平岩弓枝
風祭
目 次
レマン湖
新 婚
過 去
変 死
休 暇
初 夜
珊瑚礁
戸 籍
密 室
レマン湖
そのホテルの前庭は湖にむかっていた。
やや高台にあるので、見晴らしが良い。
新倉三重子《にいくらみえこ》が滞在している五階の部屋のベランダからは、ウーシーの船着場を出て行くレマン湖周遊船もみえれば、対岸の町もかすかに眺《なが》められた。
七月のこのあたりは、すでにバカンスのシーズンだが、町に喧騒《けんそう》はなかった。
昨日、三重子が登山電車でローザンヌのオールドタウンと呼ばれる地域に、知人を訪問した時、ついでに立ち寄ったカテドラルの中に、ちらほらと観光客らしい姿をみたぐらいのものである。
ローザンヌへ来た用事は、昨日で終っていた。今日は好きなように、この町で過す心算《つもり》であった。
シヨンの古城へ行ってみたいという三重子の相談に、このホテルのコンシェルジュは、遊覧船を利用することを勧めてくれた。
ジュネーヴを発着点として、レマン湖を周遊する船の中に、シヨンまででVターンするコースがある。
ローザンヌから東へヴヴェイ、モントルー、シヨンと廻《まわ》って逆戻りして来る単純なものだから時間もそうかからないし、船上からの眺望もなかなかのものだと教えられて、三重子は、その気になっていた。
白のスラックスに、薄いブルウのシャツという軽装で、三重子はホテルを出た。念のために、白い木綿のジャンパーを小脇《こわき》に抱えて、肩からはポシェットと小型カメラ、足許《あしもと》は旅行用の運動靴で坂道を下って行く三重子は日本にいる時よりも遥《はる》かに若々しい気分になっていた。
もっとも、三重子は日本でも十歳以上、若くみられるのが普通であった。結婚をしていないせいかも知れなかったし、小柄で童女のような彼女のイメージも、年齢を感じさせなかった。加えて、彼女は年齢というものを、あまり意識しなかった。
二十歳で、外交官だった父親に死別し、三十歳で母が病死したことは、彼女が結婚しそびれた大きな理由になっていたが、三重子はそれを苦にしたことがなかった。
学生時代、よく友人から天性の楽天家といわれたが、ものにこだわらない、おおらかな資質を持っていた。といって、荒っぽい性格ではなく、むしろ、繊細でよく気のつく娘として育って来た。
ウーシーの船着場には、二十人ぐらいの先客がジュネーヴから来る船を待っていた。
まだ時間は充分すぎるほど余裕がある。
シヨンまでの往復の切符を買って、三重子は日だまりに立って湖を眺めていた。
暑いという陽気ではなかったが、木綿のシャツで不都合はない。
アメリカ人らしい観光客が湖上を走るモーターボートへカメラのシャッターを切っていた。ボートから若い娘が人なつこく、手をふっている。
ふと、三重子は誰《だれ》かの視線を感じた。
こうした場合、いきなりふりむくことの不躾《ぶしつけ》さを、外交官の娘として育った彼女はよく心得ていた。
湖を見廻すようにして、さりげなく体の位置を変える。
相手は十メートルばかり先の水飲み場のところに立っていた。
三重子の視線に合うと、慌《あわ》てて眼をそらしたが、すぐに、又、こっちをみている。
日本人だろうか、と思いながら、三重子は船着場のほうへ移動した。
外国で、日本人と思って声をかけたら、中国人だったという話をよく聞く。
しかし、注意してみれば、日本人と中国人では、同じ洋服を着ていても、色や柄の好みがまるで違っていた。
二度とふり返ってみなくとも、三重子はその男の服装を記憶していた。
グレンチェックの上着にグレイのスラックスであった。ネクタイはなく、白いスポーツシャツを着ている。
背はやや高く、眼つきに鋭いものがある。年頃《としごろ》は四十のなかばぐらいだろうか。手にしていたカメラは、プロが持ちそうな高級品である。
船着場に、英語とフランス語とドイツ語のアナウンスが流れた。
ジュネーヴからの船が、接近している。
思ったより、大きな船であった。サンデッキには、いくらか寒そうな水着姿の若い女が堂々と寝そべっている。
船へ乗るための行列に加わりながら、三重子は、男が切符を買いに走って行くのをみた。
彼もこの船に乗るつもりなのかと少々、警戒の気分になった。なによりも、眼つきの悪さが剣呑《けんのん》であった。
もう、旅先で男を怖がるほどの小娘ではないと思いながら、下手に話しかけられるのは厄介《やつかい》である。
素早く思案して、三重子はデッキへ上って行った。キャビンの椅子席《いすせき》ではうっかり隣にすわられでもしたら、逃げようがないが、デッキなら傍に来られても、さも用ありげに場所を変えることが出来る。
デッキは太陽がまぶしかった。デッキチェアは各自が好きな方向へむけてすわっている。
その一つに腰を下して、ポシェットからサングラスを出していると、前方のデッキチェアから男が立ち上って来た。
「失礼ですが、新倉三重子さんじゃありませんか」
顔を上げて、三重子はサングラスをかけたばかりの眼で、相手をみつめた。相手を見忘れたわけではなかった。髪にいくらか白いものがまじっているが、十年前と殆《ほと》んど容貌《ようぼう》は変っていない。
「僕が、わかりますか」
「佐和木《さわき》さんでしょう。佐和木|良行《よしゆき》さん」
デッキから立ち上って、お辞儀をした。
「あんまり偶然なので、びっくりしましたわ」
「僕もですよ。まさか、こんなところで、新倉さんにお目にかかるとは思ってもいませんでしたからね」
「ジュネーヴから乗船なさいましたの」
「そうです。あなたはウーシーからのようですね」
「ローザンヌに来て居りましたの」
船がゆっくり動き出した。
「お隣へ、かけてもいいですか」
遠慮そうに佐和木はいい、三重子がうなずくと嬉《うれ》しそうに、腰を下した。
麻の上着に、茶のオープンシャツ、素足にデッキシュウズというバカンスの服装が板についている。
「商用でジュネーヴに来ているんですが、何度来ても、シヨンの城まで行ったことがない。ちょうど、今回は日曜が入ったので、思い立って、船に乗ったんです」
船に速度が加わると、デッキを風が渡りはじめたが、寒いというほどのことはなかった。
「私は、叔母の用事で、ローザンヌへ。一昨日、ジュネーヴ経由で参りましたの」
「叔母様は、お元気ですか」
佐和木の声に、多少の屈託を感じて、三重子は正直に打ちあけた。
「歿《なくな》りました。今年の三月二十七日です」
「御病気ですか」
「以前から肝臓が悪かったものですから」
「そりゃあ……」
「叔母の大学時代のお友達がローザンヌにいらっしゃるんです。遺言で、形見の品をお届けに参りましたの」
三重子の母方の祖父も外交官であった。その関係で、若き日の叔母はロンドンとスイスに同級生が居り、その中の何人かとは、死ぬまで交遊関係があった。
「ローザンヌのオールドタウンにいらっしゃる方はリュウマチを患っていらして病院に入っておいでだったんです。叔母のこと、申し上げにくくて困りましたわ」
「叔母様、おいくつでした」
「六十二歳でしたの」
「まだ、そんなお年でもなかったのに……}
佐和木良行は表現に苦労しているようであった。
十年前、佐和木と三重子の間に縁談が起った時、最後まで強く反対したのが、叔母の高田俊子《たかだとしこ》であった。それだけが理由ではなかったが、三重子は佐和木のプロポーズをことわって、今だに独身を続けている。
佐和木のほうは、その後、結婚したと風の便りにきいていたが、三重子はいま、そのことについて訊《たず》ねようとは思わなかった。
「ローザンヌは、どちらへお泊りですか」
「ボウ・リヴァージュホテルです」
かくす心算はなかった。
「あそこは格式が高いでしょう」
佐和木が微笑した。
「加賀《かが》先生の御推薦ですね」
加賀|利之《としゆき》が外交官として、長期間、スイスに滞在していたのを、佐和木は思い出したようであった。ヨーロッパ各国の大使を歴任した加賀利之は外務省を退職した後、外交評論家としてもっぱら書斎生活をしている。
「今でも、加賀先生の事務所で働いていらっしゃるんですか」
三重子がジャンパーを肩にかけようとすると、佐和木は素早く手伝った。
そういうところは、むかしと同じで、外国の男性と同じようによく気がついた。
「他に、することがありませんもの」
亡父の友人であった加賀利之の秘書をするようになったのは大学を卒業してから、二年間、ロンドンに留学をすませて後である。
経済的には亡父の遺してくれた資産がかなりあって、働かなくとも食べて行ける状態だったが、三重子は語学力を生かせる就職先を求めていた。
外交官時代から加賀には外国人の知己が多かった。公用、私用で外国客の訪問はひっきりなしである。彼の秘書は少くとも、英語とフランス語ぐらいは堪能《たんのう》でなければならなかった。
「結婚はなさらなかったんですか」
佐和木の問いに、三重子は屈託のない笑顔で肯定した。
「贅沢《ぜいたく》な人だな。僕が知っていただけでも随分、候補者がいたのに……」
「決断力がないんです。私って……」
それには返事をせず、佐和木は立ち上ってキャビンのほうへ行ったが、やがてコーヒーを二つ、自分で運んで来た。
船はヴヴェイの船着場へ寄港している。
このあたりはリゾートホテルが多かった。いずれも湖畔に近く、洒落《しやれ》た建物が目立つ。
次に立ち寄ったモントルーの町も落着いた感じであった。
観光船を見物するために船着場に集った子供達の顔がよく陽に焼けている。
シヨンの城は、その附近から、もう見えていた。
湖上に突き出したように、水に浮んだ古城の風情は、船からみるのが一番だといったホテルのコンシェルジュの言葉通りであった。
バイロンの詩で有名になったこの城のイメージは暗いものだが、湖から眺めている限り、陰惨ではなかった。
船客はみな、甲板へ出てカメラをかまえている。
三重子もたてつづけにシャッターを切った。
佐和木は、三重子の傍に立って城をみていた。彼はカメラを持っていない。
船はシヨンの城の東側に着いた。
船着湯から城の入口までは百メートルもない。
船客は湖沿いの小道を通って、城の見物に行った。
三重子も佐和木と並んで城の入口を通った。
入場券は佐和木が買って来た。
城というよりは砦《とりで》だと案内書には書いてあるが、案外に広かった。窓から射し込む陽光で、どの部屋も比較的、明るい。
三重子が眉《まゆ》をひそめたのは、地下|牢《ろう》へ見物に入ってからであった。
地下水が頭上から落ちてくる、その中の通路は土がぬるぬるしていて歩きにくかった。ここに監禁されたフランソワ・ボニヴァールをつないだ柱や鎖が今も残っていて、なにがなしに慄然《りつぜん》とする雰囲気がある。
早々に三重子は観光コースを出た。
城の外は、うららかという表現がぴったりの穏やかな陽ざしであった。
観光船がここを出発するまでには三十分もある。
「私、慌てすぎましたのね」
小道にあるベンチに腰を下して、三重子は苦笑した。
「ごめんなさい。佐和木さんはもっと、ゆっくりごらんになりたかったでしょうに……」
「僕もせっかちですからね」
城をバックに一枚、撮りましょう、といって、佐和木は三重子を良い位置に立たせて、三重子のカメラのシャッターを切った。
「三重子さんがお一人ときいて、複雑な気持ですよ」
並んでベンチへすわると、佐和木はいくらか、きまり悪そうに話し出した。
「三重子さんに失恋してから、僕は二度、結婚しているんです。よくよく女房運がないのか、二度とも死別しました」
最初の女房は一年少々で交通事故、二人目は昨年、イタリアを旅行中に、不慮の災難に遭った。
「商用で、南イタリアを廻っていたのですが、行方不明になって、発見された時は死体になっていました」
淡々と話しているのが、かえって悲痛であった。
下手なくやみの言葉も出ないで、三重子は湖をみていた。彼もそれっきり沈黙している。
やっと城の橋を、観光客たちが渡って来た。
そこで、又、カメラをかまえたり、近くの土産物屋へ寄ったりしている。
「佐和木さん、今、どちらに……」
三重子の叔母の亡夫が頭取をしていた銀行につとめていた筈《はず》である。年齢的にいえば、地方都市の支店長か、本店の部長クラスだろうか。
「銀行はやめたんですよ」
佐和木の返事は意外であった。
「どうも、僕は銀行員には向いていませんでね。七年ほど前にやめて、今は六本木《ろつぽんぎ》に西洋|骨董《こつとう》の店を出しています」
ポケットから財布を出し、一枚の名刺をさし出した。
西洋骨董「佐和木」と店の名に、住所と電話番号が刷り込まれている。
「それじゃ、ジュネーヴにいらしたのも、御商売のことで……」
「ええ、今回はベルンとパリを廻って帰ります」
船客がぼつぼつ、船へ戻りかけていた。
三重子も佐和木と肩を並べて歩き出した。前方でシャッターの重い音がして顔を上げると、船着場のところに、日本人の男が立って、盛んに城の方角へカメラをむけている。
ウーシーの船着場でみかけた、あの日本人の男であった。
午後を、三重子は昨日訪問したオールドタウンの病院へ、もう一度、叔母の友人であったローラン夫人を見舞に行くことで過した。
たまたま、ローラン夫人の孫娘がさまざまの種類のシャーベットを持って病室へ訪ねて来ていて、三重子は勧められるままにそれらを口にした。
どちらかというと三重子はシャーベットやアイスクリームのような冷菓が苦手であった。子供の頃から、母親が暑い最中でも、体の芯《しん》まで冷たくなるようなものは食べないほうがいいという方針だったので、それが一つの習慣になっていた。
だが、ローラン夫人が孫娘の手作りを自慢して勧めるのであってみれば、お愛想にも食べないわけにはいかなかった。
病院からの帰り道に三重子は果物屋で、ブルーベリーやフランボアーズをみつけて、それらを少々、買った。日本では、ジャムやゼリーになったものしかお目にかかれない。
ホテルの部屋へ帰って来て、それらを洗って食べたのが、結果的にはいけなかったのかも知れない。
間もなく、三重子は急な腹痛に悩まされた。
用心のために日本から持参した薬を飲み、ベッドに入ったが、痛みはひどくなるばかりであった。
外国のホテルで、しかも一人旅の場合、病気はひどく心細いものである。
フロントへ電話をして医者を頼んだほうがよいのではないかと思いはじめた時に、枕許《まくらもと》の電話が鳴った。やっとの思いで、受話器をとり上げてみると、佐和木良行であった。
「明日、お発ちとうかがったので、よろしかったら、僕の車で、ローザンヌから空港までお送りしたいと思って……」
通話の途中で、佐和木は三重子の急病を知った。
「とにかく、これから、そっちへ行きます」
返事を待たずに電話が切れて、三重子はぐったりした体をベッドに伏せた。
なんにせよ、佐和木がかけつけて来てくれることは嬉しかった。
ジュネーヴからローザンヌまでの距離を考えるとすまないとは思ったが、背に腹は変えられない。
一時間足らずで、佐和木はやって来た。
一人ではなく、日本人の医者を同行している。
「中山先生はジュネーヴにお住いなんです。もしも、御在宅なら薬でも頂こうと思ってお寄りしたら、一緒に行って下さるというのでね」
中山医師は、かなりな年配であった。
息子が国際結婚をしてジュネーヴに住んでいるので、その縁で一年前から、こっちへ来ているなどと話しながら、診察をしてくれた。
佐和木は、その間、部屋の外へ出ている。
「旅の疲れで消化器官が弱っているところへ、普段、食べつけないものを食べたせいでしょうな」
心配は要らないといい、注射をしてくれた。
「明日、帰国、出来ますでしょうか。チューリッヒ経由で、日本へ帰りますの」
予定は変えたくなかった。
今度の旅は、あくまでも叔母の遺言でロンドンとローザンヌへやって来たものである。ついでに物見遊山をしていると、人に思われたくもなかったし、叔母の法事もひかえていた。
「痛みが止まれば、なんということもないが、日本までのフライトが長いから、少々、つらいかも知れませんょ」
出発する、しないは、朝になってからお決めなさい、と中山医師は親切であった。
その夜、佐和木はジュネーヴへ帰らなかった。
「フロントに事情を話して、部屋をとってもらいました。もし、夜中に気分が悪くなったら、遠慮なく電話をして下さい」
部屋番号のメモをおいて、あっさり部屋を出て行く。
注射がきいたのか、三重子は間もなく痛みを忘れてねむった。
翌朝の気分は悪くなかった。体に倦怠感《けんたいかん》は残っていたが、起きられないことはない。
佐和木は電話で容態をきいて来たが、三重子が予定通り出発するというと、別にひきとめはしなかった。
予定では、午後一時二十分にジュネーヴを発ち、チューリッヒで成田行の便に乗り継ぐことになっている。
洗面をすませた頃に、部屋に朝食が運ばれた。ボーイは、佐和木からの指示だといい、銀盆の上には手紙ものっている。
中山先生から、帰国するなら軽い食事をさせるようにいわれていたので、朝食を届けさせます。これからジュネーヴへ行って十一時半までに戻って来ますから、仕度《したく》をして待っていて下さい。
新倉三重子様
佐和木
朝食はオートミールとレモンティであった。
食欲はなかったが、一口食べてみると案外、すんなりと胃におさまるようであった。
十一時すぎに、佐和木はもうホテルへ戻って来た。
「航空券がとれたので、チューリッヒまで送ります。本当は日本までついて行ってあげたいが、まだ、こっちに仕事があるのでね」
どっちみち、今日、ベルンへ移動するつもりだったので、チューリッヒからベルンへ向っても、たいして時間に変りはないといった。
辞退しても無駄とわかって、三重子は相手の好意を感謝して受けた。
やはり、チューリッヒまでついて来てもらって、つくづく有難かったと思ったのは、ジュネーヴでのカウンター手続きやスーツケースのチェックインなど、普段、なんでもないことが、体力、気力の落ちている今日の場合、ひどくわずらわしく感じられて、それを代行してくれる佐和木がいなかったら、どんなに苦痛だったかとしみじみ思われた。
実際、佐和木の気の使い方は並々ではなく、空港ビルの冷房に備えて膝《ひざ》かけまで用意して来ていたし、三重子にはハンドバッグしか持たせず、ほんの僅《わず》かの待時間も必ずソファで休ませるなど、少しでも体力を消耗させないように配慮してくれた。
チューリッヒから成田までのフライトを、三重子はねむってばかりいた。
三重子が驚いたのは、成田に加賀|静子《しずこ》と岸井保《きしいたもつ》が迎えに来てくれていたことである。
加賀静子は、三重子が秘書をしている加賀利之の夫人で、三重子の母や叔母とも親しかったし、一人ぽっちになった三重子に、まるで実の母のような心使いをしてくれる。
岸井保は、加賀事務所の社員であった。いってみれば、三重子の同僚である。
「ベルンから、主人のところへ電話が入ったのよ」
岸井が運転して来た車の後部座席には枕や毛布が用意してあって、三重子を寝かせて行けるよう仕度が出来ていた。
「佐和木さんとおっしゃる方から、三重子さんが、体を悪くした状態で帰りの便に乗ったので、なんとか出迎えに行ってもらえないかって、そりゃあ丁重にいわれたそうでね。勿論《もちろん》、今日は出迎えにくるつもりだったんだけど、道中、無事に帰ってくるかと、とても心配していたのよ」
大丈夫だという三重子を強引に座席にすわらせ、静子夫人は近頃、流行の裾《すそ》のせまいパンツスタイルで颯爽《さつそう》と助手席へおさまった。
きれいな銀髪を一部分だけ薄紫色に染めて、その色と同じ男物のワイシャツを無造作に着ている。今年六十二歳とは到底みえない若々しいお洒落の感覚は、長年、外交官夫人として海外生活で身につけたもののようであった。
「佐和木さんって、航空会社の方……」
訊《き》かれて、三重子はローザンヌでの、彼とのめぐり合いをざっと話した。ただ、彼と以前、縁談のあった点だけは話しにくい気持もあって伏せておいた。
「御親切な方がいて、本当によかったわ、その方が帰国なさったら、早速、お礼にうかがわないとね」
「その人、独身ですか」
運転席から岸井が訊いた。
「奥様をおなくしになったんですって」
「そうすると、ロマンスの生まれる余地がありそうですね。ローザンヌの旅情なんて、ちょっとしたメロドラマの題名になりませんか」
映画狂の岸井の、いわば、その時かぎりの冗談だったが、三重子の心の中を、甘くくすぐるものがあった。だが、三重子はそんな気持にすぐ自分で水をかけた。四十をすぎた女が、なまじ、恋をしたら、みじめさが、残るだけだと思う。
車の窓からみるハイウェイの風景は、如何《いか》にも蒸《む》し暑そうであった。
「梅雨は上ったんですか」
気を変えるように訊いた三重子へ、静子が屈託のない笑い声で答えた。
「気象庁が梅雨あけ宣言をしてから一週間も降り続いてね、今日、やっとお天道様が顔を出したばっかりよ」
番町《ばんちよう》のマンションには、加賀利之が待っていた。
「病状によっては、まっすぐ病院へ行ったほうがよいと思ってね」
心配そうな顔が、思ったより元気に車を下りた三重子をみて、ほっとゆるんだ。
「おさわがせしてすみません。むこうで注射もして頂きましたし、お薬も下さいましたので……」
ぞろぞろと三階まで、みんなで上った。
部屋は、三重子が出発した時のままであった。
掃除好きの三重子のことだから、どこもきちんと整頓されている。
「飛行機の中で、なにも食べなかったというから、ちょっと、お粥《かゆ》でも煮てあげよう」
料理にかけては、まことにまめな静子が台所へ入り、三重子はその間にスーツケースを開けて、土産物を取り出した。
加賀利之にはロンドンで、彼のお気に入りの葉巻とウイスキーを買って来たし、岸井には彼が欲しがっていたライターを、静子夫人にはローザンヌでみつけたハンドメイドのショールと室内ばきがある。
「こりゃあ上等だよ。こんなのは、とても日本に入って来ない。入って来たって、高くて買う気にならんだろう」
むこうでも随分の値段だったろうといいながら利之は早速、一本を抜き出して火をつけたし、岸井は、
「やっぱり、迎えに行ってよかったです」
子供っぽい仕草でライターの箱をのぞいて喜んでいる。
「さあさあ、みんな、今日は三重子さんをゆっくり休ませなければ……」
台所から出て来た静子が追い立て役で、やがて、部屋には三重子一人になった。
台所には、小さな土鍋《どなべ》にお粥が煮えていて、わかめの味噌汁《みそしる》まで作ってある。
テーブルの上には古風な重箱がのっていた。
静子が家から持参したらしく、中身はローストビーフに和風サラダ、それに卵やきやら野菜の炊《た》き合せやらが、巧みにつめ合せられていて、
「冷蔵庫へ入れておけば、二日くらいは保《も》ちます。ゆっくり休んで、ゆっくり召し上れ」
と、静子のメモが添えてある。
粥と味噌汁をよそって、三重子はリビングのカーテンを開けて、くつろいだ気持で食事にかかった。
このマンションの隣は小学校であった。
三重子の部屋のリビングのベランダは小学校の校庭に面していて、子供達の喚声も聞えてくるし、遊んでいる姿も見下せる。
むこうからみえるのを嫌って、日中はカーテンを下しっぱなしの住人も多いらしいが、三重子はあまり気にならなかった。
こっちのベランダから眺めていると、同じマンションに住んでいる子供で、その小学校に通っているのが、三重子へむかって手をふったりする。それに、手をあげて応《こた》えるのも、三重子にとっては楽しいことであった。
この部屋は、三階の角に位置しているので、叔母の俊子が使っていた寝室と居間からは小学校の校庭はみえなかった。そっちは神社の境内に隣接している。
夜の校庭はひっそりしていた。
校舎にも、殆んどあかりは点《つ》いていない。
軽い食事をすませて、三重子はベッドに入った。
佐和木良行は、今、ベルンかと思う。
たった一人のマンションの夜を、三重子は初めて寂しいと感じた。
旅から帰って一週間ばかりを、三重子は慌しく過した。
叔母の高田俊子の百か日の法事をすませると、顧問弁護士が正式に、遺産相続の手続きを始めた。
高田家には子供がなかった。俊子の夫である高田|信三《しんぞう》は十年も前に病死していて、遺産相続は妻の俊子がしている。
俊子は、三重子の母の妹であった。他に兄弟はない。従って、高田俊子の血縁は、姪《めい》の三重子一人であった。
加えて、三重子は母を失った十三年前から、叔母の希望でこのマンションに同居している。
顧問弁護士があずかっていた高田俊子の遺言状でも、遺産はすべてを三重子にと指定してあった。
高田家の遺産は、かなりなものであった。
高田信三は銀行をリタイヤしてから、貸ビル業をはじめて会社を設立していた。社長の名義は高田俊子になっていて、役員には、信三が頭取までつとめた銀行から、有能な数人が招かれて、名を連ねていた。
貸ビルは、もともと、高田家が東京のあちこちに持っていた土地を利用して建てられたものだが、東京の地価の急上昇と平行して事業は順調に伸びた。
だから、叔母の死によって、三重子が相続するものは、税金分を除いても、数十億にはなる。
「なんだか、身分不相応な気がします」
三重子のためらいを、加賀利之が笑った。
「金なんぞあったって、なくたって同じようなものだが、叔母さんにしてみれば、心残りは未婚の三重子さんのことだけだったろう。好意は素直に受けておくものだ。別に邪魔にはなるまいよ」
静子夫人のほうは女だけに少々の取り越し苦労を口にした。
「独身の三重子さんが、あまり大きな財産を持つと、お金めあての結婚なんてことが起りませんかね」
「冗談いうなよ。彼女が今まで結婚しなかったのは、男をみる眼がありすぎたせいじゃないか。第一、これだけの美人で人柄のいい女性なんだ、金なんぞ問題外で、いくらでも求婚者はある。財産にとらわれることはないさ」
加賀夫婦の会話は、三重子にとって、まだ実感にはならなかった。
一人娘でおっとり育ったせいもあって、三重子はあまり物欲のあるほうではなかった。
両親は常に身分相応ということをモットーにした生活をして来たし、三重子もその人生観が身についている。
で、日常生活は今のところ、前と少しも変らなかった。
ウィークデイは、毎朝九時に、紀尾井町《きおいちよう》にある加賀事務所へ出勤する。
加賀事務所のあるビルまでは、番町のマンションから徒歩であった。
七月末の金曜日であった。
テレビ番組の録画撮りに出かけて行った加賀利之が、事務所へ戻って来た時は、二人連れであった。
よくよく話がはずんでいるのか、お茶の仕度をしている三重子のところまで、応接室の笑い声が聞えてくる。
「珍しいですね。テレビ嫌いの先生がテレビにお出になったのもだけれど、お帰りになって、あんなに御機嫌がいいというのは、まさに異常現象ですよ」
岸井までが、肩をすくめて笑っている。
応接室へ入ると、正面の加賀利之に向い合ってすわっている男の背中がみえた。
加賀も七十歳に近い日本の男にしては、がっしりして背の高いほうだが、相手もスポーツクラブのコーチとでもいった体格をしている。
「三重子君は、小谷《おたに》君とは初対面かね。Bテレビの報道部長の小谷|章《あきら》君、彼の親父《おやじ》さんが僕と同期でね」
男が椅子から立って、三重子へ体をむけた。
一瞬、どこかで見た顔だと思いながら、三重子は丁重に挨拶《あいさつ》をした。大きな眼鏡が印象的であった。
「こちらは、加賀先生の姪御《めいご》さんですか」
小谷が突っ立ったまま訊ね、加賀が葉巻を取り出した。
「いや、血縁関係じゃないんだが、こちらのお父さんは外務省で、僕の先輩に当ってね。まだ四十なかばで急逝《きゆうせい》されたんだが、実に立派な人格者だった。僕なんぞ、どのくらい面倒をみてもらったか知れないんだよ」
殊《こと》に終戦後の、日本の外交の一番、苦しい時期を一つ釜《かま》の飯を食いながら、がんばって来ただけに、思い出には忘れ難いものがあると加賀はいった。
「その、新倉隆光先輩の忘れ形見なんだよ」
「新倉さんのことは、僕も先生のお書きになったもので読んでいます。そうですか、新倉さんのお嬢さんですか」
三重子がお辞儀をして部屋を出ようとすると、小谷が慌てたようにふりむいた。
「失礼ですが、今月はじめに旅行をされませんでしたか」
戸惑《とまど》った顔を上げた三重子をみると、当惑したように、
「いや、どうも失礼しました」
くるりと背をむけてしまった。
可笑《おか》しな人、という印象で三重子は隣の部屋へ戻って来た。
ちょうど、電話がかかって来たところで、受話器を取った岸井が、
「三重子さん、佐和木さんという人から電話だけれど……」
出るか、という顔をする。
「佐和木さん……」
「知ってる人ですか」
「ローザンヌでお世話になった方よ」
岸井は首をすくめて受話器を渡した。
「三重子でございます。いつ、お帰りになりましたの」
今週のはじめに、佐和木からもらった名刺の電話番号へダイヤルした時は、店員らしい女の声で、
「只今《ただいま》、留守でございます」
というそっけない返事であった。こっちがいつ頃、お戻りですかという質問を口にする暇もなく電話を切ってしまったので、取りつく島もなく、そのままになっていた。
「五、六日前ですが、少々、仕事がたまっていて、とび廻っていましたので……」
お元気ですか、といわれて、三重子は胸が熱くなった。
「その節のお礼を申し上げたいと思って居りましたの。一度、お食事など……」
加賀夫妻から、そうするようにいわれていた。
「そういう御丁重なことは、かえって恐縮ですから……それよりも、元気になられた三重子さんを拝見したいですな」
自分の店もみてもらいたいといった。
「今日、お仕事が終ってから如何《いかが》ですか」
三重子は時計をみた。
五時を少し廻っている。
加賀事務所は九時から五時までであった。加賀利之は、今夜、特に予定がない。なんなら、一緒に佐和木を訪ねて、礼をいってもらえるかも知れなかった。
「うかがいますわ。六時までには参れると思いますの」
佐和木から大体の道順を教えてもらって受話器をおいたところへ、加賀利之が入って来た。
「小谷君と食事に行くことにしたよ。君たちも来ないか」
反射的に三重子は頭を下げた。
「ごめんなさい。私、ちょっと約束をしてしまって……」
佐和木の名は出せなかった。相手が佐和木だといえば、律義な加賀のことだから、自分も同行して礼をいいたいといい出すにきまっている。それでは、折角《せつかく》、小谷と食事の約束をしたのが反古《ほご》になりかねなかった。
「そりゃ残念だな」
「どちらへいらっしゃいますか。予約を入れておきます」
事務所を出たのは四人一緒であった。
加賀は手を上げて、三重子のためにタクシーを拾った。
「気をつけて行ってお出で……」
「先生もあまりおすごしになりませんように」
会話は仲のよい親娘のようであった。
タクシーから頭を下げながらみていると、手をふっている加賀と岸井の背後で、小谷章は憮然《ぶぜん》として突っ立っている。
どこかでみた人、とまた思ったが、三重子の気持はそれよりも佐和木に急いでいた。
ローザンヌで、佐和木は六本木の店、といったが、場所は鳥居坂《とりいざか》に近かった。
古風な西洋館といった家の前に、佐和木が立っているのをみつけて、三重子はタクシーを止めた。
「看板もなにも出ていないので、わかりにくいかと思いましてね」
夕方になっても蒸《む》し暑い路上に、どのくらい立っていたのか、三重子は恐縮した。
「さあ、どうぞ、狭い店ですが」
古風なドアをあけると、そこはちょっとしたサロンになっていて、片すみにさまざまの西洋骨董が並んでいる。
店員は居なかった。
「五時で帰すんですよ。夜は、わたしが暇な時はいつまでも開けていますし、用事のある時は閉めてしまう。気儘《きまま》な商売なんです」
改めて、三重子はローザンヌの礼をいった。
「すっかり元気になられたようですね。安心しました」
佐和木は、この前、会った時よりも陽に焼けていた。
「面白いものがあるというので、南イタリアまで足をのばしたんですが、たいしたものではありませんでした。そのかわり、思わぬバカンスをすごして来ましたがね」
奥の棚からビロウドの小箱を出して来た。
「ローマコインを使ったものでしてね」
クラシックコインを三つ、金細工にはめ込んだネックレスであった。
「ちょっと気がきいているでしょう」
鎖をはずして、三重子の首にかけた。
なんでもない白いワイシャツのボタンをはずしたところへ、そのネックレスがおさまっただけで、ひどく優雅なイメージになった。
「やっぱり、よくお似合いだ。どうぞ、お使い下さい。さし上げます」
「とんでもありませんわ」
狼狽《ろうばい》して三重子はネックレスをはずそうとしたが、佐和木はそれをさせなかった。
「三重子さんにと思って買って来たんです。そんなに高価なものではありませんから、気にしないで下さい」
それより近所に旨《うま》い店があるから、と佐和木は三重子をうながして、店を閉めた。
連れて行かれたのは、カウンターの京|割烹《かつぽう》の店だが、味はずばぬけて良い。
佐和木は話上手であった。
十年前に会った時よりも、人間に奥行きが出来たようである。
商売で年中、外国を歩いているだけあって、話題も豊富であった。
以前、彼の求婚をことわったことに、三重子はこだわっていたが、彼のほうは、そんな気配もみせない。
食事が終ったあとの切り上げ方も、あっさりしていた。
自分で車を運転して、三重子を番町のマンションまで送って来て、そのまま、帰った。
佐和木との交際は、そんな形で、自然に再開された。
八月になって、加賀夫妻は、佐和木良行を料亭に招待した。
ローザンヌで世話になったことへの礼のためだが、夫婦とも、佐和木にいくつかの質問をする心づもりでもあった。
佐和木は、加賀夫妻に対して、まことに神妙であった。
いくらか固くなってはいたが、訊かれたことには、なんでも率直に答えた。
「感じのいい人だったわね」
帰りの車の中で、まず、加賀静子が佐和木を賞《ほ》めた。
「教養もあるし、品のいい人じゃありませんか」
「少し、暗い感じがしないか」
加賀利之のほうは、男だけにやや、点が辛かった。
「そりゃ、二度も奥さんをなくしていれば、少しは暗くもなるでしょうよ」
女房運の悪かったことにも、静子夫人は同情的だった。
「あの方、おいくつ……」
「たしか、五十歳におなりだと思いますわ」
縁談のあった時、三重子より七歳年上のことはきいていた。
「年齢的には、悪くないわね」
加賀が笑い出した。
「おい、おい、せっかちすぎるぞ、三重子君は、まだ、つき合いはじめたばかりなんだ。こういうことは慎重でなけりゃいかんぞ」
「俊子さんが慎重すぎて、結婚しそびれて来たんじゃありませんか」
三重子の叔母の、高田俊子が、それまでにいくつかあった三重子の縁談にいずれも、賛成しなかったことを、静子夫人はいい出した。
「結婚なんて、一種の賭《かけ》ですもの、ふみ切ろうと思ったら、少々、不安でもふみ切ってみるものよ」
黙っていたが、三重子は、静子夫人の言葉に同感していた。
短かいつきあいの中でも、佐和木の印象は極めてよかった。
いくらか気の弱いところがあるのも、デリケートで優しい彼の性格からすると、むしろ、好ましかった。
歿った三重子の父にそういうところがあった。
家庭で荒い声を出したことは一度もなかった。
娘に注意するにしても、優しく、丁寧ですらあった。人には寛大で、自分にはきびしい亡父の面影を、三重子はいつの間にか、佐和木良行の中に求めていた。
それに、現実の三重子は孤独であった。
加賀夫妻が、どんなによくしてくれていても、所詮《しよせん》、他人であった。
一人きりの叔母が死んで、親類らしい親類はなかった。
莫大《ばくだい》な財産を相続していながら、三重子の心には、常に寂しい風が吹いていた。
佐和木との交際は、夏から秋に続いた。
加賀夫妻は、佐和木を軽井沢《かるいざわ》の別荘にも招いた。
彼はその礼として、仁清《にんせい》のすばらしい皿を静子夫人に贈った。
「彼の美術に対する知識は、たいしたものだわ」
やきものには造詣《ぞうけい》の深い静子夫人は、それがきっかけで、前よりも佐和木を話相手に招くようになった。
十一月、三重子は佐和木良行との結婚を決心した。
「今度はことわらないで欲しいんだ」
気弱そうに佐和木がささやいた夜、三重子は彼の店の二階にある、彼の寝室で、すべてを許した。
新 婚
小谷麻子が、その週末に京都へ行ったのは、母からの電話のためであった。
