平野雅章
熱いが御馳走 食物ことわざ事典II
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ま え が き
永年、食物ことわざとつき合っているうちに気づいたことは、そのいずれもが、実に簡潔に、要領よく、物事の本質をズバリ言い当てていることです。
「遠慮《えんりよ》ひだるし伊達寒《だてさむ》し」「亭主《ていしゆ》と箸《はし》は強《つよ》いがよい」「男伊達《おとこだて》より小鍋立《こなべだ》て」「話半分《はなしはんぶん》腹八分《はらはちぶ》」「下戸《げこ》の建《た》てた蔵《くら》はない」「うまいもの食《く》わす奴《やつ》に油断《ゆだん》すな」「花《はな》より団子《だんご》」……。
こうしたことわざを読むたびに、そのことを実感いたします。
ことわざは誰が言い出したのかハッキリしないものがほとんどで、民衆の間から自然に生まれ出たものです。金言や格言のようなしかつめらしさはなく、くだけた物言いで、日々の暮しの中から、人間や世間に対する批評として生まれたものであり、反面、人間や世間を批評する場合に用いられるものです。
ことわざは、いわば庶民の知恵の結晶であり、集積であり、味わい深い風刺や真実、教え、戒めであることが多く、たくさんのひとびとに容認され、共感を呼び、支持され、言い継がれてきたものです。「民族の遺産」と言ってもいいでしょう。
ことわざはひとびとの口の端《は》にのぼり、舌の上でころがされているうちに、手短かになり、洗練され、喩《たと》えを用いることによって、よりわかりやすいものとなりました。
ことわざの本質とも言うべきものの一つに、「教訓や風刺性、または経験的な知識、機知等を寓意《ぐうい》として含むこと」が指摘されていますが、食物関係のことわざには、とりわけ、教訓や経験的な知識が豊富に盛り込まれている──ように思われます。
戦前、家庭料理のコツは、おばあさんからおかあさんへ、おかあさんからむすめさんへと、伝承のルートが確立していましたが、戦後、家族制度が崩壊し、核家族化がすすみ、伝承のルートはしだいに先細りとなり、「こんなことも知らないのか」と腹立たしく思えるほど、料理作りの最低の常識すらご存知ないニューファミリー世代が多くなっています。
家庭料理のコツを教える場面で、おばあさんやおかあさんがよく口にし、援用してきたのが食物ことわざで、用い方によっては決定的な重みを持っていました。
現在、食物ことわざを知っている人が、たまたまいたとしても、正しい用い方、正しい意味を識《し》っている人は、ごくごく稀になっています。正しい意味を知ろうとしても、身近に生き字引きのおばあさんやおかあさんはいず、巷《ちまた》に氾濫することわざ関係の本をひもといて知ろうとしても、項目はあるものの、解説は僅《わず》かに二、三行で片付けられていて、「帯《おび》に短《みじか》し襷《たすき》に長《なが》し」、実際の役には立たないのが実状です。
まえまえからこうした不便を託《かこ》ち、職業柄、知り合いからお尋ねを受け、これに応《こた》えるため、文献を漁《あさ》り、お年寄りにうかがいを立て、ようやく一二〇項目を蒐《あつ》め、『食物ことわざ事典』にまとめたのが一七年前。その後、この種の本の需要は高まり、前著に引きつづき、一二〇項目の食物ことわざを採り上げ、正しいと思える意味を、過不足なく解説したのが本書です。
食物ことわざなど、現代ではもう埋もれた宝だと思っていましたが、前著『食物ことわざ事典』によって、かなりのことわざが泥を落とし、光を放って、多くのひとびとの掌の中に収《おさ》められました。しかし、まだまだ埋もれたままの宝は、たくさんあります。引きつづき、みなさんの掌の中に収めてほしいと思います。続 食物ことわざ事典≠ニも言うべき本書を、再び世に送り出す|ゆえん《ヽヽヽ》も、実はここにあるのです。
昭和六十一年八月十日
[#地付き]平 野 雅 章
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目 次
ま え が き
青田から飯になるまで水加減
赤貝に土筆
あくが抜ける
秋鯖の刺身にあたると薬がない
朝の茶がうまいと晴天
熱いが御馳走
雨 柿 日 栗
雨枇杷、日梅
鮟鱇の吊し切り
案じるより団子汁
烏賊の甲より年の劫
石首魚女に食わすな
一鉢二延し三庖丁
一焼き二膾棄てようより煮て食え
従兄弟同士は鴨の味
色は茄子の一夜漬け
鰯で精進落ち
岩茸と運とは危ないところにある
独 活 と 鯡
鰻に梅干し
蝦で鯛を釣る
置き酌失礼持たぬが不調法
怒って大根おろしを摺ると辛くなる
男伊達より小鍋立て
駆けつけ三杯
鰹は刺身刺身は鰹
脚気に麦飯
蟹は食うともがに食うな
唐 墨 親 子
寒中の水を飲めば風邪ひかぬ
寒天の煮返し
木耳の看板
狐に赤小豆飯
茸採った山は忘られぬ
切りなしより盛りなし
口に甘きは腹に害あり
九里よりうまい十三里
傾城買いの糠味噌汁
下戸の建てた蔵はない
下司の高上がりは咽喉が渇く
濃茶目の毒気の薬
鯉の生血は精がつく
胡椒丸呑み
御馳走の山盛り
胡麻を擂る
米屋は三度目には変えよ
菎蒻と学者は田舎がよい
昆布を三年食うと瘤が治る
昆布を食べると髪が黒くなる
菜 食 貧 乏
酒は飲むとも飲まるるな
薩摩芋を食べると太る
里芋は角を立てて皮を剥く
鯖 を 読 む
三月鮃は犬も食わぬ
芝居菎蒻芋南瓜
湿り茶臼に酢の押
酒 池 肉 林
食する時に物語せず
食に餅を嫌う
師走鰈に宿貸すな
西瓜と天麩羅
鱸の鰓洗い
酢は膾、牛蒡は田麩
蕎麦七十五日
大根おろしに医者いらず
鯛なくば狗母魚
筍の親まさり
蛸は身を食う
出汁の味見に醤油
縦に裂けるきのこは食べられる?
田螺の願立
卵酒を飲むと風邪が治る
※[#「木+怱」、unicode6964]の芽を食べると鹿の角もげる
鱈腹食う
チーズがなければ消化不良になる
茶初穂を飲むと憎まれる
茶は水が詮
ちりめんじゃこも魚まじり
亭主と箸は強いがよい
年越の晩に蕎麦を食えば運が開く
年越の麦飯は一年中の力となる
とどのつまり
トマトのある家に胃病なし
土用中の蛸は親にも食わすな
菜種が咲くと鶏がうまくなる
夏蕎麦二十日
夏は熱い物が腹の薬
海鼠の油揚げを食う
海鼠を藁でつなぐ
なれて後は薄塩
握って江戸前、押して上方
鯡 に 昆 布
入梅前の梅の実食べるな
にんにくを玄関に吊しておくと魔除けになる
妊婦がりんごを食べるとかわいい子が生まれる
糠味噌女房
咽喉元過ぎれば熱さ忘れる
箸の上げ下し
初物七十五日
春の料理には苦味を盛れ
番茶梅干し医者いらず
ビールの注ぎ足しは禁物
ビールは液体のパン
ビールは肴いらず
人の牛蒡で法事する
貧相の重ね食い
河豚食う無分別食わぬ無分別
武士は食わねど高楊枝
豆息災は身の宝
豆を煮るときにビックリ水
味噌汁は医者殺し
みそ菜三年
味噌豆は七里帰っても食え
鵙 の 速 贄
餅を食べると体が温まる
揉んで味出せ干し大根
痩せの大食い
柳の下の泥鰌
夜の昆布は見逃すな
あ と が き
おもな参考文献
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[#小見出し] 青田《あおた》から飯《めし》になるまで水加減《みずかげん》[#「青田《あおた》から飯《めし》になるまで水加減《みずかげん》」はゴシック体]
青田と言えば稲の青々とした田を指しますが、ここで問題とされる水加減は、青田以前のいわゆる田植え時に、もうはじまっています。水稲を移植する時期は、だいたい播種期《はしゅき》の早い地方ほど早い。しかし、細かく見ますと、苗代の様式や前作や、灌漑水の関係などから播種期が同じでも、田植え期がちがってきます。また、その年の苗代期から田植え期にかけての天候によって、田植えの時期は年により多少ちがってきます。苗代期が例年より気温の高い年には、それだけ苗の発育がよいので、早目に移植するようになります。また、田植え期に旱魃《かんばつ》になりますと、灌漑水が不足して、田植えが不能となり、このような年には田植えが遅れがちになります。いずれにしても、田植えの最盛期は五月下旬から六月にかけてで、ちょうど降雨の多い梅雨期に当っていることは、ご存知の通りです。
このように田植え時期にはじまって、青田の時期をへて、さらにおいしいごはんとして炊き上げるまで、いつも水加減が必要です。
特にごはんごしらえの技術《コツ》に大いにかかわりがあるのが、とぎ方から水加減までの米と水の関係です。お米はといでからザルに上げて水をきっておくと、ぬかの匂いが米に移りません。水をきると言っても、このときのお米はすでに水分を一五%くらい吸収しているのです。米が完全に吸水(三〇%前後)したところで炊き始めるのがいちばん理想的で、お米が三〇%の水を吸収するためには平均して四五分から二時間くらいを要します。炊く前にこの時間だけ水に漬けておくことが必要です。お米が水を吸う率は、水温にかなり左右されますので、夏場でしたら三〇〜四五分、冬は二時間が適当とされています。
さて、あとは水加減ですが、厳密に申せば、これは米の乾燥度、新米、古米などによってちがってきます。ふつう新米は水分が多いので、洗米前の米一〇カップに一〇カップの水加減、古米(これは古くなった米という意味ではなくて、新米に対して、そうではない米ということ)の場合は、一一カップから一二カップくらいがよいとされています。固めのごはんが好きなムキには一一カップ、お年寄りなどのために特別に炊く場合などは一二カップの水加減がよいでしょう。炊飯に使う水は、中性の水であると、とてもおいしいごはんになると言われています。ほんとうは水道の水や硬水性の井戸水などは避けたいところですが、水道の塩素を取り除く装置があれば、これを利用したいものです。お米の目方の〇・〇三%の塩を加えると、炊き上がったごはんの味がぐんとおいしくなります。
それに今日ではほとんど行われなくなった木のお櫃《ひつ》に、蒸らしたごはんを移すことも大切な水加減だと言えましょう。お櫃に移してまぜ合わせ、さらにお櫃に乾いたふきんをかぶせます。こうすれば、ふきんとお櫃の木部が、ごはんの水分を適度に吸い取ってくれて、おいしいごはんの味が保たれるわけです。
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[#小見出し] 赤貝《あかがい》に土筆《つくし》[#「赤貝《あかがい》に土筆《つくし》」はゴシック体]
「赤貝に土筆」は、春の食べ合わせ例として、戒められてきました。「赤貝に土筆」に限らず、古来食べ合わせとなるものは、いろいろと言い伝えられてきています。「鰻《うなぎ》と梅干《うめぼ》し」を食べれば即死するとか、「蕎麦《そば》と田螺《たにし》」が食べ合わせであるとか、種々言われ、一部の人たちには、未だに信じられています。しかし、その全部が全部、事実ではありません。たまたま事実らしいものがあっても、その原因はまったく別で、ほかにあります。
例えば「鰻と梅干し」ですが、ウナギは脂肪の多いもので、人によっては食べ過ぎると下痢することもありましょう。梅干しをウナギといっしょに食べたとき、なにか有害な作用を持つことは、まったく考えられません。強いて理由を考えれば、梅干しの酸味が脂肪とある変化を起こすことですが、これも正当とは信じられません。結局、この食べ合わせはウソで、なんら科学的根拠のない言い伝えに過ぎないと断定できます。この問題については、大正後期に、当時の栄養研究所で実験を試み、なんら異状のなかったことが報告されています。「鰻と梅干し」の食べ合わせは、かつてウナギが腐敗していたか、あるいは、ほかに毒物があったため、中毒事件が突発し、これを見て怖《お》じ気《け》づいた人たちが、食べ合わせ伝説を作り上げてしまったものと考えられます。
また、「蕎麦と田螺」にしても、中毒した事例は聞かず、まったくの迷信です。強いて考えれば、タニシは消化のわるいもので、たまたまタニシとそばとを過食した人が、お腹をこわしたに過ぎないのではないでしょうか。そばはとにかく、「赤貝に土筆」の取り合わせでも、やはり、問題があるとすれば赤貝で、貝類の中には消化のわるいものがあり、また、時季によっては中毒物質をふくむこともあるので注意を要します。「蕎麦と田螺」でも、もし中毒事件があったとすれば、タニシによるもので、食べ合わせではないでしょう。
このほか、古来、伝えられてきた食べ合わせは実に多く、想い出すままに記してみると、牛乳または牛肉とほうれん草・びわと小豆・コイと猪肉・フグとサケ・タコと柿・すいかと天ぷら・まつたけとアサリ・まくわうりと油揚げ・ハマグリとみかん・カニと氷水・ぎんなんとウナギ・すももとサバ・カニと柿・びわとそうめん・ニシンとこんにゃくとねぎ・サメとサザエ……などがあります。
これらも科学的な根拠はなく、強いて原因を挙げるとなれば、
@不消化のもの──小豆・サザエ・タコ・まつたけ・柿など。
A脂肪の多いもの──コイ・猪・天ぷら・油揚げ・ウナギなど。
B中毒を起こしやすいもの──サメ・サバ・カニ・エビ・アサリ・ハマグリなど。
こうしたものが、食べ合わせとされるものの一方の相手役をつとめていることから、これらが原因で、他の相手は巻き添えを食ったものと考えられます。
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[#小見出し] あくが抜《ぬ》ける[#「あくが抜《ぬ》ける」はゴシック体]
「あくが抜ける」の|あく《ヽヽ》は、人の性質や文章などに、一種の|しぶとさ《ヽヽヽヽ》や|しつこさ《ヽヽヽヽ》のあることを指し、「あいつはずいぶん嫌味《いやみ》な、あくの強い男だが……」といった使われ方をします。ですから「あくが抜ける」と言えば、人の性質が洗練されて嫌味がなくなる、さっぱりしている──といった意味になります。すでに式亭三馬の『浮世風呂』にも、「よつぽど灰汁《あく》のぬけた人だから気めへが能《いい》よ」などという|せりふ《ヽヽヽ》が登場しています。
もともと「あく」というのは、主として野菜類のもつえぐ味や苦味を指すことばで、「あく抜き」と言えば、調理の途中で材料から溶け出して味がそこなわれるのを防ぐため、それぞれの材料に合う方法で、あくを取ることです。あくと称するものは実に多種多様で、成分も混合の場合が多く、ごく微量であったり、複雑であることなどから、研究はあまり進んでいません。一概に好まれない味と言っても、嗜好の問題で、個人によってちがいがあるばかりでなく、食品固有の味などは、かえって個性味として生かしたい場合も多いのです。
数ある|あく《ヽヽ》の中でも、えぐ味はきわめて不快なもので、これだけは誰にも向かないでしょう。「えぐ味」は「えご味」とも呼ばれ、口が腫れるかと思うほど刺すようなものと、長く舌の奥に残る不快な味とがあって、一様ではありません。たけのこ、わらび、ぜんまい、ほうれん草、さといも、八つ頭、つくねいも、こんにゃくいも、からすびしゃくなどに、比較的多く含まれています。特にくわずいもなどは強いえぐ味をもっています。あくがあると言われるものには、概してえぐ味をもつものが多いようです。
よく知られているえぐ味と言えばたけのこで、掘りたてのものは、そのまま調理するのがいちばん美味ですが、掘ってのち、時間が経つほどえぐ味は増します。これは皮のまま水からゆで、やわらかくなったら、火を消して放置し、皮を剥《む》いて水に晒《さら》すと、えぐ味は除かれます。
一方、これもあまり歓迎されない苦味は、アルカロイド、配糖体、無機塩類など。特にカルシウム、マグネシウムなどは苦味をもっています。渋味の成分がタンニンであることは、ご存知の通りです。
「あく抜き」の仕方には、水洗、透析、電気透析、また豆乳、酸性白土による吸着などといった方法が行われますが、一般の調理で言うあく抜きは、わらび、ぜんまいなどを、木灰を少し加えた水、または炭酸ソーダ(ソーダ灰)の〇・一%溶液で煮沸して、その中を湯通しするような操作をすることが多い。
あくには広い意味で、食べ物として好ましくない匂いや色なども含まれ、例のなすやごぼうなどの「あく抜き」と言えば、色を取ることです。また、ごぼう、れんこん、じゃがいも、りんご、ももなどを切ったり、剥いたりすると黒ずんで(褐変現象《かつぺんげんしよう》)、食欲を著しく阻害《そがい》します。切ってすぐ水または薄い酢水に漬《つ》けるのも「あく抜き」の一種です。
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[#小見出し] 秋鯖《あきさば》の刺身《さしみ》にあたると薬《くすり》がない[#「秋鯖《あきさば》の刺身《さしみ》にあたると薬《くすり》がない」はゴシック体]
日中はまだ残暑きびしいことはあっても、朝晩めっきり肌寒さをおぼえるころともなると、魚屋さんの店頭には、まるまると肥え太った秋サバが姿を見せはじめます。みそ煮、塩焼き、こぶじめなどにした秋サバを口にすると、トロッとした脂が口中にひろがり、白身魚のタイやヒラメとはひと味ちがったうま味を感じさせます。俗に「秋鯖嫁に食わすな」と言われるくらいで、昔からしゅんものの秋サバは、もてはやされてきました。
秋鯖のずしりとおもしたなごころ 桜山
ひと口にサバと呼びならわしていますが、実はサバにはゴマサバとホンサバの二種類があって、秋サバとしてよろこばれるのは主としてホンサバです。このホンサバ、四月から五月にかけて産卵し、産卵後は見るも哀れなくらい痩《や》せ細りますが、もともと食い意地のさかんな魚だけに、産卵後、旺盛に餌を摂《と》り、秋になると、からだ全体に脂が乗ってきます。そして、この脂の一部は瞼《まぶた》にも蓄えられるので、眼はうるんだような乳白色になるほどです。このような状態がいわゆるサバのしゅんです。ところが、ゴマサバのほうは産卵期にそれほど影響されず、一年中同じ程度に脂が乗っていて、あまり味の変化はないと言われていますが、一般にゴマサバのしゅんは夏場とされています。
サバと言えば、誰しもすぐ思い出すのは、「鯖の生き腐れ」ということわざ。まさか、生きている魚が腐るというわけはありませんが、サバは傷《いた》みやすい魚で、獲《と》れたときから肉は白っぽく、ぶよぶよしていて、放っておけば数時間で食べられなくなってしまいます。とりわけ夏サバは腐りが早く、腐っているのに気付かずに食べると、|あたる《ヽヽヽ》ことがあるので、極端なもの言いで、鮮度に心したほうがよいと戒めたのでしょう。
「秋鯖の刺身にあたると薬がない」──秋サバの中毒は特にはげしいことを言ったことわざです。食中毒の年間統計を見ても、一番多いのは五月から九月までの暑い間ですが、秋になると毒きのこの中毒とともに上位を占めるのは、サバを含めた魚による中毒です。
よく、特異体質の方で、青い色をした魚を食べると、赤い発疹《はつしん》が出たり、顔が赤くなって、まるでお酒に酔ったように、ほてったり、ひどい場合には、熱などが出て苦しむ方があります。特異体質の方でなくても、腐った魚を食べれば、「魚に酔う」ということになって、顔など赤くほてって、苦しむことがあり、このことわざのように、量が多ければ、薬がきかず、死ぬことさえあります。これは魚のたんぱく質が腐敗してできたアミン類の中毒です。とくにサバはたんぱく分解酵素の働きが、ほかの魚よりもずっと強く、「鯖の生き腐れ」と言われるほど、死ぬと早く腐敗菌の|とりこ《ヽヽヽ》になってしまいます。
サバにかぎらず、魚は鮮度のよいものほど、味もよいし、食べても安全なわけですが、しゅんの秋サバは、殊《こと》に鮮度第一と心がけましょう。
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[#小見出し] 朝《あさ》の茶《ちや》がうまいと晴天《せいてん》[#「朝《あさ》の茶《ちや》がうまいと晴天《せいてん》」はゴシック体]
さしもの寒気も、三月半ばを過ぎる頃ともなると、ようやく和らぎ、そろそろストーブを片付けはじめる地方もあります。しかし、この季節はまだ寒暖の変動が大きく、日中、腕まくりして汗ばむほど暖かいかと思うと、翌朝は庭いちめん雪かと見まごう霜が降り、冬が舞い戻ったかと思えることも、しばしばあります。
気象の専門家によると、春には低気圧と移動性高気圧とが交互に通り、低気圧が通るとき、とりわけ日本海側を抜けるときは、この低気圧に向かって南風が吹くので、非常に暖かくなる。しかし、移動性高気圧が通るときや、シベリアの方から高気圧が張り出してくるときには、寒冷な空気が流れ込むので寒く感じる──のだそうです。それで「身体に寒いと感じるときは、天気がよくなる」と言われます。
旧暦の二月をキサラギというのは、「衣更着」の意だとして、余寒のために一度脱いだきものを、さらに着重ねるからだとする説がありますが、それは新旧を混同した牽強付会《けんきようふかい》の説で、『大言海』によると、
「萌揺月ノ略ナラム……草木ノ萌シ出ヅル月ノ意」
だとし、仏教学者は梵語《ぼんご》のキサライ、すなわち「木の芽立ち」ということだと説いています。いずれにしても、新暦三月のころには、いろいろな樹木に芽が張り出してきて、「木の芽立ち」の事実を、はっきり見せてくれます。
春めくと縁先に置く塗の下駄 つねこ
うららかに晴れわたった春の日は、どなたにとっても気分のいいものですが、とくに長く床に臥《ふ》している病人は天気に敏感で、「病人の気分のよいときは天気がよい」などと言われます。また、「朝の茶がうまいと晴天」などとも言われます。天気のよくなる日の朝は気温が低く、肌身にすがすがしく感じ、熱いお茶がおいしく飲めるところから、このような実感のこもったことわざも生まれたのでしょう。
お茶と同様に、食べ物についても、「食べ物がうまいと天気がよい」と言われます。それはそうでしょう。天気がよければ、家の中に閉じこもっているのはもったいなく、どうしても外へ出たくなり、おのずと運動するチャンスにも恵まれ、食欲も盛んになり、食べ物がうまく感じられ、しかも、晴天が二、三日つづくことが多いので、こうも言われたのでしょう。
昔から天気天候の変化を、みずから判断する方法として、「観天望気《かんてんぼうき》」という知恵が伝えられており、例えば「春一番が吹き荒れると急に春めく」とか、「月が暈《かさ》をかぶると翌日は天気が悪くなる」とか、「ヒバリが高く昇るときは晴れ」と言ったことが伝承されております。いずれも、理由《わけ》のあることで、今日でも、こうした天気にまつわることわざは農民や漁民の暮しの中に生きています。
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[#小見出し] 熱《あつ》いが御馳走《ごちそう》[#「熱《あつ》いが御馳走《ごちそう》」はゴシック体]
ある人が利休に、炉と風炉と、夏と冬との茶湯の心持ちについての極意を承りたいと尋ねたところ、「夏はいかにも涼しいように、冬はいかにも暖かなるように……」と、利休が答えた──という『南方録』巻一、覚書に見える話は、茶を嗜《たしな》まれる方なら、どなたもご存知ですが、いざこの心に添って、お茶事を行おうとなると、なかなかむずかしい。とりわけ、利休の強調したかった「いかにも」という副詞は、この場合、「さも」という意味に採るか、「きわめて、非常に」の意味に解するかによって、心の働き、心持ちのありようがちがってきます。「さも」の意なら、所作において、演出の工夫がいるでしょうし、「きわめて、非常に」の意なら、十分な心遣いが入用となってきます。「冬はいかにも暖かなるように」との心の働きを、料理の世界に例を採るなら、「熱いが御馳走」などは、そうした心遣いの原点となります。
多くの御馳走は、温かいときのほうがうまいので、御馳走をすすめるときに、このような言い方をします。せっかく、温かいうちに差し出したのに、話に夢中になったり、妙に遠慮して箸《はし》をつけなかったりして冷ましてしまっては、作ってくれた人の好意も、うまい味わいも台なしになってしまいます。このような|ていたらく《ヽヽヽヽヽ》を何度も体験した大谷光瑞師は、
「不肖《ふしよう》饗宴《きようえん》に列し、往々塩焼を供せらる。不肖は直ちに之を食すと雖《いえど》も、他の人にして、更に箸を下さゞるあり。或は之を好まざるによるやを疑ふ。時を経るや半時、一時の後更に箸を下せり。何故に直ちに之を食はざるや、之を欲せざれば、食はざるも可なり。欲して食はず、美味を捨て不良を食す。是の如き人は、食の味を知らざる人にして、終身薄福を免れず。憫《あわれ》むべき輩なり。不肖客を饗し塩焼を供せば、必ず客に勧むるに直ちに之を食せん事を以てす。決して無言に供するに非らず」(『食』)
と、口をきわめて訓《さと》しています。温かいうちに食べなければ、食べ物の真味が味わえない料理の数々ある中で、とりわけ、魚をネタにしたお吸いものなどは、どうしても熱いうちのもので、冷めてしまっては、まったく処置なしです。油料理なども熱いうちに食べるのが上乗。揚げたての熱いのを食べるのは、御馳走してくれた主と料理人への敬意の表われです。
天ぷらなどをうまく食べるには、やはり、天つゆや食塩ではなく、「揚げたての熱々をすぐ食べること」だとはよく聞く話です。事実、うまく食べるには、揚げたてにかなうものはありません。先年亡くなった東京神田「天政」の主人橋井政二さんは、
「天ぷらばかりは、さっと揚げればパッと食べ、食べ終わったときに次が揚げられて……といった呼吸のやりとりでなきゃあ、やりがいがありませんや」
と、漏《も》らしていました。橋井さんが言っていたように、こうした味の真剣勝負に都合のいいように天ぷら専門店では、揚げ鍋の前で、すぐ揚げたての熱々を食べられるように客席が設計されています。「熱いが御馳走」──茶ごころの発露は、主客の所作によって表現されます。
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[#小見出し] 雨《あめ》 柿《かき》 日《ひ》 栗《くり》[#「雨《あめ》 柿《かき》 日《ひ》 栗《くり》」はゴシック体]
柿もぐと樹にのぼりたる日和なり
はろ/″\として背振山見ゆ
[#地付き]中島哀浪
結婚五〇年目の金婚式を迎えた両親と、久方ぶりにドライブを楽しんだのは、一〇年前の秋の終りごろでした。故郷富津の近在は、千葉県内でも有数の柿の産地で、実りの秋を象徴するように、枝もたわわに、たくさんの実をつけていました。やわらかな秋の陽ざしに映える柿の実の色どりの美しさ。田舎には、まだ自然のゆたかなよろこびがありました。
「柿は隔年結実《かくねんけつじつ》と言って、ある年たくさん実をつけると、そのために樹が疲れるのか、翌年は実の結びが極端に少なく、生年《なりどし》と不生年《ふなりどし》とを繰り返し、実を結ぶのが隔年になるが、昔、お百姓さんは、生年の収穫が済むと、柿の根元に、塩の空《あ》き叺《がます》を敷きつめた。ふしぎなことをするものだと、そのわけを聞いたところ、『こうすると樹が休まずに、不生年にも、いっぱい実をつけるんです』という話だった。次の年の穫《と》れ秋に柿の買い出しに行ってみると、空き叺を敷きつめた樹は、確かにたくさんの実をつけていた」
父は車道沿いの柿の樹を見上げながら、問わず語りにこう言いました。七六年の生涯の大半を、青果物の卸しの仕事に打ち込んだ父の回想話の一つです。
父から塩の空き叺効用説を聞いたあとで、「柿の落花を防ぐには塩俵を敷け」ということわざのあることを知りました。専門家にうかがうと、落花の原因の一つは生理的落花で、養分や水分の供給が適当でないときに起こる。塩俵を敷くと乾きすぎることがなく、土壌が適当に湿っているので、落花が少なくなることも考えられる。しかし、この方法も、雨の多いときには、あまり効果は期待できない。また、柿は雌雄異株だが、人工授精をしないと、受粉しなかった花は落ちる──という話でした。
柿にかぎらずくりも、生《な》り方《かた》が年によって違います。特に柿は剪定《せんてい》や摘果《てきか》をしないと隔年結実となりますが、そればかりでなく、柿もくりも、その年の気象条件によっても、実の生り方が違ってきます。それについてのことわざが「雨柿日栗」というわけです。
これは雨の多い年には柿の出来がよく、日照りの年にはくりがたくさん穫れる──というのです。柿は開花期に長雨が降ると落葉が多くなりますが、それでも全般的に雨の少ない年よりも、適当に雨の多い年のほうがよく実ります。柿は乾燥には弱いが耐湿性は極めて強く、果実の肥大にも土壌水分の影響が大きいと言われ、乾くときは果実が腰高となり、水分の豊富なときは扁平《へんぺい》となって、果実硬度が高まることが認められています。
一方のくりは、開花期に雨が多いと受粉が妨げられ、病害虫で実の生りがわるく、成熟期に雨が多いと、果実が裂けて、味がわるくなります。それで、くりは雨の少ない年に、うまいものが多く穫れます。こうしたことから「雨柿日栗」と言われました。
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[#小見出し] 雨枇杷《あめびわ》、日梅《ひうめ》[#「雨枇杷《あめびわ》、日梅《ひうめ》」はゴシック体]
昔から雨びわ、日うめ──ということがよく言われてきました。雨のよく降る年には、びわが豊作、雨が少なく日照りの多い年には、うめの実が豊作になるというものです。びわやうめにかぎらず、果実や果菜類、穀物などの作柄は、開花期と成熟期の天候が大きく影響することは、ご存知のとおりです。
冬から春にかけての気温が概して高い年には、びわの花や幼果が凍害を受けないため、豊作となることが多く、そのような年には、どちらかと言うと、冬型の気圧配置があまり発達しない年であるため、太平洋沿岸地方には雨がよく降ることになるのだそうです。そんなわけで、雨が多いような年には、びわが豊作ということになります。
一方、うめのほうはと言えば、びわにくらべ、寒気に強く、百花に先がけて開花し、むしろ、暖冬気味で、うめの開花の早いような年には、その後の低温で凍害を受けたり、雪害を受けたりするので、よくないのだそうです。また、実の熟成する季節に雨が多いと、落果が多くなり、病害や虫害も受けやすくなり、それでうめは雨が多い年よりも、雨が少なく、天気のよい年のほうが豊作となるというわけです。かと言って、あまり極端に長雨がつづいたり、日照りがつづけば、びわにもうめにもよくないことは、言うまでもありません。
日本で果樹として栽培されているびわはもともと中国から輸入したものでしょう。しかし、びわは九州や四国、中国辺の一部には野生種があり、とりわけ、石灰岩地帯に多く、山口県の秋芳洞の洞口でも見られます。
枇杷の果の熟れて日にすぐほのあがり 五月雨いまは終りなるらし 吉植庄亮
びわは楽器の琵琶に葉形が似ているところから名付けられたものですが、和名のびわは漢名の枇杷の音から来たもの──であると言われます。
果樹としてびわを栽培するようになったのは明治以後のことで、品種改良によって、長崎の茂木びわ、房州の田中びわが有名。海に面した山の傾斜面に栽培されているのを見かけます。
昔から、家の庭先にびわの木を植えると病人が絶えない──と言われ、忌み嫌われてきましたが、これには一理あり、びわのように葉の茂る常緑樹を庭に植えれば、家が日陰になりやすく、健康にも悪い影響を与えることもあり得るからです。
青梅や黄なるも交り雨の中 召波
うめの語源については、漢字の梅の音メーに対し、日本語の接頭語のウをつけてうめとなったという説があります。もっとも古代、うめという語の広がらないうちは、名がないので「此の花」とも呼び、古歌の「難波津に咲くや此の花冬ごもり……」の歌はうめの歌で、この歌から今の大阪がうめの名所となり、此花区の地名ができたり、大阪の象徴となったりしました。うめの渡来は、五、六世紀ごろ、中国からと思われます。
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[#小見出し] 鮟鱇《あんこう》の吊《つる》し切《ぎ》り[#「鮟鱇《あんこう》の吊《つる》し切《ぎ》り」はゴシック体]
その以前あんかう食ひし人の胆《きも》
実際、押しつぶしたチャックのカバンのようなグロテスクそのもののアンコウの姿を見たら、誰しも酒井抱一のこの句のような感想を抱かれるでしょう。大きなシャモジのようなこの魚は、頭がバカでかく、下アゴが突き出し、鋭く不揃いの歯が生え、胸ビレは強く発達し、これで海底を這うことができるので、アンコウの腕と呼ばれています。それにくらべて、腹ビレは腹部の中央にあり、退化してほとんど役に立ちません。目は二つとも頭頂に並んでいて、上から近づいてくる餌を狙っています。
アンコウの背中には頭の中央から尾に至るまで、何本かのひらひらした長い触手のようなものがあり、これは背ビレの棘《とげ》がはなればなれになったもので、学問的には「離棘」と言うのだそうで、この離棘を交互にゆらりゆらりと波状に動かして餌となる魚をおびき寄せます。とりわけ、口のすぐ後についている一番太い第一の離棘を前後左右に揺らして、魚を口中に引き寄せる魔術を心得ています。
日本では「鮟鱇の待ち食い」などと怠け者の代名詞みたいに言われていますが、外国では「魚を釣る魚」という意味で、釣人魚(アングラー・フィッシュ)の名が付いています。
この深海魚、姿、形の醜さにかかわらず、なかなか味わい深い魚です。関西では下魚の中の下魚とされ、料理に使われることは稀ですが、関東では「関東のフグ」などと言い、もてはやされ、とくにキモがうまいため、キモの大きい鹿島灘のものが珍重されています。
頭から尻っぽまで、ほとんど捨てるところがなく、どこも食べられ、しかもアバラ骨がないため、触れるとグニャグニャし、おまけにウロコがないのでヌルヌル。全く掴《つか》みどころのない魚で、俎板《まないた》の上ではとても調理しにくい魚です。そこで料理するときは、鉤《かぎ》で下アゴを引っかけて、高いところに吊し、胃袋に重心を置くため、口から水を入れます。そして、頭の方から包丁を入れて行きます。これを「鮟鱇の吊し切り」と言います。
鮟鱇を見ては高尾の母は泣き
江戸吉原の三浦屋四郎左衛門抱えの花魁《おいらん》高尾太夫は、その美貌を買われて仙台侯に落籍《ひか》されたものの、金では言うことをきかぬ意気地が仇となって、木に吊されて切り殺されたという俗話(実説では姫路侯榊原|政岑《まさみね》に落籍《ひか》され、政岑は隠居を命ぜられた)から、こんな柳句も生まれたのでしょう。すでに吊し切りは江戸時代の初期には行われていたと見えて、『絵入貞徳狂歌集』料理方の挿図に描かれています。
熱燗《あつかん》の一杯を傾けながら、たっぷり脂の乗ったアンコウのキモを舌にのせると、とろけるような、ねっとりとした滋味が全身に浸みわたり、冷えきったからだを芯から温めてくれます。アンコウ鍋はやはり冬場のものです。水ぬるむ三月以降には、味も急激に落ちて行くので、値段も急激に下がります。
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[#小見出し] 案《あん》じるより団子汁《だんごじる》[#「案《あん》じるより団子汁《だんごじる》」はゴシック体]
「案ずるより生むが易い」をもじってしゃれたことわざ。心配してみたところで、なるようにしかならないから、くよくよせずに団子汁(みそ汁やすまし汁に団子を入れた汁もの)でも食べて、気長に待つがよいということ。ことわざ本来の面目である、直截《ちよくせつ》な物言いで、ずばり平常の精神衛生法を訓《さと》しています。同様のことわざに「案じるより芋汁」「案じるより豆腐汁」があります。案じるは餡汁《あんじる》にかけてのしゃれです。
精神衛生法と言えば、江戸後期の蘭方医で、わが国蘭学の始祖と仰がれる杉田玄白に『養生七不可《ようじようななふか》』という著作があります。子孫のために養生の大要を記したもので、言うところの七不可というのは、
昨日の非は恨悔《こんかい》すべからず
明日の是は慮念《りよねん》すべからず
飲と食とは度《ど》を過すべからず
正物に非ざれば苟《いや》しくも食すべからず
事無き時は薬を服すべからず
壮実《そうじつ》を頼みて房《ぼう》を過すべからず
動作を勤めて安《あん》を好むべからず
の七カ条で、各条下に和漢蘭の諸書や体験例を引いて、周到な解説を試みています。冒頭の二カ条が、今日でいう精神衛生法。訳せば、「昨日の失敗を後悔するな」「明日のことをくよくよ考えるな」というものです。
玄白先生は病いをからだに入れないようにするための心得として、まず「昨日の非は恨悔すべからず」と説いておられます。正にそのとおりで、精神の平静を保ちながら緊張力を充実すべきことを教えております。心にわだかまりがあり、心配事が絶えないときには、病気しがちなことは、どなたも経験のあるところです。精神力が充実していれば、いかなる疾病《しつぺい》も、台頭の余地を与えないことは明らかです。
病気をからだに入れないための第二の心得は、睡眠や食事を程よく調整して、不規則な生活にわたらず、運動と休養の不足に陥らないように努めることです。完全な睡眠のためには、玄白先生ご指摘のように「明日の是は慮念すべからず」、つまり、あすのことをああでもないこうでもないと思いわずらわぬことです。あすのことは来てみなければ分りません。キリストさまの教えではありませんが、今日の憂いは今日にして足れり──です。それにしても、昔の人は「案じるより団子汁」と、端的にうまいことを言いますネ。
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[#小見出し] 烏賊《いか》の甲《こう》より年《とし》の劫《こう》[#「烏賊《いか》の甲《こう》より年《とし》の劫《こう》」はゴシック体]
永い人生を経てきただけに、年取った人の経験は貴重なもの。年寄りの言うことは軽んじてはいけない。「劫」は「永劫《えいごう》」などと熟して用いられ、極めて長い時間のことです。
「やっぱり、おじいちゃんはいいこと言うわね。烏賊の甲より年の劫≠チて言うけど、だてに年を取っちゃいないわねえ」
同じような意味のことわざに、「亀の甲より年の劫」「蟹《かに》の甲より年の劫」があります。表現はちょっとちがいますが、意味内容の類似したものに「松かさよりも年かさ」があります。
イカは石灰質の大きな甲を持つ甲イカ類と、透明で、薄く、細い甲しか持たない筒イカ類に分けられます。骨のない軟体動物ですが、その代りに貝殻と同じ質の甲がついています。イカの甲は外套膜《がいとうまく》の内側の背にできた内殻で、ヤリイカでは角質からできていて、ペンのような形をしており、マイカでは石灰質からできていて盤状です。わたくしたちはイカの背腹の区別を甲で決めますが、イカ自身にとっては、甲は決して役に立たないものではありません。
甲イカ類に属するものとしては、マイカ・ハナイカなどがあり、本州・四国・九州に多く、一般に肉が厚いので、刺身やすしだねとして用いられます。マイカの大形のものを東京辺ではモンゴウ(紋甲)と呼んでいます。胴の中に舟形をした骨(甲)があるので、甲イカとも言います。関西では、灰褐色の背面に白色斑点が散在しているのでホシイカとも言います。また墨袋が発達しているので、一般にはスミイカの名で呼ばれます。
肉が厚く、美味で、前記のように刺身やすしだねにするほか、塩焼き・付け焼き・ウニ焼きなどもよい。
一方のハナイカは小形のイカで、体長三センチ内外。全体に暗灰色で、甲殻が菱形なので、東京ではヒシイカとも言います。味は優れていますが、産額の少ないイカです。
このほか、家庭用として、もっとも一般的なのはスルメイカ。スルメイカ科に属し、わが国沿岸で暖流の影響のある地域ならたいてい産するもっともふつうのイカです。胴の長さは三〇センチくらいで、肉はやわらかく、味はマイカやケンサキイカに劣ります。甲はなく、細くて硬い筋のようなものが胴の中を通っています。スルメに多く加工されるのでスルメイカと呼ばれます。九月から十一月ごろがうまい。漁獲高は数あるイカ類の中で第一位を占めています。煮物や照り焼き・天ぷらにすると味がよいものの、肉が薄いので、刺身にはあまり向きません。また、さっとゆでて輪切りにし、サラダの材料として用いたり、酢みそなどをつけて食べます。ただし、スルメイカの内臓は味がよく、塩辛を作るときや、南欧風のわた入りの煮ものなどによく用いられます。さりとて新鮮であることが条件です。内臓の袋がぷっくりとしていて、皮の色が艶やかなのは新しいものです。
きざまれて烏賊の水肌箸に透く 有流
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[#小見出し] 石首魚女《いしもちおんな》に食《く》わすな[#「石首魚女《いしもちおんな》に食《く》わすな」はゴシック体]
魚の種類によって、また、同じ魚でも時季によって、女性、とりわけお嫁さんに食べさせてはならぬ魚が、昔はいろいろありました。
○秋|鯖《さば》嫁に食わすな
○秋|※[#「魚+師のつくり」、unicode9b73]《かます》嫁に食わすな
○秋の秋刀魚《さんま》は孕《はら》み女に見せるな
○五月|鮒《ふな》にくい嫁に食わすな
○産婦に比目魚《ひらめ》食わすな
○鯊《はぜ》の洗いは嫁に食わすな
○夏蛸《なつだこ》嫁に食わすな
「石首魚女に食わすな」も、そうした一例で、イシモチは子なし──という迷信があって、子どもが生めない石女《うまずめ》に引っかけた親心の戒めとして伝えられてきました。衆知の如く「秋なすび嫁に食わすな」も、なすは消化がわるい上に、秋なすには殊《こと》に種子が少ないことから、子種《こだね》がなくなることを憂えて嫁に食わせない老婆心からで、イシモチの親心と似通っております。もちろんイシモチに子種がないわけではなく、春から夏にかけて、イシモチは浅海に押し寄せて産卵します。特にイシモチの卵巣はうまいと言って、魚好きの通は珍重しています。
石もちと云へども軽い肴なり
と、江戸の川柳子はからかっていますが、イシモチは頭部の中にある平衡器官の「耳石《じせき》」が、他の魚にくらべて大きいことによる呼び名です。体色は薄灰色で、銀白色の光沢があり、エラブタに大きな一個の黒色斑点がある魚で、体長約三〇センチぐらいになります。北は松島湾辺りから南はインド洋まで広く分布し、棲息水域の水温の関係で、成長に著しく差異があります。釣り魚として、釣りマニアには、おなじみの魚です。
関西や九州ではグチ、あるいはクチの名で呼びます。イシモチにかぎらず、ニベ科の魚は水中でも、ブーブーと相当大きな声を出し、それがあたかも「愚痴」をこぼしているようだから──というのが、名の由来だと言われます。イシモチには、ニベ科と、テンジクダイ科のイシモチがあります。ニベやヨシノボリ(ハゼ科)をイシモチと呼ぶ方言もあります。ニベ科のイシモチ(今回採り上げたイシモチ)は成長すると、ニベと略称します。
肉は淡泊で、秋にはとりわけうまいと言います。イシモチだけでなく、このニベ科の魚の多くはカマボコなどの練製品にすると、シコシコとした|あし《ヽヽ》(腰がある、座りがよいとも言う)があり、上級品ができるとあってほとんどが練製品にされるので、姿のままでは、一般の方には縁遠い魚──と言えるかも知れません。よく「にべもない」とか「にべもつやもない」と言って、無愛想な態度を言いますが、これはニベ科の海魚が語源です。ニベ(鰾膠・※[#「魚+免」、unicode9bb8]膠)は、ニベのうきぶくろから作る膠《にかわ》で、昔は接着剤として重宝されました。ですから「にべもない」と言えば、取りつく島もない──の意になるわけです。
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[#小見出し] 一鉢《いちはち》二|延《の》し三|庖丁《ほうちよう》[#「一鉢《いちはち》二|延《の》し三|庖丁《ほうちよう》」はゴシック体]
一鉢二延し三庖丁──とは、そば打ちの手順、または基本を示したことばで、同時に、そば作りの技術のむずかしさを言ったものとも言われます。
はたから見たら、そば作りは、ただ、粉をこねて、延ばして、切って、ゆでるだけの簡単なことに思えるかも知れませんが、そばを作っているときは、ちょっとでも気をゆるめることはできません。そばは生きもの──だからです。
この順に従って、手打ちそばの作り方をお話しすれば、まず一鉢の「鉢」は木鉢のことで、鉢延し包丁のうち、延し、包丁は、あざやかな手捌《てさば》きで、どなたの目にも分りやすい。しかし、むずかしいのは木鉢です。粉の状態が、厳密に言えば毎日ちがうからで、空気が乾燥しているときは、水が足りないので、ひび割れてきて、むずかしく、反対に、雨の降る日はらく。しかし、うどんとちがって、そばはちょっと水が多いと、やわらかすぎて、麺棒にかかりません。このように、粉に対する水の分量は、天候によって大きく左右され、湿度の高い夏と、乾燥した冬とでは、水の量の増減を計らねばなりません。
木鉢とは、そば粉に水(場合によってはつなぎの小麦粉、玉子など)を加え、大きな木鉢でこねる動作です。こね鉢の中のそば粉に手を入れたとき、水かげんが、ぱっと分るようにならないと、一人前とは言われないのですが、そばの気持ちがわかるようになるのには、なかなか年月がかかります。そば粉は水が十分にまざれば、粘りも出て打ちやすくなりますが、はじめは細かい粒になりたがるので、力を入れずによくかきまぜます。まぜているうちに米粒大の固まりになり、それが結びついて、さらに大きな固まりになるので、これを一つにまとめます。まとめながらよくこねて、割れ目のできないように、手で押さえつけながら、平らにまるくして、上から押しつぶします。この際、割れ目を作ると、後で延ばすときに、切れてしまうから、ていねいに扱います。
次に二延しの延しで大切なことは打ち粉を最初にたっぷり呉《く》れること。だが、それにもおのずから限度があります。打ち粉には二つの効果があり、先に打った打ち粉は、そばの中にしっかり打ち込まれ、裁つ場合の打ち粉は、包丁のすべりをよくして、ゆでるときに、湯の中に溶けて、そば湯になります。麺棒で「まるだし」を終わったら、「四つだし」「幅だし」「肉分け」「延し」「仕上げ」「たたみ」といった工程を経て、まるいものを四角にして、三本の延し棒で、だんだんに大きく延ばして、切りやすいようにたたみます。
延しの終わったものは台の上にたたまれ、いよいよ三包丁の包丁の出番。同じ角度で同じ太さに切ります。角度がちがうと、たたまれている下の方へ行って太さがまちまちになってしまうので、斜めなら斜めで、同じ角度の方がまだよい。
事ほど左様に、そば切り一つにも、さまざまな心遣いと、長年の習練による技術《コツ》がいります。
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[#小見出し] 一|焼《や》き二|膾棄《なますす》てようより煮《に》て食《く》え[#「一|焼《や》き二|膾棄《なますす》てようより煮《に》て食《く》え」はゴシック体]
昔から魚のうまい食べ方の順位として、「一焼き二膾棄てようより煮て食え」ということが言われてきました。一方「一|生《なま》二焼き三揚げ四干し五煮」などということも言われております。魚の種類によって、かかる順位もマチマチで、必ずしも一様ではありません。
第一の焼くという方法は、どなたもご存知のように、火熱によって魚肉を焼くのですが、これにもいろいろの方法があり、あるいは塩焼き、みそ焼き、付け焼き、その他種々の調理法があります。ともかく、魚肉を直接火に触れさせることが主眼で、その特徴としては魚肉から出る滋味が外に逃げ出さないという点にあります。
いかに焼き魚がうまいと言っても、ガスやレンジで焼いたのではうまくありません。焼き魚の味は、厳密に言えば炭火で焼いてこそうまさが分ります。炭火で焼くと、燻製《くんせい》のような理屈になります。火に落ちた魚の脂が燃えて、その炎と煙に魚の表面がいぶされ、これが繰り返されて焼けていく。ガスの火では、このようには焼けません。魚の脂が落ちたら燃えっぱなしで、脂が失われただけ魚がパサパサになってしまいます。
二番目の膾、つまり生食するということは、魚類各種の品質を玩味《がんみ》する点においては、もっともすぐれた方法で、生食してこそ、はじめて各種の魚の真の味が遺憾《いかん》なく発揮されるのです。しかも、生食は栄養価値から言っても、非常に結構なことですが、その代り寄生虫に冒されたり、中毒にかかったりすることがないとはかぎりません。今日では膾よりも刺身ということばのほうが一般的で、関西では「お作り」または単に「生」と言います。
