平岩弓枝
黒い扇
目 次
死体第一号
女流舞踊家
ホテルにて
東京の午後
暗い恋
秘密旅行
楓《かえで》の間の客
古代住居趾
花曇り
車の鍵
誤 解
アパートにて
誘蛾灯《ゆうがとう》
割烹《かつぽう》旅館
私の秘密
恋 人
夜のプールサイド
死体第四号
夜の境内
消えた写真
カップル
円山公園
毒の花
消える
脚 光
墓 地
死体第一号
廊下を慌《あわただ》しく走って行く足音で目が覚めたものだ。
浜八千代は枕《まくら》から頭だけ上げて隣を見た。消してあった筈《はず》のスタンドが点《つ》いている。
「なんだろうね……」
八千代が声をかける前に、腹這《はらば》いになって煙草を吸っていたらしい染子が低く呟《つぶや》いた。
「染ちゃん、ずっと起きてたの」
私は神経質だもんで、枕が代るとなかなか寝つけないんだ、と昨夜、床《とこ》に入る時くり返していた染子の言葉を思い出しながら、八千代はぐっすり眠り込んでいた自分が少しばかり気恥《きはず》かしい。
「それがね、可笑《おか》しいんだよ。お酒|呑《の》んで騒いだせいなのか、昨夜は全くの前後不覚、たった今、喉《のど》が乾いて目がさめて、水を呑んだついでに一服吸いつけたところなんだ」
成程《なるほど》、染子の枕元には宿屋特有の水差しの盆が置いてあって、ガラスのコップが濡《ぬ》れていた。八千代より二歳年下だから、漸《ようや》く二十二という若さなのに、夜具の中で煙草を吸うような自堕落《じだらく》な恰好《かつこう》が案外、身についているのは、十六の年齢からお座敷へ出たという芸者|稼業《かぎよう》の所為《せい》でもあろうか。それでも苦労をしている割合にすれっからした所がなく、善良でお人好しの彼女に、八千代は日本舞踊の同門という以上の安心感で交際《つきあ》っていた。
「久子さんは眠ってるの」
八千代は染子の布団越しにもう一つの布団を覗《のぞ》いた。
「さあ、どうだろう……」
染子が首をねじ向けたとたんに、くるりと寝返りをうって顔を見せた久子が、
「起きてます……」
やんわりと笑った。
「私も廊下の足音で眼がさめたんですよ」
そう言えば久子の布団が一番入口に近い。
十畳に三畳の脇《わき》部屋がついている。笹屋旅館ではまあ上の部の部屋であった。部屋割の時の予定では八千代と染子と二人きりの筈《はず》だったが、八千代が淋《さび》しいからと久子を誘ったものだ。
「本当に、なにかしらね。先刻《さつき》の足音……」
八千代は思い出したように四辺へ耳を澄ませたが、夜明け近い温泉宿はひっそりと鎮《しずま》り返って、僅《わず》かに遠く桂川《かつらがわ》の水音が聞えるだけだ。
「誰《だれ》か、病人でも出たんじゃありませんかしら……」
久子がそっと言いかけたとたん再び廊下に足音が乱れた。階段を転げるように下りて行くのと、まっしぐらに廊下を突き抜けて行くスリッパの音とが重なり合って、その一つが三人の部屋の前で止まった。
「ちょっと、久ちゃん、久子、起きてちょうだい……海東先生が……海東先生が大変なのよ。久子、久ちゃん……」
声は茜《あかね》ますみのものだった。
「お師匠《ししよう》さん……」
久子がとび起きて戸を開け、八千代と染子がそれに続いて戸口へ顔を並べた。
「どうなすったんです、お師匠さん」
茜ますみは浴衣《ゆかた》に丹前を重ねた伊達《だて》巻き姿だった。宿屋の殺風景な男物のどてらの上に締めたピンクの伊達締めが妙に色っぽい。
「あんた達……海東先生がね……」
茜ますみの唇は白っちゃけて頬《ほお》がひきつったように痙攣《けいれん》していた。
「お風呂《ふろ》の中で……死んでらっしゃるんだって……」
三人の娘は咄嗟《とつさ》に声が出なかった。
久子がべったりと廊下に膝《ひざ》を突いてしまった。
「死んでらっしゃるって……誰《だれ》がそんな」
辛うじて八千代は茜ますみを仰いだ。
「なんだか、よく解らないんだよ。今、宿屋の女中さんがそう言って来て……」
その時、廊下をあたふたと駆けて来た浴衣に細紐《ほそひも》一本という恰好《かつこう》が、
「お師匠さん、すぐ来て下さい。お医者さんが……」
茜ますみの内弟子の高山五郎である。つんつるてんの浴衣の裾《すそ》からはみ出した脛《すね》が鶏の足を八千代に連想させた。
あたふたと五郎に引っぱられて行く茜ますみの後姿を見送ってから、三人は誰《だれ》からともなく丹前を羽織り、廊下へ出た。
階段を一階へ下り、更にもう一段下りると家族風呂と書いた札が出ていて、ずらりと並んだ五つのすりガラスの戸が、それぞれ金文字で「バラの湯」「オレンジの湯」「椿《つばき》の湯」「白百合《しらゆり》の湯」「夢の湯」と描かれている。別にバラの花が浮かんでいるわけでもなく、オレンジの汁が湯になっているのでもないが、湯殿のタイルに各々《おのおの》の名にふさわしい絵が描かれ、湯の出口にバラやオレンジを型どった石がアクセサリーとして飾られているのだという事は、昨夜、三人で風呂に入る時に、やれ椿にしよう、白百合がいいと散々、ごて合ったからよく知っている。
「海東先生、どのお風呂ん中で死んでるの」
染子が素《す》っ頓狂《とんきよう》な声で言った。五つの湯殿はどれもひそとして人の気配もない。壁ぎわに影みたいに突っ立っている久子の膝《ひざ》がガクガク慄《ふる》えているのに気づくと、八千代も又、背筋からしきりと悪寒《おかん》が全身を走り出した。
頭上の廊下を走る足音は相変わらず騒々しい。地下のこの一角だけが不気味に落ち着き払っている感じだ。
不意に階段をばたばたと下りて来た人影が、おぼろな灯の下に立ちすくんでいる三人へ、
「きゃあ」
と鋭い悲鳴をあげた。
湯殿のすりガラスが一せいに金属的な反響をびりびり慄わす。
女中の叫び声で染子は八千代に獅噛《しが》みついた。
「女中さん、あの、海東先生は……人が死んでいるって言うのはどこのお風呂ですの」
久子が低い、静かすぎるような声で訊《たず》ねているのを八千代は幻覚の中の声のように聞いた。
「はあ、それは、あのう……」
女中は怯《おび》えた眼で三人をみつめ、それからこわばった苦笑を浮かべた。
「すみません。暗かったもんですから……」
「ああ、私達を幽霊とでも思ったの」
久子の落ち着いた調子は、やっぱり三十女のものだと八千代は急に気強くなった。
「冗談じゃない、藪《やぶ》から棒に悲鳴なんか、あげられちゃあ、こっちの方が驚くじゃないのさ」
染子は八千代の肩から手を放して女中をなじる。自分の醜態ぶりへのてれかくしでもあった。
「すみません、あの……人が死んでいるお風呂なら……ギリシャ風呂の方です」
「ギリシャ風呂……」
三人は再度、顔を見合わせた。
ギリシャ風呂というのは、この修善寺《しゆぜんじ》、笹屋旅館の名物というか売り物にしている巨大な風呂で直径三十メートルという楕円《だえん》形の、まるでプールみたいな浴場だった。真ん中に壺《つぼ》を持ったギリシャの少年の彫刻があって、その壺から湯が吹き出し、落下している。湯の表面は海のようなさざなみが立ち、浴室中はもうもうたる湯気で向い側が見えないというのも、宿の自慢だった。
この風呂は男女混浴なので、八千代達は昨夜、好奇心は充分にありながら、敬遠した。
長い冷たい廊下を女中に導かれて三人は新館の裏にあるギリシャ風呂へ急いだ。
が、これもプールの更衣室みたいな広い脱衣所へ入ってみると、ギリシャ風呂の中は既にかけつけた医師やら警官やら、宿の人々、関係者でごった返している。
「すみません、茜ますみの内弟子です。お師匠《ししよう》さんが内部に居りますので……」
久子が警官の許可を得て浴室へ入って行った後、八千代と染子は同宿の野次馬と一緒にうそ寒い脱衣室に突っ立っていた。
「心臓|麻痺《まひ》らしいぞ」
「いや、脳溢血《のういつけつ》だそうですよ」
「いいえねえ、酒を飲み過ぎて湯にとび込んだらしいんですよ」
無責任なざわめきがそこここにひそひそめいて、八千代は頭の芯《しん》がガンガン鳴り始めた。足が冷たいせいか、しきりに頬《ほお》がほてる。
一つだけ開いている窓のそばへ八千代はふらふらと歩み寄った。夜明けの風が頬に快い。窓枠に寄りかかるような恰好《かつこう》で何気なく脱衣棚を眺めて、ふと八千代は目を据えた。
棚の上にずらりと並んでいるからっぽの衣類|籠《かご》の一つに、骨も地紙も真黒な舞い扇が半開きの儘《まま》、しんとうずくまっている。
伊豆修善寺の温泉宿、笹屋旅館のギリシャ風呂で発見された海東英次の死体は、報らせによって駆《は》せつけて来た所轄署の警察が一緒に連れて来た嘱託警察医によって検視された。
その結果、死因は飲酒後入浴による心臓|麻痺《まひ》と断定し、所轄署では死体を遺族に引き渡す事を許可した。
棺《ひつぎ》に収容された海東英次の死体が、土地のハイヤーで東京に運ばれた日の夕刊は各紙共、第三面のトップにかなりなスペースをさいて邦楽作曲家、海東英次の死を報じた。
その概要は大体、次のようなものである。
邦楽作曲家として新作長唄に功労のある海東英次(56)氏は、昭和三十四年十二月六日、日本舞踊茜流家元、茜ますみとその一門が主催する忘年会に参加し、伊豆修善寺、笹屋旅館に投宿中、浴場内において心臓麻痺のため、急死。
なお、海東氏は昨年秋より妻、咲子さん(51)と別居中のため、とりあえず遺骸《いがい》は渋谷区上通り××番地、茜ますみ舞踊研究所に安置された。葬儀の日取りは未定。
海東英次の葬儀は三日後の十二月九日、青山葬儀場で取り行われた。
若い時分には邦楽解放を叫んで流儀をとび出し、本名で押し通して来た長唄界の異端児だったが、数々の新作長唄の発表と旺盛《おうせい》な政治力で傘下《さんか》に集まる門下生の数も多く、五年前からは邦楽組合の理事に迎えられてもいた。したがって葬儀は盛大で焼香者も邦楽邦舞界の主だった者が顔を揃《そろ》え、葬儀場を飾った花輪も少なくなかった。
喪主席には咲子未亡人が蒼白《あおじろ》くとがった頬《ほお》を固くして、ひっそりとうなだれている他は縁者らしい人もなく、少し離れて焼香者に挨拶《あいさつ》している喪服姿の茜ますみの長身が、ひどく印象的だった。黒の似合う女なのであろう。着物も帯も草履《ぞうり》も黒一色の全身が曇り陽の陰惨な葬儀場の中で、黒い花のようにあでやかだった。香の匂《にお》いの間で茜ますみの周辺だけが華やかに浮き上がっている。
自分の主催した忘年会での突発事故だけに如何にも責任を感じているといった風な、殊勝な態度なのだが、それにもかかわらず葬儀という場所に不似合いな存在に見えるのは、彼女の生来の勝ち気さと派手さが喪服の下から滲《にじ》み出るせいかも知れなかった。
「本当にとんだ事でございましたね……」
「あんまり急な事で、さぞ……」
焼香者の間から洩《も》れる私語は、なんとなく咲子未亡人と茜ますみとを好奇の眼で見くらべていた。黒枠の中におさまっている仏の写真は屈託のない笑顔である事も見ようによっては皮肉だった。海東英次が生前、咲子夫人と別居した原因と噂《うわさ》されているのが、他ならぬ茜ますみであったからだ。
銀座東七丁目にある料亭「浜の家」は東京でも一応、名の通った割烹《かつぽう》店である。この店の魚料理には定評があり、冬は河豚《ふぐ》を表看板にしている。
家族専用の裏玄関を入った所で、出迎えた女中のきよに塩を軽くふってもらって、浜八千代はそそくさと草履《ぞうり》を脱いだ。その沓脱《くつぬぎ》に見馴《みな》れた皮緒の男草履が一足。
「あら、音羽屋の小父《おじ》さん、来てるの」
「はあ、ほんの今しがた。お茶の間です」
答えた女中の顔がなんとなく笑っている。八千代は片眼をつぶって見せた。
「歌舞伎座《かぶきざ》は確か三日が初日だったわね」
「はい」
きよは視線を廊下へ落とす。
「音羽屋の小父さんは今月の忠臣蔵の通し狂言で、持ち役は師直《もろなお》と道行の勘平《かんぺい》と、夜は五段目で切腹する迄《まで》、体は空かない筈《はず》でしょう」
八千代は勝ち誇ったように茶の間の白い障子を眺めた。意識した声の高さは、その閉った障子の向こうに坐《すわ》っている人間に聞かせる心算《つもり》である。
「ええと、今の時間は、ちょうど三時が四十分過ぎ。音羽屋の小父さんなら真っ白にお化粧して、延寿太夫の美声でいい御機嫌《ごきげん》のお軽《かる》勘平道行を踊ってる時間じゃないの。男の花道≠フ劇中劇じゃあるまいし、舞台最中に当代随一の人気俳優、尾上勘喜郎が浜の家へかけつけてくる理由がないわね」
「いけませんよ。うちのお嬢さんはお頭《つむ》が特別あつらえなんですからね。音羽屋の坊ちゃん、いい加減にお顔を出して下さいまし」
きよは塩壺《しおつぼ》を抱えた儘《まま》、障子の向こうへ捨て台詞《ぜりふ》を残して台所へ逃げこんでしまった。
それでも障子の内はふん切り悪く静まりかえっている。
「思い切りの悪い人ね。とっとと正体を見せたらどうなの」
さらりと障子を開けて八千代は当てがはずれた顔になった。朱《あか》い絞りの布団をかけた炬燵《こたつ》の上に週刊誌が一冊、拡げたなりに置いてあるが茶の間には人の気配もない。
「あら……」
ふっと戸惑って立ちすくんでいる八千代の頭上から、
「お帰りなさい。浜の家の女流探偵どの」
さわやかに声が笑って、守宮《やもり》みたいに鴨居《かもい》へはりついていた五尺六寸、十五貫が音もなく畳へとび下りた。埃《ほこり》も立たない、猿のような身ごなしである。
「海東先生の告別式の模様はどうだったのさ。ぽかんとしてないで、まあお坐《すわ》りよ。外は寒かっただろう……」
|能条 寛《のうじようひろし》は、男にしては端麗すぎる横顔を八千代へ向けて、紬《つむぎ》の羽織の裾《すそ》を軽くはねると我が家のような気楽さで、さっさと炬燵《こたつ》へ足を入れた。
狭い庭をへだてた調理場の辺りでにぎやかな笑い声が聞こえる。銀座の料理屋はそろそろ客のたてこんでくる時刻なのだろう。
八千代はガラス戸越しにちらと調理場の方を眺め、それから茶の間へ入って障子を閉めた。
古風な桑《くわ》の長火鉢の前へすわって新しく茶の仕度を始める。
「いつ、京都から帰って来たの」
上眼づかいに能条寛の横顔を見た。
「たった今、羽田から真っ直ぐに浜の家へ御到着さ」
「暮だから撮影は追い込みなんでしょう。よく、東京へ舞い戻る暇があったわね」
「ふん、相手役の女優さん待ちでね、今日一ん日だけ空いたんだよ。今夜、又、飛行機で帰るんだ。羽田発八時二十分さ」
寛は小鼻をくしゃくしゃにして微笑した。
「そんな無理して……海東先生のお焼香に来る心算《つもり》だったのね」
今でこそT・S映画の若手人気俳優だが、生まれはれっきとした梨園《りえん》の御曹子《おんぞうし》、つまり東京の歌舞伎《かぶき》では当代一の荒事《あらごと》の名人と言われている尾上勘喜郎の次男なのだから邦楽畑とは縁も深い筈《はず》だ。能条寛は灰皿へ手を伸ばしながら八千代を眺めた。
「どうして俺《おれ》が海東なんかの葬式に出なきゃならないのさ。俺《おれ》の三味線の師匠《ししよう》というじゃなし……そうだなあ親父《おやじ》はとにかく俺は彼と直接、逢《あ》った事もないんだぜ」
「あら、寛は海東先生と面識はないの」
「残念ながら一度も……だって彼は歌舞伎の舞台で三味線弾いてるわけでもないし、いわば邦楽界を足蹴《あしげ》にし、妙てけれんな新曲ばかし作った奴《やつ》だもの、やっちゃんみたいな新しがりの舞踊家さん達ならいざ知らず、俺には有難くも、忝《かたじ》けなくもない存在だからねえ」
「どうせ、そうでしょうよ。封建的な歌舞伎《かぶき》の世界でお育ちになった方に、海東先生の新しさが御理解出来る筈《はず》はありませんものね」
自分のにだけ茶を注いだ湯呑を両掌《りようて》に包んで八千代はつんとそっぽを向いて又、言った。
「じゃ、どうして飛行機なんかでとんで帰って来たの」
「逢《あ》いたくなったからさ」
「誰《だれ》に……」
「炬燵《こたつ》の向こう側でツンケンしているお嬢さんのお顔を拝見しようと存じまして……」
「寛……」
八千代は下唇を存分に突き出した。
「そういう事は貴方《あなた》の後援会で、きゃあきゃあ騒いでる女の子に向かって言うものよ。お門違いでしょう……」
「実はね……」
寛は煙草をもみ消して、ふっと真顔になった。
「どうしても君に直接、聞いてみたい事があったんだよ」
聞いてみたい事がある、と寛が言ったとたんに八千代の顔に或《あ》る種の変化が起こった。彼女は無意識に笑い出し、慌《あわ》てたように口早やな喋《しやべ》り方をはじめた。
「なによ、今更、怖《こわ》い顔なんかして……それよか八千代も貴方に重要な話があったのよ。実はね、今、告別式を済ませて来た海東先生の一件なんだけど……」
「修善寺で酒飲んで、風呂ん中で心臓|麻痺《まひ》の話かい。そんなら京都で新聞を五、六枚も読んだから、とうの昔に御存知さ……」
「まるっきり興味ないの」
「ああ」
「本当にないのね」
「やけに拘《こだわ》るじゃないか、どうしたのさ」
寛は発車寸前、交通信号が赤に変わった時のタクシーの運転手みたいな不機嫌さで言った。
「いいわよ。聞きたくないもの、お聞かせは致しません」
「又、怒る。悪い癖だよ。なんかって言うとすぐプンプクリンのプン。たまに逢《あ》っても話がまるで進みゃあしない」
「だって、寛が意地悪ばっかり言うんだもの」
「まあ、いいよ。お話しよ。聞くからさ」
譲歩は毎度の事である。寛は止むを得ず新しい煙草に手を伸ばした。すかさず八千代がぱっとライターを点《つ》ける。御機嫌が治った証拠だ。
「新聞で読んだのなら、詳しい事は省《はぶ》くわ。寛の記憶にある海東先生急死の事件の注釈だと思って聞いてちょうだい」
八千代は急須《きゆうす》に湯を注ぎ、寛の前の客|茶碗《ぢやわん》を取り上げた。
「笑っちゃあ駄目よ。私は海東先生の死因がね、ただお酒のんでお風呂《ふろ》へ入って心臓ショックで死んだだけじゃないような気がするのよ。なんだか、もう一つ奥があるように思えてならないんだけど……」
寛は口許にあいまいな微笑を噛《か》みしめた。
「すると、やっちゃんは海東英次の死が突発的な自然死によるものじゃない、と言うのかい」
「そうなのよ」
「そう考える理由があるのかい。なにか証拠になるような物とか、死の前の海東氏の言動とか……」
「なんにもないのよ」
八千代は大|真面目《まじめ》で首をふった。
「私の勘なのよ。勘だけなんで困ってるんだ」
「勘ねえ……」
煙草の煙と一緒に笑いを吐き出して、寛は頭に手をやった。
「笑うんなら、お笑いなさいよ。八千代には絶対、自信があるんだ。海東英次先生は殺された。あれは誰《だれ》かの、或《あ》る手段による過失死と見せかけた他殺なのよ。私、その鍵《かぎ》を握っているの」
結局、能条寛は夕飯を「浜の家」の茶の間で済ませ、その儘《まま》、八千代に送られて羽田へ向かう事になった。
「とうとう、青山のお家はお見限りね」
タクシーが動き出すと八千代は夜の町へ視線を投げて呟《つぶや》いた。
「折角、忙しい思いをして東京へ戻っていらしたのに、歌舞伎《かぶき》座のお父様の楽屋にも、青山の御自宅にもお顔を見せないなんて、若旦那も案外親不孝者なんですね」
と、浜の家の玄関を出がけに、母親が笑った言葉の反芻《はんすう》の心算《つもり》である。
「なあに、親孝行は兄貴夫婦におまかせさ。次男坊ってのは、その点、気軽なもんだ」
それでも東京タワーの赤い灯に、なつかし気な眼を向けてから寛は懐中に手を入れた。細長い袱紗《ふくさ》包を取り出して膝《ひざ》の上で拡げた。扇子袋である。八千代が帯地の残りで作ったらしいその袋の紐《ひも》を解く。骨も地紙も黒一色の扇子であった。
「今更、この扇から指紋も取れないだろうしな。やっちゃんの推理は、ちょっとばかりおぼつかない気がするよ」
なにか言いかける八千代を制して、寛は苦笑した。
「そりゃあ、海東先生の死体が浮んだ風呂《ふろ》場の脱衣棚に、こんな真黒な扇があったという情景は、確かに意味あり気だし、ドラマティックに違いない。やっちゃんみたいな推理狂には殊更、刺激的な材料さ。まあ、いいよ。けど、世の中ってもんは映画の筋書みたいなわけには行かないし……偶然って事もある……」
「でも、寛、だから、私はこのお扇子を最初はそんなに意味深長には考えなかったわ。踊りの会員の忘年会ですもの。あの日は夕食前に軽い温習《おさらい》会みたいな事をして、小唄《こうた》振りばかりだけれど、茜流の弟子はみんな一通り踊らされたのよ。だから扇を持って行くのは当り前でしょ。はじめは誰《だれ》かが忘れてったのだと思って一人一人に訊《き》いてみたの。でも持ち主はなかったわ。勿論《もちろん》、笹屋旅館でも一応はその晩の泊まり客に訊いてくれた筈《はず》よ。該当《がいとう》者はやっぱりなかったのよ」
「それで君、猫ババして来たのかい」
「人聞きの悪いこと言わないでよ。帰りの汽車の中でもう一度、うちのお弟子さん連に尋ねてみる心算《つもり》だったんだわ。けど、考えれば考える程、妙な気持になってね。だって骨も地紙も真黒けなんて扇子、私、まだ見た事がなかったわ。無地の扇はあるけど、黒一色なんて、そんな不吉な感じの扇を踊りに使う筈《はず》ないでしょう」
「そりゃそうだ。まさか芝居の黒子《くろこ》が扇に化けたわけじゃあるまい」
さばさばと笑った寛の、見かけよりはかなり厚い肩を八千代はいやという程ひっぱたいた。
能条寛と浜八千代を乗せたタクシーは品川を過ぎ、鈴ヶ森刑場跡辺りを走っていた。昼間なら道の脇《わき》に「一切業障海皆従妄想生」と刻んだドクロ塚が見える筈だが、暗い路上では見当もつけにくい。
「鈴ヶ森といえば、今月の歌舞伎《かぶき》座で音羽屋の小父さん、長兵衛を演《や》っているんじゃないの」
八千代は車の窓から黒い木蔭を鈴ケ森跡と見て呟《つぶや》いた。
「身は住みなれし隅田川、流れ渡りの気散じは、江戸で名高けェ花川戸、藪《やぶ》うぐいすの京育ち、吉原|雀《すずめ》を羽がいにつけ、江戸で男と立てられた男の中の男一|疋《ぴき》、幡随院《ばんずいいん》の長兵衛という、ケチな野郎でごぜェやす、か、親父、今頃《いまごろ》いい御機嫌で演《や》ってるぜ」
「なによ、見もしないくせに……」
八千代は、芝居の「鈴ヶ森」の幡随院長兵衛の有名な台詞《せりふ》をすらすらっと口に出した能条寛の横顔をそっと盗み見た。やっぱりお玉じゃくしは蛙《かえる》の子だと思う。
「おとなしく歌舞伎の世界におさまってりゃあ、今頃は音羽屋の御曹子《おんぞうし》で、鈴ヶ森の芝居なら親子で長兵衛、権八《ごんぱち》を演れるのに、寛も物好きな人ね」
実際、伝統とか家柄とかを重んじる歌舞伎《かぶき》の社会では、音羽屋という由緒《ゆいしよ》ある俳優の家に次男坊として生まれながら、K大学の経済学部に入学したのはまだしも、新聞記者を志し、剣道と乗馬に凝って地上であばれているのに飽き足らず、遂にグライダー部へ入って学部三年の時にはA新聞主催の全日本滑空選手権大会に出場して上級滑空部門に優勝した。当時の新聞に梨園《りえん》の御曹子、空を飛ぶ≠ネどと大きく騒がれもした能条寛は一種の異端児扱いをされている。それが縁で、在学中にT・S映画で製作したグライダーの選手を主人公とした活劇ドラマに主演としてスカウトされ、一躍、現代劇にも時代劇にも向くマスクと天性の演技力で、若手映画俳優ナンバーワンにのし上がってしまった。
「おかげでさ、K大は卒業しそこねたし、ジャーナリストにもなりそびれちまって……」
と当人は苦笑するのだが、それでも芸能界の水が肌に合うのか、結構、今の仕事をエンジョイしている風に見える。
彼の母親と浜八千代の母の時江とが清元の稽古《けいこ》友達で、姉妹のような親しさだったから、音羽屋一家と「浜の家」とは歌舞伎《かぶき》俳優と料亭というつながりだけではなく、むしろ親類のような交際が昔から続いている。寛と八千代はいわば幼な馴染《なじみ》であった。年齢は寛の方が一つ上の二十五歳。だから、なにかにつけて寛が兄貴ぶる。それがまた、勝気な八千代には癪《しやく》にさわってたまらないらしい。
「年上だ、年長者だって二言目にはふりまわすけど、本当はたった十一か月先に生まれただけの事じゃないの」
と言う八千代は三月生れ、寛は四月一日、つまり現代風に言うとエイプリルフール(四月馬鹿)が誕生日なのである。
羽田空港入口の検問所の手前には、しゃれた航空会社や電気会社のネオンが鮮やかに浮き上がって見えた。
ターミナルビルへ続く長い道路には海から吹いてくる風が潮の香を漂わせている。
夜の飛行場は宝石箱をひっくり返したように、カバ色、水色、赤などのライトが点々と散らばっていた。
八千代は此処《ここ》の夜景が好きだった。寛を送って来たのも、それを眺める魅力からだと、彼女自身は思っている。
タクシーの止まった所で、寛は白い大きなマスクをかけた。
「夜だから、大抵、大丈夫だけれどね」
人気稼業とは言っても無鉄砲なファンと事あれかしなマスコミの眼はなるべく避けたいのが人情だし、若い女性の見送りというのも見る人が見ればゴシップの好材料である。
「フィンガーまで見送るつもりだったけど、ここから帰るわ。どうせ、飛行機はあっという間のお別れだし、一つもロマンティックじゃあないから……」
八千代はさばさばと笑って言った。彼の立場に対する遠慮でもある。
「寒い時だから、身体に気をつけて、あんまり無理をしないでね。撮影が済んだら大阪なんかで遊んでないで、今度こそ親孝行に早くお帰り遊ばせ」
「ああ、クリスマスまでにはなんとか帰れると思うんだ。じゃ、これ、あずかっとくぜ」
膝《ひざ》の上の扇子《せんす》袋を懐中におさめ、寛はゆっくりとタクシーから下りた。荷物嫌いだから、無論、週刊誌一冊持つわけではない。
「じゃあ、君も気をつけてお帰り……」
軽く手を上げてロビーへ入って行く角|外套《がいとう》の後姿を八千代はタクシーのガラス窓から眺めた。多少、意識しているらしい背が淋《さび》しげである。
「青山の家へ帰らなかった事を、後悔してるのかしら……」
一日きりの休暇で東京へ戻って来ながら、両親に顔を見せなかったという彼の行動にはなんとなく責任の分け前を感じて、八千代は気が重くなった。
その時、八千代の乗っているタクシーの前方に、新しい高級車がすべり込んで来た。
「あら……」
うやうやしく運転手が開けたドアから和服の裾《すそ》さばきも鮮やかに下り立った長身の女性の、豪華なミンクのコートに見憶《みおぼ》えがあった。続いてでっぷりした紳士が悠々とロビーへ消えた。
(ますみ先生と、あれは確か大東銀行の頭取の岩谷とかいうんだわ……)
寄り添ってロビーに入って行った男女の姿が、若い八千代には不快だった。
(海東先生の告別式の済んだ夜だというのに)
茜ますみと歿《な》くなった海東英次との仲が人の噂《うわさ》だけでないのを、八千代は知っている。
再びタクシーに揺られて空港の検問所を出た時、八千代はふと昼間、能条寛が、
「是非、君に直接、聞きたい事がある……」
と言ったのを思い出した。その彼は既に機上の人である。八千代はクッションにもたれて遠ざかる空港の灯をみつめた。
女流舞踊家
国電新橋駅前から小岩行のバスに乗って、久松町で降りると右手に明治座の建物が冬の陽を吸っていた。歌舞伎《かぶき》座、新橋演舞場などと並んで東京では歌舞伎のかかる大劇場の一つであるが、今月は新派が出演しているらしく劇場前に立てられた幟旗《のぼりばた》に人気俳優の名前がずらりと並んでいた。数年前に一度、火災に遇《あ》っているから建物の歴史はまだ新しい。
浜八千代はクリーム色のショールにあごを埋めて、明治座の筋向いの路地を左折した。花柳界をひかえているせいもあって軒並に粋な造りが多い。
二つばかり横丁を曲がって、八千代は「ロメオ」と看板の出ている喫茶店のドアを押した。まだ昼過ぎだというのに黒いレースのカーテンを下した店内はひどく暗い。もっとも、どうせ一日中日の当たらない路地の奥の店だから、カーテンがなければ一層、貧乏臭く見えるのかも知れない。
「やっちゃん、ここよ」
角のテーブルから染子が待ちかねたように手をふった。大袈裟《おおげさ》な声のかけ方をしなくても店の客は彼女一人なのである。八千代はショールを肩からずらして染子の方へ坐《すわ》った。
「わりかし、早かったじゃないの」
運ばれたばかりらしいコーヒーに砂糖を入れながら染子はカウンターの中の店の女の子に顎《あご》をしゃくった。一ぺんに二つも三つもの行動を起こすのは染子の癖である。
「せっかちなもんでさ……」
八千代に指摘されると気まり悪げに首を縮めるが、三味線を弾きながらラジオを聞いたり、電話をかけながら支那ソバを食べるという芸当を相変わらずやってのける。
水を入れたコップをのそのそと持って来た女の子に、
「ちょっと、ちょっと、この人にも早くなんか……」
八千代は笑いながら染子の言葉を引取った。
「ミルク、ちょうだい。熱くしてね」
女の子がカウンターへ戻って行くと染子はついと顔を寄せて来た。
「やっちゃん、聞いた?」
「聞いたって、なにを……」
「海東先生の奥さん」
染子は深刻な表情でコーヒーに唇をつけた。
「歿《な》くなった海東先生の奥様が、どうかなすったの……」
つい、一週間ばかり前の海東英次の告別式で見た、海東未亡人の痩《や》せとがった頬《ほお》を思い出しながら八千代は染子をうながした。
「私ねえ、昨夜、お座敷で聞いたんだけど、海東先生の奥さんったら、修善寺のことをね、あれは心臓|麻痺《まひ》なんかで死んだんじゃあない。海東英次は殺されたんだって……」
染子は慌《あわ》てたように店内を見回した。
花柳界のど真ん中にある喫茶店などというものは、もともと日中からアベック客が押しかけるというものでもないし、商談や用談に利用する客も稀《まれ》である。結局、すぐ近くの検番で催し物の打ち合せや、寄り合いなどがあった場合にコーヒーや紅茶の出前を頼まれる位が関の山だ。第一、芸者衆の大半はお客や恋人と外出する時でもなければ、自分からコーヒーを飲む事は、まあ無い。若い妓《こ》なら稽古《けいこ》が済んで一休みとなれば、一杯五十円のコーヒー代を払うより、ラーメン、なべ焼うどんでもと考えるし、それより年配の姉さん芸者となると、おしるこ屋の方が日本茶も飲めるし落付くしという事になるのだそうだ。
だから、このロメオ喫茶店にしても、
「久松町にあってロメオなんて洒落《しやれ》てるじゃないの、お染久松、ロメオとジュリエット。東西の悲恋物語の男性の名前が、町名と店名で顔を揃《そろ》えてるんでさあ」
と文学芸者という仇名《あだな》にふさわしい意見をふり回して、せっせと通ってくる染子ぐらいが常客で、外にこれという馴染《なじみ》もないらしい。
窓の外を焼芋《やきいも》屋の車が、小石をふみにじって通りすぎると店内は、又、ひっそり閑《かん》となった。
「あのねえ、レコードかけてよ、ん、なんでもいいわよ。どうせ南国土佐か、黄色いサクランボぐらいしかないんだもんね」
ミルクを運んで来た女の子に、染子はずけずけと言いつけた。話の内容が内容なので、せめてすり切れたレコードの音で、他人の耳をくらまそうという了見である。
「染ちゃん、今の話、どこから聞いたか知らないけど、海東先生の奥さんは本気でそんな事、考えてるのかしら」
「考えてるどころか、堂々と言いふらしてるのよ。長い事、別居してて、あげくにぽっくり死なれたんで、とうとう頭に来ちまったんだね」
染子はレコードの高い音に合せて、笑った。
「およしなさいよ、そんな言い方……。だけど海東先生が殺されたって……奥さんは一体、誰《だれ》が海東先生を殺したって言ってるの」
「きまってるじゃないの。彼女がうらみ骨髄に達しているのは、亭主を寝取った……」
染子はペロリと舌を出した。そういう表現に八千代が極端な程、潔癖なのを知っていて、つい言ってみたくなる染子であった。分別でも教養でも育ちでも敵しようがない八千代に対して、年は下でも色恋に関する限りは自分の方が先輩だという、染子の優越感と劣等感が裏表になっている感情が、わざとあけすけな言い方をさせるのかも知れなかった。
「海東先生の奥さんはね、亭主を殺したのは茜《あかね》ますみという悪女の仕業だって言って歩いてるそうよ」
袂《たもと》の中からシガレットケースを取り出しながら染子は正面から八千代を見て言い直した。
赤い格子《こうし》模様の女持のシガレットケースから抜いた一本を唇にくわえて染子はライターをすったが火が点《つ》かなかった。八千代は無意識にテーブルの上のマッチを取ると染子の煙草へ炎を近づけてやった。
「ありがと……」
白い煙を吐いて軽く首を下げた染子の姿に、ふと八千代は能条寛を想い出した。いつだったか彼の煙草へマッチを点けてやってひどく叱《しか》りつけられた事を、である。
「そんな事、するもんじゃない」
彼はそっけなく言うと、いきなり八千代の手から燃えているマッチの軸をつまみ取って灰皿の中へ捨てた。別に改めて自分で火を点けながら、
「君は誰《だれ》にでもそんなことをするのか」
苦い顔をして八千代に訊《き》いた。その詰問するような調子が不快で、
「いいじゃないの、誰にしたって……」
どうせ料理屋の娘だもの、と言いかけて、
「馬鹿、料理屋の娘が商売女の真似をしていいってのか」
寛は物凄《ものすご》い剣幕でどなった。
(失礼しちゃうわ、人が折角、親切でしてあげたのにさ……)
そのくせ、八千代は灰皿へ捨てたマッチの炎を眺めて、なんとなく京都の空が懐かしい。
「なにをぼやんとしてるのさ」
染子に言われて、八千代は我にもなく頬《ほお》を染めた。
「だけど、染ちゃん、いくら海東先生の奥さんがうちの先生を怨《うら》んでるからって、それを海東先生の死因に結びつけるなんて……海東先生がお歿《な》くなりになった原因はちゃんとお医者様が立合って、狭心発作、つまり心臓|麻痺《まひ》だっておっしゃったじゃないの。ますみ先生が殺人犯の筈《はず》がないわ……」
第一、生前の海東英次と茜ますみがかくれた恋人というより、世間でも半公認の愛人同士だった事は邦舞関係に首を突っ込んでいる人間なら誰《だれ》でも心得ている事実であった。
茜流の慰安旅行に海東英次が参加して修善寺へ行ったのも表向きは、いつも作曲の事でお世話になるので、という理由がついてはいるものの、彼が茜ますみと同じ部屋へ泊まったとしても門下生の誰もが別に不思議とは思わなかったに違いない。実際には、それでも若い女性ばかりの同行者に対する気がねからか、茜ますみと海東英次とは一応、隣合せに別々の部屋を取った。が、無論それは形だけの事に過ぎない筈だ。
「海東先生の奥さんだって、なにもますみ先生が毒薬かピストルを使って殺したんだとは言ってないわよ。ただ茜ますみが海東を修善寺くんだりまで誘い出して、酒を飲ませてお風呂へ入れなけりゃあんな事にはならなかった、だから、手は下さずとも犯人同然だっていうのよ。それはまあ女の怨《うら》みが言わせるんだから仕方がないけど、噂《うわさ》はそれだけじゃないんでねえ……」
染子は冷えたコーヒーに眉《まゆ》をしかめた。
「噂ってどんな……?」
八千代は相手の眼の奥を覗《のぞ》くようにして言った。
「茜流の弟子としては聞きづらい話なんだけど、原因はうちの師匠《ししよう》、つまり茜ますみの身持の悪さにあるんでね」
八千代はうなずいた。それだけでなんとなく噂≠フ内容が解るような気もする。
茜流の家元、茜ますみは今日でこそ女流舞踊家として五本の指に数えられる程の地位と名声を保っているが、十年前までは先代茜流家元、茜よしみの内弟子の一人に過ぎなかった。その彼女が実子のない茜よしみに気に入られて養女となり、遂にはよしみを隠居させて二代目茜流家元を継ぐようになったのは芸の素質というより、一にも二にもその才気と美貌《びぼう》とを駆使して、茜流の後援者を籠絡《ろうらく》した結果だと言われている。殊に師匠に当たる茜よしみを表向きは隠居とは言いながら、むしろ強引に家元の地位から退け、現役から追い払ってしまったかげには、茜よしみのパトロンを奪ったという風説が専《もつぱ》らだった。
しかも、三十六歳という女盛りを独身で押し通している茜ますみの恋愛遍歴は公けになったものだけでも既に数名の有名人があり、彼女の歩く所はいつも華やかな、艶《つや》っぽいゴシップが捲《ま》き起こっているかの感があった。
「その噂《うわさ》を、そのまんま鵜呑《うの》みにして言うとね。茜ますみは海東英次に飽きた。新しい恋人が出来たから彼が邪魔になっていた。だから……」
「温泉宿へ連れて行って、お酒を呑ませてお湯に入れて殺したっていうの」
「まあね、ちょっと穿《うが》った噂でね。海東先生と深い関係にあった茜ますみ先生だから海東先生が心臓を悪くしていたことも知っているし、純情な八千代ちゃんの前じゃ言いにくいけど、お酒に酔った海東先生を無理に勧めてお風呂《ふろ》へ入れる事が出来るのは茜ますみ先生以外にはない。ますみ先生があのグラマーぶりを発揮して一緒にお風呂へ入ろうって誘えば、男だったらつい、ふらふらと……」
「もういいわ。わかったわ」
八千代は眼を逸《そ》らして染子を制した。料理屋の娘の癖に箱入りに育てられたせいもあって、どうもそう言った男女間の話に八千代は弱い。自分が師事している立場の人の醜聞だけに一層、つらい気がするのだ。
「そう、つんつけしなさんな。なにもこんな噂、私がふりまいてるわけじゃなし、八千代ちゃんが海東先生に関する事で、どんな小さな事でも耳にしたら教えてくれって言うから話したげたんじゃないのさ。話がちょっと色恋の事になると、すぐ汚らしいって顔をする。やっちゃんの悪い癖だよ」
口で言う程には、毎度の事で染子は腹を立てていない。語尾は半分、笑いながら新しい煙草に今度は自分でマッチをすった。
「ねえ、やっちゃん、ますみ先生の新しい恋人って、誰《だれ》だと思う?」
染子はマッチをひねくりながら、再び声をひそめた。
「さあ……」
ちらと、いつぞや能条寛を羽田へ送って行った時にみた、茜ますみとその連れの男の姿が思い浮かんだが、八千代は曖昧《あいまい》に首をふった。腕時計をのぞいて、別に染子へ言った。
「そろそろ検番へ行かなくていいの、お稽古《けいこ》でしょう」
「いいのよ。今日はどうせ久子さんの代稽古だから少々遅れたって苦にならないのさ」
「久子さんの……」
八千代は怪訝《けげん》な眼になった。
「あら、ますみ先生、今日はお休みなの」
「そうよ。なんでものっぴきならない用事があって京都へお出かけになったんですってさ。こっちは久子さん、赤坂の方は五郎ちゃんが代りに稽古してるそうよ」
「ますみ先生、何日からお留守なの」
「さあ、知らない。それは聞かなかったけど……なぜよ」
「何日|頃《ごろ》、お帰りになるかな……?」
「知るもんですか」
八千代は沈黙した。しきりと羽田の夜の茜ますみが思われる。
「そんなに気になるんなら、一緒に検番へ来ない。久子さんに逢《あ》って直接、聞いたらいいよ。ね、そうおしな」
染子は煙草をもみ消すと八千代の返事を待たずに立ち上がった。さっさとカウンターへ行って勘定を払い、先に立ってせまいドアを押した。五尺三寸、十五貫というグラマー芸者だから小柄な八千代と並ぶと、ずっと姉さんじみる。服装の好みも年齢より渋い。かなりな近眼のくせに眼鏡を嫌って、どうしても仕方のない時以外は絶対にかけない。だから一人で外出するとトラックをバスと間違えたり、デパートで商品についている値札を一と桁《けた》間違えて恥をかいたりする。
「大体、非常識だわ、トカゲの皮のハンドバッグが、いくら大棚ざらいだからって、二千三百円の筈《はず》がないじゃないの。慌《あわ》て者ね」
八千代に笑われても、一向にそうした失敗は改まらない染子である。
検番の前の通りには、ずらりと黒い幌《ほろ》をかけた人力車が古風なままに並んでいる。
提灯《ちようちん》の下がっている格子戸《こうしど》を開けると、黒塗りの駒《こま》下駄やビニールの草履《ぞうり》が所狭しと、あがりかまちをふさいでいた。土間には石炭ストーブが勢いよく燃え、そこに立っている下足番は昔ながら半纏《はんてん》着だが、とっつきのカウンターに六、七台も揃《そろ》えてある検番用電話の前に坐《すわ》っている女の子は全部、まるでデパートの店員みたいなグリーンのユニホームを着ていて、背後の壁に芸者名を書いた木札が並んでいなければ、ちょっとした問屋の事務室めいた錯覚さえ起こさせる。
まだ商売の時間には間があるというのに、ひっきりなしに鳴る電話の殆《ほと》んど、この花街の有名料亭からのものらしい。
「お早ようございます。どうも遅くなりまして……」
染子が甲高《かんだか》い声で挨拶《あいさつ》する後から、八千代もそっと草履を脱いだ。
花街や芸界での挨拶は午後でも夜でも「お早よう」と威勢がいい。それが習慣だとはよく知っている八千代だが、彼女の内部にある近代性がちょいとばかり邪魔をして、つい、すらすらと「お早よう」が口に出ない。午下《ひるさが》りの時刻に「お早よう」でもあるまいと、かすかな反抗が心のどこかにあるせいである。
舞台のある二階からは、派手な「越後獅子《えちごじし》」の長唄《ながうた》が流れてくる。
「牡丹《ぼたん》は持たねど、越後の獅子は、か、やってる、やってる……」
染子は口三味線の拍子を取りながらどたどたと階段を上がった。途中の踊り場ですれ違った若い妓《こ》が、
「あら、お姐《ねえ》さん、今日は遅いんですね」
機嫌よさそうな染子へ笑いかけた。それに、くすんと小鼻を皺《しわ》ませて、染子はまだ階段の下にいる八千代へ早く上がって来いと顎《あご》をしゃくった。
稽古《けいこ》場に坐《すわ》っているのは、もう六、七人であった。いつものこの時間ならまだたっぷり十人以上がつめかけて順番を待っている。
茜流は先代の家元、茜よしみの代からこの花街へ、藤間流、坂東流と並んで稽古に入ることになった。日本舞踊の社会では一流の花街へ稽古に入るということは非常な幸運であった。日本の芸界の背景に花柳界が隠然たる勢力を持っているのは周知の事実だし、その花柳界へ芸者の稽古をつけに出入りしていれば花柳界主催で年に数回、行われる舞踊温習会には古典舞踊発表と一緒に新作の振付を担当する。花柳の温習会とは言っても大劇場を三、四日もしくは数週間も借り切って大がかりな興行をやる昨今では、自然、新聞や週刊誌も取りあげようし、都会人の話題にもなる。従って振付師として舞踊家の名を売る絶好の機会をあたえられるわけだ。
もう一つ、花柳界へ稽古《けいこ》に入っていれば、自分の主催するリサイタルや温習会に、そこの芸者衆を出演させる事が出来る。これは経済的にも非常に有利だった。
月に平均十日はある花柳界の稽古日に、他流の家元は大抵、古参の内弟子を代稽古に寄こしているが、茜ますみは余程の差し支えがない限り自分自身で稽古に顔を出した。勿論、数名の内弟子は連れて来ている。そうした熱心さと、新舞踊的なモダンな感覚を売り物にする彼女の作戦が図に当たって、この花柳界における茜流の評判はすこぶるよかった。弟子も多くかなりな数の名取りも作っている。
ここ二、三年、大きな発表会での茜ますみの担当した新作物が圧倒的に好評だった事も、花柳の幹部連中にうけがいい理由だった。
「やっぱり、ますみ先生のお稽古じゃないもんで、みんなサボっちまったのかねえ」
部屋の隅で足袋《たび》をはき代えながら、染子は人数のまばらな舞台前を横目で見た。
「そうじゃないんですよ、染子|姐《ねえ》さん」
稽古《けいこ》扇を帯にはさんで帰り仕度をしていた八重千代という芸者が真顔で染子に言った。
「そうじゃないって、そんならどうなのよ」
「久子先生のお稽古はお家元と違って、すごく合理的って言うのかしら、なにしろテキパキしてるでしょう。同じ三回を繰り返して下さるにしても余分なものが少しも入らないから、いつものお稽古の半分の時間で片付いちゃうんですよ」
「ふーんだ。じゃあ、もう皆さんはお稽古が終わって帰っちゃったのかい」
「ええ。それに久子先生はお昼前からずっと舞台に立ちづめで、ちっともお休みにならないんですって、お茶はもちろん、お昼食も、まだ欲しくないっておっしゃって召し上がらないんですよ」
と、すっかり内弟子の久子に傾倒したらしい八重千代の言葉に、染子はなんとなく八千代と眼を見合わせた。
「相変わらず、久子さんはネツいからねえ」
八重千代が部屋から出て行ってしまうと、染子は低く呟《つぶや》いてちらっと舌を出した。
久子の稽古熱心というか、勝気さをむき出しにした芸への熱意は茜流の同門の中でも有名なものだった。
大体、久子と八千代と染子とは同じ時に名取りとなった同級の姉妹弟子なのだが、いわば踊りの師範免許ともいうべき名前を貰《もら》うまでの修業の歳月には各々《おのおの》にかなりな差があった。
染子はもともとが花街の置屋の娘だから、踊りの稽古《けいこ》はじめは六歳の六月六日からという芸界の慣習通り今日まで曲がりなりにも舞扇を手放さないで来たし、八千代の方はやはり一応は六歳から母の趣味で稽古をさせられていたものの女学校へ進学する辺りから中断して、大学の二年に自ら進んで再び稽古を始めるまでの長い空白がある。
久子は、二人とまるっきり異る道程で茜流の名を貰った。彼女が踊りの社会に足をふみ入れたのは二十三、四になってからである。修業の日数は三人の中で最も浅いその時間的な差を久子は執念にも似た努力で進めてしまった。
そんな位だから弟子に稽古をつけるのも親切で要領がいい。茜ますみも結構彼女を重宝にしている。少々陰気な感じがするのは三十娘特有のもので、人柄は穏やかだし、眼鼻立ちも十人なみな女である。
越後獅子《えちごじし》の華やかな曲が漸《ようや》く一段落ついた時、久子は始めて気がついたような眼を部屋の隅に向けた。
「染子さん、あら八千代さんもご一緒……」
稽古《けいこ》舞台を下りて来た久子の頬はほのかに朱《あか》みがさして、首筋は汗ばんでいた。
十二月の、部屋には火鉢が一つぽつんと片隅にあるだけである。
「ごめんなさい、遅く来ちゃって……」
染子は脱いだ方の足袋《たび》を赤と緑の染め分けになっている足袋ぶくろへ収めながら軽く会釈した。同輩ではあるが年長者だし、まして今日は師匠の代理というわけだから一応は礼を尽くそうという心がけである。
「どう致しまして、代稽古でごめんなさいね。ますみ先生がどうしてもお帰りになれないものですから……」
「先生、どちらへ御旅行なの」
すかさず染子が訊《き》いた。八千代の代理で尋ねた心算《つもり》である。こういうきっかけを捕らえるのは染子の方がずんとうまい。
「関西なんです」
「ああ、大阪のお稽古?」
「それもあるんですけど……」
大阪には茜流の支部がある。月に一度、ますみは飛行機で出張稽古に行っている筈《はず》だ。が、それなら東京の稽古日とかち合わないようにきちんとスケジュールが立てられている。大阪の稽古のために東京の稽古へ顔を出せないというのは理由にならない。
久子はなんということなしに踊り用の手拭《てぬぐい》を指に巻きつけたり、ほどいたりした。茜流の流儀の紋である「あげ羽の蝶《ちよう》」が白地に青で染めてある。今年の春、茜流のリサイタルの時に茜ますみが配り物として作った品だ。
「大阪へは何日、お発ちになったの」
八千代はつとめてさりげなく訊《き》いた。
「海東先生の告別式をお済ませになった後です。九日でしたわね。あれは……」
久子はかすかに苦笑した。困惑の表情でもあった。
「だったら、もう随分になるじゃないの」
「ええ、大阪には三日ばかり、それから京都の方へお廻《まわ》りになったので……」
ゆっくりつけ加えた。
「来年のリサイタルの事の重要なお話があちらでおありらしいのですよ」
「相変わらず御多忙ね。京都は今頃《いまごろ》、寒いでしょうにさ」
「昨夜のお電話では二、三日前に小雪が散らついたそうですのよ。でも、来週のお稽古日には間に合うようにお帰りになるそうですから……」
久子は手拭《てぬぐい》を指からはずして染子を見た。
「新しい小唄《こうた》振りを二、三曲、先生から習っておきましたけど……」
「じゃ、新年のお座敷用になにか……」
「門松≠ヘ、もう……?」
「いいえ、まだ知らないわ、それ、お稽古《けいこ》して頂こうかしら」
久子と染子が稽古舞台に上がったのをしおに八千代はさりげなく廊下へ出た。
検番を出ると八千代は足にまかせて人形町の通りへ出た。
花街をひかえているせいか、洒落《しやれ》た小間物屋の数が目立つ。商店街はすでに松飾りも済んで、暮の大売出しのビラが派手に並んでいる。
師走《しわす》という月らしく、ひっきりなしに交叉《こうさ》する都電、バス、タクシー、トラック、オートバイ、自転車も慌《あわただ》しいし、舗道を歩いている人々の表情もなんとなく、せせこましい感じがする。
八千代は自分の足許へ眼を落してゆっくりと人ごみを歩いた。
「この暮の忙しいのに、どこをほっつき歩いてやがったんだい。店をほったらかして、困るじゃないか……」
不意にヒステリックな女の声が八千代のすぐ近くで喚《わめ》いた。自分のことを言われたような気がして八千代が顔を上げると果物屋のお内儀《かみ》さんらしいのが自転車を下りたばかりの亭主をどなりつけたものであった。パーマのかかりすぎた髪はチリチリで逆立ち、脱色したわけでもなかろうに、赤茶けて艶《つや》がない。雑巾《ぞうきん》でしきりにリンゴをみがきながら口小言を続けている。その痩《や》せとがった狐《きつね》みたいな顔を見て、八千代はふと海東英次の妻を想い出した。
「海東先生の奥さんが、主人を殺したのは茜ますみという女だって、あっちこっちへ言いふらしているんだってさ……」
と染子は話したが、それはやっぱり夫を奪われた女の嫉妬《しつと》、怨《うら》み、ねたみが言わせる妄想だけの事だと八千代は考えた。
(ますみ先生が海東英次を殺す筈《はず》がない)
自分の師匠だから、という割引いた計算からだけではなかった。
(ますみ先生はまだまだ海東先生にぞっこん惚《ほ》れていたんだもの……)
修善寺行の旅行の汽車の中でも旅館へ着いてからも、海東英次に対する茜ますみの態度は多少、弟子の手前を取り繕《つくろ》ってはいたが、男に惚れ抜いている女の媚態《びたい》がそこここに覗《のぞ》いていた。それに、今年の秋、海東英次の作曲による「光の中の異邦人(エトランゼ)」を振り付けし発表したのが文部省主催の芸術祭参加作品となり、その結果こそまだわからないが玄人《くろうと》筋ではかなり好評で、ますみ自身、気をよくして、
「来年のリサイタルも又、海東先生とコンビで舞踊界の連中をあっと言わせるような作品を踊ってみせるよ」
と口癖みたいに言っていた事から推しても海東英次の死は現在のますみにとってマイナスになっても決してプラスにはなり得ない筈《はず》であった。まして、新しい恋人が出来たので海東英次が邪魔になった……等というのは茜ますみを知る者にとって全く理由にならないのだ。茜ますみは三人や四人の恋人を巧みにさばけないような女ではない。
もう一つ、修善寺の例の事件の当夜、茜ますみは海東英次と一緒にギリシャ風呂《ぶろ》へ行った形跡はない。これは笹屋旅館の女中が証言していた。
「はい、海東先生とは廊下ですれ違いました。私はマージャンで徹夜をなすっている離れのお客様の御註文《ごちゆうもん》でビールの追加を運んで行く所でしたんです。手拭《てぬぐい》を下げてギリシャ風呂へ続いている階段を下りていらっしゃる所でした。時間は、もう夜明けの三時近かったと思います。はい、ギリシャ風呂へ下りていらしたとき、海東先生はお一人でした。かなり酔っていらっしゃるらしく、なんだかフラフラしてお出でなので、あんなに酔っていて大丈夫かなと思ったんですけどねえ」
まだ若い女中は気性者らしく取調べの警官へはっきりと答えている。一方、茜ますみは、
「海東先生とは一時すぎまで私の部屋でお話をしていました。勿論新しい仕事のことですわ。お酒ですか……私も頂ける方ですし慰安旅行の夜ですもの。私の方が先に酔ってしまって……海東先生はまだ飲み足りないとおっしゃってビールと、残りのウイスキーを御自分の部屋へ持っていらっしゃいました。おそらく、あれからお一人で飲んでらしたんじゃございませんかしら……私も、もう少しおつき合いをして居ればようございました。そうすればあんなにお酔いになることも、お一人でお風呂へいらっしゃる事も、お止め出来ましたのに……」
と公私の場所を区別しないで事件後何度も繰り返している。
「海東先生が御自分の部屋へお引取りになった後ですか。酔ってしまって頭がガンガンするもんですから内弟子の五郎を呼んでカバンから薬を出させて飲みました。ええ、私、頭痛持ちだもんで持薬があるんです。いつもそういう事は内弟子の久子にさせるんですけど部屋が遠かったんで……五郎は左隣りの部屋でしたから……浴衣《ゆかた》に着かえてすぐに死んだように眠ってしまいました。疲れてもいたんでしょうね。宿の女中さんに起こされるまで夢も見ませんでしたよ」
というますみの言葉は内弟子の五郎も肯定しているから海東英次は午前一時|頃《ごろ》、ますみの部屋を出て、それから一時間余り、自分の部屋で飲み続けてから一人でギリシャ風呂へ出かけたという事になる。
しかし、女中の見た時の海東英次が一人だったからと言って、それだけで彼が一人きりで入浴したとは限らない。ギリシャ風呂へ先に行って待つという方法もあるし、後から誰《だれ》かが来たとも考えられる。
「嫌だわ。私ったらいっぱしの女探偵気取りで……」
交叉点《こうさてん》の信号を仰いで八千代は苦笑した。向い側の舗道では小さな女の子が頻《しき》りに追羽根を突いている。八千代はショールに顎《あご》を埋めてタクシーを探す眼になった。
ホテルにて
Sホテルのフロントで部屋の鍵《かぎ》を受け取って、能条寛は習慣的にエレベーターへ向けて歩き出した足をふと止めた。
ロビーのソファにひっそりと坐《すわ》っていた若い女が静かに立ち上がって会釈をしたものである。矢絣《やがすり》に赤の染め帯という古風な服装が面長な容貌《ようぼう》にふさわしい。
「ああ、茜ますみさんの所の……。たしか岸田久子さんでしたね」
寛は気さくに微笑した。浜八千代に温習会の楽屋で紹介された記憶がある。
「大阪に出稽古《でげいこ》ですか」
八千代から、ますみ先生の内弟子さんの中では一番実力者だし、先生の信用も厚くてよく地方への出張稽古にも出かけるのだ、と聞かされていたのを思い出しながら寛は何気なく訊《き》いた。
「はい。ますみ先生のお供で……」
久子は柔らかな声で応じた。
「能条さんは、××劇場へご出演中なのでございましょう。お正月早々大変でございますのね」
「ええ、貧乏暇なしという奴《やつ》で、とうとう旅先でクリスマスも正月も送っちまいましたよ。正月はとにかく元日から××劇場の舞台出演が七草まで定まっていたもんですからね。とても東京でお雑煮は食えないと覚悟してたんだけど、クリスマスだけは帰れる心算《つもり》だったんですよ」
八千代を誘って、せめてクリスマスの夜は東京でと計画していた寛の期待にもかかわらず、二十三日中には終わる予定の撮影が狂って大晦日《おおみそか》の午後に漸《ようや》くクランクアップという始末だった。それも人気稼業だから是非もない。
「やっぱり長い事、離れていらっしゃると東京がおなつかしゅうございましょう」
「ええ、まあ……」
寛は相手の語感になんとなく照れた。言葉の上では(東京)とぼかして言っているが、久子は明らかに(八千代)を意識している。
「大阪へはいついらっしゃったんです?」
「今日のハトでございます。それから真っ直ぐこちらへ……」
寛はさりげなく腕時計を覗《のぞ》いた。十時半に近い。東京発十二時三十分の特別急行ハト号は夜の八時に大阪駅に着く。駅からこのSホテルまではタクシーで十分とかからない。
すると久子はなんのためにこんな時間までロビーで愚図《ぐず》愚図しているのだろう。本当なら、とっくに個室でシャワーでも浴び、くつろいでいるべきなのだ。
「誰方《どなた》か、お待ちになっているんですか」
そうとしか考えようがなかった。ホテル住まいに不馴《ふな》れな久子ではあるまい。茜ますみがこのホテルを定宿にしている事は八千代から聞いて寛も知っている。とすれば内弟子の久子にして既に何回となくこのホテルを利用しているに違いない。
久子は曖昧《あいまい》に笑った。
「いえ、そうではないのですけれど……」
そっと視線をはずして低く言った。
「お部屋にお客様なものですから……」
怪訝《けげん》な表情になった寛へ、更に弁解がましくつけ加えた。
「いつもはますみ先生と私と、一人部屋を二つ予約しておくのですけれど、今度は生憎《あいにく》と明後日まで一人部屋が満員なので、二人用一部屋へ泊まっておりますの。今夜はちょっとこみ入ったお話のあるお客様が見えてますので、私、御遠慮して……」
「そうですか。そりゃあ……」
表面は納得の行った合点をして見せたが、寛は可笑《おか》しな話だと思った。
ホテルではロビーと呼んでいるこのソファの置いてある広間を泊まり客の訪問客との応接用に当てている。ホテルの部屋は寝室なのだからそこへ客を通すのは常識に欠ける。原則としても「来客との御面談はロビーにて願います」と一流のホテルなら規定している。
SホテルはGホテルと並んで大阪では名の通ったホテルである。どれ程、内密な話をしなければならないのかは知らないが、このロビーはちょっとした中世紀の西洋のお城の大広間くらいの面積があるし、時間も遅い事だから他に会談している客の姿は一人もいなかった。
それとも、一階のロビーはホテルの入口を入った正面だから、ホテルへ帰ってくる泊まり客の目に触れるのを嫌うというのなら、二階のロビーを使用すればよいのだ。二階なら、それこそ人っ子一人通らないから眼も耳も怖れる必要がない。
(どういう事情か知らないが、こんな夜更けに内弟子をロビーへ遠ざけてまで部屋へ客を入れるなどとは……)
非常識も甚だしい、と寛は他人事ながら不快だった。
客が女性ならばまだしも……。
久子に訊《たず》ねたわけではないが、寛は直感的に茜ますみの客は男性のような気がした。違いないと思う。
「久子さんも、汽車で疲れていらっしゃるだろうに……夜遅くまでとんだ事ですね」
苦笑して寛はロビーのソファから腰を上げた。連日の舞台で疲れているし、自分の部屋へ落着いてゆっくりバスルームで湯につかりたくもあった。いつまでも久子につき合ってやる程の親切気は寛にないのだ。彼女には関心も愛情もない証拠である。
(これが八千代ちゃんなら十二時が一時でも一緒に坐《すわ》って話相手をしてやるだろう……)
八千代でないにしても、もう少し美人で魅力のある女性だったら……。寛はふと男のエゴイズムに可笑《おか》しくなった。相手がぎすぎすした三十女だという事で、寛はフェミニストでなくなっている。痩《や》せているわけでもないのに骨ばったからだつき、平凡で暗い感じのする容貌《ようぼう》。久子は男に「女」を感じさせない女だった。
岸田久子が特に不美人というわけではなかった。少なくとも醜女《しこめ》と言っては酷である。眼鼻立ちも尋常だし、口が小さいのと頬骨《ほおぼね》が少し張り気味なのが近代的でないと言う程度である。だが、とにかく特徴のない顔だった。個性を感じさせない。同時に色気もなかった。体全部に女らしい丸味がない。女の雰囲気が僅《わず》かに残っているのは柔らかな声である。柔らかな癖に底がひんやりと冷たい。
なにもかもが地味な女なのである。内弟子タイプとしては典型的だった。師匠に対しては絶対に忠実だし、周囲への当たりもやんわりしている。外見はおとなしく、ひかえ目だが、芯《しん》はしっかり者である。(俳優の付き人なんかによくあるタイプだ)
ロビーを出て、エレベーターへ近づきながら寛は思った。
もう勤務時間外なのでエレベーターガールの姿はない。その代りフロントからページボーイがとんで来てエレベーターの操作をしてくれた。
能条寛の部屋番号は三百六十一番、つまり三階の一人部屋である。
エレベーターを出た所にあるメード詰所にも人影はない。
ホテルという所は普通の旅館のように他の客と廊下ですれ違うという現象は殆《ほと》んどない。一つ一つ部屋ナンバーの出ている一枚のドアの向こうに個人が孤立している。偶然に入口で顔を合わせない限り、隣にどんな人間が泊まっているのかまるで見当がつかない。
赤い絨毯《じゆうたん》を敷きつめた廊下は暖房が程よく効いていて温かだったが、壁も並列したドアもひどくよそよそしい。この非情な雰囲気が寛は好きだった。鍵《かぎ》一つで外界を遮断出来るのも、番頭や女中の有難迷惑なサービスに悩まされる事のないのも寛がホテル贔屓《びいき》な理由だ。
部屋に入って寛が背広を脱ぎ煙草を一服すると、待っていたように卓上の電話が鳴った。受話器を取り上げると交換手が、
「京都からでございます」
という。
(撮影所からだろうか……?)
しかし、受話器を流れて来たのは細い女の声であった。
「もしもし、細川昌弥さんでしょうか……」
慌《あわただ》しげな調子である。
「いや、違いますが……」
「あの、細川昌弥さんではございませんので……」
「はあ違いますが……」
女の声は狼狽《ろうばい》して、失礼致しましたと、切った。寛は妙な顔で受話器を見た。
細川昌弥と言えば、寛と同じくT・S映画の専属俳優である。時代劇の若手スターとして、二、三年前に華々しくデビューしたのだが、最近は人気が下火だという噂《うわさ》もある。年齢はもう三十二、三歳になろう。二枚目スターとしてはそろそろ曲がり角なのである。
それにしてもホテルで電話が間違ってかかるというのは滅多にない事である。同じ映画俳優という事で交換手が勘違いをしたのか。
「細川昌弥君も、このホテルに泊まっているのかな……」
バスルームへ入ってお湯の栓《せん》をひねりながら、寛は呟《つぶや》いた。
「いや、そんな筈《はず》はない。彼は池見監督で、疾風|烏組《からすぐみ》秘話≠フ撮影中だった。池見組は今週一杯セットのスケジュールだ」
京都の撮影所で仕事をしている彼が、わざわざ大阪のホテルに泊まってそこから通うとは思われない。
(やっぱり、なにかの間違いだろう……)
寛はソファに戻って再び煙草をくわえた。バスに湯が満たされるまでには多少の時間が要る。厚ぼったい布地のカーテンを引いた窓に近づくと、寛は左手で軽くカーテンを開けた。堂島のネオンが美しく散見される。反射的に東京の夜が想われた。寛は空いている右手でライターに火を点《つ》けた。もう一か月近くも東京の空気に触れていない。
(八千代ちゃんに羽田まで送ってもらったのは暮の九日だったが……)
暮から正月にかけて、銀座の一流|割烹《かつぽう》店である「浜の家」も、さぞかし忘年会、新年会と繁盛《はんじよう》しているに違いない。
(彼女も目下、御多忙中か……)
寛は煙草の煙をカーテンに吹きつけて苦っほろく一人笑いした。
「近頃《ちかごろ》は八千代が店の方の采配《さいはい》も振ってくれるもんですからね。おかげで大助かりなんですよ」
と言っていた彼女の母親の人の好さそうな顔が思い出された。
元旦の初日以来、九時過ぎに劇場が閉《は》ねても招待やら交際やらで十二時前にホテルへ帰れた日はない。たまに早く部屋へ戻ってくると、なんとなく時間をもて余すようだ。ふと、思いついて寛は受話器を取り上げた。交換手へ、
「東京を……」
浜の家の電話番号を告げてから寛はバスルームへ湯加減を見に行った。梨園《りえん》の御曹子《おんぞうし》として坊ちゃん育ちをした癖に割合、小まめなのは性分だった。学生時代、グライダー部の合宿などの経験も独身生活に役立っている。
ソファで待ったが電話はなかなかかかって来ない。普通なら東京大阪間は一分足らずで通じるわけだ。
寛は所在なげに窓枠へ寄った。Sホテルの建物はちょうどコの字なりになっているので空間をへだてて向かいの部屋の窓が見える。どの部屋も灯が消えているか、重くカーテンが下がっているのに、筋向いの一つの窓だけ光が洩《も》れていた。窓の半分がレースのカーテンだけしか引いていない。何気なくその窓へ視線が行って、寛はぎょっとした。黒い男女の影法師がもつれ合って、すぐに厚ぼったく一つに重なった。
それから一週間ばかり経って、能条寛は週刊シネマのグラビア写真で大阪城へ出かけた。
週刊シネマの記者とカメラマンがSホテルへ寛を迎えに来たのが午前十時。寛は自動車の中で頻《しき》りとあくびを噛《か》み殺した。昨夜は後援会の交際《つきあ》いで最後に飲んだ曾根崎《そねざき》のマドンナというバアを引揚げたのが午前二時近かった筈《はず》だ。若い女の子ばかりの集まりだとその割りに閉会も早いし、せいぜい二次会と言った所で知れているが、中年以上の、いわゆるオバサマ族のファンは厄介だった。なまじ経済力があって、女の厚釜《あつかま》しさがむき出しになる年齢である。迂闊《うかつ》には御相手がつとまりかねた。能条寛の場合、映画へはいってからのファンは大むね若い男女、それもハイティーン、インテリ層と幅が広いのだが、歌舞伎《かぶき》の名門出身の素姓と、当代切っての人気役者、尾上勘喜郎の次男坊という背景から、いわゆる花街関係のファンも少なくなかった。殊に単なるスターの顔見せの御挨拶《あいさつ》興行でも舞台出演となると、こういう連中の肩入れが大きい。
「なんや言うたって音羽屋の坊ちゃんですさかいな」
楽屋への付け届け、総見《そうけん》、そして昨夜の招待と、若い寛には多少有難迷惑な事ばかりだが、それも父親との縁故を思えば無愛想な真似も出来ない。
「そういう事が嫌だから、俺《おれ》は芸界をとび出そうと考えたんだがなあ……」
大学を卒業したら新聞記者になろうと決心していたものが、いつのまにか蛙《かえる》の子で結局、父親と畑は違っても俳優とか芸能人とか呼ばれて今はそれほどの悔いもない。
寛は車の窓から冷たそうな舗道を眺めた。辺りは官庁の寄り集まっている所だけにビルの建物が多い。
「どうも朝っぱらからえらいすいませんなあ。お疲れのところを……」
週刊シネマの担当記者は盛んに恐縮している。相手が若手ナンバーワンの売れっ子スターだけに万が一、機嫌でも損じてはと気を遣っている様子だ。
「いや、午後からは舞台があるので午前中ならと指定したのは僕の方なんだから……」
寛は苦笑した。年齢からいえば親父ほどな相手から必要以上に腰を低くされるのは、彼にとって妙にくすぐったい、落ち着かない気分なものだ。
右手に大阪中央放送局の建物が見えて、車は大阪城を囲む公園の中へはいった。
カメラマンがあらかじめ構図として考えておいたらしい場所を指定する。
車を下りると朝の空気はひんやりと首筋にしみる。白とグレイのツィードの背広にチャコールグレイのズボン、ラフなネクタイという恰好《かつこう》で、寛は大阪城を仰ぐ位置に立った。
時間が早いのとウイークデーのせいもあって辺りに人影のないのが幸いだった。
うっかりハイティーンの目に触れようものなら忽《たちま》ち警官がかけつけねばならない程の混乱ぶりを呈するに違いないのだ。実際に現在寛が出演している劇場の楽屋口にはいつも若い女の子がうろうろしていて、余程タイミングよく自動車から楽屋へとび込まない限り、ネクタイは奪われる、背広はもみくちゃになるという馬鹿げた騒ぎになるのだ。
「なにしろ、能条さんの人気は強いですよ。今年の正月映画も完全にT・S映画の勝利でしたからねえ」
週刊シネマの記者はポーズしている能条寛へ半分はお世辞めかして言った。寛は苦笑して答えない。T・S映画で初春第一週に出した能条寛出演の活劇物が他社を圧倒したという情報は、とっくに寛の許へも知らされている。
「東京も凄《すご》い人気だったわよ。私なんてスラックスをはいてアノラックを着て、まるで山登りでもしそうな恰好《かつこう》で漸《ようや》く観て来たわよ。ええ、そう、銀座だけじゃないのよ。新宿も渋谷も浅草もT・S映画が最高の入りだったって新聞にも出てたわ。寛、おめでとう。だけど、あんまり女の子にもてるからってウヌボレないでね……」
先夜、東京の「浜の家」へ電話した時、浜八千代も正直にうれしそうな声で報告してくれたものだ。
「それはそうと、能条さんはご存知ですか、T・S映画の俳優さんの細川さんね。今度の契約切れを機会に大日映画へ移るらしいって話ですがねえ……」
「細川君というと、細川昌弥君の事ですか」
寛はカメラマンの注文で顔の角度を変えながら訊《き》いた。
「ええ、細川昌弥さんですよ」
「さあ、僕はなにも聞いてませんが……」
事実、寛は知らなかった。同じ会社の人間だが特に親しいわけでもないし、最初、現代劇専門だった寛が時代劇にも出演して好評を博してから、一年先輩の彼がなにかにつけてライバル意識を持っているらしいのも気がついていて、わざと当たらずさわらずの態度を取ってきていた。
「T・S映画じゃだいぶ問題になってるそうですよ。なにしろ細川さんはT・S社で売り出してもらった、いわば子飼いのスターですからね。恩知らずとか、背信行為だとか彼の世話をしてきた福田プロデューサーなんかカンカンになってましてね。無理もないですよ。大日映画と言えば、T・S映画とは宿敵みたいな間柄ですしね」
週刊シネマの記者は無責任に笑った。
「おまけに今度の細川さんの引き抜きには契約金の問題だけじゃなくて、女が絡んでいるという説があるんですよ」
「それ、週刊シネマの今週のトップなんじゃありませんか」
寛は多少、皮肉っぽく言った。人気スターという名で呼ばれる人間のプライベートな問題を一々ほじくり出しては大袈裟《おおげさ》に騒ぎ立てて記事にする。マスコミという機構がそうさせるので、目の前の記者個人の所為《せい》でも罪でもないと承知していながら、寛も被害者側だから、つい他人の事でも腹が立ってくる。
「もう少しネタが揃《そろ》えば扱いたいんですがね。残念ながらまだ噂《うわさ》の段階なんですよ。それに我が社の場合、映画関係の雑誌としては老舗《しにせ》ですからね。あまり根も葉もないゴシップなんか流すと後の仕事に差支えますし、信用問題ですから……ま、ここだけの話です。が、細川さんが大日映画へ食指を動かす気持は解りますね。彼の人気はここんところ、まるでぱっとしないし、いい作品にも恵まれない、人間落ち目になり出すとロクな事はありませんからね」
週刊シネマの記者は寛を細川昌弥のライバルという計算の上で喋《しやべ》っていた。彼の悪口を並べる事が能条寛に迎合するものと考えているらしい。
「全く、昨年の暮れから細川昌弥さんはツイていませんねえ、自動車事故はやらかすし、スキャンダルでは叩《たた》かれるし……」
カメラマンもフィルムを入れ替えながら相槌《あいづち》をうった。
細川昌弥のスキャンダルというのは寛も耳にしていた。酔っぱらい運転をしてトラックを避けそこない、歩道へのり上げて電柱に衝突した際、同乗していた女性の名が明るみに出た。りん子という芸者で、年齢は二十三。
「染子さんと同じ花街の妓《こ》なのよ。ええ、置家さんも染子さんと同じよ。染子さんが妹分みたいに可愛《かわい》がっててね。あんなドンファンのような男に惚《ほ》れちゃいけないって随分忠告したんだけど、まるで人の言うこと聞かないからこんな目に遇《あ》ったんだって、彼女もの凄《すご》くおカンムリよ。それでもせっせと病院通いして世話を焼いてるんだから染子さんて全く気のいい人でしょう。でも言ってたわよ。映画スターなんぞ、みんな薄情で、女たらしでダメだって……」
と、寛はそれも浜八千代からじかに聞いて、新聞や雑誌の記事がまるっきりのでたらめでなかったのに驚いたものだ。
おまけにその事故で運転していた当人の細川昌弥は奇跡的にかすり傷一つ負わなかったのに、助手席にいたりん子の方は顔面及び手足、腰にかなりの重傷を受けて入院した上に、細川昌弥との情事が表|沙汰《ざた》になって、それまで世話になっていたパトロンをしくじった。
「ですが、全く女の子の気持ちなんてのは分りませんねえ。あれほど女性問題でスキャンダルの多い男に、れっきとしたお嬢さんが熱を上げるんだから……」
カメラマンは慨嘆して首を振った。寛は苦笑して彼らの話を無視する。
「こんどの噂《うわさ》の人っていうのはどういう女だか、能条さん御存知ですか」
「さあ、僕はあんまり他人のプライベートな問題には関心がないんでね」
寛の台詞《せりふ》を週刊シネマの記者は皮肉と受け取らない。そんな細かな神経の持ち主では、生存競争の激しい今日から置いてきぼりにされてしまうのかも知れない。
「驚くなかれ、と言いたいがまあ大抵の人なら驚きますね」
相手はアルコールの入っているような大時代的な表現をした。
「細川昌弥の新しい愛人って言うのは、噂が本当なら、大日映画の社長の令嬢だということですよ」
流石《さすが》に寛は耳を疑った。が、得意そうな週刊シネマの記者の視線にぶつかると反射的に強い声で言った。
「いいじゃないですか。どんな噂があったって、人間は神様ではないんだから、失敗もするだろう、過失もある。細川君が何をしようとかまわないじゃありませんか。彼だってまだ若いんだし、どんな女の子と恋をしたって別に不思議じゃない」
くわえていた煙草を靴の先でふみにじると、寛は明るい大空へ向けて大きくのびをした。
しかし、撮影を済ませて、劇場へ楽屋入りすると一足先きに鏡台の周囲の仕度をしていた付き人の佐久間があたふたと寛の傍へ寄った。
「ぼん、えらい事や。ほんまにえらい事やで……」
耳へ口を押しつけるようにして告げた。
「細川昌弥が雲がくれしおったんや」
「なんだって……」
「京都の撮影所は今朝からてんてこ舞いや言う事だす。外部には絶対に洩《も》れんようにしてや、というて、ごく内々であっちこっちへ手を回しているらしいけど、まるであかん言う事や」
「お前、それをどこで聞いて来たんだ」
「今朝、ぼんの次のスケジュールのことで撮影所へ寄って来ましたんや。池見組の助監さんに聞いたのよって、間違いやおへん」
能条寛の身の回りの世話をする付き人≠フ佐久間老人は、寛の祖父、先代尾上勘喜郎の弟子だった男である。戦争で腰を痛めてからは役者を廃業して、京都で呉服屋をしている長男の許へ帰っていたが、寛が映画俳優になるのと同時に、自分から付き人を買って出た。東京での仕事の時は寛の自宅へ泊まったし、ロケーションの場合などは勿論《もちろん》、一緒に宿屋住いをするのだが、今度の大阪の舞台出演は京都の自分の家から通いで勤めている。そうするように寛が勧めたものだ。京都から大阪までは省線で急行なら三十分ばかりである。
寛は背広を脱ぎ、考えるような眼でワイシャツのボタンを外した。佐久間老人が心得て楽屋着を背後からかけた。
「これも内緒の事だすがなあ、撮影所では、おそらく細川が雲がくれしたかげには大日映画の手が動いておるんじゃないかと言う噂《うわさ》が専《もつぱ》らやがな」
佐久間老人は寛の背広をハンガーにかけて壁につるした。
「すると、契約切れの問題が原因とみてるんだね」
「勿論だす。つまり、なんやね、細川昌弥としては大日映画へ移りたいのは山々なれど、恩になった映画を足蹴《あしげ》にしては、よう出て行かれまへん。そやって、御当人を失踪《しつそう》させておいてよい加減の所で幕にしようという大日映画の小細工やないかということでんね」
「しかし、彼は現在、撮影中じゃないか。そんな無茶な……」
細川昌弥が主演する池見組の「疾風烏組秘話」はまだクランクアップしていない。
「そやさかいに会社中が腹を立てております。なんぼなんでも仕事中に逃げ出さんかてええやないか。もう三分の二も撮した所で主役スターがドロンしたらフィルム全部がわやや。いくら若い言うても細川かてその位の事、考えてるやろになあ」
白粉《おしろい》を溶きながら佐久間老人は苦々しげに呟《つぶや》いた。歌舞伎《かぶき》の世界で呼吸して来た人間だから、義理不義理には人一倍、神経が細かい。
「みすみす世話になった会社へ大損かけて、ようも平気で居れるもんや思いますなあ。飛ぶ鳥、跡をにごさず言う格言もあるに、ほんまにひどいもんや。ドライいうもんや知らんが人の道を踏みはずして、ええ役者になれる筈《はず》がないで、ぼんもよう気いつけておくれやす。ほんまに人事やおへんえ」
「おいおい、朝っぱらから説教かい」
化粧台前に坐《すわ》りながら寛は笑い出し、途中から不意に真顔になった。
「けど、彼がそんな無責任な事するかなあ」
細川昌弥という男が大胆そうに見えて案外、気が小さいのを寛は或《あ》ることで知っていた。主演している仕事を中途で投げ出す勇気が彼にあるだろうかと思った。しかも「疾風烏組秘話」は彼にとって半年ぶりの主役だし、役柄も気に入っていて、雑誌や新聞のインタビューにも張り切って答えていた。
「細川一人の知恵やおへんがな。黒幕に大日映画があればこそ出来たんでっしゃろ」
「それにしても……だよ」
ふと、寛は数日前の夜、間違ってSホテルの寛の部屋へかかって来た電話を思い出した。
「細川昌弥さんでしょうか……」
と低く聞いた女の声に寛は遠い記憶があるような気がするのだ。
一日中、寛は奇妙に落ち着けなかった。
ショー形式で演《や》っている「ロミオとジュリエット」でも「婦系図《おんなけいず》」の湯島|境内《けいだい》の場でもつまらない台詞《せりふ》を何度もとちった。
「いややわ、能条さん、今日、どうかしてはりますの。恋人にでもふられたのと違うか」
ミュージカル畑出身の先輩女優に笑われて寛は一層、くさくさした。
舞台がはねると寛は真直ぐにSホテルへ帰ったが、そのまま部屋へ上がって行く気になれない。フロントで部屋の鍵《かぎ》だけ受け取ると、ロビーを横切ってバーへ下りて見た。
スタンドには外人客が二人、バイヤーらしい。隅の止まり木に腰を下して、
「ブランデー。ああ、ヘネシーがいい」
寛はチューリップグラスのとろりとした液体をぼんやり眺めた。グラスに顔を近づけると強い芳香が鼻孔を刺戟《しげき》する。
町のバーと違って無駄口をきく女の子もいないし、ボーイもバーテンも別に愛想を言わないのが今日の寛には有難かった。
頻《しき》りとあの晩の電話を思い出す。
(細川昌弥と間違えた電話が僕にかかって来たのは全くの偶然だったのだろうか……)
あの翌朝、ホテルを出がけに寛は一応、フロントへ訊《たず》ねたものだ。
「変な事を訊《き》くようだけれど、T・S映画の細川昌弥君がここに泊まっているの。いや、昨夜、僕ん所へ彼と間違って電話がかかって来たものだからね」
フロントクラークは丁寧に電話の間違いを詫《わ》び、それから細川昌弥は泊まっていない旨を告げた。
「なに、いいんだ。同じT・S映画だから、それで間違ったのかも知れないな」
ひどく恐縮する相手に寛は慌てて手を振ったものだが……。
(ホテルの電話交換手がどうして僕と彼とを間違えたのだろう……)
姓名を言って来たのなら間違えようもない。能条という寛の姓はあまりありふれたものではないし、細川とでは似ても似つかない。
同姓とか、せめて小沢と尾崎のように発音上、まぎらわしいというのならともかくもである。
寛が二杯目のブランデーを注文した時、ホテルの呼び出しアナウンスが告げた。
「お部屋番号六〇四番のお客様、お電話がかかっております。お近くの受話器をお取り下さい」
二度繰り返して、アナウンスは英語に変わった。ブランデーグラスを唇に運び、寛は無意識に関西|訛《なま》りのある、柔らかな女の声を聞いていた。視線が何の気もなく、カウンターの上に乗せてある自分の部屋の鍵《かぎ》へ行く。鍵には部屋番号を書いた茶色のプラスチックの札が鎖でついている。
(そうか……)
能条寛はブランデーを空けると早々に部屋へ戻った。
シングルベッドにはもう夜の仕度が整えられている。スチームが効いているから部屋は春のように暖かった。
テーブルの前にむずと坐《すわ》り、寛は受話器を取り上げて交換手を呼び出した。
「はあ、先日の御電話でございますか、本当に失礼を致しました。よく確かめてお取り次ぎ申し上げればあんな間違いはなかったのでございますが……」
フロントクラークから注意されたのだろうか、交換手は丁寧に詫《わ》びた。
「そうじゃないんですよ。間違えられた事をとがめてるんじゃない。もう、そんなに気にしないで下さいよ」
寛は二枚目スターらしくもない無器用な言い回しをした。
「そんな事じゃなくて、実は少々用事があってね。いや大したことではないんですが、念のために訊《たず》ねるんだけど、あの晩の電話ね。僕の部屋番号を指定してかかって来たんじゃないの……」
交換手は即座に応じた。
「左様でございます。お部屋番号だけをおっしゃってつないでくれと言われたものですから……お名前を言われましたら間違えるわけがございません……」
「有難う」
寛はゆっくりと受話器を置いた。
(やっぱり……)
と思う。
今まで寛は細川昌弥がSホテルの或《あ》る部屋に泊まっているか、もしくは彼と自分とが同じT・S映画のスターだということで偶然、電話が間違ってかかって来たのではないかと軽く考えていた。そうした間違いは例のない事ではない。
しかし、細川昌弥が失踪《しつそう》したと聞いたせいか、寛はあの晩の間違い電話に無関心でいられなくなった。単なる偶然とは思いにくい。
もしかすると、あの晩、細川昌弥はこのホテルへ誰《だれ》かを訪ねて来ていたのではないだろうか。少なくとも電話をかけて来た女は、細川昌弥がSホテルへ行った事を知っていた。
(まてよ……)
ソファに深々と腰を下し、寛は長い脚を組んだ。
とすれば、女はSホテルのフロントへ細川昌弥の呼び出しを頼むべきである。それをしなかったのは、
(細川昌弥がSホテルへ誰かを訪ねたのは極秘なんだ。つまり呼び出しなど迂闊《うかつ》にかけられないような事情があったと見るべきだ)
しかも女は細川昌弥が誰《だれ》を訪ねたかは知らなかったのではあるまいか。もし女がT・S映画に関係のある人間ならSホテルに能条寛が滞在している事は知っている……。
(駄目だ……)
寛は短い髪をごしごしこすった。
(細川昌弥が私用で俺《おれ》の所へ来るわけがない……)
細川昌弥が私用で能条寛を訪ねる筈《はず》がないのは、彼を知る者の常識だった。
彼と寛とはライバルという名で呼ばれる以外、個人的な交際はない。
(特別に親しい友人でもない俺の所へ、どうして細川昌弥が訪ねているのではないかというような想像をするものか……)
細川昌弥がSホテルへ行ったからと言って直ちにそこへ泊まっている能条寛の部屋へ電話をかけて彼の所在を確かめたという推理はまず当たらない。
(冗談じゃないぜ。八千代ちゃんの探偵ぐせがいつのまにかこっちへ伝染しちまった)
苦笑して寛は立ち上がった。思い出したようにあくびをする。昨夜の寝不足が急に体にこたえた。
シャワーを浴びただけで、寛は早々にベッドへもぐり込んだ。
翌朝、寛は慌《あわただ》しい電話のベルで眼をさました。
(よくよく電話に祟《たた》られるもんだ……)
渋い眼をしばたたきながら受話器を取ると、声は佐久間老人だった。
(なんだ、朝っぱらから……)
不機嫌がつい声になりかけたが途中で絶句した。普段は律儀に朝の挨拶《あいさつ》を述べたてる佐久間老人がいきなり言ったものだ。
「ぼん、大変や。えらいこっちゃ……」
返事も待たずに続けた。
「細川昌弥が自殺しよりましたんや」
「なんだって……」
寛はいきなり突風に遇《あ》ったグライダーみたいな驚愕《きようがく》に直面した。
「いけねえ、地面が回りやがった……」
「なんどすねん、なんやしはりましたんか」
佐久間老人の面くらった調子に寛は弁解らしくつけ加えた。
「なに、一人言さ。俺《おれ》のとんでるグライダーがスピン(錐《きり》もみ)に入りやがったってことよ……」
「へえ……」
佐久間老人には解らない。
「それで細川君の自殺ってのは、誰《だれ》から入った情報なんだ……」
「撮影所の中丸さんどすねえ。家が近いよって……今朝早うに電話して来ましたんや。すぐに知らせよう思いましたんやけど、まだ眠ってはるやろと遠慮しましてなあ。ガス自殺や、今朝の新聞に詳しく出てますがな」
なんだ、と寛は思った。
「もう、出てるのか」
それなら電話でまどろっこしい佐久間老人の話を聞くより、活字を読んだ方がよっぽど手早いし、確実でもある。
(肝腎《かんじん》な事をさっさと言やあいいのに、相変わらずおっとりとしてやがる……)
電話を切って、寛は新聞を取りにドアの傍へ大股《おおまた》に歩いた。
Sホテルでは朝刊は大抵、部屋の入口のドアの下部にある細長いすき間にはさみ込んである。
まだインクの匂《にお》いのしそうな二種類の新聞を掴《つか》むと寛はソファへ戻った。いつもはベッドの上で横着に寝そべった儘《まま》、読むのだが流石《さすが》に今日はそんな心の余裕がない。
拡げた第三面に、
細川昌弥がガス自殺
写真入りの大きな見出しがいきなり目にとび込んで来た。原因は契約切れにまつわる葛藤《かつとう》か、と傍に添えた文字も派手であった。
二種類の新聞の記事はどちらも殆《ほと》んど変わりはない。自殺の現場は神戸の三の宮にある彼のアパートで発見者はそのアパートの管理人だった。
「隣室の××さんがどうもお隣がガス臭いと言われるので何度も声をかけてみましたが、返事がない。合い鍵《かぎ》でドアを開けて部屋へ入ると奥の寝室で細川さんが倒れていました」
という発見者の言葉の横に発見が遅れたのは高級アパートであるためドアが全部、二重で完全な防音装置がされているから臭気の外に洩《も》れるのがかなり遅かった所為《せい》であると説明している。
遺書は豪華なダブルベッドの横のサイドテーブルの上にあった。便箋《びんせん》一枚に、
「世の中のすべてが嫌になった。死はなにもかも空白に埋めてくれるだろう。すべては自分の心から出た事だ。誰《だれ》も怨《うら》みはしない。ただ、死ぬ前に一目だけでいい、貴方《あなた》に遇《あ》いたい。あっておわびがしたいのです。どうしてもお目にかかりたいと思います」
とだけ一杯に記してあったと書いてある。宛名《あてな》も署名もないが、筆跡は間違いなく細川昌弥のものだと判明している。
食堂へ下りて行くと、二、三人しか残っていない客の一人が、あらと寛に声をかけた。黒と白の細い縞《しま》の和服に博多帯が粋である。帯締も草履《ぞうり》も黒ずくめな茜ますみであった。
「よろしかったら、どうぞ……」
一人きりのテーブルの隣席を指されて、寛は止むを得ず腰を下した。彼女がこのホテルへ泊まっていることは数日前、ロビーで彼女の内弟子の久子と遇《あ》って知っていたが、それ以来、久子とも顔を合わせていない。茜ますみとは今朝が始めてであった。
「久子さんは、ご一緒じゃないんですか」
ナプキンを取りながら寛は訊《き》いてみた。
「あの子は一昨日、帰京させましたの。東京の方の稽古《けいこ》が昨日から始まりますのでね」
茜ますみは先に運ばれて来たスープをゆっくり味わいながら、あっさりと答えた。ナプキンで軽く唇を拭《ふ》くと、声をひそめるようにして言った。
「今朝の新聞、ごらんになりましたでしょう。驚きましたわ。あの方がねえ……」
寛は憂鬱《ゆううつ》な表情でうなずいた。
東京の午後
ファッションショーは森口夢代モードサロンの二階で催された。午後一時、三時、五時の三回である。
クリーム色のオーバーコートに焦茶の靴とバッグという大人《おとな》しい恰好《かつこう》で、浜八千代は二階へ続く階段を上がって行った。
「浜さん、まあ、お待ちしてましたわ。ようこそ……」
マダムの森口夢代は黒ずくめの洒落《しやれ》たワンピース姿だった。胸のドレープが美しい。
外交官の父親と一緒に幼少時は外国暮らしを続けて来た人だけあって洋服の着こなしは見事である。戦後、ファッション界に登場した。デザイナーとしては新進なのだが落ち着いた好みとセンスのよさは奇をてらう人の多いこの社会で、実用とシックを看板とする彼女のデザインはじっくりした人気があった。客は十代、二十代から四十代までと極めて広範囲である。映画女優や流行歌手も顧客の中に多い。
銀座四丁目にある店は一階が布地と既製のセーター、ブラウス、ジャケットなど、中二階がアクセサリーの陳列、二階が帽子部とデザイン部、それにショーに使用される小ぢんまりしたフロアがある。
狭い椅子席は殆《ほと》んど満員だった。客席もさながらのファッションショーでスーツ、ツーピース、ワンピース、ブレザーコートと各々に女の香りを競っている。八千代が、空いている補助椅子に腰を下すと、サロンの中の電気が暗くなり、ステージにライトが光った。ムード音楽が流れ、ファッションモデルが馴《な》れた歩きっぷりでステージに現れた。すみれ色のアンサンブルにピンクをあしらった「春の夢」と題するデザインである。
周囲から嘆息が洩《も》れ、八千代もうっとりと眺めた。
一時間ばかりでショーは終わった。八千代は階下で布地を選び、春のコートとブレザースーツを注文して明るい銀座の表通りへ出た。
「浜さんはロマンティックな色がお好きね。たまには、寒色を着せて差し上げたいと思うのだけれど、どうしてもデザインも甘い感じになってしまうわ」
マダムの言葉が耳朶《じだ》をくすぐるように残っていて、八千代はパリジェンヌみたいな表情で歩いていた。美しいファッションショーを見た後は女に産まれた幸せを体中に感じるものだ。
角の靴店のウインドーを覗《のぞ》いた。もうそろそろ淡い色の靴が欲しい。流行のローマンピンクのハイヒールとハンドバッグのおついに眼が止まって、八千代が胸算用をしているとすっと背後に男の匂《にお》いが寄って来た。
「ねえ、お茶でもつきあいませんか」
肩を叩《たた》かれて、最初、八千代は自分の店へ来る客の一人かと思った。「浜の家」は銀座でも一流の料理屋だから客筋はハイクラスばかりだ。
八千代は怪訝《けげん》な顔で相手を見た。
黒っぽいオーバーにチャコールグレイの縞《しま》の背広、ネクタイの趣味はあんまりよくないが、まあ一応の紳士スタイルである。
八千代が黙って見上げていると男は多少照れくさげに視線をそらした。
「どう、三十分ばかり……」
「浜の家」の常客ではないと八千代は直感した。黙ってついと飾り窓を離れる。あきれた事に、男が従《つ》いてくるのである。
「ねえ、いいじゃないの、ほんのちょっとでいいから交際《つきあ》いませんか……」
八千代は思い切って立ち止った。
「私、暇じゃありませんの」
くるっと踵《きびす》を返してさっさと歩き出した。これ以上、ついてくるようなら交番へとび込んでやれと思う。
足早に道路を横切った。肩を叩《たた》かれる。ふりむいて睨《にら》みつけた。てっきり先刻《さつき》の男と思ったものだ。
「あら、伯父《おじ》様……」
「マドモアゼル。今晩おひま?」
