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マゼンタ100
日向 蓬
CONTENTS
マゼンタ100
モノグラム
海ほおずき
ジーニアス
変わり結び
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マゼンタ100
バブルだった。
女の子はみんな、イヴサンローランの19番みたいな、フューシャピンクの口紅をつけていた。
デザインの色指定の時に、あの色を「マゼンダ[#「ダ」に傍点]100」というのだと教えてくれたのは将ちゃんだった。
将ちゃんは、小さなデザイン事務所をやっていて、あの頃はとにかく景気がよくて、だから「中途半端なもんは持たない」主義の将ちゃんは二台目のBMWに乗っていて、それはやけに目立つメタリックブルーで、正直ちょっとどうしたもんかなと思わないでもなかったけど、将ちゃんがかっこいいって言うんだから、きっとそうに違いないと思って、右側の助手席のあたしは、駐車場のチケットを取ったり、高速の料金のために百円玉専用のお財布を持ってる自分がちょっとうれしかったりした。
将ちゃんは、あたしがそれまで付き合ったことのある若い男の子たちとは、もうとにかく全てが違っていて、あたしは目いっぱい背伸びをして、将ちゃんに追いつこうといつも必死だった。
とても若かったあたしは、すごく自意識過剰で、傷つきやすくて、いつも正体の分からない欠落感を抱えていて、とにかく何かに激しく飢えていたので、ふたまわりも上の将ちゃんの世慣れた雰囲気と強引さは、あたしのくぼんだ部分にぴったりと嵌《はま》りこんで、たちまちあたしを夢中にさせた。
将ちゃんはちょっとでも時間があると、よくおいしいものを食べに連れていってくれた。それは「将ちゃん理論」によると、女にうまいもんを食わせてやろうという男の心意気であり、また、若いうちにちゃんとおいしいものを食べてないと味音痴になってまともな料理ができなくなるだろうから、将来あたしと結婚する男に対する男の礼儀として、なのだそうだけど、そう言って連れていってくれるお店のお客は大人ばかりで、あたしは気後れしてしまって、まだお酒も飲めなかったので、いつもひどく居心地の悪い思いをしていた。
よく行ってたイタリアンのお店のオーナーシェフは、もちろんあたし達の関係をわかっていたのだろう、微妙なニュアンスを込めて、いつもあたしのことを「お嬢ちゃん」と呼んでいた。
一度、シェフのおすすめのワインをことわる時、将ちゃんは、
「最近もう年やから飲んだら役に立たへん、最後はもう『指』やな」
って言って、シェフは笑いながらあたしに、
「お嬢ちゃん、パパにあんまり無理させちゃだめだよ」
とか言って、あたしはほんとに顔から火が出るくらい恥ずかしくって、『心意気』で『礼儀』なのに、なんで『指』なんだろうって思って、それらの相反する事柄を、その場で気持ちの中にうまく収めるのにひどく苦労した。
ほんとはその日、グラスワインしか飲まなかったのは車で来てたからなのに、将ちゃんはいつもわざとそんな風に、下品に振舞って人を笑わせるのが好きだった。
そしてあたしが「おいしい」とか「景色がきれい」とか言うと、将ちゃんはまるで自分が料理したみたいに、あるいは自分が町のすべてを建設したかのように、とても自慢げなのだった。
その頃のあたしは、おっぱいとか触られても全然気持ちよくなくて、くすぐったいからやめてって言うのに将ちゃんはかえって喜んで、
「よし、俺が開発してやる」
とか言って、あたしの乳首は噛《か》まれたりつままれたり、はたまたありとあらゆるものを塗りたくられて、いつもピリピリして痛かった。ある日、ノーブラでTシャツを着てたら、将ちゃんがTシャツ越しに左の乳首を吸ってきて、そしたらなんだか後頭部のあたりがざわざわして変な声を出してしまって、ふと見上げると将ちゃんのすごく満足そうな顔があった。
将ちゃんはいつもバスルームであたしの体をバスタオルで拭《ふ》きながら、ベッドでの行為の予行演習のようなことをさせたり、あたしのウエストがちゃんと将ちゃんの両手に収まるかチェックした。
でもその頃、友達の間でいろんなお店のケーキバイキングに行くのが流行《はや》ってて、あたしも甘いものには目がないので、時々そのチェックに合格できないこともあった。そんなとき、将ちゃんは、
「女としての自覚が足らん」
と言ってあたしを叱って、それはあまりに理不尽で納得できないのだけれど、将ちゃんに言わせると、ブリジット・バルドーは、夫で監督のロジェ・ヴァディムに「こないな風にして磨き上げられた」んだそうだ。しかしながら、昔はともかく、あたしの知っている|BB《ベベ》は「動物愛護のおばちゃん」なので、磨き上げられた、と言っても今ひとつ説得力がないし、第一、ロジェ・ヴァディムは、「こないな風にして」大阪弁で彼女を叱ったりはしなかったに違いない。
将ちゃんはいつも行くホテルを決めていて、それは外国製で高級で新しいものが大好きな将ちゃんらしく、当時できて間もない外資系のホテルだった。あたしたちはいつも一階のガラス張りのティールームで待ち合わせをして、たまにあたしが大人っぽい服を着ていったりすると、将ちゃんは遠くからあたしを見つけて、ジェスチャーで大げさに驚いたような素振りをしたりして、まったく人目を気にするということがなかった。
あの頃の将ちゃんはとにかく忙しくて「横になったら寝てしまう」って言って、立ったまんまとか座ったまんまのアクロバティックな体位をいっぱい考案して、あたしは将ちゃんに言われるまま、中国雑技団顔負けのポーズで日々修行に励んだ。
将ちゃんはあたしの小さいおっぱいがちぎれそうにゆれるのがたまらなくいい、って言って、どんな体位でもあたしを激しく揺さぶるので、最初のうちはよく気分が悪くなったりしたけど、そのうちにだんだん慣れてきて、それはきっと三半規管が鍛えられたのだとあたしは思う。
大柄な将ちゃんはすごく力持ちで、「串刺《くしざ》しの体位」ができるのが自慢だった。
将ちゃんに抱きかかえられて、あたしは子ザルみたいに将ちゃんにしがみつく。そうして将ちゃんがあたしの中に入ってくると、あたしの体の中も外も将ちゃんがひしめいてるみたいになって、あたしはこうしてもらうのがすごく好きだった。
将ちゃんはあたしを串刺しにしたまま、突き上げるようにして繰り返し力を打ちこむ。
あたしは激しく揺られながら体の芯《しん》が溶けてきて、こめかみでどくどくと血が流れる音がして、息ができなくなって、遠くで何かがぱちぱちとはじけて、高いところから突き落とされる。
将ちゃんが、あたしを抱き止める。
力尽きて、あたしは自分の体がくたくたのタオルになったみたいで、ベッドに体を投げ出したままだ。
将ちゃんが、ベッドの端に座って煙草を吸いながら言った。
「しかしお前、あれやな、あの時の顔がだんだん婀娜《あだ》な感じになってきたな」
将ちゃんの背中越しに、煙草のけむりがゆっくりと舞い上がっている。
「アダって、『婀娜な姿のお富さん』の婀娜?」
「前から思てたけど、自分、けっこう渋好みやな」
「そうかも知れない。将ちゃんのこと、大好きだもん」
「お前なぁ……」
将ちゃんが振り返ってあたしを羽交い締めにする。けど、こういう時の将ちゃんは必ず、力の入れ具合に微妙な躊躇《ちゆうちよ》がある。
「ねぇ、将ちゃんって、兄弟の一番上でしょ」
「あ? 何でやねん、何でわかんねん」
あたしの笑い声が将ちゃんの体に共鳴して、クツクツって音になってかえってくる。
あたしにも覚えがあるけど、おにいちゃん、おねえちゃんは、下の子とけんかしても、力いっぱいぶったり叩《たた》いたりすることができないのだ。
将ちゃんに対して、ちょっぴりするどい分析ができて、あたしはすごく得意だったけど、その時、将ちゃんがなんと十一人兄弟の長男だってことを知って、あたしはぶったまげて危うくベッドから転がり落ちるとこだった。
あたしは大好きな将ちゃんにもいっぱい喜んでもらいたくて、毎回張り切ってブロウジョブをするのだけど、なかなかうまくいかなくて、将ちゃんはだんだんしらけてきて、
「よし、交替や」
って言ってあたしの脚を押し開くと、まるであたしのからだのことを全部知ってるみたいに、あたしのいちばん敏感な核《さね》に舌先を小刻みに当てながら、両方の乳首を少し痛いくらいにつまんで小さく揺らす。そして潤み出したあたしのからだの中にゆっくりと指を入れて、天井をさすったり、指をねじったりして、あたしが取り乱して声を出すと、指の動きを少しずつ速くしていって、あたしはつい夢中になってしまって、結局ベッドでの労働格差の是正はなされないままだった。
でも付き合い出して三ヶ月目くらいから、ようやく少しコツがわかってきて、自分で言うのもなんだけど、その後のあたしの技術的躍進はかなり目覚しいものだった。
あたしが将ちゃんの両足をそっとさすりながら、その間に顔を埋めて将ちゃんの大切なアクセサリパーツをゆっくりと舐《な》め上げると、それは血管を浮き立たせて硬く膨張しながら頭をもちあげてくる。あたしは赤黒く色づいた穂先に滲《にじ》む光る雫《しずく》を舌先で舐めとる。
それから根元を指の輪でしごきながら、将ちゃんを口いっぱいに頬張って、思いきり吸ったり舌をスクリューみたいにくるくる回しながら、もう片方の手の平でその後ろの含み綿を揺すると、将ちゃんはううってうめいて脚をつっぱって、あたしの口の中でびくびくと痙攣《けいれん》するのだ。
あたしは将ちゃんが放った命の元をゆっくりと飲み干す。あたしは命に飢えて、のどがからからだ。
自分が先に達してしまうと、将ちゃんはそれが後ろめたいのか、それとも口惜しいのかわからないけど、小休止のあと、明らかに無茶と思われる張り切りようであたしに色んな体位をとらせる。あたしが、
「将ちゃん、あんまり無理しなくていいよ」
って言うと、それもまた癪《しやく》に障るようで、ますますしゃかりきになって、あたしは筋が違えそうな恰好《かつこう》で、将ちゃんに導かれて何度も昇りつめてしまうのだった。
ある日、いつものようにいろんな体位で足腰ががくがくになるまでがんばったあと、
「パンツはいて下にメシ食いに行こか」
って将ちゃんが言って、ふたりで部屋を出て、下の階のしゃぶしゃぶ屋に入った。個室がいっぱいだったので、テーブル席に案内された。
あたしたちの斜め右のテーブルには、お金持ちっぽいおばさん主婦三人グループがいた。なぜお金持ちっぽいかと言うと、みんな貴金属をいっぱいつけていて、服もお化粧もちゃんとしていたし、空いた椅子に置かれた彼女たちのバッグにはどれもブランド名がわかりやすく表記されていたからだ。
ただちょっと困るのは、彼女たちの話し声が、けっこう距離があるのにもかかわらず、料理がまだ来なくて手持ち無沙汰《ぶさた》なあたしたちの領域に無遠慮に入りこんでくることで、彼女たちに背中を向けて座っている将ちゃんも、その存在を意識せずにはいられないらしく、会話の中で自分たちのおいしいもの食べ歩きサークルのようなもののことを「シンデレラ会」と呼んでいるのを聞いて、ビールを吹き出しそうになっていた。
シンデレラの奥様たちのたわいのないおしゃべりはとりとめもなく続いていて、時々、将ちゃんとあたしの方を盗み見ているようだった。
あたしは気にしないでおこうと思って、しゃぶしゃぶに集中しようとしたけど、顔をあげるたび将ちゃんの顔の後ろには奥様たちの視線があってなんだか気もそぞろで、将ちゃんに話しかけられても生返事になってしまった。
帰りの車の中でも、つい無口になってしまって、将ちゃんは運転しながらちらちらとあたしの方を見て、
「あそこの肉、うまかったやろ」
とか、
「せやけど、あのおばはんら、やかましかったよな」
とか、
「ごまみそだれと、ポン酢、どっちが好きや?」
とか、
「白菜はさぶうならな、旨《うま》ないな」
とか、
「すき焼きの方がよかったか?」
とか、しきりに話しかけてきて、すごく気にしてるようだったので、
「日本酒、すこし飲んだから酔っ払ったのかも」
って言ったら、将ちゃんが、
「あほ、あのくらい、正月のおとそとおんなじやんか」
って言って、二人で笑った。将ちゃんは安心したように煙草に火をつけて、車の窓を少し開けた。
海の方角から吹いてくる潮の匂いが変に湿り気を帯びていて、明日は雨が降るのだな、とあたしは思った。
真夏のとびきり蒸し暑い日だった。将ちゃんが、急に時間ができたからって電話してきて、中途半端な時間にいつもと違う場所に呼び出された。
待ち合わせの喫茶店に行くと将ちゃんが先に来ていて、あたしを見つけて軽く手を振ると、あたしが将ちゃんのテーブルに来て座る前に、せわしなく煙草の火を消して立ちあがった。将ちゃんは、
「二時間くらいで事務所に戻らなあかんから」
と言って、その近くのラブホテル街に向かった。将ちゃんとこういう所に行くのは初めてだったのでちょっと戸惑ったけど、いつになくイライラして急いでいるようなので、あたしは黙ってついて行った。ワンピースが汗で体に貼りついて、少し嫌な感じだった。
部屋に入るなり、将ちゃんはあたしのワンピースのファスナーを下ろしながら、自分のネクタイをもどかしげに引き抜いた。
二人の身に着けていたものが全部、床のそこかしこに散らばった。
その部屋の天井は大きな鏡になっていて、あたしに覆い被《かぶ》さる将ちゃんの背中が映っていた。よく見ると、将ちゃんの肩のあたりには小さなシミがいっぱいあって、髪の毛も思ってたより白髪が多くて、あたしはそれまでこうして将ちゃんの背中をまじまじと見たことがなかったことに気が付いた。そして、こんなふうにして絡み合う自分達の鳥瞰《ちようかん》図を目の当たりにして、あたしは言葉を失った。
部屋の窓は、メルヘンチックにデザインされた木製の扉で内側から覆われていて、自然光が全く入らない造りになっていた。世の中から隔離されたような人工的な空間の中で、あたしは自分のいる位置がわからなくなった。
外に出たら少し薄暗くなっていて、生ぬるい空気の中でおしろい花の香りが漂っていた。
そのホテルは、いかがわしい裏道が「下」っていう字みたいに分岐した端っこにあった。建物の横は小さな三角形の空き地になっていて、そこにはどぎつい色のおしろい花がうるさいくらいに重なって生い茂っていた。
子供の頃、庭に咲いていたおしろい花は、夕陽の色や夕飯の仕度の匂いと溶け合う、つつましい花だったような気がする。
なのに今、この花は、辺りが暗くなりはじめた頃、うすぼんやりと目を覚ますように花を開いて、昼間の余熱の残るアスファルトの裂け目で、甘ったるい匂いを発散させているのだ。
その日、あたしは初めて、将ちゃんと自分の関係を嫌悪した。