刺身にもいろいろな作り方があります。主なものは平作り、糸作り、細作り、松皮作り、湯引き、それに洗いや叩きも刺身のうちに入ります。ひと口に、魚は新鮮であればいいと言っても、食べる頃合いがあります。例えばハマチのような大型の魚は、刺身にして直ぐ食べるより、少し休ませてから食べる方が味がいいし、中くらいのアジやカマス、イワシのような魚は、作って直ぐ食べるのがうまい。もっと小柄なイワシやキビナゴなどは、作りながら食べると、一層味がいい。
最後の煮るということについては、もちろん水の中で煮るのですから、魚肉の滋味が多少外へ出るということがあります。しかし、これも鍋の中で煮ますから、決して外へ逃げるというわけではなく、その外へ出た滋味が再び魚肉へ作用して味もつくでしょうし、また、いろいろの調味料を加えるのですから、なかなか美味となるのです。煮るということにも塩ゆで、潮《うしお》煮、清汁《すまし》、煮付けなど、いろいろの方法があるし、また、さまざまな調味料、特にわが国では、みりん、酒、砂糖、しょうゆ、みそなどを加えて、味を補うことになっています。
以上、三つの大別があるわけですが、その中の二つ、もしくは全部を、種々に取り合わせた料理法も多いのです。
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[#小見出し] 従兄弟《いとこ》同士《どうし》は鴨《かも》の味《あじ》[#「従兄弟《いとこ》同士《どうし》は鴨《かも》の味《あじ》」はゴシック体]
いとこ同士の夫婦仲は、鴨の味のようによい──ということで、睦《むつま》じいことのたとえ。
式亭三馬の『浮世床』に、鳥屋のちゃぼ八が、一羽残った青首の鴨を売りたてる口上に、
〈まづ此鴨《このかも》をめしあがつて御覧《ごらう》じろ。芳《かうば》しくて歯《は》につかず、従弟《いとこ》同士《どうし》の味《あぢ》が致《いた》す。北州《ほくしう》の千|年《ねん》も蜉蝣《ふいう》の一時《いつとき》、盧生《ろせい》が夢《ゆめ》も五十|年《ねん》、一時《いつとき》の栄花《えいぐわ》には千《ち》とせを延《の》ぶる……〉
と、言っているところから推しますと、鴨の美味を、いとこ同士の夫婦の味のよさにたとえているようです。鴨は縄文時代から食べられていて、江戸初期(寛永二十年板)の『料理物語』第四鳥の部には、鴨の調理法として、
汁 骨《ほね》ぬき いり鳥 生皮《なまかわ》 さしみ なます こくせう くしやき 酒《さか》びて 其他色々
と、さまざまな例が挙げられています。冒頭に「汁」と出てくることからもお分りのように、鴨は吸いものとして、もっとも珍重されていたようですが、男女間の睦じさを、どうして鴨の味にたとえたのか、その理由は、よく分りません。単によいものとして引き合いに出されている以上の、もっとエロチックな意味合いがあるのかも知れません。芭蕉の付け合いに、
夜更けて語ればいとこなる男 荷兮
縁さまたげのうらみ残りし 芭蕉
というのがあります。遊女が客として迎えた男と語り合っているうちに、なんと長年逢うことがなかった従弟であることが分ったという前句に対し、あの折に、邪魔が入らなかったら、今ごろは夫婦として、幸せな生活を送っていたかも知れぬ、かえすがえすも恨《うら》めしい邪魔であったことよ──と、付けているのでしょう。
この一句からも芭蕉は、かなりの訳知《わけし》りで、苦労人であったことがうかがえますが、農村辺りでは、今でも「いとこぞい」はありがちのことで、幸田露伴が『芭蕉七部集』の評注に、
「当人同士も薄々|其《その》事を知りながら育ち行く歳月の間、懐かしくも亦《また》羞かしくて、物心おぼえてよりは互に会ふことありても、まほには打|対《むか》ひかねて、逃げかくれするなどいふことも有る習なり」
というのも、うなずかれます。いとこぞいの夫婦というのは、本当に、睦じいものでしょうか。いとこ同士と言えば、四親等で、かなり濃く血がつながっています。それに田舎のように、近くに住んでいれば、家庭同士はもちろん、本人同士も熟知する機会も多いでしょうし、家庭同士・本人同士が知り合う機会の乏しかった昔の結婚においては、いとこぞいは夫婦仲を円満につづけさせる条件に恵まれていたということでしょう。ところで、野鳥中随一のうまさを誇る鴨も種類は多く、学者はこれを鴨、海鴨、アイサに三大別していますが、味わいのもっとも優れているのは鴨類で、海鴨がこれにつぎ、アイサ類はまずくてお話になりません。鴨の中でうまいのはオシドリをもって第一とすると言われますが、残念ながら現在は禁鳥です。
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[#小見出し] 色《いろ》は茄子《なすび》の一夜漬《いちやづ》け[#「色《いろ》は茄子《なすび》の一夜漬《いちやづ》け」はゴシック体]
今からざっと一〇〇〇年前、平安中期の宮中の法令集『延喜式《えんぎしき》』という本の中に「内膳司」という巻があり、そこに春菜、秋菜の漬けもののことが書かれていて、当時、すでに山菜や果物の塩漬けや、粕(糟)漬け、もろみ漬け……などがあったことが分ります。漬けものは相当古くから和食の重要な副食で、近頃、市販の加工食品の種類も実に多くなっていますが、その中でも漬けものは、もっとも古顔に属するものと言えましょう。
数多い漬けもの用野菜の中でも、なすは塩漬け、ぬか漬け、粕漬け、みそ漬け、芥子漬けなど、いずれの漬け方をしてもうまいもので、『延喜式』にも、すでに「塩漬け・醤《ひしほ》漬け・糟漬け」なすが登場しています。わけても一夜漬けのなすの新鮮な色合いは、衰えがちな夏の食欲をすすめてくれます。
茄子漬のこの色留守の母に告げん 公平
しかし、紫紺《しこん》色あざやかになすを漬けるのは、意外にむずかしいものです。色上がりよく漬け込むには、ぬか床が肝心で、手入れの行き届いたものでなければなりません。ぬか床熟成の主役となる乳酸菌は、かなり気むずかしい性格の持ち主で、常にぬか床をこの菌の発育に必要な環境にととのえるよう努力しなければなりません。よいぬかみそは適度に乳酸菌が繁殖して、一種特有の風味が形成されますが、なすの色素であるアントシアン系色素のナスニンは、酸性が強いと赤変してしまいますので、ぬか床にマメに手を入れ、攪拌《かくはん》し、乳酸菌と酪酸菌・酵母・雑菌などのバランスがくずれないよう注意します。手入れを怠ってバランスがくずれ、酸味が強くなりすぎると、覿面《てきめん》に色|褪《あ》せ、赤茶けてしまうことは、ご存知のとおりです。
常に新しいぬかを補充することも、大切な手入れの一つですが、全く新しいぬかだけでは、ぬかみその風味が出ませんし、色合いもきれいになりません。新しいぬかにはフィンチ(イノシトールの燐酸塩)が多く含まれているために、鉄、マグネシウム、カルシウムなどの金属イオンが結合して、不溶性のキレート化合物を形成してしまうため──だと言われます。
一方、ナスニンは、鉄、マグネシウムなどと結合することによって、安定した紫紺色を保つことは、よく知られています。このあたりに、どうやら、ぬか漬けなすの色合いをきれいにするためのコツが潜んでいそうです。昔からぬか漬けをつくるとき、ぬか床に古釘を入れたり、鉄ミョウバンでなすの表面を擦《こす》るのも、鉄イオンがナスニンと結合して、美しい紫紺色を呈するからです。
そのためには、専売公社の精製塩や食卓塩のように純度の高すぎる塩化ナトリウムを用いたのでは、なすの色がよく出ないのは当り前で、昔から使われてきた天然の粗塩《あらしお》のように、いくぶん塩化マグネシウムなどの含まれている塩を使いたいものです。
朝かほの龝待《あきまつ》いろや茄子漬 左次
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[#小見出し] 鰯《いわし》で精進落《しようじんお》ち[#「鰯《いわし》で精進落《しようじんお》ち」はゴシック体]
浄瑠璃『堀川波鼓』にも、
「よくよく見れば下女子《しもをなご》エエ、もつたいなやいまいまし。鰯で精進おちようとしたと」
と、使われているこのたとえ。イワシのような下等な魚で、せっかくの精進明けを祝うのはがっかりすることから、長い間耐えてきた気持ちが報いられないことの意味に用い、また、イワシのような魚で、魚肉を食べぬという精進を破る意から、つまらないことで努力がムダになることのたとえにも用いられます。因《ちな》みに「精進落ち」は、精進の期間が終わり、平常の生活に戻ることです。
運不運は、何も人間社会にかぎったわけではなく、およそ、生きとし生けるもの、いずれもこの適用を受けぬものはありません。魚族にしてからが、果報にめぐまれた魚があるかと思えば、一生わが身の不運をかこつものもあります。
さしずめ、タイやアユのようなものは、持って生まれた風姿の優雅さと味覚の上品さによって、最高の扱いを受け、ニシンやイワシのようなものは、栄養価値が優れているにもかかわらず、そうざいざかな以上の価値は認めてもらえず、終生食膳魚類の下積みとなって過ごさねばならぬとは、まことに哀れの極みと申さねばなりません。
腹立や毎日鰯つけてある 千燈
というあしらいを受けるに至っては、今さらのように「少数のものは尊ばれ、多いものは賤《いや》しめられる」──という運命を嘆かざるを得ません。
もっとも、ニシンに臭みがあるように、イワシにも特有の生臭みがあって、毎日の食膳に、この臭気が漂ったのでは、あるいは思いやりのなさに、腹立たしく思ったかもしれません。
イワシという魚名は、イヤシから出たものとの説もあり、昔は高貴の人は食べなかった──という史実もあります。そんなつまらぬ魚であるイワシで、せっかく魚肉を断って精進に励んできたのが台なしになったり、そのため不名誉な立場におかれたりすることのたとえに、表題のことわざは用いられます。下魚扱いを受けたイワシも、かなり古くから食用に供されていたようで、延長五年(九二七)に撰進した『延喜式』に、諸国の交易雑物として登場しています。
また、『古事談』(一二一五年板)という古代から平安中期までの説話を集めた本では、イワシは良薬に匹敵するほど栄養価の高い魚であると説いています。時代が降《くだ》って、江戸時代の『本朝食鑑』(一六九五年板)には、
「陽を盛んにし、陰を滋ひ、気血をうるほし、筋肉を強め、臓腑を通じ、老を養ひ、弱を育て人を肥健せしめる」
といった具合に、たいへんな賛辞も贈られています。漁場の人以外に味わえないものの、獲《と》れたてのウルメイワシを手でさばく刺身は絶品で、また、ウルメ干しは数ある魚の干ものの中でも高級品扱いを受けているのですから、世の中、まんざら見捨てたものではありません。
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[#小見出し] 岩茸《いわたけ》と運《うん》とは危《あぶ》ないところにある[#「岩茸《いわたけ》と運《うん》とは危《あぶ》ないところにある」はゴシック体]
木曾谷に昔から伝わるこのことわざも、いわたけを知らないとピンと来ないかも知れません。いわたけは「石茸」とも、また「木耳」(きくらげ)に対して「石耳」とも書き、漢名「石芝」と言います。地衣類の一種で、深山の岩肌のはなはだ危険なところに生えています。これを採るには釣りカゴに入るか、ロッククライミングの要領で、山頂の大木などより綱を下《おろ》して、岩肌に添って採取します。いわたけの生えているところを遠くから見ると、まるで烟《けむり》のようです。それを目印にして、釣りカゴか綱に生命《いのち》を托して採ります。これは樵夫《きこり》が副業とするもので、『漁樵問答』などの図によく描かれています。
形はきくらげに似て円く、浅く、皮のように重なって生え、大きなものは直径一〇センチもあります。表面は灰褐色で、裏は黒くて毛があり、その中枢に短い茎があります。乾燥して食用に供するわけで、山海の珍味として、どのような料理にも珍重して応用されます。
昔は不老長寿の妙薬とされ、「久しく食へば血色を増し、老に至っても精を減ぜず、紅顔美目にして、眼を明らかにする効あり」と言われ、近頃ではガンの特効薬──などとも言われています。主産地は鹿児島や宮崎県で、四季を問わずに採れます。夏採りに行くと、いわたけの生えている岩肌の|くぼみ《ヽヽヽ》に、よく毒蛇が日向《ひなた》ぼっこをしているそうで、採るには、まったく生命がけだと、樵夫《きこり》に聞いたことがあります。東京近郊では、秩父の山奥辺りでも採れ、わたしが最初に出遭ったのも、秩父の鄙《ひな》びた鉱泉宿で、乾燥品を袋に入れて売っていました。
いわたけは魚類、精進のいずれを問わず、平椀にも茶碗にも、刺身にも盛り分けにも、壺にも平皿にも、汁、蒸しものにまで用いられ、きくらげに似て、それより食味もよければ、応用される範囲も広いものです。
料理に使うときは、乾燥したいわたけを水に三時間ぐらい漬けてもどし、水を替えて、よく洗って砂気を取り去り、一〇分間ほど湯煮してから石づきのところを指先でつまみ取り、ほどよいやわらかさに煮ます。冷めてから掌の中で、そろそろと念を入れて、何度も水をとり替えながら、黒い汁が出なくなるまで丹念に揉《も》み洗いをします。俗に「青空を仰いで揉むと、色がよく出る」などと言いますが、確かにこうしてていねいに揉むと、紺碧の色がいわたけの粘りとともに出ます。そうしてから適宜に包丁をいれて切り放し、水気をしぼって、清酒、砂糖、濃口じょうゆを合わせた調味汁で煮込みます。
懐石の「八寸」などに、「岩茸甘煮|山葵《わさび》あえ」が出ますが、こんな場合は、歯ざわりを感じる程度の煮かげんを心がけることがうまく食べるコツで、わさびをねっとり卸して、濃口じょうゆで溶き合わせ、だしでいわたけの甘味をさっと洗ってから、汁気をよくしぼってまぜ合わせます。ところで、このことわざですが、「男はここ一番と思う時は、全力を挙げて賭けてみよ」というほどの意味でしょうか。
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[#小見出し] 独《う》 活《ど》 と 鯡《にしん》[#「独《う》 活《ど》 と 鯡《にしん》」はゴシック体]
「独活と鯡」と言えば、夫婦の仲のよいことのたとえに用いられます。それと言うのも、ニシンの酢みそあえにうどを添える相性がよく、おいしいからで、料理人たちはこうした相性のよいものを、昔から「出会いもの」と呼んできました。
料理を作るとき、ある材料に、きまっていっしょに使う材料や調味料があり、事実、お互いをいっしょに使うことによって、うまさが生み出されるからで、「出会い」、つまり、「よい組み合わせ、よい配合」の意味に使っています。
寒い季節の出会いものの例を挙げるとなると、「カモネギ」など、そのよい例と言えましょう。野鳥肉の中でもズバ抜けたうまさをもっている鴨肉に、やわらかくて、甘味のある冬ねぎを配して、野鳥肉特有のクサ味を中和させ、相乗的なうま味を引き出した先人の味覚は確かなもので、鴨鍋を食べるたびに、「カモネギ」の取り合わせの妙に感歎します。
京のそうざい料理としておなじみの「いもぼう」。芋と棒ダラ、ほんとに性が合っていると言うか、どちらも|あく《ヽヽ》が強いものなのに、いっしょにたくと、その|あく《ヽヽ》が両方にうまいこと作用して、どっちもおいしくなる。ほかのものでは、なにをもってきてもこうはいきません。
「麦とろ」なども出会いものの最たるもので、言わずと知れたあたたかい麦飯にとろろ汁をかけたもので、うまいばかりか、摺《す》りおろしたとろろにふくまれるジアスターゼによって、麦飯の消化が促されるので、いくら食べてもお腹をこわすことはありません。
雪間より薄紫の芽独活かな 芭蕉
うどは今日では栽培植物となって、春早々芽を出させ、白色の茎に紫色にほんのりと彩りしたところは、なんとも美しく、また、すがすがしい香気は数ある芽の食味の中でも上乗のもの。食べ方はいろいろあって、よく知られていますが、香気を十分味わうには、生のまま短冊形に切って、塩で食べるのがいちばん。酢みそにしてもよく、アンコウ鍋に入れて煮るのは、この道の通《つう》がよく知っています。
ところで、うどに引き合わされるニシンも食べ方はさまざまですが、やはり、酢みそあえが、うまさを発揮させる調理法と言えましょう。酢みそあえには塩ニシンを用いることもありますが、生ニシンなら、三枚に卸し、腹肉を小骨とともにすきとり、さらにウロコのついた皮を剥《は》ぎます(指先に塩を少しつけてむしりとると、たやすく剥げます)。後小口から、斜めに刺身のように切ったものを、丼のようなものの中に、塩と酢をまぜたものを入れ、これに二、三〇分漬けておきます。別にみそをよく摺り、みりん、砂糖、酢をまぜ、少し硬めにして、酢漬けにしておいたニシンをよく絞ってまぜ、しょうが、ねぎの細切りをまぜ合わせ、皿に盛るときに、針しょうがを振りかけると、体裁がよくなります。うどの短冊切りやわかめをまぜれば、まさに恰好の出会いものとなります。
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[#小見出し] 鰻《うなぎ》に梅干《うめぼ》し[#「鰻《うなぎ》に梅干《うめぼ》し」はゴシック体]
「鰻に梅干し」は食べ合わせ(食い合わせ)がよくありません。「鰻に生梅」ともいい、岡山地方では「鰻と梅干しとは食べ合わせぬものである」と言います。『広辞苑』によると、「いっしょに食べると害になるというもの。また、それをいっしょに食べることの禁忌。ウナギと梅干、タニシと蕎麦の類」とあります。
江戸時代の儒者貝原益軒が健康、長寿を保つための書として著わした『養生訓』にも「同食の禁忌多し」として、例えば豚肉ならしょうが、そば、こすい(セリ科の一種、こえんどろとも言う)、炒り豆、梅、牛肉、鹿肉、スッポン、ツル、ウズラを忌む──などという項目が三〇種以上挙げられています。ですが、食べ合わせというのは迷信であると言ってよい。というのも、ある食物とほかの食物とをいっしょに食べたとき、もともと双方に含まれていない新しい毒物が造られて、中毒症状が起こらねば「食べ合わせがわるい」という結果になりません。こうした結果を科学的に証明したものは未だありません。
食べ合わせ例は「鰻に梅干し」のほか、古来言い伝えられてきたものに、「天ぷらと西瓜《すいか》、じゃがいもと薄荷《はつか》、海老《えび》と胡桃《くるみ》、家鴨《あひる》と山羊《やぎ》、……」など無数にありますが、今日ではみな迷信と考えてよい。ただし、こうした食べ合わせ禁忌のリストを見て言えることは、これらの多くは食中毒の季節に食べると、食あたりしやすいものであることです。その証拠にはカニ、エビ、タコ、タニシなど腐敗しやすいもの、それに消化しにくいもの、そば、タニシ、ハマグリなどが、食べ合わせの対象になっています。また、一方の食品にときどき有毒物を含むものがある場合、例えばフグと青菜の例では、フグがそれにあたります。こうした事例から、「食べ合わせ」は一概に迷信とのみ言い切ってしまわず、昔の人たちが身につけ、言い伝えてきた素朴な食品衛生学──と考えてもよいでしょう。
半面、「食べ合わせ」には単なる語呂合わせのようなものもあります。例えばカニと柿などというのは、明らかに言葉の遊び──と言えます。益軒は『養生訓』の巻末に、「こうした健康法や食事の注意は、どうかと首をかしげたくなるものも多いが、昔からの言い伝えを忠実に記述してみた」と、わざわざことわり書きをつけているくらいで、益軒自身がこの「食べ合わせ」を、全面的に信じていたわけではありません。
もともと「食べ合わせ」は古くから中国で行われた陰陽《おんよう》五行説から出たもので、食べ物をふくめて万物はみな陰と陽に分離されるということから、組み合わせてよいものと、よくないものが決められました。それに昔の人の経験が加味されて「食べ合わせ」の禁忌が生まれたものと思われます。それゆえ、「食べ合わせ」の科学的根拠はないものの、食中毒の多い季節には注意が必要だし、消化のわるいものは、ほどほどにというのは、迷信であってもなくても大切な生活の知恵ではないでしょうか。
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[#小見出し] 蝦《えび》で鯛《たい》を釣《つ》る[#「蝦《えび》で鯛《たい》を釣《つ》る」はゴシック体]
数あることわざの中でも、これはずいぶんと出番の多いことわざです。「飯粒で鯛を釣る」とも言い、わずかな元手で、大きな利益を得ることを言います。また、わずかな贈り物をして多大の返礼を受けるのたとえにも用います。俗に「えびでたい」「えびたい」。
合巻《ごうかん》(『合巻本』の略称。文化〈一八〇四〜一八一八年〉以後、江戸で出版された草双紙の一種。長編の草双紙数冊分を合本にしたもの)『教草女房形気』の二五・上には、
「蝦《えび》で鯛《たい》を釣《つ》る積《つもり》にや、出かけて行きしが、(中略)丸《まる》裸躰《はだか》となりて、壺でも振つて居るならん」
といった使われ方をしています。事実、タイを釣るとき、餌にはエビ類が多く、特にサイマキと呼ばれる小型のクルマエビは最上。このごろではサイマキの値段も結構高く、このことわざ、値段の対比から言えば、昔ほどの差はありません。
餌となるエビは尾を噛み切り、そこから鉤《はり》を刺し通しますが、頭を下にして、なるべく真っ直ぐの状態にするのがよいとされています。当りは、かなりはっきりしているので、初心者でもわかりやすく、釣果《ちようか》も魚の王者と言われるタイだけに美しく、持って帰ってもよろこばれること請合いです。
同義語に「しらさ海老にて鯊《はぜ》を釣る」がありますが、シラサエビ(シラタエビとも言う)は河口にいるスジエビの類です。一説によると「蝦で鯛を釣る」のエビは「飯粒《いいほ》の変」と言います。すでに『土佐日記』にも「いぼで鯛釣る思ひ」と記され、江戸時代の『譬喩尽《ひゆづくし》』にも「い|ひ《い》ぼしてつるとや」と記されています。このいひぼは疣《いぼ》、餌《えぼ》(えば)、飯粒《いいぼ》の三説がありますが、文字からも推察できるように飯粒説が有力です。ほかに、「麦飯《むぎいい》で鯉釣る」(『和漢古諺』)があり、「しゃく(蝦蛄《しやこ》)で鯉釣る」「蝦を将《も》って鼈《べつ》を釣る」などの類語があります。しゃくは蝦蛄ではなく、虫の名といった説もあります。
海老で鯛下女が宿から麦こがし 雑俳『柳多留』一五四
わが国ではタイが殊《こと》のほか珍重されるので、ほんもののタイにあやかろうと、何々ダイと名付けられる|あやかりたい《ヽヽヽヽヽヽ》が一八〇種に及ぶと言いますからおどろきです。そんな中で、一般に釣り人たちがタイ釣りとして楽しむ魚は、マダイ・チダイ・キダイの三種で、クロダイ・ヘダイは、それぞれ別な釣り方で釣ります。
いわゆる乗っ込み期の大マダイ釣りは、かなりの熟練を要しますが、二、三〇センチの中型、小型のタイは初心者でも条件さえととのえばよく釣れます。特に秋のチダイは釣り場の水深が二〇メートル前後の浅場が中心となるので、タイ釣り入門には絶好のチャンスです。
数多いタイの中で、やはり、マダイは最高で、淡泊な中に豊かな風味を秘め、生臭さやクセがなく、頭から尾まで余すところなく食べられ、さすがに海魚の王の評価は当を得ています。
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[#小見出し] 置《お》き酌《じやく》失礼持《しつれいも》たぬが不調法《ぶちようほう》[#「置《お》き酌《じやく》失礼持《しつれいも》たぬが不調法《ぶちようほう》」はゴシック体]
文字通りお酌をする際のマナーを教えたもので、置いてある盃に注《つ》ぐのは失礼ですが、また盃を持たないのもよくありません。このように言って、盃の酒を干すように勧めます。
「さあ、おひとついかが」「どうも」と、まず一杯ちょうだい。「もうひとつ」「ハイ」と、また一杯。「まあ、早いこと、じゃあかけつけ三杯よ」「ハイよ」と、また一杯。ここいらへんで、ちょっとウルサくなります。こいつもグッと干してしまいます。相手は、まだ徳利を手に持って控えています。「いいよ、ここへ置いてくれ」「アーラ、もひとつ」。黙って、また、一杯。これを干さずに七分ぐらい残して、盃を膳に置くと、「お強いんですのね」とかなんとか言って、また、お酌をしかけます。「いいんだよ、ボクは手酌のほうがいいんだから」「あら、そんなことおっしゃらないでお酌させて」「まあいい、置いといて、ここへ」「でも、もひとつ」。お酒をムリ強いさせられることくらい嫌《いや》なものはありません。先人もお酒の|やりとり《ヽヽヽヽ》には閉口したらしく、わたしの手元にある『躾方之事《しつけかたのこと》』という小笠原家伝書には、わざわざ「盃ノ次第酌ノ事」「同呑様ノ事」という章を設けて、武家の酒の作法について、事細かに教えています。実際、タイミングよく、出過ぎず遅れずお酌をするのは、なかなか至難のワザで、その点、最初の一杯を注いで、あとはお預け徳利にする懐石流が、酒呑みにはいちばん心落ちつきます。
厳密に言って、盃は先ず上位の人から下位の人へ下さるべきもので、宴会が始まったら正席または代表のあいさつをしてくださった所へ招待側の代表が盃をいただきに参上します。そして返盃をして次に回ります。お客の方も先ず左右から始めて二、三人先まではこうした順で、自然に行われるべきです。あとは特に親しい人などへ芸者を取次にして盃を送ります。芸者から盃を受け取ったら、呉れた人の方に向かって会釈をします。それゆえ、盃を頼んだ場合には、それが先方へ届いたときに、遠くからでも目礼し合うように心がけるべきです。席の始めの内に下席から上席の人に盃を差したりするのはマナーに反します。方々から盃が来たら適当に注いでもらって、すぐに間違えず返盃すべきです。
ビールの好きな人は、コップにまだ残っているのに、注がれるのをひどく嫌います。ドイツでは「注ぎ足し無用」のことばがあるくらいで、ビールほど気圧、温度に敏感なものはないので、理にかなっています。「置き注ぎ失礼」とも言いますが、原則としてグラス類は、置き注ぎのほうが正式で、手に持つなら自分で持って、注いでから客に渡します。西洋お酌法です。しかも、日本酒はあふれるほどに注ぐが、洋酒は総じて七分目ほど注ぐのがマナー。例外としてブランデーは香りを楽しむ酒であるため、グラスを両手にはさんで、暖めて香りを立てていただくという意味で、下から二〜三分目しか注ぎません。
お酒を気持ちよく飲むために、献酬はほどほどにし、注ぐときは、飲むほうの好みを聞いて注ぐようにし、好意の押売り、ムリ強いは避けるようにしたいものです。
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[#小見出し] 怒《おこ》って大根《だいこん》おろしを摺《す》ると辛《から》くなる[#「怒《おこ》って大根《だいこん》おろしを摺《す》ると辛《から》くなる」はゴシック体]
「料理には気持ちが移る」「心のありようが味に出る」とは、さる有名な料理人の直話《じきわ》ですが、朝の出がけに夫婦ゲンカしたりして気持ちがクサクサしていると、調味や味に端的にその気持ちが表われて、一体きょうの料理のまずさかげんはどうしたわけだろう? と首をかしげることがあるそうです。平常心が失われれば、調味の匙《さじ》かげんも狂うだろうし、焼き物の場合など、焼きかげんにムラが出て、極端に味に影響が出るのは十分考えられます。
お酒の好きな方なら、どなたも体験がおありでしょうが、それがハッキリと分るのが酒の燗《かん》です。ひと口に「酒《さけ》の燗《かん》は人肌《ひとはだ》」と言っても、これがなかなかむずかしく、その程合いを得ることはベテランのお燗番でも、その日によって多少の誤差が生じます。この程合いの|うまいへた《ヽヽヽヽヽ》で、飲み心地はまるっきりちがってきます。上等のお酒なのに、舌もヤケドしそうな熱々の酒を出されたりすると、「何かふくむところがあるのかナ」と、つい思ったり、反対にぬる過ぎるのも、せっかくいい気持ちでくつろごうとしている気勢を殺《そ》がれて、ガッカリしてしまいます。そればかりか、お燗をした人の取り組みの姿勢が腹立たしく、口先で調子のいいことを言っても、こころのいいかげんさが見え透いて、|人となり《ヽヽヽヽ》まで疑いたくなってきます。
これも知り合いの料理人から聞いた話ですが、「おむすび」のような簡単な食べ物にも同じようなことが言えるそうで、ひと口食べただけで崩れ出すようなゆるい結び方のおむすびのだらしなさは、食べる人をみじめな気分にさせますし、かと言って、ごはん粒がつぶれてしまうほど、かたく握ったものもおいしくいただけません。ほどよく握る──このへんの呼吸は、全く作る人の真心の投影としか言いようがありません。鼻歌まじりで、気もそぞろに握ったり、何かほかのことで腹立ちまぎれに握ったりしたら、おいしいおむすびになるわけがない──と、本人は反省を籠《こ》めて話してくれました。お医者さんだけでなく、飲食店も家庭の主婦もお客や家族の健康を預っているわけですから、真心を籠め、細心の注意を払って、料理しなければいけないと思います。まさか怒って摺ったからと言って、大根おろしが辛くなるとは思えませんが、心のありようは確かに味に反映します。それを強調したいばっかりに、少し誇張はあるものの、こう表現したのでしょう。料理を作る際には、常に平常心を保つように心がけ、料理は作る以前の心構えから味作りが始まる──と、心得て、取り組んで欲しいものです。
ところで、大根おろしのから味ですが、酢を加えると、から味が少し減ります。酢が酵素の働きをおさえるからで、また、このから味は揮発性なので、熱を加えるとなくなります。ですから大根おろしを煮る料理、みぞれ汁、みぞれ煮などには、から味が残らないわけです。
大根は摺りおろすと組織がこわれて、酵素が働き出し、時間が経つにつれて、だんだんから味が減少してきます。ですから、おろす前に受け皿に酢を落としておけば、から味をおさえるばかりか、ビタミンCの損失も防ぐことができます。
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[#小見出し] 男伊達《おとこだて》より小鍋立《こなべだ》て[#「男伊達《おとこだて》より小鍋立《こなべだ》て」はゴシック体]
男の面目を立てるために気張るよりは、差し向かいで睦《むつま》じく食事するほうが得である。つまらぬ意地を張るのは損であることのたとえに用いられます。
男伊達(男達とも書く)──江戸時代、男気があり、強い者をくじき弱い者を助け、信義を重んじ、義のためには命をも惜しまない気風《きつぷ》を誇りましたが、実際には、腕力の強い者や無法の徒でした。ところで、「男の面目を立て通したり、意地や見栄を張ること」より重んじられた「小鍋立て」は、字義通り小鍋を用いて手軽な飲食物を調理すること、また、その料理を食べることで、雑俳『柳多留』に、
なまにえなうちになくなる小なべだて
と、詠《よ》み込まれています。露地の奥の小鍋立て──などといった使われ方をして、親の意に反し、自分の好きな女《ひと》と、露地の奥に、世をしのんで隠れ棲み、小鍋立て、つまり差し向かいの鍋ものなどを楽しみ、ひっそり生きている、そんな印象で、さしずめ織田作の『夫婦《めおと》善哉《ぜんざい》』に出てくる柳吉と芸者上がりの蝶子の世帯を連想させる風景です。「小鍋立て」には不道徳とまでは言わないまでも、あまりおおっぴらにはできない食事風景の匂いがします。
事実、「小鍋立て」は、一家の正規の食事のほかに、随時、食物を煮炊きして食べることを言い、主人夫妻の管理する家の火から分かれて作った食事をするものとして、近年までは不道徳なものとされていました。「男伊達より小鍋立て」は、どうやら、気ばかりよくて、お調子者で、意志の弱い夫に、気の強いしっかり者の女房が言うときのセリフ──といった感じがします。蝶子のセリフと言っても当てはまるようなイメージです。
昔の「小鍋立て」には、どんな鍋が使われたでしょうか。身を粉にして稼いだことのない道楽息子の手許不如意の暮し向きでは、土鍋あたりが適当でしょう。稼ぎはわるくても、親のすねかじり時代に味わった美食趣味で、いっぱしの食い道楽でもあったでしょうから、現実の暮し向きをよそに、材料の吟味にうるさく、あれこれ口をはさんでは、女房にたしなめられる場面も多々あったでしょう。土鍋はこわれやすいものの、値はやすく、しかも、熱のあたりがやわらかく、一度加熱すると熱が逃げにくく、余熱が大きく、現在でも湯豆腐、鍋焼きうどん、寄せ鍋などに重宝されています。
囲炉裏や七輪の上で、コトコト煮込んだ鍋もの。昔から冬は鍋料理が幅をきかせる季節で、寒さが身に沁《し》みる夜に、湯気の立つ鍋を囲んでの夕食は、身も心も暖まってきます。冬になると、台所仕事がつらくなる主婦も、鍋料理なら、材料を洗って準備しておくだけで済みますし、野菜、肉、魚、貝となんでも入れられ、栄養のバランスもとれます。暖かくて、手軽で、しかもおいしい──三拍子揃った鍋料理が、冬の食卓の主役に選ばれたのも、それなりの理由《わけ》があったわけで、たとえ不道徳と言われようと「小鍋立て」が重宝されたのもムリからぬ話です。
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[#小見出し] 駆《か》けつけ三杯《さんばい》[#「駆《か》けつけ三杯《さんばい》」はゴシック体]
そろそろ涼風が吹き、夕方、ちょっと肌寒さを覚えるころになると、ほどよくお燗《かん》したお酒の温《ぬく》もりが恋しくなります。ふだん疎遠になっている友の顔を想い出し、ひと晩、銚子を傾けながら、じっくり話してみたい思いに駆《か》られます。
「酒《さけ》は憂《うれ》いを掃《はら》う玉箒《たまははき》」などと、昔の人はうまいことを言っていますが、酒には確かに忘憂の働きがあります。それも心許した友との語らいがあれば、盃をあけるピッチも、おどろくほど早まります。暮から正月にかけて、折に触れ飲む機会が多くなりますが、宴会の席へ、止むを得ぬ打ち合わせや来客などで、遅れて入って行くと、「まあ、駆けつけ三杯」と、お酒を振舞われるのが、日本の酒宴のしきたりになっています。「駆けつけ三杯」というほかに、「今入り三杯」「遅れ三杯」などとも言い、いずれも、酒席に遅れてきたものには、立て続けに三杯飲ませる習慣があり、こうしたときに、このように言って、遅れてきた者に酒を勧めます。こうした習慣にも、調べると、ちゃんとした由緒《ゆいしよ》があります。
武家の酒宴の作法の一つに「式三献《しきさんこん》」という作法がありますが、饗宴で献饌《けんせん》ごとに酒を勧めて乾杯することを三度繰り返します。これは武家の宴には必ず最初につき、これを済ませないと、正式の宴会に入れない約束があります。「駆けつけ三杯」は、この式三献の儀の変型で、式三献は結婚式の三三九度の源流でもあり、主君と家臣の間で肴《さかな》を替えながら三回の盃の応酬をし、その後、食事と酒宴になります。わたしの手許にある『躾方之事《しつけかたのこと》』という有職《ゆうそく》の古書には、式三献の内訳を、次のように記しております。
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初献目 引渡
一、初献 梅干 海月《くらげ》 一、二献目 酢 生姜《しようが》 ウチ身 サシミノ事也 一、三献目 塩 生姜 ワタイリ也 右三種ニテ是ヲ一献ト云也
二献目
一、膳部、本膳、二、三、タトヘバ五ツ目迄也、右是ニテ一献
三献目
一、初献目 引渡 一、二献目 餅盛様有 ザフニ 一、三献目 ヒレノ物 吸物
以上、是迄三献ト云、膳部共ニノ事也、物ノ数、九膳有、膳部モ物数イクツ有テモ三膳ニヘウシ、以上、三々九度ノ祝事也
[#ここで字下げ終わり]
「引渡《ひきわたし》」は、本膳に杯を三つ添えた膳部のこと。「ワタイリ」は腸煎のことで、魚介類のわたにみそまたは塩と酒とを加えて煎り煮にしたもの。江戸時代の有職故実書『貞丈雑記《ていじようざつき》』六に、「腸煎は鯉の腸を煎て盛様《もりよう》は頭と尾ともりて中に腸を盛也。是は料理の時也。内躬《うちみ》には右に生姜左に酢也。腸煎は塩と生姜也」と記されています。想えば、今でもわたくしたちは知らず識らずのうちに、「式三献」そのものではないにしろ、酒宴の儀礼をやっているわけです。
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[#小見出し] 鰹《かつお》は刺身《さしみ》刺身《さしみ》は鰹《かつお》[#「鰹《かつお》は刺身《さしみ》刺身《さしみ》は鰹《かつお》」はゴシック体]
高波をえいや/\と鰹舟 素逝
昔のカツオ漁は、いわゆる三十五反の帆を巻き上げ、八丁櫓勇ましく釣りに出ていたものですが、やがて明治四十年ごろから、漁船に発動機が取り付けられ、次第に漁場が沿岸より遠くになり、船体も二〇〇トンくらいの大きさとなり、八丁櫓時代には釣りの効果を上げるのに竹へらで海面へ水を撒《ま》いていたのが、今日では舷側に機械力の撒水装置を備えたり、無線電信を備えたり、機械化が進んでいます。
漁法はアメリカ式の漁群を取りまいて獲《と》る巾着網なども試みられたりしていますが、本格的なのは、昔ながらの勇壮活発な一本釣りで、一人前のカツオ釣りになるには、かなりの年季を要します。
ご存知のようにカツオはサバ科に属する回游魚で、二〇度Cほどの水温を求め、南の海からイワシを追って、春から夏にかけて日本の近海へとやってきます。南九州の沖に姿を現わすのが三月ごろ。その後、四月から五月にかけて紀州沖から房総沖へ、さらに七、八月ごろには、三陸沖から北海道沖へと北上して行きます。
サバに似て大きく、でかいのは六〇センチにも達し、背は鉛青色で、腹は銀白色。たいていの魚なら体全体にウロコがあるのに、カツオは胸ビレの辺りに、わずかに甲状になったウロコがあるきりで、全身滑らかな皮膚に覆われ、体側には縦走する数条の濃青色の線があります。肉の味わいもさることながら、こうした姿体が、江戸っ子の粋《ヽ》と|いなせ《ヽヽヽ》な感覚にマッチして、よろこばれたのでしょう。
俎板《まないた》に小判一枚初がつを
其角《きかく》の句でもおわかりのように、カツオの値段は元禄(一六八八〜一七〇四)のころでも相当の高値を呼んだようです。それと言うのも、五月ごろのカツオは脂が乗ってうまい上に、江戸時代にはカツオ舟が小さく、漁獲量も少なく、江戸っ子の多少の見栄も手伝って、高値で取引きされたのでしょう。
鮮度《いき》のいいカツオなら、やはり、刺身で食べるのが本命で、今日ではしょうがじょうゆか、にんにくじょうゆが添えられますが、江戸時代には芥子みそが主だったらしく、古川柳にも、
初鰹銭と|からし《ヽヽヽ》で二度|泪《なみだ》
初鰹そばで茶碗をかきまはし
などと詠《よ》み込まれています。カツオには一種独特の味と匂いがあるので、生食の場合にかぎらず、刺激の強い香辛料や、香味野菜などをあしらうことが必要です。
刺身は、まずカツオを三枚におろして、血合いと腹骨を取り、皮を引いて、ふつうの刺身より少し分厚く造って器に盛り、青じそ、たでなどをあしらい、好みによってはおろしにんにくを添えます。ふつうはおろししょうがを付け合わせ、しょうゆは別|猪口《ちよこ》に入れて添えます。
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[#小見出し] 脚気《かつけ》に麦飯《むぎめし》[#「脚気《かつけ》に麦飯《むぎめし》」はゴシック体]
妙に体が疲れやすい。脚の感覚がなんとなくおかしい。脚にさわるとピリッと痛んだり、逆に鈍い感じがしたりする。動悸《どうき》、息切れがする。浮腫《ふしゆ》(むくみ)がくる。特に、下肢を指で押すとへこむ。指の動きがなんとなくぎごちない──こんな症状が出たら、まず脚気と思ってまちがいありません。豊かな食糧事情の現代、脚気なんて……と、思われるかも知れませんが、消息通の話によると、意外と若い人たちの間に、この病気が増えているそうです。どうやら原因は偏食。一見優雅な生活をしているように見えても、食事にまでお金が回りかねたり、遊ぶのに夢中で食事作りの手間ヒマを惜しんで、ついついインスタント食品に頼りがちの暮しがつづき、いつの間にがビタミンB1不足に陥っている──というのが実状のようです。
脚気の原因は、ビタミンB1不足ですが、日本人の成人の必要量は、わずか二ミリグラムほどですから、偏食しなければ、まずまず脚気にかかることは考えられません。ひとり暮しをしていると、とかく食生活が不規則になり、偏食に陥りがち。そこで手軽なB1不足解消法として、昔ながらの麦飯食を見直してみたい。
麦は米よりビタミンやアルカリ成分が多く、しかも値段が安く、混入して常食しても倦《あ》きがきません。近ごろの真白に精白した押麦でも精白米にくらべると、ビタミンB1やB2は約二倍で、七分|搗《づ》き米とほぼ同量、またカルシウムや鉄などのアルカリ性ミネラルは約四倍も多く含まれています。麦飯は単に麦に含まれているビタミンBやミネラルが多いというだけではなく、精白した押麦でも白米に比べると繊維が二倍以上もあり、これが腸管内でビタミンB1やB2の生産に大いに役立ちます。また、麦の短繊維は腸の蠕動《ぜんどう》運動を助け、便通をよくし、消化液の分泌を促して、消化器官の活動を活発にします。
「麦飯を食べると腹具合がいい」
というのは、このせいです。その上、好気性菌(空気を好む細菌)のよい培養基となるので、細胞の老化を促進させるアミンを生産する嫌気性菌をおさえつけてくれる、つまり若返りに役立つわけです。このように麦飯は、わたくしたちの健康保持増進に効果があり、脚気や便秘症以外にも、例えば食欲不振、高血圧、糖尿病などの治療や予防に役立つ食品と言えましょう。
麦飯以外に、B1を含む動物性食品としては、おなじみの豚肉、牛、豚のレバー、羊肉、馬肉、それに鶏肉、鶏卵、ウズラ肉、八ツ目ウナギ、スジコ、めふん、ハム、ソーセージなどが挙げられます。植物性食品としては、玄米などの穀物類、もやし、にんにく、そらまめ、ピーナツ、セロリー、アスパラガス、ピーマン、パセリ、ごぼう、小松菜、かんぴょう、マッシュルーム、えのきだけ、しいたけ、はつたけ、わさびなどがあります。このような食品群を見ますと、ふだん、片寄った食事をしていなければ、いずれか一、二品程度は、摂取しているはずで、B1不足に陥るような事態は避けられます。
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[#小見出し] 蟹《かに》は食《く》うともがに食《く》うな[#「蟹《かに》は食《く》うともがに食《く》うな」はゴシック体]
カニの肉や内臓は食べても、カニのエラ(鰓)、ガニは食べてはいけない──ということ。エラはごくうすいキチン質の膜の集まりで、食べてもガサガサしていて、味もなく、不消化であるところから、こんなことわざが生まれました。かと言って、ガニは有毒なものでは決してありません。ただエラの付近には(もちろん、ここばかりではありませんが)、肺ジストマなどの人体の寄生虫の幼虫が宿っているので、とりわけ、淡水産のものは料理に気を配る必要があります。同種のことわざに「鳥は食うともどり食うな」がありますが、ドリは鳥の肺臓の方言で、鳥は食べても肺臓は食わぬものだということです。ガニ同様、鳥の肺臓は、口にすると、ちょうどガムを噛んでいるような感じで、うまいものではありません。
ところで日本人のカニ好きは、今に始まったものではなく、すでに『古事記』に、「この蟹や いづくの蟹 百《もも》づたふ 角鹿《つぬが》の蟹……」とあるように、今日の山陰・北陸地方で、冬捕獲されるズワイガニ(山陰ではマツバガニの名で呼びます)が、そのころ、もう食膳に上っていたことが分ります。
カニで食用に供する部分は、脚が太くて長い種類では、脚の長節と呼ばれる根元の長い筋の肉がいちばんですが、脚が平たくて肉の少ない種類では、甲羅《こうら》の下側の内甲系と呼ばれる脚の付け根になっているところに詰まっている肉を取り出して食べます。カニを食べるには、なかなかコツがいり、食べ慣れない人は、ごはんどきに出されたら、戸惑うに決まっています。第一どう食べたらいいか、ご存知ない方が意外に多く、食べ出したとしても、食卓の上に甲羅や爪の破片をまき散らしたり、手をよごす割合には、肉が掘り出せない困難を伴うからです。
肉のほかに、うまい部分と言えば、俗にミソと呼ばれる部分、これは肝臓と膵臓《すいぞう》の両方の働きを兼ねている部分で、脂肪やグリコーゲンを多くふくみ、とてもおいしい。一方、雌ガニの卵巣もまた捨てがたいうまさ。卵巣は甲羅を剥《は》がしてみますと、黄赤色をしておりますので、色の淡い黄褐色のミソとは、すぐ区別がつきます。とりわけ、産卵直前の雌ガニでは、甲羅の内部に、いっぱい詰まっています。ふつうの食用ガニでは、春の末から夏の初めにかけて卵巣が成熟するものが多くて、箸をつけるにも、まず卵巣、つぎにミソから淡泊な肉へと移っていくのが、とても楽しみなものです。
ふつう食用としているカニは、ガザミ・ズワイガニ・オオクリガニなどのほか、地方によってはモクズガニ・サワガニなど真水に棲むものも食べています。ガザミはワタリガニとも言い、菱形の甲羅をもっています。塩ゆでにして、酢じょうゆで食べるとうまい。シーズンは冬場。ズワイガニは三角形に近い甲羅をもち、コブのような突起があります。これも主に冬獲れるカニで、塩ゆでにし、酢じょうゆで食べるとうまい。オオクリガニは俗に毛ガニと呼び同様に食します。
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[#小見出し] 唐《から》 墨《すみ》 親《おや》 子《こ》[#「唐《から》 墨《すみ》 親《おや》 子《こ》」はゴシック体]
平凡な親から非凡な子どもが生まれることの|たとえ《ヽヽヽ》に用いられます。よく知られていることわざに「鳶《とび》が鷹《たか》を生む」がありますが、時代や地方によって、「雉子《きじ》が鷹《たか》を生《う》んだよう」「百舌《もず》が鷹《たか》を生む」「竹《たけ》の子《こ》の親《おや》まさり」「黒鳥《こくちよう》が白《しろ》い卵《たまご》を生《う》む」とも言いました。カラスミは製品の形から「唐墨」の字をあてていますが、実際に唐の墨を見ますと、よくぞ名付けたと思えるほど似ております。ボラの卵巣の塩干品で、作り方は天明のころ(一七八一〜八八)中国から伝えられました。一説には、カラスミの製法は、トルコ、ギリシャ、エジプトに昔から行われていた魚卵の塩干技術から生まれたものとも言われます。長崎県|樺島《かばしま》のカラスミ作りの名人の話によると、
「ボラは鹿児島の甑島《こしきじま》から熊本の牛深を経て、この野母崎《のもさき》から五島へ魚道をとるとです。カラスミに一番いいのは、ここ野母崎を通ったときのボラのマコ(真子)がよかです。十月から十一月にかけて獲れるとです。長さは八〇センチあっですかね」
昔は樺島でもボラ専門に魚道に網(敷き網)をかけて漁船で引き上げたものだそうです。
「野母崎で獲れるのは約一〇〇〇尾。そのうち三割がはらんだ魚です。足りないから、他地区のを買い付けます。カラスミは歯のあいだでとろっとしたような味、粒子の太さがよか、わるかを決します。通の人だとすぐ分るとですが、鹿児島で十月のはじめに獲れたものは、こますぎる。五島で十一月に獲れたものは、あらすぎる。というように粒子の太さで苦労します。他地区のものを買い付けるときは、現地でボラの腹を割《さ》いて、卵巣(真子)をつぶして舌で味わってみるのです。目で見ても、これだけは分らない。今、うちで野母崎以外のもので使ってるのは、十一月の鹿児島野間池産のものです」
と、名人のよい製品作りにかける話はつづきます。
「カラスミは、ひと月ほど塩漬けして、塩出しして、二〇日ぐらい天日で乾燥します。いちばん苦労するのが乾燥させているとき吹く|はえの風《ヽヽヽヽ》(南の風)です。いっぺんで腐ってしまう。今は冷風乾燥機を使いますが、二時間おきにカラスミを返さなければならんとですから、寝られんのです」
苦労して作ったカラスミ何百万円分もが、天候などのせいでフイになってしまうこともあるそうで、おまけに塩を扱ったり、寒い中での作業で、たいへんきついと言います。昔から野母産のものは、品質が優れていることで有名で、「唐墨親子」ということわざも、実は長崎産で、カラスミがあまりおいしく、親のボラの影が薄いので生まれた言葉です。