結城《ゆうき》慎作は通りすがりの人がびっくりするような大声で笑った。八千代の母の実兄に当たる。M新聞の整理部長の肩書がある。
「嫌だわ。伯父《おじ》様……」
「しかし、驚いたね。誘惑族という奴《やつ》は花のパリだけかと思っていたら、白昼の銀座で我が姪《めい》を取っ掴《つか》まえてくどく奴がいるんだから……」
「くどいたなんて……ただ誘っただけじゃありませんか、人聞きが悪いわ」
見ず知らずの厚釜《あつかま》しい男をかばう気はないが、くどかれたとか、惚《ほ》れられたとか言う台詞《せりふ》を八千代はひどく気にする。
「人聞きが悪い事はない。八千代がくどいたわけじゃない、いわば被害者だ」
「だって、嫌だわ」
「まあいいさ。三十分ばかりどうだ。キャンドルでお茶でも飲まんか」
慎作は笑いながら片目をつぶって見せた。五十になるというのにそんな動作も身体もひどく青年っぽい。子供がないせいと、新聞社勤めの影響と、天性のものである。
「伯父様ならば……つきあってあげてもいいわ」
八千代は先に立って喫茶店の階段を上がった。キャンドルという店は八千代が先刻《さつき》、眺めていた靴屋の二階にある。小ぢんまりした喫茶店、兼レストランだ。ホットドッグ、ハンバーガー、チキンバスケットなどパンを使った軽食に特徴があって、若い連中に人気がある。向かいのビルに映画雑誌社があるので芸能関係の人々もよく食事や打ち合わせに利用する。八千代をはじめてここへ連れて来たのは能条寛だった。結城慎作は姪《めい》に教えられてからしばしば立ち寄る。
「案外、旨《うま》いコーヒーを飲ませるじゃないか」
と気に入っているものだ。
「伯父様ってやっぱりジャーナリストね」
「む?」
窓ぎわの席へ腰を下すと八千代はエクボの出来る右頬《ほお》を伯父へ向けて笑った。
「いつから八千代を尾行してらしたの」
「尾行……」
そこへウェイトレスが注文を訊《き》きに来た。白いエプロンにハートの刺繍《ししゆう》が如何《いか》にも東京の銀座の店らしい。
「八千代はなんだ……」
「そうね、ジンジャーエールと、おなかが空いたからチキンバスケットでも頂くワ」
「じゃ、僕もそのなんとかバスケットと、コーヒー……」
「なんとかバスケットだなんて嫌ねえ。若鶏のフライとポテトの唐《から》あげとトーストがバスケットの器に入ってくるから、略して……」
「チキンバスケットか。今度は憶えとくよ」
結城慎作はコートを脱いでいる姪《めい》をたのしそうに眺めていた。クリーム色のコートの下に同色のジャージのワンピース、グリーンの濃いベルトが如何にも春らしかった。
「珍しいね、今日は洋装か」
「珍しいことないのよ。伯父《おじ》様にお目にかかるのは家にいる時か、お稽古《けいこ》帰りが多いから、なんとなく和服ばかり着ているようにお感じになるのでしょう」
「そうかな。しかし、洋服もなかなかいいよ。僕は八千代が大根足なんで着物ばかり着ているのかと思っていたんだが、どうしてぐっとミスユニバース並みだ。靴屋の窓をのぞいて嘆息をつきたくなるのも無理はない……」
「伯父様……本当に油断もすきもならないわ。いつから八千代の後をつけてらしたのよ。最低ね、全く……」
八千代は少しばかり開き直った。若い娘だから、たとえ伯父でも恥ずかしいし、不快だ。
「ジャーナリストは刑事じゃないからね、尾行なんかするもんか」
「じゃ、どうして……」
「靴屋の内部にいたんだよ」
「まあ……」
ウェイトレスがコーヒーとジンジャーエールを運んできた。八千代は悪戯《いたずら》っぽい表情で白髪の多い伯父《おじ》の長髪を見上げた。いわゆる若白髪《わかしらが》の性質らしく三十の半ばから今のままの髪だ。その頃《ころ》は老けてみられ、現在は逆に若く見える。
「わかったわ、伯父様、伯母様に言いつけてあげるから……」
「なんのことだ……」
「トボけても駄目よ。どなたか様へプレゼントでしょう。伯父様も危険な年齢ね」
結城慎作は吹きとばすように笑った。
「こいつはいい。八千代がもうそんな気を回す年齢になったのかい。この間まで色気より喰《く》い気と眠気のヤングレディだと思っていたが……やっぱり春かね」
「弁解御無用、八千代の勘は素晴らしいんだから……」
シュガーボール(砂糖壺)の匙《さじ》を八千代が軽く握って、まっ白な砂糖を二つ、伯父《おじ》のコーヒーへ入れる。
物心つく以前に父をなくしたせいか、八千代はこの伯父と向かい合っていると、無条件で甘えた気持ちになる。
「ま、いいさ。真昼間から良家の子女を誘惑する男性や、恋人が多すぎて遺書に宛名《あてな》を書きそこねた男がうろちょろしている世の中だからね」
唇に含んだコーヒーの渋味に結城慎作は目を細めた。
「宛名のない遺書……。ああ細川昌弥の一件でしょう」
八千代はぎゅうと眉《まゆ》をしかめた。
小さな竹籠《たけかご》に紙ナプキンを敷いて三角に切ったトーストが二枚、骨つきの若鶏のフライが三個、短冊《たんざく》型のじゃがいものからあげが四、五枚、パセリの緑が鮮やかである。キャンドル特製の「チキンバスケット」がテーブルに運ばれ、会話は途切れた。
「しかし、近頃の女の子の神経ってのは全く不可解だね。あの細川昌弥なんて女たらしの、甘っちょろい、物欲しげな男のどこがいいのか、新聞社の若い連中が口惜《くや》しがってるよ。細川の自殺後、彼のファンだったという女性にインタビューして感想を聞いたら、細川昌弥の存在しない世の中なんて灰色同然の味けなさだと泣いて訴えたのが居るんだとさ」
結城慎作は指の先で鶏肉をつまみ上げて、笑った。
「最低よ。あんなドンファン……」
八千代はストローの先でジンジャーエールの中に浮いている氷片をがらがらとかき廻《まわ》した。
「そうかと思うと、生きている細川昌弥は好きだったが、死んだ彼なんて興味がないから勿論《もちろん》、葬式にも行かないと答えた女の子もいたそうだ。つまり、細川昌弥に熱をあげたのは、ひょっとしてひょっと自分が彼の花嫁候補になるかも知れないという期待があるんだな。だから死んじまったとなると線香の一本も立ててやる了見もない。甚《はなは》だ現実的だが、当世女性気質という奴《やつ》で面白いじゃないか……」
「あきれたものね。好きじゃないわ、そんなの。愛情とか、熱をあげる、好きになるっていう感情は無報酬だから美しいのよ。ただ捧《ささ》げるっていう純粋な気持ちでなければ本当のファンではないわ」
「八千代はやっぱり古風なタイプの女だね。そういう女は、とかく男に泣かされる率が多いそうだよ。新聞の身の上相談の欄を見てごらん。三百六十五日、そういう女の嘆きが綿々と綴《つづ》られている」
紙ナプキンで指を拭《ふ》くと、結城慎作はポケットを探ってダンヒルのパイプを取り出した。
「そりゃあ、伯父《おじ》様、女の生き方にだっていろいろあるわ。男を泣かせて自分が大きくなって行くようなタイプの人もあるし……」
八千代はちらと茜ますみを思い出す。
「でも、私は男を泣かせもしないし、男性に泣かされもしないわ」
「ほう、大した自信だね。そういう相手を見つけたのかい。つまり八千代を一生、泣かせもしない、八千代に泣かされもしないという男性をだよ」
「まさか……そうじゃないけど……」
なんとなく伯父の目を避けて八千代は窓の下の通りを覗《のぞ》いた。東京の午後、銀座の街路はさまざまの人種が慌しく、或《ある》いは悠長に歩いて行く。
ウィークデーだから、サラリーマンならオフィスで帳簿と取り組んでいる時間だし、学生は教室で鹿爪《しかつめ》らしい教授の講義をノートしていなければならない時刻なのに、通りを横切る人種にはサラリーマン型も、学生服もふんだんにいる。それと――正体不明の男性と女性。
ぼんやり見下していて、八千代はあらと小さな声を立てた。向かい側の道を岸田久子が歩いている。矢絣《やがすり》の着物と紫のコートにも見憶《みおぼ》えがあった。連れがいる。老人であった。黒っぽいオーバーの衿《えり》を立てている。顔は久子のかげになってよく見えない。
「なんだ、知ってる人か」
結城慎作は姪《めい》を見た。
「ええ、踊りの先生の所の内弟子さん……ほら、クロ洋裁店の前の所を年とった男の人と歩いて行くでしょう。その紫のコートの人がそうよ」
指されて窓越しの路上を眺めた伯父《おじ》は、二人の後姿に、
「お連れはちょいとしたロマンスグレイらしいが、色気のある仲じゃないな」
新聞記者的観察を口にした。
男と女が歩いていて、それがビジネスかプライベートか一目で見当をつけるのが新聞記者の勘だというのが結城慎作の持論である。
「多少なりとも色気を感じている仲なら、男と女の放射線がピリピリっとくるもんだよ」
という伯父の口癖を八千代も何遍となく聞かされている。いつもなら何か一言、異論を説《とな》えたい所なのだが今日は素直に、
「そうねえ」
と受けた。
「ほう、八千代もそう思うかい」
「伯父《おじ》様は御存知ない事だけど、あの久子さんだったら、お年|頃《ごろ》の男性と二人っきりで歩いていたって恋人同士だとは思わないわ。お固いんで有名よ」
「気の毒だね、そういう女は……」
「あら、どうして……」
「男と一緒にいて噂《うわさ》も立たないような女は女の資格がない。六十、七十の婆さんならいざ知らず、若い身空で、悲しむべき事だよ」
ダンヒルのパイプが心地よさそうに紫煙を吐いた。
「伯父様、そんなお説を婦人欄に書いてごらんなさい。貞淑な日本の女性はこぞって柳眉《りゆうび》を逆だてるわよ。身持のいい女性はまるで木の屑《くず》みたいじゃありませんか」
「そいつは困る。女とおしゃもじは苦手だからね」
結城慎作はもっぱら煙草を娯《たの》しむ風で、チキンバスケットは半分ほどしか手をつけない。
「ねえ、伯父様、そのパセリ頂いていい」
八千代は伯父の前のバスケットを覗《のぞ》いた。パセリは八千代の好物である。
「いいとも、ついでにチキンの方もよろしかったらどうぞ……」
八千代は肩をすくめてパセリをつまんだ。白い歯でパリパリと噛《か》む。
「八千代は兎《うさぎ》年だったっけな」
「おあいにくさま、パセリを食べてる八千代はまるで兎みたいだとおっしゃりたいんでしょ……」
ついでにチキンにも手を伸ばして八千代はフランクに笑った。
「僕と一緒の時はいいけど、ランデブーの時は慎しんだ方がいいね、まるで欠食児童だ」
「伯父《おじ》様って案外お古いのね。食欲|旺盛《おうせい》な女性は生活力も旺盛なのよ」
「そんな台詞《せりふ》を言う奴《やつ》が、恋人とデイトする時、一日中コーヒーばかり飲んで嘆息をつくもんだそうだよ」
他人眼《よそめ》には仲のよい親子と見えるかも知れない。父のない姪《めい》と娘を持たない伯父とのカップルである。
「そう言えば先刻《さつき》の伯父様のお話ね」
「なんだっけかな」
「ほら、宛名《あてな》のない遺書、細川昌弥のことよ。おっしゃったじゃないの」
「ああ、その事か」
一人前と二分の一人前のチキンバスケットを平らげた八千代の舌は滑らかによく動く。
「宛名のない遺書っていうのは、あんまり恋人が多すぎるんで一々宛名を書くのがめんどうだから書かなかったっていうのは少しうがち過ぎてやしない」
「と言って、遺書を書く程の場合に宛名を書き忘れる馬鹿もないじゃないか」
「故意に書かなかったという場合もあるじゃありませんか」
「何故、なんのために宛名を書かないのさ」
「相手の女の人の名前を出したくないというのは……」
「細川昌弥に同情的な観方だね、やっぱり多少はファンだったか」
「馬鹿《ばか》にしないで、伯父《おじ》様、あんな男の映画なんか一本も観ませんよ」
「能条寛と競演した奴《やつ》があった筈《はず》だよ。それも観なかったのかい」
「知りません。そんなの……」
八千代は耳のつけ根を赤く染めた。
「伯父様はすぐに話題をそらすからいけないわ」
唇をとがらせて八千代は抗議した。多少は照れかくしでもある。
「細川昌弥が遺書に宛名を書かなかったのは相手の女の人の名誉を考えてじゃないかしら。それに、宛名がなくてもその女の人にはすぐ自分へ宛《あ》てたものだと分かるという、自信があれば書く必要はないでしょう」
「自分の死後にそんな配慮をするかねえ」
余裕たっぷりに結城慎作は姪《めい》の相手になってやっている。八千代は少しばかり躍起になった。
「相手の女の人を愛していれば、真剣な愛情をその人に持っていれば、そうすると思うけれど……」
「あの男をドンファンだと言ったのは八千代だよ。ドンファンに真実の恋なんてあるのかい」
「そりゃ、時と場合によるでしょう」
「だが、それほど人眼に触れるのを憚《はばか》る宛名の人への遺書なら、枕元《まくらもと》へ置いて死ぬよりも先に投函《とうかん》するべきじゃないか、ポストへ入れて、その目的の人に送っちまえば、宛名のない遺書なんて厄介な事をしなくとも、間違いなくその人の手許へ届く。僕なら、まあそうするね」
「自殺を決心したのが発作的衝動によるもので、ポストへ入れに行く暇がなかったというのは……」
八千代は執拗《しつよう》に喰《く》い下がる。
「残念ながら、細川昌弥のアパートのすぐ前にポストがあるんだ。切手はアパートの売店にも置いてあるそうだ。高級アパートでね。クリーニング屋も薬局も付随している。遺書を書くだけの余裕のある自殺者が、階下へエレベーターで下りて、手紙をポストへ放り込む手間を惜しむだろうか」
微笑を浮かべて結城慎作はパイプの灰を灰皿へ叩き出した。
「それよりも、いっそ宛名《あてな》のない遺書を一通書いて残しておけば、女というものはうぬぼれと自尊心の強いのが揃《そろ》っているから、細川昌弥と交渉のあった女に各々《おのおの》、あの遺書は自分に宛てたものだと信じて満足するだろう。色事師の彼ならその位の計算は立てないものかね。少なくとも、そう考えた方が面白いねえ」
「男の人が考えそうな筋書きだわ」
口惜《くや》しいから八千代は軽蔑《けいべつ》した顔になる。
「細川昌弥は男性だものなあ……」
そこで、結城慎作は姪《めい》に譲歩した。あんまり徹底的にやっつけてしまうのも大人げない。
「もっとも、これはあくまでも第三者の想像だよ。人間には偶然とか例外とかいう場合がある。迂闊《うかつ》に判断は出来ないのだよ」
それにな、と結城慎作はつけ加えた。
「あの遺書は果たして純粋の遺書かどうか問題はまだあるんだ」
自殺した細川昌弥の遺書に問題があるという伯父《おじ》の言葉に八千代は、ぱっと眼を輝かした。
「やっぱり、そうなのね。あれは遺書じゃないんでしょう」
「遺書じゃない……?」
結城慎作はまじまじと姪を見た。
「じゃ、なんだというんだね」
「御存知のくせに……」
「いや、知らん」
曖昧《あいまい》な微笑を浮かべて、だが慎作は八千代から目を放さない。
「そら、又|伯父《おじ》様のおとぼけが始まった。お仕事にちょっぴりでも関係している話だと伯父様はいつだって肝腎《かんじん》の所でぼかしちゃうんですもの、ずるいわ」
「いや、そんな事はない。僕は八千代みたいな推理小説マニアじゃないからね。こういう話にはよわいんだ……」
「駄目ですよ、ごま化そうとしても……」
いつもはこの辺りでぷんとふくれる筈《はず》だが今日の八千代は喰《く》いついた餌《えさ》をおいそれと放したがらない。
「伯父様、笑ってもいいから聞くだけ聞いてちょうだい。細川昌弥の遺書って新聞に発表されたあれは、もしかすると誰《だれ》かに宛《あ》てた手紙の一部分じゃなかったの」
「遺書だって、誰かに宛てた手紙だろう」
結城慎作は八千代の真剣な眼ざしに相変らず茫洋《ぼうよう》とした表情で応じた。
「私が言うのは、遺書という目的で書いたものではないという事なのよ。普通のラブレター、つまり呼び出し状ではないかと言う意味だわ」
「ふむ、それで……」
「それでって……」
八千代は少しばかり口籠《くちごも》りながら続けた。
「死ぬ前に一度だけ貴方《あなた》にお逢《あ》いしたい、って言う文句を、私は細川昌弥の殺し文句じゃないかと考えたのよ。何故って細川昌弥という男は死ぬとか死にたいとかの言葉を平常から何かというと使ってたらしいじゃない。染子さんっていう踊りの友達、芸者さんで、ほらいつか細川昌弥と自動車事故の時に一緒に乗ってたりん子さんっていう人の姉貴分に当たるんだけどその染子さんから聞いた話では、細川昌弥はりん子さんに宛《あ》てた手紙や電話で、しょっちゅう、あなたが死ぬほど好きだ、逢いたくて死にたくなる、なんて言ってくるんですって、染子さんがキザな文句を使う、安っぽい男だってよく憤慨してたもんよ。だから私……」
「それも一理だな。すると、あれが遺書でなく、偶然、誰《だれ》かに宛《あ》てて書きかけた手紙だったとなると……」
八千代は形のよい眉《まゆ》をぎっと寄せた。伯父《おじ》の広い額へ顔を近づけて、低くささやいた。
「細川昌弥はね、伯父様、自殺したのではなくて……殺されたのよ」
キャンドルの店の内はひっきりなしに若い笑い声や会話が流れている。入れ変わり、立ち変わり似たような恰好《かつこう》の若い男女のグループばかりがつめかけてくる。ニューフェイスの顔が見えたと思うと、婚約中のジャズシンガーが腕を組んで現れる。それでも、この店の常連はそうした風景に馴《な》れているせいか、ちらとふり返って見る程度で、別段、さわぎもしないし、サインを頼む者もない。
もっとも、サインの方は二十センチ四方くらいの小型のカンバスにクレヨンで、この店へ来る芸能人の各々《おのおの》のサインをしたものが、店内の壁にずらりと並んでいる。いわゆるこの店の宣伝でもあり、多少は特殊な喫茶店という意識的な感じもあるのだが、店が明るく清潔だし、ウェイトレスもボーイも嫌味のないサービスぶりなので、あまり気にはならない。コーヒー一杯で何時間ねばっても不快な思いをする店ではないが、大抵が適当に談笑すると適当に腰をあげる。しんねりむっつりとしたアベック専門の店ではないのだ。
八千代は卓上の黄色いチューリップを眺めた。ここにも春の色が明るい。が、八千代の横顔は緊張のあまり蒼味《あおみ》が濃い。結城慎作はむきになっている姪《めい》をたしなめるような調子で口を開いた。
「細川が自殺ではなかったとしても、それを直ちに他殺と断定するわけには行かないよ」
「何故……」
「過失死という伏兵がある……」
八千代は宿題をまるっきり忘れていた生徒が、それを指摘された時のようなあどけない表情をした。
「ガスだわね、伯父《おじ》様」
「そう、今年の流行だ……」
正月第一日目の新聞の第三面がガス洩《も》れによる過失死の記事だったことを八千代は想い出した。
「でも、伯父様、ガス栓は人為的にひねられていたんでしょう。ゴム管やなんかの故障じゃなかった筈《はず》よ」
「そりゃそうだ。しかし、ガスストーブをつけっ放しにしたまま、寝込んでしまって、なにかの拍子に炎が消えてしまったという場合が、まず考えられるだろう、他にも条件はある。なにしろガスという奴《やつ》は魔物だからね」
「ガス中毒ねえ……」
八千代はがっかりしたように呟《つぶや》いた。
今年になって東京に発生したガス中毒で、過失か自殺か遂に解からずじまいに終わっている事件があったのだという事を、八千代はこの前、結城慎作が「浜の家」へ部下の新聞記者を何人か連れて夕食に来た時、給仕に出ていて聞かされた。
「可笑《おか》しな奴だな。自殺や過失死じゃまずいみたいな事を言う。八千代はいつから女刑事になったんだい」
結城慎作の台詞《せりふ》は途中から若々しい声に遮られた。
「やっぱり、ここに居やがったな」
声は結城慎作の背後からのものである。彼がふりむく前に、八千代が伯父《おじ》の肩ごしに入口の方を覗《のぞ》いた。
「まあヒロシ……いつ帰って来たの」
能条寛は返事をしない。淡いグレイのズボンにライトブルウのセーター、白と黒のラフな感じの背広を無造作に着ている。コートは持たない。
黙った儘《まま》、八千代へ顎《あご》をしゃくった。こっちへ来いという合図である。
「どうしたの……なあに……」
怪訝《けげん》な顔で八千代は立って行った。
「なにかあったの、ヒロシ……」
能条寛の奇妙な表情を窺《うかが》った。
「誰《だれ》……お連れは……?」
そっちを見ないで低く訊《き》く。八千代はテーブルをふりむいた。背を向けた恰好《かつこう》で結城慎作はパイプの煙を吐いている。後ろからみるとすこぶる若い。
「伯父《おじ》よ。御存知じゃないの、M新聞に勤めている母の兄の……」
「へえ、じゃあ、結城の伯父様かい……」
「そうよ。誰《だれ》だと思って……」
「いや」
寛は間の悪そうな苦笑を口許に浮かべた。
「なんでもないんだ……ちょっとね」
先に立ってテーブルに近づいた。
「どうも御|無沙汰《ぶさた》しました。お変わりありませんでしたか」
神妙な挨拶《あいさつ》ぶりである。
「能条君かい。相変わらず忙しそうだね」
結城慎作は自分の前の椅子《いす》を目で指した。会釈して寛が腰を下しその隣へ八千代が坐《すわ》った。
「なにしろ貧乏ひまなしだもんで……」
なんとなく前髪をかきあげる寛は頻《しき》りと照れている。八千代はちらと横眼で見た。くすんと笑ってわざとそっぽを向く。
「大阪の公演はたいそうな人気だったそうじゃないか。東京からも冬休みを利用してわざわざ観に行ったファンがだいぶあったんだってね。八千代も行きたがってぶつぶつ言ってたらしいが、おふくろさんが風邪《かぜ》をひいたりなんぞ行きそびれたそうだ」
結城慎作は大|真面目《まじめ》な表情で若い二人を見くらべる。
「やっちゃんは宝塚歌劇を観るために神戸まで出かける事はあっても、僕のあちゃらか芝居なんかのぞきたくもないそうですよ」
「その通りよ。ヒロシのミュージカルなんて可笑《おか》しくって観ちゃあいられないわ。大体、日本の男性でタキシードの本当に似合う人は極めて稀《ま》れなのよ。十中八九は丹波篠山山家《たんばささやまやまが》の猿が洋服着ましたって恰好《かつこう》。そこへ行くとタカラヅカの人たちの着こなしは素晴らしいわ。イブ・モンタンなら知らないけど、日本の男性なんて、まるで問題にならないことよ」
八千代はハンドバッグの口金を意味もなくパチンと閉めた。
暗い恋
茜《あかね》ますみはここの所、機嫌がひどく悪かった。
朝からヒステリックな声で内弟子や女中を叱《しか》りつける。稽古場《けいこば》でも始終、いらいらしている様子が誰《だれ》の目にもはっきり見えた。
死んだ海東英次と組んで昨年、発表した「光の中の異邦人(エトランゼ)」が芸術祭に参加して最有力候補と噂《うわさ》され、少なくとも奨励賞は確実だと下馬評も高かったのが、いざ蓋《ふた》を開けてみるとまるっきり問題にもならなかった。しかも、茜ますみとは邦楽界でとかくライバル扱いをされている新進の深山《みやま》里代が「四季の女」という小品で賞を獲得し、新聞や週刊誌がこぞって彼女の新鮮な感覚と柔軟なテクニックを賞讃した。年齢も深山里代の方が茜ますみよりずっと若いし、洋舞的な表現や、バレエの技術を大胆に取り入れた作舞が近代人の好みに迎合されもしてテレビや映画にも次々と出演がきまった。
そうしたニュースが報じられる時、必ず長年の宿敵、茜ますみの鼻をあかした、とか、完全に打ち負かした、とかいうようなマスコミ好みの表現が一々、茜ますみの神経を昂ぶらせた。
「なんだい、あんな青くさい小娘の芸と比較されてたまるもんか。素人《しろうと》ならいざ知らず、芸のよしあしの分かる人間なら見向きもしやしない。相手にするのも大人気《おとなげ》ないから、私は黙って何も言いませんけどね」
と茜ますみは憎悪をオブラートに包んだような言い方をしていたが、負けず嫌いの彼女だけに「深山里代」の名を耳にする度ごとに内心、凄《すご》い対抗意識を燃やしているのは事実だった。
二月二十日劇作家、三枝《さいぐさ》栄太郎の古稀《こき》の祝がTホテルで催された。
三枝栄太郎と茜流の先代家元、茜よしみとは若い頃《ころ》にロマンスを謳《うた》われた関係から茜一門は余興の舞踊や、その他の接待に狩り出された。
三枝栄太郎は髪も髭《ひげ》も真白な、鶴を思わせる老人である。
「あんな悟りすましたようなお爺《じい》さんが、うちの先代家元とかけ落ちみたいな事をしたなんて可笑《おか》しいわねえ」
数多くの門下生や知人、名士に囲まれて、金|屏風《びようぶ》の前にちんまり坐《すわ》っている三枝老人を見て染子がペロリと舌を出した。
「悪いわよ。先生って言わなきゃ。お爺さんだなんて……」
傍から八重千代がたしなめる。結い立ての日本髪が重たげであった。
「いいじゃないの。七十歳なら立派なお爺さんだもの」
染子は茶目ッ気のある笑い方をして辺りを見廻《みまわ》した。
「それにしても劇作家なんてたいしたもんね。来る人、来る人、有名人ばかしじゃないの。八重千代ちゃん、ぼやぼやしてないでパトロンを探すんならいいチャンスだよ」
「染子さんたら、馬鹿《ばか》ばっかし。そろそろ仕度をしないとお師匠《ししよう》さんに叱《しか》られるわよ」
八重千代は気取った歩き方で、今日の仮の楽屋になっている控え室の方へ去った。
「なにさ、まだ小一時間もあるのに……」
腕時計を覗《のぞ》いて染子は呟《つぶや》いた。ぶらぶらと受付の方へ出て見る。劇作家の祝賀会だけあって客は演劇界の人間が多い。歌舞伎や新派新国劇のスター級の男優、女優がひっきりなしに受付を入って来てロビーのそこここで談笑していた。
「染ちゃん……」
呼ばれて染子はふりむいた。
「あら、菊四ちゃん」
赤い豪華な絨毯《じゆうたん》を渡って近づいて来たのは中村菊四という今、売り出しの若|女形《おやま》である。能条寛の父の尾上勘喜郎らと同じK劇団に所属している。
「今日はお手伝なんでしょう。御苦労さん」
中村菊四は女形らしいもの柔らかな言い廻《まわ》しをした。瓜実《うりざね》顔の古風な美貌《びぼう》である。声も女のように細く甲高《かんだか》い。
「染ちゃんも今日の余興に出るの」
「出ますよ。夢の浮橋≠チていう新作御祝儀物だけど……」
そっけなく染子は答えた。どうも虫の好かない相手である。タイプも性格も染子の気性に合わないし、別にもう一つ、理由がある。
「あの……八千代ちゃんも一緒……」
お出でなすった、と染子は底意地の悪い顔になる。
「八千代ちゃんは別よ」
「踊るんでしょう。でも……」
「ええ、出ますよ。勿論《もちろん》……」
「なにを踊るの」
「プログラムをみたらいいでしょう」
「プロには余興、茜ますみ社中《しやちゆう》としか書いてないもの……」
菊四は切れ長な眼のすみで染子を見た。
「教えて頂戴《ちようだい》よ。染ちゃん」
「地唄《じうた》風で鷺娘《さぎむすめ》を踊るわよ」
「そりゃあ……」
「茜ますみ先生が何を踊るかは訊《き》かないの」
染子は皮肉っぽく言うと、さっさと中村菊四に背を向けた。
(色事師のくせして八千代ちゃんみたいな素人《しろうと》娘に眼をつけるなんて、身の程知らずな奴《やつ》ったらありゃしない……)
ぷりぷりしながらロビーを横切って行くと大きな壺《つぼ》に梅を挿した盛花の脇《わき》に紋付の幅広な後姿が見えた。背の紋が「揚げ羽の蝶《ちよう》」である。不機嫌が染子の頬《ほお》からすっと消えた。
(音羽屋さんが来てる……とすればもしかすると……)
人ごみを縫ってそっちへ進みながら、染子の眼は尾上勘喜郎の周囲へ素早く動いた。
探すまでもなかった。
黒のドスキンのダブルに、黒地の水玉の蝶ネクタイという、さりげない恰好《かつこう》の能条寛は父親の尾上勘喜郎のすぐ右隣で演出家風の男と立ち話をしていた。
(やっぱり来てる……)
染子は声をかけようとして慌《あわ》てて言葉を呑《の》み込んだ。能条寛の左前側に立って話の仲間入りをしているのが茜ますみだと気づいたからである。黒地に銀で波をあしらった紋付に青海波《せいがいは》の帯を締めている。上背とボリュームが日本人ばなれのした着こなしであった。
染子は廻《まわ》り道をして、そのグループの後側へ近づいた。茜ますみの背後だから、能条寛からは正面である。例によってポマードっ気のない短い髪をぼさぼさと額に散らして、映画俳優というよりスポーツマンと言った方がぴったりする寛の精悍《せいかん》な顔が見えた。
(どう見たって歌舞伎《かぶき》畑の人間じゃない)
傍にいる尾上勘喜郎の息子《むすこ》だというのが嘘《うそ》のようであった。それでいて面ざしはどことなく似ている。会話が聞えて来た。染子は立ち聞く心算《つもり》ではなしにそれを聞いた。
「なにしろ近頃《ちかごろ》の世の中はまやかしですからな。わけのわからないものが珍重され、筋の通ったものは敬遠される。全く馬鹿《ばか》げていますよ」
語気がかなり激しかった。こうした祝賀会のパーティでささやかれる会話にはふさわしくない。
声の主は演出家風の男だった。上背が高く、痩《や》せぎすなようでがっしりした肩幅である。
「小早川先生のお言葉を伺《うかが》うと本当に力強くなりますわ。私のようなものはもう時代から見放されてしまったのかと、実を申せば淋《さび》しく存じて居りましたの」
茜ますみのはなやいだ声で、染子はああ、そうだった、と一人合点した。
(小早川……)
その名前に記憶がある。顔もそう知ってみれば週刊誌なぞで何度かお目にかかっても居た。小早川|喬《たかし》という新進の演出家である。電子音楽を使って歌舞伎《かぶき》の演出をしたり、能にストリッパーを起用して、しばしば話題をばらまいている。年齢は四十歳前という事だが多少、老けて見える。
「大体、僕は芸術祭なんてものは価値を認めてないんですよ。それは、僕の演出したテレビドラマ、及び新劇の若手ばかりで構成した芝居が昨年と今年と連続して賞を貰《もら》いましたが、僕は正直言ってそれ程、有難がっちゃあいない。それだけの事なんですからね。賞をくれるというから、じゃ貰いましょうと言うね……」
小早川喬は不遜《ふそん》とも見える態度で続けた。
「はっきり言うが、茜さん、あなたの芸はまだ本物じゃない。怒ってはいけませんよ。ファンタスティックなものを内蔵しながら、それがうまく引き出されて来ないんですな」
茜ますみは細い眉《まゆ》をふるわせた。
「それは……どういうことでしょう。私の芸が未熟とは、わかっておりますけれど……」
芸にかけては自負心の強い女である。しかも茜流家元という肩書に遠慮して舞踊批評家もあまりずけずけした事は、面と向かって言うわけもない。
「芸が未熟だというのではありませんね。日本人にしては稀《まれ》な、女性としては得難いほどの感覚というのでしょうか、雰囲気というものか、とにかくそうした素晴らしい素質を具備しているくせに、今までそれを導き出す演出家にぶつからなかったということがあなたの不幸なんじゃありませんか」
小早川喬は自信たっぷりに茜ますみを見た。額の広い、鼻梁《びりよう》の高い、神経質な容貌《ようぼう》が如何《いか》にも芸術家タイプである。
「世辞を言うわけではないが、今度の受賞作品、深山里代の四季の女≠ナすか、あれなんぞ全く頂けないですな」
深山里代の名が小早川の口から出たので、染子はなんとなく茜ますみの顔色を窺《うかが》う。生憎《あいにく》斜め後向きで表情は解らないが、思いなしか肩の辺りに緊張が走ったようだ。
(寛さん、こっちを見てくれたらいいのに……)
染子は少しばかりいらいらした。能条寛は話に夢中になっている風ではなかった。むしろ、小早川と茜ますみのやりとりにはまるで無関心を装っていた。話には興味がないが、座をはずすきっかけがないので止むを得ず同席しているといった恰好《かつこう》に見える。
(さっさと、こっちへ来ればよさそうなものだのにさ……)
寛のうつむきがちな姿勢を染子は怨《うら》めしげに眺めた。彼女にとっては有難くもない小早川の台詞《せりふ》がまだ聞こえてくる。
「大体、深山里代という人は日本舞踊の伝統をなんと心得ているのか。バレエのテクニックを日本舞踊に導入して云々《うんぬん》と立派そうな説明をしておるが、あれはバレエの衣裳《いしよう》を着て下手くそな日本舞踊を演じているだけではありませんか。猿真似も甚だしい。舞踊家としてもみすぼらしげでもの欲しそうだし、それに喝采《かつさい》する世評も愚かしい。そう思いませんか、茜さんは……」
茜ますみは眼を伏せたまま低く答えている。彼女の事だから、相手の言葉にすぐ迎合するはずはない。ライバルの悪口を内心では大喜びに喜んでも、表面はむしろ、かばうような態度に出ているに違いなかった。だが、茜ますみが小早川喬に深い関心を抱きはじめたのは、その物腰に、はっきりと出ている。
(うちのお師匠さんと来たら、全く八方美人なんだから……)
腹の中で染子が呟《つぶや》きかけた時、寛の視線がひょいと上がった。すかさず、染子が片眼をつぶってみせた。
寛は一度、染子から眼を逸《そ》らしゆっくりとタバコを灰皿に捨てた。
心得て染子は人のあまり集まっていないテラスの方へ歩き出す。丸い柱のかげで待っていると、はたして能条寛が大股《おおまた》で近づいてきた。
「やあ、お待ちどお……」
笑いかける頬《ほお》にえくぼが浮いた。
「お久しぶりね」
染子も微笑して言った。
「なんであんなつまらない話の仲間入りしてらしたの。阿呆《あほ》らしい」
「いや、別に仲間入りしたわけじゃない。たまたま僕の傍で、むこうが喋《しやべ》り出したのさ。仕様がない……」
「あんな所で油売ってる間に楽屋でも覗《のぞ》いたらいいんだわ。八千代ちゃんが踊るのよ」
染子はいたずらっぽく笑った。
「知らなかったでしょう」
「知ってるさ。茜ますみさんに聞いた……」
ぼそりと寛が応じて、染子は意外な目を向けた。
「知ってるなら、なんで控え室に来ないのよ。鷺娘《さぎむすめ》を京舞風にアレンジした素晴らしいのを彼女が舞うのに……。全部、白の衣裳《いしよう》で通して、しごきの色だけ変えて曲の変化を表現するのよ。いいアイデアでしょう」
「そうらしいね」
そっけない寛の相槌《あいづち》に染子は躍起になった。
「八千代ちゃん、きれいだから……白が似合う人でしょう。まるで花嫁人形みたいよ」
「そうかい」
「いいのよ。遠慮しないで見に行きなさい。もう、すっかり仕度ができている時分よ」
寛は知らぬ顔でタバコに火をつけた。虚々《そらぞら》しく煙を吐く。
「行かない気……」
「別に、僕が見なきゃなんないわけはないでしょう。彼女の師匠《ししよう》じゃなし……」
「へえ……、風向きが可笑《おか》しいのね」
染子は袂《たもと》から自分のシガレットケースを取り出しながら、男の横顔をまじまじと見た。
「わかったわ。彼女と喧嘩《けんか》したのね。道理で八千代ちゃん、ここんところ元気がないと思ったわ。ふうん、そうか……」
「喧嘩なんかしないさ。あんなオチャッピイを相手にしたって仕方がない……」
自棄《やけ》にタバコをもみ消した。
「わかりましたよ。なんとかは犬も喰《く》わぬという奴《やつ》でしょう」
染子に笑われて寛はむきになった。
「誤解も甚だしいね。染ちゃんの台詞《せりふ》だとまるで僕と彼女が恋人かなんぞのようじゃないか」
「あら、そうじゃないの」
「とんでもない」
「寛さんたら、私は何も新聞記者じゃないのよ。勿論、口外はしないわ。かくさなくっても大丈夫……」
寛は腹立たしそうに染子を見た。
「違うったら……断じてそんなんじゃないんだ」
染子の顔から微笑が半分、消えた。
「念のために言っとくけど、それ本気でしょうね……」
「ああ、本気さ……」
「私と八千代ちゃんとは無二の親友なのよ。なんでも打ちあけて話す姉妹みたいな間柄だってことは、寛さんもご存知だわね。その私が訊《き》いてるのよ。寛さん……」
濃い眉《まゆ》をきっとあげた。立ち役を得意とするだけあって、気性も竹を割ったような女だ。
「楽屋へ八千代ちゃんを見に行ってあげないつもり……」
「くどいねえ、君も……、男が行かないと言ったら行かないにきまってるよ」
「そう」
染子は全く微笑を消した。
「一つだけ教えてあげるわ。あんたのお父さんと同じ劇団の中村菊四、あいつが八千代ちゃんに大|熱《あ》つあつなのよ。それ聞いても平気でしょうね」
寛は薄く笑った。彼らしくない表情である。
「八千代ちゃんだって年|頃《ごろ》の娘だからね。惚《ほ》れる奴《やつ》の一人や二人なけりゃ気の毒じゃないか。売れ残らなけりゃいいがと心配してた所さ。中村菊四なら、ぐっとおめでたいね」
うそぶいて見せた寛を、染子はにらみつけた。生まれつき気の長い方ではない。
「ようござんす。その台詞《せりふ》そっくり八千代ちゃんに伝えてあげますからね。あとで後悔しても追っつかないよ」
「御念にゃあ及びませんね」
時のはずみ、言葉のはずみである。
「ふん、あんたもやっぱり細川昌弥と同じなんだ。せいぜいガスに注意しなさいよ。恋人を熱海まで呼び出しておきながら、死に神にとっつかれて自殺するなんざ、他人迷惑もいいもんだ。映画俳優なんてもんはどれ程、えらいか知れないが、人間的にゃなっちゃあいない。人の皮着た畜生って台詞《せりふ》をミキサーにかけて頭からぶっかけてやりたいね」
感情にまかせてぽんぽん言ってのけた染子の言葉に、寛の眼がキラリと光った。
「ちょっと待ってくれ、染ちゃん……、細川昌弥は誰《だれ》を熱海へ呼び出したんだ」
「きまってるじゃないの。あんたも頭がいい方じゃないね」
「りん子ちゃんか……」
染子の妹芸者のりん子は昨年、細川昌弥が自動車事故を起こした時、助手席にいて重傷を負った女である。傷はもう回復して再びお座敷に出ているが、スキャンダルとして新聞に書き立てられた心の傷痕《きずあと》はまだ消えてはいまい。
「さあね。それを聞いてどうする気さ」
染子はむかっ腹を立てた儘《まま》、突慳貪《つつけんどん》に言った。
染子の不機嫌に、能条寛はひるまなかった。
「細川がりん子ちゃんを熱海に呼び出す、それは何月何日っていう約束だったんだい。え、染ちゃん……」
ぶすっと唇を結んでいる染子へ追いすがるように言った。
「頼む、教えてくれよ。なあ……」
「一月十四日よ」
「一月十四日……」
寛はうなった。
「それに間違いはないね」
「間違える筈《はず》がないわ。りん子へ来た細川の手紙を私はこの眼で見たんですもの……」
「なんて書いてあった、それは……」
「十四日のハト号で大阪を発つから、熱海で落ち合おうってさ。りん子は一人で旅館へ入るのが嫌いだから熱海駅の待合室で待ってたそうよ。特急ハトが熱海へ着くのが六時二十八分、ちょうど暗くなってるから旅館へしけ込むには便利な時間ね」
怒っているから染子の言葉はきつい。
「十四日の午後六時二十八分……か。それで細川昌弥は来なかったんだな」
「来れる筈《はず》がありませんよ。彼はその頃《ころ》、神戸のアパートで冷たくなっちまってたんだもの。なんにも知らないりん子はかわいそうに、思い切れなくて十時近くまで駅に待ちぼうけ……。泣き泣き帰って来たときはまるで幽霊みたような恰好《かつこう》でさ。男はみんな薄情者よ」
「そうか……」
寛は眉《まゆ》を寄せた。細川昌弥の死が発表されたのは一月十五日の朝刊である。
「それで、くどいみたいだけど、細川からの手紙は何日付だったか知らないか……」
「速達だったわね。消印は確か十二日|頃《ごろ》じゃないかな。だってりん子の所へ来たのが十三日の午前中だったし……おまけに、その晩電話かけて来てね」
染子はいつのまにか話に気をとられて、立腹している事を忘れかけている。人の好い証拠だ。
「電話を……細川がか……」
「そう。神戸から長距離でね。りん子に熱海へ来れるかどうか確かめて来たのよ。行き届いたことでしょう……」
「それは何時頃……」
「おぼえてないわ。人のことだもの。それにお座敷の忙しい日だったから……」
「りん子さんは勿論、熱海へ行くと返事をしたんだろうね」
「きまってるじゃないの」
笑いかけて染子は先刻《さつき》の怒りを思い出した。表情が急にけわしくなる。
「能条さん、あんた、いつから俳優を止めて警察へ御転勤になったんです。それとも、今度の映画で刑事役でもなさるんですか」
苦笑して何か言いかける寛を尻目《しりめ》に染子はさっさとテラスを抜け出した。
寛が染子の後を二、三歩追ったとき、ボーイが慇懃《いんぎん》な態度でロビーやテラスの客たちにテーブルの仕度が出来たことを告げ、着席を勧めた。
止むを得ず寛も父親と並んで指定の席へ着く。祝賀会にはつきもののスピーチがいくつも続いて、宴会のコースになったが寛はなんとなく落ち着かない。
「ねえ、寛ちゃん、大阪はどうでした。なんか面白いことあって……?」
隣席から中村菊四がねっとりと訊《き》いた。あんまり好きな相手ではないが、父の劇団に所属している女形《おやま》だから、そうそっけなくも出来ない。
「いや、別に……」
フォークの手を止めずに寛は当たりさわりのない返事をした。
「そんなことないでしょ。週刊誌なんかに随分、書かれたわよ」
「そうですか……」
中村菊四の女性的な喋《しやべ》り方も不快だったし、それでなくても今日の寛の胸中はもやもやが渦を巻いている。
「おとぼけなさんな。ホテルに一人だけ一か月近くも泊まってたんですってね。東京の女の子が気をもんで大変よ」
菊四は切れ長な目で色っぽく睨《にら》んだ。寛は相手にならない。
「映画俳優はいいわね。修業もなんにもしなくったって階段を一足とびにとび上がれるし、自家用車を運転して、バーを飲み歩いて、女の子にもてて……」
一人言めかしく菊四は言い続けた。
「でもね、気をつけた方がよくてよ。近頃《ちかごろ》の女は計算高いし、ちゃっかりしてるしね。それに執念深いもんだから、どんなことであげ足をとられないとも限らないからねえ」
寛は無言でフォークを置いた。ビールのコップに手をのばす。
「週刊誌なんかにも悪質のがあるんでしょ。実話雑誌の記者にかぎつけられないように情事をたのしむ方法っての、寛ちゃん、私にも教えてよ」
「菊ちゃん……」
じろりと寛が目をあげた。
「大阪の曾根崎にパピロンってバーがあるんだってね」
寛は微笑してゆっくり続けた。
「よしえっていう女の名前、憶《おぼ》えてるかい。細面の、寂しそうな……」
菊四は絶句した。やり場のなくなった目を運ばれた料理に落とした。
「俳優なんてものは女性関係にルーズだって言われるけど全部が全部そうじゃない。たまたま女にもてる立場を悪用する奴《やつ》がいるんで俳優全体が不名誉な噂《うわさ》を頂いちまうんだ。そういう奴にお目にかかったら、頭からひやっこいビールでもぶっかけてやりたいね」
寛はコップの冷たい液体を心地よさそうに飲みほした。
食事が一通り済むと南側のしきり戸が開かれた。金|屏風《びようぶ》をめぐらし、仮舞台が出来ている。鼓の音が高く響いて、最初が茜ますみの「松の扇」、以下、御祝儀物が若い門下生によって舞われた。
浜八千代の「鷺娘《さぎむすめ》」が始まる前に能条寛はさりげなく席を立った。
「寛、どこへ行くんだ」
尾上勘喜郎が怪訝《けげん》そうに息子《むすこ》を見る。寛は苦笑して軽く肩をすくめた。
「つまんない意地を張るもんじゃない」
「そうじゃないんだよ、ちょっと電話してくるのさ」
しかし、父親は何もかも見透したような眼でうなずいた。
「早く戻って来いよ」
「ああ」
寛はロビーへ出て電話を探した。受話器を取ったが別に用事もないし、適当に電話をする相手も思いつかない。
折も折、流れてくる長唄は「鷺娘」である。八千代の白無垢《しろむく》の娘姿が目に浮かんで、寛はひどく子供っぽい表情になった。
(はねっかえりのおたふく奴《め》……)
一週間ばかり前のキャンドルで僅《わず》かの、いさかいが、つい売り言葉に買い言葉でつまらない喧嘩《けんか》別れをしてしまった。
(折角、二か月ぶりで逢《あ》ったのに……)
少々は自分の意地っぱりに後悔も湧《わ》いたが、男の方から頭を下げるのは安っぽいような気がするし、
(あやまるのは女の役目だ……)
と寛は思っている。それにしても八千代の強情なのにも驚いた。せめて二、三日経ったら電話くらいかけて来そうなものだと多寡《たか》をくくっていたのだが、案に相違して梨《なし》のつぶてで音沙汰《おとさた》もない。
(勝気な奴《やつ》だとは知っていたけど……)
気の強い女ほど手に負えないものはないと寛は別に腹を立てた。
(八千代ちゃんって、全く俺《おれ》に気がないのかな……)
とそれも男としてはなんとなく忌々《いまいま》しい。
(俺だって別に彼女に惚《ほ》れてるわけじゃなし、幼な馴染《なじみ》で、妹みたいな気持ちがあるだけなんだから……)
理屈をつけてみても、やっぱり寛は落ち着かなかった。神戸まで行ってわざわざ八千代のために買って来たローマンピンクのハンドバッグとお揃《そろ》いのハイヒールも手渡さないまま、寛の部屋の旅行|鞄《かばん》の中に収っている。
(いい加減に休戦を申し込んでくりゃいいのに、馬鹿《ばか》な奴だ……)
寛はついに受話器を戻すと、ロビーを引きあげた。
が、席へ戻ってみると舞台は「藤娘《ふじむすめ》」だった。踊っているのも浜八千代ではない。
「今、終わった所だよ。八千代ちゃん、きれいだったねえ……」
尾上勘喜郎は息子《むすこ》の表情をしげしげと見ながら聞こえよがしに言った。
「ふん、そう……」
寛はぼそりと席へ坐《すわ》った。わざと席をはずしたくせに、見そこなったとなると物足りない。損をしたと思った。
「八千代ちゃん、踊りながら、こっちの方ばかり見てたぞ。お前が見つからないんで寂しそうだったよ。俺《おれ》の気のせいかも知れないがね」
そう聞くと寛は急に八千代がいじらしくなった。正直なもので親父の前だが照れくさい。
「俺、楽屋へ行ってくるよ」
そわそわと出て行く息子《むすこ》を尾上勘喜郎は微笑して眺めていた。
だが、楽屋になっている控え室のドアの前で、寛の足は釘《くぎ》づけになった。入口の所で、まだ衣裳《いしよう》のままの八千代が立ち話をしている。相手は中村菊四であった。二人の笑い声が親しげである。八千代が先に寛を見つけ、彼女の視線につられて菊四がふりむいた。奇妙な沈黙が、背後から染子の甲高《かんだか》い声で破られた。
「あら、寛さん、あんた何しに来たの」
染子は何か言いかけた八千代を制した。
「やっちゃん、ぼんやりしてないで早く衣裳がえをなさいな。今夜は会が終わったら菊四さんがナイトクラブへ連れてって下さるってねえ、菊四さん、そうだったわね」
菊四は千両役者のようなうなずき方をした。ちらと八千代を見る。
「そうなんだ。もし八千代ちゃんがよければ誘いたいんだけどね。疲れてるかしら」
八千代の眼が自分へ向けられたと知って、寛は無意識にそっぽをむいた。もの欲しげな男に見られたくない。
八千代が低く、しかし、はっきり答えた。
「染ちゃんがよければ、私もお供しますわ」
おいかぶせて染子が言った。
「私は行くわよ。今夜は陽気にさわいじゃおうか、ね、菊四ちゃん」
「賛成ね。じゃ、私は会が済んだら、T劇場側へ車を回して待ってるからね」
菊四は寛を尻目《しりめ》にかけて、意気ようようと楽屋を出て行った。
「さあ、私たちも着がえましょう、さ、やっちゃんったら……」
染子は強引に八千代の背を押して控え室へ入るとドアをぴっしゃり、閉めてしまった。
寛の憤懣《ふんまん》、やる方ない。
(ふん、そっちがその気なら)
もう宴席へ戻る気はしなかった。踊りなんぞ馬鹿《ばか》くさくて見ようとも思わない。
廊下伝いにこのホテルのバーへ行った。なかは暗い。ブランデーを注文してたてつづけに二杯。ふと、隅の客の声が耳に入った。男と女である。寛は止まり木に坐《すわ》った恰好《かつこう》で、さりげなく声のするソファの方を見た。
ひそひそと顔を寄せて話し合っている男女は、茜ますみと小早川喬であった。彼らも宴席を抜け出して来た組であろう。
二人の前のテーブルにはスコッチウイスキーがおかれ、茜ますみの後姿はかなりの酔いを見せていた。そうでなくても色っぽい体と動作の女なのである。
小早川喬は相変わらずの演劇論を喋《しやべ》っていた。フロイド学説が取りあげられるかと思うと日本神話がとび出し、続いて俳優無用論に変わるという奇想天外な話しっぷりである。
向かい合って聞かされている茜ますみの表情は解らないが、熱っぽい声で相槌《あいづち》をうち、深くうなずいている様子からは相当に小早川喬の弁説に惹《ひ》き込まれている。
(小早川教の信者が又一人増えたか……)
不機嫌な顔でブランデーをなめながら、寛は苦笑する。
演劇畑でも、日本の古典的芸能例えば能や狂言、歌舞伎《かぶき》の世界にも小早川喬の奇抜で突拍子《とつぴようし》もない演劇論に傾倒し、彼を教祖の如く崇拝して止まない若いグループがある。
「一度、小早川先生の話を聞いてごらんよ。必ずプラスになるからな……」
と寛も、かつての歌舞伎出身の舞台俳優に勧められた事があるが曖昧《あいまい》な返事をしたきり実行しなかった。
日本演劇の改革を叫ぶ彼の理論は筋も通っているし、確かに立派なものだとは寛も思う。実力者であることも認めていた。しかし、
(人間的にどうも尊敬出来ない男だ……)
それと、彼のはったり的な性格が、生一本で芯の強い寛にはやりきれない。
(所詮《しよせん》は他山の石だ……)
と寛は考えている。
だから普段は意識的に近づかないし、話しかけられても無視する事が多いのだが、今日は止むを得ず、彼の傍に居て、その説を聞いた。理由は、小早川喬の話相手が茜ますみだったからである。
大阪から帰って来て以来、寛は茜ますみに関心を持っている。勿論、男として茜ますみの女に興味を持ち出したわけではない。
(当分、茜ますみから眼を放さない方がよさそうだ……」
そのためには最も有用な協力者となるべき浜八千代に、彼はまだ助力を頼むチャンスがない。
それと……。八千代と話し合ったら、是非とも二人で出かけて見たい所がある。
修善寺の笹屋旅館である。
(まずいかな。若い者同士二人っきりで温泉場へ出かけるのは……)
どうもそれを切り出すのは照れくさいし、八千代がおいそれと同行してくれるかどうか危ぶまれる。彼女が引き受けたとしても、彼女の母親がまず承知しまい。
(やっちゃんが行ってくれないと厄介なんだがなあ……)
能条寛が修善寺行を計画した目的は実地検証のつもりである。
なににしても早急に八千代と話し合いたいのだが、
(仕様がねえな。普段は女探偵を気どるくせに、肝腎《かんじん》かなめの時に意地なんか張りやぁがって……魚が逃げない中《うち》に釣り仕度をしちまいたいのになあ……)
寛は所在なげにカウンターの上のダイスを取り上げた。
乱暴な扱い方をしている中に、ついサイコロの一つが転げてカウンターの隅へとんだ。サイコロの止まった所にビールのコップがあった。老紳士が止まり木にかけていた。
「どうも失礼しました」
寛は詫《わ》びて、サイコロを受け取った。老紳士は眼鏡《めがね》の奥で微笑している。
痩《や》せぎすだが品のいい老人である。服装もいい。英国製でもあろう茶系統の背広がぴったりと身についている。それでいて堅苦しい感じがない。
ダイスを止めて、寛は又、飲みはじめた。
(会社につとめている人ではないな……)
さりげなく老紳士を窺《うかが》う。作家か詩人か、画かきか、音楽家か……とにかく自由業の人間だろうと寛は見当つけた。
このホテルのバーは大体、外人客以外はそうした文化関係の固定客が多いと知っているせいもあったし、紳士のもつ雰囲気がそんな感じだったのでもある。
急に茜ますみが立ち上がった。足元が僅《わず》かだがもつれて、踊りの素養を巧みに利用した姿勢が見事だった。
「先生、私、もっともっと先生のお話が伺《うかが》いたいわ。先生のお話ですと、私、今までとは全然、新しい空を覗《のぞ》かして頂けるような気がしますの」
かすれたような低い声が官能的に響く。
「僕も今夜はまだまだ喋《しやべ》り足りない気持ちですよ。なんなら場所を変えてお話しましょう」
「嬉《うれ》しいわ。先生」
茜ますみは全身で小早川喬へもたれかかった。
「しかし、舞台の方はいいんですか」
「かまいませんの。内弟子たちが心得ていますから……」
「それじゃあ……」
小早川は茜ますみの肩へ手を回して、バーのドアを押した。見送って、寛も勘定をすませて出た。
暗いホテルの横の出口へ向かってもつれ合うような恰好《かつこう》の二人が歩いて行く。後を追う気はなくて、寛はなんとなく立っていた。ふと廊下の角に男がいるのに気がついた。その男は寛に気づかない。じっとホテルを出て行く男女の姿を見つめている。その眼の奥に男の嫉妬《しつと》がギラギラと燃えている。茜ますみの内弟子の五郎の紋付姿を寛はあっけにとられて眺めた。
秘密旅行
宴席へ能条寛が戻ってみると、会は既に終わっていた。
客の大半は帰ってしまって、ガランとした広間に主催者側の数名が後始末の相談でもしている様子だ。
寛はロビーから車寄せに出た。
「親父《おやじ》の奴《やつ》、先に帰っちまったな」
案外、誰《だれ》かに誘われて二次会に銀座へ流れて行ってしまったのかも知れない。車の鍵《かぎ》を探してポケットへ手を入れた。キイホールダーの冷たい触感が温まった指先に快い。
車のドアを開けて、寛はキイホールダーを眺めた。金色のケースに入った小さなトランプが下がっている。横が二センチ、縦が四センチ足らずのかわいいトランプカードである。この車を買った時、浜八千代がプレゼントしてくれたものだ。
ハンドルを握って、寛は行く先を定めずにスタートした。無意識に銀座へ向かう。顔|馴染《なじみ》のバーにでも寄る気だった。
「まてよ……」
バーの暗がりの中で女の子にきゃあきゃあ騒がれるのもうるさいし、サインをねだられるのも苦手ではある。それ程、飲みたい酒でもなかった。
一方交通で車の出入りのやかましい通りを抜けて、銀座の裏側へ出た。ずらりと並んでいるバーのネオンも、この辺りでまばらになる。その代わりに料亭の名を入れた外灯がちらほらと見えはじめる。新橋の花柳界へ近い。「浜の家」と粋な文字の浮かんだ玄関へ、寛は車を止めた。
(どうせ、やっちゃんは帰っていまいが、是非、話したい事があるので、明日の夕方、撮影所から電話する。その時間に外出しないでくれと、彼女のお袋さんに言伝てを頼んでおこう……)
理屈は勝手なものである。本心は中村菊四と一緒にナイトクラブへ出かけた八千代が気になってやりきれないのだ。
(染ちゃんが一緒だから……)
まあ、どうという事はないだろうが、中村菊四が八千代に充分、関心があると染子から聞かされたばかりだけに、心中、甚だ穏かでない。
「浜の家」の入口は敷きつめた玉砂利に水が打ってあって、玄関|脇《わき》の木賊《とくさ》の緑が外灯の光に生き生きとして見える。内玄関を入ると、客座敷のにぎやかさが手に取るようだ。
「あら、音羽屋の若旦那……」
顔を出したのは八千代の母親であった。座敷へ挨拶《あいさつ》にでも行く所らしい。
「お珍しいわね。さあ、どうぞ、どうぞ」
寛はつい、靴を脱いだ。
「相変わらず、ご繁盛だね」
母親は気さくな微笑で受けた。
「おかげさまでね。さあ、おあがんなさいな。ちょうど八千代も帰って来ているのよ」
浜八千代が家にいると聞いて寛は眼を丸くした。
「八千代ちゃん、帰ってるんですか」
「ええ、もう三十分も前かしら。今日はね、ほら劇作家の先生のお祝の会で、余興に出たもんで……」
寛は黙ってうなずいた。なんにも知らない八千代の母親に今更、その祝賀会へ自分も出席していたとは言い難い。
それにしても、八千代が帰宅していたのは意外だった。中村菊四とナイトクラブへは行かなかったのか。
「寛ちゃんが見えたと聞いたら喜びますよ。たしか、部屋でセーターかなんか編んでましたよ」
八千代の母親はいそいそと奥へ呼んだ。
「八千代、寛ちゃんがお見えだよ。八千代」
八千代はすぐに返事はなかった。
「なにしてんだろう。あの子、部屋にいる筈《はず》なんですけどね……」
せかせかと戻りかける母親を寛は制した。
「あ、小母さん、いいんですよ。お客で忙しんでしょう。僕、八千代ちゃんの部屋へ行ってみますから……」
「そう、そいじゃ。そうしてちょうだいな。折角、いらしたんだからゆっくりしていらっしゃいよ。私もお座敷の方が一段落したら話を聞きに行きますからねえ。八千代にそう言って、お酒でもウイスキーでも出させて……すぐに、おいしいものを作らせるから……」
「ありがとう。あんまりかまわないで下さい。勝手に我儘《わがまま》を言いますから、心配しないでおいて貰《もら》いますよ」
寛ははずんだ声で応じた。朗らかな足取りで廊下を八千代の部屋へ急ぐ。
「やっちゃん、僕だよ、入ってもいいかい」
障子の前で寛は神妙に訊《き》いた。
「どうぞ、お入り遊ばせ」
取り澄ました八千代の答えも、なんとなく機嫌がいい。
障子を寛が開けて、二人は顔を見合わせた。にじみ出るような微笑が双方の頬《ほお》に浮かぶ。
「やっちゃん……」
寛は八千代の前の椅子《いす》に腰を下した。日本座敷に絨毯《じゆうたん》を敷いて、洋室風の応接セットを入れている。部屋全体の色調が淡い藤《ふじ》色なのも八千代の好みだった。
「行かなかったのかい……」
寛は素直に言った。八千代はソファに坐《すわ》って編み物をしている。もう普段の洋服に着替えていて、キルティングのスカートから自然に伸ばした足がすんなりと健康的だ。
「行かなかったの」
八千代は編み針へ眼を落としたまま応じた。
「どうして……?」
「どうしてって……」
毛糸を置いて、立ち上がった。
「ヘネシーのブランデー、買っといたけど……召し上がる……?」
寛の返事も待たずに八千代はガラス戸棚を開けた。花模様のコーヒー茶碗《ぢやわん》やセット、それにカトレアの花を散らしたデザインのガラスのコップの大きいのや小さいのや、ブランデーグラス、ソーダーグラスなどのおそろいが並んでいる横に、まだ封を切っていないヘネシーのブランデーの瓶が見えた。
「わざわざ、買っといてくれたの」
「だって、寛の好物でしょ」
「好物か……」
思わず笑って、その心づかいがひどく嬉《うれ》しい。
「自分で封を開けてね。氷とお水を取ってくるから……」
フレアスカートの裾《すそ》をひるがえして、八千代はいそいそと出て行った。入って来た時は氷と水の他にチーズとクラッカーを木皿にのせて来た。
「ちょっと香だけ嗅《か》いでごらん。いい匂いだから……」
コニャックの芳醇《ほうじゆん》な香りに寛は目を細めて八千代を誘った。顔だけ寄せて、
「わあ、きつい匂いだ……」
八千代は子供っぽい声をあげた。氷片を氷ばさみで挟んでコップの水へ落し、椅子《いす》へ戻りながら小さく別に言った。
「こないだはごめんなさい。あんな悪口みたいな事を言っちゃって」
「なにさ、悪口みたいなことって……」
寛はブランデーグラスを両掌《りようて》で包みこむようにしながら、わざととぼける。
「丹波篠山《たんばささやま》、山家《やまが》の猿がタキシード着たみたいだって言ったこと……」
八千代はいよいよ伏し目になる。
「なんだ。あれは僕の事、言ったんじゃないんだろう。一般の日本の男性諸氏のことなんじゃないのかい」
八千代は上目づかいに相手を見た。くすんと笑う。
「ヒロシって、相変わらず自信家ね」
「そうさ。少なくとも君の前じゃ天下の二枚目だもの」
「それ、どういう意味」
「いや」
寛は照れくさそうにまばたきをした。
「なにしろ、僕はタキシードだろうと、フロックコートだろうと着こなしならまかしといてくれってんだ。そうだろう、やっちゃん」
「さあね」
八千代は自分のために戸棚からオレンジジュースを出した。
「そういう時には、嘘《うそ》にもうんというのが近代人のエチケットだぜ」
「そんなら、お義理にうんだわ」
「馬鹿《ばか》にしてやがら……」
二人の間に軽い笑い声が湧《わ》いた。笑い止んだとたんに寛が言った。
「物は相談だけど、一緒に修善寺《しゆぜんじ》まで行ってくれないかな……」
「修善寺へ……?」
八千代は呆気《あつけ》にとられた。
「修善寺へなにしに行くの?」
「遊びに行くのさ」
寛はチーズクラッカーをつまんだ。
「仕事がちょうどキリでね。来週三日ばかり休みがとれるんだよ。もうスキーはシーズンオフだしゴルフは好きじゃないし、せいぜいゆっくり温泉にでも寝に行こうかと思ってさ」
まじまじと寛の顔をみつめて、八千代は低く応じた。
「温泉へ休息に行くのならなにも修善寺に限らないでしょう」
「修善寺でないと具合が悪いんだ」
「なぜ……」
「今度の次の、その次の映画がどうも修善寺物語になりそうなんだ。知ってるだろう。芝居の、岡本|綺堂《きどう》先生の作品だよ」
「知ってますとも。あなたのお父様が夜叉王《やしやおう》、ついこの間、明治座でおやりになったじゃないの。あれを映画化するの」
「そうらしいよ。秋の大作にするらしい」
「寛は、もし出演するとすれば頼家《よりいえ》の役ね」
八千代はちらと歌舞伎《かぶき》の舞台を想像した。鎌倉二代の将軍頼家は悲劇の主人公らしく白面の貴公子である。
「そういう話が来ているんだけど……」
「ミスキャストね」
ずばりと八千代はいった。
「僕もそう思うよ。だから、演《や》ってみたい気もするんだ」
「ヒロシも随分、役者づいて来たのね」
微笑して八千代は逸《そ》れた話題を前へ戻した。
「でも、修善寺へ行くのは、その映画のためじゃないわね。映画の話が未決定なのに、早合点で修善寺と史蹟《しせき》を訪ねるなんて可笑《おか》しいわ」
寛は答えず、チーズクラッカーを噛《か》んでいる。かまわず八千代は続けた。
「それに、ヒロシの言葉どおり、休息のために修善寺へ行くんならなにも私と行くわけないでしょう。付き人の佐久間さんとでも出かけた方がお似合いだわ」
「八千代ちゃんと一緒でないと困るんだよ」
八千代は相手の眼を正面から見た。寛はブランデーのコップを左手に持ったまま、部屋の隅のレコードプレイヤーのスイッチを入れた。陽気なジャズが流れ出す。ドラムの音が部屋に響いた。
「てへ、派手にさわぎやがんの」
ラジオのダイヤルを廻《まわ》すと三味線の音が聞こえて来た。美智子妃殿下が無事に親王《しんのう》様を出産なさったと報道されたのは先週の事である。その慶祝番組の一つらしく、曲は長唄《ながうた》の「鶴亀《つるかめ》」であった。
八千代は寛の背後から手を伸ばしてスイッチを切った。覗《のぞ》き込むように顔を寄せて言った。
「ヒロシ、貴方《あなた》も黒い扇に関心を持ったのね」
二月の末なのに気候は四月に近かった。
東京駅|八重洲口《やえすぐち》の構内にあるアートコーヒーの喫茶部で、八千代は落ち付かない顔を入口へ向けていた。
膝《ひざ》の上には大型のピンクのハンドバッグが一つ。それとキャンディやチョコレートを入れた紙袋が脇《わき》にコートと一緒に置いてある。
昼下りの喫茶室は、かなり混んでいた。駅の構内だけに利用者はビジネスが目的らしい。中年の男性が目立って多かった。
卓上のフリージヤの花から、八千代が何度目かの視線をドアへ向けた時、黒いふちの眼鏡《めがね》をかけ、髪をきっちりと七三に分けた若い男が入って来た。チャコールグレイのトレンチコートを着ている。すっと店内を見廻《みまわ》して、まっすぐに八千代の傍へ近づいた。
「待ったかい、やっちゃん」
声を聞くまで八千代は気づかなかった。
「ヒロシ……なの」
まじまじと顔をみつめた。
「わかんないだろう。これなら」
あたりを窺《うかが》って、そっと眼鏡をはずした。
「眼鏡をかけなくとも、見違えそうだわ。ああ、その髪の感じね。嫌だわ。ポマードのにおいがぷんぷんする……」
寛の短く、ぼさぼさに油っ気のない髪形は、映画俳優としての能条寛のトレードマークでもあった。
「変わるもんね」
八千代は、ほっと嘆息をついた。
「本当は、つけ髯《ひげ》もしてこようかと思ったんだけど、八千代ちゃんに嫌われるとまずいから止めたんだよ」
眼鏡をかけて、腕時計を覗《のぞ》いた。
「まだ、いいな。おい、僕もコーヒー」
声をかけられたウェイトレスも勿論、彼が人気スターの能条寛とは気がつかない。
「そんな変装、よくやるの」
八千代は冷えかけた自分のコーヒーを唇へ運んだ。
「時々ね。そうでもないと外出するたんびに背広をやぶかれたり、ネクタイ取られたりじゃ、間尺《ましやく》に合わないからねえ」
「変装して悪いことをするか……なるほどねえ」
「おいおい、何を考えてるんだい」
分別臭い笑いを浮かべた八千代へ、寛は大きく手をふった。そんな動作にいつもの彼が出て、八千代は安心する。なんとなく、能条寛でない人間とこれから旅行へ出発するような心細さがあったのだ。みつけない寛の変装のせいである。
「だが、よく出て来られたね。僕はどたんばになって、やっちゃんが駄目だと言うんじゃないかと、ひやひやしてたんだ。今日も撮影所で仕事をしていながら、電話がかかってくると君からかと思って、その度にびくびくもんさ」
寛は八千代を見た。
「染ちゃんをダシにしちゃったのよ。母には染子さんと修善寺まで遊びに行ってくるって嘘《うそ》をついて、染ちゃんには、どうしても海東先生の死因について調べたいことがあって修善寺へ行きたいんだけど、一人で行くんじゃ母が許可しないから一緒に行ったことにしといてって……」
八千代は眼を伏せた。
「嘘《うそ》をつくのって嫌なものね。辛いわ」
「ごめんよ。嘘をつかせたのは僕なんだから罪は全く僕にあるよ。ごめんな、やっちゃん……」
寛は長い指で前髪をすくい上げようとして、ポマードのついてるのに気がつき、中止した。
「罪だなんて、大ゲサね」
八千代はつとめて明るく言った。折角の旅行を出発から暗いものにしたくない。
「でもね。染ちゃんて正直だから、欺《だま》すのに苦労しちゃった。私一人じゃ心配だから、お座敷休んで一緒に行こうか、なんて言い出すんだもの。断るのに又、一苦心よ」
「あいつは僕もにが手だ」
寛は先週の祝賀会の日、ロビーでの彼女との会話を思い出して苦笑した。
「彼女、僕の事、なんとか言ってたかい」
八千代は笑って、答えなかった。
時計の針が三時十五分前を指した時、二人は立ち上がった。八千代がコートを着ている間に寛はレジスターでコーヒー代を払う。ついでにリーフパイの袋入りを買ってポケットに突っ込んだ。
十五時発、伊東、修善寺行、いでゆ号はかなり混んでいた。客車もほぼ一杯である。もっとも座席は指定だから心配はない。
八千代を窓ぎわへ坐《すわ》らせて、寛はコートを脱いだ。
「やっぱり車で行けばよかったかな」
一人言に呟《つぶや》いた。昨年の暮れ、海東英次の事件が起こった時と全く同じコースで、というのが今度の旅の条件だった。だが、同じ時間という規定は最初から失敗している。
昨年の忘年旅行の際は、十四時のたちばな号だった。寛の仕事の時間の都合で、それには間に合わなかった。
車内の客の大半は伊東へ向かうゴルフ客らしかった。あみ棚にずらりとゴルフバッグが並んでいる。
新婚旅行組が寛達の座席の通路をへだてた隣へ落ち着いている。女だから八千代はそれがひどく気になった。
発車ベルが鳴って、車は大きく揺れ、走り出した。車窓から八千代は遠ざかる銀座の辺りをみつめた。生まれてはじめて母に嘘《うそ》をついてまで異性と二人っきりで出かける旅である。寛を信頼してないわけではないが、やっぱり不安もかくせない。
「やっちゃん」
耳のそばで寛が真剣な声で言った。
「ぼんやりしてちゃあいけないよ。昨年の修善寺行の時、まず往きの車内の事から、なんでも想い出してくれ。海東先生に関する事はなにもかもだ。みかんをいくつ食ったか、アクビをしたか、笑ったか、便所へ行ったのはどの辺りか、なにしろ想い出せる限りのことを洗いざらい、言ってくれよ」
「そんな事、言ったって、私は行きがけから海東先生が修善寺で急死なさると見通して注意してたわけじゃなし、それに三か月も前のことですもの」
それでも八千代は記憶をたどるような眼ざしになった。
「そうね。列車は一箱全部、茜流の関係者だったの。切符はそろえて買ったからだいたい、並んで座席が取れたのよ。海東先生はもちろん、ますみ先生と並んで、その前側がますみ先生の内弟子の五郎さんと海東先生のお社中《しやちゆう》の方が一人」
「通路をへだてた横の席は……」
「長唄《ながうた》の人たちよ。海東先生のお社中」
「君はどこにいたのさ」
「茜ますみ先生たちの後。私と染ちゃんと、りん子ちゃんと、内弟子の久子さん……」
「りん子ちゃんっていうと、例の細川昌弥の愛人だね」
「そう。細川と自動車事故を起こしたのが十二月の半ばごろだから、約半月も前だわ」
「だけど、もう交際してたんだろう」
「ええ、昨年の春ごろかららしいもの。そう言えば旅行中、ずっと染ちゃんがお説教してたっけ。往きの汽車ん中でも、あんなドンファンに欺《だま》されちゃいけないって、そりゃくどい位にね。恋愛している人に、いくら第三者が忠告したってぬかに釘《くぎ》なんだけど、染ちゃんって人は、なんでもムキになるもんで……」
八千代は気がついたように紙袋をのぞいた。寛に微笑して言った。
「なにか、召し上がる……」
紙袋を見て、寛は笑い出した。
「なんだ、まるでピクニックに行くみたいだな。女の子ってのはどこへ行くにもお菓子を忘れないんだね」
「あら、自分だってアートコーヒーでリーフパイを買ったくせに」
「あれはね、飯がわりにしようと思ったんだ。実を言うとまだ午飯《ひるめし》を喰《く》ってないんでね」
「たぶん、そうだろうと思ったからいいもの持ってきてあげたのよ」
八千代は紙袋の底からサンドイッチの四角い箱を掴《つか》み出した。
「ヒロシの好きな赤トンボ≠フビーフサンドよ」
「そいつは有難い。ついでに横浜でジュースでも買うか」
窓の外は川崎あたりである。工場から立ち上る煙で、空がどんよりと暗い。煙突が幾本も突っ立っている。
横浜でジュースを買うという寛の言葉で八千代は思い出した。
「そうだわ。横浜で染ちゃんがシューマイを買ったわ」
「あいつ、どこへ行っても喰《く》い気が張ってやんの。午飯《ひるめし》喰って出かけて来たんだろう」
サンドイッチを頬《ほお》ばりながら寛はずけずけと言う。
「シューマイを三箱買って……」
「それ、みんな染ちゃんが喰ったか」
おどけた寛の台詞《せりふ》に八千代は笑い出した。
「まさか。一箱はますみ先生にあげて、一箱を四人で食べて、もう一箱は……」
八千代は妙な顔をした。
「あら、もう一箱はどうしたのかしら」
「喰っちまったんだろ、いずれ誰《だれ》かが……」
「でも、汽車ん中では食べなかったわ。宿屋では、もうシューマイの事なんか忘れたし……」
「染ちゃんが持って帰ったんじゃないか」
「さあ、あの人なら旅行して食べる物を東京まで残して帰るはずないけど……」
海東英次の事件でてんてこまいをしたから案外、バッグにしまい忘れてもって帰ったのかも知れない、と八千代は思った。
「そう言えばシューマイってビールのおかずにいいものなの」
「なぜさ……」
寛はポケットを探って百円玉をつかみ出した。汽車は横浜のプラットホームへすべり込んだ所だ。窓を開けて、
「おい、ジュース」
とどなっている。八千代はおかしくなった。人気スターの彼が駅売りのジュースを買っている光景なんぞ、彼のファンが見たらなんと言うだろう。
二本のジュースを八千代に渡し寛は悠々と窓を閉めた。
「お飲みよ」
一本を受け取ってストローにすぐ口をつける。八千代も甘すぎるオレンジジュースをごくごくと飲んだ。車内の暖房が強いせいか、しきりにノドが乾く。そう言えばこの前の修善寺行きの時も横浜で牛乳を買って飲んだ。
「へえ、シューマイばかりか牛乳もか、肥る肥ると気に病むくせになあ……」
「でも、本当にノドが乾いたのよ。海東先生たちなんかビールを買って召し上がってたわ。それで染ちゃんがオサカナにどうですかってシューマイをあげたのよ」
「なるほど、それでシューマイがビールのおかずにいいってわけか」
「海東先生がそうおっしゃったのよ。僕はシューマイでビールのむのが一番うまいって、それでみんなが笑っちゃって、ますみ先生がそんなの野暮の骨頂だなんておっしゃるし」
「そうだなあ、シューマイにビールねえ」
その時は、寛もなんとなく笑い捨てた。
大磯《おおいそ》を過ぎる辺りから、車窓から見る風景に梅が目立った。白くかすんだように咲いている。時折は赤い桃の花も見えた。
「やっぱり、あたたかいのね」
八千代はうっとりと眼を細める。
「もう春か、そろそろヨットの手入れでもするかな」
寛は食べ終えたサンドイッチの箱を丸めて腰かけの下へ突っ込みながら言った。
「相変わらず、気だけは早いのね……」
「なあに、春だの夏だのって季節はかけ足でやってくるんだぜ」
ふと、隣席の新婚組を見、それから八千代の足元へ眼を落とした。バッグとおそろいのピンクのカッターシューズをはいている。春の色であった。
不意に八千代の耳へ口を寄せて言ったものだ。
「ねえ、やっちゃん、隣のハネムーンのカップルよか、僕らの方がずっとセンスがあるねえ。服装じゃないよ、人間のカップルとしてだよ……」
「馬鹿《ばか》ねえ、そんな……」
八千代は少し赤くなって寛を遮った。観察するところでは、年齢も寛と八千代くらいだろう。男性はサラリーマンタイプ。女性は、やっぱりビジネスガールという感じである。同じ職場での恋愛結婚というのかも知れない。男性は細かい縞《しま》のチャコールグレイの背広、女性の方はそれより、やや太目の同じ縞のスーツだった。近頃、流行のペア(お揃い)スタイルというのだろう。
軽い羨望《せんぼう》と同時に、八千代の胸にも甘いものが湧《わ》いて来た。
隣で軽い寝息が聞える。八千代は慌てて寛を眺めた。満腹のせいか、車内の温かさに連日の疲労が出たのか、寛はクッションにもたれて眠っている。
「子供みたいな顔をしている……」
八千代はずっと昔、よくそんな寛の寝顔を見たと思った。小学校時分、遊びに来ていた八千代のままごとのダンナ様になった寛は、八千代が花や草の実でお料理を作っている中に花ゴザの上にひっくり返って眠ってしまうのが常であった。
「ヒロシって、本当にねぼすけね」
と頬《ほお》をつねったり、背中を叩《たた》いたりして笑った日がなつかしい。
「あの頃《ころ》とちっとも変わってないわ。ヒロシの寝顔って……」
所在なく、八千代は車窓へ眼をやる。白い波の打ち寄せる浜辺がいつ見ても美しい。夕暮れ近い水平線も朧《おぼ》ろ朧ろに夢のようだ。
準急いでゆ号の乗客は熱海で、大半が下車してしまった。修善寺までの客は数える程しかない。がらんとした車内は、急に暗く、たそがれがしのび込んで来たようだ。
修善寺駅に着いたのは定刻通り、十七時三十分だった。
シーズンオフでもあり、夕暮のせいもあって山間の小駅はひどく裏ぶれた感じがする。旅館名を染めた小旗を持った男が三、四人、改札口に立っていた。
「やっちゃん、こっちだよ」
寛は旅館の客引きをやりすごしておいて切符売場を覗《のぞ》いている。駅員と二言三言、問答して八千代の方へ戻って来た。
「驚いたよ。明日の切符は、一等はもうないんだってさ」
八千代は汽車の時間表を仰いだ。東京行の準急は平日の場合八時発いでゆ号と、十四時二分発いこい号の二本しかない。
「八時の方なら、あるんじゃない」
八千代はいたずらっぽく笑った。寛の寝坊を知っての上の意地悪である。
「冗談じゃないよ。それじゃ、まるで修善寺くんだりまで寝に来たようなもんだ」
「嫌だわ。ヒロシ……」
「なにが……」
八千代は顔をそむけた。
「ああ、寝に来たってのがいけないんだな。馬鹿《ばか》だな。そう神経質になっちゃいけないよ」
寛がフランクに笑ったので、八千代は自分の思いすごしが気恥ずかしい。
「どうする。一日延ばそうか、東京へ帰るのを……」
「駄目よ。一晩って母に約束して来たんですもの。それにヒロシだって明後日の夕方に、雑誌社の座談会があるんじゃないの」
「夕方六時からだもの、それまでに帰ればいいさ」
「あなたはよくても、私は駄目。私だけ先に帰るわ」
「そうはいかない。一人でこんな所に置いて行かれてたまるもんか」
寛は閑散とした構内を見回して肩をすくめる。
「それじゃ宿で車を頼んでもらって、東京までとばそうか」
八千代は気の進まない表情をした。
「なんだか勿体《もつたい》ないわ」
目を落としてつけ加えた。
「そりゃ、今のヒロシにとって車代ぐらいはなんでもないでしょうけれど……どうして二等で帰るのはいけないの」
寛は頭へ手をやった。
「わかったよ。二等で帰るよ」
「人気スターの沽券《こけん》にかかわるかしら」
「とんでもない。僕は席がなくたってかまやしないけど、やっちゃんが疲れやしないかと思ってさ。本当だよ。僕なら一等だろうと二等だろうと同じようなもんさ」
寛は大股《おおまた》に切符売場へ戻って行った。
楓《かえで》の間の客
修善寺駅前からタクシーに乗り込むと、寛は行先を、「笹屋旅館」
と指定した。
タクシーは桂《かつら》川に架かった危うげな橋をごとごとと渡った。昨年の台風の爪痕《つめあと》が川底や土手や河原にまだ生々しく残っている。トラックが漸《ようや》く渡れる程のこの橋も台風後に出来た仮橋で、それに並んで新しい鉄橋が骨組だけ工事が終わっていた。
「笹屋旅館へ電話しといたの?」
山ぞいの道をタクシーにゆられながら八千代は念のために聞いた。
「なんで……?」
「今夜、泊まるんでしょ」
「そうだよ」
「だったら東京から予約の電話をしといたかって訊《き》いてるのよ」
てっきり、そうした手配は済んでいるものとばかり思って尋ねたのだが、寛はあっさり首をふった。
「いや、別に……」
「嫌だわ。ヒロシったら……」
八千代は心細い顔になった。
「不意に行って、もし部屋がないって断られたら、どうする気なのよ」
「大丈夫、シーズンオフだし、ウィークデーだもの、混んでる筈《はず》がないよ」
「だって万が一……」
「やっちゃんって案外、苦労性なんだね」
「ヒロシこそ、無鉄砲だわ」
「大丈夫ったら大丈夫だよ」
寛は煙草の煙を窓外に吐いてゆったりとクッションにもたれている。八千代は少々、つむじをまげた。
「いいわ。もし笹屋旅館へ行ってお部屋がなかったら、私、そのまんま東京へ帰っちゃう」
ハンドルを握っていた運転手が八千代の言葉に笑いながら言ったものだ。
「心配ないですよ。来月になると新婚さんで少しは混むんですがね、今月はどこの旅館も空《す》いてますよ」
寛が、大きく相槌《あいづち》をうち、八千代は知らん顔を装った。
タクシーは十分程で修善寺の温泉街へ入った。せまい道の両側にずらりと土産《みやげ》物の店が並び、その裏が桂川の流れになっている。温泉街共通の街の造りであり、町の風景であった。笹屋旅館は温泉街を突っ切って、かなり山の手の方へ向った奥の台地に建っている。周囲は畑地で梅林が右方へ長く続いていた。ここ一軒だけが孤立している。
タクシーが、八千代にとっては見憶《みおぼ》えのある笹屋旅館の入口へ止まると、番頭や女中がわらわらとかけよって来た。
「いらっしゃいまし」
という声に囲まれて、八千代は寛の厚い肩のかげに小さくなった。
能条寛と浜八千代が通された部屋は、長い廊下を幾曲がりもして階段を上がった離れ造りの部屋であった。入口に桂の間と木札が下がっている。
階段を上がって、と書いたが笹屋旅館は高台の中腹に建っているので奥へ行く程、階段を上がるが二階になるわけではない。
暗くなりかけた庭には筧《かけい》を引いて水が流れていた。竹垣の向うは畑である。
「お疲れになりましたでしょう」
若い女中が茶と名物らしい餅《もち》菓子をテーブルに並べた。三間続きで隅にテレビがあり、電気|炬燵《ごたつ》も据えてあった。
「奥様、お風呂《ふろ》はこちらでございますから……」
ぎこちなく庭を見ていた八千代が女中の言葉に真っ赤になった。
「ああ、ちょっと君……」
廊下で番頭と立ち話をしていた寛が、慌《あわ》てて声をはさんだ。
「もう一つの方の部屋はどこなんだい」
女中は怪訝《けげん》な顔で立って行った。番頭が女中にささやき、女中は自分の早合点にしなを作って笑った。
「それはどうも、てっきり御新婚さんと思ったもんですから……」
番頭は寛へ丁寧なうながし方をした。
「御案内致させますからどうぞ……」
寛はおうようなうなずきをみせたが、ひどく照れていた。
「この上のお部屋でございます……」
女中が先に立ち、寛は入口に出ていた八千代に片眼をつぶってみせてから、又、階段を上がって行った。
「雑誌社のお仕事だそうで、大変でございますね……」
残っていた番頭に声をかけられて、八千代は狼狽《ろうばい》した。とっさに寛がそういう説明をしたものと判断する。
「はあ……」
女の曖昧《あいまい》な微笑は、こういう時にはまことに都合がいい。
「どうぞ、御ゆっくり、御用がございましたら御遠慮なくお申しつけ下さいまし」
番頭がひっこむと、入れかわりに階段を女中が下りて来た。
「先程はとんだ間違いを申しまして……」
八千代はそれにも微笑している他はない。
「あのお食事の方は先生のお部屋でご一緒に、と記者の方がおっしゃいましたが、よろしゅうございましょうか」
八千代は途方に暮れた。
「どうぞ……」
とりあえずの返事に、女中は再度、丁寧なお辞儀をして下がって行った。後姿の消えるのを見すまして八千代は階段を上がる。百合《ゆり》の間と札の下がった部屋から寛が出てくる所だった。
「ヒロシったら、あんたなんて言ったの、女中さんや番頭さんに私達のこと、なんて説明したのよ」
八千代につめ寄られて、寛はにやにや笑った。
「まず説明申し上げ候。これなる女性は近頃《ちかごろ》売り出しの女流随筆家、紫三千代女史、このたび我が社の企画によって修善寺の歴史を訪ねて、というルポルタージュを御依頼申し上げた所、快く御承諾下さいましたので、担当記者付き添いの上、当笹屋旅館に御一泊……という趣向さ。どうだい、下手な小説家顔まけの筋立てだろう」
「それじゃ、私が女流随筆家で、ヒロシが雑誌記者……」
八千代はあっけに取られた。
「そうさ、紫三千代先生……」
「馬鹿《ばか》にしてるわ、そんなの……」
唇をへの字に結んで、八千代は本気で憤《おこ》った。口から出まかせにした所で、女流随筆家などとは人を軽蔑《けいべつ》するのもいい加減にして貰《もら》いたいと思う。
「なんでさ。なんで女流随筆家が、君を軽蔑したことになるのさ。随筆家ってのは文学者だぜ。立派な職業じゃないか」
寛は相変わらずとぼけた笑いを止めない。
「人にもよりけりよ。私がそんな文学者に見えるかどうか考えてごらんなさいよ」
「見えるさ。第一、やっちゃんってのはなかなか文才があるよ。葉書一枚でも実に気がきいていて、情がこもっていて、君にラブレターもらったら魂天外にとぶことうけあいだよ。残念ながら僕はまだ貰《もら》ったことがないけどさ……」
不意に八千代は踵《きびす》を返した。スリッパの音を立てて階段を下りる。自分の部屋へ入ると鏡台の前に坐《すわ》った。
(冗談にも程があるわ。ヒロシっていい年齢《とし》して悪ふざけばかりするんだもの……)
母を欺《だま》してまで出かけて来た旅行なのに、と八千代はぷりぷりした。
(海東先生の死因について、修善寺の実地検証に行くんだなんてエラそうな事、言ったって、てんで無計画なんだから嫌になっちゃう……)
唇の上だけで呟《つぶや》いて、八千代は思い直した。子供っぽい悪戯《いたずら》ばかりしている寛が頼りにならないのだから、せめて自分だけでも積極的に調査しなければまずい。
(折角、修善寺まで来たんだもの、無駄にしたら意味がないわ)
八千代は鏡をのぞいて髪だけ直すと、勢い込んで部屋を出た。
長い廊下を幾曲がりして本館の方へ出た。昨年、茜流の慰安旅行で来た時は本館の部屋へ泊まったものだ。今日はジュースの会社の団体が入っているらしい。
本館の一階にロビーがあり、その横がピンポン室、隣が玉突き、それからホールと並んでいる。ホールの片すみにはスタンドバーがあった。入口の所に土産《みやげ》物の売り場がある。
八千代は品物を見るような恰好《かつこう》でさりげなくその売り子に声をかけた。
「そのコケシを見せて頂けません」
八千代が指したのは頼家《よりいえ》と桂《かつら》をモデルにしたらしい一対《いつつい》の人形である。無論、芝居の「修善寺物語」にちなんだものだ。
グリーンの事務服を着た売り場の女の子はおさげ髪の、せいぜい十七、八歳くらいなのにアイシャドウとアイラインを濃く引いた眼の化粧がどぎつかった。その化粧に八千代は見憶《みおぼ》えがある。昨年、ここへ来た時も染子がコケシ人形をあれこれといじくり回しながら、
「どう、あの子のメイキャップ。まるでミミズクの漫画だね」
と八千代の耳にささやいたものだ。
売り場の女の子は化粧の割合には愛想のよい態度でコケシを取り出してくれた。手に取って八千代はさりげない微笑を女の子に向ける。
「修善寺はいつ頃《ごろ》が一番混むのかしら」
「そうですね……」
女の子は媚《こび》のない答え方をした。
相手が同性であるためかも知れない。
「やっぱり秋ですね。あの……紅葉がきれいですから……」
「すると十月、十一月頃でしょうね」
八千代は考える眼になった。茜流の慰安旅行で来たのは確か十二月六日と記憶している。紅葉の季節としてはもう遅い。
「昨年の十二月でしたっけ、こちらで東京の作曲家の方がおなくなりになったのは……」
八千代は早くも底を割った。老練な刑事のようなわけにはとても行かない。女の子は困った顔をした。宿としてもあまり外聞のいい話ではない。新聞記事に出てしまったのだから、かくしようはないが出来れば早く世間が忘れてくれるのを望んでいる所だろう。
「はあ、そんな事もございましたけれど……」
「大変でしたでしょう。ここの旅館には何の落度もないのに、ああいう事になると本当に御迷惑ですわね」
八千代の苦労した言い廻《まわ》しに女の子は引っかかった。
「そうなんですよ。お酒をのんでお風呂《ふろ》へ入って心臓|麻痺《まひ》かなんか起こしたんですって。警察の人は来るし、夜なかに叩《たた》きおこされるし何日も新聞記者が聞きにきたりして商売どころではないって、ここの旦那さんもこぼしてました……」
「お風呂《ふろ》で死んだっていうと、あのギリシャ風呂の中なんですの」
「ええ、だもんで番頭さんも、うちの売り物にキズがついたって憤《おこ》ってました……」
女の子は、そこではっとしたように八千代を見た。
「でも、あの……ギリシャ風呂の方は、すっかり改装して、神主さんにおはらいまでしてもらったんです。だから、もう……」
八千代は柔らかく応じた。
「そりゃそうね。別に人が死んだからって、どうって事はありませんもの。おはらいしてしまえば気の悪い事はないわ」
八千代の調子に女の子は安心したらしい。声をひそめて別に言った。
「でも、あの当座は私たちもなんだか気味が悪くて……夜なんかギリシャ風呂のそばを通るだけでも怖い気がしたんです」
怯《おび》えた目が正直だった。
「その事件のあった日ね。お客さんは混んでましたの。もう十二月だからシーズンオフだったんでしょう」
「いえ、割合に混んでました。その死んだ作曲家の人と一緒に泊まったのが踊りの先生で、茜ますみっていう、テレビなんかにもよく出ている人で、そのお弟子さん達が忘年会で来てたんで殆《ほと》んど貸しきりみたいでしたんです。他のお客さんは離れの別館に三、四組あったと思います」
女の子の目に不審な表情が浮かんだので八千代は慌《あわ》てた。
「離れのお部屋はよく出来てるわね。静かだし、小ぢんまりしていて……」
「ええ、あちらは後から建て増したんですって、新婚さん向きに……」
「あら、そう……」
八千代は赤くなった。ぎこちなくコケシをいじる。
「これ、頂くわ」
どうせコケシはつけたりである。どれだって同じようなものだ。
売り場の女の子がていねいに包んでくれたコケシを持って部屋へ戻ってくると、女中が夜食を並べていた。
「どちらへお出ましかと思いましたが、お買い物ですか……」
女中は紙包みを見て言った。売り場の女の子にしても、番頭や女中にしても昨年、茜流の団体客の一人として泊まった八千代の顔をまるで記憶していないのが、八千代には好都合だった。もっとも日に何十人とある客の、しかも同年輩の女の子ばかりがぞろりとやって来た中の一人の顔を覚えている方が不思議みたいなものかも知れない。
「お連れ様をお呼びして参ります……」
階段を上がって行く女中の足音に八千代は苦笑した。八千代の顔を記憶していない女中でも、映画スター能条寛の顔なら、よもや知らない筈《はず》はない。その彼が婦人雑誌の記者に化けてこの旅館に宿泊した事を知ったら……。
足音が二組、階段を下りて来た。
「やあ、お待ちどおさまでした」
入って来た寛は床の間の前の空席へ坐《すわ》りかけて気がついたらしい。
「先生、どうぞこちらへ……」
八千代は取りすました表情で会釈した。
「いいえ、私は女でございますもの。それに今度の旅のリーダーはそちら様でございましょう……」
寛は頭へ手をやり、ちらと女中を見る。
「じゃ、失敬して、お言葉に甘えます」
布団へ神妙に膝《ひざ》を揃《そろ》えた寛は、宿のお仕着せの浴衣《ゆかた》にドテラを重ねている。
女中はテーブルの上に刺身や天ぷら、口取り、蛤《はまぐり》の蒸し焼き、鍋料理など、如何《いか》にも旅館らしい雑多な料理を並べ立てた。ビールの栓を抜く。
「どうぞ……」
女中にうながされて八千代は手をふった。
「私は頂けませんの。こちらへ差し上げて下さいまし」
寛は真面目《まじめ》に、
「失礼します」
コップを差し出した。豊かな泡を軽く空けて、鍋をガスコンロへかけている女中へ話しかけた。
「僕、うっかりしていたんだが、この宿屋さんは昨年の暮に海東先生がおなくなりになった家だそうだね」
コンロへマッチをすっていた女中は上目使いに寛を見た。
「御存知なんですか……」
「海東先生かい。知ってるとも。長唄《ながうた》の作曲家としても有名な方だったし、我が社は婦人雑誌だから、仕事の上でもお目にかかった事があるんだ。惜しい方だったがなあ」
寛は口取りのあわびを噛《か》んだ。
「そうですか……」
女中は伏し目になって鍋に肉や野菜を入れた。そんな様子に、ふと寛の勘が働いた。
「君、海東先生の部屋付きの女中さんが誰《だれ》だったか知ってるかい。もし知ってたらその人を紹介してくれないか。なに、この旅館へ泊まり合わせたのもなにかの因縁だろう。せめて生前の海東先生の事について、なにか係りの女中さんと話し合ってみたいと思ってね」
若い女中はおずおずと顔をあげた。
「私だったんです。その先生の部屋の係りは……」
寛の期待通りの返事だった。八千代のほうが驚いた。
「まあ、あなたが海東先生のお部屋の……」
何か続いて言いかける八千代を寛は目で止めた。うっかり尻尾《しつぽ》を出されては困るという意味なのだろう。八千代は口をつぐんだ。