それからしばらくして、高い空にいわし雲が現れた日曜日、将ちゃんがめずらしくあたしのマンションにやってきた。なぜかテレビで「笑点」なんか見たりして、えらく不自然にくつろいだ様子で、明らかに何かがおかしかった。
何もしてないのに、「汗をかいたから」と言って一人でシャワーを使った後、将ちゃんはドライヤーをかけながら鏡越しにあたしに何か話しかけた。
ドライヤーの音がうるさくて、はっきり聞こえなかったので、
「え、何?」
と聞き返すと、将ちゃんはもう一度何かを言いかけながらドライヤーのスイッチを切った。
急に静かになって、最後の、
「……子供ができた」
というのだけがはっきり聞こえた。
将ちゃんの言うことは至極もっともだったので、自分でも意外なほどあっさり納得して、マンションの外まで一緒に出て、将ちゃんを見送った。
見なれた語呂《ごろ》のいいナンバープレートがしだいに小さくなってゆくのをぼんやり見つめながら、そうだよな、いい年してやっと父親になるっていうのに、半分子供みたいな愛人と新たな体位にチャレンジなんかしてる場合じゃないよな、と思ったら可笑《おか》しくて、周りの人通りを気にしながらも、一人でちょっと笑ってしまった。
でも部屋にもどってドアを開けたら、思いがけず将ちゃんの煙草の匂いが消え残っていて、そしたら急に鼻の奥がつんと痛くなって、玄関先に座り込んだまま声を出してあたしは泣いた。
その後、あたしは付き合う相手も仕事も何度も変わって、ちょうどバブルもはじけて世の中がばっちり不景気になった頃には、小さな広告代理店で働いていた。
事務員ということで入ったのに、何しろ本当に小さな自転車操業の会社だったので、広告のデザインからショーウィンドウの電気配線まで、とにかく何でもやっていた。
そこであたしは、ずっと前に将ちゃんが教えてくれた「マゼンダ[#「ダ」に傍点]」が、正確には「マゼンタ」であることを知った。看板屋のおじさんたちは「マゼンダ」と言うけど、若いデザイナーとかはみんな正しく「マゼンタ」と発音していた。
ある時、私鉄の事務所に「駅構内広告枠作業許可願い」の申請に行ったら、担当の人がぱらぱらめくる「立入業者作業スケジュール表」の中に将ちゃんの名前が記されていた。
それから何度か、深夜、デパートのショーウィンドウの中で首にタオルを巻いてディスプレイ作業をする将ちゃんの姿を見かけたけれど、それは昔、あたしが思い描いていた「デザイン事務所経営」のイメージからは程遠くて、何だか胸の奥か喉《のど》の奥かわからない場所がじわじわと痛くなって、「せつない」という言葉の意味はこういうことだったか、とその時初めて理解した。
将ちゃんもその頃、同じようにいろんな所であたしの気配を感じていたらしくて、ある日の深夜、急に電話がかかってきて、あたしが駅貼りポスターの束を抱えてふらふら自転車をこぐのを見た、ひかれて死ぬぞ、お前、というようなことを懐かしいディープな大阪弁で一方的にまくしたてた。
それから今年小学校にあがった「お嬢ちゃん」のこと、昔は決して口にすることがなかった会社経営のプレッシャーについて語った後、
「お前、うちの事務所の電話番号は知っとったよな、ほんならFAX教えたるわ」
となぜか会社のFAX番号を伝えて、あたしの話はろくすっぽ聞こうともせずに電話は切れた。
もっとも、そっちはどうだね最近、と聞かれたところで、仕事もぱっとしないし、当時付き合っていた彼も、ちょうど別れた奥さんと調停中で神経衰弱気味だったので、少なくとも自慢できるようなことは何ひとつないのだった。
翌日、教えてもらったFAX番号に仕事の見積り依頼を送った。
あたしなんかが独断で新規に発注できる物はたかが知れていて、十万円に満たないような仕事だった。
すぐに将ちゃんから電話がかかってきて、
「あほう、こんなもん、百万円じゃ!」
と言って、電話は切れた。
「男のプライド」とかは少しはわかるけど、あたしなりに考えてできることをしたつもりだったのに、それはあんまりだ。
あたしは「マゼンダ[#「ダ」に傍点]」だとずっと信じていたのに……。
あれから一体何年たつのだろう。
結婚はずっこけたし、足掛け三年のめり込んで付き合ったハゲでデブの愛人とも最近別れた。ハゲでデブの愛人は、昔、将ちゃんと過ごしたホテルの目と鼻の先に新しくできたホテルに住んでいて、いつもあたしに、大きな窓ガラスに手をついて犬のような恰好《かつこう》をさせて、後ろから行為するのが好きだった。目の前に大きく広がる夜景の中にはいつも、あのホテルの光と、快楽に表情を歪《ゆが》めるあたしが映っていた。
この前、久しぶりに友達と飲みに行ったら「恋愛|進捗《しんちよく》報告会」みたいになって、そしたら友達がハゲでデブの愛人のことを、
「あんなハゲでデブのインテリヤクザみたいな人、別れてよかったじゃない」
と言ったので、あたしは思わず、
「確かにハゲでデブだけど、おいしいものをいっぱい食べさせてくれたの、それってけっこう『男の心意気』のようなものを感じない?」
と、ふと気が付けば「将ちゃん理論」でハゲでデブの愛人を弁護していたのだった。
きのう買い物の帰りに、なんかこう、のけぞってしまいそうなほど際立って派手なショーウィンドウがあって、思わずあたしは立ち止まった。
ブランドと値段の表示に使ってあるプレートとフォントを見て、それが将ちゃんの仕事だとわかった。
バックの壁は全面マゼンタ100で、これはちょっとどうしたもんかなとも思ったけど、不思議にいやな感じはしなかった。
マゼンタ100%の色彩……
そこにはあくどいほどの生命力と、熱にうかされたような陶酔があって、あたしは自分が将ちゃんの何に惹《ひ》かれていたのか、やっとほんとに、わかったような気がした。
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モノグラム
「一点物」にあたしは弱い。
友人たちがみな、落ち着いた色のブランド物のバッグを持つ中、スパンコールがいっぱいついた激しい色合いのあたしのバッグはちょっと浮いている。
友人たちはそれを、
「個性的でいいやん」
と言うけど、それが決して心からの言葉ではないことは、すぐわかる。
かつてあたしが付き合っている男の話をした時にも、彼女たちの反応は同様だった。
「個性的でいいやん」
あたしは今までにいったい何度この言葉を聞いたことだろう。
でも今度ばかりは違う。
バッグにたとえるなら、すべての女があこがれるに違いない、高級ブランドの入手困難なピカピカの新作を、あたしは手に入れた。
友人たちは、身を乗り出してあたしを質問攻めにした。
「どこで知り合ったん?」
「いつから付き合ってんの?」
「その彼、年、いくつ?」
あたしは、アルプスの山頂で限りなく広がる青空に向かって両手を広げ、声高らかにヨーデルを歌いたいような気分だ。
ただ、あたしの中には、どうしても忘れることのできない「一点物」が存在していて、ブランド物の新作を手に入れた今でも、よせばいいのに時折押入を開けては、そのケバケバしい色合いをつい眺めてしまう。
彼はうんと年上の、愛人だった。
別れてすでに何年もたつし、その後もあたしは何人もの「一点物」と付き合ってきたけど、彼は……将ちゃんだけは、今もあたしの中で、強烈な光を放っている。
もちろん、新作でピカピカの方の彼は、ほんとうにすばらしくチャーミングで、あたしは彼をとても愛している。
彼は名を一郎と言う。そのいかにも古典的なファーストネームを持つ彼は、京都の資産家の長男で、あたしよりも四つ年下だ。
大手商社勤務の一郎くんと、中堅機械メーカーで秘書という名の使い走りの仕事をしているあたしは、コンピューター周辺機器の展示会でいっしょに仕事をして以来、親しくなった。
学生時代ずっと水泳をやっていたという一郎くんは、長身で一見細身ながら、服の上からでもそうとわかる、すばらしくしなやかな筋肉を持っていて、その体の上には、整っているけれどどこか甘さのある、調味料にたとえるなら、ケチャップのような顔が乗っかっていて、さらに女きょうだいにはさまれて育ったお坊ちゃまらしく、いつも身綺麗《みぎれい》でさわやかで物腰はやわらかく、仕事もそつがなかったので、上司や取引先の受けは抜群によかったし、女子社員にはもちろん、そうじのおばちゃんたちにもモテモテで、彼は誰からも愛される、まさにアイドル的存在だ。
そして彼自身も、自分が「アイドル」であることにとても慣れている。
果して、彼のあだ名は「王子様」であった。
あたしも時々訪れる彼のオフィスは、いかにも商社らしく、天井には等間隔に為替《かわせ》レートの電光掲示板がぶら下がっている。
一郎くんの同僚の女子社員およびあたしたち取引先の女性の間ではかつて、時々刻々変動するトウキョウ・バイイングレートで一郎くんの所有権を売買するという、まったくほんとに人道的に間違った遊びが流行《はや》っていた。
一円単位の受け渡しが面倒なので、時にはジュースやお菓子等の物品によって取引が行われることもあった。
一郎くんは、そんなことを知ってか知らずか、自分の値段がオレンジ色に表示される電光掲示板の下で、てきぱきと見積書を作成していた。
展示会の準備でみんながドタバタだった時には、一郎くんは、昔ドリフが着ていたみたいな、メーカーのロゴ入りのハッピを率先して着用し、軽やかに台車を押して、颯爽《さつそう》と立ち働いた。
かと言って、やたらと場を取り仕切ったり、周囲の人々に体育会系のノリを強要するわけでは決してないのだった。
一方、あたしはと言うと、技術の人がやってくれるはずだった配線作業に四苦八苦で、ほとんど台の下にもぐりこんだきりだった。
異常に時間をかけてやっとの思いで作業を終えて、一人ブースの陰で仕出し弁当を食べていると、パーティション越しに話し声が聞こえてきた。
「しかしあの子、なんか妙に色っぽいよなぁ」
「おお、そうそう。さっき這《は》いつくばって配線しとった子ぉやろ」
どうやらあたしのことらしかった。
「パンツ見えるんちゃうかと思うて、ちょっと期待してんけどなぁ」
「見えませんでしたよ」
一郎くんの声がそう言って、どっと笑いが起こる。
「なんかこう、『やんちゃ』そうやねんけど、ちょびっと陰があるっちゅうか」
「よう笑うてるけどな、泣き笑いの色気やな、あれは」
「ああいう女は相当『好き』やで、きっと。え? いやほら、『あっち』の方が」
「おお、そやそや」
「そんなことないと思います!」
一郎くんの言葉に、あたしは胸が、顔が熱くなった。
会場の準備をほぼ終えた頃、うちの部長がのこのことやってきて、その上彼は「王子様」について重大な勘違いをしているらしく、一郎くんに向かって大きな声で言った。
「ちょっと、オージさん、いちばん上のパネル、いがんでまへんか?」
その場にいた誰もがみな、思わず吹き出したけど、一郎くんはいたって素直に、ほかの誰も届かない高さのパネルをひょいとつかんで、
「これでいいでしょうか?」
と、輝く笑顔で振り向いた。
ハッピの下から、ワイシャツの袖《そで》をまくり上げた、生き生きと快活な腕があらわになって、あたしは、めまいを覚えた。
一郎くんの、一点のくもりもない健全さ。
王子様。
アイドル。
ただひたすら、愛情を注ぎ込むべき存在。
一郎くんの存在自体も、一郎くんに対する自分の感情も、あまりにも新鮮で、あたしは気持ちのどこかが、こそばゆい。
その頃から一郎くんは、同期の友人たちとの飲み会に度々あたしを誘ってくれるようになった。
すでに一郎くんの王子様ぶりにすっかり魅了されていたあたしは、はっきりと「下心」を自覚しつつ、毎回喜び勇んで出掛けていった。前の晩には必ず、きれいにネイルを塗り直した。
一郎くんの周りの人たちは、いいとこのお坊ちゃまばかりで、中にはその気恥ずかしさからか、不必要に「あきんど」風だったり、激しく体育会系だったりする人も多いけど、一郎くんはあくまで正攻法で、全身どこを切っても、金太郎|飴《あめ》のように「王子様」なのだ。
ただみんなタイプは違えど、どことなく育ちの良さがにじみ出ている。その「どことなく」を検証してみて、あたしはあることに気が付いた。「バランス」がいいのだ。
お坊ちゃまたちは、服も靴も時計も、いいものを身につけているけれど、そのどれもが、自分の身の丈から突出して悪目立ちすることがない。高いローンのために、毎日カップラーメンをすすってでも、あの車が欲しいんだ! みたいな若さゆえのおバカな情熱は感じられない。
そのうち、一郎くんは「友人たち」抜きであたしを誘ってくれるようになったけど、それは彼の身の回り品に対するスタンスと同様、とてもさりげなくて、あたしは「捕獲」された実感がもてない。
こんなことを言うのは、あまりにもぜいたくというか、根本的に間違っているかも知れないけど、一郎くんにおバカな情熱を見いだせないことに、あたしはちょっぴり、物足りなさを感じてしまう。
育ちのいい一郎くんには、ガツガツしたところが全くない。強引さもない。
将ちゃんとは対照的だ。
いつも必ずやさしく微笑んで、
「どこに行く?」
「何を食べる?」
「君はどうしたい?」
と聞いてくれる。あたしを丁寧に扱ってくれる。
一郎くんはいつもきれいに体の線に沿ったワイシャツを着ていて、その袖口《そでぐち》には美しく図案化された一郎くんのイニシャルが小さく刺繍《ししゆう》されている。きっと一郎くんのお父さんも、オーダーメイドのワイシャツにこんなふうにイニシャルをつけているに違いない。そして一郎くんは絶対に派手な「一点物」を身につけたりはしないと思う。
一郎くんと付き合いはじめてからあたしは、それまでずっと長目のスクエアにしていた爪を、ティファニーの広告写真をお手本にしながら丸いカーブをつけて短く切り揃えた。最初はなかなか綺麗な形がつくれず、四苦八苦するうちに情けない深爪になってしまって、会社でセロテープが剥《は》がせずに難儀したけど、あたしは少しずつ、爪を優しい形に整えることにも、一郎くんに優しくされることにも慣れていった。
それなのに、一郎くんのマンションで、はじめてイニシャルのついたワイシャツに抱きしめられた時、あたしはそこに将ちゃんと同じオーデコロンの匂いを見つけてしまって、ひどく動揺した。
匂いというのはどうしてこんなにも、時間を超えて人の心をどこかに引きずり込む力を持っているのだろう。
将ちゃんの声や手やまなざしを思い出して、あたしのからだの芯《しん》がほんの少し、せつなく熱くなる。
混乱するあたしを、一郎くんの健全な心臓の音がゆっくりと静めてゆく。ワイシャツの肌触りがたまらなく心地よかった。
思えば男の人とこうして服を着たまま長く抱き合う、というのは初めてのことかも知れない。
そしてあたしは、一郎くんの腕の中で変なことを考える。
もしかして一郎くんのお父さんは、将ちゃんと同じくらいの年なのだろうか?