カラスミは懐石の八寸には欠かせない珍味で、酒好きはカラスミは酒に……と言いますが、ほんとうは玉露によく合います。包丁など金属製のもので切らず、手で割るか、竹で切るのがよい。刃物では味が変わってしまうからです。
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[#小見出し] 寒中《かんちゆう》の水《みず》を飲《の》めば風邪《かぜ》ひかぬ[#「寒中《かんちゆう》の水《みず》を飲《の》めば風邪《かぜ》ひかぬ」はゴシック体]
寒中──正確に言えば、大寒、小寒の二候にわたる期間。ここでは、寒さのきびしい間を指しています。このことわざは寒中といえども水分不足にならないように注意を促したものです。水分が不足すると、からだに変調をきたして、風邪をひきやすくなります。
もともと人体には病いはないものです。人はみずから求めて病むので、その病いの原因は、自家中毒と代謝不均衡との二つです。自家中毒によって、からだの抵抗力が低下するので、風邪その他の伝染病が起こり、新陳代謝の均衡を得ないことによって、腎臓病とか糖尿病とかが起こり、また癌《がん》のような悪性の病いにしても、抵抗力の強い、健康な組織に発生し得ないことは、十分証拠が挙がっている事実です。病気は抵抗力の弱っているところから生ずるのであって、抵抗力を強めたいと思うなら、自家中毒を避け、代謝の均衡を図《はか》らなければなりません。このような目的に水は重要な役目を演ずるものです。
水は生理的には代謝の均衡を保ち、病的な場合には解毒《げどく》の働きをします。胃腸の働き一つをとっても、水のないとき、または水の不足するとき、完全には行われません。消化も吸収も排泄もみな水によってなされるからです。水が体内に多すぎる場合には、わけなく排泄されますが、少なすぎる場合に体内で製造されるものではありません。もちろん、食物の酸化によって少しは生じますが、その量は極めて微々たるもので、水の飲用の不足からくる欠乏を補うことはできません。したがって、水の飲用の不足は消化の不完全を来《きた》し、その結果としてあらわれる毒物も十分に処理されることができないので、胃腸の組織はその中毒をこうむって、ひいてはその毒素が吸収されて、全身に害を及ぼすことになるのです。水はまた食物の分量を調節する働きがあります。大食の人が中毒にかかりやすいのは、消化不良に起因しますが、食前に水を飲むか、食事中水を飲めば、胃の容積を一時水でふさぐので、自然に食物の分量も減ります。水のために胃液が薄められるとか、胃拡張を起こすという説は、謂《い》われのないことです。
わたしの知り合いのひとりは、当年七十八歳、企業の第一線で指導的役割を果しておりますが、この御仁《ごじん》、さかんにすすめるのは、「朝起きて顔を洗ったら、まず生水を一杯グッと呑み下すことだ」と言うのです。これは確かに胃の活動を刺激することになるし、便秘症の人には緩下剤的役目を果たすことになります。
「ボクは胆汁の薄い体質を補う目的もあって、毎朝、洗面後、せんぶり(漢方では当薬と言う)の稀釈液《きしやくえき》をコップ一杯必ず服用すること、年すでに久しい。ほかにもいろいろ実行していることがあるから、せんぶりの効用とばかりは言えないが、ともかくも元気で、これこのとおり」
と、この老翁、老いてますますさかんです。
事ほどさように、「水は百薬の長」と言っても、言い過ぎではありません。
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[#小見出し] 寒天《かんてん》の煮返《にかえ》し[#「寒天《かんてん》の煮返《にかえ》し」はゴシック体]
心太《ところてん》滝みるこゝろすゞやかに 反哺
灼《や》けつくような暑さがつづくころになると、食べ物も見るからに涼しそうなものがもてはやされます。今の若い人たちにはなじみが薄いかも知れませんが、てん突きと呼ばれる細長い箱の中にすべらせ、ぎゅっと押し出すトコロテンは、江戸時代以来、つい最近まで夏の食べ物として親しまれてきました。
「心太」と書いて、トコロテンと読ませていますが、これは俗字でココロフトと読み、ほんとうは「凝海藻《こるもは》」と書くのだと、平安時代の辞書に見えます。これの食品化はもっと遡《さかのぼ》り、奈良時代には少なくとも僧侶の間では盛んに食べられていましたし、また朝廷でも月々の供御《くご》として用いられていましたので、あるいはトコロテンの食用の歴史は、もっと遡れるかも知れません。
心太はてんぐさと呼ばれる海藻を煮出し、どろっとした液を採って、それを冷やして固めたもので、海藻加工食品として独特のものです。原藻から抽出したものだけに、少し臭味もあり、色もそれほどよくありませんが、江戸時代の風俗を考証、説明した『守貞漫稿《もりさだまんこう》』に、
「心太、ところてんと訓ず、三都とも夏月売[#レ]之、蓋《けだし》京坂心太を晒したるを水飩と号《なづ》く、心太一ケ一文、水飩二文、買て後に砂糖をかけ、或ひは醤油をかけ食[#レ]之。京坂は醤油を用ひず、又哂[#レ]之、乾きたるを寒天と云、煮[#レ]之を水飩と云、江戸は乾物、煮物ともに寒天と云ふ」
とあることからしますと、単なる心太より寒天から製したもののほうが値段が高く、上等のものだったように思われます。原藻から直接煮出し、濾過《ろか》した上澄み液を冷やし固めたトコロテンは、さらに最近まで、少なくとも大正年代くらいまで一部では原始的な手法で行われ、食べられてきましたが、寒天製法の発見は、貯蔵をたやすくし、味覚をいっそうよくし、次第にトコロテンが寒天からつくられるようになりました。
ことわざの「寒天の煮返し」は、見かけだけうまそうで、実際には味がないというたとえに用いられます。トコロテンの九八%は水分で、残りの二%が海藻類の粘液質です。この二%の粘液質だけを残したものが寒天ですから、一〇〇グラムのトコロテンから約二グラムの寒天ができるというわけです。ほとんどが水分で、たんぱく質、糖質は極めて少なく、またほとんど消化しませんので、栄養的価値はまずゼロに等しい──との今日の説は事実であっても、このたとえは寒天の名誉のためにはいささか酷《こく》で、依然として食べ物として珍重されていることは、また別の問題をはらんでいると申せましょう。
寒天は、製法によって天然寒天と化学寒天(工業寒天とも言う)に分けられます。天然寒天は天然の寒気を利用するもので、長野、山梨、岐阜、大阪、京都、神戸などで作られています。
寒天には角寒天のほか、糸寒天、粉末寒天、フレーク状寒天などがあり、一般家庭では角寒天が手に入りやすく、糸寒天は角寒天より弾力性や粘度が強く、値段は多少高くなりますが、腰が強いところから、和菓子屋さんなどでもっぱら利用しています。
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[#小見出し] 木耳《きくらげ》の看板《かんばん》[#「木耳《きくらげ》の看板《かんばん》」はゴシック体]
耳の遠いことを揶揄《やゆ》することばで、耳は付いていてもきくらげと同様で、聞くには、さっぱり役に立たないというのです。
きくらげは世界中に広く分布しているきのこで、広葉樹の朽木などに群生します。北鎌倉の山間の民家に住んでいたころ、ベランダの孟宗竹の手摺《てすり》の割れ目に、茶褐色のきくらげが生えたことがあります。雨で湿っているときには、やわらかく、寒天質様で、半透明ですが、お天気になって乾くと、硬くなり、小さくちぢんでしまいます。梅雨から秋の間に発生しました。こうしたきくらげの性質を利用して、乾燥して貯蔵し、食べるときに水に浸《ひた》し、もどしてから調理します。
きくらげに「木耳」という漢字を宛《あ》てるのは、形が人の耳に似ているからで、西洋でも「ユダの耳」と呼んでいます。それは銀貨何枚かで、イエスを売ったユダが、ゴルゴタの丘でイエスが処刑されたことを聞き、良心の呵責に耐えかね、にわとこの枝に首を吊って自殺したところ、にわとこの枝から、後に耳の形をしたキノコが生えてきたので、これを「ユダの耳」と呼ぶようになったのだと言います。それがきくらげだったというのですが、真偽のほどは保証しかねます。ただし、そういった伝説のせいでしょうか、西洋料理にはあまり登場しません。「木海月」と書いて、きくらげと読ませることもあります。
ところで、きくらげの語源ですが、このほうは、食べると味は淡いものの、噛むとコリコリしていて、あたかも干したクラゲ(水母)を食べるようで、木のクラゲのようだ──というところからの命名のようです。
販売されているきくらげには、次のような種類があります。
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○きくらげ[#「きくらげ」はゴシック体]──きのこの片面は黒灰色、片面は白灰色で、ごく短い密毛が生えています。水に漬けますと、海のクラゲのようなコリコリした歯当りがするのは、前記のとおりで、「ウラ白」とも呼ばれます。
○しろきくらげ[#「しろきくらげ」はゴシック体]──全体が白色または黄色で、ゼリー状にやわらかくなります。
○ひめきくらげ[#「ひめきくらげ」はゴシック体]──しろきくらげと同系で、形が小さく、厚さも薄く、全体が黒色、水でもどしますと、ゼリー状にやわらかくなります。
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自然発生のものは量も少なく、稼ぎにならぬため、積極的に採集されてはおりませんが、鹿児島県、沖縄県では、他県に比べ、かなり多く生産され、移出されています。近ごろでは中国、台湾からの輸入が増えています。日本料理では、単独で用いることは少なく、その歯切れのよさを生かし、他の材料に混用するか、妻《つま》に用います。豆腐とは相性がよく、黒と白の色合い、弾力性と滑らかさの取り合わせがよく、互いに特長を補い合う点が多く、けんちん汁、ぎせい豆腐、白あえなど、豆腐と組み合わせて用いられます。中国料理では、日本料理とは比べものにならぬほど多くこれを使うのは、ご存知のとおりです。
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[#小見出し] 狐《きつね》に赤小豆飯《あずきめし》[#「狐《きつね》に赤小豆飯《あずきめし》」はゴシック体]
キツネはあずき飯が好物ということ。つまり「猫に鰹節」と同じ意味で、好きなものをそばに置いたのでは気が許せないということで、まちがいを起こしやすいような状態のときのたとえに用います。キツネにあずき飯の番をさせるのは、道楽息子に金庫の番をさせるようなものです。
ふつうキツネの好物と言えば、油揚げが知られていますが、当初は油揚げは油揚げでも、豆腐を薄く切って油で揚げた「油揚げ」ではなく、ネズミの油揚げだったようです。
本狂言『釣狐《つりぎつね》』の中で、キツネを釣る際の餌は、「若鼠の油揚げ」であり、赤松宗旦の『利根川図志』巻四に登場するキツネとりの名人|稲荷《とうか》藤兵衛も、餌には「鼠の油揚げ」を用い、恋川春町の『其返報の怪談』には、見越入道がキツネを仲間に入れるため、「鼠の油揚げ」で招待した話があります。餌となるネズミは、日本固有のアカネズミをはじめ、北海道にしかいないエゾヤチネズミ、また北海道にはいないハタネズミやカヤネズミのいずれも、キツネの好む餌でしたから、これを油で揚げたものは、キツネにとって最高のごちそうであったにちがいありません。それがいつの間にか、ネズミの油揚げの上がとれて、単に油揚げがキツネの好物とされるようになりました。
キツネにだまされる危険な条件として、昔から言い伝えられ、もっとも多いのは、油揚げを持って夜道をしたり、人の通らぬ道を行くことで、これにあずき飯を添えれば最高です。
ところで、油揚げとともに、今一方の好物とされる「赤小豆飯」は、赤飯のようにもち米とあずきをいっしょに蒸したものではなく、ウルチ米にあずきを入れて炊いたものです。キツネ以外、例えばお犬様(実はオオカミ)もあずき飯は好物のようで、昨年暮、秩父の夜祭りを見学に行った際、土地の習俗に詳しい三峯山博物館長の石田武久さんから、秩父の山村に伝わる「お焚《た》き上《あ》げ」の話を伺いました。毎月十九日がお焚き上げの当日で、お犬様の祠《ほこら》に、お酒を振りかけたあずき飯を捧げるのが嘉例《かれい》だそうで、また、お犬様が子を産《う》んだという村人からの通報《しらせ》があると、産んだ場所に、江戸時代には役僧が、明治以降は神官が、やはり酒を振りかけたあずき飯を奉納する|ならわし《ヽヽヽヽ》があったそうです。
あずきが儀礼食として重視され、特別な観念、信仰を抱かれたのは、雑穀の中で、唯一赤い色をしているからだと言われ、赤色に対する特別の観念の古さから言って、あずきを用いての儀礼・習俗は、稲作以前からのものだと説く学者もおります。
あずき飯は|ハレ《ヽヽ》の食物ですから、これに湯・水・茶または汁をかけて食べることを嫌います(茶漬けや汁かけ飯はケの食事法であるから)。この禁忌の行われている地域は東日本に広く、制裁としては、婚礼のときに雨が降る──というのが多く、わたしなども子どものとき、よく母からこう言われて、たしなめられたものです。
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[#小見出し] 茸採《きのこと》った山《やま》は忘《わす》られぬ[#「茸採《きのこと》った山《やま》は忘《わす》られぬ」はゴシック体]
亡き母の分のみ残り茸飯 まり子
そろそろ秋風の吹き初《そ》める九月のはじめ、前夜来の雨が止んで、カラリと晴れ上がった日などは、絶好のきのこ採り日和《びより》。内房富津で育ったわたしは、こんな日、腰が落ちつかず、小学校からの帰りや日曜の朝、近くの防砂林の黒松林に足を踏み入れ、はつたけ採りに夢中になるのでした。
はつたけは傘の径が四〜一二センチ、はじめ丸山形ですが、のちに開いて扁平となり、やがて漏斗《じようご》形となり、傘の表面は淡紅色を帯びた淡赤褐色のあかはつと青緑色の俗にろくしょうと呼ぶものとがあり、傘や茎を傷つけると、急速に青紫色に変わるきのこです。
散り敷いた枯松葉の間から、モッコリ顔をのぞかせているのを見つけると、思わず「あった!!」と、大声を張り上げます。ひとりのときはそれでいいのですが、兄妹や友だちといっしょのとき、大声を張り上げると、「どれどれ」と誰かしら見に来て、そばに生えているのを荒されるので、発見のよろこびを噛みしめて黙々と採るようにします。ひとつ見つけると、必ずと言っていいほど、その周辺にもはつたけが生えているので、ひとり占めするには、隠密裡《おんみつり》に事を運んだほうが得策だからです。
実際、発見したときの嬉しさは何物にも代え難く、そのときの気持ちは、正直言って、この場所を他人に知られたくない思いでいっぱいです。自分ひとりの胸におさめておき、来年もこの場所に来ようと思います。こうした心理は、釣りびとにも共通した心理でしょう。また、一般に一度うまいもうけごとをしたり、偶然に幸運をひきあてた場合にもあてはまり、いつまでもその味を忘れることができません。このことわざには、きのこ採りの体験がにじみ出ていて具体性があり、その上、幸運の穴場心理にも及んでいて、妙に実感のあるところに、ひとびとの共感をよぶおもしろさがあります。
はつたけ(初茸)は文字どおり秋早い時期に発生することから付けられた名で、汁ものをはじめ、煮つけ、付け焼きなどにすると、とても風味のいいきのこです。たくさん採れたときは、傘を傷つけ青紫色になるのを防ぐため、ねこじゃらしの茎を引き抜き、漏斗状の傘の中心部から茎に次々にはつたけを刺し通し、逆さにぶら下げて意気揚々と家に持ち帰り、母に頼んできのこめしを作ってもらうのが常でした。年を経て、たまにこの季節に田舎へ帰ると、はつたけを採った黒松林が忘れられず、ひまを見つけると、ついついそちらに足が向いてしまいますが、昔、あれほど採れた場所も、黒松が松食い虫にやられ、代替わりを余儀なくされ、全く採れない場所に変わっていて、「歳々年々人同じからず」に似た悲哀を味わわされることがあります。
でも、そこはよくしたもので、実家を継いだ年若の甥《おい》がはつたけの穴場をよく知っていて、帰京する日には、はつたけをたくさん採ってきてくれ、おみやげにもたせてくれます。とは言え、きのこ採りは、やはり、みずから発見したときのよろこびに勝《まさ》るものはないようです。
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[#小見出し] 切《き》りなしより盛《も》りなし[#「切《き》りなしより盛《も》りなし」はゴシック体]
調理の仕方ももちろん大切ですが、それ以上に盛り付けが大切で、料理は盛り付け次第で、うまくもまずくもなります。日本料理の美しさは、世界的な定評があり、四季折々の豊富な材料と、色彩感あふれるしゅんの素材もさることながら、それらを生かす器と盛り付けにこそ、日本料理の生命があると言ってもよいくらいです。気品高く、きりっと盛り付けられた日本料理は、見るものに一幅の絵を前にしたときの感慨にも似た美しさを感じさせます。洗練された盛り付けは、一朝一夕にできるものではありませんが、まず次の三点をしっかりと心得ることが第一歩です。
@器とのバランスを考え、空間の美しさに気をくばる。
A添えものやあしらいものでアクセントをつける。
B料理の色どりと季節感の表現を心がける。
以上の点を念頭に置いて取り組めば、まず食べる人に不快感を催させることはないでしょう。
日本には、昔から「絵献立」と言って、実際の料理にかかる前に、献立を絵に描き、器・色どり・料理と添えの組み合わせ方などに心をくだく|ならわし《ヽヽヽヽ》がありました。プロの板前さんは一枚の皿、一鉢の器をキャンバスに見立てて絵を描く気持ちで盛り付ける──とも言われます。
ところで、先ほどの盛り付けの三つのポイントですが、もう少し詳しくお話ししますと、日本料理の盛り付けの秘密は、まず「量感の計算」にあります。一般的には、煮汁を張らなければならない煮物類は、立ち上がりの高い器に、こんもりと小高く盛り付け、高さのない浅い器(皿や鉢)を使って、魚自身の高さを見せるといった工夫をします。盛り付けた料理がどうも不自然で、見た目のおいしさに欠けているといった場合は、ほとんどはこのような心くばりを忘れているからです。量感の計算は、言い換えれば高さと面積のバランスをおしはかることです。空間の美しさとは、いかに余白を適当に出すかということです。余白の分量は三と言われ、料理が七で余白が三ということで、これは単に面積的にということでなく、あくまでも見た目の感じです。
ポイントの第二は、|添えもの《ヽヽヽヽ》と|あしらい《ヽヽヽヽ》をうまく配置して、料理にアクセントをつけること。色どりのための|あしらいもの《ヽヽヽヽヽヽ》や薬味の位置がおさまるべきところにピタッとおさまっていない盛り付けは、どこかしまらない料理になります。炊き合わせの場合なら、主役を器の中央より少し奥の左寄りに、添えものや色どりは右手前か右奥に盛り、あえものは箸の先で|つんもり《ヽヽヽヽ》といった感じに盛り付けてみると、ふしぎに料理が生きてくるものです。
日本料理には色どりと季節感の表現に、一つの約束事があり、春(ピンクと華やかな黄色)、夏(青と爽やかな緑)、秋(赤と茶)、冬(白)の相関関係です。そして、なによりも大切な盛り付けのポイントは、食べやすい形の工夫です。
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[#小見出し] 口《くち》に甘《あま》きは腹《はら》に害《がい》あり[#「口《くち》に甘《あま》きは腹《はら》に害《がい》あり」はゴシック体]
甘いものは、からだによくない──と言われます。酸性体質に傾きがちになり、健康を損ねることになるからです。このことわざは、また、甘言は意外に落とし穴のことがあるという意味にも使われます。
辛、酸、甘、苦など、いろいろの味がありますが、その中でも甘味がいちばん食味に大きな影響をもっています。甘味料として、砂糖の重要性が大きいのもそのためです。
程よく使う分には、砂糖もなかなか秀れた効用をもっています。例えば、砂糖を調理に使うわけを考えてみますと、まず甘味をつける、かくし味となる。辛い佃煮《つくだに》などに、ほんのちょっぴり砂糖を入れますと、辛味を和らげてくれます。また、ケーキの焦げ色をつけるのに、砂糖は欠かせず、でんぷんの老化を防ぐ作用も砂糖はもっています。ケーキやあんこ、お餅などに砂糖を入れておくと、パサパサになるのを防ぎ、かなりの間を置いても、しっとりとした味わいを保っています。くだものには、ペクチンという物質が含まれていて、それが働いてジャムやママレードができます。ペクチンが固まるには、砂糖と酸が入用で、砂糖を入れずに煮ては固まりません。それから、塩と同様、砂糖も水分を押し出し、成分を濃厚にし、菌の繁殖が止まって、長く保存が可能となります。ビン詰めのジャムやママレードの表面にカビが生えても、腐りにくいのは、そのせいです。
そのほか、ほうれん草を色よくゆでたいとき、塩と同様、砂糖を加えても、色よくゆで上がり、塩よりも、味がまろやかに仕上がります。
吾子の口|菠薐草《ほうれんそう》のみどり染め けん二
生理の面での砂糖の効用も見逃せません。その第一は、からだの中で燃えて、熱と力のもとになることです。人間の血液には、常時〇・一%近くのブドウ糖が含まれています。これが細胞に送られ、そこで酸化して熱と力を出すわけです。減少した血液中のブドウ糖は、食べ物の中の糖質、すなわち、でんぷんや砂糖によって補われます。たんぱく質も脂肪も熱と力の源として利用されますが、糖質がいちばん早く、簡単で、しかも経済的。砂糖類は、そのまま、ちょっと分解しただけで、すぐに役立ちますから、効率の高い、即効的な栄養素と言えます。
一方、砂糖の害については、すでに江戸時代の終りごろ、今から一七〇年くらい前に大坂の中井|履軒《りけん》という学者が、「文禄以後短命に終る者の多くなったのは、正しく砂糖輸入のためである。薬用ならいざ知らず、一般に砂糖を用ふれば有害なるべし」と警告を発しています。
一説によると、砂糖をたくさん摂ると、消化がよいので、小腸で全部吸収され、大腸に送られる糖質が少なくなる。そのため、大腸内の細菌の発育がわるくなり、その細菌によるビタミンB複合体の生産が減る。これが糖害の原因だと説く学者がおります。いずれにしても、砂糖の摂取はできるだけおさえ、同時にカルシウムやビタミン類をバランスよく摂りましょう。
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[#小見出し] 九里《くり》よりうまい十三里《じゆうさんり》[#「九里《くり》よりうまい十三里《じゆうさんり》」はゴシック体]
さつまいもが中国を経て琉球に入ったのは慶長十年(一六〇五)。そして長崎へは元和元年(一六一五)に琉球から入ったという記録があります。また、薩摩へも慶長・元和のころにルソンから入るなど、たびたび導入され、南九州にひろまって、「薩摩藷《さつまいも》」の名が知られるようになりました。降《くだ》って明和〜天明時代(一七六四〜八九)に入ると、江戸へもさつまいもが商品として出回って来ました。日本橋の堀江町は、当時、冬の間名物のふかしいもを売り、夏になると団扇《うちわ》の製造に商売変えする店が多かったと見え、これを諷した川柳に、
堀江町風静まつて薩摩芋 (明和)
夏渋く冬甘くなる堀江町 (安永)
といった句があります。堀江町のふかしいもは明和年間に始まり、江戸時代を通じてあったようです。江戸に初めて焼きいもが現われたのは寛政五年(一七九三)の冬で、それ以前はふかしいもばかりでした。ふかしいもでスタートした堀江町も焼きいもの出現以後は、これに転向したものと思われます。「八里半」「十三里」などという焼きいもの代名詞も、その出現と同時に付けられたことが、『宝暦現来集《ほうれきげんらいしゆう》』巻の五に見えています。
「寛政五年の冬本郷四丁目番家にて、初て八里半≠ニいふ行灯を出し、焼芋売始めけり、其以前むし芋|計《ばかり》也、八里半≠ヘ渾名《あだな》なりと、九里四《くりよ》り美味いと云《いふ》、其後小石川白山前町家にて十三里≠ニ云行灯を出候、是も亦《また》焼芋なり、今は町毎に焼芋計りにて蒸し芋少し」
そんなわけで、さつまいもはくりよりうまい──ということをシャレて言ったのが、このことわざです。「八里半」というのは「九里」(くり)に近い味を持っている──という意味で、芝居、こんにゃく、タコ、かぼちゃと並んで、いもは江戸時代以来、女性の好物の代表とされてきました。
焼きいもは、三〇〜六〇度Cの温度で、じっくり時間をかけて焼き上げている間に、でんぷん糖化酵素が活発にはたらき、糖分が増すと同時に、水分が蒸発して甘味が一段と増え、うまくなる非常に理に叶《かな》った食べ方です。
近ごろのように、食品が出回りすぎて、どちらかと言えば過食時代には、肥満を気にして、さつまいもなどはとかく敬遠されがちで、一般の消費量は、年々減少の傾向をたどっています。戦時中や戦後の一時期のような腹を充《み》たす主食の代替品ではなく、最近ではそうざいや嗜好品として利用され、値は張っても味と質のよいものが求められ、文字通りくりよりも甘くてうまい「黄金せんがん」などといった品種も作り出されています。
いもは太るからイヤ──と言うのは、とんだ偏見で、主成分はでんぷんであるものの、ビタミンA効力のあるカロチンを含み、C、B1が多く、カロリーは一〇〇グラム中一二三カロリーで、ごはんの一四六カロリーより低く、美容食として、もっと注目してよい食品です。
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[#小見出し] 傾城買《けいせいが》いの糠味噌汁《ぬかみそじる》[#「傾城買《けいせいが》いの糠味噌汁《ぬかみそじる》」はゴシック体]
ここに言う「傾城」は、遊女のことですが、本来の語意は美女のことで、「傾国」に同じです。中国前漢時代の史書『漢書《かんじよ》』外戚伝上に、
「李延年の歌に曰く、北方に佳人あり。絶世にして独り立つ。一たび顧みれば、人の城を傾け、再び顧みれば、人の国を傾く」
と、言うほどの絶世の美女のことです。美女は君主の心を迷わせ、城を傾けさせ、国を亡ぼすこともあったので、一国の運命を傾ける意からたとえて言ったのです。ところが日本の近世には、「大夫《たゆう》」「天神《てんじん》」と呼ばれる上位の遊女を指すのに「傾城」の語を用いるようになり、やがて「遊女」「女郎」の一般的呼び名となりました。近松の浄瑠璃『冥途《めいど》の飛脚』にも、
「傾城に誠なしと世の人申せども、それは皆|僻言《ひがごと》、わけ知らずの詞ぞや、誠も嘘も本一つ」
という用いられ方をしています。
傾城買いをして豪遊する者は、色香に迷って金をムダ使いしますが、家に帰ると糠味噌汁のような粗末な食事をしていると言うのです。わたしにもいささか覚えがありますが、これは遊び人の心理を鋭く衝《つ》いた言葉で、遊ぶ金は全然惜しくないのに、家で食べるものにはゼニ惜しみをする。価値観がまるっきり違うのです。
ぬかみそは米ぬかと食塩と水を混合して作るもので、その床に乳酸菌を繁殖させて、野菜を漬け、漬けた野菜に一種の風味と酸味を与え、特有のまるみのある味を与えるものです。この場合の糠味噌汁は、ふつうのみそ汁も食えない最低の粗食を象徴しています。これはなにも「傾城買い」にかぎったことではなく、外で奢る者は、内ではまことに始末であること。ムダ使いする者は、必要な金すら出し惜しむ心理を嘲笑し、皮肉を浴びせているのです。同類のことわざに「博奕打《ばくちうち》のちぎれ草履《ぞうり》」があり、大金を賭けて勝ち負けを争う博奕打が日々の暮しに欠かせない草履も買い換えずに、千切れた草履を履いている|ありさま《ヽヽヽヽ》をからかっています。一方、「傾城買《けいせいが》いより紙屑買《かみくずが》い」ということわざもあり、傾城買いの果ては破産ですが、紙屑買いの行く先はお金持ちにもなり得る夢があると、みずから慰めております。
ところで「糠味噌汁」のことですが、ことわざの糠味噌汁がぬかみそ入りの汁か、ぬか入りのみそ汁かによって、大いに違ってきます。もしぬかみそ入りの汁だとしたら、食用には適しませんが、ぬか入りのみそ汁でしたら、まんざら捨てたものではありません。『食道楽』の著者村井弦斎は、すでに脚気治療の健康食として「糠入りの味噌汁」を試みて、効果を挙げています。まず新鮮なぬかを炮烙《ほうろく》でザッと炒《い》り、味噌汁に混ぜるだけのもので、病気の軽重によるものの、
「軽い人なら一回に凡《およ》そ二勺位を一日三回ずつ、計六勺ほど。重い病人なら一合|乃至《ないし》一合五勺位食べてもよい。なるべく椀の中へ糠を入れて置いて、熱い味噌汁を注いだ方が美味しい」(『食道楽』糠料理)と、弦斎先生はすすめております。
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[#小見出し] 下戸《げこ》の建《た》てた蔵《くら》はない[#「下戸《げこ》の建《た》てた蔵《くら》はない」はゴシック体]
いささか酔っぱらって、くだまき気味の上戸の自己弁護のように受け取れます。おそらくこのことわざは、酒好きの庶民が言い出したものでしょう。通常この句につづけて「御神酒上《おみきあ》がらぬ神《かみ》はなし」と言います。酒も呑まずに酒代を貯めたからといって、蔵を建てるような金持ちになったという話もないじゃありませんか、神様だって大喜びでお酒を召し上がるじゃありませんか。こんなうまいお酒の味も知らないなんて気の毒の極みです──と、上戸は自己弁護をかねて、さかんに下戸をあざけり笑い、大いに気炎をあげます。
これに対し、下戸の方も黙っちゃいません。「上戸《じようご》のつぶした蔵《くら》がある」「上戸《じようご》の蔵《くら》も建《た》ちはせぬ」と、負けずに防戦これつとめますが、世の中には酒呑みの方が多勢で、その上、呑んだ勢いも手伝い、どうも下戸の方は、なんとなく気勢が上がらぬ風情です。
呑ん兵衛の上戸たちは、余勢を駆って、「下戸《げこ》の酒恨《さかうら》み」(下戸は酒を出されてもてなされると恨めしく思う。酒恨みに、恨みに思う人から逆に恨まれることの意の逆恨みをかけています)、「下戸《げこ》の肴荒《さかなあ》らし」(酒を呑めない人は膳の上の肴をかたっぱしから食べ荒らす)、「下戸《げこ》は上戸《じようご》の草履取《ぞうりと》り」(下戸は宴席で、もっぱら介抱役や送り手役にさせられる)などとからかいます。下戸たちも引き下がっちゃおれません。「上戸《じようご》かわいや丸裸《まるはだか》」(衣類を酒代に換えて呑む。酒に財産を使い果たして、すってんてんじゃないか、とあざけっています)、「上戸《じようご》本性違《ほんしようたが》わず」(酔ってくると、本性が現われてきます)と批判しますが、ここでも下戸たちは酔った勢いに、かなわないようです。口争いは果てしがありませんが、「上戸《じようご》は毒《どく》を知《し》らず下戸《げこ》は薬《くすり》を知《し》らず」、酒は呑み過ぎると健康をそこね、財産をなくし、家を滅ぼすものなのに、酒呑みは酒が毒になることに気づかずに酒を呑んでいます。また、酒は血液の循環をよくし、憂いを払い、気分を引き立たせるものなのに、下戸は酒が薬の役をするのも知らずに呑まずにいます。酒はからだをそこなうほど度を過ごすのはいけませんが、ほどよく呑めば、からだのためにもよいものです──どうやら、こんなところに落ち着きそうです。
酒好きの人を上戸、酒の呑めない人を下戸──と、どうして言うのでしょう。一説によれば、そのもとは秦の始皇帝が万里の長城を守る番兵に渡した下給品からきたと言われ、寒い山の上にある長城の門(上戸)を守備する兵には酒を、往来のはげしい平地の門(下戸)の歩哨《ほしよう》には甘い物を渡したところから言われるようになったと言います。一方、同じく始皇帝が作った巨大な建物|咸陽宮《かんようきゆう》の上の方の門を守る人には、寒いので酒呑みを選んで戸を開閉させ、下の方の戸は寒くないので呑まぬ人に守らせたことから、酒呑みを上戸、酒の呑めない者を下戸というようになったとも言われていますが、強《あなが》ちそうでもないようで、一体、酒呑みはその用量の多寡《たか》により、大戸、小戸と言い、それが後世上戸、下戸と変わったもので、おそらく酒呑みが大小の二字を上下に言い換えたものらしいと『酒飯論《しゆはんろん》』には記されています。
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[#小見出し] 下司《げす》の高上《たかあ》がりは咽喉《のど》が渇《かわ》く[#「下司《げす》の高上《たかあ》がりは咽喉《のど》が渇《かわ》く」はゴシック体]
昔のムラ社会では、なにかにつけて、お互いの身分、立ち場での釣り合いのとれていることが大切にされました。
「下司の高上がりは咽喉が渇く」
ということわざなどは、正にそうした消息を伝えるもので、下司というのは、元「げし」と呼び、中世における荘園経営の現地機関のことです。領主の荘務処理機関である公文《くもん》または公文所《くもんじよ》を上司《じようし》、現地支配機関の預所《あずかりどころ》を中司《ちゆうし》と言うのに対し、下位の荘司全体を指し、単独の荘官《しようかん》を指す場合もあり、所有地を領主に寄進して荘官となり、下司職を確保した荘民でもありました。下司とは分りやすく言えば、当時の下級官吏のことです。近世に入ると、身分の卑しい官吏を指すようになり、読み方も「げす」と言うようになりました。
その下司が酒宴に招かれて、上席をすすめられると、たいてい「下司の高上がりは……」と言って、断《こと》わる口実に使いました。ホンネを申せば、末席の方に控えているほうが、比較的目立たず、酒のお代りは申すに及ばず、飯や汁のお代りも気兼ねせずにでき、食べられるだけ食べることができるからです。これが上席ともなると、多くの人の眼に晒《さら》され、できるだけ飲み食いを慎まなければなりません。下司にとっては、なにかと不都合なのです。「馬鹿《ばか》の大食《おおぐ》い」古くは「下司《げす》の大食《おおぐ》い」とも言って、よく働く者は、食欲も人一倍盛んです。たらふく食べることのできるのは、末席のほうだし、末席は、あまり礼儀だの作法だのは問題にはなりません。
「下司の高上がりは咽喉が渇く」は、言わば名よりも実といったおもむきで、もし他のことわざで代用するとなれば、「花《はな》より団子《だんご》」「案《あん》じるより団子汁《だんごじる》」「義理張《ぎりは》るよりは頬張《ほおば》れ」「男伊達《おとこだて》より小鍋立《こなべだ》て」というところに落ち着きそうで、一般庶民は、どうやら下司の味方だったようです。
ところが武家の世界ともなれば、タテマエが先行し、そう簡単に「見栄張《みえは》るよりは頬張《ほおば》れ」というわけにもいかず、ムリしてでも「渇《かつ》しても盗泉《とうせん》の水《みず》を飲《の》まず」「武士《ぶし》は食《く》わねど高楊枝《たかようじ》」と、ヤセガマンしなければなりませんでした。武家社会と民衆社会には、きびしい一線が引かれていたのです。「据《す》え膳食《ぜんく》わぬは男《おとこ》の恥《はじ》」(女のほうから積極的に誘ってくるのに、それに応じないのは男ではない)という論理も、どうやら民衆社会のほうにこそ、より多くの支持を得たことわざのようです。
「げす」は「げす」でも、「下衆・下種・下主」となると、身分の卑しい人、品性下劣で教養のない人の意味に使われます。語源未詳で、漢字はいずれも当て字ですが、あるいは下司からの転用とも考えられます。下衆あるいは下種と呼ばれたひとびとは、身分が低いだけでなく、教養を身につけることもできませんでした。それはなにも、こうしたひとびとの罪ではなかったのですが、身分の高い、教養を身につけていると自負しているひとびとに、「下衆《げす》の勘繰《かんぐ》り」「下衆《げす》の謗《そし》り食《ぐ》い」「下衆《げす》の逆恨《さかうら》み」と、さまざまにからかわれています。
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[#小見出し] 濃茶目《こいちやめ》の毒気《どくき》の薬《くすり》[#「濃茶目《こいちやめ》の毒気《どくき》の薬《くすり》」はゴシック体]
秋の夜は白玉の歯にしみとおる方もさることながら、じっくりお茶を味わう季節でもあります。時にはテレビの騒音を消して、せめてひととき、静かにお茶を淹《い》れて、その味と香りを楽しみたいものです。さりとて、時と場合を考えないと、とんだことになります。「濃茶目の毒気の薬」だからです。「目の毒」とは「眠れなくなる」こと。「気の薬」とは「頭が冴えてくる」ことです。つまり、濃いお茶を飲むと、眠気が取り除かれ、頭がすっきりして、感覚が鋭敏になるというわけです。
それはお茶に含まれるテイン(茶素)という成分のためで、テインはコーヒーの中のカフェインと同じもので、いくぶん苦味があり、無色で、絹糸のような光沢をもち、針状結晶をしています。これが神経を刺激して、眠れなくなるのです。しかし、適度の刺激と興奮作用は、用い方によって眠気覚ましになるので、受験勉強の際に、濃いお茶を飲むと眠くない──などと言われるのです。このような働きをするテインの含有量は、煎茶より玉露や抹茶のように上等なお茶の方が多いのです。ふつうのお茶ならなんでもないのに、玉露や抹茶を寝る前に飲むと、どうも眠れなくなる……と言うのは、そのせいです。
ところで、急須にパッとお茶の葉を入れ、お湯を注ぎ込む──これではどんなに高級なお茶も、おいしく淹れることはできません。玉露には玉露にふさわしい淹れ方が、煎茶には煎茶にかなう淹れ方があるのですから、それ相応の淹れ方をしてこそ、ほんとうの味が生きてくるのです。一体玉露というものは、飲むというより舌の上にころがして楽しむといった方がわかりやすい。ノドが渇いたからという時にはムリな性質のお茶です。それゆえ、お湯の分量も至って少なく、一人前大さじ三杯程度。茶の葉は三人前として、茶さじに山二杯くらい。お湯はグラグラと沸き立たせるのは煎茶と同じものの、火から下ろしてのち、お湯を湯冷ましで適量冷まします。お湯の冷める間に、お茶わんを温めるのですが、八分目ほどのお湯を注いだものを順繰りに移して、最後に湯こぼしにあけます。急須にも湯通しをしておくことをお忘れなく。
お湯の温度は六〇度以下ということですから、人肌ということになりましょうか。急須に静かにお湯を注いだら蓋《ふた》をして三分ほど待ちます。お湯の量が少ないので、最後の一滴までよくきることが大切。しずくを各茶碗に漏れなく落とすのがコツです。注ぎ終えたとき、お茶の葉が口の方に寄らないように静かに急須をかしげて注ぐのが上手な淹れ方。
なお、言い添えておきたいのは、お湯を入れる時、葉の上からサッとかけないで、急須の縁から静かに少しずつ入れるのが大切な心得。こうしますと、お湯が茶の葉の下から浸《し》みて行き、一度淹れただけでは、上の方の葉は未だ開かないでいます。つまり、二度目(二煎)もおいしく出せるというわけで、三煎目は上からサッと回してかけます。
茶に少し贅沢をして冬籠 緑富
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[#小見出し] 鯉《こい》の生血《いきち》は精《せい》がつく[#「鯉《こい》の生血《いきち》は精《せい》がつく」はゴシック体]
今ごろの季節になると、「寒」の字を冠した魚が珍重されるようになります。俗に「寒ブリ・寒ボラ・寒ガレイ」と言われるような例がそれで、寒ゴイ・寒ブナなどもよろこばれます。
寒さが厳しくなると、コイやフナは池や川の泥土の表層に、じっとしていて、余分な動きをしない上に、皮下脂肪を蓄えているので、うま味が増すわけです。
このころのコイを食べれば、からだのためによい栄養物ともなり、したがって薬ともなり、活動力を旺盛にする根源ともなります。
「鯉濃《こいこく》汁を食べれば乳の出がよくなる」
などと言いますのも、コイは生命力が強く、栄養価が高いところから出たことばです。コイは川魚の長とされ、タイの「大位《たい》」に次いで「小位《こい》」とされたり、肩を並べて「高位《こい》」と書いたりもされた儀式魚です。また、コイは登竜門にまつわり、出世魚とも言われて儀式魚にもなるおめでたい魚ですが、腹部にある五番目の鰭《ひれ》が「子とどめの鰭」と呼ばれ、結婚式などのお祝いには差し控えられもする魚です。
『済民記《せいみんき》』という天正元年(一五七三)に成った本に依りますと、
「鯉《こい》は泄瀉《えいしや》、喘急《ぜんきゆう》、水腫《すいしゆ》、黄疸《おうだん》、消渇《しようかち》、妊婦食物、乳汁食物」
など、盛り沢山に諸病に薬効があるとされ、さらにボケ(健忘)にも効くと言いますから、まず万病の薬と言った方が近道で、特に「緋鯉《ひごい》」は乳薬及び肺結核の妙薬として珍重され、結核患者は、生きんがためにコイの生き血を飲んだものです。
乳の薬にと里《さと》から魚が来る
乳の薬里から魚を見舞ふなり
コイの生血が母乳の分泌を促すというので、娘が出産すると、里(生家)からコイを届ける風習のあったことを、この柳句は教えてくれます。また、コイの生血は熱病の人に飲ませると卓効があると言われます。
古い話ではありますが、コイの生|鱗《うろこ》は、婦人の乳腫れにもよく効く──ということも耳にしています。用法は、単に患部にコイの生鱗を貼ればよいということで、また、コイの皮を鱗をつけたまま剥《は》がして、乾燥して置いたのを用いても相当効力がある──とも聞いております。
食傷は夏の暑い盛りには殊《こと》に多い病気ですが、新潟地方では、コイの胃袋をよく乾かして食傷の薬として用います。もちろん、生のまま用いた方が効きめがさらによいとのことです。また、常にこれを服用することにより、消化器系の諸器官を健全ならしめることもできると言います。
鯉の味噌汁産後の妻の肥立《ひだち》よかれとたてまする 山鹿
コイをこんぶといっしょに煮て食べれば水腫《すいしゆ》(むくみ)、利尿《りによう》にも効能があると言われます。
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[#小見出し] 胡椒《こしよう》丸呑《まるの》み[#「胡椒《こしよう》丸呑《まるの》み」はゴシック体]
こしょうの実を粒のまま丸呑みしても、さのみ辛くないように、物事もよく味わってみないと真偽は分らない──という意味です。今日ではこしょうは、もっともポピュラーなスパイスですが、中世のヨーロッパでは、銀と同価値をもつ貴重品として取り扱われ、法貨の一つとして地代、小作料、持参金、税金を賄《まかな》っており、ドイツでは役人の給料をこしょうで払い、イギリスでは地主たちが小作料とか地代を、特にこしょうで支払うよう要求していたので、peppercorn rent(こしょうの実《み》地代)という昔の名残りを止《とど》める言葉が残っています。
こしょうは俗に「スパイスの王様」とも呼ばれていますが、それと言うのも世界中の料理に幅広く用いられるばかりでなく、同じ料理にさえ、三度も使われるほど親しまれているからです。まずは台所で下ごしらえの調理の段階で、次に調理した材料を料理する過程で全体の味をよくしたり、手直しするために、そして最後に、出来上がった料理を食べる人が、自分の好みに合わせて食卓の上で用いるスパイスでもあるからです。
ペッパーという言葉は、梵語のピッパリー(長胡椒・ロングペッパーを意味します)に由来しますが、インドでは、紀元前五〇〇年代に、すでに栽培されていた事実が、古代インドの有名な叙事詩『ラーマーヤナ』の中に「塩と胡椒で食べる食物」と記されていることからもうかがえます。
このように人類の食生活の中に古くから根を下ろし、必需品であったこしょうは、インドの西南海岸マラバル地方を原産地とする熱帯性植物で、その果実をスパイスとして用います。日本に伝えられた時代は明らかではありませんが、すでに正倉院御物の中にこしょうがシナモン・グローブ・人参《にんじん》・甘草《かんぞう》・麝香《じやこう》などとともに含まれており、少なくとも天平勝宝元年(七四九)以前に、日本にもたらされていたことになります。
現在、粉末・粗挽き・原粒・塩こしょうなどが日本では市販されていますが、戦後、食生活の洋風化につれて、家庭内に急速に浸透し、とうがらし・からし・わさび・ガーリック・カレー粉などとともに、常備されるスパイスの一つになっています。
良質なこしょうは非常に値の張る高価なものですから、大量に販売されているこしょうには、質のよくないものもあります。こしょうは挽いてないものがよい──と言われるのは、挽いたこしょうは容易に混ぜものが可能だからです。また、こしょうの香気は移ろいやすいので、一度粉に挽くと、急激に風味を失ってしまいます。こしょうの丸呑みは効き目がなくムダなことですが、買うときばかりは、丸のままの粒がよく、使うたびにこしょう挽きで、挽きたてを使うようにすれば、こしょうの新鮮な香味が、料理の味を一層引き立ててくれます。こしょうの刺激性はピペリンというアルカロイド化合物によるもので、ピペリンは唾液と胃液の分泌を促し、消化を助けます。
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[#小見出し] 御馳走《ごちそう》の山盛《やまも》り[#「御馳走《ごちそう》の山盛《やまも》り」はゴシック体]
「馳走」ということばは、中国では『史記』項羽紀に「南出馳走」と記されているように、文字通り「かけはしる」意ですが、日本では「あれこれ走りまわって世話をすること」の意に用い、さらにその用意に奔走《ほんそう》する意から、「ふるまい、饗応」の意になり、さる狂言にも「御茶の御酒のと有て某《それがし》までも御馳走になる」といった使われ方をし、遂には「立派な料理」「おいしい食べ物」の意に用いられるようになりました。ことわざの「御馳走」は、もちろん「おいしい食べ物」の意です。
もともと「おいしい」とか「まずい」という味感覚は、味覚体験の記憶に由来する主観的事柄なのですが、「御馳走」という場合には、その「おいしい」ということが、客観的なものとなっていて、「御馳走」は当然のこととして、おいしいはずのものでなければなりません。それだけに、いただく側は、とてもありがたい、うれしいものなのです。とは言っても、おいしいはずのものでも、いただく側の事情によって、おいしいと感じない場合があります。例えば、すでにお招きを受ける前に、どこかでおいしいものを腹一杯食べてきたときとか、肉親のどなたかが明日をも知れぬ重態に陥って心配なときとか、この例のように、おいしい御馳走が「山盛り」に出されたりすると、どんなにおいしいものでも、とんと食欲がわかず、箸《はし》取る手もにぶる場合すらあります。「御馳走」は、やはり、特別おいしいものと思って食べるのでなければなりません。「御馳走の山盛り」は、おいしいものをおいしく食べさせる心遣い、演出といったものの大切さを指し示したことわざと言えましょう。
食通として知られた魯山人《ろさんじん》の直話《じきわ》ですが、あるとき、登山家・料理研究家として名のある女史が、鎌倉の魯山人邸を訪れた際、みやげにもってきたゴルゴンゾラチーズ(半硬質で内部に青緑色の筋が通ったイタリアの代表的な青カビチーズ)を、魯山人が非常によろこんだので、別れぎわに、「家にまだたくさんございますから、帰ったらお送りしましょう」と言った。すると魯山人は、「あなたは幼稚だ。自分が星岡茶寮をやっていたとき、お客さんに出したものがとても気に入られ、もう少しないかと言われると、たとえ台所に腐るほど積んであっても、残念ながらもうございません、と答えていた。そうすると、客はこの食べ物をいつまでも忘れずにいて、ああおいしかった、もっと欲しかったと思うが、サアサアとうんざりするほどもってくると、あとは忘れてしまうものですよ」と、訓《さと》したそうです。
さりとて、うまいまずいの味感覚は一律にはいかず、育ちざがりの若者や、味覚体験の乏しい人や重労働に従う人などにとっては、会席料理で出されるような、小皿や小鉢にちょっぴり盛られた御馳走では、さのみおいしいと感じないでしょう。このことわざ、どうやら鋭敏な舌や、ゆたかな味覚の体験を持ち、しかも、うまいもの食いであるという条件を兼ね備えた人なら、たちどころに得心のいくことわざのようです。