「そうかい。君だったの、そりゃあ全く奇縁だねえ。もしかすると海東先生のお引き合わせという奴《やつ》かも知れないな」
寛はつい歌舞伎《かぶき》役者の伜《せがれ》らしい言い方をした。女中は気づかない。
「ですけど、あの事件では本当に嫌な思いをしました。なくなった方にこう申してはなんですけれど、お部屋の係りだったばっかりに、警察の人に呼ばれたり、新聞記者に訊《き》かれたり、当分の間はノイローゼになるんじゃないかと思いましたわ」
「そうだろうね。いや、全く災難だったね。まあ一杯、どうだい。海東先生の供養のため、同時に君へのおわびのしるしだよ」
寛は八千代の前にあったコップを取り上げると、女中に渡し自分でビールを注いでやった。
若い女中は年齢の割にいける口らしい。勧められたビールのコップをすぐに半分ばかり飲み乾して、寛へお酌《しやく》をした。
「ごちそうになって、すみませんねえ。お客様もお強い方なんですか」
「いや、僕はたいしたことはないんだが、そう言や歿《な》くなられた海東先生は酒豪だったねえ」
「あら、そうですか」
というのが女中の返事だった。
「あの事件の日も随分、飲んで居られたんじゃないのかい」
「そうですね。でも……」
女中はガスコンロの火加減をして八千代にどうぞ、とうながした。話は寛へ向けて続ける。
「皆さんでお食事の時にビールを召し上がって、それから一度、お部屋へ引きあげて、あの方は茜ますみさんの部屋で又、飲み始めてたんですよ。でも、それはたいした量じゃありませんわ。お二人で日本酒が六本、ビールが二本くらいなんですもの。それでいて海東先生って人は随分、お酔いになってましたよ。ですから私なんか、あまりお強くないのだとばかり思ってました」
寛はそっと八千代を見た。
「そんな筈《はず》はないんだがなあ。海東氏は長唄《ながうた》界でも有名な左ききでビールの二本、酒の五合かそこらで酔っぱらうわけがないんだが」
「おからだの調子でも悪かったんじゃありませんの……」
冷めかかった吸物に箸《はし》をつけながら八千代が言う。
「それも一応、考えられるが……」
納得が行かない風な寛の様子に、女中がしたり顔で口を添えた。
「そういえば、あの晩の海東先生って方の酔い方は少しわざとらしいっていうんですか、大げさに見せていたのかも知れませんわ。だって酔った酔ったとおっしゃりながら、なんとなく時間を気にしてらしたし……」
寛の目が光った。
「時間を気にしてたって」
「そんな感じでしたよ。私もお酒は頂く方だから、解るんですけどね。酔っぱらったら時間なんか考えませんよ。どこかへ出かけるんならとにかく、もう寝るだけしか用のない旅館の夜でしょう。もっとも女の方の部屋にいるんで時間を気にしたというんなら別ですけど、それはこちら様のように他人行儀なお連れ様の場合ですわ。あのお二人はそんなねえ……」
女中は含み笑いをした。海東英次と茜ますみの間柄が他人でないと知っている微笑だ。
「へえ、海東氏と茜女史がねえ……」
寛はすっとぼけた。
「御存知ないんですか。まあ、恋人っていうのか愛人ってのか知りませんけど、私達の前でも平気、おむつまじいんですのよ。あの晩は随分、あてられましたもの」
女中は慌てたように口をおさえた。
「あら、どうしましょう。こんなお喋《しやべ》りをしてしまって……」
ほんのりと赤くなった眼許に酔いが出ていた。寛は威勢よくビールを注いでやる。
「なにかまわんさ。茜女史のお行状は知る人ぞ知るだからね。有名なんだよ。彼女のお色気ってのは……」
「そうなんですってね。本当に人前もなにもない方ですわ。あの晩だって男の方のほうがもて余してお出でみたいでしたもの」
「それじゃ、海東氏はなにかな、彼女のお色気攻勢をもて余して酔いにごま化したのかも知れないね」
当てずっぽうに言った寛の台詞《せりふ》に女中は大きく同感した。
「そうかも知れませんわ。いいえ、きっとそうですよ。だって海東先生は茜先生の部屋を出て御自分の部屋へお戻りになった時、それほどお酔いになっている風にはお見受けしませんでしたもの」
「君は茜女史の部屋へずっと居たの」
「いいえ、お酒を三度ほど運んだきりですわ。お邪魔ですものね」
「すると、海東氏が部屋へ帰った時はどうして酔ってないと知ったのさ」
寛は、にやにやと笑いながらビールを飲む。話を酒の肴《さかな》にしているという恰好《かつこう》である。
「いえね。それはちょうどその時に廊下を通りかかったんです。別のお部屋のお客様が煙草を欲しいとおっしゃったんで、それを持って行く途中でしたわ。そしたら海東先生が、私を呼び止めて自分の部屋へビールを一本持って来てくれっておっしゃったんですよ」
「へえ、ビールをね」
「もう十二時過ぎ……。一時近かったんですよ」
「君がビールを運んで行った時、海東氏は布団に入ってたのかい」
「いいえ、炬燵《こたつ》に坐《すわ》って煙草をのんでいらっしゃったわ」
若い女中はだんだん馴々《なれなれ》しい調子になった。アルコールのせいでもあろうし、寛の年齢の若さに安心しているのかも知れなかった。
「君はビールを置いて、すぐ戻ったんだね」
「そうよ。それがこの世の見納めってわけよ」
「その時、海東氏の様子になにか変わったことはなかったのかな」
寛は、必死になった。
「なんにも……ひどく酔ったようでもないし、それほど体の調子が悪いようにも見えなかったけど……でも心臓|麻痺《まひ》ってのは一瞬で片がついちゃうんですってね」
そこで女中は気がついた。
「あら、そちらの先生、なにも召し上がらないで……お給仕致しましょうか」
それをしおに寛もビールのコップを置いた。
「これは失礼、僕も飯にして貰《もら》うよ」
女中は馴れた手つきで飯茶碗《ぢやわん》を取った。
飯の給仕をして、女中は迷っている様子だった。本当なら、こういう二人連れの客の場合、給仕は女にまかせて席を外すのが宿の常識なのだが、いわゆるアベックでないと聞いているし、女の方がどうも先生扱いを受ける立場らしいので、うっかり給仕などを頼んでよいかどうかと気を使ったものだ。それに、今日は客も混雑していない。女中の立場からいうと忙しい日ではないのだ。若い女中は話好きの方でもあった。
寛は飯のお代わりをすると、思いついたように又、訊《き》いた。
「それはそうとさ。海東先生がギリシャ風呂《ぶろ》で死んでいるってのを発見したのは、やっぱりお客さんだったそうだね」
半分は八千代にも念を押している言い方である。
「そうなんですよ。この別館の方へ泊まっていらした……」
「なんですか、マージャンをやって夜明かししていた会社員の方だそうですのね。私、よそからそんなふうに聞きましたけど……」
弁解がましく八千代もつい、口を出す。
「ええ、そうなんです」
「じゃあ、マージャンのグループがぞろぞろとギリシャ風呂へ出かけて、びっくり仰天というわけか」
「いいえ、発見なすったのはお一人なんですよ。その方がみつけて、すぐに皆さんを呼んだんです……」
「驚いただろうな。一番先にみつけた奴《やつ》は……。どこの会社員なの、その連中は」
「お砂糖の会社だそうですよ。もっともそのお一人は別なんですけどね」
「別って、どういう意味さ」
「マージャンをおやりになっていたお四人さんの中の三人のお客さまが砂糖の会社におつとめで、もう一方はお連れじゃなかったんですよ」
女中はもって廻《まわ》った説明をした。
「くわしい事は知りませんけど、あの晩は確かこの桂《かつら》の間と百合《ゆり》の間にお二人ずつ砂糖の会社の方がお泊まりになり、楓《かえで》の間に男のお客様がお一人で泊まっていらっしゃいました」
「すると、楓の間のお客ってのは一人旅だったんだね」
「ええ、でも男の方が一人きりでお見えになるのも珍しくはございませんのよ。この辺は静かだものですから、物をお書きになる方なんかがよう御逗留《とうりゆう》になりますよ」
「海東先生をギリシャ風呂で発見したのは、その……一人旅の男だったんだね」
女中はこともなげに答えた。
「ええ、楓の間のお客様です」
それから親切につけ加えた。
「そのお客様の事やなんか、もっと詳しくお知りになりたいのでしたら、明日にでも文子さんにお聞きになるといいですよ。あの事件の時は、この別館の係りが文子さんだったから……」
若い女中が何気なく洩《も》らした「文子」という名前に、寛も八千代も思わずとびつきそうな身がまえを見せた。
「文子さんっていうと、そのかたはやっぱりこちらの……」
八千代はうっかり女中さんという言葉を口にしかけて慌てて中止した。近頃《ちかごろ》の若い人は女中という名詞を非常に嫌うのだと、こんな場合に思い出したものだ。ひょんなことでこの若い女中さんの気色を損じたくない。
しかし、八千代が懸念するまでもなく、こういう旅館では、都会の普通の家庭へ奉仕する若い女性と違って、それ程、女中という語に神経質ではないらしい。
「文子さんですか。ええ、ここの女中さんしてたんですけどね、ちょいと神経痛の持病があるもんですから、今はここの家で経営しているお土産《みやげ》物の店の方へ行ってますよ。温泉町のバスの乗り場のすぐ前なんです。明日でも、お帰りの時にお寄りなすったら……」
「そうだね」
寛は意識して、あまり気のなさそうな応じ方をした。
食事が済むと、寛はテレビをひねった。連続ドラマの途中である。見るのか見ないのかわからないような恰好《かつこう》で、寛は煙草を吸い、お茶を一杯だけ飲んで、後片づけの女中が部屋を出るのと一緒に腰をあげた。
「それじゃ、おやすみなさい。どうもお疲れさまでした……紫先生」
もう廊下へ出た女中へ聞こえよがしの声で挨拶《あいさつ》してから、小さく八千代の耳許へ呟《つぶや》いた。
「おやすみ、やっちゃん、話は明日にしようね」
あっさり立って、玄関風に造ってある入口の所で、送って来た八千代に微笑した。
「入口の鍵《かぎ》を忘れないでね。ちゃんと閉めておやすみ……」
階段を上がって行く足音に耳をすませてから八千代は鏡台のある部屋へ戻った。髪をとかしている中に、女中が夜具の仕度をする。
「ごゆっくり、おやすみなさいまし」
女中が去ると、八千代はテレビを消し、バスルームへ下りて行った。
一人きりの湯の宿はなにがなしに物さびしい。湯殿の下を水の流れる音がした。くもった窓ガラスに指をこすりつけて外を覗《のぞ》く。向かいの部屋の湯殿の窓が見えた。その下方がギリシャ風呂《ぶろ》という見当である。太い湯気出しの気孔が八千代の眼の下から白い気体を吐き出している。直径一メートルもある太い気孔が闇《やみ》の中にグロテスクな感じであった。
湯から出て宿の浴衣《ゆかた》に手を通す。腕時計はもう十一時近かった。食事が遅かったし、手間どってもいる。それにしても東京の、銀座の十一時なら……。八千代はにぎやかな「浜の家」の光景を瞼《まぶた》に描いた。
階段を足音が下りて来た。八千代は反射的に体をかたくする。が寛のスリッパは廊下を通ってギリシャ風呂の方へ下りて行った。
修善寺の朝はよく晴れていた。雲も淡い。身じまいを終えると、八千代は庭下駄を突っかけた。朝らしい空気の冷たさである。三か月前に来たときは、修善寺の朝の記憶がなかった。
海東英次の死体発見が明け方で気が転倒している中に昼になってしまったようだ。
庭のすみに昨夜、バスルームの窓から見えたギリシャ風呂の湯気出しの孔が盛んに白い煙を辺りへ漂わせている。
庭のすみという見当なのだし、昨夜もそう見たのだが、近づいてみると崖下《がけした》だった。
つまり、八千代の部屋から続いている庭は一応、竹の荒い垣根で区切られ、垣の向こうが五メートルばかりの崖になっていて、ギリシャ風呂はその窪地《くぼち》に出来ている。八千代が立っている垣根のすぐ下が、ギリシャ風呂の高窓の高さであった。
八千代が、ぼんやりとその高窓を眺めていると、不意にギリシャ風呂の内部から窓が開いた。眼鏡《めがね》をかけた男の顔がのぞく。
「まあ、ヒロシ……」
能条寛は指を唇に当ててみせた。静かにしろという意味である。
驚いたことに、そのまま高窓を上がってくるのだ。窓枠によじのぼり左右を見回す。
八千代も慌《あわ》てて辺りを窺《うかが》った。
「誰《だれ》もいないかい」
「ええ、誰も……」
寛はにやりと笑って身軽く窓を出た。垣根を乗り越えて庭へ立つ。はだしである。
「どうだ。うまいもんだろう」
「いやだわ。まるで泥棒みたい」
眉《まゆ》を寄せて、八千代は又、周囲を見た。見とがめられたら、なんという心算《つもり》だろうと、寛の行動が恥ずかしい。
「僕が泥棒なら、君は見張り役という所さ。いずれ一つ穴のムジナだよ」
「馬鹿《ばか》にしている、そんなの」
それでも八千代は甲斐甲斐《かいがい》しく寛のために庭下駄を取りに走り、タオルで足のうらを拭《ふ》いてやった。
「なんで朝っぱらからギリシャ風呂へなんか行ってたの。寛の部屋はバス(風呂)付きじゃないの」
八千代は真顔で聞いた。そう言えば昨夜も食事の後、寛はギリシャ風呂へ続く階段を下りて行った様子だ。
「部屋専用のバスルームはあるよ。この別館の離れは全部、バストイレ付きになってるそうだ」
「じゃ、寛は海東先生がギリシャ風呂でなくなったから、その現場を見に行ったわけね」
「まあね。本当はやっちゃんと一緒に行ってみるとよかったんだが、男女混浴がお気に召さないらしいんで、ご遠慮申し上げたんだが、流石《さすが》に笹屋旅館の自慢だけあって、でっかい風呂だな。昨夜は人もいなかったんで、温泉プールのつもりでじゃんじゃんおよいじまった」
ギリシャ風呂で泳いだという寛の言葉に八千代はあきれた。
「のんきなもんね。第一、気持ちが悪くなかったわね。あのお風呂で人が死んでるのに」
「女中くんが言ったじゃないか。三か月も前だしもう、よく洗って神主さんがおはらいまでしたって。広くって気持ちよかったぜ。君も来て泳ぎゃよかったんだ。恥ずかしがるけど、ギリシャ風呂なんて、もうもう湯気が立っているから、三メートルぐらい離れてしまうと顔も見えないんだよ」
「馬鹿ばっかし……」
八千代は少しばかり赤くなった。庭下駄を鳴らして部屋へ戻りかける。
「そんなにお気に召したんで、今朝も又、泳ぎに行ったの」
寛の顔を横眼に見た。朝風呂に入ったばかりという顔色ではない。
「なに、今朝は昨夜、泳ぎながら思いついた可能性を実験したまでさ」
自分の部屋の沓脱《くつぬぎ》へ上がりかけた八千代を呼んだ。
「おいおい、朝の食事は僕の部屋へ用意させといたよ」
寛の部屋へは建物だと階段を上がるのだが、庭続きだと、なだらかな坂になっている。八千代は植込みを寛の後に従った。
別館にある離れ造りの部屋は全部で四つ、庭続きになっているようだ。
「なによ、或《あ》る可能性って……」
「つまりだね」
寛は植込みの間で急に足を止めてふりむいた。足元ばかり見て歩いていた八千代は、うっかり寛にぶつかりそうになった。顔と顔がおたがいの眼の前にある。八千代と寛が一足ずつ退いたのは同時だった。なんとなく恰好《かつこう》が悪い。
「そのさ……」
寛がどもりながらもぞもぞと続けた。
「ギリシャ風呂《ぶろ》へだよ。廊下を通らなくても行けるってことさ。この離れの人間ならば」
「泥棒みたいに垣根を乗り越えて、窓からしのび込めばね……」
八千代は微笑した。
「但《ただ》し、かなりの運動神経の発達した奴《やつ》でないとギリシャ風呂の内から高窓にとびつくまでが容易じゃないんだ」
寛は少しばかり得意な顔をした。スポーツできたえているのと、子供時代から父親の弟子の歌舞伎《かぶき》畑の連中とトンボを切ったり、ニセウチ、ギバなど歌舞伎独特の訓練をしているせいで、寛はひどく身が軽い。普段でも少し調子に乗ると鴨居《かもい》にとび上がったり、天井にはってみたり、忍者めいた真似をして八千代を驚かす癖がある。
「寛って本当にガラッ八ね。私たちはなにも捕物帖を地で行ってるわけじゃないのよ。海東先生が忍術使いにでも殺されたって言う気かしら」
八千代の冷やかしにも寛はまともに応じた。
「たいてい忍術使いか、化け物みたいなもんだよ。計画的な殺人犯って奴《やつ》は……そう思って間違いはないのさ」
植込みを抜けると離れ造りの玄関が見えた。「楓《かえで》の間」と札が出ている。八千代が泊まっている「桂《かつら》の間」とは真向いであった。今日は新婚夫婦が入っているらしく、カーテンを開いたベランダ風の場所にピンクのカーディガンを着た女の背が見えた。
「この楓の間っていうのに泊まっていた男の人が海東先生の死体を発見したんだわね」
八千代は昨夜の女の話を思い出して言った。
「そいつが、ちょっと忍術使い、でなけりゃ余《よ》っ程《ぽど》の変わり者だと思うんだがね」
「やっぱり、ヒロシもクサイと思ったのね。昨夜の話で……」
八千代は歩き出した寛の厚い肩幅を眺めながら続いた。
「でも、変わり者っていうのは、どういうわけなの」
「変わり者って言って可笑《おか》しければ、物好きか、まめな男と言うかな」
「どういう意味よ、それ……」
「考えてもごらんよ。この離れはどの部屋も風呂がついているんだぜ。タイルばりの洒落《しやれ》た形の、湯も水もたっぷり出るいい風呂だ。そうだったろ」
八千代は寛を見上げた。なにを言い出すのか解らないから、うっかり返答が出来ない。
「それが、どうしたのよ」
「楓《かえで》の間の客は、わざわざ風呂付の部屋に泊まりながら、なんでギリシャ風呂まで出かけたんだい」
「だって、ギリシャ風呂はこの旅館の名物ですもの。ちょっと入って見ようって気になったんじゃない」
「それにしてもだよ。別に病気に特効があるわけじゃなし、ただ、だだっ広いだけの風呂なんだからね。一度は見物がてら入浴しても、そう何度も行くだろうか。ギリシャ風呂まで行くには階段をかなりな数、上り下りしなけりゃならないんだ。若い人間でも風呂帰りは相当シンドイぜ」
「ヒロシ、どうして一度ならとにかくなんて事が言えるのよ。人はそれぞれ勝手なもんだから、何度だってギリシャ風呂が気に入れば階段を下りても行くでしょうし、心臓が丈夫なら、寛みたいにフウフウ言って階段を上がらなくても済むでしょうし、それに、もしかしたら海東先生の死体を発見したとき、はじめてギリシャ風呂へ入ってみたのかも知れないし、ねえ、そうじゃない」
「だから、物好きか、マメな男だと言ったんだよ。念のため申し上げとくが、僕は別にフウフウ言って階段を上がって来たおぼえはないよ。やっちゃんだったらアゴを出すだろうという話さ」
寛が泊まった離れの玄関を入ると、女中が愛想のよい笑顔で迎えた。
この離れも八千代の泊まった桂の間と殆《ほと》んど同じような間どりである。テーブルの上には朝食が並んでいる。
「お散歩でございましたか」
寛はのんびりと応じた。
「ああ、いいお天気だね」
女中は茶を注ぎ、御飯|櫃《びつ》を引きよせた。
「お給仕は私がしますわ。朝はお忙しいのでしょう」
八千代は気をきかして言った。女中に傍らに居られたのでは、又、今朝も肝腎《かんじん》な話が出来ない。女中はお願いします、と下がって行った。二人っきりの差し向かいになると、なんとなく面映ゆい。二人で向かい合って食事をしたことは、今までにも何回となくあるくせに、やはり温泉宿にいるという意識があるせいだろうか。
「やっちゃん」
食欲に集中していた風な寛が不意に言ったものだ。
「海東先生の死体発見者は、翌日、警察の取り調べに立ち会ったんだろうね」
「さあ」
八千代は箸《はし》を止めた。
「よくは憶《おぼ》えてないけど、なにしろ旅館のお客さんの事だから旅館側でも随分、気を使ってたし、それに他殺じゃない……少なくとも毒殺や凶器によって殺されたっていう現場じゃないでしょう。田舎《いなか》の警察だし、それほど発見者を重要視しなかったと思うわ。おまけに海東先生は私たちみたいなお連れがあったんだしね。あれが一人旅だったら、もっとめんどうだったでしょうけれど」
八千代はあの時の茜ますみの手ぎわのいい采配《さいはい》ぶりを思い出した。素早く金を使って、海東英次の死があれ以上、さわぎ立てられないように食い止めたし、死体を直ちに自動車で東京へ運び、葬式を済ませるまで、女と思えないほどにてきぱきと要領よくやってのけた。警察側としても酒を飲んで風呂へ入っての心臓|麻痺《まひ》とあっては疑意のはさみようもなかったのだ。温泉宿には、ままある事件でもある。
十一時近くなって、寛と八千代は笹屋旅館を出た。折角、来たのだから修善寺近郊の古跡を散策してみようと言うわけだ。寛は修善寺は初めて、八千代は二度目だが、この前は全く見物どころではなかった。
「修善寺まで来たけれど、結局、なにも解んなかったわね」
梅の林を横眼に見て、八千代は少しばかりがっかりして言った。
「君は何もわかんなかったかも知れないが、僕は随分、新しい発見をしたと思うな。百聞は一見にしかずとは全くだね。海東先生の死のかげに動いているものの気配をたしかめただけでも最高の収穫だよ」
だらだら道は、どこまで行っても梅の香が追って来た。柔らかな匂《にお》いのある風が時折り、八千代の顔をかすめて吹く。
白梅も、紅梅も今が盛りであった。
「第一にだよ。海東先生の死体を発見したのは今まで砂糖会社の団体客だとばかし思っていたのが、実は一人旅の男で楓《かえで》の間に泊まっていた。これが一つ。ギリシャ風呂へは階段を下りて行く以外に、別館の離れの庭からも無理をすれば行かれる。それが二つ……」
寛は春の光にまぶしげな目を向けた。
「いい天気だな。実に絶好の旅|日和《びより》だね」
「話を逸《そ》らすのは止めてちょうだい。肝腎《かんじん》の第三以下は、どうなのよ」
「第三以下の新発見か……そいつは……」
片目をつぶって笑った。
「おあとのおたのしみさ」
「ずるいわ。そんなの……」
八千代はポケットからチューインガムを掴《つか》み出した。
「正直におっしゃい。第三以下の新発見は、文子さんという女中さんに逢《あ》ってみなければの事だって……」
「図星だね」
寛は八千代の手からチューインガムを奪って口へ放り込んだ。
細い田舎《いなか》道を当てずっぽうに歩いて行くと石の小さな碑《ひ》があった。源|範頼《のりより》朝臣《あそん》の墓と矢じるしがしめしてある。
「範頼って言えば頼朝の弟だろう」
「そうよ。義経《よしつね》の兄さんだわ。あんまりぱっとしない人だけど……」
頼朝の歴史的存在価値と、義経の大衆的人気の間にはさまって、かすんでしまったような範頼の墓が修善寺にあるとは、八千代も寛も、ついうっかりしていた。
「そう言えば修禅寺《しゆぜんじ》≠フなかの夜叉王《やしやおう》の台詞《せりふ》に、範頼公といい、頼家公といい、修禅寺は源家二代の血が、なんていうのがあったっけ」
寛の言葉で八千代もふと、寛の父の尾上勘喜郎|扮《ふん》する夜叉王の名台詞を思い出した。
矢じるしは狭い石段を指している。椿《つばき》の花が落ちている道を二人は前後して登った。茶屋のような葭簀《よしず》ばりの家があり、線香を売っている。石だたみの突き当たりに丸い石の墓が見えた。
八千代は線香の束を買い、寛が先に立って墓石に近づいた。わきに由緒《ゆいしよ》書きみたいな立て札がある。
八坂本平家物語によると範頼は兄頼朝へ叛意《はんい》ありとされて、この修禅寺へ幽閉され、建久四年、頼朝の討手|梶原景時《かじわらかげとき》の兵のために攻め殺されたとある。
「戦争には弱いし、年中、兄さんの顔色ばっかり窺《うかが》って、くよくよ、おどおどしてて結局、殺されちゃうなんて全く、あわれな人ね」
寛がマッチで火をつけた線香の束を墓前に供えながら八千代は同情的な表情になった。
春風が線香の煙を横へなびかす。
神妙に手を合わせている八千代へ寛は微笑した。
「むかしも今も……さ。善良で臆病《おくびよう》な人間が虫けらのように殺される。人間なんてかわいそうなもんさ」
「悟ったような事を言ってるわ」
手を合わせた儘《まま》、八千代は反撥《はんぱつ》した。
「でもさ。同じ殺されるんなら義経の方が利口だな。華々しいし、後世、芝居の二枚目にして貰《もら》っておまけに静御前《しずかごぜん》みたいな美人にしずやしず、しずの小田巻くりかえし、なんて恋いこがれられちまってさ。範頼にはそういうロマンスはなんにも伝わってないだろう」
「わかんないわよ。案外、かくれたるラブロマンスがあったかも知れないわ」
「有名人は恋愛も自由でないってのは昔も今もかな」
「なによ。それ……」
「平凡な一市民の方が、ワルイ事が出来るって話さ」
寛は線香を直している八千代のワンピースの衿《えり》もとからのぞける首筋を見た。白い滑らかな肌に桃の実のようなうぶ毛が光っている。
石段を下りて、再び石ころだらけの道を折れた。猫が悠々と道の真ん中を歩いている。
「ね、ヒロシ、海東先生は、やっぱり誰《だれ》かに殺されたんだろうか」
八千代は落ち付かない顔で言った。
「わからないね」
寛はチューインガムをくしゃくしゃと噛《か》んだ。
「海東英次が死んで得をする人間は誰だい」
「得をする……」
眼を落として八千代は首をふった。
「誰も得なんかしないでしょう」
「海東氏の奥さんはどうだい」
「事実上、別居していたけれど、月々の仕送りはちゃんとしてらしたし、海東先生がなくなったらかえって困ってしまうでしょう。実際、最近は生活も楽じゃなくて、どこかのバーへ勤めてるって話ですもの」
「亭主が死んだら相続出来るような財産は」
「それが、なんにもなかったんですって。まあ芸人ってのは外見が派手だから、まとまったお金なんてなかなか残らないものでしょう。おまけに海東先生ってのは派手好きだったし、もともとが苦学して音楽学校を出て、漸《ようや》く世間に認められたのはこの四、五年ですものね。貯金も僅《わず》かばかりで、お葬式やその他の支払いは全部、茜《あかね》ますみ先生が始末したんだって、内弟子の久子さんが言ったわ」
「損得の方でないとすると、色恋じゃどうだい。恋の怨《うら》みは怖しいぜ」
八千代は眉《まゆ》をしかめた。
「海東先生の恋人は勿論《もちろん》、茜ますみ先生だけど、その他に三角関係みたいな女性はないわ。茜ますみ先生との事は、もう四、五年も前からだし奥さんだって割り切ってた筈《はず》よ」
「割り切ったようで割り切れないのが女心って奴《やつ》だそうだよ。しかし、僕がいうのは、むしろ男の方さ。海東英次が邪魔になる、つまり茜ますみを独占したいと願う男性はいないかね」
道が広くなったと思うと川が流れていた。土産《みやげ》物の店がそこから下流へ向けて並んでいる。寛はその一軒へ近づいた。笹屋旅館の経営している土産物屋を尋ねているらしい。
「もっと下の方の、バスの停留所の近くだってさ。ハイヤーの営業所も近くにあるそうだよ」
戻って来た寛は、しいたけの籠《かご》を二つ下げていた。
「買ったの」
「ああ、親父《おやじ》の好物なんだ。君ん所へも一つ買っといたよ。料理屋じゃ珍しくもないだろうが……」
しいたけの籠を下げて道を下るとドテラ姿のアベックが橋の上で写真をとっていた。女の笑い顔が屈託ない。
笹屋旅館の経営している土産物屋は、かなり大きかった。店内には小さいが喫茶室もある。とりあえず、ジュースを頼んであまり上等でない椅子《いす》に腰を下した。
「あの、この店に文子さんって人がいるだろ。笹屋旅館の女中さんをしていて……」
水を運んで来た女の子は簡単にうなずいた。
「その人、ちょっと呼んでもらえないかな。訊《き》きたい事があるんでね。すまないけど」
女の子は、それにも簡単に、はいと応じて売り場の方へ行った。
入れ違いにやって来たのは二十三、四の色の白い、痩《や》せた女だった。神経痛と聞いていたので、もっと年配の女を想像していた八千代は、あっけにとられた。
「文子ですけど……」
固い表情で言った。
「君が文子さん……わざわざ呼び立てて悪かったんだけど、昨夜、笹屋旅館で君の名前を聞いたもんで……」
ぶきっちょな寛の話の中途から文子の表情がくずれた。
「ああ、そうですか。あの楓《かえで》の間に泊まったお客さんの事を聞きたいとおっしゃる方ですのね」
寛が今度は、あっけにとられた。
「知ってるんですか」
「今朝、千代子さんが寄って話して行ったんですよ。海東先生とお知り合いだった雑誌の方なんでしょう」
「そうなんですよ、海東先生の御生前には、なにかとお世話にもなっていたのでね。おなくなりになった夜、ギリシャ風呂で死体を発見なすった方に一度、お目にかかってその時の様子なんかを聞きたいと思っているんですよ」
「それだったら駄目ですわ」
文子はエプロンのはしをつまんで、はっきりと答えた。
昨夜、食事の給仕をしてくれた女中が、気をきかして文子に声をかけておいてくれたのらしいが、いきなり駄目だときめつけられて寛も流石《さすが》に慌《あわ》てた。
「駄目って、どういう意味ですか」
「お客さん達は、海東先生の死んでいらっしゃるのを発見したお客さんと話してみたいとおっしゃるんでしょう。でも、それが駄目なんですよ。笹屋旅館の宿帳に書いてある住所が違うんです」
「住所が違うって、楓《かえで》の間のお客のかい」
「ええ」
「どうして、そんな事がわかったの」
文子は椅子《いす》へ腰を下した。
「あの事件の翌朝ですか、楓の間のお客様がお発《た》ちになってから眼鏡《めがね》をお忘れになったのに気がついたんです。本当はお客様が御出発になると、すぐにお部屋をお調べしてお忘れものがないかどうか気をつけるのですけれど、あの日は、もう家中がてんやわんやしていたので、眼鏡を見つけたのは夕方近くなってお部屋の掃除に入った時なんです」
「ふむ、なるほど……」
寛は思わず自分の眼鏡に手をやり、八千代は横眼でそれを睨《にら》んだ。
「それで、私、楓の間のお客様の住所を宿帳で調べて書留でお送りしました。笹屋旅館では確実にそのお客様のお品とわかっているお忘れ物はそうするようになっているんです」
「眼鏡がその楓の間のお客のものだとは、はっきりしていたんだね」
「ええ、黒の太いふちの、目立つ眼鏡でお食事の時もずっとかけていらっしゃったのを、私、おぼえていたもんですから、間違いはありません」
文子は、きっぱりと答えた。年齢の割にはしっかり者らしい。
「その書留でお送りした眼鏡が宛先《あてさき》不明で戻って来てしまったんです。だから、楓の間にお泊まりになったお客様の住所は分かりません。宿帳の御住所のところへいらっしゃってもその方にはお逢《あ》いになれないと思います」
「眼鏡が戻って来たんですか」
寛は唖然《あぜん》とした。
「その……楓の間に泊まった人の住所……つまり宿帳に記載してあった住所はどこだったか憶《おぼ》えていませんか。大体でもいいんですがね」
文子は気軽に立った。
「眼鏡の小包の方は笹屋旅館の支配人さんにおあずけしてしまいましたけど、書留を郵便局へ出しに行った時の受け取りが、たしかお財布にある筈《はず》ですわ。ちょっとハンドバッグをみて来ましょう」
奥からビニールの黒いバッグを持って来た。手ずれのした財布を出す。小さな薄い紙切れをつまみ出した。
「これですわ」
文子の差し出した受取書を手にとって寛は流石《さすが》に緊張した。唇のすみがぴくりと動く。
「宛先《あてさき》人、東京都渋谷区代々木初台××番地、河野秀夫……か」
声に出して読み上げ、寛は口の中で再び反芻《はんすう》した。
「渋谷区代々木初台って、どこかで聞いたような住所だけれど、やっちゃん、憶えがないかい」
寛がふりむいた時、八千代は唇まで白くしていた。
「どうしたんだい。え……」
首をふったきり答えない八千代の様子で、寛は傍に立っている文子を意識した。
「この受取書、もし御入用ならさし上げましょうか」
文子は遠慮そうに、しかし気をきかして言った。
「そうして頂ければ有難いんですが」
「どうぞ、お持ち下さいな」
「そうですか、じゃあ貰《もら》っときます」
現金に寛は薄いぺーパーを大切そうに財布にしまった。
「おかげでいろいろな事がわかりそうです。ぼくらは海東先生には非常な御恩を受けた者なので、是非とも先生のお歿《な》くなりになる直前のことなどを少しでも詳しく知りたいと思っていたのですが……」
弁解がましい寛の言葉に、文子は素直な同感を示した。
「本当に……あんなお歿くなり方をなさるとお心残りでございましょうね」
重ねて礼を言ってから、寛は思いついてつけ足した。
「くどいようですが、あの事件の日、別館には楓《かえで》の間のお客さんの他に砂糖会社の人が泊まっていたそうですね」
「ええ、四人連れでお見えになっていました。お砂糖の会社におつとめの方はその中のお一人で、他の方はそれぞれ御職業がおありらしかったのですけれど、ちょうどテレビのコマーシャルの時、おつとめ先の砂糖会社のがあってその方が皆さんを笑わせるような事ばかりおっしゃって……お給仕に出ていまして私がそれを聞いて、つい同輩に話したものですから、お砂糖会社におつとめのお客様という事になってしまったのですわ」
文子は言いわけした。
「なんですか、戦地で御一緒の部隊に属していらしたグループのようでしたけれど……」
「なるほど、戦争で結ばれた友情という奴《やつ》なんだね。たまさかに誘い合わせて温泉へ出かけて来たというわけなんだろう」
微笑した寛には従軍の経験はない。
「で、マージャンをしてたという話だけれど、それは何時|頃《ごろ》までやってたの。大体でいいんだけど……」
「夕食後、すぐにおはじめになって、夜半の二時すぎまでビールを召し上がりながら……」「夜半の二時ねえ……」
寛は腹の中で計算した。その時刻、海東英次は茜《あかね》ますみの部屋から引きあげてギリシャ風呂《ぶろ》へ行った筈《はず》だ。
「もっとも、皆さんが揃《そろ》ってその時間までマージャンをおやりになっていらしたわけではございません。お一人は疲れたとおっしゃって十一時頃におやすみになってしまいました」
寛は妙な顔をした。
四人の中、一人が止めてはマージャンは出来ない。
「ええ、ですけれど楓《かえで》の間のお客様がその代わりになりましたから……。夕刻、玉突き場でお知り合いになったそうで、お砂糖会社の方がお誘いしてみてくれとおっしゃって、私がお使いになりました」
「それで、楓の間の客がマージャンの仲間入りをしたんですか」
「はあ。すぐにお出でになりました。勝負事はお好きのようでしたわ」
「夜半の二時すぎまでゲームに入っていたんですね」
寛が念を押したとき、八千代が口をはさんだ。
「その楓の間のお一人客はどんな方でしたの。年齢とか……なにか特徴みたいなもの」
文子は考える眼になった。
「別に特徴といっても……お年齢《とし》は五十歳前後でしょうかしら。ロマンスグレイっていうんですか、きれいな髪の品のよい感じの方です。お背は高いほうでした。体つきもがっしりした……でも労働者というタイプではありませんわ」
文子は店先を気にした。団体客らしいのがどやどやと入って来て盛んにコケシや名物の菓子類を注文している。店はもう一人の女店員だけで、手がまわりかねる状態だった。
「どうも長いこと引き止めてすみませんでした」
寛はやむを得ず質問を打ち切ると余分な金額をジュース代として支払い、八千代の肩を押して店を出た。そろそろハイヤーを拾わないと汽車の時刻に間に合わない。
「ヒロシ……」
人通りの少ない道へ出ると八千代が蒼《あお》い顔をあげた。彼女としては珍しく取り乱している。寛は眉《まゆ》をひそめた。
「どうしたんだい。やっちゃん」
「渋谷区代々木初台××番地……」
八千代はすらすらと住所を口にした。楓の間の客の住所である。
「知ってるのかい。その住所……」
のぞき込まれて、八千代は唇をふるわした。
「結城《ゆうき》の伯父《おじ》様の所番地なのよ……」
「結城の……」
寛がすっとんきょうな声をあげ八千代は泣き出しそうになった。
「代々木初台××番地は結域の伯父様の家一軒しかないのよ……」
寛は文子から聞いたばかりの楓の間の客の人相を思い出した。結城慎作は五十一歳、ロマンスグレイで背の高い男である。
古代住居趾
新宿から小田急線で約十分。代々木八幡《よよぎはちまん》駅のプラットホームに下り立つと雨はすっかり止んでいた。
雲の切れ間からはうす日さえ射している。八千代はピンクの折り畳みの雨傘を小脇《こわき》に改札口を出た。
ふみ切りを渡ってガードをくぐる。バスの通っている道は、もう乾いていた。
小っぽけな洋裁店や美容院がまばらに看板をあげている道は屈折して広いアスファルトの道路へ続いている。
「やっちゃん、八千代じゃないの」
背後の声は柔らかく、まるっこかった。ふりむいて八千代も自然に微笑する。
「伯母《おば》さま……」
結城はる子はポメラニアンの子犬を曳《ひ》いていた。体格はすこぶるいい。背丈は八千代とあまり変わらないのに、横幅は房錦《ふさにしき》ばりに小肥りである。そんなスタイルのくせに毛糸であんだ、ゆるやかなツーピースが巧みな着こなしでいて何気ない。
父親が外交官で、若い時分に外国暮らしをしたせいなのかと、八千代はよく思う。八千代の母と年齢も同じくらいだし、スタイルもほぼ似たようなものだが、
「うちの母に伯母《おば》様と同じ恰好《かつこう》をさせたら、一日で降参してしまいましたわ。腰が冷えるの、足が寒い。おなかが頼りないって、そりゃあ大変……」
と、八千代はこの伯母の前で笑った事がある。
「伯母さま、ワンちゃんなんか連れて、お散歩……」
八千代は風呂敷包を持ち直した。
「なにしろ、又、肥っちゃったでしょう。結城が運動不足だって言うもんだから、朝と夕方二回にしてた犬の散歩を四回にしてみたの。十時と三時ね。犬は喜んでるけど、私はシンドくってねえ。ラビイ、ゴキゲンなのはお前ばかり……そうだわね……」
結城はる子は子犬の頭を軽くなでた。
「やっちゃん、うちへ来る所だったんでしょう。どう少しだけ一緒に歩かない。この辺りは、結城の口癖だけど、代々木野の匂《にお》いの残ってる東京じゃ貴重な場所なのよ」
「お供しますわ。いいえ、別にたいした用があって伺ったんじゃありませんの。母がおはぎを作りましたので……私、もう今どき可笑《おか》しいからって申しましたのですけど、毎年そうしているんだから、どうしてもお届けするようにってききませんのよ」
八千代が目でしめした重箱の包みを、結城はる子は覗《のぞ》き込んだ。
「本当に、そう言えば、もうお彼岸《ひがん》ね。嬉《うれ》しいわ。時江さんのお手製のおはぎはそんじょそこらにあるのとは出来が違うんですもの。結城も喜ぶわ」
一度受け取った重箱の包みを八千代へ持たせて、はる子は先に立って道路を横断した。信号がちょうど青になったものである。
バス通りを横切った所が神社の石段の下であった。白い石に「八幡神社」と刻んだ碑が石段の中程に見える。
ポメラニアンのラビイ号は心得たもので、さっさと石段をかけ上がる。散歩コースなのだろう。
境内《けいだい》はかなり広かった。樹木も多い。
「大きなお宮ね。伯母《おば》様」
八千代はかなり蕾《つぼみ》の目立つ山桜の梢を見上げた。
「やっちゃんはここへ来るのは、はじめてだったかしら」
「ええ、この下は伯母様の所へ伺う時によく通りますけれど、石段の上まで登ったのは初めてですわ」
「じゃ、古代住居趾《あと》も見たことないわね」
はる子は参道から灌木《かんぼく》の間へふみ込んだ。武蔵野の風情がなにがなしに感じられる林である。
「戦前は、木ももっと多かったし、藪《やぶ》もこんもりしていたのだけれど、ここの宮司《ぐうじ》さんがお人好しでのんびりしてるもんだから、戦後の燃料不足の時に随分、伐《き》られたり盗まれたりしちゃったのよ」
はる子はまばらな枝を眺め廻《まわ》した。春浅い林は枯葉が歩くたびにかさこそと音を立てる。
八千代は一か月ばかり前に、能条寛と歩いた修善寺の林を思い出した。ふと、気が重くなる。今日|伯父《おじ》の家を訪ねたのはおはぎを届けに来た以外に目的がある。
(別に結城の伯父様を犯人だなんて思ってるわけじゃないんだわ。ただ、あの晩、笹屋旅館の楓《かえで》の間に泊まった客が伯父様ではないこと、それだけを確かめればいいんだから……)
楓の間の客が結城慎作の筈《はず》がなかった。
(もし、伯父様なら茜《あかね》流の門下生が団体で来ていることを知りながら、八千代に逢《あ》わないでおくわけがないわ)
と八千代は思う。
「おい、やっちゃん、偶然だねえ、君も来てたのか……」
必ず部屋を訪ねて豪放な笑い方をするに違いない伯父の性格を八千代は知っている。
楓の間の客が結城慎作であり、しかも故意に八千代を避けたのだとすると……。
八千代は首をふった。
(伯父様を疑うなんて申しわけないわ)
林の中に藁《わら》屋根の古風なピラミッド型の家があった。周囲は柵《さく》がめぐらしてある。
「これが古代住居|趾《あと》よ。今から五千年くらい前の住居趾が発掘されてね。考古学の先生の指導で、その上に古代住居を復元させたんですってさ」
「いつごろ造ったんですの」
「さあ、もう、五、六年前じゃなかったかしら。発見されたのはもう少し以前よ」
子犬は柵の間を出たり入ったりしてはしゃいでいる。鎖が絡んだので八千代は首輪から鎖を解いた。
開放された子犬は、枯葉の上をころころと走った。
「ラビイ、遠くへ行くんじゃないのよ」
はる子は柵に寄りかかったまま子犬を眼で追っていた。
柵と住居趾の藁屋根との距離は二メートル位であった。入口には木の戸がついて鍵がぶら下がっているが、八千代が押すと戸はわけもなく開いた。
「鍵がこわれているのよ」
こともなげに、はる子は笑った。
「子供がイタズラしてこわしちゃうらしいわ。夜、浮浪者が泊まるといけないなんて、以前は神経質になってたけど、近頃《ちかごろ》はそんな事もないってパトロールの警官が話してたからね。それに雨の後は内部がじめじめしてとても寝られるもんじゃないそうよ」
「雨がもるんでしょうね」
八千代は藁《わら》屋根を仰いだ。
「もるよりも、藁が吸った湿気を、本当なら内で火をたいているから内側から乾かせるけど、この古代住居|趾《あと》はモデルハウスみたいなもんで、人が住んでいないでしょう。だからしけちゃうのね。藁なんか腐りも早くて保存するのが大変らしいわ」
はる子の説明は詳しかった。この神社の神官の妻女とは茶道の友人なのである。はる子のネタは大むね、その辺りから出て来たものだろう。
林を出て、八千代は伯母《おば》の後から石畳を歩いた。古風な神殿の拝殿の屋根に雀《すずめ》が数羽、遊んでいる。そう言えば林の中でもかなりな小鳥の啼《な》き声を耳にしていた。
「静かね。東京の内だとは思えないわ」
さりげなく辺りを見廻《みまわ》して、八千代は続けた。
「まるで修善寺みたいだわ」
「伊豆はいいわね」
というのが、はる子の返事であった。
「伯母様、いらしたことありますの」
「修善寺? 若い時分に一度ね。結城が連れて行ってくれたわ」
「伯父様はあの辺がお好きなのかしら」
「さあね。旅行は好きな人だけれど、近頃《ちかごろ》は忙しくてさっぱりよ」
「あのね。伯母様……」
八千代は石の狛犬《こまいぬ》の脇《わき》に背をもたせかけた。
「伯父様は昨年の十二月のはじめ頃、御旅行なさいましたかしら」
はる子は怪訝《けげん》な眼になった。
「なんで……」
「どうって事ないんだけど……私の知ってる人が伯父様によく似た方をみかけたって言ったもんだから……」
「どこで……」
「さあ、どこでって、うっかり聞かなかったわ」
「昨年の十二月のはじめ……ねえ」
はる子は神妙に首をひねって、ああと眼をあげた。
「旅行してるわ。十二月の……」
八千代は心臓がコトコト鳴り出すのを風呂敷包でそっと押さえた。
「十二月の……、ええと、あれは何日だったかな。お茶の会が護国寺であったのが十二月三日だから……四日だわ。出かけたのがね」
「四日……」
海東英次が修善寺で死んだのは十二月六日である。
「そうよ。四日から三日間ばかり京都へ行ったの。中学時代のグループが集まって、その頃《ころ》の受持の先生の墓参をしたんですって。ちょうど七回忌に当たるんだそうよ」
「京都へ……」
「底冷えのする土地へ暮に出かけるなんて、物好きだって笑ったら、墓参という殊勝な心がけを物好きで片づけられてたまるかって叱《しか》られたわ。なにが殊勝なもんですか。どうせ男ばかりの旅だもの。墓参はほんのつけ足り、女房への口実かも知れなくてよ」
「そんな……伯父《おじ》様は謹厳実直な男性ですもの……」
伯父夫婦の円満ぶりは親類中でも評判ものである。子供のないせいか、いつまでも新婚みたいに若やいだ家庭を、八千代もよく知っている。
「謹厳実直はよかった」
はる子は屈託のない笑い声を途中で止めた。
「あら、ラビイはどこへ行ったのかしら」
ラビイ、ラビイと呼び立てる声にも、子犬はなかなか現れない。
「遠くへ行く筈《はず》はないのよ。臆病《おくびよう》だから……」
「林の方かも知れないわ。伯母さま、ちょっと見て来ます」
八千代は子犬の名を呼びながら池のふちを林の方へ走った。鎖を放した責任もある。
「ラビイ、ラビイちゃん……」
あまり口馴《くちな》れないきどった名前を繰り返して古代住居の建っている林へ踏み込んだ時、
「八千代さん……」
住居|趾《あと》の柵《さく》のかげから痩《や》せぎすな男がぬっと八千代の前へ立ちふさがった。
「まあ、五郎さん……」
茜ますみの内弟子の中で只《ただ》一人の男性である。年齢はまだ二十歳そこそこだが、容貌《ようぼう》も体格も二十五、六には見える。首筋にぽつっと吹き出たニキビだけがハイティーンである。
「五郎さんったら、どうしてこんな所に」
面くらった八千代の問いに五郎も戸惑った苦笑を見せた。
「僕のアパートがこの近くなんですよ。この神社の向こうの区民会館で映画をやるって聞いたから見に来たんだ。八千代さんこそ、なんでこんな所へ来たの」
「私は伯父《おじ》の家がこの先にあるのでね。でも知らなかったわ。五郎さんがこの辺に住んでいらしたなんて……」
茜ますみの五人居る内弟子の中《うち》住み込みは久子だけで、他の四人は通いである。
「そうですか。言いませんでしたかね、代々木本町に住んでいるってこと。もう随分になるんですよ。ここに落ち付いてから……」
「代々木本町……」
八千代は軽く首をかしげた。
「私の伯父の住所は代々木初台よ」
「この神社をはさんで本町と初台が背中合わせになってるんですよ」
遠くで、はる子の子犬を呼ぶ声がして、八千代は気がついた。
「伯母の家の子犬が見えなくなってしまって、探しているのよ。ポメラニアンの、こんな小さい犬……」
「そりゃ、いけない」
五郎は周囲を見廻《みまわ》し、八千代はラビイと呼んだ。呼びながら池の方へ戻る。
池には落葉が浮いていた。三月という季節に散る葉もあるらしい。
何気なく視線が池の表面へ行って、八千代は、あらと声をあげた。
黒っぽい小さなものが水の上で動いている。枯葉がその周囲にまつわりついていた。
「ラビイだわ。ラビイが池に落ちた」
叫んでから八千代は子犬が鮮やかに泳いでいるのを見た。
「ラビイったら……」
汀《みぎわ》に走り寄って手を伸ばすと、子犬は丸くなってすくい上げられた。
「嫌だわ、お前は」
ぐしょぬれの四肢《しし》をもて余していると、五郎がズボンのポケットからハンカチを出してくれた。
「悪いわ。汚れるから……」
「かまいませんよ。どうぞ、早く拭《ふ》いてやらないと風邪《かぜ》をひきますよ」
五郎は人並みな表現をし、八千代も慌ててハンカチを受け取った。いつ洗ったのか知らないが、かなり汚れて黄ばんだハンカチである。遠慮する程の品物ではない。
「人間はセーターを着ている季節に水泳とは気の早いワンちゃんですね」
五郎はラビイの頭をそっと撫《な》でた。犬は嫌いではないが、それ程の愛犬家でもなさそうだ。
「嘘《うそ》よ。池に落葉が浮いていたんで、きっと地の上と勘違いをしてとび込んじゃったのよ」
「それにしてもそそっかしいワンちゃんだ。しかし、犬は泳げるって聞いたけど、実際に見たのは始めてだな」
ラビイ、ラビイと呼んでいたはる子の声が近づいて来た。
「あらま、どうしたというの」
はる子は八千代の腕の中のラビイを見、水と泥で汚れたハンカチを眺めた。
五分の後、
ラビイは鎖につながれ、五郎は八千代とはる子に会釈して区民会館の方へ去った。
「日本舞踊をやってる人のようじゃないね。男くさくて垢抜《あかぬ》けしてなくて」
石段を下り出してから、はる子が感想を述べた。
「どういう所の息子《むすこ》さんなの」
バスやトラックがひっきりなしに通っている広い路上をオートバイがもの凄《すご》い勢いでとばして行く。
「どういう所の息子さんって……五郎さんのこと……?」
八千代は伯母に代わって子犬の鎖を引いて歩いた。
「そうよ。だって今どきの男の子を舞踊の内弟子にしとくなんて、芸界の出身者でもない限り、珍しいじゃないの」
「そうでしょうね」
女が舞踊の稽古《けいこ》をするのは当人の趣味とか、家族の好みで、いわば嫁入り前の稽古事で済んでしまうが、男性の場合だと、いわゆる宴会の余興用に習う以外は、十中八九、この道で身をたてたいと決心してのようだ。
「五郎さんの家は九州の別府で大きな旅館をやってるんですって。私もよくは知らないけれど、五郎さんは末っ子で芸事が好きで、茜ますみ先生が九州公演をなさったとき、楽屋へ押しかけて来て、強引に内弟子になってしまったんだって話なのよ。だからお家から仕送りもあるし、内弟子さんの中では贅沢《ぜいたく》に暮らしてるほうなんでしょうね」
「やっぱり家からの仕送りがなけりゃやっていけないものなの。踊りの内弟子さんって」
「ええ、そうらしいわ。お師匠さんから頂くのはお小遣い程度でしょう。住み込みの人は食べる心配はないけど、着るものや細々したもので必要な費用は温習《おさらい》会の時の御祝儀だけではとても足りないそうよ。どうしても援助がなければ……」
「派手な世界だものね。すると、五郎さんって人なんか恵まれてるわね。小さくてもアパートに住んで、芸道|三昧《ざんまい》に大の男が暮らしてるなんて、この御時世にいい御身分だわ」
郵便局の奥を曲がり、狭くなった道を突き抜けると、大きな邸宅ばかり並んでいる。戦火を免れているから、造りは古風だが豪壮で、どっしりした建物ばかりだ。
ウルグワイという、八千代にとっては世界地図を探しても見つからないような外国の大使館もある。
その大使館の並びに満開の桜が美しいコンクリートの塀があった。石の門に出ている表札は「岩谷忠男」
「大東銀行の頭取よ。茜ますみさんのパトロンだって噂《うわさ》だけど、やっちゃん知ってる」
はる子は桜を仰いで、ずけずけと言った。
「さあ……」
八千代は曖昧《あいまい》に微笑する。噂の多い人でも自分の師匠という気持ちがあるから、伯母《おば》の前でもあまりあけすけな言い方は好まない。
ふと、昨年の暮れ、能条寛を羽田へ送った際に、茜ますみと連れ立ってフィンガーへ入った肥満体の岩谷忠男の姿を思い出した。
(彼の家……)
開き切った桜は風もないのに、花片を散らしている。
「なにしろ、相当のやり手ですってね」
茜ますみの事かと、八千代は気の重い顔をあげたが、はる子の目は「岩谷忠男」の表札を見ていた。
「学生時代から、神経質な癖に太っ腹で、おっそろしく目はしのきく人だったんですってよ。結城と同級だったの」
「まあ、伯父《おじ》様と……」
これは初耳であった。
「あら、話したことなかったっけ。この間の旅行も一緒だったそうよ」
「十二月四日の旅行がご一緒だったんですの……」
八千代は、なんとなくほっとした。伯父に連れがあればアリバイが成り立つ。
「東京からご一緒にいらしたんですか」
「岩谷さんは往復とも飛行機よ。うちの宿六はもう一人のお友達と一緒で往きだけ飛行機、帰りは急行列車、とんだ臨時支出でピイピイしちゃったわ」
子犬が歩き出し、人間はそれに続いた。
「往復ともお連れがあったの……」
安心すると同時に、八千代はがっかりもした。
すると……修善寺笹屋旅館の楓《かえで》の間に泊まった客は絶対に結城慎作ではなく結城慎作の住所を故意に使った別人とみる他はない。
(誰《だれ》……がなんのために……)
八千代は足許をみつめて歩いた。海東英次の死といい、細川昌弥の自殺といい、どこかで嘲《あざけ》っている黒い影があるに違いないと思うのだが、手がかりはシツケ糸のようにぶすんぶすんと切れてしまう。
「やっちゃん、今度の会では何を踊るの」
伯母《おば》の質問の意味を咄嗟《とつさ》に八千代は聞きそこねた。
「茜ますみさんのリサイタル、出演するんでしょう。やっちゃんも……」
茜ますみの主催する踊りの会は大きな会が年に二度あった。春のほうはお弟子さんの温習会的なもの、秋は彼女自身のリサイタルという形式だった。
「ええ、踊ります。でも演《だ》し物はまだ定っていないの。茜ますみ先生は新作の他は珍しく古典物で道成寺《どうじようじ》≠おやりになるんだけど……」
「茜ますみさんなら男に追いかけられても、自分から男を追いかけたことなんぞ一度だってないでしょう。とんだ清姫だわ」
「だって、伯母様、踊りは別よ」
「とにかく、たいした女なのよ。その昔、二十かそこらで親子ほど年齢の違う男と恋をして、さっさと捨てちゃったって言うんだもの。やっちゃん、あんたもいい加減に踊りなんぞやめてお嫁に行かないと朱にまじわれば赤くなるって言うからね」
はる子が冗談らしく笑った時、後ろからクラクションが聞こえた。道のすみへよけた二人の目の前を、岩谷忠男を乗せた高級車は音もなく走り去った。
花曇り
車の中で、岩谷忠男は蒼白《そうはく》になっていた。怒りのためである。
平常、底の知れない男と言われる彼特有の薄い微笑は口許から全く消え、細い指先が神経質に痙攣《けいれん》している。
花曇りの東京を、彼を乗せた車は神宮|外苑《がいえん》を抜けて赤坂へ出た。
「薄墨」という看板の出た料亭の前へぴたりと横づけになる。女中に迎えられ、運転手のうやうやしく開けたドアを下りた岩谷は、流石《さすが》に生ま生ましい怒りだけは顔から消した。歩きぶりもゆったりと見せている。
「いらっしゃいまし。お忙しくていらっしゃいますざんしょう」
愛想よく迎えたお内儀《かみ》の表情の底にも、ただならぬ気配がある。
「ますみは来ているだろうね」
ぶすりと岩谷はお内儀を見た。
「はい、先程からお待ちになっていらっしゃいますよ……」
先に立って廊下を案内しながら、不安気に言い足した。
「あの……小早川……さん……とおっしゃるんざんすか、演出家の……あちらもご一緒に……」
「なに……」
岩谷の足が止まった。
「男も来ているのか……」
足許に目を落し、ふんと鼻の先で嘲《あざけ》った。
「いいだろう……」
語尾に圧《おさ》えた憤《いきどお》りがある。お内儀《かみ》はおどおどと部屋の襖《ふすま》を開けた。
それが癖で、ちょっとネクタイの結び目に手をやって、岩谷は敷居をまたいだ。
床の間の前の席が空けられていて、紫檀《したん》のテーブルの右に茜《あかね》ますみが、隣に長身の男の横顔が見える。
いつもなら襖ぎわまで出迎えて、岩谷の体へ甘えるようなそぶりを見せる茜ますみだったが、今日は立って来ようともしない。
岩谷は床の間を背に、厚い座布団へどっかとあぐらを組んだ。
お内儀《かみ》が女中の運んできたおしぼりと茶器を自分で岩谷へすすめる。気を使った素振りであった。
「それじゃ、私はお話が済むまで御遠慮申して……」
お内儀のあげかけた膝《ひざ》を、岩谷は制した。
「お内儀も同席して貰《もら》おうか、そのほうが話の筋が立つ。いいだろうね。ますみ」
ぴしっと呼び捨てにした。茜ますみはちらと目をあげ、ゆっくりとうなずいた。
「よございますの。私がお邪魔申しましても……」
お内儀《かみ》は念を押してから居場所へ坐《すわ》り込んだ。落ち着かなく、又、居ずまいを直す。
午下《ひるさが》りの料亭は静かだった。自慢の庭の苔《こけ》が青い。三分咲きの山吹の黄が池水に映って揺れていた。
上着のポケットから鰐皮《わにがわ》を張ったシガレットケースを取り出し、一本をくわえかけて岩谷忠男は唇をゆがませた。
煙草をシガレットケースごとテーブルへ置く。
「わしとますみとの仲を最初っから知っているお内儀だ。あんたが傍にいてくれたほうがなにかと便利だろう」
お内儀が曖昧《あいまい》なうなずきを見せると、岩谷は再び内ポケットを探った。取り出したのは封筒である。茶色のハトロン紙の、ごくありふれたものである。一度、ポストを通過して来たもので切手にはスタンプが捺《お》してある。封は切られていた。
「こんなものが今朝、届いた。見て貰おうか……」
卓上に置いて、煙草をくわえた。お内儀が手ぎわよく火を点《つ》ける。これもいつもなら茜ますみの役目のものであった。
茜ますみはハトロン紙の封筒を暫《しばら》く凝視し、隣に坐《すわ》っている小早川|喬《たかし》の顔を仰いだ。どうしましょう、と相談するような目の色に媚《こび》が動く。
「拝見しなさい」
薄い唇を結んで小早川はずばりと言った。茜ますみは銀色のマニキュアの光る指を伸ばして封筒を取った。
宛名《あてな》は岩谷忠男殿となっている。渋谷区代々木初台××番地と書かれた住所の文字と同じく妙にぎこちなく四角いのは、差出人が筆蹟《ひつせき》をかくす目的で故意にそうしたようである。裏に差出人の名はない。
封筒の中から出て来たのは一枚のレターペーパーとタイプを打った二枚の薄い紙である。茜ますみはタイプ文字を先に読んだ。
小早川喬氏と茜ますみ氏との会合日時、及び会合場所は左記の通りであります。
三月十四日 新宿区|十二社《じゆうにそう》××番地 三田村(待合)
午後七時三十分―十一時。
十七日 横浜市中区××町ホテルニューグランド。
一泊。ルームナンバー三百十五番(二人部屋ダブルベッド、バスルーム付)東京よりの往復タクシー利用
二十日渋谷区××町、京屋旅館
午後十一時五分―午前二時十分
二十二日午後二時二十分小早川氏運転(オースチン車番号××番)、世田谷区経堂の自宅を出発、渋谷東急会館前にて茜ますみ氏乗車、京浜第二国道を経て熱海「××ホテル」到着午後六時十三分(途中、大磯《おおいそ》付近にて小休憩あり)
ルームナンバー百十九、翌二十三日午後一時五分××ホテル出発、十国峠《じつこくとうげ》を経て帰京。
ばさりと音を立てて茜ますみの手から数枚の写真がこぼれた。タイプの紙の中にはさんであったものである。抱き合い、顔を密接させている小早川喬と茜ますみの写真である。
男女の顔はかなり、はっきり撮れていた。望遠レンズを使ったものだろう。
他の二枚は旅館から出てくる二人であった。こっちの方は顔は殆《ほと》んどわからないくらいぼやけている。ただ服装、体つき、ポーズで小早川喬と茜ますみを深く知っている人間なら、すぐそれと判別出来た。
茜ますみの顔色は流石《さすが》に変わっていた。写真へ視線をやった小早川喬もぎょっとした風である。
茜ますみはレターペーパーをひろげた。紙の周囲がはっきりとふるえている。
レターペーパーの文字は活字であった。新聞か雑誌の活字を一個ずつ切り抜いてレターペーパーに貼《は》りつけて文章としてある。
謹 啓
御貴殿がお世話なされておる茜ますみ女史に同封の報告書の如《ごと》きスキャンダルがある事をお知らせします。
お節介なようですが、私は昔、御貴殿に御恩を受けた者であり、たまたま茜ますみ女史と小早川喬との事実を知り、コキュの立場に置かれた御貴殿を見るに見かねて御報告申し上げるものであります。
念のため同封せる写真は、調査を依頼した秘密探偵社員の知らせで現場へ直行した私が、私自身で撮影したものであります。車内における二人の写真は熱海××ホテルの帰途を尾行し十国峠付近にて望遠レンズを用い、停車中の現場を写したものであります。この撮影後、人通りのないを幸い、車中で如何《いか》なる醜行が白昼行われたかは申し上げるにしのびません。
私がかような非礼を敢《あえ》て行いましたのは単なる物好きでは決して無く、ただただ貴殿の御為を思えばこその行為であります。悪しからず、私の志をおくみ取り下さい。
岩谷忠男殿
御恩を受けし者より
レターペーパーを喰《く》い入るように見つめている茜ますみを見るような見ないような素振りで、岩谷忠男は煙草をすっていた。眉《まゆ》をひそめる。
小早川喬が突然、手を伸ばしてレターペーパーをますみの手から奪った。視線がさっと紙面を素通りし、タイプの方も一瞥《いちべつ》した。写真とペーパーを一まとめにして封筒に入れ、卓上へ戻した。
「茜さん、岩谷さんが貴女《あなた》をここへ呼んだ用件をお聞きなさい」
静かすぎる、むしろふてぶてしい声で小早川は茜ますみへ言った。
「はい……そう致しますわ」
男と目を見合わせて、茜ますみは、しなやかな体を岩谷へ向けた。
「私に御用とおっしゃいますのは……なんでございましょう」
驚愕《きようがく》も狼狽《ろうばい》もきれいに消えた頬《ほお》には微笑すら浮かんでいる。
岩谷忠男は、まじまじと女の顔を眺めた。唖然《あぜん》とし、次に、にんまりと笑った。
「そうか、お前の返辞がそれか……」
卓上の封筒をぽいとお内儀《かみ》の前に投げた。
「見るがいい。その返辞がこの有様なのだ」
お内儀は慌しく手紙と報告書を読み、写真を見た。
「まあ、ますみさん、あんたって人は……」
眼を釣り上げてお内儀は叫んだ。
「よくもいけしゃあしゃあと岩谷さんの前へ出られたもんだね。岩谷さんにこんな恥をおかかせして……」
肥った手が、むっちりした膝《ひざ》の上でぴくぴく動いた。
「あんた、今まで岩谷さんにはどのくらいお世話になったか知れやしない。茜流の家元を継いで、舞踊界で一ぱしな口をきけるようになったのも、一体どなたさまのおかげだと思っているのさ。受けた御恩を足蹴《あしげ》にして、あんた、それで済むと思ってるの」
岩谷は鷹揚《おうよう》にお内儀を手で制した。
「ま、そう興奮しちゃあいけないよ。それでは話にもなにもなりはしない」
改まった眼をますみと小早川へ注いだ。
「ますみ、私は縁があってあんたが先代茜よしみの内弟子の時分からあんたを援助して来た。十年にもなるその間には、あんた色恋|沙汰《ざた》は一度や二度じゃなかった筈《はず》だ。しかし派手な芸界の事だ。針ほどの事を棒と言い立てる連中も少なくないことだし、私も野暮な男にはなりたくない。お前が噂《うわさ》にすぎないと申し開きをするのを信用して、その他の事は見て見ないふりを続けて来た。そのあげくが、昨年の海東英次の一件だ。ますみ、お前はあの時、私になんと言った……」
半分ほど吸った外国煙草を無造作に灰皿へ捨て、岩谷は茜ますみの白い横顔をきびしく見た。
「お前は、あの時、私の前へ手を突いて二度とこんな真似はしない、人の噂の口に上るような振る舞いは慎むから今度の始末だけはなんとかして頂きたいと泣かんばかりに頼んだ。お前がそれほどまでに言うならと、私は気持ちよく海東の葬式万端の費用を出してもやった。あれからまだ半年も経ってはいない。如何《いか》に物忘れのひどい人間でも自分の口から出た言葉だ。忘れましたでは済ませられまい。お前の口からはっきり聞こうじゃないか……」
お内儀《かみ》も膝《ひざ》をすすめた。
「岩谷さんのおっしゃる通りですよ。あんたって人は本当にまあ……どういうんでしょうね。私もあんたの歿《な》くなったお母さんとは昔なじみだからこれまでなにかとあんたの味方になって来たつもりだけれど……お店の大切なお客様に御迷惑をおかけしては私の顔が立ちません。申し開きがあるなら、ますみさん早くおっしゃいな」
ますみはすっと顔を上げた。
悪びれない表情でお内儀と岩谷へ等分な視線を送った。
「申し開きなぞございませんわ」
しらじらしい声である。
「ますみさん……」
悲鳴に似たお内儀《かみ》の声が、
「あんた、なんてことを……」
ますみはそれにも微笑をもって応じた。
「なにも申し開きはありませんのよ」
「すると、ますみ、この手紙と報告書の事実をお前は認めるというのだね」
表面はあくまで落ち着きを装っていたが、岩谷の顔は蒼白《あおじろ》んでいた。
「どうとも御推量下さいまし。おまかせ致しますわ」
茜ますみは艶な目を岩谷から小早川へ移した。安心している女の目である。余裕が充分だった。
「ますみさん、よくもそんな顔が出来ますね。岩谷さんを裏切って……火遊びもたいがいにしなさい……」
「お内儀さん……」
茜ますみは唇のすみに冷笑を浮かべた。
「私、岩谷さんを裏切ったとは思いませんの。そりゃあ、今日まで岩谷さんには随分お世話になりました。御恩は有難いと思っています。けれどその御世話は決して無報酬だったわけではございません」
ずばりとますみは言い、目の奥で又、笑った。
「ね、そうでございましょう。岩谷さん、あたくしは岩谷さんの奥さんじゃございませんわ。岩谷さんにはれっきとした奥さんもお子さんもございます。岩谷さんと私はあくまでも男と女のおつき合い、ですから私、一度だって岩谷さんに奥さんと別れて正式に結婚してくれなどと申し上げたことはございませんでしたわね」
「当たり前ですよ。そんな厚かましい……」
お内儀《かみ》の怒りを、ますみは完全に無視して言い続けた。
「同時に、岩谷さんはいつも私におっしゃってました。いい相手が出来たらいつでも結婚するようにって……」
「たしかに、それは言った。本心だ。が、私が言うのはまっとうな結婚のことだ。私にかくれた浮気を認めるわけじゃない」
岩谷は新しく煙草を抜いた。ますみがライターを点《つ》けた。小早川喬の前にあったライターである。岩谷は顔をそむけ自分でマッチをすった。
パチッと音を立ててライターを消すと、ますみはそれを小早川喬の手元へ戻した。微笑で男をみつめる。
「あなた、申し上げてもいいかしら」
甘えたますみの声に小早川が微笑した。声は出さずに肯定する。茜ますみは静かに岩谷へ向き直った。
「岩谷さん、私、こちら……ご存知でございますわね。演劇評論家の小早川喬さん。私、この方と結婚致しますの」
「結婚……?」
「ええ、実は式の日取りとか、お仲人やら、話がもっと具体化してから改めて岩谷さんへご相談申し上げるつもりで居りましたの」
さらりと言ってのけて茜ますみはしなやかな指を膝《ひざ》の上で組んだ。
「ますみさん、それ、本気なんですか」
薄墨のお内儀の言葉へ、ますみは丁寧すぎる会釈をした。
「誰《だれ》が洒落《しやれ》や冗談で結婚話を致しましょうかしら。私たち真剣なんですのよ。私だって、もう年齢《とし》でございますもの、そろそろ生活の安定というんでしょうか、精神的にも落ち着いて、じっくりした仕事をしてみたいんですの。小早川さんはその点でも私を理解して下さいましたわねえ、貴方《あなた》、そうですわね」
茜ますみの手が伸びて、小早川の手を掴《つか》んだ。
「小早川さんに伺いましょう。今ますみさんのおっしゃった事はほんとうなんざんしょうね。あなたもご了解ずみのことなんざんしょうね」
お内儀《かみ》の声は甲高《かんだか》くなっていた。岩谷は、そ知らぬ顔で庭を眺めていたが、唇はぶすりと一文字に結ばれている。不機嫌が露骨だった。
「ますみが申したことは事実です。二人は間もなく結婚する事になっています」
小早川はますみに手を握られたまま、悠然と答えた。
「そんな恥しらずな……小早川さん、あんたは茜ますみと、こちらの岩谷さんとの関係を、よもやご存知ないわけじゃありますまいね」
「私は、ますみの、この人の過去は問いません。私たちは現在、愛し合い、結婚を求めているのです。それだけで充分じゃありませんか」
ますみの目へ微笑を投げた。きざとも見える調子で続けた。
「男と女が出合う。愛し合う。結びつきを求める。これは偉大な事ですよ。僕も、ますみも過去にいくつかの恋愛をし、情事を持っている。しかも、ますみが心から結婚を願ったのは僕へだし、僕もますみに逢《あ》って、はじめてその問題を考えた。二人は当然、逢うべくして逢い、そして結婚への道を歩んだ。自然の理というか、人生の妙というか、余人の計り知るところではないんですよ」
「よろしい。わかった」
岩谷は太い声で、小早川の饒舌《じようぜつ》を遮った。軽侮のはっきりした視線を小早川から茜ますみへ送ると思い切ったように言った。
「君たちが、そうまで言うなら自由にしたまえ。ますみとは今日限り縁を切ってやる」
きっぱりした語尾に、薄い未練が残っていた。
小早川喬と茜ますみを乗せたオースチンは赤坂から五反田《ごたんだ》へ抜け、第二京浜国道を走った。
「あら、雨が……」
「ふむ」
窓に白く糸を引いたような雨足が急に早くなった。それでなくても暮れなずんだ空は灰色に重い。
「とうとう降り出したわ」
助手席で、ますみは華やいだ声を立てた。
「ほこりがひどくて、くさくさしてたの。いい雨だわ。まるで、私たちの過去を洗い流してしまうみたいね」
体をよじって膝《ひざ》を男の膝へ密着させた。男の片手がハンドルをはなれて女の肩を抱く。
雨の京浜国道は車が多かった。混雑する時刻でもある。
トラックが何台も続き、キャデラックやクライスラーのような高級乗用車が重なり合っている間を縫ってタクシーが走る。大抵がトラックや安全運転の自家用車を追い抜いて思い思いの方角へ消えて行くのに、一台だけ忠実に小早川喬の運転するオースチンの後へ従って東京から横浜へ入って来たタクシーがあった。無論、空車ではない。
東神奈川を過ぎると雨は小降りになっていた。
オースチンは昔の居留地跡、今はシルクセンターという大きなビルの建物の角を折れて山下公園沿いのゆったりした道路を走り、スピードを落としてGホテルの駐車場へ入った。
鍵《かぎ》をしめ、小早川は黒いレースのショールを肩からずらして立っている茜ますみを抱えるようにしてホテルの回転ドアを押した。古いホテルだけあって、造りも古風だが、がっちりしている。
正面の階段を上りフロントで部屋の交渉を済ます間、茜ますみは黒レースのショールで顔を埋めかくすような恰好《かつこう》をして立っていた。ボーイが鍵を持ち、エレベーターで部屋へ案内した。荷物がなにもないのがボーイには手持ちぶさたのようである。
部屋は港に面していた。
小早川がボーイにチップを渡している間に、ますみは窓のカーテンを少しばかり開いて港の灯を眺めていた。
ふっと肩を抱かれる。
「港の夜って、いつみてもきれい。でも雨上がりのせいかしら。いつもより、ずっとロマンチックな……」
あっと茜ますみは声を切った。男の唇が彼女の声ごと唇を呑《の》み込んだ。
「岩谷とも、こうして、ここの窓から大桟橋の灯を見たのだろう。え、そうじゃないか」
小早川は女の目をのぞき込み、茜ますみは媚《こび》を体中にみなぎらせた。
「そんなこと……あなた嫉《や》いていらっしゃるの……」
蛇《へび》のように絡んだ手が小早川の背を這《は》った。もつれ合った二つの体は、まだ夜の仕度の出来ていないベッドの上に倒れた。
小早川とますみとが屋上の食堂へ落ち着いたのは七時近かった。
食堂は圧倒的に外人が多い。中国服も目立った。横浜という場所柄でもあろうか。
やはり港のよく見える窓ぎわに席をとると、ますみは意味もなく小早川へ微笑を送った。
きちんと身じまいはしているが湯あがりのほてった頬《ほお》や首筋の辺りに、いきいきした情事のあとが残っている。眼だけが、僅《わず》かにけだるい翳《かげ》を漂わせていた。
柔らかく息づいている肩の辺りへさりげない眼を遊ばせながら、小早川は大輪の牡丹《ぼたん》の花がくずれるのにも似た彼女の先刻の姿態を思い出した。
ビールが運ばれ、オードブルの皿が並んだ。
「まず、乾杯しよう。二人の新しい人生へ対して……」
「プロジェット……」
気取った指でコップをあげ、茜ますみは、
「うれしいわ」
とつけ足した。
「しかし、なんだか不思議な気がするな」
オードブルのフォークを動かしながら、小早川はしみじみと言った。彼らしくない声音である。
「不思議って、なんですの」
「京都時代の貴女《あなた》……つまり栗本夏子さんと横浜のホテルで食事をする事になろうとは勿論《もちろん》……」
「結婚する羽目になろうとは夢にも思わなかったとおっしゃるのでございましょう」
ビールのコップのかげから、茜ますみの眼が笑った。
「私だって驚きましたわ。貴方《あなた》が三浦|呂舟《ろしゆう》先生の御門下生だったなんて……」
「いや、門下と言ったって大学時代に講義を聞いたというだけの師弟だがね。先生はあの時分、あなたの事をなよたけと称して居られた。僕らは、三浦先生のかぐや姫なんて噂《うわさ》を聞くたびに、あなたの美しさ、気高さに、ひそかに心をとどろかしたものだ」
ますみは含み笑いを窓へ逸《そ》らした。
「嫌ですわ。昔のことを……」
眼の底にきついものが覗《のぞ》いていた小早川の言葉が、彼女の或《あ》る急所を突いたのだ。
小早川は気づいていない。彼にとって、昔話はあくまでも昔ばなしに過ぎない。
「けど、あなたも罪な人だ。あの謹厳な、カトリック信者の三浦先生が、世間体も名誉も職業も投げ捨てて君に溺《おぼ》れ、遂には家庭まで崩壊し、あげくには君にまで捨てられる。当時の京都では随分な話題になったものだよ」
「それは、私のせいではありませんって何度も申し上げましたでしょう。いけないのは三浦先生自身ですわ。まだ西も東も、男女のわきまえもつかなかった私を手ごめ同様に自分のものになさった。あの時のかなしさ、口惜《くや》しさは男の方には想像も出来ない筈《はず》ですわ」
ますみは港の夜景に濡《ぬ》れたような瞳《ひとみ》を向けた。
「それに、私が先生とお別れしたのも、先生の御家庭のことや先生の立ち場を思えばこそですわ。堪えられませんでしたのよ。少しずつ世間が広くなり、自分の眼も開いてくると、みじめな自分の立ち場がつらいやら、苦しいやらで……私が先生の許を逃げ出したのは、女にとって自分を犠牲にする行為ですわ。それを……」
怨《え》んじるような眼が、ななめに小早川を見上げた。
「知っているよ。君が言うまでもない。誰《だれ》よりも君の性格を理解している僕じゃないかね」
「御存知なら、どうして私ばかりを悪者にするような言い方をなさいますの」
「そういうわけじゃない……」
「そうですわ、意地悪な方……」
ビールを小早川のコップに注ぎ足しながら、ふと本気な眼の色をした。
「そんなことをおっしゃると、私、死んでしまいたくなりますわ」
「おいおい、冗談じゃないよ。折角、結婚にまでこぎつけて、君に死なれてたまるものかな」
ますみは男の軽い口調を、たしなめるように睨《にら》んでみせた。一人言めいた呟《つぶや》きが、
「一人で死ぬのは淋《さび》しいから嫌……こんなに好きになってしまった貴方《あなた》ですもの、この世に残しておくのは心残りだわ」
喉《のど》の奥でしのび笑った。
「私、やきもち焼きなんですもの。貴方を残しては死んでも死に切れない。いっそ、貴方を殺してしまうかも知れないわ」
「とんだ安珍清姫《あんちんきよひめ》だね。それとも大時代に道行と洒落《しやれ》ようか。心中ものの踊りは君の十八番だが、相手が僕じゃ役不足だね。若|女形《おやま》の中村菊四でも連れて来るか」
「にくらしい方ね。あなたは……」
しのびやかな二人だけに通じる笑いが洩《も》れ、新しくビールのコップが空けられた。
ボーイが別な皿を運び、ビールが又、抜かれた。
窓の下は白い霧が流れていた。
山下公園も人影がなく、街路に走る車も少なかった。
ホテルの灯も霧にぼやけ、夜更けに従ってひっそりと静まっている。
不意に黒い人影が動いた。
Gホテルの駐車場の辺りである。動いたと見えたのは一瞬で、すぐに闇《やみ》に吸われて見えなくなってしまった。
真新しい外国車が駐車場へ入った。Gホテルへ泊まっているアメリカ人らしい。やせた夫と肥った妻とがレディファーストの国らしく女を先に立ててホテルのドアを入って行った。
茜ますみが大桟橋の辺までドライブしてみたいと言い出したのは九時過ぎだった。
「港の夜景をもっとそばで見たいの。それとチャイナタウンの方も行ってみたいわ」
ホテルのロビーで今日、イギリスの観光船が着いたという話を聞いていた。食事は済んでいたが寝るにはまだ早く、二人とも昼からの出来事で多少は気持も昂《たかぶ》っていた。
「腹ごなしにざっと回ってみるか」
身仕度をしてエレベーターで下りた。フロントへ鍵《かぎ》をあずける役目は茜ますみが引き受け、小早川は一足先に駐車場へ出た。
「はてな……」
確かに置いた筈《はず》の位置にオースチンがない。キーホールダーをがちゃがちゃさせながら周囲を見回した。愛用車はなかった。
(盗《と》られたかな……)
そんな馬鹿《ばか》なことが……と否定した。鍵はかけてあったし、ホテルの駐車場ではある。
だが、駐車場をくまなく探してもオースチンはない。
小早川はホテルの係員を呼ぶつもりで一度駐車場から出た。ホテルの入口へ続く石段を上がりかけてふと路上へ目をやった。
霧の深い、人一人通らない路上に、車が一台止まっていた。ホテルから約三百メートルくらい先の地点である。目をこらした。
オースチンらしいと小早川は見た。車のナンバーは見えない。
小早川は走り出した。車はこちら向きに止まっている。色も、感じも小早川の愛用車であった。運転台に人影はない。
(誰《だれ》が、あんな所へ持って行ったのか。悪戯《いたずら》もたいがいにして貰《もら》いたい)
それにしても鍵《かぎ》のかかっている車をどうやって運んだものかと不審だった。とにかく一刻も早く自分のものかどうか確かめたい。
歩道を走って行った小早川は足を止めた。道路工事で歩道がそこから先はそっくり掘り返されて穴が開いている。通行止の木札が霧にぼやけていた。
(危いもんだ。うっかりすると穴へ落ちる所だった……)
濃い霧の中で小早川はほっと息をついた。オースチンは工事中の歩道と平行に並んで止まっている。
それに近づくためには否応《いやおう》なしに車道へ下りなければならない。小早川は足許に注意しながら車道へ出た。オースチンと彼との距離は十メートルと離れていない。靴に石が当たった。
(危い……)
と思う。とたんに消えていた車のヘッドライトが点《つ》いた。眩《まぶ》しい。小早川は反射的に手で顔をおおった。
茜ますみは黒いレースのショールを髪にすっぽり巻いてホテルの玄関を出た。その目前を物凄《ものすご》いスピードで車が走り去った。
霧がじわじわとオースチンを呑《の》み込み、地面を低く這《は》い回った。
車の鍵《かぎ》
小早川喬の轢死体《れきしたい》は十時過ぎ、通行人に発見された。
腹部、胸部、顔面と縦に轢《ひ》かれた彼の死体は二目と見られぬほどのむごたらしさで、知らせによりホテルからかけつけた茜ますみはその場で失神した。
意識が回復してから彼女は取り調べの警官に、次のような陳述をしている。
「部屋の鍵《かぎ》をフロントへあずけてから化粧室へ立ち寄りました。それから急いで外へ出ますと丁度《ちようど》、小早川さんのオースチンがホテルの前を凄《すご》い勢いで通りすぎる所でした。私、あまり待たせたので小早川さんが腹を立てて、そんな悪戯《いたずら》をなすったのかと思いました。戻って来て下さるだろうと暫《しばら》くホテルの前に立っていたのですけれど、それっきりいくら待っても車は戻って来ませんし、霧がひどくて濡《ぬ》れてしまうのでロビーへ入ってしまいました。よもや轢かれているなんて夢にも思いませんでした。オースチンを運転していた人ですか。走りすぎたのがあっという間でしたし、男だとは思いましたけど顔などは……あの霧でしたし……ええ車内灯は点《つ》いていませんでした」
この彼女の陳述の裏付けはGホテルのドアマンがそっくり証拠立てている。
「その通りです。はじめ男の方がドアを出て行かれ、十分程遅れて茜ますみさんが……はい、男の方は存じませんでしたが、茜ますみさんはよく存知あげています。以前からよくこのホテルを御利用になっていましたから……。ますみさんは黒いショールを髪にかぶりながらドアの外に暫《しばら》く立っていらっしゃり、それから入っていらっしゃってドアの内側から又しばらく外をみてお出ででした。だいぶ経ってからロビーの方へお行きになり煙草をお吸いになっていらっしゃいました。オースチンが通った事ですか。それは私、うっかりして居りまして気がつきませんでした。昨夜は港に船が入ったのでタクシーはチャイナタウンの方へ集中してしまい、このホテルの付近は九時過ぎは殆《ほと》んど通らなかったようですが……」
小早川喬を轢《ひ》いたオースチンは小早川の愛用車だった。
タイヤやボディーに生ま生ましい血痕《けつこん》を残したまま、そのオースチンは山下公園ぎわの路上に置かれていた。Gホテルから約五百メートルばかり先である。
オースチンのドアの鍵《かぎ》は閉まっていた。窓ガラスを破った形跡もない。
車の鍵は、小早川喬が右手に掴《つか》んだまま死んでいた。洒落《しやれ》たイタリアングリーンのキイホールダーには車の鍵と小早川喬のアパートの部屋の鍵、及び洋服ダンスの鍵とが各々《おのおの》、持ち主の血にまみれてぶら下がっていた。
オースチンのハンドル、ドア、その他から取れた指紋はすべて小早川喬のものばかりである。
つまり、小早川喬を轢《ひ》いたとみられる彼の愛用車オースチンの状態から判断すると車は無人のままGホテルの駐車場を抜け出し、主人であるべき小早川喬を轢殺《れきさつ》し約五百メートルを走って止まっていた、という事になるのだ。
運転手のいない車が突然、暴走するという事故はあり得ない事ではない。が、それはあくまでも偶発的な場合で、今度のオースチンにはあてはまらない。
外部から損傷して車を何者かが運転したのでもないとなると、当然、問題になるのは車の鍵である。
鍵は二箇あった。
一つは小早川喬が右手に掴んだキイホールダーに付いている。
もう一つは……。
「私がおあずかりしていました。勿論、小早川さんからですわ」
茜ますみは落ち付いて答えた。
「でも、それは今日は持って居りません。東京の自宅へ置いて来てしまいましたの。はい、私の居間の手文庫の中にある筈《はず》ですわ」
係官は直ちに東京、赤坂の茜ますみの自宅を調査した。
鍵は茜ますみの言った場所にちゃんとあった。異状もない。
「昨日、茜ますみさんが外出してからの人の出入りについて詳しく言って下さい」
という係官の問いに留守番役である内弟子の久子と女中の愛子が代わる代わる答えた。
「ますみ先生がお出かけになりましたのは、午後三時すぎでございます。はい、その前に薄墨≠ニいう料亭のお内儀《かみ》さんから電話があって、それが切れると今度はますみ先生が小早川先生へお電話をされて、間もなく小早川先生がお出でになりました。いつものオースチンを運転していらっしゃってお二人でお出かけになりました。それっきりでございます」
「先生が急にお出かけになりましたので、私は内弟子の五郎さんを電話で呼びました。今日は稽古《けいこ》日でお弟子さんがお見えになりますし、いつもは私一人でも片がつくのですけれど……あの、生理日だったものですから、ちょっと辛い気がして……五郎さんに応援を頼んだのです。先生のリサイタルも近づいていまして稽古も普段より大変だったんですの」
「ええ、久子さんは午前からお腹が痛むし、しんどいって言っていました。五郎さんは三時半|頃《ごろ》、四時近くでございますか、やって来まして、それから久子さんとお弟子さんのお稽古《けいこ》をなすっていました。七時少し前に五郎さんはお帰りになり、残りの二、三人のお稽古は久子さんがなさったんです。ますみ先生ですか、勿論《もちろん》、遅くとも御帰宅なさると思ってましたから、十二時すぎまで起きてお待ち致していましたんですよ」
「はい、ますみ先生は無断で外へお泊まりになる事は一度もございません。それはどうしてもおつき合いなどで夜は遅くなりますし、旅行もございます。けれど、どんな急の場合でもお電話を下さいますから……。昨夜もお帰りになるとばかり思っていましたので、ずっと……十二時をすぎてから愛子さんは朝が早いので気の毒と思い先におやすみなさい、と申しました。私は起きて居りました。でも疲れていたので、少しはうとうとしていたかも知れません」
お弟子さん以外の来客はなかったし、ますみの居間へは愛子が掃除に入った以外に誰《だれ》も入りはしない筈《はず》だと、これは二人が口を揃《そろ》えて答えた。
「ねえ、ちょっとしたスリラー小説の題名になるんじゃないか。無人自動車殺人事件ってのは堅苦しいかな。でなけりゃ影なき殺人なんてのはどう……」
丸の内ホールの廊下の長|椅子《いす》に腰を下すと染子は待ちかねたように喋《しやべ》り出した。
ホールの入口に「長唄《ながうた》花蝶会演奏会」のはり紙が出ている。染子達の花街の芸妓《げいこ》ばかりが常日頃《つねひごろ》の精進ぶりを発表する長唄の温習会である。
染子は踊り専門で長唄も清元も苦手だが先輩の姐《ねえ》さん株が出演しているため止むなく義理で顔を出し、退屈しのぎに八千代へ電話をして呼び出したという恰好《かつこう》である。
もっとも、八千代を呼び出した理由はまだ他にもある。
とにかく八千代がやって来たのが「勧進帳《かんじんちよう》」の演奏中だったので席を立つことは勿論《もちろん》、小声の会話も憚《はばか》かられて、染子は長い演奏中じりじりしながら幕の下りるのを待った。胸に思っていることを長く貯めておけない性質である。幕が下りたとたんに八千代の袂《たもと》を引っぱって、さっさと廊下へ出てしまった。
「嫌だわ。染ちゃん、これじゃ長唄《ながうた》聞きに来たんだか、染ちゃんとお喋《しやべ》りしに来たんだかわかりゃしないわ」
サマーウールのイタリアングリーンのワンピースの大きく拡がった裾《すそ》を気にしながら八千代は明るく笑った。
「なに言ってんの。もともと長唄聞く気もないくせにさ」
きめつけた染子も若草色に白で藤《ふじ》を描いた訪問着に青海波《せいがいは》の帯を締めている。
「大きな声……聞こえるわよ」
八千代に言われて染子は首をすくめた。
「けどね。なんだか嫌んなっちまった。昨年っから妙な事ばっかしだもん、ここんとこお座敷でもそんな話ばかりなのよ。茜流の名取りだってことが恥ずかしいみたいよ」
染子は口をとがらす。
「あんたところのお母さん、言うわないの。茜流を脱退しろって、え、八千代ちゃん」
八千代は気弱く微笑した。
「まあね、口に出しては言わないけど……」
「出来れば他の流儀に変わって貰《もら》いたいと思ってるんでしょ。そうよ。それが当たり前よ」
つけつけと言ってのけた染子は、細長いハンドバッグの中からチューインガムを出した。
「食べない」
「ありがと」
八千代は不思議な顔をした。
「染ちゃん、煙草は……」
当然、彼女が取り出す筈《はず》のシガレットケースはハンドバッグの中になかったようだ。
「止めたのよ。肌に悪いっていうし、痩せるために吸ってたのに一向、やせもしないもの。つまらない……」
「でも、よく止められたわね」
一日に二十本は吸っていた染子である。
「私が止めた代わりに久子さんが吸い出したわよ」
「久子さんが……」
茜ますみの内弟子の中でも一番|真面目《まじめ》で固いといわれている久子である。アルコールは相当強いとされているが、それだってビールならコップ一杯、日本酒でも盃《さかずき》に三つとは重ねた事がない。
「あんまり、考え事が多いんで、とうとう煙草でも呑《の》む気になったんだって、昨日逢《あ》ったとき憂鬱《ゆううつ》そうな顔してたわよ。変な事件ばかりますみ先生が引き起こすもんで、あの人も気が気じゃないんでしょ。素人《しろうと》のお弟子さんはみんな稽古《けいこ》を休んでるらしいし、今度の温習《おさらい》会にだって、休演する人が続出するらしいわ。可笑《おか》しな言い方だけど、お嫁入り前のお嬢さんなら、茜ますみの弟子だってことはあんまり名誉じゃないものね。どうせお嫁入りの時に箔《はく》をつけるつもりで踊りの稽古をしてるんだったら、他の流儀へ移ったほうが無難だっていうのさ」
「ますみ先生だって好きこのんで事件を起こしてるわけじゃないし、お気の毒だわ」
「そりゃそうだけど、いわば身から出たサビみたいなもんでしょう。赤坂のね、薄墨≠フお内儀《かみ》さんね。ますみ先生のなくなったお母さんの友達のあの人まで、いい気味だって喜んでるそうよ。恩知らずの人間にはおあつらえむきの天罰だってさ」
染子は、くちゃくちゃとまずそうにチューインガムを噛《か》んでいたが、思いついたように訊《き》いた。
「そう言えば、八千代ちゃん、あんた黒い扇のこと誰《だれ》かに訊いた……」
「黒い扇……」
どきりとして八千代は眼をあげる。
「小早川先生のお葬式の日に着いた電報のことよ」
「知らない。なによ」
「ほら、人が死んだりなんかしたときに来る電報があるでしょ。黒い枠に電報の文句が書いてあるのさ」
染子は如何《いか》にも芸者育ちまるだしの言い方をした。
「弔電のことでしょう」
八千代は染子のもたもたした言い方を封じた。少しも早く先が聞きたい。
「それがどうしたのよ」
「小早川喬のところへは、勿論《もちろん》、沢山の弔電、っていうの、その電報が来たでしょう。その中に変な文句のがあったのよ。それを内弟子の五郎ちゃんが見つけて、久子さんに話し、久子さんがますみ先生に見せたんだって。私、うちのお母さんに訊《き》いたのよ」
「だから、なんて書いてあったの」
八千代は染子の肩をゆすぶった。肝腎《かんじん》の時に、のんびりしている染子が苛立《いらだ》たしい。
「待ってよ。どうせ、あんたが聞きたがるだろうと思って手帳に書いて来たから……」
染子はハンドバッグをあけて、小さなメモ帳をとり出した。稽古《けいこ》日やらお座敷の約束日なんぞが、書いた当人でなくてはわからないようにごちゃごちゃ並んでいる間を覗《のぞ》いて、
「これよ、これ、ツツシミテオクヤミモウシアゲマス……」
「なによ。当たり前の弔文じゃないの」
「まってらっしゃいよ。気が短いね。あとがあるのよ、ツツシミテオクヤミモウシアゲマス、クロイオオギ、ロシウ。どう、八千代ちゃん」
染子の手から八千代はメモ帳を取り上げた。まっ黒けな鉛筆の文字をたどる。
「慎しみておくやみ申し上げます。黒い扇。まではわかるけど、ロシウってなにかしら」
「八千代ちゃんにわからないもの、私に分かる筈《はず》はないでしょ」
次の幕あきのベルが鳴るっていたが、染子は勿論《もちろん》、八千代も立ち上がらなかった。
「本当ならここんところは人の名前が来る部分でしょ。差出人のね。例えば、ツツシミテオクヤミモウシアゲマス、ソメコって具合にね……」
「嫌だよ。八千代ちゃん、そんな縁起でもないものに名前を引き合いに出さなくたっていいじゃないさ」
染子は顔中をくしゃくしゃにした。花柳界の人間らしく若い癖に縁起かつぎな所があるのだ。チューインガムを紙に吐いて、まるめて捨てた。
