角川文庫
狗 神
[#地から2字上げ]坂東眞砂子
鐘の音が、|五月《 さ つ き》晴れの空に響いた。
山門の階段を上っていた時田|昂《こう》|路《じ》は、足を止めた。門を支える太い柱の間に、|檜《ひ》|皮《わだ》|葺《ぶ》きの本堂が見える。
|信濃《しなの》、|善《ぜん》|光《こう》|寺《じ》。新緑の山に吸いこまれるように、灰色の石畳がまっすぐに続いている。白い煙のたなびく青銅の香炉。本堂の前で、|賑《にぎ》やかに記念撮影をする参拝客の一団。|麦《むぎ》|藁《わら》帽子をかぶった老女たちが、小さな台の上に並べたお守りを売っている。
何の変哲もない、観光名所の寺院だ。
この寺のどこが、おもしろいんだろう。
昂路は心の中で不満気に|呟《つぶや》いて、山門をくぐった。
――ここまで来たんだから、ついでに善光寺に寄って行くといいよ。長野市までは車ですぐだし、おもしろい寺だぜ。
そんなことをいったのは、白馬でペンションを営む旧友の加賀|伴《とも》|久《ひさ》だ。週末を利用して、彼の|許《もと》を訪ねた昂路は、どうせ東京への帰り道にあるからと、善光寺見物を勧められた。会社には明日の火曜日から出ることにしていたので、急いで東京に戻る必要もなかった。寺参りなんか柄ではないが、|暇《ひま》|潰《つぶ》しもかねて立ち寄ったのだった。
車の|鍵《かぎ》をポケットの中で|玩《もてあそ》びつつ、寺院の境内を歩く。松林に映える三重塔や|石《いし》|灯《どう》|籠《ろう》。ぐるぐると鳴きながら、豆をついばむ|鳩《はと》の群れ。午後の陽光を照り返す|玉《たま》|砂《じゃ》|利《り》を踏むうちに、せっかく来たのだから、|賽《さい》|銭《せん》のひとつでもあげていくか、という気分になってきた。
伴久の奴、仕事でかりかりしていた俺に、仏様でも拝んで肩の力を抜け、といいたかったのかもしれない。
彼は、昨夜、酒を飲みながら、旧友に語った仕事の愚痴を思い出して苦笑した。
正面階段を上り、本堂に入ったとたん、眼前が暗くなった。やがて目が|薄《うす》|闇《やみ》に慣れてくると、黄金色に輝く本堂の奥が見えた。|軟《やわ》らかな灯籠の光に浮き上がる|瑠《る》|璃《り》壇。祈りを|捧《ささ》げる|参《さん》|詣《けい》客の丸い背中が、畳敷の|内《ない》|陣《じん》に小山のように連なっている。その背後で形ばかりに合掌すると、昂路は|踵《きびす》を返そうとした。
「あーっ、怖かったよぅ」
若い女の声が耳に飛びこんできた。振り向くと、四、五人の若者たちがもつれ合うように歩いてくる。
「おもしろかったじゃないか。もう一遍、入ってもいいぜ」
「強がりいってぇ」
笑い声が大きくはじけた。
昂路は、彼らの来たほうを見た。内陣の横が何かの出入口になっているらしい。係の女が、参拝客から入場券を受け取っている。好奇心を覚えた彼はそこに近づいていくと、券を輪ゴムでまとめている女に聞いた。
「この中に何かあるんですか」
髪をスカーフで包んだ女は、上目遣いに昂路の顔を見た。
「内陣参拝と、お|戒《かい》|壇《だん》|廻《めぐ》りですよ」
「戒壇廻り?」
「内陣の地下をぐるっと廻るんです。途中にある極楽のお錠前を触ると、仏様とご縁が結べるといわれているんですよ」
女は体を|捩《よ》じり、内陣の脇に延びる畳敷の通路を指さした。
「入口は、この突きあたりです。見るんでしたら、早くしてください。本堂は四時半に閉まりますから」
腕時計を見ると、四時十分前だった。何があるのかよくわからないが、寺見物のついでに入ってみることにした。
彼は入場券を買ってスカーフの女に渡すと、内陣を横目で見ながら通路を進んでいった。|回《え》|向《こう》受付の|僧《そう》|侶《りょ》たちの座る場所を過ぎて、さらに奥に入っていく。正面に朱塗りの壁が現れた。連子窓から射しこむ弱々しい光に照らされた壁には、『戒壇めぐり入口』という看板が掛かっている。昂路は、右手で腰の高さの壁を|撫《な》ぜて進むように、との注意書きを読んでから、階段を降りていった。
地下は明かりひとつなく、黒光りする木の廊下が淡い|闇《やみ》に消えていた。ちょうど人の波の切れたところで、あたりは静かだ。彼を誘うように、奥から冷たい空気が流れてくる。
ちょっとした幽霊屋敷だな。
昂路は、にやりとすると足を踏みだした。四、五歩進んだ時、通路の真ん中に、ほっそりした人影が見えた。着物姿の女のようだ。長い髪を編みこんで桜色のリボンで結んでいる。行く手にたゆたう闇を前にしてためらうように立っていた。
昂路が近づく気配を察したのか、女が首を|捩《よ》じった。階段から入ってくる柔らかな光が、美しい顔を浮かびあがらせた。
抜けるように白い肌、浮世絵のような|瓜《うり》ざね顔に、すっと通った鼻筋。三十代後半だろうか。|紺絣《こんがすり》の着物から伸びた首筋に、|仄《ほの》かな色気が漂っている。
昂路はどぎまぎしながら、お先に、と声をかけると、彼女の脇をすりぬけようとした。
「あのう、すみません……」
女の声に、昂路は振り向いた。小首を|傾《かし》げるように、女が口を開いた。
「御一緒させていただけませんか」
「一緒って……」
戸惑って聞き返すと、女は気恥ずかしそうにいった。
「一人でここに入るのが怖くて、私……」
その途方に暮れたような風情に、昂路は心を動かされた。
「僕でよければ……」
「ありがとうございます」
女は、ほっと息を吐いた。
昂路は先に立って歩きはじめた。壁に手をつけて歩くように書かれていたことを思い出したが、自分まで怖がっていると見られたくなかったので、廊下の中央を進んでいった。
すぐに壁にぶつかった。突きあたりらしい。彼は壁に沿って曲がった。そこから先は真の闇だった。階段から射してきていた微光も消え、鼻をつままれてもわからない。
昂路は、ごくりと|唾《つば》を|呑《の》みこむと、慌てて壁を探した。やはり壁を頼りに手探りで歩かない限り、前にも進めない。
「すみません、手を|繋《つな》いでもいいですか」
背後で小さな声がした。
「いいですよ」
昂路は自分の右手を後ろに出した。女の指先がぶつかるのを感じ、やがてしっかりと握られた。
「私、暗闇がだめなんです」
女の声が闇に響く。関西|訛《なまり》のある言葉だった。しかし大阪弁でもない。
昂路は手探りで進みながら、わざと明るい声でいった。
「いや、僕も一緒にいてもらってよかった。ここまで暗いと、さすがに怖いですね」
「暗闇は恐ろしいものです」
女が|呟《つぶや》いた。
「何が潜んでいるか、わかりませんから」
その言葉の真剣な響きに、昂路は思わず後ろを振り返った。
何も見えない。女の顔も体も、存在感すら消えている。握りしめた手だけが、女がそこにいることを告げていた。細身の女の体には似合わず、手は骨太く大きかった。
彼は、また前を向くと歩きだした。
目を開けても、閉じても、変わりのない暗闇が広がっている。女の手を握ったまま、暗黒に浮いている気がした。足が踏んでいるのは床板なのか虚空なのか、定かではない。
しばらく黙々と暗闇を進んでいった。静寂が支配する世界に、自分の呼吸音だけが妙に大きく聞こえる。
昂路は気分を紛らわそうと|訊《たず》ねた。
「どちらから来たんですか」
少し沈黙の後、女の声が返ってきた。
「高知です」
「お一人で?」
彼女は、「ええ」とぽつりと答えた。
どうして、と聞こうとして、彼は言葉を呑みこんだ。今時、女性の一人旅なぞ珍しくはない。……しかし、着物姿で一人旅をするだろうか。どこかちぐはぐな気がした。
闇はまだ続いている。所々、壁が曲がっている。そのたびに出口の光が見えるのではないかと期待するのだが、待ち構えているのは、暗闇だけだ。
なぜ、こんなに出口まで遠いのだろう。本堂の下を廻る地下道だ。そんなに大きなはずはない。なのに、もう何十分も暗闇をさまよっている気がする。時間の感覚がなくなっているのだろうか。
ひょっとしたら、この中は、迷路になっているのかもしれない。自分は知らないうちに、間違った道に足を踏みいれたのではないだろうか。
背中が汗ばんできた。昂路は不安になってきた。
「この方向でいいんだよな」
思わず独り言を|洩《も》らすと、女が|怯《おび》えたように、彼を握る手に力をこめた。まずいことをいってしまった。昂路が、彼女を安心させる言葉を探していた時、どこかで声がした。
「こりゃあ、真っ暗だよ」
「文句いわない。暗いからこそ、仏様の御利益もあるんだからさ」
年寄りじみた女たちの声だった。|姦《かしまし》く|喋《しゃべ》りながら、地下道に入ってきている。
昂路はほっとして、後ろの女にいった。
「人が来たみたいだ。ここで、あの一行が追い着くのを待ってみませんか」
「そうですね」
二人は、その場に立ち止まった。それでも女は手を離さない。よほど暗闇が怖いのだろう。それにしても、こんなに長く手を|繋《つな》いでいるのに、女の手が少しも温かくならないことを不思議に思った。
「不動、|釈《しゃ》|迦《か》、|文《もん》|殊《じゅ》、|普《ふ》|賢《げん》、地蔵、|弥《み》|勒《ろく》」
老女たちが仏の名を唱和しはじめた。
「善光寺念仏です」
昂路の|耳《みみ》|許《もと》で、女が|囁《ささや》いた。
「うちの母も、よく唱えておりました」
聞いたこともない念仏だったが、今は救いの声だった。昂路ははやる心を押さえて、少しずつ大きくなる念仏に耳を澄ませていた。老女たちが追い着いたら、驚かさないように、こんにちは、というのだ。ほら、あと少し。あと少しで、行き合うはずだ。
「地蔵、弥勒、薬師、観音、|勢《せい》|至《し》」
不意に、念仏の聞こえてくる方向が変わった。
「観音、勢至、|阿《あ》|弥《み》|陀《だ》、|阿《あ》|ェ[#「ェ」はUnicode="#95A6" DFパブリ外字="#F7AA"]《しく》、|大《だい》|日《にち》、|虚《こ》|空《くう》|蔵《ぞう》……」
老女たちの声が小さくなった。どこかで角を曲がったのだろうか。彼は引き返そうと、空いた手で壁を探した。
壁は消えていた。
どうしてだ。
全身から汗が引いていく。
「大日、虚空蔵、|南《な》|無《む》|阿《あ》|弥《み》|陀《だ》|仏《ぶつ》、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」
念仏が終わった。
「待ってくださいっ」
昂路は声をかけたが、返事はなかった。彼は、どの方向に行ったらいいかわからなくなって、立ち止まった。
あたりは静寂に包まれた。
がちゃっ。
|常《とこ》|闇《やみ》の|彼方《かなた》で、金属の音が響いた。
「極楽のお錠前だ」
大きな声があがった。
「ほんとだ。触ったよ、触った」
「ありがたい。これで死んだら、極楽に行けるんだよ」
「やだね。死んだら、なんてさ。まだ先の話にしとくれよ」
老女たちの笑い声が遠ざかっていく。
このまま、ここに取り残されるのではないか。そう思うと、体が熱くなった。
「すみませんっ。止まってくださいっ」
昂路は女の手を握ったまま、声を追いかけた。足が床を踏んでいる感じがしない。まるで夢の中を走っているようだ。
やがて女たちの声は消えて、暗闇に静けさが戻ってきた。
彼は、はあはあと息をしながら、立ち止まった。今、どこにいるのか、見当もつかなかった。汗を|拭《ぬぐ》おうとして、彼は、自分がまだ女の手をしっかりと握りしめていたことに気がついた。
昂路は、女の手の感触を確かめてみた。柔らかな肉が、彼の|掌《てのひら》を押し返す。だが、妙だ。あんなに走ったのに、手を繋いでいるのを忘れるほど、女の存在感がなかった。背後の息遣いも、足音もない。人と手を繋いで走ったなら、相手がもたついて引き戻したりするはずだが、何の抵抗も感じなかった。まるで女の手首だけを持って走っていたように……。
彼は、どきりとした。
俺の繋いでいるこの右手の先には、ほんとうに女の体がついているのだろうか。ひょっとしたら、闇の中を走っているうちに、いつか女の手首から先は消えてしまったのかもしれない。
白い女の手首を握りしめて、暗闇に立つ自分の姿が見えた気がした。
「あの……あなた……」
声をかけたが、返事がない。ただ闇が広がっているだけだ。
昂路は、自由な左手を、恐る恐る女の体のほうに伸ばした。ぺたりと冷たいものに触れた。指先がぬるぬるしている。
ぎょっとして、手をひっこめようとした時、女の泣き声が聞こえた。
昂路は、はっとした。手が触れたのは、女の|頬《ほお》のようだった。
「泣くことはないですよ。ちょっと迷っただけです。出口はどこかにあるはずです」
彼は自分にいい聞かせるようにいった。
「出口なんかない。ここから出られやしません。私は、ずっとこの闇の中におるしかないがです」
女は|呟《つぶや》いた。
昂路はわざと明るい声で笑った。
「やだな。人里離れた山奥でもあるまいし、なにも永遠に閉じこめられたわけじゃないんですよ。本堂が閉まる時間になったら、きっと寺の人が見回りに来るでしょう。そしたら、出られますよ」
女のため息が聞こえた。
「極楽のお錠前に触りたかったのに……。せっかく、ここまで来たのに」
昂路は、まいったな、と思った。完全に迷ってしまったのだ。暗闇は、人の心を不安にする。とにかく彼女の気持ちを落ち着けるのが先決だと思った。
「少し休みましょう」
彼は、女の手を引っ張って、床に腰を下ろした。みしり、と木の板の鳴る音がした。よかった。とにかく寺の中にいるのだ。無限に続く闇の中ではない。そう思うと、少し余裕も出てきた。
入口の女は、確か本堂は四時半に閉まるといっていた。地下に入ったのが四時前だから、あと半時間もしないうちに、誰か見回りに来るだろう。下手に動かずに待っていればいい。
昂路は暗闇に向かっていった。
「一人旅といいましたね。どうしてここに来たのか、教えてくださいよ」
「……話すと長くなりますが」
彼は陽気に答えた。
「そりゃあ、時間|潰《つぶ》しにぴったりだ」
沈黙が返ってきた。
女に顔を向けたが、漆黒の空気が|瞼《まぶた》に喰いついてきただけだった。昂路は、まだ繋いでいる女の手を力づけるように握った。
女の長い吐息が聞こえ、|囁《ささや》き声が闇に流れだした。
巣作りの場所を探していたらしい|燕《つばめ》が二羽、羽音をたてて舞いあがった。|坊《ぼう》|之《の》|宮《みや》美希は、もつれるようにして畑の|畝《うね》を飛んでいく黒い影を見送った。耕されたばかりのふかふかした土の向こうに、|霞《かすみ》にけむる|山稜《さんりょう》が連なる。美希は、若草の|匂《にお》いのする朝の空気を胸に吸いこんで、家の前の坂道を下りはじめた。
|尾《お》|峰《みね》は、高知の山岳地帯にある戸数六十軒ほどの村落だ。山腹を切り崩し、石垣を築いて作った宅地や耕作地が、斜面に打ちこまれた無数の|楔《くさび》のように重なり合う。家々の灰色の|瓦屋根《かわらやね》と、段々畑の灰色の石垣。村落は、遠くから見ると、西欧の石の|要《よう》|塞《さい》に似ていた。だが、この要塞の敵は人間ではない。夏の台風、冬の谷から吹き上げる木枯らし。村は、風に立ち向かうように、空に突きだしている。
しかし、今日は風もなく、穏やかだ。うららかな光が、自然に傷めつけられた屋根瓦や畑に降りそそぎ、石垣の上では満開の桜、菜の花や|蓮《れん》|華《げ》が鮮やかな色を放っている。
春だ。
美希は思った。
花が咲き、小鳥がつがいを作り、猫が子を|孕《はら》む春。すべてがのんびりとした幸福感の中に浸っている季節。
春がくるたびに、彼女は、もの悲しい気分を覚える。山野が枯れ葉色に染まる秋でも、すべてのものが死に絶えたように見える冬でもなく、春にそんな|憂《ゆう》|鬱《うつ》を覚えるのは、自分の生活のせいだとわかっている。
一年を通して、美希の生活はあまりに静かだ。四十一歳の今に至るまで独身を通し、実家で母親と兄家族と同居する彼女にとって、毎日は判で押したように同じ顔をしている。朝、起きて、兄嫁と一緒に朝食の準備をして、後片付けと洗濯をすませて、家を出る。そして家から歩いていけるところの仕事場で、彼女の生計を細々と支えている|和《わ》|紙《し》|漉《す》きの作業に一日を費やす。
美希は、自分の人生が流れていくさまを川辺から眺めるように、淡々と日々を送ってきた。そんな生活に満足してもいた。
だが春になると、妙に心が落ち着かなくなる。このままでいいのだろうか、という疑問が頭をもたげてくる。すべての生命が、生きているのだ、と叫ぶ季節。今の静かな日々が死者の生活に思えてきて、自分の生活を変えたくなる。別の人生を求めたくなる。
とはいえそれも二か月ばかりのことだ。季節が移り、じめじめした梅雨に入ると、雨水に押し流される土砂のように人生への欲望も消えていく。そして、自分の中に人生を変革するだけの力はなく、ただ、春の魔力に|騙《だま》されていただけなのだとわかり、忌ま忌ましい気持ちだけが残るのだった。
美希は、腕にかけた|籐《とう》製の|籠《かご》を持ち直した。気をつけなくては、と思った。今のままで、私は充分、幸せなのだ。
美希は村道から、スレート|葺《ぶ》きの小屋と、菜の花畑の間に延びる石段に入った。
村落内を蛇行して通る村道よりも、石段のほうが早く下に降りられる。階段はきついが、子供の時から慣れた小道だ。美希は、軽い足取りで石段を降りていく。
畑に揺れる大根の白い花。石垣の間から顔を|覗《のぞ》かせる、|粟《あわ》|粒《つぶ》のような母子草。山水の流れる音が、側溝から|湧《わ》きたつ。
美希は、毎朝通るこの道が好きだった。前に広がる空に向かって石段を蹴れば、宙に飛びだせる気がする。そして、彼女は遥か遠くへと|天《あま》|翔《が》けていくのだ。山を越え、海を越え、どこまでも……。
「美希さん、おはよう」
元気な声に我に返ると、石段の横の家の庭で、晴子が洗濯物を干していた。美希の隣の家の娘だが、この中野家に嫁いできた。昔は|痩《や》せてひょろひょろしていた晴子も、今では二重|顎《あご》の|恰《かっ》|幅《ぷく》のいい農家の主婦だ。庭の塵焼却用のドラム缶のそばで、息子の文彦が三輪車に乗って遊んでいる。
「洗濯|日《び》|和《より》になってよかったね」
美希が|応《こた》えると、晴子は夫のものらしい白いシャツを手にしたまま訊いた。
「おたくの英ちゃんの|風《か》|邪《ぜ》、治ったろうか」
英一は、美希の|甥《おい》博文の息子だ。甥夫婦は、美希の家と同じ敷地内に新居を構えている。晴子は、博文の嫁の登紀子と仲よく、しばしば子供を連れて甥の家に遊びに来ていた。
「あの子、風邪やったの」
美希が|怪《け》|訝《げん》な顔をすると、晴子は拍子抜けした表情になった。
「登紀子さんは、|乾《いぬい》医院で注射してもろうた、いいよったよ。けどまあ、美希さんが知らんで、あたりまえやね。子供ゆうたら、いっつも風邪やら熱やら出しゆうき。そのたんびに大騒ぎするんは、母親ばあのもんやわ」
晴子は|自嘲《じちょう》気味にいうと、白いアンゴラのセーターに黒のスラックスを|穿《は》いた美希を眺めた。
「ええねぇ、美希さんは。子やらいするようばんき、いつまでも若うおられるがやわ」
「そんなことないわ」
「うちの|旦《だん》|那《な》さんがいいよったで。高知の帯屋町で、どこの|別《べっ》|嬪《ぴん》さんやろ、思うたら、美希さんやったゆうて」
美希は、先日、高知市内の帯屋町商店街で、晴子の夫、耕作に会ったことを思い出した。彼女が作っている手|漉《す》き和紙の葉書やカードを置かせてもらっている店に|挨《あい》|拶《さつ》に行く途中だった。
「子供が三人もおらんかったら、私やって美希さんみたいにきれいにしちゃる、ゆうたら、顔の造りが違うき無理や、と、こうながやで。ほんと、憎たらしいち」
晴子は二重|顎《あご》を震わせて笑う。
美希は居心地の悪い気分になった。独身で、子供のない自分を暗に非難されている気がした。
「耕作さんにもよろしゅう」
美希が頭を下げた時、肩を小さな物がかすめ飛んだ。木のかけらだった。三輪車から降りた文彦が、地面に落ちた|木《き》|屑《くず》を放り投げている。晴子の怒鳴り声があがった。
「こりゃ、文彦っ。そんなことしたらいかんっ。おばちゃんに当たるやろが」
ごめんねぇ、美希さん、という晴子に、美希は首を横に振って、また歩きだした。
石段の両側に家や畑が続く。縁側で繕い物をする老婆。麦わら帽子をかぶって、畑を打つ農夫。石垣の脇に植えられた|芭蕉《ばしょう》の大きな緑の葉が|艶《つや》やかに光る。
かつん、かつん。一人の老人が|杖《つえ》をついて上がってきた。黒炭のような肌が、頬の出た丸顔にへばりついている。美希は、石段の脇に寄って、老人のために道を開けた。
「おはようございます、|味《み》|元《もと》さん」
挨拶をすると、老人は、垂れた|瞼《まぶた》の下の焦茶色の|瞳《ひとみ》を彼女に向けた。そして美希と認めると、曲がった腰を伸ばした。
「ちょうどよかった、美希さん。お兄さんにゆうちゃってくれんかの。茶畑の石垣が壊れかかっちゅうてのう」
「わかりました」
美希は内心、苦笑した。味元は、尾峰の長老のような存在だ。小柄な体を杖で支えながら、水戸黄門さながらに村を巡回するのを日課にしている。そして石垣が壊れていたり、道端に雑草が生い茂っているのを見つけては、村の集会所で整備をいいたてるのだ。
彼は、このあたりの方言で「殺生人」と呼ばれる猟師だった。昔の尾峰は、|楮《こうぞ》や|三《みつ》|椏《また》の栽培と、|樵《きこり》や狩猟で生計を立てる家で占められていた。しかし今は美希の家のように、茶や|柚《ゆ》|子《ず》、|蜜《み》|柑《かん》の栽培を主とした農家ばかりになってしまった。味元は昔の尾峰の生活を知っている数少ない年寄りの一人だ。
殺生人らしい鋭い目であたりを|睥《へい》|睨《げい》しながら歩く味元に背を向けて、美希は残りの石段を一息で降りきった。
再び村道に出ると、そこは村の中心的な通りになっている。生鮮食料も売っている小さな雑貨屋、酒屋、クリーニング屋、美容室、お好み焼き屋が並んでいる。もう店は開いているが、客の姿もなく、通りはがらんとしていた。店の奥から表に流れてくるテレビの音が、寂しげに響く。
米屋の前で、村道は二つに分かれている。右に下っていくと、小学校や幼稚園、農協やバスの発着場に着くが、美希は、そのまままっすぐにアスファルトの道を歩いていった。村の集会所を過ぎると、家並みは途切れて、両側が田畑に変わり、道は|番所山《ばんどころやま》に続く林道と合流する。
その合流点に接して、雑草の繁った斜面がある。背後に、番所山の東の尾根が|崖《がけ》になってそそり立つ。赤土の崖なので、皆は赤岳と呼んでいる。その崖の前の林を背景にして、灰色の墓標が並んでいた。
坊之宮一族の墓地だ。何百年も前に徳島のほうからやって来て、この番所山の斜面が気にいって住みついたという一族の先祖が眠っている。美希の仕事場は、この墓地の東側の杉林の中にあった。
彼女は林道を横切ると、墓地の登り口に立つ緑がかった岩の前で足を止めた。平らな岩の上に載っているのは、高さ五十センチほどの地蔵だ。赤い前かけをつけて、手に|錫杖《しゃくじょう》を持ち、道行く人を穏やかな目つきで見下ろしている。
美希は|手《て》|籠《かご》の中から|蜜《み》|柑《かん》を一個取って、地蔵の前に供えると、両手を合わせた。
父の|位《い》|牌《はい》ですら法事の時にしか拝まない美希だが、毎朝、仕事に行く前に、必ずこの地蔵に祈ることにしていた。
目を閉じて|黙《もく》|祷《とう》する彼女を、温かな空気が包みこむ。どこかで小鳥の|囀《さえず》りが聞こえる。
春だ。
美希の脳裏に、若草の上でもつれ合う男女の姿が浮かんだ。|菫《すみれ》やなずなの花の上で、制服に草の汁がつくほどに、固く抱き合った。誰もいない山の中。木々のざわめきが、二人の熱情を|煽《あお》りたてた。
あの頃、美希は春の真っ直中にいた。豊かな人生が両手を広げて待っていてくれると信じていられた、人生の早春期……。
美希は目を開けた。
石の地蔵が、寂しげな微笑を浮かべている。一陣の風が吹いてきて、赤い前かけをふわりと舞いあがらせた。彼女は奥歯を|噛《か》みしめて、地蔵に背を向けた。
その時、林道で何かがきらりと光った。
ブルルルル。
かすかなエンジンの音が聞こえた。
県道から上がってきたのだろう、紺色の車体の大型バイクが近づいてくる。何か光ったように見えたのは、銀色のハンドルだった。
バイクに乗っているのは、黒の皮ジャンを着た若い男だ。
浅黒い顔に、大きな|瞳《ひとみ》が澄んだ色をたたえている。通った鼻筋に、ナイフの刃先のような唇。彫像を思わせる硬い線に縁どられた顔の輪郭と同じく、体もがっちりと|逞《たくま》しい。筋肉質の脚を包むジーンズが青紺の皮膚のように張りついている。
もの珍しそうにあたりを見ていた青年は、美希を認めると、バイクを止めた。
「こんにちは」
青年の白い歯がこぼれ、優しげな表情になった。美希は釣られて笑みを返した。
「尾峰はここでしょうか」
美希が|頷《うなず》くと、青年は、よかった、といって黒の皮の手袋を|嵌《は》めた手で、ポケットからきちんと折り畳んだメモを出した。
「永田栄作さんという人の家を探しているんですが、御存知ですか」
どこか土佐の|訛《なまり》がある気がしたが、標準語に近い丁寧な言葉遣いだ。この付近の人間ではないことは、すぐにわかった。高知市内か、県外の人かもしれない。
美希は、すぐ前の村道を指さした。
「永田さんの家なら、この道をずっと上がっていったところです。玄関の横が青いペンキで塗ってあるんで、すぐわかります」
礼をいって、バイクを村道に向けようとする青年に、美希は|慌《あわ》てて声をかけた。
「でも、もう誰も住んでませんよ。皆、高知のほうに引っ越していったんです」
彼は、唇の端を上げてにやりとした。
「知ってますよ。その空いた家を借りるつもりですから」
「尾峰に住むんですか」
美希はまじまじと青年を見た。この村から人が出て行きこそすれ、新しい者が住みつくことはまずない。
青年は、美希の驚いた表情をおもしろがっているように、軽く頭を下げた。
「|奴田原晃《ぬたはらあきら》といいます。今度、池野中学校に赴任になったんです」
「池野中学校に?」
池野村は、尾峰から車で十分くらいのところにある。昔は村として独立していた尾峰だが、今では合併して、池野村の一部になっている。池野には、村役場や文化センター、中学、高校があった。付近の村落の子供たちは、小学校を卒業すると、皆、池野に自転車で通学する。山間部だけに、赴任する教師が家を借りることも珍しくない。しかし、その場合は、池野村に住むのが普通だ。
晃は美希の疑問を察したらしく、説明した。
「池野村のアパートに入る予定だったのが、そこに入居していた人が、突然、引っ越しを取り止めたんですよ。住む場所がなくて困っていたら、父の友人の永田さんが、家を貸してくれるといってくれたんです」
「お父さんが、永田さんのお友達なんですか」
永田夫婦の知り合いと聞いて、見知らぬ男に対する堅苦しい気分が少し和らいだ。
「それなら、永田さんの家に住まれるんもええでしょうね。尾峰から池野まで働きに行っている人は多いんです。不便という距離でもないですよ。うちの|姪《めい》も、池野中学校に事務員として勤めてますし」
「へえ、姪ごさんが……」
「はい。姪は、坊之宮理香といいます。たぶん、すぐに会うことになると思いますが、よろしくお願いします」
晃は、こちらこそ、というと、バイクに|跨《また》がったまま、登ってきた林道を振り返った。
「ここはいいところですね」
幾重にも連なる尾根。山桜や|木《もく》|蓮《れん》の花が色を添える山の斜面が、眼前の谷になだれ落ちる。谷底を流れる池野川に沿って続く県道沿いに、集落や|田《たん》|圃《ぼ》が寄せ集まっていた。
人間の占領する部分があまりにもちっぽけに見えるその光景を眺めて、美希はくすりと笑った。
「自然の他は、何もないところです。若い人には退屈でしょう」
晃は首を横に振った。
「街で遊び回る年齢は卒業しましたよ。今は、こんな土地に|憧《あこが》れていたんです。ここの家を貸してくれた永田さんに感謝しなきゃ」
「お一人で暮らすには、充分な広さですよ」
といってから、美希は、晃が独り者とは限らないことに気がついた。しかし、彼は否定もしなかった。
「僕は狭くてもいいんですよ。どうせ荷物も少ないから。|布《ふ》|団《とん》と、段ボール箱が数個だけなんです」
「引っ越しはいつなんですか」
「今日です」
まるで|椅《い》|子《す》一脚を隣の家にでも移すような、気軽な口調だった。
「午後には、宅配便で荷物が届くはずです。引っ越しといっても、簡単なものですよ」
車の音がして、村道から軽トラックが出てきた。運転席にいる男が美希に|会釈《えしゃく》して、晃に用心深い視線を投げながら過ぎていった。
美希は、つい長話をしていたことに気がついた。知らない人間と親しげに言葉を交わすのは、いつもの彼女には似合わないことだ。
「それじゃ……」といいかけた時、晃が空を見上げて、うわぁ、と大きな声をあげた。
頭上に目をやると、|鳶《とんび》が舞っていた。
天空を、茶色の長い翼を広げて低く旋回している。その羽の柔らかな感触まで、手に取るようにわかる。
晃は|呟《つぶや》くようにいった。
「いいなぁ、ここは。空がこんなに近い」
彼の|瞳《ひとみ》がきらりと輝いた。あの鳶の目に似ていた。荒々しい野性を秘めた丸い瞳。その目に|惹《ひ》きこまれそうな気がして、美希は視線を落とした。
晃がハンドルを握り直して、バイクのエンジンをかけた。路傍の草むらから、驚いたように|雀《すずめ》が三、四羽、飛びたった。
「どうも、ありがとうございました」
彼は美希に片手を挙げると、そのまま村道に入っていった。
皮ジャンを着た晃の姿が遠ざかっていく。まるで村を疾走する黒い弾丸のようだ。この|颯《さっ》|爽《そう》とした青年の|噂《うわさ》は、きっと、またたく間に村中に広がるだろう。
彼女は微笑を浮かべて、仕事場に向かおうと|踵《きびす》を返した。
坊之宮家の墓地が目に飛びこんできた。
美希は|瞬《まばた》きをした。
さっきまで陽光を受けて輝いていた斜面の上が、妙に暗い。墓地の空気が灰色の|霞《かすみ》に変わったように陰っていた。黒々とした墓標が、地中から|湧《わ》き出た人の指に見える。青空をつかもうと指を|強《こわ》|張《ば》らせた誰かの手に……。
美希は|眉《まゆ》をひそめると、長い髪のほつれ毛を|掻《か》きあげた。
こんな気持ちのいい朝に、おかしな想像をするものだ。
彼女は墓地の前を足早に過ぎると仕事場に続く山道に入っていった。
目覚めると、寝室は柔らかな光に満ちていた。白い障子を透かして、朝日が六畳の間に射しこんでいる。
美希は|布《ふ》|団《とん》に横たわったまま、焦点の定まらない目で天井を見つめた。
一晩中、夢を見ていた。
|闇《やみ》に泣く赤子の夢を……。
|拳《こぶし》を突きだし、赤紫色の小さな体を反らせていた。歯のない口から|覗《のぞ》く、小指ほどの舌。|蛙《かえる》の目のように膨れた|瞼《まぶた》の下で、|蒼《あお》|味《み》を帯びた白眼が光る。首に血まみれの|臍《へそ》の|緒《お》を巻きつけて、赤子は、夜にさまよう鬼火のように宙に浮かんでいた。
いやな夢だった。どうして、あんなものを見てしまったのだろう。
パジャマの背中が汗に|濡《ぬ》れている。彼女は額に手をあてて深呼吸した。しばらくすると、気持ちも落ち着いてきた。
|枕許《まくらもと》の時計は六時を指している。起きる時間だった。
美希はのろのろと立ちあがると、障子と窓|硝子《ガラス》を開けた。朝の冷たい空気が部屋に流れこんでくる。それでようやく全身に活力が戻ってきた気がした。
布団を畳み、デニムのジャンパースカートに着替える。髪を|梳《と》かして後ろでひとつにまとめると、彼女は部屋を出た。
美希の部屋は、東西に長い坊之宮家の東端にある。西端の茶の間と台所までは廊下で|繋《つな》がっている。台所に向かう途中、彼女は南の庭に面した硝子戸のカーテンを開けていく。
家の南の細長い庭は、尾峰の村落を見下ろす位置にある。コンクリート塀沿いに植えられた、南天や|無花果《いちじく》の木の上に広がる朝焼けの空を硝子戸越しに眺めながら、美希は、|富《とみ》|枝《え》の居室の前を過ぎた。早起きの母なのに、今朝はまだ寝ているらしく、ひっそりしている。次の部屋が、兄の道夫とその妻、|百《もも》|代《よ》の寝室だ。こちらの障子もぴたりと閉ざされ、起きている気配はなかった。
廊下の突きあたりの引き戸を開けて台所に入ると、銀色のステンレスの流し台が静かに人の訪れを待っていた。
三年前、|甥《おい》の博文が結婚して、別棟を新築した時に、家の台所も改造した。おかげで大正時代に建てられたこの古い家敷の中で、台所だけは近代設備を誇っている。
美希は台所を抜けて、玄関脇の納戸に入り、洗濯したばかりのタオルを数枚取ると、洗面所に行った。
|風《ふ》|呂《ろ》場や便所と一緒になっている洗面所は、この家と博文夫婦の家とを結ぶ渡り廊下に接している。
美希は、タオルを洗面所の入口に置くと、蛇口をひねった。冷たい水を両手で受け止めて、ざぶざぶと顔を洗う。眠気とともに昨夜の悪夢を洗い流したかったのに、心の|襞《ひだ》にこびりついた夢の|片《へん》|鱗《りん》は落とせはしなかった。
|闇《やみ》の中に漂う赤子の姿が、今も脳裏にぺたりと|貼《は》りついている。
美希は濡れた顔を、タオルで強く拭いた。何かしていないといられない気分だった。タオルを洗濯籠に投げこむと、渡り廊下からつっかけを履いて外に出た。
渡り廊下は、坊之宮家西側の|築《つき》|山《やま》に面している。美希の祖父が丹精こめて造ったという庭だった。客間からの眺めを考えて、小さな池の周囲に、岩や、松の木や|楓《かえで》、雪柳などが配されていた。
築山の前を通り、表門に向かっていた美希の目が、|木瓜《ぼけ》の木で止まった。肉厚の赤い花が、茶色の枝に無数に咲いている。一羽の|頬《ほお》|白《じろ》が|嘴《くちばし》で花びらをちぎっていた。
美希の顔がほころんだ。
いつもの朝ではないか。何をびくびくしているのだろう。悪い夢を見ただけだ。
美希は両腕で自分の胸を抱きしめて、天を見上げた。淡い|茜色《あかねいろ》の雲が浮かんでいる。
そうだ、ただの夢。
美希の心の中で、別の声がした。
でも、あれは、あの子ではないのか。
彼女は息を止めた。
あの子だ。生まれてすぐ死んだ、あの子。
内なる声が|囁《ささや》き続ける。
「ああああん、あああん」
突然、赤子の泣き声が庭に響いた。
美希は、はっとして、あたりを見回した。泣き声は築山の空気を震わせて、渡り廊下の先の小さな二階建ての家から流れてくる。
彼女は肩の力を抜いた。
|甥《おい》の子供の英一だった。朝早くからむずかっているのだろう。
美希は、その声から逃れるように築山に背を向けて、客間の角を曲がり、家の玄関に出た。灰色のコンクリートの門に、新聞受けが置かれている。その中を|覗《のぞ》いた美希は、おや、と思った。
空だった。いつもなら、この時間にはとうに配達されている。今日は平日の月曜日。新聞の休刊日ではないはずだ。
美希は門の前に立って、きょろきょろした。早朝の村道はひっそりしている。番所山から吹き下ろす風に頬を|撫《な》ぜられ、美希は、ふと山のほうを見上げた。
石垣の上に、坊之宮の本家がそそり立っていた。美希の家も、尾峰では大きなほうだが、昔は庄屋だったという本家はさらに立派だ。|漆《しっ》|喰《くい》塗りの土蔵を二つ従えて、この石の|要《よう》|塞《さい》のような村の頂点に居座っている。二階の窓が開いているのを見ると、本家の者も、もう起きているようだった。
「ごめーん。待ちよったがかねぇ」
大きな声に振り向くと、坂道をミニバイクが上がってきていた。ヘルメットをかぶった小太りの女が運転している。毎朝、尾峰の各戸に新聞を配っている、ふさだ。
「すまんねぇ。遅うなってしもうて」
ふさは、しきりに申し訳なさそうにしながら、新聞を美希に渡した。
「どうかしたがですか」
美希が聞くと、ふさは顔をしかめた。
「寝坊したがよ。ゆうべ、|鶏《にわとり》がうるそうて、よう眠れんかったきに」
「夜、鶏が……」
ふさはバイクのエンジンをかけたまま、丸々とした指先で眠そうに目をこすった。
「そうなが。うちんくの鶏、夜鳴きしたことらぁ、一遍もなかったに」
「山犬でも出たがかもしれませんね」
ふさは大きな|瞳《ひとみ》を見開いて、真顔になった。
「それがね、気味が悪いがじゃき。今朝、見たら、鶏小屋のある畑に、こんな大きい足跡があったがよ」
と、両手で|西《すい》|瓜《か》ほどの輪を作った。美希が|眉《まゆ》をひそめると、ふさは怒ったように続けた。
「山犬としたら、たまあ大きい犬やわ。どっちにしろ鶏小屋の金網、しっかりしたもんに替えちょかにゃいかん。よう卵を産んでくれる鶏じゃき、喰われたりしたらたまらんき」
ふさは一気にまくしたてると、バタバタとバイクをけたてて村道を上がっていった。
美希は苦笑しながら、その姿を見送った。
何事につけても、おおげさに騒ぎたてるふさの言葉だけに、あまり真剣には受け取れなかった。
台所に戻ると、新聞を食器棚の上に置いて、早速朝食の準備にとりかかった。昨夜のうちに米をといで用意しておいた炊飯器のスイッチを入れる。|味《み》|噌《そ》|汁《しる》用の大きな|鍋《なべ》に水を張ってガスにかけたところで、がたん、と音がして、廊下に続く引き戸が開き、兄嫁の百代が起きてきた。むっちりと肉のついた長身をネグリジェに包み、カーディガンを羽織っている。
「あら、おはよう」
百代は|欠伸《あくび》をしながら、返事代わりに|頷《うなず》いてみせた。そのまま流しに直行すると、水道の水をコップに汲んで、一気に飲み干した。
「ああ、悪い夢、見てしもうた」
百代は胸元を押さえて、顔をしかめた。
「お|義姉《ねえ》さんも」
美希は思わず大きな声をあげた。
だが百代は、その質問の意味には気がつかなかったようだ。食器棚の上の新聞を取ると、台所の続きにある茶の間に入って、腰を下ろした。
「いやな夢やったわ。ずっと昔のことが出てきて……」
百代は|卓袱《ち ゃ ぶ》|台《だい》に|頬《ほお》|杖《づえ》をついて、独り言のようにいった。
美希は、大鍋に煮干しを入れながら、百代の悪夢とは何だったのだろう、と思った。ずっと昔のこととは、結婚する前のことだろうか。
百代は、|伊野町《いのちょう》から嫁いできた女だ。年をとって、顔の肉も|弛《たる》んできた今の姿からは想像もつかないが、道夫と交際中は、濃い化粧に派手な|恰《かっ》|好《こう》をして家に訪ねてきて、家族の|度《ど》|胆《ぎも》を抜いたものだった。かなり深い関係のあった男にふられた腹いせに、年下の道夫に手を出したという|噂《うわさ》もあった。
どんどんと南廊下に足音が響いたかと思うと、次に兄の道夫が台所に現れた。筋肉質の体格で、白髪の混じりはじめた髪を短く切り|揃《そろ》えている。元来、無口な性格とはいえ、いつもは|挨《あい》|拶《さつ》くらいは交わすのに、今朝は美希が、おはよう、といっても、道夫は|喉《のど》の奥から|唸《うな》るような声を出しただけだ。
道夫は、卓袱台に新聞を広げている妻の|鰻《うなぎ》のような背中を|一《いち》|瞥《べつ》すると、渡り廊下の先の洗面所に消えた。
ふさにしろ、兄夫婦にしろ、今朝は誰もが寝覚めが悪いらしい。美希は、釈然としない気分で、冷蔵庫を開いて、朝食の|惣《そう》|菜《ざい》の材料を見つくろった。
野菜炒めにしようと思い、|玉《たま》|葱《ねぎ》と|韮《にら》とハムを取って、流しに立つ。
百代は、まだ悪夢のことが忘れられないらしく、しきりに胸元をぱたぱた|叩《たた》きながら新聞に視線を走らせていた。
彼女は低血圧だといって、起きてすぐは動かない。それでも、三人の子供が小さい時は、頑張って朝早くから立ち働いていたが、末子の|満《みつ》|文《ふみ》が、美希の弟の芳男の家に居候して、高知市内の高校に通うようになると、早起きの習慣はさっさと取り止めてしまった。
百代に手伝いを頼んでも、無駄だとわかっていた。結婚当初から、百代は、義理の妹の美希には横柄に振舞った。子育てが大変だから、食事はあんたが作ってくれ、洗濯物を畳む暇もないから、美希さんがやってね。百代は自分の子育てにかこつけて、美希に家事を押しつけてきた。|姑《しゅうとめ》の富枝には何かと気遣いを見せる百代だが、美希は自分の手足の一部と思っているかのようだった。
父の|幹《かん》|一《いち》が亡くなり、道夫が家督を継ぎ、百代がこの家の主婦となると、ますます遠慮はなくなった。面とむかって命令こそしないが、美希がいる時は家事を怠ける。放っておいても、美希がしてくれると思っているのだ。美希も文句はいわないことにしていた。百代と対立すれば、自分の居心地が悪くなるだけだった。
「ああ、もう、こんな時間やぁ」
元気な声がして、二階からショートカットの髪を乱した理香がばたばたと降りてきた。すぐに台所に顔を出すと、味噌汁の具を入れていた美希に、おはよう、美希さん、と笑いかけた。
二十一歳になる理香は、色白の丸顔に大きな目の娘だ。百代譲りの勝気な性格だが、陰にこもってないので誰からも好かれる。幼い時から叔母のことを、友達のように「美希さん」と呼んでいた。
百代は新聞を畳むと、冷蔵庫を|覗《のぞ》いている娘にいった。
「今日から仕事やゆうに、夜遅うまで起きちゅうきや。あんなにステレオの音、大きゅうして、近所迷惑で」
「寝坊したんは、そのせいやないわ。ゆうべはへんな夢ばっかし見て、よう眠れんかったがやき」
野菜を刻んでいた美希の手が止まった。
いったいどういうわけだろう。昨夜は誰も彼もが悪い夢を見たようだ。
百代は新聞を折りたたんで畳の上に置くと、よっこらしょ、と立ちあがった。
「理由はなんやろうと、仕事中に居眠りだけはせんといてや」
「ええもん。どうせ今日は始業式だけや。仕事も半日で終わるき」
理香は母の言葉を無視して、冷蔵庫から出したパンをトースターに押しこんだ。家族と一緒の御飯と味噌汁の朝食を嫌っている理香は、毎朝、自分で食事を作る。
百代もようやく朝食の準備をする気力が|湧《わ》いてきたらしい。台所から|布《ふ》|巾《きん》を取って戻って|卓袱《ち ゃ ぶ》|台《だい》を拭きはじめた。
理香が、インスタントコーヒーの瓶を開けながら独り言のようにいった。
「ああ、また一学期がはじまるわ。今年は、二人、新任の教師が来るゆうて聞いたけど、どんな人やろ」
「一人は、若い男の先生やよ」
美希の返事に、理香が驚いたように聞き返した。
「どうして知っちゅうが」
美希は少し優越感を覚えながら、熱したフライパンに刻んだ野菜とハムを入れた。
「昨日、尾峰で道を聞かれたがよ。永田さんのところに住むんやって」
「永田さんとこに」
茶碗の用意をしていた百代が大きな声で聞き返した。
「なんでまた」
池野村でアパートに入れなかったという、晃から聞いた話を告げると、理香が興味を持った様子で|訊《たず》ねた。
「どんな人やった、美希さん」
昨日、会った青年の姿を思い出すと、|微笑《ほほえ》みが顔に浮かんだ。
「かっこええ人よ。皮ジャン着て、バイクに乗って……」
理香が目をまるくした。
「暴走族みたいや」
美希は噴きだした。
「ちがう、ちがう。暴走族やないわ」
「誰が暴走族やと」
茶の間に戻ってきた道夫が、話に割りこんだ。
「池野中学の新任の先生なんやって」
百代の言葉に、美希が慌ててつけ加えた。
「暴走族やないよ。お兄さん、間違わんといてや」
「そりゃ、中学の先生が暴走族やったら問題じゃ」
道夫はどかりと卓袱台の前に座ると、いかつい|猪《い》|首《くび》にかけたタオルでまだ|濡《ぬ》れていた口のまわりを拭いた。
炊飯器から白い湯気が立ちはじめ、スイッチがぱちんと切れた。美希は野菜炒めに手早く味つけして皿に盛ると、炊飯器を開けた。炊けたばかりの御飯を、まず仏様用に取り分ける。
毎朝、仏様へのお供えを用意するのは、母の役目だった。いつもなら、この時間には台所に現れているのに、今日はどうしたのだろう。まだ寝ているのだろうか。
美希は手を|濡《ぬ》らすと、炊飯器の真ん中の御飯を掌に乗せた。焼けるような熱さに顔をしかめながら、丸い団子のようなおにぎりを作る。昔はそば粉をこねて団子を作ったというが、最近では白米で代用している。出来上がった米の団子を四個ずつ、二枚の帆立貝の皿に盛って、盆の上に置いた。
「いかん、今日はもう四月七日か」
新聞を見ていた道夫が、驚いたように|呟《つぶや》いた。そして、卓袱台に茶碗と小皿を並べている百代にいった。
「先祖祭りは、来月やないか。おい、来月のいつやろう」
百代が茶の間の壁に|貼《は》ってあるカレンダーに目を遣ったが、唇をへの字に曲げた。
「そんなん、知らんわ。確か陰暦の四月の最初の満月の日やなかったっけ。とにかく日にちは、毎年、|頭《とう》|屋《や》が教えてくれるき心配いらんよ」
「今年は、うちが頭屋なんや」
百代は薄い|眉《まゆ》をひそめて、あら、と声を|洩《も》らした。
また先祖祭りがやってくるのか。
一年が過ぎるのは、なんと早いのだろう。
美希は、やかんをガスレンジに載せて、ため息をつきそうになった。
先祖祭りは、坊之宮一族にとっては、年に一度の重要な|祭《さい》|祀《し》だ。尾峰出身の坊之宮の姓を持つ一族が一堂に会して、墓地にある先祖の塚に参り、そこで飲み食いする。毎年、回り持ちで、頭屋といって、祭りの準備にあたる家が決まっている。
子供の時は、先祖祭りが楽しみだった。それは晴れ着を着て、|御《ご》|馳《ち》|走《そう》が食べられる日を意味していた。日頃は顔を合わせない高知市や伊野町に出て行った分家の子供たちとも、一緒になって遊べた。
だが、大人になり、同世代の一族の男女が次々に結婚していくと、美希は自分がいつか先祖祭りの輪からはじき出されてしまったことに気がついた。男は、家を代表して、祭りに参加する。女は、当主の妻という立場を得る。子供でもない妻でもない美希のような女には、先祖祭りに参加する正式な資格がないのだ。
たとえ美希が経済的に自立して一人暮らしをはじめても、頭屋が回ってくることはないだろう。女だからだ。尾峰では、家というものは、男が中心にいないと存立しない。結婚していない女が家を作ることはできない。
それに気がついてから、美希は先祖祭りに対して、冷やかな感情しか抱けなくなった。
「こりゃ、早いところ、本家の隆直さんに日取りを聞かんといかんな」
「隆直さんが知っちゅうやろか。長老の治さんに聞いたほうがええがやないが」
