらいたいものがあります」
志津夫は肩にかけていたソフト・アタッシュバッグをテーブルに置いた。ノートパソコンを取り出し、電源をONにして操作した。
青い土偶の画像が表示された。
麻美の反応は顕著だった。室内に突然ブルドーザーが飛び込んできたのを見たような顔になった。首の辺りが硬直し、前歯が下唇を噛《か》んでいる。
志津夫は、彼女の様子を見て確信した。胸中にバスドラの重いビートを感じる。
「知ってるんですね?」
麻美は答えなかった。
「竜野助教授が言った前代未聞の土偶≠ニは、これですね?」
麻美は沈黙したままだ。やがて志津夫を睨《にら》み返した。恐怖と怒りが混じったような表情だ。
麻美は口を開いた。
「これをどこで?」
「竜野先生の研究室です。本棚の大型封筒のファイルに入れてあった写真を撮影したんです」
「勝手に部屋に入り込んだんですか!」
「あなたが何か隠しているみたいだと思ったから、非常手段を取らざるを得なかったんです」
志津夫は毅然《きぜん》と答えた。
麻美は顔をそむけた。それ以上は喋りたくないらしい。頬の辺りがこわばっている。
仕方なく志津夫が言った。
「クロノサイエンス社の大林という技術者が、この土偶の実物を見ています。一部を測定用に砕いて、熱ルミネセンス分析法にかけたそうです。製造年代は約三〇〇〇年前だという結果が出ました。
だが、これだけ純度の高いきれいなブルーガラスを造るには、摂氏一二〇〇度以上の高熱が必要なんです。三〇〇〇年前に、それだけの高熱を発生させる技術があったとは、常識では考えられないんです。でも、現にこの土偶は存在する。
そして竜野助教授はといえば、原因不明の熱で焼死体になっていた。金歯が完全に溶けていました。金歯が溶ける温度は、摂氏一二〇〇度から一三〇〇度。その上、金歯の中のチタンも溶けていた。チタンが溶ける温度は摂氏一六七五度だそうです。
……何もない野原の真ん中で、それほどの高熱が、なぜ発生したのか? 警察にもわからないそうです」
言うべきことはまだまだあったが、志津夫はそこでやめておいた。話が際限なく長引いて、核心からずれてしまうからだ。
ノートパソコンのパッドを操作した。別の画像を呼び出す。サングラス姿にひげ面の初老の男だ。葦原正一の最新映像だ。
「これも竜野先生の部屋にあった写真です。ぼくの父です。やはり竜野先生は父と会っていたんだ。もしかすると、あなたも会ったことがあるんじゃないですか?」
麻美は二秒ほどデジタル画像を見た。また、顔をそむけてしまう。額が冷や汗で濡《ぬ》れ光っていた。呼吸もやや荒い。
志津夫は続けて言った。
「説明してもらえませんか。なぜ、隠していたのかを」
麻美はやっと視線を合わせてきた。目に、今までにない力強い輝きがある。開き直ったような感じがした。
「お引き取りください」
そう言って一礼した。
「私は何も知りません。それに忙しいんです。帰ってください」
「そんなはずはないでしょう!」
志津夫は思わず声のボリュームを上げた。
「どう考えても、あなたは知ってる。知ってて隠してる。何だったら大林というやつが証言してくれますよ。青い土偶を見たとね」
「私は知りません」
麻美は首を振り、壁際に歩いていった。電源のスイッチを次々にOFFにする。そのたびに部屋が暗くなっていく。
最後の電源スイッチに手をかけた。
「もう帰るところです。部屋から出てください」
「ちょっと待った!」
志津夫は、麻美の手を押さえた。そのため、二人の真上にある蛍光灯だけは点灯したまま残った。
光量の薄れた室内で、志津夫と麻美は対峙《たいじ》した。作業台に載っている数々の縄文土偶が、無言で二人を注視しているようだ。ノートパソコン画面に映る葦原正一すらも、耳をそばだてているみたいだった。
志津夫は言った。
「あなたがやっていることは犯罪になるんだ。それはわかってるんでしょうね?」
麻美は眉間《みけん》にしわを寄せる。そして目をそらした。当人もそのことには気がついていたのだろう。
志津夫は相手に顔を近づけて、
「文化財保護法第六五条です。遺失物法第十三条が適用されると規定されているんだ。それに違反する。
出土した埋蔵物は、所轄の警察署長に差し出さなければならない。数が多すぎたりして無理な場合は、代わりに発見届けを警察署長に提出することになっている。期限は調査終了日から七日以内です。要するに、このブルーガラス土偶も、所轄の警察署長の管理下に入るんだ。あなたの所有物じゃない」
志津夫は大きく息をついで、
「お互い素人じゃないんだから、こんなこと今さら言わなくてもわかってるでしょう。あなたが発見届けを出さないままだったら、そのことを訴えますよ。その場合は警察が遺失物法違反の疑いで、この大学を捜査することになる。
そうなれば、あなたのメンツは丸つぶれだ。大学側にも迷惑をかけることになる」
志津夫は相手の反応を待った。
だが、麻美は顔を背けたままだった。唇を真一文字に結んでいる。無言のままだ。
そのまま麻美も志津夫も凍りついてしまった。沈黙が一〇秒ほど続く。
いくらでも、この根比べは続きそうだった。麻美が、ここまで強情な態度を見せるとは予想外だった。
志津夫は内心とまどった。彼女を精神的に追いつめたつもりだったが、相手はまったくダメージを感じていないらしいのだ。
やがて麻美は手首をひねった。最後の電源スイッチをOFFにする。
室内が暗転した。ノートパソコン画面の光と、窓越しに見える建物や街灯の明かりだけになる。
麻美の顔も見えにくくなった。彼女のメガネ・レンズが廊下の照明光を反射して、闇の中に浮かんでいる。そのせいで能面のような無表情に見えた。
彼女は自信ありげに言った。
「葦原さん。忠告しておきますけど、こんなことをしたら恥をかくのは、あなたの方よ」
「ぼくが? 恥をかく? どういうことです?」
麻美は志津夫を指さして、
「あなたの言うとおり、確かに三〇〇〇年前に一二〇〇度以上の高熱が発生して、高純度のブルーガラス土偶が造られた。そして竜野先生は同じぐらいの高熱に出会って、焼け死んで、金歯やチタンも溶けたんでしょう。でも、これらが事実だとしても、警察にはどう説明するんですか?」
志津夫は言葉に詰まった。
実際、警察には説明しにくい話なのだ。
これについて理解してもらうには、いろいろなデータに耳を傾けてもらう必要がある。しかし、刑事や検事たちが、古代の超常現象の話をまともに受け止めてくれる可能性は少ないだろう。彼らにとって理解しやすい犯人像とは、「アセチレン・バーナーを使う殺人鬼」に決まっているからだ。
そもそも高熱の発生原因からして、未《いま》だに不明なのだ。となると刑事たちは、「話にならん」と一蹴《いつしゆう》するだろう。
麻美が鼻を鳴らした。少し嘲笑《ちようしよう》気味に言った。
「できないでしょう? こんな話を警察に持ち込んでも無駄よ。私は文化財保護法違反ぐらいだったら、怖くも何ともないわ」
「ちょっと待った」
志津夫は片手を挙げた。相手を制止するポーズを取る。
「何だか、話の流れが変だ。ぼくは主に、文化財保護法違反の件で話をしていたんだ。それなのにあなたは、『自分はそれ以上の罪を犯したけど、証拠がないから平気だ』といった言い方をした。何だか変だ」
麻美が一瞬、目をそらした。歯ぎしりしそうな顔になっている。誘導尋問に引っかかった形になったせいだろう。
志津夫が重ねて訊《き》いた。
「今のは、どういう意味ですか? まさか、あなたが……」
「知りません」
麻美は首を振った。メガネ・レンズ越しに睨《にら》んでくる。双眼から、火炎が噴き出しそうな表情だった。
「警察に言いたければ、言うといいわ。私は文化財保護法違反になる。そして、あなたは他人の部屋に入り込んだ軽犯罪よ。それで話はおしまいよ。お互いに恥をかくだけです。それ以外は何も残りません」
小山麻美は回れ右して、部屋を出ていった。暗い廊下に足音が響く。彼女は一度も振り返らなかった。
志津夫は呆然《ぼうぜん》と見送っていた。
やがて、志津夫はゆっくり息を吐き出した。今の会話が意味するものを、頭の中で整理してみる。
結局、自白は引き出せなかったわけだ。だが、収穫はあった。麻美が何かを隠していることは、今や明白だった。
次は、どうするべきだろうか。
それを考えながら、周辺を見回した。
夜の大学構内の情景が広がっていた。廊下、研究室のドア、蛍光灯などが遠近法を構成している。何の変哲もない眺めだった。
だが、志津夫の目には、それが歪《ゆが》んだ光景に見え始めていた。
不可視の何かが、この筑波研究学園都市の周辺に集まっているような気がした。そのせいで夜闇がエネルギーで満たされている感じがする。それはいつ形を変えて、高熱を発生させるのか、予測がつかないのだ。
すでに志津夫は、数々の怪異な事実や証拠、情報などを知ってしまった。だから、この世界の裏側に、未知の何か≠ェ連綿と存在しているイメージを思い浮かべざるを得なかった。
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志津夫は憮然《ぶぜん》とした表情で、言った。
「……とにかくショックを受けていたのは最初だけで、その後、小山さんは一転して強気になった。警察も全然怖がってはいないね。あそこまで強気になれるのは、なぜなんだろうと思ったぐらいだ」
「そう」
真希は腕組みして、うなずいた。
場所は新治大学の正門前だった。
視界の両側に、灰色のコンクリートブロックの塀が延々と連なっている。塀の上にはエンジュやムクゲの木がそびえていた。
志津夫と真希は道路際にいた。彼らのパジェロとサニーも、そばに駐車してある。その位置からは、大学の駐車場全体の様子を眺めることができた。
駐車場は、大学の正門から通りを隔てたところにあった。一〇〇台分ぐらいの面積がある。地価の安さをうかがわせる光景だ。
そこでは、今も頻繁に車と人が出入りしていた。大半は大学の職員たちだろう。竜野助教授の訃報《ふほう》を知らされて、とりあえず駆けつけたようだ。
やがて真希が首を振り、言った。
「何だか、まずいんじゃない?」
「というと?」
「明日になったら、青い土偶は影も形もなくなってるかもしれない……」
志津夫は一瞬、身体を凍結させた。真希の顔をのぞき込んだ。
「小山さんが処分すると?」
「だってガラスと焼いた土の塊に過ぎないのよ。ハンマーでバラバラに砕いて、どこかに捨ててしまったら、もう探しようがないわ。そうなれば三〇〇〇年前の高熱発生の証拠は消える」
志津夫は呻《うめ》いてしまう。落とし穴にはまった気分だ。
「そこまでは考えてなかった。もしかすると、やりかねないかな?」
「どうも、小山麻美さんは何かを隠し通す決意みたいね。もし私がそういう立場だったら当然、証拠の隠滅も考えるでしょうね」
真希は五〇〇円玉を弾《はじ》いた。コインは水銀灯の光を反射し、目まぐるしく明滅した。それを黒い手袋に包まれた手でキャッチする。
真希は硬貨を指先でつまむと、言った。
「徹夜で、見張った方がいいんじゃない?」
「捨てる瞬間を押さえるわけか……」
志津夫は後頭部を掻《か》いて、苦笑した。
「刑事ドラマみたいに、張り込みまでやる羽目になるとは思わなかったよ」
志津夫は大あくびした。缶コーヒーを一口飲む。
ダッシュボードのデジタル時計がグリーンの文字を輝かせている。午後九時五九分だ。
この時刻になると、さすがに大学の駐車場も静かだった。駐車スペースの九割以上が空になっている。人影はまったくない。死体安置所に似た寂しさが漂っていた。
六台の車だけが、点在していた。赤のスターレット、グレーのアコード、青のファミリアといった大衆車ばかりだ。その内の一台が小山麻美のものだろう。
志津夫は、その駐車場の斜め向かいに停めたパジェロの運転席にいた。すぐ後ろには真希のサニーが停車している。街灯と街灯の間なので、目立たない場所と言えた。
パジェロのFMラジオが、小さな音で鳴っていた。古いジャズ・ナンバーだ。曲名は思い出せなかった。
助手席で、真希もあくびしながら言った。
「動きがないわね」
志津夫もうなずく。
「ええ。いくら何でも、もう帰宅する時間じゃないのかな?」
「だと思うんだけど……」
唐突に、真希は助手席のドアを開けた。外に足を下ろして、
「私、ちょっとお手洗いに」
「どうぞ。……帰ったら、また議論の続きをしようか」
「ええ。……望むところよ」
真希は片腕を曲げて、力こぶを作るポーズを取った。次いで、熱波のような視線を送ってきた。
志津夫も笑みを返した。女性から好意的な目で見られたことは、過去にもある。しかし、今のはかなり強烈に思えた。
真希は回れ右して、優雅なバックプロポーションを見せてくれた。そのまま遠ざかっていく。
志津夫は、ラジオから流れる4ビートに合わせて、ステアリングを指で叩《たた》いた。浮き立つような気分だ。
今まで喋《しやべ》り続けたおかげで、真希の趣味について、より深く知ることができた。彼女は考古学、古代日本史、民俗学、文化人類学の方面に多大な関心を抱いており、かなりの知識量の持ち主だった。
その上、古代の超常現象にも関心を持っているという希有《けう》な女性でもあった。それでいて、怪しげなトンデモ本などは鵜呑《うの》みにしない思慮深さも備えていた。そうした聡明《そうめい》さも好ましかった。
要するに志津夫は、このシチュエーションに大満足していた。強引な性格の美女と、不可解な変死事件に挑んでいるのだ。その過程でロマンスが生まれる可能性は大だろう。
志津夫は崩れそうな笑顔になった。缶コーヒーを一気にあおる。
むせた。
気道に液体が入り込んでしまったのだ。何度も咳《せ》き込んだ。手や、衣服や、車内に茶色のコーヒー液が飛び散る。
顔をしかめて、ティッシュペーパーを探した。だが、ポケットにも、バッグにもない。すべて切らしていた。
慌てて、パジェロのダッシュボードの中身も漁《あさ》った。だが、道路マップしかない。
舌打ちした。さっきまで色男ぶって、いい気分に浸っていたのに、今や吐き出したコーヒー液で、顔面も手も衣服も汚れてしまったのだ。こんな状態を、女性に見られたら台無しだ。
「しょうがないな」
志津夫は呟《つぶや》き、パジェロから降りた。真希の持ち物から調達するしかない。後ろに停まっているサニーに向かった。
サニーのドアを開けた。幸いロックされていなかった。自動的にルームランプが点灯する。
「失礼します」
誰もいないのに、志津夫はそう呼びかけた。車の持ち主がいないのに、勝手に物品を漁ることに、少し罪悪感があった。
明るくなった車内を見回した。だが、ティッシュペーパーは見あたらない。
志津夫は運転席に座った。助手席の前にあるダッシュボードのパネルを開ける。
中にポケットティッシュが入っていた。他に茶色の紙袋もあった。
「ビンゴ」
志津夫はハリウッド映画を真似て、言った。
さっそくティッシュペーパーを取り出した。顎《あご》や手、衣服を拭《ぬぐ》う。さらにルームミラーで自分の顔を確認し、入念にコーヒー液の汚れを取った。
パジェロの車内を掃除するため、さらに五、六枚ティッシュを調達した。
そして志津夫はダッシュボードを閉めようとした。できなかった。視線がある一点に吸い寄せられたからだ。
茶色の紙袋だ。その中身が一部、飛び出していた。
その品物自体は珍しくなかった。日常生活でしょっちゅうお目にかかるからだ。
だが、あまりにも分量が多すぎるように思えた。
志津夫は紙袋を取り出した。そして中身を確認した。
口が半開きになった。目も魚眼レンズさながらに飛び出しそうな感じになる。しばらく絶句していた。
やがて志津夫は言った。
「……これも……ビンゴなのか?」
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志津夫はパジェロの運転席に座り直した。大きな、ため息をつく。
つい三分ほど前まで、彼は高揚感に酔っていた。何しろ、父が失踪《しつそう》した謎も、古代の超常現象の謎も解かれつつある途上にいるのだ。ジェット戦闘機に乗って垂直上昇し、雲を突っ切っていく気分だった。
今は、墜落したも同然だった。下唇を噛《か》んでしまう。
謎は解かれつつあるどころではなかった。かえって、増殖したのだ。いや、すべてが謎だらけの混沌《こんとん》に戻ったと言ってもいい。
いったい自分は何に巻き込まれてしまったのだろう。いくら考えても、さっぱりわからない。
志津夫は助手席のバッグに手を伸ばした。バッグの内ポケットから、名刺を取り出す。ルームランプに、それをかざした。
安土真希の名刺だ。肩書きは昭和堂出版、サプリメント編集部、フリー記者。
志津夫は無言、無表情で名刺を見つめた。そして助手席のバッグにも片手で触れた。呟く。
「フリー記者って、そんなに儲《もう》かるものなのか?」
おかげで、前方の横断歩道への注意が不足していた。気づいた時には、その人物は車道を渡り始めたところだった。
志津夫は慌てて、ルームランプを消した。姿勢を低くする。目を見開き、その人物を観察した。
街灯の下を歩いているのは、髪の毛を後頭部で束ねてポニーテールにした女性だった。
色白で、卵形の顔だった。メタルフレームのメガネが街灯を反射している。服装はチェックの長袖《ながそで》シャツにジーンズ、スニーカーだ。
小山麻美だ。
彼女は片手にボストンバッグを持っていた。例の土偶の首を入れて持ち歩くには、ぴったりの大きさだろう。
麻美は周辺を見回し始めた。何かを警戒している雰囲気だ。
志津夫は、さらに姿勢を低くする。気づかれたか、と不安になった。
だが、麻美は、志津夫が乗っているパジェロには注意を払わなかった。やがて駐車場を歩き始めた。赤のスターレットに向かう。
麻美はキーを取り出し、車の鍵穴《かぎあな》に差し込んだ。ドアを開ける。これから帰宅するか、もしくは寄り道するのだろう。
志津夫は携帯電話に手を伸ばした。一瞬、躊躇《ちゆうちよ》する。脳裡《のうり》で、自問の声がした。考えなおすべきではないか?
だが、首を振って、追い払った。一人で尾行するのは、たぶん無理だろう。やはり相棒が要る。
志津夫は短縮ダイヤルのボタンを押した。ダイヤル音。呼び出し音。
その間に、麻美の乗ったスターレットがヘッドライトを光らせた。軽快なエンジン音を響かせる。
真希につながった。
「何?」
志津夫は簡潔に言った。
「動いた。小山麻美。赤のスターレットに乗った。ヘッドライトがついた。今、駐車場を出る」
「すぐ行くわ」
「いや、あなたは距離を空けて、ゆっくり来てくれ。ぼくが電話で現在位置を教え続けるから……」
麻美が運転するスターレットが駐車場から出てきた。出口から左折する。
志津夫は道路標識の文字を読みとった。
「国立科学博物館の方向だ。北の方だ。このままだと、例の事件現場に向かうのかもしれないが……」
言いながら、志津夫もパジェロのキーを回した。二八〇〇ccのディーゼルターボ・エンジンが重い唸りをあげた。
追跡はスムーズに行われた。
小山麻美のスターレットは国道四〇八号線沿いに北に進んだ。次いで国道を外れて、北東へ向かう。周りから徐々に民家や商店の数が減っていく。筑波国際カントリークラブの南側を通過した。
街灯が少なくなり、車の数も少なくなってくる。尾行には不向きな条件が増えてきた。
志津夫は、提案した。
「交替しよう。これ以上、同じ車が張りついていたら怪しまれる」
「了解」
志津夫は道路脇に停車した。すぐに後方から真希のサニーが姿を現した。今まで志津夫から二〇〇メートルほど離れて、追尾していたのだ。
志津夫のパジェロの横を、真希のサニーが通過する。バトンタッチというわけだ。
すれ違う瞬間、真希と目が合った。彼女はサイドウインドウを下げていた。携帯電話を持った手で、親指を上に突き出すサインを送り、微笑する。
だが、志津夫は、ちらっと見て「ああ」と答えただけだった。本来なら同じ指サインを返して、笑顔を見せるべき場面だろう。
しかし、それができなかった。先ほど、呟《つぶや》いた自分の台詞《せりふ》が蘇《よみがえ》ってくる。フリー記者って、そんなに儲かるものなのか?
志津夫の脳裡に、また疑念が湧いてくる。頭蓋《ずがい》に水虫が居着いて、そこに痒《かゆ》みが発生しているようなもどかしさだ。
だが、ゆっくり考えている暇はなかった。今はこの問題は後回しだ。小山麻美の尾行に専念しよう。そう決意する。
一分待ってから、志津夫も再発進した。
電話はつながったままなので、真希からは逐次、実況中継が入った。
「今、筑波スカイラインのインターチェンジよ。でも、そっちには行かないみたいね。……あ、やっぱり、乗り換えなかった。その下をくぐったわ」
このまま直進すれば、竜野助教授が変死した現場≠ノ到着するだろう。志津夫は、あらためて緊張した。小山麻美は現場≠ナ何かするつもりなのか?
だが、スターレットは現場≠ノは向かわず、その近くを通過しただけだった。さらに山奥へと入っていく。
真希が言った。
「山道に入ったわ……。まずい。ずっと、このままだと気づかれるかも……」
「また交替しよう。すぐ追い越すから」
志津夫はアクセルを踏み込んだ。パジェロは、九十九折《つづらお》りの山道に入った。
周辺にはスギやアカマツ、カシワの木が二、三メートルの間隔で生えていた。昼間なら、この付近は緑一色に覆われており、ドライビング・コース向きだろう。今は街灯と星明かりと、他の通行車両のヘッドライトだけだった。
間もなく志津夫は、サニーに追いつき、追い越した。再びバトンタッチし、最前線に立つ。
深夜の尾行は、ふいに終わりを告げた。山道のカーブを過ぎたところで赤のスターレットが停車していたのだ。街灯の真下だった。
志津夫は停車するわけにもいかず、通り過ぎた。その時は顔をそむけるよう努めた。たぶん気づかれてはいないだろう。
携帯電話で、志津夫は言った。
「小山さんが停まった!」
「え?」と真希。
「カーブを過ぎたところ。街灯の真下だ」
「気づかれたの?」
「わからない。こっちは停まるわけにはいかないから、通り過ぎたところだ。そっちも、その場で停まってくれ。今なら前後から挟み撃ちにした状態だから」
二〇〇メートルほど進んだところで、志津夫もパジェロを停めた。
すぐに携帯電話で、訊《き》いた。
「小山さんがUターンしてくる気配はない?」
「ないわ。物音一つなし」
「じゃ、やっぱり停車したままなんだ。ぼくも今、停まって、様子を見ているところだ。でも、小山さんがまた動き出す気配はないみたいだ」
「じゃ、車を停めて、山の中へ歩いていったんじゃない?」
「あるいはね」
「じゃ、こっちも歩きに切り替えましょう」
志津夫は少し考え込んだ。尾行に気づかれたのかとも思った。だが、このまま何もしないでいたら、山中に入っていった小山麻美を見失うことになる。ここは賭《かけ》をやるしかあるまい。
志津夫は決断した。
「わかった。そうしよう。道なりに進めば、スターレットのところで落ち合えるはずだ。ライトはもちろん持っていくけど、点《つ》けないことにしよう。じゃ、後でまた」
志津夫は電話を切った。
いつも抱えているソフト・アタッシュバッグから、ノートパソコンを取り出し、助手席に置いた。重すぎるので、今回は荷物から外すことにしたのだ。デジタルカメラはそのまま持っていく。
パジェロのドアをロックすると、肩にバッグをかけた。山道を歩きだす。
静謐《せいひつ》な闇夜が広がっていた。カジカガエルの鳴き声が聞こえる。喉《のど》を痛めた病人のような声で、初夏のコンサートを開いていた。この近くに小川があるのだろう。
時々、坂道に車のヘッドライトが出現した。そのたびに赤いスターレットかと緊張する。だが、毎回、他の車種だった。やはり小山麻美は車を降りて、どこかへ歩いていったようだ。
志津夫は夜道を歩きながら、思惟《しい》の中に沈み込んでいった。これから、どうなるのだろうか。
小山麻美を追えば、何かしらの情報は得られるはずだ。だが、その後はどうする? 得た情報を、どんな形で活用すればいいのだ?
だが、いくら考えても、なかなか答えは出なかった。
やがて停車中の赤いスターレットと、真希の姿が見えた。彼女が先に到着していたのだ。
真希はタイトスカートから、ブラックジーンズに着替えていた。山中を歩くことを予想したからだろう。
彼女がスターレットの右側を指さした。
「今、あっちに光が見えたわ。たぶん小山さんが持ってるライトよ。行きましょう」
そう言って、先に歩きだす。街灯の下でも、彼女のバックプロポーションは際だっていた。
志津夫は身動きできなかった。汚臭に接したような表情だ。
真希が振り返る。
「どうしたの?」
「いや、何でもない。行こう」
志津夫も追跡行を再開した。今は小山麻美の行動を見張ることが最優先だ。
森林に入った。
新月なので、周辺は大気に墨を流したように暗い。星明かりが、一〇〇メートル先の豆電球のように瞬いているだけだ。しかもスギ、アカマツ、クリ、ブナなどの樹木の葉によって、星明かりも遮られがちだ。
時々木の根につまずきそうになったりもした。おおかたの現代人が経験したことのない、漆黒の闇だった。
だが、闇の彼方《かなた》には、常に明滅する光点が見えていた。それは覚醒剤中毒になったホタルみたいに飛び跳ねている。ライトを持った人間が歩いている証拠だ。
やがて光点は動かなくなった。ライトを地面に置いたらしい。
志津夫と真希は、かすかな星明かりの下で顔を見合わせた。
真希が囁《ささや》き声で言った。
「ここから先は声も出さない。足音も立てない。いいわね」
「了解」と志津夫。
いつの間にか真希が主導権を握ってしまった。だが、志津夫は特に逆らわなかった。
ほとんど四つん這《ば》いで森林の中を進んだ。目標にしていたライトが段々、光量を増してくる。
志津夫の心臓もビートを早めていった。小山麻美はいったい、こんな場所で何をしているのか?
その疑問は、すぐに解けた。木々の間から彼女の姿が見えたのだ。
小山麻美はスコップで穴を掘っていた。そばにはボストンバッグと、直径二〇センチぐらいの大型ハンディライトがある。バッグの口は開いており、その中にコバルトブルーの輝きが見えた。
志津夫は確信した。小山麻美はブルーガラス土偶を埋めるつもりなのだ。
真希が、志津夫の肩を叩《たた》く。口にしなくてもお互いに意志は伝わった。
23
真希が手にしたハンディライトを点けた。
一条のビームが闇を貫いた。ヤマブドウの黄緑色の小花、スイカズラの白い花が浮かび上がる。
突然スポットライトを浴びた小山麻美は奇声を発した。ヒップを蹴飛《けと》ばされたみたいに飛び上がる。反射的にスコップを武器代わりに構えた。
「誰!」
同時に、志津夫がデジタルカメラのシャッターを切った。ストロボが閃《ひらめ》く。
麻美が悲鳴をあげた。
志津夫は木の陰から前に出た。自分の顔をライトで照らして見せる。
麻美の口が大きく開いた。メガネがライトを反射しているので、表情がわかりにくい。だが、ショックを受けているのは間違いなかった。
志津夫は言った。
「ぼくですよ。もう一人は……」
ちょっと躊躇《ちゆうちよ》して、言葉が止まった。
「……ぼくの同僚だ」
「よろしく」
真希が軽く一礼する。彼女は素早く地面にあるボストンバッグのところに進んだ。
「あ!」
麻美が驚き、止めようとする。間に合わなかった。
真希はバッグの口を開けて、中にライトを当てた。バッグの中は青一色に染まった。その色が真希の顔にも照り返している。彼女は満足げに微笑み、志津夫を見た。
志津夫も、のぞき込んで大きく息をついた。考古学者のはしくれとして、最高度の興奮を味わっていた。
「えらい回り道だったな。これか……」
大きな遮光器土偶の頭部。頭頂部から顎《あご》まで一〇センチぐらいで、写真で見たとおりの代物だった。
不透明なガラスなので、一見するとヒスイのようだ。秋空のディープブルーを切り取って、そのまま固体にしたような色あいだ。厚さ五ミリほどの膜状になって、土偶の頭部全体を覆っている。
形は少し歪《ゆが》んでいて、顎の先にはブルーガラスの玉ができていた。その様子から、まず熱で表面が溶けて、冷えて固まった時にガラス化したのだろう、と推測できた。
志津夫はまたデジタルカメラを取り出し、撮影した。さらに手を伸ばし、土偶に触れてみる。
指先で、ガラスの感触を味わった。冷たく滑らかだった。三〇〇〇年前に発生した高熱の証拠だ。
志津夫は立ち上がって、凍りついた麻美に言う。
「正に前代未聞の大発見だ。……なのに、小山さん、あなたはこれを隠そうとした。まあ、バラバラにして捨てなかったことはよかったけど、でも、やっぱり不可解だ。説明してもらえませんか」
小山麻美は目と口を大きく開けたままだった。端正な容貌《ようぼう》が台無しだ。よほどショックだったらしい。
真希が立ち上がり、続けて質問した。
「あなたと竜野助教授は、行方不明だった葦原正一さんと会ったんでしょう? そしてこの青い土偶に関して、何かを聞きだした。でも、その後、竜野助教授は原因不明の高熱で焼かれた。あなたは、その死因を隠そうとした。そのためには青い土偶も隠してしまいたかった。
……そんなところじゃないですか? 私の想像は間違ってます?」
麻美の手からスコップが落ちた。その先端が地面に突き刺さり、そのまま固定された。
「私をどうすることもできないわ!」
ふいに力強い声で麻美が言った。
志津夫は一瞬たじろいだ。新治大学の研究室で会った時と同じ態度だ。彼女のこうした反応も不可解だった。
麻美は続けて言った。
「そうよ。どうすることもできないのよ。いいわ。この土偶が欲しければ、あげるわ。警察に届けるといいわ。でも、何の証拠にもならない。確かに三〇〇〇年前の高熱発生を裏づけるものだけど、これと竜野先生が焼け死んだこととを、どう結びつけるの? どうやって死因を解明するの? 誰にもそんなことできないわ。不可能よ」
「ええ。不可能だわ」
真希は落ち着きはらって答えた。
「そんなことはわかってる。警察もこの事件には頭を抱えているようだし、迷宮入りは確実でしょうね。
……ねえ、小山さん、私たちは警官じゃないのよ。たとえ、あなたが犯罪に関わっていても、私たちにはどうすることもできない。警察がこの事件に対して無力なら、私たち二人はなおさら無力よ」
真希は一歩、進み出た。微笑を浮かべている。黒い瞳《ひとみ》が磁気を放射しているみたいだ。
「だから、小山さん。私たちにだけ真相を聞かせてくれませんか? だって、警察は無力で、あなたには手出しできないんでしょう? つまり、あなたから聞いた話を、私たちが警察に話したところで誰も信じない、と。きっと、そういう性質の事件なんでしょう?」
麻美の目が宙を泳ぎだした。やがて地面のオオバコ、ミチヤナギなどの雑草を意味もなく見つめる。張りつめていたものが急に切れたようだ。
真希は、さらに一歩進んで麻美の肩をつかんだ。軽く揺さぶる。まるで催眠術でも、かけているかのような態度で、やさしげに言った。
「私はあなたの敵じゃないわ。むしろ味方よ。懺悔《ざんげ》を聞く神父さんやカウンセラーみたいなものよ。どうも何かに苦しんでいるみたいだけど、誰かに話した方が楽になるんじゃないかしら」
麻美はゆっくり顔を上げた。叱られている小学生のような幼い表情だった。
志津夫も前に進んで、言った。
「ぼくはもう一〇年も父を探してるんです。ところが、その父が健在で、この辺をうろついていたらしい。となると、気になって気になってしょうがない。いったい、何があったのか、どうしても知りたい。たとえ父が竜野先生を殺した犯人だとしても、それを受け止める覚悟ぐらいある。お願いだ。話してください」
志津夫は熱っぽい声で訴えた。
麻美は落城寸前といった表情に見えた。精神のテンションが際限なく下がっていったらしい。両肩の線も落ちていた。
やがて麻美はしゃがんで、地面に突き刺さったスコップを回収した。それで意味もなく石ころをほじくる。しばらく、その動作を続けていた。
ふいに言った。
「ええ。そうよ。誰も私を逮捕できない。誰も私を有罪にできないのよ」
そして、麻美は話し始めた。事件の全容を……。
24
それは五日前の五月二六日のことだった。竜野孝一助教授が忘れ物をしたことがきっかけとなった。
その日の発掘を終えて、小山麻美と竜野孝一は大学の管理・収納室に戻り、収集した遺物や、荷物を広げた。そこで竜野が舌打ちしたのだ。
「しまった! 遺物台帳……。遺跡のそばに置きっぱなしだ。暗くなってて、気づかなかったんだ……」
遺物台帳とは、遺物の記録ノートのことだ。採集した遺物は、一つ一つに整理番号を割り当てて、その日のうちに遺物台帳に記録することになっている。そして、整理箱にも同じ番号を記入し、場合によっては遺物本体にも防水性のユポ紙ラベルを貼り、収納する。そうしないと、正確な記録とは見なされないのだ。
「ちくしょう……」
竜野は苛立《いらだ》たしげに、テーブルを叩《たた》いた。そして麻美を振り返った。彼はわざとらしく、笑いかけてきた。
「悪いな。小山君。取ってきてくれないか。紛失したら、一大事だ」
「ええ」
麻美は、硬い表情で答えた。
すでに学生たちは帰った後だった。彼らは管理・収納室に整理箱などを置くと、足早に引き上げていったのだ。こうなると、麻美は講師から雑用係に格下げだ。
夜空は暗くなっていた。窓の外では、植え込みのキョウチクトウがシルエットになって、揺れていた。少し風が出てきたらしい。
麻美は残業が増えたことに、ため息をついた。ショルダーバッグを手にして部屋を出ようとした。
できなかった。竜野が麻美の肩に手をまわしてきたからだ。
「なあ、今夜は暇なんだろう?」
振り返ると、竜野が好色な笑みを浮かべていた。ぎらついた粘着質の波動が伝わってくる。
麻美の喉《のど》に苦みの塊がこみ上げてきた。身体が先に拒絶反応を示した。咳《せ》き込んでしまう。
麻美は相手の手を振り払った。睨《にら》み返して、言った。
「あいにく用事があるんです」
竜野の色黒の丸顔に、不機嫌な表情が浮かんだ。
麻美の肩の線が盛り上がっていた。全身で拒否する構えを取る。構うものか。怒らせておけ。
竜野は無言で、麻美と睨み合っていたが、やがて肩をすくめた。
「ふん。講師に昇格してしまえば、ぼくは用済みか。最近の女はドライだよな」
麻美は顔を強張《こわば》らせたまま、無言で部屋を出た。本当は、相手の顔を引っ掻《か》いてやりたかったが、我慢した。
彼女は駐車場に行き、自分のスターレットに乗った。シートベルトを着ける。
キーを差し込み、回そうとした。だが、手が動かなかった。自分が涙ぐんでいるのに、気づいたのだ。
目尻《めじり》を拭《ぬぐ》った。ルームミラーで、自分の顔を見る。メガネをかけた女が、歪《ゆが》んだ表情を浮かべていた。
思わずステアリングに顔を埋めて、突っ伏してしまう。じっと耐えてきたのに時々、叫びだしそうになることがある。今がそうだった。
麻美は、同世代の友人たちと会うと決まって、彼女たちから羨《うらや》ましがられた。好きな道を着々と歩んでいる女だ、と思われているのだ。実態はレイプ同然の被害を受けて、泣き寝入りしているのに……。
麻美の脳裡《のうり》に先日、読んだ新聞のコラム記事が浮かんできた。
大学研究室内でのセクシャル・ハラスメントについての記事だ。記者によれば、「それほど珍しい事件ではない」という。最近ようやく女性が訴えて、裁判|沙汰《ざた》になるケースも出てきたという。
何しろ教授や助教授には絶対的な権力がある、という独特の世界だ。女性の助手や大学院生などは、言いなりになるしかない。それゆえ研究室で事件が起きやすいのだ。新聞のコラムにも「大学研究室で起きた、こうした事件で裁判沙汰になっているものは氷山の一角だろう」などと書いてあった。
麻美は氷山の水面下だった。今も、そこから浮上できないでいた。
彼女には訴訟を起こす勇気も決断力もなかった。すでに自分が自分でなくなっていた。この状態をどうすることもできないのだ。
竜野との関係は一年前、麻美が二六歳の時に始まった。助手から講師に昇格するに当たって、彼の推薦が必要だったからだ。半ば引きずられるようにして、ホテルに連れ込まれた。どうしても抵抗できなかった。
竜野に初めて抱かれた日の翌日は、大学を休んだ。トイレにこもったまま半日、吐き続けた。胃袋が空になっても吐き気が止まらず、胃液まで吐いた。
それ以後も惰性のように、竜野助教授との愛人関係が続いた。楽しんだことなどない。拷問同然で、難行苦行だ。
麻美にも、人並みに好意を抱いている男性はいたのだ。だが、彼のことは結局あきらめる羽目になった。そのせいでヒステリックになり、学生に当たり散らしたこともあった。
こうなる以前は、竜野を尊敬もしていた。だが、今では、竜野は外面と内面がまったく違う男だとわかっていた。外面はリーダーシップを発揮する頼りがいのある男だ。だが、内面は女の弱みに平気でつけ込める卑劣漢だった。
最近になって、麻美は新聞のコラム記事で、他にも同じ境遇の女たちがいることを知った。その時は、もちろん訴訟を起こすことを考えた。竜野の正体を世間にぶちまけたい気持ちになった。
だが、竜野との間にあったことすべてを法廷で証言することを考えると、耐えられなかった。さらに吐き気がしたからだ。
夜は、独りで夢想に耽《ふけ》ることもあった。竜野を殺す方法について計画を練るのだ。空想の中でなら殺す方法ぐらい、いくらでも思いついた。
だが、実行は不可能だった。それをやる決断力など、自分にはないのだ。
もう少しの我慢だ。そう自分に言い聞かせる。講師としての実績年数を貯めれば、他の大学で採用される道も開ける。その時は、あいつと離れられるだろう。
麻美は、キーをひねった。一三〇〇ccエンジンを始動し、雑用のために出発した。
すでに空は藍色《あいいろ》に染まっていた。西の空には、金色の宝石のような宵の明星が輝いている。
石上遺跡の周辺は、闇に包まれていた。道路脇の街灯が少ないからだ。通りすがりのドライバーたちも、そこに発掘中の遺跡があるとは気づかないだろう。
麻美は徐々にスピードを落とし、ステアリングを切った。ブレーキを踏み込む。スターレットは道路に対して四五度の角度で、停車した。
ヘッドライトが遺跡を照らし出した。三〇メートル四方の空間が、青い防水ビニールシートで覆われている。周辺には雨水を逃がすための溝も掘られていた。
麻美の目が大きく見開かれた。ステアリングを握りしめてしまう。
遺跡のそばに人影があった。その人物は突然、車のライトを浴びて、驚いたらしい。振り返った姿勢で、凍りついている。
体格のいい男だった。地味なグレーのジャケットに、茶色のスラックス、同色の革靴という服装だ。
顔は、ひげ面だ。顎《あご》ひげと口ひげがつながっている。年齢は四〇代か五〇代ぐらいだろう。
奇妙なことに、男は濃いサングラスをかけていた。だが、辺り一帯は真っ暗闇に近い。この状況では、まったく無意味なファッションだった。
何よりも怪しいのは、両手にスコップを持っている点だった。彼のそばには盛り上がった土の山があり、地面にはクレーター状の穴が出来上がっていた。男が地面を掘り返していたのは明らかだ。
男には、なぜか不吉な影が感じられた。彼の周りだけ気温が低下しており、白い霧が漂っているような印象だ。
麻美は反射的にクラクションを鳴らした。心ない者が勝手に遺跡を荒らしているのか、と思ったからだ。
だが、サングラスの男は、不可解な反応を示した。大慌てでスコップを地面に突き刺し、片足で押し込んだ。より懸命になって掘り返し始めたのだ。
麻美はドアを開けた。大声で叫ぶ。
「ちょっと! あなた! そこで何をやってるんですか?」
男は、麻美の警告など無視した。さらに掘るスピードを上げたのだ。スコップが地面をえぐる音が連続して、響く。
麻美は再度、叫んだ。
「何してるの! そこは調査中よ。勝手に、そんなことされたら困るわ」
だが、サングラスの男は掘り続けた。そしてスコップを捨てると、今度は地面に四つん這《ば》いになった。両手で直接、何かをほじくろうとしている。
「あなた、誰ですか? ちょっと。やめてください! 困るわ」
麻美は車の中からハンディライトを持ち出した。それを点灯し、小走りに駆け出す。
彼我の距離は四〇メートルほどだろう。数秒で駆け抜けることができる距離だ。
だが、麻美の到着は間に合わなかった。その前にサングラスの男は、何かを地中から取り出したのだ。
それは青い色をした物体だった。形状は円筒形を平べったくしたような感じだ。大きさは縦三〇センチ、横二〇センチぐらいで、百科事典一冊分ぐらいの体積だろう。
サングラスの男は、その青い物体を抱えて、逃げ出した。
「待って! ちょっと。待ちなさい!」
麻美は光条を、サングラスの男に向けた。後を追う。
男の足は、大して速くはなかった。体格の割には鈍い動きだった。麻美が本気で走れば追いつけそうだ。
だが、途中で、彼女の足の動きは減速してしまった。
相手は体格のいい男で、こちらは女一人だ。追いついたところで、取り押さえることなど不可能だろう。それを思うと、あまり熱心に追跡する気になれないのだ。
麻美が躊躇《ちゆうちよ》している間に、サングラスの男は林の奥へ飛び込んだ。ヤブコウジや、モミ、アカマツなどの樹木が遮蔽《しやへい》物となって、男をこの場から退場させた。足音が遠ざかっていく。
麻美は、しばらく虚脱状態に陥っていた。説明不可能な事態に遭遇してしまい、どう反応していいか、わからなかった。
夜空の星々がこの奇妙な状況を見下ろしていた。ちょうど北斗七星が高い位置にある時間帯だ。
風が樹木の枝を揺さぶった。時折、道路をトラックが横切る。それ以外は静寂そのものだ。たった今、目撃したサングラスの男が夢か幻だったような気がするほどだ。
やがて麻美は我に返った。振り返る。ライトで狼藉《ろうぜき》の跡を照らした。
サングラスの男が使ったスコップがあった。掘り返した穴と、土くれの小山も残っている。
その時になって気づいた。男が掘った場所は、遺跡の発掘区画ではなかった。そこから北へ一〇メートルほど離れた場所なのだ。
麻美の胸に疑問が湧いた。なぜ、こんなところを掘っていたのか? また、ここから何を掘り出し、持ち去ったのか?
穴に近寄ってみた。内部をライトで照らし出す。
深さ七〇センチ、直径一メートルほどの穴が掘られていた。縄文時代の501W層、茶褐色土層が露出している。
乱暴な掘り方だった。発掘調査のようなエレガントなやり方ではない。
通常、発掘調査では堆積《たいせき》した土層を上層から一枚ずつ剥《は》ぎ取っていく。一つの層を横方向から削り取るもので、これを横剥ぎ技法と呼んでいる。
要するに数層を一度に掘削したり、上下層を逆転させてはいけないのだ。それをやると調査そのものが台無しになる。また、堆積した土層には常に解釈を与え、その過程を確認しつつ進めなければならない。要するに気長で地道な作業なのだ。
あのサングラスの男は、そうした発掘作業の過程を一切、無視していた。狙いを一点に絞って、この場所を掘り、何かを持ち去ったのだ。まるで、ここに何が埋まっていたのかを、あらかじめ知っていたみたいだ。
麻美は穴の中に、足を踏み入れた。かがみ込んで、露出した縄文地層に手で触れてみる。指で撫《な》でて、茶褐色土層の薄皮をはぎ取った。
その時、それ≠ェ現れた。青い色がちらりと見えた。
麻美は瞬《まばた》きした。
最初はヒスイかと思った。縄文人は、ヒスイを削った玉を首飾りなどのアクセサリーにしていたからだ。
だが、指で周りの土を剥ぎ取るうちに、ヒスイではないと判明した。それにしては、大きすぎる。指で掘るうちに、その直径は五センチを越え、一〇センチを越えた。
やがて全体像が露《あらわ》になった。
遮光器土偶の首だった。サングラスをかけたような大きな目玉、小さな鼻と口が特徴だ。それは表面が不透明で鮮やかなブルーガラスで覆われていた。
竜野孝一は、青い土偶の表面に指先を這わせていた。さっきから口も利かなかった。穴の底にしゃがみ込み、目を真円のように見開いている。
麻美は穴の上から、彼の様子を見守っていた。
竜野助教授は最低のいけ好かない男だった。麻美は、できれば顔も見たくなかった。
だが、彼女の上司だし、何と言っても考古学の専門家だ。したがって、この新発見を知らせないわけにはいかなかったのだ。
麻美が最初に携帯電話で伝えた時、竜野は半信半疑だった。だが、それでも気になったらしく、自らこの場へ確認しに来たのだ。
そして彼は地中から露出した青い土偶を見るなり、叫んだ。
「バカな! 縄文の土層からブルーガラス? しかも、こんなきれいなガラスが?」
そして竜野は穴の底にしゃがんだまま、動かなくなったのだ。時々、首を振って、何か呟《つぶや》いていた。
やがて、竜野はマイルドセブンの箱を取り出して地面に置き、青い土偶と並べた。
バッグからポラロイドカメラを取り出し、構える。万が一を考えて、持参してきたのだろう。ストロボを焚《た》きまくる。
そして猛然と指で、土をかき分け始めた。今すぐ掘り出すつもりなのだ。
麻美は慌てて、言った。
「あの……竜野先生。まずいですよ。ここだけ、そんなに掘ったら、同期が取れなくなってしまいます」
「うるさい。責任者は私だ」
竜野の興奮ぶりは大変なものだった。横剥ぎ技法を無視して、掘り続ける。指だけで、周辺の土を取り除いてしまった。
土偶の首が完全に露出した。
竜野は、さらにポラロイドカメラを構えて、またストロボを光らせた。彼の目もストロボに負けないほどの光を放っているようだった。
やがて彼は振り返り、言った。
「そのサングラスの男だが、ここから、青い色の何かを持ち出したと言ってたな。じゃ、それも、こういう土偶だったのか?」
麻美は首を振る。
「さあ、そこまでは……」
「あるいは、この土偶の胴体を持っていったのか? 胴体は掘り出したが、この首は分離していて、持ち出す暇がなかった、ということか?」
麻美は無言だった。彼女には答えようがないからだ。
竜野は麻美の反応など無視していた。自分の思考にのめり込み、喋《しやべ》り続ける。
「いったい、その男、何者なんだ? それに、なぜ、これが、ここに埋まっていたとわかったんだ? 地中レーダーを使っても、こんなものは計測しにくいだろうに……」
25
翌日、麻美はいつもどおり大学に出勤して、竜野助教授に会った。そして彼から、あらためて口止めされた。
「あの青い土偶のことは、しばらく忘れてくれ」と。
不審なことだらけだった。しかし、上司の言うことだ。従うしかなかった。
それに、麻美にとっては歓迎すべき点もあった。竜野が、まったく言い寄ってこなくなったからだ。どうやら青い土偶のことで、頭がいっぱいらしい。
もちろん麻美も、青い土偶のことは気になった。考古学の常識では、あれは存在するはずがない品物だからだ。
例のサングラスの男も不可解だった。青い土偶が埋まっていた場所をあらかじめ知っていたかのように、あの場所を掘り、何かを持ち去ったのだ。
いくら考えても合理的な解釈が浮かばない。思い返す度に、後頭部に痒《かゆ》みを覚えるほどだ。
しかし、竜野に言われたとおり、当面は忘れるように努めた。
あの時までは……。
五月三〇日の夕方だった。
麻美は管理・収納室のいちばん奥で遺物のチェックをしていた。彼女は、いつも内側から鍵《かぎ》をかけて作業する習慣があった。他人に邪魔されるのが嫌だったからだ。
だが、突然鍵が開けられ、誰かが入ってきたのだ。足音や気配から人数は二人とわかった。
室内は蛍光灯が点灯していた。それを見たからだろう。二人のうち、一人が呼びかけてきた。
「あれ? 誰かいるのか?」
竜野助教授の声だ。
収納棚の陰で、麻美は反射的に身を強張《こわば》らせた。
本来は、すぐ返事をするべきだろう。だが、できなかった。必要がない限り、竜野と顔を合わせるのは避けたかった。
このまま、やり過ごせるものなら、そうしたい。麻美は無言行を続けた。
そして事態は思わぬ展開を迎えたのだ。
竜野の声が言った。
「何だ。誰もいないのか。電気を消し忘れたのかな……。まあ、そこに座ってください」
「ああ」
未知の人物が返事をした。よく響くバリトンだ。聞き覚えのない男の声だった。
ドアが閉まった。鍵をかける音。
続いて、椅子の背もたれのバネが、きしむ音が聞こえた。一人目が座り、二人目も座ったようだ。
麻美は全身を硬直させていた。どうも様子がおかしいと気づいた。この二人は内密の話をするために、管理・収納室を選んだような雰囲気だからだ。
竜野が口火を切った。
「まさか、葦原正一先生だったとはね。驚きましたよ。いや、本当に……」
ため息が聞こえた。しばらく沈黙が続いた。両者とも、どこから会話を始めるべきか、とまどっている様子だった。
やがて竜野が訊《き》いた。
「……一〇年間も音沙汰《おとさた》なしで、いったい何をやってたんですか?」
「それは……説明できないんだ」
「そりゃ、まあ、何か事情はあるんでしょうけど……。あの……一〇年ぶりに会ったんですよ。サングラスぐらい外してくれませんか? ぼくは、かつての教え子なんですよ。素顔を見せてくれてもいいのでは?」
「悪いが、目を痛めているんだ。このままで勘弁してもらいたい」
「そうですか。まあ、無理にとは言いませんが……。そうか。やっぱりね……」
竜野はまた、ため息をついて……、
「やっぱり、あの土偶は胴体があったんですね。で、それを葦原先生が掘り起こして、持ち出そうとした。そこにちょうど小山君がやってきたわけだ」
麻美の脳裡《のうり》に、四日前に見た映像記憶が蘇《よみがえ》った。
遺跡のそばの人影。車のライトを浴びて、凍りついていた体格のいい男。ひげ面。年齢は四〇代か五〇代ぐらい。夜なのに、濃いサングラスをかけていた。両手にスコップ。彼のそばには盛り上がった土の山があり、地面にはクレーター状の穴が出来上がっていた。
サングラスの男は慌てて掘り続け、何かを地中から取り出した。青い色をした物体。形状は円筒形を平べったくしたような感じだ。大きさは縦三〇センチぐらい。
麻美は事態を理解した。
あのサングラスの男だ。遺跡の近くを掘って、何かを持ち出し、逃げた男だ。
その男が今、この部屋にいるのだ。そして竜野と密談している。
しかも竜野は、その男に向かって「葦原正一先生」と呼びかけたのだ。竜野は「ぼくは、かつての教え子なんですよ」とも言った。また、話の様子では、この「葦原先生」なる人物は一〇年間も行方知れずだったらしい。
そう言えば、ずっと以前に竜野から聞いた記憶がある。彼の恩師が一〇年前、謎の失踪《しつそう》を遂げたとか……。
竜野が言った。
「……で、葦原先生は土偶の首が残っていたのを見逃したわけだ。お察しのとおり、それはぼくが手に入れましたよ。熱ルミネセンス分析法で、年代測定もやってもらいました。何と、三〇〇〇年前と出た! 三〇〇〇年前に造られたブルーガラスだ。つまり、三〇〇〇年前に摂氏一二〇〇度の高熱を発生させる技術があったことになる。大発見だ」
今の話は、麻美にとっては初耳だった。身体が少し震える。
そうなのだ。もしもあれが本物の縄文土偶ならば、その結論しかないことになる。
麻美は、例の土偶は誰かがいたずら目的で造った偽物かもしれないとも思っていた。だが、熱ルミネセンス分析法がその可能性を否定したのだ。
葦原正一が訊いた。
「その情報は、君以外の人間にも知らせたのかね?」
「いいえ。年代測定を頼んだ技術者にも、口止めしてあります。彼は、考古学は素人だから、あの土偶も別に不思議がってはいませんしね……」
「それならいい」
今度は竜野が訊いた。
「葦原先生。なぜ、あそこに、あんなものが埋まっていたとわかったんですか? それに、なぜ、この発見を隠そうとするんですか?」
相手の唸《うな》り声が聞こえた。なかなか返答がない。
竜野が続けて、
「黙ってちゃ、わかりませんよ」
やがて葦原が答えた。
「すまんが、それについて説明はできないんだ。……わかってくれ。世の中には封じた方がいい真実もある。私が家族も教授の職も捨てて失踪したのも、それを封じ続けるためなんだ」
「何を封じた方がいいと?」
「あの土偶の存在が公になったら、どうなると思う?」
「大騒ぎでしょうね」
「そうだ。タブーが崩れてしまう」
「何のタブーですか?」
葦原正一はまた沈黙した。
竜野が重ねて、訊いた。
「タブーって何ですか?」
「人間が触れるべき領域じゃないんだ。だから、タブーなんだ」
「具体的に言ってくれませんか。葦原先生の言うことは抽象的過ぎて、さっぱりわからないんですが」
「君のためを思って、具体的に説明するのを避けているんだ。君は知らない方がいい。黙って、あの土偶の首を渡してくれ。お願いだ」
「ぼくだって子供じゃないんですから、理由も聞かずに、はい、そうですかと、渡せやしませんよ。封じた方がいい真実だとか、人間が触れるべき領域じゃないなんて言い方ではね……」
「わかってくれ。犠牲者は私一人で充分だ」
「え? そりゃ、どういう意味です?」
「い、いや……」
どうやら、今のは失言だったようだ。
葦原正一の声音には、切迫した響きが感じられた。相当、焦っているらしい。
竜野が訊いた。
「なぜ、葦原先生が犠牲者なんです?」
「そんなことはどうでもいい。さっきも言ったとおり、君は知らない方がいいんだ。……あの土偶を私に渡してくれ。そして忘れてくれ」
「なぜ、葦原先生が犠牲者なんです? それをちゃんと説明してもらわないと……。それと、葦原先生はうまく話を逸《そ》らしましたね。……いいですか。ぼくはさっき、こういう質問もしたんです。なぜ、あそこに、あんなものが埋まっていたとわかったんですか?」
葦原はまた沈黙した。
事務用デスクを叩《たた》く音がした。どうやら竜野が苛立《いらだ》って、指でリズムを取っているらしい。
竜野が言った。
「常識的に考えるなら、葦原先生自身があそこにあの土偶を埋めたから、場所を知っていたということになる。しかし、あの付近の地層は、今まで掘り返された形跡がなかった。ということは、あの土偶は、やはり三〇〇〇年間、地中で眠っていたことになる」
竜野は一息ついて、
「では、どうして、その場所を葦原先生は知ることができたのか? ぼくには想像もつきませんね。縄文時代の文献資料なんか存在しないから、文献から推測したなんてこともありえない。……教えてください。なぜ、あの場所にブルーガラス土偶があったとわかったんです? 何か特殊な探知機を持ってるとでも言うんですか?」
「まあ、探知機と言えば、探知機だが……」
「どんな?」
ため息が聞こえた。葦原正一の口から漏れた、ため息らしい。
竜野が吐き捨てるように言った。
「それも喋りたくないんですか?」
「言っても、どうせ信じないだろう」
「そりゃ、わかりませんよ。試しに話してみたら、どうです?」
「……弱ったな。……やはり、こういうことになったか」
葦原正一のため息が聞こえた。髪の毛を掻《か》きむしっているような音もした。
「……頼み事をするには、ある程度、真相を明かさなければいけない。だが、それを喋ると君も巻き込んでしまう」
竜野の笑い声が聞こえた。
「巻き込む? おもしろい。巻き込んでもらおうじゃないですか。何なら、もっともっと大勢の人間を巻き込んでやりますよ」
「いかん!」
物音がした。葦原正一が椅子から立ち上がったらしい。
「そんなことをしたら……」
「したら? どうなるんですか?」
二人は、しばらく沈黙した。
麻美は、彼らの声しか聞いていないので、表情などはわからなかった。しかし、両者の苛立ちは熱気みたいに伝わってきた。
やがて葦原が言った。
「これほど言っても、だめか? あの土偶の首を渡してくれないのか?」
「説明してくれない限りは」
また沈黙が続いた。睨《にら》み合いの状態だろうと想像できた。室内が険悪な空気で満たされてくる。
ついに、葦原正一が言った。
「よかろう。ならば、どれだけ危険か、わからせてやる」
麻美は、その声を聞いて背筋が凍りついた。殺意を感じた。自分の喉《のど》にナイフの冷たい感触のようなものを味わったほどだ。
だが、相対しているはずの竜野は気づかなかったようだ。のんびりした声で、
「ほう。どうするんです?」
「論より証拠を見せよう。人のいないところがいい……。そうだ。石上遺跡だ。今夜、夜中の一二時にあそこへ行こう」
「なぜ、そんなところへ?」
「言っただろう。人のいないところがいいんだ。君は土偶の首を持ってきたまえ。そうすれば見せてやろう。カムナビを」
その瞬間、麻美の手がまた震えた。葦原の言葉に危険を感知したのだ。
彼女には直感的にわかったのだ。カムナビというものの恐ろしさが。
竜野が依然として、のんきな口調で、
「カムナビ? カムナビって、あのカムナビ山のカムナビですか? 神のいる場所だとか神の火だとか、語源について、いろいろ説がある、あのカムナビ?」
「そうだ」
ダッシュボードのデジタル時計の数字が、深夜一一時五二分になった。
小山麻美はカーブの手前で、赤いスターレットを停めた。車から降りる。夜気が肌寒い時間帯だった。
夜空には星々が鏤《ちりば》められていた。普段よりも、その数が多い感じだ。白鳥座の十字形も高い位置で輝いている。
山林の向こう側の道路を確かめた。
前方一〇〇メートルほどの位置に、竜野助教授のカローラが停車してあった。その向こうは発掘中の石上遺跡だ。今は街灯の明かりだけなので、辺りはほとんど闇に包まれている。
麻美は軽く息を弾ませていた。不思議な昂揚感《こうようかん》が、胸中で渦巻いている。自分の運命にとって決定的な瞬間が迫っている。そう明確に感じられた。
夕方、葦原正一は竜野に「カムナビを見せてやる」と言った。それが何なのかは、麻美にもわからない。だが、三〇〇〇年前に摂氏一二〇〇度の高熱を発生させた原因は、それなのだろうと直感できた。
だが、竜野には、カムナビの意味が認識できなかったようだ。竜野はブルーガラス土偶の製造方法も既存の科学パラダイムで解釈できる、と思っているのだろう。
麻美は違った。直感的に悟った。あの青い土偶を造った高熱現象は、我々の常識の外から来たものだ、と。
本来、麻美は超常現象などを信じるタイプではなかった。だが、今回の件に関しては別だった。何しろ三〇〇〇年前に造られたブルーガラス土偶という歴然たる証拠があるのだから。
たぶん、葦原正一はその秘密をつかんだのだろう。そして今夜、それを使って竜野を……。
ならば、その場面を見届けたかった。あるいは、自分もそれを利用することができれば……。もし、利用できれば……。
麻美は武者震いした。これから決闘に挑むような緊張感を味わう。
彼女は道路から近づくことは避けた。野原を突っ切り、スギ、アカマツ、クリ、ブナなどの森林に入った。このルートなら、竜野たちには見つからずに、背後から忍び寄れるはずだ。
途中、予想外のものに出会って、少し驚いた。白いプロペラ飛行機型の風向風速計と、白いボックスだ。それらが鉄条網のあるフェンスで囲まれていた。気象庁が設置したアメダスだ。
だが、麻美には知識がなかったので、単なる気象観測装置だろうと思った。これが二四時間稼動しているロボット気象計であり、電話線で東京大手町のアメダスセンターと結ばれているとは知らなかった。
麻美は再び、樹林の間を分け入り、石上遺跡に接近した。
やがて男の人影が二人分、見えた。街灯や、彼らが手にしているライトのせいで、シルエットになっている。そのため顔立ちなどはわからない。
だが、体格のいい方がサングラスをかけていることは、シルエットで判別できた。葦原正一だろう。
もう一人も、体格や雰囲気などから竜野助教授であることは間違いなかった。
26
葦原志津夫は訊《き》いた。
「それで、どうなったんです?」
真希も訊いた。
「何が起こったんですか?」
小山麻美は首を振った。メガネの角度が変わるたびにレンズがライトを反射して、明滅する。気弱そうな表情になっていた。
志津夫と真希がそれぞれ手にしたハンディライトを、麻美の胸や肩の辺りに当てていた。顔を直接、照らすと眩《まぶ》しすぎるからだ。麻美も今はライトを手にしており、それで志津夫や真希を照らしていた。
周辺には星明かりしか光源がない。だから、闇の中に三人の顔や胸だけが、ライトで浮かび上がる情景になっていた。
やっと麻美が口を開いた。
「何と説明していいのか……。それに説明しても、あなた方は信じないわ。あの場にいて、自分の目で見ない限り、信じないわ。きっと」
志津夫は焦《じ》れて、
「だから、何が起きたんですか? 信じる信じないはともかく、話してもらわないと」
麻美は呟《つぶや》いた。
「光……」
「え?」と志津夫と真希。
「光よ。真っ白な強烈な光。一面、光だらけ。……いいえ、違うわ。竜野助教授と葦原正一さんの真正面が特に明るく光った。揺れ動く光の柱だった。くねくね動く光だった」
「光の柱? くねくね動く?」
志津夫は瞬《まばた》きした。予想もしないイメージだった。首をかしげる。
彼は一応、現実的な可能性も確認しようとした。
「念のため訊きますけど、雷ではなかったんですか?」
麻美は首を振り、
「いいえ、雷ならゴロゴロとかバリバリとか大きな音がするはずよ。でも、音は一切なかった。静かだったわ」
志津夫は念のため、別の確認もすることにした。
「じゃ、プラズマですか? 火の玉もUFOも自然発生したプラズマだろうと言うけど、そういうものだった可能性は?」
麻美はそれも否定した。
「いいえ。火の玉みたいなものには見えなかった。真っ白な光の柱だった。くねくねと動くような光の柱だった」
「光が? くねくね動く?」
志津夫は頭の中が混乱してきた。彼が今まで予想していたイメージとは、だいぶ食い違っている。それに該当しそうな現象も思いつかなかった。
彼はこめかみに人差し指を突き立てて、
「どうも、よくわからんな。いったい何なんだろう?」
麻美も苛立《いらだ》ったようだ。志津夫を睨《にら》みつけ、声を高くした。
「だから、私にもわからないのよ! どう言えばいいのか……。とにかく揺れ動く光だった。それが現れたとたん気温が一気に真夏なみになったわ。摂氏五〇度ぐらいになったんじゃないかしら」
志津夫は思わず、言った。
「その時アメダスが、それを記録したっていうのか?」
麻美が続けて言った。
「とにかく、ものすごい光と熱だった。なぜ、そんなものが発生したのかは、わからないわ。そこで竜野助教授と葦原正一さんが何をしていたのかも、私にはわからない。でも、とにかく、それは起きたのよ。
でも、わからないなりに確信したわ。これが三〇〇〇年前にきれいなブルーガラスを造りだしたのだと。そうだとすれば、あの光の中は摂氏一二〇〇度の高熱だと」
志津夫が片手を突き出し、制止した。
「待ってください。話を聞いてると、まるでぼくの父がその光だか熱だかを発生させたみたいに聞こえるじゃないですか。いったい、どういうことなんだ?」
真希が、志津夫の肩を押さえて、
「とにかく小山さんの話を最後まで聞きましょうよ。……で、その後、どうなったんです?」
麻美は、ふいに顔を痙攣《けいれん》させた。急にうつむいて、咳《せ》き込み始める。嘔吐《おうと》しそうになったらしい。
真希が、麻美の背中を軽く叩《たた》いて、介抱してやった。
ようやく麻美は顔を上げた。蒼白《そうはく》な状態で、呼吸が荒くなっている。
「大丈夫?」と真希。
「ええ。大丈夫です」
麻美はティッシュペーパーを取り出し、自分の口元を拭《ぬぐ》った。メガネをかけた知的な容貌《ようぼう》だが、その時は幽霊じみた精気のない顔に見えた。
麻美はしばらく宙の一点を見つめていた。彼女の周辺に妖気《ようき》が漂っているような感じだ。
やがて彼女は抑揚のない声で喋《しやべ》りだした。
「……あの時……私はチャンスだと思った……。あいつを……排除できるチャンスだと思った……」
27
まるで、ミニチュアの太陽が落ちてきたような光景だった。輝度の強い白光が、石上遺跡と、その周辺を照らしだしている。
すべてが平板なシルエットと化していた。竜野助教授も葦原正一も、影絵芝居のキャラクターのようだ。
竜野は両腕で顔を覆っていた。そして正一の方を振り返ったり、光の正体を確かめようとしたりを繰り返している。彼らは光の柱と五、六メートルほどしか離れていない。その距離だと相当、眩しいようだ。
一方、正一は平然と立っていた。彼は濃いサングラスをかけているせいで、目が光から保護されているようだ。
その時、小山麻美は樹木の陰にいた。光の柱から、二〇メートルは離れた位置だ。
だが、これだけ距離があっても、彼女は目の網膜がこげつきそうな苦痛を覚えた。片手で目を覆うしかない。指の隙間から、かろうじて、竜野たちの様子をうかがった。
凄《すさ》まじい高熱が辺りに広がっていた。巨大なオーブンの中にいるようだ。全身から汗が吹き出てくる。
見上げると、白光は地上から夜空の彼方《かなた》までをも貫いていた。それは生物のように揺れ動いている。巨大な光り輝く蛇が直立して、ダンスしているような動き方だ。
麻美の知識では、こんな現象は説明できなかった。それどころか、どんな科学者の著作にも記載されていない現象だろう。葦原正一が自らを避雷針に変えて、異世界の雷神を呼び寄せたようだった。
そして麻美は、それを見た。思わず、樹木から身を乗り出してしまう。
葦原正一のシルエットが、竜野のシルエットの背後へと移動したのだ。明らかに何かを狙っている行動だった。
だが、竜野はまったく気づいていない。眼前に現れた超常現象に驚愕《きようがく》して、身の危険も察知できないのだろう。
彼の声が伝わってきた。
「何だ、これは! 何なんだ? 葦原先生! これはいったい?」
さっきから、そんなことばかり口走っている。他に言葉を思いつかないらしい。完全にうろたえている。
その竜野の背後に、正一が立った。そして腰を落とすと、両手を胸の高さに持ち上げた。相撲取りが行う諸手突《もろてづ》きの構えと、そっくりだ。
正一が竜野の背中を突き飛ばそうとしているのは明らかだった。
だが、その姿勢のまま、正一は凍りついてしまった。両腕だけが震えている。摂氏五〇度はありそうな猛暑だというのに、北極の氷原にいるみたいに震えていた。
一方、竜野は依然として、恩師の殺意に気づいていなかった。両手で目をかばいながらも、何とか白光を観察しようとしているのだ。彼は喚《わめ》き続けていた。
「何だ! これは何なんですか? 葦原先生!」
だが、正一は殺人の準備が整ったというのに、まだ決断できない様子だった。今では膝《ひざ》まで震わせている。教え子を殺すという行為に、彼が苦悩しているのは一目|瞭然《りようぜん》だった。
その時、麻美の中でモラルの糸が切れた。切れる時の音まで聞こえた。断頭台が人間の首を切り落とす瞬間の音だ。
彼女は片手で目をかばい、足音を忍ばせつつ、前進した。
葦原正一には、もう任せておけなかった。彼の場合、竜野に対しては何の恨みもないから、モラルの境界線を越えられないのだ。
だが、自分ならできる。あいつを殺す場面なら、数え切れないほど空想してきた。ついに、今それが現実となるのだ。
心臓が切れ目のない三連音符を演奏していた。二〇メートルほどの距離が、あっと言う間に縮まる。
気がつくと、麻美は正一の左隣に立っていた。
サングラス姿の正一が振り返った。彼は驚きのあまり、反射的に右へ飛びのいた。叫びかける。
「き、君は!」
「え?」
竜野が反応した。正一の声を聞き、首だけ右に回して、問い返したのだ。
麻美にとっては絶好の機会だった。彼女は、竜野の左後方に立っていた。ちょうど彼の死角だ。
麻美は腰を落とした。
今まで彼女は空想の中で、竜野を高い場所から突き落とすシミュレーションも行っていた。まず重心を低くし、両手を構える。そして相手の腰を思い切り押せば、バランスを崩し、前のめりになるはずだ。
麻美は実行した。
竜野は奇声をあげた。前のめりに倒れそうになる。その結果、彼の反射神経はバランスを回復しようと、駆け出す動作を、彼にやらせたのだ。
竜野はスポーツマン・タイプゆえに、運動神経は良かった。前方に三メートルほど駆け出したおかげで、倒れずに済んだ。
だが、麻美も前進して追いかけた。もう一度、突き飛ばす。
「な、何を!」
竜野が叫ぶ。
さらに、そこへ揺れ動く光の柱が接近してきた。
断末魔の絶叫が響きわたった!