「でもさ。ロシウなんて名前にしたら変テコリンじゃないの。アメリカさんかなんかかしらね」
「さあ……もしかすると符号みたいなものかも知れないわね。染ちゃん、ますみ先生はその電報ごらんになって、なにかおっしゃったの」
「なにをおっしゃるもんですか。私の聞いた話ではね。まっ蒼《さお》になってなにも言わずに、いきなり電報ひったくって奥へ入っちゃったんだって……」
染子はひょいと顔をあげてホールの入口を見た。
「あら、菊四ちゃん、ここよ」
中村菊四は受付で挨拶《あいさつ》を済ませると、真っ直ぐに染子たちの方へ近づいて来た。
淡いブルーの背広にきちんとネクタイを締めて一分の隙《すき》もないスタイルは見事だが、身ごなしの柔らかさにふっと女形《おやま》がのぞきそうだった。
八千代の前に立つと、切れの長い眼に甘い微笑を浮かべた。
「お久しぶり、八千代ちゃん」
胸に止まっている真珠のネクタイピンはキザなようでよく似合っていた。八千代は立ち上がって目礼した。あまり好意の持てる相手ではない。最近、しきりと用もないのに電話をかけて来て映画へ誘ったりする菊四の態度に多少の不安を感じていた矢先でもある。
「舞台、済んだの」
染子は珍しく機嫌のいい調子を菊四へ向けた。
「ああ、今日は昼の部は出ずっぱりだけど、夜は幕開き狂言だけで体があいちゃうのよ」
「そいつは危険だね」
「なんで?………」
「いいえ。遊ぶだろうって事よ。菊四ちゃんのことだから」
歯切れのよい染子の喋《しやべ》り方は菊四より余《よ》っ程《ぽど》、男性的で聞いている八千代はなんとなく可笑《おか》しくなる。
「御冗談でしょ。私は人が言う程、遊び好きじゃありませんよ。そりゃおつき合いやお義理で顔を出すことも多いけど、いわばあんた達のお座敷と同じことだもの」
「お座敷ね……」
染子はくすんと笑って言い足した。
「今夜はどうなの」
「全くのフリーですよ。折角、染ちゃんがお電話して下すったんですからね。この機をはずしては罰が当たる……」
「それは誰《だれ》ゆえ……でしょう」
染子は芝居の声《こわ》色を使った。
「双面水照月」の中の恋に狂った破戒坊主、法海坊の台詞《せりふ》である。
「嫌だわね。法界坊なんて柄じゃございませんよ」
菊四はちらと傍の八千代を眺める。意識した眼使いであった。
「あい済みませんね。天下の色事師を乞食《こじき》坊主扱いに致しまして……」
染子は鼻の先で笑うと、声を変えた。
「そいじゃ今晩、私たちとつき合う」
「染ちゃん……」
小声で八千代は染子の袖《そで》を引いた。常にない染子の調子が親友ながら空怖しい。
「いいのよ。私にまかせておきなさいったら……」
染子は八千代の迷惑を問題にしない。
「つき合いますとも。そうだ。今夜は私がお二人になんでも御馳走《ごちそう》しますよ」
菊四は大げさな身ぶりで二人の女を等分に見た。
「吾妻《あづま》八景」と「蜘蛛《くも》拍子舞」の二曲だけを神妙に聴いて中村菊四は染子と八千代をうながしてホールを出た。
「車が向こうに置いてあるんだけど……」
菊四はポケットから出したキイホールダーにぶら下がっている車の鍵《かぎ》を故意に指先でじゃらつかせながらビルの裏側を指した。
「自家用で来るとはお手回しのいいことですわね」
染子は片眼をつぶって見せて、菊四と肩を並べた。左手は八千代の右手を握っている。
中村菊四の自動車狂は歌舞伎《かぶき》畑でも有名だった。歌舞伎俳優の中で一番先に運転免許証を取ったのも彼なら、自家用車を自分で運転して楽屋入りをしたのも彼であった。
尾上勘喜郎の息子《むすこ》の能条寛とは同じ年で、中学校まで同級だった。連獅子《れんじし》の胡蝶《こちよう》を二人で踊ったこともある。
寛が学校からK大へ進んで舞台から全く遠ざかった頃《ころ》、菊四は美貌《びぼう》と若々しい芸とで若手歌舞伎役者のホープとして頻《しき》りに雑誌のグラビヤなどに騒がれ、演劇評論家からも絶賛された。しかし、人気が高まるにつれ、身辺に華やかな女の噂《うわさ》も姦《かし》ましくなって、相かわらずの美貌は若|女形《おやま》随一だが、芸の方は十年前とあまり変わりばえもしない。むしろ、見る人にはあれたとさえ言われがちな今日この頃の彼であった。女出入りの多いことも彼の評判を悪くしていた。
彼の芸が伸びなくなった理由を専門家は、
「競争相手がいなくなった為……」
ときめている。つまりライバルの能条寛が舞台を去った事が彼の成長をストップさせたというのだ。事実、中村菊四は能条寛に相当な敵対意識をもっていたようだ。
彼が自動車の運転免許証を、まだ自動車ブームには程遠かった時代に逸早《いちはや》く手に入れたのも、一部では能条寛がグライダーの操縦で日本学生選手権大会で一位に入賞したのに刺激されての事だと見ていた。
「彼が空をとぶなら、俺《おれ》は地上を自由に走り回ってやる。その方が実用的だし現実的さ」
と中村菊四がうそぶいたというまことしやかな伝説さえ伝っている。
パーキングメーターにきちんと駐車してあった中村菊四の自家用車はキャデラックであった。歌舞伎《かぶき》の若|女形《おやま》の彼にしては贅沢《ぜいたく》すぎるこの車も、実は彼のファンである某実業家の夫人がプレゼントしたものだといわれている。
馴《な》れた手つきで車の鍵《かぎ》をあけると、菊四は運転台へ坐《すわ》り、後のドアを開けた。女二人は後部の座席に収まる。
「八千代ちゃんをお隣りに坐らせたいところでしょうけどね」
染子は思わせぶりに笑って、ハンドバッグをあけた。煙草を探して止めたことに気がついたらしい。パチンと口金をしめる。
夕暮れの都会をキャデラックはすべるように走り出した。
キャデラックが止まった所はアメリカ大使館の向かい側のビルの前だった。
四角い門灯に「ざくろ」と浮いた平仮名の文字がビルとは不似合いな情緒をかもし出している。
「一体、なんのお店、なにを御馳走《ごちそう》してくれる気なのさ」
ドアを押して先に階段を地下へ下りて行く菊四の背後から染子が物珍しげに訊《たず》ねた。
「まあまあ文句は後ほど御ゆっくり……」
和服姿の女中が迎え、菊四は馴《な》れた物腰で部屋を指定した。常連らしく女中たちの愛想もいい。
通されたのは民芸風な造りの四畳半であった。隅に自在鉤《じざいかぎ》が下がった囲炉裏が切ってある。季節柄、火は入っていない。
「どう、ちょっと洒落《しやれ》た店でしょう」
菊四は絣《かすり》の座布団へ坐《すわ》ると、八千代へ微笑した。畳も独特なものならテーブルもゴツゴツと粗《あ》らい感じのものである。
女中がおしぼりと茶を運んで来た。ちらと八千代と染子を見て、菊四へ訊《き》いた。
「なにをお持ち致しましょう」
差し出したメニューを菊四は無視した。
「料理は例の奴《やつ》、サラダをたっぷりつけてね。こちらのお嬢さんは銀座の浜の家≠ウんの一人娘さんだから、今日の味は格別に吟味《ぎんみ》して貰《もら》いたいね」
女中は今度は正面から八千代だけを見た。
「お飲み物は何に致します」
笑っている顔の裏に複雑な女の表情があるようだと八千代は直感した。意識的に「浜の家」の娘、と自分を紹介した菊四のやり方も不快である。
「そうだね。染ちゃんはお酒の方がいいんでしょ」
染子は取りすましておしぼりを使っている。
「私はどちらでも……八千代ちゃんは飲めませんのよ」
「それじゃお酒とビールと両方、頼むよ」
はい、と応じて女中は又、八千代を意識した。
「そちら様へはおジュースでもお持ちしましょうか」
「私でしたら結構ですわ。お茶のほうが有難いんですの」
八千代は柔らかく断った。遠慮でなしに甘ったるいジュースを料理の間に飲むのは好きでない。
「染ちゃんは大阪へ行ったことあるの」
女中が障子を閉めて去ると、菊四はまず染子へ問うた。
「はばかりさま、箱根よか西へは行ったことがございません」
踊りやら芝居見物にかこつけて八千代と何度か京都へは出かけている染子なのに、わざと白ばっくれてみせる。
「それじゃ、大阪のシャブシャブって肉料理は食べたことがないでしょう。八千代ちゃんはどうかしら」
「知りませんわ」
大阪と聞いただけで、八千代はふと能条寛を思い出していた。
「御存知ないんなら、ちょうどよかった。この店はね、東京でたった一軒、そのシャブシャブって料理を食べさせる店なんですよ」
「なによ、シャブシャブって……」
染子はくの字なりに横ずわりした体をテーブルに行儀悪く突いた肘《ひじ》でささえながら訊《き》いた。
「それは口で言うより現物を見た方が手っとり早いよ」
女中が盃《さかずき》とコップを並べ、ビールを抜いた。染子へ酌をし、菊四へ勧めた。すぐにオードブルの小皿が並び、間をおいて朝鮮料理にでも使いそうな奇妙な形の鍋《なべ》を持って来た。
鍋の真ん中が茶筒のように円筒形の火入れになっていて真っ赤におきた炭火が入っている。鍋にはスープが入っていた。ぐらぐらと沸騰《ふつとう》している。
別な女中が大皿に薄く切った肉と野菜を運んで来た。
「まず、お手本を仕《つかまつ》ろうかな」
菊四は女のようにしなやかな指先で器用に箸《はし》を扱うと肉をはさんでスープの中で軽く二、三回およがせた。真っ赤な肉が忽《たちま》ちベージュ色に早変わりする。それを小どんぶりに出来ているゴマのたれをつけて食べるという寸法であった。
「へえ、お湯ん中でジャブジャブ湯がいて食べるから、それでシャブシャブってのか」
染子はビールと酒をちゃんぽんに飲みながら、よく食べた。
「これはビールによく合う料理ね」
菊四は大きくうなずいた。
「そうでしょう。ねえ、八千代ちゃんも少しばかり飲んでごらんなさいよ。番茶よか余《よ》っ程《ぽど》、料理がうまくなるから……」
執拗《しつよう》に勧める菊四に、ついコップ半分のビールを注がれて、八千代は当惑した。
「私、本当に頂けませんのよ」
「可笑《おか》しいね。近頃《ちかごろ》のビヤホールは女性のグループが多いってじゃないの。ビールぐらい飲めなくてどうするもんですか。親友の染ちゃんが茜流切っての酒豪だってのに……」
一口含んだだけで眼許を染めてしまった八千代を菊四は娯《たの》しむように見た。
「おっしゃいましたね。私が茜流きっての酒豪だって。とんでもございません。上には上がありましてね」
染子は勢よくコップを乾して笑った。
「そう言や、茜流はますみ女史がまず第一のツワモノだからね。朱にまじわればなんとやらでお名取り連中にも女|酒呑童子《しゆてんどうじ》が多いわけか……」
「内弟子の久子さんだって大人しそうな顔してるけど案外なのよ。それに五郎ちゃんなんか凄《すご》いわ」
「そうそう五郎君ね。あいつは特別だ。昨日だったかな銀座のGってバーね。あそこで真っ蒼《さお》になるまで飲んでたよ。あいつの酒は陰気だな。バーの女の子もそう言ってたよ。飲めば飲む程、気が滅入ってきそうだってね」
ビールも既に六本が空らになりお銚子《ちようし》も何度か女中が追加に立って、菊四は上機嫌に口も軽くなった。染子のほうもかなり飲んでいる筈《はず》だが、こっちは意外にしゃんとしている。
「へえ、五郎ちゃんってGなんかへ行ってるの。金持ちの息子《むすこ》は内弟子に来てても違ったものだね」
染子の言葉に菊四が訊《き》いた。
「金持ちの息子なの。あの人……」
「別府……九州の別府温泉の旅館の息子だってよ。ねえ、八千代ちゃん」
八千代は小さくうなずいた。
「旅館ったってピンからきりまであるからねえ」
菊四には、どうも五郎の実家が裕福というのが気に入らないらしい。
「別府の中でも山の手で、割合に高級旅館ばかりが集まっている観海寺《かんかいじ》温泉っていう所の、かなり大きな旅館ですってよ。そうでもなけりゃ息子《むすこ》を東京でアパート暮らしをさせ、好き勝手な真似が出来るだけの仕送りをしてやれる筈《はず》もないわね」
染子はしきりに八千代へ同意を求める。八千代はしょうことなしに小さくうなずくだけだ。料理は美味でも、好ましくない相手に御馳走《ごちそう》されているのでは気が重い。酒の量が増えるに従ってだんだん露骨になっている菊四の視線も気になった。
「いくら金のある旅館の息子か知らないが、踊りで身を立てるってのは素人《しろうと》さんじゃ容易な話じゃあるまいに、もの好きがいたものだね。親も親だと思うよ。同じ金をかけるなら大学でも卒業させたほうが余《よ》っ程《ぽど》、つぶしがきくんじゃないのかしら」
菊四は皮肉たっぷりに笑う。口許が女のように小さく細い。
「だって仕様がないのよ。御当人がますみ先生にお熱をあげてさ。坐《すわ》りこみで弟子入りしたんだもの」
「そうだってね。ますみさんはあれでしょ。パトロンの岩谷さんと約束して男の内弟子は絶対にとらない主義だったんだけど、九州の公演旅行中、ずっと追いまわされて遂に根負けしちゃったんですって、あの頃《ころ》、評判だったじゃないの」
菊四は白い指で重たげにビールを染子のコップへ注いでやった。
「でもさ、彼、今でもますみ先生に熱あげてるの」
「勿論《もちろん》よ、なぜさ」
五郎のますみに対する片思いは茜流中での公認みたいなものだ。
「ますみさんがあんまり無情だもんで、彼奴《あいつ》、とうとう脳へ来たのと違うの」
やんわりと菊四は意味ありげな微笑を洩《も》らした。
「それ、どういう意味よ、菊ちゃん」
染子は菊四のシガレットケースから一本を取って火を点《つ》けた。
染子の唇が白く煙を吐いたので八千代はあきれた。
「染ちゃんったら、煙草止めたんじゃなかったの」
「ふふ……一本だけよ」
含み笑いして染子は酔いの浮かんだ眼を菊四へ向けた。
「菊ちゃんって、どうして茜ますみ先生にそう関心があるのさ。彼女に色気を感じてるんだったら菊ちゃんらしく、もっと単刀直入に切り込んでみたらいいのに、色恋のベテランらしくもない」
菊四は慌《あわ》てて否定した。
「とんでもない。いくら年上ばやりだって言っても十歳も年長のますみ女史に熱あげるほどアブノーマルじゃありませんよ。わたしが茜ますみさんに関係があるとしたら、そりゃあ家がお隣同士だから、という以外に理由はございませんね」
「じゃ、そういう事にしときましょう。あんまり野暮を言うとみっともないからね」
染子はあっさり煙草を灰皿へもみ消すと立ち上がった。化粧室へ行くらしい。
「茜先生のお宅とお隣でしたの。少しも存じませんでしたわ」
二人さし向いのぎこちない沈黙を怖れて、八千代はさりげない話題を探した。
「実は最近、親父《おやじ》の家から引っ越したんですよ。茜ますみさんの家の裏側のアパートへ」
「ああ、するとニューセントラルアパートっていう、新築の……」
「そうなんですよ。いつまでも部屋住みってのも気がきかないですからねえ。家賃は少し高いけど、暖房も冷房もきくし、なにより交通が便利でしょう。寝室と居間とリビングキッチンにバス、トイレ付、ちょっとしたホテルみたいな感じですよ。小ぢんまりしてて、今度、お稽古《けいこ》の帰りにでも遊びに来ませんか、歓迎しますわ」
菊四は八千代との対話になるとずっと男らしい話ぶりになる。八千代が返事に窮していると一人で雄弁になった。
「隣に住んでみると、ますみ先生の所の複雑さがなんとなく解るもんですよ。人の出入りなんかでね。今度の小早川喬の殺人事件についても、わたしはちょっとしたネタと言えるかどうかわかりませんけど、まあ或《あ》る目撃ですよ」
「目撃ですって……」
「ええ、あの晩のこと……です」
「小早川先生が横浜で車に轢《ひ》かれた日のことなんですの」
八千代はつい好奇心に我を忘れかけた。
「そうですよ」
「どんな事を……」
「ここじゃ言えませんね。なにしろ事件が事件だから、あまりかかわり合いになりたくないし」
染子の足音が廊下を戻って来た。
「まずいな。染ちゃんには聞かせたくないんですよ。いや、染ちゃんに限らず、誰《だれ》にも話したくはないんです……」
菊四は低く舌うちしたが、染子の足音は途中でふと止まった。
「ちょっと、ちょっと、あんた」
女中を呼び止めたらしい声が、
「ねえ、電話はどこにあるの」
と訊《き》いた。
「お電話でございますか、どうぞこちらへ……」
女中が答え、案内するらしい気配が再び廊下を遠ざかった。
「ねえ、菊四さん、聞かせて頂けませんかしら。小早川さんの轢死《れきし》事件の時、あなたはなにを目撃なすったんですの」
八千代は足音に耳をすましているらしい菊四へ大急ぎで訊いた。中村菊四の言うことだから、どれほど信用出来るかどうかは疑問だったが、茜ますみの周囲に起こった三度目の殺人事件(少なくとも八千代はそう考えている)だけに聞きのがしには出来ないと思った。
「それがね、ちょっと……」
菊四はちらと八千代を窺《うかが》い、口ごもった。もったいぶっているようでもあるし、何かを怖れて言い渋っているふうでもある。
「私、言っていけないことでしたら、誰《だれ》にも話しませんわ。少なくとも菊四さんにご迷惑のかかるようなことは……」
「そりゃ、八千代ちゃんはそう言うけどね。物事はそう簡単には行かないでしょう。第一、八千代ちゃんがその心算《つもり》でも結城《ゆうき》の小父《おじ》さんは新聞屋だもの……」
「え……?」
八千代はあっけにとられた。中村菊四の口から何故、伯父《おじ》の結城慎作の名前が出たのかすぐには理解し難かった。
「そりゃ結城の伯父様はM新聞社につとめているけれど、それが一体、なんの関係があるんですの」
「だってそうでしょう。八千代ちゃんは結城の小父さんに頼まれて、今度の殺人事件のネタ探しをしているんじゃないの」
菊四は唇をすぼめて八千代を見た。図星だろうといいたげな表情である。
「まあ……」
菊四の解釈に八千代はなるほどそういう考え方もあるかと感心した。しかし、そうではないと弁解するには、適当な言いわけもないし、海東英次、細川昌弥、小早川喬と三人の男の死因を茜ますみの周辺に関係があると確信している八千代自身の推理を説明するのもめんどうだった。すっぱり打ち明けて話が出来る程、気の許せる相手でもない。八千代が逡巡《しゆんじゆん》していると、中村菊四は自分から再び水をむけて来た。
「僕の持っているネタって言うのは車の鍵《かぎ》の事なんですよ」
「車の鍵ですって……」
八千代の眼が輝いたのを認めると菊四は落着いて盃《さかずき》を取り上げた。
誤 解
ロケーション二日目は午前三時で終わった。
「お疲れさん」
どやどやとロケ隊の一行は定宿になっている那須《なす》温泉「石日荘」へ引き揚げてきた。
「どうだい、寛ちゃん、日が落ちるまでに一コース回ろうじゃないか」
今西監督はジャンパーをスポーツシャツに着替えて能条寛の部屋を覗《のぞ》いた。
「いいですね。出かけましょう」
一汗流しての浴衣《ゆかた》姿を大急ぎで着替えると、寛は今西監督と桜井カメラマン、それに今度の映画で相手役をしている平野雪子、助演の小林|晃《あきら》らと揃《そろ》って、「石日荘」を出た。
ゴルフの道具は手回しよくゴルフ場のロッカーへあずけてある。
「今度の仕事は全く快適ですよ。ゴルフをたのしみながら商売になる。ロケも又たのしからずやですな」
映画生活三十年というベテランの脇役《わきやく》、小林晃が人の好さそうな眼を細くした。ゴルフ歴も二十年近くなるというから昨日今日のゴルフブームに浮かされてクラブを握った連中とは桁《けた》が違うというのが彼の自慢でもある。
「いや、今西さんは良いロケ地をおえらびなすったもんだ」
と、これはゴルフ狂の桜井カメラマンが冗談らしく笑った。
那須のゴルフ場は能や歌舞伎《かぶき》で有名な「殺生石《せつしようせき》」の伝説の跡を右に見て、なだらかな坂道を上り切った所にある。背後には茶臼《ちやうす》山が淡く煙を吐き、初夏のスロープは緑一色に広々と明るい。
「寛ちゃんはここのゴルフ場は今度がはじめてかい」
身仕度をしながら今西監督が訊《き》いた。
「はあ、ゴルフ場としては初めてですが、冬にスキーをやりに来たことがあります」
寛は空の色に溶けこみそうなブルーのスポーツシャツの胸を張って答えた。
ゴルフ場はかなり混んでいた。週末でもあり、五月晴れのゴルフ日和《びより》なのである。
「一服してから回りますよ。どうぞ、お先に……」
コテッジの二階にある喫茶室へ寛は一人で身軽く上がって行った。
喫茶室はその割にすいていた。片隅に、四、五人の重役タイプのグループがスコアを見せ合いながら葉巻をくゆらしている他は、窓ぎわの席に若い女性が一人、ぽつんと芝生を見下ろしているだけである。
ボーイにコーヒーを頼み、寛は空いているテーブルの前へ落ちついてポケットへ手を入れた。煙草を出し、ライターを探した。無い。ズボンのポケットにマッチもなかった。うっかり撮影用の背広の中へ入れっぱなしで来てしまったらしい。ボーイへマッチを頼もうと手をあげかけて、寛は眼をあげた。
白い手がすっと伸びて、
「よろしかったら、どうぞお使い下さい」
寛へ向かって差し出されたのは女持ちの洒落《しやれ》た赤いライターであった。
下の三分の二くらいが透明になっていて、そこに熱帯魚のアクセサリーが入っている。
「や、こりゃあ……」
寛は戸惑った眼をライターからその持ち主へ向けた。
白のサマウールにグリーンのふちとりをしたシャネルスーツに中ヒールをはいている。女性ゴルファの恰好《かつこう》ではない。痩《や》せぎすで背もすらりと高い。いささか理性的でありすぎるのが冷たい感じだが、整った美貌《びぼう》である。年齢は二十三、四だろうか。
差し出したライターを自分から火をつけようとしない動作に素人娘のエチケットがはっきりしている。
「どうぞ……」
唇だけでもう一度勧めて、はにかんだ顔をそっと窓の方へ向けた。
「拝惜します」
素直に寛はライターをつけた。パシッと消して、
「どうもありがとうございました」
相手の前へ戻す。
「ゴルフはなさらないんですの」
娘はつつましやかに、しかしはきはきと訊《き》いた。
「これからです。なにしろ始めたばかりで雑魚《ざこ》のトトまじりですからね。ベテランと一緒じゃ骨が折れるんです」
寛は白い歯並を覗《のぞ》かせて快活に笑った。相手の年|頃《ごろ》が浜八千代と同年ぐらいだし、いわゆる素人《しろうと》のお嬢さんらしいのも、彼にとって話し易かった。
「あなたは、おやりにならないんですか」
「ええ、わたくしは出来ませんの。今日はお供ですわ」
窓からスロープを眺めながら娘はコーヒーを飲んでいる寛をさりげなく観察しているようであった。
パシッ、パシッという球をとばす音がしきりに聞こえる。寛はコーヒー茶碗《ぢやわん》を持ったまま窓から外を覗いた。
「寛ちゃん、早く来いよう」
桜井カメラマンが下からどなった。
「いま、行きますよ」
コーヒー茶碗をテーブルへ戻して立ちかけると、思い切ったように娘が声をかけた。
「能条さん……」
「え……」
やっぱり知っていたのかと寛は思った。映画俳優で、しかも人気投票には必ず三位以内に入るほどの人気スターであれば、顔を知らないほうが可笑《おか》しいみたいなものであるが、映画俳優、能条寛と知っていてライターを貸してくれたのかと思うと、味気ない。
「T・S映画の能条さんでしょう。でしたら私、是非、お話したい事があるんですの。お話というよりおわびしたい事なんです……」
意外な相手の台詞《せりふ》に、寛は驚いた。
「おわびしたいって……いったいなんですか……なんの事です」
娘はふっとうつむいてしまった。咄嗟《とつさ》にどう言ったものかと迷っているらしい。
「僕は……失礼だがあなたにお目にかかるのは今日がはじめてだと思うんですが……初対面のあなたに詫《わ》びられる事なんか……」
「いえ、能条さんは御記憶がないでしょうけれど、私は以前にお目にかかったことがございますわ」
「それは失礼しました」
会釈して寛は相手を正面から見た。憶《おぼ》えはない。第一、相手はまだ名前も告げていないのだ。
「申し遅れました。私、細川昌弥の妹の京子でございます」
「君が細川君の……」
言われてみれば確かに逢《あ》っている筈《はず》だった。三、四年前、T・S映画主催のレセプションの席上で、先輩スター細川昌弥の妹として紹介されている。
「そりゃあ失礼しました。あの時は僕、映画へ入って間もなくの事でなにもかも新しずくめ、初対面ばかりですっかりアガっていたもんで……」
それにしても見違えるのは無理もないと、寛は内心、舌を巻いた。あの時は髪もお下げだったし、お化粧っ気もない、まだ子供子供した京子だったが……。
「私は、身勝手な言い方なんですけど、能条さんをお怨《うら》みしていましたの。ええ、理屈に合わないことは承知なんです。だって能条さんがT・S映画にお入りになってから、兄の人気は目に見えて下り坂になってしまいました。これはという作品の主役も必ずと言ってよい程、能条さんへ行ってしまう。兄の悩むのを身近かで見ているにつけ、たまらなくなってしまって、能条さんさえ映画へお入りになりさえしなければなんて……兄のライバル意識が私にまで伝染してしまったのかも知れませんわ」
寛は適当な応答が出ないで、細川京子を見守るばかりだった。
「身びいきって馬鹿《ばか》なものですわ。兄の欠点がわかりすぎるくらい解っていても、やっぱり他人を怨《うら》みたくなる。私って本当に嫌な女でしたの」
「いや、それが本当でしょう。人情として誰《だれ》でもそう思いたくなるものですよ」
「お許し下さいますかしら、私の気持ち……」
京子は、はにかんだ微笑を寛へ向けた。
「許すも許さないもありませんよ。正直言って僕は細川君に一度もライバル意識を持ったことはないんです。キザに聞こえるかも知れないけど。本当に……」
寛は言い回しに苦労しながら答えた。
「ええ、それは兄もよく承知しておりました。能条さんに競争意識がないだけに一層、無視されているようで口惜《くや》しい、なんて……。兄が悪いんですわ。演技力もないくせに浮ついた人気に溺《おぼ》れて、女関係はだらしがないし、お酒は飲む、夜ふかしはする、あれでは良い仕事なんか出来る筈《はず》がないんです。ライバル意識と言って、能条さんと演技の上で勝負する気になればまだしも、ただむやみに眼の仇《かたき》にするだけなんですものね」
京子は自嘲《じちよう》を噛《か》みしめて微笑した。
「かわいそうですわね。死んだ人のことを今更、責めてみても……」
寛は沈鬱《ちんうつ》に頭を垂れた。
「そう言えば、細川君は……」
あんな事になってしまって、と言いかけた語尾を口の奥で消した。
「馬鹿《ばか》な兄ですわ。もし自殺したのだとすれば……」
ゆっくりと京子は寛の眼の中を覗《のぞ》くようにした。
「ねえ、能条さん、あなた私の兄の死をどうお思いになります。新聞でごらんになったでしょう、あの当時……」
「どう思うって……」
「つまり、死因ですわ。警察では自殺と断定してしまいましたけど……」
「自殺ではないとおっしゃるんですか」
窓の外が急ににぎやかになった。コースを終えて戻って来たグループがあるらしい。
「自殺でないとすると……?」
寛は細川京子の整った横顔をみつめた。
「京子さんは、どう考えていらっしゃるんです」
「さあ、自殺でなければ過失死、他殺、まだありますかしら……」
「京子さん、僕をからかうんですか」
「いいえ、そうじゃありませんの」
京子は階下の声を気にしていた。彼女の連れが帰って来ているようだ。
どやどやと数人の足音が喫茶室へ上がってくる。京子は腰を浮かした。階段の方に注意しながら口早やに言った。
「私、兄の死因に疑問を持っています。不審な事が多すぎるのです。一度、私の話を聞いて下さいませんか。あなたに聞いて頂いて判断して貰《もら》いたいんですの」
「しかし……」
寛には京子の真意が計りかねた。
「あの……東京へは何日|頃《ごろ》お帰りになりますの」
「ロケの予定はもう五日ばかりで帰京する筈《はず》ですが……」
「その頃、お宅か撮影所へお電話してはいけませんかしら、御迷惑とは思いますけれど、私、誰《だれ》も相談するような人がないんです」
哀願するような瞳《ひとみ》に、ついうなずいて寛は立ち上がった。入れ違いに五十年輩の男たちが喫茶室のドアを押して入って来た。その中に大東銀行の頭取岩谷忠男のでっぷりした赧《あか》ら顔があるのを寛はまるで気づかなかった。
那須のロケは予定より雨のために三日遅れた。帰京するとセットの撮影が続き、寛は青山の自宅と多摩川べりの撮影所とを連日往復して過ごした。
細川京子の言葉も忘れたわけではないが、仕事に打ち込むと他事は思慮の中から追い出してしまうのが寛の主義である。つい、彼女との約束も疎遠になっていた。
付き人の佐久間老人が電話を取り次いで来たのは夕方に近かった。寛はセットを終え、控え室で化粧を落していた。
「ぼん、細川はん言わはる女の人からお電話だっせ、どないしはります。後援会の方やないらしいが……」
「細川……」
そうか、と寛は受話器を受け取った。流れて来た柔らかな女の声はやっぱり細川京子であった。
「お仕事、お忙しいんでしょう……」
心細げな調子に、ふと寛は憐《あわ》れみを感じて快活に応じた。
「いや、もう二、三日でアップですから……」
「じゃ、追い込みですのね」
「僕の出るシーンは殆《ほと》んどあがっちゃいましたよ。もう楽ですね」
電話線のむこうで京子はためらっている様子だった。
「あの、いつぞや那須でお願いしましたことね、聞いて頂けませんかしら……」
寛は傍の佐久間老人が驚く程の安請け合いをした。
「いいですよ。僕でよろしければ……そうですね。今日でもいいんですか、それだったら、これから……今、どこにいらっしゃるんです」
細川京子の声は銀座と答えた。
「お仕事のほうはよろしいんですの」
心配そうに念を押されて、寛は一層、元気になった。
「かまわないんです。今日はちょうど済んだ所です。他に約束もありませんから……」
ふと、寛は先だって電話で浜八千代が、仕事が早く済むような日があったら知らせてくれと言って来たことを思い出した。
(いいさ、やっちゃんのほうはなにも今日に限ったことではなし……)
咄嗟《とつさ》に寛は判断した。彼女との親しさが、つい気易《きやす》だてにそんな思慮を生んだものだ。
「そうですね。これから車で行きますから、銀座のどこかで待っていて下さいませんか、どこでもいいですよ」
寛の言葉に、細川京子は七丁目のSパーラーを指定した。
「ぼん、どういう人ですねん……」
受話器を置くと、佐久間老人が蒸しタオルを寛へ渡しながら、心もとなげに訊《き》いた。
「ゆっくりの説明はあと回しだが、細川昌弥君の妹さんだよ」
周囲に人がいないのを確かめて寛は言った。
「細川はんの妹さん……」
佐久間老人は不思議そうに寛を見た。
「そやったら、京子さん言う人だっか」
「そうだよ」
タオルで顔や手をごしごし拭《ふ》きながら寛は机の上の飾り時計を気にした。五時を十五分ばかり過ぎている。
多摩川を後にしたこの撮影所から都心の銀座までは、どうとばしてみても三十分では無理だった。まして夕方は車のラッシュ時間でもある。
手早くスポーツシャツの上に淡いグレイの背広を引っかけて、
「あとを頼むよ」
そそくさとドアに手をかける寛へ、佐久間老人は慌《あわ》てて追いすがった。
「明日は午後二時からセットだす。あまり夜ふかしはあきまへんえ」
「わかってるよ」
寛は苦笑した。いつまで経っても子供あつかいをやめない、この老付き人は寛にとって、父の尾上勘喜郎よりも苦手である。
「青山へのお帰りは何時|頃《ごろ》になりますねん。奥様に御報告せんならんよって……」
佐久間老人は執拗《しつよう》に喰《く》い下がった。
「そんなこと、わかるもんか、出たとこ勝負だもん……」
うるさくなって少年じみた口調でそっけなく応じてしまってから、寛は思い直して言い足した。
「なるべく早くに帰るつもりだけどさ」
佐久間老人は真面目《まじめ》に受けた。
「そやったら、なるべく早うにお帰りやす。悪い女子はんに引っかかったら、あきまへんよってな」
寛は吹き出したくなるのをこらえて撮影所内の駐車場へ走って行った。
「お疲れさん」
すれ違った所員へ明るく声をかけて、寛は車をスタートした。
「全く、佐久間のおやじと来たら人をなんだと思ってやがんだろう、かなやしねえ」
機嫌のいい舌うちをして、寛はスピードを早めた。
渋谷までは調子よく来た。が、それからがまずい。信号は赤にばかりぶつかるし、殊に赤坂をすぎる辺りからは多すぎる車の量に徐行が続いた。
銀座の七丁目の路地へ車を止め、寛はSパーラーのドアを押した。店内には年輩の客が多かった。服装もオーソドックスな連中ばかりだ。店の雰囲気がそうした客種とマッチしている。
二階へ上がった。細川京子は和服だった。ひっそりと立って寛を迎えた。羽織を着ない帯つきの姿が季節にふさわしい。淡い藤《ふじ》色に白と黒の線描きの和服が京子を年齢よりも老けてみせていた。
「お待たせしちゃって……車が凄《すご》い混雑なんですよ」
寛はボーイにレモンジュースを頼んだ。口の中が乾き切っている。
「いいえ、私こそ、無理を申しまして……お疲れの所をすみません」
京子は伏し目がちに言った。和服のせいか那須で逢《あ》った時よりもかなり大人びて見えた。態度もつつましい。
サングラスをはずしかけて、寛は店内の客を意識した。このパーラーには花街の人間も好んで利用する。父の尾上勘喜郎の後援会のオバサマ族に長|挨拶《あいさつ》をされるのも迷惑である。が、幸い、パーラーの二階には恋人らしい一組がひそやかに話している以外に、客はなかった。珍しく閑散としているのである。
「あの、早速みたいですけれど、那須でちょっと申し上げましたように、私、兄の死因に疑いを持っているんですの、そのことについて是非、どなたかに聞いて頂きたいとかねがね考えていました」
「細川昌弥君の死因に疑問を持たれたとおっしゃると……」
寛は前髪を指ですくった。考えごとを始める時の彼の習癖である。
「はっきり申しますわ。兄は自殺ではないと思うんです。兄が、自殺する理由も動機も私にはないと言い切れます。自殺する筈《はず》がないという根拠の方がむしろ多いんですもの」
京子はレースのハンカチを指先で弄《もてあそ》びながら、目はまっすぐに寛へ向けて言った。
「兄がガス自殺とみえる死に方をしたとき、ジャーナリズムや一般の人たちは、兄の人気が下り坂なこと、契約問題のもつれ、などを理由にあげていましたけれど、人気が下り坂なのは一昨年頃からのことで、なにも今年になってどうのこうの、と言うわけではございませんわね。それは能条さんもよく御存知と思います」
ボーイが音もなく銀盆を捧《ささ》げて来た。レモンジュースを寛の前へ置く。
寛は京子の前の紅茶|茶碗《ぢやわん》が、とっくにからになっているのに気がついた。
「京子さん、あなたもなにか召し上がりませんか。どうです、アイスクリームなんかは……」
京子は素直にうなずいた。
「頂きますわ。バニラで結構よ」
ボーイは再び、丁重な会釈をして去って行った。
窓の外を夕風が吹いて過ぎる。街路樹がさやさやと音をたてているのが如何《いか》にも初夏の暮れ方らしい。
「それから、T・S映画を出て、大日映画へ変わるということなんですけど……」
京子は声を細めて続けた。
「形は大日映画から引き抜かれたというようになっていますけれども、実際には人気スターの奪い合いみたいな派手な事ではありませんのよ」
寛はゆっくりとストローを細長い紙袋から抜いた。話の内容が内容だけに、うっかりした返事が出来ない。
「人気も落ち目の、しかもスキャンダルで叩《たた》かれた細川昌弥にT・S映画がそれほど未練を持たなかったのは、むしろ当り前かも知れません。演技力がずば抜けているわけでもないし、兄の美貌《びぼう》だって、一と昔前ならどうかわかりませんが、今の時代には甘すぎて売り物にならない、とよく言われていました」
京子の言葉は事実だった。鼻筋が細く、きりりと上がり気味の眼、男にしては小さめな口許など、整いすぎた細川昌弥の容貌は、女性的な甘さが濃く、華奢《きやしや》な感じで当代好みのタフガイとは縁が遠かった。
寛は目の前の京子を今更のように見た。鼻も口許も、眼も細川昌弥によく似ている。血は争えないものだと思った。
「細川さんは他にご兄弟は……」
さりげなく寛は訊《き》いた。
「ありませんの。私と兄と二人っきりですわ。両親は私が小学生の時分になくなりましたの。父は戦死です。ビルマで……母は胸を悪くして……」
「そりゃあ……」
寛は語尾を呑《の》んだ。はじめて聞く事であった。
「ですから私……ほとんど兄に育てられたも同然なんです。外ではいろいろに言われてましたけど、兄は私にはやさしい、親切な人でした……」
京子は窓へ視線を避けた。女の感情が声にも姿にも滲《にじ》んでいた。そんな京子に、ふと寛は親しみを感じた。
「そう言えば、細川君の妹さん想いはスタジオでも有名でしたよ」
昨年はじめて一緒の仕事で北海道へロケに行ったときチーズ飴《あめ》だの熊の木彫りだのを、
「妹に送ってやるんだ」
と嬉《うれ》しそうに、店員へ発送を依頼していた彼を、寛は思い出した。
細川京子は淋《さび》しげに微笑し、途切れた話をつないだ。
「T・S映画では兄を、もう無理に引きとめる気はなかったようでした。そればかりか出て行きたいものはさっさと出て行けがしの態度だったようです。無理はありません。兄はある程度、自暴自棄になっていて、勝手に仕事をすっぽかしたり、遅れてスタジオ入りしたり、人に嫌われる事ばかりしていたのですものね。それでも、自分の悪いことは棚にあげて兄はT・S映画の無情を怨《うら》んでばかりいました。そういう時はまるで女みたいにねちねちした感情を持つ兄だったんです。そっちがその気ならT・S映画へ一と泡吹かせてやろうなんて言い、その兄を大日映画のほうでもそそのかす人があって、兄はちょうど主役で撮影中の疾風|烏組《からすぐみ》秘話≠途中にして雲がくれみたいなことを致しました」
ボーイが持って来たアイスクリームを一さじ口へ運んで京子は自嘲《じちよう》めいた笑いを浮かべた。
「兄の雲がくれは、T・S映画へ損害を与えると同時に、一種の人気取り的な意味が強かったと思います。勿論、真相が知れればT・S映画だって黙っていますまいし、賠償金の問題も当然、起こる筈《はず》ですけれど、それに対する方法も兄は大日映画の方から智恵《ちえ》を授けられていたようで、ひどく強気でした」
「なるほど……」
映画界のカラクリを多少は耳にし目にも見て来た寛には、京子の言う意味がある程度、推察出来た。
「兄を強気にさせた理由はまだ、あります。兄の婚約のことをお聞きになりませんでしたかしら」
「細川君の婚約っていうと……」
寛は今年の一月、大阪で週刊シネマの記者から耳にした細川昌弥の新しい愛人の話を思い出した。
「人もあろうにれっきとしたお嬢さんが、細川のような女たらしに熱をあげているんですよ。大日映画の社長の令嬢という噂《うわさ》でしてね。もし噂が本当なら、こいつは細川にとって色と欲の両|天秤《てんびん》ですからな。彼としてもこの辺りでじっくり思案するところでしょうよ」
と語っていた週刊シネマの記者の調子を、寛は例によって口さがないゴシップ種と受け取って聞き流していたものだったが……。
考えてみるとその話を聞いた直後、細川昌弥が雲がくれし、間もなく自殺ということになったものだ。
能条寛は死んだ細川昌弥によく似た眼鼻立ちの京子へ改めて訊《き》いた。
「京子さん、すると細川君は婚約……いや自殺する直前にでも婚約したような事実があったのですか」
京子はゆっくりと、うなずいた。
「兄は婚約致しました……」
「それは何日のことです」
「自殺する一週間ほど前ですの」
「失礼ですが、相手の方は……?」
京子は唇にかすかな微笑を浮かべた。悲しみにも似た眼で寛をみつめた。
「あれほど、女関係の乱れていた兄でございます。何人もの女の方と深い交渉を持ち、或《あ》る方とは同棲《どうせい》みたいなことまでして、後くされもなく別れたり、女と遊んでも最後まで結婚とか夫婦になるとか言う約束をしない、そういう言質《げんち》を女にとられないのが本当の色事師だとうそぶいていた兄が婚約にまでふみ切った相手ですのよ……」
寛は京子の口許を注目した。
「兄が結婚への決心を固めた理由はなんだとお思いになります。勿論《もちろん》、愛情ではございませんわ。兄は女の愛情を頭から否定していた男ですから……」
古風なパーラーのシャンデリアの光の下で、京子の顔は蒼《あお》く、肌は透明なまでに灯の色を映していた。
「兄が婚約した理由は一にも二にも自分の利得のためでした。エゴイズムからですわ。兄が求めていたのは安定した地位、それにお金、もう一つはスターとしての過去を今一度という夢なんです」
「すると、やっぱり噂《うわさ》のあった大日映画の」
寛は声を落とし、目を伏せた。京子は、はっきりと肯定した。
「社長さんの二番目のお嬢さんで、好江さんという、まだ若い方なんです。兄とは十幾つも年下の……」
「そうでしたか……」
シガレットケースから煙草を取り出すと、京子が素早くマッチをすった。馴れた手つきに、ひょいと彼女の現在が出ていた。
「しかし、よく婚約のことがジャーナリズムにかぎつけられませんでしたね」
人気は下り坂とは言ってもT・S映画の主演俳優と、ライバルに当たる大日映画の令嬢の結びつきには充分すぎるニュースバリューがあるし、まして細川昌弥が過去に女とのスキャンダルが決して少なくなかった男だけに、世間は好奇の目でこの婚約をみつめるに違いなかった。当然、トップ種となる記事である。
「ええ、それには理由があったんです」
京子は殆《ほと》んど溶けてしまったアイスクリームを匙《さじ》で弄《もてあそ》んだ。子供のような、気どりっけのない動作である。
「大日映画では細川昌弥の引き抜き、婚約を出来るだけ派手に利用するつもりだったんです。そうした事件をフルに活用して、細川昌弥の名をよくも悪くも世間の話題の中心にしてしまうことが目的だったようです。そのために最も効果的な時期をねらっていたものなんですわ。けれどねえ、能条さん、女と男の感情なんて、そう宣伝部の重役方の思わく通りに運ぶものではありませんわね」
窓の外は夕風が夜風に変わっていた。銀座通りのネオンも色が揃《そろ》った。
「それに少なくともドンファンと呼ばれ、その方面では目はしのきく男の兄が、目の前にある好餌《こうじ》を手をつかねてオアズケする筈《はず》がありませんわ。万が一にも動かすことの出来ない事実を作っておくこと、つまり大日映画がどうしても細川昌弥を引き抜かねばならない、社長令嬢と結婚させねばならなくなるような実績をあげておくこと……えげつない兄が考えそうな手段ですわ」
自嘲《じちよう》めいた京子の言葉は続いた。
「おわかりでしょう。能条さん、兄は早々に婚約でもしておかなければならない状態に大日映画を追い込んだんです」
「…………」
「社長さんのお嬢さんが妊娠したんですのよ。細川昌弥の子がお腹に出来てしまったんです」
流石《さすが》に寛は息を呑《の》んだ。
京子の思わせぶりな台詞《せりふ》から或《ある》程度の想像はしていたが、そこまで事情が進んでいるとは思わなかったのだ。
それにしても、細川昌弥にとっては全く好都合な進展ぶりだったに違いない。
「兄は、好江さんから妊娠のことを告げられた夜、帰宅してから私にこう申しました。俺《おれ》の勝だと……」
女は男に体を許したという既成事実には弱い。大日映画社長夫妻にした所で娘の告白には狼狽《ろうばい》するより方法もない。
「兄と好江さんとは秘密内に婚約し、いわゆる婚約の正式発表までに一定の時期をおきました。その理由の一つは兄の女の始末のためですの」
京子は一人で喋《しやべ》りまくった。
「兄が結婚する相手をいきなり発表したら、どんな醜態を演じるかと大日映画では、いいえ、好江さんの御両親は心配なすったのでしょう。それが親心というものですわね。遊び、浮気で済む玄人《くろうと》筋との交渉にしたところで一応の結末はつけねばなりません。好江さんの御両親は娘と結婚する気があるなら、過去の女とは一切、手を切ってもらいたいとおっしゃったそうです。当たり前ですわ。どんな浮気をなさる父親でも娘の亭主が他の女と交渉を持つと知って気持ちのよい筈《はず》がありません。まして女親は尚更《なおさら》でしょう。玄人女との関係はお金で解決出来ます。兄はさっそく今まで交渉のあった女たちを歴訪して一人一人始末をしてましたわ。馬鹿《ばか》みたいでしょう」
寛はいたわりのこもった眼で京子をみた。傷つき、あえいでいる子供に対する肉親の眼差しと同じ温味のこもった瞳《ひとみ》の色だった。それに気がついて、京子は捨て鉢な言い方を改めた。
「でも、兄みたいな男にもお金では片をつけられない、つまり物欲を離れた愛情を注いでくれていた人がありました。花柳界の方ですけれど、兄のためにパトロンをしくじり、肩身のせまい、恥ずかしい思いをしながら、それでも純粋な愛情を兄へ注いでくれていたのです」
「りん子さんという人でしょう」
「御存知ですの。あの方を……」
「直接、話した事はない人ですが、二度ほど踊りの会で、あの人の舞台を見ています」
「そうでしたの」
京子がうなずいた時、二階へ上がって来た女客がさりげなく階段を戻って、二階の京子と寛のテーブルがよく見える一階の席に坐《すわ》ったのをうつむいている京子は勿論《もちろん》、階段に背をむけていた寛は少しも気づかなかった。
「でも、りん子さんは兄の幸せになる事ならと承知してくれたそうです。流石《さすが》に兄もりん子さんには未練も深かったのでしょう。最後の想い出に二人で熱海から伊豆を旅行するのだと申して居りました」
「その旅行は実現しなかったんじゃありませんか」
寛は、りん子の姉貴分に当たる染子から、細川昌弥に呼び出されて熱海まで出かけたりん子が待ちぼうけを食って帰って来たという話を聞いている。
「そうなんです。実現しませんでしたの。りん子さんと一月十四日に熱海駅で落ち合う約束をして十四日のハト号の特急券まで買っておきながら、兄はその十四日の夜、神戸のアパートで自殺してしまったんですの」
「特急券も買ってあったんですか」
「ええ、旅仕度もボストンバッグにちゃんとつめてありました。持って出ればよいようになって洋服ダンスのわきに……」
「何故、細川君はハトに乗車しなかったんでしょう。なにか急用が出来たのと違いますかね」
「それは分かりません。私は京都の家に留守番をしていて兄のスケジュールはまるで知らなかったんです。でも、これだけは調べました。大日映画からは別にその日、兄に必要な仕事、もしくは打ち合わせみたいなことは何もなかった。大日映画に関係している人でその日、兄と逢《あ》う約束をした人は、許嫁《いいなずけ》の好江さんを含めて誰《だれ》も居なかったんですわ。それと、残されていた兄のメモ帳にも十四日の日づけの所にはなにも書いてありませんでした」
りん子を熱海へ待ちぼうけさせねばならないような重大な用件と言えば、まず大日映画に関係する筋のもの以外には考えられない。
「それに、もし、どうしても熱海へ行けないような急な用事が出来たとしたら、兄は電報でも長距離電話ででも、りん子さんへ連絡する方法があったと思うんです。そういう事にはマメな人でしたし……」
それは寛も知っていた。事実、細川昌弥は前日の十三日の夜、打ち合わせのためにりん子へ長距離電話をして、彼女の都合が大丈夫かどうかを確かめている。
勿論、りん子はなにを犠牲にしても細川昌弥に逢《あ》いたい所だし、彼へは承知した旨を電話で答えてやっている。当日は午後四時まで家に居て、東京発四時三十五分の東海三号という準急行で六時十九分に熱海駅へ到着している。要するに十四日の午後四時までは、細川昌弥からの変更を知らせる連絡はなにもなかった事になるのだ。
「それと、私、もう一つ、不思議なことがあるんです。兄は同じ十四日の朝、N航空会社へ電話をして十四日の午後二時|伊丹《いたみ》発の東京行の搭乗券を予約しているんです」
「二時発の飛行機の……」
寛は驚いた。これは彼にとって初耳である。午後二時発、伊丹、羽田間の飛行機なら少なくとも四時前に羽田へ着く。
羽田から横浜は目と鼻の先である。りん子を乗せた準急、東海三号が横浜駅を発車するのは十七時四分、つまり午後五時四分だからゆっくりとそれに間に合う計算となる。
「すると、細川君は最初十四日のハト号で帰るつもりが当日になって早急に、はずせない用事でも出来たかして、十二時の大阪発に間に合わなくなった。それで取りあえず飛行機の利用を考えたという事が想像出来ますね」
寛はポケットから万年筆を抜くと、卓上のマッチの空白にアラビヤ数字で12、別に2と書いた。
「ねえ、京子さん、細川君は関西にいる時はいつも神戸のアパートに居られたんですか」
「はい、撮影の仕事のある時は京都へ買っておいた家から通いますけれど、そうでないときは神戸のほうに……」
レースのハンカチを指先でたぐりながら、少しばかり悪戯《いたずら》っぽくつけ加えた。
「京都の家には私が居りますでしょう。なにかと具合いの悪いことも多かったんじゃありませんかしら。そうでなくても兄は神戸が好きでしたの。港の見えるアパートの部屋がとてもお気に入りで……勿論《もちろん》、T・S映画のお仕事をキャンセルして以来は、ずっと神戸でした。大日映画とのいろいろな打ち合わせや相談が全部、神戸に近い須磨《すま》にある大日映画の社長の別宅で行われ、兄はそこにひそんでいた筈《はず》なんです。神戸の三の宮のアパートにある部屋も雑誌社やT・S映画の方がマークしていた筈ですから要心して近寄らなかったと思います。兄が最後に京都の家へ電話をくれたのも、須磨の別宅からでしたし……」
「それは何日でした……」
「一月十二日の深夜……たしか十二時近い刻限だったと思います」
「須磨の……大日映画の社長の別宅を細川君が最後に出たのは何日の何時|頃《ごろ》だか、お聞きになりましたか」
寛は次第に積極的になった。
「聞きました。十四日の午前十一時頃だったそうです。疲れて少しノイローゼ気味だし、世間の目から逃れるためにも二日ばかり山の奥の温泉へ行って来たいと好江さんに了解して貰《もら》ったそうです。本当なら好江さんは兄と一緒について行きたかったのだそうです。雲がくれしてからずっと兄は須磨で好江さんも一緒だったんです」
「なるほど……好江さんが同行するのを細川君がよく断れたですね」
「いいえ、兄が断るよりも、好江さんの方について行けない理由があったんですわ」
「それはなんです」
「大日映画の先代社長の法事がちょうど十四日に京都の西本願寺で行われる予定になっていたんです。好江さんにとってお祖父《じい》様の法事ですもの、出ないわけに行きませんわね」
京子は一息に言って意味ありげに微笑した。
「好江さんはそうしたお家の都合で十四日と十五日は京都泊まりになる筈《はず》だったんです。兄も前もってそうした事情をよく呑《の》み込んだ上で、十四日に熱海でりん子さんと逢《あ》う連絡を取ったんですわ。鬼のいない間になんとやらですのよ」
「なるほど……」
寛はもう何度目かの同じ受け答えを繰り返した。他に適当な言葉が出て来ない。
「好江さんが須磨の別宅を出かけたのが午前十時半|頃《ごろ》、兄はそれを見送っておいてすぐにとび出したそうです。須磨の別宅の女中さんがそう言いました」
京子の言葉にうなずいて、寛はテーブルの上のマッチ箱に書いた数字を眺めた。
特急ハト号が大阪を発車するのが十二時、別に細川昌弥がその朝、予約した搭乗券が、午後二時伊丹発の羽田行、三〇八便である。須磨を十時半に出かけてまっすぐ大阪へ向かうつもりなら十二時のハト号へは楽に間に合う。それをわざわざ二時の飛行機に変更したのは、十時半に出かけてから二時少し前に伊丹へ到着する間に用事が出来たと想像がつく。
(その用事は、どうしても十四日でなければならない、つまり東京へ出発する前に片付けなければまずい事だったかも知れない。少なくとも急を要したに違いないことは、わざわざハト号の切符を無駄にしている事でわかる……)
同時に、早急を必要とはしたが、それほど時間はかからない。短時間で済む用事だったと考えられた。十二時のハト号を二時の飛行機に変更した僅《わず》かな時間の余裕で済むことなのだ。加えて伊丹飛行場は大阪から少なくとも四十五分はかかる。
細川昌弥が必要とした時間は僅か一時間余り、二時間以内という計算になる。
「十時半に須磨を出て、細川君はどこへ行って、誰《だれ》と逢《あ》ったのかはわからないんですか」
「わからないんですの。それが解ればなにかの手がかりになると思って、私、兄の行きそうな場所はそれとなく聞いてみたのですけれど……」
京子は力なく首をふった。
細川昌弥が死んでいたのは三の宮にある彼のアパートの部屋に於《お》いてである。彼は須磨を出ていきなり三の宮のアパートへ行ったものだろうか。
「私、それも考えました。須磨と神戸の三の宮とはすぐ目と鼻の先ですし、旅行に必要なものを取りに寄ったのではないかと思いました。それで、私、念のために三の宮のアパートの管理人に訊《たず》ねてみたんですの。兄がいつアパートへ帰って来たのかと……」
「それで、管理人はなんと言ったんです」
パーラーの中はかなり混んで来ていた。二階のテーブルもいつの間にかほぼ満員である。そろそろ夕食時間なのである。
寛の問いに答えようとして細川京子は躊躇《ちゆうちよ》した。ボーイが新しい二人客を京子たちのテーブルへ導いて来たものだ。
「まことに恐れ入りますが、御合席願えませんでしょうか」
言葉は丁寧だが、そろそろお席をお空け頂きたいの同義語である。
寛は立ち上がった。京子をうながしてパーラーの階段を下りる。
「どこか静かな所で飯でも喰《く》いませんか」
「ええ」
京子は僅《わず》かばかり考える様子だったが、
「あまり欲しくありませんの。まだ……」
と応じた。
「それじゃ……」
寛が迷っていると京子はきっぱり言った。
「まだお話も残って居りますし、どこここというより私のアパートへいらっしゃいませんか。あまり人様の前ではお話しにくいことなので……」
「そうですね。しかし……」
女一人のアパートへ宵《よい》の口でも若い男が訪問するのはどうかと寛はためらった。
「失礼な事を申しましたかしら……」
京子は相手の様子に、なんとなく頬《ほお》を染めている。はしたないと気づいたものか。そう言われると寛は逆に辞退するのが可笑《おか》しいような気にもなった。まだ時間も早い。京子の言うようになるべく人の耳を敬遠したい話だし、二人きりで話せる適当な場所も思いつかなかった。
「じゃ、お邪魔させてもらいましょうか。ほんの一時間ばかり……」
律儀に寛は言った。
二人がパーラーを出ると、一階のテーブルで先刻《さつき》から二階の二人の様子を注目していた若い女が二人、慌てたように立ち上がった。背の高い方が、ぐずぐずしている小柄な娘を追い立てるようにして勘定を済ませ、パーラーをとび出した。
「なにをモタモタしてんのよ。見失っちゃうじゃないのさ」
肩を小突かれてもう一人は泣きそうな表情になった。
「だって染ちゃん」
「いいから、いらっしゃいよ。どこへ行くのか突き止めなけりゃ、気が済まないわ。八千代ちゃんだって内心はそうでしょ」
染子はハンドバッグを抱き直し、血まなこになって往来を見回した。
夕暮れの銀座は男女のカップルが圧倒的に多い。それでも特徴のある能条寛の後姿を人ごみのむこうに見出すのはそう難しい事ではなかった。
「さあ、早く」
染子に引っぱられて、八千代は止むなく歩き出した。
アパートにて
能条寛が運転するジャガーの二四サルーンは赤坂見附を抜け、江戸城外堀の名残りを止める池水にかかった弁慶橋を渡った。
この辺りは、いまだに夏になると蛍の姿も光るし、虫も啼《な》く。二、三軒並んだ家は芸能人が多く、静かな料亭の門灯も見えた。
奥の道を折れて暫《しばら》く入った道の角にまだ新しい洒落《しやれ》たアパートがあった。「ニューセントラルアパート」と上品なネオンが出ている。ジャガーの二四サルーンはその駐車場で止まった。
「ここなんですの。どうぞ」
細川京子は先に立って自動エレベーターへ近づいた。アパートの玄関はちょうど小ぢんまりしたホテルのフロントのような造りであった。
エレベーターを三階で下りる。
各部屋の入口は名札でなく、ホテルの部屋のような番号札が出ているだけだ。
三七一という数字のドアを開けて、京子は先へ入った。
「散らかっていて恥ずかしいわ」
京子の声が急に馴々《なれなれ》しくなった。自分のアパートへ戻って来たという解放感のせいだろうか。
スイッチを押して電灯を点《つ》けた。十畳くらいな広さの応接間風な部屋であった。凝った花模様の絨毯《じゆうたん》が敷かれ、淡いラベンダー色のクッションに統一された応接セットが並び、隅の棚にはバラの花が挿してある。
京子はこの部屋を居間のように使っているらしい。おそらく寝室が隣になっているのだろう。その他にリビングキッチンとトイレとバスルームが付いている。
「さあ、どうぞ、そんなびっくりした顔をなさらないで、おかけになりませんこと」
京子は台所の電気冷蔵庫を開け水差しに氷片を浮かしてテーブルへ運んだ。ガラス戸棚からタンブラーとグラスを出し、二種類の洋酒の瓶を並べた。
「お茶がわりにどうぞ。能条さんのお口に合いますかしら」
まめまめしくチーズを切り、生野菜を色どりよくガラスの皿に盛り合わせた。
「あまりかまわんで下さいよ。僕、話を伺ったらすぐおいとましますから……」
それでも寛は勧められるままに、ウイスキーを唇へ運んだ。
仕事の後だし、喉《のど》も乾いていてうまい。
「先刻《さつき》の話だけれど、細川君の住んでいた三の宮のアパートの管理人は、何日の何時|頃《ごろ》に細川君が部屋へ帰って来たと言ったんです」
「ええ、その話なんですけれどね」
京子は自分もウイスキーをストレートのままで飲みながら、ゆっくりと寛へ顔を上げてみせた。眼がキラキラと輝いている。
「三の宮のアパートの管理人は、兄の帰って来た姿を見ないって言うんですの」
しなやかな指にパールピンクのマニキュアがしてある京子の右手がウイスキーの瓶を取り上げ、寛のグラスと自分のへ新しく酒を満たした。
「管理人も、それから同じアパートに住んでいる方も、一人として兄が部屋へ戻ったのを見たという人はありませんでしたの。ですから兄が何日の何時にアパートへ帰ったのかわからないのです」
「というと、細川昌弥君は死体として発見されるまで、アパートの誰《だれ》とも顔を合わせなかったというんですか」
寛の質問に京子は細い顎《あご》を引いてうなずいた。
「しかし、彼が部屋へ戻っていたなら、隣の部屋の人は、物音くらいは聞いたんじゃありませんか」
「それが、兄の三の宮のアパートは防音装置が行き届いているので隣の物音などは、かなり大きな音をたてないと聞こえないのだそうです。それと、アパートの入口もちょうど公団住宅みたいな造りなので真夜中でも自由に出入り出来ますし、管理人の家はアパートの真向いに別になっていますので……」
「部屋へ細川君が戻ったのに誰も気づかなかったというのはあり得るわけですね」
引っくり返して考えれば、細川昌弥がなるべく誰にも顔を見られないようにして自分の部屋へ入ろうと思えばそう難しくなく出来得るアパートの建て方だとも言える。細川昌弥にしてみれば、一応、世間の眼から逃れている立場だから、他人に知られぬ中に自分の部屋へ戻るのが理想的だったに違いない。
「それにしても、夜なんか彼の部屋に電気が点《つ》いているのを発見した人もないんですか」
細川昌弥の死亡推定時刻は一月十四日の夜、死体発見は翌十五日の午前中だった。少なくとも細川昌弥がアパートに帰って来ていた時刻には電灯が必要の筈《はず》である。
「誰もいませんの、管理人の奥さんも言ってました。細川の部屋には電気が点いていなかった。少なくとも十一時|頃《ごろ》までは、という事なんですよ」
管理人一家の住いはアパートの道路をへだてた向い側である。茶の間の窓からは細川昌弥の部屋はほぼ真正面である。その夕方、食事が終わってから管理人の奥さんは娘の宿題の洋裁を手伝わされて、その窓ぎわに置いてあるミシンの前に坐《すわ》りきりだったという。
「ミシンに向かってると目が疲れるもんで、何度も窓の外へ視線をはずして疲れ休めをする癖がありましてね。そのたんびにアパートの窓をつい眺めて、全部に灯りが点《つ》いているのに一つだけ細川さんの部屋は真っ暗なんで、新聞で噂《うわさ》になっている人だけに、いったいどこへ行ってるんだろうと心配したりなんぞねえ」
と管理人の奥さんは京子にも警察にも話しているという。
「その管理人の奥さんが仕事を終わって、窓にカーテンを下したときが十一時頃で、その時も兄の部屋はまっくらだったそうです」
京子は訴えるように言った。
「細川君は用心していたのかも知れません」
自分が部屋に帰って来ている事を他人に悟らせないために電灯を故意に点けなかったというのは容易に考えられる。まして自殺するためにアパートへ戻って来たのだとすれば尚更《なおさら》であろう。
(それにしても、まっくらな中で細川はどうやって遺書を書いたんだろう……)
が、それはあまり問題にならない事だ。明るい中に書いておいたとも考えられるし、前もって用意したという推定も成り立つ。
しかし、それだと細川昌弥は須磨に居た時、少なくとも須磨を出かけてから陽が落ちるまでの間に自殺を決心したと考える他はない。
(須磨を出る時はまだ飛行機に乗る心算《つもり》だった。従って自殺を決心する動機、もしくは彼を死へ追いやるような事情は須磨を出てから突然に起こったというのだろうか)
須磨を出て三の宮のアパートで命を絶つまで細川昌弥が一人きりで過ごしたとは思われない。必ず誰《だれ》かと一緒か、一緒でないまでも誰かに会ったと推定出来る。
(その……誰かは……?)
寛は目の前にいる細川京子の存在を全く忘れて頭をかかえ込んだ。
「寛さん……」
呼ばれて顔をあげた。呼び方が違っていた。それまでは能条さんとしか京子は使っていない。声のニュアンスも変わっていた。
「なんです……」
寛は無意識に組んでいた腕をほどいた。
「あなたって……いい方ね」
甘い声だった。
寛はグラスに手をのばした。照れかくしである。映画俳優という職業柄にもかかわらず寛は女の相手が苦手である。律儀は親ゆずりかも知れなかった。
父親の尾上勘喜郎は歌舞伎《かぶき》畑では固い男という評判で通して来ている。花柳界でももてるが一向に噂《うわさ》も立たない。上背も高く、男っぷりも立派である。年齢も五十を越して間もない。いわば男の遊び盛りだ。
「寛ちゃんはなにからなにまで親父《おやじ》さん似だね。若い中なんだから、もっと派手におやりよ。親父さんに理解がないわけじゃないし……」
と仲間の菊四なんぞがよくけしかけたものだが、寛は相手にならなかった。別に親父を意識して畏縮《いしゆく》しているわけではない。
バーへも出かけるし、誘われればナイトクラブも行く。酒も強いし好きでもある。ただ、飲んでさわいでも破目をはずさない。強いてそうつとめているのではなく性分のようだった。勿論、学生時代から適当には遊んでいる。
京子はソファに体の重心をあずけ、高々と足を組んだ。着物の裾《すそ》がほんの少しゆるんで女の姿態の美しさを存分に発揮している。心得てしているポーズのようではなかった。寛はグラスから視線をそらさない。
「ねえ、寛さん……」
京子の言葉の出鼻をくじくように、寛はついと立った。レースのカーテンの下りている窓ぎわに寄る。
「いい眺めですね。東京の夜景が一望の下じゃありませんか」
銀座のネオンの散らばりを眼で追いながら京子へ微笑した。
「交通は便利だし、その割に静かだし見はらしもいい。全く気のきいた所にアパートを建てたもんですね。まだ新しいんでしょう」
「建築されて二、三年っていう話ですわ」
京子は仕方なさそうに言葉の上だけで答えた。
「どんな人が住んでいるんです。このアパートには……」
「さあ、やっぱり芸能関係の人が多いようですわね。それから関西の方の社長さんなんかで月に十日かそこら東京へ出ていらっしゃるような場合のホテル代わりに使ってる方もありますのよ。七、八万の部屋代を払っても秘書さんとホテル住いをするより経済だし、いろいろな意味で便利なんでしょう。なんだかんだと言うけれど、近頃《ちかごろ》の生活には結局アパート住いが一番気がきいてて重宝ですものね。他人に束縛されないし、気がねもない。鍵《かぎ》一つでなんでも解決出来るんだし……」
「そりゃまあ、そうでしょうね。僕も一度はアパート暮らしがしてみたいが、なかなか思うばかりで実行のほうがね……」
「だったら思い切ってこのアパートへ引っ越していらっしゃらないこと。たしか二階の若夫婦が大阪へ転勤とかで、来月くらいに部屋が空きますのよ」
京子は冗談とも本気ともつかぬふうに笑った。
「そいつは渡りに舟だけれど、僕みたいな無精者が一人暮らしをしたら、それこそウジが湧《わ》くんじゃないかな」
「大丈夫ですわ。そうなったら私がメイド代りにお手伝いしますから……」
はしゃいだ笑い声を立て、京子はソファから立って寛の脇《わき》へ並んだ。
「ね、寛さん、兄の死因のこと……少し妙だとお思いになりません」
近々と眼を覗《のぞ》いた。
「私、もしかしたら兄は自殺ではないのではないかと考えているんです。いいえ、兄は自殺じゃないと思うんです。そう確信を持っているんですわ」
しなやかな手が寛の肩にまつわりついた。
「自殺でなければ……兄は誰《だれ》かに殺されたんです。私、それを突き止めたいんです。ね、寛さん、私に力を貸して下さいませんか。私、兄の敵が誰なのか知らずには居られませんの」
寛は肩を寄せて来た京子を、さりげなくはずした。
ゆっくりとテーブルへグラスを戻す。
「京子さん……」
ふりむいた京子へ明るい微笑を送った。
「素人《しろうと》了見では貴女《あなた》の満足するような回答が出せないかも知れないが、細川君のこと、僕も別な意味でひっかかりがあるんですよ」
「ひっかかり……?」
「実はね、細川君が謎《なぞ》の失踪《しつそう》をした頃、僕は舞台公演で大阪に居たんです。その僕の泊まっていたSホテルへ、僕と細川君とを間違えてかかって来た電話があったんです」
「それは何日でしたの」
京子の頬《ほお》が再び緊張した。
「あれは、細川君が失踪する丁度、一週間前だから、正月の五日だった筈《はず》ですよ」
細川昌弥はT・S映画の京都の撮影所から雲がくれして三日目の十五日に自殺体として発見された。
「一月五日の、何時頃ですの」
「夜でした。公演が済んだのが九時半で、化粧を落としたりなんやかやで、Sホテルへ戻ったのが十時半頃かな。ロビーで少し時間をつぶしたから部屋へ帰ったのは十一時を回っていたかも知れませんね」
寛は記憶をその儘《まま》、口に出した。あの晩はロビーで岸田久子に逢《あ》った。茜ますみと一緒に大阪の稽古《けいこ》へ来ていてSホテルに泊まっているのだという久子は、その部屋へ茜ますみが客を招いているので席をはずしてロビーで待っている、と言った。
深夜のがらんとしたロビーにぽつんと一人|坐《すわ》っていた久子の矢がすりの和服姿を寛は、今でもはっきりと憶《おぼ》えている。
「一月五日の午後十一時すぎ……」
寛が気がつくと、細川京子は唇を白くしていた。
「どうしたんです。京子さん……」
京子はすがりつくように寛を見た。
「その時間に能条さんへ電話がかかったのですか」
「そうなんです。僕と細川君と間違えてね。ホテルのフロントで聞いてみると、その電話は僕の部屋の番号を指定してかけて来たんだそうで、そうでもなけりゃ細川と能条じゃ発音も似ても似つかぬわけでしょう。間違えるわけはないと思うんだが……」
「能条さんのお部屋番号は何番でしたの」
「僕の部屋ですか……ええと」
寛は考える眼になった。数字の記憶は強いほうだが、突然となると思いつかない。
「あれは三階だったから、三百……」
Sホテルは階数が部屋番号の頭につく。四階なら四百何番、七階なら七百何番というわけだ。
「そうだ。僕の部屋番号は三百六十一番でしたよ。間違いはありません」
能条寛は念のためにポケットから手帳を出した。一月の日程表のページを繰る。そこにSホテルで滞在した部屋の番号がメモしてあった。アラビア数字で361と認められた時、寛は重ねて言った。
「三百六十一番ですよ。その部屋に僕は暮れの二十八日から正月の二十六日まで居たんです。大阪公演のために……」
暮れも正月もホテル住いという経験は寛にとって初めての事だった。ビジネスとは言いながら、やっぱりわびしかったと寛は思い出していた。
「能条さん……」
京子が、グラスを持ったまま、つかつかと寛へ近づいた。
「私ですわ。その電話をかけたのは……」
今度は寛が驚く番だった。
「あなたが……」
「そうなんです」
京子はきっぱりと言った。
「一月五日の夜の十一時|頃《ごろ》、Sホテルの三百六十一番の部屋へ電話をかけたのは私でしたんです」
「京子さんだったんですか、あの声は……」
そう言えば慌しげな、か細い女の声に、寛は聞き憶《おぼ》えがあるようだと、あの折に思ったものだったが……。
「しかし、どうして京子さんが……」
「それが不思議なんです。あの夜、十時頃でしたでしょうか、京都の私の家へ電話がかかりましたの」
「ほう……それはどういう……」
「女の人の声でした。いま、あなたのお兄さんがSホテルで或《あ》る女と逢《あ》っている。その女は細川が近くしかるべき女性と正式に結婚するという事実を耳にして、死んでも細川と切れてやらないと執拗《しつよう》にあなたの兄さんに喰《く》い下がっている。もともとあなたの兄さんは気の弱い性質だし、その女には充分未練もある様子だが、今の中に兄さんへ忠告してはっきり別れさせておかないと、兄さんの将来に、とんでもない禍根《かこん》を残す事になると蔭ながら案じている、と言うんです」
「なるほど……」
「私、人気商売の兄の事ですし、誰《だれ》かの悪戯《いたずら》か、又は兄の交際している女の人からの嫌がらせかと思いました。私が迷っていますと、嘘《うそ》だと思うならSホテルの三百六十一番へ電話をしてごらんなさい。男が出れば間違いなく細川だし、女が出たら妹だと言い、兄さんへ急用だと言えば必ず……」
京子は口ごもり、おずおずと続けた。
「私、随分、考えたんです。けれど、もしそれが本当なら兄を放っておいてはいけないと思いました。兄ならありそうな事ですし、大日映画のほうの話が進行しているのは私も知っていましたし、大事な時にもしものことがあっては、と……」
寛はふるえている京子の肩へいたわるように手をかけた。
「それで思い切って電話をかけてみたんです。半信半疑でしたけど、間違いならそれでもいいと思ったんです。兄の帰宅の遅いのも心配でした。翌日は朝の十時から撮影がある予定でしたし、まだその頃《ころ》はT・S映画の仕事をあんなふうに中途で放り出す心算《つもり》では兄もなかったようですし、私も夢にも思いませんでしたから……」
寛は大きくうなずいた。
「それで電話をしたら違ったというわけですね」
「ええ、男の方の声で違いますと言われました。でも、それが能条さんとは気がつきませんでした」
「あの時、僕は違うとだけ言って、こっちの名を言う前に電話が切れてしまったんですよ」
「私、あわてていたんですわ」
京子はかすかに微笑した。細面の顔が光線を逆に受けて可憐《かれん》に見えた。
「兄さんは……細川君はその晩、京都へ帰って来たんですか」
立ち入りすぎるとは思いながら寛は訊《き》いてみた。
「はい、二時すぎに自分で車を運転して戻りました。私、電話の事は話しませんでした」
「午前二時……」
低く寛は呟《つぶや》いた。細川昌弥が大阪のSホテルへ行っていたという確証はないが、時間的にはその可能性がある。それにしても三百六十一番という部屋の番号の間違いはうなずけない。
「確かに、その電話の女は三百六十一といったんですか」
「三百六十一、だったと聞きました。でも電話が遠かったので……」
京子は心細い調子になった。念を押されると耳から聞いただけだから自信が持てないと言う。
「でも、そう聞こえました。三百六十一番と」
「三百六十一番ねえ……」
それにしても、誰《だれ》がその室の番号を京子へ知らせる電話をしたものだろうか。
「細川君がSホテルで或《あ》る女性と逢《あ》っているという知らせの電話は五日の午後十時|頃《ごろ》にかかって来たんでしたね」
「はい」
「その女の人の声になにか心当たりはありませんか」
「いいえ、まるっきり聞き憶《おぼ》えのない声でした。割合と若い人のようでしたが……」
「若い女……」
ふと、寛はSホテルのロビーに居た茜ますみの内弟子の岸田久子の姿を連想した。
ひょっとすると、細川昌弥が逢っていた女というのは茜ますみではなかったろうか。
とかく女性関係では噂《うわさ》の多かった細川昌弥と、多情で知られる茜ますみとのコンビなら、まんざらではない。
「細川君は生前、茜ますみさんを御存知でしたか」
京子はうなずいた。
「茜流の家元の茜ますみさんなら、おつき合いをしていました。私たちが京都に居りました時代に茜ますみさんも……。家が近くでしたの。平安神宮の裏側辺で……」
想い出をなつかしむような眼ざしを空間へ向けた。
「その頃《ころ》はまだ兄も映画へは入って居りませんでしたし、私も小学生でした」
「すると、かなり親しく行き来をして居られたんですか」
「行き来、という程ではありません。兄も忙しい毎日ですし、あちらも……時々時候見舞のお葉書を頂いたり、旅行先から珍しいものを送って下さったり、兄のほうも同様だったと思います。私がお目にかかるのは一年に一度か二度、温習《おさらい》会の切符を送って下さるものですから……」
「そうですか……」
細川昌弥と茜ますみの線がもし結んでよいとすれば、当然、京子へ電話をした若い女というのは、
(久子だ……)
久子なら師匠の情事を苦々しく感じて、お節介をしてみたとも想像出来る。細川の京都の家の電話番号も、平常、茜ますみの身辺の雑事をとりしきっている彼女ならメモぐらいしているに違いない。
「くどいようだけど、その……京子さんへ電話をかけて来た女の人の声は東京弁でしたか。つまり標準語かという意味です」
京子は首をふった。
「違うんですか」
寛は落胆した。
「きれいな京言葉でした。京都の女の人だとすぐわかりましたの。私も生まれが京都ですし、最近でも東京と京都と半々くらいに暮らしているので、自分はつとめて標準語を使っていますが、純粋の京言葉というのは聞いてすぐにわかりますもの」
「京都の女ですか……」
久子は固い感じの標準語である。出身が京都とは思えなかった。寛が知る限りではむしろごつごつした東京弁である。
それに、よくよく考えてみればもし岸田久子ならば、茜ますみの部屋の番号と能条寛の部屋の番号を間違えるわけがなかった。
(自分の部屋の番号を勘違いする……)
岸田久子はそんな人間ではなかった。茜ますみの内弟子の中では一番のしっかり者らしいし、利口な女のようであった。師匠の情事をやっかむとか、見えすいた忠義ぶりをしめすような意味の電話なぞ、かける筈《はず》もない。
しかし、細川京子へ電話をかけた人間が、岸田久子でないにしても、あの晩、細川昌弥が大阪のSホテルへ来ていたというのは、まんざらの嘘《うそ》とは思えないようであった。少なくとも、能条寛はその電話の知らせを根も葉もない他人の悪戯《いたずら》と笑い捨てる気がしなかった。
(もし、彼がSホテルに来ていたとしたら、逢《あ》っていた相手は……)
寛は又しても茜ますみの豊満な姿を瞼《まぶた》に想い出した。縞《しま》の着物に黒の帯をしめてSホテルの食堂に現れた茜ますみ――。黒と白だけに統一した服装に包んだ体に、年増盛りの女が匂《にお》うようだった。
(そう言えば、茜ますみと食堂で顔を合わせた朝、細川昌弥の死が新聞に発表された筈だ)
日本の色彩感覚では白と黒の配合は不吉を意味する。とすれば、あの朝の茜ますみの服装もなにか細川の死に関係づけられないこともない。
(自分のかくれた愛人の死をひそかに悲しむ心の服装だったのだろうか)
だが、寛はそのロマンチックな連想をすぐに打ち消した。
(茜ますみが、そんな殊勝な女なものか)
第一、あの朝、茜ますみは、にこやかな笑顔と屈託のない調子で寛に話しかけた。自殺した細川昌弥の名を口にして生々しいニュースを話題にした時でさえ、第三者がしめす好奇心と驚き以外にはなんの感情も彼女の声にも表情にも現れはしなかった。
が、別に考えればそれが逆に不自然とも見られるような感じもする。細川京子が言うように京都時代からの知り合いで、多少とも行き来をしていた間柄だったら、いくら冷たい女でも死んだ細川昌弥に対して哀惜《あいせき》とか同情の一言くらいは当然、彼女の唇から出るべきであった。
もっとも、そんな僅《わず》かな事だけで、五日の夜、細川昌弥がSホテルで茜ますみに逢《あ》っていたという想像を裏づけるわけには行かなかった。想像はあくまでも寛の思いつきの範囲なのである。
「京子さんは、その五日の夜の電話のことをとうとう細川君には話さずじまいだったんですか」
寛が訊《き》くと、京子は眼を伏せた。
「申しませんでした」
ちらと寛を見て言葉を継いだ。
「ただ、兄には問いただしませんでしたけれど、私はやっぱり五日の晩、兄はSホテルへ行っていたような気がしたのです」
「それは……どうしてです……」
部屋の隅においてあるオルゴール時計が十時を知らせていたが、寛には時間を気にする余裕はなくなっていた。
「五日の……その電話の事があった次の日、兄が妙な事を申しましたのですわ」
近くの繁華街から青少年の帰宅をうながすための愛の鐘の音が響いていた。
寛は京子の言葉をうながした。
「兄は撮影所から戻ってくると珍しく部屋でなにかごそごそやっていました。私がコーヒーを持って行くと兄はテーブルの上に古いアルバムを拡げていました。いきなり私に、世の中って狭いもんだな、と申しました。なぜ、と私が問い返すと、昨夜、思わぬ所で思いがけない人に逢《あ》ったんだ、と言うのです」
「思いがけない人に逢《あ》ったと言ったんですか、細川君が……」
「ええ、で、私、誰《だれ》に逢ったのかと聞きました。兄はもったいぶってなかなか話しません。そこへ大日映画から迎えの人が来て、兄はそそくさと出かけてしまいましたので話はそれきり……私もうっかり訊《たず》ねそびれてしまったんですの」
「残念な事をしましたね。そいつは……」
京子がその逢った人の名前を聞いていたら案外な手がかりになったかも知れないのだ。
「兄さんは……細川君はアルバムを拡げていたと言いましたね。思いがけない人に逢《あ》ったと言ったとき……」
ふと寛は気がついた。その思いがけない人というのは、古いアルバムの中の写真にあった人なのではなかろうか。
「はい、めったに見もしない古いアルバムなんです」
「それは、そのアルバムを京子さんは持っていますか」
あったら見せて貰《もら》いたいと寛は言った。
「お見せする事はかまいませんけど、今は手許にないんです。なにぶんにもアパート暮らしは手ぜまなもので、日常には不用の荷物は伯母《おば》の家にあずけてありますの。伯母の家ですか。市川ですけど、もし御入用ならどうせ最近に行かねばならない用事もございますから持って来ておきましょうか」
「是非、そうして下さい」
寛が答えたとき、入口のドアがノックもなしに開かれ、男の顔がのぞいた。
「京子……お客なのか……」
声で、京子がはじかれたように立った。
「まあ、パパ、どうなすったんですの」
素早く入口へ出ると、しきりと言いわけめいた調子でひそひそと喋《しやべ》っている。
寛は相手の男が京子の何であるかをおよそ察した。京子には父親はない筈《はず》である。
「細川さん、僕、失礼しますよ。すっかり遅くまでお邪魔して申しわけありません」
入口へ出た。京子は慌てた挨拶《あいさつ》をした。かわいそうな程に狼狽《ろうばい》している。寛は入口に突っ立って顔をそむけている男に会釈してさっさとエレベーターを下りた。寛の後ろ姿を見送っているでっぷりした初老の男が、大東銀行の頭取、岩谷忠男であると、寛は知らない。
駐車場へ行ってから、寛はうっかり車の鍵《かぎ》を京子の部屋の卓上へ置き忘れて来たのに気づいた。取りに戻るのは憚《はば》かられた。二人の会話がどんな風になっているかは想像出来る。寛は車をそのままにタクシーを呼び止めた。
誘蛾灯《ゆうがとう》
翌日、能条寛は正午過ぎに赤坂のニューセントラルアパートへ細川京子を訪問した。
勿論、昨夜、置き忘れた車の鍵《かぎ》を返してもらう心算《つもり》である。が、京子の部屋は鍵がしまっていた。ノックしても返事がない。
一度、階下へ下りて、寛は管理人に訊《たず》ねた。ホテルのフロントみたいになっている管理室の若い青年ははっきり答えた。
「細川さんなら出かけましたよ。今しがた」
「外出したんですか。そりゃあ困ったな」
寛は当惑した。
「遠くへ出かけられたんですか」
「さあ、なんとも言って行きませんですからね……」
「弱ったな」
寛は頭へ手をやった。撮影所の仕事は午後二時からである。往復に今日一日タクシーを利用してもよかったし、父の車を貸してもらってもよい筈《はず》だった。
しかし、寛はなんとなくこのニューセントラルアパートの駐車場へ自分の愛用車を置いておくのが不快な気がした。昨夜の妙な別れ方のせいもあった。細川京子にはパトロンがある。それは別に驚かなかった。
細川昌弥は生前から浪費家で有名だった。しかも、突然な自殺をする前の一年ばかりは人気も下り坂で、ろくな仕事をしていない。T・S映画にも借金があり、京都の家を建てた時の銀行からの借り入れも返却し切ってなかったという。そうした借金は一応、京都の家を売り、家財の整理をして後始末はつけたらしいが、妹の京子に残された財産などは殆《ほと》んど皆無といった状態に違いなかった。その京子が兄の死後、別にこれと言った職業に従事している様子もないのに高級アパートでかなり贅沢《ぜいたく》な暮らしをしているとすれば、当然、パトロンの庇護《ひご》を受けていると想像されよう。
(おそらく昨夜、彼女がパパと呼んだ男が、相手だろう……)
京子にパトロンがあろうとなかろうと、それは寛の関心の外だがとにかくパトロンを持っている女のアパートの駐車場へ自分の車を一昼夜以上もあずけておくのは、なんとなく後ろめたい。車の鍵《かぎ》は細川京子の部屋へ忘れて来たのとは別に、もう一つ合い鍵があった。寛のポケットの中でちゃらちゃら鳴っている。普段は使っていないほうの、いわば予備のための鍵である。
「あのね。実は昨夜……」
寛は管理室の青年にざっと昨夜の事情を話して、駐車場にある車を合い鍵で開け、運転して帰るから、その旨を細川京子へ伝えてくれないかと頼んだ。
「そりゃ困りますよ。もしなにかの間違いがあったとき、僕の責任になりますからね」
青年はうさんくさそうに寛の申出を拒絶した。
「しかし……あれは僕の車なんだから……」
合い鍵《かぎ》をしめして寛は抗議した。
「ま、とにかく、そういう事は細川さんと直接、話し合って、はっきりしてからにして下さい。後でごたごたすると僕が迷惑しますんでね」
管理室の若い青年は意地悪く突っぱねた。映画スターという寛の立場に或《あ》る程度の反撥《はんぱつ》を感じているらしいし、女の部屋に車の鍵を忘れたことを曲解しているらしかった。映画スターは身持ちの悪いものと軽蔑《けいべつ》しているような青年の態度に寛も腹が立った。
「あら、能条さんじゃありませんの」
不意に女の声が後で呼んだ。ふりむいて、
「あ、久子さん……」
久子は紺地に白い花模様のワンピースを着ていた。彼女の洋服姿は珍しい。サンダルをはいている。
「どうなすったんですの」
いぶかしげに問われて寛は超特急な説明をした。
「まあ、京子さんの所へいらっしゃったんですの」
「御存知なんですか、京子さんを……」
「ええ、京子さんのお兄さんの細川昌弥さんですか、あの方が生きていらっしゃった時分から、うちのお師匠さんとはおつき合いしていましたから……」
「そうですか……」
さりげなく答えたものの寛はおのれのうかつさが悔やまれた。
茜ますみと細川兄妹が知人だということは昨夜、京子の口から聞いたばかりである。茜ますみの内弟子の久子なら当然、細川兄妹と面識があってよい筈《はず》だ。
久子は寛を見て、妙な含み笑いをした。
「もっとも、最近ではうちのお師匠さんと京子さんとは行き来をしていませんの。絶交状態なんですわ」
「なにか、あったんですか」
「ええ、ちょっと……」
口をにごして、久子は別に言った。
「それはともかく、管理室の人とは私、顔なじみですから、なんなら車のこと頼んで差しあげましょうか」
寛は喜んだ。
「そうして貰《もら》えると有難いけれど……」
久子はうなずいて管理室へ行った。なれなれしく挨拶《あいさつ》し、なにか説明している風だったが、すぐに戻って来た。
「お待ちどおさま、私が証人になることで車は御自由ということになりましたわ」
「有難う。お手数かけてすみませんね」
寛は身軽く駐車場へかけて行って、愛車のジャガー二四サルーンを久子の前まで運転して来た。
「久子さん、どこかへいらっしゃるんですか。もし、よろしければお送りしましょう」
久子はたしか茜ますみの家の方角から来た様子である。茜ますみの家とニューセントラルアパートは背中合わせに建っている。
岸田久子は右手に白いビニールのハンドバッグを持っていた。外出仕度という程ではないが、近所へ買物という恰好《かつこう》でもない。
久子は微笑して、寛へ言った。
「結構ですの。バスで行きますから……」
「同じですよ。管理人に口をきいて頂いたお礼に送らせて下さい」
「でも、お仕事がおありでしょう」
久子は遠慮深かった。
「大丈夫です。たっぷり時間はあるんですから、どちらへいらっしゃるんです」
「銀座なんですけど……」
「それじゃ眼と鼻の近さだ。本当によろしかったらどうぞ……」
寛が後ろの座席のドアへ手をかけると、久子は自分から前の座席へ乗る姿勢を取った。
「それじゃ、お言葉に甘えて乗せて行って頂きますわ」
するりと助手席へすべり込んだ。踊りできたえているせいか、身ごなしが鮮やかであった。
「銀座はどの辺りですか」
車が動き出してから寛は訊《き》いた。
「四丁目を築地よりの辺りです。わかば≠ニいうお扇子《せんす》の店へ行きますの。お師匠さんのリサイタルが近いもんですから、それに使うお扇子の註文《ちゆうもん》ですわ」
「大変ですね。相変わらず……」
「リサイタルの準備は、もう馴《な》れていますから、どうという事はありませんけど、今度はお師匠さんのプライベートな問題でいろいろとございましたもので……なにかと心配なんですわ」
久子は平常の彼女らしくもなく愚痴っぽい調子であった。どことなく疲労のかげが濃い。
「そう言えば今度の事件ではなにかと気苦労な事だったでしょう……」
小早川喬のことを寛は言ったつもりだった。
「ええ、もう色々と重なりまして……」
久子はハンドバッグの口金を弄《もてあそ》んだ。首筋が透けるような蒼《あお》さだった。あまり化粧もしていない。
ふと、寛は思い出した。
「この前、久子さんにお目にかかったのは大阪のSホテルのロビーでしたね」
「そうでしたかしら……」
久子は曖昧《あいまい》に首をかしげた。
「あの時、あなたは茜ますみさんの部屋に来客でロビーに遠慮しているっておっしゃったけど……」
久子は微笑した。
「まあ、そんな事ございましたかしら」
寛は強引に続けた。
「あの時、茜ますみさんの所へ来ていたお客さんは、細川昌弥君じゃなかったんですか」
久子はゆっくりと考えるような眼をした。
「いつでございましたっけ……」
「一月の五日の夜ですよ」
「一月五日……」
久子は寛の顔を見て、うなずいた。
「そうそう、あの時は本当に失礼いたしましたわ」
明るく笑って答えた。
「あの晩のお客が細川昌弥さんかとおっしゃるんですか」
「そうです」
「なぜですの」
「なぜ……という事もないんだが、そんな気がしたんですよ。不意に……」
「京子さんがそうおっしゃったんですの」
「いや、京子さんは何も……細川君から聞いたというのではありません」
「残念ながら、あの晩のお客様は細川さんじゃありませんの」
久子はそっと声を低めた。
「うちのお師匠さんと細川さんとのこと、御存知なんですか」
「いや、別に……けど……」
久子は肯定した。
「勿論《もちろん》、両方とも遊びでしたけどね。おまけに昨年の秋ごろからうちのお師匠さんのほうが冷たくなってしまって、細川さんとうちのお師匠さんが最後にお逢《あ》いになったのは、修善寺の事件の少し前くらいでしたわ。それっきり……」
車は虎の門から霞《かすみ》が関《せき》へ抜けた。官庁街の昼休み時間らしく、ワイシャツ姿のサラリーマンがぞろぞろ歩いている。
「ですから細川さんの妹さん、京子さんですか、あの方はうちのお師匠さんにあまりいい感じを持っていらっしゃらないんですよ。現在はその事の他にもお二人は敵同士みたいなことになってしまっているのですけれど、でも私は別にどうという事はありませんしね。道で顔を合わせれば前と同じように挨拶《あいさつ》しているんですのよ」
そこで久子は思いついたように言った。
「そうそう、この車のこと、私から京子さんへ一応、お話しときましょうか」
「そうですね。もしお逢《あ》いになったら……いずれ僕から電話はするつもりですが……」
寛は相手の好意を謝した。
「今度のリサイタルで八千代さん、鳥辺山《とりべやま》の浮橋《うきはし》をなさるかも知れませんのよ。お聞きになりました」
「いや、なにも……」
実際、八千代からはなんの知らせもなかった。
「相手役は中村菊四さん、大変なのよ。どうしても八千代さんと組んで踊るんだってお師匠さんに談判なさったの」
寛の表情を見ながらまるで別の事を言った。
「京子さんにはお気をつけないと……あまりお近づきになると八千代さんに義理が悪いんじゃございません」
その朝、浜八千代がニューセントラルアパートの前を通りかかったのは十時を少し回っていた。
「なによ、そんな朝早く、お稽古《けいこ》かい」
と銀座の家を出かける際、母に見とがめられ、
「ちょっと友達と約束があるのよ」
弁解もそこそこにとび出して来た八千代だったが、勿論《もちろん》、友達との約束は嘘《うそ》だし、茜《あかね》ますみの稽古場も今日は休みの日だった。
赤坂までの僅《わず》かな距離を気がせいて、八千代はタクシーを拾った。
