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アジア おいしい話
平松洋子
目 次[#「目 次」はゴシック体]
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タイ[#「タイ」はゴシック体]
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ココナッツを搾る アルミの小ザル[#「アルミの小ザル」はゴシック体]
タイ鍋で、パスタ 両手鍋[#「両手鍋」はゴシック体]
目からウロコが落ちまくる フライ返し[#「フライ返し」はゴシック体]
田んぼのなかの重箱 ピントー[#「ピントー」はゴシック体]
タイ米の炊き方指南 クラトゥック・カオ[#「クラトゥック・カオ」はゴシック体]
サンカンペン村から 竹の盆[#「竹の盆」はゴシック体]
幸せの石の音 クロック[#「クロック」はゴシック体]
トンビが鷹を生んだ話 素焼き土鍋[#「素焼き土鍋」はゴシック体]
はさみ打ちの名人芸 竹串[#「竹串」はゴシック体]
黒い鉢のなかの功徳 バアツ[#「バアツ」はゴシック体]
アジアで覚えた、あの料理1[#「アジアで覚えた、あの料理1」はゴシック体]
裏通りの食堂で食べた味がなつかしくて[#「裏通りの食堂で食べた味がなつかしくて」はゴシック体]
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インドネシア[#「インドネシア」はゴシック体]
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椰子の実ひとつ ココナッツの殻のしゃもじ[#「椰子の実ひとつ ココナッツの殻のしゃもじ」はゴシック体]
竹で送る風 竹のうちわ[#「竹で送る風 竹のうちわ」はゴシック体]
ジャティにひと目惚れ スパイスボックス[#「ジャティにひと目惚れ スパイスボックス」はゴシック体]
日暮れてなお、道遠し チョベック[#「日暮れてなお、道遠し チョベック」はゴシック体]
アジアで覚えた、あの料理2[#「アジアで覚えた、あの料理2」はゴシック体]
おいしくて便利なたれが、いろいろ[#「おいしくて便利なたれが、いろいろ」はゴシック体]
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韓国・朝鮮[#「韓国・朝鮮」はゴシック体]
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汁かけごはんのお楽しみ トゥッペギ[#「汁かけごはんのお楽しみ トゥッペギ」はゴシック体]
台所のお守り チョリ[#「台所のお守り チョリ」はゴシック体]
キムチの匂い キムチ用ステンレス容器[#「キムチの匂い キムチ用ステンレス容器」はゴシック体]
萩の小枝のうえの禁忌 チェバン[#「萩の小枝のうえの禁忌 チェバン」はゴシック体]
白い酒が揺れる パガジ[#「白い酒が揺れる パガジ」はゴシック体]
解放記念日の冷麺 ククストゥル[#「解放記念日の冷麺 ククストゥル」はゴシック体]
「重さ」のハードル 石鍋[#「「重さ」のハードル 石鍋」はゴシック体]
お膳のうえのモンドリアン ポジャギ[#「お膳のうえのモンドリアン ポジャギ」はゴシック体]
混ぜて、混ぜて、また混ぜて チョッカラッとスッカラッ[#「混ぜて、混ぜて、また混ぜて チョッカラッとスッカラッ」はゴシック体]
女ひとり食べる焼き肉は 飯器[#「女ひとり食べる焼き肉は 飯器」はゴシック体]
アジアで覚えた、あの料理3[#「アジアで覚えた、あの料理3」はゴシック体]
いつのまにか唐辛子のおいしさに、やみつき[#「いつのまにか唐辛子のおいしさに、やみつき」はゴシック体]
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インド[#「インド」はゴシック体]
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地獄の闇鍋 マサラ・ダヴァ[#「地獄の闇鍋 マサラ・ダヴァ」はゴシック体]
小麦粉はしみじみおいしい タヴァとバトゥーラ[#「小麦粉はしみじみおいしい タヴァとバトゥーラ」はゴシック体]
「食べ方が要求する」食器 ターリー[#「「食べ方が要求する」食器 ターリー」はゴシック体]
アジアで覚えた、あの料理4[#「アジアで覚えた、あの料理4」はゴシック体]
家のなかいっぱい、スパイスの香り[#「家のなかいっぱい、スパイスの香り」はゴシック体]
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ベトナム[#「ベトナム」はゴシック体]
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ヌクマムの泉 コイ[#「ヌクマムの泉 コイ」はゴシック体]
先を急ぐ包丁 せん切り包丁[#「先を急ぐ包丁 せん切り包丁」はゴシック体]
「鬼おろし」とモダンデザイン おろし金[#「「鬼おろし」とモダンデザイン おろし金」はゴシック体]
紙のごはんにぴったり 丸盆[#「紙のごはんにぴったり 丸盆」はゴシック体]
楊枝を使う恥、使わぬ恥 楊子[#「楊枝を使う恥、使わぬ恥 楊子」はゴシック体]
道具の行く末 ココナッツ削り器[#「道具の行く末 ココナッツ削り器」はゴシック体]
バゲットをサイゴンで コーヒーフィルター[#「バゲットをサイゴンで コーヒーフィルター」はゴシック体]
恋しやバナナの葉 バナナの葉[#「恋しやバナナの葉 バナナの葉」はゴシック体]
今朝の買い出しは 買いものかご[#「今朝の買い出しは 買いものかご」はゴシック体]
アジアで覚えた、あの料理5[#「アジアで覚えた、あの料理5」はゴシック体]
どこの国でも、お母さんの味が一番だから[#「どこの国でも、お母さんの味が一番だから」はゴシック体]
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中国、台湾[#「中国、台湾」はゴシック体]
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新宿発、香港経由、銀座着 飯架[#「新宿発、香港経由、銀座着 飯架」はゴシック体]
魚に梅干し 魚鍋[#「魚に梅干し 魚鍋」はゴシック体]
おかずは勝手に 公勺[#「おかずは勝手に 公勺」はゴシック体]
ヨーロッパから廻り道 カトラリーボックス[#「ヨーロッパから廻り道 カトラリーボックス」はゴシック体]
すっきりいこう 棕櫚のはけ[#「すっきりいこう 棕櫚のはけ」はゴシック体]
麺棒一本、晒しに巻いて 麺棒[#「麺棒一本、晒しに巻いて 麺棒」はゴシック体]
竹筒事件の教訓 竹筒[#「竹筒事件の教訓 竹筒」はゴシック体]
雲南の秘具 汽鍋[#「雲南の秘具 汽鍋」はゴシック体]
フカヒレ料理の助っ人 編竹[#「フカヒレ料理の助っ人 編竹」はゴシック体]
霞の向こう側 火鍋子[#「霞の向こう側 火鍋子」はゴシック体]
粉をこねる 手[#「粉をこねる 手」はゴシック体]
たったひとつ アルミのボウル[#「たったひとつ アルミのボウル」はゴシック体]
おいしさの理由[#「おいしさの理由」はゴシック体]――あとがきにかえて
文庫版あとがき
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タイ[#「タイ」はゴシック体]
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[#ここからゴシック体]
はて、どうしよう。
はるばるタイからぶら下げて持ち帰ったこの鍋を、ただ台所の隅に眠らせてはおけまいぞ!
[#ここでゴシック体終わり]
[#ここで字下げ終わり]
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ココナッツを搾る[#「ココナッツを搾る」はゴシック体]――アルミの小ザル[#「アルミの小ザル」はゴシック体]
チムさんが冷蔵庫をあけると、ココナッツクリームの小さな四角いパックが目に飛びこんできた。東京で私が使っているのと同じものだ、と喜ぶと、チムさんの母親プラチンさんが苦笑いしている。
「タイの若いひともよくこれを使っているようだけれど、だめだめ、味はもうひとつです。やっぱり自分で搾ったものでなければ、おいしい味にはなりませんよ」
そうは言うものの、バンコクのスーパーマーケットの食料品売り場には、いろんな種類のココナッツクリームやココナッツミルクがずらりと棚に並んでいる。母親の言葉に、とりあえず恥ずかしそうに下を向いてみせるチムさんもまた、バンコク市内に住む二十代の若い主婦だ。しかし待てよ、「ココナッツ」を「かつおぶし」や「昆布」に置き換えれば、これはすっかり日本の母娘の会話ではないか。久しぶりに遊びにきた母親が、台所でインスタントの「だし」を目撃して娘の不精を嘆き、「だし」のとり方を諭す図! なんとタイでも、ホームドラマの典型的なシーンが目の前で展開されているというわけなのだった。
ココナッツはタイ料理に欠かせない基本素材のひとつである。
チムさんが、こっそり小声で言う。
「でもね、パック入りなら、いつでも必要なだけ出して使えるでしょう。便利だから、私は、いつもこれを買うの」
しかし、母娘の攻防は、母親が買いもの袋からココナッツのフレッシュな胚乳がいっぱいつまったビニール袋を取り出してみせて、あっさり決着がついた。今晩つくるグリーンカレー、キェーン・キオワーンは母の「正調派」でいくらしい。
ココナッツの胚乳を搾ってとるクリームやミルクは、キェーンやトムヤム(具だくさんの汁もの)に、たっぷり使う。辛さに泣いた舌をなぐさめるのも、ココナッツミルクの甘いデザートだ。その優しいおいしさはじゅうぶん知ってはいるが、しかし、どうやってクリームやミルクを取り分けるのか。肝心のその方法を、私は一度も目にしたことがなかった。
タイの一般的なアパートには、独立した台所はない。まな板もガスコンロも居間の床に置き、ぺたりと腰をおろして調理する。水は必要なだけ、洗面所から運んでくる。
居間の棚からボウルを四つばかり取り出して、ぺたりと床に座ったプラチンさんは、市場から一キロ四〇バーツで買ってきた細かなフレーク状に削った胚乳をボウルに入れて、そこへ水を注いだ。軽くかき回してから、ぎゅっと力をこめて両手で搾ると、胚乳からジュースがしみ出て、ボウルのなかは見るまに不透明なまっ白の液体に変わっていく。
自分で搾るなんてめんどうだから、といっていたチムさんが、すかさずアルミ製の小ザルを持ち出してきて、隣の空のボウルにひっかける。あうんの呼吸で、プラチンさんがそこへざぁっとさっきの液体をあける――使いこんで使いこんで、表面がベコベコに歪んだ素朴なアルミの小ザルは、この家でたったひとつの漉《こ》し器《き》だ。タイではどこの家を訪れても、同じものが同じ風情を漂わせながら、壁にぶら下がっている。
と、鈍く光る銀色の穴をすがすがしいほどまっ白な果汁が通って、幾筋も糸のように細長く下へ落ちていく。銀色に吸いこまれていく純白の、この穏やかな美しさは、どうだろう。
液体が通ったあとの小ザルには、搾りかすの果肉だけが残り、下のボウルには見るからに濃厚な液体が溜まった。フア・ガティ、つまり一番搾りのココナッツ。これこそ、ココナッツクリームである。
クリームがとれても、チムさんは手を休めない。小ザルに残った搾りかすをかき集めていく――子どものころから長年見てきた母親の手順は、すべて頭に入っているのだ――知らず知らずのうちに、手が動いている。
「これで、上等のココナッツクリームがとれた。今度はハーン・ガティを搾るのよ」
ハーン・ガティは、「しっぽのガティ」。つまり、二番搾りをとろうというわけである。おや、気がつくと、こちらに教えてくれるのもココナッツを搾るのも、いつのまにかチムさんに代わっている。プラチンさんは、娘に座を明け渡して、床に置いたまな板の前でずっと前からそうしていたように包丁を握り、マクワ・ポ(丸い小さななす)を切っていた。
さて二番搾りである。
チムさんが、クリームをとったあとの果肉を再び新しいボウルに入れ、水を注ぐ。力をこめてぎゅっと搾る。そうすると、またもや水は白く濁っていき、小ザルにあけて漉すと、さっきよりぐっと薄いさらりとした液体が溜まっている。二番搾りの出来上がりだ。なるほど、ぽってりとしたココナッツクリームとさらさらのココナッツミルク、見た目もまるきり別ものである。
ココナッツの一番搾りと二番搾りの使い分けは、たとえばこんなふうだ。キェーンなら、カレーペーストをまず炒めてから一番搾りのクリームを鍋に入れ、しっかりと味の基本を作っておく。二番搾りのミルクは、あとで汁気としてたっぷり使う。また、皿に盛ってから、仕上げに濃厚な一番搾りを少し落とす――ココナッツもまた、濃厚な風味とさらりとした味わいを自在に操ることで、おいしさに深みを与える役割を担っている。
まさに、ココナッツはタイのだし!
「母は、搾り終えたかす[#「かす」に傍点]も、捨てずにお菓子に使います。乾燥させて、おだんごのあんにするの。母がつくってくれるカノム・サイは、とてもおいしい」
ほら、私たちだって「だし」を取ったあとのかつおぶしや昆布を佃煮にして味わいつくすでしょう、あれと同じなのである。
さて、そのキェーン・キオワーンは、「事件」だった。青唐辛子プリッキヌーのとびきりの辛さを、ココナッツの穏やかなまろやかさが、がっしりと受け止めている。驚いたことに、火花を散らす辛さと柔らかな優しい味わいが、舌の上で同じ力強さを主張している。こんな存在感のあるキェーン・キオワーンは初めてだった。
ゆっくりと噛みしめるように味わいながら、ついさっき、ぎゅっと搾る指のすき間から、あふれるように湧き出たココナッツの純白を思った。若いチムさんは、あの磨耗するほど使いこんだ愛らしいアルミの小ザルで、今度はいつ、ココナッツを搾るのだろうか。
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タイ鍋で、パスタ[#「タイ鍋で、パスタ」はゴシック体]――両手鍋[#「両手鍋」はゴシック体]
初めて自分で買った鍋は、今でもよく覚えている。
炒めものに、北京鍋。煮ものに、アルミの業務用半寸胴鍋。このふたつが、二十歳の私の「究極の合理的な鍋選び」の結論であった。
それは大学三年生の終わり、音楽大学に入学して東京に住むことになった妹と同居した春のことだ。同居のいちばんの目的は、とにもかくにも巨大なグランドピアノの置き場所の確保だったのである。
私がまだ実家にいた高校生のころ、妹はグランドピアノで日々の練習に精出していたから、どぉーんと居間に鎮座するその存在感には、むしろ親しみを抱いていた。しかし、ふたり暮らしの手狭な住まいともなれば、事情は違う。まだ家具もなにも運びこまれていない、がらんとした2LDKに初めて足を踏み入れたとき、「はたして、あのしろものはここに無事納まるのだろうか」とまっ先に不安にかられた。
かくして、グランドピアノが堂々と、いやむしろ威圧的な風情を漂わせて、八畳ほどのリビングキッチンを占拠した。そして逆に、片隅の備えつけのキッチンが、やけに小さく貧相に映った。
「料理するときには、こりゃあ換気扇、フル活動だな」。相手はなにしろ精巧な楽器だ。ピアノとキッチンがすぐそばに隣り合ってるなんて、はたして湿気や油っ気は、だいじょうぶなんだろうか。洗いものするとき、ピアノに水が散ったりしたら、こりゃあまずいぞ――そんな心配を軽々しく妹に口にするわけにはいかない姉には、鈍い黒光りを放つグランドピアノと、ガスコンロの上の買いたての北京鍋と半寸胴鍋が、とんでもなく奇妙で突拍子のない取り合わせに映った。
ふたり暮らしが続いたその後の二年間、私たちはかたくななまでに、すべての調理をこのふたつの鍋で通した。いや、すべての調理は、このふたつでこと足りたのである。
人生最初の鍋選びや、よし。
今になって思えば、もしかしたらこのとき、ひとつの鍋を使いまわす基本のようなものを知らず知らずのうちに学習していた。そんな気がする。
北京鍋は、片側に一本持ち手がついた中国の万能鍋だ。炒める、揚げる、焼く、茹でる。煮ものにだって使えるし、蒸籠《せいろ》を置けば蒸しものにも使える――まだ料理になんの関心も持たなかった高校生のころ、ものの本で初めてそう知って、これはとんでもないスーパー鍋なのだと興奮した。続けて本にいわく、「鉄の鍋はしだいに油が馴じむから、鍋肌に油膜ができていく。だから、使えば使うほど手放せなくなる。十年二十年、いや一生大切に使える財産になるはずだ」……「わが家の台所の財産」を手に、誰かが自慢の北京鍋をかかげた写真のひとつも載っていたのかもしれぬ。
そうか台所の財産か。それに、だ。たかだか鍋ひとつが、「かけがえのない一生の宝になりうる」だって!?
仰天だ。受験勉強にかこつけて、とんと台所にも料理にも縁遠い高校生は、初めて見知った北京鍋に「暮らし」というものの深さと広がりを、無意識のうちにかいまみていた。
かくして数年後、私は憧れの北京鍋を手に握った(自分の財布を開いて、と言いたいところだが、学生の身の情けなさ、資金の出どころは親の財布である)。はたして看板に一切の嘘いつわりなく、北京鍋はどんな調理にも自在に使えた。さらには鍋底のゆるやかなカーヴはオムレツを手前に返す際、絶大な威力を発揮した。手首のスナップをきかせてオムレツをこっちへ返すための地味な習練を積まなくとも、カーヴを利用すればオムレツはいとも簡単にくるりと回転し、料理の初心者にだって、ふんわり柔らかいオムレツを簡単に完成させることができたのである。この大発見に気づくやいなや、妹と私はふたりしてオムレツづくりに熱中した。毎朝三個の卵を割って、大きいオムレツをひとつ。オムレツづくりの上達度を日替わりで競い、ふたり暮らしの気分を盛りたてあったのだった。
いっぽう、半寸胴鍋も八面六臂の大活躍を見せた。そもそも半寸胴鍋を選んだ理由は、ただひとつ。スパゲッティをおいしく茹でられるようになりたかったのだ。
アル・デンテに茹であげるための方法は、十七歳のとき、伊丹十三著『女たちよ』で教わった。いわく、スパゲッティは大量の熱湯のなかで泳がせるように茹でねばならない! ということはだ、寸胴もしくは少なくとも半寸胴鍋がなくては話にならないってことですよね。
そんなわけで、私は北京鍋の相棒に半寸胴鍋を選んだのだった(もちろん、同様に資金の出どころは親の財布である)。そして妹と私は、スパゲッティづくりにも熱中した。「今日はカルボナーラ」「今日はベーコンときのこのクリームソース、どーだ」「今日は青じそとトマトだ、まいったか」。もちろん、ソースづくりはすべて北京鍋でまかなった。
毎夜毎夜、違うスパゲッティのメニューをこれまた日替わりで競い合い、二十歳と十八歳はオムレツとスパゲッティの日々を堪能した。
昼間、妹が奏でるショパンやモーツァルトの練習曲は、日を追うごとに上達していくように思われた。そして、こちらの鍋の使いこなしにもいよいよ磨きがかかったころ、気がつくといつのまにか、グランドピアノの長いフタの端っこは、皿に盛った料理をとりあえず置いておく絶好のテーブルと化していた――黒いサテンのカヴァーのあちこちには、醤油のシミのあとなんかついちゃったりして。
機能的な鍋の条件のひとつは、熱効率のよさにある。底面積が広ければ広いほど、ガスの火をより多く受けとめられ、それだけ熱効率は高くなる。家庭用のガスコンロには熱カロリーに限りがあるから火力には制限が生じるが、それでも火を強めると同時に底面積が広い鍋を使えば、最大限に熱効率を高めることができるというわけだ。
たとえば北京鍋も寸胴鍋も、この理屈を完璧に満たしている。
片手の北京鍋も両手の広東鍋も、考えてみれば中華鍋というものは、つまり鍋底全体が鍋そのものなのであった。恐るべしスーパー鍋、その形態も熱効力も、文字通り「底なし」! 生のままの野菜をどさっといちどきに放りこんでも、鍋全体からいっきに熱が加わって、水分が外に出る隙を与えない。野菜炒めをしゃきっと仕上げるには中華鍋、といわれる所以である。
寸胴鍋にいたっては、底面積が広いうえにじゅうぶんな深さがあるため、いったん沸騰してしまえば、また火力を一定に保ってやれば、鍋のなかの温度は下がることはない。広東料理の名店として世界中にその名を轟かす香港「福臨門」の厨房で、火腿《フオートエイ》(中国ハム)や肉塊がまるごと入った巨大な寸胴鍋がポコポコと表面を躍らせながら火にかかっているのを目撃したとき、寸胴鍋の実力をあらためて認識した。なるほど、「福臨門」の味の秘密を握るといわれる極上の上湯《シヤンタン》も、寸胴鍋から生まれているのだなぁ。
さて、北京鍋のお世話になり続けて二十年近く、タイのバンコクで新手の変形中華鍋に出くわした。その鍋は、サイアム・スクエアのすぐ近く、東急デパートの台所用品売り場にぶら下がっていた。
それは、いわば広東鍋と北京鍋をドッキングさせた「折衷型」で、タイをはじめ東南アジア一帯に広がっている中華鍋の「新様式」だ。北京鍋の長い柄と、広東鍋の短い持ち手の両方がついているから、調理の最中には長い柄のほうを握り、鍋を持ち運ぶときには、反対側についた小さな持ち手に右手をかけて持ち上げられる。
中華鍋に限らず、重い鍋を運ぶとき両手で持ち上げる安定感はいうまでもないが、こと北京鍋は容量が大きいだけに、片手にずっしり中身と鍋の重さがかかってしまう。たっぷり油を満たしたときにいたっては、大変だ。柄をつかんで左から右へ鍋を移動させるだけでも、上腕の筋肉にずっしり負担がかかる。というわけで、万能の北京鍋にもいささかの欠点がある。だったらこの際、北京鍋と広東鍋をいっしょにしちゃえばいいんじゃないの?――てなわけで、東南アジアの「折衷型」が生まれた。こう、私はにらんでいる。
ただし、タイの「折衷型」は中華鍋に比べて全体のカーヴがなだらかで、ごく浅めに作られており、相当に平べったい。これが大きな特徴だ。だから、鍋を振ってあおるとき、強力にスナップをきかせないとあおりがきかず、鍋のなかのものが外へ飛び出す憂き目に合う。これは、何度もコンロの向こう側へ炒飯やもやしを飛び散らかす失敗を重ねて、実証ずみだ。
また、煮ものに使うとなると、底が広くて浅いから汁気が横に広がり、あっというまに蒸発してしまう。材料に味がしみこむ前に、汁気がなくなってしまうのだ。熱効率を高めるための底の広さが、ここでは逆に仇になっている。なるほど、鍋底はただのんべんだらりと広ければいい、というわけではない。やはり、底から伝わってくる火力を、なかの材料に再び伝え返してやるだけのカーヴが必要なのだ。そこで初めて、熱効率というものが生まれる、と。
はて、どうしよう。はるばるタイからぶら下げて持ち帰ったこの鍋を、ただ台所の隅に眠らせてはおけまいぞ! 何度も失敗や不都合を繰り返したあげく、ついに絶好の用途を発見した。
パスタに起用するんです。
パスタ、ことにスパゲッティにからめるソースは、さっと短時間で仕上げなくては。ことにトマトソースは、トマトのおいしさをぎゅっと凝縮させるようなつもりで、手早く煮詰めるのがコツだ。だらだらと煮こんでしまってはトマトの風味が飛び去り、どろどろになってしまう。ところがタイの「折衷型」なら、よぶんな水分はさっと飛ばすことができる。生クリームを使うときも、火力を強めればみるみるうちに煮詰まって、パスタにからむとろみが出せる。さらにさらに、スパゲッティとソースを混ぜるときの具合いのよさといったら、もう! ゆでて水気を切ったばかりのスパゲッティをぱさっと放りこむと、なにしろ平べったいからスパゲッティが横に広がり、あっというまにつくりたてのソースと馴じむ。底面積が広いから、大胆にかき混ぜてもスパゲッティがはみ出すこともない。「折衷型」は、ソースづくりののち巨大なボウルの役目も担うのだ。
さぁこうなると、もう手放せない。麻婆春雨、炒り豆腐、焼きそばにも……少なめの煮汁を煮詰めたり、そこへ材料を和えるときに登板させれば、「折衷型」にかなう鍋なし!
あぁなつかしの「オムレツとスパゲッティの日々」よ。
今、私の手元には、こうして新たにタイ生まれの北京鍋の親戚が加わった。
さて、「一生の財産」になるはずだった二十年前の北京鍋は、何度かの代替わりをした。
使って使って使いこなしたうえでの「立派な」代替わりならば聞こえはよいが、実のところは、そうではない。一度は、鍋肌をボロボロに焦がしてしまった。蒸籠を三段重ねて肉まんを蒸していたとき、水が蒸発しきっていたのに気づかなかったのだ。もはや修復はきかず、泣く泣く新しいのに買い換えた。こんな失敗を、懲りずに幾度か繰り返している。
今度の鍋こそ「一生の財産」に育つか。
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目からウロコが落ちまくる[#「目からウロコが落ちまくる」はゴシック体]――フライ返し[#「フライ返し」はゴシック体]
「目がテンになって、そのあとウロコが落ちまくる」
このフレーズは「唖然と目を見張って息をのんだ次の瞬間、積年へばりついていたウロコが目からぽろぽろとはげ落ち、にわかに曇りがぱあっと晴れる」、こういう場合に使用します。
でまた、そういう瞬間は突然虚をつくようにやってくる。これがとんでもない快感なわけで。
それはたとえば、こういうときです。
こないだ、妙な様子のグレープフルーツナイフを発見した。なにしろ、初めて目にするかたちである。細い木の持ち手をはさんで、片一方のはじには柔らかなカーヴの一枚刃が、もう片方のはじにはごく薄い二枚刃がついている。なんだこりゃ。店員嬢をつかまえて説明を聞くやいなや、「目がテンになって、そのあとウロコが落ちまく」った。
一枚刃は、半分に切ったグレープフルーツの厚い皮の内側に差しこんで、ぐるり実と皮を切り離す、と。ここまでは、よくあるグレープフルーツナイフだ。しかし、そこから先が圧巻なのだ。もう一方の二枚刃は、なかの隣り合った袋どうしの境界線をはさんで、次々にすっすっと差し入れていく、と。この作業を終えておけば、スプーンをつっこむだけでいっそ気持ちがよいほどぽっこり実がはずれ、いとも簡単にグレープフルーツの小袋の中身が口におさまるというわけなのだった。うーっとうなったまま私はナイフをひっつかんでレジに走り、帰りの電車のなかで、明日の朝グレープフルーツの果汁が次から次へと口いっぱいじゅわっと飛び散る様子を思って、ひたすら唾をためた。
「こういうの、知ってる?」
ある日、タイ料理研究家の氏家昭子さんが、台所の引出しから一本のフライ返しを取り出した。
わっ。えびぞりにのけぞった私はまたもや、瞬間的に「目がテンになって、そのあとウロコが落ちまく」った。もはや、快感の嵐がからだじゅうをわんわん駆け巡っている。
台所道具片手にそこまで興奮してしまえる私は、お手軽な幸せものなんである。
小さな掌を少しすぼめて広げたような扇型の杓子がついている。そのうえ、たて長の溝が何本も入っている――つまり、こういうことです。杓子の丸みが鍋肌のカーヴにくるんときれいに添うから、中身がすんなりすくい出せる。と同時にすくった瞬間、溝から鍋のなかの油や汁がざーっと全部落ちていく。青菜の炒めものなんかすくった日にゃあもう、皿にはよけいな油も汁気も見事になく――。
「これをタイで見つけたときは、うわっ理想のフライ返しだ、すごいって感動したけど、使ってみるともっとすごいのよ。揚げものでも炒めものでも、毎日毎日こればっかり」
あぁもうやめてやめて。「目をテンにして」フライ返しを見つめたまま、「ウロコが落ちまく」っているまっ最中の身には、刺激が強すぎる。興奮がおさまれば今度はむくむくと所有欲が湧き上がってくるのだが、ここは腹にぐっと力を入れて我慢の二文字。
いいもの見せてもらったなぁ、というところまで必死で気持ちを持っていき、折りしもとっぷり日が暮れて玄関に向かった私に、氏家さんがうしろから声をかけた。
「これさっきのフライ返し。三本買ったから、そのうちの一本」
私は、こういうことを「一生の恩義」に思う女である。
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田んぼのなかの重箱[#「田んぼのなかの重箱」はゴシック体]――ピントー[#「ピントー」はゴシック体]
「今日のお弁当なぁに」
「あけてみてのお楽しみ」
バスケット部の練習試合があるからお弁当持ち、という日曜日の朝、決まって娘と交わす会話は、私が子どものころ台所で母と交わしたのとそっくり同じだから、つくづく不思議なものだ。いやたぶん、どこのうちでも、お弁当をはさんで同じような会話が交わされているのだろう。
娘が保育園のときから中学生になるまで変わらず使い続けてきた弁当箱は、小さな杉の曲げわっぱである。何度か、ねぇお母さん、ともだちが持ってるようなプラスティックの「かわいいの」に替えてよ、とせがまれたが、どうしても、すんなりイイヨと言えなかった。親の趣味を押しつけるようで悪いかなぁとも思ったが、曲げわっぱをあけたときの、あのかすかな木の香りや手肌に優しい持ち心地、なにより盛りこんだ白いごはんやおかずが本当においしそうに映ることを考えると、こればかりはやっぱり譲れなかったのだった。
娘は、そんな私の気持ちをどこかで感じとっていたのか、結局はいつも、曲げわっぱの弁当箱を持っていった。一方の私は、曲げわっぱを包む布には娘が好きなチェックのハンカチを選んで、せいぜい気を引き立てる工夫にあいつとめた。
中学生になってしばらくして、空の箱をかばんから取り出しながら、彼女はうれしそうにこういったものだ。
「今日ね、部活の先輩といっしょにお弁当食べたの。そうしたら、麻ちゃんのお弁当箱かわいいね、いい香りがしておいしそうだね、っていわれた」
ちょっと自慢だったの、と顔に書いてある。
おとなになれば娘は、「弁当箱」と聞けばまっ先に、この木目の美しい曲げわっぱを思い出すのだろう。そう思ったら、ふいに「親の気持ち」のどこかがほうっとほころんだ。
私が子どものころに使っていたのは、ご多分にもれず、どこにでもある楕円形のアルミの弁当箱だ。ふたには、これまたお決まりの赤い花柄模様がついていた。そして、小・中学校の給食時代のブランクを越えて、高校生になれば「ブック型」の長方形の薄型アルミ。無地の「スマート」な弁当箱に替わったことが、なんだか大人に近づいた気分を味わわせてくれた。うれしかったなぁ。そのうえ、ときどき「明日はお弁当いらないよ。購買部でパン買うから」なんてね。
毎度毎度の食事を母親に頼りきって成長していくのが、子どもというものだ。しかし、自分で自分の食事を裁量できるようになれば、それは大人への第一歩なのかもしれない。だから、自分でお金を出して買う「購買部のパン」が、あんなにおいしかったのだろう、と今になって知る。
さて、私が小学校のころ、運動会の日にはいなり寿司か巻き寿司、それに色とりどりのおかずをつめたお重が広げられたものだった。
運動場のあちこちに家族の輪がつくられ、その中心には、それぞれのうちのお重がまるで花のように咲いた。そして、「家族の幸せ」を祝福するかのように、頭のうえには万国旗がぱたぱたとはためいていた。昭和三十九年の秋晴れの日。小学校の運動会の風景は私の目の裏に焼きついている。
重箱は、まさにハレの日の盛り上げ役である。
富裕な武家の物見遊山に使われることが多かったという江戸時代の重箱を見ると、それらはまるで美術工芸品のように美しい。漆器の重箱の周囲に精緻な螺鈿《らでん》細工や蒔絵がほどこされて、ハレの日にこそふさわしい華やかさ。一方、庶民が連れ立って外へ出るときには、破《わ》り籠《ご》入れが多く使われていた。ごはんやおかずをそれぞれにつめた長細い破り籠を積み重ねて、持ち手がついた箱のなかにおさめて持ち運ぶものである。
いつだったか、江戸時代の生活道具の工芸展でこの破り籠入れを目にした。その簡便なつくりと様子は、いっぺんで好きになった。ああいうのが欲しいなぁ。折りしも、「家族いっしょに外でたべる容器」を持つ必要性に迫られていたころだったから。
娘が保育園に通うようになり、今度は私は「親」として運動会に出る立場に変わった。年月を経て、じゅんぐりがやってきたのである。しかし、重箱は手元にない。この際、買っておこうか。しかし、二十代半ばの私には、漆塗りの重箱は重くてかさばるばかりの古くさいものに思えた。
店をいくつもまわった。でも、買いたいと思う重箱は目の玉が飛び出るほど高かったし、値段と折り合う品ものはいっこうに見つからない。かといって重箱スタイルのプラスティック製には、大きな抵抗があった。
考えあぐねたまま、運動会の日は迫っていた。すっぱり「うちは、ふだんの弁当箱でいいや」と割り切ってしまえない私は、中ぶらりんのまま、ただ困っていた。いやむしろ、突然よみがえった子どものころの運動会の風景や、こころのなか奥深くに眠っていた重箱の「幸福な」イメージに縛られていることに、とまどいを覚えていたのだった。
なにしろ、ことを解決しなくては。気をもみながら、なんの気なしにのぞいた近所の商店街にあるアジアの雑貨屋をぶらぶらするうち、不意に目が釘づけになった。
アジアのお重だ!
それはステンレスの丸い器を三つ重ね、両側を同じステンレスの棒で固定する弁当箱である。裏をかえすと「メイド・イン・タイランド」と刻印が見える。そういえば、タイだけでなく、中国にもインドにも、ほとんどこれと同じようなかたちの弁当箱があるのを突然思い出した。どれもが、重ねれば、細長い円柱になる携帯用の弁当箱だ。
そうだった、てっきり忘れていたが、この手があったじゃないか!