麻美は慌てて飛びのいた。そして両手で目をかばい、顔をそむけた。あまりの光量に、直視するのは不可能だった。自分が巻き込まれないよう、後ろへ下がる。
竜野の悲鳴は十五秒ほど続いた。
その間、葦原正一が「竜野君!」と何度も叫んだ。
さっきまで彼は教え子を殺そうとして、どうしてもできなかったのだ。だが、その竜野が今や人間バーベキューとなっている。こういう結果を望んでいたのか、望んでいなかったのか、正一自身にもわからないような心境だろう。
やがて悲鳴は消えた。
光の柱も、その三〇秒後には消えた。
辺りは完全な暗闇になった。目がなかなか対処できない。さっきまでの強烈な光のせいで、麻美の瞳孔《どうこう》は完全にすぼまってしまったのだ。
辺りには、強烈な臭気が漂っていた。
麻美は吐き気を覚えた。もう自分は肉も魚も食べられないだろう、と確信した。
小さな光が現れた。葦原正一が持参したライトを点《つ》けたのだ。その光条を振り回し、地面を照らし出す。
そこには竜野助教授が倒れていた。仰向《あおむ》けになって、焼きすぎた魚みたいに真っ黒になっている。黒い煙が盛んに立ちのぼっていた。
竜野の顔は肉が剥《は》がれて、骸骨《がいこつ》に近い状態だった。全身の状態もナパーム弾の犠牲者のようだ。もはや彼の家族にも、見分けはつかないだろう。
骸骨の口の端からは、金とクロームに輝く二種類の液体が流れ出していた。それは二本の細い糸になって首を伝い、地面に落ちて、小さな固まりになり始めていた。
周辺には、直径一ミリのビーズ玉のようなものが多数、落ちていた。ライトをきらきら反射している。燃えた人体から出る珪酸塩《けいさんえん》がガラス化したもので、火葬スラグ≠ニ呼ばれるものだ。
他にも、直径一〇センチほどの半透明の液状の固まりが、数え切れないほど残っていた。石ころが高熱で溶けだして、ガラスに変わりかけているのだ。
光の柱は、もうどこにも見えない。再度、出現しそうな気配もなかった。それは完全に異世界へ去ったようだ。
しかし、高熱の残滓《ざんし》は、まだたっぷり残っていた。辺りは、まるで巨大なフライパン上にいるような気温なのだ。
麻美は呻《うめ》き、手で口を押さえて、うつむいた。咳《せ》き込み続ける。嘔吐《おうと》するのは何とか耐えた。
やがてライトが、麻美に向けられた。
サングラス姿の葦原正一が、ゆっくり近づいてきた。
彼女に危害を加えようとする雰囲気はなかった。だが、疑問の数々を問いただしたかったのだろう。
正一が誰何《すいか》した。
「あなたは?」
麻美は咳き込むのを何とか、押さえた。息を整えると、答える。
「私は……小山麻美。……新治大学で講師をしてます」
「講師? もしかして竜野君の部下?」
「ええ」
正一の口が大きく開いてしまった。相当、驚いたようだ。
「なぜ、こんなことを?」
麻美の中で怒りと憎悪が炸裂《さくれつ》した。元々、誰かに、このことを訴えたくてたまらなかったのだ。怒鳴る。
「今まで私をさんざん弄《もてあそ》んだ罰よ! 権威を笠《かさ》にきて、私が何も文句が言えない立場なのをいいことに。その報いよ!」
麻美は汗まみれの顔で、肩を上下させていた。マラソンの後みたいに、呼吸が激しい。また咳き込んでしまう。
説明は、それだけで充分だったようだ。
正一は唸《うな》っていた。麻美と竜野の焼死体を見比べている。しばらく沈黙していた。
やがて正一が言った。
「本来なら、私の罪だったのに……。あなたが背負ってくれたのか……」
そして正一はライトの向きを変えた。光輪が、地面に置いてあったボストンバッグを照らし出す。彼は、それに向かって歩き出した。
同時に、麻美はダッシュしていた。先にバッグに飛びつく。その場に座り込み、両腕で抱え込んだ。
見上げると、サングラス姿の正一と睨《にら》み合う格好になった。三秒ほど、その状態が続く。
正一が訊《き》いた。
「どういうつもりだ?」
麻美は肩で息をしながら、答えた。
「これを発掘したのは私です。だから、私が保管します。……安心してください。この土偶は誰にも見せないし、誰にもこのことは言いません。それを言えば、私の罪を自白することになるから、言うはずがありません。……私は復讐《ふくしゆう》した証《あかし》が欲しいんです。このブルーガラス土偶が、それです」
正一は呻《うめ》いた。大きく首を振る。まさか、こんな展開になるとは思ってもいなかったようだ。
両者は睨み合ったまま、動かなくなった。
28
志津夫が目を見開いたまま、訊いた。
「それで親父は? ぼくの父はどうしたんです?」
小山麻美はロボットじみた声で、答えた。
「……結局、私が土偶を持ち帰るのを、葦原正一さんは止めなかったわ……。そうだ。思い出した。こう言ったのよ。『いつか、土偶を取り戻しに行く。それまでは預けよう』と……。もしかすると、葦原さんは自分が背負うはずだった罪を、私が背負ってしまったことで、後ろめたさを感じたのかもしれない。それで一旦《いつたん》は見逃してくれたのかもしれない……。その後は一度も会ってない。今どこにいるのかも知らないわ」
真希が興奮した面もちで訊いた。
「じゃ、あなたが犯人なの? それに間違いないと?」
麻美は、かすかに首を縦に動かした。
志津夫は、唸っていた。夜空を仰いでしまう。
父の正一が殺人犯である可能性も覚悟していたが、幸いにして、その予想は外れた。だが、殺意に関して言えば、正一にもあったわけだ。
志津夫は首を振って、
「それじゃ、親父も竜野助教授を殺すつもりだったと? いったい、どうなっちまったんだ、親父は?」
志津夫としては到底、受け入れがたい話だった。麻美が語った葦原正一の人物像は、秘密を守るためには人殺しもやりかねない男だった。しかも、超常現象まで引き起こした可能性がある男だ。
志津夫の記憶にある父親像とは、まったく合致しなかった。正一はやや古風な家父長タイプで、モラリストで、現実主義者のはずだった。
だが、麻美の話には、そうしたイメージは感じられない。まるで外見だけ酷似した、別人の話を聞いているみたいだった。
志津夫は訊いた。
「確か父は『犠牲者は私一人で充分だ』とか言ったそうだけど、いったい何の犠牲になったって言うんだ?」
麻美は無表情なまま首を振り、言った。
「そこまでは私にもわからないわ。質問するチャンスもなかったし……」
志津夫は、しばらく無言で麻美を凝視していた。
彼女も荒《すさ》んだ感じの表情で、志津夫を見返していた。犯罪者が開きなおった時の態度とは、こういうものかもしれない。
麻美の話は、これで終わりのようだった。事件の全容を、彼女はすべてさらけ出したのだ。
志津夫は、髪の毛を掻《か》きむしった。
「……正直言って、よくわからないな。今の話をどう捉《とら》えればいいのか……。親父がそのカムナビを呼んだって? いったい、うちの親父は何になっちまったんだ?」
志津夫は地面にライトを向けた。青い土偶を照らし出す。その鮮やかなスカイブルーを見つめて、言った。
「第一、その光の柱だとか、熱だとかは、どこから来たんだ? 今の話を聞いても、その手がかりになる材料が何もないぞ。ぼくは、それを期待していたんだが。これじゃ……」
志津夫は首を振った。
そして麻美や真希に向かって、身振り手振りを交えて、説明を始めた。
「つまり、こういうことだ。……何もないところから光や熱が発生するわけがないんだ。エネルギー保存の法則から言っても、エネルギー・ゼロの状態から、光や熱が発生するなんて絶対にありえない。
竜野助教授を焼いた熱だって、それ以前は別の形の潜在エネルギーだったはずだ。たとえばガソリンやアセチレンとかの可燃物や、空中の酸素といった形だ。だが、この場合、熱に変わった潜在エネルギーは、いったい何だったんだ?」
真希は首を振る。苦笑して、言った。
「全然わからないわ。どうやら、その手がかりは、まだつかめそうもないみたいね。……でも、一つだけ確かなことがあるわ」
「え?」
志津夫は顔を上げた。
真希が麻美を指さした。なぜか目が生き生きと輝いている。力強い口調で、宣言した。
「つまり、小山麻美さんは完全犯罪に成功したということよ。だって、熱の発生原因を説明できないんだから、彼女の殺人も絶対に立証できない」
「そうよ!」
麻美が吠《ほ》えるように言った。
「私を逮捕することも、有罪にすることもできないのよ!」
麻美は突然、興奮状態になった。瞳《ひとみ》が暗い炎を噴き出している。憎悪の対象である竜野助教授が燃え上がった時の感情が、今になって再生されたのかもしれない。
ふいに麻美は右手の甲を突き出した。そこには大判のガーゼ付きバンソウコウが貼ってある。
麻美はバンソウコウに左手で触れて、
「その青い土偶には直接、触らない方がいいわよ」
バンソウコウをはがす。
見た瞬間、志津夫は声を詰まらせた。
クロノサイエンス社の大林も、そこに奇妙なウロコ状のものができていた。
そして小山麻美にも、同じ部位に同じものがあったのだ。細かい三角形の集積で、色は茶系統だ。面積は五〇〇円玉ぐらい。
麻美が言った。
「土偶に触ってから、私も竜野助教授もこうなったのよ。もしかすると、ばい菌でも付いているからかもしれない。まあ、徐々に治って小さくなっているから、大したことないでしょうけど」
麻美はバンソウコウを元に戻した。
ふいに、彼女は首を大きく振った。後頭部のポニーテールが宙を舞う。自暴自棄といった感じで、叫んだ。
「いいわ! その土偶あげるわ! 文化財保護法でも何でも持ち出して、訴えなさい。好きなようにするといい……」
彼女は回れ右した。志津夫たちに背中を向けて、言った。
「本当は隠しておくつもりだった。私の復讐の証として……。でも、あなたたちには喋ってしまった。もう私一人の秘密でも何でもなくなった……」
突然、麻美は小走りに駆け出した。樹林の中をかきわけるようにダッシュし、遠ざかっていく。
志津夫と真希は顔を見合わせた。麻美を追うべきかどうか迷ったのだ。だが、話はほぼ聞きだしたし、ブルーガラス土偶の首は、この場に放置されている。
結局、追う必要はないと判断した。
闇の中を、麻美の持つライトが忙《せわ》しなく動き回っていた。徐々に、光量が弱くなっていく。やがて、か細くなった光点は完全に闇に飲み込まれた。
志津夫と真希、青い土偶の入ったボストンバッグとスコップだけが、その場に残された。
29
志津夫はかがむと、ボストンバッグに手を伸ばした。中の青い土偶の首をのぞき込む。それは大きな目に三〇〇〇年分の沈黙をたたえて、見返してきた。
志津夫は自分の指先も見る。先ほど思わず土偶に触れてしまったからだ。しかし、小山麻美の話では大した実害はないらしい。
ボストンバッグのジッパーを閉めた。
真希もかがんできた。白い手を伸ばしてくる。
「もうちょっと見せて」
「断る!」
志津夫は決然と言った。バッグを手にして後ろに二歩下がる。ハンディライトで、真希の顎《あご》の辺りを照らした。
彼女の美貌《びぼう》が驚きで歪《ゆが》んでいた。次いで眉間《みけん》にしわを作った。不審な表情だ。
「なぜ?」
志津夫は深呼吸した。気合いを入れ直し、自分に言い聞かせる。もう色仕掛けにはだまされないぞ。
志津夫は一旦、ボストンバッグを自分の背後に置いた。そして肩にかけているソフト・アタッシュバッグを開けて、中から茶色の紙袋を取り出す。さらに紙袋を軽く揺すって、中身を露出させた。
紙袋の中身は一万円札だった。それも二〇〇枚以上はあった。志津夫はこれだけの現金を手に持ったのは、生まれて初めてだった。
「それは……」
真希は言いかけ、口をつぐんだ。もちろん紙袋に見覚えがあるからだろう。
志津夫は言った。
「あなたがお手洗いに行った時だ。あなたの車からティッシュペーパーを借りようとして、ぼくはダッシュボードを開けたんだ。そうしたらティッシュと一緒に、これが出てきた!」
志津夫は現金入り紙袋を突き出して、
「あなたはフリー記者と名乗ったね。要するに出版社の社員ではなく、仕事の度に契約を結んでは原稿料を稼ぐ職業だ。でも、フリー記者が、こんなに儲《もう》かる職業だなんて聞いたことがない」
真希は下唇を噛《か》んだ。一瞬、悔しそうな表情になる。
志津夫は相手を睨《にら》みつけて、
「フリー記者だなんて、ウソだろう? 第一、車にこれだけの大金を置きっぱなしにするなんて、普通の人間の感覚じゃ考えられないことだ。このぐらい、はした金だと言わんばかりだ。あなた何者なんだ?」
真希は苦笑した。肩をすくめ、舌を出してみせる。そんな表情の変化も、彼女は魅力的だった。
だが、志津夫は顔面を引き締めなおした。依然として彼女には惹《ひ》かれるものを感じるが、それとこれとは別だ。
志津夫は現金入り紙袋をさらに突き出し、
「……言っておくが、ぼくは泥棒じゃない。これは返すよ」
だが、真希は受けとろうとはしなかった。反論もせず、苦笑している。むしろ、この状況を楽しんでいるように見えた。
志津夫は言った。
「もうウソは見破られてるんだ。正体を明かせよ」
真希は声をあげて笑いだした。アルトが魅惑的に響く。
つられて、志津夫も一緒に笑ってしまった。感情の照り返しといった現象だ。
二人の笑い声が、森の中に響いた。その声だけを聞いたら、彼らが仲のいい友人か恋人同士だと錯覚しそうだった。
志津夫は深呼吸し、真顔に戻した。
「あんた何者だ? 安土真希さん。いや、この名前も偽名かもしれないな。名刺なんて、いくらでも作れるからな」
「……あああ、もうとっくにバレてたか」
正体不明の女はまた可愛らしく舌を出す。その時だけは成熟した雰囲気が消え失せ、いたずら好きの少女の顔に見えた。
「あんた何者なんだ?」
真希は嫣然《えんぜん》と微笑んだ。特に慌ててはいなかった。こうなることも予想済みといった余裕の態度だ。
「何者かしらね?」
「質問してるのは、こっちだ」
「じゃ、こう答えておくわ。……ブルーガラス土偶のコレクター」
「何?」
志津夫は脳天に一撃をくらったような顔になった。
「ちょっと待て。ぼくは写真で見つけるまで、この土偶の存在を知らなかったんだぞ。君は最初から知っていたとでも言うのか?」
真希は腕組みし、自分の胸の曲線を浮き上がらせた。小首をかしげて、言う。
「そうね。まあ、ずいぶん前からよ」
「ずいぶん前?」
志津夫は言葉を失った。頭の中では疑問符が点滅した。
目前の女が突然、神秘的な存在に変身したような感じがした。
真希にとってはブルーガラス土偶も、それを造った高熱の謎も、日常の当たり前の話題といった口ぶりなのだ。いったい、この女がどんな日常生活を送っているのか、志津夫には見当もつかなかった。
「ずいぶん前って、いつからだ?」
だが、真希は質問には答えず、
「その土偶の首を寄こしなさい。それは、あなたが持つべきじゃないのよ」
「どういう意味だ?」
真希は唇を微笑の形にした。だが、逆に瞳《ひとみ》は鋭い視線を放っていた。もう無邪気なムードはなく、殺気まで感じられる。
「その土偶をあなたに渡すわけにはいかないのよ。だって、あなたは、それを公表してしまう。どうせ大々的に記者会見を開くに決まってるわ」
志津夫は首を振った。
「大々的かどうかはわからないが、もちろん発表するさ」
「だめよ。世間が大騒ぎするわ。……すべての真相は、まず私独りで押さえたいの。土偶は、それまで私が預かるわ」
志津夫は吠《ほ》えるように言った。
「どういうことなんだ?」
「あなたが知る必要はないわ」
真希は首を振って、
「ただとは言わないわ。そのお金はあげる。ブルーガラス土偶の代金よ」
「要らない」
「無理しちゃって。パソコンとデジタルカメラのローンがあるんでしょう?」
「自分の稼ぎで返す。こんな出所不明の金は受け取れないね」
志津夫は現金を、真希の鼻先に突きつけた。惜しいとは思わない。この青い土偶には、金には代えられない価値があるからだ。
真希は微笑み、言った。
「じゃ、おまけをつけるわ。あなたのお父さんの居場所について手がかりをあげる。言っておくけど、手がかりだけよ。探せるかどうかは、あなたしだい」
志津夫は特大のハンマーで腹を打たれたような顔になった。
頭の中が大混乱に陥ってしまった。自分の方が精神的に優位な立場だと思っていたのに、それが一気に崩れてしまったのだ。呼吸が苦しくなってきたほどだ。
「手がかりだと? 親父の居場所の手がかりだと?」
「ええ」
志津夫は激昂した。全身の血液が一気に沸騰する。
「おい! あんた、それを知ってて、今まで黙ってたのか!」
「こういう時に、取引の材料にするためにね」
志津夫は目を大きく見開いたまま、
「何者なんだ、あんたは? それを言え。それを言えば、取引してもいいが」
真希は妖艶《ようえん》に微笑み、腕組みを解いた。いつの間にか、指先に五〇〇円玉があった。それを親指で弾《はじ》く。暗闇の中であるにも拘《かかわ》らず、落ちてくる硬貨を巧みにキャッチした。
「本当のことを知ったら、驚くわ」
「ああ、驚いてやるさ。驚きのあまり、そこら中、飛び跳ねて転げ回ってやるさ。だから、さっさと言ってくれ」
真希は指先のコインを見つめながら、
「どうしようかな? あなたのお父さんは家族を巻き込みたくないから、失踪《しつそう》したのよね。私があなたを巻き込んだら、あなたのお父さんの意志に反することになる。だから、言いにくいわね」
「まさか? 親父と知り合いなのか、あんたは?」
「いいえ。知り合いと言うほどじゃないわね」
「どっちなんだ!」
志津夫は声を荒げてしまう。つい足が前に出た。
真希は片手で制止するポーズを取り、
「そう興奮しないで。まあ、あなたとは縁がありそうだから、時が来れば話すこともあるでしょう」
「今、喋《しやべ》れ! いったい、何のつもりだ、君は? ウソばっかりつくわ、思わせぶりなことしか言わないわ、人をバカにするのもいいかげんにしろ!」
真希は、幼い弟を見るような目になった。いたずらっぽく微笑む。時々、志津夫をそんな目で見るのだ。
「とりあえず車のところまで戻りましょうよ。取引材料が、そこにあるから」
30
道路に出た。水銀灯が文明の恩恵を振りまいていた。一気に明るくなる。
志津夫たちが暗黒の樹林にいたのは四〇分ほどのことだった。なのに、まるで一晩中そこで過ごしていたような気がした。あまりにも思いがけない話や展開の連続だったので、時間の感覚が狂ったらしい。
すでに赤いスターレットの姿はなかった。今頃、小山麻美は帰宅中か、あるいはストレス解消に深夜ドライブを続けているのかもしれない。
二人はハンディライトで足元を照らしつつ、徒歩で道路を下っていた。カーブを曲がったところで、真希のサニーと再会する。
志津夫はその車のナンバープレートにライトを当てた。数字を頭に刻みつける。後で、真希の正体を突き止める手がかりだ。
だが、彼の行動を見て、真希は鼻先で笑った。
「ナンバーを覚えても無駄よ。この車は明日になったら、プレートを外して、海にでも捨てるわ」
志津夫は舌打ちした。
「大したもんだね。いったい、どこの大金持ちのお嬢様なんだい?」
真希は微笑むだけで、答えなかった。
志津夫はため息をついた。確かにこの女なら、車を海に捨てるぐらいのことは、やりそうだ。何しろ鍵《かぎ》をかけていない車に、現金二〇〇万円を平然と置き去りにするぐらいだ。
いったい、この女は何者だろう。志津夫は、その問いを胸の中で繰り返した。
真希はサニーのドアを開けた。エンジンをかけ、ヘッドライトを点灯する。照明が増えて、深夜の闇が一掃された。
志津夫もサニーに近づいた。現金入りの紙袋を車のボンネットに置く。フロントウインドウのワイパーに引っかかる位置だ。
「返すよ」
真希は肩をすくめた。そして座席の下に手を伸ばした。何かを取り出す。立ち上がって、志津夫と相対した。
彼女は、手にした品物を志津夫に見せた。
VHSのカセットテープだ。ケースに入っている。
「それは?」と志津夫。
「最近の葦原正一さんが映っているビデオテープよ」
「何?」
志津夫は思わず手を伸ばした。
真希が素早くカセットを頭上に差し上げた。幼児同士で玩具《おもちや》の奪い合いをやる時のような仕草になった。
「慌てないで。これは取引よ。青い土偶と交換させてもらうわ」
「本当に親父が映ってるのか?」
志津夫は彼女を睨みつけた。胃袋がコンクリートを流し込まれたように重くなっている。息が少し荒くなってきた。
「証拠は、これよ。画像をパソコンに取り込んで印刷したの」
真希がカセットのケースから紙を抜き取り、差し出した。
志津夫は受け取り、紙にライトを当てる。目を見開いた。
やや不鮮明なハードコピー写真だった。粒子の粗さから見て、普及品クラスのパソコン用プリンターで印刷したものらしい。
確かに葦原正一らしい男の横顔を捉《とら》えていた。ひげ面にサングラスで、体格が一〇年前に比べて、痩《や》せている。
これも最近の映像だろう。だが、竜野助教授の部屋で入手した写真とは、異なる点があった。
正一の背景には、大勢の人々がいるのだ。場所は野外で、森林も見える。竜野助教授が撮影した写真とは、別の場所で撮ったものだろう。
「これは、場所はどこだ?」
「ビデオを見れば、わかるわ。……そうね。少し説明してあげる。一ヶ月ぐらい前に、テレビで放映した映像よ。私はこれを夕方のニュースで観たの。ある縄文遺跡を紹介していたんだけど、画面に葦原正一さんらしい人が映ったのよ」
「ちょっと待て。なぜ、親父だとわかったんだ? 赤の他人の君が」
「私も葦原正一さんを探していたからよ。本に付いている著者近影は飽きるほど見てたわ。だから、あのひげ面を観た瞬間にわかった。でも、その時は録画の準備なんかしてなかった」
真希は自慢げにカセットを振って、
「でも、テレビのニュース映像って、よく使い回すものなのよ。だから、深夜のニュース番組を待ちかまえていたわけ。絶対に逃さないよう深夜のニュースを全部、録画したわ。案の定、葦原正一さんの映像はもう一度、放映されて、狙いどおり録《と》れたわけよ」
志津夫は無言だった。今の話が本当だとすると、自分は重要なチャンスを見逃していたことになる。
真希がまたカセットを振って、
「……そして私は早速、現地に飛んで、聞き込みをしたわ。でも、収穫はなかった。だから、私はこの手がかりを追うのは、一旦《いつたん》あきらめたのよ。……でも、もしかすると、あなたなら、このビデオを頼りに何か見つけるかもしれないわね」
無意識のうちに、志津夫はまたビデオカセットに手を伸ばした。
だが、真希は素早く、自分の背中に隠した。笑みを浮かべて、言い放つ。
「さあ、取引よ。土偶を渡して」
「なぜ、あんたも親父を捜しているんだ?」
「彼の知識に興味があるからよ。さあ、土偶を渡して」
志津夫はボストンバッグを両手で抱えなおした。腕に力が入るのを意識する。そのまま動かなかった。
言うまでもなく、このブルーガラス土偶は大発見だ。その上、一連の事件を裏付ける重要な証拠品だ。絶対に手放したくはなかった。
しかし、取引に応じなければ、父親の行方をまた見失うことになる。
もしかすると自分なら、ビデオ映像を手がかりに正一を発見できるかもしれない。そうなれば、直接問いつめることもできるのだ。親父、今まで何してたんだよ!
しかし、この土偶も手放したくない。志津夫の思考は、そこで回転運動を始めてしまった。
しかし、考えるうちに、この取引のデメリットに気づいた。結局、志津夫は首を振った。
「だめだ。断る」
真希が苛立《いらだ》ち、不機嫌な顔になる。
「どうして?」
「この青い土偶があれば、いずれ親父をおびき出せる可能性があるからさ。一方、君の言う手がかりはあやふやで、当てになるかどうか、わからない。だったら、青い土偶という現物を選んだ方が得策だ」
志津夫はボストンバッグを両手で抱えたまま一歩、下がった。
真希は鼻を鳴らす。下唇を噛《か》んでいた。
彼女はポケットから何か取り出した。いつも、弄《もてあそ》んでいる五〇〇円玉だ。
「そう。じゃ、仕方ないわね」
「ああ。あきらめてく……」
そう言いかけたところで、志津夫は目を見開いた。
真希の手袋に注目したのだ。
あらためて、妙な代物だと気づいた。黒い革手袋で、指だけが外に出るデザインだ。デパートで探しても、こういう形状の品物はなかなか売ってないだろう。
志津夫の脳裡《のうり》に閃《ひらめ》くものがあった。クロスワード・パズルの升目が埋まった気分だ。
今までは、彼女がそういう手袋をしているのはファッションだろう、と思い込んでいた。だが、そうではないと見破ったのだ。
志津夫は言った。
「その手袋を脱いで、手を見せてくれないか?」
「え?」
真希が目を見開いた。意表を突かれたようだ。
志津夫はワン・ポイント稼いだ気分になった。ライトで、手袋を照らして、
「気になっていたんだ。あなたがなぜ、手袋をはめているのか。……小山麻美さんは、さっきバンソウコウを剥《は》がして、手に生えたウロコ状のものを見せてくれた。彼女は『青い土偶に触れたら、こうなった』と言っていた。……実は、大林という技術屋も同じ症状にかかってるんだ。青い土偶に触れた翌日、やはり手の甲にウロコ状のものができたそうだ……」
志津夫はライトを持った手を伸ばし、彼女の手に触れようとした。
「その手袋を脱いで、手を見せてくれないか?」
真希の顔がひきつった。唇の線が歪《ゆが》んでいる。かなり動揺している感じだ。
「さあ」
志津夫は一歩、前進した。彼女の手袋に触れようとする。
真希は一歩、下がって回避した。冷酷そうな表情で、志津夫を睨《にら》む。
彼女は手にした銀色のコインを握りしめた。
ふいに志津夫は喉《のど》に圧迫感を覚えた。反射的に両手が動き、自分の喉仏の下を押さえていた。
彼の手から、ハンディライトが落ちた。ハードコピー写真も宙に舞う。ボストンバッグまで一緒に落としそうになる。
だが、かろうじて身をかがめ、バッグを両肘《りようひじ》と腹部で抱えなおした。
志津夫は瞬《まばた》きを繰り返していた。なぜか、急に息ができなくなったのだ。何かが喉に詰まった感じがする。
やがて、彼はショック状態に陥ってしまった。驚愕《きようがく》と苦痛のあまり、目を限界まで見開く。口をぱくぱくと開閉させていた。
彼の様子を見て、真希が微笑した。そして志津夫の腕から、ボストンバッグを奪い取ってしまった。相手は硬直状態だったから、たやすい仕事だったろう。
真希はバッグを車に放り込んだ。そして代わりに、ビデオカセットを志津夫の足元に落とした。
志津夫は必死の表情で、左手を伸ばした。バッグを取り返そうとする。だが、突然、呼吸困難になったショックで、思うように身体が動かなかった。
真希はサニーの運転席に座った。彼女はワイパーに引っかかっている現金入り紙袋をつかんだ。それも投げて寄越す。
路面に落ちた紙袋から、一万円札が一〇枚ほど滑り出た。
その間、志津夫は自分の喉を片手で押さえたまま、石膏《せつこう》像みたいに固まっていた。息を吸うことも吐くこともできなかった。声を出そうとしたが、声帯を震わせることもできない。
真希が車のドアを閉めた。
とたんに、志津夫の喉から圧迫感が消えた。息が吸えるようになる。思わず、咳《せ》き込んでいた。
サニーの二〇〇〇ccエンジンが唸《うな》りをあげた。後輪のタイヤが鳴り、摩擦で煙を噴き上げる。発進した。
慌てて志津夫は、車に飛びつこうとした。だが、現代の乗用車の外形には、手でつかめるような突起物などない。その上、ガソリン・エンジンのパワーを、人間の膂力《りよりよく》で止められるはずがなかった。
サニーは走り去った。志津夫はもろに排気ガスを浴びた。それで、また咳き込んでしまう。
車のリアウインドウ越しに、真希が振り向くのが見えた。志津夫に投げキッスを送る。その後、彼女は運転に専念し、二度と振り返らなかった。
グレーのサニーは、カーブの彼方《かなた》に姿を消した。
志津夫は唖然《あぜん》と立ちつくしていた。
慌てて、後方を振り返った。自分が乗ってきたパジェロを使って、追いかけることを考えたのだ。だが、パジェロは三〇〇メートルも向こうにある。今からそこへ駆け戻っても、間に合わない。
その間に、真希は悠々と山を下ってしまうだろう。要するに彼女を追跡するのは、もう不可能だった。
また志津夫は咳き込んでしまった。そして不審な表情を浮かべた。
背筋を伸ばした。深呼吸してみる。吸って、吐いて、を二回繰り返した。
何の問題もなかった。ごく普通に呼吸できる。そもそも彼は喘息《ぜんそく》など患っていないし、持病もないのだ。
自分の喉や胸を軽く叩《たた》きながら、志津夫は首をひねってしまう。
たった今、起きた呼吸困難は何だったのか? さっぱり、わからなかった。
だが、確かなことが一つあった。ブルーガラス土偶を奪い取られたことだ。
志津夫は路面を見た。
そこにはビデオカセットと紙袋が残っていた。紙袋からは、福沢諭吉の肖像画がはみ出している。貧乏学者にとっては垂涎《すいぜん》ものの眺めだ。
だが、志津夫の顔は大きく歪んだ。歯がむき出しになる。
あの青い土偶は、志津夫にとっては国家予算に匹敵する価値があったのだ。二〇〇万円ぐらいでは引き合わない。
「ちくしょう!」
叫んだ。駆け出し、ビデオカセットを蹴飛《けと》ばし、紙袋を蹴飛ばした。
カセットと紙袋は路面を滑っていった。街灯の下で、多量の一万円札が乱舞する。映画でしかお目にかかれないような光景だ。
志津夫はそれを見ながら、肩で息をしていた。
やがて首を前に垂れてしまう。上半身も折り曲げ、両手で自分の両膝《りようひざ》をつかんだ。
全身がひどく重かった。虚しさと疲労感だけが残った。
31
翌日の昼過ぎ、志津夫は東京町田市にある自宅に戻った。
郵便受けに入っている朝刊と手紙を取り出した。玄関のドアを開けて、中に入る。
キッチンに行くと、すえたような悪臭がした。出し忘れたままの生ゴミの臭いだ。顔をしかめる。消臭スプレーを噴霧し、換気扇を回した。
ステンレス流し台には汚れたままの皿や茶碗《ちやわん》が放置されている。ガスレンジの上にあるフライパンや鍋《なべ》も同様だ。住んでいる家は5LDKだが、生活ぶりは学生みたいなありさまだった。
大型冷蔵庫からペットボトルのウーロン茶を取り出して、コップに注いだ。飲みながら朝刊と手紙を見る。
手紙はすべてダイレクトメールなのでゴミ箱に直行した。朝刊は見出しにだけ、目を通した。
『大学助教授、焼死体で発見』の見出しがあった。これは一字一句、逃さず読んだ。記事には遺体の金歯や周辺の石が溶けていた、と書いてあった。だが、詳しい説明は何もなかった。
ソフト・アタッシュバッグを持って、居間に行った。仏壇と大型テレビ、ビデオデッキがある六畳間だ。かつては一家|団欒《だんらん》の部屋だった。今はソファーが持ち込まれて、テレビとビデオの鑑賞ルームだ。
志津夫はバッグから、VHSカセットとハードコピー写真、それに現金入り紙袋を取り出した。あらためて、それらをじっと見つめる。
本当なら家に戻るなり、カセットをビデオデッキに差し込むべきだろう。だが、今は複雑な気持ちだった。親の恥部でも見るような表情で、ビデオカセットを見つめてしまう。
昨日つかんださまざまな情報は、今も志津夫の内部で跳ね回っていた。
正一が言ったという台詞《せりふ》も思い出した。それらが脳裡で再生される。
『わかってくれ。世の中には封じた方がいい真実もある。私が家族も教授の職も捨てて失踪《しつそう》したのも、それを封じ続けるためなんだ』
『人間が触れるべき領域じゃないんだ。だから、タブーなんだ』
『わかってくれ。犠牲者は私一人で充分だ』
不可解な台詞ばかりだった。
そして正一は口封じのために、竜野助教授を殺そうとしたという。それどころか正一は、殺人のために超常現象まで引き起こした可能性もあるらしい。
いくら考えても、それは志津夫が知る父親像とは相反するものだった。葦原正一教授は善良な市民であり、科学的合理主義の権化だったからだ。小山麻美が語った正一の人物像は、すぐには信じがたいものだった。
志津夫はため息をつき、覚悟を決めた。とにかく、これを観てみるしかない。
テレビ電源をONにして、チャンネルを「ビデオ1」にした。ビデオデッキにカセットを差し込む。
自動的に再生が始まり、二〇インチ画面に画像が映った。
……昼の野外だった。青空に、綿をちぎったような雲がいくつか見える。
大勢の人間が映っていた。服装、年齢、性別も多種多様な人々だ。誰もが楽しげな表情を浮かべている。
字幕でニュースの見出しが出る。
『甲府市・比川遺跡』
アナウンサーが原稿を読み始めた。
『大勢の見学者が集まったのは、ここ甲府市の比川遺跡です。約三二〇〇年前の縄文集落であり、木造建築物の柱穴の跡が出土したことで話題になっています……』
カメラは移動し、見学コースに沿って遺跡を撮影していく。
地面は、糸で碁盤の目のように区切られている。遺物の埋蔵位置を正確に記録するためのグリッド発掘法だ。
遺跡の中心にはベンチマーク用の杭《くい》が打ち込まれていた。これは高さの基準点とするものだ。
露出している土は茶褐色だった。それで、間違いなく縄文遺跡とわかった。
通常、地層は上から表土層、黒色スコリア層、黒褐色土層、茶褐色土層、褐色土層、赤褐色ローム層という順番になっている。そして縄文時代の土層は、上から四層目の茶褐色土層である例が多い。
画面に映ったグリッド区画の一つには、古人骨が出土しかけていた。頭蓋骨《ずがいこつ》と背骨、肋骨《ろつこつ》、恥骨などだ。サイズは現代人よりも小さい。
古人骨の特徴から、縄文人の女性だとわかった。大坐骨切痕《だいざこつせつこん》の形が、逆L字形だからだ。男性の場合は骨の同じ部位が逆J字形になる。
アナウンサーが言った。
『……縄文人の骨も出土し、公開されました。見学者は皆、熱心に見入っていました……』
カメラ・アングルが変わった。今度は見学者の群れを捉《とら》え始める。
志津夫の目が見開かれた。
いた! ひげ面、ガーゴイル・サングラス。グレーのジャケットと、グリーンのスラックス。さらに黒い革手袋をしている年輩の男だ。
カメラは葦原正一の方に向かって、まっすぐ移動していく。別に正一を取材したかったわけではないようだ。偶然の出来事だったのだろう。
正一が電気に打たれたみたいに振り返った。口が半ば開いて、頬が弛緩《しかん》している。その顔が画面の半分を占めるほどのアップになる。
慌てて、後ろを向いた。カメラ・アングルの外へ逃げ出してしまう。
正一の姿は消えた。
その後、画像はこの場に集まった考古学ファンの老若男女を次々に映し出した。
人々の服装はカジュアル・ウエアがほとんどだった。男性もネクタイ姿の者は少ない。この日は休日だったのだろう。
だが、一人だけ異質な衣装を着た人物が映っていた。
彼の上着は純白の和服だった。下半身も純白の袴《はかま》で葉っぱをあしらった紋が入っている。
それは浄衣《じようえ》と呼ばれるもので、宮司の制服の一つだった。
どうやら地元の神主のようだった。熱気球みたいに胴体が膨らんでいる中年男だ。彼はデジタルカメラの普及品を手にしていた。
やがて映像は、見学者の群れと遺物とを交互にカットバックし始めた。遺跡についての大ざっぱな説明を、ナレーションが添える。
そしてアナウンサーは、お決まりの文句で締めくくった。
『……集まった考古学ファンは、いずれも古代のロマンに思いをはせているようでした……』
唐突に画像は消えた。画面が灰色の砂嵐になる。
テープに録画されている画像記録は、これだけらしい。どうやら、真希がダビング編集したようだ。
志津夫はテープを巻き戻すと、父親の画像を繰り返し、再生した。
……正一が振り返った。口が半ば開いている。テレビ局のカメラに気づいて、慌てた様子だった。逃げ出そうとする……。
計三回、再生したところでリモコンのポーズボタンを押した。画面上の正一が後ろを向きかけて、凍りついた。
久しぶりに見た父の横顔だった。だが、これも目は映っていなかった。かけているサングラスが、顔の曲面に沿ってカーブしているデザインだからだ。
志津夫は大きく、ため息をつく。
情報はたった、これだけだった。ここから、どうやって父親の行方を辿《たど》ればいいのか、見当もつかない。
だが、青い土偶を奪われた今は、これしかデータがないのだ。何としてでも、この映像から、手がかりを引きずり出さなくてはならない。そして親父を捕まえ、胸ぐらをつかんで、真相を白状させるのだ。
いつの間にか志津夫は、右手の甲を掻《か》いていた。そこに痒《かゆ》みを覚えたからだ。
ふと、右手を見た。
「な……」
志津夫の目が見開かれた。首筋に冷水を浴びたようなショックだった。
右手の甲の小指側にウロコ状のものが生えていたのだ!
面積は五〇〇円玉ぐらいだ。そこに一辺が二ミリほどの小さな三角形が並んでいる。色は赤や茶、灰色で、その色分けのせいで縞模様《しまもよう》になっていた。
「これは? いつの間に?」
志津夫は唖然《あぜん》と呟《つぶや》いた。
元々、彼の右手の甲の小指側には瘡蓋《かさぶた》のように見える、固くなった部分があった。それが突然、増殖したみたいだ。だが、いつ、そうなったのか、まったく記憶になかった。
恐る恐るウロコを、指先で撫《な》でてみた。
爬虫類《はちゆうるい》の皮膚に似て、固く乾いた感触だった。哺乳類《ほにゆうるい》の柔らかくて湿り気のある皮膚とは、本質的に異なるものだ。気持ち悪さに、全身が震えた。
これは、クロノサイエンス社の大林や、小山麻美の手の甲にあったウロコと同じものだった。しかも二人は青い土偶に触ってから、これが生えた、と証言していたのだ。
さらに麻美の話によれば、焼死体となった竜野助教授も同じウロコが生えていたという。
志津夫は呟く。
「ぼくにも感染したのか? しかし……放っておけば、自然に治るとか言ってたな……」
何とも不気味な代物だった。だが、話を聞いた限りでは、実害はないらしい。それを思い出して、やや安堵《あんど》した。
「まあ、別に慌てることはないか」
そう言って、苦笑した。右手を顔の高さに持ち上げ、ウロコをじっくり観察してみる。首をかしげた。
「やっぱり、ぼくもバンソウコウでも貼って、隠した方がいいかな。何だか気持ち悪いもんな……」
志津夫は無意識のうちに左手で、左胸の辺りを掻いていた。そこに痒みを感じたからだ。
一瞬、志津夫の体温が上がった。心臓が耳元で脈打つ。
慌ててシャツをまくった。上半身が露出する。
自分の左胸を見て、呆然《ぼうぜん》とする。
左の乳首の下にも、同じウロコがあったのだ! 面積は、やはり五〇〇円玉ぐらいだ。指先で触ると、同じ乾いた感触があった。
志津夫は恐怖の表情を浮かべていた。呟き始める。
「そんな……。大林も小山さんも、手の甲だけに生えた、と言ってたぞ。他の場所にも生えたなんて、あの二人は言ってなかったのに……」
ふと、二〇インチ・テレビ画面に視線が止まった。
ポーズ機能により、彫像と化した父が映っていた。手袋をして、サングラスをかけている正一が。
志津夫の目が大きく見開かれた。
「まさか……。親父、なぜ手袋をしてるんだ?」
つい画面に向かって、問いかけてしまう。
「手を隠すためか? そうなのか? あの真希って女も手袋をして、それを外そうとしなかったが……」
志津夫はテレビの両側をつかんだ。
「親父、なぜサングラスなんだ? もちろん変装の意味もあるだろうけど……。まさか……。本当は顔に何かがあって、それを隠したいのか?」
志津夫は右手のウロコに触れた。その不気味な感触のせいで、背筋に電流が走り出す。
彼の端正な顔が極限まで歪《ゆが》んだ。思い当たることがあったからだ。それを口にした。
「ウロコ? 蛇? 蛇神?」
[#改ページ]
第二話 古文書
「……ええ。風邪をひいたらしいんです。申し訳ありませんが、休講にしてください。では、そういうことで。よろしく」
葦原志津夫は受話器を架台に置き、通話を終えた。吐息をつく。
結局、その日の午後三時からの講義は、休講にした。
戸棚から救急箱を取り出した。大判のバンソウコウを見つける。
あらためて右手甲の小指側をじっくり観察した。不気味なウロコが依然として、そこに居座っている。その気味悪さは形容し難いものがあった。
バンソウコウを貼った。これで人目は気にせずに済む。
だが、内心の動揺は隠しようがなかった。手が少し震える。背骨の辺りにも悪寒がして、冷たくなっていた。
今、教壇に立っても、まともな講義などできまい。青い土偶だの、カムナビだの、ウロコだのと突然あらぬことを口走りそうだった。それでは学生たちも迷惑だろう。支離滅裂な講義を聞かされるより休講した方が、彼らも喜ぶに決まっている。
志津夫は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、がぶ飲みした。ダイニング・キッチンの椅子に座り込む。
昼間のアルコールは異様なほど酩酊《めいてい》作用があった。おかげで不安と緊張感が多少、和らいだ。
ほろ酔いのまま、しばらく呆然《ぼうぜん》としていた。今の状況を受け入れ、ショック状態から覚めるには時間が必要だったのだ。
このウロコを医者に見せることも考えてみた。だが、こんな症例や症状は、志津夫も聞いたことがなかった。きっと医者も首をひねるだけではないか。
大林真や小山麻美らが、こう言っていたのも思い出す。「青い土偶に触れて、手の甲にウロコができた。だが、バンソウコウで隠しておいたら、日が経つにつれて、自然に小さくなっていった」と。
一方、真希の場合は手袋をはめており、それを絶対に外さなかった。そして小山麻美の話によれば、父も手袋を絶対に外さなかったらしい。
その真の理由についても考えてみた。つまり真希や父もウロコがあって、彼らの場合はそれが治癒しないのだろうか? だから、手袋を絶対に外さなかったのでは?
となると、自分も同じケースで、治癒しないのではないか? そう思うと、不安が増してくる。思わずバンソウコウを凝視してしまう。
しかし、時間が経つにつれて腹が据わり、平常心が戻ってきた。治らなければ、その時はその時だ。真希や父は平気で活動しているではないか。ならば、深刻な被害はないということだ。
何が起きても受け入れようと、志津夫は覚悟を決めた。理性がバランスを取り戻し、感情の振幅が静まってくる。
そうしている間に、時間がトップギアで通り過ぎた。時計を見ると、もう午後五時だった。通常なら講義を終えて、雑用を片づけている時間帯だ。
いつまでも無為に過ごしているわけにもいかなかった。アルコールも醒《さ》めかけている。とりあえず冷蔵庫にあった、うどんを茹《ゆ》でて、それで空腹を満たした。
志津夫は居間に行き、例のビデオテープをまた再生した。
……画面にニュースの見出しが出る。
『甲府市・比川遺跡』
遺跡の現地説明会に集まった考古学ファンたち。地面が糸で碁盤のように区切られているグリッド発掘法。
やがて、ひげ面にサングラス、さらに黒い革手袋をしている葦原正一がアップで映る。
正一の姿はすぐに消える。
そして老若男女さまざまな考古学ファンの群れ。遺跡や遺物を見下ろした映像……。
五回目を再生中、志津夫はリモコンのポーズボタンを押した。映像が静止する。
撮影された人物たちのほとんどはカジュアル・ウエアだった。要するに服装を見ても、彼らが何者なのかはまったくわからない。
ところが一人だけ、服装で職業のわかる人物が映っていた。
それは浄衣《じようえ》と呼ばれる和服で、神主の制服の一つだ。しかも、袴《はかま》の色は白で、紋入りだ。それは高い地位を表していた。
神職の身分は特級、一級、二級上、二級、三級、四級≠ニ六等級に分けられている。これらは袴の色を見れば区別できる。三・四級は浅黄色(水色)、二級は紫、二級上と一級は紫に紋入り、特級は白地に紋入りだ。
彼の袴は特級≠セった、雰囲気からして地元の神主であり、経営者的な地位だろう。
彼は相撲取りみたいに太っており、丸顔だった。熊のぬいぐるみを連想させるようなユーモラスな風貌《ふうぼう》で、善良そうな性格に見えた。年齢は四〇代前半ぐらい。
志津夫はビデオを止めた。テレビの電源も切る。着替えると、外に飛び出した。
自転車で、夕暮れの大通りに出た。自動車は、母が事故死して以来、買い換えていないのだ。だから、近所に出かける時は古ぼけた自転車を使っていた。
五分後、志津夫は図書館に到着した。そこで山梨県内の神社の電話番号をすべてメモする。それを終えると自転車に乗り、自宅に引き返した。
志津夫は、メモした番号に片っ端から電話した。まずは比川遺跡のある甲府市を優先する。
甲府市には、酒折《さかおり》宮、玉諸神社、甲斐奈神社、穴切大神社とユニークな名前の神社が多かった。八幡神社、住吉神社などは日本中に分散しているポピュラーな神社だが、案の定、甲府市にも存在した。
山梨県神社庁にも電話した。だが、誰も出なかった。職員は定時を過ぎたので、帰宅したのだろう。
なかなか手がかりはつかめなかった。志津夫の目当ての人物は、神職で特級の身分を持ち、肥満体で、比川遺跡を見学しに行った人間だ。だが、その条件にぴったり該当する人間は、どこの神社に問い合わせても見つからないのだ。
ダイヤル回数が二〇回を越えたところで、ようやく当たりをつかんだ。伯川《はくかわ》神社というところにかけたのだ。
「はい」
暖かみのある男性の声が応《こた》えた。
志津夫は言った。
「もしもし。そちらは伯川神社ですか?」
「はい。あ、何だ、葦原さんか」
「え?」
志津夫は混乱した。
志津夫は、山梨県には知人も友人もいないのだ。相手の声にも全然、聞き覚えはない。
なのに、この電話の相手は、まるで旧知の間柄のように、声だけで志津夫の名前を当てたのだ。
突然、別世界に放り込まれたような気がした。理性が二重三重にぶれる。この相手は何者だ?
一方、相手はお構いなしに喋《しやべ》った。
「それで、茨城の方はどうしたんだね? 何か見つかったかね? あんたが茨城県方面で何かを感じたと言うからには当然、何かあったんだろう?」
志津夫の口が大きく開いた。思わず叫びだしそうになる。片手を口に当てて、声を出すのをこらえた。
瞬時に、事態が理解できた。
電話の相手は勘違いしているのだ!
この相手は、志津夫の声を聞いて、彼の父親、葦原正一の声と勘違いしているのだ!
これは電話の場合、頻繁に起こる現象だ。実はFMラジオなどに比べると、電話の音質は極めて悪い。音声を構成する波長成分の一部だけを、やっと伝える程度なのだ。
さらに親子兄弟の声というのは、遺伝的にもよく似ている。そのため音質の悪い電話を通してしまうと、本人の声なのか、本人の兄や父親の声なのか、ほとんど区別できなくなる。
この現象は、志津夫も高校生になってから、数え切れないほど経験している。かつて志津夫が電話に出ると、父の友人や同僚は、しばしば高校生の息子の声を、父親の声と勘違いしたものだ。
志津夫自身も、同じことを時々やらかしている。友人宅に電話して相手の声を聞き、てっきり本人だと思いこんで話し始めたら、本人の父親だったケースだ。
それらの知識や過去の経験が、志津夫の頭の中に怒濤《どとう》の勢いで脹《ふく》らんだ。
事態を理解した瞬間、全身が硬直した。心臓が喉元《のどもと》を連打し始める。
相手は返事がないので、聞き返してきた。
「どうしたんだね?」
志津夫は受話器を折れ砕けそうな力で、握りしめてしまう。できることなら、相手の胸ぐらをつかんで揺さぶりたかった。あんた、うちの親父とはどういう関係なんだよ!
だが、相手はNTT回線の彼方《かなた》で一〇〇キロは離れていた。
志津夫は一回、深呼吸した。落ち着け、と自分に言い聞かせる。このチャンスを逃してはならない。絶対に。
志津夫が黙っているので、さすがに相手は不審な声で訊《き》いた。
「どうした? 葦原さん? もしもし? もしもし?」
志津夫はもう一度、深呼吸した。「一世一代の大芝居」という慣用句が頭に浮かんだ。喋り始める。
「あ、いや、何でもない。ちょっと雑音が入ったんだ。回線の具合が悪いみたいだ」
志津夫は父の口調を思い出しながら、言った。多少、気取った感じや、講義口調を交えれば、それらしくなるはずだ。
相手は疑わなかった。
「え、そうかい? こっちは何も聞こえなかったが……。で、茨城の方はどうなったね?」
「まあ、多少の収穫はあったよ」
「ほう、どんな?」
「いや……。それは直接、会ってから話すことにしよう」
「ふむ。何だか気を持たせるね。で、いつ、こっちに来るんです?」
志津夫は時計を見た。
すでに午後七時を過ぎていた。今から出かけたら、甲府市に着くのは一〇時過ぎだろう。
相手の口調から、正一とこの人物の関係は多少、推測できた。かなり親しい間柄らしい。その上、古代の秘密などについても知識を共有しているらしいのだ。だが、いくら親しい間柄でも夜の一〇時頃に押しかけるのは、正一も遠慮するのではないか?
そういったことを二秒で考えた。返事をする。
「では、明日の午前一〇時では?」
「ええ。いいですよ。しかし、珍しいですね。あなたが時間を指定するなんて」
「では、そういうことで……」
志津夫は急いで電話を切った。
しばらく受話器を凝視していた。自然に息が荒くなり、肩が上下する。過呼吸のせいか、少し目が虚《うつ》ろになりかけた。
ふいに奇声をあげた。無意識にガッツポーズになる。超ロングシュートを決めたバスケットボール選手の気分。
ついに手がかりをつかんだのだ。いや、手がかりの山だ。会話から判断して、この男は多くの事情に精通しているらしい。
「ざまあみろ! あの女め」
志津夫は笑顔で怒鳴った。青い土偶を奪った真希に対して、復讐《ふくしゆう》した気分だった。
彼女が、こう言っていたのを思い出した。「現地に出かけて聞き込みをしたが、何一つ手がかりはつかめなかった」と。
それは当然だろう。何しろ真希は女だから、声も葦原正一とは似ても似つかない。だから、伯川神社の人物と接触したとしても、標的にかすりもしなかっただろう。
しかし、父親と類似した声を持つ志津夫は、いきなり謎の核心に触れてしまったのだ。NTTに感謝状を贈りたくなった。よくぞ、今まで怠慢にも、電話の音質を向上させないでおいてくれた、と。
志津夫の足は無意識に動き出し、居間とダイニング・キッチンとを往復し始めていた。じっとしていられない。できれば、今すぐ甲府市に飛んで行きたかった。
だが、明日の午前一〇時までには、まだまだ時間があった。ありすぎるほどだ。
傍らにあるビデオのリモコンが、目に入った。早送り≠フボタンに視線が止まる。こういう時は、現実の時間も早送り≠オたくて、たまらない。
志津夫の頭の中は、明日の会見のことで充満していた。いったい、どんな情報が聞けるのだろうか? いや、その前にどんな風に相手と接触し、揺さぶりをかけていくべきか?