道夫と百代の話は続いていた。その横にコーヒーカップを持った理香が座って、はしゃいだ声をあげた。
「ねえ、お母さん。私、今年の先祖祭りは、着物にするで」
「勝手にしいや。それより、あんた、満文には、先祖祭りには絶対、戻るがやと、きっちりゆうちょいてや。あの子ゆうたら、高知の高校に行きだしてから、めったと家に顔を出しもせん」
「なに、芳男が連れて来るわ。それより、隆直さんとは一遍、話して、坊之宮の分家連中の連絡先を聞かにゃいかんのうし。博文にも手伝うてもらわんと間に合わんぞ」
美希は仏様に供える貝皿の盆を持つと、|賑《にぎ》やかな兄の家族の会話に背を向けて、台所を出た。
庭に面した硝子戸から入ってくる日射しが、廊下を|艶《つや》やかに照らしている。兄夫婦の部屋の障子が開け放しになっていた。中を|覗《のぞ》くと、まだ布団が敷かれたままだ。
美希は乱れた敷布から目を|逸《そ》らせて、隣の母親の居室の前に立った。
「お母さん、おはよう」
声をかけたが、返事はなかった。美希は、そっと障子を開けた。
六畳の部屋に、布団が敷かれている。しかし寝床は空だった。慌てて起きたように、掛け布団がぺろりと白い腹を見せてめくれている。いつもきちんとした母に似つかわしくなかった。
部屋を見回すと、奥の仏間との|境《さかい》の|襖《ふすま》が半間ほど開いているのに気がついた。起きたその足で、仏間に行ったのだろうか。美希は部屋に入ると、仏間に近づいた。開いた襖の間から、薄暗い三畳の間が見える。
「おるの、お母さん」
美希は仏間に足を踏み入れた。
明かりもつけずに、母が座っていた。桜の木で作った大きな仏壇の前で、身じろぎもせずにへたりこんでいる。寝巻き姿で、頭頂の薄くなった髪の毛も乱れたままだ。背中を丸め、首を突きだしたその様子は、|薄《うす》|闇《やみ》に巣くう影法師のようだ。
「どうかしたの」
美希は横に座って盆を置くと、母の顔を|覗《のぞ》きこんだ。力なく垂れた四角い|顎《あご》。半ば開いた口から吐かれる荒い息。いつもの|毅《き》|然《ぜん》とした態度は消えている。
彼女は母の肩を揺すった。
「お母さん、何があったが」
富枝がゆっくりと美希に顔を向けた。隣室からの光に、母の顔が浮かびあがった。|皺《しわ》に囲まれた目が思い惑うように揺れている。口をもぐもぐと動かしたが、声がでないようだった。|喉《のど》に|痰《たん》の絡まった音がした。
「何やの、お母さん」
富枝はごくりと|唾《つば》を|呑《の》みこんだ。そして、美希の顔をもう一度見ると、枯れ木のような手で顔を覆って|呻《うめ》いた。
「いや、なんちゃあじゃない」
「|嘘《うそ》、何かあったんやろ。何やの」
母は頭を横に何度も振った。やがて手を|膝《ひざ》の上に下ろした時には、もう普段の頑固そうな顔に戻っていた。
「何でもない、いいゆうやろ」
少し|苛《いら》|立《だ》った口調でいい返すと、横に置かれたお供えの盆に目を止めた。
「ああ、おおきに。仏様のお供えを持ってきてくれたがかえ」
母は一枚の貝皿を取ると、仏壇に供えた。そして「先祖様之霊」と金文字で書かれた黒塗りの|位《い》|牌《はい》に向かって、両手を合わせた。
「御先祖様、坊之宮一族をお守りつかあさい」
娘を無視した態度に、美希はそれ以上、問いただすのはあきらめて立ちあがった。
「朝御飯の用意、できちゅうきね」
廊下に出たとたん、背後で、ぱたん、と小さな音がした。振り向くと、母が仏間の襖を閉めたところだった。すぐに中から、ぼそぼそと声が聞こえてきた。
「不動、釈迦、文殊、普賢、地蔵、弥勒、薬師……」
善光寺念仏だった。昔から富枝は、心配事が起こるたびに、十三仏の名を順に唱えるこの念仏を|捧《ささ》げてきた。
今回は、何が母をあれほど動転させたのだろう……。
美希は|憂《うれ》いを含んだ顔で、閉ざされた仏間を見遣った。暗い仏間から|洩《も》れる母の念仏は、太陽の日射しの降りそそぐ廊下へと静かに流れ続けていた。
『|乾《いぬい》医院』と書かれた玄関の硝子戸を押して、中に入った。上がり口の横に重ねられた赤いスリッパを引きだしていると、|衝《つい》|立《たて》で仕切られた待合室から、男のしゃがれ声が聞こえた。
「まっこと、ゆうべは、いやな晩じゃった」
ここでも昨夜のことを話している。スリッパを履いていた美希の胸に、漠とした不安が広がった。
富枝は奇妙な態度をとり続けていた。朝食も断り、思い悩む顔をして縁側から庭を眺めていた。気になった美希は、仕事に行くのは午後からに決めて、午前中は母の様子を|窺《うかが》って過ごした。昼頃になって富枝は、今日は病院に高血圧の薬をもらいに行く日だといいだしたが、その気力もなさそうだったので、美希が仕事場への道すがら立ち寄ることにしたのだった。
「次から次に変な夢を見ましての」
話し声は続いている。美希が衝立の向こうに行くと、L字形に並んだビニールの|長《なが》|椅《い》|子《す》に、四人、座っていた。一人は味元で、いつもの|杖《つえ》を玄関に置いているらしく、手持ち|無《ぶ》|沙《さ》|汰《た》に手を|揉《も》んでいる。どこも悪いところはなさそうな味元がここに居ても、美希は驚かなかった。きっと、村一軒のこの病院に不備はないか、偵察がてら来たのだろう。
彼の隣にいるのは、毛糸の肩かけを羽織った「お琴さん」と呼ばれている老女だ。何かにつけて病院に来ている常連で、たまに母の会話に出てくるので名を知っていた。あとは、足に包帯を巻いている初老の男、そして、百代くらいの年頃の花柄のエプロン姿の女だ。二人共、顔は知っているが、名前は思い出せなかった。
話していたのは、足に|怪《け》|我《が》をした男だったが、待合室に入ってきた美希に気がついて、言葉を切った。美希は一同に|会釈《えしゃく》をして、受付の前に行った。
受付の女に、薬をもらいに来たことを告げると、相手は眼鏡ごしに美希の顔を見た。
「今日は、お母さんじゃないがですか」
「ええ。母はちょっと具合が悪うて」
「あれまあ、どうかしたがですか」
美希は、ふさぎの虫なのだ、と答えて、長椅子の隅に座った。|膝《ひざ》の上に愛用の|籐《とう》製の|手《て》|籠《かご》を載せて、背もたれにくつろぐと、味元が途切れた会話を引き取った。
「わしも、ゆうべは怖い夢を見たぞ」
その場の者の視線が、彼に集まった。花柄のエプロン姿の女が、ポケットから鼻紙を引き出しながら聞いた。
「どんな夢でしたぞね」
味元は唇を舌で湿した。
「わしゃあ昔、殺生人やったろう。|猪《いのしし》やら|鹿《しか》やら|撃《う》ちよったが、九百九十九匹目で止めたがじゃ。千匹目の殺生の時に、おかしげなことが起きるゆうけにのう。ほいたところが夢の中で、わしゃまた鉄砲を持って山に行きよった。それも真夜中よ。山ん中の猪の水浴び場で、じいっと泥の中に伏せて、何ぞ出てくるか、待ちよった。体が骨の|芯《しん》から|冷《ひ》ようて、たまらんがぞぇ。けんど、じれたらいかん、待たにゃいかん、思いながら、どれっぱあ待っつろう。まっ暗闇に、だんだか足音がしてきた。千匹目の獣じゃ。わしが鉄砲を構えて待ちよったら、木をたいちゃ揺るがして出てきたがやけんど、それがたまるか」
味元は言葉を切った。
その場にいた者が、興味をそそられたように味元の口許を見つめた。
「何やったがぞね」
琴がこわごわ聞いた。
味元は、にやりと笑った。頬の|皺《しわ》が波のように寄った。
「うちの死んだお婆やったぞ」
その場の者は、笑っていいのか、怖がったほうがいいのかわからず、困った顔をした。しかし味元は冗談のつもりだったらしい。一人でからからと笑った。
エプロン姿の女が、大きな音をたてて鼻をかんだ。
長椅子の上で正座していた琴が、居心地が悪そうに|膝《ひざ》を崩していった。
「誰ぞ、昨日の夜の空を見ましたかの」
「いやあ、見ちょらんが」
「あてもゆうべは、夜中にぱっちり目が覚めたがですらぁ。もう十二時もとっくに回っちょった頃でしたろう。ひょいと窓の外を見たがやけんど、それがえらい暗いがですら。ただの夜やない。それより、まっとまっと、炭で塗り|潰《つぶ》したみたいに暗かったきねぇ。あてはおとろしゅうなって、布団をひっかぶって寝えてしもうたけんどねぇ」
琴は寒気を覚えたのか、毛糸の肩掛けを引きあげた。
「夜は暗いに決まっちょりますよ」
そっけなくいって、鼻紙を丸めて屑箱に投げ捨てたエプロンの女に、琴は静かに向き直った。
「おまさん、|高《たか》|市《いち》から嫁いできたがですろ」
女はためらいがちに|頷《うなず》いた。琴は|足袋《たび》の先を|揉《も》みながら、|諭《さと》すように続けた。
「尾峰は、高市みたいに谷の底やない。空に近いきに、まっと明るい夜になりますらぁ。けんどゆうべの夜は普通やなかった。見たこともない暗闇が、そこらへんに|湧《わ》いてでよった。まあ、こんなことは、尾峰に生まれた者にしか、わかりゃせんですろうがの」
琴は、高市から来た女を哀れむようにいった。エプロンの女は不満気な顔をした。
「坊之宮さん。お薬、できましたよ」
受付から声が響いた。
美希は立ちあがると、受付に歩いていった。そして受けとった薬を籠に入れると、皆に|会釈《えしゃく》して、待合室を出た。
医院の硝子戸を閉めると、美希は、ほっとした。もう昨夜の話はたくさんだと思った。彼女は、待合室での会話を払い落とそうとするように長い黒髪を揺らすと、村道を下りはじめた。
午後のぽかぽかした陽気の中、子供たちが路上で陣取りをして遊んでいる。道端の畑では、頭に白い|手《て》|拭《ぬぐ》いをかぶった女が新しい|畝《うね》に種を|蒔《ま》いていた。
いつも通りの平和な村の風景に、美希の心も軽くなってきた。
坂道を曲がったところに、永田栄作の家が見えた。道路の縁から宙に張り出して立つ小さな家だ。尾峰の道路脇の家によく見られる造りで、二階が入口になっている。
家の青く塗られた板壁の前に、晃のバイクが止まっていた。もう学校から帰ったのだろうか。理香が、今日は始業式だけだといっていたことを思い出しながら、家の前を通り過ぎようとした時、がらりと玄関の格子戸が開いて、晃が出てきた。丸首の草色のセーターに、ジーンズを|穿《は》いている。
彼女を見て、晃の口許がほころんだ。
「こんにちは、美希さん」
昨日、自分の名を告げた覚えはなかった。驚いている美希に、晃はつけ加えた。
「|姪《めい》ごさんにお会いしましたよ」
理香から名前を聞いたのだ。理由がわかると、当然のことだった。
「|手《て》|漉《す》き和紙を作っているそうですね」
「あの子、そんなことまで話したがですか」
晃は、ジーンズのポケットに両手を突っこんで、美希の表情を|窺《うかが》うように聞いた。
「一度、見せてもらえませんか。和紙作りの現場なんか、まったく知らないんです」
美希は手を横に振った。
「現場なんて、おおげさなもんじゃないですよ。一人でこつこつ漉いているだけで。奴田原先生が見たら、がっかりすると思います」
笑いに紛らせようとした美希の目が、晃の視線とぶつかった。黒い|瞳《ひとみ》が揺るぎなく自分を見つめている。彼女は落ち着かない気分になった。
「いつでも、いらしてください。どうせ毎日、やりよりますから」
「じゃあ、今日も?」
美希が|頷《うなず》くと、晃は、ちょうど|暇《ひま》|潰《つぶ》しに村を散歩しようと思っていたところだから、見てみたいといいだした。
「ええ、どうぞ、おいでください」
美希は戸惑いながら答えた。
晃はポケットに手をつっこんだまま、彼女の横に並んで歩きだした。
「昨夜、よう眠れましたか」
美希が聞くと、晃は気持ちよさそうに空を見上げた。
「ええ。ぐっすりと。どうしてですか」
美希は慌てて言い訳した。
「引っ越したばかりだと、寝つかれないがやないかと思うたんで……」
晃は苦笑して、かぶりを振った。
「引っ越しには、小さい頃から慣れているんです。父が四国電力に勤めていましてね。四国のあちこちを転々として育ちましたから」
「ほんなら、いろんな町で生活したがですね。なんだか楽しそう」
「子供の頃、引っ越しが多いってのは、あんまりいいことじゃないですよ。転校生というだけで|苛《いじ》められたりしたから」
晃はぶっきらぼうに応えた。
あまり、楽しい子供時代ではなかったような口ぶりだった。
永田の家から二十メートルほど行くと、村唯一の商店街に入る。店屋の前を通り過ぎると、買物客や店の者の視線が二人に集まった。男性と連れ立って歩いていることを、口さがなくいわれるかもしれない。美希の頭にそんな考えが|過《よぎ》り、すぐに馬鹿げたことだと打ち消した。
四十を超えた女が二十代の男と歩いているだけで、誰が|噂《うわさ》するだろう。
村人が見ているのは、晃だ。尾峰に来た新しい人間だからだ。
美希は自分の自意識過剰ぶりがいやになって、足を早めた。晃が悠々とした足どりでついてくる。やがて昨日、晃と出会った、林道との合流地点に出た。
林道を横切る時、晃ははじめて気がついたように、斜面の上に目を止めた。
「こんなところに墓地があったのか」
「うちの坊之宮のお墓です」
「ずいぶん大きいんですね」
彼は林道の縁に立つと、|筍《たけのこ》のように突きだした墓標を眺めた。
「奥のほうに五輪塔がありますね。普通の墓じゃないみたいですが」
「御先祖様の塚です」
晃は、額にかかる髪を手で払いながら、美希を振り向いた。
「何ですか、それは」
「あの塚には、尾峰を切り開いた坊之宮家の御先祖様が眠っておられるがです」
彼女は、子孫の長方形の墓石を従えるように、墓地の中央に立つ五輪塔を見遣った。そして、今朝の兄夫婦の会話を思い出して、つけ加えた。
「私たち一族は、毎年一回、あそこに集まって、御先祖様の霊をお|祀《まつ》りするんです。先祖祭りとゆうてますけど」
「先祖祭り?」
晃は|訝《いぶか》しげな顔をした。
「僕の家には、そんな祭りはないな」
「このあたりでも全部の家が先祖祭りをするわけじゃないです。うちは尾峰では一番古い家やき、まだ|律《りち》|儀《ぎ》にやりゆうがでしょうねぇ」
美希は、墓地の東の杉林に続く道に、晃を案内した。
「仕事場は、その道の先なんです」
「お墓の下ですか」
晃がおかしそうに聞いた。
「一族のお墓ですもの。怖いことはありません」
美希は澄まして答えると、先に立って杉林に足を踏みいれた。薄暗い木立の間に、車がやっと通れるほどの狭い山道がくねくねと延びている。冷たい空気が肌を刺す。|木《こ》|洩《も》れ日が下生えの|羊歯《しだ》を照らし出し、林の底を濃淡のある緑色で彩っていた。
「美希さんは、尾峰で生まれ育ったんですか」
隣に並んだ晃が聞いた。
「そうです。ここで生まれて、ずっとここにおります。外に出たのは、短大に行った二年間、高知市に下宿していた時だけです。ほんと、どこにも出ていったことはありませんね」
「でも、旅行くらいはしたでしょう」
「短大の時、友達と屋島に行ったくらい。中学の修学旅行も|道《どう》|後《ご》温泉やったし。私、四国から出たことがないがですよ」
美希は、晃の驚いた様子に気がついて|微笑《ほほえ》んだ。
「そんなに珍しいことじゃありません。尾峰は山深いところですき、明治時代に入ってからも、海も見んで一生を終える村人は多かったといいますから」
晃はあきれたようにいい返した。
「でも今は、海外に行くのが普通だって時代ですよ。車も飛行機もある。四国から出たこともない人は珍しいですよ」
美希は、杉の小枝の散らばった地面に視線を落とした。
「短大を卒業して、この村に戻ると、仲の良かった幼な|馴《な》|染《じ》みは結婚したり、村を出たりして、一緒に旅行に出る友人もおらんようになってました。母が出不精のたちなので、その血を受け継いだのかもしれません」
「でも、高校の修学旅行で、九州か、京都かに行ったでしょう」
その言葉は矢となり、心に突き刺さった。
彼女の唇が引きつった。
「高校の時は、ちょっと病気したもので、行けなかったんです」
美希の脳裏に、昨夜、見た悪夢が浮かんだ。首に|臍《へそ》の緒を巻きつけていた赤子の姿。
生まれてすぐ、死んでしまったあの子……。
彼女は|爪《つめ》が肉に喰いこむほど拳を握りしめた。ちがう、あの子ではない。美希は、心の中で叫んだ。
「僕もそうですよ」
晃の返事が耳に飛びこんできた。彼女はとっさに何のことかわからなかった。
彼は大きな黒い|瞳《ひとみ》で遠くを眺めた。
「高校の時、僕は荒れてましてね。バイクを乗りまわし、夜遅くまで外で酒を飲んだり、煙草を吸ったりして。まあ、問題児だったんですよ。それで停学処分をくらって、修学旅行も行けなかった」
今の晃の穏やかな顔からは、そんな思春期は想像もつかなかった。しかし、その鋭く輝く|瞳《ひとみ》や、意志の強そうな唇、がっちりした|顎《あご》の線に、若い頃の晃の危険な野獣のような|匂《にお》いが残っている気がした。
彼は、美希の視線に気がついて、照れた顔をした。
「つくづく馬鹿だったなと思うんだけど、あの頃、やけに両親に反抗してね。両親は、僕のことを少しもわかってくれないと恨んでいた。……でも、親といっても、別の人間だ、自分のことを理解してくれなくても、当然なんだと考えたら、ふっ切れた。それで一浪して、東京の大学に入ったんです」
在学中に定年を迎えた父親が、高知市内に家を買って住みはじめた。そこで大学を卒業すると、高知県の教員採用試験を受けたのだという。
「兄がいるけど、高松で就職して結婚した。今から親の面倒を見ると決めているわけじゃないんだけど、なんとなく傍にいてやろうと思って、高知に帰ってきたんです」
「いい息子さんを持って、ご両親、幸せね」
晃は肩をすくめた。
「高校の時、あれだけ心配させた罪滅ぼしの気分ですよ」
|二《ふた》|股《また》になった道を右手にとって少し行くと、杉木立が切れて芝の生えた細長い庭に出た。庭は、池野川の流れる谷を見下ろす低い|崖《がけ》で切れている。庭に面した|萱《かや》|葺《ぶ》き屋根の小さな農家を指さして、美希はいった。
「ここが、私の仕事場です」
晃は、へえっ、と|呟《つぶや》くと、興味をそそられたように庭を横切っていった。
平屋の家の向こうには、資材置き場があり、その横を小さな川が流れている。川は、家の先で高さ五メートルほどの滝になって、さらに下に続く段々畑へと流れこんでいた。
「小川つきとは|贅《ぜい》|沢《たく》ですね」
晃は冗談っぽくいって、美希を振り向いた。
「和紙作りには、水が大切なんです。ここは日当たりもいいし、仕事場としては最高です。もとは|大《おお》|伯《お》|父《じ》夫婦の家やったがですが、二人とも亡くなると、住む人がおらんようになりましてね。尾峰を出てしもうた子供さんたちが、売りたいといいだしたので、譲ってもろうたがです」
川の一角に、洗濯場のような小屋が作られていた。紙の原料となる|楮《こうぞ》や|三《みつ》|椏《また》を洗う場所だ。セメントで固められた洗い場の横を、ごぼごぼと音をたてて澄んだ水が流れている。晃は、川から正面の谷へ、そして家の背後の杉林へと視線を移していくと、最後にため息をついた。
「こんなところで仕事ができるのは|羨《うらや》ましいな」
自分の気に入っている場所を|褒《ほ》められて、美希は|嬉《うれ》しくなった。
「中を見ますか」
弾んだ声でいうと、彼女は家のほうに引き返した。
手にした籠の中から|鍵《かぎ》を出し、錠をはずして、縁側の隣の木戸を開ける。黒ずんだ木戸が、がたがたと音をたてて敷居を滑り、八坪ほどの土間が現れた。
土間は、美希がここを仕事場にした時に少し改造してあった。板の間を取り払い、紙|漉《す》きの用具を置いている。しかし、裏の林に面した小窓から射しこむ光は弱く、中は薄闇に包まれていた。
「すみません、今、雨戸を開けます」
美希は、作業台に籠を置いて、土間から茶の間に上がった。板張りの茶の間と、四畳半と三畳の和室二間だけのこぢんまりした家だ。すべての部屋の雨戸を開け放てば、家の隅々にまで光が届く。
美希が明るくなった土間に戻ると、晃は、もの珍しそうにあたりを見ていた。
土間の北は、小さな台所設備と食器棚、紙の染料や材料見本を置いた棚が並んでいる。東の壁には、水洗い場、紙を漉くための水槽、そして圧搾機が置かれ、土間の中央には、大きな木の作業台が設けられていた。
「ここが、和紙工房なんですね。はじめて見ましたよ」
晃の言葉に、美希は微笑んだ。
「和紙工房といえるほどのもんじゃないです。作る量も多くはないし。和紙作りは、けっこう重労働ながです。原料の|楮《こうぞ》や|三《みつ》|椏《また》を、何度も洗って|埃《ほこり》を取って、叩いてどろどろにするまでが面倒でね」
美希は、土間の壁際にある四角い木の水槽を晃に示した。
「そうして作った原料を、この舟の中で、とろろあおいの根から作った|糊《のり》と混ぜ合わせるがです。それでやっと紙|漉《す》きに入ります」
よくわからない顔をしている晃のために、美希は壁にかけていた|簀《す》を取った。簀は、|簾《すだれ》を長方形の枠の底に敷いたような形のものだ。それを今は空の漉き舟の中に入れて、揺する真似をした。
「こうしたら、原液の中に溶けていた紙の繊維が、簀の細い竹ひごの目の上に|溜《た》まります。それで紙の厚さが均一になるまで揺すって、引きあげるがです」
美希は、次に漉き舟の脇の木の台の前に立った。そこには、昨日、漉いた紙がまだ|濡《ぬ》れたまま重ねられている。
「できた和紙は、この|紙《し》|床《と》で一晩置くがです。それを、次の日に……」と、美希は濡れた紙を木の底板ごと抱えあげて、圧搾機の台に持っていって載せた。
「水気をゆっくり押しだして、その後、紙を乾かして出来上がりです」
晃は、紙の上に板を載せ、圧搾機のレバーを回す美希を見つめていた。
「ここのあたりは、昔から和紙作りの盛んだった土地なんでしょう」
「ええ。原料になる楮や三椏が山で採れますきにね。昔は、それを家で蒸して、皮を|剥《は》いで乾かしてから、町に売りに行っていたゆうことです。その頃から、このへんにも和紙|漉《す》きの家が、ぽつぽつあったといいます」
「材料が自生してるのなら、美希さんも原料から作るといいのに」
美希が噴きだしたので、晃は|怪《け》|訝《げん》な顔になった。
「楮や三椏を蒸して、皮を剥ぐゆうのは、そりゃあたいへんな作業なんです。今は池野村の和紙工場から、下処理したものを分けてもらいよりますけど、全部自分とこでやるとなると、女手ひとつじゃ、できません」
「御主人は手伝ってくれないんですか」
理香は晃に、叔母が独身だとはいい忘れたらしい。美希は、圧搾機の下の和紙の湿り具合を指で確かめながら答えた。
「結婚はしてません」
晃は驚いたようだった。
「相手なら、たくさんいたでしょうに」
お世辞をいわれたのかと思ったが、彼は真面目な顔をしていた。
美希は低い声でいった。
「人生、なかなか思うようにはいかないものです」
「まだ、そんなこという年じゃないでしょう」
人生これからという青年が、折り返し地点を過ぎてしまった私をなぐさめようとしている。その|滑《こっ》|稽《けい》さが、美希の神経を|逆《さか》|撫《な》でした。
「私は、もう四十一です。いい年です」
「そうは見えませんよ」
「事実よ。私の人生の花の時期は、もう終わってしもうた。今さら何もできやせん」
吐き棄てるようにいったとたん、美希は、はっとした。
自分は、この年若い青年を相手に何をぶつけているのだろう。心の底に秘めていた想いを、さらけだしてしまった。
晃は、彼女の言葉に驚いたように圧搾機の前に立っている。美希は恥ずかしくなって、目を伏せると土間の外に出た。
外は明るい午後の光に満ちていた。谷底を流れる池野川が銀色に光っている。
彼女は庭に立って、大きな息を吐いた。
どうして、あんなことをいってしまったのだろう。苦い思いが湧きあがった。
美希は、自分の感情を隠すことは上手だった。百代との同居がうまくいっているのも、そのおかげだ。なのに出会ったばかりの青年に心情を|露《あらわ》にしてしまった。
「そんなこというの、美希さんには似合いませんよ」
気がつくと、隣に晃が立っていた。
「だいたい、あなたを見て、誰が人生半分終わった人だと思いますか。そんなにきれいで、まだ若い……」
美希は硬い表情で彼の言葉を遮った。
「奴田原先生こそ若いでしょう。私は、もう年をとってしまいました」
晃は目を細めると、空の|裾《すそ》に打ち寄せた緑の波のような山の|稜線《りょうせん》を見つめた。
「年齢とは、数量で計れないものじゃないですか。時々、僕こそ、自分がものすごく年寄りの気がしますよ」
引き締まった鼻筋から|顎《あご》、|喉仏《のどぼとけ》にかけての線が、石の彫刻のように太陽の光を|撥《は》ね返す。このまま彼の美しい横顔を見ていたら、自分がまだ二十歳そこそこの娘のような錯覚に陥ってしまいそうだった。美希は晃の顔から目を|逸《そ》らせた。
「いやね。奴田原先生。私のほうがずっと年上です。からかわんといてください」
晃は首を横に振ったが、それ以上、何もいわなかった。
ばきばきばき。地面の小枝の鳴る音がしたと思うと、狭い山道から白い乗用車が現れた。車は、庭に頭を出して止まると、運転席のドアが開いて、一人の男が出てきた。カーキ色のジャンパーに、作業ズボン。|緩《ゆる》くパーマをかけた髪に紺の野球帽を被っている。
「あら、土居さん。ようこそ」
美希は慌ててお辞儀をした。
土居誠一郎は、晃に目を遣りながら、挨拶代わりに野球帽のつばに手をかけた。
「お客さんかね。美希さん」
美希が、池野中学に赴任した奴田原先生だと紹介すると、誠一郎は控え目に頭を下げた。
「土居です。池野で、和紙工場をやりよります」
晃が、ああ、と美希に顔を向けた。
「それじゃ、さっき話していた、紙の原料を分けてもらっている和紙工場というのは……」
「ええ、土居さんのところです」
二人の間柄がつかめなくて困った顔をしている誠一郎に、晃がいった。
「今、美希さんに、手漉き和紙の作り方を見せてもらっていたんです」
土居は一重の目を細めた。
「和紙漉きやったら、美希さんの腕は天下一品やきのう」
「もちろん土居さんの仕込みですきね」
美希がお世辞を返すと、誠一郎は野球帽の上から頭を押さえた。
「こりゃ、自画自賛になってしもうた」
誠一郎は大きな声で笑ったが、どこか落ち着かなげな表情で晃を見ていた。晃はそれを察したらしく、美希にいった。
「僕は、これで帰ります。また今度、ゆっくり見せてください」
美希の|喉《のど》|元《もと》まで、晃を引き止める言葉が出かかった。しかしすぐに、彼にも用があるかもしれないと思い直した。
「また、いつでもどうぞ」
晃は、わかった、というように|頷《うなず》くと、誠一郎に|会釈《えしゃく》して杉木立に向かった。
車の脇をすり抜け、山道に入る手前で、足が止まった。
「そうだ、美希さん」
晃が振り向いた。澄んだ|瞳《ひとみ》が、まっすぐ彼女を射た。美希はどきりとして、彼の顔に吸いつけられた。
「奴田原先生はやめてください。晃でいいですよ」
晃の白い歯がこぼれた。
そして彼は軽く手を振ると、|豹《ひょう》のようにしなやかな動きで杉林に消えた。
「都会者は、たいちゃ|馴《な》れなれしいのう」
誠一郎は、晃が消えていった杉林に背を向けて|呟《つぶや》いた。
「感じのええ先生ですよ」
美希が軽くいなして土間に入ると、誠一郎はむっつりとついて来た。
「今日は、今さっき、仕事に出てきたところでしてね」
そういって、圧搾機の下の紙を調べると、水気は切れている。もう乾燥に入ってもいいだろう。圧搾機のレバーに手を伸ばそうとした美希を、誠一郎が遮った。
「俺がやっちゃる」
誠一郎はレバーを緩めた。美希は、壁に立てかけていた、|襖《ふすま》ほどの大きさの木の板を持ってきた。その干し板を誠一郎が受け取った。
「ええですよ。土居さん。放っちょいてください」
「なに、手は多いほどええきに」
慣れた誠一郎の動きは早い。|濡《ぬ》れた和紙を、干し板の表と裏、四枚ずつ、|皺《しわ》ができないように刷毛で貼りつけていく。
彼はいつもこうだった。用のない時でも、ちょくちょく顔を出しては手を貸してくれる。かえって心苦しいのだが、好意を断ることもできない。美希にとって彼は恩人のような存在だった。
誠一郎の家は尾峰にあり、祖父の代から手漉き和紙を家業にしていたが、彼の父の代になると、池野村に土居製紙を設立した。従業員十人もいない小さな工場だが、手漉き和紙が見直されてから、けっこう注文が多い。
美希は、二十六歳の時、土居製紙に勤めはじめた。誠一郎は、美希より二歳年下だが、高校を出てすぐに和紙作りに入ったので、すでに一人前の職人になっていた。慣れない仕事に戸惑っている美希の面倒をなにかと見てくれたのは、彼だった。美希が独立を決意した時も、使わなくなった道具を回してくれたり、取引先を紹介してくれたりと、多方面にわたって世話になった。
「すみませんねぇ」
美希は謝るようにいうと、和紙を貼り終えた干し板を外に持ち出した。
まだ陽はあるが、天日では、夕方までには乾きそうもない。家の横にある資材置き場に入ると、中にある押入れほどの乾燥室に干し板を置いた。天気の悪い時や、時間のない時は、機械による熱風乾燥にしているのだ。
美希は、誠一郎が和紙を貼りつける片端から、干し板を乾燥室に並べていった。やがて乾燥室がいっぱいになると、スイッチを入れた。うぅぅんと、低い音をたてて熱風が噴き出したことを確認すると、土間に戻った。
誠一郎は、水洗い場で手を洗っていた。
「おかげで助かりました。今、お茶をいれますき、縁側で休んでてください」
美希は、隅の台所で、やかんを火にかけた。
「なんもせんでええぞ、美希さん。ちょっと顔を出したばあやき」
誠一郎の声が返ってきた。
だが、美希の手伝いの後、茶を飲んで一服することを、彼が楽しみにしているのはわかっていた。
美希は手早く茶をいれると、盆に灰皿も用意して縁側に持っていった。誠一郎はもうそこに腰をおろして、煙草を吸っていた。
二人は並んで縁側に座ると、茶を|啜《すす》った。
南に面した庭からは、春の陽気に包まれた山と谷が望める。庭の|縁《へり》の白詰草の上に雀が舞い降りてきて、ちゅんちゅんと|囀《さえず》りながら跳び歩いている。
「今日は工場はどうしたがです」
美希が聞くと、誠一郎は煙草を口にくわえたまま顔をしかめた。
「それがな、|楮《こうぞ》を洗おうとしたら、川の水が濁っちょって止めたがじゃ」
美希は湯呑み茶碗を盆に置いた。
「川の水が?」
土居は|頷《うなず》いた。
「ほんで尾峰に戻って、池野川の上流を調べてみたら、源流から濁っちゅう。雨が降ったわけでもないに、土砂が混じりこんじょった。明日になっても水がきれいならんかったら、困りもんじゃ」
「そうですねぇ。うちの横の川は濁ったように見えんかったけど、ちゃんと調べたほうがええですね」
美希も|眉《まゆ》をひそめた。
和紙作りは水が命だ。外皮を|剥《は》いで下処理をすませた楮や|三《みつ》|椏《また》を|大《おお》|釜《がま》で煮て、洗い、|灰汁《あく》抜きをして、また洗う。洗うたびに、|塵《ちり》を取っていく。原料に少しでも塵が混じっていると、いい紙はできない。
「まあ、工場の者は、休めるゆうて喜びゆうき、悪いことばっかりじゃない」
誠一郎は片手で湯呑み茶碗を持って、あきらめたようにいうと、話題を変えた。
「この頃は、どんなもんを作りゆうかね、美希さん」
「相変わらず、押し花入りのカードや、葉書といった小間紙です。売れ行きもええみたいで、注文もそっちが多いですし」
「美希さんの作るカードは、若い女の人が好きそうじゃもねぇ」
彼は地面に煙草の灰を落として|微笑《ほほえ》んだ。
美希は、少しためらってから応えた。
「けど、今度、もっと違うたもんに挑戦してみたいと思いゆうがです」
「違うたもんて?」
誠一郎が美希の顔を覗きこんだ。細い目の奥に、和紙職人らしい好奇心が宿っていた。
美希は急須に湯を注ぎながらいった。
「土佐七色紙ゆうて、ありますやろう」
誠一郎は顔を庭に向けると、|顎《あご》を|掻《か》いた。
「土佐和紙に昔から伝わる七色の紙やろ。確か草木染めで七色を出したがや。伊野町らへんやったら、今も作りゆうはずやが」
美希はポットを畳の上に置いて、居住まいを正すと誠一郎に説明した。
「七色とは、黄色、浅黄色、紫色、|茜色《あかねいろ》、|萌《もえ》|黄《ぎ》、柿色それから、青色です。伊野町で作りゆうがは、その七色を別々に染めわけた紙ですろう。けんど私は、七つの色を一枚の紙に漉いてみたいと思いゆうがです。土佐七色紙は、原料の紙の繊維自体を染めてから漉く、漉き染めで作りますよね。私はその時、七色の繊維がうまく混ざるように漉いたらええと思うちょるがです」
土居は短くなった煙草を口にくわえて、思案するように吸った。
「七色が混ざり合うたら、いったい、どんな色になるがやろ」
美希はかすかに首を横に振った。
「わかりません。ただ私、あの七色が好きながです。草木染めのせいか、どの色も上品で、柔らかで、他の色と|喧《けん》|嘩《か》しません。一枚の紙に漉いてみたら、なんともいえんきれいな色が出てくると思うがです」
たぶん、それは虹の光沢のある紙になるだろう。目を近づけると、七つの色に染まった繊維の一本、一本が複雑に絡み合い、ひとつの色を作りだしているのだ。
美希は明るい日射しに満ちた庭を眺めながら、それは光の色だ、と思った。目を細めると見えてくる、虹の成分で織りなされる色。
誠一郎は煙草の煙をゆっくりと吐きだすと、|木《こ》|洩《も》れ日が揺れる庭を眺めた。
「もしできたら……きれいやろうな」
彼はつと、美希の顔を見つめた。
「やってみや、美希さん。原料やったら、俺が手に入れちゃる。|楮《こうぞ》やのうて、|雁《がん》|皮《ぴ》を使うたらどうや。あの繊維は短いし、|艶《つや》はあるし、色もきれいに混ざるんやないか」
「いえ、土居さんに、これ以上、ご迷惑をおかけしとうはないですから」
「迷惑じゃあるもんか。俺は美希さんのためやったら……」
誠一郎はいいかけて、ぷつと言葉を切った。そしてもどかしそうな顔つきで、指先まで燃えていた煙草を灰皿に押しつけた。
美希は、誠一郎が何かいうかと待っていたが、彼は新しい煙草に火をつけただけだった。
美希は二人の湯呑みに、急須の新しい茶を注いだ。
かつて、美希と誠一郎の間には淡い恋心が芽生えていた。工場に勤めはじめた頃のことだ。口さがない他の工員たちは、二人の間を|噂《うわさ》したものだった。しかし誠一郎は、まもなく母親の勧めで見合結婚をした。一人息子で、母親に甘やかされて育った彼は、反抗なぞできなかったようだった。
そして美希の心に芽生えていた|仄《ほの》かな恋は消えてしまい、二人の間には優しい友情だけが残った。それは誠一郎が結婚五年目で妻を亡くしてからも、変わらないと信じていた。
しかし、誠一郎の父が七年前に亡くなってから、彼は少しずつ変わってきた。工場の経営が自分の両肩にかかってきたことが、彼を精神的に自立させたようだった。母親の影は薄くなり、美希に対する態度に、友情以上のものを表すようになった。
美希は、それに戸惑いを覚えていた。彼女の中の彼に対する恋心は、もう死に絶えていたから。
それでも美希は時々夢想する。もし誠一郎が自分に結婚を申しこんでくれるなら、案外、受けるかもしれないと。
このまま兄の家に厄介になるより、そうしたほうがまだしも幸福に思えた。しかし、誠一郎は決してその言葉は口にしない。
家の奥で電話が鳴った。
「ちょっと、すみません」
美希は誠一郎に謝ると、腰を浮かせた。
大伯父夫婦が住んでいた頃から引かれている、ダイヤル式の黒い旧式の電話は、縁側に面した座敷の床の間に置かれている。美希が受話器を取って口を開く前に、甲高い声が耳を打った。
「もしもし、美希さんかえ。土居ですけど」
誠一郎の母の克子だった。美希は、この女性が苦手だった。自分より年下の女には一様に高圧的な|喋《しゃべ》り方をする。
「こんにちは、ごぶさたしております」
美希の挨拶に、克子は、おざなりな返答をしただけで、せっつくように、自分の息子が行ってないか、と聞いた。
「おられますよ」
美希は、縁側の誠一郎に受話器を差しだした。
「土居さん、お母さんから電話です」
誠一郎は顔をしかめて、電話口に出たくない、というふうに手を振った。
「どうせ、すぐ工場に戻れ、ゆうがじゃろう。今、戻るゆうちゃってや」
美希が再び受話器を耳にあてると、克子のきんきんした声が響いた。
「聞こえましたわ。美希さん。悪いけんど、息子を早う帰しちゃってや。工場の水の濁りが消えたき、もう仕事を再開せにゃいかんき」
そして美希がろくに返事をしないうちに、がちゃんと電話が切れた。
黒々と光る受話器を置きながら、美希の心に後味の悪さが残った。
克子は、息子が美希に近づくのを快く思っていない。だから二人の間に|噂《うわさ》が立った時、息子に見合いを勧めたのだ。もっとも、自分の選んだ嫁も、やはり克子の気にいらなかったらしい。誠一郎の嫁が死んだのは、克子が何かにつけて|苛《いじ》めたせいだと、村の者は噂していた。
縁側に戻ると、誠一郎はつまらなそうに腰を上げた。
「ほんなら、美希さん。|御《ご》|馳《ち》|走《そう》さん」
「いいえ、私こそ、手伝うていただいて」
「お安い御用じゃ」
誠一郎は煙草をジャンパーのポケットに突っこむと、野球帽の縁に手を遣って挨拶をした。そして車に戻ると、クラクションをひとつ鳴らして、杉林をバックさせていった。
美希は縁側を片づけて、土間に戻った。流しで湯呑み茶碗を洗う。冷たい水が|撥《は》ね返って、頬に当たった。
何を馬鹿なことを考えていたのだろう。
美希は苦々しい気分で思った。
克子がいる限り、誠一郎が結婚話をいいだすはずはないのに。たとえ申し込まれたとしても、うまくいきはしない。
茶碗を洗い終わると、資材置き場に戻った。もう和紙は乾いている。乾燥炉のスイッチを切って、干し板を庭に出して、乾いた和紙を竹のへらで丁寧に|剥《は》がす。和紙の貼りついた干し板がなくなると、座敷に上がって、できた和紙に|埃《ほこり》がついていないか、細かに点検していった。最後に手漉き和紙をまとめてビニール袋に包んで、部屋の隅に重ねた。
今日は、ここまでにしておこうと思った。それほど仕事をしたわけではないが、妙に疲れていた。
美希は立ちあがって、家の雨戸を閉めていった。戸締りを確かめ、土間の木戸の錠を下ろす。川のせせらぎに包まれて、ひっそりと|佇《たたず》む仕事場に背を向けた。
杉林の中を、じゃりじゃりと土の音をたてて歩く。夕方の柔らかな光が、葉の間から|滲《にじ》むように|洩《も》れてくる。
自分はこうして、毎日、この道を往復して老いていくのだと思う。何事も起こらない人生が淡々と過ぎていく。
ふと、胸に熱いものがこみ上げてきた。自己|憐《れん》|憫《びん》とも、憤りともつかない感情が|喉《のど》の奥から|溢《あふ》れて、涙が出そうになった。
美希は、口許をぐっと結んだ。
これでいいのだ。これが自分に授けられた人生なら、受け取ってやる。
美希は今まで、そう思って生きてきた。人生のさまざまな事件を、これも運命だと甘受してきた。こんな考え方をするようになったのは、あのことがあったためだ。あのこと。高校一年の時の恋。そして妊娠……。
美希の足どりが重くなった。
思い出せば、今も心臓が締めつけられる。出産と、子供の死……。
彼女は片手で顔を覆った。
忘れるのだ。もう昔のことだ。
これだから、春はいやなのだ。遠い過去の記憶まで、新芽と共に頭をもたげてくる。
それでも美希の回想は止まらない。
子供を産んだ後、体調を崩した。生理不順と、病気を繰り返した二十代前半。そのために、大学も短大であきらめたし、卒業後は家に帰り、家事手伝いをした。最後に婦人科で診察を受けた時に、医師から、排卵機能が低下しているので、次に妊娠するのは難しいと告げられた。美希が結婚に積極的になれなかった理由でもある。幾つかの縁談も話が出ては、|潰《つぶ》れていった。
そうして美希は、自分の意思だけではどうしようもない事柄を、すべて運命だと受け入れてきた。そう考えなければ、十六歳の時のあの恋愛を悔いることになる。後悔すれば、罪の意識に押し潰される。あの男を愛した罪、子供を死なせた罪……。
美希は大きく息を吸った。杉の|薫《かお》りが全身を巡った。
いえ、後悔なぞしたくはない、絶対に。
彼女は心の中で叫んだ。
山道が切れて、林道に出た。夕日を受けて、路傍の地蔵が朱色に染まっている。毎日、この時間になると谷から吹き上がってくる風に、地蔵の赤い前かけがめくれ上がっていた。
そういえば、今日は地蔵を拝むことを忘れていたことに気がついて、美希は足を止めた。晃と一緒だったので、つい通り過ぎてしまったのだ。
彼女は後ろめたい気分で、灰色の小さな像の前にしゃがんだ。お供え物すら持ってくるのを忘れている。たんぽぽの花をちぎって地蔵の前に置くと、合掌した。
沈む太陽の温もりが背中を包む。耳許で|囁《ささや》くような風の音がする。木の葉のざわめきを聞いていると、気持ちが穏やかになってきた。
これでいいのだ。私の生活は、これで充分、幸せだ。これ以上、何かを求めるのは強欲というものだ。
美希はゆっくりと立ちあがると、|籐《とう》の|籠《かご》を腕にかけて、村道へと入っていった。
集会所を過ぎたところで車のクラクションの音がして、赤い軽自動車が横に止まった。
「家に帰るが、美希さん」
|姪《めい》の理香が運転席の窓から顔を出した。
美希が|頷《うなず》くと、理香は車のドアを開けた。美希が助手席に座り、車はがたごと走りだした。
「遅かったがやね、理香ちゃん。学校は半日じゃなかったが」
「さやかちゃんの店に寄って、お|喋《しゃべ》りしよったがよ。服、買うてしもうたわ」
美希は、後部席に置かれているブティックの紙袋に目を遣った。さやかとは理香の友人で、母親の経営する池野村のブティックの手伝いをしている。|田舎《いなか》に似合わず、けっこうしゃれたものがある。
「新学期やき、服も新調せんとね」
理香のショートカットから|覗《のぞ》くイヤリングのガラス玉がきらきら光る。美希は|眩《まぶ》しそうにそれを見つめた。
「服なら、いっぱいあるやろうに」
「ほんやき、置くところに困っちゅうが。美希さん、何かあげようか」
「けっこうよ。理香ちゃんの服は若作りすぎて、私が着たら、ええ笑い者やわ」
理香が、ほんと、そうやわ、といい、美希は|姪《めい》を|睨《にら》みつけるふりをした。
美希は、この姪とは気軽な口が|叩《たた》けた。理香も、幼い頃から甘えてきた叔母の美希には、両親にもいえないことを平気で打ち明ける。この前までつきあっていた恋人と別れたことも、その男と肉体関係にまでいったことも、美希は理香から聞いて知っていた。
車は狭い村道をのろのろと通っていく。坂道を子供が自転車で降りてきたり、|杖《つえ》を突いた老人が脇の石段から突然現れたりするので、注意しないと危険な道だった。しかも家並みが途切れた場所は、ガードレールもついていない。免許を取って一年目の理香のハンドルさばきは、まだどこか|覚《おぼ》|束《つか》ない。
車が、永田の家の前を通った。晃のバイクはそこに止まったままになっている。理香も気がついたらしく、口を開いた。
「奴田原先生、家におるがやろか」
格子戸はぴたりと閉ざされている。美希は、どうかしらね、と返事した。さっき晃が仕事場に寄ったことを話そうとした時、理香が楽しげに口を開いた。
「美希さんがいいよった通りやった。かっこええ先生やね。これまで池野中学じゃ、田所先生が一番のハンサムやったけど、もう、いかんわ。奴田原先生やわ」
美希はそっと姪の横顔を見た。色白のふっくらとした頬が紅潮している。
彼女は、姪の|膝《ひざ》を叩いた。
「わかった。理香ちゃんが、新しい洋服を買いに行ったわけ。奴田原先生に気にいられたいがやろ」
「ばれたか」理香は舌をだした。
「奴田原先生、二十五歳なんやって。東京の大学出身で、国文学専攻。高校の古文の先生の資格もあるけど、中学生を教えたいゆうて、国語の先生になったと。ほんで高知で二年間、先生してからここに来たがやと」
「よう調べたこと」
理香は得意気に声を張りあげた。
「それに独身で、恋人なし」
美希は、姪の|屈《くっ》|託《たく》のない明るさを|羨《うらや》ましく思った。理香は、結婚というものを人生の最終的なゴールと定めて、何の疑いもなくそこに向かって突っ走っていた。
きっと彼女はそれを手に入れるだろう。そして百代や晴子のように、結婚生活にどっぷりと浸り、文句をいいながらも、手に入れた幸福に満足して生きていくことになる。彼女たちは、そんなふうに生まれついたのだ。
だが、美希は違った。同じものを目指していたはずだったのに、どこかで弾き飛ばされてしまった。結婚して子を産むという、村の女たちが踏襲してきた巨大な流れの中に、百代や晴子の人生は呑みこまれている。しかし美希の生き方は、その横に沿って流れる小さな川だ。どこまでいっても大河に合流できない川。美希は、大河のうねりを聴きながら、ただ流されていくしかないのだ……。
「着いたで、美希さん」
気がつくと、車は止まっていた。
美希は瞬きして、助手席から背を起こした。
目の前に、坊之宮家の灰色の門が|聳《そび》えていた。
「ありがとう。理香ちゃん」
彼女が降りると、理香は隣の車庫の入口ヘと、車を運転していった。
美希は門の前に立って、どっしりした二階建ての家を見上げた。隣接する|甥《おい》の博文の新居、拡張した車庫。それは美希の育った家とは、もう別のものになっていた。祖父母も父も健在で、兄弟と一緒に暮らしていた、美希の家。だが、道夫の代になり、兄の家族構成に合わせて改造された。
そうやって世代交代するたびに、この古い家は少しずつ変容してきたのだ。今は、道夫と百代が核となって形成する兄夫婦の家。大河を下っていく人々の川舟だ。この舟に乗って、兄の家族は、泣いたり笑ったりしながら、時の流れを旅していく。
だが、ここには美希の居場所はない。
「ただいまぁ」
車庫から出てきた理香の声が、庭に響く。
美希は小さな息を吐いて、灰色の門の中に足を踏み入れた。
美希は|闇《やみ》の中で目を開けた。息は乱れ、全身に汗が|滲《にじ》んでいる。
また、夢を見ていた。
赤紫色の肌の赤子が泣いていた。
彼女は不安な気分で、布団の中から周囲に視線を巡らせた。障子から射しこむ薄明かりに、部屋の輪郭が浮かび上がる。壁際の|箪《たん》|笥《す》、小さな鏡台。白いレースの布を掛けた、小学校時代から使っている机、そして本棚。本棚の横の壁に掛けられた熊の柄の手織りの布、その上に下がる小さな……足!