祇園《ぎおん》さんの別称で知られている八坂《やさか》神社から、さして遠くないところにある「初音旅館」というのが、麻子の母の生家である。
京の宿の中では老舗《しにせ》であり、格式も高かった。部屋数は多くないが、広い庭に囲まれている凝った造りの離れは、背後が山になっているので、京の繁華街に近いくせに、まことに静寂そのもので、加えて、客あしらいのきめの細かいこと、料理の旨いことでも知られている。
女主人は、麻子の祖母であった。
六十五歳になるが、誰がみても六十そこそこといわれるのが自慢で、豊かな髪を、庇《ひさし》の出たような束髪に結って、日常着は結城紬《ゆうきつむぎ》の無地に、その季節にふさわしい柄を染めた、やや華やかな感じの帯を締めて、きびきびした声で女中たちの指揮をとっている。
ボストンバッグを下げて、麻子が内玄関を入って行った時も、女中頭の久子に客室の畳替えの段取りをいいつけている最中であった。
「麻子、早かったな」
女主人から、祖母の顔に戻って、
「お母ちゃん、居間におるえ。おばあちゃんも、すぐ行くよってに……」
麻子は、走り寄ってボストンバッグを持とうとする女中に手をふって、さっさと廊下を、住いにしている建物のほうへ歩いて行った。
十二月はじめの京都は、もう底冷えが感じられる。
母の和子は、居間のすみの机に原稿用紙を広げていた。まわりに外国の地図だの資料にするらしいパンフレットなどが散らかっている。
「もう、お仕事してるの」
十五日ばかりメキシコを廻って来て、昨日、帰国した筈である。
「時差で、のびてるかと思ったわ」
「それどころじゃないのよ。締切が、ぎりぎりで……」
「お気の毒さま」
間の襖《ふすま》を開け放ってある隣の部屋へ行って掘り炬燵《ごたつ》に足を入れると、すぐに祖母の芳江が菓子鉢を手に戻って来た。
「和子はなにしてはるの。麻子が来たのに」
「あさってが、締切なのよ」
声が苛々《いらいら》している。
「そやかて、久しぶりに麻子に会うたのに」
「いいのよ。おばあちゃん、あたし、お土産もらいに来ただけだから……」
実際、これといって、母に話があるわけではなかった。
「今夜は泊れるんやろう。折角、麻子の好きな、てっちりやら、てっさやらいいつけてあるよってに……」
「お父さんには、一晩、泊ってくるっていって来たから……」
「章さん、変りないの」
「うん、元気よ」
和子が机の前をはなれて、こっちの部屋へ来た。押入れから紙袋に入ったものを、麻子の前に持ってくる。
「お土産よ」
「ありがとう」
白い木綿の服は、赤や黒で胸のあたりに刺繍《ししゆう》がしてある。
「カリブ海側のカンクンっていうリゾート地で買ったのよ。民族衣装だけど、夏には着られるでしょう」
他にハンドバッグが一つ。
「メキシコにフランス製のバッグなんて売っているの」
パリの有名ブランドのものであった。
「それは、帰りにロスアンゼルスで買って来たのよ」
「アメリカは物騒だから、寄らないっていってたのに……」
女一人の旅であった。
「飛行機の都合で一晩、泊ったけど、物騒な話ばかり聞かされたわ」
日本から団体で来ていた旅行客が市内のホテルのエレベーターの中で、バッグをひったくられたとか、
「ハネムーンで来たお嫁さんが、ホテルの前のタクシーで買い物に行こうとしたら、まるで方角違いへ連れていかれて、暴行されて、翌日、素っ裸で町角に倒れているのを保護されたとか」
「和子」
娘と孫にお茶を入れてやりながら、芳江が眉をひそめた。
「あんた、なんぼ仕事のためやいうても、女一人で外国へ行くのは、もう、よしにしときなはれ。そないな危い思いをしてまで、仕事せんかてよろし」
「どこもここも危いところばかりじゃありませんよ」
和子が反撥《はんぱつ》した。
「なにも、あんた、章さんと別居してまで、仕事することないやないの。麻子かて、まだ大学生なのに、両親が別居して、かわいそうやないか」
麻子が軽く手を上げた。
「おばあちゃん、そのことはお父さんとお母さんの問題だから……」
ここへ来ると、必ず、その話の蒸し返しになるのが苦痛であった。
母親が、仕事をしたいために、父親と別居したことを、麻子は母の自由と割り切ることにしている。
娘時代から書くことが好きだったという母親であった。
好奇心も人一倍、強く、旅行が趣味であった。
麻子がまだ小さい時から、よく一人でふらりと旅に出かけている。娘に手がかからなくなってからは、日本国内だけではなく、外国へも足を伸ばすようになった。
旅行がきっかけで、旅行の専門誌に紀行文を投稿したりするようになり、紀行文の懸賞原禍に応募して一席に入ってからは、だんだんマスコミからの注文が増えて来た。
それ以前から、家事にはあまり熱心でなかったのが、いよいよ主婦らしくなくなって遂に、家庭放棄の宣言をしたのが、麻子が成人式を迎えた昨年のことであった。
家族に束縛されず、自由に仕事をしたいから、夫と別居するといい出した和子を、身勝手な母親だとは思いながら、麻子は口に出して非難はしなかった代りに、自分は父親の許へ残ることを主張した。
どちらかといえば、子供の時から父親と気の合う娘であった。母が旅行で家を留守にしても、父親がいれば不自由は感じなかった。
といって、母親に愛情がなくなったわけでもなかった。
女中が、客の到着を知らせて来て、祖母が出て行くと、麻子も庭へ下りた。
母の仕事の邪魔をしたくなかったし、それ以上に麻子はこの宿の庭が好きであった。
山からの水をひいた池を中心に、花の咲く庭木の配置が見事であった。
もっとも、今は冬枯れで、咲いているのは山茶花《さざんか》くらいのものである。
池の鯉《こい》も、水底にもぐって身動きしない。
少し寒いのを我慢して、橋の上に立っていると、渡り廊下を離れのほうへ向っていた女客が庭へ下りて来た。
麻子へ会釈をして、池をのぞいてみる。
きれいな人、という印象で、麻子はその女性を眺めた。
グレイの着物に黒のベルベットのコートを着て、手にミンクのショールを持っている。
今まで出かけていて、宿へ戻って来たという恰好《かつこう》であった。
その女性のあとから、少し遅れて男がやはり、庭へ下りて来た。
「なにをみているの」
優しい声であった。
「鯉がいるかと思って……」
「鯉も冬眠中じゃないかな」
微笑し合った様子が新婚のように初々しかった。
寄り添うように廊下へ戻って行く。ちょうど離れから出て来た女中の久子が、その客に風呂《ふろ》の仕度の出来たことを告げている。
麻子は庭を迂回《うかい》して、帳場へ上って、久子の来るのを待った。
「今のお客様、どなた……」
久子が苦笑した。
「新婚はんやいうこと、お耳に入ったんどすか」
「新婚さん……」
年齢的には、中年の夫婦であった。
「あ、いや、御存じやなかったんどすか」
「再婚でしょう」
「奥様のほうは、初婚やそうです。加賀先生の秘書さんどす」
「外交評論家の加賀先生……」
「へえ」
「きれいな方ね」
「ほんまに、おきれいな奥様どすなあ」
居間へ戻ると河豚《ふぐ》ちりの仕度が出来ていた。
和子が、あまり器用とはいえない手つきで、河豚を鍋《なべ》に入れている。
「どこへ行っていたの」
「庭よ」
「寒いのに……」
「中年のハネムーンに会っちゃった。すごく、すてきな奥様……」
河豚の刺身は、祖母が自分で運んで来た。
「加賀先生の秘書さんに会うたって……」
もう、久子にきいたらしい。
「四十すぎて、お嫁にいらしたんやと……」
「いいじゃない。人生に年齢なんて関係ないもの」
四十すぎて、主婦から物書きに転身した人もいるといいかけて、麻子はやめた。祖母の前で、母の話は、とかく愚痴の元になる。
「どういう方と結婚なさったの」
加賀利之は外交官時代から、この宿の常連だったから、和子もよく知っている。
その加賀利之の秘書が、四十歳をすぎて結婚したということに、和子は好奇心を持ったようであった。
「佐和木さんというてね。西洋骨董のお店をやってはるお人やそうや」
「さわきさん……」
どういう字を書くのかと、和子が訊ね、芳江がテーブルの上に、その文字を書いた。
「御主人のほうは再婚でしょう」
早速、河豚をすくって口に入れながら、麻子が言った。
「男の人はいいわね。二度目でも、あんな美人の奥さんをもらえるんだから……」
「三度目やそうや」
いくらか、遠慮がちに芳江が告げた。
「前の奥さんは、外国でなくなりはったとか……」
和子が手を打った。
「思い出したわ」
次の間へ行ってメモ帖《ちよう》をとって来た。
「どうも、どこかできいた苗字だと思ったのよ」
ロスアンゼルスで、旅行社の人と食事をしていて、日本人旅行者の被害があまり多いのに興味を持った。
「時間があったから、大使館へ行って調査をして来たのよ」
記録に残っている殆んどは、被害者が殺された場合であった。暴行や盗難は届け出ない者が多い。
「たしか、六年前くらいの事件よ」
まだ今ほどはアメリカの西海岸が物騒だとマスコミが書き立てない時期であった。
「日本の商社マンが、夜道を歩いていて、ピストルで撃たれたってニュースがあって……」
その次に、日本人旅行客がひき逃げされて死亡するという事件があった。
「やっぱり、そうだわ。貿易商、佐和木良行夫人の悦子さんという人……」
メモ帖の文字を拾って、和子がいった。
「お食事の時に、そないな好かん話はよしなさい」
芳江が娘を叱《しか》り、湯気の立っている鍋の中から河豚の切り身をつまみ出して、麻子の小鉢に入れた。
「早く食べんと煮えすぎてしまう、早くにおあがり……」
部屋中に、ぽん酢の匂いがただよって、麻子の健康な食欲は、母親がひどく興味を持っているらしい外国の物騒な話題を忘れさせた。
日曜日の午後に、麻子が京都から戻ってくると、父親の小谷章はリビングのテーブルの上に写真をぶちまけるようにして、カメラマンの石田研一と、なにかやっている。
一日中、着がえもしなかったらしく、パジャマの上にガウンをひっかけて、寝乱れ髪に無精髭《ぶしようひげ》を生やした顔は、まず、洗面もしていないのに違いない。
「一日、留守にすると、これだから、たまんないわ」
台所には汚れた食器が積んであるし、鍋には、おたましゃもじが突っ込んだままで、蓋《ふた》がずれている。
「ごめん、お昼にラーメン作って、そのあと、すぐ写真探しをはじめたもので……」
石田が台所へやって来て弁解した。
成程《なるほど》、ラーメンを作った鍋と、二つのどんぶり鉢が洗い場におきっぱなしである。
「石田さんが作ったの」
「部長、朝からなにも食べてないっていうもんだから……」
「いやだわ、御飯も炊いといたし、シチュウも作っておいたのに……」
「それ、昨夜、僕と二人で食べちまったんだ」
「外で食べてくるっていったのに……」
「麻子さんが留守だから、家で仕事しようってことになってね」
「昨夜泊ったの」
「いや、ネガをもらって帰って、うちで現像して、今朝、又、来たんだよ」
石田研一は、小谷章がまだ新聞社の報道部にいた頃から目をかけていた若手のカメラマンであった。
小谷が同系列のテレビ局へ移って、報道部長になった今でも公私にわたって、なにかと相談にやってくる。
麻子とは、いつの頃からか、恋人同士であったが、父親は二人の間に恋愛感情が育っているのに、まだ気づいていない。
麻子も父親の前では、意識的にぶっきら棒な態度で、石田に接していた。
湯を沸してお茶をいれ、京都から買って来た和菓子を運んで行くと、父親と恋人は、まだ写真探しをやっている。
「いったい、なんの写真がみつからないの」
「昨年ジュネーヴの国際会議を取材に行ったときの奴《やつ》だよ」
いい加減、うんざりした顔で、早速、お茶に手をのばした。
「外国から帰って来たら、すぐ写真の整理をしておきなさいっていってるのに……」
「それが出来りゃあ苦労はないさ」
「この辺のが、そうじゃないの」
モンブランらしい山の写っているのを、テーブルの上から取った。
「それより一本前のフィルムなんだ。そこにあるのは日曜にレマン湖のまわりをぶらぶらした時の奴だからね」
「レマン湖って、ちょっと箱根の芦《あし》の湖《こ》みたいね」
遊覧船を写したのが何枚かある。
「いいところだよ。仕事でなけりゃ、麻子を連れて行ってやりたかった」
「その中、ハネムーンで行こうかな」
ぱらぱらと写真をめくっていると、湖の上に城がせり出しているのがあった。
「きれいなお城ね」
その下にあった数枚は、城を前面から撮ったものであった。
観光客の姿も写っている。
「あら、この人……」
思わず、写真に目を近づけた。
ブルウのシャツに白いスラックスという軽装だが、昨日、母の実家でみた客にまぎれもない。
「おばあさまの宿へ泊っていた人だわ」
「美人じゃないですか」
石田がのぞき込んだ。
「部長もすみにおけませんね、こんな女性を同行なさったんですか」
「なんだと……」
小谷が娘の手の写真を眺めた。
「ああ、これは同じ船に乗り合せたんだ。あんまり美人だから、御当人にわからないようシャッターを切ったんだがね」
「どこの誰かも知らないで、ですか」
「よっぽど、声をかけようと思ったんだが、警戒されて、チャンスがなかったんだ」
「本当ですかね」
男二人の冗談に、麻子が割り込んだ。
「あたし、この人、知ってるわ。外交評論家の加賀先生の秘書さんですって」
父親が、ほうという顔になった。
「どうして知ってる」
「だから、昨日、おばあさまの宿でみかけたのよ。ハネムーンで京都へ来ていたの」
「だって、この人、いい年じゃないですか」
と石田。
「いい年だって、結婚すればハネムーンにも出かけるわよ。御主人は佐和木さんっていう西洋骨董店の社長ですって」
「いくつぐらいの人です」
「五十そこそこかしら、御主人のほうは三度目の結婚だそうよ」
「うまくやりゃあがったな。三度目で、こんな美人がくるんだから……」
「男は得ね」
「男にもよりますよ」
小谷章が、ほろ苦い表情になった。
「やっぱり、加賀先生のところにいた人だったんだな」
「お父さんも知ってたんじゃないの」
「いや、この写真の時点では知らなかった。日本へ帰って来て、うちの局の番組に加賀先生が出演して、ついでに送りがてら、先生の事務所をお訪ねしたら、この女性がいたんだ」
「事実なら、世の中、狭いわね」
「事実だよ。しかし、残念なことに、彼女は俺《おれ》をおぼえていなかった」
「きいてみたの」
「それとなくね」
「お父さんなんか眼中になかったんじゃない」
「多分、そうだろう。でなけりゃ、むこうさんの眼が悪いんだ」
「今頃、ハネムーンってことは、この写真を部長が撮った時は独身だったわけですね」
石田は面白がっていた。
「残念でしたね。部長……ちょっとしたスイスの休日になったかも知れないのに……」
「なるもんか。彼女は男連れだったんだ。多分、あの時の奴が、今度の結婚相手だろう」
「それじゃ尚更《なおさら》、お父さんなんかふりむきもしないわけよ」
「全くだ」
父親と石田が再び、写真探しをはじめたので、麻子は整理用のアルバムをもって来て、レマン湖畔の写真をナンバー順に片づけて行った。
「世の中、狭いっていえばね。お母さんがロスアンゼルスで調べて来たことの中にね、この方の御主人の前の奥さんのことが出て来たのよ」
佐和木良行の前夫人が六年前にロスアンゼルスで車にひかれて死んだ話をした。
「ますます、ラッキーな男だね」
父親が笑った。
「不用になった女房は、アメリカへ連れて行って、ひき逃げしてもらうか」
「反対に、男のほうがひかれちゃったりしてね」
リビングでの会話は陽気なものであった。
小谷章がスイスで撮って来た一枚の写真から、冗談がころげ出ただけである。
それから十日ばかり経《た》って、麻子は大学の友人だちと六本木へ出た。
十二月もなかばになると、大学はもう冬休み気分で、学生に人気のある教授ほどはやばやと休講になったりする。
気の合った友人と一緒だから、のんびりとウィンドウショッピングをたのしみ、週刊誌に名の出たケーキ屋でお喋《しやべ》りをしたりしてから、近頃、気のきいた店が増えたといわれる鳥居坂のほうへ下りて行った。
「佐和木」という西洋骨董の店をみつけた時、麻子は無意識に窓ガラスの中をのぞき込んだ。
いやに痩《や》せて、頬骨《ほおぼね》のとがった女が店番をしている。アメリカ人らしい客がアンティークの人形を眺めていた。そのむこうに、背中だけみえるのが、どうも、この前、京都の祖母の宿でみかけた佐和木良行らしい。
「入ってみない」
麻子がいうと、友人は容易に同意して、古風な店のドアを押した。
狐顔《きつねがお》の女が、愛想のない眼をこっちへむけたが、いらっしゃいませとも、いわない。
どうせ、冷やかしの客と頭から馬鹿《ばか》にしている様子であった。
たしかに、店内にあるものは、女子学生では手が出ないような高価な品ばかりである。
さりげなく、麻子は客の相手をしているこの店の主人の顔をみた。
やはり、あの折の新婚の夫である。上品な英語の声が優しかった。
アメリカ人の客が人形を買うことに決めた時、電話がかかって来た。
麻子があっけにとられたのは、机に近いところにいた狐顔の女が受話器を取るよりも早く、佐和木良行が走りよって、それを手にしたことである。
「もしもし、ああ、わたしだ……」
柔かな応対は、まるでその電話のかかってくるのを予想していたようである。
受話器を耳にあてたままで、主人は女店員に人形の包装をするように命じた。女店員はむっとした表情のまま、人形を箱に入れている。
「いいよ。その時間にそっちへ行こう。ああ、大丈夫だ。加賀先生のお宅なら、ここから三十分かからないだろう」
電話をしている佐和木の声も表情も甘い。
麻子は受話器のむこうにいるのが、新婚の佐和木の妻に違いないと思った。
ぼつぼつ、店を閉める夕暮れ時に、妻は加賀夫妻の招待を夫に告げて来たのでもあろうか。
「麻子、もう行かない」
友人に声をかけられて、麻子は我にかえった。友人のあとから店を出ようとして、なんの気なしに、人形を包んでいる女店員の顔が視線に入った。
女店員は主人の電話に耳をすませていた。
眉間《みけん》に深い皺《しわ》を寄せ、口許《くちもと》を少しまげるようにして、主人の後姿をみつめている、その表情は、はっとするほど暗かった。
「麻子……」
先に外へ出た友人に呼ばれて、麻子は女店員に心を残しながら店を出た。
三重子は、自分の今までの生涯で、これほど満ち足りた日々はあるまいと思えるような毎日を過していた。
佐和木良行との結婚は、十二月の最初の金曜日に原宿《はらじゆく》の教会でつつましく行った。立会人は加賀夫妻で、佐和木のほうは、妹夫婦というのが九州から出て来て参列した。
披露宴は銀座のレストランの個室を借りて、友人、知人を三十人ばかり招いた。
ごく内輪だが贅沢《ぜいたく》なパーティで、余興には加賀利之がピアノの伴奏をして、静子夫人が「椿姫《つばきひめ》」の「乾盃《かんぱい》の歌」を独唱したりして、和気|藹々《あいあい》の雰囲気であった。
三重子は初婚ということもあって、教会では白のウェディングドレスを、披露宴では黒のシフォンベルベットのイブニングドレスを着た。当日、彼女のドレスの胸許に飾られた大粒の真珠のネックレスは、花聟《はなむこ》からの贈り物であった。
新居は、とりあえず、三重子の番町のマンションということになった。
それまで佐和木良行が住んでいた六本木の店の二階は、夫婦が暮すにしては狭すぎた。
それにくらべると、番町のマンションのほうは、叔母の高田俊子が使っていた居間や寝室、納戸までを加えると、夫婦二人でも広すぎるくらいである。
「あなたさえ、気になさらなければ、こちらへ来て下さい」
三重子の申し出に、佐和木はなんのこだわりも持たなかった。
男のことで、そう荷物もない。
佐和木がマンションへ運び込んだものの中で、一番、多かったのは美術品であった。絵画や焼物には相当の値打ちのものがある。
それらを、佐和木は無造作に居間や玄関に飾った。
三重子の日常は、これまでと大差はなかった。
夫婦で朝食をすませると、前後して各々のオフィスへ出勤して行く。
三重子は今まで通り、加賀の事務所で働くことにした。
結婚したからといって、それほど主婦としての仕事が増えたわけではなかった。
佐和木はまめな性格で、自分の着るもの一切は、三重子の手を借りなかった。
脱いだ背広は自分でハンガーにかけ、洋服戸棚にしまうし、毎日のワイシャツやネクタイえらびも自分でする。汚れたものはクリーニングに出し、衣類の整理整頓にも新妻の手をわずらわせなかった。
三重子のほうも、夫の領分に強いて立ち入るつもりはなかった。
台所仕事や掃除は今までと同じで、加賀の秘書を続けるのに、なんの支障もない。
「助かったよ、三重子君にやめられたら、後釜《あとがま》を探すのに、苦労するだろうと覚悟していたんだがね」
加賀利之は手放しで喜んでくれたし、三重子もマンションで一日、ぼんやり夫の帰るのを待っているだけの妻の生活は望まなかった。
佐和木はマンションから店へ通い、夕方、帰ってくる。
帰宅時間はまちまちだったが、必ず、電話をしてくるし、食事は家で三重子と一緒にした。
その他、週に一度は夫婦で加賀家の夕食に招かれた。
加賀静子は料理自慢で、客を招くのが大好きだから、週末は大抵、気のおけない友人、知人に招待状が廻る。
佐和木は加賀家へ行っても、重宝がられた。
大きな壺《つぼ》に、洋風に花をいけるのが旨い。日本の生け花と違って、何種類もの洋花を四方、どこからみても華やかに色どりよく、挿し込んで行くのが鮮やかであった。
「お花は佐和木さんにまかせましょう」
ということになって、佐和木は毎週、自分の店から適当な花器を運び、花屋に花を注文して、たのしんでいけている。
ワインやシャンペンのサービスの手ぎわもよかった。万事にひかえめで、もの静かだが、話題は豊富であった。
容姿は端麗だし、中年の落ちつきがある。
「三重子さんは、いいお聟さんをひき当てたわ、本当によかった」
静子夫人が何度となく、繰り返し、三重子もそれに心からうなずいていた。
夫婦の夜の生活にも、三重子は満足していた。
佐和木は優しく、情熱的であった。
最初はぎこちなかった三重子も、夫に導かれて、少しずつ奔放になった。
「三重子はきれいだ。こんなにきれいな肌をみたことがない」
ベッドの照明の中で、生まれたままの姿を夫の目にさらしながら、三重子は夫の賞讃が嬉しかった。
夫の言葉は、明らかに今まで彼が抱いた二人の妻と、三重子を比較してのものであった。
前の二人の妻よりも美しいといわれることは、三重子の女心を徴妙にくすぐり、興奮させた。
僅かの日々で、佐和木は、三重子にとってかけがえのない存在になっていた。
「クリスマス・イブに、なにか予定があるかい」
加賀利之が訊いたのは、クリスマスに、あと一週間という頃で、
「もし、なんにもなかったら、いつものように、うちでパーティをやろうといっている。どうかね」
三重子は笑顔でうなずいた。
「ありがとうございます。実はそのつもりであてにして居りましたの」
加賀家のクリスマスパーティには毎年、二十人ぐらいの客が集って、食事のあとダンスやくじびきや、ちょっとしたゲームなども用意されていて、なかなか楽しかった。
事務所からは三重子と、岸井保が招待されていた。
「今年は差がついたな、三重子さんは同伴なのに、僕は相変らず独りで……」
岸井保がしきりにぼやき、
「ガールフレンドがいるんなら、つれて来いよ」
と加賀が笑い、
「そんなのがあれば愚痴なんてこぼしませんよ」
岸井は更にしょぼくれている。
当日の加賀事務所は開店休業のようなもので、三重子も朝から南平台《なんぺいだい》の加賀家へ行って静子夫人の手伝いをした。
大広間と食堂には、佐和木が花を飾った。
花器はどちらも、彼が六本木の店から運んで来たもので、大広間のほうは有田焼の赤絵の大壺に百合《ゆり》と薔薇《ばら》をふんだんにいけ、食堂は唐津焼《からつやき》の水甕《みずがめ》にさまざまの種類の椿《つばき》と洋花という思い切った組み合せであった。
花を飾ると、佐和木は一度、六本木の店へ帰った。
クリスマスから正月にかけてが、けっこう客が多く、品物も売れるという。
夕方までにはパーティの仕度はすべて完了して、三重子は静子夫人の部屋で持って来たドレスに着がえた。
「結婚したのだから、少しは派手なものもお召しなさい」
という静子夫人の忠告に従って、黒に近いグリーンのタフタのスカートに、同じモアレの白いブラウスは袖《そで》が大きく、衿《えり》が広くあいていて、それでなくてもきれいな三重子の首筋から肩にかけての線を、一層、美しくひきたててみせる。
静子夫人はグレイのニットにビーズをあしらったセーター風の上着に、グレイのベルベットのロングスカートで、こうした着こなしは流石《さすが》に元外交官夫人の貫禄であった。
五時に加賀利之が岸井保と帰って来た時、客を一組、伴っていた。
「Bテレビの報道部長の小谷章君とお嬢さんの麻子さんだ」
静子夫人が挨拶をしている中に、三重子がカクテルを運んだ。
「三重子君は、一度、小谷君に会っているだろう。夏に、うちの事務所へみえたとき……」
加賀にいわれて、三重子は思い出した。
「あの時、眼鏡をかけていらっしゃいませんでしたかしら」
小谷は、いくらか照れくさそうに笑った。
「おっしゃる通りです。この前お目にかかった折は、アフリカの取材で目をやられたあとでして、一か月近く、眼鏡をかけさせられていました」
「そうそう、そんな話をきいたっけ」
加賀も思い出したようであった。
玄関を入ったすぐ右手の広い居間にはクリスマスツリーが飾られて、暖炉には赤々と火が燃えている。
加賀は静子夫人に声をかけられて、広間の飾りつけをみに行き、岸井と麻子がそれについて行った。
「実は、あなたにお目にかかるのは、これが三度目なんですよ」
三重子のさし出すカクテルグラスを受け取りながら、小谷がいい出した。
「おぼえていらっしゃらないらしいですが、昨年の夏、スイスのローザンヌの……ウーシーの船着場で、おみかけして、ご一緒の遊覧船に乗りました」
あらっと三重子が小さな叫び声をあげた。
「あの時の、日本人の方……」
いわれてみれば、目の前に立っている小谷に違いない。
レマン湖の遊覧船に三重子と一緒に乗っていた日本人は、佐和木良行と、もう一人、眼つきのよくない男と。
「ごめんなさい。失礼しました。道理でこの前にお目にかかったとき、どこかでおみかけしたような気がしましたの」
「そうですか、僕は、てっきり御記憶にないと思った……」
「眼鏡をおかけになっていらしたからですわ。それに、レマン湖でお目にかかった折は、ちょっと違うような印象で……」
「眼つきが悪かったんじゃありませんか」
ずばりといって、三重子の動揺を眺めて可笑しそうであった。
「図星《ずぼし》でしょう」
三重子は観念して、否定しなかった。
「あの時から、お目を痛めていらっしゃいましたの」
「そうなんです。アフリカの砂塵《さじん》ですっかりやられて、そのまま、ジュネーヴへ行きましてね」
「それでイメージが狂ったんですわ」
二人の間に笑い声が起った。
三重子が夫を小谷に紹介したのは、ディナーのあとであった。
「やはり、あの時の……」
小谷はレマン湖での佐和木をおぼえていた。
「船上で、三重子さんとご一緒だった方でしょう」
佐和木が少し、戸惑いながら頭を下げた。
「同じ船にお乗りになっていたとは思いませんでした」
「佐和木さんは、三重子さんしかみていなかったんでしょう」
傍にいた静子夫人が、まぜっかえした。
「三重子さんはね、あの時の佐和木さんとの出会いが、結婚のきっかけになりましたのよ」
「それは残念でした。僕も、ねばってみるべきでした」
小谷の冗談に、一座が又、ひとしきり、にぎやかになった。
クリスマス・イブの翌日、麻子は渋谷《しぶや》で石田研一とデイトをした。
公園通りは若者の町であった。
「ここへ来ると、なんとなくアメリカの西海岸の町に似ているような気がするんですよ」
雑踏を喫茶店の窓越しに眺めて、石田がいった。
「たとえば、サンフランシスコの漁夫の波止場のあたりとか……」
「石田さんは、年中、外国へ行けていいわね」
「仕事ですよ」
「あたしも、大学卒業したら、世界旅行をしてみようかな」
「女の一人旅は絶対によしなさい。世界中が物騒になって来ているんだから……」
それで、ふと、麻子は昨夜のパーティでの佐和木良行を思い出した。
「お父さんの恋敵に逢《あ》ったわ」
「ええっ」
「レマン湖の美人と結婚した人……」
「ああ、アンティークの店の主人ですか」
「どういうのかしら、逢う度に印象が違ってみえるの」
最初が京都の宿で、次が六本木の店、そして、昨夜の加賀家のパーティ。
「そりゃあ当然だな」
麻子の説明をきいて、石田がいった。
「一回目はハネムーン、気分は最高だが、少々、緊張をしている。二回目はいわば職場でしょう。どんな男でも仕事をしている時と遊んでいる時の印象は違いますよ。三回目は華やかで、くつろいだクリスマスのパーティ、印象が変って当り前じゃないかな」
「たしかに、そうなんだけどね」
素直にうなずいておいて、麻子は自分の意見を話し出した。
「それだけじゃないのね。うまくいえないけど、変に暗いものを持っていて、それが、時によって強くなったり、弱くなったりする感じよ」
「厄介だな」
「根暗《ねくら》っていうのとも違ってね。ああ、この人、翳《かげ》をしょって生きてるなって気がするのよ」
「二度も奥さんに死なれているせいかな」
「それもあると思うけど、どんな生い立ちをした人かなって考えちゃう」
「文学的発想だね」
「ハンサムで、あんまり恰好いい人だから気になるのかしら」
「よせよ。おじんをライバルに持ちたくないな」
その日、麻子が話したのは、その程度のものだったのに、年があけて間もなく、石田からの電話で出て行くと、彼は新年の挨拶も抜きで一冊の古い雑誌を取り出した。
待ち合せたのは、クリスマスの日と同じ渋谷の公園通りの喫茶店で、今日も店内は一杯の客である。
「みてごらん」
紙片がはさんであるページをひろげた。
それは婦人雑誌で、何人かの女性の事業家に、成功の秘訣《ひけつ》やら人生観やらを、手記の形式で書かせたものであった。
タイトルは父親ゆずりの西洋骨董の店で成功、とある。
筆者は長沼春美、経営している店の名前は「アンティーク長沼」であった。
店の前に筆者の立っている写真が最初に掲載されている。
麻子が目をこらしたのは、その店が、どうやら六本木の「佐和木」に似ていたからであった。
「気がついたか」
「今の佐和木さんのお店かしら」
「その通り、長沼春美はこの手記を発表して半年目に、佐和木良行と結婚しているんだよ」
石田は得意そうであった。
「じゃ、佐和木さんの前の奥様……」
「そう、第二番目の女房だな」
読んでみろよと石田にうながされて、麻子は編集者が彼女に取材してまとめたらしい一文を丹念に目で迫った。
「どう、感想は……」
雑誌から顔を上げた麻子に、待ちかねて訊く。
恋人になってからも、石田はどちらかというと麻子に対して、それ以前の丁寧な口調をあまりこわさなかった。上司の娘だから遠慮しているというよりも、父親の前へ出た時と、二人きりの時と、それほど態度や口調を変えないのが、石田のけじめのようであった。
それが、時折、麻子をじれったくさせる。
もっとも、二人の関係は、まだキスどまりであった。
「お金持だったのね。長沼春美さん……」
死んだ父親の残してくれた六本木の店は、いわゆる古美術専門店だったのを、彼女は現代にマッチした西洋骨董に切りかえた。それが成功して、かなりの資産を増やすことが出来たと手記には書いている。
「佐和木さんの、あのお店は、奥さんの所有だったわけ……」
手記にも両親も兄弟もない一人ぽっちとあった。
長沼春美の財産は、彼女が死んだあと、夫である佐和木良行が相続したに違いない。
「実は、もう一つ、あるんだよ」
鞄《かばん》から、石田が取り出したのは、彼が働いている新聞社が発行しているグラフ雑誌であった。
写真が中心のものである。これも、だいぶ、古いものであった。
「我ながら、記憶がいいんで、びっくりしたんだがね」
ひろげたページには長沼春美の写真と、空港らしい背景の場所で骨箱を手にした男が報道陣のカメラに囲まれていた。
「佐和木さんじゃないの」
写真の下の記事は、南イタリアを旅行中に妻が行方不明になり、死体で発見されたというものであった。
「佐和木さんの、二度目の奥さんも外国で歿《なくな》ったの」
麻子のつぶやきに、石田がうなずいた。
「この前、そんなこといってたね」
「最初の奥さんも、外国で歿ったのよ。交通事故。ひき逃げされたんですって」
京都で、母の和子が話したのを、そのまま伝えた。
「母ったら、紀行文だけじゃ、もの足りなくて、日本人の旅行者が外国で事件に遭った話をまとめるみたい」
「場所は、どこだっけ」
「ロスアンゼルスっていってたわ」
「ロスなら、あり得るな」
石田が冷えたコーヒーを飲んだ。
「つい、こないだも、日本人旅行者の奥さんが、通りすがりの車からピストルで撃たれている」
日本人に対する反感のためか、精神異常者の犯罪か、犯人はまだ挙っていない。
「イタリアも物騒なんでしょう」
有名人の子供が誘拐されたり、政治家が殺されたり、日本人旅行者がひったくりや追いはぎにあったというニュースも、しばしば聞かされている。
「二人とも、外国で殺されたってのは、珍しいね」
佐和木良行の前の妻たちであった。
「長沼春美さんという人は、商売柄、年中、ヨーロッパへ出かけていたらしいから、被害に遭ったってことでしょうけど、もう一人の奥さんは、なにをしていた人かしら」
ロスアンゼルスで車にひかれたほうである。
「調べてみればわかるだろうがね」
なんとなく眼を見合わせたのは、好奇心のせいであった。
「あんまり美人の奥さんをもらうもんじゃないな」
石田が笑い出した。
「何故《なぜ》よ」
「痛くもない腹を探られるってこと……」
二人にとっては、他人事《ひとごと》であった。
麻子も声をたてて、笑っていた。だが、その笑いの奥に、なにが剣呑《けんのん》な雰囲気がのぞいていた。
本能的に、この問題にはあまり首を突っこまないほうがいいような気がする。
しかし、二人は若く、好奇心はあり余っていた。
過 去
年があけて間もなく、三重子は加賀利之の用事で六本木の花屋へ行った。
加賀が外交官時代に交際のあった友人が入院したときいて、見舞の花を注文するためであった。
電話でも済むことだが、三重子は性分で、必ず自分で花をみてから贈ることにしている。
どっちみち、夕方であった。
もう紀尾井町の加賀事務所に帰る必要もないので、このあたりで夕食の材料でも買って番町のマンションへ戻る予定であった。
それを、ふと鳥居坂の夫の店まで足をのばす気になったのは、もしも、夫の都合がよければ、彼の車で広尾《ひろお》へ出て、少々、まとまった食料品の買い物をしたいと思いついたからである。
広尾は場所柄、肉の旨い店や、上等の生鮮食品をおいてあるマーケットがある。
主婦専業でなく、毎日、加賀事務所に出勤している三重子にしてみれば、上等の材料を少しまとめて購入し、冷凍庫に貯蔵しておくのも、献立を考える上で都合がよかった。
鳥居坂の店のドアからのぞいてみると、店内は灯がついていたが、誰《だれ》もいなかった。
ドアには鍵《かぎ》がかかっている。
店を閉めたにしては、電気のついているのがおかしかった。
カーテンも開いたままである。
ちょっと考えて、三重子は裏口へ廻《まわ》った。
そこは、少々、わかりにくいが入ったすぐが二階への階段で、上ると、かつて佐和木が住いにしていた部屋の廊下に出る。
二階は二部屋あって、廊下の突き当りが物置部屋で、その横から店へ下りる階段がある。
裏口のドアには鍵がなかった。
足音を立てて階段を上りながら、三重子は夫を呼んだ。
「良行さん、いらっしゃるの」
二階の廊下へ上り切ったところで、もう一度、声をかけた。
「あなた……」
手前のドアが開いて、佐和木良行が顔を出した。
ワイシャツ姿でネクタイもはずしている。
「うたた寝をしてしまったんだよ。オリエンタルホテルの大妻君が、珍しいワインを持ってきてね、二人で飲んだものだから、彼が帰ったとたんにねむくなってね」
昼酒はきくといいながら、肩を叩《たた》いた。
成程、ベッドの毛布がめくれていた。
「それはいいけど、お店、誰もいないのよ」
「村林君がいるだろう」
狐顔の女店員のことであった。
「いいえ、みえなかったわ。入口の鍵も閉っていたのよ」