中身が分けて入れられるうえ、深さがあるから、容量も申し分ない。それなのに、重箱のようなどっしりした重圧感はまるでなく、手にぷらぷらぶら下げて歩くような気軽な風情がいいなぁ。ステンレス製というのも、なんだか新鮮だ。
私はひと目で「これだっ」と快哉を叫んでいた。
タイ語で、弁当箱のことを「ピントー」という。運動会は「ピントー」で決まりだ。
タイ東北部ウドンタニは、メコン河をはさんでラオスと向かい合っている川沿いの静かな街である。そのウドンタニにたどりつく少し前、一面の水田地帯を通り過ぎた。
田植えの時期である。男たちも女たちも近所が総出で、稲を植えている。
そろそろお昼どきだなぁ、とあぜ道を歩きながら田植えの様子を眺めていると、突然みながいっせいに手をとめて、こちらへ向かって歩き出してきた。どうしたのだろう、と一瞬ひるんだが、すぐに事情はつかめた。お昼休みの時間なのだ。水田のなかに立っている掘っ建て小屋の吹きっさらしの床のうえで、若い女性がビニール袋から取り出しているのは、あの使い慣れた「運動会のお重」であった。
彼らの弁当箱は、私がずっと使っていたのとまったく同じ「ピントー」の大型である。段々になった丸い器のなかには、プラー・ソム(川魚の切り身のかす漬け)がふた切れと、スプ・ノーマイ(辛くて酸っぱいたけのこの和えもの)、高菜の漬けものが入っている。ごはんは、竹で編んだごはん用の入れもの、ヌン・カオにぎっしりつめてある。ヌン・カオは通気性に優れているから、暑さのなかでも、なかのごはんが傷むこともない。もちろん、ごはんは東北部の主食、カオ・ニィャオ。蒸したもち米だ。
「キン・カオ・マイ」
ごはんをいっしょにどうぞ、と誘ってくれているのである。手を顔の前で合わせて「コプ・クン・カー(ありがとう)」と答えたものの、肌をじりじり焼くような暑さのなかで一心に田植え仕事に精出しているひとたちの弁当に、どうして手がつけられるだろうか。しかし、もう一度「キン・カオ・マイ」と声をかけられて、私はスプ・ノーマイにおずおずと手を伸ばした。
おかずはどれも、辛くてしょっぱい。だから弁当箱に入れる量も少なくてすむ。というのも、おかずはあくまで、ごはんをたくさん食べるための食欲増進剤なのだから。農作業の弁当には、やっぱり腹もちのいいもち米でなければならないのだ。彼らは、その蒸したもち米に手をのばし、親指にのるくらいの量のもち米をとり、指の腹で押して軽く固めてから、おかずの汁をちょいとつけて口に運ぶ。
スプ・ノーマイもプラー・ソムも、八人ぶんの弁当だというのに、不思議なほど量は減らない。一度に口にする量が本当に少ないのだ。そして、小さなもち米の固まりを口に入れたら、再びもち米に手をのばすまでが、のんびりと長い。
そんな昼ごはんの風景は、ぎっしりごはんをつめ、色とりどりのおかずを盛りこんだ弁当をほおばる日本のそれとは、まるで別世界のものである。
太陽が真うえにのぼった夏の午後、豊かに水を満たした水田風景のなかで、国境の街ウドンタニの時間がゆっくりと流れていく。
ごはんもおかずも半分近く残したまま弁当箱を重ね直して、再び彼らは水田に戻っていき、私はもと来たあぜ道を歩きながら、ときおり振り返って彼らに手をふった。
私の手元にある「運動会のお重」は、たとえばこんな風景のなかで、こんなふうに使われていた。
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タイ米の炊き方指南[#「タイ米の炊き方指南」はゴシック体]――クラトゥック・カオ[#「クラトゥック・カオ」はゴシック体]
カオ・ドークマリ。
スパンブリー。
ピサヌクローク。
美しい音の響きを持つこれらの言葉は、なんの名前だと思いますか。
じつはね、タイのうるち米の品種の名前なんです。どうです、唇から音符がこぼれるような、この軽やかな語感。しかも、「ドークマリ」は、ジャスミンの花という意味だ。「カオ」は、米。つまり、ほのかなジャスミンの花の香りをもつ米、というわけである。いっぽう「スパンブリー」と「ピサヌクローク」は、米の産地の名前をそのまま冠したものだ。このほかにも、まだまだたくさんある。「コーコー」、「ホムマリ・ピセート」、「サオハイ・ピセート」、「カオ・チョンムーホン」……。
今になって、はた、と膝を叩く。
「タイ米」などと荒っぽくひとくくりに呼んだりしないで、「カオ・ドークマリ」や「ピサヌクローク」と、タイの名前そのままのブランド名≠ナ、世間にデビュー≠ウせてやればよかったのだ。「タイ米はパサパサ」だの「匂いがどうも」なんていう意味のない比較の余地を与えず、きっぱりイメージ戦略に徹する、と。今からでも決して遅くはないと思うのだが。
それができるのも、タイの米はそれに見合う実力派だからだ。なにしろ五十五種にも及ぶ品種があり、それらは大きく三つのグループに分けられる。
ひとつは、うるち米「カオ・チャオ」ともち米「カオ・ニィャオ」。ひとつは、水のうえを漂流するように育つ浮き稲「カオ・クンナム」。そして残るひとつは、畑で栽培される陸稲《おかぼ》「カオ・ライ」。それぞれのなかで、さらに品種が細かく分類され、もちろん品種改良も盛んだ。さらに、そのうえ。なにかとぶつぶつ文句の多いニッポン方面対策には、より日本の気候に近い北部のチェンライやチェンマイでジャポニカ米が研究、生産されている。こんな研鑽ぶりを知れば知るほど、タイの米が「タイ米」と十把ひとからげにされているのが、つくづくくやしい。
そう思うようになったのは、タイの米屋の店先を見て、腰を抜かしてからだ。大きなタライに積み上げられた生米が、ずらりと十数種。赤米「カオ・マンプー」も、精米されていない「カオ・チョンムーホン」だって揃っている。主婦たちはそのなかから、自分や家族の好みと財布の中身に合わせて自在に米を選び分けるのだ。
ひゃあ、これはすごいや。それに較べれば私なんか、近所の米屋の店先に黙って立てば、ハンで押したようにいつもと同じ米が同じ量だけ目の前に運ばれてくるという、きわめてなまくらな状況です。もっとも、けっこう大きな構えの米屋にだって、揃えてある米の種類はせいぜい五つくらいのものだ。米の品種もブランド≠烽「っぱいあるだろうに、考えてみれば奇妙なことである。日本じゅうそんな様子だから、ある日突然、タイの米が店先に並んでも、みんなうろたえるばかりだった。なにしろ、料理によって使う米を変えたり選び分けたりする下地が、まるきりない。だからタイの米に対してだって、「サラダ油を大さじ1混ぜて炊いてみましょう。こうすれば、いつものごはんに近い炊き具合に仕上がります」なんて、とんちんかんな具合になってしまったのだ。
もちろん、タイの米には、タイの米に合う炊き方がある。
うるち米「カオ・チャオ」の場合、そもそもタイでは米と多めに入れた水を火にかけ、炊きあがったところでおネバを捨てる「湯取り」が伝統的な方法だった。ところが、バンコクを中心に日本製の炊飯器が売られ始めて、状況は一変した。炊飯器を使えば、スイッチポン。つまり、炊き方は私たちとまるでおんなじ。
そこで以下、バンコクの主婦直伝です。
@大きめのボウルに米を入れ、多めに水を注いで、手のひらで軽く米をもむ。その手つきは、「とぐ」というより、あくまで優しく「もむ」。水を捨ててはもみ、これを三回ばかり繰り返す。
A内釜に洗った米を入れ、水を入れる。量の目安は次のように測ります。ここが、かんじん。目安は、手のひらをぺたっと米の表面につけ、五本の指のつけねが水で隠れるくらい。ようするに、水の量は少なめです。あとの作業といえば、スイッチを入れるだけ。炊きあがったごはんをよそうときは、全体を混ぜたりほぐしたりせず、しゃもじで表面をかき取るようにする。
Bお皿かアルミのボウルに、どぉんとこんもり盛って食卓に出す。
あまったごはんはお粥にしたり炒めたり。粘りがないから、さらっとしたお粥ができるし、炒飯はパラパラに仕上がる。
いっぽう、もち米「カオ・ニィャオ」の場合は、これはスイッチポンより、蒸すほうが絶対においしい。
こちらは、北部チェンライの主婦直伝です。
@うるち米と同じように洗った米を、円錐形の竹のこしきにあける。
A湯を沸騰させた細長い鍋に、@のこしきをのせて、木のふたをして蒸す。時間にして、そう三十分ほど。
B炊き上がったもち米は、竹を薄くはいで編んだ小さなお櫃「クラトゥック・カオ」に入れて食卓に出す。「クラトゥック・カオ」に入れておけば、通気性はいいし、ごはんが乾きにくいから。
食卓のまんなかに、この「クラトゥック・カオ」を置いて、家族みんながそれぞれ手をのばす。これが、もち米の食べ方だ。きゅっと指の腹でつまんで押さえ固め、そのはじっこを炒めものの汁にちょっとつけて食べる。これがまた、おいしい、おいしい。
なにも、みんなそろって今日からタイの米でタイの料理に挑戦しましょう、とは言わない。
少なくとも、今日は焼き魚と味噌汁だから「ササニシキ」にしましょう、とか、今日は焼豚と卵入り炒飯だから、「カオ・ホンマリ」にしましょう、とか、うんと気軽に選べるようになるといいなぁ。まずはこれが、私のささいな希望です。
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サンカンペン村から[#「サンカンペン村から」はゴシック体]――竹の盆[#「竹の盆」はゴシック体]
「あぁ、これはタイのサンカンペン村のものですよ」
数年来私が使っている漆の盆は、たしかタイのどこかで手に入れたものだったとは思うのだが、どうも記憶がはっきりしない。ただし、しろうとの私が見ても、この小さな盆が漆工芸として未熟なものだということは、一見してわかる。毎日毎日、台所から食卓への「通い盆」として使ううち、ふちの竹はささくれだって崩れてきはじめた。しかし、それでも、オーバル型の盆のかたちはいつ見ても感心するほど美しく、ましてや黒漆の下から少しずつ朱色が顔を出してきた様子に、ますます愛着がかきたてられるのだった。
もはや、この盆は私の暮らしにはなくてはならない親友のような存在だ。いったい、どこの漆なんだろう、といったん気にしはじめれば、知りたくてしようがない。
そんなわけで、漆芸家でアジア民族造形文化研究所教授の夏目有彦さんに、この漆盆をお見せしてみたのだった。
そして、先生は言下に「サンカンペン村」の名前を口にし、私の愛用の盆の生まれ育ちは瞬時に明らかになった。そして、黒漆のなかから浮き出ている朱色は、漆の色ではなく、なか塗りのとき補強のために漆に混ぜたベンガラ(酸化第二鉄)の色だということも、初めて知った。
とにもかくにもタイのものとわかると、この味わい深い漆塗りの風合いにも納得がいく。
バンコクの目抜き通りスクムヴィットから横道を入ったところに、タイの伝統工芸品を扱う店「ラシ・サヤム」がある。
三十坪ほどの一軒家のなかには、北タイ独特の高台つきの器や、美しいカーヴィングをほどこしたモーディン(素焼きの器)、ヤーリッパオ(いぐさのようなじょうぶな草)を南タイの伝統的な編み方で織り上げたかごや盆、アンティークの弁当箱、タイシルクの布などが、まるで美術館の陳列のようにずらりと、そして愛おしげに並べられている。入口の階段を上がって店を訪れるたび、久しぶりにともだちのうちを訪ねたようななつかしさと安心感を味わうのは、ここの品揃えに、ある親しい視線を感じるからだ。
店主に会って、その理由はすぐに判明した。
「タイの人々が作りだす民芸品は、ほんとうに美しい。道具や器は、僕にいわせればそのまま美術品です。しかし、年月がたつにつれてタイの人々はどんどんその美しさを捨てているような気がしてならない。だから、僕は外国人だけれども、タイの美しさを守り、伝えていく役割を担っていると自負しているのです」
ビジネスマンとしてふた昔ほど前にタイを訪れたアメリカ人ハイセン氏が、タイで暮らすうちに民俗工芸品の美しさの虜になるには、そう長くはかからなかった。そして彼は、半世紀前に建てられた古い家を買い、長年かけて蒐集したタイの工芸品の店をつくった。それが「ラシ・サヤム」である。
さて、「ラシ・サヤム」に足を運ぶたび、密かに再会を楽しみにしているものがある。店の奥まった棚に飾られた、ミャンマーの古い籃胎《らんたい》朱漆籠だ。ミャンマーではタミン・オーと呼ぶこの大きな籠に食物を入れ、ここから食器に盛り分ける。
大きな台形を逆さにしたような、たっぷりと深く端正な姿。しっとりとした色合いに彩られた漆。そして、歳月を経てところどころにあらわれた黒い漆――これは、まさしく日本の漆工芸「根来《ねごろ》塗」と同じものだ。店にあるのは、そのときどきで大きさも姿かたちも少しずつ異なってはいるが、しかし「ラシ・サヤム」の奥の棚には必ず、籃胎朱漆籠が静かに座っていて、この造形の美しさに対するハンセン氏の強いこだわりを物語っている。
「いつもミャンマーのものが置いてあるようですが、タイには同じような漆塗りのものはないのですか」
「たしかにタイにも朱漆の盆や長脚卓が数多くありますが、これと同じものは、僕は見たことはありません。ミャンマーの漆はすばらしい。現在では、むしろ盛んに漆工芸が行われているのは、タイよりもミャンマーです」
じつは、ミャンマーの漆工芸は九世紀ごろ、タイ北部の部族によって伝えられたとされている。ミャンマーでは鎖国と同じような状況が長く続いたために、漆塗りの技法やデザインにほかの国の影響が見られず、独自の漆工芸が発達してきた。そして、もともとタイからミャンマーに伝えられた漆塗りは、今ではわずかにサンカンペン村にだけ残されているのだった。
思いもかけず、私の手元にある小さな雑器には、インドシナ半島の漆塗りの歴史の片鱗が封じこめられていた。
このわが家の「通い盆」のうえに、ある朝にはミルクティとトースト。ひとりで食べる昼ごはんには、ごはんと味噌汁と漬けもの。夏なら麦茶をのせ、冬ならみかんを盛ってお客に出す。縁をたぐって手元に渡ってきたタイの昔ながらの漆塗りが、日本の私の暮らしを支えてくれている。
そのことが少しばかり不思議で、しかしなんだか愉快にも思われて、訪れたこともない「サンカンペン村」の風景と、わが家の小さな台所の像が重なる。そしてときおり、あのぴんと張り詰めたようなすがすがしい空気に満たされた「ラシ・サヤム」のたたずまいが、目の前にくっきりと浮かびあがってくる。
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幸せの石の音[#「幸せの石の音」はゴシック体]――クロック[#「クロック」はゴシック体]
タイ料理のかなめは、やっぱりクロックに尽きる。
クロックは石製の臼で、たとえばカレーならば、まずはルートパクチー(香菜《シヤンツアイ》の根)やプリック(赤唐辛子)、にんにくなどを入れてサーク(石の叩き棒)で根気よく叩き潰す。クロックとサークがぶつかりあってコツコツコツと乾いた石の音を響かせるうち、しだいに鼻をくすぐる刺激的な香りが渾然一体となって立ちのぼる。これが料理の第一段階だ。また、野菜などの柔らかな素材を軽く潰すときにも、クロック。東北タイの名物料理、青いパパイヤのあえもの「ソムタム」をつくるときには、まずプリックやにんにく、沢蟹を入れて叩き潰す。そこへ細切りにしたパパイヤを加えてサークで叩き混ぜる。クロックは、臼とボウル両方の用途を兼ね合わせており、なにしろこれがなければタイ料理は始まらない。
クロックの軽快な音はタイの家庭の幸せの象徴であり、音を聞けば、料理上手かどうかすぐにわかるともいう。なにしろ、品質のいいものなら数十年は使えるというクロックだ、きっと母から娘へと大切に引き継がれていくに違いない。
そう踏んで聞いてみると、ワラポンおばさんが首を振り振り言うことには、
「結婚のときはクロックなんかよりお金のほうが大事でしょ」
だって、お金があれば新しいクロックはいつでも買えるのだからね。あっさりとこちらの予測を裏切ってくれました。
「私が使ってるのは、若いころ子守に働きに出たとき、お給金に払うお金が足りないっていうから、そこのうちの上等なクロックをもらってきたものだし」
直径二〇センチのその立派なクロックのなかでプリックとにんにくを叩いてから、彼女は頭と足と殻を取ったメンダー(タガメ)を入れる。市場で一匹一匹入念に選んだオスのメンダーだ。サークで叩くたび、音はぐしゃっぐしゃっと湿り気を帯びる。そこへナムプラーとマナオ(ライム)の搾り汁を入れると、メンダー入りの辛いタレ「ナームプリック・メンダー」のできあがりだ。
キャベツやゆでたたけのこに「ナームプリック・メンダー」をつけて食べると、これまでに一度も経験したこともないような、えもいわれぬ奇妙な爽快感が口いっぱいに広がる。この摩訶不思議な味にいっしょに舌鼓を打ちながら、ワラポンおばさんはいいクロックの条件を教えてくれる――何十年も使おうと思ったら、まずアンシラー県チョンブリ産のものを選ぶべし。色は、決して白っぽい色が混ざっているものではいけない。必ず、黒みがかった深緑色を。
「お給金のかわりにもらってきたのが、まさにその条件を全部満たすこのクロック。どうせなら、こういうのに目をつけなさい」
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トンビが鷹を生んだ話[#「トンビが鷹を生んだ話」はゴシック体]――素焼き土鍋[#「素焼き土鍋」はゴシック体]
バンコクの繁華街の一角に「フカヒレ小路」がある。といっても三、四軒のフカヒレの土鍋煮こみ屋が軒を連ねているだけなのだが、闇にまたたく派手なオレンジ色のフカヒレ型ネオンサインの列は、その一角を異空間に仕立て上げるほどの強烈さ。試しに鼻を鳴らしてみると、こってり濃厚な匂いがあたりを満たしているのに気づく。
そういや、おなかが空いてたなぁ。というわけで、またひとりフカヒレに目をくらませたカモが吸い寄せられていく。
ガラス張りの厨房をのぞくと、水につけてもどしたフカヒレをのせたザルが何枚も重なっている。すみっこでは、乾燥したままのフカヒレを、下働きのおにいちゃんたちがバケツの水のなかに入れて掃除している。厨房にはフカヒレがあふれているのだが、じっくりフカヒレを観察してみると、これがちょっといけない。だって、どのフカヒレも繊維は極太で、がさがさで、キメだってうんと粗い。
うーむ、この様子では、お味のほどは推して知るべし。ひと目で粗悪なしろものだとわかるのだが、ところがどっこい。捨てる神あれば拾う神あり。
横長のコンロにずらりと整列した素焼きの土鍋は、あれはなんだ。ぼってり厚い。釉薬《ゆうやく》はいっさいなし。底がまっすぐ平らでコンロのうえに根が生えたような、どっしりとした安定感。中途はんぱにぶった切った丸くて太い持ち手。あの土鍋でフカヒレを煮こむのか、と思った瞬間に、どっとつばが湧いた(どんな「味覚の神経」をしているのだろう、私は)。
ようやく土鍋がテーブルにやってくるまでに、シンハービールが三本、空になった。ついに登場したフカヒレの土鍋煮こみの味は、哀れ予想通り。背脂といっしょに煮こんだこってり醤油味はぎとぎと脂っぽく、食べるたびにビールで口をゆすぐ結果になる。もうだめだ、降参だ。
しかし、箸を置いた私は、食卓にでんと座っている土鍋から目を離すことができなかった。背脂や焦げた醤油や、沸騰してこぼれた煮汁がしみこんで土鍋は外側までまっ黒なのだが、いいんだなぁこのかたちが。そうだ、そういえば、ずうっとゆきひら鍋を探していたのだった。お粥さんをことこと炊く、ゆきひら鍋。これだこれだ。この土鍋がぴったりだ。日本円にして二千五百円のフカヒレ煮こみはさすがに業腹だったが(しかも半分以上残した)、この土鍋は出色のめっけもの。
以来四年。なにしろ、じっくりじわじわ火が通る。熱の当たりはとろとろと柔らかい。雑炊もお粥も、この土鍋ひとつで向かうところ敵なしのおいしさ!
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はさみ打ちの名人芸[#「はさみ打ちの名人芸」はゴシック体]――竹串[#「竹串」はゴシック体]
たとえば鯛を焼くとき、生きたまま跳ねているようなかたちに焼きあげるには、躍りぐし。小さな魚を何尾かいっしょに焼くときには、末広打ち。えびの身をまっすぐ焼くには、のしぐし――魚を直火焼きにするとき、仕上がりの姿かたちを美しく見せるために、日本料理ではじつにさまざまな串の打ち方を工夫する。焼き魚のように、打った串をあらかじめ抜いて供するときには金串だが、串ごと手に持って熱々にかぶりつく素朴な料理には、やはり竹や杉、檜《ひのき》など樹木を削って作った天然の串に勝るものはない。
直火で焼くというきわめて原始的な調理法には、野趣に満ちた串を使ってこそ。いぶされた樹木の香りもまた、おいしさを高める隠し味のひとつだ。
さて、東南アジアを旅していると、思わず数歩あとずさって「まいりましたっ」と叫びたくなるほど、あまりに機能的な竹串の使い方をあちこちで目にする。その極めつけが、タイの屋台で売る焼き鶏「ガイ・ヤーン」や豚肉のあぶり焼き「ムー・ヤーン」。
竹の使い方は、といっても、なに難しいことは一切ありません。細く切った竹の棒の根元を少しだけ残して、あとをたて半分に割る。間に下味をつけた肉をはさみ、先っちょを針金でくるくると二、三回巻いて縛ればできあがりである。いや、こう聞けばなんのことはないのだが、どうしてどうして。だって、竹のあの弾力性やしなり具合や強度を考えてみてください。はさんだ肉は竹の間でぴしりと固定されて、うんともすんとも動かない。炭火にかざして肉が縮めば、竹はそのぶんだけ自然に内側へしなっていき、相変わらず肉はしっかり竹の間にはさまれたままだ。
躍りぐしも末広打ちも真っ青のこの技を、そうだな、名づけて「はさみ打ち」。
三六度を超える、ある暑い昼下がり。イサーン地方のでこぼこ道を砂煙をたてて走り続け、峠の茶屋でひと休みとなった。店の前では、炭火のうえの「ガイ・ヤーン」が香ばしい匂いを振りまいて客引きをしている。竹の間でこんがり焼けているのは、「はさみ打ち」された地鶏が半身ぶん。とたんにクーッとおなかが鳴って、おばさんおばさんこれくださいっ。
青空の下のテーブルに座って夢中で鶏をむしりながら、ふと耳をすますと、店の奥からスコーンスコーンと乾いた小さな音が聞こえてくる。おや、なんの音だろう。
少年が手刀を握り、一定のリズムで幅一センチもない細い竹の棒の中心に、すぱりと見事な切れ目を入れている。足元には数百本の竹串の小山だ。
スコーンと手刀を入れれば、鮮やかな一本の割れ目。
いよっ名人芸!
隣の丸椅子にぺたりと腰を下ろし目を丸くして見つめている私には目もくれず、少年はひたすら黙々と竹を割る音を響かせ続けている。
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黒い鉢のなかの功徳[#「黒い鉢のなかの功徳」はゴシック体]――バアツ[#「バアツ」はゴシック体]
朝もやのなかから、黄衣《チーオン》に身を包んだ僧の姿があらわれた。
あっちの路地からひとり、こちらの四つ角からふたり、と数える間もなく、黒いバアツを両手で抱きかかえた裸足の僧が、みるみるうちに通りに列をなして音もなく歩いていく。あたり一帯には肌を引き締めるような澄みきった冷気が満ち、夜も明けきらぬ薄暗い街をゆっくりと動く黄衣の深い色彩は、息を飲むほど美しい。
人々は静かに近づいてワイ(顔の前で両手を合わせ深く頭を下げる拝礼)をし、今朝の捧げものをバアツのなかに差し入れ、なにごとかを口のなかで唱えて再びワイをする。目を伏せ、しばらく歩みを止めていた僧は再びバアツのふたを閉じて静かに歩き出していく。
タイの朝は、来る日も来る日も、このサイ・バート(施し)の光景から始まる。
バアツは、托鉢を行うときに僧が携える大きな黒い鉢である。それは、僧であることを示す存在であり、同時にタイの人々のふだんの暮らしと、その食生活の基本を示す重要な鍵でもある。
タイの人々にとって、バアツのなかへ食べものを差し入れることは、日々の徳を積む行為そのものだ。小乗仏教を信仰するうえでは、日常生活のなかで個人ひとりひとりが徳を積むことで、自らの救済が得られると考える。だから、まるで競い合うかのように、人々は僧や寺にこぞって寄進する。バアツのなかに、自身の救済を託しているのだ。
一方、僧にとっても、バアツは僧としての務めを果たすための大切な修行道具である。
僧は、毎朝の托鉢に出てサイ・バートを受けては、食べものをワット(寺院)に持ち帰り、その日の糧を得る。托鉢をすることをピンタ・バートというが、ピンタ・バートの修行もまた重要な戒律のひとつだ。そして僧の毎日の食生活は、ピンタ・バートで得た食物と、ときおり寄進によってふるまわれる食事によってまかなわれている。
はて、だとしたらバアツのなかには、どんな食べものが入っているのだろう。ふだんの暮らしのなかに、「徳を積む」という習慣も概念ももちあわせない不徳な私は、バアツの中身が気になってしようがない。
人の「徳の中身」を覗くなどなんと品のない、と自分をいさめてみても、いったん下世話な興味が頭をよぎると、それはむくむくとふくらんでいくばかりで、どうにもこうにも抑えがきかない。
そして私は、ある朝、四時半に目覚まし時計を鳴らして、眠い目をこすりながら街へ出ていった。
僧は、自分の手が見えるくらいに夜が明けたら、ピンタ・バートに出るという。だから人々は、僧が通りに出る少し前に起き出して今朝の捧げものの支度をすることになる。
まだどこを見回しても、僧の姿は見えない。しかし、試しに自分の手に視線を落としてみると、おやおや、手の小さなしわまではっきり見えているではないか。もうピンタ・バートは終わってしまったのだろうか。
眠気でぼんやりした頭を揺すりながら、タイ北部の街チェンライをふらりふらりと歩いていく。
と、突然、背後でガラガラと音をたててシャッターが上がり、思わず振り返ると、そこには目にもまぶしい金のブレスレットやチェーンがずらりとショーウインドウに並んでいる。この一軒は、貴金属店なのである。そして、金塊の向こうから、初老の婦人が白いごはんを盛ったホウロウの盆を捧げ持ち、サンダルをつっかけて表に出てきた。そのあとに嫁か娘なのだろう、バナナと揚げ魚を皿にのせた三十代の女性が続く。店の前に二人が出ると、驚いたことに、いつのまにか二人の僧がこちらを目指して歩いてくるではないか。
僧の姿を認めると、二人はかたわらのショーウインドウにいったん盆を置き、僧が目前に立つのを待ちかねたように両手を合わせてワイをする。そして、しゃもじを取って、盆からごはんとバナナと揚げ魚をそれぞれ半分だけ最初に並んだ僧のバアツに入れ、僧がふたを閉じると二人そろってもう一度ワイを繰り返す。交代に後ろから進み出た僧のバアツにもまた、残りのごはんとバナナ、揚げ魚を差し入れて、同じようにワイをする。
あわててそばの私も両手を合わせながら、僧が抱えたバアツのなかにこっそり目をやると、バアツのなかには六分目ほどごはんが入っており、その脇に寄せるように揚げ魚とバナナが置かれていた。ゆっくりと視線を上げながら、そこで初めて僧の顔をうかがうと、二人ともまだ十代の若い修行僧である。
二軒隣の雑貨屋では、輪ゴムで口を閉じたビニール袋に入った赤いカレーと、たけのこの炒めものを。数メートル先の路地から出てきた男性は、ほかほかと湯気が上がる炊きたてのごはんを。誰もが、真剣な表情で、それでいていそいそとバアツのなかに今朝の捧げものを差し入れる。
僧たちは、サイ・バートを受けるあいだ、終始バアツのなかを見つめたきり視線を動かさない。誰がどんなサイ・バートをするのか、直接そのひとの顔を見てはいけないという戒律があるのだ。そして、バアツのごはんの重みをずっしり手にして、早朝の街から再びワットのなかへ吸いこまれていく。
いっぽう、不謹慎なニッポン人はさっきの二人の僧のあとをこっそりついていきながら、彼らが消えていったワットの場所を頭のなかに刻みこんで、もと来た道を引き返す。
「私たちには全部で二二七の戒律があります。そして、そのすべてを守りながら修行をするのです」
ホテルに戻ってひと眠りしたのち、さっきのあのワットを探し当てた私は、ここで最も位の高い僧と向かいあっている。
ワットのなかには石のタイルが敷きつめられ、裸足の裏にひんやりと冷気が迫る。
僧は私に触れぬよう、私のからだが動くたびにすっと一定の距離を空ける。女性のからだに決して触れてはいけない――これもまた二二七の戒律のひとつであり、触れた瞬間に長年の修行は台無しになってしまうという。
「いただいた食べものは、なんでも食べます。ピンタ・バートから戻ってくると、まずデク(寺男)にバアツを渡し、それをデクが皿に移し替えてから二度の食事に分けて、みなで食べるのです。僧は自分で料理をつくることはせず、ピンタ・バートとニーモン(寄進)に招かれていただくときの食事がすべてなのです」
ちょうどこれから二度目の食事が始まりますから、その様子を見たければ遠慮せずにそこへ座っていらっしゃい。穏やかな高僧の目の奥はあたたかさに満ちているが、どっしりと揺るぎがない。そして視線の表情はしんと静まりかえっていながら、こころのなかにまっすぐ射しこむように入ってきて、私を圧倒する。唐突な来訪を快く受け入れてくださった厚情にひたすら感謝して、私は思わず握手を求めようと手を差しのべ、あわててその右手をひっこめ無作法を恥じた。そして、深く頭を垂れてワイをしたのだった。
石造りの本堂のなかに響くパーリ語の読経は、まるで美しい音楽のようだ。円座を組んだ十二人の僧が微動もせずによみあげる食事の前の唱和は、いつ果てるともしれない。
目を閉じて聞き入る私の鼻先に、ふいに唐辛子とココナッツミルクの香りが漂った。付け焼き刃の瞑想は、こうしてあっけなく食べものの匂いに中断されてしまうのだから、お里は知れたものだと密かに顔を赤くする。それでも薄目を開けて匂いのありかを探ると、私の隣にはいつのまにか、いんげんやたけのこを煮こんだキェーンの鍋を携えた主婦が座っている。彼女は、僧侶たちにとって一日の最後の食事のためのサイ・バートにやってきたのだ。
長い唱和が終わった。
彼女は腰を低くかがめて円座ににじり寄り、あたたかい鍋を中心に押し出す。
十二人の僧は無言のうちに、いっせいに両手を合わせ、座の外で彼女は足を横に折って座り、石の床に額をつけて深く深くワイをする。
そしてようやく、十二人の僧は音もなく静かに食べものに手をのばすのだ。
バアツのなかに捧げられた「徳」は、たとえばこんなふうにして、日々、僧の守るべき戒律をかたちづくり、と同時に僧の胃袋を満たしている。
つまりバアツのなかで、タイの人々の信仰のかたちは見事に均衡を保ち合い、円環をなしている――。
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アジアで覚えた、あの料理――1[#「アジアで覚えた、あの料理――1」はゴシック体]
裏通りの食堂で食べた味がなつかしくて[#「裏通りの食堂で食べた味がなつかしくて」はゴシック体]
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干し豚肉の香り焼き[#「干し豚肉の香り焼き」はゴシック体]
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バンコクの小さな街で、人気の食堂の裏庭をのぞいたときのこと。大きなザルに、下味をつけた牛肉の薄切りがずらりと並べて天日に干してあった。「これでビールを飲むと、そりゃうまい」。店のおじさんが自慢げに教えてくれたっけ。肉を乾かして適度に水分を抜くと、うまみがぐっと濃くなります。このレシピは中国風の味つけ。食べるときは、ぶつ切りにする。
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材料
豚バラ肉の塊り(脂身の少ないところ)700g 五香粉 大さじ1/2 黒こしょう(粗挽き)小さじ2 粗塩 大さじ2
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作り方
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1 豚バラ肉は塊りのまま、数ヶ所に包丁で切れ目を入れる。
2 五香粉、黒こしょう、粗塩を全体にまんべんなくふりかけ、手で肉にすりこむようにしてなじませる。
3 肉を風通しのいい場所に吊るし、表面の水分がなくなってさらりとするまで半日から1日陰干しする。
4 約200度のオーヴンで、そのまま焼く。たっぷりの油でそのまま素揚げしてもおいしい。
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ラープ・イサーン[#「ラープ・イサーン」はゴシック体]
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タイ東北部イサーン地方の、それはおいしい郷土料理。ラープを食べるといつも、緑美しい水田風景が目の前に広がる。もち米を指先で固めてラープの皿の汁をちょっとつけて食べるのが、タイスタイル。炒ったお米の香ばしさもごちそうのひとつ。
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材料
豚ひき肉(赤身)200g 紫玉ねぎ(薄切り)1/3個 万能ねぎ(ざく切り)5〜6本 生米 大さじ2 ナムプラー 大さじ2 レモン汁 大さじ2 粉唐辛子(粗挽き)小さじ1/2 水 大さじ1 ミントの葉 少々 キャベツ 適宜
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作り方
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1 生米は香りが出てきつね色になるまでフライパンで空炒りし、ミキサーにかけて粉にする。
2 フライパンに豚ひき肉と水を入れて火にかけ、肉が白くなったら火からおろす。
3 2をボウルに入れ、冷めたら1の米、紫玉ねぎ、万能ねぎ、ナムプラー、レモン汁、粉唐辛子を加えて混ぜる。
4 器に盛ってミントの葉を飾る。食べやすい大きさに切ったキャベツの葉に、3をのせて食べる。
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インドネシア[#「インドネシア」はゴシック体]
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「お母さん、宝ものがまた増えたね」と娘が笑う。
台所もまた歴史を歩む。
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椰子の実ひとつ[#「椰子の実ひとつ」はゴシック体]――ココナッツの殻のしゃもじ[#「ココナッツの殻のしゃもじ」はゴシック体]
その奇妙な靴ベラのような形の「道具」は、竹を編んだ器に盛られた白いごはんのなかに、半分埋ずもれるようにつっ立っていた。見慣れぬ光景に私たちがとまどっていると、腰にサロンを巻いたウェイターが近づいて「道具」をやおら手に取り、もう片方の手で漆黒の空を指さしてみせる。
「コレハ、ココナッツノカラ。ソラカラオチテキタ、ココナッツ」
インドネシア、バリ島の夜更け。私たちもつられて真っ暗な空を見上げながら、思わずうなずく。そうか、これはココナッツの殻を削って作った、インドネシアの「しゃもじ」なのである。
黒光りするほど磨きあげられた、すべらかな手触り。すくったごはんを内側に抱きこむ、柔らかな流線型を描くカーヴ――十年近く前の夜、蓮の花が咲く池のうえに回廊をめぐらせた気取ったレストランで、私は雰囲気に酔うことも料理を味わうことも忘れて、初めて出合う「しゃもじ」の美しさに見惚れ、自然を生かす知恵の深さにひたすら感服した。
アジアの台所には、身が弾かれるような楽しい驚きがいっぱいつまっている。インドネシアにはインドネシアの、韓国には韓国の、ベトナムにはベトナムの。ごく当たり前の顔をして台所におさまっている鍋釜や調理道具のなかに、気候風土や食文化の輪郭が鮮やかに照らし出されている。そこに生きているのは、近代的な工業技術や合理性を軽々と超えた、ひとの暮らしの知恵や工夫そのものだ。そのあたたかさに魅かれつづけるまま、気がつくと私の台所には、数多くのアジアの調理道具が集まっていた。
そして、ひとつずつ新しい顔が加わるたび、決まってある同じ胸の高鳴りを覚える。
昭和四十年代のはじめ、わが家にオーヴンがやってきた。初めて目にした巨大な銀色の箱は、台所にさん然たる輝きを放ち、その圧倒的な存在感に家族中が目を見張ったのだった。
母はまず、シュークリームづくりに熱中した。学校から戻ると、家中いっぱいに満ちているカスタードクリームの甘い香り! 焼きあがったばかりの皮が冷めるのも待てずにナイフを入れ、そこへまだほんのりあたたかいカスタードクリームをつめるのは、私と妹の役目である。皿に盛ってお茶を入れるのももどかしく、そのままがっぷり頬張ると、口いっぱいに卵と牛乳の優しい味が広がった。しかし、皮が思いどおりにぷっくりとふくらまないことに業を煮やした母は、粉の配合を変え、温度を微妙に変えては連日オーヴンと格闘を続けた。魅惑的な甘い香りは、悲しいかな、日を追うごとに胸につかえはしたが、それでも家族の面々はその日その日の焼き上がりに一喜一憂しながら、わが家のオーヴンで焼くシュークリームのおいしさに夢中になった。
二層式冷蔵庫が、やってきた日。
アメリカの密閉容器が冷蔵庫のなかに並んだ日。
電子レンジが運びこまれた日。
それはいつでも、胸がどきどき高鳴るような興奮をまきおこした。と同時に、台所の風景は昨日よりも不思議に新しく見え、少し得意げな母の表情はピカピカ輝いて映った。
また、三十数年前のある華やいだ夏の昼下がりの風景を、私は今でも鮮明に思い出す。
その日は、わが家に母の友人たちがたくさん集まっていた。応接間のテーブルには、さまざまな大きさの密閉容器があふれんばかりに積み上げられ、母親たちはそのアメリカ直輸入の製品を品定めしながら、おしゃべりに花を咲かせた――昭和四十年前後に流行した「タッパウェア≠フホームパーティ」である。子どもには「プラスティックの四角や丸い箱」が、なぜあれほど母親たちを沸かせるのか、そのわけはいっこうにわからなかったが、なにか新しいできごとが母親たちをわくわくさせていることだけは敏感に感じとった。ときおり弾ける歓声を耳にすると庭先の水遊びにもいっそう興が乗り、一列に並んだひまわりの黄色もことさらまぶしく目に映っていた。
日本の台所が一変していく昭和三十年代から四十年代、加速度を増してどんどん「便利」になっていくさまをつぶさに目にしながら、やっぱり子どもの心も躍っていた。
しかし、そのかたわらでひとつひとつ、さまざまな「道具」たちが姿を消していった。密閉容器のかわりに、蠅帳《はいちよう》が。ダイニングセットのかわりに、ちゃぶ台が。ガラスで中が見える食器棚のかわりに、年代ものの茶箪笥が。そして同時に、少しずつ台所は機能的な「キッチン」に変身していった。
さて一方、アジアの台所道具は、「機能的な便利さ」や「合理性」と引換えに姿を消していった日本の道具たちに通じている。しかし、それらは使えば使うほど、しっかりと手肌になじんでいき、気がつけばどの道具も私の台所の風景のなかに奥深く溶けこんでいる。電子レンジの手軽さは、もはや手放せないが、「チン」してあたため直した煮ものを取り分けるとき、私にとってはやっぱり、柔らかな素材を決して崩さないココナッツの殻のスプーンでなくてはならない。ステンレスのレードルがどんなに半永久的に丈夫でも、いくら計ったように決まった分量が入れられても、鍋のなかのほくほく煮えたじゃがいもや、ねっとり仕上がったかぼちゃをすうっと分断してしまう。
うっかり「切れ味」がよすぎて、その便利さにむしろ鼻白む経験を何度となく繰り返すうち、煮えた野菜とココナッツの殻との絶好の相性に納得いったのだった。
こんなふうに、アジアの台所道具は、素朴で無骨とさえ見えるなかにも、必ずどこかに優れた知恵が見つかる。そして、それぞれの風土や文化のなかで生まれた独自の「機能性」に、かぶとを脱ぐ。そのたび、昔味わったと同じように心はわくわくと躍り、むしょうに胸が弾むのだ。
私の顔を眺めて、娘は「お母さん、宝ものがまた増えたね」と笑い、つまり台所は同じような歴史を繰り返している。
今夜の夕食は、ほうれんそうとチキン、カリフラワーとじゃがいも、ダール豆の三種類のカレーだ。ベトナムで見つけた大理石の臼にスパイスを入れ、時間を忘れてのんびり気長に叩き潰しながら、ふと思う。私の暮らしは、アジアの台所道具たちによって、日々癒されているのではないか、と。少しずつ油やスパイスの色を吸いこんで微妙に色合いを変え、年月を重ねるうちに次第に磨耗されて、ココナッツの殻の「道具」は、ますます柔らかな曲線を描いていく。その様子は、どんなときにも目にも手にも優しく、野菜や肉にも、優しい。
いちにちに何度となくココナッツの殻に触れながら、黒い靴べらのような「しゃもじ」に初めて出合ったときの驚きは、いまだに鮮やかに私の手のなかにある。
はるばる海を渡って、わが家の台所に椰子の実ひとつ。ごしごし水で洗いながら、こんな詩がふと、頭をよぎる。
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名も知らぬ遠き島より
流れ寄る椰子の実一つ
故郷の岸を離れて
汝はそも波に幾月
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[#地付き](島崎藤村「椰子の実」より)
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竹で送る風[#「竹で送る風」はゴシック体]――竹のうちわ[#「竹のうちわ」はゴシック体]
ゆがいた青菜やいんげんの粗熱を取る。
しゃもじでごはんを切りながら、寿司飯に風を送る。
手で裂く前に、酒蒸しにした鶏のささ身を冷ます。
殻をむく前に、ゆでたり蒸したりしたえびを冷ます。
そうだ、まだあった。長細い穴蔵のようなわが家の台所は、夏は蒸し風呂に変わる。そこで、暑さしのぎにパタパタ額の汗を乾かす。
――そんなこんなで、竹を網代《あじろ》に編んだ四角いうちわは、獅子奮迅の活躍ぶり。なにしろ、四角いかたちがいい。たっぷりとした大きさがいい。数字にして縦三〇センチ、横三三センチ。総面積九九〇平方センチメートル。どうです、堂々としたもんだ。それに加えて、軽くスナップをきかせるだけで適度な強さにしなる。「竹は剛ならず、柔ならず、草でもなく、木でもない」。中国の古い書物『竹譜』のなかの言葉だ。強靭でいて、それなのにしなやかで扱いやすく、手に軽い。送り出される風の量と強さは、あっぱれな具合である。
初めて、このうちわを目にしたのは、バリ島ウブドゥの路上だった。
サロンを巻いた上半身はだかのおじさんは、豚肉のサテを焼いていた。唐辛子やにんにくをすり潰し、ココナッツミルクやターメリックを混ぜた調味料を小さく切った豚肉にもみこむ。それを竹串に刺して、次々にココナッツの殻の火にかざして焼いているのである。その香ばしい匂いをあたり一面にふりまく張本人こそ、このうちわ。
きっちりと網代に編んだ竹の模様が、サテのうえでひらりひらりと左右に揺れている。
うちわといえば、日本の丸型しか知らなかった私には、その平たくて四角いかたちがことのほか斬新だ。もちろん、日本の竹ザルや編みかごの道具としての美しさ、その種類の多さには瞠目すべきものがある。編み方ひとつ、名前ひとつとっても、その風雅なこと。鉄線崩し、麻の葉編み、四つ目、縄目矢筈差し、松葉、六つ目菊……日本の竹文化の奥深さの一端がみてとれる。それに較べれば、薄く竹をへいで編む網代など基本中の基本、お茶の子さいさいの朝飯前なんだろうと思う。そう思うのだが、私はやっぱり単純明快な網代編みに一番魅かれる。
一方、インドネシアの竹細工のかたちは、網代に始まり網代に終わるかのようだ。
インドネシアでは、米をいったん半煮えにしてから煮汁を捨て、米を竹で編んだ円錐形のククサーンに移して蒸すのが伝統的なやり方である。このククサーンもまた、同じ網代編み。敷きござも網代。深いかごも、盆ざるも網代。おもしろいことに、日本では奄美や沖縄の島々には網代編みの民具が多い。そして、台湾あたりでも網代編みが目立つ。
きっと南に行けば行くほど、自生する竹の性質が網代編みを欲しているのだろう。
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ジャティにひと目惚れ[#「ジャティにひと目惚れ」はゴシック体]――スパイスボックス[#「スパイスボックス」はゴシック体]
それは、ある日突然、予期せぬ恋に落ちるような出合いだった。
ひと目見た瞬間、私は碁盤の目のように整然と四角い穴がいくつもくり抜かれた木の箱に釘づけである。これは、どこかアジアの国のスパイスボックスに違いない。枠も仕切り板も、厚さはすべて一センチ。いっさいの飾りも意匠もない。厚い木をひたすら彫って、ぼこぼこと穴を開けただけの様子は、見ようによっては愚直なほどそっけない。しかし、ひたすら簡素で美しい。見れば見るほど味がある。きゅっきゅっと指先でこすれば、とたんに木肌の奥から黒い輝きがあらわれて、いよいよぞっこんである。
このスパイスボックスは、青山骨董通り「古民藝もりた」で買い求めた。店主の森田直さんがインドネシアのジャワ島東部マランで蒐集したもののうちのひとつである。一万数千の島々を持つインドネシアのなかでも、マランでしか集めることはできなかったという、いわくつきのスパイスボックスだ。材質は樫の木の一種、ジャティ。
ジャティは、まるで厚い鉄の板を思わせるほど頑強である。ジャティの一枚板で作ったベンチなど、それこそ象が乗ってもひび割れひとつしない固さだという。それでは、いったいどうやってノミとツチでジャティをくり抜くことなどできるのか、と聞かれれば答えにぐっとつまるが、ええまぁ、そのくらい頑丈な木なんです。
「ジャティで作ったベッドの木枠や食器棚も見ましたが、おもしろいことにどれもこれも、必ずくり抜いて作ってあるんです。食器棚が、ですよ。なにしろ、奥行き五〇センチほどの棚のかたちに木がくり抜いてあるのですから。そうそう、長椅子なんか、そのうちの脚の一本だけ太い枝の部分がそのまま生かしてあるんです」
これには驚いた、と森田さんは苦笑する。
いやはや、なんてユーモラスで楽しいたたずまいの長椅子なんだろう。私の頭のなかでは、まだ見ぬジャティの長椅子がくっきりと鮮やかに姿を現していた。
さて、恋に落ちたまま、うろうろと手をこまねいていては主義に反する。つい猪突猛進してみずから墓穴を掘る大失敗は何度も重ねてきたけれど、とはいえ、こと「道具」についてはいっかな反省のない私である。密閉不可。機能性ゼロ。とうてい台所で使えはしないが、この出合いをふいにしてなんとしよう。
こうして、ジャティのスパイスボックスは、指輪やイヤリングを入れるアクセサリー入れになった。小さな二十九個の穴ぼこのなかに、アンティークのシルバーや真珠やオニキスが整然と並ぶその風景は、うえに掛けた中国の古い藍色の布を毎日めくるたび、思わず惚れ直す美しさなのである。
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日暮れてなお、道遠し[#「日暮れてなお、道遠し」はゴシック体]――チョベック[#「チョベック」はゴシック体]
「恥ずかしい思い出」というのは、歳月をくぐってみれば、存外いとおしく思われるものではないだろうか。
ふだんはすっかり忘れているけれど(忘れたふりをしているけれど、か)、突然ひょんなことで記憶のひだのなかからよみがえって、ひとり耳の端をかぁっと熱くしたり、鼻白んだり、ことによってはにんまり笑ってみたりもする。
しかし、どんなにこっぱずかしい思い出も、追っ払っても追っ払っても尻尾のように一生うしろをくっついてくるのだから、先回りしていとおしんでやるが勝ちじゃないか?