焦慮のあまり、脳みそが蒸し焼きになりそうな気分だった。
葦原志津夫は夢を見ていた。
記憶のフラッシュバックだ。父がいなくなってからの出来事。断片的な映像。それらが細切れに再生される。
川崎市の外れにある築十五年ぐらいの木造のアパート。午後一一時に帰ってきたとたんに電話がけたたましく鳴る。慌てて鍵《かぎ》を開けて、六畳間と三畳の台所の中間にある受話器に飛びつく。
まだ携帯電話などは、ほとんど普及していない一九八〇年代。パソコンはNECのPC98が全盛だった。バブル景気の余波で女たちは威勢が良く、若い男どもはアッシーだのメッシーだのと分類された情けない時代。志津夫は、そんな時代に青春期をおくる自分が恨めしかった。
「志津夫!」母の声。「お父さんはそこにはいない? いないの?」
「いないよ」と志津夫。「何かあったの?」
「変なのよ。大学にも行ってないし、家にも帰ってこないし、何の連絡もないし、友達とか同僚の人たちも不思議がってるのよ」
「え? つまり……行方不明? 父さんが? 本当に?」
翌朝、志津夫は町田市にある自宅へ向かった。
木造モルタル家屋だ。外壁は白。二階建てで一階が2LDK、二階が三部屋だ。築二〇年は経っているので、今では古びた感じに見える。白い壁も少し汚れている。これは持ち家だった。父が、親戚《しんせき》から安く譲り受けた物件だ。
母が玄関の外に立ち尽くしていた。母、佳代《かよ》は肌が薄いバラ色で、太めの主婦だった。顔立ちは中の上ぐらいだ。微笑むと量感のある頬にえくぼができる。見た目にも快活で、元気のいいお母さん。
その佳代が、眼球をアルコールにでも浸けたみたいに充血させていた。一晩中、寝ていないことがすぐわかった。
志津夫は訊いた。
「まだ何も連絡はないんだね?」
「ええ」
「おかしいな。どう考えてもおかしい。父さんらしくない」
いわゆる朝帰りだの午前様だのは、葦原正一には無縁だった。その意味では模範的亭主だ。また、どこかで酔いつぶれた可能性も考えにくい。正一はアルコールには強い体質で、二日酔いの経験もないのだ。
佳代は警察には一応、電話したという。警察では、事故か急病で救急病院に運ばれている可能性を考えて、それらの施設をチェックしてくれることになったという。
昼過ぎに電話はかかってきた。佳代は受話器に飛びついた。
該当者なし。警察からの電話はそう告げた。その後も何の情報もなかった。
父が行方不明になった翌々日、ついに届け出ることにした。
だが、重大な事件として扱ってもらえる可能性はなかった。脅迫状や脅迫電話だのは来ないので、誘拐事件ではない。単なる失踪《しつそう》だ。
警察は常に事件を両手にいっぱい抱えている。行方不明の大学教授一人を探すのに、組織の全勢力を傾けてくれるはずがなかった。
半月が過ぎ、一月が過ぎた。
志津夫は、週末に自宅へ帰る習慣がついた。今までは月末ぐらいにしか帰らなかった。だが、心細そうな母を独りにしておくわけにはいかなかった。
母と二人だけのわびしい食卓。テーブルの一角には父の写真が載せられるようになった。そこは正一が食事する時の定位置だった。
やがて親戚の者も心配して、顔を見せるようになった。だが、どうしても話題は佳代と正一の間に亀裂があったのではないか、というポイントに向かってしまう。
「ねえ、正直に言って」
親戚の叔母《おば》たちは口々にそう言う。
「言ってるわ」
佳代が言い返す。すでに、いつもの溌剌《はつらつ》とした雰囲気は失われていた。歯を食いしばり、ストレスで破裂寸前といった表情だ。
「あの人と、私の間に何も問題なんかなかったのよ。浮気だの不倫だのといった可能性もないのよ。あったら、私がとっくに気づいていたわ」
半年後、佳代はパートで働きに出るようになった。主にスーパーマーケットのレジ打ちだった。自宅は持ち家だから家賃は要らない。だが、志津夫の学費などで、まだまだもの要りの時期が続くのだ。このままではいずれ、銀行預金が底をついてしまう。
食卓を囲む時、志津夫が話しかけても、佳代は聞いていないことがよくあった。勝手に独り言を呟《つぶや》いている。
父さん、どこに行ったのかしらね。父さん、何かに巻き込まれたのかな。でも、父さん、まだ生きてるわよね。うん、きっと、生きてる。きっと、そうよ。
テーブルの一角に載せられた正一の写真が、わびしさを際だたせていた。
志津夫が相槌《あいづち》を入れる必要もなかった。佳代の台詞《せりふ》は、いつもそういう形で自己完結していたからだ。
母は決して現実から遊離しているわけではなかった。彼女は希望的観測を捨てないことで、精神の平衡を保とうとしていたのだろう。
だが、やがて、母はスモーカーになった。父が買ったきり未開封だったマイルドセブンを吸い始めたのだ。
やがて志津夫が実家を訪れる度に、缶ビールやウイスキーの瓶も台所の片隅に目立つようにもなっていた。しばしば精神安定剤の箱もテーブルに載っていた。夜、眠れないらしいと一目でわかった。
志津夫は「ほどほどにしなよ」と言うのが精一杯だった。
志津夫は現実感が希薄になっていくような気がした。今まで知っていた母と、酒やタバコや精神安定剤に頼るようになった母とが同一人物として重なってこなかった。どうしても、よく似た別人を見るような目になることがあった。
今まで志津夫は母、佳代のことなら、知り尽くしていると思っていた。ロールキャベツや酢の物が好きで、たくさん作りすぎては亭主や息子に不平を言われていたこと。有名女流作家のエッセイ集が愛読書であること。テレビのホームドラマに目がないこと。
だが、今になって自分はこの女性の一面しか知らなかったのだと気づいた。快活な主婦という一面だけしか。
一年が過ぎ、二年が過ぎ、三年、四年が過ぎた。父、正一に関する情報は何一つ入ってこなかった。短期間だけ興信所に捜索を依頼したこともあった。だが、料金の高さゆえに継続することはできなかった。
その間に志津夫は大学院を卒業し、研究室助手の職を得ていた。ささやかな給料だが、おかげで自活できるようになった。
悲劇はまた電話が知らせてきた。事務的な声が言った。
「町田警察署のものです。葦原志津夫さんですね? 葦原佳代さんの息子さんの?」
「はい。あ、父のことで何かわかったんですか?」
「いいえ。……葦原佳代さんが車を運転していて、事故に遭われたんです。今、救急病院に運ばれまして、重体です」
コマ落としの映像のように時間が飛び去った。
気がつくと、志津夫は病院にいた。白い内装、消毒薬の匂い、パジャマ姿の患者と看護婦が廊下を行き交う。
患者や看護婦たちの会話が、耳に入ってくる。まだ胃の辺りが痛むんで。モルヒネの追加を。だから、これじゃなくて……。
だが、それらの言葉の意味が、志津夫の意識の中にまで入ってこない。彼だけ海底に沈み込んでしまい、大気圏から切り離されたみたいだった。
集中治療室に佳代はいた。予想に反して、酸素マスクも着けていないし、点滴のチューブもなかった。心電図モニターも電源が切られている。
ベッドに横たわった母の顔には、一枚の白い布。布は微動もしていない。すでに呼吸していないのは明らかだった。
志津夫は全身が氷柱と化した。バスドラの重いビートが胸を打ち続ける。それは、こう聞こえた。ウソだろウソだろウソだろウソだろウソだろ……。
三〇代ぐらいの医者がすぐにやってきた。ロイド・メガネをかけた彼は、挨拶《あいさつ》もそこそこに言った。
「精神安定剤の飲み過ぎらしいんです。車の中にヒドロキシジン入りの薬の箱があったそうですから。それで運転中に眠気を催したんでしょう。突然、電柱に突っ込んだそうです。シートベルトは着けていなかったそうです」
八〇年代といえば、運転席にエアバッグを装備した車など、ほとんどなかった時代だった。シートベルトを着けないドライバーも多かった。
医者はメガネをいじくった。
「……我々は全力を尽くしました。しかし、残念ながら十五分ほど前に亡くなられました……」
白い布を取りのける。
佳代の頭部は包帯で隠れていた。目の回りに黒いあざがあり、頬には傷跡があった。精気に満ちた以前の面影はどこにもなかった。
「ウソだろ……」
志津夫は、そう呟く。
周囲の空気がステンレス鋼のように固まっていた。受け入れるしかない現実は金臭い嫌な味がした。慣れ親しんでいた日常に無数の穴が開いていくようだった。やがて穴同士がつながり、より大きな穴になり、虚無感だけが残った。
親戚のものが次々にやってきた。涙とお悔やみとが並べられた。葬儀会社の人間がやってきて、通夜と葬式の打ち合わせが始まった。
ろくに寝る暇もないまま通夜と葬式が滞りなく行われた。母の旧友たちが泣いてくれた。志津夫は遺影を胸に抱き、喪主としての挨拶をぼそぼそと呟いた。
骨壺《こつつぼ》を自宅に持ち帰った。やがて親戚も一人二人と帰っていき、最後に志津夫だけが残った。
食卓のテーブルには正一の写真があり、志津夫を見返していた。貫禄をつけるために生やしたひげ面。だが、この時は逆効果で浮浪者めいて見えた。
志津夫は骨壺を食卓のテーブルに置き直した。母が座る定位置の場所に。
壁の時計の音がやけに大きく聞こえた。普段は意識しなかった音だ。一秒一秒が鉛の重さで通り過ぎていく。
なぜ、こんなことになったのか? そう自問する。
もちろん父、正一が不可解な失踪を遂げたからだ。それで母、佳代はタバコ、アルコール、精神安定剤に依存するようになった。そして血中に残っていた薬剤のせいで、自ら電柱に突っ込んだ。
志津夫は、正一の写真をつかむと、床に叩《たた》きつけた。ガラスの破片が飛び散る。
「父さん! あんた、どこに行っちまったんだ!」
その時になって、やっと涙がにじみ、目をこすった。
夢は唐突に、カットを変えた。
暗い洞窟《どうくつ》の中だ。志津夫はそこに仰向《あおむ》けで横たわっている。
ああ、また、この悪夢か。
志津夫は、そう思った。
子供の頃から繰り返し見る夢だった。見るたびに、また、これかと思い出すのだ。それでいて目覚めると、どんな夢だったのかは……。
志津夫は頭に衝撃を感じた。目が覚めた。瞳《ひとみ》の焦点が徐々に合ってくる。
列車のガラス窓に額をぶつけたのだ。いつの間にか居眠りしていたようだ。頭を振る。睡魔が粘りけのある触手で、脳髄をつかんで離そうとしない。
列車は山林を通過中だった。線路際にコアツモリソウの淡黄緑色の花が時々、見える。
車窓の彼方《かなた》には巨大な山がそびえていた。富士山だ。
灰色の空をバックに、圧倒的な量感でそびえ立っていた。稜線《りようせん》が美しいコニーデ型を描いている。山頂の万年雪と、中腹のグレーとパープルの色合いが対照的だ。その手前には三ッ峠山、御坂峠が並んでいる。
車窓の前方に駅のプラットホームが現れた。志津夫が乗る特急スーパーあずさ3号はそこを素通りした。「JR笹子駅」や「中央本線」の表示板が猛スピードで飛び去っていった。
志津夫は腕時計を見る。午前九時三分。JR甲府駅には九時二八分着の予定だ。
ふと、全身の皮膚に冷たいものを感じた。寝汗をかいたらしい。それも全身くまなく汗びっしょりだ。ドライアイスの煙で全身を包まれているような気分だった。
不審な顔になってしまう。車内は適度に冷房が効いているし、眠ったのはほんの二〇分程度だ。それを考えると、この寝汗の量は異常だった。
志津夫は淡いグリーンのサマージャケットと柄シャツの前を開けて、濡《ぬ》れた下着の中を見た。左の乳首の下に、例のウロコがある。小さな三角形の連なりだ。
このウロコのせいか? それで身体に変調をきたしているのだろうか?
そのうち思い出した。子供の頃から、こうだったのだ。時々、ひどい寝汗をかいて目覚めることがあった。原因は未《いま》だに不明だ。
そういう時は悪い夢でも観て、うなされたらしい。しかし、夢の内容は全然覚えていないのだ。
志津夫は衣服の前を合わせた。自分に言い聞かせる。単に睡眠不足で風邪気味なのだろう。それで自律神経が狂い、体温調節がうまくいかないのだろう。
トンネルに入った。全長四キロほどの笹子トンネルだ。風景に暗闇のシャッターが下りる。ガラス窓が反射率の悪い鏡と化した。
窓の向こうから、もう一人の志津夫が見返していた。三〇歳のまあまあ好男子と言えそうな男が、落ち着かない表情をしている。
志津夫は自分自身に笑いかけてやった。小声で言う。
「落ち着け、相棒。たかが一〇年ぐらい行方をくらました親父を探し出すだけのことだ。それとブルーガラスの土偶だとか、カムナビだとかの謎をつきとめるだけのことだ。別に大したことじゃないさ……」
だが、車窓の外の暗闇を見つめるうちに笑顔は消えていった。
昨夜は四、五時間しか眠れなかった。ついに、最近の葦原正一の友人らしい人物を見つけたのだから。
その人物から、どうやって話を聞き出してやろうか、と考え続ける。
実際には、何一つ話を聞くことはできなかった。
志津夫は予定通りJR甲府駅に九時二八分に到着した。世界でもっとも時刻表を遵守する国に生まれた恩恵だ。
これが観光だったら、まず駅前南口にある武田信玄の銅像を見るところだ。だが、約束があるため、彼は上り電車に乗り、中央本線を引き返して酒折《さかおり》駅で下りた。
そこから五分歩いた。伯川神社に到着する。中央本線の踏切のすぐそばだ。
周囲はクスノキやイチョウなどの樹林で覆われていた。木々が吐き出すフィトンチッドの香りに包まれている。
神社の後方には円錐形《えんすいけい》の山が見えた。地図には八人山という奇妙な名前で記載されている。
志津夫は石造りの鳥居をくぐり、二対の灯籠《とうろう》を通過した。一〇メートル進むと狛犬《こまいぬ》と灯籠が二対あった。その向こうは手水舎《てみずや》と、街灯だ。「必勝合格祈願」というキャッチフレーズを表す赤い旗が立っている。
さらに七メートル進むと、コンクリート製の階段がある。そこを八段上ると、拝殿と本殿にお目見えできるわけだ。
拝殿と本殿は神明《しんめい》造りと呼ばれる様式だ。こうした社殿は、弥生《やよい》時代の王宮建築が原型と言われている。屋根には装飾用の堅魚木《かつおぎ》が三本載せてあった。原則的には堅魚木が奇数だと男神、偶数だと女神ということになっている。
階段の手前で右に進むと、社務所と土蔵があった。社務所は割と新しく、近年に建てられたものだろう。ここまではどこにでもありそうな平凡な神社だった。
志津夫は深呼吸し、気合いを入れ直した。いろいろ考えた末、正面から堂々と乗り込むことに決めたのだ。
まず社務所の玄関に行き、「ごめんください」と呼びかけた。返事はなかった。
玄関のガラス戸は鍵《かぎ》がかかっていなかった。戸を開けて、中をのぞく。傘立てや靴入れ、壁に鏡などがある。普通の家屋と変わらなかった。
志津夫は首をひねりつつ、隣の土蔵に視線を向けた。ある一点に注目する。土蔵の扉が、一センチほど開いているのだ。かんぬきと錠前も外れている。
目当ての人物は、土蔵の中にいるのかもしれない。当然そう思った。
土蔵の扉を開けて「ごめんください」と言おうとした。言えなかった。顎《あご》も舌も、液体窒素を浴びたみたいに凍りついた。
土蔵の床には、肥満体の男が仰向けに倒れていた。丸顔で熊のぬいぐるみのような風貌《ふうぼう》の中年男だ。上下とも白の浄衣《じようえ》を着ていた。袴《はかま》は葉っぱをあしらった紋入りだ。
例のビデオに映っていた人物にまちがいなかった。
男は目と口を開き、断末魔の表情のまま死んでいた。額から血が流れており、それらはすでに固まって赤茶色に変わっている。撲殺された感じに見えた。
白の浄衣も、あちこち赤く染まっていた。土蔵の中には血の臭いが充満している。神社の神聖な雰囲気を台無しにしていた。
死体の周囲には和綴《わと》じの古文書や巻物や、それらを収める桐の箱が散乱していた。土蔵の奥も同じようなありさまだ。強盗犯が荒らしていった跡のようだ。
志津夫は耳鳴りに似た感覚を味わっていた。頭蓋骨《ずがいこつ》のどこかをパトカーのサイレンのような音が走り回っている。この状況を、すぐに意味のある情報として捉《とら》えられない。
やがて、これは殺人事件であり、犯人はまだ近くにいるかもしれないという思考が働いた。慌てて、暗い土蔵の奥に視線を走らせる。だが、人の気配はなかった。
土蔵に背を向けて、周辺を見回した。だが、人影はない。社殿に手水舎、狛犬と灯籠などが目につくだけだ。それ以外は常緑樹ばかりで、風で枝葉同士がこすれる音がする。遠くからは車のエンジン音が伝わってきた。
今、境内にいる生きた人間は、志津夫一人だった。境内の面積から見ても、ここは宮司一人だけで管理している規模の神社だろう。
志津夫はあらためて死体を見た。血が変色し、固まっているのを確認する。死後、数時間は経っているようだ。
たぶん犯人はとっくに逃げた後だろう。そして志津夫が第一発見者なのだ。
このまま知らん顔はできなかった。市民の義務というものを果たすべきだろう。
志津夫はソフト・アタッシュバッグを肩から下ろした。携帯電話を取り出す。
少し躊躇《ちゆうちよ》した。また、厄介事に巻き込まれるのかと思うと、うんざりしたからだ。
110にダイヤルする。殺人事件が起きたらしい、と警察に伝えた。自分の声が震えているのを意識した。
電話を切った。これで義務は果たした。さっさと、この土蔵から離れたかった。
だが、つい怖いもの見たさで、死体を振り返ってしまう。そして、うんざりして顔をそむける。そんなことを三回四回と繰り返してしまった。
だが、しばらくして猛然と怒りが湧いてきた。
状況から見て、この肥満体の男こそ、伯川神社の神主だろう。この男こそ昨夜、志津夫の声を聞いて、正一と勘違いした人物に間違いない。
情報源は目の前にいた。なのに、もう永久に口をきいてくれないのだ。あまりの不条理さにわめきたくなるほどだった。
いったい、誰が何のために殺したのか? その疑問が当然、湧いてくる。だが、現時点では何もわからない。
そこで志津夫は考古学の基本手法に立ち返った。発掘とは同時に破壊作業でもあるから、同じ遺跡を二度、発掘することはできないのだ。だから、現場からは細大漏らさずデータを収拾しなければならないのが原則だ。
一眼レフタイプのデジタルカメラを取り出した。液晶モニターでバッテリーを確認する。電池は充電済みだから、連続二時間の使用に耐えるはずだ。ボタンを押し、音声メモのモードに切り替えた。
土蔵の扉を開けて、死体にレンズを向けた。まず全身写真だ。ストロボを焚《た》いた。
腕時計を見て、カメラのマイクに吹き込む。
「六月二日。午前一〇時一〇分。伯川神社。また殺人事件らしい」
多機能デジタルカメラは画像一枚につき一〇秒までの音声メモを付けられる。こういう時は便利だった。
次いで顔のアップを撮る。音声メモを吹き込む。
「ただし、今度は焼死体じゃない。どうも撲殺されたみたいだ。それ以外はまだ何もわからない」
上半身を撮影し、さらに下半身を撮影してから、音声メモを吹き込んだ。
「もしかすると、ブルーガラス土偶か、それに似たものが、ここにもあるのか? 犯人の狙いはそれか?」
志津夫は土蔵の中に入ろうと、右足を持ち上げた。だが、足は宙で止まった。
現場を踏み荒らしてはならない。それは遺跡調査でも、事件現場調査でも同じことだ。今、中に入ったら犯罪捜査の妨害にしかならない。
足を引っ込めた。警官でない自分は、この位置からの撮影に専念するしかないのだ。
荒らされた土蔵内の右側にストロボを焚いた。マイクに吹き込む。
「残念ながら今、土蔵の奥を撮影するわけにはいかない。現場を保存しなければならないからだ。あそこに何かあるのなら、今すぐ確認したいが、それは警察に任せるしかない」
土蔵内の中央部を撮影した。音声メモを吹き込む。
「今、撮った画像に何か手がかりがあるといいんだがな。それを祈ろう。後でじっくり見直すこと」
最後に土蔵内の左側を撮影した。そして音声メモを入れる。
「しかし、また厄介なことになったな。もしかすると今度は、ぼくまで警察に疑われかねない。だけど、真相を喋《しやべ》っても信じてもらえないしな……」
昼になり、時折ぱらついていた小雨は消え失せ、太陽が顔を出していた。
志津夫は、また現場検証の光景を見るはめになった。ただし、今度は張り巡らされた黄色いテープの内側にいた。伯川神社の境内全体が立入禁止区域になっているのだ。
石造りの鳥居の外では、回転する赤色灯が花盛りだ。白黒のパトカー、グレーや黒の覆面パトカー、鑑識のワゴンなどが計六台、駐車している。「防犯」の腕章を巻いた制服警官たちが周辺を見張っていた。
平日の昼間であるため、近所の主婦たちが三〇人ほど集まり、野次馬になっていた。地元のテレビ局の者もやってきた。彼らは立入禁止テープの外側から業務用ビデオカメラを向けて、ニュースの素材を仕入れている。
土蔵の周囲や内部には、例によって「1」「2」「3」の数字の入った三角形のプラスチック板が点々とおかれていた。腕章を巻いた鑑識課員がさまざまな角度からストロボを浴びせている。筆のようなもので薬を塗っているのは、指紋の係だろう。
鑑識課員たちは、境内でもっとも神聖なはずの拝殿や本殿の中にも入り込んでいた。そこにも何か異常があったらしい。
志津夫は手水舎《てみずや》にいた。ひしゃくで冷水を汲《く》み、飲んだ。本来は手を清め、口をすすぐための水だ。だが、社務所は刑事や鑑識課員が占拠しており、台所も使えない状態だから仕方がない。
喉《のど》の粘膜を清水が潤してくれた。井戸水の清涼感に思わず、ため息が出る。多少、人心地がついた。
志津夫の目の前には、グレーの背広に紺のネクタイ姿の刑事がいた。
彼は両手に白い手袋をはめて、無線機を持っていた。雑音混じりの音声と会話している。刑事本人も、だみ声なので両方とも雑音混じりみたいに聞こえる。
「はい。ええ、これより合流します。はい、了解」
連絡を終えると、彼は志津夫の方に歩いてきた。喉が潰《つぶ》れたような声で言う。
「ちょっと来てください」
その刑事は一時間前、佐治龍男《さじたつお》と名乗った。名刺には刑事課の係長と記載してあった。
年齢は四〇代前半だろう。頭は五分刈りにしており、眉毛《まゆげ》が太く、目玉は大きな黒い碁石をはめ込んだようだ。一言で言うなら、悪役風の面構えだった。
志津夫は言われるまま、彼についていった。質問する。
「なぜ、拝殿や本殿まで調べてるんです?」
佐治が答えた。
「あの中にも誰かが侵入したような形跡があるんでね」
「じゃ、本殿の中とかも見たんですね?」
「ええ」
「じゃ、青い土偶がありませんでしたか?」
「え?」
佐治は不審な顔で振り向く。
志津夫は辛抱強く繰り返した。
「青い土偶です。全体がきれいなブルーガラスで覆われた縄文式の土偶です」
佐治は瞬《まばた》きした。思い当たった表情ではない。
「いや、そんなものは見てないな」
「そうですか」
志津夫の肩の線が下がってしまう。
佐治が問いつめてくる。
「それが何か? この事件と関係あるとでも?」
「いや。個人的な興味です。そういうものがあるかもしれないという情報を聞いたので」
神明造りの拝殿と本殿を眺めて、志津夫は自問した。犯人は何かを盗み出したのだろうか? たとえばブルーガラス土偶を?
疑問は膨れ上がるばかりだが、今は何一つわからなかった。
社務所の玄関前で、志津夫は白い手袋を渡された。現場に余計な指紋を付けさせないためだ。
志津夫も手袋をはめて、中へ入った。ここの屋内も数字の入ったプラスチック板で飾られている。鑑識課員たちが、志津夫には意味不明の専門用語で話していた。
事務室らしい部屋に行った。八畳ほどの室内には事務机と椅子、書類棚などがある。どれも無個性な安物だった。
机の上には書類の他に歴史雑誌などがあった。「古代日本史の最前線」といったタイトルが目につく。ここの宮司の趣味だろう。縄文遺跡の現地説明会に出かけただけのことはある。
壁には額に入った伯川神社の写真と、大型のカレンダーとがあった。カレンダーは一年三六五日を一枚のポスターにしたものだ。画鋲《がびよう》などは使っておらず、壁に張ってある。
佐治がチョコレート・ブラックの警察手帳を広げて、それを見ながら言った。
「さっき言ってましたね。昨日の夜、ここの神主である白川伸雄《しらかわのぶお》さんと電話で話をした、と」
「ええ」と志津夫。
白川伸雄。それが殺された被害者の名前だった。志津夫の声を電話で聞いて、正一と勘違いした人物だ。
佐治が訊《き》いた。
「で、今日二日の午前一〇時にここで会う約束だった。この神社の古い資料を見せてもらう予定だった。間違いないですね?」
志津夫の心臓が一瞬、収縮した。
もちろん、間違いはある。白川伸雄は、正一が訪問してくるものと思い込んでいたのだ。そして志津夫は、失踪《しつそう》中の父親について情報を得るつもりで来訪したのだ。しかし、複雑な事情があるし、超常現象までからんでいるので、警察に言う気にはなれなかった。
志津夫はただ、うなずいた。
「ええ」
佐治は続けて言った。
「あなたが電話したのは昨夜の七時過ぎでしたね。これも間違いない?」
「ええ」
「ふむ。じゃあ、ちょっと、そこのカレンダーを見てください」
佐治は壁を指さした。三六五日分を一目で見渡せる大型カレンダーだ。写真やイラストなどはなく、実用一点張りだ。
「六月初めのところです。そこに赤のサインペンで書き込みがある」
志津夫は目を近づけた。確かに書き込みがあった。
6月1日のところには「P8‥00 津田」
6月2日のところには「A10‥00 葦原」
角張った書体だった。書き手の几帳面《きちようめん》さをうかがわせる筆跡だ。
志津夫は思わず、うなずいた。振り返り、
「これはメモですね。白川伸雄さんが書いたんだ。二日の午前一〇時はもちろん、ぼくと会う約束ですよ。で、ぼくは時間どおりにやってきたんだけど……」
佐治が言った。
「ええ。当人のメモでしょうね。そして昨日一日の午後八時には津田、と書いてあるでしょう。それに何か心当たりはありませんか?」
志津夫は、こめかみを掻《か》いた。
「さあ、ぼくの知り合いに津田という人はいないな。第一、甲府には今日、生まれて初めてやってきたので……」
気がつくと佐治が悪役面で、こちらを睨《にら》んでいた。何か隠し事がないかと疑っているような顔だ。装甲車がじわじわ接近してくるような迫力があった。
あるいは、これがこの刑事の戦術かもしれない。後ろ暗いところがある人間は、これだけで狼狽《ろうばい》するのかもしれない。
志津夫には後ろ暗いところはないが、隠し事はあった。努めて表情を変えないようにする。そのためには腹筋を総動員しなければならなかった。胃が氷づけ状態だ。
志津夫は逆に質問した。
「白川伸雄さんの家族は? その津田という人のことを知っているのでは?」
「いや、近所の人から聞いたんですが、白川さんは四年前に奥さんを亡くされましてね。子供もいないので、今は独り暮らしだそうです。津田という名前の人物についても、近所の人は知らないと言ってる」
「そうですか」
今のところ、はっきりした情報はここまでらしい。
志津夫はさりげなく周囲を見回した。何か役に立ちそうな手がかりを捜したかったのだ。だが、何も発見できなかった。
壁の大型カレンダーも見直した。もしや他にも葦原という名前がメモしてあるのでは、と思ったからだ。だが、メモは柿田とか大浜といった知らない名前ばかりだった。6月2日以前に、葦原の名前は一度もメモされていなかった。
あるいは、葦原正一は予告なしで訪問する客なのかもしれない。もしくは訪問当日になって電話する、といった客だ。それだったら、カレンダーにメモがなくとも不思議ではないが。
ふと佐治刑事と視線が合った。相手は、志津夫の様子を興味深げに観察していたのだ。意味ありげな眼差《まなざ》しに思えた。
志津夫は問い返した。
「他には何か?」
佐治は首を振った。
「いや、質問はこれで終わりです。……ところで今日はこれから、どうするんです? すぐ東京に戻るとか?」
「いや、せっかく来たんだから、他の神社とかを見物していきます。だって、わざわざ甲府まで出かけて、死体の第一発見者になったという思い出だけで帰るというのも味気ないしね。どうせ捜査の邪魔になるから、ここの土蔵の資料も見られないんでしょう?」
「まあね」
佐治は微笑した。悪役面だが多少、親しみの持てる顔になる。
佐治が訊いた。
「じゃ、市内のどこかに泊まると?」
「そうします。貧乏学者だからビジネスホテルだけど」
「じゃ、適当なところを一つ紹介しましょう。今夜はそこに泊まってください。何かあったら、また連絡するかもしれないので」
要するに、佐治は何らかの疑念を持ったということだ。志津夫が犯人であるわけがないのだが、この刑事の勘には引っかかるものがあったらしい。
志津夫は指紋を採られた。
佐治が、だみ声で言ったのだ。
「捜査に協力してください。現場の指紋と照合しなければならないのでね。事件と無関係とわかったら焼き捨てますから心配ご無用」
いつも言っていることらしく、よどみのない口調だった。
黒い粘ついた専用インクを一〇本の指先につけられた。採取用紙の上に指を一本一本転がす。だが、圧力が足りないらしく、刑事たちに指を強く押さえつけられてしまった。おかげで容疑者の気分を実感できた。
午後一時半になり、志津夫はやっと事情聴取から解放された。立入禁止のテープの外に出る。
お昼過ぎのせいか野次馬の数が少なくなっていた。一〇人ぐらいしかいない。
地元テレビ局のカメラマンも装備品を片づけて、引き上げにかかっている。だが、三人の者が志津夫の姿を見て、寄ってきた。
いずれもハイエナのような体臭がする連中だ。三人ともカジュアル・ジャケットにジーンズ、スニーカー姿だ。その上、三人ともメガネをかけていた。話しかけてくる。
「あのう、すいません。もしかして遺体の発見者の方ですか?」
「いいえ。おみくじ用の紙を納めている業者です」
わずらわしいので、適当なことを言ってやった。
「じゃあ、被害者とはお知り合いなんでしょう? どう思われますか? 犯人に心当たりは?」
「たぶん、ここで大凶を引いたんでしょう」
「は?」
テレビ局の者が口を半開きにしている間に、志津夫は足早に通過し、取材陣から逃れた。
今は独りになりたかった。どこかで気分を落ち着かせて、考えをまとめたい。
石造りの鳥居の前には踏切があった。中央本線だ。JR新宿駅から、この山梨県甲府市を通過し、長野県を横断してから愛知県名古屋市に至る路線だ。踏切の向こう側には、もう一つ鳥居があった。
南の彼方《かなた》には富士山が見えた。その周辺で雲が渦巻き、刻々と形を変えている。風の流れを肉眼で確認できた。
線路沿いにタマアジサイが季節の花を咲かせていた。淡紫色の花びらが数枚、風に舞って、志津夫の足元にも飛んでくる。
踏切を渡ったところには、小さな商店があった。だが、ドアが閉まっており、営業はしていない。ジュースの自動販売機があるだけだ。
志津夫はまた喉《のど》の渇きを覚えた。あの佐治という刑事のせいだ。あんな悪役面にたびたび睨まれるのは、快適な体験ではなかった。
何しろ警察に喋《しやべ》ることができない事情を抱えているのに、死体の第一発見者になったのだ。ストレスが溜《た》まるし、喉も渇く。
自動販売機にコインを入れた。製品名ボタンが一斉に赤く点灯する。ウーロン茶を選んだ。
無反応だった。
何度かウーロン茶のボタンを押した。やはり出てこない。他のボタンも試した。コーラ、オレンジジュース、コーヒー、スポーツ飲料。
全滅だった。返金レバーを回してもコインは戻ってこない。
思わず舌打ちする。故障らしい。悪運が志津夫を抱きしめているようだ。
背後から声がかかった。
「故障?」
最初その声を聞いた時は、中学一年生ぐらいの男の子かと思った。
「そうらしいけど……」
志津夫は答えて、振り返った。
瞬《まばた》きしてしまった。その人物を初めて見た瞬間も、男の子かと思ったのだ。
身長は一五〇センチぐらいで、志津夫の胸辺りの高さだ。ジャイアンツの野球帽をかぶっており、そこから短めの頭髪がはみ出している。ブルージーンズのジャンパー、赤いTシャツ、ジーパン、スニーカーといった姿だった。
だが、よく見ると丸顔で美形の女性だった。年齢は十七、八歳ぐらいだろうか。大きな目は、いつも好奇心満々といった感じだ。小さめの鼻と唇が可愛らしい。
男の子でも女の子でもないような中性的な魅力がある娘だった。身体の線も細い。よくよく見てから女性だとわかるプロポーションだ。
彼女は言った。
「ボタンを乱暴に押したんじゃない?」
「いや、そんなことはないけど」
「こういう時は、そっと押すんだ」
口調も男の子みたいだった。
彼女は自販機の前に立った。深呼吸する。なぜか両手の親指と人差し指で正三角形を作り、訊《き》いた。
「ウーロン茶?」
「ええ」
彼女は両手の人差し指で、そっとボタンを押した。おなじみの機械音がして、取り出し口にスチール缶が落ちた。
「はい」
そう言って、缶を渡してくれた。
「あ、ありがとう」
志津夫は受け取る。とまどいを隠せない表情だ。さっきまで自販機は完全に無反応だったのだ。やはり乱暴にボタンを押したせいだろうか?
彼女も自販機にコインを入れた。また両手の人差し指で、そっとボタンを押す。ウーロン茶が出てきた。
彼女はスチール缶のプルリングを引き開けて、威勢良く喉を鳴らしながら飲み始めた。その白い首筋に見とれてしまう。小柄だが、健康美に溢《あふ》れた娘だった。
志津夫もスチール缶を開けて、飲んだ。喉の粘膜が潤い、人心地がついた。
彼女は缶の容量の半分ぐらいを飲んでから、手の甲で口元を拭《ぬぐ》った。そして神社を指さし、志津夫に訊いた。
「ねえ、中で何があったの? 神主さんが殺されたとか言ってるけど」
真剣な表情だった。野次馬的な興味本位の態度ではない。
こういう美少女からの質問は無視できないので、志津夫は答えた。
「土蔵の中で死んでいたんだ。ぼくが発見して警察に知らせた」
「やっぱり本当なの! 何てこと!」
彼女は目も口もOの字形になっていた。神社の方を怖々と見る。首の辺りがこわばっているのがわかった。
彼女は志津夫を振り返った。矢継ぎ早に質問する。
「いったい誰が? 何のために?」
「ぼくにはわからないよ。ここに来たばっかりだしね。第一、ここの神主さんとは、まだ一度も会ったことがない。会う前に死んでいたんだから」
「ふうん」
彼女は疑惑たっぷりの目をしていた。身長差のせいで、自然に上目づかいになる。口元を少し尖《とが》らせていた。
志津夫は肩をすくめた。
「ぼくが犯人だとでも?」
「いや、そうじゃない。でも、なぜ、ここに来たの? あなた何者?」
尋問されて、志津夫は苦笑した。
「ぼくは葦原志津夫。東亜文化大の講師だ。専攻は比較文化史学。ここの宮司の白川伸雄さんに、神社の古い資料を見せてもらうつもりだったんだ。……で、お嬢さんの正体は?」
「私? あ、自己紹介する。稲川祐美《いながわゆみ》です。よろしく。湘北大《しようほくだい》民俗学科の学生」
祐美は野球帽を脱いで一礼し、笑顔を見せた。清潔感が好ましかった。女らしさを売り物にしない、といった態度だ。
「初めまして」
志津夫もお辞儀を返した。
彼女の学生生活を想像してしまう。きっと学内でもアイドル的な存在なのだろう。同性からも人気がありそうだ。志津夫の講義を履修する女子学生の中にも、似たようなボーイッシュ・タイプがいる。
志津夫は言った。
「そうか、民俗学ね。じゃ、比較文化史学とは親戚《しんせき》関係だな」
「うん。そうとも言えるね」
「まあ、よろしく。親戚のお嬢さん」
「こちらこそ」
祐美は野球帽をかぶりなおして、笑みを見せた。
志津夫は訊いた。
「で、なぜ、ここに?」
祐美はウーロン茶を飲んで、
「私も神社の縁起絵巻帳を見せてもらおうと思って来たんだ。これも勉強の一つだから」
「そうか。じゃ、目的は同じような……。いや、待てよ」
「何が?」
祐美が不思議そうな表情を浮かべていた。
志津夫は彼女の丸顔を指さして、
「カレンダーには、あなたの名前はなかったけど、それはなぜ?」
「カレンダー?」
祐美は瞬きしていた。
「白川伸雄さんはカレンダーに来客予定をメモする習慣があったらしい。今日ぼくが来る予定も書いてあったんだが……」
「あ、何だ、そういう意味か」
祐美は少し笑い声をあげた。
「私はアポなし。前回もそうだし、今回もそう。連絡なしでいきなり、やってきたんだ」
祐美は肩をすくめて、舌を出した。
それを聞いて、志津夫も納得した。たぶん彼女ならば、たいていの男は約束なしでも会うだろう。宮司の白川伸雄も、祐美が訪れた日は満面に笑みだったに違いない。
志津夫は彼女の顔をのぞき込んだ。
「じゃ、白川伸雄さんとは会ったことがあるんだね」
「もちろん」
「どんな人?」
とたんに、祐美は唸《うな》りだした。野球帽のつばを片手でつかみ、少しうつむく。故人の記憶を思い起こしているようだ。
「そうだね……。宴会の司会進行役とかをやらせたら、うまいんじゃないかな。すごく愛想《あいそ》がよくて、すごく相手に気を遣う人だよ」
志津夫は、ため息をついた。
「そうか。まあ、電話で話しても、そういう人柄だろうとは思ったよ」
志津夫の脳裡《のうり》に、死体を発見した時の光景が鮮明に再生された。
仰向けに倒れていた肥満体の男。目と口を開き、断末魔の表情のまま凍《い》てついていた。死体も土蔵の床も血だらけ。床には和綴《わと》じの古文書や巻物や、それらを収める桐の箱が散乱していた。
志津夫は首を振り、凄惨《せいさん》な映像を脳裡から追い払おうとした。やり切れない気分になる。胃液がこみ上げてきた。
志津夫は吐息と共に言った。
「きっと、いい人だったんだろうね。なぜ、そういう人が撲殺されなきゃいけないのかな……」
祐美は大きな目をさらに見開いた。一歩、前に出て、志津夫の顔を見つめた。
「撲殺? 殴り殺された?」
「ああ」
「何で? バットとか、カナヅチとか?」
「それもまだ、わかってないらしい。とにかく、ぼくの目には撲殺みたいに見えたし、警察も同じ判断らしい」
「誰が、そんなことを?」
「いや、だから、ぼくにはわからないし、警察もまだ見当がつかないらしい」
「そう……。そうなの……」
祐美は黙り込み、ウーロン茶の缶を握りしめた。踏切の向こうの鳥居やパトカーの回転灯を凝視している。
彼女は今すぐにでも、事件現場に入りたそうな顔だった。目に強い意志の光がある。この事件に並々ならぬ興味があるのは間違いなかった。
志津夫は言った。
「でも、土蔵の中は荒らされていたよ。本殿にも誰かが侵入した形跡があるそうだ。何だか強盗殺人みたいな感じだった」
「強盗……」
祐美は呟《つぶや》いた。唇の端が大きく歪《ゆが》んでいる。ほとんど仁王像の真似みたいだ。
志津夫は興味を引かれ、訊《き》いた。
「もしかして、何か心当たりでもあるの? ここの土蔵には、強盗に狙われそうな貴重品でもあるとか?」
「さ、さあ?」
祐美は大きく首を振った。丸顔ゆえ、膨らんだ頬がゼリー菓子みたいに震える。
「私は、そこまで詳しいことは知らないから……」
急に語尾が消え入りそうになった。顔をそむけてしまう。
祐美は、普段は快活な娘なのだろう。だが、今は陰惨な事件に遭遇して、気が滅入《めい》ったようだ。それで口が重くなっているのかもしれない。
志津夫は念のため、さらに訊いた。
「じゃ、津田という名前に心当たりはない? 津波の津≠ノ、田んぼの田≠ナ、津田だけど」
祐美は首をかしげた。眉間《みけん》に大きなしわができている。
「津田?」
「社務所のカレンダーに書いてあった名前だ。昨夜の午後八時に、白川伸雄さんを訪ねる予定の人だったらしいけど」
「津田? 津田……」
祐美は両手で頭を抱えてしまった。目は地面の一点を睨みつけている。必死に、自分の記憶を検索しているらしい。
やがて顔を上げ、首を振った。
「知らない。聞いたこともないな」
「そうか……。じゃ、これはどうかな?」
志津夫はバッグから二枚の写真を取り出した。一枚目は葦原正一の一〇年前の写真で、二枚目は茨城県で入手した、最近の葦原正一の写真だ。二枚目の方はサングラス姿だ。
祐美は目を見開いた。写真をのぞき込む。
志津夫は期待を込めて、彼女を見つめていた。もしかしたら、どこかで目撃したのでは、と期待する。
だが、彼女は首を振った。
「知らない。見たことないけど……」
「そうか……」
落胆を禁じ得なかった。肩の線を落としてしまう。志津夫は黙って、写真をバッグにしまった。
そこで、何となく会話が途切れた。
祐美は、伯川神社の方に視線を向けなおした。また、徐々に唇の線が歪んでいく。愛嬌《あいきよう》たっぷりの可愛い丸顔なのだが、それが台無しになってしまった。
彼女は脳裡に、白川伸雄の惨殺死体を思い浮かべているようだった。その表情から、犯人に対する憎悪と嫌悪がうかがえた。知人が殺されたのだから、それは当然の反応だろう。
志津夫は、ふと思いついた。一応、ここでも計測作業をやっておくべきだろう。
ソフト・アタッシュバッグを肩から下ろすと、カード型GPSを取り出した。
GPSのボタンを押した。電子音。高度二万キロに浮かぶ軍事衛星ナブスタの電波を捉《とら》える。二秒後、再び電子音がして、液晶画面に数値が出た。
[N35、39、27]
[E138、36、03]
稲川祐美がいつの間にか振り向いていた。興味を引かれたらしい。可愛い目を見開いて、志津夫の手元をのぞき込んでくる。
「ポケベル?」
「いいや、GPSさ。カー・ナビゲーションと同じ仕掛けだ」
「ああ、人工衛星からの電波を捉えるやつだね。でも、地図は出ないの?」
「これをノートパソコンにつないで地図ソフトと連動すれば、現在位置の地図も見られるよ」
志津夫はデジタルカメラを取り出した。伯川神社にレンズを向けて、撮影する。
カラー液晶モニターに、六〇〇万画素で捉えた石造りの鳥居が再生された。鮮明に撮れたのを確認して、志津夫はカメラ内蔵のマイクに、伯川神社の緯度経度を吹き込んだ。
祐美が目を見開いた。
「うわ。カメラで録音もできるんだ」
志津夫は微笑した。
「まあね」
「でも、何のためにそんなことを?」
志津夫は説明してやった。
「由緒不明の神社や祠《ほこら》は縄文時代からの祀《まつ》り場だった可能性があるという仮説を、ぼくは立てているんだ。神社同士の位置関係から、それが割り出せるだろうとね。地図に、ちゃんと記載されていない神社や祠も多いから、GPSで測る必要があるんだ。伯川神社がこれに該当するかどうかは別として、データだけは記録しておこうと思ってね」
祐美は大きく、うなずいた。唇の片側に笑みを浮かべる。
さっきまでの彼女は、明らかに知人の惨劇にショックを受けた様子だった。だが、気持ちを切り替えたらしい。得意げな顔になって、言う。
「北緯三四度三二分だね」
志津夫は、その返答に思わず振り返った。デジタルカメラをバッグにしまおうとした手が止まってしまう。
「知ってるの?」
「ええ。太陽の道≠ナしょ?」
「そうか。民俗学科だもんね。関連する本ぐらいは読んだだろうね」
北緯三四度三二分の東西線上には、大阪の大鳥神社、奈良の三輪山と大神《おおみわ》神社、三重県の伊勢神宮、伊勢湾の神島などの古代からの重要な祭祀《さいし》施設が並んでいる。また、このラインに沿って「日置」という地名が多いのも特徴だ。「日置」は古代の太陽祭祀にかかわった氏族の名である。明らかに太陽信仰の証拠が見られるのだ。
そこで、この北緯三四度三二分の東西線を太陽の道≠ニ呼ぶ学者もいる。
志津夫は笑顔を浮かべた。知識を分かち合える人間に出会うのは嬉《うれ》しいものだ。特に、こういう鬱屈《うつくつ》するような事件に遭遇した後だと、なおさらだ。
志津夫はカメラをバッグにしまい、肩に担ぎなおして、説明した。
「太陽の道≠怪しげなトンデモ仮説と見る人も多いけどね。太陽信仰の跡は、やはりこういう形で残っているだろうと、ぼくは考えている。
たとえば、太陽の道≠フ東の端にあるのが伊勢湾の神島だ。この島では大晦日《おおみそか》から元旦にかけてゲーター祭り≠ニいう奇祭が行われる。直径二メートルほどの輪を空中に放りあげて、大勢の男が竹竿《たけざお》で叩《たた》くものだ」
志津夫は、急に能弁になってしまう。己の趣味を語るのは誰にとっても無上の快楽だ。
祐美も民俗学専攻だけあって、この手の話題に興味があるようだ。志津夫の話を、うなずきながら聞いている。そして微笑し、言った。
「感染|呪術《じゆじゆつ》の一種だね。太陽のシンボルである輪を刺激することで、太陽そのものを刺激できると、古代人は考えた」
感染呪術とは、文化人類学者ジェームズ・フレイザーが命名したものだ。日本流の「丑《うし》の刻参り」などの呪術も、これに分類される。たとえば本人の足跡や髪の毛、爪、持ち物などに、本人との因果関係があると信じて行う呪術などだ。
祐美が胸を張って言った。
「実は、かく言う私も研究テーマは感染呪術なんだ」
「へえ。意外だね」
志津夫は、彼女の顔をのぞき込むポーズを取った。
祐美は瞬《まばた》きして、
「意外って?」
「いや、今時、そんなに真面目な学生がいるとは思わなかった。何て言うか、勉強そっちのけでロックバンドの追っかけでも、やってるように見えたから」
祐美の表情が固くなった。志津夫を睨《にら》み、指さして言った。
「あなたには人を見る目がない」
「そりゃ失礼」
「学者先生の割には、ものの見方が浅はかだね」
「耳が痛いな」
「シニフィアンとシニフィエの浅はかな関連づけで、表層的なコード解釈しかない。構造主義の元祖ソシュールによれば……」
「わかったわかった。その辺で勘弁してほしいね」
志津夫は苦笑し、片手で拝んだ。
祐美も表情を和らげ、甲高い声で笑った。
おかげで、暗鬱だった空気が徐々に吹き払われていった。元々、彼女は陽気なタイプなのだろう。伯川神社の悲劇も、表面上は忘れたふりをするよう努めているらしい。
ふいに祐美は両手を広げて、訴えるようなポーズをとった。
「聞いてくれる? 私には新しい仮説があるんだ。きっと驚くよ」
「ほう。じゃ、聞こうか。卒論の予備審査だ」
志津夫は、からかい気味に言った。
祐美は少し膨れ面になった。意地になったようだ。挑戦的に言う。
「絶対に驚くよ。賭《か》けてもいい」
「だから、拝聴するよ」
「蛇のウロコ伝説のことだよ。これも感染呪術と見なせるのではないか?」
志津夫は目を見開いてしまった。一瞬、頬とこめかみが感電したみたいに痙攣《けいれん》する。
「何! 何だって?」
祐美は人差し指を立てて、講義口調で言った。
「つまり、『平家物語・巻八』や『源平盛衰記』にも出てくるでしょう。九州の名家、緒方氏《おがたうじ》や越後の名家、五十嵐氏《いがらしうじ》は祖先が大蛇であると自称した。そのしるしとして代々ウロコ形のあざが身体にあるともいわれ、家紋もウロコをかたどっていた。つまり、神紋として蛇のウロコを身体に授かった、と考えていたらしい」
祐美は得意げに志津夫を指さし、
「あ、やっぱり驚いた顔してる」
「え? あ、ああ」
志津夫は自分の頬に手を当てた。顔色が変わっていることを意識する。胸の動悸《どうき》も早くなっていた。
確かに驚いてしまった。祐美の言い分とは、別の意味で。
志津夫は一瞬、自分の右手の甲や、左胸の辺りを見た。そこにあるウロコが、バンソウコウや衣服を透して見えるような気分だ。
呼吸が荒くなっていた。肩が上下しそうになる。それを静めて、言った。
「よく勉強してるね」
「ふふん」
祐美は鼻を誇らしげに高々と上げた。説明を続ける。
「『源平盛衰記』にはこうある。蛇の子の末を継ぐべき験《しるし》にありけん、後に身に蛇の尾の形と鱗《うろこ》のありければ、尾形三郎と云う≠ニ。それが緒方氏の名前の由来だそうだよ」
「ああ、そうだ」
志津夫の顔が表情を失い、固くなっていた。昨日から考えていたことを、初対面の彼女に見抜かれた気分だ。もちろん偶然の一致に過ぎないのだろうが。
祐美は人差し指を立てて、
「『通梅参詣記』も、そうだよ。これは、中世に伊勢神宮に参拝した僧侶《そうりよ》の記録だけどね。こういう記述があるんだ。
斎王がやすんだ寝床のうえには毎朝きまって蛇のウロコが落ちていて、これは伊勢の大神が夜ごと通っているからだ、という噂話がある、と記述している。伊勢の大神は女神であるはずなのに、このことは大いに不審だ、という感想も述べている。まあ、いずれにせよ、蛇のウロコは神が現れた証拠や、神との関わりを示す証拠と見なされていたわけ」
祐美はそこで間をおいた。データはここまでと区切りをつけたらしい。結論に入った。
「問題は、これも感染呪術の一種と分類し、位置づけられるかどうかなんだ。少なくとも蛇のウロコが感染するという観念として位置づけられるかどうか。……ね、いい着眼点でしょう?」
「あ、ああ」
志津夫は素直に返事ができない。また自分の右手の甲や、左胸の辺りを見てしまう。この場で男性ストリップショーを開催し、ウロコを見せてやったら、祐美はどんな顔をするだろうか?
今、祐美が言ったようなことは、すでに志津夫も推測していた。『平家物語・巻八』や『源平盛衰記』、『通梅参詣記』などの記述内容と、自分の身に起きた症状とは何か関連があるのではないか、と……。
祐美は続けて言った。
「もちろん医学的に考えれば、魚鱗癬《ぎよりんせん》と呼ばれる病気かもしれない。これは皮膚がウロコ状になる遺伝病で、ほとんどの場合、生後まもなく症状が始まるそうよ」
「いや、魚鱗癬じゃない」
志津夫は思わず口走った。言ってから後悔した。
「え?」
祐美が不審な表情を浮かべていた。志津夫を凝視する。相手の様子がおかしいのにやっと気づいたようだ。
「いや、何でもない」
志津夫は首を振った。口内がサウナ風呂《ぶろ》に変わったようだ。額に汗が浮き出る。
幸い、祐美はそれ以上は追及してこなかった。腕時計を見る。肩をすくめた。
「あ、ちょっと電話しなきゃ。じゃね」
祐美はウーロン茶を飲み干すと、スチール缶をゴミ箱に投げ入れた。軽く手を振り、小走りに駆けていく。
祐美がダッシュしていく方向を見ると、一〇〇メートルほど前方に電話ボックスがあった。
どうやら、祐美は携帯電話やPHSを持っていないらしい。それらは、最近では若い女の子の必須アイテムといった風潮がある。だが、彼女は珍しい例外のようだ。
志津夫は、手の甲で額の汗を拭《ぬぐ》った。狼狽《ろうばい》を隠しきれない表情だった。
もちろん祐美は純粋に好奇心から、蛇のウロコ伝説を語っただけだろう。だが、彼はそのウロコが生えてしまった当事者≠ネのだ。昨日から保っていた平常心が、またぐらついてしまった。
ふいに、背後で物音と声がした。
「あれ? 出ない」
振り向くと、ジュースの自動販売機と格闘している若い男がいた。茶髪でTシャツにジーパンの格好だ。Tシャツの背中には、スフィンクスの写真がプリントしてある。
二〇歳前後らしい若者だ。突き出た鼻が特徴的で、犬を連想させる風貌《ふうぼう》だった。近辺に住む学生らしい。
若者は次々にボタンを押しまくっている。だが、飲み物は入手できないでいた。
「何だ、故障かよ」
若者は拳《こぶし》でボタンを叩《たた》いた。
見かねて、志津夫は声をかけた。
「それは、そっとボタンを押すのがコツらしいよ」
「へ? そうなんですか」
若者は言い、今度はできるだけゆっくりとボタンを押した。
無反応だった。次々に製品名ボタンを試した。だが、結果はすべて外れだった。
「やっぱり、ダメだ」と若者。
「いや、そんなはずはない」
志津夫はそう言って、前に進んだ。
「さっきは、それでうまくいったんだ。このウーロン茶もそれで出たんだから。ちょっと、どいてください」
志津夫は自分のウーロン茶を飲み干して、空き缶をゴミ箱に捨てた。若者の代わりにボタンに指を当てる。
「ウーロン茶?」
「ええ」と若者。
押した。ごく、ゆっくりと。
やはり機械は作動しなかった。
志津夫は首をひねった。ふと思いついて祐美の動作を真似てみる。両手の親指と人差し指で正三角形を作った。両手の人差し指で、そっとボタンを押してみる。
機械は沈黙だけを返した。
志津夫はJR中央本線に沿って歩きだした。野球帽の女子大生、稲川祐美が戻ってくる前に、その場を立ち去ったのだ。
可愛い娘なのだが、また蛇のウロコ伝説について議論を吹っかけられるのは、たまらなかった。その話をこれ以上、聞きたくはなかった。たぶん、これっきり会うことはないだろう。
本当はこの近辺の主婦たちにも、葦原正一の写真を見せて、聞き込みがしたかった。しかし、それをやると警察に不審な目で見られそうだった。警察も、今は初動捜査の聞き込みに全力を注いでいるだろうから。
そこで志津夫は、JR酒折駅付近に狙いを定めた。父、正一が、白川伸雄の知人ならば、この駅を利用するはずだ。当然、目撃者がいるはずだ。中には、会話を交わした人間もいるだろう。
五分ほど歩いて、JR酒折駅に戻った。
ここは駅といっても、小さな平屋の建物があるだけだ。プラットホームも二つしかない。周囲にいくつかあるビジネスビルの方が、建物としては遥《はる》かに大きい。
とりあえず、駅員に葦原正一の写真を見せることにした。
改札係は、丸顔にメガネをかけた四〇代の男だった。彼はサングラス姿の写真を見た瞬間、うなずいた。
「あ、見たことあるな」
「本当に!」
志津夫は思わず、身をのりだしていた。血液が沸き立ち、沸点に達する。失踪《しつそう》した親父の背中に、手が触れた感覚だ。
志津夫は息を荒くしながら、訊《き》いた。
「つまり、この人は、この駅をよく利用していたということですか?」
「いや、たまに見かける程度ですね。月に一回とか、そのぐらいだ」
残念ながら、それ以上の情報はなかった。だが、希望の光が見えてくる。丹念に聞き込みをすれば、何かしら、つかめるかもしれないではないか。
茨城県で遭遇した奇妙な女、真希のことを思い出した。彼女は「現地で聞き込みをしたが、何も手がかりはなかった」と言っていた。たぶん真希は、この酒折駅を見逃していたのだろう。
志津夫は、駅前の道路を少し歩いた。期待に満ちた目で辺りを見回す。
歩道がイチョウやプラタナスなどの街路樹で飾られていた。商店街もあった。日本中、どこにでもありそうなラーメン屋もある。
ラーメン屋で遅い昼食を摂り、また聞き込みをする。だが、店主は「さあ、見覚えがないずら」と言った。
語尾に「ずら」が付くのは甲州弁の特徴だ。長野県や静岡県とも共通する方言だ。だが、この地でも方言は消えつつあるらしい。死んだ白川伸雄も標準語で通していたし、刑事や駅員たちも同様だったからだ。
喫茶店やサンドイッチ店、スーパーマーケットなどにも寄った。おかげで、志津夫は標準語と甲州弁の両方を聞くことができた。しかし、目撃情報はなかった。
いささか、がっかりする。どうやら正一は、この付近で外食したり、買い物したりといった行動は取っていないらしい。
歩いているうちに、家電用品店を見つけた。小さなショーウインドウに、テレビやビデオデッキ、パラボラアンテナが並んでいる。コピー機や、普及品のデジタルカメラもあった。
店の前で足が止まった。
志津夫の脳裡《のうり》に、例のビデオ映像の一コマが浮かんだ。縄文遺跡を見学しに行った白川伸雄は浄衣《じようえ》姿で、普及品のデジタルカメラを手にしていたのだ。
その家電用品店のショーウインドウにあるカメラを観察しなおした。外形から見て、それは白川伸雄の所持品と同じメーカーの製品のようだ。
もしかすると、この店で買った品物では? とすれば、何か情報が聞けるのでは?
志津夫は店のドアを開けた。
「あ、いらっしゃいませ」
店主が応《こた》えた。
白髪頭でメガネをかけた六〇代の男性だ。白いゴルフウエアに、茶色のスラックス、革のスニーカーといった服装だった。
彼は長年、個人商店を営んできたがゆえに、物腰が低くなったタイプのようだ。面と向かって罵倒《ばとう》されても、にこにこ笑って応対しそうな感じがする。
店は一〇メートル四方ほどの面積だった。棚が並んでおり、ハイテク日本の象徴品の数々で埋まっている。
店主は言った。
「あ、ちょっと、お待ちください。……江口《えぐち》さん、お待たせしました」
店主はレジ・カウンターに、メーカー品の段ボール箱を載せた。箱はビニールひもでしばって、プラスチックの取っ手が付けてある。箱のイラストで、小型の事務用コピー機だとわかった。
江口と呼ばれた客が、店内の片隅で振り向いた。
五〇歳前後の中年男だった。その年齢にしては、いい体格だ。胸板も厚く、腕も足も太い。
顔もビヤ樽《だる》みたいな形状で、ちょっと日本人離れしている。顔の大きさの割には、目鼻立ちが小さめなのが印象的だ。目つきに険があり、人に好かれる性格ではないように思えた。
服装はコーデュロイのスラックスに、ポリエステルのジャンパーだった。色は上下とも薄いグレーだ。
江口という客はレジ・カウンターに行き、段ボール箱を受け取った。すでに代金は払った後らしい。
「ありがとうございました」
店主が頭を下げる。
「ええ。じゃあ……」
そう言って、客は片手に段ボール箱をぶら下げて、カウンターを離れた。
店主が笑顔で、志津夫に言った。
「さて、何でしょう?」
志津夫は頭を掻《か》いて、
「いや、申し訳ないが、客ではないんです。訊きたいことがあって」
「はい、はい」
店主の笑顔は変わらなかった。
一方、コピー機を買った客は、すぐに店を出る気配はなかった。どうやら最新型の大型テレビが気になるらしく、それを眺め始めたのだ。画面では、芸能人のスキャンダルがいつもどおり放送されていた。
志津夫はレジ・カウンターに父親の写真を載せて、単刀直入に訊いた。
「この辺で、この人を見かけませんでしたか?」
店主は、しばらく写真に見入っていた。やがて首を振った。
「さあ、見覚えがありませんが……」
「そうですか……」
また落胆を味わった。当てが外れる度に、背骨が一本ずつ無くなっていくようだ。現場の刑事たちの苦労や心情がわかるような気がした。
それでも一応、食い下がってみた。
「この人は葦原正一という名前で、伯川神社の白川伸雄さんの知り合いらしいんですが……」
白髪の店主が顔を上げた。目を見開き、驚愕《きようがく》した表情だ。
「あ、あの殺されたとかいう、神主の白川さんの?」
「はい」
「あの、あなたは警察の方?」
店主の笑顔が消えていた。上目づかいになり、少し警戒するような顔だ。
志津夫は手を振り、
「いや、ぼくは大学の講師です。今日、白川伸雄さんと会う約束をしていたんですが、結局、会えなかったわけです」
「それは、それは……。いや、世の中には、ひどいことをする奴がいるもんですな。神主さんを殺すなんて。しかも、あの白川伸雄さんをですよ。いいお客……。あ、いやいや、いい人だったのに……」
店主は、ひとしきり殺伐とした世相を嘆き、次いで故人の思い出を語ってくれた。
やはり、白川伸雄はこの店の顧客だったのだ。だが、この白髪頭の店主とプライベートな交友関係などはなかったらしい。
店主は言った。
「いや、私も、さっき神社を見に行ったんですよ。でも、やっぱり警察が封鎖してました。それに何一つ詳しいことはわからないというから、仕方なく戻ってきたんです」
志津夫は訊《き》いた。
「もしかして白川伸雄さんは、このお店でデジタルカメラを買ったのでは?」
「ええ。あれは一年前かな。白川伸雄さんは、年の割には好奇心|旺盛《おうせい》でね。デジタルカメラも、こりゃおもしろいとか言って、買っていきましたよ」
「そうですか……」
志津夫は軽く、ため息をついた。
デジタルカメラの出所は、これでわかった。しかし、父親の消息には、もう一歩というところで届かないのだ。
志津夫は、仕方なく写真をしまおうとした。
だが、白髪の店主は勘のいい人物のようだった。彼は、正一の写真を指さして、
「要するに目的は、この人ですね? この人が白川伸雄さんと知り合いだったらしい、ということですね?」
「ええ」
「だったら、この辺よりも自宅の近所で訊いた方が何か、つかめるんじゃないですか?」
「え? あ、そうか」
志津夫は大きくうなずいて、
「つまり、神主さんといえども、夜は自宅に帰るわけですからね。自宅に友人知人を招くことだってあるし」
「ええ。そうですよ。……もっとも昨日は、あの人は夜遅くまで神社にいたんですかね。神社で殺されたというのなら、そういうことになるんでしょうが……」
「ええ……」
二人は何となく沈黙してしまった。深夜の、その光景を思い浮かべてしまったのだ。暗い神社の境内で、宮司が撲殺される瞬間の映像。映画の描写のように鮮血が飛び散ったのだろう。
志津夫は気を取り直して、訊いた。
「ところで津田という名前の人は、ご存じありませんか? 津波の津=A田んぼの田≠ナ、津田です。これも白川伸雄さんの知り合いらしいんですが……」
店主は不審な表情を浮かべた。宙を睨《にら》んでいる。だが、心当たりはないらしい。
「津田? 津田……。さあ、知りませんね」
店のドアを開く音がした。
志津夫が振り返ると、片手に事務用コピー機の段ボール箱を持った客が出ていくところだった。
後ろ姿で見ると、彼の肩幅の広さがより目立っていた。後ろ手でドアを閉めて、遠ざかっていく。
一拍遅れて、店主が言った。
「あ、ありがとうございました。江口さん」
そして白髪の店主は、志津夫に向かって愛想良く言った。
「伯川神社から線路沿いに、東に向かって一〇〇メートルぐらい歩けばいいんです。そこが白川伸雄さんの自宅ですよ」
JR中央本線の南側は住宅や小規模なビジネスビルが目についた。逆に北側は野菜畑などが多い。スギやアカマツ、ヒイラギなどが密生している林もあった。
いくつかの道は、車一台がやっと通れるほど狭かった。そんな道を通行止めするみたいに、軽トラックが駐車している。近所の農家のものだろう。
やがて志津夫は、観光客向けの史跡案内図を見つけた。『板垣の里』というタイトルだ。
英雄ヤマトタケルが立ち寄った場所とされる酒折宮、武田信玄が創建した善光寺、梅の名所として知られる不老園、甲州ブドウにまつわるブドウの碑の位置などが記されていた。
途中、通行人に道を尋ねて、目的地の位置を再確認した。
五分ほどで目的地に着いた。表札に「白川伸雄」とある。
木造モルタル造りの二階建てだ。赤茶色の瓦屋根《かわらやね》とクリーム色の壁、アルミサッシの窓や玄関で構成されている。築十五年といった佇《たたず》まいだ。
志津夫は玄関前に立って、腕組みした。唸《うな》ってしまう。
できることなら、この家の中に踏み込んで父についての手がかりを捜したかったのだ。何らかのメモなどが残っているかもしれない。
だが、捜査令状を持たない志津夫が、それをやったら不法侵入になってしまう。しばらく玄関を見つめていたが、吐息をついて断念した。これは最後の手段だと考えるしかない。
周囲を見回してみた。
幸い、制服警官や刑事たちの姿などはなかった。聞き込みをするには、ちょうどいいタイミングだ。それにこの辺りの画像を記録しておけば、後で手がかりらしいものが見つかるかもしれない。
一眼レフ型のデジタルカメラを取り出し、撮影を始めた。家の周辺は民家と野菜畑が多い。少し離れたところにスギやアカマツの林がある。
北の方には八人山と呼ばれる円錐形《えんすいけい》の山があった。プリンみたいな形状だ。濃い緑に覆われている。
あれも、かつてはカムナビ山だった可能性があるのでは? そう思いつつシャッターを切った。
振り向いて、また家の写真を撮ろうとした。できなかった。眼前に人が立っていたからだ。
志津夫はカメラのファインダーから目を離した。
先ほど家電用品店で見かけた中年男だった。確か江口という名前だったはずだ。
肩幅が広く、胸板の厚い体格だった。円筒形のような顔も特徴的だ。だから、すぐに思い出すことができた。
男は、先ほど買ったばかりの小型コピー機の段ボール箱を右手にぶら下げていた。疑《うたぐ》り深そうな目で、志津夫を見ていた。
視線が合うと、中年男は瞬《まばた》きした。
志津夫が訊いた。
「何か?」
「あ、いや、何でもないずら」
方言で応《こた》えた。見かけどおり太い声だ。男は身体の向きを変えて、立ち去りかけた。
志津夫は肩をすくめた。また撮影を続けた。だが、どうも背後に視線を感じるのだ。
振り向くと、例の中年男がまだいた。志津夫の方を遠慮がちに見ているのだ。
志津夫が再度、訊いた。
「あの、何かご用ですか?」
「あ、いや」
男は萎縮《いしゆく》していた。生まれたての子猫みたいに弱々しい態度だ。立派な体格なのに、まったく似つかわしくない感じだ。
やがて男は意を決したらしく、訊いてきた。
「そのカメラは? 何だか見慣れない代物ですけど」
「あ、これですか? デジタルカメラですよ」
「それがデジタルカメラ……」
男はオウム返しに言った。眉間《みけん》にしわを寄せている。
志津夫は説明した。
「フィルムを使わないんです。半導体メモリーに画像を記録して、テレビやパソコンにケーブルをつないで、画面に再生するんです。静止画像のビデオカメラだと考えればいいと思いますけど」
男は苦笑した。
「一応、お店でもそういう説明は聞きました。でも、どうも使い勝手がわからなくて……。その……。見たところ、店で見たのと、あなたのとは、ずいぶんデザインが違うみたいだけど」
「これは一眼レフ型の高級品なんです。まあ、普通の人には必要のない代物ですよ」
「ふうん」
男は憮然《ぶぜん》とした顔だ。
何となく志津夫には事態が把握できた。たぶん志津夫がこの付近を撮影しているので、地元住民である男が不審に思ったのだろう。カメラについて質問してきたのは、話しかける口実だったようだ。
志津夫はどう説明しようかと思いつつ、ふと男の左手を見た。
目を見開いてしまう。呼吸が止まった。心臓も二拍分、停止したようだ。
中年男の左手の甲には、ガーゼ付き大型バンソウコウが貼ってあったのだ。
志津夫の胸中では、心臓が痙攣《けいれん》し始めた。肋骨《ろつこつ》や首の骨まで、一緒に震動しているような気がする。
いやでも、ある疑念が湧いた。
この中年男も例のウロコがあって、それを隠しているのか? つまり青い土偶に触ったことがあるのか? そしてこの男は、志津夫の右手の甲にあるバンソウコウを見て、自分と同じウロコの症状ではないか、と怪しんで接近してきたのでは?
