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第一章
三寒四温―――なるほど、昔の人は良いことを言う。昨日の昼間はTシャツ一枚で充分なくらい暖かかった。だが今日はまた長袖どころか、厚手のジャケットをひっぼり出さなくてほならないほど寒い。しかし季節はもう春。頬に当たる風は冷たくても、肩の上には定まらない気候にも負けずに開いた桜の花びらが、早くもひらひらと舞い落ちている。
時刻は深夜三時半過ぎ。林立する家の窓の明かりもすべて絶えていた。もとより街灯が少ないために、足下のコンクリートは黒く、その上に点々と桜の花びらがあしらわれている風情《ふぜい》たるや、実にファンタスティックかつロマンティック。柄にもなく、ガールフレンドとそっと手を繋いで歩いてみたい、などと俺ですら思ったりする。が、現実は甘くない。俺の斜め半歩前を進むのは、クールでリアリストでアバンギャルドな俺のダチ裕二《ゆうじ》、ただ一人だった。
つまりはこういうことだ。今日は四月三日、時刻は深夜三時三十七分。場所は東京都北区|志茂《しも》四丁目の閑静な住宅街。恐しいことに、また一センチ伸びて身長百九十一センチの現役消防士の二十二歳の俺と、身長百六十九センチ――本人は百六十九・五センチだから四捨五入で百七十センチだと言い張っているが、断じて俺は認めない――の、勤め先の武本《たけもと》公務店では今や主力メンバーの二十三歳の裕二という若い男二人で、深夜の夜道を壁に身を寄せ極力音を立てず、街灯の光がある場所を避けるがごとく走り抜け、影の中をひたすら目立たぬように歩いている。それが今の状況だ。
もちろん、人目を忍んで愛し合う男二人の深夜のデートのわけもないし、何か悪いことをしてやろうと――確かにかつてはやんちゃな時期もあったが――物色しているわけでもない。そのまったく逆、街の見回りをしているのだ。それも放火の。
もちろん消防士の職業意識からとか、それ以前に正義の気持ちに燃えて、なんて理由からしているのではない。そもそも俺は売り言葉に買い言葉で消防士の職――それもポンプ車乗車のばりばり火消し――に就いただけなのだ。そんな俺の望みはただひとつ。とっとと現場を上がって事務職になって、定年まで九時五時生活を繰り返し、地方公務員の給料と社会的な保障と福利厚生、ゆくゆくは恩給までがっちり貰うことだ。
しかし現実は厳しい。昨年の九月、俺は消防士を辞める決心をした。何か嫌になったなー、辞めちゃぉっかなー、程度の軽い気持ちではない。まして本気と書いてマジと読ませる、なんてダサい話でもない。ただ、虚《むな》しくなったのだ。消防士という職業が。
そう、消防士はあくまで職業。雇われて規定通りに働いて、決まった給料を貰う、サラリーマンやOLと変わらない職業のうちの一つだ。間違っても人道的な見地からの社会奉仕ではないし、まして正義の味方でもない。
だが、けっきょく辞めなかった。辞めると決心したその日に、俺――正しくは俺たち赤羽台《あかばねだい》消防出張所警防第一係――は、一人の男の命を救った。そして俺のブルーな気持ちは上向いた。――なんて、実際は職業だからこそ、苦労して手に入れた地方公務員の地位を、そう簡単に手放すのは惜しかったというのが正直なところだ。
なにしろこのご時世、そう簡単に次の職が見つかるなんて甘い見通しはない。あったとしても、高卒で無芸大食《むげいたいしょく》、人並み外れて丈夫で立派なガタイだけが売りの俺では、まず肉体労働にしか就《つ》けないに違いない。もちろん肉体労働を卑下する気は毛頭ない。ただ、裕二のような手に職系ならいざ知らず、文字通りの肉体労働に就くのは気が重いというだけだ。
齢《よわい》二十二歳でそんなことを言うのはまだ早いと、唾を飛ばして説教する大人の皆さんもいらっしゃるだろうが、それには声を大にして反論しよう。何ごとも実年齢じゃなくて、経験年齢。丸々二年、消防士という仕事を、現場でがっちりした俺が言うんだ、間違いない。
その結果、異動も叶《かな》わずに未だに俺は現場勤の消防士をしている。一応、昨年秋から微妙に腰痛とか膝の関節痛とか医者にアピールして、なんとか診断書を貰おうとは努力しているのだが、演技力が足りないのか、まったく無視されている。鳴呼、アカデミー賞への道は険しい。――ちぇっ!
でも今日のパトロールはあくまで裕二のダチだからで、間違っても消防士だからではない。しつこいようだが、何度でも言う。消防士としてではない。
「今日はハズレつぼいな」
ぼそりと裕二が呟《つぷや》いた。
「誰かさんが自信満々で言ってた放火犯の条件ってのは、あてにならないもんだな」
これみよがしに皮肉った口調ではないからこそ、なんかむかつく。
「仕方ねぇだろがよ。場所限定なんだから」
密《ひそ》やかに、それでもしっかり言い返す。
放火の起こりやすい条件は間違いなくある。まず時期。出火件数だけで言えば、火気を使用する機会が多く、空気も乾燥している冬から春に掛けてが多いが、放火となると春、それも四〜五月がだんぜん多い。学校や仕事の節目《ふしめ》のせいか、情緒不安定な人間が増える――俗に言われる木の芽時ってやつだかららしい。天気はもちろん晴れ。それも前日も晴れているとか、晴れが続いた翌日が圧倒的に多い。つづけて時刻。放火以外の火災は、朝、昼、ことに夕方の食事の支度などで火を使う時間帯に集中する。だが放火となると、人の寝静まった午前零時から午前三時、とりわけ午前三時に集中している。
時期と天候と時刻は、今の状況にどんぴしゃり当てはまる。だが放火の条件はこの三つだけではない。犯罪には常に動機があり、決行に至らせるにはさらに動機を助長する要因が必要とされる。ことに放火には、決定的に必要とされるものがある。それは可燃物、それも燃えやすい物だ。たとえばゴミ集積場のゴミ。朝は忙しいとか、起きられないとか、諸事情で前夜からフライングで出されたゴミが狙われる。中でも雑誌や新聞紙だったりすると、放火犯のハートをわしづかみだ。他には車やバイクのカバー。もちろん本体そのものも狙われる。とはいえ、今日のパトロールはそういう思いつきの放火犯を捜すのが目的ではない。
そもそもなんで裕二につきあって深夜のパトロールをしているかといえば、遡《さかのぼ》ること五カ月前、裕二の勤める武本工務店が、最近流行の家系番組の一つに出演したことが発端《ほったん》だ。古くて使いづらい家を、いかに低予算で美しく住みやすくリフォームするかを競う番組、それも秋の番組改編時期の三時間枠のスペシャル特番の回に出演したのだ。
武本工務店の社長は、至って実直、そして真面目な人物で、およそテレビ出演など引き受ける人ではない。なのになぜ出ることになったかというと、つき合いのある若手建築士が番組に出場することになり、そのパートナーとして社長に頼み込んだためだ。
社長は簡単には「うん」とは言わなかった。だが、建築事務所からどうにか独り立ちしたものの、仕事に行き詰まっていた建築士に泣きつかれたのと、リフォームする予定の家の状況を見て、けっきょく引き受けたのだ。
いざ引き受けたとなると、社長以下、従業員の集中力は素晴らしい。あれよあれよという間に、古く汚く薄暗い、六人家族には狭すぎた一軒家が、モダンで日がさんさんと差し込む、収納も充分、さらに水回りもばっちり使いやすい、しかも家を建ててくれた今は亡きおじいちゃんの思い出も残したマイ・ホームへと大変身を遂げたのだ。まさに、「なんということでしょう」だ。
放映日が当番明けの休日だったために、俺は母親の民子《たみこ》――四十九歳にしてナイスバディのイカした女――と、二人揃って番組を観ていた。
勝者を決定するのが番組の最終ハイライトだとすると、その一歩手前の視聴率ポイントが、完成した家にお婆ちゃん一家が初めて足を踏み入れたときだろう。お婆ちゃんは、すっかり変わってしまった新居の中に、おじいちゃんが建てた家の柱やパーツを見つけて言葉を失った。
お婆ちゃんの顔のアップ、視線の先の古い家の床柱。皺《しわ》くちゃのお婆ちゃんの頬を滑り落ちる涙。
そして語られ始めるお婆ちゃんとお爺ちゃんのラブ・ストーリーと一家の歴史。この段階で民子はすでに泣いていたし、俺の涙腺も相当ヤバくなっていた。微妙に鼻と目の間を掻いたりして誤魔化《ごまか》してみる。画面の中で、映像はさらに進む。
若手建築士と武本社長に感謝の言葉を述べたお婆ちゃん一家に、社長はこう応えた。
「人が住まない家は、ただの建物です。人が、家族が暮らして初めて家になるんです。この建物を家として育ててやって下さい。お願いします」
そして依頼人家族に深々と頭を下げた。――なんか、じんと来た。
結果は、断トツの評価で若手建築士と武本工務店ペアが見事優勝を飾って、番組は幕を閉じた。めでたし、めでたし。――と、話はここで簡単に終わりにはならなかった。
番組放映終了直後から、テレビ局に若手建築士と武本工務店の連絡先を教えて欲しいと、電話が殺到したのだ。理由の一つ目は建築やリフォームという本来の仕事を依頼したい。これは至極《しごく》納得出来る。二つ目は若手建築士の外見に目をつけた取材申し込み。イケメン俳優とまでは言えないが、けっこうマシなご面相のうちには入るだろう顔の持ち主なだけに、これも納得。三つ目は武本社長への取材依頼。これは社長が若い従業員たちから尊敬され、信頼関係が成り立っていることに、ビジネス系だの親子関係系や学校系が、ぜひとも社長の思想を聞かせて欲しいと希望してだという。――うん、これも納得。いや、マジで社長の考え方を学んだ方が良いと思う。ことに今の教師や若い親は。
さて、四つ目だ。実はこの四つ目の問い合わせが一番多く、しかも実は番組放映中からあったのだという。何に対してかというと、これが裕二へなのだ。
若手建築士は世間のイメージしやすい、一人で肩肘《かたひじ》張って頑張っちゃってる三十歳の兄ちゃんで、あの番組の出演はまさに背水の陣だった。それだけにクライアントである家族には良い顔をし、その分、武本工務店には無理も無茶も言った。武本工務店の従業員は皆、作業が始まってすぐに建築士に不満を持ち始め、番組中盤の頃には関係は最悪になっていた。なんとか治まっていたのは、とにかく武本社長が忍耐強く両者の間に入っていたからだ。
だがついに両者の間に亀裂が入った。風呂場の改装時、武本工務店にはまったく知らせず、建築士は急にユニット風呂を当初注文していたものと換えてしまったのだ。結果、ドアと窓の間口《まぐち》サイズがユニット風呂に合わず、風呂場に納まらないという事態が勃発《ぼっばつ》した。これに武本工務店の従業員たちは切れた。現場職の若い男たちの怒号と、理論武装の若手建築士の反駁《はんばく》が応酬される。武本社長もこのときばかりは事態を静観していた。そしてこの荒れに荒れきった場を収めたのが裕二だったのだ。
「完成しないで一番困るのは、この家の人たちだ」
皆が手を止めている最中、脚立の上に腰を下ろし、一人壁に珪藻土《けいそうど》を塗る手を休めずに、裕二はそう言った。裕二の言葉に男たちは冷静になり、良く話し合い、そしてユニット風呂も無事に風呂場に納められて家は見事に完成し、優勝した。優勝インタビューの主役は若手建築士と武本社長だったが、そこでインタビュアーのお笑いタレントは、なぜか裕二にもマイクを向けた。
「いや、あのときはどうなることかと思ったけれど、君の一言で収まったよね」と。
それに裕二は何も応えず、ただ笑った。のちの本人の言だと、笑った理由は「間が持たなくて、なんとなく」だそうだが、これが効果を発揮した。
顔の作りのせいか、裕二は笑うと口の端が自然にきゅっと上がる。黒目がちの瞳とあいまって、その笑顔は見る人に利発そうな豆柴犬を連想させる。だがそれは見かけだけだ。豆柴犬どころか、その正体は好きなときに毒を噴出したりしなかったり自由自在なトカゲみたいな奴、それが裕二なのだ。
もちろん、テレビ画面は奴の本性までは映さない。結果、見事にテレビを見ていた視聴者、ことに女性が騙《だま》された。あの職人さんの名前は? 何歳なの? 血液型は? 彼女はいるの? 趣味は?食べ物の好みは? まさに、プチ・アイドル状態。
番組放映から早五カ月、いまだに武本工務店への仕事の依頼は切れないし、裕二の人気も継続中。マスコミ――ことに女性雑誌からの取材依頼は続いていて、職場に差し入れだのプレゼントだのを持って訪ねて来る女性すらいる。それでは人生絶好調、何も憂うことなどない。なんて、そうは問屋が卸《おろ》さない。幸せと妬みはもれなくセットになっている。そう、誰かが幸せになれば、必ずそれを妬む者がいる。
まずはモテモテ裕二を面白く思わない者が現れて、武本公務店内の人間関係がぎくしゃくし始めた。なにしろあのクールでリアリストでアバンギャルドな性格だけに、もともと裕二を気に入らなかった奴はいてとうぜんなわけで。それがこれを機に表面化しただけのことなのかもしれない。しかしビジネスはビジネス、感情は感情。武本社長は、そのあたりの割り切りが出来ない人間を好まない。飯を一緒に食わないだとか、休憩時間に無視するだとか、小学生レベルの虐《いじ》めはあったらしいが、そもそも裕二はそんなことを気にするたまでもないし、それはそれで納まっていた。
だが、武本工務店自体への嫉妬は許し難い事件となって、襲いかかってきた。まずは嫌がらせの電話。つづいて頼んでもいないピザLサイズ五十枚が届いたあたりまでは、武本社長も苦笑で済ませていたし、裕二も冷え切ったピザ三枚を土産に、笑い話として俺に話していた。
でも事態はあっと言う問に悪戯《いたずら》の域を超えて行った。発注したはずの資材が二度三度、勝手にキャンセルされた頃には、さすがに深刻に捉えざるをえなくなっていた。キャンセルが入ったら折り返しの連絡を注文先に頼むという対処法で乗り切ったものの、今度は工務店と隣に建つ武本社長の家の壁に誹謗中傷《ひぼうちゅうしょう》の落書きがされたのだ。
もっともこの犯人はすぐに捕まった。同業者に頼まれた暴力団の息の掛かったチンピラが犯人だったのだが、これに関しては俺は捕まったチンピラに同情している。よりにもよって、社長の息子が実家に帰って来た日に犯行に及ぶとは、つくづく運のない奴。
犯人がスプレー缶片手に、いざ落書きを始めたとたん、背後から襟首《えりくび》をむんずとつかまれて、振り向けばそこには社長の息子。――って、そりゃ最悪だ。
まず武本さんチの息子は顔が怖い。一重の眼に分厚《ぷあつ》い唇の、我ながら根性入ったご面相だと自覚している俺ですら、あれには負ける。半端なく怖い。はっきり言って鬼瓦だ。しかもガタイがデカい。――って、俺よりは小さいか。でも世間一般では充分デカい。とどめにお勤め先は警視庁蒲田《かまた》署、つまりは警察官、それも刑事さんだ。
可哀想に、犯人は交番までの徒歩十分の道のりを、猫の子のように襟首をつまみ上げられたまま、歩いて連行されたのだ。交番に着いたと同時に犯人は洗いざらいぶちまけて、泣きながら許しを請うたというのだから、道中さぞかし生きた心地がしなかったのだろう。――ご愁傷様。
警察の介入もあって、さすがに嫌がらせもこれで終わっただろうと思いきや、さらに事件は起こった。武本工務店が建築中の家が燃えてしまったのだ。それも放火されるという最悪の形で。
木造建築が売りの武本工務店が建てる家は、とうぜん木で出来ている。木の香りも清々《すがすが》しい建築中の家にあるのはむき出しの木材ばかり。火を点けられてはひとたまりもない。
ここで|Q《クエスンチョン》、建築中、完成前に燃えてしまった家の代金は、建て主と建築請負業者のどちらが負担するか? |A《アンサー》、請負業者だ。
家を建てる際、注文主と建築業者との間では民法第六三二条の請負契約が結ばれる。これは家が完成して引き渡すときに、注文主が建築業者に代金を支払うという相互の約束だ。だから建築中に燃やされてしまった場合でも民法第六三三条に則って、業者は建て直して完成品を注文主に引き渡さなければならない。完成品一軒分の代金については、当初の契約通りにもちろん注文主から受け取ることが出来る。だが、燃えてしまった家に掛かった分と、燃えた家の片づけ代に関しては、建築業者が一方的に負担しなくてはならない。――以上、裕二からの受け売りだ。
テレビ出演以来、武本工務店の仕事数は増えていた、イコール、建築途中の家は何軒もあった。それに晴れ続きの天候で、三月に入って北区での放火は何件もあった。だが武本工務店の手掛けている家をたてつづけに二軒燃やされては、さすがに疑いたくもなるだろう。
放火は立派な犯罪だ。とうぜん警察も介入した。しかし出来ることといえば、パトロールの強化くらいしかない。だが特定の場所だけ一晩中ずっと見張っていられるほどの人員的な余裕は今の警察にはない。そりゃ、不祥事ばかりニュースで公開されるPちゃんに関しては、もっと働け! と、思わないでもないが、同じ公務員として俺はけっこう理解がある。
民間人の皆様はPちゃんだとか消防士だとか、その他公務員に対して、自分たちが納めた税金で養っているのだから、二十四時間三百六十五日、誠心誠意身を粉《こ》にして尽くしてとうぜんとばかりの剣幕で奉仕を要求されがちだ。少なくとも消防士は、仕事の範囲内で出来るだけのことはする。だがどうしたって体力、人員数、物理的、時間的、その他もろもろ、無理なものは無理だ。冷静にかつ普通に、ついでに自分と置き換えて考えて欲しい。そんなことは無理に決まっているだろ?
こうなったら自分たちでと、提案したのは裕二だった。そして武本工務店をあげて、放火取り締りのパトロールを行うことになったのだ。二人一組で当番制、ここまではすんなりと決まったが、ここで話が戻る。モテモテ裕二に対する村八分《むらはちぶ》は未だ続いていた。つまり、誰も裕二と組もうとは言い出さなかったのだ。だが裕二は別に怒るでも悲しむでもなく、一人で当番を引き受けた。
だが実際に見回りをするとなると、やはり一人では心許ないらしく、俺に声を掛けてきたのだ。そして俺は渋々ながら同行してやることにした。裕二が一言でも俺の現職について口に出そうものなら、秒殺したところだが、さすがは五歳の頃からつき合いのあるダチ。つくづく頭がよろしい。裕二が提示した労働の交換条件は、裕二の住むポロアパートの三軒右隣にあるラーメン屋に産毛《うぷげ》が生えたような中華料理店、いや中華料理店の毛を全部剃ったような、――どっちでもいいや。とにかく蓬莱《ほうらい》の夕飯一回分、もちろんビールの大瓶つきだったのだ。
――って、単純に食い物に釣られてパトロールにつき合ってやるほど俺は意地汚くない。人間生きていれば色々とある。何があろうと常に淡々とクールに変わらずを装《よそお》ってはいるが、裕二は本当は参っている。それくらい、俺にはお見通しだ。ということで、明日は日勤日でその次と次は週休日で休みだし、話の少しも聴いてやろうというダチ心からつきあってやっている。――なんて、本当は俺もここのところ、少し寂しく感じるところがあるというか、昨日――実際は今朝――の当番日の出場で、ちょっとブルーになっているからというのは、ここだけの内緒だ。
少々長くなったが、これが熱き消防士の魂など一グラムも持っていない俺が、当番明けの貴重な休日を費やして放火の見回りパトロールにつき合ってやっている本当の理由だ。なのにダチの心、ダチ知らず。優しいダチ心から深夜のパトロールをわざわざつき合ってやっている俺に向かって、裕二は消防士である俺の言うことがあてにならないと嫌味を言う。マジでムカつく。
「だいたい、相手は普通の放火犯じゃねぇんだろ?」
裕二が首を傾げて視線だけ送ってきた。
目は口ほどにものを言う。言いたいことは判っていた。放火犯という言葉に「普通」を形容詞としてつけるのには無理がある。
「いわゆる放火犯とは違うだろ?」
一応、言い換えてみる。なんだかんだ言っても、俺の立場は消防士。
「お前のところで建ててる最中の家が限定なんだか」
最後の「ら」を口に出そうとして止めたと同時に足も止めた。路地奥に人の姿を見つけたからだ。そいつはアパートと民家のわずかな隙間の前に立っていた。頭を前に落として、両腕とも上着のポケットに入れているらしく、その後ろ姿は地蔵に似ている。
俺が立ち止まったことに気づいた裕二も足を止めると、路地奥へと視線を飛ばした。俺たちがただ男の背を見つめて数秒が経過する。あの後ろ姿から考えられる行為はいくつかある。一、酔っぱらって吐く寸前。二、男の醍醐味《だいごみ》、立ちション。だが、どちらも違うようだ。男は微動だにせず、音も何一つ聞こえてこない。
MA1ジャケットのポケットに両手を突っ込んだままの裕二が、無精にも頭で俺の左肩の下を小突《こづ》いた。――痛え。頭突きはないだろう、頭突きは。見上げた眼が語っている。行くぞ、だ。
「判ってるって。ちょっと気になっただけだ」
言い訳しながら、それでも視線を男へと戻す。男が動いた。ポケットから出された男の右手は拳に握りしめられていた。
手の中に何かがある。手の中に収まりきる何かが。そう確信したと同時に、俺は男へと足を踏み出していた。履き慣れたバッシユの踵《かかと》を地に着けず、つま先だけの大股で、足音を立てないようにして。自分で言うのもなんだが、俺の脚は長い。とうぜんストライドも大きい。ものの数歩で男の背後まで近づき、男の頭越しに男の前にあるものを覗き込む。あったのは古い新聞紙と雑誌を束ねた固まりだった。それも一つではなく、いくつもあった。
背後に迫った俺にまったく気づいていない男が、握りしめていた右手を開いた。手の中にあったのは、プラスチックボディの百円ライターだった。男はライターを握り直すと、腰をかがめて狭い隙間へと、足を一歩踏み出した。前に伸ばされた右手の親指は第一関節で曲げられている。
――やる。確信したと同時に、ホップ・ステップ、ジャンプで俺は空《くう》に飛んだ。高い位置から全体重を載せた右脚を、男の肩胛骨《けんこうこつ》の問に遠慮なく踏み落とす。ぐおっとも、ふんごっともつかない声を挙げて、男が胸から地面に落下した。
さすがに俺が乗ったまま着地したのでは肋骨の数本もダメにしてしまうだろうと配慮して、地に着く直前に飛び退いてやる。そんな心優しい俺の目が、男の手から飛び出して地面に投げ出されたライターに留まった。違和感を感じて、男を跨《また》ぎ越して拾い上げる。一目で違和感の正体に気づいたとたん、余計な配慮をしたことを後悔した。
振り向くと、潰れた蛙のように地面に腹這《はらば》いになったポーズのまま、男が上目遣いで俺を見上げていた。初めて男の顔を見た。真っ黒な髪に、やはり真っ黒な繋がった眉毛、妙に青白い顔にその二つがやたらとくっきり黒く、老《ふ》けているのだか若いのだか、いまいち良く判らない男だった。
男は自分の身に何が起こったのか判っていないらしく、とろんとした目で、俺を見つめていた。だが俺と目が合った瞬間に正気に戻ったようだ。ひゅひひひっと、奇妙な音を半開きの口から吐き出しながら、四つん這いのまま器用に後ずさりし始めた。だが男は気づいていなかった。背後には、すでに裕二が立《た》ち塞《ふさ》がっていたことに。
「踏め」と、俺が口に出すより先に、裕二は男の尻を踏みつけていた。再び男が蛙のように地面に潰れる。その姿は邪鬼を踏みつける仁王そのもの。ただし現代の仁王は、MA1のポケットに両手を突っ込んだままと無精だが。
拾ったライターを無言で放り投げると、裕二はポケットから右手を出して受け取った。ライターを目にした裕二はすべてを理解したらしい。
「こりゃ、悪質だ」と、言うなり俺にライターを投げ返してきた。
投げ返されたライターを改めて観察する。フリントホイールつきのチープな百円ライターの炎の噴出口のカバー部分がない。マイナスドライバーでも使って無理矢理取ったらしく、ボディには無惨な傷が残っていた。さらにご丁寧に、炎の調節レバーは最高まで上げられていた。
俺が男のアノラックの襟元をつかむと同時に、裕二が男の尻から足を下ろした。腕1本で男を吊り上げる。男の身長は百六十五センチくらいだろう。駅の階段にでも一段上れば、楽勝二メートルを超す俺の手に掛かれば、ぶらんと全身が持ち上がる。だがアノラックの下にはたっぷり脂肪をため込んだ身体が隠されていた。かなりの重さにむっとして腕を下ろし、低い声で「てめえの足で立て」と、どやしつけた。男があわてて自分で自分の体重を支える。真っ黒な眉毛の下の眼は完全に見開かれて、白眼には血管が数えられるほどくっきりと浮き出ていた。
「やっぱり、自分で体験して貰うのが一番だよな」
裕二の提案に、「だな」と、短く同意する。プッシュレバーを押すと、ぷしゅーと、小気味よい音を立ててガスが噴出された。つづけてフリントホイールを回して点火する。とたんに百円ライターにあるまじき激しい音と同時に、俺の指先から白に近い黄色の炎が高く吹き出した。三十センチはゆうにある炎が、狭い路地を明るく照らす。安い材料でも一手間掛ければ美味《おい》しい料理よろしく、百円ライターも一手間掛ければ、あっと言う間にプチ火炎放射器に変身だ。
「じゃ、遠慮なく」
ちらりと裕二に視線を送ってから、男の鼻面五ミリ前にライターの炎の噴射口を近づけ、再びプッシュレバーを押して、まずはガスを充分に噴出させる。顔にガスを吹きつけられて、すでにめいっぱい見開かれていた男の目がさらに開かれた。フリントホイールに親指を乗せ、指先に力を入れる。
「まっ、まままま」
男は口を開くと、ひたすら「ま」を連呼した。
「ま? まって、なんだよ。しりとりか? |あ《〃》〜?」
濁点付きのあ、しかも語尾上げで疑問形。これだけで威圧感が充分なのは自覚済みだ。
「ま、だけじゃ意味わかんねーよ。ま、なんだよ。ほら、早く言えよ」
「マッチ一本、火事のもと」
軽く合いの手を入れた裕二が携帯電話を握った右手を突き出しているのを確認した俺は、「もと。と、だってよ。ほら、と、だよ。早く答えないと時間切れだ。はい、さーん、にいーい」と、これ見よがしにカウントダウンを始めると、泡を食った男が、「ま、待ってくれ! 出来心だよ。まだ火は 点けてない、点けてないよ!」と、ようやく言葉を発した。
「へぇ、出来心でこんな細工するか?」
ひょいと手首の角度を変えて、男の顔とライターを平行にしてからフリントホイールを回して着火する。ごおおっと激しい音を上げて、垂直に炎が上がった。炎の強さにあぶられた男の眉と前髪がちりちりと縮む。ガスの嫌な臭いに、さらに毛の焼ける嫌な臭いが加わってげんなりする。
「おー、すげえ。大した威力だ。こんなの持ってて、出来心なんざ、通用すると思うほど、馬鹿じゃねぇよな?」
まさか至近距離で本当に火を点けるとは思っていなかったのだろう。男は呆然自失といった風情のバカ面で、ただ俺の手に支えられて立っていた。
「それとも、バカか? バカじゃしょうがねぇなぁ」
再び男の顔にライターを向ける。はっと我に返った男が、えぐえぐ鳴咽《おえつ》混じりに詫びだした。すいません、先週二丁目のゴミ置き場のゴミに火を点けたのは自分です。それから一丁目の車のカバーもです。すいません、すいません。上司のミスなのに、責任を押しっけられて苛々《いらいら》していたんですー。まったく珍しくもない、耳にタコどころか海の仲間が全部住み着きそうなほどありがちな理由、ありがちな話、ありがちな男。
放火犯にはいくつかのパターンがある。家庭や学校、職場や近隣や社会に対する日頃の不満やストレスの発散が動機の対社会型。放火、火自体に興奮や快楽を兄いだしている快楽志向型。この二つは衝動的で計画性はほとんどなく、場所も予想出来ない。この二つと比べて放火の場所や、放火によって被害を受ける相手が特定されているのが、特定の相手や企業などに対する恨みや嫉妬、敵意が動機の対人型。窃盗や殺人など、他の犯罪を隠蔽《いんぺい》するための副次型。あとは皆さんご存じの火災保険取得のための利欲型。放火犯の動機はだいたいこの五つのどれかに当てはまる。目の前の男は明らかに対社会型と快楽志向型、二つの複合型だ。放火犯は実はこの手が一番多い。
男は繰り返している。すいません、ごめんなさい、本当に出来心なんです、勘弁してください。――襟元をつかんだ俺の手が、飛んできた男の唾やら鼻水やらで汚染された。サイテー。辟易《へきえき》して手を放すと、男は重力に従ってすとんと地に崩れた。俺は手についたしぶきを吹き飛ばすべく、空に向かって手を振った。あー、えんがちょ。
「と、いうことですので、よろしくお願いします」
背後からの冷静な声に、地に這いつくばった男が首だけひねって振り向いた。
「ええ、志茂四丁目の」
ここがどこなのか確認しようと視線を泳がせた裕二に、外付け階段に貼り付けられたアパートの名前入りのプレートを指し示してやる。ひょいと肩をすくめて了解の意を表した裕二が「七番地、あけぼのコーポ前です」と、プレートを読み上げた。
何が起こっているのか判っていないらしく、男は鳴咽を止められないまま、裕二と俺に交互に疑問の視線を投げかけていた。
「はい、お待ちしております」
そう言って通話を終えた裕二は、投げ出すように「じきに警察が来る」と言うと、ジーンズの尻ポケットに携帯電話をしまった。
「け、警察? な、なんで警察なんか」
どうもこの男は、一音重ねて言わないと気が済まないらしい。しかし放火をしておいて、「なんで警察なんか」という言葉がなぜ出てくるのやら。
しげしげと男の顔を見下ろす。繋がった黒い眉の下の目に、探るような、それでいて媚びるような光が宿っているのを見て察した。この馬鹿野郎は、俺たち二人が警察に通報などしないと思っていたのだ。それがどういうことか。つまり俺達二人は、相手の弱みを握ったことで金の要求こそすれ、警察になど届け出るはずもない人物像だと判断したということだ。
「俺たちが警察に届けなかったら、代わりに何してくれんの?」
さすがはクールでリアリストでアバンギャルドな俺のダチ。俺とまったく同じことを考えていたようだ。こうなったら、あとは裕二に任せるに限る。市井の哲学者・裕二は、ずる賢さでも底意地の悪さでも、他の追随を許さない。
「い、いくら欲しいんだ?」
男の目は、明らかに俺と裕二の服装を値踏みしていた。確かに俺たちのなりは金が掛かっているようには見えない。――実質、掛けてない。この男は放火をしておいて、はした金で俺たちの口を封じることが出来ると思っているのだ。
「お、俺は顔が利くんだ。金だけじゃない、なんだったら他にも色々と優遇してやる」
「たとえば?」
そう青いながら裕二は近づいて来ると、男のアノラックのポケットの中を探り始めた。
「た、例えば、ええと、バスや電車の金券をやる。飛行機もだ。それから、そうだ、サッカーのチケットも手配できるぞ」
例に挙げたすべてと関わる職業が思い当たらず、考え込む。そんな俺をよそに、裕二は淡々と男の持ち物検査を進めていた。スラックスのポケットから定期入れらしき二つ折りのケースを取り出して、開いて中を確認するなり、「それじゃ、スチュワーデス、じゃなかった、フライト・アテンダント紹介してよ」と、言って笑った。
黒目がちの眼は夜目にもきらきらと輝いていて、さらに口の端がきゅっと上がったその特上の笑顔には愛婿すら感じられる。だがその笑顔が意味するところを、俺は良く知っていた。――マズい、奴は本気だ。
「あ、ああ、セッティングする。それくらいお安いご用だ!」
どうやら脈はありそうだと踏んで嬉しそうに言う男に、これ見よがしに男の定期入れを振って見せながら、極上の笑みを浮かべて裕二が話しかける。穏やかに、にこやかに。
「それだけ色々顔が利くつてことは、あんた偉いんだろうな」
裕二の言葉に、男は自慢げに「自動車交通局の課長補佐なんだ」と、答えた。ますます男の職業が判らなくなった。金券にサッカーのチケット、自動車交通局? そんなコネがある職業とは、いったい何なのだろうか? 考え始めた俺の意識を元に戻したのは、つづいた裕二の言葉だった。
「でも、あんたの言った優遇ってさ、全部、今あんたが勤めている職場のものだよな」
口調に、機嫌の悪さが明らかに滲《にじ》んでいた。ちらりと視線を送ると、裕二は無言で手を差し出した。目線は俺の手元、ライターに向けられている。ヤバい予感を感じっつも、俺は裕二にライターを放ってやった。
「何一つ、あんたの持ち物じゃない」
そう言うと、裕二は俺に男の定期入れを放った。受け取って開いて見る。中には写真付きの身分証明書が収められていた。眉毛のつながった瀬川千明《せがわちあき》さん――千明って顔かよ――のお勤め先は国土交通省だった。見た目で年齢は断言出来ないが、四十を越えてはいないだろう。地方公務員の消防士なんて職に就いているだけに、この男くらいの歳で課長補佐になれるということがどういうことなのか、俺は知っていた。男の正体は上級公務員だ。――こりゃ、参った。
出会った頃から何かにつけて、先に手や足の出る実行役は俺で、裕二は指揮官というのか、高みの見物役だった。だから止められるのは常に俺で、止めるのは裕二。だが今回ばかりは役目は逆転せざるをえないだろう。上級公務員は裕二の天敵なのだ。
「で、でも手に入る。何でもやるよ」
男の口から出てきた媚びを含んだ言葉に、俺は肝を冷やした。男は職業や役職がそのまま自分のアイデンティティになっている、よりにもよって裕二の最大の敵、建前と世間体と自分のことしか考えていない俗物の裕二の父親とまったく同じタイプの男だったのだ。――ヤバい、ヤバ過ぎる。放火犯ってだけでも充分バカなのに、このうえさらになんでそんな余計なことを言うんだ。
相手にするな、と俺が警告を発する前に、裕二は行動に移っていた。瀬川の顔面にライターを向けたのだ。
「警察、もう」
文末の「来るぜ」は、裕二の耳には届かなかったに違いない。ちっぽけな百円ライターからの不釣り合いな、ごおおっという強烈な炎の音にかき消されたからだ。
ぎゃああとも、ひゃああともつかない叫び声を挙げて、瀬川が両手で頭を押さえながら屈んだ。
――やりやがった! すかさず足を上げた俺は、押さえている手の上から瀬川の頭を踏みつけた。勢い余って力が入りすぎたらしい。結果として図らずも踵落としならぬ、足の裏落としを瀬川の脳天に喰らわしてしまっていた。
瀬川がころりと地に横たわる。無事に鎮火は出来たものの、地に転がった瀬川の頭は、額から頭のてっぺんに掛けて、八センチほど見事な一本筋に刈り込まれていた。早い話が逆モヒカンだ。
さすがにやりすぎだと声を掛けようとした俺が見たのは、拳に丸めた右手を俺へ突き出している裕二だった。――参った。まったく後悔してないよ、コイツ。
でも俺は苦笑しながら拳に丸めた右手を挙げると、待ちかまえていた裕二の拳に軽くコツンとぶつけた。俺と裕二の「いいんじゃないの?」のサインだ。「それもアリなんじゃない?」程度だけど、けっして「どうでもいい」じゃない。
裕二が笑った。お利口そうな豆柴犬の笑顔。そのまま小首を傾げて瀬川を顎で指すと、「警察が来る前に、少しお話ししておいた方がいいんじゃない?」と、言った。
「確かに」
これには同意だった。警察は状況説明を求めるだろうし、意識が戻った瀬川が、自分が放火犯だということを棚に上げて、俺たち二人の暴力行為を言い募ることは、まず間違いあるまい。だとすると、やることは一つ、瀬川にご理解ご協力いただくしかない。簡単に言うのなら、余計なことは言うなとご注意差し上げる、もっと簡略に言うなら脅し、恫喝《どうかつ》。
しかるに、速やかにお目覚めいただくことにした。再び瀬川の襟首を左手でつかんで持ち上げ、左右に揺さぶってみる。瞼《まぶた》を開けたばかりの焦点が合っていない瀬川の目に、ぼんやりと俺の顔が映し出されたとたん、意識がはっきりしたらしく、「ふひゃあああ」と、不思議な声を挙げた。黙らせるために、瀬川の弁慶の泣きどころを軽く蹴る。加減したつもりだが、相当痛かったらしい。瀬川がひいっと息を吸い込んだ。同時に不思議な声が止まった。
「放火が犯罪だってことくらいは知っているよな? 答えなくて良い、首を振れ」
俺の言葉に、瀬川は素直に頷《うなす》いた。
「放火は犯罪の中でも罪が重い。どれくらいの罪になるか、知っているか?」
今度は左右に振る。
「五年以上、最高で無期懲役、でなききゃ死刑だ」
瀬川の口が反論気味に開いたのを見て、「答えなくて良いって言っただろ?」と、どやしつけて黙らせる。
もちろん放火のすべてがそんなに重い罪になるわけではない。人がいる他人の所有物を焼損した場合のみだ。完全に無人だと判っているところにだと二年以上の有期懲役で、自分の所有物なら六カ月以上七年以下の懲役、ただし公共の危険が生じなければ、まったく罰されない。以上、刑法第一〇八条の現住建造物等放火と、第一〇九条の非現住建造物等放火――だったと思う。
瀬川はアパートの敷地内に置いてあった新聞紙の束に火を点けようとしていたのであって、アパートー――現住建造物に放火しょうとしていたわけではない。もし火を点けていたとして、延焼せずに、ただ新聞の束だけが焼けて終わりならば、建造物等以外への放火で一年以上十年以下の懲役に処されることになる。以上、刑法第二〇条――だったはず。消防学校時代にあれだけ必死に覚えたのに、わずか四年で早くもうろ覚えって、マジでヤバいかも。
「確かに今回は火を点けてはいない」
俺の声に、瀬川は大きく何度も領いた。
「でも、それは俺たちが見つけて止めたからだ」
今度はすぐには反応しなかった。一瞬迷ってから、あわてて首を左右に振った。つまり、火を点ける気はなかったと言い張ろうとしているわけだ。どこまでも見苦しいというのか、まったく図々しい奴。ごぼっと、音を立てて腹の中に沸《わ》き上がった怒りを抑えて、静かにつづける。
「お前、他の放火をしたって、自分で認めてたよな?」
さっき自白したことを失念していたに違いない。再び見開かれた瀬川の目が、落ち着きなくきょときょとと動いた。頭の中では目玉の動きの何倍も速く、どう取《と》り繕《つくろ》うかをひたすら考えているのだろう。繋がった真っ黒な眉毛の下で動く目玉を見ているうちに、生まれた怒りが増幅する。腹から胸へ、そして気管へ。だが俺はあえて喉元《のどもと》までせり上がってきた怒りを飲み下して、ゆっくりと低い声で話し始めた。その方が瀬川のような男には効果が高いと見越したからだ。
「どのみちお前は前科者だ。上級公務員人生は、お終いだ」
きっぱりと言い切ったとたんに、瀬川が口を開いていた。
「ま、待ってくれー! 頼む、警察だけは」
今までになく反射的に素早く出てきた言葉に、俺はとことんうんざりしていた。
「お前が火を点けようとしたのは、不要なゴミかもしれない。でも、お前のじゃない。このアパートの住人のものだ。お前には何の権利もない。この時点でお前は放火犯だ」
放火犯という言葉に衝撃を受けた顔をした男の図々しさに、俺の怒りは頂点に達した。
「ゴミに点けた火でもな、アパートに延焼したら? 住人が焼け死んだら?」
あえてはっきり焼け死ぬと口に出す。被害に遭うとか、亡くなるなんて柔らかい言い方をすべきときもあるだろうが、今は違う。放火犯にはきっぱり言うに限る。そして俺はとどめを刺した。
「お前は、人殺しだ」
言葉のインパクトに瀬川も少しは正気を取り戻したのだろう。その目には怯《おび》えが浮かんでいた。だが、ここで俺は手を緩《ゆる》める気はなかった。
「焼け死んだ人間を見たことがあるか?」
頭の中に今朝見たばかりの光景が蘇《よみがえ》った。鎮火こそしたものの、温度もまだ下がりきらず、水蒸気を上げる部屋の中央に、それは仰向《あおむ》けに横たわっていた。一見しただけでは男なのか女なのかすら判らないほど真っ黒く焦げた――かつて人間だったもの。篠原《しのはら》すづさん、八十四歳。岩淵町《いわぶちちょう》の築二十五年の木造二階建ての家にたった一人で住んでいたお婆ちゃんだ。今朝の出場はマル|4《ヨン》――被災者、それも死者を出してしまったのだ。
返答のない瀬川に、俺はもう一度重ねた。
「真っ黒焦げの炭になっちまった、焼死体を見たことがあるか?」
髪も肌もなく、顔にはぽっかりと空いた三つの穴、――目と口だ。特に口は、まるで助けを求めているかのように開かれたままだった。その顔を見た新米消防士の香川《かがわ》はその場で胃の中のものをすべて吐き出した。焼死体への生理的な嫌悪と死への恐怖に耐えかねたのだ。
もちろん俺は吐かなかった。別に焼死体に慣れているわけでも、死者の尊厳に対しての消防士のたしなみで堪《こら》えたわけでも、まして何も感じない冷血漢でもない。焼死体の原体験が小学四年生の時、しかも実の父親では、俺の感覚が少々麻痺していたとしても仕方ないだろう。
瀬川がごくりと唾を飲み込んだ。その昔に現実に戻された俺は、嫌な記憶を呼び覚まされた怒りも含めて瀬川を睨みつけて、さらに重ねた。
「男か女かどころか、人間かすらも判らない、ただの焼炭になっちまった死体を見たことあるか?」
確かに俺は消防士としてやる気がない。でもそれは定時外だとか、休日の日までは活動しないというだけで、間違っても勤務時間内までやる気がないのではない。
消防士の仕事には生命の危険が伴う。火災現場に乗り込むのだから、とうぜんだ。消防士とてただの人間だ。消防士という職に就いたからといって、熱さを感じなくなるとか、まして燃えなくなるわけもない。だから消防士は鎮火するべく戦うと同時に自分の命、そして仲間の命も守らなければならない。互いに命を預け合って活動するのだから、その信頼たるや半端じゃない。
もちろん俺もその信頼を裏切るつもりは毛頭ない。だから今朝も必死に働いた。早く炎を消そう、炎を鎮圧させようと、総重量三十キロの消防服に空気ボンベのフル・セットを背負い、三百度を超える篠原邸の中でホースの筒先を持って、炎を叩いたのだ。そして周辺に延焼させることもなく、無事に鎮火した。――だが、住人のすづさんを助けることは出来なかった。
周囲の聞き込みで知り得た情報だと、すづさんは百五十センチに満たない小柄なおばあちゃんだったという。見つけたすづさんは確かに小さかった。真っ黒く焼け焦げ、拳にした両手を喉元まで挙げたその姿は、ボクサーのファイティング・ポーズそのものだった。検死用語で言うのなら第四度火傷・炭化、筋肉が焼けて収縮した典型的なボクサー型焼死体だったのだ。
その昔、残念ながら焼死者を出してしまったときは、さぞ熱かったでしょうと、遺体に水を掛けてやっていたという。だが今は現場維持のため、それすら出来ない。水どころか、布を掛けてその身を隠してやることもだ。指一本、触れることも許されない。検視が終わるまで、遺体は火災現場の中に、ただ放置されるのだ。
すづさんも例外ではなかった。監察医か検死官が来るまで、焼け焦げたその姿を、俺たち消防士が残火を残らず叩こうと現場を右往左往している足下に、ただ横たえられたままでいたのだ。
助けることが出来なかったすづさんを見つけたときの失望感が蘇った。と同時に、感覚も蘇った。大量に放水されて湿っていないものなど何一つない現場だというのに、眼と喉にしみるいがらっぽさ。鼻の奥に残る木や金属、プラスチック、布、紙、その他もろもろの人が暮らしていた家を形作っていたものが燃え尽くされた臭気。ことに蛋白督――人間の燃えた独特の臭いは、所《しょ》で一度、家で三度、合計四回もシャワーを浴びて身体からは抜けても、鼻奥にこびりついて簡単には消えない。臭いだけじゃない。網膜にはっきりと残っているのは、燃え焦げ、元は鮮やかだった色のすべてが墨色にくすんだ中に、くっきりと浮かんだ白と黄色。藤田《ふじた》隊長が近くのコンビニエンスストアまで走って買ってきた、消防士自腹の心づくしの被災者への花束――死者を悼《いた》む小菊の花の色だった。
その簡素な花束は、決して色鮮やかでも生気に満ちてもいなかった。だが、すべてがくすんだ色彩の現場では、ひときわ眼に映って、だからこそ哀しかった。すづさんを助けられなかった無力感に苛《ざいな》まれた。
蘇った記憶は速やかに怒りに変わった。目の前の瀬川のような身勝手な理由だけで火を点ける馬鹿がいる。その火は人が営んできた生活を一瞬にして煙と炭に変え、人の命すら奪う。それだけではない。炎に立ち向かわなければならない消防士の身を、命を危険にさらす。
「す、すいません。本当にごめんなさい。反省してます。だからどうか警察だけは」
瀬川の口から出てきた言葉に、俺は怒りを納めることが出来なかった。口先では反省や謝罪を繰り返しているものの、その実、放火という犯罪を実行しておいて、何とか罪にならないで済ませることしか考えていない。火を点けられた他人を、消防士を危険な目に遭わせているにも拘わらずだ。
自由な右手を拳に丸めて肘を引く。真っ正面から一発、カウンターで入れてやらないと気が済まない。そんな俺を止めたのは裕二の、「はい、そこまで」という一声だった。
その声に冷静さを取り戻した俺の耳は、近づいてきたパトカーのサイレンを捕らえていた。
「ご到着みたいだぜ。どうする?」
どうする? ――警察への瀬川の引き渡しに立ち会うか? だろう。残れば状況のみでなく、氏名、年齢、職業にいたるまで事細かにPちゃんに説明しなくてはならなくなる。同じ民間人を守る公務員という立場でありながら、消防士とPちゃんとは実はあまり折り合いは良ろしくない。まあ、片や仕事――事件に対して検挙率やら達成率という数字があって、それが百パーセントという数字でなくても済まされる警察と、こなた仕事――消火や救急搬送に対して完壁を期してとうぜんと思われている消防とでは、活動内容から考え方にいたるまで同じわけがない。
火事は火事でも放火――事件となれば、自分たちの出番とばかり、消防を閉め出して放火犯の検挙に勤しむくせに、放火でなければ関係ないという奴らの態度がとりわけ気に入らない。いっそのこと火事にはいっさい関わるなと言いたいところだが、ことに交通整理については奴らに任せる以外、他に道もない。これだって、都民の皆さんが、消防活動を必要としている場で、速やかに消防車に道を譲ってくれさえすれば、奴らの手など借りずに済むのだが、――この件については、都民の皆さんに胸に手を当てて反省していただきたい。
ともかくも、Pちゃんなんて、勤務中でも極力お近づきになりたくないのに、まして勤務外までだなんてごめん被《こうむ》る。ということで、地面に瀬川を叩きつけるように手を放す。だがやっぱり気が済まず、地面に潰れた瀬川の尻をいちおう配慮して、極力優しく踏みつけた。
人がせっかく気を遣ってやったというのに、必要以上に大げさな悲鳴を挙げられて、むかっと来ておまけでもう一回踏みつける。また瀬川が悲鳴を上げた。無視だ、無視。
「その頭は手元が狂って自分で焼いた。俺はいなかった。――だよな?」
俺の声に首をねじるように挙げたものの、瀬川はすぐに同意はしなかった。ならばダメ押し。
「俺より、よっぽどこっちの小っちゃい兄ちゃんの方が怖いのは、判ってんだろ?」
とたんに瀬川はこくこくと頒いた。そりゃそうだ。とつぜん髪の毛を焼いたのは裕二で、俺は瀬川に何も危害は加えていない。最初に踏みつけたのは放火を止めるためだし、足の裏落としを食らわしたのは、裕二が点けた火を消すためで、あくまで不可抗力。だいたい、いつも誤解されすぎなのだ。見た目のいかつさのせいか、悪いのはいつも俺。大人しく賢い良い子は裕二。だが少なくとも瀬川は真実に気づいた。さすがは上級公務員になれるだけのおつむを持つ男。意外と良い奴かも、こいつ。――もちろん、そんなわけないが。
「任せた」
「了解」
わずかな言葉で意味が通じる。これぞダチ。あとは任せたとばかり、俺はとっととその場をあとにして大通りへと足を踏み出した。その背後に「ただし、今日の分の奢りでチャラ」と裕二の声が飛んできた。仕方あるまい。近づいてくるパトカーのサイレンに急《せ》かされつつ、振り向きざま拳を水平に突きだす。裕二もそれに返した。
「お、お前たち、いったい何なんだ?」
今頃その質問が出てくるとは。それって最初に訊くことじゃないのか?上級公務員になれるくらい勉強は出来るのだろうが、肝心なところでやっぱり馬鹿。ま、馬鹿じゃなければ、放火などするはずもないが。
背後から聞こえた裕二の答えは、「普通の都民」。うん、その通り。とりわけ正義に熱いわけでもなく、まして消防士でもない、ただの都民。それでは、ただの都民はこれにて退場。あとは俺よりほんの少しだけ善良な都民の裕二に任せて、俺はその場から立ち去った。
第二章
明けて翌日、前夜というのか出勤三時間強前、普通の都民、いやかなり善良な都民なんて珍しい活動をしてしまったせいか、睡眠時間はわずかだったのに、六時半にはばっちり爽《さわ》やかな目覚めを迎えてしまった。お蔭で出勤までの時間がたっぷりあった。なので珍しくもこの俺手ずから、トーストにカップ・スープ、スクランブル・エッグ、ソーセージにサラダ――といってもプチ・トマトとキュウリだけだが――なんて、アメリカン・プレックファーストを二人分準備して、民子と二人、親子水入らずで優雅な朝食タイムなんて過ごしたりしてみた。なんと優雅な土曜の朝!
さらに七時三十五分には愛車のカブに跨がって、楓爽《さっそう》と出発したにも拘わらず、我が勤務先の赤羽台消防出張所に着いたのは、なぜか八時二十六分だった。
俺と民子の母子が経済的なことを最大の理由に、つかず離れず仲良く暮らしているのは東京都は板《いた》橋《ばし》区仲宿、《なかじゅく》名前はひかりハイツと言って、経営難から業務停止になって、今やどちらも建物しか残っていない淡水魚水族館と、こども動物園なんてものがある簡素でのんびりした住宅地の一角にある。そこから職場までカブで飛ばせば三十分で充分に着く。なのにそんなぎりぎりの時間に着いたのには理由がある。ちょっとばかり、寄り道をしたからだ。
寄った先は、ほぼ赤羽三丁目といえる岩淵町。そう、昨日の現場、篠原すづさんの家、いや、一昨日までは家だった場所だ。昨晩、いや五時間前、瀬川の馬鹿を見つけてしまったがために、記憶が鮮明になってしまって、なんとなく立ち寄らずにはいられなかったのだ。
篠原邸に近づくにつれて、焼け焦げた臭いが鼻についた。火災からはすでに丸一日経っているから実際にはもう臭いは薄いはずだ。でもなぜか強く臭った。
到着した場所には、まだ進入禁止の漢字とKEEP OUTのアルファベットが交互に黒い文字で書かれた真っ黄色のテープが貼りめぐらされていた。
テープの際にまで近づいてカブを止める。二階建ての家を屋根から刀で袈裟懸《けさが》けに切り崩して、家の内部を晒《さら》け出した篠原邸は、まるでテレビか映画のオープンセットのようだった。
炭化した柱に壁、焼けずに残った台所のシンクにガス台、冷蔵庫に電子レンジ。床のフローリングだけでなく、その下の床板も焼けてしまっていて、むき出しのコンクリートの基礎の上に転がっているのはブラウン管の割れた十五インチのテレビだった。視線を横に移す。居間だったその場所には、全体が焼け焦げているのに、なぜか上板の一部だけ長方形に焦げずに下の木の色を残した低めの和箪笥が残されていた。焼け残ったそこに何が置かれていたか、俺は知っていた。水槽――火元だ。
水槽は水を入れるものだから、火元になることなどない――などと、したり顔で言われては困る。もちろん窓から差し込んだ日の光が水槽の水を通ることでレンズ代わりになったわけでもない。火災が起こった時刻は深夜三時過ぎだ。
すづさんは一年ほど前から可愛いペット、ニホンイシガメ――まだ子ガメだからゼニガメ――を水槽で飼っていた。底に砂利を敷き、甲羅干しをするための石を置き、水草を植え、綺麗な貝殻や流木もあしらって、カメに素敵な住まいを造っていた。
中にあったのがカメに水に水草ならば、ますます火が出るはずなどない。――ごもっとも。ただ水と水草だけであったのなら。
すづさんはカメを可愛がっていた。だからカメが快適に過ごせるよう、水槽の水の温度を常に二十七度くらいにするために、水槽用のミニヒーターを入れていたのだ。
近隣の住人から聞いた話では、すづさんは積極的に新しいことに手を出す陽気で活発なおばあちゃんだった。スポーツクラブではプールで水中ウォーキングを楽しみ、区民会館主催のカルチャースクールでは、シルクフラワーに習字に絵手紙と、次々とクラスに参加して、一週間のうちに予定がないのは日曜日だけだと笑って言っていたくらいの元気で闊達《かったつ》なおばあちゃんだったと、皆口を揃えて言っていた。そして、半年前くらいから「最近、うっかりが多くて」と、口に出すようになったとも。
すづさんは自分で言った通り、うっかりしたのだ。ミニヒーターとコードの接続部分が水で劣化して白くひび割れていることに気づかなかった。さらに完全に水の底に沈めるはずのヒーターを置き石にひっかけて、コードの劣化した部分を空気中に露出させてしまっていたのだ。
ヒーターには水温制御装置の故障や、空だきしたときに通電を止める温度ヒューズが安全装置として内蔵されている。阪神大震災で水槽用ヒーターが火災原因の一つになったという不幸な実例から、メーカーが商品を改善したのだ。結果、出火事故は極端に減った。ただそれは、ヒューズ部分が完全に空気中に露出していて安全装置が正常に機能した場合で、ヒーターとコードの接続部がわずかに空中に出ていたところで、安全装置は働かない。
コードの劣化した部分にわずかにでも水が掛かれば――例えばカメが泳いでしぶきが飛んだとか――簡単にショートして火花が生まれる。さらにすづさんのうっかりが重なった。水槽の上に新聞紙を置いておいたのだ。そして生まれた小さな火花が新聞紙に飛び移り、炎に化けた。
室内にはすづさんが活発に手を出した趣味の数々が溢れていた。シルクフラワーの完成品と材料――絹の布に紙テープ、習字――新聞紙に半紙、そしてやはり紙が材料の絵手紙。それらが居間だけでなく、家の中のあちこちに置かれていたのだ。それも少ない量でなく。すづさんの趣味が炎とすづさんの運を分けたのだ。炎にとっては幸運、すづさんにとつては不運へと。
格好の獲物を見つけたとばかりに炎はシルクフラワーを、積み重ねられていた新聞紙や半紙、はがきを飲み込んだ。しばらく雨も降らず、乾燥しきっていたそれらは、あっという間に炎の力に屈し、その一部となり、より炎に力を与え、そして驚くほど早く、すづさんの家を燃やしてしまった。
だがどれだけ火のまわりが早かったとはいえ、瞬間的な爆発でもないのに、すづさんがまったく炎に気づかずに逃げ遅れたのは不自然だった。だがここにも不運が重なっていた。それも二つも。
一つはそれまで二階の一部屋を寝室にしていたすづさんが、今年に入ってから居間に布団を敷いて眠っていたことだ。理由は、寝室はベランダから遠く、布団を干すのが一苦労だから。一階の居間には大きなガラス戸があって、天気の良い日はガラス戸の近くの畳の上に布団を広げていれば、それで充分布団を干したことになる。すづさんは、そう言っていたという。つまり火元の居間ですづさんは眠っていた。
もう一つが花粉症だった。十年来の花粉アレルギーが三月に入って発症していたのだ。
「毎年、嫌になっちゃうわ。くしゃみのせいで眠れないのよ。仕方ないから、寝る前に必ずアレルギー用の市販薬を飲んでいるの。睡眠薬の成分が入っているみたいで、ぐっすり眠れるのよ」
近隣の人に、すづさんは苦笑しながら、そう言っていたそうだ。焼け残った食器棚にあった、薬箱として使っていたらしいクッキーの空き缶の中から、開封されて半分以上中身の減っている薬瓶が発見されたことも、それが事実だったことを物語っていた。
すづさんが眠っていた場所には、今は何もない。いや、違う。そこにはいくつか花束が置かれていた。大輪の菊に百合に胡蝶蘭《こちょうらん》、そして白と黄色の小菊の花束。オヤジがコンビニエンスストアで買ってきて手向《たむ》けたものだ。小菊はかすかに花の首を落としていた。
花束と重なるように、俺の目にはその場に布団を敷いて横たわるすづさんの姿が浮かんでいた。薬でぐっすり眠っていたすづさんが目覚めたのは、いつのことなのだろうか。布団の中で仰向けに寝たまま、喉元まで拳に握った両手を上げた姿勢ですづさんは天に召された。それもたった一人で、カメすら連れずにだ。火点となった水槽の住人であるカメは、水に潜っていたらしく無事だった。身よりもなく生き残ったことがカメにとって不幸中の幸いかどうかは、俺には判らないが。
はっきり言おう。俺はこの火事について、何一つ納得していなかった。すづさんの死には不審な点が多すぎたのだ。たとえばだ、薬を飲んでいたとしても、――いやよそう。理由がどうであれ、すづさんが火災の被災者として亡くなったことは動かしようのない事実だ。
だがせめて願いたかった。すづさんが苦しみ抜いた末に亡くなったのではないと。目が覚めた瞬間に炎に気づいて、そのショックで心臓が止まった。だから熱さも痛みも長時間は感じなかった。そうに違いないと。たった一人、生きたまま逃げ出すことも出来ず、苦しみ抜いた挙げ句、炎に焼き殺されたとは思いたくなかったのだ。
この俺の願いに等しい考えが正しいかどうかはじきに判る。火災現場において死体が発見された場合、その死体は検視され、解剖に回される。火災現場で発見される死体のすべてが変死体だからだ。変死体とは病死などの自然死でなく、犯罪による死の疑いがある死体――変死者か、自然死か不自然死――自然死以外か、不明で犯罪による死の疑いがある死体――変死の疑いがある死体で、この二つは刑事訴訟法第二二九条一項で検視の対象とされ、司法検視される。そして死体が火災によって死亡したのか、殺されてから焼かれたのかの判断が下される。
もちろんすづさんも解剖に回された。所にはいずれ死因が届くだろう。願わくば、俺の想像が当たっていて欲しい。これはすづさんを助けられなかった俺のせめてもの祈りだった。
はっと気づいて腕時計を見ると、時刻は八時十分を回っていた。思いのほか、長居をしてしまったことに舌打ちをする。そもそも俺は定時内以外は仕事をやる気は全くない。なのになんで現場になど、それも爽やかな朝、しかも出勤前だと言うのに、こんな場所に来てしまったのだろう。
それもこれも、すべてはつながり眉毛の瀬川が悪い。あの身勝手な放火魔のせいで、この現場のことを思い出してしまったのだ。まったく気分が悪い。こんなことなら、やっぱり一発くらい、顔に食らわせておけば良かった。後悔したところで、今更《いまさら》どうにもならない。今出来る、しなくてはならないことはただ一つ。とにかく遅刻をしないことだ。
エンジンをふかしてカブを発進させたと同時に、前方から歩いてきた一人の爺さんが目に入った。
小柄な身体を年寄りらしいグレーのジャケットと黒いパンツに包み、頭にはやはりグレーのハンチングと、いかにもな服装で、年の頃はおそらく七十は超えているだろう。でも年寄りの年齢は良く判らないから、実際は八十を超えているかもしれない。
そんなありきたりの爺さんが、なぜ俺の目に留まったかといえば、その手に白と黄色と紫のパンジーの花束があったからだ。土曜の朝の八時過ぎ、パンジーの花束を手にした爺さんの進む先には、すづさんの家だった火災現場が。カブのスピードをわずかに緩めてミラーで確認すると、思ったとおり爺さんは現場の前で立ち止まっていた。
爺さんはパンジーの花束を両手で胸の前に掲げて、頭を垂れて佇んでいた。白と黄色と紫のパンジーはすでに現場に置かれている菊や百合や胡蝶蘭に較べると、死者に捧げられる花にしては、筆者《きゃしゃ》で可憐で場違いのような気がした。
だが俺は考えた。あの老人はすづさんのボーイフレンドなのだと、そしてパンジーはすづさんの好きな花に違いないと。すづさんには、その死を心から悼み、好きな花を手向ける人がいたのだと。だがその推測は、すづさんを救えなかった罪悪感を俺に募らせた。ミラーの中で小さくなっていく爺さんに、俺は心から詫びた。―― 爺さん、すまない。
赤羽台出張所の駐車場にカブを乗り入れたのは、八時半の大交替――当番隊の引継交替――に向けて、第二係と第三係のメンバーがすでに集結し始めていた八時二十四分のことだった。カブを停め、所の中へと猛ダッシュする俺に、「間に合うか?」と、からかいの声が飛ぶ。無視しない程度に返答しつつ、どうにか着替えを終えて自分の席に着いたのは八時三十分ジャストだった。
我が愛すべき第一係長にして第一ポンプ隊長の藤田のオヤジは席にいなかった。いつもなら、席でスポーツ新聞を読んでいるのだが、ま、こういうこともあるだろう。単にトイレかもしれないし。
とりあえず横の席で、机の上に広げた地図に蛍光ペンで書き込みを入れている生田《いくた》の兄貴に「おはよっす」と、挨拶する。
「うーっす」
生返事の兄貴が何をしているかは見るまでもなく判っていた。机の上に広げた地図上に、消火栓と水利位置、そして最新の工事をしている道路を書き込んでいるのだ。
右耳の上に赤ペンを挟んだその姿は、どう見ても競輪か競馬の予想屋をしているようにしか見えない。だがその正体は、第五消防方面の特攻隊長と呼ばれる腕の良い機関員――消防車の運転員なのだ。
出場指令を受けた消防車の現着は、一分一秒を争う。現場がどこであろうと、機関員は消防署から、最短距離かつ最短時間で、しかし道交法を守ったマックス時速八十キロで消防車を現着させなければならない。だから機関員は、管轄区の最新の道路事情を常に把握していなければならない。
道路事情はともかく、消火栓や水利位置の場所は変わらないだろうに、なぜ調べる必要が? と、お思いの皆さんも多いだろう。まずは消火栓だが、これは位置が変わる。変えているのは消火栓を管轄している水道局だ。消火栓を利用する最大のお得意さま――たとえ火災鎮圧のための使用でも、使用料金はがっちり取られるのだから、こう言って間違いはないだろうさの消防に一言の断りも連絡もなく、勝手に消火栓の位置を変えてしまうのだから、始末に悪い。
つづいて池や川、用水路といった水利位置だが、確かに滅多《めった》なことでは位置は変わらない。だが自然環境なだけに、一年三百六十五日、常に水量が一定のはずもない。とうぜん天候や時節柄によって水量に差が出来る。赤羽台のポンプ車は水槽なしタイプだ。つまり早く着いたところで近くに消火栓がなければ、水利位置に着いたところで干上がっていて水を供給出来なければ、手も足も出ない。だから機関員である兄貴は非番日――勤務中である当番日に消防車をおっぽり出して回れるはずもない。――に、自らの足で回って、常に独自の地図を作成しているのだ。
兄貴が地図に書き込んでいたのは昨日の日付だった。当番日明けの非番日――徹夜明けの休日の昨日も、管轄区を兄貴は回ったのだ。ホント、頭が下がる。
おや、以前はうんざりとか言っていたくせに、今は頭が下がるだなんて、どうした宗旨変えなんだ、って? 簡単なことだ。消防士を辞めていない以上、現場に出なくてはならないのなら、少しでも身の安全を願いたい。出動したあげく、ろくな水利が得られないまま、現場に突入なんて最悪だ。
だから兄貴の熟き機関員魂には、素直に頭が下がるというわけだ。納得だろ?
着席したとたん、嫌な視線を感じた。それもダブルでだ。一人は俺と同じ第一ポンプ隊の放水長の富岡《とみおか》だ。このオッサン、職務に忠実な、それは立派な消防士だった――立派すぎて無試験昇進、つまりは殉職しちまった――俺の親父と以前に組んだことがあるとかで、今は亡き親父のためにも、俺を一人前の消防士にするべく、自分が指導しなくてはとばかりに、何かというと口やかましく、ぐちゃぐちゃ文句ばかりつけてくる。そのケチのつけ度合いたるや、障子《しょうじ》の桟《さん》どころか、わざわざイスの上に乗って冷蔵庫の上にたまったほこりを探し出す姑の勢いだ。はっきり言ってウザい。そしてもう一人が昨年の九月に異動してきた香川|文博《ふみひろ》だった。
異動して来た者がいるということは、増員など、東京消防庁の現状ではまず望めないだけに、とうぜん去った者がいる。公務員である消防士には異動はつきもので、技官採用の研究職は別として、地方公務員で入庁した一般の消防士は、だいたい三年で異動になる。そして我が赤羽台消防出張所第一ポンプ隊のメンバーにも変化があった。いなくなったのは元自衛隊員で必要以上は口を開かない、「不器用ですが」が口癖の渋い俳優に似た面構《つらがま》えの星野《ほしの》だ。
転職理由が家族を阪神大震災で亡くしたからという星野は、もとより特別救助隊員の資格を取りたがっていた。そして昨年、選抜試験と技術研修で優秀な成績を収めて、晴れて念願の特別救助隊貝になったのだ。同時に異動が決まった。異動先は第三消防方面本部、東京消防庁の消防士誰もの思い出の地、消防学校の真正面の消防化学研究所に平成十四年にNBC(核、生物、化学)災害に備えて、より高度な専門知識と資格を持つ隊員を集めて新設された消防救助機動部隊の配属になったのだ。
本来ならば、資格を取ったばかりの新人が配属されるはずのない部隊なのだが、前職の自衛隊時代に六九八|大宮《おおみや》駐屯地に所属していて、大型自動車や特殊免許をすでに取得していたのと、化学装甲車と一緒に警察に借り出され、カナリアと一緒にイカレた新興宗教の総本山に乗り込んだ経験があるために、即戦力として異例の大抜擢をされて異動していった。
それ以来、星野の姿を眼にしていない。いや、一度だけ見た。生ではなくテレビの画面でだ。当番日の夕食の支度で、あいもかわらずキャベツの千切りにやっきになっていたときのことだ。耳に覚えのある声がふいに聞こえて、響いた元へと目を向けると、前日に環七で起こった車の多重玉突き事故のニュース映像が映し出されていた。
テレビ画面の中を左から右へ、通常なら二人で持ち運びするスプレッダー――大型油圧式救助器具を一人手に、その重さをまったく感じさせない速さで駆け抜けて行ったオレンジ色のつなぎに身を包んだ男は、間違いなく星野だった。伸びた背筋、無駄のない動き、良く通る指令復唱の声、そのどれをとっても新天地で充実した活動をしていることが伝わってきて、俺も柄にもなく嬉しかったものだ。と同時に、帰ってきてください、星野先輩、と俺は心底願っていた。
理由は簡単、星野の後釜に送り込まれた香川が、俺にとってどうにも嫌な奴で、しかもはっきり言って使いものにならないへタレだからだ。
今の消防事情では、欠員分の補填《ほてん》が確実に行われるほどの人員的な余裕は、残念ながらありえない。だから補填されただけ感謝すべきなのだ。それは俺も良く判っている。ポンプ車の乗務員数は、運転手である機関員に隊長、筒先を担う放水長に二名の隊員の通常五名とされている。だが昨今ではポンプ車の数を増やし、その分乗員を一人減らして四名にしようという動きも出始めているのだ。
その方がより早く、しかもポンプ車が多く現着することになるし、二台で合計八名の消防士が消火活動に従事するのだから、良いこととも思えるだろう。しかし消防士の立場から言わせて貰うと、五人乗車の今ですら、出場時の一人当たりの分担仕事量はいっぱいいっぱいなのに、一人減ったらとうぜん負担する仕事量は多くなる、イコール、生命の危険度がぐっとアップ! なだけに、絶対に勘弁仕りたい。
だから星野の異動が決まったときには冷や冷やしたが、のちに欠員分の補填があると聞いて心底安|堵《ど》したものだった。そして星野の穴を埋めるべく、配属されたのが香川だったのだ。
香川は昨年消防学校を卒業したばかりの新人だ。つまり、ついに赤羽台第一ポンプ隊で最年少の俺にも、やっとこさ後輩が出来たわけだ。だが香川の年齢は二十五歳、俺より年上だった。
年上でも後輩というのは、消防士では珍しくない。なぜなら消防士の受験資格はTからV頬までの学歴に準じた受験区分があるが、乱暴にまとめると十八歳以上、三十歳未満であるなら、概ね受験資格は持っているからだ。あとは一次の筆記試験、そして二次の身体・体力検査と口述試験にさえ受かれば、誰でも消防士になることが出来る。
年齢的に年上であろうと、後輩は後輩。本来ならば、先輩に対して謙虚に遜《へりくだ》るものだろう。だが香川は違った。某有名私立体育大を卒業後、一浪したものの、どうしても消防士になりたいという情熱の末、アルバイト生活をしながら受験勉強して、二度目の受験で晴れて消防士になり、一年間の消防学校生活では、体育大学卒の名に恥じぬ成績を収めた。――もうお判りだろう。香川は希望と情熱に燃える、誠心誠意の消防士を目指す男、つまり俺にとって一番|相容《あいい》れない男なのだ。
そういうキャラなだけに、富岡の香川の気に入りようといったら半端じゃない。御蔭で何かというと俺は奴と比較されて、さんざんな毎日なのだ。しかも最近では、富岡の尻馬に乗って、香川も自分が指導しなくては、みたいな態度に出て来てやがるときたものだ。まったく頭に来る。
「間に合えば良いってもんじゃないだろう」
一発目は富岡の小言。これは毎度のことだし、「すいませーん」と、受け流す。ここまでは良しとしょう。だが香川が一言でも非難めいたことを口にしたら、絶対に言い返す。そう心に誓って、正面の机の香川にガンを飛ばす。気合いのこもった視線に恐れをなしたのか、香川はやや弱気に視線を逸らした。そう、それでよろしい。だいたい、昨日俺に大きな借りがあるのを忘れて貰っては困る。
そりゃ香川が百パーセント万能で、何でも出来るのなら、たとえ後輩だとしても苦言の言も聞いてやろう。このあたり俺はリベラルだ。後輩だから先輩には絶対服従だとか、先輩だから後輩の言うことに耳を貸さなくて良いだなんて、馬鹿馬鹿しいと俺は思う。
悪循環の輪廻《りんね》は、勇気ある一人の行動から――。とか言って、この犠牲精神溢れる優しい配慮に、香川の野郎はありがたみを感じるどころか、大卒で年上だから当たり前と思っているらしく、堂々と先輩である俺に苦言すら言うのだから、俺の配慮は骨折り損だ。ああ、馬鹿みてー。
確かに香川は何でも出来る。訓練なら、指示通りのことならば。だが応用が利かないし、独創性がなく、機転も利かず、しかも決断力に欠ける。はっきり言って、現場では足手まといでしかなかった。やはり人間、経験値。命の関わる現場では、机上の空論やら理想論は妄想に等しい。
現に昨日の現場では、炎を前に足が疎んで動けないわ、すづさんを発見したとたんに、胃の中のものすべてを吐き出すわ。それも、よりにもよって面体《めんたい》を着けたままリバースしやがったのだ。
火災現場で自らの呼吸を確保するために、消防士は背中に空気呼吸器のボンベを背負って突入する。面体というのは、その空気呼吸器のフルフェイスのマスクのことだ。つまり香川は顔全面を覆ったマスクの中に、吐いてしまったのだ。自分で吐いたゲロで危うく窒息するところを、素早く面体をむしり取って助けてやったのはこの俺様だ。おかげで俺の防火グローブも防火ジャケットもしっかり奴のゲロで汚染されてしまった。
消防士を炎から守ってくれる一番身近なものは、直接身にまとっている防火服一式だ。最先端の研究成果が詰め込まれている防火服はとてつもなく高価で、中でも防火ジャケットは一人一枚支給などされていず、三交替勤の三人で一つを共有して使っている。そんな貴重な防火ジャケットをゲロまみれにしたら、共有している残りの二人から激しく文句を浴びるところだ。
だが俺は例外だ。図体のデカさの都合上、共有できるサイズの隊員がいないので独り占めしているのだ。だから文句を言う相手はいない。でもゲロを浴びたことに変わりはない。ああ、思い出してしまった。げー、えんがちょ。
さすがにそのままではポンプ車に乗って帰所することは出来ず、生田の兄貴にたっぷり放水洗浄して貰ったのだが、それでも臭いは完全には消えなかった。今朝は遅刻ぎりぎりで確認出来なかったが、一日経って完全に消えていてくれることを祈るしかない。まだ残っているようなら、週休日明けに消臭剤だ。何瓶便おうとも、完壁に消してやる。もちろん代金は香川持ちだ。
「すいませんじゃないよ、まったく。だいたいお前は新人のときだって、いつも遅刻ぎりぎりで」
また始まった。富岡のつづきはこうだ。香川は当番日だろうと日勤日だろうと、八時前には出所して、誰に言われてもないのに、率先してみんなの机を拭いているんだぞ。それに香川がこう返す。いえ、そんな、新人ですから、とうぜんです ――。
予想は一言一句外れなかった。少しは想像の範疇《はんちちゅう》を超えてもよかろうものに、あー、げんなり。富岡と香川の会話を無視するべく、さも忙しそうに仕事に取り掛かろうと、机の上に並べられたバインダーに手を伸ばして気がついた。香川の野郎、俺の机だけ拭いてない。ホント、陰険な奴。
いつまでも鬱陶《うつとう》しい正義に燃える消防士の馬鹿二人を見物していてもしかたない。本日は三週間で一サイクルの交代制勤務の唯一の日勤日。やることをやって、定時と同時に帰宅するとしよう。明日と明後日は楽しい楽しい週休日だし、ということで、きっそく今日の予定を確認する。
日勤日は出場もなければ訓練もなしで、一日所内で事務仕事だけしていれば良い、というわけには残念ながらいかない。しなければならないことは山とある。たとえば幼稚園や小、中学校へ防災防火への啓蒙運動――俺はこれが死ぬほど嫌いだ――としての出張指導。それから水利調査を含む水辺の清掃に草刈りに予防査察、イコール立入検査、通称立検。
今日の予定のメインは十時からの立検だった。立検――火災予防査察は、建築物や危険物施設などに立ち入って、防火管理、消防設備の維持管理などの状況を調査確認し、重大な違反があった場合には、行政処分も行って早期改善を促進するためにする検査だ。多くの被災者を出してしまった新宿|歌《か》舞伎《ぶき》町の雑居ビル火災は、まだ記憶に新しいだろう。ビル内のテナントが一致団結して防火基準の下に避難経路を確保していれば、そして消防がもっとがっちり立検を行っていたら、あんな大惨事にはならなかったはずだ。
事前の厳しい指導取り締まりの下、どこもかしこも防火基準を守っていれば、万が一、火災になったとしても、その場にいた人たちは無事に避難出来るし、俺たち消防士も活動がしやすく、すなわち速やかに鎮火成功。おお、なんと素晴らしい、まさに良いことずくめ! とは俺も思うが、そもそも立検は俺たち出張所勤務の消防士の仕事ではない。本署の予防課査察係が行う仕事なのだ。
実際問題として、ここ赤羽台消防出張所の本署、つまり第五消防方面の志茂、浮間《うきま》、西《にし》が丘《おか》、赤羽台の四つの出張所を束ねる赤羽消防署が赤羽南一丁目から二丁目、赤羽西一丁目から六丁目、西が丘一丁目から三丁目、赤羽一丁目から三丁目、赤羽台一丁目から四丁目、桐《きり》ヶ丘《おか》一丁目から二丁目、赤羽北一丁目から三丁目、浮間一丁目から五丁目、岩淵町、志茂一丁目から五丁目、神谷《かみや》一丁目から三千日までの管内すべての建物を含む対象物を担当するのは、人員的にも時間的にも、どう考えても不可能だとは俺も思う。だから出張所でも立検を引き受けているのだが、やっぱり本来は俺たちの仕事ではないと思うと腹が立つ。
でもまあ、日勤日の勤務時間内にする今日はマシだ。酷いときは非番の日でも、あたりまえとばかりに駆り出される。それに本日の相方は生田の兄貴だ。生田の兄貴は俺にとって、今の赤羽台第一ポンプ隊の面子《メンツ》の中では、一番気心知れた相手だ。今でこそ一男一女の父親で、愛妻の尻に敷かれている良き家庭人だが、若い頃は足立《あだち》で暴走族の頭として名を轟《とどろ》かせていた御仁なだけに、やんちゃだった過去を持つ俺とは同じ匂いがする者同士、どこか気が合うのだ。
それに姑富岡と陰険へタレ香川の面を見ないで済むかと思うと、立検様々だ。ただいま時刻は午前八時四十六分、早く来い来い立ち入り検査。心の中で時計の針が早く進むことを真剣に願っていたところに、事務室のドアが開いた。入ってきたのは入庁身体基準の百六十センチぎりぎりの小柄な我が赤羽台第一ポンプ隊長、藤田のオヤジだった。
「お早うございます」「おはよっす」いっせいに、各人なりの朝の挨拶が飛ぶ。香川に至っては、席から立ち上がって深々と頭を下げての挨拶だ。だがオヤジは香川に一瞥《いちべつ》をくれることもなく、「はい、お早うさん」の一声で片づけて、自分の席へと納まった。香川が鼻白んだのを横目で確認して、ちょっといい気分になる。
しかし謎だ。なぜ奴はあんなにオヤジや富岡に誉めて貰いたがっているのだろう。もちろん俺だって、何であれ、誰かに誉められれば気分は良い。だが消防士は上司や同僚に人柄だの行儀だので評価されたところで、給料が上がるわけでも、仕事の分担量が減るわけでもない。そりゃ、配属されたばかりの新人なだけに、一日も早く隊の仲間として認められ、愛されるべく努力しているのは判らないでもないが、だがどうも奴の場合はそれだけではないように俺には見えて、何とも扱いづらいというのか、気持ち悪いというのか、 ――一言で言えば、鬱陶しい。
良い子ぶる香川と、それを誉め讃える富岡の声と、一階の駐車場から聞こえてくる今日の当番の第三係の点検審査会に向けての訓練の掛け声をバックミュージックに、淡々と書類に手を入れる。
皆さんご存じないだろうが、消防士のデスクワークはびっくりするほど多い。世の中のオンライン化に従って、東京消防庁もフォーマットを作成し、直接パソコンに打ち込む方向へ向かってはいるが、それでも手書き調書が廃止されるまでには至らない。だからホワイト片手に、ボールペンでしこしこかりかり一文字ずつ書き込んでいくしかない。火災現場に出るよりは危険もないし、楽なのは確かだが、誰が読んでも理解できる椅麗な文字で、正しく簡潔に書き込んでいくこの作業も、俺には、はっきり言って苦行だ。
本日一度目の出動指令が鳴り響いて、手を止める。ピーピーピーと、三度警報が鳴ったあと、救急車のサイレン音がつづく。救急隊への出動指令だ。事務室で、やはりデスクワークに勤しんでいた第三係の救急隊員の機関員の山田《やまだ》さんが、真っ先に飛び出す。
「山さん!」と、呼ぶなり、生田の兄貴が親指だけを立てた右拳を突き出した。
山田さんは、振り向きざま、生田の兄貴を左手の人差し指で指しながらにやりと笑ってドアから出ていった。
第三係救急隊機関員の山田さんの、見るからにどっしりと重たげな腹回りからは、もはや思いを馳せることすら不可能だが、実は生田の兄貴同様、若い頃はやんちゃだったそうなのだ。とはいえ、二人を同列に扱うことはそれぞれが許さない。族は族でも片や都内を暴れまくっていた暴走族と、片や正丸峠《しょうまるとうげ》を改造車で競っていたドリフト族だから、確かに別物だ。ただしどちらも一般の人からすれば、はた迷惑な若造に違いないが。
実は以前二人は同じ第三係だった。一目会った瞬間に、互いに過去の匂いを喚ぎ取った二人は、消防車と救急車と、車種さえ違いこそすれ、出場指令が下るごとに、現着の早さを競っていた。
生田の兄貴は第一係へと異動になったが、未だライバル魂は潰えていないらしく、お互いの現着タイムを、ことあるごとにチェックしあっているのだ。しかし、決して二人の仲が悪いわけではない。ことに生田の兄貴は、山田さんに一目置いている。俺は以前、兄貴がため息混じりにこう言ったのを覚えている。
「赤車は運転出来ても、俺には白車は運転出来ねぇ。やっぱり、山さんにはかなわねぇ」
赤車に白車、書いて字の如く、赤は消防車、白は救急車のことを指す。
「現着だけなら、俺の方が早い自信がある。だがよ、赤車に乗っているのは全員が消防士だ。しかも帰所するときには、ただ帰ってくりやあ良いだけだ。けど、白車はそうは行かねぇ。具合の悪い、時には生死の境をさまよう病人を乗せて、搬送先の病院まで法定速度を守って飛ばさないとならない。極力車体を揺らさずに、つまり急なハンドルさばきも、急なブレーキもなしでだ」
兄貴の言う通りだ。ポンプ車と違って、救急車は現着するまではともかく、病人を乗せてからは、ただ早く病院に着けば良いわけではない。
日本での車の仕様は、乗用車と貨物車の二種類に分類されていて、救急車は貨物車扱いなのだ。搭載している機材は多いし重い。その重量に耐え、確実な輸送を優先する作りとして貨物車は最適と音えよう。ただ貨物車だからこそ、サスペンションは硬く、とうぜん揺れもダイレクトに伝わってしまう。それでは搬送中の病人にとって良いわけがない。場合によっては、生命の危険すら起こりうる。
今でこそトヨタを中心に、「救急車は貨物車ではなく、人間を搬送する車である」という考え方が主流になり、今までの車内空間の確保を追求したトラック・ベースの開発から、ワンボックス車がベースの開発に切り替わり始め、実際に我が赤羽台にもトヨタ・ハイメディックが配置されているが、それでもやはり揺れるものは揺れる。その揺れをいかに乗車している病人に伝えず、なおかつ受け入れ先の病院まで一分一秒でも早く搬送するには、ひとえに機関員の腕がものを言う。
山田さんの運転は、一般道で法定速度内の最高速度八十キロを維持しつつ、なみなみと水を汲んだコップを床に置いていたとしても、一滴もこぼさないという伝説すらあるくらいの腕前なのだ。
閉じかけの事務室のドアを眺めながら、兄貴が「ホントは、早いところ救急隊員の資格を取って、乗り換え運用に参加してぇんだけどよ」と、ため息混じりにつぶやいた。
乗り換え運用とは、東京消防庁が独自に運用しているシステムで、救急隊は一隊あたり年間三千五百件以上の出場が見込まれるだけに、当番の二十四時間勤務中に、救急隊とポンプ隊の間で救急隊員の資格を持った隊員を交替させて、少しでも出場回数の多い救助隊員の疲労を和《やわ》らげようという目的で行われている交替制のことだ。兄貴も早く資格を取ろうと努力をしてはいるのだが、人には向き不向きというものがあるらしい。未だ資格を取るには至っていない。
「さて、そろそろ出掛けるか」
兄貴の声に、壁に掛けられた時計に目を向けると、時刻は九時三十分。立検に出発するには、ちょうど良い頃合いだった。
「雄大《ゆうだい》」
席から立ち上がった兄貴が俺の名を呼んだ。その先は言われなくても判っていた。俺は机の上のぺン立て――兄貴から強制的に、すべての机に支給されたディズニーランドの土産の御菓子の空き缶――から古式ゆかしき赤いキャップのついた赤インクのボールペンを抜き出すと、兄貴にちょいと振って見せてから執務服の胸ポケットに差した。準備万端、いざ出発。
やっとこさ立検に出発と思いきや、邪魔が入った。富岡が香川も連れて行けと言い出したのだ。生田兄貴は別段気にする様子もなく鷹揚《おうよう》に引き受けたが、俺は承認しかねた。俺の意見など、嘗岡は最初から求めてもないのだから、話にもならないのだが。
そして生田の兄貴と俺と香川の三人は、赤羽駅西口へと向かっていた。
「赤羽って、良い街ですよね。今まで一度も来たことがなかったんですけれど、配属されて実際に来てみて、すぐに好きになりました」
唐突に香川が話しだした。
「正直言うと、心配だったんですよ。自分、出身が神奈川県で、大学が東京の世田谷だったもので、配属先が赤羽台だって言われて、そもそも赤羽って埼玉県じゃなかったっけ? なんで自分は、東京消防庁に入庁したのに埼玉県に配属なんだ? とか、思っちゃって」
これならウケが取れるだろうと振ったのだろうが、不発だった。兄貴はくすりとも笑わない。そもそも赤羽が埼玉県ではなく、東京都だというネタは、もはや古典なんだっての。
「もちろん、赤羽は東京都ですけれど」
一人、心のこもっていない明るい笑い声を挙げると、香川はなおもつづけた。それに割って入ったのは生田の兄貴だった。
「俺ぁよ」
オラア、としか聞こえないこの発音。間違いなく、兄貴の機嫌は悪い。
「足立区生まれの足立区育ちで、一番好きなのは足立だ。次に好きなのは、ウチの女房の実家の埼玉県は所沢だ」
香川の意図する、良き消防士は管轄の街を愛していなくてほならないという理想論を、ばっさりと斬り捨てた兄貴はさらにつづけた。
「だがよ、今年でめでたく勤続十年目の消防士としての俺ぁよ、今まで配属された街のどこが特別好きだ嫌いだ、なんてねぇ」
兄貴と香川の背は実寸ならば、ほぼ同じだ。だが兄貴は猫背で、歩き方も一度ついた習慣はなかなか抜けないのか、一昔前の不良典型の、肩を揺する歩き方だから、こうしてただ並んで歩いていると、わずかだが香川の方が背が高い。
「俺あ定年まで機関員をつづけるつもりだ。この先、都内のどこに配属されても、どこが特別だ、一番だ、なんてねぇだろうよ」
そう言うと、兄貴は顎ごとすくいあげると同時に香川をねめつけた。今度はもぐもぐと口ごもることもなく、香川はただ口を噤《つぐ》んだ。
そりゃ返す言葉もないだろう。定年まで機関員をつづけるという仕事への情熱に関しては、俺は理解も同意もしかねるが、でもさすがは兄貴、この眼力、この台詞《せりふ》、いやはや、恐れ入りました。
「――けど、恵比寿《えぴす》出張所だけは勘弁して貫いてぇなぁ」
珍しく気弱に付け足された兄貴の言葉に、それが何を意味するかが判った俺は、声を挙げて笑ってしまった。
「笑うんじゃねぇよ、雄大!」
低い声でどやしつけられたが、一度頭に浮かんでしまった想像は、そう簡単に取り消すことは出来なかった。
第三消防方面の渋谷消防署管区、恵比寿消防出張所を嫌がる兄貴の気持ちは良く判る。理由は、他の消防署とは明らかに違う点があるからだ。お酒落《しゃれ》な恵比寿ガーデンプレイスの一角にあるだけに、周囲から浮き上がらないようにして欲しいとの要望を受けて、外装がなんとピンクなのだ。ピンクの消防署に赤い消防車、女性の皆様方は「あら素敵、色もマッチしてるじゃない」と、言われるかも知れないが、ピンクの消防署と生田の兄貴ほどあわないものはないだろう。
「あの、恵比寿出張所が何か?」
一人わけが判らない香川が訊ねてきたが、無視だ無視。自ら理想に掲げた、街を愛する熱血消防士を目指すのなら、管轄区だけでなく、いつ何時どこに異動になっても問題ないように、日夜自力で情報を集めておけっての。
そんなこんなで、目的地である五階建ての雑居ビルに到着した。立検――査察には、定期、特別、随時の三種類がある。定期は時期があらかじめ決められているもので、特別は消防署長が必要と認めたとき、または消防署長が特に必要と認めた地域、若《も》しくは防火対象物を指定して行われるもの。随時は建築物の新築、改築、移転等または関係法令に基づく申請及び届出等に際し必要に応じて行うものだ。
今回の査察は二番目の特別査察だ。ただし、抜き打ちではない。事前に電話連絡を入れたうえだから、当日のみ、日頃置きっぱなしの物をちょいと退《ど》かしておき、こちらが帰ったとたん、元に戻すのは目に見えているだけに腹立たしい。しかも今日の相手はタチが悪いと来たものだから、生田の兄貴の気合いも充分だ。
なにしろ先月の定期査察の際、事前に電話連絡を受けていたにも拘わらず、共有の階段部分に各階店舗のおしぼりだのバスタオルだのコンデンスミルクの大缶だの――入居しているのは、全部その手の店だ――を山積みにしっぱなしにしていたふてぶてしい相手なのだ。
この堂々たる不備事項を確認した前回の立検を行った第二係の大林《おおばやし》・小林《こばやし》の若手林ペアが、呆れながらも指導して、どう改善するかの回答書の提出を、ビル全体と各店舗に求めて帰所したものの、未だ回答書は提出されていない。ここまでコケにされて黙っている赤羽台消防出張所ではない。本来ならばコケにざれた林ペアがリベンジに向かうべきなのだが、第二係の日勤を待っていたら間が空いてしまう。林ペアのメンツより、都民の安全優先ということで、今回は第一係の俺たちが出張《でば》ることになったというわけだ。
「そんじゃ、行くかね」
兄貴は、さもかったるいと言わんばかりに、右手で左の首の付け根を、こりをほぐすようにぐりぐりと押さえると、バインダーを片手にビルの中へと入っていった。
立検の流れはこうだ。まず香川が「赤羽台消防出張所の生田と大山と香川です。電話で連絡致しましたとおり、消防法第四条第一項に基づき、立入検査を行います。ご協力、よろしくお願い致します」と、定型の挨拶を言い、俺が「前回の検査の際の不備事項の改善の回答書を提出するよう指導しましたが」と、わざとここで言葉を切り、一通り相手の言いわけを聞いて、それから「確認させていただきます」と断って、いざ立検を開始する。
最初は避難、防災などの自主点検状況の記録と消防設備等の点検記録の資料を確認して、それから実際に歩き回って現場のチェックをすることから始めるのだが、回答書未提出なので、さっそく検査に取り掛かる。今回も全階分、点検資料はつけていないわ、避難経路の階段にゴミだの商売に使う予備品のストックだの、足の踏み場もない有様《ありさま》で、揃いも揃って消防法違反者ばかりだった。
そしてまた、検査最中に各階の責任者が俺たちについて回って延々と言いつづけるそれぞれの言いわけが素晴らしい。ビルの狭さと物価の高さの関係に始まって、土地問題や都市間題に、税金も含めた国のあり方、延《ひ》いては納税者の自分たちの税金で養ってやっている公務員――もちろん俺たち消防士に対する嫌味だ――の数が無駄に多いだ、無能だ、納税者にサービスするためにいるのに生意気だの、さらには異国から出稼ぎに来たものの、騙されたも同然で性風俗に従事させられ、日本人はズルいだヒドイだ嘘つきだの国民性の問題まで、いや、実に含蓄深く幅広い。
とは言え、消防士になって四年目の俺にはとりわけ新規に感心する内容は何一つない。不満も言いわけも毎度同じで、いい加減、聞き飽きた。貴重な国民の生の声は、俺たち消防士だけでなく、国でのお偉いさんにこそ聞いていただきたい。――そう思うことすら、すでに飽きているのだが。
腹の中でため息をつく頃、ここでやっと兄貴の出番となる。
「営業停止で良いならけっこう」
そう言うなり、査察終了後に交付する予防査察結果通知書に記入しようとしている俺に、ちらりと視線を送る。それを受けて、俺は右手に持ってた黒いボールペンを胸ポケットに差し込み、代わりに赤いボールペンを取り出して、記入しようとしてみせる。すると責任者は慌てて態度を改めるのだ。
実は、これが兄貴が考え出した必殺技!心理トリックなのだ。そもそも公的調書に赤いボールペンで書き込むことなどありえない。だが人の心理というのは不思議なもので、赤ペン、イコール、バッテン――ダメと思い込むらしい。もちろん赤ペン、イコール百点とか花丸の記憶に結びつく奴もいるだろうが、ごく少数派のはずだ、というのか、立険に引っかかって、消防に刃向かおうなんて賢くないことをする連中が、その少数派のはずがない。ま、これも言わば一つの学校教育の弊害だろうが、たまにはこういう利用法もあるということで。
そして兄貴の指導の下、その場で責任者に消防法違反の箇所を改善させる。ここでもまた兄貴は技を見せる。先方だけにさせるのではなく、率先して自分も手伝うのだ。それだけではない、実は兄貴は食事当番で実証済みのプロ級の腕前の料理だけでなく掃除も、いわゆる三大家事のうちの二つが好きだし得意なのだ。だから物品の移動を手伝うだけでなく、ちょいちょいと掃除もしてしまう。さすがに相手も恐縮するし、ちょっとひねた奴だとしても、なぜ兄貴がそんなことをするかを訊ねたりする。兄山賀の答えはいつもこうだ。
「そちらからしたら、消防署は偉そうに監督している鼻持ちならない嫌な連中だろうけれど、威張りたくてやっているんじゃないんですよ。何かあったとき、あなたたちを無事に助けたい。そのために協力して貰っているのだから、こちらも協力するのは当たり前じゃないですか」
これには相手の不平も収まるというのか、中には兄貴に好感を持つ者すら出る。
そして今日もそうだった。一階のカラオケ・スナック、二階のコスプレ・パブ、三階のマージャンゲーム屋、四階、五階のファッション・マッサージのどの店の者も、俺たちが立ち去るときには各種割引券やら、店で使う乾き物まで色々と土産を持たせようとする有様だった。もちろん兄貴が受け取らない以上、俺も香川も受け取らない。しかし、四階のタイ人らしい肉感的な唇がキュートな女の子が渡してきた携帯番号つきの名刺は惜しいことをした。せっかく兄貴が見て見ぬ振りをしようとしてくれているのに、割って入った香川が「受け取れません」と、断ったのだ。あくまで彼女は俺に渡そうとしていて、香川にではないのにだ。まったく、それが後輩のすることかっての。
その場で改善回答書まできちんと書かせて、ビルを出たのは午後一時直前だった。もちろん昼飯はまだだ。
「悪りイなぁ、昼、回っちまったな」
仕事でしたこととはいえ、必要以上なことにまで手を出し、時間が掛かってしまったことを後輩相手にも素直に詫びる。これも兄貴の魅力的なところだ。
気にしないでくれと俺が口に出す前に、香川が「悪いだなんて、とんでもないです!」と、またぞろ良い子ちゃんの応えを返した。さらにつづけて、兄貴の手際《てぎわ》がいかに良かったかとか、区民への対応が素晴らしかっただとか、褒めちぎりだ。とたんに俺の気が萎える。
「――でも、良いんでしょうか?」
急に小さく、しかも遠慮がちな香川の声に、否定的なものを感じて、じろりと香川を流し見る。
「四階と五階の店にいた従業員の女性、どうみても外国人でしたよね。あれって、その」
そこで香川は言い澱《よど》んだ。何が言いたいのか、俺も兄貴も判っていたが、あえて無視する。答えがないことに、香川は「警察に届けなくていいんですか?」と、今度ははっきり口に出した。
日本における外国人労働問題について、実は俺はちょっとしたエキスパートだ。別に勉強熱心だとか、国民の一人として、今後の日本を憂いて改善活動を起こそうとしているわけではない。ある連続放火のせいで、知らざるをえなくなっただけだ。だから香川に言おうと思えば、いくらでも言うことはあった。だが、しなかった。そんな面倒臭いことはしたくない、――――そうじゃない。あの火災に関してのすべてを、過度な正義に身を焼き尽くして、今はもういない、くそ真面目で誰より優しい男――小坂《こさか》を、思い出したくなかったからだ。って、思い出しちまったよ。あーあ。
「どうせ稼ぐことしか考えていない連中だろうから、またすぐに違反するに決まってます。やっぱり、見逃してはいけないと思うんですよ」
彼女たちが違法に日本にいることと、消防法違反をすることがイコールになると言う、偏見ばりばりの発言にプチ切れかけた。
「それに警察に届けるのが義務じゃないですか」
さんざん誉めて、自分も兄貴のようになりたいとまで言った挙げ句に、兄貴の怠惰を責めるような口調に、言葉より先に肘が出そうになった俺を留まらせたのは兄貴だった。
「俺ぁよ、消防士の敵は炎と災害だと思っている。間違っても人じゃねぇ。相手が誰であろうが関係ねぇ。危なきゃ助ける、助けてくれって言われりや助ける、それだけだ。お前が国民の義務を果たしたいのなら、止めはしない。好きにすりゃいい」
すくい上げるような兄貴の視線に、半人前の香川を見下す冷ややかなものを俺は感じた。同じ意図を読みとったのだろう。香川は何かもにょもにょ言って、そのまま黙り込んだ。
「おっと、すまん」
とつぜんそう言うと、兄貴はひょいと商業ビル・ビビオの脇道に入った。そこには、由来は謎だが、なぜか七福神の石像が並んでいる。兄貴は端から石像の前に立つと、パンと一つ相手を打っては頭を垂れた。それを七回繰り返して、順番に七人の神様へのお参りを済ませる。
鰯《いわし》の頭も信心から、じゃないが、げんを担ぐ日本人はけっこういると思う。その中でも消防士は、常に生命の危険があるせいか、かなり多いに違いない。ことに兄貴はその最たる一人で、神様と名のつくものを見かけると、片っ端からお参りしてしまうのだ。
自分のみを信じない相手には、かえって罰を当てる神様もいるのではないかと不安な気もするが、兄貴に言わせると自分の力を誇示するために、神様が競って助けてくれるに違いないから、こっちの方が良いらしい。ものは考えようとは良く言ったものだ。
どれ、俺も願を掛けておくとしよう。今日も明日も、この先ずっと、俺が無事でありますように。早く事務勤に異動出来ますように。それと、どの神様でも良い、兄貴を無事に女房子供のところへ帰してやってくれ。――頼むぜ、ホント。
さて、今度こそ帰所出来る。帰ったら、まずは昼飯だ。当初俺は立検の帰りに、愛妻弁当持参の兄貴にお目こぼしをいただいて、駅の近くで何か目新しいものでも一人で喰ってやろうと目論《もくろ》んでいた。だが香川が一緒では、それは出来ない。なにしろ国民の皆様は自分たちを助ける職に就く消防士は、いつ何時の出場指令にも応じられるようにと、食事に限らず、なぜか単独で署外へ出ることを許して下さらない。そりゃ実際に救助活動を行う二十四時間の当番隊に対して、そう望まれる気持ちは判る。ただそれは事務勤務や日勤者は含まれてはいないはずだ。
細かい規定を知らない都民の皆様が、東京消防庁と縫い取りのある制服を着ている人を見たら、消防士と思うのは仕方ないし、消防士である以上、勤務時間内に外出するなと言われれば、それもまた仕方ないのかも知れない。面と向かって指摘されれば、こちらも違いを説明出来るから良いが、ただ目にして苦言を、それこそ都庁にでも訴え出られたら、都民の皆様の税金から給料を貰っている地方公務員の身分の東京消防庁の消防士としては困ったことになる。
だから仕方なく二十四時間勤務の自炊の材料も、今日のような日勤の昼食も、近くのコンビニやスーパーに電話かFAXで注文して届けて貰っているのだ。しかしさすがに毎度同じ店の中での選択肢では飽きてくる。だからせっかく駅前まで出たのだから、と考えていたのだ。
単独でなければ良いのだから、香川と一緒に食べれば問題ないのでは? うん、ご指摘ごもっとも。香川と面をつき合わせて飯なんて喰いたくないが、たとえ俺が妥協に妥協を重ねて香川を誘ったとしても、良い子の香川が勤務時間内に執務服姿で外食につき合うなど、まずありえないに決まっている。となると、最初の目論見通り一人でとなるが、兄貴が良いと言ってくれたところで、香川が反対する。それに確実に、帰って富岡に確実に言いつける。せっかく目新しい美味《うま》い物を食べたところで、のちに延々富岡の説教を聞かなくてはならないかと思うと、げんなりだ。諦めるとすると、帰所してからいつものように電話で注文しなくてはならない。それから届くのを待つとなると、―― 昼飯は遠い。さすがにどんよりした俺に、兄貴が追い打ちを掛けた。
「遅くなりついでに、本署に寄って、改善回答書を出してから帰るとするか」
改善回答葛は赤羽消防本署に提出しなければならない。赤羽消防本署は、赤羽駅東口から徒歩五分の場所にあり、今いる赤羽駅西口からなら、駅を越える時間を合わせても、まず十分は掛からない。ならば今、届けてしまえ、と言う兄貴の気持ちは判らないでもない。だが俺にとって赤羽本署はあまり足を向けたい場所じゃない。かつての事件を思い出してしまうのと、何より会いたくない奴がいるからだ。だが兄貴が行くと言った以上、行かなくてはなるまい。
すっかりブルーになった俺の横で、香川が嬉々として「そうですね」と、元気良く同意した。――なんかもう、今日の昼飯には永久にありつけない気がしてきた。
赤羽消防本署はJR赤羽駅の南通路の東口から徒歩五分――ただし、キャバレーなどのピンクゾーンを抜ける近道をして、さらに信号に引っかからなければ――のところにある、九階建ての建物といい、一階の車庫に並ぶ消防車両の数といい、第五消防方面一の大規模な消防署だ。
時刻は午後一時をわずかに回ったところで、ちょうど昼のミーティングが始まった頃合いなのだろう、車庫には人気がなかった。ポンプ車と消防車の各一台ずつしかない我が赤羽台消防出張所では、当番隊もそれぞれ一隊ずつの二隊のみなので、午前中に大きな災害出動でもない限り、滅多なことでもなければ昼のミーティングは行われない。だが救急車、ポンプ車|共《とも》に二台ずつ、はしご車に大型ポンプ車、災害給仕用の補給車に指揮隊車まで、八台の消防車両が揃っている赤羽本署ではそうはいかない。台数分だけ隊がある以上、定期的に全小隊に伝達事項を通達するべく、昼もミーティングを行なっているのだ。
本署の隊貞に挨拶しつつ、二階の事務室のドアを開けた瞬間、刺すような視線を俺は覚悟した。ただ幸運にも予想は外れたらしい。そろそろと事務室内を見回すと、どうやら不在らしく、苦手な人物の姿はない。ほっと胸をなで下ろす。あとは兄貴が改善回答書を提出し終えるのを待つだけだ。無事終了。ようやく帰れる。早く帰って飯にありつきたい。そう強く願っているせいか、帰り道を進む俺の脚は自然と速くなっていた。だが兄貴も香川も思いは同じらしく、文句を言うどころか、ほとんど同じ、ヘタしたら追い抜く勢いで歩いていた。ガタイの良い男が三人、ひたすら早足で歩いているのだから、そりゃ人も道を空けてくれる。
そんな俺たちの脚を止めたのは、赤信号だった。こればっかりは仕方ない。ふと視線を下げた俺の目が、向こう側でやはり信号待ちをしている人物に留まった。
向こう側にいたのは老人と子供だった。グレーのジャケットに黒いパンツ、頭にはグレーのハンチングの小柄な爺さんと、ジーンズに酒落たブルゾンの中学生? いや、あのチビさからすると、小学生かもしれない。お祖父ちゃんと孫が仲良くお出かけと言ったところだろうか。核家族だとか高齢化社会だとか、凶暴化する子どもたちとか、色々と問題の多い昨今だが、けっこう、けっこう、なかなか心暖まる光景だ。
やっと信号が青に変わった。よーいドン! の勢いで、大股で歩き出した俺たち三人はぐんぐん横断歩道を渡る。半分を越え、残すところ三分の一になった頃、真正面の老人と少年ペアに、再び俺は目を向けていた。なぜか俺は二人が気になっていた。どこかで会った気がしたのだ。それにしても妙な歩き方をするチビだった。頭の高さをまったく変えず、小さな歩幅でせかせか歩くその様は、まるでゼンマイ仕掛けの人形のようだった。そんな歩き方をするガキを俺は知らない。となると爺さんの方か。ハンチングの爺さんねぇ。二人とすれ違って二歩ほど進んだところで、記憶が蘇った。パンジーだ。この爺さんは、今朝すづさんのところにパンジーの花束を持ってきた爺さんだ。
そう気づいた瞬間、俺は振り返っていた。爺さんは少年の方へわずかに首を傾げて話し掛けていた。覗けた横顔は穏やかで、どこか嬉しそうだった。すづさんへパンジーの花束を持ってきた爺さんには、土曜日の昼間、こうして一緒に出掛ける孫がいた。だがその事実が俺の気持ちを暗くした。あの爺さんのように、すづさんにも孫がいたのだろうか?そう考えてしまったからだ。
「雄大どうした?」
首を振り向けたまま、前に向かって進んでいただけに、自然と歩くペースが落ちていたらしい。不思議に思ったらしい兄貴が声を掛けてくれたのだ。前に向き直ると、「何でもないっす」と応えて、俺は歩く速度を元に戻した。背後から、小さいが爺さんの笑い声が聞こえた。幸せそうな笑い声に、俺は心の中で呟いていた。――爺さん、幸せにうんと長生きしてくれ。
赤羽台消防出張所に戻ったのは、午後二時半を回っていた。まず最初にしたことは、コンビニへの電話だった。生田の兄貴もさすがに悪いと思ってくれたらしく、俺と香川の昼飯が届くまで持ってきた愛妻弁当に手を付けなかっただけでなく、注文する際に自分もデザートを頼み、俺たちにも奢ってくれるという大盤振る舞いだった。良い子の香川は、さんざ遠慮したあげく、健康面を重視した低脂肪のアロエ・ヨーグルト――しかも百二十円だ――を頼んだが、俺はカロリーも糖分もたっぷりの、しかもお値段二百五十円なりのバナナオムレットにした。白状するが、バナナオムレットは俺の好物だ。ガキの頃、初めて食べたときの感動は、今でも忘れられない。最初に考えた人は天才だと思ったほどだ。というか、今でもそう思っている。特盛カレー弁当を平らげて、いざ生クリームとバナナとスポンジケーキの三重奏の幸せに浸《ひた》っていたそのときだ。
閉じられたドアの外から、藤田のオヤジの声が聞こえてきた。来客らしく、ドアの磨りガラスから見える人影は二つだった。ドアが開いてオヤジが入って来た。その背後からつづけて、「失礼します」と、聞こえた。その声は俺にとって聞き覚えが、というより忘れようもない声だった。
「よお、仁藤《にとう》君」
富岡の嬉しそうな声が迎えたのは、赤羽本署予防課の仁藤|要《かなめ》だった。奴のフランチャイズの赤羽本署に出向いたときに出逢わずに済んで、超ラッキーと思っていたのに、なぜ奴がここ――赤羽台にいる?