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[#小見出し] 胡麻《ごま》を擂《す》る[#「胡麻《ごま》を擂《す》る」はゴシック体]
略して「胡麻擂り」とも言います。その時の都合で、どちらにも誰にでも迎合すること、人にへつらって自分の利益を計ること──は、ご存知のとおりで、あまりいい意味のことばではありません。「胡麻擂り野郎」などと、ののしることばとしても使われます。一説によれば、江戸後期の天保時代(一八三〇〜四四)から使われ始めたと言われます。随筆本『綺語文章』に、「此頃東都にての通言に、胡麻を摺《す》ると云こと流行して貴賤ともに云はやらす」と、記されています。
では一体どうして「胡麻擂り」が、人におもねって、お世辞を言う者──の意味に使われるようになったか? 従来の語源説は今ひとつピンと来ません。『大言海』の大槻文彦先生は、
「擂鉢で胡麻を擂ると、胡麻が四方に付くところから、あちこちについて、人|毎《ごと》にへつらう者をいう」という語源説を披露し、国語学者の金田一京助先生は、『国語研究』の中で、「ゴマ(護摩)スル、すなわち護摩を修する意から、語源が忘れられて胡麻|磨《す》ルと考え合わされた」との説を掲げておりますが、特に後者はこれだけの説明では、納得しかねます。
ごまにかぎらず大豆にしろ、あずきにせよ、外皮はかたく、不消化なもので、ごまの場合などは、いりごま・すりごま・ねりごま・むきごまなどにして使い、また、こうした名の加工品も販売されています。
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○いりごま[#「いりごま」はゴシック体]──ごまを洗って煎った品。ポリエチレンなど、防湿性の高い包装資材が発明されて商品化され、調理の簡便化の要望に添った品です。
○すりごま[#「すりごま」はゴシック体]──いりごまを擂った品。いりごまをそのまま擂ったものと、ある程度油分を除いたものがあり、前者は油分が多いので、ベタッとした感じで味は濃く、後者はいく分サラサラしています。油分が空気や光線の影響を受けるので、洗いごま・いりごまより保存性は劣ります。
○ねりごま[#「ねりごま」はゴシック体](当りごま)──ごまの表皮をむき、煎ってからドロドロになるまで擂った品です。ごまだれ・ごまあえ・ごま豆腐などに利用します。密封してあれば長期間保存できますが、油分が分離して上面に溜ってきます。白ごまを原料とした品と黒ごまを原料とした品がありますが製品の外見上からほとんど白ごま製品です。
○むきごま[#「むきごま」はゴシック体]──白ごまの表皮をむいたごま。白ごまを水に漬けると油分の多い実は変化せず、表皮だけがやわらかになり、伸びて大きくなります。こうなったごまをこすると実と皮が分離しますので、水で皮を洗い流して乾燥します。
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ごまの加工品は以上のとおりで、「胡麻擂り」はかんばしくありませんが、「胡麻擂り」の結果生まれた「すりごま」は、若返り薬のビタミンEやコレステロールを減少させるリノール酸が非常に多く、また、カルシウム、鉄、ヨードなどミネラルも豊富なアルカリ性食品で、子どもや年寄りには好適の健康食品です。
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[#小見出し] 米屋《こめや》は三度目《さんどめ》には変《か》えよ[#「米屋《こめや》は三度目《さんどめ》には変《か》えよ」はゴシック体]
これは今の話ではありません。お米が自由に販売されていた頃の話です。多くの家庭では、米屋がご用聞きにきて、注文したお米を配達してくれるのが|ならわし《ヽヽヽヽ》でした。そのお米は、米屋が自分の店で量《はか》って袋に詰め、各戸に配達したもので、お米をいちいち量り直して、量目を確かめた上で受け取る家庭など、まずほとんどありませんでした。たいていはそのまま米櫃《こめびつ》へあけさせて済ませていたのです。たまたま、なにかの機会に量ってみると、量目が不足していることが多く、時には量りまちがいではないかと思えるほど、不足の多いこともありました。お米は目の前で量るものではなく、受け取る際も、細かい人だと思われたくないという見栄もあり、第一面倒だし、疑うこともなく、ついそのまま受け取る場合が多かったのです。米屋はそれにつけ込んで、量目をごまかしていたのです。明らかに不正な行為ですが、当時は、それが米屋の商いのコツであり、当然の|ならわし《ヽヽヽヽ》であるかのように行われていました。米屋にだまされない手立てとしては、受け取る際、いちいち量り直せばいいのですが、それでは面倒でやりきれないので、せめても「米屋は三度目には変えよ」ということになったのです。
取り引きしたての頃は、お得意さまの歓心を買うため、米屋は量目をごまかすようなことはしないし、同じねだんでもなるべくいいお米を届けてくれます。「こんどの米屋はいいぞ」とよろこび、やがて警戒心もゆるみ、慣れるにつれ、そろそろごまかしはじめます。こうしたケースが多かったので、それに対抗するための客側のささやかな自衛策が「米屋は三度目には変えよ」で、当時の庶民の生活感情や暮しの知恵が生きています。米屋のこうしたやり口は、お客の信用を利用し、その信用を実は裏切っていたのです。
今日、量目をごまかすような米屋は、まずないでしょうが、品質の点ではいかがでしょう。現在、銘柄別に売られている自主流通米のほうが一般的で、その中でもササニシキとコシヒカリは人気の両横綱。しかし、日本で作られているお米の品種は、現在約二〇〇種もあり、供給過剰気味で、これらに古米あり、古々米もありで、また、同じ品種の中でも、例えば宮城産のササニシキと山形産のササニシキでは味も違います。単純にササニシキはおいしいと信じていても、お米屋さんによって卸も生産地も異なるので、味が違うのは当り前です。今は産地、品種、生産年度が明示されていますので、万々まちがいはないと思われますが、ずるい米屋にひっかかったら、標示と中身がまるっきり違うものをつかまされることも稀ではないでしょう。「本場物新潟産のコシヒカリ」と言われても、そのお米を見て、それが本物だと識別できる消費者は、残念ながらごくごく僅《わず》かでしょう。
月並な言い方ですが、「信用のおける米屋さんとのつき合い」を考えることが先決と言えるでしょう。でなければ、「ふるさと宅急便」などを利用して、お口に合った銘柄米を探し出し、直接生産農家から送ってもらう、産地直送便にたよるのも一法かと思います。
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[#小見出し] 菎蒻《こんにやく》と学者《がくしや》は田舎《いなか》がよい[#「菎蒻《こんにやく》と学者《がくしや》は田舎《いなか》がよい」はゴシック体]
『守貞漫稿《もりさだまんこう》』という随筆本に、
「京坂にては一つ二文、江戸にては八文。又京坂の諺《ことわざ》に『坊主と菎蒻《こんにやく》は田舎に良し』と言ふ事あり、凡《およ》そ三都より他製に美あり」
と見えていますが、「菎蒻と学者は田舎がよい」とも言います。こんにゃく好きは「不器量な物ほど味がある」と、田舎こんにゃくを珍重します。こんにゃくは確かに都会で売られている石灰で晒《さら》した白くて水っぽいものより、黒ずんで見かけはよくありませんが、弾力のあるもののほうが、風味があってうまい。同じように、世間ずれした都会の学者より、田舎の学者のほうが生真面目で、内容のある人物が多い──そんな意味で、田舎礼賛のことばとして、このことわざはよく使われます。
学者のほうは、しばらく措《お》くとして、田舎こんにゃくについては、わたしも賛成です。関東では下仁田《しもにた》と鹿沼《かぬま》のこんにゃくが評判がよいようですが、わたしの味わった鹿沼のこんにゃくは、全体に黒ずんでいて、ぶつぶつがいっぱいあり、プリプリと口の中ではずむような都会のこんにゃくとちがって、さくさくした感じ。そして、こんにゃく特有のかわいた匂いがほのかにします。鹿沼のは熱湯でゆで、しょうがじょうゆにつけるだけで、なんとも言えないうまさがあり、みそ田楽で食べる味もまた忘れられません。
うまさの秘密は、ほとんど手作りであること。そして粉からではなく、生玉《きだま》から作ることから来ています。ふだん、わたしたちが食べるこんにゃくは、こんにゃく玉を乾燥させて製粉したものから作っています。粉から作ったものは、あの黒いつぶつぶ(こんにゃくの表皮)がないので、業者によっては海藻を混ぜて作るものもいるというので、黒いからと言って、ふるさとの味──と、感激ばかりしてもおれません。
こんにゃくの成分は水分が約九七%、残り約三%の大部分がグルコマンナンで、人間の分泌する唾液や胃液、そのほかどんな消化液でも消化不可能で、そのまま胃から腸に入り、腸では細菌の力で八〇%以上消化されますが、カロリーは明らかでないようです。よくこんにゃくは毒にも薬にもならないもののように言われますが、なるほど栄養的にはカルシウムが少しあるだけです。では、嗜好品かと言うと、そうとばかりは言えないようです。
昔の人は働き過ぎて精根が尽きたら、コンの付く野菜を食べたらいいとすすめ、「大根、蓮根、昆布、牛蒡《ごぼう》、菎蒻」などを食べました。こんにゃくは胃に負担をかけない食べ物で、腸にやわらかい刺激を与えて便通をよくし、あの吸着性が知らない間に胃腸壁に密着した老廃物を除いて、次に来る食べ物の栄養吸収率をよくする、俗に言う「菎蒻《こんにやく》は体《からだ》の砂払《すなはら》い」をしてくれる健康増進食です。また、こんにゃくはアルカリ性食品で、血液の酸性化の防止、動脈硬化や肝硬変の予防という大事な役目もしてくれます。したがって、肉食の好きな人や慢性の病気を持った人、太り過ぎの気になる人などは、ときどきこんにゃくを食べることが必要でしょう。
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[#小見出し] 昆布《こんぶ》を三年食《さんねんく》うと瘤《こぶ》が治《なお》る[#「昆布《こんぶ》を三年食《さんねんく》うと瘤《こぶ》が治《なお》る」はゴシック体]
昆布はこんぶが正しい発音、読み方ですが、こんぶの訛《なま》りでこぶと読むことも間々あります。鎌倉時代の語源辞書『名語記《みようごき》』五には、
「海草の|こぶ《ヽヽ》、如何。|こぶ《ヽヽ》は混布とかけり。海中にてひろめけるすがたの、ぬのににたれば、ひたるぬのとかけるなるべし」
とあり、すでにこぶという読み方のあったことが分ります。慶長八年(一六〇三)板の『日葡《につぽ》辞書』にも「Cobu〈コブ〉」となっています。なぜ「昆布」の読み方に、こうもこだわるかと言えば、このことわざはこぶとコブの語呂合わせ(酷似した発音の言葉の合致)、同音をもじったもので、実効のあろうはずがないからです。こぶは「喜ぶ」の語呂に通じ、縁起や御幣をかつぐのに、それこそ大いに喜ばれます。祝儀の品としてこんぶそのものが用いられ、正月の鏡餅の間に敷かれ、おせち料理の祝い肴に使われる「昆布巻き」や、「チャ」という語を忌んで、茶の代りに「こんぶ」が使われます。三三九度の皿物にもこんぶは登場します。
外国語にもこうした語呂合わせの縁起や言葉遊びはありますが、日本語には語尾が母音で終って、その発音が単純なのが多いので、とりわけ語呂合わせの演出が多い。万歳《まんざい》の掛け合い、落語の八つぁん熊さんの聞き違いや落ちは、この語呂合わせをふんだんに採り入れています。万歳や落語ばかりでなく、縁起や御幣かつぎにも、ずいぶんと多く、食べ物に関係のあるのを拾ってみても、こんぶのほか、鯛、豆、カツオ節などがあります。
鯛は「めでたい」のタイを取っています。タイだけでも語呂が合う上に、幸いに「目出」も付け加えられます。と言うのは、タイの中でも「金目鯛」は目が飛び出しているので、文字通り「目出鯛」のです。ふつうのマダイでも、海流や他の大形の魚に追われて、海面近くに浮上すると、水圧が急に減ずるので、鰾《うきぶくろ》が膨張し、時に眼窩《がんか》の空気も膨れて、眼が飛び出して来るのもあって、いよいよ目出度《めでた》いことになります。
豆は|まめ《ヽヽ》で達者でという語呂からお目出度事には欠かせません。正月の慶《よろこ》びに登場する「開豆《ひらきまめ》」などはその最たるもので、白豆を塩煮にして押し開いたものです。年中、健康《まめ》で暮せるようにとの意に用いられるものです。お屠蘇《とそ》の三種肴として、数の子、開牛蒡《ひらきごぼう》とともに黒豆は欠くべからざるものとなっています。
カツオ節はお目出度いと言っても、武家向きのもので、語呂が「勝男武士」に通ずるというので、出陣式や凱旋式はもちろん、普通行事にも重用されます。やがて武家ばかりか庶民の間にも広がり、保存がきく上に、誰の口にも合う便利なものなので、結婚祝い、出産祝い、立身出世の祝事の贈答品に重宝されてきました。
正月の慶事には、このほか「田作り」なども重用され、別に「五万米《ごまめ》」「小殿原《ことのばら》」とも言っています。
田づくりや老母呼ばるる味加減 栗原郁子
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[#小見出し] 昆布《こんぶ》を食《た》べると髪《かみ》が黒《くろ》くなる[#「昆布《こんぶ》を食《た》べると髪《かみ》が黒《くろ》くなる」はゴシック体]
黒く真っ直ぐな髪を誇りとした昔は、この髪の養いのために、こんぶを食べるようにと、盛んにすすめられたものです。それと言うのも「昆布を食べると髪が黒くなる」と、信じられていたからです。こんぶは、甲状腺ホルモンと密接なつながりのあるヨードを含んでおり、他の食物にくらべナトリウムの含量も多く、そのほか、カルシウム、ビタミンAやB2も相当ありますが、これだけで髪が黒く、艶やかになるとは言えません。こんぶが海中で、たゆたうようになびいているさまが、黒髪のように見えるところから、素朴に信じられ、言われはじめたのかも知れません。
黒髪を養うのに、それほど効き目はなくても、こんぶには数々の栄養効果を期待できる成分が含まれています。まず期待できるのは、灰分とビタミンA、B2です。灰分の消化率は七九・五%と高く、牛乳の灰分の消化率(五〇〜六〇%)よりもよいから、これは大いに期待できます。こんぶの灰分の溶液は強烈なアルカリ性を示し、わたくしたちの主食となっている米、小麦粉などの穀類、食肉、魚肉はすべて酸性食品ですから、計算上、これらの酸性を中和するたいへん効果的な食品と言えます。
コンブの第二の特長はカルシウムの多いことと、カルシウムとリンの割合ではカルシウムが数倍多いことです。カルシウムが不足すると、ご存知のように、子どもの身体の発育がわるくなり、熱しやすく冷めやすい性格になるとも言われます。しかも生理的にはカルシウムをリンの二倍必要とし、穀類、肉類ではリンの多いのがふつうです。野菜類ではほぼ一対一〜二ですから、確実にカルシウムのほうが多い食品は、カルシウムの供給源として貴重です。その点、こんぶ及びこんぶの加工品はカルシウム源として、たいへん期待できるものと言えます。
第三の特長はヨードの多いことです。昔からわが国ではこんぶは血圧を下げ、長寿を保つ作用があると信じられていますが、海草のヨードが体内に吸収された際に、血圧降下の作用を呈することは想像に難くありません。これは毛細血管の収縮を起こし、高血圧に導くアドレナリンに、ヨードが酸化されてできたヨード酸が作用し無効にするからです。また、同様にカルシウム、ヨード、そのほか、アルカリ性無機質の多いことが高血圧の発生を押える効果があるほか、こんぶに含まれている塩基性アミノ酸のラミニンが血圧を降下させる作用のあることは、すでに判明している事実です。このように、子どもから老年者にわたって、幅の広い、栄養価値の高い食品がこんぶであると言えましょう。
その上、こんぶには、あのすばらしい旨味《うまみ》を出すグルタミン酸もあり、だしを採るのに欠くことのできない材料として、昔からカツオ節と並んで「だし」の横綱格として重宝がられ、湯どうふなど鍋ものにはなくてはならぬものとなっています。現在でも佃煮などの加工品向けもありますが、六〜七割は「だしこんぶ」用となっております。
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[#小見出し] 菜《さい》 食《くい》 貧《びん》 乏《ぼう》[#「菜《さい》 食《くい》 貧《びん》 乏《ぼう》」はゴシック体]
美食好みの者は貧乏すること。また、貧乏なくせに、うまい物好きなことを菜食貧乏と言います。世に言う食通・食道楽というのは生やさしいものではなく、「三代富貴」のたとえもあるように、一代で身代を築き上げたような人物は、たいてい家に凝《こ》りがちで、舌が肥《こ》えるのは、その孫の代です。いわゆる「唐様で書く三代目」がこの種族です。
「菜食貧乏」の典型的人物をひとり挙げよとなると、わたしは一も二もなく井原西鶴の『西鶴置土産』(元禄六年=一六九三)に登場する元大尽を候補に挙げたい。西鶴の作品には、さすがに彼が「美食家」と折り紙をつけられたように、食味のぜいたくを描いたものが少なくありません。置土産巻五の三「都も淋し朝腹《あさばら》の献立《こんだて》」に出てくる大尽も、正にそのよい例で、さんざん放蕩したあげく、尾羽打ち枯らし、東山智恩院門前にわび住まいして、なお、全盛時代を忘れず、美食を好み、ある日、眠るように死んでいたという話です。
この元大尽は、みずから望んで毎日銀二|匁《もんめ》一分ずつひとからめぐまれ、自分は一匁三分、下男の分八分の弁当を祇園町の弁当屋から持って来させ、朝夕椀を洗う面倒もなく、草庵には小釜が一つだけあって、それで白湯《さゆ》をわかし、香煎《こうせん》よりほかにひとをもてなすものとてありませんでした。あるとき、昔を知った連中が京に早咲きの桜見にやってきたついでに、彼のところへ訪ねて来て、大坂のことや京都の噂をとりまぜてよもやまの話がはずみ、まもなく朝日が上ったので、今自分が人のめぐみで暮しを立てていることも忘れて、ここで朝飯を食べなさい、せめて京都で存分に御馳走しよう、なんなりと望みの献立を言いなさいと、硯《すずり》を取り出して、まず、自分の好みにまかせて、「汁の実は叩いた嫁菜《よめな》と雲雀《ひばり》、焼き物は上等の瀬田鰻《せたうなぎ》を食べてごらんなさい。それに子持鮒《こもちぶな》の煮びたしがよい。だが、これでは川魚が多すぎるから、鯛の皮をはいで付け合わせなしの鱠《なます》といこう。そうだ、忘れていた。堀川|牛蒡《ごぼう》の太煮《ふとに》、これでよいか」と言って書きつけ、「引出物の肴は何か見つくろって」と書き添えます。しかし、下男は動こうともせず、ふだん、支払いがわるいので、旦那とわたしの膳でさえ、前々の銀を持って来いと申しますものが、こんなふるまいの注文をしたところで、わかりきったこと、引き受けるはずはないと、自分の旦那をにらみつけて返答します。この始末をみんなは大笑いでごまかし、さあ、われわれの宿へということで、この男は誘われて大坂から来た人たちの客になって、とりあえず朝飯を食べたときは、すでに四つ(午前十時)を過ぎていました。そこでも昔のぜいたくな口を利き、酢の塩のと文句を言い、「大坂で食った鰆《さわら》は、蒸しても焼いても、これとは段違いに新しかった」と、全盛時代を今も忘れず、夢を見ているような気持ちでいます。まったくもって、すべてしつくして坊主になったこの男には、これもよいだろうと、みんなは今食べたばかりの腹がへるほど笑った──と記されています。それにしても、美食好みの西鶴の姿が彷彿《ほうふつ》とするような文章ですね。
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[#小見出し] 酒《さけ》は飲《の》むとも飲《の》まるるな[#「酒《さけ》は飲《の》むとも飲《の》まるるな」はゴシック体]
酒は百薬の長──と言うかと思えば、酒は百毒の長──とも言います。酒は飲み方によって、薬にも毒にもなります。酒は適度に飲むべきで、「酒が酒を飲む」ようになってはおしまいです。酒を毒にしない上手な飲み方で、じっくり楽しみたいものです。
酒による酔い方は、人それぞれによって非常にちがいますが、これを分類しますと、大体次の三つの型に分類できます。単純酩酊、複雑酩酊、病的酩酊。単純酩酊では、アルコールによって中枢神経がマヒしてきますと、精神的抑圧がとれ、生命的興奮がさかんになりますが、それ以上進みますと、眠ってしまうので、あまり問題にはなりません。複雑酩酊では、マヒのほうが遅れ、興奮状態だけが進行、さまざまの上戸があらわれます。酒乱と言われるものの中にも、このタイプが多いので、ほどのいいところで、誰かがブレーキをかけるか、自制する習慣をつけることが大切。病的酩酊は、意識がもうろうとするか、幻覚、妄想が起きる精神病の状態になるもので、これは飲酒をつづけますと、身体的にも精神的にも健康上極めて危険ですから、絶対の禁酒が必要と言えます。
酔い方にもお国ぶりがあって、わたしの見たかぎり、西洋人の酔い方は、酔いを意識しますと、ぐっと手綱《たづな》を引き締めて、「自分はしっかりしているぞ、まだ崩れてはいないぞ」という緊張感をもちつづける習性があるのに、日本人の場合は「自分はうんと酔っぱらっている。矢でも鉄砲でも持って来い」という誇張的自意識姿勢から、いよいよその酔態が得意になってくるようですから、始末におえません。酔っぱらった時点で、「自分はしっかりしている。醜態はよそう」ということと、「自分は酔った、ええめんどくせえ」という思考の在り方とでは、格段のちがいがあります。秋の夜の酒は「静かに飲むべかりけり」と言ったのは、若山牧水ですが、グループで騒ぎながら飲めば、ある程度発散できるので、アルコールの吸収量はそれだけ減ります。ただしグループですと、つい度を過ごす危険があり、ひとりで時間をかけながら、ゆっくり飲むのもわるくありません。また、気分のいいときには、自律神経系が順調で、からだの調節作用が有効に働くので、気持ちよく酔えます。
アルコールは胃壁や小腸で吸収され、肝臓で分解されます。肝臓の働きを助けるためにも、栄養が片寄らないためにも、酒の肴として、肉類、卵、ハム、ソーセージ、魚、豆腐、納豆などのたんぱく質を十分に摂る必要があります。しかし、これらのものは酸性食品が多いので、血液を中性に保つためには、野菜類、くだものを摂ることも忘れないょうに。
以上のようなことから、しめくくりとして実践的な酒の飲み方をコーチすると、まず@量をたくさん飲まないこと。Aピッチをあげないこと。B飲むだけでなく、よく食べること。Cよく眠ること。D最後に、やはり、酒は気分をほぐして飲むこと──です。
酒はほろ酔ひ 娘は二八 花は桜の盛りまへ
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[#小見出し] 薩摩芋《さつまいも》を食《た》べると太《ふと》る[#「薩摩芋《さつまいも》を食《た》べると太《ふと》る」はゴシック体]
「いも・たこ・なんきん(南瓜《かぼちや》)」と言えば、昔から女の好きなものの代表とされ、唄の文句にまで登場しています。今日では、女を小バカにした|ざれ唄《ヽヽヽ》のように思いがちですが、男をふくめて、建前抜きの食べ物の好みを吐露しているように思います。
それなのに、いもと言うとイメージがよくありません。例えばいもを冠したことばは、いずれもいい意味には使われず、「あいつは|いも《ヽヽ》だ」と言えば、ひどい悪口《わるくち》ですし、「|いも《ヽヽ》野郎」「|いも《ヽヽ》娘」ともなれば、もう侮蔑《ぶべつ》以外の何物でもありません。米・麦などの主食がありあまるほどある現在では、代用食としてのいもの役割は相対的に低く、軽視されるのは止むを得ないとしても、いもはその姿、形が現代人、とくに若者たちのセンスからすると、どうもダサイものとして映るようです。
第一、その太った体型が性に合わないし、土の中から泥だらけの姿で、モッコリ出てくる様子も、お気に召さないようです。その上、でんぷん質ですので、食べるとお腹が張るし、結果的に不躾《ぶしつけ》な怪音を発するし、果てはいものように太るのではないか──という懸念や嫌悪感すら抱く人も多いようです。
いもはお米と同じように、でんぷんの多い食べ物であることは事実ですが、「薩摩芋を食べると太る」というのは、とんだ濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》で、でんぷんにかぎらず、なんでも必要カロリー以上のものを食べれば、余った分は、一度脂肪に変えられ、皮下脂肪として蓄えられ、この皮下脂肪が多くなれば、太るということになります。でんぷんの多いのは、さつまいもにかぎったことではなく、同じいも類のじゃがいもやさといもにも共通して言えることで、それにもかかわらず、じゃがいもやさといもを食べると太るということを聞かないのは、おかしな話です。
さつまいもは、他のいも類とちがって、確かに蔗糖・ブドウ糖・果糖が多く、そのせいか、じゃがいもが淡泊であるのにくらべ、甘味をもっています。ですから、焼きいもに代表されるように、ごはんのおかずとしてよりは、間食として、独立して食べることが多く、ふつうに、きちんと食事を摂った以外に食べれば、どうしても必要カロリーをオーバーしがちになります。他のいも類のように、ごはんのおかずとして食べたり、主食の代りにさつまいもを食べるなら、太るという心配はありません。
いもは|かさ《ヽヽ》の張る食べ物であることは確かで、満腹感を与えながら、エネルギー摂取量はそれほどでもない──という際立った特性をもつ食べ物で、前記のような食べ方をすれば、「薩摩芋は食べても太らない」と言い直して、名誉回復を計る必要のある食べ物ということになります。しかも、さつまいもはイモ類の中でもカルシウムが多く、皮部には内質部の四、五倍の濃度でカルシウムがふくまれ、皮ごと食べる調理にすれば、カルシウム補給源として、もっと見直されていい食べ物です。
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[#小見出し] 里芋《さといも》は角《かど》を立《た》てて皮《かわ》を剥《む》く[#「里芋《さといも》は角《かど》を立《た》てて皮《かわ》を剥《む》く」はゴシック体]
夫婦といえども雑煮は別──食べ物の好みは意外と固執性が強く、これだけ交通が発達して、どの地方の郷土料理でも、お望み通りに食べられるというのに、生まれ育ったふるさとの味を頑固に守り通しているのが正月の雑煮。ふだんの日の料理はもちろんのこと、おせち料理でも、まずはご主人の出身地のしきたりに従ったり、あれこれ取り合わせて在所不明のものになっているのに、どういうわけでしょう、お雑煮だけは、昔ながらの古い|しきたり《ヽヽヽヽ》が守られています。
雑煮は、お供えものをいろいろ混ぜて煮たことに始まると言われ、年神を祭る年棚にあげた餅や、その他の食べ物をおろす日が、もともと雑煮の日なのです。正月四日が「棚おろし」の日と呼ばれ、この日初めて雑煮を食べる|ならわし《ヽヽヽヽ》もありました。また、「なおらい」という地方もあります。直会《なおらい》とは、神に供えた飲食物を、祭りに加わった人々が分け合って食べることですから、雑煮本来の意味を色濃く残したことばと言えましょう。
雑煮と言えば、餅の形やだしの取り方、具に、お国ぶりが出、東は切り餅文化圏、西は丸餅文化圏に分かれ、切り餅圏では、すまし汁仕立て、一方の丸餅圏の一部近畿、中国地方では白みそ仕立てが多く、いずれもこんぶ、カツオ節が一般的。具の野菜は土地ごとの青菜が、その地方らしさを出しています。東京風の雑煮は、五センチ長さの小松葉、大根とにんじんの短冊切り、たけのこの薄切りといった野菜の具なのに、京都風の雑煮は、水菜、色紙切りの大根、短冊切りのにんじん、丸く皮を剥いた子いも……といった野菜の具を取り合わせます。
ところで雑煮に用いる子いもをはじめ、さといもは煮るに先立って下拵《したごしら》えする際、面とり──といった独特の皮剥きをします。さといもは煮くずれしやすいので、皮の剥き方に気を配ります。よく、亀甲《きつこう》剥きとか六面剥きと言って、大きな六つの面に皮を剥いて、カドを立てておくと、煮上がった姿がきれいなばかりか、盛り付けるとき、形がきたなくなるのを防げます。京の名物「いもぼう」の平野家で実地見聞しましたが、えびいもはよく洗ってから、面とり包丁を使って、皮を分厚く剥き、形をととのえていました。剥かれる量は、大体四、五〇%だそうで、このように厚く剥かないと、アクのために表面が黒ずんで、見栄えがわるくなるばかりか、味にも影響し、面とりはえびいもの下拵えには欠くことのできない作業となっていました。面とりしておけば、煮ている間にお互いがぶつかり合っても、角の部分が醜く煮くずれることがありません。
それとさといもをクセがなく素直な味に仕上げるコツは、一度ゆでこぼして、ザッと|ぬめり《ヽヽヽ》を取り、それから調味料の中で煮ることです。なべにたっぷりの湯を沸《わか》し、七、八分ゆで、流水の下で冷めない程度にザッと洗って、表面の|ぬめり《ヽヽヽ》を取ります。あまり洗いすぎると、|ぬめり《ヽヽヽ》が逃げすぎて旨味も落ちるので、ザッと洗うこと。
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[#小見出し] 鯖《さば》 を 読《よ》 む[#「鯖《さば》 を 読《よ》 む」はゴシック体]
物を数えるのに、ごまかして利益を得る。実際より大きく言う──ことを、「鯖を読む」と言いますが、どうして、こんなことが言われるようになったのでしょう。
現在は、箱詰めの干魚類を除いて、大部分は計量売りです。昔は、大方一尾いくらでした。もちろん、昔、秤《はかり》がなかったわけではありませんが、どういうものか一尾いくらで、取引きされました。おそらく、秤で計るのが面倒だったせいでしょう。
一説によりますと、昔、漁師から魚屋が魚を買い取る際、船の魚槽《ぎよそう》から一々魚の数を数えながら籠《かご》に入れました。このとき、悪賢い魚屋は、口より手の方が早く、魚の数をごまかしたようです。魚は特にサバにかぎったわけではありませんが、俗に「鯖《さば》の生腐《いきぐさ》れ」というくらい、足が早いところから、急いで数えたためサバが代表されました。その発祥は房州勝浦港──だと言います。もっとも、これには異論もあり、魚がし会会長町山清さんのお話によれば、
「私が若いころは、サバに限らず、いかに早く魚を数えながらこちらの樽《たる》から客の買い籠へ移すか、これも修業だった。戦場のような朝の市場でモサモサ『えーひとつ、ふたつ……』と一匹一匹手にとって数えていたのではさまにならない。また大切なことは、鮮度保持のためにもなるべく魚に手をふれないことである。
両手を氷の入った樽に突っこみ、指と指の間に魚の尾に近い部分を二匹、または三匹ずつ挟み、『ひとや、ふたやー、みっちょやー、よっちょやー』と目にもとまらぬ手練の早技で数えていく。なれてくれば百匹のサバを数えるのに一分間とてかからない。買う方は『とうやー、じいいちゃー』ぐらいまではなんとか目がついていくが、何十匹となるととてもじゃないがわからなくなる。落語の『時そば』ではないが『いまなん時だ』で一つや二つごまかしてしまう。これが通説で、たいがいの辞書にもそうあるが、そんな詐欺みたいな商いは、実際にはありえなかった。河岸っ子の名誉にかけて付記しておく」(『河岸の魚』)
ということです。このほか、古くは魚市場のことを「五十集《いさば》」と言い、魚市場の数え方にごまかしが多かったことから「いさばよみ」ということばが生まれ、それがいつしか訛って「さばよみ」になった──と言います。
また、サバはサバでも、このサバは梵語のサバで、散飯、生飯、三把と書き、生飯(サンバン)の略。三飯、産飯、祭飯、最把とも書き、仏教で、持戒者の日常の作法として、食前に自分の食物から上の方を少し取って、別の器に盛り、鬼神・餓鬼・動物などに対する施し物とするものです。少しずつ先に取り除いておく、そこから「生飯《さば》を読《よ》む」の語が生まれ転用された──といった説もあります。
いずれにしても「数とりの銭《ぜに》ざしに鯖《さば》をよんで、奇妙《きみよう》|頂 礼《ちようらい》不思議な手管《てくだ》に」(談義本『教訓続下手談義』)といった使われ方をして、日本人にはおなじみのことわざです。
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[#小見出し] 三月鮃《さんがつひらめ》は犬《いぬ》も食《く》わぬ[#「三月鮃《さんがつひらめ》は犬《いぬ》も食《く》わぬ」はゴシック体]
旧暦三月ころのヒラメは、しゅんはずれでまずいということ。ヒラメは北は千島、北海道から南は九州にかけて広く分布する魚で、底が砂地になったところに、好んで棲《す》んでいます。からだの上側は褐色をし、乳白色や褐色の斑点がちらばっています。そして、カメレオンが周りの色に合わせて体色を変化させるように、底が砂であるか、あるいは泥や砂利であるかによって、斑点の具合を変えます。
ヒラメの漁法としては、生きたイワシやイカなどを餌にして、静かに舟を漕ぎながら、餌を底近く泳がしていると、食いついてきます。また、定置網や底曳網などでも獲り、全国各地で獲れますが、長崎、福岡、千葉などでは、とりわけ漁獲高が多くなっています。
広い地域に分布しているせいか方言も多く、北海道でテックイ、東北でオオクチガレイ、関西でオオグチガレ、中国でオオクチ、山口でオオガレイ、徳島でホンカレイなどと言います。
分布地域の広大さにもかかわらず、味について言えば、寒流魚に属し、食べごろのしゅんは、俗に「寒ビラメ」というくらいで、一、二月の寒いさかりで、脂肪が乗り、身も締まってうまい。それが二月から六月にかけて卵を産むので、夏の間はまずくてどうしようもありません。同じようなことわざに「三月鮃《さんがつひらめ》は貰《もら》っても食《く》えぬ」があります。
このように、魚にはしゅん(旬)と言って、年間を通して特に味のよい時季がありますが、ふつう産卵期の二、三カ月前ころがいちばん充実していてよいと言われています。これは近海の魚について、特に言えることで、遠海魚にも、その時季があるわけですが、冷凍魚となっての見分けは、なかなか困難です。近海魚のしゅんについては、鮮魚として店頭に出盛る時季を選ぶことがまず無難です。季節ごとに多く出回る魚がいちばん値段も安定し、味もよいわけですから、鮮魚については季節の魚をよく知ることです。
ところでヒラメの食べ方ですが、鮮度のいいものなら、四枚におろして、刺身・すしだね・洗いなどにするほか、筒切りにして煮つけ、小型のものは姿煮や空揚げにします。また、上下のヒレのつけ根に並んでいる骨は担鰭骨《たんきこつ》と言って、その間にはさまった柱状の肉は「ヒラメの縁側」と言われ、たとえようもないうまさで、アルミホイルや竹の皮に包んで焼くか、煮て食べると、持ち味が堪能できます。すし屋では高級なすしだねとして珍重しています。ヒラメの縁側のうま味は、縁側にふくまれているコンドロイチンが決め手です。
北海道の胆振《いぶり》地方では、尾鰭と背鰭に近いところの肉をタンタカと言い、女性のシンボルのことだそうで、強壮効果があると言われます。天保二年(一八三一)板の『魚かゞみ』にも、ヒラメは「脾胃を補ひ、気力を益し、諸病に忌ことなし」と記して、ヒラメの効能を評価しています。
煮凝《にこごり》や平目をかしき裏表 喜舟
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[#小見出し] 芝居《しばい》菎蒻《こんにやく》 芋《いも》南瓜《かぼちや》[#「芝居《しばい》菎蒻《こんにやく》 芋《いも》南瓜《かぼちや》」はゴシック体]
芝居、こんにゃく、いも、かぼちゃ──ハテ、一体これはなんでしょう。芝居以外はすべて食べ物になっています。今日ではこれを統一している意味についてお尋ねしても、不案内な人がほとんど。これは女性の好物を並べたものだと解説しても、今どきの若い女性は、「ヘエー、そんなの嫌い」と、プイと横を向いてしまうのがオチです。このことわざが生まれたのは、おそらく文化・文政のころ(今からざっと百六、七十年前)と見られますから、当時の若い女性たちの好物だったのでしょう。いもはさつまいもでしょう。明和〜天明時代(一七六四〜八九)には、すでにさつまいもは江戸に商品として出回っていました。文化年間(一八〇四〜一八)あたりになると、江戸では焼きいもが名物になってきました。『俗事百工起源《ぞくじひやつこうきげん》』(慶応元年序)という風俗随筆に、
「文化三、四年に薩摩芋を焼て売し看板に、八里半と書て売し処《ところ》、大きに売れたる、其こころは、此の風味よろしき故、栗の味ありとて、栗に近しと云へる謎を看板に書しものなり、其後また十三里芋と書し看板も有し、是れ八里半の上にて、くりよりうましと云へることなりしか」
という一節があり、くりに近い八里半、くりよりうまい十三里というナゾめいたしゃれで人気を集めたことが述べられています( 「九里よりうまい十三里」参照)。
比較的娯楽の少なかった江戸時代には、芝居見物はひとびとにとって大きな楽しみでした。江戸の婦女子に愛好された人情本(文政創始)は未だ現われず、吉原はもっぱら男性の享楽機関であり、婦女子を含む江戸庶民にとって唯一とも言える娯楽の殿堂は芝居でした。芝居見物前夜ともなれば、上は大奥から下は一般家庭まで、その仕度に戦場のような騒しさで、
女共いつそうはつく月がしら
の句が示すように、顔見世(十一月一日)前後は、女性などは、仕事が手につかない有様でした。そんなわけで、芝居見物は最高の娯楽でしたから、第一に挙げられています。こんにゃく、さつまいも、かぼちゃはいずれも外国から何度目かに移植された珍しいおいしい食べ物で、とりわけ女性がお好きなものだったのでしょう。「唐茄子《とうなす》(かぼちゃ)と芋と芝居は女の三道楽」ときめつけたことばもあります。どうやら日本人は昔から舶来物には弱かったようです。
かぼちゃは、すでに天文十年(一五四一)にカンボジアを経由してポルトガル船で、九州の豊後か長崎辺に伝わり、かぼちゃの名が付きました。別名の南京《なんきん》や唐茄子は、中国経由の渡来物もあったことをうかがわせます。江戸中期の有職《ゆうそく》家伊勢|貞丈《ていじよう》の『安斎随筆《あんさいずいひつ》』に、
「此のカボチヤ瓜、予が幼少より弱冠の頃、享保年中までは市にて売らず、無きが故なり、稀に人の園に種《う》うる者もありし、元文の頃より所々にてうゑ弘めて、いまは市に多く売り夏秋の菜物となれり」
と、かぼちゃ普及の秘話を伝えています。
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[#小見出し] 湿《しめ》り茶臼《ちやうす》に鮓《すし》の押《おし》[#「湿《しめ》り茶臼《ちやうす》に鮓《すし》の押《おし》」はゴシック体]
重いもののたとえです。
茶の湯に欠かせぬものに抹茶があり、その抹茶を作るのに欠かせないのが茶臼です。茶臼は宋代の中国で発達した微粉砕用具で、宋に学んだ禅宗の高僧たちが、それを日本へ持ち帰りました。宋の詩人で、書家としても名高い黄山谷の詩に、「磑《がい》を落つること霏霏《ひひ》として雪も如《し》かず」──とありますのは、茶臼から抹茶の微粉末が雪のように散る|さま《ヽヽ》を形容しています。
茶臼は下臼の真ん中に心棒が立っており、上臼の真ん中に、その心棒の通る穴があります。この穴に抹茶のもとになる「碾茶《てんちや》」が入り、心棒の回りを降りて、両臼の間に入って、粉になって外に送り出されます。外へ送り出すために、臼の面には、細い溝が掘ってあります。
「茶の葉を石の面で全面的に磨《す》りつぶしてはいかん。石の面でつぶすと、葉緑素が摩擦熱で焼けて、茶の味がこわれてしまう。茶の葉と葉が摺《す》れ合って、粉になるようにせんとダメだ」
とは、茶臼造りの名人の話。臼の回転は確かに抹茶の品質に密接な関係をもっており、さらに、回転数は臼のある部屋の温度や湿度とに関係します。それは何十キロという重みのある石が磨れ合うために、摩擦熱が出ます。そのために茶が焼けてしまうからです。もし石臼が湿気を帯びていますと、挽《ひ》くとき、茶の葉が生葉のような状態にもどりますので、非常に重くなり、とても挽きにくくなります。抹茶だから細かくすればいいというものではありません。あまり細かすぎますと、室内の水分を吸収してしまい、抹茶の味が水っぽくなってしまいます。抹茶の風味の変化は鋭く微妙で、ふつうの緑茶とちがい、茶の葉そのものを飲むために、粒子の大きさ、形などがお茶の風味を左右することになります。それゆえ、完全な微粉にせずに、ある程度の粒子、それも単に丸いものでなく、磨りつぶした粒子ということになります。
ですから粉にしたら放っておいてはいけません。空気に触れると香りを失い、酸化しやすくなります。冷凍室に入れたり、窒素封入などで、多少保存性はのばせるものの、挽きたてには遠く及びません。ほんとうの通が挽きたての抹茶を珍重するゆえんです。第一茶臼から出る抹茶は、新緑の緑そのものの色です。また、風味と言い、泡と言い、点《た》て具合と言い、インスタント粉末の到底及ぶところではありません。
一方の鮓は日本料理の中でも、もっともなじみの深い食べ物で、種類も多く、もともとは飯を加えずに魚介肉を塩圧《しおお》ししたものです。押しているうちに、和熟して自然に酸味が生じたので鮓と呼ばれました。その後、米・粟などでんぷん質のものをいっしょに漬け込み、自然発酵して生じた乳酸の酸味で腐敗をおさえた一種の貯蔵食品でした。熟鮓《なれずし》がその祖型で、滋賀県のフナ鮓は、そのもっとも代表的な熟鮓でした。
こうしたことから「湿り茶臼に鮓の押」は、重いもののたとえにされましたが、昔の人たちは、このほか、お局《つぼね》の乗物、不精者の立居、笠の雪なども、重いものに数えていました。
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[#小見出し] 酒《しゆ》 池《ち》 肉《にく》 林《りん》[#「酒《しゆ》 池《ち》 肉《にく》 林《りん》」はゴシック体]
漢字や漢文がとかく敬遠されがちな当節では、「酒池肉林」といった故事ことわざも、若い人にはなじみが薄くなったようです。文字通り、酒の池、肉の林で、飲み放題、食い放題の形容です。徹夜の豪遊を、中国式に大ゲサに形容したのではなく、酒の池、肉の林を造ったという歴史的事実にもとづいた話から来ています。
中国の歴史で、暴君の見本として、夏《か》の桀《けつ》王、殷《いん》の紂《ちゆう》王の二人が挙げられますが、この二人が共に酒池肉林を実演しました。桀は貪欲残虐で、力が強く鉄のくさりを延ばすほどでしたが、頭はさのみよくなかったようです。妹喜《ばつき》という女を愛して、その言いなりになり、美しい玉をちりばめた宮殿や高殿を造り、人民の財をしぼりあげて、肉の山、干し肉の林、そして酒の池には舟を浮かべて、酒粕の堤は、一〇里を望むことができました。太鼓の合図で、三〇〇〇人が、牛が水を飲むように酒を飲むというほどのご乱行で、妹喜はこれを見るのを楽しみとしました。そして遂に桀は殷の湯《とう》王に亡ぼされてしまいました。「酒池肉林」と同じ意味に使われる「肉山脯林《にくざんほりん》」の故事のあらましがこれです。
殷の最後の王が紂。猛獣をなぐり殺すという力持ちのところは桀に似ていますが、頭は悪くはありませんでした。「智は以て諫《かん》を拒《ふせ》ぐに足り、言は以て非《ひ》を飾《かざ》るに足る」と言いますから、かなりの政治家です。これがまた桀王と申し合わせたように妲己《だつき》という女に、すっかり入れ揚げ、女の言う通りになりました。租税を重くしての贅沢三昧、またもや酒で池を造り、肉で林を造って、昼夜を分たぬ宴会を催しました。人民は恨み、諸侯のうちにはそむく者も出てきて、遂に周の武王に亡ぼされてしまいました。「酒池肉林」は、この故事に由来するものです。
今少し、史実を調べて見ますと、肉林という言葉の中には、語感のように、さらに淫らな、今日的に申せばポルノチックな意味が感じられます。『史記』殷本紀によりますと、
「酒を以て池と為《な》し、肉を懸《か》けて林と為し、男女をして|※[#「にんべん+果」、unicode502e]《はだか》にして其の間に相|逐《お》わしめ、長夜の飲を為す。」
となっていて、どうやら男女を裸にして、酒の池、肉の林の中で追いかけっこをさせ、昼夜ぶっ通しの宴会を催したようです。この盛典、酔った裸の男女が、ご満悦の王と愛妾の眼前で、世にもすさまじい野合《やごう》をくりひろげたようです。ですから、この場合の肉林というのは、女体の林ということになるかも知れません。「酒池肉林」の酒がどのような酒であり、肉がなんの肉であったかは詳しく記されておりませんので断定しかねますが、昼夜を分たぬ酒宴で、遂に月日を忘れてしまったというのですから、これは長夜の宴どころではありません。紂王をして、かかる愚行をさせた妲己は、「ひとたびウインクすれば城を傾け、二度目に秋波を送れば国を傾ける」略して傾城《けいせい》、傾国《けいこく》なる名言を後世に遺《のこ》しました。
夏の桀王と言わず、殷の紂王と言わず、おそるべきは酒よりは女──と申せましょう。
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[#小見出し] 食《しよく》する時《とき》に物語《ものがたり》せず[#「食《しよく》する時《とき》に物語《ものがたり》せず」はゴシック体]
食べながら話をするのはよくない──と、ついこの間まで戒められてきました。禅家の食作法が民間にまで及んだもので、食べながら話をすると、消化がよくないという尾鰭《おひれ》までついて、長い間、日本人の食卓の作法となっていました。戦後は、欧米風の食事作法が採り入れられ、現在は、大事なことほど、食べながら話し合う風潮すら生まれています。
でも、一部には、今もって食べるときには食べることに専心しろ──というわけで、食事どきに話をするのは、|はしたない《ヽヽヽヽヽ》行為として沈黙を守っている人もいます。
ひとりうつむきかげんに、黙りこくって、食卓の食べ物が空になるまで、モソモソ夢中になって食べている光景を眼のあたりにした知り合いのフランス人は、
「なんでしょう、犬のように食事していますね」
と、さも軽蔑したような口調で言いました。なるほど、犬の食べ方を見れば、わき目もふらず、ガツガツ餌を平らげる。そんなところからの連想でしょう、この評言は手厳しいけれど当っています。かと言って、大声で話しながら食べるのは、黙々と食べる以上に慎みのないこととして、軽侮の対象となります。声の大きさは、お互いの会話が十分に聞きとれる程度であればよいのです。
もっとも、こうした日本人の食卓作法から早く解放されていた世界に、茶の湯の世界があります。食する時に物語するのみか、むしろ、積極的に会話を楽しんでいる風情すらあります。懐石の場合などで、主人と客の間はもちろん、客同士の間でも、話が交《かわ》されています。ただし、会話の内容には、西洋風のテーブルマナー同様、政治や宗教の話はタブーとして避けています。それを端的に物語るものとして、桃山時代の茶人、山上宗二は「一座の建立」を志す客人ぶり(客としての心がまえ、態度)のひとつとして、「世間雑談、無用也」と説き、避くべき世間雑談の具体例として、室町時代の連歌師、牡丹花肖柏《ぼたんかしようはく》の狂歌、
我《わ》が仏《ほとけ》 隣《となり》の宝《たから》 聟舅《むこしゆうと》
天下《てんか》の軍《いくさ》 人の善悪《ぜんあく》
を採り上げ、この狂歌によって、その内容を心得るよう訓《さと》し、つづけて、
「茶の湯の事、数奇に入りたる事(数奇に関すること)語るべし」
と、茶室内における話題を定めています。狂歌に詠《よ》み込まれた具体例は、食卓の話題のタブーとして、特に客を招いた席では今日でも、そのまま当てはめることができます。
食卓に招かれた出席者同士は、どの相手も自分のことを何もかも知っているとはかぎりません。みずからも、集まったひとびとの経歴や私生活、職業など知り尽してはいないはず。心得として、やはり、慎重にふるまい、あまり私的な内容に立ち入った質問(給料・家賃・アクセサリーの値段や買った店の名)を避けることが、食事どきの話題のマナーと言えましょう。