小ぶりの|茄《な》|子《す》のような赤紫色の足が二つ。
美希の目が見開かれた。
天井の隅に赤子が漂っていた。首に|臍《へそ》の緒を長虫のように巻きつけて、膨れた|瞼《まぶた》の下から、じっと美希を|睨《にら》んでいる。憎々しげに|歪《ゆが》む、歯のない口。光を失った黒い|瞳《ひとみ》が、今にも目からだらりと垂れ落ちそうだ。
美希の|喉《のど》から悲鳴が|洩《も》れた。
次の瞬間、首を激しく振りながら、目を覚ました。
彼女は、闇に沈む寝室に一人、横たわっていた。体にのしかかる綿布団の感触が頼もしく思える。
あれも夢だったのだ。
そう思って、天井の隅に目を遣ろうとした美希は、どきりとした。
これも夢だったら、どうしよう。
今も赤子は、熊柄の手織りの布の上で、自分を見つめているのではないか。
彼女は恐怖にかられて、枕元の電気スタンドのスイッチを押した。
かちっ、という音とともに、六畳の部屋が浮かびあがった。淡い光の中で、天井の|四《よ》|隅《すみ》を見た。箪笥の後ろ、机の下、押入れの戸の|隙《すき》|間《ま》の暗がり。ひとつひとつ、|怯《おび》えながら確認していき、何もいないことがわかると、美希はようやく体の力を抜いた。
また見てしまった。この五日間で三度目だ。なぜ繰り返し、赤子の夢を見るのだろう。
やはり、あの子なのだろうか。生まれるとすぐに死んでしまった、あの子。私を恨んでいるのだろうか。
|喘《あえ》ぐような息がこぼれた。
ちがう。子供が死んだのは、私が悪いんじゃない。どうしようもなかったのだ。
……だが、私はあの子の死を願った。
彼女は布団の縁を握りしめた。
この子が死んでくれたら。妊娠中、何度、そう思ったことだろう。腹の子さえ存在しなければ、すべてはうまくいくと思った。誰にも非難されないと信じた。私が死を願ったから、子供は死んだのではないか。だから、あの子は私を恨んでいるのだ。
うぉおおおん、うぉおおん。
どこかで犬の|遠《とお》|吠《ぼ》えがした。
美希はびくっと体を|強《こわ》|張《ば》らすと、掛け布団を|撥《は》ねのけて立ちあがった。
このままでは眠れそうもなかった。
台所に行って、梅酒でも飲めば、気持ちが落ち着くかもしれない。
彼女は引き戸を開けて、廊下に出た。
突きあたりの台所の豆電球の光が、廊下を薄明るく照らし出している。庭側のカーテンと障子の間に、木の床が一本の道のように延びていた。
もう真夜中も過ぎていた。美希は足音を忍ばせて、廊下を進んでいった。母の居室の障子に、弱い明かりが映っているのが見えた。
起きているのだろうか。急に母の顔が見たくなって、美希は障子の桟に手をかけた。
その時、部屋の中から低い声が|洩《も》れてくるのに気がついた。
「ひい、ふぅ、みぃ、よぅ」
母の声だった。念仏を唱えるような単調な声が、廊下へと流れだしていく。
「いつ、むう、なな、やぁ、ここのぉ、とお、……」
こんな夜中に、何を数えているのだろう。
美希は、そっと障子を滑らせた。
寝室は暗く、母はいないようだ。奥の仏間との境に細く開いた|襖《ふすま》の間が青白く輝いている。
「じゅうさん、じゅうしぃ、じゅうごお……」
数え声は仏間から聞こえてくる。
美希は母の寝室に一歩、足を踏み入れた。空気に染みついた老人特有の甘酸っぱい|匂《にお》いが押し寄せてきた。美希は部屋の入口に立って、仏間を|窺《うかが》った。
「おらん。やっぱり、おらん」
母の|苛《いら》|立《だ》った声がした。そして、また、ひい、ふぅ、みぃ、という声がはじまった。
「お母さん、何しゆうが」
美希は声をかけた。
ぴたりと母の声が止んだと思うと、がたがたという音が続いた。美希は寝室を横切ると、仏間の襖を開けた。
母がこちらを向いて正座していた。
背後の黒塗りの仏壇の扉が開いている。天井の蛍光灯の青白い光に照らされた母の顔は、|憔悴《しょうすい》し、頬が|窪《くぼ》んでいた。白い乱れ髪が肩にかかり、|口《くち》|許《もと》が小刻みに震えている。
「美希やったか……」
母は放心したように|呟《つぶや》いた。
「どうしたが。こんな夜中に、何を数えよったが」
美希は仏間を見回した。仏壇の他は、隅に|座《ざ》|布《ぶ》|団《とん》が重ねられているだけの三畳の間だ。数えるものもない部屋だった。
母は首を横に振った。
「なんでもない。眠れんきに、畳の目を数えよっただけじゃ」
「畳の目を?」
美希は拍子抜けして聞き返した。母はしかめ面で|頷《うなず》いた。
それにしても、寝床ではなく、仏間で数えるのは|腑《ふ》に落ちなかった。
「けど、お母さん、さっき何かがおらん、ゆうて独り言をいいよったろう。畳の目がおらん、ゆうのはおかしいやないの」
「畳の目を数えよったがじゃ」
母は有無をいわさぬ口調でいった。
若い頃、看護婦の資格が取りたくて、家出までしたという富枝は、白いものでも黒だといってしまう頑固なところがあった。人当たりは穏やかなのだが、自分なりの規律を持ち、そこから一歩も踏みはずさない。
美希はあきらめて、話の調子を合わせた。
「畳の目を数えたら眠れるがなら、私もやってみようかしらん」
母はようやく表情を和らげた。
「おまんも眠れんがかえ。この頃は誰もかも、悪い夜を過ごしゆうみたいじゃの」
ほんとうだった。美希が最初に悪夢を見た日以来、家族や村の者の会話に、寝覚めが悪いとか、怖い夢を見るという話題が頻繁に出ていた。
「お母さんも悪い夢を見たがかえ」
美希は探るように聞いた。
母の顔の|皺《しわ》が深くなった。
彼女は母のほうに身をかがめた。
「見たがやね、お母さん。私も見たがよ。同じ夢を三遍も。何かあるがやないろうか」
「悪い夢に意味らぁない」
富枝は鋭い声で娘の言葉を遮ると、諭すように続けた。
「人間、誰でも忘れたい昔を持っちゅう。他人にいえもせん、恐ろしいことを考えゆうこともある。それが夢に出てくるだけじゃ。怖い夢は、見る者の心が作る。その夢のことを考えたら、考えただけ、ようけ見てしまう。悪夢から逃げるには、忘れるがいちばんよ」
あの赤子の夢を忘れることができるだろうか。美希には、そうは思えなかった。
しかし富枝は、自分のいいたいことをいってしまうと、腰を上げた。
「さあ、うちはもう寝るぜよ」
母は美希を仏間から追い出すと、電気を消した。美希は廊下に出ると、台所からの弱い光を頼りに|襖《ふすま》を閉めて布団にもぐりこむ母を見守った。
母の行動には、納得がいかなかった。そういえば、悪夢が始まった日から、母の様子はおかしかったのだ。
「おやすみ、美希」
こんもりとした布団の中から、母の声が聞こえた。美希も、おやすみ、と応えると、障子を閉めた。
母は、何を隠しているのだろう。
彼女はしばらく障子の前に立って、中の様子を|窺《うかが》っていた。母がまた起きだして、何か数えはじめるのではないかと疑ったのだが、静まり返った寝室から聞こえてきたのは、規則正しい息遣いだけだった。
家の中で起きているのは、もはや美希だけだった。母の秘密は、そのうちにわかるだろう。今夜は早く寝たほうがいい。
梅酒を飲むつもりだったことを思い出して、台所に向かおうとした時、廊下のカーテンが少し開いているのに気がついた。カーテンを引こうとした美希の手が止まった。
窓|硝子《ガラス》が黒紙を貼りつけたように見えた。
夜の闇にしては、暗すぎる。
彼女は|眉《まゆ》をひそめた。
どんな曇っていても、たとえ雨でも、夜空というものは黒一色ではない。星や月の気配を感じさせる明るさが、|鈍《にび》|色《いろ》の天に潜んでいる。だが今、この窓の外には、空も庭も区別がつかないほどの|漆《しっ》|黒《こく》の闇が漂っていた。
美希は鍵をはずして、硝子戸を開いた。
春宵の冷気が廊下に滑りこんできた。美希は窓から顔を出して、闇を透かし見た。
何も見えなかった。庭の|無花果《いちじく》の木も、物干し台も、その向こうにあるはずの塀も、山の|稜線《りょうせん》も。すべての景色が、べたりとした黒一色に塗り|潰《つぶ》されている。
木々や土の匂いもない、空虚な闇夜。
まるであの闇のようだ。赤子が浮かぶ悪夢の中の闇。この庭は、悪夢の闇に|繋《つな》がっているのかもしれない。だとしたら、闇を伝って、あの赤子がここに漂ってきても不思議ではない。そして首に|臍《へそ》の緒を巻いた姿で、私を見つめるのだ。膨れた|瞼《まぶた》の下から恨みをこめた目で、じっと……。
美希は唇を|噛《か》むと、苦笑いを浮かべた。
ばかばかしい。ただの夜の闇だ。この闇が悪夢に繋がっているとは、|妄《もう》|想《そう》もいいところだ。
美希は、ぴしゃんと硝子戸を閉めると、カーテンを引いた。そして、庭から目を背けるようにして台所に歩いていった。
背後で窓硝子がかたかたと鳴った。
美希はぎくりとして振り向いた。
カーテンの後ろで、窓硝子が揺れている。
きっと風が出てきたのだ。
彼女は再び歩きだした。
がたがたがた。窓硝子は、小さな音を立て続けていた。まるで、誰かが|執《しつ》|拗《よう》に硝子を|叩《たた》いているように……。
ばっしゃん、ばっしゃん。
|漉《す》き舟に入った乳白色の溶液の中で、四角い|簀《す》|桁《げた》を揺する。簀の上の液体の流れを見守りながら、気合を入れて、前後左右に何十回も揺すり続ける。漉き舟に立つ白い波、|撥《は》ね返る重い水滴。簀の上に薄く|楮《こうぞ》の繊維が|溜《た》まってきた頃合を見計らい、じゃああっと原液の残りを漉き舟に捨てる。
美希は、ふっと息を吐いて、簀を桁からはずした。そして、漉きあがった紙を横の紙床に重ねて簀をはずすと、また桁に戻した。
紙床には、もう百枚ほどの紙が漉き上がっている。美希は、額に|滲《にじ》む汗を手の甲で|拭《ぬぐ》うと、土間の外を見た。
開け放した戸の敷居に射しこむ太陽の光が、土間の茶色の土を温かく照らしている。家の横の清流のせせらぎが聞こえてくる。
こんな静かな中にいると、昨夜の悪夢も遠い世界の出来事の気がする。実際、美希が子供を産んだのは、遠い時の彼方のことなのだ。母のいった通りだ。忘れるのがいちばんだ。悪夢も……過去も。
美希は簀桁を置いて、土間から出た。
庭先に作った木の横棒に、昨日|漉《す》いた和紙を貼りつけた干し板が並べてある。白い和紙が太陽を受けて、|艶《つや》やかに輝いていた。美希は、指先で柔らかな紙をそっと|撫《な》ぜた。もうほとんど乾いている。太陽の熱を含んだ和紙の手触りは、|苛《いら》|立《だ》つ美希の気持ちを鎮めてくれた。
時々、和紙作りがなかったら、自分の人生はなんとみじめなものになっていただろう、と思う。兄に養われる負い目を感じながら、家の農作業の手伝いをして、毎日を過ごしていたはずだ。
だが、和紙作りのおかげで、現金収入の道が得られた。そこから美希は毎月の食費を兄に払い、自立しているのだという自負を持つことができた。
おいおいは実家を離れて、ここに住まいを移そうと考えている。この小さな家が自分の居場所になる。そして七色の紙を漉き、誰にも気兼ねなく細々と暮らそう。
美希は庭の縁に立って、向こうの山並みを眺めた。ここで静かに老いていくのだ。やがて山の木々のように枯れて、倒れていくだろう。それでいいではないか。
風が吹いてきて、美希の髪を|掻《か》き乱した。彼女は自分の髪を撫ぜた。腰のある黒い毛が指先に絡みつく。その手を頬に持っていった。桜色の頬から、首筋、鎖骨へと手を滑らせ、乳房で止まった。まだ張りを失ってはいないふくよかな胸が掌を弾き返す。
意識とは別に、肉体が叫んでいた。
私はまだ生きているのだ、朽ちて倒れていくには、若すぎると。
美希の|眉《み》|間《けん》に影が射し、乳房から手が離れた。
体の声を聞いてはいけない。そんなことをしたら、ろくなことにならない。第一、私が|躓《つまず》いたのは、そのためだったのではないか。肉体の叫びに耳を傾け、その欲望のままに突っ走ったせいだった。
美希は、仕事に戻ろうと|踵《きびす》を返した。
その時、杉林の中から、女の声が響いた。
「美希さぁん、美希さぁん」
誰の声か、すぐにわかった。
坊之宮本家の当主の妻、園子。
また、あれか。
美希はため息をついて、その場に立っていた。すぐに、ひっつめ髪の園子が泣きながら庭に飛びこんできた。
彼女は美希を見ると、顔をくしゃくしゃにして叫んだ。
「もう、いやや。私、もう、あの人には我慢できんっ」
美希は園子に近寄っていくと、背中を抱くようにして縁側に座らせた。
「隆直さんが、どうしたが」
園子は、両手に顔を埋めて|呻《うめ》いた。
「あんまりながで。昨日の昼間、またあの女と伊野町に行ったがやと。さっき、山崎さんくの正さんがゆうてくれたがやき」
園子の夫の隆直は、女癖が悪い。最初の妻は愛想を尽かせて、子供を連れて出ていった。十年前、園子が、高知市内から嫁いで来て、|後《あと》|釜《がま》に据わった。だが、隆直の女癖は少しも直らない。隆直の今の相手は、彼の経営する池野村のスナックに勤める女だ。隆直はここ二、三年、その女と|噂《うわさ》が絶えない。
美希と年齢の近い園子は、夫の浮気が発覚して夫婦|喧《げん》|嘩《か》になるたびに、彼女の許に駆けこんでくる。
美希は、肩を震わせている園子をなだめるようにいった。
「伊野町で、何か用があったがやないの」
「他の町まで二人でわざわざ行ったがで。ただの用事やないに決まっちゅう」
園子のこめかみが神経質そうに、ぴくぴくと動いた。
「あの人、私のこと、ちっとも好きやないがや。もう離婚しかないわ」
園子は手の甲で涙を拭きながら、|喉《のど》を詰まらせた。
「そんなことないよ。隆直さんは、園子さんのこと、好きやと思うよ」
園子が泣きついてくるたびに、幾度となく口にした|台詞《せりふ》だった。しかし園子は、その言葉に少し安心したようだ。泣き声が弱まった。
本家の|姑《しゅうとめ》の雪子は、嫁ならどんなことでも耐えるべきだ、という考え方の持ち主だったから、身近で園子が本心を出せる相手は美希しかいない。だからいつも泣きながら美希の許に駆けつけ、大声で夫の不貞をいいたてる。お嬢さん育ちの園子には、そうやって甘える相手が必要なのだ。
美希は黙って園子の横に座り、|啜《すす》り泣く声を聞いていた。
「やっぱり、ここやったか」
|棘《とげ》を含んだ男の声が聞こえた。
美希が顔を上げると、杉林の道から、ひょろりとした男が出てきたところだった。
白髪の混じった頭に、長釘のように通った鼻筋。最近は少し腹も出てきて、前髪も後退しかかっているが、若い時から|艶《えん》|聞《ぶん》の絶えないだけある優男、隆直だった。
美希は、彼の出現に驚きもしなかった。夫婦喧嘩の後は、妻は美希の許に駆けこむと知っているから、隆直はいつも頃合を見計らって迎えにきた。
「おい、園子。ええかげんにせえや」
隆直は、美希の顔を見ないようにして、縁側に座る妻の肩に手を置いた。
「うちに触らんとって」
園子が夫の手を払った。
「また、あの女と寝たがやろ。わかっちゅう」
隆直は困ったように美希を見た。美希が非難する顔をすると、彼は、むっとしたようだった。乱暴に妻の手をつかんだ。
「ほら、いつまでも泣きよったら、美希ちゃんに迷惑じゃ。帰ろうや」
園子はまだ|拗《す》ねてうつむいている。だが、それ以上、夫を|罵《ののし》ることもなかった。
|不《ふ》|貞《て》|腐《くさ》れて、夫のなだめすかす言葉を待っている姿に、美希は、園子の隆直に対する愛の深さを感じる。
「私のこと、嫌ながやろ。もう離婚しちゃる」
園子がいっている。馬鹿なこというなや、と隆直が答える。いつもの会話だった。
美希は言い合っている二人から顔を背けるようにして、庭を見つめた。
西に傾きかけた陽が、庭を照らしている。赤みを帯びた光の中に、大地の|産《うぶ》|毛《げ》のように草の若芽が伸びている。
春。すべてが輝かしい色に染まっていた私の春――。
|萌《もえ》|黄《ぎ》|色《いろ》の草の上で、汗みどろになって抱き合う男女の姿が脳裏に浮かんだ。女は美希。まだ高校時代の美希。全身を恋の炎に燃え立たせて、挑む相手は隆直だ。まだ若く、引き締まっていた彼の体が、彼女を抱きすくめる。
あの時、美希は十六歳、隆直は二十歳。
高校の帰り、隆直は決まって、県道脇の坊之宮家の茶畑に立っていた。自転車で通りかかった美希に気がつくと、手を上げて合図する。美希は自転車を投げだして、走りだす。そして二人は山の中に入って交わった。何度も何度も……。
美希の母が、娘の体の変化に気づくまで、若い獣のような二人の関係は続いた。
美希は、後頭部が|痺《しび》れるような感覚を覚えた。あれから、なんと長い時が過ぎてしまったことだろう。
横では隆直が、園子の腰を抱えるようにして縁側から立たせていた。かつて|逞《たくま》しく伸びていた隆直の肢体は、今は酒と飽食に|弛《し》|緩《かん》している。|凛《り》|々《り》しかった顔は、女から女へ|放《ほう》|蕩《とう》を重ねるうちに、どこか薄汚れてしまった。何よりも変わったのは、彼の内面だ。農業に燃え、茶の栽培だけでなく、これからの農家は多角的に経営すべきだと熱っぽく語っていたのに、道路拡張の用地買収の話が持ち上がると、さっさと土地を売り飛ばし、池野村にスナックを開いた。そして昼間はぐうたらと過ごし、夕方になると池野村に出ていく。客とたわむれ、女を口説くために。
美希が愛した隆直は、もういなかった。
ここにいるのは、二日酔いで|浮腫《むく》んだ顔をした中年の男。その男が、ついと顔を美希に向けた。
「迷惑かけたねぇ、美希ちゃん」
彼の顔に何か探るような視線が浮かんでいた。美希は、その視線を突き放していった。
「奥さん、泣かしたらいかんで。隆直さん」
隆直の顔に皮肉な笑いが浮かび、目が|逸《そ》らされた。そして、園子の肩を揺すった。
「ほら、御飯のしたくせんと、春男も秋枝もお腹、すかしちゅうぞ」
園子は唇を突きだしたまま|頷《うなず》いた。隆直が妻の腕を引いて、林の中に連れ戻す。美希は縁側に座ったまま、アメーバのようにくっついたり離れたりしながら遠ざかる夫婦の姿を見ていた。
杉林に消える直前、ちらりと園子が振り返った。その目の奥に満足気な光がきらめいた気がした。
美希は二人から目を背けて、やはり、そうなのだ、と思った。
園子は、かつて自分と隆直が恋仲だったことに勘づいているのだ。家族や親類はもちろん、村の者もそれを教えるはずはないが、女の勘は鋭い。何か察したのだろう。
隆直が浮気するたびに園子がここに泣きついてくるのは、たぶん、そのことがあるからなのだ。
他の女によって傷つけられた自分の心を、美希を傷つけることで癒している。美希の前で、自分が隆直の妻であることを見せつけて、|溜飲《りゅういん》を下げているのだろう。
お嬢さん育ちの園子らしいやり方だ。
だが、私の心が、隆直に対してもう何も感じないことには気づいていない。どんなに夫婦の間柄を見せつけられ、隆直の女癖について聞かされても、美希には、テレビドラマを見ているくらいにしか映らない。隆直に対する愛はとっくの昔に消えていた。
美希は無意識に、自分の黒髪を指先で|玩《もてあそ》びながら思い出していた。
出産後、美希が尾峰の実家に戻ったのは、冬の|最《さ》|中《なか》だった。番所山から吹き下ろす木枯らしに立ち向かうようにして、バスから降りた彼女は、母と一緒に石段の道をゆっくりと上っていった。
久々に見た灰色の石垣と、灰色の家々の屋根が、自分に覆いかぶさってくる気がした。美希は、一歩、一歩、石段を踏みしめて、村落の上に|聳《そび》える家を目指して歩いていた。
その時、風に乗って、|賑《にぎ》やかな声が聞こえてきた。美希は顔を上げた。坊之宮の本家から、人が大声で笑ったり、歌ったりする声が流れてくる。本家で何かあるのか、と聞くと、富枝が|厳《いか》めしい顔つきで応えた。
「隆直さんの婚礼や」
美希は息が止まりそうになった。
そんなことは聞いてもなかった。美希が病気療養で村を離れていると信じていた隆直からは、時折、病気見舞いの手紙が届いたが、そこにも、何ひとつ書かれてなかった。
美希は石段を駆けあがった。母の止める声が飛んだが、振り向きもしなかった。心臓が破裂しそうなほど、一気に村のいちばん上まで走り続けた。
本家の門の中に飛びこむと、縁側から家に上がって、障子を開け放した。
大座敷の床の間を背にして、隆直が花嫁と並んでいた。その前に|皿鉢《さわち》料理が並び、村人たちが酒を酌み交わしていた。美希の父もいた。兄も弟もいた。
美希だけが知らされていなかったのだ。彼女は悲鳴をあげて、隆直に飛びかかった。父が慌てて娘を引き離した。美希は父の腕から身を乗りだすようにして、隆直の名を叫んだ。だが隆直は聞こえないふりをした。|白《しろ》|無《む》|垢《く》の花嫁の横で、紋付き|袴《はかま》を着て、友人の杯を受けながら、美希から顔を背けていた。
いくら呼んでも、隆直が振り向こうともしないことに気がついた時、美希の心の中で、それまで必死に守っていた最後の|砦《とりで》が崩れ落ちていくのを感じた。
誰に何といわれようと、美希は、隆直との恋愛を貫く覚悟だった。
しかし彼は、美希から逃げたのだ。
美希の両親が、本家の隆直の親と相談して、結婚をそそのかしたのだと、後で聞いた。そして隆直は、勧められた結婚に承知した。
以来、隆直は、美希の視線をまともに受け止めたことはない。二人きりで、昔のことを話し合ったこともない。隆直は、美希が二人の子を産んだことも知らないはずだ。隆直の親は、そこまでは知らないし、美希の両親は、子供のことは絶対いってはならない、そんなことをしたら、本家に傷がつく、と彼女に口止めしたのだった。
どちらにしろ、隆直が自分に背を向けたとわかった時から、何を告げる気力も失っていた。
今では美希にとって、隆直は他人以上に遠い存在になってしまった。女関係に|爛《ただ》れきった隆直との間に、あれほど真剣で激しい恋愛が起きたとは、今では夢のようだ。できるなら、あまり顔を合わせたくはなかった。彼と会えば、あの美しい記憶が汚される気がする。
そう、あれこそ、美希の唯一の青春。人生の早春期の激しい恋愛。その後、恋愛感情めいたものを覚えた相手もいた。だが、十六歳の時に感じた、あの純粋な高揚に及ぶものはなかった。
その高揚の絶頂で、私は|躓《つまず》いたのだ。躓いたまま、うまく起きあがれなかった。
十代の躓きを今まで引きずっていることは、我ながら情けないと思う。何度か、すべてを忘れて、新しい恋愛なり、人生なりに|賭《か》けてみようと思った。しかし、なぜかうまくいかなかった。美希が自分からはじめたことで、順調にいったことは、この和紙作りくらいのものだ。
彼女は苦笑して縁側から立ちあがると、庭の干し板に近づいていった。和紙はもう乾いている。干し板を縁側に持ってくると、木べらで紙を|剥《は》がしていった。
和紙が、美希を魅了するのは、この仕上がりの瞬間だ。ただの|灌《かん》|木《ぼく》の枝にすぎない|楮《こうぞ》や|三《みつ》|椏《また》の枝が、蒸され、洗われ、|叩《たた》かれているうちに、細い繊維へと分解され、やがて、薄く優雅な紙に生まれ変わる。その和紙作りの工程を通して、彼女自身の心も染みひとつない美しい紙に変わっていく気がする。
美希の作る、淡い|褐色《かっしょく》を帯びた和紙は、生まれ変わった彼女の心でもある。別の人生ヘの|憧《あこが》れや欲望を、洗い流し、叩き|潰《つぶ》し、心というものの最低限の構成繊維だけに分解して、|漉《す》きあげたものだ。
太陽の熱を含んだ和紙が、一枚、また一枚と縁側に重なっていく。この紙が美希の心としたら、和紙の厚みは、彼女の重ねてきた年月だ。色々な過去を洗い、叩き、分解して、美しい和紙へと変えて生きてきた人生。その柔らかな厚みに目を遣って、美希はふと思った。
私の人生は、あと何枚、あるのだろう。
一枚の紙がはらりと地面に落ちた。彼女は、かがんでそれを拾った。糸のような細い繊維の絡み合う滑らかな紙の表面が、黒い土で汚れていた。
息を吹きかけて土の粒子を落とそうとしたが、無駄だった。繊維の間まで、しっかりと土がこびりついていた。
春は嫌いだ。
和紙の黒い汚れを見つめながら、美希は強く思った。
どこの家の庭から漂ってくるのか、|沈丁花《じんちょうげ》の甘い香りがそよ風に混じる。美希はいつもの|籐《とう》製の|籠《かご》を下げて、村道を登っていた。
道に面した家の中から、テレビの音が響いてくる。車を洗う男、庭の|塵《ちり》を燃やす老女。子供たちが「まあだだよ」と叫びながら、生け垣の間や木の後ろに隠れて遊んでいる。
日曜日の朝。畑で働く人の姿も少ない。のんびりした空気に包まれた村を後にして、美希は、番所山を目指していた。
土佐七色紙の染色に使う草木を採集するつもりだった。なにも日曜日まで働かなくてもいいのだが、家にいたくなかったのだ。
このところ家の空気はぎすぎすしていた。皆、よく眠れないせいだ。百代は理香にあたり散らし、道夫はいつもよりさらに寡黙になっている。理香は夜中までがんがん音楽をかけ、母の富枝は相変わらず、暇があれば善光寺念仏を唱えていた。
そして美希の悪夢は終わらない。母のいう通り、忘れようと努めているのに、数日おきに見てしまう。
美希は|瞼《まぶた》の上を|揉《も》んだ。頭の|芯《しん》に眠気が宿っていた。
「眠たいがかね」
しゃがれ声に驚いて顔を向けると、|路《ろ》|傍《ぼう》の畑の石垣に味元が腰を下ろしていた。|杖《つえ》を脚の間に立てて、添えた両手に|顎《あご》を載せ、背中を曲げている。
美希が照れ笑いを返すと、味元は|頷《うなず》いた。
「村の者、皆ぁ、|欠伸《あくび》ばっかりしゆう。おかしげな夜が続くせいじゃ。よう眠れんし、朝起きても、頭がちっともすっきりせん」
味元は言葉を切ると、美希の顔色を|窺《うかが》うようにして続けた。
「こりゃ|狗《いぬ》|神《がみ》に喰われたがかもしれん」
「狗神?」
彼女は、老人の口から飛びでてきた言葉に面喰らった。
昔から、土佐には、狗神という|憑《つ》きものがいるといわれている。狗神に憑かれることを、喰われるといい、そうなれば、病気になったり、奇妙なことを口走ると聞いたことはある。だが、ただの言い伝えだ。味元は、本気でそんなことを信じているのだろうか。
美希が返答に困っていると、味元は意味のない笑みを口許に浮かべて聞いた。
「どこぞに出かけるがかね」
「山にちょっと……」
美希は番所山を指さした。
味元の垂れた目が細くなった。
「山に一人で行くがはやめたがええ。山犬に会うかもしれんきにのうし。この頃、えろう太い山犬がうろつきゆう、ゆうき」
美希は、新聞配達のふさがそんなことをいっていたのを思い出して、少し心配になった。
「けど、昼間はだいじょうぶですろう」
味元は顎の下で、杖を揺すった。
「今のところ人を襲うたゆうことは聞かんが、用心にこしたことはない。わしがまた鉄砲を持ったら、一発で仕留めちゃるにのう」
「千匹目の殺生はせんがええんでしょうに」
美希がいうと、味元はにやりとして、突きだした耳の後ろを|掻《か》いた。
「ほんなら、行ってきます」
頭を下げて歩きだした美希の背中に、また声が聞こえた。
「山で、山犬に会うたらのう、道端の草に小便をしかけちゃるとええぞ」
美希は噴きだして、頭を左右に振った。
背後で味元がからからと笑った。
村道をさらに登っていく。尾峰の家々の|瓦屋根《かわらやね》が足許に小さくなると、村道が切れて、林道と合流した。彼女は林道を横切り、番所山の雑木林の中に延びる細い道に入った。
番所山は、茶碗を伏せたような形の大きな山だ。頂上に通じる道は、狭く険しい。美希の運動靴が、赤土の混じって滑りやすい山道を踏みしめる。黒のスパッツにTシャツ。上に白の薄手のジャンパーを羽織っただけなのに、すぐに全身、汗ばんできた。
山道の曲がり角に、少し開けた場所があった。一休みしようと、そちらを見た美希は、はっとした。
先客がいた。
黒の皮ジャンを着た青年が、こちらに背を向けて立っている。
奴田原晃だ。美希の足音に気がついたのか、彼がこちらを向いた。黒い|瞳《ひとみ》の色が優しくなり、唇から笑みがこぼれた。
「美希さんじゃないですか」
晃は、|嬉《うれ》しそうな声をあげた。
美希は草を踏んで彼に近づいた。
そこは木立が切れて、狭い草地になっていた。吹きあげてくる風に髪をなびかせている晃に、美希は話しかけた。
「こんなところで、何をしてるんですか」
晃は肩をすくめて、顎であたりを指すように見回した。
「何ということもないですよ。散歩しているうちにここに着いたんです」
美希は、晃の横に立った。
足元の|崖《がけ》の底に|佇《たたず》む尾峰の村落の周囲は、茶畑や芋畑の緑色、|三《みつ》|椏《また》畑に咲き誇る花の黄色、水田の|蓮《れん》|華《げ》の桃色に彩られていた。確かに美しい風景だった。
「美希さんこそ、なぜ、ここに?」
和紙を染めるための草木の採集に来たのだと答えると、晃は興味をそそられたようだった。
「僕は、野草の名前ひとつ知らないんです。一緒に行ってもいいですか」
「植物採集というと、聞こえはいいけど、ただの山歩きですよ」
「願ったりです」
美希は、晃と連れ立って歩きだした。
山道は明るい雑木林の中をくねくねと曲がりながら、番所山の奥へと続いている。晃が空気の|匂《にお》いを|嗅《か》ぐように息を吸った。
「山はいいな。心が洗われるようだ」
「そうですか。私なんか、生まれた時から山の中におりますから、わかりませんが」
晃は、美希の顔を横目で見ていった。
「たった二週間暮らしただけで、山がいいという。これだから町の人間は困るって、思ってるんでしょう」
「そんなこと、ないですよ」
「いいですよ。事実だから」
「違うって、いいゆうのに」
むきになって否定してから、晃がにやにやしているのに気がついた。美希は、彼を軽く|睨《にら》みつけて、話題を変えた。
「学校には慣れましたか」
晃は真面目な顔になった。
「ええ。一年の担任になったんです。でもまだ様子をつかむのが精一杯というところだな。暇があったら、また美希さんの和紙作りを見せてもらいたかったんですけど、なかなか時間がとれなくて」
「学校が落ち着いたら、見にきてくれたらいいですよ」
彼が自分の仕事場を再訪したがっているということに、美希は嬉しい驚きを覚えた。
実は、晃の話は、理香から毎日のように聞かされていた。無口だが厳しい教師であること、ブリティッシュ・ロックが好きなこと、学生時代は剣道部にいたこと、新任教師の歓迎会の二次会で行った村のスナックで、女の子にもてたこと……。そんな理香の話から|窺《うかが》える晃は、美希には、あまりに遠い存在に思えていた。
山が深くなると、道はさらに狭くなった。並んで歩けなくなったので、美希が先頭に立った。|檜《ひのき》や|楢《なら》の間に、|姫《ひめ》|沙《しゃ》|羅《ら》のすらりとした赤い幹や|譲葉《ゆずりは》の青葉が目を|惹《ひ》く。時折、小鳥の声が響くだけで、林の中は静かだ。
背後から晃の規則正しい息遣いが聞こえる。美希の息はもう乱れていた。若葉の匂いのこもる空気に二人の吐息が混じり合う。その音を聞いているうちに、産毛が逆立つような感覚を覚えた。
はっ、はっ、はっ。晃の息が美希の首筋にかかる。彼女の背が震えた。
突然、彼の手が伸びてきて、美希の腕をつかんだ。彼女は、ぎくりとして振り向いた。彫像のような晃の顔がそこにあった。
「大丈夫ですか」
彼が|訊《たず》ねた。
「えっ」と、美希が聞き返すと、晃は心配気にいった。
「なんだか、脚がもつれそうに見えたから」
ぼんやりしていたにちがいない。へんなことを考えていたからだ。へんなこと……?
美希はどきりとした。
いったい私は何を考えていたのだ。
しかし、頭の中に生じた|妄《もう》|想《そう》を、意識の太陽の下に|晒《さら》したくはなかった。美希は、晃に、ありがとう、と小声で礼をいった。
向こうの木立の間に、小さな草地があるのが目に入った。探していた場所だった。これで少し気分が変えられる。美希はほっとして、そこを指さした。
「あそこに寄りましょう」
彼女は小道を|逸《そ》れて、木立の中を歩いていった。晃が後をついてくる。すぐに二人は、雑草のおい茂る草地に着いた。そこだけ木がまばらで、日当たりがよい。その一角に、ハート形の小さな葉のついた|蔓《つる》|草《くさ》が生えていた。美希は手籠の中からスコップを出すと、葉を|掻《か》き分けて、根を掘りはじめた。
晃が横にかがみこんで聞いた。
「何を取っているんですか」
「|茜草《あかねぐさ》です。これの根が染料になるがです」
美希は草の根元をぐい、と引いた。根が土をつけたまま引きずり出される。彼女はそれをビニール袋に入れて、また次の茜草の根を掘りはじめた。
「あかねさす |紫野《むらさきの》行き |標《しめ》|野《の》行き |野《の》|守《もり》は見ずや 君が|袖《そで》振る」
晃の言葉に、美希は|微笑《ほほえ》んだ。
「『万葉集』ですね」
「|額田王《ぬかたのおおきみ》の歌です。かつての愛人だった|大海人皇子《おおあまのみこ》が、野原で手を振っているという情景なんだけど」
彼は茜草の枝を一本折ると、考えるように鼻先に持っていった。
「この皇子の袖というのは、茜草で染めた色をしていたのかもしれないな。今まで、そんなふうに想像したこともなかったけど」
美希は、理香から聞いたことを思い出した。
「そういえば奴田原先生は国文科出身と……」
晃が美希の言葉を遮った。
「晃でいいですよ」
美希は口ごもりながら続けた。
「晃さん……は、国文科を出ていて、高校の古典の教師になれたのに、中学教師を選んだと理香から聞きましたけど、どうしてなんですか」
晃は、春の日射しに照らしだされた茜草の群生を眺めた。
「高校生を見たくなかったからかもしれない。自分が荒れていた時期を思い出すから」
「思い出すのもいやなほどなんですね」
美希は根を次々に掘り返しながら聞いた。晃はビニール袋を取ると、美希が地面に置いた根を中に入れてくれた。
「あの頃は、すごく孤立していたんです。自分と周囲のものとの、どうしようもない距離に気がついた時期だった」
「でも友達とか家族とか、いたでしょう」
晃の顔に影が走った。
「心を割って話せる友達はいなかったな。家族も、いてもいなくても同じだった。皆でテレビを見ながら、いわゆる家族の|団《だん》|欒《らん》をしているでしょう。すると突然、自分だけがとても離れたところにいる気分になる。兄と母が番組について何か話している。だけど僕はそこに入っていけない。口を開いた時には、家族の話題は次に移っている。僕が中に入りこめるのは、父母や兄が意図して僕と会話しようとした時だ。なんだか、すごくそんな気がしていた」
「わかるわ……」
兄一家の団欒の端に座っている自分自身の姿と重ね合わせて、美希は|呟《つぶや》いた。
そんな時、彼女は|親《しん》|戚《せき》の家にいるような気持ちになる。くつろげるようでいて、どこか緊張している。いくら母が同席していようと、そこは、兄と百代を中心とする家庭だった。一家の楽しい笑い声の中で、ぽつんと孤立する自分を感じることがある。
しかし、晃の場合は、美希のように叔母として団欒の場にいるわけではない。親子だった。彼女とは違う。
「きっと、思春期やったのね」
「いや、年齢に関係ないことだと思う」
彼はきっぱりといった。
きっと晃は特異な子だったのだろう、と美希は思った。時々、そんな子を見かける。両親とはまったく違う精神を持って生まれた子供。兄の道夫の三人の子供たちの中では、次男の満文がそうだった。下宿してまでも高知市内の高校に通いたいといいだすような性格は、両親にも兄妹の誰とも似ていなかった。そしてたまに帰省すると、二階の部屋で本ばかり読んでいた。
「終わりですか」
晃が聞いた。美希は、いつか自分が根を掘る手を止めていたのに気がついた。
晃が持っているビニール袋には、すでに充分なほどの|茜草《あかねぐさ》の根が入っていた。
「ええ、次に行きましょう」
美希はスコップについた土を払って、立ちあがった。
「次って?」
晃が、手籠にビニール袋とスコップを入れながら聞いた。
「茜草だけじゃ一色にしか染まりませんから」
「他にどんなものが染料になるんですか」
「色々ありますよ。青色なら、|藍《あい》、黄色は|合歓《ねむ》の木、緑は、やまももの木の皮……」
美希は説明しながら山道に戻った。晃が手籠を持ってくれて、先に立って歩きだした。
空気が湿り気を帯びてきた。頭上を覆う木々が密になり、陽を遮る。
前を行く晃の黒の皮ジャンの下で、|逞《たくま》しい肩が左右に揺れている。引き締まった|尻《しり》が動く。若い|牡《おす》の体臭を|嗅《か》ぎとって、美希の胸の|動《どう》|悸《き》が激しくなった。
この全身が騒ぐような感覚には覚えがある。もう二十年以上も前のこと。隆直と交わった日々。あの時もまた、こんな山の中だった。草の香りのする寝床で、激しく体を重ね合わせた……。
美希は自分が怖くなった。意識がとんでもない方向に向かっている。
春は危険だ。春の山は特に。最初に隆直と交わったのも、春の山だったではないか。そう、あの日。隆直に誘われて、山菜採りに行っていた最中、二人は林の中で抱き合い、それだけでは止まらなくなった。
彼女は息苦しさを覚えて、晃の背中から目を|逸《そ》らせ、天を見上げた。
木の枝の向こうに、空が透かし見えた。灰色の雲が流れていく。
美希は、おや、と思った。
さっきまで、あれほど晴れていた空が曇っていた。太陽の光は消え、山の景色は夕方のように暗く沈んでいる。
「晃さん」
美希の声に、晃が振り返った。
「天気が崩れてきたみたい」
晃は|怪《け》|訝《げん》な顔で、あたりを見回した。
湿った風が吹いてきて、下生えの草を揺らせた。林の上から灰色の霧が降りてくる。美希は、乱れた髪を撫でつけながらいった。
「山を降りたほうがいいと思う」
晃は不満気に洩らした。
「せっかく、ここまで登ったのに」
「また来ればええでしょ。雨でも降りだしたら、たいへんよ」
「せっかくのデートが水の泡か」
美希の顔が赤くなった。
「デートやなんて、やめてください」
彼女は|踵《きびす》を返して降りはじめた。晃が慌てたようについてきた。
「何を怒っているんですか」
おもしろがっている声が聞こえた。
晃は、自分をからかっているのだ。そう思う一方で、心が弾んでいる自分が忌ま忌ましかった。|年《とし》|甲《が》|斐《い》もない。こんな青年の冗談口をまともに受け取るなんて。
美希は山道を駆け降りていった。あたりはどんどん暗くなっていく。霧が草を|這《は》い、木々の幹にまといつく。ぽつぽつと雨粒が落ちてきた。遠くで雷鳴が|轟《とどろ》いたと思うと、急に激しい雨に変わった。
ざざざざ。木の葉や草を揺らせて、雨が横なぐりに降ってくる。
「気をつけて、滑りますよ」
晃の声が聞こえた。
雨が首筋から、肌に滴り落ちる。土砂降りの中、白っぽい雨しか見えない。茶色の土の|覗《のぞ》く小さな道を頼りに行くしかない。稲妻が光り、どーんという音が轟いた。どこかに雷が落ちたようだった。美希は足を早めた。
そろそろ林が切れるはずだ。だが、なかなか林道に出ない。
おかしいと思いはじめた時、ぱっと目の前が開けた。よかった、林道に出た。ほっとして、顔を上げた美希は、立ちすくんだ。
目の前に赤褐色の|崖《がけ》が|聳《そび》えていた。山道はその崖の下で途切れている。
「どうしたの」
立ち止まった美希の後ろで、晃が聞いた。
「道を間違えたみたい」
美希は|呆《ぼう》|然《ぜん》として答えた。
切り立った崖には、緑の|蔦《つた》が絡まっていた。霧のたなびく崖の上に、黒い雨雲が垂れさがっている。もう二人とも、水の中を泳いだようにびしょ|濡《ぬ》れだ。
「あそこで雨宿りができる。行こう」
突然、晃が走りだした。草を|掻《か》きわけて、崖の下に近づいていく。その先の張り出した岩の下に、雨から避難できそうな空間があった。晃の後から、美希もそこに駆けこんだ。
体を打つ雨が消えた。
岩の下は、人二人がようやく入れるほどの|窪《くぼ》みになっていた。番所山のどこでもそうだが、ここの崖も赤土が多く混じっている。岩肌がぽろぽろとこぼれる柔らかさだ。だが、この程度の雨で崩れることはないだろう。外で雨に打たれるよりはましだった。
晃は、美希の籠を置くと、皮ジャンを脱いで地面に敷いた。
「ここに座ったらいい」
二人は肩を寄せ合うようにして腰を下ろした。美希は、濡れた髪を手で絞りながらいった。
「ごめんなさいね。ひどい道案内で」
晃は岩に背をもたせかけた。
「いや、けっこう楽しいですよ。山の中で雷の音を聞くなんて、めったにできない」
まだ雷鳴は続いていた。岩の縁から、雨粒が滴り落ちる。ざあざあざあ、という音が、周囲から押し寄せてくる。
美希は、そっと隣の晃の顔を眺めた。雨に濡れた髪の毛が額にへばりついている。白いTシャツが体の線を浮きあがらせている。
美希はその|逞《たくま》しい胸に|惹《ひ》きつけられた。彼の体に腕を回して、抱きしめたい、と思った。
その時、晃がいった。
「いいですよ」
美希は、ぎくりとした。
晃が黒目がちの|瞳《ひとみ》を彼女に向けた。
「わかるんです。僕、美希さんの気持ち」
美希の顔が引きつった。
「な、何のこと……」
晃は、頬を滑り落ちる水滴を手の甲で|拭《ぬぐ》った。
「高校の時、荒れたといいましたよね」
美希は、黙って晃の口許を見ていた。
「そのきっかけは、高校の女性教師だった。ある時、街でばったり会って、その人のアパートに誘われた。三十代半ばの独身女性でね。どういうことかわからないまま、その人に抱かれていた。彼女は、僕を欲していたんだ。なんだか自分の中の秩序といったものが消えていくような気がしたな。学校では男には見向きもしない堅物に見えたその教師が、僕の前で女をさらけだしていた。それからだった。年上の女性が僕を見つめる視線に気がついた。僕は僕で、その中に自分の孤独を|癒《いや》してくれる何かがあるかもしれないと思った。僕はまるで若い|燕《つばめ》のように、彼女たちに誘われるままに、ついていったけど……」
「やめてっ」美希は叫んだ。
「私もそうやというがやね。私も、そんな目で、晃さんを……」
「違いますか」
美希の唇が震えた。
本当のことだ。自分は晃を欲しがっていた。その高校教師のように、この若く美しい獣を欲しがっていた。
「私、帰りますっ」
雨の中に飛び出そうとした美希の手を、晃がつかんだ。
「誤解しないで。僕のいいたかったのは、そんなことじゃない」
晃は、美希を引き寄せていった。
「僕のいいたかったのは……」
そのまま、晃は強い力で美希を抱きしめた。美希は力が抜けていくのを感じた。
「やめて……」
晃の唇が覆いかぶさってきた。美希は、息が止まりそうになった。
稲妻が光った。
美希の腕が、晃の首に絡みついた。彼の手が乳房をまさぐる。|抗《あらが》おうとしたが、できなかった。彼女の体もまた、信じられないほど強く、晃を求めていた。それとも男を求めていたのだろうか。若かった日々の情欲が|蘇《よみがえ》ってきた。美希は、晃の体を抱きしめた。
晃が美希のTシャツをめくり上げる。皮膚のように張りついていた湿った服が|剥《む》けていく。美希の白い肌が濡れていた。晃が唇を|這《は》わせながら、自分のズボンを脱ぐ。美希は震えていた。それが|畏《おそ》れのためか、興奮のためかわからなかった。わかったのは、自分を抑えていた何かが、はずれてしまったこと。美希は、晃の唇を吸っていた。彼の皮ジャンが体の下で獣の匂いを放つ。晃の|瞳《ひとみ》が、彼女を射る。彼の腕が腰に回り、スパッツを脱がせると、彼女の中に入ってきた。
熱いものが、美希の下半身に|迸《ほとばし》った。すでに忘れたと思っていた興奮が体を駆け巡る。彼女の体が熱くなってきた。|喉《のど》から|喘《あえ》ぎ声が|洩《も》れる。それが自分の声なのか、晃の声なのか、もうわからない。
晃が|吼《ほ》えるような大声をあげた。美希の下半身に鈍い衝撃が走った。
そして時が止まった。
雨音は遠ざかっていた。晃は、精根尽き果てたように美希に重なっている。汗の浮いた彼の体の下で、彼女は目を外に向けた。
岩の縁に|溜《た》まった雨粒が光っていた。灰色の雲の間から、太陽の光が射している。|霧《きり》|雨《さめ》が優しく降っていた。崖の前に広がる林が明るい緑色に輝きはじめた。
その木立の中に、灰色のものが見えた。目を凝らした美希は、はっとした。
墓標だった。その中で一際大きな五輪塔が、影のように立っている。そして彼女は、自分のいる場所に気がついた。
赤岳だった。番所山の東の端。坊之宮家の墓場の裏手の崖だ。
美希は吐き気を覚えた。
なんということだ。私は、先祖の墓地の裏で、男と交わったのか。
突然、自分のしでかしたことに嫌悪感が湧いてきて、悲鳴をあげたくなった。また、あの時と同じように、自分の情欲に負けてしまったのだ。
彼女は、晃の体を押し|退《の》けると、散らばっていた服を震えながら身につけた。
晃がゆっくりと顔をあげた。彼は夢を見ていたように、ぼんやりとした顔をしている。美希は|裸足《はだし》を運動靴に突っこむと、岩の下から飛びだした。
「美希さんっ」
晃の声が聞こえた。
しかし、美希は振り返らなかった。濡れた草を蹴って走り続けた。すべてのものから逃げだしたかった。晃からも、過去からも、自分自身の肉体からも……。
白い湯気を立てながら、赤い液体が大鍋から流れ落ちる。|笊《ざる》に|茜草《あかねぐさ》の根を残して、|煎《せん》じ汁がバケツに溜まっていく。
美希は空になった大鍋を土間に置いた。
茜草の根からは、もう色は出そうになかった。後は、この煎じ汁に|楮《こうぞ》の繊維を浸して、染めればいい。
彼女は笊を取って、木べらでバケツの中の汁を混ぜた。赤味がかった液体が渦を巻く。それが絡み合う二つの肉体に見えた。
ぱしゃん。手から木べらが落ち、煎じ汁がスカートに散った。美希はバケツから顔を背けると、土間を出ていった。
晃とのことを忘れられない。彼の張りきった体の感覚が、今も美希の体の内奥を燃えたたす。
この二十年近く、忘れていた男の感覚だった。温かく、確かな|手《て》|応《ごた》え。それを自分がどれだけ激しく求めていたか、痛いほどに気づかされ、彼女はうろたえていた。
もう棄てた感情だと思っていた。自分には縁のない世界だとあきらめていた。なのに、情欲は消えてはなかったのだ。
美希は入口の柱にもたれかかり、顔を両手に埋めた。
このまま、この家で朽ちてしまいたいと願っていた。恋愛も肉欲も捨てて、静かに暮らしていたいと思っていた。しかし、自らの肉体に裏切られたのだ。
……肉体だけだろうか。裏切ったのは?