弁慶橋の辺りは初夏らしく緑も鮮やかで池の水も落ち着いていた。この付近の住宅街はまだ眠っている。
ニューセントラルアパートの少し手前で八千代はタクシーを下りた。
胸の鼓動が聞こえるようだ。昨夜踊りの稽古帰りに染子と銀座へ出て、Sパーラーでお茶を飲んだ。その二階へ能条寛が女づれで来ていたのである。
最初に見つけたのは八千代であった。何気なく傍へ行って声をかけてしまえばよかったのかも知れない。女連れという事で八千代は遠慮した。黙っていたのだが、染子が間もなく気がついた。
「寛さんだわね。二階の女づれ、凄《すご》いじゃないの顔をくっつけるようにして随分御親密そうね。なんだろう、相手の女……」
染子が好奇心を持ち出すと、けじめがつかなくなる。
「え、八千代ちゃん、いいの、あんな事させといてさ」
八千代は当惑した。
「だっておつき合いでしょ。それに私と寛さんとは別に……」
「ただのボーイフレンドだって言い切れるもんですか。あんたの気持ちぐらい解らないと思うの。それにしても寛さんのやり方ってのは気に入らないわ。あ、立ったわ、どこへ行くのかしら」
染子の強引さと八千代の心配とが、つい寛の愛用車の後をタクシーで尾行して赤坂まで追ったのだが、
「まあ、あきれた、女と一緒にアパートへ入っちまったわ」
染子は茫然《ぼうぜん》としている八千代へ言った。
「あんた、そこらの喫茶店かなんかで入口を見張ったらどう。何時|頃《ごろ》に帰るか……」
「馬鹿《ばか》ね。そんな必要あるもんですか。私、それほど寛さんにお熱あげているわけじゃないもの……」
八千代は強がって、お座敷の約束があるという染子を浜町へ送るためにタクシーへ乗った。が、染子が下りてしまうと、再び八千代はタクシーを赤坂へ向けた。
ニューセントラルアパートの駐車場に見憶《みおぼ》えのある寛のジャガーの二四サルーンを見ると八千代は逃げるように銀座の家へ戻った。
一晩中、八千代は不安でまんじりともしなかった。青山の能条寛の家へ電話をかけて寛の帰宅を確かめる事も考えた。
が、深夜ということと、もし居なかったらという怖れが先に立って電話口へ行く勇気が出なかった。
朝の光がキラキラと反射しているニューセントラルアパートの駐車場へ、八千代はおどおどと近づいた。
(そんな事はない。そんな寛ではない)
と思う。女のアパートへ外泊するなんて、八千代は首をふった。なにかの用事で女の人をアパートへ訪ねたとしても泊まるような寛だとは思いたくなかった。
しかし、通行人の様子を装いながら、さりげなく覗《のぞ》いた駐車場にジャガーの二四サルーンはのんびりと収ったままであった。昨夜と位置も変わらない。
二度とふりかえる勇気はなかった。弁慶橋の袂《たもと》まで八千代は夢中で歩いた。
(やっぱり寛は……)
真昼の光の中で、八千代は自分の周辺だけが暗闇《くらやみ》になったような気がした。
だが、寛が、八千代の知らぬ女の許へ泊まったとしても、八千代は自分に何を言う権利もない事を悟った。
幼な馴染《なじみ》というだけで一言も将来の約束をしたわけではない。寛からは勿論プロポーズされた憶《おぼ》えもなかった。
寛にどんな恋人が存在しても八千代には文句のつけようがない。にもかかわらず、八千代は、寛に自分以外の女、恋人と名のつく人間が存在するとは夢にも考えていなかった。無意識の中に、寛の自分に対する愛情を信じていたようである。
(うぬぼれたもんだわ……)
八千代は池の水に自嘲《じちよう》した。涙があふれそうなのを必死で圧《おさ》えた。
(寛は私の事をなんとも思っていないんだわ。だから、いつか修善寺へ一緒に行ったときも……)
男と二人きりで温泉場へ出かけることを、八千代はそれほど重大に考えなかった。目的が目的だったし、もっと決定的な事は寛と一緒だったからかも知れなかった。
(あの時、もし寛が野心を持ったら……)
いくら出かける前に部屋は別にするという口約束をしたからと言って、実際にはどうにでもなった筈《はず》である。万が一、あの夜、寛が八千代を求めたとしたら、
(勿論、私は許さなかったわ……)
その決心は頼りなかった。理性では割り切れる問題でない事ぐらいは八千代にも解っていた。
結果から言うと、あの晩、寛はなんの行動にも出なかった。それを八千代は寛の愛情と受け取っていた。稚《おさな》い考え方だったかも知れない。
弁慶橋の欄干に寄りかかって、八千代はぼんやりと水を見た。
頭の中が空虚だった。失恋という文字がガランドウの頭脳の中をかけめぐっている。
(馬鹿《ばか》らしい。私だってそれほど寛が好きなわけじゃなし……)
女の虚栄が言わせる台詞《せりふ》である。そのくせ八千代の心はずたずたに引きちぎられたようになっていた。水の中へ引き込まれそうなほど気も滅入っている。
ニューセントラルアパートの方角で女の声がした。
はじかれたように八千代はそっちを見た。
(あの女だわ)
ぎくりと眼を据えた。昨夜、寛と一緒だったその女の顔を流石《さすが》に八千代は忘れなかった。普段は人の顔を記憶するのが苦手の彼女である。
細川京子は今朝は洋装だった。体にぴったりしたタイトのワンピースである。服と同色のスモークグリーンの帽子をかぶっていた。
京子の後から男が出て来た。八千代はそれをてっきり寛かと思ってうろたえた。こんな場所で寛と顔を合わせるのは我慢がならない。
男の言葉が聞こえた。一緒にこっちへ歩いてくる。
「今、お出かけですか、お早いんですね」
寛の声ではなかった。八千代は顔をあげた、遠眼ながら、男が中村菊四であることを認めるのに手間はかからなかった。白い背広の上下に黒いワイシャツ、殺し屋好みのキザな服装である。
「菊四さんもお早いんですのね。今はお舞台は……」
女が訊《たず》ねている。八千代はさりげなく歩く姿勢を取った。
「芝居は今月は休みなんです。テレビとラジオがあるもんで関西公演を休んじまったんですよ」
「それじゃ今日は……」
「ええ、テレビの本読みです」
そこで菊四はむこうから来る八千代に気づいた。
「八千代ちゃん」
八千代は意外だという表情を見せた。
「まあ、菊四さん……」
京子は二人の様子に軽く会釈して先へ行った。
「誰方《どなた》ですの、あちら……」
見送って八千代は咄嗟《とつさ》に訊《たず》ねた。
「いや、別に知っている人じゃないんだ。ニューセントラルアパートね。すぐそこの……あのアパートで僕の惜りてる部屋の二つ隣に部屋を借りてる人さ」
要領を得ない菊四の答えに八千代は失望した。
「それよか、八千代ちゃん、今日はお稽古《けいこ》なの」
菊四は馴々《なれなれ》しく八千代の傍へ寄った。
「お稽古じゃないんですけどね」
八千代はちらと坂の上の茜ますみの家を眺めた。そこへ向かって歩いている恰好《かつこう》なのである。
「ちょっとお師匠さんの所に用があるんで」
「そう」
菊四はそれが癖で首を傾《かし》げて相手の眼を覗《のぞ》いた。
「茜ますみさんから聞いてくれたと思うんだけど、茜さんの今度のリサイタルね。僕も近所に居て普段なにかとお世話になっているし、茜さんがよければ賛助出演してくれないかというんでお手伝いしようかと思ってるんですよ」
「まあ、そうですの。菊四さんが出て下されば、お師匠さんもお喜びなさいますわ」
八千代は微笑して軽く受け流した。寛の事で胸が一杯な時に、あまり好ましくもない菊四と立ち話をする気にはなれない。
(青山の寛の家へ電話をしてみよう。一人であれこれ迷うよりもその方がいっそさっぱりする……)
そう思いつくと矢も楯《たて》もたまらない。が、菊四は自分の話に熱心だった。
「それでね、出し物のことなんだけれど八千代ちゃんは鳥辺山の道行か、義太夫の蝶《ちよう》の道行が演《や》りたいんだって……」
仕方なく八千代は応えた。
「ええ、母がそんな事を希望しているんですの。道行ものはまだ色気がないから可笑《おか》しいと自分では思っているんですけど……」
「そんな事はありませんよ。八千代ちゃんには初々しい色気っていうのか、可憐《かれん》な味があるから浮橋《うきはし》だって、蝶の道行の小巻だってどんぴしゃりですよ。もしよければその相手役を僕にさせて欲しいと茜さんに言ったんだが……」
不意を突かれて八千代はびっくりした。
「菊四さんが私の相手役を……?」
「そう、いけない……?」
「いいえ、いけなくはないけれども……」
八千代は慌てた。
「菊四さんはうちのお師匠さんの相手役をなさるんじゃありませんの。新作の……」
てっきりそうとばかり思って話をしていたのだ。
「とんでもない。茜さんの相手役は能条寛君の親父《おやじ》尾上勘喜郎が勤めるんですよ」
「尾上の小父《おじ》様が……」
それも初耳であった。
「ねえ、八千代ちゃん、どっちを踊る、鳥辺山にするかい。小巻助国でやるか、僕はどっちでもいいけどね」
「それは……あの……」
八千代は全く狼狽《ろうばい》した。人もあろうに中村菊四と道行物を踊る気持ちは少しもない。が断る口実も見つからなかった。
「菊四さんのお申し出は有難いと思いますけど、私の相手役はいつも染子さんがして下すっているから」
立ち役(男役)専門の染子と女形《おやま》ばかりの八千代とは茜門下ではいつもコンビで出演していた。「吉野山」の静御前と忠信「羽衣」の漁夫と天女、「将門《まさかど》」の光国と滝|夜叉《やしや》など二人の思い出の舞台は多い。
「染ちゃんには今年は一人で『申酉《さるとり》』を踊らせたいって茜ますみさんは言ってたよ。染ちゃんのお母さんの意向なんだそうだって」
それは八千代も知っていた。だから自分の演《だ》しものが今だにきまらないのだ。
「いいわよ。どうせ親孝行で踊る『申酉』だもの、もう一本、別に八千代ちゃんにつき合ったげるよ」
と染子は気易く言うが、二本に出演するとなれば費用も大変だし染子がれっきとしたパトロンも持たず、芸一本でがんばっている芸者だけに、八千代もあまり無理な事はさせたくなかった。染子の分の費用を八千代が持つ事は簡単だが、そんな事を許す染子の気性でないのは八千代が一番よく知っている。
「ね、その踊りの相談もあるし、他に話したい事もあるから、後でちょっと会って貰《もら》えないかしら」
菊四は八千代の顔を窺《うかが》った。
「私……」
八千代は途方に暮れた。いつもならきっぱり拒絶する所だが、今日は弱気な彼女である。
「ね、僕、テレビ五時に済むんだ。夕食をつき合ってよ。ますみさんの所の五郎ちゃんね。あいつに関してちょっと面白いニュースもあるし……」
菊四はせっかちだった。
「いいでしょう。じゃ、五時に銀座のSパーラーね。すっぽかしちゃ嫌ですよ」
「Sパーラー……」
復唱して八千代はなんとなくうなずいてしまった。菊四は上機嫌で道路を渡って行った。向かいのガソリンスタンドに、愛用のキャデラックが見える。洗いに出しておいたものらしい。
八千代は再び弁慶橋を渡って歩いた。勿論、茜ますみの家の玄関は素通りである。
道を曲がって都市センターの通りへ出た。プリンスホテルの前を歩く。公衆電話を探した。ボックスに目が止る。人が使っていた。長話である。笑ったり、喋《しやべ》ったり、楽しげであった。若い女の子である。
八千代はぼんやりと待った。二十分近く経って電話は漸《ようや》く空いた。
十円玉を落し入れ、ダイヤルを廻《まわ》す。出て来たのは能条家の女中だった。
「若旦那様でございますか。寛様はお出かけでございます。はい、お仕事で……」
八千代は力なく受話器を置いた。歩く気力もなくなっている。
午後五時まで、浜八千代は自分の部屋でレースあみをしていた。
時計の針が秒をきざむ度に、八千代の胸は波に乗ったゴムボートみたいにゆれて騒いだ。
もとより八千代は中村菊四という男性に対してなんの関心もなかった。好意はなおさらである。
菊四の誘いがただの逢《あ》いびき的な意味のものなら、八千代はさっさと断ってしまったろう。だが、今日は口実があった。リサイタルの演《だ》し物の事である。八千代は彼と道行物を踊る意志はまるでない。とにかく理由を設けてそれを辞退しなければならなかったし、他に菊四から訊《たず》ねたい事もあった。
先日、染子と一緒に赤坂の「ざくろ」へ招待されたとき、
「小早川喬殺人事件に関して僕はちょいとしたネタを持っているんですよ。車の鍵《かぎ》に関してね」
と思わせぶりに洩《も》らした言葉である。
それと、もう一つ、八千代はニューセントラルアパートの住人である彼に、寛と同行した昨夜の女性の名を聞き出したい気持ちもあった。名前を聞いてどうなるというわけでもないが、好奇心というか惚《ほ》れた弱味なのだとは八千代自身気がついていない。
そんな事を考える程、今日の八千代は落ち付きを失っていた。心の中が空き間風の吹き込んだようにうら淋《さび》しい。
「いいわ。ほんの少しだけ、菊四さんにつき合って、彼から聞けるだけの事を聞いて来よう」
八千代は独り言に呟《つぶや》いた。レースあみを中止して洋服|箪笥《だんす》を開ける。
マロン色の地に青いバラが手描きのように散っているワンピースにバラと同色のサッシュを締めた。五分|袖《そで》である。ブルーのサマーコートを抱えると女中にちょっと出かけるからと言伝てして、もう暮れかけた銀座の街へとび出した。
が、Sパーラーの前まで来ると再び八千代のハイヒールの足は重くなった。
(やっぱり止そうかしら……)
と言って菊四をすっぽかすのも気の毒な気がする。時計を見た。五時十分過ぎ。八千代の母の経営する「浜の家」からSパーラーまでは歩いて七分ぐらいな距離である。
(入ってみて、もし菊四さんが来ていなかったら帰っちゃおう……)
ドアを押した。とっつきの席に菊四はドアの方角へ向かって腰かけている。待ちかねた視線が八千代を捕らえると、心から嬉《うれ》しげな表情になった。
「八千代ちゃん、漸《ようや》く来てくれましたね。僕、駄目かと思った……」
にっと笑った顔が素直で子供じみている。八千代はその微笑で彼への警戒を少しばかりゆるめた。知らず知らずの中に誘蛾灯《ゆうがとう》へ近づいているのだ。
割烹《かつぽう》旅館
菊四はまめまめしく八千代のために椅子《いす》を引き、彼女が腰をおろすのを見定めて真向いの席へ戻った。
「遅れてしまってごめんなさい。お店が混んでいたものですから……」
八千代はそんな言い逃れをした。
「ああ、ちょうど時分どきですからね。八千代ちゃんもお店の方を手伝うの」
「いいえ、でも時折はね。御挨拶《ごあいさつ》くらいの事なんですけれど……」
「『浜の家』さんのお茶漬《ちやづけ》はとってもおいしいんだって仲間中の評判なんですよ。僕も一度、御馳走《ごちそう》になりに行ってもいいかしら」
「どうぞ、噂《うわさ》ほどの事はないんですのよ。あまり御期待なさらないでお出かけ下さいな」
そうしたやりとりをしている中に八千代はコーヒーをあらかた飲んでしまった。早く話の本題に入らなければと思うのだが、きっかけがうまく掴《つか》めない。
Sパーラーの中はかなり混んで来ていた。土曜日なのである。
「どうもこうさわがしくては落ち付いて話も出来ませんね。場所を変えましょうか」
菊四が勘定書を取って立ち上がったとき、八千代は一応ためらった。菊四はどんどん先に出てしまう。止むなく八千代も後に続いた。
道路へ出て、菊四がタクシーを止めたので八千代は慌てた。
「菊四さん、私、遠くへ出るつもりではありませんのよ。すぐに帰ると家へ言ってありますから……」
「なに、近くなんですよ。十分とかかりゃあしません。さあ早く」
うながされて八千代はつい乗った。この辺は停車禁止で長くタクシーを止めておくことが出来ない。続いて菊四も乗り込んだ。運転手に、
「神田」
と命じ、別に八千代へ説明した。
「神田にね。昔から知っている家があるんですよ。あの辺りには珍しく洒落《しやれ》た料理屋で川魚がうまいんです。鮎《あゆ》でも食べませんか」
曖昧《あいまい》に八千代がうなずくと菊四は安心したようにクッションに背をもたせかけた。それで八千代は気がついた。
「あら、今日は菊四さん、車は……」
御自慢のキャデラックを運転して来たのではなかったのか。
「車はアパートへ置いて来ましたよ。銀座へ出る時はタクシーの方が利口なんです。駐車場で往生しますからね」
屈託なく笑った。
「この間なんかね。どこにも車を止める場所がなくて、五丁目に用事があるのに日比谷のほうまで行って車を置いて、それからテクって銀座まで、夕立があったでしょう。嫌になりましたよ。東京は確かに車の数が多すぎますね」
タクシーは数寄屋橋《すきやばし》の交叉点《こうさてん》で長いこと信号待ちをした。ラッシュアワーである。
道路に面して洋品店とバーの看板が圧倒的に多い。
クララ、ドモンジョ、プチ、ササールなどと外国女優の名を連想させる店名にミッチイ、ナミ、おとき、小春、静、ヱル、ブンケなど和洋取りまぜたバーづくしに八千代はいつも思う、これだけの数のバーがとにかく採算がとれるだけに繁昌しているのだったら、日本の男性には如何《いか》にのんべえが多いかという事である。
それを、口にすると菊四は笑った。
「男性ばかりのせいにしてはいけませんよ。近頃《ちかごろ》は女性専門のバーも随分あるんですよ。美男のバーテンを揃《そろ》えたりしてね」
「でも、男性のバー通いにくらべたらごく少数ですわ。女性の左ききなんて」
「そりゃまあ、そうですね」
「でも男性って、どうしてそうお酒が飲みたいのかしら」
「世の中には不快な事が多すぎますからね。腹を立てても仕方がないし、憤《おこ》ってみてもどうにもならない。それが重なるとつい、酒にでも逃げ込みたくなるんでしょうね」
「卑怯《ひきよう》だわ。そんなの……」
「しかし、社会が社会だから、息苦しくもなるんですよ。女性と違って男性は一生、社会ってもんと鼻を突き合わせて生きて行かなきゃなりませんから、辛くもなるでしょうよ」
「だったら……安息のためにお酒を飲むのなら家庭でお飲みになったらいいわ。そのほうが安上がりだし、安定感があっていいでしょうに……」
八千代は料理屋の娘らしからぬ言い方をした。若い女性が一応はこねたがる理屈である。
「八千代ちゃんはお嬢さんだから、まだ男性心理にうといのは当り前だけど、男ってものは酒をのむためばかりにバーへ行くんじゃありませんよ」
菊四の言葉に八千代はひどくプライドを傷つけられたような気がした。
「そんな事くらい分かりますわ。バーには美しい女性が揃《そろ》って居りますものね」
「色気だけが目的ってものでもないでしょう。まあ、適度に飲んで女の子と馬鹿《ばか》を言って、開放感を味わう。そんな所かな。実を言うと僕もよくわからないんですよ」
菊四が照れた笑い方をしたので八千代は機嫌を直した。
「でも、辛い事や口惜《くや》しいこと、淋《さび》しいことなんか、心に重荷のあるような時はバーにでも行ってお酒が飲めたらと思うことがありますわ。男の方もそうでしょう」
「ありますね。それは……」
菊四は思い出したという顔になった。
「ほら、茜ますみさんの所の内弟子の五郎君、彼の飲み方なんかまさにそのタイプですよ」 浜八千代はさりげなく中村菊四の口許を注視した。
彼の口から茜ますみの内弟子である高山五郎の名が出るのはもう数回にもなろうか。
中村菊四が五郎に対してなんらかの関心を持っていることは疑いないようだ。
「五郎さんとはよく御一緒にお飲みになるんですの」
八千代の問いに菊四は笑った。
「いや、そうじゃないんですよ。別に飲み友達というわけじゃありませんがね。それゃまあ、茜ますみさんの所の内弟子さんだし、稽古場《けいこば》で顔を合わせれば話ぐらいはします。しかし、友達づき合いのしにくい奴《やつ》ですよ。彼は……、内弟子のくせに、と言ってはなんだけど、万事にお高くとまってるようでね。苦手ですよ。ああいうしんねりした男は……」
中村菊四は大げさに眉《まゆ》をしかめた。五郎をしんねりした男と評した菊四自身、あんまりからっとした性質でもないのに、と八千代は可笑《おか》しかった。
「でも、お友達でないにしては、五郎さんのこと、随分おくわしいじゃありませんか。ご一緒に飲んだ事もないのに、どうして五郎さんの飲みっぷりなんかがおわかりになりますの……」
「それはね。彼の行きつけのバーへ僕もよく行くんですよ。勿論《もちろん》、僕の方は大抵、つき合いで仕方なくという恰好《かつこう》なんでね。大体、僕はバーみたいな場所の雰囲気が好きじゃないんです。能条寛君みたいに女の子に取り巻かれて遊ぶのが上手《うま》い男ならバーも又、たのしからずやという事になるでしょうがね。彼のバー遊びは見事ですよ。女の子を楽しませて喜んでいる。だからバーなんかの女の子はもともと映画俳優というタイプにはよわいのが多いですからね。適当に遊んで適当に別れる。近頃《ちかごろ》の女は割り切ってますから、男の方がドライにやる気になれば結構、面白いことも出来ますよ」
菊四は横眼で八千代の表情を窺《うかが》った。それと知って、八千代は故意にその話を無視した。菊四の口から寛の陰口など聞きたくもない。
「五郎さんって、お稽古場《けいこば》では無口で真面目《まじめ》で純情そうだけれど、バーへなんか出かけるんですの」
「彼は相当な猫かぶりですよ。酒はかなり強いですね。それも陰気な酒でね。飲む程に、酔うほどに蒼《あお》くなる。ニヒリストを気取ってるのかも知れませんがね」
「いつも一人なんですの。女の人かなんかと一緒かしら、それとも……」
「一人ですよ。黙々と飲み、黙々と酔う奴《やつ》なんだが、それがね、ここんところすごく悪酔いするらしいんですよ。そのバーの、名前はアザミっていう店なんですが、そこのマダムが言ってましたよ。五郎さんって今に自殺でもやらかすんじゃないかって……」
「五郎さんが自殺をするんですって。どうしてそんな……」
八千代は驚いて言った。
「自殺をするかも知れない。いや、自殺でもしそうな感じだとマダムは言うんです」
「理由はなに……」
「別になにもないんですがね。そんな感じがするって話ですよ」
「理由もなしに、そんな無責任な事をおっしゃるものじゃありませんわ。少なくとも人の生死の問題を、そんな風に……軽はずみというものですわね」
なじるように八千代は菊四へ言い、窓へ視線を避けた。五郎へ好意的な八千代の言動に気がついて菊四は躍起になった。八千代が少しでも関心を持っているような男性は、とことんまでやっつけなければ気のすまない菊四である。他人の悪口を言うのが苦にならない、むしろ趣味みたいな男である。
タクシーは宮城の堀ぎわを大手門から竹橋へ向かって走っていた。
夕暮れの堀端を肩をもたせ合ってゆっくりと散歩しているアベックが多い。季節としても夕暮れが美しい今日この頃《ごろ》なのである。
「八千代さんの前だが、アザミのバーのマダムの言うのもまんざらの軽はずみとも思えない節があるんですよ。たしかに近頃の五郎君の様子は可笑《おか》しいんだ。この間も赤坂ん所で会ったんだが、なにかしきりに考え込んでいるふうでね。すれちがって、声をかけてもぼんやりしてるし、稽古場《けいこば》でもそわそわと落ち着かない。バーでの飲み方も無茶だし、酔うと気狂いじみた目で壁をにらんでいる事もあるし、あれはなにか心に堪え切れないような重荷があるんじゃないかな」
「そりゃあ人間ですもの。時には悩みもするでしょうし、苦しみをお酒にまぎらわそうとするかも知れないじゃないの」
八千代はつとめて菊四の意に逆らって五郎の肩をもった。そのほうが菊四から話を引き出し易い。
「まあ、もう少し僕の話を聞きなさいよ。五郎君がなにを苦しんでいるのか僕には大体、想像がついてるんだよ」
「なんだとおっしゃるの。五郎さんの悩みごとは……」
「なんだと思います。八千代さんは……」
自信たっぷりに菊四は言った。
「失恋かしら。そんな所でしょう。どうせ」
「と思うのが素人《しろうと》のなんとかでね。事件の発端は例の小早川さんの殺されたあたりに関係していると言ったら、八千代さんはどう思います……」
「さあ私にはわからないわ」
正面から見つめられて、八千代は視線を落とした。その時、タクシーは神田の町へ入った。菊四がタクシーを止めたのは狭い路地の入口だった。
神田の町と言ったら、八千代は学生時代にマロングラッセという栗《くり》を加工した特殊なお菓子を食べる目的で通ったHという喫茶店と本屋の並んでいる通りぐらいしか知らない。
菊四に導かれてはいった路地の奥は、神田にこんな所があったとまるで想像もしないような小ぢんまりした軒並だった。
「みずがき」と仮名文字の門灯が出ている傍に小さく「割烹《かつぽう》旅館」と書いてあった。
「旅館」という文字に八千代は逡巡《しゆんじゆん》した。菊四が微笑して言った。
「僕の親父《おやじ》の懇意にしていた店なんですよ。板前が関西からきた奴《やつ》でね。若い僕らには味が淡白すぎるかも知れませんがね」
さあと肩を押されて八千代は玄関を入った。入口の感じは料理屋であった。落ち着いてもいる。旅館の雰囲気はどこにもなかった。八千代は少し安心した。
「まあ、菊四坊ちゃま、お久しぶり、随分とお見限りでしたのね」
出迎えた女中は四十がらみで、地味な和服だが着こなしがくずれた感じである。言葉の調子と菊四を迎える身ごなしで、八千代は昔、花柳界にいたことのある女ではないかと思った。
「どうもね。ずっと忙しかったもんだから、鮎《あゆ》は解禁になったんだろう。せいぜいたっぷり御馳走《ごちそう》になりたいね」
菊四と女との問答は割烹《かつぽう》店へきた客が女中と話をするようなものでしかない。
「あ、そうそう、こちらのお嬢さんはね。銀座の一流割烹店の娘さんだから、今日の料理はよくよく吟味《ぎんみ》するように板前さんに言っとくれよ」
「はいはい、承知致しました」
女中が案内したのは奥まった六畳だった。庭も猫の額ほどだが泉水をあしらっている。
玄関は狭いのに内は思いの他、広いようだ。
「妙な造りだろう。まるでウナギの寝床《ねどこ》みたいに細長く、奥が広いんですよ」
丸いテーブルの前に坐《すわ》って、菊四はおしぼりのタオルで顔を拭《ふ》いた。
「失礼していいですか」
白の上着を脱ぎ、黒のワイシャツの一番上のボタンをはずした。
女中がビールとつまみものを運んでくる。次々と料理も出た。川魚専門というだけあって品数も揃《そろ》っているし、洒落《しやれ》たものがある。
「八千代さんも一杯くらい大丈夫ですよ」
菊四と女中が交替に勧めて、八千代もビールのコップを持った。
「ねえ、さっきの話、聞かせてよ。五郎さんの憂鬱《ゆううつ》が、小早川先生の事件とどうつながりがあるって言うの」
女中が席をはずした隙《すき》に漸《ようや》く八千代はタクシーの中の話の続きを菊四へうながした。それが聞きたいばかりについてきた割烹《かつぽう》店なのである。
「そうそう、その話ね」
菊四は鯉のあらいを食べていた箸《はし》の手を止めて、ナフキンで軽く口を拭《ぬぐ》った。
「八千代さん、聞きたいと思うの」
焦《じ》らし声が甘かった。女形の声である。
「そりゃあ聞きたいわ。でもね。菊四さん、誤解しないでね。いつかあなたは、私がM新聞に勤めている結城《ゆうき》の伯父《おじ》様の依頼を受けて小早川先生の事件の情報集めをしているのではないかとおっしゃったけど、それはまるっきり根も葉もないことよ。第一、私は女探偵でもないし、私のような小娘の集めたネタなんぞ結城の伯父様が期待する筈《はず》がないのよ。私は私自身の好奇心で、あの事件に関することを知りたがっているんだわ」
「わかりましたよ」
菊四はうなずいた。
「それじゃお話しましょう。しかし……ただじゃ嫌だな」
悪戯《いたずら》っぽく笑った。
「ただじゃ嫌って言うと……」
反射的に八千代は身体を固くする。
「今度の、茜ますみさんの温習《おさらい》会ね。あれに僕と一緒に踊ってくれませんか」
案外な菊四の申し出であった。八千代は緊張を解いた。
「今度の温習会にねえ……」
「薗八節《そのはちぶし》で鳥辺山心中≠踊りたいんです。どうです。つき合ってくれませんか」
「鳥辺山を……」
八千代は流石《さすが》に驚いた。鳥辺山心中はいわゆる道行物と呼ばれている男女の踊りの中でもラブシーンの多い、殊に茜流では相当、ねばっこい振付がしてある。
それと、この踊りには茜流だけに通じるジンクスがあった。相思相愛の男女が「鳥辺山心中」を踊るとハッピーエンドで結婚出来るが、もし他に恋人のある女性、もしくは男性が恋人以外の相手とこの「鳥辺山心中」を踊ると、必ずその恋人との仲が冷たくなる。いわゆる失恋する踊りだといわれているのである。
迷信と言ってしまえばそれまでだが、実際茜流の門下生で鳥辺山を踊った以後、恋人に死別した例などが大げさにさわがれている。
茜ますみと古くから交際があり、いわゆる梨園《りえん》の御曹子《おんぞうし》である中村菊四が茜流のジンクスを知らないわけはない。
「ねえ、八千代ちゃん、踊ってくれないか」
菊四は親しげに追求する。八千代は途方に暮れた。
「八千代ちゃんが踊ってくれなけりゃ、僕も五郎君の一件は話さないよ。うっかり話して変なかかわり合いになってもつまらないし、ねえ、八千代ちゃん、どうなのさ。それとも鳥辺山を踊ったらマズイような恋人でもあるのかい」
テーブルの向うから顔を差しのぞかれて八千代は首をふった。
「そうじゃあないけれど……」
返事に窮して浜八千代は、立ち上がると縁側の障子を開いた。
離れ座敷の作りだから座敷の二面が庭へ向かっている。一方は最初に部屋へ入って来たときから開いていたが、こっちの方の障子は思わせぶりに閉まっていたものだ。
水のあるかないかの泉水が見え、笹の植込みのかげに遅れ咲きの躑躅《つつじ》が残っていた。
誘蛾灯《ゆうがとう》が一つ、ぽつんと光っている。まだ盛夏ではないから群がる虫も少ないらしく、小さな蛾が一羽、まつわりついているのが見える。せまい場所に作られた料理屋なのに、冷房装置も部屋部屋に備えつけてあるから、存外に暑さを感じさせない。
八千代はぼんやりと誘蛾灯を見ていた。
「ねえ、八千代ちゃん、いいだろう。鳥辺山を踊ること……」
再度、菊四がうながした時、八千代はしょうことなしにうなずいてしまった。
「いいのね。踊ってくれるんですね」
菊四の声は明らかにはしゃいでいた。
「ええ、いいわ」
八千代はちらと瞼《まぶた》の上をかすめた能条寛の面影をふりはらうように重ねて答えた。
声に出して承諾してしまうと、八千代の心に一種の投げやりめいたものが湧《わ》いた。
女中が新しく酒を運んで来たので八千代は席へ戻った。
「さあ、新しいのをどうぞ、よろしければ洋酒も用意してございますのよ。お持ちしましょうか」
八千代が答える前に菊四が言った。
「ウイスキーはなにがあるのさ」
「さあ、なんでございましょう。どうせよいもんじゃございませんでしょうけれど……」
「ま、いいや、持って来てくれないか。どうも日本酒はベタついてね」
「左様でございますね。お若い方にはウイスキーなどのほうが……」
女中は立って行くとサントリーの角瓶を持って来た。その横に見馴《みな》れない洋酒の派手なレッテルを貼《は》った瓶も持っている。
「お嬢さまには甘いほうがよろしいかと思いまして……」
カットグラスに注いで勧めた。八千代が口をつけてみると、とろりと甘い。リキュールらしかった。口あたりがよく、アルコールであることをつい忘れさせる。
「ねえ、菊四さん、なによ、五郎さんと小早川先生との事で、あなたが目撃したって話は……もう話して下さらなくちゃずるいわ」
女中が去ってから、八千代は訊《たず》ねた。
「話しますよ」
菊四はウイスキーをグラスに注ぎ、一口飲んでコップの水を喉《のど》へ流すと声をひそめた。
「実は、小早川先生が横浜のGホテルで殺された夜の事なんですがね。僕は芝居の千秋楽の翌日で一ん日、アパートで疲れ休めをしていたんですよ」
その日、中村菊四は一日の大半をベッドで暮らし、夕方になってから起き出した。腹が減っていたが食事に外出するのも大儀で、電話で寿司を頼んだ。
丁度、時分どきらしく注文が混んでいて配達が遅れた。
寿司屋の小憎がやって来たのが七時ごろ、それから気がついて台所で湯をわかした。
「男やもめなんて不自由なものでしてね。自分が体を動かさなければお茶一杯のめもしないんですよ」
菊四は相手の気を引くような笑い方をして話を続けた。
「湯が沸くのを待つ間、所在がないもんで、窓から外を覗《のぞ》いていたんです。僕のアパートの部屋は台所の窓だけから東京の夜景が見える。他の窓はビルと向かい合ってるもんですからね。反対側の部屋を借りてる連中は赤坂の表通りへ窓が面しているから、そんな事はない。その点、僕の部屋は割が悪いが、別に一日中部屋にいるわけじゃないからね」
眺めのよし悪しなどはなんの関係もないのだと、菊四は自分の部屋を弁解した。
その菊四の部屋の台所の窓はちょうど茜ますみの家の裏木戸の真上になっていた。
木戸を開けて人が出て来たので菊四は注目した。
「正直言うと、もし稽古《けいこ》帰りの八千代ちゃんにでもあえたらいいと思ったんですが……」
出て来たのは内弟子の高山五郎だった。
なにか、ひどくせかせかした歩きっぷりだと見ていると、木戸からもう一人が彼を追って来た。今度は女だった。あじさいの模様の浴衣《ゆかた》に黄色い帯をしめている。
後姿なので菊四は誰だか見当がつかなかった。年頃《としごろ》の女の子などというものは大体似たりよったりの雰囲気を持っている。それに、踊りの稽古場においてはみんな着物に帯、それも夏は浴衣に統一されるから一層、判別しにくい。
女が低い声で呼び止め、男がふりむいた。菊四の覗《のぞ》いている窓からは女は後姿である。二人は顔を寄せ合うようにして二言、三言|喋《しやべ》った。女が小さなものを男に渡し男は慌ててそれをポケットへしまった。
「話し声は聞こえなかったんですの」
たまりかねて、八千代は問うた。
「全然です。僕の窓は四階だし、距離がありますからね。そうでなくても二人の喋り方はひそやかなものでしたから……」
菊四が見ているとも知らず、二人は寄り添ったまま、じっとしていた。不意に女が男を抱いた。男は素直に抱かれた。
「いいですか、八千代ちゃん、男が女を抱いたんじゃなくて、女が、なんですよ」
夜だったし、辺りに人影はなかった。不粋なタクシーのライトもこの小路までは入って来ない。
「弁解がましいようだけれど、僕は覗きの趣味はないし、人の恋路を上から眺めているのも気がひけるんで、一度は眼を逸《そ》らしたんですよ。いや、本当に……」
菊四の台詞《せりふ》にうなずいてみせながら、八千代は内心|可笑《おか》しかった。染子なら、さしずめ、
「なにさ、お体裁のいいこと言ってるわね。男で覗き趣味のない人なんかあるもんですか。あんただってさぞかしエゲツない顔をして見てたにきまってるわ」
とずけずけ言ってやるに違いないのである。
菊四は見てはならないものを、無神経に見ていた理由をこう説明した。
「一は五郎君の相手が誰《だれ》だろうかと好奇心が湧《わ》いたせいなんです。だって、八千代ちゃんも知っての通り、五郎君という男は茜《あかね》ますみさんに大層な御執心で、いわば色気で内弟子修業してる奴《やつ》でしょう。ところがあの夜、五郎君と抱き合って接吻《せつぷん》してた女は茜ますみさんじゃない。茜ますみさんなら背は高いし、体も豊満だから、いくら距離があろうと、後ろ姿だろうと僕が見違える筈《はず》はありませんからね」
「そんな言い方お止めになって……」
八千代は顔色を変えた。
「私、そんなことを菊四さんにお訊《たず》ねしたのではありませんわ。そんなお話と小早川先生の事件となんの関係もないじゃありませんの」
菊四は落ち着いて、八千代を制した。
「まあ、待って下さいよ。実はこれからが重大なんだから、物事には順というものがあるし、そうせっかちに言われてもね」
八千代の前のカットグラスにリキュールを又、注いだ。注がれれば八千代もつい、唇をつける。
「五郎君の恋の相手が茜ますみさんでなくて他の誰《だれ》かであるということ、これはまあ、どうでもいい事かも知れませんよ。しかし、その時の二人の様子というのがラブシーンを演じているくせにひどく切羽《せつぱ》つまったというか、なんかこう不気味な緊張感みたいなものがあったんです。間もなく五郎君は女と別れて走って行きました。タクシーを止めたから家へ帰ったのか、それともどこへ行ったのかわかりませんがね。女のほうは戻って木戸へ入りました」
今度は否応《いやおう》なしに菊四の覗《のぞ》いている窓の方角へ女の顔が向く筈《はず》である。
「誰《だれ》だったと思います。その女の人……」
菊四は一応、八千代の表情を窺《うかが》ってすぐに言った。
「久子さんだったんですよ。内弟子の……」
「え……?」
八千代は聞き違いかと思った。
「ほら、驚くでしょう。あの謹厳そのものみたいな久子さんが五郎君の相手らしいんですよ。見間違いじゃありません。僕は近視でも乱視でも、いわんや老眼には間がありますからね」
久子が五郎と恋をする。
八千代の常識では考えられない事だ。八千代だけではなく、おそらく茜ますみ門下の誰《だれ》しもが同様だろう。内弟子同士の男女なら、恋愛関係となるのも芸能界にはままある事であった。にもかかわらず、久子と五郎には全く不自然な感じがする。
「信じられないわ。私には……」
「そうでしょう。僕だって茫然《ぼうぜん》としちまった。けど、仮に僕のその目撃だけだったら、五郎君と久子さんの仲というのは決定的じゃないかも知れない。世の中には誤解ということもあるし……ところが、その続きがまだあるんですよ。その晩、遅くなって僕の部屋へ来客がありました。贔屓《ひいき》の人なんですがね。存外の長っ尻《ちり》で、漸《ようや》くおみこしをあげたのが十一時近くでしてね……」
菊四はつとめてさりげなくその客が男性であるような話ぶりをしていたが、八千代は直感的に女だと悟った。菊四にキャデラックをプレゼントしたパトロンという女ででもあろうか。とにかくそんな詮索《せんさく》は八千代にとって無用のことだ。菊四にどんな女出入りがあろうと八千代の知った事ではない。
「客が帰ってしまってから台所へ水を呑《の》みに行ったんです。窓が開けっ放しになっている。閉めようと思って、ひょいと見ると茜ますみさんの裏木戸の所に男がつぐんでいる。泥棒かと思ったんですよ。最初は……ところが男の顔を見ると五郎君なんでね」
菊四は舞台人らしくジェスチュアまじりに説明した。
「もっとも五郎君なら茜ますみさんの内弟子だし、夜中に急な用事があってやって来たと考えるのも可笑《おか》しくはない。ところがですよ。八千代ちゃん、裏木戸から出て来たのが久子さんでね。二人が顔を見合わせたと思ったら、まるでお染久松《そめひさまつ》みたいな所作で走り寄って抱き合ってさ。それから凄《すご》いラブシーンを演じたんです。フランス映画そこのけでね。見ている僕のほうが心臓がドキドキしちまいましたよ」
「嫌な方ね。他人の恋路を覗《のぞ》き見するなんて最低の趣昧だわ」
八千代は眉《まゆ》をしかめた。菊四の喋《しやべ》っている表情の下品さにはがまんがならない。こんな馬鹿《ばか》げた話を聞くために、のこのこついて来た自分が次第に後悔された。
菊四はそんな八千代の表情にはまるで無頓着《むとんちやく》のように、しきりとウイスキーを乾《ほ》した。かなり強い性質《たち》らしく、額が蒼白《あおじろ》くなった程度のことで酔いはどこにも見せていない。
「八千代ちゃんはみかけによらず気短なんですね。ま、もう少し御辛抱を願いましょうか。とにかく暗がりの凄いラブシーンがすんだあと、男が帰りかけ、思い出したように戻って、なにか久子さんに渡そうとしたんですよ」
手もとが狂って品物は地上に落ちた。カチャリと冷めたい金属の音がした。
地上へ落ちた一個の品へ男女は慌しく手をのばした。
「なんだろうと思って僕も窓から覗《のぞ》いてみたんです」
街灯の光にキラと光ったのは細長い小さな金属であった。
「僕は、それが鍵《かぎ》じゃないかと思ったんですよ」
「鍵?」
「そうです。鍵、それも車の鍵じゃなかったかと……ね」
テーブルの上に菊四は身をのり出すようにして八千代をみつめた。
「小早川喬は自分の車に轢《ひ》かれて死んだんでしたね。その車、オースチンは彼がGホテルの駐車場へ入れて鍵をかけた筈《はず》だ。その鍵は彼のポケットにある。小早川喬を轢き殺した犯人は、どうやってオースチンを駐車場から出し、運転したというのだろう、とこれは新聞でも週刊誌でも随分、問題になっていましたね。推理作家なんかが登場してそれぞれに意見も述べていた。所で車はどこにも異常がない。外部から手を加えて鍵なしで車を運転する方法なんかもいろいろと言われていたが、とにかくそう言った形跡はまるでない」
菊四は自信たっぷりに微笑した。
「八千代ちゃん、僕は犯人はやっぱり鍵を使って車を操作したのだと思いますよ。それは小早川喬が握って死んでいた鍵ではなく、もう一つの、茜ますみさんがあずかっていたほうの奴《やつ》ですよ」
「でも、それは、ますみ先生が赤坂のお宅の手文庫の中へ入れて……」
言いかけて八千代は絶句した。中村菊四の言おうとしていることが、急にある形となって彼女の脳裡《のうり》に浮かんだものだ。
「鍵《かぎ》は一人じゃ羽でも生えない限り、横浜くんだりまで行きゃしない。けど、それを運ぶ人間があったら……」
「すると菊四さんは……小早川先生を殺した犯人が五郎さんだと……」
まじまじと八千代は菊四をみつめた。
「そうは勿論《もちろん》、断定出来ませんよ。僕のは一つの推理だけだから……でもね、八千代ちゃん、五郎君がバーでめちゃめちゃに酒をのんだり、妙に沈み込んだりするのは、小早川喬の殺人事件以後の現象なんですよ」
喋《しやべ》りながら菊四はさりげなく位置を移動して八千代に接近した。うつむいて思案している八千代にそれは気づかれないで済んだ。
八千代が或《あ》る気配で、はっと顔を上げたとき、目の前にいきなり菊四の顔が拡がった。
菊四の腕が伸びて八千代を捕らえた。
「なにをなさるの、菊四さん、お放しなさいったら……」
ふりはなそうとしたが男の力である。八千代は自分の声が上ずっているのを感じた。思いがけないほど呼吸もはずんでいる。
八千代が抵抗しながら叫んだので、菊四は右手をのばして彼女の口許をおさえた。もっとも、もともとがそういう性質の家だし、平常から女中たちにも御祝儀をはずんでおくから、ちっとやそっと女の声が聞こえたとしても、誰《だれ》も不粋に部屋の戸を開けたりなんぞはしないし、はなれの造りだから周囲にそれ程の気がねもいらない。がやはり騒がれすぎては菊四としては恰好《かつこう》が悪いのだ。
八千代は遠慮なく、もがいた。必死であった。
「卑怯《ひきよう》だわ。大事な話があるなんておっしゃって、こんな所へ連れ出して……私を欺《だま》そうとしたのね」
「そうじゃありません。あなたのような人を欺すなんて……」
菊四は無器用に言いわけした。彼はこれまで本気で女を口説いた事がなかった。花柳界の女性や、ファンのマダム連中など今まで菊四がつき合って来た女たちは全て向こうから仕かけた恋であり、もち込まれた浮気であった。
八千代の場合は菊四にしても例外だった。ずぶのお嬢さんだと相手を思うことで、菊四のような芸界の男性はなんとなく戸惑《とまど》うしためらいも出る。
それにしても菊四は八千代が好きだった。正確に言うと、かなり以前から深い関心を持っていた女だった。そういう彼の意識の奥には子供の頃《ころ》から始まった能条寛へ対する対抗的なものが潜在していて、それが八千代への好意に変形したのかも知れなかった。能条寛と親しい女性、というだけで彼は八千代へのライバルの立場へ自らを置いた。いわば歪《ゆが》んだ愛情であり、欲望である。が、菊四自身は正しくそうであるとは勿論《もちろん》、思ってもみない。
八千代がもがけばもがくほど、菊四の体には火がついた。手にも力が加わってくる。
男の熱っぽい息が正面から襲いかかったとき、八千代は最後の知恵をふるい起こした。
「待って、痛いわ。みっともないわ。そんな恰好《かつこう》なすって……」
なじるような強い調子ではなくむしろやんわりと言ったのが、お体裁屋の菊四にはひどくこたえた。ふっと、腕の力が弱まる。
八千代はハンドバッグとコートを掴《つか》むひまもないままに、体一つを危うく菊四の手から抜いて立ち上がったが、追いすがった菊四を力まかせに突く。はずみで菊四の体は隣の部屋との間の襖《ふすま》にぶつかった。襖がはずれ、その隙間《すきま》から夜の仕度が出来ている隣室が覗《のぞ》けたが、八千代は眼のすみにそれらの布団やスタンドなどをちらと入れただけで、脱兎《だつと》のように庭へとび下りた。その縁側へ逃げ上がる以外に道はなかった。八千代は夢中で灯りの洩《も》れているその離れ座敷へふみ込んだ。
そこに一人の紳士が酒を呑《の》んでいた。
私の秘密
尾上勘喜郎がはじめてテレビに出演するというので、寛は父親と一緒にNHKからの迎えの車に乗った。
歌舞伎《かぶき》俳優のテレビ出演は最近あまり珍しい事ではなくなっているのに、尾上勘喜郎ばかりは再三、数局のテレビドラマプロデューサーからの要請にもかかわらず、固辞して出演しなかった。
「私は昔者でね。まだテレビってものがよくわからないんですよ、手さぐりにでも見当がつけば何事も経験だから勉強のためにも出てみたいと思っているんですがね」
と、ドラマは勿論《もちろん》、ちょっとした舞踊劇程度のものにも断りをいっていた勘喜郎が、とにもかくにもテレビに出てみようという気になった理由を、息子《むすこ》の能条寛は、それがいわゆる娯楽番組でも、ドラマでもなく「私の秘密」というゲーム番組のゲストとしてだったからだと解釈していた。NHKでは最高の番組でもある。
「これは、能条寛さんが付き添いとはデラックスですね。こんな事ならいっそ親子共演という事で顔を出して頂きたいようなもんですよ」
と担当局員が半ば冗談らしく、残念そうに笑った。
「撮影のお仕事は……」
寛は苦笑した。
「今日は済みました。セットなんです」
勘喜郎が言った。
「どうせ家で親父《おやじ》の顔をテレビで眺めているんなら、一緒について来て、御対面のとき、その人が息子《むすこ》の知っているような人だったら手旗信号でもしてカンニングさしてくれって事になったんですがね。よくよく考えてみると、まあ御対面に出て来なさるような人は私の昔むかしの知り人に違いない。まごまごすると寛が生れない時分に逢《あ》った人かも知れないし、どうもこの悪だくみは成功しそうもありませんよ」
親父と息子は目鼻立ちのよく似た顔を見合せて他意なく笑った。
間もなく、高橋圭三アナウンサーの司会ではじまった「私の秘密」は例の通りの好調さですらすらと進んだ。尾上勘喜郎も結構、たのしみながら智恵のある所を披露した。
スタジオのすみで、寛はやっぱり落ち着かない表情で父親を見ていた。今頃《いまごろ》、自宅のテレビに獅噛《しが》みついて見ているに違いない母と兄夫婦を想い出した。妹が戦争中に病死しているから家族は他に女中二人と内弟子三人ぐらいのものである。芸能人の家庭の常で他人の数が多い。
御対面の時間になった。
席から立ち上がってマイクの前に進んだ勘喜郎に近づいて来たのは小柄な老婦人だった。
和服が体にぴったりして、表情は多少、固くなっているが人のよさそうなお婆さんである。
「ええ、勿論《もちろん》、私が勘喜郎襲名以前にお目にかかった方ですね」
勘喜郎の質問に老婦人はうなずいた。
「すると、新之助時代ですか」
「いいえ」
老婦人はうつむいた儘《まま》、暫《しばら》く首をふった。
尾上勘喜郎はその前の芸名は「新之助」であった。勘喜郎の名跡《みようせき》を継いだのは四十歳の時だ。
「とすると……もっと古い時代……勘吉時代、つまり子役の頃《ころ》ですか……」
「いえ、あの、そやおへんのどす」
老婦人の京言葉に勘喜郎は眼を輝かした。傍でマイクを持っている高橋圭三アナウンサーがにこにこ笑っている。
「じゃ、あれでしょう。僕が歌舞伎《かぶき》の世界から遠ざかっていた時分……京都のD大学の学生だった頃《ころ》の……」
老婦人が嬉《うれ》しげにうなずき、忽《たちま》ち涙を眼一杯にためた。
「わかった。わかりましたよ。平安神宮の赤い鳥居の見える家、細かい格子戸《こうしど》のあった玄関……そしてあなたはいつも縞《しま》模様の前掛、赤い紐《ひも》のついたのをしていらっしゃった」
老婦人の瞼《まぶた》からほろりと白い涙がこぼれた。たまりかねたように袖口《そでぐち》を眼へ持って行った。
「はい、その通りです。勘喜郎さん、この御婦人のお名前は……」
高橋アナウンサーにうながされて、勘喜郎は静かに答えた。
「山崎はつ代さん、僕が学生の頃《ころ》、京都で下宿していた家の奥さんでした」
拍手が湧《わ》き、勘喜郎は泣いている老婦人の手を握りしめた。
「山崎さん、お久しぶりです。その節はお世話になりました」
「あなたこそ、御立派におなりになって……」
控え室へ戻ると、勘喜郎は山崎はつ代へ言った。
「今はどちらにお住いですか、京都へ芝居で行ったときに、一度、平安神宮の裏のあの家をお訪ねしてみたのですが、持ち主が変わってしまっていて……」
「そうどしたか。能条さんが卒業なすって五年ほど後に主人が高松に転勤になりまして、それからあっちこっちと……今は娘夫婦の所に厄介になって居りましてなあ、荻窪で旅館をやってますよって……」
「それは、同じ東京に居りながら知らないというのは全く……」
山崎はつ代の付き添いには娘が来ていた。娘といっても四十近い年配である。
「高松で生まれた子どして……一人娘どす」
そんな挨拶《あいさつ》が済むと、勘喜郎は母子を食堂へ誘った。おたがいに話は積り積っている。
二組の親子は勘喜郎が贔屓《ひいき》にしている築地の天ぷら屋へ出かけた。
築地の「天春」は天ぷら屋としては戦前からの老舗《しにせ》だった。小座敷もいくつかあるし、天ぷら以外の小料理も作る。
いつもは好んで店の揚げ場の前の腰かけを利用する勘喜郎なのだが今日はお座敷天ぷらを頼んだ。
座敷の一隅に天ぷらを揚げる仕度が出来ていて、若い衆が次々と好みの品を揚げてくれる。
「そう言えば、私が大学を卒業して再び親父《おやじ》の居る歌舞伎《かぶき》の社会へ帰ると言ったとき、山崎さんがお祝いだと言って天ぷらをごちそうして下すったものだが、おぼえておいでですか」
勘喜郎は目をうるませていた。当時の想い出は彼にとって今までの人生の中で最も波瀾《はらん》に富んでいた時代だけに感慨もひとしおらしかった。
「なにしろ大変な学生さんどしたなあ。大学へ入ったときに、もうれっきとした嫁はんがあって、二年の時にはお子さんが出けたんやもんな」
と山崎はつ代も笑った。
先代尾上勘喜郎の長男として、若手歌舞伎ナンバーワンという位置にあり、大阪の一流の料亭の娘と恋仲になり、周囲に祝福されて結婚した。それほど恵まれた環境にありながら、不意に歌舞伎の社会をとび出して京都のD大学の学生になってしまった勘喜郎の行動は当時、随分さわがれたものだ。
「あの時はそうするより仕方がなかったんですね。芸以外の世界とは絶縁状態の歌舞伎というものに生まれながらにして巻き込まれている自分が怖しくてたまらなかった。社会人としての資格が零だということの不安、歌舞伎の習慣への反撥《はんぱつ》、ま、いろいろとありました。若いから出来た無茶だが、今にして思えばあの時はやっぱりああしてよかったんだと思っていますよ」
勘喜郎はしみじみと言った。
「そうでしょうとも……いい苦労をなさいましたよ。あの時代だけですものね。能条繁という御本名だけで通すことが出来はったのは……日曜日ごとに大阪の奥さんの実家へ逢《あ》いにお出でやして、奥さんはときどき週に、二、三度、洗濯ものなぞに大阪から出て来やはった。ええ御夫婦どしたなあ」
「女房には苦労をかけましたよ。おまけに戦時中に患ったもので、ろくな手当てもしてやれず、命はとりとめましたがすっかり婆さんになってしまいましてね。局から電話で知らせてやったから、もう間もなく此処《ここ》へとんでくるでしょう。テレビを見ていて泣いたそうですよ」
黙々と聞いていた寛は多少退屈していた。天ぷらは腹一杯だし、こういう場合、息子《むすこ》は話の圏外に押し出されがちだ。
ふと、思いついた事があった。細川京子である。山崎はつ代の京言葉で連想したのかも知れない。そう言えば彼女も子供のころに平安神宮の傍に住んでいたと言っていた。
「山崎さんは平安神宮の傍に居られたそうですが、その頃、ご近所に細川さんという方はいらっしゃいませんでしたか」
寛はビールを父のコップに注いでやりながら訊《き》いてみた。
「細川はん……さあ……細川なんといわはりますか」
「それは……」
細川兄妹の父親の名を寛は知らない。
「名前はわかりませんが、小さな子供が、男の子と女の子の兄妹ですが……二人居たんですよ」
「さあ……憶《おぼ》えがあらへんなあ。お知り合いどすか」
「いえ、ちょっと……別にどうということはないんですが……」
寛は慌てて否定した。山崎はつ代は別のことを想い出した。
「ご近所と言えば、南禅寺《なんぜんじ》に近い辺りに三浦先生のお宅がありましたなあ。D大の文学部の先生で学生さんにも人気のあるええ先生やったに、悪い女に迷ってしもうて……」
寛はさりげなく立ち上がって部屋を出た。
細川京子を思い出すことで、彼女との約束を思い出したものだ。
この前、赤坂のニューセントラルアパートで、彼女との会話の際細川昌弥が例の一月五日、大阪のSホテルの能条寛の部屋へ、
「細川昌弥さんではありませんか」
と言う電話(それは細川京子のかけたものと判明したのだが)のあった翌日に、古いアルバムを見ながら、京子に、
「昨夜、思いがけない人に逢《あ》った」
と言ったという、その古いアルバムを見せて貰《もら》う約束である。
それは、千葉の市川の親類へあずけてあると言うことで、京子は二、三日したら市川へ行く用事があるからアルバムを取って来ておくと寛へ言ったものだ。
あれから、もう一週間にもなっていたが、寛はつい、京子へ電話をかけそびれた。あの晩、京子のパトロンらしい男とかち合ったことが、なんとなく寛の気持ちを重くしている。
別に細川京子が好きだったわけでもないし、パトロンに対して何のやましいこともないのだが、アパートへ足が向かない。自分の車のことでアパートの管理人の若い男と小さな争いがあったことも、原因になっていた。
が、そうした感情は別にしても寛はその古いアルバムに関心があった。例の晩、細川昌弥が逢ったという人間、男か女かも分からないが、それが案外、その古いアルバムに貼《は》ってある写真の中の誰《だれ》かのような気がしてならないのだ。そして又、寛はその人間が彼の死因になんらかの関係があるのではないかと想像している。
(なんにしても、アルバムだけは見せて貰《もら》っておこう……)
寛は廊下を電話のある曲がり角へ向って歩いた。
細川京子は居た。
「まあ、寛さん、この間は失礼をしました。本当に気を悪くなさったでしょう。ごめんなさいね。私、旅行してましたの、ええ、箱根へ、ずっと……昨日帰って来たんですのよ。ええ、あなたの車のこと……久子さんから聞きました。今、ここに久子さんが見えてるんですの。そう……あなたからも車のことを私に伝えてくれって頼まれたので毎日、アパートへお寄りになったんですって、私が留守にして居て、今、やっと伺ったところなの。いいえ、本当に私こそ御迷惑をおかけして済みません。はい、アルバム……ええ、市川から持って来ましたわ。あなたとのお約束が気になっていて、昨日、箱根から帰るとすぐに伯母《おば》の所へ行って来ました。ええ、いつでもお見せしますわ。明日……? 明日より今夜のほうが……御都合悪い……? ああ、夜なので敬遠なさっているのね。明日でも結構よ。昼間はお仕事でしょ。そうね。夕方からはちょっと約束があるので……明後日……? 明後日からは又、旅行なの、今度は軽井沢、ゴルフのお供よ、毎度。ですから、やっぱり明日にしましょう。夜の八時|頃《ごろ》、如何《いかが》……そう、じゃお待ちしてますわよ」
受話器を置いて、寛はちょっと考えていた。夜の八時……今度は部屋へ入らず戸口でアルバムだけを借りて帰ろうと思った。
座敷へ戻ると母はまだ来ていなかった。話は相変わらず京都時代のことばかりである。
どこそこの角に柿《かき》の木があったが渋柿だったとか、隣の家の黒猫が六匹も子を産んだことだの、他愛もない昔話ばかりである。
女中が電話を取り次いで来た。
「お宅からでございます」
勘喜郎はすぐに立っていったが、戻ってくると嬉《うれ》しそうに告げた。
「女房の出がけに家へ客がありましてね。それが、やっぱり昔なじみなんですよ。憶《おぼ》えておいでですか、結城慎作という男、僕より二級ぐらい上で……やはりD大の文学部でね。山崎さんの家に厄介になったのは入学して二年ぐらいで、僕とすれ違いみたいな事で学生時代は知らぬ仲だったんですが、女房の縁でもう二十年近くもつき合っている親友みたいなものですよ」
勘喜郎が言うと、山崎はつ代は微笑した。
「憶えていますとも、結城さんなら……」
「そうでしたか。憶えていて下されば結城も喜ぶでしょう。今、女房と一緒に車で来るそうです。女房から山崎さんの事を聞いて、そいつは奇遇だとえらく喜んでるようですよ。まあ逢《あ》ってやって下さい」
「そうどすか、結城さんがねえ、嬉《うれ》しいこと……よくよく今日は幸せな日どすなあ」
山崎はつ代はしみじみと言った。昔をなつかしむように床の間の夕顔の軸を眺めた。
外は夏の宵《よい》らしく、むっとして風もないらしいが、天ぷら屋の座敷は冷房装置が行き届いているから衿許《えりもと》までひんやりと快い。
「奥様の御縁でお知り合いにならはったと言いはりましたが、御親類どすか」
「いや、私の女房と、結城君の妹さんとが清元の稽古《けいこ》友達でしてね。その妹さんというのが不幸なことに御主人に早く死別しまして、銀座で『浜の家』という料理屋をやって居られるもんで、私も女房の縁でちょくちょく厄介になる。結城君は女手一人の商売ではなにかと不便な事も多いので相談役として顔を出す。そんなこんなで知り合ったんですよ。実は今日もその『浜の家』へ御案内しようかと思ったのですが、御婦人の事なのでこういうもののほうがよいかと考えてこの家にしてしまったのですよ」
父親の視線がちらと自分へ向けられたのを知って、寛はなんとなくどぎまぎした。
「浜の家」の名は、いうまでもなく八千代へつながる。そう言えばこの間から二、三度、彼女の許へ電話をしているのだが、いつも女中に留守だと言われていた。
八千代からも一度、青山の家へ電話があったらしいが、その時は寛のほうが留守だった。
「踊りの稽古《けいこ》で忙しがっているんだろう」
と寛は簡単に割り切っていたが、その踊りの会に中村菊四と共演するという話を茜ますみの内弟子の久子から聞かされて以来、なんとなくすっきりしない寛である。
「浜の家と言えばね、寛……」
不意に勘喜郎が息子《むすこ》をふりむいた。箸《はし》の先に海老《えび》の天ぷらをはさんで塩をつけながらである。
「八千代ちゃんが鳥辺山心中≠踊るって話、聞いてるかい」
寛は唖然《あぜん》とした。
「鳥辺山心中ですか……あの例のジンクスのある……」
「ジンクスなんてのはよく知らないが、相手を踊るのは中村菊四だそうだよ。茜ますみさんの話では本ぎまりになったと今日言っていたがね」
「中村菊四と八千代ちゃんが……」
「お前、八千代ちゃんと喧嘩《けんか》でもしたんじゃないのかい」
みつめられて寛は慌てて否定した。
「とんでもない」
「そうかい。それならいいが……」
海老《えび》を口へ運んでいる父親へ、寛は現在、自分の心を占めている事とはまるっきり無関係な言葉を喋《しやべ》った。
「茜ますみさんの今度のリサイタルにはお父さんも出るんですってね。どういう風の吹きまわしなんですか」
茜ますみのリサイタルには、これまでも彼女と多少、昵懇《じつこん》にしている歌舞伎《かぶき》関係の役者が賛助出演したりして色どりを添えていたが、尾上勘喜郎は今まで一度も舞台上のつきあいはない。今回が初顔合わせというわけだ。
父親が茜ますみという女性に対してあまり好感を持っていないのを寛は知っていた。
温厚な勘喜郎の事だから口に出して彼女の個人攻撃をやった事は一度もない。が父親の感情というのは知らず知らずの中に息子《むすこ》に解るものだし、寛はかつて勘喜郎が、遊びに来ていた八千代に冗談めかして、
「八千代ちゃんもお嫁に行く前の道楽|稽古《げいこ》ならとにかく、真面目《まじめ》に踊りを勉強しようとするなら、今のお師匠さんじゃいけないね。芸ってもんは生活がじかに出るものだから、ますみさんのような女の悪い面ばかりを憶《おぼ》えると才女にはなれても、かわいい奥さんにはなりそびれるぞ」
と笑った事がある。以来、寛は茜ますみに対する父親の感情というものは否であると判断していた。
その勘喜郎が茜ますみのリサイタルに出演し、彼女の相手役をつとめるというので寛は驚いているのだ。
勘喜郎はのんびりと芝エビの吹きよせを突っついていた。息子の質問に答える声も何気ない。
「あちらから一緒に踊らないかとお誘いを受けたのでね。まあ、色々とおつきあいもあるし、勉強にもなろうからと思ってお引き受けしたのだよ」
寛はもう一つ、迫った。
「リサイタルに出る理由はそれだけですか」
「そうだよ」
「本当に……それだけですか」
「ああ、なぜだい」
「いえ……、なんだか納得が行かないんですよ。僕には……」
その時、廊下に数名の足音が止まった。
まっさきに入って来たのは結城慎作だった。格子《こうし》のしゃれたポロシャツを着こなして、相変わらず年齢よりもはるかに若々しい。
「いやあ、おばさん……お婆さんになりましたねえ……」
山崎はつ代の手を握りしめて懐しげに言った。結城らしい言い方である。
「あなただっておつむが随分白くなりましたよ。ロマンスグレーといいますのやろ」
山崎はつ代が逆襲し、どっと笑いが起こった。尾上勘喜郎の妻の初子が続いて山崎はつ代に挨拶《あいさつ》し、はつ代が娘を紹介して女同士の長いお辞儀が続いているすきに結城慎作は勘喜郎へ言った。
「実は、ちょっとした事が起こってね。君に話しておきたいと思って青山へお邪魔したのだよ。それが、例のD大時代の先輩の事なんだ。まあ、あとでゆっくり……」
ちらと寛へ向けた結城の目に、寛は或《あ》る意志のようなものを感じ取った。
翌日、寛が撮影所を出たのは午後五時前であった。予定より小一時間も早く仕事が終わった。
ジャガーの二四サルーンを運転して都心へ帰りながら、寛は余った時間をどうしてつぶそうかと考えていた。細川京子との約束の午後八時までには三時間もある。
青山の自宅へ戻るのも何となく億劫《おつくう》なものである。
「久しぶりで八千代ちゃんの所へ飯をご馳走《ちそう》になりに行こうかな」
一度はそう思った。彼女の部屋で彼女のお給仕で食事をするのは想像するだけでも楽しい。しかし八時に細川京子のアパートへ行く事を考えると、それもためらった。八千代の部屋へ落ち着くと、出かけて行くのが嫌になりそうな気がする。細川京子のアパートを訪ねる前に八千代の顔を見るのも気がとがめるようであった。別に二人の女をどうというわけではないが、寛の良心に引っかかるのだ。京子の自分に対する感情を本能的に気づいているせいかも知れなかった。
「久しぶりにバーでも覗《のぞ》いてみるか」
寛は車を銀座のデパート裏の駐車場へ止め、そこから五十メートルばかり先の路地の奥に「ガス灯」とネオンの出たバーの階段を下りた。
地下のバーは暗く、せまかった。ここのマダムがT・S映画の往年の美人女優なので自然、芸能関係の客が多い。寛もここへは割合によく来る。
「珍しいわね。今日はお一人……」
カウンターの客と話していたマダムが入って来た寛へ笑いかけた。言われてみれば寛はバーへ一人で酒をのみに来るという真似をあまりしない。友達と一緒か、このバーへは八千代をよく誘って来た。
「時間が余っちゃったんだよ。それにちょっぴりマダムにも逢《あ》いたかった」
寛は彼にしては珍しく冗談を言った。
「ちょっぴりはご挨拶《あいさつ》ね。他の人じゃ聞きのがし出来ない台詞《せりふ》だけれど、寛さんじゃ仕様がないわ」
寛がカウンターに坐《すわ》るとバーテンがブランデーグラスを取った。
「あっためますね」
念を押した。
「ああ」
上着を脱ぎながら応じた。バーの女の子が脱いだ上着を受け取る。
煙草を唇にくわえたまま、寛はバーテンの手元を見ていた。僅《わず》かばかりのブランデーを入れてそれにマッチで火をつける。青い、きれいな炎をバーテンの指が器用にグラスを回して、要するにグラスをあっためるのだ。日本酒のおかんと同じ事である。
「はい、お待ち遠さま」
バーテンが寛の前へブランデーを置いたとき、ドアがあいて、新しい客が入って来た。
「よう寛ちゃんじゃないの」
入って来たのは中村菊四だった。支那服の女を連れている。
寛と並んでカウンターに腰かけた。そのくせ、最初の挨拶《あいさつ》だけで寛を無視し、他愛もない話を連れの女と喋《しやべ》っている。
「能条さん、昨日の私の秘密みましたよ。寛さんのお父さんの……」
バーテンが新しいヘネシーの封を切りながら寛へ言った。
「ああ、あれ、みてくれた……」
寛が応じるとマダムも言葉をはさんだ。
「そうそう、昨日ね、三十分、うちじゃ営業停止してテレビにかじりついちゃったのよ」
店の角に小型のテレビが置いてある。客の好みによってスイッチを入れるが普段はあまり映さない。静かなムードがこわれるのを怖れてのことらしい。
「ナイターやボクシングの中継を目当に来るような大きな息子《むすこ》さんのある年齢には見えなくてよ。それと、おつむがいいってのか、勘が鋭いってのか、驚いちゃったわ」
マダムの言葉は単なるお世辞のようではなかった。父親のよい噂《うわさ》は寛にしても悪い気持ちはしなかった。
「ふん、私の秘密か……」
不意に中村菊四が小馬鹿《こばか》にした言い方をして笑った。
「人間|誰《だれ》しも秘密あり、殊に女は秘密だらけさ」
かなり酔った声である。
「まあ失礼しちゃうわね。どうして女ばかり秘密が多いの。男だって年中、秘密だらけじゃないの」
支那服の女は甲高《かんだか》く言った。ピンクのサテンの支那服が華奢《きやしや》な体にぴったりしている。テレビ女優らしかった。耳たぶでイヤリングが光っている。
菊四は女に答えず、寛へ言った。
「最近『浜の家』の八千代に逢《あ》うかい」
菊四の口から八千代の名が呼びすてにされたので、寛はなにかあると直感した。
「いや、どうして……?」
「喧嘩《けんか》わかれでもしたの」
「別に……何故だと聞いてるんだよ」
「それじゃ、もう彼女にあきて他の女あさりを始めたってわけか」
菊四はうそぶいた。
「なに言ってんの、菊四さん、寛さんがそんなえげつない事すると思って。第一、彼は彼女にぞっこんよ。ご存知ないの」
マダムが見かねたように口をはさんだ。二人の間の険悪なものを察したものだ。
「なるほどね。寛は俺《おれ》とは違いますからね。人間の出来が違うか、育ちが違うか」
菊四はハイボールをあけて意味もなく笑った。
能条寛が答えないでいると菊四は枝豆をつまみながら、じろじろと相手の表情を肩ごしに窺《うかが》った。
「マダム、僕、今度の茜ますみ女史のリサイタルに出るんだよ」
寛をさしおいて、菊四はマダムへ声をかけた。
「まあ、そうですの。茜さんのリサイタルに……。それじゃ、なんですのね。菊四さんの浮気もその見当かしら」
商売だから言葉は柔らかいが、マダムは多少皮肉っぽい視線を菊四へ向けた。
「まずはお門違いだね。茜さんの相手役は寛の親父《おやじ》さんさ。僕は薗八節《そのはちぶし》で鳥辺山を踊るんだ。見に来てくれるね、マダム」
「そりゃ拝見にうかがいますわよ。菊四さんの浮橋ならさぞかし色っぽいでしょうね」
「と思うだろうが、さにあらず、僕は芝居じゃ女形《おやま》だけど、今度の踊りじゃれっきとした立役をするのさ」
「へえ、じゃ縫之助を踊るの。菊四さんもテレビへ出るようになってからぐっと男役づいてるんじゃない」
「だって、もともとが男性だもの。大体、僕みたいな男性中の男性に女形をやらせてたのが間違いなのさ」
「言うわね。全く……」
マダムは遠慮のない眼で菊四を眺めた。中肉中背はいいとしても色が白く、眼鼻立ちも神経質な菊四である。
「菊四君」
ゆっくりと寛がきいた。
「君が踊るという鳥辺山ね。相手役は誰《だれ》にきまったんだい」
相手は得たりと大きく答えた。
「勿論《もちろん》、八千代だよ。浮橋を踊るのは……」
「彼女が承諾したんだね」
「言うにゃ及ぶさ」
予期した返事だったが、寛は顔が青ざめるのを感じた。
茜流の「鳥辺山」のジンクスは寛も知っている。それを話してくれたのは八千代自身だった筈《はず》だ。心の底で、まさか彼女が……と思う気持ちがうずいている。
「信じられないようだね」
菊四は引きつったような笑いを浮かべた。
「でもね。僕は八千代と神田の『みずがき』でちゃんと約束したんだよ」
「『みずがき』……?」
「そうさ。神田の割烹《かつぽう》旅館さ、寛君のような品行方正な男性にゃ用のない所だよ」
菊四はすっと止まり木を離れた。連れの女をうながすとさっさとバーを出て行った。
「菊四君」
「腰を浮かし、寛は追うのを止めた。流石《さすが》に頬《ほお》から血の気が引くのを感じた。
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二杯目のブランデーをあけると寛《ひろし》はバーを出た。
頭の中は八千代の事だけで占められていた。
「菊四さんのいうことなんか当てになるもんですか。だめよ。気にしちゃあ……八千代ちゃんみたいないいお嬢さんが菊四のような男とどこへ行くもんですか」
マダムが言ってくれたのがせめてもの救いであった。
(八千代ちゃんに限って……)
と思うそばから、やはり悪い疑惑が湧《わ》いてくるのをどうしようもなかった。
足が知らず知らず「浜の家」の方へ向いていた。
細川京子との約束など、もはや問題外であった。寛は八千代への自分の愛がこれほど必死なものだとは自分自身、意識していなかった。
浜の家の門灯の見える所まで歩いて、寛の足は止まった。そこへ入って行って八千代に逢《あ》うのが怖《おそろ》しいようだった。
(もし、八千代の心が菊四にあったら……)
彼女の口から菊四が好きだと告白された場合を考えると、寛は眼が眩《くら》みそうになった。
寛は自分でもだらしがないと思う程、弱気になって夜の中に突っ立っていた。
肩を叩《たた》かれた。
「寛さんじゃないの」
染子だった。夜なのにお座敷着ではない。黒っぽい紗《しや》の着物に桔梗《ききよう》を染めた帯を締めている。たった今、そこでタクシーを下りたという恰好《かつこう》であった。
「こんな所でなにしてんのよ。八千代ちゃんの家へ行くんじゃないの」
ずけずけ言われて寛はたじろいだ。八千代の親友だから嫌いではないが、どうも染子は苦手な女である。
「染ちゃんは八千代ちゃんの所へ来たのかい」
「きまってるじゃないの、大事なお座敷すっぽかして彼女のために馳《か》け回ってるのよ。親友でもなきゃ誰《だれ》がこんな苦労をするもんですか」
「八千代ちゃんに何かあったのか」
「のんびりしてるわね。相変わらず……」
染子は女にしては濃すぎる眉《まゆ》を寄せて寛を仰いだ。大柄な染子だが、それでも寛と向かい合うと顎をあげて喋《しやべ》る姿勢になる。
「なにがあったんだ。染ちゃん、八千代ちゃんがどうかしたって……」
街灯の下は明るく宵《よい》の口だから人通りもかなり多い。和服姿の目立つ染子と立ち話をしている寛をふり返って行く通行人の好奇な眼を、寛は意にとめなかった。
「染ちゃん、言ってくれよ。八千代ちゃんに……」
「寛さん」
染子は真っ直ぐに彼の眼の中を覗《のぞ》いた。
「あんた、八千代ちゃんに惚《ほ》れてるの」
寛は染子の視線を正面から受け止めた。
「僕は八千代ちゃんを、愛しているよ」
「じゃあ何故……」
言いかける染子の言葉を寛は遮った。愛していると、はっきり声に出したとたん、胸にもやもやしていたものが一度に彼の唇からとび出した。
「僕は今、中村菊四に逢《あ》ったんだ。例のバーで……」
染子の顔が引きしまった。
「彼が八千代ちゃんの事をなにか貴方《あなた》に言ったのね」
「神田の『みずがき』とかいう旅館へ八千代ちゃんが彼と一緒に行ったというんだ」
染子はうなずいた。年齢は寛よりも下なのに、まるで姉が弟と向かい合っているような染子の表情である。
「それで、菊四は……そこで八千代ちゃんとどうかしたとでも言ってるの」
「いや……」
寛は耳朶《じだ》を熱くして首をふった。言った染子のほうは平然として赤い顔もしない。
「別に……ただ、行ったとだけなんだ」
「あいつらしいわ。卑怯《ひきよう》な男ったらありゃしない」
唇を白くなるほど噛《か》んで染子は口惜《くや》しげに呟《つぶや》いた。再び寛を見上げた。
「それで……それを彼から聞かせられて、あんた、八千代ちゃんを疑ったの」
寛は不意に横っ面をひっぱたかれたような気がした。予期しない染子の質問であった。
眼が夜空を眺めた。狭い銀座の空だったが夏の夜らしく星が美しい。北斗七星が真上だった。ネオンに負けて光りは弱々しかったが澄み切った自然の光りが可憐《かれん》に見えた。
寛は素直に八千代の面影を瞼《まぶた》に浮かべることが出来た。彼女の柔らかな微笑には一点の曇りもない。彼女の潔白を信じる心が寛の胸底から強い力となって盛り上がって来た。
「どうなの、寛さん」
鋭く、染子が訊《き》いたとき、寛ははね返すように応じた。
「僕は八千代ちゃんを信じている」
「本当に……」
「ああ」
「ほんのちょっぴりも……僅《わず》かな間でも彼女を疑わなかった」
「勿論《もちろん》だよ。彼女を疑うとき、それは僕の人生の灯が消える時だ」
「聞かせるわね。どうもごちそうさま」
染子は初めて笑顔になった。
「とにかく、寛さんの口からそれを聞いてほっとしたわ。八千代ちゃんの勇気と純情のためにね」
握りしめていたハンドバッグを抱え直すと晴れやかな微笑で言った。
「さあ、それを、もう一度、八千代ちゃんの前でやってちょうだいな」
寛の肩を押すようにして歩き出した。
「浜の家」の内玄関を染子が我が家のような気易さで入って行ったので、寛は慌《あわ》てた。
「染ちゃん、僕は……」
「いいから一緒にいらっしゃい。なにもかも今夜中に、はっきりさせちゃうんだから。菊四の一件は彼女の口から直接、聞くのよ。そのほうが万事手っとり早くていいわ」
染子は格子《こうし》を開けて、さっさと沓脱《くつぬぎ》へ草履《ぞうり》を脱いだ。白革に水色の鼻緒が涼しげである。染子らしく地味好みだ。
「さあ、お早く、江戸っ子は気が短いんでござんすよ」
せかされて寛も止むを得ず靴を脱いだ。
「ちょいと、八千代ちゃん居るわね。ああそう、自分の部屋、いいわよ、勝手に行くから、大丈夫来ること分かってるのよ」
出て来た女中にごちゃごちゃ言って、染子はどんどん、住いになっている庭の奥の部屋へ渡り廊下をスリッパを鳴らして行った。寛は女中に会釈だけして後を追った。
「八千代ちゃん、私よ。行って来たわ」
障子の外から染子が声をかけると、
「染ちゃん……」
待ちかねていたらしい調子で内部から大急ぎで戸を開けた。
洒落《しやれ》た数寄屋《すきや》造りの「浜の家」の建物の中でこの部屋だけが近代的に出来ている。八千代の好みで離れを改造した部屋であった。
顔を出した八千代はハワイの娘達が着るようなムウムウを着ていた。紺地に大きな南国調の花が描いてある。袖口《そでぐち》も衿《えり》ぐりもゆったりしていて、全体がゆるく体を包んでいる。丈《たけ》は膝小僧《ひざこぞう》がのぞく位の短さであった。
染子の後に寛を認めると、八千代は小さな叫びをあげた。
「染ちゃん……」
救いを求めるように、先に部屋へ入ってさっさと椅子《いす》にかけてしまった染子を見る。
「寛さんはねえ。門のところで逢《あ》ったのよ。バーで菊四に逢ったんだって。例のサカサクラゲの一件を聞いて蒼《あお》くなって八千代ちゃんの所へとんで来たそうよ」
「まあ」
八千代は両手で胸を抱くような恰好《かつこう》をした。化粧っ気のない頬《ほお》から血が引いた。
「安心しなさい。寛さんは私に、はっきり言ったのよ。菊四からその話を聞いてかけつけて来たけれど、一度も八千代ちゃんを疑っていないんですって。一度も、絶対に……よ。それを聞いたんで、私寛さんをあなたの前に連れて来てあげたのよ」
染子は突っ立っている二人を見較《みくら》べるようにして言った。
「さあ、二人とも顔ばっかり眺めていないで、こっちへいらっしゃいよ。冷たいものでも飲んで、八千代ちゃんはあの晩のことを全部、彼に話してあげなさい」
染子はこの部屋の主人みたいな言い方をした。
八千代と寛が向かい合いに堅くなって坐《すわ》ったのを見ると、染子は自分で台所へ立って行って女中が支度をしていたグレープジュースとメロンを大きな銀盆へ乗せて運んで来た。
女主人のような顔をしてテーブルへ移し、
「さあ、冷たい中に飲みましょうよ」
自分からストローを抜いて紫色の液体を吸い上げた。
「私、お話します」
八千代が思いつめたような眼をあげた。
「そう、さっさと喋《しやべ》っちゃいなさい。出し惜しみをしたってはじまらないもんね」
染子はメロン皿を掌《てのひら》にのせて言った。八千代は視線を膝《ひざ》の上に落として喋り出した。
菊四と踊りの共演を申し込まれたこと、それが鳥辺山心中だったこと、菊四が小早川喬殺人事件に或《あ》る目撃を持っていると言ったこと。その話を聞くために神田の割烹《かつぽう》旅館へ連れ込まれたこと。部屋での話、菊四にいどまれたことなど、たどたどしく、しかし綿密に正確に八千代は語った。
寛は微動もせずに聞いていた。八千代の一言半句も聞き洩《も》らすまいと懸命になっているようであった。
菊四の暴力を逃げ出す辺りまで話すと八千代の額に汗が滲《にじ》んでいた。緊張の余りである。メロンばかり食べていたふうな染子がさりげなく口を入れた。
「ちょいと、八千代ちゃん、そこんところで肝腎《かんじん》な台詞《せりふ》を言い忘れてるわよ。あんた、私に打ち明けた通りに寛さんへも話さなけりゃだめよ」
八千代は不安げに染子を見た。染子のいう意味がわからなかった。
「馬鹿《ばか》ねえ、そんな泣きそうな顔をして……。あんた、菊四を突きとばして、はだしのまんま、庭へ逃げ出したとき、他の事は何にも考えないで、ただ、寛さんに申しわけがない、死んでも身を守らなけりゃ彼のために済まないってそればっかり思っていたと私に泣き泣き告白したじゃないの。それを忘れちゃいけませんよ」
染子が素《す》っぱ抜き、八千代は耳の後まで真っ赤になってうつむいた。寛は照れかくしにジュースを飲んだ。
「八千代ちゃんの話はまだるこしくて仕様がないわ。ここから先は私が代わって話したげる。もし違ったら遠慮なく訂正してね。なるべくあんたと、あんたを助けてくれたロマンスグレーの話を忠実に話すつもりだけど」
染子はさりげなく親友へ女らしい心遣いをしてやった。
「八千代ちゃんがせっぱつまって庭づたいに逃げ、夢中でとび込んだ部屋には一人の男性がお酒をのんでたそうよ。六十年配の、私もその人を見たから、私の感じでいうと英国紳士風な、とてもサカサクラゲへなんか行くタイプじゃないんだけど、男性は外見と中身がまるで違うんだから仕方がないわ」
染子は煙草に火をつけ、器用にふかしながら話し続けた。
「八千代ちゃんが逃げ込んだ部屋のロマンスグレー……ええと名前は何て言ったっけ……」
「三浦さん……」
八千代が小さく答えた。
「そうそう、その三浦さんっていうお爺《じい》さんは八千代ちゃんのほうをちらっとみたきり、黙ってお酒をのんでたんですって。八千代ちゃんの後を追っかけて菊四も庭先まで来たんだけれど、お爺さんがあんまり悠然としてるんで度胆《どぎも》を抜かれて声もかけられない。あいつは女をくどく時だけ図々しいけど、その他はまるで意気地がないんだものね。二人がみすくみみたいな恰好《かつこう》で突っ立っていると、やおらお爺さんが八千代ちゃんに言ったんですって……」
老紳士はごく自然に八千代を見て言った。
「あなた、帰りますか」
一瞬、八千代はぽかんとし、慌ててうなずいた。老紳士はベルを押し、女中を呼んだ。
女中が襖《ふすま》口へ手をつくと、
「向こうの部屋へ行って、このお嬢さんの荷物を持って来て下さい」
と言いつけた。女中がそれらを運んでくると紳士はメモ帳をポケットから出し、なにかを書きつけた。それを女中に渡し平然と言ったものだ。
「いつもの女が間もなく来ますから、これを見せて、待っているように伝えて下さい。私はちょっと、このお嬢さんをお送りしてくるから……」
女中は気を呑《の》まれたように、はい、と答えた。老紳士が八千代をうながし、八千代は無我夢中でその後に従った。玄関で靴をはく時にお内儀《かみ》が出て来た。紳士がお内儀に微笑し、お内儀は八千代を見たが何も言わなかった。
「ちょっと行ってくるよ」
老紳士は確かにそう言って「みずがき」の玄関を出た。菊四は姿を見せなかったが、八千代は彼が追ってくるのではないかと絶えずびくびくした。
表通りに出た。都電が走っている。タクシーも通った。八千代は人心地がついた。
「どうも有難うございました。おかげさまで……私」
他に言葉が出なかった。老紳士はいやいやと笑った。
「一人で帰れますか」
「はい、お世話をおかけ致しました」
老紳士はタクシーの空車を探した。そのときに八千代の目の前にタクシーが止まった。人が乗っている。窓をあけて女客が首を出した。
「八千代ちゃんじゃないのさ」
珍しく胸あきのワンピースを着た染子が不思議そうに八千代と老紳士を見較《みくら》べた。
「私は、S堂へ個展を見に行く所だったのよ。別に画なんか好きじゃないし、見たってわかんないんだけど、よくお座敷かけてくれる絵描きさんが切符くれたのよ。その人のグループで個展を開いたんだって……ちょいとイカす人でね。まんざら嫌いじゃない人だから、どんな絵描いてんのかちょっと見てやれと思って出て来たの」
人情でそういう時はせいぜい芸者らしく見えないように気を使うものなのだと染子は笑って言い加えた。
染子を見たとたんに八千代は張りつめていた気がゆるんだ。
「染ちゃん……」
かけよって、自動車を下りた彼女の胸に獅噛《しが》みついた。
「驚いたわよ。あの時は……八千代ちゃんったら子どもみたいにわあわあ泣き出すんだもの。何事かと思う前に恥ずかしかったわ。人がみんなふり返ってみるし……」
ともかくと言うので、染子は八千代と老紳士とを近くの喫茶店へ連れて行った。
そこで、染子は泣きじゃくる八千代と老紳士からあらましの事情を聞いたのである。
「そうしたわけでここまでお送りした所なのですが、幸い、良い保護者とお逢《あ》い出来て安心しました。私は人を待たせているので戻りますが、もし、こちらのお嬢さんの将来のことで私が今日の事件の証人みたいな役に立つ場合はどうぞ御遠慮なく連絡して下さい」
老紳士は染子に一枚の名刺を手渡して喫茶店を出て行った。
「まあ菊四ってなんて奴なの。よくも八千代ちゃんをそんな……いくらなんでも玄人《くろうと》ならいざ知らず、八千代ちゃんにそんな事をするなんて夢にも思わなかったわ」
老紳士が居なくなると染子は体をふるわせて怒った。
「そりゃ、菊四が八千代ちゃんに気があるのは知ってたけど、そんな卑劣な真似をするなんて……でも、八千代ちゃん、よく逃げたわ。あんた、えらいわ。立派だわ」
今度は染子がハンカチを眼に当てた。
「私がいけなかったのよ。菊四が八千代ちゃんを好きだってのを承知であんたにあの男を近づけたのは私なんだもの。私はね。あんたと寛さんとの仲がまだるっこしくて仕方がなかったのよ。お互いに好き合っているくせに口喧嘩《くちげんか》ばかりしてる。あんたに菊四を近づければ、それが刺激になって、あんたと寛さんがハッピーエンドになるんじゃないかと思って……それで……ごめんなさいね」
「そうじゃないの。私があんな所へついて行ったのが間違いよ。入口で引き返せばよかったんだわ。バカなのは八千代自身よ」
二人の女は喫茶店のボーイの視線もかまわず泣けるだけ泣いた。
「でも、あのロマンスグレー、いい人だったわね」
染子はテーブルの上の名刺をつまみ上げた。
名刺は中型の品のよいものであった。「三浦兼吉」左下に住所があった。電話番号はない。
「三浦兼吉なんて大工さんみたいな名前ね」
染子が泣き笑いの表情で言った。
「立派な方だわ」
「サラリーマンじゃないわね。実業家でもなさそうだし、勿論、職人じゃないわ。学者か、芸術家……」
染子は名刺をハンドバッグにしまった。
「でもサカサクラゲの常連じゃ、あんまりゴ立派でもないわね」
「常連かどうかわからないわ」
八千代は恩人のために弁護した。
「だって、そこの家のお内儀《かみ》が丁寧な態度だったって、あんた言ったじゃない。常連、それも菊四なんかより上客の証拠よ。それでなけりゃ黙ってあんたを連れ出させるもんですか」
染子の言う通りであった。菊四は「みずがき」のお内儀と馴《な》れ合いか、もしくは了解ずみで八千代をはなれへ連れ込んだに違いないのである。
「なんにしても菊四って男は勘弁ならないわよ。厚釜《あつかま》しいっていうのか、恥知らずっていうのか、とにかく八千代ちゃんは最初っから彼と鳥辺山心中なんか踊る気はないんだし、彼がそういう破廉恥《はれんち》な行為をしたからには、約束なんか反古《ほご》にしたってかまわないって私が言い出してね。早速、茜ますみ先生の所へプログラムの変更を言いに行って来たのよ。今夜ね」
染子は扇風機の風に眼を細くした。
「八千代ちゃん、心配しなくても大丈夫よ。私がうまく茜先生をまるめ込んで来たから」
「なんて言ったの。鳥辺山のこと……」
「なんて言ったと思う」
染子は自信たっぷりに笑った。
「こう言ったのよ。八千代ちゃんが鳥辺山心中をやるそうですが、その相手役が中村菊四さんでは私が困りますって……」
「なぜ……」
「お師匠さんもそう聞いたわ。何故って」
染子は含み笑いをして続けた。
「私、言ってやったのよ。鳥辺山心中を八千代ちゃんと菊四さんが踊って二人がハッピーエンドになっちまっちゃあ、私が不承知なんです。お師匠さん、察して下さいな」
「染ちゃん、いいの、そんな事を言って……」
八千代は正直に狼狽《ろうばい》した。染子が菊四に好意を持っていないのは誰《だれ》よりも八千代が知っている。
「平気よ。私はなにも菊四に惚《ほ》れてるって言ったわけじゃなし、お師匠さんがどう解釈したってそりゃあお師匠さんの勝手だもの」
「茜ますみ先生、何とおっしゃったの」
「考え込んでたわよ。そりゃあ今からプログラムの変更するのは容易じゃないものね。菊四さんへ断る口実も難しいだろうし……」
夜風が出て来たらしい。
軒につるした風鈴《ふうりん》が澄んだ音をたてた。
「でもね。私は、ますみ先生に言ったのよ。先生から菊四さんへお断りしにくいのでしたら私のほうから話をつけますからって。本当を言えば、今度の菊四のやったことをますみ先生に素《す》っ破《ぱ》抜けば、八千代ちゃんが断る理由もはっきりするし、ますみ先生だって文句の言いようがない筈《はず》なんだけど、八千代ちゃんが事を荒立てたくないって言うもんで苦労しちゃったわ」
染子は口で言うほど、苦労にも面倒くさくも思っていない顔つきで八千代を眺めた。
「厄介なことをお願いしてごめんなさいね。でも、私、こんな事をお頼み出来るのは染ちゃん以外にないの。母さんに打ちあけたら、それこそ菊四さんの所へどなり込みかねないし……」
「どなり込ませたっていいじゃないの。どなり込まれるような事をあいつはしたんだものさ」
染子は鼻息があらい。
「でも……嫌だわ、恥ずかしいわ」
「恥ずかしがることないわよ。八千代ちゃんは……。恥ずかしいと思うのは菊四だもの」
「それでも……なんだか……私は無事だったし、荒立てたくないわ」
「わかってますよ。あんたのその主張のおかげで私は茜ますみ先生ん所で汗を流して来たんだから……」
八千代はうなだれた。
「すみません。染ちゃん」
しょんぼりした八千代を見ると染子は慌《あわ》てた。
「なに言ってるのよ。あんたと私はそんな他人行儀な仲なの。寛さんを前において、こう言うのもなんだけど、八千代ちゃんは私の恋人、少なくとも舞台の上じゃ、れっきとした恋女房なんですからね」
染子が歌舞伎《かぶき》役者のような大見得を切ったんで、寛は苦笑した。
「僕はすっかり染ちゃんにお株を取られた形だな」
「肝腎《かんじん》の時にぼんやりしているからですよ」
ぴしゃりきめつけておいて染子は八千代の手をとった。
「心配しなくても平気よ。菊四へは私が明日、話をつけてあげるから……」
「菊四さん、承知してくれるかしら」
なんと言っても相手は男である。染子の一本気では心もとないようだった。単純に済む話とは思えない。
「その話、僕にも一口のせてくれないかな」
不意に寛が言った。
「寛さんが……」
「うん、男は男同士というじゃないか」
寛はてれたように髪をかき上げた。
寛が中村菊四と話し合うという申し出を、染子は一蹴《いつしゆう》した。
「なに言ってんのよ。八千代ちゃんにいい所を見せて名誉回復したいのかも知れないけど、残念ながら寛さんにはその資格がないわ」
「資格……?」
寛には染子の言葉の意味が解らない。
「そうよ。知らぬが仏と思っての浮気だろうけど、天知る。地知る。おのれ知る。悪い事は出来ないものよ」
「染ちゃん……」
八千代は染子が何を言おうとしているのか悟って、制止したが染子は一向にたじろがない。寛は一層、眉《まゆ》を寄せた。
「なんの事だい。染ちゃん」
「白ばっくれるのね。八千代ちゃんの純情をふみにじっておきながら……」
染子の語気が荒くなった。いつぞやの夜、Sパーラーから赤坂のニューセントラルアパートまで彼の後をつけた日の記憶が急になまなましく甦《よみがえ》って来たものらしい。
「僕が八千代ちゃんの純情をふみにじるって、それはどういう事なんだい。染ちゃん、はっきり言ってくれよ」
流石《さすが》に寛は真剣な表情になった、眼がきびしく染子をみつめる。染子も躍起になった。
「じゃあ、言いますよ。ええと、あれは何日だったかしら、今月の始め……一週間か十日位前の夕方だわ。そうだわね。八千代ちゃん……」
染子にふりむかれて八千代は仕方なくうなずいた。本当は、はっきり日も時間も憶えているのだが、口には出せない。