そうした疑念が、志津夫の頭の中を占領した。一瞬、視界が歪《ゆが》んだ。遠近法の狂った世界に放り込まれたみたいだ。
志津夫と相手の男は、不自然な沈黙状態に陥ってしまった。その間、志津夫は頭をフル回転させていた。何とか、情報を聞きださねばならない。
志津夫は言った。
「あの、ぼくは葦原志津夫と言います。東亜文化大の講師です」
男は片眉《かたまゆ》を上げた。
「あなた、大学の先生? 専門は?」
「比較文化史学です。まあ、考古学の一種ですよ」
急に、男の目が輝いた。興味を惹《ひ》かれたらしい。笑みを見せ、頭を下げる。
「あ、私は江口|泰男《やすお》と言います。商売は農業でトマトを作ってます。……そうですか、葦原さんね。考古学者か」
江口は何度もうなずいていた。やがて向こうから質問してきた。
「じゃあ、白川伸雄さんのところには取材か何かで?」
「ええ。そんなところです」
「ああ、なるほど……。いや、とんだことになったずら」
江口は首を振り、吐息をついた。それ以上は言葉を並べようとしない。突然の殺人事件に、彼もショックを受けている様子だった。
今度は、志津夫が質問した。
「失礼ですが、あなたは白川伸雄さんのお知り合いですか?」
「いや、知り合いというほどでは……。まあ、近所だから顔は知ってましたが……」
「そうですか……。ところで……」
志津夫はバッグから二枚の写真を取り出した。
本音を言えば、江口泰男の左手のバンソウコウが気になってしょうがないのだ。だが、それは後回しにした。まずは父について訊《き》くことにする。
志津夫は、葦原正一の写真を見せて、
「ところで、この人はご存じないですか? 見覚えは?」
江口は写真をのぞき込んだ。目立った反応はなかった。ちょっと小首をかしげただけだ。
「さあ、見たことないが……」
相手の目には戸惑いの色が浮かんでいた。どうやら本当に知らないらしい。
志津夫は、さらに訊いた。
「葦原正一という名前に聞き覚えは?」
江口は今度は、小首を逆方向にかしげた。
「いや、それも聞いたことないずら」
「そうですか」
志津夫はまた肩を落とした。
依然として、父に関する聞き込みは空転するばかりだった。せっかく、この土地で有力な手がかりをつかみかけたのに、葦原正一の存在は空気に溶け込んだように消え失せていくのだ。
もしかすると白川伸雄と葦原正一は、彼らの交友関係を誰にも気づかれないよう、注意していたのかもしれない。だとすると、今後も情報を得るのは望み薄だった。
志津夫は質問を変えることにした。事件についての疑問をぶつけてみる。
「実は白川伸雄さんを殺した犯人のことですけど、土蔵の古文書とかを荒らしているんです。本殿にも侵入した形跡があるそうです。どうも何かを盗んでいったらしい」
江口が瞬きした。
「盗んだ? 盗んだ……」
そう言いつつ周辺を見回した。
「何か心当たりでも?」と志津夫。
「いや、それを考えていたずら。……あそこに何か重要なものがあったかどうか……」
「何か、なかったですか?」
志津夫は訊いたが、相手は首をひねっている。
気のせいか、江口の様子がわざとらしい感じもする。直感的に疑惑のオーラが見えた。それが相手の周囲に溢《あふ》れている。
江口は答えた。
「いや、聞いたこともないずら」
「そうですか」
ふいに江口は瞬きし始めた。言葉に詰まりながら、逆に訊いてくる。
「ええと、その……。土蔵が荒らされていたそうですが、あなたはそれを見たんですか?」
志津夫は肩をすくめて、
「ぼくが遺体の第一発見者なんです。警察に通報したのも、ぼくです」
「ああ、なるほど」
江口は大仰にうなずいた。しかし、瞳《ひとみ》の奥には、まだ志津夫のことを怪しんでいるような雰囲気がある。
志津夫は思い切って、核心を突いた。
「以前に、伯川神社で青い土偶とかを見ませんでしたか?」
「え? 青い土偶?」
「そうです。縄文式の遮光器土偶です。表面が、青いガラスに覆われているものです。不透明で鮮やかな色のブルーガラスなんですが」
志津夫は、相手の反応をうかがった。もしも、江口がブルーガラス土偶に触れてウロコに感染していたならば、青い土偶というキーワードに、絶対にショックを受けるはずだ。
だが、江口は顔色も変えず、平然としていた。首を傾けて、答えた。
「さあ、初耳だな……。第一、神社に縄文土偶なんて聞いたこともないし」
志津夫は相手の表情を凝視していた。
もし、これで江口がウソをついているとしたら、大変な演技力と胆力の持ち主だろう。さっき志津夫は、祐美という娘から蛇のウロコ伝説を持ち出されただけで、動悸《どうき》が激しくなり、冷や汗をかいたぐらいなのだ。
だが、眼前の江口には、動揺した雰囲気はまったくなかった。
志津夫の思考は混乱してきた。ぼくの見込み違いなのか? それとも……。
「オッス」
ふいに甲高い声で、男の子みたいな挨拶《あいさつ》が背後から聞こえた。
志津夫は振り向いた。
野球帽の美少女、稲川祐美が歩いてくるところだった。まん丸の顔に笑みを浮かべ、片手を挙げている。彼女の背景にはビニールハウスが三列に並んで、遠近法を成していた。
一瞬、志津夫の身体から、冷や汗が数ミリグラムほど放出された。先ほどの苦手意識が蘇《よみがえ》ってくる。
祐美が呼びかけてきた。
「何だ、ここにいたのか。いつの間にか、いなくなるんだもん。まだ卒論の予備審査は終わってないよ」
「あ、そうか。そうだったね」
志津夫は苦笑する。
一回、深呼吸した。予想よりも心臓は落ち着いていた。
いつの間にか、心の準備はできていたようだ。前回は不意打ちだったから、うろたえたのだ。今なら蛇のウロコ伝説の話題が出ても、表面上は平静な態度を保てるだろう。
江口泰男は、いぶかしげに祐美を見ていた。ジーンズの上下に野球帽という中性的な格好をしている娘に、違和感を覚えたのかもしれない。どうやら、この二人は知り合いではないらしい。
志津夫は両者を見比べた。一応、彼女を江口に紹介しておくことにする。
「あ、こちらは稲川祐美さん、民俗学専攻の学生だそうです。ぼくとは、さっき知り合ったばかりだけど。……こちらは江口泰男さん、亡くなった白川伸雄さんとは顔見知りだそうだ」
江口泰男は軽く頭を下げた。
「よろしく」
だが、祐美は挨拶しなかった。突然、人間大の毛虫にでも出くわしたような顔になっている。立ち尽くしたままだ。妙に間が空いてしまう。
「どうしたの?」と志津夫。
「……あ、いや、何でもない。よろしく、若輩者の祐美です」
彼女はお辞儀を返した。だが、硬い表情だった。なぜか、江口に対して距離をおこうとする雰囲気がある。少し気になったが、今は問いつめるわけにもいかない。
志津夫は、江口への質問を再開した。
「江口さん、もしかして津田という名前に心当たりはないですか?」
「津田?」
「ええ。実は白川伸雄さんが社務所のカレンダーにメモを残しているんです。今日の午前一〇時にぼくと会う約束も書いてありました。そして、それとは別に、昨日一日の午後八時、津田、というメモもあったんです。津波の津≠ノ、田んぼの田≠ナ、津田です」
江口はまた太い首をひねり、次いでその首を振った。特に不自然な態度ではなかった。
「津田ねえ。聞いたこともないが」
「そうですか」
志津夫は切り上げ時だと思い、最後のカマをかけようとした。
「そうですか。じゃ、これで」
軽くお辞儀する。そして思いついたように言った。
「ところで、そのバンソウコウはどうされたんです?」
相手の左手を指さす。
「ああ、これね」
江口は目立った反応は見せなかった。左手に何気なく視線をやっただけだ。
「農作業中に、すりむいたんです。……じゃ、これで」
江口は一礼すると回れ右した。そのまま歩き去っていく。
志津夫は唖然《あぜん》とも憮然《ぶぜん》ともつかない顔になってしまった。瞬《まばた》きを繰り返す。
少しは動揺するかな、とも思ったのだ。だが、完全に当てが外れてしまった。今の一連の江口の態度や反応をどう解釈すればいいのか、わからなくなった。
民家や野菜畑、ビニールハウスを背景に、江口泰男の後ろ姿が遠ざかっていった。彼は体格はいいのだが、猫背で肩を落としているため、何となく寂寥感《せきりようかん》が漂っている。
そう言えば当初、江口は妙におどおどした態度だった。それも気になった。どうも、江口の言動には芝居の部分と、そうでない部分とが混在しているように感じられた。
祐美は、江口の背中を睨《にら》んでいた。腕組みして、唇もすぼめている。酸っぱいものでも食べたような表情だ。
志津夫が訊《き》いた。
「どうかしたの?」
祐美は顔を寄せて、小声で囁《ささや》いた。
「あの人とは知り合い?」
「いや、君と同じさ。たった今、知り合ったばかりだ」
「そう」
「何かあるのかい?」
祐美は片手で野球帽のつばをつかんだ。帽子の位置を微修正する。横目で意味ありげな視線をよこした。
「何だい?」と志津夫。
祐美は口元を歪《ゆが》めて、
「江口泰男が、白川伸雄さんの顔見知りとはね。本当かな?」
志津夫は少し驚いた。
本人が聞いていないとはいえ、祐美は年上の男を呼び捨てにしたのだ。しかも、祐美の声には明らかに侮蔑《ぶべつ》が混じっている。
祐美は、遠ざかる江口を指さし、さらに声をひそめて、
「知らないの? 江口泰男と言えば一〇年前に偽書騒ぎを起こした男だよ。私も名前を聞くまで気づかなかったけど。ほら、あの『佐久大神伝誌《さくおおかみでんし》』事件」
「え? あれはあの人が!」
志津夫は振り返った。
江口の後ろ姿を見つめ直す。ちょうど民家の陰に隠れて、彼の姿が見えなくなるタイミングだった。
一部の研究家が「古史古伝」と呼ぶ文献群がある。
『竹内文書』『上記《うえつふみ》』『九鬼文書』『宮下文書』『秀真伝《ほつまつたえ》』『物部《もののべ》文書』『但馬《たじま》古事記』『甲斐古蹟考』『先代旧辞本紀』『東日流外三郡誌《つがるそとさんぐんし》』などなどだ。
いずれも『古事記』『日本書紀』などと内容が似ていながらも細部が異なる文献だ。
おおかたの学者は、これらの「古史古伝」を認めてはいない。後世の人間の偽作だというのが定説だ。
そして、新たに「古史古伝」の仲間入りをしたのが『佐久大神伝誌』だった。
これは一〇年前、江口泰男が自宅の土蔵から発見したという触れ込みで、世間に公表した文献だ。当時のマスコミや古代史ファンらの関心を集め、ちょっとした騒ぎを巻き起こしていた。
『佐久大神伝誌』がなぜ、それほど注目されたのかと言えば、内容に正史との整合性が感じられる文献だったからだ。
山梨県で古くから信仰されてきた神に、佐久大神がある。別名サホヒコオウだ。
そして『佐久大神伝誌』には、佐久大神ことサホヒコオウは、古事記に出てくる悲劇の反逆者サホヒコと同一人物である、と書かれていたのだ。
古事記には以下のエピソードが記述されている。第十一代|垂仁《すいにん》天皇イクメイリヒコの皇后はサホヒメという名で、その兄はサホヒコという名だった。サホヒコは妹サホヒメを抱き込み、垂仁天皇を暗殺しようとしたが失敗した。結局サホヒコは妹サホヒメと共に砦《とりで》にこもったが、最後は火をかけられて焼死したという。
ところが『佐久大神伝誌』によると、この悲劇の反逆者サホヒコは焼死を免れ、生き延びたというのだ。
実は、サホヒコは古代大和王朝の追及を逃れて、甲斐《かい》の地に亡命したという。そして近畿の先端土木技術を導入して湖水干拓を行った。その業績により、サホヒコオウと呼ばれ、この地に独立王朝を創建した。
だが、サホヒコ王朝は短命に終わったという。第十二代|景行《けいこう》天皇オオタラシヒコの皇子であるヤマトタケルが甲斐にやって来て、サホヒコ王朝軍を打ち破ったのだ。甲斐はただちにヤマトタケルの支配下に入ったという。
その後、甲斐の人々は悲劇のサホヒコオウを偲《しの》んで、佐久大神という別名で祀《まつ》るようになったというのだ。
一〇年前、この『佐久大神伝誌』が出版された時、マスコミや古代史ファンの間ではセンセーションが巻き起こった。
注目された理由の第一点は、これが大和王朝に滅ぼされた、別王朝の視点で書かれた文献であることだ。第二点は、従来は実在性に乏しいとされてきたサホヒコやヤマトタケルを、『佐久大神伝誌』が実在の人物として記録していることだった。
古代史ファンたちにとっては、こういう文献が日本の各地に残っていても不思議はないはずだ、という思いこみがあったようだ。そこに強く訴えるものがあったらしく、『佐久大神伝誌』を信じる者も多かった。
当然、侃々諤々《かんかんがくがく》の論議となった。
しかし、皮肉なことにサホヒコ王朝と同じく、『佐久大神伝誌』も短命に終わった。
三年前、ある大学教授が、現代人の偽作だという証拠を山ほど指摘したのだ。たとえば『佐久大神伝誌』に収録されている挿し絵などだ。これらは後世の歴史書に載っている挿し絵と、構図や人物のポーズがそっくりなものが多数あったのだ。
冷静にそれらの事実を見れば、確かに『佐久大神伝誌』は偽書だった。
祐美が言った。
「まったく人騒がせだね。以来、あの江口泰男という人は、もう誰からも信用されてないらしいよ。一部のトンデモ本ライターとかは、まだ『佐久大神伝誌』を支持する立場を採っているけどね」
祐美は首を振った。世間の無情さに接した時のあきらめ顔だ。彼女は幼さの残る顔立ちだが、精神年齢は高くて、自立したタイプのようだ。
彼女は、また片手で野球帽のつばをつかんだ。微笑し、わざと低い声で言う。
「あんなのに近づかない方がいいよ。先生」
突然、電子音が鳴った。
志津夫と祐美は、同時にバッグやポケットを探った。志津夫は携帯電話を、祐美はポケットベルを取り出した。
志津夫は携帯電話の着信ランプが点滅しているのを見て、
「ぼくにかかってきたんだ」
祐美は肩をすくめて、ちょっと苦笑した。自分のポケットベルをしまう。
志津夫は通話ボタンを押した。
「はい。葦原ですが」
だみ声が言った。
「甲府署の佐治です」
「あ、何か?」
「お手数かけて申し訳ないが、ちょっとお話があります。どこかでお会いしたいんですが」
志津夫の脈拍がやや早くなった。
先ほど事情聴取が終わって、解放されたばかりなのだ。なのに、今さら何の話があるのか?
志津夫の想像力が、つい不吉な方向へ展開し始めた。脈拍がアップテンポになっていく。
だみ声が言った。
「葦原さん、今どこにいるんです?」
殺された白川伸雄さんの自宅前です。
そう答えそうになる。腹筋を引き締めて、我慢した。当たり障りのない答えを返しておく方が、無難だろう。
志津夫は答えた。
「JR酒折駅から歩いて一〇分ぐらいのところですが」
だみ声が言った。
「そうですか……。じゃ、今から三〇分後に、酒折駅前で会いましょうか……」
10
場所はJR酒折駅近くの喫茶店「チェシャ」だった。壁には「風と共に去りぬ」などの古い洋画ポスターが貼ってあり、窓際にはアンティークの古いラジオが置いてある。店内にはFMのクラシック番組が流れていた。
志津夫はデジタルカメラからPCカードを抜き取った。カードをノートパソコン側面のスロットに差し込む。指先をパソコンのタッチパッドにのせた。
隣には野球帽の祐美が座っていた。興味津々といった表情で、彼の作業を見守っていた。
志津夫は手を止めて、彼女を見つめた。お互いの目が合う。
「何?」と祐美。
志津夫は言った。
「もう一度、警告しておくけどね。白川伸雄さんの死体の写真だぞ。ここで君が卒倒したら介抱するのは、ぼくなんだよ」
「わかってるって」
祐美は鼻を鳴らして、
「私は、そんなヤワじゃない。以前、踏切自殺の現場を見たことあるんだ。線路も枕木《まくらぎ》も血だらけで、砂利の上に肉だか脳みそだかが飛び散ってた。一緒に見た友達が卒倒しちゃって、私が介抱したよ。撲殺死体ぐらい平気だって」
「本当かい?」
「本当だよ」
祐美は口をとがらせて言った。
志津夫は疑わしげに、彼女を見ていた。
こうなったのは、彼がつい口を滑らせたのが原因だった。
志津夫が酒折駅前に向かって歩き出すと、祐美もくっついてきたのだ。そして志津夫は歩きながら、殺人事件の現場をデジタルカメラで撮影した、と喋《しやべ》ってしまった。とたんに祐美が「見せて見せて」と騒ぎだした。かくて、この喫茶店でノートパソコンの電源を入れる羽目になった。
祐美がさらに言った。
「どうせ写真だろ。現物じゃないんだ。私はもっとひどい死体を見たんだから」
「わかったわかった。死体だの血だらけだのと、あまり大きな声で言わないように」
志津夫は周囲を見回した。
中年の口ひげを生やしたマスターや、常連客らしいカップルが時折こちらを見ていた。さっきから聞いていると、彼らの会話も近所で起きた殺人事件のことで占められていた。
志津夫は肩をすくめると、パソコンを操作した。デジタルカメラ・アプリケーションを起動する。
カタログ風にデザインされた画面が現れた。画面全体が六個の升目で区切られて、それぞれの升目に縮小化されたデジタル写真が映っている。そのうち四枚は白川伸雄の死体で、残り二枚は土蔵の内部だ。
画面ページを切り替えれば、次の六枚の画像も見られる。だが、今は死体の画像だけで充分だった。
「う。残酷。かわいそうに」
祐美が言った。段々、頬や唇が歪《ゆが》んでくる。やがて口を押さえて咳《せ》き込みだした。吐き気をごまかしているのだろう。
志津夫は皮肉な笑みを浮かべて、
「ほら、見ろ。向かいの席に移ったら? 見て、おもしろいものじゃないだろう」
「大丈夫、大丈夫だって」
祐美は何度もそう言い、喉《のど》や胸を押さえた。吐き気のせいか、涙目になっている。だが、確かに神経は太いらしく、貧血などを起こしそうな雰囲気はなかった。
やがて祐美は合掌し、頭を下げた。死者への礼儀だ。もっとも傍目《はため》にはパソコンを拝んでいるように見えた。
志津夫は念を押した。
「本当に大丈夫?」
「本当に本当だよ」
彼女は志津夫を睨《にら》み返した。意地になっているらしい。きつい表情だ。
志津夫はうなずき、写真の一枚目を拡大した。
全身写真だった。肥満体を包んでいる白の浄衣《じようえ》が朱に染まっている。額に傷口があり、そこから流失した体液が、床も汚していた。死体の周囲には和綴《わと》じの古文書や巻物らしいものも散らばっている。
祐美が少し呻《うめ》いた。顔を強張《こわば》らせて、画面を凝視していた。やがて画面から血の臭いを嗅《か》いだような表情になり、顔をそむけた。
彼女は目尻《めじり》を指でこすり始めた。
「かわいそう、おじさん」
そう呟《つぶや》いた。大きなアーモンド型の目から、大粒の涙が数滴こぼれる。ジーンズの膝《ひざ》に落ちた。
意外に涙もろい性格なのかもしれない。知人の無惨な最期を見て、涙腺《るいせん》が耐えられなくなったようだ。音を立てて、鼻をすすりだす。
志津夫は少し苦笑した。さっきまでの元気はどうしたんだい、お嬢さん? 彼はバッグからハンカチ、タオル、ティッシュペーパーなどを総動員した。祐美に手渡してやる。
祐美はそれらを全部使って、目を押さえ、鼻を押さえ、口を押さえた。さらに涙が出てくる。瞼《まぶた》の裏のダムが決壊したみたいだ。
志津夫は、彼女の肩を叩《たた》いた。
「さあ、無理しないで」
「う、うん」
志津夫は両手で、祐美の両肩を抱え込むようにした。向かいの席へと誘導する。
祐美はおとなしく席を変わった。鼻をすすり続けている。
志津夫は同情と苦笑が混じった顔で、彼女を見つめていた。さっきまでは中性的で、生意気な娘でしかなかった。だが、今は可愛らしいと思った。
ふと周辺の視線に気づいて、志津夫は店内を見回した。
中年の口ひげを生やしたマスターと、カップルが、志津夫を凝視していた。その視線に、彼に対する非難がこもっていた。あんな可愛い娘を泣かせるとは何てひどい男だ、と言わんばかりの目だ。
「ちがう、ちがう!」
志津夫は慌てて、両手を振った。
「何でもない。何でもないんです。ぼくが、この子を泣かせたわけじゃない。ちょっと悲しい出来事があったからです。……そうだよね?」
志津夫は祐美に呼びかけた。
彼女はうつむいたまま、何度もうなずいた。
その様子を見て、マスターや、カップルの客も納得してくれたようだ。彼らは互いに顔を見合わせると、志津夫に背中を向けた。
志津夫は後頭部を掻《か》きつつ、席に戻った。コーヒーの残りを飲み干す。
突然、祐美が泣き出したのには当惑させられた。だが、これは好都合でもあった。おかげで誰にも口出しされずに、現場の画像を調べ直すことができる。
腕時計を見た。佐治刑事との約束まで、まだ何分か余裕があるのを確認する。
志津夫は、ノートパソコンのパッドに指をのせた。
まず死体の顔の周辺を拡大してみた。床の血痕《けつこん》がカラー液晶画面いっぱいに広がる。殴られた瞬間や、倒れながら血液が飛散した時の様子が想像できた。
胸が悪くなりそうだった。だが、志津夫は、それを我慢して、画像フレームを移動させた。
左肩、左腕、左脇腹、左足と、その周辺を見た。さらに右足、右脇腹と、拡大画像を動かしていく。
死体の周囲の床を、ざっと見終わった。だが、特に異変や、気がついたことはなかった。
そこで今度は画面の端から端まで、すべて調べることにした。根気よく続けた。やがて桐の箱がフレーム内に現れた。
漆塗りの箱だ。蓋《ふた》の表面はところどころ、はげている。まるで月面のクレーターのようなありさまだ。
箱は本体と蓋が分離していた。巻物か、和綴じの古文書などが入っていそうな箱だが、中身は空だった。
箱の蓋には、漢字二文字でタイトルが書いてある。だが、何と書いてあるのか、判別できない。文字の縁取りが滲《にじ》んで、ぼやけているのだ。
こうした画像の滲みは、モスキートノイズと呼ばれている。細い毛が縁取りの周囲に生えているように見えるのだ。その様子が蚊の足そっくりなことから、この名前が付いた。正体は、画像処理の過程で発生した歪みである。
志津夫は「モスキートノイズ除去機能」を選んだ。フィルター・ソフトが作動し、画面を見えないワイパーが通過していく。何度か繰り返すうちに、箱のタイトル文字が鮮明に浮かび上がった。
旧 辞
11
志津夫の目が見開かれた。
無意識のうちに、ノートパソコンをのぞき込んでいた。カラー液晶画面と鼻先との距離が一〇センチ以下になる。しばらく声が出ない。
やがて、志津夫は呟《つぶや》いた。
「旧辞《くじ》? 旧辞だと? そんなもの……」
あるはずがない、と言いかけた。その言葉を飲み込む。
一昨日、茨城県でも、こういう状況に直面したのを思い出したからだ。あの時、出会ったものは前代未聞の土偶≠セった。
そして今、出会ったこれは幻の古文書≠フ収納箱らしい。すでに現物は存在しない、と言われ続けてきた文献だ。
普通なら、いたずら目的で作った箱ではないかと疑うところだ。例の『佐久大神伝誌』と同じような代物だと考えるべきものだ。
だが、白川伸雄は、過去に偽書騒ぎなどを起こした人物ではない。そして、その白川伸雄が殺された現場に、「旧辞」と書かれた空っぽの箱が残っていたのだ。まるで、箱の中身は殺人犯が持ち去った後のような状況で。
とすると、これはどう解釈するべきなのか。
これがもし本物ならば、大発見のはずだ。あるいは、本物がこの土地に今まで隠されていたということなのか? それを殺人犯が強奪したのか?
考えているうちに背骨に電流が走り、震えてきた。脳髄の奥が炭火のように熱くなる。史学者の一人としては、興奮を禁じ得なかった。
さらに画像フレームを動かした。箱の中身がどこかに映ってないか、確認しようとしたのだ。
祐美が呼びかけてきた。
「どうしたの?」
「あ、ああ」
志津夫は生返事した。パソコン画面に没頭していたからだ。他のものは目に入らない状態だ。
すると祐美がまた移動して、隣に座ってきた。彼女も身をのりだして画面をのぞき込んでくる。
視線を向けると、祐美は赤くなった目をハンカチで拭《ふ》いていた。どうやら涙腺の洪水は一段落したらしい。
彼女は不安げな表情を浮かべていた。志津夫とノートパソコンとを見比べている。
「どうしたの? 何かあったの?」
「あ、いや……」
志津夫は答えに詰まった。生唾《なまつば》を飲み込んだ。
祐美はまた、いつもの男の子みたいな口調に戻って訊《き》いた。
「ねえ、何があったんだよ?」
志津夫は深呼吸して、答えた。
「まだ、はっきりしないんだが……。万が一ということもある……。もしかすると旧辞かもしれない」
「くじ?」
「古事記の序文にあるだろう」
「え?」
「旧辞といえば、古事記と日本書紀以前にあった最も古い文献だよ!」
志津夫は思わず怒鳴っていた。興奮を隠しきれなかったのだ。
祐美は返事をしなかった。ただ、瞬《まばた》きしていた。予想外の答えに、すぐには反応が返せないらしい。
その時また視線を感じて、志津夫は店内を見回した。
口ひげのマスターやカップルが、いぶかしげな視線で、こちらを見ていた。妙な客だなあ、と言わんばかりの顔だ。
実際、妙な客のはずだ。連れの女の子は突然、泣き出す。ノートパソコンを操作しながら、大声で怒鳴る。こんなのは毎日、お目にかかるような光景ではないだろう。
志津夫は、わざとらしく咳《せき》をした。気まずい雰囲気をごまかす。
エンジン音と共に、窓が少し暗くなった。志津夫は反射的に振り返る。
喫茶店の店先に、ダークグリーンのブルーバードが停車していた。
車内には二人の男がいた。助手席に座っている中年男は、佐治という刑事だ。例の悪党面を、こちらに向けた。
車の運転席には三〇歳前後でサマージャケットにネクタイの男がいた。髪の毛も七三分けで、普通のビジネスマン風だ。手帳を見せない限り刑事だとはわからないだろう。
佐治が覆面パトカーから降りて、志津夫に向かって片手を挙げた。喫茶店の出入口まで歩いてくる。
志津夫の動悸《どうき》が早くなってきた。別に悪いことをした覚えはないが、隠したいことはあるのだ。心臓によくない場面だった。
佐治がドアを開けた。
すかさず、マスターが「いらっしゃいませ」と言った。声が少し震えている。佐治の面構えを見て、やくざの幹部かと思ったようだ。
佐治は首を振り、
「客じゃないよ」
そして佐治は、志津夫に向かって片手を挙げて、
「ちょっと来てください」
祐美が小声で訊いた。
「あの人たちが?」
「そうだよ。警察のおじさんたちはコーヒーも飲まずに、仕事に励むらしいね」
志津夫は小声で冗談めかして言った。だが、胸中では心臓が前転と後転を繰り返している。いったい、佐治刑事はどんな話があるというのか、見当もつかなかった。
ノートパソコンの蓋《ふた》を閉じた。蓋の裏のカラー液晶画面が隠れる。
志津夫は立ち上がり、玄関に向かった。その場のすべての視線が背中に張りつくのを意識した。何しろ佐治刑事の悪役面は人目を引く代物だし、当然、その悪役面に呼び出された男にも興味がわくに違いない。
店外に出た。小さなビジネスビルと民家とが混在する風景が広がっている。電柱から電柱へつながる電線が遠近法を作りだしていた。
郵便ポストの陰には黒い野良猫がうずくまっていた。志津夫の姿を見ると顔を上げて一声、鳴いた。平和な午後だ。
佐治が祐美を振り返り、
「彼女は恋人?」
志津夫は首を振り、
「いや、さっき知り合ったばかりの学生です。専門が民俗学で、ぼくの比較文化史学と似通っているんですよ」
「そうですか。……まあ、こっちにどうぞ。他人には聞かれたくないのでね」
佐治に指示されて、覆面パトカーの後部座席に座った。
運転席の若い刑事が振り向き、無言で頭を下げて挨拶《あいさつ》した。そして正面を向き、ルームミラーを見上げた。彼は口をきく役割を放棄しているらしい。
車のダッシュボードにはカー・ナビゲーションと警察無線とが組み込まれており、マイク・コードがぶら下がっていた。ノートパソコンも置いてあった。赤い回転灯は床にあるらしい。
佐治も後部座席に座った。二人は横並びになる。佐治はいつでも志津夫に手錠をかけられる体勢を取っているように思えた。
志津夫は、鼻孔に埃《ほこり》の臭いを感じた。この覆面パトカーは、こまめに掃除してはいないのだろう。また、この後部座席に座るはめになった容疑者たちの悲哀も染みついていて、それが臭うような感じだ。
志津夫から口を開いた。
「何ですか?」
佐治が腕組みした。真正面を向いている。口を開こうとしなかった。演出的な間を感じた。
志津夫は耐えかねて言った。
「何ですか? 用があるなら、言ってください」
12
ようやく佐治刑事が言った。
「……葦原さん。あなた、わざと黙っていたことがありますね?」
「え?」
志津夫の心臓のビートがやや早くなった。
いろいろなことが脳裡《のうり》を駆けめぐった。もしかすると白川伸雄の日記でも発見されて、葦原正一とのエピソードが書いてあったのか? それだと、まずい。その点については、警察に説明しなかった。つまり白川伸雄は、葦原正一が訪ねてくると思い込んでいたわけだから。
佐治が、やっと顔を志津夫に向けた。仁王様のような風貌《ふうぼう》に見えた。
佐治が言った。
「一昨日、茨城県で大学助教授が焼死体で発見された。あなたは、その現場に現れたそうですね」
「え? ええ」
とまどいながらも返事した。どうやら白川伸雄の日記などは出てきてないらしい。茨城での焼死体事件との関わりを追及されているのだ。
佐治が言った。
「あなたは、茨城で現場の刑事たちにも、うるさく質問したそうじゃないですか。何でも失踪《しつそう》したお父さんを捜しているとか」
「ええ」
「何か、手がかりはありましたか?」
ありましたよ、刑事さん。父と会話したという女性とも会ったし、その女性の完全犯罪についても知ったし、青い土偶も見つけたけど、それは真希という正体不明の女に奪われました。
そんなことを喋《しやべ》りそうになる。もちろん絶対に言うわけにはいかなかった。
志津夫は首を振った。
「いいえ。何にも」
「そうですか。……しかし、さっきはなぜ、そのことを黙ってたんです?」
佐治のだみ声が、志津夫の脳髄に響いた。彼が、志津夫を「要注意」の項目に入れたのは間違いない。それで揺さぶりをかけにきたのだ。
段々、佐治の顔が猛獣みたいに見えてきた。今にも牙《きば》をむき出し、咆吼《ほうこう》しそうだ。
志津夫は腹筋に力を入れた。こういう質問なら落ち着いて対処できる。呼吸を整えて、答えた。
「だって、何の関係もないでしょう。ぼくはたまたま茨城で、警察が現場検証をしていたのを見ただけです。亡くなったのは、ぼくの知人の竜野助教授だと、後でわかりました。で、今日はここに来てみたら、死体の第一発見者になってしまった。ただ、それだけだ。何の関係もないですよ」
「普通なら、そう言えるんだが」
「どういう意味です?」
やはり、死んだ白川伸雄の日記でも出てきたのか? そこから、ぼくの言動との矛盾が浮かんだのか? それとも証拠がある振りをして、ぼくを動揺させる作戦か?
佐治が言った。
「いや、疑っているわけじゃないんです。あなたは被害者の白川伸雄さんとは知り合いですらないようだし、動機らしいものは何もなさそうだからね。……ただ、見過ごせない事実が一つあるんだ」
佐治はそう言って、視線を正面に戻した。口を開こうとしない。また思わせぶりな間が空いた。
「何ですか?」
焦《じ》れて、志津夫は訊《き》いた。
佐治がのんびり喋り始めた。
「茨城での事件だが、ずいぶん風変わりな事件らしいね。何でも死体の金歯が溶けていたとか。周りにあった石ころも溶けて、半透明のガラスになっていたそうだ。それは、あなたも見たんでしょう?」
「ええ。まあ」
「しかし、ガソリンをかけて火をつけたぐらいじゃ、金歯は溶けないそうだ。石だって溶けっこない。それらを溶かすには摂氏一一〇〇度か、摂氏一二〇〇度ぐらいの温度が要るそうだ。しかも、金歯の中のチタンまで溶けていたというから、発生した温度はさらに高かったわけだ」
ええ、そうですよ、刑事さん。これは警察の手に負える領域じゃないんです。
志津夫は内心で、そう呟《つぶや》いた。だが、口はしっかり閉じていた。
そこへ佐治が爆弾を投じてきた。
「茨城でそういう事件が起きたと聞いて、思い出したんです。実は一〇年前にも、この近くで似たような事件が起きている」
「えっ」
志津夫は自分の顔色が変わるのを感じた。驚きで頬のあたりが弛緩《しかん》している。間抜けな感じになってしまった。
佐治は、志津夫の様子を興味深げに見ながら、言った。
「甲府市から国道沿いに北に行くと、千代田湖という湖があります。湖からは西に向かって、帯那川《おびながわ》という川が流れている。……一〇年前、その帯那川の河原で焼死体が発見された。確か六月で、ちょうど今ぐらいの季節だ」
一〇年前。六月。
その二つの言葉が、志津夫の脳内で反響した。一〇年前の五月に父、正一は失踪した。とすれば、甲府で起きた、その焼死体事件は父の失踪直後の時期ではないか。
佐治が少し苦笑して、
「ただし、焼死体は人間じゃなかった。ダックスフントだ。あの胴長短足の犬だ」
「犬……」
志津夫は瞬《まばた》きした。
佐治はうなずき、
「ええ。千代田湖のそばには、田富町キャンプ場というのがあって、そこにキャンプに来た四人家族がいた。ところが夜になって、彼らのペットが行方不明になった。そして翌朝、近くの帯那川の河原で、黒こげになったダックスフントが発見された」
佐治は頬を掻《か》いて、
「ところが、どうも様子がおかしいと警官が報告してきた。他の用事のついでに私も見に行ったが、確かに妙だった……。まず何百個もの大量の河原石が溶けて、半透明のガラスみたいな状態になっていた。中には、きれいな青いガラスもあったな」
青いガラス。そのキーワードが、志津夫にとっては後頭部への一撃に感じられた。身体が固まった。
一〇年前は、父の失踪で頭がいっぱいだった。ゆえに、当時そんな事件が山梨県で起きていたとは気づかなかった。たとえ知ったとしても、あの頃は気にもとめなかっただろうが。
佐治は説明を続けた。
「で、それらの真ん中に焦げたダックスフントの死体があった。毛皮の部分は燃えて、なくなっていた。肉も炭みたいな状態で、あちこち骨がむき出しだった。そう言えば足を四本とも、よじらせるようにしていたな……。しかし、いちばん解せなかったのは、首輪のバックルが完全に溶けていたことだった。これは外国製の高級品で、何と一四金のバックルだった。つまり、摂氏一二〇〇度ぐらいの熱がないと溶けないものだ」
志津夫は沈黙していた。脳裡には、茨城の遺跡で見た映像が浮かんだ。
黒こげの死体。腕や足が醜悪によじれている姿。口から滴り落ちてから、固まった金歯。
一〇年前にも、この土地でそれは起きたのだ。犬の焼死体。溶けた河原石。溶けた一四金のバックル。
佐治は肩をすくめた。
「結局、何が何だかわからなかった。誰かのいたずらだろう、ということで決着した。いたずらにしては手が込みすぎていると思うんだが、他に適当な答えが見つからなかったし、こっちも犬の死骸《しがい》一つに、いつまでも悩んでいるわけにはいかないしね」
志津夫は指先をスラックスの膝《ひざ》に食い込ませてしまった。思わず問い返していた。
「それは、どのぐらいの面積で発生していたんですか?」
佐治は振り返り、特徴的な黒々とした目で睨《にら》んだ。
「関心がありますか?」
「ええ。そりゃ、もちろん。だって、似たような焼死体の事件を見たばかりだから」
「ふむ。まあ、面積は直径一四、五メートルの範囲だったかな」
佐治は、志津夫を睨んだまま言った。
「……妙だと思いませんか? 一〇年前に、おかしな犬の焼死体が出た。そして一昨日、茨城でも同じような状況で、人間の焼死体が出た。そして昨夜、ここで起きた撲殺事件だ」
佐治は、志津夫を指さして、
「さらに、あなただ。茨城での不可解な焼死体事件の現場に現れた。そして今日はここに来て、死体の第一発見者になった。しかも一〇年前に、おかしな犬の焼死体が出た頃、あなたのお父さんは失踪《しつそう》している……。これらが何らかの線で結ばれているんじゃないか、と疑いたくもなるでしょう。これらはすべて単なる偶然が重なっただけだと?」
志津夫の腋《わき》の下から冷や汗が流れ出ていた。今日はホテルにチェックインしたら真っ先にシャワーだと思った。だが、その前にこの状況を何とかしないと……。
郵便ポストの陰にいた黒猫が緊迫した空気を察したらしく、また一声、鳴いた。
「偶然ですよ」
志津夫は落ち着いた声で答えた。自分でも意外だった。喉《のど》の粘膜は渇ききっていたが、声は平静さを保っている。
「本当に?」と佐治。
「ええ」
「何か心当たりのようなものは?」
「いいえ」
「本当に何もないと?」
「ありません」
佐治は腕組みして、唸《うな》った。志津夫を揺さぶれば、何か隠し事でも判明するのを期待していたようだ。
だが、志津夫は喋《しやべ》るわけにはいかなかった。
おおかたの警察官は超常現象よりも、合理的な説明を好むだろう。まして佐治という刑事は、常識という大地に根を生やしているタイプだと思えた。志津夫の話に、本気でつき合ってくれるとは到底、思えなかった。
ふいに志津夫の脳裡には、先ほどパソコン画面に再生した画像が浮かんだ。「旧辞《くじ》」のタイトル入りの箱だが、中身は空だった。あれは本物だろうか?
犯人の動機について、志津夫は今、確信を抱きつつあった。空箱だけ残っていたということは、やはり犯人が中身の文書を持ち去ったのではないか? それが目的だったのでは?
だが、警察関係者たちは、旧辞の箱を見てもなんとも思わないだろう。彼らの愛読書に、古事記や日本書紀は含まれていないだろうから。ということは、今この情報を握っているのは志津夫と祐美だけだ。
佐治が不機嫌な声で言った。
「そうですか。……今夜は甲府に一泊でしたね?」
「ええ」と志津夫。
「その後は?」
「まだ、わかりませんが、二、三泊するかもしれません」
「そうですか」
佐治は突然、顔を近づけてきた。
志津夫は鬼瓦《おにがわら》と睨めっこしているような気分になった。思わず、こちらも睨み返したくなる。
佐治が言った。
「悪いことは言わない。喋ることがあるのなら、今のうちに喋って楽になった方がいい。仕事柄いろんな人間に会ってきたけど皆、後になって、こう言うんです。もっと早く刑事さんに言うべきだった、とね。だったら、最初から言って欲しいもんだ。そう思いませんか?」
そう思いますよ、刑事さん。
志津夫の心臓が酸欠に喘《あえ》いでいた。胸郭中を鼓動で震わせている。その音が覆面パトカーの中にまで響きわたりそうだ。
そう思いますよ、刑事さん。あなたがカムナビ山のタブーだの、ブルーガラス土偶の謎だの、蛇神信仰のルーツだのに関心を持ってくれるのなら、ぼくも喋りますよ。でも、あなたは、ぼくを狂人扱いするだろう。
志津夫の脳裡《のうり》に、またさっきの映像が浮かんだ。「旧辞」と書かれた桐の箱だ。
あの旧辞が犯行の動機かもしれないのだ。せめて、それぐらいは警察に言うべきか? そう自問する。
志津夫は内心で首を振った。いや、まだだ。もう少し自分で情報集めをしてからだ。でないと警察に邪魔されて、せっかくの真相を逃すかもしれない。
志津夫は言った。
「そう思いますね。喋ることがあるのなら、早く喋るべきだ」
「そうでしょう?」
「ええ。そうです。喋るべきことがあれば、ですよ」
言外に、喋ることはない、と言ってやった。
佐治と志津夫の視線がぶつかった。車内に気圧の前線のようなものが発生していた。後部座席の空気が二つに別れて互いに押し合っている。
運転席の若い刑事もルームミラーで、志津夫を見ていた。視線で、佐治の援護射撃を務めているらしい。
しばらくして佐治が言った。
「そうですか。じゃ、仕方がない」
手を伸ばして、志津夫の側のドアを少し開けてくれた。そっちから出ろ、という意味だ。
「何か思い出したり、何か思い当たることがあったら、連絡してください。じゃ、またいずれ」
佐治はやや失望した顔になっていた。だが、すぐポーカーフェイスに戻る。
志津夫は安堵《あんど》した。だが、吐息をつくのは我慢する。軽く頭を下げて一礼し、ブルーバードを降りた。
志津夫は何となく、佐治の悪役面にプロフェッショナリズムを感じた。容疑者や犯人たちと顔をつき合わせるうちに、こういう人相になったのかもしれない。家庭に帰れば案外、優しいパパだったりするのではないか。
覆面パトカーは走り去った。排気ガスの臭いが残る。車は、やがて市街地の風景に溶け込んでいった。
志津夫は無意識に深呼吸していた。額と顎《あご》の汗をぬぐう。
一息つくと、好奇心が胸郭内で膨張してくるのを感じた。
カムナビによる焼死体事件は一〇年前にも、この土地で発生していたのだ。ただし人間ではなく、犬だったが。
そして父、葦原正一は、この地に頻繁に現れ、白川伸雄と接触していたらしい。その上、幻の文献「旧辞」のタイトルのついた箱が、伯川神社の土蔵にあった。
これらはいったい、どうつながるのか? ジグソーパズルの完成形はどんな図案になるのか?
志津夫は、しばらく立ち尽くしていた。頭の中でパズル・ピースを並べ替えるのに忙殺されていたのだ。
例の黒猫は、志津夫に睨みつけられていると錯覚したらしい。挑戦的に歯をむきだし、鋭く一声、鳴くと走り去った。
13
志津夫は喫茶店に戻った。
野球帽姿の祐美が、志津夫の席の真向かいに座っていた。彼が戻ったのを見て、笑顔になった。
祐美の丸顔が微笑むと、甘酸っぱいフルーツの香りが空中に散布されるようだった。さっき泣いたりしたのが、今はウソみたいだ。目はまだ少し赤いが、本来の彼女に戻っていた。
志津夫は自分の席に座った。
祐美が訊《き》いた。
「何だったの? 警察からって?」
志津夫は、つい深刻な顔になってしまった。祐美にどう説明するべきか、まだ対応策を考えていなかったのだ。
祐美が眉間《みけん》にしわを寄せて、
「何? まさか、犯人だと疑われたわけじゃ?」
「いや、それはないよ」
志津夫は苦笑して、
「ただ、何か重要なことを知ってるのに、それを隠しているんじゃないかと疑われたんだ」
「どういうこと?」
「うん。それなんだが……」
志津夫は言いよどんだ。キーワードが頭の中で点滅を繰り返した。カムナビ、蛇神信仰、ブルーガラス土偶、謎の焼死体、溶けた金歯などなど。
この話は、刑事たちには言えない内容だった。超常現象がからむものだからだ。大学講師が学生相手に言うのも、ふさわしくない話題だろう。
結局こう言った。
「いや、えらく込み入った話なんだ。今、説明するのは面倒だな。いずれ別の機会があったら、ということにしておこうか」
祐美は志津夫の顔を見つめていたが、やがて肩をすくめた。聞きわけておこう、という態度だった。
「それより、こっちだ」
志津夫はノートパソコンの蓋《ふた》を開けた。蓋の裏側のカラー液晶画面が現れる。
画面には、桐箱の蓋が浮かび上がっていた。「旧辞《くじ》」のタイトルが明瞭《めいりよう》に見分けられる。
志津夫の体内に好奇心が充満した。何しろ旧辞と言えば幻の文献の最右翼だ。恐竜学者が生きたティラノサウルスに出会うのに匹敵するほどの大事件と言えた。
「これをどう解釈するべきかだ」
祐美もうなずく。
「うん。思い出したよ。そう言えば古事記の序文に、そんなことが書いてあったね」
志津夫は、その一節を暗唱した。
「かれこれ、帝紀を選録し、旧辞を討覈《とうかく》して、偽《いつわり》を削り実《まこと》を定めて、後の葉《よ》に流《つた》へむと欲《おも》ふ」
志津夫は一息おいて、
「天武天皇がそう言った、と序文に書いてある。要するに帝紀と旧辞はもはや真実ではなく、いろんな氏族が自分に都合のいい内容に書き換えた文書となって、世間に出回っている。だから、ウソを削って、真実を後世に伝えるのだと」
祐美はニヤリと笑った。
「それって、古代天皇家に都合のいい内容にするって意味でしょう? 今では皆そう思っているよ」
志津夫も微笑した。
「ああ。古事記も日本書紀も、古代天皇家に都合の悪い内容は削除した本だ。これもまた一種の偽書に他ならないというのは、常識だよ。真実はむしろ帝紀と旧辞にこそ書かれていたはずだ」
「帝紀と旧辞は、どう違うの?」
「現物が残ってないから推定するしかないけど、たぶんこうだろうと言われている。帝紀は、歴代天皇の名、皇后、后妃、皇子女、重要な事績、宝算、崩御年月日、山陵などの記録で、神話や伝説も一部含まれる文献だろう。それに対して旧辞は、神話、伝説、氏族の縁起、歌謡、芸能などを中心とした文献だろうと」
「それらを合成し、都合の悪い部分を削ったということだね」
「そうだ。だから、古事記や日本書紀が完成した後は焚書《ふんしよ》が起きたはずだ。それも徹底的にね。だから、旧辞なんて、どこにも残っていないはずだ。そう思っていたんだが……」
志津夫はパソコン画面を指先で突っついた。
「これをどう思う?」
祐美は首を振った。
「旧辞については判断保留。だって、箱の蓋に旧辞と書いてあるだけだもん。中身はないもん」
「ああ。だが、そばには死体が転がっているんだ。そして中身のない空箱があった。中身はどこにいったんだ?」
祐美が、志津夫を見つめ直した。瞳《ひとみ》が知的な輝きを放っている。
「やっぱり犯人が持っていったと?」
「その可能性もある。犯行の動機も、それかもしれない。旧辞を奪うために、白川伸雄さんを殺さざるを得なかったのかもしれない。少なくとも犯人は、これが本物の旧辞だと信じて持ち去った……というのはどうかな?」
「うん。可能性はあるね。でも、それ警察に言った?」
祐美は上目づかいで訊いた。志津夫の考えを怪しむような感じだ。
「いや、言ってない。ちょっと事情があってね。警察に言っても信じてもらえないような事情なんだ」
志津夫はそう言い、コップの冷水を飲んだ。
「ふうん」
祐美は微笑し、うなずいた。志津夫が抱える事情については詮索《せんさく》しなかった。どうやら気を利かせたつもりらしい。
志津夫は、祐美の丸顔を見つめた。ずっと見ていたい気持ちにさせられる愛嬌《あいきよう》たっぷりの容貌《ようぼう》だ。野球帽にジーンズの上下という男の子みたいな格好も、今はもう違和感がなくなった。
不思議な娘だな、と思った。今日、知り合ったばかりなのに、もう旧知の間柄のように喋《しやべ》っている。愛想のない子猫なのに、つい抱き上げてペットにしてしまったような気持ちだった。
祐美には真相を告げるべきだろうかとも思った。彼女が気に入ったからだ。もしかするとただの知り合いから、より親密な関係になれるかもしれないし……。
だが、結局、志津夫は内心で首を振った。
今はまだダメだ。真相を言っても、正気扱いしてもらえないだろう。
志津夫は口をすぼめ、液晶画面に息を吹きつけて、言った。
「これが本物だとしたら、えらいことだぞ。つまり、白川伸雄さんの一族が代々、世間に出さずに隠していたということになる」
ふと別のことを思いついた。志津夫は、それを口にする。
「江口泰男だ」
「え?」と祐美。
「例の偽書騒ぎを起こしたという男だよ」
「あの男がどうしたって言うんだよ?」
志津夫の脳裡《のうり》には、江口の左手にあった大判のガーゼ付きバンソウコウが浮かんでいた。やはり気になった。あの男が青い土偶に触れてウロコに感染している疑いを、まだ捨て切れない。また、他にもいろいろな秘密に関わっている男かもしれない。
だが、祐美には、それを説明できなかった。自分の肌にも、そのウロコがあるなんて、会ったばかりの妙齢の女性には言いにくい。それで口が重くなってしまった。
祐美が重ねて訊いた。
「あいつが怪しいとでも?」
「いや、その……」
祐美には、何か別の理由を説明しなければならない。何かないのか?
志津夫の脳裡に、江口と出会った時の映像が閃《ひらめ》いた。大脳前頭葉がストロボのように光るのを感じる。
「コピー機」
「え?」と祐美。
「見たんだ。コピー機を買うところを」
二度目の閃きがきた。これは重要な手がかりかもしれない。
志津夫は言った。
「駅前の家電用品店で見かけたんだ。江口泰男は小型の事務用コピー機を買ったんだ。だが、何のためだ?」
祐美は瞬《まばた》きして、
「コピーしなければいけないものが、あるからじゃない?」
「ああ、そうだ。だが、何をコピーするんだ? 彼は自分で言ってたぞ。商売はトマトの農家だとね。農業をやってる人間がなぜ、コピー機が必要なんだ?」
志津夫はテーブルに両肘《りようひじ》をつき、両手を組み合わせて、顎をのせた。その姿勢で、思考を積み重ねていった。
「だいたい学者の端くれである、ぼくにしてもコピー機なんて買ったことがない。だって、二四時間営業のコンビニエンス・ストアが日本中にあるじゃないか。コピーを取りたければ、夜中でも早朝でも近所のコンビニに行けばいいんだ」
祐美も、彼と同じポーズになり、
「つまり、江口泰男は自宅でコピーが取りたかったと? 他人に見られずにコピーしたいものがあったと?」
「ああ。そうかもしれない。だとすると、それはいったい何だ?」
祐美が目を大きく見開いた。テーブルに両手をつき、身をのりだしてくる。
「彼が旧辞を持ってると? 彼が犯人? 念のために、旧辞のコピーをこっそり取っておこうとした?」
「いや、そこまで言うのは飛躍しすぎかな……」
志津夫は苦笑した。
だが、内心では江口への疑惑がより深まっていた。その上、彼の左手のバンソウコウだ。どうしても気になる相手だった。
志津夫は首を振った。
「正直言って、曖昧《あいまい》な根拠だな。でも、殺人現場の近所に住んでいる江口泰男が、なぜ事件の翌日に小型コピー機を購入したのか、その理由は確かめておいても、いいと思うな。もし外れたとしても、素人探偵が恥をかいて終わり、というだけのことだし……」
ふと志津夫は学生時代のアルバイトを思い出した。遺跡発掘の作業員だ。発掘現場では横剥《よこは》ぎ技法と言って、数ミリ単位で土層を広範囲に剥がしては、何か出てこないかをチェックするのだ。
まずは江口泰男を横剥ぎ≠オてみよう。そう決意した。うまくいけば、親父につながる手がかりも浮かび上がるかもしれない。
ふいに祐美が腕時計を見て、席を立った。
「あ、ちょっと電話しなきゃ」
「ボーイフレンドかい?」と志津夫。
祐美は首を振った。
「それは募集中。甲府市内の親戚《しんせき》だよ。すぐそっちに行くつもりだったけど、予定が変わったと言わないと、心配するから」
志津夫は微笑し、自分の携帯電話を差し出した。ボーイフレンド募集中と聞いて、サービスする気になったのだ。
「これ、使ったら?」
だが、祐美は首を振った。テレホンカードを取り出す。アニメの主人公の絵がプリントされていた。
「電話代ぐらい自分で払うよ」
祐美はテーブルを離れ、店外に出ていった。道路脇の電話ボックスに向かって歩いていく。
志津夫は、彼女の後ろ姿を見ながら呟《つぶや》いた。ボーイフレンド募集中か。果たして一〇歳年上は、その範疇《はんちゆう》に入るのかい、お嬢さん?
志津夫はコップの冷水を飲んだ。次いでノートパソコンを引き寄せた。今日、撮った画像を再確認しようと思ったのだ。
パソコンのタッチパッドに指を走らせた。
カラー液晶画面を、縮小画像のカタログ形式に戻した。画面が六個の升目に分かれる。四枚の死体写真と、二枚の土蔵内部の写真が表示された。
画面を次ページに切り替えた。
そこで志津夫は瞬きした。次いで目を大きく見開く。
二ページ目には白川伸雄の自宅と、その周辺の画像だけが並んでいた。
「そんな……」
思わず呟いた。
志津夫の記憶では、神社の土蔵内部の写真がもう一枚あるはずだった。土蔵内部の左側も一枚撮影したので、合計七枚あるはずだった。なのに、PCカードには、それが六枚しかない。
一ページ目と二ページ目を何度も切り替えた。だが、やはり七枚目はなかった。
志津夫は首をひねる。
「おかしいな? 神社の土蔵で写真を七枚撮ったと思ったが……。ぼくの記憶違いか? それとも故障か?」
ソフト・アタッシュバッグから、一眼レフ型デジタルカメラを取り出した。パソコンに差し込んである画像用PCカードを引き抜き、それをカメラに再装填《さいそうてん》した。
志津夫は窓の外にカメラを向けた。電話ボックスに向けてズームアップする。ファインダーに、祐美の横顔を捉《とら》えた。野球帽姿のまま受話器を持ち、口を開閉させている。
オートフォーカス機構がピントを合わせて、赤いランプを点滅させた。志津夫はシャッターを切る。
一・八インチ液晶モニターに六〇〇万画素の映像が再生された。たった今撮った祐美の横顔だ。
志津夫はカメラからPCカードを引き抜き、パソコンのスロットに再装填した。指をタッチドパッドに滑らせて、操作する。
カラー液晶画面に、カタログ形式の画像が現れた。ページを切り替える。
三ページ目の左上に、祐美の縮小画像が出現した。野球帽をかぶった横顔だ。健康美|溢《あふ》れる姿だが、縮小画像だとますます一〇代の男の子みたいに見えた。
志津夫は不審な顔になる。
どうやらカメラの調子が悪いということではなさそうだった。とすると、他に原因があるのか? それとも、やはり自分の記憶違いか?
志津夫はパソコンの操作を続けた。だが、土蔵内部を撮った七枚目の写真は、やはり発見できなかった。
「おかしいな……」
そう何度も呟き、ため息をついた。
14
その町役場は三階建ての鉄筋コンクリートだった。壁がデコレーションケーキのように真っ白だ。新築したばかりらしい。
志津夫と祐美はガラス張りの玄関をくぐった。
中に入ると細長いカウンターが並び、窓口の種別を示す看板がぶら下がっていた。一枚ガラスの大きな窓にはブラインドが下がり、午後の陽光を遮っている。転出転入や住民税の窓口には行列ができていた。
志津夫は、空いている窓口の係に用件を伝えた。すると、「二階にある国民健康保険の窓口へ行ってください」と言われた。そこに町史|編纂《へんさん》委員会の人間がいるという。
階段を上がり、二階に向かった。
国民健康保険の窓口カウンターに座っていたのは、四〇代で色黒の男だった。小柄な身体つきで、だるまによく似た顔に小さな目の持ち主だ。
「何でしょうか?」
だるま≠ェ愛想よく言った。愛想がよかったのは、そこまでだった。
志津夫は言った。
「江口泰男さんのことでお訊《き》きしたいことがあるんですが……」
だるま≠ェ鬼面に変じた。顔が赤黒くなる。突然、立ち上がるとカウンターに両手をついて、身をのりだしてきた。
志津夫と祐美は半歩、下がってしまった。あまりの険相に気圧《けお》されたのだ。
だるま≠ヘ怒鳴った。
「もう、いいかげんにしてほしいずら!」
後は、一気にまくしたてた。
「もう例の資料篇なら捨てたし、うちは一切関係ない。確かに人騒がせなことにはなったけど、私らは素人だったんです。ちゃんと判断できるほどの見識はなかったんです。実際、あれには本職の学者まで一時は騙《だま》されたぐらいで……」
「ええ、わかってますわかってます。まあまあ、落ち着いて……」
志津夫は両手で制止するポーズを取った。困惑した顔で、傍らの祐美を見た。
祐美は、片手で野球帽のつばをつまみ、引き下げた。帽子の陰から横目で、志津夫を見ている。口元に皮肉な笑みを浮かべていた。
どうやら彼女は、面倒なことは志津夫にすべて押しつけるつもりらしい。志津夫は小声で、ずるいぞ、と言った。祐美は舌の先を出した。
前方を見ると、カウンターの後ろにいた職員たちも、志津夫たちに注目していた。だが、笑顔は一つもない。迷惑そうな顔、顔、顔。江口泰男の『佐久大神伝誌』は、彼らのプライドを逆撫《さかな》でする話題なのだと実感できた。
居心地の悪い空気が漂い始めた。喉《のど》に何か詰まったような感じがしてくる。だが、志津夫はそれに耐えつつ言った。
「そのう……ご不快かもしれませんが、ぼくは事実を確認したいだけなんです。協力してください。ぼくは東亜文化大学の講師で、葦原志津夫と言います」
身分証と名刺を出した。
だるま≠ヘまだ怒っているような顔で、名刺を受け取った。ブルドッグみたいな唸《うな》り声で、問い返した。
「ん? 比較文化史学?」
「まあ、考古学の一種です」
だるま≠ェ上目づかいで言った。
「あんた学者さん? まさか、江口の『佐久大神伝誌』を本気にしているんじゃ?」
「いや、それはもう決着がついていますから。ええと、その……」
志津夫は無意識にもみ手をしていた。人の傷口に塩を塗りたくっているような気分だからだ。
彼の傍らでは、祐美が野球帽のつばを引き下げたままだった。我関せずの態度を続けている。
志津夫は言った。
「事実だけ確認したいんです。ご協力のほどを。……ええと、『佐久大神伝誌』を最初に出版したのは、こちらの町史編纂委員会ですね?」
「ええ」
だるま≠ヘ下唇を噛《か》み、うなずく。自分の耳を切り落としたいような表情だった。
志津夫は相手と目を合わせないようにして、言った。
「ええと、一〇年ほど前に『酒折南町史資料篇』というものを企画されたわけですね。それで江口泰男さんが、自宅の土蔵から発見したと言って、『佐久大神伝誌』を提供した。それがきっかけで『町史資料篇』の内容は急遽《きゆうきよ》変更され、『佐久大神伝誌』をメイン資料として発表した。それに目をつけた東京の明和書店が全国規模で出版した……」
かくて人騒がせな悲喜劇の幕が開いた……。そう付け加えるべきだろう。だが、気まずい雰囲気ゆえ、そこまでは言えなかった。
だるま≠ヘカウンターを指で叩《たた》きながら、
「全部そのとおりずら。何が言いたいんですか、あんた?」
「まあ、お気持ちはお察しします。ぼくは、そのことを問題にしているわけではないのです。最近の江口泰男さんのことで何か知っておられることがあれば、と思って……」
「と言っても、私らはあれが偽物だとわかって以来、あの人とはろくに口もきいてないんでね」
「じゃ、噂話とかはどうです? 最近、江口さんが何か発見したとか、そう本人が触れ回っているとか、そういう噂などは聞いたことはありませんか?」
だるま≠ヘ、こめかみを掻《か》きだした。
「さあね。あの一件以来、おとなしいけど……」
「何の噂もないと?」
「ええ」
「じゃ、青い土偶とか、そういうものを見たとかいう話は聞いていませんか?」
「さあ」
だるま≠ヘ首をひねり、同僚たちを振り返った。
「おい、誰か知らないか? 江口の最近の噂とかを」
その場にいた地方公務員たちは、一斉に首を横に振った。それも同じタイミングで、同じテンポで振ったのだ。まるで事前に振り付けがしてあったみたいだ。
志津夫は彼らの顔を見て、望み薄だと判断した。誰も何も知らないようだ。
公務員たちは減量をやり過ぎたボクサーのような表情で、こちらを見ていた。偽書騒ぎの一件で、気力をすべて使い果たした様子だ。江口の名前など、もう聞きたくもないのだろう。
志津夫は、ため息をついた。
「わかりました。じゃ、江口さんの住所はわかりますか?」
だるま≠焉Aため息をついた。
「それを聞いて、どうするんです? 本人を訪ねるんですか?」
「ええ」
だるま≠ヘ再度ため息をついた。住所録らしいノートを引っぱり出し、見せてくれた。
志津夫はメモ帳に、その住所を書き写した。
だるま≠ェ言った。
「妙な日だな、今日は。あいつの住所を知りたい奴ばっかり訪ねてくる」
「は?」
志津夫はメモ帳から顔を上げた。身体が硬直する。まったく予想外の台詞《せりふ》だった。
だるま≠ヘ言った。
「三〇分ぐらい前かな。江口泰男の住所を訊きにきた人がいたんですよ。あんたと違って住所だけ訊いて、メモしたら、すぐ帰ったけど」
「どんな人です?」
「口ひげを生やした五〇歳ぐらいの男だね」
「その人の名前は? まさか葦原では!」
志津夫はカウンターに手をつき、身をのりだしてしまう。ほんの三〇分の差で行方不明の父親とすれ違ったのか? そう思うと全身の血液が沸きたった。
だるま≠ヘ首をひねった。
「いや、名前は確か中川とか言ってたけど……」
「中川? サングラスをかけてませんでしたか? あと手袋とかは?」
「いや、そんなものは着けてなかった」
「え?」
志津夫の思考が空回りを始めた。父、正一は素肌を隠すためにサングラスと手袋を離さないのでは、と思い込んでいたのだ。だが、違っているのか?