心のどこかで声がした。
おまえは、晃のことが好きになったのではないのか。あの、生意気な年下の男。若いくせに、どこか人生を知り尽くしたような口をきく、美しい青年を。
美希の顔から手が滑り落ちた。
庭先は、まるで色を失ったように、灰色の陰影に包まれている。空には|朧雲《おぼろぐも》が広がっていた。それが美希に、あの空を思い出させた。雷雨の降りしきる中で交わった、日曜日の空の色を……。
彼女の|瞳《ひとみ》が苦しみに揺れた。
後悔が心を|蝕《むしば》む。できることなら、あの日を永遠に記憶から消し去りたい。
きっと晃は自分をからかっただけなのだ。彼が高校時代に関係を結んだ年上の女たちのように、物欲し気に彼を見つめていた私にちょっかいを出しただけなのだ。
あれから晃は顔も見せない。
月曜日の朝、仕事場の縁側に、美希の忘れていった手籠と|茜草《あかねぐさ》の根が置かれていた。彼が届けてくれたらしかったが、中には手紙ひとつ置かれていなかった。そして五日過ぎたが、やはり何の連絡もない。あいかわらず晃のことを吹聴している理香によると、彼は、学校が終わった後、同僚の教師たちと池野の居酒屋に行ったりして、毎日、帰りが遅いらしい。美希は、晃は自分と顔を合わせたくないのだろうと考えていた。
女には不自由しない若い男が、四十女に本気で|惚《ほ》れるわけはない。あれは一時の激情だったのだ。
美希は額を柱に押しつけて、目を閉じた。
冷静に、あの出来事を|捉《とら》えようとすればするほど、自分がみじめになる。考えないことだ。忘れることだ。
やがて美希はため息をつき、顔をあげた。気持ちが乱れて、今日はもう仕事になりそうもなかった。
彼女はのろのろと土間に戻ると、茜草の根の|煎《せん》じ汁の中に浮いている木べらをつまみ上げ、水で洗った。そしてバケツに|蓋《ふた》をすると、戸締りをすませて、家路についた。
昨夜降った雨で、杉林の中の道はぬかるんでいた。靴の裏に泥が粘りつく。籐の籠を忘れてきたことに気がついたが、取りに戻ろうとも思わなかった。晃と寝た時に横に転がっていたというだけで、愛用していた籠も、今では|疎《うと》ましい存在に思えた。
杉林が切れて、林道に出た。斜面の上に坊之宮家の墓地がある。その墓標のひとつひとつが、美希に告げていた。
我々は見ていたぞ、と。
|逸《そ》らせた視線が、路傍の地蔵にぶつかった。半月形の唇が彼女を|嘲《あざ》|笑《わら》っている。
彼女は重い足どりで、村道に入った。
村の集会所の前で、男たちが、四、五人集まって何か話していた。皆、一様に顔を曇らせて、こちらに顔を向けている。
彼らも、私と晃との間の出来事を知っているのではないか。
ふと、そう思って、美希はぞっとした。
晃と一度寝ただけで、棄てられた女。
腕組みして、|頷《うなず》いたり頭を横に振ったりする男たちが、そう|噂《うわさ》している気がした。
美希は背筋を|強《こわ》|張《ば》らせて歩調を早めた。
「夜が、妙に気味が悪うてのう……」
「まっこと、たまらん」
村の男たちの会話の断片が耳に飛びこんできて、彼女の体から力が抜けていった。
もちろん彼らが、自分と晃のことを知っているはずはない。何を考えていたのだろう、私は。すべてのことを晃と関連づけて考えている自分が情けなかった。
やがて通りに雑貨屋や八百屋が混じってくる。八百屋の店先の野菜や果物を、自転車に子供を乗せた女が眺めている。
お好み焼き屋の前で、琴と味元が話していた。二人に会釈していると、酒屋から出てきた女とぶつかりそうになった。
「あら、すみません」
謝って、顔を向けると、ふさだった。普段と見違えるような鮮やかな山吹色のスーツを着ている。
ふさは美希とわかっても、ただ頭を下げただけだった。いつもの元気の良さのないのが気にかかって、美希は|訊《たず》ねた。
「どこか具合が悪いがですか」
ふさは浮かない顔で肩の白いハンドバッグをずり上げた。
「このところ頭痛や肩こりがひどうてねぇ」
「体を休めたほうがいいですよ」
彼女の言葉に、ふさは唇を曲げた。
「それができたらええけどね。毎日、あれこれ、やることがあってねぇ。今日も、これから池野の親戚のところにお祝いに行かんといかんがよ。|姪《めい》に子供ができたゆうもんで」
ふさは仏頂面で酒屋の中に目を遣った。その視線を追うと、カウンターに進物用の一升酒の箱を置いて店の主と話している、ふさの夫の洋介の姿が見えた。
今から夫婦|揃《そろ》って池野に行くのだろう。美希は、彼女を元気づけるようにいった。
「せっかくきれいな|恰《かっ》|好《こう》をしたがやき、頭痛なんか忘れんともったいないですよ」
ふさの顔が少し明るくなった。
「この服、私に似合うかしらん」
美希が頷くと、ふさの口調に張りが出た。
「高知市のデパートで見つけたがよ。|旦《だん》|那《な》さんは、そんな派手な服、やめちょけ、ゆうたけどね。気分転換に買物でもせんと、やってられんわ。こっちは毎日、旦那や子供の世話で、きりきり舞いしゆうがやき」
ふさには、中学と小学生の二人の子供がいた。上の子は、遠縁の家の娘を養女にしていた。このあたりでは子供ができない夫婦が養子をもらうことはごく普通のことだ。そうするとすぐに実の子が生まれるといい、そうしてできた子供を、じゃき|子《ご》と呼ぶ。ふさも二年後、じゃき子を身籠もった。長女は、自分が養子であるとは知らないままに育っている。
人間とは勝手なものだ。子供がいない時は、いかにも辛そうに、子が欲しいとぼやいていたくせに、今になると、二人の子育てが大変だと文句をいう。時々、彼女の家の前を通りかかると、ふさが子供を|叱《しか》る声と、それをなだめる夫の洋介の声が聞こえる。
「おまけに、この頃は夜になったら、家の鶏は騒ぐし、よう眠れんし……」
愚痴をこぼし続けるふさを眺めながら、美希は、彼女は幸福なのだ、と思った。
欲しかった子供もできたし、肉欲を慰めてくれる夫もいる。どうして私は、このようになれなかったのだろうか。ふさのような人生を送っていれば、あんな一時の激情に身を任せることもなかっただろう。年下の男に|翻《ほん》|弄《ろう》されることもなかっただろう。
ふさが|羨《うらや》ましいと思った。幸せを、幸せとも思わずに享受できるふさが……。
「頭痛も肩こりも、睡眠不足のせいやないかと思うがよ。もう肩こりゆうたら、ほら、ここが、ごりごりで」
といって、ふさは左手で肩を|叩《たた》こうとした。その時、指先が引きつったように、びくびくと震えた。彼女は、自分の指先を不思議そうに見つめた。
美希は彼女の顔を|覗《のぞ》きこんだ。
「どうかしたがですか」
ふさの丸い顔が左右に引っ張られたように|歪《ゆが》んだ。ハンドバッグが地面に落ちた。彼女は両手で頭を抱えて、その場にしゃがみこんだ。うつむいて、幼虫のように背中を曲げて、全身を小刻みに揺らせている。
美希はふさの肩に手をかけて、叫んだ。
「ふささんっ、ふささんっ」
その声に気がついた洋介が、酒屋から飛び出してきた。
「ふさっ、どうしたっ」
彼は妻を抱き起こした。ふさは夫の腕の中で震えている。|剥《む》き出された大きな目。口の端に白い泡のような|唾《つば》が|溜《た》まる。
「うううぅう」
|喉《のど》の奥から、|唸《うな》るような声が聞こえた。
尋常ならないふさの様子に、通りにいた人々が集まってきた。立ち話していた琴や味元、八百屋の前にいた女はもちろん、お好み焼き屋の|女将《おかみ》や八百屋や雑貨屋の店主まで出てきて、洋介に抱かれて全身を|痙《けい》|攣《れん》させるふさを取り巻いた。
酒屋の主が|眉《まゆ》をひそめて、洋介に聞いた。
「いったい、何があったがぞ」
洋介は、もの問いたげに美希を見た。美希は首を横に振った。
「私にはさっぱり。頭痛がするといいよったけど、話しゆううちに、急に……」
洋介も酒屋の主も、困惑したように顔を見合わせた。
その時、味元のしゃがれ声が響いた。
「|狗《いぬ》|神《がみ》に喰われたがじゃ」
皆、はっとして彼のほうを見た。
味元の垂れた|瞼《まぶた》の下の|瞳《ひとみ》がぎろりと光り、まっすぐに美希を射た。
私に何かいいたいのだろうか。
美希が聞こうとした時、隣にいた琴が、味元の服の袖を引っ張った。
「やめなさいや、味元さん」
味元は唇をすぼめ、ちろりとまた美希を横目で見た。
琴は、味元を人の輪から引きずりだした。そして何事か彼の耳許に|囁《ささや》きながら、集会所の方向に歩きだした。
その場にいた者は、二人の後ろ姿を見送っていた。誰も口を開かなかった。しかし皆が頭の中で、味元の言葉を|反《はん》|芻《すう》しているのはよくわかった。美希もそうだった。
しかし、いくら考えても、味元がなぜ自分を見て、狗神のことをいいだしたのか理解できなかった。
「わし、こいつを家に連れて帰るわ」
洋介が妻の両手をつかんで、背中に引きあげた。酒屋の主がふさの重い|尻《しり》を押す。ようやく夫の背におさまったふさは半ば意識を失い、ぐったりしていた。それでもまだ指先だけは、釣り針につけられた|蚯蚓《みみず》のように痙攣している。
洋介は、妻の|太《ふと》|股《もも》を両手で抱えると、村道を歩きだした。
美希は地面に落ちていたハンドバッグを拾うと、慌てて追いすがった。
「私、ついていきましょうか」
洋介の浅黒い顔に|逡巡《しゅんじゅん》が走った。
「いや……ええですわ」
彼は目を伏せるようにしていうと、美希の手からハンドバッグを受け取り、石段を上りはじめた。だらりとしたふさの手足が、夫の背で操り人形のように揺れていた。
洋介の様子も、どことなく変な気がした。思いがけないことに動転したためだろうか、と考えながら後ろを振り返った時だった。
人々の視線にぶつかった。通りにいた人々が、じっと美希を見つめていた。
彼らは美希と目が合うと、慌てたように彼女に背を向けた。酒屋の主は店に入り、八百屋の前にいた女は、自転車に乗って走りだした。お好み焼き屋の|女将《おかみ》も、他の店主も家の中に引っこんだ。
そして通りは、急にがらんとなった。
なぜかわからないが、自分の存在が疎まれたような気がした。彼女は商店通りを|一《いち》|瞥《べつ》すると、|踵《きびす》を返して、歩きだそうとした。
ブルルルル。
低いエンジンの音がした。
灰色の雲の垂れこめた村道を、青いバイクが上がってくる。髪を風になびかせて、黒の皮ジャンを着ている青年は、もちろん晃だ。
美希の心臓が大きく打った。
晃に会えた嬉しさと、この場にいたたまれないような息苦しさに、足がすくむ。
バイクは、路上の真ん中で立ち尽くす美希の前に来て止まった。
「やあ、美希さん」
|爽《さわ》やかな笑みを浮かべて、晃がいった。
私が|悶《もん》|々《もん》としていたというのに、この人は、こんなに涼しい顔をしている。
美希は怒りを覚えながら、背筋を伸ばした。
「おひさしぶりですね」
晃は、皮の手袋を|嵌《は》めた手でバイクの銀色のハンドルを|撫《な》ぜた。
「ああ。日曜日以来だ……」
彼の|瞳《ひとみ》が、美希を|捉《とら》えた。
彼女は体が熱くなるのを感じたが、それを表には出さないように、硬い笑みを返した。
「その節は、どうも」
美希は軽くお辞儀をすると歩きだした。晃がバイクをゆっくり走らせてついてきた。
「どうかしたんですか」
「どうもしません」
「待ってくださいよ」
「私、忙しいので、これで」
美希はぴしゃりといった。
彼は顔を曇らせた。
「話があるんです」
どうせ、あのことだと思った。自分のしたことを後悔しているのだろう。
美希は唇をきゅっと引き結んだ。
彼がそのつもりなら、自分から先にいってやる、と思った。
「日曜日のことなら、気にしないでください。私はもう忘れました」
晃は驚いたようにバイクから降りた。
「何をいってるんだ、美希さん」
そして美希の腕をつかむと|囁《ささや》いた。
「僕は忘れてない」
「ほんなら、どうして、何日も私と顔を合わせられんの」
|迸《ほとばし》るようにいってから、美希は舌を|噛《か》み切りたくなった。思わず出た本音だった。
晃は、美希の顔をじっと見て|微笑《ほほえ》んだ。
「怒っているの?」
美希は顔を背けた。つい先の石段の上の畑で、|鍬《くわ》を振るっていた男がこっちを見ている。美希は晃の手を払った。
「やめて。人が見ゆうわ」
「かまうもんか。美希さん、話があるんだ。聞いてください」
美希は、あたりに目を遣った。男はまた、畑に鍬を打ちはじめていた。がつっ、がつっ、という音が夕暮れ時の村に響く。
「話って、何ですか」
美希は聞いた。
「家に寄っていきませんか」
晃の借りている永田の家は、すぐそばだった。晃は、美希の返事を聞かずにバイクを家の前に止めると、鍵も閉めてないらしい格子戸をがらりと開けた。そして美希を振り向いてから、家に入った。
美希は少し|躊躇《ちゅうちょ》したが、晃の借家の敷居をまたいだ。
格子戸を閉めると、家の中は薄暗かった。狭い玄関の横に、一階に続く階段がある。急斜面に建てられている家なので、二階が入口になっている。
玄関のすぐ奥に、畳の部屋があった。
「上がってください」
晃が和室の窓を開けながらいった。美希は靴を脱ぐと、中に入った。
部屋は片づいていた。まだ荷物を整理していないのか、段ボール箱が二つ、片隅に置かれている。小型テレビと、大きなラジカセ。部屋の中央に|卓袱《ち ゃ ぶ》|台《だい》があり、その上に、雑誌やノートが積まれていた。
晃は、自分から話があるといったわりには急ぐふうでもなく、皮ジャンを脱ぐと、窓辺に立って外を眺めた。
窓の向こうには、灰色の空が広がっていた。雲の細い切れ間から太陽が|覗《のぞ》く。美希は卓袱台の前に正座すると、彼の姿を見つめた。浅黒い横顔に夕日があたって、|茜色《あかねいろ》に輝いていた。その顔を見ていると、また心が騒いでくる。美希は|膝《ひざ》の上で両手を握りしめた。
「この五日間、美希さんのところに訪ねて行こうと何度も思った」
ようやく晃が言葉を発した。
「だけど学校も忙しかったし、帰ったらなんだか、ぐったり疲れて早々に眠ってしまったもんで……」
「村の人は皆、寝苦しい夜に悩まされゆうというに、幸運ですこと」
晃は、美希の|棘《とげ》のある声を聞き流した。
「美希さんのことはずっと気にかかっていたんだ。だけど一人で考えたかった。どうして、あんなことになってしまったのか」
美希はきっぱりといった。
「忘れることです。私、どうかしてたんやと思う。晃さんやって、そうやったんですやろう。ほんやき、あのことはお互い、忘れたほうが……」
「僕の話を聞いてくださいっ」
晃の激しい調子に、美希は口を|噤《つぐ》んだ。
彼は卓袱台の前に座ると、彼女と向かい合った。そして静かに続けた。
「この一週間近く、ずっと考えていた。そして、わかったことといえば、僕はあの時、美希さんと寝たかった、それしか頭になかった、ということだけです」
「一時の情熱だったがです」
晃は決然と頭を横に振った。
「僕が、美希さんを好きになったからだ」
彼女の顔に皮肉な笑いが浮かんだ。
「やめてください。私みたいなおばさんに向かって」
「そうやって、自分を年齢の中に押しこめるのは、やめたらどうですか」
晃は卓袱台に両手をおいて、美希をじっと見つめた。彼女は、その視線から逃げるようにうつむいた。
「私は四十一です。それが真実です。晃さんはまだ若い。今は私を好きやとゆうてくれても、私に飽きたら、晃さんはまた別の女の人を見つけてやり直せるやろう。けど、私は、そんなことにはつきおうてられんがです。飽きて棄てられたら、もう先はない……」
美希の脳裏に、隆直の婚礼が|蘇《よみがえ》った。
床の間を背にして、紋付き|袴《はかま》姿で、|白《しろ》|無《む》|垢《く》の花嫁と座っていた隆直。
男に棄てられるとは、残酷な経験だ。それを、この年になって、再び繰り返したくない。
美希は低い声でいった。
「私のことは放っちょいてください」
晃は、彼女のほうに身を乗りだした。
「飽きるとか、棄てるとか。どうして今からそんなこというんです。僕は、美希さんが好きです。それだけではだめですか」
「人の気持ちは変わるもんです」
美希はつき放すように応えた。
「そうかもしれない」
晃は穏やかに|呟《つぶや》くと、首を|捩《よ》じって窓の外に目を遣った。赤く染まった山の|稜線《りょうせん》が曲線を描いて空を縁取っている。|烏《からす》の黒い群れが西に飛んでいく。
「だけど、変わらないかもしれない。僕は、美希さんと一緒にいると、とても安心できる。自分の場所を見つけたみたいな気がするんです。少なくとも、この|安《あん》|堵《ど》感は変わらない」
晃も、自分の居場所を見つけたいのか、と美希は感慨を覚えた。彼は、私と同じ孤独を抱えている。私たちは、その孤独感で|繋《つな》がっていられるかもしれない。
美希の心がふっと軽くなった。
どうして悪い方向にばかり考えるのか。二人の間に愛が芽生えてもいいではないか。
晃が腰を浮かせると、|卓袱《ち ゃ ぶ》|台《だい》を回って、彼女の肩に手をかけた。美希は吸い寄せられるように、彼の|瞳《ひとみ》を見つめた。
晃は、美希に|接吻《キス》をした。
日曜日の興奮が、体に蘇る。美希は、晃の首に腕を回した。晃の手が美希のブラウスに滑りこみ、背中を|撫《な》ぜた。彼女の肉体を確かめるように、大きな手で背中の薄い肉をつかみ、そして放す。晃が覆いかぶさってきて、美希は畳の上に仰向けに崩れた。
|痺《しび》れるような幸福感が全身に伝わった。
美希は目を閉じて、その感覚を|貪《むさぼ》った。
|瞼《まぶた》の裏に、細かな光の|粒子《りゅうし》が見える。それは虹の七色が織り混ざった幸福の色だ。私の求める色だ。
何もかも、棄ててしまえばいい。
体面も、年齢も。長い間、ずっと自分を肉体の|牢《ろう》|獄《ごく》に閉じこめてきた。解放してやってもいいではないか。
美希は、晃の体を抱きしめた。
激情は、止めようがなかった。全身が熱の塊と化した。晃が、美希のブラウスをはだけて、乳房を|露《あらわ》にした。彼女は、晃のシャツの下に手を差しこんだ。二人は唇を重ねながら、服を脱いでいった。
美希は、もう自分が何をしているか、考えなかった。ここに求めていたものがあった。なぜ、手を伸ばしてつかんではいけないのだ。
私は、この男が欲しいのだ。どうしようもなく、欲しいのだ。
美希は、晃にしがみつき、|喘《あえ》いだ。叫びだしたいような、力が体内から|溢《あふ》れてくる。晃は瞳を燃えたたせて、|喉《のど》の奥から激しい息を吐いている。
美希は興奮と陶酔の中で、晃の顔から目を|逸《そ》らせた。
開け放たれた窓が見えた。二人を見ているのは、赤く染まった空だけだ。このまま晃と一緒に、空に飛んでいけそうな気がした。この窓から、この村から、どこまでも広がる空へ。自由に|翔《と》びだせる気がした。
「晃さん」
美希は、彼の顔を見つめた。
「……好きよ……」
晃の澄んだ瞳が細められ、美希は強い力で抱きしめられた。
洋服|箪《だん》|笥《す》の中に気にいった服はなかった。美希はハンガーを右手で手繰りながら、顔をしかめた。
どの服も、自分が不恰好に見える気がした。かといって、今から服を買いに走るわけにもいかないと思って、美希は苦笑した。
障子の外では、雨が|囁《ささや》くような音をたてて降り続いている。しかし、彼女の心は弾んでいた。
今日は雨なので、午前中は休んだが、午後はどうしても仕事場に行くつもりだ。
――明日は土曜日だから、学校が終わったら、仕事場に和紙|漉《す》きを見に行くよ。
昨日、晃がそういったから。二人で抱き合った後のことだった……。
彼の家での出来事を思い出して、美希の顔が|火《ほ》|照《て》った。自分のどこから、あんな激しい感情が湧きあがってきたのか不思議だった。
だが、もう罪悪感はなかった。
ためらいや後悔は、昨日、美希の体の中で燃え尽きてしまった。彼女は、自分が外に一歩、踏みだしたことを自覚していた。踏みだしたからには、覚悟を決めていた。どうなろうと、二人の仲が行き着くところまで、行ってやろうと思った。
美希は、結局、普段着のデニムのフレアスカートと白いブラウスに着替えた。そして鏡台の前に座って、髪の毛を|梳《と》かした。白い顔が映っている。すっと伸びた鼻筋、小さな唇。美希は指先で頬を|撫《な》ぜた。
鏡に映る私の顔は、まだ若い。
美希は薄化粧をすると、桜色の口紅を引いた。そして、ポケットに|財《さい》|布《ふ》と鍵とハンカチを入れて、部屋を出た。
廊下の硝子戸に雨粒が滴り落ちている。遠くの山の|稜線《りょうせん》が墨絵のように重なる。庭の木々も雨に打たれて、うなだれていた。
母の居室の前を通りかかった時、低い声が流れてきた。
「不動、|釈《しゃ》|迦《か》、|文《もん》|殊《じゅ》、|普《ふ》|賢《げん》、地蔵……」
また善光寺念仏を唱えている。
美希は開いた障子から中を|覗《のぞ》いた。
仏間に、母が座っていた。|数《じゅ》|珠《ず》を手にして、背中を曲げている。大柄な母だが、最近はひとまわり小さくなったように見える。
いったい何が母の心を悩ましているのだろうか。しかし、母にその質問をぶつけても無駄なのはわかっていた。心の底は決して明かさない人だ。
以前、尾峰の婦人会で、|信濃《しなの》旅行の話が持ち上がったことがある。善光寺参りをしたいと昔から口癖のようにいっていた母に、美希も道夫も参加を勧めたのだが、理由もいわずに、頑として行こうとしなかった。
台所に入ると、茶の間にテレビがついていた。前に百代が座り、兄の道夫が電話をしている。今日は雨なので、野良仕事も休みにしたらしい。受話器を握る兄の「先祖祭りは五月十八日ゆうことでな」という声が聞こえた。話し相手は分家の誰かだろう。
美希は百代に、仕事に行くことを手振りで示すと、台所を出た。
二階の理香の部屋は静かだった。まだ帰ってきてないらしい。晃は、もう学校を後にしただろうか。
美希は白い雨靴を履いて、外に出た。柔らかな春雨が降りそそいでいる。彼女は傘をさすと、家の前の村道に出た。
|濡《ぬ》れそぼる尾峰の村落は、妙に寂しげだった。畑に出ている者も、庭先でぼんやりと時を過ごす老人の姿もない。まるで誰もが家の中に隠れて、息をひそめているようだ。
いつもの石段を降りようとした時、坊之宮の本家から、園子が飛びだしてくるのが見えた。傘もささずに、両手を握りしめて、怒っているようだ。
また隆直と|喧《けん》|嘩《か》したのだろうか。
そう思いながら、もう一度、園子を見た。
顔を上気させ、肩を力まかせに左右に揺らせている。隆直の浮気が原因なら泣いているはずだが、今日の園子は殺気立っていた。
美希は気になって、足を止めた。本家の前の坂道を降りてきた園子が、村道を歩いてくる。美希は彼女に近づいて聞いた。
「どこに行くの、園子さん」
園子は返事もせずに、美希の横を通り過ぎた。そのまま村道をずんずん登っていく。美希は、小走りに園子を追いかけた。
「どうしたが、血相変えて」
園子は|煩《うるさ》げに美希を見遣ると、吐き捨てるように応えた。
「沢田さんくや。あそこの子供が、うちの秋枝を|苛《いじ》めたがや。うちの子、泣きながら小学校からもんてきたがで」
この村道の先にある沢田といえば、ふさの家だ。美希は、昨日のふさの様子と村人の態度を思い出して、いやな予感を覚えた。
「苛められてって、どうして……」
「おまんくは|狗《いぬ》|神《がみ》|筋《すじ》や、ゆうたんやって」
園子は声を荒らげた。
美希は驚いて聞き返した。
「狗神筋やって」
「そうよ。とんでもない話やわ。あそこの親に文句ゆうちゃる」
雨に濡れた園子のこめかみが小刻みに震えていた。
昨日、味元がいったことが、子供にまで伝わっている。ふさの突然の変化を、沢田家では狗神のせいだと決めつけたのだろうか。
「でも、どうして、うちが狗神筋やなんてゆうがやろ」
美希は自問するようにいった。
「知らんわ。けんど、そんなこといわれる筋合いはないわ」
園子はずんずんと村道を登っていく。この剣幕では、大騒ぎになりそうだ。美希は慌てて、園子の腕を取った。
「待って。隆直さんにでも行ってもろうたほうがええよ」
隆直と聞いて、園子の目がつり上がった。
「あんな人、頼りになるもんかねっ」
園子が美希の手を振り払った。傘が路傍に飛んだ。美希は急いで傘を取ると、走りだした園子を追った。
「待って、園子さん、園子さんっ」
沢田家は、村道の曲がり角にある。園子が玄関に飛びこんで、硝子戸に手をかけた。美希がその肩をつかんだ。
「放してやっ」
園子が彼女を憎々しげに|睨《にら》みつけた。
その時だった。
「ぎゃああああっ」
家の中から、悲鳴が響いた。
園子も美希もはっとして、顔を見合わせた。
「出てこいっ。出てくるんじゃっ」
男の怒声が続く。
園子が意を決したように、がらりと硝子戸を開けた。
そこは土間になっていた。薄暗い中に、自転車や段ボール箱、|薪《まき》の束が置かれている。その奥に座敷があった。座敷の前に靴がいくつも脱ぎ散らかされていた。
美希と園子は土間を横ぎると、こわごわ中を|覗《のぞ》いた。
テレビや食器棚の置かれた座敷の中央に、ふさが仰向けになって暴れていた。歯を喰いしばり、親指を|拳《こぶし》に隠すように握り締めて、四肢をばたばたさせている。顔はどす黒く|浮腫《むく》み、口のまわりは|涎《よだれ》でてらてらと光っていた。昨日から、この様子が続いているのだろうか。山吹色の服を着たままだ。しかし、その服の肩や|裾《すそ》は破れて、中から白い下着がこぼれ出ていた。
ふさの周囲には、夫の洋介、それにふさの|舅 姑 《しゅうとしゅうとめ》が|憔悴《しょうすい》した顔で座っている。その間に、見覚えのある白髪頭の男がいた。尾峰神社の|太夫《たゆう》だ。いつもは農夫をしているが、祭事があると太夫職を務めている。
太夫は、セーターにズボンという普通の|恰《かっ》|好《こう》で、ふさの体にかがみこみ、両手で白い御幣のついた|榊《さかき》を握りしめている。
「ゆうてみぃ、おまんに|憑《つ》いちゅうもんは何やっ」
「わ、わからん」
苦しい息の下から、ふさが答える。
美希も園子も、その光景を|呆《ぼう》|然《ぜん》と眺めた。家の者も、ふさと太夫のやりとりに夢中で、二人の来たことに気がつかない。
太夫が榊を振った。ざわっ、ざわっ。その音がいやなのか、ふさはまた悲鳴をあげて、体を|捩《よ》じらせた。白目が|剥《む》きだしになり、|呻《うめ》き声が|洩《も》れる。近寄ろうとした夫に、太夫は、放っておけ、と怒鳴り、またふさにかがみこんだ。
「ゆうんじゃ、どんなもんが憑いちゅうがや」
ふさは、ばたんとうつ伏せになり、獣のように背中をのけ反らせて、首を左右にちぎれるほど振った。背中で乱れた髪の毛が揺れる。
「何が入ってきた、ゆうんじゃっ」
「こ、こんまい虫みたいなもんや……」
ふさは両手をぶるぶると宙に突きあげた。そして、自分の力では思うままにならないらしく、必死の|形相《ぎょうそう》で指を開こうとした。曲げられた指の|爪《つめ》が紫色に変わっている。ふさは半ば開いた自分の指先を|睨《にら》みつけながら、押し|潰《つぶ》された声をだした。
「つ……爪の間から入ってきた。爪の間から、こんまい虫みたいなもんが……もぞもぞ……入ってきた」
太夫がまた榊を振った。ふさの体が硬直して、手がぱっと開いた。
「なんで入ってきたがや」
太夫が聞く。ふさは肩で息をしながら、言葉を押し出した。
「あ……あたしの服を欲しがっちゅう」
「どの服や」
びゃうびゃうびゃう。奇妙な音が、ふさの|喉《のど》から洩れてきた。太夫が片足を立てて、身を乗り出すと、また榊を振った。
「びゃぅうう、びゃううぅっ」
猫とも犬ともつかない声が部屋に響いた。ふさはごろごろと畳を転がった。
「私の服……この服が欲しいと……」
ふさが自分の服の|裾《すそ》を引っ張って、苦しげにいった。
太夫が洋介に怒鳴った。
「ものを欲しがるんやき、やっぱし|狗《いぬ》|神《がみ》じゃ。狗神は、欲しいもんが手に入るまで出ていかんぞ。洋介さん、ふささんの服を脱がせて、狗神にくれちゃれ」
洋介と、|姑《しゅうとめ》が暴れるふさに組みついて、服を脱がせようとした。びりびりりっ。服の破れる音がした。しかし、二人はそれに構わず、服をむしり取った。そして、ぼろぼろの布きれになった服を、太夫に差し出した。
太夫は、山吹色の塊を、シュミーズ一枚になったふさに投げつけた。
「ほら、服はやる。やったき、出ていけっ」
びゃうびゃう、とまたふさが鳴いた。
ざわっ、ざざざっ。太夫が、ふさの体の上で榊を左右に振った。緑の葉がこぼれて、畳に散った。ふさは、その葉の上に転がり、また悲鳴をあげた。
しかし、悲鳴は今度は少し弱まったようだった。ふさの手足の肉が波のように震えだした。薄いシュミーズを通して、太った腹の肉も波立っているのがわかる。その波は、ふさの全身を覆い尽くした。
ざっ、ざっ、ざっ。
太夫は榊を振り続ける。
肉の波が、ふさの腕のほうに押し寄せられていく。断末魔の獣のように|痙《けい》|攣《れん》していた、ふさの体の動きが少しずつおさまってきた。
ふさは、ゆっくりと畳から起きあがり、四つん|這《ば》いになって、うつむいた。むっちりした両腕の肉が、びくびくと動く。
「出ていく……」
|嗄《か》れた声で|呟《つぶや》くと、ふさは四つん這いになったまま、うっと背中を丸めた。
畳の上に茶色い|吐《と》|瀉《しゃ》物がこぼれ落ちた。あたりに、すえたような臭いが広がった。しかし、ふさは、自分の吐いたものをじっと見つめている。
「出ていく、出ていく。狗神が出ていく」
ふさは|涎《よだれ》を垂らしながら呟き続ける。茶色に濁った胃液が、畳の黒い縁に沿ってつつっと延びていく。
太夫も洋介も、ふさの舅姑も|惹《ひ》きつけられたように前のめりになって、その細い筋の行方を目で追った。どろりとした吐瀉液はまるで意志を持っているように流れていく。畳の縁に沿って、まっすぐ、美希の許へ……。
その場にいた者の視線が釘づけになった。誰もが今さらながらに、彼女が来ていたことに気がついたようだった。
美希は皆の視線を浴びてたじろいだ。すでに、ふさの奇態な様子に気勢をそがれていた園子が、|怯《おび》えたように彼女に寄り添った。
しばらく誰も何もいわなかった。
雨の音が座敷を包んだ。
太夫が|喉《のど》を鳴らして|唾《つば》を|呑《の》みこむと、畳の上に腰を落とした。
「よかった、美希さん。狗神様を迎えに来てくれたがか」
美希はぎょっとして太夫の顔を見返した。
太夫は引きつった笑みを仮面のように顔に貼りつけている。
「ち……ちがう」
そう呟いたとたん、顔に何かが飛んできた。ぷん、と汗の臭いがして、足許に、ふさの着ていた山吹色の服が落ちた。
青ざめて面を上げると、ふさの姑の|憎《ぞう》|悪《お》に燃えた顔にぶつかった。
黄色い歯を|剥《む》きだして、老婆が怒鳴った。
「服はやるきに、狗神を連れてとっとと帰っとうぜっ」
10
赤紫色の肌の赤子が、|闇《やみ》に浮かんでいた。首に|臍《へそ》の緒を巻きつけて、膨れ上がった|瞼《まぶた》の下から、美希をじっと見つめている。
その首から、臍の緒がずるりと離れた。巨大な|蚯蚓《みみず》の腹のような臍の緒が、ゆっくりと宙に伸びはじめた。赤黒い切断面を見せて、美希のほうに漂ってくる。
身動きひとつできない彼女の首に、冷たいものがまといついた。臍の緒が、ぎりぎりと絞まる。美希は口を大きく開いた。息ができない。首がちぎれるように痛い。
私は殺される。自分の子に殺されるのだ。
いや、ちがう。これは悪夢だ。目を覚ますのだ。美希は自分にいい聞かせ、やっとの思いで瞼をこじ開けた。
背中に布団の感触を覚えた。薄闇に、ぼんやりと部屋の障子や|箪《たん》|笥《す》の輪郭が浮かぶ。
美希は飛び起きると、枕元の電気スタンドのスイッチを押した。小さな音がして、|眩《まぶ》しい光が広がった。
彼女は全身の力を抜いて、布団に仰向けになった。
電気の光は、|安《あん》|堵《ど》感を与えてくれる。
それにしても、恐ろしい夢だった。自分の子に殺される夢とは。しかも、なんと真に迫っていたことだろう。まだ、首にぬるぬるした臍の緒が巻きついている気がした。
美希は自分の首を|撫《な》ぜながら、部屋を見回した。波のような木目で覆われた天井板。きっちり閉められた障子窓。白木の洋服箪笥や古ぼけた机。見慣れた部屋の家具が、彼女を取り巻いていた。
よかった。この部屋までは、悪夢は忍びこんできてはいない。
その時、天井の電灯から下がった|紐《ひも》が揺れているのに気がついた。美希が|仰《あお》|向《む》けになったまま、どんなに手足を動かしても届く距離ではない。なのに、風もないのに振り子のように動いている。
紐があるのは、美希の頭の上だ。夢の中で、赤子が浮かんでいたのは、ちょうどそのあたりだった。
白いナイロンの紐が揺れ続ける。ふらり、ふらり……。
美希は、がばっと起き上がった。
そして引き戸を開けると、パジャマ姿のまま部屋を飛びだした。
廊下のつきあたりに台所の豆電球が|灯《とも》っている。廊下の床が、|橙色《だいだいいろ》の光を反射していた。美希は寝室の戸を背にして立ち止まった。灯台の光のような豆電球を見ていると、気持ちが落ち着いてきた。
電気の紐が揺れていただけだ。赤子が現れたという証拠にはなりはしない。きっと、どこかから|隙《すき》|間《ま》|風《かぜ》が吹いてきたのだ。
美希は、視線を廊下のカーテンに向けた。硝子戸が開いていたのかもしれない。それが部屋の戸の隙間から入りこんだのだ。きっと、そうだ。
だが、硝子戸が開いているかどうか確かめるために、カーテンを開ける気はしなかった。窓の外には、またあの漆黒の闇が漂っているだろう。夜というには、暗すぎる闇が……。
「……みい、よぅ、いつ、むぅ……」
かすかな声が耳を打った。
「やぁ、ここのぉ、とぉ、じゅういち……」
母の声だ。また、何かを数えている。
二週間ほど前のことを思い出した。やはり真夜中、この声を聞いたのだ。母は眠れないので、畳の目を数えていたといっていた。しかし、その言い訳に、美希は納得できないものを感じたのだった。
「じゅうさん、じゅうしぃ、じゅうごぉ……」
声に誘われるように、美希は足音を忍ばせて、母の部屋に近づいていった。
白い障子に青白い光が|滲《にじ》んでいる。美希は障子の桟に指をかけて、戸を横に滑らせた。
この前と同じように、母の布団の中は空だった。蛍光灯の光が、仏間との境の|襖《ふすま》の隙間から|洩《も》れている。
「にじゅういち、にじゅうにぃ、にじゅうさん……」
呟くような母の声は続いている。美希は、寝室を横ぎると、襖の間から中を|覗《のぞ》いた。
黒塗りの仏壇の下に、母の丸めた背中があった。右手を動かして、|膝《ひざ》の上の何かを指さしながら数えている。
「にじゅうく、さんじゅう……おらん。やっぱり、おらん」
富枝は途方に暮れたように呟くと、頭を左右に振って、また「ひぃ、ふぅ、みい」と数えはじめた。
いったい何をしているのだろう。畳の目を数えているのではないのは確かだった。
「お母さん、何を数えゆうが」
美希が襖を開け放った。
富枝の肩がびくりと震え、膝に置いたものを両手で隠すように抱えこんだ。そして首だけを、ゆっくりと|捩《よ》じった。
「美希か……」
富枝は苦々しげに呟いた。寝起きの乱れ髪が、|窪《くぼ》んだ頬の周囲で|蜘《く》|蛛《も》の糸のように広がっている。
美希は仏間に入ると、母の前に回った。富枝は膝の上のものを寝巻きの|袂《たもと》でさっと隠した。しかし、袂の下から茶色のものが覗いているのがわかった。|南瓜《かぼちゃ》ほどの大きさの|壷《つぼ》だった。同色の陶製の|蓋《ふた》がついている。美希は、それに見覚えがあった。
「先祖祭りの時の壷やないの」
母は渋々というふうに|頷《うなず》いた。
美希は、なぜ母がその壷を慌てて隠したのか不思議に思った。
茶色の何の変哲もない壷で、毎年、先祖祭りの時、先祖の塚の前に置かれるものだ。|榊《さかき》や|蝋《ろう》|燭《そく》立てなどと同じように、先祖祭りに関わる必需品のひとつとしか見なしていなかった。その壷が、自分の家にあるとも知らなかったし、興味もなかった。しかし、仏壇の最下段の棚の引き違い戸が開けられているところを見ると、母はそこに壷を安置していたようだった。
美希は戸惑いながら聞いた。
「その中に何か入っちゅうがやの」
富枝はまだ壷を隠すようにして、仏壇を見上げた。「御先祖様之霊」と書かれた|位《い》|牌《はい》に目を止めて、しばらく思案していたが、やがて深い息をついた。
「まあ、いつかは話そうかと思いよったことや。今、ゆうちょいてもええかもしれん」
母の言葉に、美希は胸騒ぎを覚えた。
「何のこといいゆうの」
富枝は|笹《ささ》の葉に似た切れた目で、美希の顔を見据えた。その|皺《しわ》の寄った唇から、|囁《ささや》きが|洩《も》れた。
「|狗《いぬ》|神《がみ》様のことやよ」
その言葉は、銃弾のように美希の心に突き刺さった。
――狗神様を連れてとっとと帰っとうぜ。
今日、ふさの家で投げつけられた言葉が|蘇《よみがえ》った。
なぜ母までが狗神のことをいいだすのだ。あの出来事を耳にしたのだろうか。
だが美希は、狗神のことについては思い出したくもなかったから、午後、仕事場に来た晃にすら黙っていた。園子も、自分の一族をおとしめるようなことをいうはずはない。
母が、ふさの狗神憑き騒ぎを知っているとは思えなかった。
困惑している美希の前で、富枝はゆるゆると背筋を伸ばした。仏間の壁に映る母の影が大きくなった。母は、膝の上に載せた壷を両手で抱えて続けた。
「この壷の中にはな、坊之宮の狗神様がおられるがじゃよ」
美希は、すぐには母の言葉の意味がわからなかった。
「坊之宮の狗神様? うちに狗神がおると……」といいかけて、彼女は、はっとした。
「つまり、うちは狗神筋やゆうわけか」
母は重々しい顔で|頷《うなず》いた。
では、ふさの家で投げつけられた言葉は、ただの根も葉もない中傷ではなかったのか。美希はたまらなくなっていった。
「けど、そんなの、ただの言い伝えやろう」
母は、苦しそうに目を細めた。
「ただの言い伝えやったら、どんなによかったことか」
長年の野良仕事で荒れた手で、富枝は壷の肌を撫ぜた。
「この壷は、うちが本家からこの分家に嫁いで来る時に、お|祖母《ばあ》さんに譲られたがよ。この中には、坊之宮一族の狗神様がおられるきに、これからは、おまんが狗神様をお守りせにゃいかん、ゆわれてのう」
「中には、何も入ってないがやろ」
雑貨屋に行けば五百円ほどで売っているだろう壷だった。神様の入る器には、とうてい見えない。
しかし母は皮肉な笑みを浮かべると、片手で壷をそっと|叩《たた》いた。
「狗神様はちゃんとこの中におられる。大豆ばあのこんまい神様が入っちゅうがぞね」
ふさの言葉を思い出した。爪の先から、小さなものが入ってきたといっていた。
美希は落ち着かない気分で、壷を見つめた。ことり、と富枝が壷を畳の上に据えた。電灯の光を鈍く反射する壷は、仏間の中央に置かれた時限爆弾のようだった。
母も壷を眺めながら、話を続けた。
「狗神様は、本家の血を引く女がお守りせんといかん。お祖母さんは本家の生まれで、養子をもろうて家を継いだけど、娘はできんかった。ほいで孫娘のうちが嫁ぐ時に、壷を譲ることにしたがよ。そうやってこの壷は、坊之宮の女と一緒に、本家や分家の間を行き来してきたわけぞね」
美希は、仏壇の下の棚に目を遣った。母は、彼女の考えを察していった。
「そうよ。うちは壷をそこに置いて、ずっとお|祀《まつ》りしてきたがよ。坊之宮の女はのぅ、一遍、壷を預かったら、次の者に譲るまで、毎日、狗神様にお供え物をあげにゃいかん。狗神様は欲張りな神様や。一日でも、お祀りをせんかったら、すぐ外に出て、他人様にとり|憑《つ》きよる。反対に大事にしちゃったら、うちら一族をお守りくださって、家は栄えるきにね」
美希は、母の話を|呆《ぼう》|然《ぜん》と聞いていた。
自分の家が狗神筋だったばかりか、実際に狗神の入っているという壷まで継承されていたことに驚いていた。
「けど、私、今まで一度も、狗神のことらぁ聞いたこともなかったよ」
「狗神様のことは、誰も大きな声じゃあいえやせん。憑かれたら怖いゆうて、いやがられるきにのぅ。坊之宮の者でも、うちが狗神筋やと知っちゅう者は年寄りくらいのもんじゃ。まして、この壷に狗神様がおられるゆうことは、うちの他は誰も知らん」
「お母さんだけ?」美希は聞き返した。
「本家の誰も、長老の治さんも知らんの」
富枝は|微笑《ほほえ》んだ。
「男の人は知りゃあせんよ。たとえ知っても、狗神様は見えやせんき、信じんやろ」
「見えるって……」
母は壷を再び膝に上げた。そして、陶製の|蓋《ふた》のつまみを指でいじりながらいった。
「そうよ。狗神様が見えるんは、女だけ。それも坊之宮の血を継ぐ女だけ。百代さんは、この家の血が入ってないき、狗神様は見えやせん。この家の女で見えるのは、美希と理香だけやろな」
美希は首を横に振った。そんなもの、見たいとも思わなかった。
「ほんで毎日、壷の中を|覗《のぞ》いて、狗神様を数えるがよ。一匹でも足りんと、よそ様んくに行って、悪さをしゆうかもしれんきのう。それがこの前から、狗神様が連れ立っておらんようになる」
母は、かたり、と壷の蓋をはずすと、中を覗きこんだ。
「ちょうど皆が、悪い夢を見るじゃの、寝苦しいじゃの、いいだした頃よ。朝、狗神様の数を確めてみたら、五匹もおらんなっちょった。それから気をつけて見ると、毎晩ぞろぞろ出ていきゆうがよ。|一昨日《おととい》は、いっぺんに二十匹も出ていっちょった。昨日の晩になったら、もんてきたけどの」
一昨日といえば、ふさが狗神に|憑《つ》かれた日だ。青ざめる美希の前で、壷にかがみこんだ母が|呟《つぶや》く。
「悪い予感がするがよ、美希。今までやったら、狗神様が出ていったゆうても、一匹や二匹やった。それで村の者も狗神様に喰われたと気がつく前に、こっそり戻ってきよった。ところが、今度はいっぺんにいっぱいおらんようになる。それも夜になると、何かに呼ばれるみたいに出ていくがよ。ほら、こういいゆう間にもおらんなる。ひぃ、ふぅ、みぃ、よう……」
右手で指さすようにして、壷の中を数えはじめた母の姿に、美希の抑えていたものが爆発した。
「やめてっ。狗神らぁ、ただの迷信じゃいか」
富枝が壷から顔を上げた。哀れみの表情を浮かべ、母は壷を娘に差しだした。
「信じんがなら、美希。中を見たらええ。ここに狗神様がおられるぞ」
「おるはずないわ……」
美希は自分にいい聞かせるようにいった。
母は、彼女の前に茶色の壷を置いた。
「見てみい。おまんも坊之宮の女や。狗神様が見えるはずじゃ」
美希は壷を|睨《にら》みつけた。
狗神なぞいるはずはない。そう確信しているのに、中を見るのは怖かった。
しかし、確かめるべきだと思った。狗神がいないということを。
美希は壷に体をかがめた。
|闇《やみ》が壷の底に漂っていた。まるで、今、外に満ちているだろう、あの漆黒の闇のようだ。目を凝らしても、何も見えはしない。
美希の肩から力が抜けていった。
「おらんよ、お母さん。狗神様なんか、おりゃあせん」
耳許で母の|苛《いら》|立《だ》った声が聞こえた。
「よう見んか。壷の底に目を凝らすがよ。普通やったら、坊之宮の一族の数だけ、狗神様がおられるはずじゃ」
美希はうんざりしながらも、最後の|一《いち》|瞥《べつ》を送った。
やはり何もない。壷の底には、漆黒が|溜《た》まっているだけだ。ただの黒い……光?