「おかしいな」
三重子を部屋へ残して、良行は廊下へ出て行った。
彼にしては少し乱暴な足音が、店のほうへ通じている奥の階段を下りて行く。
なんとなく、椅子《いす》にかけて、三重子はテーブルの上の雑誌をみた。
読みかけらしく、開いたまま、テーブルに伏せてある。
取り上げて、開いたページをみた。
女の一人旅、というサブタイトルで、題名はメキシコ讃歌、筆者は中野和子となっている。
面白そうな、と思った時、良行が戻って来た。
「村林君、いたよ。トイレに行くので入口に鍵をかけたそうだ」
「あら、そうだったの」
笑顔になって、三重子は雑誌をテーブルへおいた。
たった一人の店番で、店においてあるものが高価だから、トイレに行く場合でも、必ず鍵をかけて行くのは当然かも知れなかった。
「村林君は不愛想だが、几帳面《きちようめん》な性格だからね」
良行は、はずしていたネクタイを締め、上着を着た。
三重子がここへ寄った理由を告げると、
「それじゃ、僕の車で一足先にマーケットへ行きなさい」
もうすぐかかってくる約束の電話があるので、それがすみ次第、マーケットへ行くという。
「あなた、お車は……」
「歩いて行くよ。ここから広尾ぐらい、男の足ならなんともない」
少し運動不足だからちょうどいいといいながら、車の鍵を三重子に渡した。
良行の車は、店の前の路上に停めてある。
入って来た通りに、裏口から出て店の方へ廻ると、内から階下へ下りた良行がドアをあけて、手を上げた。
店の中には、女店員がむっつりした顔で、いつもの場所にすわっている。
ほんの僅《わず》か、トイレに立っただけのことを、主人に告げ口した、いやな妻だと思っているかも知れないと感じて、三重子は小さくなって、車のドアをあけ、そそくさとエンジンをふかした。
マーケットの駐車場へ車を入れて、買い物をすませたが、良行はまだ来なかった。
店員に食料品を車まで運んでもらい、トランクへ入れてから、マーケットの中の喫茶店へ行った。
マーケットと同じビルの、正面玄関のあたりをロビイ風に区切って、そこでちょっとしたケーキやコーヒー、紅茶が飲めるようになっている。
三十分ほども待って、やっと良行が姿をみせた。
「すまないが、急用が出来てしまった。先に家へ帰ってくれないか」
いいにくそうな夫に、三重子は苦笑した。
「そんなこと、ちっともかまいませんけれど、お車は……」
「タクシーを待たせてあるんだ。君は車で帰りなさい」
そそくさとマーケットをとび出して行く。成程、路上にタクシーが待っていて、彼を乗せると青山墓地の方角へ走り去った。
勘定を払い、車を運転して、三重子は番町へ帰った。
折角、上等の材料を買って来たのに、夜の食事は三重子一人であった。
良行の帰りは、十二時を過ぎていた。
次の週に、良行は商用で香港《ホンコン》へ出かけて行った。
「旦那《だんな》が留守じゃ寂しいだろう。ちょうど、話もある。家で食事をしないか」
加賀利之が誘ってくれて、三重子は久しぶりに加賀家の夕食に参加した。
たまたま、加賀家は、夫人の静子が週に一回、開いている料理教室の日であった。
静子夫人はもともと料理好きで、加賀が外交官としてパリやロンドン、ウィーンなどに居た時分、現地のコックから学んだその国の郷土料理や、外国人の奥さま方から教えてもらった家庭料理など、レパートリィはかなり広い。
そのことを聞き伝えて、加賀の友人、知人の夫人や娘たちが、静子から料理を習う集りを作って、いつの間にか、十人以上のレギュラーの生徒が出来てしまった。
世話好きで、面倒みのいい静子のことだから、たいして厄介な顔もしないで、材料費だけの無料講座を続けている。
三重子が加賀と連れ立って門を入ると、料理教室が終ったところらしく、静子に送り出されて何人かが玄関を出て来た中に、三重子の知った顔があった。
小谷麻子である。
父親はテレビ局の報道部長で、彼女の母方の祖母が京都で初音という旅館をやっている。
三重子が佐和木良行とハネムーンで泊った宿であった。
三重子が会釈をする前に、麻子が気がついて、ぺこりと小学生のようなお辞儀をした。
二十一歳という年齢にしては、色気のない足どりで活発に門を出て行く。
「お帰りなさい」
静子夫人は赤い小花模様のエプロンをつけていた。きれいな白髪に、薄紫のニットのワンピースで、そんな若々しいエプロンがよく似合うのも、長年の外国暮しのせいかも知れなかった。
「今、帰って行ったの、小谷君の娘だろう」
加賀も、麻子をおぼえていた。
「料理教室へ来ているのかい」
「今月からね」
エプロンをはずしながら、静子が笑った。
「昨年のクリスマスの時に、うちの料理教室の話をしたものだから、早速、メンバーに入れて下さいって……いまどきの若い人にしたら、お料理の勘はとてもいいし、よく気がついて、いいお嬢さんですよ」
「小谷君のかみさんは、京都の旅館の娘だろう」
「別居しているんですってね」
「娘がそんな話をしたのか」
「麻子さんはなにもいいませんけど、やっぱり、うちへ来ているお料理の生徒さんで、御主人が国際出版の編集長をしている古川さんの奥さんがね」
「古川君なら知ってるよ」
加賀も国際出版から本を出したことがあるし、雑誌へ寄稿することもある。
「古川さんの奥さんのお話だと、麻子さんのお母さん、ものを書くお仕事をしていらしゃるそうよ。御実家の苗字を使って、中野和子っていうんですって」
「知らんな。小説でも書いてるのか」
「紀行文とか、旅行好きで、体験記みたいなものをお書きになるようよ」
居間の棚から一冊の雑誌を持って来た。
「古川さんの奥様がお持ちになったんだけど、こんなのにも書いていらっしゃるみたい」
雑誌の表紙に、三重子は憶《おぼ》えがあった。
鳥居坂の佐和木の店の二階の部屋でみかけたものである。
そういえば、あの時、開きっぱなしになっていたページが、メキシコ讃歌、という題の中野和子の文章だったように思う。
「それ、お読みになってからでけっこうですけれど、貸して頂けます」
三重子がいったのに、静子が早速、本をさし出した。
「どうぞ、お持ちなさいな。あたしはこの頃《ごろ》、字を読むと肩がこってね」
加賀家の夕食は、今日の料理教室で作ったローストビーフであった。
ロンドン仕込みのソースに特徴があって、ホースラディッシュにも少々の味つけがしてある。
「あなた、酔わないうちに、あのお話、三重子さんにおっしゃいな」
静子にうながされて、加賀利之はワイングラスをテーブルへ戻した。
「実はね、先だって家へ電話があって、佐和木君から入籍のことで、相談があったんだよ」
結婚は昨年の十二月にしたが、佐和木と三重子の結婚届は、まだ出ていないという。
「年末で、いろいろ多忙だったのと、三重子君が一人娘なので、彼としては、ちょっと考えていたようなところがあったそうだ」
結婚届が、まだ出ていないというのは、三重子にとって初耳であった。
迂闊《うかつ》な話だが、てっきり、佐和木がすませていると思っていたのは、その手続きに必要な書類一切をとり揃《そろ》えて、彼に渡してあったからである。
佐和木が忙しくて区役所へ行く暇がなかったのなら、三重子が代りに行っても済むことであった。今まで、佐和木は、その件について、なにもいっていない。
「佐和木君がいうには、場合によっては、彼が、新倉の姓に入ってもいいそうだよ」
「でも、それでは、佐和木の家のほうが……」
佐和木には父親の違う妹が一人いるが、九州へ嫁に行っている。佐和木が、三重子のほうの姓を名乗るとなると、佐和木の家を継ぐ者がなくなる筈《はず》だ。
「彼は、かまわないというんだよ、もともと、彼のお父さんは末っ子で、分家したそうでね。佐和木の本家は広島にあるし、一向に差し支えはないらしい」
加賀はむしろ佐和木が新倉の籍に入ってくれることを望んでいるようであった。
「なんといっても、新倉家は由緒のある名家なんだし、先祖の墓所を守るという意味でも、彼に来てもらったらどうかね」
別に、三重子に異存があるわけではなかった。
「まあ、今どき、家を継ぐというのも、古くさい考えかも知れないけれど、あちらが気を使っているのだから、好意に甘えてもいいと私も思いますよ」
静子もいった。
「それに、あなたは高田さんのお墓もお守りしなけりゃならないでしょう」
昨年、歿った三重子の叔母の高田家も跡継ぎがなかった。叔母の遺産相続者である三重子が、高田家の人々の法要も行って行くことになる。
「あたしが死んでしまったら、どうなるんでしょうね」
思わず、三重子は呟《つぶや》いた。
新倉家の法事も、叔母夫婦の墓参りもする人がなくなってしまう。
「だから、早く赤ちゃんをお産みなさいよ」
「もう無理よ、小母様……」
「世間には四十すぎて赤ちゃんの出来る方もありますよ」
「まあ、それは神様の思し召しだがね」
加賀が笑いながら、口を挿《はさ》んだ。
「もしも、子供が出来なければ、もっと先になってから養子という方法もある。ま、そこまでは考えなくともいいが、とりあえず、佐和木君に新倉家へ入ってもらうことにしたら……三重子君が話しにくければ、わたしからその中、機会をみて、彼に返事をするよ」
よろしくお願いします、と三重子は頭を下げた。
夫婦になって、そんなことを加賀にいってもらわなくても、という気持がなかったわけではないが、佐和木が三重子に直接、話をせず、加賀を間に立てたのは、やはり養子縁組などということを、現代でも気にする男が少くないからに違いない。
なんにしても、三重子は佐和木の配慮が嬉《うれ》しかった。
別に家柄にこだわるつもりはなかったが、一人娘が他家へ嫁入りしてしまったのでは、両親も墓の中で寂しく思うかも知れない。
番町のマンションへ戻って来て、三重子は静子からもらって来た雑誌を開いた。
小谷麻子の両親が別居していて、その理由が、妻のほうが仕事をしたいためだということは前に、ちらと聞いていた。
三重子には信じがたいことであった。
小谷章は、ローザンヌでの第一印象はともかく、クリスマスに加賀家でつき合った時の感じでは、気さくで、男らしい好感の持てる相手であった。娘の麻子も明るくて、素直な子である。
良い夫と娘に恵まれているのに、家庭を放棄してまで自分の仕事を優先しようとするのは、随分、身勝手なような気がする。
が、それは古い女の考えかと反省もした。
雑誌には読みたい記事や小説があったが、三重子は一番に、メキシコ讃歌を読んだ。
女一人のメキシコ旅行記で、それなりに面白かったが、家庭とひきかえにしてもやりたいと思うほど、価値のある仕事かどうか、疑問であった。
人にはいえたものではないが、正直のところ、この程度なら、私でも書けると三重子は内心で思った。
ただ、中野和子という女性は、かなり好奇心が強いようである。
メキシコでの取材ぶりも、三重子なら、そこまでは突っ込んで訊《き》けないようなことを質問しているし、それを文章にすることにためらいがなかった。
もっとも、ルポライターとしてやって行くには、そのくらいの度胸がなければつとまらないに違いない。
気軽な気持で読んでいた三重子が、おやと思ったのは、終りに近く、外国での日本人旅行客が、掏摸《すり》やひったくりに遭うことが多いという一文になってからであった。
日本人は治安のいい国に住んでいるので、現金を平気で持ち歩き、人のみている前で財布を開けたりする不用心さが被害を受ける原因になるなどと書いたあとに、いくつかの実例が並んでいた。
その一つに、ロスアンゼルスにおけるS氏夫人の場合というのがあって、夜、ダウンタウンで食事をし、外へ出たところで、通りすがりの車の中からハンドバッグをひったくられそうになり、手を離さなかった為《ため》に、車にひきずられたあげくに、ひき逃げされて死亡した、というのがあった。
中野和子は、どのような大金が入っていたにせよ、命が大事ならハンドバッグを放すべきだと当り前のことをいっている。
三重子は、彼女の書きぶりに反感を持った。
誰しも、命に別状があれば、ハンドバッグや金など惜しむ筈はなかった。手をはなさなかったのは、咄嗟《とつさ》に防禦《ぼうぎよ》本能が働いたからで、なにも、それが死につながるとは思ってもみなかった筈である。
むごい書き方をする人だと思った。もしも、この一文を被害者の家族が読んだら、どんな気持がするだろうと三重子は早々に雑誌を閉じた。
ベッドに入ってから、小谷章の顔が浮んだ。
あの男は、自分の妻が、こんな文章を書くために、家庭を犠牲にしているのをどう考えているのだろうといささか同情的になったりした。
三重子がおかしくなったのは、翌日、加賀事務所へ出勤すると、一緒に働いている岸井保が、同じ雑誌を手にしていて、三重子をみると待っていたように、メキシコ讃歌のページを開いてみせたからである。
「御存じですか、中野和子っていうルポライター……小谷さんの奥さんだってこと……」
三重子はコートを脱いでロッカーにかけた。
「昨日、知ったばっかりよ」
「それじゃ、これ、読みましたか」
「昨夜、読んだばっかり……」
「どう思いました」
「どうって……面白かったけど……」
「いやな文章だと思いませんか」
「どういう点がいやなの」
「外国で災難にあった人たちの扱いですよ。思いやりに欠けていると思いませんか」
やはり、岸井も、あの部分にひっかかったのかと三重子はうなずいた。
「たしかにね」
「自分だけが、外国旅行のベテランのような書き方が、いやみだと思いましたね」
「誰もが、考えることは同じね」
「三重子さんも、そうですか」
我が意を得たりと岸井は嬉しそうであった。
「才女ぶって才をひけらかすって感じでしょうが……」
「あんまり悪口はいえないわよ。小谷さんはうちの先生のお知り合いなんだから……」
「かまいませんよ。こんな悪妻……小谷さんももて余してるみたいだし……」
「お仕事のために別居しているんですって」
つい、三重子も岸井のペースに乗った。
「どうかしているんじゃありませんかね。この程度のものを書くのに、仰々しく別居するってのは……」
「でも、家庭を持っていたら、どうしても縛られるから……」
「亭主や子供を愛していたら、出来ることじゃないですよ」
「岸井君って若いくせに、古風ね」
昨夜の自分の感想を棚にあげて、三重子は笑った。
「女の人だって仕事はしたいし、それに、お嬢さんも大きくおなりだから……」
「別居するまでもないんじゃありませんか」
「他人の家の中のことは、わからないわ」
「案外、夫婦仲がうまく行ってないのかも知れませんね」
岸井が思いがけないことをいい出した。
「そうかしら」
「加賀先生もいつか、おっしゃってましたよ。小谷さんは、家庭的には恵まれていないって……」
「それだけで憶測するのは失礼よ」
「僕は、こういう女は嫌いだな」
「小谷さんは好きかも知れなくてよ」
電話が鳴って、会話はそれっきりになった。
三重子にしても、特に中野和子に悪意を持ったわけではない。
その雑誌の記事のことも、やがて忘れた。
中野和子が、突然、番町のマンションを訪ねて来たのは、佐和木が香港から帰る予定の前日であった。
日曜日で、三重子は朝から部屋の掃除に念を入れたり、洗濯物を片づけたりしていた。
玄関のブザーが鳴ったので出てみると、シルバーフォックスの半コートを着た女が名刺をさし出した。
中野和子、の四文字が眼にとび込んで来て、思わず三重子は相手を眺めた。
丸顔で色が白い。女にしては眼も鼻も大きく、如何《いか》にも意志の強そうな感じがした。
「佐和木さんの奥さまでいらっしゃいますか」
容貌《ようぼう》に似ず、声はやや甘かった。アクセントに関西なまりがある。
「私、国際出版で仕事をして居ります者ですが、少々、御主人様にお訊《たず》ねしたいことがございまして、昨日、お店のほうへお電話を致しましたら、今日、外国からお戻りとうかがいまして……」
三重子は慌てて遮った。
「いえ、主人は明日、帰国の予定でございますが」
「でも、お店の方は、今日のようにおっしゃいました」
「店の者が間違えたんですわ、明日の午後の便ときいて居ります」
それでも、相手は疑わしそうな表情である。
止むなく、三重子はいった。
「どういう御用件か存じませんが、よろしかったら、お上り下さいませんか」
中野和子は会釈をして、玄関へ入って来た。
客用のスリッパを揃えると、
「失礼いたします」
悪びれもせず、コートを脱ぎながら上った。
「すばらしいお住いですのね」
リビングを遠慮なく見廻して、すすめられた椅子に腰を下す。
三重子は台所へ行って、お茶の仕度をした。
いくら、店の者が、香港から明日、帰る予定だといったにしろ、電話でこっちの都合も訊かず、だしぬけにやってくるというのは、相当、荒っぽい神経の持ち主だと思う。
といって、あまり、愛想のないことも出来なかった。
和子の夫は小谷章であり、小谷と加賀とは昵懇《じつこん》の仲である。
あり合せのブランディケーキに紅茶を運んで行くと、和子は開け放したカーテンのところに立って、窓の外を見下していた。
「あちら、学校ですの」
このマンションの隣は小学校であった。
「随分、賑《にぎ》やかじゃございません」
校庭が窓の外である。
三重子は微笑した。
「私、昼間は勤めて居りますし、日曜は学校がお休みですから……」
それに、このマンションは防音装置がよく出来ていて、二重になっている窓を閉めれば、外の音は殆《ほと》んど聞えない。
「こちらのマンション、御結婚なさる前から奥様がお住いだったとか……」
誰から聞いたのか、そんなことも知っている。
「もともとは、叔母のものでしたの、叔母が歿りましたので……」
弁明のつもりで話した。
「高田俊子様でしょう。株式会社、高田、の女社長でいらした……」
ずけずけとした口調で和子がいった。
「お子さんがなくて、奥様が遺産相続をなさったそうですね」
三重子はいやな気がした。職業柄とはいいながら、相手がなんのためにこっちの家庭の事情を調べているのだろうかと思った。
別にやましいことはなにもないが、プライバシィをひきめくるような態度は不愉快である。
「主人にお訊きになりたいこととおっしゃるのは、なんでございましょう」
体勢をたて直すように訊いたのは、そういえば、相手が、又、出直してくると腰を上げるきっかけになるかと考えたからであった。
三重子が居留守を使ったのでないことは、居間へ通したことで、和子にもわかった筈である。
「奥様は御存じでいらっしゃいますかしら」
三重子の予想を裏切って、和子は悠然と続けた。
「佐和木さんの前の奥様が、お二人とも、外国でおなくなりになったこと……」
「知って居ります」
表情をひきしめて、三重子はうなずいた。
そのことは、結婚以前に、佐和木の口から聞いている。
和子が大きなハンドバッグからノートを出した。
「最初の奥様は今から六年前にロスアンゼルスで、ひったくりにあって車にひき逃げされて、病院へ運ばれて翌日、おなくなりになった。二番目の奥様はそれから二年後に再婚されて、一昨年、南イタリアで行方不明になって死体で発見された」
三重子は黙っていた。
そんな話を自分に聞かせる相手の気持がわからない。
「私、今、外国で日本人が出会った犯罪について調べて居りますの」
ノートを閉じて、和子が意味のない笑いを浮べた。
「でも、奥様をたて続けに二人も、外国でなくされた方は、佐和木さんお一人だけでしたわ」
それがなんだという気持で、三重子は顔を上げた。
「主人は仕事柄、よく外国へ参ります。不運なことだったと思いますわ」
「佐和木さん、只今《ただいま》は香港にお出かけとか」
「左様でございます」
「奥様は御一緒なさいませんでしたの」
「私は、仕事がございますから……」
「そうでしたわね」
紅茶にもケーキにも手をつけず、和子は立ち上った。
「改めて、御主人様に取材の御依頼を致しますけれど、奥様からもよろしくおっしゃって下さい」
玄関まで送った三重子に、ふと思いついたように訊ねた。
「そういえば、佐和木さんの今のお店、二番目の奥様がおやりになっていたんですってね」
それは三重子の知らないことであった。
返事が出来ないでいる三重子を尻目《しりめ》に、和子は毛皮のコートを肩にかけて颯爽《さつそう》と帰って行った。
午後の時間を、三重子は、ぼんやり過すことになった。
和子の来訪で、一日のバランスがこわされたようになにも手につかなくなった。
別に考えることもないのに、心が散漫になって収拾が出来ない。
冬の陽が落ちて、三重子は部屋のカーテンを閉めた。
暖房のきいている筈の部屋が、どこか寒々としている。
不安のせいだと、三重子は思った。
なにが不安というのでなしに、情緒不安定といった状態であった。
玄関のブザーが鳴って、三重子はぴくりとした。
それでも反射的に体が玄関のほうへ向っている。
「どなたさまですか」
内から訊いた。
「小谷です」
男の声はいくらか緊張していて、そのくせ明るかった。
なんという日だろうと、三重子はあっけにとられた。
小谷夫人の中野和子の訪問を受けて、そのあげくに小谷自身がやって来た。
ドアを開けると、小谷は大きな花の束を抱えていた。
フリージァ、金魚草、グラジオラス、ポピィなど色とりどりの花が、男の腕の中でごった返している。
「千葉へゴルフに行きましてね。房州《ぼうしゆう》の花畑で、花を沢山、もらったんです。加賀先生のところへお届けしたら、半分、三重子さんにさし上げるようにいわれまして……」
照れくさそうな顔が陽に焼けている。
「申しわけありません。わざわざ……」
「日曜で車がすいていましたし、それに、遠くもありませんので……」
「ありがとうございます」
花を受け取りながら、三重子は、つい、いった。
「今日、奥様がおみえになりましたの」
「家内が……」
小谷が濃い眉《まゆ》をひそめた。
「いったい、なんでお邪魔したんですか」
ためらいながら、結局、三重子は告げた。
「主人になにかお訊きになりたいとおっしゃって……あいにく、主人は香港へ行って留守でしたんですけれど……」
「なにか、御迷惑なことをいったんじゃないですか」
小谷は、三重子の顔色に敏感であった。
「不快な思いをなさったんじゃあ……」
三重子は彼のために、かぶりを振った。
小谷が、妻の仕事について、なにも知っていないことが、はっきりしたからである。
「きれいなお花……」
花の香が、三重子の心を優しくしていた。
「本当にすみませんでした。お手数をかけまして……」
小谷が不器用に頭を下げた。
「こちらこそ、すみません。家内が失礼なことをしたようで……」
そそくさと帰って行く小谷の背中がひどく動揺していた。
悪いことをいってしまったと思い、三重子はその後姿に深くお辞儀をして、声をかけた。
「あの、どうぞ、お気になさらないで……」
エレベーターのところで、小谷がふりむいた。慌てたように会釈を返して、エレベーターへ消えた恰好《かつこう》が、悪戯《いたずら》を叱られた子供のようであった。
花を抱いて、三重子は部屋へ戻った。
マンションを出ると、小谷章はすぐ公衆電話を探した。
自宅へ電話をすると、麻子が出た。
「お母さんが来ているわよ」
来ているといったニュアンスに、両親の間柄が必ずしもうまく行っていないのを知っている娘の配慮がみえた。
「今から、帰るから待っているように伝えてくれ」
「どこにいるの」
「番町だ」
「じや、すぐね」
小谷の住居は青山であった。
建てて十年ぐらいになるマンションへ引越したのは、麻子が小学生の頃で、その時分から、妻の和子は、なにかにつけて家事を厄介がり、家庭に縛られるのを嫌がった。
停めてあった車のところへ走り、小谷はそそくさとエンジンを吹かした。
ドアを開けた折の三重子の蒼《あお》ざめた顔が眼に浮んだ。疲れ果て、とり乱したような彼女の口から、中野和子の訪問を受けたときいただけで、その結果だと理解した。
和子には、むかしから、そういうところがあった。相手の気持を考えないで、いいたいことをいう。不思議に彼女の言葉は相手を傷つけた。表現もきついし、針を含むようなことを平気でぶっつけてくる。
小谷もかつて、妻と話していてひどく疲れ、心がささくれ立つのが常であった。
ルポライターのような仕事をして、彼女のそうした癖が更に強烈になっているのではないかと思う。
地下の駐車場に車を入れ、エレベーターで五階へ上った。
このマンションは一つの階に三所帯しかなかった。間取りも広くて、リビングの他に三部屋あった。和子はここに居た頃から、一部屋を自分専用に使っていた。
麻子は台所で夕食の仕度をしていた。入って来た父親をみて、濡《ぬ》れた手で、リビングを指す。
母親は、そこにいるという意味であった。
「御飯、すぐにする……」
「いや、お前腹がへってるか」
「お母さんが、すごいケーキ買って来て、それ食べたから……」
「じゃ、先に、ちよっと話をしていいな」
「いいわよ」
明るい声とは裏腹に、表情が曇った。
父と母が話をするといえば、まず、いいことではないのを、この娘は知っている。
リビングで、和子はテレビをみていた。テーブルには食べかけのケーキがおいてある。
「ゴルフですって……」
小谷のジャンパー姿を眺めて、
「よく、麻子を一人にして出かけられるわね」
自分が家庭放棄をしたことなどは棚にあげていう。
「君、今日、佐和木さんのお宅へ行ったそうだね」
性急に、小谷は訊きたいことを訊いた。
「あなたも佐和木さんへお寄りになったみたいね」
小谷が麻子に番町にいる、といったのを聞いたらしい。そういうところは勘のいい女であった。
「加賀先生の用事だったんだ」
「三重子さん、お一人だったでしょう。御主人は香港ですって……」
「玄関で失礼して来た」
「あの方、あたしのこと、あなたにいいつけたの」
小谷は台所の娘の耳を気にした。
和子のような言い方では、まるで、小谷が三重子と格別、親しい仲ででもあるかのようだ。
「そうじゃない。君が来たということだけ話されたんだ」
「うかがいましたよ」
「なんの仕事なんだ」
「国際出版で本を出すの。海外における旅行者の恐怖の体験」
歌うような口調であった。
「佐和木さんの前の奥様、二人とも、外国で殺されてるのよ」
「そんな話を三重子さんにしたのか」
「御主人がお留守だったから……いけなかった……」
「不必要だろう。あの人にはなんの関係もないことだ」
「あら、むきになってる……」
派手に笑った。
「あなた、あの奥様に関心があるみたいね」
「つまらんことをいうな、三重子さんは加賀先生の秘書なんだ」
「加賀利之は、あなたの尊敬する大先輩というわけね」
「麻子だって、お世話になってるんだぞ。加賀先生の奥さんから料理を習っている」
「あなた、三重子さんとジュネーヴで会ったんですって……」
虚をつかれて、小谷は黙った。
「ジュネーヴでお会いになったの、昨年の夏でしょう。残念でしたわね、あの方、十二月に結婚なさったそうじゃない」
「そういう発想でルポライターが、つとまるのかね」
いうまいと思いながら、つい、いわずにはいられなくなった。
「ルポというのは難かしいものだ。事実を正確に、しかも、関係者の心をなるべく傷つけない配慮が必要だとわたしは思うが……」
「そんな、なまぬるいことは出来ないわ。事実を正しく書けば、その結果、少々は誰かが傷つくでしょう。それが、宿命よ」
「佐和木氏の二人の奥さんの死に、今の夫人を取材するのは、おかしいと思わんか」
「あなた……」
和子が皮肉な眼をした。
「面白いことを発見したのよ。佐和木さんの最初の奥さん……戸山悦子さんというんだけれど、貿易商の未亡人なのよ。佐和木さんとは、取引銀行の行員とお客さんという間柄だったらしいけど、御主人がなくなって間もなく、佐和木さんと再婚したの。年齢も佐和木さんより上でね、大層なお金持……」
唖然《あぜん》として、小谷はよく動く妻の口許を眺めていた。
「その奥さんがロスアンゼルスで歿《なくな》って、次に佐和木さんが結婚したのが、第二番目の奥さんで長沼春美さん、この方は佐和木さんが今やっている鳥居坂のお店の経営者で、勿論《もちろん》、お店はその人のものだったのね。佐和木さんと結婚して、一年ちょっとで南イタリアで殺されて、現在、お店は佐和木さんの所有になってるわ」
漸《ようや》く、小谷は妻のいいたいことが、おぼろげにわかって来た。
「いいこと、あなた、佐和木さんが三度目に結婚した三重子さんも、叔母さんが貸ビル業をやってらして、大変な資産を、あの方に遺して歿っているのよ。つまり、佐和木さんの結婚相手は、いつも、大金持の婚期を逃した女ってことにならない……」
「馬鹿な……」
苦い顔になった。
「三文文士のような発想だと思わないか」
「偶然も二つ重なると変な気がするわ」
「自分勝手な想像で、人を傷つけるのはやめるべきだ」
「三度目の正直になったら、もう、偶然とはいえないわね」
「なに……」
「もしも、三重子さんが御主人と外国へ行って、旅先で死ぬょうなことがあったら……三重子さんには家族もないし、財産は御主人が相続することになるんじゃないの」
「よさないか」
ついに、声が荒くなった。
「君の考えは、子供じみている。少くとも、そういう姿勢で、他人の不幸を取材するのはよしたほうがいい」
「御忠告、ありがとう。あなたのためには、佐和木さんが死んで、三重子さんが未亡人になるほうが嬉しいでしょうけれど……」
大型のハンドバッグを取って、立ち上った。
「失礼するわ。これから編集者と食事をするの」
「今夜どうする」
「ホテルへ泊ります。そのほうが、あなたもよろしいでしょう」
麻子、帰るわよ、と台所の娘を呼びながら玄関を出て行った。
部屋の中に、和子の喫《す》った煙草《たばこ》の煙がこもっている。
灰皿の中は、およそ十本以上の吸いがらが口紅のついたままねじってある。
窓を開けて、小谷は部屋の空気を入れかえた。
千葉は、もう春を思わせる暖かさだったが、東京の夜風はまだ冷たい。
「お父さん、御飯にしましょう」
麻子が呼んだ。
ダイニングルームに、父と二人分の食事の仕度が出来ている。
「悪かったな。折角、母さんが来たのにいやな話をしてしまった……」
「あの人もともと、ここで御飯を食べるつもりも泊る気もなかったんだから……」
娘は、母をあの人と呼んで笑ってみせた。
「お母さんの仕事、面白そうだと思ったけど、お父さんのいうのが本当だと思ったわ」
「あいつは、好奇心が強すぎるんだよ」
「ごめんなさい。ジュネーヴの写真、お母さんがアルバムからみつけていろいろ訊くもんだから……」
それで、和子はジュネーヴで小谷と三重子が会ったのを知ったのかと思った。
「いいさ。別に、やましいことじゃない」
夕食はローストビーフであった。
「加賀先生の奥様に習ったのよ」
「流石《さすが》に旨《うま》いな」
「お母さんも食べるかと思ったのに……」
わざわざ、上等の肉を、近くの高級マーケットまで買いに行ったらしい。
「まあ、そのうち恋人でも出来たら、食わせてやることだな」
麻子は舌を出して、父親の皿にホースラディッシュをたっぷりとってやった。
「あたしの好奇心、お母さんゆずりかしら」
ナイフを器用に使いながらいった。
「気になるんだもん……」
「なにが……」
「佐和木さんって人のこと……」
「お前も推理小説の読みすぎか」
気がついて、ウィスキーを取りに行った。
「そう簡単に人殺しなんぞ、出来んよ」
「殺人は癖になるって小説があったわ」
「小説家の発想だよ」
「別に殺す必要がないものね」
麻子はエルキュール・ポアロの再来のような顔をした。
「お金持の奥さんと結婚したのなら、それで充分なわけなんだし……なにも奥さんを殺してまで、財産を自分のものにすることはないと思う」
小谷も笑った。
「その通り。人を殺せば、自分も奈落《ならく》の底に落ちるわけだからな」
「罪が発覚しなければ……」
「人間は、そんなにタフじゃないよ」
殺人を犯して、神経がおかしくならない人間がいたとしたら、
「まず、異常だろう。普通なら罪の意識にさいなまれて、とても安らかには暮せまい」
麻子は神妙にうなずいて、大きなローストビーフを父親よりも先に平げた。
夜が更けて、小谷は書斎に入った。
本棚においてあったアルバムが、机の上に出しっぱなしになっている。
和子が勝手にそのあたりを開けてみたらしく、写真の入っているひきだしも半びらきのままであった。
アルバムを開いてみると、三重子の写っている一枚が乱暴に、はがされている。和子が持ち去ったに違いなかった。
どういうつもりかと思う。
はっきりしているのは、和子が佐和木良行の二人の妻の死に格別な興味を持っているという点であった。
つまらないことはしないほうがいい、といってやりたいと思いながら、小谷は多忙のせいで、それきりになった。
そして、この夜が、小谷も麻子も、和子を見た最後になった。
変 死
中野和子、本名、小谷和子の死体を発見したのは、ホテルのメイドであった。
月曜日の午前十時頃のことである。
そのメイドは、ドアをノックして返事がないので、てっきり外出中と思い、部屋の清掃のためにドアを開けた。
その部屋はシングルルームで、ベッドの横に小さなテーブルと椅子がおいてある。
和子は椅子からすべり落ちたような恰好で死んでいた。
テレビ局に知らせが来て小谷章がホテルへかけつけた時、和子の死体はもう移されていたが、部屋は発見当時の状態のままに保存されていた。
ベッドはベッドカバーがかかっていた。
テーブルの上には灰皿とこのホテルの備えつけのポットと茶碗《ちやわん》が茶托《ちやたく》の上に伏せてある。
係員の説明では、すでに持ち去られているが、灰皿の中には煙草の吸いがらが二本ほどあったという。
和子の倒れていた椅子の脇《わき》には、彼女の大型のハンドバッグがあり、あとでわかったことだが、三十万ばかり入った財布も手つかずであった。
死んでいた和子の服装は、前夜、彼女が青山の小谷のところへ来た時と全く同じものであり、洋服|箪笥《だんす》にはシルバーフォックスの毛皮のコートとナイトガウンがかかっている。
所持品は他に中型のボストンバッグが一個、バスルームに化粧品がおいてあった。
「これらは、奥さんのものに間違いありませんね」
訊かれて、小谷は適当にうなずいた。
別居している妻の持ち物を詳細に記憶していたわけではなかった。どちらかといえば、小谷はそういうことに無頓着な男である。
それでも、ハンドバッグと毛皮のコーートだけは、たしかに彼女が昨日、持っていたものに思えた。
部屋を出ると、小谷よりやや年上と思われる刑事が近づいて来た。一応のおくやみをのべてから、
「少々、お話をうかがいたいのですが……」
と丁重であった。無論、小谷は承知した。
ホテル側が用意したのだろう、ちょっとした会食などのための小部屋へ案内されて、そこに待っていた、もう一人の刑事と二人に対して、小谷は訊かれることに答えた。
「お宅は青山だそうですが……、青山に御自宅のある奥さんが、このホテルに泊って居られたのは、ここを仕事場として使って居られたんですか」
小谷は苦笑した。
「仕事場というわけではありませんが、家内は二年ほど前から自分の仕事を持ちはじめました。もともと、書くことに興味があったのですが、娘も大きくなって、いよいよ本格的に、仕事に打ちこみたいといい出して、生活を京都の実家のほうに移して、まあ、別居という形が出来ていました。たまに、上京することがあっても、編集者に会ったり、書いたりするのに自宅ではやりにくいといってホテルへ泊ったりもしていました。昨日も、青山の家へ来たのですが、約束があるといって出かけて行きました」
「御主人としては、奥さんが仕事をされることに反対なわけですか」
「賛成も反対もしていません。娘と三人で話し合って、家内にもやりたいことをやらせていいのではないかと結論を出したわけです。青山の家のほうは娘が家事をひき受けてくれましたので……」
「失礼ですが、奥さんとの間に離婚の話なぞは……」
「出ていません。別に喧嘩《けんか》別れをしたというのではありません。その点については、家内の実家のほうへお訊ねになってみるといいと思います」
「奥さんに愛人がいるというようなことは……」
「さあ、ない筈ですが……」
「昨日、お会いになった時に、奥さんがなにか、おっしゃっていたようなことはありませんか」
「別に、これといって……わたしはゴルフに行っていて、家内と話したのは、ほんの僅かの時間でしたから……」
「奥さんは、旅行記のようなものを書いて居られたそうですね」
「旅行が好きでして……、書くといっても小説のようなものよりも、ノンフィクションに関心があったようです」
「奥さんのお書きになったものを読んで居られますか」