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[#小見出し] 食《しよく》に餅《もち》を嫌《きら》う[#「食《しよく》に餅《もち》を嫌《きら》う」はゴシック体]
餅の季節が巡ってきました。
今日、餅は真空パックのものが売られていて、珍しくなくなっていますが、正月の餅ともなると、やはり、気分も改まってのご対面です。日本の正月に餅はつきもので、鏡餅・雑煮餅など、餅が欠けては、正月気分が半減してしまいます。
「もち」の|も《ヽ》は|み《ヽ》に通じ、「もち」とは「みちる」という意味で、「もち」は、めでたい食べもののシンボルとして、正月にふさわしいものとされてきました。『源氏物語』に、
「はかためのいはひして、もちひかがみをさへとりよせて、としのうちのいはひごとどもして」
とあるのを見ると、平安時代から鏡餅のあったことが窺《うかが》えます。「もちひかがみ」は「かがみもち」のこと、歯固《はがため》は、宮中でする正月三が日の儀式で、鏡餅や山海の珍味を供えました。歯は齢《よわい》に通じ、年の始めに齢を固める、つまり、健康長寿を祈る意味がありました。歯固に用いる鏡餅は、円鏡の形の扁平《へんぺい》なもので、一重で、上に乾かしたアユと、一枝に三個の実のなっている橘《たちばな》(子孫の繁栄を願う)と大根を載せています。
この歯固が民間に伝わり、簡素になったのが、現在の雑煮です。『貞丈雑記《ていじようざつき》』という江戸中期の有職故実《ゆうそくこじつ》書によりますと、雑煮というのは俗語で、本名は保臓《ほうぞう》と言います。五臓を保つ栄養食品という意味で、元気を増し、小便を縮め、大便を固めるなどの効能が挙げられています。
三椀の雑煮かゆるや長者ぶり 蕪村
ことわざの「食に餅を嫌う」というのは、餅を常食にするのはよくないという意味です。餅は炭水化物が主で、なかでもカロリー源として使われる部分が多く、代謝にビタミンB1を必要とします。餡《あん》にする小豆はビタミンB1を豊富に合んでいますが、砂糖を入れた晒《さら》し餡にすると、ビタミンB1は失われてしまいます。その点、小豆や大豆を塩で味つけした塩餡にはビタミンB1が多く残っています。塩餡を賞味した昔の人の知恵は、すばらしいと思います。
炭水化物に片寄った餅だけを食べるのでなく、たんぱく質、脂肪、無機質、ビタミン類を補いながら食べる工夫が大切です。正月の雑煮にたんぱく源を必ず入れると同時に、野菜を豊富に取り入れたものが全国的に多いのは、感心させられます。餅のような長い伝統食品の中には、健康を保つに必要な要素が、ちゃんと考えられています。
また、餅の消化をよくするために、大根おろし、豆もやしなどを添えて食べるのも、理にかなったことと言えます。
正月に餅を搗《つ》くのは、縁起もさることながら、保存食としてです。正月の間、一々ごはんを炊く手間を省き、たくさん用意した煮しめをおかずにします。ちょうど寒い時分で保存もきくからでした。暖房の利いた部屋に住み、正月二日からは店も開くという現在では、餅は必要最低限購入して、手間をかけて保存する(水餅などにして)愚は避けたいものです。
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[#小見出し] 師走鰈《しわすがれい》に宿貸《やどか》すな[#「師走鰈《しわすがれい》に宿貸《やどか》すな」はゴシック体]
師走(陰暦十二月)のカレイは、うまくないから買わないほうがよい──ということわざ。「宿貸すな」は、買うなということ。主に山口県辺りで言い伝えられてきたもので、同地方では、「師走《しわす》馬喰《ばくろう》に宿貸《やどか》すな」ということわざもあります。師走には、牛馬の取引きが少なく、馬喰の懐具合がさみしいことを指しています。
さて、ほんとうに師走ガレイは食べるに価しないまずさでしょうか。師走に山口県地方で獲れるカレイが、どの種のカレイかハッキリしませんので、確定的なことは言えません。
それと言うのも、カレイは非常に種類が多く、獲れる場所、種類によって、食べざかりのしゅんがちがうからです。例えば、大分県|日出《ひじ》の、俗に「城下《しろした》ガレイ」と言われるマコガレイは、菜の花の咲くころから獲れだし、しゅんは野ばらが咲き乱れるころ──だと土地の人は言います。同じマコガレイでも東北地方になると、しゅんは雪が降らないとやって来ません。
江戸前の最たるものとして評判だったイシガレイにしても、しゅんは二月から四月ころまでと言う人があるかと思うと、夏場がしゅんだという専門家もおります。
総じて魚介類のしゅんは産卵期と関係があると言われ、多くの魚は産卵以前が美味で、産卵後は極端に味が落ちると考えられています。俗に寒ブリ、寒ボラ、寒ブナなどと言われるものは、この例で、また、イワシ・コノシロ・キス・シラウオ・カマスなど、数多くの魚はこの部類に属し、春、産卵するものは、産卵前の冬が美味です。
一方、マスやトビウオ・サワラ・ホウボウなどのように、夏産卵するものは確かに春がおいしく、アユ・スズキ・チダイ・アイナメのように秋産卵するものは、夏場がしゅんの食べごろとなっています。かと言って、すべての魚がそうだとはかぎらず、ドジョウやハモ・イシナギ・タカベ・アジ・カツオ・カワハギなどのように、産卵期と食べごろのしゅんが一致している魚もかなりあり、産卵期の夏場がもっともうまいシーズンです。これは、春から夏にかけて餌が豊富で、また生活環境も調《ととの》ってよくなり、従って魚たちの栄養状態もよくなり、味がしゅんに向かうためと思われます。しかし、以上の魚でも、産卵直後はおしなべてまずく、ただ味の回復が著しく早いと言うにすぎません。夏以外にしゅんと産卵期が一致する魚としては、少数派に属するものの、ワカサギ・サヨリ・メバチ・ビンナガ・イイダコなどは春。サンマ・バショウカジキなどは秋。サケ・カワマス・ボラ・タラ・スケトウダラ・マツカワガレイなどは冬──といった具合に、産卵期としゅんが同時のものもあります。
要約すれば、魚類は産卵前か産卵期が美味の季節であって、産卵前にしゅんのものは冬に多く、産卵期にしゅんを有するものは夏に多い──ということができます。こうした法則から推せば、山口辺の師走ガレイがどんなものであったか、うまいかまずいかは、おおよそ判定できそうです。
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[#小見出し] 西瓜《すいか》と天麩羅《てんぷら》[#「西瓜《すいか》と天麩羅《てんぷら》」はゴシック体]
すいかと天ぷら、カニと柿、ウナギと梅干し、青梅と黒砂糖……いずれも同時に食べると、下痢や腹痛などを起こして、よくないと言われてきた「食べ合わせ」例です。
こうした「食べ合わせ」例は、すでに一〇〇〇年前の平安時代、中国伝来の医書を引用して編集された『医心方《いしんほう》』に、「ふきとわらび」「コイとねぎ」など四五種の食べ合わせが挙げられています。その後、こうした医学的な啓蒙書や女子の生活心得を説いた女訓書などに採り上げられ、有名な貝原益軒の『養生訓』や『婦宝文庫《おんなたからぶんこ》』(いずれも江戸時代)などにも、多くの「食べ合わせ」例が紹介されています。当時の農民や町民など庶民は、もちろん、こうした本を通して食べ合わせを知ったわけではなく、多くは、こうした本を読むことのできた人たちから、さらには親から子へと、みずからの体験例も加えられながら伝承されてきました。
食べ合わせについては、今日も大方の人が多かれ少なかれ気にしていて、食べ合わせを避けている人は意外に多く、「昔の人の経験から生まれた言い伝えだから大切に守りたい」という人がほとんどで、食べ合わせというタブーは、予想外に根強く生き続けております。
冒頭に例示した食べ合わせは、全国的に共通しているもので、知名度の高いものばかりです。また、実際にも敬遠されているケースです。例示の食べ合わせ以外にも、「ラーメンと天ぷら」「生卵とバナナ」「牛乳とたけのこ」といった新作(?)とおぼしき例も、近ごろでは取り沙汰されています。
古典に挙げられたものにしろ、新作にしろ、それら二つの食べ物を同時に食べたために、からだに急激な悪影響を及ぼすとは考えにくいし、科学的な根拠もありません。ただ、食べ合わせに登場する食べ物には、例外は多いものの、組み合わせの一方に、
@消化しにくいもの(タコ、タニシなど)
A有害、有毒成分を含んでいるもの(青梅、フグなど)
B腐敗しやすいものや鮮度の見分けにくいもの(サバやカニなど)
Cアレルギー源になりやすいもの(サバや生卵など)
Dアクや刺激が強いもの(たけのこやわらび、唐がらしなど)
のあるのが目立った共通点です。あるいは油っ濃いものと水気の多いものとの組み合わせ(ウナギ、あるいは天ぷらとすいかなど)も考えられます。このため、食べた人の体調や体質、さらに食品の鮮度や調理法など、さまざまな要因がからんで、時には腹痛などを起こし、また、そうした体験から、これらの食べ物を食べる際には、十分注意する必要があることを示唆《しさ》する手段として、食べ合わせに織り込んで伝承してきたように思われます。現代的に申せば、「食べ合わせ」は科学的知識の乏しかった昔の人の「食品衛生法」の一つと考えられます。つまり、食べ合わせも暮しの知恵──だったわけです。
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[#小見出し] 鱸《すずき》の鰓洗《えらあら》い[#「鱸《すずき》の鰓洗《えらあら》い」はゴシック体]
釣りあげし鱸の巨口玉や吐く 蕪村
スズキ釣りは豪快そのもの。水面まで引き上げても、カミソリのようなエラで糸を切って逃げようともがきます。大きくて鋭いエラぶたをふくらませて、右に左に大ゆれし、ジャンプしながら、命がけで鉤《はり》をはずそうとします。この際、釣糸《てぐす》をゆるめると、鉤がはずれ、ムリをすると針素《はりす》を切られてしまいます。水面に引き上げられて、スズキが、なおも鉤から逃げようと右往左往するさまを、釣師仲間は「鱸の鰓洗い」と言います。味と言い、姿と言い、スズキの釣り魚としての風格は、夏を代表する魚と言えましょう。『譬喩尽《ひゆづくし》』にも、
「鱸は夏魚なり、殊《こと》に土用中に喰へば灸の代わりすといへり」
とあり、ことわざにも「土用のスズキは画に描いて嘗《な》めても薬になる」と、持ち上げています。
北海道から沖縄まで、多くの内湾や沿岸の浅海に分布しています。巨口細鱗、背部は鉛青色で、腹部は白く、体長一メートルぐらい。成長段階に従って、習性も名前も、棲息場所も変わります。例えば東京辺りでは、フッコ(五センチ)、コッパまたはデキ(一〇センチ)、セイゴ・セエゴ(二五センチ)、フッコ(三五センチ、大小の意味がある)、スズキ(約五〇センチ以上の成魚)、オオタロオ(一メートルにもなる老大魚)と呼びます。
セイゴ、フッコなどは、ハゼ釣りのおまけに、江戸川の河口付近でもよく釣れます。東京湾のスズキは、釣師仲間に有名で、江戸前を代表するイナセな魚として、もてはやされています。しかし、一時期、公害の影響を受けて、東京湾産のフッコやセイゴ、スズキは石油臭くて食べられませんでした。その後、東京湾汚染が各方面で問題にされ、公害対策が効を奏したのか、近年、再び湾内がかなり浄化され、スズキの味も以前ほどの臭味はなくなりました。釣り以外、フッコ、スズキはアグリ漁(まき網の一種)でも漁獲されます。
銀盤に露ちるあらひ鱸かな 笠堂
苦労して釣り上げた鮮度のいいスズキは、「洗い」で食べるのが最高の味。土用から晩秋にかけての「腹太鱸《はらぶとすずき》」(抱卵もの)を、珍重するムキも多い。フッコも洗いに作ります。「洗い」に向く魚の条件の一つとして、淡水にもしばらくの間、生かしておけるもの──が選ばれているようです。その点、フッコは真水にも強いので、洗い向きの魚として、もてはやされたのでしょう。大きなスズキともなると、活《い》けのままでは持ち運びに不便なので、よほど条件に恵まれないかぎり、漁場以外の土地で洗いにするのは困難です。
手際よくふしどりしたスズキ、またはフッコを、うすくそぎ切りにします。そしてザルに並べ、水道(井戸ならなおよい)の水を勢いよく出し放しにして、箸でつまんで洗います。手早く洗ったら、ふきんで水気を取り、氷の上に青じそのつまを敷き、その上に盛り付け、わさびじょうゆか、しょうがじょうゆを添えますが、梅肉じょうゆで食べるのがいちばん。
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[#小見出し] 酢《す》は膾《なます》、牛蒡《ごぼう》は田麩《でんぶ》[#「酢《す》は膾《なます》、牛蒡《ごぼう》は田麩《でんぶ》」はゴシック体]
膾は酢によってうまくなり、ごぼうは田麩にすることによって味がよくなります。
膾はたいへん古い食べ物で、『論語』郷党篇に、すでに「膾は細きを厭《いと》わず」と出てきます。この膾は、獣肉あるいは魚肉の刺身であって、それらはせいぜい細かく切ってあるのがよい──ということで、現代の中国人は生の肉を食べませんが、朱子は「牛羊と魚の腥《なまにく》を、聶《そ》ぎて切りしを膾と為す」と注釈し、十二世紀の宋人は、今の中国人の如くではなかったように思えます。一方、熟語に「人口に膾炙《かいしや》す」というのもあり、また「羮《あつもの》に懲《こ》りて膾《なます》を吹《ふ》く」というたとえもあります。後者は『楚辞』に出てくることばですから、『論語』同様、紀元前の話です。日本語の「なます」は『日本書紀』の景行天皇の条に、白蛤《うむき》の膾を作ることが出ており、生宍《なましし》(宍は肉の古字)の転訛だと言いますから、奈良朝以前からのことばにちがいありません。
このように古くからある食べ物ですので、永い間に、改良と工夫が加えられ、室町時代には、種類も多く、筏《いかだ》なます、山吹なます、卯の花なます、雪なます、笹吹なますなどがありました。このうち、笹吹なますは、一名「日照《ひでり》なます」とも呼ばれました。「笹吹」とは、現代語の「笹がき」のことで、大根を笹がきにしたものを生の魚肉と酢と食塩であえたなますでした。
なますと言うからには、必ず生肉が入らなければなりません。同じ作り方でも、魚肉の入らない精進物は、室町時代から「酢和《すあ》え」と呼び、干し魚を材料とした場合は、「和交《あえまぜ》」または「水和《みずあ》え」と言い、江戸時代の前期まで、この呼び方が通用しました。
江戸時代のなますも、室町時代と同じようにあえる味液は酢であって、それに食塩、煎り酒、出し酒などで塩梅《あんばい》するのが原則でした。それだけに膾の決め手になるのは、調味液の酢で、心ある料理人は、酢の吟味に細かな神経を使いました。
今一つの田麩は、ごはんに振りかけたり、料理の飾りを兼ねて使われる例の魚肉の加工食品ではなさそうです。青森県南津軽郡黒石辺りでは、「ごぼう、ささげなどを煮たもの」を「でんぶ」と言うそうで、知人の料理人のひとりは、「かつらむきして細くそうめん状に切った野菜、さつまいもとか、やつがしら、にんじん、それにごぼうなどを、砂糖で煮たものも、|でんぶ《ヽヽヽ》と呼び、古くは婚礼などに使ってよろこばれたものです」と、話してくれました。どうやら、「牛蒡は田麩」のでんぶは、こちらのようです。
酢にかかわりのあることわざは、ほかにも結構多く、「酢が利《き》く」(才知がある)、「酢が過ぎる」(度が過ぎる)、「酢が回る」(先に先にと気を回して先走る)、「酢が戻る」(年老いて思慮分別がにぶること)、「酢でも蒟蒻《こんにやく》でも」(一筋縄ではいかないもの、手に負えない物事にいう。どうにもこうにも。煮ても焼いても)、「酢の蒟蒻《こんにやく》の」(なんのかのと。あれやこれや)「酢をさす」(人を扇動する。また、人にいどむ)などがあります。
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[#小見出し] 蕎麦《そば》七十五日《しちじゆうごにち》[#「蕎麦《そば》七十五日《しちじゆうごにち》」はゴシック体]
「蕎麦は七十五日」「蕎麦は七十五日で鎌を持って行け」とも言われるほど、そばは種播《たねま》きから収穫するまでの生育期間が極めて短い。貝原益軒の『大和《やまと》本草《ほんぞう》』によれば、そばは、
「夏の穀物がすでに終り、立秋前後に種を下し、九月に実り、十月に刈り取り、その後にまた麦を栽《う》えれば、およそ一年に三度穀類を収穫できる」と言うほど重宝なものです。植物分類学的には、そばは穀物ではなく、タデ科ソバ属に属する一年生草本で、気候に対する適応性もすぐれているため、旱魃《かんばつ》のときでも、すぐ種を播けば、米や麦の補いになるので、神奈川県相模湖町辺りでは「がし(飢饉の方言)蕎麦」と言い、また、茨城県方面では「蕎麦作りに飢饉なし」と言い、救荒作物の一つとして貴重なものとされてきました。
その源流は『続日本紀《しよくにほんぎ》』巻九の元正《げんしよう》天皇の養老六年(七二二)七月十九日の項に見出せます。
「今年の夏は雨降ることなく、たなつもの(田から生育するもの─稲)は実らず、よろしく天の下の国司《くにのつかさ》(朝廷から諸国に派遣された地方官)をして、おほみたから(農民)に勧めおほせ、晩禾《おくて》(遅く成熟する稲)・蕎麦・大麦・小麦を植ゑ、蓄へ置き、以てたなつものの実らぬ年に備へしむべし」
と、詔《みことのり》を発せられています。この詔から元正天皇の時代(七一五〜七二四)、すでに凶作が予想される年には、いち早くそばの栽培を農民に勧めていたことがうかがえます。もちろん、それ以前にもそばが栽培されていたことでしょうが、それを証拠だてる文献が見出せません。「夏蕎麦二十日」ということわざもありますが、これは生育の早いことを誇張したたとえで、結実するまで夏そばは七〇日から八五日、秋そばは八〇日から九〇日くらいの日数を要します。
種子は植物学的には果実(痩果)であり、夏そばは暖地ほど早く、秋そばは寒冷地ほど早く成熟します。後魏《こうぎ》(六世紀)の|賈思※[#「力/(力+力)+思」、unicode52f0]《チヤースーシユ》が著わした『斉民要術《せいみんようじゆつ》』という中国最古の農学書に、そばの耕作と収穫法が記されていますが、それによりますと、
「三遍耕して立秋前後各十日のうちに播く。もし三遍耕しておけば蕎麦も三段に実をつける。下二段の子実が黒くなれば、上一段の子実はまだ白くても、全部に白汁が充満して膿《うみ》の如くになっているのだから、早速刈り取り、梢と梢とを凭《もた》せかけて並《なら》べておくと、その白い子実も日と共にすっかり黒く枯れて来る。此れが妙法というものであって、もし上段の子実まで全部黒くなるのを待って居れば、下段の黒い子実はすっかり滾《こぼ》れ落ちてしまう」
そばは一個体の開花日数が二〇日ほどあるので、成熟も不揃いであると同時に、『斉民要術』にも記されていたように、完熟すると脱粒しますので、七〇%ぐらいの痩果が熟して黒変したときに収穫します。飛騨辺りには「蕎麦に蠅が三匹止まったら刈れ」、青森県|五戸《ごのへ》町辺りでは「蕎麦は黒粒三つぶら下がれば刈ってよい」といったことわざが伝承されていますが、そばの収穫時期を短いことばで、的確に教えています。
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[#小見出し] 大根《だいこん》おろしに医者《いしや》いらず[#「大根《だいこん》おろしに医者《いしや》いらず」はゴシック体]
秋の末から冬の初めにかけて、大根が六、七〇センチにも伸び、葉が勢いよく育ったところを見計らって、これを抜き取り、小川の流れに浸して泥を洗い落とす。手拭いをかぶった農家の娘が縄のタワシで、大根を一本一本洗っている風景は、いかにものどかだし、村の若い衆が力試しに大根を抜く、それがいわゆる大根引きで、これまたいかにも野趣に富んでいて、おもしろい。蕉門十哲の一人、志田野坡《しだやば》は、
鉢巻を取れば若衆で大根引
と、詠《よ》んでいます。
大根は日本では奈良時代の文献に登場するほど古くから作られ、庶民にとりわけ親しまれてきました。幅広く料理に使え、栄養面でも、根の部分にはビタミンCやジアスターゼが多く含まれていて、いずれも健康維持のために重要な役割を果たしている栄養素です。しかし、ともに熱に対して弱い性質があるので、生のまま食べるのが、栄養面から見ると、最良の食べ方と言え、大根おろしや酢のもの(なます)が、生のまま食べる料理として親しまれてきました。「餅に大根おろし」「大根を食べると夏負けしない」と言われてきたのも、ジアスターゼやビタミンCが含まれているおかげで、消化・整腸に好い影響をもたらし、体力を増強するからです。
改めて言うまでもありませんが、大根を最も効果的に食べるには、皮つきのまま大根おろしにすることです。また、大根をおろす際に出た汁は捨てずに、いっしょに食べるほうが栄養価も高い。特に胃腸の炎症などのある急性の病気以外の人は、安心して食べられます。大根をおろしたら、冷蔵庫か暗い戸棚の中に入れておくことです。蓋《ふた》をせずに台所に放っておくと、一〇分で七%、三〇分で一五%、一時間で約半分のビタミンCが減少してしまいます。いずれにせよ、おろしたら三〇分以内に食べ、また、しょうゆや塩などは食べる直前にかけることが大切です。しょうゆを三〇%かけると、糖化力は二〇%減退しますので、しょうゆは二〇%以上かけないほうがよいようです。
納豆を大根おろしと混ぜて食べるときは、食塩を用いてしょうゆは使わないこと。また、大根おろしに酢を一〇%かけると三〇%、三〇%かけると五〇%糖化力が減少しますので、から味がとれてしまいます。このほか、刺身や揚げもの、食肉、魚などに大根おろしを用いるのは、おろしに含まれているメチルメルカプタンという香気やから味成分が食欲増進に役立つからで、経験的な知恵とは言え、大したものです。また、大根のおろし汁に含まれるビタミンPは、高血圧や脳出血の予防によいと言われ、また、アリサイアミンを含むので、ビタミンB1の吸収をよくする作用があります。
大根おろしのしぼり汁に蜂蜜を適量加えて飲めば、セキが出るときやノドが痛むとき、車酔い、二日酔いなどによいと言われます。
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[#小見出し] 鯛《たい》なくば狗《え》母|魚《そ》[#「鯛《たい》なくば狗《え》母|魚《そ》」はゴシック体]
なければ代りのもので我慢するより仕方ないということ。
タイは色が美しく、姿も整った優美さをもっているとともに、味もよくて万人向き。それに日本の近海で一年中獲れるため(季節により、場所はちがうものの)、昔からもっとも親しまれ、よろこばれてきた魚。厚くて締まりのある白身の肉は、適度の脂肪を含んで栄養に富みますが、その味はあっさりとしています。また、他の魚のように「魚臭さ」や「磯臭さ」とか、クセがなく、それに小骨もなく、さらに青もののように中毒の恐れもないから、子どもや老人、病人にも向きます。ウロコを除いては、どこと言って捨てる部分がなく、したがって料理法も実に多く、目玉の吸いものなどは、美食家のもっとも珍重するところです。このように形・色・味の三拍子揃っていることから、昔からタイは海魚の王とよろこばれ、「腐っても鯛」のことわざもあるくらいです。
タイが一般に親しまれ、賞味されるところから、形の似たものとか、美しい色の魚など、何々ダイと呼ぶことが多く、大体日本の魚を二〇〇〇種とみて、そのうち約一八〇種が何々ダイと名付けられています。そして、これらも時にはタイの代用にされています。タイ田麩《でんぶ》、タイみそ、タイ飯のタイが実はタラであり、タイの子の塩辛が蓋《ふた》をあけたら、サバの卵巣であったり。「鯛|蒲鉾《かまぼこ》」で名を売ったものの多くは、昔からエソを原料として作られていました。もっとも『譬喩尽《ひゆづくし》』には、逆に「狗《え》母|魚《そ》なくば鯛《たい》」と言い、大和の国では、エソを最高として、タイは次点として位づけていたと言います。
エソは南日本に産するエソ科の海魚で、マエソ・オキエソ・アカエソなどの種類がありますが、ふつうこれらを総称してエソと呼んでいます。体は細長く、円筒状をしていて、歯が鋭く、顔は一見ヘビを思わせる容貌をしています。関東ではイソ、和歌山辺ではヨソ、神奈川ではイソギス、またはエソギスの名で呼んでおります。
鮮魚としての味は、到底タイには及びませんが、上等の蒲鉾材料として珍重されます。蒲鉾にすると非常に|あし《ヽヽ》があり、弾力性の強い蒲鉾ができます。「あし」というのは、練製品の粘弾性のことで、この|あし《ヽヽ》のいいものは味もよいようです。念のため、申し添えると、同じ魚の種類であっても、この|あし《ヽヽ》は鮮度によって強さにちがいがあり、例えばエソにしても、あしの強い原料として知られているものの、数日間冷蔵しただけで、|あし《ヽヽ》は著しく低下してしまいます。それゆえ、その土地で手に入れることのできる鮮度のいい魚を使うことが、よい練製品を作るコツであるとも言えます。同じ練製品の原料となるグチやクロカワカジキなどは、鮮度が低下しても、それほど|あし《ヽヽ》の強さが下がらず、そのために、漁獲されてからかなり遠隔の地に運ばれても、練製品の原料としては、十分使える便利な素材で、そのせいか、各地で作られる練製品に、これらの魚は重宝がられています。
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[#小見出し] 筍《たけのこ》の親《おや》まさり[#「筍《たけのこ》の親《おや》まさり」はゴシック体]
たけのこは生長が早く、たちまち親竹と同じほどの高さになるところから、子の生長がめざましく、親をしのぐほどであるという譬《たと》えが、このことわざの本来の趣旨ですが、一方、一般のひとびとにとっては、親竹よりもたけのこのほうがなじみが深く、価値もあるところから、親よりも出世することの譬えにも用いられます。
実際、若竹の伸びぶりは目を見張るものがあります。伸びかけはゆっくりですが、次第に生長のピッチを上げ、伸びざかりともなれば、太い真竹や孟宗竹で、わずか一日中に、最高一二〇センチも伸びると言いますからオドロキです。正に植物界では世界最高の伸びぶりで、三カ月足らずで一生のからだを作ってしまい、以後何年経っても少しも太りません。「筍」の字は、文字通り、一旬で竹になる意味で、スピーディーな生長過程を一字に籠《こ》めていて興味深いものがあります。これは維管束に形成層がないから、年輪ができない──と専門家は言いますが、お子さんのいる家庭などでは、庭のたけのこの横に棒を立て、毎日の伸びぶりを測ると、教育にもなるし、楽しみが増えましょう。
この力強い伸びぶりは、多くの力の結集だそうで、はじめは地下茎に蓄えられている養分と、親竹の光合成で作られる養分の補給があり、更にある程度大きくなったのちには、自分でも養分を作ります。また、たけのこの生長は、どの節間にも生長点があって、各節間の生長の合計となりますが、地ぎわの節間から生長を仕上げていき、次第に上方に及ぶのだそうです。
竹林の春は、味覚のシーズンでもあり、たけのこの収穫を主な目的として栽培されているたけは孟宗です。他の淡竹《はちく》・真竹《まだけ》・布袋竹《ほていちく》などにくらべ、多肉・柔軟・美味の点で、孟宗のたけのこが勝れているからです。わたくしたちは、たけのこと言うとすぐ孟宗を想い浮べますが、これは古くから日本にあったものではありません。孟宗竹渡来の年代の示されたのは次の二カ所で、一つは京都府長岡京市海印寺にある寂照院の院主が、黄檗山《おうばくさん》万福寺の管長から中国から持ち帰りの孟宗竹をもらい受け、同院の庭に植えたのが応仁年間(一四六七〜六九)と言われますが、万福寺の建立が寛文元年(一六六一)なので、それ以後、一七〇〇年ごろと推定されています。他の一カ所は鹿児島市郊外、磯公園の孟宗竹林で、元文元年(一七三六)、島津家二一代の吉貴《よしたか》公が、琉球より二株を移植した由で、おそらく中国から琉球経由での渡来と思われます。
江戸町医、小川顕道の『塵塚《ちりづか》 談《ものがたり》』(文化十一年=一八一四)などに、
「盃宗竹 近頃は江戸に大なる竹藪諸所に出来たり、明和の頃(一七六四〜七二)は皆人珍しく思ひし竹にて有りし也」
とありますが、そうしてみると、明和から七十余年前の『猿蓑《さるみの》』に見える芭蕉の「たけのこや稚《おさな》き時の絵のすさび」のたけのこなど、孟宗ではなかったということになります。
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[#小見出し] 蛸《たこ》は身《み》を食《く》う[#「蛸《たこ》は身《み》を食《く》う」はゴシック体]
資本や財産をだんだん食い減らすことのたとえによく用いられます。「蛸は身を食う、足を食う」というところから言われたことですが、これは本当の話です。
タコは非常に貪食で、生きた小魚、カニ、エビ、貝類を飽食するばかりか、しばしば共食いをし、また、自身の足まで食うことがあるので「蛸配《たこはい》」(会社がその信用を保つために、株主に配当すべき利益がないのに、自己資本を食い込んで配当すること)などという言葉も生まれたわけです。もっともこれは、タコの精神錯乱状態のときに起こる現象で、たとえ食べ物はあってもなくても、精神が倒錯状態に陥ったときは、よく子どもが爪を噛むように、そのまま自分の足を食べるのだそうです。しかし、タコの足は、タコの腹中に入っても、大体消化せず、二、三日すると、死ぬのがふつうです。
タコの種類は非常に多く、わが国沿岸各地で記録されるものだけでも、四十数種の多きにのぼっています。タコが怪物視されることは、洋の東西を問わず同じことで、外国でも悪魔の魚(デヴィル・フィッシュ)の中の一つに挙げられています。
古代においては子安貝、蜘蛛貝などとともに、非常に、崇拝されたもので、西暦紀元前二〇〇〇年の昔に栄えたクレタ時代の壺や甕《かめ》には、タコを描いたものが多い。これらは、いずれも生命を象徴したものです。
タコがアサリやハマグリの養殖場などに入り込むことがあると、八本の足を八方に踏ん張り、足の吸盤を巧みに利用して、八本の足の先から、貝類をちょうどエスカレーターで物を運ぶように、順々に口元に送り、足の吸盤と筋肉を上手に使っては、わけなく貝殻を開けて、ずいぶんたくさんの貝の肉を一時に食べます。ハマグリ、アサリ、カキなどの養殖場では、実に大敵。
わが国で食用に供されるタコはマダコ、ミズダコ(これは大きなタコで、長さが三メートルもあるのがある)、イイダコ(これは小さなタコで、長さは大きいものでも二〇センチほど)、テナガダコなどですが、その料理法には桜煮、天ぷら、お好み焼き、塩ダコ、酢ダコ、ごまみそあえ、いもダコなどがあり、乙な食べ物としては、イイダコの子と糯米《もちごめ》で炊いた茶漬け飯、または握りずしがあります。浜の悪食《あくじき》連中は、生きているタコの足を口に咥《くわ》えて、タコの吸盤が頬っぺたや鼻の頭に吸い付くのを楽しみながら、歯で噛み切りつつ食うのを得意がっています。製品には、干しダコ、削りダコなどがあり、マダコの生んだ卵の塩漬けは「海藤花《かいどうげ》」と称して、極めて高級な酒の肴となっています。タコはおでんだねとしても非常に珍重がられるせいか、おでん屋の商号に「蛸梅」とか「お多幸」「多幸平」とかタコに因《ちな》んだものが多い。
関西では、「早苗饗《さなぼり》」と言って、半夏生《はんげしよう》の日に、農家でタコを食う風習が伝わっています。夏至の日から数えて十一日目、稲の株が八方に根を張り、よく大地に吸い付いて、今年もよく稔《みの》りますように──との縁起から出たものです。
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[#小見出し] 出汁《だし》の味見《あじみ》に醤油《しようゆ》[#「出汁《だし》の味見《あじみ》に醤油《しようゆ》」はゴシック体]
お湯に溶かすだけで、カツオのだしも、トリや牛肉のスープも出来上がり──こんな手軽さが受けて、即席のだし類は、家庭の台所を占領しつつあります。かつてあんなに使ったカツオ節も、だんだんパックの削り節になってしまいました。カツオ節(わたしなどはカツブシとつづめて言ったほうがピッタリする)は、お祝いのお返しにいただく場合が多く、昔もそれほど買いませんでした。今はパックのほうを多くいただくし、それに削るのも面倒、もう化学調味料のほうがうまい──なんて言われる世の中になって、「出汁の味見に醤油」ということわざも、よほどの方でないかぎり、ご存知ないかも知れません。
古くから、専門の料理人の中には、だしを取るとき、小皿にだしを少し入れ、これに上等の濃口じょうゆを一、二滴垂らして飲んでみる人がいました。こうしますと、だしがよく取れているかどうかが、はっきり分るからです。ふつう、取っただしだけを口にふくんでみても、それがよく取れているかどうか、それほどはっきり分りません。味の差が微妙で、これにしょうゆを少し加えると、味のよしあしの差が際立ってきて、はっきり見分けがつくようになります。結果として、だしがよく取れているかどうかの見極めがつくのです。
では、どうして、しょうゆの一、二滴で、こういう識別が出来るのでしょう? これはしょうゆの中にある塩分と、アミノ酸やその他の窒素を含んだ成分によるもので、ふつう濃口じょうゆには、一八%近くの塩分が含まれ、一方のだしの材料には、こんぶには主としてグルタミン酸が、カツオ節にはイノシン酸がうまい成分として含まれています。だしを取ると、これらの成分が溶けて出てきます。グルタミン酸やイノシン酸は、それだけでもうま味をもっていますが、これに塩分が加わると、ぐっと味が強調されます。化学調味料にも、グルタミン酸やイノシン酸が使われていますが、これだけを水に溶かしたものより食塩を少し加えたもののほうが、味がぐんと強くなります。
こういった二つ以上の味が合わさると、味が強くなる働きを、味の相乗効果──と呼んでいますが、だしの味見をするときも、同じ理屈で、しょうゆを加えると、その中の塩分によって、だしの味が強められます。そればかりか、しょうゆの中には、いろいろな窒素化合物があり、アミノ酸をはじめとするこれらの成分は、グルタミン酸やイノシン酸に対して、たいへん強い味の相乗効果をもっています。つまり、しょうゆはだしの成分に対して、二つの大きな味の相乗効果をもっているというわけです。そのため、取っただしの味が強く拡大され、そのよさや欠点が、味覚にはっきりと分るようになるのです。わたくしたちの祖先は、こうした原理を知らないときから、体験的に、おすましにほんのちょっとしょうゆを加えておいしくすることを知っていました。
お清汁《すまし》の熱きも涼し普茶料理 寿江
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[#小見出し] 縦《たて》に裂《さ》けるきのこは食《た》べられる?[#「縦《たて》に裂《さ》けるきのこは食《た》べられる?」はゴシック体]
きのこは秋だけのものではありませんが、茸狩りは栗拾い同様、日本人に古くから親しまれてきた秋の行楽。夏がすんで、逸《いち》早く姿を見せるはつたけは、きのこ好きのひとにとっては、まさに茸狩りシーズンの到来を告げる使者のようです。防砂林の海辺の松林から里山の松林にも生え、気品のある色と風味は、日本人の嗜好にぴったりで、まつたけ、しめじに次いで、広く親しまれています。ただし、はつたけは傷がつくと、血紅色の液がにじみ出てきて、それが空気に触れると青藍色に変わる性質があり、ひとによっては、いかにも毒々しく、気味わるがりますが、きのこ好きのひとには、アバタもエクボ、それがかえって魅力にもなるようで、はつたけを見分ける大事な特徴ともなっています。
困ったことに、きのこには美味なものが数多くある一方、食用きのこにまじって生えてくるまぎらわしい毒きのこの数もまた非常に多いのです。例年、毒きのこによる中毒事件が、数はそれほど多くないものの、新聞に出ないことはないし、ときには「毒きのこで踊り出す」といった調子の見出しで、わらいたけやおおわらいたけの中毒が記事となって現われます。この種のきのこを誤って食べると、大脳に一時的な障害を起こして患者は非常に陽気になり、ふだん無口なひとも歌い踊ると言われます。しかし、軽い場合には、症状の回復が案外に早いらしく、竜宮城に行ったみたいだから、もう一度食べてもいいと言う変わったひともおるくらいです。
これに対して、てんぐたけとべにてんぐたけの中毒症状はかなりひどく、神経中枢が興奮につづいて麻痺すると、発汗、よだれ、吐き気、下痢などを起こし、うわごとを言い、ときにはけいれんを起こし、もちろん重症ですと、呼吸ができなくなって死んでしまいます。
毒きのこの見分け方については、昔からいろいろなことが言われ、例えばこのことわざのように「縦に裂けるきのこは食べられる」とか、「色の美しいきのこは毒」とか、「悪臭を持つきのこは毒」「虫の食いあとのあるきのこは食べられる」といった、しろうと鑑別法、つまり俗説があります。ムスカリンを多量に含むとされるあせたけは、よく縦に裂けますので、安心して食べ、中毒者を多く出すきのこの一つです。このほか、つきよたけ、いっぽんしめじ、おおわらいたけなどは、毒きのこなのに、縦に裂けます。一方、たまごたけ、べにやまたけ、あかやまたけ、あおろうじ、むらさきしめじ、こがねたけなどは、色が美しいのに、食べることのできるきのこです。悪臭を持つきのこには、むしろ有毒なものが少なく、きぬがさたけなどは匂いはわるいものの、干したものは値段が高く、多くのひとに歓迎されています。ことほど左様に、毒きのこ鑑別法について、従来言われていることは、ほとんどあてになりません。きのこの本とか図鑑をよく見て、一つでも多くのきのこを楽しみながら覚え、まぎらわしいものは口にしないことです。
杣《そま》の言ふ菌《きのこ》の名こそいぶかしき 星眼
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[#小見出し] 田螺《たにし》の願立《がんだて》[#「田螺《たにし》の願立《がんだて》」はゴシック体]
わたくしたちの祖先は、自然の風物によって、季節感を表現してきました。また、それを日常生活(農耕ばかりでなく、時には狩猟や漁業などを含めて)の目安としてきました。これは「自然暦」と言われ、「暦」以前のコヨミでした。もちろん、暦法が普及するにつれ、暦に頼ることが増大しましたが、自然暦は今日でも存在意義を失っていません。
「田螺の願立」も実は自然暦の一例で、佐賀県北東部辺で言い継がれてきたもので、三月、桃の節句前に天候の荒れることを言います。桃の節句には必ずタニシを取って雛《ひな》に供え、また、みずから祝ってタニシを賞味します。その節句前に天候が荒れて、田んぼや川が濁れば、タニシが拾い上げられることを免《まぬか》れるので、それはタニシが念願して荒れさせるのだと伝えています。
この種の自然暦に、「冬のミナミ(南風)は、姑バアサンのソラ笑い」というのがあり、今笑っていても、後がおっかない。手のひらを返すように直ぐ寒くなるということのたとえです。
「霜っ降り鯵《あじ》は犬も食わない」
「雷さんが鳴ると寒《かん》があける」
「蕗《ふき》の葉が一銭銅貨ほどになった頃、鱒《ます》は白川村に遡《さかのぼ》って来る」
例を挙げればキリがありません。土地ごとに自然の風物や気候の変化を通じて、季節の到来を予感したわけです。
老たのしいつまでかんで田螺和 あふひ
タニシはシジミの取れない山国や寒村では、貴重なたんぱく源で、ドジョウなどといっしょに取ったものです。最近では農薬のため、田んぼには、ほとんど姿を見せなくなり、居酒屋などで出されたり、お魚屋さんの店頭で見かけるタニシは、あらかた養殖物です。
田んぼにいるニシ(ニシは海にいる)というのでタニシと名付けられ、地方によってはタツブ、タツボとも言い、中部地方では単にツブとも言います。マルタニシ・オオタニシ・ヒメタニシ・ナガタニシの四種あり、とりわけ大型のがオオタニシです。昔は、しょうゆで煮て乾燥したタニシを毎朝二、三個食べれば水あたりしないとか、尿閉《にようへい》、急な腹痛によく、浮腫《ふしゆ》(むくみ)に効くとされ、民間療法では、肺炎にはタニシを石の上でつぶして飲む(福島・茨城)、つぶしたものを胸に貼る(福島)、殻を取ってつぶしたものをしぼり、ブドウ酒に混ぜて飲む(和歌山)とか、脚気にはタニシを食べるとよい(愛知・岡山・高知)などとされてきました。
水を吐かせてからゆで、殻から抜いて酢みそあえにしたり、みそ煮などにしてよく、信州ではみそ汁にタニシを入れたものをツブ汁と言い、土地では「シジミ汁よりうまい」という人もおります。魯山人は大のタニシ党で、白みそに木の芽を入れ、擂《す》り合わしたものにタニシをあえた「木の芽あえ」は、「イカの木の芽あえなどに比して一段としゃれた美食」と、絶賛していました。ご婦人方には、「串刺しの田楽」がよろこばれましょう。
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[#小見出し] 卵酒《たまござけ》を飲《の》むと風邪《かぜ》が治《なお》る[#「卵酒《たまござけ》を飲《の》むと風邪《かぜ》が治《なお》る」はゴシック体]
子どものころ、カゼを引くと、忙しい台所仕事の合い間を縫って、母は卵酒を作って飲ませてくれました。母手作りの卵酒を飲み、ぐっすり眠ると、忘れたようにカゼが治り、子ども心にもふしぎだなと思いました。
卵酒は卵を割って小鉢に入れ、少量の砂糖を加え、熱燗《あつかん》をした日本酒を注いで、よくかきまぜたもので、戦時中の食料の乏しい時期だけに、カゼぐずりとしてよりは、うまい飲みものとして記憶に残り、それからというもの、カゼを引くと、決まって母に卵酒をねだるのでした。
卵酒はなぜカゼに効くのでしょう。生の卵白の中のリゾチームという酵素が、初期のウィルス感染に対して、ウィルスの増殖を押える働きをもっている──とは、専門の学者の話。リゾチームは、卵白だけでなしに、人間の涙、鼻汁、唾液などにも多く含まれていて、外から侵入してくるバイ菌やウィルスを防いでいるわけです。ところがカゼにかかったときは、リゾチームの量が減っていて、からだの抵抗力が弱っています。それゆえ、リゾチームの多い卵白を食べて、リゾチームの材料を供給することで、カゼが治る──というわけです。
一方、卵酒のお酒のほうは、お酒に含まれているアルコールが血行をよくして、身体を温め、人によっては眠気を催させるので、カゼにかかったときの大切な養生法、栄養のある食品を摂って、静かに寝ていることの原理にうまく適合します。いずれにしても、酒や卵の栄養分が、身体を元気づけ、カゼに対する抵抗力を強くするので、その効用もまんざらではありません。
このほか、巷間伝えられる鶏卵の薬効はさまざまで、中には民間療法として、今日にも立派に通用しているものもあります。例えば、卵をゆでて、黄身だけをなべに移し、こねながら熱していると黒くなり、油がなべの底に出てくるので、これを熱いうちに、きつく絞って、消毒したビンに入れて冷暗所に蓄えておき、一日三回食後に〇・五〜一・五グラム程度服用すると、心臓病に特効があり、疲労回復、低血圧、胃病、肺結核などにも有効と言われます。
これはおそらく、卵黄中に含まれているステロイドが有効に働くからだろうと言われています。ステロイドは副腎皮質ホルモンや性ホルモンに関係が深いので、病後の衰弱した身体には有効と考えられます。もっとも、卵の油だけ単独に摂るより、野菜類、とりわけ生野菜をいっしょに摂るようにしたほうが、はるかにその働きは期待できることは言うまでもありません。
卵の油は、内服のほかに外用薬としても効きめのほどが知られていて、傷をしたあとや火傷のあとのひきつっている皮膚に、絶えず塗っていると、いつの間にか|あと《ヽヽ》がきれいに取れてしまいます。
卵はまた貧血の予防や治療に有効で、卵の中の鉄分は緑黄野菜や肉などに含まれる鉄分とちがって、病人にも吸収されやすいからです。
かりそめの恙《つつが》に臥《ふ》して玉子酒 たき江
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[#小見出し] |※[#「木+怱」、unicode6964]《たら》の芽《め》を食《た》べると鹿《しか》の角《つの》もげる[#「※《たら》の芽《め》を食《た》べると鹿《しか》の角《つの》もげる」はゴシック体]
シカがたらのめを食べたからといって、角がもげるのではありません。シカがたらのめを食べるころは、ちょうど雄ジカの角が脱け落ちる時期で、これを見た昔の人があたかも因果関係があるように錯覚したのです。同じように岩手県には、「蕗《ふき》の薹《とう》を食べると鹿の角もげる」といったことわざが伝えられています。正確に言えば、「※[#「木+怱」、unicode6964]の芽を食べるころには、鹿の角もげる」「蕗の薹を食べるころには、鹿の角もげる」ということで、一種の「自然暦」と言えましょう。
シカは雄にだけ骨質の枝角があり、角の大きさや形状は、成長段階と栄養状態によって異なり、ふつう生後二年目から生え始め、例年、晩冬または春に根元から脱け落ちます。
ところでこのたらのめですが、四月から五月にかけて、たらの木の幹の先端に出る若芽で、昔から山菜の王に数えられています。ウコギ科に属する亜喬木で、その葉がまだ開かず、枝の先に拳をかためたような形の時、摘み採ります。葉を開いたものでも芯芽はやわらかいので、地域によっては六月中旬まで採取できます。他の山菜とちがって、枝が少ないことから、追芽は二番芽で止めないと枯死してしまいます。
そのせいか、湯檜曾《ゆびそ》(群馬県)の山間の言い伝えによれば、たらのめ一つ摘み採ることは、坊主一〇〇〇人の首を斬るに等しい罪悪だと言います。なにせ、その若芽を食べに来る敵、獣どもを寄せつけないために、鬼の金棒みたいに、すさまじい棘《とげ》で、全身武装している、その一本のまっすぐな枝の頭に、たった一個しか芽を萌《ふ》かないので、それを摘み採っては、木は育ちません。さながら首を奪うに相当する殺生であるから止めたほうがよい──という植物愛護の思想の|あらわれ《ヽヽヽヽ》かも知れません。
うどのような香気をもち、舌ざわりもよく、味も上品です。この香気があるために、ところによってはきうどの名で呼んでいますが、まことにうがった名と申せましょう。このほかの異名もうどに縁があるものが多く、うどもどき、たらうど、さるうどなどがそれです。
最近は牛乳びんのような容器に入れ、温室栽培されるようになり、ツボミ状にふっくら芽萌いたところをナイフでちょんぎります。この栽培種のものが一キロ数千円で取り引きされることもあるそうで、まったくバカげた話です。ただ珍しいだけでバカ値がつく、世の中狂っている──としか言いようがありません。
田の畦《あぜ》も塗るべくなりてゆでて食ふ
たらの若芽のうまきこのごろ 吉植庄亮
食べ方はいろいろありますが、生のまま衣をつけて揚げたたらのめの天ぷらは、もっとも人気のある食べ方。そのほか、ごまあえ、くるみあえ、白あえ、みそあえ、いずれも絶品。|あく《ヽヽ》もないので、他の野草類のように、ゆでてさらすような必要もなく、すぐに調理できます。
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[#小見出し] 鱈腹食《たらふくく》う[#「鱈腹食《たらふくく》う」はゴシック体]
腹いっぱい、飽き足りるほど食べること。(「鱈腹」は当て字)──と、手元の辞書類には解説されています。『大言海』などは、「たらふく」の語源について、
「足らひ腫《フク》るるノ意」
といった説を掲げています。当て字として用いられるようになった「鱈腹」も、もしタラ自体に、「胃袋が大きく、手当たり次第になんでも食べる」食性がなかったら、いかに語呂がよくても、果たして用いられたかどうか疑問が残ります。もっとも「たらふく」の俗言は、腹の大きなタラとフグを並べたのかも知れません。