「なにしろ、その夕方、寛さんは女の人と二人でSパーラーへ行ったでしょう」
寛はすぐに応じた。
「行きましたよ。あれは夕方の六時|頃《ごろ》かな。今月の……」
ポケットを探って手帳を出した。撮影のスケジュールを見ながら記憶をたぐった。
「十九日ですよ」
それがどうしたんだと言わんばかりな寛を染子はにらみつけた。
「Sパーラーを出て、それから寛さんどこへいらしたんですの」
「Sパーラーからは赤坂の……」
言いかけて寛は漸《ようや》く染子の追及の意味を知った。
「そうか、すると染ちゃんはその時、Sパーラーに居た僕と京子さんを見たんだね」
寛の顔に微笑が浮かぶのをみとめると染子はいよいよ腹を立てた。
「京子さんだかなんだか知らないけど、八千代ちゃんの前でそんな女の名前を親しげに呼ぶのは止めて欲しいわ。残酷だわ」
「染ちゃん、止めて、お願いだから、もう、そのお話は止めて……私、別になんとも思ってやしません」
八千代の涙声に慌てたのは寛のほうだった。
「八千代ちゃん、誤解だよ。あのことなら全く、とんでもない誤解だ。あの時、僕と一緒に居た女性は細川京子さん、つまり細川昌弥君の妹さんだ」
寛の言葉で八千代は驚いた。
「細川昌弥さんの妹さん……」
「そうなんだ。偶然、ロケ先で逢《あ》ってね。あの日の話も細川昌弥君のことで……」
寛は一世一代みたいに雄弁になった。普段は無口に近い彼である。今度は染子と八千代が煙に巻かれる番だった。
誤解は忽《たちま》ち説明され尽くした。
寛が京子の部屋へうっかりキイホールダーを忘れ、止むなくタクシーで帰宅して翌朝車を取りに行き、久子を証人にして車を返して貰《もら》ったことまで話すと、八千代の眼に輝きが戻った。
「そうでしたの。それで翌朝も車がアパートのガレージに入っていたのね」
ほっとしたような八千代の台詞《せりふ》を染子が聞き咎《とが》めた。
「嫌だわ。八千代ちゃん、あんた、あの翌日も赤坂のアパートまで車を見に行ったの。そんな事、私に一つも話さなかった癖に……」
染子にずけずけ言われて八千代は真っ赤になった。
「だって、私……」
「寛さんが女の人とアパートへ入って行くのを私と一緒に見た時は平気そうな顔してたくせに、やっぱり八千代ちゃんは……」
染子は語尾を笑って消した。
「よしよし、話が誤解とわかった上は、寛さん、あんたが菊四と話し合うっていう申し出はOKだわ」
染子の台詞に八千代はおろおろした。
「でも、そんな事をして、もし話が難しくなったら、私困るわ」
「大丈夫だよ。僕にまかせなさい。ほら、八千代ちゃんも知っているだろう。ガス灯って名前のバー、あそこで会ったんだ。ガス灯で聞けばきっと行先が判る。明日と言わず、今夜の中に話をつけちまうんだ」
「でも……」
「平気よ。彼が英雄になりたがってるんだから、男同士で心配なら私も寛さんについて行くから」
八千代は眼をあげた。
「私も行くわ。はっきりお断りするわ」
「じゃそうしましょう。みんなで一度に片付けるのよ。後くされがなくていいし、そうときまったら私はちょいと一風呂あびさして貰《もら》うわ。ますみ先生の所で汗かいて帯の下がぐしょぐしょ。八千代ちゃん、お湯|湧《わ》いているでしょう」
染子はさっさと立ち上がった。勝手を知っているから、湯殿のほうへ自分が先に行く。八千代は気を呑《の》まれて忙しく後を追って行った。
染子と八千代が出て行った後、寛がバー「ガス灯」へ電話をかけた。マダムが出た。
「あら、寛さん、どうしたの。忘れもの。なあに、菊四さんの行き先……。ええ? 寄り道するようじゃなかったかって、ちょっと待ってよ。誰《だれ》か聞いてるかも知れないから……」
電話は一度切れて又、続いた。
「わかったわ、Pホテルよ。いいえ泊まりにじゃなくて、あそこのプールが今日から開いてるんですってさ。もっとも泳いだ後でどう変化するかは知りませんけどね」
有難うと寛は答えた。Pホテルのプールなら午後九時までやっている筈《はず》だ。腕時計はまだ八時前である。
「もしもし、寛さん、あなた菊四さんになにか用があるの。もし先刻《さつき》の話のことなら、気にしないほうがいいわよ。あんな男の言うことですもの……」
マダムの声は心配そうに言った。
「そうじゃないんだよ。そんな事にこだわって彼を探しているわけじゃないから……」
受話器を置いて寛が部屋へ戻ると、八千代が新しくグレープジュースを運んで来た所であった。
「染ちゃん、風呂へ入ったの」
寛は自分でも思いがけないほど自然に八千代へ言った。
「ええ」
八千代は短く答えてテーブルへコップを並べた。
「染ちゃんって愉快な人だね。もっとも肝腎《かんじん》の時にのんびりしてたのは僕だったんだけど……」
八千代のあげた眼を寛の眼が捕らえた。
「やっちゃん、ごめんよ。君に誤解されても仕方がない。もっと早くに君と連絡を取っておくべきだったんだ」
「いいえ、あなたは男ですもの、私のほうこそ軽はずみをして……」
八千代は寛の眼をみつめた儘《まま》、言った。
「菊四さんから話をきいて、あなた嫌な気がしたでしょう」
「そりゃあ、嫌だったよ。大事な宝物を汚れた手で触られたような気がした」
「ほんのちょっぴりでも、私を疑わなかったの。本当に……」
「疑えなかったんだ。僕は君を信じている」
「少しも、本当に少しも……」
「君は、そんな女じゃない」
強く言い切って寛は八千代の手を掴《つか》んだ。
「私、幸せだわ」
低く八千代が呟《つぶや》いた時、寛は勇気のありったけをふるい起こして言った。
「やっちゃん、僕は君が好きだ、君を誰《だれ》にもとられたくない」
ラブシーンの苦手な映画俳優は実際にも愛の告白は無器用だった。それでも、八千代の眼は次第にうるんで来た。
夜のプールサイド
三十分後。
湯上りでさっぱりした顔の染子と白いタイトのスカートとレースのブラウスに着替えた八千代を伴って、能条寛は銀座の駐車場へ向かった。
「まあ、今頃《いまごろ》から三人でどこへ行くの」
なにも知らない八千代の母が玄関へ送って出ながら不思議そうに言ったのには、染子が要領のいい説明をした。
「久しぶりで銀座の夜を散歩して、ついでにどこかのプールでも覗《のぞ》いて来ようって言うんですよ。お母様もいらっしゃいません」
「私は駄目よ。若い人のおつき合いはね。第一、こんなお婆さんがプールサイドをうろうろしたらそれこそ週刊誌の記事にでもされそうじゃないの」
気をつけて行っていらっしゃいと送り出されてから、寛は染子に笑った。
「なんてことを言うんだろうね。もし、八千代ちゃんのお母さんが一緒に行くって言ったらどうする気さ」
「私もよ。ひやひやしちゃった。うちの母って案外、若い人と出かけるの好きなんですもの」
「大丈夫、お母様が今日、出て来れっこないの知ってるから、わざとああ言ったのよ。さっきお風呂《ふろ》へ入ってたら、結城の小父《おじ》様がね寛の親父《おやじ》さんと一緒に来るから部屋があるかってお電話があったらしいわ。八千代ちゃんのお母さんが板前さんに話しているのを聞いちゃったのさ。結城の小父と勘喜郎さんがお出でになるのに、まさか私達と出かけられもしないでしょ」
染子は袂《たもと》で胸をあおぎながら言った。
「へえ、親父と結城の小父さんが来るの。そいつはちょっとしたすれ違いだ」
寛も苦笑した。
「でも可笑《おか》しいわね。勘喜郎の小父様がお見えになるんだったら、さっき玄関でお母さん、どうして寛さんにそれを言わなかったのかしら」
普段の母なら、もうすぐお宅のお父様が見えるんですよ、と気易く寛に告げる筈《はず》である。
「小母《おば》さん、言い忘れたのよ」
染子があっさりその話題を打ち切った。
寛の車のおいてある駐車場はバー「ガス灯」の筋向いを曲がった所である。青いネオンを横目に見て染子が言った。
「そう言えば寛さん、今夜は何故、ガス灯へ行ったの。誰《だれ》かのおつき合い……」
一人でバーへ行く事のめったにない寛である事を、染子も知っていた。
「まさか、最初っから菊四さんと一緒に行ったわけじゃないんでしょう」
「別々だよ。僕は時間が余って……」
それで寛は思い出した。立ち止って腕時計を眺める。
「どうしたの、寛」
不安気に八千代が訊《き》いた。
時計の針は八時十五分過ぎ。
「俺《おれ》、今夜八時に細川京子さんのアパートへ行く約束だったんだ」
染子が目の色を変えたので、寛は急いで説明した。
「ほら、例のアルバム、それを見せて貰《もら》う心算《つもり》だったんだよ」
八千代を差しのぞいた。誤解しないでくれと言いたげに、である。八千代は微笑した。
「それじゃどうなさる。これからすぐにいらっしゃる」
「いいんだよ。アルバムは消えてなくなるわけじゃない。まず、急を要するほうから片付けようね」
「でも、京子さん待ちぼうけで悪いわ」
「いいよ。Pホテルから電話してあやまっとくから」
寛は駐車場へ入って行った。
Pホテルは赤坂の高台にあった。細川京子の住んでいるニューセントラルアパートまでは歩いて十五分ばかりの近さである。
「ねえ、菊四との話し合いが早く終わったら、みんなで京子さんの所へ行ってもいいわね。そのアルバムとやらを見せてもらうだけなんでしょう。用事は……」
染子がPホテルへ向かう車の中で運転している寛へ言った。
「そうだね。勿論《もちろん》、かまわないよ」
寛は簡単に応じたが、八千代は仮に三人が一緒に訪ねて行ったら細川京子がつむじをまげてアルバムを見せないのではないかと思った。
古い昔のアルバムを見せるという親しげな気持ちは能条寛個人へ向けられたもので、そこに細川京子の寛に対する特別な感情があるのを、八千代は本能的に悟っていた。口には出さない。口に出して言うと寛に女の嫉妬《しつと》と思われるようで恥ずかしかったのだ。
Pホテルの玄関|脇《わき》には「テレビ俳優懇親会会場」と書かれた札が出ていた。広い芝生で親睦《しんぼく》パーティが催されているらしい。
三人はフロントの前を通って芝生へ出た。プールは芝生の庭を横切った奥にある。
「菊四の奴《やつ》、まだ居るかしら」
染子が呟《つぶや》いた。気負い込んでいる。
「居るといいけどね」
二人が返事をしないので、染子は頻《しき》りと自問自答していた。
芝生にはテーブルと椅子《いす》が並んでいた。照明が明るく、提灯《ちようちん》や豆スタンドが色とりどりで美しい。パーティで貸切ったらしいバンドがダンス音楽を演奏し、幾組かが踊っていた。
プールへ行く道は脱衣所でふさがれていた。
「泳ぐ目的でない方の入場はお断りしているんですが……」
受付の女性は三人を不思議そうに眺めた。三人共、水着の用意をして来たわけではない。
脱衣所の受付の脇《わき》に柵《さく》があって、その先はゆったりした下り坂になりプールサイドへ続いている。
柵の所からはプールの一部分とビーチパラソルが見えた。かなりの人数である。照明はあっても、ここからは顔は殆《ほと》んど判明しにくい。海水パンツだけの男性は遠眼にはどれもこれも似たりよったりである。
「はだかってのは人間を平等にしちゃうもんね。まるで区別がつかないわよ」
柵から覗《のぞ》いていた染子が嘆息をついた。
「どなたかお探しなんですか」
受付の女の子が染子に言った。
「そうなのよ。急用でね」
「では、お呼び出しを致しましょうか」
「冗談じゃないわ。そんな事をして逃げられたらアブハチとらずだもの」
染子がまるで指名手配中の犯人みたいな言い方をしたので寛が笑い出した。
「まさか、逃げもしまいよ。呼び出して貰《もら》おうじゃないか」
「駄目よ、彼がなまじ用心すると話がしにくくなるわ。こういうときは不意をついて、ぽんぽんと片をつけちまうのが上策なのよ」
強引に染子は主張した。
「ねえ、もう三十分もしたらプールはおしまいになるのよ。帰るのを待ちましょうか」
八千代が気弱く言った。
「馬鹿《ばか》ねえ。そんなのんびりした事言って」
その時、背後から声が呼んだ。
「おい、寛君じゃないか。珍しいな」
ふり返って寛も叫んだ。
「やあ、沼さん」
沼田良介は新劇のベテラン俳優である。テレビや映画にも名脇役《わきやく》としてよく顔を出しているから一般人にも名が知れている。好人物が演技にもにじむような老人である。
寛とも映画では数回、一緒に仕事をしている。
「実はここのプールに知人が来てましてね。ちょっと用事があるんでやって来たんだが水着を持って来るのを忘れちまって」
寛が苦笑まじりに説明すると、沼田は眼を細くした。
「それじゃ僕が探して来てやろうか。いや、実は今夜、ここでテレビのパーティがあるんで、どうせ出席するなら、ダンスの間にプールで一泳ぎしてやれと思ってね。海水パンツを用意して来たんだが年寄りの冷や水はよせとかなんとか言われちまって、まだ泳がずにいるんだよ。なんなら着替えてプールを見て来てやるよ。誰《だれ》さ。僕の知ってるような人かい」
沼田は右手に下げていたタオルと海水パンツを寛にしめして親切に言った。
「有難うございます。実は探しているのは歌舞伎《かぶき》の中村菊四君なんですよ」
寛の尋ね人が中村菊四と聞いて沼田は当惑げな表情になった。
「中村菊四君ねえ」
「御存知ありませんか」
「いや、知っている。知ってるが、彼はちょいとまずいな」
沼田は声をひそめた。
「彼なら確かにプールに居るよ。実は先刻《さつき》、そこの芝生で逢《あ》ったんだ」
「居ますか」
「来て一時間と経っていないし、帰って行く姿を見ないから、おそらく居るだろうが、彼には声をかけたくないんでねえ」
「なにかあったんですか」
「たいした事じゃないんだが、先だってテレビで彼と一緒の仕事があったんだ。僕の劇団からは僕と荻原《おぎわら》君が出てね」
荻原功は築地小劇場時代からの新劇の老優である。
「本よみからリハーサルから、中村君は遅刻の連続なんだ。殊にリハーサルの時なんぞ一時間近くも待たせた上に、一言の詫《わ》びも言わない。おまけに若い女を三、四人も連れて来てリハーサルを見物させてるんだ。それをつべこべ言うのも年寄りのやきもちと辛抱していると、僕とのやりとりの所でね。彼は台詞《せりふ》をまるで憶《おぼ》えていない。だから呼吸が合いっこない。プロデューサーが注意すると台詞が言いづらいの、芝居がしにくいのと難癖をつけ始めた。それで荻原君が腹をたててね。一刻な老人がつとめておだやかに注意したのを、彼は詫《わ》びる所か逆に……」
沼田は眉《まゆ》をひそめた。
「まあ、それはそれなんだが、先刻《さつき》、逢《あ》っても会釈一つするわけじゃない。そんなわけでね。彼に声をかけるのは、まずいんだよ」
「そうですか」
寛はうなずいた。菊四の性格から考えてもやりかねないと思った。
「君、こうしないか、失礼だが僕の海水パンツをお貸しするから、自分でプールへ行って彼に逢い給えよ。それならいいだろう」
沼田が差し出した海水パンツとタオルを寛は受け取った。
「いいですか。沼さん」
「かまわんとも、君さえよければ使ってくださいよ。どうせ、僕はあっちでビールでも飲んでいるからね」
「じゃ、お借りします」
寛は足早やに脱衣所へ入った。沼田はのんびりと芝生へ戻って行く。
「大丈夫かしら。寛一人で……」
八千代は心細そうに染子を見上げた。
「まかしときなさいよ。彼に……。こんな問題ぐらい解決出来ないようじゃ八千代ちゃんのご亭主として失格だもの」
染子は自分でクロークの横から椅子《いす》を持ってくると柵《さく》のそばへ腰を下した。
プールのふちに立って、寛はゆっくりと周囲を見渡した。
プールサイドのテーブルには五、六組の男女がコーヒーを飲んでいる。
松の木の生えている側のビーチパラソルの下に人影は殆《ほと》んどなかった。蒸し暑い夜だが水泳後は体も冷えるし、夜風も出て来ている。遠く見渡せる夜景はネオンが美しい。寛は細川京子のアパートの部屋の窓から眺めた夜景を思い出した。
ボーイがコーヒーを持って来た。九時近くになって入って来た客を怪訝《けげん》そうに見てコーヒー茶碗《ぢやわん》を傍のテーブルへ置いて行った。コーヒーは甘ったるかった。一口のんだだけで寛は茶碗をテーブルに戻した。
「あら、能条寛じゃないの」
背後で女の子のささやきが聞こえたので寛はどきりとした。こんな所でさわがれてはたまらない。
「嘘《うそ》よ。彼がこんな所へ来るもんですか」
赤い水着が否定した。プールサイドの暗さが寛に幸いしたらしい。
「でも、よく似てる人ねえ、すてきじゃないの」
さりげなくプールの方へ移動した寛の背に若い嘆息が迫った。
プールサイドに中村菊四は居なかった。とすればプールの中である。泳いでいる男女はごちゃごちゃしてわかりにくい。
根気よく眺めていると目が馴《な》れて、中央付近で女と派手にさわいでいる彼の顔が見つかった。
寛は中村菊四から目を放さずにプールへ入った。
水は思ったより温かった。多少、温度を加えているらしい。軽く身体をぬらして、寛は抜き手を切って菊四に近づいた。今年になって始めてのプールだが、汗ばんだ肌に快い。近づいて寛は軽く肩を叩《たた》いた。一度では気づかない。連れの女は先刻《さつき》のバーで見た顔だった。最初からプールへ来る心算《つもり》で水着を用意して来たのだろうか、紫色に白のふち取りをした派手な水着である。
二度目に肩を叩かれて菊四はふりむいた。
「寛、いつ来たんだ」
寛は微笑した。
「ちょっと頼みがあるんだ。まだ泳ぐのかい。泳ぐんなら待ってもいいよ」
「頼み……」
菊四はちょっと考える風だったが、女へ言った。
「どうする。もう上がるか」
「そうね。上がってもいいわ」
女の返事で菊四はクロールでプールサイドへ戻った。女は水の中を歩いて行く。寛はゆっくり平泳ぎで続いた。上にあがったのは寛のほうが先である。菊四は女に手を貸してやって引っぱり上げた。手をつないだ儘《まま》、一つのビーチパラソルのそばへ行く。
白地に赤や黄や黒の派手な模様のタオルで菊四は体を拭《ふ》いた。赤い海水パンツをつけている。
菊四の体は貧弱だった。痩《や》せているし、骨ばってもいた。スポーツできたえた筋肉質の寛と並ぶと一層、目立った。
「頼みってなにさ」
劣等感からか、菊四の声は不機嫌だった。
「茜ますみさんの秋のリサイタルね。あれに君が鳥辺山を踊る話になっているそうだけど、それを一応なかったことにしてもらいたいんだ」
ずばりと寛は言った。菊四は小鼻を皺《しわ》ませて笑った。
「なにかと思えばそんな話か」
ぺっと唾《つば》を吐いて、流し眼に寛を見た。
「なるほど、僕は茜ますみさんのリサイタルに頼まれて鳥辺山を踊ることになっている。相手役は浜八千代ちゃんだ。その話はもう本ぎまりになって仮プログラムにも出ているし、茜流の社中《しやちゆう》でも評判になっている」
菊四は雄弁に統けた。
「けど、まあ、御当人の八千代ちゃんが僕と踊りたくないというのなら、そりゃおりたっていいが困るのは茜ますみさんじゃないのかい。リサイタルに薗八節《そのはちぶし》を使うのは鳥辺山だけだし、その鳥辺山がなくなっちまったら、薗八節の地方《じかた》さんを頼んだのをキャンセルしなけりゃならないし、それじゃ茜ますみさんの面目が丸つぶれになるだろう。僕としても芸界の人間だから、そういう事情がわかっていながら、みすみす役をおりるというわけには行かないよ。うっかりすると僕の責任になっちまうからね」
「そりゃあそうね。あちらさんの都合で中止になったってことは内部の人しか知らない。世間じゃ菊四さんが急に止めたんだと思う人もあるだろうし、そんな事で不義理な男だと思われたりしたらたまらないわね」
タオルを肩にかけて椅子《いす》に坐《すわ》っていた女が口をはさんだ。
「そういう事は、はっきりさせるよ。勿論《もちろん》、薗八の地方さんのほうへは、八千代ちゃんから挨拶《あいさつ》させる」
「嫌だね。少数の人の了解がついたって、誰《だれ》がどう誤解するか知れたもんじゃない。つまらないのはどっちみち僕だもの」
菊四は唇をゆがませた。
「じゃ、どうしたらいいんだ」
穏やかに寛は追及した。
「どうすれば君が納得してくれるのか教えて貰《もら》いたいが……」
「鳥辺山の番組をプログラムからはずさないで貰《もら》いたいね。今更プログラム変更なんて、すっきりしないからねえ。つまり、僕がやる予定の縫之助の役ね。あれを誰《だれ》かが代わってくれる、それも僕以上にあの役にどんぴしゃりな人間がやってくれるというのなら、おりてあげてもいいんだよ」
菊四の注文は難しかった。
鳥辺山心中の踊りは茜流の舞踊曲目の中でもベテランの舞踊家でないと許されない。まして条件から考えても容姿、台詞《せりふ》、舞台上のテクニックなどを数えると女性ではやり難い役なのである。普段は大抵、歌舞伎《かぶき》俳優を特別出演に頼むのも、そういう理由のためであった。
人柄はとにかくとしても歌舞伎の若手ナンバーワンである中村菊四のおりた役を代わるとなると同じ歌舞伎の社会の人間はおいそれと頼めもしないし、又、引き受けもしない。そういう芸能界のかけ引きを承知した上で、菊四は、
「僕に納得出来る代役がいるのなら、役をおりてもいい」
と言ったものだ。
「ねえ、どうなのさあ。君も八千代ちゃんの使者に来るなら、代役の問題くらい、ちゃんと計算ずみなんだろう」
菊四はタオルで肩を巻きながらふてぶてしく迫った。寛の顔からは微笑が消えなかった。おっとりと答えた。
「代役はきまっているよ」
「きまっているって……?」
「ああ」
「誰《だれ》だい。それは、勿論、承諾したんだろうね。いい加減な話じゃあるまいな」
「当人もはっきり言っているよ。鳥辺山の縫之助の役を中村菊四君と代わって、浜八千代ちゃんと踊るってね」
「誰なんだ。そいつは」
菊四は躍起になった。
「僕さ。僕が君の代わりに八千代ちゃんの相手役を勤める事になったんだよ」
寛はけろりと言ってのけた。
「君が……」
菊四の顔色が変わった。
「まさか……」
T・S映画で最高の売れっ子スターである能条寛が、舞踊のリサイタルに特別出演をしたら、それこそ芸能界のビッグニュースである。
「冗談も休み休み言い給え。茜ますみさんのリサイタルは九月だぜ。君のスケジュールは来年の三月まで、ぎっしりだって言うじゃないか。踊りなんぞに出る暇はあるまい」
菊四が言ったのには裏づけがあった。この秋に歌舞伎《かぶき》と映画の人気俳優を揃《そろ》えて芝居興行の話が、すこぶるの好条件で能条寛を勧誘した所、T・S映画のスケジュールがぎっしりで割り込む余地がなく断ったという話を菊四は一昨日、関係者から直接、聞いたばかりであった。
「出ると言ったら間違いなく出るよ。僕のスケジュールなのだから、やりくりはつけられる。そこで菊四君、僕の代役では不承知かい。それとも……」
寛はやんわりと菊四へ言った。
菊四の表情がゆがんだ。
「そうかい。君が八千代ちゃんと鳥辺山を踊るってのか」
遠いネオンへ落ち付かない視線を投げた。
「納得してくれるかい」
「仕方がないさ」
言葉を丸めて放り出すような菊四の台詞《せりふ》だった。
「君じゃ、太刀打ち出来っこないさ。歌舞伎に居た時分から踊りは天才の君だ。それにしてもマスコミがさわぐだろうな。相思相愛の二人が鳥辺山を踊る。まるで茜流のジンクスの裏をかくようなもんだ。八千代ちゃんもいい恋人を持って幸せだね」
自嘲《じちよう》めいた呟《つぶや》きに、寛は素直に応じた。
「もう何年も舞扇を持っていないからね。自信なんかまるでないが、まあ、君が了解してくれるなら一生懸命にやるつもりだよ。君の代役として恥ずかしくないようにね」
「了解も不承知もあるもんか。今更。どうぞ君たちの御自由にと申し上げる他はないじゃないか」
「有難う。茜ますみさんのほうへは僕らから改めて話に行くよ。じゃ、僕は染ちゃんと八千代ちゃんが待っているから」
会釈して帰りかけた寛の背へ菊四は未練がましく言った。
「寛、君はそれほど八千代ちゃんに惚《ほ》れているのかい」
ゆっくりと寛は微笑の顔をふりむけた。
「惚れているよ」
その自信たっぷりな返事が菊四には癪《しやく》にさわった。つい、言わずもがなの事を言った。
「彼女を信じているんだな」
「信じているよ」
「俺《おれ》と温泉マークへしけ込んでもか」
寛の微笑がまるで自分の言葉を問題にしていないのを知ると菊四はむしゃくしゃした。あの晩、八千代に逃げられた時のぶざまな自分の恰好《かつこう》が思い出されて、自尊心の強い菊四は頭の中が熱くなった。
「ふん、甘い男だ」
テーブルの上のコーヒー茶碗《ぢやわん》に手を伸ばした。一口飲んで、冷えたコーヒーの甘ったるさを我慢がならないというように、茶碗に残った液体を横へぱっとあけた。運悪くプールから上がったばかりの若い青年のグループが傍を通った。先頭の男の白い海水パンツから胸へかけてコーヒーがぶちまけられた形になった。
「おい、なにするんだ」
若い男が気色ばんだ。しまったと思ったのだが、菊四は虚勢をはった。寛の手前もあった。
「何んとか挨拶《あいさつ》したらどうだ。人にコーヒーをぶっかけやがって……」
つめ寄ってくるのへ、菊四はうそぶいた。
「失敬したな。後に眼がないんでね」
先刻《さつき》からの苛々《いらいら》の八ツ当たりである。
菊四にコーヒーをかけられたグループは完全に腹を立てた。もともと柄のよい連中ではない。Pホテルの客としてふさわしい人間ではないが、もともとホテルの宿泊人専用に作られたプールを夏場だけ一般へも開放しているので、お門違いな人間もまぎれ込む。
「なんだと、言いやがったな」
白い海水パンツがいきなり菊四の腕を掴んだ。その手を横から寛が押さえた。
「待ち給え」
菊四へ別に言った。
「菊四君、あやまれよ。君が悪い。知らずにした事だが被害者が出来た以上、詫《わ》びるべきだ」
菊四は反抗的な表情を見せたが相手が悪いと悟ったのだろう。
「すみませんでした」
不承不承に頭を下げた。
「すみませんで済むか。人をなめやがって」
白い海水パンツがわめき、他の連中もそうだそうだとけしかけた。
「こいつ」
寛に掴《つか》まれた手をふりはなそうとして眉《まゆ》をしかめた。やんわり掴んでいるように見えて寛の手は相手の自由を全く奪っていた。
「放せ……放せったら……」
もがきながら、どなった。寛は微笑し、さりげなく力を抜いた。
「失礼しました。こいつもわざとやったわけじゃありません。もののはずみです。勘弁してやって下さい」
丁寧に頭を下げた。白い海水パンツは大人しい寛の言葉に再び喰《く》ってかかった。
「貴様はこの男のなんだ」
「友人です」
「代理にあやまるってのか」
「そうです」
「よし、こっちへ来い」
白い海水パンツは寛の肩を押してプールのそばへ寄った。寛は相手に逆らわなかった。
「あの男に代わってあやまれ」
プールのふちで白い海水パンツは改めて言った。その二人の姿は脱衣所の柵《さく》の所で覗《のぞ》いている染子と八千代に見えた。声は聞こえないが、ただならぬ様子は察せられる。
「寛がどうかしたのかしら」
八千代が不安そうに言った。出来れば柵を乗り越えてそばへ行きたげな八千代である。
「そうねえ、なんだろう」
染子が呟《つぶや》いたとき、寛は白い海水パンツへ向かって再度、言った。
「申しわけありませんでした」
頭を下げるのを待っていたように白い海水パンツが寛の横顔へ猛烈なパンチをとばした。が、ぼんやりなぐられる寛ではなかった。プールのふちへ連れて来られた時から相手がそうした行動に出ようとしているのは察知していた。とっさに身を沈める。かわされて白い海水パンツは勢余って自分からプールへとび込んだ。
柵《さく》にしがみついていた八千代が悲鳴をあげたのは、白い海水パンツの男がプールへ落ちるのと同時に左右から二人の男が寛へとびかかったのを見た故《せい》である。
しかし、八千代の恋人は沈着で身軽だった。一人は腰車であっさりプールへはねとばし、もう一人をはね腰にかけた。そのとたん、
「寛、あぶない」
八千代は柵を突きとばして走り出した。残った男が折りたたみ椅子《いす》を寛の背後からふり下そうとする瞬間である。
「きやあ」
染子は顔を押さえた。中村菊四が猛然とその男にぶつかった。二つの体はぶつかり合ったまま椅子と一緒に倒れた。椅子は菊四の頭上に落ち、男は菊四の体当りでプールへ落ちて行った。
「寛」
八千代は寛に全身ですがりついた。
「どこも怪我《けが》はない。怪我は……」
恥ずかしさも日ごろの慎しみもふっとんでしまった形で、八千代は寛の裸をなで回した。
「大丈夫だ。それより菊四君が」
寛は八千代を片手に抱いた儘《まま》、倒れている菊四へ近づいた。
「菊四ちゃん、菊四ちゃん、しっかりして」
菊四にまつわりついて泣き声をあげているのは染子だった。菊四のつれの女はいつのまにか姿を消していた。かかわり合いになるのを怖れたものか。
「菊四君、しっかりしろ、菊四君」
寛が抱き起こすと、菊四はうめき声をあげながら寛を見た。
「寛君」
後頭部から血が流れていた。菊四は寛を見上げ、にっと笑ったきり、気を失った。
茫然《ぼうぜん》と眺めていたボーイや係員が漸《ようや》く走り寄って来た。
「怪我人《けがにん》を、すぐに運んで下さい。S病院が近い。担架はありませんか」
寛はてきぱきと指図した。だが、ボーイ達は事態がのみ込めずに右往左往するばかりである。誰《だれ》かが連絡したらしく、芝生を横切って警官が走って来た。
「八千代ちゃん、君、むこうのガーデンパーティへ行って、沼さんを呼んで来てくれないか。どうも面倒くさいことになりそうだから……とにかく菊四ちゃんの手当てをしなけりゃ。沼さんに来てもらって一応、僕の身分証明を頼むんだ」
「わかったわ。呼んで来ます」
八千代は寛の手を握りしめ、素早くプールサイドをかけ抜けた。
「あぶないよ。すべらないように……」
見送って、寛は菊四のそばへしゃがみ込んだ。染子が泣きじゃくりながらハンカチで菊四の怪我《けが》を押さえている。緊急の際なのに、寛はそうした染子のポーズがすこぶる女性的なのに気がついた。
死体第四号
S病院へ運ばれた中村菊四の怪我《けが》は出血の割合にたいした事はなかった。
無論、命に別状はない。
「どうせ、今月は芝居も休みですし、これを機会に病院のベッドの上で自分を反省してみたらと思いますよ。芸の上でも人間としてもね」
病院へかけつけて来た菊四の父親の中村|菊之丞《きくのじよう》は手当ても済み麻酔で眠っている息子を見つめてしみじみと言った。
歌舞伎《かぶき》の社会では押しも押されもせぬ立《たて》女形《おやま》として「先代萩《せんだいはぎ》」の政岡《まさおか》とか「山姥《やまうば》」「茨木《いばらき》」などの所作事でも定評のある名優だが、素顔には六十過ぎの老人の皺《しわ》が深い。
「考えてみれば菊四も可哀《かわい》そうな子でしてね。母親が違う所へ持って来て、腹の違う弟や妹もいる。今の女房が生《な》さぬ仲のあいつだけを特別扱いにしているわけではないんだが、菊四にしてみれば面白くねえ事もあろうし、淋《さび》しい事もあるんだろう。そんなものが外へ出ると爆発しちまって碌《ろく》でもねえ噂《うわさ》の種ばかり作っちまう。図太いように見えても神経の細かい奴《やつ》なんですよ。自分で自分がどうにもならねえでいる。早くいい女房でも出来ると救われるんですがねえ」
菊之丞の言葉に八千代も染子もしんみりとなった。
「僕もそう思いますよ。菊ちゃんってのは根はいい男なんだ」
寛は力をこめて言った。
「今晩だって菊ちゃんは僕をかばってこんな怪我《けが》をしてしまったんだ。本当なら、今頃《いまごろ》、このベッドの上に寝ているのは僕自身であるべきなんです。とんだ災難でした」
「いやいや、それもこれも元はと言えば全て菊四から出たことです。怪我は自業自得ですよ」
病室のドアが開いて菊之丞の後妻の君子が握り寿司を運んで来た。
「皆さんにはすっかり御迷惑をおかけしまして……お疲れでしょう。一つ召し上がってお帰りになって下さいまし」
柔和な、それでいてきびきびした動作である。染子はふと、この気のききすぎるのが菊四にはかえって気づまりな反撥《はんぱつ》を感じさせるのではないかと思った。
S病院を辞して、寛は染子と八千代を自宅へ送った。染子を浜町の家へおろし、二人っきりになった深夜のドライブは快適だった。
「疲れただろう。やっちゃん」
ハンドルを握ったまま、寛は八千代をいたわった。
「寛こそ、大変だったわ」
宮城のお堀端はひっそりと水が黒い。深夜タクシーも殆《ほと》んど姿を消している。
「菊四さん早く治るといいわね」
八千代はぽつんと言った。うなずいた寛の左手がそっと伸びて八千代の手を掴《つか》んだ。車は順調なスピードで八千代の母が待っている銀座の「浜の家」へ向かっていた。
朝方まで興奮して寝つかれなかった八千代は九時過ぎに女中に起こされた。
「結城の伯父《おじ》様からお電話でございますよ。ええ、お嬢さんにということで……」
八千代はクリーム色のネグリジェのまま、受話器を取った。
結城慎作の喋《しやべ》り方はいつもと変わらなかったが、八千代は直感的に伯父の声の底に或る緊張したものがあると思った。
「八千代かい。ちょっと聞きたい事があってね。いや、別に難しい事じゃない。君は昨夜、寛君と逢《あ》ったかい」
「ええ」
八千代は全身が熱くなるのを感じた。寛がせっかちに二人の結婚のことで結城慎作の許へ相談にでも出かけるのかと早合点した為である。
「どこで逢ったんだ」
慎作の調子は真剣だった。姪《めい》の恋愛を冷やかしている風ではない。
「家でですわ。寛さんが訪ねて来たんです。染ちゃんと一緒に。もっとも染ちゃんとは家の前でばったり逢ったんだそうですけど」
「それは何時|頃《ごろ》」
「七時前後です」
「確かかい」
「ええ」
八千代はちょっと考えて答えた。
「七時過ぎですわ。私が部屋でラジオのニュースを聞いてた時ですから、十五分過ぎより後ではありません」
「寛君は八千代の所へ行く前にどこに居たか聞いたかい」
「撮影所から銀座のガス灯というバーへ、六時すぎだって言ってました」
「ふむ、それで八千代の部屋には何時|頃《ごろ》まで居たんだね」
「八時ちょっと過ぎまで、それから三人でPホテルのプールへ……」
八千代は口ごもって、気がついた。Pホテルのプールでの格闘が問題になったのかと思った。果たして慎作が言った。
「成程、それからタフガイの立ち廻《まわ》りさわぎがあって、菊四君がS病院へかつぎ込まれたという順序だね」
「伯父《おじ》様、やっぱりPホテルのことで寛がどうかしたんですの。でも、あれは寛の罪じゃなくて……」
弁解する八千代の言葉を慎作が遮った。
「そうじゃない。それは心配ないんだ。S病院から帰ったのは何時だね」
「十二時を過ぎてました。一時近かったかしら。染ちゃんを浜町へ送って、私を家まで、それから青山へ帰った筈《はず》ですわ」
八千代は、たまりかねて訊《き》いた。
「伯父《おじ》様、寛さんがどうかしましたの」
「いや」
受話器の声が逡巡《しゆんじゆん》した。それが八千代の不安をかき立てた。
「ねえ、伯父様、おっしゃって……」
結城慎作は落ち着いて、姪《めい》に答えた。
「大丈夫だよ」
「だって、伯父様、可笑《おか》しいわ。何故、昨夜の寛の事ばかり根掘り葉掘りお聞きになったんですの」
「それはね」
慎作は声を区切った。
「寛君に殺人容疑がかかりそうだったからなんだ」
八千代は返事が出来なかった。耳を疑った。受話器を握りしめてやっと言った。
「そんな……伯父様」
「心配する事はない。八千代の言った通りの行動を昨夜、寛君が取っているとすれば、アリバイははっきりしている。慌《あわ》てる事はなにもないんだよ」
「でも、伯父《おじ》様」
八千代はあえいだ。
「私が申し上げたことに嘘《うそ》はありませんわ。お調べになれば解ります。染ちゃんだって証人にたってくれます。でも、どうして、寛が殺人容疑だなんて、そんな馬鹿《ばか》なことになったんですの」
「それは、今日の夕刊を見なさい。じゃ、切るよ」
「伯父様、ずるいわ、ご自分の事ばっかり、伯父様……」
だが、電話は切れた。
胸の鼓動が俄《にわ》かにはっきり聞こえる。八千代は波うちぎわに立っているような不安定な気持ちだった。一人で居るのがたまらない。母は美容院へ出かけている筈《はず》であった。
ダイヤルを回した。染子の家である。
「八千代ちゃん、昨夜はお疲れさま」
てっきり寝ていると思った染子が案外はっきりした声で応じて来た。寝起きの様子ではない。
「丁度よかったわ。これから出かける所だったの。ううん、お稽古《けいこ》じゃない。S病院へね。菊四さんのお見舞いに行ってあげようかと思ってさ」
八千代がもたもたしている中に染子は一人で喋《しやべ》った。
「菊四って男はあんまり立派だとは思わないけど、昨夜ばかりはちっと見直したわよ。まあ、人間、いい所もあるんだわね」
「染ちゃん」
のんびりした染子の調子を八千代は遮った。
「なによ。あんたも一緒にお見舞いに行く。寛の恩人ですもんね」
「一緒に行きたいけど……それが……」
八千代はおろおろした。
「染ちゃん、大変なのよ。寛が殺人容疑で」
「なによ。サツジンヨーギって」
染子はけろりとしている。
「寛が人殺しをしたと思われてるらしいの」
「なんですって、寛さんが人殺しッ」
染子の声がもんどり打った。
受話器の中からけたたましい物音が聞こえて来た。染子が抱えていたハンドバッグを取り落としたものらしい。
「ちょっと八千代ちゃん、それ本当、寛さんがいつどこで人殺しなんぞ……」
染子の早合点に八千代は憤慨した。
「嫌だわ。寛が人殺しなんかするもんですか。ただ、そういう疑いがかかったっていうのよ。勘違いしないで……」
「なんだ。そうなの。八千代ちゃんの言い方が悪いのよ。寛が人殺しなんぞする筈《はず》ないもんね。けど、容疑だなんて失礼しちゃうね。大体、人を殺すようなお人柄と思うのかね」
現金に染子の声が落ち着いて来た。
「それにしてもなんでそんな疑いがかかったのよ」
「わからないのよ。それが、今、結城の伯父《おじ》様から知らせて来たの。詳しいことは夕刊を見ろって……」
「そいじゃ、夕刊みたらいいのに……」
「だって、今夜の夕刊よ。まだ売ってやしないわ。お昼前だもの」
「そうか、結城の伯父様も思わせぶりね。八千代ちゃん心配だろうね」
「当たり前よ。居ても立ってもいられないわ」
「そりゃそうね」
染子は生ぬるい風呂《ふろ》へ入ったような答え方をした。
「寛さんはどこに居るの」
「わからないわ。本当なら撮影所の筈《はず》だけれど……私、逢《あ》いに行ってはいけないかしら」
そうでなくても八千代は彼に逢いたいと思った。昨夜以来、寛は八千代にとってこの世で只《ただ》一人の男性になってしまっている。
「逢いたいのは分かるけど……寛さんに殺人容疑がかかったのは昨日のことなんでしょうね」
「そうらしいわ。伯父《おじ》様は昨日の夕方から寛の行動を根掘り葉掘り聞いたわ。それだけ立派なアリバイがあれば大丈夫だって」
「なるほどねえ。そうすると私達は寛さんのアリバイの証人っていうわけだわ」
染子は慎重に言った。
「そうなると、八千代ちゃん。こりゃあうっかり動けないわね」
「なぜ」
「なぜってそうじゃない。私たちが泡を喰《く》ってごちゃごちゃ動き回ったらアリバイの打ち合わせをしてるんじゃないかと疑われるわよ。近頃《ちかごろ》のおまわりさんってそそっかしいからね。痛くもない腹を探られて、おまけに寛さんの不利になったら馬鹿馬鹿《ばかばか》しいもの。ここが思案のしどころよ。夕刊が出るまでは辛くてもじっとしてなさいよ。間違っても寛さんに電話なんかしては駄目よ。わかったわね」
染子の声は司法官のように重々しかった。
それにしても、寛に殺人容疑がかかりかけたというだけで、誰《だれ》がどこで殺されたのかまるっきり解らないことが二人を不安にさせた。
「八千代ちゃん、あんた、なにか見当がつかないの」
「全然よ。頭がくらくらして考える気力もないわ」
八千代は弱音を吐いた。
「私たちの知ってる人かしら」
「さあ」
「とにかく、待ちましょうよ。夕刊が出るまで。くどいようだけど、なまじな動き方をしては駄目よ。わかったわね」
念を押して染子は電話を切った。
八千代は時計を眺めた。夕刊が発売になるのを午後三時過ぎと見つもっても、まだ五時間以上もある。それだけの時間を不安の中で辛抱するのは怖しいようだった。
一言でも寛の声が聞きたかった。だが、染子の言うように寛と連絡を取ることが、彼のアリバイに捜査官の疑念をはさむような結果となっては大変である。
八千代はのろのろと部屋へ戻った。こんな場合、どうしてよいのか見当もつかない。自分がひどく無力でたまらない気がする。ネグリジェを脱いで普段着に着替えた。朝の洗面をしていると内玄関に聞き馴《な》れた母の足音が帰って来た。出迎えた女中と二言三言|喋《しやべ》りながら茶の間へ入った様子だ。八千代は母のタオルを冷水でしぼって持って行った。
「お帰りなさい」
「ああ、有難う」
母はタオルで顔を拭き、二の腕を浴衣《ゆかた》の下でぎゅっぎゅっとこすり上げた。
「代々木の兄さんから電話があったんだってね」
娘に訊《たず》ねた。代々木初台に自宅のある結城慎作を彼女はそういう呼び方をしていた。
「それがね。お母さん……」
八千代は少しためらってから結局、電話の内容について説明した。母親は八千代が思ったより驚かなかった。
「そりゃあ大変な事だね」
話を聞き終えて言った調子も落ち着いていた。
「だけれど、そりゃなにかの間違いだよ、他の人ならとにかく寛ちゃんが人殺しなんぞするわけがない。代々木の兄さんだってよく知っているし、たといなにかの拍子でそんな疑いがかかったとしても調べてみればすぐにわかる事だもの。そうだ、私から代々木の兄さんに電話して詳しいことを聞いてみようか」
よっこいしょっとはずみをつけて立ち上がる母を八千代は心から頼もしいと感じた。母が電話の前に立ったとき、待ちかまえていたように電話のベルが鳴った。取りあげた母が、
「八千代、寛ちゃんからだわよ」
受話器を手に当てたまま、背後の八千代を手まねきした。
「もしもし、やっちゃん、茜ますみさんのリサイタルの件ね。仕事の繰り合せもついたし、会社のOKもとれたから心配しなくていいよ。二、三日したら稽古《けいこ》も始めるからね」
快活な寛の声は殺人容疑なぞどこ吹く風といった調子であった。
「そんな……寛、あなた、それどころじゃないでしょう……。私、聞いたのよ。結城の伯父《おじ》から……どんなに……」
逢《あ》いたかったかと言いかけて八千代は傍の母に気がねして言葉を切った。
「ああ、殺人容疑の事かい。それなら心配ないんだ。容疑という程の話でもないし、大丈夫なんだよ。そのことでね。さっき結城の小父《おじ》さんから僕の所へも電話があって、今夜、代々木のお宅へ来ないかと言われたんだ。いや、勿論容疑とは別問題さ。今度の事件が要するに僕らが疑問を持っていた前の事件とどうやら関係がありそうだという事について結城の小父さんと話し合おうというわけさ。八千代ちゃんも一緒に来るようにとこれは結城の小父さんからの伝言だけど、都合はどうかな」
「行きますわ。どこへだって……」
八千代は思わずそう答えた。事件の概要はわからなかったが、寛と一緒ならどこへでも行こうと感情的になっていた。
「それじゃ、五時|頃《ごろ》に迎えに行くよ、くわしい話はその時にね。ここは撮影所の電話だから……」
他聞をはばかるという意味らしかった。八千代は慌てて言った。
「待って、寛、一つだけ教えて、今度の事件って何なの。なにが起こったの。誰《だれ》が殺されたの」
寛の殺人容疑というからには殺人事件が発生したことは間違いなかった。
寛の声が低く短く告げた。
「細川……京子さんなんだ。昨夜らしいよ」
切れた受話器を握りしめて八千代は茫然《ぼうぜん》とした。
(細川京子さんが殺された……)
実感にはならなかった。
(しかも、昨夜……)
昨夜と言えば、中村菊四に逢《あ》うために染子と寛と三人で赤坂のPホテルのプールへ行っていた。本来なら寛はその夜、八時にPホテルとはすぐ近くのニューセントラルアパートへ細川京子を訪問し、彼女からアルバムを見せて貰《もら》う約束になっていた。それが、思わぬ菊四と八千代の問題で変更になり、Pホテルでは更にプールサイドの活劇ということになって細川京子との約束は完全に放擲《ほうてき》されてしまったのだ。
「いいよ。京子さんには明日、電話であやまるから……」
と寛は昨夜、八千代に言ったものだ。
「八千代、どうだったの」
ぼんやりしている八千代の背後で母が心配そうに尋ねた。
赤坂のニューセントラルアパートにおける細川京子変死事件を、その日の夕刊はどこの新聞社も三面記事のトップに扱っていた。
被害者が今年の正月、失踪《しつそう》の末、自殺した映画俳優、細川昌弥の実妹であること、変死現場が都内でも指折りのデラックスアパートの一室の、しかもバスルームの中であった事、それと死体発見者が大東銀行の頭取、岩谷忠男氏のお抱え運転手で、その結果、被害者のパトロンが他ならぬ岩谷氏自身であることなどが暴露されたからである。
「まあ二人共、一応は新聞を読んで来ただろうが、話のついでに一通り順を追って説明しよう」
御自慢のダンヒルのパイプをくゆらしながら結城慎作は姪《めい》とその恋人へ柔らかな微笑を向けた。
代々木初台にある結城慎作の応接間、テラスに面した広い庭からは蜩《ひぐらし》の声がひっきりなしに聞こえていた。
日が落ちたばかりなので庭はまだ明るい。百日紅《さるすべり》が濃いピンクの花を枝一杯に咲かせていた。テラスの前の芝生のすみには紫色の小さな花が群れている。夏桔梗《なつききよう》というその名を八千代は昨年の夏、伯母《おば》から聞かされた。可憐《かれん》な、しかも地味な雑草の花を伯父夫妻は殊更に愛しているらしい。
開け放したドアから伯母がクリスタルグラスに淡雪のようなアイスクリームの山を載せて入って来た。
「お手製なのよ。ハワイのアイスクリームよりおいしいから……」
カップに取り分けながら八千代と寛を見くらべた。
「今日はまア、二人共、気を揃《そろ》えて浴衣《ゆかた》なのね。こんな事なら、私も結城とペアのワンピースでも着て見せつけてあげるんだったわ。ねえ、貴方《あなた》、そうでしたわね」
と夫へ笑いかけた顔が年齢に似げなく稚《おさな》い感じである。子供のない夫婦のせいか、いつまでも若々しい。八千代はちらと寛と眼を見合せた。
その寛はくすんだグリーンで兼平格子をモダン化したような洒落《しやれ》た浴衣に紺の博多帯を締めている。撮影所からの汗とほこりを八千代の家で一風呂浴びて、彼女のお手製の浴衣を着て用意しておいた帯を結んで出て来たものだ。八千代のほうはこれも白地に大きく芭蕉《ばしよう》の葉をスモークグリーンで描いた浴衣に若草色の帯を小さく文庫に結んでいた。地味な色調がかえって彼女の若さをにおうように包んでいる。
「若いってのはいいもんだな」
微笑して慎作は、ふとテーブルの上の新聞に眼を落とした。ぎっしりつまった活字の中に細川京子の若い笑顔の写真が出ている。
「咲く花もあり、散る花もあり。世の中は非情なもんだねえ」
若い二人にアイスクリームを勧めて、慎作は事件の概要を語った。
「まず死体発見だがね。これは今朝の九時十五分すぎ、発見者は新聞に出ている通り岩谷忠男氏のお抱え運転手の杉山君だ。何故、そんな時間に杉山君がニューセントラルアパートの細川京子の部屋を訪ねたかというと、今日の十時十分上野発の臨時列車で岩谷氏は軽井沢へゴルフに出かける予定だった。細川京子はそれに同行する約束で、岩谷氏は彼女を迎えにニューセントラルアパートへやって来たわけなのだ。彼は車の中で待ち、運転手の杉山君が彼女を呼びにアパートの部屋を訪ねたという寸法になる」
杉山が部屋の前でドアをノックしたが返事がない。寝過しているのかと試みに把手《とつて》を廻《まわ》すとドアが開いた。鍵《かぎ》がかかっていないのだ。
声をかけても答えはなく、おそるおそる入ってみたが、部屋にも寝室にも京子の姿はなかった。念のためにキッチンへ出る。隣がバスルームだ。戸が開け放しになっている。浴桶の中に裸体の細川京子が上半分を浴桶のふちへ乗り出したような恰好《かつこう》で倒れていた。
「杉山君は最初、湯当たりでもしてのびているのかと思ったらしいんだ。さわってみると冷たい。ぎゃあというわけだね」
運転手の知らせでアパート中は蜂《はち》の巣を突ついたような騒ぎになった。引っかかり上、岩谷も逃げ出すわけには行かない。警官が駈《か》けつけ、警視庁からも捜査官が車をとばして来た。
「死因は青酸カリの中毒死だと判明した。居間のテーブルの上にあったコップには半分程ビールが残っていて、それからも青酸カリが検出された。という事は細川京子は青酸カリ入りのビールを飲んで死んだということだ」
結城慎作はパイプの煙を吐いた。
「そのテーブルのそばの椅子《いす》の上には細川京子の衣類一式がそっくり脱いであった。尚《なお》、テーブルの上にあったビール瓶のほうからは青酸カリは検出されていない。居間からバスルームまでは二つドアがあるが、これは開けっぱなし、部屋の中は別段、乱雑でもないしと言ってきちんと整理されてもいない。要するに細川京子が平常、そうしていたらしい状態のままという事になるだろうか」
「伯父《おじ》様、もっと具体的におっしゃってよ」
たまりかねて八千代は言った。
「要するに細川京子は青酸カリを飲んで衣服を脱ぎ、バスルームへはいって死んだという状態なんだがね。八千代は少しは聞きかじってるだろうが、青酸カリっていうのは効き目がすこぶる早い。殊にビールから検出された致死量は嚥下《えんか》して数分を経ずして絶命する程なんだよ。衣類を脱いでフルスピードでバスルームまで走ったとしても間に合わない」
冗談めかした言い方をしているくせに結城慎作の表情は笑っていなかった。
「ここまでの状態から想像すると、細川京子は昨夜、何者かによって青酸カリ混入のビールを飲まされ、瞬時にして絶命したということになる。その後、何者かは彼女の着衣を剥《は》ぎ、バスルームへ運んだという事になると思うんだが」
まさか女性が素裸でビールを飲んだにしてはビールのコップが居間にあるし、バスルームの中に湯も水もないのが可笑《おか》しい。
「すると伯父様、犯人はどうしてそんな事をしたのかしら。わざわざ死体をバスルームへ運ぶなんて、なにかそうする必要があったと考えるべきなの」
「さあ、それは犯人に訊《き》いてみなければわからない。が少なくとも僕は重大な意味があると思っている。死体がバスルームに置かれていたことについてだよ」
「細川京子さんの所への昨日の訪問者はわからないんですか。つまり生きている京子さんを最後に確認した人というのは……」
寛がツボにはまった質問をした。
「それが難しいんだ。今朝の死体発見以前に被害者を見たのは管理室の青年で加藤君という人なんだが、この彼の証言によると被害者は昨日午後四時から一時間程、外出している。買い物に行くと言い、実際、五時過ぎに戻って来た時には食料品の入った大きな紙袋を二つも抱えていたそうだ」
加藤青年は細川京子がアパートへ戻って来た際、階段の下の掃除をしていた。エレベーターが使用中で、それを待っていた京子と軽い会話をかわしている。
「随分、仕入れて来ましたね。宴会でもやるんですか」
加藤青年が言うと京子は紙袋をのぞいて嬉《うれ》しそうに笑ったという。
「今夜は素敵な恋人が来るのよ。だから腕によりをかけて御馳走《ごちそう》を作るの。ああ、このブランデー、恋人の好物なのよ。デパートのOSSへ行って買って来たんだわ」
いそいそとヘネシーのブランデーと、チューリップ型のブランデーグラスまで加藤青年に出して見せた。
「凄《すご》いゴキゲンですね。恋人とのパーティは何時からです」
冷やかし気分で加藤青年が訊《たず》ねたのは京子にパトロンがあるのを知っているせいである。
「八時からよ。それまでにお料理をして髪をセットしてお化粧して、大変だわ」
いそいそと京子はエレベーターへ乗った。
「それが被害者の生きている最後の姿というわけなんだ。つまり昨日の午後五時以後、細川京子は部屋へ入ったきり誰《だれ》にも姿をみせていない。今朝、死体となって発見されるまで声を聞いた者も今の所ないらしい」
八千代は思わず隣に腰かけている寛を眺めた。八時に細川京子の部屋を訪れる客、即ち京子がブランデーの仕度をしていそいそと待っていた相手とは、能条寛に違いないのである。
結城慎作の説明を聞きながら八千代は忙しく思案した。
(能条寛に殺人容疑がかかったのは八時に京子の部屋へやってくる客が彼である事が判明した為であろうか)
もしそうだとすれば、その時刻、彼は八千代や染子と同行してPホテルに居たわけである。彼のアリバイの証人はいくらでもあるわけだ。よかった、と八千代は思った。もし昨日八時に寛が一人でニューセントラルアパートを訪問したとしたら……。
「伯父《おじ》様、その細川京子さんを八時にたずねてくるというお客様は実際に昨夜は来なかったんでしょう」
つい正直に八千代は言った。
「それがわからないんだよ。あのアパートを訪問する客は一応、管理室の前を通るが、一人一人管理人に声をかけて行くわけじゃない。加藤青年にしたってトイレにも立つし、読書に熱中して、うっかり見逃したという事もあるかも知れないというんだ。しかし、加藤青年が言うのはそうした見逃しはあるかも知れないが、どうも八時に京子さんの部屋を訪問する筈《はず》の客は来なかったのではないかというんだ」
「まあ、なぜ」
「加藤青年も若いからね。細川京子が冗談にもせよ恋人と称した程の訪問客に興味を持ったんだな。どんな男がやってくるのかとね。それで、八時前からはなるべく管理室を動かないで入口に注意もしていたらしい。ところが十時を過ぎてもそれらしい客は入って来なかったというんだよ」
「やっぱり……」
八千代はなんとなくほっとした。
「ところで来なかったのかも知れないが、その被害者が待ちかねていた客というのが誰《だれ》だったかという事は捜査上、問題だ」
ところが細川京子は八時に来る客の名前を加藤青年には話していない。勿論《もちろん》、他に誰も彼女から聞いている人間はなかった。常識として考えられるのは彼女のパトロンである岩谷忠男氏だが、彼は昨夜は銀行の宴会で柳橋の料亭に居た。彼自身、細川京子とそういう約束はしなかったと申し立てている。それに、岩谷忠男氏はビール党でブランデーのような強い酒は好まない。だから細川京子の部屋の電気冷蔵庫にはいつも四、五本のビールが入っているが、他には彼女の好みでジョニーウォーカーの赤が一本、貰《もら》い物らしいリキュール瓶が一本、棚に並んでいるだけである。岩谷氏がその夜の客ならば、わざわざブランデーを用意する必要はない。
「つまり、その夜の細川京子の客はブランデーの好きな、おそらく若い男性に違いないと捜査本部では見当をつけた。が、それ以上は雲を掴《つか》むような話だ。細川京子に幾人ボーイフレンドが居るか知らないが、その中に該当者が発見出来るかどうか……」
結城慎作はそこでにやにや笑い出した。
「しかし、驚いたね。問題の八時に来る客が能条寛君だったとは……」
図星を指されて八千代は唇まで白くした。
「なぜ、僕だとおわかりになりました」
寛は微笑して言った。驚いていない。
「八千代の表情をみている中に気がついたよ。僕の話を聞きながらどきどきしっ放しだ。おまけにちょろちょろ寛君の顔を見る。正直なもんだねえ」
「伯父《おじ》様ったら、まるで刑事だわ」
八千代は両手で頬《ほお》を押さえた。
「もっとも、八時の客が寛君だと断言したのは他にもあるんだよ。それで寛君に危く容疑がかかりそうになったんだがね」
「誰《だれ》です。それは……」
落付いて寛が訊《き》く。
「岩谷忠男氏だよ。八時の客の一件が問題になったら、彼が言ったものだ。その男はT・S映画の能条寛というチンピラに違いない。この間中から細川京子につきまとっていた、とね」
「まあ、ひどい、失礼だわ」
「岩谷氏だけじゃない。管理室の加藤青年も能条君がニューセントラルアパートへ細川京子を訪問した事がある。それも深夜だと証言した。おまけに、そう言えば昨夜九時すぎに白い背広姿にサングラスをかけ、髪を短くカットしてポマードなしという若い男が随分、遅くまで弁慶橋からアパートの周辺を彷徨《ほうこう》していたという目撃者が現れた」
「嫌だわ。そんな……」
八千代は寛を眺めた。相変わらず油っけのないぼさぼさの前髪が少し額に垂れ下っている。人気スター能条寛のトレードマークみたいな髪形だった。白い背広も、寛はあまり好きではないが商売柄二着は持っている。サングラスをかけるのも俳優業の特徴みたいなものである。
「いろいろ係官の調べを聞いてみると背恰好《せかつこう》も寛君に似ている。どきりとしたね。なにも寛君が殺人犯だと思ったわけじゃないが、こいつはとんだスキャンダルになりそうだと思ったし、寛君にもし相思相愛の恋人でもあったらさぞかし嘆くだろうとねえ」
「伯父《おじ》様、それは寛じゃありませんわ。今朝も電話で申し上げたように、寛は昨夜、私と染ちゃんと一緒に……」
「わかっているよ。その事は既に昼間、寛君のアリバイがはっきりしすぎる程、はっきりしちまったのさ。Pホテルの乱闘事件がちゃんと警察へ報告されていたわけだ。少なくともアパート付近をうろうろしていた男は寛君じゃない。第一、彼はS病院から染ちゃんと八千代を自宅へ送り、青山の家へ帰りついた時、門前でパトロールの警官と逢《あ》っている」
パトロールの警官は能条寛と顔見知りだった。
「随分、おそいんですね」
「いや、ちょっと友達が怪我《けが》をしましてね」
そんな挨拶《あいさつ》をして寛が家へ入ってから警官は腕時計で時間を確かめている。一時十五分過ぎだった。
「寛君がS病院を染ちゃんと八千代と三人で出て行った時間は宿直の話だと一時十分前ぐらいだそうだ」
慎作は手帳のメモを確かめて言った。
「ええ、そうですわ。玄関の所の時計をみて染ちゃんがもう一時になるのってびっくりしたの憶えてます」
八千代は白い壁にかかった大きな時計が、如何《いか》にも外科病院らしく冷たくそっけなく見えたのを思い出しながら言った。
「要するに寛君はS病院から柳橋、銀座を回って三十分足らずで青山へ帰っている。深夜で車が空いていたにしてもこの時間では彼が途中でどこかへ寄り道する時間の余裕はない。これで彼のアリバイは完全なんだ。警察の発表では発見された細川京子の死体は死後最低十二時間は経っているということなんだ。つまり凶行は時間を大幅に見つもっても昨夜の午後六時以後、午前一時以前に限定されるわけだ」
「危かったなあ。全く……」
寛が首をすくめて頭を掻《か》いたので八千代の気持ちも和んだ。
「伯父《おじ》様ったら俺《おれ》は寛君を疑わないっておっしゃったくせに、そんな細かい事まで調べるなんて……」
八千代は抗議した。
「僕が疑ったわけじゃない。捜査官のご連中だ。それにしても狼狽《ろうばい》したね。ブランデーが好きなことといい、細川京子が惚《ほ》れている様子といい、どうしたって相手は寛君らしい。それに、寛君なら細川京子に近づきたがる可能性が大いにあるだろう」
結城慎作は眼を細めた。
「被害者が細川昌弥の妹でなければ、勿論《もちろん》、僕ももっと落ち着けたんだよ」
慎作と寛の視線が初めて絡み合った。
「率直に言います。僕が京子さんの死因について思い当たることと言ったら一つしかありません。万が一、それが彼女の殺される原因だとしたら、今度の事件は正《まさ》しく細川昌弥の死につながっていると思います。そして僕の推定では更にその前の海東英次先生の死とも同じ線の上における事件ではないかと思うんです」
寛の言葉に慎作はゆっくりうなずいた。
「僕はそれに小早川喬|轢死《れきし》事件も加えたい。昨年から起こった四つの死に共通した犯人を想定してみたいんだ。確証は目下の所、口に出して説明出来る程、揃《そろ》ってはいない。だが今度の事件が或《あ》る人間の殺人第四号なのではないかという根拠がある事は事実なんだ。それは私にとって非常に悲しむべきことなんだが……」
結城慎作は何故かそれ以上語ろうとしなかった。
夜の境内
結城《ゆうき》慎作の家を出ると寛《ひろし》は門灯が思い思いに光っている住宅街を抜け、正面に見える石垣に向かって車を進めた。
「この上の森はなんだい」
石垣はかなり高く、それに沿って坂道がゆるく傾斜している。
「神社よ。この辺の氏神様の境内《けいだい》だわ」
「車で上まであがれるかな」
「ええ、その坂を上がると左側が区民会館で右のほうが神社の境内よ。正面は石段だから勿論《もちろん》、車は駄目だけど、坂は別に車馬通行禁止じゃなかったと思うわ」
八千代はいつか結城の伯母《おば》とその境内を散歩した時の記憶をたぐりながら答えた。
「車馬通行禁止はよかったな」
笑いながら寛がハンドルをひねったので、八千代はびっくりした。
「お宮へ行くつもりなの。こんな夜に……」
「まだ八時前だよ。暑さしのぎに散歩してみないか」
車は八千代の返事を待たずに境内へ乗り入れた。区民会館前の駐車場で寛は車の鍵《かぎ》を取り出した。
区民会館の白い建物は大きく窓が開け放されていて、若い男女がしきりと動いている。六、七人のグループだった。大きな声で叫び出した一人が大げさなポーズをしているので八千代はあっけにとられたが、よく見ると彼らは芝居の稽古《けいこ》をしているのであった。隅のほうに更に五、六人がかたまって眺めている。近頃《ちかごろ》、めっきり数が増えたという群小劇団のグループが区民会館を貸りて稽古を行っているものらしかった。
駐車場の先に関所のような木戸がある。そこを通り抜けると神楽殿《かぐらでん》が黒々と立っていた。
「随分、広い境内じゃないか。東京にはちょっと珍しいね」
古風な昼夜灯と殺風景な外灯が適当な位置に並んでいる。
「由緒があるんですってよ。伯母《おば》の話では。もっとも神社とか寺院とかには大抵、ややっこしい由緒《ゆいしよ》とか故事来歴があるものらしいけど」
二人は石畳をぶらぶら歩いた。右側が池である。暑苦しい夏の宵《よい》を避けた夕涼みのグループがそこここの木陰を占領している。浴衣《ゆかた》姿が多いのは近所の人々なのであろう。
「割合人がいるねえ」
寛が感心して呟《つぶや》いた。
「どこか涼みながら、ゆっくり話せる所はないかな」
石畳を突き当たって左へ折れた。右は参道でその儘《まま》行くと石段があり下は大通りである。
左は小暗かった。道も細い。樹木がトンネルのように枝を伸ばしていた。
門があった。寺である。インドの寺院みたいな四角い建物がひどくモダンだった。
寺の建物の横に墓場の石塔が見えた。
寛が墓場の方へ足を向けたので八千代は思わず腕を掴《つか》んだ。
「嫌だわ。寛、どこへ行く気なの」
「なんだ。怖しいのかい。八千代ちゃん」
「薄気味が悪いわ」
寛が足を止めないので八千代は引きずられた恰好《かつこう》で墓場へ入り込んだ。
「薄気味悪いのは生きてる人間さ。死んじまったらきれいなもんだ。影も形もなくなったら心をかくす場所がないだろう。赤裸々な魂がひっそりと寝静まってる墓場なんてすごくロマンティックなものじゃないかな」
石塔の間を寛は物色して歩いた。
腰かけるに適当な墓石を探しているらしい。
墓地の中央に松が一本生えていた。その根もとに墓石というよりは碑みたいな石が黒々と築かれている。一坪ほど碑を取り巻く地面があってその周囲を石の柵《さく》がめぐっていた。形の平たい台石が二個並んでいる。
「ここがいいよ。ここへ坐《すわ》ろう」
寛は大判のハンカチを出して一つの石に拡げた。
「お坐りよ」
仕方なく八千代は石へ腰を下す。並んで坐りながら寛は墓石を眺めた。大きな文字が石に刻まれている。月明りに読めた。
「篤信斎藤先生之墓」
闊達《かつたつ》な文字である。
「なんだ。こいつは斎藤弥九郎のお墓じゃないか」
素頓狂《すつとんきよう》な声だったので八千代は辺りを見回した。墓の下の幽霊が彼の声でめざめるのを怖れるような顔色である。
「なに、斎藤弥九郎って……」
そっと訊《き》く。
「江戸時代の剣客さ。幕末だよ。神道無念流だったかな。そう言えば彼が晩年、代々木野へ住んだってのを小説かなんかで読んだよ。彼のお墓がこれかあ、成程ねえ」
寛はアメリカ大陸を発見した時のコロンブスみたいに感激して言った。
「いいじゃないの。そんな剣客のお墓なんか、どうだって……」
八千代は少しむくれた。こんなロマンティックな夜に二人きりでいて、男性はそんなくだらないことに夢中になるものかと情ない気がする。女はムードに弱いというが、寛の場合、ムードなんか爪《つめ》の先ほどもない。
寛は漸《ようや》く、墓石から遠い夜景に眼を転じた。ワシントンハイツが見渡せる。戦争までは代々木練兵場と呼ばれていた広大な地域にアメリカ軍の家族の建物が並び、正面には彼等の子供のための学校すら出来ている。
一か所、提灯《ちようちん》が万国旗のようにつるされ、派手なジャズが聞こえてくる。夏の夜のためのガーデンパーティの会場らしい。
「ねえ、寛、寛ったら……」
八千代はしびれをきらした。黙っている事が不安でもあった。
「細川京子さんを殺したのは誰《だれ》なの。なんのために彼女は殺されたの。寛はなにか知っているんじゃないの」
寛はワシントンハイツの灯から眼を離さずに答えた。
「それはもっと捜査が進んでみないとわからないよ。しかし、結城の小父《おじ》様もおっしゃってたようにこの殺人は単なる物盗りや行きずりの強盗ではない。つまり室内を物色した形跡もないし、飾り戸棚の引き出しにあった宝石や装身具も、箪笥《たんす》の中の貯金通帳、五万円ばかりの現金、そうしたものに一切、手を触れていないこと。それから裸で殺されているけれど……彼女が凌辱《りようじよく》されていないことだ。これは相当、問題になると思ってるんだ」
「そうすると、犯人は京子さんの知ってる人ね」
「だろうと思う。それも余《よ》っ程《ぽど》、彼女と親しい人間だね」
「親しい人……」
八千代は咄嗟《とつさ》に岩谷忠男のでっぷりした姿を思い出した。岩谷忠男はビール党である。京子の部屋のテーブルにはビールが出ていた。しかし、岩谷忠男にはアリバイがある。
「でも、京子さんが大東銀行の岩谷さんの……」
二号と言いかけて八千代は別の表現を考えた。
「岩谷さんの愛人だったなんて少しも知らなかったわ」
岩谷忠男が八千代の踊りの師匠である茜《あかね》ますみのパトロンだった事は無論、八千代も知っている。
「全くだ。そういえばいつか、僕が車のことでニューセントラルアパートへ来て、ばったり茜ますみさんの所の久子さんと逢《あ》ったとき、彼女が細川京子さんと茜ますみさんは昔、京都に住んでいた時分に家も近所で、親しくしていたが現在は絶交状態だと言ってね。僕がその理由を訊《たず》ねたら、口をにごして話さなかったんだよ」
「まあ、そう……」
茜ますみと京子の兄の細川昌弥は、或《あ》る時期、愛人同士だったという。愛人の妹である京子と、兄の愛人であるますみとの仲が険悪になったのは、どうやら岩谷忠男が原因らしい。もっとも、茜ますみについて言えば、小早川喬と結婚する気で岩谷を裏切ったのだから、岩谷が誰《だれ》のパトロンになろうと文句の言えた義理ではないが、女の感情というのはそう単純に割切れないのだろう。
一方、岩谷にしてみれば、新しい愛人をわざわざ茜ますみの家と隣合せのデラックスアパートに住まわせたのは、自分へ叛旗《はんき》をひるがえした女への面当ての気持ちもあったに違いない。
「女って悲しいわ」
「茜ますみさんも、細川京子さんにしても良い男性にめぐり合わなかった事が不幸なんだよ。純粋に愛し合い、信頼するに足る、苦楽を共にして悔いないような生涯に只《ただ》一人の男性にね。その点、君は大丈夫だよ。おこがましいが僕ってものが存在するからね」
寛が肩をそびやかしたので八千代は笑い出した。
「御親切に。感謝して居りますわ」
おどけた言い方だったが、本心でもあった。
「ねえ、八千代ちゃん……」
言いにくそうに寛が言った。八千代の笑い声に勇気を得て口を切ったような感じである。
「女の人の下着って、どんなものをつけてるの」
八千代の凝視にぶつかると慌てて説明を加えた。
「いや、君のことじゃないんだ。一般に……一般の女性の常識としてだよ」
「何故、そんな事を訊《き》くの」
流石《さすが》に八千代は赤くなった。
「今度の事件の参考なんだ。要するにね。京子さんを殺した犯人は最初、彼女と一緒にビールを飲んでいた。ちょっとした隙に、彼女がトイレにでも立った時かなんかに彼女のビールへ毒物を入れる。知らずに彼女はそれを飲み昏倒《こんとう》する。それから京子さんの着衣をはいだと仮定した場合にね。女の下着ってものがそんなにたやすく脱がせられるかって事なんだよ」
寛も照れていた。いくら恋人同士でもまだ話の限界がある。寛が口籠《くちごも》ったのも無理はなかった。
「そうねえ」
八千代は目をおとして考え込んだ。
「京子さんはおそらく家庭着でしょう」
「結城の小父《おじ》様はブラウスにスカートとおっしゃったよ。下着と一緒においてあった服がね」
「ブラウスとスカートなら、せいぜいブラジャーとスリップ。ペティコートをつけてるかしら。お家だから靴下ははいてないでしょうからコルセットもガータベルトもしていらっしゃらなかったと思うわ。下はパンティでしょう」
八千代は都合の悪い単語は早口で喋《しやべ》った。
「ごく単純に見つもってもブラジャーとスリップとパンティとブラウスとスカートか」
寛は指を折って数えた。
「それにしたって女の下着ってのは紐《ひも》だの、ボタンだの、色々ついていて厄介なんだろう」
「そうねえ、カギホックぐらいだけど、大体が体にぴったりしているものでしょう。割合に脱ぎ着は大変よ。殊に当人以外の人がする場合は人形の着せかえみたいな具合には行かないでしょうね」
八千代は女学校時代に休憩時間、級友の一人が平均台から落ち、肩と胸部を打って病院にかつぎ込まれた際、下着が脱がせられなくてスリップもブラジャーも鋏《はさみ》でずたずたに切って手当てをしたという話を思い出した。それを話すと、寛は我が意を得たりとばかりうなずいて言った。
「当人に脱ぐ意志がなく、しかも死体なんだ。そう手ぎわよく脱がせられるだろうか」
「犯人が余っ程、器用な人か……」
そこで八千代は気がついた。
「寛は……犯人が女ではないかと思ってるのね」
「結城の小父様が状況説明の時、おっしゃったね。台所に洗ったコップが一つあったって。それは犯人が京子さんと一緒に飲んだコップなんじゃないかと思うんだ。指紋とか唾液《だえき》とか、それらが手がかりになるのを怖れたのか、それとも自分の使ったのをそのままにしておくのが嫌だったのか、コップがきちんとコップ専用の洗いあげのプラスチックの棚に乗っていた状況からすると、コップを洗ったのは女だと思うよ。男なら洗ってもそこらへ伏せとくだろう。コップ専用の水切り棚なんて気がつくだろうかな」
「そうねえ」
言われてみればそんな気もする。プラスチックの棒を曲げて作ったコップ挟みは洗った後、その棒の上にコップをかぶせておくと固定して自然に水が切れる。六個が一組になり上に手がついていて、そのまま持ち運びも出来る。台所の新製品であった。
「コップのことと下着のことで、僕は犯人が女じゃないかと考えたんだ」
「犯人が女……」
細川京子の知っている女で、ビールが飲めて京子に殺意を抱く女……。
(茜ますみ先生……)
浮かんだ顔はそれだけである。岩谷忠男という男性を中心においた場合、茜ますみが細川京子に怨《うら》みを持たないとは言い切れない。女の三角関係は得てして対象となるべき男性は憎まれず、逆怨みに相手の女を憤《おこ》る。
「でも……犯人が女だったら、死体をバスルームまで運ぶのが難しくないかしら」
八千代は必死になった。人間的には尊敬できない人でも師匠である。殺人犯とは思いたくないのが人情だろう。
「大柄な女ならなんとかなるだろう。細川京子さんはそれ程、肥っていない」
八千代は絶句した。茜ますみは女にしては大柄な人である。家も近い。
「ねえ、八千代ちゃん、もう一人、ずっと以前に京子さんとよく似た死に方をした人があるだろう」
寛に言われて八千代はあっと声をあげた。
「海東先生も修善寺で……」
寛は昼の暑さの残っている石塔の表面を軽く掌《て》で撫《ぶ》しながら続けた。
「海東英次先生が茜ますみさんの門下生の年末慰安会が修善寺で行われたとき、同行して急死したのは昨年の十二月六日だったね。あの時も死体は風呂場で発見され、しかも海東先生は死の直前までビールを飲んでいた」
「でも……海東先生は心臓|麻痺《まひ》だったわ。京子さんは明らかに青酸カリの毒殺でしょう」
八千代は辛うじて抗議した。胸に浮かんだ犯人のイメージを打ち消したかった。
「異なる点はそれだけだよ。共通点、つまり作曲家の海東英次氏と細川京子さんの死の類似点は死体現場が風呂《ふろ》場で裸体であること、ビールを飲んでいること、それからもう一つあるね」
「もう一つって……」
「両方共、茜ますみさんと特殊な間柄にあるって事だよ」
海東英次と茜ますみの仲は公然の愛人同士であった。細川京子は茜ますみとかつては交渉のあった細川昌弥の妹で、茜ますみのパトロン、岩谷忠男の現在の愛人ということになる。
「ねえ、八千代ちゃん、つくづく考えてみると昨年の海東英次氏の死から細川昌弥君の自殺、小早川喬の轢死《れきし》、それから今度の細川京子さんの事件と四つの死が全部、一人の女につながっている。つまり、四人共、茜ますみさんに関係のある人たちばかりだということなんだよ」
「でも……寛、だからって必ずしも……」
「茜ますみさんを疑うのは根拠が弱いというんだろう。僕も勿論《もちろん》、まだ彼女が四つの死の犯人だとは断定していない。しかし、少なくとも彼女が四つの死になんらかの意味のある存在じゃないかと考えてるんだ」
寛は手を伸して夏草をむしった。しっとりと夜露が下りている。
「歩こうか」
寛が立ち上がり、八千代はハンカチを取ってハンドバッグにしまった。後で洗って返すつもりである。
墓地を抜けた時、二人の前を小さい光がかすめた。蛍である。
「蛍がとぶなんて東京の中の田舎《いなか》だね」
「籠《かご》から放されたのかも知れないわ」
縁日かなにかで買って来たものが飼い主によって自然に帰されたのかも知れなかった。
「墓場でみる蛍の光って、なんだか人魂《ひとだま》みたいな感じだね」
寛の言葉で八千代は肩をふるわせた。小さな蛍火は薄幸だった細川京子の魂を想わせる。
「それにしても、昨夜、もし寛が京子さんとの約束通り、八時にアパートをおたずねしたら……」
もし、寛が撮影所から銀座に出て、時間待ちのためにバー「ガス灯」へ寄らなければ、寄ったにしても菊四から八千代に関して思わせぶりな台詞《せりふ》を聞かなければ、寛は約束通り八時にニューセントラルアパートを訪ねている。
「私、なんだか気がかりでならないの。私のために寛が京子さんとの約束をすっぽかした。それが京子さんの死に関係があるんじゃないかしら、少なくとも八時に寛が京子さんを訪問していたら、京子さんは殺されなくて済んだのではないかしら」
だとすれば、京子の死の直接原因は自分にあるような気がして、と八千代は訴えた。
「なんだ。そんな事を気に病んでたのか」
寛は笑い捨てた。
「僕はむしろこう考えてるんだ。僕があの時間に京子さんと逢《あ》うということ、それ自体が京子さんの殺される原因だったんじゃないかという意味なんだよ」
二人は寺院の門を出て木《こ》の下闇《したやみ》をいつのまにか手をつないで歩いていた。
「要するに、京子さんを殺害した犯人は、僕が昨夜、京子さんと逢っては困る。言いかえると僕が京子さんと逢う目的が、犯人に京子さんを殺させたという推察なんだ」
「寛が京子さんと逢う目的っていうと……アルバムを見せて貰《もら》うこと……?」
「そうだ。僕は昨夜、京子さんから、細川昌弥君の古いアルバムを見せて貰うことになっていた。そのアルバムには細川昌弥君が失踪《しつそう》直前に京子さんへ、昨夜珍しい人に逢ったといいながら眺めていた写真が貼《は》ってある。僕はその珍しい人というのがアルバムの中の写真にある人に違いないと思うんだ」
古いアルバムの中にあった昔の知り人と偶然、再会した翌日、その昔の写真を取り出して眺めるというのは自然な感情であり動作でもあろう。
「僕が京子さんからそのアルバムを見せて貰って、その中から一枚の写真を発見することを阻止するために犯人は京子さんを殺したんじゃないだろうか」
「だったら、寛、犯人は……」
「僕が八時に京子さんを訪問してアルバムを見せて貰《もら》うことを知っていた事になる。そして僕の推量が当たっているとしたら、その犯人は細川昌弥君の自殺にも深い関連がある」
「でも、寛、犯人はどうしてあなたが八時に京子さんを訪問してアルバムを見せて貰うということを知ったのかしら」
八千代は当然な疑問をすらすらと口に出した。
「僕もそれを考えている。あの約束をしたとき、僕は京子さんと二人きりだった。知っているのは僕と京子さんだけだ。僕は誰《だれ》にも話していない。昨夜の時間の直前に君と染ちゃんに説明しただけだ」
「私と染ちゃんじゃ……」
昨夜は三人共、終始一緒に行動している。三人の中の一人が犯人になることは不可能だった。
「京子さんが誰かに話した。その話した中の一人が……としか考える余地がないんだが、誰に話したのか見当はまるでつかない」
肝腎《かんじん》な京子は既に物言わぬ人になっている。彼女の生前の交友を当たってみた所で、まるで大海に落ちたイヤリングの片方を探すみたいな頼りなさである。
「それとね。八千代ちゃん、僕の推察が間違っていないとすると、京子さんは僕がニューセントラルアパートを訪問する筈《はず》の八時以前に殺されていた筈だ。それでなければ犯人の目的は遂げられないだろう」
「つまり、寛が急に京子さんを訪ねることを放棄した、寛の予定変更は犯人の計算に入っていなかったのね」
「と思うね。何故なら僕の予定変更は僕の心の中で昨夜、突然に起こったことで、撮影とか仕事の関係で必然的にそうなったのじゃないんだ」
寛は自分の言葉を慎重に吟味《ぎんみ》しながら喋《しやべ》り続けた。
「もし、僕が最初の予定通り、八時きっかりにニューセントラルアパートへ細川京子さんを訪問したとする。ノックしても答えはない。ドアを押してみる。死体発見をした岩谷忠男氏の運転手はドアに鍵《かぎ》がかかっていなかったといっている。僕が八時にドアを押したとしても、条件は同じだろう。運転手が発見したのは翌朝だが、僕の場合は京子さんが殺された直後という事になる。僕が死体発見者だった時に、果たして運転手と同じく単なる死体発見者で済むだろうか。青酸カリは絶命するのに数分を要さない」
八千代は息を呑んだ。寛の言う意味が次第にはっきりして来たのだ。
「八千代ちゃんは結城の小父《おじ》さんから聞いた筈《はず》だ。昨夜、七時過ぎ僕によく似た感じの男がニューセントラルアパートの周囲をうろうろしていたこと。勿論、それは僕じゃない。しかし、それから判断するとこういう事も言えるんじゃないか。僕が先に京子さんを殺して或《あ》る時間をアパートの傍でつぶし、改めて死体発見者をよそおったのではないかということさ」
木《こ》の下闇《したやみ》の細道を抜けると再び神社の参道へ戻った。
石畳をさっきとは逆に神社の正面へ向って歩く。
「だったら、寛、犯人は寛を……」
八千代はそこに思いついて慄然《りつぜん》とした。
「そうなんだ。僕を細川京子殺しの容疑者として仕立てあげる。少なくとも今度の殺人事件はそうした犯人の下心があったんじゃないかと思うんだ。僕が八千代ちゃんの問題で約束の時間に京子さんを訪問しなかったのは犯人にとって当てが外れた結果になったんだろうね」
「でも、犯人はどうして寛をそんな怖しい……。寛になにか怨《うら》みがあるのかしら」
池に沿って小道へ折れながら八千代は訊《たず》ねた。
「犯人は気がついたのだよ。僕らが犯行の跡を探っていること、言いかえれば黒い扇に興味を持っていることだよ」
「黒い扇に……」
「そう、僕は海東英次先生、細川昌弥君、小早川喬氏、細川京子さんと四つの死体が一本の線の上におかれるべきだ。言いかえると四つの死因に同一の犯人の顔を僕らは想像している。四つの死の中の二つは自然死、自殺という形になっているけれど、僕はそれにも或《あ》る犯人の手が動いたのだと信じている。犯人は僕のそうした推理に気づき、同時に邪魔な存在になって来ているんだ」
「だとしたら……」
八千代は肩をすくめた。
「私、怖いわ」
「大丈夫だよ。智恵《ちえ》と智恵の勝負さ。八千代ちゃんには僕がついてるじゃないか」
「でも……」
「僕じゃ頼りないかい」
寛が足を止めて、顔をのぞいたので八千代は赤くなった。
「そんなことないけど……心配だわ。私のことより寛の体がだわ」
正直、八千代は後悔しはじめていた。
「こんな事になるのも、私が修善寺で黒い扇なんか拾って来たからだわ。止せばよかったのに……」
「なに言ってるのさ。カメラは回り出してるんだぜ。中途で放り出せるもんか」
パトロールの警官が近づいて来た。突っ立っている寛と八千代をじろじろ眺めてすれ違って行った。
「歩きましょう。寛」
立ち止まっている事に八千代は羞恥《しゆうち》を感じた。
「日本の警官って野暮な奴《やつ》だな」
寛は聞こえよがしに言って歩き出した。左側に大きな藁《わら》屋根が見える。
「なんだい。これは……」
「古代住居|趾《あと》ですって、何年か前に発掘されて復元されたものなのだそうよ」
八千代は以前、結城の伯母《おば》に教えられた通りを言った。
黒い住居趾の屋根は昼見るより怪奇な感じがした。蝙蝠《こうもり》が羽を拡げてうずくまっているような感じである。
八千代はふと、この春、結城の伯母《おば》とこの境内に散歩に来た時のことを想い出した。あの折、伯母の連れていたポメラニアンの子犬が池に落ちて……それを助けてくれたのは茜ますみの所の内弟子をしている五郎だった。
(五郎さんのアパートはこの近くだと言ってたけれど……)
彼とは最近、稽古場《けいこば》でもあまり顔を合わせない。花柳界の稽古へ茜ますみの助手として従《つ》いているらしかった。
(五郎さんと言えば、菊四さんの言葉だと彼と久子さんとが恋人同士らしい。おまけに小早川喬の殺人にはどうも五郎があやしいと菊四さんは言っていたけれど……)
池のふちではアベックが抱き合って夜空を眺めていた。二人が傍を通っても寄せ合った頬《ほお》を放そうともしない。
ちらと眺めただけで八千代は自分の方が恥ずかしくなった。寛がどう思ってみているかと気になったりした。
「八千代ちゃん、僕、結城の小父《おじ》さんに頼んでみようと思うんだ」
不意に寛が言ったので、八千代はどきりとした。二人の結婚のこと、と連想したのだ。
「なにを……?」
「アルバムのことさ」
八千代ははぐらかされた動揺をかろうじて微笑にまぎらわした。
「アルバム……?」
「細川京子さんの部屋にアルバムが残っているかどうかということさ」
寛は八千代の気持ちに頓着《とんちやく》なく話した。
「おそらく、京子さんを殺した犯人は、アルバムを持ち去っているに違いない。念のために確かめてみたいんだ。アルバムがもし無事に残っていたとしたら、僕の推理は最初からやり直さなければならない」
「伯父《おじ》様の家へ、これから戻ります?」
八千代はわざと固い声を出した。
「いや、もう遅いし、家へ帰ってから電話でお頼みしてみよう。小父さんなら警視庁の方とも親しいし、なんとかして下さるだろう」
境内を横切って二人は神前で頭を下げ、車を止めてあった区民会館の広場へ帰った。
鍵《かぎ》を取り出して車へ近づいた寛を、八千代は少しばかり淋《さび》しげな面持ちで眺めた。ロマンティックな夜の境内を散歩したのに、
(これが恋人なのかしら……)
ちょっぴりだが、不満だった。が、それは車が走り出したとたんに解消した。ハンドルを握ったまま、寛が八千代の耳へささやいたものだ。
「僕は、神前でお辞儀をした時、なんて祈ったと思う。隣に居るのが僕の恋人です。お間違いなきように……」
消えた写真
細川京子殺人事件の捜査は遅々として進まないようであった。
被害者の交友関係が洗われたが不審な人物は出て来ない。
第一、手がかりらしいものがなにもないのだ。犯人らしい人物の目撃者もいない。
ニューセントラルアパートの居住者は殆《ほと》んどが特殊な職業に従事している人間であった。夜は遅いのである。それと、デラックスなアパートに住む人々は私生活を他人に覗《のぞ》かれるのを好まない。つまり、交際が絶無なのである。建築もそのように出来ていた。部屋に鍵《かぎ》をしめ、エレベーターを利用しての外出だから廊下や階段で隣人とすれ違うということもめったにない。エレベーターは自動である。乗った人間が自分で操作する。ボタンを押すだけだから子供でも出来た。エレベーターは三台ある。
他に非常用の階段があった。裏口へ出られるようになっていた。
アパートへの来客は一応、管理室の前を通ってエレベーターへ乗る。管理室には通常、係員が一名いるわけだが、便所にも立つし、奥へ入ってテレビを見ていることもある。管理室の人間に顔を見られないようにアパートへ出入りすることも不可能ではなかった。
犯人の捜査は一向にはかどらなかったが、細川京子の事件で手ひどい打撃を受けたのは他ならぬパトロンの岩谷忠男である。
「全く、被害者と言えば岩谷氏が最大の被害をこうむったということになりそうだね。銀行家として社会的な信用を失墜するのは致命傷に等しい。不名誉も甚《はなは》だしい事件だからねえ」
電話で呼びよせた能条寛と浜八千代とを前にして結城慎作はパイプをくゆらした。
事件後、数日経った夕刻、場所は代々木初台にある結城家のテラスだった。
「御家庭の中もめちゃめちゃなんですってよ。奥さまは半病人みたいになっておしまいだし、お嬢さんは恥ずかしくて学校へも行けないって泣いていらっしゃるらしいわ。女中さんも近い中にお暇をとろうと思うなんて、うちの女中に話してたそうよ」
紅茶をいれながら慎作の妻のはる子が言った。そう言えば岩谷忠男の邸は結城家と同じ町内である。距離にして二百メートルばかりの近さだった。
「噂《うわさ》だが、岩谷君は近く、大東銀行へ辞表を出すらしい。あたら頭の切れる敏腕家が、とんだつまずきをやったものだ」
「伯父《おじ》様はたしか岩谷さんとは……」
「大学時代の級友なんだ。もっとも彼は代表的秀才、こっちは落第スレスレの組だがね」
結城慎作は立ち上がって書棚から一冊のアルバムを取ってテーブルへ置いた。
「寛君、君から頼まれたアルバムだよ」
結城慎作がテーブルに置いたアルバムに、寛と八千代は思わず声をあげた。
「これが、細川京子さんの部屋にあったアルバムですか」
「ああ、ニューセントラルアパートの被害者の部屋の飾り棚に乗っていたそうだ。他にアルバムはなかったそうだから、君の言ったのはこれ以外ではないと思うよ」
「そうですか。飾り棚の上に……」
寛は嘆息をついた。細川京子は寛の依頼に応じて、このアルバムを市川の親類から持ち帰り、間もなく訪れるであろう彼に見せるべく飾り棚の上に置いたに違いない。
「寛、アルバムはあったのね」
八千代は青いビロードの表の古めかしいアルバムを眺めた。寛の推定から行くと、細川京子はこのアルバムのために殺されたことになり、犯人はアルバムを持ち去っていなければならないのだ。
だが、アルバムは飾り棚の上にあった。
「警察の調べだと、前にも言ったように室内はまるで荒らされた形跡はない。このアルバムにしても他人が手を触れたような痕跡《こんせき》はなかったそうだ」
慎作は再びダンヒルのパイプに眼を細めながら言い加えた。
寛は黙々とアルバムの表を見、それから手袋を取り出し両手にはめた。アルバムを取り、丹念に一枚一枚たぐった。
写真は主として細川昌弥のものだった。小学校時代らしい。遠足や運動会の写真、一人で笑っているのや、妹の京子と並んでいるのなど、どれも子供子供した屈託のないものばかりである。
小学校は男女共学だったようである。級友と写っているのもある。自宅へ遊びに来たものらしい。全部、男の子ばかりだった。
眺めている寛の眼に次第に失望の色が濃くなった。八千代はがっかりした。
残りの二、三枚を寛はぱらぱらとめくった。当ての外れた顔でアルバムを閉じようとして急に、慌《あわ》てて終わりから三枚目をめくった。
「やっぱり……」
呟《つぶや》きが寛の唇を洩《も》れた。
「どうしたの。なにかあったの」
八千代の問いに寛は微笑した。
「僕の推定は、やっぱり間違っていなさそうだよ。八千代ちゃん、これを見給え」
寛の指は一ページの下の方を指していた。写真が一ページに三枚か四枚ぐらいの割合で貼《は》ってある。それが、その一隅だけ、ぽっかりと空間になっているのだ。そればかりか黒いアルバムの地紙が点々と四か所、小さく剥《は》げて白い生地が出ていた。
「寛、これは……?」
明らかに一枚の写真をそこからはがして行った形跡なのである。
寛は八千代の覗《のぞ》いているアルバムを不意にバタンと閉じた。
新しくパイプに火をつけている結城慎作へ訊《き》いた。
「細川京子さんの市川にいる御親類というのは御存知ですか」
「ああ、たった一人の伯母《おば》さん、被害者の死んだお母さんの姉さんという人だろう。参考人として呼ばれていたよ」
「じゃ、東京へ来ているんですか」
「いや、もう帰ったようだ。犯人に関しては勿論、心当たりもないと言っていたし、被害者の現状については、或《あ》る人の世話になっているという程度の打ちあけ話しか知らされてもいなかったらしい。市川で小さな雑貨商をやってるそうだが、田舎《いなか》町のおかみさんでね。例の赤坂のニューセントラルアパートに残された被害者の財産、大半はパトロンの岩谷忠男氏があたえたものだろうが、まさか彼が返却を求めもしないだろうが、かなりの宝石や貯金もある。そうしたものを別に慌てて引き取って行こうという欲もないのだよ。こういう事件の時はよく、平常つき合っていない伯父さんだの叔母《おば》さんだのが、被害者の遺産相続人として勝手な真似をするものだが、そんな才覚すら働かない平凡な女のようだよ。姪《めい》の不慮の死に仰天してばかり居たと、これは警察側から聞いたことだがね」
「そうですか。すると現在は市川にいるわけですね」
「ああ、いずれ近く、アパートの整理問題などで上京はしてくるだろうが……」
「市川の住所は御存知ですか」
「メモがある筈《はず》だよ」