はっきり言って、俺は仁藤が苦手だ。嫌いとか、見たくもないというのとは、ちょっと違うのだが、とにかく苦手なのだ。その理由は俺と奴の関わりというのか、歴史にある。
仁藤は俺の親父に命を助けられ、それ以来俺とは家族ぐるみのつき合いとなった。やがて人に感謝される消防士という職に酔いしれているだけの親父に、俺は幻滅した。あげく親父は、酔っぱらって放火したアル中を助けようとして、煙に巻かれて二階級特進、つまり殉職してしまった。俺は親父をますます愚かな男と、消防士を愚か者の仕事と馬鹿にするようになった。そんな俺に親父を消防士を尊敬しろとしつこく説き伏せようとしたのが、親父を尊敬するあまり自らも消防士になって特別救助隊員の道を歩んだ仁藤だった。奴に「なれるものならなってみろ」と言われて、売り言葉に買い言葉で俺は消防士になったのだ。そういう経緯のせいか、仁藤は俺の保護者気取りで、俺の行動を逐一《ちくいち》監視していて、何かというとケチをつけてくる。だから苦手なのだ。
「お邪魔します、富岡さん」
仁藤の挨拶の直後、がたがたんと騒がしい物音が響いた。見れば、俺の目の前の香川が、直立不動の姿勢で立っていた。
「お、お疲れ様です!」
いつもより1オクターブ上ずった声を出すと同時に勢いよく頭を下げたとたん、ごんっ! と、激しい音が鳴り響いた。立ち位置が机に近すぎたのだ。頭を強く打ちつけた香川が額を押さえると、そのまま床にしゃがみ込んだ。―――お笑い芸人のお約束かっての。
白けた気持ちで残り一口の貴重なバナナオムレットを口の中に放り込む。目の前で不愉快な事態が展開されても、それでもバナナオムレットは美味い。
「香川、大丈夫か?」
これまた生真面目に、あいかわらずやたらと整った、ホストになったら指名ナンバー1はまず間違いなしの顔に不安げな表情を浮かべて仁藤が香川の無事を訊ねた。ここは大笑いするところだろうに、まったくセンスのない奴。
「仁藤君を知っているのか?」
オヤジののんびりとした問いかけに、香川が滑舌《かつぜつ》もよろしく、消防学校で仁藤の授業を受けたと応えた。――なるほどね。とか思いつつ、俺はいかに速やかにこの場からフェイド・アウトをするか画策していた。変な理由をこねくり回すより、ここは誰もがそりゃ仕方ないと思うことにした方がよかろう。生理現象、つまりトイレだ。そう決めた俺は、指についた生クリームをぺろりと舐めた。
俺は黙ったまま極力音を立てないよう、目立たないようにイスから腰を上げた。半腰状態の俺の動きを止めたのは、「それで、今日は何すか?」という兄貴の質問への「岩淵町の火災の件で」という仁藤の答えと、それにつづくオヤジの「今日の朝一番に、本署に保険屋が来たんだってさ」という会話だった。
「今日っすか? 火事は保険屋が早いと言っても、そりゃ、いくらなんでも早すぎやしませんか?」
兄貴の言うとおりだった。確かに火災保険は他の保険と比べて調査は火災後、間髪入れずに行われる。火災の被災者、ことに全焼してしまった人は、すぐにも暮らす場所と資金が必要だということが考慮される。だからたとえ何かの事情があって保険調査に時間を要した場合でも、原則として二カ月以内に保険の支払い結果を出さなくてはならないことになっている。だとしても、火災翌日の朝一番に保険屋が本署の予防課に現れるなど、いくらなんでも早すぎだ。違和感を感じた俺は、話のつづきを聞くべく、そっとイスに尻を下ろした。
「保険会社に、被災者の二人の息子さんから問い合わせが入ったそうで。それも火災の当日に」
さらりと仁藤が応えた。
「実の子供たちが、火災の当日に保険会社に問い合わせを入れたんですか?」
信じられないという感情を通り越して、一気に憤《いきどお》りまで惨ませた声を挙げたのは香川だった。
香川の気持ちは判らないでもない。だが、いざ金の話ともなれば、人間がいかに醜く汚くえげつないものか。それを知りたければ、消防士になると良い。なかでも救急隊員になればなおさら良い。病人をこれから搬送しょうとしている矢先に、本人の目の前で家族が金の話で喧嘩を始め、あげくもう一台救急車を呼ぶことになった、なんて酒落にもならない話はいくらだってある。もちろん火消しのポンプ隊員も同様だ。今回のような、遺族が被災者の死を悼み、哀しむより先に金の話を始めるなんて、珍しくもなんともない。
「重過失かどうかの確認を急《せ》かされてまして」
重過失とは書いて字の如く、重い過失き焼身自殺や放火などを指す。その場合、もちろん保険会社は保険料の支払いを免責される。消防士になって自分でも驚いたのは保険屋と始終、顔をつきあわすようになったこと。ただし、やって来るのは可愛いセールス・レディーではなく、保険査定の鑑定人のおっさんばかりだ。奴らの目的はただ一つ、当該火災で自分たちの会社が保険金を支払わなくてはならないのか、知りたいのはそれのみだ。もちろん今週の運勢も革え貰えないし、保険商品販売促進のためのキャンディーやチョコレートも貰えない。潤いも出会いもない、つまんない職場。
「ろくでもねぇよなぁ」
不愉快さと諦観が半々の声でそう言ったのは、生田の兄貴で、「ほんとうに、嫌な世の中になったもんだね」と、ため息混じりに呟いたのは富岡だった。
「原調と損調は済んだのかい?」
話を現実に引き戻したのはオヤジだった。オヤジの言った原調とは火災原因調査のことで、書いて字の如く火災の発生した、そして火災が拡大して損害が増大した原因を調べることを意味する。損調とは火災損害調査のことで、火災そのものは言うに及ばず、消火のために受けた損害も調べることを指す。特に火災原因調査は消防法にも明記された、消防が行う重要な任務なのだ。
ここでちょっと思い出して貰いたい。新聞やテレビのニュースなどで、「警察と消防の調べでは」という言葉を使っているのを皆さん聞いたことがあると思う。これでは警察と消防が仲良く一緒に火災原因を調べているように思うだろうが、両者では「調べ」の目的はまったく異なる。放火の定義と同じく、警察はその火災の事件性について捜査する。その目的は犯人検挙であって、火災原因ではない。火災原因を突き止めることを目的として、そのための調査を行うのは、あくまで消防なのだ。もちろん調査理由は消防法に定められているからだけではない。
消防の仕事はいち早く火災現場に到着して消火活動を行うだけではない。防火指導も大切な仕事なのだ。調査結果は直接、次の火災を予防するデータになる。だからこそ消防はすべての火災の原因と損害の二つの調査を究明し、結果をまとめた幾種類もの書類を作成する。そこまで終わって、初めて消防としての火災は終了となるのだ。
「ええ、皆さんの細心の現場活動のお蔭で、水損なしの良い現場でした。ありがとうございました」
仁藤の口から出た「水損なし」という言葉と、藤田のオヤジにきっちりと下げられた頭を見て、俺は少しばかり良い気分になっていた。
火災の調査というと、鎮火後に行われるものだと世間では思っているに違いない。確かに本格的な調査は鎮火後、火災現場の遺留物をもとに行われる。だが実は火災の調査活動は、火災発生と同時に始まっているのだ。
火災現場において最優先されるのは消火、炎を消し止めることだ。今現在、放水は消火の最有効手段で、特に延焼を避けるためには必要不可欠だ。だが炎に向かって、やみくもに大量に水を掛けて消せば良いわけではない。注水が始まれば、一本のホースから毎分四百から五百リットルもの大量の水が、それも一本だけでなく何本ものホースから現場に注ぎ込まれるのだ。――ぴんと来ない? 二リットルのペットボトルが二百本、それ掛ける三とか四とか五の水量、それが分刻みで流し込まれていると考えてくれ。これなら判るだろう? 〜判らない? あー、だから、とにかく、火災現場にはとんでもなく大量の水が放水されるのだ。それも勢い良く。
だから不用意な注水は現場破壊、延いては貴重な火災原因の証拠を流し去ってしまう恐れがある。そのため筒先を担うポンプ隊の消防士は、鎮火後の原因調査のことも念頭に入れたうえで、ことに火点周辺では筒先を切り替えて噴霧注水することで、細心の注意を払って消火活動を行わなくてはならない。と言って、少量の水でもたもた消火していたら、現場は炎に焼き尽くされて何も残らない。これでは元も子もない。出動隊は被害を最小に抑えるべく、より早く、そして現場を維持するべく、より少ない水で、しかも短時間で火災を鎮圧しなくてはならない。俺たち現場勤の消火活動は、まさに原因調査に直結しているのだ。
仁藤がロに出した水損とは書いて字の如く、消火の放水損害のことだ。だから水損なしというの少ない水で、しかも早く鎮火した―――つまり、ポンプ隊員にとって、最高の誉め言葉なのだ。
「ただ残念ですが、いくつか室内に破損物品がありまして」
淡々とした仁藤の口調に嫌な予感を感じた俺は、当初の目的
トイレと称して部屋から脱出 ――を試みるべく、再び腰を上げた。
「破損物品って、何ですか?」
さぞ申し訳なさそうに、不安そうな声で訊ねたのは香川だった。
「落ちていたテレビのブラウン管が割れていた。あとダイニング・セットのイスの一つが壊れていたんだ。残念ですが、これらは消火活動中の破損じゃないようで」
前半を香川に向けて、後半をオヤジや富岡、生田の兄貴に向けて言った仁藤の声が、俺の記憶を蘇らせた。――こりゃヤバイ。早いところずらかるに限る。
「どうして活動中の破損じゃないって判るんですか?」
向上心に溢れる良い子の香川が素直に仁藤に訊ねた。
「リビングの飾り棚の上の水槽のヒーターが火点だったために、仕切もなくリビングとつながっていたダイニングもほとんど焼け焦げていたのは、今更私が言うまでもないことだけれど、ダイニングのテレビ台の天板は焦げずに残っていたんだ。これが何を意味しているか判るかな?」
訊ねられた香川は、判らないのか、すぐには応えなかった。もちろん俺には答えは判っていた。
「鎮火するまでテレビはテレビ台の上にあった、だからテレビ台の天板は焼け残ったってことだよ」
フォローの手を差し伸べたのは、富岡だった。
そのとおりだ。目で見える範囲の炎の鎮火後、再燃を防ぐべく、残火処理を開始しようとダイニングをぐるりと見回した際、俺は肘をテレビにぶつけてしまったのだ。防火服は炎と熟から身を守ってくれるが、衝撃から身を守る防具としての効力はなきに等しい。肘の一番とがった先端を力一杯ぶつけてしまった、あの全身が震えたほどの痛みは、今でもはっきり覚えている。痛さのあまり声も出せなかった俺はホースを抱えたまま、左手で右肘を押さえてその場でじたんだを踏み、痛みの怒りにまかせて空《くう》を蹴った。
そのときだ。がちゃんと何かが割れる音が聞こえたと同時に、右足の自由が利かなくなった。見下ろすと、俺の右足をがっちり捕らえていたのはテレビだった。俺にエルボーをかまされて床に落ちたテレビのブラウン管を蹴り割ってしまったのだ。
音を立てないように静かに、ドアに向かって大きく一歩踏み出した俺の背後から「身体をぶつけて落としてしまったんでしょうね」と、仁藤の声が飛んできた。
同時に背中に視線が集まっているのを感じた。そりゃそうだ。ここにいる仁藤を除く全員が昨日の現場に出ていたのだから、自分でなければ残る誰かが犯人に決まっている。俺に視線が集中しているということは、オヤジも富岡も香川も兄貴も、全員が犯人は俺に違いないと思っているのだ。
消防隊はチーム、いや家族だと、ことあるごとに言うくせに、家族の一員である俺を疑るなんて酷いっ! グレてやるつ!――つて、犯人は間違いなく俺なんだが。
「確かに不注意ではありますが、不可抗力かもと最初は私も思ったんです。ぐうぜんぶつけて落としてしまったテレビを、さらにぐうぜん蹴ってしまったと。ですが、それにまったく気づかないような総身《そうみ》に知恵が回りかねる鈍い隊員がいるとは、さすがに私も認めたくありません」
――すんげえ嫌み。世界嫌み選手権があったら、ぶっちぎりで仁藤の優勝間違いなしだ。
「それにキッチンのイスも。残る三つのうち、火点に近い二つは全焼崩壊していましたが、火点から遠い並列に並べられた二つのうち、左側の一つが全壊しています。右側は焦げているとはいえ、形状を維持しているのに。これも火損でも水損でもなく、何かがぶつかったようなんです」
それについては少しは申し開きが出繰る。香川のゲロを浴びて、一歩飛び下がった拍子に尻をイスにぶつけてしまった。それで炭化して脆くなっていたイスが崩れたのだ。
「不可抗力であれ、現場を変えてしまったのなら、調書に書き残せば良いだけのことです。ですが拝見させていただいたかぎりそれもない。まさか、故意とは思いたくないのですが」
冗談じゃない、そりゃ面倒臭いし、これくらい良いかと思って調書に書くのははしょったが、だからと言ってわざとのはずがなかろうが。立ち止まって怒鳴り返そうとした矢先、「いや、そりゃないっすよ」 と、すかさず否定してくれたのは生田の兄貴だった。
「ですよね、うっかり忘れただけでしょう。だから調書の再提出を待つとします」
すんなりと同意はしたものの、だから以降の言葉を、ひらがな一文字一文字区切って、あたかも俺の背に突き刺されとばかり投げつけるように、はっきりと仁藤が発音した。くそっ、マジでムカつく。それでも俺は極力平静を保って事務室から脱出した。
トイレに寄ったあと、すぐに事務室へは戻らなかった。富岡と香川の二人で充分うざったいのに、そのうえ仁藤の野郎が居座ってるのに冗談ではない。ネギだけでなく、卓上コンロとガスボンベと調味料、豆腐に椎茸やニンジン、締めの雑炊用のご飯と卵まで担いで腹を空《す》かした人間の前に行く鴨になんてなってたまるか。もう少し時間を潰してからと、駐車場へ降りる。駐車場では第三係が点検審査会に向けての訓練の真っ最中だった。軽く目礼などしつつ、駐車場の奥へと進む。防火服の臭いの確認をすることを思い出したからだ。
駐車場の奥は、壁一面がヘルメットや防火服や防火靴を収める扉なしのロッカー―――防火服ラックになっていて、防火服を当番の三人で一枚共有しているだけに、ラックも三人で一つを使っている。だがサイズの都合で防火服を一人で所有している俺は、ラックも一人で一つ使っている。他人と共有よりも、やはり一人占めは気分が良い。
ラックの中に顔を突っ込むと、ハンガーに吊した防火服の臭いを嗅ぐ。いちおう収まっているようにも感じたが、念のためにと防火服の袖も持ち上げて、さらに臭いを喚ぎ回る。
「なぜ手を抜く」
とつぜん背後から話しかけられて驚いた俺は、動くことも出来ずに、防火服の脇の下に鼻を押しつけたまま視線だけ声の主に向けた。
ここまで追いかけてきて嫌みを言う奴は、俺の知る限り一人しかいない。仁藤だ。同じ嫌みを言うにしても、富岡は追いかけてまでは言わない。だが、呼びつけて言うのだから、タチはもっと悪いか? ま、どちらにしても、俺にとって鬱陶しいことには変わりない。
「誰にだってミスはある。壊したことを注意しているんじゃない。してしまったのなら、その旨きちんと調書に書けと言っているんだ」  あー、はいはい。しつけーな、まったく。腹の中で毒づきながら、防火服から手と顔を離し、姿勢を戻す。しかしなぜ気配、いや足音に気づかなかったのだろうか。仁藤は事故で片足を怪我したために、歩くたびに頭が上下に揺れ、それと同時に独特の足音も立てていたはずだ。
反感と疑問の入り交じった視線を向ける俺をよそに、仁藤はラックの中に手を突っ込むと、断りもなく俺の防火服を片手で取り出した。防火服のジャケットの重量は、五キロと決して軽くない。重さが分散される着用時でも、ずっしりと重みを感じるシロモノだ。それを片手で吊り下げようものなら―――、五キロの米袋を片手だけで吊り下げることを想像していただきたい。大した重みだろ?
だが仁藤は相も変わらず、整った顔のどの部分も一ミリたりとも動かさずにやってのけた。そしてしげしげと防火服を見つめてから、「へたに消臭剤を使わない方が良い。残った臭いと混じって、かえって酷い臭いになる」、そう言って、防火服をラックに戻した。
「この臭いを消す一番の方法は」
そこで仁藤は言葉を止めた。
「なんだよ、勿体《もったい》ぶらずに言えよ」
ぶすっと言い返すと、わずかに眼を細めた仁藤が「現場に出ることだ」と、応えた。
返す言葉がなかった。臭いを消すにはより強い臭いを。確かに火災出場すれば、今ついている臭いは消えるだろう。だがそれは、火災の焦臭に塗り替えられただけだ。もちろん、時が経てば、いずれ臭いは自然と抜ける。出来れば後者を願いたい。それだけ火災出動がないということだから。
「かもな」とだけ答えて、俺はとっととその場から立ち去ることにした。仁藤の脇をすり抜けたと同時に、「香川を助けてやったそうだな」と、話し掛けられた。頭だけで振り向いて、軽く領き返す。お褒めの言葉でもいただけるのかと思いきや、会話はそこで終っていた。期待するだけ無駄とは判っていたが、それでもなんか、拍子抜け。顔を前に向け直して、再び歩き出す。
「篠原さんの死因だが」
仁藤の言葉に脚が止まった。司法検死の結果が出たのだ。
「窒息だ」
驚きはしなかった。火災による死因で一番多いのが火傷によるものだが、次いで多いのが一酸化炭素中寿から引き起こされる窒息だった。窒息と言い切ったということは、気管や肺の中に煤《すす》が入っていたのだろう。つまりそれは俺の願い通りではなかった。すづさんは火災の最中に目覚めて、苦しんで亡くなったということだからだ。
「それも、水死に限りなく近い窒息死だ」
「|あ《〃》?」
出てきた言葉に、濁点付きひらがな一文字で訊ね返していた。意味が判らなかったからだ。火災現場で水死なんて真逆の言葉が出てくれば、誰だって狐につままれたような気分になるだろう。
「火傷は口腔内と口蓋のみだったそうだ。火を飲み込んだ衝撃に、それ以上の火を避けようと気管が閉じて窒息して死亡した」
仁藤はそこで言葉を止めた。それから、それまでとまったく変わらない淡々とした口調で「長くは苦しまなかったはずだ」と、言った。
ならば、身を焼かれる苦しみは、誰も助けに来てくれない絶望的な悲しみは、感じずに済んだのかもしれない。花粉アレルギーの薬でぐっすりと眠っていたすづさんが、異様な気配を察して目を開く。周囲には炎だ。驚き、助けを求めて口を開いたと同時に、口の中に炎の塊が飛び込んだ。熱さと痛みと恐怖に、意識して命じたわけでもないのに自然と気管が閉じた。固く、しっかりと。そして呼吸が出来ずにすづさんは亡くなった。頭の中に光景が浮かんだと同時に、口の中になぜか苦みを感じた気がした。
「こういう窒息の仕方は普通は溺死に多いそうで、大塚《おおつか》の先生方も珍しいと言っていた」
大塚――東京都監察医務院―――の先生、ということは司法解剖には回されなかった、つまりすづさんの死は他殺ではなかったということになる。
「珍しかろうがなかろうが、そんなことはどうだって良い。俺には関係ない」
ぴしゃりと仁藤に言い返す。確かにすづさんの死因には興味があった。だが訊いてもいないのに、事細《ことこま》かに説明をする仁藤が不愉快だった。それに長く苦しもうが、苦しまなかろうが、すづさんが亡くなったことに変わりはない。今度こそ、仁藤を残して立ち去ろうと歩き出す。
「引っかかるところがあった。だから今朝、岩淵町の現場に来たんだろう?」
またもや仁藤の言葉が俺の脚を止めた。今朝俺が現場に寄ったことをなぜ知っている? 以前から俺の言動が仁藤に筒抜けで不思議に思っていたのだが、その謎は既に解けていた。俺が出場するたび、仁藤は藤田のオヤジに電話を入れていた。俺の仕事ぶりを訊き、無事を確認していたのだ。その電話はあいかわらず続いているらしい。確認したわけではないのだが、受話器を置いたあとにオヤジが、なんとなく俺に視線を向けていることがあるから、多分そうなのだろう。
出場を知られるのは、同じ管区である以上、出動指令は聞いているし、記録も残るし、どうしようもない。だが今朝はほんの思いつきで寄っただけだ。それこそ、瀬川の馬鹿を捕まえなければ行ってなかっただろう。だとすると、なぜ仁藤は、俺が今朝現場に寄ったことを知っているんだ? 訝《いぶか》しがる俺を前に、淡々と仁藤は言葉を続けた。
「いくら睡眠作用のある薬を飲んでいたとはいえ、あの姿勢で亡くなっていたことに、疑問を持ったんじゃないのか?」
俺はただ仁藤を睨みつけていた。仁藤は俺より頭一つ分背が低い。だから瞼を半分伏せて見下ろすことになる。はっきり言って、俺の半眼見下ろしは、「|あ《〃》」の濁点付き語尾上げとともに、かなりの効果がある。ちょっと粋がって派手なシャツで北池袋辺りを肩で風切るお兄さんたちでも、道を空けるくらいの威力は未だにある。しかし仁藤は整った顔の表面を一ミリも動かさずに、ただ俺を見つめ返していた。けっきょく、先に視線を逸らしたのは俺の方だった。瞬きすらしないアンドロイドのような仁藤に恐れをなしたというのもあるが、はっきり言おう、奴の言ったことは図星―――その通りだったからだ。
俺はすづさんの死に疑問を抱いていた。睡眠成分の入っている薬を飲んだとしても、いくら八十を超えた高齢だとしても、体が不自由だというわけでもないのに、俯《うつぶ》せにすらならずに焼死したのはおかしいと思っていたからだ。
起きあがれなかったのには、何か理由があるはずだ。たとえば通常よりもはるかに多く薬を飲んでいたとか。もしそうだとしたら、果たして自分の意志で飲んだのか、それとも飲みたくないのに誰かに飲まされたのか。
飲みたくないのに飲まされたのならば、飲ませた誰かがいる、他殺――殺人だ。すづさんが生きていては困る誰かが、すづさんに大量の薬を無理矢理飲ませて、わざと水槽用ヒーターのコードの劣化した部分を空気中に露出させた。それも安全装置が働かないように絶妙にだ。そしてヒーターは火を噴き、そいつの計算通り、すづさんは亡くなった。
だが、司法解剖でないとなると、他殺の線は消えた。ならば薬を飲んだのは、すづさん自らの意志となる。飲んだことを忘れて二回分飲んでしまったとか、正しい用法ではないが、薬の効きを良くしようとわざと多めに飲んだとか、そしてぐっすり眠っていたところに、劣化したヒーターのコードが火を噴いた。これならば、単純な失火による過失死、不運な事故死だ。
だが可能性はもう一つ残っている。覚悟の死を選んだすづさんが、うっかりではなく、わざとヒーターから失火するようにしたうえで、薬を多く飲んだ。そして命を落とした。―――だとすれば自殺、それも放火自殺だ。
どちらであろうと、すづさんが亡くなったことに変わりはない。しかし法律上ではまったく別物だ。燃やしたものが自分の家であろうと、結果、自分の命を落とそうと、放火は放火だ。現住建造物等放火――刑法第一〇八条が適用され、刑の重さは死刑又は無期、若しくは五年以上の懲役になる。にも拘わらず、自殺の方法に放火を選ぶ人は決して少なくない。平成十四年の火災による死者数は二千二百三十五人で、うち放火自殺者数は八百六十三人、死者数全体の三分の一以上が自殺なのだ。
死の種類はいくつもある。もちろん自殺の方法もだ。死を望んだ人間が、どの方法を選ぶかばそれぞれの事情によるだろう。どういう理由でどういう方法を選ぼうと、それはそいつの自由だ。だが、放火自殺はいかがなものかと思う。そいつのために消防士――ことに俺が、危険な目に遭わなくてはならない理由があってたまるか。最期くらい、立つ鳥跡を濁さず。そもそも他人に迷惑を掛けてはいけないということは、保育園のお約束レベルの人としての基本だろう。
ともかくも、すづさんの死が不幸な事故死であることを、俺はただ祈った。自ら死を選び、それも生きたまま焼け死ぬなんて、とんでもなく辛くて苦しい死に方を選んで、たった一人でペットのカメを残して亡くなったなどとは思いたくなかったからだ。
「火点は水槽のヒーターだった。残存物からも、ヒーター自体に細工はなかった。単純にコードの劣化部分のショートによる発火だ」
俺の物思いを、またもや仁藤がぶち壊した。単純にという言葉にかちんと来たのだ。すづさんの死が愚かしくも軽々しいものと扱われた気がして、他殺ではないともう判っていたにも拘わらず、俺は反論していた。
「ヒーターを斜めに置くくらい、誰にだって出来るだろが」
「篠原さんが寝入ったときに出火するように、誰かがそうしたとでも?」
「無理矢理、薬をたくさん飲ませて、ヒーターをわざとああ置いたかも知れないじゃねぇかよ」
俺の青葉を完全に聞き終えてから、仁藤が口を開いた。
「解剖の結果、篠原すづさんの体内から検出されたのは、塩酸ジフエンヒドラミン二十ミリグラム、グリチルリチン酸こカリウム二十ミリグラム、リボフラビン一二一ミリグラム、塩酸ピリドキシン三・三ミリグラム、オロチン酸二十ミリグラムだった」
「|あ《〃》?」
とつぜん小難しい名称と微少なグラム数を連呼されて、俺はひらがな一文字で聞き返していた。
「薬の成分は、飲み残しのアレルギー用の抗ヒスタミン市販剤と一致した。その薬の一日の成人の経口容量は一日九錠、朝昼晩一回三錠の分飲だが、体内から検出された薬量はそれより少ない二錠分だった。―――大塚の先生方の統一した見解だ」
三錠飲むところが二錠、つまり通常よりも少なかった。それでは誰かに無理矢理に大量に薬を飲まされたという俺の説は成り立たない。医学は揺らぎのない事実を突きつける。ここまで言われては、返す言葉もない。
「そうかよ」
吐き捨てるように言うと、俺は仁藤に背を向けた。実はまだ、一つ気になっていることがあった。残されたカメだ。水槽ごと本署に持ち帰られたカメがどうしているのか、俺は知りたかったのだ。実はカメを発見したのは、俺なのだ。
鎮火した現場で、水槽の中に何かが動いているのを見つけた俺は、何だろうと近寄った。それは三センチほどのちっぽけなカメだった。水面に浮かび、ガラスに頭をぴたりとくっつけたカメは、これまたちっぽけな手足をばたばた動かしていた。カメの視線の先には、横たわるすづさんがあった――ように、俺には見えた。もちろんカメにすづさんが亡くなったことが判っているかどうかは定かではないし、そもそもすづさんとコミュニケーションが取れていたかどうかも判らない。だが俺にはカメのその動きが、少しでもすづさんに近寄ろうとしているように思えたのだ。
あのカメは今はどうしているのだろうか。出火原因が判明した今、遺族に水槽ごと遺品として返されることになるはずだが、誰か引き取ってくれる人がいるのだろうか? すづさんのように可愛がってくれる誰かがいるのだろうか? ――訊くべきか、訊かざるべきか。頭の中でちっぽけな甲羅の黒いカメが、のたのた歩き回っていた。でも仁藤に訊くのだけは嫌だった。思い悩んでいる最中、仁藤の声が俺の背に掛けられた。
「あのときもそうだった。おかしいと思ったお前は当番明けなのに、わざわざ現場に立ち寄った」
あのときも―――、思い出したくもない哀しい火災。誰より真面目で仕事馬鹿で優しい、だから許せなかった入国警備官の小坂は、今はもういない。
「消防士としては、お前はまったくなっちゃいない」
人が苦い思い出に遠い目をしてしんみりしているところに、何を言いやがる。むっとして睨み下ろすと、仁藤は整った顔のうち口の周り以外は一ミリたりとも筋肉を動かさずに、「だが、人としてのお前は信用できる」と、とうとつに言った。
いちおう誉め言葉と取って良いのだろうが、仁藤に言われると、どこか面映ゆい。なので口を噤んだままやり過ごす。
「俺もあの現場には引っかかっていた。だから今朝、寄ってみたんだ」
俺があの現場にいたのを、仁藤が知っていた理由が判明した。こいつも来てやがったのだ。
「他殺ではないし、出火原因も失火としか言いようがない。放火ではないと判断されたところで、警察は手を引いた。だが本当に失火だったのか、俺は疑っている」
仁藤はそこで口を噤んだ。その先は言われなくても判っていた。仁藤が疑っているのは、俺と同じく、すづさんの覚悟の放火自殺だ。
「火災による死者のうち、放火殺人と、その巻き添えでの死者を除く、失火による住宅火災の死者の半数以上が高齢者だ。そう考えると、今回の火災もそのうちの一件と片づけてもおかしくはない」
「なら、片づけてやれよ」
思わず口をついていた。このまま仁藤に喋らせつづけていたら、すづさんの放火自殺が立証きれそうで嫌だったのだ。火点は水槽の中のヒーター。出火原因はヒーターのコードのショート。これは動かしようのない事実だ。ならばそれで終わりで良いだろう。消防士の俺としては、たとえ自殺であわ放火は許せない。でも、すづさんはもういない。たった一人でその身を炎に焼かれて世を去った。ならば今更、放火自殺かどうかを暴き立てて、死者に鞭《むち》打つ必要もないだろう。
「それは出来ない」
俺の優しい気持ちからの発言を、仁藤は秒殺しやがった。それも相も変わらず整った二枚目面のままでだ。
「理由や結果がどうあれ、放火は罪だ。公共に危険を及ぼす以上、見逃すわけにはいかない」
そんなことは俺だって良く判っている。放火犯を見逃して許す気など、さらさらない。だから今日未明だって、瀬川の馬鹿を見逃さず、タコ殴りにしたりもせず、Pちゃんに引き渡したのだ。
「延焼もなく、周囲に被害は出さなかった、それに本人も亡くなった。ならばこれ以上、死者の罪を暴かなくても良い」
ずばり心情を言い当てられて、俺はむっとして仁藤を睨み下ろした。だが仁藤は俺の敵意のこもった視線をもろともせず、淡々とつづけた。
「では訊ねる。お前は自殺者ならば、放火しても良いとでも言うのか?」
それには返す言葉がなかった。放火は許せない。許すことなど出来ない。例外はない。
「人の命や財産を炎から守るのが消防士の仕事だ。消防士は誰よりも炎の近くへ行き、戦わなくてはならない」
仁藤はそこで言葉を止めると、真正面から俺を見据えてこう言った。
「消防士の命は安くない。焼身自殺を試みた男に、お前が言った言葉だ」
確かに一年半前、ある現場で俺はそう言った。リストラを苦に乗用車の中にガソリンを撒いて焼身自殺を図った男に、死ぬのは勝手だ、だが火が出たら最後、その火に立ち向かい、危険に身を晒されるのは他ならぬ消防士だ。消防士の仕事が火を消すことだとしても、誰かの身勝手のために、消防士が身を危険に晒す必要がどこにある? 消防士の命は安くない ――、そう俺は言ったのだ。
「俺も同意見だ」
仁藤の声が、俺を回想から現実に引き戻した。
「消防士の仕事は人を救うことだ。だが、一人でも多くの人の命を救うためには、まず消防士自身の身の安全を確保しなくてはならない。安全が保障されてこそ、消防士ははじめて、より多くの人命を救うことが出来る。防火服、機材、装備、消火方法、どれもが危険から消防士の身を守るものだ。だから日々、研究され開発されている」
ロッカーの中に掛かった防火服、駐車場に停められ、第三係が点検しているポンプ車と救急車を言葉に出した順番通りに目を向けながら、仁藤が先をつづけた。
「だが、何より大切なのは火災自体の数を、出動回数を減らすことだ。失火を減らすための防災意識の啓蒙は、人々の生活に直接関わる分、聞き入れて貰いやすいし、実際、何よりも効果がある。しかし、放火は別だ。炎が産み出す災害の怖さをただ伝えるだけでは、残念だが防止することは出来ない。放火が犯罪で、罪になることを広めなくてはならない。たとえ焼失した物が放火した本人のもので、周囲には何一つ被害を及ぼさなかったにしても、命を落としたのが本人だけだとしても、放火は罪だと世に知らしめなくてはならない」
決意に満ちた仁藤の声がそこで止んだ。仁藤は口を噤むと、しばしただ俺を見上げていた。妙な間の居心地の悪さに、俺は右手を挙げると、頭を動かすようにして頭皮をばりばりと掻いた。
「何か気になることがあるのなら、いつでも言いに来い」
最後は素っ気なくそう言うと、仁藤はきびすを返して歩き始めた。
意外とあっさり引き上げたことに、俺はどこか拍子抜けしていた。けっきょく仁藤は何をしに来たのだろうか。すづさんの死因をわざわざ俺に告げに来たとか? 調書には、嫌でも目を通すのに、まったくご苦労なことだ。
さて、そろそろ事務室に戻らなくてはなるまい。長時間席を外していると、また富岡と香川の連合軍の嫌味攻撃を受ける羽目になる。仁藤のあとを追うように歩き出そうとしたとたん、先を進んでいた仁藤が脚を止めた。そして首だけで振り向くと、「いつまでここで、さぼっているつもりだ?」と、言ってのけやがった。
延々とお前が話して止めたくせに、何だこの野郎と言い返そうとした矢先、「自分の手で人を救うだけが消防士の仕事ではない。消防士を守る。これが消防士として今の俺に出来る人命救助につながる最大の仕事だ。それに気づかせてくれたのは、他ならぬお前だ。――感謝している」早口でそう言うと、仁藤は前に向き直った。
毒気を抜かれた俺は、言い返すことも出来ず、立ち去るその背をただ見送っていた。
子供の頃、俺の親父に命を救われたがために、一人でも多くの命を救わなくてはならない、そのためだけに生き、消防士でありつづげ、救助活動中に膝を怪我したにも拘わらず、なお現場に復帰しようと日々体を鍛えつづけている仁藤の口から、そんな台詞が出てくるとは思ってもいなかったのだ。
俺は両手を髪に突っ込んで、シャンプーをしているかのごとく頭を掻いていた。とりわけ痒かったわけでもない。ただなんとなく、そうしたかったのだ。
でも俺は気づいていた。去っていく仁藤の頭は以前ほど上下していなかった。近づいてきた仁藤の足音に気づかなかったのは、間違いなくそのせいだ。つまりリハビリは進んでいる。仁藤は体を鍛え続けているのだ。たんにより健康になろうとしている、または現場復帰を目指している? 果たして仁藤がどちらを目指しているのか、俺には判らない。というか、どっちだろうと、俺の知ったことではない。仁藤の人生は仁藤のものだ。長生きするのも、命を粗末にするのも奴の自由。
ただ、一つだけ判っていることがある。相も変わらず奴は仕事馬鹿だ。ということは、まだまだ俺への監視の目は続くに違いない。そう考えると、ホント、うんざり。ため息をついたところで思い出した。――カメのこと、訊かなかった。
第三章
週休の二日目、約束の午後六時に蓬莱のがたついた引き戸を開けて店に入ると、裕二の姿はまだなかった。今日、裕二は現場に出ている日だから、待ち合わせの約束はあってなきがごとしなのは、什方ない。
「いらっしゃいー」
微妙にイントネーションのおかしな声で迎えてくれたのは、江《コウ》さんだった。ただし、今年三月までいたニンニクのたっぷり入ったニラ餃子と、歯ごたえシャキシャキの野菜炒めが得意だった青海省出身で、故郷に橋を掛けトンネルを造るために建築を日本の大学に学びに来た江さんではない。江さんは無事に修学を終えて帰国してしまったのだ。
江さんの帰国に伴って、蓬莱に残されたのは、またラーメン以外は食べられたものではない店に逆戻りしてしまうのかという不安だった。だが、心配は無用だった。江さんは自分が去るに当たって、後任を推薦していたのだ。そして奇しくも同姓の江さんが江さんの紹介で―――ややっこしい! ―――バイトに入った。だから今、俺に挨拶してくれたのは、新しい江さんだ。
今度の江さんは麻婆豆腐で有名な四川省の出身で、ありがたいことに前の江さん同様、料理上手だ。そして新・江さんの加入により、蓬莱のお薦めメニューは変わった。麻婆豆腐と麻婆春雨、麻婆茄子の三大麻婆料理になったのだ。なんでも、使っている山椒は江さんの故郷から送って貰っている本場ものだそうで、舌から脳みそまで痺《しび》れるその感覚は、日本の山椒とはまるで違って、一度食べたら病みつきになること請《う》け合《あ》いだ。
裕二には悪いが、一足先に始めさせて貰うことにした。店内に漂う美味《おい》しそうな匂いの中、空《す》きっ腹を抱えて、いつ来るか判らない裕二を待つのは辛すぎる。
「江さん、麻婆茄子とビールの大」
注文するついでに勝手に冷蔵庫からおしぼりを取り出して、空いているテーブル席に腰を下ろす。
「はい、かしこまりました!」
厨房の奥からえらく丁寧な声が返ってきた。今度の江さんは、発音はともかく、尊敬語も謙譲語もパーフェクト。はっきり言って、俺より椅魔で正しい日本語を知っている。
「雄大さん、今日はお仕事、お休みでらっしゃいますかー?」
つき出しのザーサイの載った小皿を手に、厨房の奥から出てきた江さんの顔は、強い火力に煽《あお》られて真っ赤に上気しているし、汗みずくだったが、それでもどこか涼しげで爽《さわ》やかだ。
「そ、休み」
「そうですかー、いつも、ご苦労さまですー」
そう育って、丁寧に江さんは頭を下げた。俺の仕事が消防士だと知って以来、俺のことを尊敬してくれているらしい。もとより誰に対しても礼儀正しい江さんだが、中でも格別俺に対しては腰が低く、いつも心配りのある言葉を掛けてくれたりするのが、実はちょっとだけ嬉しい。
「お休みなら、辛さ、控えめにしておきますかー?」
こういう気遣いもまた、江さんの人気の秘訣だ。作り置きではなく、注文を受けてから作る麻婆料理は、客の好みに応じて辛さが微妙に異なる。しかも江さんはお客の好みをきちんと覚えているだけでなく、その日の顔色だとか状態によって辛さを変えてくれるのだ。その心配りに、多少小汚なかろうが、店がリピーターで常に混むようになったのも納得だ。
「うん、ちょい控えめにして」
「はい、かしこまりましたー」
カウンター越しの店と客との暖かいコミュニケーションが終わったと同時に、がたがたと音を立てて店の引き戸が開けられた。待ち人来たり、裕二だ。
現れた裕二の目は半眼だった。それが何を意味しているか、俺は知っていた。機嫌が悪い。それも、とんでもなく。
江さんの丁寧な挨拶に、MAlのポケットに突っ込んでいた手を出すと、追い払うかのごとく振って応えた裕二は、これまた機嫌の悪さを証明する「よ」と、一言のみの挨拶をして、俺の正面の席にどすんと腰を下ろした。
「なんかあったか?」
一応、訊いてみる。ただし一度だけ。深追いはしない。応えるか応えないかは裕二の自由だ。返事はなかった。むっつりと黙り込んだままの顔を、正面から眺める。裕二の口元に動く気配はない。つまり、以上終了というわけだ。となると、裕二はこの先ほとんど口を開かない。これは今日は重苦しい夕食になりそうだ。こりゃ、まいったと覚悟する。裕二が「麻婆春雨、激辛。それとビール」と注文の声を挙げた。ぶっきらぼうなその声もまた、今夜の裕二は要注意と警告を発していた。
「はい、かしこまりましたー」
江さんも裕二の様子がおかしいことに気づいたのだろう、いつもなら、「本当に辛くしていいんですかー? すごく辛くしちゃいますよー」と、確認の声を掛けるのだが、それもなかった。素早くザーサイを載せた小皿にビールとコップを持ってくると、ちらりと裕二の顔を眺め、何も言わずにそそくさと厨房へと引っ込んでいった。
裕二は自ら手酌でコップにビールを注いだ。手先の器用な裕二はビールの注ぎ方も堂に入ったもので、いつもならどんなサイズのコップであろうと、黄金色の液体の上にふっくらとした白い泡がバランス良く乗った、芸術的な一杯を創り出す。
だが今日は違った。乱暴に瓶をつかむと、がばっと瓶の底をあげるようにしたものだから、小さなコップの中は、ほとんど泡になってしまっていた。こりゃあ、覚悟しないと。俺が知る限り、この機嫌の悪さはかなりのものだ。
およそ上品とは言えない音を立てて泡を啜《すす》った裕二は、意外と静かに机の上にコップを戻すと「電話があった」と、呟いた。
誰から? と、訊ねようとは思わなかった。裕二の交友関係はほぼ把握している。職場関係、不特定多数のガールフレンド、最近増えた海外からが一本、あとは俺。裕二に電話を掛ける奴といえば、そんなところだ。その誰もが裕二をこんなにも不機嫌にさせるわけもない。
では一本の電話だけで裕二をここまで不機嫌に出来る人物は誰なのか。一人だけ心当たりがあった。裕二の家族 ――― 父親だ。だがここ数年、没交渉のはずだ。今頃掛けて来たのだとするのなら、いったい、その理由はなんだ?「家のリフォームを頼みたいんだってよ」 肝心な誰からかを裕二は言わなかった。でもあえて訊かずに、ただ裕二の次の言葉を待っていた。
「すごいぜ。開口一番、『やあ、裕二、父さんだ』だぜ」
せせら嗤《わら》うような口調で、底に泡の残ったコップを手で弄びながら、淡々と裕二は話し始めた。予感的中、やはり相手は裕二の父親だ。
電話を掛けてきたのは、いかにも裕二の父親らしい理由だった。某本省に上級公務員としてお勤めの裕二の父親は、部下との交遊を図ると称して、たまに部の若い女性を昼食に誘っているという。
職場のある霞ヶ関から銀座までは丸ノ内線で一駅だ。だから昼食にはちょいちょい銀座まで出てランチと酒落込んでいる裕二の父親が、彼女たちと机を挟んで向かい合ったのは、夜になるとコースしか出さない――それも最低価格が二万円からの――お酒落なイタリアン・レストランで、その席で彼女たちが出した話題が、手に職がある男性は魅力的だ、だった。
手に職と言っても、しょせん身体が資本の肉体労働者だし、大した生活は望めないと、裕二の父親がいかにも見下した台詞を吐こうとした矢先、彼女たちの一人が鞄から女性雑誌を取りだして机の巨に広げた。開かれた貢で、裕二の父親が目にしたのは、「今、汗して働く男が美しい」という企画云々と、その下に大きく載っていた、たった一人の息子の顔写真だったという。
驚いた裕二の父親が彼女たちに話を聞くと、嬉々として彼女たちは裕二が雑誌に取り上げられるようになった経緯を話したのだ。さらに、ぜひとも紹介して欲しいと頼みもした。そして安請《やすう》け合いした裕二の父親が、電話を寄越したというわけだ。裕二が高校を卒業して、一人暮らしを始めて以来、一度も会わずに五年も経った今、しかも出勤前の朝六時半にだ。
「存在すら忘れていた息子が、人の話題にのぼるような活躍をしていると知ったとたんに連絡寄越して、さも子供思いの父親面して、飯でも食おうだとか、仕事を依頼してやろうか? だってよ」
醒めた口調で裕二は呟いた。
点け放しのテレビの音と江さんの調理する音、あとは客の話し声、店内はいつもとまったく変わらずざわついている。だが、俺たちのテーブルだけは、音が途絶えていた。
「良い父親面して、俺に感謝されたいんなら、して欲しいことはただ一つだ。――― 死んじまえ」
一呼吸置いて、裕二は淡々と、しかし語気荒く吐き出すと口を噤んだ。
おりしも点け放しのテレビでは、家族思いの父親が加入を決意する生命保険のCMが流れていた。そのあまりのタイミングの悪さも含めて、俺は何も応えなかった。裕二の気持ちを慮《おもんばか》っただけでなく、真面目に呆れて言葉が出なかったのだ。
手に職系の工務店員を目指したのも、高校を卒業して以来、家を出て一人暮らしをしているのも、今日の裕二がある理由のすべては、裕二の父親にあると言って間違いない。
裕二は板橋区は加賀一丁目にある百坪の庭付き一戸建ての跡取り息子で某省の上級公務員と、同じ省の売店でアルバイトをしていた高卒の母親との間に、世間で言うところの出来ちゃった結婚の末に産まれた。裕二の祖母は息子を溺愛するあまり、自分の理想とかけ離れた嫁 ――― 裕二の母親を、とことんいびった。それも自分が肝臓癌に侵されて、在宅看護で一切を世話になっていたにも拘わらず、感謝の気持ちの欠片もなく、この世から去る最後の最後までだ。
やっと祖母が亡くなったと思ったら、今度は財産分与で揉めに揉めた。その理由も情けないことに、ただの一度も自分では介護をしていない裕二の父親が実の姉二人に対して、面倒を看ていないのだから相続は少なくてとうぜん、逆に自分は多く貰う権利があると言い出したことにある。最終的に裁判にまでもつれ込んだ結果、遺言書がなかったこともあり、法律に則って財産は等分に分配された。そして父親は妻に言い放ったのだ。
「母さんの気に入る女にすれば良かった。そうしたら遺言書をきっちり残して貰えたのに」と。それも夕食の席でだ。その翌日、裕二の母親は自宅で首を吊った。自殺で片づけられた。
裕二の母親の死が自殺なのは事実だ。だが一つだけ秘密があった。裕二の母親の遺体を発見したのは、友人の大山雄大君と遊んでいて、外から帰宅した息子の裕二となっている。間違ってはいない。だが厳密には違う。裕二が帰宅したとき、母親はまだ生きていた。まさに死に向かう寸前だったのだ。もちろん裕二は止めようとした。だが母親に「ごめんね、お母さん、疲れたの」と言われたのだ。裕二は止めなかった。母親を楽に、自由にしてやるために、ただ見送ったのだ。裕二が十二歳のときのことだった。
その日以来、裕二はほとんど父親と口を利くこともなく、自分の人生を自分で歩み始めて今日に至る。そしてまた父親も息子の存在をきれいさっぱり失念していたのだろう。だから今日までただの、一度も互いに連絡を取り合っていなかった。なのに今頃になって、女性雑誌で取り上げられていたのを知って、ぬけぬけと父親面して連絡をしてくるとは。呆れて言葉も出てきやしない。
「忘れるって、素晴らしいよな」
ぼそりと裕二が呟いた。
「忘れることが出来るから、人は生きていけるんだよな」
詩人めいたことを、裕二は至極当たり前に口に出した。
確かに裕二の言う通りだ。人はみな、美しく良い思い出だけ大切に頭の中に残して、恥ずかしく情けなく嫌な記憶は綺麗さっぱり捨て去ることで生きている。もちろん俺もその一人だ。幼稚園の時のお漏らしだとか、小学校のプール授業の前に教室で着替えていたら、忘れ物を取りに来たクラスの女子に思いっきりフルチン姿を見られただとか、そのほか諸々、逐一全部覚えていたら、今頃世を儚《はかな》んでいるに違いない。
「だから俺も、人の持つその素晴らしい能力を有効に利用することにした」
再びビール瓶を持ち上げて、でも今度は黄金色の液体をコップの底に静かに注ぎ込みながら、裕二がつづけた。
「俺に父親はいない、って言って切った。番号はブラックリストに載せた」
今の電話機はお利口さんで、ある番号からの電話を受けたくないと思えば、その番号を着信拒否に出来るブラックリストという機能が付いている。しかしそういう機能が当たり前に付くのって、どうなのよ?とも思うのだが。
俺は無言のまま、拳を裕二の鼻先に突き出した。完壁な一杯を作り終えた裕二は、瓶を置くと拳に握った手を挙げると、こつんとぶつけて来た。
「お待たせいたしましたー」
タイミングを見計らったかのように、江さんが左手に麻婆茄子を、右手に麻婆春雨を持って、厨房から出てきた。江さんの作る麻婆茄子は、一度茄子を油通ししてから作るために、ちょっと時間が掛かる。だから、あとから裕二がオーダーした麻婆春雨と完成が一緒になったのだろう。食欲を誘うショウガやニンニクと山椒の匂いがぷんと香って、自然と口の中に唾が湧いてきた。
「お、美味そ。いただきます!」
さっそく割り箸で茄子をつまんで口の中に放り込む。前に聞いたが、もう忘れた小難しい味噌の深い味に、トロリと柔らかい茄子の舌触り、そしてあとから来る山椒の痺れる感じ、あまりの美味さにしばし恍惚となる。舌に心地良い痺れが残っているうちに、冷たいビールを喉に流し込む。ビールを飲み込んだあと、開いた口から出てきたのは、満足のため息のみだった。つづけて茄子を口へ運ぼうとして、目の前の裕二が半眼だった目をフルに見開いて固まっているのに気づいた。
「どうした?」
応えはなかった。裕二は黙ったまま、ただ自分の麻婆春雨の皿を左手で指さした。食べてみろ、ということだろう。箸を伸ばして春雨をつまむと、汁が垂れないように身を乗り出して口に入れる。いつもと同じく美味しい麻婆春雨だ。滋味を味わおうと春雨や挽肉、そして細かく刻まれたタケノコを噛みしめたと同時に、何か粒々したものも噛み砕いていた。声が出なかった。辛いとか、痺れるとか、そんなレベルは遥かに超えていて、言えるのはただ、――― 口の中が火事だ!
とにかく春雨を飲み込み、口の中のとんでもない熱さを緩和させるべく、ビールの入ったコップをつかんだ。掠《かす》れた声で裕二が何か言ったが、そんなことは今はどうだっていい。大口を開けてビールを口に含む。ところがこれが失敗だった。ビールの細かい泡が、痺れた舌に追い打ちを掛けるようにびりびりと突き刺さったのだ。痛みのあまり吐き出したい衝動に駆られるが、他の客の手前、さすがにそれは憚《はばか》られた。となると、飲み込むしかない。
「だから、よせって言ったのに」
そういうことは、もっと大きな声ではっきり言え! という恨み言を視線に乗せ、裕二をぎろりと睨みつけて、口の中のビールを無理矢理飲み込んだ。ぎょくつと、変な音を立てて喉が鳴る。やっと口が開けるようになって、最初に叫んだのは 「なんだよ、これ!」だった。
「裕二さん、激辛って注文なさいましたー。なので、うんと辛くしてみましたー」
厨房からくつたくのない、明るい返事が戻ってきた。
「限度ってものがあるだろうがよ!」
口の中を冷ますべく、裕二と同じく口を開けっ放しで呼吸する。
「怒るなよ、雄大。確かに頼んだし、それに、ちゃんと気を遣ってくれてるぜ」
変な声と思って見ると、裕二は口をちゃんと閉じずに喋っていた。口を開けて舌をわずかに出したその顔は、暑い日の豆柴犬そのものだ。
「どこがどう気を遣ってるって言うんだよ」
「粉じゃなくて粒を使っている」
粉じゃなくて粒。意味不明。言い返そうとした矢先に、裕二が麻婆春雨の中から箸で何か小さい物をつまみ上げて俺の鼻先に突き出した。正体を確認しようと、身を乗り出す。
「粉山椒じゃなくて、粒山椒。だから噛まなければ、それほど辛くないってことさ」
言うなり、裕二が開けた俺の口の中に、粒山椒を放り込んだ。さっきの悪夢が頭に蘇る。
激しい音を立てながらイスから立ち上がると同時に、口に突っ込まれた小さい粒を床に向かって吐き出した。
「汚ねーなー」
店の親父のだみ声が飛んできた。
「だってしょうがないだろがよ! てめえ、何すんだよ!」
前半は店の親父に、後半は裕二に怒鳴り返した俺へ、小皿を持った江さんがにこにこと笑いながら近寄ってきた。
「裕二さん、とっても観察眼が鋭くてらっしゃいますー。当たりですー。粒山椒、取り除いていただければ、それほど辛くありませんー」「こんな小っちぇえの除けろっての? 面倒くせぇよ。いいよ、これ下げて。あんまり辛くないの、新しく作って」
手先が器用なわりに面倒くさがりの裕二は諦めも早い。だが江さんは注文を受けなかった。にこにこ笑いながら「勿体ないからダメですー」と言うと、さっさと厨房に引き返してしまったのだ。
江さんが言い返すだなんて、珍しいこともあるものだと、カウンター越しに窺い見ると、江さんは俺に小さく何度も頭を下げていた。―――俺? なんで俺よ? と訝って、首を傾げて見せると、さらに江さんは高速でぺこぺこ頭を下げた。意味、判んね、と思って、顔を正面に戻すと、裕二はもとの半眼の仏頂面《ぷっちょうづら》に戻っていた。それでなくとも機嫌が悪いところに、なんでこんな面倒なことをしてくれるんだか―――、そこまで考えて江さんが俺に何を頼もうとしているのかが判った。だが行動に移す前に、もう一押し何か欲しい。
「まったく、なんなんだよなぁ」と、呟きつつ、レジスターの側の丸イスに腰掛けている店の親父に視線を飛ばすと、親父の小さい目はしっかりとそれを受け止めてくれたに違いない、間髪入れずに、「山椒以外、残すんなら、二度と来るな。二人ともだぞ」と、声が飛んできた。
「連帯責任って言われちゃ、しよーがねーなー」
さも面倒くさがっていることをアピールしながら ――― いや、実際面倒くさいのだが ―――、箸を手にすると、麻婆春雨の皿に手を伸ばして、小さな粒をつまみ上げて白い小皿の上に置く。
裕二は半眼のまま、微動だにしない。俺はちまちまと粒を拾い上げつづけた。白い小皿に点々と小さな斑模様が出来はじめた頃、ついに裕二が「見ちゃらんねー」と言って、加わった。さすがは手先が器用な武本工務店のホープ。みるみるうちに小皿には黒い粒々の小山が出来上がっていく。
客がちらちらと盗み見ては笑っているのには気づいていた。そりゃそうだろう。男二人が向かい合って、一つの皿からちまちまと粒山椒をつまみ上げる姿を見たら、俺だって笑うに決まっている。
こんな手先が器用選手権のようなことを、なぜ江さんが俺たちにさせているのか、想像はついていた。江さんは、常に写真を持ち歩くほど自分の家族が大好きで、ことに両親をとても尊敬している。
だから裕二が父親に対して吐いた言葉にショックを受けたのだろうし、真意ではない、今、腹を立てているからそんなことを言っただけに違いない、心を落ち着けて欲しいと願ったのだろう。
別に俺は江さんと気持ちを同じくして、粒山椒を拾い集めているわけではない。裕二が言ったこと にショックを受けてもいないし、まして心を落ち着けて反省して欲しいなんて思っていない。それどころか、もっと酷いことを言ったとしても、さっきと変わらず拳を出しただろう。
ただ俺は、裕二に気分を変えて貰いたかったのだ。父親からの電話のせいで、心の奥底に消えることなく抱えている過去の色々な ――― それこそ母親の死を、止めずに見送った後悔を、裕二は思い出してしまったに違いない。俺は裕二に、いつまでも不愉快なことに囚われたまま今日を終えて、明日を迎えて欲しくなかった。だから率先して、およそ俺には向かない細かい作業――― はっきり言って苦行 ――― に手を染めた。なのに俺のこんな優しい気持ちなど、裕二は欠片も気づきもせずに、「お前、ほんと不器用だな」と、言い放った。
「それが手伝って貰っている相手に言うことか?」
「連帯責任なんだから、自分のためだろ。取った量で言ったら、すでに俺の方がよっぽどお前を手伝ってる」
いつも通りのクールでリアリストの裕二に戻っていた。ちらりと目だけで顔を眺めると、視線に気づいた裕二の上げた目と合った。ふんっと小さく鼻を鳴らしたその顔は、利発そうな豆柴犬そのもの。どうやら機嫌が戻ったらしい。何となく安堵《あんど》して、俺は「るっせぇ、俺はこういうちまちましたことには向いてねーんだよ!」と、軽口を返した。
厨房の江さんも店の親父も客も、空気の重みが薄れたのを感じ取ったのだろう。さっきまで途絶えいた客の喋り声も、江さんの皿を洗う水音も、元通りに店内に響いていた。
「向き不向きじゃない、集中力の問題だよ」
おお、この毒舌、すっかり元通りだ。
「あー、どうせ俺は集中力ねぇよ。小学校の通信簿に六年間、ずーっとそう書かれたお墨つきだよ」
「集中力がないだけでなく、成績も悪かったよな。勉強が出来なくたって、頭が悪いとは限らないが、お前の場合は頭も良くないらしい」 さすがにかちんと来て、なんだと? と目に力を込めて、裕二の顔を睨みつけた。だがそんなものどこ吹く風で、裕二は箸を皿に伸ばすと、粒山椒ではなく、春雨を少量すくい上げて、口へ運んだ。
さっきの辛さを忘れたとでも言うのだろうか。またぞろ目は全開、口は半開きになったところで、力一杯馬鹿にしてやろうと待ちかまえる。
もぐもぐと動いていた裕二の口が止まった。喉仏《のどぼとけ》が上下に動く。飲み込んだのだ。どっちが頭が悪いんだか。さぁ、言ってやる。
「馬」
つづきの「鹿」は、出ず終いだった。激辛の麻婆春雨を食べたはずなのに、裕二は辛がるどころか、つづけて皿へ箸を伸ばすと、また春雨を取って口に運んだのだ。目にからかうような笑みを惨ませて、ゆっくりと大きく顎を動かすと、二口目も飲み込んだ。
「何も先に全部拾い出さなくても、少しずつ取って、皿の上で振り落として食べるか」
そこで言葉を止めると、口元に箸を運び、開いた口の中の舌先からちょろりと覗いた何かをひょいと箸で取ると、粒山椒の小山の乗っている白い小皿の空いた場所にそれを置いた。黒くて小さな粒 ――― 粒山椒だ。
「行儀は良くはないが、口の中で除けりやいい」
言い終えると裕二は三箸目をつまみ上げて、また口に運んだご言われてみればその通りだ。なんだか気を遣ってこんなことをした俺が、とてつもなく愚かだと自分でも気づいた。
「ま、別に俺は驚きも呆れもがっかりもしないけどな。何しろ長―――いつきあいだ。お前の馬鹿は今に 始まったことじゃない」
客の忍び笑いが、何気に腹が立つんですけど。むっとした俺は、放り出しておいた麻婆茄子の皿に箸を伸ばすと、茄子をつまみ上げて口に放り込んだ。かなり冷めてしまっていた。ああ、ホント、俺ってばお人好し。
「 ――― ありがとな」
かすかな声で裕二が呟いた。ちらりと見ると、裕二はひょいと厨房の方へと首を向けて、わずかに首を傾げた。つづけて俺の背後のイスに陣取る親父にも同じくした。
もちろん裕二は俺や江さん、そして店の親父の配慮を判っていた。俺はあえて何も応えずに、ひたすら麻婆茄子を食べることに集中した。突き詰めず、ルーズで適当な方が良いことって、実はたくさんあると俺は思う。特に今回みたいな場合は。
そのあとは、二人でだらだら食べて飲んで喋った。話題は、進化する巨乳タレントをはじめとする、明日になったらきちんと覚えてない程度の、でもそのときはなんだかとてつもなく愉しい話だ。
何が笑いのツボにはまったのか判らないが、二人揃って腹筋が痛くなるほど笑ったそのとき、ふと店内のテレビに目が留まった。いや、正しくは耳だ。火事という言葉を耳が拾ったのだ。
画面の中では、消防士が残火処理の霧状放水を行っていた。黒焦げの現場は、どう見ても全焼。アナウンサーが、「午後四時二十四分、無事に鎮火しましたが、木造二階建て七十平方メートルが全焼」と説明している最中に、火事現場を見ている見物客の表情を捉えようとしたのだろう、カメラの位置が変わった。画面の右隅に停められていたポンプ車の乗車部分とシャーシの間に立てられた標識灯を、俺は見逃さなかった。書かれていたのは「丘1」、つまりあれは西が丘出張所のポンプ車、すなわち火災現場は北区西が丘のどこかだ。頭の中に前の当番日の火災―――篠原すづさんの現場が蘇った。わずか数日を空けて同じ北区で民家火災。――― 何か、嫌な感じ。
アナウンサーの声はつづいた。
「遺体で発見されたのは、家の持ち主の寺本誠司《てらもとせいじ》さん七十八歳と、妻、絹恵《きぬえ》さん七十七歳」
――― 老夫婦の死。またもや記憶が蘇る。
画面に映っていたのは、日本国民のかなりが知っているに違いない、アメリカ生まれのネズミがシンボルのテーマパークの、背後に白い城が入るフォト・スポットで撮られた記念写真らしきもの。写っていたのは二人。車いすに乗る老嬢と、背後に立つ老人のバストアップ・ショット。白い日よけ帽子はお揃い。寺本夫妻に違いない。
二人の写真はそのままに、声はアナウンサーから近隣の住人へと変わっていた。
「去年、絹恵さんが脳梗塞《のうこうそく》になって、その後遺症で車いす生活になっちゃってね。でも、ご主人が優しくて、それは献身的に」
写真の老人の顔を見る。近隣の人の声そのままに、優しさが沁み出ている笑顔だ。そう思った瞬間、俺は何か引っかかりを感じた。頭の中で自問する。なんだろう、俺は寺本の爺さんと、どこかで会ったのだろうか? 消防士という仕事柄、火災現場の住人だけでなく、近隣の人、親族その他、人には多く出会うとは思う。だからどこかの現場の関係者として会っていたとしても、不思議はない。インタビューを受けている近隣住人の声がなおもつづく。
「絹恵さんは、お花が大好きで」
―――花。およそ俺には緑のない花という言葉が、妙に頭に残った。何かもう少しで思い出せそうな気がする。花と老婦人。頭の中で、もつれた記憶の糸をずるずる手繰る。
「身体が動かなくなっちゃった絹恵さんに代わって、ご主人がお花の世話をして」
俺は間違いに気づいた。花と老婦人じゃない、花と老人だ。そう閃いたとたんに、俺はイスから立ち上がり、半腰になってテレビ画面の写真を食い入るように見つめていた。
「お、熱血」
裕二が茶化してきた。それを無視して、車いすの後ろで優しく微笑む老人の顔を俺は注視する。頭の中で白い日よけ帽子を脱がせて、ハンチングに換えてみる。
――― 間違いない。パンジーの花束を持ってすづさんの家に現れた老人だった。
「綺麗な花が一年中、たくさん庭に咲いていて。いつも下さったんですよ。お花だけでなく、手作りの押し花の入った椅麗な葉書も。でも、全部燃えちゃって」
「出火原因はテレビのコンセントと見られていますが、東京消防庁と警視庁では、さらに詳しい原因を追及しています」
哀しげな声はアナウンサーの冷静な声の説明に切り替わり、画面も再び焼け焦げた現場に戻った。
アナウンサーが言ったテレビのコンセントからの出火だとすると、考えられるのは、コンセントのほこりが溜まったトラッキングが原因か、束ねたコードの高温による熟融解の出火だろう。
トラッキングとは、コンセントとほこり、そして湿気の三つが合わさって起こる出火現象のことをいう。コンセントはその性質上、静電気を発しやすく、ほこりを集めやすい。しかもテレビや冷蔵庫など、常に通電しておく必要性の高い電気器具の場合、その器具の後ろにあることが多く、自然と存在すら忘れられていることが多い。そしてコンセントに溜まったほこりに湿気が加わってコンセント
金属部分がスパークして火花を生み、そこから炎へと成長する―――出火する。差しっぱなしのテレビのコンセントのトラッキングは別段珍しい失火原因というわけでもない。そもそもテレビをはじめとする電気機器の火災は、総火災数の六・四パーセントを占め、火災原因として珍しくなく、都内では、一日平均にすると常に十件以上起こっているのだ。
アナウンサーの言ったことが正しいとすると、寺本家の火災は失火。――― すづさんと一緒だ。
そこで俺は考えるのを止めた。すづさんにしろ、寺本夫妻にしろ、亡くなったものは仕方ない。何をどうしてもこの世に蘇らせることは出来はしない。ならばこれ以上、俺が考えたところで無駄だ。
「雄大」
裕二の声に、我に返った俺は、イスにどすんと腰を下ろした。
一昨日、二度も目撃した寺本氏が亡くなった。朝にすづさんにパンジーを手向け、昼には孫らしき少年と歩いていた寺本氏が亡くなった。それもすづさんと同じ火災による焼死でだ。
「知ってる人か?」
裕二は常に直球を放る。だからついつい勢い任せに本音を応えてしまう。ときにありがたく、でも腹立たしい。そして今回も俺は領いてしまっていた。とたんに裕二が声をあげた。
「帰ろっか。親父さん、江さん、ご馳走さま」
そう言って立ち上がると、既にレジへと歩き出していた。俺の様子から察して、話のつづきを聞くにしても、店内ではなく外で二人きりの方が良い、そう裕二は思ったのだろう。さすがは気心知れたダチ。俺は裕二の配慮に感謝しっつ、素直にあとに従った。
そう言えば、今日は裕二の奢りだったと、レジで会計を済ませる裕二の後ろをすり抜けようとすると、「約束通り麻婆茄子とご飯とビールの大一本はおごってやる。けど、残りのビール三本は割り勘」と、きっぱり言われた。―――ちぇっ、しっかりしてやんの。
店の外に出て二人揃ってまず一服した。MAlの内ポケットからラークの箱を取り出した裕二が、さっそく一本口にくわえると火を点けて白い煙を吐き出した。俺もジーンズの尻ポケットから取り出したソフト・ケースのマルボロから一本抜き出して一服する。消防士独特の煙草を取り出す一ヶ所だけ、ケースのセロファンを熟で溶《と》かして穴を空け、底の接合部も、やはり熟で溶接した俺のマルポロを見て、裕二が肩をすくめるのも、一本吸い終えるまで店前で立ちつくすのもいつものことだった。理由は簡単、蓬莱のオヤジが煙草嫌いだから店内は禁煙なのだ。そして二人とも歩き煙草は嫌いだ。ということで、店から出たらまずはその場で一服する。オヤジも店の外で吸う分には容認してくれていて、だから店の戸の両脇には、業務用の胡椒の空き缶を利用した素っ気ない灰皿が置かれている。
いつもなら、一つの空き缶の近くに二人並んで立って、それぞれゆっくりと食後の一本を楽しみつつ、会話を交わす。だが今日は俺は右側、裕二は左側の空き缶の近くに立って、二人とも黙ったまま、ただ煙草をふかしていた。先に口を開いたのは裕二だった。
「で、どういう知り合い?」
俺は、まずすづさんの火災から話を始めた。そして一昨日の朝、すづさんの現場で初めて寺本氏を見かけ、同じ日の昼間に赤羽駅前の横断歩道で孫らしきガキ連れの寺本氏と再びすれ違ったことを説明した。裕二は何も口を挟まずに、ただ聞いていた。
「火災現場に花を手向けに来てくれた爺さんが、その翌々日に、今度は自分が火災で亡くなるなんて、ぐうぜんだろうが、やっぱり良い気はしねぇよ」
図らずも口に出したぐうぜんという言葉が、妙に頭に残った。ぐうぜんだ、ぐうぜんに決まっている。すづさんの火事だって、単なる失火だ。寺本氏の火災だって、出火場所はテレビのコンセント、火災原因としては、決して珍しくはない。たまたまつづけて老人世帯の家で火災が起こって、そして家主である老人が亡くなっただけだ。二人が知り合いだったのも、たまたまだ。そうに決まっている。他に考えようがあるはずもない。単なるぐうぜんに決まっている。
そのとき、ふと視線を感じた。裕二が流し目を寄越して、俺を見つめていた。視線の先は煙草を持った指先だ。見ればいつの間にか長く伸びた灰が、今にも落ちそうになっていた。あわてて空き缶に灰を棄てる。煙草を吸うことすら忘れて、考え込んでいたと裕二に思われたかと思うと、なんとなくバツが悪い。深く息を吸い込み、一気に残りわずかの煙草を片づけて、空き缶に投げ落とす。缶の中の水に触れた煙草の火が、じゅっと音を立てて消えた。同じく吸い差しの煙草を空き缶に投げ捨てた裕二が、歩き出すと同時に訊いてきた。
「あれって、西が丘だよな」
「ああ」
俺も足を踏み出しながら即答する。
「西が丘か、金持ちのでかい家が多い街だよな」
仕事柄、裕二は街に詳しい。裕二の言うとおり、団地の多い赤羽台と違って、競技場や工業技術センターや警視庁自動車警備隊、そして東京入国管理局のある三丁目を除く西が丘は、古くから住んでいる住人が多く、しかもそのどれもが大きな一軒家だった。
「 ――― 良かったのかもな、二人一緒で」
まっすぐ前を見つめながら、不意に裕二がそう言った。
省いた述語は俺にも判っていた。死ねて、だ。すべての死が悪いばかりではないことは俺も判っている。だが死因が火災となると、立場上、やはり簡単に同意は出来ない。
「建てかえじゃなくて、リフォームが増えている理由って何だと思う?」
何も返さない俺を気にするわけでもなく、裕二がとつぜん質問をぶつけてきた。話をどこに転がそ うとしているのかは判らなかったが、俺は応えていた。
「そりゃ、掛かる金が違う」
「当たり」
ぼそりと裕二が返してきた。
「でもそれだけじゃないぜ。昔と今とでは建築基準法が変わった。特に変わったのが建坪率と、道路からのセットバックだ。今、更地《さらち》にして建て替えようとすると、場所によっては今まで通りの広さの家は建てられない。でも土台と柱を残せば、広さを変えずに済む」
テレビで流行のお家番組でも良く見る光景だ。リフォームと言いつつ、あそこまですべてを壊してしまったら、建て替えもどうぜんだと俺は思っているが。
「年寄りが家主で、孫もいる子供世帯と同居することになって、っていうのが一番多いけれど、次いで多いのはバリアフリーだ」
さもありなん。高齢化社会に向けて、バリアフリーの依頼はますます増えていくに違いない。武本工務店は順風満帆《じゅんぷうまんばん》、もちろん期待のホープ・裕二の未来も明るい。
「金ってさ、あればあるだけ良いものだよな?」
またもや脈絡のない質問だ。だがその質問が俺に向けられていないのは判っていた。何かを考えるとき、裕二は自問自答する。それが裕二のスタイル。
「実際、なければ困る。でも、金があってもどうにもならないこともある」
基本的には金さえあれば、どんなことでもなんとかなるとは思う。でも俺たちは、どれだけ金があっても、ちっとも幸せと思えない人がいることも知っていた。常にカーテンを閉じた薄暗い館のさらに地下室で、水母《くらげ》に囲まれて寂しそうに微笑む黒ずくめ王子―――守《まもる》は、今はもういない。
「去年の秋、バリアフリーにリフォームした家があったんだ。旦那が七十四、奥さんが七十七。旦那は脳梗塞で入院していた。どうしても旦那を自宅に連れて帰って看護したいからっていう奥さんからの依頼で、だから特急仕事だった」
老夫婦、脳梗塞 ―――。裕二が語り始めた話は、ついさっきテレビのニュースで見た寺本夫婦を俺に思い出させた。
「奥さんの幸恵《ゆきえ》さんは、小柄で丸顔で色が白くて頬がピンクで、桃みたいな婆ちゃんでさ。作業中も無理言って急がせてごめんなさいって、休憩のたびに差し入れしてくれた。毎日、改築が進んだ部分を見ては、喜んでさ。風呂場にドアをもう一つ付け終えたときには、子供みたいに何度も出入りして、これなら出入りも楽だわ、あの人、お風呂が大好きなのよって、すげぇ喜んでくれて」
視線を足下に落として、裕二は真っ直ぐ歩きながら先をつづけた。
「完成する直前だ。幸恵さんが来たとき、いつもみたいに差し入れを持ってきてくれたんだと俺は思っていた。でも手ぶらだった。おかしいと思ったんだ。そしたら」
裕二はそこで言葉を止めた。ゆっくりと一つ深く息を吐いてから、また口を開いた。
「幸恵さん、泣いてた」
駆け寄った裕二に、幸恵さんは泣きながらこう言った。あの人、嘘ついたのよ。約束したのに。息子が亡くなったときに、あの人、私に約束してくれたのよ。俺の方が年下なんだから、絶対に先に死なないよ、お前を一人にしないからねって、言ってくれたのよ。なのに、嘘つき、嘘つき ―――。そう言いながら、ポロポロ涙をこぼし続けていたのだという。
「言葉なんて、何一つ掛けられなかった」
俺も裕二に掛ける言葉はなかった。
ハッピーエンドで終わる話じゃないのは、最初から判っていた。だけどこれはあんまりだ。幸恵さんに残されたのは、旦那さんのためにリフォームしたばかりのバリアフリーの家だけだなんて。
そして俺は思い出していた。去年の秋、喪服を買うのにつき合わされたことを。あのとき裕二は、「金があるときに買っておこうと思っただけだ」と、言っていた。本当は違ったのだ。幸恵さんの旦那さんの葬儀に出るために必要だったのだ。
「社長は、ほとんど材料費のみの手間賃なしで代金を請求したんだけど」
真面目で誠実な武本工務店の社長らしい配慮だった。
「幸恵さんは見積もりの全額だけでなく、作業に入った俺たち一人一人に寸志を包んで持ってきてくれたんだ。急いで無理して貰ったからって。社長は受け取れないって言った。もちろん俺も、みんなもだ。でも幸恵さん、こう言ったんだ。お金なら心配しないで、大丈夫だから。残したい相手も誰もいないし、残しても仕方ないものって」
残したい相手もいない、残しても仕方ない。何か俺に訊ねるとき、語尾の「ね?」と同時に小首を傾げていた銀髪の男が頭を過《よ》ぎった。他のおっさんがやったらまずぶん殴る仕草だが、守は不思議と似合っていた。あの「ね?」を見聞き出来なくなって、もう、ずいぶんと経つ。
さらに俺は、もう一つ思い出していた。今年の二月、裕二は再び喪服を身に纏《まと》っていたはずだ。
「金があったから、幸恵さんの旦那さんは良い病院に入院できた。家をリフォームすることも出来た。やっぱり金はあるに越したことはない。だけど、だから大変だった」
「想像はつくから、言わなくて良い」
一言で俺は片づけた。金のあるところ、必ず人は現れる。亡くなった旦那さんの親類がやって来て遺産相続で揉めたに違いない。俺は裕二に言わせたくなかったのだ。遺産相続が、裕二の母親が自決した理由の一つだと知っていたからだ。
裕二は肩をすくめると、再び話し出した。
「幸恵さんが心配で、工務店の仲間で何度か会いに行った。二月二十一日だ。コースケさんが倒れている幸恵さんをみつけた。死因は心不全。自然死だった」
二月の喪服の理由、予想的中。だが俺は、ちっとも嬉しくなかった。
「棺の中の幸恵さんは、すごく安らかな顔をしていた。まるで、微笑んでいるみたいに」
物哀しげで、それでもどこかほっとした口調が、寺本夫妻の二人一緒の死を、裕二が良かったと言った理由のすべてを物語っていた。
「テレビのニュースが百パーセント正しいだなんて、俺は思ってはいない。でも、さっきのは信じたい。寺本だっけ?」
俺は前を向いたまま、領くことで答えとした。
「仲の良い夫婦だった。爺さんは献身的な愛妻家だった。ならば、一緒で良かったと俺は思う」
そうかもしれない。愛妻家の寺本氏は、車いすの奥さんを残して先にこの世からいなくなることなど、絶対に望んではいなかっただろう。だが頭の中に、孫らしき少年に微笑みながら話し掛けていた寺本氏が蘇った。あの仏頂面した妙な歩き方のガキが孫なら、奴は一気に祖父母を亡くしたことになる。ガキにはショックだったろう。だが今問題なのは、残された者の気持ちじゃない。亡くなった当人たちの気持ちだけを考えれば、寺本夫妻の場合は、確かに二人同時で良かったのかもしれない。
「かもな」
そう俺は返した。完全な同意ではないが、でもそうかもしれないという曖昧《あいまい》な応え。裕二は追及しては来なかった。そのあと、会話は弾まなかった。裕二の目は蘇ってしまった過去を見つめているのか、それとも過去を見ないようにするためなのか、どこか遠くを見つめつづけていたし、俺は俺で頭の中に断続的に浮かぶすづさんの現場やパンジーを手に現れた寺本氏、孫らしき少年と微笑んでいた寺本氏の記憶に捕まっては逃げ出し、逃げ出しては捕まっていた。どのみち明日は二十四時間勤務の当番日。こういうときは引っ張らずに解散するに限る。
別れの挨拶をわざわざ口に出すのもなと思いつつ、裕二を見下ろすと、ちょうど顔を上げた裕二と目がぶつかった。どうやら裕二も同じことを考えていたらしい。さすがは気心知れた俺のダチ。どちらともなく、顎を突き出すように領いて、それを「じゃ、またな」の挨拶に代えて、それぞれ家路についた。二人揃って星の巡り合わせが悪い、こんな日もたまにはあるさ。
第四章
八時半、今日も元気に大交替で二十四時間勤務の当番日は始まった。所の駐車場に正面を前に俺たち第一係が整列し、右端から直角に第三係が立つ。ポンプ隊、救急隊と各小隊一人一人の点呼に始まり、次は第三係からの申し送りだ。それにしても今日の暑さと来たら何なのだろう。うららかな四日五月をすっ飛ばし、ついでに梅雨の六月も飛び越して、一気に七月半ばなんじゃないかと思うほど朝から気温が上がっていた。
「十五時三十八分、西が丘一丁目×番地〇号、建物火災」
第三係のポンプ隊機関員の御子柴《みこしば》さんが滑舌《かつぜつ》もよろしく読み上げているのは、昨日ニュースで見た寺本家の火災出場記録だった。テレビの画面に映っていたのは西が丘のポンプ車だったが、もちろん現場の場所からいって、我が赤羽台からも出場していることは判っていた。
一一九番に火災通報が入ると、一括で受けた通信センターが火災現場を中心に近い消防署や出張所から順に、ポンプ車六台、はしご車一台、救急車一台、レスキュー一隊に出動指令を出すのだ。現場は西が丘一丁目、ならば赤羽台に出動指令はとうぜん掛かる。出場したからには、翌日の当番、つまり俺たち第一係に出動内容のすべてを引き継ぐのは当たり前というのか、車や備品の状態をしっかり教えて貰わないと困るわけだが、それでも朝一番から事細かに寺本邸の火災、延いては夫妻の死について聴かされるとは。仕事とはいえ、気分はどんよりだ。
五分ほどで全体の申し送りを無事に終え、つづけてさらに事細かな申し送りを行うために、隊ごとにそれぞれの車の前に集まった。ブレーキ、ハンドル、エンジンの状態と、細かく御子柴さんが車輌状態を説明して行く。それを聴く生田の兄貴の顔は真剣だ。もちろん自分の命を預ける車の話なだけに、俺も真剣に聴く。
「装備器具に破損なし」
御子柴さんがそう締めくくって口を噤んだ。これで大交替は終了、第三係は二十四時間勤務からやっと解放され、そして俺たち第一係の二十四時間がスタートする。解散しようとする第三ポンプ隊のメンバーの足を止めたのは我が第一ポンプ隊長の藤田のオヤジだった。
「ワタさん、昨日の西が丘だけどさ」
厳しいことで定評のある第三ポンプ隊の石渡《いしわたり》隊長も、赤羽台消防出張所の最年長の藤田のオヤジに掛かれば、呼び名はワタさんだ。
「ずいぶんと、火の回りが早かったみたいだね」
気難しい性格と一目で判る、もとよりへの字に下がった口角を、さらに苦々しく下げて石渡隊長は深く領いてから話し始めた。
「出火時刻も午後三時半ですし、現場の寺本家も火を使っていたわけでもないんですが」
寺本邸の場所は消火活動の見地からすると、決して分の悪いところではなかった。一方通行とはいえ車二台は通れる道幅に面していたし、もとより住宅が七十坪の広い土地の中で隣家と接する二カ所の壁面から離れた場所にあっただけに、隣家への延焼の心配も薄かった。しかも真裏の家は更地になっていたのだ。赤羽台のポンプ隊が現着したときには、すでに西が丘のポンプ車が先着して消火活動に入っていた。西が丘のポンプ車も赤羽台と同じく、水槽なしタイプの消防車だ。だから正面道路の消火栓に吸水管を結合させ、一線延長したホースを媒介にして筒先を二口に増やして、一つは寺本邸の真正面から、もう一つは裏の更地から、それぞれ筒先を霧状にして注水を始めていた。
「通報者は配達中の郵便局員で、一階の窓の割れた音で火災に気づき、すぐに通報したとのことですが、我々が現著したときには、二階の窓からもう、炎が出ていて」
「着くのに何分?」
石渡隊長の言葉を遮って、オヤジが訊ねた。
「三分二十一秒です」
即答したのは機関員の御子柴さんだった。
「火点は一階にあったテレビのコンセントだっけ?」
「ええ。床から十五センチの位置でした」
石渡隊長のオヤジへの答えが、寺本邸の火事がいかに火の回りが早かったのかを物語っていることくらいは、俺でも判った。
木造二階建ての住宅で、一階の低い位置から出火した場合、炎は上に上るという法則通り、まず一階の天井へと炎はその触手を伸ばす。そして天井に到達すると、炎は二つに道筋を分かつ。一つはより上を目指すべく天井を這い、上へ行ける道筋―――階段を探し出して二階部分と上っていく。もう一つは天井から跳ね返って下へ、一階床へとその触手を広げるのだ。
寺本邸の火災の炎は、通報されてから四分弱で一階から二階へ進み、二階の窓から炎を見せていたことになる。これは確かに早い。
「けっこう築年数のいっていた、木造二階建てだったよね」
「二十三年だそうです」
「二十三年ね」
ぼそりと繰り返すと、オヤジは被っていた作業帽を右手でつかみ取った。細く量も多くない髪に指を入れると、丁寧に琉《す》きあげる。その仕草は言っては悪いが、ちょっと涙を誘う。
「雨らしい雨もなかったしね」
「ええ、最後にまとまって降ったのは二週間前です」
新築ならばともかく、築二十三年も経っていれば、家の材料である木材は完全に乾燥しきっていただろうし、まして二週間雨も降らずでは火の回りが早くても驚くことではない。
「延焼は?」
「両隣とも、接地面に庭があって、建物は隣接していませんでしたし、裏は先週、売却のために更地にしたばかりでしたので、延焼はありませんでした」
北区は立派な東京都で、このご時世、土地の価格の高い都内で、家が密接している場所と、そうじゃない場所を較べてみたら、圧倒的に前者が多い。そんな中、両隣とも距離があり、さらに裏も更地で延焼なしだなんて、奇跡的な運の良さといってもいいんじゃなかろうか。ちょっと感心していた俺をよそに、オヤジは「そう、それは良かったね」の一言で簡単に片づけると、「で、中は? 燃え草になるような特別な何かはあったの?」と、質問をつづけた。
燃え草―――炎に加勢する助燃剤だ。老夫婦の、それも奥さんが車いすの家庭に、とりわけ燃えやすい何かが大量にあるとは、俺にはとても考えられなかった。
「ご夫婦の趣味が庭いじりで」
石渡隊長の言葉に、俺の頭の中で嫌な記憶が蘇っていた。水を掛けると発熟して出火する、普通の家にはまず置いてないと思われる生石灰《せいせっかい》は、実は草花の肥料だ。心優しく正義に厚い男の手で生石灰は古い木造のアパートの天井裏に仕掛けられ、そしてアパートだけでなく、男の命もを燃やし尽くした。あれからもう、一年半が経過した。
「可燃性の肥料などは、なかったようです」
苦い回想から引き戻してくれたのは、御子柴さんの声だった。少なくとも生石灰が出火原因ではなかったことに、ほっとする。
「ただ、咲いた花や草を押し花にして、手漉《てす》きの和紙に入れて葉書やカードを作るのがご夫婦の趣味だったみたいで、だから新聞紙や和紙がたくさん家の中にあったんですよ」
趣味が命を奪う一端を担っただなんて、なんて悲惨なんだと、ため息をつき掛けた俺は、そこで止まった。趣味が命を奪う―――すづさんと一緒だったからだ。
「それともう一つ、不運としか言いようがなかったことがあって」
図らずも御子柴さんが口にした不運という言葉が、俺の頭の中で警告音を発していた。すづさんはいくつもの不運としか言いようもないことが重なって亡くなった。
「奥さんが車いすの生活になって以来、生活のほとんどを一階で済ませていたそうなんですが、二人を発見したのは二階だったんですよ」「なんでまた」
オヤジとまったく同じ疑問を俺も持っていた。健康な旦那はともかく、奥さんはどうやって二階に上ったというのだろうか。
「近所の住人の話だと、一階だけで暮らしていると、ますます自分は病人なんだと奥さんに思わせてしまうから、出来る限り今まで通り暮らそうと旦那さんが決めたそうで。だから旦那さんが奥さんを背負ったり抱きかかえたりして、天気の良い午後は二人で二階にいたという話なんです」
二人を見つけたのは、先に人命探索に入った西が丘のポンプ隊員だった。階段脇の、以前は寝室に使っていたらしい広い畳敷きの部屋の真ん中で、折り重なって倒れているところを発見された。寺本氏が奥さんを庇《かば》い、覆い被さるように、二人倒れていたのだという。
「火傷も外傷も見られず、早急に外に連れ出したんですが、奥さんはすでに呼吸停止状態で、旦那さんも救急車で搬送中に亡くなりました」
「二人とも焼死かい?」
オヤジの問いに、御子柴さんは頒くことで応えた。その身を炎に焼かれなくても、火災の状況下で火災およびその燃焼生成物煤煙《ばいえん》や一酸化炭素などの作用を受けて亡くなった場合でも、焼死と扱われるのだ。
「火元はテレビのコンセントで間違いないの?」
確かめるようなオヤジの声に、また御子柴さんは領いてから、「使用していたコンセントは二連で、上がテレビで、下はテレビの上に載せてあったデジタル時計のコードが直接差し込まれてました。テレビと壁の一部ごとコンセントを持ち帰って調べた結果、出火場所はテレビのコンセントで聞達いないそうです。コンセントの上の壁に扇形の焼け焦げ痕がありましたし、ただまだ直接の原因がトラッキングなのか、ショートなのかは厳密には判りませんが」
火点のコンセントを支点に、上に向かって扇形の焼け焦げ痕が出来るのは、トラッキングの特徴の一つだった。
「どっちにしても、失火だね?」
「ですね」
ため息混じりに御子柴さんが同意した。その返事を聞いて、オヤジも大きく一つ息を吐き出した。
「このところ、多いんだよね。老人世帯の失火火災が」
「岩淵町もそうでしたよね」
今度はオヤジが領いてみせた。
「これから先、老人世帯は増える一方だろうから、少しでも時間があるときには、本署の指導調査係任せでなく、自分たちで直接回って指導しないといけないかもねぇ」
オヤジは難しい顔でそう呟いてから、「引き留めて悪かったね、ありがとう」と、礼を言った。御子柴さんはオヤジの感謝に軽く頭を下げて、その場を去っていった。
オヤジはタンポポの綿毛みたいにぽわぽわに膨《ふく》らませた髪の毛をなでつけると、俺たちに「ほら、手が止まっているぞ、ぐずぐずしないで一次点検!」と怒鳴って、率先してポンプ車の点検を開始した。もちろんオヤジ一人にさせるわけもなく、俺たちも点検を開始する。
車輌点検と全員フル装備でポンプ車に乗り込んで駐車場から本当に発進させる出場演習、それから車の中から上に積んでいるはしごまで降ろして、すべての備品をチェックする二次点検まで無事に終わらせたときには、時刻はすでに九時十七分になっていた。
事務室に戻って席を温める暇もなく、向かった先は食堂だった。昼食と夕食の支度をしなくてはならなかったからだ。本来ならば、昼食は各自調達だ。だが第一係だけは係全員と相談のうえ、昼食も自炊のときがある。その方が安上がりだし、料理自慢の生田の兄貴の指揮のもとに作る飯は、各家庭の愛妻弁当はともかくも、コンビニ弁当より、確実に美味しい。今日のメニューは豚のバラ肉にもやしとニンジンと春キャベツと、野菜たっぷりのソース焼きそば目玉焼き乗せ。夜はじぶ煮とほうれん草のお浸し、ざらに豪華に鰻《うなぎ》、しかも肝吸い付きだ。
二十四時間勤務当番日は朝と夜の食事は自炊でまかなっている。もちろん材料代は隊員から徴収だ。だから本来なら鰻なんて豪勢なものはメニューに出てくるはずもない。今晩の鰻と肝吸いは、二週間前の当番日に出動した、ボヤ騒ぎを起こした鰻屋からの感謝の気持ちの差し入れなのだ。俺としてはどんな現場であろうと、出来れば火災出動なんてしたくはないのだが、こういう役得もあるのなら、飲食店に限り出動しても良い気がする。
昼食の支度は俺と香川が任された。その横で生田の兄貴が夕食のじぶ煮に入れる蓮根や里芋や人参を、実に美しく大きさも揃えて下準備している。俺たち第一係で食事に関しての最高決定権を持っているのは生田の兄貴だ。いや、実は第一係だけじゃない。最近では第二係も第三係も兄貴の献立を参考にして作っているらしいから、正しくは赤羽台の食事の最高責任者と言っても過言ではない。
理由は簡単、所内の誰よりもグルメで、しかも料理の知識が豊富で、実際に作るのが上手《うま》いからだ。兄貴に任せておけば、材料費は安く、作るのもそこそこ簡単、もちろん栄養バランスも満点で、しかもバリエーション豊富な献立を作ってくれるからだ。
飯を作り始めて早二年目、さすがに俺の手つきも慣れたもので、特にキャベツのざく切りなんて、実に手際良く、まな板の上に整然と並ぶ切り終えたキャベツを見て、我ながら惚れ惚れとすらする。ざるにキャベツを移し終えた俺は、香川の前に積まれた豚肉に手を伸ばした。一口大に切ってボールに入れ、塩胡椒、それと少々の料理酒を加えてざっと手で挟み込んで味をなじます。それから小振りのボールを取り出すと、蒸し麺についていた粉ソースの袋の中身を全部開け入れて、そこに少々の酒を入れ、さらに水を足してよく混ぜた。人差し指を突っ込んでちょいと味見をして、そこに市販のソースを足して、よく混ぜてから再び味見する。―――よし、こんなものだろう。
事前に使う分だけ調味料を準備するのは、兄貴のワンポイント・アドバイスだ。料理に慣れていないうちは、火の点いたフライパンの上で炒めながら味付けをしようとすると、焦って調味料を大量に入れかねない。調味料だってただではない。何か足りなくて、味の修正を繰り返して大量に調味料を使ってしまっては、金も掛かるし、塩分も糖分も上がって、良いことは何一つない。ということで、使う調味料は事前に準備する。健康に節約にと、まさに一石二鳥。さすがは兄貴だ。
念のためにボールを兄貴に差し出して味見をして貰う。調味料に突っ込んだ人差し指をしゃぶった兄貴は切り終えた具材の野菜の山に目を向けて、口を開いた。
「もし足すなら」
その先は判っていた。
「炒めるときに胡椒」
先回りして答えた俺に、兄貴は判っているじゃないかと満足げににやりと笑った。これにて俺の分担はお終い。あとは食べる直前に炒める作業に入るだけ。さて、まな板でも洗うかと、片づけを始めようとすると、調理台の上では香川がまだ人参と格闘していた。皮を剥《む》き、縦に真っ二つにして適度な長さに切りそろえ、それを薄切りにするだけなのだが、そのおっかなびっくりの手つきは、見ているこちらが冷や汗ものだった。作業が終わっているのは俺一人、残る二人は夕食の支度に美麗に里芋の皮を剥く兄貴と、人参数本を刻むのに手こずっている香川。どちらを手伝うかといえば、やはり香川だろう。本当は手伝いなんてしてやりたくもないのだが。
「手伝うぜ」
一声掛けてから調理台の上の人参へ手を伸ばす。俺の予想した香川からの答えのパターンは二つ、遠慮か御礼だった。戻ってきた答えは半分当たりで半分外れだった。当たりだったのは遠慮だ。
「自分の分ですから、自分でやります」と、香川は俺に言った。それもえらく強い、怒ったような口調でだ。そして、一本たりとも渡すものかとばかりに、調理台の人参をすべて自分の手元へと引き寄せた。その剣幕に呆気に取られた俺は、困って兄貴に視線を送った。だが兄貴は自分の手元だけ見つめて、黙々とさやいんげんの筋を取っていた。仕方なく、自分の分の片づけを始める。まな板一枚と包丁一本を洗い終えるのに、さして時間は掛からない。あっという間に片づけ終えてしまったが、二人がまだ作業を終わらないのに、一人事務室に戻るのも気が引ける。というより、一人で戻ろうものなら、また富岡に配慮が足りないだの、協調性に欠けるだの説教を食らうに違いない。香川に手伝いを拒絶されたとなると、残るは兄貴だ。下ごしらえの手伝いに手を出す自信はなかったが、使い終えている器具を洗うことくらいなら出来る。さっそく手伝おうとした矢先、「雄大、終わったんなら戻れ。まだ溜め込んでいた書類があるだろ」と、兄貴に言われてしまった。
兄貴にこう言われては仕方ない。「お先」 と、三日掛けてから俺は事務室へと戻った。
室内に入ったとたん、ドアの死角から「お帰り」と、声を掛けられて、びくっとした。見ればオヤジと富岡の二人ともが、ドアの蔭に置かれているパソコン・デスクの前に貼りついていた。
「仕込みは終わったのかい?」
いつも通り、呑気な声で訊ねながらオヤジは席から立った。だが富岡は難しい顔をしてパソコンを覗き込んだまま、動こうとはしなかった。
終わりましたと、オヤジに応えようとしたその時、ピーピーピーと警報音が鳴り響いた。当番日が始まって最初の出動指令だ。このあとに救急車のサイレンがつづけば救急隊のみの出動指令なのだが。本日一回目の指令は火災か、それとも救急か、さあ、いざ勝負!
「東京消防から各局。十条仲原《じゆうじょうなかはら》出火報。建築火災、現場、十条仲原四丁目×番地〇号、共同住宅出火、九分。出場隊、赤羽1、赤羽台1、西が丘1」
―――負けた。救急隊とポンプ隊とでは、その出動回数は比べるまでもなく救急隊の方が多いのだが、それでも本日一回目が火災出場だと、どこか負けた気がする。少しばかりアンニュイな気分に浸る俺を残して、所内は男たちの荒い足音が轟き渡り、蜂の巣をつついたような状態になっていた。
「出動!」
怒鳴ると同時にまず事務室から飛び出したのは、藤田のオヤジだった。富岡もあとにつづく。目増すは一階車庫、フル装備着用して出動するまでの理想のタイムは一分以内。もちろん俺もあとにつづこうとして、ふと思いとどまった。生田の兄貴の机へときびすを返すと、机の上から兄貴の地図を手にして廊下へ出る。食堂から駆けだしてきた兄貴と目があった。走りながら、手にした地図をラグビーのパス状態で後ろの兄貴に放る。難なく兄貴が地図をつかんだ。ナイス・キャッチ! 階段の踊り場でひょいと上を見上げた俺は、感謝の意を込めたに違いない兄貴のにやり笑いを確認して、笑い返そうとした。だが、頬の筋肉を上げることはなかった。兄貴の背後から覗いた香川の目に、はっきりと敵意が浮かんでいたのを見てしまったからだ。
わけが判らなかった。さっきの人参といい、今といい、いったい何で俺はこうも香川に嫌われなくてほならないのだろう。
そりゃ、香川が俺を好きでないのは判らないでもない。真剣に消防士を目指し、職務に勤しみたいと思っている香川からすれば、楽して得するためだけに消防士になった俺なんて言語道断だとは思う。だが自分で言うのもなんだが、こう見えて、俺はけっこう手を抜かずに真面目に取り組んでいる。と、いうよりも手を抜くイコール、自分の生命の危険度がぐっとアップ。自分が可愛いなら、手など抜けるはずもない。
そんなことより、今は出場に集中しないと。階段を下りきると、まっすぐ自分のラックへ向かう。すぐさま着用出来るように、わざと蝉《せみ》の脱皮状態に脱ぎ置いてある強化ゴム製の防火靴に足を突っ込み、そのまま叫気に防火ズボンを引き上げる。
「雄大!」
富岡に名前を呼ばれたと同時に、銀色の長方形のパックが飛んできた。すかさずつかむ。―――冷てぇ! なんて、のんびりしてはいられない。富岡はつづけてさらに二つ目、三つ目を投げてきた。もちろん残り二つも落とさずに受ける。受け取ったパックを、防火ジャケットのインナーの首筋と両脇の下のポケットにそれぞれ一つずつ入れる。パックの正体は冷却剤だ。防火ジャケットは三百度にもなる火災現場の熟から消防士を守る。だが、外からの熱を遮断するということは、同時に着てしまったが最後、中の熟を逃がさない。自分の身体から発散される熟が防火服内にこもって起こるヒートストレスは、消防士の判断を誤らせる一番の大敵《たいてき》だ。それを避けるためのアイディアがインナーの冷却剤用のポケットなのだ。もちろん現場に着いてから、みんな揃って防火ジャケットを脱いで、冷却剤を入れてなんて悠長《ゆうちょう》なことは出来ない。だから冬の寒い時期はともかく、夏場や今日のように春でも暑い日には、出勤前にあらかじめ冷却剤をポケットに仕込んでから出動する。
三つともパックを入れ終えた俺は、防火ジャケットの内側を外向きに広げ、肩の部分を両手でつかんだ。そして防火ジャケットを空に大きく翻《ひるがえ》すように回転させて、すかさず下から両腕に腕を通した。別に格好つけているわけじゃない。普通に上着を着るようにしようものなら、重いし、マジックテープがどこかにくっついたが最後、面倒で堪らない。そういうトラブルを避けるために、研究に研究を重ねた結果の、これが重量五キロの防火ジャケットの正しい着方なのだ。周囲を見回すのはもちろん危ないからだ。事実、消防学校時代、防火ジャケットを同期の顔面に喰らわせて、鼻血を噴かせたこともある。ただし今は、俺のラックは一番奥だから、周囲の確認はしていない。ファスナーを上げ、ファスナーを熟から守るカバーのマジックテープをがっちり止めた。よし、着用終了!最後に防火帽を被りながらポンプ車めがけて突進する。やっていることは多いが、この間わずか一分掛かっていない。出動指令が出たら一分以内に乗車出走、三分以内に現場到着、これが出動原則だ。
ポンプ車の後部座席のドアを開けて飛び乗る。星野がいた頃は、常に俺が一番ビリつけつだった。だが香川が来て以来、俺と香川でビリを争っている。今回は俺の勝ち。香川は遅れること三秒くらいで、すでに車載消防系無線を通じて支援情報が流されているポンプ車に乗り込んできた。
「香川、遅いぞ!」
富岡の叱咤《しった》が飛ぶ。えこ贔屓《ひいき》がまったくないとは言わないが、事実に即しては富岡は至極平等。うん、感心、感心、なんて思っていたところに、香川が腹の底から出したような大声で、「すいませんっ!」と詫びた。とたんに、「よし、良い返事だ」と、富岡が誉める。今のが俺だったら二言三言説教がつづいている気がするのだが。そりゃ俺はたるそうに「すんません」とか言ってたけれど。でもー、何かー、納得行かないんですけどー。
「この時問だと、南岩淵小の前の道路は進入規制が掛かってますから、迂回《うかい》して稲村《いなむら》公園の脇を抜けるルートで行きます!」
生田の兄貴の声の最後に、藤田のオヤジの「出場!」の声が重なった。それはオヤジが兄貴を信頼しきっているからに他ならない。もちろんオヤジだけじゃない。誰より道を熟知している兄貴の決定に反論する者は誰もいない。もちろん俺もだ。
今日の安全管理隊員は立花《たちばな》さんだ。出動指令に急いているポンプ車や救急車を無事に出動させるぺく、道路を確認して出動の邪魔になるものは何もないことを確認した上で誘導してくれる。オヤジがフット・スイッチを短く一度踏み込んで誘導の礼に代えると、立花さんがそれに敬礼で返した。
「香川、水利確認!」
怒鳴りながら兄貴が自分の地図を後部座席に投げ込んだ。どうにか受け取った香川がさっそく地図を開いて現場周辺を確認し始めた。俺も視線だけで覗き込む。現場周辺は、それぞれの土地こそ大きいが、取り囲む道路は決して太くはなかった。
「ええと」
香川の指が地図の上を滑る。指が止まった。現場から一番近い太い道路との交差点の上だった。
「ありました! 現場から西の公道五メートルです」
誇らしげに香川が応えた。だが俺は地図の上に目を走らせつづけていた。香川が指し示した消火栓は、確かに現場に一番近い。だが現場との距離は、西が丘消防出張所の方が我が赤羽台より短い。いくら兄貴が第五消防方面の特攻隊長、神風ドライバーと呼ばれようと、法定速度上限の八十キロを守って運転をする限り、物理的に距離には勝てない。現場に一番近い消火栓は、先着した西が丘が使っている可能性が大きい。ならば、次に近い消火栓は? ――あった!
