平岩弓枝
葡萄街道の殺人
目 次
第一章 ライン川の赤
第二章 墓場にて
第三章 ホテル・ボワイエ
第四章 そして一年
第五章 深い霧 あと二日
南国の陽を照らし給え
ぶどうの粒が
まるく熟れ
重いワインに
最後の甘みが出るように
リルケ
第一章 ライン川の赤
有里子がめざめたのは列車の通過して行く音のせいだったらしい。
ライン川のほとりにあるこのホテルの裏は崖《がけ》になっていて、その上を線路が走っているのを、有里子は今日の午後、この部屋へ入ってすぐに窓を開けてみて知った。
フランクフルトから来る列車の数は、そう多くはないようだが、轟音《ごうおん》はかなりのものだ。
サイドテーブルの上の電気をつけ、有里子は目覚し時計をみた。二十四時に近い。
昨日の夜、成田を発って、北廻《きたまわ》りでコペンハーゲンへ着き、飛行機を乗りかえてフランクフルト到着が正午であった。出迎えてくれたガイドと昼食をし、ざっとフランクフルトの町を観光したのは、ドイツがはじめての弟夫婦のためであった。
それから、ライン川沿いに車をとばしてこのホテルのあるアスマンズハウゼンへ入ったのが夕方で、さすがに疲れ切って夕食もそこそこにベッドへ入ったのだから、およそ三時間は熟睡したことになる。
外は雨のようであった。いつの間に降り出したものか。
起き上って窓辺へ行った。カーテンを少し開けてみると、霧が深かった。白っぽい闇《やみ》に外灯の光が滲《にじ》んでいる。
ドアに、ひそやかなノックが聞えたのは、その時であった。
こんな遅くに誰《だれ》だろうと思いながら、有里子はドアのほうへ歩いた。
「どなたですか」
声をかけたが、返事はなかった。そのかわりのように、又、低く、こつ、こつと扉を叩《たた》く。
「彦ちゃん……」
弟の名を呼んだ。
弟夫婦の部屋は、廊下の突き当りであった。
「君江さん……」
弟の妻の名であった。
ドアのむこうは無言であった。が、明らかに人の気配がする。
不安が有里子を襲った。
深夜に、女一人の部屋を外からノックする者がある。弟夫婦でないとすれば、ガイドの林より子だが、彼女なら電話をかけてくるだろう。
外国の、それもシーズンオフで泊り客の少い、ひっそりしたホテルの夜更けであった。
再び、忍びやかにノックの音がした。
たまりかねて、有里子はベッドサイドの受話器を取った。弟の部屋へダイヤルを廻す。
ベルが鳴っているのに、誰も出なかった。くたびれ果てて、ねむり込んでいるのだろうか。
有里子が受話器をおいたのは、階段を上ってくるおびただしい靴音を聞いたからであった。
このホテルは階段も廊下も木造で、薄い絨毯《じゆうたん》が敷いてはあるが、足音は大きく聞える。
上ってくる人数は、二人や三人ではなかった。がやがやと声高な話し声も聞える。
日本語であった。
どうやら、こんな時刻に日本人の旅行者グループが到着したらしい。
スーツケースを運ぶ音や、部屋を探し合う声がして、有里子の右隣の部屋にも人が入った。浴室の湯を出す音がする。
シルクのパジャマの上に、薄いキルトの七分|丈《たけ》のガウンを羽織って、有里子はそっとドアをあけてみた。
廊下は人が右往左往している。有里子は慌ててドアを閉め、厳重に鍵《かぎ》を下した。
隣は二人部屋らしく、男と女の声がしていた。あまり若くはない夫婦のようである。スーツケースを開ける音や、どたどたと歩き廻る気配がよくわかる。それが、今夜の有里子には、むしろ、安心であった。
ベッドに戻り、有里子はそっと眼を閉じた。
翌朝、雨は上っていた。
ホテル・クローネは二棟に分れていて、有里子の部屋は別館にある。ダイニングルームのある本館へ行くためには、一度、外へ出なければならなかった。
フラノのパンタロンに、チャコールグレイのセーター、それに、モスグリーンの半コートを羽織って、有里子は別館の玄関を出た。
弟夫婦は寝坊で朝食はとったり、とらなかったりである。
十月末にしては、やや寒かった。
曇り空の下で、川が暗い感じであった。対岸の小高い山は靄《もや》に包まれている。
このホテルは、ライン川沿いの国道の前に建っていた。
鉄道と車道にはさまれた位置にあるホテルとしては、静かで落ちついているのは、そのどちらも交通量が極めて少いせいであった。
本館のダイニングルームの外は、葡萄棚《ぶどうだな》になっていた。葉はすでに黄ばみ、小さな実は青ざめてみえた。
ダイニングルームの窓ガラス越しに、若い女が有里子へ手を上げた。今度の旅で、通訳、兼ガイドとしてフランクフルトから同行した林より子である。やや、ひかえめなカーリィヘアが小さな顔を個性的にみせている。
外国で働いている日本女性には、メイキャップの濃い人が多いが、彼女は殆《ほとん》ど化粧をしていない。大学を日本で出て、それからドイツへ来て五、六年になるといっていたから、二十八、九だろうが、小柄なせいもあって、まだ学生のような印象であった。フランクフルトで彼女が挨拶《あいさつ》をした時、こんな小娘がガイドで大丈夫か、と、露骨に弟の彦一が眉《まゆ》をしかめたものである。
有里子が本館の小さな玄関を入り、ダイニングルームへ行くと、入口のドアをむこう側から日本人の青年が開けてくれた。彼の背後に林より子がいる。
「お早うございます。昨夜、よくおやすみになれましたか」
有里子は微笑してうなずいた。
「夜中に一度、目をさましましたけれど、それから、又、ぐっすりよ」
「僕らのツアーが夜遅くに着いたので、さぞ御迷惑だったと思います」
青年が頭を下げ、より子が傍から紹介した。
「大井三郎さんです。こちらの旅行社におつとめで……」
大井三郎が頭を下げた時、給仕人がテーブルに案内するために、有里子に近づいた。
「よろしかったら、ご一緒に……」
有里子が誘い、二人がそれに従った。
大井三郎はテーブルについてから名刺を出した。
ドイツの観光会社に籍をおき、通訳やガイドの仕事をしているという。
「失礼ですが、ドイツワインの買いつけにいらしたとか」
林より子が話したらしい。
「買いつけというほどでもありませんけれど、何年かおつき合いのあるワインセラーを廻って、私の店でお出しするワインを仕入れます」
「店というと……」
「レストランです。つぐみ亭という、小さなレストランをやっています」
セカンドバッグから名刺を出した。中央に店の名が、その斜め下に、綾《あや》有里子と小さく書いてある。裏は、同じものがローマ字で印刷されていた。
「綾さんとおっしゃるんですか」
三郎が名刺から、視線を有里子へ移した。
「珍しい苗字《みようじ》ですね」
「母方の姓ですの。母のほうが、後継者が居りませんでしたので……」
パンとコーヒーが運ばれて来て、有里子はナフキンを取った。
窓の外に、かすかながら陽が射して来た。対岸の靄《もや》が晴れて、川むこうを走って行く列車がみえる。
このあたり、鉄道はどうやらライン川の両側を通っているらしい。
「お天気になるといいですね」
三郎が砂糖の壺《つぼ》を有里子の方へさし出しながらいい、より子が彼に訊《き》いた。
「今日は、どこまで行くの」
「一日中、このあたりの観光ですよ。エーベルバッハ修道院とか、ラインガウのワインの家を案内します」
ワイン愛好家のツアーだといった。
「僕の大学時代の恩師が中心になっているもので、それでツアーのコンダクターをつとめることになりました」
「それじゃ、今日、綾さんがお歩きになるところと似ているみたいですね」
より子がいい、有里子はうなずいた。
アスマンズハウゼンあたりは、ラインガウの有名なワイン地帯である。
「姉さん、早いなあ」
背後に弟の声を聞いて、有里子はふりむいた。
ウールのシャツにカーディガンという軽装で大久保彦一は、あくびをしながら有里子の隣の椅子《いす》へ腰を下した。一人である。
「君江さんは……」
「あいつは、まだ寝ている」
腫《は》れぼったい眼を、より子にむけた。
「どうも、うるさいホテルだね、昨夜はねむれなくて困った」
姉さんはどうだったといわれて、有里子はまわりに気を遣った返事をした。
「あたしはあまり気にならなかったけれど」
「朝まで、ぐっすりかい」
「昨夜、早く寝すぎたせいで、夜中にちょっと目がさめた程度よ」
大井三郎が立ち上ってお辞儀をした。
「申しわけありませんでした。僕らのグループが遅くに着いたものですから、おさわがせしました」
彦一が横柄に、彼を見上げた。
「君は……」
有里子は慌てて、彼の名刺を弟の前へおいた。
「旅行社の方なのよ。こちらのより子さんともお知り合いで……」
彦一は、名刺をちらりと眺めただけで、給仕人にトマトジュースをいいつけた。
「彦ちゃん……」
低く、有里子が弟に呼びかけたのは、テーブルの雰囲気があまりいいものではなかったからで、
「昨夜、あたしの部屋のドアをノックしなかった」
「姉さんの部屋……」
「そう……」
「何時頃《ごろ》……」
「十二時少し前……」
「いいや……」
「誰かが、あたしの部屋のドアの前にいて、ノックをしたのよ。声をかけても返事をしないし……」
「俺《おれ》じゃないよ」
「彦ちゃんの部屋へ電話をしたのよ。なんだか、気味が悪かったから……」
「何時頃だって……」
「十二時少し前……」
「その時間なら、多分、フロントへ行ってた筈《はず》だよ」
「フロントへ……」
「列車の音がうるさくってやり切れないから、部屋をとりかえてもらおうと思ってね。君江と二人で交渉したんだが、埒《らち》があかなくてあきらめたんだ」
林より子が口をはさんだ。
「申しわけありませんでした。私を起して下さればよろしかったのに……」
「時間が遅すぎたからね。あんたも疲れているだろうと遠慮したんだ」
「ノックの音って、なんだったんでしょうね」
より子が気にした。
「どなたかが、部屋を間違えたのかも知れないわね」
自分の臆病《おくびよう》を有里子は笑った。
「よっぽど、ドアを開けてのぞいてみようかと思ったんだけど……」
「そういう場合は、お開けにならないほうがいいですよ」
三郎がいった。
「ドイツはそんなに治安の悪い国じゃありませんが、用心に越したことはありません。まして、女の方、お一人なんですから……」
傍からより子もそれに同調した。
「どうぞ、なにかありましたら、かまいませんから、私へ電話を入れて下さい。御遠慮なんかなさらないで……」
「ええ、今度からそうします」
笑顔で、有里子はその話題を打ち切った。
ダイニングルームの外の道を、賑《にぎ》やかにアメリカ人グループが歩いて来た。そのあとから日本人旅行者も二人、三人。
ライン川を観光船が悠々と下って行った。
その日、有里子が、午前中に訪ねたのは、デューフェンハート家であった。
マルチンスタール村にあるこの家は、家族経営のこぢんまりとしたワイン造り屋で、当主のデューフェンハート氏は、有里子の亡父の友人でもあった。
有里子が短い結婚生活に破れて、独りになり、レストラン「つぐみ亭」をはじめようとした時に、亡父、大久保正人と共に訪ねた、最初のドイツワインの家で、以来、モーゼル川沿いにあるグラッヒ村のオットー・パウリー家と共に、ここのワインを「つぐみ亭」では欠かしたことがない。
で、有里子のほうは、ここを訪ねるのは今年で八回目になるのだが、弟夫婦は今度が初めてであった。
「弟さんの商売は、なにかね」
デューフェンハート老人に訊かれて、有里子は、ちょっと困った。
今まで、いろいろな商売に手を出して、どれも長続きのしなかった彦一が、突然、ワイン専門の店を出したいといい、有里子とつき合いのあるドイツのワイン醸造所を紹介してもらいたいと、同行して来た今度の旅であった。
彼の場合、いつも思いつきが先行するのであって、ワインの勉強をしているわけでもないし、ワインに愛情を持っているのでもない。
そういうことは、この家を訪問してデューフェンハート老人が十二種ものワインを試飲させてくれた段階で、相手にはわかってしまうものであった。
彦一も君江も、酒はひどく強かった。出されたグラスを無造作に手にしてぐいぐいと飲む。彼が通訳を介して老人に訊くことといえば、このワインは地元でいくらして、日本へ輸入するといくらになるかということばかりであった。
「彼はアルコールは好きそうだが、ワインは好きとはいえないね」
有里子の困惑をみて、老人は有里子にききとりやすいようなドイツ語で、ゆっくりいった。
「失礼だが、ヘル大久保の息子のようには思えない」
ドイツワインを、こよなく愛した父だったと、有里子は思い出していた。この家を訪れ、老人が次々に取り出してくる自慢のワインを小さなグラスに注いでもらっては、楽しそうに色を眺め、香を嗅《か》ぎ、そして丁寧に味わっていた。
亡父が老人の秘蔵のワインに感動していう言葉は、フランスのようなワイン造りに恵まれた土地ではないドイツのきびしい自然の中で、このような銘酒を造り上げる人々への讃辞《さんじ》といたわりであった。そのことが、生涯をワイン造りに賭《か》けたこの老人をどれほど喜ばせたか。
「ヘル大久保には我が家のどのワインを進呈しても惜しくない」
というのが、デューフェンハート老人の最大の謝辞であった。
大久保正人を知っている彼には、彦一がその息子と信じ難いのも無理ではなかった。
彦一は容貌《ようぼう》も父親似ではないが、人柄も違っていた。
デューフェンハート家で昼食を御馳走《ごちそう》になり、別れを告げる頃から空模様があやしくなった。
車がエルバッハ修道院に着いたあたりからは小雨が落ちて来た。
修道院は黄ばんだ木立の中にあった。
「尼さんなんか、いないじゃないか」
古風な建物の中へ入って、彦一が大声でいい、有里子は林より子に対して赤面した。
この、ドイツで最も古いシトー派の修道院は、現在、国立醸造所になっている。修道女がいるわけはなかった。
内部には、ここを訪れる観光客のためにワイン醸造の順序をわかりやすく実地にみせるところがあって、すでに到着した人々が三々五々、係員の説明をきいている。
ここでも、彦一夫婦は傍若無人にふるまった。
試飲用のワインをがぶ飲みするか、勝手に歩き廻ってカメラのフラッシュを光らせている。
「有里子さんじゃないか」
古いワインのエチケット(ラベル)を並べている陳列ケースをのぞいていた有里子は、なつかしい声を耳にして顔を上げた。
見事な銀髪の、品のいい老紳士が驚いた表情で傍へ寄って来た。
「早川先生……」
N大の教授であった。有里子の経営する「つぐみ亭」の常連である。
「先生、いつ、こちらへ……」
「昨夜だよ。あんたは……」
「昨日の午後、日本から参りましたの」
「一人かね」