将ちゃんは一郎くんくらいの年の頃、きっと情熱的でおバカで、カップラーメンをすすっていたのだろうな……。
一郎くんとあたしは、さわやかなじゃれ合うようなキスをした。ほんとはもっと舌を絡めたり、一郎くんの舌の先を甘噛《あまが》みしたりしたかったけど、下品だと思われるといけないので、我慢した。
それから一緒にシャワーを浴びた。
水しぶきの中の一郎くんの体は、あまりにも整いすぎていて、エロティックな感じがしなかった。
あたしの体は一郎くんの目にどんな風に映っているのだろうかと思って、あたしは彼の唯一エロティックと思われる部位を盗み見る。あたしの王子様が「健全な男子」であることを確認して、あたしは少し安心する。
そして、そこを泡だらけにして「いいこと」をしてあげたかったけど、諸状況に鑑《かんが》みて自粛した。
一郎くんちには、最新式の「内臓脂肪チェック機能付体脂肪計」があって、毎日お風呂《ふろ》上りに、体重と体脂肪と内臓脂肪レベルを測定するのが習慣であるらしかった。
あたしは本来、毎日ちまちまと体重を量るような男は好きじゃないけど、それに今この状況において体重測定なぞ……とも思ったけど、一郎くんのパーフェクトボディには、そういうのを乗り越える説得力があった。
一郎くんは、あたしにも測定を勧めた。
「はかってごらんよ、登録しとくと、体重がどのくらい増えたとか減ったとか、ちゃんとわかるんだよ」
「いいよ、あたし、小学校五年生から全く変わってないから」
「へぇ、すごいねぇ」
以前、将ちゃんに同じことを言った時、
「あほ、お前『由美かおる』か!?」
と言われたのを思い出し、あたしは一郎くんに言ってみる。
「『由美かおる』みたいでしょ」
「……だれ? それ」
あたしはあえて「由美かおる」について、一郎くんに説明はしなかった。
一郎くんが腰にバスタオルを巻いて、「内臓脂肪チェック機能付体脂肪計」に乗っかっている。彼の内面がそうであるように、一郎くんの背中も脚も、無駄なくきっぱりとまっすぐにのびている。
「あれっ、おかしいなぁ」
一郎くんは、バスタオルをとって、もう一度、デジタル表示をみつめる。
長年そこだけ陽にさらされることのなかったお尻《しり》が、競泳水着の形そのままに白く取り残されていて、あたしは、ふるいついて、そこに爪を立てたいという衝動を必死に抑えた。
ベッドの上で、あたしたちは、お互いのからだをやさしくなでて、見つめ合う。あたしの髪の間をゆっくり泳ぐ一郎くんの指先が耳元をかすめて、あたしの体は小さく震える。
スタンドの淡い光がつくりだす一郎くんの睫毛《まつげ》の影を、耳を、髪を、あたしは指先でそっとなぞってゆく。あたしたちはお互いの動作を、韻を踏むようにして繰り返す。
一郎くんがあたしの乳首をそっと口に含んで、長い指が脚の間を割り込んできたとき、あたしのからだは、はしたなくもすでにひどく反応してしまっていた。
一郎くんがあたしに覆い被《かぶ》さって、ゆっくりと、からだを埋《う》めてくる。
あたしは、一郎くんを愛している。
一郎くんの、高級外車の革張りシートみたいなつややかな肌の下で、形のいい筋肉が表情豊かに動くのを見て、そのあまりの美しさに、あたしは今、こんなにも感動している。
メトロノームのように、正しく規則的にあたしのからだに打ち込まれる、一郎くんのリズム。優しい旋律の練習曲。
あたしは一郎くんの体に脚を絡めて、一緒に鍵盤《けんばん》をたたきたかったけど、「この女、相当『好き』やで」と思われると嫌なので、背中に腕をまわすだけで我慢した。
耳の上あたりから聞こえかけていた「せせらぎ」が、いつの間にか遠く通り過ぎてしまい、あたしはやむなく、生まれてはじめての「イッたふり」をした。
「水、飲むよね?」
さわやかな演奏の後、一郎くんはミネラルウォーターをちゃんとふたつのグラスに注いで、ひとつをあたしに笑顔で差し出した。
あたしは水を飲む一郎くんの喉元《のどもと》に見とれてしまう。見とれながら、将ちゃんのことを思い出す。
「よっしゃ、貸してみ」
ホテルの部屋で、冷蔵庫にあったミネラルウォーターのふたがひどく固かったことがあって、奮闘するあたしの手から、将ちゃんはボトルを強引に取り上げた。
顔を真っ赤にして、額に青筋たてていきむので、血管が切れたらどうしようと思って、あたしは気が気じゃなかった。
将ちゃんは、いつもなみなみと水を満たした、安定の悪い、今にも倒れそうなグラスだった。
頭で考えるより先に、あたしはグラスに飛びついてしまう。実際のところ、グラスは決して倒れたりはしないのだけど。
一郎くんには、ギザギザしたところが全くない、欠損も過剰もない、そつがない、危なっかしさがない。
裸になっても、京都|訛《なま》りが出てこない。
一郎くんの心には、美しいイニシャルのモノグラムが整然と配置されていて、いびつなモノグラムを身につけているあたしは、その中にうまく入り込めない。
うんと昔、中学校に入ったばかりの頃、手の甲に安全ピンやシャープペンシルの先で好きな人のイニシャルを書いて、その人に見られないうちに傷がなくなったら恋がかなう、というかなり痛いおまじないがクラスではやったことがあった。
中学一年生のあたしが好きだったのは、産休に入った担任教師の代わりに、期間限定で担任になっていた若い男性教師で、彼の名字はとてもめずらしかったので、そのイニシャルの持ち主は、あたしの周辺にはどう考えてもひとりしかいなかった。
あたしは、流行の髪形や校則破りを真っ先に実践してしまうような、ちょっとおませでミーハーな子どもだったけど、そのおまじないだけは、とうとう実行せずじまいだった。
実行はしなかったものの、というか実行できなかったからこそ、好きな人のイニシャルで自分の体を傷つけるという、悲劇的かつ嗜虐《しぎやく》的で罪悪感を伴うおまじないは、今考えてみても、たまらなく蠱惑《こわく》的だ。
あたしはたぶん、あの頃からちっとも成長していない。
将ちゃんのイニシャル。あたしが自分で気持ちの中に彫り込んでしまった、将ちゃんのイニシャル。
一郎くんは、もういちど服をちゃんと着て、車であたしのマンションまで送ってくれた。
あたしたちの頭上を横切る高速道路のカーブと、前方左手のビルの上にある大きな広告塔に、あたしは見覚えがあった。将ちゃんと過ごしたホテルの窓から、あたしはいつもこの景色を見ていた。
無数のヘッドライトが川の流れになって、きらきら光っている。あたしたちは今、瞬く光の粒だ。きらきらかがやく光の束は、絡まりもつれあって一本の光る糸になり、やがて儚《はかな》い小さな点となり、闇に吸い込まれて、消えてしまう。
あのホテルの部屋──。
愛人に、身に着けているものを一枚一枚ゆっくりと引き剥《は》がされるときの、恐怖感と、少しの屈辱と、そして、震えるような甘美。
将ちゃんは、ときどきわざとブラジャーやキャミソールを残したまま、ショーツを先に脱がせて、その恰好《かつこう》の中途半端さゆえ、かえって恥ずかしくて身悶《みもだ》えするあたしの様子をいじわるく楽しんだ後、その舌と指先とでとびきりのご褒美をあたしにくれた。
将ちゃんは、たかが小娘を、全力で追いかけ回して、捕獲した。
「捕獲」する側、される側、なんて考え方はいやだけど、肌を合わせる前には多少なりともあったであろう神秘を脱ぎ捨てることは、ある意味やはり敗北であるような気がする。
駿足《しゆんそく》の肉食獣に全速力で追いかけられて食いつかれれば、足の遅い兎は、たとえそれが望んでいたことであったとしても、自分に言い訳ができて、気持ちの収まりがいいのだ。
そのあとは、あたしが将ちゃんを追いかける番だった。
いくら走っても、追いつけなかった。息切れしながら、ただひたすら、全速力で追いかけるのは、胸がすくほど爽快《そうかい》だった。
あたしが将ちゃんを忘れることができないのは、未熟でがむしゃらな、いちばん恥ずかしいあたしを知っている男だからかも知れない。
あたしは、誰もがうらやむような光り輝く高級ブランド品を手に入れたというのに、それを身につけて街を闊歩《かつぽ》するどころか、家にこもって昔の野暮ったい自分の写真を見ずにはいられなくて、そんな自分にひどく苛立《いらだ》つ。
物理的に将ちゃんの「圏内」にいることも、あたしの「脱皮」を遅らせている原因のひとつだ。共通の知人もいるし、噂も風に乗ってやってくる。会社に書類を届けに来たバイク便のお兄ちゃんのトランシーバーから、将ちゃんの会社の名前が聞こえてくることもある。昔|流行《はや》った曲も、ずっと聴き続けていれば、「過去」にはならないのだ。狭い町の中、偶然姿を見かけることだって、時には……ある。
その日、一郎くんとあたしは仕事を早めに終えて、御堂筋《みどうすじ》を並んで歩いていた。初夏のまだ明るい夕方の空に、銀杏《いちよう》の葉の若い緑がきれいだった。
あたしはふと思いついて、何気ないふりで一郎くんに聞いてみる。
「ねぇ、一郎くんのお父さんて、年いくつ?」
「え? どうして?」
一郎くんが澄んだ瞳《ひとみ》で不思議そうにあたしを見つめる。もちろんあたしはそれに答えることができない。
その時だった。背後から、
「ヘイ、キャサリン!」
という大声が聞こえた。
あたしの名は決してキャサリンではないけれど、そのあまりのインパクトと聞き覚えのある声に、思わず振り返った。
将ちゃんだった。なぜか自転車に乗っていた。
あたしはしどろもどろになりながら、一郎くんに、
「前に仕事でお世話になった、ツカハラさん」
と将ちゃんを紹介した。
すると将ちゃんは、礼儀正しく会釈する一郎くんを無視しながら、あたしに言った。
「何やお前、女らしくしとるやんか。俺、今から集金やねん。忙しいから、行くわ。またな」
そして、いったんペダルを踏んで進みかけてから、振り向いて将ちゃんは言った。
「そや、お前、まだあのマンションに住んでんの?」
フリーズする二人を見て、将ちゃんは満足そうな顔をして、さらに付け加えた。
「あ、言っとくけどこの自転車、プジョーやで」
将ちゃんは軽やかにペダルを踏んで、去っていった。
マダアノマンションニスンデンノ?
たったそれだけなのに、恐るべき殺傷能力を秘めた言葉だ。
遠ざかってゆく将ちゃんの後ろ姿を見ながら、白髪がずいぶん増えたなあ、とあたしは思う。
将ちゃんがこんな風に、子供みたいにあたしの恋路を邪魔するのはきっと、あたしが将ちゃんのブランド価値の一番高い時を知っている女だからなのだろう。残念ながら、あたしへの変わらぬ愛、というのとは少し違う。頭ではそうわかるのだけど、あの後ろ姿を見てあたしはすぐに将ちゃんだと認識できないだろう、でも将ちゃんは後ろ姿のあたしを見つけたのだ──そう思うと、心のかさぶたが剥《は》がされてしまう。
長い長い沈黙の後、一郎くんが無表情のまま静かに言った。
「おもしろい人だね」
その後も一郎くんは、怒るでもなくあきれるでもなく、あたしたちは予定通り、デートを続行した。一郎くんは大人だ。
一郎くんはスイマーだから、あたしと違って欲望や情に溺《おぼ》れたりはしない。
二度寝して遅刻したことなんて、きっとないだろう。
あたしは、だめだ。
何度も仕事を替えるたび、受けさせられる適性テストで、
『あなたは、食べ物や娯楽など、満足するまで求めますか?』
という質問項目があって、あたしは迷わず、
『とても当てはまる』
にマルをする。
きのう買った服は、今日着たい。
限定色の口紅が、欲しくなる。
エビフライのしっぽは、必ず食べる。
根拠はないけど、東京よりも大阪の方が偉いと思ってる。
満開の桜を見ると、心が震える。
自分の付き合っている男が絶対に一番だと、かたく信じている。そしてその男から、男らしく情熱的に求められたいと心の底から願っている。
一緒に食事をしながら一郎くんは、会社の女の子が撮ってくれたという、展示会や歓送迎会の時の写真を見せてくれた。
一郎くんは、自分がいちばんキュートに見える表情や角度を熟知しているらしく、どの写真もほぼ同じ「麗しい王子様顔」で女の子たちの真ん中で笑っていた。
あたしは、さすが王子様、と感心する。
と同時に、そういうのは女特有のものと思っていたので、ほんのすこし、いやな気もする。
実際、展示会の写真の何枚かにはあたしも写っていて、同じ角度の媚《こ》びた笑顔でカメラを見つめていた。
親密な関係になってから露呈する、男女間の相違点というのは、戸惑いと新鮮な驚きとをともなって重要なスパイスになるけれど、逆に共通点というのは、特にそれが自意識に由来するものであったり、あるいは打算や処世のための具体的方策であったりする場合、なんだかじくじくといやな気分にさせられる。
お店を出て、大きな通りに出た。
ライトに照らされたシャネルのショーウィンドウの黒い部分に、一郎くんとあたしの姿が映る。
一郎くんは素早く、そして恐らく無意識に「いいお顔」をつくる。
あたしはショーウィンドウを通り過ぎる約二秒の間に、自分たちふたりの肌を比較チェックする。
とても残念なことに、一郎くんのそれは若くて健康そのもので、ちょっと出来すぎなくらい、美しかった。
自分よりも肌の冴《さ》えない女を連れている男は、ほんのちょっぴり、バカに見える。
その夜、ベッドの上で何かを言いかける一郎くんの口を手でふさいで、あたしは、一郎くんの上に馬乗りになった。
あたしがからだの中に一郎くんをすっかり飲み込んでしまうと、一郎くんは、小さく悲しげな、ため息のような喘《あえ》ぎ声をもらした。
あたしは、打ちつけるようにして腰を激しく揺すりながら、一郎くんの顔を見下ろす。一郎くんのきれいな顔が、しだいに紅潮して苦しげに歪《ゆが》んでいく。
その長い腕が行き場をなくして、宙を泳いだあと、あたしの手首を掴《つか》む。そして、
「ああ、だめ」
と、女みたいな声を出して、腰をよじって身をかわそうとしたけど、あたしは許してやらなかった。
一郎くんが、全身を硬直させた。
果てたあと、頭の下で手を組んで、天井をみつめたまま、一郎くんはあたしに言った。
「今まで、ぜんぜん満足してなかったんだろう? 僕のこと、バカにしてるんだろ?」
あたしはそれには答えずに、腰を少し浮かせて、エアコンの風にヘアをそよがせてみる。
「やめなよ、そんなこと」
と一郎くんは言って、寝返ってあたしに背中を向けた。
少なくとも一郎くんに落ち度は全くないし、あたし自身も一郎くんに対して致命的な不満を持っているわけではないということが、かえってあたしをふてぶてしくさせる。
あたしは、電車を乗り継いで、自分の部屋に帰った。
一駅前で電車を降りて、川沿いの道を歩いた。
買ったばかりの「お出かけ用」の靴が、夜露で濡《ぬ》れた。
お店の奥の棚で、小さな歩幅でかわいらしく歩いているみたいに、左右たがいちがいにディスプレイされていたその靴は、五センチヒールのいかにもお嬢様風のデザインで、普段あたしが履いているのとは全然違う雰囲気だったけど、一郎くんの隣を歩くには、とてもふさわしいと思われた。
将ちゃんは、女の脚がいちばんきれいに見えるのは、七センチから十センチのヒールの、女っぽい細身のデザインの靴だと言っていた。ヒールの幅は、アキレス腱《けん》と同じくらい細いものがよいのだそうだ。
「せやけど、ほら、あの、『外人墓地』みたいなやつには気ぃつけな、あかんで」
とも言った。「外反|拇趾《ぼし》」のことらしかった。
橋の下を通ったとき、ふと見上げると、橋の裏側に、街頭に照らされた水の光と影がゆらゆらと揺れていた。
しばらくの間、あたしはぼんやりと、メランコリックな水のプラネタリウムを鑑賞した。
翌日、よりによって一郎くんの会社に行かなければならない用事ができてしまった。
デスクにいる一郎くんに恐る恐る声をかけると、彼は意外にというか、さすがやっぱりというか、さえ渡った青空のような笑顔で振り向いた。
「応接で待っててください。すぐに行きますから」
そう言いながら一郎くんは、巨大なパンチで分厚い書類に一気に穴を開けた。力強くて男らしかった。
一郎くんの頭上で為替《かわせ》レートの数字が点滅して、最新レートが表示される。一郎くん、きのうよりも一円高。
デスクの上にはファイルがきっちりと並べられていて、背表紙には左から順に連番の数字がつけられていた。長男に「一郎」と命名する一郎くんのお父さんお母さんも、きっととてもきちんとした人たちなのだろうな、とあたしは思う。
「第三応接室」で、あたしたちは困ったことに、約五分で仕事の話を終えてしまった。気まずい沈黙の中、隣の会議室から、おじさんたちの話し声が聞こえてくる。
「××電機の商品、結構引き合いが来てるみたいやね」
「そう言えば、うちの王子様、あそこのおねえちゃんにえらいご執心らしいな」
「へぇ。どんな子ぉやったかいな」
「ほら、展示会の時、来とったやろ」
「ああ、はいはい、ああいう蓮《はす》っ葉《ぱ》なんと一回くらい付き合っといたら、王子様も一皮むけるやろ」
「せやなぁ。しかしあの女はほら、『床上手』の顔やな、あれは」
思わずあたしは吹き出してしまう。
一郎くんも最初ちょっと困った顔をしたけど、あたしにつられて笑い出した。
あたしは隣に聞こえないように応接室のテレビをつけてから、一郎くんに言った。
「あの、きのうは無理矢理、上に乗ってしまって、大変失礼いたしました」
「いえ、こちらこそ、お送りもしませんで。ちゃんと家まで帰りはったかな、て後んなって心配になりました」
あたしはびっくりして一郎くんの顔を見つめる。初めて聞く一郎くんの京都弁は、なかなか味わい深かった。少し照れた様子の一郎くんに、あたしは言う。
「今後も公私共々、おつきあいいただけますでしょうか」
「はい、もちろん。『鋭意交渉』継続してゆきましょう」