香川の指が押さえている場所から現場を挟んで対角線上の道路二本裏に消火栓を見つけた俺は、それを兄貴に言いかけて止めた。香川の憎しみのこもった俺への目を思い出したからだ。何も進んで自ら恨みを買う必要はない。それに現場近くになれば、嫌でも判ることだろう。
ふと視線を感じて、その発信元を探す。正体はバック・ミラー越しの兄貴だった。どこか苛立ったような、不機嫌そうな視線。だがミラー越しに目が合ったとたん、兄貴は目線を元に戻した。
香川だけでなく、今度は兄貴? まったく、わけが判らない。なんで俺ばっかり。心の中でため息をつきかけたそのとき、ジッと短く独特な音が鳴った。車載消防系無線機の音だ。追加の支援情報が入るに違いない。車内全員に緊張が走る。状況悪化の通信か、それとも誤報や鎮火の報告か。
「十条仲原四丁目×番地〇号の共同住宅出火、出火報十二分、住民により鎮火。西が丘1、確認中車内の緊張がふっと解けた。火事は住人の手で消され、すでに到着した西が丘が鎮火確認に入っていたのだ。
「赤羽台1、了解」
オヤジは無線にそう応えると、電子サイレンアンプに手を伸ばし、サイレンを止めた。ちっと小さく兄貴が舌を鳴らした。誤解がないように言っておくが、間違っても火災が無事に納まったことに対して兄貴は舌を鳴らしたのではない。現場に一番乗り出来なかったことに対してだ。それは兄貴にとって、何より許し難いことなのだから仕方ない。
「そんじゃ、生田、帰るかね」
いつも通りのオヤジののんびりした声、つづくのは「はい、わっかりました!」という兄貴の声。これがいつもだ。だが今日は違った。
「オヤジさん、せっかくだから現場まで行ってみたいんですが、もう目と鼻の先ですし」
兄貴がこんなことを言い出すなんて、珍しいこともあるものだ。オヤジは即答しなかった。だが一息間を空けてから「そうだね、せっかくだから寄ってみようか」と、同意した。
これから何が起ころうとしているのか、俺にはまったく判っていなかった。ちらりと横を盗み見ると、富岡は腕組みをして難しい顔をして目を閉じていた。その姿は瞑想する日本猿。それも群れのリーダー格で、ちょっと威厳すら醸《かも》し出《だ》している感じだ。だが俺は知っていた。そのポーズは、富岡が何か考えているときのものだと言うことを。いったい何を考えているというのだろうか。
兄貴が静かにスピードを落としながら、左にハンドルを切った。地図通りだとすると、左折した道なりの前方五百メートルをさらに左折して路地に入った先が現場のはずだ。左折したとたん、ポンプ車の後ろ姿が目に入った。西が丘のポンプ車だ。ポンプ車だけでなく、救急車も、交通整理のPちゃんのパンダカーも停められていて、それ以上先に進んでも、停められる場所はもうなかった。兄貴は先まで進まずに、路肩にポンプ車を寄せると静かに停めた。
歩道に乗り上げて停められている西が丘のポンプ車から、銀色の吸管が伸ばされていた。俺の思ったとおり、現場から一番近い消火栓は、先着した西が丘が既に使っていた。
「香川、お前の言った消火栓ってあれだよな?」
兄貴の低い声が飛んだ。香川は口を半開きにしたまま、黙っていた。
「あれじゃ、使えねぇよな。使える消火栓はどこだ?」
弾かれたように、香川は地図の上に指を滑らし始めた。だが兄貴は答えを待たなかった。替わりに「雄大!」と、苛《いら》立《だ》った声で俺を呼んだ。仕方なく応える。
「二本裏、現場挟んで、あの消火栓の対角」
地図の上の香川の指が止まった。車内は嫌な空気になっていた。オヤジも富岡も生田の兄貴も、誰一人口を開こうともしない。これって、先輩として俺がフォローしてやらなくてはいけないのだろうか? でもなぁ、へたをすればやぶ蛇になるのは判っているだけに、なんとも口の挟みようがない。
しんと静まりかえった車内で最初に口を開いたのは香川だった。「すいません」、やっとの思いで吐き出したと判る、消え入りそうな声だった。ああ良かった。香川が反省して、これで丸く納まるだろう。と思った矢先、兄貴が怒鳴った。
「香川、お前じゃねえ。謝るのは雄大、てめぇだ!」
―――なんで俺よ。言い返そうとした俺に、声を掛けたのは藤田のオヤジだった。
「消防隊はチーム、家族だからね。誰かのミスはみんなでフォローしないと。出動して現着したは良いけれど、消火栓がどこか判らなくて何も出来ませんじゃ、話にならないからねぇ」
そりゃ、そうなんですけれど。
「てめぇ、一番近い消火栓はすでに西が丘が使っているって判ってたんだろ? だから他の消火栓位置確認をしてた。俺は見てたんだよ!なのになんで言わねぇんだよ!」
ミラー越しの視線はそれか。いや、だから、兄貴も薄々気づいていると思うんだけど、横の香川君がなんか〜、何をどうしても俺のことを気に入らないみたいで〜。特に今回みたいな、香川君、君の見つけた消火栓は使えないと思うよ、だって、先に着いている西が丘が使っていると思うもの。水利確認っていうのはね、現場とそれぞれの消防出張所の距離を考えて、自分のポンプ車が何番目に着きそうかってことも考慮に入れて、給水可能なところを探さないといけないんだよ、なんて先輩ぶったことなんて言おうものなら、また睨まれちゃうと思うし〜。と、だらだらと女子中学生みたいな言いわけを、もちろん口に出さずに腹の中で言ってみる。
結果、俺は何も応えず黙っていた。それがますます兄貴の怒りに油を注いだらしい。シートベルトを外すと、後部座席に身を乗り出すようにして、兄貴は怒鳴った。
「着けば使えねぇって判る、それから次の消火栓に行けば良いって魂胆《こんたん》だったんだろ?」
―――はい、正解。さすがは兄貴、判ってらっしやる。とか思いつつ、兄貴の怒りがマジだと気づいて、さすがにヤバいと俺も思い始めた。しかしなんでそこまで怒る? 兄貴の運転の腕前を以てすれば、裏の消火栓までさほど時間は掛からないに違いない。
「この周辺はな、一通なんだよ!」
―――しまった! 香川から地図を奪い取ると、俺は道を確認した。兄貴の言う通り、現場周辺はすべ三方通行で、一度入ってしまったらぐるりと一周、大きく迂回しないと裏の消火栓へとたどり着けない。見ての通り、目の前の道路はポンプ車やパトカーで混んでいる。そこの図体の大きなポンプ車を通り抜けるとなると、簡単なことではないし、とうぜん時間も掛かる。兄貴の怒りの理由が判った今、俺は反省するしかなかった。
「なんで俺が誰より早い現着に命賭けてると思ってんだよ! 助けてぇからに決まってんじゃねぇか!何分無駄にさせる気だよ! それで助けられない人がいたら、お前、どうするんだよー.どう責任取るんだよ!」
返す言葉がなかった。
「気づいてなかったんなら仕方ない。だが、てめぇは気づいてた。なのに黙っていた。−許せねぇ!」
顎の横まで持ち上げられた兄貴の拳に握られた右手が、わなわなと震えていた。殴られても仕方ない。いや、殴って許して貰えるのなら、いくらでも殴ってくれと俺は思っていた。
「お腹も空いたし、食事の後片づけ十日分で、手を打ってやっちゃくんないかね?」
緊迫した空気の中、のんびりと口を挟んだのはオヤジだった。オヤジにそう言われては、兄貴も引かざるをえない。ひときわ大きくちっと舌を打ち鳴らすと、拳を下ろして前に向き直った。
「雄大、何か言うことあるだろ?」
富岡に促《うなが》されて、俺は「すいませんでした」と、詫びた。兄貴は不機嫌そうに大きく鼻から息を吐くと、いつもと変わらず、いたって静かにエンジンを掛けた。どれだけ腹を立てていても、兄貴の車の扱いは丁寧だ。
「生田、帰りにちょっと遠回りしてくれないかね。寄り道したい場所があるんだよ」
「どこっすか?」
ぶすけた声で兄貴が訊ねると、オヤジは防火帽を脱ぎながら「西が丘一丁目×番地〇号」と言った。それは昨日の火災現場、寺本邸の住所だった。
十条仲原四丁目から西が丘一丁目までは、さして離れてはいなかった。だがその短い道中、車内は重苦しく妙な空気で、正直、乗っているのが辛かった。生田の兄貴は、これは俺が悪いのだが―――憤懣《ふんまん》やるかたないとばかりにまだ怒っていたし、藤田のオヤジは何か考え事でもしているのか、窓の外を眺めつづけていて、富岡に至っては目を閉じたまま開こうともしない。そして俺の横では香川がどんよりしていた。俺はと言うと、もちろん楽しいわけがない。生田の兄貴を怒らせた。しかも向かっているのは寺本邸―――パンジー爺の家ともなれば、なんだか落ち着かない気分なのは仕方ない。
「その先っすね」
兄貴が口に出す前に、寺本邸の近くに着いていたことには気づいていた。路肩に真っ赤なバン―――赤羽本署の予備車が停められているのが目に入っていたからだ。火災現場に本署の予備車。気分はますますどんよりと重くなる。理由は簡単、来ているのは間違いなく本署の予防課、つまり仁藤がいると判っていたからだ。
「停めますか?」
「いや、ゆっくり前を流してくれれば良いよ」
オヤジの言葉に心底俺はほっとした。
兄貴がぐっと速度を落とした。現場に近づいて行くにつれて、寺本邸の全貌が見えてきた。正方形に近い綺麗な土地に、正面にたっぷりとした広い庭。左右の家からちょうど中間地に建っていた家は、原形を留めてはいるものの、もはや人の住める状態ではなかった。
「左右とは距離があったんですね」
富岡の声に「そうだね、火の回りが早かっただけに、不幸中の幸いだったね」と、オヤジが返した。寺本邸の両隣も、たっぷりとした庭を持つ大きな住宅だった。どちらも庭木を植えていて、木々の新緑が、寺本邸をよりいっそう寂しく見せている。そんな黒い残骸と化した寺本邸だった中で、青い制服が低い位置でうごめいていた。原因調査の最中なのだ。
ポンプ車はさらに近づいて、路肩に停められた本署の予備車のすぐ横まで来ていた。車の蔭で青い作業服に身を包んだ男が、誰かと話をしているのが見えて来て、俺は吹き出しそうになった。
男と立ち話をしていたのは妙齢というよりはちょっと高齢だが、実に品の良い女性だった。吹き出しそうになったのはその女性が原因ではなく、女性が連れていた犬だった。毛の短い中型の日本犬らしいその犬は、顔の周りをぐるりとプラスチックのカラーで覆われていたのだ。怪我でもして、傷口を舐めないようにとの措置なのだろう。それだけで可笑しいわけもない。吹き出しそうになったのは、その犬が何が恐いのか、それとも嫌なのか、尾を垂らした及び腰で、右に左に後ずさろうと繰り返している姿が、なんとも面白かったのだ。
もちろん堪えた。火災現場を前にして笑うような不謹慎なことをしようものなら、さっき喰らったばかりの罰則の食事の後かたづけの日数が倍になること請け合いだ。
作業服の男が近づいてきたポンプ車に気づいたらしく、ちらりと視線を寄越した。予感的中、そこにいたのは仁藤だった。
「本署の仁藤君か。単なる失火だったんじゃなかったんですかね?」
富岡の疑問にオヤジの返事はなかった。助手席から身を乗り出しこそしていなかったが、オヤジの視線は一点、現場に向けられていた。オヤジの目は決して大きくはない。丸くて小さくて、セキセイインコの目に似ている。そして今、その目はじっと寺本邸だった現場を見つめていた。
確かに朝からオヤジはこの現場を気にしていた。正しくはこの現場ではなく、その前のすづさんの現場も含めて、老人だけの世帯の失火火災についてだが。
指揮隊車の真横をゆっくりと通り過ぎて行くポンプ車に、仁藤が深く頭を下げた。開けた窓から生田の兄貴が「ご苦労さん!」と、声を掛ける。間違っても仁藤と視線を合わせないように、俺は止まることなく左右後ろに逃げようとしている犬を見下ろしていた。そのときだ、女性が犬の引き綱を右手から左手に替えようとした瞬間、するりと手から引き綱が抜け落ちた。
今まで動きを制限されていたのに、急に自由になったことに、犬も驚いたのだろう。一瞬、呆然と立ち止まっていた。だが、女性が「あっ!」と、声を上げたとたん、それが合図のように、全速力で逃げ出した。
「あらあら大変、戻ってらっしゃい、もうー」
走るというよりどう見ても歩いて、飼い主であるおばさんは犬を追いかけ始めた。犬は少し離れたところで立ち止まった。何をするのかと見ていると、後脚を上げて、プラスチックのカラーの上を必死に掻き始めた。さっきまでのあの不思議な動きは、恐かったのでも嫌だったのでもなく、カラーで覆われた部分が痔《かゆ》くて、居ても立ってもいられなかったらしい。
簡単に捕まえられるだろうと思いきや、飼い主が少し近づくと、犬はまた少し走り逃げた。そして そこでまた立ち止まって、カラーの上から必死に掻いている。
「香川、雄大、ワン救に行っといで」
オヤジがのんびりと命じた。―――そう来ると思った。それでなくても高いところに登った猫やら、狭いところに入り込んで出られなくなった犬で困ったときには、なぜか都民の皆さんは一一九番通報、つまり消防に電話を掛けてくる。そして消防もそれも仕事の一環と救助に向かう。だからこそニャン救だのワン救だのという言葉が、消防士の間でごく当り前に使われているのだ。でも今捕まえようとしている犬は、痒さのあまりに飼い主の手から抜け出しただけだろうから、腹でも空けば自分から帰ってくると思うのだが。
良い子の香川が、さっきまでの落ち込みはどこへやら、やる気満々とばかりに「はい」と、返事をするなりポンプ車から飛び降りた。もちろん俺もあとにつづく。あくまで、しかたなくだが。
「もう! 帰ってきなさいってば! もう!」
なぜかやたらと「もう」を連発する奥さんに、「お手伝いします」と、声を掛けながら、香川がきっそく犬を追って走っていく。
とつぜん不思議な装束の男に追われれば、犬でなくても逃げると思う。案の定、犬は全速力で逃げ出した。そのあとを香川が「こら、待て」なんて言いながら追いかけて行く。
寺本邸の火災の原因調査に勤しんでいた本署の隊員たちも騒動に気づいたのだろう、手を止め、腰を伸ばして見物を始めた。中には無責任に「がんばれ!」などと、声援を送る者もいた。気持ちは判る。逃げる動物を追いかける人間の姿は、なぜだか必ずどこか滑稽《こっけい》だ。しかも今回は首の周りにカラーを巻いた犬で、追い掛けるのは防火服の男二人だ。見た目の滑稽度は倍増だろう。
だがこちらはたまったものではない。防火帽と空気ボンベこそないものの、他はフル装備で、総重量七キロ近くを身につけて追いかけっこに参加している立場としては、笑っている場合ではない。
このまま、ただ追いかけていても、捕まえられないと考えた俺は、「香川、止まれ!」と、怒鳴った。だが香川はちらりと視線だけ俺に送ると、無視して追いかけつづけた。
俺の言うことなどまず聞くわけもない、それどころか何が何でも自分一人で捕まえようとするに違いない、とは俺も予想していた。―――ああ、そうかい、じゃあ、一人でやってみな。と、思わないでもなかったが、オヤジも富岡も兄貴も、さらに仁藤まで見ている中、さすがに放っておくわけにはいかない。遠くなる犬と香川の後姿を睨みつつ、俺は何か良い手はないか考えていた。
そしてあることに気づいた。首の周りのカラーのせいで視野が狭いせいか、犬はいつもと勝手が違うことに警戒しているらしく、草道へは出て行かない。ならば次の四つ角に着いたら、Uターンして戻ってくるか、歩道に道なりに右に折れるに違いない。そう考えた俺は、一匹と一人の後を迫って走りながら、先回り出来ないか見回した。
残念だが住宅は隙間なく連なっていて道はなかった。だが四つ角の角に当たる家の壁はブロック塀ではなく、低めの金属製の棚で囲まれていた。柵に沿って背の高い植木を植えて目隠しにしていたが、一箇所だけ丈の低い木があって、そこから住人だろう鉢植えの手入れをしている奥さんが見えた。しかもその延長線上の丈の高い木と木の間にも隙間があって、そこから道路が見えた。柵と木の高さを目測する。―――よし、いける。
進行方向を若干右へ修正すると、俺は勢いをつけてハードル走の要領で柵を跳び越えた。植木の丈が思っていたより高く、植木の頭に蹴りをかましはしたが、無事に庭の中へ着地する。鉢植えの手入れをしていた奥さんが、目を丸くして固まっていた。そりゃそうだ。とつぜん図体のデカい不思議な装束の男が、柵と植木を飛び越えて庭に侵入して来たのを見て、驚かない人はそういないだろう。
「すいませんっ!」と、叫びながらも勢いを止めずに、庭の花を踏みつぶさないように注意して対角線上に庭を横切り、前方を確認する。庭木の隙間越しに見える道路に人影はなかった。だが木の陰に人がいようものなら、飛び出したとたんに激突だ。消防士が都民に怪我をさせてしまっては、目も当てられない。だが、警告するにもどう言えば良いのか判らない。もう庭木と柵は目の前だった。何でも良い、大声を出せばいいんだ、大声を。そう思った俺は「どけっ!」と、大声で叫ぶと同時に、庭木の隙間越しに柵を跳び越えた。
無事、道路に着地成功。慣性の法則で数歩蹈鞴《たたら》を踏んで車道に飛び出しかけたが、なんとか踏みとどまる。肝心な犬は、俺の数歩後ろで立ちつくしていた。とつぜん家の中から男が飛び出してきたのに驚いて立ち止まったのだろう。さて、確実に捕まえなくては。犬と目を合わせたまま、地面に垂れた引き綱をつかもうと、ゆっくりとしゃがみ始めた俺は、そこで初めて犬の顔を見た。
白いプラスチックのカラーごと首を上げた犬は、困り果てているような顔で俺を見上げていた。やがて俺はあることに気づいた。てっきり白い犬だとばかり思っていたのだが、実際は白地に薄ベージュ色のぶち模様だったのだ。この柄、どこかで見たようなと考えて、その正体が判った。黒と薄ベージュで色こそ違うが、ホルスタイン種の牛だ。そう思ったとたん、奥さんがやたらと「もう」を連呼していた謎が解けて、俺は笑いだしてしまっていた。
歩道を叩くバタバタという足音に、犬がびくりと振り向いた。角から姿を現したのは香川だった。
再び犬は俺を見上げると、逃げ道を求めて困り果てたように、おろおろと周囲を見回した。
俺は、試しに「モー!」と、呼んでみた。犬がカラーごと俺に向いた。顔の白い犬の目は小さく見えがちだが、その分つぶらにも見える。この犬もそうだった。念のため、もう一度呼んでみる。
「モー!」
一歩、ほんの五センチ程度だが、犬が近づいて来た。思った通りだ。「もう」ではなく、「モー」。
犬の名前だったのだ。由来は柄、間違いない。
「モー、痒いんだろ?」
しゃがんだまま、右手を挙げると、指で掻くような仕草をして見せる。手の動きの意味が判ったのか、つられるように、モーがおずおずと近寄ってきた。左手で引き綱をしっかりとつかむと、手のひらを上にして右手を、モーの鼻面の前に差し出した。ふんふんと匂いを嘆いだものの、吠えるでも噛みつこうとするでもない。どうやら気に入られたらしい俺は、さっきモーが掻こうとして掻けなかったカラーの中、ちょうど左の顎の下あたりに手を差し込むと、ばりばりと掻いてやった。人間でも犬でも、気持ちが良いと目を細めるのは一緒らしい。目をとろんと細めたモーは、ばたばたとしつぼを振り始めた。
息を弾ませた香川は、その場で立ち止まると、ただ見下ろしていた。俺が先回りしていたことも、犬をあっさりと捕まえていたことにも納得出来ていないのは、その顔を見れば一目瞭然だった。そんな香川に何を言ったら良いのか困っていた俺に、救いの手は椿の木の間から差し伸べられた。
「あら、来島《くるしま》さんちのモーちゃんじゃない」
見れば、庭で鉢植えの手入れをしていた奥さんが、木の間から俺たちを見下ろしていた。
「さっきはすいません」
とりあえず謝る。奥さんは自分の家の庭を障害物レース会場に勝手にされたにも拘わらず、それに怒るでもなく「驚いちゃったわよ」と、ころころと笑って応えた。それどころか、「やっぱり消防士さんは、すごいわねぇ」と、素直に感心までしてくれている。いや、実に良い人だ。
奥さんは、斜め後ろを向きながら、植木に向かって「来島さん、大丈夫よ、モーちゃん、消防士さんが捕まえてくれたわよ」と、大声で言った。あとから迫ってきたモーの飼い主、来島さんがやって来るのが庭木越しに見えたに違いない。
「すいません、本当に。もうっ、モーったら」
いくら柄から連想してつけた名前とはいえ、「もう、モーったら」って、ギャグじゃないですから、奥さん。なんて、腹の中で考えながら、俺は誠実な消防士然とした態度で「どうぞ」と、引き綱を来島さんに手渡した。
「ありがとうございます。本当に、モーったら」
深く頭を下げる来島さんに「いえ、どういたしまして」と、さりげなく言って、俺はその場を立ち去ることにした。香川は立ちつくしたままだった。それも意気消沈して、また暗い顔でだ。無視するのも何だと思って、「戻ろうぜ」と、声を掛けてみた。無視されるかと思ったが、意外なことに「はい」と消え入りそうな声で香川は返事をすると、素直に俺のあとについて来た。素直なのは良いが、どうも空気が重くてかなわない。しかし取り立てて話題もない。困ったなと思った瞬間、ぐうと腹が鳴った。歩道には影が足下に短く焼きつけられていた。もう昼だ。当番は俺と香川。帰ったら二人ですぐに作らないと、昼飯にはありつけない。この暑い中、炒め物かと思うと、ソース焼きそばなんて献立に決めた兄貴を恨めしく思う。なぜそうめんとか冷やし中華にしてくれなかったのか。―――って、そうめんも冷やし中華も、麺を茹《ゆ》でる最中は暑いか。
そんなことを考えながら、ポンプ車に戻り始めていた俺の耳は、背後から聞こえてきた二人の女性の会話を何の気なしにとらえていた。
「モーちゃん、怪我しちゃったの? 昨日の寺本さんのお宅の火事?」
「いいえ、前から去勢手術の予約を入れていたの。それで昨日は動物病院に。だから留守していたもので、帰ってきたら、お隣が火事でしょう? 本当に驚いちゃったわ」
「被害はあったの?」
「いいえ、家と家の距離があったから。火が飛び移らないように、水は掛けられたけれど、庭木に多めに水を撒いて貰った程度で済んだの」
「まぁ、そうだったの。それは運が良かったわね」
おばさん二人の会話はどこか朗らかだった。
確かに、来島さんには運が良かった。何かを考えるとき、よっぽど意識していない限り、人は皆、自分を中心に考える。もちろん、俺だってそうだ。だから今、来島さんが自分を中心に考えて、隣の寺本家の火災に巻き込まれなかった幸運を喜ぶことは仕方ない。でも、もしも来島さんが在宅していたら、もっと早く通報していたら、寺本夫妻は助かったかもしれない。そう思うと、簡単に運が良くて良かったですね、と同意することは俺には出来なかった。
「荒瀬《あらせ》さんのお宅は何か被害は?」
「うちはまったく。柴田《しばた》さんを挟んでいるし。柴田さんも被害はほとんどなかったんですってね」
なるほど、向かって右から来島、寺本、柴田、そして荒瀬と家が並んでいるわけだ。そんなことをぼんやりと考えながら角を曲がる。来島、荒瀬のおばさん二人の会話は、まだつづいていた。
「柴田さん、帰られたらびっくりするでしょうね」
帰られたら? ということは、隣家の柴田さんは昨日から今もなお不在ということだ。これも柴田さんにとっては幸運、だが寺本夫妻にとっては不運。誰かの幸運は誰かの不運。これも一つの因果応報なのかもしれない。なんて、柄にもなくセンシティブなことを考えていた俺の耳に、話し続ける二人の会話が流れ込んでいた。
「寺本さんはご不幸だったけれど、でも本当に運が良かったわよね。裏も更地になっていて」
「そうそう、先々週だったら佐竹《さたけ》さんの古いお宅があったもの、ひとたまりもなかったと思うわ」
そう言えば、裏も誰もいなかった。それも、ただいなかったのではなく、先週、売却のために更地にされでいたのだった。右隣の来島さんは飼い犬の去勢手術で病院に出向いて不在、右隣の柴田さんも昨日から今もまだ不在、そして裏は先週更地にされたばかり。通報者は、窓が割れた音で火災に気づいた。状況によって差はあるが、一般の木造住宅火災ならば、窓ガラスが炎で熱せられて割れるまでにほぼ、七〜八分は掛かる。つまり発見通報されるまでに、それだけ時間が経過していたのだ。昼間の出火だというのに、通報が遅れた理由は、周囲が全員不在だったから。そしてそれは不在だった人達にとっては幸運、出火した寺本夫妻にとっては不運。周囲が全員不在というぐうぜんが、寺本夫妻を。―――なんか、このぐるぐるした思考、つい最近した覚えがあるんですけど。
もちろんそれが何なのか、俺は判っていた。篠原すづさんだ。次の瞬間、俺は再び荒瀬さんの家の棚を跳び越えて、柵越しに話し込んでいる荒瀬さんと来島さんへと駆け寄っていた。
第五章
帰所してまず汗だくになりながらソース焼きそばと上に載せる目玉焼きを十一人分作り、食べたあとはペナルティで後片づけを一人でした。つづけて午後は訓練。我が赤羽台では、なぜか防火服をフル着用して訓練を行う。これは四月に異動した、もと陸上自衛官の星野のせいだった。星野のいた部隊では訓練といえばフル装備着用だったらしく、消防に転職しても、ごく当たり前にフル装備で訓練に臨んだのだ。そうなると、体力自慢の多い消防士のこと、我も我もと同じくフル装備で訓練するようになり、結果、赤羽台の訓練時は、がちゃがちゃやたらとけたたましいものとなったのだ。
ただ、伝統を作った星野はすでにいないのだし、別にフル装備で訓練しなくても良いものだが、一度ついた習慣を変える気はオヤジにも富岡にもないらしく、相変わらず訓練はフル装備で行っている。腹筋や背筋、腕立て伏せなどの体力錬成系のものから、ホースの手広めや巻き取り、放水訓練といった実務系まで。なんだかんだでフル装備での訓練をすでに二年やっている俺はまだしも、いくら体育大学出身で体力には自信がありますと自称しようとも、新人の香川にはやはりきついらしく、かなりへばっていた。―――だから、俺をライバル視して、より早く多くマシにこなそうと必死になるのは勝手だが、訓練で力を使い果たしたりしようものなら、本番の出場でどうにもならないんだから、適度にしとけば良いものを。なんて、腹の中では何度も思ったが、香川に関わるとろくなことがないので、極力口を利かないで訓練をこなした。
午後三時半をまわって、いつもなら夕食の支度を始めるところだが、昨日は善意の鰻が届くのを待つだけだった。やっと時間が空いた俺は、ある調べものをした。寺本家の隣家の来島、荒瀬さんの二人に話を聞いて以来、引っかかっていたことがあったのだ。
再び柵を跳び越えて庭に侵入した俺に、二人は怒るでもなく質問に答えてくれた。俺が訊いたのは、寺本夫妻は両隣が昨日、不在と知っていたかどうかだった。来島さんは「モーの手術のことは知っていたわよ。だって、動物病院を紹介してくれたのは寺本さんの旦那さんだもの」と、そして荒瀬さんも「柴田さんが出掛けて以来、毎日、寺本さんの旦那さんが柴田さん家の庭に水を撒いていたんだもの、とうぜん知っているでしょ」と、二人ともあっさりと言った。
俺は二人にもう一つ訊ねた。岩淵町に住む、篠原すづさんという女性の名を聞いたことはないか?と。首をひねったあげく、二人とも「知らない、聞いたことがない」と、答えた。逆に、「その人が何か?」と訊ねられて、俺は正直に篠原すづさんが寺本夫妻と同じく火事で亡くなったこと、その翌日の朝、寺本氏がパンジーの花束を手に現れたことを説明した。
話を聞いた二人は、「そのパンジーは、寺本さんの庭に咲いていたものよ」と言い、さらに「寺本さんらしい」と言うと、うっすらと涙を滲ませた。湿っぽくしてしまったことに居心地の悪さを感じた俺は、二人にお礼を言って、荒瀬さんの庭から退出すべく歩き始めた。その背に来島さんが荒瀬さんに話し掛ける声が聞こえてきた。
「モーを車に乗せて病院に行くときにね、ちょうど庭にいらして。寺本さん、モーをうんと撫でてくれて『寂しいよ』って、仰《おっしゃ》ったの。一泊の入院で帰って来ますよって、私、笑って言ったのよ。『そうでしたね』って、寺本さん、笑ってらしたのに」
帰りのポンプ車の中で、俺はずっと考えつづけていた。寺本家の背後には、築四十年以上の廃屋と呼んでもおかしくない古い家が建てられたままになっていたが、売却のために先週、取り壊され更地になっていた。寺本家から出火したその日そのとき、右隣の来島家は、以前より予約を入れていた愛犬モーの去勢手術で不在だった。左隣の柴田さんもだ。一週間前から長男夫婦の転勤先のオーストラリアに、産まれたばかりの初孫に会いに出掛けていたのだ。帰国予定は明後日。
出火原因はけっきょくテレビのコンセントのトラッキング、つまり失火と断定された。真っ昼間の出火だったのに、通報が遅れたのは、寺本家をとりまく三方に接する土地には誰もいなかったからと言って間違いないだろう。そして寺本夫妻は死亡し、家は全焼した。それほどの大きな火災だったにも拘わらず、来島、柴田両家ともに延焼はなかった。来島、寺本、柴田の三軒とも敷地は広く庭はたっぷり、建物同士の距離は充分あったからだ。寺本夫妻にとってのいくつかの不運と、近隣の家にと ってのいくつかの幸運、それが今回の火事だった。
寺本氏が言ったという「寂しいよ」と言う言葉が、俺の頭の中に妙に残っていた。本当に一晩の別れに向けられたものだったのだろうか? 沸き上がった不審感は、ずっと体内でくすぶっていたもう一つの疑惑もかき立てた。寺本夫妻の火事と良く似た、いくつかの不幸によって起こった火事――篠原すづさんの火事だ。
午後四時、俺は篠原すづさんの火災を洗い直していた。ただし不運なぐうぜんが重なった出火現場 ではない。すづさんの家の周辺についてだ。火の回りは驚くほど早かった。現場に出ていた俺が言うのだから間違いない。しかし周囲への延焼はなかった。改めて地図を確認する。すづさんの家は道路への接地面が少ない通称旗地だった。周辺は、地元でも有名な地主一族の所有地で、左隣は地主一族の一人の芸大出の鉄のアーチストとやらが住んでいた。鉄筋コンクリートの二階建ての一階部分は駐車場と作業場にして、二階の三DKに居住していたが、当日はいなかった。一週間前からニューヨークへ展覧会を観に出掛けて不在だったのだ。
前――道路とすづさんの家の間に関しては、延焼の心配はまったく不要だった。そこはやはり同じ地主の持ち物で、以前は借家として人に貸していたのだが、高齢の地主が相続を睨んで徐々に切り売りを始めた物件の一つで、半年前から完全な更地になっていたのだ。
そして後ろも、やはり同じ地主の所有物の月極の駐車場だった。ここにもまたぐうぜんという名の幸運があった。雑草を定期的に刈ることに嫌気がさした地主が、砂利敷きへ改装工事をしている最中で、契約している車はすべて、他の駐車場に停めさせていたのだ。つまりすづさんの家の周囲も寺本夫妻と同じく、延焼材料が少なく、住人は不在だったのだ。その結果、全焼するほど火の回りが早かったにも拘わらず、周囲への被害は何一つなかった。知りたかったことはすべて判った。
だが判った達成感より、ますます引っかかりが大きくなっただけだった。二件の火事の共通点は、ともに老人のみの世帯で出火原因は失火。そして、被害者にとってのぐうぜんの不運、そして被害者の隣人にとってのぐうぜんの幸運。
五時を過ぎた頃、開けっぱなしのドアから香ばしい匂いが漂《ただよ》ってきた。そこではたと気づいた。
いったい俺は何をしているんだ? そりゃ今は勤務時間中だが、自分が出動してもいない寺本家の火災がなんでこんなに気になるんだ? それだけでなく、すでに出火原因も確定した篠原すづさんの火災を、わざわざ調書まで引っ張り出して確認するだなんて。
寺本の爺さんがすづさんの現場にパンジーの花を持って現れたのは事実だ。二人が知り合いだったかどうかは、今となっては判らない。火事で亡くなったすづさんの死を悼んでいた寺本老人が、火事で亡くなった。それも日をおかずにだ。本当にこの二つの火事には、何もないのだろうか? ――はい、やめやめ、お終いだ。折しも待ちに待った鰻も到着したことだし、これでロウに入ったテンションも上がるってものだ。美味い鰻でも食して、あとは出動がないことを、危険な目に遭わないことだけをただ願うとしよう。
実際、鰻は美味かった。脂の乗ったふっくらした鰻と、美味しいたれのしみこんだ飯を頬張りながら、幸せに浸る。美味い食べ物ほど、人を幸せにするものはないと思う。テーブルに着いた隊員全員の顔が幸せでほころんでいる。そう言えば、スーパーで買ったものでも、コンビニ弁当でもなく、鰻屋の焼きたての鰻なんて、最後に俺の口に入ったのは何時のことだろう。記憶を遡って、俺は後悔した。オヤジと富岡の二人に奢《おご》って貰った昼飯だ。それにまつわる思い出したくもない記憶も蘇って、鰻の美味さがさっきより減った気がした。
ペナルティの後片づけをして、六時からは日夕点検――夕方にやる車両点検をして、さらに示達―――連絡事項等を申し送る。七時を回って車庫のシャッターを閉めて、一時間の通信勤務の当番の深夜三時まで、事務仕事と交替制で仮眠。もちろん、常に出動指令には備えている。火災出場こそなかったが、PA連携出場は二回した。
PA連携出場とは、消防車PUMPERと救急車AMBULANCEが同時に出場して、相互に連携して救助活動を行うもので、双方の頭文字を取ってそう名付けられたものだ。PA連携出場がスタートして、俺はQちゃんズの柿栗コンビが漏らしていた、いかに白車が尊重して貰えないかの事実を身を以て体験した。どれだけサイレンを鳴らし、協力を仰ぐアナウンスをしても、道を空けない車もいれば、譲ってくれたはいいが、あからさまに嫌な顔のドライバーは珍しくない。つくづく思う。そういうことを平然とする都民の皆様は、自分や自分の家族が救急車で搬送されるなんてことは、絶対にないと思っているのだろうか? ――想像力がないってホント、困る。
そして朝五時半にシャッターを開けて、ワカメのみそ汁にソーセージとミックスベジタブル入りのスクランブル・エッグにキャベツの千切りにトマトの朝食の支度。食べ終えて、また独りで片づけて、八時半に第二係と大交替をして、着替えて愛車のカブに跨って、そして八時四十二分、やっとこさ所から脱出した。
仮眠時間はあっても、いつ何時掛かるか判らない出動指令に備えて、完全に熟睡などまず出来ないから、当番明けはどうしたって眠い。だからまっすぐ自宅に帰って、まず眠る。だが俺はハンドルを大きく、自宅とは逆の右に切っていた。どこに向かおうとしているか、もちろん判っていた。パンジー爺こと、寺本老人の家だ。――――まったく何をしているのだか。自分でも馬鹿だという自覚があるだけに、なんだか哀しい。
火事の翌日までは、雨でもない限り、どことなく焦げ臭い臭いが周辺の道路まで漂っている。昨日は停められていた本署の指揮隊車も予備車も、今日はいない。だが二日も経てば、臭いはすっかり収まってしまう。視界の先に寺本家が見えてきた。周囲に延焼もなく、一軒のみの火事だっただけに、忽然と現れた黒焦げの寺本家は、普通の町並みの中の異物でしかなかった。
寺本家の前にカブを停めるのは気が引けて、手前の来島家の前に停める。と同時に、足の辺りに視線を感じた。来島家のブロック塀には、低い位置に穴あきのブロックがはめ込まれていた。その穴から黒く濡れた鼻先が見えた。カブから降りて塀の前にしゃがみ、穴を覗き込んだ俺は、目にした光景に吹き出していた。
モーの首周りのプラスチックのカラーはまだついたままだった。昨日の今日だから、当たり前なのかもしれないが、塀にぴったりついた白いラッパ状のカラーの中一杯に、黒く湿った鼻を頂点に犬の額が待ちかまえていたら、誰だって笑うに決まっている。笑われたことはモーも判ったのだろうか、不機嫌そうに鼻から息を吹き出した。
「悪い、悪い。けどよ、お前、自分でも今の自分を見たら笑うぜ」
塀越しに犬に謝る俺の後ろを車が通り過ぎた。えらくゆっくり走っているなと振り向くと、黄色いボディに赤いラインの入ったタクシーが、寺本家を通り過ぎて、柴田家の前で停まった。オーストリリアに初孫を見に出掛けていた柴田家の夫妻の帰国予定は今日だったはずだ。あのタクシーで帰ってきたのがそうならば、隣の寺本家を見て、さぞや驚いているに違いない。後部座席のドアが開いた。小さな女性物の白いひも靴が二つ、綺麗に揃えられて路上に降ろされた。次に出てきたのは、白とピンク色のチューリップの花束だった。花束――、嫌な予感が俺を襲った。
タクシーから降りてきたのは、薄紫のワンピースに身を包んだ女性だった。小さくまとめられた自髪といい、すっと伸びた背筋といい、一枚の絵のような女性だった。だが俺は気づいていた。女性の左手に杖があることに。
チューリップの花束を手にした女性は、タクシーの運転手に待っていて欲しいと声を掛けたようだった。それから女性は歩き始めた。俺を襲った嫌な予感通りに、柴田家ではなく寺本家へと向かってだ。杖を突きながら一歩一歩、慎重に近づいて来る女性の顔を盗み見る。白髪からして若いはずもないが、年齢は不詳だ。女性の歳は本当に判らない。いや、判るときもあるが、判らないとしておいた方が何かと都合が良いので、総じて判らないことに俺はしている。
女性は寺本家の外玄関の前まで来ると、立ち止まって、かつて寺本家だった残骸を見つめていた。数歩、寺本家の敷地内へと歩を進めたが、また止まった。戸惑ったように周囲を見回している。何に困っているのか、想像はついた。未だに敷地の入り口に貼り巡らされた立ち入り禁止の黄色いテープもだろうが、中に入って花束を供えたいのなら、躊躇《ちゅうちょ》してとうぜんだろう。なにしろ現場はいろんな残骸が散乱していて、健康なものでも歩きやすい状態にはないのだから。
――ダメだ、余計なことはするな、無視だ、無視。脳みそで考えたにも拘わらず、俺は立ち上がって女性に向かって歩き出していた。しかも「手伝いましょうか?」と、声まで掛けて。
驚いて俺を見た女性は、姿だけでなく顔立ちも美しかった。黒目がちの瞳といい、形の良い小さな唇といい、まさに俺のタイプだった。―― ただし、あと二十歳ほど若ければ。年齢不詳には変わりはなかったが、筋張った首から考えても、六十歳は超えているだろう。
こんな朝早くから、塀の前にしゃがみ込んでいた図体のデカい男というだけで不審だろうに、そのうえとつぜん話し掛けられたら、ただ驚くだけでなく怯《おび》えてとうぜんだ。誤解を招かないように、あわてて「お花、中に入って供えてこようか?」と、付け足した。
俺の提案に女性は優雅に頭を下げた。再びゆるやかに頭を上げると、「自分で供えたいの。―― でも、ありがとう」と、微笑んだ。そのたおやかな笑顔は、優しかったが毅然としていた。
ならばいいかと思った矢先、地面に花束を置こうとして、女性がバランスを崩した。杖がアスファルトにぶつかって弾み、カランカランと甲高《かんだか》い音を立てて転がる。あがった小さな悲鳴に、とっさにダッシュして右手を伸ばし、間一髪、倒れる前に女性の腕をつかんで抱きかかえた。
「ありがとう。――本当にすいません」
女性が俺の胸の中でお礼を言った。手の中の彼女の腕は驚くほど細く、身体も薄い。至近距離で顔を見下ろして、顔色の悪さにも気づいた。それに、こんなわずかなことですら息も上がっている。それはあることを俺に予感させた。
「連れてってやるよ」
俺は彼女を抱え上げた。思った通り、軽かった。
「あ、あの、ちょっと」
驚きあわてて女性は声を挙げたが、俺が黄色いテープの隙間に足を突っ込み、寺本家の敷地の中に入ったあとは、観念したのか口を噤んだ。遅れてタクシーのドアが開いた。運転席から運転手が飛び出して来る。お客に危険が、と思ったのだろう。だが「大丈夫、中まで連れて行っていただくだけよ」と、言われて安心したのか、その場で立ち止まった。
彼女を抱えているだけに、足場は真剣に選んだ。一歩一歩、かつて寺本夫妻が暮らしていた家だったものへと近づいて行く。仕事柄、火災後の家は見慣れてはいる。だが何度見たところで、人が息づいていた証の残る現場に慣れることは出来ない。焼け焦げたり、放水で濡れて使い物にならなくなって取り残された家財道具や日用品に、その家と住人の歴史や思いを語り掛けられているような気がして滅入ってしまうのだ。
玄関の手前で俺は足を止めた。さすがに家の中まで入るのは躊躇《ためら》われたのだ。玄関には、以前は銀色だったはずの車輪のホイールも黒く煤けた車いすが横倒しになっていた。奥の部屋――台所だった場所には、すっかり変色してしまった冷蔵庫にガラスの割れた食器棚。棚の中には、綺麗に積まれたまれたままの皿とコーヒーカップが見えた。寺本夫妻はここで暮らしていた。あの冷蔵庫から食べ物を取り出し、あの食器棚からお皿を出して食事をしていたのだ。本人をわずか二度、奥さんに至ってはテレビを通した写真でしか見たことがない俺に、夫婦の幻影が見えた気がした。
右横の部屋は、壁も天井も焼け落ちていた。火点のテレビがあったリビングだ。肝心のテレビは持ち去られてそこになかったが、室内には色々な物が残されていた。テレビ台の中にはDVDとビデオデッキ。その横の飾り棚らしき棚の上にはFAX機能付きの電話。床板が焼け落ちてむき出しになった地面の上には、ふちが欠けたガラスの細身の花瓶が落ちていた。
電気機器を置いていたテレビ台に、この花瓶も置かれていたのだろうか? 電気機器と水の取り合わせが危険なことは、誰でも知っているだろう。なのに花瓶をテレビ台の上に置くなんてことを寺本氏はしていたのだろうか? さらにあるものに俺の目は留まった。テレビ台の後ろに見えたDVDと ビデオデッキの電源コードだ。
表面のビニールが溶けてぐずぐずになった電源コードは、絡み防止のためだろう、余分な長さを蛇腹に折り畳まれて、もとはビニール・コーティングされていたに違いない針金でまとめられていた。
実にきちんとしてらっしやる、―― などと、間違っても誉められる行為ではない。電気機器の電源コードはかなりの熟を持つ。特に短時間に荷電を要する電気ポットなどは、束ねておくと二分でその温度は四十度まで上がり、三分で電源コードのビニールが溶けて出火してしまうこともある。
もちろんテレビやDVD、ビデオの荷電は電気ポットほどはないが、だからと言って、束ねていれば危険であることに変わりはない。テレビ台の横には電話機の載った飾り棚があって、俺の立っている場所からは、電源コードのその先は隠れていて見えなかった。
さらに首を伸ばして、電源コードがどういう風にコンセントに差し込まれているかを確認しようと したそのとき、ふと気配を感じて見下した。女性の見開いた目から、はらはらと涙がこぼれていたのだ。寺本夫妻のことなどまったく知らない俺ですら陰鬱な気分になるのだから、まして夫妻とは知己であろう女性にはショックが大きかったに違いない。
「降ろすよ」
声を掛けてから、俺は女性の足を地に降ろした。杖なしでは立っていられないらしく、女性がふらつく。俺は左側にしゃがむと、女性の左手を俺の右肩に乗せて「体重掛けて、つかまって」と、声を掛けた。ありがとう、小さくそう言うと、女性は俺の言ったとおりに肩に手を置いた。だが重みはまったく感じない。身を屈めて、そっと持ってきたチューリップの花束を車いすに立てかけると、女性は目を閉じ、深く頭を垂れた。音もない黒と灰色、茶色のグラデーションの色彩の中、白とピンクのチューリップの花束は華やかで、それだけにもの悲しかった。
やがて彼女が静かに口を開いた。
「ありがとう」
「もう、いいのか?」と、訊ねると、女性は小さく領いた。
「あのさ」
何をどう訊いたものか、話しかけて良いものか、俺は悩んでいた。寺本夫妻との関係とか、彼女のびっくりするほどの軽さのこととか。だが口に出すことは出来なかった。上手く訊けそうもなかったからだ。それを察したかのように、女性が語り始めた。
「寺本さんとは、それほど親しかったわけではないの。でもね、若いあなたには判らないかもしれないけれど、私くらいの歳になると、ちょっとでも知っている人がいなくなると寂しくて」
なるほど、そんなものかもしれない。家族はともかく、人は歳を取るごとにつき合う人間を、気が合うとか、趣味が一緒とか、経済観念が近いとか、より自分が愉しく過ごせる相手に絞り込んで行き、そして知り合いの数は減っていく。齢二十二の、俺の人間関係を鑑《かんが》みても、これは事実だ。
そう考えれば、寺本の爺さんが篠原すづさんの家に花を供えに現れたのも、この女性と同じく、さしたる深い意味はなかったのかもしれない。
「嫌ね、年寄りの感傷って」
「年寄りってほどでもねぇだろ?」
自分を年寄りと言い切った女性に、俺はお世辞でなくそう言った。ニュースで寺本夫妻の年齢は知っていたが、女性はとても同年代には見えなかったからだ。
「本当に優しいのね。でも私、七十六よ」
「七十六う?」
思わず繰り返していた。六十にはなっているだろうとは思っていたが、まさかそんな歳だとは思ってもいなかったのだ。
「そうよ。見えないでしょう?」
悪戯っぼく微笑むその笑顔は、六十どころか、すれっからしの十代の娘どもより魅力的だった。
「戻るか?」と訊ねると、彼女は「ごめんなさいね」と、今度は素直に俺の首に腕を回した。――軽い。立ち上がって再び女性を抱え上げて、外へと向かって歩き始める。
「一生の夢が叶《かな》ったわ」
不意に女性が口を開いた。
「何?」
「一度でいいから、男の人にお姫様みたいに抱き上げて貰いたいって思っていたの。まさか、この歳になって夢が叶うなんて」
薄紫のワンピースの優雅な老嬢から出たお姫様という言葉にちょっと驚いて、彼女の顔を見下ろした。はにかんだ笑顔が可憐で素敵だった。しかし彼女がお姫様だとすると、俺は王子様? 自分でも、王子って柄じゃないと思うというのか、焼け跡に俺なんて、どちらかと言うとターミネーターだと思う。それもパート1の。
「王子は王子でも、美女と野獣だな。それも魔法が解ける前」
軽口で返すと、「あら、柔な優男なんか、興味はないわよ。逞《たくま》しい男性が私は好き。でも、さすがにちょっと若すぎね」と、さらに軽口で返してきた。口調の明るさに、俺もつられて明るく訊いた。
「いくつくらい?」
「そうねぇ、二つか三つ」
――――そう来たか。外見のチャーミングさだけでなく、頭の中身もチャーミング。ならば負けずに返すしかない。立ち入り禁止のテープを跨ぎながら、「二つ三つなら、待っててくれよ。実年齢は熊理でも、中身なら急いで成長するからさ」と、言ってみる。老嬢はうっすらと微笑むと、「嬉しいけれど、それは無理ね。だって私、もうじき死んじゃうんですもの」と、応えた。あくまでさらりと、さりげなく。
俺が感じた通りだった。彼女は癌を患っていた。それもやっかいな膵臓《すいぞう》癌で、しかも再発だった。待っていたタクシーの運転手は戻ってきた俺達を見て運転席に乗り込むと、後部座席のドアを開けた。俺は老嬢を静かに後部座席に下ろした。腰を下ろした老嬢はやはりほっとしたのか、小さく息をっいた。そして、「もう手術はたくさん。それに抗癌剤も嫌。あとは美味しい物を食べて、したいことをするの」と、少女のように軽《かろ》やかに笑うと、さらにつづけた。
「ねぇ、年寄りのわがままを許してくれる?」
なんだろうと首を傾げて見せた。
「こんなに親切にして貰ったけれど、夢は夢のままにしたいの。だから、あなたの名前は訊かないし、お礼もしない、私も名乗らない。それでは嫌かしら?」
俺もそれで構わなかった。最初からお礼目当てでしたことではない。肩をすくめて、手でタクシーのドアを押して閉める。老嬢は運転手に何かを告げると、後部座席のパワー・ウインドウのスイッチを押して窓を開けた。窓に指を掛け、老嬢が俺を見上げる。
「恩知らずでごめんなさい。さようなら、――私の王子さま」
タクシーは静かに走り出した。俺はただタクシーを見送っていた。荒瀬さん家の角を曲がる際、短くクラクションが鳴らされた。見ると、運転席の窓から運転手が、そして後部座席から老嬢が手を振っていた。カボチャの馬車ならぬ、黄色に赤いラインのタクシーに乗って、薄紫のワンピースに身を包んだ、ちょっとだけ年上の俺のお姫さまは去っていった。そして俺の魔法も解けた。ここに残っているのは、当番勤務明けのくたびれた消防士だけだった。
――さて、帰るとしよう。カブに足を向けて、そこでぴたりと立ち止まった。そもそも、なんで俺はこんなところにいるんだ? ――いや、ちょっと気になったからで、だから現場を見たかったわけで。ならばもう、見たじゃないか。――うん、見た。確かに見た。玄関に倒れていた煤けた車いすも見たし、焼け残った食器棚の中に積まれたままの皿も見た。それも、チューリップの花束を持った名前も知らない老嬢を腕に抱いて。もう、充分じゃないか。さあ、帰ろう。帰って寝よう。
そう頭では思っていた。だが今朝、所を出たときと同じく、またもや俺の身体は脳の命令を無視した。くるりと踵を返すと、再び現場へと俺は歩き出していた。
ものの一分前に入ったばかりの現場を、改めて見回す。気になったのは、火点となったリビングに残されたテレビ台――正しくは、テレビ台の中のDVDとビデオデッキの電源コードだった。さっきは家の中にまでは入らなかったが、今度は近づいてじっくりと眺める。
テレビ台は焼け残った壁と、わずかに隙間を空けて置かれていた。その隙間に、さっき見えた束ねられた表面の溶けた電源コードが這《は》っている。テレビ台と飾り棚に隠されて見えない電源コードがどこに繋がっているのかを見ようと、上から覗き込む。束ねられた電源コードのソケットは、二本ともコンセントに差し込まれていた。ただし、テーブルタップ――延長コードにだ。今度は延長コードのソケットが、どのコンセントに差し込まれているかを追う。
延長コードは飾り棚と壁の隙間を這って伸びていた。そして壁に当たると、今度は壁に沿って台所に向かってさらに進んでいる。俺は中腰のまま、延長コードの行方を迫った。リビングと台所の境には、磨《す》りガラスの入った、ただしガラスにはひびが入っていたし、木の部分は炭化して焦げ細り、表面が熱で剥離したクロコダイルパターン―――その名の通り、鰐皮《わにがわ》みたいな状態――と化したドアがあった。
開閉式のドア? 嫌な予感がして、しゃがみ込んでドアの下を確認する。そっとドアを閉めると、思った通り、延長コードはドアと床の隙間に挟まれて、くっきりと凹みがついた。改めて延長コードを見る。凹みは何カ所にも出来ていた。
――これじゃ、断線しちまうじゃないか。
そう思った瞬間、さらなる嫌な予感が俺の身体を突き抜けた。もはやのんびり延長コードの先を迫ってなどいられなかった。延長コードは台所の壁に沿って、冷蔵庫の横のオーブンレンジと炊飯器、さらにトースターが乗っている台の後ろに消えていた。覗き込むなんて悠長なことはしようとも思わなかった。力ずくで台を壁から引きはがす。オーブンレンジ、炊飯器、トースターと、台の上に載っていた順に床に落ちて、けたたましい音を立てたが、そんなのはどうでも良かった。台の後ろに隠された壁のコンセントが見えて、俺は息を呑んだ。――嫌な予感、大当たり。
上下二連のコンセントには、それぞれソケットが差きっていた。上にはリビングから追ってきたDVDとビデオデッキが接続された延長コード。そして下にもソケットが差し込まれていた。やはり延長コードで、俺が動かした台に向かって、斜め上空に向かって伸びている。先端のテーブルタップの三つのコンセントのすべてに差し込まれたソケットに引っ張られてだ。ソケットの元を目で追う一つ目はオーブンレンジ、二つ目は炊飯器、そして三つ目は台の横の冷蔵庫だった。現れた延長コードは、どこのお宅でも1ヵ所くらいは、「だって仕方ないじゃない、コンセントが足りないんだもの」と、言いわけ込みで存在しているに違いない、いわゆるたこ足配線がなされていたのだ。
防災上、たこ足配線は止めるように指導している。とは言え、他に方法がないと言われれば仕方ないので、常には繋がず、使用するときにそのものだけを繋ぐようにして下さいと注意して、スルーしたりもする。だが目の前のたこ足配線は、笑って見過ごすレベルにはなかった。
標準的な延長コードの上限ワット数は千五百ワットだ。使われているコードが、二本の線がくっついて一本になっている最も一般的で電気容量の少ないものに多く使われている並行ビニールコードだということからも確実だ。
額に手を当て、消防学校時代に無理矢理詰め込んだ知識を脳みその底の底から引きずり出す。標準的な冷蔵庫のワット数は百五十ワット、オーブンレンジは千三百ワット、そして炊飯器は六百五十ワット。合わせて二千百ワット。小学生レベルの簡単な足し算だ。さらに引き算もする。二千百ワット引くことの千五百ワットは六百ワット、六百ワットのオーバー。
もちろん延長コードに、常にそれだけの電力が掛かっているわけではない。炊飯器もオーブンレンジも使用してさえいなければ、待機電力は大したことはない。そこで俺はぐるりとあたりを見回した。煤けたホーローの洗面台を見つけて、瓦礫を踏み分けて洗面所だった場所に入り、焼け残った壁を見上げる。捜しものーブレーカーはそこにあった。書かれていた数字は二十アンペア。ごく普通の家庭の平均的な契約アンペア数だ。今度は割り算だ。さっきの合計ワット数二千百割る百は二十一。二十アンペアは越えている。
――え? 何の計算か判らないって? ではここで学校で習った基本的なことをお忘れの皆さんのために、ちょっとだけ説明をしてみよう。
アンペアとは電気の流れる量――電流を表す単位で、ワットは電気が仕事をするカ――電力を表す単位。そしてボルトは電気を押し出すカ――電圧を表す単位だ。この三角関係はいたってクリアだ。電圧掛ける電流が電力。言い換えればアンペア、イコール、ワット割ることのボルト。ただしボルト――電圧は、各個人が設定するものではなく、電力会社が設定している。家庭用の電圧は百ボルト、工場などの生産機械には二百ボルト以上が一般的だ。
話を戻そう。延長コードに繋がれていた家電をフル稼動させれば、消費電力が契約アンペア数を超えているのだから、とうぜんブレーカーが落ちる。ただ、ブレーカーは厳密に契約アンペア数をわずかでも越えれば落ちるというわけでもない。どんな家電であろうと使い始めには、瞬発的に一気に電力が掛かる。電気会社はそれを見越して、契約アンペア数よりもわずかに遊び――余裕を持たせた電力の供給をしているのだ。だから皆さんも経験がお有りだろうが、ブレーカーが落ちるときは、家電を使い始めてすぐにではなく、少し経ってからなのだ。
ブレーカーの正常な働きによって、寺本家の延長コードは無事だった。だからと言って、安全とは言い切れない。たとえ短時間であれ、何度も耐久電力の上限を超えた電力が流れれば、コードの中の芯線も、コンセント本体に使用されている金属も、外のプラスチックにも、がたが来る。
そうなったらどうなる? コンセントの中でショートを起こすかもしれない、漏《ろう》電《でん》するかもしれない、―― 出火するかもしれない。
洗面所から台所へと戻りながら、俺は五分刈りくらいに伸びてしまった髪に両手を突っ込んで、爪を立ててばりばりと頭皮を掻いていた。別に頭が痒かったわけじゃない。ただ、そうせずにいられなかったのだ。
頭の中で記憶がぐるぐる回っていた。藤田のオヤジと石渡隊長の会話、昨日知った寺本家を襲った重なったぐうぜんの不運、そして隣家の幸運。テレビ台の前に落ちていた花瓶、ドアに挟まれ折れ目のついたコード。そして延長コードに差し込まれていた、延長コードの耐久電力を越えた電気機器。そのどれもが俺に語っていた。―― ぐうぜんではない。誰かが意志を持って、こうしたのだと。
周囲を見回した。特に電気と火に関わり合いがありそうなところを中心にだ。俺の考えが間違っていなければ、他にもぐうぜんを装《よそお》った意図的な不幸への人為的な準備があるはずだ。
まずは台所のガステーブル周辺を見回す。焼けて煤けたタイルの周辺には、調味料らしきものの類が転がっていた。ごま油の瓶も料理酒の瓶もあったが、どちらも一瓶ずつだし、一般家庭の調味料の範疇だろう。見たところ、違和感はない。
つづけてガステーブルの下の収納の中を見る。引き出し式の収納は、取っ手をつかんで引いたとたん、焼け焦げた合板がぽろりと崩れた。崩れた部分に手を掛けて、引いて開けようとしたそのときだ、「何をしている?」と、背後から声を掛けられた。
その声の主を俺は知っていた。以前から思っているのだが、どうして逢いたくもない相手と、それも最悪の場所とタイミングで逢ってしまうのだろうか? 星の巡り合わせなのか、それとも森羅万象《しんらばんしょう》を司る誰かの采配なのかは知らないが、もう少し俺に優しくしてくれても良いと思うのだが。
掛けられた声を、あえて無視して引き出しを開ける。中にあったものを見た俺は、ため息をつくことしか出来なかった。そこにあったのは、土鍋と卓上用の簡易コンロ、そしてコンロ用の簡易ガスボンベだった。それも未使用の六本組が、整然と収められていたのだ。
「原調が終わったからと言って、勝手に現場に入ることは許されていない」
すっかりブルーになっていたところに、理路整然とした言葉がかんに障《さわ》って、振り向きざま言い返す。
「じゃあ、あんたは何なんだよ」
俺の反駁には応えずに、床に落ちたオーブンレンジや炊飯器を見下ろしながら、「家宅侵入、器物損壊で訴えられても仕方ないぞ」と、仁藤は言ってのけた。
言われていることがごもっともなだけに、言い返すことが出来ない。チッ、と舌を打ち鳴らすと、早々に退散することにする。
「逃げた犬を捕まえるにしても、人の家の庭に了解もなしで侵入するのは認められない」
――ほら来た。結果オーライという言葉は、仁藤の辞書には存在しない。常にパーフェクトでなければダメ。そして説教。ホントもう、勘弁して欲しい。
「荒瀬さんが理解ある方だったから良かったものの、いつもこうだとは限らないことはお前も知っているだろう?」
そりゃ、俺だって身を以て知っている。消火栓の上に堂々と違法駐車をしている都民が珍しくないことでも、たとえこちらが消火や救助活動の最中でも、道を譲ってくれない都民もいることでも。
「お前のことだ、一事が万事、結果が良ければ良いとしか思っていないのだろう」
――はい、正解、その通り。しかし当たったからと言って、嬉しくもない。それどころか、春夏秋冬日焼けもせずに女性も羨《うらや》む白い肌に整った顔の仁藤に言い当てられると、なんかムカつく。
「結果が悪かったと判ったときには、もう遅いんだぞ」
――う、そう言われては、言い返せない。
「まだお前は若い。体力にも自負があるんだろう。だが当たり前のことだが、いつまでも若いわけじゃない。後先を考えろ。誰のためでもなく、自分のために」
これまた、言い返せない。何だかんだ言って、仁藤が俺のことを心配してくれていることばすでに知っていた。出動の度に藤田のオヤジに電話を入れて、安否を気遣ってくれているのもだ。もちろん俺が頼んだわけでもないし、はっきり言って鬱陶しいし、余計なお世話だし、ありがたいとも思っちゃいない。それでも、――なんか、ちょっとこそばゆいかも。なんて思った矢先に、「お前独りで済めばいいが、周囲が巻き添えを喰ったらと思うとぞっとする」と、付け加えられてムッとする。もちろん俺だって、周りに迷惑を掛けたいと思って何かをしたことなど、ただの一度だってない。まったく、一言多いっての。あー、うるさい、うるさい。早く帰って寝るとしよう。
これ以上、とやかく言われないために、俺は足下に気を遣って歩き出した。何かを踏むとか蹴るとかしようものなら、また説教だ。
「荒瀬さんと来島さんの二人から、お前と何を話したかを伺った」
だからなんだよ、と腹の中で毒づきつつ、無視して脚を動かしつづける。玄関まで来て、車いすと立てかけられたチューリップの花束が視界に入り、また気分が暗くなる。振り切るように玄関から庭に出たその脚を「似ているな、篠原さんの火災と」という、仁藤の言葉が止めた。
篠原さんの火事を単なる失火と仁藤は思っていない。調査の結果、放火でなく失火と断定されたにも拘わらず、失火を誘因した、自己放火ではないかと疑っている。
――白状すれば、俺もだ。そして寺本家にも、実は同じ疑いを持っている。いや、延長コードや簡易ガスボンベの備蓄を見た今、確信に変わりつつある。とは言え、すづさんも寺本夫妻も火災で亡くなった――焼死した。周囲に被害もない。ならばあえて罪に問う必要はないんじゃないだろうか。死者に鞭打つようなことは、少なくとも俺はしたくなかった。
「失火で決まりなんだろ?」
はっきりとそう言いながら、振り向いて仁藤を睨みつける。バインダーを手にした紺色の作薬服婆の仁藤は、さっきまで俺が立っていたガステーブルの前まで移動すると、収納の中を覗き込んだ。もちろん、簡易ガスボンベの備蓄に目を留めているだろう。軽く一つ息をつくと、別に驚いた風もない顔を仁藤は俺に向けながら「ああ、そうだ」と、応えた。
失火と断定されたのに、それでもなお、ここにわざわざ足を運んだということは、仁藤もまだ疑っているに違いない。だからガステーブル下に備蓄されていた簡易ガスボンベを見つけたところで、さして驚かなかったのだろう。とは言え、まったく驚いてもいないその顔は、かんに障った。
「なら、それでいいじゃねぇか」
そう言い放つと、話は終わったとばかり、俺は足を踏み出した。かつて庭だった場は、炎に焼かれ焦土と化し、さらに放水でぐちゃぐちゃになった地面には、防火靴の足跡と、ホースの引きずられた跡が、今もなおくっきりと残っていた。
荒れ果てた地面に、俺はかつて寺本さんの奥さんが、そして奥さんの病後、爺さんが丹誠込めて草花を育て、一年を通じて花が絶えなかったと言われていた庭の面影《おもかげ》を探していた。そして、見つけた。柴田さんとの境の塀の前に植えられた庭木の下に、オレンジに近い黄色の花をいくつもつけた背の低い草が一株残っていたのだ。
燃やされ、放水され踏み荒らされて、命の営みが無理矢理断ち切られたぐちゃぐちゃどろどろの寺本家の中で、大地に根を張り、小さいが生命の輝きを誇るような黄色が妙に目にしみた。
「昨日、北部セントラル病院に行って来た」
距離は離れていたが、さして大声でもないのに、仁藤の声は俺の耳に届いた。
――風邪でもひいたか? それとも脚のリハビリか? どちらにしろ、仁藤の健康状態など、俺にはまったく関係ないし、どうでも良い。踏み出した足が、ぬかるんだ地面に、ぐちゃりと沈んだ。見れば、お気に入りのバスケットシューズは泥まみれだった。もはやため息しか出なかった。
「寺本夫人の掛かりつけの病院だ。――夫人だけでなく、ご主人もだ」
足が止まった。脳梗塞を起こして車いす生活の奥さんに掛かりつけの病院はあるだろうが、旦那さんにも――って、老人なんだから、別に驚くこともないか。だいたい老人じゃなくたって、病院くらい、誰だって掛かる。別に驚くことじゃない。
「一階の食器棚の引き出しから病院の薬袋を見つけた。奥さんだけでなく、旦那さんのもあった。だから気になって訊きに行ったんだ」
いつまでも語られつづけられるのは鬱陶しいので、「年寄りなんだから、持病の一つもあってとうぜんだろ?」と、興味なさげに言い返す。
だが俺の口の中は妙に粘ついていた。わけもなく、仁藤がわざわざこんなことを言い出すことなどないのは、判っていたからだ。
「本来ならば、病院が他人に患者の情報を流しはしない。だが、事情を説明して教えて貰った。寺本氏は半年前から奥さんの付き添いだけでなく、ご自身も通院されていた。病名はアルツハイマー」
その病名なら俺も知っていた。医学的にどうだとか、詳しいことは知らない。ただ、日常生活を送るには、少なからず困ることは知っていたし、現在に至っても完治する治療法が見つかったと聞いたこともない。
「寺本夫妻には、お子さんはいなかった。お二人とも兄弟姉妹はいるにはいたそうなんだが」
寺本氏には兄が一人いたが、妻とともに既に亡くなっていた。兄には子供、寺本氏にとっての甥姪はいたが、つき合いはほとんどなかったらしく、連絡先すら今もなお判らないのだと言う。夫人は一人娘で遠縁の親族はいるにはいたが、こちらも没交渉だった。だから夫妻の通夜や葬儀の喪主のなり手がなく、実は葬儀の手配もまだされていないのだと、仁藤は淡々と語った。
つまりはこういうことだ。車いす生活の奥さんの面倒を旦那さんが看《み》ていたのは、愛情だけでなく、他に看てくれる人がいなかったのも理由の一つだった。そして寺本氏自身も病を患ってしまった。それも、完治する見込みが現状ではまだないアルツハイマーに。
病名を告げられた寺本氏は、何を思っただろうか? 思いを巡らせ掛けて、俺は止めた。寺本氏の年齢も、奥さんの病気も、夫妻の親族関係、どんな生活状況だったかも、今の俺は知っている。だが、本人不在の今、残った物証や他人から訊いた話を踏まえてどれだけ考えたところで、それはあくまで想像でしかない。俺よりはるかに長生きした人生の先輩二人が、こう考え、感じていたに決まっていると決めつけるだなんて、そんな思い上がったことは俺はしたくなかった。
ただ、寺本家の火事が単なる失火ではないという確信は、残念だが深まった。頭の中にある光景が浮かんでいた。延長コードに電気機器の電源コードを順に繋ぎ、花を生け、水の入った花瓶をテレビの上に置き、そして押し花を造るために使う新聞紙や紙を部屋中に置き、車いす生活の奥さんをあえて二階へと、階段を一段ずつ抱きかかえて運んだ寺本の爺さんの幻が見えた気すらした。
――本当に俺は馬鹿だ。つくづく後悔した。こんなところに来るんじゃなかった。まっすぐ帰っていれば、延長コードも備蓄された簡易ガスボンベも見なかったし、まして仁藤の野郎になど会わずに済んだし、何より寺本の爺さんがアルツハイマーだったことも知らずに済んだのに。だいたい、今って何時だよ? と、腕時計を確認する。
職業上、何より防水を優先せざるをえず、選んだのはバンドがゴム製のタグホイヤー。これをプレゼントしてくれたシャイな純愛オヤジはもういない。もはや腕の一部になったこの腕時計を見るたびに、どこかセンチメンタルになる。なんて、センシティブなことを抜かすのはあとにしよう。ただ今時刻は、――七時三十四分? どういうことだと時計のフェイスを見つめると、秒針がぴくりとも動いていなかった。
――電池、切れてんじゃん。どっと疲れを感じた。なんかもう、踏んだり蹴ったり。一度、赤羽駅前まで戻って、電池交換をしてから帰らないと。ウチの近くに電池の交換をして貰えそうな場所がないだけに、明日以降、難儀なことになる。あー、もう、本当にこんなところに来るんじゃなかった。腹の底からため息をついた直後、背後から声が飛んできた。
「消防士の仕事はなんだ?」
とつぜんの脈絡のない問いに、再び足が止まる。
「答えろ、大山」
振り向くと、仁藤は相も変わらず整った顔で、じっと俺を見つめていた。負けじと睨み返す。やがて仁藤が口を開いた。
「もう一度訊く。消防士の仕事は何だ?」
何だと言われても。―― あれ? なんか、このシチュエーション、前に経験した気が。そう思ったとたん、思い出そうとするべくもなく記憶が蘇った。あの火事現場だ。同時に、交わした会話が頭の中に、はっきりと浮かんだ。
仁藤は俺に訊ねた。火事現場の住所、建物の属性、立地条件に住人に出火原因。そしてさらに訊いた。同じ悲劇を起こさないためには、何をすれば良い?次の瞬間、今回の二件――――篠原すづさん、寺本夫妻――――の火災について、同じ問いを俺は自分にしていた。岩淵町に西が丘一丁目、築年数の経った木造二階建て、道路には面している、住んでいたのは老人のみ、原因は失火。
同じ悲劇を繰り返さないためには? 同じ悲劇――老人家庭の失火を、それもただの失火じゃない、自己放火としか思えない失火を起こさないようにするには?
それまでぽんぽんと自問自答してきたが、ここで俺の思考は停止した。老人世帯を回って警告するのか? 赤羽中の老人世帯すべてを? いったい、何軒あるんだ?
そりゃ、老人のみならず、すべての世帯に、失火の危険を説いて回って、防火指導を促すに越したことはない。だがすづさんのように、寺本夫妻のように、自ら死を迎えようとしている老人をどうやって見分ける? 片っ端から家という家の玄関の呼び鈴を鳴らして、住人に訊ねるのか? こんにちは、消防署の者です。こちらは老人のみのお住まいで? 今、失火に見せかけて自殺をしようとしている老人世帯に、止めるように説得するキャンペーン中なんです。よろしかったら、お宅の事情を訊かせて貰えないですか、――って?
――馬鹿馬鹿しい。そもそも、どんなことがあろうと、人は生きていなければならないなんて、俺は思っていない。人にはそれぞれ事情がある。死ぬことでしか楽になれない人だっている。確かに死ねば終わりだし、本人はそれで良いだろう。だが死んで楽になるのは本人だけだ。逆に残された人は、死んだ人の何倍も苦しむ。それこそずっと、生きている間中、後悔を背負い、自分に何か落ち度があったに違いないと自省しながら生きつづけていかなければならない。だから自分の周りの人たちに、それだけの辛い思いをさせても良いと思うなら、若《も》しくは周囲もそれで良いとあらかじめ了承して貰っているのなら、べつに人は自ら死んだっていい。俺はそう思っている。ただし、俺たち消防士――ことに俺――に厄介《やっかい》を掛けず、間違っても危険な目に遭わせなければ。
ここまで考えて、ふつふつと腹の中に怒りが滾《たぎ》ってきたのを俺は感じていた。どんな理由であれ、死を選ぶのは自由だ。しかしその方法が放火なのは許し難い。だいたい、死を選ぶにしても、もっと楽な方法はいくらでもあるはずだ。高いビルから飛び降りるとか、電車に飛び込むとか。そりゃ、ビルのオーナーや電鉄会社や、その電車を利用する多くの人には迷惑を掛けるが、この際、消防士――俺じゃなければ構わない。それはあんまりじゃないか、って? 誰だって自分が良ければそれで良し。俺に限らず、世の中みんなそんなもの。――違うか?
どんな方法を選ぼうと、確実に死ねるかどうかは判らない。でも生きたまま炎に巻かれて焼死するよりましな方法はいくらでもあると思う。もちろん試したことはないから、本当に他の方法の方が楽かどうかは定かではないが。
なのに、二組とも焼死を選んだ。それも生きながら自らを炎に巻かせ焼け死ぬなんて、俺なら考えるだけでもぞっとする、最悪に苦しくて辛い方法を。
――いや、待て。二人とも病に冒されて、しかも血縁の薄い寺本夫妻はともかく、篠原すづさんにも、自ら死を求めて失火を招くべく準備をしなければならない理由があったのだろうか? すづさんの背景を思い起こす。ご主人は七年前に他界していて、独り暮らしだった。他に家族は、―― そうだ、火災の翌日に保険屋が本署に訪ねてきたんだった。それも二人の息子に急かされて。その事実を考えると、仲良し親子ではなかったのかもしれない。でも息子はいた。
「大山」
えらく近い位置で呼びかけられて、思考を遮られた怒り半分、驚き半分「|あ《〃》?」と、荒い声を挙げた。いつの間にか、仁藤は俺のすぐ近くまで来ていた。そういえば、奴の質問を無視していた。
だが俺は応える気はなかった。もう、充分考えた。改めて寺本家の火事が、失火を装った自己放火だということを検証する気はなかった。それも仁藤と一緒になど、まっぴらごめんだ。ぎろりと気合いを込めて睨みつける。しかし仁藤は臆することもなく、バインダーを開くと、俺の目の前に突きつけた。
なんだよ、と毒づこうとしたが、声が出なかった。開かれたバインダーには、数枚の写真が貼り付けられていた。もちろん何の写真かは、すぐに判った。セピアのフィルムを使ったわけでもないのに、色味の暗い写真――現場写真だ。その中の一枚に、俺の目は釘付けになっていた。
右側の頁中央に貼り付けられたその写真は、火点のテレビのソケットが差し込まれたコンセントのアップが写されていた。もとはアイボリーだったろうが、黒く変色したうえにどろどろに溶けた、もはや原形も留めていないコンセントには、二口ともソケットが差し込まれていた。本来、きちんとソケットが差し込まれていれば、コンセントとソケットは垂直になっているはずだ。だが写真の中の上の口に差し込まれているソケットは、斜め下に下がっていた。それが消火活動によってそうなったものではないことは、写真に映し出されたソケットのプラスチック部分とコンセントの台が熟で溶接されて一体化した、まるでオブジェのような姿が物語っていた。
家具の裏のコンセントに差し込まれたソケットは、つい目が届かず、緩《ゆる》んでいることは珍しくない。電気機器のソケットは、コンセントに差し込まれることで、初めて電流が流れて稼働する。差し込みの緩いソケットは、電流が流れている金属部分がむき出しになっているのだから、そこにほこりが溜まれば、かなりの確率で出火する。
「テレビの上に花瓶が置かれていたようだな」
仁藤が何を示唆《しさ》しようとしているのかは、想像に難くなかった。緩んでむき出しになったソケットの金属部分、そこに薄く溜まったほこり、何かの拍子にテレビの上の花瓶が倒れ、花瓶の中の水がこぼれる。その水が、たとえ数滴でも援んだソケットに掛かれば――。金属、電流、水、その三つが合わされば確実にショートし、ほこりは助燃剤としてショートで生まれた火花を容易に炎に変える。
そこまで考えた俺の頭の中に、またもや幻影が見えた。金属が出るように寺本の爺さんがソケットを緩めて、そこに自らの手で花瓶の水を垂らす姿がだ。むき出しの金属に水が数滴掛かる。ぱちぱちっと音を立てて金属から火花がスパークする。やがてコンセントから白い煙が立ち上り、煙は色を白から黒に変え、そして炎が吹き出て来る。その様子を見つめていた寺本の爺さんが、ゆっくりと階段を上がって行く。先に連れて行った妻の待つ二階へ――。
いや、待て。すづさんの現場に花を供えに来た寺本の爺さんは、火事がどういうものか、見たはずだ。すべてを燃やし尽くし、黒焦げの残骸に変えてしまう炎の力をその日で見たはずだ。なのに、それを見て知った翌日に、自分で火を呼び起こしたと言うのか? ――ちょっと待て、なんで火なんだ? 他の方法ではいけない理由が何かあったのか? それにたとえ火を選んだとしても、先に命を絶つことも出来たはずだ。
なぜだ? どうして? 疑問ばかりが浮かんで頭の中を埋め尽くす。―― ああもう、わけ判んねぇ。
視線を感じて、はっと目を上げる。バインダー越しに注がれる仁藤の視線は、どこまでも物静かだった。その視線に苛立った俺は、一言も発することなく、大股でその場を去った。怒りでも同情でも哀れみでも、何でもいい。仁藤の目にわずかでも、寺本夫妻の立場に立った感情を読み取ることが出来ていたら、何か一言でも俺は返事をしただろう。だが仁藤の目は、職務としてこの火災を検証し、今後の対策を冷静に立てている消防士のものでしかなかった。ならば話すことなど、何もない。
あっという間に寺本家の庭を出て、路肩に停めたカブに跨り、キーを回してやけくそ気味にエンジンを掛ける。そのとき、くうんと塀の向こうから声が聞こえた。来島家の塀のブロックの穴から、黒い鼻先が覗いている。モーだ。またカラーの中が痒いのだろうか?
――ごめんな、モー。今日は掻いてやれない。いや、今日だけでなく、もう二度と掻いてやることもないだろう。だって俺は二度とここへ、寺本家には来ないから。
俺は昨日出会ったばかりの愉快な柄の犬に心の中で詫びながら、カブでその場をあとにした。
西が丘一丁目から、板橋区仲宿の我が家へとカブで行くには、真っ直ぐ南下するのが一番早い。だがあえて俺は上十条五丁目に向かっていた。なぜあえて遠回りしたかと言うと、西が丘三丁目に入って、嫌でも右を見たら見える東京入国管理局の第二庁舎を見たくないからだ。理由は、――ゲンが悪いから、とさせてくれ。ほら、霊柩車《れいきゅうしゃ》を見かけたら親指は握りこまないとダメとかあっただろう?あとワーゲンのビートルを五台見かけたらその日はハッピーとか。って、ちょっと違うか。とれ
かくも、近くは通りたくないから遠回りした、それだけだ。
御獄神社を目前にして、信号待ちに引っかかった俺の腹がぐうと鳴った。何時だよ? と腕時計に目を落として、失態に気づいた。そうだった、赤羽駅前まで戻って時計の電池の交換をしてから帰るんだった。ああ、もう、と、ため息一つ。こうなったら、駅前で何か美味いものでも食べてから帰るとしよう。周囲に車がいないことを良いことに、直進道路から無理矢理左折道路へと大きくハンドルを切ると、俺は一路、赤羽駅西口に向かった。
ビビオの時計屋で電池交換を終え、ついでにレストランフロアで飯も食い終わったのは午後二時を回っていた。平日の昼間は各店舗、ランチなるお得なメニューを準備しているのはありがたいが、以前から一つだけ納得がいかないことがある。レディースのみのサービスだ。同じランチでも、女性だけドリンクやデザートがサービスになるのもそうだが、何より女性しかオーダーできないメニューがあるというのはいかがなものか? 対して男へのサービスは、あったところでご飯お代わり自由とかだ。しかも男性限定のサービスではないところが多い。事実、さっき入ったチェーンのとんかつ屋では、OLさんらしいけっこう綺麗なお姉さんの二人組が、キャベツだけでなく、どんぶり飯もみそ汁もがっつりお代わりしていた。さらにレジでは「コンビ寄って、デザート買ってこ」。女性がか弱い時代は、すでに終わった。とりわけ胃袋は。飲食店の男女差別断固反対の活動があるのなら、デモでも署名集めでも、俺は何でも参加する。
腹もくちくなったし、今度こそ帰ろう。そう思ったとたん、大きなあくびが出た。帰ってゆっくり寝るとしよう、固く決意してビビオから出た俺の背後から、小さな人影がせかせかと追い抜いていった。灰色のジャケット姿のチビのガキだった。チビはそのまま右に進んでイトーヨーカドーの前に進み、さらにJR赤羽駅の西口に向かって歩いて行った。
駅前だけに、人通りは常に絶えない。もちろんガキだって溢れている。なのになぜか俺は、そのガキを目で追っていた。
斜め下の足下だけに視点を合わせ、頭も肩も上下させずに小さな歩幅で足早に歩くその姿は、まるで骨董品を鑑定するテレビ番組で観たからくり人形のようだった。愉快な歩き方だが、かといって、とんでもなく珍しいわけでもない。なのになぜ、俺はそのチビから眼を離せないのだろうか。
どこかで会ったか? ここのところ会った中にガキなんざ、――いた。一人いた。寺本の爺さんと一緒に歩いていたゼンマイ仕掛けじゃないかと思うほど奇妙な歩き方をしていた孫らしきガキだ。
あのときのガキだろうか? 気にはなったが、だが、寺本氏の孫だと判ったとして、だったらどうする? この度はご愁傷様でした。ところで、お祖父さんとお祖母さんのお宅の火事ですが、どうもただの失火じゃなくて、自ら失火を招いた、いわば自己放火の自殺のようなんですけれど、何かお心当たりは? ――言えっこない、そんなこと。
そこで俺は根本的な間違いに気づいた。寺本夫妻には子供がいない。つまり直系の孫がいるわけがない。甥と姪はいるらしいが、いまだ葬儀の喪主を引き受ける相手が決まっていないくらいのつき合いしかない。ならば、あのガキは甥や姪の子供でもない。あのガキと寺本の爺さんの間に血縁関係があるのならば、寺本夫妻の喪主はあのガキの親が引き受けるはずだ。
ならば、あのガキは誰なんだ? 寺本の爺さんは、仏頂面して歩くガキの顔を横から覗き込むようにして、にこにこと微笑みながら話し掛けていた。あの笑顔は、二人がついさっき、知り合った仲とは、とても俺には思えなかった。
せかせか歩く小柄な後ろ姿は、あっと言う間に小さくなって行く。このまま見送ろう。そうだ、帰って寝るんだ。そう思ったにも拘わらず、俺はガキの後を追っていた。
――今日、何度目だ? と言うか、今までの人生の中で、よそうと頭では考えているのに、それを無視して身体が動いている回数を数えたら、いったいどれくらいになるだろう。我ながら、考えるだにぞっとする。もしかしたら、俺は真性の馬鹿なのかもしれない。ちょっと遠い目になりつつも、脚は大股でガキを追っていた。
赤羽駅西口から東口へ抜けるには、JR赤羽駅を東から西へと通路を突っ切るのが一番早い。ガキが線路に沿って右に進んだ。南口通路に入ったガキは入り口左側のゲームセンターにも、その横のビデオ屋にも目もくれず、ただせかせかと歩き続けた。洋服屋、パン屋と立ち止まることもなく通路を抜け出ると、左へと折れた。
すぐさま前の道路を渡り、ガキが入って行ったのは、ピンクゾーンのど真ん中の道だった。左斜め 前には歴史も古いキャバレー・ハリウッド。まっすぐに伸びた道の両脇は、韓国料理店と、店名からしてあからさまにお色気サービスの店が連なるエリアだ。そんな中、ガキはわき目もふらず、ひたすら足下だけを見つめて進んでいく。その先にあるのは交差点だ。俺が初めてガキを見かけた交差点へと、ガキは今もまた向かっていた。この辺りに住んでいるのだとしたら、前回見かけたのも、今歩いているのも、別におかしくはない。
ガキは俯《うつむ》いたままひたすら、早足で歩きつづけた。横断歩道では青信号が点滅を始めていた。こりゃ、さすがに渡らないだろうと、俺は足を緩めた。これで信号待ちの間に顔も確認出来るし、なんだったら話し掛けることも出来る。とはいえ、どう話し掛けたものやら。
だいたい、知らない人に話し掛けるなんて、ナンバで女性にする以外まずないし、まして男のガキになんて。男に話し掛けたのは、最近でこそほとんどないが、以前はけっこうあった。ほとんどが、なんだよてめぇ、とか、ざけんじゃねぇぞ、こら、とかの、ケンカという名の適度なスポーツの開始の挨拶だったが。もちろん、あんなチビを相手にしたことはない。適度なスポーツだからこそ、俺には俺のルールがある。自分より極端に年齢とか、ウエイトの階級が低い相手とはしない。そう、あくまで適度なスポーツ。間違ってもルール無用のガチンコ勝負などではない。
そんなことを考えていたら、数歩前からガキが消えていた。点滅を始めた横断歩道を走るでもなく、せかせかと渡り終えていたのだ。そしてガキは赤羽消防本署の横を通り過ぎて行った。―― おいおい、なんだよ。
こうなったら、早く信号が変わることを祈るしかなかった。だがガキの背中はみるみる小さくなっていく。このままでは見失う。目の前にそびえ立つのは赤羽消防本署、――最悪。頼むから、今回だけは誰にも、とりわけ仁藤には目撃されませんように、出くわしませんようにと祈りつつ、俺は車が途切れるタイミングを見計らって赤信号の横断歩道を突っ切ると、ガキのあとを追った。
赤羽消防本署の横を完全に通り過ぎたガキは、左の西友に目もくれずに、さらに真っ直ぐ進んで行く。消防署の裏の区立赤羽会館の横をさらに通り過ぎて、そこで右に消えた。赤羽会館の裏にあるのは、赤羽公園だ。とりあえずガキの進んだ通りに、本署とその先の赤羽会館の横を通過する。そしで同じく右折して、俺は立ち止まってしまった。ガキの姿が消えていたのだ。あわてて周囲を見回したが、完全に姿を見失っていた。
――畜生、ぬかった! あんな辛気くさい顔のガキ一人にまかれるだなんて、脱力して天を見上げて一つ大きく息をつく。――俺もトシかも、あーあ。
目的を失った今、こんな場所に、それも本署の近くになんていたところで仕方ない。とにかく帰るとしよう。カブは西口のビビオの駐輪場に停めて来てしまったから、また駅を通って戻るしかない。つくづく、馬鹿なことをしたものだと思いつつ、けっきょく来た道を引き返しだした。
さっき渡ったばかりの横断歩道で、またもや俺は信号に捕まった。たかだか信号とはいえ、ついていないときは、とことんついていない。だが今度は信号無視してまで渡るほど、急いでもない。ぼーっと信号が変わるのを待つ。出て来るのはあくびばかり。
ひときわ大きなあくびをしたその時、俺の横をタクシーが通過した。黄色に赤いライン、上には提灯、とりわけ珍しくも何ともない、ありきたりのタクシー。だが俺は大口を開け放したまま、タクシーを目で追っていた。後ろの席に乗っていたのは、紫色のワンピースの老嬢だったのだ。見間違いでもなんでもない、寺本家で出逢った、俺よりわずかに年上の、名前も知らない姫だったのだ。
タクシーは速度を上げて去っていってしまった。ガキのときと違って、後を追おうだなんて、考えもしなかった。タクシーを自力で走って追いかけるだなんて、物理的に無理だという冷静な判断ももちろんだが、それ以上に俺は老嬢との約束を守りたかったのだ。
俺は老嬢の我がままを聞くと約束した。王子としては、その約束は破れない。信号が青に変わった。俺はまっすぐ前だけを見て、横断歩道を渡り、今度こそ帰路についた。
第六章
自宅の部屋に戻ったのは、けっきょく午後三時をわずかに回った時刻だった。そのあと、自分の部屋の万年床に倒れ込んで、ひたすら寝た。途中、どうにも腹が減って目が覚めて、とりあえず買い置きの柿の種のファミリー・パックの小袋三袋と、缶ビールでその場を凌《しの》ぐ。アルコールも食べ物も各人の管理、それが我が大山家のルールだ。自分の分がないときは、相手の買い置きに手を出すこともあるが、あくまでそれは借りただけ。借りた物は必ず返す、これもまたルールだ。今回食べた柿の種は、俺の物ではなく、母・民子の物だ。外袋に「た」と、マジックで大きく書いてある。中の小袋一つ、減ったくらいばれないだろうなんて、俺もはなっから思っていない。何しろ、箱入りの棒状チョコレート菓子が二本減っただけでもしっかり気づいて、がっちり返却を求めるのだ。まったく、どれだけケチなんだと文句を言ったところで、「ケチでしっかりしているからこそ、あんたがここまで図体デカくなれたんでしょう?」と、言われては、早くに親父が他界して、そのあと民子独りの細腕ならぬ、適度にむちむちした腕ががんばってくれたお蔭で今にいたる俺としては、返す言葉などあるわけがない。――いや、ほんと、母は偉大。
目覚めた週休日は、色々と雑用をこなした。返さなくてはならないファミリー・パックの柿の種や、ビールやインスタントのカップ麺、その他、非常食用の買い置きを買いに出掛けたりとか。もちろん、近所のコンビニではない。大型ディスカウントストアまで脚を伸ばしてだ。帰宅してから、油性マジックで片っ端から買ってきた物に「ゆ」のサインを入れる。当たり前のように「ゆ」と書きながら、ふと、考えた。俺の名は雄大と書いて「たけひろ」と読む。尊大な態度も込みで通称こそ「ゆうだい」だが、正しくは「たけひろ」だ。なのになぜ「ゆ」と書いているかといえば、民子も「た」だからだ。俺だって自分の名に愛着はある。もちろん「た」と署名する権利を主張した。しかし「あたしがいなかったら、あんたはいない。優先権はあたしよね?」と、言われては。それに同じ「た」を使っていようものなら、すべてを自分の物と主張し押し切られ!て搾取されただろうから、今となっては「ゆ」にして良かったのだろう。
夕方に裕二から呼び出されて、蓬莱で待ち合わせた。いつもとさして変わらず、順調だったのはここまでだった。引き戸を開けて現れた裕二の機嫌は究極に悪かった。ここまで不機嫌になる理由は一つしかない。父親だ。
父親の自宅電話と携帯電話の番号をブラックリストに載せて一安心と思っていたら、なんと父親は職場に現れた。さすがは裕二の親父だ。裕二の同僚や先輩に挨拶一つするでもなく、作業中の裕二を当たり前のように呼びつけた。裕二は無視しきっていたが、親子の事情をうっすらと感づいていた職場の先輩方から「なんだかんだ言っても、たった一人の父親なんだから」と取りなされて、仕方なく手を止めて相手にしに行った。
やってきた裕二を前にして、父親は開口一番、「食事につきあえ」と、ひと言。理由が、職場のアルバイトの女の子たちとの約束を果たすためというのだから、まさに最低、ここに極まれりだ。
「断る」と、一言返して仕事に戻った裕二に、興味津々とばかり二人のやりとりを見ていた同僚の誰ももう、何も言わなかった。
その日の現場のリーダーは小竹《こたけ》さん―――二十三歳にして三人の子持ちで、今では鑑別所出身の過去をみじんも感じさせないナイス・パパ――は、リーダーらしく穏やかにその場を納めようとしてくれた。そんな良識ある小竹さんに向かって、裕二の父親は偏見に凝り固まった罵詈雑言を浴びせかけたのだ。もう我慢がならないとばかり、裕二はバケツに汲んだ水を父親にぶっかけた。そして父親から返ってきた言葉は「訴えてやる!」だったというのだから、もはや相づちの言葉すらない。
こんな最低最悪のエピソードではあるが、ひとつだけ良いこともあった。同僚たちが仲間はずれを止めたことだ。だが実はそれは裕二にとって屈辱的なことだった。可哀想に思われる、憐れまれるということを、クールでアバンギャルドでリアリストで、なおかつ誇り高い裕二は何より嫌っていたからだ。だからといって慰めはしなかった。裕二は世間で上手くやっていくということが、どういうことかを知っている大人でもあったからだ。
今日という日を表面上、和《なご》やかに勤め上げたが故に、蓬莱に現れたときには、裕二の苛立ちと不満は頂点に達していた。というわけで食事の間中、延々とその日の出来事を父親の悪口込みで聞かされて、俺のテンションはすっかり下がってしまった。愚痴を言う――ガス抜きは必要だとは思うが、裕二のは毒吐きだ。長いつきあいで、さすがに慣れている俺でもどんよりするくらい、その日の裕二の毒は濃く、強かった。その結果、店内の雰囲気も重苦しくなってしまった。
そんな空気に気づいてはいるのだろうが、あえて無視して、裕二は「笑っちまうぜ、半ベソかいた面も言い方も、お笑いタレントそのまんまだもん、ほんと、センスねぇの」と、父親のことを鼻でせせら笑い、さらに「可哀想な子には優しくしないとなんて、どれだけお前ら倣慢なんだ、ってんだよ。可哀想なのはお前らの頭の中だっての」と、同僚を馬鹿にし倒して、やっと口を閉じた。
それを待ちかねていたように、江さんが厨房から飛び出してきた。家族思いで特に父親を尊敬して やまないアジアの勤勉勤労青年の江さんは、裕二の父親に対する態度も言葉も耐えかねたのだ。そして裕二に向かって説教を始めた。例のとても丁寧な、だけど、どこかイントネーションのおかしな日本語で、しかもオーバーアクション気味の身振りつきで。
もちろん裕二は相手にしなかった。それでも言葉を重ねる江さんを見ているうちに、俺にも嫌な記憶が蘇ってきた。父親に感謝しろ、尊敬しろ。 ―― あー、やだやだ、鬱陶しい。
江さんが熱くなればなるほど、裕二は冷めた。そんな裕二の態度が江さんの頭に血を上らせたし、それまでの発言も含めて店内の客を敵に回した。口の達者な客の一人が、江さんに荷担をはじめ、すっかり騒然とした店内を収めたのは店の親父だった。一言、「お前ら、帰れ」。
退場のきっかけを貰えて、正直俺は嬉しかった。父親に幸せな記憶がある江さんと、およそなかった俺と現在進行形でまったくない裕二、俺たちと江さんは二本一対の線路だ。その心は? どこまでたっても交わることはない――。って、我ながらお粗末。
店を出て、「よく、言い返さなかったな」と言った俺に、裕二は淡々と応えた。
「『じゃなきゃいけない』 って、自分で自分に制約を課している分には、けっこうイケてるって俺は思う。だけど、それを他人に押しつけたとたん、最高にダサくなる。誰かにとっての『じゃなきゃいけない』は、俺の『じゃなきやいけない』じゃない」
そこで言葉を止めると、裕二は俺を見上げた。だがその目は俺を見てはいなかった。俺よりはるか遠くの何かを見つめながら「誰かの『じゃなきゃいけない』は、俺にはそいつの『だと良いな』でしかない」と、言った。さらりと、だが宣言するように。
「ただ、困ったことに、自分の『じゃなきゃいけない』を他人に押しつける奴のほとんどが、自分が正しいと信じている。良いことなのだから、正しいのだから、そう信じて疑わないからこそ押しつける。だからこっちが余計な世話だと断ろうものなら、腹を立てる、非道《ひど》いと怒り出す。あくまで自分の意志で勧めたけれど、あなたがしたくないのなら仕方ない、残念だ、なんて大人しく引き下がったりなんて、まずしない」だから腹を立てたり言い返したりしたところで仕方ない、ということか。そいつにとっての「じゃなきゃいけない」は、他人にとってはそいつの「だと良いな」。至極納得。さすがは我がダチ、市井の哲学者・裕二。
「言い返すことならいくらでも出来た。けどよ、江さんが自分の父親を大好きだっていうのなら、それはそれでいい。俺だって、すべての父親が子供にとって良い父親だと良いと思っているしな」そう漏らした口調に、ちょっとだけ寂しさを感じた俺は、握った拳を裕二の鼻先に突き出した。裕二は顔をわずかにしかめると、それでもMA1のポケットに突っ込んでいた右手を、さも億劫《おっくう》そうに出して、こつんと当てた。そして元通りポケットに右手を納めると、さっきよりはずいぶんと明るい口調で言った。
「な――、雄大。今日、放火魔見つけたら、ボコっちゃって良い?」
今日は見回りをすることにはなっていなかった。と言うより、明日は二十四時間勤務の当番日だから、正直言って明日に備えて帰って寝たい。だが、裕二とこのまま別れるつもりはなかった。だから俺は裕二に笑って返した。もちろん、と。
そもそも放火魔なんざ、全員ボコボコのぎったぎたにして良いと俺は思っているし、それに今日は特に許す。裕二よ、心ゆくまでやるがよい。もちろん、本当にヤバいところまでするほど裕二は馬鹿じゃないからだが。なんて心の中で思っていた矢先、裕二がつづけた。
「あの馬鹿男、放火犯だったらいいのになー」
その一言で笑顔が固まった。あの馬鹿男って、裕二の父親だよな、やっぱり。そんなことがあろう
ものなら、最初から本気で止めないと真面目にヤバい。
俺は祈った。裕二の父親が間違っても放火に手を出さないことを。出したとしでも、それを見つけるのが裕二でないことを。魂通じる大事なダチを犯罪者にはしたくない。同時に俺の無事もだ。マジ切れ裕二を止めるとしたら、怪我程度で済むわけがない。
裕二の血中バイオレンス度が高いことを察したのか、その日のパトロールでは、げっきょく放火犯とは出逢わなかった。――ちぇっ。でも、今日ばかりは放火犯もラッキー。
じゃあなと、ちょいと手を振って裕二と別れたとき、俺はほっと息をついた。気分は残念と安堵の二つに占められていた。半々より、かなり安堵が多目で、だ。
帰宅して三時間ほど寝て、すぐさま出勤。途中、コンビニに寄って、朝飯のクリームパンと紙パック入りのコーヒー牛乳と、今日の昼飯は各自だから弁当も買う。赤信号の停車タイムを食事時間にしつつ、赤羽台消防出張所に到着したのは朝八時ジャスト。俺としてはえらく余裕がある到着に、これだったら所に着いてから飯にすれば良かったと、ちょっと後悔する。でもまぁ、たまには席でのんびりするのもいいだろう。とか思いつつカブを駐輪場に止めたとき、変な物音を耳にした。しゅるしゅる、ばたりと繰り返されるその音は、どうも所の裏から聞こえるようだ。
何の音だ? 覗いてみると、作業服姿の男が仁王立ちになっていた。なんだ、香川か。手には救助ロープがあった。なるほど、結索練習をしていたのか。
消防学校時代の悪夢が蘇った。救助ロープの結索は、消防学校でさんざたたき込まれたものだ。結束とは、簡単に言えばロープの縛り方だ。たかだかロープを縛るだけだろう、そんなに難しいことでもなかろうに、って?