「恥ずかしい思い出」は、恥ずかしながら、数限りなく抱えている私である。そのうち、ひとさまに迷惑をかけることなく、自分ひとり顔を赤くした一件といえば、やはりあれに尽きる。
やみくもに、きものが着たくなったことがある。十年以上前のことだ。
ともだちが月に一度催していた新内を聴く会のメンバーのなかに、きもののスタイリストとして活躍するセッちゃんがいた。セッちゃんは必ずきもの姿でやってきたが、その着こなしは衆目を集めた。あるときは渋い色調の縞のお召し。あるときはかすり模様の白地結城。黄八丈風の格子紬に、色を抑えた鶯色の織り帯の妙。昭和初期や大正時代のきものの、その美しさはいうにおよばず、セッちゃんが合わせた半襟の色合いの美しさやアンティークの帯どめにいたるまで、見惚れるばかりに粋でお洒落で、彼女のきもの姿には、ただため息をつくばかりだった。
よし、私もきものを着るぞっ。こうしてセッちゃんの見立てで、私は数枚のきものを手に入れ、半襟を何枚も買いそろえては慣れぬ「くけ縫い」にも精出した。
着付けの教則本と首っ引きで、どうにかきものが着られるようになったころ、めったにないことに週のまんなかにぽっかり休日ができた。いざ「おでかけ」と洒落こもうぞ。短い「おでかけ」ならもうこなせる(はずだ)。
さて、無事に「楽しいおでかけ」は終盤に近づいたが、もの慣れたつもりでつい調子に乗って、電車を降りてから駅前の大きなスーパーマーケットに寄った。
かごを片手に野菜や乾物を放りこんでいる私に、おばさんがそっと後ろからささやいた。
「あのぉ、帯、ほどけてますよ」
うろたえて足元に目をやると、だらりの帯よろしく、いやそんな粋なものじゃない、変わり片流しに結んだはずの織り帯は、結び目を残してだらんと床に流れているではないか。
ずるずる垂らした長い帯を引きずりながら、かごぶら下げてスーパーの通路を歩いて行く女! 必死で帯をたぐり寄せて、手に回収したところまでは覚えているが、その後どうやって家まで帰りついたかはさっぱり記憶にない。
行きはよいよい帰りはこわい。
教訓。「慣レヌウチハ帯ハ固メニ結ビマショウ」。
さて、つい最近、「恥ずかしい思い出」に新作咄が加わることになった。
それは、インドネシアの調理道具チョベックをめぐる、じつにとんまな顛末である。
チョベックは古くからインドネシアに伝わる「擦り鉢」の一種で、いや、その形状は「擦り皿」というほうが正確かもしれぬ。平べったい厚手の皿のようなかたちをした自然石のくぼみに材料を入れ、それを同じ石でできた小さな棒状の「すりこぎ」でする。「すりこぎ」は、ウラカンという。
たとえば、生の唐辛子やにんにく、塩、まるごとの胡椒、そして料理によってはトマトやたまねぎ、ライムの絞り汁なども入れ、擦り潰してどろどろの状態になったものを、鍋に入れて炒める。さらに、そこへ野菜を加えて炒めものをつくることもあれば、ごはんを入れてインドネシアの焼飯ナシ・ゴレンをつくることもある。また、唐辛子やトマト、塩をいっしょにすり潰せば、サンバルという薬味ができあがる。いずれにしても、インドネシア料理の「味の基本」をつくりだす道具が、チョベックとウラカンというわけだ。
このチョベックは、姿かたちもその用途も、じつは旧石器時代つまり一万年近く前に人類が初めて使った石の道具と酷似している。
人類最初のこの道具は、いわば「擦り石」というべきもので、平らなへこみに材料を入れて、小さな丸い石で擦りあわせて使う。たまたま固い石に食糧を入れて、同じように固い石で押し潰してみたら、小さくすることができた、なんて便利なんだ!――そんな具合に使われはじめたのだろう。同時にそれは、人類にとって画期的な「調理法」の大発見だったに違いない。
ついで新石器時代に入ると、へこみがぐっと深くなり、そこへ材料を入れて長い棒で突いて潰す「叩き石」が登場する。臼の研究家、三輪茂雄氏によると、その後農耕文化が発展するにつれて食糧を細かくしたり粉砕する道具はしだいに発達していき、調理道具としての「擦り石」型臼が完成の域に達するのは、はるか数千年のち。エジプト時代に出現した大きな鞍型のサドルカーンである。
つまり、石器時代にあらわれた「擦り石」と「叩き石」のふたつが、人類が最初につくりだした臼の原型なのだ。
そしてインドネシアでは、太古の昔そのままに、現代にいたるまでチョベックという「擦り石」、いや「擦り皿」が広く使われ続けている。初めてインドネシアを訪れたのは、もう十年ほど前だが、当時は不覚にもこの道具の存在を知らなかった。インドにも同じような道具があるが、こちらは足のうえに落とせば瞬時に指の二、三本骨折してしまいそうなほどとんでもなく重く、大きい。それに較べて、チョベックは、小さいものなら直径一〇センチ。持ちやすく軽いのも、なんとも使い心地がよさそうである。
欲しい欲しい、チョベックが欲しい。
日に日にチョベックへの思いが募っていたところへ、知り合いのナカジマサンがバリ島へ遊びに行くと聞きつけた。この機を逃してなるものか、頼みこんで買ってきてもらおう。
えーっそれ、石でできてるんですか、そんな荷物になるのいやですよぉTシャツしか持ってかない旅なんですからね。さんざん嫌がるナカジマサンを説得して無理やり約束をとりつけ、本で見つけたチョベックとウラカンの写真のコピーを持たされて、彼女はバリに旅立った。
「ありましたよ、チョなんとか。ハイハイちゃんと買ってきましたから」
市場の雑貨屋で買ったというチョベックは、よしよし、頭に描いていたのと同じかたちだ。しかし、ところどころ石にセメントが混ぜこんであるような、この妙なまだら模様はなんだろう。石ったって、見たところずいぶん柔らかそうだ。細かい穴ぼこも無数にある。手で表面をなでてみると、あやしげな微粒子がわんさと手についてくる。写真で見たチョベックは、まっ黒でなめらかで、いかにも固そうだった。不安がよぎる。
「ねぇねぇ、コレさ、絶対チョベックだよね?」
「嫌だなぁもう、わざわざ地元のひとだけが買いにくる市場に行ったんですから。すり潰すマネして、それから口に入れるかっこうしたら、店のおばちゃんがソウダソウダ、ってうなずいたし。こりゃあアレだっていうんで買ったんですから。ちゃんと確認したもん。絶対間違いありませんっ」
――アリガトウゴザイマシタを何度も繰り返して、家に持ち帰るやいなや、さっそくにんにくを擦り潰す。なんだなんだ? あっというまににんにくはまっ黒に染まり、チョベックのなかに黒い微粒子の小山ができるではないか。インドネシアのひとは、からだ悪くしやしないか、こんな異物が入った料理、毎日食べてて――変だな、とつぶやきながら、にんにく五片はあっというまに石の粉にまみれた。
その数日後、今度はともだちのケンちゃんがバリに旅立ったと聞きつけた。急げ、この機会を逃してなるものか。私はケンちゃんの宿泊先のホテルに私の疑惑を縷々《るる》解説した手紙をファクスし、いったい私が手に入れたチョベックはいかなるシロモノかを判明してほしい、と一方的にお願いして帰国を待った。
「ハイ調べてきました。チョベックというのはね、使えるようになるまで、そりゃ大変なんだとさ。地元のひとは、新しいのを買ったらまず、えーとなんといったっけ、ウラカンての? その棒でカラのままのチョベックになま米を入れて、ひたすら擦るんだと。それはそれは長い道のりだそうな。もう、いやンなるまで擦って擦って擦り続ける。そして、米に石の粒子が混ざらなくなったら、ようやっと使えるようになるというからさ、ま、がんばれよな」
そうだったのか。ナカジマサン、疑って悪かった。ようするに、チョベックという道具は、カラのまま擦る過程を経なければ、使えないしろものなのだ――。
そして私は、台所に立つたび、暇があればチョベックを擦る作業にとりかかった。
日暮れて、なお道遠し。
何度も何度も暗澹たる気分にかられたが、くじけそうになると、なつかしのバリに思いを馳せつつ、「あせっちゃいけないバリ時間でいこう、バリ時間」と先を急ぎたくなる自分を戒めたりもした。正直に告白すると、ときには、チョベックを擦る自分の姿に、悠然たるアジアの自然や石器時代のロマンを重ねて、自分の姿にほんの少し酔ったりもした(あぁ恥ずかしい恥ずかしい)。
しかし、三週間が過ぎようとしても、あたかも地の底から無限に湧き出るように、チョベックからは黒い微粒子が絶えることなく出つづけ、相変わらずにんにくは黒い粉にまみれた。
おかしいっ。本当におかしい。
ぷつんと糸が切れた私は、チョベックとウラカンを布で包むや、電車に乗って新宿のインドネシア料理店を目指した。
「ナンデスカ、コレ? ハハハ、これ、チョベックじゃナイです」
ナ、ナカジマーッ。
「チョベックは、こんなバトゥーじゃナイ。バトゥーって、えーとストーンのことですけど。たしかに使えるようになるまではけっこう時間がかかりますが、でもコレ、すごく柔らかいバトゥーでできてるから、いくらがんばってもムダですね。チョベックと同じカタチをしてますが、うーん、飾りモノとか、おみやげモノとか、そんなんじゃないですか」
どうしてくれよう。
あぁこれまでの忍耐と努力は、まるっきり無駄だったのだ。飾りモノを生真面目に延々と擦り続けてきたというわけか――へなへなと抜けていく力をふり絞って、もしやホンモノをお使いなら、ひと目拝ませていただきたいとインドネシア人のシェフに頼んでみる。
正真正銘のホンモノは、黒檀を思わせるしっとりと艶やかな光沢を放っていた。つつつ、と指を走らせると、ひんやりなめらかで、つるつるの肌触りがうっとりするほど気持ちいい。そうですよねぇこれがホンモノの手触りというものですよねぇ……。
右手にホンモノ、左手に贋作。
私は、家宝と拝んできた「由緒ある骨董品」を、突然一文の価値もないニセモノと鑑定された悲劇のひともかくや、と思われる複雑な心境を味わっていた。
そしてしだいに、足の先からじわじわと恥ずかしさが這いあがって、全身に充満した。
教訓。「労ヲ惜シムベカラズ。欲シイモノハ、自分デ見ツケニ行キマショウ」。
[#改ページ]
アジアで覚えた、あの料理――2[#「アジアで覚えた、あの料理――2」はゴシック体]
おいしくて便利なたれが、いろいろ[#「おいしくて便利なたれが、いろいろ」はゴシック体]
[#ここから1字下げ]
サンバル[#「サンバル」はゴシック体]
[#ここから2字下げ]
インドネシアの万能だれ。揚げ魚につけても、生野菜のディップソースとしてもおいしい。私は一度にたくさん作って冷凍しておき、肉や野菜を炒めるとき調味料としてもよく使います。インドネシアの味を代表する「ミックス・ペースト」です。
使う唐辛子によって辛さが違ってくるので、好みの辛さに調整してください。日本の鷹の爪を使う場合は1〜2本で十分でしょう。
[#ここからゴシック体]
材料
トマト(完熟)大2個 にんにく 8片 シャロット(紫の小玉ねぎ)12〜13個 赤唐辛子(辛みの少ないタイ産プリックチーファーを使うとよい)2〜3本 トラシ(塩漬けした小蝦を醗酵させたもので、タイ産の蝦醤「カピ」を使うとよい)小さじ2 レモン汁 小さじ2 サラダ油 大さじ3
[#ここでゴシック体終わり]
作り方
[#ここから3字下げ]
1 トマトと種を取った赤唐辛子はざく切り、にんにくとシャロットは薄切りにする。
2 小鍋にサラダ油を熱し、1のにんにくとシャロットを焦がさないように炒め、さらに赤唐辛子、トマト、カピを加えて、水気を飛ばしながら10分ほど炒める。
3 ほどよくとろみが出たら火を止め、レモン汁を加えて、いったん冷ます。
4 3をフードプロセッサーにかけ、なめらかにする。
[#ここから1字下げ]
ヌク・チャム[#「ヌク・チャム」はゴシック体]
[#ここから2字下げ]
ベトナムのたれを総称してヌク・チャムといい、なかでも毎日のようにベトナムの食卓に登場するのが、この「ヌクマム・ファー・トイ・オッ・チャン・ヌゥン」。魚や肉の揚げもの、揚げ春巻などのたれにぴったり。赤唐辛子のかわりに粉唐辛子を使い、にんにくをはぶけばサラダのドレッシングとしても応用できます。
[#ここからゴシック体]
材料
唐辛子(小)3〜4本 にんにく 2片 ヌクマム 大さじ2 砂糖 大さじ1 レモン汁 1/2個分 湯 小さじ2〜3(好みで加減する)
[#ここでゴシック体終わり]
作り方
[#ここから3字下げ]
1 唐辛子は種を除き、にんにくは皮をむく。
2 石臼か、すり鉢のなかに種をとった唐辛子とにんにくを入れ、よく叩き潰す。
3 そのほかの材料を全部入れ、混ぜ合わせる。
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韓国・朝鮮[#「韓国・朝鮮」はゴシック体]
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食べものを「伝統文化」に指定する!
いったいそんな例がほかの国にもあるのだろうか。
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汁かけごはんのお楽しみ[#「汁かけごはんのお楽しみ」はゴシック体]――トゥッペギ[#「トゥッペギ」はゴシック体]
庭先から小さな庵のなかを覗くと、黄色い油紙が敷きつめられたオンドル部屋の床のうえに、ぷっくり弾けんばかりに熟したまっ赤な唐辛子が、ばらばらと散乱している。
「毎日、雨ばかり続いているので、唐辛子がなかなか乾いてくれないのです。だから、こんなふうにして」
尼さんの静かな声は、庵のかやぶき屋根を叩く雨の音に、話すそばから消されていく。
ひっそり静まりかえった釜山《プサン》の山奥の尼寺では、見慣れたはずの唐辛子の赤が、突然妙になまなましく目を射るのである。
尼さんが、庵の床下に新しい炭を放りこむ。再び火がおこれば、オンドル部屋は下から熱い空気に包み直されて、唐辛子の乾燥が仕上がるという算段なのだ。
そして、目論見はもうひとつある。火が燃えさかれば、尼さんは豪快にもそのなかにトゥッペギを入れて、私のために直火でテンジャンチゲをつくってくれようというのだ。
トゥッペギの威力を初めて目のあたりにしたのは、釜山湾の潮風の匂いが漂う裏町の古びた食堂だった。
朝一番の混雑はとうに過ぎたとみえて、店の入口を残飯目当ての犬がうろうろ歩き回る。目の前の簡易テーブルはといえば、からだを動かすたびにがたんと傾き、ガラスコップのお茶もいっしょに勢いよく波立つ。さて、ずらりと壁に張りついた品書きのハングル解読に取りかかると、あったあった、スンドゥブチゲ。韓国の朝は、なにしろこれに限る。胃に優しい豆腐と、からだじゅうに刺激を走らせる容赦のない辛さは、やっぱりこの国の朝ごはんのシンボルだ、とあらためて思う。やっぱりこれしかないな。オモニ、あれ、スンドゥブチゲ定食の「小」ください。
てんこ盛りのごはん。山盛りの白菜キムチとだいこんのキムチ。焙ってごま油を塗った海苔。ししとうの味噌漬け。もやしのナムル。次々に小皿が並べられ、最後にオモニが運んできたのは、肉厚のまっ黒な素焼きの器だ。直径一〇センチほどのこの小ささが、なるほど、定食「小」のようである。
ふちいっぱい、こぼれそうなほどたっぷり注がれたチゲは、つい数十秒前までコンロの火にかかっていたに違いない、テーブルに置かれてからも、ぼこぼこ沸騰し続けている。あまりの熱さに舌を焼きながら、ふるふると柔らかい豆腐をすすりこむ。熱くて辛くて、平らげるにはなにしろ時間がかかる。しかし、器の底が見えるころになっても、アチチと手をひっこめそうなほど、器はじゅうぶんに熱い!
すごい保温力だ。驚異の器だ。
この器こそ、トゥッペギ。土を焼きしめて作るトゥッペギは、王朝時代の昔から宮廷の食卓に並んだという。権力を象徴するピカピカに磨かれた銀食器がそろうなか、チゲだけは無骨な姿のトゥッペギのまま供された。それは、いかにも唐突で奇妙な様子だったに違いない。
王様もこだわった素焼きの器。それは、この器で食べる熱々のチゲがいかにおいしいかを雄弁に物語っている。
チゲは、トゥッペギで食べてこそ、チゲなのである。
庵の床下では、ようやく赤い火が炎をあげはじめ、ぱちぱちと木がはぜる音が聞こえてきた。尼さんが、軒下の四角い穴からそうっと中へ手を伸ばし入れ、炎の照り返しで赤く顔を染めながら、特大のトゥッペギに入ったテンジャンチゲを棒で用心深く押し入れる。
丸い底をつたって炎が這い上がり、しだいにトゥッペギは火に包みこまれていく。
オンドル部屋の下で繰り広げられる、このおいしい焚き火! テンジャンチゲをひとさじすくって口にふくむ瞬間が待ち遠しい――舌なめずりする思いで床下の焚き火を覗きこんでいたら、思いもかけず突然四十年近く前にタイムスリップした。
「ヨウコチャン、ちゃんと全部食べようね」
祖母は、小さなスプーンでひとさじごはんをすくって私の口に運び、私はあーんと大きな口を開ける。うなずいて、もぐもぐとごはんを噛む私は二歳か三歳か。二階の窓から見える外の日は晴れやかに高く、たぶん昼。いつもは階下で家族そろって食べる食事が、この日ばかりはなぜか違った。
「ハイ、今度はお味噌汁」
ひとさじ汁をすくってもらって、再びあーんと私は口におさめる。何度か同じ「あーん」を繰り返したあと、祖母は残り少なくなったごはんを味噌汁のなかに移し入れ、お椀のなかで「ごはん入り味噌汁」をこしらえた。
じつは私にとって、もっとも鮮烈で、もっとも遠い昔の食べものの記憶こそ、「ごはん入り味噌汁」のお椀の風景である。はて、私が覚えている初めての食べものはなんだろうか、といたずらに記憶の糸をたぐり寄せると、必ずいつも最後に、この「ごはん入り味噌汁」が目の裏に浮かぶ。
こんなごはんの食べかたがあるの? こんな食べかたをしていいの?――わずか二歳が、そんなふうにはっきりと意識したかどうかは疑わしいものだが、ともかくも「ごはん入り味噌汁」は、幼い私に強烈な驚きを与えた。
なにしろ、味噌汁の味が浸みこんだごはんは、とてもおいしかったのだから。
それ以来おとなになるまで、ついぞ味噌汁にごはんを入れて食べたことは、一度たりともない。そんなふうに食べているひとを見かけた記憶も、やっぱりない。いやいや、正直をいうと、「この味噌汁のなかにごはんを入れて食べると、たしかとってもおいしかったんだよなー」と幼い記憶が蘇ったことは、いくどか、ある。しかし、両親がその食べ方をしているさまを一度として見たことはなかったし、そのたびに「お行儀の常識」が「誘惑」に打ち勝った。
ところがしかし。何十年もの歳月を経て、私は見事に「ごはん入り味噌汁」との邂逅を果たした。韓国料理、それもチゲやクッパプとの出合いが「汁ごはん」の楽しみを再び蘇らせてくれ、以来ぞっこん。ほら、男女の仲だって、すっかり燃え尽きてしまったと思っていた火種にもう一度火がつくと、今度はいっそう熱くて長くもつ=Aなんてたとえるじゃないの。おばあちゃん、私はようやく「ごはん入り味噌汁」と、よりを戻しました。
辛いチゲのうまみがしっかりからみついたごはんは、それはそれはおいしい。ただし、このお楽しみには、ひとつの不文律がある。チゲのなかにごはんを入れて食べはするが、ごはんに直接、汁をかけることは、しない――これが、韓国の「お行儀の常識」である。
韓国の「お行儀の常識」にのっとれば、たとえば、こんなふうに食べるのが正解だ。
トゥッペギに入っているチゲをスッカラッ(さじ)ですくって飲む。今度は、なかの具をすくって食べる。そのつぎに、ごはんを食べる。このへんまでは、日本人のふだんの食べかたと同じです。しかし、ここからが違う。まだごはんが口のなかにあるうちに、チゲをひとさじすくい、そのあとを追っかけるごとくチゲの汁を口のなかに含ませる。「ごはんと汁を口のなかで混ぜて食べる」という技術を操るわけですね。
そして、トゥッペギのなかの汁気が少なくなってくると、さぁいよいよ第二幕、開始。いそいそと残りのごはんをすくってチゲのなかに入れる、つまり自分で勝手に「汁ごはん」にする、と。実際には、トゥッペギのなかはクッパプと同じ状態になるわけですね。
また、こんな裏技もある――クッパプが食べたいな、というときにひとこと、「オモニ、タロクッパプにしてね」。最初からごはんに汁や具をかけてもらわず、わざわざごはんとスープを別々に注文する。これが「タロクッパプ(別々のクッパプ)」。だって、クッパプは、どうしても最後のほうになると、ごはんがふやけてしまうでしょう。これを避けようという庶民の知恵であります。
ことほどさように、「汁ごはん」の世界は深い。
じゃりっじゃりっと玉じゃりを踏んでこちらにやってくる足音が、雨の尼寺の静寂を破った。ぼうっと「トゥッペギの焚き火」を眺めていた私は、我に返る。あわてて火のなかに目をやると、トゥッペギの中身はすっかり煮えたって、ふんわりと香ばしい味噌の香りがあたりに漂っていることに気づく。尼さんがさっきの棒でトゥッペギを引き寄せ、濡れ布巾を当てながら、用心深く床下から取り出した。
燃えさかる焚き火のなかで十数分。じゃがいももかぼちゃもすっかり柔らかくなったところへ、もぎたての唐辛子のせん切りがぽんと飾られたその瞬間、トゥッペギは「煮炊きの道具」から「器」へと鮮やかに変身した。
触れれば火傷しそうな、熱い熱いトゥッペギがテンジャンチゲを満たして、どんと目の前にある。飯器《パンギ》に盛られたごはんがある。えごまの葉のしょうゆ漬けやきゅうりのキムチや、小さなおかずもたっぷりある。
さぁ、いよいよ始まりだ、「汁かけごはん」のお楽しみ。
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台所のお守り[#「台所のお守り」はゴシック体]――チョリ[#「チョリ」はゴシック体]
恩美《ウムミ》おばさんの台所の戸棚には、稗《ひえ》や粟《あわ》、黍《きび》、小豆《あずき》などの穀物を入れた容器がずらりと並んでいた。韓国・朝鮮では、陰暦の一月十五日を「上元《サンウオン》」といい、米と雑穀を混ぜて「五穀飯《オゴツパプ》」を炊く習慣があるが、恩美おばさんはふだんから白米にいろんな穀物を混ぜて「二[#「二」に傍点]穀飯」や「三[#「三」に傍点]穀飯」を食べているのである。
白米ばかり食べていては、からだによくないですからね。私みたいに年をとってくると、五穀をまんべんなく食べなくちゃ健康でいられません。そう言いながら、おばさんが昼ごはんにささっとつくってくれたキムチ炒飯のごはんは、玄米である。
いや、そのおいしいこと。ごま油やキムチの汁を吸いこんだ玄米は、噛みしめるたび、じんわり内側から味がにじみ出る。これはもう、決して白米では味わえないおいしさだ。感激していると、おばさんは戸棚から小豆の袋を取り出した。冬至にはちょっと早いけど、小豆粥をつくっておいてあげますよ。明日また、うちに寄りなさい。
もともと「五穀」の言葉は陰陽五行説から出たものである。また日本でも、古くは『古事記』に「五穀起源の神話」として稲、粟、麦、小豆、麦が登場する。さらに、元禄十年に刊行された人見必大による『本朝食鑑』には「我が国で昔から五穀と呼んできたものは稲、大麦、小麦、大豆、小豆、あるいは麦、黍、米、粟、大豆のことである。これらこそは、古今を通じて民の勤業するところであり、これによって民が養われているものなのである」と記されている。江戸時代の大飢饉で飢えを救ったのは、まさに稗。雑穀もまた、私たちの命の糧であった。
さて、小豆粥をつくるだんになって恩美おばさんが手をのばしたのは、台所の隅にぶら下がっている三角錐のかたちのザルである。これは、台所のお守りでもあるんですよ、という手元をのぞきこむと、彼女はそれを逆手に持って小豆をすくい、そのまま水を張ったボウルにつけて振り洗いする。そして、水気を切ったら裏返して鍋のふちにトントンと打ちつけ、なかの小豆をあけるのである。今ではだんだんステンレス製にとって替わられつつあるが、ひと昔前までは米も豆も雑穀もこのザルに入れて水洗いをしたという。
さらりと薄い塩味をつけた韓国の小豆粥は、ゆでた小豆を裏ごしして米といっしょにことこと炊いてつくる。小豆の色は昔から魔除けになるともいわれ、冬至の日には年齢の数だけ白玉だんごを入れて食べ、一年の健康を祈るのだ。韓国・朝鮮ではこんなふうに、雑穀に日々の暮らしの無事が託されている。だからこそ、このザルが一家の健康の象徴として扱われるようになったのだろう。
慶州《キヨンジユ》の古い両班の家の台所にもまた、釜を据えた炊き口の壁の隅に三つ、同じザルがぶら下がっていた。このザルを、チョリという。
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キムチの匂い[#「キムチの匂い」はゴシック体]――キムチ用ステンレス容器[#「キムチ用ステンレス容器」はゴシック体]
「私ね、キムチ一度も漬けたことないの」
朴恵鮮《パク・ヘソン》さんは、グラフィックデザイナーの卵の二十六歳である。私たちは彼女のともだちと三人で、ソウルの明洞《ミヨンドン》の喫茶店でコーヒーを飲んでいる。
「だからね、キムチのつくり方見せてくれって言われても困るのよ。母なら漬けられるけど、でも、ここ何年も母が漬けてるの見たことない。うちじゃ、いつも店で買ってくるから」
「あれれ、そんなので大丈夫なの。韓国じゃ、キムチが何種類か漬けられなきゃお嫁にも行けないなんていうらしいじゃないの」
「ハハハ、今は結婚の予定もないし。いざとなりゃ、相手が決まってから習えばいいし」
「しかしね、オモニはみんな『キムチの味は手の慣れで決まる』って言うわよ。粗唐辛子と粉唐辛子の配合の塩梅やら、セウチョッ(アミの塩辛)の量やら、けっこう年季がいるもんなのよ」
「ふうん。で、ほかに何入れればいいんだっけ」
「えぇと、いかの塩辛とにんにくは絶対必要でしょ、それからりんご擦りおろしたり、梨を入れるひともいるし。あれ、ちょっと待ってよ、なんで日本人が韓国人にキムチのつくり方、教えるわけ?」
隣の席でポップスのリズムに合わせて足先でリズムを刻んでいた崔光熙《チエ・クワンヒ》嬢、二十七歳。口を開いていうことには、
「とりあえず、教えといてよ。私だって漬けたことないもんね」
そんなわけで、外光が降り注ぐガラス張りの喫茶店の窓際で、私は白菜キムチの漬け方講座を開く。生徒二名は神妙な表情で聞いていたが、朴嬢のひとことで幕は閉じられた。
「つくり方はわかったけど、キムチって冷蔵庫が匂うでしょう。あれがちょっとねー」
なるほど、韓国で、キムチの匂いをいっさい外にもらさないステンレス製の密閉容器が人気を博した背景は、まさにコレなんです。加えて、醗酵が進まないように内部の空気を抜いて保存できるキムチ専用のタッパウェアも爆発的な売れ行きなのである。
街を歩くと、マンションの北側のベランダには、キムチを漬けこむ昔ながらの瓶がひとつふたつ置いてあるのを見かけるが、年々その風景は少なくなっているといわざるをえない。ましてや、秋の訪れとともにくり広げられた大量に白菜キムチを漬ける「キムジャン」の習慣も、ソウルあたりではめったに見ることはできなくなったのが本当のところだ。
ひいきの店でキムチを買ってきて、それを容器に入れて冷蔵庫で保存する――あぁ、韓国のキムチも、着々と日本のぬか漬けと同じ運命をたどろうとしている。
危うし、キムチ!