「赤富士」の額を背に、一郎くんはにっこりと微笑んだ。
テレビのワイドショーでは、皇室の方々がテニスを楽しむ様子が映っている。あたしはいつも感心するのだけど、やんごとなきご身分の方たちは、テニスをする時でさえ朗らかな笑顔をくずさないので、とてもゆっくり動いているように見えて、実は結構速く走っているのだ。
そう、穏やかに見えるからと言って、ガツガツしていないからと言って、走っていないと決めつけてはいけない。
王子様が王子様であり続けることは、はたから見てるよりもずっと根性のいることに違いない。
一郎くんは、汚点の許されない社会の中で、整然と配置されたブランドロゴのモノグラムの中にいる。
優しくも排他的な「リトルトウキョウ」的な世界で、一郎くんは、生きている。
リトルトウキョウの、王子様。
その夜、「床上手」なあたしは、一郎くんの健全な分身を、とびきりの愛情を込めて愛撫《あいぶ》した。一郎くんは、顎《あご》をのけぞらせて呻《うめ》き声をあげた。
一郎くんがあたしの中に優しく侵入してくる。あたしは体の中でその弾力を味わいながら、一郎くんの体に脚を絡めて、いっしょにリズムを刻みはじめる。
ふたりつながって一緒に揺れながら、あたしは考える。あたしはたぶん、一郎くんの前で「心のパンツ」を脱げない自分に苛立《いらだ》っていたのだ。人のことを値踏みする前に、あたしは自分自身がちょっと変わった「一点物」であることをしっかりと自覚しなければいけないと思う。
耳の上あたりがざわざわしだして、あたしは声をあげながら、一郎くんの背中に爪をたてた。
そう遠くない日に、別れはきっとやってくるのだろうけど、一郎くんがおじさんになった時、若気の至りでちょっと年上の蓮っ葉な女の子と付き合ったこともあった、というくもりなき青春の一ページになれば、それはそれで、すごく素敵なことだと思う。
それまでは、せっかくだから、恥ずかしい部分も見せあいっこして、ちょっぴり傷つきながら、素直にパンツを脱いで愛し合えばいい。
一郎くんは一郎くんのやり方で、丁寧に穏やかに、低温やけどみたいにあたしを焼いてくれるはずだ。
一郎くんはきっと、何回か海外赴任をこなした後、お父さんの会社を継ぐのだろう。落ち着いた色の高級国産車に乗って、助手席にはお上品な奥様が座っていて、うしろの座席にはチャイルドシートがあるかも知れない。ハンドルを握る一郎パパのワイシャツの袖口《そでぐち》には、図案化された美しいイニシャルの刺繍《ししゆう》がある。
そして、一郎くんの心の中に、規則正しく敷き詰められている美しいモノグラム──そこにこっそりひとつだけ、あたしのイニシャルを潜ませておいて欲しい。
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海ほおずき
夏はあたしのからだの一部分だった。
遠い夏の日。あたしは、あの夏の永遠の景色に溶け込んでいた。
「秘密の場所」に、あたしは向かう。
頼りなげな細い手足は毎日太陽を浴びて、しだいに快活になってゆく。
水着の上にTシャツをひっかけただけの恰好《かつこう》で、自転車に乗ってゴム草履の足でペダルを踏む。あたしはあの入り江に向かっている。
長い桜並木を通りすぎて、海沿いの国道に出ると、とつぜん潮の匂いがやってきて、あたしを包む風が変わる。
波の音、松の枝がゆれる音、髪の毛と風が遊ぶ音、すべてがいっしょになって、あたしは夏のささやきのオーケストラの中にいる。
「立ちこぎ」で上り坂をぐんぐん進む。坂を上りきって急な左カーブを越えると、右手には海がどこまでも遠く広がっている。ゆれる水面が、夏の太陽をはね返してきらきら輝いている。
海は、ずっと遠くで空と溶け合ってひとつになる。
大きな下り坂にさしかかると、一瞬、無重力空間に投げ出されたような感覚があって、あたしは漕《こ》ぐのをやめて前傾姿勢で坂を一気にすべり落ちていく。ものすごいスピードであたしは空気をやぶって飛んでいく。強い陽射し、海の輝き、空の青、松葉の緑、乾いた木肌、いろんな景色がぜんぶ混ざり合って、ものすごい速さであたしの横をすり抜けてゆく。風が、あたしを引き剥《は》がして去ってゆく。
秘密の場所に、あたしは向かう。
海のそばの北陸のいなか町で、あたしは子どもの頃の数年間を過ごした。
その辺りは豪雪地帯で、長い冬の間じゅう、大粒のぼたん雪が降り続いた。一晩で一メートル以上積もって、朝、玄関が開かないこともあった。物置の陰だとか、日当たりの悪いところには、五月の連休の頃になってもまだ雪が残っていた。
春や秋の過ごしやすい季節でも、この地方は曇天の日が多く、町はいつもけだるく湿っていた。
「繊維をつくるのには一定の湿度が必要で、だからこの辺りでは繊維産業がさかんなのです」
と、社会の時間に先生が言っていた。
あたしの父は繊維メーカーに勤めていて、転勤になって家族でこの町に引っ越してきたのだった。
たぶんあれは「左遷」だったのだと思う。その前の勤務地には、四ヶ月しかいなかった。もっともその間、父は出社拒否をしていて、ほとんど会社には行っていなかったのだけど。
たくさんの開かないままの段ボールをまたトラックに積み込んで、家族はこの町にある木造築三十五年の社宅に移り住んだ。
社宅は工場のすぐ横にあって、団地も含めると五百戸以上あったので、その中には同級生もたくさんいて、この町で「シャタク」と言えば、この集落を指すのだった。
どの家も相当のボロ家ながら、役職によって家の造りには露骨に差があった。工場に近い東側には工場長や部長や偉い人が住んでおり、西にいくにつれてだんだん家が小さくなっていくので、番地を見ただけで地元の人には住人の生活レベルがだいたいわかってしまうのだった。
転校した初日、担任になる女の先生がにっこり笑いながら、
「お家はシャタクの何番地?」
と聞いたので、あたしは緊張しながらも覚えたての住所をハキハキと答えた。
先生は笑顔のまま、でもなぜかちょっとつまらなさそうに、
「あ、そう」
と言った。
その質問の意味がわかったのは、だいぶあとになってからだった。
工場のグラウンドの隅で仲良しの女の子たちとゴム跳びをして遊んだ後、あたしは西の端っこの家に帰る。
その家には、あたしと両親と母方の祖父母と四つ年下の弟の六人が、ひしめきあって暮らしていた。
おばあちゃんはこの町に来てから度々心臓発作を起こして、入退院を繰り返していた。おじいちゃんはかつてあたしの幼稚園送り迎え担当だったけど、いつの頃からか、お茶代わりに安い日本酒を飲んでは、一日のほとんどを布団の上で過ごすようになっていた。おばあちゃんは母の実母だが、おじいちゃんは母が大人になってからおばあちゃんが再婚した相手で、どういう事情があったものか、二人は別々の名字を名乗っていたから、小さな家の表札には三つの名字が並んでいた。
弟は心にすこしハンディを持っていた。しかし、両親は決してそれを認めようとはしなかった。彼は人とほとんど話をせず、変に曲がった形の野菜やスナック菓子や規格外の形の食べ物を収集して、それらをとても大切に保管していたので、部屋の一角からは常にすごい腐敗臭がただよっていた。
父は以前ほどではないにしろ、会社に行かない日が度々あったようだが、なぜか家にいることはとても少なかった。
その町は、偶然にも母の生まれ育った町のすぐそばだった。母の父親はその昔、このあたりで手広く事業をやっていて羽振りが良く、父親が亡くなるまで、母はかなり「お嬢さん」で育ったらしかった。
町の近辺には、知人や幼なじみなんかもいっぱいいたので、母はそういう人たちに対する見栄というか意地というか、そういう気持ちがすごくあるみたいで、ことさら「都会の奥様風」に振舞おうとして、でもそもそも全然都会の人ではないので、かえって小さな町の中で変な具合に悪目立ちをしていた。
学校の父兄参観の時にも、汕頭《スワトウ》刺繍《ししゆう》のスケスケのブラウスを着て、巨大な琥珀《こはく》のネックレスをつけてきたりして、クラスの男の子に、
「お前の母ちゃん、『カンロ飴《あめ》』の首飾りしとるで」
とからかわれて、あたしはちょっと恥ずかしかった。
家に帰ってからあたしがそのことを申し立てると、母はその琥珀を茶の間の蛍光灯にかざして、石の中に閉じこめられた小さな羽虫を指さしながら、
「これは何万年も前の虫で、こういうのはとても高いのよ」
と、神妙な顔をして言った。
弟も少し焦点のずれた目で、それを興味深そうに眺めていた。
夏休みに入ると、母の中学校の同窓会があった。母はあたしに晩ごはんはカレーライスを作ってみんなで食べるようにと言いつけると、絽《ろ》の着物に煙水晶の帯留めをつけ、いそいそと出掛けていった。
母が出掛けてすぐ、父が、
「ちょっと『駅前』行ってくるからな。カレーなんぞ作らんでええ。寿司《すし》折ぎょうさん買《こ》うてきたるからな、おとなしゅうして待ってんねんで」
と言って、そそくさと出て行ってしまった。父の言う「駅前」というのは、パチンコのことだった。
結局父は夜の十時を過ぎても帰らず、母が先に帰ってきてしまった。
母はいつになく乱暴に玄関の戸を開け閉めして家に上がると、茶の間の様子を見て、
「あんたら、晩ごはんどないしたん」
と聞いた。おそるおそる事情を話すと母は、
「帰ってけえへん人待っとったら、飢え死にするがな。あんた、アホの子ォかいな、生きとるうちに頭使いィや!」
と、あたしを叱りつけた。隣の部屋で横になっていたおばあちゃんが布団の中から、
「あんた、そないに言わいでも……」
と言うと、母は顔を真っ赤にして、絞り出すような声で、
「あんたら、うちがなんぼほど惨めな思いしてるか、知ってんのん!?」
そう言って、畳の上にへたり込み、着物の裾《すそ》をはだけたまま泣き出した。
母の眼鏡が曇って、真っ白になった。
夏はすばらしかった。
長い冬や曇天や湿度や、いろんなうっぷんを晴らすかのように、子どもたちははじけるようにして海にとびだしていった。みんな陽に焼けて真っ黒だった。
夏の海は、熱と光と野蛮な若さに満ち溢《あふ》れ、それらが呼吸するたび、波が押し寄せては引いてゆく。
熱い砂を蹴《け》りながら、波に向かって駆ける。みんなで大きな岩の上によじ登り、鼻をつまんで立ったまんまの恰好《かつこう》で順番に海に飛び込んだ。
子どもたちは足先で海面を破り、白い水しぶきの中に飲み込まれていく。海の中は、異空間だ。やわらかい光と、ゴボゴボコロコロという音に全身が包まれる。
そして白く光る水面を目指して、一気に浮上する。水面でのびあがり、空に向かって大きく息を吸う。夏の灼けた空気が、頬に触れる。子どもたちの声、波の音、空の上のカモメの鳴き声、沖を進む船のポンポンポンという音、そんな明るい現実感のある音で、あたしの周りは満たされる。
それから、大きな岩から岩まで平泳ぎで競争したり、「海中鬼ごっこ」をして遊ぶ。鬼が見えなくなって、立ち泳ぎで辺りを見渡していると、急に海中で足を引っぱられたりするからすごいスリルで、みんな夢中だった。
海中の鬼ごっこに飽きると、次はテトラポットの上をぴょんぴょんとんで鬼ごっこをした。いくら泳いでも、いくら走っても、太陽の下にいる限り、子どもたちは疲れ知らずだった。
あたしは泳ぎは地元の子に全然かなわなかったけれど、身軽ですばしっこいのが自慢だった。一度、調子に乗って足をすべらせ、テトラポットの隙間にはまって抜け出せなくなったことがあった。そのときすぐに駆け寄ってきて、あたしを引っぱり上げて助けてくれたのがマサオちゃんだった。
マサオちゃんは一級上で、早生まれのあたしより年はふたつ上だった。彼はいつでも「群れ」からほんのすこし離れたところにいて、その日もみんなが遊んでいる横でひとり「シタダミ」と呼ばれる貝を捕っていたのだった。
マサオちゃんは、潮の満ち引きや、どのクラゲが危険なのか、あるいは食べられる貝の判別まで、海のことを熟知していたし、足を飲み込まれる砂浜やガタガタの岩場を誰よりも速く走ることができたので、誰もに一目置かれていたが、あまりしゃべらず、あまり笑わなかった。
夏はあたしに「陽気な平穏」を充分に与えてくれていたけど、気持ちのどこかに巣くう小さくて固い違和感や疎外感が、何かの拍子に敏感な気持ちの襞《ひだ》にあたって、ほんの少し痛むようなことが時々あった。
あたしがマサオちゃんに何となく好意を抱くようになったのは、もちろんテトラポットから救出してくれたこともあったが、マサオちゃんの持つ孤独な雰囲気が、あたしに共感と安心感を抱かせたのだと思う。
近づいて言葉を交わすようになると、マサオちゃんはやさしいというのか、子どものくせに変に情に引きずられるようなところがあって、ほかの男の子たちにからかわれても、人なつこくつきまとうあたしを邪険に追い払うことはできないようだった。
マサオちゃんの家は、あたしの住むシャタクよりもだいぶ海に近くて、家の裏の小さな山にはよく「子供会」で集まるお寺があった。
あたしの家といい勝負の、お世辞にも立派とは言いがたいマサオちゃんの家に遊びに行くと、おばあちゃんが畑で採れたトマトをおやつに出してくれた。
「お母さんは?」
とあたしが聞くと、マサオちゃんは、
「出てった」
と短くひとこと答えるだけで、くわしいことはよくわからなかった。
マサオちゃんのお父さんは「工事のしごと」で何ヶ月も他所《よそ》に出掛けたり、近くにある原子力発電所で掃除の仕事をしたり、今思えばあれは「密漁」ということになるのかも知れないけど、ウニやアワビを捕って売ったり、いろんな仕事をしていた。
マサオちゃんの家の庭には、お父さんが作ったという、網戸を二枚重ね合わせたような「蠅よけ」があった。中には魚の干物がいっぱい並んでいて、その端っこに一円玉くらいの大きさの不思議な物体がいくつかころがっていた。
マサオちゃんがそれを取り出して、
「海ほおずきや」
と言ってあたしにひとつくれた。
それは一見、干からびたあさりの身のようで、中は空洞になっており、真ん中には刃物か何かで小さな三角の穴が開けられていた。
夏の陽射しにかざしてみると、それは母のあの琥珀と同じ色をしていた。からっぽの琥珀《こはく》だ、とあたしは思った。何万年もの間、閉じ込められていた小さな羽虫が琥珀に穴をあけて夏の空に飛び立っていくところをあたしは想像した。
あたしの手のひらには、小さな抜け殻が残っている。
海ほおずきを口の中に入れて、二人で縁側に座る。少し甘噛《あまが》みしてやわらかくして、マサオちゃんに教えてもらいながら、下唇の裏側に押し当てて音を出してみる。
マサオちゃんは慣れた様子ですぐに「ビビ」と大きな音を出したけど、あたしはなかなかコツがつかめなくて、口の中でいろいろ角度を変えてみたりして、やっと「ぴり、ぴり」とかすかな音がした。マサオちゃんが足をばたばたさせて笑い転げた。
あたしたちは海ほおずきを鳴らしながら、蝉《せみ》時雨《しぐれ》の坂道を駆け上って裏山のお寺に遊びに行った。お寺の門をくぐると、右手の手押しポンプの奥に古いぶらんこがあるのだ。あたしが二つあるうちのひとつに座ると、マサオちゃんがそのうしろに立ったままとび乗ってきて、目の前の景色がぐらぐら揺れた。そうしてひとつのぶらんこをふたりでいっしょにこぎ出すと、錆《さ》びた金具がキイキイとすごい音をたてた。
空中に放り出されそうになりながら足を曲げ伸ばしするうち、黒い瓦《かわら》を乗っけた白塀の向こうに光る海が見えた。ぶらんこに揺り戻されてはまた視界に飛び込んでくるたび、海は表情を変えていた。
そうして長い間、ふたりでぶらんこに揺られていたけど、背中で感じるマサオちゃんの体温がだんだんと気恥ずかしくなり、あたしは先にぶらんこを飛び降りて、大きな楠《くすのき》の下に行った。ひんやりした根っこに腰掛けると、あたしの頭の上に木漏れ陽と蝉の鳴き声が降り注いできた。海ほおずきを鳴らしてみたけど、蝉に負けて、音は全然聞こえなかった。
ひときわ高い位置でぶらんこを乗り捨てたマサオちゃんが、あたしのところにやって来た。太陽と木の葉のモザイクが、マサオちゃんの顔にやわらかな影を落とす。
やさしくまばたきをする木漏れ陽に抱かれて、あたしたちは夏の琥珀の中にいた。
その夏、マサオちゃんはあたしを「秘密の場所」に連れていってくれた。
海沿いの国道を、海水浴客の車を自転車で追い抜きながら走っていくと、激しくのぼりくだりする坂道のあとに大きなカーブがある。その車一台分くらいの雑草だらけの砂地に自転車を止めて、ガードレールを乗り越える。
松の木の枝につかまりながら、砂ですべる傾斜を下りていくと、そこには誰もいない小さな入り江があった。
岩がすごく多いので泳ぐのにはあまり適していないけど、そこはありとあらゆる宝物であふれていた。岩場のかげには小魚や小さなカニがたくさんいて、砂浜には鮮やかな色の海藻や流木や貝殻や波に洗われて丸くなったいろんな色のガラスの破片が打ち上げられていた。
そして、あたしたちはこの秘密の場所でふたりだけの不思議な宝物をみつけてしまった。
その日から夏のあいだじゅう、マサオちゃんとあたしはその入り江でふたりきりで過ごすことが多くなった。
いつの間にか、あたしたちは完全に群れから離れたところにいた。
あたしたちは岩の間を飛び回って、ふたりっきりのかくれんぼをしたり、素潜りで海の中の岩に張り付く貝を捕ったり、他愛のない遊びに熱中した。
けどそんな無邪気な遊びのあと、ふたりの行き着くところはいつも決まっていて、あたしたちは大きな岩に体を押し付け、痩《や》せた手足を不器用に絡め合う。陽に焼けた岩も、はしゃぎまわった後のあたしたちの体も、熱くて痛かった。