「その人の体格は? 大柄で、がっちりした感じでは?」
「いや、痩《や》せていた。あんたと同じぐらいの体格だよ。そう言えば、目つきが鋭い人だなと思ったけど」
だるま≠ヘ、志津夫の推測をことごとく否定した。
「痩せていた。ぼくとおなじぐらいの体格。目つきが鋭い……」
志津夫は呟《つぶや》く。
ビデオ映像で観た父、正一の姿を脳裡《のうり》に思い浮かべた。年齢のせいか、父は以前より縮んだ感じだった。だが、志津夫と比べたら、まだまだ痩せていると言うには程遠い体格だ。
それに正一は、目つきが鋭いとは言えない。父はむしろ柔和な目の持ち主だ。その上、今の正一は常にサングラスと手袋を着用しているらしい。
志津夫の意識の歯車が、ようやく噛み合ってきた。
どうやら、三〇分前にここを訪れた人物は父ではないようだ。葦原正一とは似ても似つかない別人らしい。
志津夫は、祐美を振り返って、
「誰だろう? 中川だって? 知ってるかい?」
「さあ、知らない」
祐美は少しだけ野球帽のつばを持ち上げた。肩をすくめる。
志津夫も首をひねる。
「謎の訪問者、といったところか……」
だるま≠ェカウンターを指で叩きながら言った。
「で、まだ何か用事があるんですか?」
「ええ。江口泰男さんの家族構成とかは、わかりますか?」
だるま≠ェ苦笑した。
「自業自得ずら」
「え?」と志津夫。
「自業自得。『佐久大神伝誌』が偽物だとバレた後、江口の女房は実家に戻ったきり帰らないんだ。恥ずかしくて、近所の皆さんに顔向けできないってやつだ。まあ、子供もいなかったから、このまま離婚じゃないか」
「そうですか。じゃ、今の江口さんは独り暮らしで、お子さんはいないし、お孫さんもいないわけだ」
「ええ」
だるま≠ヘ心底うんざりした顔で、うなずいた。
志津夫は引き上げ時だと感じた。役場の職員たち全員が横目で、志津夫たちを睨《にら》んでいるからだ。
「おじゃましました」
志津夫は彼らに一礼した。祐美をうながし、国民健康保険の窓口を離れた。
15
太陽は傾きかけていた。だが、午後遅くなってから晴れ間が広がり、逆に陽射しはきつくなっている。小雨に濡《ぬ》れた路面も乾き、気温も上がっていた。
志津夫は喘《あえ》いでいた。サマージャケットを脱ぎたくなる。ノートパソコンなどの重い荷物も肩にかけているせいもあった。
祐美の方は、すでにジーンズ・ジャンパーを脱いで片手にぶら下げていた。薄着になると、さすがに女らしく見える。半袖《はんそで》の赤いTシャツの胸が、Cカップ・サイズで盛り上がっているからだ。
二人の周囲には、ビニールハウスと田畑と民家が並んでいた。防風林のケヤキがある以外は変化の少ない単調な風景だ。
静かだった。主要幹線道路の騒音を防風林が遮っているらしい。だから、裏通りは無音に近い状態なのだ。
志津夫と祐美は、あるビニールハウスの前で立ち止まった。
ビニールの向こう側は、トマトのピンクと葉っぱのグリーンが充満する小宇宙になっている。下手なお花畑よりも見応《みごた》えのある光景だ。
ビニールハウスの隣に民家があった。表札は「江口泰男」とある。トマト栽培は彼の職業だ。
その家は、いかにも村名主が住んでいた旧家に見えた。平屋だが8LDKぐらいありそうな木造建築だ。屋根の切妻には、そり曲がった曲線状の装飾板がついている。唐破風《からはふ》と呼ばれる古い様式だ。
この位置からは見えないが、裏には土蔵があるらしい。確かに古文書の一つぐらい隠れていそうに見える屋敷だった。江口泰男は、その視覚効果も利用したのだろう。
志津夫は深呼吸した。相手は殺人犯かもしれない。気合いを入れ直す必要があった。
祐美も真剣な表情だ。背筋を伸ばし、胸を張った。
玄関には、アルミサッシのスライド式ドアがはめ込まれていた。その脇にある呼び鈴のボタンを押す。屋内からチャイムの音が聞こえた。
「はい」
太い声がした。三〇秒ほど待たされてから、ドアが開いた。
江口泰男が現れた。円筒形の顔に小さめの目鼻立ちを持つ男と、また対面する。
江口は瞬《まばた》きした。
「あ、あんたは……」
「ええ。先ほどお会いした葦原志津夫です」
志津夫は一礼する。祐美は無言で頭を下げた。
江口は寝不足気味で疲れているように見えた。前回会った時は気づかなかった点だ。もしも人命を奪った直後ならば、やはり動揺して眠れないのが普通ではないだろうか。
江口もお辞儀を返して、
「何のご用です?」
志津夫の視線は、つい相手の左手の甲に向いてしまう。大判のガーゼ付きバンソウコウだ。あの下に何が隠れているのか、それを真っ先に確かめたいが、まだうまい口実がなかった。
志津夫は別の口実を口にした。先ほど町役場を訪れた時に仕入れたネタだ。
「実は人を探していまして。中川という人なんですが、ご存じないですか?」
「中川……」
「もしかして、こちらを訪ねたのではないかと思うんですが、痩せていて、ひげを生やしていて……」
江口は、うなずいた。
「ああ、さっき来た。そういえば中川とか言ってたずら」
「やっぱりだ」
志津夫は祐美を振り返り、うなずいた。祐美もうなずき返す。
今度は江口が訊《き》き返した。
「あなた、中川さんのお知り合い?」
志津夫は首を振った。適当なウソを並べることにする。
「いや、一度もお会いしたことはないんです。ただ、ぼくの研究に役に立ちそうなことを知っておられるかもしれないので。それで探しているんですが、こちらを訪ねたらしいと聞いたので」
「じゃ、一足違いだ。三〇分ぐらい前に来て、帰った」
「どういう用件で、中川さんはこちらに?」
江口は口をつぐんだ。顔をそむけてしまう。着替えているところをのぞかれたような表情だ。
志津夫は再度訊いた。
「あの、どういう用件で中川さんは、こちらに? 言いたくないというのであれば、仕方がないですが」
江口は苦笑した。
「私の素性はもう知ってるんでしょう? さっき会った時は知らなかったとしても、もう耳に入ったんじゃ?」
「え、ええ、まあ……」
志津夫は言葉を濁す。本人を前にしては、やはり言いにくい話題だった。
江口は鼻を鳴らした。険しい目で、志津夫を睨みつける。瞳《ひとみ》の奥に濁ったものを感じた。
農業に従事する人というと、普通は純朴な人柄というイメージを描きがちだ。だが、やはりこの男は例外だと、志津夫は思った。どこかモラルがねじ曲がっているような印象を受けた。
江口は口元を歪《ゆが》め、吐き捨てるように言った。
「はっきり言ってくれて構わん。『佐久大神伝誌』という偽書で、世間を騒がせたペテン師だ。どうせ皆そう思ってる。あんたもそうずら?」
「いや、まあ……」
志津夫は返答に詰まった。会話の主導権を奪われた感じだ。
だが、江口の方から話題を戻してきた。
「……ところが、さっき来た中川という人だが、何と『佐久大神伝誌』の原本を貸してくれ、と言うんだ」
「へえ」
志津夫には意外だった。まだ、あれを本気にしている人がいるとは。
江口は誇らしげな表情になった。『佐久大神伝誌』を本物と信じる人間がいることを自慢したいのだろう。胸を張り、肩をそびやかして、言った。
「私は、この場で見るだけにしてくれ、と言った。もしくは私の見ている前でコピーを取って、それを持ち帰ってくれ、と。原本を貸すわけにいかないと、そう言ったよ」
「で、どうしたんです、その中川さんは?」
「出直してくる、と言って帰ったよ。しかし、何度来てもらっても原本は貸し出し不可だがね」
志津夫は首をひねった。考え込んでしまう。
その中川なる人物はトンデモ本ライターの一人だろうか? それとも『佐久大神伝誌』を信じ込んだアマチュア考古学ファンだろうか? 今のところは判断のしようがない。
志津夫は訊いた。
「どんな人でしたか? 痩せていて、ひげを生やしていたというのは聞いたんですが」
江口は視線を宙に向けた。映像記憶を呼び覚ましているようだ。
「私と同年輩で五〇歳ぐらいだろうな。姿勢が良くて、目つきが鋭くて、何か空手か柔道でもやっていそうな感じで……」
唐突に、江口は祐美を見つめた。瞬きを何度か繰り返す。
「どうかしました?」と志津夫。
江口は祐美を手で示した。
「そう言えば、そこのお嬢さんと、さっきのひげの男と目鼻立ちが似ているような……」
「え?」
祐美は少し驚いた顔になった。そして肩をすくめた。
「へえ、そうですか。まあ。この手の顔はよくある顔だから」
祐美は片手で野球帽のつばを持って、照れ笑いを浮かべた。
江口が言った。
「まあ、そんなところだ。一足違いだったね」
「そうですか」
志津夫はまだ首をひねっていた。中川という人物の正体が、どうも腑《ふ》に落ちなかった。それとも今日、その人物が江口を訪問したことは、ただの偶然だろうか。
「他に用事がないのなら……」
江口は迷惑そうな顔で、玄関のドアに手をかけた。
志津夫は一歩、前に出た。笑みを浮かべる。
「いや、まだあるんです」
「え?」
志津夫は息を吸い込んだ。ここから徐々に本題に入るタイミングだと思った。
「一〇年前におかしな事件があったそうですね。帯那川の河原で、黒こげになった犬の焼死体が発見されたという話です。それについて何か、ご存じでは?」
「ああ。あれか」
江口はうなずいた。やや興奮気味になる。顔に赤みが差してきた。
「いや、あれは不思議だった。私も近くだから、見に行ったんだ。犬の死骸《しがい》はもう片づけた後だったが、そこら中の河原の石が溶けて、ガラスみたいになっているんだ。不思議な眺めだった……」
江口は記憶を思い起こしているらしく、遠くを見る目つきになっていた。やがて首を振り、言った。
「結局あれは、わけがわからないままずら。地元の新聞に、落雷じゃないかという仮説が載ったが、それは違うな」
「というと?」
江口は熱っぽい口調で語った。
「落雷ならバリバリとか、でかい音がするずら。それに空が雷雲で覆われていなきゃならないはずだ。だが、誓って言うが、あの晩はきれいな満天の星空だったし、静かなもんだった。落雷じゃないな」
「じゃ、何だと思います?」
江口は黙り込んだ。志津夫を凝視する。隠し事を打ち明けるべき相手かどうか、値踏みしているらしい。
志津夫は再度、訊《き》いた。
「何か心当たりでもあるんですか?」
江口は顔をそむけた。まだ考え込んでいるらしい。不自然な沈黙が続いた。
やがて江口が言った。
「実は一〇年前、妙なものを見つけた……。あ、いや……」
慌てて手を振って、
「これは『佐久大神伝誌』じゃない。そうじゃなくて近所の荒神神社の縁起絵巻帳ずら」
「え?」と志津夫。
「まあ、見てもらおうか。コピーを取ったものがあるから」
江口は回れ右した。一旦《いつたん》、家の奥へ引っ込んだ。
「何かな?」と祐美。
「さあね」と志津夫。
一分ほど待たされてから、江口が戻ってきた。手にA4サイズ用の角形二号の封筒を持っている。中からコピー紙を取り出した。
「これだ」と江口。
志津夫は受け取った。
16
奇怪な絵図面だった。
画面の下側には円錐形《えんすいけい》のカムナビ山。その山頂や山の周辺に、三匹の巨大な蛇が逆さまになって屹立《きつりつ》している、という図柄だ。
蛇たちは尻尾《しつぽ》を天空に向かって振り上げ、胴体はS字カーブの連続で、くねくねとダンスでもしているみたいだ。山頂や地面に大口を開けて食らいつき、その口からは火炎を吐き散らしている。
蛇の周囲には放射状の線が多数、描かれている。逆立ちした巨大な蛇たちが光り輝いている、といった図案らしい。
志津夫は目を見開き、その絵図面を凝視した。全身の体毛が逆立つのを感じた。脳髄のどこかが感電して痺《しび》れている。
茨城県で小山麻美から聞いた話を連想した。彼女が目撃したカムナビは「光の柱」だったというのだ。それも「くねくねと揺れ動く光」だったという。
今、志津夫が手にしている絵図面は、まさに小山麻美の目撃談と一致するイメージだった。
祐美ものぞき込んで、言った。
「何だ、これ?」
江口は首を振って、
「わからん。見たところ蛇神か龍神を描いたものだと思うが、説明書きなどは何もない。その部分は紛失したらしい。荒神神社の宮司さんも、これに関しては何も知らないと言ってた。口伝のようなものも一切伝わってないそうだ」
志津夫は顔を上げた。頬が紅潮している。喋《しやべ》り始めた。
「荒神神社か。荒神様と言えば、日本中にある蛇神信仰だ。蛇の代用品として、縄をご神体にしているものだ。大昔には縄ではなく、本物の蛇を飼っていた蛇巫《へびふ》や蛇巫女《へびみこ》がいたという説話が、『常陸国風土記《ひたちのくにふどき》』にも記述されている」
志津夫は興奮のあまり、少し手が震えた。身体がゴム風船みたいに軽くなり、空中へ浮かび上がりそうな気分だ。
志津夫は言った。
「これはまるで超常現象でも描いたみたいだな。光り輝く蛇神の出現なんだ。古事記や日本書紀などの日本の古典でも、なぜか蛇神は光り輝くもの、として記述されている。それと共通するイメージだ。……これがカムナビなのか?」
思わず、そう呟《つぶや》いていた。
「え? カム……何だって?」
江口が聞きとがめた。
「あ、いや……」
志津夫は首を振って、訊き返した。
「つまり、この縁起絵巻帳の絵と、一〇年前に犬が黒こげになって河原の石が溶けていた事件とは、何か関係があると?」
江口は首を振った。
「わからん。だが、あれは人間業じゃない。見れば、誰だってそう思う。……大昔もやはり、そういう事件が起きて、この絵はそれを描いたもののような気もするが」
志津夫は何度もうなずき、言った。
「ぼくもコピーさせてもらおう。写真に撮らせてください」
「ああ、構わんが」
志津夫はソフト・アタッシュバッグから一眼レフ型デジタルカメラを取り出した。絵図面を祐美に持ってもらい、シャッターを切る。カラー液晶モニターを見て、ちゃんと撮影されているのを確認した。
志津夫は笑みを浮かべていた。思いがけず、彼にとっては超一級品の資料と巡り合ったのだ。この聞き込み調査は、これだけでも大収穫だ。
だが、まだ質問が残っていた。ここまでは序盤戦だ。いよいよ江口を追いつめる第二段階だ。
志津夫は言った。
「ところでコピー機を買われましたね?」
「え? あ、ああ」
「調子はいかがです?」
「あ、ああ。か、簡単なもんだな。ボタンを押すだけでいいんだから」
江口は急にどもり始めた。顔からも少し赤みが引いていく。
志津夫は畳みかけた。
「何のコピーを取るんです?」
「あ、ああ、トマトさ」
「え? トマト?」
志津夫は一瞬、混乱した。準備していた次の質問を忘れてしまった。
「トマトって、そんなものをコピーして、どうなる……」
江口が答えた。
「いや、つまり、あちこちの図書館や資料館で見つけたトマトの栽培記録だ。探すと結構いっぱいあるんだ。だから、それのコピーを取るために機械を買ったんだ」
「ああ、そういうことですか……」
江口は息を吸い込み、一気に喋った。
「今のトマトは甘い味のものばっかりずら。たとえば今、私が作っているのはときめき二号≠ニいう品種だ。味も色も、女子供向けに改良されたやつだ。
だが、本当のトマトはそんなものじゃないずら。実は、大正時代に輸入された野生のトマトと同じものを手に入れた。黄色で、味もえらく酸っぱいやつだ。これを育ててみようと思ってね。まあ、個人的な趣味だが、もしかしたら、変わり者が買うかもしれない。
それで古い栽培記録を参考にしようと思ったんだが、あまりにもたくさんあるんで、よそへいちいちコピーを取りに行くのが面倒でね。これは機械を買った方が早いと思った」
江口はビニールハウスを指さした。
「何なら見ていきますか? 今、実が成ったばかりのやつがある。本当にレモンそっくりの色ずら」
志津夫は頭の中が空白になった。突然トマトに関する蘊蓄《うんちく》をまくしたてられてしまい、相手を心理的に追いつめようという計算がすべて狂ってしまった。
「あ、いや、別に結構です」
気がついたら、そう言っていた。言ってから、後悔した。これで話の継ぎ目がなくなってしまったからだ。
江口が安堵《あんど》した顔で言った。
「そうですか。じゃ、用事があるから、これで」
江口はお辞儀した。素早く祐美の手からもコピー紙を回収する。アルミサッシのドアを閉めて、招かれざる客を遮断した。
志津夫と祐美は何も言えないまま、外に取り残されてしまった。
17
志津夫と祐美は、民家と畑とビニールハウスが並ぶ風景の中を歩いていた。
太陽が傾き、民家の影が長く伸びていた。北の方には八人山の円錐形《えんすいけい》が見える。今は逆光気味でシルエットになっていた。
南方には富士山の全容を眺めることができた。帯状の数本の雲が、美しいコニーデ型に彩りを添えている。初夏にふさわしい眺めだった。
祐美が言った。
「結局、何も聞けなかったね」
「ああ」
志津夫が答えた。いささか意気消沈していた。計画では、もう少し効果的に江口泰男を追いつめるはずだった。だが、三球三振でかすりもせずに終わった。
祐美が言った。
「あのトマトの話、どう思う?」
「一気に喋《しやべ》ったよな。まるで事前に用意していたみたいだ……」
志津夫は肩を落として、
「だけど、これ以上、追及する口実もないし、ぼくらは警察でもない。しつこく食い下がっても、帰ってくれ、と言われたら、それまでだ。やっぱり素人探偵の限界かな」
やがて、志津夫は道ばたの電話ボックスを見つけた。その中に入り、電話帳を調べる。近辺にある荒神神社の電話番号は、すぐに見つかった。
さっそく荒神神社に電話をかけた。
実直そうな中年男の声が答えた。
「はい、荒神神社です」
志津夫は自己紹介した。
「初めまして。葦原志津夫というものですが、お訊《き》きしたいことがありまして。……そちらの神社で保管している縁起絵巻帳には、奇妙な絵図面があるそうですね。光り輝く巨大な蛇が三匹、逆立ちしてラインダンスしているような絵です」
「ああ、ありますよ。それが何か?」
「その絵には説明文がないそうですね」
「ええ。そうです。由来も何もわからないんです。だから、これについて説明しろ、と言われても困るんですがね」
「そうですか。わかりました。後でお訪ねすることもあるかもしれません。では、失礼します」
志津夫は電話を切った。祐美に言う。
「蛇神の絵の裏付けは取れた。あれは偽書じゃなくて本物らしいね」
その事実を知り、さっきの興奮が少し蘇《よみがえ》ってきた。カムナビらしい現象が文献に明確な絵として描かれたものは、これが唯一の例かもしれないのだ。本業の史学分野でも、貴重な収穫と言えるだろう。
だが、肩にかけたソフト・アタッシュバッグが重くなってきた。何しろノートパソコンと一眼レフ型デジタルカメラが入っているのだ。
志津夫は言った。
「どこかで休んで考え直そうか。いい手を思いつくかもしれないしね」
二人はJRを利用し、甲府駅に移動した。
風景が一変し、ビルと交通信号、交通標識だらけになった。車のエンジン音も二桁《ふたけた》ぐらいボリュームが上がった。さっきまで田園のきれいな空気を吸っていたため、今は街の埃《ほこり》っぽさが気になってくる。
祐美が「甘いものが欲しい」と言い出した。そのため志津夫は、ステーションデパートのパーラーでチョコレートパフェをおごるはめになった。
「満足した?」と志津夫。
「うん。満足満足」
スプーンをくわえた祐美の丸顔が笑みに変わった。甘いものさえあれば、至福の境地に達するらしい。
その店は甘味専門のパーラーだった。客は制服の女子高生ばかりだ。メニューもパフェやケーキ、みつ豆ばかりだった。
店の内装はピンクと白、ペールグリーンで統一されていた。ウエイトレスも、ルイ王朝時代の如《ごと》きフリルだらけのエプロン。壁は少女マンガ風のイラストだらけだ。
志津夫はバナナジュースを注文していた。それが妥協できる限界だったからだ。
志津夫はソフト・アタッシュバッグから、ブラック塗装のノートパソコンを出した。甘味専門店のピンクのテーブルには、似つかわしくない代物だ。ファイル・ノートとシャープペンもメモ用に出す。
濃密なジュースを飲みながら、志津夫はパソコンのウインドウズが立ち上がるのを待った。そしてデジタルカメラのPCカードをパソコンに挿入し、今日の大収穫を呼び出した。
逆立ちした大蛇たちのラインダンスが、カラー液晶画面に出現した。画像の両端には祐美の手も映っている。
祐美はパフェをあらかた片づけ終わった。スプーンをなめながら、
「で、これから、どうするの?」
「それなんだが……」
志津夫は腕組みして、天井を見上げた。少し唸《うな》る。
実は、カムナビの謎について祐美に話すべきか否かで、さっきから悩んでいたのだ。
話すのなら、今が最適のタイミングだろう。一〇年前、この近辺で起きた犬の焼死体事件については、すでに彼女にも話した。犬の首輪の一四金バックルが溶けて、河原の石も溶けてガラス化していたという怪事件だ。
そういった説明不能の奇現象が存在することは、すでに祐美の頭にも染み込んだはずだ。今ならカムナビの話も、さほど突飛には聞こえないだろう。
それに志津夫は、詳しい事情は後で話すと言ったきり、まだ何も説明していないのだ。そして祐美は気を利かせたのか、志津夫を質問責めにするのは我慢している様子だ。このまま黙っているのは、やはり悪いような気がしてきた。
志津夫は息を吸い込むと、決意した。奇人変人と見られてもいい。祐美には、自分の考えをぶつけてみよう。
志津夫はカラー液晶画面を指さして、
「知っていたかい? 古事記や日本書紀などの日本の古典では、なぜか蛇神は光り輝くもの、として記述されている。ぼくは、それが何を意味するのか、ずっと考え続けていたんだが……。でも、その前に予備知識をレクチャーしようか」
志津夫は説明を始めた。
カムナビ山というネーミングの謎。日本各地に今も残る入山禁止のタブー。
普通の山々は風化して形が崩れていくのに対し、カムナビ山だけは古代から風化せず、きれいな円錐形を保ち続けている謎。
実は、カムナビ山の山頂の岩盤表面は異常に固いこと。岩盤表面が固いガラス状物質になっており、そのせいで風化から守られたらしいこと。そのガラス状物質は、摂氏一一〇〇度以上で高熱処理された跡らしいこと。
だが、不思議なことにカムナビ山には、火山噴火の形跡がまったくないという謎。
同じような例はミクロネシアのパラオ島のステップ式ピラミッド、ア・ケズ≠ネどにも見られる、という謎。
だが、志津夫は、茨城県での事件には触れないことにした。これについて説明するには、父の失踪《しつそう》についても触れなければならない。それだと話が長くなりすぎるからだ。
志津夫は言った。
「……そして日本の古典では、蛇神は光り輝くものとされている。これはなぜなのか……」
18
古事記や日本書紀などの記紀神話には、こういったエピソードが描かれている。
出雲の大国主神は、相棒だった少彦名神《すくなひこなのかみ》を失って気落ちしていた。そこへ現れた第二の援護者が蛇神、三輪山の大物主神だった。
その蛇神は、古事記の叙述によれば海を光《てら》してより来る神≠セった。
第十一代垂仁天皇イクメイリヒコの皇子ホムツワケにも似たようなエピソードがある。
皇子ホムツワケは出雲大神、つまり蛇神を参拝しに行った。その帰途、檳榔《あじまさ》の長穂宮《ながほのみや》で肥長姫《ひながひめ》と一夜の契りを交わした。だが、肥長姫の正体は蛇神だった。それを知った皇子は畏《おそ》れ、逃げた。
この時、逃げる皇子を蛇神は光《てら》して£ヌったと記述されている。
第二一代|雄略《ゆうりやく》天皇オオハツセワカタケルのエピソードにも、同じような話がある。
雄略天皇はある日、三輪山の神である大蛇を見た。だが、その目は光り輝いており、それがあまりにも強烈だったため、雄略天皇は恐れおののき宮殿に閉じこもった、というのだ。
要するに、記紀神話をはじめとする日本の古典には「蛇神=光り輝くもの」という等式があるのだ。
だが、なぜ、「蛇神=光り輝くもの」なのか? これらの説話は何が根拠になって、生まれたのか?
実は、これについては学者の間でも、まだ定説がない。
また、「蛇神=光り輝くもの」について考えていくと、さらに気になるエピソードが記紀神話にはある。神武東征神話である。
神の子孫である初代神武天皇イワレヒコは、生まれ故郷の九州から東征の旅に出て、奈良県までを征服し、古代大和王朝を創建したという神話だ。
この東征戦争で、神武天皇イワレヒコの最大のライバルとなったのが、トビノナガスネヒコだった。彼は奈良盆地の土着民の首長であったらしい。
イワレヒコ軍とナガスネヒコ軍は、奈良県桜井市の三輪山付近で激戦を繰り広げた。そのさなかに超常現象が起きた、という記述がある。
『日本書紀』によれば、
黄金《こがね》の霊鵄《あやしきとび》有りて、飛び来たりて皇弓《みゆみ》の弭《ゆはず》に止れり。其《そ》の鵄《とびて》光り曄焜《かがや》きて、状流雷《かたちいなびかり》の如《ごと》し。是《これ》に由《よ》りて長髄彦《ながすねひこ》が軍卒《いくさびとども》、皆迷《みなまど》ひ眩《まぎ》えて、復力戦《またつとめたたか》はず
現代語に意訳すると、
「光り輝くトビが現れた。それは神武天皇イワレヒコに味方した。そのトビは光り輝き、形は稲光のようだった。それはナガスネヒコ軍を攻撃し、彼らの戦意を失わせた」
だが、よく読むと腑《ふ》に落ちない描写がある。「稲光のような形のトビ」という一節だ。これは何なのか?
通常の解釈ではトビと言えば、鳥類の一種であるトビのことだ。だが、そのトビが稲光の形をして光り輝いたとは、どういう意味なのか? 普通に考える限り、よくわからない描写なのだ。
だが、古代日本語で「トビ、トベ、トンベ」と言えば「ヘビ」をさす言葉だったのだ。現在でも中国・四国地方には蛇神を「トンベ」と呼ぶ方言が残っている。
それならば、納得できる描写である。つまり、これは「稲光のような細長い形をした光り輝くヘビ」なのだ。
前述したが、神武イワレヒコ軍とナガスネヒコ軍が戦った戦場のすぐ近くには、蛇神信仰の本家、三輪山があるのだ。これはカムナビ山を代表する山である。
この付近でも、やはり光り輝く何かが目撃されたらしい。それゆえ「蛇神=光り輝くもの」と認識されるようになったのではないだろうか。また、同じことは、蛇神信仰の地である出雲にも当てはまるだろう。
ちなみにイワレヒコもトビノナガスネヒコも、現在では架空の人物と見なされている。
だが、彼らが実在した可能性は充分あるのだ。それを検証してみよう。
たとえば現在、大和盆地の北端には登美ケ丘≠ニいう地名が残っている。その辺りから富雄川≠ェ大和盆地中央に向けて、流れている。おそらくトビノナガスネヒコなる人物は、この辺りを拠点としていたのだろう。
弥生時代の地名が、今も使われている実例は豊富にあり、これらの地名もその可能性が高い。また、弥生時代は「地名=首長の人名」だった例が多かったことは、記紀などにも記述されている。
おそらくトビノナガスネヒコは大和盆地の首長として、この地を長年、支配していた人物だろう。
そこへ神武イワレヒコの軍勢が攻めてきたわけだ。
イワレヒコの名前の由来は、「大和盆地の東南の磐余《いわれ》地方に住み着いた豪族」という意味のようだ。記紀にも、そうした記述がある。また日本書紀によれば、磐余地方に住み着く前はヒコホホデミという名前だったという。
さらに検証に耐える材料もある。
記紀神話によれば、「九州からやって来た神武イワレヒコ軍は、船で日下《くさか》に上陸した」という記述がある。
日下と言えば、大阪府と奈良県との境にある地名だ。当然、船に乗って、ここに到達することなど不可能だ。だから、従来は、この記述はお伽噺《とぎばなし》だと解釈されていた。
ところが、地質学的な調査で、これが事実だと証明されたのだ。弥生時代、今の河内平野は湖のような状態で、大阪湾とつながっていたのだ。だから、イワレヒコは船に乗って今の大阪府を横断し、奈良県との県境、日下に上陸することが可能だったのだ。
地質学的に見ても、これは信憑性《しんぴようせい》の高い記述である。
志津夫は言った。
「ぼくは、イワレヒコもトビノナガスネヒコも実在したと考えている。そして金のトビ神話≠ノついてもモデルになった事件があっただろう、と思っている。
それがカムナビだ。元は神の火≠ェカムナビという発音になったと考えられる。これが謎の高熱を発生させて、山頂の岩盤表面を固いガラス状物質に変えて、山を風化から守り続ける結果になったのではないか。そうした山が、カムナビ山と呼ばれたわけだ。
『続日本紀《しよくにほんぎ》』では、この現象は神火≠ニいう名前で記録されたらしい。江戸時代の文献だと狐火≠ニいう名前で記録されている。いずれも説明不可能な強烈な光が目撃されたらしい」
志津夫は話し終わり、一息ついた。グラスの冷水を飲み干す。
「ふうん」
祐美は相槌《あいづち》を打ち、自分もグラスの冷水を飲んだ。軽く首を振る。ちょっと驚いたような顔をしていた。
「そんなこと大学で講義してるの?」
「するわけない」
「だよね。トンデモ本すれすれだもん」
「自覚してるよ。あくまで個人的に追いかけているテーマだ」
志津夫はノートパソコンの画面をあらためて見た。由来不明の縁起絵巻帳の一枚が映っている。
カムナビ山や、その周辺に出現した光り輝く大蛇たち。逆立ちし、全身をくねらせ、地面に咬《か》みつき、火炎放射器のように炎を吐いている姿に見えた。
祐美は人差し指を伸ばし、ノートパソコンの画面を突っついた。
「……とすると、この絵もその場面だってこと? 光り輝く蛇神の出現だと?」
志津夫はうなずく。
「うん。そんな風に見えた何かだろう。これこそ、光り輝く蛇神のルーツかもしれない。カムナビの語源かもしれない」
彼は天井を仰ぎ、ため息を上に吹き上げて、言った。
「でも、白川伸雄さんが撲殺された事件と、カムナビとは、今のところ直接的な関係はないみたいだな……。まあ、それは一度、脇に置いておくとして……」
志津夫はテーブルに頬づえをついて、
「……やっぱり、あの江口という男が怪しいな。だけど、どうも決め手がない。……待てよ。そう言えば、社務所のカレンダーにメモしてあった津田という人物も、どこの何者か、まだわからないんだったな。刑事さんも何も情報はくれなかったし……」
「うんうん、なるほど。ちょっと貸して」
祐美はテーブル上のファイル・ノートとシャープペンを引き寄せた。いずれも志津夫の持ち物だ。
祐美は見聞きした単語を呟《つぶや》きながら、書き始めた。思考を整理するためらしい。
「ええと、カムナビ、神火、狐火、光り輝く蛇神、トビ、トベ、トンベ、イワレヒコ、トビノナガスネヒコ、三輪山、旧辞《くじ》……」
彼女の字体は角張った楷書《かいしよ》だった。
最近の若い女の子は、まるで男性のような力強い筆跡で書く者が多いという。志津夫も職業柄、女子学生の答案用紙の筆跡を見て、「これが女の字か」と驚くことがある。祐美もその一人だった。
次いで祐美は人名も呟きながら、書き始めた。
「白川伸雄、江口泰男、中川、津田、葦原志津夫……」
「ぼくは犯人じゃないぞ」
「わかってるって。書いてみただけ。……ううむ」
祐美は唸《うな》りながら、単語や人名の羅列を睨《にら》んだ。天啓のような閃《ひらめ》きがないかと待つ態勢だ。だが、何も出てこないらしい。
彼女は鼻の頭を掻《か》いたり、シャープペンを指先で弄《もてあそ》んだり、野球帽を脱いで指先に引っかけて回したりした。その他いろいろな動作のバリエーションを七種類ほど演じた。だが、やはり何も思いつかないらしい。
ついに祐美はファイル・ノートをつかんで、それを団扇《うちわ》代わりにして扇《あお》ぎ始めた。体温が上がったらしい。たぶん知恵熱という症状だろう。
「ああ、わからんぞ」と祐美。
その瞬間、志津夫は目を見開いた。両手を握りしめてしまう。手の甲に青い静脈が浮き出たほどだ。
「わかった!」
志津夫は祐美からファイル・ノートを奪い取った。
19
「え? 何?」
祐美は唖然《あぜん》としていた。口が大きく開いている。
店内にいるセーラー服の娘たちも、お喋《しやべ》りを中断して振り向いていた。彼女らの目は、甘味専門店には相応《ふさわ》しくない三〇歳の男に注がれた。
志津夫は、周囲の視線など構っていられなかった。真相が見えたからだ。
シャープペンを取り、ファイル・ノートに大きく楷書で二つの名前を書いた。
江口≠ニ津田=B
志津夫は興奮した面持ちで言った。
「残像だよ」
「え?」と祐美。
「君がノートをバタバタさせていたから、この二つが残像みたいに重なって見えたんだ。いいかい。見ててくれ」
志津夫は江口≠フ口≠ノ線を二本書き加えた。
それは江田≠ノ変わった。
「次はこれだ」
江≠ノ、五本の線を書き加えた。
それは津田≠ノ変わった。
祐美は口を大きく開いたままだった。顔面の筋肉が固まってしまった感じだ。ファイル・ノートを見つめている。
やがて祐美が言った。
「じゃ、やっぱり江口泰男が?」
「その可能性は高いんじゃないか」
志津夫も知恵熱で体温が上がっていた。真相に辿《たど》り着いた歓喜で、体内にアドレナリンが噴出している。一気に喋った。
「ぼくが警察に事情聴取されたことは、言ったよね。その時、伯川神社の社務所の中を見せられた。電話のそばには、ポスター風の大きなカレンダーが張ってあった。
カレンダーの六月一日のところには『P8:00 津田』というメモがあり、六月二日のところには『A10:00 葦原』というメモがあった。白川伸雄さんは、津田という人物と、ぼくとが相次いで訪ねてくる予定を書いた。そう見えたわけだ」
「でも、違っていた」と祐美。
「そうだ」
志津夫は、自分の声が頭蓋骨《ずがいこつ》内部でエコーをともなって響いているのを感じた。喋り続ける。
「白川伸雄さんを殺した犯人は、付近をくまなく漁っている。当然、カレンダーのメモも見逃さなかったんじゃないかな? これが犯人の名前を書いたカレンダーなら、犯人は持ち去るべきだ。でも、それをしていないのは、なぜなのか?
たぶん、こうだろう。江口泰男はカレンダーに自分の名前が書いてあるのを見て、まずいと思った。ボールペンだから消すこともできない。
そこで最初はカレンダーをはがして持ち去ろうか、と思ったかもしれない。でも、あのカレンダーは一年三六五日を一枚のポスターにした大型のタイプで、しかも壁にべったり張ってあった。だから、うかつにはがそうとするとカレンダーがボロボロになって跡が残るし、はがすのに時間もかかるだろうし、いかにも証拠を隠滅しようとした怪しさも残るだろう」
祐美がうなずいて、
「そこで名案を思いついた。江口≠ノ線を書き加えて津田≠ノすればいい」
志津夫も軽く手を叩《たた》いて、
「これで謎の人物の出現だ。翌日やってくる葦原という奴が、白川伸雄メモの信憑性《しんぴようせい》を証明する。警察は存在しない津田≠追うだろう。証拠は消して、捜査も攪乱《かくらん》できる。一石二鳥……。あ、そうか!」
志津夫はさらに閃いた。もう一度、手を叩く。
「それで、わかった。なぜ江口泰男が、ぼくに話しかけてきたのか。
ぼくが家電用品の店で、津田の名前を口にしたからだ。店の主人に津田という名前を知らないかと、訊《き》いたんだ。あの時、店にいた江口泰男は、それを耳にしたはずだ。大学講師のぼくが、なぜ現場のカレンダーに残された津田の名前を知っているのか、彼は気になったはずだ。だから、ぼくの後をつけてきて、話しかけてきた。そしてぼくの名前が葦原だと知って、納得がいった」
「なるほどね」
志津夫と祐美は微笑み合った。しばらくは言葉が出なかった。パズルを解いた時の快感を数十倍に増幅したものを味わっていたのだ。
やがて二人は声を上げて、笑いだした。祐美に至っては何度も拍手したほどだ。
素人探偵のコンビが、プロフェッショナルの警察を出し抜いてしまったのだ。その快感は格別だった。
ウエイトレスや女子高生たちが、また振り返った。彼女らは何事かという顔で、志津夫と祐美を見つめている。
だが、二人は全然気にしなかった。謎を解いた喜びの方が勝っていた。
やがて祐美が頬を紅潮させて、言った。
「じゃ、江口泰男が旧辞を持ってると?」
「そうかもしれない。動機は旧辞かもしれない。旧辞が本物かどうかはともかく、江口は、あそこの土蔵にある旧辞を本物だと信じたんだ。で、それを手に入れようとした。結果的に、殺人事件に発展した……」
祐美が訊いた。
「で、どうするの? 警察に言うの?」
「ううん。それなんだが……」
志津夫は唸り始めた。腕組みして、五秒ほど考え込む。
やがて彼は首を振った。
「いや、まだだ。もし江口が犯人なら当然、盗んだ旧辞を持っているはずだ。ぼくは、それが見たい。警察が証拠物件として押収してしまったら、現物を見るチャンスなんて、しばらくは期待できないだろう」
志津夫は天井を見上げて、
「もう少し証拠固めをしよう。それから江口にぼくらが見破ったことを告げて、自首をすすめる。その時に旧辞の現物を見せてもらうんだ。もちろんコピーも手に入れる。……警察に言うのは、その後でいい」
志津夫は興奮のあまり、全身に汗がわき出すのを感じた。自分独りだけ熱帯夜の中にいるみたいだ。
旧辞には、もちろん一史学者として興味があった。隠された史実が記録されているかもしれないからだ。しかも、それ以上の何かも書いてあるかもしれないのだ。たとえば光り輝く蛇神の謎、カムナビの謎についての手がかりだ。
旧辞が本物かどうかは、まだわからない。だが、それをめぐって人殺しまで起きたとなると、本物である可能性は相当高いように思えた。
ふいに祐美が腕時計を見た。立ち上がる。
「ちょっと電話しなきゃ」
「また親戚《しんせき》の家?」と志津夫。
祐美は首を振って、
「友達のところだよ。電話すると約束したから」
彼女は微笑し、野球帽をかぶりなおした。ポケットからテレホンカードを取り出すと、店外に出ていく。ステーションデパート内の電話機へと向かった。
志津夫は、その後ろ姿を見送っていた。ふと店内を見回す。そして、あらためて居心地の悪さを感じてしまった。
さっきまでは祐美と志津夫がカップルの状態だったから、違和感はなかったのだ。だが、今の状況は、女子高生だらけの甘味専門店に三〇男が一人で座っている構図だった。場違いもいいところだ。
どうも決まりが悪いし、手持ち無沙汰《ぶさた》だった。そこでノートパソコンを引き寄せた。祐美が戻るまで、今までの画像をチェックしてみることにする。
画面に、今日の収穫を呼び出した。
無惨な撲殺死体や、土蔵内部の画像。白川伸雄宅や、その周辺の田園風景。電話中の祐美の横顔。蛇神降臨の絵図面。
それらを眺めているうちに、また例の疑問がわいた。
「おかしいな。土蔵で七枚撮ったと思ったのに、なぜ、六枚しかないんだ?」
試しに、土蔵中央の奥を撮った画像を呼び出した。
画面に、土蔵内部の二列の棚が浮かび上がった。それらは平行に並んでおり、遠近法を成している。足元の床には和綴《わと》じ本や巻物などが散乱していた。
志津夫は、ふと思いついた。この画像を細かくチェックしてみよう。特に画像の左端を重点的に見るのだ。
あの時、警察が来る前に、志津夫は土蔵の内部を「右側」「中央」「左側」と三枚に分けて撮った。この時、撮り残しがないように、画像同士の端と端が重なるよう注意して撮影したのだ。
消えた七枚目の画像は、土蔵内部の「向かって左側」を撮影したものだった。当然、「中央」画像の左端には、「左側」の部分が多少は映っているはずなのだ。
拡大率を最大の五〇〇パーセントにした。六〇〇万画素でも、このぐらい拡大すると、多少画質が粗くなった。
志津夫は左端の上の方から、少しずつフレームを下げていき、画面を睨《にら》んだ。だが、特に目を引くものはなかった。桐の箱や巻物の切れっ端ぐらいで、それほど重要なものはない。
やがて画像のいちばん下までフレームを下げた。床の一部が映る。
そこに和綴じ本が一冊あった。本は斜めになっている上、全体の半分ぐらいがフレームの外にはみ出している。
本の表紙には、漢字三文字でタイトルが書かれていた。
志津夫の手が止まった。目を見開いてしまう。
伯 家 部
志津夫は呟《つぶや》いた。
「伯《はつ》・家《け》・部《ぶ》……」
どうやらタイトルは全部で四文字らしい。だが、四文字目はフレーム外にあり、わずかにその上端が映っているだけだった。
「伯・家・部? もし全部で四文字だとすると、これは伯家部類《はつけぶるい》? この本は伯家部類なのか?」
志津夫はテーブルに頬づえをついた。ノートパソコンの画面を睨む。
やがて彼は両手で自分の頭を抱え込んだ。記憶を検索していくうちに、その姿勢になってしまったのだ。自分の想念の中に沈み込んでいた。
志津夫は、記憶の奥から言葉を呼び出した。独りで呟き始める。
「伯家部類と言えば、伯家流神道のバイブル的な教本だろう……。そう言えば神社の名前は伯川神社……。殺されたのは白川伸雄……。白川だって? そう言えば、伯家流神道を継承していたのは白川家一族じゃないか。でも、その流れは明治以降、絶えたはずだが……。まさか?」
ふと顔を上げた。
ノートパソコンの画面が、いつの間にかスクリーンセイバーに変わっていた。
スクリーンセイバーとは、パソコンに必ず付いている基本機能だ。パソコンを操作しないで長時間、放っておくと画面が動かない状態が続くため、スクリーンにその画像が焼きついてしまうのだ。それを防ぐために一定時間、操作しなかった場合は、自動的に動き回る図形などが表示される。
今、志津夫のパソコンで稼動しているスクリーンセイバーは「宇宙飛行」というものだった。画面中央から、多量の星々が放射状に飛んで来る映像だ。
志津夫の顔が歪《ゆが》んだ。目が見開かれ、歯もむき出しになってしまう。両手で髪の毛を握りしめた。
なぜ、七枚撮ったはずの画像が一枚足りないのか? その答えが突如、閃《ひらめ》いたのだ。
だが、それを検証しようという意欲はわいてこなかった。
志津夫は座ったまま硬直していた。身動きできない。まるで貝塚遺跡の固定剤に使うアクリル酸エマルジョンで固めたみたいだと、突飛な比喩《ひゆ》を頭の片隅で考えていた。
20
パーラーの周辺には喫茶店や和食、洋食、中華などのレストランが並んでいた。典型的なデパートの食堂街だ。まだ混み合う時間でもないので、人影は少ない。
志津夫はレジでチョコレートパフェとバナナジュースの代金を払った。店員がマニュアルどおりに頭を下げて、ありがとうございました、と言った。
祐美も一礼し、天真|爛漫《らんまん》に微笑んだ。
「ごちそうさまでした」
「どういたしまして」
志津夫はうなずき、歩き出した。祐美も後から、ついてくる。
レジから少し離れたところで、志津夫は言った。
「じゃ、今日は、ここまでにしよう」
「え? そうなの?」
祐美が意外そうな顔をしていた。これから江口泰男を攻略する作戦を練るものと思っていたようだ。
志津夫は肩をすくめて、
「少々、疲れたしね。一人でゆっくり考え直したいんだ。これはぼくの連絡先だ」
志津夫は名刺を渡した。
「自宅の住所と電話番号、それに携帯電話の番号も書いてある。今日と明日は確実に甲府付近にいるから、携帯の方にかけてくれ」
祐美は名刺を眺めて、
「ふうん。じゃ、明日は私から連絡する。何時がいい?」
「何時でもいいよ」
その後、二人は歩きながら、とりとめもないことを話した。
女の子が野球帽なんて、あまり見かけないな、最近そんなのが流行《はや》ってるのかい? 私の中では流行ってるんだ、ここ一ヶ月の最新ブームだね。なるほど、ぼくの中では五年前からキャンピングシューズが流行ってるよ、街中でも泥だらけの遺跡調査でもOKだから。それは流行ってるんじゃない、実用性で選んだだけだよ。そうかな。そうだよ。
二人はJR甲府駅の南口に出た。
夕刻なので、空が暗くなり始めていた。濃い藍色《あいいろ》に染まっている。
ピンク色の大きなステーションビルが辺りを睥睨《へいげい》していた。壁に「星空のビアテラス開催中」の垂れ幕がある。甲府はステーションデパート発祥の地だと何かで読んだのを、志津夫は思い出した。
祐美が手を振り、言った。
「今日はおもしろかった。じゃ、また明日」
「ああ」
志津夫も手を振り返した。彼女の背中が東の方角に遠ざかっていくのをしばらく見送る。その方向にはバス・ターミナルと舞鶴公園があるはずだ。
やがて志津夫も歩きだした。本来なら、佐治刑事に紹介された駅前北口のビジネスホテルに向かうところだ。
だが、志津夫の足は南口から西の方向にある繁華街に向かった。
その付近は、林立するビジネスビルの谷間だった。ちょうど帰宅途中のビジネスマンとOLの数が増える時間帯だ。今日も無数の商談がまとまり、あるいは決裂したのだろう。
アーケード街のネオンも点灯し始めていた。歩道の半分は、駐車中の自転車とバイクで埋まっていた。
志津夫はアーケード街の合い鍵《かぎ》屋に入って、大型書店はないかと、尋ねた。歩いて五分以内のところにある、と教えてもらい、そこに向かった。
「武田書店」という看板が出ていた。一階から四階までが本屋で、五階が事務所になっていた。
活字中毒者の例に漏れず、志津夫も本屋に行くだけで脳内麻薬物質に酔える人間だ。平積みの表紙や背表紙の列を眺めているだけで、幸せな気分になれるのだ。
だが、今日はゆっくり立ち読みする気はなかった。まっすぐ二階の「宗教」の棚を目指す。
目当ての本はすぐに見つかった。
『古神道の世界』という本だ。さっそく中身をチェックした。
あまり知られていないが、古神道と呼ばれる流派は現代にも多数、存在する。
通常の神道と違って、古神道の場合、より神秘主義的色彩や、魔術色、オカルト色が強いのが特徴だ。
ある古神道家は、こう説明している。
「神社神道は建物の神道だ。つまり、神社の建物をもっとも大事にしており、それが存在意義になっている。一方、古神道は行法の神道だ。様々な行法を行い、自身が神に近づくことを目指すもので、建物は二義的なものに過ぎない」と。
確かに古神道は、一般人には見慣れない秘儀で成り立っていると言っても過言ではない。
代表的な行法には禊《みそぎ》、鎮魂法、帰神法、鎮魂鳥居の伝などがある。これらを構成する個々の技法は主に呼吸法であり、雄建《おたけび》、雄詰《おころび》、息吹といった名称で呼ばれている。
こうした秘儀を行う古神道流派の一つに、伯家流神道というものがある。
伯家流神道の場合は、正座し、天津微手振《あまつみてふり》と呼ばれる一連のポーズと動作を行い、息吹永世《いぶきながよ》と呼ばれる呼吸法を行う。これらの行法により、病気を治し、未来を予知し、その他様々な奇跡が可能になるとされている。要するに、これもオカルト神道と言っていいものだ。
伯家流神道は別名、白川神道とも言う。これを継承してきたのが、白川家一族だからだ。
白川家一族は天皇家の遠縁である。第六五代|花山《かざん》天皇の血筋から出た家柄だ。
また、白川家は神祇伯《じんぎはく》という役職を、八〇〇年以上も世襲してきた家柄でもある。神祇伯とは、今風に言うなら宗教大臣≠ノ当たる地位だ。
ところが明治維新後、白川家一族は受難の時を迎えた。明治新政府から嫌われたのだ。
明治四年に大嘗祭《だいじようさい》、つまり明治天皇の皇位継承の儀式が行われた。これを取り仕切ったのが、最後の神祇伯だった第三二代白川|資訓王《すけのりおう》だった。
この大嘗祭では、伯家流の行法も白川家一族によって実演された。
だが、それを見た明治新政府の面々は顔をしかめたらしい。彼らの目には前近代的な迷信臭いオカルト信仰としか映らなかったのだろう。
明治四年八月、八〇〇年以上続いた神祇伯の役職は突如、廃止された。同時に白川家は天皇家への出入りを禁止された。
以後、白川家は没落していった。一族の血筋も絶えたし、伯家流神道の真髄も失われたという。
要するに、これも明治維新の陰に埋もれて、忘れ去られた悲劇の一例というわけだ。
だが、この時、白川家一族とは血縁関係のない、伯家流の門人たちもいたのだ。その門人たちによって、伯家流の秘儀は断片的な形ではあるが継承されていたのだ。
現在、わかっている伯家流の行法とは、そうやって残ったものであり、全体のごく一部分だという。
志津夫は『古神道の世界』を読み続けた。
その本には、伯家流の行法も一連のイラストで解説してあった。
その他にも秘印とされる様々なポーズが載っていた。
志津夫はページをめくり続けた。
手が止まった。
彼の目が大きく見開かれた。そのイラストを凝視してしまう。
そこには、あるポーズが紹介されていた。両手の親指と人差し指で正三角形を作って、そのまま手のひらを前方に突き出すポーズだった。
伯家流の秘印、太陽の印≠ニキャプションがある。
志津夫の脳裡《のうり》で、黄色いシグナルが点滅していた。見覚えがある。
志津夫は本から目を離して、宙を睨《にら》んだ。どこかで、このポーズを見た。それもごく最近だ。
だが、いつ、どこで?
21
志津夫はJR甲府駅北口のビジネスホテルにチェックインした。
シングル・ルームのベッドに寝転がって、身体を休めた。同時に、今後どうするのかを考え続けていた。
時々ため息が出た。時々「信じられない」と呟《つぶや》いた。時々「でも、やっぱり、そうなのか?」とも言った。
一時間半ほど考えて、ようやく行動方針を決めた。ベッドから起きあがる。
ビジネスホテルを出た。すでに日が暮れている。街灯とネオン看板によって、風景は一変していた。
ハンバーガーショップの小さなテーブルに座って、夕食を済ませた。ついでに夜食の分も買っておいた。
そして行動半径を広げるべく、レンタカーを借りた。シルバーグレーのサニーだ。
志津夫は運転席に座って、アクセルを踏み込んだ。一五〇〇ccディーゼルエンジンをふかして、夜のドライブに出発する。国道一四〇号線などは避けて、できるだけ車の少ない道を選んだ。
覆面パトカーが自分を尾行していないか、絶えずチェックした。幸い、それは杞憂《きゆう》だった。通行量ゼロの細い道を通っても、バックミラーにはヘッドライトが映らなかったのだ。
曇り空が頭上を重く圧迫していた。月も星も見えない。遠景にかろうじて富士山のシルエットが確認できるぐらいだ。
志津夫はJR中央本線と平行に、東に進んだ。酒折駅のそばを通過する。
伯川神社の正面入口に到着した。まだ現場は黄色いテープで封鎖されている。制服警官が一人、石造りの鳥居の間に立って、見張り役を務めていた。
志津夫はステアリングを切って、伯川神社の正面から踏切を越えた場所へ向かった。そこで一時、停車する。例の閉まったままの商店の前だ。
飲み物の自動販売機があった。昼間は作動したり、作動しなかったりと不調だった機械だ。おかげで近所の若者がコインを無駄にしたのだ。
その自販機には「故障中」の貼り紙が付いていた。商品見本を照らすための蛍光灯も消えている。
それを見て、志津夫は深々とうなずいた。やはり、これは故障していたのだ。志津夫がコインを投入する前に。
では、なぜ、あの時ウーロン茶は出てきたのか? それも二本続けて。
再びサニーのアクセルを踏んだ。今度は江口泰男の家に向かった。
その付近は電柱の街灯も一つおきぐらいにしか付いていないので、かなり暗かった。夜闇の中に、ビニールハウスと民家の影が点在しているのがわかるぐらいだ。
江口宅から二〇〇メートルほど離れた道路際に、志津夫はサニーを駐車した。エンジンを切り、車を降りる。ここに停めても文句は言われないだろう。
ソフト・アタッシュバッグを肩にかけて、徒歩で江口宅に近づいた。そして周辺を探した。
やがて、いい見張り場所を見つけた。民家と畑を囲む形の防風林だ。主にシキミやハンノキで構成されている。アカメガシワとセンリョウが枝先に黄色の小花をつけていた。
バッグを地面に置くと、木陰から8LDKの平屋を見張った。窓のほとんどが暗い。玄関と居間の一つが点灯しているだけだ。
腕時計を見た。まだ午後九時前だ。長い夜になりそうだ。
志津夫は木に寄りかかった。最近の若者が路上でするみたいに、しゃがみ込んだりもした。退屈との闘いだった。ライトを点けて読書というわけにもいかないのだ。
頭の中で、一〇年前の洋楽ポップスの曲を再生していた。最近のヒット曲にあまり関心がないのは、老化の始まりだろうか。本当はCDプレーヤーが欲しいが、何か物音がした時にイヤホンで耳を塞《ふさ》いでいるわけにはいかなかった。
時間が鈍重に流れていった。足元の土中の石英結晶が、土壌が発する微量な放射線から電子量を一〇〇〇年分ぐらい蓄えたように思えた。志津夫自身も、この場で化石になってしまいそうな気がした。
腕時計を見た。午前〇時を過ぎている。
江口泰男の家はまだ明かりが点いていた。商売は農家なのに、宵っ張りの人物らしい。それとも眠れない理由が何かあるのだろうか。
空腹を覚えたので、買っておいたハンバーガーをかじった。すっかり冷えていて、味も落ちていた。
志津夫は徐々に、自分の予測に疑いを持ち始めた。これは被害妄想じゃないのか? ぼくは無駄な張り込みをしているだけじゃないのか?
一度そう考え始めると止まらなくなった。無駄な足踏みばかりしてしまう。つい回れ右して、帰ろうかと思ったほどだ。
物音がした。
志津夫の足踏みが止まる。振り返った。
遠くの方からエンジン音と、ヘッドライトの光が接近してきた。それは江口宅の近くで停車した。その直後に光もエンジン音も消えた。
続いて、ドアが開閉する音。足音。
志津夫は樹木の陰から顔を半分出して、のぞいた。
二つの人影が見えた。一人は背が高く、一人は背が低かった。あるいは男女のコンビかもしれない。それ以上のことはわからなかった。
志津夫の胸に力強い確信が湧き上がった。被害妄想なんかじゃない。ぼくは真相に気づいて、適切な行動を取ったのだ。
二つの人影は、江口泰男宅の玄関前に立った。背の低い方が、呼び鈴に手を伸ばす。かすかなチャイムの音が伝わってきた。
やがてアルミサッシのドアが開いた。その付近が明るくなり、人影のシルエットが鮮明になる。背の低い方は野球帽らしいものをかぶっているように見えた。
ふいに破裂音が響いた。大きなゴム風船が針で突かれて、割れたような音だ。
次いで、別の物音を聞いた。玄関の内側で、何か重いものが倒れたような音だ。
その直後、二つの人影は素早く屋内に入った。ドアが閉まった。
志津夫の全身が硬直した。筋肉が焦がしすぎたステーキみたいに固まった感じだ。
今の光景は、まるで強盗が押し入ったようだった。もしも来客が江口泰男の知り合いなら、なごやかな挨拶《あいさつ》の一つもあっていいはずだ。だが、それらしい身振り手振りや音声はまったくなかったのだ。
念のため、志津夫はその場で一分待った。それからソフト・アタッシュバッグを肩にかけて、歩きだした。足音を立てないよう注意しながら、玄関に近づいていく。
慎重にドアに手をかけた。玄関の内側に、人の気配は感じられない。今がのぞき見するチャンスだった。
アルミサッシのドアは滑らかに開いた。
志津夫は、かすかに唸《うな》った。不審と驚きで目を見張ってしまう。一瞬、また殺人現場かと思ったほどだ。
玄関には、体格のいい五〇歳前後の男が仰向《あおむ》けに倒れていた。目は閉じられている。ブルーのパジャマ姿で、上に茶色のカーディガンを羽織っている。
江口泰男だ。
志津夫は駆け寄り、しゃがみ込んだ。彼の様子を観察する。
死んではいない。胸が上下しており、呼吸しているからだ。手で触って確かめたが、外傷や血の跡などもないようだ。
見た感じでは、貧血でも起こして倒れたみたいだった。だが、江口は体重八〇キロぐらいの体格であり、頑健そのものに見える。貧血などとは程遠い人生を送ってきただろう、と思えた。
物音がした。
志津夫は立ち上がった。廊下をのぞき込む。
廊下は、玄関から見て左へ直角方向に伸びていた。その奥は照明光が乏しくて、よく見えない。
また物音がした。足音、軽い物体が床に落ちたらしい音、ふすまを開閉する音。
かすかだが話し声もする。声のトーンから、一人は男で、一人は女だと見当がついた。
志津夫は脳が沸騰しているような感覚だった。血圧が上がっているのが、自分でもわかった。
脳裡《のうり》で、様々な想像が膨らんだ。江口泰男はライトヘビー級の体格なのだ。なのに一瞬にして気を失ったらしい。強盗は格闘技の達人か何かだろうか?