「いいえ、弟夫婦が一緒でございます」
「弟さん……」
早川教授が変な顔をしたのは、有里子と弟夫婦が必ずしも世間並みの仲むつまじい間柄ではないのを、薄々、承知していたからである。
「私、先生に申し上げませんでしたかしら。弟がワインの店をやりたいといい出して、私に同行してドイツへ行く予定だということを……」
たしか、早川光三が「つぐみ亭」へ食事に来た時、思いあぐねて相談めいた打ちあけ話をした筈であった。
「そういえば、聞いたね。しかし、僕の旅行と同じ頃とは思わなかった」
「先生……」
と、又、一人が近づいて来た。大井三郎であった。
「みんな、むこうで試飲をしていますが……」
有里子をみて、会釈をした。
「綾さんも、こちらへいらしたんですか」
「君は、有里子さんを知っているのかね」
早川教授が不思議そうな表情をみせた。
「今朝、ホテルのダイニングルームでお目にかかったんです」
ほうと老教授が二人をみくらべるようにした。
「大井君は、大学時代、わたしの講義をとっていてね」
「先生のせいで、ワイン狂になったんです」
明るい声で大井がいった。
「それじゃ、大井さんが今朝、お話しになっていらしたツアーは、早川先生のでしたの」
大学時代の恩師のツアーのために、ガイド兼コンダクターをつとめているという話であった。
「早川先生を御存じとは知りませんでした」
「うちの店を贔屓《ひいき》にして下さいますの」
「僕は、この人のファンでね。この人とワインを飲むのが、僕の天国なんだ」
今夜もホテル・クローネ泊りかと訊かれて有里子はうなずいた。
「明日の朝、ライン川を下って、モーゼルのほうへ入ります」
「それじゃ、今夜、よかったらリューデスハイムのドロッセルカッセへ行きませんか。あんたの店の名付け親だ」
「やっぱり、ドロッセルカッセからとったんですか、つぐみ亭というのは……」
ドロッセルカッセは日本語でいえば「つぐみ横丁」であった。
ワインを飲ませる店が並び、入口に鶫《つぐみ》のネオンがある。
「この人の亡《な》くなったお父さんがドイツワインのファンでね。この人が店を出す時、ドロッセルカッセにちなんで『つぐみ亭』とつけたんだよ」
早川教授が説明し、大井が嬉《うれ》しそうにうなずいた。
「そうじゃないかと思ったんですよ。店の名をうかがった時……」
弟夫婦がむこうから戻ってくるのをみて、有里子は早川教授に会釈をした。
「多分、お供出来ると思いますの。ホテルには、何時頃、お戻りですか」
「七時には帰れるよね。君……」
教授が大井をふりむき、彼が時計をみた。
「そのようにします」
「でしたら、七時すぎにホテルのロビイでおまちしています」
「ありがとう」
早川も、近づいてくる大久保彦一を認めたようであったが、それを無視するように大井三郎をうながして廊下へ出て行った。
「今の、誰だ」
傍へ来た彦一が訊いた。
「大学の先生。お店へみえるお客様よ」
「道理で、みたことがあると思った」
それに違いなかった。
早川教授は、年中、ろくでもない仲間をつれて来ては姉の店で無銭飲食を働く彦一を、何度かみかけている筈である。酔って有里子をどなりつけ、気に入らないといってはグラスを叩きつけたりする弟であった。「つぐみ亭」の常連は大方、有里子にそういう出来の悪い弟の存在するのをみたり、聞いたりしている。
「君江が疲れたというんだ。ホテルへ帰ろうじゃないか」
彦一の言葉に、有里子は面くらった。この修道院をみたあとはヨハニスベルグ村のシュロス・ヨハニスベルガーを訪ねる予定であった。
メッテルニッヒ公爵が所有する醸造所で、ラインガウでは欠かせないワインセラーだ。
だが、有里子は弟に逆らわなかった。逆らったら、どんなことになるか、長年の経験で知り尽している。
「それじゃ、ホテルへ林さんに送ってもらいましょう」
より子を呼んで、予定変更を告げた。
「悪いけれど、ホテルへ着いたら車だけ、ここへ戻して下さいな。あたしは車が帰って来たら、それでヨハニスベルグ村へ行きますから……」
「往復だと小一時間かかりますけど……」
より子が腕時計をみた。
「シュロス・ヨハニスベルガーは、見学が六時までですよ」
五時に近い時間であった。ここからヨハニスベルグ村へ廻る分には充分だが、車がホテル・クローネへ行って戻ってくるとなると、間に合わないかも知れない。
「その時はその時よ。とにかく、弟を送って下さい」
この辺りの田舎《いなか》では、タクシーの利用は難しかった。タクシー会社は遠かったし、電話をかけても車があるかどうかわからない。
彦一は苛々《いらいら》していた。林より子がタクシー会社へ電話をし、車を呼んでから出発するなどといったら、癇癪《かんしやく》玉《だま》を破裂させるに決っていた。
子供の頃からのわがままで、およそ我慢ということを知らない。
まだ、ためらっているより子をせかして、有里子は弟夫婦と共に待たせておいた車に乗せた。
落葉の砂利道を車は慌しく走り去った。
雨はかなりの降りになっていた。
玄関前の木の椅子に腰をかけていると、石の床から冷えが足へ伝わってくる。
これから一時間、ここで車の戻ってくるのを待つのはつらいな、と思った時に、玄関のむこうの小道をマイクロバスが入って来た。
バスから下りたのが、大井三郎である。
「雨がひどくなったんで、門のむこうへ停めてあったバスを、ここまで入れさせてもらったんです」
ぽつんとすわっていた有里子に、車はどうしたのかと訊いた。
「弟たちが、疲れてしまって、ホテルへ帰ったんです。私はヨハニスベルグ村へ廻るので、車が戻ってくるのを待ってるの」
「弟さん、いつ、出発したんですか」
「今よ、五分ほど前……」
「ヨハニスベルグは、メッテルニッヒ公爵家へいらっしゃるんでしょう。だったら、僕らのバスに乗りませんか」
「あなた方も、あちらへいらっしゃるの」
「早川先生のお気に入りのところですからね」
三郎が、すぐ近くの受付へ行った。電話を借りている。
「ホテル・クローネへ連絡して、林さんの車が着いたら、ここへ戻る必要はないと話してもらいますよ」
彼のドイツ語は、林より子よりも達者であった。男だけに行動も早い。
有里子は、彼の好意を受けるつもりになった。このツアーには、早川教授がいる。
小暗い廻廊《かいろう》を日本人グループが玄関へ出て来たのは、三郎が電話を終えてからであった。
「皆さん、バスはこちらです」
十人ばかりの客を三郎が案内して行く間に、有里子は早川教授に今の成り行きをざっと説明した。
「そりゃ、かえってよかった。好都合じゃないか」
彦一夫婦が先にホテルへ帰り、有里子一人が、早川教授のツアーのバスに同乗することを、かえって喜んだ。
「それにしても、相変らず、ひどいものだね。姉さん一人を、こんなところへおいてきぼりにして……」
先に立って、バスのステップを上った。
「ちょっと、皆さんに紹介しますよ。こちらは、東京の麻布《あざぶ》の『つぐみ亭』という名のレストランの女主人でね、綾有里子さん。偶然、ここでお会いして、これからのコースを御一緒することになった。どうか、御了承願います」
先にバスに乗っていた人々から拍手がおこった。前の席にいた老人夫婦で、それをきっかけにグループのみんなが賛成の手を叩いてくれる。不意に、有里子は涙ぐみそうになった。
雨の夕暮、外国で、初対面の日本人グループのやさしさが、心に沁《し》みて有難かった。
「申しわけございません。綾有里子でございます。よんどころない事情で、車を先に帰してしまいましたので……、皆様の御好意に甘えさせていただきます」
三郎が有里子を早川教授の隣へすわらせた。
二十人乗りのバスに十人ばかりの客であった、三郎と有里子を加えても、席は充分、余っている。
マイクロバスは田舎道をのんびり走り出した。
道の両側は見渡す限りの葡萄畑である。
「晴れていたら、それこそ黄金色に輝いて見えたでしょうねえ」
有里子の背後の席から若い女性の声がした。
大学ノートとカメラを手にしている。色白の顔に赤い眼鏡の枠が愛くるしい感じである。
「彼女は大井君の後輩だよ」
早川教授がいい、娘は名刺を有里子の肩越しにさし出した。
「北川ゆきです。よろしく」
名刺の肩書はワインコーディネイターとなっている。
「学生さんじゃありませんの」
「いやぁ、若くみられた……」
笑い声に屈託がなかった。
「ついでだから、大井君、皆さんを紹介するといい」
教授の発言で、三郎が席順にグループの名を呼んだ。
「北川さんの後が吉田さん御夫婦、大きな酒屋さんを銀座に持っていらっしゃるそうです」
有里子がこの車に同乗することになった時、一番先に拍手をしてくれた老人夫婦であった。
「その後が、高山さん御夫婦。鶴見《つるみ》の総合病院の院長さんです」
この夫婦も六十代のようであった。酒屋の夫婦がどちらもよく肥っているのに対して、医者の夫婦はやせぎすであった。夫婦そろって眼鏡をかけている。
「左側は以上で、次は右側です」
有里子と通路をはさんだ座席には赤いスーツの女性がかけていた。
「松原さんです」
三郎の紹介はそれだけだったが、当人がつけ加えた。
「松原理代ですの。銀座で、クラブ理代というのをやっております」
一流のバアであった。マスコミに時折、その名前が出てくるのは、店の客に芸能人やスポーツ選手が多いせいでもある。
ショートカットのヘアスタイルも、スポーティなスーツのデザインも若々しかったが、濃い色のサングラスを雨の日でもかけているのは、眼のまわりの衰えをかくす目的のようでもある。ということは、ぼつぼつ四十でもあろうか。
「松原さんの後が倉重さん……」
髭《ひげ》の剃《そ》りあとの青い男であった。年齢は三十なかばか。
「倉重浩です。フリーライターです。早川先生にそそのかされて、このワインツアーに参加しました」
彼の後は五十がらみの温厚そうな紳士であった。
「わたしは御同業です。湘南《しようなん》のほうでレストランをやっていまして、竹内といいます」
それで、このグループの全員であった。
誰もがワインを好み、ワインに関心のある人々であった。
「それでは、これから行くシュロス・ヨハニスベルガーの説明をしますかな」
早川教授が揺れるバスの中でマイクを握って立ち上った。
シュロス・ヨハニスベルガーは、丘の上にあった。
あたりは一面の葡萄畑で丘の上から麓《ふもと》へかけて、広く長くなだらかに続いている。
遥《はる》か彼方には、ライン川が流れ、そのむこうの山はもう暮れなずんでいる。
ワインの醸造所は修道院だったところが多いが、ここも、本来はベネディクト派の修道院であった。
ワイン愛好家の日本人グループが感嘆の声を上げたのは、ここの地下貯蔵庫へ足をふみ入れた時で、未だに、昔のままの樫《かし》の樽《たる》にワインをつめたのが蜒々《えんえん》と並んでいる。天井には白いカビがついていて、それは蜘蛛《くも》の巣のように広がっていた。
「わたしはね、こうした地下貯蔵庫を訪ねると、思わず足音を忍ばせてしまうのだよ。静かに熟成しているワインの眠りをさまたげるような気がしてね」
早川教授がいい、グループはひそやかにワイン倉の中で案内人から提供されたワインの試飲をはじめた。誰もが行儀よく、案内人のワインについての説明に耳を傾けている。
熱心にメモをとっているのは、フリーライターの倉重と、ワインコーディネイターの北川ゆきであった。
地下から上ると、日は完全に暮れていた。
エルバッハ修道院もそうだったが、ここもワインの売り場があって、ここで造られるさまざまの年代のワインを陳列していた。何本かのワインを買い求める客もいる。
「みんなの希望で、帰り道につぐみ横丁へ寄ることになったが、有里子さんもどうかな」
つぐみ横丁、ドロッセルカッセはライン川沿いにあって、ここからホテル・クローネへ帰る途中に位置していた。
「お供しますわ」
有里子がそう答えたのは、折角、そろってドロッセルカッセに寄ろうとしているグループの気持をしらけさせないためでもあった。弟へは電話で連絡すればよい。
それに、つぐみ横丁には亡父と来た時の思い出がある。
すっかり夜になった丘の上の道をバスはかけ下りるようにして、やがてドロッセルカッセへついた。
国道沿いには土産物屋が軒を並べ、その間の横丁に、つぐみのネオンが光っている。
横丁はすべてワインを飲ませるレストランであった。
店はどれも入口を大きく開けていて、外から内部がみえた。外観もなかなか凝っていて、葡萄の収穫の図をステンドグラスに描いたのが外壁になっていたり、或《ある》いは木彫で、或いはペインティングで葡萄酒造りを図柄にした外装があったりである。
どの店も生演奏で女性歌手がマイクの前に立っている。
早川教授がグループを案内したのは、つぐみ横丁の一番奥にある店であった。
シーズンオフということもあって、客はそう多くはない。雨の夜であるのも、どこか寂しかった。
グループの中には、もうワインは飲みすぎたといい、土産物屋をみて歩く人もいて、レストランに入ったのは、教授と有里子、それに倉重浩と北川ゆきであった。
フリーライターとワインコーディネイターの二人は意気投合しているらしく、すみのテーブルに二人だけ陣どってワインの品定めをしている。
有里子はホテルへ電話をかけるつもりで、店の奥へ行った。そこはカウンターになっていて、客が一人、ワイングラスを手にしていた。ツィードのジャケットに黒のセーターで、やや、うつむき加減の横顔が電話をしている有里子のほうからみえる。
電話をかけながら、彼のほうを何気なく眺めて、有里子は、まさか、と思った。
別れて十年近い歳月が過ぎている。
だが、ホテル・クローネへ電話をしている有里子の声で、男がこっちをみた。電話の終るのを待って、声をかけて来た。
「有里子、さんか」
有里子は正面から相手をみ、改めて深く頭を下げた。
「こんなところで、お目にかかるとは思いませんでした」
別れた夫、池田新太郎はかすかに苦笑したようであった。
彫りの深い顔の中で、濃い眉《まゆ》と柔らかな唇のあたりに中年の翳《かげ》りが感じられる。
有里子より五歳年上だったから、ちょうど四十歳の筈であった。
「御旅行ですか」
いざとなると、女のほうが度胸がすわるというのは本当かも知れないと有里子は思った。
こんな形で、対面をしたのに、心中はともかく、表面的にはひどく取りすまして挨拶している自分が不思議な気持であった。
別れた当座は、その人の夢ばかりみて、どれほどの涙を流したことか。
有里子の問いに、池田新太郎は僅《わず》かの間ためらって、答えた。
「或るところから、君がこっちへ出かけたと聞いて、それで、僕もやって来た……」