ふたりはどちらからともなく、体にまつわりつく重い水着を脱ぎ捨てる。すっかり裸になってみると、マサオちゃんの日焼けがあたしとは年季が違うことがわかった。
マサオちゃんの白い下腹部のある部分は不思議にこわばり、ほんの少し空中を睨《にら》むようなかたちになっていた。マサオちゃんが手でその包皮をまくると、瑞々《みずみず》しい粘膜が顔を出した。
あたしも岩に腰掛けて、両足を開いて足の付け根を海の空気に晒《さら》してみる。
そうしてふたりで桜貝みたいな色をした真新しい部分を見せ合いっこしたあと、お互いを手で触れてみると、時折気持ちと体が呼応して昂《たか》ぶるのだけど、幼いあたしたちにはこの切ない熱情のやり場がわからない。
そのうち、ふたりともこの妙な緊張感に耐え切れなくなり、水をかけたり海藻を投げつけたりして、また無邪気な子どもに帰っていくのだった。
八月に入ってすぐ、毎年恒例の「子供会」の花火と肝だめしがあった。七時前にお寺に行ったけど、まだ陽が高く、みんな花火が待ち遠しくて、お寺の敷地内を駆け回ってはしゃいでいた。
あたしはシャタクの女の子たちと楠の下で「だるまさんがころんだ」をしながら、目の端でマサオちゃんを捜したけど、まだ来てないようだった。
花火が始まってしばらくした頃、明るい火花に照らされる顔の中にやっとマサオちゃんを見つけ、あたしは花火の先を少し振って、マサオちゃんに合図した。
あたしたちは示し合わせて、お寺の外の草むらに行った。
夏の草いきれの中に座って空を見上げると、満天の星がこぼれ落ちそうに瞬いていた。
あたしたちは何もしゃべらず、いつの間にか、動物の赤ちゃんみたいに体を横にしてお互いのおなかに頭をのせてうずくまっていた。そのうち、マサオちゃんとあたしの体温はすっかり同じになって、あたしはふたりの体の境目がどこにあるのか、わからなくなった。
蛍が何匹かゆっくりと飛び交って、あたしの眼の中に光の尾を残してゆく。
肝だめしが始まったのか、遠くで子どもたちの甲高い声が聞こえてきた。
翌日、自転車を乗り捨てて、あの入り江に下りてゆくと、マサオちゃんが先に来ていて、手に持った水中めがねの中には、貝らしきものがすでにたくさん入っていた。
あたしはマサオちゃんのところに走っていく。マサオちゃんも水中めがねを岩の上に置くと、あたしの方に向かって走ってきて、ふたりはどちらが鬼かわからない追いかけっこになる。
波打ち際をジグザクに走るうち、前のめりに転んで膝小僧《ひざこぞう》を少し切ってしまった。マサオちゃんがあたしの傷口の砂を海水で洗い流し、赤い傷口にそっと舌先を押し当てた。
ふたりの足元で透明の水面がゆらゆら揺れて光っていた。時折大きな波がやってきて、あたしたちの世界がぐらりとゆれる。
ふたりはもつれ合うようにして、いっしょに海に潜る。淡い光の中で、マサオちゃんは寝返りみたいに体を回したり、頭を下にしてほとんど垂直に海底に下りていったり、魚みたいに自由だった。
マサオちゃんがあたしの体に腕を回して、ぐん、と水を蹴《け》り、ふたりはいっしょに海面に顔を出す。
熱い岩の上に耳を押し当てる。耳の奥からじわっと溶けるように、生暖かい海水が出てきた。
あたしたちは裸になる。脱いだ水着を砂浜に投げ捨てる。
マサオちゃんは、きれいな水色のまるいガラス片を拾い上げると、それであたしの体の裂け目をそっとなぞった。体が小さくぴくりと震える。あたしのざわめきを見てとるとマサオちゃんは、おずおずと、でも確信を持って指先を動かしながら、あたしの手を自分に導いた。マサオちゃんのそれはまるで新鮮な果物のようで、果肉の先は小さくはじけていた。
波が岩肌を洗う音がする。波の満ち引きが繰り返されてだんだん早くなり、大きな坂を急降下する。海が空が松林が、あたしの横をすり抜けてゆく。
マサオちゃんの体が、一瞬凍りついたようになって、彼の中から何かがほとばしった。マサオちゃんは頬を紅潮させて、虚《うつ》ろに悲しい顔をした。
お盆になると急に波が高くなり、もうあの入り江に行くことはできなかった。
夏の終わりの海を坂の上から見渡すと、透明だと思っていた海は、すこし悲しげな翡翠《ひすい》色をしていた。
秋のはじめ、あたしには初潮がきて、よくわからないけど、来年の夏はマサオちゃんとあの秘密の場所に行くことはできないのだな、とぼんやり感じた。
それからほどなく、おばあちゃんが亡くなった。
お葬式が終わると、夜、父と母の言い争いが何日か続き、ある日、学校から帰ってくると、おじいちゃんがいなくなっていた。おじいちゃんは遠くに住む実の妹のところに引き取られた、というか、押しつけられたのだった。
その二年後、父はまた転勤を命じられ、今度は東北の片田舎にあたしたちは引っ越した。
そのあとさらに家族で四回引っ越して、あたしが大阪で一人で暮らすようになった頃、風の噂にマサオちゃんが高校を中退し、その後、地元の女の子と結婚したのを知った。それを聞いた瞬間、あたしのからだには焼けるような痛みが走ったけど、それはマサオちゃんと未来を共有している女の子に対しての嫉妬《しつと》や、マサオちゃんへの恋愛感情や執着ではなく、あの夏の日の自分自身に対する郷愁だったように思う。
閉じこめられた羽虫が琥珀《こはく》に穴を開け、夏の空に飛び立っていく光景が、ぼんやりと頭に浮かぶ。あとに残されるのは、小さな乾いた抜け殻だ。
あの海ほおずきの正体はいったい何だったのだろう──ふと思い手に取った辞書で、あたしはそれが巻き貝の卵嚢《らんのう》だったことを知った。てっきりあれは海藻のつぼみのようなものだと思っていたが、卵嚢と知ると、遠い夏の日に甘噛《あまが》みしたあの弾力が、妙に生々しいものとして蘇ってくる。
あたしの左膝には、あの夏の海でころんだ時の小さな砂が一粒、埋まったままだ。
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ジーニアス
あたしは特別だ。
何故ならあたしは先生の愛人で、先生は天才だからだ。
はじめて一緒に迎えた先生の誕生日、あたしからのプレゼントは、「肩たたき券」ならぬ「ブロウジョブ券」だった。念のため、「他人への譲渡厳禁」と注意書きをしておいた。先生はとても喜んでくれた。
翌年のプレゼントは、先生との夜のことを書いた短編官能小説だった。読み終えると先生は、ゆっくりと首を左右に振りながら、
「いいねぇ。キミ、文才あるんじゃないか?」
と言った。
だからあたしは、書いてみようと思った。
三年後、先生は言った。
「お前さ、なんでハゲとかデブとかインテリやくざとか、書くんだよ」
「……ごめんなさい」
「それにさ、見る人が見たらわかっちゃうじゃないか」
「わかりませんよ、名前出してないし」
「じゃ聞くけど、お前の周りにハゲでデブでインテリやくざ風でホテル住まいしてた人間って、何人いるんだよ」
「うーん、一人くらい……かなぁ」
「『百人くらい』ならわかるけど『一人くらい』って、なんだよそれ。頭悪いぞ。お前。日本語ちゃんと勉強しろよ」
それでもあたしは、書いてみようと思う。
先生とはじめて会ったのは五年前で、あたしは二十八だった。婚約者がいた。ありがちだ。
先生が大阪に新しく事務所を作った時、あたしは知人の紹介で、事務員として雇われた。
先生は、東京に家族を置いて、大阪でホテル暮らしをしていた。
仕事は、ある特殊な知的職業だ。著書がビジネス書のコーナーに並ぶたび、先生のところには、頭が良すぎて社会に適応できないような「書生さん」っぽい若者や、「道場やぶり」のつもりなのか、腰を抜かしそうなすごい経歴をもった人たちがどんどんやってきた。
認めるのはちょっと癪《しやく》だけど、先生は言語、数字、音楽、何を見ても何を聞いても、物事に対する瞬時の理解力がずば抜けていて、あたしが今まで「生」で見た人間の中で、ダントツでいちばん頭がいい。ハゲ頭だけど。
ハゲ頭なんだけど、初対面から二週間くらい、あたしは先生がハゲていることに気が付かなかった。
カツラをかぶっていたわけではなく、どこからどう見てもハゲているのだけど、先生の頭脳および行動様式のあまりの強烈さに、ハゲさえも霞《かす》んでしまったのだ。
「馬鹿野郎! お前くるくるパーかっ!!」
「書生さん」や「道場やぶり」たちの仕事の出来が悪いと、先生は様々なボキャブラリーを駆使して彼らを罵倒《ばとう》する。巨体に共鳴するためか、先生の声はとんでもなくよく通る。
ある時あたしは、先生に異議申し立てをした。
「先生、頭脳職やのに怒鳴ったりしごいたり、昔の『徒弟制度』みたいなん、おかしいと思います」
ところが先生に、
「うるせぇっ! 『頭脳』と『徒弟』は矛盾する事柄じゃないんだ!」
と言われ、なるほどな、とあたしは妙に感心してしまった。
先生は、その幾分立派すぎる体格のせいか、見た目も頭でっかちの知識人という感じではないけど、実際仕事をする時にも、蓄積された知識と経験というよりは、野性的な勘や運動神経で動いているようなところがあって、そこに山盛り三杯くらいのスノッブと俗悪が加わって、先生はどんな場面に身を置いても、とにかく圧倒的な存在感なのだった。
先生はじめ事務所のスタッフは、あたし以外みんな東京から来ていたので、大阪ではホテル暮らしだった。仕事が終わると大抵、先生に引き連れられ、事務所のメンバー全員でごはんを食べに行った。
仕事の時はやたらと「馬鹿野郎」とか「くるくるパー」とか言うくせに、先生は天性の親分肌というのか、他人の空腹を見過ごしにすることができないらしく、みんなを無闇に高い店に連れて行ってはごちそうしてくれるのだけど、仕事の話になるとやっぱり「くるくるパー」とか言い出すので、スタッフたちが先生のそんな思いやりに気付いていたかどうかは、わからない。
先生はいつでもあたしの視界の中にいた。
事務所は当初臨時で急場しのぎに設けたものだったので、レイアウトも電気配線も人間もごちゃごちゃで、デスクの配置上、先生とあたしは妙にお互いの姿が目に入るし、目が合ってしまう。
もちろん、先生の巨体は他の人に比べて視界に入る確率はかなり高いと思われる。
先生と並ぶと、あたしはまるでニュースで「押収された末端価格一億円の覚醒《かくせい》剤」の横に置かれている、大きさの目安のたばこみたいになる。
ある日、クライアントからの帰り道を事務所のスタッフ数人と歩いている時、先生は、
「オレが何メートル先まで行ったら、キミより小さくなるかな」
と、不思議なことを言った。そして、
「そうだ、ヤマダ! ちょっと来いっ! お前ここで見とけ。こいつよりオレの方がちっちゃくなったら、すぐに合図するんだぞ、いいなっ」
と若い男性スタッフに妙なタスクを与えると、大通りを足早に駆け出していった。
ついさっき、クライアントの社長や役員の前で、ものすごい勢いで論理を展開し、ゼロのいっぱいついた契約書にハンコを押させたのと同一人物の行動とはとても思えなかった。
結局、ビルや人など障害物の多い場所では測定が不可能だったけど、先生はいつでもそんな具合に、その頭脳や風体とはずいぶんちぐはぐな、子どものような好奇心と発想でもって「そうくるか」と周囲を驚かせるので、まったく目が離せない。
そうだ、目が離せないのだ。「視界に入っている」のではなくて、あたしはいつでも先生の巨体をわざわざ目で追ってしまう。
先生は大阪には不案内だったので、あたしは折を見ては、先生に大阪の文化や風習や常識についてレクチャーした。大阪におけるエスカレーターやムービングウォークは止まって乗るためのものではなく、より速く進むためのものであるということや、秋になると銀杏《いちよう》並木の続く御堂筋が激しくギンナン臭くなるので覚悟が必要だとか、地下鉄の路線の色分けや、大阪市の東にある地名の「放出」はハナテンと読むとか、そういったことだ。
先生はあたしの大阪に対する誇りや愛着を馬鹿にしているふしがあって、ことあるごとに、
「大阪って、東京と通貨単位、いっしょだったっけ?」
とか、
「大阪ドームって、ちゃんと屋根あんのかな」
など、差別的な発言を繰り返す。
あたしは子どもの頃から負けず嫌いだ。
「大阪にね、世界一の観覧車ができたんですよ」
「何だそれ、世界一速く回るわけ?」
「ちがいます。観覧車がそないにはよ回ったら乗られません。大っきいんです! 世界一」
あたし個人としては、東京よりも大阪の方が偉いと思っているのだけど、そこにさしたる根拠がない、ということがかえってあたしを熱くさせる。
ただ、婚約者がデパートの某ブランド宝石売り場で婚約指輪を値切ろうとした時だけ、あたしは大阪を嫌いになりそうになった。
もちろん大阪が悪いわけではないのだけど。
後に先生とそんな関係になるなんて思ってもいなかった頃、先生とあたしと婚約者の三人で、鶴橋に焼き肉を食べに行ったことがあった。鶴橋は大阪の最もディープなエリアのひとつで、焼き肉屋が軒を連ね、市場にはキムチなど本場韓国の食材がたくさん並んでおり、鶴橋の駅に降り立つと、そこにはすでに焼き肉の匂いが待ち受けているのだ。
婚約者の彼とは前の週から約束していたのだけど、当日になってあたしは、そうだ先生にも是非ともディープ・オオサカを味わって欲しいと思って、なかば強引に先生を連れて行ったのだった。
三人でテーブルを囲んだものの、会話ははずまず、仕事の話なんかを少しした後、先生と婚約者は紙の前掛けをつけたまま、鉄板越しに名刺交換をした。
そして三人は、時々煙に目をしかめながら、唇をぬらぬら光らせ、肉を食べ続けた。
店を出る時、先生が慣れたしぐさで勘定を済ませた。
「こんなにごちそうになったら、あたし、先生にカラダで返さなあかんわ」
と冗談を言ったら、となりにいた婚約者は屈託なく笑った。
帰り道、婚約者だけ方向が逆だったので、先生とふたりでタクシーに乗った。
先生が言った。
「キミの彼氏、痩《や》せてないよなぁ」
「先生に言われたくありません」
タクシーのラジオで、ある女優の結婚が伝えられ、先生は、
「へぇ、そうか、結婚するのか」
と、なぜか異様に関心を示す。
「えらい感慨深げですね。なんか特別な思い入れ、あるんですか?」
「ないよ、別に」
「あたしももうすぐ結婚するんですよ。感慨深いでしょ」
「俺だって結婚してるよ」
「……感慨深いですね」
あたしたちは黙ったまま、それぞれ別の窓を見つめる。お互いの視界の中で、別々の風景が流れ去ってゆく。
先生がいつまでもガムをくちゃくちゃ噛《か》んでいるのが気になり、ティッシュを差し出すと、先生は何を思ったか、あたしの手をつかんで手のひらに直接、噛んだガムを吐き出した。あたしはびっくりして、
「何しはるんですか、頭おかしんとちゃいます!?」
と口では抗議したけど、先生のその子どものような行為と吐き出されたガムに、不思議と嫌悪感を覚えなかった。
そして、婚約者の人の好《よ》さそうな太り方よりも、先生の意志のある固太りの方がセクシーだと思った。
あの日、部屋にテーブルが運び込まれて、先生とあたしは、向かい合ってルームサービスの中華を食べていた。白いテーブルクロスの上の青いガラスの一輪挿しには、ピンクの蘭の花が活《い》けられている。
八角の利いた鴨肉のローストを舌の上にのせながら、あたしはふと、今日が「結婚予定日」であったことを思い出す。
そんなことを忘れていられる自分を、あたしは他人のように空恐ろしく感じたけど、その感情さえ何だかぼんやりとして、はっきりとした痛みをあたしに伝えはしなかった。
あたしはちょっとおかしいのかも知れない。
とても自慢できたことじゃないけど、これまでだって倫理に基づいて正しく生きてきたわけではなく、むしろ自分の情熱が傾く方向にそのまま体を傾けて貪欲《どんよく》に恋をしてきた。「愛人関係」だったことも一度ならずある。
先生の部屋の大きな窓に広がる夜景。そのちょうど真ん中に見えているのは、とても若かった頃にふたまわりも上の愛人と逢瀬《おうせ》を重ねていたホテルだ。
子どもの頃から周囲の女性を見ていて思ったのだけど、「女の嗅覚《きゆうかく》」とでも呼ぶべきものが非常に発達した女性が、世の中には一定数存在する。推薦入学した「中の上」の短大を卒業した後、「中の上」の会社に就職して、そこで出会った「中の上」の同僚と結婚して翌年子どもが生まれる、そんな標準仕様の幸せアイテムを無駄なくすばやく手に入れてゆく、「幸せ最短距離の女」だ。
そんな女たちから見たら、あたしはきっと学習能力のない「くるくるパー」に違いない。
ただ、すべての女が、男から安定と退屈を与えられることを幸せに思うとは限らない。
大切なのは、どれだけ自分にとっての「宗教」たり得るかだ。
先生は部屋の入口近くに椅子を置くとそこに腰かけ、裸のあたしのからだを後ろから抱き寄せる。先生の膝《ひざ》に座って、あたしは背中に先生の熱い昂《たか》ぶりを感じる。先生は手の平であたしの胸を覆うと、指を閉じたり開いたりして、乳房の先端を締め上げる。先生の指の間から、あたしの赤くしこった乳首が見え隠れする。
そうして、あたしをすっかり抵抗できないようにしてしまうと、先生はあたしの両膝を後ろから抱えあげ、
「前を見てごらん」
と、あたしの耳元でささやく。言われるまま顔を上げると、開け放たれたクローゼットの鏡に、あられもない姿が映っていた。
先生は、上気して濡《ぬ》れそぼったあたしを押し開くと、中指と薬指をゆっくりと根元まで差し入れ、からだの奥の蜜《みつ》の充実を確かめる。そして濡れた指先で小さな特別の器官にビブラートをかけた。あたしは小さく声を上げる。