いずれにしろ、タラの暴食ぶりはたいへんなもので、その大口にふさわしく、トロール船のカギ束や野ウサギ、ウミガラスまで食べると言われますし、魚なら自分の体の三分の二近くもあるニシン、スケソウ、カレイその他の魚は言うに及ばず、イカ、タコ、カニ、エビ、ヤドカリ、ヒトデ、貝類から底生動物はなんでもござれと言ったあんばい。かつて北海道大学の野田先生は、タラの消化管を研究され、タラは胃潰瘍《いかいよう》を起こしやすい──と診断されました。マダラにかぎらずタラ科の魚は、みな腹が大きく垂れ下がっていますが、腹を見ても分りますようにタラは確かに貪食な魚です。このような大食らいのせいか、タラは一年に体の半分ぐらいの割合で体重が増え、三年で親になり、十三年から十四年も生きるとさえ言われています。
マダラの産卵期は、場所によってズレがあるものの、北海道では一、二月ごろ。そのころ、オホーツク海を激しい吹雪が襲います。そしてこの時期がタラ漁の最盛期で、そのため、タラのことを魚ヘンに雪と書くと言われます。あるいは純白でクセのない肉片の色を白雪で表現したのでしょう。古書によれば、タラを昔の官家でユキと呼んだそうです。産卵期まで、別々の群れで回游していた雄と雌は、サケが生まれ故郷の川に戻ると同じように、産卵場にぞくぞく集まり、卵と精子を放出します。一回に放出する卵の数は、約五〇〇万粒と言われ、一生に一〇回前後も産卵すると言うのですから、たいへんな数と言えます。
肉は白身で、淡泊なせいか、一般に魚を好まない欧米諸国でもよろこばれ、食料や肝油、特にビタミンAとDとの天然原料として、もっとも重要な魚で、ニシンとともに経済魚のナンバーワンとされています。
二杯目に汗ばむ鱈の番屋汁 影三
日本では田麩《でんぶ》やそぼろ、刺身、煮付けなどにするほか、干もの、粕漬け、燻製《くんせい》など多くの利用法がありますが、なじみの深いのはちり鍋。「鱈は馬の鼻息でも煮える」と言うのは東北地方に伝わることわざで、タラの煮えやすい性質を言うものですが、北海道では「鱈ちりと雪道は後がよい」と言いますように、煮えても、味が滲《し》み出るまで待ったほうがいいようです。京料理で有名な「いもぼう」は干ダラの旨煮《うまに》で、水に漬けた後、湯煮し、えびいもとともに砂糖、みりん、しょうゆで味付けしたものです。
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[#小見出し] チーズがなければ消化不良《しようかふりよう》になる[#「チーズがなければ消化不良《しようかふりよう》になる」はゴシック体]
日本は米食文化の国と言われますが、この伝《でん》でいけば、さしずめヨーロッパは肉食文化の国と言えましょう。でも日本人が誰でもお米のごはんにありつけるようになったのは、戦後のことで、それまでの長い間、大都市を除いて、米と雑穀の混合食が幅をきかせていました。事情は肉食文化の国ヨーロッパでも同様で、肉類を腹いっぱい食べられるようになったのは、ごく最近のことです。それと言うのも、彼等の口にする牛や羊は一回の出産で、一頭しか産まないばかりか、牛の場合は草だけで飼育すると、食べられるまでに五、六年はかかり、いきなり仔牛を屠殺《とさつ》して、食肉にしてしまっては、元も子もないからです。しかも食肉にする前に、利用しなければならないことがいくつかありました。
役牛にも種牛《たねうし》にもならない雄牛は、早めに去勢《きよせい》して、肉牛として飼育しました。肉牛にしかならないとなれば、去勢して肉質をやわらかくしておくのが好ましいからです。ヨーロッパで牛肉としてもっとも珍重されたのは、これらの去勢雄牛、中でも五、六歳ものの肉でした。「ビーフ」という英語は、もともと去勢雄牛を指す単語でした。当然のことながら、うまい去勢雄牛を口にできるのは、ごく一部の上流階級にかぎられていました。
雌牛はすべて乳牛に仕立て上げるのが定法で、一度出産を経験した雌牛は、つぎの妊娠がなければ、次第に量は減るものの、二、三年の間は、牛乳を分泌しつづけます。何度も妊娠、出産を繰り返させれば、繁殖に役立つばかりか、搾乳《さくにゆう》中断期間はあるものの、多くの乳量をもっと長い間確保することができました。
残念なことに牛乳自体は腐りやすく、搾乳後半日ぐらいしかもちませんが、バターやチーズにすれば立派な保存食品になります。しかもチーズは牛乳のエッセンスを集め、さらに価値をつけたと言ってよい食品で、たんぱく質の量は一〇〇グラム中二五〜三〇グラムも含まれています。脂肪も多く、チーズ一〇〇グラムは約四〇〇カロリーもの熱量をもっています。「チーズは精が強い」とか、「スタミナがつく」と言われるのは当然です。スタミナの原動力は、主としてたんぱく質ですから、チーズを多く食べれば当然元気は出ます。
その上、チーズのたんぱく質は、また、たいへん消化のよい形に変わっています。つまり、一部はアミノ酸になっていますし、アミノ酸まではいかなくても、とにかくたんぱく質が乳酸菌の酵素などで分解されていて、消化吸収しやすい。チーズを食べると、肉などよりも時間的に早くからだが温まってくるのは、この消化吸収のよさのためでしょう。
「チーズがなければ消化不良となる」といったことわざが生まれるほど、乳製品は、過去のヨーロッパ人にとって、食肉以上に欠かせない存在でした。
たんぱく質を摂《と》るのに効率のよいチーズは、酒の肴に最高のものと言われ、また、肉類の脂肪より高血圧になりにくいと言われます。
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[#小見出し] 茶初穂《ちやはつほ》を飲《の》むと憎《にく》まれる[#「茶初穂《ちやはつほ》を飲《の》むと憎《にく》まれる」はゴシック体]
「初穂《はつほ》」といえば、ふつう、その年に初めて稔《みの》った稲の穂のことですが、転じて穀物や果物など、その年に初めてできたものの意にも用います。従って「茶初穂」と言えば新茶のこと──と解しても差し支えないでしょう。初穂の茶は貴重なうえに、うまいので、新茶を飲むのをうらやましく思い、「茶初穂を飲むと憎まれる」などと言われだしたのでしょう。
新緑の五月には、八十八夜の茶摘みが始まり、新茶が出回り始めます。このころに摘んだものを一番茶と言い、お盆前後に摘むのを二番茶、八月下旬ごろを三番茶と言います。宇治あたりでは一番茶、時に二番茶までしか摘みません。静岡ものでは三番茶まで摘む茶畑もあります。
お茶がいちばんうまいのは八十八夜新茶の時季と言われ、この新茶は、お茶そのものの味よりも、香りと、色のよさ、口に入れて、やわらかみのある味が特徴です。しかし、お茶がほんとうにうまくなるのは、やはり、その年の新茶が、それぞれのお茶屋でブレンドされ、銘茶として売り出される九月以降です。蔵出し茶とか口切り茶と呼ばれるこれらのお茶には、新茶にはないうま味があると、かえってお茶通たちはよろこびます。そうは言っても、新茶のもつ独特の高い香りと色味を十分生かすことができれば、それこそ他人様《ひとさま》から憎まれるほどのものになります。さりとて、淹《い》れ方に心遣いが足りないと、新茶の新茶らしい味わいは望めません。
そこで、新茶のうまい淹れ方ですが、お客五人として、急須《きゆうす》を使って、新茶の分量及びお湯の温度を考えてみましょう。少し質のよい新茶、または玉露茶を七グラムほど取って急須に入れます。お湯は一度沸騰させてから、大体七五〜八〇度Cぐらいになったころを見計らって、急須に七分目ほど注ぎ入れます。これを静かに一碗から五碗まで、少しずつ、三回ほど往復するように注ぎ分け、お茶の色がみな均等になるようにします。急須の中にお茶の湯が残らないよう、よくしぼります。こうすれば、新茶の香り、色、味も十分味わえると思います。
また、番茶の場合は土びんなり、やかんなりにお茶の葉を入れて熱湯を注ぐのと、熱湯の中にお茶の葉を後から入れるのと二通りできますが、新茶の場合は後のほうが香りがよいと思います。いずれにせよ、番茶にはぬるいお湯を使わないことが肝要です。
「砂糖買いに茶を頼むな」とは福島県相馬地方に伝えられていることわざですが、お茶は湿気をきらうので、このように言います。
お茶の生命は香り、色、味わいにあり、一度、湿気てしまうと、香りも味も、もう元にはもどりません。また、移り香の早いものですから、匂いのある品物と同じ所に置かないようにすることも大切です。そこで、湿気ないよう、移り香のつかないような保存の容器が必要になります。これには錫《すず》製の壺《つぼ》がいちばんよいのですが、ブリキ缶《かん》でも結構です。紙袋に入れ、さらにビニールの袋に入れて、口を十分に閉めておくことも一つの方法です。お茶の香りは大変微妙なものですから、面倒でも、必要な分量ずつ買い求めるほうが、うまいお茶がいただけます。
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[#小見出し] 茶《ちや》は水《みず》が詮《せん》[#「茶《ちや》は水《みず》が詮《せん》」はゴシック体]
よい茶を上手に点《た》てるには、水の選択が肝心であること。すでに虎寛本狂言『清水』に、「茶は水がせんじやといふが、どこ許の水が能いと聞いた」といった使われ方をしています。今更言うまでもなく、「茶は水の神であり、水は茶の体」と言われるくらい、茶の湯にはよい水を選ぶことがたいせつ。どれほどの名茶であっても、わるい水を用いれば、せっかくの持ち味を味わえません。さすがに茶聖陸羽は心得たもので、『茶経』巻下の五、茶を煮てるの項に、「山水を上とし、江水之に次ぎ、井水を下と為す。而《しか》も、井水にして絶佳なるものあり、山泉に亜《あ》かず」とし、また、「江水は甘を以て勝り、井水は冽を以て勝り、山水は甘と冽とを兼ぬ」とも記しています。
良水に恵まれない中国では、昔から良水が祈願されてきました。それは陸羽の「六羨の歌」でも明らかです。すなわち、良水のためならば、「黄金の罍《さかだる》を羨まず。白玉の杯を羨まず。朝に省に入るを羨まず。暮に台に入るを羨まず。千羨万羨西江の水、曾《かつ》て竟陵の城下に向って来る」と言って、西江の水を讃えています。西江水と言うのは、漢水の一分江だろうと言われていますが、今日では明らかではありません。「茶は飲料水の最良の試薬」と言われているその茶の水に、苦心|惨憺《さんたん》した人であってみれば、何物を捨てても、その良水に仕えたのは、うなずける話です。
さりとて、『茶経』の水の等級は中国における説で、日本では井戸水がいけないということはなく、昔より名水として茶人の間に賞されているのは、多くは井戸水で、『茶の湯評林』には、京都付近における名水として、六条堀川の醒ヶ井以下一四カ所を挙げています。現在もある名水の一つに洛北大原の三千院に、裏山の音無滝から引き水をした「華厳《けごん》の手水鉢《ちようずばち》」があります。試しに掌を掬《むす》んで飲んでみますと、実に甘く、やわらかな水で、まさに「甘露、甘露!!」と歎声《たんせい》を上げたくなるほどのうまさ。また、近くの寂光院には、その昔、建礼門院がお使いになったという清水の跡があり、裏山からの筧《かけひ》の水は、蹲踞《つくばい》にこんこんと溢《あふ》れています。
しかし、現状では都会地ではほとんどが水道を使っているので、水を選ぶということはなかなか困難です。先人は水質と同時に、それを汲む時間についても敏感で、
「夜会トテ昼以後ノ水不用也。晩景夜半迄、陰分ニテ水気沈ミテ毒アリ。暁ノ水ハ陽分ノ初メニテ清気浮ブ井華水ナリ。茶ニ対シ大切ノ水ナレバ茶人ノ用心肝要ナリ」(『南方録』)
などと説いています。このほか、『茶の湯評林』の中には、水質良否鑑別法、汲みとり上の注意など、こまごまと説明してあり、科学的知識を持たなかった往時の茶人たちが、経験からとは申せ、いかに科学的に、いかに衛生的にやっていたか──驚かずにはおれません。現在では井戸水すら、なかなか使えませんが、うまい茶を飲むためには平素から身近によい水のある所を心がけておくのも、たいせつなことではないでしょうか。
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[#小見出し] ちりめんじゃこも魚《とと》まじり[#「ちりめんじゃこも魚《とと》まじり」はゴシック体]
ちりめんじゃこは関西の呼び名で、関東では、しらす干しの名で呼びます。ちりめんじゃこもしらす干しも同じ物ですが、専門家に言わせると、微妙なちがいがあるようです。
「両方とも、カタクチイワシ(セグロイワシ)の稚魚をゆでて干したものだが、しらす干しは生乾きで、しっとり。一方、ちりめんじゃこは、しらす干しの上等品で、乾燥がよく、値段も高い」というわけです。稚魚は成長すると、煮干し(関西ではいりこ)・丸干し・目刺し・五万米《ごまめ》になります。ところで、ことわざの意味ですが、たかがカタクチイワシの稚魚を干しただけのものなのに、高級魚なみに大きな顔をして、食膳にのる。卑しい者が、身分ちがいな高い地位の人たちにまじっていることの|たとえ《ヽヽヽ》に用い、もっぱら冷やかすときに使われます。同じ意味のことわざに「|鰯 俵《いわしだわら》も俵《たわら》の中《うち》」があります。寓意は、人は身分相応が大切──ということになりましょうか。
稚魚のうち、体色素が未だできていないため、からだが白いころの魚は、すべてしらすで、これを干したものがしらす干しになります。したがって、内容はいろいろな魚をふくんでいるわけですが、ふつうにしらす干しとして売られているのは、カタクチイワシ。カタクチイワシ以外のしらすとしては、アジ・カマス・アナゴ・ウナギ・キビナゴが知られています。
しらす干しは、その名の通り、白いことが身上です。黒ずんでいたり、赤ちゃけたものは下等品になります。そこで、業者は白い製品に作り上げるよう苦労し、それには原料の吟味が第一で、鮮度がよく、含有脂肪が少なく、色つきの餌を飽食しているようなことがなく、体色素やウロコができていない魚体を使うことに気をつかいます。作る際には水洗いをよくします。
しらす干しの作り方は、煮干しとほぼ同じですが、魚体が弱いので、崩れないように注意します。少量のしらすを籠《かご》に入れ、流水を充たしたタンクの中をくぐらせて洗います。一方、小さい丸釜に薄い食塩水を沸騰させておいて、この湯の中に、水切りしたしらすをあけます。そうして、大きなしゃもじでよく掻《か》き回します。煮えて魚が浮き上がってきたら、籠ですくい取ります。この時間は、魚の量によって一定しませんが、早い場合は一分足らず、遅くても二、三分です。籠のしらすは目の細かい簾《すだれ》か蓆《むしろ》にそっとあけて日乾しします。干し終わるまでは、手を触れません。乾燥は一日で終り、歩留りは一五〜二〇%。
関東では、塩分がやや多く、肉質のやわらかな製品が好まれますが、関西では、塩分がやや少なく、その代り、よく干した製品が好まれます。そこで業者は、煮熟液の塩分を変えていて、関西向きを作る際は、水九〇リットルに対して塩を六キログラム、関東向きには、一〇キログラムと多く使います。しらすは親魚とはちがったおいしさをもち、吸い物によく、また、大根おろしとよく合います。
急な客ちりめんざこへ海苔を入れ はるお
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[#小見出し] 亭主《ていしゆ》と箸《はし》は強《つよ》いがよい[#「亭主《ていしゆ》と箸《はし》は強《つよ》いがよい」はゴシック体]
どうやら、このことわざは割箸の登場した江戸時代化政期の女房族の生活実感のように思えます。
丈夫で長持ち、しかも生活力のある亭主を──と希《ねが》うのは、歴史の古今を問わない女房族の切実な願望でしょう。こうした希いのウラには、ひよわで、たよりないぐうたら亭主に悩まされ、泣かされた庶民のおかみさん連中の涙が光っています。一方の弱い箸は、一八〇四〜三〇年のいわゆる化政期に、世界中でも有数の人口密集都市、江戸の街に普及しはじめたうどん、そばなどのインスタント外食に伴って登場した割箸のようです。値段の安いうどんやそばに、割安な割箸が使われたのは当然のこととは言え、ささくれたり、折れたりして、使いにくさに、しばしば切歯扼腕《せつしやくわん》した|さま《ヽヽ》が偲《しの》ばれます。
箸はすでに『古事記』に登場しています。すなわち、スサノオノミコトが、出雲の国の簸川《ひのかわ》の川上にある鳥髪《とりがみ》の地で、その川に箸(波之《はし》)の流れ下るのを見て、上流に人が棲んでいると見て遡って行き、ヤマタノオロチを退治して、アメノムラクモノツルギを得たという故事に箸が現われています。神話時代の話は別格としても、平城宮の遺跡、宮内省大膳職の建物跡の三つの大井戸跡から、大量の瓦や土器、木具、木簡、附札《つけふだ》などと共に、たくさんの木箸が出土しています。長さ約二二センチから二六センチに及ぶ杉、檜、それに雑木で作られたもので、中程を太く丸く削り、両端を細く丸く削った、いわゆる胴太先細の羹箸《かんばし》と、頭部を太く丸く、先端を細く丸く削った片口箸(先細箸とも言う)と、さらに頭部も先端も同型の寸胴箸《ずんどうばし》のおおむね三種で、その材質や寸法、形状が今日使用の一般家庭箸とほぼ異ならないようなものです。おそらく、これらの箸は、一般官人及び職員の使用したものと思われます。
このような歴史の古さを物語るように、箸には用途や目的に応じて、さまざまな種類があります。平安時代には宮廷の箸台に銀の箸と匙《さじ》、ならびに柳箸と匙の二種がのっていて、ごはんは柳箸で食べ、そのほかのものは銀の箸で食べたと記録に残っております。
江戸時代になると、箸は食生活の多様さに伴って、白箸(杉箸)、赤箸(銅の箸)、太箸、先細の箸、割りかけの箸、塗箸、塗竹箸、高蒔絵《たかまきえ》の箸、象牙の箸、角箸、菜箸、雑煮の箸……といった具合に多彩になっています。
割箸の材料となるものも、また、さまざまで、杉、檜、白松、えぞ松、樺などの木や、孟宗竹、真竹などで、角箸を作り、半ば以上まで割れ目を入れておき、使うときに割いて用いる独特の箸で、材質によっては、ささくれたり、折れたりする欠点はあるものの、清潔性、機能性、一回性などといった他の箸にはない特徴があり、日本人独自の美意識が表現されています。
樹木の中で、もっとも割裂性に富んでいるのは竹で、江戸時代中期に登場した割箸も、竹の割箸で、吉野杉の割箸が考案されたのは明治十年頃、大和下市町でした。
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[#小見出し] 年越《としこし》の晩《ばん》に蕎麦《そば》を食《く》えば運《うん》が開《ひら》く[#「年越《としこし》の晩《ばん》に蕎麦《そば》を食《く》えば運《うん》が開《ひら》く」はゴシック体]
年中行事というと、なにかと食べ物がついてまわります。正月の鏡餅や雑煮、三月|雛祭《ひなまつり》の雛あられやハマグリの吸い物、五月|菖蒲《しようぶ》の節句の粽《ちまき》や柏餅……。土用|丑《うし》の日のウナギの蒲焼きがあれば、大晦日《おおみそか》には、どこの家でも年越しそばを食べる|ならわし《ヽヽヽヽ》があります。
「棟上げ蕎麦」や「引越し蕎麦」といった物日《ものび》のそばも、もちろん、一部には伝わっていますが、なんと言ってもなじみ深いのは年越しそばでしょう。年越しそばを東京では、みそかそばと言い、京都辺りでは、つごもりそば、東北地方へ行くと、運そばとか運気そばなどと言います。そして一様に、「年越の晩に蕎麦を食えば運が開く」と言い伝えられています。
そのせいか、おそば屋さんにとっては、大晦日は年一回の書き入れ時で、昔は毎月の晦日が平日の二倍、大晦日は四倍以上も売れたそうです。年越しそばと運がどうして結びついたのか、その由来は今一つハッキリしませんが、そば博士の新島繁さんから伺った話によると、
@鎌倉時代に宋から博多にきていた貿易商謝国明が、年の瀬も越せない町の人たちに世直しそば≠ニ称して承天寺《じようてんじ》(開山は聖一国師)でそばがき餅をふるまったところ、翌年からみな運が向いてきたため、大晦日に「運そば」を食べる|ならわし《ヽヽヽヽ》が生じたという説。
A室町時代、関東三長者の一人増淵民部が毎年の大晦日に無事息災を祝い、
※[#歌記号、unicode303d]世の中でめでたいものは蕎麦の種 花咲きみのりみかどおさまる
と歌い、家人ともども、そばがきを食べたのが起こりだという三角《みかど》縁起説。古来、三角形は邪気を払う力を持つと信じられているが、そばの実が三稜《みかど》で帝に通じるため、京都御所では葉が葵《あおい》に似ているところから、そばをアオイと言い、三角はまた夫婦と子どもの関係にもたとえられ、縁起がよいとされてきた。
Bそば切りは打ち延ばして麺線に切り、長く伸びるので、延命長寿や身代が細く長く伸びるようにと形状にちなんだ説。逆にそばは切れやすいから、旧年の労苦や災厄をきれいさっぱりと切り捨ててしまおうと「縁切りそば」「年切りそば」、あるいは一年中の借金をうち切る意味で「借銭切り」(岡山県賀陽町)や「勘定そば」(福島県いわき市)と言い、必ず残さずに食べなければならない。
C金銀細工師が金箔を延ばすとき、そば粉で台面をよくぬぐって、その上で延ばすと伸びがよい。金粉を寄せるのにそば粉がよいとか、昔砂金を精製するためそば粉を用いたとかで、金を伸ばす、金を集める縁起で始まったという説。
その他、二、三の説がある由ですが、伺ったかぎりでは、いずれも尤《もつと》もなとうなずける由来説です。一方、「年越の麦飯は一年中の力となる」(次項参照)といった言い伝えもあり、年越しの夜には、祝儀の食事を摂るのが全国的な|しきたり《ヽヽヽヽ》で、そばはその一種として取り入れられたものと思われます。
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[#小見出し] 年越《としこし》の麦飯《むぎめし》は一年中《いちねんじゆう》の力《ちから》となる[#「年越《としこし》の麦飯《むぎめし》は一年中《いちねんじゆう》の力《ちから》となる」はゴシック体]
ふだんは忙しさにまぎれて、みずからの生き方に思いをめぐらすことなど滅多にありませんが、暮れも押し詰まって大晦日《おおみそか》ともなりますと、誰しもさすがに来し方を顧みて感慨を催し、行く末に思いを馳《は》せます。
それでも「来年は来年はとて暮れにけり」が大方でしょうが、俳人一茶ともなると落ち着いたもので、
先づよしと大晦日の寝酒哉
といった次第となります。確固たる信念があればこその心境でしょうが、あらたまの年を迎えても、
年立つやもとの愚が又愚にかへる
又ことし娑婆塞ぎぞよ草の家
と、達観もできたのでしょう。
年越しの夜には祝儀の食事を摂るのが全国的な|しきたり《ヽヽヽヽ》であり、おなじみのものと言えば「年越蕎麦」。東北地方では、運そばまたは運気そばと言い、福そば・寿命そばと呼んでいる地方もあります。「年越の日の麦飯は一年中の力となる」と珍重して、麦飯を年越しの日に食べるならわしも伝わっています。むぎは越年しますので、むぎを一名「年越草」と言い、むぎのように無事に年が越せるようにという縁起で、こうしたことが言われ出しました。
思い出してみますと、飯の種類もいろいろあり、米飯、麦飯、野菜飯、赤飯、それに飯とは言いませんが粥《かゆ》と餅があり、五穀の中に数えられる粟《あわ》飯、黍《きび》飯、稗《ひえ》飯などといったものもあります。地方によっては、米飯は「おしろめし」と呼ばれ、
「正月がくるといいなあ、餅が食えるし、おしろめしの日がつづく」
と子どもたちはいったものです。お客さんがくるとおしろめしを炊きます。だから子どもは正月やお客さんの来訪を待ちました。それほどに、ふだんは黒い麦飯、そのむぎの混入率も米七麦三はよいほうで、ひどいのは米三麦七の黒すぎる飯。昔は、一部の都会を除いて、ふだんの飯は麦飯がほとんどでした。こうしたことわざは、精白米を食べていた消費都市の江戸で生まれたもの。年越しの日に一日だけ麦飯を食べたくらいでは、いかに効用があると言われる麦飯でも、大きな効果は期待できませんが、常食すれば、健康維持に役立つことは確かです。
米どころと言われる新潟県下の一農村で、試験的に半年間強化麦をまぜたごはんを食べるように指導したところ、試食前はビタミンB欠乏、高血圧、その他不健康者と診断された人が七〇%もありましたが、半年後には二二%に減ったと報告されています。麦飯は脚気や便秘症はもちろん、食欲不振、高血圧、糖尿病などの治療や予防に、また、疲れやすい人、記憶力がわるくなった人は、白米食を止めて、強化麦二割、または強化麦一割と押麦三割以上まぜた麦飯を常食するようにおすすめしたい。
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[#小見出し] とどのつまり[#「とどのつまり」はゴシック体]
「とどの結局《つまり》は貸座敷か」といった使われ方をして、「いろいろやって、または、せんじつめていった最後のところ」という意味をもち、副詞的にも「結局、畢竟《ひつきよう》」の意味で、多く思わしくない結果である場合に用いられる「とどのつまり」は、一体どんな語源をもつことばなのでしょう。トド(止)のツマリ(詰・留)の義──といった語源説がありますが、わたしなどは、トドは魚のボラが、幼魚のときから順次名を変えて最後の呼び名であるところから──といった語源説に軍配を挙げたくなります。
すでに江戸後期の国学者石原|正明《まさあきら》の『年々随筆』にも、「鯔《ぼら》のいとちひさきは白がね色に光るものなり、是を|はく《ヽヽ》といふ。その次は|おぼこ《ヽヽヽ》、六、七月のほどより|すばしり《ヽヽヽヽ》、年こえたるは|なよし《ヽヽヽ》、年つみたるは|ぼら《ヽヽ》といふ」と、記されています。
ボラは出世魚と言って、各地で成長段階に従って、名が変わります。その名は各地共通のもあり、ちがうのもあります。東京辺では、当歳魚の三センチ以下のものをオボコ、三〜六センチのものをイナッコ、六〜一八センチほどのものをスバシリ、二年魚の二〇〜三〇センチほどのものをイナ、三年魚の三〇センチ以上のものはボラの名で呼び、四年目になって外洋に留まる超大型のボラをトドと言います。
オボコはウブコの転で、産まれて間もない子の意味。スバシリは内湾の浅い砂地を敏捷《びんしよう》に泳ぐから、イナは川から水田にも入るのでイネウオ・イナウオ(稲魚)の意と言います。ボラは「腹太き意」(『大言海』)ということで、トドは止々のほか到々とも書き、つまりは詰まるで、そこから先がないこと、詰まりだけでも、結局、要するに──の意になります。
鰡《ぼら》はねて暮色の迫る船溜り 桂邨
ボラは泥臭いと言って敬遠するムキがありますが、秋から冬にかけてのボラを塩焼き、つけ焼き、刺身、煮つけなどにすると、これがボラかと見直したくなります。福井の三国港では、一、二月の寒ボラ釣りが盛んで、刺身にすると、なかなかの風味があります。
育ち盛りを内房の漁村で育ったわたしは、ボラの肉より臍《へそ》が好物で、今でもそのうまさを忘れかねています。俗に「アンコウの肝にボラの臍」と言われ、殊《こと》のほか賞味されるヘソは、ニワトリの砂嚢《さのう》同様、胃の幽門部。ボラはなかなかの大食漢で、河口に沈んだ穀粒や珪藻を食べるので、胃の幽門部の筋肉が厚くなり、その外観はちょっとソロバン玉に似た形をしています。
串に刺し、塩焼きして、粉ざんしょうを振って食べると、クセがなく、しこしこしてちょっと乙な珍味です。
四海浪静か座敷も開き鰡
婚礼も更《ふけ》てひらきの鰡を提《さ》げ
明治の三十年ごろまで、婚礼の席には開きの干鰡を出すのが|しきたり《ヽヽヽヽ》でした。
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[#小見出し] トマトのある家《いえ》に胃病《いびよう》なし[#「トマトのある家《いえ》に胃病《いびよう》なし」はゴシック体]
母に子にトマト色づき瑕瑾《かきん》なし 鐘一路
トマトが健康食品である──という認識は、なにも西洋の専売特許ではありません。日本にも「トマトが赤くなると医者が青くなる」──ということわざがあるくらいです。
では一体、トマトのどのような成分が、どうして体によいのかとなると、意外に知らない人が多いようです。ひと言で言えばビタミン、ミネラル、それにペクチンの働きだということができます。
まず、ビタミンですが、トマトはビタミンCが多く、それに野菜の中でも割合ビタミンEが多いものの一つです。そればかりか、ジュースやピューレー、ケチャップなどに使う加工専用のトマトには、ビタミンAの作用をもつカロチンも、かなり多く含まれています。
トマトのビタミンCは、生食用の完熟したもので一〇〇グラム中一三〜四四ミリグラム程度含まれています。ビタミンCは従来、肝臓での解毒作用に対して補助的に欠かせぬものである──ということは分っていましたが、さらに発ガン予防に大きな力があるのではないか──とも言われるようになりました。ビタミンCは、カゼに対しても予防的な効力があります。
一方、ビタミンEは動脈硬化に対しても、よい働きをします。それは動脈についている中性脂肪や、コレステロールを落とす作用をするリノール酸を血液中にふやす作用をビタミンEがもっているからです。また、ビタミンEは体での酸素の利用をよくし、空気のうすい高山などでも楽に行動できるという利点もあります。三〇〇〇メートル級のアンデス山中の空気のうすいところで、インカの人たちがトマトを栽培し、これを食べれば精がつく──と感じたのは、ビタミンEの多いトマトの効きめかも知れません。さらにビタミンEは血行をよくする効果もあります。
トマトはこうした働き以外にも、気分をさわやかにしてくれる酸味をもっています。トマトの酸味の主体はクエン酸で、レモンなどの酸味と同種のもので、酸味の爽快感とともに血のめぐりをよくしてくれます。しかも、トマトには他の果物や野菜類には見られないほど、アミノ酸であるL型グルタミン酸と、ガンマーアミノ酪酸を多く含んでいます。いずれも頭脳の働きにとっては、欠くことのできない必要な物質とされています。
トマト食ぶ治癒の肌張り紅さして 照雄
加工専用のトマトにはカロチンと言って、体の中に入ってビタミンAになるものも、豊富に含まれています。Aが不足してくると、カゼを引きやすくなるばかりか皮膚がカサカサしてきます。缶入りトマトジュースなどを愛飲していれば、美しい肌を保つことができます。便秘防止に役立つペクチンも、トマトには多量に含まれています。また、トマトの栄養成分の中には、日本人に不足しがちな鉄分もあり、トマトの健康食品としての価値は、もっともっと見直されていいと思います。
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[#小見出し] 土用中《どようちゆう》の蛸《たこ》は親《おや》にも食《く》わすな[#「土用中《どようちゆう》の蛸《たこ》は親《おや》にも食《く》わすな」はゴシック体]
夏の土用中のタコは親にも食べさせないで、つい自分が食べてしまうほど、非常においしいという意味。
実際、夏のタコはうまい。ちょうど夏はタコの産卵期にあたり、うまい時季で、俗に「麦藁ダコ」と言い、古来「麦藁ダコに祭りハモ」と言えば、味ののっているしゅんものと言う意味に使われてきました。
蛸壺《たこつぼ》やはかなき夢を夏の月 芭蕉
タコの仲間は、日本の近海に五〇種ぐらいいますが、そのどれもが食用になっているわけではありません。マダコ、ミズダコ、イイダコ、テナガダコなどが、市場に顔を出します。このほか、ヤナギダコ、クモダコも漁獲の対象になっています。ミズダコは一名オオダコと言い、メスをマダコ、オスをミズダコという漁師もいますが、これは正しくありません。
一般にタコは、タコ壺を海底に沈めておき、タコがその中に潜むのを待って、順次に手繰《たぐ》り上げて獲《と》ります。そのほか、ヤスで突いたり、釣鉤《つりばり》で引っかけたり、底曳網でも捕獲します。
寛政十一年(一七九九)板の『日本山海名産図会』に「章魚《たこ》」の章があり、
「諸州にあり、中にも播州明石に多し、磁壺《やきものつぼ》二つ三つを縄にまとひ、水中に投じて、自《みづ》から来り入るを常とす、磁器是を鮹壺と称して市中に花瓶《かびん》ともなして用ゆ、鮹は壺中に付て引出すにやすからず、時に壺の底の裏を物をもつて掻撫《かきなづ》れば、おのづから出て、壺を放るること速《すみやか》なり」
と、見えております。関東市場には、房州以北の太平洋岸のものが入荷し、中でも三陸産がうまい。日本ダコのうまさは世界に冠たるものですが、ちょっと難を言えば、かたいことです。近頃、入荷がグンと増えているアフリカダコは、日本近海産のものに比べると、味はアッサリしていて、物足りない面はあるものの、肉質がやわらかで、お年寄りでも、楽に食べられます。ほとんどが冷凍品として入荷し、地方へ発送するにも便利で、アフリカ産のタコを使ってこの頃、各地方でゆでダコ生産は活発になっています。
関東市場では主にゆでダコが陳列され、関西市場では生ダコが並びます。『日本山海名産図会』にも記されていたように、昔から明石ダコをはじめ、おだやかな瀬戸内海で獲れるタコは味が最高で、生きたタコをよく塩もみして、粘液を取り、調味汁の中で、長時間じっくり煮込みます。これがいわゆる「桜煮」で、やわらかに煮上がってうまいものですから、ついゆでダコで試みようと思いますが、こればかりは逆にかたくなるばかりで、どうもいけません。タコをやわらかに煮ようとするなら、やはり、生からでないといけません。東京でも生からユックリ煮込んで「やわらか煮」を看板とする店はあるものの、関西、とりわけ大阪に比べたら、微々たるものです。
三杯酢、おでん、すし、大根などとの煮つけにして賞味するのは、ご存知のとおり。
油断すな柚の花|咲《さき》ぬいその蛸 支考
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[#小見出し] 菜種《なたね》が咲《さ》くと鶏《にわとり》がうまくなる[#「菜種《なたね》が咲《さ》くと鶏《にわとり》がうまくなる」はゴシック体]
なたねの花の咲くころは、ニワトリの肉に脂が乗っておいしくなります。
なたねの花は、もちろん、「菜の花」のことで、植物学上の正しい名はあぶらなですが、花を賞して菜の花と言い、種子から油を採るので、なたねとも呼ぶわけです。
欧米では古くから「花暦」とか「誕生月の花」とかいうものがありますが、日本でも多少、それに類したものが昔からありました。先年、NHKが投票によって、季節の花を決め、三月の草花は菜の花、花木は桃を選びました。確かに菜の花の咲くのは春ですが、暖かい地方では、春を待たずに冬の十二月ごろ、菜の花の花盛りを見ることができます。宮崎県の南部や千葉県の房州海岸では十二月に開花し、正月用の切花として重宝がられています。房州小唄にも、
房州よいとこ南風をうけて冬も菜種の花が咲く
とうたわれています。
このことわざの「菜種が咲く」季節は、春三、四月ごろで、農家の広い庭先に放し飼いされているニワトリが、這《は》い出しはじめた地虫を追い、適度の運動と、みずからの好みで摂り入れる餌によって、肉は緊まり、脂も乗り、一段とうま味を増してくることを言っております。
このように、一方に、具体的な自然暦を配して、しゅんのものをうたい上げたことわざは、かなりあり、似たものをいくつか挙げれば、
「木の芽兎」(春に木の芽がさかんに発芽するころ、ウサギの肉はおいしい)
「三月さうの」(陰暦の三月の鵜《う》の肉はおいしい)
「三月の黄金めんどり」(陰暦の三月のヤマドリのメスは、非常にうまい)
「山椒の芽が出ると鱶《ふか》の肉がうまくなる」(さんしょうの芽が出る季節になると、フカの肉が非常にうまくなる)
といった具合です。とは言っても、近頃、わたしたちが食べている鶏肉は、季節によってうま味を増すような自然飼育の鶏の肉などではなく、ほとんどがブロイラーです。もはやブロイラーでない鶏肉を買うことは至難で、東京、大阪などの大消費地で売られている鶏肉の八〜九割はブロイラー、地方の都市ですら、半分以上はブロイラーです。今では一流と言われるホテルやレストラン、あるいは料亭ですら、ほとんどブロイラーを使っています。もちろん、高級料理屋や鳥料理屋では、特別に産地と契約したり、自営の養鶏場を地方にもっていて、親雌ドリを使っている場合もないことはないのですが、そんな店はごく例外です。
ブロイラーとは、もともとアメリカで生産された食肉用のトリのことで、厳密に言えば、食用鶏で、生後八〜一〇週間前後のヒナドリのことを総称しています。ブロイラーは水分が多く、雑菌に汚染されやすいので、お買いになるときは、匂いを嗅ぎ、臭味が少なく、飴《あめ》色がかった、肉の盛り上がった感じのものを選べば、まず、まちがいありません。
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[#小見出し] 夏蕎麦《なつそば》二十日《はつか》[#「夏蕎麦《なつそば》二十日《はつか》」はゴシック体]
そばの種播きから収穫するまでの生育期間がきわめて短いことを誇張して言ったことわざです。でも、実際は、そばどころ信州辺りで語り継がれているように、
○そばは畑に七十五日いるばっか(中社)
○そばは蒔《ま》きつけて七十五日せば見っこなし刈れ(浅川)
七十五日程度の栽培期間は入用で、夏そばでも厳密に言えば七十日から八十五日、秋そばともなると八十日から九十日はかかり、どうひいき目に見ても、「夏蕎麦二十日」は、表現がオーバーです。確かにほかの作物から見れば、栽培期間は非常に短く、「作り物で早いは蕎麦と足半《あしなか》」というのは、栽培農家の実感──と言えましょう。足半は平安時代末期に、武士が考え出した踵《かかと》の部分のない草履に似た非常用履物で、鼻緒《はなお》を前で結び、半分しかないので、当然早く作れるわけです。そばは気候に対する適応性も比較的すぐれているので、旱魃《かんばつ》のときでも、すぐに播けば、米や麦の補いになるので、
○がし(飢饉の方言)蕎麦(神奈川) ○蕎麦作りに飢饉なし(茨城)
と言われ、救荒作物として重宝されてきました。養老六年(七二二)の夏、日照りに見舞われ、稲が生長しなかったとき、元正《げんしよう》天皇は詔《みことのり》を発して、「おくて(遅く成熟する稲)・そばむぎ及びふとむぎ(大麦の異称)・こむぎ」を植え、たなつもの(田から生ずるもの、すなわち稲)の実らぬことに備えよと命じました。すでに、救荒食物として、そばの効用は、十分認められていたわけです。夏そばの播種期は、暖かい地方ほど早く、九州では四月上旬から、東北辺りでは五月下旬までということで、群馬県勢多郡では、
○蕎麦まきは八十八夜(五月一、二日ごろ)から九十九夜までがよい
といったことわざが伝承されています。一方、秋そばは北海道の七月上旬から九州の九月下旬までと、逆に寒い地方ほど、播種期が早くなっています。そういう次第で、地域によって、種播きの時期がズレてきます。周防(山口県)では、「地蔵そば」と言って、地蔵盆に当たる八月二十四日ごろが適期です。「蕎麦まき蜻蛉《とんぼ》」(群馬、和歌山、岡山の各県)は、赤くて小さいトンボのことで、鍬《くわ》の柄の高さに飛ぶころをみて、そばを播きます。信州には、
○そばまきいちご熟《う》んだらそば蒔け(鬼無里) ○こいもちばな出たらそば作れ
といった農事暦が伝えられています。そばまきいちごはなわしろいちごのことで、八月初めに熟します。もう一つのこいもちばなはうつぼぐさのことで、紫色の花が咲いたらそば播けということで、昔は七月初めに播いたものだそうです(宇都宮貞子著『植物と民俗』)。そばについてのことわざは多く、「蕎麦まきは水汲み女に逢えばもどれ」とも言い、そばを播くときに雨に遭《あ》い、あるいは湿地に播くと生長せず、痩《や》せて実が少ないため、昔から縁起をかつぎ、途中で水汲みに逢うのさえ忌み嫌いました。
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[#小見出し] 夏《なつ》は熱《あつ》い物《もの》が腹《はら》の薬《くすり》[#「夏《なつ》は熱《あつ》い物《もの》が腹《はら》の薬《くすり》」はゴシック体]
熱い物、つまり加熱調理をしたものだと、細菌が死滅するので、病気にかからないで済むからです。夏には食べ物は、つとめて火を通すことが肝要です。
実際、手許の資料を見ても、食物中毒のいちばん多い季節は五月から九月までの暑い間で、秋になると、毒茸の中毒があり、寒くなると、フグの中毒が起こったりします。そのほか、故意または過失による中毒は年中時を選ばず発生します。しかし、このうち、細菌による中毒がいちばん多いだけに、細菌の繁殖に具合のよい、気温の高い時季がいちばん多い。
わが国の食中毒の約半分が、腸炎ビブリオによるものです(ただし、病因物質が分っているもののうち)。それゆえ、食中毒の親玉ということができます。
毎年、夏になりますと、腸炎ビブリオ食中毒が急に増えます。この腸炎ビブリオは魚介類についてきますが、それからそれへと他の食べ物をも汚染するので、まことに始末がわるい。
「わたしのところでは、食中毒を起こすような、そんな古いさかなは絶対に扱っていませんよ」
と、言う魚屋もおりますが、この腸炎ビブリオという細菌は、活簀《いけす》の中でも繁殖しますし、新しいさかなでも、気温が高いときには、まことに危険です。
事実、活簀に飼ってあるさかなを、刺身や酢のものにして食べて、腸炎ビブリオ食中毒にかかった例もあります。これは海水の温度が二〇度を超えると、細菌は水温が高くなるに従って繁殖するので、事後処理がわるいと、新しいさかなでも生で食べると中毒になります。そこでさかなは調理する前に、淡水のきれいな水で、すっかり洗い、手早く料理して、必ず一〇度C以下にして保管することが必要。なるべくなら、すぐ食べれば申し分ありません。
酢のものにしても、腸炎ビブリオは死なないどころか、温度が二〇度以上になると繁殖しますので、「酢のものは安全」という先入観は取り払わなければなりません。もっとも酸性がとくに強いときは、この細菌は繁殖できません。
腸炎ビブリオの繁殖しやすい食べ物としては、生タコ、いり卵、アジの塩焼き、アジのフライ、アジの天ぷら、生イカ、塩もみきゅうりなどがあり、ついでプレスハム、竹輪、生卵、米のごはん、アジの煮付け、ゆでイカなどがあります。とくにタコのいぼの中は、腸炎ビブリオが繁殖するのに、もっとも適しているところで、注意が必要。
夏場は刺身、酢のもの、握りずしなど、二時間以上経ったら、まず食中毒の危険があると思わなければなりません。大きな宴会などでは、刺身の盛り付けをしてから客の口に入るまでの時間を、できるかぎり短縮し、細菌に増殖の時間を与えないようにしないと危険です。時間を短くできないときは、盛り付けた料理を、冷蔵庫や冷蔵ケースに入れておくだけの細かな配慮が必要です。
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[#小見出し] 海鼠《なまこ》の油揚《あぶらあ》げを食《く》う[#「海鼠《なまこ》の油揚《あぶらあ》げを食《く》う」はゴシック体]
口がよく回ることのたとえ。ナマコがぬるぬるしているうえに、油で口がなおよくすべる。その口を、なめらかな繻子《しゆす》の襟《えり》で拭《ふ》いたほどよくしゃべる人もいます。
ナマコは棘皮《きよくひ》動物ナマコ類の一種。内湾の浅い海に産し、初冬のころから味が乗り、黄ゆずの香りと調和して、こたえられない風味を生じます。晩春から初夏にかけて産卵を終えると味が落ちます。しゅんは十二月から二月にかけてで、食用になるものに、青ナマコ(黒ナマコ)と赤ナマコの二種があり、青ナマコは体色が青みがかったネズミ色で、主として砂地に好んで棲《す》み、砂ナマコと呼ばれたりします。赤ナマコは赤褐色の模様があり、岩礁にへばりついているので、シマナマコとも呼ばれ、味はどちらかと言えば、赤ナマコのほうが上等です。
動物の多くは冬眠しますが、ナマコは「夏眠」します。水温が一六度C以上になると、海底に穴を掘って、その中で夏眠し、水温が一六度C以下になると出てきます。また、ネズミと同じように、昼間隠れていて、夜になると出てくるので、俗にナマコをウミネズミなどとも言います。表面に大小不同の突起があるところから、外観はちょっときゅうりに似ていて、英語では、そのものずばり海のきゅうり(Sea-Cucumber)と呼んでいます。
背にはイボ、腹面に管足があり、これを動かして、外皮を波打たせながら、海底を這《は》う姿は、まことにグロテスクで、これを最初に食べた人は、よほどの豪傑ですね。
『古事記』の「此の口や答へせぬ口」とてアメノウズメノミコトのお叱りを受けたコ(ナマコ)の物語は有名です。『古事記』には、海産の無脊椎動物のクラゲ、ヒラブガイ、カキガイ、シタダミなどの名が見えますが、さすが海国日本の神話にふさわしく、ほほえましい思いがします。それにしても、もしナマコが食用動物として人に知られていなかったなら、数少ない動物の名の中に数えられて、このような古い文献にあらわれるはずは、とうていあり得なかったと思われます。
振りナマコ(ナマコをざるに入れて塩をふり強く振ること)、茶振りナマコ(振りナマコを煮立った番茶の中に入れてさっと霜降りすること)を酢のものにして賞味するのは、ご存知のとおりで、食べる直前まで、黄ゆずの皮をたくさん入れた三杯酢、または甘酢にひたしておいて味をしみこませ、小口から切って、器に盛って供します。
生食するのは、日本料理特有のもので、中国では干しナマコ(キンコとも言う)を水でもどし、いためもの、あんかけ、煮ものなど加熱調理の材料に用います。日本固有の生食法のひとつにコダタミ(海鼠湛味)という凝《こ》ったものがあり、生のナマコを好みに切って、しばらく酒に漬《つ》け、煮出し汁と食塩とみりんとで調味した中に入れ、わさびあえにします。コノワタにいたっては、わが国独特の食品であって、左党の珍重する酒のさかなです。ことわざに採り上げられているものの、「海鼠の油揚げ」は、まだ口にしたことはありません。
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[#小見出し] 海鼠《なまこ》を藁《わら》でつなぐ[#「海鼠《なまこ》を藁《わら》でつなぐ」はゴシック体]
「その以前あんかう食ひし人の胆《きも》」とは、有名な抱一の句ですが、ナマコを最初に食った奴も、かなり性根のすわった強者《つわもの》と言えます。ナマコはかなり気味のわるい感じの動物なので、コノワタを好む人でも、生きているナマコの動き回る姿を見たら、怖《お》じ気をふるって、とても口にしようなどとは思わないでしょう。
ことわざの「ナマコを藁でつなぐ」は、見たところ、がっちりしているナマコも、わらでくくると、簡単に縮小するところから、緩急自在なことのたとえに用います。もっとも、これには異説があり、ナマコをわらでしばると、そこからたやすく身が切れるので、ナマコのような怪物でも、弱点を掴《つか》まれると、たちまち閉口するたとえに使っている地方もあります。
ナマコのしゅんは十二月から二月にかけてで、初冬のころから味が乗り、黄ゆずの香りと相性がよく、秀れた香味を生じます。晩春から初夏にかけて産卵を終えると、魚と同じように味が落ちます。
生で食べる場合は、新鮮なものでなければダメで、鮮度のいいものは、イボイボがハッキリしていますが、古くなると、イボイボが溶けたようになります。少し古くなったナマコは、蓋《ふた》のついた容器に入れて、固く縮むまで縦横に容器を振り、薄く切って、ポン酢で食べるとよいでしょう。
内臓は塩辛にしてコノワタを作ります。これは諸外国に例を見ないわが国独特の食べ方で、すでに『延喜式《えんぎしき》』(九二七年)に、その記録があり、禁裡《きんり》では「人紅梅」と呼ばれたそうです。卵巣は干してコノコ(クチコ)にします。能登、丹波、三河、尾張の四地方産のものが知られ、特に、能登|鳳至《ふけし》郡穴水湾産のクチコは古い歴史をもっていて、毎年、十二月下旬から三月までの間にナマコを採って、その卵巣を取り、ゆでてそうめん状にした卵巣を、ずらり海岸に張った細いナワに干し、手でしごいてより合わせ、三味線のバチ形に仕上げます。一〇日ほど天日乾燥させますと、濃いオレンジ色になります。四、五〇匹のナマコで、やっと一個のクチコができる程度。なにせ手作業で丹念に作っているので、ごくわずかしかできない珍味中の珍味です。雅味に富んだ佳肴《かこう》として、懐石の八寸に珍重されます。噛むほどに、ねっとりしたうま味が口中いっぱいに広がります。