「いや……、多忙なので、とても、そこまでは……」
どうも、刑事を前にして、いい返事とは思えなかったが、事実は事実なので、どうしようもなかった。
「昨日、奥さんがホテルへ帰られてからは、どうでした」
時間を記憶していたら、とうながされて、小谷は考えた。
「家内が出て行ったのは、七時すぎだったと思います。それから娘と食事をしている時にテレビのニュースを……、民放はニュースの終っている時間だったのでNHKをみました。
食事がすんでからは、書斎で少し、仕事をして、風呂《ふろ》へ入り、出て来てからは、娘とテレビをみていて、寝たのは十二時すぎでしたか……」
こまごまとメモをとっていた若いほうの刑事が最後に訊ねた。
「奥さんに自殺の可能性はありますか」
「ないでしょう、まず、考えられません」
小谷の返事は断定的であった。
和子は仕事に意欲を燃やしていた。もともと、家事よりも、外に出歩くほうが好きな女であったし、自分でなにかしたいという意識が強かった。
ものを書く仕事なら、青山の家にいても出来ないことはないのに、わざわざ、別居したのも、自立したい気持のせいであった。どちらかといえば、いい加減なことの出来ない、何事も徹底的に、馬車馬のように目的に向って走り出す性格でもあった。
一時間ばかりで解放されて、小谷がその部屋を出ると、廊下のむこうに、娘の麻子の姿がみえた。
傍に加賀利之と静子がついている。
「加賀先生のお宅へお料理の勉強に行っていて、お昼のニュースでみたの。奥様が加賀先生に連絡して下さって……」
流石に声がふるえていた。
「テレビ局へ連絡したら、君がここへ来ているときいたのでね。ともかく、家内と麻子さんにこっちへ来るようにいって、わたしもかけつけて来たのだよ」
加賀利之は小谷の後から部屋を出た刑事をみながらいった。
「ここへ着くなり、麻子君は訊問《じんもん》を受けたそうだ。家内が強引につき添って離れなかったそうだが、いったい、警察はどういう神経なのかね。こんな若い娘に対して、デリカシィのないやり方ではないのかね」
小谷の背後にいた年輩の刑事が頭を下げた。
「それはどうも、失礼をしました。ただ、お許し願いたいのは、発見された状態では、他殺か自殺か判断しかねるようなところがありまして、御家族にその辺のところを早急にうかがいたかったのでありまして……」
小谷も加賀をなだめた。
「御心配をかけてすみません。こちらの方も仕事柄、やむを得ないお立場ですから……」
麻子が父の言葉にうなずいた。
「あたし、大丈夫よ。昨夜のことを訊かれただけですし……」
加賀静子が口をとがらせた。
「別居の原因はなんだと思うかなんて、私にまで訊くんですよ。要するに和子さんが仕事がしたい、ただ、それだけのことじゃありませんか」
加賀が彼にしては珍しく大きな声でいった。
「小谷君の友人としていっておくがね。小谷君には愛人なんぞ居らんぞ、奥さんがそういう理由で自殺したとでも思っているのならとんでもないことだ」
刑事が慌てて手をふった。
「そんなことは我々も考えていません。ただ、一応、参考までにうかがっただけで……」
「いや、どうも、加賀先生御夫妻には参りましたよ」
事件から五日後の午後、青山の小谷家へやって来た沖山刑事が、その時のことを思い出して、しきりにぼんのくぼに手をやった。
リビングには、昨日、ごく内輪で葬式をすませた和子の位牌と骨箱が仮ごしらえの祭壇に飾ってある。
明日は小谷と麻子が、それを京都の和子の実家へ持って行くことになっていた。
和子の母は、事件をきいたショックで血圧が上って、目下のところ、安静を医者からいい渡されている。
「流石に外交官として一世を風靡《ふうび》なさった方だけあって、貫禄がありますな」
初対面はともかく、小谷も麻子も、この沖山刑事には心を許していた。職業柄、鋭いものを持っているが、人柄のいい、好人物であった。笑った顔はブッシュマンに似ている。
「加賀先生は僕の母校の大先輩でしてね。僕はテレビへ来る前は、同系列の新聞社で政治部の記者を長いことやってましたから、その御縁で親しくさせてもらっているんですよ」
小谷も今はもう落着きをとり戻していた。その小谷が親馬鹿ながら、すっかり感心しているのは、麻子が思ったよりも遥《はる》かにしっかりしていたことである。
母親の通夜も葬式も、京都の祖母への連絡も、彼女がこまごまと気を使っていた。
娘をいたわろうとして、逆に小谷は娘にいたわられている自分に気がついたりしている。
和子の死は青酸化合物の中毒死と判明していた。
死亡時間は夜の九時から十一時の間となっている。しかも、彼女の胃には夕食の痕跡《こんせき》がなかった。
少くとも、青山のマンションで、娘の麻子と一緒にケーキを食べたあと、食事らしい食事をしていない。
これは、小谷にも麻子にも意外であった。
和子は青山のマンションを出るとき、これから編集者と食事をして、ホテルへ泊るといっていた。
だからこそ、麻子の作ったローストビーフにも手をつけずに帰って行ったものである。
ところが、今のところ、警察がどう調べてみても、彼女と当夜、食事の約束をした編集者が発見されないのであった。
「和子さんがつきあっていた雑誌社は、そう多くはありません。今までに寄稿した雑誌のすべてをひっくるめても五社ぐらいです」
その全部を調べても、和子と約束した人物は浮んで来なかった。
「和子さんが最近、仕事をしているのは国際出版というところで、そこの編集長の古川さんにもお目にかかって来ましたが、海外旅行者向けの本を出す話はしているが、さし当って、急に編集部の誰かが打ち合せに行くようなことはなにもない筈だといっていました」
とぼけた顔をしているくせに、念には念を入れる沖山のことだから、当夜の編集者たちのアリバイも調べているらしい。
「第一、他殺となると殺さねばならない理由がある筈なのですが、どうも、和子さんの仕事先の人間には、そういう該当者が今のところ、いそうにないのですよ」
小谷もうなずいた。
「家内は仕事をはじめてまだ二年足らずです。そんなに親しい編集者があるともきいていませんし……」
それまでは主婦の生活だったから、交友関係も広いとはいえない。
性格的にも友人づきあいの下手な女であった。
仕事のためなら、いくらでも人に会うが、無意味に気の合う同士が集ってお喋《しやべ》りをしたり、食事をしたりというつきあいを、むしろ軽蔑《けいべつ》していた。
彼女の知人で、彼女に怨《うら》みを持つ人間の見当など、全くつかない。
「あの……沖山さん……」
手作りのケーキに紅茶を入れて運んで来た麻子が訊ねた。
「警察は、どうやって母が青酸化合物を口に入れたと思っていらっしゃるんですか」
沖山が、又、ぼんのくぼへ手をやった。
「それなんですが、青酸化合物は瞬時に命を奪う性質のものですからね。他の場所で殺して運んででも来ない限り、和子さんはあのホテルの部屋で、それを飲んだに違いないのですよ」
飲んだといったのは、他に食物らしいものが彼女の胃の中になかったからで、
「考えられるのは、コーヒーとかお茶とかジュースとかに混入されているというのが普通なんですが……」
ホテルの、彼女が泊った部屋には日本茶の用意はあったが飲んだ形跡はない。ポットのお湯にも異常はなかった。
「誰かが、毒入りの飲み物を持って来て、母に飲ませて、容器は持ち去ったってことでしょうか」
ずけずけと麻子はいった。そういう無造作な言い方をすることで、母を失った悲しみをまぎらわそうというようでもあった。
「そうでなかったら、母が毒入りのカプセルかなんかを自分で口に入れたということになるのでしょう」
「やめなさい。麻子……」
小谷が制し、沖山が困った顔をした。
「これは、わたしの考えですが、どうも自殺というのは、おかしい気がします。たしかに、ものを書く方にはデリケートな部分があって、行きづまったとか、ノイローゼになったとか、いろいろきいていますが、小谷さんの奥さんの場合には、そういうふうではありません。どなたにきいても、御当人がお書きになりたくて仕事をはじめられたばかりだし、大変、意欲的であったそうです」
とすると仕事上の悩みではない。
「中年の女の方には、更年期の或《あ》る症状として、ふっと死にたくなるというような情緒不安定な状態になるという例もありますが、どうも、それでもないようですな」
自殺の線が薄くなった分だけ、他殺説が強くなる。
「遺書もありませんし、なくなられた状態も椅子からすべり落ちた恰好です。覚悟の自殺なら、少くともべッドに横たわってというのが当り前でしょうな」
部屋の中の持ち物も、まとめてなかった。
「まあ、その他、長年の勘で、これは自殺ではないとわたしは思いました。しかし、他殺となると……」
物盗りの犯行ではなかった。現金も毛皮もとられていない。部屋の中には争ったあともなかった。
「状況としては怨恨説ですが……」
今のところ、沖山はホテルの従業員、並びに泊り客の目撃をたよりにしているようであった。
その夜、和子のところへ訪問客がなかったか、についてはフロントでは心あたりがないと答えている。
けれども、このホテルは外部の人間がフロントの前を通らなくとも、自由に客室のある階へ出入りが出来た。
ホテルの玄関は三方にあるし、地階はショッピングセンターになっている。
気のきいたレストランも三階にあるし、最上階にはナイトクラブとバア、それにコーヒーショップもあった。それらを泊り客ではない人々が利用することは多い。
それに、本来、泊り客は訪問者をロビイなどで応対するのが建前になっているが、客が自分の個室へ招じ入れるのを、フロントが一々、チェックするのは不可能だし、訪問者が勝手に客室へ行くとなると、誰にもとがめられることはない。
客室のある各階のサービスステーションも夜間はまず無人であった。
ただ、この場合、犯人はあらかじめ、和子の泊っている部屋の番号を知っていなければならなかった。
「麻子はお母さんから、ホテルの部屋の番号をきいていたのかい」
小谷が訊ね、麻子は首をふった。
「きかなかったわ。明日は京都へ帰るっていってたし、こっちからかける用事もないと思ったから……」
沖山がうなずいた。
「編集者の中にも、ホテルの部屋の番号を知っていた者はいそうにないんですよ」
早い話が、和子が上京していることさえ、知らなかったと、全員が口を揃えているという。
「とすると、和子は雑誌社のほうの用事で上京したのではないんですか」
小谷がいい、沖山が飲みかけた紅茶茶碗を元へ戻した。
「我々の調べた結果からいうと、どうもそうなるんです。ただ、誰かが嘘《うそ》をいっていれば別ですがね」
「麻子はお母さんが上京して来るのを知っていたか」
「全然よ。突然、三時すぎにケーキを持ってやって来て……」
「なんの用事で来たかもいわなかったのか」
麻子は父の顔をみて、ええとうなずいた。それは、父と娘にだけ通じる返事であった。
沖山が帰ってから、小谷章は外出をした。
加賀事務所へ行って、今度の件で世話になった礼をいってくる、というのが表むきの理由だったが、本当は加賀事務所につとめている三重子に会いたかった。
和子が、あの日、訪ねたのは、三重子の番町のマンションであった。
紀尾井町の加賀事務所へ行ってみると、加賀利之は外務省へ用事があって出かけたとかで、三重子が一人で事務をとっていた。
小谷にとっては、願ってもない状態である。
三重子は小谷をみると、立ち上って丁寧なおくやみをのべた。
「おまいりに参りたかったのですが、加賀先生から、ごく内輪だといわれまして……」
小谷も頭を下げた。
「加賀先生御夫妻には一方ならぬ、御迷惑をおかけしてしまいました」
すでに新聞や週刊誌でも報じられている事件であった。
「なんだか、夢のような気がいたしますの。私、あの日、奥様にお目にかかって居りますでしょう」
三重子がいったので、小谷は話が切り出しやすくなった。
「実は、そのことで三重子さんにうかがいたいと思ってやって来たのですが」
正直に、小谷はここへ来た目的を話した。
三重子に対して、いい加減な口実で、あの日のことを訊ねる心算《つもり》はなかった。下手に持って廻った話し方をしても、この聡明《そうめい》な女性には、すぐ見抜かれてしまうだろうと思った。
「和子は、あの日、あなたをお訪ねして、いったい、なにをお話したのですか。あなたにとっては、大変、御不快だったことに違いないと思っていますが……」
三重子は、ちょっとうつむいたが、すぐに顔を上げた。
「奥様が私をおたずねになりましたことが、あの事件と、なにか、かかわりがあるのでしょうか」
「いや、わかりません。ただ、わたしとしては、何故、あの日に和子が上京して来たのか、そのあたりから、今度のことを調べてみたいと思っているのです」
小谷の横顔に苦悩があった。
自殺にせよ、他殺にせよ、マスコミで活躍しはじめていた妻が変死し、その結果、夫婦が別居していたというプライバシィまでが暴露された。夫婦仲がうまく行っていなかったのだろうというような推測記事も出た。
テレビの報道部長としての、彼の立場も複雑であった。彼の周囲はこの事件のニュースを扱うときに、必要以上に神経をぴりぴりさせている。公私は混同するなと、小谷が指示すればするほど、彼らの配慮は一段とこまやかになって、小谷の胸を熱くさせるのであった。
警察の捜査とは別に、小谷がなんとしてもこの事件を自分の力で解決したいとあせる気持の背景には、そうした事情があった。
訥々《とつとつ》と自分の心情を話す小谷の言葉に、三重子は動かされた。
「私、ありのままをお話します」
和子の訪問は、もともと、夫の佐和木良行を訪ねて来たのだと三重子は話した。
「六本木の店の者が、なにが勘違いをして、主人が、あの日に香港から帰ると、奥様に申し上げたらしいのです」
実際、佐和木の帰国予定は月曜日で、現実にも月曜日の夕方、成田へ戻って来た。
「奥様は今度、お書きになるものの取材で、主人にお会いになりたいとおっしゃいまして……それは、つまり、主人の前の妻たちが、二人とも、外国で歿《なくな》っているからでしたの」
言葉を考えながら、三重子は話した。
「奥様は、外国で事件に遭《あ》った日本人のことをお書きになろうとしていらっしゃったのではないでしょうか」
そう思ったのは、和子の書いたメキシコ女一人旅の記事を読んでいたからであった。
小谷は吐息を洩《も》らした。
「そんなことを、三重子さんに申し上げていたのですか」
三重子には、なんのかかわりもないことであった。佐和木と結婚したばかりの三重子に、その夫の前の妻たちのことを話すというだけで、小谷は、和子の無神経さが想像出来た。
佐和木が留守ときいたら、そのまま、出直すのが普通である。
「私、主人の過去のことを、あまり知りませんの」
三重子は、ちょっと恥かしそうにいった。
「実を申しますと、十年ほど前にも佐和木から求婚されたことがございます。その時、佐和木は銀行につとめて居りまして、私の親がわりだった叔母は銀行員は転勤が多いからといって……、私もその時はなんとなく結婚する気持がございませんで、お断りしてしまいましたの」
叔母が佐和木を嫌った理由は、それだけではなかったが、三重子はとりあえず、表向きの理由だけを述べた。
「それで、昨年の夏、十年目に佐和木と再会しまして……佐和木はその十年の間に二度の結婚をして居りまして、二人とも、先立たれたことを話してくれました。それで、私、彼の先妻たちが外国で不幸ななくなり方をしているのは存じて居りましたが、くわしいことはなんにも……、ですから、奥様にもお話することが出来ませんでした」
その折、和子は佐和木が二人の妻の各々の遺産を相続したことで、今日の資産を得たのだというような、ほのめかしをしたのだが、三重子は流石《さすが》に、それを口にするのはためらわれた。
それをいえば、佐和木がどんな誤解を受けるかも知れないし、それでなくとも、小谷は恐縮し切っている。
「家内の無礼を許して下さい。あれは悪い女ではありませんでしたが、自分の仕事のことになると、配慮とか思いやりなどというものを、完全に、どこかへ置き忘れてしまうところがありました」
三重子はかぶりをふった。
「お仕事ですもの、私、気にはして居りません。それに、あの夕方、小谷さんが沢山のお花を届けて下さいましたでしょう」
全くの偶然だったが、小谷の顔をみて、花の束を受け取った時から、三重子はそれまで自分をおさえつけていた重苦しいものから解放されたようになった。
なんの故《ゆえ》か、わからない。
強いていえば、自分をいたわってくれた小谷の態度と、花の香のせいとでも思う他はなかった。
「僕はあの時、三重子さんの顔色をみて、家内がなにがひどいことを申し上げたのではないかと思ったんです」
「私がおかしいんですわ。主人の過去の二回の結婚のこと、承知していて一緒になりましたのに……」
他に、あの時、和子からきいたことはなかったかと思案してみた。
「その他にはなにも……。ただ、主人が帰りましたら、又、御連絡下さるとおっしゃったぐらいで……」
和子はこれからどこへ行くとも、誰と会うともいわなかった。
「お宅を出たのは、何時頃でしたか」
「午後の一時すぎでした……」
昼食を、三重子は食べそびれた。
もともと、家事に夢中になっていて正午をすぎたところへ、和子の訪問を受けたものである。
「一時すぎですか……」
小谷が考えたのは、麻子が青山のマンションに母親がやって来たのを三時すぎとおぼえていたことである。
番町から青山まで、途中で菓子を買ったにしても、少々、時間がかかりすぎている。
時間からいって、途中で軽い食事でもしたのかも知れなかった。
「どうもありがとうございました。つまらぬことを思い出させてしまって申しわけありませんでした」
改めて、小谷は詫《わ》びた。
「御主人は、もう、御帰りになられましたか」
「はい、予定通りに……。ちょうど、奥様のニュースが出たばかりで、早速、番町へおみえになったことを話しましたので、主人もびっくりして居りました」
「とんだおさわがせをしました。どうか、お気を悪くなさらぬよう、よろしくお伝え下さい」
礼をいって加賀事務所を出た小谷は四谷《よつや》まで歩いた。
頭の中で、なにかが動き出していた。
和子は外国で日本人が遭遇した事件を調べていた。
そして、佐和木良行という人物は、二度も妻を外国で失っている。
小谷は佐和木良行という男を思い浮べた。
一度はスイスのローザンヌで、二度目は加賀家のクリスマスパーティで、彼と会っている。
品のいい、中年の紳士であった。
元銀行員ときくと、成程、そういうイメージもないことはないと思った。どこか堅実でいて、如才のないところがある。
総体の印象はダンディなエリートマンであった。
加賀家でも重宝がられているようだったし、信頼もされている。
しかし、和子は佐和木という男を、どこまで調べていたのかと思った。
少くとも、過去に二人の妻をなくしている。そのあたりに、彼のかくれた顔があるのではないだろうか。
公衆電話をみつけて、小谷はダイヤルを廻した。
「今、石田さんがお線香を上げに来て下すってるのよ」
「彼に、ゆっくりして行くようにいってくれ。お父さんは新聞社に寄ってから帰る」
麻子は、はい、と答えて電話を切った。
その足で、小谷は大手町《おおてまち》にある新聞社へ向った。
入って行ったのは社会部の資料室であった。
そこの担当に、古い顔なじみがいた。
「源さん、久しぶりだな」
「小谷さんじゃありませんか」
小谷より一廻りも年長だから、ぼつぼつ六十になる。
資料のことなら、源田彦平に聞けと、入社早々、先輩に教えられて以来、小谷もどのくらい、彼の厄介になったかわからない。その頃から、すでに、資料室の主みたいな存在であった。
「ちょっと調べたいことがあるんだよ。助けてくれないか」
源田彦平は、とりたててくやみをいわなかった。事件を知らない筈はなかった。黙ってそれに触れないのは、彼が小谷の気持を察してのことである。
今から十年前までの中で、外国で女性が殺された事件を知りたいと、小谷はいった。
「近いほうは、昨年……、いや、少くとも一昨年だろうな」
佐和木良行がスイスで三重子と再会したのが昨年の夏であった。
「昨年は、たしか夫婦連れの旅行者がロスアンゼルスで撃たれた事件がありましたね」
それは、小谷も知っていた。
「その前は、どうかな」
源田は小谷を待たせておいて、奥の倉庫のような部屋へ入って行った。
戻ってきたのは早くて、十五分とかからなかった。
「一昨年の六月に南イタリアで、行方不明になって死体で発見された女性がいますよ。佐和木春美といって……」
小谷は、源田の手から資料をひったくるように取った。
場所は南イタリアのバリで死因は扼殺《やくさつ》、ハンドバッグや指輪などがなくなっていたところから、盗みのための犯行とされている。
佐和木春美は夫の佐和木良行に同行して商用のための旅先で、奇禍に遭ったものであった。
「バリなんてところが、南イタリアにあったかね」
小谷の問いに、源田はすぐイタリアの地図を持って来た。
「ありますね、長靴の踵《かかと》のつけ根に当るところですよ」
アドリア海に面していて、海をへだてた対岸はユーゴスラビアとアルバニアの国境あたりになる。
「日本人には、あまりなじみのないところですかね」
「なにしに行ったんだ。佐和木夫妻は……」
「商用のためというんですから、おそらく骨董品《こつとうひん》の買い出しじゃありませんか」
源田がさし出したもう一つの資料には、佐和木良行氏は六本木の西洋骨董の店のオーナーと書いてある。
そういえば、加賀家で紹介された時も、六本木で西洋骨董の店をやっているといっていたが、あの店は、前夫人の時からのものかと小谷は思った。
「ありがとう。ついでにもう一つだ」
この事件より古いもので、やはり佐和木という姓の女性が外国で殺されている筈だと小谷がいい、源田は再び、資料室の奥へ消えた。
今度は、戻ってくるまでに時間がかかった。
その間に、小谷は南イタリアの事件を丹念に読んだ。
夫の談話によると、佐和木夫人は一人で外出して、そのまま、行方不明になったらしい。
三十分近くかかって、源田が戻って来た。
「ありましたよ。六年前のロスアンゼルスです」
路上で走行中の車からハンドバッグをひったくられて、そのまま、ひきずられ、投げ出されるように倒れたところを、別の車に轢《ひ》かれて死亡したと書いてある。
こちらは、佐和木悦子、五十一歳とある。
小谷は佐和木良行の年齢を考えた。たしか、五十歳だときいたような気がする。六年前に妻が四十八歳ということは佐和木よりも四歳も年上ということになる。
もう一人の春美という女性は死亡当時が五十歳であった。こちらも、佐和木よりも二歳上である。
二つの資料を、小谷はメモした。
改めて、あの日、和子の話した内容が心の中に甦《よみがえ》って来た。
和子のいったことは、嘘ではなかった。
佐和木の妻は二人とも外国で歿《なくな》っている。あの時の和子の話によれば、そのどちらの女も資産家で、どうやら、佐和木は妻たちの遺産をもらって、今日の地位についたらしいというが、その点はまだ調べてみなければわからなかった。
「ありがとう。助かったよ」
礼をいって、小谷は新聞社を出た。
外は夕暮であった。
思いついて、地下鉄で六本木に出てみた。資料室でメモをした佐和木の住所をたよりに探してみると、西洋骨董「佐和木」の店がやがて、みつかった。
なかなか、洒落《しやれ》た店がまえである。
店の中に、ちらと佐和木の顔がみえた。客と応対している。
足早やに通りすぎた。
過去に二人も女房を失って、そのあげくに新倉三重子のような、すばらしい女性と結婚するというのは、よくよくの果報者だと思った。
少々、忌々《いまいま》しい気持を抑えて、小谷は鳥居坂へ出た。
ぼつぼつ帰らないと、麻子が夕食の仕度をしているに違いない。
再び、和子のあの日の、やや悪意に満ちた声を思い出した。
「佐和木さんが三度目に結婚した三重子さんも大金持なのよ。叔母さんの遺産を相続していて……もしも、三重子さんが御主人と外国を旅行していて歿るようなことになったら、三重子さんの財産は、やっぱり、佐和木さんのものになるんじゃないかしら」
なにを馬鹿な、と言った小谷であった。
妻の発想を三文小説のようなと軽蔑した。
だが……。
路上で、小谷は急に足をとめた。
或ることが、彼の脳裡《のうり》に浮び上った。
タクシーを拾って、小谷は本庁へかけつけた。
捜査一課に、沖山はまだいた。
「どうしても、お訊ねしたいことがあってやって来たんですよ」
沖山は人なつこい目をした。
「なんですか。いったい」
「和子の……妻の所持品ですが……」
「あれは、残らず、そちらへお返しした筈ですが……」
「写真がありませんでしたか」
「写真……」
沖山の目が、ちょっと光った。
「なんの写真ですか」
小谷は口ごもった。
「女性の写真です」
「御家族のですか」
「いや、知人です。実は、僕が外国で写したものなのですが……」
「奥さんが持っていらしたというんですな」
「多分……」
沖山が厚い書類を持って来た。
「バッグの中には写真はありませんな」
バッグの中身が写真に写されていた。財布、ハンカチーフ、口紅、コンパクト、ティッシュペーパー、サングラス、手帖《てちよう》、ボールペン、香水のスプレー、名刺。
中身の写真の横に、それらが几帳面《きちようめん》にメモされていた。
ボストンバッグの中身も同様であった。
「他にはコートのポケットですが、手袋が入っていただけです」
少くとも、警察の調べでは、和子が、あのホテルの部屋に残した所持品の中には、一枚の写真もない。
「重要な写真ですか」
「いや、そうではありませんが……」
小谷は頭を下げた。
「僕の記憶違いかも知れません」
礼をいって出て行く小谷を沖山は長いこと見送っていた。
マンションへ戻ってくると、石田研一が台所で麻子の料理を手伝っていた。
「お帰りなさい。お邪魔しています」
「麻子にこき使われているという恰好だな」
ちょっと笑顔をみせて、麻子に訊いた。
「母さんの持ち物、どこにある」
「お母さんの部屋の机の上よ。明日、京都へ持って行こうと思って……」
小谷は、かつて妻が書斎に使っていた部屋へ入った。
六畳の洋間に、主を失った机と椅子と本棚と。
机の上には、大型のハンドバッグとポストンバッグが並んでいた。
丹念に、小谷は二つの中身を調べた。
写真はどこにもなかった。
コートのポケットにも、服のポケットにも、洗面道具の袋の中にも。
部屋を出て、小谷は自分の書斎へ入ってアルバムを出した。
きちんと写真の整理の出来ている中に、一枚、乱暴に写真をはがした痕《あと》が残っている。
あの日、和子が帰ってからみつけたものであった。
和子は、ここに貼《は》ってあった一枚の写真を小谷に無断ではがして持ち去った。
その写真は、レマン湖のシヨン城のところで、三重子をかくし撮りにしたものであった。
薄いブルウのシャツに白いジャンパーを羽織った三重子が小型カメラを湖のほうへ向けている、その写真は、小谷が気に入っているものであった。
なんのためか、和子はその写真を持ち去った。
あの写真は、どこへ行ったのかと思った。
このマンションを七時に出て、ホテルの部屋で九時から十一時の間に息をひきとるまでの間に、和子はどこかにあの写真を持って行ったのであろうか。
それとも、和子が殺されたあの部屋の中に、写真はあったのかも知れなかった。
だとしたら、それを持ち去った人間は、即ち、和子を殺した人物ではなかろうか。
麻子の呼ぶ声を耳にしながら、小谷は茫然《ぼうぜん》と、アルバムのはがれた個所をみつめていた。
休 暇
五月の連休にグアム島へでも行こうかと佐和木良行がいい出しだのは、四月になって間もなくであった。
「短かい休みだから、あまり遠くては往復の時間ばかりかかって疲れてしまう。グアムあたりで陽に当ってのんびりしてくるというのはどうかな」
結婚して三か月あまりも経っているのに、そんな話をする時の佐和木は、どこか遠慮そうで妻の顔色を窺《うかが》っているようなところがあった。
「すてきなプランですけど、ホテルがとれますかしら」
世の中が不景気ということもあって、外国旅行は遠距離が減って、その分、グアムや香港に人気が集っているという記事を、つい最近、新聞で読んだばかりであった。
「僕の知人がグアムのホテルのマネージャーをしているのでね。一部屋ぐらいなら、なんとでもしてくれるんだ。航空券のほうも、今から頼めばなんとかなるだろう」
「明日、加賀先生にお許しを頂いて来ます。いけないとはおっしゃらないと思いますわ」
夫にはそう返事をしたものの、中年の夫婦が二人きりでグアムへ行くというのが、なんとなく三重子には照れくさい気がした。
グアムとかサイパンなどの南の島には、どうも若者の旅のイメージが強い。
といって、折角の夫の提案を無視するつもりもなかった。
で、翌日、加賀事務所で加賀利之の昼飯のすんだところを見はからって、連休を含めて五日ばかりの休暇のことを申し出た。
今年の連休は、四月二十九日の天皇誕生日が金曜日なので、三十日の土曜と五月二日の月曜を休むと五日間のバカンスになった。
加賀事務所は格別のことがない限り、土曜も休みなので、実質的には月曜一日休ませてもらうだけで済む。
「勿論、かまわんが、どこへ行くんだね」
父親が娘をみるような眼で、三重子を眺めて加賀が訊《き》き、三重子は恥かしそうに、グアムだと答えた。
「佐和木の知人が、むこうのホテルでマネージャーをしているそうなんです」
「ちょっとした新婚旅行のやり直しですね」
隣の席から岸井保がいい、三重子はいよいよきまりの悪い顔になった。
「いい年をした夫婦が、あんなところへ行っても仕方がないみたいですけれど……」
「そんなことはないよ」
加賀が笑った。
「日本人だけではないのかな、若い者がハワイだのグアムを占領しているのは。大体、外国ではリゾート地でバカンスをゆったり過しているのは中年夫婦か老人だよ」
大体、いい若い者が体にオイルなどを塗ってごろごろしているのはみっともないというのが加賀の持論で、
「そんなひまがあるなら、ボランティアでもやって汗を流して来い」
などといっては、岸井の首をすくめさせている。
「いつからいつまでの予定だね」
加賀が日程表を開いた。
「今のところ、二十九日に発って三日に帰るつもりですが」
「すると週末は日本に戻っているね」
「勿論ですわ」
「土曜の夜、つまり七日だが、箱根の家でちょっとしたパーティを開くんだ」
昼間、ゴルフ仲間のコンペがあって気心の知れた数人が加賀の別荘で夕食を共にする。
「婆さんは、君をあてにしているんだよ」
「喜んでうかがいますわ」
四日には事務所へ出勤する予定であった。
「グアムなんて三、四時間ですもの、外国旅行ともいえません」
「三重子君にしてみたら、そうだろうな」
父親が外交官で、子供の時から外国生活であった。
この前の戦争で帰国したが、終戦後もヨーロッパへ赴任している、三重子の教育の大半は外国であった。
加賀の許しを得て、三重子は夫にその旨を報告した。
「岸井さんに新婚旅行のやり直しかってひやかされてしまったわ」
佐和木は眩《まぶ》しそうな眼をした。
「新婚旅行のやり直しは、もっと先に考えているよ。ゆっくり船旅でもと思っているんだが……」
豪華船によるカリブクルーズとかエーゲ海周遊などはどうかといった。
「すてきですけど、お店もあるし、そんなに長くは休めないでしょう」
「なんとかなるよ」
「無理はなさらないで……私、そんなに贅沢《ぜいたく》じゃないのよ」
佐和木にはいわなかったが、三重子にとって豪華船の船旅はすでに三度も経験していた。
両親が健在だった頃《ころ》に、父の休暇を利用して、親子三人で地中海クルーズをたのしんだこともあるし、父の死後、母と叔母と大西洋航路と太平洋航路にも乗っている。
その頃、活躍していたフランス号やミケランジェロ号も、今はみんなリタイヤしてしまっている。
加賀は、三重子がグアムへ行くことを早速、妻の静子に語ったらしく、次の土曜日に三重子が加賀家の料理教室へ行くと、静子が待っていたように訊ねた。
「グアムへ行くこと、決りましたか」
他に何人か、静子の料理教室の常連がいる前だったので、三重子は狼狽《ろうばい》したが、静子にはひやかす気持はないようであった。
「グアムだの、サイパンだのって、つい馬鹿にしていたんだけど、今、皆さんにきいてみたら、満更《まんざら》でもなさそうよ」
ワイキキが高層ビル化してしまったハワイにくらべると、まだまだ田舎という感じで、
「海で遊ぶか、ゴルフをやるかぐらいで、休養にはうってつけなんですって」
そういう話を静子にしたのは、最近、この料理教室へ来ている若いテレビタレントで、彼女はコマーシャルの撮影で何度もグアムへ行っているという。
「メインストリートっていっても、なんにもなくて、西部の掘立小屋みたいだし、ホテルだけはタモンビーチ沿いにずらりと並んでますけど、ただ、それだけって感じで……とにかく、ハワイよりももう一つ気らくなところです」
ゴム草履とあっぱっぱで、どこでも行けるという彼女の話をきいている三重子の横に、いつの間にか小谷麻子が来ていた。
「御主人様とグアムへいらっしゃるんですか」
改めて訊かれて、三重子は苦笑した。
「可笑《おか》しいでしょう。中年が……」
しかし、麻子は表情をこわばらせたままであった。
「御主人様とお二人でですか」
「ええ」
「いつからですか」
「二十九日です。四泊の予定なの」
「お泊りは……」
「Hホテルですって」
素直に返事をしながら、三重子は麻子の様子を眺めていた。
母親が変死して以来、この料理教室も休んでいたのを、静子が電話をして、先週あたりから、又、やって来るようになった。
明るくふるまっているが、どこか、まだ母の死のショックから立ち直っていない不安定なものが感じられる。
「麻子さん、グアムにいらしたことがおありですの」
三重子に反問されて、麻子はいいえと返事をした。
「でも、行ってみたい気がします」
「三重子さんの報告次第では、この料理教室の合宿、来年あたり、グアムにしますか」
静子が冗談をいって、みんなを笑わせて、グアムの話はそれきりで終った。
料理教室が終って、麻子は渋谷まで歩いて出ると公衆電話を探した。
石田研一はアパートにいた。
「昨夜徹夜だったんだ」
「今まで寝ていた訳でしょうが……」
彼に対して、つい、遠慮のない言い方をするのを時折、反省している麻子だったが、声をきくといつもの通りになってしまう。
「出て来ない。大変な話があるの」
公園通りのいつもの店にいるといい、麻子は一方的に電話を切った。
不思議なもので、南平台の加賀家からここまで宙をふむような気持だったのに、石田研一の声をきいただけで、足が地についたような気がする。
電話をかけたのは渋谷駅の近くだったが、そこから公園通りへ出るまでの道は凄《すご》い人の波であった。
麻子はうっかりしていたが、土曜の午後であった。この分だと、公園通りの喫茶店など、どこも満員で、こみ入った話をするどころではないかも知れないと思う。
四月だというのに、気温は低かった。
漸《ようや》く咲いた桜を連日の雨があっけなく散らして、そのあと花冷えの日が続いている。
たどりついた喫茶店はやはり混《こ》んでいた。入口で空席を待つ者が三、四人もいる。
止むなく、麻子は外へ出た。
すぐ隣がホテルであった。一流ではないが、いわゆる連れ込み専用のその種のホテルではない。
ホテルのロビイなら、それほどの雑踏ではあるまいと思い、麻子はドアをくぐった。
けっこう人の出入りが多いのは、宴会場で何組もの結婚式があるのと、ホテルの中のレストランやティールームを利用する客のせいらしい。
麻子はそのあたりをぶらぶら歩きながら時計を眺めた。
石田研一のアパートは上北沢《かみきたざわ》であった。どういそいだところで二、三十分はかかるに違いない。
ふと、麻子は目の前を通りすぎて行った女の顔に注目した。
どこかでみた顔だと、ふりむいてみて気がついた。
六本木の西洋骨董「佐和木」の店にいた女店員である。
ちょっと見違えたのは、彼女が和服姿だったせいである。黒地に椿《つばき》の花の柄のある着物に、赤っぽい帯を締めていた。店でみた印象よりも若くみえた。
知人の結婚披露宴にでも出席したのだろうと思った。
それにしても、こんなところで「佐和木」の女店員をみかけるとは奇妙な偶然である。
麻子が、これから石田研一に話そうとしているのは、佐和木良行のことである。