ならば、ぜひとも試していただきたい二本を一本に結び合わせる結合だけでも本結び・ひとえつなぎ・ふたえつなぎの三種類、一本のロープに節を作ったり、物を固定するための結節がひと結び・とめ結び・八の字結び・節結び・フューラー結び・ちょう結び・二重もやい結びこ三重もやい結び・半結びの九種類、さらに応用の結着が巻結び・もやい結び・コイル巻きもやい結び・ふた回りふた絆び・錨《いかり》結び・ブルージック結びの六種類、合計十八種類すべてを。
とか言って、俺も十八種類全部を今出来るかと問われれば、まず無理だ。ことに錨にロープを結ぶ場合等に用いられる、名前もそのままずば。の錨結びなんて、もう、椅魔さっぱり忘れている。
香川は右手に持ったロープを右側からよるように左手に近づけながら、まず一つ輪を作り、つづけて同じ要領でロープで輪を作って最初の輪に重ね始めた。どうやら、基本給索の一つ、節結びをしよぅとしているようだが、ありゃダメだ。節結びは、一本のロープにいくつか結び目を作ることで、縄ばしご状にして登坂に用いるための結び方だ。だから、結び目は等間隔に作らなくてはならない。うまく等間隔にするにはコツがある。必要数の輪を作るときに、だんだん小さく作るのだ。だが香川は輪にし終えると、右側の端末を輪―――すべて同じ大きさの輪を作っていた。―――の上から下に向けて通し、端末を下の方から右手で引き、順次結び目が出来るように左手で誘導し始めた香川が必死なのは、こわばった背中からも見て取れた。どうにか全部結びを作り終えたらしく、端末を巻き結びにすると、出来上がったばかりの節結びのロープを肩の高さまで挙げた右手でつかんで、地に垂らした。俺の予想通り、ロープの結び目と結び目の間隔は狭かったり、逆に妙に離れたりで、がたがたになっていた。
――ま、何度かやれば、そのうち出来るようになるさ。ということで、速やかに立ち去ろうとしたそのとき、香川がぱっと振り向いた。力一杯目と目があって、俺はごく普通に「お早っす」と挨拶した。だが香川は返しては来なかった。見ている俺が笑い出しそうになるほどの動揺を見せた直後、憎しみを込めた目で俺を睨みつけたのだ。そして救助ロープを手に、真っ直ぐ俺に向かって来ると、至近距離になってから、身体のどこも触れないように大きく迂回して去っていった。
指一本、触れたくないというあの態度はなんなんだ。俺はばい菌かっての。なんて、変なところでぐずぐずしていたら、いつも通りの遅刻ぎりぎりの時間になっていた。
午前八時半、いつものように赤羽台消防出張所の駐車場で第三係との大交替で当番日が始まった。第三係の昨日の出場はポンプ隊が二回、一回はボヤ、もう一回はスーパーマーケットの非常ベルの誤作動。救急隊は五回出場、多くも少なくもない平均値だ。交替時点検、出場演習、二時点検とつつがなく朝の点検が終わった。それから食事の確認。今日は昼食なしの夕飯のみで、メニューはポークカレーに野菜サラダだ。
四月から劇的に変わったメニューが、何を隠そうカレーなのだ。以前は幸いものが苦手だった星野のためにカレーといえば中辛だったのだが、星野の異動に伴って辛さが引き上げられた。汗をかきかき食べる辛いカレーは美味いが、どこか中辛にも懐かしさを覚える今日この頃。――なんてメランコリックな気分に浸《ひた》っている場合じゃない。皆さんご存じの通りカレーは、特別技術を要するメニューじゃない。つまり調理は俺と香川の二人のみ。とたんに気が重くなる。だがどれだけ嫌な空気の中での調理でも、失敗は許されない。特にカレーは。理由は、晩飯がカレーなら、翌朝の朝食は必ずカレーうどんだからだ。
作り方は簡単、あらかじめ別の大鍋に完成したカレーの適度な量を取り置き、そこにお湯と和風の顆粒だしを入れてよく混ぜる。食べる直前にそのカレー汁をぐらぐら煮立てて、玉子を人数分割入れ、さらに刻んだ長ネギを大量に入れれば完成だ。もちろんうどんは別茹でして、それぞれのどんぶりに入れて、汁はあとから掛ける。麺類は食べる直前まで汁とは合わせない、これは、いつ何時出勤指令が掛かるか判らない消防士の常識。というわけで、もとのカレーがまずかったら翌朝のカレーうどんもまずくなる。
夕食の確認が終わって、次にすることと言えば、訓練だ。香川が異動してきてまだ二カ月、コンビネーションとしては、まだちょっと不安がある。白状すると、ちょっとではない。香川は頭の中には現着してから消火活動に入るまでのすべての手順が、完壁に入っている。そして訓練のときは出来る。だがいざ実戦となると、頭の中と手足の動きがスムーズにつながらなく――早い話が動けなくなってしまうのだ。――ま、火を見てびびるのは仕方ない。消防士だって、ただの人間。火は熱いし怖い。このあたり俺は寛容だ。ただそのために、とにかく身体で覚えろとばかりに、しつこく基礎演習を繰り返すのは勘弁して貰いたいものだ。だが香川が使いものにならない、イコール、我が身が危ないのだから仕方ない。
そしてホース捌きを中心に、ポンプ車が現着してから放水作業に入るまでの訓練の三度目の途中、「お邪魔します」という声とともに、来客が訪れた。声の主が誰なのか、わざわざ見なくても俺には判っていた。――仁藤だ。
「今日は何だい?」
藤田のオヤジののんびりとした問いに、仁藤は「大山に話があるんですが、よろしいでしょうか?」と、告げた。
そして俺は防火服のラックを背に、仁藤と向かい合って立っていた。駐車場ではまだ香川を中心に訓練が続いている。気になるのだろう、香川がちらちらと視線を送ってきた。そしてその度、高岡に怒鳴られている。代われるものなら、代わってやりたい。心の底から喜んで。
仁藤はすぐに用件を明かさなかった。――だから、言いたいことがあるのなら、とっとと言えってえの。
これみよがしにため息などついてみせるが、仁藤は目の前にいる俺など存在しないが如く、手にしたバインダーの中身を見つめていた。業を煮やして、俺は訊ねた。
「何の用だよ」
仁藤は無言のまま、バインダーを開いて俺の目の前に差し出した。 ――またかよ。そこに何があるのかは知らないが、もう見たくなかった。仁藤が開いて見せるたびに、バインダーは俺が知りたくない、認めたくない事実を突きつける。顔を背けて、盛大に舌打ちする。
「見ろ」
低く密やかに仁藤が囁《ささや》いた。とうぜん無視する。
「見ろ」
再び囁くような声に、苛立ちをはっきり伝えるべく、顔を戻して睨みつけた。だが俺の気合いのこもった視線など、まったく気にせず、仁藤は真正面から俺を見上げてこう言った。
「まだ大事《おおごと》にはしたくない。早く見ろ」
―― 大事? なんだよ、それ。
俺は差し出されたバインダーの中身に目を向けた。バインダーの書類には、何枚ものカラーの写真が貼りつけられていた。写されていたのは人垣だった。それが何なのかは一目で判った。火事現場で消防士が必ず写す記念写真、現場の野次馬の写真だ。
残念だが出火の最大原因は放火だ。気晴らし、損得、恨み、遊興――放火の理由はさまざまだが、放火犯に一つだけ共通することがある。自分が放った火を見物していることが多いということだ。だから消防士は現場に見物に来ている野次馬を写真に収める。一人も残さずだ。
仁藤がわざわざ赤羽台までやって来てまで見ろと言うからには、俺が知っている誰かがそこに写っていることになる。だがなぜ俺にだけ? 放火犯の面割りならば、それこそ藤田のオヤジの前で堂々とすれば良いだろう。そもそも「大事にしたくない」って。
嫌な予感が背筋を走った。とたんに真剣に写真に目を走らす。
背景の明るさからして、昼中らしい。野次馬写真は、どれも似ている。全員が一様に燃えさかる現場を見つめていて、それを正面からではなくさりげなく盗み撮りしているから、似通うのは仕方無い。右斜め上の一点を見上げる集団の中に見知った顔がいないか、一人一人確認する。近隣の住人とおぼしき主婦に、リタイヤして日がな一日家にいるに違いない爺さん。耳に携帯電話を当てて笑っている、つまり誰かに火事を実況中継している――俺が一番駆逐したい野次馬だ――学生か、フリーター。誰一人として見覚えがない。次だ。下段の写真に目を移し、またぞろ人物を順に見つめる。背広姿のおっさん、カメラ付き携帯を現場に向けて、写真を撮ろうとしている馬鹿野郎――駆逐したいナンバー2だ――な若造に、そいつにお似合いな髪の色同様、頭の中身も薄そうなお姉ちゃん。隣は小柄な婆さん。その横がと、視線を移そうとして、はたと思い当たり、再度婆さんの顔を見る。
背の低い白髪の綺麗な婆さん。驚くとか怖がるとかではなく、哀しげな表情を写真に残したそのお婆さんを、俺は知っていた。個人的なつき合いはないし、本人にきちんと会ったこともない。でも俺は彼女を知っていた。――篠原すづさんだ。
一点を見つめたまま静止している俺の耳に、仁藤の静かな声が響いてきた。
「先月の七日、場所は中十条四丁目。木造二階建てで、住人は五十嵐美貴子《いがらしみきこ》さん七十四歳。一昨年、夫への勇《いさむ》さんを病気で亡くされて、一人で住んでいた」
――まただ。また老人の一人暮らしだ。目だけ上げて仁藤を睨みつける。仁藤は実に器用に整った顔の口の周りだけ動かして、先をつづけた。
「出火時刻は午後二時七分。火点は台所。原因は天ぷらの揚げ油の処理のミスと判断された」
「|あ《〃》?」
ひらがな一文字――ただし濁点付きで――訊ねていた。七十四の婆さんが、一人で昼間から天ぷら? いや、婆さんが昼間から天ぷらを食べてはいけないとはいわない。人の好みはそれぞれだし、胃腸の丈夫な婆さんだっているだろう。ただ、揚げ油の処理のミスが出火原因と言うのが。その歳で昼食から天ぷらを自分で揚げて食べるくらいなら、油の処理だって慣れたものだろう。なのに今回に限って失敗して、それが出火原因だと? そりゃ、うっかりは誰でもあるだろう、――うっかり。脳内に自分で思い浮かべたその言葉に、足下から嫌な予感がじわって湧いてきた。
「台所の収納の取っ手に、スーパーのレジ袋を引っかけて、一時的にゴミを入れていたようだ」
そう言って、仁藤はバインダーの中のページを捲《めく》った。出てきたのは焼け焦げた現場写真だった。銀色だったはずのキッチンのステンレスは煤けて暗く色を変え、その下の収納部分は黒い消し炭が枠状に残っているだけで、それがかつて収納庫だったことを表していた。その下の写真には、地に落ち変色した金属製の小さな取っ手があった。何かが溶けて貼りついているらしく変色している。掛けていたレジ袋に違いない。
「持ち帰った残留物から新聞紙が発見された。揚げ油を廃棄しょうと新聞紙に吸い込ませて、それをゴミ袋に入れたようだ」
天ぷらで火災というと、揚げ油を熱している最中に目を離し、油の温度が上がって発火するケースを多くの人が思い浮かべるだろう。だが使い終わった油の処理のミスからの発火も、実は少なくない。今でこそ使用済みの油を固めて捨てる商品もあるが、そういう薬剤を使用しない場合の多くは、入れ物に入れて捨てるか、あるいは新聞紙などの紙に吸い込ませて廃棄するしかない。一度熱せられた油は、なかなか温度が下がらない。充分に冷めていない油を吸い込んだ紙もまた、とうぜん温度は高い。それでも空気への接触面が多く、単体であれば自然と温度も冷める。だが同じような高温の油を吸った紙とともに、ポリ袋などに密閉しようものなら、いつまでも熟は冷めず、それどころか相互作用で温度を上げ、発火にいたることがある。
出火原因にひとしきり思いを馳せていた俺は、肝心なことを仁藤がまだ言っていないことに苛立って「この家の住人は?」と、声を荒らげて訊ねた。
「亡くなった。発見場所は台所だ。自分で消火しようと試みたのがかえって裏目に出たようだ。連体はかなり焼損していた」
予期はしていたが、ああそうですかと受け止められる答えではなかった。もちろん、俺が消防士だからじゃない。七十四のお婆ちゃんが、自分で火を消そうとして生きながら焼け死んだと聞いて、平然としていられる奴がいたら、少なくとも俺はそいつとは友達にはなりたくない。
「昼間っから天ぷら揚げて喰おうってくらい、元気な婆さんだろ? 自分の身についた火を消すか、でもなきや家から逃げ出すくらいのことが、何で出来なかったんだよ?」
「近隣の人の証言だが、火災の二日前、五十嵐さんは右足首を捻挫《ねんざ》していたそうだ。実際に、遺体の右足首には湿布と包帯が巻かれていた」
――二日前から捻挫。もはや俺の頭の中は、嫌な予感で完全に埋め尽くされていた。それでも訊ねずにいられなかった。
「骨折じゃないんだろ? 捻挫だろ? 立って料理が出来るくらい動けたんだろ?」
「声が大きい」
大声を出せばオヤジたちに話を聴かれてしまう。そうしたらすづさんのことも知られてしまう。今のところ、出火原因は過失失火とされているすづさんに、間違いなく疑いの眼差しが向けられる。なんとか落ちつこうとするが、苛立ちは収まらない。右手を髪の中に突っ込み、頭皮を掻きむしりながら、抑えた声で再び違和感を唱えた。
「揚げ油を吸わせた新聞紙から出た火ったって、そんなに早く広まるはずもねぇだろがよ」
「焼け残りから大量に出てきたのは、蜜柑《みかん》やレモン、それにグレープフルーツの皮だった」
なんだそりゃ? 蜜柑やレモンにグレープフルーツの皮がなんだというのだ? それに皮っていったら、ただの生ゴミだろう。それが炎の脚を早めるのと、何の関係がある?「五十嵐さんは、一年ほど前から柑橘類《かんきつるい》の皮を使って、ジャムやピールやお茶だけでなく、ポプリや入浴剤を作っては友人にあげたり、施設に寄付したりしていたんだ」
よく判らないが、でも所詮は果物の皮だろう? 頭の中で蜜柑やグレープフルーツの皮を思い出してみる。どちらもけっこう水分があって、厚みも充分ある。そんな水分たっぷりの生ゴミが助燃剤になったとでも? それにピールってなんだ? ジャムとつづけて言ったということは、食い物なのか? もしかして、ピールじゃなくてビール? 蜜柑の皮からビールが出来るなんて、聞いたことがない。つて、何を考えているんだ、俺は。―― あー、わけが判んねぇ。
頭の中がむず痒くなった気がして、ひときわ強く頭皮を掻く。もちろん頭の中まで掻けるわけもなく、むず痒さは止まらない。
「自分で食べるだけでは足りないからと言って、近所の人や知り合いに、皮を譲って欲しいと頼んでいたそうだ。だから大量に柑橘類の皮があった」
「だから、それがなんだってんだよ」
業を煮やして怒鳴るように言う。ただし小声で。しかし消防署の駐車場の一番奥の壁際、男二人心……囁くように怒鳴りあっている今の状態は、端から見たらけっこうなギャグだろう。
「リモネンだ」
「|あ《 〃 》?」
聞き慣れない言葉に、またもやひらがな一文字で訊ねていた。
「柑橘類の皮に含まれる油だ」
蜜柑の皮に油なんてあったか? どうもぴんと来ない。たとえ皮に油があったとしても、水分の方が圧倒的に多いはずだ。
「だからって、蜜柑だのグレープフルーツの皮が助燃剤になるわきゃねぇだろ? あんなに水分が」
最後まで待たずに、仁藤が割って入った。
「五十嵐さんの家に大量にあった柑橘類の皮は乾燥されていたんだ。乾燥させてもリモネンは皮に残る。リモネンの着火温度は二百七十度、他の可燃物と比べれば発火点も高く、着火はしにくい。だからと言って燃えないわけじゃない。ことに大量にあれば、充分に助燃剤の役を果たす」
邪魔されて、むっとしたのもつかの間、仁藤の説明に俺は聞き入っていた。
火災死亡した老人の家の中にあった大量の柑橘類の乾燥した皮――――老人の趣味の材料。しかも五十嵐さんは脚を捻挫していた。俺は似た火事を知っていた。老人の趣味が不運に変わった火事を。それも二件もだ。
「延焼は?」
「気になるのか?」
やる気がない、早く現場職から事務勤に異動したいと二言目には口に出して言っているだけに、揶《や》揄《ゆ》されているのは判っていた。だがあえて無視した。どうしても知りたかったのだ。
「周辺は、留守か、もともと建物がないとかだったんじゃねぇか?」
仁藤はすぐには応えずに、口を噤んだまま俺をじっと見上げていた。ムカつくくらい整った顔は、相変わらず無表情だった。だが俺は、その顔から答えを読みとっていた。答えはYESだ。
「五十嵐家は正面と右横が一方通行の道路の角地で、左横は住宅だが、建てかえのために火災の二日前に取り壊されて更地になっていた」
予想通りの答えが淡々と返ってきた。仁藤の静かな声が、頭の中でうわんうわんと鳴り響く。
「背後も住宅だが、旅行に出掛けていて無人だった。五十嵐家との接地面は広い裏庭になっていて池もあった。――延焼はなしだ」
やっぱりだ。周囲の家は現場の家と隣接していない、火が出たところで延焼しづらい立地条件。さらに周囲の家には誰もいず、出火の発見が遅れ、とうぜん通報も遅くなり、そして消火活動の開始も遅れる。さらに家の中に助燃剤――燃えやすい物が大量にあり、本人が通常より肉体的に自由が利かない状態で、さらに本人のうっかり、あるいはごく当たり前に起こりうる失火を加える。
――その結果は? 驚くほど早く火が回った現場で、家は全焼し、老人が焼死する。でも、周囲には何の被害も及ぼさない。
訊ねることは、もう一つ残っていた。
「なぁ、その五十嵐さんって人には、何か」
その先は喉が粘り着いて出なかった。俺が何を訊きたいかは、仁藤も察しているはずだ。頼むから先回りして答えてくれと俺は願った。だがその期待を仁藤は見事に裏切った。
「何か、――なんだ?」
見つめる眼差しはどこまでも冷たかった。その目は、自分で言葉に出して、疑いを認めろと告げていた。だが俺はどうしても、口に出して訊くのは嫌だった。
「 ――だから、その、ほら。――あ〜っ!」
亡くなった五十嵐さんには、この先の人生を諦めて、自らその生命を終わりにしたいと思うような理由が何かあったのか。声に出して、そう訊ねたくなかったのだ。それは俺がすづさんと寺本夫妻の死を過失ではなく自殺と、それも放火自殺だったと認めることを意味していたからだ。
静かにため息をつくと、仁藤は話し出した。その目が力一杯、貸しを作ってやったぞと語っているのは気に入らなかったが、俺は黙って仁藤の説明を聞いた。
五十嵐さんには上から男、女、男と三人の子供がいた。旦那さんが亡くなったときに、子供たちは財産分与で揉めに揉めた。五十嵐さんは近隣の住人にこぼしていたそうだ。自分が死んだら、また姉弟が財産分配で争うかと思うと哀しいと。だが三人は五十嵐夫人の予想よりもはるかに彼女を悲しませる行動に出た。築二十二年の家はもはや何の資産価値もなかったが、東京都北区中十条四丁目の八十坪の土地と、亡くなった五十嵐氏の趣味で購入所持していた数点の絵画は、かなりの金額だった。
子供たちは父親の死の際、ごっそりと取られた相続税に懲《こ》りて、今度は失敗しまいと意見の一致をみせた。つまり五十嵐夫人が存命のうちから資産を分配させるべく、家と土地、そして絵画を売り払って現金化させ、分けようと企《くわだ》てたのだ。三人は、完全看護付きの良い老人ホームに母親を入居させるための資金を作るために、そうする必要があると母親に告げたと言う。
はっきり言って、聞いている俺が凹んだ。夫――子どもたちからしたら父親と、暮らしてきた家を売り払えと、それもその家で育てた実の子供たちに言われたのだ。そしでその通告は、子供たちは誰一人、五十嵐夫人の面倒を看る気がないと宣言してもいた。
五十嵐夫人の胸の内を察することが出来るほど、俺は人としての修行を積んでいなかった。だが一つだけ判ることがあった。五十嵐さんには自決する理由があったということだ。何ともやりきれない俺の物思いを止めたのは、仁藤の告げた冷静な事実だった。
「五十嵐さんと篠原すづさんは、知り合いだったそうだ」
「なんだと?」
気色ばみ、一歩詰め寄った俺をものともせずに、仁藤は先をつづけた。
「篠原さんの写真を周囲の住人に確認して貰った。一年ほど前から、五十嵐さんの家に篠原さんがわりと頻繁に訪れていたそうだ」
――ちょっと待て。ならば野次馬写真に写っているのがすづさんだと、仁藤はとっくに知っていたことになる。だったらなぜ、俺に確認させた? 仁藤はすづさんの死を本人による放火だと疑っていた。――残念ながら、俺もだ。だが俺は、もしもそれが事実だとしても、炎と煙に巻かれてたった独り孤独に死を迎えたすづさんを、罪に問いたいとは思わなかった。だが仁藤は放火は放火だと言い切り、罪を追及すると俺に宣言した。
確かに放火は放火だ。俺だって許せない。ことに地方公務員に与えられる恩恵だけが目当てで、一日も早く現場から事務の日勤に異動したいと切に願う俺としては、我が身に危険を及ぼす火事現場になど、極力出たくないだけに、ぜったいに許すことは出来ない。だが、しかし――。頭の中には、すづさんの現場が蘇っていた。熱さを通り越して痛さを感じる燃えさかる炎。わずか数センチ先も見えない黒煙。放水の水は高温の水蒸気に化け、ともすると俺の体力だけでなく気力も奪って行く。あんな目には遭いたくない。だから放火は許せない。その気持は揺るがない。でも――。
頭の中で放火は許せないと、でも、という反論が輪になってぐるぐる廻っていた。とつぜん、その輪の中央を小さな黒い楕円形のものが、右から左にのたのたと横切っていく――カメだ。そう言えば、すづさんのカメは今はどうしているのだろう。って、俺は何を考えているんだ。もちろん、現実逃避をしていることは、充分自覚していた。
「交流があったのだから、写真に篠原さんが写っているのは不思議はない」
仁藤の声に現実に引き戻されたと同時に、疲れとともに怒りがどっと湧いた。不思議はないというのなら、わざわざ赤羽台にまでやって来て、しかも訓練中の俺を呼び出し、こうしてこそこそと駐車場で写真を見せる必要はどこにもないだろう。――――いや、ある。俺にすづさんの火事が失火ではなく、放火自殺だと認めさせるためだ。気づいたとたんに我慢出来なくなった。
髪から手を引き抜くと、腰に当てて力一杯ため息をついてみせる。さあ、この馬鹿野郎に、どう言ってやろうか。とりあえず、いい加減にしろと怒鳴ることから始めようと、大きく息を吸い込みかけたそのとき、仁藤が眉を顰《ひそ》めて「だが、引っかかることがある」と、呟いた。
気がそがれた。「なんだよ?」と、訊いてみる。もう、何だって聴いてやろうと思ったのだ。
「なぜ篠原さんが、火災現場にいたかということだ」
そんなの交流があったんだから、おかしくはなかろう。約束していたとか、たまたま行ったとか。言い返す気にもならず、白けた顔で仁藤を眺める。そんな俺に視線も寄越さずに、仁藤はつづけた。
「現場の台所のシンクに置かれた水切り籠には、洗い終えた二組の食器があった。シンクの三角コーナーの中に残っていた天ぷらの材料とおぼしきゴミの量も、一人分にしては多かった。誰かが五十嵐さんの家にいて、一緒に天ぷらを食べたんだ」
そこで言葉を止めると、仁藤は無言で俺を見つめた。その目が語っていた。五十嵐きんと一緒に天ぷらを食べたのは篠原すづさんだ、と。
仁藤の読み通り、一緒に食べたのがすづさんだとしたら、食べ終えたすづさんが五十嵐家を出たあとに出火したことになる。五十嵐さん一人になった家の中、台所のレジ袋の中に捨てた揚げ油を吸い込ませた新聞紙が発火して火事になった。べつにおかしいところはない。
そう思いつつも、違う想像も俺はしていた。レジ袋の中に捨てられた高熱の揚げ油を吸い込んだ新聞紙は、本当に自然に発火――失火したのか? すづさんの去ったあと、五十嵐さんは自ら新聞紙に火を放ったのではないだろうか? そして五十嵐家を出たすづさんは、静かに待っていたのではないか? 五十嵐家から火が上がるのを、五十嵐さんの最期を見守っていたのではないのか? 恐ろしい想像が頭の中を駆けめぐっていた。そんな俺を仁藤の声が我に返した。
「二人の交流のきっかけは、同じ区民講座を履修《りしゅう》したことからだと、近隣の住人は聞いていたそうだ。実際に五十嵐さんの家に訪れる篠原さんの姿は何度も目撃されている」
区民講座――習い事。そう言えば、すづさんも色々と習い事をしていた。習字に絵手紙、どちらも良く燃える素材を使う。口の中に苦みを感じた気がした。
「念のために確認してみた。赤羽会館で開かれた区民講座のリストに、二人とも名前があった」
俺は仁藤が口にした場所名に引っかかっていた。赤羽会館と言えば、赤羽本署の真裏にあるなかなかどうして大した区民会館だ。つい最近、行ったばかりだから記憶も新しい。
――あれ? 俺はなんであんなところに行ったんだ? ああそうだ、物好きにもガキを追いかけて行ったんだ。すづさんの現場にパンジーを供えに訪れた寺本の爺さんと話しながら歩いていたチビ。
孫のいない寺本の爺さんと歩いていた、孫ではないガキだ。そしてその帰り道、俺の横を通ったタクシーには紫の姫が乗っていた。寺本夫妻の火事現場にチューリップの花束を持って訪れた、俺に抱き運ばれて生涯の夢が叶ったと喜んでいた、俺よりほんの少し年上の儚い姫が。
びっくりするほど軽かった紫の老嬢の重みを腕に思い出そうとして、俺は止めた。頭の中を埋め尽くすもやもやした中に、何かが見えた気がしたのだ。
落ち着け、と自分に言い聞かす。一つ一つの事柄を時系列通りに組み替えてみる。まず最初が五十嵐さんの火災だ。その現場にいたのがすづさん。すづさんの現場にパンジーを持って訪れたのは寺本老人。寺本家にチューリップの花束を手に訪れたのが紫の老嬢。
――いや、待て。何かが抜けている。そうだ、寺本の爺さんを見かけたのだ。場所は赤羽本署前の交差点。孫ではなかったチビと一緒に歩いていた。そして俺は同じチビを同じ場所で再度追った。そのときタクシーに乗った寺本家で別れたばかりの紫の老嬢を見かけた。本署の前の交差点、ガキを見失ったのは本署の裏、赤羽会館の近くだ。すづさんと五十嵐さんは、区民講座友達だった。場所は、――赤羽会館だ。
俺の頭の中で嫌な想像の欠片が一本に繋がった。だが同時に思い浮かんだ内容を完全に否定した。確かにつなげようと思えば全員をつなげることは出来る。共通のキーワードは、失火と見受けられる 火災、焼死、延焼なし。そして全員が、この先の人生に希望を失っていた老人だったということ。
――おいおい、待てよ。俺は自分で自分にダメ出しを始めた。
過失に見せかけた放火自殺をしようと企てる老人たちが相談しているとでもいうのか? それも赤羽会館の中で? 放火自殺のための老人クラブとか友の会とかが区民講座にあるとでも? いや、いくらなんでもそんなまさか。放火自殺の老人の数珠繋ぎなんて、冗談じゃない。単なるぐうぜんだ、ぐうぜんに違いない。
だが自分で思い浮かべたぐうぜんという言葉が、頭の中に危険信号を点した。いや、まさか、そんなことが。でも、もし本当にそうなのだとしたら、――次は、紫の老嬢だ。
全身から汗が噴き出していた。それも嫌な感じの冷たい汗だ。彼女の名前は? どこに住んでいる? 何も知らない。老嬢は、自分が病に侵され、残された命が短いことは明るく教えてくれたが、それ以外のことは何一つ教えてくれなかった。俺も訊かなかった。訊きもしなかったのだ。
「|あ〜《〃》、こん畜生っ!」
怒鳴ると同時に右脚で足下のコンクリートを踏みつけていた。じん、と痛みが脚に響いて、さらに自分に腹を立てた。馬鹿だ、俺は大馬鹿だ。どうして彼女の名前を訊かなかった、住んでいる場所を訊かなかった? 「大山!」
名を呼ばれて我に返ると、不審そうな目で仁藤が俺を見つめていた。それだけでなく、背後遠くからいくつもの視線も感じていた。収拾のつかない事態に、俺は混乱していた。気持ちは焦るばかりだ。早くあの紫の老嬢を見つけなくてはならない。だが今は二十四時間の交替勤務時間内だ。それに今がもし週休日か非番日だとしても、彼女をどう捜して良いのか判らない。
そのとき頭に浮かんだのは、地下室で水母《くらげ》と暮らす、銀髪のどこまでも優雅でアンニュイな黒ずくめの壮年の男だった。――今、守がいてくれたら。空中に飛び交う無数の電波や電流のシグナルの中から、紫の老嬢を確実にみつけだしてくれただろう。だけど守はいない。水母もだ。
守に頼まれていた。「水母をよろしくね」と。死んだら水に戻ってしまう儚い生き物がゆらゆらと揺らめく水槽のガラスに手を触れて、小首を傾げて微笑んで、守はそう言ったのだ。
だが俺たちは約束を破った。俺も裕二もキブ・アップしたのだ。守のいないあの家になど行きたく――入りたくなかった。守が憧れつづけた何も残らない死を迎える水母の世話なんてしたくない。だから二人で三重にした東京都指定の半透明のゴミ袋に水母たちを入れて、海に放しに行ったのだ。それも千葉の端っこまで行ってだ。少しでも水が綺麗で、水母たちが長生き出来そうな海を求めて。暮れも押し迫った頃だった。夜の海は暗く、透明な水母たちは放した瞬間、闇に消えた。
―― って、回想に浸っている場合じゃない。目の前には説明を求めている仁藤がいる。それに藤田のオヤジも富岡も生田の兄貴も香川も、みんなおかしいと思っている。話すわけにはいかない。だがどうこの場を切り抜けたら良いのか、俺には判らなかった。
混乱し、困り果てた俺を救ったのは、空気を切り裂くようにピーピーピーツと鳴った出動指令のサイレンだった。とたんに空気が一変する。全員の耳が否が応でもスピーカーに集中する。次にスピーカーから流れ出たのは、救急隊への出動要請のサイレンではなく、アナウンスの声だった。
「東京消防から各局、赤羽西出火報。高層建物火災第一出場」
高層建物火災――ビル火災だ。それも書いて字のごとく高層の。アナウンスが耳に入ったとたん、それまでのことがすべて俺の頭から吹っ飛んだ。
出動指令が入れば、内容はいかであろうとも、所内は静寂と緊張に包まれる。だが高層建物の火災ともなると、その緊迫感のボルテージは頂点に達する。出火現場の階数が高ければ高いほど消火活動は困難になるし、建物建築の性質上、たとえ出火がボヤ程度でも、建物の機密性も高い分、建物内に煙が充満し、建物内の住人に被害が及ぶ可能性が高くなる。大きな被害が予見できるだけに、隊員の全員からびりびりするほどの緊張が走っていた。
もちろん、全貝がただ指令のつづきをその場に立って待っていたわけじゃない。生田の兄貴は駐車場から二階の事務所へと階段を駆け上がっていた。地図を取りに行ったのだ。俺もポンプ車へと駆け出した。訓練で伸ばされたままのホースを元通りにしなくてはならないからだ。
ホースの一本をつかんで、手早く巻き島田の正巻――ロール・ケーキ状――に巻き始める。もちろんきっちり緩みのないようにだ。理由は二つ。消防車の格納スペースは限られているし、早くホースを伸ばすには、転がすのが最良だからだ。器具の扱いにはすべて決まり事があり、そのどれにも合理的な理由がある。その分、覚えなくてはならないことが多くて大変だが。
次は吸管だと見れば、すでにポンプ事の左側面に固定格納されていた。バインダーを手にした仁藤が、息一つ乱さずにポンプ車の脇に立っていた。 ――お前はアンドロイドかロボットかっての。
「現場、赤羽三丁目×番地〇号」
出火現場の住所が読み上げられた。三丁目の×番地――荒川の支流の新河岸川庭球場沿いだ。岩淵町から赤羽三丁目あたりでは、ここ数年、高層マンションが林立し始めた。
「建設省官舎の東、新しくできたパークリバーサイド・マンションだっ!」
階段を駆け下りる荒々しい足音とともに、兄貴が現場の名称を怒鳴った直後、「八〇二号室」と、通信が出火現場の部屋を告げた。
マンションで八〇二号室といったら、普通に考えたら八階の二号室だろう。八階と考えたとたん、げんなりする。消火活動をするべく現場に突入するにしても、もちろんエレベーターなんて使えない。ホースを引いて階段を駆け上がらねばならない。
「生田、どうだ?」
早くも防火服のフル着用を終えた藤田のオヤジの問いに、兄貴は手にした地図をもはや見ようともせずに、「迂回して左奥に停めます。プラス十秒で」と、応えた。
今回の現場は赤羽本署と志茂出張所、そして我が赤羽台の三カ所からほぼ同じくらいの場所にある。低層住宅火災ならば、現着順に各所のポンプ隊が現場により近い消火栓を使って、すぐさま消火活動を始めるが、高層住宅となると、優先されるのはポンプ車ではなく梯子《はしご》車だ。生田の兄貴は梯子隊の進入路と活動空地の確保を優先した上で、最短距離でなおかつ最短時間で現場に一番近い消火栓へとポンプ車を着けるルートを選ばなくてほならないのだ。
ようやくホースを島田に巻き終えたものの、左右を見回しておたおたと、ただ立っている香川に「防火服 !」と怒鳴って、俺も防火服を着用した。
ポンプ車に乗り込んだときには、頭の中は完全にこれから消火に向かう現場のことで一杯だった。
「出走!」
ビリッケツの香川が乗り込んでドアを閉めると同時に轟いたオヤジの声に、兄貴がアクセルを踏み込む。ポンプ事が所を出る直前、出動誘導をしてくれた安全貝に敬礼を返すのは、礼儀というより無事な出動と消火活動を願うジンクスに近い。いつもと同じく、窓越しに敬礼をする。だが窓の外はいつもと違って、今日の安全員の大久保《おおくぼ》さんだけでなく、もう一人敬礼で見送る姿があった。仁藤だ。とたんに頭の中にさっきまで話していたことが蘇る。――カメも含めて。俺は大きく頭を左右に振っ て、記憶を振り払った。今は他のことを考えている場合じゃない。
道交法の制限速度、時速八十キロぴったりで兄貴の運転するポンプ車は現場へと疾走していた。藤田のオヤジがフット・スイッチでサイレン音にアクセントをつけながら、同時にマイクで路上の一般車輌に進路を譲るようアナウンスを始める。
「まだ煙は見えねぇ」
運転に細心の注意を払いつつ、現場のマンションのある方向に目を向けた生田の兄貴が叫んだ。
「香川、消火栓は?」
富岡の問いに、香川は今度は落ちついて梯子車の優先停車位置を外した現場近辺の消火栓の位置を二つ答えた。もちろん俺も香川の手元の地図を見る。兄貴の運転で他所のポンプ車に遅れを取ることなどまずないが、一応、念のために香川の挙げた二カ所以外の消火栓の位置も頭に入れる。
「よし、あれだ!」
兄貴の声に、フロントガラス越しに進行方向正面を見上げる。出来たばかりというのが一目で判る、ぴかぴかに白い外壁のマンションが目の前にあった。だが、妙だった。マンション火災だというのに、周辺に人がほとんどいないのだ。それどころか、我が赤羽台のポンプ事のサイレンの音につられたらしいマンションの住人が、窓を開けて見下ろしている。――いったい、どうなっているんだ?なぜ誰一人、避難していない?
「なんで住民が避難してねぇんだ?」
まさに俺が持った疑問を、生田の兄貴が口にした。
「煙も出てないですし、誤報ですかね?」
窓から身を乗り出してそう言ったのは富岡だった。
マンションの正面は後者の梯子車の停車地だ。兄貴がハンドルを右に切ろうとしたその時、ジーンズにプルオーバー姿の女性がマンションから飛び出して来た。何かを怒鳴っているが、サイレンの音にかき消されていまいち判らない。
「いったい何だ?」
疑問を口にしつつも、兄貴は香川の言った消火栓付近にポンプ車を停めた。掛かった時間は二分五十三秒。プラス十秒と言ったのに、さすがは兄貴、出動原則の三分を見事に切っている。
「全員、空気呼吸器装着、装着後、香川は落車、雄大は吸管結合、俺は一廻りしてくる!」
そう叫んで停車したポンプ車から飛び降りた藤田のオヤジの背は、あっと言う間に小さくなっていった。現場の情報収集に向かったのだ。もちろん俺たち全員がオヤジの指示通りに動いた。吸水管を担いで、香川の答えたうちの一つの消火栓に走り、結合し終えてポンプ車まで戻ると、今度は管鎗《かんそう》とホースを担いで目標点まで走った。ポンプ車の停車位置から、マンションまでの距離は三十メートル。活動余裕も含めて一本二十メートルのホースを一線延長しなくてはならない。
ホースはただ伸ばせば良いというわけではない。より効率良い消火活動をするために、そして扱う消防士や避難等で周辺を通る人たちの安全も守るべく、十二分に気を遣わねばならないのだ。稼動効率を考えて、ポンプ車との結合部分付近はホースの遊びを少なくし、逆に筒先側は充分に余裕を取る。道路や建物の曲折部も余裕を持たせて大曲がりに延長する。地面を観察し、鋭い釘や石などがあったら、避けるか取り除くかする。もちろんホースのよじれや蛇行《だこう》は厳禁だ。さらに、大量の水が空のホースに一気に流れこむ送水時のホースの跳ね上がり事故についても気を配る。
ただ急ぐだけでなく、それだけのことに気を配りながら目標点に管鎗を下ろした俺の耳に、ヒステリックな女性のわめき声が飛び込んできた。
「だから、もう消えたんだってば! 大騒ぎしないでよ!」
見ればさきほどのジーンズの女性が、オヤジに食ってかかっている。
「鎮火の確認を」
オヤジの説得の声は、近づいてくるサイレンの音に消された。本署の梯子車の到着だ。巨大な梯子車の到着に、女性はさらに両手を振り挙げて何かを喚いた。火が出て慌て一一九番通報したものの自力で消火したか、でなければ、もともと火など出てなかったのかもしれない。
なるほど、それで煙も出ていないし、住人も避難していないのか。だが安心は出来ない。出火通辞があった以上は、消防士が確認しない限りは、鎮火を認めるわけには行かないのだ。
「雄大、ぼけっとするな!」
富岡に怒鳴られて、我に返った俺は延長ホースを取りにポンプ車まで駆け戻る。その間に続々と各所からの消防車が現着した。停車した各車からカーキ色の防火服に身を包んだポンプ隊員やオレンジ色の防火服に身を包んだ特別救助隊員が飛び降りて、一斉に消火活動の準備を始めた。
「電気とガス、止めるように連絡!」
「マンションと周囲の住人に避難勧告しろ!」
緊張感を孕《はら》んだ怒鳴り声が飛び交う最中《さなか》、女性はもはや半狂乱だった。
「もうっ、止めてよ!」と、金切り声を挙げると、その場にしゃがみ込んでしまった。藤田のオヤジが女性の肩に手を置いて「落ち着いて」と、声を掛けた。顔を伏せて泣きじゃくる女性の顔を覗き込むようにして会話を交わしたあと、オヤジは「杉さん!」と名を呼んだ。
杉さんって、誰だっけ? 作業をしながらオヤジが声を掛けた方向へ視線を送ると、「おう、藤さん」と、応えた男がいた。顔を見て言葉を失う。――げ、赤羽本署の杉宮《すぎみや》大隊長じゃないか。
大隊長といったら、所属している赤羽本署の隊長というだけでなく、火災現場に出場したすべての隊の頂点に立ち、とりまとめをするポジション――簡単に言えば、一番エライ人だ。なのにオヤジと来たら、杉さん呼ばわりか。なんだかんだ言って、やっぱりオヤジってば大物。
二人は頭を寄せ合ってしばし言葉を交わすと、あっと言う間に別れた。杉宮大隊長に呼び集められた伝令隊員たちが、大隊長からの言葉を受けて速やかに散っていく。その背を眺めていた俺に「雄大、香川」と、オヤジの声が飛んできた。二人とも一目散にオヤジの下に集まる。
「今から八〇二号室に鎮火確認に入る。香川、消火器持って来い」
ということは、やはり自力で鎮火したか、通報自体がデマだったかだ。俺の予想が当たっていることは、周囲の隊員たちの緊張がわずかに緩んだことが物語っていた。
「それと、富さん」
オヤジは富岡を呼ぶと、耳元に何か囁いた。何か指示を出したのだろう。富岡が領くと、オヤジは富岡の肩をぽんと叩いてから、俺たちに 「ほら、行くぞ」と言った。
住人の浜田聖子《はまだせいこ》さんと一緒に、オヤジと俺と消火器を手にした香川の三人は仲良くエレベーターに乗っていた。消火活動中ならば、エレベーターはまず使わないだけに、不思議な気分だった。八〇二号室に向かう途中、浜田さんから事情を訊く。鶏の唐揚《からあ》げを作っていた最中、友人から電話が掛かって来て気づいたら、という実によくあるパターンだった。煙に気づいた浜田さんが、ガスレンジの火を消して鍋に蓋をし、ことなきを得たと言う。
「通報したのは、あなたじゃないんだね?」
オヤジののんびりとした口調に、浜田さんは、「そうよ! あたしじゃないわよっ!」と、怒鳴ると、じろりと一周、俺、香川、オヤジの順に睨みつけた。見た目三十代前半でキツめの美人の浜田さんの一睨みは、なかなか迫力がある。
「通報したのは、通話相手かい?」
「そんなの知らないわよ! 消防署って、通報なら何でも信じるの? あんなにたくさんの消防車がサイレン鳴らして来るだなんて!」 言いたいことは判らないでもない。確かに消防通信センターには悪戯通報も入る。残念だが、珍しくなく頻繁に。しかも深夜が断トツに多い。出火地点にされた家の住人はたまったものではないだろう。深夜に巨大な消防車にサイレンを鳴らして何台も押し掛けられたら、驚くだけでなく、近所迷惑にもなる。だが、通報を受けたらとにかく出動、それが消防における救助の原則なのだ。だからセンターは、悪戯を懸念《けねん》して、通報を受けた直後に通報先の住所の居住者に折り返し電話を掛けて、本当に火災か、あるいは病人がいるのかなど、確認することなどない。
――なぜしないのか? 考えていただきたい。自分の家が火事、あるいは急病人が出て一一九番に連絡をして、通話を終えて早く救助が来ないかと苛々と待っているとき、電話が鳴る。出てみれば、消防通信センターからの「嘘じゃないかの確認電話」だったとしたら、どんな気分になるかを。
だいたい、間違いであれ悪戯であれ、出動すれば費用は掛かる。消防車や救急車のガソリン代だって無料ではない。もちろん、その費用は都民の皆様から徴収された貴重な税金から支払われている。だから税金の無駄使いを避けるためにも、一一九番への悪戯通報は都民の皆さんが率先して止めていただきたいと思うのだが、どうだろう? そんなことをつれつれと腹の中で思っていると、「すいませんねぇ、火災通報を受けた以上は、とにかく早く現場に向かわないとならないもので」と、オヤジがまたぞろのんびりと応えた。
「だからって!」
「サイレンは鳴らす決まりになっているんですよ。本当に火事や急病人がいた場合、早く助けに行くためには必要ですから」
浜田の奥さんの言いたいことを先読みしきったオヤジは、さらりとそう言ってのけた。もちろんそれで納得して不満を収めるはずもない。ぐちぐちと文句を言いつづける浜田さんを、憤懣やるかたないといった顔で見つめていた香川が、ついに口を開こうとした。俺は無言で香川のわき腹を軽く肘で小突いて、小さく顔を横に振ってみせた。文句ありげな香川に、目顔でオヤジを指し示す。そりゃ俺だって浜田さんに説教の一つもかましたい。それに香川と浜田さんが言い争いになれば面白い。だがその結果、浜田さんがクレームの一つも都庁だの東京消防庁にでもつけようものなら、香川だけでなく、藤田のオヤジも同席していた俺も始末書ものだ。自分でも何かが間違っている気はするが、都民の皆様からクレームを喰らわないよう、都民接遇――都民の皆様に東京消防庁の全職員が、どう接するかという内部のみの極秘マニュアルだ――は最優先。
八階にエレベーターが着いて、浜田さんの後に従ってぞろぞろと降りる。八〇二号室のドアの前に来て、無造作にドアを開けようと手を伸ばした浜田さんに「念のために私が」と、オヤジは言うと、防火手袋を外して、手の甲を金属製のドアノブにかざした。
今、火が出ていないからといって安全とは言えない。炎にまで育っていない火種が煙となってくすぶりつづげ、室内に充満でもしていようものなら、ドアを開けた瞬間、外からの空気を取り込んで一気に爆発的燃焼――バックドラフトを起こす可能性がある。室内の様子をドアの外から確かめるには、金属製のドアノブの温度を確かめるのが一番確実なのだ。
オヤジはドアノブをつかむと、ちらりと俺に視線を寄越した。目顔で了解する。オヤジがドアを開けかけたそのとき、たかだかドアを開けるのに、何をもたもたしているのかとばかりに浜田さんがオヤジを押しのけてドアを開けようとした。俺は浜田さんの肩をつかむと、右手で壁に押しのけた。同時にぼけっと突っ立っていた香川も左腕で突き飛ばす。
オヤジがドアを開けようとしたからには、まず室内に危険はない。案の定、中からは煙すら漏れては来なかった。結果オーライとはいえ、万が一ということもある。一般人である浜田さんに何かあってはマズイ。優先順位は低いが同僚の香川もだ。だからドアの真正面から避難させたのだ。
「ちょっとお! 何すんのよ、痛いじゃないー」眦《まなじり》を吊り上げて、浜田さんがぎゃんぎゃん吠える。予想はしていたが、今、何をどう説明しでも聞き入れては貰えないだろうから、説明はパス。
「失礼しますよ」
オヤジも俺と同感なのだろう。了解を待たずに、とっとと室内へ入っていった。もちろん俺もあとにつづく。室内に入って周囲に目を配る。油臭い臭いこそかすかに鼻についたが、天井に煙はない。ぶーんと機械音が鳴っている。換気扇を回しているらしい。どうやら自力で鎮火したというのは間違いないようだ。だが油断はしない。物事に対しておおらかというのか、おおざっぱなのが俺の基本姿勢だが、こと勤務時間中は我が身可愛さから、極端に疑り深い。
「待ちなさいよ! ちょっと、信じらんない! 靴を脱ぎなさいよ!」
オヤジは土足で室内に上がり込んでいた。もちろん俺もだ。完全鎮火の確証が得られない限り、いつ何時消火活動を開始するか判らない。いちいち防火靴を脱いでは上がれないのだ。
「あとでそこの若いのがぞうきん掛けをしますから、すいませんねぇ」
納得出来ずにぶつぶつ言う浜田さんをよそに、俺はオヤジの言った「そこの若いの」というのが誰なのか考えていた。実年齢なら俺の方が若いが、消防士としての職歴は香川の方が若い。出来れば香川一人でありますように。神様ならぬオヤジ様の小柄な背中に、俺は祈った。
夫婦二人暮らしだと言う浜田家は、家具や電気製品から察するに、けっこう余裕のある暮らしぶりらしい。部屋に入った俺たちは、奥さんの証言に従ってキッチンに進む。換気扇とガスレンジの周辺のクリーム色のタイルこそ真っ黒く煤けていたが、炎の影はどこにもなかった。ガスレンジの上には蓋をされた鍋が一つ、そしてシステムキッチンの作業台の上には、すでに出来上がった鶏の唐揚げが、油切りのキッチンペーパーの上に積まれている。ぐるりと周囲を見回したオヤジは、変色したタイルに素手《すで》をかざし、指の関節でこつこつと叩いて確認し始めた。一通り叩き終わると、改めてレンジの上の鍋に目を向けた。
オヤジの仕草から判ったのは、タイルは既に冷えている、そして叩いて音の差がない、つまり異常はないということだ。その読みが正しいことは、オヤジの顔からわずかに緊張が解かれたことが証明していた。再びオヤジが周囲を見回した。天井、窓、壁、カーテンと、オヤジの視線のあとを迫って、俺も同じくそれぞれを観る。どこにも異常はなさそうだ。オヤジが小さく領いた。そして小さく息を吐くと、「香川」と、呼んだ。
それまで物珍しそうに室内を見回していた香川が、あわててやって来た。オヤジの背後まで来たものの、何をすれば良いのか判らないらしく、香川はきょとんとした顔でただ立っていた。オヤジの手が鍋の蓋に掛かっているのだから、呼ばれた理由は一つだろうに、なぜ判らないのだろうか。
「消火器、構えて」
こそりと小声で囁いてやる。弾かれたように、香川が消火器のホースを外して鍋に向けて構えた。だが安全栓を抜き忘れている。仕方なく、また小声で「安全栓を抜け」と、告げる。恥ずかしいのと 怒りの合わせ技だろうが、香川の顔は真っ赤になっていた。親切でも恥をかかせようとしたのでもなく、ただこの場にいる全員――とりわけ俺―― の安全を考えてしただけだが、間違いなく逆恨みされること必定だと思うと、気分はどんよりだ。
オヤジは再び防火手袋を取って、蓋をしたままの鍋に手をかざした。ちょっと首を傾げて防火手袋をはめ直すと、「これ、外に出しますね」と言って、鍋を運び始めた。鍋の温度が下がりきっていないに違いない。蓋を開けて、空気が流れ込んで再度出火することを懸念した。だからオヤジは鍋を外に山叫そうとしているのだ。
「え? ちょっと、どこに行くのよ!」
浜田さんが訊くのはさておき、香川も困り果ててきょときょとしているのはどうなんだろうか。
さすがにまったく説明なしではいけないと思ったのだろう、オヤジは「水を掛けたりせずに、蓋をして消火されたこと、お見事です」と、まずは浜田さんの冷静な対応を誉めた。それには浜田さんも気を良くしたらしい。得意げに顎を上げた。
「ただ、鍋の油の温度がまだ下がっていないんですよ。今は蓋で空気が断ち切られてますが、まだ温度が下がっていないうちに蓋を開けたら、空気が流れ込んで再燃する可能性が高いんです。なので外に出させて貰います」 丁寧に説明されて、今度は納得したようだ。
「そんなことしなくても良いわよ、夜まで蓋を開けないから」と、落ち着いて応えた。
「いえ、外に出して、きちんと鎮火しているかどうか、確認させていただきます」
穏やかだが、決定事項を告げるオヤジの口調に、浜田さんは気圧《けお》されたのか、一瞬口を噤んだ。だが引き下がる気はないらしく、さっそく反論を始めた。
彼女の主張はこうだった。自分はこれから外出する。部屋は無人になり、誰も鍋に触れる者はいない。午後八時までには帰宅するから、その頃には油も冷えている。来ていただいたことはありがたいが、被害もなかったのだから、このままお引き取り願いたい――。
まあ、理論上は浜田さんの言った通りになると俺も思うが、日本は地震大国、いつ何時大きな地震が起こるか判らない。つまり、鍋の蓋が開くかもしれない――なんて、万に一つの天災を危倶する以前に、いったん出火の通報を受けて出動した以上、必ず鎮火の確認を取り、調書にまとめなくてはならないのだから、はいそうですかと、聞き入れて帰るわけにはいかない。
そのとき、「どんな様子ですか?」と、背後から声が響いた。富岡だ。鎮火確認に上がったはいいが、なかなか戻ってこないので様子を見に来たのだろう。
「火はないね。ただ再燃の危険性があるから、鍋だけ持ち出して確認するよ」
「そうですか。ああ、それと」
富岡はオヤジに近づくと、小声で耳元にこそこそと何かを告げた。オヤジは大きくため息をつくと、困ったような顔で浜田さんを見つめた。それまで反感たっぷりに睨み返していた浜田さんは、オヤジの視線に、徐々に落ち着きを失い始めた。
「いいですか、奥さん」
オヤジは低く諭《さと》すような声音《こわね》で話し始めた。火を使うという自覚の下の料理中に、火への注意を怠《おこた》って出火した場合は、やむにやまれぬ、たとえば家の中の誰かに何か危機が起こり、それに対処しなければならなかったなどの理由でもない限りは、重失火と判断され、刑法第二六条の二項、自己所有失火として罪に問われ、五十万円以下の罰金に処せられるのだと。
失火でも罪に問われることを、都民の皆さんは意外とご存じないようだ。自分のミスで出火して、どうにか消火したところで、住居や持ち物などが燃えたり焦げたり煤けたり、へ夕したら消火放水でぐっしょり濡れたりと、損失は多い。さらに周囲の家に延焼しょうものなら、責任はすべて火を出した本人が問われることになる。経済的にも精神的にも充分被害を被ったところに、さらに罰金がある だなんて、まさに泣きっ面に蜂だ。では、何が重失火として罪に問われるかだ。浜田さんのように料理中に不注意から火から目を離した除に起こった火事は、重失火と判断される。寝煙草とたき火も同じくだ。要は火を使っている自覚があった上での不手際は、重失火なのだ。
「冗談じゃないわよ! 火なんて出てないし、それに自分で消したんだから関係ないじゃない」
オヤジは冷静に返した。
「火が出て、消火が出来なかったら、この部屋だけでなく、マンション全体が燃えていたかもしれないんですよ」と。そして口を噤んだ。一口も発しなかったが、その目は語っていた。
――マンション全体が燃えるだけでなく、もしも人が命を落とすようなことがあったら、あなたはどう責任を取るのですか? と。
ことの重大さが判ったらしく、浜田さんはばつが悪そうに目を伏せた。それでも罪に問われ、罰金を取られるのは阻止したいと思ったらしい。
「でも、消したもの。それに、電話だったの! 相手が大変で」
なるほど、電話の内容がやむにやまれぬ事情だった、で逃げようという手か。電話の相手と口裏さえ合わせることが出来れば、確かに逃げ切れる。というより、十中八九、オヤジは浜田さんを罪に問う気はない。ただ、今後のことも含めて、きつくお灸を据えているに違いない。ウチのオヤジはかなり物わかりが良いお茶目なおっさんなだけに、浜田の奥さんが、反省していると、一言《ひとこと》謝ってくれれば一件落着なのだが。
「電話の相手は、杉並区の中西芳郎《なかにしよしろう》さんですよね」
浜田さんが最後まで言う前に、富岡が口を挟んだ。口を開けたまま、浜田さんは固まっていた。
「奥さん、通報相手がどこの誰なのか、確認することは出来るんですよ。なんでしたら、今から電話を掛けて、中西さんから通報されたときの状況を伺いましょうか?」
オヤジの淡々とした声に、浜田さんの顔は真っ青に色を変えていた。おやおや、これはきな臭い。
「どうしますか?」
オヤジの声は珍しく厳しかった。浜田さんはそれまでの勝ち気な表情から一転して、狼狽し切った丸顔に目には涙までうっすら浮かべて、「ごめんなさい。お願いです。私が悪かったんです。勘弁してください」と、言いながら俯いた顔を手で覆って泣き始めた。
つまりはこういうことだ。浜田夫人と通報してくれた中西芳郎――自称有名私立大学二年生――は、出会い系サイトで知り合った仲で、今日これから会う予定だった。もちろん夫人はこんな簡略には言わなかった。たまたま、そして初めて見た出会い系サイトだとか、メールだけのつき合いで、今うのは今日が初めてだとか。たまたまと初めてを何度言ったか判らないくらいだが、そこは俺の判断でカット。もっと簡略に、いや一言で言おう。二人は不倫関係だった。それだけだ。
夫が帰って来るまでに帰宅して、手作りの夕食を出そうという意志があるのだから、夫人は家では良い妻なのだろう。で、良き妻たる夫人は午前中から鶏の唐揚げ作りに勤しんでいた。たっぷり逢瀬《おうせ》の時間を作るためだ。その調理の最中に、中西から電話が入った。どうせあとわずかで逢うのに、すっかり電話に夢中になった浜田夫人は、火に掛けた油の入った鍋を忘れた。そして煙に気づいて大声を上げた。人妻とアバンチュールを楽しむ中西は、意外と良い奴らしい。すぐさま自宅の電話から一一九番通報を入れたのだ。
浜田夫人が鍋に蓋をして、一息ついて窓を開けた頃には、俺たち赤羽台のポンプ車のサイレンの音が鳴り始めていた。そのサイレンが自分の部屋に向かっているとは、浜田夫人は思っていなかった。
火も出ていなければ、通報もしていないのだから。放り出した携帯を拾い上げ、中西に掛け直して、そこで初めて知ったのだ。中西が一一九番通報したことを。浜田夫人はあわてた。色々問いつめられたら、ご近所に自分が若い男と浮気しているのがバレてしまう。近所にバレたら夫にバレるのも時間の問題だ。夫人は家庭を壊したいなどとは思っていなかった。暇に飽かして、ちょっと楽しみたかっただけだったのだ。
いったん口を開いたら、浜田夫人はぐしゅぐしゅすすり上げながら、こちらが訊いてもいない彼女の事情を延々語りつづけた。寂しいとか、つまんないだとか。――ま、よくある話だ。この手の相手を諭すのはオヤジよりも富岡が得意だ。道徳とか修身の先生よろしく人の道を説き、相手に反省を促し、防災への注意を誓わせる。そして最後はオヤジの出番。調書には起こすが、罪には問わないと告げると、浜田夫人が泣きながら感謝して、以上終了。何はともあれ、高層マンション火災じゃなくて良かった、良かった。
こじゃれたガラスの天板のテーブルの上の置き時計に目を向ける。時刻は十一時二十二分。帰ったら早いところ夕飯のしたくをしないとマズイ。これでまた出場指令でも掛かろうものなら、今晩は夕飯にありつけなくなる。――なんてことはない。所にいる日勤の隊員たちが、哀れと思って作ってくれるのだ。消防出張所内には、貸し借りなしの美しい助け合いが未だ存在する。なんて素晴らしい職場――と、たまには言っておこう。
けっきょく鍋を持ち出し、下まで降りてから蓋を開けた。蓋を開けたのはオヤジ、消火器を構えていたのは香川。俺は何をしていたかと言えば、念のために筒先を持って構えていた。もちろんホースの中には水が送られていた。
オヤジの号令の下、一、二の三で、蓋を取る。煙こそ上ったが、火は上がらなかった。銅の底に残った真っ黒くなった油の中には、消し炭のような物が何個か転がっていた。唐揚げのなれの果てだ。鍋の中の油と唐揚げの残骸はもとより、思い出したくない記憶として鍋自体も浜田夫人は捨てるだろう。鶏の唐揚げと鍋一つが夫人の良い教訓になってくれると良いのだが。ただし、俺の言う教訓とは、あくまで火への注意を忘れないという防災面だけだ。浮気や不倫はどうぞご自由に。というより、欲求不満で危険な火遊び好きな人妻なんて大好物。人妻の皆さんには、家庭に縛りつけられることなく、ぜひとももっと自由に羽ばたいていただきたい。
香川が再び鍋を浜田さんの部屋へ届けに行っている間、俺は筒先ぎりぎりまで送水された水をホースから抜いていた。そうしないとホースをきっちり巻けないのだから仕方ない。救助活動だろうが何だろうが、東京水道局はがっちり水道使用料を取る。ならばただ捨てるのは勿体ない。ということで、筒先を霧状に切り替えると、マンションのエントランスの景観用の植木に水を撒き始めた。もちろんこれも菊の花束同様、赤羽台消防出張所の慣例だ。
その俺の耳に、「このところ、つづくな」と、誰かの声が届いた。見れば、そこにいたのは巻き終えたホースを肩に担いでポンプ車に戻ろうとしているポンプ隊員だった。向かうポンプ串の標識灯には志茂。志茂消防出張所は昨日も火災出場したわけだ。確かにこのところ多い。火事が多くて婿しいはずもない。どんよりしつつ、ひたすらホースの中が空になるまで、植木に水を撒く。
水圧が落ちてきた。残水はあと少しということだ。もちろん放水でホースの中の水がすべて外に出せるはずもない。中に残った水を、丁寧に手で絞り出しながらホースを巻かなければならない。けっこうキツイ作業なのは承知しているだけに、自然と口からため息が出ていた。
「昨日も、通報が早くて良かったよな」
「ああ、住人が年寄りだったから、もう少し遅かったら危なかった」
手が止まった。
「けど、聞いたか?」
「ああ、聞いたよ。病院に駆けつけた息子の話だろ? ホント、最低だよな」
俺はホースの島田巻を再開しながら、じりじりと二人の背後へ近寄った。
「上品で椅魔な婆さんだっただけに、可哀想だったなぁ」
――上品で椅麗な婆さん。堪らず俺は口を開いていた。
「すいません、その婆さんって」
とつぜん声を掛けられたことに驚きはしたが、志茂消防出張所の岩切《いわきり》・光浦《みつうら》の両名は俺の疑問に応えてくれた。どんな火災で、住人が誰で、二人が最低だと言ったのが何だったのかを。
第七章
二十四時間勤務が明けた午前九時十分、俺が愛車のカブを停めたのは、赤羽病院の二輪車の駐輪場だった。向かうは三〇五号室。志茂消防出張所の岩切・光浦の二人が教えてくれた、昨日、志茂四丁目の火災から助け出された救助者が入院している病室だ。
車いすの患者さんと家族に遠慮したわけでなく、病室へ上がるのに、俺はエレベーターではなく、階段を使っていた。病人を見舞う前に、少しばかり時間が欲しかったのだ。俺は一段一段脚を動かし階段を上りながら、志茂の二人が話してくれたことを思い出していた。
出火したのは一昨日の朝の四時三十二分。現場は志茂四丁目の木造二階建ての一軒家。住人は山口《やまぐち》澄香《すみか》さん七十七歳で、一人暮らしだった。火事を発見したのは斜め後ろのアパート二階の住人、トニー・チャムチャイさん、マレーシア人二十五歳。昼間は日本語学校に通い、深夜はビル清掃の仕事に従事しているトニーの帰宅時間はいつもその時間だった。部屋のドアを開けようとして、ふと見た山口さんの二階の窓のカーテンの隙間から、妙に揺らめく光が漏れていることに気づいた。驚いたトニーが柵越しに身を乗り出して窓を覗き込むと、カーテンの隙間から見えたのは炎だった。
窓越しではあるが、山口さんとトニーは何度か顔を合わせていた。とりわけ山口さんが何かしてくれたというわけではない。だが窓越しに目が合うたびに、にこやかに微笑んで会釈し《えしゃく》てくれるだけでも、異国の地で友もなく、働きづめでくたびれ果てたトニーの心は安らかになっていたのだ。
その山口さんの家が燃えている。どうにかしなくてはと思ったトニーは、山口さんの家に走り、呼び鈴を鳴らして叫んだ。山口さんを起こそうとしたのだ。だが返事はなかった。代わりに気づいたのは、山口家の正面二軒先の益子《ますこ》家の、働く意欲はあれど、自分を正当に評価してくれる職場がないという理由から職に就いていない長男で、漫画やアニメやゲーム好きで昼夜逆転した生活を送っている――一言で言えばニートでオタクの――啓介《けいすけ》二十六歳だった。その日は四月の夜にしては蒸し暑く、啓介は窓を開けていたのだ。
何事だと窓から覗いた啓介が見たのは、老嬢の一人暮らしの山口さんの家の前で喚く外国人の姿だった。啓介は迷った。面倒なことには巻き込まれたくない。だが山口さんは、今でこそ付き合いが薄くなったが、子供の頃はよく遊びに行き、可愛がってもらっていた人だった。
助けなくてはと決意した啓介は、玄関の傘立ての横に置かれた父親のゴルフバッグからアイアンを一本抜き出して家を出た。アイアンを握りしめて近寄ると、トニーは啓介の姿を見て逃げるどころか駆け寄ってきた。鬼気迫るトニーの態度に初めは気圧された啓介だったが、すぐに火事だと気づいた。今どきの若者らしく、啓介が肌身離さず携帯電話を持っていたのは幸いだった。すぐさま啓介が一一九番通報をしている間に、トニーは啓介の手からアイアンをひったくると、山口家へ侵入を試みた。一階の窓という窓はすべて雨戸が閉められていた。二階に雨戸の閉められていない窓を見つけたトニーは、ブロック塀をよじ登りアイアンで叩き割った。そして二階奥の部屋の寝椅子に横たわる山口澄香さんを見つけ、抱えて外へと運び出したのだ。
現着した志茂のポンプ車に最初に駆け寄ってきたのは啓介だった。興奮しながらも、路上に座っているトニーと、その腕に抱きかかえられている澄香さんを、まず病院に運ぶように啓介は強く言うと、救急車に二人を乗せたあとは、志茂の第二ポンプ隊長の井原《いはら》さんに落ちついて状況を説明した。勇気ある外国人とオタクの青年二人の連携プレーで、澄香さんの命は救われたのだ。
肝心な消火活動については、火点はトニーが澄香さんを助け出した二階の奥の部屋で、原因はアロマキャンドルの転倒だった。その部屋は趣味の部屋として使っていたらしく、オーディオセットを中心に、壁の一面は天井から床まで棚になっていて、その中にはCDだけでなく、LPやカセットテープも大量に並べられていた。
アロマキャンドルがオーディオセットの上に置かれていたのは、オーディオの上のゴムシートに、キャンドル皿と同じ三本足のくぼみが残っていたことからも証明された。ではなぜ、キャンドルが床に落ちたかというと、キャンドルの横に積み上げられていたCDやカセットテープがバランスを崩して雪崩《なだれ》を起こし、キャンドルにぶつかり、その結果、床の上に落ちたらしい。
「益子啓介の通報から現着が三分弱、遡ってトニーが出火を見つけてからは十五分くらいしか経っていないのに、蝋燭の火からの延焼にしては、火の回りが早かったって」
岩切さんは参ったと言わんばかりにため息をつきながらそう言っていた。
問題はアロマキャンドルではなく、キャンドルが落ちた床にあった。部屋の床はフローリングだったが、オーディオセットの前、ちょうどキャンドルが落ちた付近だけ、毛足の長いラグが敷いてあったのだ。最近では防火素材のカーペットや絨毯《じゅうたん》やラグも多いが、山口さんの家のラグは残念だが違った。羊毛一〇〇パーセントの長い毛足と、その隙間に蓄えられた空気は、キャンドルのか弱い炎に、あっと言う間に力を与えた。さらに不運があった。ラグの上だけでなく、フローリングの床の上 全体に、大量のCDやカセットテープやレコードが散乱していたのだ。
「突入したときは、えらいことになってたんだって」
怖《おぞけ》気が走るとばかりに身を竦めて見せてそう言ったのは、光浦さんだった。
志茂のポンプ隊が足を踏み入れたときには、部屋の中は視界すらままならないほど、黒煙が立ちこめていた。それだけではない。床の上はCDやカセットのケースが熟で溶けて広がっていて、足を取られ、歩くことすらままならなかったと言うのだ。
燃えやすいと言うだけなら、紙のジャケットのレコードは充分に危険だが、実はCDに利用されて いるプラスチック類――合成高分子化合物の方が着火しやすく、しかも激しく高温の黒煙を上げ、一酸化炭素を排出しながら燃焼するから危険度は高いのだ。黒煙と一酸化炭素、呼吸に関わるこの二つは、時として炎そのものよりも人の命を脅《おびや》かす。ではなぜ床の上に大量のCDやカセットテープが置かれていたのかの理由はこうだった。
「音楽鑑賞が亡くなったご主人との共通の趣味だったんだってさ。何となく整理を始めたものの、疲れてうっかり眠ってしまったんだってさ」
聞く限りは違和感のない、実にありそうな理由。そして出てきた言葉は、うっかり。
――まただ、また、うっかりだ。その言葉が出てきた以上、どうしても訊かなければならないことがあった。嫌な予感を体の中に抱えつつ、口に出した質問への答えに、俺はどっぷりと落ち込んだ。
山口家の右隣は建て替えのために取り壊されて更地に、左隣は今は使われていない町工場、後ろは三棟並んだアパートだが、もとより建物自体の距離が離れていただけでなく、老朽化しているためにほとんど住人がいなかった。
老人の一人暮らし、出火理由は失火、火の回りは早い、その理由は住人の趣味のもの、周囲の家は不在か、延焼しづらい環境にあるのもまた、同じだ。
「本当に運が良かったよ。あの時間がトニーの帰宅時間だったのも、益子が起きていてくれたのも」
「そうだよなあ、どっちかだけでも山口さんは助けられなかったよな。二人が揃って、初めて助けられたんだから」
二人の言う通りだった。トニーが深夜に働いていて、その時間に帰らなければ、トニーが火事を見つけたとしても、益子が起きていず、トニーの騒ぎに気づかなかったら、どちらにしても山口さんは助からなかっただろう。二つのぐうぜんが重なった。そして山口さんは救われた。でも、これはただのぐうぜんとは言えまい。光浦さんのしみじみした声が頭に蘇った。
「何がどう返ってくるか判らないもんだよな。つくづく、人には親切にするもんだと思ったよ」
二人の孤独な若い男に優しく接していた老嬢。思い浮かんだイメージは、残念だが寺本家で出逢った紫の姫と重なった。
目指す三〇五号室を目前にして、俺の足は止まってしまっていた。
病院を好きか嫌いかでアンケートを採れば、おそらく嫌いの人数の方が多いに違いない。もちろん俺もその一人だ。ありがたいことに、俺本人はいたって健康で病院知らずだが、消防士という仕事上、防火指導だの防災訓練の指導だので、けっこう頻繁に病院には足を踏み入れている。最近ではホテルと見まごうばかりの雰囲気と設備の病院もあるらしいが、だとしても診療の順番が来るのをイスに腰掛けて待つ患者の、妙にどんよりとした空気を漂わせている様を目にするだけで、気分が沈むというものだろう。でも診察エリアはまだ良い。問題は入院エリア――病室だ。
初めて病室に足を踏み入れた経験が実の父親の遺体とご対面だった俺の、病室に良い思い出がないどころか、出来れば足を踏み入れたくない気持ちは察していただきたい。
三〇五号室の入り口の壁に取りつけられたホワイトボードには、探していた山口澄香の名前があった。覚悟を決めた俺は二つ深呼吸すると開け放されたドアの横に立ち、首だけ伸ばして中の様子を窺った。中はしんと静まりかえっている。視界に入ったのは、ベッドの白い柵とその上の白い布団だけだった。ここまで来たのに、もしかしたら治療か検査で、山口さんが部屋を空けているかもしれないなんて妙な期待をしつつ、さらに首を伸ばして覗き込む。ベッドにいるのなら、布団が膨らんでいるはずだ。だがベッドの上はぺたんこだった。
――なんだ、やっぱりいないんだ。そう思って安堵した俺は、堂々と病室内へと足を踏み入れた。
入った三歩目で脚が止まった。ベッドには老嬢が横たわっていたのだ。人一人が横たわっているのに、厚みはまったく感じられず、ベッドの上はぺたんこだった。目を閉じて眠っている彼女の顔を、しげしげと俺は見つめた。枕カバーやシーツの白さと窓からの春の日差しのせいで、化粧気のない顔はますます色が悪く見えるだけでなく、皺やしみもはっきりと見せていて、つぶさに年齢が表れていた。でもその顔には見覚えがあった。間違いなく、寺本家で出逢った紫の老嬢だった。掛け布団の上に出された左腕は、俺なら二本の指でつまみ上げられるに違いないほど細く、刺してある点滴のチューブが太く見えるほどだった。
眠りつづける紫の老嬢――山口澄香さんのベッドの横に、俺はただ立ちつくしていた。頭の中には志茂ポンプ隊の光浦さんが立ち去り際に残した気鬱な声が蘇っていた。
「俺はつくづく消防士をやっているのが嫌になったよ」
光浦さんは、そう呟いたのだ。
山口さんの家族に連絡を入れたのは、志茂の赤松《あかまつ》第一ポンプ隊長だった。消防車輌の到着のサイレンの音に、目覚めて出てきた近隣の住人に山口さんの親族や交友関係について話を訊き、山口家に息子がいるのを知った。住人たちが一様に、奥歯にものがはさまったように息子の存在を告げるのには疑問は持ったが、とにかく連絡すべき相手が見つかったことに赤松隊長は安堵した。
そして鎮火後、一階の電話台の引き出しの中の手書きの電話帳のや行のページに山口姓をいくつか見つけ、さっそく電話を掛け始めた赤松隊長は、上から四番目で息子に当たった。
神奈川県在住の息子、外資系の製薬会社勤務の山口哲也《てつや》は同日の夜、勤務を終えてから澄香さんが搬送された赤羽病院に訪れた。そのときまだ昏睡状態の澄香さんは集中治療室で経過を監視されていた。澄香さんのベッドの脇のイスには、自身も割れたガラスで腕を切り、澄香さんと一緒に搬送されたトニーだけでなく、駆けつけた益子啓介の二人がいた。
赤松隊長は山口哲也に電話できちんと事件の経緯を説明していた。トニーが火災を発見し、啓介との連携で澄香さんを救った経過を漏らさず伝えていたのだ。ならば病室に着いた哲也がすることといえば、まず病床の母親を心配し、つづけてトニーと啓介の二人に感謝する、普通に考えればこの二つのはずだ。だが、違った。哲也は病室に足を踏み入れたとたん、二人に向かって怒鳴り散らしたのだ。老い先短い老人に目をつけて、取り入ろうとして、お前たちが共謀して火を点けたんだろう!と。さらに哲也は、裕福には見えないアジア系外国人であるトニーと、世間で呼ばれるところのオタクである啓介に、貶めの言葉を浴びせ、非礼の限りをし尽くしたのだ。
猛《たけ》り狂《くる》い、罵声を交えた哲也の言葉の一つ一つを完壁に理解できるほど、トニーが日本語を習得していなかったのは、不幸中の幸いだったと言えよう。だが、詰《なじ》られていることは理解出来てしまったし、哲也の一言一句を理解出来る啓介にいたっては甘んじて誹《そし》りを受けているはずもなかった。
澄香さんが意識を取り戻したのは、その最中だった。死の淵から生還した澄香さんが、目覚めて最初に目にし、耳にしたものは、息子の哲也と益子啓介とトニーの、三つどもえのつかみ合いの喧嘩だったのだ。
一連の騒動を赤松隊長が知ったのは、病院に搬送した山口さんの状態の確認電話を入れたからだが、担当の看護師はため息混じりに、「止めに入ったら、山口さんが目を開けてらして。ああ、良かったと思って、声を掛けようとしたんです、でも掛けられませんでした。山口さん、泣いてらしたんです」と、告げたと言う。
第一係からの申し送りで話を聞いた岩切・光浦の二人も、言葉はなかった。ため息しか出てこなかったのだ。
「あとで判ったんだが」
やるせなさそうに、岩切さんはつづけた。
山口澄香さんと哲也は実の親子ではなかった。澄香さんと亡夫である山口富三《とみぞう》さんが夫婦になったのは今から十八年前、富三さんが六十七歳、澄香さんが五十九歳の、お互い晩年になってからの再婚だった。すでに四十になっていた富三の息子・哲也は二人の結婚に猛反対した。その理由が、自分が貰えるべき遺産の取り分が減ることにしかないのは明白だった。なのに哲也は、ひたすら十五年前に亡くなった自分の母に対する誠意を持ち出したのだ。自身は母親の墓参りに満足に足すら向けていなかったのにだ。富三が決意を揺るがさないと知ると、哲也は今度は世間体を持ち出した。自分の歳を考えろだの、自分たち家族が、世間に対して恥ずかしいだの、綿々と言い募るだけでなく、澄香さんの過去だの人間関係まで人を使って調べあげ、なんとか結婚を阻止しようとしたのだ。
一連の哲也の言動は、血を分けた親子の間柄であっても、もはや富三の許容範囲を超えていた。宮三が怒りを爆発させた結果、息子である哲也だけでなく、哲也の妻にも、二人の間の子供、つまり富三の孫にすら、何一つ残さないという内容の文書を弁護士立ち会いのもとに認《したた》め、それを富三は息子に突きつけたのだ。
富三が存命のうちは、さすがに哲也も家に近寄りはしなかった。だが三年前に富三が亡くなったとたんに訪れるようになった。哲也の訪問が、澄香さんにとって楽しいものでなかったのは明らかだった。哲也の訪れた日に、怒号や陶器やガラスの割れる音を近隣の住人は何人も耳にしたと言う。
そんな背景があっただけに、哲也の暴言はトニーと啓介のみに終わらなかった。一命を取り留めた澄香さんへもまた同じだったのだ。赤松隊長の電話での問い合わせに応えた看護師は、哲也の澄香さんへの言葉は再現しなかった。赤松隊長もあえて求めなかった。想像するに難くなかったからだ。
「あんな酷い目に遭うなんて」
岩切さんの言った、山口さんが遭ってしまった酷い目が、火事ではなく、息子に言われたことなのは、俺にも判った。さらに俺は聞いた。
「膵臓癌なんだってさ、山口さん。それも再発で、もう先は長くないらしい。なのに」
その先は、もう俺の頭に入って来なかった。
――――上品で締麗な婆さん、膵臓癌。その二つの言葉が、腕に感じた、どこまでも軽く儚い老嬢の記憶を蘇らせていた。
立ち去り際の光浦さんのため息混じりの声は、今でもはっきりと思い出せる。
「何が嫌だって、山口さんの息子みたいな奴が、特別酷いとも、自分が思わなくなっていたってことだよ。消防士が、こんなに人間の嫌な部分ばかりを見る仕事だとは思ってもなかったよ」
人の命と人の財産を災害から救うのが消防士の仕事だ。だが、人を相手にするからこそ、消防士は人の色々な面を目の当たりにせざるをえない。ことに火災や災害、または病気で、せっぱ詰まっている状況だからこそ、人は本性をむき出しにする。その一番人の生々しい部分の近くにいるのが消防士なのだ。消防士になって四年目の俺ですら、もう何度も人の醜さを見た。もちろん逆に、人って良いなと思えることもたまにはある。―― そう、たまには。だが残念だが、良いと思えることよりも、人間不信に陥るような嫌な面を見ることの方が、圧倒的に多い。
不況と言われ始めて早数年。先行きの見えない経済状態の今、地方公務員の消防士はけっこう人気の就職先だ。毎年刷新される採用案内のパンフレットには、都民とその財産を守るべく、熱き心を持つ若人に、入庁した暁《あかつき》に就く仕事内容や、得られる福利厚生の概略が書かれている。しかし、肝心なことが抜けている。交替勤は想像以上にキッい肉体労働だとか、世間の消防士に対する協力意識が驚くほど低いだとか、いつまで経っても相容《あいい》れない警察との関係だとかもだが、何より消防士という仕事が、人の生死に一番近いポジションにあるということ、災害のまっただ中にいるからこそ、正常に思考が働かない人々の言動を目の当たりにし、ときにやつあたりされ、それこそ謂れもない罵詈雑言を浴びせられる立場だということが、書かれていないのだ。
つらつらとそんなことを考えていた俺の耳が「あら、やだ」と、いう声をとらえて下を見ると、ベッドの上の山口さんが目を開いて見上げていた。
眠っているとばかり思っていた俺は、心の準備がまったく出来ていず、無言のまま顎を突きだすようにして、なんとか会釈を返した。
「お化粧もしていない顔を見られちゃっただけじゃなくて、嘘をついたのも見つかっちゃったわ」
恥ずかしいのと困ったのが半々のような顔で、澄香さんはそう言った。すっぴんを見たのはともかく、嘘というのが判らない。何しろ澄香さんは何一つ俺に教えてはくれなかった。教えてくれたのは、自分が膵臓癌で、もう先は長くないということ、寺本氏とは深いつきあいではなく、最近知り合ったばかりだということ、あとは――そうか。
「歳、サバ読んだな」
ベッドのヘッドボードには、ベッドを使用する患者の情報が書き込まれていた。氏名、性別、血液型、そして年齢。俺が訊いた澄香さんの年齢は七十六歳。だがそこには七十七歳とあったのだ。
「ごめんなさい。でも、あなたと会ったあの日が誕生日だったのよ」
心底申し訳なさそうに言う彼女に、ちょっと考えた俺は、「何時生まれ?」と、訊いた。澄香さんは一度ぱちくりと瞬きをすると、唇の端をかすかに挙げて微笑んだ。俺が何を匂わせているのか気づいてくれたらしい。
「夜の九時過ぎ」
「なら、嘘じゃねぇじゃん」
「そうね、嘘じゃないわね」
そう言って今度はにっこりと微笑むと、「本当に優しいのね、あなた」と、つづけた。
「だって俺、王子だろ?」
すかさず返した言葉に、さらに澄香さんは微笑んだ。その笑顔は、寺本家の庭で見たのと同じだった。つられて俺も笑う。――なんか、いい感じ。
「そうね、あなたは私の王子様ですものね。――でも、どうしてここに?」
俺は自分がここにいる理由を思い出した。その火災現場から救出されて入院している山口澄香さんという老嬢が、寺本家の庭で俺が出会った紫の老嬢と同一人物か、確認するためにここまで来た。目的は達成出来た。澄香さんは、紫の老嬢だった。――で、どうする? 俺は自分に訊ねた。
だが、どうして良いのか判らなかった。そこから先は、何も考えていなかったのだ。
答えを待つ視線が、痛いほど下から送られていた。ちらりと見下ろす。小さく色の悪い顔、病院のものらしい浴衣《ゆかた》のあわせから覗ける、枯れてか細い首筋。年を重ね、痩せて筋張っている老人など、とりわけ珍しくもない。なのにどうして彼女に限って、痛々しいと感じるのだろうか。
答えは判っていた。彼女の背景を知っているからだ。岩切・光浦の二人から聞いた話が頭の中に蘇る。連鎖的に、様々なことが頭に浮んだ。
澄香さんと出会った寺本家の火災現場、寺本の爺さんと奇妙な歩き方のチビ、乾いた木造の家を焼き尽くそうとする炎、煙と消火のために放水した水が炎で水蒸気に変わって、灼熱地獄と化した家の中。消し炭のように焼け焦げて絶命していたすづさん。すづさんの現場に訪れた寺本氏の手にあったパンジーの花束。寺本夫妻とすづさん、そして仁藤が伝えにきやがった五十嵐さんの出火に関わった、いくつかのぐうぜん。老人たちにとっての不運。そしてそれぞれが抱えていた問題。
寺本氏は脳梗塞の妻を抱え、自らもアルツハイマーに侵されていた。五十嵐さんは実の子供たちから夫の、子供にとって父親の家や土地、買い集めた絵画を売るように迫られていた。
みんな同じだった。未来に何の期待も持てず、希望を託す誰かもいない老人たちの火災現場から見つかったものは、失火と判断される出火を起こす、いくつものぐうぜん。それも老人たちが自発的に準備したに違いないものばかりだ。
カメの水槽の忘れられたヒーターに絵手紙にシルクフラワー。たこ足配線され、ドアにはさまれ折れ目のついた延長コードに押し花。天ぷらにオレンジやグレープフルーツの乾燥された皮。それだけではない。すづさんは寝室を二階から一階に移し、寺本夫妻は日頃は使っていなかった二階にいた。五十嵐さんは足をくじいていた。
澄香さんにも理由はあった。治る見込みのない病、なさぬ仲の義理の息子。他の老人たちと違うのは、アロマキャンドルからの出火だということだ。他の老人たちは自己責任を問われない失火だったが、澄香さんは昨日の浮気な浜田夫人と同じく、自己責任が発生する重失火に見なされる可能性が高いということくらいだ。
しかし俺には、他の老人たちとの違いはなかった。自らを死へ導く方法に、全員が炎――火事を選んだのだから。考えているうちに、やるせなさとともに、割り切れない怒りが体内にこみ上げでくるのを俺は感じていた。死ぬにしたって、他に方法はいくらでもあるはずだ。なのに、なぜ炎だ?なぜ火事なんだ?「なんでだ?」 思わず口をついて出た。これが病室に入って以来、俺から話しかけた最初の言葉だった。
「なんでだよ」
澄香さんが、困ったように俺を見上げていた。
きちんと言葉にして訊けばいいのだ。なぜ死のうとする? なぜ火を選ぶ? と。
だが言い出せなかった。澄香さんが死を選んだ理由なら知っている。治る見込みのない病気に辛い人間関係、そして絶望。ならば自殺の理由は訊かなくていい。訊ねるのは、なぜ炎――火事なのか、それだけを訊けばいい。そして言ってやればいい。死ぬのは勝手だ。でも火事は止めろ、と。
炎――火事を消す、それが消防士の仕事だ。通報を受けて、出動して放水したり、状況に応じて一番良い手法を使って鎮火する。言葉にすれば非常に単純明快、実に簡単だ。
だが、炎は生き物だ。同じ火災など、一度としてありえない。だから消防士は、毎回毎度、未知の炎と戦わなくてはならない。人の命と人の財産を救うために、そして自分の身を守るために、死に物狂いの戦いを挑むのだ。その戦いは消防士と、火災の被災者にとっての二重の意味で、常に一発勝負であり真剣勝負だ。炎に負け、現場を全焼させてしまったら、たとえ消防士が全員無事でも消防士の負けだ。もちろん消防士が怪我をし、命を落としたら言うまでもない。
だが世間一般の消防士はともかく、少なくとも俺は、人の命や人の財産を守るために消防士になったわけではない。仁藤との売り言葉に買い言葉でなっただけ。それと熱血消防士だったからこそ命を落とした親父をせせら嗤い、消防士という名の地方公務員の社会的な信用だの、福利厚生だの年金だ のが目当てなだけだ。だから一日も早く現場を上がって、九時五時の事務職に異動したい。それだけを毎日望み、願っている。一歩間違えば俺の親父のように命すら落とす火災現場になど、出来ることなら出場なんてしたくない。
だから放火なんて言語道断、許せない。ストレス発散の悪気のない悪戯だろうが、被害に遭うのは自分だけ、燃えてしまった物もすべて自分の持ち物、死んだのも本人だけだとしても。誰がなんと言おうと、どんな理由であろうとも、だ。
そう思ったとたん、頭の中は怒り一色に染まった。だいたい、周囲に延焼がないように配慮はしているのに、火を消しに行く、行かざるをえない消防士にはまったく配慮なしとはどういうことだ?消防士は火で危険な目に遭うことなどないとでも?――あ、いかん。マジで怒り爆発寸前。
怒鳴りつけてやる!と思ったそのとき、「ねえ、どうなさったの?」と、澄香さんが訊ねた。俺を見上げる不安そうな瞳と目が合ったとたん、炎と化した怒りの言葉は、空気を断たれて煙へと変わり、喉元に溜まって出ずに終わった。
もうじき死んじゃうのと、明るく言った彼女に、俺が何を言えるというのだろう。空気を得られれば、すぐさま炎に化ける怒りという名の煙を喉もとに抱えながら、それでも口から出てきたのは、「何かして欲しいことは?」だった。
不可解な顔で俺を見上げていた澄香さんが、わずかに目を細めた。それからゆっくりと口を開いた。
「燃えちゃったのよね、――全部」
ぼそりと出てきた言葉には、哀しみが込められていた。
「あの部屋にあったCDやカセットテープやレコードは、私と夫がそれぞれ持ってきたものなの。月に二回、特別な二人だけの鑑賞会をあの部屋でしたのよ」
愛おしい記憶を慈《いつく》しむように、澄香さんは二言三言ゆっくりと語った。
「夫と私、それぞれが一日ずつ受け持って、その日のプログラムを決めて、相手を招待するの。会のタイトルも決めて。夫は映画が好きでね。 ――ずるいのよ、映画のタイトルをそのままタイトルにして、サントラを頭からただ掛けていたことも何度もあって」
そのときのことを思い出したのだろう、澄香さんは唇をとがらせてそう言った。
「とりわけ好きだったのがヘンリー・マンシーこの 『ティファニーで朝食を』」
ふいに澄香さんが口元を押さえた。具合が悪くなったのかと焦る俺をよそに、澄香さんは微笑んでいた。思い出し笑いをしていたのだ。
「冗談だと思うかもしれないけれど、私たち、本当にしちゃったのよ」
しちゃった? 何を? 意味が判らず、訊こうとした矢先、澄香さんは口を開いた。
「用事があって銀座に出たの。あの人、木村屋のあんパンが好きでね、お土産に買って、さあ帰りましょうって、外に出たら、あの人が急に、ねぇ、やってみないか? って」
俺にはちっとも話が見えなかった。だが判っていた。澄香さんは俺に話しているんじゃない。自分に語りかけているのだ。
「信号が変わるのを待って、横断歩道を渡って。ティファニーのお店の前で、窓に飾られたアクセサリーを見ながら、買ったばかりのあんパンを一つだけ出して、半分に割って二人で食べたの」
澄香さんは微笑んでいた。懐かしくも愛おしい大切な思い出に、微笑んでいた。
「ティファニーで朝食を、ならぬ、ティファニーでおやつのあんパンを、だねって、二人で大笑いしたわ。それ以来、あの入ったら、自分のときには、ますます『ティファニーで朝食を』、を掛けるようになって。しかも、必ずあんパンつきでね。――――あれももちろん、燃えてしまったわよね」
そこで言葉を止めると、澄香さんは目を閉じた。そして目を閉じたまま、再び口を開いた。
「ねぇ、お願いがあるの」
相手が目を閉じている以上、無言で領いたところで見ては貰えない。俺は「ああ」と、合いの手を入れた。澄香さんの望みは、いったい何なのだろうか? さっき言っていた亡くなったご主人が好きだったCDを買って来て欲しいとか?
「 ――私のこと、忘れて」
「|あ《〃》」 思わず平仮名一文字で訊ねていた。
「魔法は一度きりだったの。お姫様はもういないのよ。ここにいるのは、ただの病気の年寄り」
目を開いた澄香さんが、まっすぐに俺を見上げていた。つぶらな瞳が輝いていた。――涙だ。
「だからお願い、私のことは忘れて。もうここへは来ないで」
澄香さんは微笑んでいた。毅然と、婉然《えんぜん》と。だが目尻からは、溢れた涙がこめかみに向かって滑り落ちていた。
「二度と会いに来たりしないで」
涙は留まることを知らずに、あとからあとから落ちていった。俺はでくの坊のように、ただその場に突っ立っていた。自分から願いを叶えると言ったものの、了承することが出来なかったのだ。
けっきょく、俺は何も応えずに澄香さんに背を向けた。病室から廊下に足を一歩踏み出したそのとき背後から小さな声が聞こえた。
「 ――さようなら、私の王子様」
足が止まった。澄香さんの別れの言葉は、この場限りには聞こえなかった。今生《こんじょう》の別れのように聞こえたのだ。
いっときの別れに聞こえなかった、別れの言葉――。なんか、つい最近、似たようなことを考えた記憶が。頭の中に浮かんだのは、カラーに顔をぐるりと囲まれた愉快な柄の犬だった。
――モーだ。飼い主の来島さんが言っていた。モーの一泊の手術入院の予約を入れたのは寺本氏だった。とうぜん一泊でモーが帰ってくることは知っていた。なのにモーに告げたのだ、「寂しいよ」と。その言葉は結果として、モーへの寺本氏の最後の別れとなった。モーが手術に出向いた日、寺本家は焼失し、寺本夫妻はその火事で帰らぬ人になったのだから。
澄香さんと出会ったのは寺本家だった。寺本家の火災現場跡地に残された煤けた車いすや食器棚を、俺の肩に手を置いて、澄香さんは見つめていた。まだ夫妻の生活が感じられるあの場所で、二人の生命を奪った火災の猛威のあとを、まざまざと見せつけられたに違いない。――なのに、自殺を図った。放火でだ。
死ぬ方法ならいくらでもある。それこそ重病の澄香さんは、自分でも言っていたとおり、このまま積極的に治療を受けなければ、いずれは死を迎えたに違いない。にも拘わらず、生きたままその身と生命を焼き滅ぼすという、辛く最悪の方法を選び、実行したのだ。
その事実が俺に予想させた答えは、一つだけだった。
――またやる。紫の老嬢、山口澄香さんは、また自ら死を選ぶ。それものんびりとベッドの上で、緩慢な死が訪れるのを待ったりせずに、行動に出るに違いない。
そう考えたとたん、俺は振り返っていた。医療器械とベッドしかない、白が基調の素っ気ない病室。それこそ見舞いの花もない。自分の気の利かなさを俺は呪った。なぜ花の一つも持ってこなかったのだろう。
ベッドの上に横たわる澄香さんの身体はどこまでも薄い。枕の上の顔は小さく白く、目尻から枕に 向かって、涙がまだこぼれ落ちつづけていた。
私のことは忘れて、ここへ来ないで――――。
それが澄香さんの俺への願いだった。
簡素な白い病室のベッドの上で、病院のお仕着せの浴衣に身を包み、顔も化粧なしのすっぴんだ。それでも微笑みながら俺に別れを告げた澄香さんは、やはり姫だった。高貴な、そして孤高で高潔な姫だった。
深く息を吸い込むと、俺は口を開いた。
「あんたが姫じゃないんなら、俺も王子なんかじゃない。だから願いは叶えない。俺は大山雄大。職業は」
さすがに次を口に出すには、覚悟が必要だった。賢い澄香さんのことだ、衝撃を受けるに違いないと予想したからだ。だから一つ呼吸をおいてから、「消防士だ」と、告げた。
驚いたように開かれた澄香さんの目が、さらに大きく開かれた。その瞳に驚きと動揺が走るのを、俺はただ見つめていた。
言いたいことはいくらでもあった。死にたければ死ね、ただし火は止めろ。いつもの俺なら、きっぱりそう言いきっただろう。だが澄香さんには言えなかった。言いたくなかったのだ。死んで欲しくなかった。また、これまでのようにチャーミングな笑顔と会話で、俺を感心させて欲しかったのだ。
もちろん、それが単なる俺の身勝手なわがままなのは判っていた。生きながら自らを炎に焼かせるという、想像を絶する苦痛を伴う死を選ぶほど、先行きに絶望した澄香さんに、俺が何を出来るというのだろう。
心が冷たいとか、非道い人だと言われようが、俺は自己満足のために、自ら死を選び、しかも実行に移した相手に、「死なないで」なんて口にしない。まして、「生きていれば、きっと良いこともある」だとかの、手垢《てあか》の付きまくった気休めも言わない。だいたい、生きていれば良いことがあるだなんて、誰が確約出来る? 少なくとも、俺には出来ない。その人の命は、他の誰でもなくその人のもの。生きる権利もあるのなら、死ぬ権利もあって良いはずだ。
では、何を言えば良い? 炎――火事は困る。止めろと伝えるには、どう言えば良い? 考えた末に、俺は口を開いた。
「消防士は、あんたと同じ人間だ。あんたが火事で死ぬのなら、俺も火事で死ぬ」
澄香さんならば、これで判るはずだ。今の俺が言えることは、それだけだった。
天井を向いたままの澄香さんの唇が動いた。声にはならなかったが、唇の動きから何を言ったかは判った。ごめんなさい、だ。それも一度ではなく、繰り返していた。澄香さんのしたことは一言で言えば放火だ。俺個人の許容範囲の問題ではなく、日本の法律上、罪になる。許されていないのだ。それに警告を発し、相手に詫びの言葉を言わせたのだから、満足し、達成感すら感じてとうぜんなのに、そんな気分にはまったくなれなかった。それどころか、涙をこぼしながら声に出さずに謝りつづける澄香さんを見て、逆に酷いことをしたと、後悔すらし始めていた。
たった一度の魔法は解けてしまった。ここにいるのは、王子などではなく、二十四時間の交替勤明けの寝不足でくたびれて、ついでに少しばかり汗くさい図体のデカい消防士だけだ。配役リ ストに載っていない消防士が出来ることといえば、ただ一つ。速やかに退場するだけだった。きびすを返した俺は、逃げ出すように、その場をあとにした。
赤羽病院から一歩外に出ると、目の前は緑鮮やかな春だった。別に文学かぶれになったわけじゃない。赤羽病院の目の前が、赤羽公園だというだけだ。愛車のカブは赤羽病院の駐輪場に停めてあった。病室からは逃げるように出てきたくせに、なぜだか俺は、すぐさま帰る気になれなかった。
駐輪場にカブを停めたまま、道を挟んだ赤羽公園へと俺は歩き出した。園内に入るのは初めてだった。思ったよりも広いというのか、――――変な公園だった。入ってすぐに、オレンジ色の滑り台と、横に太陽みたいなデザインがモザイクで措かれている、トンネルと滑り台併設の秘密基地みたいな子供の遊具らしい巨大な物体があった。これはなかなか独創的で良いんじゃないかと思う。
公園の中央には二本足で立ち上がっている馬と、それに右手を突き上げて跨る人の銅像があって、その周囲を取り囲む円の四カ所にも鳥や魚の銅像が配置されていた。俺が知らないだけで、おそらく著名な芸術家の手に成るものなのだろうが、それにしたって、ちょっと微妙なデザインなだけに、無料奉仕ならともかく、区民の税金で代金を支払ったのなら、よそ者の板橋区民ではあるが、俺としては責任者の首をつかんで、軽く左右に揺すぶってみたい衝動に駆られる。
公園全体を見回して見ても、統一性はどこにも感じられなかった。ギリシャの神殿みたいな時計塔に、藤棚もあれば鳩もいる。ベンチにはベビーカーに子供を乗せた母親や、サラリーマンらしき背広の男、そしてホームレスまで、それぞれ一つずつベンチを占めて、各自勝手な時を過ごしていた。これはこれで平和な風景で、土曜日の昼前としては良い風景なんじゃなかろうか。なんて思った俺の視線の先を、小さな人影がせかせかと通り過ぎていった。ポケットのたくさんついた膝下までのパンツにヨットパーカ姿は、どう見積もっても小学校高学年か、中学生でも低学年といったところだった。その姿を目で捉えたとたん、その人影を俺は追い始めていた。頭を上下させず、俯き加減でせかせか歩くチビ。間違いなく寺本氏と歩いていた、寺本氏の孫ではないガキだった。
左右を見回しもせず、足下のわずか先だけを見つめて小股でひたすら歩くそのチビの歩き方は、機械仕掛け、それも電池式ではなく、昔懐かしいゼンマイ式の玩具を俺に連想させた。前回は青色点減を始めた信号に読みを誤って見失っただけに、今度こそはやる気満々だった。
赤羽会館に沿って歩いているということは、次の角までは直進するはず。そう思いつつ、大股で道路を挟み、チビと平行に公園の中を進む。ところが、とつぜんかくんとチビが左に曲がった。まったく遊びがなく、ほぼ九十度直角に折れ曲がったのだ。ゼンマイ式というのはあながち嘘ではないんじゃないのかと思うほど綺麗に曲がったチビの進んだ先は、赤羽会館の中だった。四人の老人たちの失火を装った放火自殺に共通するキーワードの一つである赤羽会館に、チビは入っていったのだ。
あんなチビが区民会館に何の用があるというのだろうか? まさか区民講座の受講生だとか? 区民なら、誰でも受講出来るだろうからおかしくはないか。チビが受講生だとして、寺本老人も同じ講座を取っていたとか。二人は学友ならぬ、受講友だった。そう考えれば、二人が一緒に赤羽駅から赤羽会館に向かって歩いていたのも納得できる。ついでにチビが仏頂面だったのもだ。受講生仲間とは いえ、老人と仲良くしたいわけじゃないとか、教室の中はともかく、それ以外では交流なんて持ちたくないとチビが思ったのなら、話し掛ける寺本氏を無視していたのも理解出来る――――、なんて、のんびり考えている場合じゃない。チビは入り口から入ってすぐのところに立っていた。周囲に何人か立っている。他の人達の視線は上向きで一点を見つめていた。どうやら、エレベーターがあるらしい。
移動するエレベーターの表示灯を、いつ着くかと見つめているのだろう。そんな中、チビだけは、一人、足下を見つめていた。
赤羽公園の出口に向かおうとして俺は断念した。出口への道の両脇には、自転車がずらりと駐輪されていて道幅が狭くなっていたのだ。しかも前方からはベビーカーを押した若い母親がやって来る。すかさず左脇の植樹された茂みに踏み込むと、柵を乗り越えて道路に出る。三歩で道路を渡り切り、会館の入り口に着いて、反応の悪い自動ドアに苛つき始めたそのとき、エレベーターが到着したらしく、他の人とともにチビが乗り込んで行った。
このままだと、またまかれると焦った俺は、開ききっていない自動ドアを無理矢理すり抜けようとして、思いっきりガラスのドアに右肩をぶつけた。ゴンッ! という鈍い音に、最後にエレベーターに乗り込んだ老人がこちらを向いた。よし、そのまま待ってくれと、願う俺の思いも虚しく、無情にもエレベーターのドアは閉まり始めた。
駆け寄ったものの、ドアの前に着いたときには、ドアは完全に閉じられていた。打った右肩の痛みも合わせて思わず悪態をつく。こうなったら、何階でエレベーターが止まるか確認して、あとを追うしかない。エレベーターの上の表示灯を呪みつけるように見上げる。右に向かって一つずつ大きくなる数字に、順に灯りが点いた。――2、3、えらくゆっくりで苛々する。――4、5。そこで止まった。つまり五階で誰かが乗るか降りるかしたわけだ。
灯りは5に点いたまま、なかなか動こうとはしなかった。じりじりと、ただ待つ。灯りがいったん消える。6に進むとばかり思っていたが、次に点いたのは4だった。ということは、全員が五階、チビも五階で降りたに違いない。ならば、このまま待っていれば、降りてくるエレベーターにチビが乗っているかどうかも確認出来る。
待つことしばし、チンと鳴った軽い音とは対照的に、ガタガタンと重い音を立てて、エレベーターのドアが開いた。中は空、誰も乗ってはいなかった。チビはまだ五階だ。では俺も五階に行くとしよう。エレベーターに乗ると同時に閉のボタンをすぐさま押した。乗ってすぐに五階に何があるのか、俺は知った。各階案内の五階の欄に書かれていたのは図書館。こんなところにと感心しつつ、俺は納得もしていた。なるほど、これならチビが向かっても変じゃない。
五階に到着してドアが開いたとき、真っ先に目に入ってきたのは、エレベーターの正面の壁の日本語とハングル文字と中国語の三つの言葉で書かれたポスターだった。へぇ、なかなか国際的なことで、と感心しつつ、内容に目を通す。「本の泥棒は犯罪です」。なんとなくがっかりしたところに、つづけて防犯カメラが目に入って、さらにどんよりした。図書館に防犯カメラか。公共サービスの場でも防犯設備が必要かと思うと、なんだか切ない。でも、いざと言うときに我が身を救ってくれる消防の機材やら防火服まで、油断していると盗まれる昨今、申し訳ないが市販されている本やCDならと、軽んじて手を出す奴の数は、少なくないに違いない。
エレベーターホールの右横は雑談用のスペースだった。そこの張り紙は、「置き引き注意」。そんなのばっかりかと思うと、現代日本人のモラルの低さにちょっとアンニュイになった。――って、そんなことを憂えている場合じゃない。
わざわざこんなところまで来たのは、あのチビを探すためだ。さあ、始めるとしよう。新たな気持ちで脚を一歩踏み出す。右横にはエプロン着用の女性司書が数名陣取っているカウンター。その先には整然と並ぶ本棚。あのチビはどこへ行った? 本棚の間の通路を覗き込みながら先に進む。子供室を過ぎた左側は自習コーナーになっているらしく、碁盤状《ごばんじょう》に区切られた大きな机の席は、両側ともびっしり埋まっていた。意外と利用者が多いことに驚く。
そう言えば、図書館に足を踏み入れるなんて、どれくらいぶりのことだろう。高校、中学と遡って記憶はナシ。小学校も――と、そこまで思い返して止めた。このまま記憶を遡っていったら、今回が生まれて初めてかもしれないと気づくのは、いくら何でも寂しいと思ったからだ。
席に陣取っている連中に目を走らせる。ここにいないとすると、あとは本棚の通路だと思った矢先、見つけた。ノートと本を広げた机に、ぎりぎり一杯まで深く腰掛けたイスを近づけているその姿は、自分を襲おうとする猛禽から身を小さくして隠れている小動物みたいだった。
――よし、見つけた。あとはどう接触するかだ。今この場で話し掛けに行くのは得策とは思えない。壁に貼ってある館内の案内を見て、出入り口が一つだと確認した俺は、出口近くのソファで待つことにした。歩き始めた俺の前方から、一人の老人が近寄ってきた。館内は老人率、それも男性率がけっこう高いだけに、別に珍しくもなんともないはずなのだが、なぜだか気になった。
白髪に眼鏡で小太りで、某フライドチキンのチェーン店―― って、某でもなんでもないか――の創始者にかなり似ている老人が、俺はなぜ気になるのだろう。すれ違った直後、その理由に気づいた。老人の視線だ。初めて館内に、それも人を探しに入った俺と同じく、老人の視線は定まっていなかったのだ。気になった俺は、老人の行方を見つめていた。
ゆっくりと歩きながら書架の通路に目を向けた老人は、今度は自習室へと目を向けた。これまたゆっくりと巡らされた首が、ある一点で止まった。尋ね人を見つけたに違いない。老人の視線の先の机にいたのは、チビだった。
老人が歩き出した。様子を見守っていた俺が見たのは、チビの後ろを通り過ぎる際に、チビの肩に軽く手を触れた老人の姿だった。だが、チビは何一つ反応しなかった。振り向くどころか、視線を向けすらしなかったのだ。確かに老人はチビの肩に触れた。俺は見たのだ。違和感を感じた俺は、老人の後ろ姿とチビとを交互に目で追った。さっきのはぐうぜんだったのか?
――違う、そうじゃない。二人の一瞬の接触がぐうぜんでないことは、机の一番奥まで行った老人が、左に曲がりながら、チビへと視線を送っていることで確信出来た。
老人はチビに合図を送った。それも、他人には気づかれないようにだ。推測が当たったと、さらにだめ押ししたのは、通路へと戻ってきた老人の視線だった。さっきとは違い、進行方向の足下にぴたりと定まっていたのだ。カーネル似の老人が探していたのは、間違いなくあのチビだ。老人はカウンターの前を通り過ぎ、エレベーターの前に立った。帰るのだ。もうここに用はない――。目的は済ませた。そして目的は、あのチビだ。
老人が去って、そのあと何基のエレベーターが登り降りするのを見つめていただろうか。何人もの人たちがエレベーターから吐き出され、乗り込んで行くのを俺はただ見ていた。膨らんだ鞄から借りた本を取りだし、カウンターに返し、また新しい本を借りて帰る主婦や老人、子供に静かにするよう注意しながら、手を引いて子供室へ向かう母子。耳にしていたイヤフォンを外し、鞄にしまい込む真っ赤な髪に、耳にピアスをいくつもつけた自習室へ行くらしい若い男。誰もがそれなりに図書館が持つ本来の役割を利用しに訪れては帰っていく。とりわけ珍しくもない公共施設の当たり前の一日、ありふれた光景。そんな中、俺はソファに腰掛けて、エレベーターホールを見張っていた。傍目《はため》から見れば、俺もありふれた風景の中の一人だ。だが俺がここにいる本当の理由は、老人たちと関係がありそうなチビのガキを追いかけてだ。そいつから話を聞くためにここにいる。
そしてチビが現れた。例の如く足下半歩先くらいに視線を定め、頭も揺らさずに小股でちょこちょこ、でも早足でやってきた。すかさず俺は立ち上がり、チビより先にエレベーターの前まで進んだ。エレベーターのドアが古びた重い音を立てて開く。俺とチビ、そして他三名の合計五人が乗り込んだ。先に乗った俺はとうぜん一番奥に進む。あとから乗ったチビはドアの近くだ。これで二階に到着したあとは、俺がチビの後ろになって、あとを追うことになる。すべては計算通りだ。
エレベーターが一階に到着すると、チビはさっさと外へ出ていった。俺はちょいと周囲を見回したりなんかして、間を空けた。ただし、思ったよりチビが素早いことも、予測不可能な動きを見せることも既に学習済みだから、気は抜かない。
チビが道路を渡った。まっすぐ進むかと思いきや、斜めにくきっと折れて、赤羽公園の中に入っていった。公園の周囲は植樹されていて中が見えない。のんびりしている場合じゃない。あわてて外へ飛び出して後をつける。
足下しか視界に入っていないだろうに、チビは器用に障害物――前方からの人とか、止められている自転車とか――を避けて進む。それも距離を置かず、障害物に沿うように、まるで超音波でも発しているかのように。―――蝙蝠《こうもり》かっての、お前は。
チビは真っ直ぐ中央の不思議な銅像エリアに入っていった。銅像の周りを時計と逆回りに進んでいたチビが、ふいに姿を消した。何事? と、伸び上がって見ると、チビは中央の銅像を取り巻くように作られたベンチに座っていた。背が低いために、視界から消えただけだった。なんだ、と安堵した俺の目が、公園の反対側の入り口から入ってきた人物に留まった。――――カーネル似の老人。ゆっくりとチビの方へと近づいてくるその男は、さっき図書館の中でチビの肩に手を掛けて、一言も発するわけでもなく去って行った老人だった。
俺は公園に座っていた。ベンチの上ではなく、地面に尻を着き、銅像を囲む円形の生垣を背もたれにしてだ。生垣を挟んで背後数メートルのところに、チビとカーネル爺さんは座っていた。ぴたりと寄り添うと言うには離れていたし、離れて座っていると言うには近い、不思議な距離感を保って、二人はレンガ製のベンチに腰を下ろしていた。
俺がこんなところで何をしているかと言えば、たまには大地に触れ、公園の緑でも眺めて視力回復に勤しんでいる――わけがない。情報収集、早い話が盗み聞きだ。二人はさっきから小声でぼそぼそ話していた。いや、話していたというのは正しくない。老人が何かを言うと、言い終えるのを待って、チビが返す。それの繰り返しだった。たまに首だけ伸ばして様子を窺ってみたが、二人とも互いの顔を見ようともせずに、真っ直ぐ前を向いたまま話していた。老人と中学生くらいにしか見えないガキ、とりわけ懇意でもなさそうなのは図書館でのやりとりでも明白だった。ならば何を話している? それを知るために、俺はこうして地べたに尻を着いて、二人の会話を盗み聞きしているのだ。
それにしても二人とも声が小さい。仕方なくじりじりと尻でにじって、接近する。二人のちょうど後ろまで来て、ようやく音が拾いやすくなった。
「あんな風に、失敗したくない」
これは爺さんだ。
「だったら、準備期間をもっと延ばさないと」
こっちがチビ。身体と声の高さに関係があるのは別に驚くことでもないが、笑ってしまいそうになるくらい、チビの声は身体と歩き方に似合った甲高い声だった。
「もう待てないんだ。在宅で仕事をしている左隣の一家全員がいなくなるのは、年に一度のこの時期の旅行だけだし、来年には右隣の家が建ってしまう。これを逃したら次は何時になるか」
老人の言葉にも声にも切迫感があった。なんだか知らないが、急いでいるらしい。
「どうだろう、湯沸かしポットの数を増やしてみたら?」
湯沸かしポットを増やす? なんだそりゃ? と思ったそのとき、腹が鳴りそうになった。ちらりと腕時計を見ると、もう一時近くになっていた。そりゃ、腹も鳴る。だが今鳴って貰っては困る。焦り始めた矢先、チビの声が聞こえてきた。
「一つならぐうぜんで済むだろうけど、二つも三つもポットのマグネットにゼムクリップがあったら、ぐうぜんでは済まされないよ」
湯沸かしポットにゼムクリップ――。そう遠くない前に、ポットのことが話題に上った気が。頭の隅っこにしまい込んだ記憶を探る。
――思い出した。二月に保育園に防災指導に行ったときだ。事務室で可愛い保母さんにお茶を出して貰ったときに、室内の電気湯沸かしポットを見つけて、香川が得意げに危険性を語ったのだ。
「電気湯沸かしポットの湯沸かし中の消費電力は千ワット近くになる物もあるんです。だから電源コードの結合部であるマグネット部分には、常に注意を払って下さい。まずは、ほこりを払うこと」
香川はわざわざポットを持ってきて、実際にコンセントを取り外してほこりのあるなしを確認して、綺麗になっているのを誉めると、さらに身振り手振りも交えて説明してたっけ。
「水にも注意して下さい。ポットに給水するときは、間違ってもポットごと水道の蛇口の下に持っていって水を入れないこと。別の入れ物で水を汲み入れても、こぼしてしまうこともあると思います。そのときは、必ず紙や布でマグネット部分を拭いて、水気を無くして下さい。ショートして、出火する恐れがあります。それから、特に気をつけて貰いたいのは、マグネット部分に金属を近づけないことです。この部屋みたいに文房具があるところだと、ゼムクリップなどの薄くて小さい金属もあるでしょぅから、充分に気をつけていただかないと。大きな物の場合は電源コードがマグネットにつかなくなるから問題ないですけれど、こういう小さいものだと、実際に、やってみますね」
そして香川は手にしたゼムクリップをポットのマグネットに近づけた。ぱちっと音を立ててゼムクリップがマグネットに吸いついた。そこへ、もちろん大本のコンセントからは抜いてあるポットの電源コードを近づける。電源コードは、ちっぽけなゼムクリップなどまったく問題にせずに、本体のマグネットに吸いついた。
「この小さなクリップを通じて、本来のポットが必要とする以上の電力が流れ込んでしまうんです。そうなったら高電流に機械部分がショートして、ものの五分で出火してしまうんですよ」
可愛い保母さんを前に張り切る香川に、そんなことは俺だって知っていると鼻白んだものだ。――などと、のんびり回想に浸っている場合じゃなかった。嫌な予感に、気がつけば腹の虫も沈黙していた。
「でも」
老人の反論に、珍しくチビは最後まで待たずに言い返した。
「出火原因は必ず見つかるよ。金属は焼け残るんだから。消防も警察もそこまでバカじゃないよ」
チビの言葉で、二人が何の相談をしているのかが完全に俺にも判った。火事だ。それも失火に見せかけた放火のやり方を話し合っているのだ。指導を受けているのがカーネル爺さん。しているのがチビ。俺は混乱していた。――いったいどういうことなんだ? 何がどうなっているんだ? ではこのチビが寺本氏を始めとする老人たちに放火を指南したのか? こんなことをして、チビに何になる? カーネル爺さんはこれから放火自殺をしようって言うのか?