だとしたら、六〇キロでライト級の志津夫には勝ち目がない。武器になるようなものも持ち合わせていない。
どうすればいいのか? 考えてみたが、何も有効な手段はなかった。
迷っている間に、足音が玄関に近寄ってくる気配があった。
志津夫は深呼吸した。もう避けられない。対決の時だ。
志津夫は、失神している江口泰男のそばを離れて、開けっ放しの戸口に立った。この位置なら、何かあっても、すぐ逃げられるだろう。
心臓が激しく脈打っている。一回、打つ度に胸郭から飛び出しそうなほどだ。
もうすぐ対面できる人物が誰なのかは、もうわかっている。だが、今度はその人物の別の顔と邂逅《かいこう》するのだ。ゆえに、これは初対面での対決だとも言えるだろう。
足音が迫ってくる。まるでゴジラのそれみたいに騒々しく聞こえる。志津夫の心臓音とシンクロしていた。
やがて相手が現れた。予想どおり男女二人組だった。
彼ら二人は志津夫を見た瞬間、驚愕《きようがく》の表情になった。思わず一歩下がる。叫び声を発した。
その情景にストップモーションがかかった。
22
強盗の一人は予想どおり、祐美だった。
彼女は銃で狙撃されたような反応を示していた。野球帽の下で愛嬌《あいきよう》のある丸顔が歪《ゆが》んでいる。口が半開きのままだ。
「葦原さん……」
そう言ったきり絶句した。凍りついている。祐美にしてみれば、今この場で志津夫と遭遇したこともショックだろうし、真相を見破られていたことも二重のショックだったはずだ。
強盗のもう一人は五〇代の男だ。彼も唖然《あぜん》とした表情だった。
男の身長は志津夫と同じ一七五センチぐらいで、痩《や》せた体型だった。姿勢がよく、威厳のある顔立ちだった。髪の毛は短くカットしており、口ひげを生やしている。鋭い眼は猛禽類《もうきんるい》のようだ。
男の服装はグリーン系でまとめたゴルフウエアだった。だが、本来は和服が似合いそうな雰囲気がある。
祐美と、ひげの中年男は白い手袋をしていた。もちろん現場に指紋を残さないためだろう。二人ともスニーカーを履いており、土足で屋内に上がり込んだとわかった。
ひげの中年男は両手にノートや大きな茶封筒、和綴《わと》じの本などを持っていた。茶封筒は膨らんでおり、中からコピー用紙が一枚はみ出している。和綴じの本には達筆でタイトルが記されていた。
志津夫は目を見開いた。彼の視界では、それだけがズームアップの状態だ。
和綴じ本のタイトルは『旧辞《くじ》』だったのだ!
それは黒い厚紙の表紙で、製本されていた。表紙が古びたものと、新しいものとが二冊ある。たぶん原本と筆写本だろう。
志津夫は目を見開いたまま叫んだ。
「旧辞か! やはり本当にあったのか……」
全身の血液が沸騰した。思春期の少年がポルノグラフィーを目にした時の興奮度に匹敵した。今すぐ奪い取り、貪《むさぼ》り読みたかった。
ひげの中年男も口を開いた。
「君が……」
何か言いかけたが、そこでやめた。よく響く低音の声だった。すでにショックに対応したらしく、落ち着いた感じだ。
祐美が音を立てて息を吸い込んだ。今まで呼吸するのを忘れていたらしい。彼女が言った。
「葦原さん、どうして?」
「こういうことじゃないか、と気づいたのさ」
志津夫の口元が歪んでいた。自分が祐美に対して抱いた好意は何だったのか、と自問したくなる。失恋の苦味に近い気分だ。
「どうなってるんだ? どうして、こう最近の女どもはウソばかりつくんだ?」
志津夫は自嘲気味に言い、首を振った。そして気を取り直し、ひげの男に向き直った。
「そちらの方には自己紹介しよう。ぼくは葦原志津夫、比較文化史学の学者だ。
あなたは中川さんでしょう? もちろん、それは偽名だろうけど、中川と名乗って今日の昼間、町役場や、この江口さんの家にも出没した人だ。そうでしょう?」
ひげの中年男は沈黙していた。余計なことは口にしないといった雰囲気がある。
志津夫の胸の中には夕方から今まで、たまっていたものがあった。それを吐き出し始めた。
「……昼間、ぼくが町役場に江口泰男の住所を訊《き》きに行ったら、ぼくよりも一足先にそれを訊きに来た男がいる、と知らされた。中川と名乗り、痩せていて、ひげを生やしていて、目つきが鋭い男だそうだ。その男は何者なのか、と思っていた」
志津夫は祐美を指さした。
「そちらのお嬢さんは同じ行動を、三回取っている。ぼくと話をしているうちに、殺人事件について新しい情報や推理した結果を得ると、すぐに電話をかけに行くんだ。
初対面の時から、そうだった。白川伸雄さんが撲殺されて、ぼくが第一発見者だと聞いて、まず電話をかけに行った。
酒折駅前の喫茶店でも、そうだった。
あの時、ぼくは、こう思いついた。殺人現場の近くに住む江口泰男が、事件の翌日になぜ、事務用コピー機を必要としたのか。つまり、江口が白川伸雄さんを殺して、旧辞を奪ったのかもしれない。旧辞のコピーを取るために機械を買ったのかもしれない、と。
ぼくがそう言うと、そこのお嬢さんは、またも電話をかけに行った。ぼくが携帯電話を貸してやる、と言っても、断った。
そして、犯人がカレンダーに書かれた江口≠津田≠ニ書き換えた可能性がある、とぼくは思いついた。その直後またもや、そちらのお嬢さんは電話をかけに行った。
なぜなのか? おそらく、ぼくに内緒で、誰かに最新情報を伝える必要があったからだろう。だから、町役場を訪ねた時も、江口さんを訪ねた時も、ぼくの行動を先回りしている男がいたんだ」
祐美は無言だった。さすがに胃が痛んでいるような顔になっている。唇を結んで、志津夫を見ていた。
志津夫は意識不明の江口泰男を指さした。
「そして、昼間この家を訪ねた時、江口さんはこう言った。『そう言えば、そこのお嬢さんと、さっきのひげの男と目鼻立ちが似ているような』と。だが、そこのお嬢さんは『この手の顔はよくある顔だから』とごまかした。
だが、似ていて当然なんだ。きっと親子か、それに近い血縁関係なんだろう」
祐美と、ひげの中年男は互いの顔を見合わせた。一瞬だが、二人とも少し気恥ずかしそうな表情を浮かべた。
並べてみれば、この二人が共通したDNA情報の持ち主であることは明白だった。目の形状なども大きめのアーモンド型で、そっくりなのだ。
志津夫は両手を広げて、
「ぼくは伯川神社の土蔵で、七枚の写真を撮った。ところが、土蔵内部の左側を撮った七枚目のデジタル画像が消えてしまった。最初はカメラの故障かな、とも思った。
だが、違っていた。ぼくがノートパソコンのそばを離れている間に、誰かが操作して七枚目の画像ファイルをメモリーから削除したんだ。それしか考えられない。
ぼくが土蔵の写真を撮ってから、ノートパソコンのそばを離れたのは一度だけだ。刑事がやってきて、覆面パトカーに乗せられて話をしていた時だけだ。
後になって、スクリーンセイバーが作動していなかったことにも気づいたよ。ぼくが刑事と覆面パトカーの中で話をしてから、喫茶店に戻った時だ。ノートパソコンの蓋《ふた》を開けて、画面を見たら、いきなり殺人現場の画像が出たんだ。
ぼくのパソコンは五分間、操作しないとスクリーンセイバーが作動するよう設定してある。『宇宙飛行』という、動く画像に自動的に切り替わるんだ。
だが、あの時は五分以上、パソコンから離れていたのに、スクリーンセイバーが作動していなかった。直前まで、誰かが操作していた証拠だ。
では、誰が操作していたのか?」
志津夫はあらためて祐美を指さした。
彼女は頭痛に歯痛、生理痛などを全部患ったような顔になっていた。白い手袋をはめた両手を握りしめている。
志津夫も、彼女と同様の表情を浮かべていた。今日の夕方、真相に気づいてから、ずっと不機嫌な気分だったのだ。
祐美は、いかにも万人に愛されるタイプの娘に思えた。男の子みたいな口調にも清潔感があった。虚言癖や盗癖があるような危ない性格には見えないのだ。
その祐美がなぜ、志津夫のパソコンから画像ファイルを勝手に消したのか? また、なぜ、そのことを黙っているのか?
志津夫は、それに気づいた時、全世界が伏魔殿と化していくのを感じた。被害妄想に近い感情が湧いてきた。祐美は一種のスパイなのか、これは何らかの大がかりな陰謀なのか、と悩み続けたのだ。
志津夫は言った。
「……でも、無駄だったね。六枚目の画像の端っこにも映っていたんだ。『伯家部類』というタイトルの本がね」
祐美が大きく目を見開いていた。隣のひげの中年男を振り返ってしまう。
だが、ひげの男は動じなかった。完全にショックから醒《さ》めた表情だ。むしろ志津夫を科学者の目で観察しているような雰囲気があった。
志津夫は続けて言った。
「『伯家部類』と言えば伯家流神道のバイブル的な教本だ。それが土蔵にあった。だが、そのことをなぜ、ぼくの目から隠そうとしたんだ?
あんたたち、もしかして伯家流神道の生き残りか? 白川家一族か? 君は稲川祐美とか名乗ったけど、本当は白川祐美じゃないのか? そっちの中川さんも、本当の名前は白川なんだろう? 殺された白川伸雄さんも、あなた方の仲間だろう?」
志津夫は祐美を指さして、
「君は、白川伸雄さんの遺体の映像を見て、泣き出したね。あの時は単に知り合いが亡くなってショックを受けたのか、と思っていた。涙もろいんだな、とも思った。
だが、違っていた。本当は姪《めい》っ子を可愛がってくれた叔父《おじ》さんを突然、亡くしたために、君は泣いたんだ」
23
志津夫は一旦《いつたん》、言葉を切った。相手の返答を待つことにした。
返答はなかった。祐美も、ひげの中年男も依然、沈黙していた。
祐美はショックから醒めつつあるようだ。今は困惑した表情を浮かべている。ひげの男と志津夫とを交互に見比べていた。
一方、ひげの男は子犬に吠《ほ》えられたぐらいの態度だった。この状況を切り抜ける自信があるらしい。無言で、志津夫を観察している。
志津夫は視線を下げた。
祐美たちの足元には、気絶している江口泰男がいた。パジャマにカーディガン姿の彼は安穏と眠りこけている感じだった。
状況から判断すると、江口は来客と会うため自ら玄関のドアを開けたが、その直後に失神したらしい。だが、祐美や、ひげの中年男がどうやって江口を瞬時に気絶させたのか。その方法はまだわからない。
志津夫は思った。もしかしたら、ぼくも同じ目に遭うかもしれない。だったら、少しでも情報を引き出してやる。隙を見て、旧辞も強奪してやるぞ。
志津夫は怒りに火が点《つ》き始めた。初対面の時から、ずっと祐美にだまされていたのだから、怒って当然なのだ。二人の相手にレーザービームのような視線を浴びせた。
志津夫はソフト・アタッシュバッグを土間に置いた。中から本を取り出す。昼間買った『古神道の世界』だ。
志津夫は付箋《ふせん》を付けたページをめくり、言った。
「白川家一族は天皇家の遠縁だそうですね。第六五代花山天皇の血筋から出た家柄だ。神祇伯《じんぎはく》という、今で言えば宗教大臣といった地位を世襲してきた家柄だ。
ところが明治維新後は受難の時代を迎えた。白川家一族も伯家流神道も、明治新政府から嫌われた。前近代的なオカルト宗教と見なされたんだ。八〇〇年世襲してきた神祇伯の役職は廃止され、宮中への出入りも禁止され、天皇家との関係を絶たれて、白川家は没落した。一族の血筋も絶えたし、伯家流神道の真髄も失われた……」
志津夫は本を少し持ち上げて、
「この本には、そう書いてあった。だが、生き残りがいた、ということですか?」
志津夫は別の付箋を付けたページをめくった。
本をひっくり返して祐美と、ひげの中年男に見せてやる。
そのページにはイラストが描かれていた。両手の親指と人差し指で正三角形を作って、そのまま手のひらを前方に突き出すポーズだった。伯家流の秘印、太陽の印≠ニキャプションがある。
志津夫は言った。
「最近の女の子は器用だね。このポーズを取ると、故障した自動販売機も動かせるらしい」
祐美が、喉《のど》に何か詰まったような声を出した。
志津夫は首を振って、
「いや、違うな。たぶん、そこのお嬢さんはコインを入れなくても、コーラもビールも飲み放題じゃないのか?」
祐美が唇の端を歪《ゆが》めた。目線をそらしてしまう。自分の不手際を悔やんでいる顔だ。
ひげの中年男が、隣の祐美を見た。
彼は、すぐに事情を悟ったらしい。激怒の表情を浮かべた。歯をむき出しにしており、迫力満点だ。
祐美は慌てて、首を横に振った。彼女はここで初めて言葉らしい言葉を発した。
「だって、仕方なかったんだよ。話しかけるのにいい口実だったの。自動販売機が壊れてて、ウーロン茶が出なくて困ってるみたいだから、つい……」
志津夫がすかさず言った。
「つい、何だ? いったい、どうやったら故障した自動販売機を動かせるんだ?」
祐美は慌てて、自分の口を両手で封鎖する。視線が宙を泳いでいた。どうやら部外者に言ってはならないことを言ってしまったらしい。
志津夫は容疑者を追いつめる刑事の気分を存分に味わった。すこぶる快感だった。病みつきになりそうだ。
ひげの中年男は吐息をつき、肩の線を落とした。祐美が自ら墓穴を掘ったために、怒る気力も失せたらしい。げんなりした表情だ。
志津夫は本を閉じて、言った。
「つまり祐美さんが、ぼくに近づいたのも芝居だったわけだ。警察が封鎖している殺人現場から、ぼくが出てきたのを見て、それで情報収集のために、ぼくに接近した。
たぶん白川伸雄さんは、あなた方の一族の一人で、旧辞の保管係だったんだろう。そして、あなた方は、ぼくを通じて事件の真相を知った。殺人犯が旧辞を奪ったこと、どうやら江口泰男が犯人らしいこと、現場のカレンダーのメモは江口≠ゥら津田≠ノ書き換えられたこと。それらを知った。
そして、あなた方は今夜、ここへ旧辞を取り返しに来た」
志津夫の推理が終わった。
祐美と、ひげの中年男は無言のままだった。特に祐美に至っては、口を両手で押さえたままだ。用心深さの塊といった感じだ。さっきの墓穴掘りを悔いているのだろう。
志津夫は言った。
「ぼくは親父の行方を探しているんだ。葦原正一をね……。
実はある手がかりを得て、ぼくは伯川神社に電話した。すると白川伸雄さんは、ぼくの声を聞いて、ぼくの父の声と勘違いしたんだ。電話の音質は悪いから、こういう現象はよくあることだ。そして白川伸雄さんはカレンダーに葦原≠ニメモした。葦原正一が訪ねてくる、と思いこんでね。
さあ、親父の行方を聞かせてもらおうか。知らないとは言わせないぞ!」
祐美は、ひげの中年男を振り返った。彼女は指示を請うような顔になっている。
ひげの男は、かすかにうなずいた。どうやら今まで志津夫に喋《しやべ》らせていたのは、志津夫の側の情報を引き出すためだったらしい。だが、それはもう用済みのようだ。
志津夫は素早く思考を巡らせた。挑発してやろう。何か口走るかもしれない。
志津夫は名案を思いつき、言った。
「千円札の肖像画が伊藤博文から夏目漱石になって、よかったですね」
ひげの中年男の瞳《ひとみ》が変化した。目が見開かれ、攻撃的な光が現れたのだ。
志津夫は相手がえさに食いついたのを感じた。両手を広げて、芝居がかったポーズで喋る。
「だって伊藤博文は明治新政府の中心人物だ。あなたがたの先祖を宮中から追放して、白川家一族が没落するきっかけを作った張本人だ。
以前は、そいつの顔を毎日、見なきゃならなかったわけだ。それが今は見なくてすむ。政府に感謝しなきゃね」
ひげの中年男の唇が大きく歪んだ。憤怒相そのものといった表情だ。今にも突進してきて、志津夫を張り倒しそうだった。
挑発した志津夫がたじろいだほどだ。半歩、下がってしまう。
だが、次の瞬間、祐美が吹き出した。そして笑い始めたのだ。この場に張りつめていた緊張感は消えてしまった。
彼女は口を両手で押さえたまま、上半身を折り曲げ、ソプラノで笑っていた。おかしくてたまらないようだ。どうやら伊藤博文への恨み言を、いつもひげの男から聞かされていたらしい。その反動が出たのだろう。
ひげの中年男の顔が、怒りから渋面に変わった。気勢をそがれたようだ。舌打ちし、困ったような顔で祐美を見ている。
祐美は笑い続けていた。ソプラノの声だけが、この場に響きわたっている。
祐美は笑いながら、志津夫と目が合ってしまった。それで今の状況を意識したらしく、沈黙する。
だが、二秒ほどしか保《も》たなかった。祐美は、また吹き出したのだ。後ろを向き、お腹を押さえて、笑い続ける。用心深い態度を続けるのは、彼女には無理なようだった。
志津夫も思わず笑みを浮かべていた。やはり、この娘は陰謀に加担できるようなタイプではない。自分が祐美に抱いた感情は、彼女の開けっぴろげなパーソナリティーへの好感だったのだ。それがわかって多少、気分が良くなった。
ひげの中年男は笑い続ける祐美を無視して、あらためて志津夫を見た。魂を絶対零度で凍結させるような視線を放ってくる。ようやく口を開いた。
「私を怒らせてベラベラ喋らせようという魂胆か。おもしろい男だな」
志津夫は真顔に戻った。
「そう言われることもありますよ」
できるだけ平静を装って答えた。だが、内心はプレッシャーに震えてしまった。
眼前の中年男には、常人にないものがあった。意志力のレベルが、志津夫とは二桁《ふたけた》ぐらい違う感じなのだ。この男と我慢大会などをやっても勝てる人間はいないだろう、と思えた。
突然、ひげの中年男は隣を見て、怒鳴りつけた。
「祐美!」
ひげの男は目で、彼女に何かを指示した。
祐美がようやく笑うのをやめた。目だけで意図が通じたらしい。
「わかったよ。父さん」
祐美はそう答えた。
彼女は野球帽を半回転させた。つばを後頭部にもっていき、キャッチャー風にしたのだ。深呼吸し、両手を組んで、指の関節を軽く鳴らし始める。
志津夫は唖然《あぜん》と、祐美の仕草を見ているしかなかった。今までの彼女とは別人に変貌《へんぼう》したかのようなムードだ。
祐美の周囲には、形容しがたい不可視のエネルギーが発生していた。それが肌で感じられた。静電気によって頭髪が逆立つ時の感触に似ている。
祐美は、両手の人差し指と親指を正三角形に組み合わせた。その形のまま、手のひらを志津夫に向かって突き出す。例の伯家流の秘印≠セ。
志津夫は言った。
「ぼくは自動販売機じゃないぞ。ウーロン茶は出ない」
祐美が微笑し、低い声で言った。
「ごめんね。バイバイ」
同時に、全世界が暗黒に包まれた。
24
気がつくと地面に寝ていた。
志津夫は呻《うめ》き声をあげた。後頭部に痛みがある。倒れた時に、ぶつけたようだ。
最初は頭の中が白紙だった。見当識障害と呼ばれる状態に陥っていたのだ。だが、二、三秒後には記憶がつながった。
どうやら祐美が何かをやって、そのせいで自分は倒れたらしい。江口泰男が玄関で気絶していたように、その二の舞になったのだ。
周囲は暗かった。一瞬、照明を消されたのかと思った。
志津夫は何とか身を起こし、四つん這《ば》いになった。そして地面の手触りで自分が玄関の土間にいるのではないと気づいた。手のひらに当たっているのは土や小石の感触だ。
振り返ると、五メートルほど離れたところにアルミサッシの玄関ドアが見えた。眼前には、ソフト・アタッシュバッグと、『古神道の世界』という本が落ちていた。
さっきまで志津夫は玄関の戸口に立って、片手に本を持っていたのだ。バッグも戸口に置いてあった。いつの間に自分と自分の持ち物が、こんな位置に移動したのか、まったく記憶がなかった。
玄関の奥には江口がいた。身を起こしかけている。彼も失神状態から覚めたのだ。
志津夫と江口の目が合った。互いに唖然とした表情になる。四、五秒ほど見つめ合い、凍りついていた。
二人は同時に叫んだ。
「あんた! なぜ、ここに?」と江口。
「あいつらは! どこだ?」と志津夫。
志津夫は立ち上がり、ふらつきながら周囲を見回した。
暗闇の彼方《かなた》から車のエンジン音が轟《とどろ》いた。ヘッドライトが白い目玉のように、志津夫を照らす。眩《まぶ》しさに顔をしかめ、手で光を遮った。
車体の向きが変わった。それで窓越しに乗員を確認することができた。後部座席には野球帽をかぶった祐美がいる。運転席に座っているのは彼女の父親だ。
車は普通の乗用車らしいとわかった。だが、シルエットしか見えないのでメーカーや車種までは特定できない。
志津夫は「待て!」と叫んだ。走り出す。
江口も何が起きたのか悟ったらしく、裸足《はだし》のまま玄関から飛び出してきた。二人で追跡する。
街灯が車内に差し込んだ。祐美が窓ガラス越しに、志津夫に向かって微笑した。マシュマロみたいな頬に少し、えくぼができる。
彼女は小さな動作で手を振った。唇だけ動かし、無音で何か言った。また会おうね、という台詞《せりふ》に思えた。
一瞬だが、志津夫は祐美に見とれてしまった。黒い瞳の輝きに魅了された。
車は走り去っていった。赤いテールランプが段々小さくなっていく。排気ガスの匂いだけが残った。
志津夫の足が止まってしまった。内燃機関と人間の脚力とでは勝負にならない。暗いので、相手のカーナンバーも確認できなかった。
志津夫は自分が借りたレンタカーの方を振り返った。だが、ここから二〇〇メートルは離れている。今から車を取りに行っても間に合うまい。何だか同じ失敗ばかりを繰り返しているような気がする。
ため息が出た。そして顔をしかめて、後頭部を撫《な》でる。いてて、と呟《つぶや》いた。こぶができかけているようだ。
やがて上半身を折り曲げ、片手で膝《ひざ》をつかんだ。腹の中が悔しさで煮えくり返った。
ちくしょう、と呟く。歯ぎしりしながら、その辺の小石を次々に蹴飛《けと》ばす。小石は周辺の田畑に飛び込み、ビニールハウスに跳ね返され、何個かは道路際の溝に飛び込んだ。
志津夫は相手のイカサマを見破り、逆用するつもりだった。だが、相手のイカサマがあまりにも強力すぎて、まったく歯が立たなかったのだ。
傍らでは江口泰男も立ち止まっていた。パジャマ姿で裸足のまま、表通りへ消えた車の行方と、志津夫とを見比べている。
「あ! 旧辞が!」
江口が叫んだ。完全に事態に気づいたようだ。回れ右して、自宅へと駆け戻る。
志津夫も彼を追いかけた。残る手がかりは江口泰男だけだ。彼は旧辞の内容を読んだだろうから。
江口は玄関から、奥へと駆け込んでいった。志津夫を振り返りもしなかった。相当慌てているのだろう。
志津夫は玄関で立ち止まった。アルミサッシ・ドアの異変に気づいたからだ。目を大きく見開いてしまう。
スライド式ドアのガラス部分に何本もひびが入っていたのだ。放射状の軌跡を描いている。さっきまで、こんなものはなかった。
ふと振り返り、地面を見た。ソフト・アタッシュバッグと本が落ちている。どちらも、玄関戸口から五メートルぐらい離れた場所にあった。そこは志津夫が倒れていた位置でもある。
状況から判断すると、玄関で突風か衝撃波のようなものが発生したようだった。それが志津夫を吹っ飛ばし、バッグや本も吹っ飛ばし、ガラスにひびを入れたように思える。だが、いくら観察しても、それ以上のことはわからなかった。
記憶を蘇《よみがえ》らせようとした。祐美が両手の人差し指と親指を正三角形に組み合わせて、突き出したのは覚えている。「ごめんね。バイバイ」という台詞も覚えている。
だが、そこから先は思い出せなかった。突然ぶん殴られたような衝撃を感じた気もする。身体が宙に浮いて無重量状態になった気もする。
しかし、細部が記憶にないのだ。脳震盪《のうしんとう》でも起こして、その間、感覚が遮断されたような感じだった。
志津夫は首を振った。これ以上考えても無駄だろう。それより江口を尋問しなければ。
五メートル駆け戻って、バッグを拾った。中に本を収めて、肩にかける。
玄関でキャンピングシューズを脱いで、廊下にあがった。奥へと突き進んでいく。
廊下の天井は、見慣れない形の太い梁《はり》で支えられていた。この家の建築様式の古さを伝えている。
いくつかの部屋は照明を消したままだった。それらを通り過ぎる。
八畳の居間に辿《たど》り着いた。そこは蛍光灯で照らされていた。テーブルと座椅子、本棚、小物入れ、小型の事務用コピー機が整然と並んでいる。
江口泰男がテーブルの下をのぞき込んでいた。必死に手探りし、畳を叩《たた》いている。五〇過ぎの体格のいい男が、そんなことをしているのは滑《こつ》稽けいな眺めだった。
やがて江口は気配に気づいたらしく、テーブルの下から顔を上げた。志津夫を見る。そのまま江口は凍りついていた。
彼にして見れば青天の霹靂《へきれき》だろう。気がついたら、重要な古文書が消え失せていたのだ。その上、何もかも見破っているという表情の志津夫と対面している。
江口は髪の毛も乱れ、顔も痴呆《ちほう》症めいていた。初老らしい風格などは一切なく、無惨な感じだった。
志津夫は深い失望を味わっていた。史学者にとっては垂涎《すいぜん》ものの古文書を、目の前にしながら失ったのだ。沈黙が、その場にのしかかっていた。
だが、いつまでも黙っているわけにも、いかなかった。志津夫は口を開いた。
「旧辞は奪われました。あの二人組はコピー用紙を入れた茶封筒と、大学ノートも持っていったんです」
一瞬、江口は志津夫の首に喰《く》らいつきそうな表情になった。だが、慌てて視線をそらし、首を横に振った。
「旧辞? 旧辞だって? 何のことずら?」
「もう、ぼくにはわかってるんです。伯川神社の社務所のカレンダーに津田≠ニいう名前が書いてあった、と言いましたね。あれは本当は江口≠ニ書いてあったのを、あなたが書き加えて津田≠ノしたんだ」
江口は何も言わなかった。志津夫の方を見ようともせず、凍りついている。だが、それが逆に、彼が受けた衝撃の度合いを現していた。
志津夫は言った。
「あなたが白川伸雄さんを殺した犯人でしょう? 動機は旧辞だ。どういういきさつかはわからないが、殺人事件になってしまった。そして、あなたは旧辞を手に入れた。旧辞のコピーも取っておこうと、小型のコピー機を買った。あのノートには現代語訳でも書いていたんでしょうね。でも、あいつらが全部持っていったわけだ」
江口の顔面は弛緩《しかん》したままだった。彼の頭蓋骨《ずがいこつ》には、志津夫の声が百万倍ものエコーをともなって響いていることだろう。
志津夫は言った。
「しかし、警察は、あのカレンダーの写真を、筆跡鑑定の専門家のところに持っていくはずです。だから、いずれはあの津田≠フ筆跡が変だということはバレるでしょうね。そして元は江口≠ニ書いてあった字を偽装したということもね」
志津夫は沈黙した。後は相手の出方を待つことにした。
実を言うと、例のカレンダーを筆跡鑑定の専門家が調べるかどうかは、志津夫にはわからなかった。だが、そうダメ押しをすれば自白が引き出せると思ったのだ。
江口が、がっくりとうつむいた。まるで首の骨が突然なくなったみたいだった。顎《あご》と胸が完全に密着している。
やがて江口が言った。
「……まあ、そうだろうな。……あの時は名案だと思ったんだが……」
江口の声は、うわずっていた。呼吸も浅く早くなっている。首を垂れたまま、異様なほどの上目づかいになっていた。
志津夫はうなずいた。獲物を追いつめた快感があった。同時に、やりきれない気分だった。今の江口の精神状態を共有してしまったからだ。
「では、やっぱり……」
「……素直にカレンダーをはがして、バラバラに引き裂いて、トイレにでも流せばよかったんだ……」
「やっぱり、あなたが……」
25
江口泰男は四つん這いのまま、言った。
「そうだ……。私がやった……」
江口は頭を持ち上げた。その顔はわずか数分で様変わりしていた。頬の肉がそげ落ちてしまったような印象があった。
志津夫は沈黙していた。茨城県での事件でもそうだったが、こういう場面での空気の重たさは形容しがたいものがある。人間の内部に超巨大な毒虫が蠢《うごめ》いているのを見たような感じだし、自分にも当てはまりかねないと思うからだ。
江口は一気に喋《しやべ》り出した。
「白川伸雄さんがなぜ、こんな重要な資料を隠したがるのか、私には納得できなかった。大変な資料だというのに、なぜ隠すのか。理由もまったく説明もしてくれなかった……。
……あれは白川伸雄さんが土蔵の整理をやっているところへ、ちょうど私が訪ねていった時だ。土蔵の中に入って、見つけてしまったんだ。旧辞を……。あれは本物だった!」
江口は急に雄弁になった。
本当は誰かに聞いてもらいたくて、たまらなかったのだろう。あれは過失であり、事故だったと言う風に主張したかったのだろう。計画的な殺人ではない、と主張したかったのだろう。だが、誰にも言えない状況だったわけだ。
「……私はどうしても旧辞が欲しかった。必要だったんだ。私は偽書騒ぎで信用をなくしたが、これで名誉|挽回《ばんかい》だと思った。
だから、昨日の夜もう一度、訪ねていったんだ。何とか相手を説得しようと思って。
なのに、白川伸雄さんは発表させないと言い張った。しまいには、もみ合いになった。『このインチキのゲス野郎』と言われて突き飛ばされた。そして、そばにあった大工道具が目に入った。金槌《かなづち》もあった……」
そこで言葉が途切れた。それを描写するのは抵抗があるのだろう。言葉を探しているらしい。
結局、江口は首を振りながら、こう言った。
「どうかしてた。気がついたら、白川伸雄さんは死んでいた。どうかしてた。確かに私はインチキのゲス野郎かもしれないが、あの時はいきなりそう言われて逆上したんだ。どうかしてた。わけがわからなくなって、気がついたら、白川伸雄さんは死んでいた。どうかしてた。
……旧辞は手に入れた。だが、もう発表できる当てなんかないことに気づいた……」
江口は心臓が雑巾《ぞうきん》のように絞られているような顔だった。目が限界まで見開かれている。炎天下にいるみたいに、脂汗を流していた。
志津夫は、うなずいた。
不幸な偶然が重なって起きた事件というわけだ。江口泰男のような過去を背負った男が、たまたま旧辞を見つけたために起きた事件だ。もちろん、そうした理由を主張しても、江口の罪が軽くなるわけでもないが。
江口が、ふいに顔を上げて怒鳴った。
「あいつらは何者ずら! そう言えば、あんた昼間あの娘と一緒だったじゃないか?」
志津夫は吐息をついて、
「ぼくもだまされていたんです。彼らは、たぶん白川伸雄さんの親戚《しんせき》でしょう。彼らの一族が旧辞を隠していたらしい……。ちなみにあの妙な手品、つまり、ぼくやあなたを気絶させたあの手品について、ぼくに訊《き》いても無駄です。全然、知らないんだから」
江口は、しばらく志津夫の顔を見つめていた。
やがて大きな吐息をついた。肩の線が下がり、うつむいてしまう。完全に意気消沈したらしい。
志津夫は、すべての希望を失った人間の顔というものを初めて見た。意外にも仏像のような穏やかな顔になっていた。落ちるところまで落ちると、もう動揺する理由も原因もないのだろう。
また重い沈黙が蘇った。だが、志津夫にはどうしても訊かねばならないことがあった。
「江口さん。あなたは旧辞を読んだんでしょう? 何が書いてあったんですか?」
言葉は聞こえたはずだ。だが、江口の反応はない。
辛抱強く、志津夫が訊いた。
「江口さん、旧辞には何が書いてあったんです?」
江口はやっと顔を上げた。ゆっくり喋り出す。
「……古事記の原文と似ていた。音をすべて漢字で表記する、上代仮名に似た古代語だ。だから、なかなか解読できなくて……」
「それはそうだろうと思ってました。で、内容はどんな?」
「全部はまだ読んでない。……そうだ。こういう一節があった。……邪馬台国《やまたいこく》はカムナビの国、かれ、冬なき国といふ……。どういう意味か、わからんが……」
この場合のかれ≠ヘ、古代日本語でそこで≠意味する接続詞だ。
「カムナビ! 邪馬台国!」
志津夫は叫んだ。駆け寄った。形相が変わっている。自分も四つん這《ば》いになり、江口の顔をのぞき込む。
「他には何と?」
「こうも書いてあった。……ミマキイリヒコ、邪馬台国の女王トヨを振り柝《さ》きて殺したまひき。かれ、詔《の》らししく、あは、大八島国知らしめす、ハツクニシラシシ・ミマキノスメラミコトぞ……」
「何だって?」
志津夫はカウンターパンチをくらった気分だった。実際に目眩《めまい》がした。
ミマキイリヒコと言えば、第十代|崇神《すじん》天皇の生前の名前である。そしてハツクニシラシシ・ミマキノスメラミコトは、彼の称号だ。
今の一節が本当なら、旧辞には邪馬台国の歴史が書いてあったわけだし、崇神天皇ミマキイリヒコが邪馬台国の二代目女王トヨを暗殺し、王座を簒奪《さんだつ》したということになる。つまり邪馬台国と大和王朝とは同時に存在し、対立関係だったかもしれないのだ。
「他には、どんな?」
志津夫は息せききって訊いた。
だが、江口は首を振った。
「他は、古事記や日本書紀と似たり寄ったりの内容が多かったと思う。それにさっきも言ったように全部は目を通してない。斜め読みして、ちょっと目についたところを翻訳しただけだし……」
江口は畳に突っ伏してしまった。すべてに絶望した感じだ。抑揚のない声で言った。
「……残念だ。あれを読めば、いろんな謎が全部、解けたはずなのに……」
志津夫も一緒に突っ伏したい気分だった。
やはり旧辞や帝紀には数々の真相が書かれていたのだ。だが、焚書《ふんしよ》に遭い、闇に葬られた。そして、未《いま》だに旧辞を隠し持っている連中もいたのだが、彼らは世間に出すのを嫌い続けているのだ。
最後の質問だけが残った。志津夫はそれを口にした。
「その手に貼ってあるバンソウコウですが、はがしてくれませんか?」
「え?」
江口は顔を上げた。不審な表情だ。ひどく唐突な質問に聞こえたようだ。
志津夫にはその反応で、もう予測できてしまった。完全に当てが外れたのだ。しかし、一応は確かめなくてはならない。
「説明が面倒なんですが、ぼくは肌にウロコ状のものができた人を探しているんです。一種の病気かもしれません。あなたは違うんでしょうけど……」
「もちろん」
江口は左手の甲にあるバンソウコウをはがした。
すり傷の跡が露出した。農作業中にすりむいた、と以前、彼は言っていた。ただ単にそれだけのものだった。
志津夫はため息をついた。もう何も得るものはない。退場する潮時だった。
志津夫は江口を見据えた。相手は視線を合わせようとしなかったが、言った。
「警察へは自分で行ってくれますね?」
江口はうなずかなかった。首を横に振ることもしなかった。
志津夫は言った。
「あなたは何もかも、ぼくに話したじゃないですか。警察にも自分で行ってくれるでしょう?」
志津夫は立ち上がった。しばらく江口泰男の様子を見ていた。
依然、彼は動かなかった。返事もない。うなずく動作もない。放心状態のようだ。たぶん彼の頭の中では、たった今、自白した内容がエンドレス・テープのように再生されているのだろう。
志津夫は廊下に出た。江口に一礼すると、居間を後にした。直感に過ぎないが、江口泰男は自首すると思ったのだ。
26
午前一一時過ぎで、空は快晴だった。少し陽射しがきつくなっている。街路樹がグリーンに輝き、東京町田市の住宅街に初夏の彩りが添えられていた。
志津夫は町田市の自宅に戻った。郵便受けに新聞と手紙がたまっていた。それらを取り出し、中に入る。
窓を次々に開けて、部屋の空気を入れ替えた。埃《ほこり》っぽい臭いが薄らいだ。
左胸がむず痒《がゆ》いので、志津夫は時々シャツの上から掻《か》いていた。だが、当人はそれをほとんど意識していなかった。
キッチン兼ダイニングルームに行くと、電話機兼ファクシミリ機から感熱紙が垂れ下がっていた。自動着信でプリントされたものだ。
ちぎり取って、一ページ目を読む。
『亜矢子より。
これでデートのキャンセルは三度目ね。新しい遺跡だとか言っちゃ、すぐいなくなるのよね。
あなたに言いたいことがあるの。
土偶や埴輪《はにわ》と寝てろ!
このタコ野郎!』
志津夫は、ため息をついた。
行田亜矢子《ぎようだあやこ》は帝都大学で国文学の研究室助手をしている女性だった。広い額に輝くような目、それにプラス、メガネの組み合わせがよく似合っている。痩《や》せているが、出るべきところは出ているプロポーションの持ち主だ。
一年ぐらい前から、つき合ってきた相手だった。しかし、最近は疎遠になっている。彼女は自分がユニークな女であることを強調したがるタイプだった。それが鼻についてきて、素直に会話を楽しめなくなってきたところだった。
志津夫は呟《つぶや》いた。
「どうせ今は会えないな。こんなウロコの生えた身体じゃ……」
また無意識のうちに左胸を掻いた。
感熱紙の二ページ目を読む。
『返信
葦原志津夫様へ
大林真より』
クロノサイエンス社の社員で、熱ルミネセンス分析法の専門家、大林からだった。
『こっちは例の竜野助教授の黒こげ死体のことで、いろんな噂が飛びかってる。でも、確かな情報は何もない。結局、あの事件は何だったんだ?
ところで、おれの手のウロコなら、もう消えたぞ。
なぜ、おまえが、これを気にしてるんだ?』
志津夫の顔色が青ざめ始めた。下半身の力が抜けてくる。足元の床が溶けだし、沈み込んでいく感覚だ。
気がつくと、志津夫は左胸を掻き続けていたのだ。あのウロコが生えている箇所だ。痒みは今までになく強くなっていた。身体に微電流のような震えが走る。
感熱紙を放りだし、慌てて上着を脱ぎ、シャツをまくり上げた。それを見て唖然《あぜん》と口を開いてしまう。
ウロコの面積が広がっているのだ。かつてはコイン大の大きさだったが、今はキャッシュカード大になっている。
しかも、小さな三角形の連なりが、よりカラフルに染め分けられていた。ウロコ全体が縞模様《しまもよう》を構成しているのだ。そこだけが、まるで蛇の表皮のような状態に変貌《へんぼう》しかけている。
触ってみると、硬い感触と柔らかい感触とが交互に伝わってきた。表皮層の細胞が角質化している部分と、そう成りきっていない部分とが入り混じっているのだ。
志津夫は蒼白《そうはく》な顔になり、喘《あえ》いだ。ショックで、しばらく動けない状態に陥った。
右手の甲のバンソウコウを見た。そちらにも痒みが生じていた。皮膚の下を虫が這い回っているような気味悪さだ。
バンソウコウをはがした。
こちらのウロコは大きさがあまり変わっていなかった。だが、ウロコ同士の明確な色分けは始まっていた。やはり蛇の表皮によく見られるような縞模様だ。
生きながら全身が腐乱しているような気分だった。おぞましさに身震いする。
志津夫は思わず呟いていた。
「なぜだ? 大林は治ったのに、ぼくのはなぜ治らないんだ? それどころか、もっとひどくなってるじゃないか」
反射的に、父のことを思い出してしまう。ビデオ映像に記録された最近の姿だ。
正一は長袖《ながそで》シャツを着て、サングラスをかけ、手袋をはめていたのだ。まるで素肌を隠すことが目的のように思えるファッションだった。
茨城で会った、真希≠フことも思い浮かべてしまう。あの女は、なぜ一度も手袋を外さなかったのか? 手を見せてくれと言ったが、見せずに逃げてしまった。なぜなのか?
その答えを是非、確かめたいと思った。それに、この魚鱗癬《ぎよりんせん》のような症状を治す方法があるのなら是非、知りたかった。
だが、同時に答えを知るのが恐ろしかった。もし治療方法などないとわかったら……。
志津夫はまた身震いした。背骨が大型のバイブレーターになったようだ。
そうなのだ。
治療方法がないから、親父はあんな格好で素肌を隠しているのではないか?
喉《のど》の粘膜が乾燥しきっていた。冷蔵庫から紙パックのオレンジジュースを取り出し、直に口をつけて飲んだ。顎《あご》に果汁が垂れたが、拭《ぬぐ》うのも忘れていた。
一息つくことができた。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。確かなことはまだ何もわからないのだ。勝手に疑心暗鬼に陥ったりしたら、バカみたいだぞ。
ふと平べったい電話機に視線を止めた。よく見ると、留守録の受信ランプが点灯していたのだ。
気分を変えようと思った。誰が残したか知らないが、メッセージを聞いておくべきだ。少しは気が紛れるだろう。
巻き戻しボタンを押した。マイクロカセットテープが回転し始める。巻き戻しが終わったところで、再生ボタンを押した。
電子音がして、音声が流れ出てきた。
『祐美です。昨日の夜はおもしろかったね』
「何!」
志津夫は数センチ飛び上がってしまう。足先に火が点《つ》いたみたいだ。
平べったい形状の電話機を凝視した。確かにその声は祐美≠セった。野球帽を愛用し、両手で伯家流の秘印を作ることで故障した自動販売機を作動させ、さらには人間をも吹っ飛ばした彼女だ。
祐美は屈託なく言った。
『江口泰男が自首したと、テレビで言ってたよ。たぶん、葦原志津夫さんが自首をすすめたんでしょう? ま、これで伸雄おじさんの仇《かたき》を討ったようなもんだね……。お礼に、内緒でこっそり教えてあげる。あなたのお父さんだけど、どうやらお墓参りに行くらしい。じゃね!』
電子音。
「おい、待て!」
志津夫は叫び、電話機に飛びついた。テープを逆回転させる。同じメッセージを何度も繰り返し聞いた。
念のためテープを全部チェックした。だが、留守中に入った音声メッセージはこれ一つだった。
志津夫は呟き始めた。
「墓参りに行くだって? それを知ったということは、やっぱり、あいつらは親父と知り合いなのか?……だけど、なぜ、ぼくに教えるんだ?……それとも、これは罠《わな》か? 他の方向へ誘導するためのおとりじゃないのか?」
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第三話 秘 祭
(葦原志津夫の研究ノートより、抜粋)
邪馬台国。
これほど謎だらけの代物はなかった。
日本の文献資料である古事記や日本書紀には、邪馬台国について直接の記述は何一つない。
にも拘《かかわ》らず中国側の文献「魏志倭人伝《ぎしわじんでん》」、すなわち『三国志』魏書・巻三十・東夷伝・倭人条には、「三世紀の日本列島には女王ヒミコに統治される邪馬台国があった」と記述されているのだ。
だが、倭人伝の記述が曖昧《あいまい》なため、それが日本列島のどこにあったのか、わからないままだった。倭人伝の記述は、現実の日本列島の形や事情を無視しているとしか思えないような、ファンタスティックな描写だからだ。
そのためプロの学者からアマチュア考古学ファンたちに至るまで侃々諤諤《かんかんがくがく》の論議になってしまったことは、言うまでもない。
仮説は、大きく分けて三つある。
「邪馬台国九州説」および「邪馬台国東遷説」と、「邪馬台国畿内説」だ。
「九州説」とは文字どおり、邪馬台国が三世紀の九州にあったとする説だ。
「東遷説」とは九州にあった邪馬台国が東の大和盆地に遷都して、四世紀の大和王朝になったというものだ。したがって、「九州説」と「東遷説」はワンセットで主張されることが多い。
一方、「畿内説」は三世紀の近畿地方の大和盆地に邪馬台国が誕生して、それが四世紀の大和王朝へストレートに連続していった、という説だ。
実は、これら三つの仮説はどれも一長一短なのである。だから、どの仮説の立場に立っても決め手がないため、果てしない議論になってしまうのである。
まず「九州説」および「東遷説」の根拠は、こうだ。
弥生時代(三世紀末まで)の北九州の甕棺墓《かめかんぼ》から出土する鏡・剣・玉などの副葬品と、古墳時代(四世紀初め以降)の近畿の古墳から出土する鏡・剣・玉などの副葬品とが共通することだ。
つまり、弥生時代の北九州と、古墳時代の近畿とは同じ「鏡文化」であり、連続性があるのだ。
一方、弥生時代までの近畿は「銅鐸《どうたく》文化」だった。
この「近畿・銅鐸文化」は、「近畿・鏡文化」とは連続性がないのだ。その証拠に「銅鐸」と「鏡」とが共存して出土することはない。
これらは、どう見ても「近畿・銅鐸文化」が「北九州・鏡文化」に侵略されて滅ぼされた、としか解釈できないのだ。
つまり、この「侵略事件」こそが、記紀神話の「神武東征神話」のモデルだと考えられるのだ。
三世紀が邪馬台国の時代であり、四世紀が初期大和王朝の時代であることは、魏志倭人伝の記録や、いろいろな証拠や推定から、ほぼ確定している。
そこで「九州説」および「東遷説」では、こう説明する。
三世紀の九州に邪馬台国があった。だが動乱の末、これは滅んでしまったのだろう。そして神武イワレヒコ軍は九州を脱出して、東に向かった。
神武イワレヒコ軍は「鏡文化」だった。彼らは、それまで大和盆地を支配していたナガスネヒコ軍の「銅鐸文化」を滅ぼした。そして神武イワレヒコは畿内に大和王朝を創建し、初代天皇となり、近畿に「鏡文化」を花開かせたのだ、と。
(この説には、おまけがつく。初代神武天皇イワレヒコは架空の人物であり、本当の初代天皇は、四世紀初めの人物、第十代崇神天皇ミマキイリヒコだとする主張だ。なぜなら大和王朝の歴史は四世紀初めから始まるし、崇神の称号は「ハツクニシラシシ・ミマキノスメラミコト」「初めて国を統べるミマキ大王」だからだ)
では、「邪馬台国畿内説」を見てみよう。
こちらは三世紀の奈良県に邪馬台国が誕生して、そのまま四世紀の大和王朝へと連続していったとする説である。
畿内説の有力な証拠も「鏡」である。
「魏志倭人伝」には、「女王ヒミコが魏の皇帝から銅鏡百枚を与えられた」と書いてある。
これは日本各地の古墳から出土する三角縁《さんかくぶち》神獣鏡であろう。これは三世紀の鏡であり、ヒミコが魏に遣使した二三九年前後の年号銘の鏡が、三角縁神獣鏡を含めて多数ある。
そして三角縁神獣鏡が出土する古墳は、奈良県を中心にして分布している。
これらの証拠を見ると、「邪馬台国畿内説」が有利なのだ。
一九九七年七月七日、大阪府|高槻《たかつき》市の安満宮山《あまみややま》古墳から、有力な証拠が出た。
三角縁神獣鏡や魏の年号「青竜三年」と刻印された鏡など五枚の青銅鏡が出土したのだ。
鏡の製造年代と、古墳の製造年代も近いとわかった。つまり、埋葬された本人に勲章代わりに魏の鏡が与えられたものだろう。
安満宮山古墳に埋葬された人物は、女王ヒミコと縁が深い人物と見るべきだろう。その場所が大阪であり、奈良県の隣なのである。
さらに決定的な証拠も出た。
一九九八年一月九日に発表された、奈良県天理市の黒塚古墳の発掘結果だ。ここから三角縁神獣鏡三二枚と、画文帯《がくぶんたい》神獣鏡一枚が出土したのだ。
黒塚古墳に埋葬された人物も、女王ヒミコと縁が深い人物と見るべきだろう。しかも、こちらは場所が奈良県だったのだ。
これで「邪馬台国は畿内だ」と決定できそうだ、と言える。
しかし、「邪馬台国畿内説」にはまだ弱点がある。
京都大学系の畿内派学者は、三世紀を邪馬台国の時代、四世紀を大和王朝の時代として、両者はストレートに連続している王朝と主張してきた。
ところが連続しない部分があるのだ。
古事記や日本書紀には、「大和王朝の初期、崇神・垂仁天皇時代に、鏡を各地域の首長に配布した」などとは一言も書かれていないのだ。
つまり大和王朝は「非・鏡文化」だったのだ。
だから、三角縁神獣鏡を配布したのは「鏡文化の邪馬台国」であり、「大和王朝」とは別勢力だった、と考えるしかない。
何とも頭がこんがらがってくるような事態である。
結局、「九州説」「東遷説」「畿内説」は、いずれも一長一短で、決め手に欠けるのだ。
正解はどこにあるのか?
答えは、異説同士を弁証法的に止揚《アウフヘーベン》することで得られるだろう。
つまり、「九州説」「東遷説」「畿内説」すべてを統合した統一複合仮説である。
すなわち「東遷・畿内説」。
実は、これは珍しい考え方ではない。
在野の考古学者、原田大六《はらだだいろく》氏や菊地山哉《きくちさんさい》氏は、こうした仮説を主張していたし、最近では渡辺一衛《わたなべいちえ》氏の仮説もこれである。
やはり正解は単一仮説ではなく、統一複合仮説にあるようだ。
「東遷・畿内説」の結論から書こう。
箇条書きにすると、
●二世紀、北九州に初期の「鏡文化」の勢力が在った。その勢力は東へ侵略していった。戦乱の末、最終的に北九州の勢力は近畿の大和盆地を征服した。
●三世紀、奈良県の大和盆地に邪馬台国が誕生した。これが初代女王ヒミコと、第二代女王トヨの時代である。彼女たちが神話の太陽神アマテラスのモデルとなった。
●当然、二世紀までの「近畿・銅鐸文化」は滅ぼされて、三世紀は「近畿・鏡文化」が花開いた。
●古事記や日本書紀に出てくるニギハヤヒやナガスネヒコも、近畿の邪馬台国の豪族だった。彼らは物部《もののべ》氏の先祖である。
●四世紀、大和盆地の東南に崇神天皇ミマキイリヒコによる新勢力が出現。ミマキイリヒコの軍団が近畿の邪馬台国を滅ぼして、新たな政権、大和王朝を創建した。
順を追って、「東遷・畿内説」を検証してみよう。
まず「九州説」や「九州・東遷説」の弱点は、邪馬台国に相当するような大規模な遺跡が、三世紀の九州にはないことだ。
佐賀県の吉野ケ里遺跡は邪馬台国に関連するものとして注目を集めた。だが、この遺跡は一世紀の弥生中期が最盛期であり、邪馬台国の時代には、すでに衰え、終末期を迎えていた。
三世紀の九州に大きな勢力が存在した形跡は、未だ発見されていない。
それに対して奈良県桜井市からは纏向《まきむく》遺跡が出土している。
纏向遺跡の面積は、同じ大和盆地にある唐古《からこ》・鍵《かぎ》遺跡の四倍で、後の奈良・藤原京とほぼ同じ面積だ。平城京と比べても少し小さいぐらいである。
また纏向大溝と呼ばれる運河や、宮殿跡の遺跡も出ている。ここが日本最初の都市だったと見ていい。邪馬台国の「女王が都するところ」に、ふさわしいと言える。
この纏向遺跡は三世紀の邪馬台国の時代から、四世紀の大和王朝の時代にかけて繁栄している。二つの王朝は共に、ここにあったと考えられるのだ。
高地性集落と呼ばれるものがある。瀬戸内海の湾岸や、大和盆地の周辺部などで、人が住むには適さない高地に多くの遺跡が残されているものだ。
では、なぜ、人が住むには適さない高地に、わざわざ集落を設けたのか。
高地性集落は戦争のための見張り台だったと考えられる。そして、これらは時代が経つにしたがって西から東へ移動しているのだ。
縄文晩期から弥生前期、弥生中期にかけての高地性集落は、九州北部や瀬戸内海の西部だった。だが、弥生時代後期になると高地性集落は、瀬戸内海の東部や近畿に移っていくのだ。
つまり九州勢力と近畿勢力とがぶつかり合う最前線が、西から東へ移動していった経過がはっきり見えるのだ。戦況は明らかに西から押している九州勢力が優勢だったのである。
従来では、これらの弥生時代最後の高地性集落は三世紀だと考えられてきた。
だが、一九九六年、大阪の池上・曽根遺跡の柱材が、年輪年代測定法によって紀元前五二年とわかった。
つまり従来の推定より、一〇〇年も古い時代のものとわかったのだ!
したがって、今後は弥生時代の遺跡や遺物の年度も、古墳時代初期の年度も、一〇〇年繰り上げて考えなくてはならなくなったのだ。
となると、近畿で「銅鐸《どうたく》文化」が終末を迎えたのも意外に早かったわけで、従来の三世紀後半ではなく、それより一〇〇年古い二世紀後半に繰り上げねばならなくなったのだ。
(ちなみに年輪年代測定法とは、木材の年輪を試料とする測定方法である。これの利点は、一年単位で正確な年代を測れることだ。ただし、データ量に限界があるので紀元前九一二年までしか測定できない)
当然、新しい年代基準では、弥生時代の高地性集落も三世紀ではなく、それより一〇〇年古い二世紀となる。
そして高地性集落とは、激しい戦乱を示す考古学的証拠なのだ。
これこそ魏志倭人伝に記録された「二世紀・倭国大乱」にぴったり相当するものである!
倭国乱れ、相《あ》い攻伐《こうばつ》すること歴年
つまり魏志倭人伝に記録された「二世紀・倭国大乱」と、記紀神話の「神武東征神話」とは同一の事件だったのである!
一方、新しい年代基準で三世紀を見直すと、高地性集落のような激しい戦乱を示す考古学的証拠がほとんどない。
したがって、「三世紀の後半に、北九州に在った邪馬台国が東に移動して、侵略戦争を敢行し、大和盆地を征服した」という「三世紀後半・九州邪馬台国・東遷説」は、考古学的に言って成立しない。
高地性集落は、畿内全体の中では大和盆地に最後の遺跡があり、纏向遺跡に近い大和盆地東南部に集中して、そこで消滅している。
この最前線の移動と消滅は、大和盆地への外部からの強制的な征服であろう。これが二世紀末頃の事件だったのだ。
そして、時代は三世紀を迎えた。倭人伝にはこうある。
乃《すなわ》ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼という
纏向に「女王が都するところ」が築かれて、奈良県に邪馬台国が誕生したのだ!
そして、そこから邪馬台国は各地に三角縁神獣鏡を配布したのだ。
だが、三世紀の近畿・邪馬台国は、四世紀の新興勢力である近畿・大和王朝に滅ぼされたのだ。
大和王朝は各地に鏡を配布してはいないので、鏡を配布した邪馬台国とは別勢力であることは明らかだ。
邪馬台国も大和王朝も、場所は同じ奈良県の大和盆地にあった。だが、両者はすべてが連続しているわけではなかったのだ。
ここで、あらためて大和王朝の初代神武天皇の名前に注目しよう。
神武天皇はカムヤマトイワレヒコという名前だった。つまり大和盆地の東南、三輪|山麓《さんろく》の磐余《いわれ》地方に住み着いた豪族だったのだろう。
記紀にも、そうした記述がある。また日本書紀によれば、磐余地方に住み着く前はヒコホホデミという名前だったという。
神武イワレヒコによる東征神話は、前述してきた考古学的な証拠から見ても、やはり実話であろう。だが、イワレヒコは奈良県までを征服した将軍だったが、初代天皇にはなれなかった、というのが真相のようだ。
当時は、国家をまとめるためには女王ヒミコの鬼道、すなわち呪力《じゆりよく》に頼らねばならなかったのだ。
「欠史八代」と呼ばれる謎も、これで解ける!
二代|綏靖《すいぜい》天皇カムヌナカハミミから九代|開化《かいか》天皇ワカヤマトネコヒコまでの八人の天皇は、天皇としての具体的なエピソードが、古事記にも日本書紀にも何一つ記されていない。
そのため、この八人の天皇は「欠史八代」と呼ばれて、実在を疑われてきた。
もちろん、この八人は実在していたのだ。しかし、その当時は天皇家ではなかったわけだ。つまり、九代開化ワカヤマトネコヒコまでは、邪馬台国内の一豪族に過ぎなかったわけだ。
だから、「欠史八代」と呼ばれた彼らには、天皇としてのエピソードなどあるはずがないのだ!
神武イワレヒコから数えて十代目、崇神ミマキイリヒコは急激に勢力を伸ばしたようだ。彼が邪馬台国を滅ぼして近畿の覇権を奪ったのだ。
これで崇神天皇の称号の謎も解ける!
なぜ、十代目のミマキイリヒコに「ハツクニシラシシ・ミマキノスメラミコト」「初めて国を統べるミマキ大王」などという称号がついたのか?
天皇の座を得たのはミマキイリヒコ以降だからだ!
以上が真相であろう。少なくとも、真相に近い仮説であろう。
後に、これらの真相を記録した旧辞《くじ》や帝紀などの文献を編纂《へんさん》して、古事記や日本書紀が作られた。
だが、この編纂時に「前王朝・邪馬台国」に関する記録はすべて闇に葬られたのだ。それも徹底的にだ。
なぜなのか?
そこまでして隠さねばならなかった真実とは、何なのか?