時間というのは皮肉なもので、待たれている時はずんずん進むくせに、待つ身になると長い。
たいして広くもないホテルの中を一巡して、麻子は入口近くへ戻って来た。それでも十分も経《た》っていない。
ぼつぼつ喫茶店のほうへ戻ろうかと玄関へ視線をむけて、麻子は小さく口の中で叫びを上げた。
佐和木良行がホテルの玄関を出て行くところであった。仕立のいい背広の後姿に中年の落ちつきがある。
無意識に麻子は、彼のあとを追ってホテルを出た。
佐和木は若者であふれるような路上を横切って横断歩道を渡ったところでタクシーを拾った。そのタクシーも車の渋滞で進まない。
「おい、どうしたの」
声をかけられて、麻子はとび上りそうになった。
石田研一が無精髭《ぶしようひげ》を生やしたまま、ジャンパーのポケットに手を突っ込んでいる。
「彼がいたのよ。ほら……」
麻子がタクシーをさした時、車が動き出した。ちらりとだが、佐和木がこっちをみたような気がしたが、タクシーは信号の先のところで左折してみえなくなった。
「彼って誰《だれ》……」
「佐和木さんよ、三重子さんの御主人……ホテルでみかけたんだけど……」
「一人か」
「今は一人だったけど、少し前に女店員が出て行ったの」
佐和木の店の女店員だったと麻子はいった。
「あの狐面《きつねづら》の女か」
「狐面にはみえなかったわ。きものを着てそれなりに似合ってた……」
「間違いないのか」
「六本木の店へ行ってみればわかるんじゃない」
タクシーよりも電車が早いと研一がいって、渋谷駅から国電で恵比寿《えびす》へ出て、そこから地下鉄に乗りかえた。
「人間って、なにか霊感みたいなものが働くのかしら」
佐和木のことについて、研一に話したいと思っている時に、佐和木良行とも、その店の女とも出会った。
「なんだったの。話って……」
「三重子さんがグアムへ行くのよ。御主人と二人で……」
石田が眉《まゆ》をひそめた。
「それが、どうした」
「しっかりしてよ。佐和木さんの奥さんは二人とも、彼と外国旅行中に死んでいるんじゃないの」
「三人目だというのか」
「その可能性はあるんじゃないの」
石田研一が調べて来た佐和木良行の過去では、二人の妻が二人ながら外国で事故死しており、佐和木はその妻たちの遺産を或る程度、相続している。
二人の妻は、かなりの資産家であった。そして、三重子はそれらの妻たちよりも遥かに多くの財産を持っていて、しかも孤独であった。
「早すぎるよ」
低く、研一がいった。
「結婚して、何か月でもないだろう」
「加賀先生の奥様からきいたんだけど、佐和木さんは、三重子さんのほうの苗字になるんですってよ」
「本当か」
「三重子さんの実家の新倉家っていうのは、大変な名門なんですって。それで、佐和木さんが自分から、そっちへ入籍してもいいっておっしゃったって」
地下鉄はすいていた。
午後の中途半端な時間であった。
麻子を席にすわらせて、自分はその前に立っていた石田研一は、暗い窓の外をみつめているようであった。
「殺す必然性がないよ」
地下鉄の轟音《ごうおん》の中に声が消えた。
「仮に、前の二人の奥さんが殺されたものだと仮想しても、だ」
「前の二人は殺される必然性があったの」
「今のところ、わからないんだ」
「だったら、今度もわからないじゃない」
六本木までの話は、そこで途切れた。
西洋骨董「佐和木」の店はあいていた。入口でのぞいてみると、今までみたことのない若い女が店番をしている。
「入ってみるわ」
研一は、ためらう様子だったが、麻子はかまわず店のドアを押した。
「いらっしゃいませ」
若い女店員は愛想がよかった。みたところ高校を卒業したばかりという年頃《としごろ》である。
さりげなく店内の品物を眺めながら、麻子は傍へ寄って来た女店員に訊ねた。
「いつも、こちらにいらっしゃる女の方、今日はお休みですか」
女店員が軽く首をまげた。
「村林さんのことでしょうか」
「名前は知らないの。中年の……細面の人」
「だったら、村林さんだと思いますけど、あの方は時々しか、店へは来ません」
「じゃ、あなたお一人……」
「大抵はオーナーがいますけど、今は外出しています」
「そう……」
たまたま、客が二人ばかり入って来たのを幸いに、麻子は研一に目くばせして、店を出た。
「大胆なことをするんだな」
歩き出してから、研一がいい、麻子は首をすくめた。
「でも、手っとり早くわかったじゃないの」
少くとも、先刻、渋谷のホテルでみかけたのは、間違いなくここの女店員の村林という女であった。
「佐和木さんと彼女が一緒のホテルから出て来たからといって、午下りの情事とは断定出来ないだろう。知り合いの結婚式に出席したということもある」
「まさか、二人の仲がおかしいなんて、あたしも思ってないわ」
佐和木の妻の三重子にくらべたら、どう洒落たところで、村林という女店員は相手にならない。
「しかし、関係ないと断定するのも危険だよ」
「まるっきり、色気のない人じゃないの」
若作りはしていたが、店にいた時の感じからして、四十は越えていると思われた。
「蓼食《たでく》う虫も好きずきっていうだろう」
「それにしたって、三重子さんと差がつきすぎてるわ」
二人は気づかなかったが、道路のむこう側に停ったタクシーの中に、佐和木良行がいた。
故意に、ゆっくり金を払いながら、二人が立ち去るのを待って、車を下りる。近くに駐車してあるライトバンのかげに用心深く立って、暫《しばら》く歩いて行く二人を見送ってから、ゆっくり店のほうへ向った。
四月二十五日に、石田研一が青山のマンションへ電話をして来た時、麻子は一人であった。
「俺《おれ》、グアムへ行ってくるよ」
ちょうど休みがとれたという。
「二十九日の夜に発って、三日に帰ってくる」
「佐和木さんを見張るのね」
「ホテルが違うから、見張るというほどのことは出来ないだろうが、なんとなく行ってみる気になったんだ」
佐和木夫妻が泊るHホテルとは少し離れたCクラブに予約がとれたといった。
「あたしも行こうかな」
それまで、まるで考えてもみなかった言葉が麻子の口を出た。
「お父さん、留守なのよ。ニューヨークに出張中なの」
「冗談じゃない。そんな時に君を連れ出したなんてわかったら、俺、ぶっ殺されるよ」
「内緒で行くもの」
「ばれるよ」
「ばれないようにする」
「第一、もう切符とれやしないって……」
「とれたら行くわ」
一人娘の気まぐれとたかをくくっていると、明日は二十九日という夜に、
「切符、とれたわ。あなたと同じ便の……」
ねばっていたら、キャンセルが出たと笑っている。
「本気か」
「勿論」
「パスポートは」
「ありますよ。前にお父さんとロスアンゼルスへ行ったときの……」
明日の夜、マンションへ迎えに来てくれといわれて、研一は慌てた。
「待てよ、ホテルはどうなってる……」
「あなたと一緒のところへ行って、きいてみるわ」
「空いてるわけないだろう」
「その時は、あなたの部屋へ泊めてもらう」
「知らないぞ、どうなっても」
「信用してるもの」
電話を切ってから、麻子は少々、後悔していた。
恋人には違いないが、結婚の約束をした相手ではなかった。そこまでの決心は麻子にも出来ていない。
電話ではカマトトぶってみせたが、若い男女がグアムまで行って一緒のホテルへ泊ればなにが起るか知らない麻子でもない。
別に、なにがなんでも結婚までは処女でなければと思っているわけではないが、軽率に自分を傷つけるまいと用心はして来た。それが、自分を育ててくれた両親への礼儀だと考えている。
が、そんな理性を吹きとばしてしまうなにかが、今度のグアム行きにはあるような気がした。
とにかく、行ってみたい。
二十九日の午後になって、麻子は京都の祖母に電話を入れた。
「急に友達に誘われて合宿に行くことになったの。ニューヨークには連絡出来ないから、もし、お父さんからそっちに電話があったら伝えて下さい」
ひょっとして、父がニューヨークから自宅へ電話をして娘がいなければ、京都の祖母へかける可能性があった。つまらないことで、仕事中の父を心配させたくなかった。
「合宿、何日や」
祖母はのんきであった。よもや、孫娘が男とグアムまで出かけるとは、夢にも思っていない。
「今日発って、三日に帰ってくる」
「連休中やね」
気をつけて行っておいで、という祖母の優しい京なまりに、いささか良心が痛んで困った。
石田研一が迎えに来たのは夜になってからであった。
グアムへの便は成田を深夜に発つ。
「いいのか、本当に……」
「男のくせに、びくびくしなさんな」
麻子のほうが強気で、小型のスーツケースを彼に手渡して、さっさとマンションのドアに鍵《かぎ》をかける。
成田までは、佐和木夫妻の話であった。
佐和木夫妻は、今日の午前中の便でグアムに出発していた。
「まさか、あたしたちが着く前に三重子さんが殺されてしまったなんてことはないでしょうね」
麻子が物騒なことをいい出し、研一が苦笑した。
「君は、どうしても佐和木氏を殺人犯にしたいみたいだな」
彼の前夫人が二人とも、外国で死亡したのは、報道された通りの、単なる事故かも知れないと慎重な研一がいった。
「だったら、どう考えるの、あたしの母のことよ」
小谷和子がホテルで変死した事件であった。
「母は間違いなく、佐和木さんの前の奥さんの事故について調査をはじめていたわ。そのことで佐和木さんに会おうとしていたらしいし……」
「しかし、あの時、佐和木氏は香港へ行っていて、日本にはいなかった。アリバイはあるんだ」
佐和木が香港から帰国したのは、事件のあった翌日の夕方であることを、石田研一は確認していた。
「でも、他に母が殺される原因なんて、ないんですもの」
「そりゃわからないよ。君にもお父上にもわからない理由があったかも知れない」
成田で石田研一は、車を駐車場へ入れて来た。
「友達の車なんだ。明日、ヨーロッパから帰ってくるんでね」
「グッドタイミングだったのね」
「電話で打ち合せをしといたんだよ」
深夜の空港はかなり混んでいた。
グアム行きの便も満席である。
「この便だと、夜あけ前にグアムへ着いてしまうのね」
「ホテルでゆっくり寝ればいいさ」
「佐和木さんたち、もうグアムなのね」
なんのかのと佐和木良行をかばうようなことをいいながら、研一がグアムへ行く気になったのは、やはり、彼の過去の行動に疑惑を持ったからに違いないと思い、麻子は武者ぶるいに似た気持で窓の外を眺めた。
雲のせいか、夜景はみえず、機体は順調に高度をあげていた。
同じ頃、グアムのHホテルのスイートルームで、三重子は星をみつめていた。
Hホテルはグアム島でもっとも美しいといわれるビーチの、海へむかって左端に建っていた。
ホテルの下はプライベートビーチで、それが弓なりに弧を描いている。
このビーチに面しているホテルはHホテルだけではなかった。
すぐ隣は、最近、完成した若者専用のクラブシステムのコテッジで、そのむこうには、やはりコテッジ形式だが、Hホテルと同じ頃に建てられた古いホテルがある。
更にその先にも次々と新築されたホテル群が並んでいたが、各々のホテルの規模もさして大きくはなく、加賀家の料理教室で聞いたように、どこか田舎じみたところがある。
「ま、ミニハワイかな」
佐和木はこの島に着いた時の印象を、それだけいって、あとはもっぱらプールサイドで日光浴をしていた。
「君も水着になったら……」
勧められて、三重子は昨年の夏、ジュネーヴへ行った時にホテルのプールで泳ぐ気になって買い求めたミッドナイト・ブルウの水着を着た。
平凡なワンピーススタイルだが、パリの有名店の商品だけあって、胸の切りかえなどがよくきまっている。
その上に白いタオルのジャケットをひっかけて三重子がプールサイドへ来ると、そのあたりにいた休暇中らしい、米軍将校のグループが一斉に注目した。
四十歳をすぎているような肌ではなかった。
手も脚もすんなりと形よく伸びていて、ひきしまった体つきである。むしろ、プールサイドに寝そべっている二十代の女の子のほうが、ビキニからはみ出た腹部にたるみが出来ていた。
「君は、きれいな体をしているね」
三重子が並んでサンデッキに腰を下すと、佐和木がすぐにいった。
「最初に会った時と、ちっとも変っていないよ」
「私、あなたの前で水着になったの、今日がはじめてでしょう」
「いや、あなたは知らないが、十年前にも一度、プールサイドであなたをみたことがあるんだよ」
川奈《かわな》のホテルだったと佐和木はいった。
「あなたは残った叔母さんや、加賀先生御夫妻と遊びに来ていた……」
いわれてみれば、川奈のホテルは、そこのゴルフ場が加賀のお気に入りの一つで、四季折々によく誘われて泊りに行っていた。
「知りませんでしたわ」
「昼間はプールサイドであなたをみて、夜はダイニングルームで、又、あなたをみた。世の中に、こんなエレガントな女性がいたのかと、ショックだった」
「お口が上手ね」
笑ったが、その話は初耳であった。
「実をいうと、それ以来、あなたに夢中になって、大学の先輩があなたの叔母さんと知り合いだというコネをみつけて、あなたの叔母さんに紹介してもらったんだ」
しかし、その縁談を叔母は反対した。
「考えてみれば、その頃のわたしは一介の銀行員で、とても、あなたを嫁にもらえるような立場ではなかったんだ」
名門の一人娘で、資産家でもあった三重子であった。
「そんなことはないわ。叔母は別に財産とか、地位なんかで、あたしの結婚を決めようとしたわけじゃありません」
ことわったのは、銀行員は転勤が多いという理由であった。
「叔母は、私をいつまでも自分の手許《てもと》におきたかったんでしょうね」
だが、その時、三重子は思い出していた。
たしかに、銀行員は転勤が多いというのも、断った理由の一つだが、その他に叔母が佐和木について感想を迷べたことがあった。
「あの男はね、なんだかわからないけれど、不安心なところがあるのよ、理由があるわけじゃないけれど、長年、沢山の人をみて来た、あたしの勘でね」
たしかに貸ビルの社長として、大勢の社員に接している叔母ではあった。その叔母が二、三度会っただけの佐和木に、なにを感じたのか、ただ不安心という表現だけではわからない。
佐和木のどういうところが不安心だったのか、今となっては訊く由もなかった。
グアムのホテルで、佐和木の友人であるホテルマネージャーが用意してくれた部屋はスイートルームであった。
テラスからは太平洋が見渡せる。
天気もよかった。
東京では朝夕、まだ、ひんやりする陽気が続いていたのに、ここはまさに常夏の島であった。
朝はゆっくりめざめて、ルームサービスの食事をテラスで摂った。
海の青さはみつめていると、体中が染ってくるような鮮やかさであった。
日中は着いた日と同じくプールサイドで三重子は泳いだり、木かげで本を読んだりしていた。
佐和木のほうは、感心するほどよくねむっている。
そんな佐和木に電話があったのが、午後になってからであった。
ボーイが呼びに来て、佐和木は海水パンツのまま、走って行ったが、戻って来たのはすぐで、
「冗談じゃない。間違い電話だったんだ」
沢田だか、沢井だかと間違えられたといった。
「日本人の名前は、こっちの人に聞きとりにくいんでしょう」
もしや、日本からなにか大事な用件でも知らせて来たのかと心配していた三重子は、ほっとして笑った。
プールサイドが暑くなって、三重子はプールへ入った。水泳にはかなり自信がある。
気持よく泳いで、サンデッキへ戻ってみると、夫の姿がなかった。が、気にもとめないで、日光浴をしながら、本を読んだ。
佐和木が戻って来たのは、かなり経ってからであった。しかも、浜辺のほうからである。
「どこへいってらしたの」
夫を迎えて訊いた。
「ビーチをみて来たんだよ。昨日、着いて、一度も浜へ出てみなかったから……」
「でしたら、私も行きましたのに」
三重子も浜へは下りていない。
「たいしたことはなかった。どこへ行っても若い連中が、のさばっているよ」
夕方が来て、シャワーを浴びてから食事をした。これも昨日と変らない。
「明日あたり、ホテル以外のところにお食事に出かけましょうか」
ガイドブックには、海鮮料理のレストランや中華料理店の名前が並んでいる。
「それもいいね」
タクシーで一回ぐらいは観光コースを廻ってみようかなどと話し合って、食後はちょうどはじまったポリネシアン・ショウを見物した。
佐和木が席を立って行ったのを、三重子は知っていた。トイレぐらいに考えていたのだが、ショウが終っても戻って来なかった。
疲れて、先に部屋へ帰ったのかと、エレベーターを上った。
部屋の鍵は二つあって、夫婦が一つずつ持っている。
部屋にも佐和木はいなかった。
暫《しばら》く、部屋にいたが、ひょっとして佐和木が自分を探しているのではないかと思い、もう一度、ショウのあったところへひき返した。
何組かの男女が南国風のカクテルを飲んでいるだけであった。
海は漸《ようや》く、暮れかけていた。
ホテルがとりつけたトーチの灯がプールサイドから浜辺への道を照らしていて、なかなかムードがある。
海辺へ下りてみようかと思い、三重子はハイビスカスの咲いている小道を下りて行った。
風が、少し日焼けした肌に快い。
浜辺にも人がいた。まだ、泳いでいるのがホテルの係員から注意されていた。
夜間の遊泳は禁止されているらしい。
浜辺を見廻すと、Hホテルのプライベートビーチよりも、隣のコテッジのビーチのほうが人が多かった。
花火をうちあげたりしている。
浜を歩いて行けば、どのホテルのビーチにも出られるようであった。
フランスのカンヌのビーチのように、ホテルごとに浜辺に柵《さく》をしているというのではない。
少し、浜辺を歩いてみたいと思い、三重子は隣のコテッジのビーチのほうへむかった。
若者たちのスポーツクラブがあるだけあって、浜のすぐ近くのテニスコートでは何人もがプレイをたのしんでいた。
そこを通りすぎると、浜辺は急に静かになった。
Kホテルのビーチであった。
このホテルもコテッジ形式で、二、三軒ずつつながった家が浜辺へむかって、いい具合に散在している。
なんという木か、浜辺へ技をせり出していて、夜は不気味であった。
ひき返そうと三重子は思った。
寂しい海辺の一人歩きはそれがプライベートビーチでも危険であった。
ふりむいてみると、浜辺に沿って、細い道がついていた。
砂地を歩くよりも、ずっと楽である。
帰りはそっちから行こうと石段を上った。
男の声が聞えたのは、その時で、三重子が耳をすませたのは、声が佐和木のように思えたからである。
人影は、コテッジの建物の横に立っていた。
男と女である。
そこまでは少々の距離があった。
波の音が高くて、声は聞えても言葉がよく聞きとれなかった。
だが、男が激昂《げつこう》しているらしいのは、声の調子でわかった。女のほうもしきりになにかいっている様子である。
男は佐和木だと三重子は確信を持った。女の声はわからない。
動くに動けず、三重子はそこに立ちすくんでいた。
かなりの時間と思ったが、実際には五分か十分だったのだろう、女のほうが急にコテッジのドアをあけて、家の中へ入った。
一瞬だが、照明が女の顔を明るくした。
「村林さん……」
思わず小さな声が出た。
六本木の店で働いている女店員である。
男のほうは、浜へ戻って来た。そこで、はじめて石段のところにいた三重子に気がついた。
佐和木であった。
「ごめんなさい。あなだが急にいなくなってしまって……あたし、浜を散歩して……」
三重子の声が、佐和木に届かなかったようである。
佐和木が近づいて来て訊《たず》ねた。
「波の音で、なにも聞えない。なんだって……」
三重子が同じことをくり返し、佐和木が頭を下げた。
「あやまるのは、わたしのほうだよ」
村林の姿を、Hホテルでみかけたという。
「あんまりびっくりしたので、とんで行って聞いてみたら、彼女一人でグアムへ来たというんでね」
「あなた、御存じなかったの」
「当り前だよ。彼女が連休にどこかへ行くのは自由だが、なにも、わたしたちと同じ所へ来ることはないんだ」
それで腹を立てて文句をいってやったのだと弁明した。
「奴《やつこ》さん、こんなところに泊っていたんだよ」
「いいじゃありませんか。どこへ行こうと村林さんの自由ですもの」
「そりゃそうだが、グアムへ行くなら行くとあらかじめ、いってくれればいい。なんとなく、やり方が陰険じゃないか」
帰ろうと、三重子をうながして浜を戻り出した。
大股《おおまた》に歩いて行くのが、まるで村林から逃げるようである。
あれは、突然やって来たのを叱《しか》っているというようなものではなかった、と三重子は思っていた。
はじめて石段のところからみた感じでは、そんななまやさしいいい争いにはみえなかった。
例えば、もっと壮烈な男と女の争いのようであった。
初 夜
四月三十日の早暁に、小谷麻子は石田研一とグアム島へ着いた。
おおざっぱにいえば、佐和木夫婦より一日遅れの到着である。
石田研一が予約を入れておいたホテルはCクラブといって会員制のバケーションハウスであった。
海辺に向ってコテッジが建っている。
フロントで空室があるかと訊いてみたが、けんもほろろという感じで否定された。
石田研一がかなりねばったが、満室というのは嘘ではないらしい。他のホテルからの電話の問い合せにも、空いている部屋はないと、フロントが返事をしている。
ゴールデンウィークのまっ只中《ただなか》であった。
それでなくとも、今年の海外旅行の中でグアム、サイパンは、若者達に一番、人気が集中しているという。
「とにかく俺の部屋で一休みしろよ。今夜までに、どこか探して来てやる」
研一がフロントへ了解をとって自分が予約したコテッジの鍵をもらい、麻子の荷物を持って一緒に出て行くのを、係員はちょっと変な顔で見送っていた。
ここのコテッジはツインルームであった。
一室を予約しておいて、若い男が一人で泊りに来るほうが奇妙である。
コテッジは浜辺に近かった。
すっかり夜はあけていて、ビーチをジョギングしている人の姿がみえる。
荷物を部屋において、ビーチへ出てみた。
左手にHホテルが、やや小高いところに如何《いか》にも高級ホテルらしい偉容をみせていた。
右隣は、やはりコテッジスタイルのホテルで、浜辺に出来ているカウンター式のスナックの屋根にKホテルと書かれている。
「佐和木御夫妻はHホテルよ」
それは、加賀家の料理教室で、さりげなく三重子から訊いておいた。
「君がそういったからこっちもHホテルと思ったんだが、どうしても部屋がとれなかったんだ」
Cクラブは、新聞社の同僚の紹介でなんとかなったと研一はいう。
「まあ、値段からすると、こっちのほうが手頃《てごろ》なんだがね」
Hホテルのほうを、それとなくみてくるから、シャワーでも浴びて一休みするといいといって、研一は、そのまま、浜辺を歩いて行った。
コテッジへ戻って、スーツケースをあけ、シャワーを使ってから、ショートパンツとTシャツに着がえた。
テラスの椅子《いす》にかけて、海からの風にふかれていると、だいぶ経ってから研一が戻って来た。
「佐和木夫妻は、Hホテルのプールサイドで日光浴をしていたよ」
まず、平穏無事な風景だったと笑っている。
「君の推理だと、佐和木夫人はグアムに着いた日に事故死でもしているというんじゃなかったのか」
「誰もそんなこといってやしませんよ」
「腹がへった。食事にしよう」
Cクラブの中の食堂へ行った。
ビュッフェスタイルである。
「さてと、これからどういう策戦で行くかだがね」
ビールを飲みながら、研一はもう日焼けしはじめている顔をほころばせて、麻子にいった。
「君は佐和木夫妻に顔を知られているが、僕のほうは知られていない。だから、僕と君とはまるっきり連れではない顔で別にHホテルあたりをぶらぶらする。君は場合によったら、君のほうから佐和木夫人に声をかけてもいい」
「一人で来たというの」
「いや、それはまずいだろう。女友達と何人かで来たのだが、自分は佐和木夫人に挨拶《あいさつ》しようと思ってHホテルへ来たとか、そんな具合でどうかな」
「いいわ、なんとか筋書をこしらえておくわ」
「日中はそういう感じで、君が接近する。僕も勿論《もちろん》、そのあたりにいるが、君はあくまでも知らぬ顔でいること」
「夜はどうするの」
佐和木三重子に危険がせまるとすれば、まず、夜の可能性が強い。
「夜の張り込みは、僕がする。下手に君がいて、むこうさんにみつかるとおかしなことになる。まあ、コテッジで早寝をするんだな」
「グアムまで来て、宵のうちから寝るの」
「女一人で夜の浜辺へなんか出るなよ。近頃はここも物騒な話が多いんだそうだ。恋人岬のほうへ夜、散歩に行ったアベックが、男はなぐられて大怪我をし、女は数人に暴行されたなんてこともあるらしい」
「わかりましたよ。大人しくテレビでもみて寝てますよ」
「俺は、これから出かけてくる」
「どこへ行くの」
「友達が紹介状を書いてくれたんだ」
グアムで土産物店を経営している日系人であった。
「グアムでは大変な顔だそうだから、ホテルのことなんか、相談してくる」
今日はまだHホテルへは行かず、ここのホテルの中で適当にエンジョイしているといいといった。
すっかり、研一にリーダーシップをとられた恰好《かつこう》で、麻子はその午後を水着に着がえ神妙に浜辺で甲羅干《こうらぼ》しをしていた。
そのビーチはHホテルのビーチにつながっている。こちらからみるとHホテルはビーチから少し上ったところにプールがあるらしく、木の間がくれにビーチパラソルや水着の女性の姿などがちらちらしている。
あのあたりに佐和木夫妻がいるのだと思い、そこへ行ってみたい誘惑にかられながら麻子は辛抱した。勝手なことをして、研一のお荷物になってはまずいと自制したためである。
それにしても、グアムへ来てから、研一がてきぱきと行動するのが好もしかった。
ああいうところは、麻子の父の小谷章に似ていると思った。
頭の回転が早く、そのくせ、用意周到である。万事に積極的だが、軽率ではなかった。
子供の時、麻子は父を万能選手だと思っていた。父にとって不可能ということはない。
友達にも、よく父の自慢をした記憶がある。
「うちのパパは、出来ないことなんてなんにもないのよ。麻子のいうことならどんなことでもしてくれるのよ」
幼い娘にとって、父はいつも誇りであった。
そんな気持は、今も麻子のどこかに残っている。
父親っ子で育った娘は、いつか、父親と同じタイプの男を生涯の伴侶《はんりよ》に求めるようになると、なにかの本で読んだのを思い出して麻子は珊瑚礁《さんごしよう》の透けてみえる海を眺めていた。
今、ニューヨークへ行っている父に、或《あ》る日、石田研一と結婚したいと打ちあけたら、父はどんな顔をするかと思う。
反対はされない気がした。
父は石田研一に目をかけている。自分が新聞社の政治部にいた頃に、アルバイトで来ていた研一の仕事熱心を高く評価して、正規のカメラマンとして採用するように口をきいたのは父だときいている。
今まで、麻子の気持を大事にしてくれた父でもあった。
といって、父が大喜びをするとは思えなかった。なにも、石田研一が相手でなくても、どんなすばらしい男性を麻子がえらんで来たとしても、父は寂しい笑顔をみせるに違いなかった。
そして、麻子の結婚式には、泣くだろう。
石田研一が戻って来たのは夕方であった。
「ホテル、みつかったよ」
土産物屋の社長である田中道三が骨を折ってくれたが、いわゆるリゾートホテルはどこも五月五日まで満杯で、
「町中のホテルなんだが、とにかく一部屋とれたから、俺はそこへ泊るよ」
夕食がすんだら、荷物をもってそっちへ移るといった。
「だったら、あたしがそっちへ行くわ」
夜の張り込みのためには、近くのホテルにいたほうが便利であった。
「麻子君なんか泊めるものか。少々、いかがわしい種類のホテルなんだ。女が一人で泊ったらどうかなっちまうよ」
「男が一人で泊っても、どうかなるんじゃないの」
「おあいにくさま。夜はこっちの浜辺へ来ているわけだからいかがわしいことにはならないよ」
「だったら、なにも、そんなところへ移らなくてもいいのに……」
正直のところ、外国でコテッジへ一人で泊るのは心細かった。彼に傍にいてもらいたい。
「理屈はそうなんだが、これは、けじめなんだよ」
麻子とコテッジへ戻って来ながら、研一がいくらか、うつむき加減にいった。
「けじめ……」
「結婚もしていない君と、グアムまで来て、別々のホテルへ泊ったということはけじめなんだ。将来、君のために……」
「あたしが、誰かとお見合でもして結婚する場合のため……」
「僕としては、そういうことになってもらいたくないけれども、人間一寸先は闇《やみ》っていうからね」
ちょっとお先にごめん、というと、研一は服のまま、シャワールームへ消えた。
待つ間もなく、烏の行水でとび出して来て、
「今夜っから泊るところ、シャワーもついてないんだよ」
服を着がえたら、夕食に出かけようと笑っている。
「安くて旨《うま》い、中華レストランを教えてもらって来たんだ」
入れかわりに麻子がバスルームへ入って汗やオイルをすっかり洗い流して出てくると、研一はベッドカバーのかかったままのベッドの上でねむり込んでいた。それでも、すぐ目をさまして起き上る。
麻子が着がえをしているうちにベランダの戸じまりを確認してくれた。
「どっちみち、俺は夜明けまでこの近くにいるわけだから、心配しないでおやすみ」
「変ってる人ね、あなたって……」
半分、冗談のように麻子はいってみた。
「なにが……」
「あたしって、そんなに魅力ないかな」
白い麻のワンピースは胸のあたりまで大きく開いている。首には大きな貝のペンダントを下げた。オーデコロンのほのかな匂《にお》いも麻子を包んでいる。
「勘弁してくれよ。これでも、せい一杯、我慢の限界に立っているんだ」
麻子を軽く抱きよせて額にキスしただけで、研一は慌てたようにコテッジを出て行った。
彼の心臓が音をたてていたことで、麻子は満足した。
小さなポシェットとルームキイをもって部屋を出る。
コテッジの前に小型の乗用車が停めてあった。
「田中さんに借りて来たんだ。使ってないから、ここにいる間、好きにしていいっていわれてね」
この島の交通は車にたよる他はなかった。大抵の家が車を持っているし、
「田中社長のところなんか、五台もあるんだとさ」
中華レストランは、この島で最も大きなデパートの隣にあった。
デパートといっても、日本人の感覚からいうとスーパーマーケットに近い。
「部長は、俺が麻子さんをかっさらったら怒髪天をつくって感じで怒るだろうな」
料理の注文を麻子にまかせて、研一はいくらか照れくさそうに目を細くした。
「父が怖いの」
「そりゃ怖いよ。君は知らないだろうがね、小谷部長は滅多なことでは怒らないけれども、怒り出したら窓ガラスがびりびりなんてものじゃない。みんな机の下へもぐってまっ青になる」
「それじゃ地震じゃないの」
「ひっぱたかれてもいいから、土下座して告白するか」
「あたし、父を一人にするのは、かわいそうで出来ないのよ」
母が健在の時も、そう思っていた。
死んでしまった今は、尚更《なおさら》である。
「俺は、結婚出来るなら、同居でも、婿養子でもなんでもいいよ。但し、俺の給料で生活してくれればね」
彼自身は五人兄弟の末っ子だから戸籍のことはどうにでもなる、といった。
「でも、男の人の世界って、養子になんか行ったら、なにかいわれるんじゃないの」
小糠《こぬか》三合あったら、養子に行くな、などといういじましい格言が日本にはある。
「江戸時代の話だろう。いいたい奴《やつ》にはいわせておく。俺は神経質じゃないし、君に惚《ほ》れたのが運のつきだから、なにをいわれたってかまわない」
「運のつきだなんて、ひどい」
「君は、僕でいいのかな」
一日で日焼けした顔がいよいよ照れていた。
「悪いと思う?」
「まあ、部長のお嬢さんだから、いろいろ縁談はあると思うけれども、俺よりもいい奴はそう滅多にはいないと思うよ」
「自分でいってりゃ世話はないわ」
ビールで乾杯をした。
「結婚は母の一周忌がすんでからでいい」
「勿論、いつまででも待つよ」
「お婆さんになっちゃう」
二人だけの食事が賑《にぎ》やかであった。
この店は観光客はあまり来ず、土地の人が利用するようであった。
大きなテーブルを囲んでいる家族連れが圧倒的に多い。
「僕のホテルへ荷物をおいて、それから君をホテルへ送って行くよ」
食事のあとは、夜道のドライブであった。
昨日、着いて、ホテルの外へ出たのは今日が初めての麻子には、この島の方角はまるで見当がつかないが、研一が車を停めたあたりは、なんとなく基地の町という気配が濃かった。
ホテルといっても、木造の建物で赤いネオンがついている。
「車から出るなよ」
ドアをロックさせておいて、研一はホテルへ走り込んで行った。戻ってくるまで五分もかかっていない。文字通り、荷物を放り込んで来たという感じであった。
Cクラブのホテルへ戻って来たのは九時である。
コテッジの方へ車を停めて、研一は麻子がドアを開けて中へ入るのを、じっとみていた。
「それじゃ、おやすみ」
部屋の中で麻子が耳をすましていると、研一の足音はゆっくり浜辺のほうへ向っていた。
翌朝、電話が鳴ったのは午前九時であった。
麻子はもう起きていて、テラスで本を読んでいた。
「今から、そっちへ行く。朝飯、一緒に食おう」
研一の声は少々、ねむたげだったが、元気はよかった。
彼は例の小型車を運転してやって来た。
歩いて、食堂へ出る。
「昨夜、どうだったの」
早速、訊ねた麻子に、彼は意味深長な笑顔をみせた。
「午前三時までパトロールして、ホテルへ帰った」
そういわれてみると、夢の中でコテッジの前から車が出て行くのを聞いたような気がする。
「昨夜、よくねむれたか」
「あなたのパトロールのおかげね」
食堂は若者たちで混んでいた。
「今日のスケジュールは、どうするの」
麻子に訊かれて、研一は食堂からみえるHホテルへ視線をむけた。
「いよいよ、敵陣へ乗り込む」
「オーバーね」
「Hホテルへ行って、もしも、佐和木夫妻がいたら、君は声をかける」
その時の状態にもよるが、なるべくゆっくり夫妻と話をすることで、
「その辺のことは、君にまかせるよ」
なるべく、ビーチ伝いに遊びに来たという感じで、水着のような恰好がいいと研一はいった。
実際、Cクラブのホテルに泊っている者でも、水着のまま、Hホテルまで行って、プールサイドでコーヒーを飲んで来たりするようであった。
「あなたも傍にいてくれるのね」
「近くをうろうろしているよ。しかし、絶対に俺と視線を合せてはいけない」
「気をつけるわ」
コテッジへ戻って、白地に紺のふちどりをした水着に着がえた。やや、子供っぽい感じがするのは、父親が外国土産に買って来たものだからであった。もっとも麻子はこの水着がきらいではない。
水着の上には、おそろいの巻スカートをつけた。
つばの広い帽子と、サンオイルなどの入った小型のバッグを下げて浜辺へ出て行くと研一は海水パンツ一枚で砂地に寝そべっている。
彼にウインクしてみせてから、麻子は浜伝いにHホテルのほうへ歩いて行った。
ビーチにも、プールサイドにも、佐和木夫妻はいなかった。
いくらか、あせり気味にロビイのほうへ出て行くと、
「麻子さんじゃありません」
麻子は、そっちをふりむいた。
ブルウのワンピース姿の三重子がエレベーターから下りて来たところであった。背後に佐和木良行が半ズボンに半袖《はんそで》シャツで立っている。
「どうなさったの。あなた……」
麻子はかろうじて微笑を作った。
「私も、お友達と来てしまいましたの」
「いつ」
「昨日です。大学のクラスメートと、急に話がまとまって……というよりもともと、そのグループはグアム旅行の予定で早くから旅行社に申し込んであったんですけどどたん場になって一人、都合が悪くなってしまったので、かわりに来たんです」
昨日から考えておいた口実であった。
「まあ、それで、どちらにお泊り……」
三重子は、麻子の言葉を疑う様子もなかった。
「お隣です。Cクラブのホテルです」
「あそこはお若い方が多いのね」
麻子は佐和木良行にも挨拶をした。以前、加賀家のクリスマスパーティで紹介されていた。
「それで、他のお友達は……」
佐和木に訊ねられて、麻子はCクラブのほうを眺めた。
「みんな、テニスをしていますの。私はもしかしたら、お目にかかれるかと思って……」
研一がロビイのむこうにちらと姿をみせた。
そのまま、こっちに背をむけてプールサイドを眺めている。
「よかったわ。お目にかかれて……」