その時、クローゼットの先にある扉の向こうで廊下を歩く人たちの話し声がかすかに聞こえてきて、その声の主はあたしたちの部屋の前を通る時、扉一枚隔てた空間に充満している特殊な緊張感に気付いたらしく、急におしゃべりをやめた。ドアの下のわずかな隙間を、人影だけが静かに通り過ぎてゆく。
先生の腕に爪をたてながら声を押し殺すあたしを見て、先生は満足そうだった。
それから先生は、大きな窓ガラスに手をついて犬のような姿勢をとるようにと言った。
あたしは死ぬほど恥ずかしかったけど、先生に言われるまま、裸のお尻《しり》を先生の方に向けて、それから「伏せ」みたいに頭をさげてお尻を高くつきあげた。
あたしの花びらはきっとひどく充血して、雨上がりのように濡れて光っていただろう。
先生は、その「力強さ」をさんざん見せつけておきながら、わざと焦らして意地悪をするのだ。
あたしは我慢できなくて、恥ずかしい言葉を連呼し、ガラスに映る先生に向かって必死に何度もお願いする。
そしてやっと先生が従順と懸命な懇願に対するご褒美をくれたとき、あたしは膝の力が抜けて崩れ落ちそうになって、でもちゃんと立っていないと先生に叱られるので、足のつま先とガラスについた指先に力をいれた。ガラスがすこし嫌な音をたてた。
目の前に大きく広がる夜景の中に、昔の愛人と過ごした、あのホテルの光が見える。
夜景の上に浮かんで映るあたしは、先生に激しく貫かれて、目に涙をためている。
ベッドに入ってルームライトを消すと、先生は、
「こうなると思ってた?」
と上を向いたまま聞いた。あたしは、
「こうなったらあかん、て思ってました」
と答えたけど、本当はたぶん、ずっとこうなりたかった。
あたしは昔よりもずっと大人になった。
クライアントの偉い人たちと、お天気の話なんかができるようになった。
事務所では、ちゃんと事務員になる。
先生の奥さんからの電話も、ちゃんと取り次ぐ。
先生はと言うと、もちろんまったく悪びれた様子などなく、電話で奥さんと話す声は事務所に響き渡っているし、書類を渡せば、
「お、サンキューベルマーク」
とかつまらないダジャレを言うし、バイク便の到着が遅いと、
「大阪のバイク便って、『ママチャリ』じゃないよなぁ」
と、大阪を馬鹿にするのも相変わらずだ。
スタッフの一人が「ホクレンのイチゴ牛乳」をおいしそうに飲んでいるのを見ると、早速あたしに使い走りを命じる。
「おいっ、オレにもホクレンのイチゴ牛乳買ってきてくれよ。あれ、ところで『ホクレン』て何だ?」
「北海道酪農協同組合とか、そんなんやと思いますけど」
「ん? ちょっと待てよ。その法則でいくと『国連』は『国際協同組合』になっちまうじゃないか。頭悪いぞ、お前」
屁理屈《へりくつ》も相変わらずだし、事務所のスタッフたちと大人数でごはんを食べに行く習慣も変わらない。
でも、一度だけ、先生があたしひとりだけをホテルの寿司《すし》屋に連れて行ってくれたことがあった。クリスマスイブだった。
あたしは特にクリスマスにこだわるようなタイプではないけど、先生と一緒に過ごせるのはやっぱりすごくうれしくて、しかもフレンチとかじゃなくて寿司、というところがさすが先生だ、と思った。そして、カウンターに二人並んでシャブリのグラスを傾けながら、ゆっくりとお寿司をつまんだ。
あたしはしばし幸せに酔いしれた。
ところがしばらくすると、先生が店の入り口の方に手を振りながら、言った。
「おいっ、ヨシオカ、こっちだ!」
何のことはない、いつもの事務所のメンバーでの食事なのだった。
スタッフたちがカウンターに横一列に着席すると、先生は自慢げに言った。
「なっ、クリスマスの寿司屋って空いてるだろ?」
スタッフたちが我先に、と競うようにしてどんどん注文するので、寿司職人のおじさんは真冬だというのに額に汗を浮かべながら寿司を握り続けていた。
先生を見ていると、母が昔、和裁に使っていた「鯨尺」を思い出す。それは日本の日常における長さの単位「センチメートル」とはもちろん、「曲尺《かねじやく》」の一尺とも違う尺度なのだ。
先生は独自の尺度と価値観を持っている。
「鯨尺」で世の中を測り、人にできない仕事をする。
あたしはスタッフたちと一緒にいったんホテルを出て、周りを少し歩いてから、先生の部屋に行った。
その夜、先生がバスルームに入っている間、ふと思いついてデスクの引き出しの中にあった聖書を手に取った。
シャワーを浴びて濡れた髪のまま、ベッドに横になってページをめくる。
クリスマスイブに「愛人」の部屋のベッドに裸で寝っ転がりながら聖書を見る、という行為は、敬虔《けいけん》なクリスチャンが見たらきっと失神するほど不謹慎に違いないけど、あたしはその時、ある発見をした。
今までキリスト教というのは、ただひたすら「許す」宗教だと思い込んでいたけど、聖書にはけっこうきびしいことがいっぱい書いてあって、中でも印象に残ったのはマタイの福音書の「タラント」のくだりだ。タラントというのはお金の単位で、これが才能のタレントの語源になっているというのを聞いたことがある。
ある主人が、三人の僕《しもべ》たちにそれぞれの能力に応じて、五タラント、二タラント、一タラントを与えて旅に出る。五タラント、二タラントを渡された者たちは、それを元手に商売をしてお金を稼ぐのだけど、一タラントの者は、それをただ土に埋めておくだけだった。旅から帰ってきた主人は、お金を稼いだ者たちを褒めた後、一タラントの者を見てこう言うのだ。
「この役に立たない僕《しもべ》を外の暗いところに追い出すがよい」
この考え方はたぶん、先生ととても似ている。
職場において「頭を使うべきところ」で体を使ってぱたぱたと立ち働いて見せると、はた目にはとても働き者に見えて、周囲の評判もよかったりするのだけど、そしてそれは正直なところ、あたしの得意技でもあったのだけど、先生の前ではそういうのは決して通用しない。
先生はよく働く。と言うか、どんな仕事もものすごいスピードで前に進める。苦手な部分を迂回《うかい》して遠回りしたりせず、目的に向かってまっしぐらに突き進む。
そのモチベーションの元が何なのか、そしていったいどこに向かっているのか、あたしにはよくわからないけど、先生にとって仕事はきっと「ゲーム」なのだ。どこに駒を進めるか、その都度頭脳をフル回転させてゲームを勝ち抜いてゆく。そして先生は、勝ちたいと強く願うことを決して照れたり恥じたりしない。
子どもの頃、何か失敗する度に母から、
「頭は生きてるうちに使え」
と叱られていたあたしは、子ども相手になんて厳しいことを言うのだろう、と半分いじけていたけど、先生の下で働くようになってから、母の言葉がとても正しかったことに気が付いた。
そんなことをとりとめもなく考えながら、いつのまにかうとうとしていた。
先生の吐息を間近に感じる。先生の舌があたしの耳の中をたどると、海の中にいる時みたいな音がする。そして、先生のからだの重みは甘くてだるくて、子どもの頃、思いきり泳いだあとの疲労感に似ているのだ。
あたしは体を起こして、ベッドの脇に聖書を投げ捨てた。
大きなボートの上に寝そべって、あたしは屹立《きつりつ》した舳先《へさき》に舌を這《は》わせる。
あたしを乗せたボートは、広い海の上ですべてを支配していて、焼けつく太陽の下にあたしの肌を晒《さら》したり、遠い沖に出て怖がらせたりするけれど、ボートから見下ろす海の、波にゆられるたび形を変えるきらめく光の輪から、あたしは決して目を離すことができない。
先生の屹立を手でしごきながら、その後ろの含み綿をくまなく舐《な》めまわしてご奉仕を続ける。仰向《あおむ》けの先生の大きな体の上にまたがり、ぴったりと抱きついて、恥ずかしい潤みを先生の顔の上でむきだしにしている。先生は、
「きみにもいいことをしてあげるから、もっとしっかり脚を開きなさい」
と言って、肉の襞《ひだ》を押し開くと、親指に唾《つば》をつけ、湿った指の腹で小さな核《さね》を揉《も》みしだきはじめた。
耳の奥で小さな波の音が聞こえてきて、核が熱を帯び膨張してゆくのを感じる。あたしの体も羞恥《しゆうち》心も、次第に海の中に溶け出してゆく。
先生は、巻貝の中に指を差し入れ、殻の曲線に沿って奥に奥にどんどん分け入って、あたしを貝の中から掻《か》き出そうとする。
あたしは必死にしがみつくのだけれど、先生が殻の内側の壁をあちこち同時にこすりだしたら、もう何がなんだかわからなくなってしまって、必死に舳先にしがみつき、たどたどしく舌を這わせながら、だらしなく体液を流し続けるのだった。
先生はそんなあたしを面白がって、指を抜いてスタンドの光に晒し、手のひらまでからみついたぬめりをわざとゆっくり確かめる。
そして先生の指がもういちどあたしの中に帰ってきた時、たまらなくうれしくなって、屹立を口いっぱい頬張って、喉《のど》の奥でこわばりを感じながら、腰を小さく震わせて、思う存分それを味わった。
遠くから大きな波が音をたててやってきてボートを直撃し、舳先で白い水《みず》飛沫《しぶき》が力強く飛び散った。
喉の奥で、先生がびくびくと身震いをする。と同時にあたしも大きな渦に巻き込まれ、やがてゆっくりと深い深い海の底に沈んでゆくのだった。
窓の外では聖夜が煌めき、先生とあたしの夜を照らしている。
その光は、真夏の海で目をつむった時に見える、太陽の残像に似ていた。
その日はめずらしく先生の仕事が早く終わったので、あたしたちは事務所からふたり一緒に先生のホテルに帰った。こういうのははじめてだったので、あたしはうれしくてタクシーの中で無闇にはしゃいで、先生にたしなめられた。
ホテルのエレベーターには、あたしたちの他に、金髪で顔がピンク色の外人のおじさんが乗っていて、あたしは扉のすぐ前に立っていたので、鏡みたいな金ぴかの扉に映るおじさんの視線が、先生の立派な体躯《たいく》と仕立てのいいスーツと、その隣のあたしの子供みたいな肩幅と足首と、それからオレンジ色に灯ったフロアのボタンを素早く見渡し、これからホテルの一室で繰り広げられる行為を値踏みしているのがわかった。
おじさんは三十階で下りるとき、すれ違いざまあたしを一瞥《いちべつ》して、その眼は、
「このメス犬め」
と言っているようで、扉が閉まってから先生にそう言うと、先生は、
「メス犬か、結構じゃないか」
と言って笑った。
エレベーターホールを出てすぐのところに、いかにもヨーロッパ風の飾り棚があって、中には柿《かき》右|衛門《えもん》が整然と並べられていて、金髪で顔がピンク色の外人のおじさんなんかはこういうのを見て、オー、オリエンタル! と言って喜ぶのかな、と思った。
先生の部屋の大きなデスクの上には、ノートパソコンや仕事の資料やホテルのフィットネスクラブご利用券やルームサービスの伝票とかがいつも雑然と散らばっていて、その中に先生がメモ用に使っている、表紙にクリムトの「接吻《せつぷん》」がプリントされたノートがあった。
子供の頃、美術全集でその絵を初めて見た時、抱擁され口づけされて頬を紅潮させた女のひとの恍惚《こうこつ》の表情や、宝石を埋め込んだ無数の金細工のような背景に、いずれ自分にも訪れるであろう未知の世界への淡い期待を抱いたものだったけど、今こうしてあらためて眺めてみると、その絵は何だか言いようのない違和感を与えるのだった。
「早くシャワーを浴びてきなさい」
先生が後ろから、あたしの髪に唇を押し当てて言った。
先生の部屋のバスルームにはいつも、先生の髭剃《ひげそ》りやシェービングローションやオーデコロンやデンタルフロスが整然と並んでいて、それらは冷たく光って、手術器具を連想させる。
月に数回、東京に帰る時や、地方や海外に出かける時、先生は身の回り品を大きなスーツケースに詰め込んで、部屋を後にする。数日後、またスーツケースを部屋に持ち込み、バスルームに手術器具を並べる。その繰り返しだ。そして、繰り返される情事のあと、部屋はきれいに掃除され、ベッドはしわひとつないシーツで覆われる。
きのうの夜の痕跡《こんせき》は、何も残らない。
ベッドメイキングのたび、あたしたちの関係もリセットされる。
先生がバスルームに入ってくる。
シャワールームのガラスの扉を外側から押さえる。
シャワーを止めながらあたしは笑って言う、やめてください先生、でも先生の顔は笑ってなくて、
「君はメス犬だ、言うことをききなさい」
そう言って無数の水滴がきらきら光るガラス越しに、静かに見下すのだった。
あたしは先生の命令にしたがってガラスに体を押しつける。胸や太腿《ふともも》に、ガラスのひんやりした感触が広がる。
ガラスの外から、先生はあたしの体を指先でたどり、眼でいたぶる。
「足を上げて、いちばん恥ずかしいところを見せてみなさい」
先生に言われるまま、片|膝《ひざ》を持ち上げ、黙って先生の顔を見上げる。
「もっとちゃんと開いて見せなさい、さあ早く」
あたしはおずおずと手を伸ばし、自らの恥辱のあわいを指で押し広げる。
先生がにやりと笑う。
「なんだもうそんなに濡《ぬ》れているのか、本当にしようのないメス犬だ」
先生はガラス戸を開けると、全身濡れそぼったあたしの体を乱暴に抱き上げ、あたしは夢中で先生の首にしがみつく。先生は立ったままあたしの両膝を広げて抱え、唐突に潤みの中へと力を突き立てる。
荒い息遣いで、
「欲しかったのは、これだろう?」
と聞かれ、あたしは先生の肩の上で小刻みに頷《うなず》くことしかできない。
それから先生はあたしを串刺《くしざ》しにしたまま、洗面台の上に座らせたので、背骨に先生の怒張の熱さと大理石の冷たさがないまぜになって駆け登ってきた。
洗面台には手術器具が整然と並んでいる。
不安定な姿勢で、先生に傷口をえぐられ掻き回されながら、あたしはクリムトのあの絵を思い浮かべる。
宝石も金細工も恍惚の男女も、まるで空中に浮いているような不安定な構図。属性に縛られることのない自由な存在。
「お前はメス犬だ」
そう繰り返しながら先生は力を打ちつけ、与え続ける。
壁を覆う大きな鏡に映る自分は、苦痛とも快楽ともつかない歪《ゆが》んだ表情をしている。
やがてあたしは、先生に対する狂信と熱情を胸に抱き、短い死を迎える。
大阪に来て二年目の秋、先生は事務所の近くにマンションを借りて住み始めた。
大阪の大口クライアントの仕事はまだしばらく続きそうだったし、ホテル代のことを考えたら賢明だとあたしも最初は思ったのだけど、先生は家族の住む東京のマンションを引き払って世帯の住居を大阪に移してしまったので、東京で仕事をしている奥さんは、子どもを連れて東京近郊にある実家で生活をし、週末だけ大阪に来ているらしかった。
あたしは何度か、そのマンションで先生と過ごした。
その部屋にはいつまでたってもカーテンが取り付けられず、あたしたちはホテルの部屋でしていたのと同じように、夜景を見ながら体を絡め合った。
ただホテルと違うのは、部屋を後にする度「リセット」されるどころか、何か澱《おり》のようなものがどんどんたまっていくことだ。
先生と奥さんの寝室は別になっていて、奥さんの布団はいつも敷きっぱなしだった。
洗面台には化粧品が並び、その下のゴミ箱には、生理用品がだらしなく捨てられていた。
まるで言いがかりだけど、先生はいちばん身近な女に尊敬されていないのだな、と先生のことを少し不甲斐《ふがい》なく思った。そしてちょっとトンチンカンだけど、奥さんに同情した。
このマンションに来るのはもうやめよう、と決意した。
あたしは考えた。あたしが「宗教」を必要としているように、先生には「信者」が必要なのだろうか。
先生のマンションに行くのを拒否するようになってしばらくたった頃、夜おそくに先生から電話がかかってきた。
「ファンヒーターの石油がなくなったから、今日はホテルに泊まろうと思うんだけど、一緒にどうだ?」
タクシーに乗って行き先のホテル名を告げると、運転手さんはミラー越しにこちらをじろりと見て、
「お仕事でっか?」
と尋ねた。
「ええ、まあ」
とあたしはあいまいに答え、あとはずっと窓の外を見ていた。
ホテルの部屋に入るなり、先生はあたしのスカートの中の下着を剥《は》ぎ取ると、立ったままで後ろからいきなり乱暴に腰を使い出した。
あまりの痛さに声を上げながら後ろを振り向こうとするあたしの頭を、先生は力一杯押さえつけた。
あたしは足元に絡まったままの下着に足を取られ、無様な恰好《かつこう》で床に倒れ込む。
先生はそんなあたしの髪の毛を上から引っぱって四つん這《ば》いにさせると、また楔《くさび》を打ち込みはじめた。
あたしは、からだがばらばらになりそうなくらい痛くて涙が出たけど、そこから逃げようとは思わなかった。
結局先生は、四ヶ月足らずでそのマンションを引き払い、ホテル暮らしに戻った。
ある日突然、事務所が静かになった。
先生が海外出張に行ってしまったのだ。
先生が出掛けて二週間目に、クライアントの部長さんから事務所に電話があった。どうやら彼はキカイに弱いらしく、ごちそうするから、パソコンを買いに行くのに付き合ってほしいと言うのだった。
大事なお客さんだし、先生がいなくてヒマだったので、あたしは部長さんと一緒に日本橋の電気街に行った。
無事に買い物を終え、ビールを飲み始めると、部長さんは思いがけないことを言い出した。
「先週、ニューヨークに出張行ってたんやけどね、向こうで偶然先生夫妻に逢《お》うて、昼飯一緒に食べたんや」
てっきり、先生は一人で仕事の強行スケジュールをこなしているとばかり思っていたので、ちょっと頭にきた。そしてすぐに自分のその怒りが不当なものであるのに気が付き、なおさらいやな気分になった。
そしてあたしはなぜかとてもハイになり、取引先の部長さん相手にしゃべりまくり飲みまくり、ふたりで部長さんの行きつけのカラオケバーに行ってしまった。