「そうかな。でも、もしかして見過ごすってことも」
「自分でやったって知られても構わないのなら、止めないよ。だけど、それでいいなら、最初からこんな面倒なことしなくてもいいんじゃない」  つっけんどんに言い切って口を噤んだチビに、老人は黙り込んでしまった。しばしの沈黙が過ぎて口を開いたのは、やはり老人だった。
「上手く行く――、よな?」
確認は、不安げな声だった。
「失敗したのは今回だけで、今までは全部成功しているんだし」
今回だけ、山口澄香さんのことだ。そして、成功している今までが、寺本夫妻、篠原すづさん、そして五十嵐さん、いや、もしかしたらもっといるかもしれない。
「大丈夫、私は彼女と違って、近所に私のことを気に掛けてくれている人なんていないから」
老人はそう言うとチビの方へ顔を向けて笑った。横を向いてくれたお蔭で、老人の顔がはっきり見えた。長めの白髪が掛かった顔は、意外と皺も少なく健康そうに見えた。だが俺が目にしたのは哀しい、寂しい笑顔だった。真っ直ぐ前を向いたまま、老人の顔を見ようともしないチビの顔は見えない。老人はゆっくりと顔を正面に戻した。そして再び二人とも口を噤んでしまった。
「パソコンとスキャナー、プリンターにデジタルカメラ、全部先週届いたよ」
口を開いたのは今度も老人だった。脈絡のない言葉に、俺は首をひねった。
「二階の納戸の戸の建てつけが悪くなっていることも、一昨日、床屋で話しておいた」
戸の建てつけが悪い、つまり戸の開け閉めが楽じゃないってことだ。そんなことを、なんで床屋なんかに? 考え始めたとたんに頭の中に浮かんだのは、焼死した老人たちの、周囲の住人たちに事前に伝えていた言葉!言いわけだ。
布団の上げ下ろしが面倒で、――これはすづさん。今まで通りにした方が、良いんじゃないかと思って、――これは寺本氏。どちらも結果として、火災現場から逃げ出すことが出来ずに命を落とした理由だ。二人は事前にこの理由を、周囲の人に告げていた。そう気づいたとたん、なんだか腹に痛みを感じた。――腹の空きすぎか?
「段ボール箱は、間を空けて壁に立てかけてある。それも湯沸かしポットの置いてある出窓の周囲に。ポットの下には言われた通りに布を敷いてあるし、出窓にはカーテンも掛かっている。もちろん出窓の下はオイルストーブの長年の定位置だ」
小さなゼムクリップをマグネット式の電源コードと本体の間に挟んだ出窓の湯沸かしポットから出火した炎は、まずカーテンとポットの下の布に燃え移る。上へ伸びた炎はそのまま壁や天井に進み、下に伸びた炎は敷布を伝って壁に立てかけられた段ボールへと、さらに床にあるオイルストーブにその触手を伸ばす。もともと段ボールは他の紙よりも、紙と紙の間に空気を蓄えている構造上、燃えやすい。そして火はオイルストーブへと進み、オイルを燃料に爆発的に大きく燃え上がる。家の中には段ボールが老人が買った家電の数だけ家の中にある。それも老人の手によって、適度に間隔を取って置かれているのだ。次々と獲物――助燃剤の助けを得て、炎はさらに大きくなり勢いを増す。そのときカーネル爺がいるのは二階の納戸、それも戸の建てつけの悪い納戸の中だ。
頭の中に光景が浮かんだ。腹の痛みがどんどん増して行く。
「それから古書も」
「本はダメだよ」
チビがぴしゃりとだめ出しをした。その意味が俺には判っていた。紙で出来ている本は燃えやすいと思われているが、閉じている限りは空気が少ないために、意外と燃えにくいのだ。
「ああ、半年前から買い集めていたのは、古い地図だよ」
生意気そうなチビの否定の声に、怒るでもなく穏やかにカーネル爺が返した答えを聞いたとたん、腹の痛みがピークに達した。シルクフラワー、絵手紙、押し花、グレープフルーツや蜜柑の皮を使って作るジャムや入浴剤。どれもみな、半年前から新たに始めた老人たちの別段珍しくない、だがどれも燃えやすい助燃剤となる趣味だ。このカーネル爺の言う古い地図の収集もそうだ。老人が昔を懐かしんで始めたのだろうと、誰もが納得するに違いない。だが古い地図――紙はよく燃える。
「お隣は成田発七時の便でハワイに行くんだ。ご夫婦と息子夫婦にお孫さん、全員揃って行くんだって。――迎えの車は三時だそうだ」
羨ましそうに、哀しそうに呟いていたカーネル爺が、最後だけはきっぱりと言った。
――つまり、決行は今日の三時以降と言うわけだ。深く一つ息を吐くと、地面に手を突いて、ゆっくりと俺は立ち上がった。じやりっと砂の動く音に、カーネル爺が振り向いた気配を感じた。二人に背を向けたまま、完全に立ち上がったそのとき、俺は腹の堪え難い痛みの正体に気づいた。空きっ腹のせいじゃない。――――怒りだ。
実際、俺は怒っていた。誰の何に対してなのかは自分でも判らない。強いて言えば、判らないことに腹を立てているのかもしれない。なぜ死のうとする? どうして火を選ぶ? 失火を装うのはなぜだ? こんなチビがなぜ、放火自殺の指南する? このチビは、死にたい老人を見つけては、上手く火事で焼死させてやって、自分の賢さに満足する天才フィクサー気取りの異常者なのか?
すべてが判らなかった。怒りはもはや留まりようもなく、腹だけでなく、頭も痛み出していた。
奴らには奴らの理由や事情があるのだろう。先行きの見えない将来だとか、なんだとか。だがすべては奴等の事情だ。奴らの目的達成のために、消防士たち――いや俺は、火事現場に飛び込んで行かねばならない。灼熱の中、一人でも多くの命を救うため、現場を炎から守るために、ベストを尽くし、予想もつかない炎と戦う、それが消防士の仕事なのだ。
だがどれだけ頑張っても、人命を助けられないときもある。そして、助けられなかった被災者を一番最初に発見するのもまた、消防士なのだ。助けられなかった要救助者をみつけるたびに、消防士の誰もがしてもし切れない後悔という名の炎で、自身を焼き焦がす。死者を出しても、ま、仕方ないやと、気にも留めない消防士なんていやしない。いるわけがない。というか、声を大にして訊いてみたい。いて欲しいか? 俺ならご免だ。
頭の中に、消防士になって以来、助けられなかった人たちの姿が浮かんでは消えた。もちろん最後は、布団の中で仰臥したまま焼け焦げ死んでいた篠原すづさんだ。すづさんをみつけたときに感じた怒りと失望、それに虚脱感、すべての感情が今、蘇っていた。ぎゅっと目を瞑《つぶ》る。頭ががんがん痛む。俺はもう、痛みの原因に気づいていた。間違いなく、怒りだ。
怒りは顔にも出ていたに違いない。振り向いて目があったとたん、カーネル爺がベンチから弾かれたように腰を浮かせたことが、それを物語っていた。爺の様子にチビが振り向いた。中心にすべてのパーツが集まった顔の作りのチビは、他のパーツに較べてやけに大きな目を見開いて俺を見上げていた。老人と違って、驚いた風もなくだ。そのチビの捕まった宇宙人風の無表情な顔が、俺の心のスイッチを押した。
「さっきから聞いてりや、お前ら」
体内に溜め込み膨れあがった怒りが、一気に外へと吹き出そうとしたそのとき、ベンチからチビが ぴょこつと立ち上がって、一目散に走り出した。バネ仕掛けのような予想外のその動きに、しばし呆気に取られたが、逃がすつもりはもちろんなかった。ベンチの背もたれ部分に飛び乗ると、チビの背後めがけて飛ぶ。だが思ったよりもチビはすばしっこかった。着地したときには、円形のレンガを抜け出て、さらに外周のツツジの生垣の切れ目に向かっていた。だが、こちとら肉体労働者の消防士。だてに日々、身体を鍛えているわけじゃない。
「逃がすか!」
叫ぶと同時に加速する。だが、ここでまたチビが予想だにしない動きを見せた。目の前の生垣の切れ目から、真っ直ぐ出て行くかと思ったら、左にかくっと曲がって、一つ先の切れ目に向かったのだ。ごく普通の人間の俺は、当たり前だが地球上の法則に従って生きている。慣性の法則もその一つだ。動いているものは、いつまでもその動きをつづけようとする。つまり、事は急に止まれない、だ。――なんか用法が違う気もするが、とにかく、俺はすぐには止まれず、植え込みの外に脚を一歩踏み出してしまったところで踏みとどまって、あわてて九十度、向きを変える。
チビは一つ先の切れ目から生垣の外へ出たところだった。今度はすぐに追わなかった。チビはちらりと視線を寄越すと、生垣の外周に沿って駆けだした。俺からは一番障害物の多い、赤羽会館からの直進道路を脱出ルートに定めたらしい。
人間は失敗から学び、改善すべく方法を模索する。だからこそ他の動物よりも進化して、今や地球上の覇者なのだ。覇者たる人間の一人として、俺も以前の轍は踏まない。ひょいと屈み込むと、右手で左足のバッシユをつかみ取る。そして振りかぶると、逃げ去るチビの背中に狙いを定めて投げつける。もちろん遠慮などなく、渾身の力を込めてだ。
ドシッと重い音を立てて、バッシュはチビの腰の上に命中した。わずかに前方に飛んだチビが腰砕けになって、ぺちゃっと地面に潰れた。 ―― よし、仕留めた。
生垣の外に出て、ものの数歩で倒れたチビの近くまで着いた。チビは両手を地について、起きあがって逃げようとしていた。その首根っこをシャツごと右手でつかむ。
「逃げられると思ってんのか?」
見た目と同じく、重さをあまり感じられないチビの身体は、片手一本で楽に持ち上げることが出来た。自分の身に何が起こったのか判っていないらしいチビは、俺に首のうしろをつかまれたまま、きょろきょろと辺りを見回している。改めてチビの顔を見ると、黒目の大きいその顔は、捕まった宇宙人よりは愛婿があった。強いて言えば小動物系、ネズミ? いや違う、ハムスターだ。それも、ちっこい方の。ああ、そうだ。こりゃ、
およそ可愛いハムちゃんになど緑もゆかりも興味もない俺だが、生田の兄貴の机の上に飾られたカレンダーのお蔭で知っている。兄貴のお手製カレンダーのモデルが、生田家のペットのなんたらハムスターのソーちゃん、名前の由来はソーセージ――ハムスターでソーセージというネーミングはいかがなものかと患うのだが――だからだ。
何はともあれ、とりあえずチビはキープ。今度はカーネル爺だと辺りを見回したが、爺さんの姿は、もう見えなくなっていた。――しまった、取り逃がしたか。だが、チビを捕まえている以上、問題はない。カーネル爺の正体も居場所も、このチビから聞き出せば良いだけだ。つかんだ首をちょいと揺すぶってみる。俺の手を支点に、チビの身体がぐにゃぐにゃ揺れた。
「お前には、訊きたいことが山ほどある」
チビが捻るように顔を上げた。予想に反したその表情に、俺は一瞬、戸惑った。チビの大きな目にどこにも、怯えはなかった。
ちょっと困っているようにしか見えないその顔には見覚えがあった。シビアな内情を抱えながら、困ったような照れたような顔を常に浮かべていた男、電脳の地下室に何も残さずに死を迎える水母とともに暮らしていた漆黒《しっこく》の王子、守。チビの顔は、俺に守を思い出させていた。
第八章
午後一時四十五分、俺は赤羽公園の中の鳥の銅像を前に、斜め前の西友で買ってきた鳥のそぼろ弁当と揚げたてコロッケと缶コーヒーで遅めの昼食を取っていた。ちなみに横には、赤羽公園から徒歩五分のマンションの一室に住む、大学までエスカレーター式の名門校の附属中学二年の福島裕孝《ふくしま ゆたか》君が座って、同じくヘルシー野菜サンドとカテキン増量の緑茶を飲食している。
実際のところ、俺が捕獲して以来、チビ――福島裕孝は、ただの一言も口を開いていない。では、どうやって俺がチビの名前を始めとした情報を知っているかといえば、チビの所持品検査をして、ついでに学生証と携帯電話を拝借している―――取り上げたともいうが―――からだ。
ここで整理しておこう。二十二歳の消防士の俺と十三歳の福島君が出逢ったきっかけは、福島君が老人たちに失火に見せかけた放火自殺の指南をしていたからだ。それに、さっき盗み聞きした限りでは、取り逃がしたカーネル爺が、今日の三時以降に放火自殺を決行する可能性は高い。消防士としての俺がなすべきことは、目の前の赤羽本署か、ちょっと遠いが赤羽台消防出張所に福島君を連行し、カーネル爺の名前と住所を聞き出して、放火の決行を阻止し、同時に福島君の親を呼ぶなり、警察に突き出すなりすることだとは自分でも判っていた。
カーネル爺の言っていた三時までは一時間十五分。間違っても二人仲良く西友に買い物に行っている場合ではないし、ましてうららかな土曜日の午後、春の心地良い日差しと風を身体に感じながら、のんびりと買ってきた昼飯を食べている場合ではない。なのになぜこんなことをしているかといえば、そうする必要があったのだ。
一つは、俺の空腹が限界だった。実に現実的かつ譲れない最優先にするべき理由だ。二つ目は、―――これは観念的な理由だ。捕まったチビのとる行動を普通に予想すれば、見ず知らずの年長の図体のデカイ男に襲われているか弱い子供という被害者面して逃げ出そうとする、何も知らないと誤魔化す、または素直に謝る、の三つのうちのどれかだろう。そのどれをするにしたって、強がって怒ったり、哀れを誘って泣いたり、見逃して貰おうと媚びた笑みを浮かべたり、何か顔に表情が出るはずだ。俺はそう見越していた。だが外れた。そのどれにもチビは該当していなかった。
顔のわりに大きな目で、ちらりと俺を見上げると、あとはわずかに視線を逸らして、チビはただ口を閉ざしたのだ。一見、無表情にも見えるその顔に、俺はある人物のイメージを思だしていた。喜怒哀楽の幅の薄い、常に浮世離れした貌をした男、電脳の館の中で水母と暮らす黒ずくめの引きこもり、そして今はもういない年齢不詳の白髪の男、守だ。
守にはそんな貌をする理由があった。正確なところは、けっきょく未だに俺は知らないが、とにかく誰よりも純愛な守にとって、この世は最愛の「あの人」が中心だった。すべてだったのだ。だから「あの人」がこの世からいなくなったら、自分もこの世から跡形もなく消えてなくなりたいと願っていた。いや、願いなんかじゃない。それが守にとって自然で、当たり前のことだった。間違っても、このところ流行りの純愛―――その実体は純愛好きな自分に酔いしれているだけ―――なんて、薄っぺらい 純愛じゃない。一つの命、一つの魂を共有していると信じて疑わない、二つの身体に分かれてこの世に生まれ落ちたことがおかしいと信じている純愛だ。
そんな守が浮かべていた表情とチビの表情が、俺には重なって見えたのだ。おそらく五十、へたしたら六十を超えた純愛中年の守と、もうじき十四歳のチビが、だ。俺には社会の摂理だの法的な手段に則って事務的に、かつ正しくチビを処分することなど出来なかった。
黙々と弁当を食べながら、この先どうすれば良いかを俺は思案していた。なんであれ、最優先事項はカーネル爺の名前と住所を聞き出すことだ。だが、チビは簡単には口を割りそうもない。さて、どうしたものかと思いつつ、とりわけ意識せずに割り箸でつまんだ物を口の中に放り込んだ。二度三度、噛んだところで固まった。
何か心に留めて集中しているとき、食べてはいても味など判らないと人は言う。だがそれは間違っている。断言する、何を悩んでいようが、不味《まず》いものは不味い。と言うより、頭の中を埋め尽くす気鬱な悩みを一瞬にして断ち切り吹っ飛ばすくらい、不味いというのはすごい。もちろん味の好みは人それぞれで、つまり不味いには個人差がある。今回も正しくは不味いではなく、たまたま俺の口に合わなかっただけかもしれない。だが、あえて二言で片づける。この柴漬けは不味い。それもとんでもなく、許し難くだ。
怒りとともにレジ袋の中に口の中の柴漬けを吐き出すと、口の中をリセットするべく缶コーヒーを飲み始めた。残り二口だった缶コーヒーを飲み干したが、激不味の柴漬けの味が、口の中にはまだ蔓延していた。どうにも収まりがつかずに、低くうなり声を挙げている俺の左の腿に、何かが触れた。見ればチビがベンチの上を滑らして、自分のお茶のペットボトルを差し出していた。
「悪い」
一言断ってから、チビの緑茶をごくごく飲む。調子に乗って飲んでいたら、あっと言う間に残りがわずかになっていた。
「全部飲んでいいよ」
それが俺に発せられたチビの最初の意志のある言葉だった。それまでは「俺は飯を買って喰うぞ、ついてこい」に、ただ領くだけ。「お前も何か食べるか?」に、無言でサンドイッチとペットボトルを手にレジ―――もちろん会計は別―――に進んだだけだったのだ。
つづけてチビが口に出したのは、「誰?」だった。俺にとってチビの存在や言動が謎なように、チビにとっての俺も、謎なのだろう。そりゃそうだ。話を盗み聞きして怒り出し、逃げる子供の背に靴をぶつけてとっ捕まえ、学生証と携帯電話を取り上げたあげく、飯を買ってきて公園で並んで食う大男なんて、はっきり言って少年マニアの変質者だ。そういう誤解は早いところ解かなくてはならない。間違っても俺は、今海の向こうで裁判中の、肌の色を変えるだけでなく、人間以外の何かになろうとしているとしか思えない妙ちきりんな男の仲間ではない。けっきょくチビのありがたい言葉通り、ペットボトルを飲み干してから答えた。
「大山雄大、消防士だ」
「 ―――そう」
ぼそっと言うと、チビは両手で持ったサンドイッチを口元に運んだ。唇にサンドイッチを当てたまま、じりじりと食べていく様は、やっぱりハムスターに似ていた。しかし、俺の職業が消防士だと聞いて、その返事が「そう」とは何ごとだ? 放火の幇助《ほうじよ》をしている奴なら、警察に突き出されることを想定して青くなるとか、でなきゃ、ごめんなさいとかすいませんと謝るとか、何か反応があるだろ う、普通。なのに、返ってきた言葉は「そう」。
その返答は俺に、電脳の城の中で水母とともに自分のルールの中でだけ生きる守を、さらに彷彿とさせた。守と似ているとなると、世間一般のルールはまず通用しない。つまり放火は犯罪ですとか、消防士も人間なので、普通の人と同じく炎で死にますとか、言ったところで無駄というわけだ。―――さて、困った。このチビに俺は何をどう言ったら良いのだろう。そして口から出たのは、「お前、なんであんなことをしてる?」だった。
色々と考えたが、迷ったときはストレート。それが俺の信条だ。ど真ん中に直球を放る。
「警察に突き出すとか、親に連絡するとか、しないの?」
戻ってきたのは俺が投げた白い硬式野球ボールではなく、大きさも色もよく似ていたが、ゴム製の軟式野球ボールだった。納得はいかなかったが、それでも俺は受け取って投げ返した。
「その方がいいのか?」
「説得して改心させてみたいとか?」
自分の投げた硬式ボールは諦めて、チビの投げた軟式ボールを取って投げ返したのに、戻ってきたのは、同じ白くて丸いボールでも今度は大きさも違うピンポン玉だった。受け答えのかみ合わなさだけでなく、チビの皮肉った生意気な口調に、今度はスルーした。
「俺の質問に答えろ。話を戻すぞ。なんであんなことを」
「お金?」
ワンタイミング置いてから、丸めた左拳でチビの頭を上からごつんとやった。もちろん手加減しまくりでだ。チビの頭がぴょこんと沈む。わずかに遅れてぎゅっと目を瞑ったチビが、再び目を開けると、俺を見上げてこう言った。
「―――舌、噛んら」
舌っ足らずな言い方だけでなく、驚きの表れた顔も含めて、俺は初めてチビに人間らしさを見いだした。これで会話が成立するかもしれない。期待を込めて、俺はチビに語りかけた。
「お前の質問に答えてやる。警察に突き出さないのは、警察が嫌いだからだ。親に言わない理由は、お前がしたことはお前が片をつけるべきで、親は関係ない」
チビの口元が緩んだ。ゆっくりと開かれた唇は、そのままぽかんと開けっ放しにされた。
「金目当だとして、強請《ゆす》る相手に本名だの職業だのを名乗る奴がいたら、そいつは馬鹿だ」
そこで一度口を閉じると、俺はチビをねめつけてきっぱりと訊ねた。
「今度はお前の番だ。なんであんなことをする? 爺さんや婆さんとは、どういう関係なんだ?」
チビはすぐには答えなかった。黒目の大きな瞳で口を開いたまま、しばし俺を見つめて、それからぼそりと呟いた。
「 ――― 同じなんだ」
質問の答えになっているとは、俺にはとても思えなかった。
「俺が聞いているのは、なんでお前が爺さんや婆さんに」
最後まで言う前にチビが言葉を挟んだ。
「要らないんだ、僕もあの人たちも」
答えは意味不明だった。だが、淡々と発せられたチビの声と表情は、俺に色々なものを思い出させていた。気負いはないが、諦観を滲ませたその声や表情は、守、そして紫の姫、澄香さんと同じだったのだ。守と澄香さんに共通していることは、思いを残す相手もいない、希望のない未来だ。
俺には判らなかった。守や澄香さんはともかく、中学二年になったばかりのこのチビが、二人と同じく未来に何の期待も持てないと言うのだろうか。誰かから必要とされていないことが共通点だとして、チビは誰から不要だと言われたというのだろうか。
ただ一つだけ、判ったことがあった。少なくともこのチビは、老人たちを上手く自殺させてやって悦に入っているフィクサー気取りの異常者ではないということだ。手伝っているのには理由がある。それが「同じ」だし、「要らない」に違いない。でも、それが何なのかは、俺にはまったく判らなかった。
「都合の良い人でさえいれば良い。望まれているのはそれだけ。そうじゃなければ、要らないんだ」
「|あ《〃》―― !」
訳が判らなくなって、思わず声を挙げていた。同時に右手を髪の中に突っ込んで頭皮をがりがりと掻く。
「わけ、判んねー。判るように説明しろ」
唸るような俺の声に、チビはすくい上げるように俺を見上げると、「判らないだろうね」と、突き放したように言った。
「なんだよ、それ。判らないから訊いてんだろうが!」
さすがに声を少し荒らげた。だがチビはまったく動じずに、再び両手に持ったサンドイッチを口に運んだ。ちびちびじりじり食べ進むその態度が、かんに障った。手を伸ばすとチビの手からサンドイッチを取り上げ、自分の口に放り込む。呆気にとられた目で俺を見つめるチビと真っ正面から視線を合わせながら、口の中のサンドイッチを良く噛んでから飲み込んだ。俺が完全にサンドイッチを食べ終えるまで、チビは何一つ言葉を発しなかった。俺が大きく喉を鳴らして飲み下したのを確認してから、チビは静かに口を開いた。
「大山さん―――だっけ? 判らないよ、きっと。だって、そんなこと考えたことないんでしょ? だから僕が何を言っているのか、想像すらつかないんだよ。そんな人に説明したところで、判って貰えるとは思えない」淡々と諦めたように、それでいてどこか小馬鹿にしたような言い方にも、むかっと来た。とにかく言うだけ言ってみろ、もしかしたら判るかも知れないじゃないかというより、言うことすら放棄されては、まったく先に進めない。またぞろげんこつを喰らわせてやろうかとも思ったが、暴力では何も解決できないと、留まった。以前はそれ頼みだったものだが、さすがに俺も大人になった―――じゃなくて、やるなら人目のつかないところじゃないとマズいからだ。ここは公園、人の目が多すぎる。
しかし時間がないのも事実だった。リミットはカーネル爺の隣の住人が旅に出掛ける午後三時過ぎ。カーネル爺の放火自殺決行まで、大して時間はないという焦りは忘れてはいなかった。
「お前のことはあと回しだ。さっきの爺さんの名前と住所を言え」
「知って、どうするの?」
間髪入れずに戻ってきたのは質問だった。
―――どうするって、そりゃ、止めるんだよ、阻止するんだよ。条件反射的に答えは出てきたが、正直、なぜするのかの理由は、自分でも判っていなかった。縁もゆかりもない爺さん一人、死んだところで俺にはまったく関係ない。なのにどうして俺は止めようと思っているのだろうか。それもとうぜんとばかりにだ。頭の中に、不意に裕二の皮肉った声が蘇った。―――おー、熱血。
いや、だからそうじゃなくて。俺は我が身が可愛いから一つでも火事を減らしたいだけなんだ。偶発的な火事はともかく、人の手による放火は阻止出来る。それに一つ止めさせることが出来れば、後続も断つことが出来る、そのためだ。―――おお、素晴らしい。その通りだ。
自分でも納得の行く答えを導き出せて満足する。けど、これって、防災への啓蒙という消防士の仕事の一つのような気もするんだが。 ―――この際、それは無視だ、無視。
とにかく一つでも火事を減らす、イコール、夢の事務職公務員の日々への第一歩だ。よし、決着がついた。ということで、俺はチビに答えを返した。
「止めるんだよ」
「何で?」
またもやコンマ単位で質問が返ってきた。この質問の答えは、すでに考え済みだった。口を開き掛けたそのとき、チビが口を開いた。
「死んじゃダメだから? 死んだら何にもならないとか? 死にたいんだから、死なせてあげればいいじゃない。あなたに何の関係があるの?」
一本調子のきいきい声が、足下に視線を落としたままのチビの口から、止まることなく流れつづけた。俺は例の如くの持論1人の命はその人のもの、だから死ぬのは勝手。だが、死ぬにしても火は止めろ、火事になったが最後、消火活動に出向く消防士―――俺の立場にもなれ、をぶちかましてやろうと、大きく息を吸い込んだ。だがその息は言葉でなく、ただの息として吐き出すことになった。
「あのお爺さんはね」と、チビが語り始めたのは、さっきのカーネル爺の話らしかったからだ。
カーネル爺とその一人娘は、もともと折り合いが悪かった。良かれと思って娘を大学まで行かせ、自分のコネも使って有名企業に就職させたが、それまでも何かにつけて反発を繰り返した娘は、就職して二年を待たずして、父親から見て、およそ生活力もなければ信用もおけない年下の、学歴も低い男と駆け落ち同然に結婚してしまった。そしてほとんど没交渉となり、孫が産まれても合わせにも来なかったという。なんかこのエピソード、どこかで聞いたような気が。―――って、ウチだよ。
俺の母、民子も良いトコの娘で大学出だが、実家の火事で消火活動に来た親父と出会い、親の反対を押し切ってゴールインしたせいで、親とは没交渉になっている。それも孫である俺が産まれて二十二歳にもなった未だにだ。だから俺には祖父さん祖母さんの記憶がない。親父の両親は俺が産まれる前に既に他界していたからないのはとうぜんだが、民子の両親についてもまったくない。
「奥さんが亡くなったときも、お通夜も葬儀も来たのは娘さんだけで、娘さんの夫も孫も来なかったんだって」
殉職死した親父の葬式に、民子の両親は現れなかった。そのあと民子は、生命保険のセールス・レディーの収入で、独りで俺を育ててくれた。一切親には頼らずにだ。チビの語るカーネル爺の話は、ウチの状況と良く似ているだけに、結末が気になった。
「葬儀が終わってすぐに、娘さんが奥さんのものを断りもなしに持って帰ろうとしたんだって。とがめたら、じゃあ、いいわよ。でも、どうせもうじきあんたも死ぬんだもの。そしたら、全部あたしのものになるんだからって」
その捨てぜりふが、現時点でカーネル爺が聞いた娘の最後の声だという。
チビのきいきい声と、語られる話の内容はアンバランスだった。でもだからこそ、妙に痛々しさが俺には伝わって来ていた。
「本当は、何一つ残したくないんだって。全部、娘さんには渡さないように文書を作ろうかって、考えたんだって。だけど」
父親として、やはりそれは出来なかったのだ。さっき見たカーネル爺の寂しそうな笑顔が頭に蘇って、なんともやりきれない気持ちになった。
「お金は大してないし、残すものっていったら、住んでいる家と土地くらいなんだって。土地はともかく、家と家の中の奥さんとの思い出の詰まったものは、やっぱり娘さんに残したくないって」
だから燃やしてしまおうと決めたのだ、家も家の中のものも、自分の命とともに。
すづさんも、五十嵐さんも、そして澄香さんも同じ理由だった。愛しい夫との思い出の品を託し―――渡したくなかったのだ。寺本夫妻に関しては、今のところそういう背景があるかは知らないが、おそらく似たり寄ったりの話があるに違いない。
老人たちは人の世話になってまで永らえることよりも、自分で自分のことが出来るうちに自決しようと思い、そして決行した。自分の暮らしてきた家や、思い出深いものと一緒に、自分の人生も自らの手で終わらせたいと、考えた。だから火を選んだのだ。
だが腑に落ちないことが残っていた。自殺に火を選ぶ理由は判った。ではなぜ失火に見せかけるのだろうか? 別に堂々と放火でも構わないのではないだろうか? それこそ、自分の残すものをあてにしている連中に、抗議のメッセージを伝えたり、復讐というダメージを与えるつもりなら、その方がはるかに効率的だろう。もちろん、確実に死ねるという意味でもだ。
「なんで失火に見せかける必要があるんだ?」
ごく自然に、疑問が口から出ていた。
「判らないよ」
決めつけるようなチビの声に、ムッとして睨みつけた。足下の少し先の一点を見つめていたチビが、顔を上げて俺を見た。諦観の惨む大きな黒い瞳の中には、俺がいた。
「判らなくて、とうぜんだよ」
チビの瞳が動いた。俺の顔、肩、腕、脚と順に視線を動かしていた。値踏みするような視線が、俺を苛立たせた。
「とうぜんってのは何だよ。〜あ《〃》〜、もうっ! あったま来んな〜 !」
声を荒らげた俺に、臆することもなく、チビが口を開いた。
「プライド」
ぼそりとそれだけ言うと、チビが口を噤んだ。
うっすらとは気づいていた。どの老人も、子供だったり近親者だったりと、相手はまちまちだが、託したくない相手に負けた―――自ら死を選んだと、知らしめたくなかったに違いない。自分には生きる意志があった。だが不運にも命を落としたのだとしたかったのだ。疑問の一つには解決がついた。だが腑に落ちない点は、まだ残っていた。横に座るこのチビだ。
老人たちと自分は一緒だとチビは言った。どちらも要らない存在だと、都合の良い人でいること、望まれているのはそれだけだと。問題は、老人たちとチビにそう望むのが誰かということだ。
老人たちについては答えが判った。子供や近親者だ。彼らは老人たちに、自分の都合の良い存在であることを望んでいるだろうし、そうでなければ要らないと思っているに違いない。
いや、思っているだけでなく、自覚していようが無自覚だろうが、老人たちにその思いが伝わっていたのだ。だからこそ、老人たちは自ら死を選んだ。だが俺の横に座るこのチビに、誰がそんなことを言う? 改めて、しげしげとチビを眺める。着ている服はお酒落に無頓着な――興味がないわけじゃない、ただ図体の都合上、安価で手に入れられる服が限られているから、経済的な必然性でそうなだけ――の俺でも良いものだと判るし、サイズも身体にぴったりと合っている。通っている学校も公立ではなくて私立。学生証が入っていた定期入れも黒い革製で、メーカーの名前らしきロゴの入った鈍い銀色のプレートがついていたから、安いものではないだろう。携帯だってテレビも観られる最新型だ。他にもなぜこんなものを持ち歩いているのかは謎だったが、小型の、それこそお前はスパイか? と、訊きたくなるほど小型の百円ライタ1を縦に二つ並べたほどのデジタルボイスレコーダーも持っていた。これだって、決して安くはないだろう。早い話がこのチビはなかなかのお坊っちゃまだということだ。そんなチビに誰が不要だと言うのだろう。
順当に考えれば、チビの周辺にいる人物、親を含む親族、それと友達ってところだ。浮かんだ答えに、とてつもなく不愉快になった俺は、立ち上がると同時に「行くぞ」と、チビに告げた。
カブ乗車の際は、ヘルメット着用は必須。これがカブ通勤を開始するにあたり、民子との約束だった。だが今、俺はその約束を破っている。理由はケツに乗っけているチビに被らせているからだ。とはいえ、俺のデカ頭に合うヘルメットなだけに、とうぜんチビの頭には合わない。ヘルメットはチビの目の上まですっぽり覆い隠していた。チビは初めてオートバイの後部座席に乗ると言う。もちろん両手はしっかり俺のワークパンツのウエストベルトをつかんでいる。そのため、チビは大きいヘルメットを被った頭をぴったりと俺の背に押しっけていた。これは俺にとっては好都合だった。行き先をチビに気づかせたくなかったのだ。すれっからしのチビのこと、どこに行くのかが判れば、心の準備をするに違いない。俺はチビに余裕を与えたくなかったのだ。
道中、何度もチビに「どこに行くの?」と、訊ねられた。だが一切答えなかった。会話は人と人との言葉のキャッチボールだ。一方が放棄することで残る一方が感じる不安や居心地の悪さをその身で体験して貰おうという意趣返しだ。―――って、我ながら大人げないというか、ガキかも。
目指すは西が丘一丁目、寺本夫妻の現場だった。正直、上手く行くかどうかは自信がなかった。時刻はカーネル爺の計画決行の三時に刻々と近づいている。公園で並んで座ってかみ合わない会話を交わしていたところで、何の進展も望めない。そう踏んだ俺は荒療治に出ることに決めたのだ。だが、時間はない。
「ねぇ、どこに行くの?」
周囲の音に負けまいとチビが大きな声で、何度か行き先を訊ねた。もちろん、俺は答えない。目的地まであとわずかに迫っていたからだ。火災からは数日が過ぎて、さすがにもう、火災現場特有の焦臭は感じられなかった。寺本家の右隣、来島家の下の方だけ飾り穴があるブロック塀の真横に着いてから、俺はわざと急ブレーキを踏んでカブを停止させた。背中にぎゅうっとヘルメットが押しつけられる。
「止まるなら、止まるって言ってよ!」
不平たらたらにそう言ったチビの手が、俺のウエストベルトから離れた。
「降りろ」と、告げる前に、チビがカブから降りた。スタンドを立てながら、様子を窺う。チビの小さい手がヘルメットに掛かる。ヘルメットを持ち上げたチビは、頭を左右に振ると、つづけてさも髪型が乱れたとばかりに、右手で短い黒髪をなでつけた。そして改めて周囲を見回した。チビの顔がゆっくりと塀の隣、寺本家へと向けられて行く。チビの動きが止まった。黒目の勝った大きな瞳が瞬き一つせずに、寺本家を見つめていた。俺はチビの表情を見落とさなかった。その目に驚きが浮かんだ。だがそれはさほど大きなものではなく、あっという間に消えてなくなってしまった。
「ここって」
ちらりと周囲に目を走らせてから、チビは「寺本さんの家だよね」と言った。チビが視線を送った先、道路を挟んだ向かい側の家の表札には、住所が表記されたプレートが貼りつけられていた。
住所を見ただけで、ここが寺本夫妻の家だとチビは判った。やはり寺本の爺さんにも放火の指南をしていたのだ。頭の中に、二人を見かけた記憶が蘇る。赤羽本署の前の交差点で、寺本の爺さんは、仏頂面のチビに嬉しそうに微笑みながら話し掛けていた。あのとき俺は、チビを寺本氏の孫だと思っていた。でも、違った。それどころか、このチビが寺本の爺さんに放火の指導をしていたのだ。
「寺本さんは、奥さんが」
「知ってる」
寺本夫妻の背景を語り出したチビを、俺は一言で遮った。寺本夫妻には自ら命を絶つ理由があった。それは俺も知っていた。知らせたのは仁藤、それもこの場所でだ。失火ではなく、放火だと仁藤は俺に突きつけた。―――待てよ。再び頭に疑問が浮かんだ。自殺の動機は理解できる。けれど、家を燃やさなくてはいけない、しかも失火に見せかけなければならない理由はどこにある? 寺本夫妻の親族とのつき合いの薄さは聞いた。だが他の老人たちのように、明確な理由となる、それこそチビの言った、夫妻に「要らない」と言う相手はいなかったはずだ。
ただ自殺するだけなら、いくらでも他に方法はある。そりゃ、寺本の爺さんが自分の手で奥さんを殺して、そのあと自らをというのは、さすがに出来なかったのかもしれないが、それでも焼死よりも確実に、なおかつ苦しくなく二人揃って逝く方法はあったはずだ。二人の思い出ごとという意味で、この家もろともと考えたにしても、別に失火でなくても良かったはずだ。
となると、俺が思い浮べることの出来る残る理由は一つだけだった。チビが言った言葉―――プライドだ。自殺イコール、自分たちの敗北と知らしめたくなかったというだけで、寺本夫妻は失火に見せかけた放火自殺を企てた。―――だが、誰にだ?
「でも、これは知らないんじゃない?」
醒めた口調でチビが話し出した内容は、初めて聞く話だった。
「寺本さんって、前はお金持ちだったんだって」
「今だって充分金持ちだろうがよ」
西が丘一丁目の幅広の道路に面した、ほぼ正方形の七十坪の土地に家、貧乏だとは俺には思えなかった。そこで俺は間違いに気づいた。金持ちだった―――過去形だ。
チビからの返答はなかった。見れば、ちらりと現場に目を向けたチビは、すぐさま視線を戻すと、「全焼はしなかったんだ」と、ぼそりと吐き出した。
全焼というと、本当にすべて燃えて失くなってしまうことと多くの人が思っているだろうが、消防の見解は実は違う。家―――家屋は、極端に分ければ、柱と壁―――梁《はり》と屋根で構成されている。それらのどの程度が使用に耐えられない状態にあるかという観点で判定は行われるのだが、全焼は全部使用に耐えない状態になったものではなく、七〇、もしくは八〇パーセント以上が使用に耐えない状態になっている場合を言うのだ。ちなみに半焼は、半分は使用に耐えない状態だけども、半分は手を加える必要はあるものの、そのまま使用出来ると判断した場合を言う。
社によっては、黒焦げの柱一本立ち残っていても全焼認定しないところもある保険会社的観点と違い、消防的観点では玄関が燃えずに残っていようと、壁の一部が残っていようと、屋根の半分以上が燃え抜け、残った大部分も炭化している寺本家は全焼と判断されるのだ。チビの認識違いはさておき、やはり全焼という言葉が引っかかった。
「全焼させたかったのか?」
領くことでチビが肯定した。しれっと肯定されたことに、「なんだと、てめぇ!」と、思うと同時に手が出掛かった。だが手は出さず終いに終わった。
「それが希望だったから」と、つづいたからだ。
足下だけを見つめながら、淡々とチビは語り始めた。
寺本氏は、俺でも名前を聞いたことがある商社にかつては勤務していて、一時は海外支社の支店長まで上り詰めた人物だった。一流企業で、人に誇れる昇進を果たして、なおかつ子供のいない寺本夫婦には経済的に充分な余裕があったという。
「お兄さんからお金を貸してくれって頼まれて、断っちゃったんだって」
寺本氏の半生を語る一本調子なチビのきいきい声を、俺はただ聞きつづけた。
寺本氏の実家は板橋で酒店、その名も寺本酒店を経営していた。寺本氏の両親は、末だ現存する長男制度の考えにどっぷりの世代の人たちで、実家の店も土地も家も、次男には何一つ相談ないまま、長男が継ぐことがいつの間にか決まっていた。寺本氏は自力で就職し、同時に家を出た。
そのことで寺本氏は両親も兄も恨んではいなかった。子供時代から延々とつづいた兄に対する両親の贔屓は納得出来ない部分もあったが、それでも子供として両親への感謝の気持ちは持っていたし、兄へも両親の面倒を看る労力を考えると、兄が得たものと相殺《そうさつ》出来るとも思っていたのだ。
そんな寺本家の雲行きが怪しくなったのは、寺本酒店と道を二本隔てたところに酒も置いているコンビニエンスストアが出来てからだ。酒とつまみ、あとはわずかに菓子しか扱っていない寺本酒店は、あっという間にコンビニエンスストアに客を取られて、経営が傾いて行った。そしてたてつづけに両親が他界した。その際、兄は弟に財産分与をいっさい申し出なかった。寺本氏も請求はしなかった。社内で責任あるポジションに上り詰めていたこともあったし、結婚もし、実家の援助は何一つ受けずに自力で土地も家も入手して満ち足りていたからだ。だが両親が他界して数年したのち、事件は起こった。商売に行詰まった兄が弟のもとに金策に現れたのだ。
「最初は、貸そうと思ってたんだって」
感情のこもらないきいきい声で、チビはさらにつづけた。
寺本氏は兄に金を貸そうと思っていた。経営破綻がコンビニエンスストアのせいだけではなく、兄の商才のなさや、兄一家の金遣いの荒さによる部分の方が多いのは知っていたが、亡くなったとはいえ、両親が築き上げた寺本酒店の名前を残したいとも思ったし、何より血を分けたたった一人の兄の困窮《こんきゅう》に、手をさしのべるのは当たり前だと思っていたからだ。もちろん利子をつけるつもりもなかったし、将来的に返して貰えなかったとしてもかまわないとすら考えていた。妻も了承してくれていた。だがけっきょく寺本氏は兄に金を貸さなかった。
「今まで親の面倒を看てきたんだから、お前は俺に借りがある。これは借金じゃなくて、正当な要求だ」と、兄に言われたからだ。
ここまで言われて、それでも金を貸す奴がいたら、その心の広さはもはや神や仏の領域に入っていると俺も思う。もちろん寺本氏は血の通った人間だった。だから断った。さらに断るだけでは怒りの収まりがつかずに、兄に対して亡くなった両親の財産分与に関して訴えを起こしたのだ。遺言状もなければ、すべて兄が相続することに了承した寺本氏の文書もなかった以上、法廷は弟である寺本氏に勝ちを与えた。結果、兄は店をたたみ、家土地を手放すしかなかった。
「それ以来、没交渉だったんだって」
なるほど、これでは甥と姪の連絡先が判らなかったのも、喪主のなり手もなく、葬儀の手配すらなされていなかったのも納得だ。ついでに家を燃やした理由もだ。遺言書でも作っていない限り、寺本夫妻の残した財産は血縁―――寺本氏の兄の子供たちに分配されることになる。何一つ渡したくないと思ったところで、誰も責めはしないだろう。少なくとも俺は責めない。しかしだからと言って、失火に見せかける理由には、やはりならない。
「寺本さん、会社を興したんだけど、失敗しちゃったんだ」
歩道の小石をつま先でいじりながら、チビは俯いて小さな声で呟くように言った。
アルツハイマー発病よりも切実な問題が、実は寺本氏にはあったのだ。定年を間近に控えたものの、寺本氏は隠居生活に甘んじるような性格の持ち主ではなかった。社会に現役として携わりたいと思っていたところに、昔の取引先が現れて会社を起こそうと持ちかけたのだ。寺本氏はそれに乗った。定年を待たずして退職した寺本氏は、以前の人脈を元に、玩具会社の下請けとして、ゲームセンターのクレーン・ゲームの景品を作る工場を中国に作ったのだ。当初は上手く行っていた。だが台風が直撃し氾濫した川の水に、現地ではとりわけ手を抜いて作ったわけでもないプレハブの工場は冠水し、押し流されてしまったのだ。寺本氏の手元に残ったのは、莫大な損失だけだった。
「色んなものを持ってたんだって、昔は。奥さんの趣味がアンティークで、転勤でドイツにいたときに、二人でドイツだけじゃなくフランスやスイスののみの市を廻っては、掘り出し物を見つけて買い集めていたんだって。リモージュ、マイセン、ドレスデン、ラリック、ガレ」 チビの連呼したカタカナが、何かは俺には判らなかった。ただ、アンティークというからには、古くて価値のあるものだろう。だが、そんなものはあっただろうか? ちらりと現場に目をやった。
「けっこうな値段になったんだって」
寺本氏の家の中は電化製品はともかく、およそ金目の物がなかった気がした。いや、はっきり言って、派手さのない質素な家だった。今となっては、すべてが納得できる。寺本氏は生活のために、私財を換金していたのだ。
「寺本さん、言ってた。奥さんにちゃんとした看護をつけてあげたかったって」
ニュースで観たお揃いの帽子を被ったテーマパークの写真が、頭の中に蘇った。一人で奥さんの介護をしていた寺本氏が、献身的な夫であることを俺は否定はしない、したくない。だがそうしなければならなかった、切羽詰まった事情があったことも事実だった。
再び現場に目を向けた。失火に見せかけた理由が、俺にはもう判っていた。
羽振りが良かった寺本氏。もとはと言えば悪いのは兄だとしても、生活に困窮していた兄に家や土地を売らせてまで権利を主張した寺本氏にとって、自分の凋落《ちょうらく》を兄一家に知られるのは何よりの屈辱だったに違いない。だから燃やした。たとえ自分の没後であっても、あったはずのものがなかったことを知られたくなかったのだ。だが俺は、自分の思考に待ったを掛けた。―――本当にそうか?一連の話を聞いた限りでは、甥や姪がこの土地を見過ごすはずがない。寺本夫妻の持っていたカタカナの何とかが、たとえ焼失して残骸になっていようと、それがあろうがあるまいが、預貯金も含め、寺本氏の事業が失敗に終わり、妻の介護の資金すらない経済状態だったことが、発覚しないわけがない。
そこまで考えた俺は、胸にむかつきを覚えた。―――つまり何か? もしバレたとしても、自分たちが死んでさえいれば構わなかったのか? 寺本の爺さんは自分の見栄のためだけに、家に火を放った? 周囲の住人には類焼が及ばないように、充分に確かめたうえで、でも自分の家は完全に、しかも自分たちが命を落とし、それが放火自殺ではなくあくまで失火、それも不幸なぐうぜんが重なったと世間には思わせたかった? そんな身勝手な理由で起こった火災現場に消防士 ―――俺は飛び込み、消火活動に勤しまなければならないのか? 自分の身の危険も顧みずに? むかつきなんて甘っちょろい状態はとうに過ぎて、もはやはらわたが煮えくりかえっていた。
「どうせバレるのに、―――ざっけんじゃねぇぞ!」
舌を打ち鳴らし、踵で歩道を蹴るように踏みつけて怒鳴った俺に、間を空けずにチビが返した。
「寺本さん、お兄さんから取った両親の遺産は、手を出さずに銀行に残してあるって言ってた」
今までにない鋭い声に、俺はその言葉の意味を考えた。
金額がどれくらいかは知らないが、せっかくある金をなぜ使わない?その金を妻の介護に回せば艮かったんじゃないのか? そして気づた。寺本氏がなぜその金に手を出さなかったかにだ。
失火を装った理由に、見栄がまったくなかったとは俺は言わない。だが寺本氏にとって、それだけが守るべきプライドではなかった。どれだけ状況が苦しくても、兄から取り上げた金には手をつけない。それも寺本氏のプライドだったのだ。今のままでは手をつけざるを得ない日が来る。それもそう遠くない未来に。寺本氏には判っていたのだ。自分たち夫婦にもう時間がないことを。
どうしようもなく切なくなった。だからといって、それなら仕方ないよね、と納得してやるわけには行かない。何をどうしても放火は許せない。それに寺本夫妻が実際に採った方法が、どれだけ確実性に薄く、しかも苦しく辛いことなのか、俺には判っていた。もちろん寺本夫妻とまったく同じ体験などしたことはない。だが少なくとも他の誰よりも、夫妻が辛く苦しい目に遭いつつ絶命したのかが俺には判ると断言出来る。消防士であるということは、そういう立場だからだ。
やるせなかった。寺本夫妻にこんな死を選ばせ、実行させることを止める手だては、何かなかったのだろうか?
「|あ《〃》〜!」 苛立った俺は右手を髪に突っ込むと、勢いよく頭を掻いた。どうしたら寺本夫妻を、すづさんを、五十嵐さんを止められた? どうしたら澄香さんを、カーネル爺を止められる? どれだけ考えても答えは出なかった。
「怒ってるの?」
不意の質問に、俺は頭を掻く手を止めて、チビを見下ろした。
「なんで怒るの?」
初めて見たチビの反抗的な目に、俺は戸惑っていた。
「いいじゃない、死にたいんだから、死んだって」
それは俺も同感だ。死にたければ死ねば良い。生きる権利があるように、人には死ぬ権利もあって良いと俺は思っている。ただし、自分と付き合いのある全員にきちんと了解を得られたうえで、さらに方法に火を使わなければという条件つきだ。そう言ってやろうとした矢先、チビがさらにつづけた。
「死んじゃえば、面倒じゃないじゃない」
意味不明だった。誰が誰の面倒だと言うのだろう。亡くなった老人たちは、誰にも面倒は掛けていないはずだ。強いて言うのなら、火災に出動した俺たち消防士くらいだろう。
「それとも何? 言う通りに大人しく生きてろって?」
誰が誰の言うことを聞く? 聞くのは老人たちだとすると、老人たちが言うことを聞かなくてはならない相手は、―――子供たちや親族だ。
チビの言っていることが、やっと見えてきた。老人たちは、子供たちにとって都合の良いように生きることを望まれ、それに失望して死を選んだ。
「あんたたちの都合の良いようにしていなきゃ、要らないんだろ?」
あんたたち? それは俺も含まれるのか? なんで俺が? 俺は誰かに俺の都合の良いように生きろなんて言ったか? 右手を下ろすと腕の前で組んで考えた。俺の都合の良いように? 放火は許せないというのは、日本の法律でダメとされていることであって、俺個人の都合ではない。―――何か他にあったか? そりゃ、人妻にはもっと自由に恋愛に羽ばたいて欲しいとは願ったが、これだって俺だけでなく、世間一般の男の願望だろう。ただし、自分の恋人や妻は対象外という図々しい男が圧倒的だろうが。
頭の中は脱線し始めていた。とうぜん返す言葉などない。何一つ喋らない俺に、チビが怒鳴った。
「寺本さんも、ほかのみんなも、僕も、あんたたちのために生きているんじゃない!」
チビの目には今までの投げやりな、そして諦めたような影はなかった。怒りとも悲しみともつかない苛立った瞳を見ているうちに、逆に俺が苛立った。その瞳は俺に「判って欲しい」と語っていた。
実際のところ、チビが何を考え、どう思っているかは判らない。だが、俺はそう感じたのだ。
判って欲しいというのなら、判って貰うようになぜ努力しない? 人間のコミュニケーションは言語を以て成立する。まずは言葉にして伝える、それが手始めだろう。なのにチビは何一つ語ろうとしない。それどころか、俺に向かって「どうせ判らない」と断言し、説明すら放棄している。そのくせ、「判って欲しい」と望んでいる。
それとも、もしかしてチビは、あの超音波でも発しているかのような歩き方同様、口には出していないが、何かを発しているとでもいうのだろうか? しかもそれを俺に感じ取れと? そんなことが出来れば、二人でコンビを組んで、すぐさまテレビの人気者だっての。
そりゃ確かに言葉はなくても以心伝心―――なんて、愛し合っている二人でなくても、ありえることは承知している。ガキの頃からの付き合いのダチの裕二とは、目配せ一つすらなくても通じ合う。だが俺とチビは出会ったばかりだ。いや、もしも出会ったのが裕二よりも前だとしても、このチビとは生涯、相通じることはないと思う。向こうは蝙蝠、俺は人間。同じ地球上の動物でも種族が違う。
「無視して終わらせるんだ」
「|あ《〃》?」
チビの発したつながりの見えない言葉が、俺を現実に引き戻した。
「いつもそうだ。思った通りにしないと、無視して流して、それで終わりだ」
チビは怒鳴っていた。どこか力の抜けた棒のような脚に、今は力が込められていた。たらりと下ろされていた腕も、拳に握られ、わなないてすらいる。
「どうせ僕らはあんたたちの理想の人生の設計図の駒なんだろ? 思うとおりに動かせなきや、要らない駒なんだ!」
チビが誰から要らないと言われているのか、俺は知らない。だが想像することは出来た。チビの周りの人間関係は、間違いなく限られている。親か友達か、せいぜいそんなものだろう。そいつらから、疎外された。あるいは、チビが勝手にそう思い込んでいるだけかも知れない。そしてチビは老人たちに自分を重ね合わせた。自分も老人たちも、どちらも同じく要らない存在だと思ったに違いない。
「だから、手を貸したのか?」
自分でも驚くくらい、俺は冷静に訊ねていた。チビは肯定も否定もせずに、俺を睨み上げていた。
「子供や親族に、言うとおりにしないなら要らないって扱いを受けた爺さん婆さんと自分は同じだ、だから同情して手を貸したんだな?」
「そうだよ!」
耳がきーんと鳴りそうな高音でチビが怒鳴り返した。チビの顔は真っ赤で、大きな瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。その目は俺に 「文句があるなら言ってみろ」と、言っていた。
手を伸ばすと、俺はチビの首根っこをつかまえた。そのまま、問答無用で歩き出す。
「何?」
恐怖を覚えたらしいチビが、連れて行かれまいとささやかな抵抗を試みた。もちろん、俺の体力に太刀打ちできるはずもない。俺はチビをぐいぐい引っ張って、前に―――寺本家へと進ませた。
「何するんだよ! 放せよ!」
きいきい声でチビが抗議する。声だけでなく、しゃがみ込んで阻止しようとしたが無視だ、無視。首根っこをつかむ手に力を込め、引きずるように寺本家へと運ぶ。気づいていたのだ。ここに着いて 以来、チビはちらりと視線こそ送ったものの、寺本家の火災跡をちゃんと見ようとしていないことに。見たくない―――逃げているのだ。
その証拠に、現状保存のために貼られた黄色いテープの前まで来て、チビの抵抗はさらに激しくなった。目を閉じ顔を背け、現場を見ようともしていない。
「見ろ」
左手でチビの頭を上からつかみ、真正面を向かせた。
「嫌だ!」
チビはさらにぎゅっと目を閉じて拒んだ。
「目を開けて見ろ」
再び静かに言ったが、目も開けずにじたばたと暴れるチビに、堪忍袋の緒が切れた。
「お前がしたことだろが、見ろ!」
びくりとチビが身を竦ませた。それでも目は開けない。
「僕じゃない。やったのは寺本さんだよ。僕じゃない」
悲鳴のような声で、チビが言った。
「同じなんだろ? 同情したんだろ? だから、どうやったら失火に見せかけて焼け死ねるかを教えてやったんだろうが? 確かにお前が火をつけたわけじゃない。でも爺さん一人だったら出来なかった。お前が教えたからだ。これはお前がやったことだ。逃げるんじゃない、見ろ!」怒鳴ると同時に、チビを突き飛ばした。前に飛んだチビは黄色いテープを切るように、寺本家の敷地の中に胸から倒れた。
前に訪れたときは、地面はまだ放水の水でぬかるんでいた。そのあとの晴れつづきの天気に、今ではすっかり乾いていて、だからこそ無数の防火靴のあとがくっきりと浮かび上がっていた。家につづくアプローチだけでなく、花壇だった場所にもだ。なぎ倒されたプランター、踏みつけられて泥に濡れ、乾いて白く変色した草。寺本氏の手によって整えられていたという評判の庭は、今ではその面影すらない。
玄関にある横倒しの車いすに立てかけられたチューリップの花束は、今や色もあせ、花びらも落とし、くったりと地面に横たわっていた。紫の姫――――澄香さんが手向《たむ》けた花束だ。そしてその澄香さんは今は病院のベッドの上にいる。寺本夫妻と同じく、我が身を焼き滅ぼそうとしたのだ。この場で交わした会話、走り去るタクシー、病院に横たわる澄香さん。頭の中に断続的に浮かんで止まらない。
私のことは忘れて、もうここへは来ないで―――――。それが澄香さんの俺への願いだった。澄香さんは泣いた。俺の正体が消防士だと知って、泣きながら謝った。ごめんなさいと何度も繰り返した。
足下で、地べたに倒れたチビが、両手を突いて起きあがりかけて、動きを止めた。チビの視線の先には、鈍い色に燻《いぷ》された寺本夫人の車いすがあった。
「同じって言ったよな」
歳のわりにも小さいだろう背中にそう言いながら、腹を屈めて手を伸ばして、チビのパンツのウェストベルトをつかんで持ち上げた。腕一本で簡単に全身が上がってしまうほど、チビは軽かった。
「放せよ!」
暴れるチビをぶらさげて、かつては家だった中へ入る。焼け残った玄関を通り抜けて、焼け爛れたリビングの真ん中で手を放す。焦げて脆くなっていた床板が、チビの重さにポロリと崩れた。
「お前が知恵を与えた、その結果がこれだ」
この部屋は、かつてはリビングだった。原因調査のために持ち去られたテレビは今もなお戻されていない。あのテレビを夫婦揃って観ていたのだろう。足下に目を落とすと、焦げ細り前面が熱で剥離《はくり》したクロコダイルパターンに覆われた木が砕け落ちていた。残っている枠組みから判断するに、テーブルだ。このテーブルで夫妻はお茶を飲み、食事もしたのだろう。だが今はその面影はほとんどない。壁もなく、頭の上からはさんさんと日が差し込んでいた。二階もその上の屋根も焼失してしまったのだ。
「出火原因はテレビのコンセントと断定された。差し込みが甘くなったコンセントに、テレビの上に置かれていた花瓶が落ちて、中の水が掛かったことでショートした、そう検証された。寺本の爺さんの望み通りに過失なしの失火になった」
崩れた床板に手をつき、腹這いのまま微動だにしないチビのウエストベルトを再びつかんで、床板に出来た穴から引きずり出す。そのまま壁ごと持ち去られたコンセントのあった場所に運び、チビの顔を突きつけた。目をつぶり顔を背けて見ようとしないチビの頭をつかむと、その顔を焼け残った焦げた壁に押しつける。
「花瓶は自然に落ちたんじゃないよな? 爺さんが自分で水を掛けたんだ。そして二階に上がった」
またぞろウエストベルトをつかんで、床から無理矢理チビを引っ張り上げる。次の行き先は決まっていた。二階だ。
正直、階段を目の前にして、本当に上れるのか、危ぶんだ。踏みしろの左三分の一が燃え抜け、残る三分の二も表面がクロコダイルパターンを見せていたからだ。だが、どうしても上らねばならなかった。夫妻が亡くなっていた現場をチビに見せなければならない。勇気を持って、踏みしろに足を乗せる。ぎしっと嫌な音を立てて、本来沈み込むはずのない階段が、確かに沈んだ。
「嫌だ! 放せよ!」
どこに向かおうとしているのか察したのだろう、何とか逃げだそうとチビが暴れる。その動きが重さとなって、ぐらりと身体が傾いだ。
「やかましい!」
怒鳴ると同時に俺はチビの腹に腕を回して抱え上げた。空に浮いて、焼け焦げた階段の踏みしろを間近にしたチビが言葉を失った。
「他にも色々と小細工させたよな? 延長コードにはどれも、めいっぱい家電を繋がせた。容量オーバーで出火するのを見越してだ。しかも一本は、ドアに挟ませて断線を狙った」
慎重に階段を上りながら、俺はつづけた。
「ガス台の下の収納には、未使用の簡易コンロのガスボンベが入っていた。それも半ダースもだ。これもお前の入れ知恵だろ?」
チビは何も答えなかった。俺も答えを期待などしていなかった。もしかしたら、小細工のうちのいくつかは、チビの入れ知恵ではなく、寺本の爺さんが自分でしたものかもしれなかったが、そんなことはどうでも良かったからだ。どのみちチビが協力したことに変わりはない。
「先に奥さんを二階に上げておいた。それからコンセントに水を掛けた。寺本の爺さんは、火が出たのを確認してから、この階段を上ったんだ。奥さんが待っている二階の寝室へ」
チビは何一つ答えなかった。もちろん、それは承知のうえだ。残すところ三段となって、それ以上は断念するしかなかった。一階のリビングから出火した炎は強く、真上の天井に燃え広がり、結果、二階の方が燃えが激しかったのだ。二階への上り口こそ残っていたが、俺とチビ二人分の体重を支えられるとは思えなかった。その場で足を止めて、かつて部屋があったはずの二階を見回す。二人が見つかったのは、階段脇の畳敷きの広い部屋だと、石渡第三ポンプ隊長が言っていた。梁とわずかな床板しか残っていなかったが、おそらく目の前がその部屋だったに違いない。脇に抱えたチビを両手で抱えて持ち上げた。
「見ろ」
チビは目を閉じ、俯いた。
「ここだ。寺本夫妻はこの部屋で見つかった」
チビの喉がぐぐっと妙な音を立てた。
「二人、折り重なって亡くなっていた。死因は一酸化炭素中毒だ」
とつぜんチビが動いた。顔に付いた何かを振り払おうとしているかのような勢いで、チビは顔を左右に振り続けている。
「なんで見られない? 死んでもいいんだろ? だから手を貸したんだろ? なら、目を開けて見ろ! これがお前がしたことだ!」
怒鳴り声にびくりと身をすくめたチビが目を開けた。そこには何もなかった。折り重なるように亡くなっていた寺本夫妻の遺体はもちろんのこと、部屋自体も焼失していた。チビの大きな目に二階の梁を通して、火点となった一階のリビングが映し出されていた。
「なんでこんなに火の回りが早かったか、知っているよな?」
言うと同時にチビを揺さぶった。
「―――木造だから、それに、ずっと晴れてた」
小声で答えたチビをさらに強く揺さぶりながら、「それだけじゃねぇだろ!」と、怒鳴りつける。
「建ってずいぶん経つから」
「何年か知っているか?」
チビが首を横に振った。
「二十三年だ。お前が産まれるよりも、この家の方が、何年も先にこの世にあったんだ」
俺は焼け残りの中に、寺本夫妻が息づいていた歴史がどこかに残されていないかを探した。だが何もかも燃え焦げてしまって、その名残は残っていないように見えた。それでも探した。何かあるはずだ、何か残っているはずだ。そして見つけた。腕を降ろし、チビを脇に抱え直すと、階段を駆け下り始めた。焦ったために、階段を上るときの慎重さを忘れ去っていた。勢いよく足を降ろしたと同時に階段が割れ砕けた。支えるものを失った右足が、重力に従って落ちていく。両手にはチビがいる。放すわけにはいかない。それにチビを抱えていなくても、つかまろうにも身を支えられるほどのものはない。
「うおおおっ!」
下に待ちかまえていたのは、突き出た先の鋭い折れた柱に、割れたガラスの欠片という穏やかならぬ瓦礫の山だった。しっかりとチビを胸に抱え込む。わずかに柱の横に右足から着地したものの、不安定な足の下にぐらりとよろけた。―――ヤバい。倒れていく先の割れたガラスを避けるべく、身体をねじって、チビを上に背から倒れこむ。軽いとはいえ、やはり人一人の重さを胸と腹に受けたのだから、息が詰まった。同時に右足首に痛みが走った。―――マズい、やっちまった。詰まった息と、ひねった足首の鈍い痛みに、うう、と坤いて顔を横に倒して固まった。鼻の先二センチのところに、空から日の光を浴びてとがったガラスがきらりと光っていた。
「―――大丈夫?」
俺の上に乗ったまま、チビが掠《かす》れた声で訊いた。
「降りろ」
簡潔に告げた。だが、チビが人並みに心配などという配慮をしたので、「気をつけてな」と、付け足した。チビは領くと、周囲を見回すと、おどおどと俺の上から降りた。起きあがるのに手を突きたいところだったが、何が落ちているか判らないから、気合いの腹筋で身を起こす。
深く息をついた俺の顔の先にチビの手があった。起きあがるのを手伝おうというのだ。もちろんチビに俺の体重を支えられるはずもない。だが俺はその手を握った。身体同様、チビの手はちっぽけで薄っぺらかった。だが、温かかった。全体重を預けるのは無理だと判っていたが、俺は極力チビの力に頼ることにした。形だけで、頼りにしていないとは思われたくなかったのだ。俺の重みにチビは前にのめり掛けて踏ん張る。無事に立ち上がった俺は、「サンキユ」と、短く礼を言った。チビの口の端がかすかに上がったように見えた。
「来いよ」
チビに見せたいものがあった。この燃え尽きてしまった家の中に、俺は見つけたのだ。小さくだが、チビが初めて領いた。そして大人しくあとをついてきた。
向かったのは台所だった。瓦礫の中、安定性の高そうな箇所を選んで進む。目的の物は食器棚の中にあった。外枠は焼け焦げていたし、ガラス戸も割れてはいたが、棚としての形は保たれていた。棚の中には食器が重ねて置いてあった。それは以前に訪れたときから気づいていたが、今回階段の上から見下ろしたことで、上段の奥に置かれていたそれに気づいたのだ。
手を伸ばして、それをつかみ出した。感じた重みは、それ自体の重みだけではないのは判っていた。無言でチビへと差し出すが、チビは受け取ろうとはしなかった。だが、目を背けはしなかった。チビの大きな瞳には、着物姿の二人の人物が写っていた。
鈍い色なのは煙に燻されただけではなく、素材の銀が長い時間の中で変色したせいに違いない。精巧な飾り彫りのされた銀製の写真立ての中には、紋付き袴姿の青年と、白無垢《しろむく》の若い女性の白黒のツーショット写真が飾られていた。緊張と晴れがましさのない交ぜの表情の青年と、寄り添う俯き加減の花嫁。花嫁もまた、緊張した中にも、はにかみを滲ませたような面もちだった。
青年の顔に若き日の寺本氏を見いだせるほど、俺は寺本氏のことを知らなかった。だから少なくとも、俺よりは多く寺本氏に会っているチビに託すことにした。再び写真立てを差し伸べると、今度は大人しくチビが受け取った。
小さな両手に余る重さに、受け取った直後、チビの手が下がった。写真立てを追って、自然と俯いたチビが、しげしげと写真を見つめる。俺は無言でチビを見守っていた。
「僕が知っている寺本さんは、もっと目が優しかった」
長く感じられた沈黙のあとに、写真の青年の目のあたりを指で触りながら、呟くようにチビはそう言った。
「けっこう、生意気そうだったんだね」
「だろうな」
チビの語った寺本氏の半生を聞く限り、寺本氏は早くから自立し、自ら人生を切り開いた男だった。その寺本氏が、伴侶を迎えた幸せの当日の記念写真なのだから、その顔に自信が漲《みなぎ》っているのは当たり前だ。
「奥さんには会ったことないけど、写真を見せて貰ったから知ってる。去年の春に二人でディズニーランドに行ったときの写真」
ニュースで使われていた写真だ。青い空、遠くには白い城、揃いの日よけ帽子。蓬莱のテレビに映っていた写真が頭に浮かんだ。
「奥さんの方が、この頃と変わってない。可愛い人だったんだね。それに寺本さんも格好良いや」
チビの声は今までと変わらず甲高くきいきい声だったが、でも穏やかだった。
「こんなこと、俺が言うのも何だけどよ」
これから語るのが、俺の柄でもない説教だと自覚しているだけに、一応、先にフォローをかます。
「お前も誰かに要らないとか言われてんのかもしれねぇけどよ、でも、同じじゃねぇだろ」
チビが顔を上げた。大きな瞳に浮かんでいるのは反駁ではなく、とまどいに俺には見えた。
「寺本の爺さんは、お前と同じガキも、自信満々の青年も、恋愛して奥さんと結婚もして、爺さんになるまで生きていたんだぜ」
商社マンとして華々しい仕事人生も満噤した。海外赴任中は夫婦揃ってアンティークの掘り出し物を探しにも行った。定年間近で退職して、新しい会社を創りもした。
「楽しくないこともたくさんあっただろうよ。兄貴の家族とのこととかな。でもよ、七十八歳と七十七歳だったんだぜ、二人は。七十八年間、良いことも悪いことも、嬉しいことも腹立たしいことも全部経験した。だからこそ、自分の歳と、この先何年生きられるかも考えて、もう良い、死のうって決めたんだろ? 同じじゃねぇだろ、十三歳のお前と」
チビの目が再び写真に落とされた。
「俺の考えは、お前と同じだ」
俺の言葉にチビが顔を上げた。
「死にたければ、人は死んでも良いと思う。それしか方法がないのなら仕方ない。けど周囲に、自分に関わっている全員に、ちゃんと説明して了解を得てからにするべきだと俺は思う。じゃないと残された者はずっと後悔して苦しむんだぜ、どうして気づかなかったんだろう、なぜ、止められなかったんだろう、って」
自分でも言っていることが間違っているのは知っていた。説明されて了承したって、後悔はし続ける。俺の魂のダチ、アバンギャルドでクールでシュールなリアリストの裕二は母親の死を許した。だが、今もなお苦しみつづけている。
「それに、人の手を借りるなんて最低だ。やるなら自分だけでやるべきだ」
「でも、手を貸しても良いって言う人なら、良いんじゃない?」
チビの目は語っていた。納得して手を貸したのだ、後悔なんてしていないと。
「もちろん、お互い了解しているのなら、構わないのかもしれない。―――けどよ、手伝うことで、自分がこれからずっと何を背負って行くのか、本当に判っている相手ならともかく、何も判っていない相手に頼むのは卑怯だ」
「僕が何を判っていないって言うのさ」
強い口調でチビが切り返した。
「僕はもっとちゃんと手伝いたかったんだよ。だけどみんな、僕が幇助罪にならないように、アイディアだけで良いって。間違っても現場に来ちゃダメだって」
チビの言葉が終わる前に、俺は足下の瓦礫の山を右脚で蹴り飛ばしていた。炭化した木の崩れる音に、ガラスの割れた音、さらに瓦礫の中にあった金属がむき出しになったコンクリートの基礎に落下した音、すべてが入り交じって、けたたましい音が現場に鳴り響いた。チビは絶句していた。
「お前は馬鹿だ」
俺はチビにそう宣言すると、今度は目の前の食器棚に、滞身の力を込めて蹴りを喰らわせた。炎からなんとか免れて立っていただけの食器棚は、俺の蹴りにひとたまりもなく板を割り、棚に残っていた食器を地に落とした。再びけたたましい音が鳴り響く。
「何してるの?」
怯えた声でチビが訊く。しかし俺は何も応えなかった。無言のまま、まだ形をなしている食器棚に両手を掛け、引き倒そうと力を込めた。みしりと鳴った直後、手が軽くなった。反動で数歩下がった俺の手には、つかんだ箇所の焦げた木片だけが残っていて、食器棚は平然とその場に立っていた。地震対策の転倒防止ストッパーがつけられているに違いない。食器棚に馬鹿にされた気がして、再び蹴りを喰らわした。下の引き戸に大穴が空くと同時に、中の陶器が割れる耳障りな音が鳴り響く。
「止めて、止めてよ!」
チビが悲痛な声で叫んでいる。振り向いた俺が目にしたのは、チビの涙だった。涙の理由は、同情に違いない。亡くなった寺本夫妻の数少ない生きた証を壊さないでと願っているのだ。それを証明するように、チビは銀製の写真立てをしっかりと抱きかかえていた。その仕草が俺の荒れた心をさらに荒らした。写真立てを奪おうと、大股で一歩近づくと、俺の狙いが何なのか気づいたのだろう、チビはさらに両腕で写真立てをしっかりと抱え込んで後ずさった。
「寄こせ」
「嫌だ! なんでこんな酷いことするのさ? もう、二人はいないんだよ! 放っておいてあげてよ!」
必死に寺本夫妻の写真を守ろうとするチビが哀れだった。
「お前は何も判ってない」
さっきチビに言われたのと、まったく同じ言葉を俺はチビに吐いていた。チビは言っていた。考えたこともないから、答えの想像もつかないのだ、と。そして、そんな相手に答えを告げたところで、理解して貰えるかどうか判らないとも。
チビが何を言いたかったのかが、今やっと判った。俺が気づいたことは、チビの発想にはなかった。考えたことすらなかったのだ。そのチビに、俺が気づいた答えを告げたところで、理解は出来ないだろう。いや、ありえないと却下する、もっと正確に言えば認めたくないから否定するに違いない。だが俺はチビのように最初から放棄して諦めるつもりはなかった。ここで放り出しては何の解決にもならない。何が何でもチビに伝えて、理解させなくてはならない。でなければ、放火の手伝いを止めさせることは出来ない。とはいえ、頭の中では困り果てていた。
「何が判っていないって言うのき?」
本当は言いたくなかった。チビに真実を突きつけたくなかった。要らないと言われたか、それとも自分で勝手にそう思い込んだのかは知らないが、とにかくチビは孤独だった。だからこそ、老人たちを仲間だと思い同情し、そして請われるがままに、不運な失火に見せかける放火の方法を―――老人たちの自殺の方法を考え、教えた。老人たちはチビに言った。アイディアだけで良い、間違っても現場に来ちゃいけないと。それはチビが罪に問われないようにとの気配りであり、優しさのようにも思える。事実、チビはそう思い込んでいる。――― だが、違う。真意はそれだけじゃない。
「お前は、利用されただけだ!」
怒鳴り声のあと、現場はしんと静まりかえった。チビが目を見開いたまま、固まって、ただ俺を見上げていた。
「本当にあいつらがお前のことを考えていたら、放火の方法を考えろなんて、頼むわけねぇよ」
「僕が考えてあげるって言ったんだ」
きいきい声がきっぱり言った。
「お前のことなんか、あいつらはこれっぽっちも考えちゃいない」
「僕が考えてあげるって言ったんだ」
チビは同じ言葉を繰り返した。それが身を守る唯一のものであるかの如く。
階段からの落下で庇ってやったことで、チビの頑《かたく》なな心の扉をわずかに開けさせることに成功したものの、今また扉は閉ざされてしまった。だが俺はもう扉が開かれるのを待つ気はなかった。カーネル爺の存在を忘れたわけではなかったからだ。叩き割る、それしかない。
「誰か一人でも、お前に一緒に死のうって言ったか?」
言葉を発しようと口を開いたチビが、そのまま動きを止めた。
「本当にお前が思ったように、お前のことを同じだとあいつらが感じていたのなら言ったはずだ。要らない同士、一緒に死のうって。そうじゃないのか? 違うか?」
見開かれたチビの瞳がゆらゆら揺れた。
「自分は良いことをした、何も後悔はないなんて、本当はお前、思ってねぇだろ」
チビの唇がわなないた。必死に言葉を出そうとしているのだろう。細い喉も震えていた。
「そう思っているのなら、本当に良いことだと思っているのなら、ここは誇りに思って良い場所だ。胸を張って見ることが出来るはずだろが」
チビの顔から血の気が引いた。もとよりあまり血色の良い顔ではなかったが、今では土気色に変わっていた。
「ここに来たとき、お前はちゃんとここを見られなかったよな? 見ろって俺が言ったら、嫌だって拒んだよな?」
大股でチビに近づくと、首根っこをつかみ、再び火点となったコンセントのあった場所へと引きずった。さっきと違って、抵抗はなかった。意志も何もない軽めの砂袋のようなチビを連れて行くのは簡単だった。コンセントの前まで来て手を放す。チビの目はコンセントがあったはずの場所を見つめていた。
「なんであいつらがお前に現場を見るなって言ったか、判るか?」
「それは」
チビが小さく声を上げた。それを無視して俺はつづけた。
「なんでお前のところに次々と連中が来たと思う?」
公園で並んで飯を食ったときからずっと、俺は考えていたのだ。最初の一回は、チビと老人の図書館でのぐうぜんの出会いだったのかもしれない。では次々に途切れることなく老人がチビの下に訪れたのはなぜだ? と。まさかチビが自分でそういう老人たちを募集したはずもない。となると、答えは一つしかない。噂、口コミだ。
長く生き抜いてきた老人たちは、もちろん見抜いていたのだ。チビの抱える孤独感や疎外感が、自分たちのそれとはまったく別なものだと。だから誰一人、一緒に死のうと誘わなかった。そして老人たちは、チビを共有財産にした。自殺のアドバイザーとして。だから現場を見るなと言ったのだ。
もちろん、火災のたびにチビが現場に訪れていたら、警察や消防に疑われたあげく、すべてが露呈して、その結果、チビが幇助罪で罪に問われることに対しての配慮がなかったとは思わない。でもそれだけではないはずだ。
老人たちは判っていたに違いない。一度でもチビが現場を直接見たら、自分のしでかしたことの大きさに気づいてしまったら、この先ずっと罪の意識に苛まれるだろうと。さすがにそれは可哀想だと思ったのだろう。もちろん、それだけではない。老人たちの、似た境遇の相手に対する同朋意識は強かったはずだ。だからチビが怖じ気づき、二度とは手を貸してくれなくなることを避けたかったに違いない。
―――いや、もっとだ。もっと他に何かあるはずだ。目の前のチビを改めて見下ろす。そこにいたのは、老人たちにとっては孫にしか見えないチビのガキだった。俺は気づいた。老人たちは楽しんだのだ。たとえそれが自殺の手伝いであったとしても、自分のために一緒に考えてくれるチビの優しさは、老人たちの死出の旅路への、最後の人の優しさだったに違いない。兄も知らない他人の、それも子供がくれる最後の美しい思い出。頭にそう浮かんだとたん、俺はいたたまれなくなった。
「|あ《〃》〜っ!」
声を上げて唸ると、力一杯右手で頭を掻いた。俺の考えをチビに告げたくはなかった。チビがしてきたことがすべて老人たちに操られただけ、それも都合良く扱われただけだと言いたくはなかった。
ちらりとチビへと視線を落とす。その瞳からは何も読みとれなかった。俺はチビに伝えなければならなかった。だが正直、俺の考えを聞いたあとのチビがどうなるか、それに俺がどうすれば良いのかは判っていなかった。それでも俺は言わなくてはならなかった。このまま、チビに同じことをつづけさせるわけにはいかなかった。いや、させたくなかったからだ。
覚悟を決めて、俺は口を開いた。
「あいつらはお前と出逢えて良かっただろうよ。要らないと言われた連中が、最後の最後に一緒に考えてくれる、手伝ってくれる、優しくしてくれる相手を見つけたんだ。さぞやお前に感謝して死んだんだろうよ。だけど、お前はどうだ? お前は今も生きている。同じ要らないと扱われた苦しい立場なのに、取り残されて、今も生きている。お前は今もまだ、辛くて苦しいままだ」
言っている俺が辛かった。俺はすづさんに、五十嵐さんに、寺本夫妻に、澄香さんに同情した。こんな苦しい死に方を選ばなくても良かったろうにと、同情したのだ。だがその同情は無用だった。老人たちが画策した哀れさに、俺も見事に引っかかったのだ。
体内に充満した感情を、俺は正確に言い表すことは出来なかった。怒りはある。間違いなく。身勝手な理由で放火自殺した連中に対して、火を消すのが仕事の消防士としての怒りは間違いなくある。だが、同情の気持ちがすべて消えたわけではなかった。何をどうしたって、自ら死ぬことを、それも焼死を選んだのは哀れだった。死ぬ以外に解決策がなかった、ないと思いこんだことは、やっぱり哀れだったのだ。だが、それ以上に俺は哀れに思っていた。目の前のチビをだ。
「お前の記憶の中に、あいつらは残ってるだろ? 死ぬのを手伝ったんだ、とうぜんだよな。楽しい思い出か? 何度も思い出したくなるような良い思い出になっているか?」
応えはなかった。チビはただ立ちつくしていた。俺は一つ大きく深呼吸した。そして最後の言葉を チビに告げた。
「こいつらはな、見栄っ張りなだけだよ。最後の最後まで、自分の都合しか考えていない我が儘な連中だったんだ。お前はその見栄に利用されたんだ。お前の言う、お前に都合良くいて欲しい、それしか望まない奴等と、どこも変わらないんだよ。いや、もっと酷い。誰一人、お前を一緒に連れて行こうとはしなかったんだからな。しかもお前に辛くて嫌な思い出を残して」
がしゃんと大きな音が響いた。胸元に大事に抱えていた銀の写真立てが、地に落ちていた。割れた硝子の下から、前途洋々の青年と幸せに満ちた花嫁の白黒写真が天を仰いでいた。
チビは泣いていた。身体の脇にだらりと両腕を垂らして、声もなく泣いていた。見開かれた大きな目から止まることなく涙が落ちていく。
俺は女の涙に弱い。下は幼女から、上は七十七の老嬢まで、年齢に拘わらず、女の涙に弱い。だが、男の涙にも弱いことが判明した。ことにガキの涙には弱い。とりわけ目の前の、せっかく同じ立場の仲間を見つけたと思っていたのに、その連中に利用されただけだったと気づいてしまったチビのガキの涙には。
どうしよう、どうすれば良い? 自分が手を貸した結果、全焼した火災現場の中で、声もなく立ちつくして涙を流しっづけるチビを、俺はどうすれば良い? もちろん、ここに来たそもそもの理由があることは忘れていなかった。腕時計を確認する。時刻は午後二時四十二分。三時までは、あと十八分。今までの流れからして、カーネル爺の住まいは赤羽会館―――赤羽図書館から、そう遠くはないはずだ。よっぽど遠くでなければ、何とか間に合うだろう。頭の中でそう計算したところで、妙案が浮かんだ。一つ解決出来れば、すべてが片づくかもしれない。―――もしかしたら、俺って天才かも。
第九章
俺の読み通り、カーネル爺の家は赤羽駅の周辺にあった。目指す神谷二丁目は、JRの線路を中心に、寺本家のある西が丘一丁目と、ほぼ対称の位置にある。目的地に向けて、ひたすらカブを飛ばす。ケツにはもちろんチビが居る。
「ねー! 誰かが手を貸してなかったら、死んでも構わないの?」
さっきと同じく、背中にはヘルメットが押しつけられていた。だが違うこともあった。ウエストベルトをつかんでいたチビの手は、今は俺の腹にしっかりと回されていた。
「ねー! 構わないの?」
エンジンの音に負けじと、チビが再び大声を出した。質問の裏に何があるかは判っていた。今向かっている神谷二丁目には、カーネル爺改め、高橋修三《たかはししゅうぞう》七十二歳の家がある。なぜ向かっているかと言えば、失火に見せかけた放火自殺を阻止するためだ。
「ねー!それならいいの?」
騙されて手伝ったことはともかく、高橋氏が世を儚みたいという気持ちには、同情しているのだ。だから、訊いているに違いない。
「火事以外ならな!」
わずかに間が空いてチビが怒鳴った。
「それって、消防士だから?」
「そうだ!」
即答したものの、背中の妙な沈黙が気に入らない。査察や防災指導に行った際、職務に勤しむ善人と、小馬鹿にする奴が確実に一人はいる。そのたびに、じゃあ、消防士が職務に勤しまなかったら? 他の現場はともかく、お前の家のときだけは、お望み通りにそうしてやろうか? と、言いたくなるのも毎度のことだ。背後から今感じている気配は、それと同じに感じた。
「言っておくがな、火事は止めろって言っているのは、俺が危ない目に遭うのが嫌だからだ。俺は生活の安定だけが目的で消防士になった。間違っても、みんなの安全を守りたいとか、人を助けたいとか、そんなんじゃねぇぞ!」
俺の宣言に反応はなかった。
「それって、偽悪って言うんじゃない?」
ギアク? なんだそりゃ。意味不明の言葉に返答に詰まる。だが馬鹿にされたことだけは判った俺は、さらに言葉の意味も知らない馬鹿扱いされるのを阻止するために怒鳴った。
「俺が消防士になったのは、消防士なんて誰でも出来る、特別なものじゃないって証明するためだけだ。だから一日も早く現場を上がって、九時五時の事務職の地方公務員になりたいんだ。それも、怪我一つない五体満足のままでな!」
またもやチビが沈黙した。しばし間が空いてから返ってきたのは、「大山さんって、見た目よりフクザツなんだねー!」。
見た目よりと言うのにかちんと来て、拳でごつんとやりたいところだが、今は運転中だから諦めた。でも心のメモ帳にはメモっておく。―――ゲンコツ1。
「その先に小学校がある?」
チビの叫び声に標識を見上げる。「ああ!」と、怒鳴り返した。
「その手前にピザ屋があるって、そこを右に曲がったところだって」
チビの言葉に従って、周囲に留意する。ピザ屋、ピザ屋、―――あった、ここだ! 危うく通り過ぎ掛けて、急ハンドルで右折する。
「ええと、右隣が建て替え中の更地で、左の家との間はブロック塀があって、高橋さんち寄りの庭に温室があるって」
チビが懸命に高橋氏の家を探すべく、高橋氏から聞いた周囲の状況を口に出す。このあたりは綺麗な四角い形の大きな敷地に建つ、古く大きな家が多い。それこそ、西が丘一丁目と同じくだ。眼に入る立派な家のそれぞれに、その家が経た年に釣り合う年の住人がいるに違いない。人の命はいつか尽きる。これは自然の摂理だ。彼ら彼女らは過ぎた日々に、そして残る日々に、何を思っているのだろうか? 路上をカブで飛ばしながら、外からただ眺めているだけの俺に、住人の事情や考えていることなど判るはずもない。だが、祈った。年を重ねた住人たちが、連れ添った伴侶《はんりょ》や子供たちや孫たちと、いずれ訪れる時を、心穏やかに迎えられることを。
柄にもなくそんなことを願いながら、更地、更地、と口の中で繰り返しつつ、家並みに目を走らせる。歩道の人通りは少なかった。歩いていた人といえば、さっき通り越した、ゆっくりと歩むお腹の大きな女性一人だ。町並みも静かだ。綺麗で静寂な住宅街、とっても素敵な住環境、裏を返せば、個々の家の中で何かが起こっていたとしても、気づかれるには時間が掛かる。
最近建てられた家では建築基準法の改定によって、煙探知機も設置されているし、大きな家なら警備保障会社と契約しているところもあるだろう。しかし残念だが、このあたりの家は古い。それこそ今、出火したとして、すぐの通報は望めない。
「あそこ、あそこだよ! ほら! 」
甲高いチビの叫び声が耳に飛び込んで来た。見れば進行方向先の一角がとつぜん視界が開けていた。新築に向けて、外壁すら取り払われた土地は、庭の一角の柿の木を残して、綺麗に更地になっていた。時刻は午後二時五十七分。三時まではあと三分ある。問題は、高橋家の左隣がもう出掛けたかどうかだ。
「つかまれ! 」
言うと同時に急ブレーキを掛ける。想定はしていたのだろう、チビからの文句はなかった。俺が声を掛けるまでもなく、チビはカブから飛び降りると、ヘルメットも取ろうとしないで更地の横の家に駆けだして、門灯の下の表札を確認するなり「ここだよ!」と叫んだ。
「よしっ!」
叫び返すなり、素早く高橋邸に目を走らす。背後は判らないが、正面左右と鼠色のブロック塀に囲まれていた。高い庭木はなく、塀越しに家が良く見える。木造二階建てのその家は、古びた窓枠にしろ、しゃれっ気など皆無の金属むき出しのベランダにしろ、過ぎた年月を充分に感じられた。
木造家屋火災の確認の際は、まず煙が吹き出す箇所へと目を向ける。窓、窓枠、屋根―――、どこからもまだ煙は出ていない。高橋氏は当初の予定通り、左隣の一家が出掛けるまでは決行に移していなかったようだ。―――よし、止められる可能性大。
と、思った矢先、大きいヘルメットを被ったままのチビが、すごい勢いで何度も何度も門柱の呼び鈴を指で押していた。けたたましいチャイムの音が、家の中から鳴り響いている。こりゃ、マズい。爺さんを無駄に刺激しちゃいかんだろ、と思ったところで、さらにチビが暴挙に出た。
「高橋さん! 高橋さんってば!」
それでなくても甲高い声のボルテージをマックスまで上げて、叫んだのだ。もとより呼び鈴に応えたカーネル爺こと高橋氏が出て来てくれるのを、門の前でお行儀良くただ待つ気など、はなっから俺にはなかった。だがまだ三時前だし、火の手も上がっていないだけに、高橋氏を挑発しないよう、訪問は穏やかかつ静かに、なんてことも考えてはいたのだ。
だが、チビの呼び鈴連打と絶叫に、そんな余裕は消え失せていた。高橋家からの反応はなし。気が変わって外出でもしてくれていれば良いが、そうじゃなくて無視しているのなら、今頃、パニックになっているに違いない、―――イコール、一気に計画決行の可能性大だ。電気ポットのマグネットにゼムクリップを挟んだとして、出火まではせいぜい五分。こうなったら、強行突破しかない。
それなりにやんちゃな過去を持つ俺ではあるが、さすがに他人の家に押し入ったことはない。家の中に入ったは良いが、高橋氏が不在だったら、マジで押し込み強盗の前科がつきかねない。かと言って、目の前まで来て、何もせずに手をこまねくつもりはなかった。
―――しゃあねぇ、やるか。と、覚悟を決めた俺の背後を、空港送迎のリムジンタクシーがスピードを落として通り過ぎ、隣の家の前に停まった。待ちかまえていたかのように左隣の家のドアが開いて、にぎやかな声が外に溢れ出した。見れば、まだ四月の東京都は北区神谷二丁目だというのに、気分はすでに常夏のハワイらしく、色鮮やかなポロシャツに身を包んだ家族が、リムジンタクシーに向かって歩み出していた。老夫婦に若い夫婦、そしてまだ小学校には上がっていないくらいの女の子―――老夫婦の孫の五人の全員の顔が笑みに輝いている。
そのとき、気配を感じた。感覚を頼りに視線を送ると、高橋家の二階の窓のカーテンが、わずかに動いている。白いレースのカーテンの隙間に、人影を見つけた。―――間違いない、カーネル爺だ。やはり、家の中にいたのだ。
チビの叫び声にも呼び鈴の連打にも息を潜めて無反応だった爺さんは、隣が出掛けるのを待っていたのだ。そして今、見下ろしていた。幸せに輝く隣の仲の良い家族が旅立つのを。
隣家の住人たちが、リムジンタクシーの中へ次々と乗り込んで行く。息子らしい若い男が、家の戸締まりを済ませてタクシーに駆け寄った。爺さんの姿が窓から消えた。―――もう、時間がない。
「退けっ!」
叫ぶと同時に数歩の助走をつけて、腹くらいの高さの鉄製の門を飛び越えた。着地したとたん、ずきんと右足首に痛みが走った。力一杯、舌をうち鳴らす。さっき、チビを抱えて倒れたときにやっちまったんだった。だが、右足首をさすりながら、痛いよと、べそをかいてなどいられない。ドアに向かって突進する背後に、「待って!」と、チビの叫び声が突き刺さった。
振り向くと、卵の殻を頭に被った鳥の雛みたいなチビが、門をつかんで俺を見つめていた。大きな瞳に強い意志が読みとれた。自分も行く、自分が止めるんだ、自分が止めなくてはいけないんだ、と。
連れて行ったら、危ない目に遭わせる可能性は高い。正直、迷った。消防士という立場からも、チビより長生きしている一人の人間としても、俺は迷った。だが実質、迷った時間は二秒に満たなかったに違いない。気づいた時にはチビを抱え上げて、門の中へと入れていた。地に足が着いたとたん、チビは例の独特のすばしっこさで、俺より先に家のドアの前に着いていた。
「高橋さん! 開けて、開けてってば」
甲高い声を張り上げながら、チビはスチールのドアにはめ込まれた磨りガラスを拳で叩いている。半歩遅れた俺は、ドアを値踏みした。―――こりゃ、蹴破れるもんじゃない。となると、窓だ。数歩下がって家の壁面を見回して、リビングらしい部屋の大きな雨戸が目に入った。駆け寄って、こじ開けられないか試してみたが、雨戸はがたがたと音を立てて少しは動くものの、中からがっちり施錠されていて、簡単には開きそうもない。こういう場合は、とっとと断念して、素早く他の進入経路を探すに限る。
一階の窓という窓には、外から柵がついていた。防災といっても、その災が災害なのか、災難なのかで、求められる設備は異なる。窓に取りつけた柵は、泥棒避けという意味で、外からの侵入を阻むには効果は高いが、火災に限らず、何らかの理由で家の中から外に出る際には、邪魔以外の何ものでもない。ついでに消防士という立場の俺に言わせると、消火活動の際、進入経路として使えないからはっきり言って迷惑だ。ちっ、と舌打ちして視線を上げる。残るは二階だ。二階へ上るには、―――ベランダだ! 家の左側へと走ると、ジャンプ一発、錆の浮いたベランダの底板を両手でつかんで、懸垂から一気に上半身を持ち上げる。ベランダに通じる窓も雨戸が下ろされていたが、家の正面の隣の住人が旅立つのを、高橋氏がカーテンの隙間から覗いていた―――窓には、足場となるべきものがないためだろう、雨戸はつけられていず、ガラス戸のままだった。
ベランダから窓までの距離は七十センチくらいだが、その下には何もない。落ちたら玄関の横のむき出しのコンクリートに真っ逆様だ。―――さて、どうする? って、行くっきゃないだろう。
いったんベランダの上に上り切って、自分の足場と窓の位置を確認する。助走はほとんど取れない。右足首も忘れちゃ困ると、痛みを主張していた。―――こりゃ、ヤバイかもしれない。
しかしこのままベランダの上で、ただ窓を睨んでいたところで、どうにもならない。玄関ではチビが泣き叫んでいる。ふと、チビの引いた右拳に目が留まった。チビの拳は何かに汚れて変色していた。その汚れの正体が何か、俺はかつてやんちゃだった過去から知っていた。血だ。手を切ったのだ。血に濡れた拳で、それでもチビはドアを叩きつづけている。泣きながら、どうにかして自分の手で老人を救おうと。
俺は涙に弱い。女性であれば年齢不問だが、実は男の、それもガキの涙に弱い。とりわけ今、家の中の高橋氏を救おうと、怪我して血が流れるのも気にせず、泣きながらドアを叩きつづけているチビのガキの涙に弱い。
―――畜生! およそ上品ではない言葉を口にしつつ、それでも俺はベランダの柵に脚を掛けていた。心の中で呼吸を整えながら、タイミングを計る。吸って――、吐いて――、吸って――、吐いて――。
二十四時間勤務明けの休日、何で俺は他人の家のベランダにいるのだろう。それもただいるだけではない。今から足場のない空を飛び、ガラス窓を自分の身体で突き破って家に侵入しようとしているのだ。さながらサーカスの人間大砲の如く。―――って、馬鹿じゃないのか、俺は。自分を罵倒しながら、それでも呼吸を整える。吸って――、吐いて――、吸って――、吐いて――。
高橋老人は死にたがっている。この先、人間の寿命という自然の摂理に従い、さして長いとは言い切れない未来に失望して、自ら望んで死のうとしているのだ。ならば死なせてやればいいじゃないか。相手は、俺とは縁もゆかりもない赤の他人だ。正直、爺さんが生きていようと、死のうと、俺には何の関係もない。
ただ爺さんは死の方法に火を選んだ。となると、放ってほおけない。なぜって俺は消防士で、勤労意欲に燃えてなったわけではないが、ただせっかくなったからには地方公務員の権限のすべてを手に入れて、早いところ現場の交替勤から事務に異動して、楽して給料を貰って暮らしたいだけなわけで、そのためにはやっぱり危ない現場―――火事は一つでも減らしたいわけで、その危ない場所と放火を企てている人物が判っていて、実際その現場に今俺はいるわけで、ならば止めるのは筋だろう。
―――あれ? 何かおかしくないか? おかしいか? うん、おかしい気がする。いや、間違いなくおかしいだろうよ。
自分で自分に突っ込みを入れた直後、下のチビに「ドアにくっついて離れるな!」と、怒鳴ると同時に、一、二の三! で、窓ガラスめがけて左肩から空に飛んだ。
目の前にガラス窓が迫る。両腕で顔と首をガードした。顔は女優の命ですもの、―――って、そうじゃなくて、単純に何より大切な目と首を守るためだ。
左肩に硬質な堅さを感じた直後、圧迫感が消え失せた。遅れて甲高い大音響が鳴り響く。額に何かが当たったと思ったら、今度は左肩に激しい痛みを感じた。つづけて左肩だけでなく、身体全体が硬いものに叩きつけられて、息が詰まる。身体の上に何かがばらばらと落ちて来た。大音響が収まったのを確認してから、そっと目を開いた。真っ先に鋭利なガラスの切っ先が飛び込んできて、「うおおっ」と、声を上げるなり起きあがる。
改めて、周囲を見回した。もとは白かったろう壁紙は、日に焼けてくすんでいた。割れたガラスの下の木の床も、階下につながる階段も、経た年月で良い感じの飴色《あめいろ》になっている。頭上の天井にも年期を感じさせるロールシャッハ・テストみたいな変な染《し》みが浮いていた。―――よし、突入成功。すかさず自分の身体を確認する。視界は良好、ただ頬に痛みを感じて、右手の指先で触れてみた。濡れた感触に指先を見れば、赤く染まっていた。―――あーあ、顔を切っちまった。
そのとき、ぎしっと木が鳴る音を耳が捕らえた。音源に目を向ける。階段を上り掛けていた老人と目が合った。状況が把握出来ていないらしい老人は、きょとんとただ目を見開いていた。白髪頭の老人―――カーネル爺こと、高橋氏だ。赤羽会館の図書館で見かけた、赤羽公園でチビと放火の計画を語り合っていた老人に間違いない。
老人の目の玉が動いた。砕けたガラスが飛び散っている廊下、ガラスの割れた窓、さらに動いて、最後に目に映ったのは、割れたガラスの上に立ちつくす俺だった。
「ひいいい」っと、声にならない音を喉から絞り出すと、老人は階段を上りきって、上り口正面の開いた引き戸の中に入り込んだ。白髪の老人とは思えないほどの素早さに、呆気にとられた俺は、一瞬、出遅れた。老人は引き戸の中にするりと入り込むと、ぴしゃりと戸を閉めた。
「てっめえ!」
叫びながら、戸に突進して引っ張ったが、中に鍵でもあるのだろうか、びくともしない。
「ざっけんな! こら、出てこい、爺!」
怒鳴りながら、開かない苛立ち紛れに戸を蹴った。思ったより良い木を使ってあるらしく、じんと足が痛んだ。さらに力を込めて戸を蹴る。重い音は立てたものの、表面が少しばかり凹んだだけで、戸は割れたり穴が空いたりはしなかった。―――こりゃ、ダメだ。
何か戸を開ける手段はないかと、周囲を見回した俺の耳が、不穏な音を捕らえた。ジジッ、パチパ チッというその音は、電気製品がショートしたときのものだということを、俺は知っていた。
「糞ったれ!」
怒号を挙げて、一気に階下に駆け下りる。
爺とチビの会話を思い出す。―――電気ポット、出窓にある電気ポット、どこだ、どこにある?
階段を下りきって、まず目に飛び込んできたのは、廊下に点々と立てかけられた潰した段ボール箱だった。あまりに不自然な置き方に、無性に腹が立って、片っ端から蹴倒して行く。どの部屋も、ドアは開け放たれていた。火の回りを良くするべく、空気の循環はばっちりというわけだ。―――畜生、あのチビめ、よく考えてやがる!