(以上、葦原志津夫の研究ノートより)
ああ、また、この悪夢か……。
葦原志津夫は、そう思った。
暗い洞窟《どうくつ》のような場所にいた。照明は、かがり火らしい。いくつもの炎が揺らめき、ゆったりしたストロボ効果を演出している。
すべてがモノクロの映像だ。脱色された世界に突然、放り出されてしまったのだ。
志津夫は仰向《あおむ》けに寝ていた。だから、視界のほとんどはでこぼこした洞窟の天井だった。巨大なカニの甲羅を内側から眺めているみたいだ。
これは子供の頃から繰り返し見る夢だった。見るたびに、また、これかと思い出すのだ。
志津夫は手足をばたつかせたり、首を動かしたりしてみる。だが、立ち上がることができない。この夢の中では、体力を失ってしまったような感じだ。
低い男の声が響いていた。歌のようでもあるし、神主があげる祝詞《のりと》のようでもある。何を言っているのかは、よく聞き取れない。
周囲には何人もの巨大な人影がある。まるで巨人の国にまぎれ込んだガリバーになったようだ。もしくは、夢の中の志津夫が縮んでしまったのかもしれない。
巨人の手が伸びてきた。
志津夫は和服のようなものを着ていたのだが、それを脱がされて上半身、裸にされてしまった。自分の体格がひどく貧弱になっているように感じられる。
突然、目の前に怪物が現れた。顔は大きな目玉と小さな口だけだ。不格好な体躯《たいく》に短く太い手足が生えている。
その怪物が、志津夫の左胸にのっかってきた。異様な感触。微生物が皮膚を通して侵入してくるような感触。
志津夫は思わず悲鳴を……。
「……もしもし」
志津夫の肩が揺さぶられた。意識が明瞭《めいりよう》になる。傾いていた首を持ち上げた。
瞳《ひとみ》のピントが合ってくる。白い制服を着た中年男が、志津夫の肩をつかんでいた。
JRの車掌だ。馬面で、メガネをかけている。制服を脱いだら、釣り人の格好が似合いそうな雰囲気だ。
「もしもし、大丈夫ですか?」と車掌。
「え? ええ」
志津夫はうなずく。
「気分でも悪いんですか? うなされていたみたいだけど……」
「い、いや、大丈夫です……大丈夫です」
志津夫は全身が冷や汗まみれなのに気づいた。顎《あご》や頬も濡《ぬ》れている。ポケットからハンカチを出して、顔を拭《ふ》いた。
その様子を見て、車掌も志津夫の肩から手を離した。
志津夫は二人掛けのシートに座っていた。東海道新幹線の車体がかすかに揺れている。それを除けば、身体にスピード感などは感じられない。
だが、窓の外を見れば、家並みや電柱が飛び去っていくのが見えた。遠くにはブルーグレーの太平洋が広がり、波が白い縞模様《しまもよう》を描いている。空は雲に覆われており、いくつかの切れ目から青色が見えた。
志津夫は、ため息をついて言った。
「悪い夢を見たんです。それで、うなされたんだ」
車掌はうなずいた。
「そうですか。じゃ、別に急病というわけではないと」
「ええ。違います」
「いや、しかし、心配しましたよ。ウンウン唸《うな》ってましたからね。いったい、どんな夢です?」
「え?」
志津夫は突然、ラテン語で話しかけられたような気がした。何を訊《き》かれたのか、まったく理解できなかったのだ。相手の顔を唖然《あぜん》と見てしまう。
車掌が言った。
「夢ですよ」
「夢?」と志津夫。
「夢ですよ。今、悪い夢を見たって言ったでしょう?」
志津夫は頭の中に異物でも詰まっているような顔になった。そして、話し相手をあらためて凝視した。
「え? ぼくがそんなことを言った?」
「え、ええ」
車掌はうなずく。だが、彼は気味悪そうな顔になった。志津夫の正気を疑っているらしい。徐々に腰が引けてくる。
通路をはさんだ三人掛けのシートには赤ん坊を抱いた若い母親と、赤ん坊の祖母らしい女性がいた。親子三代だけあって、細い目などがよく似ている。
若い母親と祖母が怪しむような目で、志津夫を見ている。どうやら、うなされていた時の志津夫も、今の志津夫の態度も、かなり不気味に見えたらしい。
車掌は居心地悪げに少し辺りを見回した。そして回れ右し、その場を離れようとする。
できなかった。その前に志津夫が立ち上がって、車掌の肘《ひじ》をつかんだからだ。強い口調で訊く。
「待ってください。ぼくは今、悪い夢を見たと言ったんですか? たった今そう言った?」
「ええ」と車掌。
「本当に?」
「ええ」
車掌は繰り返し言った。からかったり、ウソをついているような態度ではなかった。第一、こんなことで車掌が乗客にウソをつかねばならない理由などない。
気がつくと、周囲から視線が集まっていた。乗客たちが志津夫を凝視している。いずれも半狂人を見る目だ。
通路をはさんだ三人掛けシートの祖母と母親コンビも同様の態度を示していた。赤ん坊を全身でかばおうとしている。どうやら志津夫が何かの発作を起こして、暴れ出すのを危惧《きぐ》しているらしい。
志津夫は言った。
「そうですか……あ、失礼」
相手の肘を離した。
車掌はまだ、いぶかしげな表情だ。だが、これ以上、関わりたくはないらしい。さっさと通路を歩きだした。
志津夫はシートに座った。他の乗客たちは無言で警戒警報を発している。その波動が押し包んでくるのを感じた。
志津夫は憮然《ぶぜん》と窓の外を見つめた。
トンネルに入った。窓ガラスが反射率の悪い鏡になる。志津夫がもう一人出現した。寝ぼけまなこの三〇歳の男が、こちらを見返している。
志津夫は低い声で呟《つぶや》いた。
「……おかしいな。自分の言ったことを忘れた? まだボケるような年じゃないのに」
悪い夢。
そう言えば見たような気もする。だが、どうしても思い出せなかった。夢の内容はもちろん、「悪い夢を見た」と口にした記憶も、大気圏外にでも飛んでいってしまったみたいだった。
もう一度、記憶内容を捕まえようとしても、胸の中が痒《かゆ》いような、もどかしさが生じただけだった。
六月四日だった。志津夫は両親の故郷に向かっていた。
長野県南部の飯田市で借りたレンタカーを快調に飛ばし続ける。ブルーのスプリンターだ。二〇〇〇ccディーゼルエンジンなので、山道もこなせるだろう。
中央自動車道に飯田インターチェンジから乗った。網掛トンネルをくぐり、園原インターチェンジで中央自動車道を下りた。
周囲は山々の緑で覆われていた。視覚的にも清涼感が漂っている。外を歩けば、フィトンチッドの香りを楽しめるだろう。
道路左には、本谷川が流れている。正確には河原と呼ぶほうが近い。角張った石ばかりが目立ち、その隙間をかろうじて水が這《は》っている感じだ。
標識が見えた。「長野県下伊那郡|阿智《あち》村」だ。長野県南部と岐阜県南部との県境近くにある村だ。
家の数より田畑の数の方が多い風景だ。山あいだから、棚田が多かった。付近には温泉や観光名所もあるので、それを当て込んだ業者が建てた旅館も目立つ。
志津夫は運転しながら、妙に息苦しい感じを覚えた。サイドウインドウを下げてみる。
生暖かい風が吹き込んできた。気温が上がっているのだ。かえって息苦しさが増した。
窓を閉めて、エアコンを入れた。ついでにラジオの電源も入れた。
アナウンサーの単調な声が流れてきた。
「……気温が平年より、ずっと高くなっています。この時期にしては異常な現象です。記録を調べたところ、三〇年前にもこうした原因不明の異常高温が何度も発生していた、ということです。……以上、天気予報でした」
アナウンサーの声が消えて、代わってCMになった。ガソリンスタンドの企業名を連呼している。志津夫はラジオを切った。
山や河原に囲まれた風景の中を進んだ。前方に見える遠くの山は、ソフトクリームみたいに濃厚な霧で覆われている。
志津夫は阿智村を素通りしていった。その向こう側にある日見加《ひみか》村が目的地だ。そこは神坂峠《みさかとうげ》の手前にある村だった。
神坂峠は信濃(長野県)と美濃(岐阜県)の国境で、海抜一五八五メートルだ。縄文時代から通行があったことがわかっている。
峠の頂上からは石製模造品(神に供えた幣《ぬさ》)をはじめ須恵器、土師器《はじき》、灰釉陶器《かいゆうとうき》、鏡、刀子《とうす》などの遺物が数多く発見されているのだ。古代|祭祀《さいし》遺跡として全国的に有名になり、国の史跡として指定された。
スプリンターは細い九十九折《つづらお》りの山道を登っていった。辺りは樹木に包まれ、緑の濃淡だけで十種類はありそうな風景になった。イロハカエデ、ヤマモミジなどの中部地方の木々も目立つ。ウメモドキが淡紫色の小花を見せていた。
そんな中に神坂神社があった。スギやアカマツ、クロマツの森があり、出入口の石段があった。その奥に隠れているような形になっている。
ここにはヤマトタケルが腰掛けて休んだ、と伝えられる岩が鎮座している。神坂神社の前を通過した時、志津夫はそのことを思い出した。
ふと呟《つぶや》いた。
「茨城の新治郡……甲府……神坂峠……」
志津夫の頬が緩み、少し苦笑した。
「これじゃまるでヤマトタケルの東征ルートの帰り道じゃないか。これで名古屋に寄るはめになったら、いよいよ東征ルートそのままだぞ。まあ、偶然だろうけど」
ヤマトタケルとは、第十二代|景行《けいこう》天皇の皇子オウスノミコトのことである。彼は、まつろわぬ者ども、つまり大和王朝に服属しない蛮族を退治するために、日本列島を駆け巡った英雄だ。しかし、実在の人物ではないだろう、とも言われている。
道路脇に標識が見えた。「日見加村」とある。
そのそばに墓地があった。物言わぬ石の群れが列をなしている。死者たちは皆、安らかに眠っていた。動くものが一つもない静謐《せいひつ》な光景だった。
墓地のそばには瀟洒《しようしや》な寺があった。周辺はスギで囲まれている。石段があり、その上に小さな梵鐘《ぼんしよう》がつり下げてあった。
墓地の奥には森林が見えた。スギやヒノキ、ヤツデなどが多かった。
目的地に到着したのだ。スプリンターを停める。
志津夫は辺りを見回した。
墓地に人影はなかった。
志津夫は張り込み中の刑事みたいな目つきになっていた。しばらく辺りを見回し続ける。父、正一の姿がないか、と思うと心臓のリズムがやや駆け足になった。
だが、車内から見える範囲に人影はなかった。
念のため、墓地から道路を隔てた反対方向を見た。
木造瓦屋根の展望台があった。その向こう側は谷間で、スギ林の中に細い滝が流れ落ちている。スギの木には紙垂《かみしで》をつけた、しめ縄が飾ってあった。その展望台にも人影はない。
志津夫は吐息をつく。肩の線が下がった。もしも親父を見つけたら、言いたいことが山ほどあった。
今まで何をやってたんだよ? 茨城で何をしたんだ? 甲府では何をしてたんだ? あの白川家一族とは、どういう関係なんだ? なぜサングラスなんか、かけてるんだ? ブルーガラス土偶の正体は何なんだ? あれから感染するウロコは何なんだ?
志津夫は自分の左胸を押さえてしまう。そこには例の不快な感触があった。痒《かゆ》みをともなうものだ。
本来なら、このウロコはすぐに医者に見せるべきだった。治療法について専門家の意見を聞くべきだ。だが、次々に怪異な事件が勃発《ぼつぱつ》するため、それに振り回されてしまい、皮膚科に行くこともできないありさまだった。
もし、この墓参りが空振りだったら、すぐ飯田市に引き返して病院に行くぞ。志津夫はそう決意した。
志津夫は助手席に手を伸ばした。菊の花束と、線香、ロウソクの入ったポリ袋を持つ。水を汲《く》むための小さなポリバケツも持った。
スプリンターを降りた。とたんに、不快指数が上がった。空気がまるで風呂《ふろ》の湯気のように感じられる。
墓石の列と、スギやハンノキが遠近法を作りだしていた。周囲は雑草の臭いで充満している。
志津夫は、その中を歩きだした。途中、水道の蛇口からポリバケツに水を入れる。
母、佳代の墓はすぐに見つかった。一目で新品とわかる墓石だから、目立つのだ。他の墓石などは江戸時代末期頃のように見えるものが多数ある。
志津夫としては東京町田市に近い墓地の方が便利だった。だが、母のいとこにあたる名椎善男《なづちよしお》が言った。
「お母さんは生前から、日見加村に埋葬してもらいたいと言うとったずら」
そう言えば、志津夫もそんな台詞《せりふ》を聞いていた。それで本人の意志を尊重することになったのだ。
志津夫の足が止まった。目を見開いてしまう。次いで駆け足になった。
墓には、すでに花と線香、ロウソクが捧《ささ》げられていたのだ。志津夫は墓に献花された菊を手に取った。まだ新鮮な花だ。
ロウソクは火が消えていた。だが、線香はまだ、しぶとく煙を上げている。どちらも、まだ元の長さをほとんど保っていた。長時間燃えてはいない。
誰かがたった今、墓参りしたようだ。あの祐美という娘が、留守録に残したメッセージは本当だったのか?
志津夫は慌てて、周囲を見回した。目を全開にしていた。瞳《ひとみ》の上下に白い部分がのぞいたほどだ。
視界の隅で、何かが動いた。それは墓地の外れにある森林だった。
森林はヤツデやヒノキが多かった。その樹木の間に、何か動くものを見た。人間のようだ。
「父さん?」
そう呟いた。
次の瞬間、手にしたポリ袋とポリバケツを放り出した。キャンピングシューズの爪先を地面にめり込ませて、大地を蹴《け》った。
あっと言う間に墓石の間を駆け抜けた。樹林の世界に突入する。視界が夕暮れなみに暗くなり、ブラウンとグリーンに染まった。
だが、人影を見失った。周囲を見回す。見回し続ける。
頭上の枝葉を通して、太陽光線が細いビームとなっている。数十本ものミニ・スポットライトだ。
だが、場所によっては光がほとんど差さないところもある。昼間の明るさに慣れた瞳孔《どうこう》には暗闇に見えた。
フィトンチッドの香りが鼻孔をくすぐった。都会生活に慣れた身には濃密に匂う。青くさい臭気を吸い込み、咳《せき》が出た。
ようやく彼方《かなた》に動くものを見つけた。人影らしい。
「待ってくれ!」
志津夫は叫び、そちらへダッシュした。
「父さん! 父さんだろう?」
その影に呼びかけた。だが、森林の中でも特に暗いところへ踏み込んでしまう。唐突に目が塞《ふさ》がれたような状態だ。
何かにつまずいた。バランスを取ろうと反射的に両手を振り回す。結局、前のめりに転んでしまった。土が口の中に飛び込んでくる。
土を吐き出しながら、立ち上がった。周囲を見回す。見回し続ける。だが、暗くて、もう人影の所在もつかめない。
唾《つば》を吐いて、口中の土を洗い流しながら、志津夫は探し続けた。だが、完全に見失ってしまった。
やがて真新しい足跡を見つけた。志津夫はしゃがみ込んで、よく観察した。アウトドア用のシューズ跡で、大きさから見ても男性のものだ。だが、さきほどの人影が残したものかどうかはわからない。
「父さん!」
志津夫は立ち上がり、呼びかけた。
「葦原正一、返事しろ!」
呼び捨てにしてやった。どちらかと言えば、恨み辛《つら》みの感情の方が先に立つので、もう親だとは思っていなかった。だから、再会したとしても、二流のテレビドラマのように、ロマンティックなピアノの調べをバックに涙する、といった場面にはなるまい。
胸ぐらをつかんで、とっちめてやりたかった。揺さぶって、奥歯をカスタネットのように鳴らしてやりたかった。ちんぴらの喧嘩《けんか》のように膝蹴《ひざげ》りの一発も入れてやりたかった。
二〇分後、志津夫は森林の中をすべて探し回ったことを知った。先ほどの人影は、もうこの近辺にはいないと判断できたのだ。
志津夫は背骨が一本外れたような気分で、墓地に戻った。墓参りのやり直しだ。
墓前に捧げてある菊の花や、線香、ロウソクを一応チェックした。だが、線香もロウソクも、志津夫が飯田市で買ったものと同じメーカーの製品だ。日本中どこでも買えるような品物だろう。何の手がかりにもならなかった。
志津夫は持参した花や線香、ロウソクを墓に供えると、手を合わせ、瞑目《めいもく》した。
記憶の中の母は、微笑していた。量感のある頬にえくぼができている。記憶は美化される、というのは本当だろう。
晩年の悲惨な佳代の様子は、もうあまり脳裡《のうり》には浮かばなかった。もちろん、それらも思い出そうとすれば即時に蘇《よみがえ》る。だが、歳月は悲しみを希釈し、懐かしい思い出の方を優先して残してくれる。
断片的な場面が思い浮かんだ。洗濯物を干す時は、よく鼻歌でCMソングをコピーしていた母。夜中の受験勉強中、夜食のカレーうどんを作ってくれた母。花を花瓶にいける時だけ、突如インテリアデザイナーの情熱に目覚めて、何十回もやり直す母。テレビ画面に映ったエアロビクス・ダンスを唐突に真似し始める母。
「母さん」
志津夫は目を開けて、語りかけた。
「父さんを見たんだろう?」
佳代の墓石は沈黙だけを返した。
そこが神社だということは地元の人間しか知らないだろう。一見、道路脇にスギやアスナロ、ヒガンザクラなどで囲まれた防風林があるようにしか見えないからだ。
出入口は幅一メートルほどの石の階段だ。だが、ここには鳥居がない。細い柱が一本あって、それに社名が刻んであるだけだ。
『登美彦《とびびこ》神社』とある。
志津夫は石段を登り始めた。やがて、しめ縄のかかった木製の鳥居が見えてきた。それで、やっと神社らしく見えてきた。
子供たちの甲高い歓声が聞こえてきた。ここの境内で、大勢で遊んでいるらしい。
志津夫はあらためて、いぶかしく思った。なぜ、ここは一目で神社だとわかるように、鳥居を外部に設けないのだろう? まるで、この神社の存在を外部の人間から隠しているみたいではないか?
境内が見えてきた。テニスコートほどの面積だ。手水舎《てみずや》、拝殿と本殿などが配置されている。どれも小さな建物で、四畳半サイズだった。
十数人ほどの子供たちがいた。年齢は幼稚園児から小学校低学年ぐらいだ。男女の割合は半々だった。
プラスチック製の竹馬に乗っている子もいれば、一輪車に乗って器用にバランスを取っている子もいた。ボールを蹴り合い、サッカーの真似事をしているグループもいる。
志津夫が現れると、子供たちは一斉に彼に注目した。だが、すぐに関心をなくしたらしく、また彼らの遊びを再開した。
志津夫も子供たちの遊びを邪魔しないように彼らを避けて、手水舎に向かった。
作法にのっとって、手水舎で手を清め、口をすすいだ。さらに作法にのっとって、参道の中央を避けて歩いた。中央は神様の通る場所とされているからだ。ただし、拝礼する時だけは参道の正面に立っても構わない。
比較文化史学をやっている関係上、神社の作法も熟知してしまったのだ。それで自然に実践するようになった。もっとも子供たちはお構いなしで、遊んでいたが。
志津夫はおさい銭を入れた。神明造りの拝殿に二礼二拍手一礼する。
拝殿の脇にある立て札を見た。
『大物主神』とある。
奈良県にある三輪山の神と同じ神だった。これは蛇神の元祖的な存在で、古事記や日本書紀にも、そう記述されているものだ。
志津夫は神社を後にして、その隣の区画にある名椎善男の家に向かった。
善男はこの登美彦神社の宮司である。志津夫にとっては、母のいとこにあたる人物だ。
名椎善男は玄関のドアを開けると、志津夫を見て、べっこう縁のメガネを少し持ち上げた。
名椎善男は今年、六三歳になる人物だ。志津夫は彼を見ると、映画「ロッキー」で老トレーナー役を演じていた、バージェス・メレディスを連想してしまう。
身長一六〇センチぐらいで、やや痩《や》せている。大きめの目と、薄い鼻の持ち主だ。年老いた忠犬のような雰囲気がある。
彼の服装は浄衣《じようえ》だった。白い上着に紫の袴《はかま》の組み合わせだった。宮司としての品位だけは、いつも保とうとしているようだ。
善男は目を見開き、笑顔になった。
「おお、よく来てくれたかァ」
長野弁で歓迎してくれた。三〇分ほど前に電話で連絡を入れておいたので、待っていてくれたのだ。
居間に通された。そこは八畳の部屋で、大型テレビとビデオデッキ、黒い旧型のダイヤル式電話機、テーブル、座椅子、碁盤などが並べてあった。
隣の部屋は、やはり同じような八畳の部屋だ。子供用の布団が敷いてあり、赤ん坊が寝ている。チェッカー柄の布で、くるまれていた。
体躯《たいく》のサイズと髪の毛の薄さから、生まれたばかりだろうと、わかった。この時期の赤ん坊はまだ可愛らしい感じではなく、くしゃくしゃの猿みたいな顔に見える。
志津夫は言った。
「あ、お孫さんですね。そう言えば、もうすぐ初孫が産まれるという話を以前に聞いていたのに、すっかり忘れていた。何かお祝いしないといけなかったな」
志津夫は羊羹《ようかん》の包みを差し出した。
「とりあえず、これは手土産です。お祝いはまた別に何か考えますから」
善男は首と手を同時に振った。恐縮している表情だ。
「いやいや、気にしなくてええ。さあ、休んでいってくれ」
善男はテーブルに電気ポットと急須《きゆうす》、茶碗《ちやわん》を並べた。玉露を入れてくれる。小さなナイフで、さっそく羊羹を切って、お茶菓子にした。
善男が笑顔で言った。
「今は、わしと孫の武司《たけし》しかおらん。息子夫婦は、わしに子守を押しつけて買い物に行ったんだ」
「そうでしたか」
「ところで、なぜ急にここへ?」
「いや、ちょっと墓参りです。時期外れだけど」
そう聞いて、善男は目を閉じた。志津夫の母のことを思い起こしているらしい。善男にとって葦原佳代はいとこであり、隣の阿智村に住んでいた幼なじみなのだ。懐かしい思い出が溢《あふ》れてきたようだ。
「残念なことになったな、佳代さんは」
「ええ」
「まあ、あんたも辛《つら》かったろうけど、頑張って生きてなんしょ」
善男の方言が暖かく耳に響いた。志津夫は微笑を返した。
「ええ、ぼくは大丈夫です。しぶとく生きてますから」
「うんうん、なら良かった」
善男も微笑する。
志津夫は、話をどう切り出そうか迷っていた。だが、どうもいい知恵が浮かばない。結局、直接的に質問することにした。
「ところで……父のことは何か、わかりませんか? この辺りで見かけたとか、そんな噂とかは?」
名椎善男の表情が曇った。玉露を一口飲んだが、その味も急に苦くなったような顔だ。首を振る。
「いや、残念だが、何もわからん。正一さん、どこでどうしているのやら……」
「そうですか……」
志津夫は軽く、うなずいた。予想どおりの言葉なので、別に落胆はしなかった。だが、目には相手への疑惑が宿っていた。
三〇分ほど前に墓地で見た、あの人影。今、思い出しても直感に響くものがある。物腰や挙措動作に感じるものがあった。あれは親父だと。
もし、この付近に父、正一がいたのならば、親類である名椎善男は知らないはずがないのではないか? なのに、何か理由があって志津夫には隠しているのではないか? どうしても、その疑いを捨てきれなくなっていた。
だが、直接、善男に質問しても、かわされるだけだろう。やはり「別の手」を使わなければならない。志津夫は「別の手」を密《ひそ》かに準備した。
そして、志津夫は隣の部屋の赤ん坊を振り返った。さっきから気になっていたのだ。立ち上がって、隣に行き、子供用の布団をのぞき込む。
志津夫は不審な顔になっていた。赤ん坊の産着に違和感を覚えたからだ。
それは赤ん坊用に作られたものではなかった。大人が着古したらしいチェッカー柄の衣服を適当に切って、それで、くるんでいるだけなのだ。赤ん坊は自分の貧相なファッションに文句も言わず、寝息を立てている。
志津夫は言った。
「まさか? これはヒナマキ?」
「ん? ああ、そうずら」と善男。
志津夫は興奮し、振り返って言った。
「知らなかったな! ここはまだヒナマキの風習が残ってたんですか。こりゃ珍しい」
善男は顎《あご》の辺りを掻《か》いて、照れ笑いした。
「そんなに珍しいかな?」
「珍しいですよ」
志津夫は再び、善男のいる部屋に戻って、座り込んだ。絶滅した動物を再発見した古生物学者のような表情になっている。喋《しやべ》りだした。
「ヒナマキは、生まれたばかりの赤ん坊を最低三日間はボロ布でくるむ儀礼。テトオシは、新品の産着に着替えさせる儀礼だ。ちなみにテトオシは広辞苑にも載っている言葉です」
善男は感心した表情で、
「ほう、そうずら。まあ、この辺じゃ、ヒナマキは六日間と決まっているが」
「六日? それも珍しいな。普通は三日とか五日とかが多いんだけど」
「そんなに珍しいかな?」
「珍しいですよ」
善男と志津夫は互いに同じ台詞《せりふ》を繰り返した。志津夫は説明を始めた。
「日本民俗学の父と呼ばれる柳田国男という学者がいます。彼の『産育習俗|語彙《ごい》』という本にも書かれているんです。ヒナマキ、テトオシは、ほんの数十年前までは東北地方から沖縄にかけて日本中にあった風習です。それが今では、ほとんどなくなってしまった。吉野裕子博士の本によれば、昭和四〇年代の沖縄には存在したという記録がありましたが、もう沖縄でも消滅したらしい。なのに、ここではまだ残ってたんですね」
志津夫は熱心に喋った。これもまた、彼が追っているものに深い関わりがあるからだ。
「実は、ヒナマキ、テトオシは蛇神信仰の名残なんです。蛇の脱皮を象徴する儀式です」
善男は口を半開きにした。こういう視点は初めて知ったらしい。
「蛇?」
「そうです。蛇が霊界の住人だという信仰は、世界中にある最古の精霊信仰です。だから、霊界から現世へやってきたばかりの赤ん坊は、蛇神と見なされたんです。
蛇の脱皮のことを、古語で『ケヌケ』と言ったんです。また、ものの表面の皮は『ケ』と言った。ですから、神道の『ケガレ』『ミソギ』『ハライ』などの言葉も、蛇神信仰が元になっていたと考えられるわけです。『ケガレ』は蛇の皮『ケ』がはがれたもの。『ミソギ』は『身を削《そ》ぐ』で古い身、古い皮を削ぎ落とすこと。『ハライ』も古い皮を『払い捨てる』の意味ですよ」
「ああ、なるほど。言われてみれば、そうかもしれんずら」
善男は何度もうなずいた。彼の職業は神主である。その起源を解き明かす説だから当然、関心がわいただろう。彼も熱心に喋りだした。
「そう言えば、わしが子供の頃はドテウナギを殺しちゃいかんと言われていた」
「ドテウナギ? あ、蛇のことですね」
「うん、長野じゃドテウナギとも言うんだ。蛇は神様だから絶対に殺しちゃいかんと、じいさまに言われたものだ」
「それも昭和三〇年代までは、日本中にあった言い伝えなんですよ」
「なるほどねえ」
「あ!」
志津夫は短く叫んだ。全身が硬直した。重大なことに気づいたのだ。
善男が不審な表情になって、
「どうしたね?」
「ぼくは、ここで産まれたんですよね?」
「うん、そうずら」
「じゃ、ぼくもここでヒナマキとテトオシを受けたってことですか?」
志津夫はテーブルに両手をつき、身をのりだした。相手の顔をのぞき込む。今まで活字で読んだことしかなかった誕生儀礼が、にわかに我が事として迫ってくるのを感じた。
善男は、顎の辺りを掻き始めた。渋面になっている。少し首をかしげた。
「さあ、どうだったか? たぶん、そうかもしれんずらが。よく覚えてないな」
突然、電話機が鳴った。電子音ではなく、旧式のベルの音だった。
善男は黒い受話器を取って、話し始めた。
「え? あ……」
急に狼狽《ろうばい》したような顔になった。志津夫に背中を向けてしまう。表情を見られたくないらしい。その状態で受け答えしている。
「いや……うん……そうずら……じゃ、また後で」
善男は受話器を戻し、電話を切った。
志津夫は、善男の背中を凝視していた。今、電話をかけてきたのは誰なのか?
先ほど墓地で見た人影が、また脳裡《のうり》に浮かんだ。まさか、親父じゃあるまいな? そして名椎善男さんは親父の行方を知っていて、隠しているんじゃあるまいな?
その疑惑は、もう捨てられそうになかった。
志津夫は言った。
「……そうですか。ここの神社は縁起絵巻帳とかは残ってないんですか」
名椎善男が答える。
「ああ、何もないんだ。言い伝えでは、三輪山の大物主神様がここにも住みたいという、お告げがあって、ここに建立されたそうだ。別荘でも欲しかったのかな?」
善男がふいに笑いだした。自分の台詞に自分で受けたようだ。志津夫の肩を叩《たた》く。
「きっと、そうずら。神様も骨休めするための保養地が欲しかったんだ」
「なるほど」
志津夫も笑みを返した。
二人は名椎家の玄関先にいた。八畳間ほどの広さだ。農作業用の器具も並んでいる。名椎善男は宮司の傍ら、農業も営んでいるからだ。
神社の境内では、子供たちの歓声が急にボリュームを上げた。何か珍事でも発生したのだろう。
志津夫は言った。
「にぎやかですね、ここは」
「ああ」
「農業に頼っている村は過疎化する例が多いのに、ここは違うんですね。子供の数も多い。ということは、若い夫婦も多いわけだ」
善男は笑みを浮かべて、
「ああ。進学とかで一時的に村を離れることがあっても、ほとんどはそのうち戻ってくる」
「珍しいですね。もっとも、うちの親父とお袋は例外で、ここには戻ろうとしなかったな。第一、我が家は里帰りもほとんどしなかったし……」
善男は少し、うつむいた。声のトーンも低くなる。
「まあ、それは人それぞれだから……」
志津夫は頭を下げた。
「じゃ、これで失礼します」
「ああ、また、寄ってくれ」
善男が手を振り、志津夫も振り返した。
志津夫は少し離れたところに停めたスプリンターに乗った。善男がしつこく手を振っているので、志津夫も振り返しつつ、二〇〇〇ccディーゼルエンジンを始動し、名椎家の前を離れた。
名椎善男の家は二階建てで8LDKぐらいだった。壁はモルタルで建築様式も新しい。宮司がこれだけいい家に住めるということは、登美彦神社は支えてくれる氏子衆に困らないらしい。
強い信仰が、この地にはあるのだろう。何しろ絶滅したと思っていたヒナマキ、テトオシの風習が未《いま》だに残っていたのだ。比較文化史学者としては大収穫だった。
志津夫は当てのないドライブを始めた。目的地はない。一時間ほど暇つぶしをしなければならないのだ。
志津夫は前方の空を見た。神坂山と恵那山が、そこにそびえている。だが、山の上部は濃い霧で覆われていた。
とりあえず神坂峠に向かった。
神坂峠には、有名な祭祀《さいし》遺跡がある。膨大な祭祀具が発掘されており、縄文時代の遺物も出ているのだ。それらの土器がミニチュアで実用品でないことや、住居跡などの生活の痕跡《こんせき》がないことから、祭礼儀式だけが行われた場所と推定されている。
志津夫はカーブだらけのワインディング・ロードを登り、神坂峠に到着した。だが、海抜一五八五メートルの峠付近は濃霧に包まれていた。
車から降りると、さすがに空気が冷たかった。神坂峠の案内図があり、史跡が柵《さく》で囲ってあるのがわかった。だが、霧がポタージュスープの濃さで視界を遮っているのだ。何も見えはしない。
志津夫は多少、失望しながら、車に乗って引き返した。だが、時間つぶしにはなった。名椎家を出て、約五八分後、そこに戻ったのだ。
志津夫は玄関脇にある呼び鈴を鳴らした。「はい」と奥から返事があった。
アルミサッシの玄関ドアが開くと、名椎善男が目を見開いた。べっこう縁メガネを少し持ち上げる。
「あれ? 志津夫君! どうしたんだ?」
志津夫は後頭部を掻《か》いて、
「いや、それが忘れ物をしちゃったらしくて。小さなバッグなんですが」
「バッグ?」
善男は瞬《まばた》きしながら、探すために居間の方へ引き返した。志津夫もキャンピングシューズを脱いで、遠慮なく上がり込んだ。
志津夫は居間に入って、四つん這《ば》いになった。テーブルの下をのぞき込む。
「あ、あったあった」
それを取り出す。茶色のミニバッグだ。確かにうっかり忘れてしまいそうな代物だ。
「あ、それか。いや、見つかってよかった」
善男も安堵《あんど》した顔で言った。
「ええ」
そう返事したが、志津夫は苦い気分だった。これは完全にプライバシーの侵害なのだ。
志津夫は再びスプリンターに乗り込むと、また、しつこく手を振る善男に、手を振り返した。車を発進させて、名椎家を後にした。
五〇〇メートルほど離れたところで停車した。エンジンも切る。車の振動が止まり、静かになった。
そして志津夫は茶色のミニバッグから、マイクロカセット・レコーダーを取り出した。
録音ボタンが押されており、六〇分テープがすでに終わりに近づいていた。六〇分テープと表記してあっても実際には六三分ほどあるので、まだ余裕があったわけだ。
本当は盗聴器を仕掛けて、二四時間情報を得たかった。だが、持ち合わせがなかったし、長野県南部の山奥の雑貨屋やコンビニで、売っているとも思えなかった。レコーダーで代用するしかなかったのだ。
志津夫はレコーダーの停止ボタンを押し、巻き戻しボタンを押す。テープリールが回転する音が鳴りだした。
志津夫はいらいらした様子で、指でステアリングを叩いた。ついに真相の一端がつかめるかもしれない。このテープの中に、それが録音されたのかもしれない。そう思うと待ちきれなかった。
ようやく巻き戻しが終了した。
志津夫は再生ボタンを押し込んだ。
最初の三〇分は退屈そのものだった。パチン、パチンという単調な音が続くだけだった。どうやら名椎善男が囲碁をやっていたらしい。本を見ながら、一人で名人戦の棋譜でも並べているのだろう。
志津夫は歯ぎしりしながら、マイクロカセット・レコーダーを見つめていた。苛立《いらだ》たしいが、早送りはできない。録音された重要な情報はほんの一、二秒かもしれないからだ。
「このクソじじい、のんきに碁なんか打ちやがって」
その他、当人の前では絶対に言えない罵言《ばげん》を、志津夫は並べていた。しまいにはステアリングに顎《あご》をのせて、突っ伏してしまう。
六〇分テープが半分ほど巻き取られた時、電話機のベルが鳴った。
志津夫は顔を上げた。口元が引き締まる。
ついに来た! 先ほど電話してきた人物が再度かけ直してきたのではないか?
つまみを回し、レコーダーの再生ボリュームを上げる。
再生されていたベルの音が止まった。善男が受話器を取ったらしい。
『はい……』
ため息の音。
『ああ、そうずら。さっき息子さんが帰ったところずら……三〇分ぐらい前だ』
「何!」
志津夫は叫んだ。三〇分ぐらい前に帰った息子さん≠ニ言えば、もちろん志津夫のことだ。
志津夫は確信した。電話をかけてきたのは親父だ。葦原正一だ。
さらに決定的な台詞《せりふ》が、善男の口から出た。
『正一さん。いつまでも隠しきれるもんじゃないよ』
「親父か! やっぱり!」と志津夫。
『いずれは志津夫君にも本当のことを言って、わかってもらうしかない……え?……いや……それは……そうだけど……まあ、そうなんだけども……まあ、そうずら……』
「何だよ! 本当のことって何だ?」
志津夫はレコーダーに叫んだ。だが、そこで話題が変わったらしい。
『え?……あ、ああ、今夜は神社の奥宮で、テトオシずら……いいや、やめるわけにはいかん……あんたも、それはわかってるはずだ……うん……うんうん……じゃ、これで……ところで、次はいつ?……切れたか』
ため息の音。受話器を架台に戻す音。
その後は沈黙が続いた。善男は急に、囲碁への情熱を失ったらしい。碁盤と碁石の打撃音もまったく聞こえなくなった。
後は沈黙のみだった。ヒナマキされている赤ん坊も今日は寝てばかりいるらしい。
志津夫は親指や人差し指の爪を噛《か》みながら、テープの残りにじっと耳を傾け続けた。腹の中で炭火が燃えている気分だった。
だが、もう電話はかかってこなかった。テープが終わりに近づいたところで、玄関の呼び鈴の音が鳴った。
もうこれ以上、聞く必要はなかった。この時、呼び鈴を鳴らしたのは、志津夫自身なのだ。一声|唸《うな》ると、停止ボタンを押した。
すぐ巻き戻して、善男が葦原正一と会話する場面の音声を再生した。何度も何度も再生した。その場面が映像として観えてきそうなぐらい、聞き込んだ。
だが、わかったことは、ほんのわずかだった。
まず第一の事実。
名椎善男は、葦原正一と連絡を取り合っているらしいことだ。そして志津夫にはそのことを隠していたのだ。だが、隠す理由まではわからない。
志津夫は吐き捨てるように言った。
「みんな、ぼくに隠し事か。ぼくだけ、のけ者か!」
その不条理さに、怒りを覚えた。志津夫の眼光がどす黒い感じに濁ってくる。唇の線が歪《ゆが》んでいた。
第二の事実。
善男は、こうも言った。
『今夜は神社の奥宮で、テトオシずら』
『いいや、やめるわけにはいかん』
『あんたも、それはわかってるはずだ』
以上の台詞から判断すると、この村ではヒナマキやテトオシの儀礼が、重要な祭礼になっているらしい。しかも、それは赤ん坊のいる各自の民家ではなく、神社の奥宮で行うものと定められているようだ。
志津夫は呟《つぶや》いた。
「奥宮? つまり、登美彦神社の奥宮? 聞いてないぞ、そんな話は……」
奥宮とは、神社の本社に対して、もう一つ同じ名前の神社が山奥などにあるケースだ。
元々は山奥にある奥宮の方が、古代からの祭祀《さいし》場所だったのだろう。だが、後世になると、参拝のためにいちいち山奥へ登るのは面倒になってくるのが人情だ。そこで、人里にもう一つ同じ名前の神社を作り、普段はそちらを本社として、元々山奥にあった方は奥宮として祀《まつ》るケースだ。
志津夫は呟き続ける。
「奥宮だって? つまり、どこか山奥に秘密の神社でもあるのか?」
志津夫の瞳《ひとみ》が電球のように輝いてくる。手のひらでステアリングを叩き、叫んだ。
「秘祭だ! ここには秘祭があるんだ! 外部の人間には秘密の祭礼儀式。それがここにもある」
志津夫は興奮を覚えた。比較文化史学者としては、いよいよ大収穫の事態に出会ったのだ。
実は、現代の日本にも秘祭と呼ばれるものは多数、現存している。
たとえば東北地方などには、今も秘密の土着信仰がいくつもある。その中でも最大のものは隠し念仏≠ニいう宗教だ。
現在も奥羽山脈沿いの宮城県北部、岩手県、青森県南部などに、数十万人の隠し念仏≠フ信者がいると言われている。表面上は各寺に属していたが、実際には秘密の信仰と儀式を強く守ってきたという。そして今なお隠し念仏≠フ儀式の内容は部外秘のままだ。
また、沖縄にもイザイホー≠ニ呼ばれる神儀がある。午《うま》の年、つまり十二年ごとに行われるもので、今では沖縄島と久高島にしか残っていない秘祭だ。
このイザイホー≠ノしても、秘儀に属する部分を、外部の人間は見ることができない。それどころか地元の男性たちも、この十二年に一回の祭礼を見ることは許されない。つまり地元の女性だけの秘祭なのだ。
これらの他にも、日本各地には秘祭が多数、現存することが確認されている。だが、どんな儀礼を行っているかは、いずれも不明のままだ。文化人類学者たちも手の出せない領域なのだ。
中には「本物の秘祭」もあるだろう。つまり、秘祭の存在そのものが未《いま》だに部外者には知られていない、といった例もあるはずなのだ。
志津夫は呟いた。
「長野県南部の秘祭だって? そんなの聞いたこともないぞ。どんな資料にも載ってなかった。つまり、それだけ厳重に秘密が守られてきた、ということか……」
志津夫は窓ガラス越しに、真正面を見た。
神坂山と恵那山がそびえていた。絵の具チューブから絞り出したような濃い霧で、山の上部が覆われている。
もしも登美彦神社に奥宮があるとすれば、神坂山か、恵那山だろう。もしかすると古代祭祀遺跡がある神坂峠の近くかもしれない。いったい、そこでどんなテトオシ儀礼が行われてきたのか?
志津夫は腹筋に力が入るのを感じた。無意識に車のステアリングをきつく握りしめる。好奇心と興奮がみなぎる表情で言った。
「今夜と言ってたな……」
都会とはまったく違う夜空だった。星の数が二桁《ふたけた》違うのだ。もっと視界が開けた場所なら、光のシャワーを浴びる気分を味わえただろう。
志津夫はスプリンターのステアリングを指で叩《たた》いていた。FMラジオが小さな音で古い洋楽の曲を奏でており、そのリズムに合わせているのだ。
スプリンターの停車場所は山道の一角だった。名椎家を見下ろすのに都合のいい位置だった。
その他の民家や防風林、ビニールハウスなども、志津夫の視界に入っていた。小学校の分校や保健所の建物も見える。日見加村の三分の一が眺望できた。
照明は道路のわずかな街灯だけなので、村のほとんどは闇に沈んでいる。だが、逆に言うと、誰かが車のライトを点灯すれば、すぐに目立つ状況だ。
志津夫の読みは当たった。
深夜一二時を過ぎた時、名椎家の車がヘッドライトを光らせたのだ。防風林の隙間越しに、車種も特定できた。カローラだ。
数秒遅れて、その周辺のいくつかの民家からも光芒《こうぼう》が生じた。いずれも車のライトだ。全部で七、八台ぐらいだろう。
その様子はどう見ても、秘祭参加者たちが時刻を決めて、一斉に出発といった感じだった。やがてヘッドライトの光条はすべて西の方向を向いた。そこには神坂峠がある。
志津夫もスプリンターを始動した。時々、暖機運転していたので、二〇〇〇ccディーゼルエンジンは機嫌良く立ち上がった。アクセルを踏み、深夜の追跡に移った。
運転しながら、志津夫は呟《つぶや》いた。
「村人総出で繰り出すわけじゃないのか? いや。待てよ……。そうか」
大きく、うなずいた。
「ヒナマキもテトオシも赤ん坊に行う儀礼だ。だから、参加するのは赤ん坊の家族や親戚《しんせき》ぐらいなんだ……。なるほどね。ごく小規模な秘祭なんだ。だから、秘密を守りやすかったんだ」
謎が一つ解けて、いい気分になれた。鼻歌が出る。アクセルを踏む足に力が加わった。
彼方《かなた》に見えるヘッドライト群の光芒を頼りに尾行していった。
志津夫は、しまいには団体で走る車列の最後尾についた。この状況なら、一台ぐらい余計な車が混じっても気づく者はいないだろう、と思ったのだ。案の定、まったく気づかれた様子はなかった。
一団となった車列は村を離れて、神坂峠へと登っていった。
志津夫は時々、カード型GPSのスイッチを押した。高度二万キロに浮かぶ軍事衛星ナブスタの電波を捉《とら》える。
GPSはケーブルで助手席のノートパソコンと接続してあり、地図ソフトが起動してあった。だから、GPSのスイッチを押すと数秒後には、現在位置の周辺地図がパソコンのカラー液晶画面に表示されるのだ。
志津夫は助手席に置いたノートパソコンを振り返り、地図を確認した。この先を五〇〇メートルほど行くと、道路が終わっていることがわかった。少なくとも地図に表記するほどの道は、もうないのだ。
そこで、志津夫は徐々に速度を落としていった。気づかれないことを祈りながら、カーブの手前で停車する。
舗装道路の終点で秘祭参加者たちは駐車するだろう、と志津夫は判断したのだ。その時点でよそ者の車が一台混じっているのは、まずい。
志津夫はスプリンターをバックさせた。舗装道路から少し離れて、森林の中に駐車する。ここなら暗いから、ヘッドライトを当てない限り、車の存在に気づかれないはずだ。
志津夫はソフト・アタッシュバッグを後部座席から取り出した。登山するので、重たいノートパソコンは車に置き去りにする。一眼レフ式デジタルカメラとGPS、ペン型ライトなどが入っているのを確認して、バッグを肩にかける。
車外へ出た。全身が清涼な山の夜気に包まれる。
志津夫はペン・ライトで足元だけを照らして、歩き始めた。
四〇〇メートルほど進んだところで、舗装道路の終点に到着した。
そこは大地の皮をめくったような光景だった。土砂や岩石がむき出しなのだ。片側だけ石垣があるのは崖《がけ》崩れ防止用だろう。それ以外は、人の手は加わっていない。
街灯が一つだけあり、寂しげな光で辺りを照らしていた。その下に標識がある。「神坂峠」という地名と、矢印だけを書いたシンプルなものだ。
ここは舗装道路の終点であると同時に、神坂峠への登山道の出入口だった。日見加村の裏尾根から登るルートがあったのだ。
付近には七台の車が停めてあった。カローラ、サニー、ミラージュといった大衆車が多い。他にパジェロやテラノなどの4WD車もある。
車はすべて無人だった。辺りには人影もまったくない。
ここから先の山道は4WD車でも登るのは困難だろう。だから、秘祭参加者たちは、ここで車を降りたのだ。志津夫の読みはまた的中したわけだ。
志津夫は腕時計を見た。針は〇時二一分を表示している。
神坂山は闇に沈んでいた。夜空の星明かりで、山が三角形のシルエットになっているのが確認できるだけだ。
だが、山の中腹には複数の光がチラついていた。そこに大型のホタルでも生息しているような感じだ。
光の群れは、秘祭参加者たちが持つハンディライトだろう。彼らが乗ってきた車の台数と、今、見える光の数から見ると、参加人数はせいぜい二〇人ぐらいのようだ。その中には、もちろん名椎善男と、その息子夫婦、孫の親子三代も混じっているはずだった。
志津夫も後を追うことにした。
志津夫は二〇分ほど、未舗装の山道を登り続けた。
道の周辺にはスギやアカマツ、カシワ、クヌギが互いに二メートルほどの間隔で生えていた。枝葉の向こうには、村落の光がかすかに見える。
前方の闇の中に、さっきから複数の光がチラついていた。やがて、光の群れは山道からも離れていった。やはり山林の中に、秘密の祭祀《さいし》場所があるらしい。
志津夫は二〇〇メートルほど遅れた形で、秘祭参加者たちについていった。
ふいに、一本道のようになっている場所に出た。スギやアカマツが並び、壁みたいだ。歴史のある大きな神社の参道そっくりだった。
その一本道に出て、遠近法の向こうをのぞき込んだ。
志津夫は、身体を凍結させた。
強い光が出現したからだ。カメラのストロボさながらの光量に感じられた。
志津夫は、すぐに飛びのいた。樹の幹にへばりつく。こめかみに鼓動を感じた。
もし見つかったら、地元の人々からリンチに遭いかねない気がした。何しろ今日まで噂の片鱗《へんりん》すら聞いたことがなかった秘祭だ。そのくらい徹底的に隠してきたらしいのだ。彼らが外部の者にのぞかれたと知ったら、ただではすむまい。
事実、日本各地にある秘祭は、カムナビ山の入山禁止タブーと同様、民俗学者たちも手を出せない聖域なのだ。隠し念仏≠竍イザイホー≠ノしても、その存在は知られているが、秘儀の中身は公開していない。もし、それらを密《ひそ》かに撮影できたとしても、地元住民とのトラブルを考えたら絶対に公表はできまい。
志津夫も、この土地のヒナマキとテトオシの秘祭を公表する気はなかった。だが、ここの秘祭は様々な謎の核心らしいのだ。自分の人生も関わっているらしい問題だ。個人的に、どうしても知る必要があった。
落ち着きを取り戻してから、樹木の陰からのぞいた。
光は、かなり遠くだった。参道の彼方に、人魂《ひとだま》めいた光が浮かんでいる。松明《たいまつ》か、かがり火のようだ。
志津夫は樹木の陰を利用しつつ、接近していった。足音を立てないよう、細心の注意を払う。周囲は山奥で静寂そのものだ。すでに、音で気づかれてしまう距離に入っているのだ。
明かりの位置から五〇メートルぐらいにまで接近した。おかげで、肉眼でも状況がつかめてきた。
イエローオレンジの炎が前方に浮かび上がっていた。それは、かがり火だった。鉄製の皿と、それを支える木の棒が三本組み合わせてある。
その炎によって、洞窟《どうくつ》が照らしだされていた。出入口は直径二メートルほどだ。
出入口の前には、小さな鳥居があった。それは三本の棒を組み合わせただけの簡素なものだった。
これで、わかった。登美彦神社の奥宮とは、この洞窟のことだったのだ。
かがり火は出入口の外に一ヶ所と、内部に一ヶ所、設けられていた。点火したばかりらしい。闇に目が慣れていた志津夫はさっき、それを強烈な光と誤認したのだ。
洞窟の出入口のそばには、枯れ草の山があった。どうやら普段は、それをカムフラージュにして洞窟の存在を隠しているらしい。今は秘祭参加者たちが、くま手やシャベルを使って、枯れ草を脇にどけている。
志津夫はバッグから、一眼レフ式デジタルカメラを取り出した。
ファインダーをのぞいた。ズームアップする。拡大された視野の中に、奥宮の内部が浮かび上がった。
洞窟の内部には中央部を避ける形で、左右両側にゴザが敷かれていた。参加者たちは次々と、そこに座っている。人数は二〇人弱ぐらいだ。
老若男女の顔が見えた。彼らが晴れ着らしいものを着用しているのもわかった。カラフルな渦巻き模様で彩られた羽織のような衣服だ。鉢巻きなども頭に着けている。
人々は厳粛な表情で、この儀礼に臨んでいるようだった。ほとんど私語も聞こえないほど静かだった。この地に根づいた伝統儀礼の奥深さを感じた。
志津夫は適時、シャッターを切り続けた。そのたびにオートフォーカス機構が赤いシグナルを点滅させ、一・八インチ液晶モニターに、六〇〇万画素の画像が二秒間、再生される。たぶん、これが秘祭≠フ映像を捉《とら》えた初の瞬間だろう。
参加者の中に名椎善男がいた。彼だけは神主の正装である衣冠束帯の衣裳《いしよう》だった。彼が秘祭の祭司を務めるのはまちがいない。
志津夫は今日まで、善男のことを好々爺《こうこうや》そのものだと思っていた。いい意味での素朴さと田舎臭さを漂わせた人物であり、愛想のいいお年寄りの神主のはずだった。
だが、今の善男はまったく別人に見えた。口元は引き締められて、目つきも鋭い。まるでミサに臨むローマ法王のような威厳を、全身に装備していた。
神主の善男を中心に、密度の濃い空気が生まれているようだ。それが洞窟内に充満して、よそ者を排除するバリアーとなっているみたいだった。
志津夫はのぞき見しているだけだが、その異様な雰囲気は全身で味わえた。何しろ今の今まで、外部の者から完全に隠し続けてきた秘儀なのだ。その秘密を守り抜いてきたという彼らの共同体意識が、この緊張感を生んでいるのかもしれない。
善男の息子夫婦と、ヒナマキされた赤ん坊も見えた。善男の息子、名椎|誠《まこと》はメガネをかけた三〇歳の男で、志津夫と同世代だった。その妻の好恵《よしえ》も同年齢で、やはりメガネをかけている。二人の愛の結晶は、例によって眠ったままだった。
参加者の中に、志津夫の父親はいなかった。これは予想どおりだった。昼間、盗聴した会話でも、この秘祭は葦原正一抜きで行われるらしい、とわかっていたからだ。
洞窟の奥には神棚が設けられていた。しめ縄で飾られただけの簡素なものだ。それが奥宮の本殿のようだ。
神棚には布に包まれたものが置かれている。それがご神体らしい。
だが、志津夫は見ているうちに首をひねってしまった。いったい、この秘祭は参加者たちにどんなメリットがあるのだろう? 単に、共同体意識を維持するための伝統儀礼なのだろうか?
ふと昼間、見た光景を思い出した。神社の境内で遊ぶ子供たちだ。十数人はいた。ということは、日見加村にはそれだけ若い夫婦が多いということだ。
名椎善男も、こう言っていた。
「ああ。進学とかで一時的に村を離れることがあっても、ほとんどはそのうち戻ってくる」と。
今は、日本中の農村が過疎化していくご時世だ。なのに、この日見加村は若者たちを都会に流出させることなく、つなぎ止めているのだ。その理由は何なのか? このヒナマキとテトオシの秘祭に果たして、それだけの魅力があるのだろうか?
志津夫は一旦《いつたん》、ファインダーから目を離した。肉眼での観察に切り替えてみる。
突然、視界の隅で何かが動いた。
洞窟の出入口から二〇メートルほど離れた樹木の陰だった。そこに誰かがいた。頭の一部と、ビデオカメラらしいものが見えたのだ。
志津夫は不審な顔になった。すぐ、その方向に一眼レフ式デジタルカメラを向けた。ズームアップする。
志津夫は大脳が高電圧で痺《しび》れたような感覚を味わった。理性が今、見ているものを受けつけようとしない。
ファインダーの中に、あの女≠ェ現れたのだ!
彼女は木の陰でビデオカメラを構えていた。
背の高い女だった。志津夫と肩を並べるぐらいの上背があるだろう。
彼女は黒い手袋をしていた。それは手のひらだけを包んで、指は外に出るデザインのものだ。
服装は、よく見えないがグリーン系の長袖《ながそで》シャツとスラックスで統一されたハイカー・スタイルのようだ。山登りに備えたのだろう。
彼女は、秘祭参加者たちのような渦巻き模様の羽織は着用していなかった。それは彼女が「部外者」であることを意味していた。志津夫と同様、招かれざる客なのだ。
今のところは、彼女の横顔しか見えなかった。だが、その美貌《びぼう》は、はっきり判別できる。面長な顔の輪郭、流線型の切れ長の目、優美な鼻、厚めの唇。ほとんどの男性の目を釘付《くぎづ》けにする顔立ちだろう。
志津夫は、かすかに唸《うな》り声を上げた。心臓が胸郭の中をパチンコ玉のように跳ね回っている感じがした。
まさか、こんなところで再会するとは!
安土真希≠ニ名乗った女だ。茨城県で出会った。あの時はフリー記者だと名乗ったが、大ウソだった。
あの女はカムナビの謎についても、ブルーガラス土偶についても、最初から知っていたらしいのだ。また、行方不明中の葦原正一とも、何か関わりがあるらしい。
志津夫は今すぐ飛び出していきたい衝動にかられた。真希≠ニいう女を尋問したかった。
なぜ、ここにいる? なぜ、ブルーガラス土偶を集めている? おれの親父とはどういう関係なんだ? 知っていることを全部、話せ!
それらの言葉が脳裡《のうり》で渦巻く。一眼レフ式デジタルカメラを持つ手が震えた。
もう少しで志津夫はダッシュするところだった。忍耐の限界だった。
唐突に、赤ん坊が泣き出した。名椎善男の初孫は、いつの間にか目を覚ましていたのだ。周囲の異様な雰囲気に気づいて、脅えているのかもしれない。
赤子を抱いている母親が慌てて、あやしにかかった。名椎善男も孫をのぞきこんでいる。心配そうな顔だ。
同時に、志津夫の衝動にもブレーキがかかった。理性が戻ってくる。
今、飛び出していったら、秘祭は中止されるだろう。これを観察できる千載一遇の機会を無駄にしてしまう。あの真希という女を尋問するのは後回しでもいいのだ。もう逃がしはしないのだから。
そう自分に言い聞かせる。やっと思いとどまることができた。
洞窟《どうくつ》の中では、泣き止んだ赤ん坊が中央に寝かされた。古着でくるまれたヒナマキの状態のままだ。これから真新しい産着に着替えさせるテトオシの儀礼が始まるらしい。
志津夫はシャッターを切った。学者で、これを見るのは自分が初めてなのだ。蛇の脱皮を象徴する儀礼が、今もこんな風に秘祭として存在しており、それを観察できるなどとは今日まで思ってもいなかった。
かがり火がオレンジ色の光で、辺りを照らし続けていた。炎が腰をくねらせて踊っているように見える。時々、火の粉を空中に跳ね上げていた。
名椎善男が何かを詠唱し始めた。祝詞《のりと》とも歌ともつかぬものだ。
現代の音楽センスとはまったく異質な節回しだった。日本各地の民謡のメロディーとも異なるものだ。むしろアイヌ民族の音楽に似ているような印象を受けた。
遠い昔から、ここでは原初の文化が保存されていたらしい。周囲の時代の移り変わりなど無視して、この山あいの土地だけ時間が止まっていたような印象があった。
志津夫はシャッターを切った。そして一旦《いつたん》、デジタルカメラを真希に向け直した。
彼女もビデオカメラを構えて、秘祭を隠し撮りしている。一心不乱といった感じだ。志津夫には気づいていない。
志津夫はシャッターを切り、真希も隠し撮りした。そしてレンズを奥宮に向け直す。
奥宮では、ちょうど名椎善男が詠唱を終えた。彼は回れ右すると、神棚に作法どおり二礼二拍手一礼する。それから、棚に安置してあったものを取り出し、地面に置いた。
参加者たちは洞窟の中央部を空ける形で、座っていた。おかげで、地面に置かれたそれ≠、志津夫も見ることができた。
それ≠ヘ高さ三〇センチほどの大きさだった。善男はそれ≠くるんでいる布を取り去る。
それ≠ェ、かがり火のイエローオレンジの炎に照らし出された。
志津夫は、目を真円のように見開いていた。形態は職業柄、見慣れたものだ。だが、表面の材質が異なっている。
ブルーガラスの土偶だった!
表面が純度の高いガラスで覆われて、光沢を放っている。余計な気泡が混じっていない上質のブルーガラスだ。製造するのに摂氏一二〇〇度以上の高熱を必要とする代物だった。
「こんなところにも……」
思わず呟《つぶや》きかけて、志津夫は慌てて口を押さえた。気づかれたかと冷や汗まみれになる。
幸い、振り向く者は一人もいなかった。秘祭参加者たちは、青い土偶に魅せられているらしい。
もう一人の招かれざる客、真希も同様だった。ビデオカメラのファインダー越しに、土偶を熱心に観察している。
確かに人々を魅了するだけの土偶ではあった。様式は縄文時代晩期で、サングラスをかけているような外形の遮光器土偶だ。今から三〇〇〇年前ぐらいのものだろう。
そのブルーガラス土偶の形態は、宮城県の田尻町恵比須田遺跡から出土した土偶と似ていた。「王冠土偶」の呼び名があるものだ。
「王冠土偶」とは、頭頂部に四方から橋状帯が延びて中央で冠状に盛り上がり、王冠をつけたように見えるものだ。
「王冠土偶」は、身体の渦巻き模様も他の土偶に比べて豪華になっている。この時代の衣裳《いしよう》デザインが「渦巻き模様」だった可能性を強く示唆する証拠品だ。
志津夫は息を呑《の》んだ。この秘祭参加者たちの衣裳に、あらためて注目せざるを得なかった。彼らが着ている羽織は、いずれも渦巻き模様だからだ。
志津夫はシャッターを切った。デジタルカメラの液晶モニターに、青い土偶の姿が二秒間、再生された。
ファインダーの中では、名椎善男が新たな動きを見せた。孫に手を伸ばし、赤ん坊をくるんでいる古着の切れっぱしを脱がせたのだ。
赤ん坊の上半身が露出した。ヒナマキを半分解いたわけだ。赤ん坊は短い手足を動かし、また泣きだした。
そこで名椎善男は両手に、黒い革手袋をはめた。さながら手術直前の外科医を思わせる仕草だった。
善男は、手袋をした両手で青い土偶を持ち上げた。明らかに善男は、土偶に素手で触れないように気をつけているのだ。
志津夫は、その光景を見て閃《ひらめ》くものがあった。
自分も茨城県で、青い土偶に触れて左胸にウロコが生えだしたのだ。やはり、あの土偶は何かを宿しているらしい。素手で触れると、感染する何かだ。
志津夫は瞬《まばた》きして、儀礼を見守った。まさか、赤ん坊にウロコを感染させるのでは、と思ったのだ。
名椎善男は、そのまさか、と言いたくなる行動を取った。青い土偶を赤ん坊の胸に載せたのだ。
孫は不条理な儀式に抗議した。さらに泣き声のボリュームを上げる。
その様子は、まさしく赤ん坊に何かを感染させるための儀式に見えた。あるいは予防接種でもやっているみたいに見えた。
善男が、また詠唱を始めた。
かがり火の炎が勢いを増し、洞窟内を明るく照らし出している。中世ヨーロッパの絵画のような、陰影の強い光景が作り出されていた。誰もが彫像のように動かない。
志津夫はシャッターを切った。
次の瞬間、志津夫の脳裡には次々にイメージが浮かび始めた。遠い昔の記憶だ。
……暗い洞窟のような場所。照明は、かがり火らしい。ゆったりしたストロボ効果。
志津夫は仰向けに寝ていた。視界のほとんどはでこぼこした洞窟の天井。
低い男の声。歌のようでもあるし、神主があげる祝詞のようでもある。何を言っているのかは、よく聞き取れない。
周囲には何人もの巨大な人影。
巨人の手が伸びてきた。
志津夫は衣服を脱がされて上半身、裸にされてしまう。
突然、目の前に怪物が現れた。顔は大きな目玉と小さな口だけだ。不格好な体躯《たいく》に短く太い手足が生えている。
その怪物が、志津夫の左胸にのっかってきた。異様な感触。微生物が皮膚を通して侵入してくるような感触……。
志津夫は、もう少しで叫びだしそうになった。拳《こぶし》を口に突っ込むようにして、叫ぶのをこらえた。顔面が激しく歪《ゆが》んでいる。
志津夫は、自分の拳にかじりつくポーズのまま凍りついていた。やがて、ようやく口から手を離した。呟きが漏れる。
「……思い出した……ぼくはここにいた……」
いつも見ていた悪夢は、これだったのだ!