思いがけない返事であった。
すでに波立っている心の中が、更に荒く、立ちさわぐ感じで、有里子は声を低くした。
「私に、なにか御用……」
「用じゃないが、なんとなく来たくなった」
そんな言い方は二十代のままであった。
「君は一人……」
「いえ、弟夫婦が一緒です」
「彦一君か」
眉をひそめるようにして、池田新太郎が店のほうをみたので、有里子はつけ加えた。
「弟たちは先にホテルへ戻りましたの。今はツアーの方とご一緒です」
「早川教授か」
「御存じでしたの」
意外であった。有里子が早川教授と知り合ったのは、離婚して「つぐみ亭」をオープンしてからのことである。
「何度か、原稿をお願いしに行ったことがあるんだ」
いわれてみれば、池田新太郎は雑誌社につとめていた。
文芸雑誌だが、早川教授はそうしたものにも、ワインの話などをよく書いている。
つかつかと、池田新太郎が早川教授のほうへ行った。
早川教授が彼をみて、やあと手を上げるのが、有里子からみえた。
池田新太郎は有里子に、その大きな背中をみせて、早川教授と話している。
深呼吸を二つばかりして、有里子は二人に近づいた。
「驚いたね。池田君は有里子さんの御主人だったのか」
それに答えようとして、有里子はこのレストランへ入って来た松原理代に注目した。
松原理代の視線は、池田新太郎に釘《くぎ》づけになっている。そして、池田新太郎も松原理代の出現に、色を失ったようであった。
バンドがドイツ民謡の演奏をはじめ、女性歌手が厚みのある声を張り上げた。
綾有里子が、早川教授のグループのマイクロバスで、アスマンズハウゼンのホテル・クローネへ戻って来たのは、九時に近かった。
ホテルの前を流れるライン川は夜の中に黒く蛇行し、対岸の山の上にある古城だけがライトで浮き上っている。
ホテルのロビイには、ガイドの林より子が待っていた。
「彦一さん御夫婦は、お食事を召し上って、お部屋のほうへお戻りでございます」
明日の出発時間の打ち合せも終っているといわれて、有里子は、ほっとした。
それというのも、先刻、ドロッセルカッセから電話をして、早川教授と夕食をすませてホテルへ帰ると告げた時の、弟嫁の君江の返事が、なんとなく嫌味であったからだ。
もっとも、君江の喋《しやべ》り方には、いつも、どこかにとげがあり、義姉に当る有里子にいい感情をもっていないのは、結婚当初からのことで、それを一々、気にしていたら、とてもつき合い切れない。
「有里子さんは、アスマンズハウゼンの赤ワインを飲んだことがあるかね」
少し、はなれたロビイで、グループの人たちと話をしていた早川教授が声をかけた。
「今、倉重君がアスマンズハウゼンの赤を手に入れて来たので、バアのどこかで試飲してみようといっているんだが、よかったら、いらっしゃい」
ライン川沿いの有名なワインの産地は大方、白ワインが中心で赤は珍しい。その珍しい赤が、アスマンズハウゼンでは少々、出来るのであった。
「そちらのガイドのお嬢さんもいらっしゃいよ。この赤は、ちょっといけそうだ」
倉重浩は両手に一本ずつ持ったワインの瓶を得意そうにみせて、林より子も誘った。フリーライターという職業柄もあろうが、人をそらさないところがある。
「行きましょうか」
林より子がその気になって、有里子もバアのほうへ歩き出した。
このホテルのバアは、ロビイからダイニングルームとは反対側の階段を上った奥で、入口近くにカウンターがあり、その先にはかなり広い部屋があって、テーブルがいくつも並んでいる。
さすがにワインの村のホテルだけあって、泊り客がワインを持ち込んで試飲をするというと、快く、テーブル席をあけてくれた。
「どうも今年のラインガウのワインはかわいそうだね」
一日中、エルトヴィレ村、マルチンスタール村、ヨハニスベルグ村と、この近くのワインの産地を廻《まわ》っての早川教授の感想であった。
「一九八二年と、八三年とドイツワインはすばらしかったが、八四年は最悪の条件らしいね」
春がいつまでも寒く、葡萄《ぶどう》の花の咲くのが遅れ、夏は思うように暑くならないで、秋が早く来た。
加えて九月からの長雨で、十月末の収穫期である今も天気が悪い。
「リースリング種が、まだ熟していない状態でしたものね」
ワインコーディネイターである北川ゆきがテーブルの上に葡萄の小さな房をおいてみせた。今日、どこかの畑で摘んで来たものらしい。
リースリング種はドイツワインの葡萄の品種としては品質のよさで認められており、この辺りでも多く栽培されている。これは白ワイン用であった。
「アスマンズハウゼンの赤は、シュペート・ブルグルダーという品種から作られているんだそうですよ。つまり、フランスでいうとピノ・ノワール種のこと、同じ葡萄の品種でもドイツとフランスでは言葉が違うから厄介ですね」
いそいそと、倉重が赤ワインのコルクを抜き、みんなのグラスに注いで廻った。
「さあ、どうです。飲んでみた御感想を……」
「ブルゴーニュのクロ・ブージョに似てませんかね」
すぐに答えたのは竹内喜夫で、早川教授のドイツワイン探訪グループの中でも、かなり舌に自信のある一人である。
「葡萄の品種が同じですからね」
北川ゆきがグラスを軽く廻した。
「花の香がするみたい」
各々が感想を述べ合っているのを微笑してうなずいていた早川教授が、傍にいる有里子に、そっと訊《き》いた。
「池田新太郎君はドロッセルカッセのホテルに泊っているそうだが、明日、どうやら、わたしたちと同じ方角へむかうらしいね」
有里子は眼を伏せて肯定した。
偶然、ドロッセルカッセのレストランで再会した彼は、
「君に会うためにドイツへ来た」
といっていた。その用件についてはなにもいわなかったが、別れしなに、
「君のあとを追って行くよ」
とささやいている。
何故、別れて十年にもなる夫が突然、ドイツくんだりまで自分を追って来たのか、有里子には見当もつかない。
「池田君と別れたのは、いつ頃《ごろ》の話……」
早川教授に訊かれて、有里子は小さく答えた。
「私が二十五の時ですから……」
「それじゃ結婚生活は短かったわけ……」
「二年足らずでした」
「成程ね」
グラスを傾けて、早川教授がライン川の赤ワインをみつめるようにして話し続けた。
グループは、アスマンズハウゼンの赤ワインの品定めで、誰《だれ》も早川教授と有里子の話など聞いていない。少くとも、有里子にはそう思えた。
「実をいうと、僕のところに池田君が編集者として出入りをするようになったのは、五、六年前くらいからかな。或《あ》る時、彼に何故、結婚しないんだと訊いたことがあるんだよ。四十近くなって、独り者だというんでね」
グループのほうの誰かがボーイに注文したらしく、ドイツ風のピザパイがテーブルに運ばれていた。
フランスではワインにチーズがつきものだが、ドイツではよくこのピザパイが出る。
賑《にぎ》やかなグループの片すみで、早川教授と有里子のテーブルだけが静かであった。
「その時、池田君がいうには、若気のあやまちのせいで、恋女房に逃げられてしまったと頭をかいていたんだが、その恋女房というのが、有里子さんだったわけだね」
黙っていたが、有里子は恋女房という言葉に、胸をくすぐられていた。
たしかに、恋女房だったと思った。
彼と知り合って、結婚に至るまで、池田新太郎の有里子に対する情熱は、今、思い出しても体が熱くなるほどであった。
有里子の周囲の者は、みんな、池田新太郎が有里子に夢中なのを認めたし、実際、彼は少年のように純粋で、ひたむきであった。
いってみれば、有里子は彼の愛情に押し流されて結婚し、そのまま、彼の愛情に溺《おぼ》れた。
彼との結婚生活を友人たちは、まるでトロッケンベーレン・アウスレーゼのように濃厚で甘く、幸せに満ちていると冷やかしたものであった。
つまり、トロッケンベーレン・アウスレーゼというのは、腐熟乾粒酒ともいうべきもので、天候のよい秋に、遅くまで葡萄を木に残しておくことでポトリライス菌が繁殖して出来る腐熟粒を選り摘んで絞ると、糖の濃い、アルコール豊かな高貴なワイン、ベーレンアウスレーゼが出来るのだが、更に運を天候にまかせて葡萄を木に残しておくと果粒が乾燥して乾葡萄になってくるのを、一粒ずつピンセットで摘み、それで作ったワインがトロッケンベーレン・アウスレーゼであって、いわば最高の貴腐ワインといわれている。
それほどの円満な結婚生活をおびやかしたものは一人の女性の出現であった。
池田新太郎が、有里子と知り合う以前につき合っていた女で、彼の言葉を信じれば、有里子と交際がはじまった時点で、きっぱり別れていたというのだが、その女性が、新婚家庭に執念深く電話をかけて来たり、家のまわりをうろついたり、近所へ自分と池田新太郎との間柄を喋《しやべ》って歩いたり、あらゆるいやがらせを開始したものであった。
最初は夫を信じて、ひたすら辛抱していた有里子だったが、一日中、何回となくかかってくる電話で彼との性生活までねちねちと語り、窓を開ければ外の道に彼女が突っ立っているというようなことが続くと、神経が疲れ果てて、ノイローゼになった。
有里子はそのことを家族にはひたかくしにしていたのだが、どうして知ったのか、弟の彦一が父の耳に入れ、とうとう離婚に進んでしまった。
「私も若すぎたのだと思います」
十年経った今なら、いえる言葉であった。
「離婚を避ける方法がなかったわけではありませんのに……」
「そりゃ無理だろう」
早川教授は、その話を池田新太郎からきいているようであった。
「そういう性格の女性のいやがらせというのは始末に負えないものだろうからね。若気のいたりとはいいながら、そんな女にひっかかった池田君も不運というか、彼もよくぼやいていたよ」
「私が別れれば、その女の方と結婚なさると思いましたの」
「しなかったそうだよ。そんなつもりは池田君に、まるでなかったそうだ。それより、君に去られた当時は、その女を殺してやりたいとまで思ったそうだ」
「そんなことまで、先生にお話していたのですか」
どちらかといえば、口の重い男であった。
他人に自分のプライバシイを喜んで喋るタイプではなかった。
「わたしと彼とは、どうも気が合うらしい。ワインの好みも同じで、よく一緒に飲むんだ。
彼のような慎重な男でも、ワインに酔った時ぐらい、過去の苦い思い出を語りたくなるものだろう。それで、彼をお喋りだとは思わないよ」
七十をすぎた早川教授の言葉には思いやりといたわりがこもっていた。
バアの入口に足音がしたのは知っていたが、そっちへ背をむけてすわっていた有里子は弟夫婦が入って来たのに気づかなかった。
「姉さん」
と呼ばれて、ふりむき、椅子《いす》から立ち上って、そっちへ近づいた。
なにか用があって、弟がバアへ来たと思った。
「随分、勝手じゃあないか」
彦一があたりかまわぬ声でいった。
「俺《おれ》たちが、はじめてドイツへ来たっていうのに、自分だけ、面白いところへ出かけて行って……、俺たちはこんなホテルで飯をくって……」
咄嗟《とつさ》に有里子は返事が出て来なかった。
エーベルバッハ修道院の見学を終えた時、疲れたから先にホテルへ帰るといい出したのは、弟夫婦であった。そこからヨハニスベルグ村のメッテルニッヒ公爵のワイナリーを訪ねる予定の有里子を残して、ガイドの林より子を伴って車で帰ったから、その後、有里子は早川教授の好意に甘えて、シュロス・ヨハニスベルガーを訪ね、帰りにドロッセルカッセ(つぐみ横丁)で食事をした。そのことは勿論《もちろん》、ホテルへ電話しておいた筈《はず》だ。
「俺も君江もつぐみ横丁へは行ってみたいと思っていたんだ」
「だったら……」
つい有里子はいった。姉弟の気やすさからでもあった。
「だったら、林さんにいって下さればよかったのに……林さんならドロッセルカッセはよく知っているし、車もあることだから……」
「なんだと……」
彦一の手がのびて来て、有里子の胸を突いた。
「俺に口答えするのか」
よろめいた有里子を早川教授が立ち上って支えた。
「やめなさい。なにをするんだ」
彦一の横から君江がいった。
「とめないでよ。主人のいってるほうが正しいんだから……」
赤ワインをたのしんでいたグループの中から林より子と大井三郎がとび出して来た。
「どうかしたんですか」
有里子は慌てて、弟へ頭を下げた。他人の前で姉弟|喧嘩《げんか》は、いくらなんでもみっともないと思った。
「ごめんなさい。あたしがうっかりしたわ。これから気をつけます。もし、なんだったら、ドロッセルカッセは明日、案内するから……」
「昼間、行ったって、どうってことのない場所じゃないの」
君江がいった。
「夜はレストランが開いているから……」
「昼間もあいていますよ」
林より子がいった。
「どうってこともない食べ物横丁ですけど、明日、御案内します。なんなら、これから行ってもいいですよ。夜遅くまでやっていますし……」
彦一が林より子をにらみつけた。
「もういい」
総立ちになっているグループのほうをちらとみて、バアを出て行った。君江が不快そうな顔を有里子にむけ、夫のあとについて去った。
「申しわけありません」
有里子が早川教授や林より子にあやまった。
「折角の夜を、おさわがせしました」
「相変らずだね」
早川教授が苦笑した。
「あの人の滅茶苦茶は知っていたが、旅先でまで、姉さんに手を出すとは……」
林より子がいった。
「あたしがドロッセルカッセへ行ってみませんかと申し上げればよかったんです。お疲れときいていたので、ホテルでの食事のほうがいいかと思って……」
ドロッセルカッセに格別、旨《うま》いレストランがあるわけでもなかった。
「ごめんなさい。林さんのせいではありませんわ。もう、気にしないで下さい」
窓の外に、今夜も濃い霧が流れていた。
翌朝は晴れた。
雲はまだところどころで厚く、青空をはばんでいたが、ライン川全体に薄陽がさして秋の明るさを感じさせる。
有里子たちの予定は、十時半にアスマンズハウゼンの舟着場からライン川下りの遊覧船に乗り、ザンクトゴアで下りて、そこからは車でモーゼル川沿いに行くのだが、訊ねてみると早川教授のツアーも全く同様のコースであった。
「大体、ドイツワインを訪ねての旅となると、どうしても同じようなコースになるんですよ。殊に、早川先生と綾さんとはワインの好みが同じらしいから……」
グループツアーのほうのコンダクターである大井三郎が笑っていったが、彦一はホテルを出発する時になって、
「なんで、あいつらと一緒の船なんだ」
と林より子に苦情をのべた。
「おいやでしたら、別の船にしますか。但《ただ》し、今はシーズンオフで便が少いですし、アスマンズハウゼンに停るのは限られていますから、今日の予定が大幅に狂いますが……」