音を頼りにするまでもなく、焦げ臭い臭いが鼻をついた。―――ここだ! 開いたドアに足を踏み入れたとたん、異様な光景に戸惑った。ダイニングであるはずのその部屋には、机の上だけでなく、床にも黄色く変色した紙が敷き広げられていたのだ。さらにご丁寧に、壁にも画鋲《がびょう》で貼り留めてあった。こりゃ、なんだ? と、目を見張る。地図だ。
公園での爺とチビの会話が蘇った。半年前からカーネル爺が始めた趣味の古書集め、それも燃えづらい本ではなく、古い地図―――古い紙だ。そして俺は部屋の左側の壁の中央に、問題のブツの載った出窓を見つけた。下には年季の入ったオイルストーブもがっちり置いてある。白い電気ポットのマグネット部分から立ち上る煙は、白から黒に色を変え始めていた。白から黒? ポットの本体自体は接続部のプラスチック以外は金属で、かなりの高音にならない限り、燃える部分はほとんどないはずだ。では何が黒い煙を、―――電源コードだ! いや、電源コードの下の出窓に敷かれた布かも知れない、―――って、どっちだろうと、冗談じゃない! 一気に駆け寄り、ポットの取っ手をつかんで持ち上げた。本体が引っ張り上げられて、マグネットは簡単に外れて落ちる。出窓の板の上を這う電源コードから、すでに煙が上がっていた。その煙はじりじりと出窓の下の壁のコンセント本体へと進んでいる。電源コードから上がっている煙は、内部から熱で電源コードのビニール部分が溶けたことで発生している。煙は電源コードの中を進む熟よりも、はるかに進みが遅い。言い換えれば、電源コードの中を進む熟は、とっくの昔に壁に向かって、―――ヤバい! 左手で電源コードをつかんだとたん、激痛が走った。切り傷にがっちりはまったのか? もちろん 確認などせずに、力一杯引っ張る。とたんにぴんと伸びた電源コードが、不意に生き物のようにくにゃりと曲がって、ソケットの金属部分が俺の顔目掛けて飛んできた。
「うおっ!」と、声を挙げつつ顔を背けてなんとかかわした俺は、すぐさま壁の前のオイルストーブを持ち上げると部屋の片隅まで持ち運んだ。ふと違和感を感じたが、今はその原因を探し当てている余裕はなかった。すばやく戻って壁のコンセントを確認する。白いコンセントに平行に空いた二つの細長い穴から、細くかすかにだが白い煙が立ち上り始めていた。煙が火に化けるのは、時間の問題だ。―――こりゃ、いかん! 消さなくては。水、水はどこだ? 周囲を見回し掛けた俺は、床に置かれたあるものに気づいた。湯沸かしポット―――出火元だ。出火するためには、湯を沸かす必要があった。つまり、ポットの中には水―――沸騰させた熱湯―――が、入っている。熱湯だろうが、水は水だ。反動をつけて左脇の下にポットを抱えると、右手で蓋を開けると同時に、中の熱湯を壁のコンセント目掛けて浴びせかける。しゆううと音を立てて、同じ色は白でも、さっきとは違う水分の多い湯気が立ち上った。その場気がただの熱湯の湯気なのか、消火した水蒸気なのかの判断をつけることは、まだ出来なかった。目の前に立ちはだかる壁の中がどうなっているのか、俺には判らなかったのだ。
二九番通報するのがベストなのは判っていた。木造家屋の壁の中は侮《あなど》れない。柱に壁という木材と、断熱と防火効果の高いグラスウールと防水シートというのが木造家屋の壁の標準的な構造だ。今でこそ、建築建材は研究が進み、断熱材や防火建材は発泡スチロールに似た板状のものも開発されている。だがこの家が建てられたのは確実にそうとう前だ。古典的な綿状のグラスウールが使われていると考えて、まず間違いない。さらに目で見た限り、大きなリフォームもされていない。となると、中のグラスウールは、長い年月の間に吸い込んだ湿気の重みで下に下がってしまって、壁の上部が空洞になっている可能性が高く、つまり木製の柱がむき出しになっている、イコール、防火に関しての安全性は落ちている。
それにグラスウールはかなりのくせ者だ。外からの火に対しては、燃えないという性質上、その力を発揮するが、いったん中に火が入り込んでしまうと、今度は火を外に逃がさない。つまりグラスウールに挟まれたり包み込まれたりしている木材に、何らかの原因で火がつこうものなら、簡単には消えないし、外からも発見しづらい。それだけでなく、大きく燃え上がらなかったとしても、じわじわと柱や壁板を炭化させて、結果、炭化した柱や建材から出火することも珍しくないのだ。
だから都民の皆さんには、コンセントと壁には充分に注意を払っていただきたい。特にコンセントから電気製品の電源コードを差し込んだり抜いたりする際に、パチッと火花が出たら要注意だ。コンセントのプラスチックカバーの中側では、何が起こっているかは判らない。内部で部品が劣化して漏電しているかもしれないし、上がった小さな火花が、壁の中の建築材に点き、長い時間を掛けて木材を炭に変え、やがて火事がということも充分にありえるのだから。なんて考えた矢先、自分に白けた。―――何をむきになっているんだ、俺は。
断っておくが、建築や木造家屋火災に造詣が深いのは、俺が職務に忠実な消防士だからではない。ひとえに俺がダチ思いのナイス・ガイだからだ。魂通じるダチの裕二は、工務店勤務の若手のホープだ。裕二の話なら相談から悩みから愚痴から雑談まで何だって聴く。それが魂通じるダチというものだ。その結果として知識が蓄積された、それだけだ。間違っても、職務の遂行に熟き心を持ちつづける消防士魂なんてものからじゃない。
とまれ、こうして中の見えない壁の前で俺が考え、立ちつくしている間にも、壁の中では炎が回っているかも知れないのだ。ぐずぐずしてはいられない。だが一一九番通報をするとなると、ものの三分で東十条出張所の消防車が現着して消火活動を始めることになる。
防火という意味では、やはり消火のプロである消防に任せるのが一番だ。だが今ここに消防車が来るとなると、俺が二階の窓を叩き割って家の中に入り込んだ理由を説明しないとならない。正直言って、完全に理解して貰える説明が出来る自信が俺にはなかった。それに何より、チビのことが知られては困る。さあ、ここでQ。では、どうする?A、自分で消すっきゃないだろう。
もちろん俺は自問自答の答えを出すまで、ただ突っ立っていたわけではない。答えが出た頃には、ポットを投げ捨てて玄関に向かっていた。家への進入口を探したときに、ベランダの下の壁に水道と庭用らしい長いホースが置かれているのを見つけていたのだ。そのとき、違和感を手に覚えた。見れば左手には電源コードがまだあった。それも手を開いた状態で手のひらを下にしているのにだ。なぜに? と見たら、手のひらに電源コードの溶けたビニール部分が貼りついていた。さっきの痛みは火傷《やけど》の痛みだったのだ。―――畜生! 左手を軽く振って、振り落とそうとする。だが電源コードはぴたりと手のひらについて、落ちる気配はない。
玄関のドアを前にして、右手で鍵を開けつつ、左手は電源コードを振り落とそうと、さらに振る。だが落ちない。苛立って、右手で電源コードをつかむと、力任せに引っ張った。見た目より、はるかにしっかり貼りついているらしく、手のひらの皮が引きつれて痛んだ。バンドエイドや湿布薬をはがすとき、じりじり剥がすのと、一気に剥がすのと、人は二種類に分かれると言う。ちなみに俺は後者だ。お楽しみの時間は長く、辛く苦しく痛い時間は短いに限る。
電源コードを右手でつかんで、力を込めて一気に引きはがす。想像していた以上の痛みに、「|あ《〃》〜っ」と、怒りの唸り声を挙げた。手のひらに真一文字に横に走る傷から血が惨み出た。―――こりゃ、ひどい。何で俺がこんな目に。そう思ったとたんに、怒りがこみ上げてきた。電源コードを土間に叩きつけて、怒りにまかせて二度三度、踏みつけてからドアを開けると、待ちかまえていたチビが開口一番「なに、暴れてるの?」と、訊いた。
ドアにはめられている磨りガラスから、一連の俺の動きを見ていたのなら、俺が意味不明に暴れていると思ったところで仕方ない。事細かに経緯を説明している時間はなかった。だがチビを一人にしたら、勝手に家の中に上がり込むに違いない。完全に安全が保障できない家の中に、チビを入れるわけにはいかない。やる気もないし、早く事務勤に異動したいと日々祈ってはいるが、それでも俺は消防士。チビの首根っこを左手でつかんで外に出る。
「どこに行くの? ねぇ、高橋さんは?」
「ベランダの下の水道。無事だ」
二つの質問にそれぞれ簡潔に応えながら、ベランダの下へと早足で進む。記憶通り、壁に沿って水道があり、プラスチック製の巻き取り機に巻かれた長いホースがあった。巻き取り機ごとつかんで、すぐさま玄関へと戻る。そのとき、とつぜんチビがしゃがんだ。左手の中に感じていたチビの首の感触が、一瞬にして消え失せた。同時に左足にずしりと重みを感じる。見れば、首の後ろにヘルメットを下げたチビが、俺の左足にしがみついていた。おいてきぼりにされる空気を察知しての行動だろう。その姿たるや、木の幹に抱きつくコアラ同然。
「僕も行く!」
ちらりとリビングのドアに目を向けた。煙も炎も出ていない。それにコンセントには電気ポット一杯のお湯も掛けたことだし、壁の中への懸念は取り越し苦労かもしれない。もし火が出たとしても、玄関までは近い。避難させるのは、さして難しいことではないはずだ。よし、とりあえずチビも連れて行こう。そう結論を出す以前に、俺は左脚にチビという重りをくっつけたまま、すでにリビングへと入っていた。まさか、断られもせずに中に入れるとは思っていなかったのだろう。脚にしがみついたまま、チビはきょとんと俺を見上げていた。自分の脚にしがみついているチビを見下ろす俺、その俺を見上げるチビ。変な間が空いた。
「降りろ」
その一言で、弾かれたようにチビが脚から離れて立ち上がった。さあ、重りは外れた。次にすることはホースを水道につなぎ、壁に念のための放水をする、だ。巻き取り機のホースの端をチビに差し出す。意味が判らないのか、反応がない。
「持ってろ」
理由を訊きもせず、チビは素直に受け取った。おお、感心、感心。ついでに、「ヘルメット被って、そこから一歩も動くな!」と指示を出してから、台所のシンクまで走る。しゅるしゅると音を立ててホースが伸びていく。巻き取り機側のホースを蛇口に結合させて、「ホースを壁に向けろ、水を出すぞ!」そう怒鳴って蛇口をひねった。
「そんなことしたら、家の中じゆう水浸しに」
さすがに今回はチビも反論を口にした。だが最後まで言い終えないうちに、ホースから水が噴き出して、チビの顔面に直撃した。たまらず、チビがホースを放り出す。床の上に落ちたホースが、内部の水圧のせいでうねうねと蛇のようにのたくって、床の上の古地図を濡らした。戻ってホースを拾い上げた俺はまずは出窓の下の、電気ポットのソケットが差し込まれていたコンセントに狙いを定めて注水し始めた。
「ねぇ、なんでそんなことするの?」
洗われた犬のようにぶるぶるっと濡れた頭を振って、チビが訊いた。お前が訊くか? という視線を向けると、「ごめんなさい」と、小さな声で謝った。―――判りゃいいんだ、判りゃ。
鷹揚《おうよう》に領いて見せた俺は、視線を壁に戻した。注意すべきは、放水箇所から煙や水蒸気が立ち上るかだ。コンセントからは何も出てこない。よし、問題なし。つづけてコンセントから上方向に向けて放水を拡散する。馬鹿と煙は高いところに上ると言われるが、火も上に上る。出窓の下の壁も問題はなかった。つづいて左の壁へと進み掛けて、ホースを下ろして一点に注目する。出窓と壁の結合部のわずかな隙間から、かすかに煙が立ち上っているように見えたのだ。その間、ホースの水は、じやばじゃばと、ただ床の上に流れるままになった。
「あー」
チビは悲鳴とも非難ともつかない声を挙げると、とつぜん動いた。台所に行って水を止めようと思ったに違いない。背後をすり抜け掛けたチビに「動くな!」と、声を荒らげた。「だるまさんが転んだ」状態で、チビが止まる。日に焼けた壁紙と焦げ茶色の木製の出窓の結合部を、腰を屈めて注視する。窓から入り込む春の午後の明るい日差しのせいで、はっきりと見えない。だが、何かが揺らいだ。少なくとも、俺にはそう見えた。
目の前は壁だ。一見、何の変哲もない、―――いや、ある。さっき俺が水を掛けた。その証拠に、壁紙にはくっきり水染みも出来ている。なのに、なんで煙が出る? 答えは考えるまでもなかった。
まずは手で壁に触れてみる。濡れた感触こそすれ、熟は感じない。念のために出窓から遠く離れた壁にも触れてから、再びコンセント近くの壁に触れて比較してみる。温度の差はない。だが煙は出ている。頭の中を占めるのは、悪い予感だけだった。―――こうなったら、やるしかない。
一歩下がると、渾身の力を込めて右足でコンセントの真横を蹴った。木の割れる音とともに、新しくできた穴から白い煙がむわっと吹き出してきた。―――悪い予感、大的中。さらに、ぽっと言う、俺の耳には聞き慣れた―――炎が立ち上がった小さな音を捕らえた。
それまでだって決して完全に密閉されていたわけではないが、一気に空気が流れ込んだために、抱えていた火種が一気に炎に化けたのだ。腰を屈めて穴の中を覗き込むと、暗い穴の中に天然光とは違う、妙に明るいオレンジ色が揺らめいているのが見えた。―――炎だ。まだ小さくかぼそかったが、間違いなくそれは炎だった。
「糞ったれっ!」
怒鳴ると同時に、左手で俺の背後に立っていたチビを突き飛ばし、ホースをつかんだ右手を穴の中へと突っ込んだ。しゅうううっと、炎が怒りの声を挙げた。水が命中しているのだ。
室内には燃えるものが山ほどある。そこまで炎に手を伸ばさせたら終わりだ。俺の足のサイズは二十九センチとデカイ。だが、そのデカ足で蹴り空けた穴は、壁の中の様子を知るには小さすぎた。左手で割れた壁の縁をつかんで、力任せに引っ張る。とたんに手に激痛が走る。傷口に壁の材木の破片が突き刺さったに違いない。それでも俺は穴を割り広げつづけた。広がった穴からは、白い煙がいまだ出つづけている。畜生、まだ火種は完全には消えていない。
「お〜っ!」
怒号を挙げた。木造家屋、火元は電気ポットのショート、しかも出火の初期段階に発見して、既に水は掛けた。さらに、今もこうして水を掛けつづけている。煙が火に化けたのは、俺が穴を空けてからだ。なのになんでこんなに煙が出つづける? 煙の出所はどこだ?「糞っ! 見えねぇ!」苛立って怒鳴りながら、それでもひたすら壁の中に放水をつづける。不意に背後に人の気配を感じて振り向くと、チビが手に何かを持って迫ってきていた。
「馬鹿―――逃げろ!」
このまま俺一人で鎮火しきれなければ、一一九番通報するしかない。ならばチビにここにいて貰っては困る。だがチビは今度は言うことをきかなかった。
「これ!」
声と同時に俺の手元が明るくなった。チビは懐中電灯を探し出して来たのだ。
「良いから、それを寄越せ。お前は逃げろ」
チビを捕まえて以来、ずっと取り上げていた携帯電話と学生証を返そうと、パンツの尻ポケットに左手を伸ばす。チビの目が左手に注がれていた。なんか変か? と、俺も見る。どす黒く血塗れていた。うわー、俺の左手ってば、スプラッタじゃーん!なんて、他人事のように感心するしかないほど、エラいことになっていた。
「照らすよ」
そう言うなり、チビが俺の背後に立って、穴の中を懐中電灯の明かりで照らした。
「だから、お前は逃げろって」
「ダメだよ」
ダメだ? 嫌だ、なら判るが、なんでダメだ、だ? 頭に浮かんだ疑問を口に出すまでもなく、チビが答えを語り始めた。
「僕がしたことなんだ。だから僕が責任を取らなくちゃいけないんだ」
甲高いきいきい声はあいかわらずだったが、その声にも、言い切った目にも、決意が潜んでいた。
俺は腹を括った。
「よし、判った。でも、俺が次に逃げろって言ったら、絶対に逃げろよ」
大きく領いたチビは、さらに腕を伸ばして穴の中を照らした。
チビの明かりのお蔭で、ようやく壁の中の状態が見えた。そしてその光景を見て、俺は絶句した。出窓の下の柱は真っ黒く炭化していたのだ。
「何だこりゃ?」
答えが返ってくるはずもないことは判っていたが、それでも口に出さずにいられなかった。出火したのはものの数秒前だし、コンセントから火花が出たのだって、さらにその数分前だ。なのに壁の中の柱は炭化していた。それも表面にクロコダイルパターンも見て取れるほどにだ。わずか数分でこんなになるはずがない。と言うことは、今日よりはるかに前の段階で、壁の中の柱はすでに炭化していたということになる。日常的に火を使う台所の壁の中なら、手抜きで断熱材を入れていなかった場合や、築年数がそうとうで、断熱材自体が湿気の重みで沈み落ちたりして、結果として断熱材がない状態になり、木材が熟にさらされて炭化するということもありえる。だがここは居間だ。日常的に火など使う場所ではない。なのに壁の中の木材は炭化していた。そんなことってと、自問したとたん、嫌な予感が身体を突き抜けた。浮かんだ疑惑を晴らすべく、早急に壁の中の他の柱を確認する必要があった。
「上、照らしてくれ」
うんともすんとも反応はなかったが、それでもライトの位置は、俺のリクエスト通りに穴の上の方を照らしていた。日の差し込まない暗い穴の中、ライトの光でぽっかり浮かび上がった光景に、俺は言葉を失った。そこには本来あるべき断熱材―――グラスウールがなかった。いや、あるにはあった。ただしずっと下にだ。長い年月の間に重力に従って、下に落ちて溜まっていたのだ。
そしてグラスウールの代わりに見えたのは木製の柱だった。木造なんだから当たり前だ。ただし、普通の木材であれば、だ。懐中電灯によるスポットライトの中に浮かび上がっていたのは、柱は柱でも黒焦げの炭状態だった。
「なんでこんなになっているの?」
俺の頭の中を占める疑問を、チビが繰り出してきた。
手を伸ばして触れてみる。黒焦げの柱は、まるで備長炭《ぴんちょうたん》のように硬かった。このような炭状態は、長い時間を掛けて、じっくりゆっくり木材が熱せられて初めて出来る。だがここは出窓の下で、しかも壁の中。火気があったとは思えない。
改めて出窓の下の無事に残った壁部分に目を向ける。黄ばんだ壁紙の端が壁から浮いていた。その浮き方は、長い年月で自然になったものではなかった。こういう剥がれ方は、確か、ええと。消防学校へ時代の記憶を頭の奥底から引きずり出す。―――外から熟せられ、た? 頭にそう浮かんだとたん、記憶が蘇った。さっき自分の手で退けたばかりのオイルストーブに目を向ける。―――犯人は、こいつだ。
そう気づいたとたん、出てきたのはため息だけだった。
「何、呑気にため息なんかついてるの?」
一人わけが判っていないチビが、懐中電灯を掲げたまま、不満そうな声を上げた。俺はすぐには答えずに、壁の中にひたすら放水しつづけた。
「ねぇ、何がどうなってるの?」
壁の穴から水が溢れて室内に流れ出始めて、一安心する。
「水、止めてこい」
そう命じると、一瞬むっとした顔を見せたが、すぐさま言われたとおりにチビは台所に走った。手の中のホースが、あっと言う間に力を失う。ホースを投げ出すと、俺はチビが戻ってくるのを待った。そしてチビが口を開く前に、「行くぞ」と、宣言した。
二人揃って階段の下に来たとき、がたっと二階で何かが鳴った。
爺め、覗いてやがったな。
「二階の納戸にいるんだね」
計画を立てた本人が爺の居場所を言い当てた。俺は領くことで返事に代えた。チビはあっと言う間に階段を上り切ると、正面の納戸の引き戸を開けようと引っ張った。だが爺はまた鍵を掛けてしまったらしく、戸はびくとも動かない。
「高橋さん、出てきて」
チビがきいきい声で爺を呼んだ。中からの反応はない。
「もう、火事にはならないよ。火は消したから」
「何でそんなことを」
中から爺の声が返ってきた。その声には、驚きや哀しみではなく、思い通りに事が運ばなかったことに対しての怒りが込められていた。
「何でって」
言い返し掛けたものの、自分で気持ちの変化をきちんと相手に伝えられるほど、チビも心の整理がっいていなかったらしく、そこで詰まった。
「君が考えてくれたんじゃないか! なのに、なぜ止めるんだ?」
語気も荒く、爺はチビを詰った。
あとからゆっくりと階段を上った俺は、チビの肩を指先でちょいと押して、戸の前を空けさせた。困ったような瞳でチビが俺を見上げていた。軽く領いて見せると、力一杯ドアを蹴り上げる。
「おら、出て来い!」
戸の鳴る重い音に負けじと怒鳴る。
「火は消した。リビングも水浸しだ」
「なんだって?」
部屋を水浸しにされたと聞いて、さすがに聞き捨てならなくなったらしく、爺が訊き返してきた。
「失火に見せかけて家ごと燃やそうったって、とうぶん無理だ」
「なんでそんな」
驚きと哀しみ、そして怒りと、複雑な感情のこもった爺の声を遮ったのは、軽やかなドアチャイムの音だった。―――こんなときに来客かよって、今来たばかりの客に、家の中の状況なんて判るはずもないか。屈んで階下に視線を送る。わずかに間を空けて、チャイムが再び鳴らされた。
「誰か来たみたい」
困惑顔でチビがそう言った。誰が来たにせよ、この状況では俺が対応しないとマズイだろう。目顔でチビに爺を任せると告げ、俺は来客を迎えるべく、階段を下りた。
ドアにはめ込まれた磨りガラスから見えたシルエットは、女性のものだった。中肉中背、すとんとした形のワンピースか何かを着ているようだ。
「どちらさま?」
一応丁寧に訊ねると、「そちらこそ、どなたですか?」と、ドア越しに勝ち気な声が戻ってきた。
どなたと訊ねられて返答に詰まる。どう考えても、簡単に答えられる立場ではないが、とりあえずドアを開けた。そこにいたのは、けっこうとうの立った女性だった。着ているのはすとんとしたワンピース、ではなく紺色のジャンパースカート、足下は運動靴―――妊婦さんだったのだ。
ドアが開いて俺の姿を認めた瞬間、彼女は一歩退き、さらに半身を後ろに向けた。無意識のうちに、お腹を庇った彼女を見て、俺は誤解を解かねばと焦った。
そりゃ怯えてとうぜんだ。ドアが開いて待ち受けていたのが、大男〜それも流血したスカーフェイスが待ちかまえていたら、誰だって怖いに決まっている。
返事をしない俺に、警戒心に満ちた視線を送りながら、女性は肩に掛けた鞄の中に手を差し入れて何かを探っていた。携帯電話に違いない。用途は間違いなく警察への通報だ。
―――こりゃ、いかん。早いところ上手く説明しないと、と思った矢先、階上からチビのきいきい声が響いてきた。
「ねぇ、出てきてよ!」
女性の目が上に向いた。
「ここにいつまで居たって、火事にはならないよ!」
火事という言葉に、女性の目が泳いだ。
「なんで邪魔をするんだ!今しか、この方法しかないのに!」
邪魔をされた憤りと、上手くことが運ばなかった哀しみに満ちたカーネル爺の涙声が降ってきた。
そのとたん、俺の目の前の女性が口を開いた。
「父に何をしたの?」
償い声だけでなく、その内容に、今度は俺の目が泳いだ。父―――と言うことは、俺の目の前にいる妊婦さんは、カーネル爺曰くの折り合いが悪いだけでなく、母親の死の際、母親の遺したものを断りもなしに持ち出そうとして、呑《とが》めたら「いずれ、全部私のものになる」と、捨てぜりふを吐いて去っていった鬼娘ということになる。
―――いやはや、人は見かけによらないとはよく言うが、まさにその通り。目の前の、この幸せそーな妊婦が鬼娘とはねぇ。とてもではないが、そんな風には見えないのだが。
なんて、感心していたそのときだ、「ずるいよ!」と、チビの金切り声が響き渡った。
「自分だけ死ぬの? 自殺ってバレないように火事にする方法を僕に考えさせておいて」女性―――カーネル爺の娘の顔つきが変わった。
「どういうことなの? 答えなさい!警察に通報するわよ!」
手にしっかりと携帯電話を握りしめて、女性が宣言した。俺は簡潔に「俺は大山雄大、赤羽台消防出張所勤務の消防士だ。あんたの親父さんが放火自殺を企てていることを知って、止めに来た」と、告げた。とはいえ、消防士には警察みたいに身分証明が出来る手帳があるわけじゃないから、単なる自称になってしまうのだが。もちろん警察官だって、今日の俺と同じく非番の日には警察手帳を持ち歩いているわけではないから、同じようなものだろうが。
「放火自殺? 何よ、それ」
おそらく俺が本物の消防士かどうかも含めて、娘は訝《いぶか》しげに眉を顰めると、俺の顔と階上へと交互に視線を送った。
「あんたの親父さんは放火自殺を計画したんだ。それも、自殺とバレないように」
「 ―――退《ど》いて」
最後まで俺に言わせずに玄関で靴を脱ぐと、娘は俺を押しのけて階段を上り始めた。ただし、壁に手をつき、あくまでゆっくりと落ちついた歩みでだ。もちろん俺もあとにつづいた。
「同じだって言ったじゃない! 二人とも、都合良く生きていることだけしか望まれていない存在だねって、言ったじゃない! だから僕は考えてあげたんだ! なのに、自分だけ死ぬの? 僕は生きつづけろって言うの?」
ひっくり返った涙声で、チビは叫んでいた。先に階段を上る娘の肩越しに見えた納戸の戸には、チビの拳から流れた血で模様が出来ているのが見えた。
「都合良く生きることだけしか望まれていない?」
娘のはっきりとした声に、チビが振り向いた。
「―――由佳里《ゆかり》?」
探るような声が、納戸の中から聞こえた。
「そうよ、あたし。―――ボク、そこ、退いてくれる?」
前半はカーネル爺が言っていた鬼娘のイメージを彷彿《ほうふつ》とさせるようにきっぱりと、そして後半はまるで優しいお母さんのように柔らかく、娘―――由佳里は言った。
「由佳里―――さん? あなたが由佳里さん?」
弾かれるように振り向いたチビは、大きな目をさらに大きく見開いて由佳里の顔を見上げると、とつぜん「若くない!」と、驚いた声を上げた。
「なんですって?」
由佳里の声のトーンもまなじりもつり上がった。そりゃそうだろう。初対面で開口一番、若くないと言われて微笑んでいられる女性など、断言してもいい、まずいない。
「だって高橋さんは、娘はまだ若いって。甘やかしたから世間知らずで、だからダメな男に引っかかって、出来ちゃった結婚したって」 チビが語るカーネル爺による娘像と、今、二階の上り口で紺色のジャンパースカートに身を包み、大きなお腹のために、図らずも仁王立ちになっている、けっこう歳のいっている女性とでは、重なる部分はどこにもなかった。
「あー、またそういう嘘を」
由佳里の言葉にも口調にも、不愉快さこそ全面に表れていたものの、衝撃を受けて哀しんでいるようには微塵《みじん》も感じられなかった。
「嘘?」
ぽつりと単語の疑問を吐き出したチビに、突き出たお腹を向けて、由佳里が口を開いた。
「そうよ、嘘。全部嘘。そうねぇ、グレてさんざん妻と自分を泣かせたとか、うちの金を持ち出したとかも、言ったんじゃない?」
由佳里の口から出てきたのは、実の娘による、父親が自分に言った言葉の予想としては、あまりにあまりだった。
「ううん、大学まで出してやって、コネで一流会社に入れてやったのに、早々に男を作って辞めて家を出て、それ以来寄りつかなくなって、でも奥さんが亡くなったときに現れて、奥さんの持ちものを勝手に持ち出そうとしたって。それをとめたら、どっちみち、あんたが死ねば全部あたしのものよって、言ったって」
俺が止める間もなく、チビは由佳里に眼を合わせて、瞬きもせずに綿々とカーネル爺がチビに告げた話を復唱した。―――おいおい、いくらなんでも、事細かに言わなくたって。
由佳里は目を閉じると深くため息をつき、小さくぶつぶつと何かを呟いた。耳を澄まして聴くと、
父―――カーネル爺に対する呪いの言葉かと思いきや、まったく違った。
「怒らない、怒らない。今に始まったことじゃない」
その口調も出てきた言葉も、言い慣れていることは俺にも判った。
目を開けた由佳里は、大きく深呼吸してから納戸に向かって話し出した。
「とつぜん炊飯器や電子レンジを送りつけてきて、何かと思えば放火自殺を企てたですって?」
パソコンやプリンターを買ったと言っていたが、他にも買っていたのだろうか? そのとき、ただ その場に突っ立っていたチビが、俺の横をすり抜けて階下へと降りていった。
「お父さんからは、何一つだって受け取らないって、もう、何度も言ったわよね?」
由佳里の口から出てきた言葉は、チビから聞いた話とは矛盾があった。いったい、どういうことだ? と、考え始めた俺の左ふくらはぎに、何かが軽く触れた。見れば、階下に立つチビの手があった。チビが顔を左右に振った。そして途方に暮れた顔で「パソコンやプリンターの箱はなかった」と、呟いた。カーネル爺は娘のことだけでなく、買ったものまでチビに嘘を吐いていたのだ。
俺は引っかかっていた。なぜ老人は、そんな嘘をチビについたのだろうか。放火自殺を企てたのは事実だ。実際に出火して、俺が消したのだから間違いない。老人がついた嘘は二つ。一つは娘、由佳里のこと。実物の由佳里は、老人がチビに言った如く身勝手で強欲な娘とはかけ離れていた。もう一つは、段ボール箱目当てで買った商品だ。老人がチビに告げたのは、パソコンにスキャナーにプリンターにデジカメだった。だが実際は炊飯器や電子レンジなどの家電で、しかも本体は娘のところへ送っていた。この二つから俺が導き出した答えは一つだけ、―――火災保険金目当てだった。
娘との関係が良好とは言いかねることは、わずかだが二人のやりとりを聞いた俺にも想像はついた。憶測でしかないが、だからこそ高橋老人は死を以て、娘に遺《のこ》してやろうと考えたのではないだろうか? そのためには失火でなくてはならなかった。そしてチビの噂を聞きつけた。だが、チビの協力を取りつけるのには、他の老人たちと同じく、家族にないがしろにされてなくてはならない、高橋老人はそう考えたのだろう。だから不幸な自分を演出した―――嘘をついた。
そこまで考えた俺は、俺が導き出した答えを、チビが思いつきもしていないことをただ願った。不遇な境遇に同情して、仲間意識で手伝ったはずが、愛情のための自死の手伝いをしていただなんて、チビに気づいて欲しくなかった。祈りを込めて、ちらりとチビを盗み見る。だが、祈りは届かなかった。チビは暗い目をして俯いていた。気づいてしまったのだ。
俺はとっさに、チビの頭の上に手を置いていた。そうしなければ、チビがずぶずぶと階段の中へと沈んでしまうように見えたからだ。もちろん、現実にそんなことがあるわけがない。だがチビの髪のさらりとした感触と、うっすらと体温を手のひらに感じて、なぜかほっとした。チビが顔を上げた。首の後ろに俺の特大ヘルメットをぶら提げた不安げな顔のチビは、実年齢以上に幼く見えた。掛ける言葉など、なかった。
ここに来た理由は、カーネル爺こと高橋老人の放火自殺を阻止することだった。同時にチビに、都合良く利用した高橋老人を責めさせるつもりだった。そうすることで、老人たちの放火自殺に知恵を貸すのは終わりにさせられると思ったからだ。
だが、もう良いと思った。これまでの老人たちは、結果として不誠実ではあったが、それでも俺が知る限り、自殺の理由に関しては正直に話していた。だが高橋氏は理由すら嘘をついていた。
俺はこの場からチビを連れ出したかった。もちろん、チビがしてきたことのすべてを、なかったことには出来ない。でもチビの記憶の中から、少なくとも高橋氏のことだけは消し去っても良いだろうと思ったのだ。肩に手を掛けると、チビがうつろな目で俺を見上げた。俺は顎を上げることだけで、出ようと促した。伝わったのだろう。チビは素直に階下へと体の向きを戻した。だが、いざ階段を下りようとした俺たち二人の足を止めたのは、由佳里の声だった。
「お父さん、恥ずかしいことしないでよ」
その声は今までと違って、哀しみに満ちていた。
「本気で自殺する気なんか、なかったんでしょう?」
つづいた言葉にぎょっとした。チビもだろう。あっという間に俺の横をすり抜けて、階段を上りきっていた。
「本気だよ。だって、本当に火事になるように僕が考えたし、その通りに高橋さんはしたんだよ。だから火が出て、大山さんが消したんだもの」
チビが大きな目を見開いて由佳里を見上げて、そう言った。由佳里は無言でチビを見下ろすと、きゅっと眉を顰めた。そしてわずかに腰を屈めて、チビに顔を近づけると、眉間に皺を寄せたまま、それでも微笑んで「ううん、そうじゃないわ、違うのよ」と、否定した。
困惑しきった顔で、チビは救いを求めるように俺に顔を向けた。
俺は考えていた。由佳里は今回の一件を、父親の狂言だと言う。だが、火は出た。それは火を消した俺が一番良く知っている。実際に、高橋老人はチビの計画通りに準備をした。半年前から買い集めた古地図、まとめて買った電化製品の段ボール箱。ただし、中身はパソコンとかではなく、実用性の高い家電だったし、しかも本体はここにはなかったが。つづけて思い出す。湯沸かしポットにゼムクリップ、これはパーフェクトだ。それにオイルストーブ―――。そこで俺はひっかかった。運んだとき、違和感を感じた気が。その正体を思い出そうと、記憶をずるずると手繰る。
ポットが置かれた出窓の下にあったオイルストーブを危ないから退けようと持ち上げて―――。違和感の正体に気づいた俺は、大きく舌を打ち鳴らしていた。
「何?」
態度の変化を察したチビが、不安げに訊ねた。
「軽かったんだよ」
吐き捨てるような俺の答えに、チビの口がぽかんと開けられた。違和感の正体は、オイルストーブの重さだった。妙に軽かったのだ。チビの計画通りならば、ストーブには燃料が満タンに入ってる、つまり重いはずだ。なのに軽かった。燃料は入っていなかった―――空だったのだ。
「それにね、今こうして私がここにいるのが、本気じゃなかった何よりの証拠なのよ」
その声に、どこか言い辛そうな空気を感じて、俺は改めて由佳里を見つめた。事実、由佳里は辛そうな顔をしていた。俺は気づいていた。チビを慮っている、いや、申し訳なく思っているのだ。
そして俺は考えていた。放火自殺決行のその日そのとき、どんぴしゃりのタイミングで、父親の家を由佳里が訪れたのはなぜか? 答えは簡単だった。高橋老人が、そうし向けたのだ。
その一つは、とつぜん届いた本体だけの家電だ。ただ、それだけなら電話で済まされる恐れがあるし、へたをしたら電話すら寄越さずに、受け取り拒否だとか、送り返すとかされたら、娘は来ない―――本当に焼け死んでしまう。ならば何かもっと具体的に、由佳里が今日、この時間に訪れる何かがあったはずだ。
「宅配便が届いたのは、今日の昼なの。いったい何ごとかと思って、父に電話をしたのだけれど、留守電で」
その頃、高橋老人は赤羽公園にいた。チビと会っていたのだ。
「父から電話が掛かってきたのは、ついさっき、三時五分前のことよ。思わせぶりなことを一方的に言って電話を切られたわ」
言いたくなかったのか、それともチビに聴かせたくなかったのか、とにかく由佳里は、父親の思わせぶりな言葉とやらを言おうとはしなかった。
「さすがに驚いて様子を見に来たの」
予想はもう、ついていた。それも当たったとしても、ちっとも嬉しくない予想だという自信もあった。でも、あえて俺は確認することにした。
「ここから家まで、どれくらい掛かる?」
「今の私で歩いて十分」
嫌な予感は、思った通り、大的中していた。
父親から届いた家電に由佳里は仰天したに違いない。連絡をしようにも留守電で、あげく掛かってきたのは思わせぶりな電話。さすがにこれはただごとではないと思い、そして父の安否の確認に実家を訪れた。計画通りに出火したとしても、さほど時間が経っていない―――本当に自分の身に危険が及ぶ前に娘がやって来る、イコール、事なきを得る。
「なんでこんなことをした?」
納戸に向かって怒鳴っていた。わけが判らなかったのだ。チビを編してまで、狂言自殺をする必要がどこにある? だが答えはなかった。もう一度訊こうとした矢先、「どうして判ってくれないの?」と、由佳里が言った。声も口調も、哀しみに満ちた懇願だった。
「お父さんは常に自分が主役で、何でも自由に好き勝手に生きてきたわよね。とうぜんよ、お父さんの人生なんだもの。だからお母さんも私も脇役なのは仕方ないと思うわ」
そこで言葉を止めると、「もちろん、こんな風に思えるようになるまでには、ずいぶんと時間が掛かったけれど」と、諦観の潜んだ声で、由佳里はつづけた。
「でももう、何度も話したわよね? それは、お母さんがいたからだって。お父さんのことを、誰より大切に思って、いつでも望むようにしてあげようと、お父さんの人生の脇役を喜んでしてくれていたお母さんがいたから、そう出来ていただけなんだって」
他人の人生の脇役を喜んで演じる―――、こう言われると、何だか高尚で難しいことのようにも思えるが、言い換えれば、相手を好きで、相手の幸せを望むからこそ、他の誰より、そして自分よりも相手を常に優先するということだろう。そう考えれば、あながち難しくも珍しいことでもない。―――俺ってば、我ながら賢いかも。なんて自己満足に浸っていた俺を現実に引き戻したのは、やはり由佳里の声だった。
「でも、あたしはお母さんじゃない」
怒りも哀しみも、その声からは感じられなかった。
「お父さん、来月で七十三歳だったわよね。結婚して、お母さんが亡くなるまでの四十年以上、ずっとそうして貰っていたのだもの、それが当たり前と思っても仕方ないわ。でもね、お父さんがそうして来られたのは、お母さんだったからなの。―――でも、あたしはお母さんじゃないわ」
静まりかえった戸の奥からは、何の音も聞こえてはこなかった。
「だからお母さんと同じように、どんなときでも、誰より何よりお父さんを一番になんて、してあげられない。あたしにはあたしの人生があるの。あたしの人生ではあたしが主役なの。お父さんは脇役でしかないのよ」
酷いことをわざと突きつけるような芝居がかった声でも口調でもなかった。だからこそ、これが由佳里の本心なのだと、俺は感じていた。
「あたしにとって今一番大切なのは、夫ともうじき産まれてくる子供なの。でもね、あたしはお父さんの娘よ。もちろん、お父さんが本当に困っていれば、夫より子供より、あたし自身よりもお父さんのことを考えるし、何でもする。だから、―――判って欲しいの」
諭すような声だけが家の中に響いていた。そして俺にはこの狂言自殺の動機も、もう判っていた。
脇役に徹して自分を立ててくれる妻を失った父親は、今度はその役目を娘に求めた。だが娘は拒んだ。我慢がならなかったのだ。ここに至るまでも、おそらく何度も二人の間には確執があったのだろう。だが、何をどうしても自分の思い通りに娘がしないことに業を煮やした父親が採った方法が、今回の騒動―――狂言自殺だったのだ。
火災であわやという状況から生還した父親を、娘は心配するに違いない。それこそ夫よりも、お腹の子よりも優先して。実に見事な計算だ。まったくお見事、―――ただし、最低。
「騙したんだね」
甲高いきいきい声と同時に納戸の戸が音を立てた。階段を上りきったチビが、戸を蹴ったのだ。だが、俺が蹴っても重い戸は、チビの脚力では小さく鳴るだけだった。
「僕のこと、騙したんだ!」
叫ぶと同時に再び戸を蹴った。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい」
チビの肩に両手を載せると、引き寄せながら由佳里は詫びた。
「嘘つき! どこが同じなんだよ! あんたは都合良く生きることを押しつけた方じゃないか! 嘘つき! 嘘つき!」
涙声で叫びながら戸を蹴り、拳で叩きつづけるチビを止めようと、由佳里はさらに屈むと、背後からチビを抱きかかえた。
「うるさい! 子供のくせに偉そうに。俺と同じだ? 冗談じゃない、七十二年生きて来た俺と、十三年しか生きていないお前が同じはずがないだろう! 」
ついに高橋老人の口から本音が出た。
「親の言うとおりにしたくないなんて偉そうなことを言うのなら、何一つ親の世話にならずに自分一人で稼いで暮らしてから言えっていうんだ!」
確実に言うだろうと俺が予想していた言葉を、やはり高橋老人は口にした。これを言われては、子供は言い返すことは出来ない。返すとするなら、「望んで産まれてきたわけじゃない」とか、「子供を作ろうと決めたのはそっちなんだから、面倒を看るのは当たり前だ」とかだろう。そして待ちかまえているのは、鶏が先か、卵が先か的な、ありきたりな泥仕合だけだ。
顔色のあまり良くないチビの顔が、悔しさからだろう、今は真っ赤に染まっていた。チビが口ごもったのに力を得た高橋老人が、勝ち誇ったように怒鳴った。
「自分一人では何一つ出来ないくせに、一人前に扱えなんて、ふざけるな!」
大きな目を見開いて納戸を睨みつけていたチビが俯いた。同時に床へと水滴が落ちる。水滴は途絶えることなく落ち続け、木製の廊下に点々と模様を作った。そのチビの背後から、廊下に膝を突いた由佳里が両腕で抱きしめていた。
「由佳里、お前もだ!」
今や身勝手な本性だけをむき出しにした高橋老人の攻撃は、今度は娘の由佳里へと向けられた。
「子供が育てて貰った恩を親に返すのは、とうぜんだろうが! 誰がお前を育ててやったと思ってるんだ! 今のお前がこうしていられるまで、生活費から学費から、全部でどれだけ金が掛かったと思ってるんだ? 貰うものだけ貰って、何もしないだなんて、そんなことが許されると思っているのか? お前は、どこまで強欲なんだ!」    由佳里の頑にも、涙が道筋を作っていた。
俺は涙に弱い。女性ならば年齢問わず、もちろん妊婦でもだし、男でも目の前のチビの涙には弱い。そして俺は二人が泣いている理由を、知っている。
そもそも今日は二十四時間勤務明けの非番日だ。勤務時間中、仮眠の時間はあるとはいえ、時間は短いし、いつ何時の出動要請に備えて眠りは浅い。腕時計にちらりと目をやると、時刻は午後四時を廻っていた。いつもならば昼前に帰宅してたっぷり眠って、そろそろ遊びに出掛けようという時刻だ。なのに俺は今、高橋老人の家にいる。自分のわがままを押し通すために、子供を騙し、狂言自殺までしようとした老人は、そのもくろみを阻止されて、納戸の中に立てこもっている。しかも俺はそんな最低最悪な野郎を、娘に遺すために自決を思い立った泣かせる美談の主だと思い、良い奴だとすら思いもしたのだ。とたんに、疲れと同時にどっと怒りを感じた。まったく俺は何をしているんだか。―――もう、たくさんだ。
「|あ《〃》〜」
唸り声を上げながら、俺は二人の脇をすり抜けて納戸の前に立った。渾身の力を込めて右脚で戸を蹴りつける。重い音が鳴ると同時に、足首がずきんと痛んだ。もはや記憶の彼方だったが、足首を捻っていたんだった。痛みは頭に伝わると同時に、怒りに化けた。痛みを承知で再度蹴る。納戸の奥から、ひいいっと小さく息を吸い込む音が聞こえた。怖がっているのだ。怖がっている―――危ない目に遭いたくないのだ。娘の関心を惹くために、子供を編してまで狂言自殺を計画し、実際に試みた男が怖がっている。その事実が助燃剤となって俺の怒りの炎を一気に爆発させた。
「狂言自殺だ? それも放火だ? ―――ざっけんじゃねぇぞ」
怒鳴ると同時に三度、戸を蹴る。戸の中からの反応はなかった。だが、息を殺している気配は感じていた。好き放題やったあげく、納戸の中に立てこもりつづける老人。戸を蹴ろうが何をしょうが、出てこようともしない。だったら、いつまでもこの中にいれば良い。
そうは思ったものの、怒りは収まらなかった。何が何でも引きずり出して、チビに謝らせたかった。由佳里にも詫びさせたかった。もちろん怪我までして火を消した俺にもだ。今度は手で殴りつけようと腕を引いたそのとき、「教えて欲しいの」と、由佳里の静かな声が聞こえた。
振り向いた俺が見た由佳里は、チビを背後から抱き締めたまま、真っ直ぐ納戸の戸を、いや、戸の中に隠れている父親を見つめていた。
「お父さん、あなたはなんで子供を―――私を作ったの?」
家の中は、しんと静まりかえっていた。しばらくの沈黙ののち、やっと高橋老人の声が響いた。
「―――なんで、つて」
戻ってきたのは、問い返しの短い言葉だった。俺は気づいた。これは、ただの一度も考えたことがない者の声だと。その返事を耳にしたとたん、由佳里が「―――もう、いいわ」と、吐き出した。
「ありがとう、お父さん」
俺には由佳里の言ったことが理解出来なかった。この状態で、何をどう礼を言うことがあるというのだろう。チビもまったく同じらしく、大きな目に疑問だけを浮かべ、首を捻るようにして背後の由佳里を見上げていた。
「あたしはもうじき親になる。出産予定日は来月よ。来月、あたしは親になるの」
大きなお腹を両手で愛おしそうにさすりながら、由佳里はつづけた。
「このところ頭にあるのは、現実的なことばっかりだったわ。何を買わなくちゃいけないのか、何を食べさせれば良いのか、それこそ今心配しても仕方ないくらい先のこともね。小学校は公立にするか私立にするか、公立なら良い学校のある学区に引っ越さなくちゃとか。―――すっかり忘れてたわ、もっと根本的な、大切なことを」
由佳里の声には、怒りや哀しみなどの激しい感情は感じられなかった。それどころか、さっき言ったとおり、感謝の念が感じられた。
「もっと大切なこと?」
訊いたのは高橋老人ではなく、チビだった。由佳里はチビを見下ろすと、微笑んだ。その顔は、間違いなく母親のものだった。
「そう、もっと、何より大切なこと。親になるって、どういうことなのか、ってこと」
チビの肩に手を置くと、由佳里は再び納戸へ視線を戻して語り始めた。
「何を言っているんだ?」
納戸の中から返ってきたのは、困惑しか感じ取れない問いだった。
「この子はあたしと夫、二人の子。でも、あたしとも夫とも違う、別な人間なんだってことよ」
チビを見下ろして再び微笑むと、由佳里はまた戸に目を戻して先をつづけた。
「偉そうに何が判るんだって、お父さんは言うでしょうね。でも、あたしにだって想像はつくの。親になるのは大変なことだって。苦労と責任ばかりいっぱいで、自分を犠牲にすることもたくさんあると思う」 由佳里の声は穏やかだった。
「他の人のことは知らない。でも、少なくともあたしと夫は、結婚したんだから子供を作るのは当たり前みたいな社会の風潮に流されたのでも、それぞれの両親が望んだから期待に応えたとかでもないの。もちろん、自分たちが世間に一人前と認めて貰うためでもないし、まして言いなりになる老後の保障として、なんて思ったんじゃない。家族を作ろう、そう願って決めたの」
由佳里はそこで言葉を止めた。一つ深呼吸してから、再び口を開いた。
「ここまではあたしと夫二人だけの考えよ。産まれていないこの子の意見は、今はまだ入りようがない。でも産まれたら、この子の意見や夢もきちんと聞かなくてはいけないの。あたしとも夫とも違う、別な一人の人間として。だって、この子も家族の一人なんですもの」
瞬き一つせずに、チビはまっすぐ由佳里を見上げていた。俺もまた、由佳里の言葉にただ聞き入っていた。
「この子はあたしたちにとって、いつまでも子供。この子が歳を取る分、あたしたちだって歳を取る。何をどうしたって、この子があたしたちが生きてきた年数を超えることはありえない」
―――うん。そりゃ、ありえない。あったら怖い。
「だからって、いつまでも子供扱いして、親であるあたしたちの言う通りにしていれば良い、その子の意見なんて聞かなくて良いわけはないの。だって、もしも」
つづきはなかった。由佳里はかすかに眉を寄せ俯き、口を噤んでしまったのだ。自問自答しているのだろう。わずかに間が空いた。やがて由佳里は顔を上げた。笑顔だった。その笑みが由佳里自身に向けられているのは、俺にも判った。由佳里は答えをみつけたのだ。
「よっぽどのことがない限り、あたしと夫はこの子より先にこの世からいなくなる。そのとき、この子に家族がいるかは判らないけれど、もし一人だったとしても、自分一人で生きて行けるような人間であって欲しいの。自分で考えて行動出来る、それを周りの人にも認めて貰えるような人になって欲しいの。そうじゃないと、この子が困るもの。この子の不幸なんてあたしは望んでいない、幸せだけをただ願っている。だったらまず、他の誰でもない親であるあたしと夫が、この子を一人の人間と認めなくちゃいけないのよ」
言葉を重ねていくうちに、由佳里の顔はだんだん厳しいものに変わってきた。出された言葉も表情も、どちらも本人に向けられた決意だった。その厳しい顔を、俺は美しいと思った。
「欲しいと望んで作ったのは親だから、苦労はとうぜん、でも産まれたとたん、子供は親とは別な一人の人間なんだから、親の望み通りに育たなくても仕方ない、諦めろって言うのか? そんなこと自分が親になって、子供に今の俺のような仕打ちをされても言えるもんなら」 馬鹿にしたような高橋老人の言葉を最後まで待たずに、「ええ、言えないと思う。きっと子供を恨むと思う。非道いと泣くと思うわ」 と、由佳里が苦く、だが強く言った。
「でもね、お互いを一人の人間として尊重しあえる、そういう親子にあたしはなりたいの」
「そんなの、ただの理想論だ。空想、いや妄想だ!」
高橋老人は、そう吐き捨てた。だが由佳里はそれに、きっぱりと言い返した。
「あたしはね、お父さんみたいになりたくないの!」
まさに一刀両断。これには戸の中から返事はなかった。
「お父さんには感謝してる。大切なことを考えさせてくれたから。―――ありがとう」
そう言うと、由佳里はゆっくりと頭を下げた。もちろん戸の中の父親にそれが見えるはずもない。
だが、高橋老人は気配の変化を察したらしい。
「おい、待て。まさか帰るのか?」
「ええ、帰るわよ」
軽やかに由佳里は答えた。そして俺を見上げると、申し訳なさそうに「本当にありがとうございました」と、頭を下げた。あわてて俺も頭を下げる。つづけて由佳里はチビへも詫びた。
「本当にごめんなさい」
チビは黙ったまま首を左右に振った。その視線は、由佳里の膨らんだお腹に向けられていた。
「触ってみる?」
由佳里の声に、チビはびくりとすくみ上がった。
「大丈夫、触ってみて」
チビの手を取ると、由佳里は自分のお腹に寄せた。指先が触れて、チビの発した言葉は「硬いんだ」だった。
「ええ、ガードル穿いてるもの」
おっかなびっくりだったチビは、あけすげな言葉に安心したのか、手のひら全体をお腹に当てた。
「―――動いた?」
「ええ、よく動くの」
微笑ましい会話をよそに、納戸の中からは恨みがましい声が投げつけられた。
「由佳里、俺を見捨てるのか?」
「いいえ」
一言で由佳里は否定した。だがすぐに、「でも、優先順位はあたしが決めます。じゃぁ、帰るわね」と、きっぱり言ってのけた。
そして俺に顔を向けて口を開けたものの、出てきたのは 「ええと、あの」
どうやら俺の名前など忘れてしまったらしい、呼び方に困っているのを察したチビが「大山さんだよ」と、口添えした。
「すいません」と、小さく詫びてから「放っておいても大丈夫でしょうから」と、帰宅を促した。
領くと、俺も階段へと足を踏み出した。もう、ここには用はない。俺の重みで床板がぎしりと喝った。
「おい、待て! 本当に帰るのか? 俺を置いていくのか?」
「ええ、お夕飯の買い物もまだだし。―――じゃ、またね」
由佳里の言葉に、俺も空腹を感じた。
「俺がこのままでもいいのか?」
「出たければ、勝手に出ればいいじゃない。出られないわけじゃないでしょ?」
よっこいしょとかけ声を掛けて、由佳里が階段を下り始めた。その手をチビがしっかりとつかんでエスコートする。―――なんか、良い光景。とうぜん俺もつづく。こんな場所、とっとと退場だ。
「おい、待て!」
戸の中から、もはや必死な声が響く。三人揃って、もちろん無視。
「―――そ、そうだ! お前たち、うちの窓を割って、勝手に家に入っただろう? 不法侵入で訴えてやるからな! それにそのガキが、今まで自殺の手伝いをしてきたことを、警察に言ってやる」
三人とも脚が止まった。先を降りる由佳里とチビが同時に振り向いた。二人とも蒼白だった。
きびすを返し、一気に納戸の前まで駆け上がっていた。さすがに許せなかった。怪我までして火事を阻止してやった俺に対して、なによりチビへの言い草は許せなかったのだ。戸を蹴りつけようとしたそのとき、由佳里の声が響いた。
「忘れているかもしれないけれど、お父さん、もうじきお祖父ちゃんになるのよ」
声の中から途切れることなくつづいていた呪いの言葉が、ぴたりと止まった。
「お父さんとお母さんがいなかったら、あたしはいなかった。あたしがいなければ、この子は産まれてこない。お父さんがいるから、この子は産まれるの」
由佳里が口にしたのは、至極《しごく》当たり前のことだった。だが、妙に新鮮に聞こえた。
「お父さんの存在はあたしに、そしてこの子に、この子が大きくなって子供を作れば、そのまた子供に繋がっていくの。お父さんが生きていたことは、この先、ずっと子どもたちの中に受け継がれていくのよ。どれだけお父さんが、自分一人が良ければあとは知ったことではないと思っていたとしてもね。だから、もう止めて。この子の、そのまた先の子供たちの自慢のお祖父ちゃんになって」
振り向いて納戸を見上げる由佳里の顔は、慈愛に満ちていた。すっかり静かになった納戸を前に、言うことなど、俺は何もなくなっていた。
「じゃ、帰るわね」
由佳里の声に、俺も再び階段を下り始めた。一階まで降りきったところで、俺はあることを思い出し、二階の納戸に向かって怒鳴った。
「おい爺さん! 長生きして孫の顔を拝みたいのなら、この家、リフォームした方がいいぞ!」
返事はなかった。
「断熱材が沈んで、役に立ってないどころか、出窓の下なんてオイルストーブの熟で壁の中の柱が炭になってやがった。台所も調べた方がいいぜ」
「それ、どういうこと?」
訊いたのは由佳里だった。かいつまんでこの家の壁の中のことを説明すると、由佳里は驚きで息を飲み込んだ。
「それって、このままにしておいたら、自然に火事になっていたって言うの?」
驚きの声を上げたのはチビだった。
「ああ、そうだ。放火工作なんかしなくてもな」
「本当に、火が出ていたかもしれないの?」
蒼白な顔で由佳里が重ねて訊いた。俺は領くことで肯定すると、再び納戸に向かって怒鳴った。
「こんな小細工なんてしなくたってな、もう何日かオイルストーブを使うか、でもなきや、次の冬には確実に壁の中から火が出ただろうよ。そしたら今回みたいな狂言じゃなく、本物の火事で焼け死に出来るぜ!」
ごとごとと重い音を立てて、納戸の戸がわずかに開いた。狭い隙間からは、高橋老人の顔は見えなかった。隙間に向かって、俺はさらに怒鳴った。
「自分の思い通りにならないなら死にたいってんなら、俺は止めない。けどよ、爺さん。火事は止めろ、火事は。俺の仕事は消防士だ。だから一一九番通報が入れば、相手が誰だろうと助ける。それこそあんたみたいな狂言じゃなくて、本当に死にたくてたまらない奴だって助けるんだ。―――どれだけ、助けたあとに、何で助けたって詰られようが、せっかく助けたのに、そのあとけっきょく自殺されようが、だ」 要救助者に消防士が、なぜ助けたと詰られることは、珍しいことではない。自ら死を望む人には、色々な事情がある。生きていればなんとかなるなんて、とても言えない現実を抱えた人間もいくらでもいる。それこそ、寺本夫妻や山口澄香さんのような。
だが消防士は要救助者の個人の事情は知らない。助けを求め一一九番通報が入った。だから出場して助ける。それが仕事だからだ。だがどれだけ命賭けで救出しても、助けた相手が自ら死を望んで隕た場合、「なぜ助けた」と、詰られる。あげく後日、救助者が自ら命を絶ったと知ることもある。消防士にとってこれほど虚しいことはない。
それに死などまったく望んでいないのに、災害に巻き込まれた要救助者を救出したときでも詰られる事はある。顕著な例は、要救助者が災害で障害を負った場合だ。幸運なことに、俺はまだ経験がないが、我が赤羽台の愛すべき救急隊IQちゃんズや、富岡のオッサンから、話を聞いたことは確度となくある。
交通事故に巻き込まれて無事に救出され、一命は取り留めたものの、脚を失ってしまったサッカー少年。火災現場から生還出来たものの、全身に重度の火傷を負った、まだうら若き未婚の女性。人を助けるのが消防士の職務だ。なのに、なぜ助けた、見殺しにしてくれた方がましだったと要救助者に詰られる。これもまた、消防士の職務の一面なのだ。
もちろん、自殺する気のないアル中でも助ける。たとえそいつを救出するために消防士が命を落としたとしても、後日そのアル中がまた酔っぱらって車道に飛び出し事故死して、消防士の死が虚しい犬死にになったとしても―――ちなみにその犬死に大馬鹿野郎は俺の親父だ―――、日本中の消防士たちは一一九番通報の出動要請に従って、ひたすら人を救いつづける。それが仕事だからだ。
「税金から給料を貰っているんだから、とうぜんだ!」
はいはい、来ると思った。この手の輩の常套句《じょうとうく》は、承知のうえだ。
「納税は国民の義務だろうが。消防って組織を作って、それを税金で運営するって決めたのは国だ。文句があるなら、国に言え!」
さすがにこれには爺もぐっと詰まったようだ。消防の財源は国税ではなく地方税だが、この際、細かいことはスルー。
「言っておくがな、爺さん。俺はあくまで仕事として、消防士をやっているだけだ。だから勤務時間中なら人を助ける。それが仕事だからな。けど、勤務時間外まで、それこそ自分の身を危うくしてまで人を助けようなんざ、これっぽっちも思っちゃねぇ」
納戸の中から息を呑む気配を感じた。同時に背後からの非難めいた視線もだ。納戸の中は予想の範疇だったし、背後の高い視線―――由佳里も驚きはしなかったが、問題は低い視線―――チビだ。放火の 幇助をさんざんしておいて、なのに消防士たる者、休日であろうと、自身が危険に晒されようと、何が何でも人命救助に勤しめと? ―――そりゃ、お前、いくらなんでも図々しいだろうがよ。
思わず腹の中で舌を打ち鳴らす。ここにもまた、消防士を始めとする公務員に、過度な期待を寄せる、―――いや、偏見でしかない間違った認識を持つ民間人、複数名が。
だから、公務員は国民のために一年三百六十五日―――うるう年はプラス一日1、二十四時間不眠不休の休みなしで奉仕する存在じゃないっての。職に就くにあたっての志がどうのこうのと言い出すと面倒なことになるから、最近ではそういう勘違いな輩にはこう言うことにしている。自分には適用されてとうぜんの労働基準法を忘れるな、だ。
「非番の今日、俺があんたを助けたのは、あくまで特例だ。だいたい、あんたが生きていようと死のうと、俺にはまったく関係ねぇ。でも、助けた。それはな」
俺はそこで言葉を止めた。背後からの二人分の視線は、充分に感じていた。
「あんたみたいなどうしようもないクズでもな、生きていて欲しいって願う人がいるからだ」
家の中は静まりかえっていた。
「俺はその人たちのために、あんたを助けた。いいか、爺さん。あんたには、あんたに生きていて欲しいって願っている人がいる。そのこと、忘れんなよ!」
背後の視線から受ける印象が、今までと変わった。それまでの冷たさというのか、呆れたの代わりに感じたのは、なんかこう、背中が暖かくなるような、―――多分、感謝。そして感心とか感動。―――なんか、美しい誤解が生じていそうで、すごく嫌なんですけど。
俺は心底本当に、職業としてしか消防士をやるつもりはないし、実際、やってもいない。―――ああ、もう、撤収、撤収。言うべき事はすべて言った。あとは、とっとと帰るだけ。
階段を下り始めた俺を待っていたのは、案の定、感謝と尊敬に満ちた由佳里とチビの眼差しだった。眼を合わせないように、視線を階段に落としながら「帰ろうぜ」とだけ言った。ありがたいことに頒くことで返事に代えてくれた二人が、俺の先を進む。
三人揃って玄関から外に出ると、空はあかね色に色を変えていた。ちらりと腕時計に眼を向ける。時刻は五時近くになっていた。とたんにどっと疲れを感じた。昼飯は食ったものの、当番日明けで睡眠不足のところに、休みもなしで今に至るのだから、そりゃ疲れてとうぜんだ。しかもしたことと言えば、図らずも勤務時間外の人命救助。 − なんかもう、最低最悪。
だが、自分でも変な気分だが、決して心地の悪い疲れではなかった。俺の横には、これから母親になろうとしている由佳里。新米ママというには、ちょぴっととうが立っている気もするが、その横顔には、親になろうとする大人の威厳が溢れていて、気品すら感じられた。俺の母親の民子とダチの裕二がよく言う言葉に、品は知性というのがある。今の由佳里は、その言葉が正しいことを立証していた。そして由佳里と手を繋いでいるチビの顔も、憑きものが落ちたように晴れやかだった。
二人を見ていると、何というのか、こう、一つの達成感ってヤツなんかを感じたりしちゃって、なかなかどうして良いんじゃないの? 少しばかり、心がふんわり温かくなった俺の耳に、「本当にお二人には、どうお礼をしたらいいのか」と、申し訳なさそうな由佳里の声が届いた。
―――う、マズい。これは俺が一番忌み嫌うパターンだ。とたんに落ち着かない気分になる。
誰かに感謝された場合、模範的な通常の受け答えは、こうだろう。 ―――いえ、どう致しまして。だが、俺の職種を加味すると、こうなる。―――仕事ですから。
人を助けるのが消防士の仕事。もちろん、俺には完全肯定するつもりはないが、でも貰っている給料の大部分を占める活動だというのは事実だ。となると、やはり感謝の言葉への返答はこうなる。
―――いえ、仕事ですから。
でも俺は言いたくなかった。脳裏に浮かぶのは一人の男。右手で首の後ろをつかむように当てて俯き、少し怒ったようなぶっきらぼうな、それでいて照れたような仕草で、人を助けるたび、それこそ非番の休日でもそう言って、あとは口を噤んだ男―――俺の親父。
親父は人助けをする消防士である自分に、人に感謝されることに酔いしれていただけで、そのために殉職したつまらない男だと、俺はずっと思っていた。―――いや、思い込んでいた。でも今は親父の気持ちが少しだけ判る。助けが必要な人間を、そいつに生きていて欲しいと願う人のもとに返す、たとえそいつが世を儚み絶望し、自ら死を望んだとしても、そいつの生を望む人がきっといることに気づかせて、もう一度やり直すチャンスを得る手助けをする、それだけを親父は願って、だから消防士になったのだ。
そしてもう一つ、俺は気づいていた。記憶の中の親父は、「仕事ですから」と言ったあと、必ず口を噤んだ。だが何か言いたそうな視線を、お礼を言った相手に向けていた。
親父が何を言いたかったのか、今は判る。これが消防士の仕事なのだから、感謝などいらない。ただ、もし感謝をしてくれるのなら、これからは精一杯生きて欲しい、あなたの生を願う人たちと、ともに幸せに暮らして欲しい、それが消防士である自分への、何よりの感謝なのだから―――親父はそう言いたかったに違いない。でも言わなかった。ただの一度もだ。助けた相手に、そんな偉そうで説教臭そうなことを言うなど、親父のことだ、おこがましいと思っていたに違いない。
何しろ、親父の口べたは折り紙付きだ。民子へのプロポーズのときも、「結婚して下さい」と、口に出すまでに掛かった時間は、最初の「け」を口にしてから沈黙すること二十七分後で、そしてやっとプロポーズし、民子が二秒と間を空けずに「はい」と即答したら、たっぷり三分以上の間が空いて、返ってきた言葉が「あがとりい」。もちろん、民子には判っていた。ありがとう、だと。それほど親父は口べたで、照れ屋だった。そんな親父だからこそ、おこがましいことなど言えなかったに違いない。―――しかし、肝心要なところで、あがとりいはないだろう、あがとりいはよ、親父。
今の状況とはまったく関係ないことを考えている自覚はあった。それもひとえに「仕事ですから」を、回避するためだ。そのときだ、チビがくるりと振り向くと、二階に向かって怒鳴り始めた。
「最低、最悪!」
今の子らしく、発音はサイテー、サイアクー、ともに語尾上げ。
「僕はあんたなんて大っ嫌いだ! いい歳して自分の思う通りにならないからって、こんなことまでするなんて、超ダサい! 超カッコ悪い!。」 超の発音も、チョーと今風。―――あれ? 超って、もう死語じゃなかったか? とにかく、今日初めて聴く勇ましいチビの声は、俺の耳には快かった。よし、チビ。心ゆくまで詰れ、罵れ。心の中に溜まったものを全部、爺にぶつけてしまえ。お前にはその権利がある。
「嘘つきのあんたなんか死んじゃえって、本当は今も思ってる! 今日の計画を知っているのは、ここにいる三人だけなんだし、みんなで話を合わせれば、計画通りに失火で殺せるんだからな!」
―――おいおい、娘さんの横で、ついでに消防士の俺の横で、その発言はいくらなんでも。
ちらりと窺い見ると、由佳里は驚きも憤慨もしていなかった。それどころか、チビに優しい笑顔を向けていた。理由はすぐに判った。チビと由佳里の手は繋がれたままだったのだ。結ばれた手を通して、言葉以上の何かが二人の間に流れているに違いない。
「でも、許してやる!」
チビのきいきい声が、凛《りん》と響き渡った。
「由佳里さんのために、もうじき産まれる赤ちゃんのために。休みの日なのに怪我までして助けてくれた消防士の大山さんのために。三人のために、仕方ないから許してやる! 本当は許してなんか、やりたくない。だけど、許してやる!」
幼く甲高いチビの声に、不思議と威厳を感じた。
「でも、もしもまたこんなことをしたら、由佳里さんや、由佳里さんの子供を哀しませるまねをしたら、大山さんの怪我を無駄にしたら、僕が許さない! 誰が許しても、僕が許さないからな!」
怒鳴り終えたチビは、まっすぐ納戸を睨み上げていた。その眼には怒りと決意があった。年齢がどうのこうのではなく、一人の人間としての強さが滞っていた。―――なんか、格好良いんですけど。
悔しいが、身体の大きさよりも、実年齢よりも、チビが大きく格好良く見えた。―――ちょっと、ちょっと、カッコ良くなーい? なんか、もう、立派な男ってカンジぃ? と、心の中でこれまた死滅しっつある語尾上がりギャル語で呟く。そう茶化したのは、本気でチビが格好良く思えたから。それがちょっと悔しかったからだ。
お前、やるじゃん、とばかり、肩でも叩いて賞賛してやろうとした矢先、チビは顔を正面に戻すと、「帰ろ」と、ぼそりと言った。それこそ、何事もなかったかのようにだ。
それまでの怒鳴り声とのギャップに、腰砕けになる。そう言えば、そもそもかみ合わない会話をするガキだった。公園での妙な会話を思い出す。記憶はもはや、ずいぶんと昔のものになっていた。それも楽しい記憶にだ。なんとなく愉快な気分になった俺は、チビの頭の上に手をやった。
「―――ありがとう」
チビに向けられた由佳里の言葉は、湿っぽかった。感謝しているのだ。駄目な父親を許してくれたチビに。
そして俺達は解散した。怪我の手当を、何かお礼をと言う由佳里に、チビと俺は二人揃って必要ないと断った。その方がお互いに良いからだ。チビには由佳里に知られてはならない前歴がある。だからチビは名乗りもせず、そして俺は職業を明かしてしまった以上、言いたくはなかったが、けっきょく「仕事ですから」で、片づけた。もちろん右手で首の後ろをつかまずにだ。ただ、どうにも手のやり場に困って、あわててパンツの尻ポケットに両手とも突っ込んでだが。由佳里も察してくれたようで、深くは追及しなかった。
「今日のこと、忘れないで。どれだけ大変でも、腹が立っても、期待を裏切られても、忘れないで」
別れ際、チビが由佳里に言った言葉には抜けている言葉があった。でも意味は通じた。由佳里も大きく領いた。何度も何度も、再び額に涙の道筋を作りながら、くり返し領いていた。
俺は暮れゆく夕日を眺めていた。ちょびっとだけ、俺の目も湿っぽくなっていたのは、ここだけの内緒だ。だから何というのか、その、春の夕日は眼にしみるってことで勘弁してくれ。
第十章
長い一日の締めくくりは、蓬莱の軒先での一服だった。空き缶の灰皿を挟んで横に立つのは魂のダチの裕二。反対側の足下にしゃがみ込んでいるのは裕孝―――この頃には、チビから裕孝に格上げになっていた。
由佳里同様、それではここでと、チビとも解散とはいかなかった。俺がチビの携帯電話と学生証を預かって―――取り上げて―――いたということもあったが、それ以上にチビ本人の話を聴きたいと思っていたし、何よりチビが立ち去ろうとしなかった。
こうして蓬莱ののれんの前でまったり一服するに至るまでは、それなりに色々とあった。もとより俺とチビとの二人連れには無理があった。チビはチビと呼ぶに相応しい身体の小さな十三歳。そして俺はほぼ二メートルの大男で、しかもあちこち怪我して出血している。こんな二人組を、先入観なしで見て下さいと世間の皆様にお願いしたところで、まず無理に違いない。
パターンはこうだ。まず、俺を見てぎょっとする。それからチビへと眼を向け、俺と見比べる。おそらく血縁等の関係性を見いだそうとしているのだろう。だが何一つ類似点がないと判断したとたん、チビへと眼で合図する。発せられた信号は、「大丈夫? 警察に連絡した方が良い?」だ。いちいち説明するのも面倒くさい。さてどうしたものかと考え始めた俺をよそに、チビはたった一つのアクションでそれを解決した。手を繋いだのだ。
乾き始めた血で滑る俺の手を握るチビの手は遠慮がちだった。俺はしっかり握り返してやった。とたんにチビの手にも力が加わった。俺たちの間に言葉はいらなかった。もちろん、剣呑な視線で見ている周囲の連中にもだ。俺はいつも通りにカブに跨り、そしてチビも当たり前のようにカブのケツに跨り、特大ヘルメットを被りなおして、しっかり俺の腹に腕を巻きつけた。周囲の視線は、あっと言う間に消えてなくなった。カブに二ケツでツーリングしようとする俺たちは、べつだん違和感も不思議もない、ごくありふれたものとなったのだ。人は人の中に隠せとは、良く言ったものだ。目立ちたくなかったら、人の目につくような違和感を出さなければ良い。もっとも身長がほぼ二メートルの俺は、存在しているだけでかなり厳しい。―――ちぇっ。
とりあえず、出会った赤羽公園まで戻った。預かっていた二つを返し、ついでに二人で手も顔も良く洗ってから、俺はチビに言った。
「お前の言う通り、お前が困ったり悩んだりしていることを、たぶん俺は今まで一度も考えたこともないと思う。だから答えを聞いても、ちゃんと理解出来ないかもしれない。―――だけどよ、聴きたいんだ」 大きな目を一杯に見開いたチビが俺を見上げていた。その真剣な目に、俺はどぎまぎしてしまった。
「ええと、だから、もしかしたら俺にも判るかも知れないし。―――いや、判らなくてもだな、判ったら艮いなというのか、判りたいって」
自分でも何が言いたいのか、判らなくなって来たところに、「両親」と、大きな目でまっすぐ俺を見つめながら、チビがはっきりと告げた。
やっぱりと思う反面、きっとありきたりの話に達いないという思い込みを、俺はきっぱりと捨てた。とにかく話を聴く。チビの思いの丈をすべて聴く。そう決めたのだ。
「でも、そろそろお前、帰らないとならねぇ」
最後の、よな、を言い終える前に、チビは手元に戻った携帯電話で、素早くメールを打ち始めた。その右手の親指の動きたるや、芸術の域に入っていると言っても過言ではない。あっと言う間にメールを打ち終えたチビが、「連絡入れたから、十一時までに帰れば大丈夫」と、答えた。
おいおい、メール連絡一本で、中学二年生の門限が十一時でOKって、どんなウチだよ? って、プチ家出も珍しくなくなったこのご時世、連絡を入れる習慣があるだけチビの家庭はマシなのかもしれない。―――いや、こんな低レベルなところで較べること自体が自分でもどうかと思うが。
いざ話をと思ったものの、すっかり日の暮れた公園でチビと二人となると、やはり小さな男の子好きの変な人と思われかねない。ではどこに場を移すべきか。適当な場所を考え始めた俺の耳に、くぐもった音の、でも陽気なメロディが聞こえてきた。笑点のテーマ、俺の携帯だ。素早く耳に当てると、「飯、どうよ?」と、挨拶抜きで用件が告げられた。裕二だ。
そりゃ、腹は空いている。だがチビの話を聴くと決めた。わずかに悩んで俺は答えた。「行く」と。
毎度おなじみの蓬莱に着いたのは、裕二が先だった。江さんの「いらっしゃいませ―、ようこそお超し下さいました――」という、相変わらず丁寧な出迎えを聞きつつ、裕二が陣取るテーブルに直行する。テーブルの上にはすでに箸をつけられたザーサイと、コップ一杯分は減ったビール瓶が並んでいた。
「うす」と、言うと同時に挙げた裕二の手は、俺の後ろにすっぽり隠れていたチビを見つけて、下ろれることなく、上げられっぱなしになっていた。
「ほら、そこ座れ」
裕二の真正面の席に腰を下ろしつつ、俺の隣の席をチビに勧めると、腰を下ろす前に、「福島裕孝です」と、裕二に礼儀正しく名乗って、深く頭を下げてからチビは腰を下ろした。
「いつの間にこんなデカいガキを作ってたんだって、突っ込もうかと思ってたんだが、こいつはお前の遺伝子は引いてないな」
なんだそりゃ? と、眉だけ挙げて訊ねると、手を下ろした裕二が、ザーサイを口に放り込みながら、「お前のガキなら、こんなに礼儀正しいわけがない。で、どこからさらってきた?」と、言ってのけた。
誰が人さらいだ。無言で拳を伸ばすと、裕二が挙げた手で、軽くブロックした。あいかわらず、良いハンドワーク。
「誰?」
裕二は俺を無視して、まっすぐチビを見つめて訊ねていた。その間に俺は江さんに「ビール大、それから麻婆春雨、ちょい辛目。あと飯」と、注文した。もちろんチビの分も忘れてはいない。
「お前、辛いの平気か?」
返事はなかった。チビは裕二を前に、イスの中で身を縮めて、ただ固まっていたのだ。
俺の魂のダチの裕二は、黒目がちの眼といい、笑うときゅっと上がる口の端といい、一見、お利口な豆柴犬を彷彿とさせる好感度の高い顔を持つ。だがチビは、ハムスター似の印象に違わず、小動物 独特の勘で危険を察知したらしく、裕二から眼が離せずにいた。仕方なく、肘でつついて再度訊く。
「ここの名物は麻婆料理で、麻婆豆腐か、麻婆茄子か、でなきゃ、麻婆春雨なんだけどよ、食べられるか? 辛さの調節はして貰えるぞ」
「―――辛いの、あんまり得意じゃない」
おどおどした小さな声でチビは答えた。顔も眼も、まっすぐ裕二から離さずにだ。
「豆腐でいいか?」と訊ねると、領くことでチビが答えた。
「江さん、辛さ控えめの豆腐も」
「はい―――、かしこまりました―」
俺と江さんの注文のやりとりをよそに、裕二とチビは無言のまま、互いに見つめ合っていた。こりゃいかん。硬直状態をどうにかしようと、「あー、こいつはな」と、俺が口を挟むと、裕二が左手を挙げて、さっと振って却下した。こいつに訊いている、というわけだ。こうなったらどうしようもない。俺はさっさと諦めた。
「福島裕孝です」
チビが小さな声で、まず名を名乗った。
「それは聞いた。―――裕二だ」
裕二は滅多なことでは苗字を名乗らない。理由は簡単、バカ親父との繋がりを疎んでいるからだ。
「で?」
次に発せられたのは、ひらがな一文字だった。だが、その一文字にすべてがあった。訊ねているのは俺との関係だ。俺が口を挟もうとすると、再び裕二の左手の動きに制止された。
「僕は、あの」
そりゃ、簡単には説明出来ないだろう。というより、これだけギャラリーの多い中、事細かに俺との出会いやら今日一緒にしてきたことを、言って貰っては俺も困る。
「こいつは放っておいて良い。話してくれ」
今度は俺が裕二を制止する番だった。俺と眼を合わせた裕二は、ひょいと肩をすくめると、あとはすっかり興味を失ったかのように、ひたすらザーサイをつまみにビールで一人の晩酌に没頭した。
裕二のことを気にしつつも、チビは俺に話し出した。チビに出会って以来、俺が予想していたことは半分当たりで、残りは完全に外れていた。思い通りに生きていることしか望まれていない、そうじゃなければ要らないとチビが思いこんだ相手は両親。ここまでは大当たり。だがそこから先が、俺にはかなり苦手というのか、微妙な内容だったのだ。その発端は、「本物の僕って、どんな人なんだろう」という言葉だった。
―――うわっ、出たよ。
チビの口から出された言葉に、俺はコンマ二秒でうんざりしていた。
本物の自分、本当の自分、誰が言い出したかは知らないが、俺はこの言葉が嫌いだ。いや、正しくは、こういうことを平然と言う連中が大嫌いだ。奴らはほざく。本物の自分は、好きなことをしているときの自分です。好きじゃない、やりたくないことをしているときの自分は、本物の自分ではないんです―――、と。
奴らに言いたいことは色々とある。だが、一言だけ。自分のことを本物じゃないと、平然と言ってのける連中とは、俺はお近づきにはなりたくない。そもそも、自分で自分を否定してどうするんだっての。うんざりしつつも、ふと引っかかった。チビが言ったのは、「本物の僕って、どんな人なんだろう」だ。―――それって本物の自分が判らないってことか?
口を挟もうとしたそのとき、鋭い痛みを足に感じた。原因を解明しようと視線を動かして、裕二と眼が合った。原因が判明した。裕二が俺の足を踏んだのだ。仕事帰りの安全靴のまま。それもつま先ではなく踵で、しかも踵の突端の鋭角なところでだ。むかっと来て、口を開き掛けた矢先、その眼に黙らされた。裕二の目が語っていたのだ。「黙って聴け」と。俺は口を噤んだ。もとよりただ話を聞くつもりだったし、半端なく痛い安全靴キックはご免だったからだ。
何事もなかったかのように、裕二は「江さん、麻婆茄子。激辛ね」と、注文した。
「本当に辛くしてよろしいんですかー?」
厨房から顔を出して確認する江さんに、裕二は 「うん、力一杯辛くして」と、さらりと答えた。
激辛? 力一杯辛くしろ? 前回で懲りてないのか、それとも癖になったのか。呆れた目つきで眺めると、裕二はひょいと肩をすくめて見せた。―――何か企んでやがる。と、考え始めたところに、チビの密やかな声が耳に届いて止めた。どのみち、動き出した裕二の企みは、俺には止められないというのもあったが。
チビは両親のプロフィールの紹介からスタートさせた。父親―――福島敏広《としひろ》は俺でも名前を聞いたことがある広告代理店に勤めていて、母親―――福島真理子《まりこ》、旧姓、伊藤《いとう》真理子はテレビでもCMを流している有名ハウスメーカーでインテリア・コーディネーターとして働いていた。早い話がかなり裕福で、ついでにリッチな夫婦だ。
「展示場で働いているお母さんを見るのが、僕は好きだった」
日曜日に父親や祖父母に連れられて訪ねた住宅展示場でチビが見たのは、酒落たスーツをきちんと着こなし、お客相手にてきぱきと職務をてなす母親だった。
「お母さん、素敵なんだよ。すごく活き活きしていて、楽しそうで」
男の子は女親に似る―――ちなみに俺は厚い唇以外のパーツはすべて親父譲りだ―――と言うから、チビの大きな目が母親譲りなら、母親はアイドル系の顔だろう。うん、一見の価値はあるかも。
「裕孝は良い子ね。お母さんがこうしていられるのも、裕孝が良い子でいてくれるからよ。―――そう母さんに言って貰うのが、僕は何より嬉しかった」
そこまでチビが言い終えたところで、江さんが出来上がった三皿を運んで来た。裕二のオーダーした麻婆茄子の表面には、例の黒い粒々がこれでもかとばかり貼りついていた。裕二の奴、いったい何を企んでいるのだろう。ただ、何を企んでいようと俺は食べないし、まして粒山椒の除去作業の手伝いもしない。あんな罰ゲームは一度でたくさんだ。
「こちら激辛茄子。それとちょっと辛目の春雨、こちらが辛さ控えめの豆腐ですー」
それぞれの前に皿を置いた江さんは、チビに向かって「辛いようでしたら、作り直しますー。遼慮無く、お申しつけ下さいね―」と、微笑んで言った。
どえらく丁寧な江さんにチビは驚きつつも、「ありがとうございます。辛かったらお願いするかもしれません」と、これまた丁寧に答えた。そしてレンゲを手に、すぐさま一口、麻婆豆腐をすくって口に入れると、きちんと飲み下してから「美味しいです」と、江さんに伝えた。
品は知性につづくのは、知性は教育、だ。チビの言動は、その言葉をまさに立証していた。
江さんが去ったあと、チビは皿の中の豆腐をレンゲでつつきながら話し始めた。
「聞いちゃったんだ。お母さんが友達と電話で話しているのを」
ようやくレンゲに豆腐を一つ載せたものの、チビは口に運ぼうとはせずに、話をつづけた。
「子供を産んだとたん、なんであたしだけ母親って生き物にならなきゃならないの? お母さん、そう言ってた」
図らずもまた眉間に皺が寄った。ただし今度は疑問の皺だ。
―――母親という生き物? そんな生き物なんざ、いないだろうが。ただ、その疑問は出さずに終わった。刺すような足の痛みとともに裕二が送った信号は 「黙って聴け」だ。いちいち引っかかってでは話は先に進まない。それは俺にも判っている。だからって、安全靴の踵で力を込めて踏むってのはいくらなんでも酷すぎやしないか?畜生、あとでまとめて返してやる。心の中に刻んだお返しの回数、カウント2。
とまれ、誰の横やりもなく、チビは話しつづけた。要するにこういうことだ。母親が友人としている長電話をチビは聴いてしまったのだ。
そもそも子供を欲しがったのは夫だ。自分はいてもいなくても良いって思っていた。産まれたら育児の協力をする、家事もこれまで以上に手伝う、君は今まで通り仕事をつづけて良いと夫は言った。夫の両親も自分の両親も早く孫をとうるさかったし、ゆくゆくを考えるとやっぱり欲しいと思って自分も決意した。妊娠中で、夫が口先ばかりであてにならないことは判ったが、自分のお腹の中に子供がいる以上、夫にはどうしようもないこともある。でも産まれたら口約通り手伝ってくれるだろうと思っていた。産まれたときは私も夫も心底喜んだ。幸せだと思った。二人で育てていこうと、改めて互いに誓った。でもけっきょく夫は何もしてくれず、負担は自分ばかりにだった。会社に産休制度はあるが、対世間としてあるだけで、実際に取るのも大変だったし、復職したらそれまでのキャリアはなかったように扱われ、早く辞めるようにし向けられた。未婚だろうと既婚だろうと、子供がいようといまいと、会社が社員に求めることに差がないのは判っている。だから会社にとやかく言う気はない。でも子供がいると社員として分が悪い。残業も出来ないし、子供の具合が悪くなれば、休みを取るしかない。二人の子供なのに、協力すると言ったのに、夫は一度すら仕事を休まなかった。家事も育児も、けつきょく全部、自分がしなければならなかった。約束が違うと言ったら平然と、俺の給料で充分暮らせるのだから、仕事は辞めたら? と、言われた―――。
チビの口から流れ出る言葉は、抑揚の一つもなくひたすら平坦だった。聴きながら、俺は感心していた。もちろん内容にではない。チビが一言一句、覚えていることにだ。
「良く覚えてんなぁ」
ついぽろりと口から出た。同時に足に激痛が走った。―――くそっ、またやられた。心の中のカウントを3に上げた俺の横で、チビがもぞもぞと動いた。右手に豆腐を一つだけ載せたレンゲを持ったまま、器用に左手だけでヨットパーカのポケットから、小型のデジタルボイスレコーダーを取り出して机の上に置いた。
「お父さんから貰った。メーカーのパーティーの来場者へのお土産だって。お父さん、そういう場に良く出るから、何か貰うと僕にくれるんだ。貰ったばかりで物珍しくてさ、お母さんのドレッサーに入れてみたんだ。お母さん、長電話で。いつも何をそんなに長く話しているか、知りたかったんだ」
銀色のデジタルボイスレコーダ1は、安っぽい合板のテーブルの上に不釣り合いなくらいぴかぴかしていた。
「意味の判らないことばっかりだったから」
少し間を空けたあと、チビはかすかに口を動かした。声にはならなかったが、何を言ったか判った。何度も聞いた、だ。それこそ覚えてしまうほど、チビは何度も聞いたのだ。チビのことだ、判らない言葉は辞書まで引いたに違いない。再生しては止めてを繰り返して、母親の言っていることを一言一句すべて理解しようと努力したのだ。その姿を思い浮かべるのは容易《たやす》かった。足に今までで最大級の激痛が走った。だが今回はカウントは上げなかった。話の結末が幸せなものではないことは判っていただけに、よく覚えているな、などと軽々しく言った自分を、俺は羞じていた。
感情の振り幅の窺えないチビの声は、さらにつづいた。
親は私の尻を叩きつづけた。良い大学に入らないと良い就職が出来ない。だから勉強して良い大学へ進め、そして良い企業に就職しろと。さんざん女でも自活出来るようになれと教育を受けさせたのに、三十歳を過ぎたら言うことはただ一つ。結婚しろ。結婚したら、今度は子供を産め。産んだら仕事なんていいから母親をやれ、家で家事と育児だけしろ。今にいたるすべてが私なのに、そう育てて来た両親も、そんな私が良いと結婚した夫も、子供を産む前の私の過去は全部無くても良かったとでも? 子供を産んだとたん、なんであたしだけ母親って生き物にならなきゃいけないの? チビの麻婆豆腐はちっとも減っていなかった。俺の麻婆春雨もだ。チビが話しているのに、食べる気分にはならなかったのだ。裕二の激辛麻婆茄子もまだ手をつけられていなかった。
「お母さん、パンツスーツがすごく似合うんだ。爪はいつもマニキュアしていて、まるでゼリービーンズみたいで、すごく綺麗なんだよ」 ゼリービーンズ? なんだそりゃ? マニキュアされた爪がどんなものかは俺だって知っていたが、聞いたことのない言葉に、チビの母親のイメージが見えなくなる。そんな俺をよそに、チビの話は淡々とつづいた。
「参観日の度、クラスの連中に、お前のお母さん綺麗でカッコイイって、うらやましがられるんだ。それが嬉しくて―――お母さんは僕のお母さんだよ。でも、僕が福島裕孝なのと同じで、お母さんだって福島真理子なんだよ。だから」
文末は出ずに終わった。つづきは判っていた。だから、これからも自慢の母親でいつづけて欲しいと思ったし、そんな母親に良い子ねと、誉めて貰いたかった。だからチビはがんばったのだ。
「―――お母さん、言ったんだ」
もはや聞き取るのも困難なくらい、小さな声でチビは言った。
小さいときは身体が弱くて、勘弁してというくらい大変だったけれど、でも、今は楽になった。小さい頃から私に面倒掛けないことが良い子だって、ひたすらあの子に刷り込んだ。別に人並み外れて出来が良くなくても良い。そこそこ良い成績で、自分のことは何でも自分で出来て、とにかく私の邪魔さえしないでくれれば。今ではすっかり、本当に手の掛からない良い子になった。子育て大成功、というより作戦勝ち―――。
最後に母親は曇り一つない晴れやかな声で笑い、そして友人に「あなたも、ぜったいにそうしなさいよ」と、勧めたと言う。
言い終えて、チビは口を閉じた。ひとつだけ豆腐の載ったレンゲは、いつの間にか皿の上に置かれていた。テーブルの上に置かれたぴかぴかの最新の文明の利器は、もはや禍々《まがまが》しいだけのものにしか見えなかった。小さく一呼吸して、チビが口を開いた。
「―――全部、なくなっちゃった」
そう言ったチビの大きな目は、口にした言葉と同じく、うつろでからっぽだった。
最初にチビが言った「本物の僕って、どんな人なんだろう」の意味が、やっと判った。
今までずっと、チビは何でも自分の意志で行動していたつもりだった。一人の人間として活き活きと働いている母親がチビは好きだし、自慢だった。母親の誉め言葉が何より嬉しいチビの日々の最大の目的が、母親の言う良い子でいることになったのは、至極とうぜんだろう。事実、チビはそうして来た。母親に迷惑を掛けないように、手を煩《わずら》わせないように、勉強もがんばり、自分のことは何でも 自分で出来るように努力したに違いない。
でも、知ってしまった。母親の言う良い子は、母親にとって邪魔にならない都合の良い子でしかなかった。賢いチビは気づいてしまったのだ。自分の価値観や、正しいとか間違っているとか、その他すべてのことが、母親の計算通りに生きて来た上に成り立っていることに。母親からの刷り込みを除いたら、自分には何も残らない、何もないのだと。チビがなくしたもの、―――それは自分白身だ。俺は、ありがちな連中とチビを、思い込みで一括《ひとくく》りにしかけた己を羞じた。
恥を感じつつも、俺の心情は複雑だった。そもそもチビの親は一人ではない。父親は? と考えて思い出した。チビの口から出てきた父親の話は、デジタルボイスレコーダーを貰ったということだけだった。それに母親の愚痴からも、チビの父親がどんな人かの想像は容易い。仕事に邁進する、それだけしていれば、父親として夫として合格だと思っている男だ。
俺は良く似た男を知っていた。―――親父だ。俺の場合は、親父はそれで良いと妻である民子が思い、父親は尊敬に値する人物だと俺に思わせるべくしていた。だがチビの母親は民子とは違った。母親が夫に批判的な目を向けているのなら、チビが父親に対して冷たい目を向けるのも仕方ない。何しろ男の子はみんなマザコン気味。女性の皆さんは腹立たしいかもしれないが、母親こそが男にとって初めて接する女なのだから、ここは一つ勘弁していただきたい。
となると、父親について考えても無駄だ。では母親について考えるとしよう。都合の良い子でさえいてくれれば良い―――、これだけ聞くと、確かに非道いと俺も思う。今までの自分は、母親の敷いたレールの上を、しかもリモートコントロールで走っていただけの電車でしかないと知ったら、誰だって呆然とするだろうし、怒りも滾《たぎ》るに違いない。
だからと言って、チビの母親一人を悪者にすることは、俺には出来なかった。チビと同じく、俺も母親には一人の人間として楽しく生きて欲しいと願う息子の一人だからだ。
それに考えずにはいられなかった。―――もしもチビが母親の電話を聞いていなかったら? と。
自分のことは自分で出来る礼儀正しい成績優秀な賢い子、これが母親の敷いたレールに乗った結果の今のチビだ。それのどこが悪い? どこがいけない?世間の王道ど真ん中を生きて行くのには最適じゃないのか? そりゃ、騙されていたのだから腹も立つだろう、今までの自分の努力を鑑みると、虚しくもなるだろう。でも考えようによっては、処世術として一番大切なことを身につけられたのだ。だから、いずれは―――。
そこで俺は自分の間違いに気づいた。いずれ、そのうち、ゆくゆく、将来―――。今の俺の考えは、チビよりも長生きして、多少なりとも世の中が判っている大人の意見でしかない。チビにとって、一番大切なのは十三歳の今、このときだ。いずれやってくる未来なんかじゃない。そう気づいた俺の口は、けっきょく開かずじまいになった。
テレビの音や江さんが調理する音で、店内は常にそれなりに騒がしい。もちろん今もそうだ。そんな中、チビが口を噤んでしまった今、俺達のテーブルだけは完全に音を失っていた。
「中学校の合格発表日」
ぼそりとチビが切り出した。その声は震えていた。
両親の望む私立大学の附属中学に見事合格したその日の夕食の席で、チビは勝負に出た。偉いぞ、良い子ね、と両親に褒めそやされる中、チビはこう言ったのだ。
「うん、僕って二人にとって、本当に都合の良い子だよね」と。
―――なんでまた、そんなエグいことを。その答えを知ってどうなる? 両親を追いつめて、それでどうなる? 世の中にはおかしいとか、それはどう考えても間違っていると思うことがあっても、やりすごす方が良いことがたくさんある。それくらい判らないほどこいつは馬鹿では―――。
俺はまた、自分の間違いに気づいた。どれだけしっかりしているように見えても、チビはまだ十三歳の子供なのだ。そしてまた、その勝負にチビの一縷《いちる》の期待と祈りが込められていることにも気づいていた。母親が都合の良い存在であることをチビに求めたのは事実だ。証拠もある。でも、父親が残っている。チビの言葉に疑問を持ち、母親に意見してくれるかもしれない。チビは可能性に賭けたの だ。
でも負けた。そもそも勝っていたら、今ここにこうしてチビがいるはずもない。
チビの話を聴くと決めた段階で、気鬱な話を聴かされる覚悟はしていた。不幸な話は職業柄、さんざん見聞きして慣れているつもりだった。だが、ここまで沈痛な内容だとは思ってもいなかった。
「二人とも、今まで一度も見たことがないくらい、変な顔になってた」
そりゃそうだろう。子供になど気づかれているはずもない、上手く立ち回っていると自信満々だったのに、見透かされていたと知ったら、おかしな顔にもなるだろう。
「二人が何て言うのか、待ってた」
両親はそのあとどうしたのだろう。こういうときに取る態度は取《と》り繕《つくろ》うか、逆切れして怒り出すかの二つに一つだ。二人はどちらを選んだのだろうか? チビの喉がこくりと鳴った。こみ上げてきたものを飲み下したのだ。そのあとにようやく出てきたのは「でも」だった。
「言わなくて良い」
思わず口をついて出ていた。チビに自分の口で言わせたくなかったのだ。
二つに一つではなかった。もう一つ選択肢はあった。なかったことにする―――無視だ。
寺本老人の家の前でチビは俺に怒鳴った。無視して終わらせるんだ、と。いつもそうだ。思った通りにしないと、無視して流して、それで終わりだ、と。チビは無視されたのだ。
「もういっぺん訊くことなんて、出来なかった。だって」
出来ないだろう、出来なくてとうぜんだ。
「また無視されたら、僕はなくなっちゃう、いなくなっちゃうよ」
その言葉がすべてを表していた。
都合良く生きていることしか望まれていない、そうでなければ要らない。チビの言葉を、子供にありがちな自意識と被害者意識からのものだと思い込み、たかをくくつていた俺は、心底自分を羞じた。チビには先行きに絶望して自ら死を選んだ老人たちに共感するだけの理由が、体験があった。
「――― 笑っちゃうよ」
不意に口調を明るく軽くして、チビが呟いた。
「ぐれたり悪いことをすることすら、僕は出来ないんだ」
そう言うと、チビは引きつった笑みを顔に浮かべた。自嘲でしかない笑顔が哀しかった。
子供がぐれたり悪いことをしたりする要因の一位は、未だに人、ことに親の関心を引きたいとか、困らせてやりたいからとされている。もっとも今では、世の中の大人の「そうであって欲しい」と言う願望の、もはや何の実のない順位かも知れないが。
非行に走る動機は充分のチビだが、そうはしなかった。見た目はいたって普通だし、学校にもきちんと通っているようだし。―――ただし、非行に走るなんて可愛らしいものではなく、放火自殺の幇助などという、はるかに困ったことに手を染めてはいたが。
「そんなことをしたって、何にもならないもの。将来損するのは自分だって知っているんだもの。―――でも、それだって」
つづかなかった言葉はこうだ。それだって、両親に刷り込まれた価値観でしかない。そう言いたかったに違いない。俺たちのテーブルはまたもや音を失った。その静けさを破ったのは裕二だった。
「ほら」
言うと同時に、裕二は箸でつまんだ麻婆茄子をチビの顔の前に突き出していた。とつぜんのことに、チビは眼をぱちくりさせてから、俺に救いを求める眼差しを送った。
俺は気づいていた。裕二のつまんだ茄子には、黒い粒々が大量についていることに。ちらりと寄越した裕二の視線に俺の視線が絡む。口の端の上がったお利口そうな豆柴犬の笑み。何か企みがあるからこその笑顔だということくらい、俺は知っていた。―――了解。
「くれるって言うんだから、貰えよ。茄子も美味いぞ」
チビは困惑していた。たかだか茄子の一つくらいに何を遠慮している? と思った矢先、裕二が「ほら、あーんして」と、茶目っ気たっぷりに言ったことで気づいた。他人の箸で口に入れて貰うこと自体に戸惑っていたのだ。それは図らずも、チビと母親との関係を顕著に表していた。
ちらりと裕二を見ると、裕二も俺を見ていた。チビに会ったのは俺が先だ。今日なんて丸々半日行動を共にした。そりゃ、出会いは最悪だったが、仲良く怪我もしたし、最後はそれなりに持ち直した。それに較べて裕二はまだほんの数分しか接していない。会話らしい会話すら交わしていない。だが裕二は俺には感じ取れないチビが抱えているものを、読みとったに違いない。―――なんか、面白くないんですけど。
「―――すいません」
笑顔で勧めてくれる裕二に遠慮しては悪いと思ったのか、チビは首を伸ばして口を開いた。チビの口の中に、油でつやつや光っている茄子が消えた。左手で口を隠すようにして、チビが咀嚼し始める。出来るだけ早く飲み込んで、裕二に礼を言わなくてはと思っているに違いない。華奢な顎が精一杯のスピードで動き始めてすぐに止まった。チビは左手で口を覆ったまま、顔を俺に向けた。俺を見る見開かれたチビの目には、すでに涙がにじんでいる。レンゲを持ったままの右手も小刻みに揺れている。俺に救いを求めているのだ。
どうしたものかと、ちらりと裕二へ視線を送る。裕二はテーブルにひじを突き、曲げた手の甲に顎を載せて、チビをじっと見つめていた。―――一連の行動はすべて計算済みというわけだ。ならばここは裕二に任すに限る。
チビはイスに腰掛けたまま、両手両足をじたばた動かし始めていた。その動きは、まるでゼンマイ仕掛けのブリキのピアニストのおもちゃ、いや、胴体をつまみ上げられてもがくカナブン。吐き出してしまいたいのと、くれた裕二に悪いという二つの葛藤と闘っているらしい。大きな瞼を何度もぱちぱちとしばたかせては、俺に視線を送る。
俺としては、吐き出すか飲み込むか、どっちかにしろ、としか言いようがなかったが、あえて口出ししなかった。
何の救いの手も差し伸べない俺に業を煮やしたチビは、元凶である裕二へと顔を向けた。裕二はまっすぐにチビを見つめ、そしてこう言った。
「泣け」
チビの動きが止まった。
俺は見逃さなかった。チビの大きな目に映し出されていた裕二の顔が、ゆらりと揺らいだと同時にぐしゃりと崩れ消えたのを。消えた裕二の姿は涙の粒になって、ぽろぽろとチビの頬の上を滑り落ちて行った。
チビが泣くのを見るのは初めてではない。最初は寺本老人の家だった。あのときチビは、声もなく静かに泣いていた。やっと仲間を見つけたと思っていたのに、それが間違いだったと気づいた絶望の涙だった。高橋老人の家でも見た。爺さんに子供であるがゆえの無力を突きつけられた悔し涙だ。でも、今回のはどちらとも違った。三つ四つと、安っぽい合板のテーブルの上に大きな涙の粒が落ちると同時に、チビは顔全体をぐしゃりと歪めたのだ。半開きの口から、食事の席ではおよそ相応しくない下品な声というか、吐息が漏れ始めた。それまで綺麗に伸ばされていた背筋も、くるりと猫背に丸められ、肩も大きく上下している。体を震わせ、うぐうぐえぐえぐと喉を鳴らし、もはや涙だけでなく洟水混じりの水滴を顔からテーブルに滴《したた》らせるチビのその泣き方は、どう見てもだだをこねる子供だった。
―――いったい何事? 江さんの作る激辛麻婆茄子がどれだけ辛いかは、俺だって知っている。でも、さすがにここまで泣きじゃくるほどではないと思うのだが。
店内の視線が集まっているのを感じて焦った俺は、店のどこかに置いてあったはずのティッシュ・ボックスを探そうとあわてて見回す。厨房から飛び出しかけた江さんに、心配ないと俺が声を掛ける前に、「放っておけ」と、渋い声が飛んだ。店の親父だ。見れば、さっきまではなかったティッシュ・ボックスが、カウンターの端に置いてあった。―――やるな、親父。
感心しつつ、ティッシュに手を伸ばしたそのとき、「はい、あーん」と、裕二の声が聞こえた。号泣しているチビの鼻先に、裕二は箸でつまんだ麻婆茄子をさらに差し出している。
―――おいおい、この状態でまた勧めるか? でも同じ過ちを繰り返すほど、チビは馬鹿じゃない。
だが俺の予想をよそに、チビは首を伸ばして茄子を口に入れた。噛みしめたとたん、さらにどっと涙が溢れ出す。今度は口を半開きにして―――とうぜん口の中の茄子も丸見えで、かなりシュール―――うええええと、奇妙な声まで挙げて、前にも増して激しく泣き始めた。
何でこんなことを? 意味が判らず、眉間に皺を寄せ、答えを求めて裕二を見る。視線を注がれているのは充分に感じているだろうに、裕二は顔を上げずに自分も激辛の麻婆茄子を口にした。二度三度顎が動いたあと、眉間に力一杯皺を寄せた裕二の口がかぱっと開けられた。声にこそなっていないが、口の形からして発している言葉の語尾が「あ」なのは確かだった。
裕二の口が閉じられた。眉間の皺はそのままに、顎が再び動き出す。どうやら吐き出すことなく飲み下すことに決めたらしい。ごくりと喉が鳴った。飲み込んだと同時に、口を開いた裕二は目に涙を惨ませながら、掠れた声でこう言った。
「辛いって―――、泣けるよな」
そして箸を伸ばすと、また茄子をつまんで自分の口に放り込んだ。噛みしめては涙をこぼす。
俺の魂のダチ、クールでアバンギャルドでリアリストの裕二は、涙を見せない男だ。それこそ自分の母親の葬儀のときも、一粒の涙すらこぼさなかった。その裕二が今は泣いていた。ぼろぼろ涙をこぼしながら激辛麻婆茄子を食べる裕二の前で、チビもまた、盛大に泣きながら麻婆茄子を食べていた。それも自らレンゲを伸ばしてだ。二人は激辛麻婆茄子を泣きながら食べつづけていた。
―――いや、そうじゃない。泣くために、わざと激辛麻婆茄子を食べているのだ。裕二の企みが判った。チビに心ゆくまで泣かせてやるために、わざと激辛の麻婆茄子を頼んだのだ。
自分が両親の企みに乗せられていたと知った今でも、チビは二人が好きなのだ。誉めて貰いたいし、愛されたいのだ。悪いことをすることすら出来ないと言ったのは、両親の価値観の上の損得勘定が出来るからだけではない。それでもチビは両親に迷惑を掛けたくない、嫌われたくない、誉められたいし、愛されたいのだ。
裕二はチビと接したほんのわずかな時間の中で、無理と我慢で作られた大人びた外見の中にチビが隠してきた、両親が大好きなただの子供を見抜いたのだ。そして激辛の麻婆茄子と、自分も一緒に泣くことで、チビのプライドを潰すことなく、チビの中のただの子供を外に出してやった。
安っぽい合板のテーブルを挟んで、二人の男が泣いていた。恥も見栄もてらいもなく泣きわめくチビ、差し向かいで辛さに顔をしかめつつ、やはり泣いている裕二。はっきり言って、とてつもなくみっともなく滑稽で、―――でも、どこか暖かい光景だった。
二人の醜態をしばし見物していた俺は、けっきょくティッシュを取らずに席に戻り、イスに腰を下ろしながら、激辛麻婆茄子を指で三つまとめてつまんで口に放り込んだ。辛いというより刺すような痛みが口いっぱいに広がる。鼻の奥がつーんとすると同時に、目頭が熱くなった。
言ってはなんだが、俺も裕二同様、滅多に泣かない。そりゃ、裕二の働く武本工務店が出た家系番組を見て、ちょぴっと目の端から液体が惨んだりもするが、あくまで泣いているのではない。断じて違う。でも今だけは涙腺を全開にすることにした。どっと溢れた涙が鼻の下に届いて、むずがゆさに指で払う。とたんに激痛が鼻の中に走った。
―――やっちまった。茄子をつまんだ指で鼻の下をこすってしまったのだ。その刺激に、涙だけでなく、洟水も大量に湧き出て来た。だが臆するところは何もなかった。洟水と涙の入り交じった液体をテーブルの上にばたばた落としながら、口の中の茄子を飲み込み、さらにたてつづけに二つ茄子を指でつまみ上げて口の中に放り込む。一度食べたのだから、二度目は少しは辛さに慣れるかと思ったが、それどころか倍になったんじゃないかと思うほどの辛さが口の中を襲った。
「うおっ、辛えっ! |あ《〃》〜、泣けるっ!」
言うと同時に、さらに皿へと指を伸ばすと、「お前、食い過ぎ!」と、裕二の手にブロックされた。皿の上の茄子は残りわずか。俺と裕二の視線が絡む。二人の茄子争奪戦一騎打ちのゴングが今、打ち鳴らされようとしたそのとき、空に浮いた裕二の手をかいくぐって、さっと皿の上に白いレンゲが着地した。残った茄子をちゃっかり全部載せたレンゲが、するっと引っ込むのを俺も裕二も黙って見過ごすほど甘くはない。俺が左手でレンゲを持つチビの手首を、裕二は箸でレンゲをつかんで阻止した。
表面に黒い粒々のついた紫色に光る茄子の載った白いレンゲを真ん中に、男三人は顔を寄せていた。裕二もチビも、二人とも酷いものだった。揃いも揃って顔は真っ赤。目の周辺ももちろん真っ赤。もはや涙なのか洟水なのか、涎なのか判らない液体で、顔はぐっしょり濡れていて、チビにいたっては、目の縁も鼻も唇も、赤く腫《は》れ上がっている。もちろん俺だって、似たり寄ったりだろう。
店内の視線という視線は、もちろん俺たちに集中していた。だがそんなものを無視して、俺たちはレンゲの上の茄子を中心に、お互いに牽制し合っていた。
「残りは三つ、一人一つで恨みっこなし」
状況を打破したのは、裕二の辛さに掠れた声だった。もちろん異存はない。俺が領くと、チビも領いた。レンゲの上から裕二が箸で、俺が手で茄子を一つずつ取る。それぞれが箸で、指で、レンゲで、最後の茄子を入手した。
乾杯をするが如く、全員が茄子を掲げると、いっせいに口に放り込んだ。慣れようもない刺すような痛みに、また涙がどっと溢れ出る。眉間にこれ以上ないくらい皺を寄せている裕二に、顔中真っ赤なチビ。見ているうちに、なぜか腹の底から笑いがこみ上げてきた。目からは相変わらず涙が止まらないのに、おかしさに腹筋がひくつく。気づけば、目の前の裕二も肩を小刻みに震わせていたし、チビに至っては、テーブルの上に突っ伏していたものの、背中全体がぴくぴく動いていた。
「てめー、起きろ!」
チビの首根っこをつかんで上向かせると、案の定、泣いていたのではなく、笑っていた。
裕二も身を乗り出してチビの顔を指さしては、笑っていた。顔は目一杯泣きながら大笑いするという、笑いながら怒る芸よりもすごいかもしれない器用なことを三人揃ってしばらくした俺たちの息が整ったのは、厨房から出てきた江さんが、「辛いのお気に召したみたいですね。これ、サービスですー」と言うなり、残る春雨と豆腐の皿に、小皿に持ってきた例の恐怖の黒い粒々を、ざっと撒いたときだった。顔を見合わせた小汚い男三人は、お互いを罵りつつ、手先が起用選手権みたいな罰ゲームを二回して、残る二皿を平らげた。
そして今、俺たちは蓬莱の軒先にいた。俺と裕二は食後の一服を楽しみ、裕孝は俺の足下にしゃがんでいる。その頃には裕二も俺もチビのことを裕孝と名前で呼んでいたし、裕孝も俺たちを名前で呼んでいた。
「一つ、良いことを教えてやる」
おもむろに口を開いたのは裕二だった。
「親は子供を養育する義務があると日本国憲法で定められている。でも、子供が親を養わなければいけないという法はない」
そう言うと、裕二は口の端をきゅっと挙げて笑った。
「そうなのか?」
訊いたのは俺だった。裕二はさらに口の端を上げて笑うと、大きく一度、領いて見せた。内容が内容なだけに、裕二が言うのだから事実に違いない。
正直、変な気分だった。法にあるということは、子を養わない親がいるからだ。なのに逆はない。子が親を養うのはとうぜんだから、わざわざ法に定める必要はないということか? それって、もう通用しない気も。とはいえ、子が親を養わなくてはならないなんてことまで、法律で定めなくてはならないというのも、俺はどうかとは思うが。
「今は連中の勝ちだ。社会の中心にいるのは親の世代だし、経済的にもその他でも、お前が養って貰っているのは事実だからな。それに奴等には、お前と同じ十三歳を体験した強みもある」
「でも、今の十三歳は体験していないよ」
裕孝が早口で反駁した。その突っ込みは承知の上だったのだろう、裕二はゆったりと、だがばっさりと答えた。
「親がフェアだなんて思っているのなら、お前はおめでたい間抜けだ」
おめでたい間抜け呼ばわりされるとは思っていなかったのだろう、裕孝は口を半開きにしたまま、裕二をぽかんと見つめていた。
「お前の親がガキだった頃の日本は、勉強すれば良い大学に行けて、良い会社に就職できて、定年までいられて、退職金も貰えて、六十を過ぎたら年金だって貰えると誰もが信じていた。ところが大人になってみたら、税金は上がる、年金の支給年齢は上がる、定年まで会社にいられないどころか、会社ごと倒産してなくなる」
裕二はそこで言葉を止めると、きゅうと音を立てて煙草を吸い込み、唇をとがらせて、天高く煙を 吐き出してから、先をつづけた。
「親だって馬鹿ばっかりじゃない。自分の子が大人になる頃、今より社会状況が好転するなんて甘い夢は見ちゃいない。じゃあそんな中、どう子供を育てるかだ。どうせろくな未来なんかないんだから、勉強なんかしなくて良いなんて親は、さすがに少ないだろうよ。なんだかんだ言って、それでも子供には」
再び裕二が言葉を止めた。変なところで間を空けたなと思っていた矢先、出てきたのは「幸せになって貰いたいって、思っているからな」だった。
裕二が言葉に詰まった理由を、俺は知っていた。子供の幸せなどこれっぽっちも願っていない親も、残念ながら実在する。誰あらぬ裕二の親父だ。だが裕二はあえて自分のケースを無視した。それは裕孝に対する配慮だろうし、おそらく裕二自身の親への願いだし、祈りだからだ。
「だから親は子供に努力させるし、勉強させる。時代が違うんだから、言ったところでせんのない自分の子供時代を持ち出して、しかも子供が確認することが不可能なのを良いことに、記憶を美しく改竄してまでな」
理路整然と裕二は話す。こういうとき、俺はつくづく裕二を賢いと思う。勉強が出来る、記憶力が良い、すごい発明をする、頭の良さには色々とあるだろうが、他人に判るように説明が出来るというのは、何よりも頭の良さを必要とすると思っているからだ。
「もっとも、意識的にしているってわけでもないだろうけどな」
「どういうこと?」
裕孝が訊ねた。俺も訊いてみたかった。意識的じゃない、イコール無意識にしている。無意識にそんなことするか? しているのなら、それはちょっと別な問題があると思うのだが。
「今を生きるってのは、それだけ楽じゃないからさ」
―――なるほど。せめて記憶だけは楽しかった、素晴らしかったと、今の自分を慰め、励ましているというわけだ。これは判らないでもない。俺だって、みっともない記憶―――幼稚園で漏らしたとか、小学校で授業中、とつぜん鼻血ぶーになったとか―――は、なかったことにしている。削除も改竄のうちだろう、やっぱり。
「ま、なんにせよ、今のお前に勝ち目はない。でも、いつまでも同じじゃない。いずれお前が今の親たちの歳になる。連中も同じだけ歳を取る。医学がどれだけ進歩するかは知らないが、お前が大人になる頃までに、人類が不老不死になるとはさすがに俺には思えない。ならば自然の摂理に従って、奴等は老いる。立場はどうしたって逆転する。―――そのときになって、仕返しするも自由」
恐ろしいことをさらりと言って、裕二は再びきゅうっと音を止てて煙草を吸い込み、今度は放射能を吐くゴジラのように、口を大きく開けたまま白い煙を吐き出してから、「連中と同じにならないのも自由」と、つづけた。
話し掛けられた当の裕孝からの返事はなかった。裕二もはなっから答えなど期待してなかったのだろう、返答がなくてもとりわけ気にもしていなかった。俺も今ここで答えを聞きたいとは思っていなかった。どうするかは、裕孝がゆっくり考えて決めれば良い。答えを出さなくてはならないときは、まだうんと先のことだ。
ひとしきり会話が終わった俺たちの耳に届くのは、店内から漏れてくるテレビの音と、強い火力で炒め物をする音だけだった。俺と裕二は静かに煙草をふかし、裕孝は俺の足下で空に流れる二人分の白い煙をただ目で追っていた。―――なんか、悪くない感じ。
「あのさ」
その良い感じに声を挙げたのは裕孝だった。何を言い出すのかと見下ろすと、裕孝が真剣な顔で俺を見上げていた。シリアスな話は、まだ残っているらしい。
「何のために生きてるの?」
とうとつ、かつ脈絡のない質問に、俺は裕孝を見下ろしたまま、固まった。今となってはすっかり忘れていたが、もともと裕孝との会話の成立は難しかったのだ。
何のために生きている?―――そんなことをとつぜん聞かれても。
裕二に助太刀を求める視線を送ったが、自分には関係ないとばかりに斜め上を見上げて避けられた。おいおい、そりゃないだろう、と思った矢先、裕孝が口を開いた。
「なんかね、もう、判らなくなっちゃったんだ」
その声には不安と弱音が潜んでいた。
「雄大が消防士になったのは、生活していくのにお金が必要だからだよね?」
オフコース! ちょいと顎を上げて返事に代える。
「裕二さんは?」
裕孝が首を伸ばして訊ねた。質問の内容は以下同文ということだろう。裕二も俺と同じく首を傾げることで答えに代えた。右に倣え、だ。 ―――しかし、なんで俺は雄大と呼び捨てで、裕二にはさんがつく? なんか、納得行かないんですけど。
「生きていくためにお金が必要だから、二人とも働いているんだよね?つまり、生きていくってことは決まってる。じゃあ、何で生きてるの?」
敬称の有無の問題は、あっと言う間に頭の隅に押しやられた。―――何でって、何でと言われても。
ただなぜそんな質問をしたのかは、想像はついた。今までの裕孝の生きる目的の大部分が親に誉められたい、愛されたい、だった。だがその目的を見失った今、これから何を目的として生きていけば良いのか判らなくなってしまったに違いない。だから訊いているのだろう。いちおう、人生の先輩として生き永らえている俺たち二人に。
―――何のため、ねぇ。悩んでいる俺をよそに、裕二が口を開いた。
「生きていること自体が目的だ」
ぼそっと、だが力強く裕二が答えた。俺はその言葉の意味するところを知っていた。だが裕二の過去を知らない裕孝には判るはずもない。首を傾げて見上げる裕孝をちらりと見下ろすと、「俺のお袋、死んでんだよ」と、裕二は前置きなしに直球を放った。
見上げる裕孝の大きな目に、罪悪感らしき影が浮かんだと思った瞬間、俺の前を何かが素早く横切った。同時に「痛たたっ!」と、悲鳴が上がる。俺の足下には裕孝だけでなく、裕二もしゃがんでいた。裕二の右手の人差し指と親指は、裕孝の左頬をがっちりつかんでひねり上げている。
「不幸と不健康は自慢じゃない。それが俺のポリシーだ」
目線を同じ高さにした裕二が、口の端をきゅっと上げたお利口そうな豆柴犬の笑顔でそう言った。
「それと、同情と哀れみは同じものの表と裏だ。安易に同情なんてするな。―――判ったか?」
裕孝は頬をつねり上げられたまま、小刻みに領いた。それを見た裕二も同じく領くと、ようやく指を放して元の位置へと戻った。
裕孝の左額には指のあとがくっきりと赤く残っていた。さすがは工務店員、大した握力だ。しかし 相手はまだ子供。少しは手加減してやってもよろしかろうに。痛みと恐怖にびびっているんじゃないかと見れば、裕孝は痛む頬をさすりこそしてはいたが、その顔はいたってけろっとしていた。それどころか、どこか嬉しそうでもあった。―――もしかして、マゾ? なんて想像を頭に過ぎらせはしたが、もちろんそうでないことは判っていた。対等に扱われたことが、婿しいのだ。
「天寿を全うするまで、俺は元気で楽しく幸せに生きる。それが俺を産んで育ててくれた、今はもういないお袋に俺が出来る唯一の親孝行だ。だから、生きていること自体が俺の目的だ」
そう言うと、裕二は空き缶に火の点いた煙草を投げ捨てた。至極明快な答えに、裕孝は納得したと同時に滞足したらしい。「裕二さん、教えてくれてありがとう」と、礼を言った。
―――うん、さすがは裕二。大したものだ。では、これにてこの話はお終い、というわけには残念ながら行かなかった。「雄大は?」と、がっちり裕孝のご指名が掛かったのだ。
「何でって」
裕二ほど明確な目的など、俺にはない。そりゃ、ウチも片親だ。民子より先に死んだりしたらマズいとは思う。でも、民子より先に死なないことが生きる目的かと問われれば、それは違う気もする。
空を睨んだが、答えは出ては来ない。左からは裕二の面白そうな視線がぶすぶす刺さるし、右の足下からは答えを待つ期待に満ちた裕孝の大きな目から発せられる視線がスポットライトのように当たっている。
「ええと、お〜!」
右手の人差し指と中指の間に吸いかけの煙草を挟んだまま、髪に指を突っ込んで頭皮を掻きむしる。なぜ生きているかって、―――閃いた。俺ってば天才。
「そりゃ、死んでねぇからだよ」
これでどうだ? と、見下ろすと、待っていたのは裕孝の可哀想なものを見る目つきだった。
「なんだよ、その目はよ」
かちんとして言い返す。
「それは状況」
ため息混じりの声に、むかっと来た。
「るっせーなー、生きるのにご大層な理由なんぎ、俺は持っちゃねぇよ。それじゃ悪いのかよ」
「やっぱり、雄大には判らないんだよ」
赤羽公園で出会ったばかりのときと同じく、一方的に決めつけられた裕孝の口調と言葉に、俺は完全にぶち切れた。
「お前、二言目にはそれだよな。言ったよな? 判らないかも知れない、それでも」
「じゃあさ、なれないものがあるって、考えたことある?」
最後まで待たずに、裕孝が強い口調で割って入った。答えに詰まった。―――なんだそりゃ?なれないもの?