美希は、ぎくりとした。
壷の底に、黒いきらめきが見えた。針の先ほどの小さな光が、いくつも底に沈んでいる。
それは眼だった。
虫のような小さな眼が、|冥《くら》い闇の|淵《ふち》から、美希を見返していた。
心臓を冷たい手でつかまれたような気がした。壷から|強《こわ》|張《ば》った顔を上げると、母の満足気な表情とぶつかった。
「狗神様は、おられたやろう」
富枝が|囁《ささや》いた。美希は頭を激しく横に振ると、壷の中に手をつっこんだ。
「美希っ、やめやっ」
母が止めようとしたが、もう遅かった。
美希の指先が冷たいものにあたった。つるつるした感触が伝わってきた。
壷の底だ。手で撫ぜ回したが、他には何も触れなかった。豆粒のようなものは何も……。
彼女は手を引き出すと、もう一度、壷の中を見た。小さなきらめきが見えた。だがそれは、壷の底の陶器の肌の反射に過ぎなかった。
「狗神らあ、おらんよ」
美希は硬い口調で、母に告げた。
11
南庭のコンクリート塀の内側に、草履が落ちていた。洗濯物を干していた美希は、拾おうとして、顔をしかめた。|濡《ぬ》れた草履は、胸の悪くなるような異臭を放っていた。
背後で、がたん、という音がした。振り向くと、母の富枝が縁側の硝子戸を開けて、庭に降りようとしている。
美希は草履を指さしていった。
「見てちや、お母さん。こんなところに、変な臭いのする草履が落ちちゅうがよ」
母は突っかけを履いて、美希の隣にやって来た。|藁《わら》があちこちから飛びでた古草履に目を遣ったとたん、母の表情が凍りついた。
「村の者の仕業や」
「けど、どうしてこんなことを……」
美希はわけがわからずに聞き返した。
母は|眉《み》|間《けん》に|皺《しわ》を寄せて草履を睨んだ。
「昔から、|狗《いぬ》|神《がみ》様に|憑《つ》かれんようにするには、狗神筋の家の棟を越すように、お便所に|漬《つ》けた草履を投げるとええゆうがよ」
では、これは坊之宮の狗神避けの|呪《まじな》いなのだ。美希の心に、不快感が湧きあがった。
ふさの一件以来、村の空気はおかしくなっていた。立ち話をしても、以前のように会話が弾まない。買物の時の応対がつっけんどんだ、と百代は怒っていたし、昨夜は、兄の道夫が集会所の会合で|大《おお》|喧《げん》|嘩《か》して帰ってきた。村の何戸かの家の共有地、組地の運営について話していたら、番所山の墓地に隣接する林の木を伐採する件が出た。坊之宮の者が反対すると、あんたたちの意見なぞ聞きとうない、といわれたと、日頃はおとなしい道夫が声を荒らげて憤慨していた。
そんなことが重なり、今では美希だけでなく、家族の者も、坊之宮家が狗神筋だということが|囁《ささや》かれていることに勘づいている。
「どうして村の人は、急に狗神のことをいい立てるようになったがやろう。これまでそんなこと、いわれたことなかったに」
悔しさに美希の声が震えそうになった。母の面長の顔に薄笑いが浮かんだ。
「皆、狗神様が怖いき、口に出さんかっただけぞね。忘れちょったわけやない。心の中でいっつも思いよったがや。坊之宮の者は狗神筋やき、下手なことして怒らせたらいかん。|崇《たた》られる、狗神に喰われる、ゆうての」
美希は小さい頃を思い出した。
村の年寄りは、坊之宮の美希ちやん、といって、かわいがってくれた。他の子なら厳しく|咎《とが》められるいたずらも、美希や、坊之宮の子供たちならば、軽い|叱《しっ》|責《せき》ですんだ。大きくなってから、美希はその理由を、坊之宮が村の旧家のせいだからと理解していた。
しかし母の言葉通りなら、村の年寄りは、坊之宮の一族だから、美希たちを恐れていたということになる。
その恐怖が、ふさの一件で、こんな形で噴きだしたのだ。美希は、押し|潰《つぶ》された油虫のような草履を見下ろした。
「ひどいことするわ。こんなことをした人の家に、この草履、投げ返しちゃりたい」
「仕返しらぁ、考えたらいかん」
母は真剣な顔になり、低い声でいった。
「坊之宮の者は、他人様のことを悪う思うたり、|羨《うらや》んだりしたらいかん。そんなこと、ちょっとでも考えてみや、狗神様が、たあっと壷から出て、喰らいついていくきの」
狗神の壷のことは、もう聞きたくもなかった。美希は激しい調子でいい返した。
「私は、うちに狗神がおるなんて信じんよ」
彼女は母に背を向けて、庭の隅の物置に行った。|竹箒《たけぼうき》や|塵《ちり》取りを|掻《か》きまわして、草履をつまむための|柴《しば》|挟《ばさ》みを探していると、少しずつ気持ちも落ち着いてきた。
不安を掻き立てられる夜が続くために、村人の気持ちが|苛《いら》ついているのだ。きっと、季節の変わり目だからだ。春が過ぎれば、眠れない夜も消えていく。以前の生活が戻ってくれば、狗神騒ぎもおさまるはずだ。美希は、そう自分にいい聞かせた。
やっと柴挟みを見つけて、物置を出た。
庭にはもう母の姿はなかった。
彼女は草履を柴挟みでつまむと、|風《ふ》|呂《ろ》|場《ば》に行って焚き口に放りこんだ。それから庭に戻り、洗濯物の残りを干した。
朝の家事が一段落つくと、もう十時になっていた。身支度を整えると、|籐《とう》の|手《て》|籠《かご》を持ち、仕事場へと向かった。
五月の陽気があたりにたちこめていた。緑は濃くなり、家々の庭のつつじが、鮮やかな桃色や朱色の花を咲かせている。
花や草の香りが、美希の心を和らげた。
石段を降りていくと、晴子の家が見えた。小さな家はやけにひっそりしていた。微風を受けて、物干し|竿《ざお》の白いシャツや下着がはためいている。軒下に干された|玉《たま》|葱《ねぎ》。縁側に散らばった玩具。さっきまで人のいた気配がある。しかし家は静まり返っている。
庭先を通り過ぎて、ふと振り返ると、縁側の障子の後ろで影が揺れた気がした。
晴子が隠れているのだろうか。ただの思い過ごしだろうか。美希は考えながら、再び石段を降りはじめた。
味元が|杖《つえ》を突いて上ってくる姿が、目に飛びこんできた。
美希の足どりが鈍くなった。
ふさの様子がおかしくなった時、「狗神に喰われたがじゃ」と宣言したこの老人を、美希は最近、敬遠していた。今回の狗神騒ぎの口火を切ったのは、彼ではないかと疑っていたからだ。
しかし今、味元を無視してすれ違うわけにもいかなかった。おまけに彼はすでに美希を認めて、含みのある顔で近づいてきていた。
「おお、美希さん」味元は、石段の端に寄った美希に話しかけた。
「もう山には行かんほうがええぞ」
「どういうことです」
味元は歯の抜けた口を大きく開いて、ゆっくりといった。
「やっぱり山犬がのう、うろつきよる。それも、たまあ太い山犬らしい。うちの息子が畑で足跡を見つけたいいよった。夜になったら、村まで降りてきゆうらしい」
煙草のやに臭い味元の息に、美希は顔を背けたくなった。しかし彼は、杖に上半身の重みをかけて、さらに彼女にかがみこんだ。
「あんたんくの狗も喰われるかもしれん」
美希は、はっと味元の顔を見返した。
深い|皺《しわ》の中で、老人の目が意地悪く光っていた。
「気ぃつけや」
味元はからからと笑った。
美希は老人の横を擦り抜けると、石段を走り降りた。
商店の続く通りを、怒りにまかせて、ずんずん歩いた。暗い店の奥から、じっとこちらを|窺《うかが》う視線を感じる。きっと味元の先の言葉は、村の誰もが思っていることなのだ。
――狗神なぞ、山犬に喰われてしまえ。
ほんとうは皆、そういいたいのだ。だが、面と向かっていえない。せいぜい味元のように、あてこすりをいうしかできないのだ。
新緑の斜面に|佇《たたず》む坊之宮家の墓標が見えてきて、美希はようやく足を緩めた。
ここまでは人の視線はついてこない。
路傍の地蔵に、籠に入れて持ってきた|饅頭《まんじゅう》を供える。いつものように合掌すると、彼女は仕事場に続く山道に入っていった。
杉林の間に太陽光線がまっすぐに射しこんでいる。むせ返る若葉の|匂《にお》いの中を歩きながら、美希は不意に、晃に会いたい、と思った。あの|逞《たくま》しい体に抱かれたい。そうすれば、このささくれだった心は慰められるにちがいない。
晃の家で抱き合った日から、美希の生活は一変した。仕事場で過ごす時間がもどかしくてならない。心はいつも晃に向いている。杉の葉を踏みしだいてやって来る彼の足音を、全身を耳にして待っていた。
この二週間ほど、学校が早く終わると、晃は必ず美希の仕事場に立ち寄ってくれる。彼は社交辞令ではなく、心から和紙作りに興味を覚えているようで、美希が話した七色を混ぜ合わせた和紙作りに夢中になった。今では彼女に教わりながら、和紙の原料を染める仕事を手伝ってくれるようになっている。もっとも二人の共同作業は、激しい抱擁へと変わってしまうのが常だったが。
杉木立が切れて、仕事場にしている家が現れた。すぐに美希は、縁側に腰をかけている誠一郎に気がついた。彼女は驚いて近づいていった。
「あら、土居さん」
誠一郎は美希を見ると、腰を浮かして軽く頭を下げた。紺色のズボンに、いつもの野球帽をかぶっている。どのくらいここにいたのだろうか。足元には、煙草の吸殻が六、七本、落ちていた。
美希は、家の入口の鍵を開けながら聞いた。
「どうしたんですか。こんな時間から」
誠一郎は何もいわずに、また縁側に座ると、帽子の縁をいじくっている。
何か話したいことがありそうだった。
美希は、とりあえず土間から座敷に上がると、家の雨戸を開けていった。
茶の支度をして、縁側に戻ってきた。湯呑み茶碗を誠一郎の前に出して、美希はもの問いたげな顔で小首を|傾《かし》げた。
誠一郎はようやく口を開いた。
「美希さん、あの中学校の先生と付き合いゆうがか」
彼は喰いいるように、美希を見た。
彼女は面を伏せて、誠一郎の隣に座った。
「誰が、そんなことゆうがです」
「皆ぁ、いいゆうが。美希さんと中学の先生はできちゅうゆうて」
誰か、晃がここに通って来るのを見ていた者がいたのだろうか。山で遊んでいた子供が見かけて、告げ口したかもしれない。
「ほんとうは、どうなんや」
誠一郎が詰問口調で聞いた。
美希は彼の視線を避けるように、庭に顔を向けた。竹をさし渡しただけの和紙の干し板台に、雀が二羽、並んで止まり、仲良さそうに|囀《さえず》っていた。
はっきりいいたかった。晃と自分は恋人同士なのだ、と。
しかし、そう明言すると、二人の関係は|噂《うわさ》ではなくなる。美希はよくても、晃は教師だ。池野中学校に居辛くなるのではないか。なにしろ、ただの恋愛関係ではないのだ。二人の年齢差を考えれば、皆が驚き|呆《あき》れるであろうことはわかっていた。
美希は息を吸いこむと、静かに答えた。
「関係ありません。奴田原先生は、私の和紙を|漉《す》くのを見るのがおもしろいゆうて、時々来てくれるだけです」
土居の顔から緊張が解けていった。そして、ほっとしたように何度も|頷《うなず》いた。
「そうやな。そうやとも、そんなん、ほんとのはず、ないわな。いくらなんでも年が離れすぎちゅうもんなぁ」
心臓を|錐《きり》で突かれたような痛みを覚えた。
「そんなこと、いいに来たんですか」
思わず強い言い方になった彼女に、誠一郎は慌てたように頭を下げた。
「ごめんや。へんなこと、耳に入れてしもうたな」
美希は黙って誠一郎の横に座っていた。胸の中がもやもやしていた。それは、晃との関係をはっきりいえないことが理由だとわかっていた。しかし真実を口に出せば、二人は村人の好奇の視線にさらされる。
隣では、誠一郎が煙草に手を伸ばしていた。彼は考えるように一本、口にくわえて、ライターで火をつけようとして、やめた。
誠一郎は、指先に挟んだ煙草をしばらく見つめていた。それから意を決したように、美希に向き直った。
「俺と、結婚してくれんか」
美希は驚いて、誠一郎を見返した。
どうして今になって……。
|喉《のど》|元《もと》まで、そんな言葉が出てきそうになった。ついこの前までは、誠一郎が結婚を申し込んでくれれば、受けてもいいと思っていた。
しかし、それは晃と知り合う前のことだ。今はそんなこと、想像もできない。
彼女はうつむいて、小さな声でいった。
「できません」
誠一郎は細い目をぱちぱちさせた。
「どうしてや、美希さん」
「私……ただ、そんなこと、考えられんだけです」
誠一郎は辛そうな顔で、かちりとライターの火をつけた。煙草を吸って、ふうーっと白い煙を吐く。
「美希さんが俺に|惚《ほ》れてなかってもええ。一緒になってくれんやろうか。俺と一緒に和紙を作ろうや。俺、絶対、美希さんを幸せにしちゃる」
美希は黙って首を横に振った。誠一郎が何かいいかけて口を開いた。
その時、女の声が響いた。
「誠一郎っ、ここに来たらいかんゆうたやろ」
淡黄色のレース編みのカーディガンを羽織った眼鏡の女が、杉木立の間から飛びだしてきた。誠一郎の母の克子だった。
誠一郎は、舌打ちして煙草を地面に投げ捨てた。そして縁側から立ち上がると、近寄ってくる克子にいった。
「お母あ、いちいち俺のことに口を出すんはもうやめてくれや」
眼鏡の奥の克子の目がきりりと釣りあがった。
「あんたのことが心配やき、いいゆうがやないの。こんな家の者と話しよったら、ろくなことない。帰るんや」
克子は息子の腕をつかんで引っ張った。|痩《や》せた母親の手を軽く振り払って、誠一郎は宣言した。
「お母っ、俺は美希さんと結婚したいがじゃ」
克子の口が大きく開いた。そして幼い子に教え諭すように、|猫《ねこ》|撫《な》で声でいった。
「おまえ、坊之宮の家の女を嫁にできるわけ、ないやろ」
「どういうことや」
克子は美希を横目で見て、小声で告げた。
「坊之宮さんくは|狗《いぬ》|神《がみ》|筋《すじ》やき……」
美希は、氷水を浴びせかけられた気がした。
「美希さんに失礼なことゆうなっ」
誠一郎の声が飛んだ。
しかし克子は止めなかった。|堰《せき》を切ったようにいい立てた。
「皆がいいゆうことや。坊之宮の者には近づかれん。恨みを買うと、狗神に喰いつかれるゆうて。今まで、美希さんの見合いが|潰《つぶ》れてきたがも、誰も、狗神筋の家の者と結婚したがりゃせんかったきで」
「お母あっ、黙れっ」
息子の剣幕に、克子は一瞬、口を|噤《つぐ》んだ。
誠一郎は苦りきった顔を、縁側の美希に向けた。
「許しちゃって、美希さん。母は自分でも何いいゆうか……」
「わかっちゅうっ」
克子が息子を押し退けて、美希の前に顔を突きだした。
「美希さん、あんた、息子をたらしこんで、うちの工場を乗っ取る気やろうけど、私は|騙《だま》されんで。あんたみたいな色気違いは、絶対、土居家に入れんきね」
美希の顔に血が昇り、声が上擦りそうになった。
「失礼やないですか、土居さん」
克子は悪意に満ちた顔つきで、美希を見据えた。
「私は覚えちゅうで、美希さん。あんたが昔、隆直さんと|噂《うわさ》があったこと」
赤い口紅を塗った克子の口許が、へらへらと動き続ける。
「どういう神経しちゅうか知らんけど、実のお兄さんとねぇ」
まな板の上の魚になった気がした。克子の声が、腹を|割《さ》く包丁のように、ぐさりと突き刺さった。美希の顔から血の気が引いていく。
「やめやっ、お母あっ」
誠一郎が克子の口をふさいだ。克子は手足を暴れさせた。
美希は、その場に硬直したように座っていた。|膝《ひざ》の上で握りしめた|拳《こぶし》が|蝋《ろう》のように白くなっている。
どうして他人は忘れてくれないのか。
もう昔のことなのに。
目頭が熱くなってきた。
克子は、口をふさごうとする息子の指の間から叫んだ。
「あんたんとこは、狗神筋じゃ。犬はな、兄妹でも親とでもくっつく獣じゃ。おまんらぁには、その犬の血が流れちゅうがや。誠一郎の嫁になるらぁ、とんでもないわっ」
「黙ってやっ」
美希は悲鳴のような声をあげた。
そして顔をぐいと克子に向けて、|睨《にら》みつけた。視線で人が殺せるなら、今の自分の視線は相手を焼き尽くしているだろう、と思った。
克子は、美希の気迫に押されて動きを止めた。母を抑えていた誠一郎が、ほっとしたように手を放した。
「げえええっ」
克子が突然、体をのけ反らせた。手の親指が隠れるように握りしめ、体は頭を釘で打ちつけられた|鰻《うなぎ》のように小刻みに動いている。眼鏡が飛んで、庭に転がった。|痙《けい》|攣《れん》するように動く克子の足が眼鏡を踏む。べりん、と音がして、レンズが割れた。
「お母あっ」
誠一郎が母親を止めようとしたが、あまりに激しく動くので、つかまえられない。
美希は縁側に座ったまま、手足を振り回して暴れだした克子を|呆《ぼう》|然《ぜん》と見守った。
克子は、拳を握りしめた両手を天に突きだしていた。自分ではどうにもならないように、白い腕が震えている。
目を凝らした美希は、息を呑んだ。
手の甲から|下《か》|膊《はく》部にかけて、皮膚の上に|水《みず》|脹《ぶく》れのような筋が出来ていた。まるで皮膚の下が針で縫われているように、白い幾本もの筋がぶくぶくと上膊部に走る。克子はそれが痛いのか、体を|捩《ね》じって苦しがっている。
膨れた筋は徐々に青紫色に変わり、その色は腕全体に広がっていく。克子は全身を震わせている。
「びゃうびゃうびゃうう」
|喉《のど》の奥から小さな鳴き声が|洩《も》れてきた。|御祓《おはらい》を受けていたふさの出した声とそっくりだった。
狗神だ。また狗神が喰いついてしまった。
違う。狗神なんか、いないのだ。
これは狗神のせいじゃない。私のせいじゃない。
美希の心で、色々な声が飛びかう。
「お母あっ、しっかりしやっ」
克子を抑えつけようとした誠一郎は、すごい力で突き飛ばされた。そのまま克子は飛ぶように走りだした。淡黄色のカーディガンが獣の|尻尾《し っ ぽ》のように揺れる。
「お母あっ、待ちやーっ」
誠一郎が慌てて、その後を追う。
美希は、杉木立に消えていく二人の姿を声もなく見送っていた。
12
土間の小窓の外に、黒い|闇《やみ》が|佇《たたず》んでいた。空には月もなく、星だけが小さく瞬いている。美希は蛍光灯の|蒼《あお》ざめた光の下で、紙を|漉《す》いていた。
紫色、|茜色《あかねいろ》、|萌《もえ》|黄《ぎ》|色《いろ》、青色……。七色の紙素の混じった原液を|簀《す》にすくいあげて、力強く揺する。ばしゃん、ばしゃん、という水音が土間に|虚《うつ》ろに響く。
最後に|簀《す》|桁《げた》を紙漉き舟から引きあげた。七色の紙素が密に絡まっている。だが、混ざり合った色は決して美しくはなく、どす黒く見えるだけだ。おまけに簀の上には、|穀《こく》|象《ぞう》|虫《むし》のような小さな塊があちこちにできていた。まだうまく繊維が溶けてないのだ。
美希は簀を|睨《にら》みつけると、漉いた紙を再び舟に空けた。どろどろした繊維が、原液に落ちていった。
やはり、七色をまんべんなく漉き合わすのは難しい。
|濡《ぬ》れた手で、ほつれ髪を後ろに|撫《な》ぜつけて、美希はため息をついた。
誠一郎が克子と消えてから、昼食もとらずに仕事に没入していた。午後も過ぎ、日が暮れてしまっても、夕食に戻る気にもなれなかった。家には電話で、仕事がたてこんでいると言い訳した。
本当は晃を待っていたのだ。彼に会いたかった。会って、その胸に抱かれたかった。しかし、今日は学校が忙しいのだろう。すでに九時近いのに現れない。
もう彼は来ないだろうとはわかっていた。それでも、美希は仕事場から離れたくなかった。家に戻っても、どうせ今夜は克子の言葉を思い出して、寝つかれないだろうから。
――どういう神経しちゅうか知らんけど、実のお兄さんとねぇ。
克子の言葉が、頭に反響している。
美希は、紙漉き舟の水面を見つめた。濁った原液の表面に、自分の黒い影が揺れている。その影が、今にも克子の顔に変わって、美希を|糾弾《きゅうだん》しそうに思えた。
実の兄と通じた女、と。
彼女は水面から目を背けた。
兄を愛してどこが悪いのだ。
美希は心の中で叫んだ。
誰も、本家の隆直が実の兄だとは教えてくれなかった。そして隆直も私が妹とは知らなかったのだ。小さい頃から一緒に遊んで育った二人は、少しずつ相手を意識しはじめて、やがて……肉体関係を持った。
妊娠に気がついたのは、母の富枝だった。高校一年の二学期も半ば過ぎた頃、魚の臭いに吐き気がするようになる一方で、異常な食欲を示しはじめた娘に疑いを持った。彼女は母に問い詰められて、隆直との関係を告白した。
その時の母の顔を、美希は一生忘れることはできないだろう。世界の崩壊を目の前にした人間のように、ただ言葉を失っていた。
|襖《ふすま》を閉ざした部屋で、美希は、母を安心させるようにいった。
「隆直さんは、うちが高校を卒業したら、結婚したい、ゆうてくれたがよ。私ら、できるだけ早う結婚する。ほんで、ええやろ」
両手で自分の|膝《ひざ》を握りしめて、富枝は|呻《うめ》き声をあげた。
「そんなこと、できやせん」
「なぜやのっ」
富枝は奇妙な目で美希を見つめた。その怒りと、苦しみの混ざった表情に、美希はようやく、母が妊娠だけの理由で反対しているのではないことを理解した。
「本家の隆直はなぁ」
母は震え声でいった。
「一歳の時に養子に出した、私の子やよ」
その言葉が頭に|沁《し》みこむまで、長い時間がかかった気がした。そして、はじめて美希は知らされたのだった。
隆直が、跡取りのいない坊之宮本家に養子に出された、この家の長男だということを。美希と隆直は、法律的にも心情的にも、結ばれることの許されない兄妹だった。
美希の妊娠は、すぐに父に知らされた。父は、そのことでがっくりと老けこんだようだった。両親は悩んだ末に、妊娠したことは、隆直を含めた本家の人間はもちろん、当時まだ生きていた祖父母や道夫と芳男の二人の兄弟にも隠しておくように、娘にいい含めた。美希も、自分の妊娠をおおっぴらにしたくはなかったので、それに同意した。
彼女は、すぐさま病気療養を名目に休学することになり、遠い|室戸岬《むろとみさき》のほうにある太田町で、夫を亡くしてから一人暮らしをしている祖母の姉の家に遣られた。
|大《おお》|伯《お》|母《ば》は、美希が誰とも知らない男の子を|孕《はら》んでいるとしか知らされなかったが、詳しいことは聞かずに、妹にも内緒で出産まで預かると約束してくれた。どちらにしろ大伯母は、夫の死後、外界の出来事すべてに興味を失っていたのだ。
太田町唯一の小さな産院で、美希は妊娠七か月と診断された。すでに堕胎は無理だった。彼女は、海のそばの家で、毎日、少しずつせり出してくる自分の腹を眺めて暮らすことになった。子供に対する愛情なぞ湧かなかった。彼女のすべての愛は、隆直に向かっていたから。
母から、隆直が兄だと聞かされた時は、確かに打ちのめされた。しかし、海辺の町で日がな一日、寄せては返す波を見ているうちに、ふと気がついた。
隆直が兄でも、美希が彼を愛しているという事実は変わりないことに。
一緒に育ったすぐ上の道夫や弟の芳男と恋愛関係に陥ることは考えもつかなかった。だが隆直は、別の家で、別の人間を両親と思って育ったのだ。美希の意識では、隆直は他人だった。目に見えもしない血の|繋《つな》がりが何だというのだ。近親|相《そう》|姦《かん》は、異常な子供が生まれる可能性が高い。それが兄と妹の恋愛を禁ずる理由だ。しかし、子供のこと以外に、兄妹の関係を否定する理由はあるだろうか。男と女なのだ。愛してもいいではないか。
隆直さえいれば、子供はいらない。子供を作らないことにしたら、誰が文句をいえるというのか。
美希は、憎しみをこめて自分の腹を見つめながら考えたものだった。
この子が、死んで生まれてくれればいい。そうしたら、自分は自由になる。隆直と駆け落ちするのだ。結婚したいといってくれた隆直だった。きっと自分と一緒に村を出てくれるだろう。そして二人が兄妹とは誰も知らない都会に行って暮らすのだ。誰にも止められはしない。子供を産まなければいい。兄と妹でも愛し合う自由はある。
あの頃、美希は、そんな将来への夢にしがみついていた。子供が|臍《へそ》の緒を通して、母体から栄養を吸収しているように、美希もまた、生きていくための栄養を、隆直との幸福な未来への夢から取りこんでいた。
だが、それも無残に打ち砕かれた。隆直は、兄妹という事実に耐えきれなかったのだ。両親の勧める女と、さっさと結婚してしまった……。
ばたばたばた。頭上で小さな音がした。
美希は瞬きして、もの想いから立ち返った。蛍光灯に寄ってきた|蛾《が》が羽音をたてている。彼女は原液に|鱗《りん》|粉《ぷん》が落ちないように蛾を追い遣ると、バケツに入れた|櫂《かい》状の棒を取って、紙漉き舟の中を|掻《か》き混ぜはじめた。
七色の紙素の混じった溶液が、ねっとりと渦を巻く。頭上の蛍光灯の光に照らされた水面は、赤紫色。赤子の肌の色だ。揺れる水面に胎児の顔が浮き上がる。波が裂け、白濁した|瞳《ひとみ》が|覗《のぞ》く。歯のない小さな口が動く。
よくも、僕を殺したな……。
水底から声が聞こえた気がして、美希は手を止めた。
紙漉き舟の中では、あいかわらず赤紫色の水が、重油のようにさざ波をたてている。
私が殺したわけじやない。
美希は手にした棒を握りしめた。
今でも、まざまざと思い出す。白いペンキがあちこち|剥《は》げた、病院の木の天井。青く塗られた鉄パイプのベッド。部屋の隅で燃える石油ストーブ。そして窓硝子を打つ厳しい粉雪。
美希は額に脂汗を|滲《にじ》ませて、白いシーツの上で|呻《うめ》き声を上げていた。がらんとした病室には、美希と母の富枝しかいなかった。
臨月間近の彼女の様子を見に来ていた母が、真夜中の陣痛に気がついて、高知には珍しい雪模様の中をタクシーで連れてきてくれたまではよかったが、産院はおおわらわだった。|安《あ》|芸《き》市に宴会に出かけた医者が思わぬ積雪で帰れなくなったところに、早産で運びこまれた妊婦がいて、二人しかいない当直はそちらにつきっきりだった。富枝に看護婦の資格があると聞きつけたのを幸い、美希の世話は母に押しつけられていた。
「きばるがで、美希。きばりやっ」
母はベッドに上がると、美希の背後に座り、|腋《わき》の下から両手を差しこんで腹を|撫《な》ぜおろした。波のように襲ってくる陣痛に気が遠くなりそうだ。美希は汗まみれで下腹に力を入れながら、なぜ、こんな苦しみを味わわなくてはならないのか、と怒りを覚えていた。
欲しくもない子供のために、両親から責められ、高校を休学し、こんな辛さまで背負わされた。子供なんか死ねばいいのだ。生まれなくて、いいのだ。
どろりとした生温かいものが、自分の中から押しだされた。
美希の股の間に、血まみれの赤子が見えた。黒味がかった紫色の顔をして、火のついたように泣き叫んでいる。子供の肌がみるみるうちに赤く変わっていく。
不思議な気分が美希を包んだ。それは、子供が生きていたという落胆と、産んだという達成感のないまぜになった感情だった。笑っていいのか、泣いていいのか、わからない。二つの相反する感情の中で、体中の力が抜け、意識が遠ざかっていった。
再び気がついた時、美希は、部屋に一人きりだった。母も、産んだはずの赤子もいない。
どうしたのだろう。
激しい腹痛のために起きあがれないまま、美希は不安になった。強い風雪が、木造の建物に打ちつける。病室は、嵐の中の小舟のように揺れていた。力づけてくれるものは、朱色に滲む白熱灯電球の光だけだ。美希は、すがりつくような目で天井の明かりを見つめながら、腹を押さえて横たわっていた。
どのくらい、そうしていただろう。戸口で、かちゃり、という音がした。振り向くと、青ざめた顔の母が立っていた。母の手には生まれたばかりの赤ん坊が抱かれている。
その子はやけにおとなしかった。さっきの泣き声は|空《そら》|耳《みみ》だったのだろうか、と思うほどに静かだった。
寒々とした病室に、母の声が響いた。
「死んでしもうた……」
首に巻きついていた|臍《へそ》の緒のために、生まれた時には呼吸困難になっていたと、美希は|痺《しび》れたような意識の中で聞いていた。
そうだ。私が、あの子を殺したのではない。
美希は、またゆっくりと紙漉き舟を|櫂《かい》で混ぜた。赤紫色の溶液が、舟の内側の板にぶつかり、|飛沫《しぶき》を上げた。
あの子は、生まれてすぐに死んだのだ。
大きな産声をあげていたのに、死んだのだ。臍の緒が首に巻きついて……。
臍の緒に首を絞められて、どうして、あんな元気な声があげられたのだろう?
彼女は櫂を動かす手を止めた。
今まで、そんなことは考えもしなかった。出産のことは忘れようと努めてきた。
しかし、おかしい。あの子は、本当に臍の緒を巻きつけて生まれてきたのだろうか。
もし、臍の緒を首に巻いたのが、生まれた後だとしたらどうだろう。
私が意識を取り戻した時、母は赤子と一緒に病室を出ていた。その間、母は何をしていたのだろう。
背中に氷の刃をあてられた気がした。
母もまた、美希と同じように、あの子の死を願っていた。生まれた子をどうしたらいいか、悩んでいるようだった。母にとっても、あの子の死は好都合だった。
母が赤子を抱いて病室から出ていた時間。あの時、廊下の隅でこっそり子供を殺すことはできた。臍の緒を首に巻きつけて、赤子を窒息させている母の姿が見える気がした。
うぁああああん。
赤子の泣き声がした。
美希は、ぎょっとして、櫂にしがみつくように握りしめた。
うぁぁあおおおん。うぉおおん。
犬だった。山に入った野犬だろう。|遠《とお》|吠《ぼ》えの声が続いている。聞けば聞くほど、その声が赤子の泣き声に思えてくる。土間の小窓から、押しいってくる赤子の声。暗闇の底から、生きたかったと叫んでいるのだ。
美希の目から涙がこぼれ落ちて、紙漉き舟の溶液に沈んだ。
生きたかっただろう。あんな元気に泣いていたのだ。充分、生きていられるはずだった。なのに、死んでしまった……。
母親の自分が、死ねばいいと思っていたのだ。あの子を殺したのは、やはり私かもしれない。私は子を産みながら、死を願っていた。なんとおぞましいことだろう。
漉き舟の中の赤紫色の溶液が、ゆらゆらと揺れている。蛍光灯の反射する水面の|暈《かさ》の周囲が、どす黒く見える。そこに美希の淡い影が重なる。たゆたう液面で分裂して、またひとつになる影を見つめるうちに、胃壁が収縮するような気分を覚えた。腹の底から、酸っぱいものがこみ上げてきた。
美希は櫂を投げだすと、土間を走りでた。
便所に着くまで、我慢できない。
彼女は、庭の隅の杉の木に寄りかかった。|喉《のど》の奥から熱い液体が押しだされてきた。美希は|呻《うめ》いて、|嘔《おう》|吐《と》した。
朝から何も食べてないために、胃液しか出ない。なのに吐き気は後から後からこみ上げてくる。涙を流しながら、草の上に黄色い胃液を吐き続けた。
忘れてしまいたい。あの記憶をすべて。|腫《しゅ》|瘍《よう》のようにメスで切り取って、汚物溜めに投げこみたい。
――犬はな、兄妹でも親とでもくっつく獣じゃ。おまんらぁには、その犬の血が流れちゅうがや。
克子の言葉が|蘇《よみがえ》った。
美希は、ぐっ、と声を|洩《も》らした。しかし、胃の中からは、もう何も出てこなかった。
あの女は、狗神筋。実の兄をたぶらかした女だ。
きっと克子は、これまで美希の背後で何度となくそんなことを|囁《ささや》いてきたのだろう。
再び、克子に対する怒りが湧いてきた。
いったい何の権利があって、他人の過去を|糾弾《きゅうだん》するのだ。どうしてそれを時の流れの|淵《ふち》に棄ててくれないのだ。
美希は肩で大きく息をしながら、杉の木に額をつけて、|嗚《お》|咽《えつ》を洩らした。
ざくっ。草を踏むような音に、涙に|濡《ぬ》れた顔を上げた。
星明かりに照らされて、杉の|仄《ほの》|白《じろ》い幹が、直立不動の人影のように並んでいる。いつもの夜だ。ただ、林の奥の一点が、やけに暗いのが気にかかった。
美希は杉の間を透かし見た。
そこだけ漆黒の闇が集まっていた。ただの夜の暗さではない。真夜中に村を包む、あの一条の明かりもない真の闇が漂っている。
ふうぅ……ふうぅ……ふうぅ……。
漆黒の闇から、規則正しい、緩慢な息が流れてきた。
美希はぎょっとして、体を硬くした。
闇の中に何かがいる。
人だろうか、獣だろうか。
目を凝らしても、何も見えない。夜気を通して、そこにいるものの存在感だけが伝わってくるだけだ。
顎の骨が震え、汗が|滲《にじ》んだ。動こうと思うのだが、足の裏が地面にへばりついたようだ。
ふうっ……ふうっ……。何とも知れないものの息遣いが続く。ふと、むせるような強い臭いが鼻を衝いた。彼女は眉をひそめて夜気をくんくん|嗅《か》いだ。
しかし、それが何か突きとめる前に、草が揺れる音がして、漆黒の空気の塊が退きはじめた。闇の|裳《も》|裾《すそ》を引きずるように、何かが杉林の奥へと遠ざかっていく。それが過ぎていったところに薄闇が戻ってくる。下生えの|羊歯《しだ》の影が現れてくる。まるで黒い霧が動いていくようでもあった。漆黒の闇が林の果てに消える直前、ちらりと何かが翻った。
足の裏のように見えた。人か、獣か、わからなかった。獣としたら、かなり大きな獣だろう。美希は、その場に立ったまま、杉林を見つめていた。
あたりはいつか、見慣れた夜に戻っていた。もう闇は、彼女を脅かすほど|冥《くら》くはない。体が動くようになった時、どこかで声がするのに気がついた。
「……だぁ……なんまい……だぁ」
美希は、はっとして顔を巡らせた。
ちぃん、ちぃん、どんどん、ちぃん。
|鉦《かね》や太鼓の音も流れてくる。
美希は、杉林から、庭の向こうへと目を向けた。
星明かりの下に谷が沈んでいる。家の明かりを反射する池野川。県道を走る車のヘッドライト。だが、谷の底から伝わってくるのは、それだけではなかった。
「なんまいだぁ……なんまいだぁ……」
吹き上げてくる風に乗って、念仏の声も聞こえてくる。
美希は庭の縁に歩いていった。谷を見渡す彼女の目が、池野川の辺の一軒の家で止まった。誠一郎の家だった。|田《たん》|圃《ぼ》を|潰《つぶ》して造った大きな家の一階の窓に|煌《こう》|々《こう》と明かりが|灯《とも》り、人影が動いていた。
四、五人の者が、座敷の中で盆踊りの真似をしている。それにしても、やけに間延びした調子だし、少しも楽しそうではない。
いったい何をしているのだろう。
「なんまいだぁ……なんまいだぁ……」
念仏の声が谷底から湧きあがる。
ちぃん、ちぃん、どんどん。
鉦と太鼓の音が、暗い夜空に流れていく。
狗神騒ぎに、漆黒の闇の中にひそむ獣。そして、奇妙にゆっくりした調子の念仏。
この不気味な響きが、さらに悪いことへの序曲のように思えて、美希の心に不安が広がった。谷底の家の窓に映る影は、いやいやながらに操られる|傀儡《ぐくつ》のように、いつまでも踊り続けていた。
13
朝の連続ドラマがテレビに映っていた。太った|女将《おかみ》が、出入りの商人と軽口を|叩《たた》いている。陽気な笑い声が流れてくる。
しかし、ブラウン管の外にある坊之宮家の食卓は、重苦しい空気に包まれていた。
道夫は苦虫を|噛《か》み|潰《つぶ》した顔で|漬《つけ》|物《もの》に|箸《はし》を伸ばしている。神経質そうに頬のできものを指先で触っている百代、|腫《は》れぼったい目で、コーヒーを飲んでいる理香。富枝は、いかにも食欲がなさそうに茶ばかり|啜《すす》っている。
美希も、体の中がゼラチン物質に変わってしまったようなだるさを覚えている。
昨夜、遅く帰宅してから、夕食をとって寝室に入ったが、なかなか寝つかれなかった。
|布《ふ》|団《とん》の中で|悶《もん》|々《もん》と考えていた。
母は、あの子を殺したのだろうか、と。
美希は、隣の富枝を横目で見た。
骨太の体を曲げて、テレビに顔を向けていた。頑固そうに張った|顎《あご》が、御飯を噛むたびに、牛のようにゆっくりと動いている。
いや。母は、自分や娘の都合のために、孫を殺すような人間ではない。
母を疑った自分が情けなくなった。
あの悪夢や|狗《いぬ》|神《がみ》騒ぎのせいだ。
美希は、箸の先で煮魚の肉をつまむと口に入れた。まだ朝で体も頭もしっかり起きてないが、食欲だけはあった。
「飯」
道夫が茶碗を差しだした。
百代が黙って白飯をよそう。
「今朝、先祖祭りのことで、高知の静雄さんが電話してきちょったで。十八日の何時からするがかゆうて」
百代がいった。
道夫は茶碗を受け取ると、不機嫌に答えた。
「高知に出ていった家は、|呑《のん》|気《き》でええわ。今、先祖祭りらぁしたら、村の者に何といわれるかわからんに」
百代は三白眼になって、夫を見た。
「何ていわれるがよ」
道夫は口ごもった。
「そりゃまぁ、色々とのう……」
そして富枝に同意を求めるように、話しかけた。
「なあ、お母ぁ、うちの一族が尾峰に集まったら、えらいこといわるぞ。今年はやめたがええと思わんか」
テレビを見ていた富枝は、息子に顔を向けた。
「おまん、坊之宮の一族を恥ちゅうがかえ」
道夫はたじろいだように、|猪《い》|首《くび》をすくめた。富枝はきっぱりといった。
「先祖祭りをやめるゆうて、らちもないことはいわんときや。村の者やち、坊之宮が十八日に祭りをやることは、もうちゃんと知っちゅう。今さらやめたら、ほら、やっぱしうしろめたいがや、と思われる。それに何より、こんな時やきこそ、先祖祭りはせにゃいかんがや。狗神様に悪さをせんでくれと、皆で祈らにゃいかん」
「やめてや、お|義母《かあ》さん。狗神らぁて」
百代が甲高い声をあげた。
「うちは狗神筋や。それはほんとのことやで」
富枝は、嫁に向き直った。骨格のがっちりした母と、|痩《や》せて大柄な百代とは、戦闘状態に入る前の二羽の|駝鳥《だちょう》のように見える。
百代が怒りをこらえていった。
「なんでそれを、私が嫁いでくる前にゆうてくれんかったがですか」
「あんたは、うちが狗神筋がわかっちょったら、道夫と結婚はせんかった、ゆうがかね」
富枝はじわりと聞いた。言葉に詰まって口をへの字に曲げた妻を見て、道夫が、うんざりした声で話に割りこんだ。
「まあ、今年の|頭《とう》|屋《や》はうちや。頭屋から、今年は取り止めにしょうとはいえやせん。先祖祭りはやるしかないの」
富枝は音をたてて、ずずっと茶を|啜《すす》った。
百代は|布《ふ》|巾《きん》を手にすると、腹を立てて|卓袱《ち ゃ ぶ》|台《だい》の上の汚れを拭いた。
テレビドラマの終わりを告げる音楽が流れてきた。理香が、食べ残したトーストの縁を皿に置くと立ち上がった。
「ああ、学校に行きとうないなぁ」
ふてくされた声に、百代が、どうしたのか、と聞いた。
理香は渡り廊下に続く戸に手をかけて、茶の間の家族を振り向いた。
「尾峰から来ゆう中学生が、私のこと、狗神筋やゆうて、はやしたてるがや」
道夫は茶碗を卓袱台に置いた。浅黒い顔に、目が鋭く光った。
「校長に文句、ゆうちゃる」
理香は慌てていった。
「ええよ、ええよ、お父ちゃん。そんなことされたら、ますます面倒になる。それに文句やったら、もう奴田原先生にゆうてもろうたき」
突然、飛びだした晃の名に、美希は、どきりとして顔を上げた。理香は戸口に立ったまま、嬉しそうに続けた。
「かっこよかったわ。その子らに、迷信を種にして人を|苛《いじ》めるとはなんだ、今度そんなことをしたら許さん、ゆうてくれたがや」
晃だけは、自分たちの味方なのだ。
美希は思わず口許をほころばせた。
理香はくるりと背中を向けると、茶の間から消えた。
道夫はため息をつくと、湯呑み茶碗をじっと見つめた。百代は、食べ終わった食器を流しに運びはじめた。母が「ごちそうさん」といって腰を上げたのを機に、美希も食卓を離れた。
渡り廊下に出て、風呂場の横の洗濯場に行く。洗面所で、理香が歯を磨いていた。仕事に行きたくない、といったわりには、鏡を見つめて鼻唄を歌っている。
美希は脱水機から取り出した洗濯物をバケツに入れると、南庭に出た。
水色の空に雲がぽつんぽつんと浮かんでいる。いい天気になりそうだった。美希は、物干し台の下にバケツを置き、洗濯物を干しはじめた。
|竿《さお》に道夫のズボンを通しながら、コンクリートの塀の下の斜面にへばりつく尾峰の村落を眺めた。重なり合う灰色の屋根の間に、白い洗濯物や布団が干されている。
池野川の流れる谷底のほうに移っていった美希の視線は、誠一郎の家に来て止まった。生け垣で囲われた家の庭を、数人の人がうろついていた。土居の家は誠一郎と克子の二人暮らしのはずだった。昨晩の念仏といい、様子がおかしい。
美希は物干し竿を台に戻すと、コンクリートの塀に歩いていった。
土居家の庭にいた男たちが、慌てたように門から道路に出てくるのが見えた。そして県道と、尾峰の集落に続く村道のほうへ、二手に分かれて散らばっていく。ますます|腑《ふ》に落ちない行動だった。
「何を見ゆうがかね、美希」
いつの間に来たのか、隣に母が立っていた。美希は、川の辺の土居の家を指さした。
「土居さんくよ。昨日の晩から、変なが。夜遅う、あそこから念仏やら|鉦《かね》や太鼓の音が聞こえてきよったがやき」
「なんじゃと」
富枝は驚いたように|呟《つぶや》くと、コンクリート塀に前かがみになって、|黒瓦《くろがわら》が鈍い光を放つ土居家を見つめた。
「|念《にん》|祈《ぎ》|祷《とう》までしたがか。こりゃあ、また狗神様が出て行ってしもうたか……」
「念祈祷?」
母は|爪《つめ》が喰いこみそうなほど、両手の指で塀の上側を強くつかんだ。
「念祈祷とはな、夜、村の男のしが狗神様に|憑《つ》かれた家に集まって、お伊勢踊りをしながら念仏を唱えることじゃ。太夫さんの力でも、狗神様を|祓《はら》えん時にやるがよ。ほいで念祈祷してもいかんようなら、今度は……」といいかけて、富枝は頭を横に振った。そして真剣な眼差しで美希に聞いた。
「誰が喰いつかれたがやろ。克子さんか、誠一郎さんか……」
「克子さんやわ」
そう答えると同時に、昨日の克子の様子がまざまざと脳裏に浮かんだ。
指の先から、肌を縫うように走った何本もの|水《みず》|脹《ぶく》れのような筋。奇妙な声をあげながら、全身をがくがく震わせて、跳ねるように逃げていった克子。
胃の底から、酸っぱい臭いがこみあげてきた。美希は、うっ、と|喉《のど》を鳴らすと、口を手で押さえて庭の隅に走った。|無花果《いちじく》の木の下に来ると、こらえきれなくなって地面にかがみこんだ。温かい液体が口から|溢《あふ》れ、足許に、さっき食べたばかりの白飯や味噌汁がぶちまけられた。
「どうした、気分が悪いがか」
母が心配そうに声をかけた。
美希は口を手の甲で拭きながら顔を上げた。一気に胃の中のものを出したせいで、もう気分の悪さはおさまっていた。
「朝食べたもんが、悪かったがやろ」
富枝はじろりと娘の顔を見た。
「子供ができたがやないが」
美希の頭に、とっさに晃の顔が浮かんだ。しかし彼女は激しい調子で否定した。
「私が子供のできん体やゆうこと、知っちゅうやろ」
「昔のことや。あんた、また元気になったがかもしれん」
美希は黙って母に背を向けると、庭の井戸のところに行って、水で口を|漱《すす》いだ。そしてバケツに水を汲むと、自分の吐いたものを流した。じゃああっ。汚物が草の間に広がり、土に吸いこまれていった。
美希は井戸端にバケツを戻すと、物干し場に戻って、再び洗濯物を手に取った。
彼女の行動を観察していた母の低い声が聞こえた。
「お母さんの目は誤魔化されんで。あんた、隆直の子をみごもった時と一緒や。吐くくせに、食欲はようあるみたいやいか」
いわれてみれば、最近、食欲|旺《おう》|盛《せい》だ。それに昨夜も吐いた。美希の|狼《ろう》|狽《ばい》が顔に出た。
富枝は、娘の腕を揺すった。
「ゆうてみ、相手は誰や」
「そんな人、おらんてっ」
富枝は彼女の言葉を無視して、たたみかけた。
「相手は、誠一郎さんか?……ひょっとして克子さんが狗神に喰われたんは、そのことで……」
「違うちっ」
美希は、母の視線から逃れるように、洗濯したブラウスを手に取って、物干し用のハンガーにかけた。しかし富枝は娘の前に回りこんで、いい募った。
「へんしも医者に行くんや。できちゅうか、できてないか、診てもらうがええ」
「できてない、いいゆうやろ」
美希は叫んだ。
妊娠ではない。寝不足で体調がおかしくなっているだけだ。
彼女は、十五年ほど前、生理不順で相談に行った時、婦人科の医者から、妊娠は難しいといわれたことを信じていた。だから、晃と交わる時も、避妊のことなぞ考えていなかった。若い時でさえ、妊娠困難な体だったのだ。自分はもう四十一歳だ。こんな年で妊娠するはずはない。
だが、確かに三十代に入って、体力が出てきて、あまり病気しないようになっている。受胎能力が回復していたとしたら、どうだろう。四十一歳。妊娠できない年齢ではない。
だとしたら、晃の子だ。
下腹のあたりが熱くなった。まさか……。そんなことになったら、どうしよう。
不意に風が吹いてきて、美希の手からタオルを|攫《さら》っていった。
「ああ、ああ」
それを見ていた母が声をあげた。
白いタオルは、ひらひらと|捩《ね》じれるようにして、塀の向こうに落ちていった。
美希は慌てて塀から身を乗りだした。
坊之宮家の敷地を区切る十メートルほどの高さの石垣の下は、|蜜《み》|柑《かん》畑になっている。タオルは緑色の蜜柑の木の中に落ちていた。
ため息を|洩《も》らして、取りに行こうと決めた時、蜜柑畑の縁にある何か白っぽいものが目に入った。人の形をしている。
目を凝らした美希は大声をあげた。
「誰か、倒れちゅうっ」
物干し竿の下で、母が振り向いた。
「なんやって」
「下の蜜柑畑よ、お母さん」
美希は走りだした。母も驚いたように、後についてきた。
下の畑に出るには、|一《いっ》|旦《たん》、玄関の門から外に出て、隣の家との境の下水路の縁を通るのが近い。美希は母と一緒に、石垣に挟まれた幅五十センチほどの溝に沿って降りていった。
すぐに目の前が開けて、蜜柑畑に出た。
濃い緑の葉がつやつやと輝いている。小型の森のような畑の縁に、女が倒れていた。白地に小さな花柄のネグリジェ姿でうつ伏せになっている。
「どうしたんですかっ」
美希は、女の背中に手をかけて、体を起こした。
克子だった。両手を紅葉のように開いて、全身を硬直させて、死んでいた。
「たまあ、なんちゅうこと……」
横で、母が|喘《あえ》ぐような声を|洩《も》らした。
克子の顔は恐怖に引きつっていた。口は横に開き、目はかっと見開いている。その顔や首筋、腕などに、何かが噛んだような歯形が紫色の|痣《あざ》になっていた。
よく見ようとかがみこんだ時、ぷん、と強烈な臭いが鼻を衝いた。昨夜、仕事場の裏の杉林の中から漂ってきた、あの臭いだ。
今、その臭いが、何に似ているかわかった。獣だ。獣の毛の臭いだ。
では、克子は、夜中に村を|徘《はい》|徊《かい》しているという、大きな山犬に殺されたのだろうか。
「克子さんよーっ」
「お母さーん」
叫び声に、美希は顔を上げた。
蜜柑畑の前の村道を人が、克子の名を呼びながらやってくる。その中に誠一郎の姿もあった。
富枝が|囁《ささや》いた。
「克子さんを探しゆうで」
美希は、地面に倒れている克子に目を遣ると、ふらふらと合図の手を上げた。
蜜柑畑の低い石垣ごしに、誠一郎が美希を見つけた。髪を乱して|憔悴《しょうすい》した顔の彼だが、なんとか笑みを作った。
「ああ、美希さん。うちの母を見んかったやろうか。今朝、起きたら、姿がないがや」
美希は震える手で、自分の足許を指さした。誠一郎の視線が、克子の花柄のネグリジェに釘づけになった。
「お母あっ」
彼は石垣をよじ登ると、畑の縁を走ってきた。一緒に探していたらしい、他の男たちも後に続く。それを見た母が、彼女の腕を引っ張った。
「美希、家に戻ろう」
美希は、誠一郎と、地面に倒れている克子を見比べながらいった。
「けど、何か手伝うちゃらんと……」
「帰るがじゃ」
母が有無をいわさぬ口調で|唸《うな》った。
そこに誠一郎が到着した。克子の死体にかがみこんで、かすれた悲鳴を|洩《も》らした。他の三、四人の男たちも集まってきた。
「たまあ、むごい……」
「こりゃあ、どうしたがじゃ」
皆、克子を見て、|呆《ぼう》|然《ぜん》として|呟《つぶや》いている。
富枝が美希の手をつかみ、もときた小道を引き返しはじめた。彼女は当惑していった。
「どうしたがよ、お母さん。逃げゆうみたいやいか」
「私らは、あそこにおらんがええがや」
「どうしてよ」
母は苦々しい面持ちで、|顎《あご》で背後を指し示した。美希も母につられて振り返った。
そのとたん、誠一郎の周囲に集まった男たちの視線とぶつかった。彼らは、美希と目が合うと、さっと顔を伏せた。
しかし、美希は見逃さなかった。
男たちの|瞳《ひとみ》に浮かんでいた、|怯《おび》えと……憎しみを。
14
玄関脇の電灯に、和紙に書かれた「忌」の文字が黒々と浮きあがっていた。家の入口に垂らされた|簾《すだれ》ごしに、うずくまるようにして座る人々の背中が見える。
美希は土居家の玄関に立ったまま、中に入るのをためらっていた。通夜の終わり頃を見計らって、こうして遅くに来たのだが、まだかなりの|弔問《ちょうもん》客が残っていた。
今日の午後、|乾《いぬい》医院に高血圧の薬をもらいに行った富枝が医師から聞いてきた話では、克子の死因は、心筋|梗《こう》|塞《そく》だということだった。今までその兆候もなかったのに、と医師は驚いていたという。克子の体に残っていた|噛《か》み傷には、医師は気がつかなかったらしい。あれほどはっきり残っていた傷が、死亡診断の時には消えていたのだと、富枝は恐ろしそうに告げた。
美希は、それを聞いてほっとした。
克子は心筋梗塞のために死んだのだ。前夜、|闇《やみ》の中にひそんでいた得体の知れない獣とは、何の関係もない。恐らく、誠一郎のいいだした美希との結婚話に衝撃を受け、それが心臓に負担をかけたのだろう。
克子の死の遠因は自分にもあると思うと、誠一郎に一言、お悔みをいっておきたかった。
だからよそよそしい対応を受けるだろうとは覚悟の上で、こうして通夜に来たのだった。
美希はハンドバッグから出したハンカチを握りしめると、思いきって玄関の敷居を|跨《また》いだ。上がり|框《がまち》の先は細長い板の間になっていて、それに座敷が続いている。座敷では黒っぽい服を着た村人たちが、茶を飲み、盆に載った干菓子をつまんでいた。
「こんばんは」
声をかけると、近くにいた女が振り向いた。和紙工場で働いている良子だった。土居家の|親《しん》|戚《せき》にあたる良子は、灰色のワンピース姿の美希を見て、はっとしたように玄関にやってきた。
「これは美希さん。御丁寧に」
美希は、頭を下げてお悔みの言葉をいい、座敷に上がろうとした。
「帰っとうぜ」
男の声が飛んできて、靴を脱ぎかけた美希の動きが止まった。座敷の中央であぐらをかいた、額の出た男がこちらを|睨《にら》んでいた。克子の弟、和彦だ。和紙工場に時々、顔を出していたので知っている。
和彦は彼女を見据え、太い声でいった。
「よう、ここに来れたもんじゃ。あんたが|狗《いぬ》|神《がみ》を喰いつかせたおかげで、姉やんは死んだがぞ」
和彦の周囲にいた者たちが、同意の印に|頷《うなず》くのが見えた。彼らの目に宿る憎悪を見てとって、美希の唇が震えた。
その時、人を|掻《か》き分けて、誠一郎が現れた。黒い喪服に身を包み、パーマをかけた髪がいつもよりさらに乱れている。誠一郎は、叔父の和彦を横目で見て、美希の前にやって来た。
「ようきてくれました、美希さん。さあ、上がってください」
座敷にざわめきが起こった。誠一郎は、それを制するように大きな声で続けた。
「皆、気が立って、ありもせんことをいいゆうけど、気にせんとってや」
和彦が怒ったように、ぷいと顔を横に向けた。美希は、このまま帰りたくなった。しかし帰れば、克子に狗神を|憑《つ》かせたのは自分だと認めることになる。
「お邪魔します」
美希は周囲に響く声で挨拶すると、靴を脱いだ。
誠一郎に案内されて、座敷の奥に通された。そこに|屏風《びょうぶ》が逆さに立てられ、布団に克子が寝かされていた。枕元には、箸を一本だけ立てた枕飯。あたりには線香の匂いが漂っている。
美希は克子の前に座り、顔を覆っていた白い布をめくった。
硬直した克子の顔が現れた。醜く|歪《ゆが》んでいた形相も、首筋の噛み跡も消えている。それでもじっと見ていると、土気色の克子の肌の奥から、|苦《く》|悶《もん》の表情が|滲《にじ》みでてきそうな気がした。美希は、克子の前で合掌した。
座敷にいた者の視線が、自分の背中に集中するのがわかる。美希は、それを|撥《は》ね返すように、背筋を伸ばした。
私は何も悪いことはしていないのだ。
彼女は自分にいい聞かせると、合掌した手を下ろして、隣の誠一郎に向き直った。
「こんなことになって、どうゆうてええかわかりませんが……」