部長さんはマイクを持つ小指を立て、十八番であるらしい「ムード歌謡」を熱唱した。
カラオケビデオの中の不幸な女に、自分と同じ泣きぼくろがあるのを発見し、またしてもいやな気分になった。
そのあとどうなったのか、どうやって自分の家に帰ってきたのか記憶にないが、朝、ぼんやりした頭で目を覚ますと、枕元になぜかウクレレが置いてあった。
「ウクレレ? なんでまた」
声に出して言ってみた。
そうだ、確かあのカラオケバーの帰り道、深夜営業してる楽器屋があったのだ。
購入に至った詳細はわからないが、あの楽器屋はきっと、あたしのような酔っぱらいの客相手にアコギな商売をしているのに違いない。
しかしながらその弦を軽くなでてみると、おもちゃみたいなその楽器は、ちょっととぼけた、心を軽くする音を出した。
先生が帰ってくる頃には、あたしは加山雄三の「お嫁においで」をマスターしていた。
久々に先生の部屋に行くと、先生はおみやげにゴディバの巨大な詰め合わせをくれた。
あたしはちょっと複雑な気持ちになる。
ゴディバのチョコレートは大好きだし、こういう詰め合わせがすごく高価なことも知ってるけど、これはどう見ても「職場用」のおみやげであって、「愛人用」ではないような気がする。とても使えないような激しいローズ色の口紅でもくれた方が、女心としてはどれほどうれしいだろう。
でも仕方ない。奥さんと一緒では口紅なんて買っていられないだろうから。
「先生あたし、ウクレレを弾けるようになりました」
「ウクレレ? なんでまた」
先生は二日酔いの時のあたしの独り言とまったく同じことを言った。
「心が軽くなってええんちゃうかなぁと思て。今度先生にも演奏して差し上げます」
「いや、ウクレレっていうのは、ちょっとね……」
「あたしのウクレレ、聞きたくないんですか?」
「いや、ほら、隣の部屋に迷惑になるといけないしさ」
「でも言っときますけどね、あたしがもし深刻な音色の楽器を選んでたら、先生あたしに刺されてたかも知れませんよ」
先生は、湯上がりの顔でバスローブを着ており、「スタンバイ、オッケー」の状態であるらしかったけど、あたしの不機嫌と自分の後ろめたさの関係に気づいたのか、バスローブの前をはだけると、自分のおちんちんを人形に見立てて指先でぴょこぴょこと動かしながら、腹話術の声音で、
「おねがいだよ、おねえちゃん、あそんでおくれよぅ」
と言った。
あたしはつい吹き出してしまう。
先生に抱きついて、ベッドに押し倒す。
とても大きな先生の体。
「あたし先生のからだ、好き」
「『マニア』か、お前」
「ええ、たぶん。でもあたし、近いうちに先生と別れることに決めました。事務所も辞めます」
先生が突然勢いよく起きあがって、あたしは先生の体の上から転がり落ちる。
そして先生は、今こんなに仕事が大変な時なのに、お前はなんていい加減で冷たいやつなんだ、とか、東京で雇ってる事務員はちゃんと一流大学を出てる、とか、俺んちは名門の家だから、結婚式の時なんかには、チョメイジンやコッカイギインからそりゃもうたくさん電報がきたんだ、とか、支離滅裂にあたしを攻撃した。
そして最後には、ベッドにどすんと寝転がって、
「おい、疲れてんだよ、マッサージくらいしてくれよ」
と拗ねた。あたしの神様は、滅茶苦茶《めちやくちや》だ。
ベッドの上でうつ伏せの先生の体にまたがって、首や肩を揉《も》む。
「何でだよ」
先生は枕に顔を埋《うず》めて、ふごふごと息を漏らしながら言った。
「先生、天才やけど大人やないから、あたししんどいんです。それに先生とずっと一緒にはおられへんて、わかってるんです。人間、急に止まったり、直角に曲がったりできへんから、少しずつ準備しよと思うんです」
「ばか、デジタルの時代に、何でお前ひとりだけ、そんなにアナログなんだよ」
「別れるとき、ドロドロになるのん、いやなんです。先生かて、あたしにしつこくされたら困るくせに」
肩甲骨の下を、指圧する。
「う、そんな、こと、ないよ」
「先生、あたしに対して、ちょびっとでも愛情もってます?」
背骨の両側を親指でぐりぐりと押していく。
「もってます、い、いっぱい、もってます」
「それ、東京ドームに換算すると、何個分ですか?」
首の根元をひときわ強く押す。
「ひゃ、ひゃっこ、百個……」
あたしは、先生の大きな背中を抱きしめる。
確かにここのところ、先生は気の張る仕事が続いている。あたしがバスルームから出てきた時にはもう、ルームライトを消して寝息をたてていた。小さな声で、先生、と呼びかけてみたけど、反応はなかった。
先生のハゲ頭のてっぺんをちょびっと、なめてみる。すこし塩っぱい味がした。
暗闇の中でベッドの縁をたどり、先生の足元から布団にもぐりこんでみる。
くるぶしとか膝《ひざ》に唇を押し当てながら進んでいって、足の付け根に顔を埋めてみたら、すごくふわふわで気持ち良くて、下着の上から口をモグモグさせてみたり、すこし噛《か》んでみたり、鼻の頭で輪郭をたどったりしてみた。
先生の足がすこしぴくっとしたけど、まだ起きないので、あたしの悪戯《いたずら》はどんどんエスカレートしていく。
下着の裾から舌を入れて小刻みに舐《な》めてみたら、いつもの猛々《たけだけ》しさとは正反対になすがままになっているのがとてもいとおしくて、さらにたくさん舐めたり、口に含んで舌をくるくる回したりしていたら、あっという間にいつもの力強さを取り戻してしまった。
とたんに下着が窮屈そうになったので、楽にしてあげようと思って手をかけたら、寝ていたはずの先生が腰を浮かしたのでびっくりした。
先生があたしの髪を撫《な》でた。
あたしは東京ドーム百個分の愛情を込めて、先生の分身を愛撫《あいぶ》した。
数ヶ月後、大阪での仕事を終えると、先生は事務所をたたんで東京に帰っていった。
「じゃ、また明日」とでも言うように、軽く手を振って先生は行ってしまった。
あまりにあっけなくて気が抜けた。結局、事務所を辞めるヒマも、ドロドロになるヒマもなかった。
どうしてあたしは、何かこう、頭のいい手段で先生の後ろ髪を引っぱることができないのだろう。そうか、先生には「後ろ髪」がないからな、と思いついてすこしだけ可笑《おか》しかったけど、やっぱり悲しかった。
いなかの母が入院したのは、その直後のことだった。
ちょうど母の手術の日、付き添いで病院に泊まり込んでいた時、先生からいつもの調子で電話があった。
「仕事で大阪に来てるんだ。今から出て来いよ」
あたしが事情を話すと、先生はなんだ、とつまらなそうに電話を切った。
とても馬鹿だなぁ、と自分でも思うのだけど、母以外に「下の世話」をするのが嫌じゃない人間って誰だろうと考えた時、浮かぶのは先生の顔だ。
病院で洗濯機を回してる間、「談話コーナー」のテレビを見ていたら、横山やすしの破天荒な人生を紹介した番組で、生前の彼をよく知る人たちがインタビューに答えていた。西川きよしも奥さんもマネージャーも、横山やすしという人がどれほどメチャクチャだったか、そして自分が彼にどんなにひどいことをされたか、というようなことを、とてもうれしそうに話していた。
あたしは彼らにひどく共感してしまった。
職業意識や恋愛感情をも越えて、天才に感服してしまうと人間、負けなのだ。
凡人は天才を仰ぎ見て、とびきりの感動や快楽や、時には情熱的な苦しみを与えられる。
何だ、「特別」なはずのあたしはこんなにも力強く平凡なんじゃないか、とあたしは泣き笑いになり、恥ずかしくなって「洗濯室」に走った。
あれからちょうど二年がたつ。
この二年の間にあたしは、何人かの男性と浅い付き合いをして、引越しをして、職場を二回変えて、それから、泣きぼくろを取った。
新しい職場の上司は激しく頭が悪くて、先生だったら瞬時に事態を把握して部下たちにテキカクな指示を与えて半日で済ませていたような仕事を、半年経過した今もまだちっとも前に進めることができずにいる。
そして会議の時なんかには「田原総一郎」的ポジションにつこうとする。スマートな「評論家」になりたがる。自分の位置づけをひどく気にしているくせに、「競争」とか「ゲーム」には全然興味がないようなふりをする。
先生のところで修業したらいいのに、とあたしは思ってしまう。
同じ部署に困った女がいる。他人に要求することと自分に要求することのレベルが見事なくらい違っているのだ。その場その場で自分にいちばん都合のよい「ものさし」を採用するのが彼女のポリシーであるらしく、あちこち首を突っ込んでは、ああだこうだと口出ししては、他人のものさしまで狂わせる。
一人で壁打ちテニスでもしてろバカ、とあたしは思う。この女はきっと、先生みたいな男を欲情させることは、一生ない。
いつの間にかあたしは、「鯨尺」で世の中を測ろうとしている。寝転がって聖書を読むのと同じくらい、いい加減なやり方ではあるけれど、「信仰」を捨てることができずにいる。
最近先生はまた、仕事で時々大阪に来るようになった。
そしてあたしは先生のホテルに行く。
「先生あたし、ペット屋でめちゃめちゃかわいい猫見つけて、飼おかと思てるの」
「やめとけよ、猫なんか」
「でも目ぇが合うてしもたん。『一期一会』ってあるやん、出会ったことそれ自体が『特別』やねん。先生と出会ったんと、おんなじ」
「ばか、猫なんかと一緒にするなよ。第一お前、『一期一会』なんて、どうせ『いちご牛乳』かなんかと間違えてんだろ」
今さらながら、気付いたことがある。
先生にも小さな泣きぼくろがあるということだ。向かい合った時、かつてあたしが鏡の中で自分の泣きぼくろを見ていた、ちょうどその位置に先生のほくろはある。
そしてあたしの取ったはずの泣きぼくろが、最近またうっすらと黒く浮かんできた。
再び先生と向かい合ううち、鏡のように先生のほくろを映し出してしまったのだろうか。
先生は天才だ。天才は孤独だ。
凡人は天才を見上げるけれど、天才は天才である自分を見つめるしかない。
自分の大きさを知るための「たばこの箱」や、自分の姿を映し出す媒体が必要だ。
目の前に先生の泣きぼくろがある。
先生の上に乗っかって腰をぐるぐる回しながら、このリズムは何かに似ているなあ、とあたしは思う。
そうだ、たまごだ、生卵をかき混ぜる時のあのリズム。時計回りに一周して、十二時のところにくる度、跳ね上げる。
あたしの体の中もかき混ぜられて、だんだん生卵みたいにどろどろになっていく。
両手でつかまる先生の肩先がだんだん汗ばんできて、表情も苦しそうになってきて、あたしも背筋に震えがきて、泣きながら、中で出して、中で出して、ってお願いして、ますます激しくかきまぜてたら、先生がうう、と小さくうめいてのけぞって、あたしの中でびくびくと震えて脱力した。
世界中が、急にしんと静かになった。
先生は煙草を吸いながら、しばらく音を消したテレビのチャンネルをあちこち変えたりしていたけど、煙草を吸い終わると、眼鏡をはずして寝てしまった。
点《つ》けっぱなしのテレビではイギリスの動物番組をやっていて、かっこうが他の鳥の巣に自分の卵を産みつけて育てさせる、托卵《たくらん》行動をしていた。
大いびきの先生の寝顔を見ながら、あたしは思う。
頭の禿《は》げ上がった重量級の先生は、スーツを着てると妙に人に威圧感を与えるけど、こうして無防備にしてると何だか巨大な赤ちゃんのようで、もしこの抱えきれない赤ちゃんをあたしが最初から育てることができたら、それは女としてすごい醍醐味《だいごみ》なんじゃないだろうか。そのくせ、その空想の中には赤ちゃんとしての先生が存在するだけで、父親としての先生は何処《どこ》にも見当たらないのだった。
朝方目が覚めて、水を飲もうと思って冷蔵庫の前でしゃがみ、立ち上った時、体の中からあたたかいものが溶け出して太腿《ふともも》の内側を伝った。思わず「あっ」と声が出た。
先生がベッドの上から、
「どうしたんだ?」
と聞いたので、
「たまごが出ちゃった」
と言ったら、先生は寝返りを打ちながら、
「なんだよそれ」
と言ってまた寝てしまった。
あたしは、ベッドの先生のハゲ頭のてっぺんにキスマークをつけて、先にホテルを出た。
あたしは一途《いちず》で献身的な女ではないし、ましてやムード歌謡のカラオケビデオに出てくるような不幸な女でもない。
自分の気持ちを投資する価値があるかどうか、頭でちゃんと考えてる。
宗教は神様のためではなく、信者のためにある。
あたしには先生が必要だ。
あたしはそれを先生に伝えたくて、書いてみた。
[#改ページ]
変わり結び
先生、今日こそはあたし、ほんまにいっさいがっさい先生に話してしまお、て思てるんです。いえ、何のことて言うても、それが自分でもほんま、何を話したいんか、何から言うたらええんか、ようわかれへんのですけど……。
あたし、子どもの頃、父方のおじいちゃん、ものすごい好きやったんです。いっぺん、おじいちゃんが家に遊びにきて、明日いなかに帰るゆう日ぃに、どうしても帰ってほしなくて、おじいちゃん寝てる間に、おじいちゃんの足、ひもで結わえて、柱にくくりつけたんです。おじいちゃん、朝起きるなり、けつまずいて、「あいたたぁ」って。母親にはめちゃめちゃ叱られたけど、おじいちゃんは笑ろてたん、覚えてます。あたし、ほんまは、先生もそないして足、結わえたかったんです。
思えば先生、あたし、あのホテルの先生の部屋、いったい何べんぐらい行ったやろか。昼間、先生んとこの事務所で働いてる時は、人の目ぇもあるから、なるべくしゃんとしてよ、て気ぃ付けてるねんけど、夜、あの部屋に入ってふたりっきりになると、あたしの「先生」て言う発音が、第一音節にアクセント置いた大阪弁になるのん、色っぽくてええ、て先生よう言うてはりました。あの頃は先生、大阪に事務所つくって、ホテル住まいしてはって、あの部屋では、ようピアソラの曲聴いてはって、せやからベッドの上の先生はピアソラのイメージやねんけど、仕事ん時の先生は、何て言うんやろ、大胆やねんけど緻密《ちみつ》で怜悧《れいり》で、ワグナーが一番似おてる、て思うんです。
そういえば、あたしの好きなパトリス・ルコントの映画で、え? ほら、「髪結いの亭主」の監督なんですけど、「タンゴ」ゆう映画あって、話のしょっぱなで、飛行機乗りのおっちゃんが、自分の奥さん浮気してんのん気ぃ付いて、その浮気相手、追っかけるんです。車で逃げる間男を、最初は車でワグナーの「ワルキューレの騎行」大音響でかけながら追っかけ回して、ほんでセスナに乗り換えて、上空から追いつめて殺してしまうんです。浮気した奥さんも、飛行機に乗して、空の上から落とすんです。飛行機宙返りしながら、言うんです、「心から愛していたんだ」って。
もし先生の奥さん浮気したら、先生、その飛行機乗りみたいな情熱的な行動、しはるんやろか。ええ、そらもちろん、殺してしもたらあかんけど。そんなら、あたしやったら? あたしが誰か他の、先生以外の人と深い関係になったとしたら? せやけど、そもそもそれって、浮気になるんやろか。
先生が東京に帰ってしまいはって、もう二年もたつんですね。大阪に事務所開いたとき先生、スタッフの人らも東京から連れてきてはったから、事務員のあたし以外は、先生はじめ全員ホテル暮らしで、まぁ先生一人だけホテル別格でしたけど、そんで毎日仕事が終わると、事務所の人らぎょうさん引き連れて、えらい高い店行ってごはん食べてはったから、毎月、締め日んなって経費の精算するたび、ゼロの数、間違うてるんちゃうやろかと思て、何度も数え直したもんです。こんなご時世に、えらいバブリーな金遣いで、そうでなくても先生、いっぺん見たら忘れられへん風貌《ふうぼう》してはるし、なんかやっぱり特別なオーラみたいなんがあって、先生の仕事知らん人でも、あ、偉い人やねんな、て一目でわかるもんやから、どの店でもすぐ覚えられて、店の人ら、いっつもわざとらしいくらい丁寧な応対でした。
ただ、そういう高い店にいてる、接客のプロの人らの目ぇで見たら、じきにあたしの位置づけと言うか、先生とあたしの関係わかってしまうみたいで、先生ら気付いてはらへんと思いますけど、不思議なことに、おんなじ接客のプロでも、男の人は、あたしが先生の愛人やて気付くと、丁寧と言うより同情に満ちたような態度であたしに接してくるねんけど、海千山千のおかみさんやとかは、ええ、ミナミのすき焼き専門のとことか、高級ワインと串《くし》カツのとことか、そんな感じやったんですけど、あたしがお酒の追加頼んだりするのん、わざと眉間《みけん》にしわ寄せて聞き返してみたり、ことさらあたしを無視しながら先生らに愛想《あいそ》振ったり、もしかしてあたしに対して敵意持ってるゆうこときっちり表明すんのん、仕事のうちやと思てはんねやろか、ゆうこと度々あったんですわ。けど、それもまあ、気になってたんは最初のうちだけで、いっつも先生といてたらお金の感覚わからんようになってくるのんとおんなじで、そのうち、ああまたや、て思うくらいになってたんですけど、あの人……Yさんは、ええ、そうです、代議士の秘書辞めて、先生んとこに来はった、わりに上背があってがっしりした感じの、あのYさんです。
そのYさんだけは、そういう女どうしの間でだけやりとりされてる感情ゆうのか、そんなん、なぜか読みとってしまいはるんです。そんなんて別に、気ぃ付かへんことが鈍い、ゆうわけやなくて、男と女で周波数みたいなんが多分、違うてるんやと思うんですけど、どういうわけかYさんは、そんなん見て取っては、あたしにそつのない話題で話しかけてきはったり、あたしの代わりに店の人に注文言うてくれたりして、そうかと言うて決して無難な「いい人」ゆうわけでもないんです。印象的やったんは、店の人やとかタクシーの運転手さんとかに対して、なんて言うんか、いつでも正当に適度に横柄な態度とりはるんですが、それがえらい板に付いてるもんですから、相手の方も自分のあるべき立場を急に思い出したような感じになるんです。