慎作は気軽く立ち上がってメモ帳を持って来た。市川市市川××番地というその住所を寛は手早く手帳に書いた。
テラスでの話はそれから普通の世間話になり、一時間ほどで若い二人は結城家を出た。
結城慎作は終始、若い二人の談笑を微笑しながら眺めているだけで、アルバムのことにも、市川の細川京子の親類の事にも触《ふ》れなかった。
「よかったわ。伯父《おじ》様がなにもお訊《き》きにならなくて……何故、アルバムをあなたが見たがったのか、どうして市川の京子さんの伯母《おば》さんの住所を知りたがったのか、伯父様に尋ねられたら寛、なんて答えるつもりだったの」
外へ出てから八千代は正直にほっとして言った。今日はタクシーで来たから寛の車はない。暗い邸町を二人は表通りへ歩いた。
「小父様は僕らが何を考え、何をしようとしているのかをおよそ察しているんだよ、だから何も訊かなかったのさ」
「そうかしら。でも驚いたわ。あのアルバムの消えた写真、寛の推理通りだったのね」
八千代の視線を正面から受けとめて、寛は大きくうなずいた。
「あの写真をはがした痕《あと》ね。非常に新しい。はがした痕が白くて汚れていないし、すれてもいない所をみると、つい最近に剥《は》ぎ取ったに違いない」
「そうね、あの四角い痕には……」
「そう、一枚の写真が貼《は》ってあった。大きさはキャビネだろうね。その写真は京子さんを殺害した犯人が、ひそかに剥いで持ち去ったんだ」
「誰《だれ》なの。誰だと思うの。その写真を持って行った人間は……」
辛抱し切れないで、八千代は訊《き》いた。
「それは、まだ僕にもわからない。しかし、犯人は今度こそ、或《あ》る手がかりを残したんだよ。今までの事件には一つとして尻尾《しつぽ》を見せなかった、いや、見せても掴《つか》ませなかった犯人がね。今までの事件で一番、困ったのは犯人の目的がまるで解らないことなんだ。被害者が何故殺されたか原因が不明だ。少なくとも、京子さんの場合は僕の想像では一枚の写真を奪うため、もしくは京子さんがその一枚の写真によって、兄さんの細川昌弥君の死に対する疑惑の手がかりを掴んだためではないかと思うんだ」
そこで寛は声をひそめた。夜の早い邸町はひっそりと人通りもない。二人の靴音に時々犬が塀の中で吠《ほ》えた。
「八千代ちゃん、君、すまないけど市川まで行って来てくれないかな」
八千代は即座にうなずいた。
「寛は消えた写真がなんであったか知りたいのね」
「まず、あのアルバムの終わりから三枚目のページの写真を剥《は》いだ痕《あと》、京子さんが伯母《おば》さんの所からアルバムを貰《もら》って行った時、あの個所には写真が貼《は》ってあったかどうか。それから、もし貼ってあったとしたら、それはどんな写真だったのか」
「伯母さんが記憶しているといいけれど……」
「それなんだ」
ぽつんと呟《つぶや》いて寛は足許に目を落とした。
「いいわ。とにかく、私、市川へ行って来ます。明日はママが留守で駄目だけど、明後日なら、なんとかなるわ」
「頼むよ。僕も一緒に行きたいが、明日からは昼も夜もの強行撮影なんだ」
「知ってるわ。あたしと踊るために、スケジュールをつめて下すったんですってね」
ただでさえ売れっ子スターのスケジュールはぎりぎりの所へ無理に茜ますみのリサイタル出演が割り込んだのだ。
「八千代ちゃんのせいばかりじゃないよ。会社の方針さ。なにしろ秋のゴールデンウィークをひかえてるんだもの。働かざるものは喰《く》うべからず主義さ」
寛は八千代の気がねを吹きとばすように笑った。
市川にある細川京子の親類を訪ねて、例のアルバムの消えた写真について訊《たず》ねてくるという約束を、八千代はなかなか果たせなかった。
結城慎作を訪ねた夜から、八千代の母が風邪《かぜ》で寝ついてしまったのである。夏の風邪は厄介な上にこじらすと始末に負えない。
母の看病と、母に代わって「浜の家」の店の采配《さいはい》をふらなければならない八千代は、市川へ出かける余裕がなかった。
能条寛へは電話で事情を知らせておいた。
結城慎作がぶらりと「浜の家」へやって来たのは土曜日の午後だった。
「まあ、伯父《おじ》様」
店から住いのほうへ通じている渡り廊下で八千代はずかずか上がって来た慎作を迎えた。
「お母さん、具合はどうだい」
「はい、昨日から熱も下がりましたし……」
「そりゃあ、よかった」
慎作は下げていたドライアイス入りの箱を差し出した。
「熱っぽい時にはこれに限ると思ってね」
「有難うございます。いつも……」
母の好物であるオレンジシャーベットだった。
「どれ、御機嫌をうかがうとしようかな」
先に立って母の居間へ向かう結城慎作の背には妹思いの情が滲《にじ》んでいた。二人っきりの兄妹である。
殊に早く夫に死別した母が、兄であるこの伯父《おじ》を唯一の頼りにしているのは、八千代もよく知っている。八千代にしても、この伯父には父親へ対する娘の甘えを抱いていた。
子供の時から母にかくしごとをしなかったのと同様、この伯父にも秘密はなかった。が、今は違う。八千代は結城慎作へ一つの言えないことを持っている。
他でもない。修善寺の笹屋旅館で海東英次が不慮の死を遂げた夜、離れの楓《かえで》の間に泊まっていた客、つまり正確に言うなら海東英次の死体の発見者の「河野秀夫」と称する男の人相、年齢が笹屋旅館の女中の言葉から推量すると結城慎作に酷似しているばかりか、宿帳に書きしるした住所の東京都渋谷区代々木初台××番地は、まぎれもなく結城慎作の住所なのである。河野秀夫と結城慎作が同一人物であるかどうかは解らない。が、結城慎作は海東英次が修善寺で死んだ十二月六日は、京都へ旅行している。
八千代は寛と二人で調べた事実と、伯父《おじ》に対するかすかな疑問を、勿論《もちろん》、結城慎作に告げていない。
「結城の伯父様を疑うわけじゃないが、修善寺での調査のことは、伯父様に話さないほうがいいよ」
という寛の言葉に忠実である為だ。そう言えば、八千代は寛に愛情を告白されたことをまだ母親に打ちあけていない。女は恋をすると、肉親や世間へ嘘《うそ》をつかねばならなくなるらしい。
結城慎作は病人の枕許で遅い昼飯を御馳走《ごちそう》になり、一時間ほどなにやら話しこんで帰って行った。
母と伯父の会話を、八千代は店に居たから知らない。
「八千代、帰るよ。お母さんを大事にな」
慎作が帳場をのぞいて声をかけたので、八千代は慌てて立ち上がった。
「伯父様。もうお帰りになるの」
「ああ、まだ社に仕事があるんでね」
「新聞社っていうのは土曜も日曜もないのね。かわいそうに……」
伯父と姪《めい》は玄関まで笑いながら歩いた。靴をはいてしまってから、慎作が不意に言った。
「そう言えば、例の赤坂のニューセントラルアパートね。あそこに市川から細川京子さんの伯母さんが来ているそうだよ。今日と明日と、こっちに居て遺品の始末をするらしい」
八千代が咄嗟《とつさ》に返事も出来ないでいると、慎作は、
「じゃ、また、来るよ」
靴ベラを八千代の手に返して、玄関を出て行った。
とびつくように八千代は電話を取りあげた。赤坂のニューセントラルアパートを呼び出す。管理人に問い合わせると、細川京子の伯母さんという人は部屋で片付けものをしているという。八千代は電話を京子の部屋へ切り替えて貰《もら》った。
送話器から流れて来た声は低いぎこちない調子であった。
歿《な》くなった京子の友達であると八千代は名乗り、生前の彼女のことで少しお聞きしたいことがあるというと、相手は警戒する様子もなく応じた。
「それでは、これからアパートのほうへうかがいますから……」
八千代は早々に電話を切り、外出仕度もそこそこに家を出た。
途中、銀座で手《て》土産《みやげ》に洋菓子を買い、タクシーを拾った。
ニューセントラルアパートへ八千代が来たのは二度目である。もっとも、この前は玄関までで、駐車場にあった能条寛の自家用車を眺めてひそかに胸を痛めた。
管理室で訊《たず》ねてから八千代はエレベーターに乗った。教えられたドアの前で声をかけると、すぐに色の黒い、人の好さそうな中年の女が顔を出した。細川京子の伯母《おば》の有田いねであった。
「この度は京子さんがとんだことで……」
八千代が型通りなくやみの言葉を口にすると、有田いねはもう涙を浮かべた。
「ま、どうぞ、おがんでやって下さいまし」
部屋のすみに黒い枠に入って細川京子の写真が飾られていた。青いリンゴが三つ、その前に供えてある。
細川京子の写真は白い洋服を着て微笑していた。スナップ写真を引き伸ばしたものらしい。
八千代には初めて見る京子の顔であった。生前の彼女には直接|逢《あ》ったことがない。
手土産の菓子を写真の前に供え八千代は合掌《がつしよう》した。
「本当に、あの子もこんな死に方をするなんて、よくよく不運な星に生まれたもんです。かわいそうに……」
お茶をいれてくれながら京子の伯母は眼頭を拭《ふ》いていた。
「若い女が一人で東京で暮らすなどというのが最初からいけなかったんですよ。危いような気がして、何度も市川のほうへ来るように勧めてみたんですが、やっぱり華やかな生活が捨て切れなかったんだろって、うちの人も言ってますです。こんな事になってしまっては、もう後の祭ですが……」
有田いねは八千代が電話で京子の友達だと名乗ったので、生前の京子についてなにか聞けると期待していた様子だった。
「友達といっても、私はつい最近、親しくなったので、あまり詳しいことは存じませんの」
八千代がそういう弁解の仕方をすると、有田いねはがっかりしたようだった。八千代の口から姪《めい》を殺した犯人の手がかりがつかめるかと思ったのかも知れない。
「なにしろ、警察の方が、ほんのちょっとしたことでも、京子がどんな男と交際していたとか、なにか聞いたことがないか、捜査の手がかりになるのだからとおっしゃって下さるのですが。私どもではなにも……」
「京子さんは伯母《おば》様に御日常のことなど御相談なさったことはありませんでしたの」
と八千代は訊《たず》ねた。伯母|姪《めい》の間柄である。そうでなくても女同士はつい打ち明け話をしやすいものだ。
「それが、なんにも……昔から口の重い子で、相談を受けたことなんか一度もありゃしません。頼りにならないと思ってたんでしょう。兄の昌弥が生きていた時分は遊びに来た事もないのですよ。昌弥が死んで家を売ったりなんぞしてから一か月ばかり市川の私の所へ身をよせていましたが、それっきりです。東京でアパート暮らしをするようになってからは時々、あずけてある品物を取りに来るくらいのもので……」
八千代は相手の言葉|尻《じり》を掴《つか》んだ。
「そう言えば、京子さんはつい最近、伯母様の所へ古いアルバムを取りにいらっしゃいませんでしたかしら」
有田いねは無造作に答えた。
「ええ、今月のはじめですよ。あれがあの子に逢《あ》った最後なんです」
八千代は緊張のため、固くなりがちな頬《ほお》をつとめて柔らげた。
「私、実はそのアルバムのことで、少しお訊ねしたいことがございまして……」
「なにか、あのアルバムのことで難しいお話があるんですか。警察の方が、あれを持っていらっしゃったんですよ」
有田いねが不審そうに質問したので八千代は少しばかり狼狽《ろうばい》した。
「いいえ、そうではございませんの。私、実はあのアルバムを京子さんから見せて頂くお約束でしたの。私の昔、おつき合いした方の写真がそのアルバムにあるというので……」
八千代の説明を聞いていた有田いねの表情に奇妙な笑いが浮かんだ。
「ああ、そうでしたの。あなたが昌弥の……それで京子はあのアルバムを持って行ったんですのね」
有田いねは八千代を自殺した細川昌弥と交渉のあった女だと誤解したらしい。
「あのアルバムには昌弥の子供の時の写真が全部、揃《そろ》っているんですよ。京都に住んでいた頃《ころ》のでしてね」
よっこらしょっと立ち上がった。
「ちょっと待って下さい。今、お見せしましょう」
八千代は驚いた。
「アルバムはこちらにあるのですか」
てっきり警察と思っていたのだ。
「はい。捜査の参考に貸してくれということでしたが、あんな古いアルバムはなんの役にも立たないと見えて、すぐ返してくれましたんですよ」
部屋のすみにごちゃごちゃと荷物をまとめてある所からアルバムを抜き出して来た。
結城慎作の家で見たのと同じ、青いビロードの表の古めかしいアルバムである。
「さあ、どうぞ、ごらんなさって下さい」
差し出されたアルバムを八千代は一応、ていねいに最初から繰った。やはり、この前に見たのと違いない。
有田いねは脇《わき》から覗《のぞ》いて、一枚、一枚、それは小学校二年の正月だとか、大ぜいの子供の中の一つの顔を細川昌弥だと教えた。
「実をいうと、このアルバムを私が見せてもらったのは、京子がこれを取りに来たときなんですよ。京子がいちいち説明してみせてくれたんです。いつもはそんなことをする子じゃなかったんだが、やっぱりなにかの虫の知らせみたいなもんだったんでしょうか」
有田いねの喋《しやべ》り方は前《まえ》よりも心やすげになっていた。八千代を死んだ甥《おい》の恋人と思い込んだせいでもあろう。
八千代は漸《ようや》く目的のページを開いた。白く、写真を剥《は》ぎ取った痕《あと》がなまなましい。
「あら、この写真はどうしたのでしょうね」
さりげなく八千代はその個所を指した。
アルバムを覗《のぞ》いて有田いねは首をかしげた。八千代の質問がまだピンと来ない様子である。
「小母様がこのアルバムをごらんになった時に、この場所はやっぱり写真がはがされて居りましたの」
有田いねはアルバムを自分のほうへ向けてしげしげと観察した。
「この場所ですねえ」
ばらばらとめくって見て呟《つぶや》いた。
「写真をはがした痕《あと》なんかありませんでしたよ。京子が私に見せてくれた時は……そんな痕があればおぼえている筈《はず》ですからね」
八千代は轟《とどろ》く胸を押さえて訊《き》いた。
「すると写真が貼ってあったのですわね。京子さんが小母様の所からこのアルバムを持っていらっしゃった時には……」
「そうなんですよ。まあ、どうしたんでしょうねえ。警察の方がはがしたんでしょうか」
「警察はそんな無責任な事はしませんわ」
八千代は更に追及した。
「小母様、おぼえていらっしゃいません。ここにどんな写真が貼《は》ってあったか……」
「そうですねえ。ここん所には……」
有田いねはアルバムの後のページを見、前の二、三枚をめくった。僅《わず》かな沈黙が八千代にはひどく長いもののように感じられる。
「そうですわ。ここの写真は確か卒業式のですよ。昌弥の小学校卒業の記念写真です。京子と二人で沢山の子供の顔の中から昌弥を探すので苦労したのをおぼえています」
「卒業の記念写真……」
八千代はあっけに取られた。八千代が想像していた写真は或る誰か一人のものか、少なくとも或《あ》る誰《だれ》かを含めた三、四人が映っている写真でなければならなかった。
「本当に、間違いありませんか」
八千代が念を押すと有田いねは適確にうなずいた。
「間違いありませんとも。ほれ、ここに月日が書いてありますよ。卒業の日ですわ」
黒い地紙に墨で書いてある文字はある角度からでないと判然とは見えない。この前に見たときは八千代も寛も気づかなかった。小さな文字なのである。
「昭和十八年三月二十五日、講堂にて」
墨の文字は明らかにそう読めた。
「卒業の記念写真に違いありませんですよ。それにしても、どこへ失ったものでしょうね。京子がはがしたのかも知れませんねえ」
有田いねはくどくどとアルバムをいじくり廻《まわ》しながらつぶやいた。
「細川昌弥さんが卒業なさった小学校はどちらですか」
念のために八千代は訊《たず》ねた。
「S小学校ですよ。京都の、平安神宮のすぐ近くだそうですが」
有田いねはアルバムに目を落としたまま答えた。
ニューセントラルアパートの玄関を出て、八千代はなにげなく白い建物をふりむいた。どの窓も言い合わせたようにレースのカーテンが下がっているのが夏らしかった。
建物の左手に金属が日光を反射している。非常用の階段である。建物の外側について、くの字型に下がっている。出口は裏の非常口へつづいていて、その非常口には内側から鍵《かぎ》がかけられている。普段は勿論、そこから出入りしない。
ニューセントラルアパートの左側は坂だった。それを上って右折するとPホテルへ向かう広い道へ出る。八千代はゆるい傾斜をゆっくりと上りはじめた。Pホテルの前の公衆電話から撮影所の能条寛へ電話をするつもりである。
八千代はニューセントラルアパートの非常用階段を横目に見ながら歩いた。なんとなくそれに気を惹《ひ》かれていたのだ。
ふと、或《あ》る事に気づいた。
非常階段のくの字に折れ曲がる中途の位置とアパートに隣接している堤とは同じ高さであった。距離はあるが身の軽い男なら跳べないこともない。
堤は楓《かえで》と松が三、四本生えていて、向う側は茜《あかね》ますみの家の稽古場《けいこば》の裏庭に続く筈《はず》だった。茜ますみの家の玄関へ出るには道をぐるりと迂回《うかい》しなければならないが、もし泥棒の真似をする気なら庭伝いのコースがあるわけだ。
八千代の脳裡《のうり》に浮かんだのは内弟子の五郎だった。若い彼なら身も軽いし、そのくらいの芸当をやっても不思議はない。
突然、八千代はあっと叫んだ。
細川京子が殺された晩、能条寛によく似た背恰好《せかつこう》の男がニューセントラルアパートの周囲を彷徨《ほうこう》したという管理室の加藤青年の証言を想い出したのである。その若い男は白い背広を着て、サングラスをかけていたという。如何《いか》にも映画スター好みのスタイルである。誰《だれ》かが故意に能条寛と見間違わせることを計算に入れてそんな扮装《ふんそう》をしたのだと考えられないこともない。
(五郎さんなら、背恰好も寛ぐらいだし、年齢も顔の輪廓《りんかく》もほぼ似ている……)
八千代はイメージの中の五郎に白い背広を着せ、サングラスをかけさせてみた。
(でも、まさか、五郎さんが……)
内弟子の五郎はぶっきらぼうだが、人の好さそうな気のよわい青年である。しかし、彼には中村菊四の証言もある。例の小早川喬の轢死《れきし》事件の夜、同じ内弟子の久子と茜ますみの家の裏口で逢引《あいび》きし、その際に車の鍵《かぎ》のようなものを五郎が久子に渡したというのだ。菊四の説に忠実になろうとすると、五郎ばかりか久子も事件に関係している事になる。
(とんでもないわ。あの先生思いで、しっかり者の久子さんが……)
八千代は自問自答の首をふった。
道は人通りがなかった。車も殆《ほと》んど通らない。都会であることが嘘《うそ》のようだった。
八千代はうつむいて考え考え歩いた。茜ますみの家の前は素通りする。今日は稽古日《けいこび》ではなかった。
海東英次、細川昌弥、小早川喬、細川京子、指を折って名前を唇に呟《つぶや》いた。昨年の十二月から相ついで起こった死である。
当たり前の事に気づいた。
(京子さんをのぞいては、みんなますみ先生の恋人だわ)
要するに茜ますみと体の関係を持った男たちなのである。三つの死因はそれぞれに異なっているが、三人の男性はまぎれもなく茜ますみの愛人という共通点を持っている。
そして――
(内弟子の五郎さんはますみ先生に熱をあげてお弟子入りした男……)
五郎の茜ますみに対する片想いはもう有名になりすぎて誰《だれ》も相手にしなくなっていた。色恋の噂《うわさ》というのは噂になった二人が大なり小なり気のある同士でなくては話にならない。五郎の場合は秘密っ気などまるっきりない。おまけに公認なのは彼の慕情だけではなく茜ますみが彼にはまるで色気がないということまでだった。もっとも、茜ますみにしてみれば相手の恋があまりにも開放的なので、逆にどう応えてやれようもなくなってしまったというのが本当かも知れなかった。相手にするには茜ますみのような名誉とか社会的地位を重視する女性にとって五郎は小さすぎる存在でもある。美男という程でもない。
「内弟子を相手にする程、落ちぶれちゃいない」
というますみのプライドもあった。
とにかく五郎の恋はどこまで行っても片恋のまま、もたもたしていた。茜ますみは彼の純情をいいことに、彼の目前でも他の男たちとの情事をみせつけてはばからなかった。五郎に足をもませながら、海東英次と口移しに酒をのんだりする。小早川の場合も岩谷の場合も同じだった。
五郎は黙々とますみに対しては忠実な犬のように仕えている。習慣になって誰《だれ》もそれを気にする者がないような現状だった。
(もし、五郎さんが茜ますみ先生を恋するのあまり……)
彼女と交渉のある男性を片はしから殺したという想像はあまりにも小説的でうがち過ぎる。
Pホテルの前の公衆電話のボックスへ八千代は入った。
暑い。空気抜けは小さな穴が一つきりだ。撮影所のダイヤルを回した。なんにしてもアルバムの一件を寛に報告しておかなければならない。
「能条寛君ですか。彼は今日、撮影所へは来ていません」
そっけない声が受話器を流れて来た。
人気スターを名指して撮影所へかかってくる電話は大むねファンの個人的な用件によるものが多い。例えば、
「××さんの声を聞きたい」
というような単純なものから、
「今日、撮影所へ遊びに行きたいが、行ってもいいか」
とか、その他、得手勝手なインタビューじみた質問を延々とくりひろげる。
撮影所でも心得ていて、こうしたファンの電話にはあまりサービスしない。
八千代は係員の冷淡な返事に急いで能条寛の付き人の佐久間老人を呼んで貰《もら》えないかと言い足した。名前も告げた。
いわゆるファンの物好き電話でないとわかったらしく係員は多少丁寧に言い直した。
「佐久間さんも来ていません。京都の方へ一緒にいらっしゃったんです」
八千代は礼を言って電話を切った。半信半疑だった。
(夜になったら、お家のほうへ連絡してみよう)
だが、銀座の家へ戻ってくると出迎えた女中が大げさな声で言った。
「まあ、お嬢さん、一と足違いでしたよ」
「なにが……」
「たった今しがた、音羽屋の坊ちゃんがお見えになって、ずっとお待ちだったんですけれど、飛行機に間に合わないからって……」
八千代は心臓がコトコト鳴り出すのを知った。
「ヒロシ、もう帰ったの」
「ええ、ほんの今しがたです」
「何時の飛行機ですって……」
「羽田発……ええと……」
女中はもたもたした。
「あの、奥様が御存知だと思いますけど」
八千代はばたばたと母の居間にかけ込んだ。枕許へ坐りざまに訊《き》いた。
「寛さんが来たんですって……」
「そうなのよ。お見舞いにね」
枕許に果物の籠《かご》があった。
「お仕事が急に変更になって京都へ行くことになったんですって。八千代ったらどこへ行ってたのよ。銀座まで買い物に行くなんて言って出かけたから、もう帰るか帰るかって、寛さん、時計とにらめっこしてらしたよ」
「そんな……」
八千代は泣き出したくなった。
「来るなら来るって、午前中に電話でもくれればいいのに……」
「そんな暇なかったらしいわ。佐久間さんの話ではここへ寄るのも無理だったのに、飛行機を強引に一つ遅らせたんですって。本当は四時二十分発に乗るのを、五時十分にして、伊丹《いたみ》からそのまま撮影所へとばないと間に合わないんだって、俳優さんって大変なものね」
八千代は柱時計を見上げた。
長針が十二の文字に近づこうとしている。もう十分で寛を乗せた飛行機は羽田をとび立つのだ。
「間に合ったかしら」
「大丈夫でしょ。ぎりぎりだけどそれだけの時間は見て出発したのだから……」
「羽田まで送ってあげたかったのに……」
もう十分ではどうしようもない。
「京都から電話するって言ってらしたよ」
「そう」
八千代は果物|籠《かご》からマスカットを取り出した。
「ママ、食べる?」
「あたしは今、メロンを頂いたばかりだから、八千代、おあがりなさいな」
マスカットを持って八千代は自分の部屋へ入った。外出着をきがえる気力もない。
(がっかりだわ。一足ちがいなんて……)
窓から空を見た。夕暮れの色である。
マスカットを一粒、皮をむいて唇へ運んだ。甘ずっぱい匂《にお》いに眼を細める。
それにしてもガランドウになった心は埋めようがなかった。
(染ちゃんに電話してみようかしら)
こんな時に気分転換をしてくれるのは染子以外にないのだ。電話に立った。
出て来たのは染子の母である。
「八千代ちゃんですか。お母さんの具合は如何《いかが》、そうですか、それはようございましたわねえ、夏の風邪《かぜ》はたちが悪いんざんしょう」
花柳界の人間らしく練れた、それでいて張りのある喋《しやべ》り方であった。
「染子ですか、それがねえ、相変わらずの気まま者でしてね。大阪へ行ったんですよ」
「大阪ですって」
八千代は茫然《ぼうぜん》とした。そんな話はなにも聞いていない。
「大阪の芝居でどうしても見たいのがあるんですって。八千代ちゃんをお誘いしたいけれど、お母さんがご病気だから止めとこうなんて、さっさと一人で出かけちゃいましたよ。ええ、今朝の汽車で……宿は京都の大文字屋さんですよ。昔っからのお知り合いざんすから、二、三日したら帰ってくるなんて申しましてね。気まぐれったらありゃしませんわ。いい年齢して、どういうんでしょうね」
八千代はがっかりして部屋へ戻った。
(一人で芝居をみに大阪まで行くなんて……)
普段の染子らしくなかった。旅行は好きなくせに一人旅は苦手である。大阪や京都、名古屋へ芝居を見がてら遊びに行くような場合はいつでも八千代を誘って出かける。
ぼんやりマスカットの青い粒をみている中に八千代は寛に逢《あ》いたくてたまらなくなった。もう一つ、京都へ行って調べてみたい事がある。細川昌弥の卒業写真だった。京都は戦災に遇っていない。彼の卒業したS小学校へ行けば彼の卒業写真も学校のアルバムに当然保存されている筈《はず》だった。
(京都へ行こうかしら……)
本棚のすみから時間表をとり出すと、八千代はもう旅をする決心のついた顔でぱらぱらとページをめくった。
カップル
特別急行大阪行列車は定刻通り午前七時きっかりに東京駅を発車した。
一等車はほぼ満員であった。昨日、東京駅へかけつけて切符が買えたのがよくよくの幸運だったようだ。真夏なのに東海道線をはじめ東北線、信越線などあらゆる交通機関がどこも混雑しているという。いわゆる旅行ブームの夏なのである。
浜八千代の席は進行方向へ向かって左側の窓ぎわだった。隣は和服の中年婦人で通路をへだてた右側には若い男女が並んでいた。
走り行く列車の窓から八千代は銀座を眺めた。大きなビルの建物に遮ぎられて、我が家は屋根も見えない。八千代の胸にある疚《やま》しさがうずいた。
一昨日の夜、思い切って八千代は母に京都へ行って来たいと甘えた。
「染ちゃんが行っているのよ。大阪の今月の芝居がとても素晴らしいんですって」
私も行ってみたいけれど、と口に出す前に母が言った。
「あんたも行ったら。染ちゃんはどうせ二、三日は向こうにいるんでしょう。追っかけて行ってお出でな」
そう言われると八千代は逆に遠慮した。
「でも、ママが病気ですもの」
「平気よ。私ももう明日くらいからぼつぼつ起きていいってお医者さんに言われてるんだから。心配しないで行ってらっしゃい。今年の夏はどこへも遊びに行ってないんだし、京都は暑くて大変だけど、ホテルに泊まれば冷房がきいてて涼しいんじゃない。電話で予約してごらん、夏場だから空いてるよ」
せっかちに母が勧めてくれると八千代は少しばかり後ろめたい。染子をだしに使って、逢《あ》いに行きたいのは能条寛なのである。彼とはまだ公認の恋人ではない。
「でもねえ……」
八千代がまよっていると、
「それじゃこうなさいよ。明日一日、あたしの様子を見て、起きても大丈夫なようなら出かけることにしたら……」
母の時江が娘の思案顔を笑いながら結論を出してしまった。
「もしかして特急券が買えたらね。すごく混んでるっていうから多分だめだと思うわ」
と八千代は自分が言い出したくせにいざとなってからぐずぐずしていたが、結局、母は起きられるし、切符は入手したし、
「それじゃママ、二、三日遊んで来ます」
赤いスーツケースをさげて、朝早く家を出かける事になってしまった。
「ママ、ごめんなさいね」
列車の窓から八千代は小さく呟《つぶや》いた。母に嘘《うそ》をついて出かける旅行はこれが二度目である。この前は春、能条寛と修善寺へ出かけた時である。
品川を過ぎてから、八千代は膝《ひざ》の上にのせていた週刊誌を開いた。
グラビヤのページに大きく能条寛の写真が出ていた。それがめあてでさっき駅の構内で買ったものだ。
写真の能条寛は目下、撮影中の文芸大作の主人公の扮装《ふんそう》をしていた。グラビヤの下に、寛と記者との一問一答が出ていた。今度の作品の抱負とか、今年のスケジュールとか、社会問題など型通りな質問の終わりに理想の女性像と、結婚についての答があった。
「僕の理想というのは子供の時からの一つの夢みたいなものでね。小柄で清潔で温か昧のある人。別な言い方をすれば動きと匂《にお》いと体温とが感じられるような女性がいいですね」
というのが前者の答で、結婚については、
「目下、仕事に追いまくられてそれどころじゃないと言いたいが、まあ早く結婚したいと心がけてはいます」
という甚だ不得要領な返事をしていた。
活字を眺めて八千代はなんとなく胸がときめいた。記者の質問に答えていた時の寛の茫漠《ぼうばく》とした表情が想像出来る。
それにしても人気スターの立場からうっかりしたことは言えないにしても、曖昧《あいまい》な回答はやっぱり八千代には淋《さび》しい気がしないでもない。
「浜八千代という女性と結婚の約束をしています」
ときっぱり寛が言い切ってくれるのはいつの日の事だろうと、ふと思う。
八千代の目は再び理想の女性というアンケートの条《くだ》りを丹念に追っていた。
(小柄で、心の温かい人……)
ありふれた言葉の中に、寛は八千代のイメージを表現しようとしたのだろうか。
「それとも……寛の夢みている女性というのは……」
不安が突きあげて来た。
(私なんかじゃないかも知れない)
週刊誌をそっと閉じた。隣席の婦人は座席のクッションを倒して眠っている。朝が早いせいか、車内の客の殆《ほと》んどは仮睡状態でひっそりとしていた。会話もあまり聞こえない。
何気なく通路をへだてた席の男女へ目をやって八千代はどきりとした。座席にふかぶかと身を埋めるようにして男のほうが女の首筋に唇を当てている。早朝の車内で大胆な愛情の表現だった。
八千代は目を逸《そ》らせた。頭の芯《しん》が熱い。
(どういうカップルなのだろう)
ひそかに連想した。夫婦ではない。服装は一応の流行を着ているし、そう品の悪い組合わせではない。年齢は男が二十五、六、女が二十そこそこと見えた。恋人同士には違いなかろうが、その程度が疑問なのである。近頃《ちかごろ》、流行《はや》っている婚約旅行というようなカップルかも知れなかった。
横浜を過ぎると車内のマイクがビュッフェの準備が整ったことを知らせた。
八千代は隣席の婦人の眠りをさまさぬように注意しながら席を立った。
空腹は感じていないが、咽喉《のど》が乾いていた。右側の席のアベックの濃厚さにあてられた形である。
ビュッフェは混んでいた。カウンターの前で立ち喰《ぐ》いの形式である。トーストとコーヒーに果物を注文したとき、
「八千代ちゃん」
派手な女の声である。八千代の後からビュッフェへ入って来たらしい。ふりむいて、
「まあ、ますみ先生」
茜ますみは黒の紗《しや》の着物に白地の夏帯を締めていた。大胆な色彩が派手で大柄な容貌《ようぼう》にすこぶるマッチして人目に立つ。
茜ますみの後にグレイの背広に紺地の蝶《ちよう》ネクタイを締めた若い青年が微笑している。内弟子の五郎だった。
「八千代ちゃん、一人?」
八千代と並んでカウンターの前に立ちながら茜ますみが訊《たず》ねた。
「ええ、京都まで母の用事で参ります」
咄嗟《とつさ》に八千代はそう答えた。
「それは大変ね」
ますみは五郎の差し出したメニューを見てサンドイッチとコーヒーを注文した。
「先生は大阪ですの」
月に一週間は大阪の舞踊教室へ指導のため西下する筈《はず》であった。
「ええ、暑いのに憂鬱《ゆううつ》よ。でも、そんなこと言ってたら師匠はつとまらないけど」
茜ますみは美しく笑って五郎を顧みた。
「八千代ちゃん、偶然だね。何号車?」
「五号車ですわ」
五郎に答えながら八千代はふと気づいた。
茜ますみに寄り添って立っている五郎が、今日は馬鹿《ばか》に大人びて見える。意識して大人っぽい態度をとっているようなのだ。
「それじゃ、僕とますみ先生とは三号車だから……ビュッフェにでも来なければ気がつかない所でしたね」
五郎が微笑して茜ますみを見る。二人の視線は二度絡み合った。別に何の意味もない眼と眼の交換に、八千代は二人の親密さを感じた。
八千代の前にトーストとコーヒー、茜ますみと五郎の前にも各々朝食用のパンが運ばれて来た。
コーヒーにはポリエチレン袋に入った砂糖が添えてある。五郎が茜ますみのコーヒーに砂糖を入れ、まめまめしくミルクを注いだ。
「この位でいいですか」
「結構よ」
内弟子と女師匠との短いやりとりなのだが、言葉のはしに以前にはなかったニュアンスがある。
コーヒーを飲みながら、八千代はひそかに茜ますみと五郎を観察した。
五郎が茜ますみに対して下僕のようにまめまめしいのは以前通りである。違ったのは両者の間に人間同士の交流が感じられることであった。少なくとも忠実な番犬とその女主人というような差別待遇が今の二人にはなくなっていた。茜ますみのコーヒーに砂糖を入れてやっても、五郎の態度には前のような卑屈な所がない。不思議なほど堂々としていて自信たっぷりなのである。
(二人の間にどんな変化が起こったのだろう)
さりげなく八千代は訊《き》いた。
「今度のお供は久子さんではありませんでしたの」
大阪への出張|稽古《げいこ》の助手は必ず久子にきまっていた。
ますみの顔をちらと狼狽《ろうばい》の色がかすめた。
「久子さんは東京のほうにあの人でないと困る仕事があるものだから、今度は五郎さんに来てもらったのよ」
五郎をふりむいて同調を求めるような微笑を浮かべる。
「そうなんです。僕のような大阪に不馴《ふな》れな人間がお供してもお役に立つかどうか心配なんですが……」
ぎこちなく五郎が言う。
「あら、そんなことないわ。本当は地方の仕事は男の人のほうがなにかと押し出しが立派でいいものなのよ。いずれにしても大阪は、これからなるべく五郎さんを中心にやってもらうようにしないと、私もお婆さんになってしまったから旅行はしんどいのよ」
「お婆さんだなんて……先生はいつまでもお若いですよ」
五郎とますみのやりとりを八千代は黙って聞いていた。確かに二人の間の垣根ははずされている。
食事を終えて、三人はビュッフェを出た。八千代の座席のほうがビュッフェに近い。
「それでは先生、お気をつけて……」
八千代が会釈すると茜ますみは機嫌のよい調子でうなずいた。
「あなたもね。東京へ戻ったら猛稽古《もうげいこ》しましょう。すてきな鳥辺山心中を踊って頂くためにね」
艶《えん》なまなざしが八千代から五郎へ転じて、二人は二つ先の車へ移って行った。
車の動揺にますみが少しよろける。すかさず五郎のエスコートの手が伸びた。
二人の後姿がドアの向こうに消えてしまうと八千代は深い嘆息をついた。どうみても恋人同士の茜ますみと五郎の様子である。
(もし、そうだとしたら、五郎さんと久子さんは……)
中村菊四は五郎と久子との逢《あ》い引きのシーンを目撃したと八千代に語っている。
京都駅に到着したのは午後一時だった。
茜ますみと五郎に別れの挨拶《あいさつ》をし、八千代は京都駅前の広場でタクシーに乗った。
「Mホテルへ、お願いします」
ホテルへの予約は東京の家から電話してあった。
走り出したタクシーの窓から八千代は久しぶりに見る京都の町に眼を細めた。
古いままの屋根が続いている。十年一日の如《ごと》く京都の家並には変化がなかった。
Mホテルは南禅寺《なんぜんじ》に近い岡の上にあった。赤い欄干が緑の中で鮮やかであった。
ボーイに案内されて部屋に落ち着くと八千代はすぐに電話をかけた。四条の大文字旅館である。
「おそれ入りますが、そちらに東京から市橋貴美子さんがお泊まりの筈《はず》ですけれども……」
染子の本名は市橋貴美子である。染子というのは芸者としての彼女の商売名だ。
「へえ、東京の『さつき』のお嬢はんでっしゃろ」
染子の家である置家の家号は「さつき」である。
「はい、いらっしゃいましたらお呼び願いたいのです。東京の八千代とおっしゃって下さればわかります」
受話器の奥の声はのんびりと答えた。
「へえ、それが、もう家には居やはりまへん。なんや大阪のほうへ、遊びに行かはる言うて昨日、お発《た》ちにならはりました」
「大阪へ……」
京都から大阪までの距離は特急で三十分ばかりである。今まで大阪へ芝居見物や市内見物に出かける時も、染子は京都を根拠にしていた。
「宿は京都に限るわ。静かだし、ロマンティックだし……大阪はなんだかせせこましくて嫌だわ」
という染子の主張を八千代はもう何度も聞かされている。
「染子さん……いいえ、あの市橋貴美子さんは、荷物も全部持ってお出かけになりましたの。つまり、もうお宅へはお帰りにならないんでしょうか」
「へえ、大阪から真っ直ぐ東京へ帰らはるようにお聞きしましてん」
「そうですか」
八千代は礼を言って電話を切った。どうやら染子とは入れ違いになってしまったらしい。暫《しばら》く、八千代はぼんやりしていた。染子が京都にいないとなると急に心細い。
気を取り直して、八千代はバスルームでシャワーを浴びた。朝が早かったのと、一人旅の気疲れか体が僅《わず》かにけだるいようだ。
部屋着姿になってから手帳をみた。T・S映画の京都撮影所の電話番号を探した。
能条寛はすぐに電話口へ出て来た。ちょうど遅い午食で仕度部屋へ戻った所だったらしい。
「少々、お待ち下さい。今、代わりますから」
佐久間老人の声と入れかわりに、とびつくような寛の調子が受話器へ流れて来た。
「八千代ちゃん、どこからかけているんだ」
「Mホテルよ。今しがた着いたの。母には大阪のお芝居を見に行くって言って出て来ちゃったんだわ」
「それにしても、よく出て来れたね」
寛の声を聞いている中に八千代は胸が切なくなって来た。
「逢《あ》いたいわ。ヒロシ、話がたくさんあるのよ」
一人きりのホテルの部屋だということが、八千代を大胆にさせた。
「逢いたいよ。僕だって……」
照れくさそうに、しかし寛もはっきり応じた。
「口惜《くや》しいけど、まだ仕事があるんだ。五時、遅くとも六時には終わる……」
「でも、夜間撮影があるのでしょう」
「大丈夫、今日の僕の出番は九時か十時からなんだ。それまで四時間くらいは体があくよ」
「悪いわ。疲れているのに……」
「何いってるんだい。タフ・アンド・ガイが表看板の僕じゃないか。ホテルへ迎えに行くよ。夕飯を一緒にしようよ。待っててくれるね。八千代ちゃん」
「お待ちしてます」
受話器を置いて八千代は腕時計を見た。午後二時を十分過ぎたばかりである。
(六時まで、あと四時間……)
ひどく待ち遠しい気がした。
「そうだわ。その間にしなければならないことが……」
八千代は苦笑した。恋はともすると思考力を失いがちだ。
(私ったら、なんのために京都まで来たのかしら……)
目的の一つは写真であった。有田いねの説明によると、細川京子のアルバムの中から剥《は》ぎ取られていた一枚の写真は、細川昌弥の小学校卒業記念の写真だったという。
細川昌弥が卒業した小学校は京都の平安神宮に近いS小学校ということだった。
八千代は手早くワンピースに着かえた。
平安神宮ならホテルからそう遠くはない。寛と逢《あ》うまでの中に、出来れば一つでも多くの材料を集めておきたいと思った。
ハンドバッグを抱えて八千代は部屋を出た。エレベーターで一階へ下りる。フロントへ鍵《かぎ》をあずけて言った。
「ちょっと近くまで行って来ます」
ホテルの外は暑かった。日ざしも強い。ホテルの冷房で、うっかり外の暑さを忘れて帽子をかぶって出なかった事を八千代は後悔した。
S小学校の所在地はわかっていた。左京区北白川である。
Mホテルは東山区でも左京区寄りの位置だからそう遠くはない筈《はず》である。それでなくても京都の街は東京とくらべたら東西南北の距離が短い。
眼の前の道をタクシーがのんびり走っている。インクラインのそばで八千代はタクシーを止めた。
「北白川のS小学校へ行きたいんですが」
「S小学校というと……?」
中年の運転手は車を走らせながら思案している様子だった。
「あの、京大のグラウンドの近くだって聞いたんですけど……」
S小学校の所番地を告げると運転手は見当がついたようだった。
タクシーの窓からはなだらかな京都の山々が淡くかすんで見えた。八月十六日の大文字焼で有名な如意ヶ嶽《によいがだけ》の峰々も濃緑に包まれていた。
車が止まった所に校門があった。S小学校と札が出ている。
八千代は料金を払って下りた。夏休み中だから校舎はひっそりとしている。運動場のすみの砂場で七、八人の子供が遊んでいた。近づいた八千代に好奇の眼を見はっている。
「あの、教員室はどこかしら」
八千代の問いに子供達は顔を見合わせた。
「なんやって、なんやってか」
などと八千代の言葉を聞きそびれた子が、仲間に尋ねている。誰《だれ》も答えない。
子供特有な遠慮のない視線を浴びて八千代は当惑した。
「ね、先生のいらっしゃる所はどこ?」
重ねて聞くと鉄棒にぶら下がっていた子が片手をあげた。
「あっちや」
指したのは校舎の中部辺りの見当だった。窓の開いている部屋がある。
「どうも有難う」
礼を言って、八千代は校庭を横切って行った。
暗い昇降口がある。下駄箱が並んでいた。古めかしい。廊下はその割にきれいだった。
八千代はハイヒールを脱ぎ、下駄箱の上にのせてから廊下を教員室の方角へ歩いた。
男の声が聞こえていた。二人である。声高らかに喋《しやべ》っている調子は世間話のようである。
開け放してある教員室のドアに立つと、八千代に部屋の中が見渡せた。真ん中の机をはさんで老人が二人、茶を飲んでいる。
二人の老人の中の背の高いほうが教師で、小肥りの額が抜け上がった男は小使いさんのようだった。服装と雰囲気が二人を区別させた。
八千代は驚いている二人へていねいに挨拶《あいさつ》し、尋ね人のことで、この学校の古い卒業写真を見せて貰《もら》いたい旨を伝えた。
「卒業写真が尋ね人の手がかりになるとは、どういうことですかな」
みるからに好人物らしい老教師は八千代の話に興味を持ったようだった。
「はい。実は私どもの尋ねている人が、このS小学校の出身らしいということが最近、わかりましたので、もし卒業写真を拝見してその人が見当たりましたら、一緒に卒業された方々の住所をお教え頂いて、もし心当たりがないかおたずねして回りたいと思いまして……」
八千代はなるべく曖昧《あいまい》な答え方をした。そんな彼女の様子に複雑な事情があると考えたのか、老教師はあっさり八千代の言葉を信用してくれた。
「なるほど、それでその尋ね人は何年に卒業されたんですか」
老教師の言葉にあまり訛《なま》りはなかった。教師という職業のせいかも知れなかったし、八千代が東京から来た人間と知って意識して標準語を使っているようでもある。
「昭和十八年らしいんです」
八千代は細川京子のアルバムに残っていた文字を想い出した。剥《は》がされた写真の傍に記してあったのは、昭和十八年三月二十五日、講堂にて、である。
「昭和十八年……だいぶ前ですな。終戦前というと……」
老教師は隣の部屋へ入って書類棚を眺めた。古い書類や名簿などがずらりと並んでいる。順序正しく並んでいる部分もあれば、めちゃめちゃに積み上げてある棚もある。
老教師はしばらくあちこちを探してから、古びたアルバムを取り出して来た。
「この中にあると思いますがねえ」
表に墨で昭和十年から昭和二十年まで、卒業写真|貼付《てんぷ》と書かれている。
どれも講堂らしい背景に五十人ばかりの生徒と、最前列にずらりと教師が並んでいた。
昭和十八年のを見た。今までのと同じような卒業写真である。食い入るように八千代は眺めた。
(この中に少年時代の細川昌弥がいる……)
細川昌弥の映画スター時代の顔を八千代は知っている。能条寛とライバル的な存在だったせいもあって、八千代はかなり関心を持っていた。しかし、似たような坊主頭の少年の顔ばかりだ。五十余人の生徒の中の約半分が男子である。昭和十八年卒業は四組あった。
合計二百余名の生徒が卒業したわけである。
写真の下部に生徒名簿がついていた。卒業生の姓名と住所がイロハ順に書いてある。
八千代は名簿の名を捜した。細川昌弥の名は簡単に発見出来た。彼は芸名と本名が同じである。
八千代はかすかな嘆息をついた。
やっぱり、あのアルバムから消えた一枚の写真はこのS小学校卒業記念のものである。
(なんのためにこんな卒業写真を剥《は》いで行ったのかしら)
疑問が新しく胸に湧《わ》いた。もし寛の推定が当たっているとしたら犯人は細川京子をこの一枚の卒業写真を奪うために殺害したということになるのだ。
しかし……。八千代は老教師を見た。
「わかりましたか」
心配そうに訊《き》く。
「はい、どうやら……」
「それはよかったですね」
「すみませんが、この生徒名簿の住所を写させていただけませんでしょうか」
「かまいませんよ。大変ですな」
八千代はハンドバッグからメモ帳と万年筆を取り出した。老教師のすすめてくれた机の前に坐《すわ》って写し出した。
「手がかりがつくといいですが、生徒の中でその住所に現在いる者が何人ありますかな。それでも京都は戦災にあわなかったので、まだよかったんですよ」
実際、老教師の言う通りであった。親の転勤で移転したものも、事情で故郷をとび出した者も少なくない筈《はず》である。昭和十八年といえば十七年前である。ましてその間には終戦という大きな社会変動をはさんでいた。
女の子であればほとんどが結婚している年齢である。五十人の住所を筆写しても、その中の何人が現在もその場所に住んでいるか心細い話だった。
名簿の筆写はかなり手間どった。京都の地名はわりあいに長いものが多い。
写し終わったのは四時すぎだった。老教師は隣室でテレビをみている。
礼を言って八千代はS小学校を辞した。
帰途のタクシーは吉田神社の横を通り、平安神宮から岡崎を抜けてMホテルへ向かった。
如何《いか》にも京都らしい平安神宮の朱の鳥居の前では外国人の夫妻が記念写真を撮っていた。付近は動物園やら美術館がある。
(細川昌弥は京都にいた時分、この付近に住んでいたと言った。そして、茜ますみも……) 八千代は町を眺めた。静かな町である。若い学生っぽいアベックが手をつないで散歩している。人通りも車の通行も、東京と比較にならないほど閑散とし、ゆったりしている。
(京都は恋をする都会だ……)
と或る雑誌の随筆欄で京都在住の作家が語っていたのを八千代はふと思い出した。
Mホテルへ戻り、シャワーを浴びてから、八千代はスーツケースを開けた。
白地のこま絽《ろ》に|琉 球 絣《りゆうきゆうがすり》を小紋染めにした夏の着物は八千代が自分で見立てて気に入っているものだった。赤、紺、水色、黒、茶、黄、グレイなど、かなり沢山の色を使っているのにそれらが巧みに調和して、夏らしい涼しげな色調をかもし出していた。
八千代は首筋にタルカンパウダーを叩《たた》きつけ、淡いピンクの長襦袢《じゆばん》を着た。ふわりとその上に着物をまとう。腰ひもをきりりと締める。姿見の中の八千代は全身が恋人を迎える喜びで上気しているようだ。
帯は濃い水色の無地、トルコ玉のような深い水色が絣の大人しさにモダンな感覚をプラスしていた。帯締めは紺一色。
八千代はスーツケースから草履《ぞうり》を取り出した。紺に銀をあしらってある。
再び、鏡の前に立った。念入りに衿許《えりもと》を直し、帯の結び具合を確かめていると卓上の受話器が鳴った。フロントが、
「能条様がお見えです。ロビーでお待ちになっています」
と告げた。
エレベーターで下りると、能条寛はロビーのすみで新聞をひろげていた。今日はサングラスをかけていない。ベージュの背広の下に茶色っぽい模様のスポーツシャツを着ている。ロビーには観光客らしい外人がそれぞれにくつろいでいたが、八千代の和服姿を見ると感嘆の呟《つぶや》きを洩《も》らした。外国婦人の中にはビューティフルを連発しているのもある。
八千代はうつむきがちに寛の前へ行って立った。気配で顔をあげた寛が一瞬、眼を見はった。
「八千代ちゃんだったのか」
彼の眼に恋人の美しさを賛《たた》える喜びと驚きがあふれるのを認めて八千代は安堵《あんど》し満足した。
「疲れていらっしゃるのでしょう。ごめんなさいね。勝手な電話をして……」
周囲の眼を意識して、八千代は他人行儀に頭を下げた。
「どう致しまして、勇気百倍さ。君の電話があってからNGを一本も出さなかったよ」
寛は立ち上がった。
「なにが食べたい。なんでもお好み次第さ」
「そうね」
八千代は微笑した。
「なんでも結構ですけれど、なるべく静かな所がいいの。人の知らないような、平凡な場所……。つまり、あなたのあまり行きつけのお家でないほうがいいわ」
寛をよく知っている店だと挨拶《あいさつ》やらサービスやらで、うっかりすると二人きりで喋《しやべ》る機会を失ってしまうのを八千代は怖れたのだ。
その気持ちはすぐ、寛にも通じた。
円山公園
Mホテルから能条寛と浜八千代を乗せたタクシーは青蓮院《しょうれんいん》の門前を抜け、知恩院のふちを通って円山《まるやま》公園へ入った。
車を下りて砂利道を少し行くと茶屋風の家が並んでいた。白い旗が入口に立っている。「いもぼう」の文字が優雅だった。
「お二人さんどすか」
迎えた女中の言葉がやんわりと京風だった。祇園《ぎおん》が近いせいか、京都の雰囲気が濃い。
細長い家の造りだった。暗い。座敷はまだそれほど混んではいないようである。
寛は定食のいもぼう料理を註文《ちゆうもん》した。
「えび芋《いも》を使った田舎《いなか》料理のようなものだよ。ま、『浜の家』のお嬢さんの舌勉強だね」
蒸しタオルで顔を拭《ふ》きながら寛は嬉《うれ》しそうだった。
「ホテルで少しは眠れたかい。四時間ばかりあったけど……」
「それがね。ぐっと勉強ぶりを発揮しちゃって……寝る所のさわぎじゃないの」
「どこかへ見物に行ったのかい」
「とんでもないわ」
八千代は悪戯《いたずら》っぽく笑った。
「京都まで来た目的を果たして来たのよ」
「目的……?」
「そう」
運ばれて来た料理を食べながら八千代は赤坂のニューセントラルアパートで有田いねと逢《あ》ったこと、彼女の口から剥《は》がされた写真が細川昌弥のS小学校卒業の際の記念写真であるのを知った事などを説明した。
「早速、ヒロシに話してあげようと思って撮影所へ電話したら京都のロケだっていうんでしょう。ぼんやりして家へ帰ったら、今しがたまでいらっしゃったって聞いて……。あんな情ない想いをしたのははじめてよ」
「そうだったのか。僕も羽田へ車をとばしながら、すれちがいくらいに君が帰って来てるんじゃないかなと思ったんだが……」
寛は山芋《やまいも》を器の中でかき回しながら言った。
「剥がされていた写真は卒業式のだっていうのは確かなんだろうね」
「確かよ。アルバムにも昭和十八年三月二十五日、講堂にて、という傍書があったの、黒い地紙に墨で書いてあったので、ちょっと気がつかないんだけど」
「S小学校というのは京都なんだね」
「そう。北白川のそばよ。京子さんの伯母《おば》さんから聞いて来たの」
「そこへ行ってみたのかい」
「ええ、卒業写真をみせて貰《もら》ったわ。昭和十八年の……」
「手まわしのいいことだ」
寛は笑った。
「細川昌弥君の少年時代、どんな顔してた。今と変わらないようかな」
いもぼう料理というのはすべての材料の基礎が芋《いも》であった。煮つけは鱈《たら》とえび芋、椀《わん》も焼物にも芋が巧みに加工されている。
八千代は料理屋の娘らしく、一つ一つをじっくり味わいながら箸《はし》を運んでいる。
夕闇《ゆうやみ》がすだれ越しにしのび込んで来ていた。どこかで蚊《か》やりの香がする。
細川昌弥の少年時代の写真顔に成人後の面影があるかという寛の質問に八千代は首をふった。
「それが駄目なの。なにしろキャビネ判に五十人からの生徒と先生が入っている記念写真でしょう。おまけに古くて黄ばんでいて、どの顔もみんな似たりよったりなの」
「わからなかったのかい」
「でも、その中に細川昌弥さんが居ることは間違いないわ。写真の下に生徒名簿が出ているの。その中に細川昌弥さんの名前もあったわ」
八千代は帯の間からメモ帳を取り出した。
「もしかしてなにかの手がかりになるかと思って、生徒名簿を写して来たのよ」
ぎっしり写された姓名と住所のメモを眺めて、能条寛は流石《さすが》に感心した。
「君は全く、マメな人だね」
「冷やかすのは止めてちょうだい。これでも一生懸命なんですもの」
寛はメモを丹念に眺め、食後の茶を飲みながら、もう一度、繰り返した。
「左京区岡崎法勝寺町、細川昌弥君は岡崎に住んでいたのか。S小学校は北白川だから、ちょっと遠いな」
箸《はし》を膳《ぜん》へ置いた八千代へ言った。
「岡崎付近から通っている生徒は案外、少なかったんだね。細川君を入れて十人足らずだ。岡崎町から一人、岡崎法勝寺町から四人、岡崎通りから二人、岡崎南御所町から二人、そんなものだよ」
寛はメモの住所から岡崎の地名を探しては八千代にしめした。男が八人、女が一人だった。
「まず、この九人から当たってみるか」
寛はあくまでも、細川昌弥が大阪のSホテルから帰宅して京子に思いがけない所で思いがけない人に逢《あ》ったといいながら古いアルバムをみていたという、その思いがけない人を卒業写真の中の誰《だれ》かに違いないと推定しているようだ。
「どうして昌弥さんの近所に住んでいる人から調べるの」
八千代の問いに寛は笑った。
「五十人からいるクラスメートなんだよ。十七年も経って、名前や顔を記憶しているというのは余《よ》っ程《ぽど》、仲良くしていた人間でもないと難しいんじゃないのかい。とすると、小学校時代の親友というのはどうしても家が近所の者同士というのが普通だろう」
小学校時代の仲良しは家が近所の者同士がそうなり易いという寛の説には八千代も同感だった。
机が隣同士だったから友達になるというのもあるが、それでも家が逆の方角だったりすると学校だけのつき合いに終わりがちだ。同じ町内に住んでいて通学の往復も一緒、帰宅して遊ぶのも一緒というようなクラスメートのほうが遥《はる》かに親友となる確率は高いし、想い出の中にも残るものだ。
「明日、岡崎を訪ねてみるわ。九人の人たちの現在を調べればいいのね」
「九人がそっくりその住所に今も住んでいると話は簡単だがね」
寛は眉《まゆ》をしかめた。
「それに、果たしてその九人の中に目的の人間がいるかどうか。岡崎法勝寺町に近いのは、今、並べた町名だけじゃない。東天王町、高岸町、南禅寺町なんてみんな隣合わせの町だもんな。数え出したらきりがないよ」
「随分、町名に詳しいのね」
八千代は驚いて言った。まるでその近所に長く住んでいたようである。
「岡崎付近の地図、町名に詳しいのはね。僕の親父《おやじ》が若い時分、岡崎に下宿していたんだよ」
「ああ、D大の学生さんだった頃《ころ》でしょう。この間、NHKの私の秘密≠ナ御対面をなさったお婆さんが小父《おじ》様の下宿先の奥さんだったんですってね」
八千代は一か月ばかり前のテレビを想い出しながら言った。
「そうなんだ。あの山崎はつ代さんという人ね。この間、漸《ようや》く御対面でめぐり合えたんだけど、ずっと行くえが知れなかったんだよ」
「小父様、おっしゃってたわね。京都へ行くたびに心がけて探していたのだって」
なつかしさの余り、真実、眼に涙を浮かべて山崎はつ代の手を握りしめていたテレビの尾上勘喜郎の姿に、八千代は母と茶の間で観ていて、つい眼頭を熱くしたものだった。
「親父は自分で探すだけじゃ物足りなくて、僕が映画の仕事で京都へ行く度に、岡崎辺を聞いてみてくれって頼むんだよ。三十年も昔にそこに住んでいた人のことなんぞ、いくら古くさい京都の話でも手がかりがつく筈《はず》がないとは思ったんだがね。親父の命令だし、まあ気休めのためと考えて、暇にまかせてあの付近をよく歩き回ったんだ。それでなんとなく覚えちまったんだろう」
寛はさばさば笑ってのけたが、昔の恩人に逢《あ》いたいという父親の気持ちを推量して必死に訊《たず》ねて歩いたに違いないと八千代は悟った。二度や三度、調べて歩いただけではとても町名なんぞ記憶出来るものではない。
のんきな顔をしているくせに、いざとなると、とことんまでやってみなければ気のすまない寛の気性なのである。
いもぼうを出たときはもううすぐらかった。円山公園の外灯が美しい。
「少し散歩しようか」
寛が八千代の顔をのぞくようにして訊《き》いた。
「ええ、でも、誰《だれ》かにみつからないかしら」
「大丈夫さ。暗いし、この公園を散歩しているアベックは誰も自分達のことに熱中してるから、他人のアベックなんぞに眼もくれやしないよ」
歩き出した寛に八千代は寄り添った。恋人同士というにはなんとなく面映《おもは》ゆい。
「円山公園も久しぶりだわ。こうして歩くのは……」
池があった。周囲のベンチはアベックが占領している。池の水を眺めて八千代は呟《つぶや》いた。
「この前はいつ頃《ごろ》、来たの」
「昨年の春だったかしら。都踊りをみに来て、あの時は染ちゃんと一緒だったわ」
「円山公園を歩いたのも染ちゃんと一緒かい」
「ええ、そうよ。どうして……?」
八千代は怪訝《けげん》な顔で寛を見た。
「染ちゃんと二人だけかい」
「勿論《もちろん》よ」
「それで安心した」
冗談めかして寛が笑ったので漸《ようや》く八千代は彼の言う意味を悟った。
「嫌だわ。寛ったら……御自分こそちょくちょくどなたかと散歩なさるんでしょう。この辺りを……」
言ってしまってから八千代は急に嫉妬《しつと》がこみあげて来た。実際、寛が別の女とこの円山公園を何度も歩いているように思えてくる。
「残念ながら、一度、祇園《ぎおん》で宴会があった後に案内されて来たきりだよ」
「きれいな舞妓《まいこ》さんとご一緒に……」
はしたないと思いながら八千代は言わずにはいられない。
「舞妓も芸者もいたけど、付き人の佐久間も一緒だし、あいつが睨《にら》みつけるもんで僕のそばへは誰《だれ》も寄りつかないのさ」
「さあ、どうかしら」
八千代はなんとなくわびしくなった。恋とは厄介なものである。言葉の上の冗談が、いつか本気になってしまう。
「馬鹿《ばか》だなあ。なにを怒ってるんだい」
寛がそっと八千代の肩に腕をかけた。
「知らないわ」
そっぽを向こうとしたとたん、鯉《こい》がぴしっとはねた。
「まあ、鯉がいるのね」
「そうさ。池のまわりにゃコイビトが並んでみせつけるんだもの。鯉もはねるさ」
下手な寛の軽口につい八千代が笑い出した。橋を渡って歩き出す。
橋の向こう側のベンチにアベックが坐《すわ》っていた。楽しげに顔を寄せて話し合っている。女も男も和服である。通りすがりに八千代はちらとその二人をみた。声をあげた。
「染ちゃん、染ちゃんじゃないの」
八千代の声に女がふりむいた。あっと眼を見はる。染子だった。
「八千代ちゃん、あんた、いつ……?」
立ち上がった染子の背後に男の顔があった。
「菊四君」
中村菊四は照れくさそうに寛を仰いだ。
「君も来ていたのか。京都へ。……」
「僕は仕事だが、菊四ちゃんは……」
「うん、病院を退院してから、どうせぶらぶらしているのなら、親父《おやじ》が今月から大阪の芝居に出ているんで、勉強のつもりで一週間ばかりこっちへ来てみたんだ」
「そうだったのかい。テレビの仕事は大丈夫なのか」
春から夏にかけて頻《しき》りとテレビの仕事に執着していた菊四である。
「断ったんだよ。僕はやっぱり歌舞伎《かぶき》の女形《おやま》だ。僕の行く道は舞台以外にないということを漸《ようや》く悟ったのさ」
菊四は真っ直ぐに寛を見て微笑した。
「菊ちゃん、あの事件以来すっかり心を入れかえたのよ。大阪へ来てからってものは毎日お父さんの身の回りの世話をしたり、舞台|袖《そで》でお父さんの舞台を一生懸命見ているの。この人、きっといい役者になるわ。私、こっちへ来て心からそう思ったもの」
「染子……」
しゃべっている染子を菊四はたしなめた。二人は眼を見合わせ、二人だけの微笑をかわした。
「ねえ、あのこと、いいチャンスだから、今、寛さんに言いなさいよ」
染子は菊四の耳もとにささやくとぼんやりしている八千代の手を引いて、少しはなれた池の汀《みぎわ》へ連れて行った。
「八千代ちゃん、あんた、いつ東京から来たのよ」
「今朝よ。一番早い特急で……大文字屋さんへ電話したら染ちゃんはもう帰ったんだときかされてがっかりしていたんだわ」
「どこへ泊まるの今夜……」
「Mホテルよ。いつものように」
「一人……」
「当たり前よ。なぜ……」
八千代は頬《ほお》を赤くした。
「染ちゃん、あんたこそどこへ行ったの。東京へ帰ったんじゃなかったの」
問いつめられて染子はうつむいた。
「あたしね。菊四ちゃんに逢《あ》いに来たのよ」
「菊四さんに……」
八千代はまじまじと染子をみつめた。
「あの人ったら、修業のやり直し、人生のやり直しをするんだって、もの凄《すご》い息ごみでね。大阪へ来たのよ。テレビのいい条件の仕事をみんな捨てちゃって……」
染子の眼にちらと女らしい恥じらいが浮かんだ。
「あたし、あの人と夫婦約束したのよ」
中村菊四と夫婦約束をしたと言い切ってしまって、染子は首筋までピンク色になった。
「夫婦約束……」
そんな古風な言い方が染子と菊四の場合、なんだかぴったりするようだと八千代は思った。
「可笑《おか》しいでしょう。あんなに菊四を軽蔑《けいべつ》していた私が……」
染子は足の爪先《つまさき》で石をころがした。
「でもね。あの人、家庭のことやなにかで少し心がひんまがっていたんだけど、根はいい人なのよ。私ね病院へお見舞いに行って、あの人の世話をしてやっている中にそれがわかったの。はじめは、なんだか彼があわれで女の同情で看病してたんだけど」
染子は八千代に、はにかんだ笑いを向けた。
「八千代ちゃん、ほだされるって感情はこんなものだと思うのよ」
「染ちゃんは、菊四さんを信じたのね」
「そう、あんたには不可解でしょ」
「解らなくない事もないの。確かに菊四さんは変わったわ」
八千代は寛と話している菊四の後姿を見た。少なくとも一か月ばかり前に、八千代を神田の割烹《かつぽう》旅館へ連れ込んだ時のようないやらしさはきれいさっぱり彼から消えていた。
「彼、今、必死なの。人間として駄目になるかならないかの瀬戸際だと自覚してるのよ。私ね、彼の必死の手助けがしたくなって来ちゃったのよ。お母さんに嘘《うそ》ついて……」
染子の顔に或《あ》る翳《かげ》が流れた。女の勘にそれが響いた。
「染ちゃん、あなた……」
八千代のおずおずとした問いに染子はうなずいた。
「あたし達、もう他人じゃないの」
八千代は絶句した。
「八千代ちゃん、あたしを軽蔑《けいべつ》する……?」
八千代は辛うじて首をふった。
「でも軽はずみだと思ってるでしょう」
染子は単衣《ひとえ》の袂《たもと》をなぶった。女らしさが匂《にお》うようなそぶりである。
「私たち、仕方がなかったの。おたがいの感情がそこまで昂ってしまって、他に避けようがなかったのよ」
八千代はそっと染子の肩へ手をかけた。
「染ちゃんを信じるわ。そして……菊四さんを私も信じるわ」
「有難う」
染子の眼から涙がほろっとこぼれた。思いつめた女のいじらしさを、八千代はふと羨《うらやま》しいと感じた。
橋のわきでは男達が向かい合っていた。
「今ね。実は染子と君たちの話をしていたんだよ。寛君、君には長い間、本当に済まなかった。許してくれ」
菊四は寛をみつめ、頭を下げた。
菊四は微笑している寛をみつめ、せき込んだ調子で言った。
「僕は君に逢《あ》ったら、どうしても話しておきたい事があったんだ。入院中もそればっかり考えていたんだが、君に話そうとすると傍に看護婦やうちの者が居たりして、今までチャンスがなかったんだ」
「僕に話……」
寛は真顔で相手の熱心さを受け止めた。
「八千代ちゃんのことなんだ」
「彼女の……」
「僕が、あの人を神田のみずがきっていう割烹《かつぽう》旅館へ連れ込んだ時のことだ」
菊四は緊張で額を青白ませていた。
「もし、あの事で君が八千代ちゃんの……あの人の潔白を少しでも疑っているのだったら……僕は告白する。僕はあの人に卑劣な真似をしかけたのは事実だ。しかし、あの人は僕から逃げて……」
寛はゆっくりと菊四の肩を叩《たた》いた。
「もう、いいんだよ。そのことなら……」
「いや」
菊四は必死な眼をした。
「聞いてくれ。僕は人間の風上にもおけない奴《やつ》なんだ」
策を設けて八千代を割烹《かつぽう》旅館へ連れて行ったことから、離れの老人客に八千代が助けられるまで菊四は必死になって喋《しやべ》った。
「だから、みっともない話だけれど僕が八千代ちゃんになにもしなかった、出来なかったってことは、いつでもみずがきのマダムや女中が証人になってくれる。それからその八千代ちゃんを連れて行った老人なんだが……」
菊四は神の前で懺悔《ざんげ》する者のような思いつめた表情だった。なにから何まで、洗いざらい告白してしまわなければ気がすまないと言った恰好《かつこう》である。
「その時の僕は、とんびに油揚さらわれたような口惜《くや》しさで、八千代ちゃんとその男のあとを追ったんだ。その男がどこへ八千代ちゃんを連れて行くのか気にもなったし、心配だった。後をつけて行くと神田の表通りで染子がタクシーから八千代ちゃんを発見した。もういけないと思って、僕はそこからみずがきへ引き返したんだ」
体裁も悪いが、腹も立って、菊四はみずがきの女中に、八千代を連れ出した男の名を聞いたが、これは聞くほうが野暮で女中はこういう所へのお客の名などには口が固い。
その日はあきらめて、翌々日、菊四は彼に多少、気のあるみずがきの女中を外へ呼び出して、言葉巧みに訊《たず》ねた。
「その男の名は、旅館では三浦と呼んでいるそうだ。月に二回か三回、必ず来る。相手はいつもきまっていて二十四、五歳の女性だというんだ。別々に来て別々に帰る」
池で鯉《こい》がしきりにはねていた。池のふちの恋人たちはひっそりと夏の夜の情緒を楽しんでいる。
声をひそめて菊四は続けた。
「若い女と毎月二、三回やってくると聞いて僕は言ってやったんだ。いい年齢《とし》をしてご盛んな親父《おやじ》だとね。すると、その女中が言うには、そいつはどうも色気であの旅館へ来てるんじゃないらしいってんだ。男と女があんな場所へ来て色気でない筈《はず》がないと僕は笑ったんだが、聞いてみるとまんざら、嘘《うそ》でもないらしい。いつも二人でしんみり食事をし、女中を遠ざけて話し込んで行くだけだ。つまり隣の部屋を使った形跡がないっていうんだよ」
菊四は困ったように頭をかいた。
「君に、こんな話をするのは変だけれどさ。ああいう家はみんな隣室に夜の用意がしてあるもんだろう。それを彼ら二人は全く使用しないようなんだって女中が言うんだよ。それと、女中の感じではその二人は恋仲じゃない。そういう関係の男女だったら一目でわかるんだってね。商売柄だろう。その二人は親しげだがいわゆる恋人同士じゃ絶対にないって主張するんだ。世間からかくれてゆっくり話をするために、あんな場所を利用しているとみんなは解釈しているらしいよ。例えば、昔の恋人の娘と逢《あ》って、若き日の恋人の面影をしのんでいる老人とか、女中たちは小説まがいな空想をしている」
そこで菊四は苦笑いした。
「話がとんだ横道にそれちまったけど、とにかく、僕と八千代ちゃんの間にはなんにもない。八千代ちゃんは潔白だ。彼女はもし僕が強引な行為に出たら、命がけで身を守ったに違いない。あの人は最後まで余裕を失わなかった。智恵《ちえ》と勇気、僕は八千代ちゃんには完全に負けたんだ。負けてあの人を尊敬した。しかし、僕の不心得のために、君があの人に疑いを持って、そのためにあの人が不幸になるような事があったら……」
「菊四君」
寛は菊四が驚くほど明るく大きな声で遮った。
「その心配はいらないよ。僕は八千代ちゃんをけしつぶほども疑ったことはない。僕は子供の時から八千代ちゃんを知っている。愛して来た。あの人の清浄をもし疑うような奴《やつ》があったら、いつでもそいつと決闘するよ。あの人の誇りのためにね」
二人は眼を見合わせた。
「寛君、君は素晴しい恋人を持って幸せだ」
「それだけかい」
寛は笑った。
「なぜ、僕も同様に幸せな恋人を獲得したんだと白状しないのかい」
「遅ればせながらね」
菊四は真実、嬉《うれ》しそうに笑った。
男たちの様子をみて染子と八千代が近づいて来た。菊四は笑いを収めると決心したように寛へ言った。
「寛君、僕の横っ面を一つ、なぐってくれ」
「そんな必要はないよ」
寛は穏やかに笑った。
「僕は何度も言うようだが、八千代ちゃんを一度も疑いはしなかった」
「しかし、それじゃ僕の気持ちが済まないんだ」
「私が寛さんのかわりに殴ってあげるわ」
いきなり染子が進み出たので、八千代が慌《あわ》てて叫んだ。
「止めて染ちゃん」
ぴしりという音が菊四の頬《ほお》で鳴った。染子の平手打ちである。染子はその手を菊四の手に添えて、今度は自分の頬へ力一杯|叩《たた》きつけた。
「これでいいのよ」
染子が晴れやかに言った。
「私達は約束したの。これから先はなんでも二人なの。菊四が悪いことをしたら、私も罪は半分、私が失敗したら菊四もその償いを半分背負ってくれるの。いい時も悪い時も半分ずつ、そう約束したのよ」
菊四を見上げる染子の目には愛情があふれていた。
「僕には過ぎた女房なんだ。幸せものだよ。僕は……」
菊四は寛と八千代へ微笑すると染子へ感謝に満ちた目差しを向けた。
京極《きようごく》へ出て買い物をするのだという菊四と染子に別れて、二人は円山公園を歩いた。夜風が涼しい。
「染ちゃん、幸せそうね」
八千代が呟《つぶや》くように言った。
「菊四君も幸せそうだったよ。あいつがあんな明るい顔をしているのを、僕は初めて見たくらいだ」
「そうね。でも……」
八千代はうつむいた。染子がもう菊四と他人ではないのだと打ちあけた言葉がひっかかるのだ。
(結婚前にそんな軽はずみを……)
と案じる心と、別に、
(そこまで二人の愛がたかめられている)
ということへ羨《うらやま》しさも湧《わ》いた。若い男女が愛し合ったら、そこまで行くのが当たり前かとも思われる。
(寛はまだ一度も、そんなそぶりさえ見せてくれない……)
自分への愛情が、八千代はふと不安になった。
Mホテルの前まで送って、寛は再びタクシーへ乗った。これから夜間撮影にかけつけるのだ。
「あんまり無理をしないでね」
「大丈夫だよ」
走り去るタクシーを見送って八千代は胸がしめつけられる想いがした。
ホテルのフロントで部屋の鍵《かぎ》を受け取って、八千代はロビーのほうへ歩いて行った。
一人っきりの部屋へ戻る気になれない。旅先という淋《さび》しさの他に恋人と別れた後の空虚さが彼女の心を占めていた。
ロビーにはテレビが映っている。連続ドラマらしかった。
所在なく、八千代はロビーのクッションに身体を埋めてテレビを眺めた。
ふと、八千代は頬《ほお》に誰《だれ》かの視線を感じた。誰かが自分をみつめている。顔をあげた。
壁ぎわの席に一人の老紳士がブランデーグラスを掌《てのひら》に温めながら八千代へ微笑している。品のいいグレイの背広にきちんとネクタイを結んでいる。英国風な、きっかりした身だしなみである。
八千代は立ち上がった。いつぞや、菊四に神田の割烹《かつぽう》旅館へ連れ込まれた時、逃げこんだ部屋の老紳士である。温厚な、それでいてどこか神経質そうな風貌《ふうぼう》を八千代は忘れていなかった。
老紳士は近づいた八千代を迎えるために椅子《いす》をはなれた。
「思いがけない所でお逢《あ》いしましたね」
八千代は深く頭を下げた。
「その節は、とんだ御迷惑をおかけ致しまして……」
「いやいや」
老紳士は手をふった。
「その話は止めましょう。あなたにとっても忘れたほうがいい思い出ですからね」
改めて八千代に椅子をすすめ、自身も腰かけた。
「京都へ、お仕事でございますの」
「仕事という程のことではありません。大阪までの用事があって出てきたついでに、立ち寄って見たのですが、古い都も年々に変わって行きますね」
老紳士の言葉に昔を偲《しの》ぶ響きがあった。
「京都へお住いになっていらっしゃいましたのですか」
なにげなく八千代は訊《き》いたのだが、老紳士は強く否定した。
「そうではありません。好きで度々、遊びには来ますが……」
「そうでしたの」
うなずきながら、八千代は直感的に老紳士は以前、京都に住んだ事があるのだが、なにかの理由でそれを言いたくはないのではないかと思った。
三十分ばかり、とりとめのない話をして、八千代は老紳士に別れて部屋へ戻った。
可笑《おか》しな日だと思った。円山公園で染子と菊四と逢《あ》い、ホテルで例の老紳士と逢う。偶然が結んだ縁の上に八千代自身が立っているようだった。
(今頃《いまごろ》、染子と菊四は……撮影所の寛は)
京都の夜と向かい合いながら、八千代はいつまでも窓のそばを離れなかった。
毒の花
ノックなしにドアを押した。鍵《かぎ》がかかっている。
(可笑《おか》しいな)
自分が来ることはあらかじめ解っている筈《はず》であった。
Sホテルに別々の部屋を取っているが、それは形式だけのことで、外出から戻ると一度は各々《おのおの》の部屋へ別れるが、バスルームで入浴をすますと、再び五郎がますみの部屋へ忍んでくるのが、大阪に来てからの毎夜の習慣であった。
五郎はもう一度、素早く廊下を見渡し、人眼のないのを確かめてから、小さくノックした。
「誰《だれ》?」
ますみの声である。問うまでもないのに、と五郎はいらいらした。
「僕です」
「五郎さん、ちょっと待ってね」
室の中でますみの動く気配がした。五郎は用心深く廊下に注意した。漸《ようや》くにドアが開く。五郎はますみの体を押すようにして内部へすべり込んだ。鍵をかける。
「どうしたんです。誰かに見られないかと思ってどきどきしてしまった」
五郎は不平そうに言った。
「ごめんなさい。バスルームから出たばかりで裸だったのよ」
ナイロンの透けるラベンダー色のガウンをまとっている茜ますみはだだっこをなだめるように微笑した。
「かまわないじゃあありませんか。そんな」
もう他人ではないのだし、と五郎は若さを丸出しに、愛人の豊満な姿態を熱っぽくみつめた。稽古《けいこ》の帰りに茜ますみの希望でバーへ寄って、かなり飲んでいる。五郎の瞳《ひとみ》の中に酔いが赤く出ていた。
「でもね、親しき仲にも礼儀ありっていうでしょう。あんまりはしたなくて嫌われるといけないから……」
そのますみの体を五郎は締めつけるように抱いた。
「僕が先生を嫌うなんて……よくもそんなことを……」
ますみは上半身をのけぞらして男の情熱を受け止めた。
「かわいい人……」
ますみは唇に呟《つぶや》き、男の乱れた髪をかき上げてやるとテーブルのそばへ導いた。
テーブルの上にウイスキーの瓶が出ている。
「まだ飲むんですか」
「もう少しだけ。さっきのバーはまるで雰囲気がないんですもの。気分直しよ。つき合ってね」
男の体をかかえるようにして椅子《いす》に坐《すわ》らせウイスキーグラスを持たせた。アルコールの芳香が辺りに漂う。五郎は乱暴にウイスキーを喉《のど》へ流し込んだ。
部屋の中は官能的な香が漂っていた。
茜ますみが部屋中にオーデコロンをふりまいたものらしかった。ソファにもたれている彼女のナイトガウンからも濃厚な香が溢《あふ》れていた。茜ますみの愛用の香水はゲランの「りゅう」だった。フランス製の香水の中では東洋的な魅惑を持つ匂《にお》いが特徴とされている。
五郎は酒に酔い、香に酔った。
「僕には不思議でならない。ますみ先生ほどの方が、どうして僕のように青くさい田舎《いなか》者を……」
「何故《なぜ》、私が急にあなたを愛したかというのね」
茜ますみは五郎の言葉を奪うように笑った。
「それは何故だか教えてあげましょうか。私が自由になったからなのよ」
「先生が自由に……」
「茜流の家元を継いでからの私は、あなたも知っているように岩谷忠男というパトロンが居た。私の一挙一動にはいつも彼の眼がつきまとっていたのよ」
「しかし……」
「わかっているわ。それなら海東や小早川との情事はなんなのだとあなたは言いたいのでしょう。女って悲しいものね。束縛された境地に反撥《はんぱつ》すると、反射的に誰《だれ》かを楯《たて》にしたくなるの。茜流の家元という地位を手放したくないためにはどうしてもパトロンの庇護《ひご》が必要だし、嫌いな男の機嫌も取らなければならない。そうしたもやもやした気持ちが他の男との火遊びをさせたのよ。勿論《もちろん》、火遊びの相手には真実、好きな男は選べないわ。もし岩谷に知れたとき、即座に別れられる相手でないとね。その頃《ころ》の私はまだ岩谷から離れて独立するだけの力がなかったのよ」
ますみは全身を五郎へあずけ、彼のグラスへウイスキーを満たした。
「それにパトロンのある女と承知の上で近づいてくる男性はみんな浮気の対象として私を愛そうとするの。真実なんてこれっぱかしもない大人の遊びの恋ね。死んだ海東もそうだったわ」
「ますみ先生、先生は僕を……」
「最初から好もしい青年と思ったわ。でも、その気持ちをあからさまにしたら岩谷はあなたを内弟子として私の傍におくことを承知しなかったでしょう。私はね。あなたに一日も早く立派な舞踊家として成長して欲しい。その日が来るまであなたに対する本当の心を秘めておこうと決心したのよ」
やんわりとますみは五郎の空いている手に自分の手を重ねた。
「しかし、先生は……先生は小早川喬と結婚なさるつもりだったんじゃありませんか。小早川は先生の真実の愛人ではなかったんですか」
五郎の声にはますみの自分勝手をなじる調子はなく、嫉妬《しつと》だけがぎらぎらしていた。
部屋の中の灯りは殆《ほと》んど消されて、スタンドだけがピンクのシェードを通してバラ色の光りで室内を照らしていた。
「小早川の事は私のミスよ」
茜ますみは斜めに男を見上げた。
「私は小早川に欺《だま》されたの」
「欺された……」
「そう」
ふっと目を伏せると長いまつ毛がますみの顔に或《あ》る翳《かげ》を作った。年増盛りの肌が湯上がりの火照《ほて》りを残して生き生きとなまめかしい。
若い時からの数多い情事は、彼女を美しく磨き上げる役目はしても、疲労の名残りはけし粒ほども止めていない。
「小早川の巧みな言葉に私は夢を持ったの。この男にすがって岩谷と絶縁しようと考えたのだわ。そんなチャンスでもなければ女は、いつまで経っても一人立ちが出来ない。それに、私はもういつわりの恋をこれ以上続けたくなかったのよ。体のいい二号生活から逃れて、苦しくとも一人で出来るだけの事をしてみたい。女としての魅力が、命が花のように咲いている中に、せめて真実の恋がしてみたいと望んだのよ」
「その相手が小早川だったんだ」
五郎は呼吸をはずませた。
「私、錯覚していたのよ。あなたは若い。年上の女の負《ひ》け目もあったわ。それと、内弟子に来ていて私の過去を知ったあなたが果たして最初のままの愛情を私に持っていてくれるのかと不安もあったの。そんな迷いの所へ小早川が入り込んだのよ。私は小早川を愛しているような錯覚を起こし、そのあげく絶望したのだわ」
「絶望……」
ますみはウイスキーグラスを一息に乾し、タンブラーの水を飲んだ。
「あの人は怖しい人だわ」
うわ言のように言った。
「もし、あの人が横浜のホテルであんな死に方をしなかったら、今頃《いまごろ》は私のほうが殺されているわ」
「先生がどうして小早川に殺されるんです」
「それは……ね」
ますみは意味ありげな眼ざしで五郎を見、テーブルの上のグラスを見た。
「あなただから打ち明けるわ。恥ずかしいけど思い切って……」
僅《わず》かな沈黙の後、ますみは声をひそめた。
「小早川は加虐者だったの」
「サディスト……?」
「信じられないでしょう。でも本当だったの。小早川は自分の立場を利用して、私が彼から去ったら、私の舞踊家としての生命を葬ってみせるとおどしたのよ。彼から逃げられないと知ったとき、私は絶望したわ。だから彼が何者かに殺されたのは私にとって思いがけない救いだったの。彼を殺してくれた人は取りもなおさず私の救い主なの、感謝しているわ」
ますみの声が妖《あや》しくからんだ。
「ね、五郎、私はあなたに感謝しているのよ」
茜ますみの言葉に五郎は顔色を失った。
「それは、ど、どういう意味なんです」
持っていたウイスキーグラスがわなないた。ますみは微笑を消さず、立ち上がると五郎の膝《ひざ》に軽い身ごなしで坐《すわ》った。甘えるように右手で男の首筋を愛撫《あいぶ》する。
「あなたは私の恩人よ。悪魔の手から私を解放してくれたナイトなのだわ」
「わかりません。僕には先生のおっしゃる意味が……」
「白ばっくれても駄目よ。小早川喬が轢死《れきし》した晩、あんたはどこに居たというの」
ますみは相変わらず愛撫の手を止めない。
「あの晩は……」
五郎は生つばを呑《の》み、続けた。
「七時少し前に稽古場《けいこば》を出て、ぶらぶら四谷見附まで散歩したんです。頭痛がしてたまらなかったし、気分的にもくさくさしてましたから……。それからタクシーで新宿へ行き映画を見て十一時|頃《ごろ》に代々木八幡のアパートへ帰って……」
ぎこちなく答える五郎をますみは流し眼に見た。
「それは表向きのアリバイね。五郎、私に警察へ言ったのと同じ台詞《せりふ》をきかせる気なの」
「先生……」
五郎の手からウイスキーグラスが音を立てて落ちた。
「先生って呼ぶのは止めてちょうだい。私はあんたの何だというのよ。あんたって男はそんなにも水臭いの」
ますみは男の手を己れの手に添えて胸へ運んだ。
「なにもかも知りつくした仲になっても、まだ、打ち明けてくれないのね」
「そんな……」
「いいわよ。所詮《しよせん》、あんたも私を火遊びの相手としか考えていないのね。こんなお婆さんなんか、あんたの真実の恋の対象になれっこないというのね」
「違う、それは違います」
五郎は血走った眼をあげた。
「僕は先生を……」
「先生と呼ぶのは止めて、といっているのに……わからないの」
ますみは声を荒らげた。
「僕はますみさんを……命がけで愛しています。ますみ先生は僕の一生一度の……」
「それだったら、何故、なにもかも打ち明けて話してくれないの。仮に、もしあなたが小早川を殺したとして、それをこういうわけだと話したら、私が警察へあんたを突き出すとでも思っているのでしょう。私をそんな女だと考えているの」
ますみは胸に押し当てている男の手へじんわり力をこめた。
「こうなったら二人は死ぬも生きるも一緒。あんたが私のために犯した罪なら、私も一緒にその罪を背負うつもりなのよ」
「先生……」
高山五郎の顔は感激と恐怖で異様にひきつっていた。
ますみは男の蒼《あお》ざめた頬《ほお》へ、熱っぽい自分の頬を押しつけた。
「さあ言ってちょうだい。なにもかも……そして、あなたと私とはなんの秘密もない、真実の恋人だと誓って欲しいのよ」
五郎のこめかみを痙攣《けいれん》が走った。眼を閉じ、息をつけて四肢《しし》を固くした。
「殺すつもりじゃなかったんだ」
五郎は叫んだ。
「いや、そうじゃない。俺《おれ》はあいつを殺してやりたかった。俺は手をつかねて小早川と先生とが結婚するのを見ていられなかったんだ。俺は秘密探偵社へ頼んで小早川と先生に関する資料を集めた」
ますみは艶然《えんぜん》と笑った。
「その資料をあんたは岩谷へ送ったのね」
花曇りの赤坂の待合で、岩谷に呼ばれ小早川と二人で何者かからの手紙、それは岩谷へ自分と小早川の情事をつぶさに報告したものだったが、その手紙と証拠の写真とを見せられた日の事をますみは想い出した。
岩谷との話合いは決裂し、ますみと小早川はその足で横浜へドライブした。小早川喬が轢死《れきし》したのは、その夜である。
「僕はなんとかしてますみ先生と小早川との仲をさきたかったんだ。どんな卑劣な手段を弄《ろう》しても先生を小早川と結婚させたくなかった……」
「あんたの気持ちは嬉《うれ》しいわ。それほどまでに私を愛してくれていたのね」
甘く熱っぽい台詞《せりふ》を口にしながら、ますみの眼は冷ややかに男をみつめていた。二人の激しい愛撫《あいぶ》だけが、五郎を悩乱させ、彼はうわ言のように話し続けた。
「僕の手紙で岩谷さんが先生を小早川から引き放してくれることを期待したのです。しかし、結果は逆に先生と小早川を公然の仲にしてしまうことだった」
「それは、見かけだけの事だったのよ。私は小早川と結婚する気はなかった。ただあのチャンスを岩谷から逃れるのに利用したかったのだわ」
五郎の首をガウンの胸に押しつけながら、さりげなく訊《たず》ねた。
「お前、どうやって小早川を殺したの。私はそれが聞いてみたいわ」
五郎の眼にひるんだ色が浮かぶのを見て、ますみは更に言った。
「お前は小早川自身の車で小早川を轢《ひ》き殺す事を考えた。私の居間の手文庫の中に小早川の車の合い鍵《かぎ》が入っているのをお前は知っていた。お前は鍵を盗み、横浜へ私たちを追って来たのね」
五郎の額に脂汗が滲《にじ》み、ますみの言葉を否定する表情と肯定する気配とが同時に顔に出ていた。
「最初から轢《ひ》き殺すつもりじゃなかったんです。あの車、オースチンはもともと先生のものだった。僕が運転して先生のお供をした。そいつを先生は小早川にやってしまった」
五郎は口惜《くや》しそうに唇を噛《か》んだ。ますみは沈黙した。確かにオースチンはますみが小早川に与えた。
「私よりもお出かけの機会の多いあなたが使って下さるほうが効果的だわ。公用の時は私はハイヤーを頼みますし、私用の時はいつもあなたと一緒ですもの」
あなたは私のもの、私のものはあなたのものと、甘いささやきを楽しんだ日の想い出がますみの胸に浮かんだ。
(私は小早川を愛していた。一生に一度の恋と信じていた)
順調に行けば、新進気鋭の劇評家であり、演出家である小早川喬の夫人としての栄光ある妻の座がますみを待っていた筈《はず》である。彼の手腕と援助で舞踊家茜ますみの名はジャーナリズムにも華々しくクローズアップされるに違いなかったのである。ますみの眼に憎悪が光った。
(それを、このチンピラが打ちこわした)
小早川喬が加虐者だとは、五郎を安心させる嘘《うそ》でしかない。彼の口から当夜の告白を聞くための手段であった。無論、五郎は気づかない。甘い花の陶酔の中で彼は告白を続けた。
「僕は先生を小早川から奪い返そうと思ったのです。小早川の手から先生を取り戻して帰りたかった。Gホテルの駐車場でオースチンを見つけた時、僕は涙が出た。この車だってもともとは僕が先生を乗せて自由に運転していたものだ」
五郎は車を鍵《かぎ》であけ、運転して道路へ出た。彼はますみと小早川がホテルに泊まるとは考えていなかった。ますみは翌日、朝の九時からテレビの仕事が予定されていた。横浜に泊まるわけはないと五郎は早合点していたのだ。間もなく小早川とますみは食事を終えてホテルを出てくる。車が妙な所にあるのには驚くだろう。俺《おれ》は運転台に身を縮めてかくれている。二人が車に近づいたらドアをあけ、ますみを車内へ抱き込み、小早川を突きとばして車をスタートさせる。フルスピードで人目のない所までますみを運んだら、ますみに愛を懇願し、聞き入れられない時は力ずくでも自分のものにしてしまおうと五郎は思いつめていた。
「ところがホテルから出て来たのは小早川一人でした。きょろきょろしながらこっちへ来る。先生の姿はない、僕は慌てました。道路が工事中なので小早川は車道へ下り、車の真前を歩いて来ます。この男が先生の心を奪ったのかと思うと、後は無我夢中でした。僕は無意識にヘッドライトをつけ、ギヤをいれました。車のボデーに奇妙なショックを感じながら走り続けました」
車に轢《ひ》かれる前に、小早川は暴走してくる車を避けようとしてヘッドライトの光芒《こうぼう》に眼を奪われ、石につまずいて仰向けに転倒した。そのため、脳と咽喉《いんこう》部と胸部と致命的な場所に圧迫を受けた。それでなければ暴走とは言っても距離も近い事だし、スピードが出きっていたわけではないのだから、怪我《けが》で済んだかも知れなかった。運命は五郎に力を貸した。
「それからのことは記憶がありません。車を乗り捨て、どこからかタクシーを拾いました。赤坂へ帰り……鍵《かぎ》を先生の手文庫へ返して、あわててアパートへ又、タクシーで帰りました。生きた心地がしませんでした」
「よく、赤坂の家で誰《だれ》にも見とがめられなかったわね。私の居間へ入るのに……裏木戸から庭伝いにでも入ったのね」
「ええ……」
五郎の表情に曖昧《あいまい》なものが浮かんだが、ますみはそれ以上、追及しなかった。勝手を知っている五郎ならどこからでも家へ入れただろうし、かなり広い家に久子と女中だけが留守番をしていたのだから見とがめられないのも、それ程むずかしくないと考えたからである。それよりも、ますみはまだ彼に訊《き》かねばならぬ事で頭が一杯だった。
「それにしても、私と小早川が横浜のGホテルへ行ったのを、お前、どうして知ったの」
赤坂の待合からすぐにドライブしてしまったのである。家へは電話をするつもりだったが、つい忘れて、ますみは大桟橋を見物して戻ったら外泊する事を告げる電話をするつもりだった。事件のあった九時には、まだ知らせていない。どうして五郎が行く先を知ったかが妙だった。赤坂からずっと後をつけて来たと考えるには時間が合わない。五郎は午後七時まで稽古場《けいこば》に居た。弟子や女中の証人もある。ますみと小早川が赤坂の待合を出たのは四時前だった。
「それは……」
五郎は口籠《くちごも》り、咄嗟《とつさ》に答えを捜したが、仕方がなかったのだろう。観念したように言った。
「久子さんから聞いたんです」
「久子が……久子がどうして知ったのかしら」
「それは知りません。久子さんがますみ先生と小早川が横浜のGホテルへ食事に出かけたと教えてくれたんです」
「それは何時|頃《ごろ》」
「六時すぎです」
五郎はいきなりますみの胸へ顔をすりつけた。
「先生、僕はもうなにもかも先生に話してしまった。僕を捨てないで……先生はもう僕のものだ。死んだって、殺されたって僕は先生を放さない」