誠一郎は両|膝《ひざ》に手を置いて、言葉はいらない、というふうに、首を横に振った。
「お葬式は明日ですか」
「ああ。土葬にしちゃろうと思いゆう。死んだ父も土葬やったき……」
「大変ですねぇ」
誠一郎は、少しやつれた頬に弱い笑みを浮かべた。
「いやぁ。喪主は楽やよ。葬式のことは、|当《とう》|魔《ま》組がやってくれるき」
「当魔組?」
誠一郎は|頷《うなず》いて、|襖《ふすま》の向こうの隣室を見遣った。そこには近所の者らしい男たちが数人集まって、何か話している。穴掘り役は誰か、|棺《かん》|桶《おけ》は誰が担ぐか、といった声が聞こえた。
「近所の取り決めながや。葬式が出た時は、組の家同士が手助けするてな。尾峰の家やったら、皆、どこかの当魔組に入っちゅうがやないろうか」
美希は、父が死んだ時のことを思い出した。墓掘りも、葬式の準備も、皆、坊之宮家の一族で執り行った。当魔組の存在なぞ聞いたことはない。それは坊之宮家が狗神筋だったからではないか、と彼女は思った。
ひょっとしたら、昔から坊之宮一族は、村八分をされていたような存在だったのかもしれない。
今まで信じてきた足場が、砂と化してさらさらと崩れていくような気分を覚えた。尾峰の中で、自分たちの家が孤立していたなぞ、想像したこともなかった。
美希はそっと周囲を見回した。茶を飲みながら話す|弔問《ちょうもん》客の注意が、自分と誠一郎に向けられているのが痛いほどわかった。
「私の出番はないとは思いますが、もし、何かお手伝いできることがあったら、ゆうてください」
お辞儀して、腰を浮かそうとした手を取って、誠一郎がまた美希を座らせた。困った顔の彼女に、彼はきっぱりといった。
「村の者が何をゆおうち、俺は、母の死が狗神のせいやとは信じちゃあせんきな」
美希の目頭が熱くなった。この場の|刺《とげ》|々《とげ》しい空気の中で、張り詰めていた神経がふっと緩んだ気がした。
誠一郎は、美希に|頷《うなず》いた。
「元気だしてや」
彼女はハンカチを握りしめて|微笑《ほほえ》んだ。
「これじゃあ、反対やわ。ほんとうなら、私が土居さんを慰める役やのに……」
誠一郎は、美希にかがみこむようにして|囁《ささや》いた。
「昨日、母が来る前にいいよったこと、俺、まだ考えちゅうで」
真剣な眼差しの彼から、美希は目を|逸《そ》らした。この場では、晃とのことは、いいだせそうもなかった。
「私のことは、忘れてください」
彼女はそれだけいうと、逃げるように席を立った。
座席の人々の間を通り抜けて、玄関で靴を履く。出がけにちらりと振り向くと、誠一郎が立ったまま、じっと自分を見つめていた。
美希は|会釈《えしゃく》して、玄関を出た。
すぐさま背後で人の声が湧きあがった。
「塩やっ、塩っ」
「誠一郎っ、どうしてあんな狗神筋の女を家に上げたっ」
誠一郎が何か抗弁するのが聞こえた。
美希は、その騒ぎから逃れるように土居家を後にした。
門の前は、県道から分かれた林道になっている。池野川の流れる谷の前にそそりたつ番所山に向かって、美希は歩きだした。
空に輝く上弦の月。月明かりに照らされたアスファルトの道が、暗闇にくねくねと延びている。尾峰の村落の灯が、山腹にとまった蛍の群れのように輝いていた。
美希は、晃の家の明かりを探したが、一階も二階も窓は暗かった。
昨夜、土居家から流れてくる|念《にん》|祈《ぎ》|祷《とう》を聞いて、不安な気分で家路についた折、彼の家の前を通った。その時、バイクは止まっていたが、やはり家の灯は消えていた。早々に寝たのかもしれないと思って、そのまま通り過ぎてしまった。今日こそ晃に会えるかと心待ちにしていたが、夕方になっても、彼は仕事場に現れなかった。
晃と会わない日は不安になる。彼が他の女と一緒にいるのではないか、と疑ってしまう。なにしろ、自分は彼より遥かに年上だ。いつ何時、晃が同世代の女性に気持ちを傾けても不思議ではない。それだけ、相手の愛情を信頼できない自分が|哀《かな》しい。
年上女の恋の代償だ。美希は暗闇の中で、ふっと笑った。
「克子さんも気の毒に」
突然、ひんやりした夜気の中に声が響いた。見ると、すぐ先で合流する村道に二つの影があった。一人は杖を突いた老婆、もう一人は頑丈な体格の男だった。やはり土居家の通夜に行くのだろうか。美希のいる林道のほうにやってくる。
今は村人とは顔を合わせたくない気分だった。美希は、そのまま林道を登っていった。番所山を越える林道と、尾峰の村道との合流点は三か所ある。次の場所で村道に入ればいいと思った。
二人の人物は、美希には気がつかなかったようだ。林道に出ると、土居家のほうに下っていく。
「狗神に|憑《つ》かれて死ぬらぁて、よっぽどのことじゃ」
「悪い夜も続きよりますろう。おかしげなことばっかりでもう……」
会話の断片を闇に残して、足音が遠ざかっていった。
美希は、沈んだ気分で再び林道を登りだした。村中の者が、克子の死は狗神のせいだと思っているのだ。今では誰もが、坊之宮の一族に憎悪と恐れを抱いている。
林道の正面に坊之宮家の墓地が見えた。|冴《さ》えわたる月光を浴びて、整然と並んだ長方形の墓標が、尾峰の村落を見下ろしている。まるで今の村の人々と、坊之宮の一族の関係を象徴するように、その間は闇によって隔てられていた。深く、黒い闇に……。
美希は、ぎくりとした。
これは、あの闇だ。真夜中になると村を包む、救いのない暗黒。墓標の立つ地面を覆う|冥《くら》さは、あの漆黒の闇に似ている。
目の錯覚だろうか。
美希の足が止まった。
ざざざあっ。
林道の横の竹林が、風もないのに揺れた。
はぁっ、はぁっ、ふうぅっ。
竹林の奥から、荒い息遣いが聞こえてきた。
彼女は恐るおそる、暗い竹林を|覗《のぞ》きこんだ。夜陰の中に、何かが動いていた。影が黒い波のように揺れている。
昨夜、杉林の闇にひそんでいた怪しげなもののことが頭を|過《よぎ》った。また、あれがいるのだろうか。
美希はまじまじと林の間に|蠢《うごめ》く影を見つめた。不意に、その影が二つに割れた。
「はあっ」女の溜め息が聞こえた。
「もう帰るがやの」
「うん。あんまり遅うなると、また園子がうるさいき」
隆直の声がして、大きな影がのそりと道路に出てきた。そして、前に立つ美希に気がついて、ぎくっとした。
月明かりに、隆直の面長の顔が照らされていた。彼の後から出てきた女は、かねてから|噂《うわさ》のある池野村の女だった。美希が見ていたのがわかると、慌てて林道の脇に止めていた車に乗り、県道のほうに降りていった。
隆直は舌打ちして、遠ざかる車のヘッドライトから目を背けた。浮気の現場を見つかったことに、腹を立てているらしい。
「夜遅う、なんでこんなところを歩きゆうがや」
|苛《いら》|立《だ》った口調で聞いた。
美希が、克子の通夜の帰りだと答えると、隆直は、ふん、と鼻先で笑った。
「やめちょきゃええに。どうせ、ろくなこと、いわれんかったろ」
「行かんかっても、悪ういわれるわ」
「そりゃ、そうじゃ」
隆直の顔の表情は、薄闇に隠れてよくわからなかった。彼女は、のっぺらぼうの男に向かっていった。
「ちょっとは園子さんのこと、考えちゃったらどうですか。ええかげん、女遊びはやめちょいたがええよ」
「おまんにそんなこと、いえんやろが。中学校の先生とええ仲になっちゅうそうな」
「誰がそんなこと……」
美希は気色ばんだ。
「園子よ。この前、仕事場に行ったら、えらいもん見てしもうたゆうて、早速、俺にいいつけてくれた」
隆直は吐きだすように応えた。
美希は、ハンドバッグの|把《とっ》|手《て》を握りしめた。
晃が学校の後で、仕事場に来た日のことをいっていたとすれば、縁側の障子の間から、二人が抱き合っている姿を見たのかもしれない。園子が目にしたはずの光景を想像して、恥ずかしさに顔が赤くなった。
隆直が両手で美希の肩をつかんだ。
「なんで、あんな若い男をてがうがや」
「隆直さんに関係ないことですやろ」
「関係ない、やとうっ」
隆直は、美希の肩を揺すぶった。
「俺らぁ、好き合うた仲やないか」
暗がりで、隆直が自分を見ていた。
彼の婚礼の日以来、まともに美希の視線を受けとめたことがなかった彼が、今、彼女を見つめていた。そして闇が彼に力を与えたかのように、突然、美希に対する自分の権利を主張しはじめたのだ。
むらむらと怒りが湧きあがってきて、彼女は隆直の手を肩から振り払った。
「昔の話を持ちださんといて。今の私らは、何も関係ありません」
その場を去ろうとした美希の前に、隆直が立ちふさがった。
「俺のこと、恨んじゅうがやろ。そりゃあ、わかる。けんど、仕方なかったがや。俺らは兄妹や。結婚できるわけない、といわれた。俺はやけくそになって、結婚したがや。そんでも俺は美希のことが忘れられんかった。俺が女遊びするがも、美希、おまんへの気持ちをなんとか紛らそうとしてのことや」
「自分の浮気の言い訳に、私のことを使わんでください」
「言い訳やないっ」
隆直は、美希に一歩近づいた。
「それに、美希やって、今まで結婚もせんできたのは、俺のことをよう忘れんかったきやろう」
美希は、隆直の|自《うぬ》|惚《ぼ》れに驚き、そしてあきれた。
「何いいゆうがですか。私は、もう隆直さんには何の感情も持ってません」
「|嘘《うそ》ゆうなっ」
隆直が怒鳴った。
「ほんとうです。今は私、好きな人がおります。隆直さんとのことは、もう忘れました」
「そんなはずはないっ」
隆直が抱きついてきた。ぷんと、先の女の香水の匂いがした。
「おまんは俺のもんや。ずっと俺のもんや」
「勝手なこと、いわんといてっ」
美希は彼を突き飛ばして、逃げだした。
「待てっ、美希」
隆直が追いかけてくる。美希は林道を走った。走りながら、怒りで体が爆発しそうだった。
なんと、弱い男なのだ。美希に手を出し、兄妹だからだめだといわれると、親のお膳立てした結婚に乗っかった。しかし胸の内では、美希が一生、自分のことを愛し続けるものと信じていた。すべてのことを、自分の都合のいいように解釈して生きてきた。そんな男に|惚《ほ》れていた時期があったのだと思うと、自分が情けなかった。
墓地の斜面の下に、灰色の地蔵が見えた。暗がりの中でも、その表情はわかった。凍りついた微笑を浮かべる、幼子の顔……。
美希は突然、立ち止まると、くるりと振り返った。隆直が息を切らしながら走ってくる。
「今まで黙っちょったけど、隆直さん。ここで、教えときます」
美希は憤怒に燃える|瞳《ひとみ》で叫んだ。
「私はね、高校を休学した時、子供を産んだがよ。隆直さんの子よ。生まれてすぐ死んで、誰にも知られんで葬られたわ」
隆直は衝撃を受けて、その場に棒立ちになった。
「なんやと……」
声が震えていた。
美希は長年|溜《た》めていたものを吐きだすように続けた。
「隆直さんは、結婚もして、他の女に手も出して、それで運命に仕返ししたつもりかもしれん。けんど、何の責任もとらんでよかったやない。そんなん、ただの八つ当たりよ。女はねぇ、そんなに簡単なもんじゃない。自分の体で、やったことの責任、とらにゃいかんがよ」
言葉を失っている隆直に、美希は一歩、近づいた。
「私は、自分の始末はつけてきた。責任のひとつも、とるようばんかった隆直さんに、何をいわれる筋合いもありゃあせんよ」
隆直は歯を食いしばり、美希から顔を|逸《そ》らせた。
もう二度と、たとえ暗闇の中でも、隆直は自分と視線を合わすことはないだろう、と美希は思った。
隆直は無言のまま、美希に背を向けた。そして重い足取りで村道に入っていった。
美希は、闇に溶けていく隆直の後ろ姿を、|暗《あん》|鬱《うつ》な面持ちで見送った。
返す言葉もない彼に、美希は|軽《けい》|蔑《べつ》しか覚えなかった。あんな男の子供まで宿して、そのことで狂った自分の人生とは何だったのだろう。
彼女は、路傍の地蔵を振り向いた。月光の下で、灰色の顔が柔和に|微笑《ほほえ》んでいる。美希は、岩に安置された地蔵に合掌した。
安らかに眠ってください。
過去、何千回となく祈った言葉だった。
それは、この地面の下に眠る子への言葉。死んだ、我が子への祈りだった。
出産後、雑貨屋で求めた|甕《かめ》に、子供の死体を入れて、美希は母と共に村に戻ってきた。その夜、父と三人で、この墓地の下に来た時、母がいったのだった。
生まれてすぐに死んだ子は、人の踏むところに埋めるものだ、と。
「また生まれ変わってきたりしたら、次の子もすぐ死んでしまうきの」
母は言い訳めいた説明をした。坊之宮の墓地に、こっそり埋葬するつもりだった父は|躊躇《ちゅうちょ》したが、結局は、古くからのしきたりが大事だという母の言葉に押しきられた。
親子三人は黙々と|鍬《くわ》を振るって、土を掘って、甕を埋めた。後日、その上に大きな石を置き、地蔵を注文して据えたのは父だった。父は、路傍に子供を埋めたことに、後ろめたさを感じていたのだと思う。
だが、父と口論をしてまで、母は自分の主張を通した。それだけ、あの子が生まれ変わってくるのを恐れていた。ということは、母が自分の手で、赤子を殺したからではないだろうか……。
美希は合掌していた両手をきつく握り合わせた。
何ということを考えるのだろう。母が、孫を殺すはずはないではないか。
自分にいい聞かせながら、両手の力を抜いたとたん、心臓がどくんと大きく打った。
墓地の斜面を、漆黒の闇が降りてきていた。先に、墓標の下に漂っていた闇が、霧のように草の斜面を|這《は》ってくる。それに従って、夜の闇がさらに黒い絵の具で塗り|潰《つぶ》されていく。やがて、暗黒は地蔵に達した。地蔵の背中から、闇に包まれていく。
深い闇の中に、地蔵のちんまりした姿がおぼろげに浮かぶ。まるで白黒写真を反転させたように、地蔵の輪郭がなぜか暗がりに浮かびあがっている。目を凝らすと、顔まで見えた。膨らんだ|瞼《まぶた》、小さな鼻。歯のない口が半ば開いている。
美希の全身が硬直した。
地蔵の顔は、暗黒の中で夢の赤子に変わっていた。
悪夢だ。しかし私は眠っていない。悪夢が現実になっている。どういうわけなのだ。
赤い前掛けが、ふわりと舞いあがり、|臍《へそ》の緒のように地蔵の首に絡みついた。地蔵の膨れた瞼の下から白目が|覗《のぞ》く。歯のない口がにたりと|嗤《わら》う。
|喉《のど》がからからになった。
闇に赤子の顔が浮いていた。首に臍の緒を巻きつけて、嗤っていた。開いた赤子の口に闇が流れこむ。闇を喰うほどに、赤子の姿が鮮明になってくる。
美希は、その場に縛りつけられていた。逃げだしたいのに、足がすくむ。
助けて。
彼女は、心の中で叫んだ。
それに応えるように、地蔵の後ろの斜面から音が響いた。ざくっ、ざくっ。何かが草を踏む音だ。坊之宮家の墓場から、降りてくるものがある。
いったい、誰だ。今頃、こんなところに。美希は唇を震わせながら、地蔵の背後を凝視した。
底のない闇から湧き上がる足音は、次第に大きくなってくる。はっ、はっ、はっ。小さな息遣いが聞こえてきた。強烈な獣の臭いが、ぷんと鼻を刺した。
美希は救いを求めて、周囲に視線を走らせた。
得体の知れない獣の足音は、すぐそばに近づいていた。
闇に浮かぶ赤子の顔は嗤い続ける。
美希の顔が青ざめ、頭が空白になった。
逃げなくては。そう思うのに、体が大地に|糊《のり》づけになっている。
その時、体の内奥が、とん、と|叩《たた》かれた。
美希は自分の腹に手を遣った。
まさか……。
首筋の産毛が逆立った。
だが、確かに、腹は内側から、小さく蹴られていた。まるで、美希の恐怖を喜んでいるように、とんとん、と蹴り続ける。
「あ……あ……」
|喉《のど》の奥から、悲鳴ともつかない声が|洩《も》れた。それと同時に、彼女を|呪《じゅ》|縛《ばく》していたものが、ぷつんと切れた。
美希は墓地に背を向けると、転げるように駆けだした。
15
碧色の|仁《に》|淀《よど》川が五月の光を受けて、静かに流れている。美希は、川沿いの広い国道を車で走っていた。開けた窓から、甘い新緑の|匂《にお》いが流れこんでくる。しかし彼女の心は、|爽《さわ》やかな季節を味わえる状態には、ほど遠かった。
伊野町の産院からの帰りだ。人目のある池野村は避けて、尾峰から、車で半時間ほどかかる距離をわざわざ出ていったのだ。いくらなんでも胎動を感じるのは早すぎる。妊娠ではない。自分にいい聞かせながら、産院の門をくぐったのだが、不安な予感が的中した。
――おめでたですよ。
初老の医師は満面に笑みを浮かべて、そういった。彼に美希の心が読めたなら、そんな喜ばしい顔はできなかっただろう。
|驚愕《きょうがく》、恐れ、失望。
その小さな町の産院で、懐妊を告げられる多くの女性の反応とは、およそ正反対の感情しか浮かばなかった。高校生の時、妊娠を知らされた時よりも、動揺は大きかった。あの頃は、出産が自分にもたらすものがわかってはいなかったから。
出産が、彼女にもたらしたもの――それまでの世界の崩壊だった。
美希はフロントガラスの向こうを|睨《にら》みつけて、国道から池野村に続く県道に曲がった。カーブの先から二十歳くらいの若者の運転するクーペが飛びだしてきた。美希は慌ててブレーキを踏んだ。百代と共同で使っている白の軽自動車の横を、クーペが|尻《しり》を振って疾走していった。助手席に乗った恋人らしい女が、のけぞるように笑いころげている。
結婚してはいないらしい、若い二人。あの女は、妊娠したとわかったら、どうするだろう。|堕《おろ》すか……産むか?
美希には、どうしていいかわからなかった。私生児を育てるほどの勇気が自分にあるだろうか。だが、堕すのはためらわれる。
もうすでに子供を一人、亡くしていた。きっとあの子は、この世に生きることができなかったことで、母親の自分を恨んでいる。
昨日の夜、墓地の下で見た赤子の顔が頭に浮かんだ。幻覚というには、あまりにも真に迫っていた。
幸い、昨夜は、あの子の夢は見ずにすんだ。しかし今夜はどうだろう。夢だけならまだいい。現実に出てきたら、どうしよう。私を殺そうとするかもしれない。自分が殺された|復讐《ふくしゅう》に……!
美希はハンドルを握りしめた。
ああ、また、私は、あの子が母に殺されたと考えている。母がそんなことするわけはないではないか。否定しても否定しても、この不吉な疑念が湧いてくるのは、どういうわけだろう。
美希はアクセルを踏んで、車を思いきり飛ばしたい衝動をこらえた。こんな曲がりくねった道でそうしたら、あっという間に道路脇を流れる池野川に転落してしまうだろう。
考えがひとつところにまとまらない。赤子の悪夢、妊娠、晃のこと、|狗《いぬ》|神《がみ》……そして昨夜見た、黒い|闇《やみ》にひそむ……獣?
美希は、奥歯を|噛《か》みしめた。
|雪崩《なだ》れ落ちるような山の急斜面の底に、池野村が見えてきた。美希の車は、村を貫く道に入っていった。スーパーや自転車屋、居酒屋や農協が並んでいる。池野川を挟んだ向こう岸にあるのは、池野中学校と高校だ。
生徒たちが中学校の校庭で野球をしている。放課後の部活動だろう。晃はまだ学校にいるのだろうか。
晃のことを思っただけで、また妊娠の事実を、目の前に突きつけられた気がした。
美希は道路へと視線を戻した。
堕すべきか、産むべきか。
結論の出ないまま、車は池野村を抜けて、尾峰へと続く|田《たん》|圃《ぼ》の中の道に入っていく。
三十代後半になってから、美希は、自分がまた子供を産むかもしれないとは考えなくなっていた。妊娠しにくいといった医者の言葉を妊娠しない、と思いこんで、年を経るごとに、出産を、自分とは縁のない世界へと追い遣っていた。
今、突然、期待もしていなかったことを授けられても、戸惑いと不安を覚えるだけだ。
晃に相談してみようか。彼は何というだろう。自分から逃げるかもしれない。
隆直のように……。
美希は、昨晩、二人の子供のことを告げた時の隆直の|茫《ぼう》|然《ぜん》|自《じ》|失《しつ》ぶりを思い出して、皮肉な笑いを浮かべた。
いくらでも、驚いているがいい。男は後になって、二人の行為の結果を知るだけだ。そして、妊娠という事実を受け入れるか、拒絶するか決めるだけでいい。自分の責任ではないといい張って、逃げだすこともできる。
しかし、女は|孕《はら》んだら、決心をつけるしかない。
産むべきか、堕すべきか。
道路はすでに池野と尾峰の境を過ぎていた。池野川の幅が狭くなり、両側に迫る山が切り立ってくる。番所山の斜面に、灰色の|要《よう》|塞《さい》のような尾峰の村落が見えた。どの家も、石垣に年月という根を絡みつけて建っている。美希の生活も、村の家々のようにしっかりと固定して、揺るがないもののはずだった。何百年も番所山の斜面にへばりついてきた村と同じく、変化というものは存在しないものと信じていた。
この春先、誰かが美希に、静かな生活も今に一変するよ、といったとしても、彼女は、ただ笑い飛ばしただけだろう。
だが、変わってしまった。何もかも。
美希の生活は、内側からも外側からも一変した。心は晃との恋愛に|翻《ほん》|弄《ろう》され、彼女を取りまく環境は、|狗《いぬ》|神《がみ》騒ぎによって暗く塗り|潰《つぶ》されている。
今朝、新聞を取りに家の外に出たら、ふさを見かけた。挨拶しようとすると、彼女は美希に憎々しげな視線を投げつけて、逃げるようにバイクを走らせていった。村を歩いていても、恐れと憎しみの混じった人々の視線が背中に|貼《は》りつく。|和《おだ》やかだった尾峰の雰囲気は消え、今では、ぎすぎすした空気に包まれている。
人間の心とは、なんと変容するものだろうか。
美希は、県道から林道へと車を入れた。道路沿いの土居家の前に、葬式の黒と白の|垂《た》れ幕が張り巡らされていた。しかし、あたりに人の姿はなく、式は終わったのかもしれなかった。誠一郎の親類縁者とは、もう顔を合わせたくはなかったので、美希はほっとしながら、土居家の前を過ぎて林道を登っていった。
正面に坊之宮家の墓地の丘が見えてきた。夕方の淡い光を受ける墓標の間に、すらりとした人影があった。
晃だと思い、胸が高鳴った。
仕事場に続く山道の入口に、彼のバイクが止まっている。美希は、はやる心を抑えながら、車を墓地の斜面の下に止めた。
車の外に出ると、晃がこっちを向いた。美希は手を振った。彼が白い歯を見せて笑っているのがわかった。日曜日から三日間、会っていない。美希は自然に駆け足になって、草の茂る小道を上がっていった。
斜面を登りきると、幾列にもなって整然と灰色の墓が並んでいた。湿った土に刺した剣のように墓場を飾る|卒《そ》|塔《とう》|婆《ば》。その奥で、墓地を|睥《へい》|睨《げい》する、先祖の五輪塔が|聳《そび》えている。石に刻まれた「御先祖様之墓」という文字が、やけにくっきりと見えた。
晃は墓地の縁に立っていた。いつもの黒の皮ジャンの下に、長袖のシャツ、フラノのズボンを|穿《は》いていた。学校の帰りなのだろう。
美希は、息を切らせながら彼にいった。
「何しゆうの」
晃は、下に続く林道を眺めた。
「仕事場に行ったんだけど、美希さん、いなかったから、散歩していたんだよ」
美希は墓地を見回して、顔を曇らせた。
「でも、何も、こんなところで待たなくてもよかったのに」
「眺めがいいからね、ここは。それに」と、晃は美希の顔を|覗《のぞ》きこんだ。
「僕たちの記念すべき場所だし」
あの雨の日のことを思い出して、美希は顔を赤らめた。
夕日を浴びた墓地は静けさに満ちていた。なだらかな斜面の下に、美希の車が止まっている。その横に、ぽつんと|佇《たたず》む地蔵の姿も、牧歌的に目に映る。この柔らかな光の中で見ると、昨夜、地蔵の前で起こったことは、あまりに非現実的に思えた。
あの時の精神状態の|昂《たかぶ》りを考えれば、赤子に変わった地蔵の顔も、|妄《もう》|想《そう》に過ぎないのかもしれない。闇の中から聞こえた足音も、野良猫か野犬が草の間をうろついていただけではないだろうか。すべては、暗闇への|畏《おそ》れが生みだしたことだ。
美希は、隣にいる晃に|微笑《ほほえ》みかけた。
「このところ忙しかったの?」
彼は、まあね、と肩をすくめた。そして、美希を抱き寄せると耳許で聞いた。
「三日間、何してた」
|狗《いぬ》|神《がみ》騒ぎ、赤子の夢、克子の死。色々なことが頭を|過《よぎ》り、再び美希の顔が曇った。晃は|眉《まゆ》をひそめた。
「どうかしたかい」
「克子さん……前に、晃さんが、私の仕事場で会うた、土居さんのお母さんが亡くなったの」
晃は|頷《うなず》いて、美希の体を放した。
「知ってるよ。学校にも口さがない教師がいてね、逐一報告してくれる」
それにまつわる|噂《うわさ》も聞いたような口ぶりだった。
美希は腕を組んで、正面を見つめた。尾峰の村落を隔てた向こうの山の|麓《ふもと》にも墓標が並んでいる。坊之宮家以外の、尾峰の家々の墓地になっていた。その中の一区画に紫色の新しい花輪が並んでいた。克子の墓だろう。埋葬が終わったところらしく、喪服姿の人々が|蟻《あり》の行列のように山道を降りてくるのが見えた。
「村の皆は、私が克子さんに狗神を喰いつかせて、殺したと思いゆうがよ」
晃が承知しているとわかっていても、美希はいわないではいられなかった。
彼の温かな手が、肩に回されるのを感じた。
「くだらない噂は忘れたほうがいい」
「そしたら、晃さんと私の噂は?」
美希は晃の顔を見上げた。女性にしては背の高い美希だが、晃は頭ひとつぶん高かった。彼は浅黒い|喉《のど》を天に向けて笑った。
「こっちは忘れるわけにはいかないだろうね。事実なんだから」
「晃さん、困るでしょ」
「何が困るんだ。美希さんに夫があるわけでもないし、僕に妻があるわけでもない。お互い、縛るものは何もないだろう」
「けど、年が……」
「まだ、そんなことをいっているのか」
美希の肩を抱きしめようとする彼を、彼女はそっと押し止めた。
「私、子供ができたの」
美希は、晃の顔を見つめた。
そこに浮かぶわずかな表情の変化も見逃さないつもりだった。少しでも怒りや逃げ腰の兆候があれば、|堕《おろ》そうと思った。
しかし彼は戸惑ったように、目を見開いただけだった。
「ほんとうか」
晃は低い声で聞いた。
「今日、病院でいわれたわ」
彼は黙って、宙に視線をさまよわせた。その表情からは、どんな思考が頭を巡っているのか、わからなかった。
美希はため息をついた。
さっき考えたばかりではないか。人の心の変容のしやすさを。こんな事態になって、晃の心に、美希との関係へのためらいが生じたとしても仕方ないだろう。
「私、堕してもいいのよ」
そう|呟《つぶや》いたとたん、腹が蹴られる感覚を覚えた。腹の中の胎児が、自分たちの会話に耳を澄ましているような気がして、美希は、びくっと肩を震わせた。どうしてこの子は、妊娠して間もないうちから、こんなに動くのか。普通ではない。
「結婚しよう」
晃の声がした。
美希は驚いて顔をあげた。晃が真剣な面持ちで彼女を見ていた。
「結婚……やって……」
「子供ができたなら、そうするのがいちばんいいと思う」
心に湧きあがってきたのは、嬉しさだった。しかし、美希はその気持ちを押し|潰《つぶ》した。冷静にならなくては、と思った。
「子供のせいで、晃さんの将来を決めさせとうはないわ。晃さんはまだ若い。これから、もっといい人が現れるかもしれん」
「わかってないな」
晃は、|苛《いら》|立《だ》たしそうにいった。
「僕は美希さんが好きだ。だったら結婚するのに、何の支障があるというんだ」
「でも私、私……」
美希は、ぎゅっと目を閉じた。
「だめよ。うちは|狗《いぬ》|神《がみ》|筋《すじ》ながよ。私と結婚したら、晃さんの家まで狗神筋になる。御両親が迷惑がるわ」
「狗神なんて、くだらない噂だとさっきいったばかりじゃないか」
美希はうつむいて、首を横に振った。
「それに……それに私は昔、子供を産んだことがあって、その子は死んだけど、父親というのが……」
「やめるんだ」
晃が強い口調でいった。
「過去がどうだろうと、関係ない。年齢の差も、美希さんの家のことも関係ない。問題は、僕たち二人の気持ちだろう。美希さんは、どう思うんだ。僕と結婚することは」
美希は唇を結んだ。
目の前にいる若い男。つい一か月前に会ったばかりの男。結婚を口にするのは、あまりに早すぎると思った。私は、彼を愛しているだろうか。ただの情熱に|翻《ほん》|弄《ろう》されているだけではないだろうか。
きっと、そうだ。彼も私も、一時的な情熱に狂っているだけなのだ。しかし、子供ができたなら、情熱ではすまされない。自分と晃の間の子だ。
美希は、自分の下腹に目を遣った。まだ、せり出してもいないが、ここには小さな命が宿っている。この子をまた死なせたくはない。結婚して、子供を産んで、家庭を作りたい。自分の居場所が欲しい。兄の家庭の隅にちょこんと座っているのではなく、自分の家庭の中心に座りたい。
「どうなんだ、美希さん」
切迫したような晃の口調に、彼女はふり向いた。
彼の顔は|強《こわ》|張《ば》っていた。美希の表情を食いいるように見守っている。
そして、美希は気がついた。彼は、自分の返答を恐れている。拒絶されることを怖がっている。いつも自信たっぷりに見えた晃が、美希の返事を、息をつめるようにして待っていた。
美希は、はじめて晃の内面を見たような気がした。達観した態度も生意気なところも、すべて彼の|鎧《よろい》だったのではないか。その内側に隠された、傷つきやすい心を守るための。
美希は、晃の胸に顔を埋めた。
「結婚したい……晃さんと」
晃が、よかった、と|呟《つぶや》くのが聞こえた。美希の顔に|微笑《ほほえ》みが広がった。
二人はそのまま静かに抱き合っていた。
「不思議な気がする。なんだか昔から、こうなることがわかっていたみたいな、すごく落ち着いた気分だよ」
晃が|呟《つぶや》いた。美希は、彼の胸から頭を起こして、含み笑いをした。
「そんなの、おかしいわ」
彼は頭を揺すって、額にかかる髪を払った。
「いや、ほんとうだ。僕がここにいて、美希さんが隣にいる。何もかもがあるべき場所に収まった、そんな気分なんだ」
幸福感が美希の全身に広がった。
彼女は、晃の顔から視線を|逸《そ》らせた。このまま彼を見ていると、涙がこぼれそうだった。
山を降りてきた葬式の列席者たちが、下の林道にさしかかっていた。埋葬に使った|鍬《くわ》を担いだ男や、太夫、頭にかぶっていた白い手拭いを揺らせて戻る親族が続く。その中にいた一人の男が、こちらに顔を向けた。
誠一郎だった。
彼は美希と晃の姿を認めたらしく、足を止めた。そのまましばらく遠い距離を隔てて、美希にじっと目を注いでいた。
その表情はわからないが、|呆《ぼう》|然《ぜん》と立ち尽くしている。
誠一郎を傷つけてしまった。美希の心が|疼《うず》いた。しかし、事態は、もうどうしようもないところまで進んでしまったのだ。
美希は、心の痛みを和らげるように晃の手をまさぐり、握りしめた。
誠一郎の様子に気がついた人々が、振り向いた。そして人々の歩みが止まった。|杖《つえ》をついた味元老人がいる。琴もいる。ふさの|舅《しゅうと》や姑。見知った顔が、墓地に立つ二人をじっと見上げていた。
美希は青ざめて、葬列から顔を背けた。そして、自分たちを見ていたのは、葬式の参列者だけではないのに気がついた。
畑で鍬を持った男がいた。店の並ぶ通りを歩いていた子連れの女。庭先に出た老人。村の人々が、皆、動きを止めて、こっちを向いている。
震えそうになった美希の手を、晃が強く握り返した。美希は、彼の顔を仰いだ。晃は、わかっている、というように|頷《うなず》いた。そして、村の人々に挑戦するように、|昂《こう》|然《ぜん》と頭を上げた。
山際に夕日が沈もうとしていた。ぽかりと浮いた雲が|茜色《あかねいろ》に染まっている。晃の彫像のような顔も燃えるような色に変わっていた。美希の心の中に力が湧いてきた。
この人と一緒なら、何も怖くない。
美希は、晃の手をさらに握りしめた。
私は長い間、この手を探していたのだ。自分の手を握り返す力強い手を。そして、今、見つけたのだ。この手の温もりの中に、私の居場所がある。私と晃と、腹の子の……。
美希の顔に決然とした笑みが浮かんだ。沈もうとする夕日が、顔に熱く感じられた。
16
「なんですとぉ」
道夫が大きな声をあげた。
晃は正座したまま、もう一度いった。
「美希さんと結婚させてください」
坊之宮家の客間だった。|欅《けやき》の座卓を囲んで、道夫、百代、そして富枝が座っている。
美希は、晃の横で、兄や母の顔を眺めた。前置きなしに用件を切りだされて、誰もが何といっていいかわからない表情をしていた。最初に意見らしいものを発したのは、百代だった。
「奴田原先生、御自分のいいゆうことが、わかっちょりますか。美希さんは、ずっと年上で、先生には理香くらいがええと……」
理香が始終、|噂《うわさ》をしていた晃だけに、百代は、彼と娘の結婚を|密《ひそ》かに夢みていたようだった。
百代の言葉を聞いて、美希は、理香はどこにいるのだろう、と思った。晃が訪ねてくると、いそいそと台所に立って、茶の用意をしていた。しかし、茶は一向に運ばれてくる気配はなく、壁ひとつ隔てた台所は静まり返っている。
「年齢のことは、気にしていません」
晃の返事が、美希の注意を彼に戻した。今日は|葡萄《えび》|茶《ちゃ》|色《いろ》の背広にネクタイを締めている。正装した彼は、都会の会社員のような雰囲気が漂っていた。
道夫が、がっちりした掌で後頭部を|撫《な》ぜながら|呟《つぶや》いた。
「そりゃあ、美希をもろうてくれるゆうたら、ありがたいことやけんど……」
晃の顔をじろじろ見ていた富枝が、体を乗りだした。
「先生とこの親御さんは、このこと知っちょりますか」
「まだいってません」
「ほいたら、親御さんが大反対されるかもしれん。美希がえづいめにおうたら、かわいそうですがの」
晃は富枝に向き直ると、さらりと答えた。
「反対するなら、僕は、奴田原の姓を捨てるつもりでいます」
道夫と百代は驚いて顔を見合わせた。
「坊之宮の姓になるゆうがかね」
道夫が|猪《い》|首《くび》を伸ばすようにして聞いた。
「はい。養子になってもいいです」
百代が、美希の顔色を|窺《うかが》いながら、口を挟んだ。
「先生も知っちゅうやろう。うちが|狗《いぬ》|神《がみ》……」
道夫が、黙っておけ、というように、妻の名を呼んだ。しかし晃は、美希を振り向いて、にこりとした。
「知っていますが、そんな迷信に左右されるつもりはありません。僕は、この土地が好きなんです。美希さんと一緒に、ここに住みたいと思っています」
道夫も百代も、晃のあまりに確信を持った口調にあっけにとられたようだった。富枝は、まだ晃に|不躾《ぶしつけ》な視線を投げかけている。
美希は、晃の堂々とした態度が誇らしく、居住まいを正した。
部屋の中は静かになった。床の間の|鷲《わし》を描いた日本画の下で、美希が置いた|皐《さ》|月《つき》の花が鮮やかな朱色を放っている。一昨日、晃が墓地で、土曜日に結婚の申込みに行くといったので、朝から家を念入りに掃除して、花を飾ったのだった。|濡《ぬ》れ|縁《えん》の先では、築山の白い雪柳の花が満開になっていた。池に落ちた花びらが、|鯉《こい》につつかれて揺れている。
結婚したら、この日のことをずっと忘れないだろうと、美希は思った。
晃の少し緊張した声が部屋に響いた。
「それに、美希さんは、僕の子を妊娠しているんです」
「子やってぇ」
道夫と百代が大きな声をあげた。台所から、がちゃん、と何かが落ちる音がした。富枝は観念したように目を閉じた。
道夫は怒りに満ちた顔を美希に向けた。
「おまんは……おまんは……こっそり……」
百代が後を引き継いだ。
「美希さん、あんた、他人に狗神を喰いつかしただけじゃあ、まだ足りんがか。結婚する前に子供ができたらあて、また坊之宮の家のことを悪ういわれる種、作ってからに。ちっとは身内の者のことを考えちゅうがかえ」
声を荒らげて非難する百代を、美希は|睨《にら》み返した。
「村の皆がどう思おうと、かまやせん」
そして母と兄を交互に見遣った。
「私は晃さんと結婚します。それで、この家を出て行きます」
道夫も百代も、美希をはじめて見るような顔をした。
これまで美希が自分の意思を明確に口に出したのは、和紙の仕事場を持つと宣言した時くらいのものだった。それ以外で家族と正面きって対立したことはない。対立しそうになると、美希がひいてきた。|喧《けん》|嘩《か》してまで、通したいほどの願望はなかったのだ。しかし、今は違った。心から手に入れたいものがあった。晃との新しい生活だ。
彼女は背筋をぴんと伸ばして、家族の者と向き合った。
ようやく晃の顔から視線をひき|剥《は》がした富枝が、息子と嫁をなだめるように口を開いた。
「ありがたいことじゃ。村の皆が坊之宮のことを口さがのういいゆう時に、こんな申込みをしてくれるとはな」
「まあ、そりゃあ、そうだ」
道夫は、下唇を突きだすようにして、二、三度、|頷《うなず》いた。そうすることによって、自分を納得させているふうだった。
百代はまだ不満気な顔をしていた。しかし夫が|姑《しゅうとめ》に賛同した以上、表立った反論はしなかった。そこに富枝がたたみかけた。
「うちから文句をいえるような筋合いはありゃせんわ。こんな年になって、子まで|孕《はら》んだ美希をもろうてくれるゆうがやき。こっちがお頼みせにゃいかんところや」
それでもう道夫も百代も何もいえなくなった。道夫は、まだ事態に困惑しているらしかったが、晃に、よろしく、というように頭を下げた。
百代が|苛《いら》|々《いら》した顔で、台所に向かって大きな声を上げた。
「理香っ。お茶、早う持ってきてや」
美希が慌てて腰を浮かせた。
「私、見てくるき」
廊下に出て、台所の硝子戸を開けて、中を|覗《のぞ》きこんだ。理香は床にしゃがみこんで、割れた湯呑み茶碗のかけらを拾っているところだった。
「理香ちゃん……」
顔を上げた理香の大きな|瞳《ひとみ》が|濡《ぬ》れたように光っている。その口許には、引きつった笑みが浮かんでいた。
「おめでとう、美希さん」
美希は台所に足を踏み入れると、|姪《めい》に近づいていった。理香が、晃と|叔母《おば》との関係を知って大きな衝撃を受けただろうことは、容易に想像できた。
「理香ちゃん、私……」
理香はショートカットの髪をぶるんと振って、美希を見上げた。
「何もいわんでええよ。しかたないわ。先生は、美希さんに譲っちゃる」
と、にやりとした姪の精一杯の虚勢に、美希は胸を|衝《つ》かれた。
背後の廊下で、|襖《ふすま》の開く音がした。
「せっかくですが、これから用があるので、僕はもう失礼します」
晃が、引き止める百代に断りをいいながら、廊下に出てきた気配がした。
「美希さん、先生が帰るがやと」
百代の声が響いた。
理香は立ちあがると、美希の腕を人さし指で押した。
「早う行きや。ぼやぼやしよったら、私が先生、取っちゃるき、気いつけや」
姪の丸顔には、冗談とも本気ともつかない表情が浮かんでいた。美希は苦笑して、理香の肩をぽんと|叩《たた》いた。
「そんなこと、させんよ」
理香が目を見開いた。今までの美希なら、決して口にできないような応答だった。
美希も自分自身に驚きながら姪に背を向けると、玄関へと歩いていった。
二畳ほどの玄関には、道夫も百代も富枝も|揃《そろ》って、見送りに出ていた。美希は、晃と少し話がしたかったので、送っていくと告げて、急いで靴を履いた。晃は、美希の準備ができると、見送りの家族に向き直った。
「それでは、僕は両親と話をしてから、またこちらにお伺いします」
お辞儀をして、出ていこうとした晃に、富枝の声がかかった。
「あの、先生」
富枝は、曲がった背中から首を彼のほうに突きだして、愛想笑いを浮かべた。
「もしよかったら、明日のうちの先祖祭りに来てくれませんやろか」
「先祖祭り?」
|怪《け》|訝《げん》な顔をしてから、晃は、あっ、と目を輝かせた。
「美希さんに聞きました。なんでも、一族の方が年に一度、集まるお祭りとか」
「はい。四時頃からやります。先生に来てもろうたら、御先祖様も喜ぶと思いますけんど」
晃が先祖祭りに来たら、隆直とも会うことになる。美希は母にしかめ面を向けた。
「晃さんが養子になると決まったわけやないがよ。なにも先祖祭りに来んかったって、ええじゃないの」
「あんたと結婚するんやったら、坊之宮の者になるのも同然じゃ」
富枝はぴしりといい返すと、道夫を見た。
「のう、道夫。ええじゃろう」
道夫は口の中でもぞもぞと、そりゃあ、もちろん、と答えた。
「出席させていただきますよ」
晃は気軽に答えた。
富枝は張り子の|虎《とら》のように頭を何度も|頷《うなず》かせた。いかにも嬉しそうだった。
美希は晃と連れ立って、家を出た。
五月晴れの青空から降りそそぐ、午後の明るい日射しが|眩《まぶ》しい。木々を揺らせて、番所山から風が吹きおろしていた。|爽《さわ》やかな風に背中を押されるように、二人は村道を下っていく。
晃が、乱れる髪を|掻《か》きあげていった。
「僕、今日はこれから高知市に戻って、両親に報告してくるよ」
「私も行かなくていいかしら」
彼は少し考えるようにしたが、首を横に振った。
「まず、僕が説得してからがいいと思う」
美希は顔を陰らせた。
「反対されそうながやね」
「大丈夫だよ」
晃は表情を和らげた。
「高校以来、両親はもう僕のやることに反対はしない。二人が期待しているのは上の兄だけさ」
彼はゆっくりと歩きながら続けた。
「いつか僕と両親の間には、深い溝ができてしまった。わかりあう努力もしなくなっている。不思議だな。ずっと同じ家に暮らしてきた家族なのに、|絆《きずな》がふっと切れてしまった」
「同じ家に暮らしていても、家族の関係は変わってくるがよ」
美希は考えながらいった。
「百代さんが嫁に来て、子供を作ってから、私の育った家は、もう違う家になってしもうた。あの家に流れちゅう血が違うがよ。別の血が入ってきて、私には居場所がない」
晃は笑った。
「僕たちは、居場所のない者同士だ」
美希は|微笑《ほほえ》みを返した。
二人は石段を並んで降りていった。路傍の水路のせせらぎが立ち昇る。色硝子の棒のような|糸《いと》|蜻蛉《とんぼ》が、路傍の|蓬《よもぎ》から飛びたつ。優しい表情で、その行方を目で追っていた美希の頬を何かがかすめていった。
「あっ」
軽い痛みを感じて、頬に手をあてた。
かつん、かつん。小石が石段を転がり落ちていく。
「|狗《いぬ》|神《がみ》っ」
子供の声がした。顔を向けると、晴子の家の庭で、男の子が仁王立ちになって次の石つぶてを握っている。まだ幼い顔に宿る憎しみに、美希はぎくりとした。
「文彦っ」
叫び声がして、晴子が家から飛びだしてきた。家の横から夫の耕作が顔を出した。薪を割っていたらしく、手に|斧《おの》を持っている。
晴子は、息子を背後から抱きかかえると、美希を見て後ずさりした。丸く太った顔に嫌悪の情を浮かべている。家の中から、晴子の上の娘が二人、こわごわとその光景を眺めていた。
「晴子さん……」
美希が|呆《ぼう》|然《ぜん》として声をかけた時、耕作が、妻と子を守るように前に立った。
「子供の悪さじゃ。許しちゃってや」
耕作はぶっきらぼうにいうと、早く行ってくれ、というように|顎《あご》を動かした。右手に握った斧の刃が、ぎらりと銀色に光った。
美希は開きかけた口を閉じると、歩きだした。晃は、じっと夫婦を|睨《にら》みつけていたが、美希が呼ぶと、石段を降りてきた。その後ろで、耕作が地面に|唾《つば》を吐いて、薪割りに戻っていくのが見えた。
美希は中野家から顔を背けた。
晴子まで自分を憎んでいる。そう思うと悔しさと悲しさがこみあげてきた。
美希は頬を手でこすった。血が|滲《にじ》んでいる。ポケットからハンカチを出して拭きながら、彼女は横に並ぶ晃の顔も見ずにいった。
「わかっちゅう、晃さん? 私と結婚したら、同じめに|遇《あ》うがで」
「いつか忘れてくれるよ」
晃が静かにいった。
美希は石段の途中で立ち止まった。
「忘れることはないがよ」
輝く太陽の光が、棚田に囲まれて肩を寄せ合うように立つ家々を包みこんでいる。一輪車と|鍬《くわ》を載せて走る軽トラック。家の前で立ち話する|手《て》|拭《ぬぐ》いをかぶった女と、子供を抱いた若い母親。収穫した黄金色の麦を、庭に敷いた|筵《むしろ》に干している年老いた農夫。
美希は、のんびりと土曜の午後を過ごす村人たちに向かっていうように続けた。
「村の者は何ひとつ忘れやせん。私のお父さんやお祖父さんがどんな人やったか、お祖母さんがどこから嫁に来たか、ちゃんと知っちゅう。うちが狗神筋やゆうことも、私の過去も、しっかり覚えちゅう。村全体が過去帳みたいなものよ。それには何でも載っちょって、村の人間は気が向いたらめくって、昔のことをいいたてる。どんなに時代が変わっても、ここに人が住んじゅう限り、その過去帳は存在する。忘れるゆうことはないがよ」
「それがいやなら、美希さんは、どうして、ここから出ていかなかったんだ」
美希は言葉に詰まった。体が弱かったから。結婚しなかったから。様々な理由が頭に浮かんだが、どれも真実ではない気がした。
彼女は尾峰の村落を眺めた。山肌を覆う、灰色の石垣。風の中で背中をかがめる老人のように、斜面にしがみつく木造の粗末な家々。
どうして私は、自分の過去を永遠にいいたてるこの土地を出ていかなかったのか。
出ていくことなぞ、真剣に考えたことはなかった。夢想したことはあった。高知市内か、せめて伊野町に出て、一人暮らしをすること。しかし、それはただの夢だった。自分がそうしないことはわかっていた。
「私は、この土地が好きながやと思う」
美希は小さく答えた。
「ここの人やない。ここの空気が好きながよ。ここの斜面の上から、下を見下ろすこの景色が好きながよ。ここにおったら……」
美希は言葉を探すように眉根を寄せた。そして、遠い山並みを見渡していった。
「空に飛びだせそうな気がするき」
晃のしみじみした声が響いた。
「わかるよ。ここは……空に近い」
美希はにっこりとした。
「いちばん最初に晃さんに会うた時も、そんなことをゆうたねぇ。きっと昔、ここに|辿《たど》り着いて、村を築いた坊之宮の御先祖様もそう思うたがやろう」
「美希さんちの先祖のことかい」
「そう。徳島から来たんやって。深い山を越えて、この番所山の斜面が気にいって住みついたがよ」
晃の目が楽しげに光った。
「明日の先祖祭りは、その御先祖様をお|祀《まつ》りするんだね」
美希は墓地のほうを振り向いた。こんもりした丘の上に、黒い指を突きだしたような墓標が立ち並んでいる。遠目にも、ひときわ大きな五輪塔はすぐわかった。
「そうよ、一族の者があそこに集まってねぇ……」
といいかけて、ふと、墓地の横の林が揺れているのに気がついた。番所山に接する林の木の葉がざわざわと震えている。
かーん、かーん。風に乗って、|斧《おの》の音が流れてきた。低い地響きが起こり、林の中の木が倒れるのがわかった。
「いややわ」
美希は|呟《つぶや》いた。
晃は|怪《け》|訝《げん》そうな顔をした。
「あそこの木、組地ゆうて、村の何軒かの家の共有地ながよ。坊之宮家も所有権を持っちょって、木を伐るのに反対しよったがやに。それを勝手に伐りゆう……」
今度は別の木が揺れはじめた。林の木は、歯が抜けるように次々と倒されていく。
身震いする墓地の横の林を眺めて、晃はいった。
「つまり、村の他の家は、坊之宮の家の意見を無視したということか」
美希は|頷《うなず》いた。
「どんどん、村の人がうちを除け者にしていくわ」
村人たちの振るう斧の音が、坊之宮一族に対する、彼らの怒りの声のように聞こえる。唇を|噛《か》む彼女の肩に、晃の手が回された。
「僕がいるよ」
美希は力なく笑った。
晃一人の力で、この状態がどうなるわけでもないことは、よくわかっていた。
それでも、彼女は晃の体に身を寄せた。その温もりが嬉しかった。少なくとも彼は私たちの味方だ。
よかった、この人と出会えて。
美希は、胸の内で呟いた。
二人は肩を寄せ合ったまま、ゆっくりと細い灰色の石段を下っていく。
かーん、かーん、かーん。
木々の間から立ち昇る斧の音は、尾峰の|蒼《あお》い空にいつまでもこだましていた。
17
傾きかけた太陽の光を受けて、池野川が|銀《ぎん》|鼠《ねず》|色《いろ》に輝いていた。横にたなびく煙の筋にも似た山の|稜線《りょうせん》を背景に、坊之宮一族の行列が進んでいく。
先頭を行くのは、本家の当主、隆直だ。その横で一升瓶を|捧《ささ》げ持っているのは頭屋にあたる道夫と博文。尾峰に残る三軒の坊之宮家の残り一軒の当主の治が|皺《しわ》だらけの顔に穏やかな笑みを浮かべ、|杖《つえ》をつきながら続く。さらに、高知市や伊野町に散らばった分家の当主たちが、手に手にビール瓶や酒瓶、|茣《ご》|蓙《ざ》、食器を入れた箱を持って連なる。大皿を抱えて歩くのは、各家の主婦たちだ。皿には、頭屋にあたる美希の家の台所で作った皿鉢料理が盛られ、覆いがかけられている。
女たちのうち、年長の者は着物姿が多い。美希も、今日は|箪《たん》|笥《す》の奥から出した着物をまとっていた。草の上に腰を下ろすので、普段着程度の|絣《かすり》の着物だが、先祖祭りには正装をするのが慣例になっている。当日、襟を正した一行は|一《いっ》|旦《たん》、本家に集合してから、行列をなして、村はずれの御先祖様の塚までこうして歩く。それは美希が物心ついた時から、変わることのない手順だった。
美希は刺身の大皿を抱えて歩きながら、しきりに下の県道を気にしていた。まだ晃が高知市の両親の家から帰ってきていなかった。先祖祭りには出席するといっていたのに、どうしたのだろう。両親に結婚を反対されたのかもしれないと思うと、気が|揉《も》めた。
「いやねぇ。私らが悪いことしたみたいにじろじろ見て」
隣の園子が|囁《ささや》いた。何事かわからずにいる美希に、|鯛《たい》の姿焼きの皿を持った園子は|顎《あご》で周囲を指した。
「村の人らぁよ」
美希も、村道沿いから注がれる視線に気がついた。窓や庭の石垣越しに、人々が坊之宮一族の先祖祭りの行列を見送っている。軒先で薪を割っていた男たちも手を休めて、こっちを注視している。その一人一人の視線に|怯《おび》えと憎しみがこもっていた。村人の暗黙の非難の中を、静かに歩いていく坊之宮一族。刑場に引かれていく罪人になったような気がした。
美希は、そっと前を行く母を見遣った。茶色の|壷《つぼ》を大事に抱えて、隆直の養母にあたる本家の雪子と何か話している。|狗《いぬ》|神《がみ》なぞいない、と思うのに、その茶色の壷が気にかかった。今、その壷は陶製の|蓋《ふた》が|被《かぶ》せられて、しっかりと|紐《ひも》をかけてあった。
商店の並ぶ通りにさしかかった。今日は、酒屋も八百屋も戸を閉めている。年中無休のような店ばかりなのに、閉店にしてしまったのは、坊之宮家の先祖祭りと関係あるのだろうか。一族の者に食料や酒を売りたくないのかもしれない。村人の深い嫌悪感を見せつけられた気がして、美希は閉ざされた店から顔を背けた。
その時、正面の道に銀色に光るものが現れた。美希の胸が躍った。晃だった。いつものように黒い皮ジャンを着て、エンジンの音を響かせて行列に近づいてくる。
美希は、道路の縁に出て、彼のやってくるのを待った。晃が出席することは、坊之宮の本家に集まった時に、道夫の口から皆に伝えられていた。晃を知っている者が、冷やかしの混じった視線を送ったが、彼女は気にしなかった。
晃は先頭にいた道夫に|会釈《えしゃく》すると、行列をやり過ごして、美希の前で止まった。
「ごめん、ごめん、高知市から出る時に、渋滞に巻きこまれてしまって」
|削《そ》げた頬を少し上気させた晃は、美希の姿を眺めた。
「着物姿も似合うね、美希さん」
美希ははにかみながら、髪を結んだ桜色のリボンに手を遣って応えた。
「それより、早くバイクを置いてきたら」
晃は|頷《うなず》くと、バイクを走らせ、永田の家の前まで戻った。そして家の前にバイクを置くと、皮の手袋を脱ぎながらこっちに駆けてきた。晃は美希の持っていた大皿を引き受けて、二人は行列から少し後れて歩きだした。
「それで、御両親は」
美希が気にかかっていた質問をすると、晃は、唇の片端をきゅっと上げた。
「まあ、予想通りだよ」
「反対されたのね」
美希は暗い気分で|呟《つぶや》いた。
「違うよ。|匙《さじ》を投げたのさ。おまえの好きなようにすればいいってね」
美希には喜んでいいことかどうか、わからなかった。晃は、それ以上、詳しいことはいわずに前を向いた。
行列が集会所の前にさしかかっていた。平屋の建物の窓に、何人かの顔が見えた。行列をじっと眺めている。尾峰の坊之宮の男たちが、怒ったように集会所の中を|睨《にら》み返している。