ナマコを丸ごと煮て干した「イリコ」(海参と書く)同様、中華料理の材料に使われるものにキンコがあります。キンコは寒海性で太平洋岸では金華山以北、日本海岸では山陰以北の水域を|すみか《ヽヽヽ》として分布しております。体は長楕円形をしていて、背面は平たく、灰褐色の地に大きな褐色斑があります。しかし、その濃淡はそれぞれによって変異があります。藤の花に似た色をしているところから「フジコ」の名でも呼ばれます。肉は薄いものの、煮て干したものは「光参」と言われ、珍重されています。
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[#小見出し] なれて後《のち》は薄塩《うすじお》[#「なれて後《のち》は薄塩《うすじお》」はゴシック体]
ひととのつきあいに、初めはいい顔を見せないほうがよいということ。漬けものを漬けるときも、初めは塩をよくきかせ、本漬けするときは薄味にしますが、人間のつきあいも初めから甘くするとなめられます。明暦二年(一六五六)に刊行された『世話尽《せわづくし》』に載《の》っていることわざです。
日本人の漬けもの好きは格別で、古くから漬けものを香のものと言い、「なにはなくとも香のもの」とか、「茶漬けに香のもの」などと言って、漬けもので舌鼓を打ちます。米を主食とする日本人に、漬けものは断ち切れぬつながりがあって、漬けものだけでもごはんが食べられるほど、副食として重要な役割を担《にな》っています。それだけに、漬けものの種類はおびただしく、各地方ごとに特色のある漬けものが伝承されています。これらを分類しますと、
@味によって、から漬け(沢庵漬け・芥子漬け・塩漬け・みそ漬け)、甘漬け(麹漬け・みりん漬け・ぬか漬け・ぬかみそ漬け・奈良漬け)、酸漬け(千枚漬け・らっきょう漬け・梅干し)。
A着色や利用時期、それに媒体となる副材料や主材料の加工のちがいによって、紅漬け・浅漬け・刻み漬け。
B副材料によって、塩漬け・ぬか漬け・ぬかみそ漬け・みそ漬け・粕漬け・酢漬け・みりん漬け・焼酎漬け・しょうゆ漬け・麹漬け・砂糖漬け・芥子漬け。
などに大別することができます。漬けものの主材料となるのは、野菜・果実・山菜・野草などであることはご存知のとおりです。また、漬けものに用いる副材料には各種の調味料がありますが、家庭で手軽に漬けられる漬けものの副材料と言えば、やはり、食塩が第一です。食塩は、ものを腐らせぬ性質があり、保存食の一面をもつ漬けものには、なくてはならないものです。
さて、このことわざにも示されていますように、漬けものの製造工程のうち、本漬けにかかる前に、粗漬《あらづ》け(下漬け)します。このとき、濃いめの塩を用います。この際の塩の役割は、塩を材料に浸み込ませ、水分を取るとともに、細胞に傷をつけるのが目的で、塩漬け以外の場合でも、ほとんどの漬けものは、まず塩で粗漬けします。そのあと、芥子・麹・酒粕・ぬか・酢・みそ・しょうゆ・みりんなどに漬け込むのが常法です。
例えば、きゅうりの芥子漬けの場合など、大きめのきゅうりを選び、タテに二つ割りし、サナゴを除き、いくぶんからめの塩かげんで二日間漬け込み、そののち、取り上げて陽干し、果面に小ジワのできたころを見計らって、日陰に移して冷まし、芥子粉にわずかな量の食塩をまぜこんだもので本漬けをします。こうして、圧《お》し蓋《ぶた》をし、重石《おもし》を載せて密閉して置きますと、一カ月ぐらいで味が整います。
「なれて後は薄塩」にする漬けもので、おなじみのものと言えば、高菜・白菜・キャベツの塩漬けがあり、長期保存用の白菜のぬか漬け、広島菜のぬか漬けなどもあります。
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[#小見出し] 握《にぎ》って江戸前《えどまえ》、押《お》して上方《かみがた》[#「握《にぎ》って江戸前《えどまえ》、押《お》して上方《かみがた》」はゴシック体]
所変われば品変わる──と言うように、どの地方にも郷土色豊かなすしがあります。その中でも代表的なのが、江戸前の握りずしと上方の押しずしです。
すしを作り方の上で分類してみますと、熟鮓《なれずし》と早鮨の二つに大別できます。もともとすしは、山中に住むひとびとのたんぱく源であった──とはよく言われることですが、確かにその通りで、たんぱく源に不自由している民族が、たまに手に入れたさかなを、米や粟などのでんぷん質のものといっしょに漬け込んで保存したものです。
漬け込んださかなが馴れるころには、米や粟などのでんぷん質は、どろどろになっていますから、当然、でんぷん質は捨て去り、さかなだけを食べたのでしょう。ところが時代を追うに従って、食べ物なども次第に豊かになってきて、いわゆるすし本来の保存の意味が薄れ、お菜の一種、つまり料理として考えられるようになりました。この状態が「生成《なまなれ》」で、米飯は発酵して、いくらか酸味が感じられますが、さかなのほうはほとんど|なま《ヽヽ》──といったすしを食べることになるのです。この生成がはじまったのが室町時代と言われています。
やがて時代が下がると、生成の馴れを早めるために米糀《こめこうじ》を混ぜることが考え出されましたが、日本列島でも南の地方はともかく、北日本や北陸など気温の低い地方では、なかなか「馴れ」が進行しないことから工夫された手法に違いありません。
上方風の押しずしは、別名「箱ずし」とも言われるように、すし箱の中へすし飯を敷き詰め、上に魚介類や野菜などのすしだねを並べ、蓋《ふた》をして、重石《おもし》を置いて一定の時間置き、取り出して勧《すす》めるものです。昔の熟鮓《なれずし》の面影を残したものと言え、古風なすしの進化は、ここにおいて、その終点に到着したものと言えましょう。歴史的には、慶長時代(一五九六〜一六一五)から行われているすしで、握りずしが発明されるまですしと言えば、この押しずしを指していたようです。歌麿の描いた『画本江戸|爵《すずめ》』に出てくる屋台のすしは、みな押しずしですから、一八世紀末の江戸のすしは上方風だったことが分ります。江戸で握りずしが発生してからは、「大坂鮨」の名で呼ばれるようにもなりました。
一方、今日の東京ずしのように、酢飯を握って、上に|なま《ヽヽ》の刺身をはりつける、いわゆる江戸前の握りずしは、今から一六七年ほど前の文政初年からの話で、悠久のすしの歴史から見ますと、きわめて新しいすしと言えましょう。両国の華屋与兵衛(与兵衛鮨)の発明だと伝えられますが、疑問の余地があります。
ともあれ、当時の江戸前の海からは新鮮、無公害のさかながたくさん獲れましたし、刺身は日本人の好物です。握りずしはまたたく間に、江戸はもとより日本中に広がりました。土佐の高知の播磨屋《はりまや》橋の屋台に並ぶのに二〇年かからなかったと言いますから、その普及の速さがうかがえます。
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[#小見出し] 鯡《にしん》 に 昆《こん》 布《ぶ》[#「鯡《にしん》 に 昆《こん》 布《ぶ》」はゴシック体]
「江差追分」の前唱に、
江差の五月は 江戸にもないと
誇《ほこ》る鰊《にしん》の 春の海
とありますが、昔は春ニシンの豊漁によって、四月一カ月の労働で、漁師は一年の生活費を得たと言われます。五月は江差のもっとも好景気時でした。「江差追分」は今でも盛んに唄い継がれていますが、ニシンの方は幻の魚となり、盛時をしのぶ|よすが《ヽヽヽ》もありません。北海道でニシンが獲《と》れなくなった理由を、土地のひとたちは、みな潮の流れが変わったからだと言います。内田恵太郎先生は「近年日本近海では、北方系の魚が北に退き、南方系の魚が北進して来る傾向が現れている」(『稚魚を求めて』)と指摘していますが、ほんとうの原因は、ハッキリしません。
鰊焼く花開く夜を汚しつつ 静歩
北海道では生ニシンを塩焼きにして食べるほか、塩ニシン、ニシンずしなどにし、また、開いて日に干し「身欠きニシン」として保存食にします。この身欠きニシンを調理して、かけそばの上にのせたニシンそばは関西でおなじみのものだし、また、おそうざいの昆布巻きの芯は、身欠きニシンと相場が決まっています。しかし、昆布巻きの芯は、本来フナを焼き干しにして煮しめたものでした。壬申《じんしん》の乱の際、大海人皇子の娘が丸焼きのフナの腹の中に密書をしのばせ、父に送ったのが勝利のきっかけになった故事によると言われます。『宇治拾遺物語』には、この消息を伝える、
いにしへはいともかしこし堅田鮒 つつみ焼なる中の玉章《たまずさ》
という歌が記されています。フナの腹の中に詰め込まれた密書が、いつのころからかこんぶに取って代わりました。そしてフナをほとんど食べない北海道ではニシンが代用され、地方によっては田作りも用いられました。
ことわざの「鯡に昆布」は、取り合わせのよいことの|たとえ《ヽヽヽ》です。身欠きニシンとふきの煮しめなどもうまいもので、恰好の出会いものと言えましょう。昔の身欠きニシンは、今日市販の汚らしいのや、なにかの油を塗ってツヤを偽装したものとは段ちがい。三枚おろしですから中骨がなく、皮をむくと、ほんとうにみがきのかかったベッコウ色の見事なもので、こうした身欠きと採りたての山ぶきとをじっくり焚き合わせて煮しめたものです。身欠きニシンは、このほか、じゃがいもとも相性がよく、煮付けたものは、北海道のそうざい料理として優れたものです。
出会いもの、取り合わせのよいもの──と言えば、「山椒に昆布」などは、お茶を飲むときの取り合わせのよい例と言えます。ついでに相性のいい食べ物を拾ってみますと、ドジョウにごぼう、アユにたで酢、フグにポン酢、サバとみそ、カツオにしょうが、カキに酢、米の飯に塩ジャケ、ニシンとうど、熱い飯に筋子、タラにこんぶ、ひじきと大豆、椎茸とこんぶ、ねぎとマグロ……などと多士済々です。
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[#小見出し] 入梅前《にゆうばいまえ》の梅《うめ》の実食《みた》べるな[#「入梅前《にゆうばいまえ》の梅《うめ》の実食《みた》べるな」はゴシック体]
梅雨の頃になると、次第に梅の実が大きくなり、葉がくれに青い実が目立つようになります。中にはもう熟《う》れきって、実が黄ばみ、
青梅や黄なるも交る雨の中 召波
といった状態を現わすようになります。梅の実が成熟する時期は、南に行くほど早くなり、北へ行くほど遅れるのが普通です。九州・四国などの暖かい地方では、梅雨に入る頃に早くも成熟しはじめ、関東から近畿にかけての中央部では梅雨の最盛期、東北地方では梅雨の末期だと言われています。
暦の上の入梅は、太陽が黄経(天球の経度)八〇度に達する日、すなわち六月十日頃ですが、気象の上からみた入梅は、気圧配置が梅雨型になる時期で、暦の入梅とは当然ちがってきますし、また、年によっても、地方によってもちがってきます。もっとも早い年には五月中旬にすでに梅雨に入り、また、もっとも遅い年には、六月中旬にやっと梅雨に入り、年によって一〇日ぐらいのズレがあります。しかも、梅雨に入る時期は西日本ほど早く、北に向うにしたがって、やや遅れるのが普通です。「つゆ」に、梅の字と雨の字を組み合わせたのは、どなたの創案か知りませんが、この関係を実によく捉えています。
青梅に眉あつめたる美人哉 蕪村
うっすらとうぶ毛に覆われた薄緑の梅の実は、見るからに新鮮で、齧《かじ》ると思わず息を強く吸い込むほどの酸っぱさ。人によっては青梅と聞いただけで、口中に生唾《なまつば》が湧くほど、青梅は酸っぱさの代表となっています。
梅の実には、リンゴ酸、クエン酸などが含まれ酸味が多く、酢やしょうゆなどが醸造される以前は「塩梅《あんばい》」と言われて、塩とともに調味の基本をなしていました。
また、黄色に熟れない前の青梅の実の種子は、やわらかいので、カリカリした果肉に食塩をつけて食べると、ついつい種子までも食べてしまうことがあり、この種子には、アミグダリンが含まれていて、これが中毒症状を起こします。普通は激しい腹痛を起こす程度で済みますが、昔は生梅をたくさん食べて命を落とした人もかなりいたようで、古書には梅を有毒植物の一つに挙げている程です。そのため、大昔から青梅の核には毒があるので食べないようにと戒めのことばがありました。地方によっては、
「梅は食うとも核《さね》食うな」
「梅の核を噛み破れば字を忘れる」
「梅は食うとも核食うな中に天神寝てござる」
と教えて、子どもたちには食べさせないようにしました。天神とは「東風《こち》吹かば匂ひおこせよ梅の花……」のうたでよく知られる菅原道真のことで、種子を食べると、天神様の罰を受けると、子どもたちに訓《さと》して、警戒しました。
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[#小見出し] にんにくを玄関《げんかん》に吊《つる》しておくと魔除《まよ》けになる[#「にんにくを玄関《げんかん》に吊《つる》しておくと魔除《まよ》けになる」はゴシック体]
今でも地方の農家を訪ねると、玄関先ににんにくが吊されているのを見かけます。福島や長野、愛知県辺りでは、こうすると「流行病にかからない」と言い、青森や秋田、千葉、埼玉県地方では、「悪病が家に入らない」と、言い伝えています。茨城県では、疫病《やくびよう》除けににんにくをやつでの葉で包み、麻紐《あさひも》で縛ったものを玄関に下げるし、島根県|隠岐《おき》では、にんにくを縄に通して戸口に吊し、外から入る者は、にんにくを手に取って嗅いでから入ると病気にならぬと言い伝えております。また、にんにくを袋に入れて身につけていると、病気にかからないとか、お守りの中ににんにくを入れておくと、魔除けになると伝えている土地もあります。福井県では、泥棒の入らぬようにと、玄関ににんにくを吊すことが行われてきました。いずれも、にんにくの持つ強烈な臭気によって疫病などを退散させようとしたものでしょう。尾張徳川家の家臣天野信景の随筆『塩尻』巻之六にも、「今俗、疫病流行の時、蒜《にんにく》を戸にかけ侍《はべ》るは、如何《いか》なるまじなひにやと問ふ人あり」と、見えております。
にんにくの日本の歴史は古く、神武天皇の御代に使用している記録が残っているにもかかわらず、その後、仏教が伝来して、にんにくの普及にブレーキをかけたため、上流社会から敬遠されたので、あまり普及はしなかったものの、土用の入りににんにくとあずきを食べると疫病を免れるとか、このように門戸ににんにくを吊しておくと、邪気払いになる──などと、古くからの言い伝えがあるところから推すと、民間ではかなり使われていたことがうかがえます。
にんにくの刺激臭の元になっている硫化アリルは、強い殺菌作用があり、この成分の効力は石炭酸の一五倍もあり、二〇〇倍に薄めた水溶液でもチブス菌を五分間で殺すと言われます。また、腸内寄生虫を駆除する効果があることは古くから知られています。にんにくの主成分アリインそのものは、元来、無色で臭気のないものです。ところがにんにくを切ったり、つぶしたり、摺《す》りおろしたりして、細胞がこわれて内容物が空気に触れると、共存する酵素アリナーゼによって加水分解され、にんにく特有の刺激性の強臭ある油状物質アリシンや、ディアリルディサルファイドなどの硫化アリルができます。先日、NHKのテレビ、ウルトラアイでも、粒のままのにんにくでは平気の平左のゴキブリが、摺りおろしたにんにくを入れた箱の中では、七転八倒の大苦しみ。果ては腹を見せて死んでしまう光景を映し出していました。まことに、硫化アリルの刺激臭は強烈です。
にんにくを食べると、消化酵素の生成を促すうえに、胆汁の分泌や排出を促進するので肝臓機能も高まります。従って内臓の働き、特に胃腸の機能はよくなり、日本人の主食の消化吸収をよくし、便通を整える効果があります。また、鎮静、血圧降下作用などがあるので、不眠症、高血圧、動脈硬化などにも効きめがあるようです。
葫《にんにく》や僧のたしなむ隠し味 博子
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[#小見出し] 妊婦《にんぷ》がりんごを食《た》べるとかわいい子《こ》が生《う》まれる[#「妊婦《にんぷ》がりんごを食《た》べるとかわいい子《こ》が生《う》まれる」はゴシック体]
赤ちゃんの頬っぺを思わせるような紅い色、まんまるいかたち、つやつやした肌……りんごの色合い、姿、かたちからの連想でしょう「妊婦がりんごを食べるとかわいい子が生まれる」ということわざが生まれました。このことわざはまた、りんごのようなかわいい子が生まれてほしい──というおかあさんの願いも籠《こ》められているように思います。
こうした心情的な面ばかりではなく、りんごは保健食品と言われ、回復期の病人のお見舞い品にも重宝がられ、わたくしどもの子どもの時分、カゼなどを引いて床についているとき、母がよくりんごをおろして、しぼり汁を飲ませてくれたものです。
ご存知のようにりんごの主成分は糖分で、大部分果糖とブドウ糖の還元糖で、りんごの酸っぱ味はリンゴ酸が主で〇・五〜〇・七パーセントふくまれています。りんごにちょっとした渋味を感じる場合がありますが、これは有機酸のほかに、ごくわずかタンニンがふくまれているせいです。くだものに特有のビタミンCは意外に少なく、みかんは一〇〇グラム中にビタミンC三〇〜四〇ミリグラムなのに、りんごは五ミリグラム(大人一日のビタミンC必要量は六〇ミリグラム)程度で、りんごからビタミンCを摂ることは、それほど期待できません。もし、ことわざの因果関係をもとめるとなると、りんごにふくまれるペクチンに、その役割が期待できそうです。りんごには約一パーセント内外の可溶性ペクチンが含有されていて、これは多糖類と呼ばれる炭水化物の一種で、野菜の繊維と同じように腸の運動に刺激を与えて、整腸作用を行います。
りんごジャム、りんごゼリーを作るときに大切な役目をもっているペクチンは、腸壁にゼリー状の膜をはって、わるい食物の吸収を防いだり、腸内の異常発酵を妨げるので、急性腸カタルなどにりんご療法がすすめられるわけで、ペクチンは皮の部分に多いので、すりおろすときは、皮ごとのほうがよい──と言われる|ゆえん《ヽヽヽ》です。
ご婦人方に多い便秘は美容の大敵であるばかりか、気分的にもイライラのもとで、精神衛生上よくありません。とりわけ、妊娠中の便秘は|つわり《ヽヽヽ》をひどくします。こうした便秘を防ぐには、適当な運動も必要ですが、それ以上に食事面の心くばりが大切で、朝起きぬけにコップ一杯の冷水や牛乳を飲むとか、繊維質の多い野菜を摂るとか、油や酸っぱいもの(ヨーグルトや乳酸飲料)を摂ると、腸の働きをよくし、便通を整えます。
手軽な方法と言えば、りんごを食べるのがいちばんで、レモンなどの柑橘類《かんきつるい》やうり類も効果的。手ごろな値段で買えるくだもの類を生活必需品として、ふだんの食生活に摂り入れたいものです。
丈夫で、かわいい赤ちゃんを生みたかったら、おかあさんの健康がまず第一で、それにはりんごをはじめ、新鮮なくだものをバランスよく摂ることが、どうしても必要となってきます。
子を近く呼び寄せてより林檎《りんご》剥く 秀子
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[#小見出し] 糠味噌女房《ぬかみそにようぼう》[#「糠味噌女房《ぬかみそにようぼう》」はゴシック体]
糠味噌女房とは、ぬかみその手入れに代表される家事を取り仕切る妻の、内助の功を謙遜して言い表したことばです。中国にも「糟糠《そうこう》の妻《つま》」といった表現があり、多少ニュアンスは異なるものの、同じような意味をもったことばと言えましょう。
昔はどこの家にも先祖から伝えられたぬかみそがありました。虚子の句にも、「沢庵《たくあん》や家の掟《おきて》の塩加減」といった秀句があり、おばあさんからおかあさんへ、おかあさんからむすめへと家伝の味が引き継がれてきました。質素な一汁一菜の食生活の中で、ぬかみそ漬けの占める位置は高く、「漬物賞《つけものほ》めれば嬶賞《かかほ》める」ということわざもあるくらいで、現代人が考えるより「糠味噌女房」と呼ばれるのは、名誉なことだったようです。
「ぬかみそくささ」というのと、モダンリビングのイメージが合わない──とでも言うのでしょう、あのにおいがなんともがまんができないと、手づくりのぬかみそを敬遠する家庭が増え、よしんばぬかみそを作ったにせよ、漬けものの出し入れ、攪拌《かくはん》に菜箸やゴム手袋を使うという若い奥様もいる当世。にもかかわらず、色よく漬かったなすや古漬けの大根にかぎりない魅力を感じるのは、日本人の通有性と言うものではないでしょうか。ぬかみそは確かに日本の家庭のなにかを象徴しているところがあり、そこが、ただぬかみそくささゆえに捨て切れぬゆえんであろうと思われます。
お香々、香のもの──とも言われるように、独特の香りのよさが、ぬかみそ漬けのうまさの根源でありましょう。この風味は、米のめしと日本茶を好む日本人には、まさに泣きどころと申すべき味覚にちがいありません。これは塩とぬかで作られるぬか床が、食用微生物の細菌や酵母の繁殖によって熟成し、酸やアルコールを生じ、それが芳香エステルに変化して、漬けこまれた材料に香りのよさを移します。また、ぬかの中にふくまれるたんぱく質を分解してアミノ酸とし、その味のよさが材料に浸み込むわけです。それに加えて、季節の野菜の彩りの美しさ、歯ごたえも断ちがたい魅力の一つです。
とは言え、ぬかみそはなんと舞台裏の苦労の多い漬けものでしょう。ぬか床の熟成の主役となる乳酸菌は、かなりの気むずかし屋。常にぬか床は乳酸菌の発育に必要な環境をととのえるよう、心づかいが大切です。これを怠ると、ぬか床の中の乳酸菌と酪酸菌、酵母、雑菌などのバランスがくずれ、酸味が強くなりすぎたり、例のぬかみそくさいと言われる悪臭を放つようになってしまいます。
ともかく、マメにかき混ぜること、清潔に保つことが絶対に必要で、文字通り、ぬか床に手を入れ、手入れを怠らぬことが、不可欠の条件です。
ぬかみそ作りとは、それほど、気配りと心づかいを要求される仕事なのです。ぬかみその味は、その家の主婦の人柄を示すもの──という評価は、あながち言い過ぎではありません。
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[#小見出し] 咽喉元過《のどもとす》ぎれば熱《あつ》さ忘《わす》れる[#「咽喉元過《のどもとす》ぎれば熱《あつ》さ忘《わす》れる」はゴシック体]
子どものころ、このことわざは耳にタコができるほど、母から聞かされました。熱いものも飲み込んでしまえば、熱さを忘れてしまうことから、苦しいことも、それが過ぎると簡単に忘れてしまうことのたとえであることは、ご存知の通りですが、母は人から受けた恩義を忘れてはいけない戒めに、よく口にしました。
『日蓮録外書』に、
「世俗の譬《たとへ》に咽喉過ぎぬれば熱さ忘れ、病|癒《い》えぬれば医師忘るといふならん」
また、近松の浄瑠璃『源氏冷泉節』下にも、
「咽喉元すぎて熱さ忘るるとはこの事。おのれが口から法眼を慈悲心なしとは畜生め。五年以前を忘れたか」
といった使い方をしています。思えば、古くからなじまれてきたことわざです。母が訓《さと》したように、古くは、やはり、苦しい時に受けた恩を楽になって忘れる──という意味に使っていたようです。でも、考えようによっては、こういう心理のあることは、実は人間にとってはまことにありがたいことで、一種の精神衛生法になっていると言えます。もしも人間が一度味わった苦しいことを、いつまでも忘れることができないとしたら、どんなにやり切れないことでしょう。人間は苦しみの記憶を忘れることができるために、救われているのです。とは言っても、その苦しかったことをケロッと忘れてしまっては困ります。このことわざには、そうした教訓も含まれているようです。
凍《い》てつくような寒さの日には、フウフウ吹きながら冷まして飲むほどの熱い茶が欲しくなります。こんなとき、慌《あわ》てて熱い茶をガブ飲みすると、唇や口に火傷《やけど》を負うことがあります。
飲食物は広い口の中から狭いノドへと運ばれ、食道の入口は、ちょうど漏斗《じようご》のようになっていて、口の中へ熱いものが入ると、無意識に食道の入り口の迷走神経がはたらいて、「スワ、お家の大事!」と、食道入り口を瞬間にして閉《し》めます。通せんぼされた熱い飲食物は、口中を右往左往、必死になって冷まそうとはかります。熱いのなんの、その苦しみは耐えがたい。しかし、食道入り口の筋肉の緊張は、そう長くはつづきません。やがて熱い飲食物が、ノドを通ってしまいますと、熱さによる苦痛は、ケロッと消えてなくなります。
では、一体、どの程度の熱さだと危険か、お湯で試してみますと、五〇度くらいなら、ガブ飲みしても大丈夫。これが六〇度になりますと、唇には熱いものの、口の中にひろがると、さのみ熱くはありません。かと言って、ガブ飲みは危険。ところが湯の温度が七〇度となると、フウフウ吹きながら、少しずつすすらないと飲めません。こういう熱いものを、うっかり急いで飲み込みますと、口中やノドに炎症を起こす|もと《ヽヽ》になります。あとまで痛みが残るようでしたら、次亜硝酸|蒼鉛《そうえん》の舌下錠《ぜつかじよう》を少しずつ唾液で溶かして飲み込むとよいでしょう。
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[#小見出し] 箸《はし》の上《あ》げ下《おろ》し[#「箸《はし》の上《あ》げ下《おろ》し」はゴシック体]
「箸の上げ下しにも文句を言う」「箸の上げ下しにも小言を言う」とも言います。「箸の上げ下し」とは、一挙一動のことで、細かいことに口やかましく小言を言うときのたとえとして使われます。
このようなたとえにどうして箸が登場するのか──その淵源《えんげん》をたどってみますと、日本料理が箸食文化と密接なつながりをもって発達したからだと思います。耶馬台国論争の口火となった三世紀ごろの『魏志倭人伝《ぎしわじんでん》』には、倭人が手食する姿を記し、七世紀ごろの『隋書倭国伝』にも、まだ倭国のひとびとは槲《かしわ》の葉を器に手食している──ということで、わたくしたちの先祖が箸を使いはじめたのは、ようやく七世紀後半に入ってからです。
もちろん、当初の箸は、今日のような細長い一膳箸ではなく、いわゆるピンセットのような形をした箸でした。江戸時代中期の学者新井白石の著わした語学書『東雅《とうが》』に、
「古の時に、箸竹幾株などいひしは、今の如く二筋をもて一前などいひし如くにはあらず。細く削成したる一筋を、中より屈めて、その両端を対して食を取りたる也」
と、記されているとおりで、事実、正倉院御物の「鉗《けん》」と呼ばれる箸は、ピンセット型の箸です。平安時代に入って、ようやく一膳箸を使いはじめました。『今昔物語』に登場する三条の中納言殿の使う貴族の箸は、おそらく金属で作られた一膳箸で、名僧|増賀《ぞうが》上人が労働者たちと道端で共に使った箸は、木の枝を折った一膳箸でした。
それ以来一三〇〇年、日本人の食生活に与えた箸の影響は大きく、調理・食器・配膳・作法など、食生活すべてにわたって箸を使う食事文化体系、すなわち箸食文化を形成してきました。日本人は、箸で食べやすいように箸を使いやすいように、調理(魚肉などを割《さ》いて切り、箸でつかみやすいような大きさにする包丁文化)、食器(手に持ちやすく箸で口に運びやすくしようとする椀型文化)、配膳(箸運びに便利なような食器の配列)、マナー(箸の使い方が基本)を工夫し、それぞれの分野で箸中心の日本料理文化を発達させました。まさに箸は日本の食文化の原点と言えましょう。とりわけ、箸使いは食事作法の根本として、それはそれはきびしくしつけられたものです。戦後は海外の食文化が移入され、学校給食などでも先割れスプーンなどというキテレツな食器具が使われ、箸食文化はややもすると、敬遠され、崩壊の危機すら予感され、箸の上げ下し──などということばも余り耳にしなくなりました。それにともなって、箸使いのマナーも無視されがちな昨今です。
「箸と主とは太いがよい」「箸に当たり棒に当たり」「箸に目鼻をつけても男は男」「箸にも棒にもかからぬ」「箸の転んだもおかしい」「箸で挟み合うと仲悪くなる」「箸で飯茶碗を叩くと餓鬼が来る」「箸を粗末にすると口が痛くなる」……といった箸にまつわるこうしたたとえも次第に通じなくなる時代がすでに来ています。
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[#小見出し] 初物《はつもの》七十五日《しちじゆうごにち》[#「初物《はつもの》七十五日《しちじゆうごにち》」はゴシック体]
初物──と言えば、その季節になって、初めてできた穀物・野菜・果物など、あるいは盛りの季節に先がけてとれたはしりの魚類などであることは、ご存知の通りです。
「初物を食えば七十五日寿命が延びる」とか、「初物を食えば七十五日長生きする」といった言い方もします。そのようなことから「初物七十五日」のことわざも生まれました。
こうした初物信仰はいったいいつごろから始まったものか、起源ははっきりしませんが、西鶴の『日本永代蔵《につぽんえいたいぐら》』二ノ一に、すでに登場しています。
「其年明けて夏になり、東寺あたりの里人、茄子《なすび》の初生《はつなり》を目籠に入れて売り来たるを、七十五日の齢《よはひ》これたのしみの一つは二文、二つは三文に値段を定め、何れか二つ取らぬ仁《ひと》はなし」
初物は、野菜や果物を例にとれば、いかにも瑞々《みずみず》しく、生気に充《み》ちています。それゆえ、これを食べれば、その生気を取り入れることになり、寿命を延ばすことができると考えたのでしょう。ビニール栽培で野菜などの季節感がなくなった現在では、初物に対するよろこびは薄れてきていますが、昔は物によっては一年待たねば対面できないものも多く、それだけに感激も一入《ひとしお》だったでしょう。
ところで「七十五日」についてですが、「人の噂《うわさ》も七十五日」「蕎麦《そば》七十五日」ということわざがあるかと思えば、嫁や養子に行った当座は、優遇されることを言った「七十五日は金《かね》の手洗い」というのもあります。こうしてみると、七十五日は手ごろな日数であり、語呂がよいところから用いられたもので、特別な意味はなかったようです。
初物好きの日本人の性向を物語る恰好の例と言えば、江戸の人たちの「初鰹《はつがつお》」好きが挙げられます。もちろん、初鰹ばかりでなく、初売りの野菜や果物にも、江戸の人たちは大金を払ったようです。それと言うのも、江戸の都市生活が豪奢《ごうしや》になり、町人の経済力も向上するにつれて、遠く離れた土地の名産品やはしりの食べものにも、金に糸目をつけず、法外な値段をつけるのを誇りとする風潮が生まれていたからです。寛文八年(一六六八)、幕府は、魚、野菜、果物など、種類ごとに売り出しの時期を法令で定めました。これは商人の暴利を取り締まり、インフレ予防の経済政策の一つとしてなされたものですが、一方では奢侈《しやし》取り締まりの目的もありました。こうした町触《まちぶ》れも当座は効き目があったものの、なしくずしに統制がゆるみ、江戸っ子たちの、季節はずれのものに、大金を投じて自己満足する「初物食い」は、間もなく元へもどりました。
初物|漁《あさ》りが、いかに盛んであったか、享保十五年(一七三〇)板の『料理綱目調味抄《りようりこうもくちようみしよう》』に、
「饗応の法第一時節相応なるべし。初物など云ても余り時節の至らざる物用捨あるべし」(第一巻、凡例の部より)と、書かれていることでも察しがつき、世間の初物漁りが苦々しく思えるほど盛んであったことを物語って余りあります。
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[#小見出し] 春《はる》の料理《りようり》には苦味《にがみ》を盛《も》れ[#「春《はる》の料理《りようり》には苦味《にがみ》を盛《も》れ」はゴシック体]
雪国にもようやく遅い春が巡ってくると、山野の雪もいつしか消え、野にも山にも一面青さが増してきます。
そのころの季節、出羽路を旅しますと、朝市に採りたてのこごみ、ぜんまい、わらび、うど、たらのめ、みず、ふきといった山野の幸が並んでいます。雪国のひとびとにとって、これらは、春の息吹を伝えてくれる季節の使者。食卓にのせ、舌で味わうことによって、春をほのぼのと実感するのです。
ふきやうどをはじめ、長い冬の寒さに耐えて芽を出す山野草は、どれもこれも、みずからの生命力を誇示するかのように、特有のえぐ味や苦味をもっています。
明治の食養家、石塚左玄は、日本人の体質や風土に合った食物の摂《と》り方として、
春苦味夏は酢の物秋辛味 冬は油と合点して食へ
といった道歌をのこしています。この歌は、季節ごとに出回るものを食べろ、それが自然とともに生きる人間の生理にかなった健康食になると、主張しています。
季節ごとの食べもの、いわばしゅんものと、からだの関係はどうなっているのでしょうか。
春、私たちのからだは、冬の間に蓄えられた脂肪分を徐々に体外に排出しつつ、夏の暑さに耐える準備をしなければなりません。それには野菜類をとるのが効果的ですが、この時季に出回るふき、せり、よもぎ、うど、よめななどは総じて苦味やえぐ味など、いわゆる|あく《ヽヽ》の強いものが多く、石塚左玄のいう苦味を摂っていることになります。
夏、暑さをしのぎ、衰えがちな食欲をひきだすには、酸味のあるものがよいと言うのは、ご存知の通りです。夏場においしいきゅうりやトマトなどは、多少の酸味を含んでいます。
秋、夏の暑さでバテたからだに刺激を与えるとともに、来たるべき冬に向けて、脂肪分を徐々に摂り込む時期です。食欲が進む季節ではありますが、ピリッとした辛みは、さらに食欲の増進に効果的。秋に出回るしょうがやとうがらしを食することは、理にかなったことといえます。
冬、寒さに耐えるには、脂肪分が必要です。寒ブリに代表される、脂の乗りきったしゅんの魚を食卓にのせることが大事だという主張もうなずけます。
石塚左玄の説を待つまでもなく、しゅんものと人間のからだの生理は、実に見事な因果関係を保っていることがお分りいただけると思います。こうした原理を、昔のひとびとは体験的に承知していて、「春の料理には苦味を盛れ」と教えました。茶懐石や食養法では、単に季節のものを尊ぶばかりでなく、持ち味の充実した、鮮度のいいしゅんものを選びます。時季はずれや珍しいだけの初物には、それほど評価を与えず、むしろ避けているくらいです。
苦味をともなう春の山野草は、慣れないと、その|あく《ヽヽ》の強さから食べにくいかもしれません。しかし、この|あく《ヽヽ》こそ、山野草のもつ個性味というものです。その苦味を生かしつつ、いかにしておいしく食べるかに、醍醐味があると言えます。
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[#小見出し] 番茶《ばんちや》梅干《うめぼ》し医者《いしや》いらず[#「番茶《ばんちや》梅干《うめぼ》し医者《いしや》いらず」はゴシック体]
同じ日本茶でも、玉露・煎茶・番茶・抹茶と、種類によって、茶の友となるお茶請《ちやう》けもさまざま。出張みやげの京の干菓子などは抹茶が向き、柿の種や草加せんべいなどは、熱々の番茶がふさわしい。羊羹や栗鹿の子などは、どちらかと言えば玉露や煎茶が相性がよい。梅干しはふしぎと番茶と食味がよく合っていて、昔から愛用されてきました。この恰好な出会いものを毎日|嗜《たしな》むことによって、医者のお世話にならずに、健やかに過ごせる──というのが、ことわざの意味。
ご存知のように、梅干しには多量のクエン酸が含まれ、胃の中で強い酸性反応を起こして病原菌を殺し、腸内の腐敗発酵を防ぎます。気候が高温多湿になりますと、食べ物は細菌の繁殖には、まことに好都合な培養基になりますので、梅雨から夏場にかけては、食べ物から起こる伝染病や食中毒の多発しやすい時季。こんなときに、毎日、番茶相手に梅干しを食べていますと、病気の予防に大いに役立ちます。コレラの予防に梅干しのよいことは、昔からよく知られ、また、梅干しをお櫃《ひつ》やお弁当の中に入れておけば、ごはんの腐る心配はありません。
梅干しのクエン酸は、ブドウ糖とともに、わたくしたちの生活に欠かせぬエネルギー源。しかもクエン酸が体内にありますと、疲労物質と言われる乳酸ができないので、ブドウ糖は一〇倍もの効力を発揮します。従って、梅干しは疲労回復はもとより活力を体内に蓄積する働きもあります。
このほか、梅干しにはまだまだたくさんの効用があります。どなたも梅干しと聞いただけで唾液を催します。それほど梅干しは唾液腺の刺激剤として有効で、昔、侍たちは合戦の際、必ず梅干しを携行して、「息合《いきあい》の薬《くすり》」としました。槍や刀を振り回すとき、息切れしないように、息を調《ととの》えるのに用いたもので、米の粉と氷砂糖の粉末と梅干しの肉で練ったもので、唾液を催すための薬だったわけです。唾液の中のパロチンは、近来、老化防止、若返りのホルモンとして知られています。また、梅干しはカルシウムの吸収をよくしますので、妊婦の健康維待には欠かせません。梅干しは血液中に入るとアルカリ性になり、血液をきれいにして循環をよくし、高血圧や動脈硬化の予防、二日酔い、乗物酔いなどにも効き目があります。こうした働き以外に、梅干しは、熱を吸収する力があって、歯の痛いときには頬に、頭痛や軽いめまいがするときには、こめかみに貼ると治ります。なお、梅干しの種をくだいて仁を取り出し、ハチミツや氷砂糖を入れ、水を加えて煎じて飲むと、百日咳、小児ゼンソクに特効があると言われますし、梅肉エキスは食あたり、下痢、熱冷まし、夏の疲れなどに有効です。
夏場、気温と湿気が上がって不快指数が高まってきますと、体がだるくなり、体内の代謝は低下し、消化能力は落ち、食欲不振になります。梅干しの酸味は消化器の神経を刺激するので、食欲をそそり、消化を助ける働きがあります。
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[#小見出し] ビールの注《つ》ぎ足《た》しは禁物《きんもつ》[#「ビールの注《つ》ぎ足《た》しは禁物《きんもつ》」はゴシック体]
ビヤホールやドイツ風レストランで、ゆで上がったばかりのフランクフルト・ソーセージに芥子をつけて齧《か》じりながら、ジョッキの生ビールをグイッと傾ける。二杯目ぐらいから気持ちも和んできて、隣りにすわった見ず知らずの女性とも、いつの間にかおしゃべりがはじまってしまいます。ビールに限っては、着実に男女同権が進行しています。
「大衆のアルコール飲料の革命が起きつつあるって感じですね。軽アルコール時代なんですよ。ビールは南京豆とかチーズとか軽いおつまみですむ。そういう点で軽風俗時代にマッチした飲みものと言えるんじゃないですか」
と、専門家は分析していますが、要は世の中が落ち着き、暮し向きがよくなったせいでしょう。日本のビールの歴史は、一〇〇年そこそこですが、量はともかく、味は世界的水準に達したと言われます。ですが、いくら味が上等になっても、飲み方次第で、下級品並みになることもあります。つまり、うまい飲み方というのがあるのです。
まず、ビールの生命は新鮮な風味です。なるべく早いうちに飲んでしまうこと。買いだめは、わざわざ味を悪くするようなものです。ビールの本場ドイツでは、子どもがビンを持って、毎日その日の分だけ買いに行きます。
ビールは静かに飲むべきもの。動かすとガスが逃げるし、泡が荒れます。飲みごろの温度は夏は摂氏六〜八度、冬は八〜一〇度。冷やし過ぎると濁って、味がグンと落ちます。汚れたコップは禁物。洗剤できれいに脂肪分を落とし、ふきんを使わずに水をきります。脂肪が付いていると泡が消えるし、気が抜けます。コップもしばらく冷やしておくとよいでしょう。
ビールはノドで味わうもの。ひと息に飲み干し、ノドをとおる感じを楽しむのが本格的な飲み方です。注《つ》ぎ方にだってコツがあります。なるべく空気がコップに入らないように、いくぶん高いところから、ゆっくり注ぎます。最初の泡は、いわゆるあぶくで粒の大きなものですから、これが消え、次にできたキメの細かい、こってりとした泡が、炭酸ガスのふたの役目をします。泡は全体の一〇分の一くらいがよいとされています。このように気をつけて注いでも、気温が高いとよい泡ができない場合があります。粒の大きい泡がたくさんできて、すぐ消えてしまいます。
日本酒の習慣が抜けないのか、どんどん勧めるのがサービスと思っているのか、あるいはさっさと飲ませて早くご帰館を願うという魂胆《こんたん》なのか、まだコップの中にビールが残っているのに、注ぎ足す人が多いようです。中にはひと口飲むたびに注いで、いつもいっぱいにしてやるのが礼儀と思っている人も少なくないようですが、これはせっかくのビールを台なしにしてしまう困ったエチケットなのです。注ぎ足しをすると、ビールが動揺してぬるくなり、炭酸ガスが一度に逃げてしまうのです。これでは、いくら上手に、よい泡を立てても、ビール独特の清涼感を味わうことはできません。ドイツでは、絶対に注ぎ足ししないのが常識になっています。
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[#小見出し] ビールは液体《えきたい》のパン[#「ビールは液体《えきたい》のパン」はゴシック体]
太陽がカッと照りつける夏ともなれば、ビールも最高潮のシーズンに入ります。灯ともしごろ、都心の盛り場のビヤホールをのぞくと、サラリーマン、OL、学生、奥さん……あらゆる人種で、ホールはムンムン。その中をかきわけるように無数のジョッキが飛《と》び交《か》い、水分の切れた何万人のノドを真白な泡と琥珀《こはく》色の液体が一気に通過して行きます。ビヤホールにかぎらず、すべての宴会、会食は言うまでもなく、海にも山にも、空にさえビールはついて回ります。家庭の夕餉《ゆうげ》の食卓はむろんのこと、いっさいの乗り物の中にすらビールは欠かせぬものとなっています。
最近、目立つのは女性のビール党が多くなったことで、ビヤホールへ行くと、若いご婦人方を数多く見かけます。
この辺で、ちょっとビールの歴史を手短に紹介しますと、ビールが人類の前に姿を現わしたのが、今からざっと七〇〇〇年前。バビロニアにはビール酒場の遺跡がありますし、四〇〇〇年前のハムラビ法典には、ビール代支払いについての法律までのっていますし、古代エジプト人は、給料やボーナスをビールでもらいました。東洋でも二〇〇〇年前の歴史を記した『後漢書』に「麦の酒」の文字が見られます。その後、ビール作りはヨーロッパで盛んになり、十三世紀までは僧院のお坊さんがビール醸造の専門家でした。ホップが使われるようになったのも、この時代からです。
日本に初めてビールを伝えたのは、江戸時代にやってきたオランダ人のようです。蘭学の権威杉田玄白(一七三三〜一八一七年)の『和蘭医事問答』には、「酒は麦にても作り申候。名をビイルと申候」とあります。日本製がお目見得したのは、明治五、六年ごろ。横浜でアメリカ人が醸造したのが初めです。日本のビールの歴史は、たかだか一一〇年ですが、消費量、産額はともかく、味は世界的水準に達したと言われます。
ドイツでは「ビールは液体のパン」──と言って、ビールの栄養価が高いことは、昔から定評があり、酒と言うよりも、飲み物というイメージで愛されてきました。病人に飲ませたり、悪疫予防のため、水がわりに航海中の船に積み込まれたり、その医学的な価値を裏付ける話は数限りなくあります。ビールの中には、アミノ酸が含まれているし、ビタミンB1、B2、B6などがあるほか、ミネラルも含まれているので、ノドの渇きをいやして、ホロ酔い機嫌にしてくれるばかりか、結構な栄養の補給源にもなります。アルコール分は少ないし、ビールは「誰にでも愛される、誰もが楽しくなる、健康的な飲み物」と言えましょう。一方、「ビール腹」「ビヤ樽みたい」などと言い、ビールを飲むと太るからイヤ──と言う人がいますが、それは一つの形容で、医学的な直接の根拠はなにもありません。
かるくのどうるほすビール欲しきとき 汀子
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[#小見出し] ビールは肴《さかな》いらず[#「ビールは肴《さかな》いらず」はゴシック体]
梅雨があけた青い空に、綿菓子を思わせるような入道雲が姿を見せると、いよいよビールの季節がやって来たことを実感させます。ジョッキから、こんもりと白く、やわらかな泡の盛り上がった生ビールの広告を見れば、ビール党ならずとも、思わず飲んでみたくなります。大ジョッキの生ビールがどんどん運ばれていくビヤホールの光景は、実に壮観。家庭でも湯上がりに浴衣がけ、縁側に腰をおろし、枝豆のおつまみに飲むビールは最高。
ビールのおつまみと言えば、塩を振ったゆでたての枝豆が時節柄よろこばれますが、それも意味のあること。ビールは、その酔いを楽しむ前に、なによりもピリッとしたホップの苦みと、ノドを通って行く冷たさを味わうものですから、いっしょに食べるおつまみや食べ物に気を使いたいものです。
ビールには、ノドの渇きを誘う塩辛いおつまみが相性のよいもの。ビアホールで出てくる枝豆に、もし塩味がなかったとしたら、さのみおいしいとは感じません。お酒の肴は、悪酔い防止を第一の目的にしているのですから、悪酔いしないビールには、おつまみは強いて必要としません。悪酔い防止には、メチオニン(アミノ酸の一種)やビタミンB類が必要です。この点、ビールはホップを使う関係上、ビタミンB類が豊富で、それにメチオニンと関係のあるコリン(ビタミンの一種)すら含んでいます。
それゆえ、ビールには、極端に言えばノドの渇きを誘うものさえ添えておけばよいので、なんらおつまみの心配はいらないということになります。お好きなものを召し上がっていればよいのです。野菜を例にとっても、凝《こ》ったドレッシングで食べるよりも、軽く塩もみしたり、塩やマヨネーズをつけて食べるほうが、ビールのおいしさを引き立ててくれます。
こういうふうに、塩味のものは、なんでもビールのおつまみになります。イクラやタラコなどの海の魚の卵とか、燻製《くんせい》やナッツ類などは、もともと塩分があるのですから、ビールとの相性がよいわけです。
塩を振っただけでは味気ないという人は、きゅうりやチーズなどをスティック状にして、浅草ノリを巻いたりしても、適度の塩味がまざって、しゃれたおつまみになります。ピクルスなどの酸っぱ味をもったものもビールとは相性がよく、カレー粉の辛さもピッタリします。
中国の知人の話では、レストランなどでは「泡菜《パオサイ》」という生のキャベツやきゅうりを酢と唐がらしと水でつけた漬けものを出し、家庭での簡単なおつまみは、豚肉を塩味でゆでて、スライスし、芥子を加えたソースをつけて食べたり、熱湯をとおした豆腐を、しょうゆ、ねぎ、ごま油で作ったタレをつけて食べたりするそうです。紅焼黄魚《コンフオフアンユイ》は切り身の黄魚(イシモチ)を唐がらし、ねぎ、しょうゆ、砂糖、酢で煮込んだもので、やはり、ビールのおつまみにされるそうで、「辛くて少し酸っぱ味のあるものがビールに大変フィットします」とつけ加えました。
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[#小見出し] 人《ひと》の牛蒡《ごぼう》で法事《ほうじ》する[#「人《ひと》の牛蒡《ごぼう》で法事《ほうじ》する」はゴシック体]
人さまが持って来たごぼうで精進料理を作り、法事(追善供養のための仏事)の振舞いをすることが、事実背景にあったので、ひとびとの共感を呼び、今日まで言い伝えられて来たのでしょう。一度くらいなら許せるとしても、二度三度とこうした仕打ちが重なれば、それこそ仏の顔も三度、腹立たしくなるのは人情というものです。昔の日本のムラ社会のつきあいの中で、かかる仕打ちにしばしば出遭い、いまいましい思いに舌打ちしているさまが眼に浮かぶようなことわざです。もし、ことわざが「ひとりが言い出し、ふたりでうなずき、千人が使い、万人がなるほどと受け取って、長い年月、多くの人々の間に生きて来た教え・戒め・あてこすりなどをふくんだ短い文句」だとすれば、このことわざ、どちらかと言えば、|あてこすり《ヽヽヽヽヽ》の色合いの濃いたとえと言えましょう。