「ほら、だから雄大には判らないんだよ」
苛立ちを抑えるにも限界はあった。俺は煙草を口にくわえると、ひょいと屈んで裕孝の首の後ろを右手でつかみ、一気に持ち上げた。
「言え」
それだけ言って、左右に揺さぶる。首の後ろを支点にゆさゆさ揺られながら、裕孝は「こういうことだよ」と答えた。意味が判らず、手を止める。
「雄大はさ、自分が恵まれているって、知らないよね」
俺が何に恵まれている? わけが判らないまま、とにかく裕孝を下ろして解放した。
「僕は自分を知っている。走るのは遅くない。でも、サッカーも野球も下手だし嫌いだ。背だって小さい。これでもう背が伸びないなんて僕だって思いたくない。だけど去年一年間で伸びたのは、たった七ミリだよ。もしかしたら、もう背は伸びないかもしれないし、視力だって、今は良いけれど、お父さんもお母さんも目が悪いから、そのうち悪くなるかもしれない」
裕孝が口にし始めた内容が、俺には脈絡がないことにしか聞こえなかった。
「消防士とか警察官ってさ、なるために身長や視力の規定があったよね?」
確かにある。百六十センチ以上、ついでに胸囲はその半分の八十センチ以上。視力は矯正視力を含めて片目で〇・二以上、両目で〇・七以上。
「あるけど、それが何だ?」
「ほら! まだ判らない!」
一オクターブ跳ね上がった裕孝の声に、耳がきーんとした。その声からは、俺の愚かさに腹を立てているというよりは、判って貰えないジレンマにやりようのない苛立ちが伝わってきた。
俺もまた、苛立っていた。裕孝が何を考え、思っているかを理解したいと願ってやまないのに、当の本人はいつまでもクイズのように、遠回りにしか言わない。もはや我慢も限界だった。腹立ちと怒りで、濁点付きの「|お《〃》」の唸り声を挙げようとしたそのとき、割って入ったのは裕二だった。
「生きていくためには、自分に何が出来て、何が出来ないかを知る必要があるってこった」
MAlのポケットからラークの箱を取り出した裕二は、中を確認するなり、俺に空箱を見せながら、「一本、おくれ」と、言った。
仕方なく、パンツのポケットからソフト・ケースのマルポロを取り出して投げてやる。軽々とつかんで中から一本抜き出した裕二は、ケースの裏を見て、にやりと笑ってから俺に投げ返してきた。
―――まったくどこまで根性が悪いやら。
今更ながら裕二の根性悪を再認識しながら、それでも俺は裕二が言ったことを考えていた。生きていくためには、何が出来て、何が出来ないか。―――見えてきた。
「つまりなんだ、デカい俺にはなれても、お前にはなれないものがあるってことか?」
裕孝はこれ見よがしに大きくため息をついた。そのため息から、「やっと判ったのか」と、はっきり俺は聞き取れた。
「そうだよ、僕は自分に足りないものがあるって知ってる。将来、努力だとかお金で解決がつくものもあるけど、足りないもののせいで、どうにもならないものがあるって判ってる。こんなこと、雄大は今まで考えたことないよね」
勝ち誇ったというよりは、ふて腐れた声で断言する裕孝を見下ろしているうちに、俺の体内にある感情がわき出していた。
「雄大みたいな人は、目的なんてなくたって、生きていけるんだよ。その気になれば、何でも出来るだけ、最初からたくさん持っているんだもの。やりたくないとか、お金のためだけだとか言ってるけど、ちゃんと消防士になって、火を消したり人を助けたり、みんなから認められているじゃない。必要とされているじゃない」
裕孝の言葉に、俺としても物思うところはあった。だが最後の言葉で、すべてはふっとんだ。
俺と裕孝では根本的に発想が違ったのだ。人が生きて行くには、何か目的がなくてほならないと裕孝は思っている。それも、他人から認められ、出来れば必要とされる何かをしなくてはいけないと思い込んでいるに違いない。
くわえていた煙草をつまみ落とすと、バッシュで踏みつけて完全消火してから裕孝の首根っこをつかみ、腕一本で吊り上げる。真正面の裕孝の顔を見据えて、おもむろに口を開いた。
「お前だって、俺の気持ちなんざ、判んねーよ」
「判らないよ。片腕で僕を持ち上げられるような雄大のことなんて。判るわけない!」
怯まずに言ってのけた裕孝の大きな目には、負けん気が満ちていた。
「そりゃ、俺はデカィ。けど、物事には限度ってものがある。背が高くて良いなんてのは、せいぜい百八十センチまでだ。百九十センチ越えてみろ、ほぼ二メートルだぞ」
二メートルという数字を聞いたとたん、裕孝は一度瞬きをした。
「服だってあんまりないし、あっても高い。布団だって足が出る。普通サイズの奴なら、良いことだろうが悪いことだろうが、何をしたって記憶に残りづらい。でも俺は違う」
誰だって、少しくらいなら悪いことをしたいと思うだろう? たとえば、小さいことなら近所の家のピンポンダッシュ、大きなことなら経済的に余裕がありそうな立派な御仁から、ちょっとばかり、懐寂しい若人へのカンパの依頼―――かつあげとも言う―――とか。でも俺がやったが最後、「身長二メートルの大男が」と、ばっちり記憶に残ってしまう。まったく、不便極まりないというのか、よくぞ今まで一度もPちゃんのお世話にならずに済んだものだ。これはひとえに俺の運動能力と動体視力、ついでに判断力の賜《たまもの》だ。―――って、これも恵まれているってことか? この際、無視だ、無視。
「棺桶だって特注だ」
俺のこの立派な身体の素材提供者の一人の親父も、スニーカーの外寸なんて三十センチを超すデカ足の持ち主で、身体もそれに相応しい大男だった。殉職死した夜、病院の遺体安置所で葬儀屋が言った言葉は未だに忘れていない。
「ご主人様は立派なお身体なので、通常サイズの棺桶ではちょっとお苦しいかと。それで大きなサイズのものとなりますと、お値段が少しお高くなりまして」
仕事馬鹿が高じて死んだ親父になんて、これっぽっちの敬意も持っていなかった当時の俺は、どうせ燃やすのだから、折り曲げて入れちまえ! と、思ったものだ。そんな俺は今や親父を越す大男になっていた。つまり、親父以上に棺桶のお値段がお高くなるということだ。あー、嫌だ嫌だ。
ふと裕孝からの視線が前と変わっているのに気づいた。その目は笑いを堪えていた。
「てめ―――、笑ってんじゃねぇぞ」
再び揺さぶってから、先をつづける。
「だいたいな――、たかだか十三で、人生見切ってんじゃね―よ」
「時代が違うよ。雄大が十三歳の頃は考えなくても良かったかもしれないけれど、今の十三歳は考えないといけないんだよ」
「何を考えなきやなんねぇってんだよ!」
「だから、今までずっと言ってたじゃない! 自分に何が出来なくて、何なら出来るかだよ!」
「これから先のことを、今、決めつけてどうすんだよ!」
「だから! 雄大の子供の頃と時代が違うんだよ! 生きていくのにはお金が必要、だから職に就かないとならない。ここまでは一緒。だけど今は仕事に就くためには、高校選びから始めないと遅いんだよ!」
それにはすぐに言い返せなかった。出てきたのは「そうなの?」という質問だけだった。
「そうなの!」
自信満々に言い切られて、さすがにムッとする。十三のガキに言い負かされてたまるか。
「背がもう伸びないって、どうして判るんだよ! 伸びるかもしれねぇだろ? どうすんだよ、俺みたくデカくなったらよ!」
「伸びたとしても、雄大みたいに馬鹿デカくなんて、なるわけない!」「てめ―――、馬鹿ってのはなんだよ! 俺だって、望んでこんなデカくなったんじゃねぇや」
とつぜん、ぱちぱちと手を叩く乾いた音が聞こえてきた。見れば、指に煙草を挟んだ裕二が、かったるそうに右脚に体重を載せて、斜めに傾いだ姿勢で拍手していた。その目が語っていた。すげ――、おもしれ――、同レベルで喧嘩してやんの、と。
我に返った俺は、とりあえずチビを下ろした。ムキになって十三歳の裕孝と真っ向から言い争っていたことに、なんとなくばつが悪い。ちらりと見ると、裕孝もまたばつの悪そうな顔をしていた。
―――それって、俺と同レベルなのが恥ずかしいってことか? なんか納得いかないんですけど。
「どれだけ理想論で矛盾したことを国や大人が言おうと、俺たちはこの世の中が競争社会だって知っている。見た目が良いか悪いか、運動が出来るか出来ないか、頭が良いか惑いか―――。だから世の中のどの位置に自分がいるのか、早めに悟った奴の方が幸せだ。自分にとっての分相応を知っていて、それに従って行動すれば、無理なく楽に生きられる」
そこまで言うと、裕二は一服してから再び口を開いた。
「裕孝は自分が見えている。だからこそ、十三歳の今、これからどうやって生きていけば良いか、すでに考えて悩んでいる。それに較べるとこいつは」
はっきりと俺を指さして裕二はつづけた。
「馬鹿だ」
名指しで馬鹿と断言されてむっとしない奴がいたら教えて貰いたい。とうぜん腹が立った。てめーと声に出す直前に、裕二がちょいと首を傾げた。黙って聞け、だ。何か考えがあってのことだろうが、だからと言って、馬鹿呼ばわりはやっぱり頭に来る。さっきの安全靴蹴りのカウンターを復活させて、一つカウントを上げる。絶対、まとめて仕返ししてやる。―――何時か、出来たら。
「なーんにも考えてなんかいやしない。常に人生行き当たりばったりだ。でも今までは、持って生まれた資質と運で、どうにか乗り切れた。だからと言って、この先も今までと同じように行くかは」
最後まで言わずに、裕二はひょいと肩をすくめて見せた。―――判らない、だ。腹が立ちつつも、言われたことに思い当たるところはばっちりあるわけで、ちょっと鼻白む。
どうだ! とばかり裕孝が俺を見上げた。だが、その得意気な顔は、つづく裕二の「もっとも、今のお前は親あってだからな、賢く育ててくれた親に感謝しとけよ」の一言で、完膚無きまで粉々にされた。俯いた裕孝をちらりと流し見たあと、裕二は斜め上を見上げて語り出した。
「言っておくがな、お前の親はマシな方だぜ」
そりゃ、もっと酷い親はいくらでもいる。虐待、育児放棄、言い出したらきりがない。でも、そんな最低最悪な連中と較べてマシと言われても。
「お前の親は、自分のしていることに自覚がある。親の多くは自覚すらなく、大なり小なりお前の親と同じことをしている。―――それくらいは、友達見てりや判るよな?」
裕孝は小さく「うん」と、同意した。―――おいおい、今の世の中の親の多くの育児法が、自分に都合良くだとでも? もちろん俺だって気づいていた。たとえばコンビニで、必要以上の大声で、「あら、これが欲しいの? 仕方ないわねえ」
と、アピールしながら商品を買い物かごに入れる母親など、珍しくない。でも、三歳児が大福やさきいかを欲しがるとは、俺にはまず思えない。小さなことだが、これも親が子供を都合良く扱った例の一つと言えるだろう。
「ま、ともかく」
それまでよりは明るい口調で話し始めた裕二は、俺に指を突きつけるなり、「こいつは馬鹿だ」
と、再び言った。なんだと? と、睨みつけた俺に、裕二は器用に左の眉だけ上げて見せた。黙って聞け、だ。ムッとしつつも、聞くことにする。
「馬鹿だから、自分の周りに色んな問題があることに気づかない。だから幸せでいられる。で、幸せだから、いつまでも馬鹿のままなんだ。馬鹿と幸せってのは、卵と鶏みたいなものなんだろうな」
馬鹿だから幸せ、幸せだから馬鹿。なんか、とてつもなく深いことを裕二が言ったように思えた。
―――だが、どうしても何か納得できない気がするのはなぜなのだろう。
「そう考えれば、馬鹿がいても良いんじゃねぇか? 逆に俺は、こいつみたいな幸せな馬鹿がまったくいない世の中なんて、考えたくねぇな」
裕孝は顔を上げると、まず裕二を、つづけて俺を見た。
「だから、この正真正銘の大馬鹿野郎が俺のダチなのは、俺の誇りだ」
―――なんか、馬鹿馬鹿連呼されてる気が。誇りだって言って貰っているわりには、ちっとも嬉しくないんですけど。
俺の複雑な気持ちをよそに、裕二はさらにつづけた。
「賢いのは馬鹿より良い。だけどそれは、本当に賢い場合だけだ」
淡々とした口調だったが、毒はたっぷり含まれていた。敏感に察知した裕孝が、速攻で「それって、僕はそうじゃないって意味?」と、けんか腰の早口で言い返した。
「正解」
軽やかにざっくりと斬り捨てると、裕二は先をつづけた。
「本当に賢い奴ってのは、馬鹿の振りが出来るくらい頭の良い奴を言う。自分は頭が良いなんて、平然と垂れ流している奴なんざ、本当に賢かない。そういう奴は」
一服してから「小賢しい、つて言うんだ」と言い切り、そして口の端を挙げて笑った。
毒気を抜かれて言葉を失った裕孝は、完全に黙り込んでしまった。
俺は裕孝が気の毒になっていた。今日一日で、老人たちに騙されていたと知り、賢いと自負していたのに、それも否定され―――。長年ダチの俺ですら、裕二の毒には未だにやられる。今日会ったばかりの裕幸には、きついに決まっている。ここは一番、話を元に戻すとしよう。
―――って、何の話をしてたんだっけ? ああ、そうだ。俺に生きる目的はあるのか? だった。さっきまではそんなものはまったく持っていなかっただけに、答えようがなくて困っていた。だが、今はもう、答えは出ていた。
「俺は生きる目的なんて持ってねぇ。それどころか、お前に今日出会うまで、ただの一度もそんなことを考えたことすらねぇ。けど、俺は今、こうして生きてる。―――それじゃダメか?」
答えはなかった。裕孝の大きな目が、ただ俺を見上げていた。その目に過ぎった感情を見逃しはしなかった。―――そんなこと言ったって、消防士じゃないか、人に尊敬されて、必要とされる仕事に就いているじゃないか、だ。
「確かに俺は、なりたくてもなれない奴もいる消防士をしている。そりゃ、人に必要とされている仕事だろうし、尊敬されるときもある。けど俺は、そんなのはどうでも良い」
「じゃぁ、何で消防士なの? ただお金を稼ぐだけなら、他にも仕事はいくらでもあるじゃない」
―――う、困った。でも事細かに説明はしたくない。詰まった俺の代わりに応えたのは裕二だった。
「お前みたいな馬鹿にはなれっこないって言われて、じゃあ、なってみせるって、なっただけ。―――な、馬鹿だろう?」
そう言ってウィンクしてみせた裕二を、裕孝が呆れ果てた顔で見上げていた。色々とはしょってはいるが、まあ、おおよそそんなものだ。馬鹿は余計だが、それでもサンキュー、裕二。
「それによ、俺はまだ死にたくねぇよ」
裕孝が一度瞬きをした。死にたくない―――図らずも口に出した言葉が、俺は自分でも気に入った。
「あー、まだ死にたくねぇなぁ。好物のバナナオムレットだって、もっと食いたいし、鰻だってトンカツだって食いたい。楽しいことだって、まだまだしてぇしな」
「楽しいことって?」
合いの手を入れたのは裕二だった。
「そりゃ、お姉ちゃんとイイコトするとかよ、今日みたいに三人で蓬莱でだらだら飯を食って、くっちゃべったりするんだって楽しいぜ」「すんげー、安上がり」
完膚無きまでに馬鹿にした裕二の声に、小突いてやろうと拳を丸めて腕を上げた。だが目が合った裕二の顔は、人を馬鹿にしてはいなかった。その証拠に、裕二は丸めた拳を伸ばして、俺の拳にこつんと当ててきた。俺たち二人の、それもアリなんじゃない? のサイン。
「しかたねぇよ、生きちゃってんだから。考えなしの馬鹿だからよ、何でも行き当たりばったりで、失敗もたくさんしてるけど、でも仕方ねぇよ、生きちゃってんだから」
見上げる裕孝の顔は、どこか少し力が抜けて表情が和らいでいた。
「お前の言うとおり、俺は他の奴が欲しくても手に入らないものを持ってはいるかもしれない。けどよ、持ってねぇものだって、たくさんある」
「たとえば?」
ストレートに問われて、ちょっと答え澱む。
「ええと、―――そうだな」
ここで口ごもっては元の木阿弥。裕孝にあって、俺にないもの。すぐに一つ浮かんだが、さすがにそれを言いたくはなかった。しかし間が空けば空くほど、裕孝の心はまた離れていってしまう。
しかたなく、俺は口を開いた。
「俺、頭良くねーし」
裕孝が両目で瞬きした。
「そうだよな―――、馬鹿だよなー」
そこの部分だけしみじみと裕二に同意されて、さすがにむっとする。
「るっせーな、俺は頭が良くないって言っただけで、馬鹿だとは言ってねぇよ!」
「でも、馬鹿だよな」
笑顔で速攻切り返した裕二の目には、ともに過ごした長い時間の中での俺の馬鹿はすべて覚えていると書かれていた。いちいち例に出されたら、反論なんて無に等しい。
「てめー!」と、とりあえず言い返したが、あとがつづかない。
「何を持ってようと、馬鹿ってのはキッいぜ」
「―――そうかも」
裕二の声に、ぼそりとチビが同意した。それだけでなく、「馬鹿は死ななきや治らない、って言うしね」と、つづけたのだ。
二人に馬鹿馬鹿連呼されて、さすがに腹に据えかねて、何とか言い返してやろうと思ったそのとき、ふと閃いた。
「―――よし、判った!」
俺の声に、二人ともただ俺を見つめていた。言葉には出さないまでも、二人ともが俺にこう訊いていた。―――何が判ったんだ? と。
「馬鹿を治してやる」
裕孝の口がぽかんと開いた。裕二の笑顔も引っ込んでいた。
「お前ら、人のことを好き勝手に馬鹿馬鹿言いやがって。俺は決めたぞ。馬鹿を治してやる」
「馬鹿は治らないだろう。そんなの、今まで聞いたことねぇよ」
冷静にはっきり、しかしどこか脱力したような声で裕二に言われて俺は切れた。
「そんなの、やってみなきゃ判んねえだろ? よしっ! いいか、お前ら、良く聞いとけよ! 俺はな、馬鹿を治してみせる。そうだ、俺は世界で初めて馬鹿を治した男になってみせる。これが、俺の生きる目的だ!」
裕孝は裕二を見上げていた。でもときおりちらりと俺に視線を寄越す。その目が意味するところは、俺にも想像がついた。「この人、大丈夫?」だ。
―――あれ? 俺は何かおかしなことを言ったか? 別におかしくないと思う―――のは俺だけか?
裕二は何も応えなかった。しばしの間が空いてから、裕二は裕孝を見下ろしてこう言った。
「目的、出来たな」
意味が判らずに首を傾げる裕孝に、裕二はつづけた。
「俺が知る限り、世界で初めて馬鹿を治した男になってみせるなんて宣言した奴はいない。これからだって、そうそう出てくるとも思えない。実現したらノーベル賞ものだ。その奇跡の瞬間を見逃す手はねぇだろ。本当にその瞬間を見届けることが出来たら、俺たちは有史以来の奇跡の目撃者になれるんだぜ」
真面目な顔で、裕二は裕孝にそう言った。
「ありがとう、雄大さん」
裕二を見つめていた裕孝が、とつぜん向き直って俺に礼を言った。しかも初めて名前にさんと、敬称をつけてだ。―――おお、感心感心、やっと俺の偉大さが判ったか。
「僕は雄大さんの馬鹿が治るのを見届ける。これからは、それを生きる目的にする」
裕孝が大きな目で、まっすぐ俺を見上げてそう言った。俺は大きく一つ領いて見せた。―――よしよし、なんか、良い感じ。と思ったそのときだ、「ありえねーつ」と、裕二が大声で叫ぶなり爆笑し始めた。見れば俺を見上げた裕孝の身体も震えている。
「なんだよ、二人で何、笑ってんだよ!」
笑ってやがるのだ。
二人を指先で小突くが、二人とも息を引き取りそうな勢いで、ひたすら笑いつづけていた。裕二は身体を二つ折りにして、裕孝に至っては、じたばた暴れながらだ。もはや止めようもなかった。むかつきつつ、二人を眺めているうちに、なんだかだんだん自分でもおかしくなってきた。よく考えてみれば、馬鹿を治すって、やっぱり変かも。とたんに腹筋が震えた。あっという間に堪えきれなくなって、俺も声を上げて笑っていた。
ひいひい変な声を上げながら、それでも裕二は話し出した。
「な、裕孝、判ったろ? 世の中や他人に認められるような目的なんかなくたって、人は生きていけるんだよ」
裕孝が大きく頷いた。その額にはまた涙が伝わっていた。でも、それは俺が今日一日の中で見てきた、絶望でも、溜まりに溜まった心の澱《おり》を吐き出したのでもなく、何かを吹っ切ったような最高に爽やかな涙だった。
ビールを飲んでしまったから、我が愛車に二ケツで裕孝を家まで送り届けることはさすがに出来なかった。タクシーを拾いに大通りまで出る。時刻は夜の十時四十七分。裕孝の言っていた十一時までに家にたどり着けるとは思えず「大丈夫か?」と、声を掛けた。
「多分」
短い答えを返して、裕孝はとっとと後部座席に乗り込んだ。名残惜しいような様子など、一かけらもなくて、そのあっさりした態度に、ちょっと拍子抜けする。でも、ま、そんなものなのだろう、うん。  ―――でもやっぱり、ちょっと寂しいかも。
ドアが閉まる寸前、「あのさ」と、裕孝が小さな声を上げた。腰を曲げて覗き込む。「また、会える―――かな?」
不安しか伝わってこない声と顔に、俺は断ることは出来なかった。
「ああ」と、声に出す代わりに、拳を握って裕孝の顔の前に差し出した。それが何を意味するか、賢い裕孝はすでに気づいていた。右手を拳に丸めて、こつんと当ててきた。俺の三分の一くらいの大きさしかない骨の細い拳だったが、手応えはあった。俺が手を引っ込めると同時に、にゅっと裕二の腕が伸びてきた。その手も拳に握られている。裕孝はもう一度、こつんと拳を当てた。
はにかんだような笑みを浮かべた裕孝を乗せて、タクシーは静かに走り去った。そして残ったのは俺と裕二の二人だった。
二人になったとたん、俺の口から出たのは、大きなため息だった。 そりゃそうだ。
本当にえらく長い一日だった。
沈黙を破ったのは、裕二だった。
「なぁ、雄大」
呼びかけられて、隣に立つ裕二を見下ろす。
「俺、今日ほどお前とダチで良かったって、思ったことないぜ」
そう言うと、握った拳を突き出して来た。
いやはや、俺だって、裕二がダチで良かったと、今日改めて思った。クールでアバンギャルドでリアリストで賢い俺の魂のダチは、実は誰よりセンシティブ。そんな裕二だからこそ、裕孝は本心から泣くことが出来た。
―――お前がダチでいてくれて、俺は幸せだよ、ありがとう。
本心から俺はそう思っていた。でも、口には出さなかった。へたに言おうものなら、延々、これをネタにからかわれるのは必定だからだ。―――なんて、本当は照れくさかっただけだ。だから俺は無言で拳を突き出すと、こつんと裕二の拳に当てた。
そして俺たち二人もそれぞれ家路に就いた。とことん疲れてはいたが、それでも気分良く、俺は愛車のカブで―――もちろん、酔いが醒めてから―――春の夜の町を駆け抜けた。
第十一章
赤羽消防署前の横断歩道で裕孝とすれ違ってから、早くも今日は三度目の日勤日だった。その昼休みに俺はロッカーの前に立っていた。交替勤の消防士の勤務は三週間で一サイクルで、そのうち日勤日は一日だ。三度目の日勤日ということは、三サイクル廻っている、つまり例の一件からは九週間が過ぎているわけで、六月も半ばになり、季節はすっかり初夏になっていた。
九週間の間、これといって何もなかった。―――いや、まったく何もなかったわけではなくて、それなりに色々とあった。最大のニュースは、五月十八日付で救急隊員に限り、搬送先病院からの引き揚げ途中にファーストフード店やコンビニエンスストア等で食事を摂ることが認められたことだ。消防隊員もPA出場で救急活動をしているのに、救急隊員のみというのが消防隊員の俺としてはイマイチ納得がいかないのだが、それでも消防隊員の待遇改善の記念すべき第一歩といえるだろう。
その他の細かいところでは、裕孝からちょいちょい連絡が入るようになり、先々週には、裕孝の計画に従って、裕二の勤める武本工務店の建築中の家ばかりを狙った放火犯をついに捕まえた。
方法は思ったより簡単だった。蓬莱で三人三様に麻婆料理を食し、俺と裕二はいざパトロールへと席を立ったそのとき、裕孝は「効率悪いよ」と、あっさりと言ってのけたのだ。
「どうすりゃいいんだよ?」と、俺が訊くまでもなく、裕孝は自分のアイディアを披露した。ダメでもともとということで、俺たちは裕孝の提案通りに、まず中古―――正しくは、故障して廃棄処分にするしかないデジカメやビデオカメラ数個と、センサーのライトと警報器を入手した。
「はりぼてでいいんじゃねぇの? 前に百均で見たことあるぜ」
防犯グッズとして、家の外に取りつけるプラスチック製のビデオカメラや、有名警備会社のものと見まごうばかりによく似たステッカーが百円―――正しくは百五円―――ショップに並べられているのは、俺でも知っていた。ゴミ寸前の故障品とはいえ、やはり百五円よりは高い。どうせ囮《おとり》なら、安くても良かろう。そう俺は思ったのだ。だが裕孝は「ダメ」の二文字で却下した。
「こういうところで手を抜いちゃダメ」
「けどよ、カメラがありや、センサーライトと警報器はいらねぇだろう」
センサーのライトと警報器だけならば、放火犯は驚きはするものの、ただ灯りが点いただけだと気づけば火を放つだろう。でもカメラがあれば二の足を踏むに決まっている。
「カメラがあるって気づかれなかったら意味ないの。それに掛かった費用は、失敗したら僕持ち、上手く行ったら裕二さんに払って貰うってことになっているんだから、いいの!」
相変わらず、裕二にはさんをつけて、俺は名前を呼び捨てだ。それもかちんと来ているが、そんなことよりも、―――なんか俺だけ一人蚊帳《かや》の外で、ちょっと寂しいんですけど。
「安物買いの銭失い、タイム・イズ・マネー。最初にケチったせいで、無駄な出費や二度手間なんて馬鹿馬鹿しいもの」ことわざなどさらりと枕に置いて、裕孝がさらにダメ出しをした。そういうものなのだろうかと、疑りつつ、それでも参謀の意見には従う。
購入したカメラ類とセンサーライトと警報器は、武本工務店が建築中の家の高い位置に三つまとめて取りつけた。人が近づけばライトが点灯し、警報が鳴り出す。驚いて見上げれば、そこにはカメラが、というわけだ。いざ設置してみたものの、やはり俺にはこの計画自体に承伏しかねた。
「確かにこれで放火は防げるだろうよ。けどよ、放火犯を捕まえるには、不向きっていうか」
そう言った俺を見た裕孝の目は、例の可哀想な人を見る目になっていた。
「んだよ、その目はよ」
むっとすると同時に右手で首の後ろをつかんで吊り上げて、真正面に裕孝の顔を据える。その状態のまま問答をするのも、すっかりパターンになっていた。
「何セット買った?」
三本指を立てて見せた。三つだ。
「武本工務店が建設中の家の数は?」
―――ええと確か。思い出せずに裕二に目だけで視線を送ると、裕二は無言で親指だけを折った左手を挙げて見せた。立っている指は四本だ。
「四カ所」
「四引く三は?」
―――そりゃ、一だ。でも俺は答えなかった。十三のガキに小学校低学年の算数の問いを出されて、素直に答えるなんてことはしたくなかったからだ。
引き算の答えだけでなく、裕孝の計画も判った。放火をしようにも、防犯グッズが取りつけられていては、ざすがの放火犯も手は出せまい。普通の放火犯―――放火犯に普通と言うのも、かなり変だとは思うが、他に言いようもないからこのままにしておく―――なら、この時点で終わりだ。
だが俺たちが捕まえようとしている放火犯は、場所は選ばす、行き当たりばったりのストレス発散狙いの放火犯ではなく、武本工務店の現場ばかりを狙っている確信犯だ。ならば、三カ所のどこに最初に行ったとしても、手を出せないと判ったら、他も確認しに廻るに違いない。そして一ヶ所所だけ防犯グッズが取り付けられていない現場を発見する。犯人は嬉々として火を放つに違いない。つまり防犯グッズもどきをつけていない現場だけを見張っていれば良いというわけだ。
腕にだるさを覚えた俺は、裕孝を地に戻した。
裕孝は視線を裕二に移すと、「奇跡の瞬間は、まだ当分なさそうだね」と、肩をすくめて言った。
奇跡の瞬間―――俺の馬鹿が治る瞬間だ。さすがにかちんと来る。−どうせ、相変わらず馬鹿ですよ、っての。
裕孝の計画は見事に成功した。深夜一時半を廻った頃、俺と裕二の二人が見張る現場に、一人の男が現れた。建築系同業者に頼まれた特殊業界の方たちの一人で、しかもこういう一見簡単、でもつかまったら罪は重い犯罪に手を染めるのは、下っ端の若い奴―――そういう犯人像を持っていた俺の予想は裏切られた。黒いTシャツにブラックジーンズ姿の男は、その手の人物には見えなかったからだ。年の頃は間違いなく三十は超えていて、しかも手には大きな紙袋を提げている。
―――ハズレか? そう思って肩の力を抜いたものの、すぐさま気合いを入れ直した。男は現場に近づくにつれ、周囲を見回していたのだ。しかも現場の前を通過しかけて立ち止まった。男が上を向いた。ライトも点かなければ警報も鳴らないことを疑問に持った、だから見上げているに違いない。男の視線の行き先は、他の現場で防犯グッズを仕掛けた場所だった。それを知っているということが、何よりの証拠だ。
よっしや、行こうぜ、と口に出そうとしたその時には、俺の左横にいたはずの裕二はいなかった。
あわてて辺りを見回した。現場の高い位置で何かが動くのを捕らえて目を凝らす。見ればいつの間にか裕二は現場の中、それもまだ床を張り終えていない二階の梁の上にいた。音もなく移動し、柱を上ってさして太くもない梁の上に、どこにもつかまらずにしゃがんでいたのだ。―――猿か、お前は。
裕二があそこにいるのなら、あとはお任せだ。俺の出番はあくまで援護のみ。なんて悠長に構えてもいられなかった。裕二がどう思っていようとも、自分の役割は、裕二の援護役よりも、制止役だと自覚していたからだ。大事なダチがやりすぎないうちに止めるのも、ダチの大切な役目。
男が紙袋に手を突っ込んだ。―――さあ、何を出す? あの紙袋のデカさと見た目の質量感からすると、紙系―――それも新聞紙、しかもあとから容器に詰めた灯油かガソリン掛けに、満額一点買い。
俺の予想は的中した。男の手には新聞紙があった。すでに放火の経験有りのわりには、手際が悪い。右手には新聞紙、左腕には紙袋の持ち手を通したままで、さらに右手で袋の中の物を取ろうとしているが、そりゃ無理だろう。
やりづらいことに気づいた男は、左脇の下に新聞を挟み、空いた右手で袋の中からペットボトルを取りだした。よし、俺の予想、大当たりー・でも、大本命なだけに倍率なし。―――つまんねぇの。
男はそこからももたついた。やりたいことは判っていた。左脇の下の新聞紙に右手のペットボトルの中の液体を掛けて、火を点けて現場に置く、だ。
だが、見ているこちらが苛々するほど、男はトロかった。ペットボトルを持った右手で、左脇の下の新聞紙を取ろうとして、取れずに固まっている。困って、左腕を動かしたはいいが、新聞紙を地面に落とした。焦ってしゃがんで左手に新聞紙を持ったものの、今度は右手のペットボトルの蓋を開けられずにおたおたする。
―――だから、一度全部、下に置けっての!
スムーズに放火にいたれないことに腹を立てるというのも、どうかとは自分でも思う。でも、不器用な放火犯のおっさんよ、俺はあんたに一言アドバイスしたい。あんたの斜め上の梁の上には、俺のダチがいる一見好青年だけど、その正体は自由に毒を出すことが出来る獰猛なトカゲみたいな男だ。そいつはあんたが火を放つ決定的な瞬間を今か今かと待っている。いや、じれて、―――そうじゃないな、苛ついて、―――もっとだな、猛り狂っている。だからさっさとした方が良い。どうせ蹴りやらパンチやら喰らうだろうが、被害は少ないに越したことはないし、何より裕二を止める俺の身にもなれ。猛り狂った裕二を止めるには、怪我は必須。俺だって命は惜しいっての。―――あ、いかん。俺も腹が立ってきた。
男はようやく気づいたらしく、しゃがむと新聞紙を地面に置いた。そしてペットボトルの蓋をねじ開け―――たはいいが、今度は右手にペットボトルの蓋を持ったまま新聞紙を持ち上げようとして、またぐずぐずしている。―――あー、いらいらする。
ようやく男が左手にペットボトルの中の液体をかけ終えた新聞紙を、右手にライターを持って現場の前に立ったときには、男が現場に現れてから五分は経過していたと思う。その間、俺は何度も裕二の様子を窺っていた。裕二は胸の前で腕を組み、実に器用に二本の脚のみで梁の上にしゃがみつづけていたが、その脚は貧乏揺すりをしていた。
―――こりゃ、いかん。おっさん、あんた、ヤバイって。
フライング覚悟で足を踏み出そうとした俺が留まったのは、犯行直前の男が辺りを見回したからだ。あわてて身を隠していた自販機の陰に身を潜める。
その直後、すべてが動いた。灯りも消え、音も絶えた住宅街に鳴ったシュツという音は、まざれもなく百円ライターのオイルホイールを回した音だった。―――やりやがった! あわてて飛び出した俺が目撃したのは、赤々と燃える新聞紙を手にした男に向かって安全靴から飛び降りる裕二の姿だった。全速力で近づいているはずなのだが、俺は自分がスローモーションの世界の住人ではないのかと思った。それだけ裕二の動きは素早かった。地に崩れ落ちた男の手を蹴る。燃えている新聞紙がアスファルトの路上を、風に乗って飛んでいく。
おいおい、他に燃え移ったらどうするよ?
自分の現場の放火を阻止した裕二は、蹴り飛ばした新聞紙のことなど、もはや頭になどなかった。倒れた男の胸の上にマウントポジションを取ると、左手で髪の毛をつかみ上げ、右の平手で男の頬を張りだした。拳にせずに平手を選んでいるとは、さすがは裕二、冷静さは失っていない。人間、何事もやりすぎは良くない。
男は大丈夫だろうと踏んだ俺は、新聞紙の消火を優先することにした。折しも強風が吹き、道路の上をころころと転がり飛ぶ新聞紙に、どうにか追いついて踏みつける。ちょっと力を込めすぎてしまい、燃え砕けた新聞紙が周囲に散って焦った。両足でひたすら踏みつけて、完全に消火したのを確認してから、裕二と男のもとへと近づいた。裕二に両頬を張られつづけて、もはや顔の原形を留めていない男が、それでも必死に逃げだそうともがいていた。
「裕二」
その二言で、裕二が手を止め、立ち上がった。男は腫れ上がった瞼と頬の間で、すっかり細くなった目から涙をこぼして泣いていた。荒い息の合間にかすかだが、男のやめてくれ、許してくれ、という詫びの声を拾うことが出来た。
夜目でも男がそのスジの若造ではないとは見抜いていたが、こうして近くで見て、ますます男の正体は謎だった。しげしげと眺める。黒いTシャツに黒いジーンズ、そしてやはり黒いスポーツシューズ。ものは悪くもなければ、古くもない。まったく正体不明。
「誰? こいつ」
俺の問いに裕二は答えなかった。男を見下ろし、「明日、社長に詫びに来い。そのあとで警察にいけ」それだけ言うと、歩き出した。
裕二には裕二の考えがあるのだろうが、ことがことなだけに、消防士という俺の立場からしても、理由も訊かずに、はい、そうですかと、このまま終わりにすることは出来なかった。
「おい、いいのかよ」
肩を怒らせて競歩のようなスピードで歩き出した裕二のあとを追いながら、一応訊いてみる。訊いたところで、どうにもなりはしないのは判っていた。だてに長くこのクールでリアリストでアバンギャルドで、でもセンシティブな男裕二のダチはやっていない。
「いいんだ」
振り向かずに不機嫌極まりない声が返ってきた。振り向いて男の様子を窺う。男は地面に仰向けに路上に寝ころんだままだった。大した怪我でないのは判っていた。
「けどよ」
「いいんだって、言ってんだろが!」
ぶち切れた怒鳴り声と同時に、振り向きざまの裕二の右脚が外から飛んできた。もちろん、ただ蹴られるほど俺は鈍くはない。だが避けるには距離が近すぎた。仕方なく、左腕と脇で裕二の脚を挟み止めた。自分でも変な状態だとは思った。現場の前の道路には、真っ赤でばんばんに腫れた顔の男が大の字になって寝転がり、その数メートル先の街灯の下では、俺はダチの片足をつかんで―――とうぜんダチは片足で立って―――いた。街灯の明かりの中、向かい合った裕二は憤懣やるかたない顔をしていた。―――こりゃ、今、きちんと聞いた方が良い。
「話すまで、放さねぇぞ」
言った直後、左腕と脇で挟んだ裕二の脚に、重さが加わった。体重を任せたということは、―――延髄だ! とっさに俺は裕二の腹に右腕を巻きつけた。結果、裕二を左脇に仰向けで抱きかかえるという奇妙な状況にはなったが、延髄斬りは避けられた。
「言わねぇと、下ろさねぇ」
至近距離で裕二の顔をねめつけながらそう言うと、一拍間をおいてから、「言うから下ろせ。気色悪りい」と、諦めた声で裕二が言った。
街灯の下、二人とも煙草を一本完全に吸い終えてから、裕二は口を開いた。
「大卒君」
吐き出された一言に、俺は「|あ《〃》?」と、声を挙げていた。裕二は答えずに、吸い込んだ煙を息も荒く、鼻の穴から吐き出した。
首を傾げて裕二を見下ろすと、俺は片眉を上げて見せることで 「それってマジかよ?」という質問に代えた。再び鼻の穴から白い煙が勢いよく吐き出された。答えはYESだ。
大卒君の話を聞いたのは、一昨年の暮れのことだ。裕二の勤める武本工務店に中途採用で入った、大学の建築学科を卒業後、一時は大手の建築事務所に所属していた男、それが大卒君だ。
当時、その話を聞いた俺は、首を捻ったものだ。なぜなら、裕二の勤める武本工務店の職員は、見た目にかなり特徴―――ぶっちゃけ、皆さん素行がよろしいようにはおよそ見えないヤンキーばかり―――があって、ついでに人生経験も豊富―――少年院に入るとか、鑑別所に入るとか、保護観察なんてものがついているとか―――で、高校すら卒業してない者ばかりだったからだ。そんな武本工務店に、裕二曰くの「大卒君」が就職したのは、大卒君の親と社長につき合いがあったからだという。社長からじきじきに面倒を見てやってくれと頼まれた裕二は、社長の信頼に応えるべく、でもあくまで出来る範囲で大卒君をサポートした。
当初、裕二は大卒君について、「けっこう良い奴」と、言っていた。理由は、大卒君の方から、年齢も学歴も関係ない、厳しく指導してくれと裕二に申し出たからだ。だが、ものの二カ月後に大卒君は辞めていった。その時の裕二の大卒君に対するコメントは「とんだ食わせ者」だった。
早い話が、大卒君は裕二の前ではしおらしい後輩を演じ、ひたすら裕二を立てていたのだが、他の者の前では、裕二のことをけなしまくっていたのだ。それも嘘までついて。その事実を裕二が知ったのは、ひとえにそれまでの裕二の働きぶりが評価されていたからだ。つまり、悪口を聞かされた相手が、裕二にご注進下さったのだ。
裕二は事実を確認して責め立てはしなかった。それが正統性のある怒りだとしても、相手に感情を動かすことすら馬鹿馬鹿しい、そうばっさりと斬り捨てるドライな男、それが裕二だからだ。
社長に一言「一人で充分やっていけるでしょう」と申し出て、裕二は大卒君の監視役を降りた。一人になった大卒君が口ばっかりだということは、あっという間に周知の事実となった。人柄も良くない、仕事も出来ないでは、周りから人が減ってとうぜんだろう。それに焦ったのか、大卒君はさらに人の悪口を言いふらした。悪口ほどてっとり早く盛りあがる話題はない、を実践したのだ。もはや相手は誰でも良かった。裕二だけではない。AさんがいなければAさんの悪口を、Bさんが不在ならBさんの悪口を。そんなことを繰り返していれば、誰からも相手にされなくなるのはとうぜんのことだ。
そして事件は起こった。大卒君が資材の発注ミスを犯したのだ。
「誰が見たって奴の字でしかないし、取引先の担当者だって、電話でやりとりしたのも間違いなくあいつだって言ってんだから、とっとと謝りゃいいんだよ。なのに、俺のせいにしようとしたんだ」
よりにもよって、裕二に罪を被せようだなんて、逆に俺は感心した。―――よっ、この命知らずっ! 「ウチの社長は大概のことには寛容だし、チャンスもくれる人だけど、さすがに許さなかった」
武本社長はその場で大卒君に解雇を言い渡した。大卒君は、さも自分から辞めたが如く、罵警雑言を残して去っていったという。
―――なるほど、誰がどう見ても、そいつの方が負けているのに、「このへんで勘弁しといたるわ!」と、強がって去っていくという、大阪のお笑い芸人が良くやるアレか。ギャグでもなんでもなくて、リアルで目撃したというのは、ちょっと羨ましいかも。―――って、もちろん冗談だが。
大卒君のエピソードを考えるに、奴が放火に至った理由は、おおよそ見当がついた。テレビ番組を観たのだ。そして嫉妬を覚えた。自分もこの中にいて賞賛を得られたはずだ。得られないのは、自分のせいじゃない、追い出した連中が悪いのだ。そう考え、妬みと恨みと憎しみを滾《たぎ》らせたに違いない。どう考えても逆恨みでしかない嫉妬でその身を焦がした。そして打って出た。
男が誰で、どうしてことに及んだのかについては良しとして、残る疑問は一つだった。裕二がなぜ大卒君を警察に突き出さないか? だ。
さて、どう訊くかと思案している俺の横で、裕二がぼそっと、「仏心じゃねぇぞ」と、呟いた。じゃぁなんだ? と、再び片眉だけ上げて訊ねる。
「あのての奴は、誰かじゃなくて、自分が悪いって自覚しねぇと意味がない。人に突き出されようものなら、罪を償ってる間に恨み倍増で、外に出たら、またやりかねない。あんな奴にいつまでも関わり合うだなんて、俺はご免だ」連行されて逮捕と、自首では罪の重さはぜんぜん違う。もちろん後者の方がだんぜん軽い。男を連行しなかったのは、罪を軽くしてやろうなどという男に対する優しさではなく、二度と放火をさせないためだった。
「自首しなかったら?」                     正直、大卒君のような男は自首などしないと俺は睨んでいた。見逃して貰ったことすら辱《はずかし》めを受けたとばかり、さらに恨みを滾らせて暴挙に出るに違いない。だから俺的には八割以上の確率で起こるはずの、悪い可能性を口に出すと、裕二は肩を竦めてこう言った。
「奴は終わりだ」
それが何を意味しているか、俺は細かくは考えなかった。というより、考えたくなかった。
―――いや、もちろん裕二が警察に通報して捕まえて貰う、だと思う。奴は前科者となり、あとの人生は楽ではない。つまり、奴は終わりだ、というわけだ。だけど、それ以外の意味も頭には浮かんではいた。それこそ、言葉通りのひねりなし。つまり、誰かが奴を終わりにする。―――うん、聞かなかったことにしよう。聞いてない、聞いてない、俺はなーんにも聞いてない。
言うことは、もはや何もなかった。握った拳を裕二の顔の前にひょいと出す。もちろん裕二も拳をこつんとぶつけてきた。
翌日、大卒君はパンパンに腫れた顔のまま、武本工務店に現れた。俺の想像より、大卒君ははるかにマシな人間だったのだ。いや、みくびって悪かった。大卒君の耳に届くこともないだろうが、一応、詫びておく。ホント、ご免。
そして武本社長に付き添われて大卒君は警察に出頭した。社長は「出てきたら、またおいで」と言ったという。つくづく武本工務店の社長は尊敬できる人格者だ。
その三日後、俺と裕二は再び拳を丸めた。二人の拳に拳をあわせたのは、もちろん裕孝だ。こうして武本工務店の手がける現場を狙った放火は、完全に終わった。
それから、ずっと抱えていた鬱陶しい問題も、俺なりに手を打った。その間題とは、理由は判らないが、何かというと俺を目の敵にする後輩にして年上の同僚―――香川だ。
良い子振っては上司―――と言っても、富岡のオッサンだけだ―――の点数を稼ぎ、上司―――つまり富岡のオッサン―――は、そんな香川と俺を比較してはちくちく俺に説教をする。香川が異動してきて以来、延々とこの調子だった。腹は立ったが、別に俺は富岡に誉められたいなどとは、これっぽっちも思っていないから、無視を決め込んで来た。しかしこの先、俺か香川が異動にでもならない限り、この毎日がずっと続くのかと思うと、さすがにうんざりだった。
だから俺は行動に出た。なぜ俺に敵意を持つのか、まずは香川に訊いてみることにしたのだ。
今までなら、面倒臭いことには目を瞑ってスルーがもっぱらの俺だった。だが裕孝の一件で、ちょっとばかり心境の変化があったのだ。早い話がこれもまた世界初、馬鹿を治した男になってみせるキャンペーンの一環ということで。やはり人間、何事も会話だ。結果として理解することが出来なかったとしても、最初から無視を決め込むよりは良いのではなかろうかと。
―――なんて、聞いたうえで理解不能な理由なら、これはもう、完全にスルーして良かろうという、気になりつつも先送りにするより、ちゃっちゃと片づけてしまおうというだけだが。
そして好機が訪れた。二十四時間の当番日の午後の訓練の最中のことだ。香川より先にマラソンを終えて所に戻った俺は、とっとと重装備を解き、汗など拭きながら、奴が戻るのを駐車場の奥のラックの前で待っていた。これもまた、いつものことだ。本当なら、香川なんぞ待たずに事務室に先に戻って席に腰を落ち着けて一服したいところだが、そんなことをしようものなら、富岡にチームワークとはと、耳にタコどころか海の仲間たちが全部集合するはど聞き慣れた説教を喰らうので、仕方なく待っているのだ。だが今日は違った。俺は目的を持って奴を待っていた。
遅れること三分二十七秒後、ようやく香川が戻ってきた。息も絶え絶えの香川が順番に装備を解き終え、少しは落ちついてきた頃、俺は訊ねた。
「俺、お前に何かしたか?」
喧嘩は先手必勝、ヒット・アンド・アウエー。口先だろうとフィジカルだろうと同じこと。香川は、まさか俺がそんなことを訊くとは思っていなかったのだろう、息をすることすら忘れたように、固まっていた。
「何かっちゃぁ、俺にケチつけてるよな、お前。そりゃ、俺は消防士としてはダメだらけだ。けど、兄貴やオヤジ、富さんに言われるのならともかく」
俺はあえてそこで一度、口を噤んだ。そして香川をねめつけて、「―――お前に言われる筋合いはねぇ」と、言った。間が空いたのは、特に現場では、という言葉を飲み込んだからだ。それを言ったら酒落にならないというのか、―――ほら、俺ってば、こう見えて意外と心が広い男だから。なんて、悦に入っていた俺の耳に飛び込んできたのは、香川の「頭に来るんだよっ!」という怒鳴り声だった。
頭に来るって、何が? と、腹の中で思っただけなのに、どうやら顔に出ていたらしい。
「お前の何に俺が腹を立てているかすら、判ってないお前が、頭に来るんだよっ!」
香川の怒鳴り声を聞きながら、俺は思いっきり既視感を感じていた。考えたこともないあなたになんか、答えたって判らない。俺にそう言ったのは裕孝だ。あのとき俺は誠心誠意、裕孝の心を聞かせようと努力した。理由は、カーネルサンダース似の老人の放火自殺の実行までのタイムリミットが迫っていたからだし、裕孝の目が、そんな強がりを言ってはいるものの、でも判って欲しいと叫んでいたからだ。
だが今回はそんな配慮はしなかった。香川は裕孝とは違う。二十歳も過ぎた良い歳の大人だ。しかも、俺のアラを論《あげつら》っては、自分を誉めさせようとするなどという、姑息な計算も充分出来る奴に、配慮なんぞする必要はどこにもない。ということで、「何でもいいから、もったいつけずに言ってみろや、|あ《〃》?」と、ずいっと一歩、詰め寄った。もちろん最後の「あ」は濁点付きの語尾上げだ。
気を呑まれたらしい香川は、一度ごくりと喉を鳴らしたが、そのあとは負けてたまるかとばかり、一気に話し出した。
早い話が、まあ、ある意味では裕孝と一緒だ。要は俺が資質に恵まれていると。自分がどれだけ精一杯努力しても、やる気のない俺に敵わない、それが頭に来るし、許せないと言うのだ。
まあ、ね、これが初めて聞く話なら、驚いたかも知れないし、結果、色々と考えたかもしれない。でも残念ながら、もはや二度目で新味もなかったし、まして相手が香川では、真剣に考えるどころか、聞く気にもなれなかった。かなり白けた気分で立っている俺をよそに、いったん口を開いた香川は、留まるところを知らなかった。
「お前には判らないだろうな! 推薦で体育大学に入ったのに、レギュラーになれない奴が、どれだけ惨めな四年間を過ごさないとならないかなんて」
―――そんなの知るわけないって。そもそも俺、スポーツ嫌いだし。それ以前に、なんでお前の大学生活まで遡った話を聞かされることになったんだ? もはやどうでも良くなりつつある俺を前に、香川は腹の中をぶちまけつづけた。香川がやっていたのはバスケットボールで、高校では県代表の国体選手にも選ばれた、なかなか大した選手だったらしい。その後、推薦で私立の体育大学へ進学した。本人は、高校同様、大学でもレギュラーとして活躍し、実業団の選手として、企業に就職してやろうなどという夢を持っていたと言う。だがその未来予想図は簡単に白紙に戻された。田舎の優等生は都会の進学校ではビリっけつという典型的な井の中の蛙理論にはまったのだ。
「ガードとしての資質だけなら、俺だって他の奴にはひけは取ってなかった。でも、一学年上の俺より十センチ背の高いポイントガードの控えが、ポジションを変えたんだ。しかも当時の主力選手は三年のフォワードとガードフォワードで、二人ともそいつと同じ高校出身だった。こいつがやりやすいって主力選手が監督に言えば、それっきりだ」 バスケットボールは、高校の体育の授業でやった記憶はある。とはいえ、商業高校の体育なんざ、どんなスポーツをしようと、最後は乱闘―――単なる喧嘩だ。だから香川が口にしたカタカナがなんなのか、俺にはまるっきり判らなかった。
「主力の二人が卒業すればって思って、控えでも俺は腐らずに頑張った。でもその翌年、大学は超高校級の選手をスカウトしてきたんだ。ポジションはガード。入学するなり、そいつはレギュラーになった。ポジションを変えた先輩は、あっという間にそいつの控えになって、俺はレギュラーから外された。ベンチから外されたんだ」
とにかく、香川の出番はなかった、で良いんだろう。―――それにしても、長え話だな。
「知らないだろうな、バスケット部の控え選手は、コートすら使わせて貰えない。練習は夏だろうが冬だろうが、雨が降ろうが、風が吹こうが屋外だ」
野外でバスケット。それって、30n3とか言って、かえってストリート系で格好いいんじゃないのか? などと思っている俺に、香川が詰め寄った。
「知らないよな、ベンチ入り出来ない生徒は、試合の度に制服で観客席で、ずっと応援させられるんだ。自分のチームが攻撃しているときは、ずっと、一本一本一本一本って言いつづけで、守りに入っているときはディーフェンスって、叫びつづけだ」
香川の口からとつぜん飛び出てきた攻撃と守りの応援コールに、俺は唖然としていた。確かカバディとかいうスポーツで、競技の間中、ずっとカバディカバディカバディと言いつづけていないとならないのがあったが、バスケットでも、そんなことをしなくちゃいけなかったか?
「得点を取れば、得点のコール。タイム・アウトのたびに観客へのパフォーマンス」
得点のコールに観客へのパフォーマンスだ? なんだそりゃ? 想像がつかずに奇妙な顔になった俺に、香川は
「こういうのだよ!」と言うなり、そのパフォーマンスとやらをやって見せた。拍子をつけて拍手をしては大学名を言うのを繰り返すだけのものだったが、だんだん速度が速くなり、しかも右を向いて行い、左を向いて行いと、なかなか大変そうだった。
「控え選手は一年から四年まであわせると五十名以上いる。その全員が観客席に隙間なく座らされて、試合の間中、ずっとやらされるんだよ!」 それはちょっと見てみたいかも。なかなかの見物ではなかろうか。実際の状況を想像しっつ、つらっらとそんなことを考えた俺の耳に、再び香川の叫び声が飛び込んだ。
「俺は、客席に座って、ただ応援をするために大学に入ったんじゃない!」
香川の眼は真っ赤だった。そしてその目には憎しみだけが滾っていた。―――でも、それって大学だとかチームだとかに対する怒りであって、何でそれが俺に向けられるのかが判らないんですけど。
「実業団の選手になって企業に入る夢は諦めるしかなかった。残る進路は体育の教師だ」
何で、と口に出そうと息を吸い込んだ時点で香川に睨まれて、質問は出さずじまいになった。ここに今、こうしているということは、教師にはなっていない、つまりなれなかったわけだ。理由は、―――訊くまい。
「スポーツに関わる仕事に就きたくなかったんだ。体育大卒の教師には、一生ついて廻るんだよ! どこの大学で、どんな選手だったのか、成績や記録はどうだったかって。ずっと訊かれつづけるんだ。その度に、レギュラーじゃなかったって答えなきやならない、生徒に馬鹿にされる体育教師になんて、俺はなりたくなかったんだ!」
あら、頭が悪くて試験に落ちたわけではなかったのか。そりゃ、失敬。でも、なんで消防士になったんだ? 口に出すまでもなく、香川はその理由を自ら口にした。
「俺は、人に認められる存在になりたかった。観客席で、ただ手を叩いているだけの集団の一人みたいなことは、もうしたくなかったんだよ! だから消防士になろうって決めた。必死に受験勉強したよ。だけど一回目は落ちた。それでもどうしても消防士になりたくて、親に頼んで学費を出して貰って予備校にも通った。二度目の受験でやっと消防士になったんだ!」
人に認められたい、イコール、消防士。へぇ―――、そりゃあ、ご苦労なことで。馬鹿じゃねぇのか、こいつは。
もとより香川が職業イコール自分という、俺がもっとも忌み嫌うタイプの奴だということは判っていた。何しろ消防士が、つまりは消防士である自分が特別な存在だと、臆面もなく始終アピールしているのだから。
そして先も読めた。必死に勉強して、一浪までして消防士になって、配属された先にいたのが俺。自分より図体はデカいわ、運動能力は優れているわ、しかもやる気もないのに一発で試験に受かっているわでは、目障り極まりないに違いない。
「消防学校でも俺は頑張った。そして、いざ配属されたら、お前がいた」
目だけでなく、もはや顔全体に憎しみは広がっていた。醜い―――それ以外にたとえようのない顔に、香川はなっていた。
「俺にお前の背の高さがあったら、お前の運動能力があったら」
悔しくて堪らない感情が、その声に込められていた。
だが俺は同情などみじんもしていなかった。まして裕孝のときのように、自分にも足りないものはあるなどと、遜《へりくだ》る気もなかった。
香川の先輩がポジションを変えたのは、試合に出たいがための努力だし、超高校級の選手を大学がスカウトしたのは、チームを強くするためにとうぜんのことだ。何にせよ、香川が二人より勝れば試合には出られたはずだ。試合に出ない生徒に応援させるのは大学側の方針だろう。それが嫌ならば、大学を辞めれば良かっただけだ。自分が不遇なのは、何一つ自分のせいではない。すべて先輩が、新入生が大学が悪いのだ。香川はそう思っている。悪いのは自分ではない。自分を優遇してくれない周囲が悪い、と。―――あー、ムカつく。
そしてもう一つ、俺は見抜いていた。自分の非を認められず、すべて他人のせいにすることより、もっと悪いことを実は香川はしている。だが、そのことに奴は気づいていない。
俺は香川に何を言うべきなのか、考えていた。正直言って、この歳までこの考え方と行動で生きてきた奴に、何を言ったところで、反省するとか、まして改心するどころか、理解すら出来ずに、逆にすべてをさらなる妬みと憎しみの燃料にするのではないかと、疑っていた。
俺は香川が大嫌いだ。だが同じ隊の隊貝として、関係を悪くするわけにはいかなかった。俺は仕事とプライベートを完壁に分けることが出来る。しかし香川にはそんな芸当は無理だ。ならば、お互いに命を預けあう間柄なだけに、関係は悪くしないに越したことはない。このまま何一つ言わずに終わりにするべきだ。今まで通り、腹は立ってもスルーすれば良いだけのこと。さあ、ここから立ち去ろう。何も言わずに去るに限る。そして次の瞬間から、何もなかったようにすれば良い。そう頭では思っていた。だが、俺の口が裏切った。
「俺が目障りなのは良く判った。でも、しょうがねぇよな、俺のガタイがデカいのも、運動神経が良いのも、俺にはどうしようもねぇもんな。何せ、持って生まれたもんだからよ」
すっぱりと香川の妬みを肯定していた。我ながら嫌味な発言だという自覚はあった。―――俺ってば、いつからこんな毒舌家に? あー、そうか、裕二の毒が伝染ったんだ。やっぱり、ダチは選んだ方が良いかも。
まさかそんな返答が戻ってくるとは思っていなかったのだろう、香川の顔がさらに醜く歪んだ。だが俺の口は動きつづけた。香川が判ろうと判るまいと、言わずにいられなかったのだ。
「お前の気に入るために、背を低くなんて出来っこねぇし、能力を下げるわけにもいかねぇ。俺はお前と違って、人に認められたいために消防士なんかやってねぇ。給料貰える仕事としてやってるだけだ。だから現場に出たいなんざ、これっぽっちも思ってねぇ」
俺の言葉に、香川は怒りのあまり過呼吸になっていた。口を開いて、はふはふ変な呼吸をしている。それを無視してさらにつづけた。
「けど、給料貰って交替勤の消防士をやっている以上、現場に出なきゃなんねぇ。俺は現場で怪我なんざしたくねぇ。五体満足、無事でいてぇんだよ。俺だけじゃねぇ、藤田のオヤジや富岡のオッサン、生田の兄貴、それに香川、お前もだ。同じ隊の誰一人怪我なんてさせたくねぇんだよ。だから訓練はともかく、現場で手なんか抜けねぇ」   香川の変な呼吸音が止まった。何を言われているのか、意味が判らないのか、変な物を見る目つきでただ俺を見つめていた。
「俺を嫌うことが、お前の励みになるんなら、勝手にすりやあ良い。お前の腕前が上がれば、隊にとっては良いことだし、俺も少しは楽が出来るしな。良いぜ、いくらでも俺を妬め、憎め、嫌え」
香川は完全に固まっていた。
言うべきことは言った。あとは立ち去るのみだ。いざ事務室に戻ろうと、きびすを返しかけた俺は、そこで足を止めていた。一つだけ、香川に訊いてみたいことがあったのだ。
「なあ、香川。最初から十持っている奴の七と、最初から七しか持ってない奴の全力の七って、同じか?」
俺が何を言っているのかも判らなかったらしく、香川はさっきと変わらず変な物を見る目つきで、ひたすら俺を見つめていた。
答える気がないのか、考えても答えが判らないのか、とにかく答えはなかった。もちろん、俺も初めから答えなど期待していなかった。これぞ、考えたこともない奴に答えを言ったところで理解出来るはずがない、に違いないからだ。
香川を残し、一人先に事務室へと階段を上りながら、俺は考えていた。
質問を出しておいてなんだが、実は俺にも答えは判らない。裕孝や香川の言うとおり、最初から十持っている人間と、七しか持っていない人間が世の中にいることは俺も知っている。そして、残念だが十持っている人間が手を抜いて出した七と、七しか持っていない人間の全力の七が、数値だけで判断するなら、同じ七でしかないこともだ。
それでもやっぱり俺は、七しか持っていない奴の全力の七に軍配を上げる。本人の達成感とか、やるだけやった満足だとかが加わって、わずかかもしれないが、七以上のものになっていると思うからだ。もちろん、それは数値上として現れはしない。だから数値のみの勝敗ならば、引き分けだ。それこそ十持っている奴が、八を出そうものなら、七しか持っていない奴はどうやっても敵わない。
香川は努力もしているし、全力だって出している。ただしそれは試験などの場合で、闘う相手が特定の個人となると、相手の持つ資質が自分より多いと見抜くや否や、最初から闘っても仕方ないとばかり、多く持っている相手をただ憎み、少ししか持っていない自分の不運を嘆き、負けても仕方ないと、それこそ自分はまったく悪くないと思って生きてきた。
そしてその考えの下、自分より多く持っている相手を前にしたときは、全力を出し切って闘いもせず、常に敵前逃亡を繰り返してきた。自分がそうしていることに、香川は気づいていないのだ。
裕孝と香川の何より大きな違いはここにある。もともと少ししか持っていないというだけなら、二人は一緒だ。だが裕孝は逃げていない。多く持っている連中と、同じ土俵で闘わなくてはならないときがあることを覚悟している。だからこそ自分の持つ少しで、どうやったら勝てるかを考えている。全力で闘う覚悟があるのだ。
さらにもう一つ香川が気づいていないことがある。全力を出さない奴相手に、全力で当たる人もまた少ないということだ。七しか持っていない奴が十持っている相手に、最初から勝ち目がないと三しか出さなければ、出した数だけを見て、三しか持っていない奴と思われても仕方ない。香川は自分が三しか出していないのに気づいていないのだ。そうやって自らをますます軽んじられる人間に、香川曰くの人に認められる存在からほど遠いものにしてしまっている。自分で自分の価値を下げていることに、香川は気づいていないのだ。
俺の質問に込められた真意が、今の香川に理解出来るとは俺は思ってはいない。だから俺への妬みや怒りを、今はただ増幅させているに違いないだろう。
だがもしかしたら、いずれ判る日が来るかもしれない。そのときが来たら、俺は本気で香川を相手にしてやっても良い。ただし、俺が本気を出したら、香川なんざ、どれだけ全力を出そうと目じゃないが。―――なんて考えていた俺は、はたと気づいた。もしも香川に判る日が来たとしても、それはおそらくずっと先のことだ。何しろ俺が目の前にいる以上、あいつが自分の目に自ら貼りつけた鱗だか霞だかが取れるはずもない。しかも嫌っても良いと言ってしまった。ということは、これから先、今とずっと変わらず、香川と富岡の連合軍にテクテクやられつづけるというわけだ。
―――やっぱり、俺ってば、馬鹿かも。鳴呼、馬鹿を治した男への道は、遠く険しい。
さらに、約束を破って病院へ我が紫の姫―――澄香さんに会いに行った。いや、澄香さんは姫ではないし、俺は王子じゃないから、そもそも約束は成立してないからいいのか。―――とにかく、あのまま
終わりにして良いとは、俺は思っていなかったのだ。
とはいえ、病室に行くには理由が必要だった。いや、見舞いに行くのに理由などいらないというのか、普通は見舞い自体が理由だろう。だが俺の場合は、そう簡単にはいかなかったのだ。なにしろ俺の職業は消防士、見舞う相手は放火自殺を企てて失敗した人、しかも互いの立場を二人ともすでに知っている。となると、簡単に「お見舞いに来ました」「まぁ、ありがとう」とはいかないことくらい、誰でも想像がつくと思う。
間違っても俺は、澄香さんを法的に追及したいなどとは思っていない。だが賢い澄香さんのことだ、俺の顔を見たら、とうぜん自分の犯した罪に思いを馳せるだろうし、退院したが最後、自首しかねない。
澄香さんの身体を蝕《むしば》む病は、そう遠くない未来にこの世から澄香さんを連れ去るという。それを知っていたからこそ、澄香さんは自らの死を望み、そして失敗した。望まない生還の病床で、澄香さんは俺にこう言ったのだ。私のことは忘れて―――、と。そのとき俺は感じたのだ。緩慢な死をただ待つことなど、この誇り高い人に出来るわけがないと。
人の命はその人のもの、だからどうしようとその人の自由。死にたければ死ねば良い。ただし、関係各位に了承を得たうえでなら。これが人の命に対する俺の揺るがない自説だ。だとしても、方法に炎を選ぶのは許せない。これだけは譲るわけにはいかない。だから俺は自分の身分を白状した。澄香さんは泣いた。泣いて詫びた。
今もなお、澄香さんが入院していることは知っていた。実はちょいちょい病院に立ち寄っていたのだ。ただし、一階受付までだが。
大人しく入院しつづけ、治療を受けていることには安堵していた。だが、心の中までは判らない。もしも万が一罪を償うために生きようなどと思われていたら、俺としてはいたたまれない。澄香さんには、残された時間を心穏やかに、少しでも楽しく俺は過ごして欲しかったのだ。
ただ思うだけなら、願うだけなら俺の自由だ。口に出して言うことだって簡単だ。聞いた澄香さんだって、もしかしたらそれだけでも少しは心が温まるかもしれない。
言葉や気持という、確かにあるが、でも実体はないものが役に立つことは、俺も知っている。でも 出来ればそんな実体のないものより、もっと確かなものを俺は貰いたいし、与えたい。だからこそ澄香さんに会いに行って、ただ思いの丈を告げるだけなんて、俺には出来なかった。しかし、罪に問う気はない、幸せに生きて欲しいとは伝えたい。でもこの先ずっと澄香さんに関わりつづけられるかといえば、まず無理だ。仕事もあるし、ダチとだって遊びたい、すでに知り合いの、そしてまだ出会っていないお姉ちゃんとイイコトもしたい。
俺は馬鹿かもしれないが、少なくとも偽善者ではない。気持はあるが責任は取れない、自分はその程度の男だと自覚している。だから病院の一階は訪ねても、そこ止まりを繰り返していたのだ。
そんな俺がついに澄香さんを見舞うことにしたのは、必要に迫られたからだ。またぞろ病院一階受付に出向いたとき、もはや顔なじみの―――今度、合コンをする約束も取り付けた女性事務員のゆかりちゃん二十七歳が、「明後日には退院するわよ」と、教えてくれたのだ。
こうなると、やはりきちんと澄香さんに伝えておきたかった。罪を償って欲しいなんて、俺は望んでいないと。しかし、とつぜん病室に押し掛けて、自分の言いたいことだけ伝えるなんて図々しいことは、俺には出来かねた。―――さぁ、困った。困った俺は考えた。考えて考えて、考え抜いた。そして言いわけを見つけた。いや、馬鹿は馬鹿なりに考えてみるものだ。―――もしかして、馬鹿、治っちやつたかも。
言いわけの見舞いの品を無事に入手して、いざ赤羽病院に向かおうとした俺は、ふと思い留まった。女性を見舞うのだから、やはり花の一つも持っていった方が良いだろうと思ったのだ。最後に見た光景は、真っ白な病室と真っ白なベッドにぽつんと一人横たわる澄香さんという、あまりに色味のない寂しいものだった。
とはいえ、花なんて母の日のカーネーションすら買ったことがない。唯一買ったことがあると言えば、職業上、必要があっての菊の花束だけで、いくら俺でもさすがにこれは花を買った経験にカウントしたくない。さて、どんな花を買ったものやらと考え始めた頭の中に、とつぜんパンジーの花束が浮かんだ。花束を手にした老人の後ろ姿もだ。その瞬間、俺はあることを思いついた。
翌日、入手した見舞いの品二つを手に、病室の開いたドアから中を覗くと、ベッドの脇のイスには先客がいた。それも二人もだ。一人は浅黒い肌の外国人、もう一人はプラスチック・フレームの眼鏡を掛けた肌の青白い男だった。二人が誰なのか、俺は知っていた。我が紫の姫―――澄香さんの命を救ったトニーと益子の二人に違いない。
前に訪れたときは、哀しいまでに白く色味のなかった病室は、サイドテーブルの上に置かれた小さな花瓶に生けられた三本のピンクのカーネーションと、ムサい二人の男がいることで、驚くほど華やかに見えた。
澄香さんは、ベッドの上に起きあがって笑っていた。その軽やかで楽しそうな笑顔に、顔を出さずに消えようと俺は思った。だが、澄香さんと目が合ってしまった。澄香さんの笑顔が凍った。
見つかってしまったのだから仕方ない。覚悟を決めた俺は、「こんちは」とだけぼそっと言って、病室に入った。
澄香さんの気配を敏感に察した二人の男が、警戒心のみの視線を送ってきた。二人分の視線をもろともせず、俺は二人の後ろをすり抜けて、ベッドの真横に、ずいっと近づいた。
長話をする気はなかった。言いたいのは、楽しく長生きしてくれ、罪を償うために生きたりしないでくれ―――、それだけだ。だが二人の前では話せない。二人はあの火事を単なる失火だと思っている。よもや澄香さんが自ら起こした放火だとは知らないはずだ。ならば知らせるわけにはいかない。
とりあえず、右手に提げていた小さなビニール袋を澄香さんに差し出した。ただ見ているだけで、澄香さんは受け取ろうとはしなかった。仕方なく、袋の中から中身を取り出す。
「あら」
口元に上品に手を当てて、澄香さんは驚いた声を上げた。
俺が選んだのはCDだった。正直、悩んだのだ。なぜなら、放火の助燃剤として使われたそのものだったし、何より誰にも渡したくない、だからこそこの世から去るのに一緒に持って行こうとしたそのものだったから。
でも、あえて俺はCDを選んだ。それも「ティファニーで朝食を」のサントラをだ。澄香さんから聞いた唯一のタイトルで、何より大切な思い出の一枚を、あえて俺は選んだのだ。燃えてしまったレコードと、その思い出をもう追わないでくれという願いを込めて。
「―――気を遣ってくださってありがとう。でも、いただけないわ」
わずかな間のあとに戻ってきたのは、感謝につづく辞退の言葉だった。
―――なんで? と、首を傾げた俺に、「もう、持っているの。 ―――いただいちゃったの」と、申し訳なさそうに言いながら、澄香さんは視線をベッドの脇の物入れに向けた。小さな引き出しのついた物入れの上には、ポータブルのCDラジカセと、何校かのCDが置かれていた。その中に、今俺が手にしているのとまったく同じものがあった。同時に目の端に得意げに顎を上げる益子が入って、むっとする。―――お前かよ。
こうなると、ここに来た最大の理由がなくなってしまったわけで、とたんに非常に居心地が悪くなった。仕方なくビニール袋の中にCDを戻した俺に、澄香さんが「やっぱり、いただこうかしら」と、気を遣ってくれた。
「同じもの、二枚持ってても仕方ねぇだろ」
さりげなく答えたつもりだったが、あまり成功しなかったらしく、病室はすっかり気まずい空気になってしまった。―――うう、困った。いたたまれない。そんな最悪の空気の中、さらに状況を悪くす
るような事態が起こった。
「おたくさぁ、まさかこれって、入院見舞い?」
左手に提げたもう一つのビニール袋を覗き込んだ益子の上げた声には、非難がたっぷり乗せられていた。―――オタクにおたくって呼ばれたかねぇよ! と、突っ込みたい気持は山々だったが、理由を知らない人なら誰だって、俺の持ってきた品を見たらそう言うに違いないから言い返せない。
「入院している病人に、鉢植えの花を持ってくる馬鹿がいるかよ」
軽蔑しきった声の益子に、「お花、いけないですか?」と、質問が飛んだ。浅黒い肌の男―――勤勉なマレーシア人のトニー・チャムチャイは、益子の言った意味が判らなかったに違いない。サイドテーブルの上の小さな花瓶に生けられた三本だけのピンクのカーネーションに不安げな目を向けてから益子の顔を見た。カーネーションを持ってきたのはトニーなのだ。
「花はいいんだよ。でも、鉢植えはだめなんだよ」
「ハチウエ?」
「えーっと」
鉢植えの草花には根がついている。そこから寝つくが連想されるから、病人の見舞いには不適切だとされていることくらいは、もちろん俺も知っている。承知のうえで持って来たのには理由がある。
日本の慣習について語る二人を無視して、ビニール袋に右手を突っ込むと、中から小さな鉢植えをつかみだし、澄香さんに差し出した。鉢植えを見た澄香さんが口を開いた。
「マリーゴールドね、可愛いわ」
プラスチックの白い鉢植えに咲く、オレンジ色に近い黄色の花をいくつもつけたその花の名を、俺は知らなかった。
「寺本さんの庭から貰ってきた」
俺の声に、澄香さんがはっと顔を上げた。
ここを訪ねる前に立ち寄ったのは、寺本夫妻の家だった。炎に焼かれ、消火活動のために水に濡れ、踏み荒らされた庭に唯一残った一株の花、俺はそれを掘り起こし、鉢に移して持ってきたのだ。これを見れば、賢い澄香さんのことだ、俺が何を考え、何を望んでいるか、察してくれるに違いない。そう俺は思ったのだ。
―――受け取ってくれ。俺は、ただ祈った。
あなたを責めているのではない。罪を償って欲しいと願っているのでもない。ただ、生きて欲しいと思っているだけなのだ。
では、何をしてくれるの? と、訊かれたら、俺には何も応えられない。あなたの願いを私が叶えなくてはならない理由がある? と、問われれば、答えはNOだ。
俺が今していることは、俺の一方的で身勝手な気持でしかない。ただのわがままなのは判っている。でも、俺はあなたに生きていて欲しい。楽しく心穏やかに生きて欲しいのだ。
澄香さんの手が動いた。ゆっくりと白い鉢へと伸びてくる白く小さい手を、俺はただ見つめていた。鉢に指先が触れた。触れた指に力が込められたのを感じて、安堵した俺はその手に鉢を任せた。
鉢を受け取った澄香さんは、静かに胸元に引き寄せた。手の中の鉢を見つめる澄香さんの眼には、何にも代え難い尊い物を敬うような光に満ちていた。病室の中には、ただ静寂だけが広がっていた。
やがて、澄香さんが口を開いた。
「いただいても、よろしいのかしら?」
見上げた澄香さんの瞳が俺に訊いていた。自分にこの花を預かる資格があるのかしら? この花と生きて良いのかしら? ―――と。
俺はただ領くことで肯定した。この花を育てるのはあなたしかいない。この花と同じく、哀しい炎の中から帰ってきたあなただけだ。俺はそう信じて疑っていなかった。
「―――ありがとう。大切に育てます」
澄香さんが深く頭を下げた。シーツの上に、ぽつんぽつんと、小さな丸い染みが出来た。
―――あ、いかん。泣かせてしまった。
俺は涙に弱い。女性ならば下は幼稚園児から上は天井知らずで誰の涙でも弱い。ことに目の前の病院のベッドの上で、小さな鉢植えを手にした、気高く賢く美しい老嬢の涙には弱い。しかも二人の男が俺に白い眼を向けている。今、俺に出来ることといえばただ一つ、退場だ。
「じゃ」
それだけ言って踵《きびす》を返した俺の背後から「ね、待って」と、澄香さんの声が飛んできた。首だけで振り向いた俺が眼にしたのは、ベッドの上で、鉢植えを手に身を乗り出すようにしている澄香さんと、その澄香さんを守るように、イスに腰掛けたまま身体を捻って俺を睨みつけている益子とトニーの姿だった。
一つのフレームに三人が収まっているのを見て、俺は安堵した。大丈夫だ、もう一人じゃない。澄香さんを案じてくれる奴が二人もいる。だが同時に寂しさも覚えた。俺はお払い箱ってわけだ。
呼び止めたものの、声のない澄香さんと、澄香さんを守ろうとする二人の男を見つめているうちに、俺は自然と口を開いていた。
「やっぱり、俺は王子ってがらじゃねぇよ。―――けど、あんたは正真正銘のお姫さまだ」
小首を傾げた澄香さんに、俺は益子とトニーにちらりと視線を向けてから、先をつづけた。
「お姫様の物語の最後は、一つっきゃねぇだろ?」
澄香さんは右手を挙げると、上品に開いた口を覆い隠した。驚いている。―――俺が何を言わんとしたのか、判ったのだ。
「それじゃ」
今度こそ、別れの言葉だった。
おそらく二度と澄香さんに会うことはないだろう。でも俺はもう、心配していなかった。だって、お姫様が主役の物語のエンディングは、洋の東西を問わず一つだけ。
「そしてお姫様は、王子様とお城でいつまでも幸せに暮らしました」に、決まっているからだ。
小学生が同級生を殺し、車に乗ったひったくりが顔を見られたからと、相手を拉致して殺害する。それまで努力と苦労を積み重ね、子を産み育てた老人たちが、我が子や先行きに失望して自ら命を絶つ。それに手を貸す、足下を見失いどう生きて良いのか判らずに立ちつくして震えている子供がいる。政治家は嘘を吐き、犯した犯罪が暴露したところで責任すら取らない。地球上では戦争が終わることはない。
でも、そんなどうしようもない世の中だからこそ、成り立つおとぎ話もある。未来に失望し、自ら命を炎で焼き尽くそうとした八十にちょっと欠ける年老いた姫を救ったのは、オタクでニート―――なんて便利な言葉が出来たようだが、俺は絶対に使ってやらない。無職だ、プータローだっての―――の青年と、海を越えて異国の地に働きに来た、貧乏だけれど誠実なマレーシア人の二人の王子。―――なかなかどうして、世の中まだまだ捨てたもんじゃない。
そんなこんなで、あれから三サイクル。つまり九週間が経過した。そして日勤日の六月半ばの蒸し暑い昼休みの今、俺は赤羽台消防出張所の自分のロッカーの前に立っていた。
別に何かのペナルティで立たされ坊主をしているのではない。その証拠に水の入ったバケツも下げてない。だが、両手に水入りバケツの方がまだましだった。俺の目の前には仁藤がいたからだ。しかも俺にとって不吉な予言書でしかない、バインダーを手に奴は俺の前に立っていた。
呼び出したのは仁藤なのに、今度もまた、奴は何も語らず、ただ俺を見つめていた。妙に整った顔の仁藤に瞬きもせずに見つめられていると、CTスキャンにでも掛けられている気分だ。昨日の晩飯に何を食べ、寝しなにレンタルしてきたエロビデオのどこで一時停止をしたかまで見抜かれそうな気がして、どうにも居心地が悪い。
「だから、何の用だよ」
これ以上ないほど不機嫌な声で言う。だからの発音は、だぁら、だ。
「管区内での老人宅の失火火災が収まったな」
―――来た。用もないのに、仁藤が俺の前に現れることはない。人目を避けたこんな場所に呼び出されれば尚更だ。
「良かったじゃねぇか」
ちっと舌を鳴らしてから、それが悪いとでも言うのかよ、という気持を込めて言ってのける。臆するところなど、何一つないといった顔で、仁藤は平然と俺を見上げていた。会話が完全に止まった。
いつもここで俺は根負けする。仁藤の発する妙な空気の重圧に耐えかねて、先に口を開いてしまう。そして泥縄になる。これがパターンだ。
だが、もう以前の轍を踏みはしない。毎回毎回、同じことの繰り返しでは、学習能力がない、イコール、自分が馬鹿だと証明するようなものだ。そうだ、俺は馬鹿を治すと誓ったのだ。世界で初めて馬鹿を治した男になってみせると誓ったのだ。その決意を込めて、仁藤を睥睨《へいげい》する。
先に口を開いたのは、仁藤だった。―――やった! 馬鹿克服への第一歩を、俺はついに踏み出したのだ。だが、感動に打ち震える俺に、仁藤は平然と冷や水を浴びせかけた。
「何度注意しても判らないようだな」
「|あ《〃》!」
仁藤が口に出した言葉を聞いた瞬間、俺はひらがな一文字で問い返していた。今度は何にケチをつけようというのだろう。
「火災現場に勝手に足を踏み入れる権利は、お前にはない」
仁藤と寺本夫妻の現場で会ったあと、確かに二度ほど一度は裕孝を連れて、もう一度は澄香さんに持っていく花を取るために―――入ったが、でも何でこいつが知っている?―――いや、待てよ。
ってことは、裕孝の存在も知っているのか? それはマズいだろう、いや、マズ過ぎる。
「しかも、現場から勝手に物を持ち出した。窃盗罪だ」
―――持ち出した? ならば、知っているのは二回目だけ。つまり裕孝の存在は知らない。―――よし! ―――大丈夫だ。
窃盗罪という穏やかでない言葉が出てきたのに、何が大丈夫なのか俺も判らなかったが、それでも俺は心の中で大きな安堵の息をついていた。
しかし、こいつはなぜ俺の行動を逐一知っている? 勤務時間内に関しては仕方ない。同じ管区だから出動指令は耳に入ってとうぜんだし、活動報告はがっちり報告書になっているから閲覧は可能だし、仁藤がわざわざ我が愛すべき隊長の藤田のオヤジに、出場の度に電話まで掛けて確認していることも、すでに知っている。
だが、休日の行動まで知っているとなると穏やかではない。―――もしかして、ストーカー? どうせ追いかけ回して貰うなら、やっぱりお姉ちゃんにしていただきたいものだ。なんて、軽口叩いている場合ではない。もしかして、俺は身体のどこかに発信器でも仕掛けられているんじゃなかろうか?
「しかし、変わったものを持ち出したな。庭の花とは」
仁藤が気に食わない理由はいくつもある。一つ、俺のガキの頃を良く知っているから。当時の俺は、女の子と見まごうばかりに可愛らしい顔で、俺にはどこまでも優しい仁藤のことが大好きで、それこそ兄のように慕っていたという最悪な過去があるからだ。二つ、亡くなった熱血消防馬鹿の親父の信望者で、俺にも同じくしろと迫るから。だからお前の理想はあくまでお前の理想で、俺の理想じゃないっての。三つ、言いたいことがあるのなら―――それもどうせ嫌味か説教のどちらかなのだから―――ストレートにさっさと言えばいいのに、やたらと遠回しに、しかもじわじわと首を締め上げるようなもの言いをするから。今回はとりあえずこんなところにしておくが、挙げようと思えば、三日でも四日でも、奴を嫌いな理由を俺は挙げられる。
―――よし、言ってやる。今回は、はっきりきっぱり言ってやる。俺に構うな、言いたいことがあるのなら、ストレートに言え。
覚悟を決めて口を開きかけた矢先、「でも、今回は不問に付す」と、聞き慣れない言葉を仁藤が言った。―――フモンにフす? 何かの呪文か? 意味が判らず、斜め上を見上げた俺の眉間には、自然と皺が寄っていた。
「昔から言うからな。花泥棒は罪じゃない」
ということは、さっきの呪文は、今回は罪にならないで、良いのか?
「ことに女性に贈るのなら、罪に問うのは野暮というものだ。それにしても、お前の趣味が年上だとは知らなかった。それも、そうとう年上だな」
口の周り以外の筋肉を何一つ動かさずに、仁藤はそう言ってのけた。
寺本夫妻の庭から掘り起こした花を、俺が誰に持っていったのか、仁藤は知っているのだ。とたんに、全身から嫌な汗がどっと出た。篠原すづさんと五十嵐美貴子さんのつながりを見抜いた仁藤のことだ。二人の現場同様、澄香さんの火災にも同じ―――放火の―――疑いを掛けているに違いない。何しろ、すでにこの世にいないすづさんの罪を暴こうとしたのだ、ならば存命の澄香さんを罪に問うに決まっている。
たとえ燃えた物が自分の物や自分の命であっても、放火は犯罪だ。しかも延焼という二次災害も周囲に与えかねない大罪だ。だから放火犯は罪に問わねばならない。そして世に知らしめるのだ。放火は許されざる犯罪だということを。だから放火犯は何であれ、一人も見逃さずに罪に問いたいという仁藤の気持ちも判らないではない。―――だって、ほら、一応、俺も消防士だし。
でも、今回の老人たちは見逃してやっちゃくれないか? 死者に鞭打たなくたって良いだろう? 余命が短いと知っている、罪を認めて反省している澄香さんを罪に問わなきゃいけないのか?
どう説得というのか、阻止しようか考え始めた俺をよそに、仁藤の冷酷な声が響いた。
「ここに、報告書がある」
いよいよ恐怖のバインダーの登場だ。仁藤のバインダーが開くと、ろくなことがない。ここは完全にシカトで押し通してバッくれるか、さもなきや、他の話題をふっかけて誤魔化すしかない。
話題、話題。何か仁藤に話すことはなかったか?―――って、あるわけねーよ。と、放り出すわけにはいかない。
ええと、天気の話―――をしたって仕方ない。趣味とか? 仁藤の趣味といったら、筋トレとリハビリ、あとは消防活動全般ってところだろう。それはやぶ蛇になりかねないからご免被る。残るは、家族の話―――これは二人ともタブーだ。あー、参った。話題、話題、何かなかったか? 無い知恵を振り絞って考えていた頭の中を、黒くて小さくて楕円形の何かがのたのたと横切った。
―――思い出した、カメだ!
煤けた水槽の中で、床の上に横たわるすづさんに近づこうとしているがごとく、水に浮き、ガラスに頭をつけてじたばた暴れていたカメ。失火の原因の水槽の住人として、証拠物件として連れて行かれたカメだ。あのカメが今どうしているのか、俺は知りたかったのだ。
「カメ」
口から飛び出した単語に、仁藤の表情が動いた。
「そうだ、カメだよ、カメ。おい、あのカメ、どうした?」
わずかに眉を顰めた仁藤は、何を言いだしたのだ? と、言わんばかりの顔で俺を眺めていた。
「だから、カメだって」
なんで判んねぇのかな―――、という苛立ちを込めて、俺はカメを連呼した。だが仁藤はまったく反応しない。もしかして、みんなカメの存在を忘れて、誰一人面倒を看ていないとか? おいおい、それは可哀想だろう。
一つ息をついた仁藤が、手にしたバインダーを左脇に挟んだ。口を閉じること一分以上、そしてようやく口を開いた。
「何度も言っていることだが、いいか、大山。もう少し思慮深くなって、考えてから動け。お前に何かあったら、民子さんは一人になってしまうことを忘れるな」
カメの行方は判らなかったが、澄香さんに関しては、これは、フモンにフすって奴か? よし、やった! と、気が軽くなった直後、むっとした。民子のことは、お前なんかに言われるまでもないっての。
「|あ《〃》〜」
鬱陶しいとばかり、右手の指を髪の中に突っ込んで、力一杯、頭皮を掻きむしる。
「お前に言っておきたいことがある」
まだ何かあるのかよ? もう、何でもいいからとっとと言って、早いところ解放してくれ。力一杯、嫌味を込めてため息をつくことで促すと、仁藤は左脇の下のバインダーを右手に持ち直しながらこう言った。
「あんたに生きろと願っている奴がいる」
「|あ《〃》?」
とうとつに出された言葉に返せたのは、それだけだった。その言葉には覚えがあった。言ったのは俺。そして告げた相手は、目の前にいる仁藤だ。
今は亡き俺の親父に仁藤は命を救われた。家族全員の乗った車の交通事故から、独りだけ生還したのだ。そのせいで、仁藤は何が何でも人を救いつづけなくてはならないと思ってしまった。それこそ、歩くこともままならないほどの怪我を負おうとだ。身を削るように人の命を救おうとする仁藤に俺は言った。もし親父が生きていたら、きっと仁藤に言っただろう言葉を。―――ここに、あんたに生きろと願っている奴がいる、と。
「俺は、お前に生きていて欲しい。―――そう強く頗っている」
回想に浸っていた俺の耳に飛び込んできた言葉に、頭を掻く手は止まっていた。見下ろすと、そこにいたのは、かつて俺が兄と慕っていた男だった。俺はガキの頃、仁藤のことが大好きだった。誰より優しく、いつも俺と遊んでくれた仁藤のことが。
「だから、もう少し自分を大切にしろ。同じ過ちを何度も繰り返すなんて、馬鹿にもほどがある」
それを最後に、仁藤は挨拶もせずに、俺の前から立ち去った。
途中までの懐かしくも美しい思い出に浸って良い気分だったのが、瞬時にぶち壊しだ。―――だから、一言多いっての。だいたい、カメはどうしたんだよ、カメは。けっきょく、カメの行方が判らず終いじゃないかよ、と、遠くなる仁藤の背中に毒づいてみる。―――とはいえ、悪い気分ばかりでもないかも、というのはここだけの内緒の話だ。
席に戻って午後に行ったのは、管区内の独居老人宅を直接廻っての予防防災指導だった。仁藤が言いに来たように、管区内でいっとき多かった独居老人宅の失火火災はすっかりなくなっていた。でも、今後のことを考えて、出来る手は打つべきだという藤田のオヤジの提案で、赤羽台周辺の独居老人宅を直接訪問して防災意識を啓蒙するべく、日勤を中心に活動し始めていたのだ。
二人一組で行くのだが、俺と香川ではまだ新人同士で心もとないと、俺も香川も寓岡のオッサンか生田の兄貴かのどちらかと組まされた。前回は生田の兄貴、ということは今日は富岡か。考えただけでもうんざりしている俺に、意外な声が飛んで来た。
「今日は俺も行ってみようかね。雄大、一緒にお出で」
我が敬愛すべき赤羽台第一ポンプ隊長の藤田のオヤジだった。
オヤジのことは嫌いじゃないし、何より富岡と一緒でなかったことに、俺は機嫌良くオヤジの荷物持ちとして出発した。
広大な赤羽台団地で三軒目を訪問し終えたのは、午後三時半を廻った頃だった。正直、もう充分うんざりしていた。どうして年寄りは皆、話が長いのだろうか。確かにお茶やお茶菓子まで出されれば、こちらとしても惑い気はしない。でもあくまで仕事で来ただけだ。なのに、こちらが訊いてもいない自分語りを勝手にざれても困る。
前回、生田の兄貴と廻ったときも、兄貴共々困り果てた。なんとか話を終わらせて帰る際に、訪れた本来の目的の防災について、最後にもう一度確認すると、きれいさっぱり忘れていて、もう一度最初から話をしなければならないなんてこともあった。
さすがにオヤジは年季が入っている分、年寄りの扱いが上手い。何があろうと怒らず急かさず、穏やかに、でもしつこく防災について繰り返す。さすがの年寄りも、自分の話をするのではなく、オヤジの話を聞く、その手腕は実に見事だと俺も思った。だからと言って、やはり老人相手は疲れる。すっかりうんざりしきった俺に、オヤジはとつぜん「雄大、お前、最近評判良いね」と言った。
「なんすか?」
意味が判らずに訊き返す。
「自分が出場してもない現場の被災者が入院している病院に通ってたんだってね。志茂の赤松隊長が感心してたよ」
―――げ、バレてる。六月半ばの蒸し暑い午後だというのに、俺は背中に冷たい汗を感じていた。
とにかく、落ち着け。これだけで、すべてが発覚するとは限らない。それにさっきは陰険仁藤をやり過ごせたじゃないか。だったらオヤジだって大丈夫―――じゃない気がする。オヤジ相手にカメと連呼してもまず無駄だ。―――さあ、困った。
「それに、香川の面倒も良く看てくれてるし」
それは違う。力一杯、否定出来る。俺は香川のことなど何一つ、構っちゃいない。
「香川みたいな子は、昔から珍しくなかったけれど、最近は何だか増えちゃったんだよね。確かに消防士は人に認められる仕事だよ。火事を消したり人を助ければ、感謝もされるし尊敬もされる。だけど、それは仕事についてくるくじみたいなもんだからね」
「―――くじ?」
意味が判らずに訊いた俺を見上げて、オヤジは「そう、はずればっかりで、滅多にあたりの出ないくじ」と言うと、ふにゃりと笑った。
オヤジの言うとおりだ。確かに消防士は感謝されたり尊敬される機会もある。だけどそれはいつもとは限らない。それどころか、全活動量と較べれば、さすがに宝くじほどではないが、お年玉つき年賀葉書くらいの確率しか当たりはない。―――なるほどね、さすがはオヤジ。名言だ。
「楽な現場なんてないしね。人が逃げまどう炎と闘わなくちゃならないんだから、消防士だって苦しいし辛い。死にもの狂いでがんばったって、助けられないときもある。感謝されず、誉められもせず、それどころか怒鳴られ、罵られることもある」
オヤジは、そこで一つ息をついた。
「こんなはずじゃなかった―――って、辞めちゃうんだよね」
せっかくなったというのに、辞める消防士は少なくない。中には消防学校の段階で、体力的に無理だとか、訓練で炎に接して怖くなったと辞める者もいる。こういう奴は現場に出られても困るから辞めていただいてけっこうだが、現場に出たからこそ辞める者もいる。マル4―――死者を出したあとや、大災害のあとがとりわけ多い。自分の無力感や、今更ながら、命を落とすかもという恐怖感に、つづけていけなくなるのだ。
「白状するとね、香川は危ないかもって思ってたんだ。マル4、出しちゃっただろ?」
マル4―――篠原すづさんだ。現場に横たわる黒焦げのすづさんの遺体を見た香川は、その場で吐いた。そしてそのあとは茫然自失として、使いものにならなかった。
「心配だったんだよ。―――辞めたあとが」
前半は判ったが、後半、おかしくないですか?