組地の林が、坊之宮家の了承なしに伐採されたことで、道夫や隆直が、昨日、抗議に行ったが、もう伐ってしまったから、と木で鼻をくくったような返事が返ってきたと憤っていた。
坊之宮家と村の者たちの間に飛びかう憎悪の火花を感じて、行列の後尾にいた美希は暗い気持ちになった。
やがて行列は林道に出て、坊之宮家の墓地に向かう小道を登りはじめた。晃が、草を|掻《か》き分けて、ぞろぞろと進む行列を見上げた。
「なかなか風情があるね」
手に手に宴の|御《ご》|馳《ち》|走《そう》を持って歩く男女。その周囲を走り回る子供たち。頭上では灰色の墓標が、両腕を広げるように待ち受けている。小さい頃から、何度この同じ光景を眺めたことだろう。
美希は昔を思い出しながらいった。
「今年は|賑《にぎ》やかでええわ。珍しゅう全員集まったと、お兄さんはいいよったけど」
道夫は、なにもこんな時に全員集まらなくてもいいのに、とぼやいていたのだった。
「坊之宮一族って、何人いるの」
「赤ん坊も入れて、三十八人やと」
晃は、美希の腹に触った。
「いや、四十人だ」
「だめよ。坊之宮に養子に来たらいかんよ」
「そうかな。坊之宮晃。いい名前だ」
「奴田原美希のほうがええわ」
そして二人はくすくす笑った。
先祖の塚である五輪塔の周囲は、墓標と木立に囲まれた五坪ほどの空き地になっていて、先祖祭りはそこで行われる。美希と晃が墓地に着いた時には、すでに先祖の塚のまわりに|茣《ご》|蓙《ざ》が敷かれ、女たちが皿鉢料理や取り皿を並べていた。美希は、晃の手から皿鉢料理を取ると、茣蓙の上に置いた。そして宴の準備をする女たちの中に入っていった。
「美希さん、割り|箸《ばし》、配ってや」
百代が美希に割り箸の束を渡した。美希は、皿鉢の前に置かれた二枚一組の小皿の上に割り箸を配りはじめた。
晃を見遣ると、この場の光景をおもしろそうに眺めている。あの様子なら、しばらく放っておいても大丈夫だろう、とほっとした時、先祖の塚の前に立った隆直が、晃をじっと睨みつけているのに気がついた。
今日、道夫が、本家で美希の結婚のことを口に出した時、隆直の顔色が変わった。美希は、彼が晃にとんでもないことをいいだすのではないか、と心配になった。
晃には、美希がかつて子供を産んで、すぐに死なせてしまったということは告げてある。しかしその相手が実の兄で、本家の隆直だということまではいってない。
もし、自分が実の兄と通じていたことを知ったら、晃はどんな態度を示すだろう。いくら過去は関係ないといってくれた晃にしても、近親|相《そう》|姦《かん》という言葉の重みはあまりに大きい。美希は、隆直が、そのことを晃に|洩《も》らすことを恐れていた。
「あっ」
肩が誰かにあたり、小さな声が聞こえた。考えに|耽《ふけ》っていた美希は、はっとして、謝りながら振り向いた。隣で、コップを並べていた理香が苦笑いしていた。
「奴田原先生のほうばっかり見ゆうきよ」
憎まれ口を|叩《たた》く理香の|瞼《まぶた》はうっすらと|腫《は》れている。昨夜、泣き明かしたのかもしれないと思い、美希の心が痛んだ。
彼女は小さく|呟《つぶや》いた。
「ごめんなさい」
理香は、コップを置いていた盆を持つと、明るくいった。
「あんまし、あてつけんといてね」
美希は、赤いミニスカートを|穿《は》いて、腰を揺らすように酒を配る女たちの輪に入っていく|姪《めい》を見送った。
近いうちに、理香とゆっくり話したほうがよさそうだった。そして、いってあげるのだ。理香はまだ若い。これからも沢山の男性に会える機会があるはずだ、と。
だけど私にはこれが最後なのだ。彼をあきらめるわけにはいかない。
美希は決然とした顔で、ぱちん、ぱちん、と音をたてて割り箸を配っていった。
|茣《ご》|蓙《ざ》の上に車座に料理が並べられ、酒が置かれると、道夫の先導で皆が靴を脱いで座りこんだ。
先祖の塚を背にして、中央が本家の当主の隆直、右が頭屋の道夫、左が来年の頭屋が座るしきたりだ。来年は、高知市内に住む静雄が当番らしく、そこに座っていた。道夫の横には、坊之宮一族一番の長老の治がいる。それだけが決まった席順で、あとは好きな場所に座ってよかった。皆、気の合った者で固まり、末席近くを、|御《ご》|馳《ち》|走《そう》を前にしてうずうずしている子供たちが陣取った。美希は晃を呼んで、隆直のいる先祖の塚から離れた場所に座った。そこは、園子と、高知から戻ってきている高校生の|甥《おい》の満文に挟まれた席だった。晃はあぐらをかいて、園子と満文に挨拶をした。
「ぼちぼち、はじめろうかのうし」
道夫が、隆直にいうのが聞こえた。座についた者たちが、はじめるぞ、と口々にいって、あたりはやがて静かになった。
墓地は、夕暮れ時のほんのりした光に包まれていた。黒々とした長い影を地面に落とす、石の墓標。|蔦《つた》の絡まる赤岳の向こうに|聳《そび》える番所山の頂上。谷から吹きあげる微風が、周囲の草木をざわざわと揺らせている。
上座にいた者たちが、皆、先祖の塚のほうを向いて座った。
五輪塔の前には、お供えが並んでいた。酒や干菓子、果物が置かれて、花が飾られていた。その中に|狗《いぬ》|神《がみ》が入っているという、茶色の|壷《つぼ》もあった。
先祖祭りには、いつもあの壷が置かれていたのだ。なのに壷の意味を知っているのは、狗神を|祀《まつ》ってきた女だけだ。
美希は、晃の斜め向かいに座った母を盗み見た。富枝は、何か考えこむように、ぼんやりとしている。
塚の正面の隆直が、ぱんぱんと|柏手《かしわで》を打ってお辞儀した。
「御先祖様。今年も皆の者をよろしゅう、お守りしてください」
一同も一斉に頭を下げた。美希も晃に目配せして、上半身をかがめた。
やがて一同、頭を上げると、もとのように顔を向き合わせる形で車座になった。百代が大杯と|鰹節《かつおぶし》の削ったものを盆に載せてやってきて、隆直に渡した。
晃が美希に|囁《ささや》いた。
「何がはじまるんだい」
「晃さんには退屈かもしれんけど、我慢して」
「美希さんの横にいるのは退屈じゃないよ」
美希が口に手をあてて笑みを隠した時、隆直の視線を感じた。しかし彼女が顔を向けると、隆直は目を|逸《そ》らせた。そして儀式に注意を戻して、不機嫌な顔で、大杯を道夫に渡した。
「本年は、ごくろうさんでした」
隆直はしきたり通りに頭屋をねぎらう言葉をかけて、脇に置いてあった一升瓶を傾けて日本酒を大杯に注いだ。
道夫は鰹節を食べて、|恭《うやうや》しくそれを飲み干し、隆直に戻した。隆直は大杯を、「来年もよろしゅうお願いします」といいながら、次の頭屋である静雄に渡して、やはり酒を注いだ。静雄も鰹節を|肴《さかな》にそれを飲んで隆直に戻し、酒を入れた。隆直が杯を飲み干すと、大杯は盆に戻された。
そこで皆が居住まいを正した。長老の治が、用意はいいか、というように、一座の男たちの顔を見ると、口を開いた。
「松高き枝も連なる|鳩《はと》の|峯《みね》曇らぬ御代は
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|久《ひさ》|堅《かた》の月の|桂《かつら》の男山
げにもさやけき影に来て
君萬歳と祈るなる
神に歩みを運ぶなり
神に歩みを運ぶなり」
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低く|唸《うな》るような声が男たちの|喉《のど》から|洩《も》れた。先祖祭りの時のはじまりに、必ず歌われる|謡《うたい》だった。ほとんどの者が小さい頃から口ずさんでいるので覚えている。暗唱できない者は、懐からそっと紙を取り出して、盗み見ていた。
晃が、美希に肩を寄せていった。
「これ、能の『弓八幡』の一節だよ」
「あら、そんなものなの」
美希は驚いていった。昔から退屈な歌謡としか思っていなかった。
「さすが古典の先生。詳しいこと」
「能は好きで、よく見に行ってたんだ。それにしても先祖祭りで、これを歌うとは知らなかった」
『弓八幡』の一節が終わると、座の全員に大杯が回された。鰹節と酒を飲み干して、一巡すると、隆直がいった。
「ほんなら、皆さん。|御《ご》|馳《ち》|走《そう》になろうや」
子供の歓声があがり、皆が箸を取った。女たちが酒を配って回る。|鯖《さば》の|姿寿司《すがたずし》や、昆布寿司、|鮎《あゆ》の|串《くし》|焼《や》き、|蒲《かま》|鉾《ぼこ》や|水《みず》|羊《よう》|羹《かん》が山盛りになった皿と、鰹やうつぼの|叩《たた》きや、|鯛《たい》や|鮪《まぐろ》の刺身の皿が交互に並び、皆、二枚の皿に刺身と寿司をよそっている。子供たちが、好きな料理のある皿鉢に歩いていって、大人の間から体を割り込ませて、箸を伸ばす。それを|叱《しか》る母親。宴会好きの静雄の音頭に乗って、民謡がはじまった。
「ここなお家はめでたいお家
[#ここから2字下げ]
鵺と亀とが舞い遊ぶよ
お家繁盛とゆて遊ぶ
ぼたもち顔でよ そりゃ
きなこつけたら なおよかろよ
はりゃ よいよい」
[#ここで字下げ終わり]
拍手が|湧《わ》き、笑い声が起こる。美希は、晃が隣の満文と楽しそうに話しているのに安心して、立ち働く女の中に入っていった。
「美希さん、ええ人、見つけたねぇ」
園子が、徳利に冷や酒を注ぎながらいった。美希が照れると、園子はにやにやした。もう園子は、自分と隆直との間について|嫉《しっ》|妬《と》することもないだろう。美希は|安《あん》|堵《ど》感のようなものを覚えた。
ビール瓶の栓を抜いて宴席に配っていると、母の姿が目に止まった。
いつの間にか、人々の輪から抜けだして、灰色の墓標の間にぽつんと|佇《たたず》んでいた。骨太の背中を、墓石の前に丸めて立っている。谷から吹きあげてくる風の中で、その姿はとても孤独に見えた。
美希は気になって、母に近づいていった。
富枝は、|苔《こけ》むした墓の前で手を合わせていた。亡くなった父の墓ではない。富枝の実家である本家の墓のひとつだった。
「何しゆうの」
美希が声をかけると、母は顔を上げた。着物姿に、髪を|椿油《つばきあぶら》でぴたりと後ろで|髷《まげ》に結った富枝は、どこか生き生きとして見えた。
母は腰を上げると、今まで拝んでいた墓に微笑んだ。
「祖母さんに、報告をしよったところよ。狗神様の壷を譲る者ができたゆうてねぇ」
美希は顔を|歪《ゆが》めた。
「まだ、そんなこといいゆうが」
母は、娘の顔をまっすぐに見つめた。
「今度は、おまんがあの壷を守るがよ」
突然のことに、何と返事していいかわからない美希に、富枝は、一言、一言、区切るように、はっきりと告げた。
「本家の血を引く女は、おまんか理香や。先に結婚する美希、おまんが狗神様の壷を守ることになるがよ」
「治さんくの孫の千鶴子さんやって、本家の血を引く坊之宮の女やないの」
「私は、おまんに譲りたいがよ」
「そんなもの、欲しゅうないわ」
美希は強い口調でいった。母は、皮肉な笑いを浮かべた。
「狗神様は、誰かがお|祀《まつ》りせにゃいかん。譲られたら、引き受けるしかない」
富枝は林立する墓標を見渡すと、過去を手繰り寄せようとするように目を細めた。
「うちも、文句のひとつもようゆわんままに、お祖母さんから壷を譲られたわ。ほいで、一遍、譲られたら、勤めは果たさんといかんきねぇ。嫁いでからはもう、毎朝毎朝、狗神様に団子をお供えして、どうか一族の者をお守りつかあさい、ゆうて祈ってきたがよ。不思議なもんで、お供えのお団子は、次の朝になったら、ちゃんとのうなっちゅう。それでまた、絶やさんように、壷の中に団子を入れて、祈らにゃいかん。壷を譲られた坊之宮の女はの、そうやって狗神様をお|祀《まつ》りして、一生を送るがや。一日でもお供えを欠かすことができんき、旅行にも出られん。うちも、狗神様の壷を譲られてからは、どこにも行けんかったし、お祖母さんもそうやった。お祖母さんもねぇ、一遍でええき、|信濃《しなの》の善光寺さんにお参りして、仏様と御縁を結びたいといいながら、ようせんかった。うちに壷を譲る時、これで善光寺にお参りができるといいよったけど、すぐに病気になって、そのまま|逝《い》ってしもうた。うちはね、あんたに壷を譲ったら、善光寺にお参りに行くつもりよ。ほんで、お祖母さんのぶんもお祈りしてきちゃらにゃいかんと、ずっと思い続けてきたがよ」
母が嫁いできて、もう五十年近くたっているはずだ。そんなに長い間、旅行もせずに、家で狗神を守ってきたのだ。美希は、その長い年月を想って言葉を失った。
母は、風に乱れた髪の毛を押さえながらいった。
「坊之宮の者はわりが悪いもんよ。何か変なことがあると、おまんとこの狗神のせいやといわれる。けんど、怒っちゃいかん。他人様を|嫉《ねた》んじゃいかん。他の者に悪い気持ちを持ったら、狗神様が喰いついていくきの。そんやき、坊之宮の女の務めはな、家から狗神様が出んように、毎日、お祀りすることよ。そして自分の気持ちが、他人様を|羨《うらや》んだり、恨んだりせんように、一生懸命抑えちょらんといかんのよ」
母は、そうして自分の心に巣くう悪意を殺して生きてきたのだ。すべて狗神のために。狗神に守られた一族を代表して……。
男たちの笑い声が聞こえた。美希は、五輪塔のほうに顔を向けた。
この日の最後の陽光が、五輪塔を照らしていた。先祖の塚と墓標に囲まれて、坊之宮の一族が、酒を酌み交わす。今年の作付けの話、家の補修の話、家族の動向。それぞれの近況を伝え合っている。その背後には、夕暮れ時の空に浮かびあがる赤岳の|峻厳《しゅんげん》な|崖《がけ》。赤岳と墓地との間に横たわる木立からは、子供たちの遊ぶ声が響く。楽しそうな一族の語らいが、綿雲の浮かぶ空に広がっていく。
幼い頃から毎年、見てきた光景だった。当時、一緒に遊んだ子供たちは、今、車座になって酒を飲んでいる。その時、車座になって笑っていた人々は、ここを囲む土の下に眠っている。人の顔ぶれは変わったが、行われていることは変わらない。
子供から大人になり、やがて坊之宮の墓地に入る。それは、一族の誰もが生まれると同時に|呑《の》みこまれる、運命という名の巨大な河だ。先祖祭りを重ねるごとに、人々は、その河の流れを意識する。そしてやがては、今、先祖の塚の前で酒を|舐《な》めている長老の治のように、柔和な笑顔の中に、墓地での永遠の眠りへの|憧《どう》|憬《けい》すら浮かべることになるのだ。
しかし、あそこにいる者は、誰もわかっていない。生から死へ続く、この穏やかな河の底には、別の暗い水流が隠されていることを。それは狗神筋の流れ。女たちの狗神への祈りが生み出したもの。狗神を|祀《まつ》る女しか知らないが、この先祖祭りの場は、ひそかな狗神祭りの場でもあるのだ。
宴席で主導権を握るのが、家長である男たちなら、その陰で、狗神の筋を伝えているのは、女たちなのだ。そしてこの女たちが、狗神の壷を棄てない限り、坊之宮一族は、狗神筋であり続けるのだ。
美希は、陽気に笑う男たちを|睨《にら》みつけるようにいった。
「私、壷を譲られたら、粉々に割って、棄てちゃるわ」
「いかん」母は怖い顔になった。
「そんなことをしたら、狗神様が怒りだす。一族の者に不幸が起こる」
「そんなん、迷信よ」
猫背の母が首を|捩《よ》じって、じろりと美希を見上げた。
「気がついちゅうか。今度の狗神騒ぎは、おまんが張本人で」
「私が?」
「そうよ。ふささんや克子さんがあんなになったんは、おまんの心が、あの二人を|嫉《ねた》んだり、憎んだりしたきよ。その心に動かされて、狗神様が喰いついてしもうた」
ふさの家庭の幸福を|羨《うらや》んだこと。そして、克子に投げつけられた言葉に対して覚えた怒り。その時の自分の感情が、美希の脳裏を走った。
しかし彼女は激しく頭を横に振った。
「信じんわ、そんなこと。これまでやって、人を羨ましいと思うたことはあったやない。なのに、その時は何も起こらんかったわ」
「今までは、うちが毎日、毎日、狗神様をお祀りしてきたきよ。坊之宮の人間が悪い気持ちを持ったとしても、たいしたことにはならんかったがよ」
「ほんなら、どうして、今度に限って、おかしなことが起きるがよ」
母の顔が曇った。
「わからん。ただ……皆が悪い夢を見るようになってからじゃ。夜になると、狗神様が壷から抜けでていくようになった」
狗神と悪夢とは、何か関係があるのだろうか。美希が母に問いただそうとした時、自分たちを呼ぶ声に気がついた。振り返ると、晃と満文が連れ立って、墓標の間を歩いてくるところだった。
「何を真剣な顔をして話しているんですか」
晃が、母娘を見ながら聞いた。富枝は、黙っていろ、というふうに美希の腕をつかむと、愛想よくいった。
「ちくと、昔のことを思い出しよっただけですが。それより、お客さんを放ったらかしにしちょって、すんませんねぇ」
「いや。満文君が、ちゃんと相手してくれましたから」
満文は照れ臭そうに肩をすくめた。
日頃は無愛想な満文だが、晃を気にいったようだった。そういえば、この二人が似ていることに、美希ははじめて気がついた。がっちりした体型も、無口だが|芯《しん》の強いところも、共通している。結婚したら、晃は満文のいい|叔父《おじ》になるだろう。
美希は、晃に近づいて聞き返した。
「晃さんらこそ、何の話をしよったが」
彼はにやりとして満文の肩を叩いた。
「東京の話だよ。満文君、東京の大学に行きたいんだって」
富枝が大仰に顔をしかめた。
「高知大でええやいか」
満文は不満気に唇を突きだした。
美希は、|甥《おい》が尾峰を嫌っていることを知っていた。叔父の家に下宿してまで、高知市内の私立進学校に通っているのは、将来は県外に出ていきたいと考えているためらしい。富枝や兄夫婦は、若者が県外に出ていくのは時代の|趨《すう》|勢《せい》だからしかたないとわかっていながらも、満文がそれらしいことを|匂《にお》わすたびに、いやな顔をした。
美希はとりなすようにいった。
「まあ、先のことはどうなるか、わからんよね。晃さんやって東京の大学に行ったけど、結局は高知に戻ってきたわけやし」
富枝が興味を覚えたように聞いた。
「ほいたら、お生まれは高知なんですか」
晃が|頷《うなず》いた時、長老の治の声が聞こえた。
「そろそろ日暮れじゃよ。皆の衆」
美希は、あたりを見回した。
谷から吹きあげてくる風が強くなっていた。夜が近づいている兆候だった。山際に沈みかけた夕日に、尾峰の村落が赤く染まっていた。ふと、村道を歩く人々の姿が目に止まった。暗くなりかけた道を|這《は》う影のように静かに、この斜面の下の林道を目指している。
皆で、どこに行くのだろう。
「美希、早う来なさいよ」
母の声がした。
先祖の塚の周囲には、いつの間にか、|提灯《ちょうちん》がぶら下がり、人々が席についていた。子供たちも、遊んでいた木立の間から戻ってきている。
母や晃は、少し先のほうで、美希が来るのを待っている。美希が謝りながら追いつくと、四人は、座の端のほうに席を見つけて、並んで座った。
途中で食べるのを中断して、居ずまいを正した一族を、晃は興味深そうに眺めた。
「何かまたはじまるの」
美希は、暗くなった空を見上げて答えた。
「日の沈む時に、もう一曲、謡を歌うが。それからは無礼講よ。皆、どっさり飲みだすき、晃さんも覚悟しちょいたがええわ」
晃はおどけたように首をすくめた。
一族の男たちが背筋を伸ばして、西の方向に体を向けた。山際の夕日はすでに姿を隠していた。赤い後光を背負って輝く西方の山々。|群青《ぐんじょう》色の東の空には、白っぽい満月がかかっていた。
謡の口火を切ったのは、いつものように、治だった。
「夜の波に
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浮きぬ沈みぬ見えつ隠れ絶え絶えの
いくへに聞くは|鵺《ぬえ》の聲
懐かしや慕わしやあら懐かしや慕わしや」
[#ここで字下げ終わり]
坊之宮の男たちの声が、朗々と墓地に流れていく。黒い|土筆《つくし》の群生のような先祖の墓標も、謡に耳を傾けているようだ。
晃が驚いたように|呟《つぶや》いた。
「能楽の『鵺』の一節だよ。だが歌詞が違う……」
「鵺って、何やの」
美希は聞いた。晃は、謡を邪魔しないように低い声で説明した。
「鵺とは、中世の|妖《よう》|怪《かい》だよ。確か『平家物語』に出ているよ。それによると、|近衛《このえ》天皇の代に、京都の東の森のほうから、毎晩、|丑《うし》の刻になると黒雲が|湧《わ》いてきて、天皇の眠りを脅かしたことがあったらしい。そこで源頼政が呼ばれて、ある晩、その黒雲に矢を射かけてみた。すると手応えがあって、何か落ちてきた。家来が走り寄って、刀で切りつけてから、明かりの下で見てみると、とんでもない形の化け物だったというんだな。頭が猿で、胴が|狸《たぬき》、|尻尾《し っ ぽ》が蛇の、奇妙な妖怪だったと書かれてたっけ。それが鵺だったわけだ」
晃は暗くなっていく空を見上げた。
「話によると、源頼政は、鵺をばらばらにして、うつぼ舟に入れて海に流したという。でも、どうして坊之宮家の先祖祭りに『鵺』が歌われるんだろう。それに、最後の恐ろしや|凄《すさ》まじや、を懐かしや慕わしやに変えてまで……」
美希の隣にいた富枝が口を挟んだ。
「鵺は、坊之宮の先祖じゃきやよ」
美希と晃は驚いて、富枝の顔を見た。母は、頬に手をあてて|眉《み》|間《けん》に|皺《しわ》を寄せた。
「お|祖母《ばあ》さんが、こんなこといいよったよ。とんと昔、鵺ゆう怪物がおって、退治されてばらばらになって海に棄てられた。それが徳島の海辺に流れ着いて、頭は猿神筋の、胴は狸神筋の、尻尾は蛇神筋の、そして手足は|狗《いぬ》|神《がみ》筋の先祖になったがやと」
「狗神の先祖に?」
母はもどかしそうに首を横に振った。
「いいや、狗神筋の先祖。なんでも坊之宮家の御先祖様は、手足は鵺のもので、体は黒い雲からできちょったと。狗神様は、もともとはその御先祖様の体に、|蚤《のみ》みたいにくっついちょったがや。ほいで……」
母の言葉が途切れた。何かを思い出したように、口が半ば開かれたままになった。
晃が興味を覚えたように聞いた。
「それから、どうしたんですか」
母はためらうように美希の顔を見た。
「ほいで……御先祖様は、狗神様をお供にして、夜ごとに悪い夢をばらまいてまわりよったと聞いた」
狗神を連れた獣。その体は黒い雲、つまり|闇《やみ》からできているのではないか。
美希の表情が凍りついた。
漆黒の闇の中から漂ってきた、獣の臭いを思い出した。村人たちがいっていた、夜に|徘《はい》|徊《かい》している大きな山犬。あれは山犬なぞではなく、狗神筋の先祖かもしれない。
彼女は前方の五輪塔に目を遣った。薄暗がりの中で、先祖の塚は灰色の影にしか見えない。この塚から先祖が|蘇《よみがえ》り、尾峰の村落に夜になると降りてきて、悪夢をばらまいているとしたら……。
そればかりではない。克子を殺したのも、その闇の獣かもしれない。
美希は、克子の体に残っていた、|噛《か》み傷を思い出した。その前日、杉林で獣の臭いと気配を感じた。自分が、克子に対して怒っていた時だ。その怒りを受けて、狗神が、先祖である闇の獣をそそのかして、克子に美希の恨みの|復讐《ふくしゅう》を遂げさせたことも考えられる。
「なかなか、おもしろい話ですね。こんな四国の山奥で、『平家物語』の中の説話が変容した形で残ってるとは驚いた」
晃の声が、美希を恐ろしい連想から立ち戻らせた。
母が|曖《あい》|昧《まい》に笑った。
「まあ、このへんは古い話やら、しきたりやらがよう残っちょりますきにね」
「ただの昔話やわ」
美希は話を打ち切るようにいうと、杯に入った冷酒を飲んだ。体に、かっと熱が回るのがわかった。
いつか謡は、最後の節に入っていた。
「獣の姿となり果てて
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月日も見えず|冥《くら》きより
冥き道にぞ入りにける
遥かに照らせ山の端の遥かに照らせ
山の端の月のした
血と血を交らせて
先祖の姿|蘇《よみがえ》らん先祖の姿蘇らん」
[#ここで字下げ終わり]
美希の杯を持つ手が止まった。今、はじめて、この謡の意味に気がついた。
美希は空を眺めた。番所山に月がかかっている。|提灯《ちょうちん》に照らされているのに、先祖の塚の周囲が一段と暗くなった気がした。
晃が冗談めかしていった。
「先祖の姿蘇らん、か。なんだか怖い謡だな」
謡が終わって、皆がまた|賑《にぎ》やかに酒を飲みはじめていた。
美希は話題を変えようと、彼に向き直った。
「晃さん、さっき高知で生まれたといいよったでしょ。どこで生まれたが?」
晃は困ったように、|膝《ひざ》に載せた手を握った。
「どこだったっけ。前は覚えていたんだけどな。とにかく生まれて、すぐに松山に行ったから……。ただ、僕は運がいい子だといわれたよ。なんでも逆子になって生まれてきたから、一度は死んだと思われたらしい。でも、すぐ息を吹き返したということさ」
「それは、よかったわね」
美希は小さな声でいった。晃の言葉に、自分の死んだ子のことを思い出した。無意識に下腹部に手が伸びていた。
この子は死なせたくない、と思った。
「ねえ、なんか煙ったいで」
満文が顔をしかめていった。
富枝が、はっとしたように、首をきょろきょろさせた。それを聞いた向かいの百代が腰を浮かせて、大きな声をあげた。
「火事やないかえっ」
白い煙が風に乗って、斜面の下のほうから流れてくる。
ぱちぱちぱち。火のはじける音が聞こえた。
宴席にいた者たちが、慌てて墓地のほうに走った。美希も、晃や満文と一緒に|茣《ご》|蓙《ざ》から飛びだした。
墓標の間を駆け抜けて、墓地の縁に立つと、下は火の海だった。斜面は赤い炎に囲まれている。池野川の流れる谷底から吹きあげる風で、煙も火の粉もどんどん墓地へと追しやられてくる。
「誰ぞが、赤猫を這わせたがぞっ」
道夫が|唸《うな》るようにいった。山に火をつけた、という意味のその言葉を聞いて、美希は、どきりとした。
では、これは放火なのか。
確かに、この斜面の下から一斉に火の手が上がるのは妙だった。
「おーい、火事やーっ」
「助けとうぜえーっ」
「消防団はどこじゃーっ」
墓地の縁に着いた一族の者は、周囲から攻めてくる火勢に身動きもできずに口々に、斜面の下に向かって叫んでいる。
しかし、煙の向こうの尾峰の村落からは、人の騒ぎ声も、消防団のサイレンの音も聞こえてこない。これほどの火事なのに、村は誰もいないかのように、ひっそりしている。
突然、満文が下の林道を指さした。
「あそこに人がおるっ」
「ほんとうやっ、村の者ぞっ」
「こっちを見ゆうっ」
|目《め》|敏《ざと》い者の口から、喜びの声が|洩《も》れた。
美希は目に涙を|滲《にじ》ませながら、もうもうと立ち昇る煙の向こうを凝視した。墓地のある斜面を囲むように並ぶ人影があった。
「おーい、ここに人がおるぞーっ」
「消防団を呼んでくれーっ」
男たちが口許に両手をあてて怒鳴った。
しかし、村人たちに動く気配はない。
火はじりじりと斜面を這いあがってくる。草の|絨毯《じゅうたん》がめくれて赤い裏地が|覗《のぞ》くように、炎は広がっていた。なのに村人たちは、地面に根が生えたように動かない。
隆直が、足許の地面を靴で踏みにじった。
「あいつら、わしらを見殺しにする気ぞ」
誰もが、はっとしたように隆直を見た。
「そうじゃ。林道のまわりに、ほら、薪が置かれちゅう」
静雄が下方を指さした。
よく見ると、墓地の斜面を囲んで、薪が組まれていた。太い薪で柵を作り、林道のほうに延焼しないようにしているのだ。美希は、ここ数日、村で薪割りをする男たちが多かったことを思い出して、|慄《りつ》|然《ぜん》とした。
村人たちは、何日も前から、これを計画していたのではないだろうか。
一陣の風に|煽《あお》られた炎が、朱の波となって墓地の縁に押し寄せた。その場にいた者の顔は、どれも恐怖に|強《こわ》|張《ば》っていた。
「大変じゃーっ、大変じゃーっ」
墓地の背後から博文が走りでてきた。顔も体も黒い|煤《すす》に汚れている。
「番所山のほうにも火がつけられちゅうぞ」
「なんやと」
道夫が怒鳴った。
博文が息せききって、ぶちまけた。
「村の者が組地の木を伐ったがは、計画的やったがよ。火をつけても、番所山まで燃え広がらんようにしちゅう」
坊之宮の者たちは、|愕《がく》|然《ぜん》として博文が飛びだしてきた方向に顔を向けた。
番所山が墓地の接する境界付近から、灰色の煙がもくもくと立ち昇っている。炎のせいか、そのあたりが|仄《ほの》|赤《あか》く染まっている。
墓地は今や火に囲まれていた。
「ひどいな」
晃が吐きだすようにいった。美希は彼の体に身を寄せて|呟《つぶや》いた。
「なぜ、こんなことを……」
村の人間を一人一人思い出して、思いきり問い詰めてみたかった。
「誰かが思い出したがやろ。狗神様のいちばんええ|祓《はら》い方を……」
いつの間にか、隣に富枝が来ていた。額に深い|皺《しわ》を刻んで、斜面の下の人影を|睨《にら》みつけている。
「いちばんええ祓い方?」
母は、ゆっくりと顔を美希に向けた。炎に照らされて、その頑固そうな顔は赤く塗られた神楽の面のように見えた。
「ああ。二度と狗神様に|祟《たた》られんようにするにはの、狗神筋の者を全員、煙でいぶし殺すがええ。そんなことを、とっと昔、私がまだこんまい時に聞いたことがあるわ」
美希は、晃の腕にすがりついた。
「なんてことを……」
ぼおおおおっ。草の燃える音が周囲から湧きあがる。炎は、その赤く巨大な舌で夜空を|舐《な》めながら、坊之宮一族の墓地に近づきつつあった。
18
「煙に巻かれるぞ、逃げろーっ」
道夫の声に、|呆《ぼう》|然《ぜん》と火の手を眺めていた坊之宮の者たちは我に返った。
斜面を吹きあげてくる黒々とした煙が、あたり一面を包もうとしている。人々は慌てて墓地の中に退いた。
美希と母も、晃や満文に|急《せ》かされて、火の海となった斜面に背を向けた。
墓地を人々が右往左往していた。
家族を呼び集める父親。泣き叫ぶ子供たち。英一を抱いた登紀子が、途方に暮れた顔の博文に何か盛んにいっている。半狂乱で子供の姿を探す園子。何が起こったかよくわからず、|茣《ご》|蓙《ざ》に座って、まだ料理に箸を伸ばしている老人も二、三人いる。隆直や道夫は墓地の縁を走り回って、活路を探している。
火はすでに斜面を上りきっていた。墓地の縁の墓石が赤々と照らされている。番所山のほうからも、煙はどんどん押し寄せてくる。先祖の塚の前に固まった皆は煙に|咳《せ》きこみ、鼻や口を|袖《そで》|口《ぐち》で覆った。
治が老人斑の浮きでた腕で、背後に|聳《そび》える|崖《がけ》を指さして怒鳴った。
「赤岳に逃げろ」
実際、三方を火に囲まれて、そこしか逃げる場所はなかった。坊之宮の者は宴の皿も茣蓙も蹴散らして、赤岳に走りだした。
「行こう」
晃が美希の手をつかんだ。
彼女は、待って、といって、母の姿を探した。富枝は茶色の|壷《つぼ》を抱えて、人の間できょろきょろしていた。
こんな事態になっても、あの壷を守ろうとしている。
「お母さんっ」
美希は腹立ちを|滲《にじ》ませた声で呼ぶと、手を振った。母は骨太の体をかがめて近づいてきた。満文が気をきかせて、富枝の肩を抱くように寄り添うと、四人は墓地の裏の木立に駆けこんだ。
追ってくる火の手が、|栗《くり》や|楓《かえで》、|椎《しい》の木などの雑木林を照らし出す。交差する細い木の影が黒い|蜘《く》|蛛《も》の巣のように地面を覆う。その糸に搦めとられ、もつれる足を引きずって、坊之宮の者たちが逃げていく。
やがて木立が切れて、赤い土肌の露出した崖が現れた。一族の者は、そこで立ち往生してしまった。崖の左手は、番所山に隣接する林で、右手は墓地の西端の斜面になっている。どちらもすでに火に囲まれていた。脱出するには、この二十メートルはありそうな絶壁を越えるしか手はない。
すでに、先に到着した治の孫息子や身の軽い青年たちが、垂れさがる|蔦《つた》を頼りに赤岳を登っていた。しかし崖は崩れやすい赤土だ。蔦が引き抜けたり、足許の土が崩れたりして、次々に滑り落ちては、また全身赤土で汚して、崖にとりすがる。
晃が美希にいった。
「僕も、やってみる」
「いかんいかん、危ないやないの」
「他に方法はないだろう。誰かが崖を登って、助けを呼ばなくては」
その時、横にいた満文が、富枝の体を美希に押しつけた。
「俺が行くよ。俺のほうが身軽やき」
富枝が孫を止めようと、手にすがりついた。しかし満文は、にきびのぽつぽつと吹きでた顔を、横に振った。
「お祖母ちゃんと、美希さんを頼む」
満文は、晃の肩をぽんと|叩《たた》くと、崖のほうに駆けだしていった。その先では、満文の兄、博文もまた、登紀子の止めるのをふりきって、赤岳に飛びついている。
「気をつけてっ」
「がんばってやあっ」
家族の者が崖の下で叫んでいる。
ごおおおおっ。風が強くなった。木立の向こうで、赤々と墓地が燃えはじめていた。
突然、崖の下に集まっていた人々の中から、どよめきが起きた。何だろうと振り向くと、手拭いで鼻と口を覆うように縛った静雄が人の輪から飛びだしてきた。
「待っちょれや。絶対、助けを呼んできちゃるき」
彼に続いて、同じような|恰《かっ》|好《こう》をした壮年の男が三、四人、走りだした。
「やめてやっ」
「あんたっ、あんたっ」
家族の声を振りきって、男たちは崖に沿って二手に分かれ、ごうごうと燃える火の中に飛びこんでいく。
「道夫ぉーっ」
その中に息子の姿を見つけて、富枝が叫んだ。
晃が苦しげな声をだした。
「あの火の勢いじゃあ……」
真っ赤な炎の中で、黒い背中がよろめくのが見えた。しかし、すぐに押し寄せてきた煙に、決死隊の男たちはかき消された。
「あんたーっ」
崖の下には、今や二十名弱の人間しかいなかった。ほとんどが女や子供だ。ここに達するまでに、煙に巻かれて倒れた者も何人かいるようだった。家族の者の名を呼びながら、崖の前をうろつく女。泣きわめく子供や、手を合わせて、神に祈る老人……。途方に暮れている人々に、晃が大声でいった。
「地面に伏せて。煙に巻かれますよ。できるだけ、崖の近くに来てください」
晃は叫びながら、美希と富枝を近くの崖の|窪《くぼ》みに押しこんで座らせた。気がつくと、そこは、最初に晃と交わった場所だった。
「晃さん、ここ……」
彼は、わかっている、というように、美希を軽く抱きしめると、小さな声でいった。
「僕を待っててくれ」
そして、あっと思う間もなく、外に飛びだした。
「崖の下の窪みを見つけて、そこに入ってください」
学校の教師だけあって、人に指図するのは慣れている。晃は、腰を抜かしている老人や、泣きじゃくっている子供たちを、崖のほうへと連れていく。
「ハンカチや服で、鼻と口を覆ってください。できるだけ体をかがめて」
人々を誘導する、彼の声が聞こえてきた。
美希は母の肩を抱いて、赤土に背をもたせかけた。横幅はあるが、深さは一メートルもない浅い窪みの外は、夜というのに薄明るい。木立の間から|洩《も》れてくる、火の輝きのせいだ。墓地の方向から、濁流のように流れ出す灰色の煙。どす黒い赤に染まった夜空。
美希の目に涙が|滲《にじ》んだ。
「どうして、こんなことに……」
母は|膝《ひざ》に狗神の|壷《つぼ》を抱えて、猛火に包まれた墓地のほうを|睨《にら》みつけた。
「出てきたがよ。坊之宮に対して持っちょった憎しみやら、|畏《おそ》れやらが……」
「けど、なにもここまでせんでもええやろうに。こんな、ひどい……焼き殺そうとするらぁて」
声を詰まらせる娘に、富枝は吐き棄てるように応えた。
「狗神様への憎しみはのう、代々、村の者の体に染みついちゅう。人間がぽんぽん月に行く時代になったち、皆の心に住みついた、怖い、ゆう気持ちは消えやせん。なんか事が起こったら、すぐにどっと噴きだしてくらぁ。ほいたら、その怖いもんをぐちゃぐちゃに踏み潰さんことにゃ、気がおさまりしゃせんがよ」
母は、膝の上の茶色の壷を、両手を広げて撫ぜた。
「かわいそうに。こんなに憎まれて、狗神様もかわいそうに……」
かわいそうなのは、坊之宮一族だ。狗神ではない。美希の|喉《のど》|元《もと》まで言葉が出かかった。しかし、彼女は何もいわずに、また外に顔を向けた。
火炎は、もう墓地を焼き尽くし、木立へと進入してきていた。細い木の幹が炎に包まれて倒れていく。火の粉が煙に乗って流れてくる。崖からまた一人落ちたらしく、悲鳴が聞こえた。
晃は大丈夫だろうか。美希は急に不安になって、窪みから這いだした。
崖の下では、坊之宮の女子供や老人が、芋虫のように背中を丸めて、岩の窪みに固まっている。あちこちで、崖から滑り落ちて怪我をした者たちが|呻《うめ》き声をあげている。その中には、博文の姿があり、登紀子が服の|裾《すそ》で流れる血を拭いていた。隣では百代が、青ざめた顔でしきりに崖の端のほうを見つめている。道夫のことが気がかりなのだろう。しかし、この火勢の中を煙に巻かれないで突っきるのは、よほど幸運でないと難しい。再び兄に会うことはあるだろうか、と美希は暗い気分で思った。
崖は今も多くの者が、|蔦《つた》を頼りによじ登ろうとしていた。小学生の娘を背負った隆直や、園子の姿まで混じっていた。満文は何度目かの挑戦らしく、全身赤土だらけにして、また崖にへばりついている。
「美希さん、美希さん」
きょろきょろしていると、自分を呼ぶ声に気がついた。見ると、少し先のほうで、理香が地面に座りこんでいた。
その前で、晃がよろよろと起きあがろうとしていた。美希は、彼の許に走り寄った。
「晃さん、どうしたが」
彼は、肩を|揉《も》みながら力なく笑った。
「たいしたことじゃないよ」
隣で理香がいった。
「ついさっき、土が崩れてねぇ」
赤土の塊があたりに飛び散っていた。上の崖をよじ登る隆直の姿が見えた。蔦を伝い、足許のこぼれる岩を探りながらなんとか這いあがろうとしている。首にしがみついた秋枝の足が宙にもがいている。
ふと、隆直がわざと晃をめがけて土を落としたのではないか、と疑い、美希はそう考えた自分に嫌悪を覚えた。
その時、崖の上のほうから、男の声が聞こえた。
「美希さんっ、美希さんはおるかーっ」
誠一郎だ。美希は驚いて目を凝らした。
たなびく煙の間に崖の縁が見える。そこに黒い頭が突きでていた。
美希は大きく手を振った。
「ここよ、ここっ、土居さんっ」
誠一郎は美希を認めたらしかった。身を乗りだして叫んだ。
「今、助けちゃる。これで登ってきやーっ」
何かが投げだされた。荒縄だった。片端は、崖の上の木にでもくくりつけられているのだろう。一方の端だけが蛇のように宙に飛んだ。崖の半ばまで登っていた隆直が、すぐに手を伸ばした。他の者も、我先に縄にぶら下がる。誠一郎が怒鳴った。
「美希さんが先ぞっ、女子供を先に逃がしちゃれやーっ」
しかし隆直の一家を先頭にして、誰もが縄を登っていく。皆が、この焦熱地獄から逃げだしたがっていた。下に落ちてきた縄の端に、子供を抱えた女が飛びついた。それを見た他の者たちも、縄に走ってくる。
晃が心配そうにいった。
「いけない。これ以上、人がつかまったら、危ない」
縄は、たわわに実った芋の根のようだった。先頭の隆直の一家はもう崖の頂上に近づいている。その下には満文や、治の孫息子、芳男もいる。さらに子供たちが続く。それだけの人数をぶら下げて、頼りなげに揺れる縄に、木立のほうから飛んでくる火の粉が降りかかる。炎に照らされた赤土の絶壁は、燃えるような不気味な色に輝いている。
「待つんだっ、登るのをやめろ」
突然、晃が怒鳴って、縄にしがみつこうとする人々の中に飛びこむと、下のほうの子供たちを引き離そうとした。
「うちの子に何するがよ」
「邪魔せんといてっ」
母親たちが子供を守ろうと、晃の肩や手を|拳《こぶし》で|叩《たた》く。
「やめてっ、危ないのがわからんがっ」
美希が晃を助けようと足を踏みだした。
と、縄にぶらさがる人々の列が、がくん、と揺れた。次の瞬間、大きな悲鳴があがった。縄が切れたのだ。大人も子供も、縄をつかんだまま、空から降ってきた。
人間の体が地面に叩きつけられる音があたりに響いた。
晃が、落ちてきた子供とぶつかって、地面に転がっている。美希のすぐ向こうで、倒れている隆直が見えた。首が真後ろにねじ曲がり、|瞳《ひとみ》はかっと見開いたままだ。すでに死んでいるのがわかった。その横で、娘の秋枝も頭から血を流して動かなくなっていた。足を折ったらしい園子が、夫と娘のほうに|這《は》っていく。
「満文っ」
理香が、草の上に倒れて|呻《うめ》いている弟のところに走り寄るのが見えた。
美希も晃を助け起こした。彼は、また肩を痛めたのか、顔をしかめている。彼とぶつかった子供は大声で泣いている。
次には我が子を登らせようと待ち構えていた母親が、ちぎれた縄の先を握りしめ、絶望の声をあげた。
その様子を見ていた誠一郎が、崖の上から怒鳴った。
「待ちよれやっ、なんとか助けちゃる」
美希が叫んだ。
「土居さんっ、消防団を呼んでください。怪我人がいっぱいおるがよ、縄で上がるのはむりやわ」
影法師に似た誠一郎の姿が、動きを止め、苦々しい声が返ってきた。
「尾峰の消防団は、ここが焼けるまで待ちゆうがよっ」
「何やってっ」
「どういうつもりよっ」
人々の怒りが噴きだした。
「俺も今さっき、この恐ろしいことを聞いたところや。とにかく、なんとかする。待っちょってやっ」
そう言い残して、誠一郎の姿は消えた。
|呻《うめ》き声とすすり泣き、そして草木の燃える音が覆いかぶさってきた。見ると、もう火の手は木立をほとんど|呑《の》み尽くしている。まだ燃えてない木も、すでに幹は黒く焦げはじめている。流れてくる煙の量が多くなっていた。熱風が赤岳に吹きつけてくる。
「うちは死にとうないーっ」
破れかぶれになった母親が、子供を抱いて火の中に飛びこんだ。|陽炎《かげろう》のように、煙の中に消えていく母子を見つめている美希の背中を、晃の両腕が包みこんだ。
「助けが来るのを待とう」
そんなものが来るのだろうか。
しかし、美希は何もいわずに|頷《うなず》いた。
来ても、来なくても、晃がそばにいてくれる。それだけで、正気を失わずにいられる。
残った者が|咳《せ》きこみながら、崖の下の|窪《くぼ》みに避難していく。美希も晃と一緒に、母のいる場所に戻った。
母は窪みの奥で、今までの騒ぎも耳に入らなかったように体を丸めていた。狗神の壷を抱えて、燃え盛る炎を見つめている。
二人は富枝の横に、体をぴたりと寄り添わせて座った。|仄《ほの》明るい光の中で、三人とも言葉を失っていた。
周囲からは、人々の泣き声や、死にたくない、という叫びが続いている。
私はここで死ぬのだ、と思った。道夫も隆直も死んでしまった。崖の下に身を寄せている者たちの命も風前の灯だ。坊之宮一族は、こうして息絶えていくのだ。
美希は、揺れる炎に照らされた、晃の顔を見た。彼は左手で彼女の肩を抱いたまま、何か考えるように折り曲げた自分の|膝《ひざ》を眺めている。
「ごめんなさい」
美希の言葉に、晃は|怪《け》|訝《げん》な顔をした。
「私と知り合わんかったら、死ぬこともなかったに……」
そういったとたん、彼に対する申し訳なさでいっぱいになった。目頭が熱くなって、涙が|溢《あふ》れた。
晃が、彼女の肩に回した腕に力をこめた。
「どうせいつかは死ぬんだよ。……それに僕は死んで生まれた子だったんだ。今まで生きてこられただけで、もうけものだ」
美希は涙を指先で拭きながら、首を横に振った。晃は、もっと生きるはずだったのだ。
やはり自分と出会ったのが悪かったのだ。
晃がくすりと笑いを|洩《も》らした。
「不思議だな。こんな時に思い出したよ。僕の生まれた町」
「生まれた町……?」
美希は、さっき自分が聞いたことなのに、もうとっくにそんな質問は忘れていた。
晃は、膝に置いた自分の手の甲に視線を移して|呟《つぶや》いた。
「太田町とかいってたな」
「太田町っ」
美希は思わず大きな声をあげた。
隣で、うつけたようになっていた母も、びくっとして頭を上げた。
「確かそうだった。その日、父は次の任地の松山に出張中でね。母は陣痛がはじまると、一人で病院にまで行ったらしいけど、そりゃあ心細かったって。おまけにすごい雪の日でね。僕は猛吹雪の中、深夜に生まれたらしい」
「吹雪の日の深夜……」
母が青ざめた顔で晃の言葉を繰り返すと、身を乗り出して聞いた。
「先生の誕生日はいつやったかね」
「昭和四十四年の一月十七日です」
美希と富枝は顔を見合わせた。
「一月十七日……」
二十五年前のその日、美希が子供を産んだ日だ。しかも太田町で。
美希は吐き気を覚えた。なんということだ。晃は、美希が子供を産んだと同じ日に生まれたのだ。しかも太田町に産院はひとつしかなかった。あの時、一緒に出産した女が、晃の母ということになる。
富枝も衝撃を受けたらしい。|顎《あご》を小刻みに震わせて、晃を見つめている。
「どうかしましたか」
二人のただならぬ様子に気がついた彼が|訊《たず》ねた。
「せ、先生は……」
母がごくりと|唾《つば》を|呑《の》みこみ、やっとのように、|萎《しな》びた紫色の唇を開いた。
「美希の子じゃ」
一瞬、美希は、母が何をいいだしたのか、わからなかった。晃が当惑したように聞いた。
「僕が、美希さんの子って?」
美希は、母の肩を揺さぶった。
「やめてや、変なこというがは。私の子は死んだがやないの」
富枝は歯を食いしばって、首を横に振った。
「死んだのは、先生の母親ゆう人の子やわ。逆子で|臍《へそ》の緒を首に巻いて死んじょった。部屋の隅に置かれちゅうのが見えた。看護婦たちは、ばたばた走り回りよったし、母親は気絶しちょった。その|隙《すき》に私が……私がすり替えたがよ」
美希は口を半ば開いたまま、母の顔を見つめた。
「……|嘘《うそ》や……」
彼女はようやくいった。
富枝は背中を丸めると、|膝《ひざ》の壷に額をつけて声を絞りだした。
「嘘やない……。私は、あんたの産んだ子を病室から連れて出た。兄妹の間にできた子じゃ。殺したがええ、と思うた。けんど、できんかった。その時、思うたんじゃ。あの死んだ子とすり替えちゃったら、この子は別の土地で育つ。坊之宮と関係ないところで生きておれると……」
母の言葉の意味が、美希の頭の隅々にまで沁みわたるのに、しばらく時間がかかった。そして、ようやくその真実に納得した時、自分がしでかしたことの重みが彼女を押し|潰《つぶ》した。
美希は顔を手で覆って、呻き声をあげた。
なんということだ。私は、自分の息子と寝てしまったのだ。そして子供まで|孕《はら》んでいる。
「そんな……そんなこと……」
美希は|嗚《お》|咽《えつ》を|洩《も》らした。
耳許で晃の声が響いた。
「関係ないよ」
彼女は、びくっとして顔を上げた。
晃の切れ長の|瞳《ひとみ》が、外の炎のように暗く激しく燃えていた。
「僕は、美希さんの乳を飲んで育ったわけじゃない。僕にとっては、美希さんは、ただの女の人だ。今さら母親だとわかっても、何も変わるわけじゃない」
美希はまじまじと晃を見つめた。
血だ、と思った。
彼女も、隆直が兄だとわかった時に同じことを思ったのだ。
二人の愛情は、何も変わらないと。兄だろうが妹だろうが、愛し合ってどうして悪い。
美希の顔に、かすかな笑みが浮かんだ。
そうとも。母子であろうと、同じことだ。愛し合って、どこが悪いのだ。
彼女の顔にも、晃とよく似た決然とした表情が浮かんだ。美希は、彼の胸に体を埋めて、いい放った。
「私もそう思う。母子だったとは誰も知らんし、戸籍も別になっちゅう。問題なんかないわ」
富枝は|顎《あご》を垂らして、怪物でも見るような目つきで、二人を凝視した。
「恐ろしいことを……なんて、恐ろしいこと……あんたらは……」
何かいいかけた母の顔が、びくっと|痙《けい》|攣《れん》した。手から壷が滑り落ちて、地面に転がる。母の顔がみるみるうちに|蒼《そう》|白《はく》になり、上半身が崩れた。
「お母さんっ、どうしたがっ」
美希は驚いて、母を抱き起こした。
富枝の顔が|弛《し》|緩《かん》している。目の輝きが急速に失せていく。
母の持病の高血圧症のことが、美希の頭を|過《よぎ》った。|乾《いぬい》医院では、気をつけないと、|脳《のう》|溢《いっ》|血《けつ》や心筋|梗《こう》|塞《そく》の恐れがあるといっていた。
「私は……もうだめや。……ありがたい……ことじゃ」
美希の腕の中で、母が弱々しい声を|洩《も》らした。
「何ゆうが、お母さんっ」
「しっかりしてください」
晃も、美希の背後から言葉をかける。しかし母は首を左右に振ると、|混《こん》|濁《だく》した|瞳《ひとみ》を宙にさまよわせた。
「一遍、善光寺に行きたかった……あそこの極楽のお錠前に……触って……この次、生まれてくる時は、どうぞ狗神筋の家だけはやめてくださいゆうて頼む……が……。狗神筋の家に生まれたら、ろくなことはないき……にのぅ……」
「お母さんっ。そんなこといわんで。一緒に行こう。善光寺に一緒に」
母は美希の腕をつかんだ。がっちりした指が、肉に食いこむ。母は、最後の力をふり絞って、かすれた声でいった。
「美……希……、生き残ったら……善光寺に行って……もう二度……と、狗神筋の家に生まれんよう……」
母の手から力が抜けていく。目から光が消えていく。|喉《のど》がひゅうっ、と低く鳴って、母の頭が、がくりと後ろに垂れた。美希の腕から、枯れ木のような手が滑り落ちた。
「お母さんっ」
美希は、母を揺すった。
しかし母はもう動かなかった。美希は魂が抜けたように、腕の中で首をのけ反らせて死んでいる母の姿を見つめていた。
「美希さん……」
晃の声がした。彼が、彼女の前にかがみこみ、富枝の|腋《わき》の下に両手をさしこんだ。そして、母の体を窪みの入口に横たえた。
晃は、富枝の両手を胸の上に置くと、皮ジャンのポケットからハンカチを出して、顔にかぶせた。
美希は、晃のすることを、ぼんやりと見つめていた。
何もかもが悪い夢のような気がした。今日、先祖祭りのために本家に集まった時、こんな結末を迎えると、誰が予想しただろう。いかに村人たちの憎悪が強くても、ここまで恨まれていると、誰が察していただろう。
晃が、また美希の隣に腰を下ろした。美希は晃の胸に顔を埋めた。
煙が窪みの中まで充満していた。外では、叫び声が続いている。最後の脱出を試みて崖を|這《は》い上がった者が、力つきて転げ落ちる音が響く。
炎がすぐそばまで来ていた。黒焦げになった木立が倒れていく。
彼女は、晃の胸から顔を上げて、揺らめく炎を見つめた。|眩《まぶ》しいほどの|緋《ひ》|色《いろ》の世界が広がっていた。
きれいだな。
美希は、ふと思った。
足許には、狗神の壷が転がっていた。縛っていた|紐《ひも》もほどけ、|蓋《ふた》が開いているが、中からは何も出てきてはいない。
やはり最初から、狗神なぞいなかったのだ。存在しない狗神のために、坊之宮の人間たちは、皆殺しになるのか……。
「結婚したかった……」
美希の口から|呟《つぶや》きがこぼれた。晃が、指先で、彼女の頬を優しく|撫《な》ぜた。
「もう……しているさ。子供もいる。三人で家庭を作るんだ」
「そうね。私たちの居場所を作るがよね。ここから助かったら……山の中の私の仕事場で暮らしたらええわ。そこで私は和紙を|漉《す》けるし」
「僕は、美希さんが七色紙を作るのを手伝うよ。二人で和紙を漉いて暮らすんだ」
美希は涙をこらえて|微笑《ほほえ》んだ。
「そうね。二人でやったら、きれいな七色紙を漉くことができるかもしれん。二人で和紙を作りゆう間、子供は外で遊びよったらええ。私らの子供よ。きっとかわいらしい……」
耳許で、すぅすぅ、という息が聞こえた。
顔を向けると、晃が目を閉じて、規則正しい呼吸をしている。
眠ったのだろうか。こんな時に。
美希はあきれ、そして静かに笑った。
眠りながら死ぬのはいいことかもしれない。
もし、それが、いい夢ならば……。
美希はまた、眠る晃の胸に頭をもたせかけた。
すでに炎は木立を焼き尽くし、崖の前に迫っていた。|窪《くぼ》みの入口の草が、赤く燃えはじめて、中に灰色の煙が押しいってきた。
息が苦しくなり、美希は晃の皮ジャンに顔を押しつけた。
窪みの入口に横たわる、母の髪の毛を火の舌が|舐《な》めた。|椿油《つばきあぶら》をつけていた髪が赤い炎を上げはじめ、やがて母の着物にも火の手が延びていく。
じりりり。皮膚の焼ける臭いが漂ってきた。
美希は目を閉じた。
すぅすぅすぅ。晃の安らかな寝息が、美希の気持ちを鎮めてくれる。煙の中で、意識が|朦《もう》|朧《ろう》としてきた。
私は死ぬのか、と思った。
晃と一緒なのが、救いだった。
ごおおおっ。燃え盛る炎に襲いかかられ、痛いほどの熱さが美希を包んだ。
19
焼ける!