今でこそ、法事の振舞いは、ホテルや料亭ですることが当り前のようになっていますが、わたくしたちの子ども時分には、大方それぞれの自宅で執り行うのが常でした。隣り近所の料理自慢のおばちゃん連中が集まって来て、煮染めを作ったり、けんちん汁を仕込んだり、精進揚げを揚げたり、それぞれ役割分担が決まっていて、手助けをして、もてなしたものです。回り持ちでお手伝いしているうちに、若い嫁さんたちも、腕自慢、舌自慢の年輩者から、いつしか自然と調理のコツを体得して行ったのです。
客寄せのある物日《ものび》には、その地方で穫れる野菜類が数多く利用され、ごぼうなどは精進料理に欠かせぬ素材でした。「金平牛蒡」は毎度おなじみの一品で、地方によっては、日常のお茶請けにもされる常備菜で、歯切れよく作る家、やわらかに仕上げる家と、「金平牛蒡」にも、それぞれの家風がありました。けんちん汁にも、ごぼうはなくてはならぬもので、大根、にんじんなどといっしょに千切りにして、水にさらし、こんにゃくをちぎり、豆腐はゆでて水気をしぼり、油で炒めて、だし汁、塩、しょうゆで煮ました。土地によって、材料は必ずしも一定していないものの、豆腐とごぼうは必ず入ります。
お正月の三種肴の一品に「開き牛蒡」(あるいは叩き牛蒡)が、必ずと言ってよいほど、添えられますが、ごぼうは、根が地中に奥深く入るという意味で、その家の基《もと》がしっかり大地に食い込み、堅固になることを願い、また、運の開ける縁起物として尊ばれてきました。
現在ではごぼうの栽培は減少傾向にありますが、江戸時代には大切な野菜で、貝原益軒もその著書『大和《やまと》本草《ほんぞう》』(一七〇八年)の中で、「本邦には菜中の上品とす」と、評価しているほどです。戦後、食生活の洋風化が進行するにつれ、サラダ向きでないごぼうは、食卓への出番が少なくなり、前述のように、法事の振舞いも自宅で行われなくなって、「人の牛蒡で法事する」ということわざも、だんだん分りにくくなっています。
底冷えの宿のきんぴら牛蒡かな 汀々子
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[#小見出し] 貧相《ひんそう》の重《かさ》ね食《ぐ》い[#「貧相《ひんそう》の重《かさ》ね食《ぐ》い」はゴシック体]
数多いことわざの中には、元来使われていたことばを、音の似通っていることから、全然別の文字を組み入れて、意味の異なるものに入れ換えてしまうケースがしばしばあります。さしずめ「痩法師《やせほうし》の酢好《すごの》み」などがそれで、昔から八瀬《やせ》(現在の京都市左京区)の寺では、酒の持ち込みをきびしく禁じていました。ところが数いる寺僧の中には、酒好きの者もいて、どうにもガマンできず、日ごと徳利を抱えて山門を出入りしていました。道で檀家《だんか》の人に遭い、「お手持ちの品は?」と聞かれると、「酢にて候」と答えていました。あまり足繁く徳利を抱えて通うので、いつしか人目につき、聞かれるたびに、同じように「酢にて候」と答えるので、「八瀬の法師は酢好みや」と評判が立つようになりました。昔の人は酢はからだによくないと考え、酢を飲めば痩せる──と、頑《かたく》なに信じていたので、いつの間にか「八瀬」を同音の「痩」に通わせるようになりました。事の真偽は別として、当時の庶民の生活感情にはピッタリで、ことわざの基本的な性格とされる共感性が、このことわざの言い換えを敢えて許したものと思われ、その共感性があるがゆえに、現代に生きるわたくしたちがことわざを介して、先祖たちの考え方や感じ方を共有できるわけです。
「貧相の重ね食い」も、元は「貧僧《ひんそう》の重《かさ》ね斎《どき》」だったようで、斎《とき》はお坊さんの食事のことでしたが、やがて寺で檀信徒に出す食事、また、法要のとき、檀家がお坊さんや参会者に供する食事の意味にも使われるようになりました。貧乏寺のお坊さんが同時に二軒の家から「斎」に招かれ、戸惑いを感じて、どうしようかと考えあぐねる。ふだん、粗食にあまんじているお坊さんが、ムリして二軒廻って御馳走にありつく。「重ね斎」は、二重に食事を摂《と》る意味です。転じて、腹を空かしている者が、偶然、一度にたくさんの御馳走にありつくことがある、貧乏していても、たまにはよいことが重なるときがあるものだ──というたとえに用いられました。貧しい暮しのお坊さんにかぎらず、そうした心理のアヤは、庶民の心情に大いに共感を呼んだので、「貧僧」が「貧相」に転じ、「斎」が「食い」に転じても、庶民の間に広く用いられるようになったのでしょう。
そうは言っても、飽食時代の今日、食うや食わずの極貧や、食糧難時代を体験したことのない若い世代のひとびとには、この「重ね斎」に出遭ったよろこびと、両立しがたい哀しみの心情の深さは、あるいはぴんと来ないかも知れません。
元の句の「貧僧の重ね斎」には、「せめて一日か半日ズレていたらよかったのに……」という無念さも読み取れます。無念さが読み取れるだけに、「貧僧」が「貧相」になっても、依然として共感を呼ぶ素地があったのでしょう。腹を空かしている者が、たまたま一度にたくさんの美食にありつけば、一度にガツガツ食べるのがオチで、「貧乏人の逸散食い」とは実に辛辣《しんらつ》な見方ですね。
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[#小見出し] 河豚食《ふぐく》う無分別食《むふんべつく》わぬ無分別《むふんべつ》[#「河豚食《ふぐく》う無分別食《むふんべつく》わぬ無分別《むふんべつ》」はゴシック体]
街に木枯しが吹きはじめるころになると、ふしぎとフグが食べたくなります。季節への義理──というものでしょう。フグは春から初夏へかけてが産卵期で、それ以前の十月から三月までが、いわゆる食べ頃のしゅんです。
日本近海で獲《と》れるフグは三〇種類近くありますが、このうちフグ料理用に使われるのはトラフグ、カラス(ガトラ)、マフグが主です。このほか、アカメフグ、ヒガンフグ、ショウサイフグなど、約一三種類が食用になります。
昔から「フグは食いたし命は惜しし」と言われるほど、フグの淡泊な味は捨てがたく、命を的にしてまで食用に供されたことはご存知のとおりです。このことわざもその間の消息をみごとに言い表わしたもので、「フグは食いたし命は惜しし」にくらべると、いささかもったいぶった表現になっているものの、言いたいことは同じです。
フグの味は古来魚類中最高のものとされていますが、また有毒なことも極めつきで、ともすれば中毒して、命を落とすものが絶えなかったので、こうした言い方、ことわざも生まれたのでしょう。新井白蛾の『牛馬問《ぎゆうばもん》』という随筆に、
「河豚は喰合《くひあはせ》の毒|甚《はなは》だ多し。又薬物《またやくぶつ》と敵す。此の魚を食ふ人は一日の中薬《うちくすり》を服すべからず。猥《みだり》に他物を食すべからず。腹中《ふくちゆう》の膵を西施《せいし》乳といふ。是は西施が美にして国を乱《みだ》す。此の魚の味美にして毒《どく》あるに比《ひ》するなるべし。※[#「魚+屯」、unicode9b68]の字を正《たゞし》とす」
と、見えております。古川柳ではこれを、
ふぐ汁の様なものだと妾を見
とやっています。フグは一名を鉄砲と言われ、北静廬の『梅園日記《ばいえんにつき》』に、
「江戸卑賤《えどひせん》の者河豚鉄砲といふは、あたれば即《すなは》ち命を失《うしな》ふとの意なるべし」
とあることによって、その意味がわかります。食用に供されるフグは、種類・部位・季節によって、それぞれの毒性が異なります。例えばトラフグの皮は食べられますが、マフグなどは皮が有毒であったり、珍重される精巣(シラコ)も、種類によって毒性のあるものがあります。しろうと料理でもっとも恐ろしいことは、フグはどれでも同じだと思って毒性のちがいを無視すること、皮や内臓を誤って食べてしまうことです。とりわけ肝臓(キモ)は、一匹で一〇人くらいの人を殺す毒量をもつものもあり、また、卵巣(マコ)は例外なく猛毒で、特に大型のマフグ一匹の肝臓と卵巣で三三人の人を殺すことができると言われるほどです。
テトロドトキシンを含む毒魚とは知りながら、「ふぐ食はぬ奴には見せな不二の山」、勇気を出して食べてしまえば、世の中にこんなうまいものがあったのか、食べぬ奴の気が知れぬ──と豪語したくもなる魅力。横井也有の俳文集『鶉衣』にも、
「鰒《ふぐ》とは先名《まづな》のふつゝかなり、いかに無比《むひ》の美味をそなへて、あやしき毒をもちたりけん、その味《あぢは》ひと毒の世《よ》にすぐれたれば、くふ人を無分別《むふんべつ》ともいひ、くわね人《ひと》を無分別ともいへり」
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[#小見出し] 武士《ぶし》は食《く》わねど高楊枝《たかようじ》[#「武士《ぶし》は食《く》わねど高楊枝《たかようじ》」はゴシック体]
あまりにも有名なことわざで、どなたもご存知の「上方いろはかるた」にも組み込まれています。武士は貧しい境遇にあっても、気位を高くもって、泰然としている。清貧に安んじて、じたばたしない。この場合は、食べなくても、食べたあとのようなふりをして空腹の様子を人に見せない──そんな素振り、心構えを言います。
東西九六枚の「いろはかるた」に武士が登場するのは、この一句だけで、「いろはかるた」が、町人のものだっただけにムリからぬ話です。このことわざ、高楊枝の|たか《ヽヽ》と語呂を合わせてでしょうか、「鷹《たか》は飢《う》えても穂《ほ》を摘《つ》まず」ということわざと組になって使われることがしばしばです。
ところで高楊枝の「高」は、高枕、高|鼾《いびき》、高下駄などのように高々と、あるいは十分にという内容がありますので、食事をしなくても、さも食事を済ませたように高々と楊枝をくわえて、ご満悦な顔をしているのでしょう。出典は『寝惚先生文集』で、原文は、
「昨夜ノ算用(勘定)立タズト言ヘドモ(払えないが)武士ハ食ハズモ高楊枝」
となっております。どうやらこれですと、開き直った遊び人のような武士だったようで、表面はお武家様などと立てられていても、つまるところは同じ弱い人間であることを、武士も町人も承知していたようです。そうなると、このことわざ、元はほんとうに腹が減っても高楊枝でいられた意志強固な、高潔な武士であったかどうか、いささか疑わしくなって来ます。『絵本いろは戒』の、
「武士は表を張り(形式を調えて)、貧乏にてもその顔をせず、勤《つとめ》を第一とする也」
という記述は、江戸後期のものですが、武家社会の屋台骨がおかしくなると、かえって建て前ばかりが強調され、やせ我慢の心構えまで説かれるようになったようです。
それはともかく、時代によって食事の作法も変化し、当節、食事のあとに楊枝を使う人は極めて少なくなりました。同じ食卓で、楊枝を使う人がいると気になるくらいです。使い方によれば、不潔な感じさえ与えかねません。しかし、武士はご飯を食べていなくても、ゆったりと楊枝を使って、食べたように構えていたというのですから、当時、楊枝を使うのは、現代よりも一般的であったのかも知れません。
詮索《せんさく》ついでに楊枝の歴史をひもとくと、楊枝で歯を掃除する習慣はインドで始まったと言われ、わが国には仏教と共に伝えられたらしく、平安時代には貴族やお坊さんの間で流行しました。当時の楊枝の長さは現在よりも長く、まるで木枯し紋次郎の使う楊枝のように一二〜一八センチほどもありました。やなぎ・くろもじ・もも・すぎ・たけなどで作られていました。これらの素材は噛むとよい香りがするので、邪気を払う効果があると信じられていました。
種類は総《ふさ》楊枝・平楊枝・山楊枝などがあり、総楊枝は、先を打ち砕いて、総のようになったもので、歯を磨くのに用いられました。
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[#小見出し] 豆息災《まめそくさい》は身《み》の宝《たから》[#「豆息災《まめそくさい》は身《み》の宝《たから》」はゴシック体]
枝豆にうけとるものや渋団扇 龍之介
暑さのつづく季節、ほどよく冷やしたビールのつまみにピッタリなのが枝豆。枝豆はご存知大豆の未熟なもので、青豆とも言い、関西ではあぜまめ、さやまめとも呼んでいます。それと言うのも、田の畔《あぜ》に植えられ、莢《さや》つきのまま食卓に供されるからです。
枝豆は緑黄野菜として極めて重要なもので、たんぱく質に富み、大豆に比べて成分含量が多く、風味もよく、栄養価も高い。ビタミンB1(〇・三ミリグラム)、B2(〇・〇七ミリグラム)、A(カロチンとして四〇〇単位)、C(四五ミリグラム)などが多く、ほかにB6、D、Eなども含まれています。このほか、ミネラル、カルシウム(九八ミリグラム)、鉄(三ミリグラム)が含まれています。
枝豆がビールのつまみに愛好されるのは、ビールと相性がよいからでしょうが、成分の上から言っても効果的で、B1、Cなどが多く含まれていて、アルコールの酸化を促すので、それだけ肝臓の負担が軽くなります。おまけにたんぱく質も多いので、アミノ酸のひとつであるメチオニンなどの量も多く、アルコールによる肝臓の負担は、いっそう軽減されます。その上、腎臓にはなんの負担もかけませんから、酒害を防ぐことにもなります。ビールは酸性食品であるのに対し、枝豆はアルカリ性食品。そんなわけで、枝豆のつまみは、すべての点で健康食品──と言うことができましょう。
このことわざは、ひとは健康がなによりの宝であることを言ったものですが、枝豆の例からもお分りのように、その成分や用途、形や性質から、いつのまにか豆(多くは大豆のこと)そのものが、健康とか息災、または健全を意味することばとして用いられるようになりました。古い本など見ますと、よく「健康」という字のわきに、「まめ」と振り仮名がしてあります。
大豆が健康に役立ち、体力づくりに欠かせないものであることを、昔のひとたちも体験的に知っていたらしく、
味噌豆は三里|往《い》っても戻って食え
味噌豆は三軒往って戻って食え
と、言い回しはややちがうものの、ほとんど全国的とも言えるほど、ことわざとして言い伝えられてきました。みそ豆は言うまでもなく、みそをつくるために大豆を水煮したもので、健康に役立つからと言って、もしみそ豆がまずかったとしたら、食卓にのぼることもなかったでしょうし、このようにもてはやされることもなかったでしょう。
以前はみそ豆を煮た日には、皿に盛って団子汁を添え、近所へ配る|ならわし《ヽヽヽヽ》がありました。これにはみそづくりを祝う意味もありましたが、三里往っても戻って食え──と言うのは、うまさを強調した表現であるとともに、食福にあやかれという意味もあったでしょう。
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[#小見出し] 豆《まめ》を煮《に》るときにビックリ水《みず》[#「豆《まめ》を煮《に》るときにビックリ水《みず》」はゴシック体]
豆を煮るときに、弱火でコトコトというより、強火でパッと煮立たせたところに水を入れて(ビックリ水と言います)、いったん温度を下げると、この間に豆が蒸れます。これを繰り返しますと、弱火で煮るより早く煮えます。ただし、豆の形をくずしたくないときは、弱火でじっくり煮ます。豆類は、たんぱく質や脂肪を豊富に含む栄養食品ですから、わが家の献立にも、ふんだんに摂り入れたいものです。
ひと口に豆と言っても、その種類はさまざまで、驚くほどたくさんの料理がありますが、ここでは煮豆に的《まと》をしぼって、そのコツをお話ししましょう。どんな煮方をするにしろ、煮豆には次のような共通したコツがあります。表題のことわざは、いわばそのひとつです。
まず第一はゴミなどをより出すこと──豆を水で洗って浮いたわらやゴミを取り除くことは、どなたでもしますが、豆には水で洗っただけでは取れない異物が混じっていることが多いもの。石や虫|食《く》い豆、ひねた豆などはうっかりしていると見逃しがちです。そういう豆は、いくら煮てもやわらかくなりません。そこで、まずお盆のような平たい器に豆を広げ、手で異物をより出します。
二番目に水によく漬けること──ゴミを取り除いた豆を水で洗い、豆の量の三倍の水に漬けて、水分を吸収させます。夏場でしたら、よく水気を吸うので半日ぐらい、冬場でしたら、一昼夜漬けておきます。よく水に漬けずに煮た豆は、水加減の足りないごはんのように芯《しん》のあるものになってしまいます。水に十分漬けることが、豆をやわらかく煮るためのコツです。
三番目に漬けた水で煮ること──水に漬けておいた豆は、漬け水のまま鍋に入れて煮ます。漬け水を捨てると、同時に豆のうまみを捨てることになります。急ぐ場合に、漬ける水に重曹を入れることがありますが、くさみが強いので、次のようにしてにおいを抜きます。漬け水のまま鍋に入れて火にかけ、強火で煮立たせ、ざるにあけて上から水をかけ、よく洗う。また、三倍量の水を加えて煮立たせ、水に取り急激に冷ます。これを三回ほど繰り返してから、弱火でゆっくり煮込みます。
四番目に弱火で時間をかけること──火加減もまた大切なコツ。煮立つまでは強火で、時々ビックリ水を与え、煮立ったら弱火で時間をかけて、豆が十分やわらかくなるまで煮ます。
煮汁が少なくなったときは、水または場を加えながら、やわらかくなるまで煮続けます。
最後に、厚手の鍋と落《お》とし蓋《ぶた》を用意すること──これは煮豆に限ったことではなく、煮もの全体に共通して言えることで、厚手の深鍋を使うのがいちばんです。薄手の鍋では、熱が平均して伝わりにくく、しかも強火にすると、こげやすく、火を止めたとき、冷めやすいので、蒸らしがうまくいきません。また、浅鍋ではすぐ吹きこぼれてしまいます。煮くずれを防ぐために、豆がおどらないように落とし蓋をして、上に軽い重石をのせて煮るようにします。
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[#小見出し] 味噌汁《みそしる》は医者殺《いしやごろ》し[#「味噌汁《みそしる》は医者殺《いしやごろ》し」はゴシック体]
みそ汁は栄養価が高く、毎日飲んでいれば健康が保たれ、病気にかかることが少ないので、お医者さんは商売上がったり、医者殺し──とは物騒な物言いですが、みそ造りの本場、信州辺りで言い継がれてきたと聞けば、ナルホドと納得がいきます。
ふっくらとよく炊けたごはん、適温の香りのいいみそ汁という組み合わせは、毎日食べても倦《あ》きないものです。ところが、みそ汁はごはんのうまみに割と無関心であると同じくらいに、馴《な》れっこになってしまい、ただ何となく惰性《だせい》で作っているという場合が多いように思われます。その結果、みそ汁はどうせまずいものだからということにもなるようです。もちろん、牛乳といっしょに摂《と》るパン食は、いろんな意味でよい食事ですが、ごはんとみそ汁は、作るのに手間がかかり、栄養料理にはならないというヘンな誤解から、みそ汁の影が薄くなってきています。
手許にある資料によると、みそ汁を毎日作っている世帯は、全国で昭和四十一年で七二・七%、うち農村部の農家では、その八二%の世帯がみそ汁を作っています。都市部の非農家でも、六八・七%の世帯が毎日みそ汁を作っていることになります。もっとも、都市部はもちろん農村部でも農家の数が減り、食事の洋風化がいちだんと進んだ現在、みそ汁を作る世帯はグンと減り、あるいは五割を割っているかも知れません。
以前、『暮しの手帖』がみそ汁の嗜好調査を行ったことがあり、それによると、二〇歳から四五歳の男女の好きな料理のうち、みそ汁は男性の好きな料理の一〇番目に出ていますが、女性では、好きな料理二〇種の中には入っていません。また、小学生男女と一三歳から二〇歳までのティーン・エイジャーの場合にも、みそ汁は好きな料理の中に入っていません。みそ汁は主食のごはんに付きものの副食と言えるものですから、必ずしも好きな料理として挙げにくいこともあるでしょう。それにしても、若い年齢層ほど、みそ汁の人気は低いようです。
ある朝のかなしき夢のさめぎはに 鼻に入り来し味噌を煮る香よ 石川啄木
一椀のみそ汁は食欲を刺激して、うまみと快い温度と適度の水分と、そして楽しみを与えてくれるものであり、同時に栄養も供給してくれるものです。みそ汁一椀からの栄養量は、三〇〜八〇カロリーと、たんぱく質三〜四グラム前後が摂れます。わずかではあっても、みそ汁はたんぱく質の幾分かを補給してくれると同時に、安くておいしく、効率のよい料理と言えましょう。しかし、このようなみそ汁も、基になるだしは言うまでもなく、中身とみそと上手な作り方と、タイミングのあった食べ方などが、ぴたりとあってこそ、初めてうまいと感じるものです。とりわけ、みそに実が入って、みそ汁は効果を上げるものです。海藻類にふくまれている豊富なビタミンとみそがふくんでいるリノール酸や、レシチン、植物性良質たんぱくなどが、互いに力を合わせて、みそ汁の値打ちを増しているのです。
味噌汁の香の何処より夜の秋 友二
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[#小見出し] みそ菜《な》三年《さんねん》[#「みそ菜《な》三年《さんねん》」はゴシック体]
飛騨地方に伝わることわざで、みそ菜は朴葉《ほおば》みそのこと。ことわざの意味は、朴葉みそを三年も食べ続ければ、どんな豊富な財産をも食いつぶしてしまうということ。
うたいてな ムジナ誘い出す朴葉味噌
飛騨産の風味高いねぎとみそ、そして朴葉の焼ける香ばしさは、ムジナさえ誘い出す、ああ「うたいてな」(ごちそうやな)。朴葉みそは高山では朝食のみそ汁代りに親しまれてきた焼きみそで、うまいので、ついつい釣り込まれてごはんをお代りするようになる、手堅く貯めた財産も、三年もすれば底をつくようになる──貧しい食生活の昔にあって、朴葉みそは身上つぶしのごちそうでした。とは言え、そう気取ったものではなく、あくまでも素朴な庶民の味です。
炭火の上か、炉の熱灰の上に朴の葉を敷いて、その上にみそを置き、油を少し加え、刻みねぎやきのこなどをまぜて焼きながら食べます。朴の葉の香りが、熱せられるとみそに浸《し》み込んで、実に野趣に富んだ飛騨の味覚です。土地の人の話によれば、
「樵《きこり》が昼めしに困るので、破子《わりご》と呼ばれる弁当箱に、めしと漬けもの、みそを入れて山に入った。焚火をしながら、朴の葉を金網代りにしてみそを焼き、漬けものを温めて食べたということです。みそさえうまけりゃ、おかずがなくても、めしを食い込んでしまうから、重宝がられたと思うんです」
朴というと、わたしなどはすぐ思い出すのは朴歯の高下駄で、特有の木の香りと、やわらかい木の温《ぬく》もりがよみがえってきます。朴の木は信州や飛騨にはたくさんあり、丈の高い木で三〇メートル以上にもなり、大きな葉とともに丈の高さで目立つ落葉喬木です。
飛騨では霜の降りたあと、自然に落ちた朴の葉を拾い集めて、塩水のタライに一日二日漬け込んで置き、その後、陰干しして石か板の重石で十日ほど圧《おさ》えて乾かすと、一年中|保《も》つのだそうです。
朴の葉は、朴葉みそ以外にも、土地の人たちによって朴葉ずし、朴葉もちなどに利用されています。朴葉ずしは、朴の葉を取り、洗って、まず広げて置きます。すしめしの具はにんじん、はす。これらの材料をこまかに切って、砂糖、しょうゆを入れて煮、次にすしめしを葉の半分に広げ、煮ておいたにんじんやはすをのせて、葉の半分を折って、鉢の中に重ねて入れ、軽く重石をして、一晩置きます。具はほかに、サケ、マス、サバなどの酢じめ、木の芽、ぜんまいやわらび、秋に採って塩漬けしておいたきのこ類なども使い、土地によって、さまざまな作り方があります。朴葉ずしは、初夏の香り高い朴葉のすがすがしさを生かしきった郷土の味覚と言えましょう。朴葉もちは八月ごろの盆もちとも言われ、青い朴葉につきたてのもちを包んだもので、一週間ぐらいは保つそうで、フライパンにのせて弱火で焼くと、葉がみごとに取れるし、香りや葉脈がもちにつき、見た目にきれいなもちになります。
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[#小見出し] 味噌豆《みそまめ》は七里帰《しちりかえ》っても食《く》え[#「味噌豆《みそまめ》は七里帰《しちりかえ》っても食《く》え」はゴシック体]
みそを作るために煮た温かい大豆は、うまくて栄養価値がある──ということで、七里(約二八キロ)も離れた遠い所から引き返してでも、食べる価値があるというもの。
大豆が栄養価の高い食品であることは、今更言うまでもありませんが、近ごろ、若いひとびとからは、だんだん疎遠になっているようです。しかし、値段も安く、質のよいたんぱく源として、大豆はごく一般的な栄養食品なのですから、再認識したいものです。
大豆はたんぱく質を一〇〜一七%も含有し、その性質は植物性たんぱく質中もっとも良質で、牛乳に似ていますので、一名植物カゼインと呼ばれます。大部分は水に溶けやすいたんぱく質で、しかも、みそにする大豆は丸大豆とちがって、たんぱく質が麹《こうじ》中の酵素の働きで分解されているため、消化吸収率は九五%以上にも高められています。また、肉をみそに漬けておくと、やわらかくなるように、みその中の酵素は他の食物の消化を助けます。また、みそのたんぱくには、米にはないリジン、メチオニンなどの必須アミノ酸が含まれています。殊《こと》に発育に必要なリジンを多量に含有していますので、米や麦の欠点を補うことになり、米の飯のおかずに、煮豆にしたりして食べることは、意義のあることです。また、大豆は、一八%内外の良質の油を含有していて、これを絞って精製し、天ぷら油にしたり、もっとよく精製してサラダ油にします。大豆の脂肪には約五四%のリノール酸とレシチンが含まれています。これは動脈硬化の一因と言われるコレステロールが血管の中に付着するのを防ぐ上に、肌をきれいにする働きもあります。
こうした大豆の栄養価値に注目して、わたくしたちの先祖は大豆をさまざまに加工調理して、食膳に供してきました。みそを始めとして、豆腐、納豆、しょうゆ、黄粉《きなこ》、豆乳、大豆油などがそれです。
大豆という理想的な栄養食品を、もっとも消化率高く利用できる食品は、ほかならぬ豆腐で、大豆に水を加えて摺《す》りつぶして作った「呉《ご》」を煮たたせたのち漉《こ》します。消化のわるい炭水化物をおからとして除いたあとが豆乳ですから、豆乳は大豆の中の栄養になる成分だけを溶かし出したものと考えてよく、見たところ牛乳に似ていますが、栄養分も牛乳に匹敵します。豆乳のたんぱく質には凝固作用がありますので、マグネシウムなどの塩類を補うと、豆腐ができます。
納豆の糸こまやかに風邪癒ゆる まり子
大豆製品の中、糸引き納豆だけは日本で製法を見出したもので、大体東北地方から関東地方に普及しています。納豆は大豆の形のままで、短時日のうちに加工されますので、栄養があまり減らず、その上に納豆菌の出す酵素で消化しやすい形に変わっています。また、食物の消化を助ける酵素が増して、ビタミンB1が特に多くなっています。
このように、みそ豆は七里帰っても食べるに価するうまさと栄養価を具《そな》えています。
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[#小見出し] 鵙《もず》 の 速《はや》 贄《にえ》[#「鵙《もず》 の 速《はや》 贄《にえ》」はゴシック体]
モズの捧げる初物の供物《くもつ》の意です。モズが秋に虫やカエルなどを捕えて、餌として木の枝に貫いておくもので、モズの奇習の一つとしてよく知られています。地方によっては、これを「百舌《もず》の串刺《くしざ》し」「百舌《もず》の磔《はりつけ》」「カヤヘビ」などとも言います。
わたしの友人のひとりが俗に鷹モズと称し、よくスズメといっしょにいるモズの剌すところを観察した話によりますと、それはカエルの贄の場合でしたが、空中から真っ直ぐに降りてきて、唯一回で腹の方からズブリと刺したそうです。一度の観察で、いつもその通りかは疑問ですが、今ひとりの友は、その贄のからだから出ている枝の部分が尖《とが》っていないものもあるから、モズの磔は確かに魔術だと言います。それからまた、モズの贄のうち、金蛇《かなへび》(トカゲ亜目の爬虫《はちゆう》類。形はトカゲに似ていますが、もっと細長く、尾も長い)を剌すときには、相当難儀するので、それを見付けた人には、幸運が訪れるそうで、宝物であると言います。
モズがどうしてこうしたことをやるかについては、諸説がありますが、専門家によると、
@モズは生きるものを捕えることに興味をもち、ひもじくなくても小動物をつかまえ、その食い残しを諸方に剌す。
A食餌《しよくじ》中の不消化物を塊状物として吐き出す。
Bモズの嘴《くちばし》は強大で鋭く、先端は釣鉤《つりばり》のように曲っていて、肉をちぎり取って食うには便利にできているが、脚の方は弱くて生き物をしっかり掴《つか》むわけに行かない。そこで生き物を掴まずに木のトゲに刺して置いて、例の嘴でちぎって食う。
この三つが「鵙の速贄」としての説明です。三説のうち、生き物を捕えるのに興味を持つというのは、闘争好きのモズの残虐性をよく見ていますが、それを磔にするというのは、あまり人間的な観察に過ぎるのではないでしょうか。塊状物として吐いたあと、わざわざ木の枝に貫くのも腑に落ちません。第三の説がもっともうなずける説です。
昔話は、次のように語っています。
「むかしあったぞん。モズは塩売りであり、ホトトギスは馬沓《うまぐつ》作りであった。モズはいつもホトトギスに頼んで、馬沓を作ってもらったが、さっぱりその勘定をしなかった。それでホトトギスが渡ってくるころには具合がわるくて、姿をなるべく見られないようにする。そしてお得意の腕の冴えで、虫ケラの類を木の枝に刺して置いて、それをホトトギスに食べてもらい、勘定を勘弁してもらおうとするのであると、なあ」
金を出し合うとき、自分は多く出さず、他人にたくさん出させるようにするのを「鵙勘定《もずかんじよう》」と言いますが、これなどは、モズの蓄えを吝嗇《りんしよく》という風に解してできたものでしょうか。
冒頭にも書きましたように、元来「速贄」と書くのは「速新饗《はやにひあへ》」の意で、初物のことで、『古事記』に「島之速贄」という語の見えるのは、志摩国から奉る御饌《ごせん》の料の初物ということです。
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[#小見出し] 餅《もち》を食《た》べると体《からだ》が温《あたた》まる[#「餅《もち》を食《た》べると体《からだ》が温《あたた》まる」はゴシック体]
褞袍《どてら》着て孫と餅食ふおらが春 一茶
餅と言えば正月、節句、上棟式……と、これまではめでたいときの特別の食べ物でしたが、近頃ではビニール包装した餅が出回り、電動餅|搗《つ》き器まで登場して、すっかりふだんの食べ物になってしまいました。食べたいときに、いつでも食べられることは、うれしいことにちがいありませんが、ちょっぴり味気ない淋しい気もします。
こうした餅も、正月に食べる餅ともなれば、ひと味ちがい、改まった気持ちでご対面となります。「食っちゃ寝の正月」と言われるくらいで、正月は雑煮をはじめ、のり餅、きなこ餅などにして、子どもでも五つ六つはペロリと平らげてしまいます。両切りピースの箱大の餅一切れは、ごはん茶碗一杯のごはんに匹敵し、量の割には充実しており、ややもすれば食べ過ぎますが、腹もちがよく、「餅腹三日」「餅腹七日」とも言われてきました。
雑煮腹に謡一番謡ひけり 圭史
という句も生まれるゆえんです。餅の効用について、古くから「餅を食べると夏カゼ引かぬ」とか「餅を食べると体が温まる」と言い伝えられてきましたが、餅に体を温める成分が含まれている訳ではありませんから、実際には特に効果があるとは言えません。ただ、焼きたての餅をふうふう吹きながら食べれば、その熱で温まるし、消化するために、胃などの消化器官が活発に働くので、熱が出て、体が温まるのは確かですが、これは何も餅ばかりにかぎらず、例えば鍋焼きうどんを食べても、同様です。また、「餅を食べるとお乳の出がよくなる」などとも言います。催乳ビタミンといわれるビタミンLが、もち米に特に多いとも思えませんが、ごはんより食べやすく、容易にカロリーの補給ができるためでしょう。玄米餅や胚芽入りの餅なら妊娠ビタミンと言われるビタミンEも摂《と》れますので、お乳の成分を強化するのに効果的。
ところで餅にはちょっとした誤解もあるようです。「餅を食べると太る」と言うのがそれ。お米はごはんに炊くと二・五倍にふえるのに、もち米を餅にすると一・四倍にしかなりません。つまり、餅はコンパクトなインスタント食品と言え、食べやすいので、つい食べ過ぎます。おまけにおろし大根とか、なますなどといっしょに食べると消化がよくなって、これまた食べ過ぎの原因となります。一食に三、四切れなら、それほど太るということはありません。
餅は食べ過ぎますと、一般に過剰の糖質を摂ることになり、B1を消耗して不足し、からだは酸性に傾きやすくなるため、皮膚の抵抗力が減退して細菌が繁殖しやすくなります。その上、皮膚の健康に関係の深いビタミンAとCがまるっきりありません。よく餅を食べるとニキビが出たり、火傷、切り傷、できものなどが治りにくいと言われるのは、このためのようです。餅を常食すると、冷え症が治って、小便の回数が少なくなったとか、下痢が止まって大便が固くなったなどということをよく耳にしますが、皮膚病のときは避ける方が賢明です。
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[#小見出し] 揉《も》んで味出《あじだ》せ干《ほ》し大根《だいこん》[#「揉《も》んで味出《あじだ》せ干《ほ》し大根《だいこん》」はゴシック体]
干し大根はよく揉むと、組織がやわらかになり、酵素の働きで甘くなる──と言われます。こんなことから、人も社会で揉まれると、人間が出来てくるたとえに用いられます。
干し大根は大根を風にあてて乾燥したもので、大別すると、次のような種類があります。
一、生のまま乾燥したもの
@丸ごと乾燥した大根──丸干し大根・ねじ干し大根
A細くけずって乾燥した大根──切り干し大根・千切り大根
B乾燥してから小口切りしたもの──花切り大根・小花切り大根・ハリハリ大根
二、熱を加えてから乾燥したもの
@刻んで蒸してから乾燥した大根──蒸し干し大根
Aゆでてから、小口切りにし、乾燥した大根──寒干し大根
三、生のまま乾燥した大根には、刻み方や包装の違いで、
@タテに切ったさき干し大根・割り干し大根
A房にまとめ、箒《ほうき》のようにまとめた房割り大根
B寒中に外気で冷凍にして乾燥した大根──氷り大根
大根は天日乾燥することによって、甘みとパリパリした歯ごたえが加わり、独持の味わいが生まれます。数ある干し大根の中で、おなじみのものと言えば、切り干し大根。切り干し大根の成分は生大根の成分が濃縮されたもので、五〇%は炭水化物、一〇%がたんぱく質、それにカルシウム、リン、鉄分などの含有量も多い。しかし、乾燥させることで、ビタミンCはなくなってしまいます。
干し大根は、なにも揉まなくても、特有の甘味と旨味《うまみ》がありますが、これは糖類のラムノース、ブドウ糖、蔗糖とアミノ酸のリジン、バリン、グルタミン酸などが遊離状で存在するからだと言われます。こうした成分組成から、かなり広い用途を有して、動物質を過重に摂取するために起こる壊血病や動脈硬化症を癒すために、以前、北洋その他遠洋漁業に出かける船には、ぜひ積み込まねばならぬ副食物として珍重されました。
切り干し大根は、昔は千葉県が産地でしたが、後に愛知県が主要産地となり、明治の末ごろ、愛知県の農家の次、三男が宮崎に移住したことにより、産地が宮崎県に移りました。ところが、最近また渥美半島で、切り干し大根の生産が復活してきました。
切り干し大根用の最適品種は青首大根ですが、この大根は野菜としては、さほどおいしくないので、最近では野菜にも向く青首大根の品種が開発され、野菜が高値のときには、野菜として市場に出荷され、安値のときや獲れ過ぎたときには、切り干し大根にします。油揚げの千切りと煮た切り干し大根は、おふくろの味として中高年の戦前戦中派によろこばれる煮ものです。
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[#小見出し] 痩《や》せの大食《おおぐ》い[#「痩《や》せの大食《おおぐ》い」はゴシック体]
社員旅行の温泉宿での宴会、同窓会のホテルのバイキング料理などで、ゆかたのひもをゆるめたり、ズボンのベルトをずらしたりして、このときとばかり大食いしているのは、たいがい太っちょの面々です。太っている人は、痩せている人以上にエネルギーを消費しますので、その分だけ栄養摂取しなければなりません。ところが稀には痩せている人が案外大食いであることもあり、他人より少しでも余計に食べようとあせって、箸づかいが激しくなると、ジロッと横目で見られて「痩せの大食いだな」とひやかされ、飲み食いに難クセをつけられる例は間々あります。
痩せているのに、むやみやたらに食欲がさかんなのは考えもので、バセドウ病にかかっている懸念があります。バセドウ病はまたの名を甲状腺機能|亢進《こうしん》症とも言い、甲状腺の機能が活発になって、エネルギーをふだんよりムダづかいするようになります。この病気の人は、だからたくさん食べないことには、エネルギー補給が追いつきません。食欲は良好かむしろ亢進しているのに体重が減るのがこの病気の特徴で、いわばこの人たちこそ、「痩せの大食い」の典型です。しかし、これは病気ですから例外です。
臨床例で見ても、大食いするのは、バセドウ病以外には糖尿病、それに太り過ぎの人のようです。やはり、大食いするのは、痩せどころかデブなのです。痩せる太るは体質にも関係があり、食べる量とは関係がない場合もあります。太っている人は、痩せようと思って節食し、一方、痩せている人は太ろうと思って、たくさん食べる傾向があるので、その結果、こういうふうになることもよくあります。
いくら食べても太らない人、少ししか食べないのにすぐ太る人、そのちがいはどこから来るのでしょうか。病的な場合は、ホルモンの投与や、元になる病気の治療をすることで治りますが、ここで言うのは健康な場合で、太っている人は、栄養の吸収がよいか、脂肪の合成系統が活発に働くと考えられます。逆に太らない人は、栄養の消化・吸収がわるいか、脂肪の代謝が活発で、余分な脂肪が体内に蓄えられないで燃焼してしまうかです。
栄養素の吸収のよしあしは、消化器が丈夫であるかどうかで決まりますが、代謝のよしあしは体質、生活環境、栄養、運動などが関係し、簡単には解決できません。特に女性の場合は、脂肪代謝が不活発なために、余分な脂肪がたまりやすい。例えば両親とも、あるいは母親が肥満型の場合は、子どもたちは過食になりがちで、その結果は子どものときから脂肪細胞が増えて肥満がはじまります。いったん増えた脂肪細胞を減らすのは、たいへんなことで、大人になってから痩せたくても、あまり効果があがりません。それにくらべ、大人の肥満は大きくなった細胞を小さくすることなので、比較的たやすく痩せることができるはずです。大食は七つの大罪の一つ──と言われます。心しましょう。
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[#小見出し] 柳《やなぎ》の下《した》の泥鰌《どじよう》[#「柳《やなぎ》の下《した》の泥鰌《どじよう》」はゴシック体]
もとは「柳の下にいつも泥鰌は居らぬ」で、このことわざは、それを簡略化したものです。このやなぎ、背高のしだれやなぎなどではなく、川辺にこんもり繁る低木の川やなぎでしょう。川やなぎが影を落としているようなところには、フナをはじめ、タナゴ、ドジョウなどが泳いでいそうな感じがし、思わず釣り糸を垂れたくなります。
こうした場所で、たまたまドジョウを獲ったからと言って、いつも、その場所にドジョウがいるとはかぎりません。偶然に幸運を手中にしたからと言って、同じ方法で再び幸運を期待し得ると考えない方がいいのだ──という経験から得た庶民の知恵にちがいありません。
ドジョウは、川や湖、沼のうち、水が濁り、底が泥質で、水温が割合高いようなところに好んで棲んでいます。どぶ川や水田にもふつうに見られますので、わたくしたちには、なじみの深い魚です。夏場、魚屋の店先に置かれた水桶の中のドジョウを見ると、しきりに上下運動をしています。水面からちょっと口を出し、空気を一呑みしますと、直ぐに頭を下に、尾を上にして水底に沈んでいきますが、先ほど呑み込んだ空気は、そのとき、腸で呼吸され、肛門から気泡となって外に出されます。この上下運動、一見、ドジョウが水中で踊って見えるようなところから、ドジョウのことを「オドリコ」の名でも呼びますが、実は生命を維持するための、たいせつなドジョウ特有の珍しい腸呼吸運動というわけです。
晩春から盛夏の繁殖期に強い農薬の影響を受けるので、天然ドジョウは急速に激減しましたが、最近、やっと増えてきたそうで、遊休田を養魚池にして養殖もしています。ドジョウは冬の間は、泥の中で冬眠していますので、痩せてまずくなっていますが、春になると、夏の産卵にそなえて餌をたくさん食べますので、太っておいしくなります。
大きいは亭主にゆづる泥鰌汁
小さなドジョウは、ドジョウ汁か丸煮にするのがふつうで、ごぼうや大根などを入れたみそ汁は、コイのみそ汁と同じように、昔から強精造血の効があり、また、母乳の出をよくすると言って賞味されてきました。大きめのは、開いて頭と骨を取り、蒲焼きにするのもおいしい。好みにもよりますが、わたしなどは、ドジョウ料理と言うと、やはり、「柳川鍋」を一番に挙げたくなります。『守貞漫稿《もりさだまんこう》』には、「骨抜きどぜう鍋」として、文政初期(一九世紀初め)、江戸の南伝馬町三丁目のうら店に住んでいた万屋《よろずや》某が、ドジョウを裂いて、骨、首、内臓を取り除いたものを鍋で煮て売りました。その後、天保の初めごろ(一九世紀前半)、横山同朋町で、これもうら店住まいの四畳ばかりのところを客席として売りはじめ、家号を柳川とした──と記されています。ドジョウ汁が一椀一六文であるのに対し、鍋は三倍の四八文。当時、夜なきそば一六文と言いましたから、ドジョウ汁は下層の人たちが愛好したもので、ドジョウ鍋は、高級品と言えましょうか。
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[#小見出し] 夜《よる》の昆布《こんぶ》は見逃《みのが》すな[#「夜《よる》の昆布《こんぶ》は見逃《みのが》すな」はゴシック体]
夜昆布はヨロコブ(喜ぶ)に通じることから、祝い事や縁起物として利用されるという語呂合わせの意味もありますが、こんぶは昼夜を問わず優れた栄養食品、健康食品ですから、見逃さずに、大いに食べることをおすすめします。
こんぶの成分は、種類によって多少異なるものの、主成分は炭水化物ですが、消化がよくないのでカロリー源としてはあまり期待できないものの、ミネラル(無機質)は消化がよく、八〇%近く吸収される上にカルシウムやヨード、鉄などの含量も多く、しかもアルカリ度は三〇〇以上もあり、野菜などと較べものにならないほど強烈なアルカリ性食品です。従って少量で穀類や肉、魚類の酸性物質を中和することができます。仮に白米一四〇グラム(一合)と豚肉五〇グラムを摂る場合、これを中和するにはほうれん草で約一六〇グラム、大根で約一九〇グラム、みかんやりんごでは約二五〇グラム、菜の漬けものでは七〇〇グラム以上も必要としますが、こんぶでは三グラム足らずでよいのです。肉食が多くなっている現在の日本人の食生活では、血液がとかく酸性になりがちなのが悩みのタネですが、それがこんぶによって解消されるというわけです。
牛乳や乳製品を欧米人ほどあまり食べないわたしたちは、ふつうの食事からカルシウムの所要量六〇〇ミリグラムを毎日|摂《と》ることは困難です。わたくしたち一日分の食事に含まれるカルシウムとリンの割合は二対一が理想と言われます。イワシの煮干しなどはカルシウムが多く含まれているからカルシウム供給源として、一見よいようですが、消化吸収の点から見ると、カルシウム一、リン四の割で、また穀類、肉類のすべて、魚肉の大部分がリンが圧倒的に多い。ところがこんぶはこれと逆に、一〇〇グラム中カルシウムはリンの五倍以上の八〇〇ミリグラムも含まれています。それゆえ、米を主食とする日本人には、カルシウム補給の点からこんぶは貴重な食品です。
また、こんぶ一〇〇グラム中のヨードの含量は、一七〇〜五五〇ミリグラムとずば抜けて多い。ヨードは甲状腺ホルモンを作るのに大切なもので、このホルモンは心臓や血管の活動、体温の調節、発汗などをなめらかにし、さらに他の副腎皮質や性腺ホルモンなど、体をいきいきさせるホルモンです。漢方ではこんぶを強壮剤として、また動脈硬化症の予防や治療、心臓病患者の利尿薬などに用います。
こんぶが長寿とか若返り食品と言われるのは、ヨードやカルシウム、鉄などのミネラル類やビタミン類及びグルタミン酸ナトリウムなどの有機物質が総合的に働いて新陳代謝を活発にし、特に血管の硬化を防ぎ、高血圧に効果があるからです。健康食としてのこんぶを大豆といっしょに調理すると、完全食に近い栄養食となります。こんなのはホンの一例で、味覚を工夫して常食されることをおすすめします。
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あ と が き
顧みれば『食物ことわざ事典』がポケット文春の一冊として呱々《ここ》の声を上げたのは、今から一七年前の昭和四十四年の春でした。それから九年後の昭和五十三年のこれまた春に、粧いも新たに文春文庫に収められ、再刊されました。ちょうど日本文化見直し気運が生まれつつある時代だったせいか、ことわざ関係の本がいろいろ出版され、また、テレビのクイズ番組流行も手伝ってか、この種の本が歓迎され、拙著も、幸い好評のうちに、毎年版を重ねることができました。
物書きにとって、処女作はその後の著述のだいたいの方向を決めるもののようで、以後、折に触れ、食物ことわざ関連の原稿依頼が相継ぐようになり、本書の土台となったのも、『味の味』・『淡交』・『ベターホーム』(いずれも月刊誌)に連載されたものです。将来、本にまとめる心づもりで、これらの連載原稿は『食物ことわざ事典』に収載されたことわざは避け、極力ダブらないように努めました。本書にまとめるに際し、新たに若干の項目を書き下ろし、文体や用語を統一し、いささか補筆したものもあります。ただ、ことわざの性質上、同じことわざが重複するのはさけられませんでした。
前掲連載誌の編集担当の方々をはじめ、一冊にまとめてくださった阿部達児出版部長(文春文庫)、前著同様装幀のお力添えを得た丹阿弥丹波子さん、挿画を描いてくださった小川正明さん、以上のみなさんの心からなるご協力がなかったら、『食物ことわざ事典』の続編とも言うべき本書は、公刊される運びにならなかったでしょう。末尾ながら、ここに衷心より御礼の言葉を述べさせて頂きます。ありがとうございました。
昭和六十一年八月十五日 四十一回目の終戦記念日に
[#地付き]平 野 雅 章
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おもな参考文献
*書籍
故事ことわざ辞典・鈴木棠三編・東京堂出版
続故事ことわざ辞典・鈴木棠三編・東京堂出版
暮らしの中のことわざ辞典・折井英治編・集英社
日本のことわざ(上・中・下)・金子武雄・朝日新聞社
故事ことわざの辞典・尚学図書編集・小学館
故事俗信ことわざ大辞典・尚学図書編集・小学館
ことわざ読本・滑川道夫・角川書店
図説江戸時代食生活事典・日本風俗史学会編・雄山閣
実用百科事典(料理・栄養)・主婦の友社
改訂食品事典・河野友美編・真珠書院
麺類百科事典・新島繁/柴田茂久監修・食品出版社
最新俳句歳時記・山本健吉編・文藝春秋
調理科学事典・河野友美ほか・医歯薬出版
総合食品事典・桜井芳人編・同文書院
栽培植物の起原と伝播・星川清親・二宮書店
魚の履歴書・末広恭雄・講談社
蔬果と芸術・金井紫雲・芸艸堂
魯山人味道・平野雅章編・中央公論社
海藻・宮下章・法政大学出版局
食用植物図説・女子栄養大学出版部編・女子栄養大学出版部
酒の古典語典・坂倉又吉・東峰書院
宮本常一著作集24食生活雑考・未来社
古事類苑/飲食部・神宮司廳
*雑誌
栄養と料理・家庭画報・言語生活・食道楽・食の科学・専門料理・NHKきょうの料理・調理科学・暮しの設計・暮しの手帖・味の味
〈底 本〉文春文庫 昭和六十二年二月十日刊