有里子のほうは、今日、訪問するベルンカステル・ドクトールのラウェルベルグ家へ、あらかじめ、訪問時間を告げて承諾を受けているので、どうしても十時半の船に乗らねばならず、それならば、早川教授と同行して、林より子を弟夫婦のために残して行くしかなかった。
「彦ちゃんの好きなようにして下さいな。あたしはかまわないから……」
と有里子にいわれて、彦一は不承不承、予定の遊覧船に乗った。
ライン下りといっても、一番、完全なコースはスイス国境のバーゼルから、河口に当るオランダのロッテルダムまでの約千三百キロということになるが、豪華船で片道四、五日もかかるので大方の観光客はもっぱら、マインツからコブレンツまでの九十キロを利用する。
この区間は、沿岸にさまざまの古城やローレライの名勝もあって人気抜群のコースでもあった。
アスマンズハウゼンからザンクトゴアまでは、更にそのコースの半分だが、それでも有名な多くの古城とローレライの観光が出来る。
遊覧船の中は、比較的、すいていた。
川風はやや冷たいが船上に出たほうが見晴しがいいといわれて、有里子は弟夫婦と共にタラップを上った。
早川教授のグループも殆《ほとん》どがそこにいて、カメラを岸のほうへむけている。
面白いことに、ライン川沿いの葡萄畑はアスマンズハウゼン側に片よっていた。
船が下って行く左側の丘陵には、まず、滅多に見当らない。
「右側の丘陵は南に面しているからでね。太陽の恵みを受けて、葡萄は育つ。それと、同じ斜面でも上のほうがいいワインが出来る。下の葡萄は質が落ちるといわれるようだね」
早川教授の説明を有里子は少し、はなれたところから聞いていた。
弟夫婦は写真を二、三枚撮り合って、すぐ船室へ戻って行った。
昨夜のバアでのことがあって、早川教授が煙たいらしい。
「失礼ですけれど……」
声をかけられて、有里子は「ねずみの塔」を眺めていた顔を僅《わず》かに横へむけた。
松原理代は黒いトレンチコートにエルメスのスカーフを頭から首へ巻いていた。
やはり、早川教授のグループの一人で、銀座のクラブのママだと、昨日、有里子に自己紹介をしている。
「ちょっとお話をしてよろしいかしら」
有里子は微笑で応えた。
「どうぞ……」
「早川先生からうかがいましたのですけれど、K出版の池田さんは、綾さんの前の御主人様ですってね」
やはり、そのことだったのかと、有里子は合点した。
昨夜、ドロッセルカッセのレストランで池田新太郎に再会した時、たまたま、そこへ入って来た松原理代の態度が異様であった。理代をみた池田新太郎の様子もおかしかった。
「別れて、もう十年にもなりますけれど……」
「十年ですか……」
ふっと理代が苦笑した。
「そんなむかしの話でしたの」
「はい」
右側の斜面に又、葡萄畑が広がりはじめていた。陽を受けて黄金色《こがねいろ》に輝いているあたりに人影が動いていないのは、せめて雨上りの束の間に、葡萄の摘み取りをはじめたものだろうか。
「余っ程、愛し合っていらしたのね」
呟《つぶや》くように、理代がいった。
「未練たっぷりな別れ方をなさったんじゃないの」
有里子は葡萄畑へ視線をあずけたままで答えた。
「どうしてでしょう」
「別れて十年も経って、どちらも再婚なさっていないからですわ」
「そういう場合、理由はいろいろありますでしょう。結婚に失敗して臆病《おくびよう》になってしまったとか、再婚したくとも相手がみつからなかったとか……」
「あなたの理由は、なんですの」
不躾《ぶしつけ》な質問だったが、理代のいい方にはそれほど嫌味が感じられなかった。
「さあ……」
有里子は恥じらいを口許に浮べた。
「やっぱりショックで……、懲りてしまったということもありますし、二度と父を悲しませたくないとも思いましたし……」
それ以上に、池田新太郎のような男性にめぐり合わなかったのだといいたかったが、さすがにそれは口にしなかった。
「池田さんのほうはどうだと思います」
理代が川岸を眺めた。
ライン川に沿って、どこまでも道が続いている。車の往来は、それほど多くはなかった。
「わかりませんわ」
実際、別れた男の胸の中なぞ、有里子に想像もつかなかった。
「別れてから、昨日まで、一度も会ったことがなかったんですから……」
「池田さん、なんのためにドイツへいらしたのかしら」
それも、有里子の答えられることではなかった。
「あそこにベンツが一台、走っているでしょう」
手を上げて理代が教えた。ライン川沿いの道である。
「グレイのベンツ……レンタカーですけど」
たしかに、小さく、その車がみえていた。この船と並行するように、ひた走りに走っている。
「あれ、池田さんの車よ」
思いがけないことを、理代がいい出した。
「まさか……」
「本当よ。あたし、昨夜、池田さんのホテルへ行ったの。彼、このレンタカーで、ラインを下るって……。それも、私たちの乗る船と一緒によ。おまけに今夜のホテルは、ツェルティンゲンのニコライですって」
それは有里子の今夜の宿であった。早川教授のグループも同じホテルである。
「あの辺には、そうホテルも多くありませんし、ニコライは日本人のお客が多いそうですものね」
辛うじて、有里子はいった。
実際、ホテル・ニコライの主人は日本びいきで、むかしむかし、日本へ行った時の写真を大事にしていて、日本人の泊り客には必ずそのアルバムを自慢そうにみせる。
有里子がはじめて、父の大久保正人とニコライへ泊った時もそうであった。
「さあ、どうでしょう」
理代は軽い笑い声を立てて、ついと有里子の傍を離れた。
その背から有里子は視線を川沿いの道へむけた。
グレイのベンツは相変らず、この船を追うような恰好《かつこう》で走っている。
本当に、あの車に池田新太郎が乗っているのだろうかと思った。
船からは車ですらマッチ箱の大きさにしかみえない。まして乗っている人間の顔など判別のつく筈がなかった。
大井三郎が近づいて来た。
「よかったら、写真とりましょうか」
有里子は素直に手に下げていたカメラをさし出した。
「お願いします」
「うまい具合にプファルツの古跡が背景に入りますよ」
十四世紀にバイエルン王、ルードヴィヒがライン川を往来する船から通行税を取りたてる目的で築いた中洲《なかす》の城であった。
「綾さんも、今日はラウェルベルグ家を訪問なさるそうですね」
たて続けに二つばかりシャッターを切ってから、大井三郎は人なつこい笑顔でいった。
「早川先生もドクトールの畑を訪ねるのを、たのしみにしていらっしゃるんですよ」
「ラウェルベルグさんが、とてもいい方だからですわ」
父親と息子が揃《そろ》ってワイン造りにいそしんでいる家であった。
「僕も彼らが好きですよ」
大井三郎がいった。
「ガイドとして、あの家を訪問したんですが、すっかり仲よくなって、暇な時には葡萄畑へ手伝いに行ってるくらいです」
それだけに、今年の気候の悪さがドクトールの畑にもどんな結果となっているか心配だといった。
「ラインガウ地域がこんなですから、モーゼル地域だっていいわけがありませんよ」
「皆さん、がっかりなさっていらっしゃるでしょうね。折角の御丹精が……」
一年を、その年のワインのために働き続けた人々にとって、葡萄の出来の悪い年ほど情ないものはあるまいと有里子は思う。
「ラウェルベルグさんが、いつか、父におっしゃいましたわ。大事に育てた子供を失ったようだと……」
「その気持、わかりますね」
ザンクトゴアからは車ですか、と三郎が訊いた。
「ええ、林さんが手配をして下さいましたから……」
舟着場で待っている筈であった。
「僕らのマイクロバスも、一足先に行っていますよ」
昨日、有里子が便乗したマイクロバスである。
「さて、ぼつぼつローレライですよ」
船上に人がふえていた。
川風の冷たさに船室へひき上げていた人が、ローレライ見物のために、又、甲板《かんぱん》へ上ってくる。
「なんということはない岩ですがね」
殊に近頃は岩の下の部分に、日本語でローレライと書いた札が立ってしまって、わかりやすいかわりに、一層、風情がなくなってしまったと三郎は笑う。
「まあ、最初っから風情なんぞあるものかといえば、それまでですが……」
その岩が船の右手にせまって来た。
シャッターの音があちこちで起り、有里子は大井三郎と並んで、この有名になりすぎたライン川の名勝を眺めていた。
「あなた、早く……」
階段を上って来た女の声が、がみがみと叫んでいた。
「もう、通りすぎたわよ」
その声で、有里子はどきりとした。弟夫婦が漸《ようや》く、甲板へ出て来てカメラを岩肌へむけている。
すでに、ローレライを写すには船の位置が悪かった。近づきすぎた岩壁は、到底、レンズに入り切らない。
「お義姉《ねえ》さん……」
君江が有里子へとげとげしい口調でいった。
「どうして教えてくれませんの。ローレライが近いって……」
有里子が答える前に、大井三郎がいった。
「さっきからアナウンスでいってたじゃありませんか、ドイツ語と英語と日本語で、間もなくローレライだと……」
それは甲板にも聞えていた。船室にいた人間には尚更、よくわかった筈である。
彦一がカメラを持ったまま船尾のほうへ走り、君江もそっちへついて行った。
「申し上げたんですよ。もうすぐ、ローレライだって……」
いつの間にか、林より子が来ていた。
「彦一さんも奥さんもビールをがぶがぶ飲んでいて、ローレライなんて俗悪なもの興味ないとおっしゃっていたんです」
その上、いよいよローレライが近づく頃に二人ともトイレに行ってしまって、
「興味がないから、写真もお撮りにならないんだと思ってました」
有里子は苦笑した。
「あの人たち、そういうところがあるの。ごめんなさい」
「ザンクトゴアが近いですよ。下船の用意をして下さい」
三郎が甲板にいる自分のグループに声をかけ、林より子も彦一夫婦を呼びに行った。
この遊覧船の客の大半はコブレンツまで行く筈であった。
船が桟橋に着くと、まっ先に倉重浩が下りて行った。走れるだけ走って、岸から遊覧船へカメラをむけている。
マイクロバスはすでに到着していたが、早川教授のグループは近くの土産物店へ立ち寄ってライン川観光の地図や絵葉書を買っていた。
「困ったことになりました」
乗用車のところへ行っていた林より子が戻って来ていった。
「エンジントラブルを起したらしいんです」
アスマンズハウゼンからここへ来る途中から調子が悪く、漸くここまで来たものの、どうも具合がよくないと運転手がいっているらしい。
「修理に時間がかかりそうだっていわれました」
大井三郎が傍へ来た。
「どうかしましたか」
ガイド同士の気やすさで、林より子がすぐ説明した。
「だったら、又、僕らのバスに同乗していらしたらどうですか。行く先は同じだし、どっちみち、バスはがらがらなんですから……」
彦一にもいった。
「ここからの道は、どちらかといえばバスのほうが楽ですよ」
苦り切って、林より子に文句をいっていた彦一だったが、やむを得ないと思ったらしい。
「金は出さないよ。払う必要があるなら、林君が払い給え。車のトラブルはそっちの責任なんだから……」
三郎が笑った。
「そういうことは、僕が林君と相談して、旅行社のほうに請求しますよ」
運転手に協力して、彦一夫婦と有里子のスーツケースをマイクロバスに運び込んだ。
早川教授のグループの人々は、すでにバスに乗っていたが、大井三郎の説明に笑って了承した。
彦一夫婦はあいている奥の席にすわり、有里子は更にその後のすみへ落ち着いた。
「それじゃ、出発します」
三郎がいい、林より子と並んで一番前のガイド席へ腰を下すと、マイクロバスはゆっくり発進した。
ライン川を、今、乗って来た遊覧舶が静かに出航して行くところであった。
ホテル・ニコライはモーゼル川のほとりにあった。
ホテルの前は国道が走っている。
そうした条件では、昨夜、宿泊したホテル・クローネとよく似ていた。
昼食はこのホテルですませることになっていて、マイクロバスを下りた客はとりあえず部屋割をされて、スーツケースを運ばせた。
昼食は比較的、早く済んだ。
「食後、すぐ出発というのもなんですから、四十分ばかり自由時間にします。モーゼル川の写真をとったり、民芸品に興味のある方はすぐ裏に面白い店がありますから、のぞいてごらんになるといいでしょう」
勿論、部屋で休むのも自由だと大井三郎にいわれて、有里子はエレベーターに乗った。
これから訪ねるラウェルベルグ家へ土産の用意があったからである。
部屋はモーゼル川にむいていた。窓から見下すとホテルの玄関が斜めにみえた。
車が停ったところであった。グレイのベンツである。
池田新太郎は車のトランクを開け、ボーイにスーツケースを取り出させている。
松原理代のいったのは本当だったのだと思った。
同時に、気になっていた松原理代と新太郎の関係が重く心にのしかかって来た。
彼女の口ぶりだと、どうやら池田新太郎と以前からの知り合いのようであった。
銀座の有名クラブのママであった。新太郎がその店へ遊びに行っているのかと思う。
が、客とママというだけにしては、松原理代は思わせぶりであった。
昨夜もドロッセルカッセの新太郎のホテルを訪ねているらしいし、車でここへ来る予定も聞いている。
仮に、新太郎と理代が深い関係にあったとしても、有里子にはどうしようもないことであった。
十年前に別れた夫に、どんな恋人がいようと、有里子にはかかわりがない筈である。
窓辺をはなれて、有里子はスーツケースから、ラウェルベルグ氏への土産物を取り出した。
ホテルのロビイでは、入って来た新太郎を松原理代が出迎えた恰好であった。
「早かったじゃないの」
親しげに声をかけた理代は、その時まで彦一とロビイでお喋りをしていた。
で、彦一は理代が近づいて行った池田新太郎を認めた。
顔色が変ったのは、それが、かつての姉の夫だと気がついたからである。
新太郎のほうも彦一をみたが、会釈もせずフロントでチェックインを始めた。
「有里子さんも、弟さんもザンクトゴアから、あたし達のバスでここへ来たのよ。車が故障しちゃって……」
理代が甘えたように、新太郎の肩へ手をかけ、新太郎がそれを振り払った。
「どうしたのよ。やけに冷たいじゃない」
もう一度、理代がしなだれかかり、新太郎は彼女の体を軽く突いた。
「よしてくれよ。君とはなんの関係もないだろう」
キイを受け取って、さっさとエレベーターのほうへ去った。
理代が肩をすくめて、彦一の前へ戻って来た。
「人|馬鹿《ばか》にして……なによ、古女房とよりを戻そうと思ったもんだから……」