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萩の小枝のうえの禁忌[#「萩の小枝のうえの禁忌」はゴシック体]――チェバン[#「チェバン」はゴシック体]
実際のところ、揚げたてのてんぷらに新聞紙は、ことさら重宝な存在ではある。
てんぷらを置いたそばから、よぶんな油を吸い取った新聞紙には、あっというまに油染みが広がっていく。その油の吸収力は素早く、しかもじつに強力なのだが、「アレ半紙が切れてた」「キッチンペーパーが残り少ないぞ、ここで大量消費はもったいない」等々、せっぱつまった状況で新聞紙に助けを求めるとき、バサバサと新聞紙をバットの上に広げながら、いっぽうで一抹の抵抗感が走る。
その光景は、いかにも「美しく」ないのだ。畳んだ新聞紙のなかから一番きれいだと思われる数枚(たいてい株式とか商況欄あたりだ)を抜き取って使うことになるのだが、それにしても読み終わった新聞紙には暮らしの匂いが染みこんでいるようで、せっかくからりと揚がったてんぷらにケチがつくような、そんな感じがぬぐいきれない。
この手の「暮らしの知恵」は、どうも国境を越えるものらしい。
かつて慶州のはずれの田舎で昆布や海苔のティギム(揚げもの)を食べさせてもらったときは、台所で溜飲を下げた。さいばしを握ったまま、オモニはやおら台所の棚から白い大判の日めくり暦をつかみ取り、無造作に五〜六枚びりびりと破り取ったのだ。そして、大皿の上にそれを裏返しに重ねてのせ、揚がったそばから昆布や海苔を次々に置いていく。油を吸い取って裏から透明に浮かびあがった暦の日づけは、去年のものであった。
去年の日めくり暦は、今年の揚げものに。今朝の新聞は、今晩のてんぷらに――国は違えど、なんだかそれなりに理屈が通っているような気がして可笑しい。
ところで、朝鮮料理には揚げものとも炒めものとも言いきれない独特の調理法が、ふたつある。ひとつは、サンジョッ。きれいに長さを揃えた野菜や肉、魚を色よく串に刺し、それを油で炒め焼きにする。材料の組み合わせの数だけサンジョッの種類があるが、私は長ねぎと牛肉を交互に刺して甘辛く味つけしたものが、見た目も鮮やかで好きである。もうひとつはジョン。これはてんぷらにそっくり。薄めに切ったズッキーニや鱈《たら》、しいたけや牛肉などを、ほんの少し小麦粉を加えてとろみをつけた卵の衣をくぐらせ、ごま油で表裏をこんがり焼く。サンジョッもジョンも、正月や法事をはじめ、冠婚葬祭のときに必ずつくる伝統料理である。
そして、このふたつの料理を盛りつけるときに必ず使うのが、チェバンだ。
チェバンは皮をむいた萩の小枝を平たく編んだ丸い「器」で、焼きあがったばかりのジョンやサンジョッはそのままチェバンにのせる。通気性や吸湿性に優れたチェバンは、料理が直接触れる面からも熱い蒸気を外へと逃すため、衣のカリッとした風合いを損なわせることがない。
しなやかに編まれた萩の小枝のうえ、焼きたての黄金色は、ことのほか美しく映える。
チェバンは、料理をのせるだけではなく、台所仕事のあいだに洗った野菜をのせておくザルとして利用することもある。なにしろ軽くて丈夫だ。チェバンの一枚も持たない家庭はみつからない。また、その大きさもさまざまで、直径がひとかかえもある大きなものもあれば、同じ萩で編んだ高台を据えた珍しいものもある。大判は酒や料理を運ぶ盆としても使うし、台つきなら宮中もかくや、と往時を想像させるほど風雅な食膳となる。ただし、高台つきは、もはやめったにお目にかかれない珍しい膳であり、その存在は今となっては一種の美術品に近い。
チェバンが台所の片隅にぽんと置いてあると、どこか柔らかな雰囲気が漂って、なんとも風情がいいものだ。
しかし、無情にもこの思いこみがぐさりと突き破られる日がきた。
その昼は、補身湯《ポシンタン》つまり犬鍋を食べるはめに陥っていたので、一同、朝から口数が少ない。これだけ何度も韓国に足を運んでいながら一度も犬鍋を食べたこともないというのでは、こりゃあまずいでしょう。朝鮮の食文化の代表格はキムチにプルコギ、冷麺、そして犬鍋ですから。誰かがそう言いだして、全員がつい、異論をはさむ余地を失った。
朝鮮食文化の研究家、鄭大聲《チヨン・デソン》先生にお目にかかったとき、おっしゃっていた。
「中国の吉林省で、当地に移住している朝鮮族が行く店を巡ったことがあるのですが、『朝鮮飯店』の代表的なメニューはどこでも、辛い狗醤《ケジヤン》(犬肉のスープ)と冷麺でしたね。朝鮮族の人々にとって、故郷の伝統料理はこのふたつのようでした」
そんな話を聞いていたものだから、私自身もさきの提案に、そりゃあそうだ、と見栄を切って平然を装うしかなかった、そのツケがいよいよ回ってきたのだ。
案内役の若い金《キム》嬢は、道すがらいちいち後ろを振り向きながら、
「お願いですよぅ、私だけ帰らせてくださいよぅ」
と何度も繰り返すが、もはや我慢くらべと見栄の張り合いの一行と化した一同は、くちぐちに、
「おやおや、外国人がキミの国の伝統料理に親しまんとしているというのに、いやその姿勢は情けない。いかんよなぁ」
と意地が悪い。こうなったら呉越同舟。抜けがけの敵前逃亡は許さんぞ、の構えを固めている。
明洞《ミヨンドン》の繁華街から一本奥に入った狭い路地を進んでいくうち、知らぬ間に金嬢を先頭に立たせて、一行の様子はあたかも犬鍋探検隊である。
その犬鍋専門店は、午後二時近いというのに満員であった。
「ありゃりゃ、これじゃ五人も入れないんじゃないの。無理だなこりゃあ」
往生際の悪い輩が残念そうな口ぶりを装ってみるが、万事窮す。五十がらみの男性客の一団が、待つ間もなくいっせいに席を立ち、私たちは入れ替わりに店のなかへぞろぞろと進むほかない。
のっけからカウンターパンチをくらった。
入口のガラス棚に、直径一メートルはあろうかという大きなチェバンが置いてある。チェバンには厚手のガーゼが二重に敷かれ、そのうえには茹であがった犬の前脚が二本、後脚が二本、首のまわりと見える肉塊がいくつか、ごろんと転がっているのだった――香港の中央市場では、首からぶった切られたばかりの牛の頭がふたつ、目を剥いて転がっている左右三〇センチの間をすたすた通り抜けたし、ベトナムでは血の匂いが立ちこめる牛や豚の解体場で、あばら肉一キロの買いものもした。しかし、このチェバンのうえの光景は、異様な息苦しさをともなって胸をふさぐ。
犬だと思うだけで、これほど無性に強い抵抗を感じるものなのか。
声をなくした一同は、押し黙ったままテーブルについた。
「補身湯七千ウォン、チョンゴル一万三千ウォン、スープが多いスユクと、ゆでたのを辛く和えたムチムはどっちも一万五千ウォン。はい、メニューはこれだけ。みなさんどれにします、決めてください早くねっ」
金嬢が、やけくその早口で言い放ち、ささやかな仕返しを試みる。
もはやこれまで、と観念して討議に入り、汁気の少ない鍋仕立てのチョンゴルを三人前注文した。五人で三人前、というところがいかにも気弱である。
鍋が運ばれるのを待つあいだ、店主の洪《ホン》さんがテーブルにやってきて得意満面に解説を始める。
「一週間に二回も私、自分で犬を選びに行っているんです。ペットのような犬は運動していないから、だめですな。田舎で走りまわって筋肉がよくついている赤犬でなければ、ぜんぜんおいしくありません」
「豚肉は脂が多いし、牛肉は夏は肉が固くてまずい。そのてん犬の肉は一年中柔らかくて肉質が変わりませんからね。それに、うちのは下ごしらえが完璧で、臭みなんかまったくない。さぁみなさんがた、食べてみればわかります。ものすごく柔らかいですから」
「高蛋白なんです、犬の肉は。韓国では医者が病人にすすめるくらいでして。からだが温まるし、だるさや疲れもすっきりとれる。ほら、隣のこのひとなんてハハハ、一日に三十回も食べに来てます」
ぐわははと響き渡る大爆笑をくぐって、さぁ、いよいよチョンゴル鍋の登場である。
大きな浅い鍋に細く裂いたゆで肉がどっさり盛られ、そのまわりを埋めるようにねぎやせり、おろしにんにく、しょうが、粗挽きと粉の二種類のえごまの実が置かれ、たっぷりとタデギがかかっている。タデギは、コチュジャンやしょうゆ、唐辛子、しょうが、えごまを搾った油などを混ぜ合わせてつくる濃厚で辛い合わせ調味料だ。これも、独特の強い風味をもつ犬肉を「おいしく」食べる知恵のひとつなのである。
卓上コンロにスイッチを入れ、ビールを流しこみながら、一同は神妙に沈黙して鍋のなかを見つめる。
「僕、生まれて二度目なんです、犬食べるの。いやぁおいしいです」
大学生の朴《パク》くんが盛んに箸をのばすさまに全員が勇気づけられて、ひとりがつぶやく。
「じゃあ、いってみますかね」
たしかに犬肉は、しっとりと歯に柔らかく、まったく脂肪分を感じさせない。噛みしめるほどに、肉だけがもつ深いうまみが味覚に訴えてもくる。そして、いくら煮こんでも、まったく肉は固くならない。正体を知らなければ、このチョンゴルは(残念ながら)おいしいと言わねばなるまい。
異端の社会人類学者として知られるマーヴィン・ハリスは著書『食と文化の謎』のなかで、こう記している。
「西欧人が犬を食べないのは、犬がこのうえなく愛しいペットだからではない。根源的な理由は、肉食動物である犬は肉の供給源として効率が悪い、ということなのである。西欧人には、それ以外の動物性食物源がいくらでもある。(中略)たとえば、肉が慢性的に不足し、そのうえ酪農がおこなわれていないために、やむをえず菜食主義の食習慣をながいあいだとってきた中国では、犬を食べるのはごくあたりまえであり、何ら特別なことではない」
ただし、その前提に立ったうえで、ハリスはこうもいう。
「今日の社会のなかでペットが持っている最大の有用性は、暖かい、保護的な、愛のこもった関係という、われわれの文化にとくに欠けているものを、ペットが満たしてくれ、人間の代用になりえる、という点にある」
犬を食べることは、だからこそ禁忌に触れる意識を覚えさせるのである。
私は、味覚と、犬という社会性をもつ動物に対する感情のあいだで平衡感覚を失った。
かたわらの金嬢は、かたくなに口をぎゅっと結んで、ビールだけをすすり続けている。
チョンゴルが空になったころ、彼女は私の耳もとに顔を寄せて、そっとつぶやいた。
「私、うちのピピのことを思い出して、涙が出てきそうでした」
店を出るとき、一同を見送ったのは、大きなチェバンのうえにのっかった、例の茹でた肉塊であった。その後脚の一部には深く削り取られたあとが認められ、そうだ、あれはわれわれが食べたぶんなのだ、と気づく。
しなやかな美しい萩で編んだチェバンのうえに、ごろんと転がる犬の脚。それは、忘れようとすればするほど強烈な残像を目の裏に結ぶ。
以来、わが家の台所にチェバンが登場する機会はめっきり減った。
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白い酒が揺れる[#「白い酒が揺れる」はゴシック体]――パガジ[#「パガジ」はゴシック体]
ひょうたんを乾燥させて作った器が、パガジである。
大きいのから掌にのるくらい小さいのまで。深鉢型から、真ん中がきゅっとくびれたひょうたん型まで。木になった自然のひょうたんをそのまま乾かすのだから、ふたつと同じかたちはなく、どれもが野趣にあふれている。軽くて丈夫で、乾燥させさえすれば誰にでも簡単に作れるパガジは、こと水くみには最適の道具だったし、なんにでも使えるボウルの役目も果たした。ひと昔まえまでは韓国の台所の万能調理道具でもあったのである。また、野良仕事に出かけるときには、大きなパガジにごはんを詰め、小さなパガジは重ねて器がわりに携えていったものだという。
まぁ今となっては、昔の暮らしを彷彿とさせるパガジを使う家庭は、たしかに激減した。しかし、ひとたび都市部を離れると、まだまだパガジは健在である。
おいしい地鶏を食べさせてあげる、と誘われて、釜山から北へ車を走らせること一時間。田んぼのなかをぬって、一軒の家に案内された。出てきた女性は私たちの姿を認めると、庭を駆ける鶏の首ねっこを慣れた手つきでぎゅっとつかまえて、家の裏に消えたのだった。
庭に面した座敷に通されると、白く濁った自家製のマッコルリが運ばれてきた。
マッコルリが、たぷたぷとパガジのなかで揺れている。樽からそのまますくってきたのだろう。すすめられるまま杓子ですくってコップを傾けると、きゅーんと強いアルコールが全身に回っていく。なにげなく庭を見まわすうち、なにやら奇妙な雰囲気がこの家に充満していることに気がついた。
コの字型に庭に面した家屋は小部屋に区切られており、平日の昼間だというのに、どの部屋にも男女のカップルがしんねりとした雰囲気で向かいあって座っている。そういえば、家の外壁は鮮やかなミントグリーンに塗りこめられ、非日常的な雰囲気をふんぷんとふりまいている。地鶏もマッコルリも、どちらも刺し身のツマであって、あくまでこの家を使う目的は別のところにあるのだった。
そういうことだったか。うろたえてマッコルリを流しこむうち、さっきの地鶏がなつめとにんにくといっしょに煮こまれてやってきた。私たち四人の一行は、粗塩で味をつけただけの地鶏のおいしさに言葉をなくし、奪い合うようにしてむしって食べる。
しかし、見てはいけないと思えば思うほど、ついつい向こうの部屋へ視線が泳ぐ。彼らのテーブルには一様にマッコルリ入りのパガジが置かれ、さしつさされつ二人は杯を傾け続けているのだ。
この日を境に、私はパガジを見かけると、田んぼのなかの一軒屋をおおっていた息苦しいほど濃密な空気を思い出すことになる。
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解放記念日の冷麺[#「解放記念日の冷麺」はゴシック体]――ククストゥル[#「ククストゥル」はゴシック体]
ククストゥル。冷麺の、あのプリプリシコシコを生み出す道具の名前である。「麺生地圧縮機」とでもいえばいいだろうか。
「あそこはおいしい」と評判が立つ韓国の冷麺屋ならどこだって、乾麺など断固使っちゃいない。注文を聞いて初めて、生地をこのククストゥルにかけて麺をつくる。スープの味をどうこういうより、まずはこれが、おいしい冷麺の第一条件であります。
ある年の八月十五日(この日は日本の「敗戦記念日」であり、つまり韓国にとっては解放記念日である。折りしも夏真っ盛り、祝日の街はひっそり閑と静まりかえっていた。だから、よく覚えている)、ソウルで一番流行っているという明洞の冷麺屋の厨房にもぐりこませてもらった。
以下は、その一部始終です。
厨房には巨大な金属製のククストゥルが一台、どでんと鎮座して主役を張っている。そして、そのククストゥルの真下には、地獄の大釜もかくやと思われるほどの超大型鍋に熱湯がたぎっている。このなかに落っこちたら、一巻の終わりだなぁ――。
そんな愚にもつかないことをぼうっと考えていたら、突然「冷麺三つ、ピビム麺四つッ」と叫ぶアガシの声が、厨房に響いた。
よっしゃあ待ってました、とククストゥルの前に陣取ったおじさんが、人数分の麺生地の固まりを筒に押しこむ。ちなみに、冷麺の生地はでんぷん、小麦粉、蕎麦粉の順番の配合です。この配合が、まずはプリプリシコシコ麺の絶対条件。
生地を入れたら、筒のレバーをぎゅっと降ろす。
待つ間もなく、筒の下の穴から、トコロテン式に生地がするする細い麺となって降りてきた。麺はそのまんま、地獄の大釜に吸いこまれていきます。こちらに顔だけ振り向いたおじさん。
「筒から押し出してぎゅうっと力をかけるだろ。そうすると、生地が圧縮されるから歯ごたえがよくなるってわけだ」
かくして麺は、プリプリシコシコ化の第一関門を無事通過。
さて間髪を空けず、第二関門が待っている。
茹であがった麺をすくい上げるのは大きな網で、今度はそれをすぐ隣の水桶のなかにザッザッとあけ、大きなぶっかき氷がプカプカ浮く水のなかで麺をもみもみ。手を真っ赤に凍らせながら、洗濯物よろしく、茹でたて麺をしごき洗いするのである。じゅうぶんにぬめりが落ちたところで、ひと玉ずつ両手に握って、ぎゅうっと力をこめて水気を搾り、ひとりぶんずつ丼に盛る。
これで、作業終了。注文を聞いてから、つまり生地がククストゥルを通過して麺となり、丼におさまるまでたったの二分。もいっかい見てこ、とつっ立ってたら、
「こんなとこいないで、新しいのつくってやるから、うえへ上がって食べていきな」
と、おじさんに追っ払われました。
席についたら、あっというまに冷麺が運ばれてきた。
冷たいスープをまず、ごくり。麺をすすれば、噛むたびにぷりんぷりんの弾力が歯にくいこむ。おいしいっ。
ククストゥルと氷水の威力を知った、解放記念日の昼下がり。
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「重さ」のハードル[#「「重さ」のハードル」はゴシック体]――石鍋[#「石鍋」はゴシック体]
「あんな重いの、ワタシ、キライヨ」
呉《オ》おばさんが、戦争中に覚えた達者な日本語で、きっぱりこう言い放つので、すぐには二の句が継げない。
「――そうですか、たしかに重いけれど、あれでチゲなんかつくると、とってもおいしいでしょう。私は日本では、鍋ものをするときはよく石鍋を使っているのですよ」
おばさんは、あきれ顔である。
「あんな重いの、ワタシ、キライヨ」
また繰り返すのである。
そういわれて、改めてマンションのキッチンの壁一面をおおうキャビネットのなかをそれとなく覗くと、一瞬ソウルにいることを忘れるほどだ。ガラスの向こうにずらりと並ぶのはヨーロッパのブランドもののカップやソーサーで、柄をそろえた大ぶりのスープ皿や平皿もこぎれいに収納されている。そういえば、この朝食のオートミールの皿の下に敷かれているのは、アメリカのドラッグストアで売られているような厚手のビニールのランチョンマットだ。しかし、おばさんがつくってくれたのは、ねぎのお焼き「パジョン」で、やっぱりここは間違いなく、ソウルなのだった。
ただし、私の目の前の食器はどれも、落としても踏みつけても決して割れない合成樹脂製で、華やかなキャビネットのなかの様子とは大きなへだたりがある。なるほど、キャビネットの中は「インテリア用品」なのですね。
――うむ、たしかにこれは軽い。
「石鍋なんてヒラマツサン、洗うのはダレなのよ。しまうのはダレなのよ。ほら、そうでしょう。だからキライヨ。あんなもの、ハッハ、誰も使ってやしないよ」
だって石鍋なら、ステーキだって見事な焼け具合に仕上がるんですよ、とつけ足したい気持ちをひっこめて、そんなものですかねぇ、と力なくあいづちを打つが、それでもあきらめきれずに、コーヒー一杯飲み干したあと、ついでを装いながら聞いてみる。
「おばさん、それじゃあ、たとえばチゲをつくるときなんかには、鍋はどんなの使ってるのですか」
「これよー」
出してみせてくれたのは、まっ赤なホーローのシチュー鍋だ。はぁ、そうなんですか。
「鍋ごと食卓に出さなきゃチゲが食べられないわけじゃなし。食べるときはふたりだけだもの、めんどうくさいわよー」
おばさんは、なにか別の問題を話しているような気もする。にやにや笑いながら聞いていた姪の光熙が、この話題に終止符を打つ。
「うちも石鍋、ないよ。石鍋で食べたこともないよ」
石をくり抜いて作った石鍋は、たっぷり一センチ以上の厚みがある。そのうえ直径二〇センチの鍋なら、重さはじゅうぶん五キロを超す。当然ながら、決して機能的などといえた重さではない。
そもそも韓国の石鍋は、自然石を手作業で削って作る「特産品」のひとつで、なかでも、たっぷりと海水を吸った石は特別に堅牢だといわれて珍重されている。一般に広く使われているのは「角閃石」。なにしろ火を通せば通すほど強度を増す。そのうえ角閃石にはカルシウムやナトリウムなどのミネラル分がたくさん含まれているという。そう知ると、なんだか利用価値がさらに増すような気がしてくるではないか。
また、中国においても石鍋の歴史は古く、清朝時代の宮廷料理にも登場している。古来から中国では、石をくり抜いて作った円形の大きな器を火にかけて熱し、ここに肉や野菜を入れて焼いて食べたり、鍋ものにも利用したという。
石鍋は、いったん火に馴じめば何十年でも使えるものだが、使い始めがかんじんだ。まず、いっとう最初はごく弱い火にゆっくりかけてやらなければならない。そして、鍋の内側に薄く油を塗り、さらに火で熱するとしだいになかが黒くなってくるから、これで下準備は完成する。この手順を踏まずに急激に熱してしまうと、非情にも修復不可能な割れが入ってしまうから、用心されたい。
さて、これで準備万端怠りなし。石は、まんべんなく全体に熱が伝わるまで非常に時間がかかるが、いったん熱くなれば、驚くほどの高温を保ちつづける。
この石の器「トルソク」が大活躍する料理がある。最近、韓国で人気を呼んでいる石焼きピビムパプだ。そもそもこの石焼きピビムパプは、韓国の「伝統文化」にも指定されている全羅道地方・全州《チヨンジユ》の郷土料理ピビムパプを石の器に盛りつけたもの。石をくり抜いて作ったどんぶり状の器を熱して白いごはんを盛りこみ、その上に何種類ものナムルや肉、卵黄などをふんだんにのせて食卓に運ぶ。
なにがおいしいといってあなた、焼けた石に直接触れたごはんがパリパリに焦げた、その香ばしいこと! ふつうのピビムパプ同様に全部をかき混ぜたのち食すわけだが、底の焦げ飯が、食べるたびにカリカリプチプチ歯に当たる。柔らかなごはんのなかに、香り高い焦げ飯があたかも小さな宝石のように散らばっている。いや、誇張など一切ない、ぜがひとも一度食べてみてください。石焼きピビムパプが圧倒的な人気を呼んでいるわけを、誰もがひとくちで理解するに違いない。
また、厚い肉を焼いてみても、石の威力は一目瞭然だ。じゅうぶん熱くなった石鍋にごく少量の油を敷き、そこへ肉を入れるやジュッと高らかな音が立ち、一瞬のうちに表面は色よく焼ける。すぐに返して裏を焼けば、肉汁が外に漏れ出る寸分の隙も与えない。内側にぎゅっとうまみを凝縮させて、それこそ絶品のステーキができあがる。ふだんステーキを食べない私でも、石鍋で焼くあのステーキだけは、こうして思い出すだけでも舌なめずりしてしまう。あぁ呉おばさんに、食べさせてあげたい――。
しかしながら、持つのも動かすのも、洗うのもおっくうな気分を乗り越えながら、それでもおいしさにこだわりましょう、と押しつけるのは、おかど違いではある。
かつて私自身、こちらは総重量一〇キロになんなんとする南部鉄のすきやき鍋をもらって二、三度使ってみたものの、その重さに耐えかねて戸棚の奥深くにしまいこんだ「実績」がある。目が触れぬ場所に押しやってみたものの、南部鉄の黒い塊りが暗闇から憮然とにらみをきかせているようで、ときおり落ちつかない気分に襲われた。案の定、数度の引っ越しを経て、黒い塊りは行方不明となった。
じつのところ、その鍋はもともと、ともだちのもらいものが私の手元に回ってきたという経緯があった。私にくれてやろうとわざわざ運んできた鍋をどさっと床に置くや、ぶら下げてきたほうの肩をしきりに揉みつつ、うんざりした顔でともだちは告げたものだ。
「こんな重いの、私いやだもの」
あなたなら、かえって喜んで使ってくれると思って、と言葉を続けられ、いそいそ持ち帰ったところまではいいが、その顛末は先のとおりである。鍋を取り出す以前に、そのとんでもない重量感が背後からのしかかってくるようで、どうしてもこうしても手がのびない――まさに、呉おばさんと同じ「嫌気」を味わっていたのだった。
今になって、はっと気づく。
私にとって負担にしかなりえなかった「一〇キロ」は、初老を迎えた呉おばさんにとっての「五キロの石鍋」と、もしかしたら同じ重さだったのかもしれない。
そんな思いが頭をもたげたら、洒落たマンションのキッチンにはいっけん不釣り合いな、拍子抜けするほど軽い合成樹脂のカップや皿は、まぎれもなく呉おばさんの暮らしの気楽なパートナーだったのだ、とおそまきながら知る。
割れる心配さえみじんもない食器や調理道具の、その気やすさ。「デザイン」や「機能」など一気にすっ飛ばして、安直なほどの使いやすさだけが、ひとの暮らしにだいじな意味を与えることも確かにあるのだろう。
あのとき尋ねこそしなかったが、家族四人が顔をそろえた呉家の食卓にはその昔、キャビネットにおさまっていたティーセットが誇らしげに、そして美しく並べられた時代もあったに違いない。
営んできた暮らしの年月が何層にも降り積もって、見るからに安っぽく軽い合成樹脂の食器のなかに深く沈殿するように重なっている。
私にも、石鍋の重さが疎ましく感じられる日が、いつかはやってくるのか。
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お膳のうえのモンドリアン[#「お膳のうえのモンドリアン」はゴシック体]――ポジャギ[#「ポジャギ」はゴシック体]
幼いころ、夏が来るたびに決まって母は押入れの奥から蚊帳《かや》を取り出した。夏休みの間は階下の涼しい四畳半の和室が私たち姉妹の寝室となり、夜ごと蚊帳が吊り下げられて、深く美しい緑色の沙を眺めながら蚊取り線香の匂いとともに眠りについた。そして、昼になれば、広げたちゃぶ台の上には小さな傘のような開閉式の蠅帳《はいちよう》が登場したものである。
私にとって蚊帳と蠅帳は、郷愁とともによみがえる夏の子どものころの思い出である。江戸時代には、漆塗りの格子枠の立派なあつらえのものが使われていたという蠅帳だが、近代になってから簡便な傘式が登場し、そして、冷房設備が行き渡るにつれて、いつしか蚊帳も蠅帳も日本の暮らしから姿を消していった。
韓国でも、同じように食卓にかぶせて蠅や埃よけに使われた布の「蠅帳」があった。
これを、ポジャギという。
古く朝鮮朝時代から使われてきたポジャギは、むしろ風呂敷と呼ぶべき韓国独特の生活用品である。麻や綿、絹などの布切れをひと針ひと針ちくちくと手縫いで縫い合わせたもので、さまざまな大きさがある。日本でいえば、さながら袱紗《ふくさ》のように小さなものから、大風呂敷のようなものまで。そしてすべてのポジャギは、単純で簡素な無地の小裂れを自在に組み合わせることで、一枚の布の平面にひとつの色調と調和がかもし出されている。
蜘蛛の巣を思わせる白や薄墨色の麻布のポジャギ。
淡いパステルの色彩ばかりを縫い合わせたポジャギ。
陰陽五行説によって選ばれた赤や青、紫を配した鮮やかな絹のポジャギ。
その造形美は、モンドリアンやクレーの絵画を彷彿とさせる抽象芸術の表現そのものである。そしてなにより、これらのポジャギはすべて庶民の女性の暮らしの知恵と美意識から生まれたことに、ただ驚嘆する。
ものを包む風呂敷としてのポジャギには、四隅に紐が縫いこまれているが、食卓用のポジャギには紐はついていない。そのかわり、持ち上げやすいように中央には小さなリボンが、ちょこんとついている。かつての宮中では、食卓用には裏に油紙が貼られていたというが、庶民のポジャギは軽くて風通しがよく、丈夫なことがいちばん。日々の生活のなかで手元に残る小裂れを、食卓をおおうに十分な大きさになるまで大事に大事に集めては、家事の合間にせっせと縫い合わせ、こうして食卓に美しい絵画が花開くのだった。
かつてポジャギはその発音が「福《ポ》」に通ずるところから、「福」と書かれた時代があったという。食卓のうえでポジャギが包むものは、間違いなくその日の「福」そのものである。
遠い日の蚊帳や蠅帳のなかにもやはり、幼いころの私の幸せな記憶が包みこまれている。
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混ぜて、混ぜて、また混ぜて[#「混ぜて、混ぜて、また混ぜて」はゴシック体]――チョッカラッとスッカラッ[#「チョッカラッとスッカラッ」はゴシック体]
いちいち講釈をしなければ、気がすまないひと、というのがいる。なかでも、たった今食べている料理について、得意満面の講釈を聞かされながらの食事は、ほとんど苦行の部類に属する。しかし、敵もさるもの。
「昔スパゲッティがイタリアに登場したばかりのころ、南部では、北部のひとは壁にスパゲッティを投げつけて、茹で加減を判断していると信じられていたのだそうな。江戸時代の狂歌にも、こんなのがある。『投げつけてみよ素麺のゆでかげん丸にのの字になるかならぬか』。蜀山人の作なんだがね」
たまに妙に興味深いことをポロリと口走ってくれたりするものだから、こちらもつい、「ほぉ」などと反応してしまい、墓穴を掘る。どんな講釈によっても、料理そのもののおいしさが高まるなどという可能性は、断じて皆無だ。
食事を楽しむときは、料理以外の話題を! 鉄則だ、と思う。
ところが、以上の自説を恥もなく一切合切ふり捨てて、みずから「講釈のひと」になり果ててしまう魔の時間がある。
それは、朝鮮料理屋の敷居をくぐった瞬間から始まっている。
「上カルビに骨つきカルビ、ええと、あとはロースでいいよねっ。とりあえずキムチの盛り合わせとビール!」
こう聞くともういけない、虫がうずうずと動き出している。
「あのぅ、タンとレバーも頼んでいい?」
とりあえず、皆の様子をうかがう。ここで難なく同意が得られると、すかさず言い足す。
「あのぅ、ミノとウルテも頼んでみない?」「えっ、そんなの食べるのっ!?」
飛んで火に入る夏の虫、とばかり、「講釈のひと」は続ける――ミノは牛の第一番目の胃袋である。ウルテは食道から胃につながる軟骨である。どちらも、コリコリとした歯触りと、あっさりと軽やかな風味がたまらないおいしさです、カルビやロースなどの柔らかな部位ばかりを食べていては、焼き肉の醍醐味は決して堪能できません。サンチュも注文しましょう、熱い肉をサンチュにのせて、辛味噌をちょっとつけてくるっと包む、これがまた絶品で――すでに皆の視線を一身に浴びているから、ここで、あわててつけ加える。
「いやいや、私も昔はミノもウルテも知らなかった。知らなかったけれど、内臓のおいしさに目覚めてからは、カルビやロースだけでは、もはやもの足りなくなってしまって」
言外に、皆さんもさぁいっしょに目覚めましょう、と押しつけんばかり。かくして、炭火の上でミノもウルテも、じゅうじゅうと音を立てることになる。
さて、再び「講釈のひと」が復活する瞬間を、誰よりもよく知っているのは、当然ながら当の本人である。それは、ピビムパプが食卓に運ばれてきたときに始まる。
ピビムパプは、ごはんの上に、大豆もやしやほうれんそう、ぜんまいなどの野菜の和えものや、肉そぼろが彩りよく盛られた、いわば朝鮮の混ぜごはんである。
まず誰よりも早くスッカラッ(さじ)を握り、やおら器の中身全体を勢いよく混ぜてみせながら、皆の顔を見回して宣言する。
「チョッカラッ(箸)は、キムチやナムルをつまむときにしか、使いません。ごはんをすくうのも、汁を飲むのもスッカラッです。どうしてかというと」
ここで、スッカラッをピビムパプに差しこむ。
「ちらし寿司を食べるみたいに、端から少しずつお行儀よく[#「お行儀よく」に傍点]食べるのでは、まったくおいしくありません。ごはんと、上にのっかっているものを全部まんべんなく、このスッカラッで混ぜ合わせるんです――ただし、こねて粘りを出してしまっては、まずくなる一方ですよ――あくまでさっくりとね。こんなふうに、心おきなくしっかり混ぜてから、食べる。これが、ピビムパプの正しい食べ方なのです」
日本人にとって、最初の姿かたちをとどめぬほど皿の中身を混ぜ合わせる、という食べ方は、かなりの思い切りを要する行為だ。
あれはもう、三十年以上も前のことだ。
たしか、母は風邪で寝込んでいたのだ。父も不在だった。わざわざ昼食をつくりに来てくれた母の友人が、食卓にカレーライスの皿を置く。小学生の私は、自分の目を疑った。中央には小さな窪みがつけられて、そこに生卵がつるりと流しこまれている。見たこともないカレーライスだ! そのうえ、おばさんはさぁ食べましょう、と言うなり、まずウスターソースをぐるぐるとカレーライスに回しかけた。さらに仰天したことには、スプーンの先で生卵を崩し、皿の中身をすべて混ぜ合わせ始めたのだった。白身も黄身もルーもごはんもウスターソースも、すべてがぐちゃぐちゃに混ざり合っていく、うわぁうわぁ……。目はくぎづけになったまま、一切の食欲は消え失せ、しかし必死の思いで私もスプーンに手をかけた。
たとえばこんなふうに、日本人のごく一般的な観念のなかでは、皿のなかを混ぜ合わせることは、「行儀のよい食べ方」から大きく逸脱している。しかし、朝鮮の庶民の食卓では、まったく反対だ。
あるともだちは、慶州の食堂で、ちらし寿司流にはじからひと口ずつピビムパプを食べていたら、店の主人が飛んできてスッカラッを奪い取り、「こうやって食べなさい」と、全部を混ぜ合わせ始めた、と言う。ただし、混ぜたあとのピビムパプは、さっきとはまるで別もの、目からウロコが落ちるほどのおいしさに変わっていた――。
朝鮮料理のココロは、複合の妙味にあり。
さて。
「講釈するひと」は、いよいよ馬力全開だ。
食卓にさらにチゲやクッパプが運ばれてくれば、もはや実演つきの大奮闘である。
「混ぜて食べるのは、もちろんピビムパプにとどまらないのです。白いごはんの上にいったんおかずをのせて、スッカラッで軽く合わせてから、口に運ぶ。ごはんにちょっと味をつけて食べるわけですが、これは私たちもよくやる食べ方」
「ほらこんなふうに、チゲが少なくなれば、汁のなかへごはんを入れてしまえばいいの。最初からクッパプを頼まなくても、あとから自分でクッパプにすればいいんです。でも、ごはんに汁をかけることは、絶対にしないのね、これが。あ、それから、こういう食べ方もあります、口へごはんを入れて、すぐさまスッカラッですくった汁を流しこむ。つまり、口のなかで汁とごはんを混ぜ、クッパプにする。こんな技術も覚えておくと、いうことなし」
任務を終えた「講釈するひと」は、ひと通りを伝えきった心地よい疲労感とともに、静かに箸を、いやスッカラッを置く。
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女ひとり食べる焼き肉は[#「女ひとり食べる焼き肉は」はゴシック体]――飯器[#「飯器」はゴシック体]
久しぶりに、上野にキムチを買いに出かけた。外を数歩歩くだけで、あっというまに汗が吹き出すほど猛烈な暑さが続いたこの夏は、ほうほうのていで夕方家に帰りつくと、すでに青息吐息である。
毎日そんな具合だから、火の前に立つのがひどくおっくうで、つい台所仕事は手を抜いた。そのせいで、この三年間毎夏の恒例行事にしていたえごまの葉のしょうゆ漬けづくりをすっかり忘れていたことに、はたと気がついたのである。
あの夏の味をいったん思い出すと、もう我慢できない。
ほかほかの熱いごはんの上に、箸でつまみあげたえごまの葉のしょうゆ漬けをぺらりと一枚。海苔でくるむと同じ要領でごはんを包み、口に運ぶ、と、とたんに広がる青々とした野生の香り。さわやかな苦み。あぁもうだめだ、たまらない。条件反射でつばが湧き上がってくる。
そんなわけで、上野の韓国食材店でお目当てのえごまの葉のしょうゆ漬けとチョンガクキムチ、それに白菜キムチを買いこみ、総重量ずっしり五キロの大荷物が手に食いこむ。
涼しい店内を出ると、とたんに背中を汗が流れ出した。数歩歩くと、おや目の前は焼肉屋ではないか。短冊に書かれたハングル文字の品書きがウインドウにところ狭しと貼りつけられて、おいでおいでと手招きしている。そういえば、三時近いというのに昼食はすませていなかった、と思う間もなく、すでに体はふらふらと店のなかに吸い寄せられて――。
「えぇと、ユッケピビムパプとビールの小瓶!」
炎天下の真っ昼間、思わず口をついて出るのはさすがに滋養補給のメニューである。
ビールをコップに満たすのももどかしく、一服の清涼剤をぐいぐい喉に流しこんでほうっとひと息、ここではじめて首をぐるりと左右に回し、店内のテーブルを視界にとらえる。と、なんとすべての客は、テーブルをはさんで向かいあわせに座った男女のカップルではないか。
肉を焼きながら、ときおり小声で囁くようにしゃべっては顔を見合わせ、視線を絡ませる二十代後半のふたり。男は競艇新聞片手に肉を頬張り、片や女は一心不乱に肉を焼きつづける三十代後半のふたり。すぐ隣はといえば、若いふたりがボウリングのスコア表をのぞきこみ、ついさっきのゲームを話の肴にしてはしゃいでいる。
とまぁこんな雰囲気のなか、キムチの大袋をぶら下げて入ってきた女ひとりが、ユッケピビムパプを頬張っているわけだ。
そうこうするうち、隣が注文したカルビやタン塩を運んできた店のお姉さんが、皿をいったんこちらのテーブルに置いてから隣に移し直すものだから、ひたすらユッケピビムパプを口に運ぶ身には刺激が強すぎる。にんにくや醤油の香りがからかうように鼻先を通り過ぎ、食欲をむしょうにかき立てては去っていき。たまりかねて、焼き肉をひと皿だけ頼もうか、と迷ううち、数週間前に読んだ雑誌の座談会の記事をふいに思い出した。
当節の流行に精通していると評判の男性作詞家が言い放つに、「これまで僕が目撃した史上最強の光景≠ニいうのは、女ひとりで焼き肉を食べてるって図ですかね。おいおい、いったい彼女の身になにが起こったのか、と。なにが悲しくて、女ひとり焼肉食うか!?」。
ううむ。肉を焼いて食らう姿は、あまりに人間の本能的な食欲に直結して、それだけに妙になまなましく映るのかもしれぬ。しかしだ、ひとりだろうが十人連れだろうが、食べたいものは食べたいときに食べるわい、とすかさず「却下!」と胸のうちで叫んでみたものの、金縛りにかかったかのように「カルビひと皿」の声がどうしても出ない。
私が店を出たあと、店中の男女があちこちで話のネタにするのだろうなぁ。「ねぇねぇさっきのおばさん見た?(やっぱりこういう場合、おばさんと呼ばれるのだろう)ひとりで肉を焼くなんて、ああはなりたくないよねぇ」。その展開は火を見るより明らかに思えて、みすみす彼らに話題を提供するのが、ただくやしい。
そんなわけで、焼き肉の誘惑と葛藤をビールで押し流して、いまだ誰ひとり席を立たないふたり連れの集団をあとに残し、そそくさとキムチを抱えて席を立った。
衆目のなか、女がひとりでものを食べる風景。それは、よくも悪くも想像力をかき立てるものであるらしい。
いわゆるヨーロッパ的な伝統マナーのうえでも、女がひとりでレストランに出かけるなど、もってのほかだったようだ。ことにロンドンでは、「きちんとしたジェントルウーマンは、もちろん、二十世紀も相当進むまで、公衆の面前で食事したりはしなかった」(スティーブン・メネル著『食卓の歴史』)。しかし、たとえば颯爽とスーツに身を包み、ブリーフケース抱えてカツカツとハイヒールの音を立てながら(私自身はスーツにもハイヒールにもブリーフケースにも縁遠いが)、駅の立ち食いそば屋の暖簾を威勢よくくぐった女ひとり、ささっとそばをたぐって数分もせぬうち風のように去っていく様子、なんていうのは途方もなくかっこいいじゃないか、などと思うくちである。いわんや、女ひとり焼き肉を頬張るさまに出くわしたとしても、「そうか今日はそういう都合なんだな、それでもってどうしても焼き肉が食べたかったんだな」としか感じないくちである。鈍感なんでしょうか。
かつて香港のリージェントホテルの名店「麗晶軒《ライチーヒエン》」で、着飾った周囲の客をものともせず、夕刊片手にひとりディナーの食卓に向かっていた老イギリス女性の毅然としたたたずまいはすこぶる魅力的で、二十年以上たった今でもその姿は鮮明に脳裏に焼きついている。
女がひとりでものを食べることに、過剰に反応する必要がどこにあるか。周囲の男性たちに「主張」してみると、「はぁそうですか、じゃあスーツ着てハイヒール履いて暖簾くぐってどうぞ焼き肉食べてください、ひとりでね」と、きわめて冷たい。
彼らが異口同音に言うことには、女ひとりの食事風景をとりたてて非難するものではないけれど、さりとて、とりたてて好んで見たくはない風景だ、と。そうかなぁ――土壇場で「カルビひと皿」の声が出せなかった後ろめたさをもつ我が身を振り返れば、もはや沈黙する以外にないのだが。
少なくとも、女であろうと男であろうと、ひとりだろうと、また、焼き肉だろうと小洒落たイタリアンレストランだろうと、食べることがさもしげに映ってしまうその理由のありかは、同じではないかと思う――「何を食べるのか言いたまえ。君がどんな人間か教えてあげよう」、このブリア・サヴァランの有名な言葉に従えば、「どう食べるか見せたまえ。君がどんな人間か、誰にもすぐにわかるはずだ」。
「どう食べるか」は、マナーのよしあしの問題では決してなく、それぞれの人となりのありようと深く関わっている。だからこそ、女がひとりで叫ぶ「カルビひと皿」には、それ相応の「人生の修業」が要求されているというわけで、いやはや。
さて、いかに人品いやしからぬ紳士淑女が食卓に向かおうと、食習慣や文化が違えば、無条件に無言の顰蹙《ひんしゆく》を買ってしまう局面というのがある。食習慣は幼いころから身にしみこんでいるだけに、いくら相手は外国人だと認識していても、つい生理的な違和感や拒絶反応を抱いてしまうことは抗しがたい事実である。
ニューヨークから彫金を学ぶために留学してきたキャロラインが言う。