志津夫も、この登美彦神社の奥宮でヒナマキとテトオシを受けたのだ。あの青い土偶を胸に載せられる儀礼を受けて、泣きわめいていた。その記憶が再生されて、よく悪夢として見ていたのだ。
なのに、いつも目が覚めると、すぐ忘れてしまうのだ。
昼間ここへ来る途中も、そうだった。東海道新幹線に乗った時、志津夫は寝不足のせいで居眠りした。そして、土偶を使ったヒナマキとテトオシの儀礼を、モノクロの悪夢として見た。
そこを車掌に起こされた。だが、覚醒《かくせい》した直後は、夢の内容をちゃんと覚えていたのだ。志津夫は車掌に向かって「悪い夢を見た」と言ったのだから。
なのに、覚醒後、短時間で記憶は消去されてしまった。それで、醜態をさらしてしまったのだ。
まるで志津夫の脳髄の中にはダムがあり、それが記憶を堰《せ》き止めていたみたいだった。だが、今、ダムは決壊した。忘れていた記憶が洪水となって、脳内に溢《あふ》れ出している。
志津夫は怒りをこらえているような顔になっていた。歯を食いしばっている。かすかに呟きが漏れた。
「そうか……。あの夢は、ここだったんだ……」
腹の中に火山が出現したような気分だった。それがマグマを噴き上げている。口や鼻からも溶岩が溢れ出そうな感じだ。
本当は、大声でわめきだしたかった。だが、それができる状況ではない。こらえようとして、身体が震え始める。
志津夫は無意識のうちに片手で、自分の左胸を押さえていた。
真相の一端がようやく見えてきた。たとえば、このウロコのことだ。
四日前、志津夫は茨城県に行き、ブルーガラス土偶に触れてウロコができた者たちと出会ったのだ。新治大学講師の小山麻美と、志津夫の旧友である大林真だ。ただし、彼らの場合は感染しても、数日で治ってしまった。
ところが、志津夫だけは治らなかったのだ。日が経つにつれて、逆に左胸のウロコの面積は広がっていったのだ。
それは、なぜなのか。やっとわかったような気がした。
志津夫は赤ん坊の時点で左胸に感染していたのだ。そして今、大人になってから、茨城県で、あの青い土偶に触れて再発したのだ。あるいは、志津夫は特に再発しやすいタイプなのかもしれない。
ようやく真相の一端が見えた。だが、全体像はまだ、さっぱりわからなかった。
今すぐ、洞窟《どうくつ》神社の中に飛び込んでいきたかった。名椎善男を大声で怒鳴りつけて、尋問したかった。
志津夫は自分の膝《ひざ》をつかんだ。落ち着け、と自分に言い聞かせる。しばらくは深呼吸することに努めた。
今、飛び出していっても多勢に無勢だ。下手すると秘儀を侵したことで、彼らからリンチに遭いかねないだろう。善男か真希と、一対一で対決できるチャンスを待つべきだ。
ふと見ると、善男の詠唱は終わっていた。洞窟内の雰囲気も変わっていた。さっきまでそこに満ちていた荘厳なオーラは消え去っていた。
やがて、私語や談笑が聞こえてきた。どうやら秘祭は終わったらしい。
立ち上がって、洞窟から出てくる者も二人いた。夫婦らしい中年のカップルだ。竹ぼうきを手にしている。これから周辺の落ち葉などを掃除するらしい。
志津夫は慌てて、真希の方を見た。だが、そこに彼女の姿はなかった。すでに退却したらしい。
志津夫も足音を立てないよう注意しながら、その場を離れた。
志津夫は、暗闇の向こうを入念に見回した。真希はまだ遠くには行ってないはずだ。
案の定、彼方《かなた》に小さな光がチラついていた。真希が持つペン・ライトだろう。
志津夫は森林のケヤキの陰で待機し、状況を見守っていた。
そこは舗装道路の終点であり、神坂峠へと登る山道の出発点だった。今は臨時の駐車場になっており、秘祭参加者たちのカローラやサニー、パジェロなどが停めてある。
今、車の数は減りつつあった。次々にヘッドライトを点灯し、エンジン音を響かせ、去って行くのだ。元の寂しい雰囲気に戻っていった。
秘祭祭司を務めた名椎善男も、これから帰るところだった。すでに洞窟内で見せたような、峻厳《しゆんげん》で近寄りがたい雰囲気はなかった。どこにでもいるような愛想のいい老人に戻っている。この場を去っていく車に、しつこく手を振り続けていた。彼は、やたらと別れを惜しむ癖があるのだ。
やがて善男自身も、カローラの後部座席に乗り込んだ。すでに運転席と助手席には、善男の息子夫婦が座っている。後部のチャイルド・シートでは孫が興奮して、意味不明の声を発していた。
カローラは発進し、去っていった。
車も人も、いなくなった。付近に一つだけしかない街灯が、わびしいスポットライトを投げかけている。「神坂峠」という地名と矢印とを書いた標識板だけが、闇に浮かんでいた。
やがて、森林の陰から一人の女性が現れた。服装はグリーン系のハイカー・スタイルに、スニーカーという格好だった。片手にペン・ライトを持ち、ショルダーバッグを肩にかけている。
安土真希≠セった。
彼女は深夜の山中だというのに、濃い色のサングラスをかけていた。それが不思議な雰囲気を醸し出している。
他にも、不思議な装いをしていた。指だけが外部に出る黒の革手袋だ。今も彼女は、それを外さないのだ。
彼女はセミロングの髪の毛を掻《か》き上げた。背が高く、手足も長いので、ファッションモデルなども務まりそうな外見だ。大きな金色のイヤリングもよく似合っている。
真希はショルダーバッグにペン・ライトをしまった。代わりにタバコとライターを取り出し、火を点《つ》けた。煙を街灯の光へ吹き上げる。ニコチンの刺激に少し酔ったような表情だ。
彼女はくわえタバコのまま、バッグからハンディライトを取り出した。それを点灯して、山道を下り始めた。帰路につくらしい。
木陰で見張っていた志津夫は一度、深呼吸した。少し間を空ける。そして尾行を開始した。
真希は山道を一〇〇メートルほど下った。そしてカーブミラーのある角を通過してから、道路を外れ、森林へと入っていった。
志津夫も足音を忍ばせて、追尾していった。
やがて、真希の手元から伸びる光条が、森の中のフェアレディZを浮かび上がらせた。黒に塗装された新型だ。昔のモデルは独特のロングノーズのデザインだったが、今のモデルはセリカなどと変わらない外形だった。
真希がドアを開ける。車内灯が点灯する。彼女はショルダーバッグを肩から外し、助手席に置いた。
志津夫は、うなずいた。対決の時だ。
ペン・ライトを点灯した。わざとキャンピングシューズを地面に叩《たた》きつけるようにして、足音を大きく響かせる。彼女の驚く顔が見たかったからだ。ささやかな復讐《ふくしゆう》だ。
真希は後頭部を蹴《け》られたような反応を示した。慌てて身体を反転させて、こちらを向く。
その間に志津夫は距離を詰めた。彼女の真正面に立ちふさがる。
「誰!」
真希は叫び、ハンディライトを、志津夫の顔に向けた。
志津夫は眩《まぶ》しかったが、我慢した。この顔を見せつけてやらねばならない。
「え! そんな!」
真希が叫んだ。口からタバコが落ちてしまう。完全にショック状態に陥っていた。
「お久しぶり」
志津夫は言った。
「いや、そうでもないか。たった数日、会わなかっただけだからね」
志津夫は勝ち誇った表情だった。真夏に冷えたビールを喉《のど》に流し込んだ時のような爽快《そうかい》感を味わった。
「あ、葦原さん……」
真希は低音で、そう言ったきり絶句した。彼女にしてみれば、もっとも意外な場所で、もっとも意外な人物と再会したわけだ。驚きも格段に違いない。
志津夫は呵々大笑《かかたいしよう》した。いい気味だと思った。
「そうだよ。葦原志津夫、比較文化史学者、東亜文化大の講師」
志津夫は喋《しやべ》りながら、肩にかけていたソフト・アタッシュバッグを地面に置いた。そして真希を押しのけ、フェアレディZの中に入った。助手席のダッシュボードを開ける。予想どおり、運転免許証が入っていた。
免許証を取り出した。本人の写真がついている。それに書いてある本名、本籍地を読み上げた。
「名前は名椎真希か。本籍は長野県下伊那郡日見加村……」
そこで背後から、真希の腕が伸びてきた。免許証を奪い取られる。
すでに、彼女は我に返っていた。サングラスを外し、その美貌《びぼう》を拝ませてくれた。志津夫を憎らしげに睨《にら》みつけている。
志津夫は車外に出て、言った。
「日見加村? じゃ、君は、ここの出身か。ぼくと同郷か。それに本名が名椎真希だって? 宮司の名椎善男さんと同じ名前じゃないか。どういう関係なんだ?」
真希は答えなかった。二歩下がり、免許証をスラックスのポケットにしまう。ようやくショックから覚めたらしく、志津夫に対して悔しそうな表情を見せた。
志津夫は真希を指さして、
「訊《き》きたいことは山ほどあるが、まず君の素性から説明してもらおう。なぜ、神主の名椎善男さんと同姓なんだ。まさか、隠し子じゃあるまいな?」
真希は吐息をついた。少し表情が和らいでくる。諦念《ていねん》の境地に達したらしい。
顔をそむけて、言った。
「大昔は親戚《しんせき》だったそうよ。今は姓が同じというだけよ」
「OK。素直でよろしい。……そうか。つまり、君も、ぼくもルーツを辿《たど》れば同じ一族かもしれないわけだ」
志津夫は大きく、うなずき、
「うん。素直でよろしい。これからも、そうあって欲しいね」
真希は苛立《いらだ》った顔になった。睨み返す。
「あなたは素直じゃないわね。どうして、ここに、あなたが?」
「話せば長くなるから、後回しだ。ぼくの質問が優先だ。ぼくは被害者だぞ。ブルーガラス土偶を取られて、文化財保護法第六五条を守れなかったんだから」
「誰も、あの土偶のことなんか知らないんだから、気にすることないわ」
「ぼくが気にするんだ。教えろ。あのヒナマキとテトオシの儀式は何だ?」
真希は目を見開いた。眉間《みけん》にしわが寄る。不審と驚きの混じった表情だ。
彼女は上体を少しかがめて、志津夫の顔をのぞき込んできた。
「じゃ、あなたも今夜の秘祭を?」
「ああ。遠くから撮影した。君の魅力的な横顔も撮影した。どうやら君も、秘祭には参加させてもらえない部外者のようだね」
志津夫は両手を広げて、
「実は、ぼくも生まれたばかりの頃、ここであの儀式を受けているんだ。たった今、思い出したところだよ」
志津夫は、相手の反応をうかがった。
だが、真希は、今の台詞《せりふ》に驚いたりはしなかった。興味深げな表情で、うなずき、
「そう。もしかしたら、そうじゃないかと思ってた」
「何?」
志津夫は一歩、前に出て相手に詰め寄った。顔を近づける。
「どういう意味だ? つまり、ぼくのことや、ぼくの父のこととかを、名椎善男さんから聞いていたと?」
「多少はね」
「何だって!」
志津夫は憤然と叫んだ。
「何だよ、そりゃ! ぼくに対しては何一つ教えてくれなかったじゃないか。君の素性も今、初めて知ったぐらいだぞ。どうして、ぼくだけ仲間外れで、ぼくだけ、のけ者なんだ」
志津夫は地面の石を蹴った。次いで、拳《こぶし》でフェアレディZを殴りそうになる。さすがに、それは思いとどまった。
真希の落としたタバコが、目に入った。
志津夫は、それを犠牲者に選んだ。思い切り踏みにじる。下手くそなツイストでも踊っているみたいな動作になった。
10
志津夫は逆上しかけた。いくら吸い殻を踏みにじっても、怒りは消えない。かえって、増幅されたぐらいだ。
真希が、志津夫の醜態を見て、苦笑していた。肩をすくめて、言う。
「まあ、気持ちはわかるわ。あなただけじゃない。私も赤ん坊の頃、ここでヒナマキとテトオシの儀礼を受けたはずだけど、仲間外れよ。おかげで秘祭ものぞき見するしかないもの。同じ境遇ね」
「いったい、どういうことなんだ?」
「話せば、長くなるわ」
「ああ、聞かせてもらおうじゃないか。いや、待て。その前に……」
志津夫は唸《うな》りながら、地面に置いてあるソフト・アタッシュバッグにかがみ込んだ。中からマイクロカセット・レコーダーを出す。
「これを聞いてもらおう」
再生ボタンを押した。
名椎善男の声が流れ出てきた。善男と葦原正一との電話でのやり取りだ。録音されているのは善男の声だけだが、会話の相手が葦原正一であることは、はっきりわかる内容だ。
真希は瞬《まばた》きし、唖然《あぜん》としていた。テープを聞き終わると、すぐに訊いた。
「これ、どうやって?」
「ちょっと盗聴したんだ。つまり名椎善男さんは、ぼくの父と連絡を取っていたんだ。なのに、今までぼくには黙っていた。なぜだ? なぜなんだ? なぜ、隠す!」
志津夫は怒鳴りつつ、レコーダーを真希の鼻先に突きつけた。唇の線が歪《ゆが》み、歯がむき出しになっていた。
真希は首を振った。セミロングの髪と、金色のイヤリングが揺れる。彼女も意外そうな表情だ。
「言っておくけど、こんなの初耳よ」
「ウソだ!」
「本当よ。私も葦原正一さんの行方までは知らない。善男さんも、こんなことは今まで話してくれなかった」
「本当に?」
「ええ」
志津夫と真希は睨《にら》み合った。互いの視線で押し相撲をする。がっぷり四つに組んで、どちらも一歩も引かない状態だ。
だが、結局、先に視線をそらしたのは志津夫だった。真希は本当に知らないのかもしれない、と直感したのだ。吐息をつく。
志津夫は視線を戻した。質問を変える。
「じゃ、あのテトオシの儀式は何だ? あのブルーガラス土偶は何だ? それも知らないとは言わせんぞ」
「そうね……」
真希は、ため息をつく。そして少し苦笑した。
「まあ、いずれは誰かが、あなたにも教えたのかもしれない」
「だったら、教えろ。あのテトオシ儀礼は何なんだ?」
真希は含み笑いをした。すぐには答えない。顔をそらし、志津夫を横目で見たりした。わざと、じらしているらしい。
「何なんだ? 教えろ」と志津夫。
真希は苦笑して、
「それがね。名椎善男さんたちは、あの儀式を本来の目的のためには行っていないのよ。全然、別の目的で受け継いでいるの」
「意味がわからん。具体的に、わかりやすく言ってくれ」
「つまり、秘祭の本来の目的は、カムナビの後継者を育てることよ」
「何?」
志津夫は口が半開きになってしまった。
それは、もっとも意外な答えだった。今まで志津夫はカムナビの謎を追い続けてきたのだ。ところが、その真相は自分の出身地に隠されていたらしい。「灯台もと暗し」ということわざが思い浮かんだ。
真希が言った。
「そのためには、赤ん坊のうちに感染させることが必要なのよ……。でも、この日見加村はまったく逆で、カムナビの後継者を育てないために、あの儀礼を続けているの」
「カムナビの後継者だって?」
「ええ。いつか後継者が現れるはず。そのために、アラハバキ神を体内に宿らせるの」
志津夫は瞬きした。
「……今、何て言った?……アラハバキ神だって?」
「ええ。そう言ったわ」
志津夫は、真希を睨みつけた。脳裡では今、聞いた言葉を反芻していた。
アラハバキ神。
これの漢字の表記は多数、存在する。荒吐神、荒波々畿神、荒羽々畿神、荒脛巾神、阿羅破婆枳神などといった表記で、全国各地に祀《まつ》られているのだ。
実は、アラハバキ神は日本の宗教民俗学が長年、抱えてきた難問だったのだ。この神は日本中の神社に末社として、つまりゲストの神として祀られている。門客人神《まろうどがみ》の名前で祀られている例もあるが、その場合でも、地元の老人たちは「アラハバキさん」と呼ぶことが多い。
要するにアラハバキ神は比較的、ポピュラーな神なのだ。ところが、その正体となると、まったくわからなかったのだ。日本民俗学の父と呼ばれた柳田国男をして「神名、由緒ともに不明」とサジを投げさせたのが、このアラハバキ神だ。
志津夫は言った。
「アラハバキ神? そんなものが本当に存在するのか?」
「存在するわ」
真希は低い声で言った。真顔で、志津夫の目を見る。冗談を言っているような雰囲気はなかった。
「証拠は?」
真希は少し視線を外した。逆に問い返してくる。
「前に訊《き》いたわね? 私がなぜ、手袋を外さないのかと」
「ああ」
「さぞ、不思議だったでしょうね?」
「ああ」
「……いいわ。ちょっとだけ見せてあげる」
真希は、いたずらっぽく笑った。妖艶《ようえん》なムードが広がった。
真希は手にしていたサングラスを胸ポケットにしまった。そして右手で、左手の手袋を外しにかかった。例の指だけが露出する手袋だ。
真希が手袋を脱いだ。
志津夫は一瞬、呻《うめ》いた。
手の甲のほとんどがウロコで覆われていたのだ。小さな三角形が手の甲全体に数百個は連なっている。もはや哺乳類《ほにゆうるい》的な色艶《いろつや》などない。代わりにワニ革のハンドバッグみたいな光沢を放っている。
真希は志津夫の反応を見て、微笑した。そして手首を折り曲げると、その手を志津夫の鼻先に差し出したのだ。
その仕草は、欧米の社交界で行う礼儀作法のパロディだった。本来なら、ここで男性は彼女の手を軽く握って膝《ひざ》を折り、手にキスして紳士の礼儀を示す場面だ。
だが、英国風ジェントルマン気質がどれだけ身についている紳士でも、この手に口づけするのは躊躇《ちゆうちよ》するだろう。もはや人間の皮膚ではないのだ。蛇にキスする勇気が必要だ。
「どう?」
真希は感想を求めた。
志津夫は沈黙していた。唖然と、彼女のウロコだらけの手を凝視することしかできない。電池切れになった玩具《がんぐ》みたいに、動けないでいた。
真希は志津夫の驚愕《きようがく》を楽しんでいるらしい。先ほど、彼にびっくりさせられた復讐も兼ねているのだろう。
今度は真希はハイカー風のブラウスのボタンを外し始めた。全部外してしまい、前を開いて、胸を見せる。ストリップダンサーみたいなポーズで、笑みを浮かべた。
Dカップのブラジャーに包まれた山が二つ現れていた。おわんを裏返したような形の乳房がはちきれそうになっている。
普通の成人男性ならば、生唾《なまつば》を飲み込む場面だろう。志津夫は生唾を飲み込んだりはしなかった。口を半開きにしたまま見ているだけだ。
彼女の胴体にはウロコが密生していたからだ。腹部の面積の半分が、小さな三角形の連なりで覆われている。しかもウロコ全体は、茶色と緑色の縞模様《しまもよう》を描き出していた。
真希はさらにサービスする気になったようだ。フロントホックを外すと、ブラジャーの前も開いたのだ。
さすがに乳首だけは指先で隠していた。だが、それ以外は上半身をほぼ全部、公開してくれた。
志津夫は、彼女のボリュームのある乳房に目が釘付《くぎづ》け状態だった。もちろん、発情しているわけではない。あまりの不気味さに目を奪われているのだ。
彼女の乳房も腹部と同様だった。表面積の三分の一ぐらいがウロコに覆われていたのだ。
真希は完璧《かんぺき》なプロポーションの持ち主だった。ヌードモデルになれば人気投票一位を取れるだろう。だが、同時に恐ろしく醜悪だった。その美醜のコントラストの強烈さに目眩《めまい》がしてくる。
しかも、真希は自分の身体がここまで変異しても、怖がってなどいないのだ。むしろ楽しんでいるように見える。今も女神のごとき微笑を浮かべていた。
志津夫は、彼女の皮膚よりも、むしろ彼女の人格に恐ろしいものを感じた。
そして、ようやく絶句状態から覚めて、言った。
「そんな……。これじゃ、まるで甲賀三郎伝説じゃないか!」
11
甲賀三郎伝説。
これは平安時代の近江の甲賀地方出身だったという、甲賀三郎なる人物にまつわる怪異譚《かいいたん》である。
この伝説は、日本各地に伝えられており、様々な文献にも記録されてきた。「東海道名所図会」「近江名所図会」「近江興地志略」「甲賀由緒概略史」「竜法師古来記」「諏訪縁起物語」などだ。
これらは、地方によって物語の細部は異なっている。しかし、「甲賀三郎という人物が洞窟《どうくつ》の奥などに迷い込んで、蛇体に変身してしまった話」という点で、いずれも共通している。
なぜ、そんな怪異譚が生まれたのか? また、なぜ、そんな伝説が日本中に流布する結果になったのか?
これについて、明快な答えは出ていない。
真希はブラジャーのフロントホックをかけながら、言った。
「うん。私も甲賀三郎伝説の原型は、これだと思うわ。おそらく甲賀三郎とは、どこかの地下でアラハバキ神の本体と接触して、その影響で蛇の姿に変身してしまった人物でしょうね。それが伝説として残ったのよ」
真希はブラウスの前ボタンも次々にかけていった。ストリップショーはこれで終わりというわけだ。
志津夫にしても、これ以上蛇女≠フセミヌードなど見たいとは思わなかった。だが、成人男性としては、惜しい気持ちにもなった。ウロコさえなければ、真希のボディーラインは、男性のエロティックな妄想を具現化したような形状だからだ。
志津夫は無意識のうちに片手で、自分の左胸を押さえていた。
自分も赤ん坊の時点で、何かを左胸に感染させられたのだ。しかもウロコの面積は広がりつつある。このまま放っておくと、この真希という女みたいになってしまうのかもしれない。
志津夫の内部で、不安と恐怖が膨れ上がってきた。全身が熱くなってくる。首の辺りも震えた。
志津夫はノーマルな感性の持ち主だ。自分の肉体が化け物みたいな状態へ変容していくのを、喜ぶ気になどなれない。
志津夫は質問を再開した。
「いったい何なんだ、アラハバキ神って?」
真希はすべてのボタンをかけ終えると、微笑した。衣服を身につけた今の彼女は異常な皮膚の持ち主とは到底、思えなかった。ただし、手袋をしていない左手の甲だけは、不気味な形状をさらしている。
真希は言った。
「私にも本当のところはわからないのよ。今は、推測するぐらいのことしかできないから」
「じゃ、君の推測を聞こうじゃないか」
真希は黒いダイヤモンドのような目で、志津夫を直視してきた。
「地球外生命体」
「何だって?」
志津夫は瞬《まばた》きした。相手が今、何と言ったのか、すぐには理解できなかった。
真希は笑って、
「地球外生命体。そう言ったのよ。でも、UFOだとか、あの手の話じゃないわ。たとえばインフルエンザ・ウイルスのようなものよ。
イギリスの天文学者フレッド・ホイルと、セイロン出身の天文学者チャンドラ・ウイックラマシンジは、こう主張している。『インフルエンザ・ウイルスは宇宙空間から降ってくる地球外生命体だ』と。実際、そう考えない限り説明できない現象が存在するのよ」
真希は講義口調になって、言った。
「インフルエンザは人から人へ直接、感染していくウイルスよ。ところが、一九一八年、世界中で猛威を振るったインフルエンザのスペイン風邪が、不可解な現象を起こした。アラスカの離島コディアック島では一九一八年当時、本土とは一切接触がなかったにも拘《かかわ》らず、三〇〇人のスペイン風邪患者が出た。
一九六八年には、香港で発生したホンコン風邪が世界中で大流行した。当然、アメリカの専門家は通例にしたがって、こう考えていた。アメリカでの最初の患者は、海外渡航者の出入口となる、空港や港のある大都市に現れる、と。
ところが、予想は大外れ。空港もなければ港もない、カリフォルニア州の小さな田舎町ニードルスだった。そこの住民たちが、アメリカで最初の六八年型ホンコン風邪患者になったのよ。
すべて実話よ。しかも、ほんの一例に過ぎない。こうした奇妙な現象を説明するには『新型のインフルエンザ・ウイルスは、宇宙空間から降ってくるからだ』と考える方が自然でしょう?」
彼女は説明を続けた。人差し指を立てて、
「根拠は、もう一つあるわ。太陽表面の黒点活動が活発化する現象と、新型インフルエンザの大流行とは、一〇年ごとに定期的に同時発生している。これは資料データをもとに年表を作れば、すぐ確認できる事実よ。
そこで、こういう仮説が組み立てられているわ。太陽表面の黒点活動は一〇年ごとに活発化する性質がある。そうなると太陽からガスや微粒子が大量に発生して、宇宙空間に放出される。これが太陽風と呼ばれるものよ。
太陽風は、宇宙空間に浮かぶ未知のインフルエンザ・ウイルスを押し流し、地球に送り届ける役割を果たす。だから、太陽の黒点活動が活発化する現象と、新型インフルエンザの大流行とは、一〇年ごとに同時発生する結果となる」
真希は勝ち誇ったような笑みを見せた。志津夫に反論できるはずがない、といった自信ありげな態度だ。
志津夫は額に片手を当てて、首を振った。思いがけない話の展開に、少し目眩《めまい》がしてきたのだ。
だが、今、聞いた話の内容には思い当たる点もあった。脳裡《のうり》から、その記憶が蘇《よみがえ》ってくる。志津夫は口を開いた。
「そう言えば、科学雑誌で読んだな。……確かフレッド・ホイルたちは、『彗星《すいせい》の内部でウイルスや微生物が生まれて、それが地球に降って来て、生命の起源になった』という説を唱えているんじゃなかったか?」
真希はうなずいた。
「正確に言うと、それはホイルたちの仮説の一部よ。でも、この仮説は、もっと考慮されるべきね。実際には地球外生命体は、この地上にやって来ているのよ。だけど、目立たないから、それに気づかないだけ。
つまり、アラハバキ神もやって来たのよ。数千年前か数万年前、インフルエンザ・ウイルスのように地球外から」
真希は自分の左手を持ち上げ、手の甲を志津夫に向けた。そこだけ蛇の表皮のようになっている。常識的には、ハリウッドの技術者による特殊メイクではないか、と思いたくなる代物だ。
真希は微笑した。
「私の場合、見事にこれに感染していた。小学六年生頃から、このウロコが増えだした。今では全身の三分の一がこうなった。これだけウロコが増えた人間は、他にはいないみたいね。私にはそれだけの素質が、才能があるのよ」
志津夫は沈黙していた。目を見開き、相手を凝視してしまう。
どうしても、この真希という女の心理がつかめないからだ。こんな気味の悪い身体へ変身していくことを、喜んでいるらしい。相手が特上級の美貌《びぼう》とプロポーションの持ち主だけに、余計に理解に苦しんでしまう。
真希は、その疑問に答えるように喋《しやべ》り続けた。同時に、不機嫌そうな顔になってくる。
「このウロコのせいで中学校の頃は、いじめられてばかりいたわ。これをどれだけ呪ったか、わからない。……ちなみに私は、生まれてすぐ親と一緒に神奈川県へ引っ越したから、名椎善男さんも、私の身体がここまで重症だっていうことは知らない。私も詳しくは喋ってないしね」
真希は深いため息をついた。うつむき、目を伏せた。苦しい思い出に浸っているらしい。
志津夫は、あらためて気づいた。自分は今、初めて真希の素の人格に接したのだ、と。茨城県で会った時の彼女は、完全に「仮面劇の女優」だったわけだ。だが、今の彼女は仮面が完全に脱げていた。
真希は目を伏せたまま、重い声で言った。
「……あれは地獄だったわ。医者も首をかしげるだけで全然、治せないし……」
志津夫は思わず叫んだ。
「見せたのか、医者に!」
「ええ」
「でも、治せないって?」
「ええ。病院から病院へ、たらい回しにされただけよ。ある大学教授は『奇妙な症例だから、医学学会に出てステージで裸になってくれ』と頼んできたわ……。もちろん断ったわよ! 私を治せもしない医者どもの前で、なぜ花も恥じらう中学生の乙女が、ストリップなんかしなきゃならないのよ!」
真希の瞳《ひとみ》は燃え上がりそうだった。その時の憤りを思い出したらしい。
彼女は左手に手袋をはめ直した。ヴァージニア・スリムを取り出し、火を点《つ》ける。紫煙を激しく、貪《むさぼ》り始めた。
一方、志津夫は背骨が震えていた。絶望感で胃の辺りが重くなってくる。口の中にも苦いものを感じた。
志津夫は時間ができたら、病院の皮膚科に行こうと思っていたのだ。専門家なら、このウロコの原因と治療法を教えてくれるだろう、と期待していた。
その希望はあっさり打ち砕かれた。このウロコは現代医学では治せないらしいのだ。一生、これとつき合って、生きていかねばならないようだ。
なぜ、名椎善男はこんな儀式を続けているのか、と思った。一瞬、怒りで肩が震える。
だが、真希の話から察すると、日見加村の住民たちには、真希ほどの深刻な症状は出ていないようだ。
これは、どういうことなのか? また疑問点が増えてしまった。
真希はニコチンの刺激で、少し落ち着きを取り戻したらしい。だが、依然として怒った顔だった。頬が膨らんでいるのだ。
真希は言った。
「だから、私の学歴は中卒よ。体育の時間に皆と一緒に着替えるのが、もうたまらなかったわ。気味悪がられるだけだもの。……私だって憧《あこが》れていたのよ、楽しい高校生活や、楽しい大学生活にね。でも、あきらめるしかなかった!」
真希はタバコを深々と吸い込み、煙を吐き出した。激しい吐き出し方に怒りがこもっている。
だが、唐突に彼女は微笑した。今度は一転して、自信たっぷりな表情になる。女帝めいた貫禄《かんろく》すら漂っている。
真希は言った。
「でも、デメリットだけじゃなかったわ。メリットもあったの」
真希は満足げに笑って、
「わかったのよ。私は選ばれし者だと。エリートだとね。このウロコは私に力≠与えてくれた」
「力=H」
そう訊《き》き返しながら、志津夫は甲府市で出会った白川家一族の親子のことを思い出していた。
あの娘、祐美は奇妙なことをやってのけた。壊れた自動販売機を作動させたし、志津夫自身も一瞬にして吹っ飛ばされて気絶した。あれが何だったのか、未《いま》だにわからない。
真希の言う力≠焉Aそういったものをさすのか? 志津夫はそう思いかけた。
「力≠チて、どんな?」と志津夫。
真希は無言だった。口元が名画モナリザ≠フ微笑そっくりになっている。切り札は最後まで取っておくつもりらしい。
「答えないのか?」
沈黙に耐えかねて、志津夫が言った。
真希はスラックスのポケットに、手を入れた。取り出したのは五〇〇円硬貨だ。
親指の爪をカタパルトにして、コイン・トスを始めた。軽い金属音と共にコインは回転し、舞い上がる。落ちてきたところを手のひらでキャッチする。それが彼女の癖らしい。
志津夫は彼女に近づき、指さして宣言する。
「ごまかされやしないぞ。今夜は絶対、逃がさないからな」
「あら、怖い」と真希。
「徹底的に訊きだしてやる。君が知っていることは何もかもだ」
「私の好みの男性のタイプや、好きな体位とかも?」
タバコの煙を吹き上げ、真希は微笑する。自分の方が、役者が一枚上だと言いたいらしい。
こんな時にも拘らず、志津夫は真希に魅了されかかった。しかし、さっき見た、おぞましいセミヌードを思い出すと、好意は薄れてしまうのだ。魅了されながらも嫌悪するといった、アンビヴァレンスな気持ちになった。
真希は、ふいに真顔になった。志津夫を見つめて、言う。
「……もう一度言っておくけど、あなたのお父さんの行方は本当に知らない。名椎善男さんも、私に何もかも教えてくれるわけじゃない。今あらためて、それがわかったわ」
志津夫は思わず唸《うな》ってしまう。腕組みして、考え込んだ。
彼女の話には興味が尽きなかった。真希の肉体に生じた異常現象や、甲賀三郎伝説との関わり、インフルエンザ・ウイルスやアラハバキ神が地球外生命体だという仮説などなど、驚かされる情報ばかりだ。だが、葦原正一の行方という、肝心の一点だけが依然として不透明なままだ。
志津夫は内心、毒づいてしまう。親父、あんた今どこにいて、何をしてるんだよ? これら一連の謎と真相に、どう関わっているんだよ?
志津夫は決意した。腕組みを解く。
「わかった。じゃ、名椎善男さんの家に行く」
真希は腕時計を見て、肩をすくめる。
「こんな夜遅くに? もう一時半過ぎよ」
「これ以上、我慢ならん。さあ、運転しろよ」
志津夫は真希の車を指さした。黒い流線型のスポーツカーだ。この車種の最高級バージョンの値段は、大学講師の年収を軽く上回るだろう。
志津夫は鼻を鳴らして、
「フェアレディZの新型か。結構高いだろうに……。いったい、君の職業は何だ? 見たところ水商売系みたいだけど……」
真希は鼻で笑って、
「違うわ。パチプロよ」
「パチプロ? まさか、パチンコで稼いで、この車を買ったとでも?」
「ええ」
「冗談だろう?」
「冗談じゃないわ」
真希は片手に持っていた五〇〇円硬貨を親指と人差し指の間にはさんだ。コインを目の高さに持ち上げ、志津夫に示す。マジシャンみたいな手つきだ。
そして真希は微笑し、コインを手の中に握りしめた。
同時に志津夫の喉《のど》が閉塞《へいそく》し、呼吸ができなくなった。
12
志津夫の両手が反射的に動き、自分の喉仏の下を押さえていた。
手にしていたマイクロカセット・レコーダーが地面に落ちた。
志津夫は息を吸うことも吐くこともできなかった。声を出そうとしたが、声帯を震わせることもできない。空気の流出入が完全に止まっている。
気管に圧力がかかり、閉塞してしまったのだ。
気管とは喉頭《こうとう》から肺に通ずる円柱状の管だ。呼吸の際の空気の通路だ。
その気管が途中で、足で踏まれたゴムホースのようになっていた。喉と胸の中間位置で、そんな風になっているのを志津夫は、はっきりと感じた。
志津夫は驚愕《きようがく》と苦痛のあまり、目を限界まで見開いてしまった。舌を無意味に外へ突き出してしまう。
しまいには、両手で喉や胸を掻《か》きむしるような動作を始めてしまった。だが、圧力は肉体の内部に生じているのだ。外部から取り除くことは不可能だった。
真希はタバコをくわえたまま、唇の両端をつり上げ、サディスティックな笑みを浮かべていた。志津夫の醜態を楽しそうに見ているのだ。
彼女は右手でコインを握りしめている。まるで、その手の中に志津夫の気管があるような感じで。
志津夫は酸欠が続くうちに、パニックに陥りかけた。絶叫したい。だが、かすれ声も出ない。
ついに目眩《めまい》がしてきた。視界の周辺部が暗くなり、足元がよろめいてしまう。片膝《かたひざ》をついた。
真希が微笑んで、言った。
「わかった?」
彼女が握っていた手を開いた。手のひらの五〇〇円硬貨が街灯の光を反射する。
同時に、志津夫の気管を押さえていた圧力が消失した。
志津夫は四つん這《ば》いになり、喘息《ぜんそく》患者のように咳《せ》き込んだ。酸素を貪る。窒息しかけた直後だけに、山間部の空気がミネラルウォーターのように感じられた。
志津夫は、やっと咳が止まると、真希を見上げた。ショックのあまり顔がひきつっている。先ほど志津夫が出現した時、真希は口もきけないほど驚いていたが、あの時の真希以上の状態だった。
ようやく志津夫は言った。
「な、何だ、今のは?」
真希が嫣然《えんぜん》と微笑んだ。
「言ったでしょう。このウロコは私に力≠与えてくれたと」
志津夫は無言だった。真希が指でつまんでいる五〇〇円硬貨を凝視する。
どうやらコインを握る動作が、真希にとってスイッチ≠フ役割を果たすらしい。それが謎の力≠解放するきっかけになるらしいのだ。その理由まではわからないが。
突然、茨城県での出来事を思い出した。
深夜の山中で、真希が青い土偶の首とビデオテープとを交換しようと言い出したのだ。もちろん、志津夫は断った。ブルーガラス土偶は貴重な証拠品だし、親父をおびき出すエサとしても使えるからだ。
その直後、真希はコインを握った。
志津夫は喉に何かが詰まったような状態になり、呼吸ができず、ショックで凍りついてしまった。その隙に、真希は青い土偶を奪い取り、ビデオテープと二〇〇万円ほどの現金を残して、去ったのだ。
志津夫はあの時、なぜ、急に呼吸困難になったのか。さっぱり理由がわからなかった。その後も首をひねっていたのだ。
今になって、ようやくわかった。前回の呼吸困難も、今回のも、真希が放射する力≠フせいだったのだ。
真希が言った。
「これから名椎善男さんの家には、私一人で行くわ。で、善男さんに知っていることをあらいざらい喋《しやべ》ってもらう。そして明日の朝になったら、私から善男さんに電話しておく。あなたが、この場所で縛り上げられていると、ね」
真希は志津夫を指さした。
「何だと……」
志津夫は怒りと混乱で、我を忘れそうになった。立ち上がり、前に踏み出す。
真希は笑って、手の中のコインを示した。
「それ以上、近づかない方がいいわよ。五〇〇円玉はいっぱい持ってるし、心臓を狙うこともできるわ」
真希は再び五〇〇円硬貨を握りしめた。
志津夫の全身が硬直した。
フェアレディZのヘッドライトが点灯していた。おかげで照明は充分だった。ある程度、細かい作業もこなせる明るさだ。
「……ふうん、甲府でそんなことがあったとはね……」
真希が呟《つぶや》いた。彼女は夜だというのに、またサングラスをかけていた。
志津夫は怒りのこもった目で、宙を睨《にら》んでいた。
彼は、後ろ手に縛り上げられていた。右手首と左手首とがクロスした状態で、ロープが皮膚に食い込んでいる。真希は、女にしては力が強かった。
その上、志津夫は、高さ二〇メートルはあるケヤキに胸と腹を密着させる姿勢で、縛りつけられていた。ロープは丈夫なビニール製だった。口にくわえることができたとしても、噛《か》み切るのは不可能だろう。
志津夫は唸《うな》り声をあげそうになる。だが、我慢した。唸り声など聞かせたら、かえってこの女を喜ばせるだけだろう。
屈辱感のあまり、全身が燃えだしそうだった。しかし、今の志津夫は拳銃《けんじゆう》を突きつけられたも同然だった。今夜は、すでに二回も不可解な力≠ナ窒息させられたのだから。
「そうそう、いい子にしてなさいね」
真希は微笑して言った。ロープを持って、ケヤキと志津夫の周りを回っている。一周するごとに結び目を作った。
縛り上げる作業をしながら、真希が話の続きをうながした。
「それで?」
志津夫は答えた。
「それで全部さ」
「ふうん」
真希は首をかしげて、
「白川家一族か、伯家流神道か……。でも、その連中、今は天皇家とは何の関係もないんでしょう?」
「だろうね」
志津夫の返事は簡潔だった。不機嫌な時は、言葉を節約したくなるものだ。
真希が訊《き》いた。
「いったい、その白川家の親子は何をしてるの? 何が目的で動いているの?」
「旧辞《くじ》の内容を世間から隠したいらしい。それしか、わからない」
「ふうん。……でも、その旧辞だけど、すごくおもしろそうね」
真希は笑みを浮かべていた。サングラスをかけていても、興奮した面もちであることは瞭然《りようぜん》としている。
「女王トヨを殺したのは崇神天皇ミマキイリヒコですって? だとすれば、邪馬台国は奈良県じゃない?」
「ああ」
「だって、魏志倭人伝にも、こうあるもの。
南、邪馬台国に至る。女王の都するところ。水行十日、陸行一月。官に伊支馬《イキマ》あり
この官≠ニいうのは、古い中国語で有力豪族を指す言葉ね」
真希は続けて、言った。
「問題は、次の一節よ。
次の官を弥馬升《ミマス》と言う。また次を弥馬獲支《ミマカキ》
ここは、こう解釈できるわ。つまりミマスとは、第五代孝昭天皇ミマツヒコカエシネのこと。ミマカキとは、第十代崇神天皇ミマキイリヒコのこと。畿内派論者の中には、そう推定する人もいたわ。つまり古代天皇家は、女王ヒミコと女王トヨの部下だったことになる」
「ああ、そうだ」
「旧辞か。それも謎を解く鍵《かぎ》みたいね……」
会話しながらも、真希は縛り上げる作業を終えた。
志津夫は背中から足首まで完全に、ケヤキの幹に固定されてしまった。真希は引っ越しの荷造りのチェックみたいに、ロープの各部を引っ張ったりする。強度を確認すると、うなずいた。
「これで、よし。これだけ厳重に縛っておけば、逃げられないわね」
彼女は両手の汚れをはたいた。そして志津夫の顔をのぞき込める位置に立つ。
彼女はサングラスを下にずらして、大きな目を見せた。面長な顔の輪郭と優美な目鼻立ちが、雌鹿を連想させる。胸元の曲線も、まるでフェロモンを放出しているみたいだ。
志津夫は、つい真希の美貌《びぼう》とプロポーションに見惚《みと》れてしまった。
そして、あらためて気づいた。彼女には、凡百の美女たちとは決定的に異なる点がある。女帝のごとき風格があるのだ。
要するに、この女は何も恐れてはいないのだ。たとえ機動隊に取り囲まれて「逮捕する!」と言われても、笑っていられるのだろう。何しろ超絶的な力≠ェあるのだから。
真希が言った。
「旧辞か。是非、読んでみたいな」
彼女は微笑んで、
「まあ、いいわ。その白川家一族が何者で、どんな力≠フ持ち主でも関係ないわ。私の邪魔をするのなら、排除するまでよ」
「私の邪魔? 排除?」
志津夫は語尾が上がってしまう。縛りつけられているので、首だけをねじ曲げ、突き出そうとした。今はっきりと、真希の目的性というものが感じ取れた。
「私の邪魔って何のことだ? 君は何が目的なんだ?」
真希は、すぐには答えなかった。微笑んでいるだけだ。やがて言った。
「まあ、カムナビの秘密を突きとめることだ、と言っておくわ。そのためにも、あなたのお父さんの行方を突きとめて、必要なことを聞きださないとね」
「だから、それを突きとめて、どうしようと言うんだ? それを何かに使うのか? まさか、テロリズムとかが目的か?」
「近いわね」
「何だと?」
志津夫は絶句してしまう。
最悪の予想が当たったようだった。彼女には、世の中全体を恨んでいるような雰囲気があるのだ。そういう人間が強大な力≠得たら、どうなるか?
志津夫が訊いた。
「いったい、何をするつもりだ?」
真希が右手を伸ばしてきた。黒い手袋から露出する白い指で、志津夫の顎《あご》に触れる。
彼女は顔を近づけてきた。香水の甘い匂いがする。囁《ささや》いた。
「あなたは助けてあげてもいいわ」
「どういう意味だ?」
「何なら私の愛人にしてあげようか?」
真希は微笑する。会って以来、初めて誘惑する台詞《せりふ》を吐いてきた。
志津夫は沈黙していた。不機嫌な顔で、相手を睨《にら》んでしまう。微笑み返す気には、どうしてもなれなかった。
彼が返事をしないので、真希の微笑が凍りついた。短く鼻を鳴らす。
「あのカセット・レコーダーは借りておくわ。名椎善男さんを尋問するのに必要だから」
真希はそう言って、回れ右した。
一分後、フェアレディZは三〇〇〇ccツインカムターボ・エンジンの爆音を残して、闇の彼方《かなた》に消えた。
13
実は、志津夫はマジシャンが行う「縄抜けのトリック」を知っていた。
志津夫の大学時代の友人に、内藤大介《ないとうだいすけ》という男がいたからだ。彼は史学科で、手品マニアだった。
大介はマジックを、女の子を口説く小道具として使うわけではなく、もっぱら自己満足のために研究するタイプだった。痩《や》せていて、度の強いメガネをかけていて、髪の毛も坊ちゃん刈り状態の男だった。
ある夜、志津夫が退屈しのぎに大介のアパートに行った時のことだった。二人でビールとピザを夕食にして、テレビを観ながら、とりとめのない話をしていた。
その時、テレビのチャンネルはNHKで、ちょうど海外のマジックショーの放映が始まった。大介はテレビを観ながら時々、初級のトリックを解説してくれた。しかし、中級や上級のトリックになると「マジック愛好家のモラルだ」という理由で教えてくれなかった。
その番組の最後の演目は「縄抜け&入れ替わり」だった。マジシャンがまず両手首をクロスする形で、後ろ手に縛られる。そして袋詰めにされて、さらに箱に入れられた。
だが、一分後にはマジシャンは脱出していた。そして、さっきまで箱の外にいたはずの助手のブロンド美女が、いつの間にか箱の中に入っており、しかも袋詰めで、後ろ手に縛られていたのだ。
いつ、どうやって入れ替わったのか、志津夫にはまったく、わからなかった。
すると、大介が言いだした。
「手首の縄抜けだけなら、おれもできるぞ」
「じゃ、やってみせろよ」と志津夫。
さっそく実演が始まった。
まず大介が身体の正面で、右手首と左手首とをクロスさせた。そこを志津夫がロープで縛った。かなり、きつく縛ったつもりだった。
縛るのが完了すると、大介は後ろを向いた。彼は盛んに肩や腕を動かしていた。
二〇秒後、大介は「縄抜け」に成功していた。自由になった両手と、外したロープとを見せびらかしたのだ。
志津夫は叫んだものだ。
「どうやって!」と。
その時、テクニックを教えてもらったのだ。
実は、手首というものは断面図にすると円ではなく、楕円《だえん》なのだ。そこで二つの楕円を長軸方向に垂直に積み重ねるような状態にして、相手に手首を縛らせるのだ。
そして縛るのが終わったら、相手に見えないところで、手首を回転させる。すると二つの楕円は長軸方向を平行にして水平に積んだような状態になる。その分、縛っているロープに余裕ができて緩むのだ。
後は、ロープの緩みを利用して手首を抜けばいい。
あの時、大介はわずか二〇秒でやってみせた。
今、志津夫はそれに挑戦していた。真希に縛られる時に、ちゃんと手首断面図の二つの楕円が、長軸方向に垂直に積み重なる状態にして、相手に手首を縛らせたのだ。真希はこのトリックに気づいていなかった。
真希が去ると、すぐに志津夫は後ろ手になっている手首を回転させた。確かにロープが緩んだ。
だが、そこから先が悪戦苦闘だった。なかなか手首が抜けないのだ。理屈は理解していても練習が必要だということが、よくわかった。
五分後、やっと両手が自由になった。ロープとこすれ合ったせいで、手首が赤く腫《は》れ上がっている。額には大汗をかいていた。
次は全身だ。まるでチャーシューのように、ケヤキの幹ごと全身がぐるぐる巻きにされているのだ。これをどうするかだ。
結局、両手でロープを押し下げて、徐々にずり上がることにした。何とか右腕をいましめから抜いた。ずり上がるうちに、左腕も抜くことができた。
そして両手で、頭上の枝をつかんだ。懸垂の要領で、自分の身体を引っ張り上げる。
真希が立ち去って、十二分後、素人手品師は全身汗まみれで、脱出に成功していた。地面に四つん這《ば》いになり、肩で息をする状態だ。しばらく立てなかった。
「ありがとうよ、大介」
志津夫は、もう何年も会っていない旧友に呟《つぶや》いた。
呼吸が静まると、立ち上がった。歩いて、道路に出る。
その途中、愛用のソフト・アタッシュバッグを見つけて、拾い上げた。ペン・ライトを点《つ》けて一応、中身を確認する。盗まれたものはなかった。
ただし、地面に落としたマイクロカセット・レコーダーだけはない。それは真希が持っていったのだ。
すぐ取り返しに行くべきか? そして名椎善男を尋問するべきか? だが、すぐには足が動かなかった。
あの女と再度、対決しても勝ち目はないのだから。
特に今は、真希とは会いたくなかった。二度も窒息死させられそうになった直後だ。どうしても弱気になってしまう。
そして連想していた。女王ヒミコや女王トヨの権力基盤も、こういう力≠セったのではないか?
魏志倭人伝の有名な一節が、脳裡《のうり》に浮かんだ。
鬼道に事《つか》え、能《よ》く衆を惑わす
あれは文字通りの意味ではなかったか? 誰も女王には逆らえない状況が、現実に存在したのではないか? それを中国側は、迷信で人々を従わせる女、と解釈したのでは?
別の一節も浮かんだ。
卑弥呼すでに死す。大いに冢《ちよう》を作る。径百余歩、殉葬する者、奴婢《ぬひ》百余人
ヒミコの墓には一〇〇人もの奴隷が生き埋めにされた、と言うのだ。絶大な権力をうかがわせる記述である。その権力の基盤は何だったのか?
それは真希が操るような力≠ナはなかったか?
先ほど、真希が何気なく言った言葉を思い出した。
心臓を狙うこともできるわ。
志津夫の顔がひきつってきた。現実には何も感じていないにも拘《かかわ》らず、心臓の辺りに圧力≠ェ存在し、苦しくなってきたような気がする。このトラウマは根深く、残りそうだ。
真希の別の台詞《せりふ》も思い出した。「職業はパチプロだ」と言ったのだ。「フェアレディZも、パチンコで稼いで買った」と。
あれは冗談でも何でもなく、事実だったのだ。直径一センチほどの金属球をリモート・コントロールするぐらい、彼女には児戯に等しいだろう。
そこで志津夫は気づいた。あの女は、いつでも自分を殺すことが可能だったのだ。何しろ証拠を残さず、他人に心臓|麻痺《まひ》を起こさせることができる女だ。真希が連続殺人事件の犯人になったとしても、今の法律では逮捕することもできない。
しかも、志津夫が窒息で苦悶《くもん》する様を、あの女は心底から楽しそうに眺めていた。もしかすると、天性のサディストかもしれない。
真希が志津夫を見逃してくれたのは、たまたま彼女が抱いてくれた好意に過ぎなかった。それがなかったら、どうなっていたか……。
志津夫の表情が、さらに歪《ゆが》んでいった。
勇気と無謀の違いはわかっているつもりだった。勝ち目がない時は悔しいのを我慢しつつ、撤退するのも勇気だ。猪突猛進《ちよとつもうしん》は勇気ではなく、無謀なのだ。
だが、同時に卑屈な感情もわいていた。あの女に逆らえなかった自分が、ひどく惨めに思えてくる。
うつむき、ため息が出る。無意識に、手で喉《のど》や胸を撫《な》でていた。
今すぐ名椎善男の家に押しかけるのは、やはり気が進まなかった。
ふと、志津夫は登美彦神社の奥宮のことを思い出した。あの洞窟《どうくつ》は遠くから撮影しただけだった。今なら誰もいないから、あの中を調べることができるはずだ。
いや、調べるべきだと思った。何か手がかりが、つかめるかもしれない。そして真希が、この土地を去ってから、名椎善男を尋問するのだ。一歩、遅れをとってしまうが、それは仕方ないだろう。
志津夫は回れ右すると、逃げるように神坂峠への山道を登っていった。ひどく惨めな気持ちを味わいながら。
登美彦神社の奥宮に辿《たど》り着いた。
志津夫は、さっそく洞窟の入口を隠している枯れ草の山をどけた。何とか人が通れる隙間を作って、中に入る。
ペン・ライトで内部を照らした。二〇畳ほどの面積がある。
地面には三本の木材が束ねてあった。分解した仮設の鳥居だ。これは秘祭の時だけ組み立てるらしい。
かがり火のための木材と、鉄製の皿もあった。今は燃料も入れてないし、冷え切っていた。
志津夫は感慨に浸っていた。
夢で観るたびに、「また、この夢か」と思っていた場所だ。そこへ、ついに踏み込んだのだ。その意味では、もっとも懐かしい場所だった。
ペン・ライトで天井を照らした。凸凹の岩肌が光輪の中に浮かび上がる。赤ん坊の頃に見たのは、これだったのだ。
目を見開き、呟いてしまう。
「こんなことって……。生まれたばかりの頃のことを覚えていたなんて……」
夢で観ていた洞窟は、まるで巨神の住居のように思える場所だった。だが、今、見てみると、さほど広くもない洞窟に過ぎなかった。これは三〇年の間に、志津夫の身体が成長したせいだろう。
志津夫の記憶には、ないものもあった。奥の本殿に当たる神棚や、そこに張られたしめ縄などだ。これらは床に寝かされた赤ん坊の視点からは見えなかったようだ。
志津夫は、本殿である神棚に近づいた。
しめ縄の下に、布で包まれた高さ三〇センチほどの物体があった。ほどけないよう、ひもで縛ってある。
志津夫は、その物体を神棚から持ち上げ、地面に置いた。
心臓が高鳴る。呼吸も早くなって乱れがちだ。
志津夫は震える手で、物体を包んでいた布を取り去った。再び、それが姿を現した。
ブルーガラスの遮光器土偶だ。顔の大部分は水中用のゴーグルみたいな目玉。ずんぐりしたプロポーションは、現代人の美的感覚をあざ笑うような形状だった。
ライトがブルーガラスの光沢を浮かび上がらせる。その照り返しが、洞窟の内壁や、志津夫の顔を青く染めた。
志津夫は大きく、うなずいた。さっそく一眼レフ式デジタルカメラを取り出した。何度もストロボを光らせる。様々な角度から土偶を撮った。
さらに、この洞窟の内部も撮影した。だが、これらは、資料としての公表はできないだろう。それを考えると少し空しい気分になった。
写真を撮り終えると、デジタルカメラをバッグにしまった。再び、ご神体を布に包もうとする。
その時だった。声が聞こえたのは。
14
我に触れよ
声≠ヘ、そう言った。
「え?」
志津夫は振り返った。背後から誰かに呼びかけられたのかと思ったのだ。ペン・ライトを、洞窟の出入口に向ける。
バスドラの重いビートが胸を打ち始める。ここには自分一人しかいないはずだと思ったが、間違いだったのか?
だが、外に人影は見えない。慌てて今度は洞窟の内部にペン・ライトを向ける。だが、その光輪は内壁を照らしただけだった。
この場にあるものは、点火してないかがり火と、仮設用の鳥居、本殿代わりの神棚、しめ縄、そしてブルーガラス製の遮光器土偶だ。他には何もないし、誰もいない。
我に触れよ
また声≠ェ言った。
「え? 誰だ?」
志津夫は、そう問い返した。そして自分自身の行動にショックを受けた。
今、志津夫は青い土偶に対して、問い返したのだ。まるで、人形に話しかけられたかのように。
突然、何かを感じた。志津夫と土偶の間で共鳴する何かだ。両者は向かい合う二つの音《おん》叉さと化したようだった。
ついに来るべき時が来た、といった切迫した感覚があった。今夜この場に居合わせたのも運命だったような気がしてくる。
志津夫はブルーガラスの土偶を見つめ直した。
現代人の目には不気味と映る造形だ。だが、今の志津夫の目には、神聖なシンボルとして映り始めていた。縄文人の美の基準が、彼に宿ったかのようだ。
土偶の目玉は、サングラスのような二つの楕円《だえん》だ。その楕円の中に、それぞれ一本の水平線が入っている。
突如、その水平線が上下に開き、強烈な光が見えた。土偶の目玉から太陽が出現したような輝度だ。
志津夫は、自分がその光に包まれるのを感じた。光が過ぎ去ると、三六〇度すべての方向に映像が展開していた。
いつの間にか頭上には蒼穹《そうきゆう》が広がっていた。公害で汚染されたことなど一度もないような、深みのあるセルリアンブルー。刷毛《はけ》で描いたような雲が幾筋も平行線を作っている。
その空の下にそびえる山があった。高さは一〇〇メートル前後。だが、自然そのままの山ではなかった。
円錐形《えんすいけい》の山に、人の手を加えて階段型にしたような巨大構造物なのだ。段の垂直な壁面は多数の石で固めてあり、大規模な工事の跡をうかがわせた。
聖地だ。我々の聖地だ。
その言葉が、志津夫の胸に湧《わ》き上がる。
畏敬《いけい》の念を覚える。ひざまずきたくなるような宗教的感情。そして謡い、踊りだしたくなるような歓喜の感情だ。
そうなのだ。縄文時代から弥生時代にかけてのカムナビ山とは、自然の山を階段型に加工したステップ式ピラミッドだったのだ。志津夫はその姿を今、目の当たりにしているのだ。
ヴィジョンは唐突に消え失せた。
志津夫は瞬《まばた》きしていた。唖然《あぜん》とした表情だ。
気がつくと再び、洞窟の内部に立っていたのだ。持っているペン・ライトで青い土偶を照らしたまま、硬直していた。
「何だ、今のは?」
志津夫は呻《うめ》くように言い、一歩下がった。目眩《めまい》を感じる。まっすぐ立っているのが難事業に思えた。
ふらつく視界の中央には、遮光器土偶があった。
古代の神像は笑みを浮かべているみたいだった。期待どおりのプレゼントをせしめた時の子供の表情に、そっくりだ。
志津夫は耳元で、何者かの意志の波動を聞いた。
我に触れよ
志津夫は自我が、その声≠ノ飲み込まれそうになるのを感じ、恐怖した。声≠ノ抵抗しないと、取り返しのつかないことになりそうな気がする。
後ろに下がった。地面に置いたソフト・アタッシュバッグを手探りでつかむ。
そのまま洞窟の出入口まで後退した。そこには枯れ草の山があるため、それを背中で押し分けながら外に出た。
とたんに、自分をつかまえていた何かが離れるのを感じた。
遮光器土偶の顔は無表情なままだった。笑みなど浮かべてはない。あの声≠熄チえた。日常の空間に戻ったのだ。
吐息をつく。どうやら難を逃れたらしい。頬に浮いた冷や汗を拭《ぬぐ》う。
しばらくは肩で息をしていた。立ちつくしているだけだ。思考活動も停止していたほどだ。
やがて息が静まり、冷静さが戻ってきた。たった今、起きた現象についても、考察する余裕が生まれてきた。
あのブルーガラス土偶には何かが宿っているらしい。その何かが話しかけてきたようなのだ。
しかも、土偶はこう言ったのだ。
「我に触れよ」と。
まるで、そのことが必要かつ重大な手続きであるかのような言い方だった。
ふいに天啓のように閃《ひらめ》くものがあった。思わず、顔を上げ、ペン・ライトの光をブルーガラス土偶に当てなおした。不格好な神像を凝視してしまう。
志津夫はつい口に出して、自問した。
「待てよ……。もしかして……。あの青い土偶に長時間、触れ続けると……。ぼくもあの女みたいにウロコが増えるのか? そうすれば、ぼくも、あんな力≠ェつくのか?」
その可能性を思うと、高揚感が湧き上がってきた。
それは久しく忘れていた感覚だった。子供の頃、マンガや特撮番組でスーパーヒーローを観た直後は、自分も主人公と同じことができるような錯覚に陥って、そこら中を走り回りたくなったものだ。あの時の感覚だった。
志津夫の目が輝いてくる。
「……うん。可能性はあるはずだ」
思わず、うなずき、呟《つぶや》き始めた。
「あの真希は、自分だけ素質があるとか、才能があるとか言っていた。他の人間にはない素質だと。
……だが、ぼくも今、あの土偶に話しかけられた。古代のカムナビ山の映像も観た。赤ん坊の頃、ここで受けたヒナマキとテトオシの儀礼も、ぼくはちゃんと覚えていた。ぼくだって……」
志津夫は何かに取りつかれたような顔になっていた。目がすわっている。
子供の頃、マンガや特撮番組のスーパーヒーローに憧《あこが》れた経験は、誰にでもあるだろう。だが、大人になるにつれてスーパーヒーローのことなど忘れて、等身大で現実を生き始めるのが普通だ。それができないのであれば、病院の精神科に通うしかない。
だが、突然、志津夫の前にはそうした可能性が現れたのだ。常人にない力≠駆使できるスーパーエリートになれる可能性。それは生まれ故郷の、この洞窟《どうくつ》の中にあったのだ。
もちろん、恐怖心もあった。力≠得ることは、真希のようにウロコだらけの身体になることも意味している。そして現代医学では、これを治療する方法はない、と真希は言っていた。
志津夫は、その場で凍りついていた。
もしも力≠手に入れたら、もう後戻りできないだろう。普通の人生には戻れない。
第一、ウロコだらけの身体では銭湯にも行けない。温泉も、プールも、海水浴もダメだ。その点だけ考えても、普通の人生ではなくなるのだ。
「いや、しかし……」
志津夫は口に出して、反論した。
「……このままじゃ、あの女に永久に逆らえないんだ。これからも大事な場面で、あの女に逆らえず、向こうに主導権を握られっぱなしだ。そんなの我慢できるか?」
志津夫は、のけぞって夜空を見上げた。無数のダイヤモンドのような星々の輝きがあった。光の粒子が目にしみる。
志津夫は首を振った。二度、三度と振った。
このままの状態が続くのは、やはり我慢できなかった。あの女に対抗できる力≠ェ必要なのだ。
志津夫は口に出して言った。
「そうだ。それに、あの白川家一族だ。あの親子とどこかで再会しても、また肝心な時に、あの祐美という娘に吹っ飛ばされて、気絶して、それで終わりじゃないか……」
考えているうちに、不平不満が増幅してきた。真相まで、あと一歩というところまで迫るのに、いつも真希や祐美に横取りされてきたのだ。そんなことが、これからも続くのだ。
このままでは、自分だけ仲間外れ、自分だけ、のけ者だ。
志津夫は呟いた。
「もう、うんざりだぞ。あの女どもめ」
興奮し、思わず、口走った。
「そうとも。ぼくにも力≠ェあれば……。そうすれば古代の真相も、今現在、何が進行中なのかもわかるんだ! そうだ。そうだよ」
志津夫はペン・ライトを、あらためて洞窟内部へ向け直した。土偶の表面を覆うブルーガラスが光を反射し、洞窟の中を青く照らした。まるで深海の光景のようだ。
志津夫は深呼吸すると一歩、前へ踏み出した。洞窟の中に入る。
とたんに声≠ェした。
我に触れよ
頭蓋骨《ずがいこつ》に共鳴した。地響きのように心臓を揺さぶられる。
足が止まってしまった。
志津夫の脳裡《のうり》に、反論に対する再反論が跳ね返ってきたのだ。
だめだ! 親父は竜野助教授に、こう言ったそうじゃないか。人間が触れてはならない領域だ≠ニ。どうやら、この世の法則が通用しないダークサイドが存在するらしい。それに触れることになるかもしれない。そこに、どっぷり浸かることになるのかもしれない。そこに入ったら最後、もう学者としての平凡な人生と、平凡な幸せは消えてなくなる。それでもいいのか?
志津夫は歯を食いしばっていた。そのまま歯が砕け折れそうな顔になっている。
「いや、しかし……」
歯の間から、反論を押し出した。
「……今こそ、おれが主導権を握るチャンスだ」
志津夫はぼく≠ナはなく、おれ≠フ一人称を使った。己に力強さが欲しい時は、こうなるのだ。
意志力を総動員し、脳裡で反論を組み立てた。
今こそ真相に迫るチャンスだ。これを逃したら、次はいつ真希や祐美や、親父に会えるかわからないんだ。それに、会えたとしても、主導権はやっぱり真希や祐美にあるだろう。あの女どもだけが力≠持っている限り、こっちは何もできないんだ。
我に触れよ
あの声≠ェ雷鳴のボリュームで轟《とどろ》いた。背骨が音《おん》叉さのように共鳴し、震動するのを感じる。それでいて、これは現実の音声ではないこともわかっていた。
足を前に出した。二歩、三歩、四歩、五歩、六歩……。
志津夫は酔っぱらっているような歩き方になっていた。声≠フせいで、内耳の三半規管が悪影響を受けたらしく、平衡感覚が狂ったらしい。
よろめいて、青い土偶の前にひざまずいてしまった。両手も地面についてしまう。ソフト・アタッシュバッグが肩から落ちる。自然と、古代の神像に祈りを捧《ささ》げているようなポーズになった。
志津夫は四つん這《ば》いのまま前進した。途中、ペン・ライトを口にくわえると、上体を起こし、膝立《ひざだ》ちで歩いた。
神像の正面に到着した。両手を前方へ伸ばす。遮光器土偶に触れようとした。
できなかった。あと三センチというところで、手が止まってしまう。その位置で手が震えていた。
口にくわえたペン・ライトも震えていた。ライトが放つ光輪も揺れ、ブルーガラス土偶の影も揺れる。
真希の恐ろしいセミヌード姿が、脳裡に細部まで再現されていた。「グラマーで魅力的な女性が、脱いだら化け物だった」というのは、男にとって最悪の悪夢の一つだろう。それを現実に見てしまった衝撃は大きかった。
志津夫の脳裡に、反論に対する再反論が、しつこく跳ね返ってきた。
自分の肉体が、あの真希みたいな状態になるのに、果たして耐えられるのか。蛇女ならぬ蛇男になるんだぞ。やめるんだ!
志津夫は唸った。手が動かない。全身ウロコへの恐怖で、身体が震えている。
もう一人の志津夫が、脳裡でわめき続けた。
やめるんだ! 一〇年前、親父は家族も、大学教授の職も捨ててしまったじゃないか。今では世間から身を隠しつつ、何か得体の知れない目的のために動きまわっている。親父は、茨城では人殺しまで企てて、実行しようとしたらしい。おまえも、そんな人生を送る羽目になるのかもしれない。それでもいいのか? いいわけないだろう。忘れるんだ! 普通の人生に戻れ!
志津夫の端正な顔が歪《ゆが》んでいた。骨折の激痛に耐えているような表情だ。
ペン・ライトをくわえたまま、呟く。
「いや、しかし……」
最後の反論を試みた。それを組み立てて、言葉にした。
「……このままでは真相が永久にわからないままだ」
考古学や史学の範囲では、絶対に解けない部分が未解決のまま残るのだ。しかも、今、何が起きて、何が進行中で、どんな思惑があって、どこへ向かおうとしているのか、それすらもわからない。
危険は覚悟でやらねばならないんじゃないのか。人生には、そういう局面もあるんだ。
志津夫は自分で組み立てた言葉に、自分で何度もうなずいた。
「そうだ。そうなんだ。危険は覚悟の上だ。人生には、そういう局面もあるんだ」
うなずくたびに、それは強固な信念に育ってきた。志津夫は深々と息を吐いた。もう決意はダイヤモンドの硬度に達した。
志津夫は息を吸い込んだ。不格好なプロポーションの土偶を睨《にら》みつける。
両手で、青い土偶をつかんだ!
最初は何も起きなかった。だが、やがて志津夫は異様な感触にとまどった。
手のひらに規則的なうごめきを感じるのだ。脈動だ。焼いた土の塊に過ぎない、ひんやりした人形に心臓が存在するかのようだ。
志津夫の手の甲に異変が生じ始めた。皮膚の一部が細かい泡のように膨らんできたのだ。それらはやがて小さな三角形になり、次々にウロコを形成していく。
その奇現象は、手の甲だけではなかった。腕や、足、胸、背中、腹にも異様な痒《かゆ》みを覚えた。そこにもウロコができかけているのはまちがいない。
志津夫は顔をひきつらせていた。やがて生理的嫌悪感に耐えられず、悲鳴をあげた。ペン・ライトが口から落ちる。
両手を離そうとした。
できなかった。両手は磁石に張りついた鉄板も同然だった。
おかげで、土偶を宙に持ち上げる格好になってしまった。慌てて両手を上下に振る。だが、密着したままだ。どうしても離れない。
志津夫は絶叫していた。だが、深夜の山中で、それを聞いた者はいなかった。
[#地付き](下巻に続く)
この作品は、平成十一年九月、小社より刊行された単行本を加筆・訂正し、文庫化したものです。
角川文庫『カムナビ(上)』平成14年11月10日初版発行