彦一が、聞きとがめた。
「あいつを知ってるの」
「うちの店のお客よ。もうちょっとわけありっていったほうがいいかな」
「彼、俺の姉さんの夫だったんだ」
「知ってるわよ」
食事のあと、丹念に塗り直した口紅を、理代は唇を上下すり合せるようにして落ち着かせた。
「昨夜、ドロッセルカッセのレストランで、彼と有里子さんが会ってたもの」
彦一の顔が赤くなった。
「本当かい」
「偶然だっていってたけど、どうかしら。小説じゃあるまいし、同じ東京にいて十年も会わなかった人が、ドイツくんだりでぱったり再会なんてことあると思う」
「そりゃそうだ」
慌しくポケットに手を入れて、煙草《たばこ》を取り出した。ものを考える時に煙草を吸うのは、彼の癖のようであった。
「あいつ、姉さんとよりを戻そうと思ってるのか」
理代の顔色を窺《うかが》うようにした。
「多分、そうじゃないかと思うわ」
「なんで、今頃……。別れて十年だよ」
「いろいろあるみたいね」
理代も煙草を出した。彦一がライターで火をつけてやった。
「いろいろって……」
「男も四十になると考えるんじゃないの。あなたのお姉さんは、麻布のつぐみ亭の女主人なんでしょう。早川先生の話だと、随分、繁昌していて、そりゃあすてきな店だそうだけど……」
さぞかしお金が儲《もう》かるんでしょうねえといわれて、彦一は口をとがらせた。
「俺は関係ないから、知らないよ」
「お父さんが亡くなって、遺産だけだって相当なものだったって……」
「そんなこと、池田がいってるのか」
「あなただって、ごっそりもらったんでしょう。東京へ帰ったら、あたしの店へ遊びに来てよ」
「そんな金ないよ。相続税を払ったら、ぱあみたいなもんだ」
それは本当ではなかった。
父親が死んだ時、彼の相続分はなかった。それまでに、何度も商売に失敗して父親に穴埋めをさせた金が、相続分の先払いとして処理されていたからであった。
父親があらかじめ依頼しておいた弁護士と税理士によって、彦一はその旨をいい渡された。
「この書類をみても、おわかりなように、あなたがこれまでにお父さんから借金したものは一億を越えています。それが、あなたの相続分の先払いという形になっていますので御了承下さい」
冗談ではない、と彼はねばったが、弁護士も税理士も相手にしない。
「ついでに申し上げますが、お姉さんの有里子さんの相続分は私どもが依頼されて管理していますから、お姉さんからお金を取り上げようとしても無駄ですよ」
初老の弁護士は笑顔で話していたが、声の底にはきびしいものがあった。
「つぐみ亭へ行って乱暴を働くのも止めて下さいよ。あそこの従業員には、もしも、あなたが暴力をふるったら、直ちに警察へ知らせるようにいってありますからね」
憤然として彦一は弁護士の事務所をとび出した。
あの時の屈辱は、今でも彼の胸の中で黒いしこりになっている。
「池田新太郎は金がめあてで姉さんとよりを戻そうとしているのか」
「それだけでもなさそうね」
理代が苛々《いらいら》した調子でいった。
「有里子さんは美人だし、未だに独身なんでしょう。おまけに女盛りだし、つぐみ亭へ来るお客はみんな有里子さんのファンだっていうじゃないの」
「金と色か」
油断はならないという顔をした。
「俺が、そうはさせないよ」
「お姉さんがよりを戻すの、反対なの」
「あいつは女たらしなんだ。姉さんと結婚した時、他に女がいたんだよ」
理代がへええと感心した。
「まあ、あれだけ恰好いい人だもの。結婚前に色恋の一つや二つ、当然だわね」
「女がどなり込んで来たんだよ。結婚の約束もしていたし、別れ話も出来てなかったんだ」
「どういう女の人だったの。水商売……」
「新橋《しんばし》の飲み屋の女中だよ」
苦い表情で、彦一がいった。
「きれいな人……」
「小柄でね。小肥りの、まあ男好きのする顔だね」
「よく知ってるじゃないの」
「そりゃあ、姉さんのために、何度か話をしに行ったから……」
三本目の煙草を出した。
「親父も心配するし、第一、姉さんがかわいそうじゃないか」
「随分、姉さん思いなのね」
いささか皮肉をこめて、理代が笑った。
「それにしちゃあ、昨夜からよく姉さんに突っかかってるみたい……」
彦一が、ぼんのくぼに手をやった。
「腹が立ってるんだよ」
「どうして……」
「女房がね」
「奥さんが……」
「俺と結婚する時、反対されたからさ」
誰かが、外で叫んだようであった。
ダイニングルームで、このホテルの老主人と話をしていた早川教授がロビイへ出て来た。
「あんたの奥さんじゃないのかね。怪我《けが》をしたとかいっているよ」
彦一が椅子からとび上るようにして玄関へ出て行った。
君江は倉重浩に体を支えられて、こっちへ戻ってくるところであった。足を大きくひきずって、顔をしかめている。
「なにをしたんだ」
彦一がどなった。
「ころんで、足を痛められたようですよ」
倉重が答えた。
「川っぷちで写真をとっていて、木の根につまずいたんだそうです」
その通りというように、君江が首を縦にふった。
「くじいたのか」
彦一が足にさわると、君江は大袈裟《おおげさ》に、痛い、痛い、と叫んだ。
「部屋へ行こう、みてやるよ」
彦一が妻を支え、エレベーターのほうへ歩いて行った。
「医者を呼ばなくていいのかね」
早川教授がいい、倉重が首をふった。
「それほどとも思えませんがね」
川っぷちでカメラをかまえていたら、君江がよろめきながら歩いて来たのだといった。
「あんまり、姉さんをいびるから、罰が当ったんじゃありませんか」
外から大井三郎が入って来た。
「ぼつぼつ、出発しようと思いますが……」
ロビイの古風な柱時計が二時を打っていた。
第二章 墓場にて
ホテル・ニコライからベルンカステルのドクトール畑へ出かけるマイクロバスに乗ったのは総勢十名であった。
綾有里子と早川教授、それから教授のグループの高山夫妻、吉田夫妻、フリーフイターの倉重浩、ワインコーディネイターの北川ゆき、レストランの主人である竹内喜夫、それにツアーコンダクターの大井三郎である。
有里子は弟夫婦がベルンカステルへ行かないというので、ガイドの林より子をホテルへ残して来た。
「松原理代さんは少し疲れているので、今日の午後はホテルで静養しますといわれました」
大井三郎がみんなに告げ、それでマイクロバスは出発した。
モーゼル川に沿った道の両測の斜面は見渡す限り葡萄畑《ぶどうばたけ》であった。
「こっちも収穫がおくれていますね」
有里子と通路をへだてた反対側にすわっていた竹内が斜面を眺めながらいった。
バスの大きさにくらべて、乗客の数が少いので、大方は二人掛けの座席を一人が占めている。
有里子も竹内も各々、一人であった。
「モーゼルのワインも、今年はよくないのでしょうね」
一年の丹精の甲斐《かい》もなく、天候不順で無惨な秋をむかえている。
大井三郎がマイクを持って座席から立ち上った。
「これから行きますベルンカステルはモーゼル川の中程にある町でして、川の反対側はキユツという土地です。ドクトール・グラーベンの葡萄畑はちょうどベルンカステルの町を見下す丘の上にあるのですが、何故、ここの葡萄畑がドクトールと名付けられたか、皆さんは御存じですか」
このバスが出発した時から、早川教授は一番、後部の座席に一人ですわっていた。珍しく、眼を閉じてうつらうつらしている様子である。
なんといっても七十をすぎている老人のことで、ライン川沿いのアスマンズハウゼンから船とバスを乗り継いでモーゼル川のツェルティンゲンまでの午前中の強行軍がこたえているに違いない。
大井三郎はそれを承知して、自分がベルンカステルの説明をはじめたようである。
手を挙げたのは、竹内であった。
「わたしが本で読んだのでは、このあたりの御城主が病気になって、如何《いか》なる薬も効きめがなかった時に、一人の農夫が自分の畑で収穫したところの秘蔵のワインを持って来てさし上げたところ、御城主の病気がたちどころに治ってしまったので、喜ばれた御城主自ら、お城の周囲の葡萄畑をドクトールと名付けて農夫に与えたとありましたが……」
北川ゆきが拍手をし、それで大井三郎が彼女を指した。
「竹内さんのお話の通りです。では、北川さん、そのお城の名前は……」
「ランズフート。トリエル侯の出城です」
北川ゆきが窓の外を指した。
「あの山の上にみえているお城でしょう」
それは、かつての古城の一部のようであった。城壁と望楼のような円柱の石の建物が、そのまわりを取り巻く葡萄畑と共に遥《はる》か前方にみえている。
「まさに酒は百薬の長というところですな」
銀座の酒屋の主人である吉田重吉が笑い、マイクロバスの中は賑《にぎ》やかな雰囲気になった。
ベルンカステルは小さな町であった。
家の多くは、木の骨組みを外装にまでみせた古風な造りで、急勾配《きゆうこうばい》の三角屋根や外側に張り出した鳥籠《とりかご》のようなベランダ、軒先につるした大時代《おおじだい》のランプなどが、外国から来た旅行者の眼を楽しませた。
町の中心あたりにはモーゼル川へ橋がかかっていて、橋のこっち側には教会が、むこう側の袂《たもと》にはホテルの建物がみえる。
川のほとりの小さな町の背景は見渡す限り斜面の葡萄畑であった。
マイクロバスを下りた十人は大井三郎を先頭にベルンカステルの町の中を歩いた。
二頭の熊《くま》の彫刻のある噴水が町の広場にあった。
名だたるドイツワインの町だけあって、酒屋のショウウインドウに並べてあるワインのラベルが誇らしげであった。
「凄《すご》い奴がありますよ」
竹内が足をとめて、有里子へワインの瓶を指した。
七〇年代のベルンカステル・バスタブのベーレンアウスレーゼやドクトールのシュペートレーゼが無造作においてある。
「綾さんのお店では、ドクトールをかなりおいていらっしゃるんですか」
自分も湘南のほうでレストランをやっているという竹内は、有里子が経営している「つぐみ亭」のワインに興味がありそうであった。
「なくなりました父が、これからうかがいますラウェルベルグさんと親しかったものですから、あちらでお造りになるものを必ず、毎年、送って頂いて居ります」
ラウェンベルグ家は、先程の話にあったドクトール畑を所有する三軒の中の一つであった。
「ベルンカステルのワインの名前は面白いですな。そのバスタブというのはお風呂《ふろ》ってことでしょう。そっちのグラーベンはお墓ですか」
ドイツワインのエチケット(ラベル)にはその葡萄畑の名称が入っている。
「バスタブもグラーベンもドクトール畑のまわりの畑だときいていますけれど……」
先へ行った大井三郎が立ち止って手をふっている。
そこが、有里子にとっては、なつかしいラウェルベルグ家の戸口であった。扉のところに、ラウェルベルグ家の長男であるパトリックが立って有里子のほうをみている。
「参りましょう。竹内さん」
有里子は小走りにラウェルベルグ家へ近づいた。
「パトリック、ごきげんよう」
「有里子さん、ようこそ、父がお待ちしています」
扉を入ったところに、ラウェルベルグ氏がいた。もう七十近いと思われるが、がっしりした体つきの、如何にも一生を土に生きた男の風格がある。
「有里子……」
太い腕に有里子を抱きしめるようにして老人は眼を輝かせた。
「今年も、あなたに逢《あ》えました」
「お元気で嬉《うれ》しゅうございます。ラウェルベルグさん」
扉がまた開いて、グループの一番最後を歩いて来た早川教授と二組の夫婦が到着した。
ラウェルベルグ老人が早川教授をみた。
「ヘル早川、ようこそ。あなたの友人が来て居られますよ」
「僕の友人……」
怪訝《けげん》な顔で早川教授は老人のむけた視線をたどった。そこは広い応接間になっていて、昼間でもやや暗く、照明がついている。
一人の紳士が暖炉の傍の椅子《いす》から立ち上った。
「国松さん……」
早川教授が驚きの声を上げた。
「いったい、どうして……」
国松と呼ばれた中年の紳士は穏やかな微笑をむけた。
「パリへ来ていたのです。家内に電話をしたら、早川先生がドイツワインを訪ねる旅にお出かけといいますので、スケジュールを調べさせて、今日、ルクセンブルグ経由でやって来ました」
「それは……」
あまりの奇遇だったのか、早川教授は一瞬、茫然《ぼうぜん》としていたが、気をとり直したようにグループをふりむいて紹介した。
「画家の国松聡先生……、僕よりも遥かに年の若い僕の友人です」
ほう、という声がグループの中から洩《も》れた。
吉田重吉であった。
「国松先生ですか。私は先生のお作が大好きでして、銀座の有明画廊のご主人に頼んで、三点ほど秘蔵して居ります」
吉田夫妻を先頭にグループの全員が国松聡に挨拶《あいさつ》をした。有里子は最後に頭を下げた。
「あなたが、綾有里子さんですか。お名前は早川先生からうかがっていました」
早川教授が時計をみた。
「先に葡萄畑をみて来たほうがいい。日が暮れないうちにね」
「息子が御案内しますよ。わたしは皆さんに召し上って頂くワインの用意をしていましょう」
父親にうながされてパトリックが廊下を先に歩き出した。
中庭に出て、そこから石段を上るとワイン倉になる。
この家のワイン倉は葡萄畑の斜面を横からくり抜いたような形で出来ていた。葡萄畑の下がワインセラーになっている。
樽《たる》の中の葡萄はよくねむっていた。
瓶につめられたものも、その中で更に熟成を続けている。
「僕は白ワインは何年も保《も》たないんだとばかり思っていました。ドイツへ来て、はじめて白ワインが十年も二十年も生きるんだということを知りましたよ」
倉重浩が、ワインセラーの中でカメラのフラッシュを光らせながらいった。
「すべての白ワインが、というわけじゃないのよ。秀れた生命力を持つように育てられたワインが、というべきじゃない」
北川ゆきがいい、パトリックへ質問した。
「このセラーは独特だと思いますけれど、こちらでお造りになっていらっしゃるワインに、このセラーの影響はありますか」
パトリックがうなずいた。
「あると思います。父も僕も、良い意味で我が家のワインに影響を与えてくれていると信じています」
三百年前に造られたというワイン倉であった。壁に滲《にじ》み出ている白いカビには、ねばりがある。
ワインセラーの上の石段を上り、戸口を出ると、そこは山の中腹であった。
葡萄畑のまん中でもある。
そこからはベルンカステルの町は勿論《もちろん》、モーゼル川のむこうまで、広く見渡せた。
葡萄の葉はすでに黄ばみはじめていた。収穫の時期を失った青い実が秋深い山の冷気の中で心細げである。
「この辺りも、今年はいけなかったようですね」