三重子が夫をみた。
「あなた、麻子さんもドライブにお誘いしてもよろしいでしょう」
佐和木がうなずいた。
「グアムの観光は、もうおすみですか。我々はどこもみていないので、これからタクシーでざっと一廻りして来ようかといっているところなんですが……」
「よろしかったら、一緒にいらっしゃいません。お友達の方に、おさしつかえなかったら……」
「お供します」
迷いがなかったわけではないが、麻子はそう答えていた。研一からも、なるべく夫妻についているようにといわれていた。
「それじゃ、タクシーを頼んでくるよ」
佐和木がフロントのほうへ行き、三重子は麻子をうながして玄関へ向った。
部屋の鍵をフロントにあずけながら、佐和木はロビイのはずれに立っている石田研一を目のすみでみていた。
麻子も研一も知らないことであったが、佐和木のほうは、二人が連れ立って六本木の自分の店へ来たのをタクシーの中から目撃したことがある。
太平洋に浮ぶ小さな島のことで、美術や建築物などの文化的遺産があるわけもなく、観光はもっぱら美しい海岸線を眺めるだけのものであった。
許されない恋のため、二人の髪を結び合せて投身した男女の伝説が残っている恋人岬を廻って、ひとつまみほどのさっぱりした感じの官庁街や州知事邸をドライブして、およそ一時間余り、それでもHホテルへ戻ってくると正午をとっくに過ぎていた。
島の奥地へ入れば、旧日本兵がひそんでいたジャングルが今も鬱蒼《うつそう》としてはいるものの、そこへ出かけるにはジープが必要だという。
佐和木夫妻には、そのつもりはないようであった。
島のドライブにしても、折角、ここまで来だのだから、少し、島の様子をみてというくらいのもので、それはグアムにやってくる観光客の大半がその程度であった。
テラスの食堂で軽く午食を麻子は誘われて一緒にした。
さりげなくあたりを見渡すと、今まで、どこにいたのか、石田研一がプールサイドのスナックでコーヒーを飲んでいるのがみえた。
午後の会話も、ドライブの途中と同じく、とりとめがなかった。
三重子と麻子の共通の話題は、どうしても加賀夫妻のことになる。
「週末に加賀先生が箱根でパーティをなさるそうですね」
御招待を頂いていると、麻子は話した。
「麻子さんもゴルフをなさいますの」
「いえ、私は……でも、父は多分、ニューヨークから帰って参りますので、加賀先生のお供が出来ると思います」
「お父様、ニューヨーク……」
「はい、出張なんです」
にこにこと女二人の話をきいていた佐和木が口をはさんだ。
「小谷さんは、あなたがお友達とグアムへいらっしゃったこと、御存じなんですか」
麻子は悪戯《いたずら》っぽく首をすくめた。
「父には内緒です。でも、京都の祖母には断って来ました」
「京都のお宿は、とてもすてきですのね」
三重子は、自分達が新婚旅行に出かけた旅館が、麻子の母の実家だと、もう、知っていた。
「おばあさまも、お寂しいでしょうね」
和子の死を、三重子はそんなふうにいって、麻子の気持を考えたのか、すぐに話題を転じた。佐和木は妻の言葉にうなずきながら、食後の紅茶を飲んでいる。彼の表情には僅《わず》かの変化もなかった。
これから、プールでひと泳ぎするという佐和木夫妻と、テラスを出たところで麻子は別れた。
「すっかり、お言葉に甘えてしまって申しわけありません。ごちそうさまでした」
「麻子さん、いつお帰りになるの」
「私は三日の夕方の便です」
「そう、私たちは三日の午前中の便なのよ」
どちらも、グアム滞在はあと丸二日であった。
「よろしかったら、又、お遊びにいらして」
「ありがとうございます」
これで、Hホテルへ顔を出す口実が出来たと思い、麻子はいそいそとプールサイドの小道を下りて行った。
「いいお嬢さまね」
見送ってエレベーターのほうへ歩き出しながら、三重子が心から呟《つぶや》いた。
「あんなお嬢さんだったら、私も欲しかったわ」
二十代で結婚していれば、麻子ぐらいの年頃の娘があっても不思議ではない。
「大学の友達と来たといっていたね」
部屋へ戻って水着に着がえながら、佐和木がいった。
「大胆だな」
「女ばかりで、外国旅行ということ……」
グアムやハワイでは珍しくないと三重子はいった。
「しっかりしたお嬢さまですもの。お母様のことで随分、つらい思いをなさったでしょうから、少しでも気分転換になればいいわね」
「ボーイフレンドと一緒かも知れないよ」
妻のために、洋服|箪笥《だんす》からビーチウェアをとってやりながら、佐和木が言った。
「まさか、麻子さんに限って……そんなこと、絶対にありませんわ」
夫の冗談と思った。佐和木もそれ以上はいわない。
午後の夫婦の時間は、又、くつろいだ南国のバカンスであった。
そのプールサイドで、三重子は思い切って、夫に提案をした。
「お店の……村林さんのことですけれど」
佐和木は読みかけの雑誌から、妻の顔へ視線を移した。
「なあに……」
「折角、同じグアムへみえているんですから、今夜あたり、夕食にお誘いしたら……」
村林光江は同じビーチ沿いのKホテルに投宿している。
「さあ、それは、どうかな」
サイドテーブルから煙草《たばこ》をとり、佐和木はサングラスをはずした。
「折角の、君の好意だけれど、彼女にとっては迷惑かも知れないよ」
「御迷惑……」
村林光江が、自分に好意を持っていないらしいのは、うすうす三重子も気がついていたが、佐和木の理由は別のことであった。
「彼女、おそらく、男と一緒だよ」
「あら」
声が出たのは、思いもよらなかったからである。
「あの方、ご結婚なさっていらしたの」
「いや……」
「ああ、恋人……」
「まあね、つき合っている男はあるんだよ。時々、店にもやってくる。わたしとしてはプライパシィは関知しない主義なのでね」
「そうなの」
素直にうなずいたが、昨夜、Kホテルのコテッジのかげで、夫といい争っていたらしい村林光江の姿が浮んだ。なにか一つ、気持がひっかかっている。
「まあ、男連れさ、こんなところに女一人で来る奴はいない」
プールサイドから見下せるビーチへ目をやって、佐和木は断定的にいった。
その浜辺は麻子が泊っているCクラブのホテルにも、又、村林光江がいるKホテルにもつづいている。
麻子が自分のコテッジへ戻って来て三十分もすると、ドアがノックされた。
「俺だよ」
石田研一はベランダの椅子に腰を下した。
「ちょっと慌てたよ、いきなりドライブに行くというのは予想外だった」
「でも、かえってよかったみたい」
少くとも、ドライブの分だけ、佐和木夫妻の傍についていられた。
「なにか収穫はあったか」
「別に、なにもないのよ」
佐和木は無口で、お喋《しやべ》りは麻子と三重子がもっぱらであった。
「あんまり、変なことを訊いて、佐和木さんに疑われたら困るでしょう」
それでも、麻子は佐和木夫妻との会話の内容を細大もらさず、研一に報告した。
「佐和木さんは一年のうちに、五、六回は商売のために外国へ行ってるみたいね。でも、三重子さんは当分、ついて行くつもりはないようよ」
夫の仕事の旅に、妻が同行することを、三重子は好まないような口ぶりであった。
三重子自身が外交官の娘で、子供の時から外国に馴《な》れていた。今更がつがつと外国へ出て行きたいとも思っていないし、公私を混同しないのは、彼女の生れ育った家の生活習慣でもあった。
「佐和木さんのほうは、なんとなく奥様を外国へ連れて行きたい素振りなのよ。秋にでもなったら、豪華船のエーゲ海クルーズなどはどうかっていってたけど……」
「船の上は、やばいな。突き落されでもしたら一巻の終りだろう」
冗談ともつかず、研一がいった。
「豪華舶じゃ、ついて行くのも容易じゃないしな」
他人事《ひとごと》のようにいったが、麻子にしても母の死と佐和木とのかかわり合いを一刻も早く解きたいと思っていた。
決して気の合った母ではないが、このまま、犯人もみつからず迷宮入りになったのでは、母が浮ばれまいと考えている。
「君が、グアムへ来ていることで、佐和木は計画を中止するかも知れないな」
しきりに研一はベランダのテーブルの上にマッチ棒を並べていた。
「しかし、彼はいずれ、奥さんを殺さねばならなくなる」
「やっぱり、研一さんもそう思うでしょう」
日本で話していた限りでは、佐和木へ疑いを持っていたのは麻子で、研一はむしろ、半信半疑のところがあった。
何故《なぜ》、それが変ったのか、その時の麻子はつい、うっかりしていた。
研一が佐和木に対する疑惑の証拠を、昨夜のうちに掴《つか》みかけたとは、夢にも思っていなかったのだ。
それは、研一の偵重な性格のせいであった。
何事によらず、自分に、はっきりした結論が出るまでは、軽々しく、人に口外しないのが、彼の主義である。
夕食は、昨日と同じように外へ出かけるのかと思っていると、このホテルの中ですまそうという。
研一が、どこか緊張していると気がついたのは、食事が終ってからであった。
食堂のあるメインロッジからコテッジまでを研一と麻子は歩いて戻った。
やっと夜になったこのホテルの庭には、ブーゲンビリヤやハイビスカスが咲いていて、恋人同士で歩くには、まことにムードがよかった。
研一は口数が少かった。彼が、なにかを考えていると麻子は思い、つないでいた手を軽くふった。研一の足が止まり、麻子を抱きよせて唇を合せた。
キスは、はじめてではなかったが、今夜の彼は情熱的で、麻子は体の底から官能を呼びさまされたような気になった。
コテッジまでは、どちらも無言であった。
「今夜もパトロールをするの」
部屋へ入ってから、麻子はかすれた声で訊ねた。
研一はベッドのすみに腰を下している。
彼の表情に迷いがみえた。いうまいか否かと少しためらった末に、低くいった。
「昨夜、面白いものをみたんだ」
麻子はぴんと来なかった。
「ポルノ映画にでも行ったの」
その種のものが、けっこう多いという知識は、麻子にもあった。
「違うよ。佐和木氏についてだよ」
「なにをみたの」
研一の隣へ来て顔をのぞき込んだ。
「もう少し、確証をつかんでから、君に話そうと思っていたんだが……」
「ずるい。教えて……」
抱きついて甘えた麻子を、研一が急に抱いた。
夜の庭でよりも、更に長いくちづけの果に、研一は麻子をベッドに押し倒した。
リゾート地のムードに押し流されたというより、研一が昨夜、目撃した或ることが、彼を興奮させていて、麻子に対する自制心を失わせたといっていい。
だが、麻子には男の内部にあるものがわかろう筈《はず》はなかった。
拒む理由はなかった。麻子は恋に酔っていた。
研一に自分をゆだねながら、これが自然だと思っていた。
肉体の結合は必ずしも、器用ではなかったが、二人は夢中だった。
研一がコテッジを出て行ったのを、麻子は知らなかった。
シーツにくるまれて、彼の腕の中で睡った記憶しか残っていない。
目がさめたのは、夜明け前であった。
ベッドの中には、麻子が一人だった。
彼は夜のパトロールに出かけたのかと思う。
暗い中で、麻子は昨夜、ここへ戻って来たときに、研一がいった、佐和木について面白いことを知った、という言葉を思い出していた。
研一は、一昨日の夜のパトロールで、なにかをみたに違いない。
それを一日中、麻子に黙っていたのは何故だろうと思った。
だが、そんな思案よりも、麻子は自分の肉体に残っている研一の記憶のほうに心が向いた。
彼と結ばれたという実感はあまりなかったが、昨夜が自分にとって初夜だったという感慨は深かった。
ニューヨークに行っている父に、すまないような気もする。
やがて、麻子は睡った。
次に起きたのは、午前八時であった。
身仕度をすませて、研一からの連絡を待っていたが、九時になっても、電話が鳴らなかった。
コテッジの外へ出てみると、研一が乗って来た小型車が停っている。
ということは、昨夜、研一は町中のホテルへ戻らなかったのか、それとも、朝になって、又、こっちへやって来たのか。
Cクラブのホテルの庭を、麻子はくまなく歩いた。
メインロッジのロビイも食堂も探し廻った。
ビーチへも出た。プールサイドもテニスコートも、およそホテルのすみずみまで行ったが、研一の姿はない。
正午まで、麻子はコテッジで、彼の連絡を待っていた。
ひょっとすると、なにか佐和木について不審な挙動でもみつけて追跡でもしているのかと思ぅ。
午後二時になって、麻子の我慢が切れた。
Hホテルへ走って行く。
佐和木夫妻はプールサイドで日光浴をしていた。
「いらっしゃい。麻子さん」
三重子が気がついて手を上げた。
「私、今日はなんだか頭痛がして……主人は昨夜、飲みすぎたとかで、ごらんの有様よ」
笑った三重子の顔色が冴《さ》えなかった。
佐和木はデッキチェアに仰むけになって、うつらうつらしている。
「どうかなさったの」
プールサイドを見廻している麻子に三重子がたずねた。
「いいえ、友達が、たしか、こっちへ来た筈なので……」
「女の方……」
「はい、一人は赤い水着で……もう一人はビキニです」
口が勝手なことをいっているのに、麻子は驚いていた。
「ごめんなさい。まだCクラブのほうにいたのかも知れません」
慌てた様子で麻子がビーチへ下りて行くと佐和木がむっくり起き上った。
「誰か、来たの」
「麻子さんよ。お友達を探しているんですって……」
三重子は夫のために灰皿をとってやりながら微笑した。
「麻子さんのお友達、やっぱり女の方でしたわ。三人でいらしたみたい……」
佐和木はうなずいて煙草に火をつけた。
今日も、よく晴れて、ヨットがかなり海上に出ている。
「頭痛、とれたかい」
「まだ少しね」
三重子は首の後ろを軽く叩《たた》いた。
「どうしたのかしら。私は、たいして飲みもしなかったのに……」
「マイタイというカクテルのせいじゃないかな。どうも、甘い酒はあとがよくないんだ」
そういえば、食後にテラスで、マイタイを飲んだ。
「以前にハワイで飲んだことがあるのよ。その時は、なんでもなかったのに……」
「酒は、体の調子でいろいろな酔い方をするからね」
「でも、お酒に酔ったせいかしら、よく、ねむったわ」
「酒のせいより、ドライブのせいだよ。けっこう暑い土地のドライブは疲れるものだ」
そうかも知れないと三重子は夫にうなずいていた。
とにかく、昨夜はよくねむったような気がする。それにしては、めざめがさっぱりしなかった。
頭痛もだが、頭も体もひどく重い感じが強い。
「久しぶりのバカンスで、頭がぼけちゃったのかしら」
冷たいレモンジュースをボーイに頼み、三重子はプールサイドに咲いているブーゲンビリヤを眺めていた。
殆《ほと》んど一日を化石したようにコテッジにひきこもっていた麻子のところへ、電話が入ったのは、午後五時に近い時間であった。
「失礼ですが、石田研一さんのお友達ですか」
いくらか訛《なま》りのある日本語である。
「わたしは田中といいますが……」
研一が車を借りている土産物店の主人だと麻子は気がついた。
「今、このホテルのロビイに来ています。彼のことでちょっと……」
電話が切れた時、麻子の心に浮んだのは、いいようのない不吉なものであった。
ロビイまでを走った。
田中道三は、がっしりした体つきの如何にも日系人タイプの初老の男であった。
ロビイへ入って来た麻子に名刺をさし出しながらいった。
「石田研一さんと日本から来なさったそうですが……」
「はい、小谷麻子ですが……」
彼がホテルや車のことで、田中の厄介になったことを思い出し、礼をいわねばと考えていたのに、麻子の唇からは別の言葉が出ていた。
「石田さん、どちらにいらっしゃるのでしょうか」
田中の背後から、背の高いアメリカ人が訊ねた。英語であった。
「あなたは、彼といつ、会いましたか」
戸惑いながら、麻子は英語で返事をした。
「別れたのは、昨夜ですが……」
動悸《どうき》がした。
「石田さんに、なにかがあったんですか」
田中が、ぼんのくぼへちょっと手をやった。
「いやぁ、わたしも警察から知らせが来て、びっくりしてしまって……」
「警察……」
麻子は立っているロビイの床が大きく揺れたような気がした。
珊瑚礁
小谷章がグアム島に着いたのは、五月四日の午後であった。
小谷にとって思いがけなかったのは、空港に新倉三重子、いや、今は佐和木良行夫人がたった一人で出迎えてくれたことである。
「麻子さんが、ホテルを出る直前にお具合が悪くなったものですから……」
極度の神経の緊張と過労のせいで、貧血を起したようだといった。
「申しわけありません。私がついていながら……」
三重子の言葉に、小谷は戸惑った。
「麻子は、あなたと一緒にグアムへ来ていたのですか」
ニューヨークへ入った連絡では、石田研一に同行したと聞いていた。
「いえ、私は主人と、麻子さんより一日早く、こちらへ参って居りました」
小谷の顔色をみて、ためらいながらつけ加えた。
「でも、麻子さんをお叱りにならないで下さい。麻子さんはお一人で、ホテルに泊っていらしたんです。殺された方とは別々のホテルですわ」
「なんですって……」
「麻子さんはこれから御案内するCクラブのコテッジにお泊りで、石田さんとおっしゃるカメラマンの方は町中のホテルに宿泊していらしたんです」
思わず、小谷章は嘆息をついた。ニューヨークから、頭の中でがんがん鳴っていたものが、息に音を消したような感じであった。
三重子が空港の玄関のほうをふりむいた。体格のいい、色の黒い日本人が走り寄って来た。
「こちら、田中さんとおっしゃって、グアムで石田さんがいろいろお世話になって……麻子さんのことでも随分お骨折り下さいましたの」
三重子の紹介で、小谷は頭を下げた。
「小谷章です。娘が御厄介をおかけしたそうで……」
田中道三は名刺を出した。グアムの土産物屋の社長である。
「さぞ、御心配だったでしょう。ま、車のほうへどうぞ」
駐車場には、彼の大型のアメリカ車が停めてあった。
「実は、よくグアムへコマーシャル撮影にみえている山城カメラマンの紹介で、今回、はじめて石田さんにお目にかかったのです」
山城から自分の後輩なので、よろしく頼むという電話と紹介状があったと田中は話した。
「最初から、なにもかもお話しますが、私がお待ちしていると、四月の三十日に石田さんが、私の店にみえました。今朝早く着いたがホテルがあいてないので、どこでもいいから紹介してくれないかということでした。一人で来たのかと訊くと友人と一緒だという。その友人はCクラブにコテッジの部屋をとっているというので、そこへ補助ベッドでも入れてもらえないのかといいました。御承知のようにグアムはゴールデンウィーク中は、まず海辺のホテルはどこも満杯なのを知っていたからです。ところが、石田さんはCクラブに泊っているのは女性で、自分にとっては大事な人なので、一緒に泊るわけにはいかない。事情があって同行したが、けじめは守りたいといいますので、これは近頃《ちかごろ》、なかなか、まじめな青年だと思ったわけです」
初老の日系人である田中道三は、多くの日系人がそうであるように、男女の道徳には、むしろ、古風なきびしさを好むタイプのようであった。
「それで、私も本気になってホテルを深してあげたのですが、どうにもありません。仕方がないので町中の少々いかがわしいホテルでしたが、とりあえず寝るだけならと紹介しました」
話せば話すほど、田中道三は石田研一が気に入ったらしい。
「この島は車がないと思うように仕事も出来ませんから、あいている車を一台、貸してあげました。とにかく、そういう人が、殺されたというのですから、私としてもびっくりしまして……」
「それはどうも、重ね重ね、御迷惑をおかけしました。彼は私が前から目をかけていたカメラマンでして、おっしゃるように、なかなか性格のいい奴です。それで、家にも始終やって来て、娘とも友達づきあいをしていました」
「成程、上司の娘さんじゃ石田さんも迂闊《うかつ》なことは出来なかったんでしょうな」
田中は後部の座席へ三重子と小谷をすわらせ、自分は運転席に入った。
「石田君は、いったい、どこでどうして殺されていたのですか」
現金なもので、娘が石田と一緒にホテルに泊っていたのではなかったと知って、小谷は冷静さをとり戻した。
「それが……どうも、私には合点がいかないのですが……」
田中の声がくぐもった。
「ホテルの部屋の中、ベッドの上なのです。私も警察で現場写真をみせられたのですが」
半裸体で仰むけになり、ネクタイが首に巻きついていたという。
「ネクタイ……」
いいさして、小谷章は隣で蒼白《そうはく》になっている三重子の様子に気づいて、質問をやめた。
女性には刺激が強すぎる話である。
ちょうど、車はCクラブへ到着していた。
「まず、お嬢さんをみてあげて下さい。わたしはロビイでお待ちしています」
親切な田中の申し出であった。
コテッジへは、三重子が案内した。
「麻子さんがグアムにいらっしゃったこと、私にも責任がありますの」
ブーゲンビリヤの咲いている道を先に立って、三重子はいった。
「私、主人とグアムへ行くことを、加賀先生の奥様のところの料理教室でお話しましたの。麻子さんもきいていらして……それで、グアムに興味をお持ちになったのかも……」
たまたま、石田がグアムに仕事に行くのを知って、ついて行く気になったのではないかと三重子はいった。
「お母様がおなくなりになったりして、麻子さんお寂しかったのでしょうねえ」
父親は仕事でニューヨークであった。
世間が浮かれているゴールデンウィークを若い女がマンションで一人ぽっちである。
「いっそ、京都の祖母のところへあずけておけばよかったと思います。当人が、東京にいるというので、つい……」
そのコテッジは浜に近いところにあった。
「私が出て行く時は、睡っていらしたんですけれど……」
小谷は、フロントでもらって来たキイでドアを開けた。
麻子はベッドにすわり込んでいた。小谷をみた顔が急にゆがんだ。
「お父さん……」
「起きていて大丈夫か」
父親はぎこちなく、娘の前に立った。
「心配したよ」
「ごめんなさい」
みるみるうちに、涙があふれ出る。
「お茶でもお持ちしますわ」
入口から声をかけて、三重子がドアを閉めて去った。
「田中さんから話はきいたが、なんのためにグアムへ来たのかね」
本社に問い合せた時点では、石田研一は休暇をとってグアムへ来ている。少くとも、彼が籍をおいている新聞社の仕事ではなかった。
「お前は、お父さんがニューヨークへ行く前から、石田君とグアムへ行くことを決めていたのか」
「違います、そうじゃないの」
グアムへ行きたいと思ったのは、加賀家で三重子が夫婦でグアムへ行くと聞いた時からだといった。
「お父さんは、もうニューヨークへ行っていたのよ」
「石田君と遊びに来たのか」
「調べに来たの」
麻子がテラスのほうを眺めた。
きっちり閉めてあるガラス戸のむこうは芝生、その先は海である。人の姿はみえない。
「はじめは、石田君が一人で調べるといったの。でも、どたん場になってあたしもついて行きたくなって……」
「なにを調べる……」
「佐和木さんのことよ」
声を小さくした。
「あたしも石田君も、お母さんが殺されたのは、佐和木良行のことを調べていたからじゃないかと思っているのよ」
小谷は黙った。
その疑いは、彼の中にも濃く広がっている。
「あたし、三重子さんが御主人に殺されるような気がしたの」
佐和木良行の最初の夫人はロスアンゼルスで死亡しているし、二度目の奥さんはイタリアのバリで死んだ。
ドアにノックの音がして、父と娘は口をつぐんだ。
三重子が紅茶を二つ銀のお盆にのせて運んで来た。
小谷章が田中と警察へ行ってくるというと、三重子は麻子のつきそいを申し出た。
「しかし、御主人がお出でになっているのでしょう」
夫婦でバカンスに来ていると聞いていた。
「主人は昨日の夕方、帰国しましたの」
夫婦とも、三日の正午の便で帰る予定だったのだが、
「虫が知らせたんでしょうか。私、昨日の朝、Cクラブまで参りましたの」
一足先に帰国することを麻子に告げて発とうと思ったのだが、そこで、石田研一の変死に直面していた麻子に出会った。
「それじゃ、麻子のために帰国を延ばして下さったんですか」
「主人も心配して居りましたんですけれど、四日に、どうしても東京にいないといけない用事がありまして……」
「それは申しわけのないことをしました」
「とんでもありません。なんのお役にも立ちませんけれど、お帰りになるまで、麻子さんのお傍にいますわ」
三重子の申し出は、或る意味で有難かった。
大きなショックを受けた娘を、外国のホテルの部屋に一人にしておくのは気がかりである。
ロビイへ戻って、改めて田中道三から話を訊《き》いた。
石田研一の遺体は、明日、日本から彼の長兄が到着するのを待って、おそらくこっちで荼毘《だび》に付されて帰国することになるだろうという。
「今のところ、警察の死体安置所にありますが、お会いになりますか」
警察署長とは懇意でもあるので、頼めばなんとかなるという。
「御厄介ですが、よろしくお願いします」
そこへ行くには、やはり車ということで、小谷は田中の助手席へすわった。そのほうが話がしやすい。
「なにしろ、発見されたのが遅くて、わたしがホテルからの知らせでかけつけて行った時は、もう冷たくなっていたんですが、なんというか、とても口惜《くや》しそうな顔をしていたのが印象に残っています」
ハンドルを握ったまま、田中は話し出した。
彼は、小谷章からもらった名刺で、テレビの報道部長の肩書を知り、自分の知っていることをすべて話してしまおうと勢込んでいる様子であった。
「どういう形で発見されたのですか」
ポケットから手帳を出した。心おぼえにメモをとっておこうと思う。
「みつけたのは、部屋の掃除に入ったメイドです。午後三時頃だときいています。わたしの店へ連絡があったのは三時半くらいでした」
ホテルが田中道三に連絡したのは、彼がこのホテルを紹介したからで、
「経営者は中国人ですが、以前からつきあいがあります。なかなかのやりてでしてね」
いわゆるコールガールの組織ともかかわり合いがあるという。
「止むを得なかったのですが、そういうホテルへ石田さんを泊めたのが間違いだったかも知れません」
何年か前にも、米軍の兵隊がコールガールとトラブルをおこして、女を殺害するという事件があった。
「しかし、よもやと思いました。よもや石田さんが、こんなことになろうとは……」
警察はグアムの市の中心にあった。
田中は、ここでも顔がきくらしく、ちょっと断っただけで、警官が死体安置所へ案内をしてくれた。
ひんやりした暗い奥から、金属の箱がひき出されて、その中に、石田研一の変り果てた体がおさまっている。
顔はすっかり面変りしていた。田中のいう通り、無念そうな表情とみえないこともない。
合掌して、小谷は警官に礼をいった。
別室で、死体解剖の医師の所見をみせてもらった。
英語で書かれたそれは、ひどく簡単なものであった。
死囚は絞殺による窒息で、毒物反応はない。
「この前、医師から聞いたんですが、酒も飲んでなかったそうですよ」
田中が傍からいった。
その他の死体の外傷としては後頭部にかなりな内出血がみられることが記録にある。
「背後から、いきなり鈍器のようなものでなぐられて、気を失ったところをネクタイで絞殺されたんじゃないかと思いますよ。そうでもなければ、あんないい体をした青年が無抵抗でやられるわけがありません」
自分は若い時分に警官をしていたことがあると田中は打ちあけた。
「男が争った場合、もっと外傷がありますよ」
「犯人は男だと思いますか」
「女でもやれないことはないですが、女が何故《なぜ》、石田さんを殺しますかね。あのホテルに出入りする女はまずコールガールです。素人は絶対に泊りませんよ」
「コールガールなら、金のトラブルということもあるでしょう」
「その場合は、女のヒモが出て来るでしょうな。女が客を殺して金をとるということはこの土地ではまあ、考えられません」
警察からは再び、車でそのホテルへ向った。
「グアムも、年々、物騒にはなっています。我々にとっては、まことに残念なことですが、あっちこっちから難民が入り込んで来ていまして、貧《ひん》すれば鈍《どん》すですか、そういう連中が買い物に来るようなマーケットでは財布を出すな、支払はポケットから小銭を出して手早くやれ、というくらいのものです」
土地の人間は気をつけているからまだましだが、一番、ねらわれやすいのが旅行者で、観光やショッピングの最中にハンドバッグをひったくられたり、夕方、一人で歩いていて、金をとられたなどという話は珍しくもない。
「殊に日本からくるハネムーンなどは、リゾート地のムードに浮かれて、夜でもホテルの外をうろうろする。ものをとられるだけならまだしも、女の人が暴行されたり、男が殺されたりというのも、年に何回かはあるのですよ」
売春のトラブルも少くない。
「警察は、石田さんの場合も、その種のケースではないかといっているのですがね」
コールガールは客との金銭上のトラブルがおこると、すぐ近くにいる情夫に連絡をする。
男が客と交渉して、話し合いがこじれると殺人もままある。
「そういうのは、世界各国、どこでも同じだと思いますが……」
ホテルは木造であった。
粗末な玄関のドアを開けると右側に小さな窓口があり、ベルがついている。
「泊り客はこのベルを押すと、奥からマネージャーが出て来て、値段の交渉をし、客が金を払うと、部屋の鍵を出してくれるのです」
普段は受付に誰《だれ》もいない。
部屋は鍵《かぎ》がないと入れない仕組だから、それで、別に不都合はないようであった。
田中がブザーを押すと中年の女が出て来た。
田中をみて愛想笑いを浮べる。
「部屋をみせてもらうよ」
英語でいい、田中は女にチップを握らせた。
女はうなずいて、鍵を出してくる。
部屋は全部、廊下の左側にだけ並んでいた。
石田研一の泊ったのは、二階の階段を上ってすぐのところであった。
狭いところにベッドとテーブルと椅子が二つ、部屋のすみに洗面所と、それだけである。
殺風景なくせに、カーテンや電気の笠《かさ》だけが、けばけばしい。
死体が運び去られて二日を経過した部屋の中は、格別変った様子もなかった。
おそらく、今夜あたりから、この部屋も平常通り、客を入れるに違いない。
「石田君の場合、金を盗られていたのですか」
部屋を見廻して、小谷が訊ねた。
「いや、それが、彼はパスポートとドルをCクラブのホテルのセフティボックスにあずけておいたのですよ」
麻子の泊っているホテルであった。
たしかに、そのほうが用心がいい。
「財布にもいくらか入っていたと思いますが、警察の調べでは、彼の上着のポケットにあった財布には、金は一ドルも入っていなかったそうです」
金銭上のトラブルによる殺人というのは、そのあたりから出たものらしい。
「石田君の相手をしたという女は、わかっているのですか」
「いや、警察で調べた限りでは、誰も名乗り出て来ないそうです。それはそうでしょう。下手に名乗り出たら危いと思っていますからね」
ホテルのほうも口をとざしていた。
もっとも、事件のあった二日の夜に、石田研一がホテルへ何時頃、戻って来たのか、女を同行していたのか、みた者は一人もないというのが本当のところらしい。
「大体、このホテルを利用するのは、休暇中の米軍キャンプの兵隊が多いんですよ。そういう点でも、捜査は厄介ですな」
おそらく、今度の事件も迷宮入りになる可能性が強いというのが、田中の意見であった。
ホテルの外へ出ると、もう日が暮れていた。
安っぽいネオンがついている。
南の島の、こんな安ホテルで死んだ石田研一が哀れであった。
小谷にとって、彼は気持のいい青年であった。
ひょっとすると、娘を奪って行かれるかも知れないと思ったこともある。彼なら、それも止むを得ないと考えていた節もある。
その彼がコールガールとのトラブルで殺されたとは信じたくもなかった。まして、彼はグアムへ麻子と共に来たのであった。
「わたしも、石田さんが女を買ったとは思えません。そうではなくて、日本人は金を持っていると思われて、悪い奴に、ねらわれたんじゃありませんかね」
田中は小谷をCクラブのホテルまで送って、そういった。
麻子は五月六日に、父親と共に日本へ帰って来た。
石田研一の死は海外旅行者の不運な事故として、日本の新聞にも取り上げられたが、その記事は小さなものであった。
無論、麻子の名はどこにも出なかった。
一人のカメラマンが休みをとってグアムへ行き、ホテルで殺されて金を奪われたというだけのものである。
その記事を読んだ大方の人は、だから外国は怖しいと思い、そのくせ、自分は決してそんな事故には遭わないだろうと思っていた。
小谷章はグアムのホテルにいる間も、日本へ帰ってからも、何度となく麻子と話し合った。
二人がグアムへ到着した三十日の早朝から、麻子が彼と別れた一日の夜までの出来事を細大|洩《も》らさず、繰り返し訊ねてはメモをとった。
その結果、或ることに気づいた。
一日の夜、麻子が石田と別れた時刻が、どうも、一つ、はっきりしないことである。
彼女の説明は、夕食をホテルで済ませて、それからコテッジまで送って来てもらって、少々、話をして別れたという。彼の帰った時刻については、時計をみなかったのでわからないと答えた。
おかしいと小谷が考えたのは、その点であった。
普通、自分の部屋に誰かが来ていて、話に夢中で時間の経《た》つのを忘れたということはある。その人物が帰ってしまってから、ホテルの場合なら、着がえをするか、風呂《ふろ》に入るか、なんにしたところで、はて、今は何時なのかと時計をみるものではないだろうか。少くとも、人はベッドに入る時には、大抵、時計をみる。
麻子が仮にベッドに入るまで時計をみなかったとしても、寝たのが何時だったから、石田が帰って行ったのは、ほぼ何時ぐらいという見当がつく筈であった。
その、ほぼ何時というのさえ、麻子はくちごもっている。
ひょっとすると、石田は麻子がねむっているうちに帰ったのではないかと思い、小谷は心が蒼《あお》ざめた。
部屋にいた男がいつ帰ったのかも知らないでねむっていたというのは、麻子がどういう状態だったか、父親として、それを想像するのは不快だった。考えたくもないことである。
仮に、グアムで麻子と石田の間に、なにかがあったとしても、それは追求するまいと小谷は決心した。
とにかく、石田が最後にCクラブのコテッジを出たのは、かなりな深夜だったと考えるのがよさそうである。
麻子の部屋を出て、石田はどこへ行ったのだろう。
白分の泊っているホテルへ帰ったにしては、車が、翌朝、コテッジの前に停めてあったのが、ひっかかる。
これは一つの鍵であった。
石田は、田中から借りている自分の車で、ホテルへ戻ったのではない。
とすると、なんで彼はホテルへ帰りついたのだろう。
歩くには、いささか距離がありすぎる。
タクシーとするには必然性がなかった。彼は自分が運転出来る車をCクラブのコテッジの方へおいてあるのであった。
他人の車に乗せて行ってもらったというのは、どうだろうか。
石田は麻子のコテッジを出たあとで、誰かに会った。
その人物の車でホテルへ帰ったという推定にも無理があった。
他人の車でホテルへ帰ったら、翌日、石田はCクラブの麻子のところへ来るのにタクシーを使わなければならない。折角、田中の貸してくれた車があるのに、そんな割の合わないことをするだろうか。
唯一つ考えられるのは、石田が酔っていた場合であった。自分で車を運転するのは危険だから、誰かに送ってもらうか、タクシーで帰ったということはあり得る。
しかし、石田の解剖所見では、彼の体内にアルコールは残っていなかった。車の運転が出来ないほど酩酊《めいてい》していれば、その痕跡《こんせき》が解剖結果に出ない筈はない。
小谷は、麻子が自分と同じことを考えているのを知った。
石田は自分の意志でなく、あのホテルのベッドの上に運ばれて行ったのではなかろうか。
これは、行きずりの殺人ではなかった。
石田に対して、そんなことの出来るのは誰なのか。
「石田君が、あのホテルに泊っているのを知っていたのは誰だと思う」
父親の問いに、麻子は指を折った。
「あたしと田中社長と……」
「三重子さんは……」
「知らなかったわ。あたし、気をつけてみていたの、三重子さんは、そういうホテルが、どこにあるのかも知らなかったみたい……」
石田研一の死のショックの中で、麻子は、かけつけてくれた三重子の反応に注目していた。いや、三重子というより、三重子の夫に疑惑の眼を向けていたに違いない。
「三重子さんは、石田君のことも知らなかったのよ。会ったこともなかったし……」
それは石田もいっていた。