そんな具合やから、後んなってYさんがあたしよりも年下やてわかった時には、えらいびっくりして、この人はいったいどないしてこんなん身につけることになったんやろか、て不思議に思たんですけど、ほら、女社会のルールようわかってて、女の子の集団へも違和感なくスッと入ってきはる人、どこの職場にも一人くらいはいてますやんか、そういう人らて大抵、女きょうだいばっかりの中で男ひとりで育ったとか、家が水商売してたとか言うんで、ああなるほどなあ、と思たりするんですが、Yさんはそういう人らともまた全然違うので、これはやっぱりYさんが前の仕事で身を置いてた社会ゆうのが、いろんな意味で良くも悪くも大人の社会やったんやろと思うんです。え? ええ、そら、先生んとこでは仕事の実力、発揮しきらんかったかも知れませんけど、そんでも先生かて、Yさんがそつなく大人の振る舞いできることは知ってはったやろし、Yさんのブランド力みたいなん、大いに利用してはったやないですか。
先生んとこのスタッフの人ら、MBA持ってる人やら、ごろごろいてましたけど、そんなん、クライアントのおっちゃんらにしてみたら、わかる人はわかるけど、そうでない人らは、へえ、そんなもんかいな、くらいのもんで、先生の個人の事務所でそのレベルの人ら抱えてることのほんまのすごさて、あんまりわかってくれてへん。そやから先生、仕事の流れで飲みに行った時なんかに、「うちの事務所で、Yはちょっと変わり種でね、コッカイギインの秘書やってたんだよ、××党の」とか言わはって、おっちゃんらはもちろん、「ほお、誰の?」て聞きはりますやん。そんならYさんも、もう何べんもおんなじこと言わされてんのに、そのへんは心得たもんで、落ち着いた様子で、「K先生です」て答えて、それはあたしでも知ってるくらいの政治家やから、おっちゃんらも「うわあ、すごいなあ」言うて、いきなり尊敬のまなざしですわ。先生、またそこですかさず、「いや、うちには国際機関で働いてたヤツもいるから、そっちの方がすごいんだけどね」て、Yさんを足がかりに、事務所全体のブランド力アップのためのアピールも忘れへんのん、さすがやなあ、て思てました。いえ、ほんまですって、それも先生の仕事のうちですもん。YさんもYさんで、ああいう大人が喜ぶ「勘どころ」みたいなん、ようわかってはるんです。
あれはすごい寒い日ぃやったん、覚えてますけど、クリスマスも終わって、年末ほんまギリギリになって、先生の事務所のメンバーとクライアントの人らと、大人数で忘年会したこと、ありましたやん。ええ、先生、一軒目でもう、かなり酔っぱらってはって、あの、あたし、いっつも不思議に思うんですけど、先生、体格立派やから、お酒も相当強いねんけど、それでもさらにめちゃめちゃに飲んで、泥酔までいかな気ぃ済めへんの、なんでやろ。え? 「魂の解放」って、そら、仕事とか大変なんは知ってますけど、時々、解放し過ぎるんです。あの日ぃかて、二軒目行くタクシー乗る時、Yさんが先生の体支えて乗してくれはって、うしろの座席に先生とあたし、前の座席にYさんが乗ったんですけど、先生、タクシーん中で、あたしに「悪さ」したん、覚えてはります? あたしの手ぇ押さえつけて、スカートまくって、下着に手ぇ入れてきて、まるでセクハラで捕まったどっかの知事みたいなことしはるから、こん時ばかりはあたし、先生、ほんまになんちゅう人やろ思て、しかも酔っぱらって力の加減わからんようになってんのか、あたしの両の手首束ねてぎゅうぎゅう押さえつけながら、あたしの下着、脱がしにかかって、ほんで自分の脚絡まして、あたしの脚開かせたもんやから、あたしはもう、とんでもない恰好《かつこう》になってしもて、恥ずかしいし、あちこち痛いねんけど、運転手さんはもちろん、Yさんも黙って前向いたまんまで、助けてくれるわけやないし、ほんまに泣きたいような気持ちで、ところが対向車のライトがあたしらの乗ってるタクシーにぱあっと当たった時、フロントガラスにYさんの顔がはっきり映ったんですけど、そん時、Yさんは身じろぎもせずに、目ぇ見開いて、あたしの恥ずかしい姿、じっと見てはったんです。あたし、それ見て、からだがかあっと熱くなりました……。
タクシー降りて店に入った時、あたしは必死に冷静なふりしてたけど、Yさんはしれっとして落ち着いてはるし、先生もまるでなんにもなかったみたいに、ふつうの「罪のない酔っぱらい」のふりして、しかもさっき、二軒目行くぞ、て号令かけたん先生やのに、座るなり、「今日、東京からうちの奥さんが来てるから、やっぱりそろそろ帰ろうかなぁ」とか言い出さはって、一杯飲んだか飲まんかのうちに、勘定はみんなうちで持つから、支払いして領収書もろとくように、てあたしに言うて、あぶない足取りで店出はったんです。あたしは先生にそんなんされて、えらい気ぃ悪いし、そやけど支払いせなあかんから帰るわけにもいかんし、誰とも話が合うて楽しいゆうわけやないから、間ぁもたへんし、ついつい飲み過ぎてしもて、そのあとはいったいどないしたもんか、気ぃついたら、Yさんが支払いやら済ましてくれてて、みんなでゾロゾロ店出て帰るとこやったんですけど、クライアントの人らの姿、見えんようになったら、いよいよ気ぃ抜けてしもて、気分悪なって、恥ずかしいねんけど、道ばたで吐いてしもたんです。事務所の人ら、心配して何人かはいっしょにいてくれてたんですが、もう時間も遅いし、仕事忙しいのずっと続いて疲れてて、早よ帰りたいなて内心思てる感じやったから、Yさんが自分とこのホテルでちょっと休んでったらどうか、て提案した時は、みんなほっとした様子で、「大丈夫、連れ込んでどうこうってわけじゃないから」て、Yさんが言うた「冗談」に、安心して笑ろてたような具合でした。
ホテルに行く途中、Yさんが缶のウーロン茶買うて飲ましてくれて、寒い日ぃやったからキンキンに冷えてて、気分悪なってたあたしにとってはものすご気持ちよくて、それでだいぶ持ち直したんです。ホテルの部屋に入るとYさんは、あたし、吐くときにコートの袖口《そでぐち》、汚してしもてたんですけど、それ洗ろてくれたんです。それで、ふたりでしばらく「そつのない」話して、それから……あたしは、Yさんを拒みませんでした。Yさんの目ぇが、さっきタクシーん中で先生に悪さされてるあたしを見てた目ぇとおんなじになってて、あたし、Yさんの好きなようにされてみたい、それに、あたしにあんなことしといて、奥さんのとこにさっさと帰っていった先生に腹いせがしたい、て残酷な欲望が混じってたんです。
ベッドの上でYさんは、あたしのからだ、時間かけて丁寧にくまなく舐《な》め回したあと、自分の脚絡まして、あたしの脚開かせて、ええ、先生がタクシーの中でしはったみたいな恰好んなって、あたしの脚の付け根、すうっと下から上へなぞって、あたしはもう、からだの裂け目、露があふれてしもてて、Yさんは濡《ぬ》れた指先であたしの豆粒とらえて、そのまま、ちろちろと揉《も》みしだきながら、あたしの顔、意地悪くのぞき込むんです。あたし、だんだん、変な気持ちになってきて、露の出てるとこへも指、差し込んで欲しなって、そない言うて頼むねんけど、Yさんはそんなん聞き入れずに、ひたすら豆だけ、いたぶり続けて、とうとうそれだけであたし、Yさんにいかされてしもたんです。あたし、体の力抜けながらも、口惜しなって、Yさんの手ぇひっつかんで、その指、自分の裂け目に押し込んだったんです。そんならYさん、さすがにちょっと面食らったようでしたけど、最初一本だけ入れてた指、横からもう一本、さらに一本、て割り込ましてきて、中でそおっと指ねじったりしはって、そんなんされながら、Yさんがぴぃんと真上向いて力みなぎってんの、目に入るもんやから、この長い竿《さお》で体の奥、さわってもろたらどんな気持ちやろて思て、はしたないねんけど、もう、目ぇくぎ付けになってしもて、Yさんもそれに気ぃ付いて、ようやっとあたしに覆いかぶさってきて、そんでも先っぽだけ入れては出し、じらされて、もういよいよ我慢ならんようになった時、突然ずぶり、と。ええ、それはもう、奥の奥まで……。
いいえ、その一回だけと違うて、それからしばらくの間、そう、Yさんが東京へ帰ってしまうまで、三ヶ月くらいでしたでしょうか、あたしらのそんな関係、続いてたんです。先生出掛けてはる時でも、あたしら事務所に残ってること、多かったですから、小さい事務所ん中で、お互い視界に入っていながら、メールやりとりして連絡取り合《お》うたりして、あたしのマンションで逢《お》うてました。え? 先生はいっつも自分のホテルへ呼びつけるだけで、うちとこ来ようとしたこと、ありませんやん。ええ、Yさんのホテルは他にも事務所の人いてはったし、人目につかんと逢《あ》い続けるのん、うちとこがええて思て。
先生、あたしわかってるんです。先生がほんまはYさんとのこと、気付いてはったって。……そうですか、何にも知らん、て言わはるんやったら、この先のこともみんな、お話しします。聞くに堪えんかも知れませんけど、許してください。
逢うたんびにあたしら、ケダモノみたいな感じで、Yさんはふたりの体つながってる時に、その繋《つな》ぎ目見るのん、えらい好きなようで、大きく腰使いながらあたしの腕引っぱって半身起こさして、あたしにもそれ、見させるんです。そないしてあたしら、向かい合うて絡まり合って、お互い、ひぃひぃ声あげながら、自分らの出し入れするとこ、じいっと見てるんです。
そうかと思えば、Yさん、あたしを上に乗らして、両方の乳首きゅっとつまみながら、腰突き上げてくんので、あたしはからだの奥|掻《か》かれて、頭じぃんとしてきて、揺すられて乳首引っぱられて痛いねんけど、やめられへんようになって、自分でも腰使うては、狂うたみたいな声あげてしまうんです。ええ、ちょうど先生、別の仕事でしょっちゅう東京へ帰ったり、長いこと出張行ったりしてはった頃です。
Yさんはそんな風に、まあ良くも悪くも、何というか……要領のええ人ですから、仕事もちゃっちゃと、ええ、最初のうちはこなしてはったんですが、そのうち事務所の若い人ら、続けて何人か辞めてしもて、普段の仕事に加えて、報告書やらレジュメやら作るような仕事までYさんがせなあかんようになって、え? ええ、そらYさん、若手やし、事務所ん中では経験も浅かったし、そういう仕事ぎょうさん回ってくんのん、しょうがないにしても、毎日夜中までかかってやっても、先生、「こんなんじゃダメだ!」って怒鳴って突っ返してまうし……。
そんなん続いたある日、うちに来たYさんの足、ふと見たら、ええ、もう二人とも裸やったんですけど、Yさんの足の爪、びっくりするくらい伸びてて、ああ、この人今、ほんまに余裕ないんやて思てあたし、なんかたまらんような気持ちになって、Yさんの頭抱きしめて髪の毛なでてたら、Yさんはいつになく甘えん坊になって、あたしの腰のへんに抱きついて、長いこと乳首吸うてはったんですけど、そのうち、あたしの太もものあたりにあたる熱いもんがだんだん力増してきて、そっちに目ぇやると、Yさんの長い竿の先が涙ためてたので、あたしは指先でその涙、そっとなぞったんです。赤く腫《は》れた肉の溝をあたしの指が行き来するたび、Yさんはひっ、と小さい声あげて、それからあたし、Yさんの脚の間に顔を埋《うず》めて、指で輪ぁつくって竿をさすりながら、下のやわらかい巾着《きんちやく》、半分口に含んで舌の上で転がしたら、Yさんは、立て膝《ひざ》の脚ぶるぶる震わして、竿だけやなくて目ぇにも涙ためて、すすり泣きみたいんなって、いよいよあたしが竿をくわえ込んで頭揺すりはじめたら、もう、じき引きつけみたいんなって、脱力してしまいはったんです。
そのままYさん、ベッドでしばらく寝息たててはったんですけど、その寝顔見てみたら、濃い眉毛《まゆげ》の下のまつげ、意外と長くて、わりに可愛らしい顔してはって、「ジモソー」も大変やなぁ、って、え? 「地元では相当なもんやで」のことなんですけど、それも大変やなぁて、あたし、ちょっとしんみりした気持ちになってしもたんです。あたしら、からだばっかりで、ことば交わすこと少なかったし、断片的にしか知らんのですけど、Yさん、「神童」で期待の星やったんですって。あたし、思うんですけど、周りの人らはきっと、Yさんに旧式の「立身出世」を期待してて、Yさん自身も、なまじ優秀やったもんやから、何の疑いもなく、その期待に応《こた》えてきはって、代議士の秘書んなった時点で、ある意味、双六《すごろく》の「あがり」に行ってしもたんとちゃうやろか。あとは「あがり」から転がり落ちんように、ふんばり続けなあかんのです。
そんなん、なんでわかるかって? それはたぶん、自分自身の人事評価みたいなのが、「減点方式」になってる辛さ、女にはわかるんです。いくら男女平等や言うたかて、女はやっぱり、お行儀良く、そつなく、人に嫌われん方がええとか、若い方がええて価値観、世の中にはあって、それにそぐわへんとこがあると、持ち点からマイナス何点、て引かれていくんです。女の側も不本意ではあるけれど、その価値観、心のどこかで気になってるんです。先に言うてた、Yさんが女の感情の周波数、読みとれてしまう言うの、もしかしたら、そんなことともちょっと関係あるんかも知れません。先生みたいに、射倖《しやこう》心ていうか、常に喧嘩《けんか》ふっかけて、競争勝ち抜いて、前に進んでは得点貯めてく人には、きっとわかってもらわれへんのと違うやろか。
そういうことでYさんに同情して、ゆうわけやないんですけど、からだ合わす、というか、ぶつけ合ってるうち、変な話やけど、だんだん友情というか、同志愛みたいなんが芽生えてきたんです。あたし、それまではYさんとは努めてベッドの上のこと以外、せぇへんようにしてたんですけど、その頃から、ごはん作って食べてもろたり、仕事の書類作るの、手伝うたりするようになったんです。いっぺん、Yさんの出した報告書見て、先生が「おや?」って顔しはったん、あたし、覚えてます。仕事の書類って、無機質なようでいて、レイアウトやら文章やら、個性が出るもんで、ずっと一緒に仕事してる人にはそんなん、すぐわかってしまうんです。その何日かあと、先生と二人でお昼食べてて、先生が、「Yはさ,いまいち使えないから、とりあえず東京の事務所に戻そうかと思ってるんだ」て言うた時、あたしは「ああ、そうですか」て言うて、ごはん食べ続けました。
先生、「黒衣《くろこ》」ていてますやろ、ええ、お芝居で道具並べたり、早変わり手伝うたりする人。あたしの母親、歌舞伎やら文楽やら好きやったから、よう一緒に見に行ったんですけど、そうそう、中座や松竹座で、大屋政子さん、時々見かけました。いっつもピンクの服着てはるから、すぐわかるんです。テレビで「うちのお父ちゃん」て言うてはるときのイメージ、そのまんまなんです。母親とふたりで、「あ、今日もまた『政子ちゃん』来てはるなあ」言うて。政子ちゃんは前の方の席にいてても、必ずオペラグラスで舞台じいっと見てはるんです。帽子の後ろに長ぁいピンクのリボン垂らして、中国の京劇みたいにピンクのほお紅つけて、そないして真剣に舞台見てる姿見てあたし、この人、ものすご心持ちの可愛らしい人なんやろなぁ、と思いました。政子ちゃんもあたしの母親も、もういてませんけど。
ええ、すんません、黒衣の話でした、黒衣て、見えてるけど見えへんことになってて、黒衣になってる人も、自分の姿、お客さんに見えてること、わかったあんねんけど、見してへんことにして、芝居進んでいきますやん。わざわざ「見えてるで」て言うことは野暮やし、言わへんことがルールやけど、それはせいぜい何時間かの、幕閉まるまでの間のルールやからできることで、実際生きてるなかでそんな、見えんふり、見せへんふり続けんのは、あたしが言うのも何やけど、狐と狸の化かし合いみたいで、ときどき気持ちがぐったり疲れるんです。
Yさんとのこと、最初、自分では腹いせのつもりやったけど、ほんまはきっと子どもみたいに、先生にあたしの方、向いてほしかったんです。子どもの時、大好きなおじいちゃんにしたみたいに、素直に先生の足、結わえたかっただけやのに、せやのにあたし、なんでこんな、いがんだ結び方してしもたんやろ……。浮気した奥さん殺した飛行機乗りとか、政子ちゃんとかは、きっとそんな、いびつな結び方はせえへんと思うわ。
何が言いたい、て聞かれても、あたしにもようわからへんのです……あれから二年もたって、また最近こないして先生と逢うてるけど、先生にとってあたしはいったい何なんか、わからへんし、先生がYさんとのこと、わかってて知らんふりしてたんもわからへん。なんでこんな、すっきりせえへん気持ちになってんのか、わからへん。わからへんけどたぶんあたしは、年いってもピンクの服着て、亡くならはった旦那《だんな》さんのこと「うちのお父ちゃんは」って話したり、心から愛してた、て言いながら浮気した奥さん、空から落としてしもたり、それ、全然違うことみたいやけど、なんか似てるねん、そうゆうのが、なんか知らんけど羨ましいねん、そういう人らはきっと、いざという時、お腹にちゃんと力が入るねん。
運命の赤い糸なんて、別にあたし、信じてへんけど、もしあるんやとしたら、先生の糸とあたしの糸、端と端が結ばれてるんやなくて、中途半端なとこで変な具合にこんがらがってるねん。時間かけたら、きれいにほどけるんやろか。それとも先生、そんなん、ちょん切ってしまお、て思いはるやろか。
角川文庫『マゼンタ100』平成18年11月25日初版発行