「いかを見ると必ずいやーな気持ちになるの。初めて日本に来てすぐに、ホームステイした。で、あるとき夕食にいかサラダが出た。大きなサラダボウルに入ってて、私は自分の箸で小さいお皿に取り分けた。そうしたら、いきなりおばさんがサラダボウルつかんで台所に行って、そのまま全部ばさっと中身を捨てちゃったの。家族みんな、ほとんど誰もまだ食べてなかったのに。びっくりしてたら、戻ってきたおばさんが、日本では自分の箸で取るときは、逆さにしなきゃだめでしょう、汚いじゃないの、といきなり怒って。そんなこと全然知らなかったし、私すごくつらかった。いや、本当の話よ、これ。それからずっと、自分のお皿にものを取るときは絶対箸を反対にして取る。そうすると、今度はヘンなガイジンとか言われるけれど」
在日韓国人の全《ジヨン》さんが言う。
「ごはんを食べるとき、日本では茶碗を持ち上げて食べるでしょう。でも、韓国では絶対に茶碗は持ち上げない。とてもいやしい食べ方だとされているから。だから、こういうことが起こる。たとえば在日同胞が韓国にスポーツなんかで遠征に来るでしょう。そうすると合宿所でいっしょに食事をする。在日同胞は当然ごはん茶碗を持ち上げて食べるけど、それを見て、韓国人は『やっぱり在日同胞は行儀が悪い』と悪口言うわけです。韓国人は、どこかで日本に対して優越感を持ちたいから」
ベトナム人のチェさんが言う。
「ゆでたえびやかにを頼むと、ベトナムじゃあ茶碗にお茶とライムを入れたのを出すんです。ほら、これです。ちょっと見るとスープみたいに見えるでしょう。だから、日本人はよく間違えて、飲んでしまうんです。そして必ず、おいしいって言う。でも、これは手を洗うものなんです。このまえ僕が通訳したツアーのひとたちも、あッと思ったらみんな飲んじゃってました。でも、そのツアーのひとたち、僕に対してすごくいばってた。だから、ちょっといじわるして、わざと黙ってました。店のベトナム人たちは、奥でおなかを抱えて笑ってましたけれど」
「マナー」は、フォークやナイフの使い方、パスタの食べ方、テーブルナプキンの扱い方だけのことをいうのではない。アジアにはアジアの、それぞれの国で守られ、大切にされてきた「マナー」がある。いっけん、ぞんざいにごはんをかきこむ様子に映るアジアの食卓の風景にも、じつはさまざまな決まりごとや食習慣の記号が隠れている。
ある日のこと、ソウルで、客を招く夕食の準備を手伝った。飯器《パンギ》にごはんを盛る役目をおおせつかり、お安い御用、とごはんをよそい終えたら、オモニが目をむいた。
「そんな少ない量じゃ、みっともないじゃないですか。もっとたっぷり盛るんです」
あわてて飯器の九割まで思い切ってごはんを追加して、オモニの目の前に差し出し、審判をあおぐ。
「だめですね。もっとたっぷり」
業を煮やしたオモニが自分でさらに追加したごはんは、こんもりと器のふちからはみ出ている。まさにこれぞ、てんこ盛り。
「韓国では、せいいっぱいおもてなしをしています、という気持ちをかたちに表します。だから、ごはんも汁もおかずも、たっぷりよそうんです。もし私がお客として招ばれて、さっきあなたが最初に盛ったごはんを出されたとしたら、どうでしょう。私は、とても不愉快な気持ちになります」
なるほど、ごはんの盛り方にもちゃんと「マナー」がある。
韓国の人々は、誰かが家にやってきたら、「パプ・モゴッソヨー(ごはんはもう食べましたか)」と聞くのも礼儀のうちだ、という。それほど、食事は人間関係のなかで重要な位置を占めている。片ひざを立て、てんこ盛りのごはんをスッカラッですくって食べながら、またもう一歩、韓国の日常に分け入る。
そういえば、道を歩けばあちこちにおいしい焼き肉屋が軒を連ねる韓国で、女ひとり焼き肉を食べる風景はどんなふうにひとの目に映るのか、そこのところはうっかりオモニに聞き忘れた。もっとも、ほんの数十年前までは、まず一家の男性たちが食事を終えてから、そのあとようやく女性たちが食事を始めることができたお国柄である。女ひとりの焼き肉には、やっぱり相当の「人生の修業」が必要に違いない。
その証拠に、その風景をいまだかつて韓国で目にしたことは、一度もない。
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アジアで覚えた、あの料理――3[#「アジアで覚えた、あの料理――3」はゴシック体]
いつのまにか唐辛子のおいしさに、やみつき[#「いつのまにか唐辛子のおいしさに、やみつき」はゴシック体]
[#ここから1字下げ]
ピビム麺[#「ピビム麺」はゴシック体]
[#ここから2字下げ]
私の夏のお昼ごはん。あんまりあちこちでこの麺の作り方を教えて歩くので、いっとき「ピビム麺の伝道者」と呼ばれたことがありました。でも、実際に作ってあげるとみんな、これはおいしいっ、と大感激してくれます。
[#ここからゴシック体]
材料(2人分)
きゅうり(せん切り)1本分 焼豚(せん切り)4枚分 たれ〔コチュジャン 大さじ1 しょうゆ 大さじ2 砂糖 大さじ1/2 すりごま 小さじ2 粉唐辛子 少々 ごま油 大さじ1 にんにく(おろしたもの)小さじ1/3〕冷麺用の麺 2玉
[#ここでゴシック体終わり]
作り方
[#ここから3字下げ]
1 たれの材料を全部合わせ、よく混ぜておく。
2 鍋に湯を沸かし、麺を茹でてからいったん冷水にとり、水気をよく絞る。
3 2の麺をボウルに入れ、たれをかけて全体をよく混ぜ合わせる。
4 器に3の麺を盛り、きゅうりと焼豚をのせる。あれば白菜キムチものせると、もっとおいしい。
[#ここから1字下げ]
豚肉と白菜キムチの鍋[#「豚肉と白菜キムチの鍋」はゴシック体]
[#ここから2字下げ]
冬なら、文句なくこれ。土曜日の昼、娘が学校から帰ってくるころを見計らって作ることもよくあります。「わぁ辛い、でもおいしいね」が、合言葉。小皿に取り分けたところへ、ごはんを入れて食べたりします。食べ終わるころには、全身ぽかぽか。
[#ここからゴシック体]
材料(2〜4人分)
豚もも肉 200g 白菜キムチ 200g 春菊 1/3束 しいたけ 4枚 えのきだけ 1パック 長ねぎ 1本 豆腐(木綿)1丁 納豆 1パック 味噌 大さじ4 コチュジャン 大さじ1〜2 粉唐辛子 小さじ1 いりこだし 21/2カップ
[#ここでゴシック体終わり]
作り方
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1 豚肉と白菜キムチは食べやすい大きさに切る。
2 春菊はざく切り、しいたけは薄切り、長ねぎは5p長さに切り、豆腐はたて半分に切ってから6枚に切り分ける。
3 納豆は包丁で叩いてペースト状にしてから、味噌、コチュジャン、粉唐辛子、いりこだしと混ぜ合わせる。
4 土鍋に豚肉、白菜キムチ、春菊、しいたけ、えのきだけ、長ねぎ、豆腐を並べ、3のだしを注ぎかけて火にかけ、煮る。
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インド[#「インド」はゴシック体]
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台所からいい香りのする家は、必ず料理もおいしい。
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地獄の闇鍋[#「地獄の闇鍋」はゴシック体]――マサラ・ダヴァ[#「マサラ・ダヴァ」はゴシック体]
思えば遠くへ来たもんだ。
「味つけの順番は、えーと、さしすせそ、さしすせそ」と口のなかで唱えながら、鍋に醤油を注いだ日のことを、ふと思い出したわけです。砂糖、塩、酢、醤油、そして酒と味噌。自分で料理を始めた三十年近く前は、このくらいの調味料を使うのがせいいっぱいだった。
ところが。今や台所は、まるで「調味料の玉手箱」だ。冷蔵庫のなかにいたっては、なまものよりも調味料がはばをきかせている。十五年選手の流行遅れの冷蔵庫のなかはすっかり半分が占拠されて、開けるたびに自分でも、どうにかならぬものか、とあきれている。
それは、たとえばこんな具合です。
中国のものなら、豆鼓《トウチ》、芝麻醤《チーマージヤン》、辣醤《ラージヤン》、黒酢、腐乳《フールー》、XO醤、沙茶醤《サーチヤージヤン》、豆板醤《トウバンジヤン》、オイスターソース。タイなら、ナームプラー、チリソース、タマリンド、ナムプリックパオ、シーユーダムにシーユーカオ、タオチオ。朝鮮料理にコチュジャンや赤唐辛子。シンガポールのサテ・ソース。イタリア料理にドライトマト、バルサミコ酢、くるみオイルにハーブヴィネガー、ワインヴィネガー。カレーをつくるときのために、スパイスが十数種類。もちろん、マヨネーズやケチャップ、ウスターソースだって欠かせない。あぁまだある、こういう基本調味料に加えて、たまたま見つけて手をのばしてしまった「ジャマイカ産かぼちゃとマンゴ入り中濃ソース」だの「ハーブ入り岩塩」なんてのも見つかります。名前をあげつらう酔狂ついでに数えてみたら、調味料が全部で三十いくつ、スパイスが二十いくつあった。
こんな様子だから、連れ合いは「台所に立つだけで、目がくらくらする」。十六種類のスパイスが収納できる、アメリカのキッチン用品メーカー「ウィリアムズ・ソノマ」のスパイスボックス(収納力抜群なのに、場所いらず。秀逸です)をいたずらにくるんくるん回しながら、「眺めているだけで、頭んなかが白くなりそうだ」。そういうわけで彼は決して「さしすせそ」を踏みはずすことなく、ニッポンの基本路線をひたすら忠実に一直線です。
いやいや、ようするに、たんに好きなのだ。私にとって日々の料理は、調味料やスパイスを自由気ままに使い分け、複雑な味わいが生まれたときのあのこころ躍るような楽しさに支えられているのではないか、と思いあたる。
その第一歩を踏み出したのは、そう、あの台所の芳しい香りを嗅いだときかもしれない。
ネパール人のマスケイさん一家は、うちのすぐ裏の公団の三階に住んでいた。たとえ彼女の家を知らなかったとしても、それが昼どきか夕飯どきなら、誰もが必ずドアの前にたどり着くことができただろう。公団の門を通り過ぎたころから、風にのってふうわりとスパイスの香りが鼻先をくすぐっていく。つかまえた香りのしっぽを追いかけるように階段を上がっていくと、しだいにそれは密度を増していき、今度は鼻先を通り過ぎて腹のなかまでぐっとしみ渡り、それまで眠っていた食欲ががぜん呼び覚まされる。
マスケイさんの家のチャイムを鳴らすときにはいつも、それまで鳴りを潜めていた食欲の虫が、いっせいにぐうぐうと音を立て始めているのだった。
「ネパールではね、台所からいい香りがする家は必ず料理もおいしい、という言い方をするのよ」
彼女がつくる豆のカレーや炒めたじゃがいもやチャパティ、きゅうり入りのヨーグルトのおいしさは、そのまま彼女の言葉を証明していた。
「このうちは、この香り、あのうちは、あの香り。どのうちにも、それぞれの家のスパイスの香りというのがあるの。そして、自分のうちの香りを嗅ぐと、あぁ今日も家に戻ったな、と思うんですね」
夕方帰ってくるだんなさんは特にね、といってマスケイさんは片目をつぶったものだ。
スパイスの香りは、わが家の香り!
私はすっかりこの言葉に魅了されて、公団の3DKをすみからすみまでいっぱいに満たしている芳しい香りをすべて吸いつくさんばかりに、胸の奥深くまで深呼吸した。
そして、台所で彼女が鍋にぱっぱっと振りこむスパイスを入れたステンレスの丸いスパイスボックスが、まるでアラジンの魔法のランプのように思われた。
「むずかしいことは、なにもないのよ。スパイスの入れ方には、こうしなくちゃいけない、っていう決まりもなにもない。ただ、このなかのスパイスを料理によって多くしたり少なくしたり、好きなように組み合わせて自分の味をつくればいいのだから」
しかし、ようやく「さしすせそ」を習得したばかりの身には、「決まりがない」「好きなように組み合わせればいい」ことほど、むずかしいことはなかった。簡単、簡単と何度も繰り返されればされるほど、スパイスボックスはますます不思議な魔法のランプにしか見えず、その一方でスパイスの香りはくらくらするほど私の五感を幻惑した。
十年がたった。
マスケイさんの台所で見かけたと同じ、あのステンレスの丸いスパイスボックスに入っているいつものスパイスは、決まって七つ。クミンシードとクミンパウダー、コリアンダー、ターメリック、カルダモン、赤唐辛子、それにガラムマサラ。これさえあれば、肉でも野菜でも、たいていのカレーは間に合う。
鍋のなかに、ぱっぱとスパイスを振りこんでいる私の手元を見るたび、連れ合いが判で押したようにため息をもらす。「おぉいい香りだなぁ。しかし、僕にゃまるっきりあてずっぽうとしか見えないが、よくそれでいつも同じ味がつくれるもんだ。いやいや近づくのはよしておこう、何度見ても、うーむいっこうに理解不能な世界だ」
そして私は、どこかで聞いたような台詞を口にしている。「そんなことない、ない。むずかしいことは、本当になにもないのよ。自分が好きなようにスパイスを組み合わせればいい、ただそれだけなんだから」
煙に巻いているのではない。魔法のランプは、自分で自分の経験をひもときながら使う以外に手はないのだった。なにしろ、たとえばマスケイさんが子どものころから慣れ親しんで自分の味覚のなかに積み重ねてきたスパイスの味わいや使い方を、文化も風土も時間もすっとばして、いっきに短距離でわがものにしようというのだ。ただし、そのぶん手痛い失敗はごろごろと転がっている。
熱い油のなかにいっせいにスパイスを入れたら、とたんに全部がまっ黒こげになってしまったこと。勢いにのって唐辛子を景気よく入れたら、ほかのスパイスを足しても足しても辛さは和らがず、おまけに味はどんどんバランスを失って地獄の闇鍋に化けていったこと。パウダーが切れていて、まぁいいやとシードばかり入れたら、香りばかりが強くて味もうまみもなかったこと。お客が来た日に今日はインドのカレーでいくぞ、と勇んだものの、気張ったつもりでスパイスを何種類も入れ過ぎて「これは中近東のシチューかなにかですかね」と笑われたこと。
しかし、何度失敗を続けても、私は懲りることがなかった。香りに魅了された十年前のあの日にもまして、私はずんずんと引きこまれるように、スパイスの世界のとりこになっていたのである。そして気がつけば、さまざまな調味料を使いこなすという、とんでもなく楽しいおまけまでついてきていた。
信じようと信じまいと、そのあいだの十年間、私はほとんどの「レシピ」というものを自分の料理の参考にしなかった。いや厳密にいえば雑誌や料理書の「レシピ」を「楽しい読みもの」として読みはしたが、それを片手に首っぴきで台所に立つことはおろか、その通りにつくってみることはいっさいなかった。そのかわり、ネパールやインドの料理を食べる機会があれば、必ずつくり方が簡単なものを選んだ。それは、食べたその日か少なくとも次の日には、同じ料理を自分でつくってみるためだったのである。そして、どうにかこうにか私のなかでスパイスの持ち味のたて糸とよこ糸がほぐれはじめたころ、意を決してインド女性が開く料理教室に通い、ここでの一年間は彼女のレシピを忠実に守りながら、頭と味覚に叩きこんだ。
シードは風味と香りのために、パウダーは味と適度なとろみをつくりだすために、それぞれを使い分けなければならないこと。シードはまず、油で炒めて「寝た子」を起こしてやらなければならないこと。味の基本にはクミンとコリアンダーを、辛味には唐辛子を、色ととろみのためにはターメリックを使うこと。肉にはシナモンが合うが、野菜にシナモンをたくさん使ってしまえば、野菜の優しい甘みをだいなしにしてしまうこと……。
それまでの十年間の勝手気ままな「スパイスごっこ」はいくばくかの意味を与えられ、スパイスは、まるでパズルがかちっと音をたててはめこまれたときのように、その世界の片鱗を鮮やかに現わした。
魔法のランプはこんなふうにして地獄の闇から生還し、再び私の手元でかすかな光を放ちはじめたのだった。
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小麦粉はしみじみおいしい[#「小麦粉はしみじみおいしい」はゴシック体]――タヴァとバトゥーラ[#「タヴァとバトゥーラ」はゴシック体]
あるところに、大変熱心なパン職人がおりました。
彼は今度、フランス本国では泣く子も黙る一流シェフの名を冠したブランドを掲げる店で働くことになりました。さぁ、張り切るまいことか。腕の立つ彼のこと、シェフ直伝のクロワッサンやバゲットはあっというまにものにしてしまい、もちろん売れ行き上々。評判の良さに気をよくしたパン職人は、ここらでひとつ、わが腕前をアピールしたいと考えました。寝ても冷めても、頭に浮かぶのはオリジナルの新作のことばかり。そして、試行錯誤ののち、ついにそのパンは完成したのです。さて、折よくシェフが再び来日しました。店内を一巡したシェフは、あるパンに目を止め、怪訝《けげん》そうにがぶりとひとくち。そして、次の瞬間、顔を真っ赤に染めて怒鳴りました。「これはいったい、なんなんだ。すぐに引っこめてしまえっ」。それは、彼がつくった苦心作でした。パンのなかには、「たこ焼き」が入っていたのです。
――話の枕がすっかり長くなってしまったが、これは実話である。パンのなかに、ついなにか入れたくなってしまうというのは、どうも日本人の特性らしい。こないだは近所の商店街で、ゆで卵丸ごと一個入りパンというのを目撃したぞ。いや、なにが言いたかったかというと、小麦粉だけでつくるインドの「パン」は、とてもとてもおいしいということなんですが。
インドの「パン」のなかで一般的なのは、チャパティ、プーリ、パラタ、そしてナン。どれもがインドの主食である。ただしナンだけはタンドーリと呼ばれる石窯で焼くから、家庭でつくれるものではない。それ以外は、インドの家庭の主婦ならお手のもの。チャパティは全粒粉をこねた生地を丸くのばし、油を使わずに焼く。プーリは、チャパティと同じ生地を油で揚げたもの。パラタは生地を何回か層に折って三角にしてからのばして焼いたもの。どれもこれも、小麦粉そのものの味がしみじみとじんわりおいしい。むろん、カレーやおかずといっしょに食べてこそ、ではあるのだが、しかし私はこれらのインドの「パン」を食べて初めて、小麦粉の素朴なおいしさを知った。
だからこそ、今夜はカレーだ、となったら必ずタヴァとバトゥーラを戸棚から取り出すのが習慣である。どちらも、インドの台所の必需品だ。こねた生地をバトゥーラの上に置き、麺棒で薄くのばしたら、今度は火にかけたタヴァでこんがり焼く。
厚手のタヴァでさっと焼いて焦げ目がついたチャパティを家族三人分、ひたすら黙々と焼くこと十五枚。タヴァとバトゥーラが台所に登場するようになって以来、カレーの日にごはんを炊くのは、とんと御無沙汰である。
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「食べ方が要求する」食器[#「「食べ方が要求する」食器」はゴシック体]――ターリー[#「ターリー」はゴシック体]
野菜の素焼き。オリーブオイルでこんがり焼いた魚。チーズとバゲット。
「あぁ疲れた。今日はもう動くのもおっくうだ。だけど、食べなきゃならない、つくらなきゃいけない」日のメニューは、必ずこのワンパターンだから、むしろ気が楽というものである。
所要時間十分。使う鍋はふたつだけ。できあがれば、それぞれ人数分をひと皿盛り。野菜には、食べるときにバルサミコ酢と塩をかける。そのうえ、食卓を素通りして、ひとりひと皿かかえて好きな場所に陣取るのだ。うーん極楽、極楽。
ひと皿盛りの気楽さに助けられてガス抜きすると、ぴんと張っていた気持ちがふにゃふにゃ柔らかくなって、とりあえずちょっと元気になる。
さて、もうひと場面、ひと皿盛りのお世話になるのがカレーの日。今日はカレーと決めたら、肉のカレーと季節の野菜カレー。おのずとこう決まる。余力と時間があれば、たまに豆のカレーが加わる。肉はひき肉だったり、鶏肉だったり。野菜はじゃがいもやカリフラワーだったり、そのときどき。あとは、スパイスと火の力を借りればおしまいである。
大きな金属製の丸盆にチャパティかごはんを盛り、盆の周囲にそわせて数種類のカレーやアチャール(漬けもの)、チャツネを入れた小さなボウルを並べる。庶民からマハラジャまで、これがインドの食卓の基本である。
この大きな盆と小さなボウルのセットが、ターリー。また、ターリーに限らず、インドの家庭で使われている食器は、そのほとんどが金属製だ。調理用のボウルや、粉をこねる鉢も金属のもの。ただし、ステンレス製や銀製をずらりそろえているのは暮らしに余裕がある家庭で、庶民の台所には真鍮やアルミニウムの皿のほうが目立つ。
ターリーは、たいていの場合、床のうえに直接置く。チャパティのときは、手でちぎってはボウルのなかのカレーをちょいとつけて口に運ぶ。ごはんのときは、スプーンでカレーをすくってかける。大きな盆は、皿の役目も果しているというわけだ。私は金属製の皿はすこぶる苦手なのだが、しかし、いざターリーで食べてみると、これがめっぽう使いやすい。いや、食べやすいのだ。すべてを指先で口に運ぶインドの食べ方に倣ってみると、最もむだな動きと手間がいらないのが、目の前に主食もおかずもいっぺんにそろうひと皿盛りのターリーだ、と知る。さらに、指を使って食べるから、器に口をつけることも持ち上げる必要も一切なし。
ターリーは、丈夫で合理的な「食べもの入れ」に徹し切っている。
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アジアで覚えた、あの料理――4[#「アジアで覚えた、あの料理――4」はゴシック体]
家のなかいっぱい、スパイスの香り[#「家のなかいっぱい、スパイスの香り」はゴシック体]
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じゃがいものサブジ[#「じゃがいものサブジ」はゴシック体]
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新じゃががおいしい季節になると、飽きもせずしょっちゅう作ります。カレーにはもちろん、朝ごはんのパンやおやつ、白いごはんにも。何にでも合う、こういうシンプルな料理が大好きです。じゃがいもを皮つきのまま料理するのもおいしさの秘密。「サブジ」は、炒め煮のこと。
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材料
新じゃが 8個 クミン(パウダー)小さじ2 コリアンダー(パウダー)小さじ1 赤唐辛子(パウダー)小さじ1/3 ブラウンマスタード(シード)小さじ1 塩 小さじ1/2 水 50t サラダ油 大さじ2
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作り方
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1 新じゃがはよく洗ってから、皮つきのまま4分の1に切る。
2 鍋にサラダ油を入れ、温度が上がる前にブラウンマスタードを加える。マスタードがパチパチはじけ始めたら、1のじゃがいもを入れて炒める。
3 クミン、コリアンダー、赤唐辛子、塩を加えて軽く炒め合わせる。
4 水を加え、ふたをして中火で10分ほど蒸し煮する。
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キーマカレー[#「キーマカレー」はゴシック体]
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わが家の定番中の定番カレー。たっぷりの牛ひき肉と玉ねぎ、グリーンピース、あとはスパイスさえあれば、ひとつの鍋で簡単にできるんです。チャパティを焼く日もごはんの日も、やっぱりこのカレーは欠かせません。
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材料
牛ひき肉 600g 玉ねぎ 1個(大)グリーンピース カップ1/2 にんにく 1片 ショウガ ひとかけ ターメリック(パウダー)小さじ1 クミン(パウダー)小さじ2 コリアンダー(パウダー)小さじ2 赤唐辛子(パウダー)小さじ1/2 シナモン(スティック)1本 ローリエ 1枚 トマト水煮(缶詰)1缶(400g) 水 カップ1/4 塩 小さじ1/2 サラダ油 大さじ2
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作り方
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1 玉ねぎをみじん切りにする。
2 鍋にサラダ油を熱し、シナモンとローリエを入れて香りが出たら、1の玉ねぎを加えて炒める。
3 牛ひき肉を加え、さらにターメリック、クミン、コリアンダー、赤唐辛子を加えて全体を炒め合わせる。
4 トマト水煮と水を加えて20分ほど煮る。途中ですりおろしたにんにくとしょうが、塩を加える。
5 表面に油が浮き上がったら、グリーンピースを入れて火を通す。
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ベトナム[#「ベトナム」はゴシック体]
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鋭い切れ味がかえって台無しにしてしまうおいしさというのもあるんです。
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ヌクマムの泉[#「ヌクマムの泉」はゴシック体]――コイ[#「コイ」はゴシック体]
ダンさんが、あんまり遠慮なく木の棒で茶碗をカツカツ叩くので、そのうちひびが入るんじゃないか、割れるんじゃないかと、気が気ではない。
茶碗のなかには唐辛子三本とにんにく四個が入っており、昼ごはんに魚を焼くので、ダンさんはそのつけだれをつくるために唐辛子とにんにくを叩き潰しているのである。
そんなに叩いて大丈夫なんですか、と心配して手元を見る私に、にやっと笑ってウインクするダンさんが、
「だって僕は、うちの奥さんより料理が上手なんだよ」
年のころ五十歳のダンさんは、ベトナム映画に将校役で出演したこともある、なかなかのハンサムだ。そのうえ格闘技の有段者で、見るからにがっしりとした偉丈夫。今はサイゴンの観光省の役人だが、戦争中はハノイでぼんぼん手榴弾を投げていたから、ほら見ていてごらんこんなに石を遠くまで投げられるよ、と、これまたウインクしながら、峠を車で越えたときに谷へ向かって石投げの妙技を披露してくれたものだ。
そして料理もまた、彼の「多芸」のひとつなんです。
茶碗をコンコンカツカツいわせながら、彼は丹念に中身を叩き、数分たつと唐辛子は細かくほぐれ、にんにくは繊維にそって細長くばらばらに潰れた。そこへ片手でぎゅうっと搾ったライムを半個分。ザラメの砂糖をティスプーンに一杯。ヌクマムを目分量でじゃばっとふり入れて、すかさず湯を少々。スプーンで茶碗のなかをくるくるかき混ぜて味見を終えたら、ダンさんこちらを振り向いて破顔一笑、太い親指を威勢よく立てて「オゥケィ」と得意気に茶碗を置いた。
この甘酸っぱくてスパイシーなたれを、ベトナム語で「ヌクマム・ファー・トイ・オッ・チャン・ヌゥン」という。名前はやたら長いがなんのことはない、唐辛子とにんにく入りのヌクマム、という意味で、どんな料理にも必ずたれを添えて出すベトナム料理のなかでも、最も食卓にひんぱんに登場する万能だれだ。だから、ほとんど毎日、料理をつくるたびにこんなふうに茶碗を叩いては、唐辛子とにんにくを叩き潰していることになる。
いかな料理上手とはいえ、毎日のことだ、思いっきり心おきなく叩ける道具を使えば、はるかに作業は早くて便利ではないのか。隣の国タイでは、石製の臼「クロック」が、台所の必需品だというのになぁ。
「いやいや、家庭じゃあこういう茶碗でじゅうぶんだよ。木の鉢を使っている家も多いけれどね。だけどそんなに欲しいなら、明日いっしょに『コイ』を買いに行ってあげよう。ちょうど明日の午後、われわれの車はニューハンソンの近くを通る。ニューハンソンは大理石の産地で、ベトナムで一番高級な『コイ』が手に入るから」
やっぱりベトナムにも石臼はある。
しかも、なんと大理石だ。日本のわが家の台所に美しい大理石の石臼があれば、さぞ食卓のうえの景色もよかろう――遠火でこんがり焙った魚の身を手でむしって、ミントや香菜、蒸したそうめんといっしょにライスペーパーに包み、ダンさんお手製のたれに浸してうぐうぐ頬張りながら、まだ見ぬ「コイ」に恋焦がれている。明日が待ち遠しくて待ち遠しくて、現金なものです、米の焼酎がいつもよりぐんと軽やかに喉を通り過ぎていく。
二月のベトナムは、からりと晴れあがって爽快な毎日が続く。ワゴン車に乗ったニッポン人二人とベトナム人三人の五人組は、中部の古都フエから、来る日も来る日もひたすら南下。舗装されていない国道一号線のでこぼこのうえを、まるで海中の木の葉のようにたて横斜めに揺られながら、和気あいあいと旅を続けてきた。
今朝もまた、朝九時にホイアンの街の北を発ってから、とうに三時間。そろそろ振動が腰に響きはじめたころ、ふいに車は狭い脇道をずんずん入りはじめる。
「このへんは戦地だったから、ひと昔前まではなにもなかった。でも最近、急に大理石の産地として有名になってから、人が集まってくるようになったんだ」
ニューハンソンに到着したのだ。
ダンさんの声ではっと車窓を見ると、左右に並ぶ店の入口には、木切れを組み立てて作った陳列棚に憧れの「コイ」がずらりと置かれている。やっぱり想像していたとおりだ。なんともいえず気を引く姿をしている。大理石を厚手にくり抜いた、ぼってりとした丸みが、ふと微笑を誘うような愛らしさにあふれているのだ。
私にとって、「コイ」は一生の道具になる。即座に、そう直観していた。
「待っててあげるから、好きなのを選んでおいで。だけど、一軒目ですぐ買っちゃいけない。行ったり来たりして、やっと決めるふりをしなくちゃ高くふっかけられるよ。なにしろ、この街に外国人が来ることなんか、ありはしないんだから」
大理石の白い肌に黒い模様。ひとつひとつ微妙に違う大きさ。外側の石肌に、釘先で削って白い線を描いた花の絵。手作りの「コイ」は、どれもが少しずつ異なる魅力的な表情を持っており、買おうか買うまいか決めかねるふりをする余裕など、私にはなかった。通りの両側の三軒を行ったり来たり、優柔不断の固まりとなった私の姿に、車のなかで苦笑するダンさんの顔が見える。
こうして、迷いに迷ったあげく私が選んだのは、底が掌にほっこり納まるくらいの、小さな「コイ」。
好きなものは毎日使いたい。台所の片隅に出しっ放しにしておきたいから、小さめがいい。それに、大きくて重ければ、そのぶん使いづらいし洗いにくい――よし、これにしよう、と自分を納得させる理由をぶつぶつ唱えながら、新聞紙で包んでもらった愛しの「コイ」を胸に抱いて、いそいそ車に戻った。ダンさん、これ二万ドンで買いました。急いで報告すると、それは上出来とばかりダンさんはうんうんとうなずいて、車は無事にニューハンソンを離れる。
新聞紙をはぎ取って、ひんやりした「コイ」の肌をなでながら、前の助手席で揺られているダンさんの少し薄くなりかけた頭を目にして、私は胸のうちで「カムオン(ありがとう)」と何度も繰り返す。
ダンさんへの「カムオン」は、もうひとつある。
それは、ヌクマムのおいしさの見分け方だ。
外国人が日本のしょうゆや豆腐の微妙な味の違いを一朝一夕で識別することがむずかしいと同じように、ベトナム人にとって毎日の食生活に欠かすことのできないヌクマムにもやはり、品質や等級によってさまざまな香りや味わいがある。ダンさんは半月間の旅のあいだ、市場やレストランや家庭の台所で機会があるごと私を手招きし、こっそりそこのヌクマムの匂いをかがせた。そして、
「どうだい、いい香りだろう。これがベトナム中で一番おいしいファンティエット省産のヌクマムだよ。しかし値段は高いがね。おいしいのはよくわかってるが、もったいないから僕のうちじゃめったに買わない」
「これは二番搾りの下だね、じつに質のよくない味だ。うぅまずいぜ、生臭いだろう。いくら安いたってなぁ、ここンちじゃよくこんなヌクマム使ってるな」
と、飽きずに伝授をほどこしてくれる。
そのおかげで、私もいつのまにか、ことヌクマムについてはちょいと胸が張れるほどの「違いのわかる女」に育った。
ヌクマムは、東南アジア一帯で広く使われている魚醤である。こくのある深いうまみ。食欲をくすぐる香り。ベトナムの人々は、なにはなくともこのヌクマムと唐辛子さえあれば、ごはんが進むという言い方をする。炒めものによし。下味をつけるによし。もちろんたれによし。正真正銘の万能調味料なのである。
そして、免許皆伝の日も近づいた「違いのわかる」生徒が、ヌクマムづくりの現場を自分の目で見てみたい、と言いだした。彼は教え子の「やる気」にポンと威勢よく手を叩くやいなや、よし、まかせなさいとすぐさまどこかへ電話をかけに出ていったのだった。
そんなわけで今日は、南部ニャチャンに近い海沿いの街のヌクマム工場のなかにいる。
ベトナムでは、ヌクマムづくりにカカムという小魚を使う。その製法はこんなふうだ。まず収穫したカカムを水洗いする。次に、高さ二メートルはあろうかというジャックフルーツの木で作った大樽の底へびっしり小石を敷き、そこへカカムと塩を混ぜながら、いっしょに漬けこむ。塩の分量はカカムの量のざっと三倍。そして、魚の体積の半分まで水を満たし、竹のふたをのせて最後に重石をする。数日たつうちに、なかの魚は少しずつ醗酵が進み、やがて褐色の液体が樽の下方の穴に通した管からちょろちょろと流れ出してくる。
この液体を小樽に溜めては、再び大樽に返し、同じ作業を繰り返すこと六ヶ月。大樽のなかで魚と小石が何層ものフィルターとなり、そのあいだからしみ出てきた液体がさらに醗酵と熟成を重ねて、一番搾りのヌクマムがようやく完成する。
一トンのカカムからとれるヌクマムは、わずか四〇〇リットル。そのうえ、ヌクマムを仕込む三月から八月にかけて大きな台風が来れば、カカムが獲れずに、ヌクマムの生産量もがくんと減ってしまう。でも今年は大丈夫、去年カカムがたくさん獲れて、たっぷりと作り置きができていますから――教え子が熱心に工場の老主人に話を聞いているというのに、ふとヌクマム教授を目で探すと、道路の向こうで海を見ながら、煙草をふかしている。
目が合うと、ダンさんは自分の鼻をつまんで顔をしかめてひとこと、
「ここいらは、ヌクマムだらけで臭すぎる」
そして工場を出るや、ダンさんは私のそばにすうっと近寄ってきて、つぶやいたものだ。
「じいさんさんざん自慢してたけど、いやァここのヌクマムはきっとおいしくないぞ。あの匂いを嗅げばわかる」
ダンさんが私に教えた、おいしいヌクマムの見分け方の条件は三つ。色が濃すぎないこと。塩辛くないこと。ふわっと柔らかい香りをもっていること。半月間、みっちりと鼻と舌で覚えたヌクマムのおいしさは、しっかり私の味覚と記憶に刻まれた。
さて、東京のわが家では、ニューハンソンでの直観通り、大理石の「コイ」は連日の大活躍である。
オールスパイスやブラックペッパーを使うときは、必ず「コイ」を使って粉にする。「コイ」のなかに必要なだけ数つぶのスパイスを放りこみ、同じ大理石の叩き棒でガンガンと数回叩けば、あっというまにスパイスはこなごなだ。そして、きゅうりやごぼうを叩き割るときも、この叩き棒を握ってひと叩き。きゅうりもごぼうも爽快なほど、瞬時にふたつに割れる。そういえば、酔狂にもピーナッツを砕きに砕いてペースト状に潰し、蜂蜜を混ぜて甘いピーナッツペーストをつくった日もあるなぁ。「コイ」は、文字どおり大車輪の活躍ぶりなのである。
さらにもちろん、ベトナム料理をつくるときには「コイ」がなくては。
いつものように唐辛子とにんにくを叩き潰して、そこへ砂糖やレモン汁、ヌクマムをたっぷり注ぐと、「コイ」のなかは、たちまちヌクマムの泉に変わる。透明な褐色に澄んだヌクマムが、大理石の窪みのなかでゆらゆら立ち昇らせる芳しい香り。それは、ベトナムの潮風の匂いの記憶を呼び覚ます。
「コイ」の乳白色は、ヌクマムの褐色で満たされると、がぜん美しさを増す。
そして、「コイ」で唐辛子を叩き潰していると、ときおり、ふいにダンさんの指に輝いていた大つぶのサファイヤが目の前に浮かんで、思わず目をこする。
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先を急ぐ包丁[#「先を急ぐ包丁」はゴシック体]――せん切り包丁[#「せん切り包丁」はゴシック体]
包丁は牛刀を二本、中華包丁を一本、小太刀、ペナィナイフ、すべてステンレス製である。
そんなふうだから、料理の腕は「毎晩の包丁研ぎが基本」と言うひとがあれば、黙ってうつむくほかない。いやいや、かつては、清水の舞台から飛び下りる気持ちで買った鋼《はがね》の包丁を、砥石でせっせと研いだ時期があったにはあったのだ。しかし、日々の忙しさにまぎれて、この習慣はいつのまにか自然消滅して久しい。
連れ合いが、笑っていう。
「調味料やらスパイスやら道具やら、あんなにいっぱい使い分けるというのに、君は包丁というものにからっきし執着がないのは、どういうわけかねぇ。奇妙といえば、そうとうに奇妙なことだな」
そういわれて考えてみれば自分自身でも、はてなぜかな、と首をひねる。しかし、誰がなんといおうと、そのひとそのひとで、すとんと心地よく自分がおさまるやり方というのがあるものだ。
不思議なことだが私は、包丁を握ると必ず、なにかにせっつかれているような気になる。やたら次の調理段階に早く歩を進めたくなる。たとえ、たっぷりと時間があっても、だ。子どもが幼かった時分、いくつもの些事を同時にさばかなくてはならなくて、いつも先へ先へと急いでいたときの名残なのだろうか。いずれにせよ、よくも悪くも、これが私の習い性になってしまっているのだから、しかたがない。
包丁を軽んじることで、たぶん、私が腹のなかに養っているなにかの虫がほっと気をゆるめて安心をしていられるのだろう、きっと。
そんなおり、包丁を握ると先を急ぎたくなる性分の私の前に、飛んで火に入る絶好のしろものがあらわれた。ベトナムのせん切り専用二枚刃包丁である。この包丁のベトナム語名を聞くと、これは笑えます。その名も「ヤオ・ハイ・ルォイ(包丁・ふたつ・舌)」。二枚舌包丁だって! 刃が舌のかたちにそっくりで、だからこの名前がついた。
なにしろ、こんな包丁は、生まれて初めて目にした。
二枚の刃が、そう二ミリほどずらして、中心線に合わせて閉じられている。ベトナムではこれを、どんなふうに使うかというと。たとえば地べたにしゃがんでバナナの花の固い蕾を左手にしっかり持ち、右手に持った包丁の刃を上から下へ蕾に当てて空中で削ぐように切る。こうすると、しゃかしゃか包丁を動かすだけで、きっちり二ミリ幅のせん切りがどんどんできあがるという仕掛け。せん切りされたバナナの花の蕾は、下に受けたたらいの水のなかにそのまま落ちていき、切ったそばから水にさらすことができる。もちろん、まな板だっていらない。
どうです、この一石二鳥ぶり。この合理性。まさに私にぴったりの、「先を急ぐ包丁」! 切れ味はいまひとつだが、包丁にこだわらないのが、私の主義ではなかったか。文句は無用だ。
だいこんやごぼう、じゃがいもを左手に持って、くるくる回しながら包丁を当てるだけでいい。そうだ、かぼちゃやキャベツに使っても具合がいい。せん切りにする、水にさらす。この工程がいちどきにできる、たったそれだけで愉快でたまらず、例の腹の虫がにんまりしている。
そんな私は、根っからのせっかちなのだろうか、それとも――。
だから、いつまでたっても、正統派の包丁さばきには縁遠いままである。
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「鬼おろし」とモダンデザイン[#「「鬼おろし」とモダンデザイン」はゴシック体]――おろし金[#「おろし金」はゴシック体]
アジアの道具のいっけん無骨なほどの簡素さは、現代のモダンデザインがもつシンプルな美しさに通ずる。それもまた、私の心を躍らせる理由のひとつだ。
たとえば、イタリアのモダンデザインは、その「デザイン性」からまず、余計な無駄をはぶいた。デコラティヴな装飾を嫌って、直線がもつ美しさを強調した。近代になってヨーロッパの現代的な暮らしのなかから培われていった合理性や実利性は、とりわけイタリアの家具や道具のなかに独自のデザイン表現として結実し、それは同時に、モダンデザインに実用の美を与えることに成功したといえる。