有里子の前を歩いている吉田重吉と竹内喜夫が話している。
畑のすみに、祠《ほこら》のようなものがあった。中にはマリア像が安置されている。
どこの葡萄畑にも似たようなものがあった。
葡萄の出来のよいことを、畑へ通う農夫たちが祈るためか、葡萄畑を守るためか、おそらくその両方の意味があるに違いなかった。
「グラーベンというのは、どの辺かね」
背後のほうで、早川教授の声がした。
パトリックが指して教えているのは、祠のむこう側の一帯であった。
「お墓なんて、葡萄畑の名前にしたら、変ですね」
倉重がいい、北川ゆきが笑った。
「むかし、そのあたりにお墓があったんですって」
「墓湯を葡萄畑にして、気味が悪くありませんかね」
早川教授が二人の会話に割り込んだ。
「こんな陽当りのいい場所を、人間の墓場にするなんて勿体《もつたい》ないよ。ここは葡萄が生れて育って死ぬところ。人間なんてのは川っぷちの暗くて寂しいところで充分だ」
「人間の墓地は下のほうにありますよ」
パトリックが陽気に答えた。
「陽は当りませんが、葡萄畑を背にして、対岸の葡萄畑を眺められる、なかなかいいところです」
「わたしが死んだら、そこへ埋めてもらおうかな」
早川教授がいった。
「ベルンカステル・グラーベンを背中にしょった墓場なんて、実にすばらしいじゃないか」
風が雨を運んで来て、人々は畑の道をラウェルベルグ家へ戻りかけた。
さっきは青くみえたモーゼル川が灰色にけむっている。対岸の斜面も遥かなランズフート城の丘も夕靄《ゆうもや》の中であった。
ラウェルベルグ家で試飲のために供されたワインは十六種であった。
ドクトールの七六年アウスレーゼやバスタブの七六年ベーレンアウスレーゼ、更にはドクトールの四九年アウスレーゼ、同じく六四年シュペートレーゼなどの美酒が次々に運ばれてくる。
それらの中には、ラウェルベルグ家のワインセラーに、もう数本も残っていないという貴重なものもあった。
「どうも、我々がこうして頂いてしまうには、もったいないですな」
倉重がいうと、ラウェルベルグ老人はグラスを軽く廻《まわ》しながら苦笑した。
「ワインはセラーで死なせてしまうよりも、思い出として残しておきたいものですよ」
貴重なワインだからといって、ワイン倉にしまい込んで飲むべき時期をのがしてしまうと、やがてワインは死ぬ。
「そんなことになったら、ワインがかわいそうです」
「どうも、耳が痛いですな」
医者である高山広和が頭へ手をやった。
「わたしなど、患者からお礼にといいワインを頂くことがあるのですが、みんなもったいないと地下へしまい込んで家内に笑われています。そんなけちなことをすると、あなたの葬式の時に、お客様に全部さし上げてしまうことになりますよといわれましてね」
「しかし、こういうことはありませんか」
酒屋の吉田重吉がいった。
「こちらのように、ワインをお造りになっていらっしゃるお宅では、いいワインはどうしても御商売のほうへお出しになって、御自身が召し上るのは、それほどでもないところに落ちつかれるということは……」
大井三郎が通訳すると、ラウェルベルグ老人が大笑した。
「悪いワインを飲むには、人生はあまりにも短すぎると思いませんか」
息子のパトリックも笑顔でつけ加えた。
「父は、そのような主義ですので、我が家のワインは片はしから父の胃袋に入ってしまいます。勿論、こうしてお出で下さる方々の胃袋にもですが……」
有里子はすぐ隣にかけていた早川教授が深い嘆息をついたのを耳にした。
「まさに、その通りですな。悪いワインを飲むには、人生は短すぎる。まことに残念の一語に尽きますよ」
十六種の試飲で、人々は快く酔った。
ラウェルベルグ家を辞す時、外は雨であった。
「今夜の思い出に、このグラーベンを一本、頂けませんか」
早川教授が棚の上の一本を取り、ラウェルベルグ老人が慌てていった。
「それでは、もっと良いものをさし上げましょう。こちらの七六年のドクトールのものなどは……」
「いや、グラーベンが気に入っているのです。わたしの人生の墓場のために、これを頂いて行きましょう」
「では、お気に召すままに……」
早川教授はワインの瓶を紙にくるみ、大事そうに手さげ鞄《かばん》にしまった。
「もう、お目にかかれないかも知れません。なにしろ、わたしも年ですので……。どうか御機嫌よう。御老人はよいあとつぎがおありで羨《うらやま》しいことです」
そのパトリックは有里子に傘をさしかけてマイクロバスまで送ってくれた。
「今年のワインは全滅です。けれども、父はあなたのところにだけは、父の納得出来るワインをお送りすると思います」
「ありがとうございます。たのしみにして居ります」
値段の打ち合せも、数量も、この家では無用であった。有里子がなにもいわない限り、年々、きまったワインが老人の心をこめて日本の「つぐみ亭」へ届けられる。
バスに最後に乗って来たのは大井三郎であった。
「早川先生は、国松先生がこの川むこうのホテルにお泊りなので、そちらでお食事をすませてお帰りになるそうです。皆さんに申しわけないがよろしくとのことでした」
雨の中をバスは三十分ばかり走ってツェルティンゲンのホテルへ帰って来た。
ロビイには林より子が待っていた。
「彦一さん御夫婦は先程、お食事をすまされました」
君江の足が痛むのでルームサービスにしたという。
「どんな具合なんでしょう。お医者様にみせなくていいのかしら」
このホテルについた時、川っぷちへ写真を撮りに行っていて、ころんで足首をひねったときいている。
「私も、何度か申し上げたのですけれど、湿布薬を持っていらっしゃるので、手当は自分たちでなさるというので……」
大井三郎がグループに声をかけていた。
「食事は八時からです。あと三十分ありますから一休みなさって、ダイニングルームへ集って下さい」
有里子のほうにも愛想よくいった。
「よろしかったら、御一緒にどうぞ」
「ありがとうございます」
みるところ、林より子も食事はまだのようであった。
「ちょっと、弟の部屋へ行って様子をきいて来ます」
エレベーターに乗って、有里子はボタンを押した。
このホテルは四階建で、有里子の部屋は最上階であった。弟の彦一夫婦は林より子の部屋を間に入れた左手である。
低くノックをすると彦一がすぐにドアをあけ、自分から部屋の外へ出て来た。
「君江がやっと寝たんだ」
「足が痛むの」
「たいしたことはないと思うんだがね」
明日の朝の様子をみて、ベルンカステルの病院へつれて行くといった。
「予定が少し変るかも知れないが、いいだろう」
「勿論よ」
怪我《けが》では仕方がなかった。
これから食事をするといい、有里子は一階へ下りた。
日本人グループは四人ずつに分れてテーブルについていた。
吉田、高山の両夫婦が同じテーブルで、もう一つは倉重、北川、竹内、それにベルンカステルには行かずにホテルに残っていた松原理代が同席している。大井三郎はまめまめしく二つのテーブルの間に立ってメニュウの説明をしたり、給仕人にかわって注文をとったりしていた。
有里子は林より子とすみのテーブルについた。
「早速ですけれど、先程、ベルンカステルへお出かけの間に、彦一さんが車を明日から用意するようにいわれまして……」
より子の言葉に有里子はうなずいた。
「そうね、いつもいつも、早川先生のバスに便乗というわけにも行きませんもの」
今日、ザンクトゴアからここまでマイクロバスに同乗させてもらったのは、予約してあった車のエンジントラブルによるものであった。
「大井さんがベルンカステルへ行かれる前に、どっちみち、あちらの予定も明日はトリアまでで、寄って行くワインセラーも、多分、有里子さんと似たようなものだろうから、よかったら一緒にといって下さったので、彦一さんにそう申し上げたのですが、バスはいやだとおっしゃるので、旅行社に連絡してレンタカーを持って来てもらいました」
つい今しがた到着したという。
「彦一さんが、ベンツならなんでもいい、車の点検は私にまかせるといわれたので、一応みておきました」
「レンタカーですって……」
てっきりドライバーつきの車と思っていた。
「彦一さんが御自分で運転なさるそうです。俺《おれ》はカーキチだから、人に運転してもらって乗せられて行くのは、大嫌いだといわれました」
たしかに、その通りであった。弟の彦一は車好きで、日本にいても始終、高級車を買いかえている。
「国際免許証をお持ちだそうです」
有里子さんも運転をなさるそうで、とより子はいった。
「日本では運転していますけれど……」
バッグに国際運転免許証は入っていた。外国ではなにがあるかわからないから、一応、用心のために持って来ている。
「でも、レンタカーには乗りませんのよ。機械にあまり強くありませんし、途中でなにかあったら大変ですもの」
その点、ドライバーつき車は、費用が余分にかかっても安心であった。
しかし、彦一がレンタカーをといった以上、反対は出来なかった。何事によらず、自分の意志は絶対にまげない弟である。
「私も運転は出来ます。トリアまでの道は承知していますから」
より子もバッグから運転免許証を出してみせた。
食事を終えてダイニングルームを出たところで、有里子は呼びとめられた。
池田新太郎がバアの入口に立っている。
「すまないが、少し話したいんだ」
僅《わず》かにためらって有里子はうなずいた。林より子はおやすみなさいと挨拶をしてエレベーターのほうへ去った。
バアには三人のドイツ人の客がカウンターで飲んでいるだけであった。
秋も深い、このあたりには観光客の姿は珍しい。
奥のテーブルに新太郎はかつての妻を案内した。飲みかけらしいワイングラスとワインボトルが一本おいてある。
「グラッヒャー・ヒンメルライヒのアウスレーゼだけども……」
ワインの瓶を手にして給仕人にもう一つ、グラスを持って来させた。
ここから遠くないグラッヒ村のワインであった。
「七五年だがなかなか旨《うま》いよ」
素直に有里子はグラスを手にした。
「オットー・パウリーさんのところのワインね」
グラッヒ村では古い歴史を持つワイン醸造家であった。
「君の店でも、ここのが入っているそうだね。早川先生から聞いたよ」
「明日、午前中にお訪ねするつもりでいるんです」
「つぐみ亭」が仕入れているドイツワインの中で、数からいえばオットー・パウリー家が一番、多かった。どちらかといえば、くせのない、料理に合せやすいワインでもある。
「ヒンメルライヒ、天国っていう意味らしいが、名前がいいね。これを飲むと間違いなく天国へ行けるか」
新太郎の口調が昔のままの彼であった。
新婚当時、よく二人で高級スーパーへ買い物に行き、その夜の料理に合せてワインをえらんだことを有里子はなつかしく思い出した。
「七五年は、モーゼルらしいワインが出来た年なんです」
十年が経った今、その味は更に深みを増して、ちょうどいい飲み頃《ごろ》になっている。
グラスを口に運ぶ有里子を新太郎は陶然とした表情でみつめていた。
「君は、変らないね」
「いいえ、変ったわ」
十年の歳月であった。
「父も亡くなりましたし……」
「御葬儀にはうかがいたかった。が、行けなかった。仕方がないので、時折、お墓まいりをさせてもらっている」
「あなたでしたの」
命日に青山墓地の墓へ出かけると、花入れに有里子の知らない花があることがあった。
弟夫婦はまず墓参などする筈《はず》がなかったし、亡父の知人がひょっとして訪ねてくれたのかと思っていた。
もしやと考えたのは、その花がいわゆる墓へ供えるために近くの花屋で用意してあるものではなく、有里子が好んで部屋に飾っていた花々であったからだ。
有里子の花の好みを知っているのは、亡父と、かつての夫だった人ぐらいのものである。
「浅ましい話だが、君に会えるんじゃないかと期待して墓まいりに出かけていたんだが、一度も会えなかった。多分、お義父《とう》さんが僕をまだお許しにならないせいだろう」
最愛の娘の夫に、結婚以前からの愛人がいたと知った時の父親の怒りはすさまじかった。
傷ついて実家へ戻って来た娘を、父親は羽の下に抱きかかえるようにして守った。
池田新太郎が何度も大久保家へ足を運んで詫《わ》びようとした時も、断じて有里子に面会させなかった。
「私、父が亡くなりましてから、父の日記をみたことがありますの」
ヒンメルライヒの甘い酔いが、有里子の心を開かせていた。
「晩年の父は、私をあなたに会わせたものかどうか、随分、迷っていたみたいですわ」
「本当か」
新太郎が、体を乗り出すようにした。
「もし、それが本当なら……」
バアの入口に、彦一の顔がみえた。有里子がそのことに気づいた時、彦一はもう新太郎の前に来ていた。
「貴様……」
胸倉《むなぐら》を掴《つか》まんばかりの勢いであった。
「貴様の下心はわかっているんだ。色と欲で姉さんに近づこうたって、そうは問屋が卸すものか」
新太郎が苦笑した。
「それは、こっちがいいたいせりふだ」
「なに……」
「十年前は、俺も若かったので、あんたって男がわからなかった。が、今はわかる。あんたが俺を邪魔にする理由だ」
「なんだと……」
彦一がまだ半分ほど入っているワインの瓶を掴んでふり上げようとした。すかさず、その腕を新太郎が逆にとった。
「冗談じゃない。折角のヒンメルライヒをこぼされてたまるか」
ワインは一滴も瓶から流れることなく、新太郎の左手に戻った。瓶をとり上げておいて新太郎は彦一を突きはなした。彼の小肥りの体はよろけて行ってカウンターにぶつかった。
「野郎、ぶっ殺してやる」
カウンターの上の果物籠《くだものかご》の中にあったナイフを彦一が手にしたのをみて、有里子は叫んだ。
「やめなさい、彦ちゃん」
新太郎へいった。
「お願い、出て行って下さい」
彦一から眼をはなさず、新太郎は立ち上った。
どこでみていたのか、林より子と大井三郎がとんで来た。林より子が新太郎をひっぱるようにしてバアからつれ出し、大井三郎は彦一に近づいた。
「君、馬鹿《ばか》な真似《まね》はやめ給え。下手なことをすると警察へ連行されるぞ」
カウンターの中にいた大男のバーテンも、三人のドイツ人の客も、総立ちになっている。
気がついたように彦一はナイフを果物籠の中へ放り込んだ。
「けっ、馬鹿にしやがって……」
けわしい眼を有里子に向けた。
「姉さん、あいつに油断するな。あいつには女がいるんだぞ。こいつのツアーに松原理代っていうクラブのママがいるだろう。池田は今日の午後、そいつの部屋へ入りびたっていたんだ。嘘《うそ》だと思うなら、女に訊《き》いてみるといい」
弟の口を有里子は両手で封じたい思いであった。