「僕は佐和木夫妻には顔を知られていないからHホテルへ行って様子をみてくる」
といい、麻子が佐和木夫妻に接近した日にもHホテルのロビイに、そ知らぬ顔で来ていた。
「御主人のほうはどうなんだ。佐和木氏のほうは……」
彼は三重子の知らせで、麻子の知人が変死したことを知り、出発を夕方に延ばして、Cクラブへ来てくれた。
「これといっておかしな様子はなかったけれど……」
石田研一という麻子の友人が町中のホテルで殺されたというニュースに対して、格別、オーバーな驚きもみせなかった。むしろ、眉《まゆ》ひそめて話をきき、三重子には、
「女は女同士というから、お嬢さんのお力になってあげなさい」
といったりしていた。
「佐和木氏も、石田君を知らないんだろうな」
父親に念をおされて、麻子は考え込んだ。
「むこうは知らないと思うのよ」
「ということは、石田君は佐和木氏をみたことがあるんだな」
「ええ」
「グアムへ来てからか」
「そうじゃなくて……渋谷で彼をみかけたのよ」
そうだったと、麻子は思い出していた。
加賀家で三重子が夫婦でグアム旅行に出かけるときいた日に、麻子は石田研一を渋谷へ呼び出した。
「人を疑うのはいけないことだけど、お父さんも知ってるように、佐和木さんは二度も前の奥さんを外国でなくしているでしょう。その度に、彼は奥さんの財産を相続しているし、疑えば疑えないこともないじゃない。だから、もしかして、三重子さんの場合も、そうなるのじゃないかと気になって、石田君に相談したの」
「それで、彼はグアムへ行く気になったんだな」
「彼は、あたしほど、疑ってはいなかったけれど」
その渋谷の公園通りで石田と待ち合せた時に、たまたまホテルから出て来てタクシーに乗って行く佐和木良行を目撃したものである。
「あたし達、それから六本木の佐和木さんのお店を見に行ったの。何故かというと、渋谷のホテルで、やっぱり佐和木さんのお店の女店員の人もみかけたものだから、なんとなく、お店のほうはどうなってるのかと思ってね」
「どうなっていた」
「別の女店員の人がいたの。若いアルバイトみたいな人……」
「どんな人なんだ。もう一人の女店員……その、渋谷のホテルでみかけたというのは……」
「冴えない人よ。中年の……地味な感じの」
「美人だとか、色っぽい女だとか……」
「どっちでもないわ。あたしがみてもつまらない人……魅力なんて全然ない………」
小谷がちょっと考え込んだ。
机の上のメモを、もう一度、読み直してから訊ねた。
「君たちが六本木の佐和木氏の店へ行った時、佐和木氏は帰って来ていたのか」
「いなかったわ。だから、石田君は彼とは会っていないのよ」
石田のほうは佐和木をみたが、佐和木は知らない筈だと麻子は繰り返した。
「それは、どうかな」
小谷が煙草に火をつけた。
「もしも、佐和木氏が、石田君を知っていたと仮定すると、とんでもないことになるぞ」
石田も麻子も、佐和木は石田を知らないと思い込んでいる。しかし、佐和木は石田を麻子の友人と知っていて、それとなく眺めていたとしたら、Hホテルでそ知らぬ顔で佐和木夫妻と麻子を見張っていた石田の行動を、佐和木がなんと思ったか。
「それと、石田君が変なことをいったのよ」
あれは、一日の夜であった。
「三十日の夜に、彼は浜辺をパトロールして、なんとなく佐和木さんを見張ってた筈なんだけど、面白いものをみたって……」
「三十日の夜にか」
「そうなの、それを一日の昼は黙っていて、夜になって、やっと打ちあけたの」
「面白いことって、なんだ」
「それが、聞きそびれたの」
「聞きそびれた……」
麻子はうつむいた。肝腎《かんじん》の話を聞きそびれたのは、そのあと、突然に二人の愛の時間がやって来たからであった。
三十日の夜に目撃した面白いことというのを、石田はとうとう、麻子に話すことなく、あの世へ行ってしまった。
「それが、彼の命とりになったのかも知れんな」
娘の変化には気づかない素振りで、小谷は低く呟き、煙草を灰皿にこすりつけた。
三重子はグアムから帰って、落着かない日を過していた。
何故、こんなにも心が落着かないのかと思う。麻子の友人の若いカメラマンが殺されたというショッキングな出来事のせいかも知れなかった。
その週末に、三重子は一人で箱根の加賀家の別荘へ出かけた。
最初は佐和木も一緒の予定だったのだが、
「店の商品の整理をしなければならないんだ。すまないが、君だけ加賀先生のお手伝いに行ってくれないか」
土曜、日曜を店を閉めて、模様替えをするという。
「私もお手伝いしましょうか」
「店員を日曜出勤にしたからいいよ、それより、加賀先生の奥様は君をあてにしていらっしゃる。行かないと失礼だよ」
たしかに、それはそうであった。
加賀利之が親しい友人知人を招いてのゴルフ大会で、終ったあとは、加賀家の別荘でちょっとしたパーティを開く。
土曜の朝に、三重子は加賀静子と築地《つきじ》に買い出しに行った。
それらの材料を氷づめにして車に積み、岸井が運転をして箱根へ向った。
利之は、すでに早朝、仲間の車に乗って仙石原《せんごくはら》のゴルフ場へ向っていた。
箱根の別荘は仙石原の高台にあった。
ちょうど、ゴルフ場を見下す場所である。
「ああ、やってる、やってる」
早速、エプロンをつけながら、静子夫人はテラスからゴルフ場を眺めて笑い声を立てた。
加賀利之のワインレッドのセーターが緑の濃くなった芝生によく目立つ。
静子が料理の下ごしらえにかかっているうちに、三重子は岸井と二人で、別荘中の掃除をした。
ゲストルームが四室もある山小屋風の別荘は掃除だけでも、けっこう手がかかる。
広い庭に物干場を作って、夏布団を干したり、乾燥機を廻してベッドパットを乾かしたり、仕事はいくらでもあった。
「かわいそうね。岸井さん、ゴルフも出来ないで……」
三重子が同情すると、岸井は嬉《うれ》しそうに笑った。
「僕は明日、先生と水入らずでゆっくり廻りますよ」
「小父様、二日も続けてなさるつもり……」
「そうでもなけりゃ、箱根くんだりまで来やしませんて」
この別荘の調理場は下手なレストランよりも、よく出来ていた。
レンジもオーブンも、静子の特別注文でプロ並みのが備えつけてある。
三時頃からは、三重子も調理場へ入った。
客用のダイニング・ルームの飾りつけがすむ頃に、ゴルフ場から全員がひきあげて来た。
早速、加賀家自慢の岩風呂へ男ばかりがぞろぞろ入って、
「三重子さん、バスローブをおもちして……」
静子が声をかける前に、三重子は十五人分のバスローブと浴衣を脱衣場へ運んでいた。
リビングへ戻ってくると、五、六人の男たちがテラスで談笑している。
流石《さすが》の加賀家の岩風呂も、七、八人が限度なので、二回に分けてということらしかった。
「なにか、お手伝いすることがありましたら、いって下さい」
聞きおぼえのある声が近づいて、三重子は目を見張った。
小谷章が一日でまっ黒になった顔をこっちへむけて会釈をしている。
「先だっては、娘がご厄介をおかけしました。お礼にうかがわねばと思いながら、まだ、帰って来たばかりで……」
「いつ、お帰りになりましたの」
「六日です」
三重子は四日の最終便で帰国していた。
「それじゃ、まだ、お疲れでしょう」
なにも知らない加賀が、強引に誘ったのだろうと思った。
「麻子は今日、京都の祖母が上京して来ますので……」
亡妻の納骨の打ち合せだといった。
「僕も、パーティにだけ出させて頂いて失礼します」
「小谷さん」
これも、グアムの事件を知らない静子が台所から声をかけた。
「三重子さんと一緒に地下室からワインを出して来て下さらない。お好きなのがあったら、なんでも御遠慮なく……」
「それは、願ってもない役目ですね」
地下室は物置の横から入るようになっていた。
重い扉の鍵をあけると、ワインの貯蔵室になっている。
「たいしたものですね」
ワインの瓶を眺めて感嘆しながら、小谷はさりげなく、三重子に訊ねた。
「佐和木さんは二十九日からグアムでしたね」
「ええ」
「折角のバカンスをとんだ事件の巻きぞえにして、すみませんでした」
「そんなことより、犯人はあがりましたの」
「おそらく迷宮入りでしょう、金をめあての犯罪が激増しているそうですから……」
Hホテルは如何《いかが》でしたと小谷は訊ねた。
「あそこは食事なども、グアムではいいそうですね」
「まあまあでしょうか。一度だけ町中の中華料理屋へ参りましたけれど、そこがおいしいようでしたわ」
「グアムは最近、物騒で、夜の外出はしないほうがいいらしいですね」
「出ても、なにもありませんもの。せいぜいポルノ映画ですって……」
三重子が少し笑った。
「私達も、ずっとホテルに居りました」
「三重子さんは、夜、ねむれるほうですか、僕は旅に出ると、まず最初の晩が駄目で……」
「私も、そうなんですけれど、今度の旅行はよくねむれましたわ」
「失礼、お宅はハネムーンでしたね」
小谷が笑い、三重子は赤くなった。
「いやですわ、そんな……」
ワインの瓶を白と赤と三本ずつ、えらび出して小谷はそれを籠《かご》に入れ、先に地下室を出て行った。
扉の鍵を閉めながら、三重子は、なんとなく、小谷との、今の会話を脳裡《のうり》に浮べていた。
たしかに、グアムでは、よく睡ったような気がする。
別に激しい夫婦のいとなみがあったわけではなかった。
佐和木の年齢からいっても、毎夜ということはない。
むしろグアムでは、着いた夜ぐらいのものであった。
三十日の夜も、一日も、三重子はベッドへ入ると、ひきずりこまれるほどねむくなった。
あの睡気は、まるで睡眠薬でも飲んだようだったと思い、三重子は愕然《がくぜん》となった。小谷章は、なんのためにグアムの夜の話をしたのだろうと考えた。
夜の食事はどこでしたか、夜は外出をしなかったか、夜はよくねむれたか。
彼は三重子のことを訊ねたようにみせて実は佐和木の動静を知りたかったのではあるまいか。
夫婦が二人でプライベートな旅行をすれば、夫婦の行動は大体、同じものになる。
小谷が知りたかったのは、佐和木良行がグアムのHホテルから、夜、外出しなかったかということではなかったのだろうか。
それは、小谷が石田研一の殺人事件に、佐和木がなんらかの形でかかわり合いがあると疑っているからに違いない。
夫は、ずっとホテルにいた、と三重子は自分にいいきかせた。
夕食は一緒だったし、そのあともホテルの部屋で南国のカクテルを飲み、ゆったりした時間を過した。
いや、一度だけ佐和木がいなくなったことがあった。
あれは、三十日の夜、ショウの途中からみえなくなった夫を探して浜辺を歩いた。
夫と村林光江が、なにかいい争いをしているのを目撃した。
夫が三重子の傍を離れたのは、その時だけであった。
石田研一が殺されたのは、一日の夜のことである。
それでも、三重子はまだ立ちすくんでいた。
グアムの夜、ひどく眠気をおぼえたのは三十日と一日の夜ではなかったか。
そして、翌朝のめざめはひどい頭痛がして、一日中、体の調子がおかしかった。
あれは、いったい、なんだったのか。
佐和木はドライブの疲労か、カクテルの酔いのせいだといっていた。
だが、今の三重子は、そのどちらでもないように思えてならない。
もしも、睡眠薬で、三重子がぐっすりねむらされていたとしたら、彼女がねむっている間に、佐和木がホテルの部屋を出て行ったとしても、三重子にはわかろう筈がなかった。
「三重子さん……」
静子の呼ぶ声がして、三重子は慄《ふる》える足をふみしめるようにして地下室の石段を上って行った。
彼女が佐和木良行に対して、最初の疑惑を待ったのは、この時からである。
戸 籍
七月になって、佐和木良行は骨董《こつとう》の買いつけのためにメキシコへ行くことになった。
「商用はメキシコシティとグアダラハラだけだが、もしも、君が行くのなら太平洋側のリゾート地でゆっくりしてもいいし、興味があるならユカタン半島の遺跡見物をしてもいいよ」
一緒に行かないか、と誘われて、三重子はためらいがちに断った。
「申しわけありませんけど、加賀事務所が忙しいの。加賀先生もあたしを頼りにして下さってるし……」
それは事実であった。
このところ、厄介《やつかい》な外交問題が続出していることもあって、アドバイザーとして加賀利之の活躍が目立っている。
原稿の執筆量も増えているし、外国からの非公式な客も多かった。
もともと、こぢんまりした加賀事務所では仕事が出来るのは三重子と岸井保ぐらいのもので、殊に三重子の場合は外国語に堪能《たんのう》というだけではなく、元外交官、新倉隆光の娘ということも、この際、加賀のために役立っている。
そんなわけで、日本を離れられないという三重子に、佐和木良行はまことに残念そうであった。
「それじゃ、一人で行くけれども、もしも、加賀先生のほうのお仕事のきりがついたら、あとからでも来てくれないか。メキシコへ連絡してくれれば、予定変更が出来るようにしておくよ」
「もしも、そういうことになったら、ホテルへお電話します」
むげに拒絶も出来なくて、そういったが、三重子の本心はメキシコへ行く心算《つもり》はなかった。
むしろ、佐和木の留守にどうしても調べたいことがある。
七月十日に、佐和木良行はバンクーバー経由、メキシコシティ行の便で成田を出発して行った。商用のスケジュールは、およそ十日ばかりである。
翌日、三重子は佐和木良行の戸籍謄本《こせきとうほん》を取りに行った。
夫にうしろめたい気持もあったが、グアム旅行以来のもやもやした疑惑を自分の手で払いのけたいと思う。
彼の本籍地は横浜であった。
市役所へ行って戸籍謄本を受け取り、近くの喫茶店へ行って開いた。
梅雨は、まだ上っておらず、今日も降ったり、やんだりの空模様である。
謄本をみて、はじめてわかったことは、佐和木が横浜に本籍を移したのは、長沼春美と結婚した際で、それ以前の本籍地は宮城県仙台市であった。
結婚は三重子を含めて三度で、最初の結婚相手は戸山悦子、昭和五十一年三月二十日に婚姻届が出ており、翌昭和五十二年七月三十日、悦子の死亡により婚姻解消となっている。
二度目が、長沼春美で、こちらは昭和五十四年十月三十日に婚姻届が受理されて、その折に、佐和木良行は自分の本籍を彼女のほうへ移している。春美が死亡したのは、一昨年、昭和五十六年六月で、彼女との結婚もそれで終っていた。
三重子が入籍されたのは、今年一月十二日になっている。結婚式をあげてから一か月近くも入籍が遅れたのは、年末年始で佐和木が多忙だったせいであろう。
最初の結婚生活が一年少々、次が二年足らずであったことに、改めて三重子は注目した。
それだけをみると佐和木良行は女房運の薄い男だったといえる。
横浜の市役所へ戻って長沼春美の父親の謄本を取ってみた。
佐和木の謄本の中の長沼春美との婚姻の記載の中に、彼女の父親の名前と本籍があったからである。
春美の父親は長沼忠三郎、母親は花といった。どちらもすでに死亡している。春美に兄弟はなかった。
それから気がついて、春美の前夫の笹本俊吉の謄本も取った。
笹本家と長沼家は同じ横浜の隣町であった。
ひょっとすると、春美と笹本俊吉は幼なじみだったのかも知れない。年齢も三つしか違わなかった。俊吉は長沼家へ養子に入ったのであった。
笹本俊吉が死亡したのは昭和五十二年十二月になっている。両親も兄弟もない。
「なにか、お調べなんですか」
突っ立ったまま、謄本を眺めている三重子に、初老の係員が声をかけた。たて続けに三通も謄本を取った彼女に不審をもったらしい。
「実は……」
咄嗟《とつさ》に返事が思いつかず、三重子はある程度、本当の嘘をいった。
「私、一人娘なので、主人が私のほうの籍へ入ってもよいと申し出てくれましたのですが、私の親類が主人に二度、離婚歴があるので、なにか厄介なことがないか心配しておりますものですから……」
それだけで、相手は了解した。長年、戸籍係をやっていると、そうしたトラブルの例をみているのかも知れなかった。
「成程、それで、ご主人の前の奥さんの実家をねえ」
長沼さんのほうは知らないが、笹本さんの家は近所だったから、と係員は人のいい顔で話し出した。
「この俊吉さんという人のおじいさんの代から骨董屋でしてね、わたしはずっと同じ町内だったから……」
「俊吉さんのお店は東京の六本木のほうではありませんの」
それが、現在の西洋骨董「佐和木」の筈であった。
「俊吉さんの代でね、横浜に見切りをつけて、東京へ店を出したんですよ。なかなか、やりてだったが、惜しいことに早死にしてね」
やっぱり人間は、がむしゃらに働きすぎると長生きは出来ないと、ぼつぼつ定年近い係員は苦笑している。
「俊吉さんに御親類はないのでしょうか」
俊吉の両親は死亡していて、兄弟のないことは、謄本でわかった。
「俊吉さんの従兄弟に当る人がその住所の近くにいますよ。雑貨屋をしていましてね」
店の場所を教えてもらって、三重子は外へ出た。
雨はやんでいる。
市役所からタクシーで十五分ばかりのところに、笹本ストアはあった。
小さな店だが、一応、近頃はやりのスーパーマーケットの体裁になっている。
若いアルバイトに訊くと、笹本市夫は店の裏の倉庫で商品のチェックをしていた。
長沼俊吉のことで訊ねたい、というと、眉を寄せて三重子を眺めたが、思い直したように口を開いた。
「あの家の者は、みんな死んじまったがね」
「それで、こちらへ参ったのですが……」
「なんです。いったい……」
「俊吉さんは、東京へお出になって、随分成功なさったそうですが……」
「あいつは商売が旨いからねえ」
「奥さんも、この近くの方だそうですが」
「春美さんかい」
くしゃっと顔をしかめた。
「あれは、いやな女でね」
長沼家は隣町の質屋だったといった。
「俊吉が死んだあと、未亡人になって東京の店の女主人におさまってさ。週刊誌だかなんだかに、さも自分の力で店を成功させたようなでたらめを喋ってね。たしか、親代々、骨董屋だったようなことも書いてたが、あれは養子に入った俊吉の実家のことで、手前の家は質屋なんだ」
「どうして、養子に入られたんですか」
俊吉には兄弟はない。
「そこが、春美って女の強引なところでね、手前が一人娘だもんで、俊吉に結婚したけりゃ聟に入ってくれって……、まあ、俊吉のほうは両親も死んじまって反対する者もなかったし、春美って女に惚れちまっていたからねえ」
もっとも、笹本家の本家は、自分のところで、俊吉の父親は分家だといった。
「それにしたって小糠三合あったら養子になんぞ行くものじゃねえ。女房にこき使われて死んじまっちゃあ、割が合わねえや」
「御病気、なんでしたの」
「高血圧だったんだと。酒は好きだったからねえ」
「奥様のほうも、外国で歿《なくな》られましたでしょう」
「再婚してね。まあ、天罰だな」
だんだん、口がほぐれて来て、スーパーマーケットの主人は俊吉が成功している時に、昔風の雑貨屋をスーパーに改装する費用を貸してもらう約束をしていたのに、俊吉が急死すると、あっさり、春美から借金を拒絶されたことまで話した。
彼が春美を悪くいうのは、そのせいでもあるらしい。
店員が主人を呼びに来たのをきっかけに、三重子は礼をいって別れた。
特にたいしたことが、わかったわけではなかった。
佐和木良行の二番目の妻は、横浜の質屋の一人娘で、近所の骨董屋の一人息子と恋愛結婚をして、夫の才覚で、東京の六本木に店を出した。夫が高血圧で死亡したあと、いい加減な手記を女性週刊誌に発表して「アンティーク長沼」の女主人におさまっていたところを、佐和木良行と知り合って再婚したものである。
番町のマンションへ帰って来て、三重子は佐和木良行の一番目の妻の戸籍調べにかかっていた。
戸山悦子の前夫は品川区に住んでいた。
出身地は東京で、職業は貿易商である。夫婦の間に子供はなく、彼には兄があったが、戦争中に死亡している。両親はすでにない。
悦子の親は仙台であった。
それがわかった時、三重子は、おやと思った。
佐和木良行の元の本籍は仙台市であった。
二人とも、仙台出身ということに、気持がひっかかる。
仙台まで行って来なければと思いながら、三重子には暇がなかった。
加賀利之は、相変らず精力的に仕事を消化している。
「三重子君、佐和木君は、まだ、メキシコから帰らんかね」
その日、加賀に訊かれて、三重子は校正中のゲラから顔を上げた。彼女が朱筆を入れていたのは、加賀利之が近く出版する本のゲラである。外国語の引用が多いので、この校正は利之自身か、三重子でもないと難かしい。
「予定ですと、来週になりますけど……」
「困ったな」
六本木の店に、古伊万里の、ちょっとしたものはあるかと訊かれて、三重子はうなずいた。
「古伊万里は、彼が好きで、かなりあったように思います……」
「みせてもらってもいいかな」
近く来日するアメリカの友人が、古伊万里に造詣が深い、と加賀はいった。
「彼には少々、厄介な頼みごとばかりしているのでね。贈り物にしたいんだ」
どうせ買うなら、佐和木の店でといわれて三重子は素直に喜んだ。
「だったら、ご一緒しますわ」
佐和木良行が留守でも、店の品物のことなら見当がついた。値段は店のリストをみればよいし、佐和木が帰ってくれば、ある程度のサービスもしてくれるに違いない。
「それじゃ、これから行ってみようか」
珍しく、加賀自身が車を運転して六本木へ出た。
店の扉を開けてみると、若い女店員がびっくりしたような顔をした。
「お客様を御案内したのよ」
アルバイトの女の子だから、くわしい説明の必要もなかった。
三重子は店の奥へ加賀を案内して、自分で戸棚から古伊万里の桐箱を次々に出して来た。
加賀は一つ一つ、丁寧に箱の蓋を開けて、内の品物をみていた。
大皿と壺が多い。
「なにか、もう一つ変ったものがないかな。先方さんは、かなり古伊万里を持っているのでね」
普通のものでは喜ばないだろうと加賀にいわれて、三重子は二階の佐和木の自室にごくしゃれた古伊万里の香炉があるのを思い出した。
単彩の唐草模様だが、専門家からみると、形といい、デザインといい、なかなか珍しいと、佐和木が自慢していたものである。
「ちょっと、お待ちになって……」
店の奥の階段を上った。
なんの気もなく佐和木の部屋のドアを開けて、はっとしたのは、佐和木のベッドに女が寝ていたからである。
むこうも、突然の侵入者に慌《あわ》てたようで、ベッドから起き上ったところであった。
村林光江は、着衣のままであった。
三重子に、ふふんというような薄笑いを浮べて、ゆっくりベッドを下りる。
「どうしたの、気分でも悪かったの」
そう判断したのだが、光江は返事もしない。
加賀を待たせているので、三重子はそれ以上は訊かず、樫《かし》の古風な箪笥《たんす》を開けた。
不審に思ったのは、この前、佐和木がそこをあけた時、ぎっしり木箱が入っていたのが、一つもなくなっている。
「なにか、お探しですか」
だるそうな口調で、光江が訊いた。
「唐草の香炉があったでしょう。古伊万里の、すてきな……」
「あれ、もう売りましたよ」
「売れてしまったの」
意外であった。
佐和木は、よくよくでないと売りたくないような口ぶりであった。
「とっくですよ」
なにを今頃、とせせら笑うような調子に、三重子は不快を飲み込んで箪笥を閉めた。
光江は、ベッドの前に立ちはだかるようにして動こうとしない。
仕方なく、三重子は一度、階下へ戻った。
「申しわけありません。思っていたものがみつかりませんの。佐和木に電話をして訊いてみますわ」
加賀は四面に四季の花を描いた変型の壺を眺めていた。
「無理をしなくていいよ。これはどうかと思ってね」
たしかに、それも悪くなかった。値段も、加賀の予算に合うという。
「とりあえず、これをゆずって頂こうか」
三重子に異存はなかった。
「佐和木が戻って来ましたら、お値段はせいぜい勉強させて頂きます」
佐和木にしても、加賀を相手に儲けようとは思うまい。
「そりゃあ、有難いが、商売は商売だ。わたしにしてもどうせ金を払うなら、佐和木君の店でと思った気持が通じないことになる。迷惑にならないように、三重子君が気をつけてくれないと困るんだよ」
そういうところは、デリケートな心くばりをしてくれる加賀利之であった。
「ありがとうございます。申し伝えますわ」
丁寧に木箱へおさめて包装をした。
「お持ちになるのでしたら、店員をお供させます」
事務所は閉ったあとである。
「勝手を申してすみませんけれど、ついでに店の用事をして帰ります」
「いいとも、それじゃ、わたしは帰るよ」
壺の包みを大事そうに抱えた女店員が加賀の車に乗った。
「お供が終ったら、あなた、まっすぐ帰っていいわ」
この店も閉店時間であった。
車を見送って戻って来たが、村林光江はまだ二階から下りて来ない。
時計をみて、三重子は店の表を閉めた。
階段に足音がしたのは、その時で、村林光江はワンピースの上からガウンを羽織って店へ出て来た。
シルクの男物のガウンに、三重子は見覚えがあった。
結婚祝に加賀静子が三重子のとお揃いで贈ってくれたものであった。
佐和木のはグレイのまじった紺で、三重子のはワインレッドである。
それを、いつの間に佐和木は店の二階の部屋へおいたのか。
そういえば、軽くて重宝《ちようほう》だからと、外国旅行用に持って行ったことがある。
番町のマンションでは、冬の間はカシミアのガウンを使っていたし、夏が近くなってからはタオルのバスローブをガウン兼用にしていた。
「それ、主人のガウンでしょう」
思わず、とがめた。
いくらなんでも使用人が主人のガウンを無断で着ることはない。
「少し、気をつけて下さいな。主人が留守だからといって、主人のベッドにやすんだり、ガウンを着たり、それじゃ、あんまりけじめがなさすぎるでしょう」
光江が肩をすくめるようにした。
「あなたの御主人が、かまわないっておっしゃったのよ。ベッドに寝ることも、ガウンを着ることも……」
「どういう意味ですか」
「さあ、御主人におききになってみたら……」
デスクの前の椅子にかけて、煙草をひき出しから抜いた。火をつける。
煙草は佐和木が時折り愛用するのと同じものだったし、ライターはカルティエの特別製で、それは明らかに佐和木のものであった。
「村林さん……」
気をとり直して、三重子は彼女の前に立った。
「あなたに、一度、お訊ねしてみたいと思っていました」
「なんでしょう」
煙を三重子の顔へむけて吐いた。
化粧っ気のない肌が、どことなく、ぬめっとした感じがする。体のすみずみにまで倦怠の気配があって、それが、こうして向い合っていると不思議な色気になっていることに、はじめて三重子は気がついた。
今までは、平凡な、無味乾燥な女店員という印象しかなかったものだ。
「五月の連休に、あなた、グアムへ来ていたでしょう」
光江が薄い唇をすぼめた。
「それが、どうかしまして……」
「夜、主人とコテッジの外で、いい争いをなさっていたみたいだったけど……」
不自然に、光江が視線を宙に浮かした。
「そんな古いこと、もう忘れました」
「五月よ。つい二か月前のことですわ」
「私、昨日のこともおぼえていませんの」
声もなく笑ったのが不気味であった。
ガウンから手を抜いて椅子の背へかけた。
棚の上の物入れからハンドバッグを取る。
「それじゃ失礼します。お先に……」
正面の扉へむかって歩き出してから、ふりむいた。
「奥様、あまり穿鑿《せんさく》をなさいませんほうがよろしいわ。さもないと、佐和木さんの二人の奥さんと同じことになるかもね」
三重子をみつめた眼に奇妙な輝きがあった。
「私は、奥様より遥かにむかしから、良行さんを知ってますのよ」
扉の鍵を音もなく開けた。軽く腰をゆするようにして夜の中へ出て行く。
暫く茫然《ぼうぜん》としていて、三重子は再び、扉を閉めて念入りにチェーンをかけた。
ガウンを取って、二階へ上る。
ベッドは毛布もベッドカバーもめくれたままであった。
それらに手を触れるのが嫌で、三重子はガウンをベッドの上におき、次の間の机の前へ行って椅子にかけた。
光江の言葉の一つ一つが、頭の中で渦を巻いている。
それは、光江のほうから、佐和木との間柄を暴露《ばくろ》するような発言であった。
彼女は何故、そんなことをいったのだろうと思う。
もしも、彼女のいう通り佐和木と以前から深い仲であるのなら、それを三重子に知られて困るのは彼女のほうではないのだろうか。
第一佐和木が、もし、光江と夫婦同様の関係を持っていたのなら、何故、三重子と結婚したのか。光江に対して嫌気がさしていたならば、三重子との結婚前に、なんらかの方法で手を切っているのが普通ではあるまいか。
二人の女を器用にさばけるような佐和木とは思えなかった。
考えられるのは、光江と別れようとしても彼女にその気がなく、ずるずると関係が続いていたという場合であった。
世間には例のないことではない。
とすれば、彼女がグアムまで押しかけて来て、佐和木と口論していたことも、納得が行く。
机の上に手を突き、三重子は嘆息をついた。
四十歳をすぎて、人並みに幸せな結婚へたどりついたと思ったのが、束の間の夢に終りそうである。
これから、自分はどうするべきかと思案した眼が机のひき出しから少しはみ出ている紙包のようなものに吸い寄せられた。
ひき出しを開けてみる。
はみ出していたのは、薬の包のようであった。
同じようなのが、まだ二十包くらい、入っている。
漢方薬でもあろうかと思いながら、三重子はその包の一つを手に取った。開けてみると粉末が少量入っている。顔を近づけて匂いを嗅いだ時、或る不安が三重子の心をよぎった。
そそくさと包を元のようにしてから、その一つをポケットに入れた。
電気を消して、部屋を出る時、三重子は自分の足が震えているのを知った。
加賀事務所の岸井保に、或る粉末を分析してくれるところはないかと三重子が訊ねたのは翌日のことである。
岸井はおおらかな性格で、あまりものにこだわらない。何故とか、なにとかいう質問も彼は苦手のようであった。
「妹の亭主が薬剤師だから、すぐ調べてあげますよ」
無造作に受け取った彼に、三重子はいそいでつけ加えた。
「ねずみ取りの薬かも知れないから、気をつけて……」
結果がわかったのは、翌日である。
「これは、ねずみとりの薬じゃありません。砒素《ひそ》です」
岸井の表情はのどかであった。
「どこで、こんなものみつけたんですか」
「拾ったのよ。マンションのごみ捨て場で……」
「なんでも拾わないで下さいよ」
処分しておいてあげましょうと岸井にいわれて、三重子はその紙包の始末をまかせた。
「砥素って、毒なんでしょう」
おそるおそる訊ねた。
「三重子さんは推理小説を読んだことありませんか」
毎日、少しずつ飲食物に砥素を混じられて毒殺するなどという話があると岸井はいった。
「毒物としては、青酸カリなどと同様、極めて一般的なものじゃないですかね」
「どこでも買えるの」
「さあ、よく知りませんが、どこでも誰でも買えるというものじゃないでしょうね」
「変なものを拾っちゃったわ」
最後はさりげなく笑い話にしたが、三重子の衝撃は大きかった。
店の二階の、夫の部屋には、岸井に渡したのと同じものが、まだ二十包くらいある。
佐和木は、あれをいったい、なにに使用するつもりだったのか。
仙台まで出かけようと決心したのは、それが一つの引き金になってのことである。
幸い、その土曜日が加賀事務所は休みであった。
特に仕事がないと、加賀事務所は週休二日になる。
加賀は講演で大阪へ出かける予定になっていた。
金曜日の夜に、三重子は仙台へ着いた。
ホテルに一泊して、市役所へ出かけたのは翌朝である。
戸籍謄本は二通取った。
佐和木良行のと、戸山悦子のものである。
どちらも仙台市役所で用が足りたのは助かった。
「ここに、署名して下さい」
若い女性係員が厚いノートを出した。
戸籍謄本を取った者は、そこに自分の姓名をサインして行くようになっているらしい。
佐和木三重子、と署名をして、三重子は自分のいくつか前に小谷章というサインのあるのに気がついた。
同名異人かとも思った。
それとも、小谷も仙台の出身で、なにかの用で戸籍謄本を取ったのかも知れない。
日付は、三重子よりも一週間ばかり早かった。
「あの、ここに署名のある小谷章さんとおっしゃる方は、やはり仙台の方ですか」
女性係員に訊いてみたが、彼女は、さあ、と首を軽くまげただけであった。
考えてみると、戸籍係は、彼女一人ではあるまい。
戸籍謄本を持って、三重子はホテルへ戻った。
佐和木良行が一人息子であるのは知っていた。
父親は善太郎といい、昭和二十三年に死亡している。母親の幸子はその翌年に他家へ嫁いで、佐和木の籍から除かれていた。
佐和木良行は昭和八年生れだから、十五歳で父親を失ったことになる。
母親が再婚した時、彼はどうしたのだろうと思った。長男だから佐和木の姓のままで、母親について行ったのかも知れないし、祖父母か、或いは親類へあずけられでもして成長した可能性もある。
彼が、自分の子供の時のことを、殆んど話していないことに、三重子は気づいた。
故郷の仙台には、両親も兄弟もないのだから、話す必要がないのだと、三重子は思っていた。
知っているのは、仙台では名の通った高校を卒業して、上京して東京の国立大学へ入っていることと、専門が経済学だというくらいのものである。
戸山悦子の名は、佐和木良行の戸籍謄本にも記載があった。
彼女の実家も、同じ仙台市であり、彼女の最初の夫の、戸山健三も仙台市であった。
戸山健三は大正十年生れで、悦子と昭和三十二年に東京で結婚している。ということは、それ以前に、彼は上京して東京暮しをしていた可能性が強い。三十七歳の初婚というのは遅いほうであった。
悦子は昭和四年生れだから、当時二十八歳、健三とは九つ違いである。
二人の間には、翌年長男が誕生しているが、僅か半年で病死している。そのあと、子供はない。
健三が死んだのは昭和四十九年で、悦子はその二年後に、佐和木良行と再婚している。
どう丹念《たんねん》に戸籍謄本を読んでみたところで、そこからは、なにも浮んで来なかった。
三重子は焦っていた。
佐和木良行は二、三日中に帰国する。
それまでに、自分はなにを知りたがっているのかと考えて、三重子は愕然とした。
それは、いつぞや、番町のマンションへ小谷章の妻が訪ねて来て、彼女の調べた事実を喋っていった時から、打ち消しても打ち消しても、三重子の心のどこかにこびりついて離れないものであった。
「佐和木さんの奥さんは、どちらもお金持で、どちらも外国で変死なさっていて、佐和木さんは奥さんの財産を相続して、今の資産を作った」
小谷和子がいったのは、大体、そういう意味のことだったように思う。
それほど直接的な言い方ではなかったが思わせぶりであった。
三重子が佐和木と共に、外国へ出かけないのかと訊いた時には、独特のニュアンスが窺えた。
さも、一緒に外国へ行ったら殺されますよ、と警告しているような感じだったのを、今でも三重子は忘れることが出来ない。
あの時は、そんな馬鹿な話が、と否定した三重子であった。
しかし、村林光江という女と、佐和木が深い関係にあると断定してみると、和子の言葉を笑えなくなった。
もしも、佐和木が二人の妻の死亡で、焼け肥りのように蓄財して来たのだったら、三重子の財産は戸山悦子や長沼春美の比ではない。
おまけに三重子は孤独であった。
両親と叔母からゆずられた莫大な財産は、夫である佐和木が相続することになろう。
佐和木の机の中にあった砥素の包が、三重子の脳裡をかすめた。
自分は、夫に殺されるかも知れないと思い、その証拠をつかもうとしているのだと改めて自問自答して、三重子は目の前が暗くなった。
みじめな気持であった。
どこの世界に、自分のような妻があるかと思う。
信頼と愛情で結ばれていなければならない夫婦の間柄で、夫が自分を殺すかも知れないという不安に怯えている。
泣くにも泣けない気持を、三重子はふり払うようにして立ち上った。
もはや、自分の命は自分で守るより仕方がない。
ホテルの外へ出て、本屋で仙台市の地図を買った。
ともかくも、佐和木良行の生まれ育った場所を訪ねてみようと思う。
それは、青葉城に近かった。
静かな住宅地である。
佐和木家の元の住所は病院になっていた。
その前に煙草《たばこ》屋がある。小さな古い家屋の前に、不似合いなジュースや牛乳などの自動販売機があった。
七十すぎと思われる老婦人が店番をしている。
煙草を買い、三重子は思い切って訊ねた。
「お宅は、戦前から、こちらですか」
老婦人は仙台なまりで答えた。
「そうだがね」
「この前の場所に、むかし、佐和木さんとおっしゃる方がお住いでしたでしょう」