狂暴な力がますみを抱きしめた。
五郎がベッドから下り、身仕度して部屋を出て行ったのは午前二時近かった。足音が遠ざかるのを確かめるとますみはドアの鍵《かぎ》をしめ、ベッドの下から防音箱へひそめたテープレコーダーを取り出した。コードは絨毯《じゆうたん》の下を伝って、テーブルの上の花籠《はなかご》の中に大型腕時計くらいのマイクがかくしてあった。細い特殊のマイクコードはレースのテーブルクロスの下でテーブルの足にからみついて下へ続いている。部屋の中は赤いシェードのかぶさった小さなスタンドの灯りの暗さだったし、輸入されたばかりのこのテープレコーダーは小型のくせにひどく精密に出来ていた。元来がかくし取りのために都合よく考案されたものだ。
ますみは音を低くしてテープを巻き戻し、再生を試みた。五郎の告白は予想以上に、はっきり録音されていた。
(これでいい……)
ますみは恐しいような微笑を浮かべ、テープを大切そうに収めた。それから卓上電話を取り東京の自宅を呼び出した。受話器に出て来たのは内弟子の久子だった。
「遅くに悪かったわね。寝ていたんでしょう」
久子は今、床についたばかりと答えた。
「あんた、妙な事、聞くようだけど、小早川さんが死んだ日にね、私と小早川が横浜のホテルへ行ったってことを五郎に話したの」
ますみは疑問を長く胸にしまっておけない性質である。それでもつとめて何気ない声で訊《き》いた。久子は少し考えて、
「そう言えば申したような気が致します」
と答えた。多分、否定すると考えていたますみは驚いた。
「あんた、どうして私と小早川が横浜のGホテルへ行って食事してるのを知ったのよ」
「それは、小早川先生から電話でお知らせがありましたのです。ますみ先生とGホテルへ食事に来ている。岩谷さんとのことで先生が少しくさくさなさっているから気晴らしのためだ。心配しなくてもよいという電話がございました」
ますみは受話器を握ったまま思案した。小早川が電話してくれたとは意外であったが、そのくらいの気のつく彼だという事はますみにも納得がいった。すると……Gホテルへついて彼がフロントで部屋の交渉をしている間にますみは化粧室へ立った。二人で部屋へ入ってすぐにルームのトイレを使用するのがはしたなく思われたからである。
ますみが戻って来たとき、小早川はロビーで煙草を吸っていた。あの間に赤坂の自宅へ電話してくれたに違いない。
「すると、小早川から電話があったのは五時過ぎ頃《ごろ》だわね」
久子ははきはきと応じた。
「稽古《けいこ》中でしたから、うっかり時間を見ませんでしたが、そのくらいの時刻だと思います」
久子の返事は要領よく、しっかりしていた。万事に慎重な性格である。
「先生、どうかなさいましたのでしょうか」
ますみは軽く受けた。
「いいえ、なんでもないのよ。今夜、五郎と小早川の思い出話をしたものだから、ひょいとね。用事はそのことじゃないの。流儀のことでちょっと難しい話があるのでね。弁護士の金村先生に来て頂こうと思うのよ。こっちの稽古場の問題なの。明朝、お電話してこの前にお話した件につき見込みがつきましたからなるべく早く大阪へお出で頂けないかお願いして欲しいの。詳細はお目にかかってお話しますからって私が言ってたと申し上げればおわかりになるわ。先生は朝がお早いから八時頃にはお電話しないと外出なさってしまうからね。じゃ、頼んだわよ」
受話器を置いて、ますみはほっと息をついた。金村弁護士への電話を直接かけなかったのは深夜である事への遠慮であった。朝は大抵、五郎が起き抜けに訪問してくる習慣であった。若い彼の欲望は旅先という事で一層、野放図になっている。そんなことで彼に気づかれてはならなかったし、金村へ電話する機会を失う怖れがあった故である。
茜ますみは小早川の死後、五郎に疑いを持った。女の直観である。が、証拠がなかった。ますみの相談を受けた金村弁護士も言った。
「証拠がなくて、ただ疑わしいではどうにもなりませんよ」
しかし……。茜ますみは昂ぶる胸をおさえた。
(私は証拠を掴《つか》んだ。五郎の告白をテープに盗むことが出来た)
自分の偽りの愛の言葉に誘導されて、取りかえしのつかない自白をしてしまった五郎の愚かしさが可笑《おか》しかった。自分への愛のために殺人をおかした男への憐《あわ》れみはひとかけらもなかった。小早川喬という愛人を殺した犯人への強い憎悪しかないのだ。
(金村弁護士が来てくれたら、テープを見せ、それから彼を告発する方法を相談したらいいのだ)
いずれにしても、五郎はまるで気づいていない。金村弁護士が来て、五郎へ報復する手段がきまるまで、五郎に気づかせてはならない。それまでは、あくまでも愛人として彼を安心させる演技を続行するのだ。
ますみはベッドへ横になり、手をのばしてスタンドを消した。
体中にしみついて残っている五郎の体臭がまるで気にならない。その感覚は、なにもかも許した男を罪の座へ送ろうとしている行動に悩みを感じないのと、別な意味でつながっているようだった。
男の臭いと濃厚なフランス香水の匂《にお》いにくるまれて、ますみは間もなく安らかな寝息をたてはじめた。
消える
京都の撮影が済んで、能条寛が帰京する日、前もって知らせを受けた八千代は羽田まで迎えに出かけた。
羽田着十三時十五分の予定というのに、八千代は朝から落ち付かず空港へ到着したのは十二時半を少し過ぎたばかりだった。
それでもロビーは十三時発の大阪行や十二時四十五分の札幌《さつぽろ》行を待つ搭乗客や、少し前に到着した機の客が手荷物を受け取る時間を待ってショーウィンドーを覗《のぞ》いたり、出迎え人に挨拶《あいさつ》したりで、かなり混雑していた。
八千代は時間をもて余し、国際線のロビーへ上がってみた。ここは閑散としている。
窓ぎわに寄ると海とそれに続く白い滑走路に太陽が光っていた。
(寛ったら、早く帰ってくればいいのに)
空を仰いだ。彼を乗せた飛行機は今頃《いまごろ》、浜松上空辺りか、それとも大島の近くまで来ているのだろうか。
(どうぞ、事故なんかありませんように)
正直なもので、いつもは先祖の仏壇の前でも滅多に合わせない手をそっと胸の前で揃《そろ》えて祈りたくなったりする。
再び階段を下りてくると赤電話が目についた。退屈しのぎにダイヤルを回す。そんな時の相手はいつも染子にきまっている。
「ああ、八千代ちゃん、ますみ先生のゆくえがわかったの」
あたふたと染子の声が訊《たず》ねる。
「そうじゃないの。私こそ、なにか情報が入ったかと思って電話してみたのよ」
「なあんだ。そうなの」
染子の声は明らかな落胆を響かせていた。
「相変わらず手がかりはないのね」
「勿論《もちろん》よ。五郎と二人でどこへシケ込んでるのかしら。無責任にも程があるわ」
「五郎さんと一緒かどうかはわからないでしょう。まだ……」
「一緒にきまってるわよ。殆《ほと》んど同時に消えちまったんだもの。道行を洒落《しやれ》てるにしては少し念が入りすぎてるわね」
「そうなの。うちでもそう言ってるわ」
「いっそ警察にとどけたほうがいいんじゃない。色気だけで二人がいなくなったってのは可笑《おか》しいもの」
「でも、茜流の幹部では万一の時の外聞を気にしてるのでしょう」
辺りに人はいないが八千代は要心して声をひそめた。
「警察に失踪《しつそう》届けを出したあとで、五郎と二人でぬけぬけと温泉へ行ってたのよ、なんて言って帰って来られたら困るってんでしょうけどねえ。そりゃあ前にもますみ先生は稽古《けいこ》が嫌になったりするとすっぽかして男の人と旅行へ出かけたりって例がないじゃないけど、今度は少し長過ぎるものね。今日で一週間位になるんじゃないの」
染子の声にも、かなりな不安が感じられた。ただごとでないと思うのは多少でも彼女が昨年の暮れから茜ますみの周囲に発生したいくつかの事件について、八千代から予備知識を得ているせいである。勿論《もちろん》、八千代自身は茜ますみと五郎とが続いて失踪《しつそう》したというニュースが入ったとたんに黒い疑惑に怯《おび》えた。
単なる恋の逃避行と幹部の人たちが考えている事も歯がゆかった。
「一週間どころか、なんだかんだで十日位になるのよ。もっともさわぎ出したのはつい三日程前なのだけれど……」
「どうして、そんなにのんきだったのよ」
「東京の人たちは知らなかったのよ。てっきり大阪の稽古《けいこ》に行っているとばかり思っていたのですって。東京へお帰りになる予定の日が来ても一向に帰っていらっしゃらないし、連絡もないので、久子さんが心配してホテルへ連絡したら、いらっしゃらない。お稽古にも出ていない。それから慌《あわ》てて心当たりを全部しらべたけれど……」
「どこにも居なかったわけね」
染子は投げたように言った。
「とにかく、そろそろなんとかしないと手遅れになるんじゃない。実話雑誌なんかにカギつけられても大変だし……」
「本当よ」
門下生にとって流儀のスキャンダルも不快だが、八千代はそれ以上に悪い予感がしてならなかった。
「とにかく、なにか聞いたら、知らせるわ。染ちゃんもお座敷かなんかで情報が入ったら知らせてね」
ロビーで場内アナウンスが聞こえて来たので八千代は急いで電話を切った。
定刻より五分遅れて着陸した機から、寛は一番先にタラップを下りて来た。すぐ後に付き人の佐久間老人が続いている。
寛はロビーに立っている八千代を目ざとく発見したようであった。一層、大股《おおまた》になる。
八千代は胸の中が熱くなった。この前、京都で別れたときは、まだ夏服でも暑かったのに、もう半袖《はんそで》では肌寒いような朝夕の季節である。そろそろ初秋とは言え今年の気温は少し低目なのだと気象庁では報じていた。
「お帰りなさい」
「お待ち遠さん」
向い合った二人は甘く微笑し合ったが、すぐ真剣な眼になった。
「君からの速達読んだよ。例の二人、まだ行方はわからないのかい」
「そうなの。お知らせした通りの状態よ」
「まずいなあ」
寛が腕を組んだとき、漸《ようや》く佐久間老人が追いついて来た。
佐久間老人は八千代に挨拶《あいさつ》してから寛へ告げた。
「葉山君が来てまっせ」
佐久間老人が手をあげると、葉山は急ぎ足で近づいて来た。
「若旦那、お帰りなさいまし」
葉山は寛の父の尾上勘喜郎のお抱え運転手である。
「只今《ただいま》、僕の車、持って来てくれたね」
「はい、あちらに……」
ふり返った駐車場に、寛の愛用車ジャガーの二四サルーンが横づけになっていた。
「有難う。それじゃ済まないが、佐久間のおっさんは荷物を受け取って、葉山君とタクシーで家へ帰ってくれないか」
「へえ、よろしゅうおます。そんなら嬢はん、ぼんをおたのみしますで……」
佐久間老人は人の好い微笑を残して葉山運転手と共に手荷物引換所へ入って行った。
「さ、行こう、やっちゃん」
寛は葉山から受け取った車の鍵《かぎ》を掌《てのひら》で鳴らして大股《おおまた》に歩き出した。
「車、わざわざ持って来させたの」
エンジンがかかってから八千代は訊《たず》ねた。
「うん、大阪から電話で頼んどいたのさ。君とこうしてドライブ出来るようにね」
用意周到だろう、と寛は笑った。
「つまり、二人だけの秘密会議をするためだわね」
片目をつぶってみせて八千代はすぐ真剣になった。
「ね、どう思う。ますみ先生と五郎さんの失踪《しつそう》事件……」
寛はうなずいた。
「君の手紙を読んで、とにかく驚いたよ。完全に虚を突かれた感じだ」
前方を見たまま続けた。
「君が特急列車のビュッフェで二人を見たのが最後という事になるんだね」
「なんだか妙な気がするわ。あの翌日から大阪の稽古《けいこ》がはじまったのでしょう」
「二人が稽古場へ顔を出したのは何日間なんだろう」
「丸二日だけですって、三日目からばったり音沙汰《おとさた》なしになったのだそうよ」
「よくさわがなかったものだね。師匠が稽古場に来ないというのに……」
「それがね、三日目の朝、稽古場へ五郎さんから電話があって、急な用事で九州のほうへ行かねばならなくなったから、お名取りさんの代稽古で済ませるようにって知らせて来たんですって」
「五郎君から……」
「そうなの。大阪にも代稽古の出来るお名取りさんが三人居るんだけど、月に五日は東京からますみ先生がお稽古にくるしきたりだったのよ」
八千代は先刻《さつき》の染子への電話より、はるかにていねいな説明をした。
「五郎君から電話がねえ……」
ハンドルを握ったまま、寛の表情は一層、難しくなった。
「大阪のホテルを引き払ったのはいつなの」
「稽古日《けいこび》二日目ですって」
「二人一緒かい」
「いいえ、夕方にますみ先生がお帰りになって、すぐ又、外出、続いて五郎さんが帰って来てフロントでますみ先生の外出したことを聞くと、彼は部屋へ戻らずに外出して行ったのですって。それから夜の十一時|頃《ごろ》に五郎さんだけが戻って来て、急に予定が変更になったからと言ってフロントにチェックアウトを頼み、荷物をまとめ、お勘定を済ませて行ったというのよ。これは幹部の人が大阪のSホテルへ電話して確かめた事なの」
「なるほど……」
車の多い京浜国道を寛は巧みに愛車をさばいて五反田へ出た。
「そういう詳しい事情を茜流の門下生はみんな知ってるのかい」
「幹部級の数人だけよ。必死でかくしてるわ。外部へ知れたらみっともないし、どんなゴシップ種にされるかわからないでしょう。私は偶然、失踪《しつそう》の三日前、特急列車で二人と乗り合わせたという話をしたものだから、幹部の人がその時の二人の態度や会話になにか今度の失踪の心当たりになるような事はなかったかってしつっこく聞かれたのよ。その折に、私だけ詳しい様子を教えて貰《もら》ったの」
八千代は少しばかり得意そうな微笑を作った。八千代の巧みな誘導尋問で、聞き役の側の幹部連中は結局、大阪で聞き出した二人の失踪の経過を洗いざらい、八千代へ話してしまったのだ。
「でもね。お弟子さん達もなんとなく気づいているのよ。ますみ先生と五郎さんとに、なにかがあったらしいということぐらいはね」
「警察のほうへはまだなんだろうね」
「ええ、でも捜索願いを出すのも今日明日じゃないのかしら。単なる恋愛逃避行とはもう誰《だれ》も考えていないようよ」
「そうだろうね」
寛は沈黙し、八千代もそれに従った。彼の思索の邪魔をしないつもりである。
寛が車を止めたのは田村町の大きな中華料理店の前だった。
ナイトクラブに似た入口にドアマンが立っている。はいって来た寛をみて愛想のいい挨拶《あいさつ》をしたのから察すると、馴染《なじ》みの店なのだろう。
入口をはいった所にクロークがあり、その向こうはテーブルが八卓くらい置いてある。外人客が二組、食事をしていた。
「奥に致しましょうか」
黒い背広に黒い蝶《ちよう》ネクタイを締めた中年のボーイがうやうやしく訊《たず》ねた。
二人が案内されたのは一坪くらいの個室だった。支那風の椅子《いす》とテーブルが配置よく置かれている。
「どうして私がお腹ぺこぺこだとわかったの」
何品かの注文を受けてボーイが下がって行くと八千代は悪戯《いたずら》っぽく笑った。
「早く家を出て来過ぎたと言ったじゃないか。銀座から羽田まではタクシーでも三十分以上かかるだろう。どうだいこの思いやり」
寛は笑った。
「でも、寛はお午《ひる》、済んでるんでしょう」
十三時過ぎに羽田着の便なら、機内で軽食が出る筈《はず》である。
「足りるもんか、雀《すずめ》寿司の一本ぐらいで……」
運ばれたフカのヒレに目を細くして寛は言った。
「それに、ここなら密談にも最適だろう」
八千代はうなずいた。小ぢんまりしているし、隣室との境は壁だから話し声も聞こえない。
「まず八千代ちゃんから話し給え。この間の京都の調査のこと、君が帰る時は撮影が抜けられなくて発車寸前にかけつけて手をふっただけだったし、この間の手紙にも書いてなかったけど……」
「あの時は本当にごめんなさい。送って下さらなくていいってあれ程申し上げたのに、わざわざ来て下さって……でも、うれしかったわ」
八千代はフカのヒレのスープを寛のために小どんぶりに取り分けてやりながら言った。
「でもね。京都はなんにも収穫がなかったのよ。細川昌弥さんの同級生の人、二人ばかり訪問してみたのだけれど、めぼしい話はなにも……。彼は小学生の時から友人と親しくなりにくい性質でいつでも一人ぼっちだったという事くらいよ。クラスメートの中では殊に親友というような仲の友人は一人もなかったのですって……」
「そりゃあ、くたびれもうけだったね。でも僕は君が小学校で写して来た彼と同級の生徒の名簿、あれはなにか役に立つような気がするんだ」
寛は八千代を慰めた。
「その代わりと言っちゃあ可笑《おか》しいけど、僕のほうにはちょいとした収穫があったんだよ。彼に関してさ」
「どんなこと……」
「神戸でのロケが四日ばかりあったんだよ。それで前から考えていた事を実行に移したんだ。細川昌弥君の死体、警察では遺書やその他の状況で自殺と断定してしまったが、その彼の死が発見された日の前日、つまり一月十四日に彼はそれまでかくれていた須磨《すま》の大日映画社長の別宅を出て、十二時大阪発の東京行きの列車に乗る予定だった。それは熱海で彼の恋人の一人のりん子という芸者と逢《あ》い、別れ話をつけるためだった」
寛は雄弁に喋《しやべ》った。
「所が彼はその列車に乗らず、りん子という女性は約束の熱海駅で完全に待ちぼうけを喰《く》わされてしまった。失望した彼女へもたらされたのは細川昌弥の死を報ずるニュースだったというわけだ。ところで昌弥君の妹の、京子さん、あの人から生前聞いた話では、十四日の朝、細川君は電話で二時|伊丹《いたみ》発の飛行機の搭乗券を予約している。これに乗ると、羽田から横浜へタクシーをとばし、そこから熱海へ逆戻りすれば、どうやらりん子との約束の時間に間に合うんだ」
寛は新しい料理の皿へ箸《はし》をのばし、一息ついた。八千代は熱心に耳を傾ける。
「要するに、昌弥君は十一時に須磨のかくれ家を出て、午後二時に伊丹へかけつけるまでの三時間足らずの間になにかしなければならないことか、もしくは逢《あ》わねばならない人が出来たと想像出来る。それで僕は考えたんだ。まず彼の足取りをね。須磨を出てからどこへ行くにしろ歩くか、乗り物に乗るかだろう。彼の性格から言っても商売柄考えても歩く、バス、電車の三つよりタクシーを利用する度合は大きいんじゃないか。殊に時間の余裕もあまりなかったのだ。僕は彼がまずタクシーを拾ったと仮定して神戸のタクシー会社を当たらせたのさ。須磨のかくれ家の付近から十四日の午前十一時|頃《ごろ》、サングラスをかけた細川昌弥らしき人間を客にした運転手はいないかとね。勿論、素人《しろうと》の僕じゃとてもそんな調査は出来ない。幸い、付き人の佐久間のオヤジね、彼の次男が神戸の新聞社に記者づとめをやっている。その彼が快く調査をしてくれた。深い事情は打ちあけなかったのだが、ジャーナリストの勘でなにかを悟ったのかも知れない」
八千代は箸《はし》を動かすのを止めた。
「わかりましたのね。細川さんを乗せたタクシーの運転手さんを……」
寛は大きく顎《あご》を引いた。
「随分な苦労だったらしいけど捜し当てたんだよ」
「どこへ行ったの。細川さんはタクシーで」
八千代はせき込んだ。もう食事どころではない。
「それが……まずいんだ」
寛は頭に手をやり、苦笑した。
「細川君を乗せたタクシーは須磨から神戸へ向かい、湊川《みなとがわ》神社の横で彼を降ろした」
「湊川神社って楠木正成《くすのきまさしげ》と正季《まさすえ》兄弟を奉《まつ》った神社ね」
「そうだ。須磨と神戸の三の宮との間の位置にある。そこで彼はタクシーを降りた」
「そこから……そこから彼がどこへ行ったかはわからないの」
「運転手君を追及しての話なんだが、湊川神社の境内へ入った所に女性が立っていたというんだ。和服姿でサングラスをかけた」
和服でサングラスをかけた女というのは、万事が開放的な神戸という都市でも、かなり目立つ恰好《かつこう》だったらしい。運転手はそれがどうも自分の乗せて来た客の待ち人のようだと気がついて好奇心も手伝ったのか、すぐに車を走らせないで、なんとなく眺めていた。
「距離のある事だし、大通りだから騒音もあって声は聞きとれないが、女がなにかを細川君に話し、やがて二人は神社の正面横へ駐車していた車に乗ったというんだ。そこまで見て運転手君は自分の商売を思い出し、ハンドルを握り直して出発した。だから、彼らを乗せた車がどこへ行ったかは知らない」
「なあんだ」
八千代はがっかりした。思い直して訊《たず》ねた。
「でも、その車ね。二人が乗って行った車はどういうのだったの。自家用車、それとも」
「流石《さすが》は八千代ちゃん、いい所へ目をつけたね」
若鶏のからあげを噛《か》みながら寛は笑った。
「冷やかさないで、質問にお答えなさい」
八千代に睨《にら》まれて寛は骨を捨てた。
「運転手君はその車のナンバーを記憶していないが、確か東京の車のようだったというんだよ。珍しいと思ってナンバープレートを見たが、数字は忘れてしまったらしい。運転台には人がいたというんだ」
「東京の車ねえ。型は?」
「国産車だ。近頃《ちかごろ》、よくタクシーに使っているT社の中型」
「ありふれた車だったのね」
ナンバーさえ運転手が覚えていてくれたら、と八千代は口惜《くや》しくなった。東京の車を神戸で見たと言っても、最近のように素人《しろうと》の自動車旅行が流行していては日本国中どこでも自家用族が走り回っている。タクシーの遠出も増えている。東京の車らしいというだけでは雲を掴《つか》むような話だ。
「がっかりだわ。それじゃ駄目じゃないの」
「そうでもないさ。細川君が湊川神社から和服の女性と二人車でどこかへ行った。これはビッグニュースだぜ」
寛は胸をそらせた。
「もう一つおまけがあるんだ。三の宮の細川君が死んでいた彼のアパートの部屋を見て来たよ。現代だね。人が死んだ部屋なんてのは、とかくケチがついたり、気味悪がられたりしてなかなか後へ入る人がないだろうと思って行ったら、もうちゃんと後釜《あとがま》が入っているのさ。神戸の一流キャバレーにつとめている女の子だっていうんで、全く驚いたんだが、その彼の部屋ね、すこぶるうまい位置にあるんだ」
アパート全体が近頃《ちかごろ》、流行の団地アパート的に入口がいくつもあり、外からの出入りは玄関もなにもない。いきなり各部屋、部屋に通ずる階段になっているのだ。
「しかも、細川君の部屋はその階段の右側でそっち側には彼の部屋一つしかない。おまけに入口が曲がり角にかくれるような形になるんだよ」
誰《だれ》にも見られずに彼の部屋へ出入りしようと思えば、部屋の鍵《かぎ》さえ自由になればそう難しい事ではないのだ。
「おまけにね。その高級アパートの住人は大抵が水商売、キャバレーやバーの女の子なんだね。細川君の隣の部屋を借りていて、十五日朝、ガス臭いとさわぎ出した人間もなんとかいうキャバレーのナンバーワンなんだそうだ」
「それじゃまるでキャバレーづとめの女性用のアパートみたいね」
「なにしろ月々の部屋代が最低三万、五万、最高は十万というのだからサラリーマン風情《ふぜい》が住むべき場所じゃないよ。自然、特殊な職業の人間が集まるんだろうけど、彼らの生活は朝も夜も遅い。夜の帰宅は十二時過ぎが当たり前だ。出勤は五時から六時の間、となると夕方の七時から夜十一時すぎまでというのは殆《ほと》んどの部屋から人間が居なくなる時刻なんだよ」
寛の言葉に八千代は再び目を輝かした。
「わかったわ。その時間にもし昌弥さんが自分の部屋へ入れば、誰にもみつからないのが当たり前だというんでしょう」
「細川君でない誰かが、彼の部屋へ入ったとしても同様だね」
「でも、彼は自分の部屋で死んでいたのだわ。一度はアパートへ帰って来なければ……」
「自分の意志で歩いて来たとは限らないだろう。死体となった彼を誰かが運んで来るとも考えられる」
「まさか……」
「八千代ちゃん、僕はどうも細川君はあのアパートの彼の部屋で死んだのではないような気がするんだ。どこかで殺されて、誰かが彼を運んで来て、自殺と見せかける状況を作った……」
寛は白いテーブルクロースへ視線を止めた。
「理由は二つある。彼の妹さんも言ってたように自殺する理由がない。彼には表向きはT・S映画と大日映画にはさまれて葛藤《かつとう》と苦悩の中に身を置いたようになっていたが、世間に発表出来ない内幕を覗《のぞ》けば、大日映画社長の令嬢と結婚、はっきり言えばその女性との間にベビーが生まれるような状態にあったんだ。どう転んだって、行きづまりじゃない。大日映画でも彼と令嬢との結婚、及び、彼のスターとしての再出発には種々のプランを練っていたというし、彼も好意的な大日映画の態度に感激し、人生にも、生活にも再スタートを決意していたという。そんな張り切っていた人間が一朝一夕に自殺なんぞするだろうか。しかも人生に絶望したなどという遺書を残してだよ」
「細川昌弥さんが自殺でなかったのではないかという想像は私も賛成だわ」
八千代は寛へうなずいた。
「あの遺書のことね。前にもヒロシに話したと思うけど、私は彼の手紙の一部じゃないかと考えたのよ。りん子さんの所へ彼がよこしたラブレターというのを染ちゃんが見せて貰《もら》ったことがあってね。その文章を私も彼女から聞いたのだけれど、年中、人生に絶望したとか孤独に堪えられないとか、死にたいとか、そんな深刻な文句ばかりが並んでいるんですって。女は深刻な文章にヨワイと思ってるのねって染ちゃん笑ってたわ」
寛は苦笑した。
「そのことも君から聞いた。僕もそれは同感だ。もう一つ、時間の問題があるんだよ」
寛はテーブルの上に煙草の箱の白い部分を出し、そこへ万年筆で十一と書いた。
「十一時に須磨の家を出て、湊川神社から或《あ》る女と車でどこかへ行った。それからアパートへ帰ったのが夜の八時以後だとすると、細川昌弥はその九時間をどうしていたのだろうということさ」
「女の人と、どこかに居たのじゃあないの」
「しかしね。八千代ちゃん、昌弥君は二時伊丹発の飛行機を予約しているのだ。その女性との用談はせいぜい一時間か二時間で済む筈《はず》じゃなかったのか」
「話がこじれて遅くなったのじゃないの。もし、その女の人との話が恋愛問題で、別れるとか別れられないとかの相談ならば、女の人が別れないといい出したりして時間がすぎてしまうとか……」
「それは僕も一応は考えた。彼は大日映画の社長の令嬢と結婚する前に、今までの女性関係を全部、清算しなければならなかった。りん子ちゃんと熱海で逢《あ》うのも最後の別れのためだった。だからその出発前に慌しく逢わねばならなかった女というのは、やっぱり愛情関係の女だと想像したのだが、もし、そう推定した場合、話がこじれて熱海へ行けなくなるというのはどうだろうか。細川君は他の女性はともかくりん子ちゃんにだけはかなり本気だった。おそらく一番、愛していた女性がりん子ちゃんだったのだろう。将来の野望のために彼女と別れる決心はしても、未練たっぷりだった。彼女には済まないと思っていただろう。だからこそ危険をおかしても熱海で彼女との別れのチャンスを持とうとした。それまでの相手をみすみす熱海で待ちぼうけくわせるだろうか。もし、話がこじれて二時の飛行機に乗れなかったら、電話なり電報なりでりん子ちゃんと連絡を取ったのじゃないかな。いくらなんでもそのくらいの余裕はある筈《はず》だし、女がつきまとっていても、ごま化して電話をかける時間を取るのなんか昌弥君に出来ないわけはないと思うんだよ」
寛は熱心に続けた。
「昌弥君の死体に対する警察医の所見では死後推定二十時間以内という事になっているそうだ。つまりアパートの隣室の人がガス臭いようだとさわぎ出したのは翌朝の八時|頃《ごろ》、昌弥君は前夜の十時から夜半の中にガス自殺したと想像されているのだが、僕は彼が殺されたのはもっと早く、少なくとも十四日の夕刻前だと思う。それまで彼は彼の自由にならぬ所へ軟禁されていたのじゃないだろうか。犯人は或《あ》る場所で彼をガスによって殺し、時刻をみはからってアパートに人のいない十時前後に彼の死体を部屋へ運び、自殺したように情況を装った……」
「鍵《かぎ》はどうしたのかしら。部屋の鍵は……彼は部屋に鍵をかけて死んでいたのでしょう」
八千代は反問した。
「それなんだ。部屋の鍵は昌弥君のポケットに入っていた。部屋へ入る時に犯人はその鍵を使って内へ入った。鍵は死体のポケットへ入れておく。出る時はどうしたのか。これもアパートの部屋を見れば簡単なんだ」
「どういうわけなの」
「ドアの造りがね。最新式のホテルなんかでよく使っている奴《やつ》、つまり内部からドアのノブについているボタンを押しておいて外へ出てそのままドアを閉めると自然に鍵がかかるというあれなんだ。犯人は首尾よく鍵なしで外へ出て鍵穴に紙くずをつめガス洩れを防いで逃走したということになる」
「誰《だれ》なの、昌弥さんを殺したのは……」
たまらなくなって八千代は訊《たず》ねた。
「それが解れば苦労はないさ。ただ昌弥君のアパートを以前にどんな人が訪問していたか。これも佐久間のオヤジの次男坊が警察から聞いてくれたんだが、最も多く訪問しているのは背の高い日本的な感じの和服の似合う垢抜《あかぬ》けた女性だったという。当然、考えられるのは茜ますみ女史だ。警察も一応その点は追及したらしい。管理人や隣室の者にますみ女史の写真をみせたら、サングラスやマスクで顔をかくしていたが確かにそうだという。しかしね。昌弥君の失踪《しつそう》した十四日中、死亡した夜半から十五日未明にかけても全部ますみ女史にはアリバイがあったんだそうだ。十四日は朝九時から京都の稽古場《けいこば》で弟子の稽古、十二時からはAホールでテレビの公開放送に出席、三時過ぎにホテルへ戻り、三十分ほど部屋にいて四時から大阪の稽古場で八時まで稽古に立ち会い、それから大東銀行の岩谷氏とナイトクラブNへ行って十一時|頃《ごろ》一緒にホテルへ帰って来て一緒の部屋で寝てるんだ」
寛はずけずけした言い方をした。
「おまけに僕は翌朝、食堂で彼女と顔を合わせている。あの時は僕も大阪公演でSホテルへ泊まっていたんだ」
「湊川神社でサングラスをかけた和服の女性が昌弥さんを待っていた。それは茜ますみ先生じゃないってことになるのね」
八千代は少しがっかりし同時にほっとした。師匠が犯人とは人情でどうしても思いたくない。
「警察も新聞社もそこでお手あげになってしまって。結局、自殺説になったらしいね。なにしろ他殺なら、そしてもし僕の推定が当たっているとしたら、よくよくあの三の宮の彼のアパートの状況を熟知している人間でないとあの犯行は難しい」
「それは寛のいうようなら女が犯人ではないわよ。女の力じゃ死体を部屋へ運ぶのはとても無理だもの」
言いかけて八千代ははっとした。いつぞや修善寺へ海東英次の死を確かめに行った時、寛は、もし犯人が二人以上なら、死体を離れの庭からギリシャ風呂《ぶろ》の窓へ入れ、風呂場で死んだように見せかける事も可能だと言った事を想い出したものだ。
「寛は共犯ということを考えているのね。だったらもしや……」
茜ますみと内弟子の五郎が八千代の脳裡《のうり》に浮かんだ。だが一月十四日、ますみには一日アリバイがあり、五郎は東京の稽古《けいこ》に残っていた筈《はず》だ。
「僕は東京へ帰ったらますみさんに逢《あ》ってみるつもりだったのだよ。今度の事件はやっぱり彼女に原因している事は疑いないんだ。直接、彼女に当たってみるより手がかりはない」
その茜ますみが五郎と一緒に消えてしまったのである。寛はふかぶかと腕を組んだ。
「さあてと、厄介なことになったぞ」
二人が中国飯店を出たのはまだ明るかった。寛が車の鍵《かぎ》をあけている間、八千代は舗道に立っていた。客をのせたタクシーが目の前へ止まった。中国飯店へ来た客らしい。釣り銭を渡し、客の出てしまったドアをしめている運転手をみて八千代はあっと声をあげた。
「あなたは……」
しかし運転手はちらりと八千代を見たきりさっさと車を走らせて去った。
「どうしたんだ。八千代ちゃん」
寛が怪訝《けげん》そうに訊《き》いた。
「今のタクシーの運転手さん、ほら、いつか神田の変な店へ菊四さんに連れて行かれたとき……」
「助けてくれた人だってのかい」
「ええ、すごくよく似ていたのよ」
「他人のそら似じゃないのかな」
「でも……」
八千代は諦《あきら》めかねてタクシーの去った方角へ眼をやった。
「タクシーの運ちゃんねえ」
寛は頻《しき》りと別のことを考えるように首をかしげていた。
茜流家元、茜ますみ失踪《しつそう》のニュースは日ならずして新聞に報道された。茜流の幹部が案じた通り、実話専門の週刊誌や新聞は彼女の過去や今度の失踪原因の憶測など派手な記事をばらまいた。そうなっても茜ますみと五郎の消息は全く不明のままであった。
脚 光
十月十八日は浜八千代の誕生日だった。例年のことで親しい友人を招待するのだが、今年は顔ぶれが少しばかり変わった。一番最初に到着したのは、染子、客間の仕度がすっかり整った所へ演舞場の舞台を済ませた尾上勘喜郎と菊四、続いて伯父《おじ》の結城慎作がかけつけた。
「今年のお客様はこれだけかい」
挨拶《あいさつ》してから慎作は着飾った姪《めい》を眺めた。白地にバラを染めた訪問着姿の八千代は花嫁のように初々《ういうい》しく美しかった。
「本当は久子さんもお招きしたのですけれど花扇会にお出になるもんだから……」
花扇会というのは舞踊協会が主催する年に一度の各流家元交流の舞踊会で今日、Sホテルに華々しく幕があけられていた。
「すると茜ますみ女史の代役として久子さんが出演しているんだね」
「そうなの、場合が場合だから辞退したらという話もあったのだけれど、久子さんが茜流が不参加では面目にかかわるって、結局、幹部の人と相談して彼女が代役をつとめる事になったのよ。なんと言っても実力じゃ彼女が一番ですものね」
染子が説明した。
「それにしても、もう一人顔ぶれが足りんようだな」
慎作は勘喜郎と微笑しながら言った。
「わかっています。彼は撮影が終わり次第という約束なのよ。さあぼつぼつ召し上がって、今日は板前さんが腕によりをかけていますから……」
八千代は器用に料理をすすめ、染子が男たちに酒を注いだ。
「茜流といえば今度は散々だったね。おまけに今日もこんな奴《やつ》が発刊されて……とうとう三浦先生の名前まで出ちまったよ」
慎作はポケットから折った新聞紙を取り出した。三面に大きく悪女に翻弄《ほんろう》された男達、と見出しが出ている。
「三浦先生って誰《だれ》なの」
染子が訊《き》いた。
「京都のD大の教授だった人だよ。僕だの勘喜郎君だのの先輩で当時新進の演劇評論家でもあったんだ。謹厳なカトリック信者でもあった彼が茜ますみに逢《あ》ったばかりに家庭を崩壊し、遂には社会的地位まで失った」
慎作はウイスキーグラスを唇へ運んだ。
「茜ますみさんっていうのはもともとP花街のお酌さんに出ていたんですってね」
「そう、舞妓《まいこ》の彼女を見染め、その芸質に惚《ほ》れて大金を投じて水あげし、以来、掌中《しようちゆう》の玉のように愛したんだ。三浦先生のなよたけの君とか言ってね。随分有名な話なんだ。結局、大学教授ともあるものが色街の女に迷って家庭を捨てたという事がD大から追放された原因なんだが、ますみ女史は彼が失脚すると忽《たちま》ち彼を捨てた。彼女によって三浦先生は完全な踏み台にされたわけだ」
「そいじゃ、その三浦先生って人、随分|怨《うら》んでるでしょうね。今どこに居るのかしら」
染子が同情的な声で言った。
「それが問題なんだ。実を言うと僕らは三浦先生の現在を知ろうと必死になってるんだ」
結城慎作は勘喜郎と眼を見合わせた。
「それは何故なの。伯父《おじ》様はもしかすると今度の事件にその三浦先生が関係していると考えていらっしゃるんじゃありませんの」
「八千代、実をいうとね。今まではまだ話してよい段階ではなかったので言わなかったのだが、昨年の暮れに修善寺で死んだ海東英次は三浦先生の家で書生をしていた男なんだ。ますみ女史と彼とは彼女が三浦先生の持ち物だった頃から既に人目を忍ぶ仲だったんだ」
「まあ」
八千代と染子はあっけにとられた。
「彼だけじゃない。ますみ女史のパトロンの岩谷忠男、それから横浜で轢死《れきし》した小早川喬、彼らも三浦先生の門下生だったんだ。もっとも岩谷は途中から経済学を志して東京の大学へ変わったが、それまでは文科の学生だったんだ。大学を卒業と同時に父親の関係している大東銀行へ入行し出世街道を驀進《ばくしん》した。三浦先生が失脚した頃《ころ》彼はもう銀行家としてかなり手腕を発揮していた。茜ますみを東京へ連れ出して先代の茜流家元、茜よしみの内弟子にし、よしみのパトロンを籠絡《ろうらく》して二代目家元を継がせるように工作したのも全部岩谷の才覚だ。パトロンが死んで彼は正式に、というと可笑《おか》しいが天下晴れてますみのパトロンに居直ったわけさ」
「すると、ますみ先生が岩谷さんにそむいて結婚しようとした小早川さんは岩谷さんの後輩というわけね」
染子が感心して呟《つぶや》いた。
「その三浦先生という方、京都の大学時代はどこに住んでいらしたの」
「左京区さ、南禅寺《なんぜんじ》の近くなんだ。勿論《もちろん》、そこは大学を辞任すると同時に引き払ってしまったらしいがね」
「南禅寺というと岡崎の付近ね」
八千代は細川昌弥を思い出した。彼の生家は岡崎である。そう言えば昌弥の妹の京子の話では兄と茜ますみとの交際は京都時代に家が近かった故《せい》だといっていた。
「伯父《おじ》様、その三浦先生はますみ先生を御自分の家へ連れて来たの。まさか奥さんと同居させたんじゃないでしょうね」
妾《めかけ》と本妻を一つの家に住まわせるという男の例を八千代は話に聞いた事がある。
「いや、三浦先生の場合は最初は落籍した彼女をどこかアパートへ囲っていたらしいが、連日そっちへ入りびたりなので奥さんが怒って実家へ帰ってしまった。その留守に南禅寺の本宅へますみ女史を引っぱり込んでしまったのだそうだ」
慎作は眉《まゆ》を寄せて盃《さかずき》の中へ眼を落とした。
「あきれたもんね。それで大学の先生なんだから……男って仕様がないわね」
染子が慨嘆した時、勢よくドアが開いて能条寛が顔を出した。
「おそいぞ。二枚目、八千代ちゃんがお待ちかねだ」
菊四が笑いながら盃を上げた。
「やあ、どうも……」
寛は軽く笑い返したが、すぐに真剣な表情になると八千代へ近づいた。
「君に聞きたいことがあるんだ。例の海東先生が歿《な》くなった晩、久子さんは君と染ちゃんの部屋で寝たんだね。笹屋旅館の……」
「ええ」
八千代は相手の剣幕に気を呑《の》まれた。
「その晩、彼女は何時|頃《ごろ》に部屋へ戻って来たか覚えてるかい」
「そうねえ。私達がピンポンして帰って来たのが九時前、それから染ちゃんとお風呂《ふろ》へ入って戻って来たら久子さんが居たのだから」
「十時|頃《ごろ》でしょう。きっと」
染子と八千代はこもごもに答えた。
「それまで久子さんはますみ先生のお世話をしていたのよ。一人でお風呂へ入って来て、布団へ入ったのが十時半、その時、染ちゃんはもう眠っていたわ」
「その後に久子さんが部屋を出た形跡はないかな」
「そうねえ、私もすぐ眠っちゃったし……」
八千代がいうと染子が思い出したように、
「そう言えば夢うつつの中で久子さんが部屋を出て行くような気配がしたわ。トイレへ行ったんだなと思って……こっちも眠くてしようがないんだから気にもしなかったけど」
「戻って来たのは……」
寛は追及した。
「知らない。私がはっきり眼をさましたのは夜明の三時過ぎ、その時は久子さん布団に居たわ。私がスタンド点《つ》けて煙草吸ってたら、廊下ががやがやし出したんだもの」
「そうか……」
寛が考え深そうな眼をしたので八千代はさいそくした。
「なにかあったの。久子さんに……」
「とんだ事に気がついたんだよ」
寛はポケットからくしゃくしゃの新聞を取り出した。茜ますみの過去の男達の記事が出ている例の実話新聞だ。結城慎作がさっきみんなに見せたのと同じである。
「この三浦という先生の住所、勿論《もちろん》その当時のなんだけど、この住所が、八千代ちゃんの写して来た京都のS小学校の、細川昌弥のクラスメートの中の一人と同じなんだよ」
寛はもう一方のポケットからいつぞや八千代が渡したメモ帳を取り出した。細川昌弥の卒業写真に並んでいた生徒の名簿のうつしである。
「左京区南禅寺福地町××三浦田鶴子」
寛は声に出して読み上げた。
「そりゃあ三浦先生の娘さんだよ。保護者の名前は三浦|呂舟《ろしゆう》になっている筈《はず》だ」
慎作が口を入れた。
「そうです。つまり細川昌弥の同級生に三浦先生の娘さんが居られた。僕が発見したのはこの事なんです」
寛は興奮を無理におさえつけるようにしながら喋《しやべ》った。
「八千代ちゃんは知ってるね。細川昌弥が今年の正月五日に大阪のSホテルへ行って翌日、妹の京子さんに思いがけない人に逢《あ》ったと言いながら卒業写真を見ていたということ。実はあの夜、僕はSホテルに泊まっていてロビーでますみ先生の内弟子の久子さんに逢った。彼女はますみ女史の部屋で男客が彼女と逢い引きしているため、その男の帰るのをロビーで待っていたわけだ。ますみ女史の所へ来ていた男客、これがどうも細川昌弥らしい。もし彼だったとすると、彼は帰りがけにロビーに居た久子さんと偶然に顔を合わせないとは限らない。まだ、あるんだ。細川昌弥が殺された十四日、赤坂のますみさんの家の女中さんの話だと久子さんは夜の十一時半|頃《ごろ》に帰宅している。つまり大阪を四時三十分発の特急で発《た》って来たと言っている。これだと十一時に東京着だ。しかし、こうも言える。大阪の伊丹を九時五分発の日航機に乗れば十一時前に羽田へ着く。タクシーをとばせば十一時半過ぎに帰宅出来る。従って彼女が午前十一時過ぎに神戸で細川昌弥と逢《あ》い、その死体を夜の八時|頃《ごろ》に三の宮のアパートへ運んでから帰京する事も可能と言えるんだ」
「何故《なぜ》、彼女がそんな事をする必要があるの」
たまりかねて八千代は叫んだ。
「もう少し聞いてくれよ。もう一つ、僕はうっかりしていたのだが、例のPホテルのプールの一件ね。あの夜、僕は京子さんのアパートへアルバムをみせて貰《もら》いに行く約束だった。細川昌弥君が思わぬ人に逢ったと言って眺めていたやつだ。八時という約束の時刻に僕は行かれなかった。そしてその夜、京子さんは何者かに殺され、アルバムから一枚の写真が剥《は》ぎ取られた。例の昌弥君の卒業写真だ。言いかえれば犯人はその写真を僕に見られたくないため、それが昌弥君の死の原因をあばく鍵《かぎ》である事のために京子さんを殺し奪ったに違いないのだが、そいつは少なくともその夜八時に僕が彼女のアパートを訪問する事を知っていたという事になる。どうして知ったのか。京子さんがうっかり話したとも考えられる。しかし、僕は気がついた。僕が京子さんへその約束の電話をかけたのは築地の天春からなんだ。お父さんがNHKの私の秘密≠ノ出演してその帰途、天ぷら屋へ寄った。そこからかけたのだが、僕のそばには誰《だれ》も居なかった。が、その時、京子さんの部屋には来客があった。彼女はその人の名を僕に言った。その来客は僕と京子さんの約束の電話を、京子さんのそばに居て聞いていた」
「誰なのよ。誰なのその人は……」
たまりかねたように染子が叫んだ。彼女だけではなくその部屋の人間の全てが寛の口許に集中している。
「あの時の京子さんの電話の台詞《せりふ》を僕ははっきりと思い出す事が出来る。京子さんはこう言った筈《はず》だ。今、ここに久子さんが見えてます。あなたの車のことでことづけを頼まれて毎日アパートへお寄りになったんですって、私、箱根へ旅行していて今日戻って来たんです、とね。それからアルバムの話をした」
「車のことって、例の晩、京子さんの部屋へ車の鍵《かぎ》を忘れてしまって、車をアパートの駐車場へあずけて帰ったことでしょう」
染子は八千代と寛との間の誤解の種となったジャガーの二四サルーンの車を思い出した。
「僕は翌日、車を取りに行ってそこで久子さんに逢《あ》った。彼女は京子さんとは最近、親しくしているから車のことはことづけてあげると言ってくれたんだ」
寛はゆっくりと一座を見渡した。
「僕が京子さんに電話をした時、久子さんはそばに居た。電話が済んでからアルバムを見せるというのはどういうわけかと京子さんにさりげなく訊《たず》ねる事も可能だ。京子さんにしても久子さんの前歴は知らない。茜ますみの内弟子ということでなにかの役に立つ、情報を聞き出すに便利な相手と思ってつき合っていたのだろう。二人が知り合ったというより、近づいたのは昌弥君の死後の事だからね」
「待ってちょうだい。寛、どうして久子さんが……そんな怖しい……理由がないじゃありませんか。寛のいうのを聞いていると細川昌弥さんと京子さんの兄妹を殺した犯人は久子さんということになりそうじゃないの。何故《なぜ》、彼女がそんな事をしなけりゃならなかったの」
「細川兄妹だけじゃない。海東先生も小早川喬も、そしておそらく茜ますみも高山五郎も彼女によって殺されているんだ」
「寛さん」
染子が金切り声をあげた。
「久子さんが何故、彼らを殺したか。理由はこれなんだ」
寛は手品師のように、再びポケットへ手をやった。二枚の写真だった。一枚は卒業記念写真。S小学校で八千代が見たのと同じものだった。細川京子のアルバムから犯人が剥《は》がして行ったと推定されるのと同じものでもある。
「どうしてこれを手に入れたの」
「君が東京へ帰った後でS小学校へ行き、頼んで複写させて貰《もら》っといたんだ」
もう一枚を手に取った。一人の女生徒の顔が拡大されている。
「卒業写真の中にある三浦田鶴子の顔を拡大してみたんだ。たった今しがた撮影所でやって貰ったんだよ。この新聞の記事から思いついてね。その顔、誰《だれ》かに似ていると思わないかい。八千代ちゃん、染ちゃん……」
写真を覗《のぞ》き込んで八千代と染子は同時に言った。
「これ……ひ……久子さんじゃあ……」
「なんだって……」
慎作は手を伸ばして写真をひったくった。
「すると、なにか、茜ますみの内弟子の久子という人が、三浦呂舟先生の娘の田鶴子さんだというのか」
流石《さすが》に顔色が変わっていた。
「そうなんです。そう考える時、すべてがはっきりするんじゃありませんか」
寛が言った。慎作と勘喜郎とは茫然《ぼうぜん》と顔を見合せたきり声も出ない。
「ちょいと、八千代ちゃん思い出したわ。ほら小早川が死んでお葬式の晩、変な電報が来たじゃないさ。ツツシミテオクヤミモウシアゲマス、ロシウってのさ。あのロシウってのは、その三浦呂舟って先生のことじゃない」
「そうだわ。本当にその通りだわ」
改めて八千代も悟った。茜ますみがその弔電の差出人の名をみて真蒼《まつさお》になった意味である。皮肉な嫌がらせの電報だったのだ。
事件の外貌《がいぼう》が漸《ようや》く浮き上がって来た。
「八千代、その久子さんって人は今日、Sホールで踊りの会に出ているって言ったね。もう終わってるだろうか」
慎作に訊《き》かれて八千代は時計を見た。
「プログラムの終わりから三番目だから、まだの筈《はず》よ。今頃《いまごろ》お化粧中かしら」
「よし、すぐ行こう。もし、寛君の推定が事実なら僕らは三浦先生の門下の一人として、彼女に自首をすすめなければならない」
慎作が立ち上がった。悲壮な表情である。
「車は僕のがありますよ」
寛が玄関へ走り出した。
「とにかく、みんな一緒に行きましょう。ここに居るのはなんらかの形で今度の事件にかかわりあいのある人間ばかりだ」
車に乗りこんでから勘喜郎は例の新聞を未練がましく拡げた。
「ねえ、結城君、先生も共犯なのだろうか」
沈痛な声だった。
「さあ、女一人ではねえ……」
慎作の表情も暗い。新聞には三浦呂舟の写真も出ていた。その下に海東英次、小早川喬、岩谷忠男の写真が並んでいる。ますみと関係のあった男たちというわけであろう。何気なく写真を見ていた染子が八千代を突いた。
「八千代ちゃん、この三浦って先生、どっかで見たような顔ねえ」
勘喜郎が聞きとがめた。
「見憶《みおぼ》えがあるかい。それは今から二十年も前の写真だから、今なら六十過ぎ、髪も白くなっているだろう。童顔だったから案外、お若く見えるかも知れないが……」
「この顔がもう少しお爺さんになって……」
あっと八千代は声をあげた。
「この人だわ。この方だわ」
「八千代、お前、三浦先生を知ってるのか」
助手席から慎作がふり返った。
「染ちゃん、菊四さん、見てちょうだい。あの方じゃない。ほら神田の『みずがき』の」
八千代は流石《さすが》に周囲を意識して口をにごした。菊四の面目を考えた為である。
「そうよ。そうだわ。違いないわ」
染子が太鼓判をおし、菊四も頭をかき乍《なが》ら、
「僕もそう思うよ。とんだ所で旧悪露見だ」
八千代は慎作へ言った。
「伯父《おじ》様、もし八千代の知っている人が三浦先生なら、その人は今、タクシーの運転手をしているのかも知れないわ。この間、田村町の中国飯店の前でそれらしいタクシーの運転手さんをみかけたのよ。あれは確か個人営業のようだったけど……。なんにしても私、その人から名刺を頂いた筈《はず》よ」
そそくさと財布を出し、八千代は一枚の名刺を出した。みずがきで貰《もら》ったものだ。
「三浦兼吉、住所は渋谷か……どうする、こっちへ行ってみますか」
勘喜郎が名刺を眺めて言った。
「いや、やっぱり久子さんのほうを先にしましょう。タクシーの運転手をしているのなら今時分、家に居るかどうか危いものだし……」
場所から言っても大手町のSホールの方が近かった。
「わかった」
運転している寛がハンドルを握った儘《まま》、どなったので一同はびっくりした。
「久子さんのお父さんがタクシーの運転手だとすると細川昌弥君の殺し方が解ったよ」
寛は正面を向いた恰好《かつこう》で喋《しやべ》らなければならないのがもどかしそうであった。
「湊川神社の所で昌弥君を迎えた女は勿論《もちろん》、久子さんだ。二人が乗った車の運転手が三浦先生に違いない。車は彼のものさ」
「東京から運転して来ていたわけね」
「久子さんが前もって連絡して呼び寄せたんだろう。昌弥君は運転手と久子さんが父娘《おやこ》だとは知らない。適当な所へドライブしながら久子さんは昌弥君に催眠薬の入ったジュースかウイスキーかなんかを飲ませて彼の自由を奪い、人目のない所へ運んで仮死状態の彼を車の下にある排気孔《マフラー》へ口を当てさせた。マフラーからはガソリンとオイルを気化した強烈なガスが出る。昌弥君は一たまりもない。その死体を再びタクシーでアパートへ運び、ガス栓をあけてガス自殺を装ったんだよ」
寛の説明をみんなは黙念と聞いた。口をはさむ余裕すら失っている。
信号が青になり、寛の運転する車はSホールの玄関前へすべり込んだ。
「楽屋はこっちよ」
八千代を先に立てて、階段を上がった。頭上から華やかな三味線の音が流れている。
楽屋番に菊四が近づいた。岸田久子さんの部屋はどこですかと訊《き》いている。
「わかりましたよ。奥の三番だそうです」
戻って来て言った。
「伯父《おじ》様、私、染ちゃんとここに居ます。もし万が一、久子さんがそうだったら、なるべく人目に立たないように、ね。手荒なことなどなさらないでね」
八千代は伯父に哀願した。
「わかっているよ」
慎作はうなずいた。
「僕は残っていますよ。あまり大勢では……」
菊四が言った。結局、慎作、勘喜郎、寛の三人がさりげなく久子の楽屋ののれんをくぐった。
久子はもう化粧を済ませ、衣裳《いしよう》を着ていた。かつらだけ、まだかけていない恰好《かつこう》で鏡の前に坐《すわ》っていた。そばに茜流の幹部の名取りが二、三人いたが、部屋の中はひっそりとしている。隣近所が踊りの会の楽屋らしくにぎやかな笑い声や華やかな色彩、人の出入りに取り巻かれているのに、この部屋だけが奈落《ならく》のように暗い。
茜流控室とはり紙の出ているのれんを見て廊下でささやいている人も多かった。茜ますみの失踪《しつそう》はもはや舞踊関係ではもちきりの噂《うわさ》話になっている。
「へえ、内弟子さんがますみさんの代役をするの」
などと聞こえよがしの声も通った。
しかし、鏡の中の久子の顔はむしろ生き生きとしていた。飽かず自分の舞台姿に見入っている。
のれんを入って来た勘喜郎を目ざとくみつけた。
「まあ、音羽屋の師匠、ようこそ……」
楽屋見舞いに来たと解釈したらしかった。いそいそと座布団をすすめる。
「どうでございましょう。この衣裳……」
袖《そで》を拡げたポーズにも晴れがましさがあった。勘喜郎は沈鬱《ちんうつ》にうなずいた。
「演目《だしもの》はなんですね」
「地唄《じうた》の葵《あおい》の上《うえ》ですわ」
ふと入口に立っている寛と慎作に気づいた。怪訝《けげん》そうに見る。慎作は意を決したように内部へ入った。勘喜郎は紹介の形を取った。
「これは僕のD大時代からの友人で結城という者です。貴女《あなた》に折入ってお話したいことがあるのです。僕も同様です。失礼ですがそちらの方々に少し席をはずして頂けませんか」
D大という言葉に久子はぎくりとしたようだった。
「もうすぐ舞台なのですけど、終わってからではいけませんかしら」
「お手間は取らせません」
結城はきっぱり言った。様子をみていた茜流の幹部達は席を立った。
「すみません。どうぞ客席のほうでごらんになっていて下さい」
久子は丁寧に送り出した。席へ戻った。
「なんでございますの、お話とおっしゃるのは……」
落ち付いて結城を見た。勝気そうな眼がきらきらと輝いている。
「三浦呂舟先生のお嬢さんですね」
ずばりと結城は言って久子を見つめた。久子は視線を逸《そ》らさない。
「僕は京都のD大の出身で三浦先生の後輩に当たる者で在学当時は先生とかなり親しくしていました。卒業後、新聞社へ入り、南方へ従軍記者として配属されたりして先生との音信も絶えたのですが、昨年、偶然に再会の機会を得ました。暮の十二月六日です」
思いがけない慎作の言葉に、寛は眼を見はった。十二月六日は海東英次が修善寺温泉で急死した日である。
「その日、僕は京都からの帰途、友人と二人で急行列車の食堂へ行きました。そこで三浦先生とお目にかかったのです。先生の容貌《ようぼう》は白髪こそ多かったが若々しく昔のままと言ってよい程でした。食堂で僕は友人の河野という男を紹介し、また、先生に今どこに住んでいるかとたずねられて渋谷区代々木初台××番地と答えました。食堂車で先生と別れたのは静岡を過ぎた頃《ころ》です。僕らは食堂に残り先生だけが客車に戻りました。後で考えると先生は次の停車駅沼津で下車するために急いで客車へ帰られたのではないかと思います。沼津からは修善寺行と連絡があるはずです」
慎作は一語一語よどみなく続けた。
「十二月の半ば過ぎに僕の家へ名宛《なあて》人不明の郵便物が来たのです。僕は社へ行っていて女房が郵便屋と応対したそうです。住所は明らかに僕の家で名前が河野秀夫、内容物は眼鏡《めがね》という事でした。差出人は修善寺の笹屋旅館で女房は心当たりがないと言って郵便屋を帰したのです。その話を聞いて僕は修善寺の笹屋旅館へ問い合わせました。すると十二月六日の夜、僕の住所で名前が河野秀夫という男が確かに笹屋旅館に泊まっていたのです。年頃《としごろ》、容貌《ようぼう》をきいてみるとどうも三浦先生のような気がする。但《ただ》し三浦先生は眼鏡をかけていない。笹屋旅館に泊まった男は黒ぶちの眼鏡をかけていて、しかもそれを帰りに忘れて行った」
楽屋の中に重い空気が立ちこめていた。久子は表情も変えず慎作と向かい合っている。頬《ほお》がかすかにけいれんしていた。
「忘れていったという事で僕はその男が普段は眼鏡をかけていないのではないかと思ったのです。老眼鏡や近視の場合、眼鏡を忘れるということはあり得ない。僕は暇をみて修善寺へ出かけました。笹屋旅館でその眼鏡を見せてもらうと果たして素通しでレンズには度がありません。伊達《だて》か変装用に眼鏡を用いたという想像は容易に成り立ちます。念のため若い日の三浦先生の写真を番頭に見せました。髪を白くし眼鏡をかけさせると十中八九、間違いはないということでした」
慎作は静かに言葉を継いだ。
「三浦先生が変装して笹屋旅館に泊まった夜に同じ旅館に茜ますみが海東英次と門下生とを連れて来ています。しかもその夜明け、笹屋旅館の名物ギリシャ風呂《ぶろ》で海東英次が急死しています。彼は昔、三浦先生の書生をしていて、先生の愛人だった茜ますみと先生の眼をかすめて関係を持った男です。こう考えてくると海東の死をただの心臓|麻痺《まひ》として片づけるには偶然が多すぎます。まだあるのです」
ポケットから眼鏡のサックを取り出した。眼鏡は黒ぶちである。
「笹屋旅館で貰《もら》い受けて来たものです」
慎作の指はサックの中から小さな紙片を出した。鉛筆の走り書きで「今夜二時、海東を部屋へ誘います。田鶴子」
流石《さすが》に久子の顔色が変わった。
「あなたはこれを廊下のすれ違いかなんかにあなたのお父さんである三浦先生に渡した。先生はそれをうっかり眼鏡のサックへはさんだ。宿の浴衣丹前《ゆかたたんぜん》の恰好《かつこう》だとポケットがないし、サックへはさんでおいて後で破いて捨てるつもりだったのでしょう」
「止めて下さい」
久子が叫んだ。
「商売違いでしょう。新聞屋さんというのは刑事の真似もするんですか、第一、私が三浦呂舟の娘だなんて、証拠があるとでもおっしゃるんですか」
「田鶴子さん……」
ずばりと慎作は言った。一世一代の彼のはったりであった。
「僕は或《あ》る所でお父様に逢《あ》いました。三浦先生はすべてを僕に話してくれましたよ」
「父が……」
信じられないというように久子は慎作を仰いだ。
「あなた方が海東英次、小早川喬、茜ますみたちに報復の念を持たれたのは無理のないことと思います。彼らは人間の道をふみはずした破廉恥《はれんち》な奴《やつ》らです。恋という名にかくれて醜い浅ましい行為を敢《あえ》て世に恥じない。しかし彼らを糾弾《きゆうだん》するにあなた方のとられた方法というのは決して妥当とは言えない。少なくとも現代人の常識をふみはずした方法に違いないと言えるでしょう。まして手段のため、自己防衛のために細川さん兄妹を殺し、利用した高山五郎までを……」
その時、久子の顔が激しくゆがんだ。
「あの男は……五郎さんは殺す理由があります。あの人は私を裏切った。なにもかも捧《ささ》げつくした女の愛情を泥足でふみにじって捨てたのです。男なんてみんな……みんな……けだもの……」
ううっと嗚咽《おえつ》を喉《のど》に伝えて久子は片手を畳へ突いた。肩が荒々しく波立っている。
のれんから若い男が顔を出した。
「茜さん、そろそろ出番ですよ」
久子はふっと顔をあげた。
「はい、仕度は出来ています」
男の顔がひっこむと、久子は坐《すわ》り直し慎作を見上げた。
「お話はよくわかりました。そして、父は今どこに居りますのでしょう」
見事な逆襲だった。寛はどきりとした。三浦呂舟の居所はまだつきとめたわけではない。が、結城慎作は微動もしなかった。
「さる所であなたの来るのを待っておられます。我々は先生の名誉を出来得る限り尊重したいと願っているのです」
久子の顔に淡い微笑が上った。
「有難うございます。この舞台が済むまでお待ち頂けませんか。一生一度の晴れのステージを、せめて心おきなく舞わせて頂きたいのです。ほんの十五分の御猶予をおすがりしたいのです。心ならずも御恩を受けた茜流の最後の奉仕に致したいのです……」
慎作は勘喜郎と顔を見合わせた。晴れの舞台を前にしてもっともな望みだと思う。しかし危惧《きぐ》も湧《わ》いた。
「私を信用して預けませんか。舞台が済み次第、どこへなりとお供を致します」
「…………」
「私、随分長いこと茜流の内弟子として舞の修業を致しました。けれど、晴れの舞台にこうして出るのは今日がはじめてなのでございます。こんな衣裳《いしよう》もかつらも……」
ふっと自分の晴れ姿に眼をやった久子の表情に女の悲しさがのぞいた。眼のすみに浮かんだ涙を見ると慎作は遂に言った。
「お待ちしましょう。舞台が終わるまで……」
「有難うございます」
顔を伏せて久子は暫《しばら》く動かなかった。のれんが再び開いて、かつら屋が顔を出した。
「そろそろかけましょうか」
「はい」
久子は立ち上がった。かつら屋が前に回る。
「客席で拝見しますよ。あなたの舞台を」
勘喜郎が一同をうながした。せめてもの心やりである。
「ちょっと待って下さい。八千代ちゃん達を呼んできます」
楽屋から客席へ出る通路の所へ男二人を残し、寛は八千代達を迎えに行った。
「どうだった。どうしたの」
染子がとびつくように訊《たず》ねた。寛は簡単に説明し、三人を連れて客席へ向かった。
「大丈夫かしらね。久子さん」
八千代がそっと呟《つぶや》いた。
「彼女が逃げるかってこと……」
染子がいう。
「そうじゃないの。そんなショックを胸に持っていて踊れるかということよ」
客席はかなり混んでいた。六人は後部のドアの横に立って舞台をみつめた。場内が暗くなり、幕が上がる所であった。
金屏風《きんびようぶ》を背にして久子は舞台の中央に立っていた。黒地に裾《すそ》のほうだけ葵《あおい》の花と葉を金銀で刺繍《ししゆう》した衣裳《いしよう》に朱金の帯が華麗な中にも品がよかった。着物の着つけも帯の結び方も髪型も地唄舞《じうたまい》らしく京風であった。
地唄「葵の上」は謡曲の「葵の上」から取ったもので、源氏物語の一節、源氏の君の愛を失った六条|御息所《みやすんどころ》が正妻の葵の上を嫉妬《しつと》のあまり生霊《いきりよう》となって怨《うら》みを晴らしにくるというストーリーで題名は「葵の上」だが演者は六条御息所の生霊に扮《ふん》して呪《のろ》いと怨みの舞を舞ってみせるものである。
久子の舞は凄《すさま》じかった。御息所という身分の高い性の高雅な上品さを失わず、しかも女の嫉妬の形相を舞の中へ怖しいまでに表現している。観客は息をのみ、体を固くして彼女の舞にみとれていた。
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思い知らずや、思い知れ
恨《うら》めしの心や
あら恨めしの心や
人の恨みの深くして憂き音に泣かせ給うとも、生きてこの世にましまさば
水暗き沢辺の蛍の影よりも
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地唄《じうた》の暗い音律に合わせて久子の踏む足拍子が冴《さ》え渡った。扇がさっとひるがえった。
八千代はあっと声をたてた。扇の裏側は黒一色に塗りつぶされていた。
「黒い扇……」
隣に立っていた寛の唇がかすかに呟《つぶや》いた。
「私、怖い……」
ぶるっと身ぶるいした八千代の肩を寛はそっと抱いた。慎作と勘喜郎が不安な顔を見合わせた。曲はもう終わりに近い。
不意に舞台の久子の体がぐらりとゆらめいた。足拍子が乱れている。舞の手は止めなかったが、正面にきまって観客へふり向けた彼女の顔は生ける人のものではなかった。
「しまった……」
慎作が叫んだのと、静止した久子の手から扇が音をたてて落ちるのと同時だった。久子の体はその儘《まま》の形で一瞬凍ったように動かなくなり、人形が倒れるようにがくんと舞台へ突っ伏した。
勘喜郎が草履《ぞうり》を脱ぎ捨てて横の花道へとび上がった。続いて慎作が――。客席は漸《ようや》く事態に気づいて騒然と立ち上がった。
慎作が抱きおこした時、久子の手は生きもののように舞台を這《は》っていた。
「扇……扇が……」
爪《つめ》が所作台を空しくかいて、すぐに動かなくなった。その伸びた指の五センチメートルばかり先に黒い扇が開いたまま無気味にころがっていた。
結城慎作の家の近くにある八幡神社の境内の古代住居|趾《あと》から火が出たのは、それから一時間ばかり経った時刻である。藁《わら》と丸太で作られた三角形の古代住居は忽《たちま》ち天へ凄《すさま》じい火柱をあげ、一瞬の間にあと形もなく灰となった。
その焼け跡から死体が三つ発見された。
墓 地
東京のはずれにあるT墓地の入口で八千代がタクシーを下りると横に止まっていたジャガーの二四サルーンが軽く警笛を鳴らして彼女の注意をうながした。
「ヒロシ、早かったのね」
「一人かい。八千代ちゃん」
能条寛は車から下り立ってドアを閉めた。
「まだ誰《だれ》も来ていないのね」
腕時計を見た。集合時刻にはまだ三十分もある。
「私、早すぎちゃったらしいわ」
「僕も撮影が早く終わっちまったんでね」
二人は秋の陽にまぶしげな瞳《ひとみ》を向け、苦笑した。墓地の中はひっそりとしてあまり人影もない。
「少し散歩しようか。いいお天気だ」
寛がうながして、二人は広大な墓地の中をゆっくり歩き出した。銀杏《いちよう》がしきりと散っている。秋の終わりの武蔵野《むさしの》の感じがする。
「早かったわ。この一か月……」
八千代が呟《つぶや》いた。久子が舞台で自殺し、古代住居|趾《あと》が炎上してから一か月近い日が過ぎていた。
古代住居趾の焼跡から出た三つの死体は鑑別の結果、茜ますみ、高山五郎、それに三浦呂舟であることが判明した。三浦呂舟のアパートの部屋からは彼の遺書も出た。
「ねえ、寛、今度の事件は一体どういうことなの。詳しいことは殆《ほと》んど発表されなかったでしょう。私、随分わからない事があるわ。寛は結城の伯父《おじ》様にずっとついていたから話の内容も知っている筈《はず》ね」
「一応のことは見当がついたのだよ。しかし何分にも三浦さん父娘《おやこ》が死んでしまっている。死人に口なしで、結局、残された遺書と久子さんの日記と、僕らの調べた結果とを合計した推定ということになってしまったがね」
「久子さんの日記というのは詳しく書いてあるの、事件について……」
「まあね」
「話してよ。一人でもったいぶっているなんて……」
八千代は墓地の中の芝生へ坐《すわ》った。日だまりであたたかい。寛も並んだ。
「動機は茜ますみへの復讐《ふくしゆう》だ。地位も名誉も家庭も捨てて愛した女にそむかれた中年男の気持ちというのは凄《すさま》じいとわかる。三浦氏の復讐が二十年前、つまりますみに去られた時すぐに行われなかったのは、戦争のせいなんだ。彼は応召し、心を残しながら南方へ行った。死線を何度も彷徨《ほうこう》しながら彼はますみへの怨《うら》み、憎しみの念をとぎすまし、彼女へ報復する日までは鬼となっても生きようと思いつめていたのだそうだ。終戦、長い抑留、そして帰国した三浦氏を待っていたのは娘の田鶴子さん一人、奥さんは戦争中になくなっていた」
「お気の毒に……」
八千代は眉《まゆ》をよせた。
「そうすると久子さんはお父さんの復讐の手助けをさせられたのね」
酷《ひど》い親だと八千代は言った。自分勝手な愛憎の葛藤《かつとう》に罪もない娘を巻き込むなぞ――。
「そうじゃないんだ。久子さんの日記によると彼女は進んで復讐《ふくしゆう》に加わった。むしろ、気の弱くなった父親をはげましてさえいる」
「まさか……」
「そうなんだ。彼女の気持ちとしてはね。彼女の母親になりかわったつもりなんだ。彼女の母親、三浦氏の奥さんは死ぬ時まで自分を捨てた夫よりも、夫を奪った茜ますみを憎悪し続けた。あの女さえ居なければ、あの女が夫の心を欺《だま》してという気持ちなんだな。考えてみると矛盾《むじゆん》しているけど、日本の奥さんってそういう所があるらしいね。そむいた男よりもそむかせた女が憎いという奴《やつ》、男には甚だ都合のいい女心というべきだけど……」
「よけいな事いってないで本筋を話しなさいよ。久子さんはお父さんを怨《うら》まずに茜ますみ先生を憎んだというの」
「父親にはあわれみを感じていたらしいよ。父親も又、女に去られた男だという意味でね。同時に彼女は日記の中で自分の気持ちをこう言っている。自分の両親の一生をめちゃめちゃにし、みじめな現在の父親をみるにつけ、そうした女への復讐《ふくしゆう》が一種の生甲斐《いきがい》に思えた。それが出来るのはもう自分をおいて他にないのだとね」
「怖しいけど、わかるような気もするわ」
「久子さんは素姓をかくして茜ますみの家へ内弟子に住み込んだ。まず仇《かたき》のふところへとび込んでチャンスをねらったんだね」
「よく気がつかれなかったわね。ますみ先生にしたって海東先生にしたって三浦先生とは昔なじみでしょう。お嬢さんの久子さんと逢《あ》ったことだってある筈《はず》じゃない」
「幸いと言っては可笑《おか》しいけど、ますみや海東氏が三浦家へ入り込んだ頃《ころ》、久子さんはお母さんと一緒に実家へ帰っていたんだよ。だから殆《ほと》んど顔を合わせていない。おまけに女の子が娘になる時期の二十年間の空白は、見違えるような変化があるものだ。殊に久子さんのような平凡な顔立ちは記憶に残りにくいしね。加えて若い時からの苦労が彼女を年よりも老けてみせる。まあ、結果的に彼女が三浦氏の娘だということに気づいたものは一人もいなかったわけだ」
寛は煙草を取り出した。八千代がハンドバッグからマッチを探す。
「茜ますみの家へ住み込んで、久子さんとその父親とが考えた報復の手段というのは、彼女を孤独にすることだ。彼女の周囲の彼女に必要な男たち、それは同時に三浦氏にとっては旧怨《きゆうえん》のある連中ばかりなのだが、その彼らを葬り去ることで彼女を孤立させ、精神的苦悩を与えるというのだよ」
「その第一が海東先生だったのね」
八千代はほっと息をついた。
「彼に対する怨《うら》みは深い。なにしろコキュにされた当の相手だからね」
復讐《ふくしゆう》とは言っても人間一人を殺す決心はなま易しい事ではない。殊に内弟子に住み込んで復讐にかかるまでにかなりな年月を置いたのは一つにはあやしまれない為、忠実な内弟子として茜ますみの信頼を集めてからのほうが仕事がやりやすいという計算の上であった。せいては事を仕損じる、京都育ちのねばり強さで久子は慎重に時をねらった。
「もう一つにはねえ、久子さんはだんだん踊りに欲が出たんだよ。茜ますみが先代の家元茜よしみを蹴落《けおと》して家元の脚光を浴びたいきさつを彼女は知った。自分も同様に仇《かたき》のますみを抹殺し、その後釜《あとがま》にすわりたい野望が彼女の中に育って来たんだ。あくまでも犯行を悟られないように復讐《ふくしゆう》を遂げなければ、目的は達しても栄光の座は得られない。彼女が細川君兄妹を殺した動機はそれなんだ」
「待って寛、一つずつ片付けましょうよ。修善寺ではどうやって海東先生を殺したの」
「えらくせっかちなんだなあ、大体の見当はついてるんだろう」
もったいぶって笑いながら寛は言った。
「海東はギリシャ風呂《ぶろ》で殺されたんじゃないんだよ」
「やっぱり、はなれの……」
「そう」
復讐第一号の現場を修善寺にえらんだ久子は前もって父親の三浦呂舟と連絡を取り、同じ笹屋旅館のはなれに泊まらせた。笹屋旅館の構造は春にも慰安会で来ていて、その時は茜ますみをはじめ幹部は離れに部屋を取った。
「つまり久子さんは笹屋旅館のギリシャ風呂を中心にした本館と離れの別館との構造を熟知していて犯行を計画したんだよ」
「でも、どうして久子さんは離れへ海東先生を誘い出すことが出来たのかしら」
八千代は当然の疑問を口にした。
「それはね。あんまり言いたくないことなんだが、久子さんは海東と出来てたんだよ」
寛は眉《まゆ》をしかめて言った。
「まさか……」
「彼女は年中、茜ますみの代理をつとめている。海東と接触するチャンスも多かった。一昨年の芸術祭番組で海東と茜ますみが組んで仕事をした時があったろう。あの折、仕事のため二人は熱海の旅館へこもっていた。その間に一日ますみがパトロンの岩谷のゴルフのお供で伊豆の川奈《かわな》へ出かけたらしいんだ。前からの約束だったんだろう。その留守は久子さんと海東と二人きりだった」
寛は結城慎作と二人で見た久子の部厚い日記の細かな文字を想い出した。自分の行動、気持ちを文字にあからさまに暴露しておくことで久子は女特有の自虐を企てたのだろうか。
「海東には恋人が他の男と逢《あ》っているというむしゃくしゃもあったろう。久子さんにも彼をそうしむける気があったんじゃないか」
そんな仲になってからも久子は茜ますみに自分と海東との関係をひたかくしにした。それはむしろ海東にとって好都合だったし、久子の内心を知らぬ海東は彼女をいじらしくさえ感じていたようだ。
「わかっただろう。久子さんが来てくれと言えば海東が容易に離れへ行ったわけだ」
茜ますみが床についてから海東はギリシャ風呂《ぶろ》へ行くといって部屋を出た。ギリシャ風呂へ下りて風呂へ入らずに廊下伝いに離れへ行く。
「久子さんはおそらく離れの楓《かえで》の間があいているからとでも言って海東との逢い引きの場所に指定したのだろう。楓の間の客は勿論《もちろん》、三浦呂舟だ。彼は隣の離れのマージャンに誘われたのを幸いそちらへ行っている。久子さんは八千代ちゃんや染ちゃんの眠っている中に部屋を脱け出し、楓の間で海東を待った。海東はそこで睡眠薬入りのビールを飲まされ、朦朧《もうろう》状態の中に裸にされ離れの風呂へ入れられた。風呂には前もって温泉を止め冷水を満たしておいたのさ。アルコールをすごした上に心臓の弱い海東は一たまりもない」
寛の言葉に八千代は息をのんだ。寒夜、男の裸体を風呂桶《ふろおけ》へ沈める女の姿を連想して身ぶるいした。
「心臓|麻痺《まひ》で死亡した海東を離れの庭伝いに運び、ギリシャ風呂の高窓から内部へ入れる。遅い時刻だと風呂にも人はいない。この操作には勿論《もちろん》、三浦氏も手伝ったろう。久子さんは何くわぬ顔で部屋へ戻り、三浦氏は海東の着衣を持ってギリシャ風呂へ行き、そこで死体を発見という段取りをつけたんだ」
八千代は寛と行った笹屋旅館の庭を瞼《まぶた》に浮かべた。あの朝、寛はギリシャ風呂の高窓から庭へ脱け出してみせて八千代を驚かせたものだ。
「じゃ、脱衣籠《かご》にあった黒い扇は久子さんがどさくさまぎれにおいたのね」
「そうさ。復讐《ふくしゆう》第一号のしるしだろう。女の考えそうなこけおどしだね」
「三浦さんが結城の伯父《おじ》様の住所を使ったのは、修善寺にくる途中、伯父様と逢《あ》って名刺をもらい、その住所を記憶していたので、とっさに宿帳に書いてしまったのでしょう」
「その通りさ。もっともそれが結城の小父《おじ》様にとっては一つの手がかりとなったわけさ」
「例の眼鏡《めがね》ね。あれは変装用?」
「万が一、茜ますみと顔を合わせる場合の要心のためだ」
「伯父様ってずるいわね。そんな調査をしてることなにも言わなかったくせに……」
「親父《おやじ》もそうなんだよ。結城の小父様と連絡して、早くから三浦氏に目星をつけ、茜ますみの周囲を探るためにリサイタルの共演を引き受けたのにそんなこと一つも言わないんだからね」
風もないのに二人の上に枯葉が散ってきた。もう紅く色づいている。
「彼らの盲点はね。茜ますみの周囲に起こった今度の殺人事件が三浦先生に関係があるのではないかと疑ったものの三浦先生の所在及び動向がつきとめられなかったことと、内弟子の久子さんの素姓がわからなかった点なんだ」
寛は枯葉をもてあそんでいる八千代の頬《ほお》を指で突いた。
「君が鍵《かぎ》を提供したんだぜ。京都のS小学校の卒業名簿、あれが今度の事件を解くポイントだったんだ」
「でも、実際の謎ときをしたのは貴方《あなた》ね。私はまさか、まさかって言いつづけてばかり、今だってまさかという気持ちが強いのよ」
「あまり身近な人間のせいだろうね」
しみじみと寛は言った。
「久子さんだって何も好んで人を殺したわけじゃない。殊に細川昌弥君の場合は大阪のSホテルで幼馴染《おさななじみ》の彼に偶然、顔を見られてしまった。それまで久子さんは彼と顔を合わせないように随分、努力してきたらしい。あの晩だって本当は彼女が外出先から帰る頃《ころ》には細川君は帰っている筈《はず》だったんだ。所がホテルへ戻ってきてみると彼はまだ茜ますみの部屋に居る。そこで久子さんは京都の細川君の家へ電話し、妹さんに彼の所在を知らせて彼の帰宅をうながさせたんだ。ところが落ち着いているようでも久子さんも女だね。電話をする直前に僕とロビーで話をして、その時に僕の部屋の鍵《かぎ》についているナンバーを眼にしたんだ。僕の部屋ナンバーは三百六十一番、茜ますみ女史の部屋は三百六十七番だった。そこで彼女は錯覚を起こした」
「三百六十一と三百六十七を間違えたの」
「もっとも一と七とは発音が似ている。まして久子さんは声を変えるために京子さんへの電話には関西弁を使った。だから錯覚じゃなくて京子さんの聞き違いかも知れないんだ」
いち、しち、と八千代は京なまりで発音してみた。区別はつきにくい。
「結局、京子さんからの電話は僕の部屋へかかり久子さんの計画は失敗したわけだ。しかも運悪くロビーにいるのを帰りがけの昌弥君にみつかった。幸い、その場に茜ますみはいなかったが、いずれ彼の口から茜ますみの耳に自分の素姓が知れる事を怖れて彼の口をふさぐことを考えたんだ。茜ますみは細川君にそれ程、惚《ほ》れてもいなかったし、海東の死以来、岩谷の監視もあるので、とかく人眼に立ちやすい映画俳優との浮気は慎んでいる。久子さんは一方では茜ますみに彼と逢《あ》わぬように工作しながら、機会をねらって遂に一月十四日、ますみの名で彼を呼び出し謀殺した」
「細川さん兄妹の殺された経過は殆《ほと》んど寛の推理通りだったわけね」
八千代は田村町でみかけたタクシーの運転手姿の三浦呂舟を想い出した。彼は娘の電話連絡により東海道を愛車をとばして神戸へ殺人のために出かけて行ったものだ。
「細川昌弥君の場合は大体、僕の推定通りだったらしい。京子さんは少し違うんだ。僕らは彼女は殺害後、裸にされたと解釈してたけど、彼女はその時、風呂へ入ってたんだ。久子さんは当時、かなり親しくしていた。僕が八時過ぎにアルバムをみに来るのを知った彼女は七時頃に裏の非常階段から京子さんの部屋へ入った。鍵《かぎ》はかかっていない。声をかけると京子さんもまさか殺しに来た人間とは思わないからね。久子さんは用意した青酸カリをジュースに入れ、湯上がりの京子さんに飲ませ、息の絶えた彼女を風呂場へ運んで、テーブルの上のビールを抜き、さも僕と京子さんとがビールを飲んだかのように場をとりつくろってからアルバムの写真をひっぺがして去ったのさ」
「すると、久子さんは寛を犯人に擬装するつもりだったの」
「そうだろうね。れっきとしたアリバイがあったのと結城の小父様の尽力で助かったけど警察じゃ、最後まで僕を疑ってたらしいよ」
「失礼しちゃうわ」
八千代は腹を立てた。
「まあ、いいさ。八千代ちゃんのように恋人が犯人の嫌疑をかけられただけだって青くなるのもいるし、反対に恋人を自ら犯人に仕立てて安心する女もいる」
寛の言葉に八千代は眼をあげた。
「久子さんと五郎さんの場合を言うのね」
「少なくとも小早川喬を五郎に殺させた彼女の心理はそれだね。恋人に犯罪を行わせることで、彼を自分から離すまいとする気持ちさ。形としては茜ますみへの愛情を捨てきれない彼の小早川に対する嫉妬《しつと》を利用して彼を殺させたということになってるけど、久子さんは自分の内心をそう日記に書いているんだよ」
「心から五郎さんを愛していたのね」
「悪女の深情けというのだね。だからその彼が自分を捨てて茜ますみと出来たことを知ったら、もうどっちも生かしておけなくなる」
「ますみ先生はもともと五郎さんを小早川殺しの犯人とにらんで、それを探るために……」
「色じかけで持ちかけたわけさ」
寛は八千代の言いにくい台詞《せりふ》をずばずば言ってのけた。
「君、茜ますみを先生って呼ぶの可笑《おか》しいよ。昔はとにかく今はもう先生じゃない」
「でも、先生は先生だったんですもの。寛だって犯人の久子さんをさんづけで呼ぶし、伯父《おじ》様たちだって三浦先生と呼んでいるわ」
「聞く人が聞いたら変だろうけど、まあ僕らとしては、仕方がないんだろうね」
寛はあっさり妥協した。
「それより、久子さんは茜ますみ先生と五郎さんのことをどうして気がついたの」
八千代は漸《ようや》く事件の最終段階へ寛の回答を求めた。
「うすうすは気づいていたんだろうが、はっきり悟ったのは大阪からのますみ女史の電話でだ。ますみ女史は五郎の告白をかくしテープにとると、東京へ電話をして久子さんに弁護士を大阪へ寄こすように命じた。敏感な久子さんのことだ。なにかあると悟った。ちょうど三浦氏はその頃《ころ》、やはり茜ますみと五郎を監視するつもりで、自分の車を運転して京都まで来ていた。彼女は三浦氏と連絡し、自分も飛行機で大阪へ来た。ホテルへ帰って来たますみを電話で金村弁護士が来ていると言って誘い出す。五郎が帰ってくるからますみ女史にしてもホテルで逢《あ》うわけには行かない。指定の場所へ行くと待っていたのは金村弁護士ではなくて三浦呂舟だというわけだ」
一方、久子は時間を見てホテルへ電話し、遅れて帰って来た五郎を呼び出した。あなたの身に重大なことが起こったと言われ慌てて出て来た五郎に久子は裏切られた怨《うら》みの数々をぶちまけた。
「三浦氏のほうは茜ますみに充分未練があったが、ますみに後悔の念もなく、恐怖と嫌悪しか持っていない彼女の様子に殺害する決心をした。そんな男の気持ちに気づいてますみが逃げようとする。三浦氏が背後から絞殺する。場所は大阪の天保山桟橋の近くの暗やみだったそうだ。あの辺りは人家も遠く人通りもない。そこまで三浦氏は自分の車で彼女を連れ出して来たわけだ」
「よくますみ先生が車に乗ったわね」
「久子さんに乗せられるまでタクシーだとばかり思っていたのだろう。走り出してから気がついても、もう遅い」
「五郎さんのほうはどうしたの」
「久子さんは茜ますみ女史の企みを五郎に説明したが彼は半信半疑だ。そこで証拠をみせるが、その前にますみ先生からそう言いつかったと称して彼を一度ホテルへ帰し荷物をまとめさせ、チェックアウトさせた。それから三浦氏の待ち合わせの場所へ五郎を連れて行って、ますみ女史の所持していたテープをみせたが五郎は変わり果てたますみの死体にとりすがって泣くばかりだ。その男の様子を見ている中に久子さんは五郎を許す気持ちがなくなったという。彼女は大阪から東京へ走る車の中、それは三浦氏が運転し、ますみ女史の死体は後部のトランクに入っていたのだが、その道中で五郎に毒物入りのジュースを飲ませて殺したんだ」
八千代は身体を固くした。友人の犯行の怖しさが改めて胸にせまった。
「久子さんが度々使用した毒物、最後には自分もそれで命を絶ったのだが、その毒物は三浦氏が終戦の時、外地で入手したもので彼女はそれを父親から渡されていたのだね。鑑定では青酸カリの混合物だそうだ」
寛は腕時計を見て腰をあげた。
「八千代ちゃん、そろそろ時間だよ。みんな集まっているかも知れない」
二人は芝生を出て墓地の中を門へ向かって戻りかけた。
「でも悲しい終末だったわ。三浦先生は久子さんの舞台を見に来ていて彼女の最期を知り、すべてを察して二つの死体もろとも火中に自殺なすったのね」
「しかし、あの死体二つを古代住居|趾《あと》へかくしたのは妙案だったね。あの建物はなかがまっくらだし普段は人も入らない。おまけに内部の空気は上の吹き抜けから空へ向かっているから死臭がまるで籠《こも》らないんだ。入口の重い杉戸を開けない限り誰《だれ》も気づかない。死体のかくし場所としてはまさに絶好というわけなんだ。勿論《もちろん》、三浦氏はそんな計算があって死体をかくしたんじゃなく、置き場に困ってのことらしい。彼のアパートが近くだったんであの境内の様子はよく知っていた。それで思いついたのだろうね」
八千代は寛を眺めて嘆息をついた。茜ますみと五郎、つまり各々《おのおの》の裏切った恋人の死体を乗せて東海道を走った父娘《おやこ》の気持ちを想ったものだ。
二人が門へ近づくとタクシーが止まって結城慎作が下りてくるところだった。尾上勘喜郎、中村菊四、染子の顔も見える。
「やあお待ち遠、仕事が遅れたもんでね」
結城慎作が一同に頭を下げ、先に立って墓地を案内した。
「いいお天気でよかったわね」
染子が八千代と肩を並べて言った。
「私、何度も言うようだけど、まだ久子さんが犯人だなんて思えないのよ。修善寺の時なんか同じ部屋で寝てたんですものね」
染子は黒っぽい小紋に紫の無地の帯を締めていた。墓参りらしい地味な姿が彼女を落ち着いてみせている。
「どうせ寝ぼすけの君たちだ。寝首をかかれなくってよかったね」
菊四がわざとはぐらかすような調子で言った。
「久子さんもそうだけれど、私は三浦先生みたいな方がどうしてあんなことを……」
八千代が言った。
「そうねえ、あんたはみずがきで三浦先生に助けられているんだし、それからも京都のホテルで逢《あ》ってるんだわね」
染子は菊四を横目でみて、くすんと笑った。
「そう言えば三浦先生はみずがきを久子さんとの連絡所に使ってたんですってね。あそこの女主人が久子さんのお母さんの従妹《いとこ》に当たるんですとさ。いつかの時も、三浦先生が待ってた女ってのは久子さんだったわけよ」
染子の言葉にうなずきながら八千代は今度の事件にまつわる一つ一つの思い出の断片を一足ごとにふみしめる気持ちだった。
先頭を行く結城慎作の立ち止まった所に真新しい白木の墓標があった。
三浦呂舟とその娘の久子、いや今は本名へ還った三浦田鶴子の墓である。殆《ほと》んど血縁もない親娘のために結城慎作と尾上勘喜郎が中心となって取りあえずの墓地をここに定めた。
今日はちょうど三十五日の墓参のために集まったものである。
女たちが用意した花を飾り、男たちは水をかけた。線香の煙がゆるやかに流れる。
「報復とは言え、選んだ手段や行為は妥当だとは言えないが、考えてみると三浦先生も田鶴子さんも悲しい人間だったんだね」
焼香を終えて慎作が言った。
「悲しい人間と言えば茜ますみさんだって、高山五郎君だって、又、海東氏、小早川氏にしたって同じことだ。ほんの僅《わず》かのつまずきがその人間をとんでもない方角へ歩かせる。一生を大手をふってまともに歩ける、悔いのない道を進めるということは大変な努力と幸運のたまものなんですな」
合掌《がつしよう》の手を解いて勘喜郎も言った。
「しかし、なんだかだといってもこうやって墓の中に収まってしまえば一生なんてはかないものだ。はかないだけに大切にしたい。誰《だれ》のでもない。自分の一生なのですからねえ」
しんみりした勘喜郎の声に若い二つのカップルも神妙に墓へぬかずいた。
墓の周囲を掃除して集めた枯葉に菊四がマッチで火を点《つ》けた。乾いた葉は忽《たちま》ち、赤い炎を立てた。
誰の胸にも三浦呂舟が己れの一生を賭《か》けた恋人と娘の一生一度の恋人との死体を抱いて火を放った古代住居|趾《あと》の燃え上がる光景が浮かんだらしい。声もなく火をみつめた。
想い出したように寛が細長い包みを取り出した。開けた。黒い扇である。八千代が修善寺の笹屋旅館の脱衣所で発見し、はじめて海東英次の死に対する疑惑を寛へ語ったときに彼に手渡した扇である。
燃える火の中へ、寛は拡げた黒い扇をそっとのせた。黒い地紙の上を炎がじりじりと這《は》って行く。
「さあ、これで暗い想い出は残らず灰になった。これからは故人となった人たちのよい想い出だけを思い出してあげること。それが僕らに出来る供養なんですね」
寛が白木の墓標を仰いできっぱりと言った。灰を片づけて帰りかける時、八千代はふと海東英次の葬式から帰って来たとき、彼女の家へ来て待っていた寛が、
「君にどうしても聞きたいことがある」
と言ったのを想い出した。あの時は海東の事件に話が逸《そ》れてしまって寛がなにを聞きたかったのかはつい今日まで聞かずじまいになっていたのだ。
八千代がなにげなくそれを口にすると寛は耳許まで赤くなった。少年のようなはにかみぶりに八千代はびっくりした。
「それはねえ……それは……さ」
寛がくちごもっていると、先を歩いていた勘喜郎がひょいとふりむいた。
「寛、お前、明日の記者会見のことを八千代ちゃんに了解を得てるのかい」
「いいえ、それがまだ……」
寛は一層しどろもどろになって頭をかいた。
「だらしのない奴《やつ》だ。いくら双方の親に了解を得ても肝腎《かんじん》の御本人の許可がとってないのではどうにもならんじゃないか。当人には自分で言います。それまでは黙ってくれとふんぞり返ったくせに……。八千代ちゃん、一つ寛の背中をどやしつけてやって下さいよ」
勘喜郎は八千代へ笑った。
「小父《おじ》様、それ、どういう意味ですの」
さりげなく微笑したものの八千代の胸は或《あ》る期待でときめいた。
「寛はね。明日、記者会見をするんですよ。婚約者として八千代ちゃんを正式に発表する気らしいですよ。八千代ちゃん、ヒジテツをくらわすなら今日の中だね」
勘喜郎は結城慎作と顔を見合わせてずんずん足を早めた。
八千代は体中がぎこちなく声も出ない。
「馬鹿《ばか》ねえ、寛ったらそんな大事なこと何故《なぜ》もっと早く彼女に言わないのさ。今になって断られたら男の名誉にかかわるわよ」
染子が八千代に代わって寛の背中をどやしつけた。
「言おうと思ってたのさ。ところが今度の事件の話が先になっちまったもんだから……殺人の話の後ですぐにアイラブユーでもないと思ってさ。チャンスがなくなっちまったんだ。弱ってたんだよ。実はさっきから……」
寛の言葉に朗かな笑いが湧《わ》いた。
「どう八千代ちゃん、イエス、ノウ」
染子に顔をのぞかれて八千代は袂《たもと》をふった。
「きまってるじゃないの。そんなこと……」
ちらりと寛を見上げた八千代の眼に愛情と信頼があふれていた。
「うわあ、ごちそうさま」
「人のことより自分たちはどうなのさ」
寛が笑いながら菊四を見る。
「おかげさまで来月三日大安吉日をもちまして挙式することになりました。その中に葉書が行くよ招待状の……」
「馬鹿《ばか》だな。それこそ何故《なぜ》もっと早く言わないのさ」
「場所が墓地だろ。うっかり、それはどうも御愁傷《ごしゆうしよう》さまなんて言われたらがっかりだもんな。それはそうと善は急げだろう。どうだい一緒に式をあげないか」
「当日、花嫁を間違えたりしてね」
「倦怠期《けんたいき》になったら取っ替えるか」
若い声が追いつ追われつするのを、勘喜郎と慎作は墓地の入口の日だまりに立って笑いながらみつめていた。
墓石を刻む音がのんびりと聞こえている。
本書は昭和三十六年東京文芸社より刊行されました。
角川文庫『黒い扇』昭和61年10月25日初版発行
平成12年5月30日42版発行