「行きましょう、彦ちゃん。皆さんに御迷惑よ」
彦一は有里子の部屋までついて来た。
「大体、姉さんが悪いんだ。いい年をして、男が欲しいのかどうか知らないが、なにも、昔の男とよりを戻す気にならなくともいいだろう。亡くなった親父だって、あの男のことは最後まで許さなかったんだから……」
ねちねちと絡みつくような弟の言葉を、有里子は一言の弁解も反論もしないで聞いていた。こういった場合、なにかいえば、間違いなく弟の鉄拳《てつけん》が有里子を襲ってくるのを知り尽している。
「あいつが姉さんの財産めあてで、ドイツくんだりまで追いかけて来たことは、松原理代が教えてくれたよ。姉さん、あいつにドロッセルカッセでも声をかけられたそうじゃないか。どうして、そんなことを俺に黙っていたんだよ」
肩を小突かれて、有里子は漸《ようや》く答えた。
「ドロッセルカッセで会ったのは本当だけど、なにも話したわけではないのよ。早川先生もいらしたし……、それに、あの人がこのホテルまで来ることも知らなかったの」
「姉さんが教えたんじゃないのか」
「違います。それこそ松原さんにきいてみたらいいわ。あたしはなにも話していません」
「松原理代とあいつは出来てるんだぜ。松原理代がいっていたよ。わけありの仲だとさ」
「そんなこと、あたしと関係ないでしょう」
「姉さんが隙《すき》をみせるからいけないんだ。四十男にくどかれて、いい気になるな」
「くどかれてなんかいなかったわ」
「じゃ、どうしてバアで一緒に飲んだんだ」
「話があるといわれたのよ」
「なんの話だ」
「なにも話さないうちに、彦ちゃんが来たのよ」
「とにかく、気をつけろよ。いい年をして男に欺《だま》されて一文なしになったなんてのは、笑い話にもならないからな。それとも、姉さん、池田新太郎をバアのマダムと張り合ってみるか」
「やめてちょうだい」
腹が立つより情なかった。この弟はいつでも有里子の神経をずたずたにする。
「もう休みたいの。あなたも部屋へ戻りなさい。君江さんが目をさますといけないから」
それで彦一は立ち上った。乱暴にドアを開けて出て行った。
電話のベルが鳴ったのは、五分ほどしてからであった。
「林より子です。ちょっとお部屋までうかがってもよろしいですか」
有里子は着がえもしていなかった。
弟の言葉の毒が体中に突きささった感じでなにをする気力もなかった。
「どうぞ……」
受話器をおくと、間もなくささやかなノックの音が聞えた。
林より子はワインの瓶を持っていた。
「池田さんからことづかったんです。いやな思いをさせてすまなかったと伝えてくれとおっしゃって……」
ヒンメルライヒであった。
「これを召し上っておやすみ下さいとのことでした」
バアで飲んだのと同じワインだが、新しいボトルであった。
「これ、おいしいのよ」
救いを求めるように林より子をみた。
「少し、つき合って下さる」
「喜んで、お相伴《しようばん》させて頂きます」
ワインの産地のホテルだけに、テーブルの上の銀盆には二個の水用のグラスと共にワイングラスも二つおいてある。
有里子がワインの栓を抜き、二つのワイングラスに注いだ。
「林さんに、もう何度、いやなところをみせてしまったのかしら」
ほろ苦く有里子が呟《つぶや》いた。
「私に気を使わないで下さい」
ワインを口に含み、一息に飲み下してからより子がいった。
「ガイドをしていますと、いろいろなお客様に出会います。一々、気にしていたら、ガイドはつとまりません」
少し、プライバシイに関する質問をしてもよいかと訊いた。
「先程の方が……、つまり、このワインを私にことづけられた方が、有里子さんの御主人だった方なのですね」
池田と名乗られて、気がついたのだがとより子は続けた。
「有里子さんのパスポートを拝見すると苗字《みようじ》が綾さんでしょう。弟さんは大久保さんですよね」
てっきり、有里子の苗字は婚家の姓かと思っていたのだが、
「御主人様は、池田さんでしょう」
有里子は二杯目のワインをおたがいのグラスに注いだ。
「綾は私の母方の姓なんです」
両親は一人っ子同士の結婚だったと説明した。
「それで、弟が父の姓の大久保を、私は母の姓の綾を名乗りましたの」
それは、両親の意志であった。
「そうしませんと、母の実家のお墓を守る人がなくなってしまいます。法事をしたり、祖先の御魂祭《みたままつ》りをしたり……、父も母も古い人間ですから、そういうことを大事に考えていましたの」
池田新太郎と結婚した時、彼はその事情を知って、自分が綾の姓になるのを承知してくれた。
「新しい日本の戸籍法では、夫婦はどちらの姓を名乗ってもよいことになっていますので……」
それでも男の中には、妻の姓を名乗るのは養子に行ったと思われて不快だという人もいないわけではない。
「彼はまるでこだわらないでくれましたけれど、結局、私たち、別れてしまいまして、彼は池田姓に戻ったんです」
「そうでしたの」
つまらないことを気にしてごめんなさいとより子はあやまった。それから先は彼女のほうがドイツの話をした。
ドイツ人は親切だが、お節介なところがあるとか、或《あ》るパーティに招かれて行ったら、アスパラガスと馬鈴薯《じやがいも》とワインだけだったとか、三十分ばかりのお喋《しやべ》りをして部屋を出て行った。
「それじゃ、今度こそ、本当におやすみなさい」
若い娘の心づかいと上等のワインの酔いが有里子のささくれ立った心をなだめてくれたようであった。
雨の音をききながら、有里子はともかくもねむりについたようであった。
翌朝、雨は上っていた。
八時にダイニングルームへ有里子が下りて行ったのは、早川教授のグループへお別れを告げるためであった。
大井三郎がまっ青な顔で立っていた。
「早川先生がお帰りになっていなかったんです」
有里子は、そのことの重大さに気づかずにいった。
「ベルンカステルのホテルへお泊りになったんじゃありませんの」
昨夜は雨であった。旧知の国松画伯とラウェルベルグ家で遭遇した早川教授は誘われて国松画伯の泊っているホテルへ行った。話がはずめば夜も更けるだろうし、酔えば帰るのが面倒になる。
「出発時間までにお戻りになるのでは……」
「七時半にベルンカステルのホテルへ電話をしたのです」
グループの朝食時間は七時半であった。部屋から下りて来ない早川教授のために三郎が呼びに行った。
「ノックをしても返事がないので、気がついてフロントで訊《き》いてみました。鍵《かぎ》がフロントにあったんです」
それで昨夜、帰っていないことがわかったので、ベルンカステルのホテルへ連絡をとった。
「国松先生のお話だと、昨夜、九時すぎに帰られたとおっしゃるんです」
念のために、ラウェルベルグ家にも電話をしたといった。
「勿論、いらしていませんでした」
グループはダイニングルームにいたが、誰《だれ》もが落ちつかない顔をしている。
玄関のほうから倉重浩が走って来た。今まで外を探していたらしい。
「国松先生がみえました」
停ったタクシーから国松聡が下りて来るところであった。
「早川先生は……」
大井三郎をみて声をかけた。
「まだ、みつかりません。ラウェルベルグさんのところにも行っていらっしゃらないんです」
昨夜はタクシーで戻られたのですかという大井三郎の問いに、国松画伯は途方に暮れた表情をした。
「それが、どうもわからないのですよ」
二人で食事をしたあと、国松画伯の部屋で話をしていた。
「私がトイレへ行って、出て来てみると早川先生のお姿がみえない。てっきり、お帰りになったと、玄関まで追いかけてみたんですが、どこにもいらっしゃらない」
フロントできいても、タクシーを呼んだ形跡がなかった。
「あのホテルは、夜はドアマンがいないので、わからんのですが、もしかするとホテルへタクシーで帰って来た人があったかして、その車で早川先生がお帰りになったとも考えられます」
国松画伯は念のため雨の中を橋を渡り、ベルンカステルの町の辻《つじ》まで行ってみたが、
「人っ子一人、見当りません。それで、これはタクシーでお帰りになったと思ってホテルへ戻ったのですが……」
今朝の大井三郎の電話で仰天して、とるものもとりあえず、タクシーでかけつけて来たものであった。
一足遅れて、ラウェルベルグ老人も息子の車でやって来た。
「このあたりでは、タクシーは殆《ほとん》ど使われていません。呼ぶとすれば、遠くのタクシー会社へ電話をするのですが……」
大井三郎がフロントへとんで行った。タクシーから調べようと思ったらしい。
倉重浩が不安そうに、玄関を出て行った。国道に立って、前後を見廻している。
じっとしていられなくなって、有里子も外へ出た。
モーゼル川に薄く陽がさしている。
風は冷たかった。
その時、どこかで犬の吠《ほ》える声が聞えた。
フロントのほうから、大井三郎が出て来た。
「皆さん、御心配をおかけしました。今、早川先生から電話が入りました」
ええっという声が集っていたグループの中から上り、大井三郎は自分のことのように恐縮して頭を下げた。
「いったい、どうされたんですか」
玄関から戻って来た倉重が訊《き》いた。
「早川先生がおっしゃるには、昨夜、ひどく酔ってしまって、ベルンカステルから車で帰ろうとして、運転手にトリアといってしまったらしいんです」
「トリアですって……」
北川ゆきが笑い出した。
「早川先生、一日、錯覚を起されたのね」
トリアは今日、宿泊する予定地であった。
モーゼルワインの集散地であり、紀元前一五年に作られたドイツ最古の町としても有名である。
ベルンカステルからトリアまでは、距離にして、たいしたことはなかった。このグループのように、ワイン村を一つ一つ訪問してワインの試飲をしながらの旅でなければ、フランクフルトからトリアまで、ざっと半日のコースであった。
ライン川沿いのコブレンツからトリアまでおよそ百三十キロ、列車で一時間半。ベルンカステルからトリアまではその三分の一に相当する。
「それじゃ、早川先生は昨夜、トリアのホテルへ泊られたんですか」
「酔っていて、なにも記憶がないそうですが、今しがた、目がさめてみたら、ホテル・ポルタニグラにいたというんです」
大井三郎が苦笑した。
「それで大変、申しわけないが、皆さんは予定通り、ワイン村を廻《まわ》ってトリアへお出で頂きたい。自分はトリアでお待ちするということです」
やれやれ人さわがせなという気持がグループの誰《だれ》にもあったが、それを口に出す者はなかった。各々が早川教授と親交があったからで、
「それじゃ、ともかく出かけましょう」
医者の高山が一番に腰を上げた。
「どうも、私が不注意でした。お帰りになる時、きちんとお送りすれば、こんなことにはならなかったんですが……」
国松聡が詫《わ》び、大井三郎が慰めた。
「いや、国松先生のせいではありませんよ。国松先生の知らないうちに、早川先生がお帰りになってしまったんですから……」
近くに立って、話を聞いていた綾有里子に訊《たず》ねた。
「今日の御予定は、どちらですか」
昨日までは、グループのマイクロバスに同乗させてもらっての旅であった。今日は、昨夜、有里子の弟の彦一が、ガイドの林より子に命じてレンタカーを取り寄せたので、大井三郎のグループとはわかれわかれになる。
「弟の都合もありますので、どうなるかわかりませんが、私の予定としては、グラッヒ村のオットー・パウリーさんをお訪ねして、出来ればピースポート村へお寄りしてみたいと思って居ります」
「ピースポート村は、ラインホールド・ハートさんですか。あそこは、なかなか、すてきなワインを作っていますよ」
「昨日、早川先生に教えて頂いたんです。私は、今まで、一度もお訪ねしたことがないのですけれど、先生が紹介状を書いて下さって、是非、お寄りなさいと勧めて下さいましたので……」
「僕もお勧めしますよ。小さなワイン造りの家ですが、若い夫婦がそりゃあ熱心にやっているんです」
ホテルのボーイがグループの荷物をマイクロバスに運びはじめ、大井三郎もその手伝いに走って行った。
ラウェルベルグ老人は国松聡と話し込んでいたが、有里子に声をかけた。
「葡萄《ぶどう》の摘み取りがあるので、これで失礼しますよ。又、来年お会い出来るのを、たのしみにしています」
息子が同じように握手を求めた。グループの誰彼にも手を上げて、車で帰って行く。
国松聡も車であった。これはパリのレンタカーである。
「わたしも、一度、ホテルへ戻ってからトリアへ向いますよ。早川先生にお目にかかってから、パリへ戻るつもりなので……」
彼もそそくさと去った。
マイクロバスを見送るつもりで、有里子は外へ出た。
相変らずの曇り空だが、雨は降り出していない。
犬がまだ吠《ほ》えていた。
このホテルの裏のほうから啼《な》き声が聞えている。
ホテルの横の道は坂になっていて、その上のほうに百姓家がみえた。葡萄畑で働く人の家であろう。母屋の横に、日本でいう納屋のような丸太小屋がある。
そっちから、松原理代が下りて来た。
「松原さん、出発ですよ」
慌てたように、大井三郎が手を上げると、理代は笑いながら答えた。
「ごめんなさい、あたし、今日、池田さんの車に乗せてもらいます。トリアのホテルには夕方までに入りますから、御心配なく……」
その声は大きかったので、有里子にも、マイクロバスに乗り込もうとしていたグループの人の耳にも届いた。
「困ったものだね。そういうことをされると団体行動が滅茶苦茶になってしまう」
グループの一人である竹内喜夫が聞えよがしに呟《つぶや》いて、マイクロバスに乗った。
大井三郎はツアーコンダクターとして一応、松原理代を説得していたようだったが、あきらめたように、念を押した。
「それじゃ、必ず、夕方六時までにホテル・ポルタニグラへ入って下さい。僕がホテルでお待ち出来ない時は、フロントに伝言を入れておきますから……」
グループの予定は、昼までにトリアへ入り、昼食後、ホテルを出発してザールのウィルティゲン村へエゴン・ミュラー家を訪問することになっていた。ドイツを代表するワイン醸造家の一つ、シャルツホフベルガーの畑である。
「大丈夫、御迷惑はかけませんわ」
最後に大井三郎を乗せて漸《ようや》く走り出したマイクロバスへむかって、松原理代は有里子と並ぶようにして手をふった。
女二人がホテルのフロントのところへ入ってくると、そこに池田新太郎がいて、支払いをしていた。
有里子は軽く会釈をして、エレベーターへ向った。
昨夜、彼が部屋へ届けさせてくれたワインの礼をいうのを忘れていた。有里子らしくないことであった。
それほど、松原理代が彼の車でトリアへ行くといったことにショックを受けていた。