「辞めたあと?」
「ああ、辞めるのは自由だからね。向かない奴が無理にやっていても本人も辛いし、何より他の隊員が困るからね。辞めたい奴はとっとと辞めて貰って構わない」
オヤジったら意外、というより、びっくりするほど実はドライ。でも判らないでもない。隊長であるオヤジは、他の隊員と違って、ただ消火や救助活動だけに主眼を置いて活動していれば良い立場ではない。隊員全員の身の安全を守る、それも大切な仕事なのだ。―――でも、辞めたあとこそ、どうでも良いんじゃ? だって、辞めたらもう会うこともないし、もともと他人だし。
「消防士になることで、人に認めて貰えると思っていたのに、辞めてしまったら何にもなくなっちゃうだろう? それに、何でだか知らないけどね、人が納得する理由、例えば怪我でもしてない限り、定年より早く消防士を辞めた奴のことを、すごく駄目な人扱いする連中もいるんだよ」
―――なんだ、そりゃ? それはずいぶんと身勝手じゃないか? でも、まったく想像がつかない話ではないだけに、気が滅入った。
「楽には生きられないだろうなってさ、心配してたんだよ」
なるほど、それで辞めたあとが心配、か。やっぱりオヤジはすごい。器が違う。
「お前がいてくれたから、あの子も変わってきた。礼を言うよ、雄大」
オヤジにお礼を言われるだなんて、なかなかどうして、俺も大したものじゃないか? なんて、悪い気もしないが、でもやっぱり俺は何もしていない。
「俺は何もしてないっすよ」
素直にそう言った俺を、オヤジは見上げてただ笑った。しばらく無言で歩いていたが、やがて「お前と同じ隊にいられて、俺は幸せだよ」と言うと、右手で俺の腰をぽんっと叩いた。
そのあと、オヤジは異動した星野の活躍に話題を変えた。ということは、それまでの話はお終い、―――で、良いのだろう。病院の話題を出されたときはひやっとしたが、とりわけ意味はなかったらしい。心の中でほっと安堵の息をついた。
なんだか判らないが、オヤジが幸せだと言うのなら、それで良いと思う。でも―――、やっぱり嫌だ、この体育会のノリ。痛む腰をさすりつつ、一日も早く事務職に上がろうと、俺は心に誓った。
五時二十分、日勤の定時終業の五分後、携帯が震えた。メールの着信だ。見なくても相手が誰なのか俺には判っていた。裕孝だ。ロッカールームで着替えつつ、自然と俺はため息をついていた。予定が不定期な勤務の裕二はともかく、俺の仕事はパターンさえつかんでしまえば、いつが休みかは判ってしまう。確かに俺は 「また会える?」と、聞かれてOKした。だからといって、俺のスケジュールを完壁に把握されたうえで、勤務明けやら休日の前日になるとメールや電話攻撃を喰らい、出来れば会いたいなどとやられては、相手が彼女でもうんざりするだろうに、まして相手が中学二年生の男子では、もはやどうして良いのやら。
裕孝に同級生の友達がいないわけではない。お互いの家に寄ってテレビゲームもしているようだし、休みの日には映画にも行っている。この前なんて、俺がまだ一度も行ってないディズニーシーに行き―――それも八名、男女比率四対四、つまりはグループデートだ、中二のくせに生意気な! ―――土産の菓子もくれた。さらに女の子―――これがかなり可愛いんだ、畜生! ―――とのツーショットの 携帯写真まで見せびらかされて、あげく銀色のちっこい熊のついている携帯ストラップは、ツーショットの相手とお揃いだということまで自慢された。
だったら、そっちとだけ仲良くやってりやいいじゃないかと思うのだが、それでも裕孝はこまめにメールや電話を寄越す。「どう?」とか「今、何してる?」とか。答えることは出来る。これから帰るとことか、寝てたとか。でも、その先がつづかない。
裕二も含めて、顔を合わせてメシでも食えば、会話は尽きない。目に留まった一瞬を拾うだけで会話は成り立つし、笑えもする。だが二人で声や文字だけとなると、何を話題にして良いのか困る。俺だけでなく、裕孝もだろう。互いの学校や仕事の話をしたところで、だからなんだ? だし、だいたい俺は仕事の話なんてしたくない。となると、会話など弾むはずもない。
奇妙な巡り合わせから出会いはしたが、二十二歳の高卒の消防士の俺と、私立大附属中学の二年生の裕孝、お互い共通の趣味があるわけでもなし、となると、話すことなどない。それでも裕孝は連絡して来つづける。―――正直、ヘヴィだ。
このところ、考えつづけていることがある。人に関わるのは簡単だ。出会いなんて、ぐうぜんから計算尽くまで、いくらでもある。関わりの深さもまた、いくらでもある。携帯メールのみでやりとりし、素っ裸でイイコトしてもその場でバイバイ、次回はまたお互い気が向いたらの、下の名前しか、それも本名かどうかも知らないガールフレンドなんて、いくらでもいる。
それに職業柄、人との出会いは多い方だろう。火事を消したことに、自分や家族の身の安全を守ってくれたことに感謝して、定期的に手紙をくれたり、中には差し入れを持ってきてくれる都民もいる。だが消防士と都民との関係は、そんな良いものばかりではない。だから都民接遇の中で、何よりも重要とされているのが、被災者や要救助者を含め、都民に必要以上に関わるな、なのだ。
人を救う、それが消防士の仕事だ。相手が誰であろうと、出場指令を受ければそれに従う。だが火災や事故や怪我や急病、緊急時に助けて貰った人にとつては、そのとき出動した消防士は特別な存在だ。そこから生じる行き違いがもとの消防士と都民のトラブルは、けっこう起こる。あのとき助けてくれたから、今度も助けてくれるに違いない、そう思い込む人は少なくない。もちろん、助ける。ただし出場指令があればの話だ。
だが、思い違いする都民は多い。個人的な困りごと、それこそ経済的なことや、人間関係や、ちよっと寂しいとかでも、なまじ消防署が二十四時間開いていて、確実に人がいることから、相手にして覚える、解決して貰えると、電話を掛けてきたり、中には直接押し掛ける都民も、実は少なくない。
もちろん、そんなリクエストには応じない。そもそも負う義務もない。だが、ことに一度助けられた都民の中には、勝手な思い込みでしかないけれど、今度は助けて貰えなかった、イコール、裏切られたと思って怒り、酷いと罵る者もいる。それまで感謝していた消防士を、あっという間に税金泥棒に変えてしまうのだ。だから消防士は、都民の皆様にはつかず離れず、みんな一律の特別扱いなしで、必要以上に相手と関わってはいけないとされている。
消防士の都民との距離の取り方は、日常生活でもあてはまると俺は思っている。人間関係なんて、ギブ・アンド・テイク。つかず離れず、お互い健康で機嫌も状況も良いときだけ接点を持ち、その場限りの楽しい会話や気持良いことをする。それで良いんじゃないだろうか。
俺は今までずっとそう思っていた、というのか、そうしてきた。もちろん、そうじゃない相手もいる。どんなことをしても困っていたら助けたい、面倒を看たいと思う相手は俺だっている。母親の民子、ダチの裕二、そして水母のような死にあこがれる漆黒の王子、守だ。だけど、この二人であっても、本当に本人が死にたいと望んだら、俺は止めない。事実、守を止めなかった。
そんな風にしか人とつき合いを持たなかった俺の人間関係の中に、とつぜん裕孝が飛び込んできた。正しくは、入れて欲しいと頼まれて、良いよと入れてやった、だ。了承したのだから、最後まで責任を負わねばならない。俺の持論だとそういうことになる。だけど、大して予定がない今でも、すでに俺は裕孝を持て余し始めていた。いずれ他に時間を割きたいような優先事項―――例えば、お姉ちゃんとかお姉ちゃんとか、って、女だろうやっぱり―――が出来たとき、俺はどうすれば良いのだろう。まだ中学二年で、これから成長していく中で悩みや問題が山ほど出てくる裕孝に、他の予定ややりたいことを犠牲にしてまで、俺は時間を割けるのか? そうやって、この先ずっといつまでも、つき合っていけるのか?―――正直、不安だった。両親に都合の良い子であることだけを望まれていたと知り、足場も前に進む道すらも見失い、絶望してしまった裕孝に、立つ場所も進む道もいくらでもある、今決めつけることなどないと、裕二と二人で伝えたことに後悔はない。
でもやっぱり、―――後悔し始めていた。俺は一人の人間の指針やよりどころになれるような人間じゃない。まだ自分の面倒も看きれない、わがまま勝手に、面白おかしく楽しく適当にしていたい、半人前の男でしかない。
言葉が無意味でないのは俺も知っている。でも、最初から中身がないのを承知のうえで、甘く優しい言葉だけの言葉を吐くなんて、俺はしたくない。俺は中身が欲しい。だから人にも中身を与えたい。だが中身―――責任を持ったとたん、言葉は何よりも重くなる。責任を果たす覚悟がないのなら、安易に言葉など言わないに限る―――。
俺はずっとそう思い、そうして生きていた。なのに、裕孝の時だけはやっちまった。「また、逢える?」と訊かれて、拳で返したあの瞬間、俺は後悔していなかった。それだけは嘘じゃない。
だが、これからどうすれば良いのだろう。考えても答えは出ない。ジーンズの尻ポケットの携帯電話がやたらと重く感じた。裕孝のメールに、まだ返事は出していない。
けっきょくメールを読まないまま、俺は板橋区は仲宿のひかりハイツー愛すべきマイ・ホームに帰っていた。六時半前の帰宅なんて久方振りだ。しかし、明日と明後日は週休日、それも土曜と日野の前日の素晴らしい金曜の夜に、なんで俺はまっすぐ一人、家に帰っているのやら。―――普通、街に繰り出すだろう? 健康な成人男子として、どうなのよ、俺? と、自分で自分に突っ込みを入れつつ、まずは部屋中の窓という窓を開けて換気扇を回した。六月も半ばとなると、一日締め切りにされた部屋の空気は暑く湿気ていて、身にまとわりついて気持良いものではない。空気の流れを感じて一息ついた俺は、冷蔵庫を開けた。中には「ゆ」と黒いマジックで書かれたバドワイザーが一本、そして「た」と書かれたヱビスビールが三本転がっていた。
―――ちっ、一本しかねぇのかよ。自分で飲んだから残り一本になったのに、毒づきながら、このあとどうするかを俺は考えた。カブで出掛けるとなると、ビールはマズい。けど、どのみちビールのストックは買いに出掛けないと、明日から困る。腹も空いたし、さてどうしたものだろうか。
冷蔵庫のドアを開けっ放しにして、中の冷気を身に浴びる。あー、涼しい。民子に見つかったら、電気代の無駄! と、背中に真っ赤な手のひらの跡のつく平手アタックを喰らうのは確実だが、いないのだからこっちのもの。ついでに頭ごと冷蔵庫の中に突っ込む。涼しいが、耳障りなモーター音に、冷蔵庫の限界が近いことを改めて認識する。すでにドアもだめになっていて、力を込めて閉めないと、勝手にドアが開いてしまう、まったく嬉しくない自動ドアになっていた。
実は一つ画策していることがあった。夏のボーナスで、新しい冷蔵庫を買おうと決めていたのだ。月二万、がっちり生活費は取られているとはいえ、やはり民子に色々と一方的にして貰いっぱなしのことは多い。―――待てよ、洗濯も各自、食料も各自で買って各自で管理、互いの購入分を食べたときは、きっちり弁償―――となると、して貰いっぱなしでもねぇか。いや。それでもこれまでの累積があるというのか、今回のあれこれで、今更ながら色々と思うところがあったというのか―――とにかく、ここはひとつ、冷凍庫がデカくて、勝手に氷も作ってくれる、音の静かな冷蔵庫を買ってやろうと決めたのだ。
そんなことを考えつつ、心地良い冷気に幸せを感じていた俺だが、やたらとうるさいモーター音の中に、聞き慣れた金属音を拾った。ドアノブの音、―――民子のご帰宅だ! 冷蔵庫から頭を抜き出し、素早くドアを閉じる。冷蔵庫のドアがバタンと鳴ったと同時に 「あら、帰ってたの?」と、民子の声が響いた。
「―――お帰り」
冷蔵庫のドアに右手をついて、左手は腰に当ててちょっと斜め体重で、笑顔など向けてみる。蒸し暑い夏でも、スーツで決めている民子は、我が母ながら、かなり格好良い。
「あんた、また冷蔵庫のドア開けっ放しにして、涼んでたでしょ?」
ヒールのしっかりしたパンプスを脱ぎ、玄関にちゃんと揃えて―――こういうところ、民子はきっちりしている。よっ、さすがはもとお嬢様育ち―――から室内に上がるなり、民子がドスの利いた声でそう言った。
「いや、夕飯は何を食おうかなと思って、ちょっと中を見てただけだ」
うん、間違ってはいない。本当に何を食べようか確認していたのだから。ただちょっとだけ長目にドアを開けていた―――、かも。
民子は無言でずかずかと近づいてくると、俺を冷蔵庫の前から押しのけて、大きく一つ、鼻から息を吸った。
「冷蔵庫の中の匂いがする」
民子の鼻は麻薬取締犬より利く。
「そりゃ、開け」
たから、と最後まで言う前に、「頭!」と、命じられた。意味が判らず、「頭?」と問い返すと、民子は大きく伸び上がって両手で俺の頭をがっちりつかんで引き下ろしていた。
「冷えてんじゃないー・あんた、頭も突っ込んでたわね!」
―――げ、バレた。お辞儀状態のまま、そう思った瞬間、俺の頭をつかんでいたはずの民子の右手が消えた。ひゅっと風を切る音が鳴ったと同時に左肩の下あたりに激痛が走った。平手アタックを喰らったのだ。
「いってぇ! だから、跡が二日は消えねぇから、止めろっつってんだろ!」
そうなのだ。民子の平手アタックを一度喰らうと、民子の手の形通りの真っ赤なあとが丸二日は消えないのだ。ロッカールームで発見されるたびに笑いものになるのはまだしも、ガールフレンドの誰かと、ちょっとイイコトしようなんてときに発見されて、誤解が生じたらとんでもなく困る。何より痛いし。
「あんたが冷蔵庫のドアを開けっ放しにするからいけないんじゃない」
「そりゃそうだけど、でもなんかこう、他にやりようがあんだろ?」
「たとえば?」
着替えのために、さっさと自分の部屋に姿を消した民子が、戸の向こうから返事を寄越す。
「あー、そうだな、優しくダメよ、つてたしなめるとか」
自分で言って、ありえねーと思いつつ、でも言ってみる。言論は自由だ。
「え? スクリュー梅パンチ?」
説明しょう。スクリュー梅パンチとは、平手アタックのあと、伸びた爪でがっちりつかんでつねり上げるという、平手アタックのパワー・アップ・バージョンだ。真っ赤な手のひらの跡の中に、さらに五本の爪の食い込んだ跡が、さながら梅の花のように見えることから、裕二が命名した。
「前より、非道えじゃねぇかよ!」
「何にせよ、あんたが冷蔵庫で涼むのを止めればいいのー」
―――はい、その通りです。返す言葉がない俺は、黙り込むしかなかった。
「まったくもー、いつまでたっても馬鹿なんだから」
Tシャツにカプリパンツのラフな格好に着替え終えた民子再登場。ただし、登場の口上が気に入らない。そりゃ、俺は馬鹿だが、母親にまで馬鹿と言われては立つ瀬がない。
「で、今晩、何食べるの?」
ころりと話題が変わった。この切り替えの速さも、俺が民子をイケてると思う理由の一つだ。何時までも一つのことをずるずると引っ張らない。そのときは、イマイチ納得が行かなくても、仕方ないかとスルーしておいて、あとで、実はあのときは、なんて後出しジャンケンみたいなことはしたくない。だから何でもその場で言う、それが民子のモットーなのだ。その時の問題はその場で解決。要は、いつもにっこり現金払い、だ。―――何か違う気もするが、ま、とにかくそんなものだ。とにかく、遺恨は残らないし、残さない。他の誰がなんと言おうと、俺はイケてると思う。
ということで、俺も気持を夕食に切り替えた。何があるのかと改めて冷蔵庫の中を見直すが、さっきと同様、ろくなものはなかった。そりゃそうだ。ドアを閉めたら中身が増える魔法の冷蔵庫でもない限り、誰かが買って足さないと冷蔵庫の中身は増えない。
中を確認するなり、ちゅっちゅっちゅっと、舌をうち鳴らした民子が「しょうがないわねー。買い物から始めないと、ご飯にありつけないわね」と、俺の顔を見ながらため息混じりでそう言った。「それって、俺に行ってこいって?」 にっこり笑って民子が額く。
「ってことは、作るのも俺ってこと?」
今度は素早く二回、領いた。
「あのな―――、働いて疲れてんのはお互い様だろ?」
「あたし、久しぶりに揚げたての天ぷら食べたいなー。今は夏野菜が美味しいのよねぇ。アスパラでしょ? インゲンでしょ? あー、タマネギも美味しいわよねぇ」「だから」「油はあるし、タマネギと人参はある、と」―――まるっきり、聞いてねぇよ。
俺を無視して天ぷらに必要なものの在庫を確認し終えた民子は、部屋に戻ると財布を手に戻って来た。そして「じゃ、よろしく。ビールと柿の種も買ってきてね」と、俺に五千円札を一枚差し出した。
―――ま、全部民子の替りなら良いか。そう思いつつ五千円札を取ろうとすると、紙幣がひらっと逃げた。顔の横まで五千円札を上げた民子は「もちろん割り勘だからね」と、当たり前でしょ? という顔で宣言した。
「買い物して作って、それで割り勘かよ!」
そりゃねぇだろうとばかりに文句を言うと、唇をとがらした民子が「ん―――、じゃあ、まけてあげるわよ」と言いながら、左手を俺の胸の前に差し出した。なんだ、この手は? 謎に思う俺に「先に二千円ちょうだい」と、民子が笑顔で言った。
五千割る二は二千五百。先に二千円と言うことは。
「まけるって、五百円だけ」
最後の「かよ」を言う前に、「男はみみっちいこと、言わないの!」という言葉とともに、俺は部屋の外へと追い出された。
買い物袋を両手に提げて俺が帰ってきたのは、我が家を追い出されてほぼ一時間後のことだった。途中、「サツマイモじゃなくてカボチャ」やら、「魚はいらない。イカかエビか貝柱」とか、「シシトウは二個でいいから。大量でしか売っていないのなら、いらない!」だとか、何度も民子からの命令を携帯電話で受けつつ、ビールも柿の種も忘れずに、さらに残金四円という見事な買い物をして帰ってきたというのに、迎えた民子の最初の二言は 「遅い!」だった。
「それが、わざわざ安い店まで足を伸ばして、しかもこの早さで帰ってきた俺に、言うことか?」
文句を切り返しつつ台所に向かうと、タマネギと人参は切り終えてあったし、ガス台の上には油の入った鍋が載せてあったし、油切り用の新聞紙も天つゆも準備してあった。―――うん、やることはやっているんだよな。
だがそのあとが、「じゃ、よろしくね」と言うなり、冷蔵庫から自分の分のヱビスビールを取り出すと、ダイニングのイスに座って、一人さっそく始めだしたのだ。
作らなければ俺も食べられない。こうなったら仕方ない。俺だって腹は空いてるし、揚げたてを食べたい。では、ちょっと揚げては食べて、で行くとしよう。
「最初は?」いちおう、オーダーを取る。
「インゲンと人参」
はいよと答えて、さっそく取りかかる。衣をつけて油で揚げるだけの天ぷらも、消防食では良く作るメニューなのでお手の物だ。ただし、揚げたてを食べられることは、年間でも数えられるほどしかないが。
てんぷら粉に水を入れて、さっと混ぜたところで、油の中に衣をちょいと落として温度を確認する。―――よし、頃合いだ。まずはインゲンを四本まとめて衣にくぐらせて油の中に静かに落とす。それを四回繰り返してインゲンは終了。新聞紙に揚がったインゲンを引き上げてから、つづけて細い棒状に切られた人参も、インゲンと同じく何本かまとめて揚げていく。一度、新聞紙の上で油切りをし終えた順にキッチンペーパーを敷いた皿の上に載せて、いったんガスを消してから机へと運ぶ。
「ほらよ」
「サンキュー」
さっそく箸を伸ばす民子を横目に、冷蔵庫から自分のバドワイザーを取り出して、力を込めてドアを閉めてから席に着く。
「冷蔵庫、買おうと恩うんだけど、どんなのが良い?」
口に揚げたてのインゲンを放り込みながら訊いてみた。買い換えるにしても、民子の要望を開かずに勝手にというわけにはいくまい。と思いつつ、話題にする機会が今までなかった。いや、時間がまったくなかったわけじゃないが、―――照れくさくて言い出せなかったのだ。
返事はなかった。聞いてないのか? と、様子を窺うと、口元を手で押さえて難しい顔をしていた民子が、ようやく口を開いた。
「熱かった―――」
何のことはない。揚げたての天ぷらが口の中に詰まっていただけだった。
「冷蔵庫なんて、どうすんのよ。二つなんて置く場所ないわよ」
「―――何で二つ冷蔵庫がなきゃいけねぇんだよ、買い換えるんだよ」
人参に箸を伸ばしながらそう言うと、今度も返事がなかった。また食っているのだろうと待ったが、何も音沙汰がない。何ごと? と、見ると、民子はただ俺を見つめていた。口を開いた民子が発したのは、「何で?」だった。
何で? って。頼んでもいないのに、勝手にドアが開く冷蔵庫で良いわけがない。
「ボロイから」
「誰が?」
「俺が」
「どうして?」
矢継ぎ早に最少の言葉で訊ねられて即答しつづけたものの、最後の「どうして?」には、さすがに同じテンポでは答えられなかった。まして真正面に民子を見据えて、プレゼントというのか、感謝の気持ちというのか、とにかく、今まで一度もしたことがありませんでしたが、世間で言うところの親孝行みたいなものでございます、―――なんて、照れ臭くて言えない。
とりあえず、俺の分の人参を口に放り込むと、次の天ぷらを揚げるべく席を立つ。次はカボチャにしょう。ガスの火を点火し、カボチャの種を取りながら、「ま、なんだ、その、今までとこれからずっとの誕生日と母の日のプレゼントつて奴かな」と、背を向けたまま言ってみる。うん、けっこう良い言い方じゃないか?一人悦に入ったものの、返事はない。―――これじゃ、ダメか。
「それから、ほら、就職して最初の給料でプレゼントとかさ、何もしてねぇじゃん、俺」
「あら、焼き肉奢ってくれたじゃない、裕二君と一緒に」
確かに焼き肉はご馳走した。だがあれは裕二に「最初の給料で親に飯ぐらい奢るもんだぜ」と、せっつかれたからだし、何より半分以上、裕二が払った。なぜそんなことを裕二が言い出したのか、俺は知っていた。本当は裕二が母親にしたかったことなのだ。でも裕二の母親はすでにこの世にいない。だから俺にかこつけて、母親孝行をした気分を味わいたかったのだ。
「でも、あれは裕二と一緒だしよ。やっぱり俺一人でこう、なんての?」
どうも上手く言えない。
「理由があるんなら、言いなさいよ」
それまでと違って、民子の声は冷静だった。こうなると天ぷらを揚げつつ、なんて片手間では許されないことは、体験上、俺は良く知っていた。まな板の上にカボチャを置き、ガスの火を止めてから、俺は振り向いた。待っていたのは、民子の真面目な顔だった。
「理由って言われると、―――あるっていうのか、ないっていうのか」
「どっちなのよ」
間髪入れない鋭い突っ込みは、我が母ながらさすがだ。
「いや、だからさ、その」
いつもなら、本人のリクエスト通り、民子と名前で呼ぶところだが、今はそうしたくなかった。だが、その一言が今まで口に出してなかっただけに、なかなか出てこない。自分でも嘘くさい咳払いをしてから、視線を微妙に民子からずらして、俺は一気に口に出した。
「 ―――お袋、あんた、すげえよ」
よし、言ったぞ。言えた。ようやく口に出せて、俺は感動していた。だが民子が返した返事は平仮名一文字「は?」だった。せっかくというのか、産まれて初めて俺がお袋、なんて呼んだのに、「は?」って、何だよ、「は?」って。
馬鹿にされたみたいで、何かムカつくー。とか言いつつ、俺も日頃「|あ《〃》?」の一文字で片づけているだけに、何も言えないか。
「だからよ、その、俺って、―――ロクでもねぇじゃん」
間が空いたのは、迂閥にも自分で自分のことを馬鹿と言いそうになったからだ。馬鹿よりロクでもないの方がマシ―――本当か? 微妙だが、この際、今はマシとしておこう。
「俺がもう少し賢い、―――いや、ちゃんとした奴だったら、少しは楽が出来たと思うんだよ」
はっきり言って、お世辞にも俺は人に自慢出来る人生を歩んではいない。特に民子には苦労を掛け通した。確かに民子の腹の据わりっぷりと来たらただ者ではない。真面目すぎるほど真面目だった消防士だった民子の最愛の夫―――俺の親父を、俺が軽蔑し、親子の間がぎくしゃくしていたときも、民子はどちらの肩も持たなかった。逃げて遠巻きにしていたのでもない。自分の意見で関係が解決されたところで、それは二人の間の本当の解決にならないからしないと、親父に民子が言っていたのを、俺は知っている。
俺と親父の関係は回復出来ないまま終わった。俺が小学校四年生のとき、親父は死んだ。殉職したのだ。それ以降、民子は一人で俺を育ててくれた。親父の実家はすでに絶えてなかったが、資産家の民子の両親は今も健在らしい。だが民子はただの一度も実家に頼らなかった。女手一つで子どもを育てることが、親の反対を押し切って親父と一緒になった民子の勝手な意地と、簡単に片づけられることでないことくらい、誰にだって判ると思う。事実、俺は知っていたし。
ならば、母親に迷惑を掛けず、勉強もきちんとし、一日も早く母親に楽をさせてやろう、孝行しようと、息子である俺は真面目に生きるべきだった。にもかかわらず、そうしなかった。小学校、中学校、高校を通して学校には行った―――ただし、卒業するために必要な出席日数ぎりぎりで。警察の世帯になるようなこともしでかさなかった―――要領が良いから、捕まらなかったというだけだ。でも、学校や店には何度か民子に足を運ばせた。そのとき民子は片親の自分が至らなかったと、女優顔負けの涙の名演技を見せ、教師や店主の同情を引き出し、ことなきを勝ち得たあと、俺にウィンク一発、「もっと、要領よくしなさいよ」と言ってのけた。
そんなろくでなしの俺が忌み嫌っていた親父と同じ消防士をしている今にいたるには、少しばかり外部からのカ―――仁藤が売った喧嘩を買ったというだけのこと―――もあったが、地方公務員という食いっぱぐれのない定職に就いているのは、民子を安心させたいという気持もあったのだ。
何も言わない民子に、仕方なく俺は何だかだらだらと話しつづけた。
「良く判んねぇんだけどさ、お袋だってしたいことがあったんじゃねぇかって。俺の親ってだけじゃなくてさ、一人の人間として。けど、生活のために働くので一杯一杯だったろ?―――今もだけどよ」  民子はまだ何も言わない。
「俺がもっと頭が良くてちゃんとしてれば、お袋も少しは楽だったと思う。それこそ学校だの店だのに呼び出されることもなかったし」
「それで、あたしが何ですごいって?」
これが民子がやっと発した言葉だった。
俺は答えた。俺が何をしようと、民子は何も言わなかった。ああしろ、こうしろとも、あれはするな、これはするなとも言わなかった。ふつうの親ならば当たり前にしているに違いない強制も制限も、何一つしなかったのだ。でも放任していたわけではない。もちろん無視もしていない。何かあれば民子は飛んできて、親としての責任を果たしてくれた。その態度は一貫して変わったことなど一度もなかった。そうして民子は、独りで働きつづけて俺を養い、育ててくれたのだ。
今回のあれやこれやで、俺は色んなことを考えた。自らこの世を去った老人たちの人生に、老人たちに共感して手を貸した裕孝と、裕孝にそうさせてしまった裕孝の両親、高橋老人とその娘の由佳里さん、それにダチの裕二とその父親―――キーワードは一つ、親子だ。色々な親子関係を見て、つくづく思ったのだ。民子―――俺のお袋はすごい、と。
悔しいが、裕二の言うとおり、俺は馬鹿だ。認めよう、それも幸せな馬鹿だ。俺が馬鹿でいられたのは、裕二や裕孝や由佳里さんのように考える必要がなかったからだ。それはなぜかと言えば、言葉にして口に出すと嘘くさいし、それに俺にはその言葉の本当の意味も良く判らないが、今回はあえて使う。俺は幸せだからだ。そして俺は裕孝や香川、そして大卒君のようにもならなかった。その理由は? やはり、俺は幸せだからだ。
その幸せを与えてくれたのは、誰あらぬ民子―――俺のお袋だ。こうして俺が今、曲がりなりにも地方公務員の消防士なんかになって、さしたる悩みもなく、毎日それなりに楽しく暮らしていられるのは、民子のおかげに他ならないと気づいたからだ。
だから俺は民子にそれを伝えたかった。今更だが、俺は母の偉大さに気づき、そして感謝しているのだと。
俺の口が閉じるのを見届けてから、民子は一つ、大きく息をついた。それからテーブルにひじを突き、頬杖をついてから、口を開いた。
「―――あんたが阿呆んだらで、あたし、本当に助かったわ」
民子の口から出てきた言葉は、俺の予想の範噂になかった。息子が初めて母親に感謝らしいことも、言ったのに、返って来たのは息子を阿呆んだら呼ばわりだ。もはや、「|あ《〃》!」の一声すら、俺は出せなかった。―――待てよ、馬鹿と阿呆んだらって、どっちがまだマシ、―――よそう、虚しい。
鼻から長い息をついた民子は、頬杖を外すとテーブルの上で両腕を組んでから、話し始めた。
「親として、悪い気はしないわよ。息子に感謝して貰えたんだもの。 ―――でもね、それはあんたの理想の親像と比較して、あたしは悪くないってことでしょ? あくまであんたの価値観で意見だもの。それで勝手に感謝されてもねぇ」
―――そりゃ、そうなんですけど。なんか、とっても虚しい気分だ。感謝した俺って、―――やっぱり 馬鹿か。あーあ。なんだかどっと白けた。さて、天ぷらでも揚げますか。次はカボチャだったっけね、と振り向くとガスの火を点けなおしてから、まな板の上のカボチャを手にとった。
大きな種を指で根こそぎこそいで流しへと捨てる。カボチャは薄い方が揚がりに失敗がないが、薄く切るのはけっこう腕力が必要とされる。いざ、切ろうと包丁を構えた背後から、「そのまま聞きなさい」と、さっきよりはかなりくつろいだ民子の声が響いた。
んーだか、むーだか、自分でも良く判らない音で応えて、カボチャを切り始める。
「あんたにあるように、あたしにも理想の親っていうのがあったの」
小さいカボチャだから、こんなものだろうと振り下ろした包丁は、カボチャに突き刺さったまま、外れなくなっていた。カの入れ方も甘かったが、それ以前に包丁がなまくらだったのだ。
「子供が好きでやりたい、つづけていきたいと思うものを見つけられるように、まず広い世界を見せる。何があるのか知らなかったら、何をしたいかも決められないもの」
そう言い終えたと同時にイスが鳴った。
「貸してご覧なさい」
言うと同時に後ろから手が伸びてきて、俺の手からカボチャを刃先に下げた包丁が奪われた。肘で押されてまな板の前から俺が退いたとたん、だんっ! と激しい音とともに、まな板に包丁が振り下ろされた。包丁の刃を真ん中に、カボチャは二つに分かれて転がっていた。そして「はい」と、包丁を返すと、民子はさっさとイスに戻った。  ―――いや、俺だってそうしようと思ってましたけど。
「子供がやってみたいと言うものは、何でもやらせてあげるの。やってみて、やっぱり違うって止めたら、また別のやりたいことをやらせてあげる。最終的に本当にやりたい、つづけて行きたいものが見つかるまで、何回でもやらせてあげるの。口を挟まず、ただ応援して、見守って」
今度は手加減なしでカボチャに包丁を振り下ろす。激しい音とともに、さっきの二分の一が、さらに二つに割れた。よし、つづけてもう一丁。まな板だけでなく、システムキッチンと呼ぶにはあまりにテンケな流し台自体が鳴った。そしてカボチャは八等分された。
「もちろん理想論よ。現実にやるとしたら、ものすごくお金と時間と気持の余裕がなかったら、とてもじゃないけど出来ないのは判ってるもの」
カボチャを衣に潜らせつつ、油の温度が上がったかを衣をちょいと落として確認する。よし、オッケ。カボチャ、投入。一連の作業をしながら、もちろん俺は民子の言うことを聞いていた、一言漏らさず、完壁に。
民子が口にしたのは確かに理想論だ。生々しい話をすれば、スポーツだろうと学問だろうと趣味的なことだろうと、何をするにも金は掛かる。ことに道具一式が揃わなければならないものだとことさらだ。さらに、特殊な場所に行かなくては出来ないものだったりすると、使用料や移動費も掛かる。それでも子供が好きでやりたいと言うのだからとやらせたあげく、「なんか違う」と、簡単に投げだされたりしたら、親としては堪らないだろう。それまで掛けたお金や労力や時間を考えると、簡単に「これ、止める。次のことをしたい」で、「ええ、どうぞ」とは行くまい。
「でも、これがあたしの理想の、なりたかった親」
サラダ油の中でカボチャは細かい金色の泡を上げながら浮いてきた。菜箸《さいばし》で捕まえてはひっくり返す。よしよし、良い感じだ。
「あんたには、何にもしてあげられなかったわ」
菜箸を片手に、俺はゆっくりと振り向いた。内容も衝撃的だったが、それ以上に、民子の声が哀しげだったことに動揺したのだ。
だが、そこにいたはずの民子はいなかった。扉を閉じるとただの渋い木製の戸棚にしか見えない仏壇の前に立っていたのだ。両手で扉を開けながら、民子はつづけた。
「あんたが小さい頃から気づいてたわよ、この子は、きっとたくさん可能性を持っているって。だって、お父さんとあたしの子だもの。身体も大きくなるだろうし、運動神経だってずば抜けてたし」
そこまで言って、がらりと口調を変えて
「ごめんねー、食事時だからお線香はあとにさせてね」
と、言いながら火を点さないまま線香を線香立てに立てた。こういう頭の柔らかいところも、俺は民子を尊敬している。
「それこそ、野球でもサッカーでも柔道でも、やらせてあげていたら、今頃あんたはメジャーリーガーだったかもしれない。サッカーでワールドカップの試合に出たかも、オリンピックでメダルを取っていたかもしれない」
ちょっとだけ想像してみた。ユニフォームを着て緑の芝生の上で、白黒のボールを追いかけ回す俺、スーツ姿の外国人と塩手をしている俺、光るフラッシュ―――、けっこうイイかも。
「スポーツだけじゃないわ。やらせてあげていたら、意外な才能だってあったかもしれないわ。音楽とか、芸術とか」
バイオリンを弾く俺、―――ありえねぇ。サーカスの熊の芸だ、そりゃ。
「でも、あんたにあたしは何もしてあげられなかった。実家に頭を下げに行けば、間違いなくもっと色んなことをあんたにさせてあげられた。世界には色んなものがあるって教えてあげられた。なのに、あたしは意地っ張りで―――、どうしても出来なかったのよ。頑張って働いたけれど、二人で食べていくだけが精一杯で」
民子は思ったときに言いたいことを言う。それが民子のポリシーだからだ。だが民子は語尾を濁した。それは俺が生まれてこの方、ただの一度も聞いたことがないことだった。
「なのにあんたはとつぜん―――。まったくもう、阿呆んだらなんだから!」
―――なんか、途中で言葉は飛ぶし、しかもキレ出してるんですけど。
「感謝されるどころか、あたしはあんたに謝らなくちゃならないのに」
「んなこと、ねぇよ!」
これには黙っていられなかった。民子は、民子の理想通りの親にはなれなかったのかもしれない。でも、俺は感謝している。こんなにすごい母親はいないと思っている。だから間違っても、謝って貰っては困る。民子が俺を見た。そして一言、「カボチャ」と言った。
―――やっべぇ! ばっと振り向いて鍋の中を見る。天ぷらというより、アメリカンドッグに近い色になっていたカボチャを、素早く菜箸で取り出した。―――危なかった。すっかり忘れていた。消防士が天ぷらを揚げていて火事になりましたなんて、笑い話にもならない。
油の温度が下がらないと、次の天ぷらも出来ない。火を止めてから、民子に向き直る。
「謝って貰う筋合いなんてねぇよ! 謝って貰っちゃ困るんだよ! 俺のお袋は―――民子はすげぇんだよ。誰がなんて言おうと、すげぇお袋なんだよ!」
きっぱりと俺がそう言い切ると、民子は仏壇へと身体の向きを変えた。そして腕を上げ、両手を開くと大きく一つパンッ と、手を打ち鳴らした。どう見ても柏手を打っているようにしか見えないだけに、さすがに俺もどうかと思っているのだが、それが民子のお参りの仕方だった。
「あなた、ご免っ! でも、なんだか自力で一人前になっちゃったみたいだから、勘弁して!」
手を合わせたまま、民子は大声でそう言った。―――自力で一人前になった? 俺がか?
意味が判らず固まっている俺をよそに、民子はとっととイスに座ると「さ、食べよ、食べよ。早く持ってきてよ」と、不満そうに命じた。その目が妙に赤いことに、もちろん俺は気づいていた。でも突っ込みはしなかった。流し台に向き直った俺はタマネギをつかむと、皮も剥かずにまな板の上で、一刀両断、まっぷたつにした。―――やっぱりタマネギは、涙の王様だ。
イカ、タマネギとつづいて、締めは貝柱と人参とタマネギの掻き揚げだった。ちょっと焦げかけたカボチャを食べたあと、民子はそれまでの話を持ち出さなかった。もちろん俺もだ。つまり、あれで話は終わったということだ。
民子の「ご馳走様でした」と、俺の「あー、美味かった。やっぱり、天ぷらは揚げたてに限るな」は、ほぼ同時だった。すべての天ぷらを食べ終えて、膨れた腹を満足げに撫でていた俺の前から、民子は皿を手に立ち上がると流し台へと向かった。
「洗い物ならやるよ」
「いいわよ、あたしがやる」
おお、なんと美しい親子のワンシーン。でもここで、じゃあ、よろしく、などと言ってはいけない。狭いが流れ作業で二人でやれば、片づけだって早く終わる。ささっとテーブルの上の皿を重ねて手に立ち上がると、皿洗いを始めた民子に、俺は一つ気になっていたことを訊いてみた。
「なぁ、一つ訊いていいか?」
「何?」
発音はなぁに? ―――うん、良い感じだ。
「心配じゃなかったか? その、俺ってかなり」
悪かったから、あるいは悪いことをしていた―――と、軽々しく口に出して言えるほど、俺は面の皮が厚くなかった。
「あのまま行っちまって、それこそ、さ」
もっと悪くなって、ヤからはじまる三文字の生業に就いていたらとか、懸念しなかったのだろうか? 実はそちらの筋の方に、俺はスカウトされたことがある。高校を出たらいつでも来いと、名刺をいただいたりもしていたのだ。
「あー、だって」
かちゃかちゃと皿がぶつかり合う音をたてつつ、民子は応えた。だって、あんた馬鹿だもん」
―――まただ。いや、確かに民子には俺を馬鹿呼ばわりする権利がある。それは認める。でも、悪の道に進むか進まないかの心配をしなかった理由が、「馬鹿だもん」って、いくらなんでも。
ムッとした声で、「なんだよ、それ」と訊くと、「馬鹿がつくくらい、頑固だし、正直ってこと」と、軽やかに民子は言った。
「まあね、心配してなかったと言えば嘘になるわ。だけど、あたしは信じてたから」
そう言われると、もう何も訊くことはない。多分だが、俺も察してはいたのだ。民子は俺を信じてくれている。だから何をしても口を挟まないのだと。その信頼を裏切るようなことだけはすまい、心のどこかで俺もそう思っていたに違いない。―――なんて、これは嘘だ。仁藤に売られた暗唾を買って消防士になっていなかったら、今頃、どうなっていたか、考えるだに恐ろしい。そういう意味では、仁藤に感謝―――やっぱりムカつくからやめた。
そんなことをつらつらと考えていた俺に背を向けたまま、今度は民子が話し出した。
「あんたが優しいことを言ってくれるもんだから、さっきはうやむやにしちゃったけどさ。でも、やっぱりあたしは、自分の理想の親にはなれてない」
「だから、それは」
「最後まで言わせてちょうだい!」
ばしっと言われて、俺は心の中で「はい」と応えて黙り込む。
「だから、立派な親でございますなんて、あたしは自分のことを思っちゃいない。だけど」
水を流しっぱなしにしたまま、民子が振り向いた。
「あんたは自力で一人前になってくれた。きちんと仕事に就いて、それも他の職業に較べたら、少しは人の役に立つ消防士になって」  他の職業に較べたら、少しは人の役に立つ。その言葉は、今まで俺が消防士のイメージに対して感じていたわだかまりを、簡単に粉砕した。そう、少しはなんだ、あくまで少し。さすがは民子、やっぱり、すげえ。
だが、感心している俺が次に耳にしたのは、思ってもいない言葉だった。
「あんたが消防士になるって言い出したときね、あたし、本当は反対だったのよ」
―――なんで? 頭には疑問しかなかった。
民子の実家が火事になったときに、出場した隊に親父がいた、それが民子と親父の出会いだ。つまり親父が消防士じゃなかったら、二人は出会っていなかったのだ。そりゃ、民子は俺が親父と相容れなくなったときも、親父と親父の仕事である消防士を敬えなどとはまったく言わなかった。だからと言って、消防士という職業を実は嫌っていたなんて、ありえない。
民子は誰より親父を誇りに思っていた。消防士である親父のことを。だからこそ、親父が存命の時は、民子が家事も育児も一手に引き受けて、親父には消防士の仕事にだけ専念させてやっていたに違いないからだ。
「だけど、あんたが初めて自分からやるって言い出したことだったから、反対はしなかった。―――複雑だったわ、問題集まで買ってきて、消防士になるために勉強しているのを見たときは」
仁藤に喧嘩を売られた俺は、出会ったばかりの年上の友人・守の指導に従って、本屋に行って勉強のための本を買い、ひたすら勉強したのだ。あのときも、民子は俺に何も言わなかった。
「せっかく自分から言い出したことだもの、受かって欲しいって思ってた。でも―――、頼むから落ちて、とも願ってたわ」
「なんだよそれ、人が必死に勉強して」
最後まで言えなかった。民子が顔を歪めて叫んだからだ。
「だって、あたしはあの人を亡くしてるのよ。消防士って仕事が、あたしとあんたから夫と父親を奪ったの。なのに、あんたも消防士になるって言い出して。―――あんたまで奪われたら、あたし、どうすれば良いの?」
民子は泣いていた。民子が声を上げ涙をこぼして泣くのを見るのは、これが二回目だ。一度目は病院だった。包帯で巻かれて巨大な芋虫のような親父に取りすがって民子は泣いた。学校から遅れて到着した俺を見て堪えようとした。でも堪えきれずに泣き崩れた。そして今、再び民子は泣いていた。
仁藤に売られた喧嘩に勝つためだけに、俺は消防士になると決め、そして本当になってしまった。
あげく、地方公務員になったのだから、これで少しは民子も安心するに違いないなどと思っていたのだ。民子の気持など何一つ考えずに。 ―――とんだ大馬鹿息子だ、俺は。
「だから、あんたが寮に入らないって決めたときは嬉しかったわ。大丈夫、今日も元気で戻ってきた。良かった、今日も無事だったって、あんたの顔を見る度に、どれだけ安心したことか」
すんすんと鼻を詰まらせながら、民子が少し笑った。
入庁して四年、俺が消防士になって現場に出て早くも三年目、民子は毎日、俺の無事を祈り、そして顔を見て安堵の息をついていたのだ。なのに俺は、そんな民子の心の内を、まったく気づいていなかったのだ。―――いや、違う、そうじゃない。気取らせなかったのだ、民子は。
俺が初めてやると言ってなった、そしてつづけている消防士を、不安の影を過ぎらすことで、その道を閉ざしてはいけないと、抱えた不安を民子は隠し通したのだ。
蛍光灯の下の民子の顔は、お世辞にも絶好調とは言えなかった。加齢で―――でも実年齢よりははるかに若々しい―――肌はくすみ、目尻にも唇の周辺にも皺がくっきり刻まれていた。
いつの間に、こんなに皺が増えたのだろう。俺は気づいていなかった。皺のことなど言おうものなら、民子は激怒するに決まっている。だけど、その皺が魅力的だと俺は思った。
「他の誰が、たとえあんたが何て言ってくれたとしても、あたしはあたしからすればダメな親なのよ。だけどあんたがこうして元気で、しかも消防士なんて、ちょっと人の役に立つ仕事をしてくれているから、みんながあたしに言うのよ。立派な息子さんをお持ちですね、って。あたしも言われるの。立派なお母さんですね、って」
民子の頬には涙が通過したために、化粧の剥げた筋が出来ていた。目元と口元の皺はさらに深くなっていて―――、笑っているのだ。
「親がいないと子供は産まれない、でも子供がいなきゃ、親にはなれないのよ。あんたがいて、あたしは初めて親なの。あたしはあたしのルールだとダメ親よ。だけどあんたのお蔭で、世間に消防士をしている息子の母親ですって言えるの。だからね、感謝するのはあたしの方。あんたは ―――、すげえ息子よ、雄大」
最後にウインク一発、そして民子はくるりと振り返ると、とつぜん調子っぱずれの鼻歌を唱いながら、やたらと水を撥ねかしつつ、後片づけを始めた。俺はどうしたかというと、
「あー、電話だ、ちょっと外出るわ」と、妙に元気な声で言いながら、部屋の中から脱出した。
ポロアパートの外付けの金属製の階段は、何をどうしても足音が響く。防犯の役に立っているといえば聞こえは良いが、実際のところ、ご近所の手前、気を遣わなければならないほどうるさい。でも今回は、俺はまったく気を遣っていなかった。足音も高らかに、一気に階段を駆け下りる。階下まで降りて、上を見上げた。
たった今、俺が出てきたくすんだベージュのドアの向こうには、俺が知っている限り、最高にすげぇ母親がいる。―――やっぱり、民子、あんたすげぇよ。
第十二章
七月十八日、海の日の祝日の午後一時、裕二の指示通りに赤羽駅東口に一番近いファミリーマートの駐車場に到着すると、店の出入り口に一番近い車止めに、裕孝がちょこんと腰掛けていた。
声には出さず、でも口だけ「うす」と挨拶の形にして近寄ると、裕孝は右肩から掛けていたデイパックから紙の束を取り出して俺に差し出した。
「家賃六万五千円以下で、板橋区の仲宿の周辺だと、これくらい」
「サンキュ」と、礼を言いつつ受け取る。
六月が終わり、七月に入って梅雨も明け、季節は完全に夏に変わっていた。変わったのは季節だけじゃない、俺の周囲でも色々と変化があった。その最たるものが、今受け取った紙の束だ。
思い出すと胸の底から暖かくなるが、でも恥ずかしいからぜったいに誰にも教えない民子との母子の語らいの夜には後日談がある。あんな話をしただけに、あのあと俺と民子の関係は、妙に互いに気を遭うというのか、より相手を思いやるというのか、そんな日々だったのだ。
例えば、俺は今まで出掛けるときも帰ってきたときも、ろくすっぽ挨拶などしていなかったが、とりあえず顔だけは民子に見せるようになった。冷蔵庫を開けて涼むことも止めた。―――これは違うか。民子も変わった。冷蔵庫の中に「食べていいわよ」というメモつきのおかずや、たまにはビールのカンパがあったりもした。
そして七月に入って二度目の当番日明けに、俺は電機の大型量販店に立ち寄り、冷蔵庫のカタログを片っ端から貰って帰った。ボーナスが出たのだ。つまり、いよいよ冷蔵庫の買い換えのときが来たというわけだ。
テーブルの上にカタログを並べ、民子の帰宅を待つ。一足先に検討してみたが、置けるスペース優先で絞り込むしかなく、そうなると、どれも微妙に帯に短し、たすきに長しというのか、ぶっちゃけ、どれも大差ないというのか。ところが、やっと帰ってきた民子は、テーブルの上のカタログを見るなり、「やっぱりいらない」と、断った。
とうぜん俺は驚いた。反発もした。なにせ、今の冷蔵庫はもう物理的に限界だったからだ。だが民子はとうとつに、しかし断固としてきっぱりとこう言った。
「あんた、出て行きなさい」
冷蔵庫の話をしていたはずなのになぜ俺が追い出される話に? だが、理由を問う前に、「あんたももう一人前なんだし、これ以上、一緒に暮らしていてもお互いにとって良いことなんて何もないもの。だから、出て行きなさい。今月末までによ!」と、宣言されてしまったのだ。
さすがにあわてた。そりゃ一人暮らしも悪くはないと思う。でも、はっきり言おう、経済的に問題がある。
「ちょっと待てよ! 俺、金ねぇよ!」
「じゃぁ、寮に入れば?」
さらりと民子は言い返した。確かに寮に入れば、自力で部屋を借りるよりは安上がりだ。でも、第五消防方面の独身寮は、赤羽本署の四階から七階なのだ。休みだろうが聞こえるサイレンや練習の掛け声に、ドアを開ければ同僚の顔、あげく階段を下りればそこには仁藤なんて最悪だ。それだけはなんとか阻止したい。
「せめて、金貯まるまで待ってくれよ」
いつまでも金が貯まらなければ、いずれ話はうやむやに。それを狙って言った言葉は、目の前に突き出された俺の名義の預金通帳に黙らされた。
「なんだよ、これ」
「就職してから毎月徴収していた三万円を貯めたもの」
そう言って見せるだけ俺に見せたあとは、さっと通帳を引っ込めた。
「引っ越しが決まったら、必要なだけ引き出して渡してあげる。足りない分は貸してあげるわよ。利子はまけてあげる。でも一筆書いて貰って、絶対に返して貰うからね」
そう言って、にっこり笑った民子の笑顔には、反論もつけ入る隙もまったくなかった。これは揺らぐことのない決定事項なのだ。
俺は裕二と裕孝の二人に相談した。開口一番、裕二は「俺の近くには越してくるな」と、宣言した。確かに、裕二と同じアパートに空き部屋はないかと考えなかったといったら嘘になる。風呂とトイレが別の六畳で家賃も六万三千円と手頃だし、なにより裕二が近くにいれば心強い。でも、俺だってそれは望んでいなかった。どれだけ魂通じるダチだとしても、いや、だからこそ、互いのプライバシーは尊重しないとマズい。とはいえ、開口一番、魂通じるダチにそう言われたダメージは大きい。
―――ちょっと、冷たいんじゃねぇの?
逆に張り切ったのは裕孝だった。条件を挙げてくれれば、インターネットや雑誌で調べるよと、挙手してくれたのだ。そして今貰ったのが、その検索結果だ。
「見ないの?」
受け取ったものの、手にしたまま紙を見ようともしない俺に、裕孝の不満そうな声が飛んだ。実は裕孝には謝らなくてはならないことがあった。調べてあげると言われて、条件を伝えたのだが、一昨日の晩になってその条件が一つ―――でも、かなり大きく―――変わってしまったのだ。ただ、これから出掛ける今、それを言ったところで仕方ない。言うのなら帰り道でも良いだろう。そう思った俺は、「これから出掛けるしよ、途中で途切れたら、わけ判んなくなりそうだから」と答えた。
「じゃぁ、帰りまで預かってるよ。しまえるところ、なさそうだし」
気を悪くした風でもなく、裕孝はそう提案してくれた。
だが俺は気づいていた。裕孝の目がわずかに曇ったことに。俺に気に入られる良い子でいようと考えて、裕孝はそうしたのだ。
裕孝を持て余していると感じているのは、今も変わっていない。それどころか、夏休みが近づいて、その感覚は俺の中で徐々に大きくなっていた。そして裕孝もまた、それを敏感に感じていた。
出会った直後のような、考えたまま思ったままではなく、俺に気に入られるような、邪魔だと思われないような反応を返そうと、裕孝は計算して返すようになり始めていたのだ。
―――マズい。これでは、俺は裕孝の両親と同じになってしまう。
悩んだ俺は、裕二に相談した。俺が感づいているくらいだし、何より裕孝は俺は名前で呼び捨てるくせに、裕二にはさんと敬称を付けて呼ぶくらい―――つまり俺より裕二を慕っているのだから、とうぜん裕二には俺より多く連絡を取っているだろう。ならば鋭い裕二のこと、とっくに対策を考えているに決まっていると思ったからだ。ところがその予想は完全に外れた。
「裕孝から俺に連絡? めったにねぇな」
呼び出した七月六日の夜、毎度おなじみの蓬莱での飯のあと、いつもと同じく店先で一服しながら裕二はあっさりと否定した。
「あれ、おっかしーなー」と、口に出した俺に、裕二はため息混じりで「雄大、やっぱりお前、本当に馬鹿だな」と言った。
むっとして顔を上げることで質問に代えたが、裕二は口の端をきゅっと挙げて一見、好感度大のお利口な豆柴犬みたいな笑顔を浮かべて―――その実、これほど人の悪い笑顔はないのを、俺は良く知っている―――でも、何も応えてはくれなかった。
「んだよ!」
頭の「な」を省いた発音で訊ねるが、やはり裕二は応えない。代わりに返ってきたのは「馬鹿を治して見せるんだろ? じゃあ、頑張らないとな」だった。例の宣言以来、何かというとこれだ。自業自得とはいえ、なんかムカつく。
マルボロをふかして、とりあえず腹立ちを収めた俺の横で、裕二もまた、ラークをふかしている。
「なぁ、裕二」
呼びかけに、口の端に煙草をくわえた裕二が俺を見上げた。
「このままでいいのかな」
裕二が首を傾げると、とうぜん煙草も傾いだ。―――何が? だ。
「このままじゃ俺、あいつの親と同じになっちまいそうでよ」
煙草が逆に傾いだ。―――そうか? だ。
「なんか」
そこで俺は言い澱んだ。頭の中では完壁に考えていたのだし、口に出し掛けたのだから、今更良い人振ったところで始まらない。
「持て余してんだよ」
腹を括って口に出す。ちらりと裕二を窺い見ると、裕二はまったく反応していなかった。それどころか、煙草がゆっくり上下に揺れた。
だろうな、だ。予測していたのだ。それに安堵して、話をつづける。
「裕孝のことは嫌いじゃない。構ってやりたいとも思ってる。けど、やっぱり、無理があるんだよ。俺は働いてるし、あいつは中学生だ。やりたいことや好きなことだって、それぞれ違う。しかも、―――裕孝もそれに気づいてる」
裕二の手が動いた。煙草が二本の指でつまみ取られる。同時に、「裕孝は馬鹿じゃねぇからな」と、返ってきた。
「気づいた上で、俺と上手くやっていこうとしてるんだ。俺に嫌われないように、邪魔だって思われないように、気を遣ってる。これじゃ、あいつの親と同じじゃねぇか」
出した言葉に口の中だけでなく、体の中がすべて苦く、しかも嫌な臭いすら漂っているように俺は感じていた。
俺はほとほと自分が嫌になっていた。悪いのはすべて俺だ。調子の良いことを言って、安請け合いをして、あげく裕孝を同じことで苦しめている。都合の良い子でいることしか親に望まれず、それを知ってもなお、必死に親の求める良い子をしっづけるしかなくて、それが辛くて苦しくて、どうして良いか判らずに、老人たちの放火自殺に手を貸してしまった裕孝。俺はその苦しみの中に裕孝を送り返そうとしているのだ。
自分が酷いことをしていると判っている。最低だとも思っている。ならば改めれば良い。改めるベきだ。―――なのに、俺には出来なかった。
働いている以上、自由な時間は限られている。その中で、他の何より裕孝を優先することなど、やっぱり俺には出来ない。俺だって自分のしたいことをしたい。それが裕孝と一緒に出来ることなら良かったのだろう。でも、酒を飲んだり、ナンバをしたりでは、一緒というわけにはいかない。
俺は気づいてしまったのだ。どれだけ偉そうなことを言ったって、けっきょく俺は裕孝の両親と同じ、何より自分を優先したい、我が儘で身勝手な男でしかないことに。
どんよりと落ち込み、さらに困り果てている俺の横で、ふーつと、強く息を吐き出す音がした。細く長く、でも力強く煙草の煙を吐き出し終えた裕二は、まっすぐ前を向いたまま、「まったく、どっちも馬鹿ばっか」と、軽く言ってのけた。
人が真剣に悩んでいるというのに、その言い草はなんだ。さすがに腹が立った俺は「|あ《〃》〜?」と声を上げていた。
語尾上がりの濁点つきの「あ」。俺は本気だ。だが裕二は悪びれた風もなく、「裕孝にとって、好きな相手に嫌われないってこと自体が、自分が我慢してでも相手の望み通りにするってことなのは、生まれてこの方、ずっと親から刷り込まれてきたんだ、習慣でついそうしちまうのは仕方ない」と、世間話でもするように言い始めた。
「でも、おかしいって気づいちまった。だから、―――お前と出会ったんだろ?」
だからのあと、裕二は火が点いている方を上にして、つまんだ煙草を軽く振って見せた。その仕草が何を表しているか、俺はすぐに気づいた。
裕孝が何をしたか、なぜ俺と出会ったか、俺は一度たりとも裕二に話していない。裕孝もだろう。
なのに裕二は知っていた。そして言葉にせずに仕草で俺に伝えたのだ。―――つくづく、俺のダチ、裕二はすご―――怖い。
「親から刷り込まれたことなんか、捨てても良いんだって、もう判ってる。なのにまた同じことをしちまっている。―――ま、十三年、それで生きてきたんだから、昨日の今日で変えるなんて無理だろうしな。馬鹿って言っちゃ、可哀想か」
再び一服。深く息を吸い込むと、今度はさっきと違い、大きく口を開けて煙を太く、しかも強く吐き出した。その仕草は放射能を吐くゴジラだ。
「でも、雄大、やっぱりお前は馬鹿だ」
何だと? と思ったが、俺は様子を見ることにした。裕二の声に、さっきとは違ってわずかだが、怒りが含まれていることに気づいたからだ。
「お前がうじうじ悩んでいるのは、裕孝とべたべた始終一緒にいて、しかも他の何より裕孝を優先してやんなきやならないのに、それは出来ないってことだよな?」
うじうじとべたべた、には頭に来たが、でもそういうことだ。反論のしようもなく、俺はただ頒いた。
「裕孝がしていることは、お前に気に入られるように、自分を犠牲にしてでもお前にあわせようとしている。―――で、お前が悩んでいるのは?」
さっき裕二が言ったばかりの内容を思い出して、言おうと口を開く。
「そりゃ、―――あ」
俺と裕幸のしていることは、誰が誰にこそ逆だが、中身は同じことだったのだ。
「お前、今まで自分が我慢してまで、相手を優先するような人とのつき合い、したことあるか?」
「ない」
即答した。そんなこと、俺は今までしたことなどない。
「なにやってんだか」
ちっと舌を鳴らしてそう言った裕二に、返す言葉などなかった。
どうして俺は、裕孝と同じ考え方で、裕孝に接しないといけないと思い込んでいたのだろうか。左手を髪の中に突っ込むと、苛立ち紛れに力一杯、頭皮を掻きむしった。
「雄大」
ふいに名前を呼ばれて、裕二を見た。目があったとたん「ばーかー」と、デカい声で言われ、舌までべろべろベーと出されて切れた。「んっだと?」と、言うと同時に裕二のTシャツの胸ぐらをつかみ、至近距離まで引き寄せる。
数センチ先の裕二は、口の端をきゅっと挙げて笑っていた。その笑顔は人を馬鹿にしたような例の笑顔ではなく、心底からの笑顔だった。
「だからよ、ご機嫌なんて伺わなくて良いんだよ、怒らせるようなことを言おうがしようが、それでもダチでいられる、それがダチなんじゃねぇの?」
その通りだ。相手の顔色窺って、常に自分が我慢している関係なんて、ダチじゃない。裕孝に必要なのは、まさにこういうことだった。
「―――放してくんない?」
同じ笑顔のはずなのに、瞬時に人を馬鹿にした顔に変わった裕二に、これまた嫌味たっぷりの声で言われて、あわてて俺は言われた通りにする。
「まったく、裕孝もどうしてこんな馬鹿に頼るんだか。俺だっているんだから、俺に言ってくりやいいものを」
不機嫌極まりない声と顔でそう言った裕二に、俺は心の底から同意して「だよなぁ」と答えた。
裕二が裕孝のことをけっこう気に入っているのは判っていた。というより、気に入っていなかったら、口すら利かないし、存在すら無視する男だ。その裕二が、それも俺よりはるかに賢い裕二が相手にしてくれているというのに、なぜ裕孝は裕二ではなく俺を頼るのだろうか。俺にはまったく判らなかった。
裕二はじろりと横目で俺を睨んでから、煙草を足下に投げ捨ててぐいぐいと踏みにじった。
「あー、まったくよー。ホント、馬鹿には敵わねぇよ」
今日だけで、何度馬鹿と呼ばれただろう。いい加減、腹が立ってきた。
「そりゃ俺は馬鹿だけどよ、いくらなんでも、馬鹿馬鹿言い過ぎだぞ、裕二」
「俺じゃダメなんだよ。裕孝はお前がいいんだよ。それも判らない馬鹿に馬鹿と言って何が悪い」
―――あ、そうか。ようやく俺は状況が飲み込めた。裕二でないのだ、俺が良いのだ、裕孝は。
「俺をさんづげで呼ぶのは、まだ遠慮があるから。お前を呼び捨てなのは、お前には心を開いているからだ。どうせお前のことだ、俺にはさんづけで、自分は呼び捨てかよ! って、思ってたんだろ?」 − はい、そのとおりです。言い当てられたバツの悪さは充分感じていたが、それでも俺は少しばかりの反駁を試みた。
「でもよ、裕孝にそれをどうやって伝えればいいんだ?」
問題はそこなのだ。どうしたら、裕孝の身に染みついた人との距離の取り方を変えることが出来るのか、俺にはその方法が思い浮かばなかったのだ。
「そんなの、簡単だ」
裕二は軽く言ってのけた。顎を上げることで、「どうやって?」と、訊ねた俺に裕二は口の端を上げて笑って答えた。
「俺たちには、最高の見本がいるだろ?」
最高の見本? なんだそれ? 空を睨み眉間に皺を寄せた俺に、「何を考えているのか、まったく予測がつかない。どこまでもマイ・ペース。自分の価値観の中でのみ生きている。世間の常識なんて、知っちゃいない」と、クイズのヒントのように、裕二は言葉を重ねていった。それらの言葉からイメージ出来る人物で、俺と裕二の共通の知人となると、ただ一人しかいなかった。
「帰ってくんのか!」
裕二は笑って、拳を突き出した。心底からの笑顔のダチの出した拳に、俺も拳を当てた。これですべてが上手く行きそうな気がしたそのとき、裕二がわずかに暗い声で「あー、日付が変わっちまった」と呟いた。
それがどうした? と首を傾げて見せた俺に「七月七日」とだけ裕二が返した。七月七日がどうしたというのだろうか? 「何が嬉しくて七夕に、お前と一緒なんだか」さも嫌そうに言われて、俺はやっと七月七日が七夕だと思い出していた。七夕になったばかりの 今、隣にいるのはダチの裕二。―――うん、確かに。それには俺もまったく同意見。
七月十日、裕二から集合時間と場所の連絡が入った。七月十八日の午後一時、場所はJR赤羽駅近くのファミリーマートだ。そして今日は、いよいよ当日だ。もちろん裕孝にはまったく内容は教えていない。すべては当日のお楽しみ、ということにしている。不安はあるのだろうが、それでも裕孝は楽しそうだった。考えたら、俺たちから声を掛けて出掛けるなど、今回が初めてだった。
「裕二さん、遅いね」
車止めの上に小猿のように腰掛けた裕孝が、目の上に手をかざして周囲を見回した。駐車場に面した道路ではなく、歩道を探したのは、裕二が歩いてやって来ると思い込んでいるからに他ならない。
でも、今日は裕二はレンタカーを借りてくることになっている。
「遅えなぁ」
約束の一時から、すでに十五分が経過していた。あれで裕二はけっこう車好きだ。車を借りるのは良いが、好みの車種を探すのに手間取ってでもいるのだろうか?「それにしても、暑っちいなぁ、中人らねぇ?」七月も後半の太陽は上からだけでなく、足下のコンクリートに反射して、容赦なく全面から照りつけていた。異存はないらしく、裕孝が車止めから立ち上がった。俺は前を向いたまま、「寺本さんの葬式、立派な式だったってさ」とだけ告げた。
寺本夫妻の死に事件性は認められず、失火での事故死と認定された。その結果、夫妻が加入していた生命保険も火災保険も満額支給された。受取人として保険会社から連絡を貰った兄夫婦の子供たちは、その金額に過去の遺恨を納めたのだろう、それは立派な葬儀を執り行ったのだ。五十嵐さんと篠原さんも、同じく失火での事故死とされた。ただし、どちらも子供たちが財産分与で骨肉の争いの真っ最中だが。そして山口澄香さんも、高齢なのと闘病中で薬を服用していたことから失火とされた。
これでもう、老人たちも裕孝も罪を問われることはない、つまりは終わったのだ。
賢い裕幸はすべてを察したに違いない。戻ってきたのは「そう」だけだった。だがその短い返事には、心底安堵が潜んでいた。俺もまた穏やかな気分になったそのとき、裕孝が「うわ」と声を上げた。振り向くと、目にも鮮やかな真っ黄色のオープンカーが駐車場に乗り込んできていた。
「うーす」
左ハンドルの運転席に収まって、軽い挨拶を寄越したのは裕二だった。
「なんだよ、このミニカーをでっかくしたような車はよ」
「 ―――逆だよ」
それだけぼそりと言うと、裕孝は車に近づいたは良いが、やはり呆気にとられているのか、少し距離を取って立ち止まった。
何が逆? 悩む俺をよそに裕孝は「裕二さん、この車、どうしたの?」と、訊いた。
「レンタカー。どうせ借りるんなら、乗りたい車にしようと思って、探し回って見つけた」
「これって」
車の前に回り込んだ裕孝は「ポルシェだ」と、気の抜けた声で言った。
「そ、911ターボSカブリオレ。純正のスピードイエローで、貸してくれるところを探すのに手間取ってさ。裕孝、隣に乗れ」
「いいの?」
「こいつは車には興味ないから後ろで充分。さ、乗った乗った、出発だ」
俺がまだ「逆」に引っ掛かっている間に、二人の間で話は決まっていたようだ。実際、俺は車にはさほど興味がない。だから助手席じゃなくても、何も問題はない。―――というより、今回は席の場所以前に、このやたらと人の目を引く真っ黄色のオープンカーという段階で、乗ること自体に抵抗があるのだが。
出発して一時間後、葛西《かさい》ジャンクションを過ぎて俺は怒鳴った。
「だからよー、これじゃなきゃ、ダメだったのかよー!」
大声を出しているにはわけがある。それは裕二が借りてきた車がオープンカーで、突入した湾岸線はトラックが多く、しかも今の時速は百三十キロ、これでは大声でも出さない限り、後部座席の俺の声が運転席の裕二に届かなかったからだ。
「乗れるだけ、ありがたいと思え!」
怒鳴り返された裕二の声はすこぶる機嫌が良かった。俺の機嫌も良かった。ただし、鹿浜橋入り口で中央環状線に乗り入れるまでは。
それまでの一般道は、それなりに楽しかった。何しろオープンカーに乗るなんて初めてだし、何より運転している裕二も、助手席に乗っている裕孝も目をきらきら輝かせて、それは楽しそうだったからだ。やっぱり男の子はみんな車好き。
だが首都高速に入ったとたん、楽しいなんて言っていられなくなった。小柄な裕二や裕孝はともかく、俺にはこの車は狭すぎた。何しろ、ただ座っているだけなのに、身体を斜めにしないと膝が前の座席に支《つか》えてしまうのだ。それにオープンカーはちっとも心地良くなんてなかった。
「いいから! 屋根閉めろよ、屋根!」
再び、大声で怒鳴る。前部座席の二人に較べ、俺の図体はデカい。だからとうぜん、俺だけ車から、にょきっと頭が飛び出ている状態で、それだけびゅんびゅん風が当たる。高原の爽やかな空気の中、サイクリングで頬に当たる風が心地良い―――なんてレベルの話じゃない。時速百三十キロの風が、それも周囲を走る車の排気ガスが顔にぶち当たるのだ。はっきり言って、臭いし痛い。しかも暑い。それでなくても残りの二人より俺の頭は太陽に近い位置にあるのだから、そのぶん暑いに違いない。だが俺の訴えなどどこ吹く風で、「あー、やっぱりいいなー!」と、裕二が心底嬉しそうな声を上げた。
「なんでこんな馬鹿っ派手な真っ黄色なんだよ!」
「いつも真っ赤な車に乗ってんだから、いいじゃねぇかよ!」
裕二に言われて、それもそうかと考えた。あとはまっ青な車に乗れば―――って、何を考えているんだ、俺は。
「フラットシックスの三・六リットルでツインターボ・馬力なんて四百五十だぜ。百キロまで加速するのに五秒掛からないなんて、信じられるか?」
すごいねーと、小さな声がちょっとドップラー効果を起こして聞こえた。なんで目の前に座っている裕孝の声が、こんな風に聞こえなきゃならないんだか。前部座席のシートをつかんで、腕力もあわせて身を前に乗り出す。もちろん頭は低くしてだ。普通に腹筋だけでしようとして顔面に目一杯風を浴びたが最後、風圧で身を乗り出すことすら肉体鍛錬になってしまう。
最高速度、三百キロ! まさに史上最速のフォーシーター・オープンモデルだぜ!」
「三百キロだぁ〜? この狭い日本のどこで、そんなスピード出せんだよ!」
どれだけ怒鳴ろうが、裕二は聞いちゃいない。真っ黄色の車を飛ばすことを、純粋に楽しんでいるらしい。そして助手席にちっこいハムスターのように収まっている裕孝もまた、これでけっこう楽しそうだった。―――なんか、俺だけ面白くないんですけど。
宮野木ジャンクションを過ぎて東関道に入る頃には、俺はすっかり黙り込んでいた。叫びすぎで喉が嗄れたからだ。裕二も同じだった。唯一、同じくらいの声をあげていたのは裕孝だけだった。
「成田空港に行くんだよね! 」
声で応える代わりに、裕二が左手の親指と人差し指で輪を作って見せた。成田インターチェンジの出口が近づいた頃、俺はあることを思い出して気分が重くなっていた。頼まれたことを、頼まれた通りにしなかったどころか、最悪のことをしてしまったのを思い出していたのだ。だが共犯の裕二は、別に気にしている風もない。―――ま、いざとなったら、二人揃って頭を下げるだけだ。
出発して以来、料金所を除いて、車が完全に停められたのは、成田空港第二ターミナルの立体駐車場の五階に着いてだった。ドアも開けずに上から跨ぎ越え、地に足を着けた俺がまず最初にしたのは、大きな伸びだった。固まった身体のあちこちを伸ばして、ついでに屈伸運動までする。車を降りた裕二も裕孝も、やはり大きく伸びをした。
ほら、やっぱりお前らも疲れてんじゃん。ダメだよ、この車、と、勝ち誇って言おうとしたが、二人の上げた声が満足げなため息だということに気づいて、言わずに止めた。何をどうしたって二対一。多勢に無勢、多数決、しかも口が達者な二人だ、まず勝ち目がない。
黙ったものの、面白くない俺が、お前らは二人揃ってチビだから楽なんだよ、やーい、チービ、チービ! と、腹の中で毒づいた瞬間、くるっと裕孝が振り向いた。
まさか察知した? 動揺を隠しつつ身構えた俺に、「逆って言うのはね、ミニカーは車をモデルに作っているってこと。ミニカーじゃなくて車が先。だから逆。―――まだ、治りそうもないね」とだけ言って、前に向き直ると「裕二さん、このあとどこに行くの?」と訊ねた。
―――あ、そっか。確かに逆だ。なんて呑気に感心している場合じゃない。最後のが一言余計だっての。だいたい生意気なんだよ、あのチビは。なんて俺がむっとしつつ考えている間に、二人はどんどん先に行ってしまった。あわてて俺もあとを追う。
「今は三時五十二分か、余裕だな」
「誰かのお迎え?」
「そ。到着は午後四時二十五分」
「誰?」
「それは会ってのお楽しみ」
会話は二人で完結していた。―――なんか、完全に俺だけ蚊帳の外って感じで、つまんないんですけど。
到着ロビーに三人揃って着いたところで、俺は裕二の背中を肘でちょいと小突いた。首だけで「何?」と、訊ねる裕二に「あれ、どうすんだよ」と裕孝には聞こえないように言ってみた。だが本気で裕二は失念してしまったらしい。まったく反応せずに、ただ俺の顔を見上げていた。
「ほら、あれだけよ、あれ」
俺は広げた右手を挙げて上下に動かして見せた。これで判るだろう。
「バスケットボールがどうかしたか?」
「これのどこがバスケットボールだよ! クラゲだよ、クラゲ!」
「クラゲなら、こうじやない?」
裕孝は手を挙げると、ゆらゆらというのか、ふわふわ動かして見せた。
「うん、それならクラゲに見える」
俺の焦燥感をよそに、ジェスチャーゲームでもしているかのように、二人は呑気にやりとりしてい た。
「だから、クラゲ」
「お、着いたな」
―――だから、人の話を聞けっての。と思いつつも、俺も開いた到着ゲートへと目を向けていた。無事に帰って来たのを、この目で見届けたかったのだ。ドアが開いて、まず出てきたのは、制服姿の空港職員らしき男に付き添われて出てきた車いすの男性だった。
「席のクラスは?」
腹のあたりの高さから裕孝に問われたが、質問の意味が判らないから、答えようがない。
「ファーストとかビジネスとかエコノミーとか、席の種類。飛行機から降りる順番が違うんだよ」
そんなの知らねぇよ、というより、降りる順番が違うって何? 二つの意味で黙り込んだ俺の代わりに「ファースト」と答えたのは裕二だった。
「ロスアンゼルス便でファースト? その人、すごいね」
うん、すごい奴だ。ただし、裕孝が想像したのとはまったく違う意味でだが。
そして俺は人混みの奥に探し人を見つけた。ドアの中から出てくる人のほとんどが、スーツケースやキャリーバッグを手にやってくる中、探し人はあまり大きくないブリーフケースを片手に、えらく身軽な格好でやって来た。服装は相変わらず黒い。黒いジャケットに黒いシャツ、黒いベルトにパンツに靴。もちろん手に持っているブリーフケースの色も黒。そんな黒一色の中、色味があるのは銀にしか見えない白髪の頭だけだった。不安げに周囲を見回しているその顔は、電脳の館の中で水母と暮らしていた漆黒の王子、守その人だった。
あれは暮れも押し迫ったときのことだった。いつもの如く、俺と裕二が守の家に遊びに押し掛けた。普段なら、いらっしゃいと守は俺た
ちを迎え、気が向けば話題に加わり、向かなければ一人で勝手に好きなことをしているのだが、その日は違った。
「二人に頼みがあるんだ」と、言い出されて、俺と裕二は顔を見合わせた。以前にも頼みがあると言われた。最初は「死んだあとも誰にも迷惑を掛けないで死ぬ方法を知らない?」という質問で、次が、「自分が死んだら、この家や土地だけでなく財産の全てを二人で自由にして欲しい」だった。理由は、守が守の「あの人」と築いた財産を、自分の没後、渡したくない相手か、あるいは国のものになってしまうのが耐えられないからだと言う。守と出会ったその日に、そう言われたことは、今となっては良い思い出―――、やっぱり、微妙だ。
さて、今度はなんだと身構えた俺たちに託されたのは、「水母をよろしくね」だった。意味不明な頼みに、俺は悩んだ。何しろ守は家から一歩も出ない。日常の買い物すらネットで済ませる、世間で認知されているひきこもりをはるかに越えたスーパーひきこもりなのだ。それどころかカーテンすら開けないし、一番長くいる部屋は地下室、しかも服はいつも黒ずくめという、スーパーすら越えたウルトラ・スーパー・デラックスなひきこもりなのだ。
その守が「水母をよろしくね」。それって、出掛けるってことか?いや、出掛けるならまだ良い。もしかしたら―――。最悪のことを考えた俺は、固まっていた。何を訊いて良いのかすら、判らなかったのだ。
「帰りは?」
冷静に現実的なことを訊いたのは裕二だった。
「判らない」と、守は答えた。例の如く、小首を傾げて、かすかに微笑んで。
「判らないって何だよ。だいたい、どこに何しに行くんだよ」
黙っていられなくなった俺は、たてつづけに訊いた。
「あの人に会いに行くんだよ」
幸せそうな声だった。
俺は言葉を失っていた。「あの人」に、守は会いに行くというのだ。「あの人」が生きていなければ、自分もこの世から消えてなくなると決意するほど守が愛してやまないという「あの人」に。
「あの人を取り戻せなかったら、帰らない」
帰らない―――それが何を意味するか、俺も裕二も知っていた。この世から消えて無くなる。それまで存在していたという証の全てを完全に消し去って、さながら海に戻る水母の死のように。
そんな重い意味を学んだ言葉だというのに、夢見るような顔で、嬉しそうに守は言ったのだ。悲壮感など、かけらもなかった。そこには結果がどうなろうと、「あの人」に会いに行けることをただ喜んでいる守がいた。
俺にはもはや何も言うことはなかった。ただ、守が「あの人」に会えると良いと思ったし、出来れば取り戻して欲しい、そして一緒に帰ってきて欲しいと願っていた。
俺は守の「あの人」が何者か知らない。でも守にとって「あの人」こそがすべてで、その他のものなどどうでも良いことは判っていた。
でも俺はひょんなことから出会った、この年齢不詳の引きこもりの男が好きだった。何かというと、小首を傾げて、「ね?」なんて、他の男がやったらぶっとばしたくなるような仕草を当たり前に出来てしまう、常にカルバドスの香り漂うコーヒーを華奪なカップで飲んでいる、いつ見てもどこか物憂げでアンニュイな守が大好きだった。だから帰ってきて欲しかった。守に、そして守の大切な「あの人」とともに。
守の頼み事は、実に簡単に約束された。出掛けるにあたって送らなくて良い、水母の面倒を看る。帰る、または帰らないと決まったら、裕二にその旨一言連絡を入れること。
帰ろうとする俺たち二人を、いつもと同じように守は玄関まで見送りに来てくれた。でも、見送りの言葉は、いつもと違った。
「二人と会えて、楽しかったよ」
守は俺たちに手を振ってそう言った。別れの言葉でしかないのに、でもとても幸せそうな笑顔で。
それが俺たちが見た最後の守だった。
そして今、守は帰ってきた。相変わらず全身黒ずくめで、どこか浮世離れした空気を漂わせた守は、ゆっくりと辺りを見回していた。やがて俺たちに気づくと、困ったようなはにかんだような不思議な笑みを浮かべて、とつぜん周囲の人をかき分けて走り寄ってきた。金の掛かった上品な服装の白髪頭の男が、とつぜん走り出したのだから、妙に周囲の目を惹いた。
真っ黄色のオープンカーの次は、嬉しそうに全速力で駆け寄る白髪の中年。これは何かの罰ゲームなのだろうか、という気がしないでもなかったが、それでも俺は嬉しかった。
目の前までやってきた守は俺たち三人の前で立ち止まると、ブリーフケースを開けて、中から一枚の小さな紙を取りだした。そしてそれを差し出すと、「このレシート、ぴったり三百ドルなんだよ。色々買い物したのに。すごいと思わない、ね?」と、言った。それは幸せそうに、そしてもちろん、最後は小首を傾げてだ。
そりゃ、すごい。家から一歩も出なかった守が店に入って買い物をしたのもすごいし、しかもぴったり三百ドルになったのもすごい。だが、帰らない―――この世から消えてなくなる―――なんて言って旅立った奴の生還第一声がこれというのはどうなのだろう。しかも周囲からの視線が、何というのかこう、面白がっているというのか、奇妙なものを見ているようなというのか、とにかく全身くまなくぶすぶす突き刺さってる気がするんですけど。
相変わらずこちらの想像がまったくかすらない斜め上を守は突き進んでいた。半年ぶりだが、守ワールドは健在だ。だが、そのおかげで感動の再会気分は完全に吹っ飛んでいた。こうなると今更、お帰りなんて言えなかった。そのとき、はたと思い出した。そんなことより、裕孝を紹介しないと。
ということで、さっそくしてみた。
「守、こいつ裕孝。よろしくな」
第三者による紹介は、極力簡単に。あとは本人同士でお互い歩み寄って貰う他ない。
大きな目でじっと守を見上げていた裕孝は、黙ったままだった。こういうとき裕孝は、良い子の能力をフル活動させて、先に氏名を名乗ってきっちり頭を下げるだろうと思っていただけに、ちょっと驚いていた。でもその驚きは守の次の言葉にかき消された。
「いいなぁ、僕も名前を変えようかな」
「|あ《〃》?」
意味が判らずに、一文字で疑問を投げかけると、守は軽やかに 「裕二、雄大、裕孝」と、名前と一緒に各人を指で指した。
「みんな、ゆじゃない。僕は、まだもの。ゆきひことか、どうかな?」
そう言えば、三人ともゆ、か。―――って、俺の名前はあくまで雄大《たけひろ》で、雄大というのは通称なんですけど。その前に、なんでそうなる? 相変わらず、守の考えていることは謎だ。
「この人、知ってる」
腹の付近からの声に、俺は発した裕孝を見下ろした。ひきこもりの守をどうして裕孝が知っている? 俺たちと守が出会ったのが、今から四年半前。それ以降とは考えられない、とすると、それより前。当時まだ八歳の裕孝が守と知り合いの可能性って何だ? 思いついて口に出す。
「親が知り合いとか?」
俺を見上げた裕孝の顔は、信じられないものを見る眼差しというよりは、もはや非難めいたものだった。なんでそんな目で見るよ? と、むっとして見かえしたが、すでに裕孝は裕二に物言いたげな顔を向けていた。だが裕二は裕孝と目を合わせなかった。わずかに背けた視線が「俺を見るな」と告げていた。いったいどういうことなんだ? またもや、俺一人蚊帳の外? 何だか妙な空気を破ったのは、守だった。
「うん、僕も君のこと知ってる。君は、裕孝君」
にこにこ笑って守にそう言われた裕孝は、今度は俺を見上げた。その顔には、どうしたら良いのか判らないと書いてあった。―――もしかして。疑問に思った俺は訊いてみた。
「守、前から裕孝のこと知ってるのか?」
「ううん、でも、今紹介して貰ったよね」
答えを予想していないわけではなかった。が、即答されるとやはりどこか虚しい気がするのはなぜだろう。腿の辺りに何かが触れているのに気づいてちらりと見下ろすと、裕孝が指先で俺の腿を突いていた。何を言いたいのかは判っていた。この人、何? 大丈夫なの? に違いない。―――止めろ、それは俺が誰かに訊きたいことだ。
「荷物は?」
一人冷静な裕二が現実的なことを訊いてくれて、自分の気の利かなさに舌打ちしつつも、ちょっと 安堵する。
「全部、送ったからない」
「じゃ、行くか」
そう言うと、一人すたすたと歩き出した。こういうところが裕二のつくづく尊敬できるところだ。さすがはクールでアバンギャルドでリアリストな俺のダチ。その少し後ろを守が大人しくついていく。もちろん俺も裕孝も追い掛けた。
裕二を先頭に、駐車場まで行く途中、俺は気になっていたことを訊いてみた。
「ところで、連れがいねぇんだけど」
俺の質問は完全に無視された。それも誰からも、だ。仕方なくもう一度訊く。
「だから、連れはどうしたんだよ、守?」
今度は無視されないように、名指しした。
「僕に言っていたの?」
その返事は、自分に向けられた質問ではないと思っていたことになる。
「守以外の誰に訊くつていうんだよ」
守が海を越えた理由は、「あの人」に会いに行く、取り戻しに行くことだった。そして取り戻せなかったら帰らないと言っていた。帰って来た、イコール、取り戻せたはずだ。ならば、ここに「あの人」 がいないとおかしいだろう。
「連れなんていないよ」
不思議なことを訊くね、と言いたそうに言って、守は小首を傾げて見せた。
「だって、『あの人』を迎えに行ったんじゃねぇのかよ」
「うん」
にっこり笑って守が返したのは「うん」。いい歳のオヤジが「うん」かよ。思いっきり脱力する。
でも、だったらやっぱり「あの人」はここにいるはずだ。―――と、思いつつ、俺は何かに引っ掛かっていた。取り戻す? 連れ戻すじゃないのか?
「裕二さん、―――もしかして、雄大ってさ」
恐る恐る訊ねたのは裕孝だった。間髪入れずに裕二は「面白いから、言うな」と、前を向いたまま言った。面白いから言うな? どういう意味だ? そんなことより、守の「あの人」って、誰なんだ? ―――ああ、頭ぐるぐる、わけ判んねぇ。しかも判っていないのは、どうやら俺だけらしい。裕二はともかく、たった今、守と会ったばかりの裕孝に判って、俺に判らないというのは何ごとだ。だんだん苛立ってきた矢先に、守が口を開いた。
「これからは、ずっと一緒なんだよ」
その幸せそうな顔と声に、なんだか俺はもう、どうでも良くなっていた。水母のように海に帰ることなく、守はこうして帰ってきた。しかも「あの人」を取り戻せたと言う。ならば何も問題はない。
目の前に守がいて、幸せそうに笑っているのだから、それだけで俺は良い。
「ま、良かったよな」
上手く行っているのだから、これで良しとしよう。―――うん、それで良いじゃないか。振り向いた裕二も裕孝も笑っていた。ただ、二人の目が「本当に、馬鹿だ」と決めつけていたような気もしたのだが、それは気のせいだろう。うん、そうに決まっている。
そしてもう一つ、気になっていたことを俺は言うことにした。水母だ。
「守、謝んなくちゃならないことがあるんだ」
何? の代わりにまたもや守が小首を傾げる。少し不安げな眼差しに、告白に戸惑った。守は水母たちを可愛がっていた。憧れの生き物として、大切にしていたのだ。その守に水母はもう全部いない、面倒を看る―――守のいないあの家に入る―――のが辛くて、海に全部逃がしてしまったと言わなくてはならない。でも、やったことはやったこと、覚悟を決めて口を開く。
「水母なんだけどよ」
「ああ、裕二から聞いてる」
最後まで言う前に、軽やかな守の声に邪魔されて、安堵するとともに怒りを覚えた。悪いことをしたと、ずっと気にしていた俺は何だったんだろうか。守に伝えてあるのなら、先に言えっての。
「それで、決まった?」
裕二に訊かれた守はブリーフケースを開けて、中から紙の束を取り出しながら「うん、これにしようと恩うんだ」と言って、紙の半分を裕二に、残る半分を俺に差し出した。
受け取った紙には、不思議なものがプリントされていた。背景は岩とか石っぽいのだが、その上にあったのは、およそ天然のものとは思えない、スカイブルーに白いラインが入った物体だった。上の方には二本の赤い角のような突起が出ていて、下の方には赤い縁取りのある白いひらひらした花みたいなものがついていた。―――なんだこりゃ?と思いつつ、二枚目を見る。背景はやはり岩っぽかった。その上に、今度は真っ白な地に黄色い水玉が散っていた。前のと違って角みたいなものは見あたらなかったが、やはり黄色に縁取られた白い花のようなものはついていた。
三枚目になると、少し感嘆した。鮮やかな赤紫の物体の縁は徐々に色が薄くなって、端は完全に白く、突き出た突起は黄色、ついている花のようなものも黄色だったのだ。だが、さすがに俺もそれが何なのか―――正しくは自分の知っている何に似ているのか、気づいていた。―――ナメクジだ。
だが、俺の知っているナメクジにこんな派手なのはいない。それに花みたいなものもついていない。四枚目は透明にオレンジ色の水玉、花の縁もオレンジ。五枚目は白地に背中部分が黄色の水玉、でも録には紫の水玉があった。色はとても美しい。でも突き出た触角といい、全体像といい、やっぱや俺にナメクジを彷彿とさせた。
裕二の見ている残る半分は、まったく違うものなのだろうかと覗き込む。だがそこにあったのも、俺と同じく岩を背景に妙に綺麗な色のナメクジっぽいものだった。
裕二は無言だった。しかもその顔は妙に引きつっていた。そんな顔をする理由を俺は知っていた。裕二はナメクジやカタツムリが大嫌いなのだ。
そのきっかけになった事件を俺は良く覚えている。まだ俺も裕二も幼い子供の頃のことだ。公園の庭のあじさいの木の下に、乗ってきた自転車を裕二は停めた。やがて場所を移動しようと、裕二が自転車のハンドルをつかんだ。次の瞬間、うわわっ! と、大声を上げるなり自転車をなぎ払った。へンドルにナメクジがいたのに気づかないで、思いっきりつかんでしまったのだ。ナメクジの運命については、あえて言わないでおく。もちろん、想像などしない方が良い。
しかも受難は続いた。自転車が倒れ込んだ大きなあじさいの木には、カタツムリが大量にいたのだ。枝とカタツムリを避けつつ、ようやく自転車を引き出すと、サドルとペダルの一部には、カタツムリの遺体が貼りついていた。裕二の悲鳴というのか叫び声を俺が聞いたのは、後にも先にもあのときだけだ。そしてその事件以来、裕二はナメクジとカタツムリが大嫌いになったのだ。
そんな裕二が手にしている紙にあるのは、色は給麗だし多少形も違うけれど、でもやはりナメクジをアレンジしたものにしか見えない物体だった。
「これって、ウミウシですよね?」
その正体を名前を挙げて訊いたのは裕孝だった。
「うん、ウミウシ」
守はそう言って、にっこりと笑って、「椅麗だよね」と、つづけた。
水母を逃がしてしまったことを伝えた裕二は、お詫びとして、新しく何か飼うのなら協力は惜しまないと言ったという。また水母でも、他の何でも、とも。
だからって、なんでウミウシ? どうしてウミウシ? 俺は今までこんな生物がこの世にいるなんて知らなかったし、まして名前がウミウシということも知らなかった。だがもし知っていたとしても、ウミウシを飼おうとは思わない。
「なんで知ってんだよ?」と、小声で訊ねると、「両親が前にスキューバダイビングをやってたから。けっこう流行ってるんだよ、ウミウシって」と、やはり裕孝が小声で返した。そしてつづけて「でも、写真を撮るだけで、飼っている入ってあんまり聞かないけど」と、補足した。そりゃそうだろう。珍しいし、確かに色味は綺麗だから写真に収めたいという気持は判る。だからと言って、自宅で飼いたい人は少ないに違いない。
「水母も綺麗だけど、ウミウシは色も形も種類が多くて、もっと椅魔だなと思って」
綺麗は綺麗だが、どうも、コメントに困る。
「自宅で飼えるんですか?」
裕孝の質問に、「その前によ、これってどうやって手に入れるんだ?」と、口を挟む。
「伊豆とかね、沖縄や奄美大島に普通にいるんだって。売っているお店もあるみたいだけれど、飼っている人は採ってきているみたい」 採ってきているみたいって。そりゃ、水母たちも海から俺たちが取って来たものだが、水母と違って、こんな色鮮やかな変わった生物が、簡単に手に入れられるとも思えないのだが。
「餌はちょっと難しいらしいんだよね。でもね、あ、これ」
守は裕二の手から紙を取って、中の一枚を出して俺たちに見せた。太い空色の毛糸を編んだようなユニークな姿のそれは、とても自然に生きている生物には見えなかった。―――ただし、やっぱり基本のフォルムはナメクジだったが。
「これはムカデミノウミウシって言うんだけど、体に共生藻を宿していて、その藻が光合成で作りす栄養を貰って生きているから、太陽の光を当てるだけでいいんだって」
ムカデまで聞いたところで、裕二の足が速まった。裕二はムカデも嫌いなのだ。その理由は、今は止めておこう。ただ、ナメクジとカタツムリのエピソードよりもグロいのは、俺が保証する。
「光だけで大丈夫なんて、すごいですね」
素直に裕孝は感嘆の声を上げていた。これには俺も同意だった。
「僕も今回こうして色々と調べてみるまで、こんな色や形の生物が、しかも光だけでも生きていける生物が地球にいるって知らなかったんだ」
守はそこでいったん言葉を止めた。そしてウミウシのプリントされた紙を、両手でトランプのように広げて裕孝の前に差し出して、「なんか嬉しくなっちゃうよね」と、楽しそうに言った。
嬉しくなっちゃう、なら守一人だから問題ないが、最後に「よね」がつくと、それは同意を求めていることになる。ウミウシという生物が地球上に存在していることについては別に俺は構わない。だが、嬉しいかどうか訊ねられても答えようがないし、まして、「よね」と、同意を求められても困る。それは裕孝も同じらしかった。どう反応していいのか困っているらしく、わずかに眉を寄せて守を見上げていた。
「僕みたいに、彼らの存在を知らない人間は、いくらでもいると思うんだ。でも彼らは誰にも知られずに、こんなに自由な色と形と生き方で、当たり前にこの地球上で生きているんだよ」
楽しそうな守の声と言葉に、俺は目の前が開けた気がした。
ウミウシが嫌いな奴はいるだろう。それこそ、少し早足で歩いていたのに、今は歩みを緩めた俺のダチの裕二のように。いや、奴なら存在自体を否定して抹殺しているに違いない。だからと言って、それは奴の頭の中だけの話だ。ウミウシは海にいる。色んな色と形と生き方で、数え切れない数のウミウシたちは世界の海にいるに違いない。
「だからウミウシにしようって決めたんだ。見る度に、楽しい気分になれそうだから。何でもありなんだ、ってね」
守は新しく一緒に暮らす相手に水母ではなく、ウミウシを選んだ。跡形も残さず海に帰る水母は、もう必要ないのだ。
今まで守の地下室の水槽の中には水母たちが住んでいた。ほぼ透明の水母たちは、それはそれで綺麗だった。でも、だからこそあの部屋には色がなかった。
しかし、今度あの水槽に新しく暮らす住人はウミウシだ。色鮮やかで、笑ってしまうほどユニークな形のウミウシたちだ。その光景を思い浮かべた俺は、なんだか嬉しくなっていた。
そしてウミウシに学んだのは守だけではなかった。裕孝もだ。今や守の手から紙を受け取った裕孝は、食い入るようにウミウシを見つめ、守に色々と質問を繰り出していた。
水母のような死にあこがれていた純愛でアンニュイな引きこもり中年と、足下を見失った十三歳の子供の気持を最終的に軽くしたのは、色鮮やかなウミウシたちだった。なんだか美味しいところを全部ウミウシに持って行かれて悔しい気もしたが、こうなると、基本がナメクジにしか見えないウミウシたちが、これでなかなか愛らしく見える気も―――やっぱりしないか。
「とりあえず、伊豆だな。で、そのうち沖縄」
裕二が前を向いたまま、実行に向けてのプランを口にした。裕二も俺と同じことをウミウシに感じたに違いない。だから譲歩する気になったのだ。
「でも、捕まえるのは雄大な。俺は絶対に触らないから」
ま、それくらいは勘弁してやるか。と思いつつ、俺は心の中のカウンターの数を数えなおした。安全靴キックのお返しはウミウシだ。
延々ウミウシ話に花を咲かせているうちに、真っ黄色のオープンカーの前に戻ってきた。一目見るなり守は、「綺麗だね」と、嬉しそうに言った。俺はようやくこの車が鮮やかな黄色でなくてはならなかった理由に気づいた。ウミウシだ。もとい、色だ。
裕二は帰ってきた守を鮮やかな色で迎えたかったのだ。それまで黒一色の世界に暮らしていた守に、これからは鮮やかであでやかな世界が待っていると歓迎したかった。だからこの華やかな黄色を選んだのだ。気づけなかった悔しさに、「こうして見ると、良い色だよな、これもなかなか」と口に出して言ってみる。裕二はひょいと肩をすくめて見せた。―――今頃気づいたのかよ、だ。
でも今回は仕方ない。素直に負けを認めた俺は 「うん、やっぱり良い色だ。いいよ、これ、格好良い」と、重ねて言った。裕二はそっぽを向いたまま、後ろ手で低い位置で拳を出してきた。俺もちょんとあわせる。やっぱり、魂通じるダチはいい。
車の色を誉めた十分後、俺は行きと同じく大声で文句を言っていた。もと来た道を帰るだけ。つまりは行きと条件は何も変わっていない。それどころか、守が増えた分、状況は行きよりもはるかに過酷になっていた。身体の大きさと車の広さの都合上、帰りの助手席には守が座った。そして裕孝が後部座席にやってきたわけだが、俺一人でも狭かったところに、いくらチビでも一人増えたのだから、その圧迫感というのか窮屈さたるや、勘弁してくれ! と、泣きを入れたくなるほどだった。
行きより少しはマシだったのは、時刻が午後六時を回ったお蔭で、昼よりは涼しくなっていたことだ。だが、これもすぐにマシとは言えなくなった。涼しくなったということは、時速百三十キロで浴びる風の温度も下がるわけで、今度は寒くなったからだ。
「だから、屋根閉めろ、屋根!」
「さーむーいー!」
後部座席から裕孝と二人で怒鳴るが、裕二はまったく聞いちゃない。それどころか、行きと同じく
「やっぱりセラミックディスク・システムで五〇パーセントも軽量化しているだけのことはある!
この俊敏性、このハンドリング、やっぱ、最高!」などと叫んでいる。こうなったらやけくそだった。寒さを吹き飛ばすためにも、俺は大声を出すことにした。そうだ、裕孝に帰り道で言わなくては
ならないことがあったんだった。
「あのさ―――、部屋、調べて貰ったよな?」
言われて思い出した裕孝は、右手の親指と人差し指で輪を作って聞こえていることを表した。
「せっかく調べて貰ったんだけどー、ごめんー、条件が変わっちまってさー」
裕孝が大きな目を一度パチクリさせた。その目に、迷いが走るのを俺は見逃さなかった。文句を言おうとした。だがこれくらいで文句を言って、俺を不機嫌にさせてはいけない。わずかな間にそれだけ考えているのだ。
文句を言えよ、そう言おうとした。それくらいで俺は怒らない。思ったことを思った通りに言えよ、遠慮するなよ。俺は裕孝にそう言おうとした。だがその直前に、「部屋ってどうしたの―――?」
と、守が割り込んだ。おお、守が怒鳴っている。かなり感激。
「民子さんに、出てけって言われたんだよ! それで部屋を捜している!」
簡潔な説明、裕二に感謝。
「だったら、うちに住めばいいのに。部屋だって余ってるし。そうしなよ、ねー?」
助手席から振り向いて守がそう誘ってくれた。確かに守の家は魅力的だ。広いし綺麗だし、家賃もただだろうし。―――でも、やっぱりそれは遠慮させてくれ。
「実家に近いところにしたいから、いいや、でも、ありがとな!」
これなら守も気を悪くすまい。だが心配するまでもなく、守は別に気を悪くした風もなく、「そう? でも、気が向いたら来てねー」と怒鳴って、前に向き直った。
「条件って、何が変わったんだー?」
運転席から裕二に問われて、「ペット!」と、俺は答えた。
一人暮らしのスタートが、一人と一匹で始めることになったのは、一昨日の夜のことだった。休日を目一杯遊んで帰宅した俺を待っていたのは、玄関に置かれた小さな段ボール箱と紙袋だった。なんだと思いつつ部屋に上がると、「あ、それ。要君から」と、民子に言われた。
―――要君? 誰だそれ? 真剣に考えている俺に、顔に保湿パックを貼った民子が「良かったじゃない。一人暮らしの相棒が出来て」と、明るい声を掛けてきた。
「相棒だ?」
とにかく中を見てみよう。段ボール箱を持ち上げたとたん、ばしゃっと何かが動く音を聞いた。それはどう考えても水の音だった。 − 水? なんで水が? 恐る恐る蓋を開けて覗いて見た。
一瞬、箱の中に何も入っていないように見えた俺は、一度視線を外し、心を落ち着けてから再び箱の中を覗き直した。
箱の中は空ではなかった。底の方に岩に水、そして楕円形の小さく黒いものが水に浮いて左から右に移動して行った。正体が判った。箱の中身も、要君が誰かも。俺は一つ大きく息を吐いて、ゆっくりと段ボール箱の中からガラスの水槽を取りだした。水槽の中にいたのはちっぽけなカメだった。篠原すづさんが飼っていた、出火原因となったヒーターがあった水槽の住人。火災現場の中で、横たわるすづさんの遺体に近づこうとしているかのように、水に浮いてじたばたしていたカメだ。そして仁藤の下の名前は要だった。
横に置かれた紙袋の中も確認してみる。中にはカメの餌数種類と、本―――「楽しいカメの飼い方」が入っていた。俺は二度目の大きなため息をついていた。餌の封は切られ、本には付箋が貼りつけてあった。このカメは、仁藤が飼っていたに違いない。
―――だったら、そのまま飼ってりやいいじゃねぇかよ。
思わず腹の中で毒づいた。ついでにカメにもだ。せっかく案じてやっていたのに、よりにもよって仁藤の野郎に飼われていたとは。まったくもって、面白くない。
―――お前も、仁藤に飼われてりやいいじゃねぇかよ。
むっとして、ガラスの水槽を指先で叩く。水に浮いたちっぽけなカメは、音に反応したのか、頭を上げた。次の瞬間、俺はカメと見つめ合っていた。カメは水に浮いたまま、首を伸ばして俺をじっと見上げている。もちろん、本当は俺のことなど見ていないに違いない。でも俺はカメと見つめ合ったように思えたのだ。そして俺は初めて知った。カメの目は、けっこう可愛い。
「一緒に住みたいか?」
声に出して訊いてみた。いや、返事があるなんて、いくら母親やダチや裕孝や仁藤に―――言っていて虚しくなってきたから止める。―――馬鹿呼ばわりされる俺でも思ってはいなかった。だが、領いたのだ。カメが。
良いタイミングでカメが頭を振っただけなのは判っていた。でも俺には、カメが領いたように見えたのだ。いや、きっとそうなのだ。
「 ―――そっか。じゃ、そうしよう」
俺は快くカメに承諾してやった。
そして俺はカメと暮らすことになった。だから部屋探しの条件が前と変わったのだ。
「犬か猫でも飼うのー?」
裕孝に聞かれた俺は 「いや、カメ!」と、答えた。
調べた賃貸情報の紙に目を通し直していた裕孝が顔を上げた。そしてしばらく俺を見つめてから、「そのカメって、大きくなるのー?」 と、また聞いた。
「なんねぇーんじゃねぇかなー」
怒鳴り返した俺に、「それって、どんなカメー?」と、また振り向いて訊いた守に「黒くてー、ちっこくて―――」と、思い出して説明してみる。だが俺がそう言ったとたん、「別にペット可じゃなくても、いいんじゃねぇかー?」 と、裕二が怒鳴った。
納得が行かなかった。なぜペット可じゃなくていいのだろうか。カメはペットではないとでも?
それはカメに対する差別だろう。俺は断固としてカメの権利を主張するぞ。
さらに裕二が言った。
「だって、ただのカメだろー?」
―――ただのカメ。かちんと来た俺は、「そんなんじゃねぇー!」と、怒鳴り返していた。
「じゃぁ、どんなカメだよー?」
馬鹿にした裕二の言い方に、俺は力一杯息を吸い込んだ。あのカメは炎をくぐり抜けた、生き残ったカメなのだ。間違っても、ただのカメなどではない。
「カメはカメでも、ただのカメなんかじゃねえー。立派なカメだ!」
裕二からの返事はなかった。代わりに一呼吸間を空けてから、裕二は爆笑し始めた。守もだ。しかもサラウンドで聞こえると思ったら、横で裕孝も爆笑していた。オープンカーの後部座席から、むき出しの空を見上げるようにして、高らかに天に向かって笑い声を上げていた。
―――なぜみんな笑う? 俺は何か変なことを言ったのか?
だが三人が大笑いしているのを見ているうちに、だんだん俺もおかしくなってきた。腹筋が震えだして、ついに我慢が出来なくなり、俺も天を仰いで大声で笑っていた。まだ完全に暗くなっていない空に向かって、俺たちは大声で笑っていた。
人間関係は狭いより広いに越したことはない。一つが閉ざされても、他の何かが残っていれば、そこに心の平安を求められる。それこそ、一番断ち切ることが出来ない親子関係からも、避難できる場を持っていれば、人は救われることもあるのだ。
だからと言って闇雲に広ければ良いというわけではない。人数じゃない、バリエーションだ。でももともと人は同じ価値観や倫理観の人たちと、つい固まってしまう。違う相手は理解できないのだから、当たり前と言えば当たり前だし、何よりそれが楽だからだ。
そうしてけっきょく似たような人間関係の中で失敗してしまうと、道を失ったと思い込み、どうして良いのか判らなくなってしまう。それを避けるには、出来るだけ違う価値観や考え方を持つ人と繋がっていた方が良い。だからまずは、自分と違う価値観や考え方を持つ人間が、世界にはいくらでもいることを知っていれば良いのだ。たとえ今はその人たちがどこにいるか判らなくても、存在を知っているのだから、いつかは出会えるに違いない。―――そう、ウミウシのように。
生きることは簡単じゃない。だから楽に生きられるように、自分のために最大限のことはしてもいいんじゃないか? 少なくとも俺はそう思う。そして、俺が楽に生きられるように見つけた人間関係がここにある。
百三十キロで湾岸線を飛ばす真っ黄色のオープンカーに乗り込んで、大声で夜空に向かって笑う四人の男。運転席には笑うと口の端が上がる、お利口な豆柴犬を思わせる一見好青年、でも中身はシビアでクールでアバンギャルドなリアリストの俺のダチ・裕二、助手席には未だに俺だけは正体が判らない「あの人」相手に純愛な黒ずくめの銀髪の中年の守、俺の横にはハムスター ――それもちっこい方の――を彷彿させる十三歳のチビ・裕孝。そして身の丈ほぼ二メートルの消防士の俺。誰が見ても関係を見抜けない、はちゃめちゃな四人。
血の繋がった関係なんかじゃない。責任だとか権利だとか、そんな重い言葉で縛られた関係でもない。顔色なんか窺わなくて良い。軽口叩けて、悪口も言えて、ときには何日かどころか半年音沙汰がなくても、こうして高らかに笑える。だけどこれだけは言える。俺はこの中の誰かが困っていたら、出来る限りのことをする。
「なー、裕孝ー やっぱり、奇跡は簡単には起こらないなー!」
ダチの裕二が叫んだ。―――はいはい、どうせ俺は馬鹿ですよ、馬鹿はそう簡単には治らないですよ。腹の中で毒づく俺の横で裕孝が叫び返した。
「でもー、僕は、雄大はこのままで良いと思うー!」
なかなか可愛いことを言うじゃないか、と思った矢先、裕孝がつづけた。
「だってー! 雄大はただの馬鹿じゃないもんー。馬鹿は馬鹿でも、立派な馬鹿だもんー!」
それを聞いた裕二と守の二人が、一際大きな声で笑い出した。言った裕孝も、自分でウケたらしく、これ以上ないというくらいの勢いで笑っていた。
―――このガキ、なんてことを言いやがる! とは思ったが、でも不思議と腹は立たなかった。
この先、どうなるかなんて俺は知らない。もしかしたら賢くて偉い学者先生には判っているのかもしれないが、―――でも、俺、馬鹿だから。それも裕孝のお墨付きの、馬鹿は馬鹿でも立派な馬鹿だから。そんな俺に、未来がどうなるかなんて、判るはずがない。
もしかしたら、また裕孝は人の顔色を見てしか人とつきあえなくなるかもしれない。守だって、またその死にあこがれて、水母を飼い始めるかもしれない。
でも今、俺は満足していた。
だって裕孝が笑っているのだ。それも大声を上げて、本気でだ。守もここにいる。しかも声を上げて高らかに笑っている。裕二は真っ黄色のオープンカーを運転してご機嫌だ。俺のダチのみんなが幸せで楽しそうなのだ。それだけで良いじゃないか。これ以上、何を望むことがある? それにこの先、ここにいる誰かに何があろうとも、どうにかなるんじゃないかと俺は思っている。
もちろん、確信なんてしちゃいない。責任だって取れやしない。でも、どうにかなるだろう。―――いや、なるんじゃないかな? というか、皆でどうにかしちまうだろう。
何しろ俺は、世界で初めて馬鹿を治した男になってみせると宣言した男だ。そしてこいつらは、その奇跡が起こるのを見守ると言った男たちなのだ。
それに俺たちにはウミウシがいる。世界の海で、色んな形と色で自由にきままに生きているウミウシたちがついている。カメもだ。それも、ただのカメじゃない。カメはカメでも立派なカメが、俺たちにはついている。
そんな俺たちに、出来ないことなんか、ありっこないに決まってるだろ?
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埋《うず》み火
二〇〇五年八月二〇日第一刷発行
著者    日明恩
印刷所   株式会社精興社
発行者   野間佐和子
製本所   島田製本株式会社
発行所   株式会社講談社
東京都文京区音羽二⊥ニー二言二二人8一
テキスト化 二〇〇五年九月一五日