しかし、私にいわせれば、ことアジアの道具は装飾性からの回帰の時間を経ていないぶんだけ、揺らぎのないほんものの存在感を、どしりと、そしてさりげなく備えているということになる。つまり使い手自身にとっての便利さを素直なそのまんま道具に生かすことだけ考えて作ったら、結果的に、いや当然のごとく、シンプルさを極めた美しさが生まれていた――かといって、どっちが一番で、どっちが二番だ、などと断を下そうという気持ちはもとより、ないのだけれど。
さて、突然こんな話を始めたのは、久しぶりに「いや、やっぱりイタリアンデザインというのは見事なもんだ」と溜飲を下げたからである。
先日、用を足しにデパートへ出かけたら、「イタリアンデザインの暮らしの道具展」が開かれているのに出くわした。こういう場合、困ったことに時間が許そうが許すまいが、うかうかと足がそちらの方向へ吸い寄せられているのが、私の常だ。はたして、ランドリーバッグから目覚まし時計まで、数々の生活用品や調理道具がずらりと並んで目を喜ばせてくれるのだが、そのなかで例によって思わず見惚れて(道具好きの特筆すべき性質を挙げよ、といわれたら、私は迷わず、それは惚れっぽいことであります、と自己弁護したい)手にとったものがある。それが、イタリアンデザイン界の雄、アレッシ社の新作、チーズグレーター。
ゆでたての熱い熱いスパゲッティのうえにおろしたてのパルミジャーノチーズを、これでもかと雪のようにふりかけて食べるのは私の大好物のひとつだ。とっておきのパルミジャーノ・レッジャーノをままよ、とばかり惜しげもなく贅沢にごしごし削りおろすとパルミジャーノの香りがあたり一面に漂って、がぜん食欲がわき起こる。しかし、いつもながらの不都合は、ハンドル式のグレーターにしろおろし金式にしろ、皿の周囲に粉末がぱらぱら飛び散って、なんとも具合がよろしくないことだ。
ところが、さすが「アレッシ」のものは、なんとなんと、この悩みをいっきょに解決した構造なのである――だ円状のたっぷりしたカップ様の容器の上部に、おろし金の板がはめこんである。チーズをおろせば、それがそのまま下の容器にたまっていき、容器を傾ければ片端に開いた脇の穴からチーズが出てくる仕掛けだ。食卓でチーズをおろしても、粉になったチーズはひとつぶたりとも外にはみ出ることもなく、容器ごと手にもって、ささっと皿のうえで振ればいい、と。まぁ、ようは「お洒落」なんですね。気が利いている。
イタリアンデザインが心憎いのは、まさにこんなところなんです。
この手の「お洒落」加減だけあげつらうとなれば、うーむ、おしなべてアジアの道具は劣勢にまわっていると認めざるをえない。しかし、先にも書いたように、不思議なことにまるっきりイタリアンモダンそのもの、と思わせる美しい姿かたちの道具がアジアにはたくさんある。どうしたって、これ以上考えられないほど思いっきり手間をはぶいた簡素なつくりなのに、私にとっては、しばらく手にもって見つめていたいくらい美しい。そして、共通項がもうひとつ。そんなふうに感じられるものは、たいてい毎日の台所仕事になくては困る「暮らしの必需品」なのである。
そんな道具のひとつが、たとえば、ベトナムのおろし金だ。
なんのへんてつもないブリキ板に、ボツボツと無数の尖った穴を斜めに開けただけ。本当にたったそれだけ。しかしながら、まず細長い長方形をした全体のバランスが、美しいとしかいいようがないほど、整った様子である。さらに、周囲が外側に折りこまれて、わずかな優しいカーヴがつけられており、これがブリキに微妙な光と影をかもし出しているのだ。不思議なことに、とてもモダンなのである。「こりゃ、イタリアだ」。市場の雑貨屋で黒いほこりを指で拭き取りながら、私はそうつぶやいたものだ。
これは、野菜を糸のような極細のせん切り状におろすために作られた道具である。名前を「ヤオ・バオ・ゴイ」という。その名が語るとおり、ゴイ、つまり和えものをつくるときに使われる。瓜やきゅうり、まだ熟す前の青いパパイヤなどの固い野菜を「ヤオ・バオ・ゴイ」で細い糸のように「せん切り」にして、そこへヌクマムやライムの絞り汁、粉唐辛子などを混ぜて和えてつくる、いわばベトナムの「サラダ」だ。
この道具には兄弟がいる。細長いブリキ棒の先にループ状の刃をつけたものが、それだ。たとえば左手にまだ青いパパイヤを握り、右手にブリキ棒を持ってしゃっ、しゃっ、しゃっと音も軽やかに野菜の肌を掻き取っていく。と、みるまに固いパパイヤは細くて長い糸のように削られていき、下に受けたバケツの水のなかに次々と落ちていくのだ。
日本のおろし金をはじめアメリカあたりから広まったスライサーを使うときは、むしろ道具を動かぬようしっかり固定し、野菜のほうをせっせと動かしていたものだから、とりわけこのブリキ棒が新鮮に映った。店番のおじいさんに、「あんたは、そんなにゴイをつくるのが好きなのかね」と笑われながら、私は何種類かの「ヤオ・バオ・ゴイ」を包んでもらった。
というのも、私は「ヤオ・バオ・ゴイ」はきんぴらごぼうをつくるには絶好だ、と推察したからだった。ベトナムから戻って荷をほどくや、さっそく翌日に試してみると、してやったり。ごぼうをまな板のうえに寝かせ、ブリキ棒を当ててどんどん引っ掻いていく。にんじんも同じように引っ掻く。そうすると、ごぼうもにんじんも、細長いせん切りになっていくのだが、包丁やスライサーと大きく違うのは、切り口がざらざら、ぐさぐさに仕上がること。はたして、いざ食べてみれば、その効用は一目瞭然だ。ざらついた切り口から調味料の味がじつによく浸みこんでいる。さらに、繊維が分断されることで、固いごぼうやにんじんにふんわりとした食感が生まれている。
ブリキの切れ味の「悪さ」が、むしろ幸いして、ひと味もふた味も違うおいしさをつくりだすことに貢献しているというわけだ。
ごぼう、にんじん、だいこん、じゃがいも……固い野菜を細く切って和えたり炒めたりするときには、「ヤオ・バオ・ゴイ」。少々手間と時間はかかっても、目づまりに舌打ちを繰り返すことになっても、あのおいしさを思うと、やっぱり私は「ヤオ・バオ・ゴイ」に手がのびる。
たしかに、スイッチひとつであっというまにグイーンと見事な薄切りやみじん切りが完成するミキサーやスライサーは、手間いらずの便利な道具なのだろう。友人たちはみんな、「あれをいったん使いはじめると、もう手放せないんだから」と口をそろえる。それを聞くたび、よし私も買おう、今度こそ買おうと何度も心は動くのだが、いつも次の一歩が出ないまま、ここまできた。大量のたまねぎをすりおろすときも、やおら水泳用のゴーグルを装着しておろし金に向かい、ひたすらごしごしとやるのである。
意地になっているわけでも、手間をかけることを主張しているわけでもなんでもない。なぜかこのほうが性分に合う。自分にしっくりくる、ただそれだけなのだけれど。
ひとつだけはっきりしていることがある。切れ味がよくて簡便なことばかりが、優れた調理道具の条件ではない、ということだ。
その事実を納得させてくれるのは、たとえば日本の「鬼おろし」である。ひと昔前までは東北地方に行けば、「鬼おろし」はどこのうちでも台所にぶら下がっていたといわれる。
竹をのこぎり歯のように粗く削った洗濯板のような「鬼おろし」にだいこんを当て、力を入れてぐさぐさとすりおろす。なにしろ相手は竹だ、いっかなあっさりとは切れてくれない。まぁひと仕事なのである。腕も疲れる。しかし、こうしておろしただいこんは、それはそれはみずみずしい。水気を含んだ細胞が壊されることなく、だいこんおろしのなかにたっぷり水分が含まれたまま口に入るのだから。
いや、おいしいものを食べようと思ったら、手間を惜しんではいけませんよ、などと、そんなうるさい話では決してない。ただ、鋭い切れ味がかえって台無しにしてしまうおいしさというのもある、そういうことだ。
さて、ついこのあいだ、ひょんなことからヨーロッパの古い「鬼おろし」を手に入れた。江戸時代に使われていた木製のわさびおろしにも、うりふたつである。幅二センチほどの木の板の両側が、同じようにのこぎり歯に削られており、五ミリ間隔であいだをあけながら、何枚もバウムクーヘンのように重ねて組み立てたものだ。いってみれば、洗濯板のあいだがすかすか開いたような、そんなかたちである。いったいこれはなんなんだ? ヨーロッパにも、だいこんおろし、あったっけ。
調べてみれば、なんとそれは、チーズおろしだった。
たとえばパルミジャーノをごしごし削り、木の板のあいだから粉になったチーズが下に落ちていくという仕掛け。そうと知れば、これは痛快。ステンレスのチーズグレーターの前身は、はたまた「アレッシ」のモダンデザインのはるか昔の前身は、そうか「鬼おろし」であったか!?
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紙のごはんにぴったり[#「紙のごはんにぴったり」はゴシック体]――丸盆[#「丸盆」はゴシック体]
用途に合った大きさであること。
これもまた、使いやすい調理道具のだいじな条件のひとつである。調理にかぎらず、なんにせよ道具は大き過ぎても小さ過ぎても不便でいけない。使いよさを過不足なく満たす道具だけが、淘汰されながら暮らしのなかに生き残って使われ続けていく。
ただし、その逆もある――まず料理の素材ありき。そして、素材の大きさやかたちに合わせて道具が作られる。そんな場合だ。たとえば、寿司を巻くときに使う巻《ま》き簀《す》がそれだ。太い竹の鬼すだれにしろ極細の竹をつなげた西京すだれにしろ、その長さも幅も、海苔一帖ぶんの大きさにぴったり。つまり、海苔の大きさに合わせて道具が作られている。りんごの芯抜き棒やレモン絞り器や、ステンレスの細い線を張ったゆで卵切りなんてのも、同じ道理だ。ほかの大きさなど、金輪際考えられるはずもない。
そんなふうに、どこの国にも、その国独自の食文化と結びついて生まれた道具がいくつもある。ベトナムでは、丸盆「カイ・マム」が、そのひとつだ。たっぷりした大きさが気に入って、なにげなく買いもののついでに買っておいたアルミの丸盆だが、その直径の長さの理由に突然気づかされて、あっと声を上げることになる。
ある日のこと、ベトナム版牛肉のしゃぶしゃぶ「ティット・ボー・ニュンザム」をつくりましょうということになった。湯に砂糖と酢をきかせ、みじん切りのトマトや薄切りの玉ねぎを浮かべた鍋のなかで下味をつけた肉をしゃぶしゃぶと泳がせる。これを、野菜といっしょにライスペーパーでくるくる包んで食べるのである。そのおいしさといったら、ああ!
――いやいや、今はそれはさておこう。ライスペーパーは、米を砕いたとろとろの液体に塩を混ぜ、太陽の光のもとで乾燥させてつくる「紙のごはん」だ。炊いたごはんと並んで、この「紙のごはん」もまた、ベトナムの国民食である。
さぁ鍋の準備は整った、あとは食べるだけ。ここで、いよいよライスペーパーに霧吹きで水気を与えてしめらせ、柔らかくもどしておかねばならぬ。いつもなら、もどしたライスペーパーは乾いた布巾のうえに置いておくのだが、ああそうだった、あの大きな丸盆があったじゃないか、あれを使おう。
おお! ライスペーパーを置いてみると、丸盆はライスペーパーの直径に指一本ぶん足しただけ大きい。そうか、この大きさはそういうことだったのか。丸いかたちも、そういうことだったのか。今の今までとんと気づかなかった。
道具には、その姿かたちにふさわしい「道理」というものが、必ずうしろに控えている。
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楊枝を使う恥、使わぬ恥[#「楊枝を使う恥、使わぬ恥」はゴシック体]――楊枝[#「楊枝」はゴシック体]
下の両方の奥歯の親しらずが、あろうことか真横に生えてしまっている。
都合の悪いことに、うえ半分が歯茎の外に出ているから、ものを食べると、親しらずと隣の奥歯との狭いすき間になにかしら挟まってしまう。その異物感といったらない。完璧に取り除くことができるまで、もう不愉快で不愉快でたまらない。
そういうわけで、私にとって食後の楊枝は必要に迫られた生活必需品なんです。
とはいうものの、楊枝を使って歯をせせる姿は、できるだけひとには見られたくない部類に属することがらだ。だって、そうでしょう。自分のからだの掃除にこれ努めるさまを、なにも衆人環視のなかでわざわざ公開することはないだろうに。江戸時代には、若衆がくわえ楊枝で道を行く姿や鬢《びん》に楊枝をさした様子が、ことのほか粋とされたというけれど、昼どきのビジネス街で背広姿のおじさんがくわえ楊枝でポケットに手をつっこんで肩で風を切って闊歩していても、これはたんに醜悪なだけである。いわんや、素敵だな、と思った女性が目の前でチッチッと楊枝を使い出したのを目撃して、百年の恋も冷め果てたなんていう話はいくらでも転がっているだろう。
すぐにでも楊枝を使いたいけど、見栄を張ってここはぐっと我慢、あとでこっそり。いつもの手なのだが、東南アジアを旅すると、ひと知れず楊枝との格闘を迫られる。というのも、日本の丸楊枝に馴れた身には、東南アジアのぺたんこの平楊枝は実に使いづらい。白樺で作った日本の楊枝は、固くて、しかも先が鋭く尖っている。狭いすき間にもぴしっと入る。ようするに、「決まる」んですね。一方、平楊枝はたいてい四角いか、もしくは平たい切りっ放し。たとえばタイなら、そう、マッチ棒を四分の一にしたくらいの四角いかたちで、しかも柔らかいときているから、指に力が入ると、あっさり折れてしまう。これは、思いのほか不都合です。
いやね、ベトナムじゃあ、もっと弱った。だって、太さがマッチ棒なんだもの。これじゃまるで小さなたきぎだ。親しらずの狭いすき間になんか、とうてい役に立ちゃしない。
そんなわけで使う以前にあきらめたものの、さっきの豚肉のしょうゆ煮の小さな切れっ端が奥深く挟まって、不愉快な感触はどんどん増大していく。たまりかねて、こっそりひとさし指を口のなかに差し入れたら、隣の席のお兄さんが向こうをむいたまま、そうっと私のほうへ楊枝入れを滑らせてきた。これは恥ずかしかったです。
彼の気遣いを無にしてはいけない、と私はそのマッチ棒を細く裂いてから使用に及んだ。
最初っから、こうすればよかった。
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道具の行く末[#「道具の行く末」はゴシック体]――ココナッツ削り器[#「ココナッツ削り器」はゴシック体]
「ココナッツ削り器というのは、考えるに、男根信仰と結びついていると思うのです」
こういう人があった。いや、まァ、その、そういわれればそう考えてしまう気持ちはわからぬでもない。しかし、ものごとには深読みが過ぎるという場合がある。
彼のいうココナッツ削り器はタイのもので、木馬型もしくは枕木のかたちをした台の先端にぎざぎざの丸い鉄棒がぐっと前方うえにそり返ってくっついており、これに半割りにした完熟ココナッツをあてがって、全身をココナッツに預けるように力をかけ、内側の白い胚乳をシャリシャリと削り取る。たしかに、木にまたがった両足のあいだから鉄棒がのびる様子は、冒頭の発言を誘うにじゅうぶんではあるのだが。
残念ながら、推察はハズレだと思うなぁ。ココナッツを削るには、たんにあのかたちが一番効率がいい。だって、道具にまたがって固定すれば、両手が使える。ふだんの姿勢にも近くなる。削る力も効率的に生かせる。しかも鉄棒がそり上がっていれば、削った胚乳はおのずと下に受けた器のなかにたまっていくではないか。
まさに、「必要は道具の母」なのです。
一方、ベトナムの削り器は、あたかも機械の整備工具のようなそっけない一本棒である。
ベトナムでは、インドシナ半島のほかの国々にくらべて、ココナッツミルクの利用頻度がぐっと少ない。だからそれだけ、タイのものほど道具の作りに念が入ってないんですね、たぶん(不必要もまた、道具の母!)。とはいうものの、柄の部分がいやに長いところをみると、なにがしかの台に削り棒を据え、柄のところへ片足などのっけてがっしり固定してから削るに違いない。
ただし、タイでもベトナムでも最近は、市場に行けばビニール袋入りの削ったココナッツが手軽に買えるようになった。専用の機械のグラインダーでぐいーんと削ったココナッツだ。これを買って帰って水のなかで搾れば、ココナッツミルクやココナッツクリームが簡単にとれる。なんといっても自分で削る手間が一切はぶけるのだから、こんなに便利なことはない。そのうえ、機械で削ろうと自分で削ろうと、ココナッツミルクの味そのものには、さして差はありはしない。
こんなふうにして年月がたつにつれて少しずつ、少しずつ、ココナッツ削りは「無用の長物」への末路をたどっていくのだろう。
そう思ったら、このそっけない鉄の一本棒が妙に愛しく見えてきた。
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バゲットをサイゴンで[#「バゲットをサイゴンで」はゴシック体]――コーヒーフィルター[#「コーヒーフィルター」はゴシック体]
Q.サンドイッチのフィリングには何が向いているでしょう。
A.アンチョビ(anchovy)からズッキーニ(zucchini)まで、AからZまでのすべての食品が向いています。
いかにもアメリカらしいユーモアがきいた言い回しである。ようするに、パンには何だって好きなものをはさめばそれでOK、何をはさんでもサンドイッチってのはおいしいもんだ、というわけだ。冷蔵庫のなかの食べものを一切合切つめこんだようなダグウッドサンドイッチや、いかにも粗野な、と冷笑を浴びがちなハンバーガーを援護するために、サンドイッチの本家イギリスやフランスに向けて小洒落たふうな言い訳をしているようにも聞こえてしまうところが、なんとも好ましいではないか。
さて、この「サンドイッチのAtoZの法則」に倣えば、ベトナムのバゲットサンドイッチはBの項に入れるのがいいか、それともSか、Cか、うーんどれだろう。だって、はさまなきゃいけないものがたくさんあるのだもの。そのうえ、そのうちのどれもが欠けてはならない主役のような。
あぁ思い出すだけで唾が湧いてきそうな、このすこぶるおいしいサンドイッチの名前をベトナム語で「バインミー・ティット」という。
「バインミー」はバゲット、「ティット」は肉。つまり肉のサンドイッチである。長さ二〇センチほどの小さめのバゲットの脇に、包丁でたてに深い切れ目を一本。そこへまずはマーガリンを塗り、次にレバーペーストをたっぷり塗りつける。そして、箸でつまんで甘酢漬けのだいこんとにんじんをのせ、ソーセージ、チャーシューと重ねていく。いやまだ終わらない、薄切りの赤唐辛子ときゅうり、香菜を次々に散らしたら、仕上げにうえから醤油とシーズニングソースをパッパッと全体に振りかける。
さぁさぁこれで出来上がり。甘酢やシーズニングソースがバゲットにしみてパンが柔らかくなったところなんか、口に入れるとじゅわっと汁が広がって、チャーシューの適度な脂っこさもレバーペーストの風味も、バゲットと全部いっしょに噛みしめると、それはもう……。
通りの屋台に行けば、わずか一本二千ドン(二十円)で垂涎《すいぜん》の味が手に入る。
そもそもベトナムでは、バゲットは麺やごはんに近い位置を獲得している。そのまま手でちぎって、麺のつゆに浸して食べる。サンドイッチにする。家族で遠出をするときには、ひとり一本ずつのバゲットとプロセスチーズとぶどうかなんかのフルーツを、とりあえずのお弁当に携えていく(洒落ているのである)。
そしてなにより、朝食には炭火で焙ったほかほかの香ばしいバゲットと、コーヒーフィルターで落としたガラスコップ入りの苦いコーヒー。この黄金の組み合わせこそ、フォー(うどん)と並んで、ベトナムの朝を代表する美味である。
食欲のない朝、カフェの椅子に座ったら「チョー・トイ・カフェ・デン・バー・バインミー(ブラックコーヒーとバゲットください)」と頼んでみよう。炭火で軽く焙ったバゲットの皮の香ばしい香りが、一気に眠気を吹き飛ばしてくれるはずだ。私は、小さくちぎった柔らかいところに、食卓のシュガーポットからすくった砂糖をほんの少し押しつけて食べるのが好きである。そして、もうすっかり全部落ちたかなぁ、とフィルターのなかの湯がなくなるのを待ちかねて、苦みばしったコーヒーをすする。
コーヒーは、そもそもちょっと苦手だった。というのも、喫茶店文化が花盛りだった大学生のころ、おいしいコーヒーを飲んでみたい、と街の「珈琲専門店」に入ると、気むずかしいおやじが周囲ににらみをきかせながら、儀式を執り行うような手つきでうやうやしくコーヒーを「たてて」おり、なにしろこれが苦手だった。目の前にその「厳粛な一杯」が置かれる段には、こちらはもはやカップを手にとる気持ちが半減している。
たかだかコーヒー一杯飲むのに、こんなうっとうしい思いなどしたくはないぞ。それに加えて、すでに学生の分際で「違いのわかるコーヒー通」の連れが、昨日はマンデリン、今日はブルーマウンテン、明日はキリマンジャロ、と博識を披露してくれる。試しに連れのコーヒーをすすってみても、微妙な味の差は私にはたいしてわからず、本当をいうとそれ以前にむしろどうでもよく、しかし密かに自己嫌悪に陥った。なんだかいろいろ複雑だ、もうコーヒーはやめたやめた。そして私はそのぶん、とうもろこし茶やそば茶などの変わり種のお茶に走ってひとり悦に入っていた。
いまだにコーヒーの味わいを識別するのは苦手だが、いつのまにか、仕事机の前に座るとまず熱いコーヒーを一杯だけ飲むのが習慣である。ここ数年は、コップのうえにあの三角のドリップ容器をのせてコーヒーを落としていた。しかし一年三六五日、毎日毎日一枚ずつ新しい紙のフィルターを使うところが、小さな無駄を繰り返している気がしないでもない。かといって、機械のドリップ道具は場所をとるし面倒だ、インスタントコーヒーにもやっぱり抵抗がある。
ちょうどそんなところへベトナムで出合ったのが、アルミ製のコーヒーフィルター「ドーロック・カフェ」だった。このフィルターは、じつにスグレものである。まず、容器をそのままコップにのせる。カップ状の容器の底にはたくさんの小さな穴があいており、挽いたコーヒー豆を入れて、ほんの少量の熱湯を注いで豆をしとらせる。そして、さらに円形の穴あきぶたをかぶせ、そのうえから熱湯を注ぐのである。あとは待つだけ。
ガラスコップのうえにのせたフィルターから、ぽたりぽたりと黒い雫が垂れてくるのを待つのは本当に楽しいものだ。しだいにコップの内側が蒸気で曇ってきて、そのうちつつーっと蒸気が一本の筋を描いて底に溜まったコーヒーのなかに落ちていく。サイゴンのカフェに腰を下ろして、そんな様子をのんびり眺めていると外の暑さをいっとき忘れる。
とりわけ目に美しいのは「カフェ・スア(ミルクコーヒー)」だ。「カフェ・スア」と注文すると、あらかじめコップのなかには一センチほど練乳が注がれてやってくる。同じようにフィルターをのせて黒い雫を落とすのだが、練乳とコーヒーは混ざることなくコップのなかで鮮やかな白と黒の二層をつくり、それは手をつけるのがためらわれるほど、じつに美しい風景だ。
小さじ一杯分のコーヒーの粉と、フィルターになみなみ注いだ一杯分の熱湯。これで、ガラスコップ四分の一のコーヒーができあがる。コップの底にとろりと溜まった細かい粉もまた、ベトナムで味わうコーヒーのおいしさである。
ただし、正直をいうと、わが家で毎朝飲むコーヒーにとっては、アルミ製のフィルターは少々難があった。やっぱり粉っぽさが過ぎるのである。試しに豆を粗挽きに替えてはみたが、今度は注いだ熱湯があっというまにフィルターを通過してしまい、香りも何もない極薄のコーヒーになってしまう。万事休す、か――。
豆を替え、湯の注ぎ方を変えて数週間の試行錯誤を繰り返したころ、そうだあれはどうだろう、ベンタイン市場の雑貨屋のおばちゃんが「これもついでにひとつ買ってきなさいよ。こっちより値段は十倍もするけど便利だよ」と押しつけたステンレス製が一個だけ台所の隅に眠っているのを思い出した。
はたして、使ってみると具合がいい。ステンレス製には、穴あきフィルターが全部で三層もついている。まず、フィルター敷きにする丸くて平たい皿状のものに穴があいているから、これで一層。そして、カップの底には二重の層。そしてさらに、豆の粉を入れたら、ねじ式のうわぶたできっちりうえから粉を圧縮する仕掛けだ。これで密度の濃い豆の層ができあがり、ここを熱湯が粉を蒸らしながら、ゆっくり通過していく。
たしかにステンレス製とて、相変わらずカップの底には粉の粒子が澱のように薄く溜まる。しかし、容器そのものがフィルターを兼ねているという道具としての合理性と無駄のなさ、そしてシンプルさがなにより好きだ。「正しくたてた珈琲専門店のコーヒー」に較べれば、味も香りもはるかに薄く、頼りなく、いいようによっては粗雑でコクのない風味である。だが、私にとってのコーヒーはそれくらいでちょうどいい。気のおけない柔らかな味わいのコーヒーにありつくことができる。
さて、つい先日、ヨーロッパのアンティーク道具を集めた店に足を運んだら、このアルミ製の古ぼけたコーヒーフィルターがぽつんと一個、陳列品のなかに混ざっていた。聞けば、フランスで仕入れたものだといい、これはいったい何に使うものなんでしょうねぇ、と店のひとは不思議そうな顔を私に向ける。
そうなのだ。ベトナムの朝を語る味はまさしく、フランス時代の落としものにほかならない。とうの昔にフランスから消え去ったアルミ製のコーヒーフィルターは、数世紀前にはるか遠く海を渡り、今でもベトナムの暮らしになくてはならない道具として愛され、のどを潤し続けている。
ベトナムの朝には、香ばしいバゲットとアルミ製のフィルターで入れるコーヒーを。
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恋しやバナナの葉[#「恋しやバナナの葉」はゴシック体]――バナナの葉[#「バナナの葉」はゴシック体]
かつて都をおいた街というのは、初めて訪れたというのに不思議な懐かしい感情を引き起こさせてくれるものだ。ベトナム中部の街フエを歩いていると、まるで奈良にでもいるような落ち着きを覚えて、長旅の疲れも癒されていく。
そのフエの効外の家の台所で、私は丸椅子に腰を下ろし、庭から入ってくる柔らかな夕風に吹かれている。この家の主婦ドアンさんは、女学生にフエの伝統料理を教えている料理の先生だ。彼女は昼過ぎからいくつかのベトナム料理をつくってみせてくれており、そろそろ日本人ひとり相手の「料理講習会」も終盤に近づこうとしている。
最後に彼女がとりかかった料理は、ベトナムの焼き鶏ティット・ガー・ヌオン。
下ごしらえは、すでに万全だ。骨つきの鶏肉にはヌクマムやにんにくやカレー粉をまぶしつけて、もうじゅうぶんに下味がしみこんでいる。ドアンさんは市場で買ってきたバナナの葉の束から大きな一枚を抜き出し、鶏肉をくるりと包む。そして、葉ごと包みを焼き網ではさみ、炭火のコンロにかけて焼き始めた。
中国では、竹と木で精巧に作った蒸籠が天下無敵の蒸し器を誇っているが、南に下った東南アジアの国々では、バナナの葉こそ最も手軽で安価な蒸し道具だ。なにしろ、手をのばせば家のまわりのあちこちに、ふんだんに茂っている。市場に行けば、折り畳んだバナナの葉をまとめ売りしており、もちろん、すこぶる安い。そして一度使えば、すっぱり終わりの便利な使い捨て。
白身魚にスパイスやココナッツミルクをまぶしつけて、バナナの葉でぴっちり包んで焼く、インドネシアのイカン・ペペス。筒にした葉のなかに米を入れて蒸し焼きにするロントン。タイのホーモックも忘れられない味だ。
ホーモックは、バナナの葉で作った小さな器に、味つけした魚のすり身を入れて蒸す「タイの茶碗蒸し」――バナナの葉で魚や鶏を蒸し焼きにする方法はインドシナ半島の国々ではごくポピュラーな調理方法であり、タヒチやニューギニアなどで行われているアースオーヴン、つまり土に大きな穴を掘って肉やいもを蒸し焼きにするときにも欠かせない調理道具だ。バナナの葉が、どんなに蒸し道具として優秀かは、たとえば切れ目を入れてみればすぐにわかる。肉厚の葉を切ったそばから水の玉が無数に次から次へとにじみ出て、たっぷり含んだ水分の豊富さに目を見張ることになるだろう。
さぁ、ようやく鶏が焼き上がったようだ。焦げ目がついたバナナの葉のなかから、香ばしい香りをふりまく鶏肉を取り出したドアンさんは、焼きたてを食べてみなさい、と台所に立ったまま、鶏をむしって私に差し出す。鶏のうまみが口のなかでほとばしる、そのジューシーなおいしさに「ほっぺたが落ちそうだ」という常套句が頭のなかをぐるぐる回って、あらためてバナナの葉の威力にかぶとを脱いだ。
あの味がむしょうに恋しくなると、私はタイ食材屋に駆け込み、空輸されたタイのバナナの葉を買いものかごにおさめる。
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今朝の買い出しは[#「今朝の買い出しは」はゴシック体]――買いものかご[#「買いものかご」はゴシック体]
日曜日の昼下がりは、買いものかごぶら下げて、運動靴履いて、街路樹を眺めながらぷらりぷらりと歩く。買いものかごは決まってお気に入りのいぐさ編みである。このかごは、京都の錦小路をほんの少し上がった路地に店を構える古い小間物屋で見つけたものだ。
目当てのほうらくを買いに出かけたはいいけれど、何年かぶりで訪れた錦小路でさんざん寄り道を繰り返し、やっと雑器屋にたどりついたのは夕暮れの店じまいどき。この機を逃しては大変だ、なにしろ今回の京都で買いたいもののひとつは、ここのほうらくなんだもの。
豆やごまを煎るにはほうらくは必需品だが、この店のほうらくのかたちは、まるっきりフリスビーだ。これを二枚合わせにすれば、松茸だって香りを逃がさずに蒸すことができる。粗塩をぎっしり詰めて鶏肉を蒸せば、四川料理名物「乞食鶏」だって簡単につくれる。なにしろ、これが欲しかった。
閉店間際に息せききって走りこみ、ほうらくを無事手に入れてほっとしたところへ、店の軒先にぶら下がったいぐさ編みの手さげかごが目に飛びこんできた。
夕闇を照らすオレンジ色の街灯のなかに、かごの下半分の枯れた草色がふうわりと浮かびあがっている、その渋い色合いの美しいこと。横に長めのたっぷりとした大きさも、いかにも使いやすそうだ。ざっくり粗い編み目はいかにも素朴で、昔から目に馴染んでいるような親しみが湧いてくる。――こうして縁をたぐり寄せ、私の手元にやってきた買いものかごは、以来毎週日曜の大切なお供なのである。
お気に入りの買いものかごを、ひとつは持ちたい、と長いあいだ思い続けてきた。
いかにもファッショナブルな外国製のトートバッグやリュックサックでなく。
かといって、大きくて丈夫なだけがとりえのビニール製でもなく。
くさぐさの暮らしの用を足しに出かけるのにふさわしい朴訥な表情をしており、しかしがっしりと頼りがいがあって、ちょっと欲をいえば(いや、これがかんじんだ)、「実用の美」をそこはかとなく漂わせている、そんな買いものかご。しかし当然ながら、そんなうるさい条件をかなえてくれるバッグには、そうそう簡単に出合えるものではなかった。
バッグか靴を見ると、ははぁ、このひとも「道具好き」だな、と同類の嗅覚が働くことがある。そして、それはめったにはずれたことがない。
バッグや靴に凝るひとこそ本当のお洒落である、などという言い方をするが、しかし私にいわせれば、それはお洒落というよりむしろ、「道具」というものに無条件に魅かれるたち[#「たち」に傍点]をもちあわせているからだと思う。
文化人類学では、「道具」は、こんなふうに定義づけられている――「道具とは、人間の能力を拡大強化するために人間によって作り出された人工物のすべてをいう」。ただし、あらゆる「道具」は、ひとの暮らしのなかでさまざまなかたちで使われてこそ、存在の意味を紡ぎだす。つまり、「作り出された人工物」に命を与え、「道具」としての息を吹きこむ役を司っているのは使い手自身だ。そこに「道具」を使いこなすことの醍醐味がある。
だからそれだけ、「道具」は、むしょうに所有欲をかきたてる。
バッグは、必要なものを簡便にひとつにまとめて移動させるために人間が考え出した「道具」であり、同時に、日常生活のなかで最も肌身に近しい存在でもある。だから「道具好き」なら当然のこと、いっそう自分の愛情とこだわりを注ぎこむ。その意味では、歩くための「道具」、つまり靴に凝ることも、すんなりうなずける話ではある。こちらのほうはなんといっても、自分の身体の一部をそっくりそのまま靴という「道具」に預けるのだから。
そんなわけで、バッグと靴好きには、たんなるお洒落を超えた「道具好き」の道理がちゃんと通っている。
しかし、買いもの袋に「道具好き」の面目躍如ぶりが発揮されている風景には、残念ながらなかなかお目にかかれるものではない。いかなバッグ好きも、まるで一切の主張を放棄したかのように、あてがわれた半透明のビニール袋に買いものの中身をつめこんで、家路を急ぐ。もちろん、京都であの買いものかごに出合う以前の私も、そうだった。
だからよけいに、ベトナムの市場で主婦たちが手に手にぶら下げている買いものかごや袋は、はっとするほど新鮮に映る。というのも、ベトナムでは「道具」としての買いものかごのジャンルが、きちんと確立しているのだ。
その体系は大きく四つに分かれる。
いぐさや木の皮をきっちりと網代に編み、自然の素材をそのまま生かした大きなかご。
ビニール加工されたカラフルな平たいひもを編んだ、ぺたんと薄い袋。
釣り糸のような極細の糸を、かぎ針でくさり編みに編んだ手さげ袋。
エンビ素材をバッグのかたちに型抜きして張り合わせたかご。
このいずれかを持って市場に出かけるのがベトナムの買いものスタイルだ。女たちが頭にはノンをかぶり、ひとそれぞれ手に手に好みのかごをぶら下げて歩く風景は圧巻である。
ベトナムの主婦の朝は早い。今朝はホアンさん母娘といっしょに食料の買い出しにやってきた。
ホーチミンの街はずれの小さな市場は、六時半だというのに、もう人いきれで熱気があふれており、ふたりを見失わないように後ろを追いかけていくだけでせいいっぱいだ。こっちの八百屋で青菜とにがうりを買い、あっちの肉屋で豚肉一キロのかたまりを買い、持ってきた空きびんに油を補充してもらい、そんなふうに馴染みの店をつぎつぎ巡って市場のなかを行ったり来たり。一軒にたっぷりと値段交渉の時間をかけるから、あっというまに時間は過ぎ、ひんやり涼しかった朝の空気はぐんぐんと温度を上げていく。
やっと、ふたりが市場の外に出た。
これで買いものは終了、とこちらが安堵したそばから、またもやホアンさんは路上に座りこんでトマト売りと値段交渉を始めるのだった。
待つこと十分、交渉は成立した。トマト六個を青菜のうえにのせて、よいこらしょと立ち上がった母の手には、エンビ製の赤い買いものかごに野菜がぎっしり。娘の手には、肉やえびや油のびんのかたちどおりにふくらんだ、いぐさ編みのかご。これが、冷蔵庫をもたないベトナムの主婦の、毎朝の買い出し風景である。
ホーチミンを発つ前の日、私は市場へ買いものかごを買いに出かけ、四種類のうち三つを買った。
手編みの手さげ袋は、いつもバッグのなかに小さくたたんで入れておき、仕事帰りの買いものに取り出す。ビニール製のぺたんこ袋は、洗面所の小物入れに落ちついた。そして、京都の買いものかごに決してひけをとらない簡素ないぐさの買いものかごは、目下、夏に向けて出番待ち。「このかごは三キロの米を入れてもびくともしない、何年でも使えるんだよ」とホアンさんのお墨つきをもらって、満を持しているかっこうである。
不思議なものだ。
何年も何年も探し続けた私の買いもの「道具」は、数ヶ月を置かず、京都とベトナムであっけなくすとんと手もとにやってきた。
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アジアで覚えた、あの料理――5[#「アジアで覚えた、あの料理――5」はゴシック体]
どこの国でも、お母さんの味が一番だから[#「どこの国でも、お母さんの味が一番だから」はゴシック体]
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牛肉とパイナップル炒めのっけごはん[#「牛肉とパイナップル炒めのっけごはん」はゴシック体]
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ぴりっと辛くて甘酸っぱくて、不思議にあとを引くおいしさ。ベトナムで、戦争前からずうっとレストランで働いていた女性料理人から教わったベトナム版どんぶりです。ごはんは、やっぱりインディカ米が最高の相性です。
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材料(2人分)
牛肉(薄切りもも)200g パイナップル(缶詰・スライス)3切れ 玉ねぎ(薄切り)1/2個 トマト(完熟)1/2個 チリソース 大さじ1 酢 大さじ2 砂糖 小さじ2 こしょう 少々 サラダ油 大さじ1 ごはん 2膳分
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作り方
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1 牛肉は食べやすい大きさに切り、パイナップルは2センチ角に切り、トマトはくし切りにする。
2 フライパンにサラダ油を熱し、牛肉を炒めてから玉ねぎ、1のパイナップル、トマトを加えて炒める。
3 チリソース、酢、砂糖、こしょうを加えて強火で水分を飛ばすように炒める。
4 ごはんを器に盛り、そのうえに3をのせる。
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カレー風味の焼き鶏[#「カレー風味の焼き鶏」はゴシック体]
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ベトナムの古都フエに住むドアンさんの家で、いっしょに台所に立って覚えた一品。ベトナムスタイルでは、バナナの葉っぱで包んで蒸し焼きにします。バナナの葉がない場合は、オーヴンで焼いてもおいしいし、そのままフライパンで焼いても。ヌクマムは、タイ語ではナムプラー。ベトナム料理には欠かすことのできない、大切な調味料です。
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材料(4人分)
鶏もも肉(ぶつ切り)700g シャロット 3本 にんにく 2片 しょうゆ 大さじ2 ヌクマム 大さじ2 砂糖 大さじ1 カレーパウダー 小さじ1 にんにく油(にんにくを揚げたサラダ油、またはごま油)大さじ2
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作り方
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1 シャロットはみじん切り、にんにくはすりおろす。
2 しょうゆほか全部の調味料と1をよく混ぜ、鶏もも肉をマリネして約1時間置く。
3 バナナの葉に包んで網にのせ、表裏を返しながら焼く。食べるときに好みでレモンを搾ってかける。
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中国、台湾[#「中国、台湾」はゴシック体]
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この発想や恐るべし、といわずして、なんといおうか。
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新宿発、香港経由、銀座着[#「新宿発、香港経由、銀座着」はゴシック体]――飯架[#「飯架」はゴシック体]
「ふぁんがー、って知ってますか」
新宿西口の雑踏のなかで、久しぶりにばったり顔を合わせたコヤナギさんは、今度の連休にまた香港に行くんです、とうらやましがらせ、続けて奇妙な言葉を口にした。
はて。ふぁんがーふぁんがーと何度繰り返してみても、すかすかと頼りない空気がむやみに歯のあいだを抜けていくだけで、いっこうになんのことだか思いつかない。
彼は背広の内ポケットから手帳とボールペンを取り出し、こう書くんだそうです、と二文字を記した。
「飯架」
なるほど、私のきわめてつたない広東語の知識をたどるだけでも、それは台所の道具なのだろうと予想はつく。しかし、「ごはんに架ける道具」とは、いったいぜんたい……。
「僕も実物は見たことはないのですが、ついこのあいだ広東語の授業のときに先生が教えてくれたんです。なんでも、ごはんを炊くときに使う中国の調理道具らしい。残念ながら、今はそれしか」
もはや、鼻面ににんじんをぶら下げられた馬のごとし。コヤナギさん、連休の香港旅行にこの謎解きをひとつ、どうぞよろしくお願いいたします。私は、彼が香港から帰国する日を、馬のように鼻を長くして待った。
こうして、私の手元に二つの飯架が届けられた。
ひとつは、鍋敷そっくりの丸いメッキの輪に四本脚がついたもの。
もうひとつは、四本の竹の棒が井桁のかたちに組まれたもの。
いったいぜんたい、これはどうやって使うんだ?