「そうだが、ありゃあもう三十年以上も前に売ってしまったで……」
「どうして、売ったんですか」
「善太郎さんがなくなったからだわ」
善太郎の妻の実家は、このあたりの地主だったといった。
「したが、ご主人はなくなって、子供さんはまだ小さい。奥さんは再婚して、よそへ行ってしもうたでね。息子さんは、奥さんのじいさんばあさんに育てられておったが、その人たちも順になくなって……はあ、その頃は、地所もあらかた売ってしもうたんでねえかな」
最後に住んでいた家と土地を売って、息子は東京の大学へ行ったという。
「佐和木さんの奥さん……再婚なさった方は、どちらに……」
「塩釜のほうへ嫁に行ったが、その人も、もう死んだという話だ」
「そうですか」
三重子が嘆息をつくと、今度はむこうから訊かれた。
「あんた、善太郎さんのなにに当りなさる」
「父が、むかし、佐和木さんと知り合いだったとかで、もし、仙台へ行ったら、どうなっているか訊いてくるようにいわれまして……」
「佐和木さんの息子は東京に居るそうだが、どこに居るのかは知らねえ。この辺の者は、誰も知らねえ」
「お手数をかけてすみませんでした」
歩き出そうとすると、老婦人が又、声をかけた。
「そういえば、つい先週も、東京から人が来て、佐和木さんの家のことを訊かれたがね」
「どんな人ですか」
「男の人だ。背の高い、眉毛の濃い、背広着てネクタイ締めとったから、勤め人だろうが」
反射的に浮んだのは、小谷章であった。
もしかすると、小谷も佐和木良行について調べているのかと思う。
なんとなく、三重子は小谷に会いたくなった。
いつも、ひかえめで、礼儀正しい小谷が、自分に好意を持っているらしいのを、三重子は女の本能で気がついていた。
いっそのこと、小谷に、なにもかもぶちまけて話してみたら、なにかがわかるのではないかと思う。
午後の列車で、三重子は東京へひき返した。
上野から青山へ出て、小谷のマンションを訪ねた。
夕方であった。
マンションには、麻子が一人であった。
「父は仕事で出かけております。今夜は遅くなるといっていましたが……」
麻子が、この前会った時より大人びてみえた。
なにか、大きな苦しみを通り抜けたような、不思議な落ちつきがある。
グアムで変死した若いカメラマンは、麻子の恋人だったのだろうかと思った。
「ちょっとお上り下さいませんか。私、今クッキーを焼いたところなんです」
成程、玄関にまで甘い菓子の匂いが流れていた。
「それじゃ、ちょっとだけ……」
リビングはクーラーがきいていて、暑い旅を終えて来た三重子を、ほっとさせた。
「お紅茶で、よろしいですか」
「どうぞ、おかまいなく……」
このマンションで、麻子は大抵、一人に違いなかった。
父親は仕事で多忙であるし、母親は別居中に死んだ。
「お一人で、お寂しくありません」
紅茶を入れている麻子の背へ訊いた。
「お父様、めったにお宅にいらっしゃらないのでしょう」
「馴れていますから……」
小鉢に盛ったクッキーと紅茶を運んで来た。
「それに、最近は私に気を使って、夕食には比較的、ちゃんと帰ってくるんです」
「いいお父様ね」
「ええ」
という返事が素直であった。
急に立ち上って、お辞儀をした。
「グアムでは、お世話になりました。お礼にもうかがいませんで……気にしていたのですけれど……」
麻子の口からグアムの話が出て、三重子は度胸がついた。
「こんなこと、麻子さんにうかがうの、どうかと思いますけれど……」
なくなられたお母様は、外国での日本人の死亡事件をルポしておられたのでしたね、といった三重子に、麻子はうつむいて、はいと返事をした。
「主人の前の結婚相手が、二人とも、外国で死んでいます。お母様は、たしか、それを調べていらしたわ」
顔を上げた麻子に思い切っていった。
「もしかしたら、グアムにいらした麻子さんのお友達のカメラマンの方も……、同じことを調べていらしたのじゃありません」
麻子は返事をしなかった。
途方に暮れたように、テーブルへ視線を落したままである。
「私、昨日から仙台へ行って参りましたの」
心にあることを全部喋ってしまいたいと思い、三重子は続けた。
「お恥ずかしいことですけれど、私、主人のこと、あまり知らずに結婚しました。それで、今頃、調べたりして……」
麻子の咽喉《のど》がこくりと音を立てた。
「なにか、おわかりになりましたの」
おそるおそるといった感じの質問である。
「いいえ、なんにも……それで、こちらへ参りましたの」
小谷に会って、自分の心の中にあるものを話してみたいと思ったという三重子を、麻子はみつめた。
「父が、お役に立つかどうかわかりませんが……私、父がこの事件にかかわり合ってもらいたくないと思っています。母と石田君がそのために死んだとしたら……、もう、まっ平です。父だけは失いたくありません」
泣き声になった麻子に、三重子は黙って頭を下げた。
やはり、そうだったかという思いが深かった。
小谷も、麻子も、佐和木に疑惑を持っている。いや、佐和木良行を殺人鬼として標的をしぼっているに違いなかった。
密 室
金曜日の朝、三重子が番町のマンションを出かけようとしている時に、電話が鳴った。
「福岡の斎藤柳子ですが、兄さん、いらっしゃいますか」
といわれて、三重子は、佐和木良行との結婚式の時に、たった一人の佐和木の親類として出席した小柄な、あまり垢抜けない女を思い出した。
佐和木の母が再婚した後に産んだ娘で、彼にとっては異父妹に当るというのも、その時に知った。
結婚して、夫の転勤で九州へ行ってしまっているし、平素はあまりつき合いもないと佐和木がいったように、結婚式の時に挨拶したきり、今までに葉書一本、よこしたこともなかった。
一度だけ、この七月に三重子がお中元でも贈ったほうがいいのではないかと佐和木に相談したことがあったが、
「かえって、むこうが負担に思うから、やめておきなさい」
と彼にいわれて、それきりになった。
「すみません。主人はメキシコへ出かけて居りまして、予定では明日、帰国する筈ですけれど……」
三重子の返事に、斎藤柳子はちょっと迷ったようだったが、
「それでは、兄さんにお伝え下さい。塩釜のお寺から、母の十七回忌の法事の知らせが参ったので、私は来月十二日の命日にむこうへ行って法事をしようかと思っているのですが、兄さんに来てもらえるかどうか……」
佐和木良行にとっても実母であった。
「帰りましたら、早速、申し伝えます。なにはさておいても、うかがうと思いますが……」
柳子の声が、もう一つ、ためらってつけ加えた。
「それと……あの……光江さんに知らせたものかどうか、私がきいていたといって下さい」
「光江さん……」
「あたしの父の連れ子なんです。兄さんからきいてませんか。あたしには母の違う姉ですけど、死んだ母にとっては義理の娘ですし……」
「その方、どちらに……」
「兄さんのお店で働いているんじゃありませんか」
三重子は顔から血が引く思いで答えた。
「それじゃ、村林光江さん……」
「ええ、兄さんとは直接、血のつながりはありませんから、兄さんの結婚式には出ませんでしたけど……」
斎藤柳子はそのあともくどくどと、自分の亡母の法事について話をしていたが、三重子の耳からは、完全に消えていた。
電話が切れているのに気がついて、三重子はやがて受話器をおいた。
村林光江は、佐和木良行の母の再婚先の、先妻の子だったのかと思う。
成程、斎藤柳子のいうように、血のつながりはないが、佐和木と光江は義理の兄妹になる。
頭の中が、がんがんしながら、それでも三重子は或る安堵をおぼえた。
そういう間柄だったから、光江はあの店で働きながら傍若無人にふるまっていたのかと思う。
ただの使用人ではないという矜恃《きようじ》が、三重子に対してあんな態度に出たのなら、納得がいかないこともない。
良行のガウンを着ていたのも、彼のベッドで寝ていたのも、義理の仲でも兄妹となれば、そう神経質になる必要もなさそうであった。
加賀事務所へ出た三重子は、ほっとした表情をしていたらしい。
「どうしたんですか」
岸井保に訊かれた。
「今日は珍らしく、明るい顔をしてますね」
ということは、岸井の眼にも三重子がこのところ、陰鬱にみえていたらしい。
「馬鹿ね、あたしって……とんでもない誤解をしていたらしいの」
「御主人に女性でもいると思ってたんですか」
図星だったので、三重子は逆に、そうだといえなくなった。
「女って、本当に馬鹿ね」
肯定とも否定ともつかず笑い出して、それきりになった。
金曜日の加賀事務所はけっこう忙しい。
加賀は午後の新幹線で大阪へ発った。
珍らしく夫妻そろってであった。
加賀の外交官時代の友人の娘の結婚式に出席するためで、帰京は日曜の夕方になるという。
「土曜には佐和木君も帰ってくるのだろう。せいぜい、メキシコの土産話でもきかせてもらいなさい」
加賀事務所は土曜、日曜と休みになった。
「独り者は、時間をもて余しますね」
行楽の秋というのに、デイトの相手もいないと、岸井保はさかんに冗談をいっている。
そのくせ、夕方の五時になると、三重子よりも一足先にそそくさと帰って行った。
事務所のカーテンを閉めながら、何気なく外をのぞいて、三重子は通りのむこう側に若い女が立っているのに気がついた。
赤いセーターにジーンズという恰好である。
小谷麻子であった。みていると、こっち側から岸井保が道路を横断して彼女に近づいて行く。
麻子が手をあげて岸井を迎えたところをみると、あらかじめ待ち合せの約束でもあったものか。
二人は肩を寄せ合うようにしてタクシーをとめ、そそくさと乗り込んだ。
いつの間に、岸井と麻子が親しくなったのかと思った。
小谷麻子がこの事務所へ来たことは、三重子の知る限り、ない。
しかし、小谷章は加賀利之と昵懇《じつこん》であるし、麻子も加賀家に出入りはしていた。
なにかで二人が知り合って親しくなったとしても不思議ではなかった。
事務所の戸じまりをして、三重子が外へ出たのは五時二十分であった。
番町のマンションへ帰る途中、青山の高級スーパーマーケットまで出て、買い物をしたのは、明日、帰国する夫のためである。
マンションへ着いたのが、六時すぎであった。
ドアの下に紙片が入っている。
この近くでガス工事があるので、今夜十時から明日の朝の六時まで、ガスがとまるという知らせであった。
工事が明日でなくてよかったと思った。
佐和木が何時に成田へ着くのか知らされていないが、帰宅が夜にならないとは限らない。
食事の仕度はあらかじめしておけばよいが、風呂のほうが困る。
佐和木はシャワーが好きだが、ガスがとまってはシャワーは使えない。
一人だけの食事は早く済んだ。
ドアホーンが鳴ったのは十時に近かった。
「村林です」
ドアを開けると、光江がケーキの箱を抱いて立っていた。
「遅くにすみません。お店にいつまでもお客さんがあったので……」
いつもの彼女よりも愛想がよかった。
「実は九州の妹から電話があったので……」
ちょっと首をすくめて舌を出した。
「良行さんが帰って来てから、ごちゃごちゃいうと叱られるでしょう」
三重子に相談に乗って欲しいといわんばかりである。
「散らかしていますけれど……」
リビングへ通した。
ここはキッチンとダイニングルームとリビングとがワンルーム形式になっている。
夫婦二人だけの生活では、このスタイルが便利であった。
「良行さん、奥さんになにも説明してなかったみたいね」
光江が話し出した。
「九州の妹がびっくりしてたわ。あんまり厄介な家庭の事情だから、黙ってたのかしらって……」
客茶碗を出しながら、三重子は苦笑した。
「良行さん、家では無口ですから……」
たしかに、それはそうであった。夫婦で向い合っていても、彼の口から出るのは美術骨董の話がせいぜいである。
「あの人、お母さんが再婚したのが、とてもいやだったみたい。だから、再婚先の人間のこと、あまり話したがらないみたいなのよ」
父親が死んで、母親が再婚した時、彼は十五歳であった。多感な少年としては、母の二度目の結婚も、その夫の先妻の子供のことも、新しく母が産んだ自分の異父妹も素直に受け入れる気持には、到底なれなかったに違いない。
三重子がポットを持って来てお茶をいれようとすると、光江が制した。
「ごめんなさい。どうせならコーヒーがいいの。おいしいケーキ買って来たから……」
三重子は慌ててコーヒーの仕度にかかった。
光江は自分でケーキの箱をあけている。
「あたし、一つには、あやまりに来たの。いつも、三重子さんに失礼なことばっかりしてたでしょう」
「いえ、私こそ……あなたが主人の妹に当る方だなんて少しも知らなかったものですから」
三重子がケーキ皿を出し、光江は自分の皿にシュウクリームを取った。
「どうぞ、お好きなのを……」
勧められて、三重子もシュウクリームをもらった。
部屋の中にあたたかなコーヒーの匂いがただよってくる。
「あたし、これでも大学は東京の女子大を出たのよ。就職して……、そこで失恋しちゃったのよね。おまけに体を悪くして、田舎へ帰ったって、もう誰もいないし……、それでね、結局、良行さんを頼ったの」
なめらかに喋りながら、光江はケーキを食べ、コーヒーを飲んでいる。
「すみません。お水一杯下さい」
口のまわりについたシュウクリームの白い粉をなめながら、親しみをこめて笑った。
三重子は台所へ立ち、光江のために冷蔵庫から氷を出して、その上に水を注いだ。
戻ってくると、光江は二杯目のコーヒーを自分でいれている。
「三重子さんもどうぞ。コーヒーさめちゃうわ」
いわれて三重子も自分のコーヒーに砂糖とミルクを入れた。少し、冷め加減のコーヒーでシュウクリームを食べる。
つい先日まで、村林光江に持っていた不安なものを、三重子はすっかり忘れていた。
光江が佐和木良行と義理の兄妹と知った時点から、三重子は彼女に対する疑惑を解いた。グアムに彼女が来ていたのも、佐和木のいったように、恋人と同行したのかも知れないと思った。そのことを佐和木に注意されて、コテッジの外でいい争っていたのかも。
三重子の前で、光江はとりとめもなく喋り続けていた。麻布あたりのケーキの旨い店の評判やら、最近のファッションの傾向などを一人で楽しげにまくし立てている。そんな話ではなく、もっと大事な相談があって来たのではないかと思いながら、ふと三重子は自分の頭の中がしびれたようになっているのに気がついた。
睡い。とにかく、睡い。
もう何時になるのかと顔を上げて、三重子はすぐ近くにいる光江の顔すらもぼやけてみえた。
「睡いの、三重子さん……」
光江がいった。
「睡いんでしょう」
低い忍び笑いが語尾に続いた。
「よく効くのよねえ。この薬……」
ハンドバッグから小さな紙包を取り出した。
「香港で買って来たの。小谷和子さんにも使ってみたのよ。あの時も早く効いたわ」
とろとろと睡りかけていた三重子の神経が、彼女の言葉で僅かに身がまえた。
小谷和子……、小谷章の妻ではなかったか。旅行家として、随筆家として活躍をはじめていた。外国で死亡した人のことを調査して、このマンションにも訪ねて来た。
「そう、その小谷和子さん……、あたし、あの人が店に来たとき言ったのよね。佐和木良行のことでお話したいって……、あの人、ホテルの部屋へあたしを呼んだわ。あたしが誰にもみられないところでないと話せないといったから……、それでね、あたし、さし入れだってお菓子を持って行ったの。お菓子が出れば、当然、お茶を入れるわね。ホテルの備えつけのお茶を二人分、あの人、いれてくれたわ」
光江の声が、三重子の耳を素通りして行く感じであった。
茫然と、ただ茫然と三重子は光江の動く口許をみつめていた。
「三重子さん、おぼえているでしょう。あたしがお水が欲しいといって、あなた、台所へ水を取りに行った。小谷和子さんもその通りよ。あたしのために、バスルームへコップを取りに行き、水を持って来てくれた。その間に、あたしはこの薬を和子さんのお茶に入れたのね」
三重子は叫び出しそうになった。いや、叫んだつもりであったが、舌がもつれて声が出なかった。
「和子さんは今のあなたのように無抵抗になったわ。それから、あたしは彼女の口に青酸カリをとかしたジュースを注ぎ込んだのよ」
声をたてて光江が笑った。
「お茶に青酸カリを入れなかったのは、気がついて吐き出されたらいけないと思ったの。少々、厄介だったけど、かえってよかったみたい」
ジュースも菓子の箱も持ち去って現場にはなにも残さなかった。
「そんな怖い顔をしないで……、今日は青酸カリじゃないのよ。あいにく、手に入らなかったし、あなたの場合は事故死にしたかったのでね、ガスを使うわ」
光江の視線が台所のガス台を眺めた時、三重子はあらん限りの力をふりしぼって言葉にした。
「何故、何故、こんな……」
「あなたの財産が欲しいから……、今までもずっとそうよ」
話してあげましょうか、といい、光江は形のいい脚を大胆に組んだ。
「そもそもは、あたしが戸山健三に欺されたところから始まったの」
戸山健三という名前を、三重子は記憶の中からひきずり出そうとした。
佐和木良行の最初の妻の夫だった人物であった。
「あたし、戸山の会社で働いていて、彼にくどかれたのね、女房とは別れる、結婚してくれっていわれて、あたしは馬鹿だから、その気になったの。でも、彼は離婚しなかった。おまけに奥さんがあたしのことを知って、そりゃあ凄い剣幕だったわ。あたしの髪を掴んでひきずり廻し、蹴ったり、叩いたり……。あたしも若かったから、本気で自殺を考えたわ。そんな時に戸山健三が卒中をおこして死んじゃって、奥さんは独りになったわ。あたし、良行に頼んで、奥さんを誘惑させたの。良行は銀行員だったし、戸山家とは取引があったし、近づくのは簡単だったの。あとのストーリィはあたしと良行の合作よ。良行が戸山夫人と結婚し、適当な時に彼女を殺すの」
だが、戸山悦子はロスアンゼルスを旅行中に車の事故で死んだ。
「人間って、あんまり物事が思い通りに行くと、やみつきになるのね」
悦子が死んで間もなく、良行は仕事で長沼春美と知り合った。
「おあつらえむきの未亡人でお金がある。おまけに遺産相続の相手がないじゃないの。あたし達、躍り上って喜んだわ」
外国が犯罪の舞台として、日本よりも便利だというのは、ロスアンゼルスの経験から学んだことであった。
「又、日本人がよく外国で殺された時期なのよね」
胸が苦しくなって、三重子は椅子からすべり落ちた。
こんな女に殺されたくないと思った。
なんとかして逃げ出さればと夢中で握った手にも、まるで感覚がない。
「あなたが三人目。でも、良行さん、今度はなかなか、あたしのいうことをきかなかったわ。下手をすると、あたしのほうが追い出される。だから、あたし、先手を打ったの。それに、あなたはお利口さんで、良行さんの過去を調べ出した。小谷和子さんのように……グアムへやって来たカメラマンさんのように、あなたも死ななけりゃならないのよ」
光江が立ち上った。
バッグから大きなタオルを出して口と鼻にあてる。
「そうだわ。その前に片づけなけりゃ……」
タオルをおいて、別にゴム手袋を取り出した。テーブルの上のコーヒー茶碗やケーキ皿を台所へ運んで洗いはじめた。布巾で拭いて食器戸棚にしまい、戻って来てテーブルの上の菓子箱を紙袋に突っ込んだ。
三重子の意識は、そこまでであった。
苦しい闇が、三重子を支配し、彼女はカーペットの上にうずくまった。
意識が戻った時、部屋の中は暗かった。
自分が生きているのが不思議であった。或いは夢をみたのかと思う。
夢でない証拠は、体を動かそうとして全身が石のように重く、手足がしびれているのに気がついた。
僅かに顔をねじまげて、部屋の時計をみた。
暗い中で、電光時計の文字がみえた。五時二十分であった。
さまざまのことが、一度に三重子の脳裡に浮かんだ。
おそらく、光江は意識を失った三重子を部屋に残し、台所のガス栓をあけて自分は立ち去ったに違いない。
ガスは工事のため、止っていた。
だが、六時になれば復旧する。開けっぱなしのガス栓からはあっという間におびただしいガスが流れ出して、三重子の呼吸をとめるに違いなかった。
三重子は虫のようにもがいた。
どうあせっても、体に力が出なかった。手も足も、まるで自分のものではないようである。
体中から脂汗を流して、やがて三重子はそれが徒労なのを悟った。
彼女の体は、意識が戻った位置から一寸も動きはしない。
その場所はガラス戸に近かった。
ガラス戸のむこうはベランダである。カーテンはひいてあったが、三重子が倒れた時のはずみで、すみのほうがめくれたようになっていた。
この頃の夜明けは、あかるくなるのが六時であった。
まだ外は暗い。
通行人もせいぜいジョギングの人ぐらいか。
体が僅かでも動かせれば、ベランダのガラス戸を開けることが出来る。台所へ行ってガス栓をとめるのが不可能としても、このベランダへ出ていれば助かると思った。
だが、ガラス戸には鍵が下りていた。起き上ることも出来ず、体を横にころがす力もない三重子には、それすらも無理であった。
絶望が、三重子を襲った。
意識がしっかりしているだけに、その恐怖は並大抵のものではなかった。
あきらめたくはないと思った。
こんな形で死んだら、あの世の父も母も、叔母も、どんなに悲しむか知れない。
村林光江の顔が浮かんだ。
許せないと思う。どんな理由があるにしろ、殺人を三回も犯して、ぬくぬくと笑っている。気力をふるい起して、三重子はもがいた。
肩のあたりに、なにかが当ったような気がした。
それは、スタンドの台であった。
洋室専用の大きな、長いタイプのスタンドは新しいデザインで、上の部分に四つのライトがついていた。かなり、明るい。
スイッチは下の台の上についていた。
手で押しても、足でふんでもライトが点《つ》く。
今は消えていた。
スタンドの位置はガラス戸の近くであった。
そこにあかりがつけば、外からもみえる。
ベランダのむこうは小学校の校庭であった。
朝五時半、学校に人がいる時刻ではなかった。
生徒が登校してくるのは八時の筈であった。
六時には、台所からガスが噴き出してくる。三重子は眼を閉じた。
それでも、彼女は万一に賭けた。他に、どんな方法があるというのか。
スタンドの台は、三重子の肩のところにあった。
ガラス戸のカーテンのすきまの薄い朝の光で、三重子はスタンドの台の上のスイッチを探した。
あとは渾身の力をふりしぼって、自分の体の重みをスイッチにのせることであった。
自分の体のどの部分がスイッチにのったのかわからなかったが、三重子の頭上でスタンドのライトがついた。
体をスタンドから上げるようにして力を抜き、再び、重みをかけると、ライトが消えた。
歯をくいしばり、脂汗を流しながら、三重子はその単調だが、息苦しい動作を続けた。
ライトはついたり消えたりをくり返した。
誰かが、このライトの異常に気がついてくれれば、なんとかなる。
その希望はかぼそかった。
学佼には人がいない。又、誰が他人の家のスタンドの灯に注意を払うだろうか。
気がついたとしても、子供が悪戯でもしていると考えれば、それっきりである。
それでも、三重子はスイッチを押し続けた。
目はくらみ、体は重く、心臓は苦しかった。
電光時計は五時五十分を告げていた。
三重子は自分が発狂するのではないかと思った。
その時、ドアの開く音がした。
玄関のドアである。
管理人の声がした。
「佐和木さん……」
三重子は自分がなんと叫んだのかおぼえていない。
病院のベッドの上には、花の匂いがあった。
加賀静子が持って来てくれた真紅の薔薇が病室の中を明るくしていた。
それとは別に、ベッドに上体を起している三重子が抱えているのはピンクの薔薇の花束で、渡したのは小谷麻子、その父の小谷章は花をいける壺に水を汲みに行っている。
枕許には加賀利之と静子がいた。
「本当に、小谷さんのおかげで命拾いをして……」
小谷章が戻って来て、花瓶を娘に渡し、麻子は改めて花束を三重子から取り戻して、部屋のすみで壺にいけはじめた。
事件があって三日後の午後である。
「僕の失敗です。もっと早くに加賀先生に事実をお話しておけば、よかった」
三重子が佐和木良行の戸籍を調べる少し前に、小谷もまた、彼の身辺調査をはじめていた。
「そういってはなんですが、餅は餅屋ですからね」
三重子の調査は仙台でストップしたが、小谷は佐和木良行の母の再婚先を追って塩釜まで行き、九州に佐和木の義妹の斎藤柳子を訪ねて、とうとう村林光江が佐和木良行の義理の妹ということもつきとめた。
「実をいうと、僕もそこで、おやおやと思ったんですよ」
血のつながりがなくとも兄妹なら、と、三重子が判断したような安心感を一度は持ったものの、
「念のために、村林光江の経歴を調べてみたら、彼女と戸山健三が愛人関係だったという事実にぶち当りました」
関係者の話をきいて廻ると、光江が本妻である戸山悦子から、かなりひどいめにあって怨んでいたことも明らかになった。
そして、戸山健三が死ぬと、光江の義理の兄の佐和木良行が、戸山悦子に接近して結婚している。
そのあたりまで調査をして、小谷章は徹底的に村林光江をマークする一方、メキシコへ行っている佐和木良行の動向からも目をはなさなかった。
「なにせ、僕一人じゃ手が足りません。会社のほうもありまして……」
小谷章が四六時中、村林光江を見張るのは不可能である。
「幸い、麻子が協力してくれまして……女一人では心もとないと思っていたら、いつの間にか、岸井保君が麻子とコンビを組んでくれていました」
「あきれたものだよ。わたしには、なにもいいもしないで……」
笑いながら、加賀利之が岸井保の代弁をした。
「岸井君は、三重子君が変な粉末を持って来て、検査をたのんだ時から、不安を感じたそうだよ」
佐和木の店の二階から持って来た砥素を、三重子は外で拾ったと岸井にいいつくろったが、彼はそれを本当と思わなかった。
「岸井君は三重子君の行動半径を考えた末に、麻布の店に目をつけた。たまたま、村林光江を見張っていた麻子君と一緒になって、二人で情報の提供をし合ったあげく、コンビを組んだそうだ」
「でも、金曜日は、あたしたちの完全な失敗だったんです」
麻子がもう何度目かの頭を、三重子へ向って下げた。
「父から、村林光江から目を放すなって連絡を受けて、あたしと岸井さんで、麻布の店に張り込んだのに……」
金曜日の夕方から、村林光江はずっと店にいた。
女店員が帰ってからも、店のデスクで仕事をしている。
そのあげくに店の玄関を閉めてしまい、その直後に二階の部屋に電気がついて、光江の影法師がレースのカーテンのむこうに映ったりした。
「私たち、てっきり、あの人が店の二階へ泊ると思ったんです。何故なら、その夜に佐和木さんがメキシコから帰ってくるという知らせを父から受けていましたから……」
予定より一日早く、佐和木良行がメキシコシティを発って、バンクーバー廻りの成田行の便に乗ったことを、小谷章はあらかじめ手配しておいた航空会社の予約カウンターからの連絡で知った。
「父は成田で、帰ってくる佐和木さんを張り込んでいたわけですから……」
三重子はさりげなく眼を伏せた。
佐和木良行が日本へ帰ってくる日、光江が店の二階で彼を待つと判断した麻子も岸井も、すでに二人がどういう関係であるかを知っていたに違いなかった。
兄妹といっても血のつながりのない男女であった。
それを、三重子は兄嫁という肩書に安堵して、光江への警戒を失ってしまった。
「馬鹿だったのは、あの店に裏口があるのを、うっかりしていたんです」
佐和木の店は二階から店へ下りる階段と、逆に、裏へ出る階段がある。
麻子や岸井が裏口を知らなかったのは無理もないと三重子は思った。
とんでもないところについている目立たないドアであった。
はじめて、そこから入った時、三重子もその入口が店の二階へ通じているのが、よくわからなかったくらいである。
村林光江は、表に麻子と岸井が張り込んでいるのを承知の上で、さも、二階で佐和木を待つ様子をして、裏口から抜け出して三重子のマンションへ来た。
もう一つ、番狂わせがあった。
佐和木の乗った便がエンジントラブルで、バンクーバーから大幅に遅れ、成田到着が夜の十一時近くになったことである。
佐和木はタクシーで東京へ向い、小谷章もその後を迫った。
「村林光江は、三重子さんが戸籍調べをはじめたのに気がついている。とすれば、当然、彼女からメキシコへ知らせが行っていたでしょう。一日早く帰国したのもそのためだと考えると、帰ってくる早々、彼が行動を開始するのは予想出来ました」
で、成田から彼に密着して麻布へ行ったのだが、佐和木良行の行動は小谷章の考えたのとは、全く異った形で現われた。
店の裏口から、佐和木が入って行って二階に二つの影法師がみえた。
見守っていた三人が仰天したのは、佐和木が光江に襲いかかって首をしめるらしいのを目撃したからである。
「カーテン越しに影が映っているのを気がつかないほど、彼も逆上していたんでしょう」
真夜中のことで、みる人もないと安心したのかも知れなかった。
とにかく、麻子は警察に通報し、小谷と岸井は店の二階へふみ込んで、佐和木良行と光江を押えた。
パトカーが来て、二人の身柄をひき渡したあとで、小谷章は急に不安になった。
「麻子と岸井君は裏口のことを知らなかったといいましてね。まさか、光江が抜け出して、とは思わなかったが、なにか気になって、その足で番町へ向ったんです」
夜は漸くしらじらと明けかける頃で、
「いくらなんでも、マンションをお訪ねするのは非常識ですし……」
間もなく警察のほうから、マンションへ電話が入るであろうこともわかっていた。
で、なんとなくマンションの建物について歩き廻っていて、小学校のグランドへ入った。
小学校のグランドと三重子のマンションの部屋とは、塀とその上の金網でへだてられている。
「あの窓が、三重子さんの部屋だなとみていたら、突然、電気がついたり消えたりしはじめた。窓ぎわのスタンドのようです。これはおかしいと思って、マンションにかけつけました」
いささか渋っている管理人を拝み倒すようにして、部屋の鍵をあけてもらって声をかけたという。
三重子を救出しだのは、まさに六時であった。
台所のガスがいっせいに噴き出すのを、小谷も管理人もみた。
まさに危機一髪だったわけである。
「運が強かったんだ。それとも、あの世で新倉夫妻が守っていてくれたのかも知れんな」
加賀利之が、三重子の両親である亡友の名を口にした。
「私、三重子さんにあやまりたいと思って……」
花瓶をいい位置におきながら、麻子がいった。
「いつか、私の家へおみえになった時、あたし、ひどいことを申し上げたでしょう」
父を事件に巻き込まないで、と泣いた麻子であった。
「でも、父は自分の考えを変えませんでした」
父親の心の中にあるものに気がついて、麻子は父に協力した。
その結果、岸井保という良き友を得た。
「皆さんのおかげですわ。私、こうして生きているのが不思議なくらい……」
今でも夢でうなされることがある。
それに、取調べを受けている佐和木良行と村林光江のことも、心を暗くした。
「今は、なにも考えないほうがいい。考えたとしても、どうにもならないことだ」
「せめて元気になってちょうだい」
加賀静子が涙声で訴えた。
「あたしたちがついていながら、こんなことになってしまって、新倉さん御夫妻にも、高田俊子さんにも申しわけがなくて……」
三重子はかぶりをふった。
「私、元気になりますわ。皆さんに助けて頂いた命ですもの、早く、元気になって大切に生きなければ……」
病室の窓の外の銀杏がまっ黄色になって、秋の陽に染まっている。
三か月がすぎた。
三重子は箱根の加賀家の別荘に滞在していた。
静養のつもりもあったが、マスコミから避けるためでもあった。
獄中の佐和木からは、離婚届が弁護士を通して三重子に届けられていた。
「彼も漸く決心がついたようですよ」
一度は三重子を愛する余り、光江を殺してとまで思いつめた佐和木だったが、今はどういう判決が下りようとも、光江を生涯の伴侶として添いとげるつもりだと、心境を弁護士に話したという。
マスコミがいろいろ書き立てたおかげで、三重子も否応なく、今度の事件の全貌を知った。
その中で三重子が心苦しく思ったのは、佐和木良行が、光江にそそのかされて、戸山悦子と偽りの結婚をした理由の一つに、三重子への求婚を、三重子の叔母の高田俊子にことわられて絶望したことが含まれている点であった。
失恋が、義理の妹への同情と絡んで大きな犯罪へのいとぐちとなった。
それにしても、怖しい成り行きとしかいいようがなかった。
戸山悦子との結婚で、亡妻の財産を受け継いだのがやみつきになって、長沼春美を第二の犠牲者にした。
南イタリアで長沼春美を殺したのは、佐和木と光江の共同作業であったが、たまたま二人の妻を共に外国でなくしたという点を、小谷和子に目をつけられて、犯罪かくしのために、光江が和子を殺した。
その次が石田研一で、これも同じ理由で、光江が彼をおびき出し、かけつけた佐和木と力を合せて彼の口を永久に封じた。
すでに、三重子と結婚していた佐和木には、この二つの殺人は心ならずもに違いなかった。
取調べの係官に、佐和木が、
「殺人は癖になる」
と述懐したという記事を、三重子は読んだ。
一つの犯罪が、ずるずると次々に殺人を呼び起して行くのは、人間の弱さのためだろうか。
佐和木とスイスのレマン湖でめぐり逢い、結婚したこの一年は、自分にとってなんだったのだろうかと、三重子は考えていた。
まるで、大嵐が体の中を吹き抜けて行ったようである。
小谷麻子が岸井保とつれ立って、箱根の加賀邸へやって来たのは、珍しくあたたかな日曜のことであった。
「ぼつぼつ、下界へおりていらしてもいいんじゃないかと、加賀先生に申し上げているんです。加賀事務所は手が足りませんし、有能な人材を、いつまでも山にかくしておくのは日本の損失です」
相変らずとぼけたことをいいながら、岸井は、まめまめしく薪を割ったり、庭の掃除をしてくれたりした。
麻子のほうは、加賀静子に習ったばかりというヨークシャプディングを台所へ立って、せっせと作っている。
「岸井さんと、ずっとおつき合いしているんです」
若い二人のために、夕食の仕度をとエプロンをかけて来た三重子にいった。
「いい人でしょう。岸井さんって……」
麻子にはお似合いだと三重子は思っていた。
ただ、麻子にはグアムで死んだ石田研一との思い出がある。
「石田君のこと、今でも思い出しまず。忘れようと思っても、そう簡単に忘れることは出来ません」
麻子の眼が、台所の窓の外へむけられていた。
岸井がせっせと薪を積んでいる庭を、おだやかな風が吹いている。
「いつか、石田君との思い出が……風が吹いて過ぎるように、あたしの中を通りすぎて行く日が来るかも知れません。岸井さんは、それまで待つといってくれています」
いくらか恥ずかしそうな表情になって、三重子のほうをむいた。
「ここへ来るのに、あたしたち、電車で来ました」
新宿から箱根湯本まで私鉄が通っている。
湯本からは登山電車もバスも出ている。
「電車の駅に、風祭《かざまつり》というのがありました」
小さな駅にしては、風雅な名前であった。
「それで、ずっと考えていたんですけど、花祭とか星祭とか、実際にお祭があるでしょう」
星まつりは七夕だし、花まつりは春を迎える喜びの祭であった。
「風祭というの、ありませんよね」
あってもよいのに、と麻子がいった。
「苦しい思い出を吹きとばしてくれる風、なつかしい記憶の上をそよそよと吹いて行ってくれる風……、そんな風に感謝をこめて、お祭をしてあげたいと思います」
三重子が微笑した。
「麻子さんらしいわ」
一日も早く、岸井の愛に応えられる日が来ると良いと思った。
岸井保なら、間違いなく麻子の心の傷手を春風のように吹きとばし、柔かく包んでくれるに違いない。
三重子の手作りの夕食をすませて、二人は最終バスで東京へ帰って行った。
帰りしなに、麻子は玄関まで送った三重子に、ためらいながらいった。
「父が、一度、おたずねしたいと申しています。こちらへうかがってもよいかどうか……、もし、おさしつかえなかったら、父へお電話を頂けませんか」
三重子の返事をきかずに、岸井と手をつないで、バス停へかけ出して行った。
夜になって、山は風が強くなった。
それでも、空はよく晴れていて、月が丸い。
風にもお祭の日があるといいといった麻子の言葉が、夜の中に浮かんでいるようである。
風の音に耳をすませながら、三重子はそっと受話器を取った。
角川文庫『風祭』昭和60年6月10日初版刊行
平成11年4月20日32版発行