美希は覚悟したが、炎が体を舐めたのは、一瞬のことだった。また少し火勢が和らいだようだ。
彼女は、立ちこめる煙の中で、うっすらと目を開けた。
窪みの向こうの緋色に輝く世界が、少し暗くなっている気がした。指先で目をこすってよく見ると、黒い棒のようになって燃えている木々の間を、|闇《やみ》がじわじわと|這《は》い進んできていた。毎夜、尾峰の村落を包む、あの漆黒の闇が、墓地のほうからやってくる。
燃え盛る炎は闇に覆われると、炭の|燠《おき》|火《び》のような暗い色に変わった。火勢が弱まるわけではないが、病魔に冒されるように、木立の奥から|冥《くら》い色が広がっている。
やがて闇は、美希のいる|窪《くぼ》みまで達した。あいかわらず火の燃える音も、熱も感じるのに、視界が薄暗く塗り|潰《つぶ》されていく。やがて窪みの中は暗転した。気のせいか、木立を這い進んできた闇は、この窪みを目指して流れこんでくるようだ。美希の周囲は、どんどん漆黒の闇に閉ざされていく。
すうっ、すうっ、すうっ。
晃の寝息が続いている。
「晃さん、起きて」
美希は煙に|咳《せ》きこみながら、彼の体を揺すった。
皮ジャンの中の体が、ふわりとへこんだ。
彼女はぎょっとして、晃のいるはずの場所を見た。へこんだ服の下から、漆黒の闇が漂いだしていた。まるで先ほどから窪みに流れこんできていた闇が、そこにすべて凝縮されたようだ。
美希は、自分の前にある、底のない闇を凝視した。そして、それが脚を持っていることに気がついた。
全体を覆う、長く黒い毛、鋭い|爪《つめ》の隠された丸い指先。人間の足ではない。獣の脚だ。四本の頑丈な脚が、にょっきりと闇の中から出ている。
ぷんと獣の臭いがした。
「びゃうびゃうびゃう」
奇妙な鳴き声が、地面から|湧《わ》きあがった。
その声には聞き覚えがあった。克子が|狗《いぬ》|神《がみ》に喰われたと騒いだ時に、|喉《のど》の奥から出していた鳴き声……狗神の声。
――坊之宮家の御先祖様は、手足は|鵺《ぬえ》のもので、体は黒い雲からできちょったと。
母の言葉が頭に浮かんだ。
美希は、虎か犬の四肢に似た、太い脚を見つめた。
これが御先祖様なら、晃はどうしたのだ。
「晃さんっ、どこに……」
口を開いたとたん、煙がどっと喉に入りこんできて、彼女は、背中を丸めて咳きこんだ。その腰を、何か温かなものが、がっしりと挟んだ。
美希は悲鳴をあげようとして、また煙にむせた。
歯のような|尖《とが》ったものが、美希の肉に喰いこむ。全身|噛《か》み傷だらけで死んでいた、克子のことが頭を|過《よぎ》った。私も克子のように、この獣に噛まれて死ぬのか、と思った瞬間、彼女の体は窪みの外に飛びだしていた。
耳許で、風と、燃える炎の音がする。
びゃうびゃう、という鳴き声がついてくる。闇の獣は、炎の海を|駆《か》けていた。炭化した木の幹の影が、回り|灯《どう》|籠《ろう》のように周囲を巡る。木々が、次々と倒れかかる。獣は、力強い跳躍で、その木の間をすり抜けて走る。
晃はどうなったのだ。
美希はもがいたが、体に力が入らない。煙で意識が|朦《もう》|朧《ろう》としている。
はっ、はっ、はっ。
獣の息遣いが続く。
全身に火の粉が降りかかる。しかし、獣の脚は速かった。炎が服や髪に燃え移る前に、風が吹き飛ばしてくれる。
正面に五輪塔が見えた。火に|炙《あぶ》られ、先祖の塚は黒く|煤《すす》けている。闇の獣はその塔を軽々と飛び越え、墓標の間を抜けて、斜面に躍りでた。
今もくすぶり続ける斜面は、赤い硝子の破片に埋め尽くされたようだ。黒い闇を体にまとい、巨大な獣が焼けた草上を駆け降りる。美希の周囲の熱と煙が消えて、頭がはっきりしてきた。彼女は自分をくわえている獣を見ようと、首を|捩《よ》じった。
しかし、見えたのは、漆黒の闇だけだった。黒煙のようにたゆたう体毛。眼も、彼女をくわえているはずの口も、わからない。凝縮された闇の塊が、真紅にきらめく斜面を疾走する。自分を運んでいるものが獣だと教えてくれるのは、強い体臭と、大地を蹴る太い四肢だけだ。
その脚が目指しているのは、墓地の下の林道だ。この闇の獣は、自分を助けようとしてくれている。混乱した意識の中で、美希にわかるのは、そのことだけだった。
「山犬だーっ」
「違う、狗神ぞっ。真っ黒やぁ」
人々の|怯《おび》えた声が耳を打った。
美希は顔を上げて、行く手を見た。
林道に立っていた村人たちが、斜面を降りてくる闇の獣を指さしている。恐怖の叫び声があがった。くすぶり続ける煙の向こうで、逃げまどう人々の影が揺れる。
ざっ、ざっ、ざっ。獣の脚が、焼け焦げた草を蹴る。
正面に、よろよろと小柄な男が出てきた。
仁王立ちになって、震える手で、こちらに猟銃を向けている。
月明かりの下に、その頬骨の出た陽に焼けた顔が浮かんだ。垂れた|瞼《まぶた》の下の|瞳《ひとみ》が、ぎらりと光った。味元だった。
「この化け物めっ」
味元が怒鳴った。
美希は叫んだ。
「やめてーっ」
闇の獣は脚を緩めなかった。そのまま老人の頭上を飛び越えようと、大地を蹴った。
黒い闇が、弧を描いて天空を|過《よぎ》った。
美希の目に、尾峰の村落が小さく見えた。県道を走る車のヘッドライトが見える。
空を|翔《と》んでいるのだ。
美希は思った。
ずっと前から、こんなことを夢みていた。尾峰の斜面から、空に翔びだすこと。
耳許で風が音をたてる。|爽《さわ》やかな夜気が全身を包む。空に輝く|蒼《あお》い満月。広大に広がる宇宙。このまま闇夜に溶けこんで、遥か遠くへと|天《あま》|翔《が》けていける気がした。山を越え、海を越え、どこまでも……。
味元が銃口を空に向けて、引き金を引いた。
どすーん。
大きな音が|轟《とどろ》いた。
美希の体に、びくんっと振動が伝わってきた。獣の|咆《ほう》|哮《こう》が夜空を揺るがしたと思うと、美希をくわえた|牙《きば》の力が抜けた。
彼女は闇の獣と共に、空から|墜《お》ちていった。
焼けた草の上に体が投げだされた。熱さに悲鳴をあげて、ごろごろ転がる。何か硬いものを押し倒して、美希はようやく止まった。
彼女は|喘《あえ》ぎながら上半身を起こした。そこの地面は焼けてはなかった。延焼しないように立てていた薪の囲いを越して、林道の横の茂みに飛びこんでいたのだ。
すぐ先の雑草の茂みの中に、あの漆黒の闇が漂っているのに気がついた。立ちあがろうとした美希は顔を|歪《ゆが》めた。右足を|挫《くじ》いたらしい。足首に走る痛みをこらえて、彼女は|這《は》い寄っていった。
その凝縮された闇は、茂みの間に細長く横たわっていた。だが、美希が見ているうちに、闇は薄くなっていく。黒一色のモザイクの壁面から破片がこぼれ落ちるように、闇が散り散りになり、夜に溶けていく。同時に、小さな虫のようなものがぽろぽろと草の間に落ちていった。
狗神のことが頭に浮かんだ。
美希は、その小さなものをつまんだ。黒豆に似た小さな塊が、指の間で灰になって崩れた。
何かは、わからなかった。
美希は指先を着物で拭うと、再び獣のいる場所に目を遣った。
そして、自分の息が止まるのがわかった。
獣の四肢から黒い毛が消え、人間の手足に変わっていた。体を包んでいた闇もなくなり、そこに裸の男が横たわっていた。
晃だった。引き締まった腹に、大きな穴が空いていて、|溢《あふ》れ出す血で、下半身は黒々と|濡《ぬ》れていた。美希は彼にかがみこんだ。
「まさか、晃さんが……」
だが、どう説明すればいいというのだろう。闇の獣が消えて、晃が現れた。やはり、あの獣は、彼だったのか。
晃の|瞼《まぶた》が薄く開かれた。そして、美希を見て二、三度瞬いた。
「俺はどうしたんだ……」
とたんに|呻《うめ》き声を|洩《も》らして、彼は腹に手を遣り、掌にべとりとついた血を信じられないような顔で見た。
晃は、自分が獣に変わったことは何ひとつ覚えてないのだ。尾峰にいて、彼だけは快適な夜を過ごしているようだった。きっとそれは、悪夢をばらまいていた張本人だったからなのだ。意識が眠っている間に姿を変えて、夜毎に村を駆け巡っていたのだ。
彼が、血のついた手を美希に伸ばした。彼女は、はっとして、その手を握り返した。
彼が、あの獣だったとして、何だろう。私が、この人を愛したことに変わりはない、と思った。
「晃さん、しっかりして」
美希は、彼の耳許でいった。
晃には、彼女の姿が見えないようだった。美希が手を握っていることもわかっていないかもしれない。彼は小さく|呟《つぶや》いた。
「三人で……暮らしたかった……」
そして彼は、一息吸うようにして、がくりと首を落とした。
美希は掠れ声で晃の名を呼びながら血まみれの恋人の手を、両手にくるみこんで、頬にあてた。そのがっしりした手は、彼女の手をもう握り返してはくれない。指の間から幸福がこぼれ落ちていく。あと少しでつかめると思った幸せの手が、遠いところに行ってしまった。
草の上に、若々しい肉体が彫像のように横たわっていた。傷口から噴きだした血は、黒々と月明かりを反射している。
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――血と血を交らせて
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先祖の姿|蘇《よみがえ》らん
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謡の詞が、美希の脳裏を|閃《せん》|光《こう》のように貫いた。
兄と妹の血と血が交わったのだ。そして晃が生まれ、闇の獣として先祖の姿が蘇った。
きっと、晃がこの土地に戻った時、先祖返りがはじまったのだろう。そして夜毎に、狗神を連れて、闇を|徘《はい》|徊《かい》するようになった。晃自身も気がつかないうちに……。
美希は、晃の瞼を閉じると、|逞《たくま》しい胸の上に頭を載せた。涙が頬を伝って、彼の|喉《のど》|元《もと》に落ちる。
このまま一緒に死のう、と思った。
斜面の向こうでは、赤岳が炎に包まれていた。一族の者は皆、死んでしまっただろう。母も、兄も、|姪《めい》や|甥《おい》たち。そして晃までも……。
結婚して、幸せに暮らすはずだったのに、二人の居場所を作るはずだったのに、私だけが残ってしまった。
そこまで思って、美希は|顎《あご》を上げた。
いや、違う。子供がいる。
彼女は血に濡れた指先で、腹を触った。
ここに、晃と自分の子供が生きている。
闇の獣になっても、晃は、私を助けてくれるのを忘れなかったではないか。命を懸けてまで、救ってくれたのだ、私と子供を。
美希は、晃の美しい横顔を見た。
死んではいけない。
彼の動かない唇が、そういっている気がした。
その時、斜面の先のほうで、焼けた草を踏む音が聞こえた。
「どこぞ、このへんに墜ちたはずじゃが」
味元のしゃがれ声が響いた。
美希は、ぎくりとして息をひそめた。
ざく、ざく。灰となった草を踏みしめて、猟銃を杖代わりに突いて近づいてくる味元の姿が、月光の下に浮きあがった。
見つかったら、殺される。
美希は、そろそろと晃の体から離れると、茂みの後ろを四つん|這《ば》いになって進みはじめた。右足首に走る痛みをこらえて、林道に沿った茂みの中を進み、地蔵のところに着いた。美希は、その石の台座の陰に入り、息を整えた。
「誰ぞ、誰ぞ来とうぜっ」
晃の倒れている付近で、肝を|潰《つぶ》した味元の声が上がった。
二、三人の村人たちが走り寄ってきた。そして味元の横に立って、騒ぎだした。
「こりゃ、先生やぞ。美希さんとつきあいよった男じゃ。味元さんの弾に当たったがやないか」
「わしゃあ、確かに太い獣やと思うたに」
「どうしたらええ、警察がくるぞ」
「火に入れろ。焼けたら、何もわかりゃせん」
誰かの声がして、取り乱した村人が二人、晃の体を抱えて墓地のほうに運んでいくのが見えた。行く手では、空を焦がすほどの勢いで赤岳が燃えていた。
なんということだろう。彼らは自分たちのしでかしたことを隠すために、晃の体を再び、あの業火の中に放りだすつもりなのだ。
地蔵の台座の後ろで、美希の胸は憤りに破裂しそうだった。
尾峰の人間、すべてが憎かった。坊之宮の一族を死に追いやった人々。晃を殺した味元。にこやかな顔に、悪意をひそませていた村人たち。
このままでは、終わらせない。ここから逃げだして、|復讐《ふくしゅう》してやる。どんなに隠しても、私が証人だ。誠一郎もいる。村人たちのしたことを告発してやる。この罪を暴きだして、白日のもとにさらすのだ。彼らは報いを受けるべきなのだ。
美希は、涙を浮かべた目で、炎に|炙《あぶ》られる赤岳を|睨《にら》みつけていた。湧きあがる黒煙。|皓《こう》|々《こう》と照り輝く満月。私は、この時を決して忘れないだろう、と思った。村人、一人一人に復讐してやるまでは、決して……。
美希は、地蔵の陰からそろりと出た。
ウーウーウーウー。
谷底のほうから、サイレンの音が聞こえた。大きな車が県道を|逸《そ》れて、尾峰に続く林道へと入ってくる。消防車だ。誠一郎が、池野村の消防署に救援を求めてくれたのだ。
「隠れろーっ」
「逃げるがじゃ」
村人たちが、ばらばらと斜面から駆け降りてきた。囲いにしていた薪を踏み倒し、夜陰に紛れて、家へと逃げていく。地蔵の前を、ばたばたと見知った顔が走っていったが、誰も美希には気がつかなかった。
消防車が、けたたましいサイレンの音を鳴らしながら近づいてくる。|眩《まぶ》しいヘッドライトが林道を照らしだす。
助かったのだ。
美希は小さな息を吐いた。
無意識に、手が腹を触っていた。
この子は、無事に産むことができる。晃の息子でもあり、弟でもある子。きっと晃そっくりだ。
男の子だったら、晃と名づけよう。私は、その子と自分の居場所を作るのだ。晃と二人で作るはずだった場所を。
彼女の顔に笑みが浮かんだ。
この子は、自分を愛してくれるだろう。晃のように……。
妙にあたりが暗くなった気がした。赤岳を包む炎も、満月も、尾峰の家の灯も、墨で一刷きしたように黒ずんでいる。
消防車はすぐ下まで来ていた。サイレンの音が大きくなってきた。車がここまで来たら、助けを求めて飛びだそうと思った。
美希は、地蔵の前に|這《は》いだした。林道の前には、もう誰もいなかった。彼女は、地蔵を載せた岩に背をもたせかけた。
「びゃうびゃうびゃう」
頭の上で、聞き覚えのある鳴き声がした。
美希は、ぎょっとして、顔を上げた。
岩に載った地蔵の足許で、|蟻《あり》のようなものが動いていた。犬だ。大豆の粒ほどの小さな茶色の狗が一匹、つちつちと石の台座の縁を歩いている。
美希は、目を見開いた。
|狗《いぬ》|神《がみ》だ。狗神の腹は膨れている。子を|孕《はら》んでいるようだった。ぷくりと大きな腹を揺すり、狗神は、脚を上げて嬉しそうに跳ねていた。
母はいっていたではないか。狗神は、坊之宮の人間の数だけいると。私が子を産んだら、また狗神も増えるのだ。そして、坊之宮一族に新たに加わった赤子にとり憑く。私たちは死ぬまで、狗神から逃れることはできないのだ。一族を死に追いやった狗神から……。
その小さな神に対する憎しみが湧いてきて、|叩《たた》き|潰《つぶ》そうと手を振り上げた。
ふっ、と狗神の姿が消えた。
美希はゆるゆると手を下ろした。
頭上では、地蔵が穏やかな笑顔を浮かべている。赤い前かけが谷からの風に揺れていた。この地蔵の下に埋められた子のことを想った。
その子なら、晃を育ててくれた両親の|許《もと》で、狗神とは関係なく生きられただろう。しかし、人生とは皮肉なものだ。幸せが約束されている者が死に、美希や腹の子のように、|冥《くら》い運命を背負った人間が生き延びる……。
ふと、丸い地蔵の顔の輪郭がぼやけて、二つに分かれた気がした。目をしばたたかせた美希は、その場に釘付けになった。
地蔵の横に、小さな体が浮かんでいた。赤紫色をした赤子だった。膨れあがった|瞳《ひとみ》。歯のない口が|嗤《わら》っている。首に巻かれた|臍《へそ》の緒がだらりと足許に垂れていた。
美希は信じられない思いで、赤子を見つめていた。
なぜだ。晃は死んだ。夜毎に、悪夢をばらまく者はいなくなったのだ。どうして私の悪夢の中の赤子が、ここに出てくるのだ。どうして、そんなに恨みをこめた目で私を見るのだ。この子は、私の産んだ子じゃない。私も、母も、おまえを殺したわけじゃない。
その時、美希の体内で、胎児が腹を蹴った。嬉しくてたまらないように、子宮の内側を蹴り続ける。
美希はゆっくりと自分の下腹部に、視線を移した。
そういえば、私の悪夢が生々しいものに変化したのは、この子を孕んでからではなかっただろうか。風もないのに、部屋の中で揺れていた電灯の|紐《ひも》。通夜の帰り、赤子の顔に|変《へん》|貌《ぼう》した地蔵。夢が少しずつ現実を侵食してくるようになったのは、晃と体を交わらせて以来ではなかったか。考えてみれば、早すぎる胎動もおかしい。この子は、普通の子ではなかった……。
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――血と血を交らせて
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先祖の姿|蘇《よみがえ》らん
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謡の詞が、再び頭に響いた。
兄と美希が交わって、晃、つまり、坊之宮の先祖、闇の獣が生まれた。美希と息子が交わって、次に生まれる赤子は、闇の獣の先祖だ。
ということは……|鵺《ぬえ》!
闇の獣が、悪夢をばらまくとしたら、鵺は、悪夢を現実にもたらすのかもしれない。
この子は、胎児の段階から、母親の見た悪夢を現実に引き寄せている。この世に生まれた暁には、他の人間の悪夢まで、現実にしてしまうにちがいない。
そうなれば、再び、坊之宮家は恨まれる。今までよりさらに強い、人々の恐怖と憎しみに|苛《さいな》まれる。
たとえ私が、尾峰の村人に|復讐《ふくしゅう》を果たして、この地を出て行こうとも、この子を連れている限り、その地では、悪夢の夜がはじまるだろう。今度は、今までよりさらに悪い。その悪夢が、現実となるのだから。
人々は、再び自分たちに、憎しみと恐れを燃えたたせるだろう。そしていつか私たちを殺そうとする。
きっと、このようにはじまったのだ。鵺が生まれ、人を恐怖に陥れたがゆえに切り刻まれ、四国に流れついた。そこから生まれた闇の獣もまた、悪夢をばらまいて、人の恐れと憎しみを|煽《あお》りたててきた。こうして、狗神筋というものが作りあげられたのだろう。永遠に続く、恐怖と憎しみの連環によって……。
私と子供の行く手に待ち構えているのは、幸福ではない。漆黒の闇だけなのだ。
消防車が、すぐ下の角を曲がった。
「早うしてくださいっ、坊之宮の人がおるがじゃき」
誠一郎の悲鳴のような声が聞こえてくる。
もうすぐ助かるのだ。
美希は、ヘッドライトの眩しい光を見つめた。
しかし、助かるとは、何から?
私たち母子がほんとうの意味で救われることはあるのだろうか。
頭上で、嘲るような赤子の笑い声が響いた。
美希はゆっくりと顔をあげた。
赤子がその小さな手で、地蔵の頭を押した。石の地蔵がふらりと揺れて、こちらに倒れてくるのが見えた。
腹の子が、楽しそうに動いている。
美希は、目を閉じた。涙が|滲《にじ》みでる。
晃と美希と、子供。晃と一緒に紙を|漉《す》くのだ。障子に落ちる日の光。揺れる紙漉き舟の溶液。表の庭で、子供が遊ぶ。庭に広げられているのは、七色紙だ。太陽の色を染めた七色の和紙が、柔らかな光を放っている。
そここそ、私の居場所。私を温かく包む、私の居場所。晃と子供と三人で作るはずだった、私たちの居場所……。
鋭い衝撃が前頭部を打った。ぐしやりと、頭の|潰《つぶ》れる音がした。
美希の|瞼《まぶた》の裏に広がっていた、幸福の情景が闇に溶けていった。
「恐ろしいことやった。夜中に、消防車がわんわんゆうて走って来てのう、赤岳へんに水をかけたけんど、もう遅かった。坊之宮の人らは皆、焼け死んじょりました。先祖祭りに使うた|提灯《ちょうちん》が落ちて、草に燃え移ったがやと、消防の人らはいいよったが」
低い畑の石段に座り、|杖《つえ》にかけた両手に|顎《あご》を載せて、老人は語った。
時田昂路は、彼の横に腰を下ろしていた。霜よけの|藁《わら》のかぶせられた畑の縁に柿の木が立っている。取り残された朱色の実が二個、寒々しい冬の光を反射していた。
「だけど、村人が全員、坊之宮の人たちが先祖祭りをしているのを忘れて、山火事を傍観していたのは不思議じゃないですか」
老人は警戒するような視線を昂路に送ると、不機嫌にいった。
「あの頃は、皆が悪い夢にうなされて寝不足になってしもうちょったがや。頭も、ぼうっとしちょった。ほいで尾峰の消防隊の者も、そのうち燃えやむろうと、家でゆっくりしよったがよね」
昂路は、老人の頬骨の出た丸顔を眺めながら、真相はどうなのだろう、と|訝《いぶか》った。
|信濃《しなの》の善光寺の戒壇巡りの時に会った女は、長い話を終えると、いつか闇に消えていた。|呆《ぼう》|然《ぜん》と座りこんでいた昂路は、見回りの僧に発見された。あれほど迷ったくせに、出口は角を曲がったところにあった。
新聞で、高知の山里で山火事があり、先祖祭りをしていた一族全員が焼け死んだという記事を読んだのは、東京に戻った翌日のことだ。死者の中に坊之宮美希の名前を見つけて、彼は|慄《りつ》|然《ぜん》とした。日付を手繰ると、昂路が善光寺で美希に遇った前夜、彼女は死んでいたことになる。
死んだ者は、枕飯の炊ける間に、善光寺参りをする。
そんな言い伝えがあると聞いたのは、しばらくしてからだった。
以来、昂路の心に、美希のことはずっと引っかかっていた。そして年も明けたこの一月、冬休みをとったついでに、思いきって高知を訪れたのだった。何の目的があったわけでもないが、美希の語ってくれた話を確かめてみたかった。
尾峰の風景は、美希の表現した通りだった。風に抗するように造られた|要《よう》|塞《さい》に似た灰色の家々と石垣が山の斜面にへばりついている。冬のせいか、村はがらんとして、妙に寒々しく感じられた。
昂路はバスを降りると、村道を上がり、畑の横でこの老人と出会ったのだった。
「坊之宮美希さんはどうなったんですか」
老人は驚いたように|顎《あご》を上げた。
「あんた、美希さんの知り合いかの」
「ええ……まあ。ほんの行きずりに、話を交わしたくらいですが」
昂路の言葉に、老人はほっとしたようだった。彼は舌で唇を湿すといった。
「美希さんは、お地蔵さんに|潰《つぶ》されて|亡《の》うなったがよ。即死やったゆうことじゃ」
「美希さんと婚約していた学校の先生は?」
老人はまた|眉《まゆ》をひそめた。
「先生は黒こげになって、墓地で見つかったぞね。親御さんが泣き泣き骨を引き取っていったわ」
縄で縛った木の枝を背負った老女が前の道を通りがかった。
「|三《みつ》|椏《また》取りかね」
老人が声をかけると、女は、手拭いを被った頭をこくりと下げた。
「今度、いつもんてこれるかわかりゃしませんき。畑にあるばあの三椏を刈って、土居さんくの工場に売っちょこうと思いよりますらぁ」
「そうやった。お琴さんは、高知の息子さんところで暮らすことにしたがやったのう」
老女は尾峰の村落を見回していった。
「ここから出ていきとうはないけんどねぇ」
「ちょくちょく、もんてきたらええじゃろう」
老女は|歪《ゆが》んだ笑みを浮かべただけだった。
「ほいたら、味元さんもお達者で」
女は再び頭を下げると、村道を|逸《そ》れて、細い|畦《あぜ》|道《みち》へと入っていった。
昂路は、隣の杖をついた老人を横目で見た。薄々感づいていたが、この男が、美希の話に出てきた殺生人の味元だった。
味元は、老女の背中で揺れる三椏を見遣りながら、杖に重ねた手をさすった。
「このところ、尾峰を離れる家が増えちょっての。寂しいことじゃ」
「過疎ですね」
味元はちっ、と口を鳴らした。
「皆、町に出て行きたがる。明るい電気がいっぱいついたお町にのう。お町やったら、怖うない。夜も明るいきにのうし」
「夜も明るい?」
昂路は、コートの|衿《えり》を立てながら聞き返した。
味元は無言で、番所山の右のほうに首を巡らせた。黒々とした斜面の上に、坊之宮の墓石が並んでいた。
「あの火事で焼けんかったんは、美希さんだけやった。他は皆、焼け焦げて骨ばあになっちょった。わしらは、赤岳の下で、ひとつひとつ骨や遺品を拾うて回ったが。ちゃんとお通夜もして、葬式も出しちゃった。墓石やって、これからきちんと立てちゃるつもりや。できるだけの供養はするつもりじゃ」
誰にともなく激しい口調でいい放って、味元はしばらく杖に手をかけたまま、墓地を見上げていた。やがて肩の力を抜くと、|拳《こぶし》で隠すように|欠伸《あくび》をして、昂路に|訊《たず》ねた。
「あんた、車でおいでかね」
「いえ、伊野町からバスで来ました」
「そうか。最終バスに遅れんようにのう。尾峰で夜は過ごさんがええき」
「ここは旅館もないですからね」
冗談ぽくいう昂路の前で、味元は口許を引きつらせた。
「ここの夜は、宿もないだけじゃない。眠りもない、安らぎもない。悪い夢しかありゃあせん……」
昂路は首を|傾《かし》げて、味元を見た。味元は口を横に結ぶと杖にすがって、腰を浮かせた。
「あんた、美希さんとどういう知り合いやったか知らんけど、坊之宮の者とは、関わりにならんほうがええぞ。いったん関わり合いになったら、もう終わることないきに」
味元は昂路に背を向けると、杖をかつんと鳴らした。
「千匹目の殺生は恐ろしいことになる、ゆうんはほんとうじゃったよ」
彼は独り言のように呟くと、体を左右に揺するようにして村道を下っていった。
昂路は、ちんまりした味元の背中を見送りながら、先の言葉はどういう意味だろうと|訝《いぶか》った。
まるで坊之宮一族がいなくなった今も、彼らのことを恐れているようだ。
腕時計を見ると、帰りのバスの時間まで、あと三十分ほどある。昂路も石垣から立ちあがると、小さな旅行バッグを持って、坊之宮の墓地を目指して村道を歩いていった。
雑貨屋や酒屋が開いているが、どこか静まりかえっていた。誰もが|陰《いん》|鬱《うつ》な顔をして買物をしている。通りで遊んでいる子供の顔つきまでも、ぎすぎすしている。
林道に出ると、坊之宮家の墓地のある斜面が見えた。まだ焦土が点々と残っている。赤岳の岩肌に広がる|痣《あざ》のように黒く焼けた部分が、火事の激しさを物語っていた。
昂路は、林道の脇の赤い前かけをした地蔵の前で立ち止まった。灰色の地蔵は、岩の上で、穏やかな笑みを浮かべている。その鼻の先が少し欠けているのは、美希の上に倒れた時の衝撃のためかもしれなかった。
地蔵にお供えを|捧《ささ》げる人はもう誰もいないのだろう。地蔵の足許には何もなく、ただ小さな黒い|蟻《あり》が|這《は》っているだけだった。
昂路の脳裏に、この地蔵の前で毎朝手を合わせた美しい女の姿が浮かんだ。死んだ子に対する罪の意識を感じ続けて、人生の次の一歩に踏みだせなかった女。この静かな山里で、一人和紙を|漉《す》いて生きていこうと|諦《てい》|観《かん》していた女。しかし、|狗《いぬ》|神《がみ》|筋《すじ》といわれる家に生まれたために、彼女の平穏は粉々に打ち砕かれてしまった。
――極楽のお錠前に触りたかった。この次は、狗神筋に生まれてきませんようにと、祈りたかった。お母さんのぶんも、お母さんのお祖母さんのぶんも、狗神を|祀《まつ》らにゃいかんかった坊之宮の女、皆のぶん、祈りたかったに。触れん、触れん……。
善光寺の|暗《くら》|闇《やみ》の中で、|啜《すす》り泣きに混じって聞こえてきた言葉が耳から離れない。
東京に戻ったら、もう一度、善光寺に行くか。そして彼女の代わりに、極楽のお錠前を触って、祈ってきてやろう。
昂路は、墓地へと続く斜面の小道を登りはじめた。
これも縁というものだろう。まさか、この俺が、そんなことを真面目に考えるようになるとは思いもしなかったが。
枯れた草を踏み分けて、昂路は登り続ける。林立する墓標が大きくなってくる。ふと、その墓石のひとつが、人の形をしていることに気がついた。
昂路は目を凝らした。
墓石ではない。人間だった。紺の野球帽をかぶった男がじっと昂路を見下ろしている。
誠一郎だ。
昂路はすぐに気がついて、会釈した。誠一郎は用心深い態度で肩をすくめるように頭を下げると、墓地から降りてきた。昂路は話しかける言葉を頭の中で探しながら、彼に近づいていった。誠一郎は疲れているようだった。帽子の縁から|覗《のぞ》く縮れ毛には白髪が何本も混じっている。その顔には、外界のすべてを拒否するような|頑《かたく》なさがあった。
昂路は、言葉を|呑《の》みこんだ。
誠一郎は、昂路から顔を背けるようにしてすれ違うと、林道へと駆け降りていった。
あの事件は、誠一郎の心に深い傷を残したにちがいない。行きずりの昂路すら、その悩みと苦しみの|深《しん》|淵《えん》を|垣《かい》|間《ま》見た気がした。
彼は斜面を登りきって、墓地に着いた。
どの墓石も、火に焼けて黒く|煤《すす》けていた。|卒《そ》|塔《とう》|婆《ば》は燃え尽き、横倒しになっている墓も多い。墓地を歩いていると、五輪塔のところに出た。坊之宮の先祖の塚だ。これもまた、表面が黒く焼け|爛《ただ》れている。
五輪塔の前の空地には、|土饅頭《どまんじゅう》がいくつも並んでいた。それぞれの盛土には、墓標代わりらしい、子供の頭ほどの石が置かれていた。その黒い盛土は、累々と横たわる焼死体を連想させる。顔をしかめて、あたりを見回した昂路は、土饅頭のひとつが、美しい色の紙に覆われているのに気がついた。重しの小石を四隅に載せられた大判の紙が、木枯らしの中ではためいている。昂路は、その土饅頭の前に歩いていった。
不思議な色の紙が、弱々しい冬の日射しを柔らかく|撥《は》ね返している。黄色、浅黄色、紫色、|茜色《あかねいろ》、|萌《もえ》|黄《ぎ》|色《いろ》、柿色、青色。一枚の和紙に、七つの色が細い繊維となって絡み合っている。どの色も上品で、黄色から青へと流れるように変化している。土佐七色紙。草木の七色を一枚の紙に|漉《す》きあげたのだ。
きっと、これが美希の墓なのだろう。誠一郎が彼女の願い通りの紙を漉いたのだ。
昂路は、旅行バッグを地面に置いて、土饅頭の前にしゃがみこむと、その薄い紙を触ってみた。柔らかで優しい感触が伝わってきた。
昂路は、首を巡らせてあたりを眺めた。
墓標の向こうは、夕日に染まった茜色の空が広がっていた。谷底から、風が吹きあがってくる。焦土の上に伸びた草が、ざわざわと揺れている。
確かに、ここは空に近い。今にも、飛んでいけそうな気がしてくる。
この地に立ち、空に飛びだすことを願っていた美希のことを想った。一緒に飛んでくれる相手を見つけたと思ったのに、幸福な未来は闇に溶けていった。
だが、昂路は、美希の話に納得したわけではなかった。
彼女は、倒れてくる地蔵から逃げるべきだったのだ。生きていれば、まだ幸せになる機会はあったはずなのだ。
だいたい、腹の子が|鵺《ぬえ》である確証はない。いいや、鵺と考えるほうがおかしい。人の子は、人に決まっている。
晃が獣になったというのも信じられなかった。たぶん、火事場の馬鹿力といったもので、晃はとっさに美希を抱いて逃げたのだろう。美希は、死の恐怖と、息子が晃だったという事実に、興奮状態だったはずだ。それが|闇《やみ》の獣の錯覚を引き起こした。
美希が死ななければ、ちょうど今頃、子供は生まれていたはずだ。生きていればよかったのだ。普通の子だとわかっただろうに。
彼女は死ぬことはなかったのだ。
昂路は悲しい気分で、美希の墓石の前で|黙《もく》|祷《とう》した。
ざっ……ざっざっ。|瞼《まぶた》の裏の闇に、かすかな音が響いた。土のこぼれるような小さな音が続く。
昂路は目を開いた。
黒い|土饅頭《どまんじゅう》と、五輪塔。その向こうに墓石が散らばっている。風が墓地を吹き抜けていく。あたりは薄闇に包まれようとしている。
ざざっ……ざっ、ざざざざっ。
音は、七色紙を伏せた美希の墓の底から湧いてくる。昂路は、そっと和紙を取った。
和紙の下で、土饅頭が動いていた。
生きている|瘤《こぶ》のように、どくんどくんと鼓動している。
土の表面に幾筋もの亀裂が入った。地面の裂け目から、漆黒の闇が河のように流れでる。
昂路はその場に凍りついた。額に汗が|滲《にじ》む。七色紙を持つ手が震える。
夕日の最後の光を浴びて、赤岳がどす黒い血色に光っていた。|山稜《さんりょう》を縁取る光が消えていく。夜の|帳《とばり》が降りてくる。彼が知っているどの夜よりも、暗い夜が広がっていく。
瘤のような土は次第に盛りあがってきた。
「びゃうびゃうびゃう」
奇怪な鳴き声が足許で湧いた。盛土がこぼれ落ちる。地中から何かが|蠢《うごめ》きでてくる。
昂路は喘ぐような息を洩らした。
まさか。まさか……そんなことが……。
ごぼりっ。土饅頭がはじけて、冥い夜空に赤子の産声が響き渡った。
|狗《いぬ》|神《がみ》
|坂《ばん》|東《どう》|眞《ま》|砂《さ》|子《こ》
平成13年1月12日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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(C) Masako BANDO 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『狗神』平成8年12月25日初版刊行
平成11年11月30日13版刊行