謎解きは中途半端に終わったまま、馬はいっこうににんじんにかぶりつくことができず、コヤナギさんは彼の広東語の先生、何子嵐《ホウシイラム》老師に会いに行くことをすすめた。
銀座の古いビルの広東語教室で、何老師は眼鏡ごしに柔和な目で私をのぞきこみながら、これはね、とまず鉛筆を握った。
「こっちのメッキのは『飯架』、こっちの竹のは『蒸架』と書きます。
『飯架《フアンガー》』はどんなふうに使うかというとね、ごはんの水がおさまる少し前に鹹魚《ハムユイ》や臘味《ロウウエイ》をのせて、ごはんのなかへ『飯架』ごと差しておくんです。そうすると、ちょうどごはんが炊けるころに鹹魚や肉が柔らかくなっている。それを熱いごはんにのせて食べるのです。
じゃあこっちの『蒸架《ヅエンガー》』はどう使うかというと、水を入れた中華鍋にこれをわたしてから、たとえばそのうえに、皿にのせた草魚《ツアオユイ》、それとねぎやしょうがをいっしょに置いて鍋に木のふたをして蒸します。豚のスペアリブに下味をつけて蒸す蒸排骨《ヅエンパイグー》もよくつくります。
いやいや、広東地方の家庭じゃあね、場所をとる竹の蒸籠《ヅエンロン》なんか、あまり使うものではありませんよ。あれはレストランの道具です。『蒸架』ひとつあれば、蒸しものは簡単につくれるのです」
思いもかけないことだった。まるでマジシャンが厚い黒布をいっきにはずして種明かしをするように、「ふぁんがー」の正体が明らかになった。さらにそのうえに、鹹魚(海魚、|※[#「魚+曹」、unicode9C3D]白《ツオウバツク》などの塩漬け干し)や臘味(肉の乾しもの)、蒸し魚や蒸排骨、と私の大好物の料理ばかりが突然ずらずらと何老師の口から登場したのだから。なかでも鹹魚のおいしさは、これはもう私にとっては、香港の味そのものである。
広東語で「梅香《メイヒヨン》」、つまりその「醗酵した香り」こそ最大のおいしさ、と表現される鹹魚は、蒸してうろこや小骨を取ってから熱々をごはんにのせて食べると、これはもう美味を通り越した天国の味。香港に旅をするとまっさきに食べたくなるのは、名だたる有名店の名菜ではなく、じつはこの「鹹魚のっけごはん」だと告白しておこう。
何老師は、こう教えてくれた。
「昔から広東のひとは、こんないいかたをします。
いいごはん、いい野菜炊め、いいスープ、そして、いい鹹魚。この四つがそろえば、あとはなにもいらない、最高の食卓だ、とね」
騒がしい新宿の雑踏で、なにげなくコヤナギさんが口にした「ふぁんがー」は、鹹魚を食べるときの必需品であった。そして、もうひとつの竹の「蒸架」もまた、広東のひとびとの台所に欠かせない道具なのだった。
何老師に何度も頭を下げて、バッグに「飯架」と「蒸架」をしまい、私は古いビルを出て昼下がりの銀座の裏通りを歩いていた。
まるで幸せな呪文を唱えるように、頭のなかで「いいごはん、いい野菜炒め、いいスープ、いい鹹魚」と何度も繰り返しながら。
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魚に梅干し[#「魚に梅干し」はゴシック体]――魚鍋[#「魚鍋」はゴシック体]
なにげなく外で食べた料理が、いつのまにか自分のうちの定番料理になっていることがよくある。あっこれおいしい、と思ったら必ず数日のうちに、いやその日のうちならもっといい、同じものをつくってみることだ。舌がしっかり味を覚えているうちに、同じ材料で同じように料理してみる。これが、料理をものにするコツ。
最近なら、ワカヤマさんちでいただいた「なすとごぼうと枝豆のサラダ」。どら焼き片手に遊びに行ったら、お昼にこのサラダをつくってくれた。ごま油で炒めて、しょうゆがしみたなすとごぼう。ぷちぷち舌触りのいい枝豆。サラダ菜もいっしょにドレッシングであえたサラダだ。意外な取り合わせのおいしさが忘れられず、例によって翌日の夕食にさっそく。夏が終われば、枝豆はいんげんに替わる。ここまでくればすっかり自分の定番料理なのだが、しかし、いつまでたっても料理の名前は「ワカヤマさんちのサラダ」。
さて、十年ほど前、香港から帰っていの一番につくった料理がある。「梅子明爐魚《メイヅーミンルーユイ》」。潮州料理である。潮州料理は広東省の港町|仙頭《スワトウ》の料理で、あっさりと淡白な味わいに特徴がある。食前に、まずおちょこくらいの小さな杯に入れた濃い「功夫茶《クンフーチヤー》」が供される。「功夫茶」は潮州の鉄観音茶で、ひとくち飲めば口のなかがさっぱりと洗われ、胃がすっきり軽くなる。食欲が刺激されるんですね。
さて、いよいよその「梅子明爐魚」が運ばれてきたときは、一座がどっと沸いたものです。大きな魚型の鍋のなかに、魚が一尾。まわりにはスープがたっぷり。魚のうえには香菜や赤唐辛子が散らしてある。テーブルでぐつぐつ煮えるのを待つのももどかしく、ひと口スープをすすって再び一座はどよめいた。このさわやかな酸味の、なんとおいしいこと。れんげですくったスープの中身をじっくりのぞくと、ほぐした梅干しが見える。そうか、梅干しが酸味の秘密だったのだな。潮州料理のこの名案、いただきましょう。
そういう次第で「梅子明爐魚」七〇香港ドルは日本上陸を果たしたのだが、ついでに魚鍋もいっしょにわが家に上陸した。この料理は、この鍋あってこそ。皿に盛っては、おいしさが半減する料理というのが厳然とあるんです。たとえば、この「梅子明爐魚」のようにね。しかし、考えてみれば日本でもいわしの煮ものに梅干しを使うのだから、「魚に梅干し」は珍しくもなかったわけだ。
しかし、初めて目にした魚鍋は、そんなことを忘れさせるほど度肝を抜いてくれた。よほど強烈だったのだろう、それから八年後、タイで私はまたもや同じかたちの魚鍋を買ってしまっていた。
むろん、「梅子明爐魚」は「香港のウメボシザカナ」と呼び名を変えて、いつのまにか定番料理のひとつである。
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おかずは勝手に[#「おかずは勝手に」はゴシック体]――公勺[#「公勺」はゴシック体]
五人家族でこんなに食器が少ないのは、どうしてなの、と聞いてみたら、呆れたような顔をして香港人のマーガレットが「お皿で味が変わるわけじゃなし。大皿とスープ用のがいくつかと、あとは適当に小さいのが十何枚もあればじゅうぶんでしょ」。
ある日のこと、仕事のあいまに、ペニンシュラホテルのアーケードへマーガレットといっしょに出かけた。「やっぱりちょっと似合わないわね」と、少しばかりタイトなスカートを試着して気にする私に、彼女は厳然と言い放ったものだ。
「自分の後ろ姿は、自分では見えないんだからね。見るのは、他人でしょ。だから、人目は気にすることなんかない。自分が好きなら、それでハッピー。着たいなら買いなさい」
さすが生き馬の目を射抜く香港、これが香港人だ、と私はいたく感心した。香港で別れてからほどなく、マーガレットは「商売するなら、これからは北京よ」と勇躍中国に引っ越した。今ごろどうしているだろう。
さて、香港に限らず中国では従来、つくった料理は大皿に盛り、そこからみんなが自分で取り分けて食べる。このしごく一般的な食べ方をあえて中国語に直せば、「共餐《コンツアン》」「集餐《ヂーツアン》」と表現する。そして、食卓には取り箸「|公※[#「竹/快」、unicode7B77]《コンクワイ》」と、取りさじ「公勺《コンシヤオ》」が必要になるわけだが、ほとんどの場合、自分の箸で直接大皿から料理を取り分けるから「公※[#「竹/快」、unicode7B77]」ははぶかれる。しかし、「公勺」のほうは、スープや汁気のあるおかずを取り分けるために欠かせない。
いってみれば「公勺」は、中国版サーヴィングスプーンですね。たとえばスープの場合は、お玉のようにたっぷり深さのあるもの。おかずの場合は、底にゆるやかな丸みがある平たいもの。磁器や金属製など、種類も大きさもいろいろだ。
「共餐」スタイルが多いわが家では、「公勺」は食卓の必需品である。
忙しい日の夕食や、土曜日の昼ごはんは「共餐」方式でいく。下味をつけた肉をざっと炒めて大皿にあける。青菜をざくざく切って炒めて、ばさっと大皿にあける。それに、塩味とごま油だけで風味をつけた簡単な野菜スープを大鉢へ注ぐ。たったか、たったか鍋を振れば、食卓には熱々の料理が小気味よいほど着々と並んでいき、あとは、ごはんをよそうだけ。ものの十五分もあれば、栄養も見た目のバランスも、まずまず合格点だ。
香港のマーガレットのうちの夕食も、そんな様子だった。そして、食卓にはやっぱり、「公勺」が一本。
たっぷり大きな「公勺」で、それぞれのおなかの塩梅に合わせておかずをよそって食べていると、食卓にどこかおおらかな気分が漂うのが、なにより好きである。
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ヨーロッパから廻り道[#「ヨーロッパから廻り道」はゴシック体]――カトラリーボックス[#「カトラリーボックス」はゴシック体]
香港の「半分」はヨーロッパで、そのあとの「もう半分」は中国でできている。そして、どちらの半分が欠けても香港は香港たりえない。両方の文化が渾然と混ざり合った姿こそ、香港そのものなのだ。
たとえば、そんな香港の姿を見事にあらわしているひとつのかたちが、リプロダクションの家具である。伝統的な中国のアンティークスタイルを生かしながら、新しい素材と現代的な技法で目にも美しい明朝家具が作りだされている。たとえば、素材は中国の紫檀。刻まれている文様は明朝時代のもの。がっしり太い四本の脚と、なだらかな曲線。どれをとっても間違いなく中国古来の文化を背景にもっているのだが、不思議なことに、どこかにヨーロッパの匂いをふんぷんと漂わせている。
中環のハリウッドロードには、そんな魅力的なリプロダクト家具を扱う店がひしめいていて、訪れるたび、紫檀製のサイドテーブルや肘掛け椅子に何度心魅かれたことかしれない。しかし、そのたびに思いとどまった。それにはわけがある。すでに、わが家の居間には香港のリプロダクション家具がひとつだけあり、初めて見たときから不思議に心が引きつけられた。その魅力は十年以上たった今でも、まったく色褪せることがない。
それは、漆を模して黒く塗られた四段の引出しを持つ小ぶりなカトラリーボックスである。引出しの内側にはグリーンの羅紗が張られており、ナイフやフォーク、スプーンなどのカトラリーが整然と納められるように溝がつけられている。そして、引出しの前面には、さまざまな自然石を切り出して、その淡い色合いを衣服に見立てた唐子が配されている。ひとつの引出しに四人の唐子。全部で十六人の唐子が、カトラリーボックスのうえで思い思いのかっこうで遊んでいる。さらに一番下の開き戸には、左の扉に母と子、右の扉に母がひとり。自然石の優しい風合いと色が、親子のたたずまいになごやかな空気と一体感を与えており、そこにあるのはリプロダクトの「デザイン」を超えて、まさにアジアの母子の原風景にほかならなかった。
カトラリーボックスというきわめてヨーロッパ的な道具のなかに投影された、アジアの原点! さすが、香港はやることが違う。私のなかで、香港の魅力は知らず知らずのうちに、このカトラリーボックスに凝縮されていたのかもしれない。むろん、わが家には、カトラリーボックスに収納しておくほど、たいそうな銀器のフルセットなど眠っていはしない。
そのかわり、引出しのなかには、娘が通った保育園の連絡帳や小学校からの成績表やらが納まっている。
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すっきりいこう[#「すっきりいこう」はゴシック体]――棕櫚のはけ[#「棕櫚のはけ」はゴシック体]
コンビニのビニール袋で包んだおにぎりが、ことのほか苦手である。
真偽のほどを確かめたわけではないが、三角に固めたごはんは、最後のひと仕上げに防腐剤のシャワーを通過させられると小耳にはさんだことがある。とうてい気持ちのいい話ではないが、この時代に生きていれば、どのみちどんな食品も悲しいかな似たりよったり。気にしはじめれば、きりがない。むしろ私が苦手なのは、あのビニール袋から海苔を取り出して、おにぎりに手を触れずに海苔を巻きつける手続きだ。袋には、ご丁寧にビニール袋の破り方の分解図が印刷されているのだが、(自慢じゃないが)私にとってはよけいに難解だ。おにぎりにありつくために、どうして図を読解しなきゃなんないの。どう考えても、袋を威勢よくバリバリ破いて、自分で海苔をくるくる巻くのが一番早いもんね。
ごく簡単なはずなのに、どこをどう道に迷ったか妙に小難しい様子に陥っているのを見ると、いらいらは募る。いつだったか、デパートで、「回転式にぎり寿司飯作り器具」の実演販売を見かけたときなど、瞬間的に怒りの発作が起きたものだ。どうして、ものごとを難しくするのっ。すっきりいこう、すっきりと。
すっきり、きっぱりした道具は、もうそれだけで毅然と機能を伝える。なにより、使う気にさせてくれる。そこが好きだ。
その最たる道具は、たとえば切りっぱなしのわらや棕櫚《シユロ》を縛ったたわし。なかでも、京都の「内藤利喜松商店」の切りわらや棕櫚ぼうきは、根元を銅線できっちりきつく縛っただけの単純明快さが、目にもすっぱり鮮やかで美しい。長さ一〇センチの切りわらの細い棒は、洗面所に置いて目地や角の水垢掃除に。両端が扇のように開いた極太のは、サッシのレール掃除に。小さな棕櫚ぼうきは、食卓のうえのパンくず掃除に。切りわらも棕櫚の繊維も、使いこむうちにますます強度を増していき、自分の手に馴じんで愛着がこもっていく。
棕櫚の皮は、使えば使うほど繊維が太く、丈夫になるという。触ってみれば肌にふんわり優しいのに、いったん捕えた汚れやほこりを決して逃さない。しなりがなくて頼りなく見えるのに、実はドッコイ、差にあらず。棕櫚は働き者である。
そんなわけで、台湾の古い家庭用品屋で小さな棕櫚ぼうきを見つけたときは、やっぱり見逃せなかった。そして、うちの食卓では、京都と台湾の棕櫚ぼうきが交互に使われている。
おもしろいことに、単純明快な道具ほど使い道に幅がある。使い方も、ひとそれぞれ。
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麺棒一本、晒しに巻いて[#「麺棒一本、晒しに巻いて」はゴシック体]――麺棒[#「麺棒」はゴシック体]
王遼東さんは、「一級面点師」の資格を持つ点心専門の誇り高き職人である。中国の調理人の世界では、ひとたび「一級面点師」の免状をかざそうものなら、その効力たるや、さながら黄門様の印籠のごとし。四度の実技試験を競う狭き門をくぐり抜け、国家が太鼓判を押した腕前は、まごうかたなき一流調理人のそれである。その証拠に中国じゃあ、この免状を手に入れれば一生食うに困らないといわれるほどなんです。
さぁさぁ王さんが麺台に向かって立ち、手粉をぱっとひとまき。お手並み拝見といこう。王さん、あらかじめこねて寝かせておいた生地を片手にちぎってとり、数個に分割したうちのひと玉を台のうえで転がして直径三センチほどの棒状にのばす。それを中華包丁でトントントーン、と音も軽やかに切り分けて掌でぎゅうっと押すと、あっというまに平べったい円形の餃子の皮の原型が仕上がった。
いや、驚くのはまだ早い。間髪をおかず王さんは二枚の皮を並べ、そのうえに細長い麺棒をあてがう。そして、手のつけ根で麺棒をくるくると転がしながら、同時に左右両方の親指とひとさし指でつまんだ二枚の皮の周囲を、まったくいっしょに回転させてのばす離れ技をやってのけるのである。棒一本、指四本に職人人生!
息をつめて手元を凝視していたカジヤマさんと私は、思わず無言のまま視線を合わせ、芸当のような速攻に感服する。すごい、すごい、と心のなかでぱちぱち拍手喝采するうち、麺台のうえには見事な真円を描く餃子の皮が続々、十数枚。小麦粉を練っただけの生地が、数分のうちに絶妙の厚みをもつ皮に生まれ変わっている。ほら、餃子の皮が、早く食べてくれ、食べてくれと、身をぷりぷり弾かせている。
そしてさらに王さんは、皮に肉あんを包んで猫の耳に鮑《あわび》、金魚、麦の穂、白菜……目にも楽しいかたちを次々につくり出していくではないか。どれもこれも再び拍手喝采の出来映えなのだが、さっきの「驚異の二枚同時回転」を目撃してしまった身には、かえって当たり前に感じられてしまうから不思議なものである。
遼寧省の中学を卒業すると同時に点心職人の世界に足を踏み入れ、名師と名を馳せる辺林先生を師と仰いで三十年、「一級面点師」王さんに秘伝の技の真髄は、と聞くと、にたりと笑うや粉にまみれた白い指で自分のアタマを指さした。
いや恐れ入りました。さもありなん。手技の基本は指先の魔法にあらず、頭脳にあり。
棒の中央が糸巻きのようにふくらんだ以外、なんのへんてつもない木の棒は、「一級面点師」によって命を吹きこまれる。一方、この私の手にかかっては、いつまでたっても、うろうろと手際悪くいびつな楕円のでこぼこの皮しかつくれぬただの木の棒なのである。
これを宝のもち腐れといわずして、なんというか。
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竹筒事件の教訓[#「竹筒事件の教訓」はゴシック体]――竹筒[#「竹筒」はゴシック体]
周さんは、さすがにあせっていた。忙しい最中、わざわざ竹林に出向いて切り出してこさえた竹筒《ヅートン》の器の塩梅がすこぶる悪い。なかに注いで蒸した鶏スープに竹の匂いが移ってしまって、とても食べられた味ではないのだ。
「まずいなァ、まずいよこれじゃヒラマツさんよ。なにしろ乾燥の時間が足りないンだよな」
周富輝さんは、横浜に広東料理の店を持つ料理人である。無理をいって、お正月のテレビの特別番組に「満を持して、兄に食べさせる自信作を披露する」という「あざとい」設定でメニューを練ってもらった。そのうちのひとつに周さんが考え出したのが、竹筒入りのスープだったというわけだ。うーむしかしまいった、どうしましょう。
ま、やるだけやってみるわ、と周さんはその竹筒を何度も長時間蒸して、力ずくで匂いを抜こうという作戦に出た。そして一週間のうちに竹筒はどうにかこうにか「使える道具」としてねじふせられ、兄・富徳氏はカメラの前で「火腿《フオートエイ》(中国ハム)とフカヒレと鶏肉入り竹筒の蒸しスープ」に「うん、悪くないよこれ」とうなずいてみせて、とりあえずは一件落着となった。
竹筒は、いわば蒸籠の兄弟である。蒸籠は肉まんや飲茶の点心を蒸すときに欠かせないおなじみのあの道具であり、中国料理が生んだ世界に冠たる調理器具だ。
蒸籠は、ぐるり側面の周囲を杉や松のへぎ板で曲げ輪にし、ふたは竹の皮できっちり網代に編んだもの。蒸気の強い力でいっきに素材が加熱でき、しかも素材のうまみも栄養分もがっちり逃さない。そのうえ、板と竹が水分を吸収して同時に外へ放出してくれる。外部から熱も取られず、なかの温度も下がらない。
ほんと、こんなに便利な調理道具はありません。わが家の蒸籠は、使って使って使い倒して、底の板はもはやまっ黒焦げの十年選手である。
さて、竹筒だ。竹筒はいってみれば水一滴漏らさない密閉容器であり、同時に蒸籠と同じような働きを果たす。たとえば、丹念にとった鶏のスープを注いで火腿やらフカヒレやらナマコやら山海の珍味二十数種を入れ、同じ竹のふたで閉じて蒸籠で蒸しあげれば、「高僧も思わず垣根を飛び越えて食べに来るほどの美味」とその名の由来を持つ「佛跳墻《フアテイアオチヤン》」の完成。うるさがたが騒ぐだけあって、ハイ、これはもうくらくらの超美味です。
もちろん、多くの料理人がやるように陶器のつぼにふたをしたうえからぴっちり紙で密封して蒸す方法をとるほうが、ぐんと味の精密度が増すと思われるのだが、いや、そこはそれ、竹筒の風情がかもしだす滋味というものでしょう。周さんが竹筒にこだわったのも、まさにそこ。
料理というものは理屈や言葉では説明しきれない「すき間」が、期せずしてえもいわれぬおいしさを生みだす。それは、料理をするひとのひとがらや性分だったり、はたまた予想外の偶然の産物だったりもする。だからこそ、料理はおもしろい。
竹筒は、たとえばそんな「すき間」の位置にある道具なのである。
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雲南の秘具[#「雲南の秘具」はゴシック体]――汽鍋[#「汽鍋」はゴシック体]
そうとうに陰気な鍋ですよ、これは。
いやいや、そんなふうにいうと並みいる「食通」のお歴々をはじめ四方八方から石のつぶてが飛んできてしまうやもしれぬ。
しかし、です。あのね、この鍋は一滴の水蒸気たりとも外へ逃がさず、数時間をかけて鍋にためた蒸留水仕立てのスープをすべて飲み尽くしてしまおうというのですよ。
この発想や恐るべし、といわずして、なんといおうか。
それは、台湾の故宮博物館で、中国歴代の皇帝が蒐集した星の数ほどの御物を目のあたりにしたときの「異様な満腹感」と似ている。だって、翡翠の原石が白菜の葉のひだの細部まで、うりふたつの姿に削られているわ、象牙がまるごと一本、レース模様のように透かし彫りされているわ、象牙の玉のなかにいくつもの小さな玉が入れ子になって封じこめられているわ……精緻の果てとは、このことだ。世にも珍しい玉器やからくり細工の多宝格を次から次へと眺めるうち、最初はただただ息を飲んで感心するばかりだった私も、しだいにゲップが出る思いを味わいはじめた。
この汽鍋《チーグオ》もまた然り。いかにも中国人の発想の凄まじさの産物ではないか、とひたすら感服するしだいです。
汽鍋は、いってみれば一種の「蒸気鍋」である。約二百年前、中国雲南省の建水県で誕生したというきわめて特殊な道具だが、まずはその構造と使い方を説明してみよう。これは凄いよ。
鍋の底には穴が開いていて、それが鍋の内側に向かって煙突のような突起状にのびている。たとえば雲南省の名菜と名高い「汽鍋鶏《チーグオヂー》」なら、汽鍋のなかへぶつ切りの鶏やしいたけ、ねぎ、しょうがと鶏スープ少々を入れ、水をたっぷり満たした土鍋の口に汽鍋ごと置いて、ぐらぐら沸騰させる。
さらにさらに。汽鍋のふたのまわりには、紙でぴっちり糊張り。土鍋と汽鍋のすき間も、布巾かなにかで厚くおおってしまう。ようするに、すべての蒸気は死んでも逃さんぞ、の構えなのですね。
というわけで、直火にかけたほうの土鍋の蒸気は行き場所を失っているから、汽鍋の底の小さな穴から筒を通って、どんどんうえへ上がっていくしかない。それがふたにぶつかって蒸留水となり、底へぽたりぽたりしたたり落ちていくという仕掛け。同時に鶏はなかを対流する強い蒸気で加熱されていく(似たような仕掛けの鍋に、フランスの「ドゥッフ」というスグレものがある。こちらは、皿のようにへこんだ鋳物の鍋のフタに氷か冷たい水を満たして火にかける。そうすると、冷やされた蒸気がポタポタ鍋のなかに落ちて、少ない汁気でもじっくり蒸し煮ができる、というしろものだ。しかし、汽鍋は蒸気をすべてスープとして集めてしまおう、というのだから気迫が違う)。
――どうです、こんな鍋、世界中探したって金輪際ありゃあしない。見事といえば、見事なもんだ。ただし、陰気といったわけは使ってみればすぐわかる。だってね、ひとくちに水蒸気を溜めるったって、それはもう大変なことなんですから。
下の土鍋から上がってくる蒸気を逃さず、効率よく汽鍋のなかへ蒸気を上げるためには、ものの本には「汽鍋より小さな土鍋を選べ」と記してある。しかも、一羽分の鶏肉に対して五リットルの水を注ぐべし! そんな土鍋なんかありゃしませんよ。そこで実験にのぞんだ私は、台所にある半寸胴鍋にたっぷり水を満たして空の汽鍋をのっけ、いったい何時間でどのくらいの蒸留水が溜まるかを計ってみることにした(じつに陰気な考えだ)。
半寸胴鍋と汽鍋の境目は三枚の布巾でぐるぐる鉢巻きにし、強火でがんがん沸騰させること三時間。いよいよ期待に胸ふくらませてふたをあけると、よしいいぞ、結構な量が溜まっているではないか。しかし、計量カップで計ってがっくりきた。たったの二カップ。
落胆しながら、神田錦町で北京料理店を営むハコモリさんの言葉を思い出した。
「メニューにはのせていませんが、たまに汽鍋のスープを頼んでくるひとがいるんですよ。ま、断りはしませんがね、正直いってつくるのは大変です。一時間火にかけて、ようやくひとり分のスープがとれる、と予約の時間から逆算して調理に入るんです。八人の予約なら八時間」
いやはや、なにをかいわんや。しかし、汽鍋の存在価値は、こうやって悠長気長に蒸留水をこつこつ集めるところにこそ意味があるのだから、もはや黙るしかない。しかし、だからといって……。
そこで私は、こんな苦肉の策をひねり出した。
まず、ごくふつうの土鍋に水をたっぷり張る。その水のなかに汽鍋をどっぷりつけて、熱湯のなかで汽鍋ごとゆでる、というものです。土鍋の湯はお構いなしにどんどん蒸発していくから、やかんの水をこまめに注いで補ってやる。そのぶん汽鍋の穴のなかへ入っていく蒸気の量も弱くて少ないが、これは目をつぶる、と。
笑わば、笑え。しかしながら、これが結構いけるのだから、試してみるものです。策を弄したおかげで、つい先日は「貝柱とブロッコリのスープ」で成功をおさめた。
つくり方です。
汽鍋のなかに一カップの水を張る。手で細かくほぐした硬いままの貝柱を一個分と塩少々を投入して、ふたをする。これを汽鍋ごと土鍋の熱湯のなかで茹でること、一時間半。最後に小房に切ったブロッコリを入れ、一分もたたぬうちに土鍋から汽鍋をはずす。たったこれだけ。
これだけですが、飲んでみると本当においしかった。塩と貝柱だけのうまみのはずなのに、スープに不思議な甘さがある。これが蒸留水の味なのだろうか。まさに甘露水! しかも、一点の曇りもなく美しく澄んでいる。
手間と時間はかかるし、なんかこう、鬱々と陰気な作業だ、とぶつぶつ文句をいいながら、それでも私はあの甘露な味わいにひきずりこまれるように、ときおり汽鍋を水屋の奥から取り出す。
ところで、汽鍋のまわりには、こんな文字が大きく刻まれている。
「美在其中」
しのごのいうな、といわんばかりだ。どこか心の奥まで見透かされている気がするところが、くやしくもある。
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フカヒレ料理の助っ人[#「フカヒレ料理の助っ人」はゴシック体]――編竹[#「編竹」はゴシック体]
ある昼下がり、香港の暗くて狭い路地を徘徊していたら、裏口が半分開いている店があった。
首をつっこんでなかをのぞくと、そこは誰もいない厨房で、片隅に編竹《ビエンヅー》にはさまれたパリパリのフカヒレがどっさり積み上げられている。なるほどなぁ、フカヒレはこうやって扱うのか。下ごしらえにも、さすがに手間がかかるもんだ。いきなり舞台裏を目撃した気分である。表にまわれば、あれまぁ、そこはフカヒレ料理の有名店であった。
明時代の博物誌『本草綱目』(一五七八年)にいわく、「南人これを珍重す」。驚いたことに南の広東地方じゃあ、こんなもの食ってるぞ、というわけである。魚翅《ユイチー》、つまりフカヒレのことだ。
フカヒレと燕の巣が中国の食卓に登場したのは、そもそも十五世紀に航海家・鄭和が南洋から持ち帰ってきて以来のこと。考えてみると中国は大陸国だ、フカヒレや燕の巣と並んで「海八珍」に数えられているアワビやナマコだって、全部海産物。海に面した広東地方で、これらを乾燥させた食材が「乾貨《ガンフオ》」と呼ばれ、しきりに珍重されるようになったのも当然のなりゆきである。
フカヒレ、とひとくちにいっても、質のよしあしはピンからキリまで。質のよいものなら、たった一〇〇グラムで一万円近くするから恐れ入る。上等とされているのが背ビレ、次いで胸ビレ。繊維が粗くて固い尾ビレは下等の汚名に甘んじている。
さて、フカヒレ料理の極めつけといえば、「紅焼頂裙翅《ホンシヤオテインチユインチー》」。泣く子も黙る姿煮だ。フカヒレの質そのもので勝負してみせましょう、という度胸のすわった料理であり、同時にカチコチに乾燥したフカヒレを絶妙の柔らかさにもどす手練手管が問われる料理でもある。人知と手間をかけつくす中国料理の真骨頂とも言うべきか。
その舞台裏で活躍するのが、編竹だ。
編竹は、二枚ひと組で使う。あらかじめ、ひと晩ほど水につけておいたフカヒレを二枚の編竹ではさみ、串状の棒で数ヶ所をぴったり閉じ合わせる。編竹のフカヒレサンドイッチだ。そして、いよいよこれから、フカヒレと編竹の二人三脚の長い旅が始まる。
編竹にはさんだフカヒレは、まずはそのまま、たっぷりの熱湯につけて数時間煮る。煮たら編竹ごと引き上げて冷まし、厨房の隅に積み上げられて再びひと晩。翌日、またまた数時間熱湯で煮て、また冷ます。編竹にはさまれたまま最低二日、長くて三日。フカヒレはしだいに剛をくだかれ、なまぐささを抜かれ、艶と光沢と柔らかさを増していく。ここまできて、フカヒレはようやく編竹から解放されるというわけだ。
編竹は、魚を姿のまま下ゆでするときにも使われるが、ことのほかフカヒレとは切っても切れない縁をもつ道具である。
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霞の向こう側[#「霞の向こう側」はゴシック体]――火鍋子[#「火鍋子」はゴシック体]
じつにうまいことをいうものだ。いや、「撥霞供《ボオシアコン》」のことです。
「撥霞供」、つまり「霞を払いながら食べる料理」。いったい、なんだかわかりますか。
しゃぶしゃぶなんだそうな。霞に見立てたのは、鍋から沸きあがる湯気。それを箸で「撥い」ながら食すというわけで、なんと風流な呼び方だろう。
南宋時代に書かれた『山家清供』は、こんな話が随所に登場する中国の古い料理書で、私の大好きな本のひとつだ。
ぼうっと過ごす夜中につらつらページをめくり、「蟠桃飯《パンタオフアン》」(山桃入りの飯)やら「胡麻酒《フウマアジウ》」、「玉井飯《ユイチンフアン》」(れんこんと蓮の実飯)など、次から次へと登場するひなびた料理に想像力をかきたてられ、思わずごくりとつばを飲みこむ。それは、とても楽しいひとときだ。そのうえ、文人の手による料理書だけあって、妙に「枯れた」料理がときおり顔をのぞかせる。たとえば、清流で拾った水ごけのついた石を泉の水で煮るという「石子羹《スーヅーグウン》」(みずごけの吸いもの)。いわく「味は螺《たにし》より甘く、ほのかに泉石の気がする」!
苦笑を誘いながらも、ちょいと食いしんぼうの食指をそそるところが、この書物のミソであります。
さて、「撥霞供」だ。
このしゃぶしゃぶに使う肉は、うさぎのそれであり、「うさぎ肉は中を補い気を益す」と、まず注釈がある。それに続いて。
遠出をしたある雪の日、たまたまうさぎが手に入った。しかし、料理人は調理の仕方を知らない。そこで、座をともにした師が「山間では、薄くそいだ肉に酒、醤、椒の合わせ調味料をかけ、風爐を座にすえて水を半分ほど入れた鍋をのせ、湯がよく沸いてから、各自自分の箸で肉をとり、湯につけてゆする。火が通ったらそれぞれ好みの汁につけて食べる」と教えた。その方法で食べてみると、手間がかからないだけでなく、皆で団欒しながら暖まるという楽しみがあった。その数年後、宴席で同じ料理に出合ったとき、なかのひとりがこの料理を「撥霞供」と名づけ、いたく感心した。
――と、こんな話。
もちろん「撥霞供」なる風情漂う名前は、この本のなかだけのものだ。中国では、湯のなかで肉を揺すって火を通す料理には、「※[#「さんずい+刷」]」の字をつける。羊肉のしゃぶしゃぶなら「|※[#「さんずい+刷」]羊肉《シユアンヤンロウ》」。牛肉のしゃぶしゃぶなら「|※[#「さんずい+刷」]牛肉《シユアンニユウロウ》」。
ところで、日本におけるしゃぶしゃぶの歴史は、ごく新しいものだ。じつは、しゃぶしゃぶは戦後、満州から復員してきた人々が広めたといわれているが、たぶんこれが本当のところだろう。そもそも中国では、しゃぶしゃぶは古く唐時代からあった料理であり、貴族や文人の宴席の贅沢料理のひとつに数えられていた。そして、爆発的な人気を広く獲得するのは、清朝の咸豊四年(一八五四年)。北京の前門外に開店した漢民族の店「正陽楼」が「※[#「さんずい+刷」]羊肉」を売り出したことに端を発する。
今や「※[#「さんずい+刷」]羊肉」は北京をはじめ、中国北部の冬の風物詩。大陸で初めてこのおいしさを体験した日本人が、火鍋子《フオグオズ》ごと日本に持ち帰った、と。こういうなりゆきに違いない。
「※[#「さんずい+刷」]羊肉」になくてはならないのが、火鍋子である。これは、銅か錫で作った鍋で、鍋の中央には太い煙突が立っている。鍋の下は五徳のかたちをしており、そこへ炭を入れて燃やすのだが、鍋底と煙突をつたう炭火の火力には瞠目する。肉や野菜を入れても、一度煮え立った湯の勢いは衰えることを知らず、火鍋のなかは常にぼこぼこ沸騰し続けている。ここへ、箸でつまんだ羊肉か牛肉の薄切りを熱湯で洗うようにして、いや霞を払うように箸を動かして火を通すのである。
ところで、しゃぶしゃぶは餃子に続いて、日本の食卓を席巻しつつある。
考えてみれば、ニッポンの家庭の一番のごちそうは、すきやきだったはずなのだ。ところが、昨今ではすきやきは劣勢にまわっており、しゃぶしゃぶ人気にその座を奪われているように思えて仕方がない。冬になれば、スーパーにはずらりと「しゃぶしゃぶ用薄切り肉」パックが並び、しゃぶしゃぶは、すっかり「手間いらずの簡単鍋料理」の位置にまで下りてきた。かつて、会社の接待や宴席でしゃぶしゃぶを食べる名誉に浴したおとうさんが、「あのな、しゃぶしゃぶってのはな、うまいんだぞぉ」「ずるーい、おとうさんだけー」と家長の勲章がわりに活用した時代は、もはやすっかり終焉を告げたのではなかろうか。
それはさておき。
あの『随園食単』を著した中国の大文人、袁枚は、「火鍋はどさくさして好まない」と「食の十四戒」のひとつに鍋をあげて嫌っているが、そんなうるさいことは知ったこっちゃない、例の『山家清供』にも書いてあったでしょう、火鍋はみんなで食べれば和気あいあい、なにしろあったまって楽しい。そのうえ、それ割りしただ、それ醤油が先だ砂糖が先だ、と鍋奉行の講釈かまびすしいすきやきに較べると、しゃぶしゃぶは湯で肉を揺するだけの、いってみれば究極の手間いらず、主婦の味方の簡単料理でもある。
しゃぶしゃぶ、つまり「※[#「さんずい+刷」]羊肉」もしくは「※[#「さんずい+刷」]牛肉」を、あくまで和風にこだわるなら、ポン酢のたれも悪くはないでしょう。しかし、ここはひとつ、ご本家中国の味をわが家で体験してみてほしい。その際は、以下の調味料をずらり揃えられたし。
醤油と酢。魚醤。芝麻醤。胡麻油。辣醤。老酒。腐乳。おろしにんにくと、おろししょうが。長ねぎのみじん切り。きざんだ香菜。
これらを好きなだけ、好きなように自分のお碗のなかで混ぜ合わせる、それだけ。
左右に箸を振り、火鍋子を覆う霞を払いながら中国の文人の食卓に思いを馳せてみるのも、また楽しからずや。
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粉をこねる[#「粉をこねる」はゴシック体]――手[#「手」はゴシック体]
ユリコ様
特報! 春巻の原稿を抱えながら年を越し、今年初めて迎えたこの週末、頭のなかに春巻がぐるぐる回りつづけているそのノリのまま、勢いに乗ってこのたび春巻の皮づくりに初挑戦し、めでたく成功をおさめました!
中華鍋の前で、どきんどきんと高鳴る私の胸の鼓動が聞こえたに違いありませんね、愛しの春巻は、艶やかなきつね色に肌を染めて、たぷたぷの油のお風呂から上がって、いや揚がってきました。くるんとまあるい曲線が目にまぶしく、その風情の初々しいこと! 待ちきれずに熱々に噛みつくと、皮はパリッとさくさく。そのうえ、歯に食いこむような皮のハリと弾力。口のなかの火傷もなんのその、思わず感動に涙ぐむほどの仕上がりに、春巻握りしめて東西線に飛び乗り、お宅まで出前に走りたいほどの出来ばえでありました。
皮のつくり方を、ご報告いたしましょう。
まず強力粉に塩と水を加えて混ぜ、五本の指を入れて、手動攪拌機よろしく都合二十分ほどぐるぐる手を回して、ひたすらかき混ぜつづけます。最初はぽつぽつとダマができていたのが、あきらめず混ぜているうち、しだいに全体がぷるんぷるんのネバネバねっとり状態になってきます。文献を探しても、明確なレシピはどこにも見つからなかったので、粉と水の配合はあくまでも自己流。台湾やタイの屋台で見かけた記憶をたどりたどり、目分量でもって、生地の粘り具合を再現したというわけです。たしかこんな感じだったなーという状態になったところで、濡れ布巾をかぶせて約八時間、室温で寝かせる。この時間設定も、生地をつくったのが午前中で、ただ晩ごはんの時間に焼きはじめたにすぎないという、きわめて安易な理由です(部屋には暖房がきいている、適当に醗酵も進んだろう、と勝手に判断)。
さて、いよいよテフロン加工のフライパンを弱火にかけ、指にまとわりつく独特のねっとり感をもてあましながらも、生地を持ちます。これを、円を描くように丸く鍋肌になすりつけながら広げる、と。なるほど、これがすこぶる難しい! 日本における春巻皮の本家、F食品のおやじさんが「熟練」の二文字をうるさいほど繰り返したはずです。粘りを頼りにしながら生地をすうっと広げるところまでは、とりあえずうまくいったの。でも、あちこち妙に厚ぼったくなってしまうんですね。春巻皮づくりは、全体を均一の厚さにするところが最大の難所とみました。でも、指でそっと端っこを持ち上げると、焼けたそばから美しくはがれてくれて、もうこのへんになると楽しい、楽しい。生地を塗りつけてはペろりとはがし、を繰り返し、合計十二枚の皮が誕生いたしました。
具は、豚肉、たけのこ、キャベツというオーソドックスパターン。歓喜の声に迎えられて食卓にデビューを飾った「徹頭徹尾手づくりの春巻」は即座に売り切れ状態となり、急きょ、F食品の皮をひと袋ぶん解凍。娘が皮をはがすのに手間どっているその間に、冷蔵庫に残っていたありあわせの野菜をせん切りにし、これを猛スピードで炒め、おや火にかけた鍋を見ると油の温度はどんどん上昇中、まずいぞさぁ間に合うか、ええぃもはや具が熱いのも知ったことか、即座に皮で具を包む。ようやっと油の海に六本を放ち終えて、ゴングの音とともに終了、ふぅ〜――という、怒涛の十分間でありました。
なにしろ、おいしかったのよー。
ちなみに、土曜日の夜は、先日いっしょに食べた随園別館の北京名物「合菜戴帽《フウツアイタイマオ》」を製作。春餅《チユンビン》に野菜炒めを包んで食べる、アレです。こっちの春餅は、非常に簡単。強力粉と薄力粉を同量ずつ合わせて、油と熱湯を加えて練り混ぜ、餃子の皮みたいに麺棒で丸くのばすだけ。豚細切り肉とにらやもやしを味噌炒めにし、皮に甜面醤を塗ってから、炒めものをくるんで食べる、と。これも美味でしたわぁ。
ま、いずれにしても、かつて連日納得がいくまでパンとシュークリームを焼きつづけた母の血を引いていることを、あらためて再確認した週末でもありました。
なにしろ、今や本場中国でもなかなか見られなくなったという、春巻皮の手焼き見学に、いよいよ期待は高まるばかりです。ではまた、今度の木曜日に。
[#地付き]興奮冷めやらぬ夜に ヒラマツヨウコ
ユリコ様 第二信
いやはやなんとも、驚いた。びっくりしました。
すごいものでしたね、ぷわんぷわんの生地をまるで生きもののように扱う、あの手つき! あの職人芸! いまだに、目に焼きついて離れません。「私にもやらせて欲しー」と、何度も口をついて出そうになりましたが、衆人環視のなかで生地を飛び散らかす迷惑を予感し、必死で我慢に我慢を重ねた次第です。マジシャンのような手先からヨーヨーみたいにつるっと繰り出され、スナップをきかせればすうっと手のなかに戻る生地は、職人さんのからだと完全に一体化しているようにさえ見えて、ただただ圧倒されるばかりでした。
本当に、百聞は一見にしかず、です。でね、この貴重な経験を無にしてはいかん、と殊勝にも自分の皮づくりの問題点を明らかにしてみることにしました。
最大の問題点は、生地のこねかたが明らかに足りなかったこと。ヨーヨーのように伸びる弾力性を目の当たりにしたとたん、すぐにそのことに気がつきました。正体がないくらいに、ぷわんぷわん。そしてクレープみたいに薄いのに、ユリコさんが左右に引っ張ったら、伸びた伸びた! ところがどっこい、まったく指にまとわりつかない――グルテンがしっかりとつながっている証拠です。春巻皮の生地をつくるときは、こねるだけでなく生地を何度も何度も叩きつけながら作業する人もいるとか。機械でつくったものなら、とうていああはいきません。さらに、生地の上に水を張って、一昼夜。正直言って私、春巻皮を見くびっておりました。あんなに手間ひまかかるものだとは!(昭和三十〜四十年代は職人さんたちが焼いていたのに、機械が開発されるや、あっという間に手焼きが消えていったのも、納得がいきます)
たかが皮、されど皮。だって、素材をしっかり巻きこむ役目を担っているのだから、ちょっとやそっとで破れては失格だもの。その一方、歯で噛めばさくさく崩れ、パリッとした食感も求められている――春巻皮は、じつはいくつもの難条件を満たしている凄いやつなのです。
このまえ上海出身の友人が、上海の街角には、春巻皮専門の屋台が立つと教えてくれました。つくり手は決まって、山東省から出稼ぎにやってきたおばさん。粉食文化の本場、中国北部の自慢の手ワザを、都会の上海で披露しようという次第らしいのです。
おばさんは、右手に麺団(生地のことです)を持ち、これを自在に操りながら、熟練の手つきで中華鍋に一瞬くるりと押しつけ、左手でさっとはがし、今度は油をしみこませた布で鍋肌をぬぐい……あっという間に何十枚もの皮が積み重なります。上海の家庭では、これを買って帰って、春巻をつくるそうです。
おばさんの手でつくる皮もまた、あの職人さんの焼きたての皮と同じように、とびきりおいしい素朴な風味なのでしょうね。
粉を練る楽しさにすっかりとりつかれた私は、文字通り、粉にまみれる昨今です。
きのうの晩ごはんは、一家総出の水餃子大会。ところが、なにを間違えたか、いつもよりとんでもなく柔らかな生地をこさえてしまい、ままよ、と麺棒で伸ばしてみても、べちゃべちゃ手や麺棒にくっつくばかりで、どうにもこうにも始末に負えなかった。
今思うに、私の指は無意識のうちに、春巻皮の生地のたぷたぷ感を再現したがっていたのかもしれません、なんてね。できあがった水餃子はぶよぶよの皮に包まれて、その様子はまるでクリームパン。おんなじ強力粉を手でこねてつくるのに、水の分量もこねかたも春巻と餃子じゃ、こんなに勝手が違うのだなぁ――あらためて中国の粉食文化の奥の深さに脱帽しながら、失敗もなんのその、アツアツの茹でたてを大好きな中国の黒酢、鎮江香醋《ジエンジヤンシヤンツウ》に浸していくつもいくつも頬張った夜でした。
今度の週末は、懲りもせず、春巻の皮づくりに再挑戦する計画です。
どうぞ、高見の見物にいらしてください。お待ちしています。
[#地付き]粉道に邁進する ヒラマツヨウコ
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たったひとつ[#「たったひとつ」はゴシック体]――アルミのボウル[#「アルミのボウル」はゴシック体]
本当は、台所道具も食器もこんなにたくさんいらない、と思うことがある。
いつだったか、デパートの婦人服フロアで買いものしながら、なにげなく周囲一八〇度をぐるりと見回したら、空間をぎっしり洋服が埋めつくしている様子にうっと息がつまって立ちすくんでしまった、それと同じ気分をときどき台所で味わう。
鍋は、煮るのと炒めるのとひとつずつでいい、おたまも木べらも菜箸だってひとつずつあれば足りるじゃないか――突然、なにか過剰な荷物をどっさり抱えこんでいる気分に襲われるのだ。さりとて、それでは整理していくつかを処分しようかなどと考えると、これは無駄な抵抗に終わるのが、おち。そばからどれもこれもに愛着のかけらを見つけはじめている自分がいて、結局はお手上げである。
いっぽう、ならば食器をたったひとつだけ選べ、といわれれば、みじんの迷いもなく手にしたいものがある。ただし、それを実際に使ったことは、まだ一度もない。
それは、日本の禅寺で使われている漆塗りの応量器《おうりようき》だ。
応量器は深い鉢に大小五つの椀をすっぽり重ね合わせて納める(流行りの言葉でいえば、「スタッキング」できるんです)食器で、飯椀、汁椀、香のものの椀など、それぞれに用途が定められている。僧は修行に出るときに、この応量器ひとつを懐に携えるという。
たったひとつで、すべてこと足りる。あぁ、なんという身の軽さ!
しかし、たかだか四十数年生きただけで、あらゆる無駄も煩悩も削ぎ落とした応量器を持つなど、身分不相応に過ぎる。だから、今から応量器を手にする勇気など、私にはない。
では、台所の道具はどうだ。
うむ、と考えてみるのだが、これは、食器のように究極の「たったひとつ」を考えることはナンセンスである。
そもそも調理はあらゆる動作を要求する。切る。削ぐ。すくう。割る。つかむ。絞る。おろす。砕く……そして、煮たり揚げたり、炒めたり、蒸したり、和えたり。これらの目的を効率よく果たそうとするなら、そのぶんそれぞれの目的に合う機能性を備えた道具が必要だ。つまり、目的が増えれば増えるほど(つくる料理の種類が増えるほど)、道具の数も増えていくというしだい。
いやまぁ、しかし、ただ手をこまねいて道具が増殖するにまかせるのも芸がないことではある。失敗や試行錯誤を繰り返しながら、自分自身にとっての「たったひとつ」を見つけることで、台所の道具はそうとうに整理され、淘汰され、おのずと取捨選択がきく(これを私は、「台所の下克上物語」と呼んでます。ときおり「息が詰まる」気分を味わうのも、激しい下克上の真っ最中では無理もない、と)。
ただし、ボウルはすでに「たったひとつ」、決定ずみです(よって、ボウルの下克上時代は終結した)。といったって、なんてことないんですよ、なんのへんてつもない小さなアルミのボウルだ。しかし、洗ったり切ったりした野菜を入れたり、卵を溶いたり、レンジでチンした鶏のささみをほぐしたり、ゆでた白玉だんごを冷やしたり。とにもかくにも一日たりとて使わない日がない。ひとつは穴なし。ひとつは穴あき。今じゃあ、これがなくちゃ困り果てる。
この一生の伴侶は、台湾の料理店の厨房で見つけた。
毎日毎日朝から晩まで使い倒されて、どれもこれもアルミの表面はすっかり磨耗し、無数のボコボコが店の歴史を刻みこんでいる。金属なのに、その柔らかな風合いは愛くるしいほどだ。ひと目でびりびりと直観が働き、あれだっ、と私は小さく叫ぶや、その足で台北の問屋街に飛んでいった。
たっぷり三カップ分の水が入る、絶妙の深さ。
広げた片手にすんなりおさまる一七センチの直径。
放り投げても落としても、決して壊れない頑丈さ。
たった五〇グラムの軽さ。
手肌になじむ、アルミの優しい手触り。
私の台所にとって必要なボウルの条件はすべて、この小さなアルミのボウルに教えてもらった。
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おいしさの理由[#「おいしさの理由」はゴシック体]――あとがきにかえて[#「あとがきにかえて」はゴシック体]
自分が食べたものをノートに書きとめておく習慣がある。ぱったり途切れたり再開したりを繰り返しながら、気がつけばもう二十年近く続いている。
いや、「食日記」のつもりなど、いっこうにない。その日に食べたものや作ったものをただ書き並べておくだけのことで、気が向けば、調味料の塩梅や台所での新しい思いつきを書き添えたりもする。えーときのうはなに食べたっけ、おとといは、と三日ぶんの記憶をたぐり寄せるときもあれば、忙しさに紛れて数ヶ月間ノートを開くことを忘れたりもするが、だからといって空白にほぞを噛むわけでもなく、ではまた始めるか、と久しぶりに今日の夕飯を書き加えてみるだけのことである。
そして、五年後、十年後に楽しいおまけがついてくる。
「一九八四年 三月四日(日曜日)
[#2字下げ]夕食 あじの干物 揚げ出し豆腐 れんこんと貝割れ菜のサラダ 梅干し入りドレッシング にらたま ごはん 海苔のお吸いもの」
ノートの文字をたどると、なんとも不思議なことだ。十二年前のあの日のあの食卓が、ゆっくりゆっくり輪郭をあらわし始める。包丁の背で叩いて練った梅肉や、すりごまを入れてつくったドレッシングが白いれんこんの薄切りにからみついている様子が目の前に鮮やかに浮かんできて、気がつくと唾をためていたりする。
そして、記憶の糸は、ふいにぱらりとほどける。
「あぁそういえばあのとき、揚げ出し豆腐をつくるのにどたばた手間どって、最後にきて時間も気持ちの余裕もなくなってしまったのだった、たしか。だものだから、土壇場で海苔を破いて、ねぎを刻んでお椀に入れて、そこへお湯としょうゆを注いで急ごしらえのお吸いものを作ったのだったっけ。そうそう、そうだったそうだった」――茫漠と背中のうしろに横たわる月日をひとまたぎにひょいと超えて、私は十二年前に住んでいた古いしもたやの台所に立っているのだった。
と、ここで唐突な思いに虚を突かれ、ノートから目をあげる。
――それにしても、だ。娘が三歳になるかならぬか、仕事と子育てと、それにくわえて思いわずらわなければならない暮らしのくさぐさがいっしょくたにこんがらがって青息吐息のあのころ、割烹料理屋じゃあるまいし日曜日の夕飯に揚げ出し豆腐、か。いっしょのおかずに、手間入らずの「干物」や「にらたま」をもってきたところなんか、時間配分の計算と工夫のあとが読めて、泣けてしまうじゃないか。
あぁ私はきっと、懸命に「家庭の食卓」を「がんばって」いたのだ。台所でさい箸握って、ぐいっとここ一番、歯食いしばっちゃったりして。
たとえば一九八四年三月のある一日は、そんな日々のまっただなかにあったと知る。
食卓の向こうには台所があり、台所には日々の暮らしがそのままの姿で息をしている。
ほんとうは、台所ではいつも楽しいことだけ考えたい。弾む気持ちだけ連れて、台所に立ちたい。しかし、ふいに日常のほころびを目の前にしたうろたえや、ぽろりとこぼれ落ちた嘆息を綿でくるむように抱きとめてくれるのもまた、台所である。
なにしろ、今日も今日とて食べなくてはならないのだ。食べて暮らしていかなければならないのだ。さもなければ、なんによらず「こと」は始まらない。だからまた、きのうと同じように、にんにくの皮むいて、玉ねぎ刻んで、炒めて、スパイスを放りこんで、鍋をかきまわす。さてどれどれと鍋のふたを開けて味見をするころには、どんなに重く深い嘆息も、台所に満ちたおいしい香りやあたたかな湯気のなかにいっとき姿を消してしまっているのだった。
台所はつまり、そんなこんなを繰り返し、繰り返し。
きのうと今日は、台所に流れる時間のなかで少しずつ重なりながら続いていき、それはまた、台所道具にも同じように積み重なっている。
ばたばたと忙しさに追い立てられてうっかり何度も焦げつかせ、こすっても磨いても決して取れない鍋の底の黒ずみ。
いく筋もいく筋も、まな板の木肌のうえに数限りなく縦横無尽に刻みついた包丁のあと。
木じゃくしに染みこんだ、バターやオリーブ油の染みや、唐辛子の赤やターメリックの黄色。
どれもこれもすっかり見慣れた台所の風景のひとつだが、しかし、ひとたびまじまじと視線を注いでみれば、汚れや傷までもがしみじみ愛しく、なぜだかむしょうに心強い。
台所のあちこち、すみからすみまで、ひとつひとつの台所道具たちは日々の暮らしをともに紡ぎ出してきた大切な友だちなのだと、今さらながらに気づく。
この本に登場する「アジアの美味しい道具たち」はみな、私の台所のかけがえのない相棒ばかりだ。
アジアを旅するたび、あちこちの家の台所や店の厨房で、市場の軒先で、路上の雑貨屋で、私は彼らとの幸せな出合いを繰り返してきた。あぁなんておいしい、と食卓で舌鼓を打てば、その向こうの台所にはいつも必ず、「おいしさの理由」を解き明かす「道具」の姿があった。
そのことに、私は夢中になったのである。
つい数日まえの香港でも、私はまたもや、ひそかに拍手喝采して胸躍らせた。
西營盤の裏通りにある「源記《ユンケイ》」は、創業百年になんなんとする老舗の甜品専家《テイムパンツエンガー》(甘いもの屋)だ。表から見ればなんのへんてつもない小さな店だが、ここのお汁粉は文句なしの絶品である。香港のおいしいもの好きのあいだでは、こんな言葉がある――「二百元一椀甜品」。一杯十七元に、駐車違反の罰金二百元を払ってでも食べたい、「源記」の甜品はそれほどおいしい、というわけだ。だから、「源記」の店の前にはベンツやロールスロイスがしょっちゅう停まっているそうな……とまぁそんな話にも素直にうなずけるほどやっぱりおいしくて、香港を訪れるたびに必ず、ここの黒胡麻や杏仁のお汁粉をすすりに来ることになる。
そして、何度も通ったこの店で、初めて奥の厨房に足を踏み入れて、私はあっと叫んでその場に釘づけになった。
そこには、どおんとひとつ、古い大きな石臼があったのである。
「この石臼は、使い始めて十数年めのものです。胡麻もくるみも、お汁粉に使う材料は毎日毎日、この石臼でいちにちぶんだけを碾きます。朝碾いたものは、次の日には絶対使わない。見てください、うちには冷蔵庫もありません」
ごりごり、ごりごり、と耳の奥に石のこすれ合う音が響く。
それは、香港のはるか百年前の時間のかなたから聞こえてくる音だ――。
足もとが冷え上がる小さな厨房のまんなかにひとり立って、私は「二百元一椀甜品」の「おいしさの理由」に深く深くうなずいていた。
ひと目惚れに落ちたり、じわりじわり長年かけてお互いにじり寄るように距離を縮めたりしながら、「美味しい道具たち」はまたひとつ、またひとつと東京のわが家の台所に集まっていき、ときを重ねるにしたがって大切な相棒になっていった。
そして、台所にはその数だけさまざまな「物語」が生まれているように思えた。
私は、ひとつひとつの「物語」を始めから読んでみたくてたまらず、そのためにはまず、書き始めなくてはならなかったのである。
「物語」に生き生きとした表情を与えてくださったのは、アートディレクターの佐村憲一さんである。相棒たちを紹介するには写真ではなく、ぜひイラストレーションで、という私に、佐村さんは少し考えたのち「よし、それでは僕が描いてみましょう」。そして、少しずつ描き上がるイラストレーションを目にするたび、感嘆した。佐村さんが描く線には、「アジアの美味しい道具たち」が漂わせている朴訥な暮らしのあたたかさと力強さが、そのまま息づいていたからだ。なかでも、タイのクロックとかアルミのザルとか、韓国のパガジも私、大好きだなぁ。そのイラストレーションのぬくもりはとりもなおさず、アジアの台所道具が持つ最大の魅力でもある。佐村さん、ありがとうございました。
また、編集を担当してくださった松原明美さんにもお礼を申し上げたい。書き始めてから一年と数ヶ月。どんな長旅も、終わってみればあっという間の出来事となり、あとには楽しさだけが鮮やかに残っているものだ。松原さんのいつも変わらない優しい励ましに支えられて、この長旅も本としてひとつのかたちを結ぶことができた。ほんとうに、ありがとう。そして、お疲れさま。
さらに、暮らしと食卓の手ほどきをさまざまに示してくれたアジアのひとびとや、多くの親しい友人たちにも深く感謝を捧げたい。
最後に、父母と家族、見えないかたちで支えてくれた大野三郎と娘の麻に「ありがとう」の言葉を。
さてさて、ついにすべて書き終わった。今夜はなにをつくろう!
一九九六年 ぬくぬくとあたたかい初春の日の午後に
[#改ページ]
文庫版あとがき[#「文庫版あとがき」はゴシック体]
ついに運命の相手に出逢ってしまった直感と確信に、きゅっと胸は締めつけられて息をどきどき弾ませる。もしくは、ふと「このあたりが潮どきなのだろうか」。訪れてしまったおしまいに胸を突かれて寂寞にまみれ、喉を絞って泣きたい思い。
いやはや、台所道具相手に、まるきり恋愛沙汰なのである。アジアのあちこちで出合ってきた「おいしい話」を久しぶりに読み返してみたら、自分の繰り広げてきた行状になにやら顔がぽっと赤らむ。もう少しさらっとやれないものか。惚れた相手とくんずほぐれつ、真剣勝負のオンパレードなのである。
とはいえ、めったやたらに惚れっぽいわけではありません。恋愛体質というんですか、ことさらな恋愛好きでもない。それどころか、やっかいなことはひたすら鬱陶しいので、わずかな危険を察知すればあわてて触手を縮めて身を固くするいそぎんちゃくのように、こう見えても結構用心深い。
しかしながら、「これは」と響くものひとつありさえすれば、この一線、あとさき考えずままよと踏み込む。いったん足を踏み入れてしまえば、ずぶずぶ奥深く分け入って進むほかなし。なに、響いたものたったひとつあれば、たとえ潮どきを迎えても、砕けたカケラは掌のなかで光を放ち続ける。
そこをよすがに、たとえば長年アジアを歩き続けてきたのである。
「ところでいったい、どこにあれだけの道具がしまってあるのですか」
思わずみなが訝しんで訊くほど、私の台所は小さい。歩いてしまえば、わずか三歩。使うものしか置かない。用のないものを泳がせておく余裕などないから、使わないものは置けない。そこにタイの石うすがあり、インドのスパイスボックスがあり、韓国の石鍋があり、十年前、ソウルの雑貨屋で仕入れたキムチ用の保存容器はすっかり冷蔵庫の定席におさまっている。
石うすの棒は、きゅうりや肉をバシッとひと叩き、豆腐の水きりにも遠慮なく使い回す。うす自身は三キロを悠に超える偉丈夫だから、剥がれた革をくっつける重しなんかにこれまた絶好、ほとんど家庭用品同然の扱いだ。もちろん、スパイスやにんにくを叩き潰すとき、石うすと石棒なしでは「あのおいしさ」をつくりだすことはできない。
「あのう、いったいどうしてまたアジアだったのですか」
これもまた、しょっちゅう訊かれる質問だなあ。
「あら、だっておもしろいではありませんか。おなじごはんを炊くにも、タイでは沸騰したおねばを途中で捨ててさらりと煮る。なのに、日本では『赤子泣いても蓋取るな』と戒めて、炊いたあとでじんわり蒸す。でもね、タイでも日本とおなじように、掌を浸して水加減のめやすをつけたりするんです。あっと驚くほどおなじだったり意外なほど違っていたりすることは、いくらでもある。たとえば韓国ではお焦げに湯を注いで『お焦げ湯』を食後に飲む習慣があります。なんとこれは、日本の懐石料理の締めくくりに供される湯桶とまったくおなじで」
アジアの食文化をひとつに束ねているのは、ごはんが主食だということ。しかし、気候風土や歴史、文化によって、米の種類も味わいも炊き方も食べ方も、おなじこと違うことが微妙にからまり合っている。その網目を解きほぐせば、アジアのさまざまな食卓がゆっくりと浮かび上がり、それだけではない、同時に日本の食卓にも逆に光が跳ね返り、輪郭の一部が描き出されるのだった――これはもう、夢中でアジアを駆けずり回るのもむべなるかな、でしょう?
『アジア おいしい話』の底本となった『アジアの美味しい道具たち』(晶文社刊)が出版されたのは一九九六年である。当時は、「ピビムパプを食べるときは、まず最初にひたすら混ぜて、混ぜて」だの「ベトナム料理のゴイ(和えもの)は、ライスペーパーに包んで頬張るべし」だの、伝道師よろしく口角泡を飛ばしたものである。そうこうするうち「エスニック料理ブーム」「アジア料理の流行」が到来し、巷のアジア料理のレストランの数も、アジア各国への旅行者の数も驚嘆の右肩上がりを続けた。なんとまあ、今日びファミリーレストランのメニューに「フォー」の文字も見つかる時代です。
そんな折り、ベトナムに旅をするとしましょう。たとえば早朝、地元の人気のフォー屋に入ってみる。すると、もの馴れた様子をしていても、いざ食べ始めれば、「あ、あなたジャパニーズ」。たちまち見破られること、うけあいである。
だって、食べかたがまるきり違う。ベトナム人ならレンゲで汁をすくい、ひとくち、ふたくち。次はおもむろに箸で麺を数本つまみ、レンゲのなかへ丁寧にまとめてのせ、そこにちぎったドクダミやミントの葉ものせて静かに口のなかへ送りこむ。ところが、わがジャパニーズならば「ズズー」と音も高らかに啜り込み、そりゃあにぎやかな食べっぷりだ。
いや、食べ方はそれぞれの流儀ですからね、好きなように食べればいいのです。しかし、レンゲにのせて静かに口に運ぶフォーと、ズズーと啜って食べるフォーとでは、まるきり味わいもおいしさも違う。レンゲと箸の役割だって、微妙に異なってくるのは当然のこと。
近くなったアジアは、まだまだ遠いのである。しかし、遠くにあると見えて、あっと驚くほどすぐ隣にいたりする。ゴム紐のように伸縮する近さ遠さの距離のなかには、それぞれの文化や歴史、暮らしの微細なありようがぎっしりと詰まっており、そんな濃密さに反応してしまえば、懲りもせず恋愛沙汰にどっぷり浸かる。
文庫化にあたって、快く解説を引き受けてくださった酒井順子さんに心から御礼を申し上げる。『アジア 恋愛話』さながら、勢いまかせの「うふふ」やら「えっへん」やらてんこもりのところを「食生活の記録であり、旅行記であり、さらには恋愛譚のようであり」と全体像に輪郭を与えてくださった。また、筑摩書房編集部、鶴見智佳子さんの手をわずらわせて、この一冊がかたちになった。ありがとうございました。
[#地付き](二〇〇四年七月)
平松洋子(ひらまつ・ようこ)
倉敷生まれ。東京女子大学文学部社会学科卒業。フードジャーナリスト、エッセイスト。日本国内はもとより、アジアをはじめとする各国で、人々の暮らしぶりに直に触れながら、食文化と暮らしのかかわりをテーマに精力的に執筆活動を行なっている。著書に『おいしいごはんのためならば』『平松洋子の台所』『買物71番勝負』など多数。二〇〇六年『買えない味』でBunkamura ドゥ マゴ文学賞を受賞。
本作品は、一九九六年五月、晶文社より『アジアの美味しい道具たち』として刊行された後、二〇〇四年八月、ちくま文庫に収録された。