弟の彦一がいったように、やはり、新太郎と松原理代は深い仲だったのかと思う。
新太郎と別れて十年であった。三十代の男が、その間、女っ気抜きということは無理かも知れないと思う。別れた妻が、それをとやかくいう権利もなかった。
エレベーターを下りると、林より子が立っていた。
「ぼつぼつ出発しませんと、今日の予定が消化出来ませんが……」
彦一の部屋へ行ってみると、君江が煙草《たばこ》をふかしていた。
「散歩に行ったみたいよ」
部屋の状態からして荷造りもまだしていない様子であった。
そこへ彦一が帰って来た。
「体がなまって仕方がないから、ジョギングして来たんだ」
これからシャワーを浴びるという。
「姉さん、用たしがあるなら、先に行っていていいよ」
グラッヒ村というのは歩いても行ける近さじゃないのかといった。
「俺《おれ》、荷造りして、君江を乗せて追いかけて行くよ。場所はガイドさんが知ってるんだろう」
弟の意志を、有里子は悟った。
レンタカーもガイドもおいて、一人でオットー・パウリー家へ先に行けということであった。
「そうするわ」
弟を待っていては、いつになるかわからなかった。
オットー・パウリー家には午前中に訪問すると約束の電話を入れてあった。商談もある。
林より子は有里子について一階へ下りた。
「歩いて行ったら、かなりありますよ」
ホテルと同じ国道沿いであったが、女の足では少々の距離である。
「ホテルのオーナーに相談してみます」
有里子がとめたが、きかずに走って行って、やがて笑顔で戻って来た。
「ホテルの車で送ってくれるそうです」
日本びいきのオーナーは、愛想よく車の鍵《かぎ》をボーイに渡し、有里子に遠慮することはないといってくれた。
「それじゃ、先に行きますので、弟たちをお願いします」
車で走れば、五分ばかりのところである。
オットー・パウリー家はグラッヒ村のワイン造りとしては、歴史のある醸造家であった。
家の前では、背の高い二人の男が、彼らの身丈よりも大きいワインの樽《たる》を横にして、なかの部分を水洗いしていた。人間なら、七、八人も入れそうなワイン樽である。
昨夜、ホテルのバアで、池田新太郎が飲んでいたのが、この家のワイン、「ヒンメルライヒ」であった。
この付近の畑は元来、僧院の所有であったために、畑の名前に、「天国」とか「教会の財務長官」などというのが残っている。
この家のワインは、有里子の経営するレストラン「つぐみ亭」で一番、人気があった。従って、仕入れる量も多い。
商談が終った頃《ころ》に、彦一がやって来た。
レンタカーを運転して、一人である。
「出かける間ぎわになって、君江の奴が、また足が痛いといい出したんだ」
念のために、病院でみてもらったほうがいいということになって、林より子が車を呼んだ。
「ベルンカステルよりもトリアのほうがいいそうで、俺たち、まっすぐトリアへ行くよ」
有里子はレンタカーで、寄るべきところへ寄ってから、トリアへ来ればよいといった。
「ガイドが一緒だから心配することはない」
外へ出てみると、もう一台の車に君江と林より子が乗っていた。
「お義姉《ねえ》さん、すみません」
珍しく、神妙に君江がいった。
「気のせいかも知れないんですけどね」
林より子は、レンタカーで有里子が一人、トリアへむかうのが気になっているようであった。
「平気よ。前にも、父と車でこの道を行ったことがあるの」
モーゼル川沿いの道はカーブはあるが、そう厄介なこともない。
「雨がひどくならなければいいんですけど……」
実際、小雨が降り出していた。
「あたしよりも、あなた方のほうが気をつけて……早くいらっしゃい」
彦一が妻の横へ乗り込んで、車は走り出した。かなりのスピードで、あまり車の通行のない国道を忽《たちま》ち遠ざかった。
あらためてオットー・パウリー家の人々に挨拶《あいさつ》をして、有里子はレンタカーに乗った。
ハンドルがやや重い感じだが、ドイツのレンタカーはヨーロッパの中でも評判がいい。
モーゼル川の橋を渡った。
これから訪ねるピースポーターの畑は対岸である。
雨は急に降り出して来た。
オットー・パウリー家は、ホテルからトリアへ向うのと逆に、やや戻った位置にあるので、有里子の車は、昨夜泊ったホテルや、同じく昨日訪問したベルンカステルを川むこうにして進んでいるのだが、あいにくのどしゃ降りで、一メートル先もみえなくなっている。
用心深く有里子はハンドルを握った。
ピースポーターはモーゼルの中で最も小さな村であった。モーゼル川の流れを足元にみる、その斜面は真南の太陽を受け、六十ヘクタールばかりの、ピースポーターの誇りと呼ばれる葡萄畑がある。
が、この雨ではその輝くばかりの黄金の斜面もひたすら灰色の霧のむこうであった。
道は舗装されていたが、今年の大雨の影響で、ところどころに破損した個所がある。
晴天なら避けて通れる、その穴へ、雨の中のドライブだから、時折、車輪が突っ込んだ。
そのための震動が何回か続いて、急に有里子はブレーキの異常を知った。
スピードは出していなかったが、道が下り坂であった。車がとまらず、ずるずると川岸へ寄って行く。
後から来た車が警笛を鳴らした。道がカーブしているので、そのまま突っ込むとモーゼル川へ転落する。
ブレーキがどうしてもきかなかった。重いハンドルが自由にならない。
有里子の車の左側に、強引な車が割り込んで来た。川へむかってよろけていた有里子の車が、その車のボディにぶつかって、二台がそのまま、川岸へずるずるとすべり込んでやっと停った。
ショックで動けなくなっている有里子の脇《わき》のドアが外から開けられた。
「大丈夫か」
頭からずぶぬれの池田新太郎の横顔に、血が雨と共に流れ落ちるのを目にしたとたん、有里子はめまいを感じて、あたりが暗くなった。
事故のあった場所は、幸運にもラインホールド・ハート家のすぐ近くであった。
池田新太郎が有里子を抱えて、ハート家へたどりつくと、すでに松原理代が声をかけていて、ハート家の若夫婦がとび出して来ていた。
暖炉に太い薪の燃えている部屋のソファに寝かされて、すぐ有里子は意識をとり戻した。
この家の若夫人が、ピースポーターのワインをグラスに注いで、さし出した。
池田新太郎は、有里子のすぐ前の椅子《いす》にかけて、松原理代が彼の額の横へバンドエイドを貼《は》っている。
「ガラスの破片で切ったんだ。たいしたことはない。ほんのかすり傷だよ」
まだ、口がきけず、不安そうに新太郎をみた有里子へ笑いかけた。
「体のどこかが痛まないか。首とか、腰とか……背中とか……」
どこにも痛みは感じなかった。
「乱暴だったが、ああするより他に仕方がなかったんだ」
川岸へずり落ちて行く有里子の車へ、自分の車をぶつけることで、転落を防いだ。
「松原さん、お怪我は……」
漸《ようや》く、唇が動いた。
「あたしは、その前に下してもらったのよ」
危険だから下りろと、新太郎にいわれたと笑っている。
「おかげで、服がびっしょり……」
そのレインコートは部屋のすみに干してあった。
「皆さん、もっと暖炉のそばに寄って……、そうして、我が家のワインを体があたたまるまで飲んで下さい」
何枚ものタオルを三人の日本人に渡しながら、ハート家の若主人がいった時、家の表に車の停る音がした。
ハート夫人が出て行き、すぐに一人の日本人と共に戻って来た。
国松聡であった。
「トリアへ行く前に、こちらをお訪ねしてみるようにと、早川先生が昨日、おっしゃったので、ちょっとお寄りしたのですよ」
いったい、なにがあったのですか、と、温厚な顔を曇らせた。
結局、川っぷちの二台の車は、新太郎がレンタカーのオフィスへ電話をして後始末を依頼し、衣服の乾くのを待って、国松聡の車で四人がトリアへ向うことになった。
「改めて、お礼にうかがいます」
思いがけないことで、すっかり世話をかけてしまったハート夫妻に挨拶をしてピースポート村を出たのが、もう夕方で、幸い、雨は小降りになっていた。
トリアのホテルではロビイに大井三郎と林より子が待っていた。
ハート家で電話を借りて、池田新太郎が大方の説明をしておいたのだが、その電話を受けた林より子が大井三郎に連絡し、彼はグループの食事の世話をしてからホテルへ戻って来たという。
「電話では、お怪我はないとのことでしたが……」
新太郎は、ほんのかすり傷だし、有里子も今のところ、どこにも異常を感じない。
「池田さんに助けて頂かなければ、今頃はモーゼル川の底かもね」
冗談めかして有里子はいったが、ショックは、まだ心の深いところにこびりついている。
「ところで、早川先生は……」
国松聡が訊《たず》ね、大井三郎が頭へ軽く手をやった。
「実は、僕らがここへ着いてみますと、先生からの置き手紙がありましてね」
自分が耄碌《もうろく》してグループの皆さんに迷惑をおかけしたお詫びに、明日の訪問予定になっているモエ・エ・シャンドン社へ一足先に行って、なにか気のきいた歓迎のプランをたててもらうように下準備をしておくからと書いてあったという。
モエ・エ・シャンドンは高名なシャンペンの会社であった。
早川教授を中心とするワイン探訪のグループは今日でドイツワインの地域を終り、明日、国境を越えてフランスのシャンパーニュ地方へ入り、エペルネ村のモエ・エ・シャンドン社を訪問することになっている。
「そんな気をお使いにならずによかったんですが……」
別に、国松聡に対しては、今夜、トリアへ一泊して、明日、グループと共に是非、モエ・エ・シャンドンへお出で頂きたい旨、書き添えてあったという。
「わたしは勿論《もちろん》、パリへ帰るので、通り道に当りますから、早川先生のお招きをお受けしますよ」
ボーイが四人の荷物を部屋へ運ぶためにやって来た。
林より子は有里子と共に部屋までついて来た。
「ブレーキが故障したというのは本当ですか」
目の色が変っている。
「雨がひどくなったでしょう。道が悪くて二、三回、バウンドしたの。それが原因かしら……」
「そんな筈《はず》はありません。ドイツのレンタカーは整備がしっかりしているので定評があるくらいなんです」
それに、昨夜、車がホテルへ届いた時、より子が入念にチェックをしたという。
「私、こうみえても車には、かなりうるさいほうなんです」
レンタカーでヨーロッパを旅行したことも多いし、
「どっちかといえば、メカに強いほうだと思います」
あの車が、道が悪いくらいでブレーキが故障というのは考えられないといわれて、有里子は視線を伏せた。
「でも、ブレーキがきかなくなったのよ」
豪雨の中で、スピードを出していなくて、あの有様であった。いい気で走っていたら、どんな結果になったことか。
「故障車を専門家が調べれば、わかるんじゃないかと思います」
林より子が、やや声を落して続けた。
「故意にブレーキに、細工をしたかどうか」
なにかいいかけて、有里子は唇が慄《ふる》えているのに気がついた。
あの事故の時から、今まで有里子の胸の中にうずくまっている不安を、林より子にいい当てられたような気持であった。
「そんなことがあるかしら」
「ないと、お思いになりますか」
有里子は顔を上げて、そこに林より子の思いつめた表情があるのをみた。
「こんなことを申し上げるのは、本当に失礼だと承知しています。でも、今日のことは、どうしても合点が行かないのです」
それで、有里子は弟夫婦について、彼女に訊ねるきっかけを持った。
「君江さんの怪我、どうでした」
トリアで病院へ行く予定であった。
「そのことなんですけれど、トリアまで来て、病院へはいらっしゃらなかったんです」
ホテルへ着いてチェックインし、より子がフロントで病院を教えてもらって予約の電話を入れ、彦一たちの部屋へ迎えに行くと、
「痛みがなくなったから、行かないといわれました」
念のために診察を受けたほうがいいと重ねて勧めたのに対しても、
「彦一さんが、多分、気のせいで痛んだのだろう。患部は腫《は》れもひいたし、もう大丈夫だと断られました」
仕方がないので、病院のほうはキャンセルしたが、どう考えても腑《ふ》に落ちない。
「そこへ、ブレーキの故障で事故をおこされたってきいたものですから……」
さすがに、彼女は自分がいってはならないことを口にしているのに気がついたようであった。
「私の思いすごしかも知れません。失礼だったら、ごめんなさい」
ガイドの立場に戻って、夕食はどうするかと訊いた。
「弟たちは……」
「街へお出かけになって、適当にすませてくるといわれました」
今までの旅は葡萄畑の中の村ばかりであった。
トリアへ来て、漸く商店街のある町へ来たという感じである。
「お買い物をなさるようなお話でした」
弟夫婦の買い物好きは、有里子も承知していた。人にはけちだが、自分のために使う金は惜しまない。
「申しわけありませんけれど、夕食は抜きます。食欲がないのよ」
早めにベッドへ入りたいといった。
「それでは、あたたかい牛乳でもルームサービスに頼みましょうか」
「お願いします」
林より子が出て行くと、間もなくボーイがホットミルクを運んで来た。
それを飲む気力もなく、有里子は椅子に腰を下したまま、カーテンのあいている窓へ顔をむけていた。
窓のむこうには照明の当っている石の古い城門がみえた。ローマ時代の遺跡、ポルタ・ニグラで、このホテルの名前はそこから来ている。
黒々とした石の建築物は、夜の中で巨大な怪物にみえた。
弟は、自分を殺そうと思っているのかと、有里子は考えていた。
理由は単純であった。有里子が死ねば、有里子の財産は、弟が相続することになる。有里子には夫も子供もなかった。父親からゆずられたものも、麻布のレストラン「つぐみ亭」もすべて彦一のものになる。
有里子は自分の指を眺めた。左手の薬指にはエメラルドをダイヤで囲んだ指輪がはめてあった。亡母の形見である。
自分が死ねば、この指輪は弟の妻である君江の指に、はめられるかも知れないと思う。
日本の、銀行の貸金庫へあずけて来た宝石箱の中には、まだ、いくつかのペンダントやネックレス、指輪が入っていた。
亡くなった父が、有里子の成人祝、或《ある》いは結婚祝に贈ってくれたもの、父と外国旅行の際に自分が気に入って買い求めたものなど、どれも思い出の深いものばかりであった。それらが、すべて君江の手に渡る可能性が強い。
宝石に格別、執着のない有里子だったが、今、そう考えてみると、ひどく口惜しい気がした。
今更ながら、子供を産めなかったことが無念であった。
ノックの音を聞いて、有里子はのろのろと立ち上った。ドアを開けてから、はっとしたのは、そこに居たのが弟夫婦であったからである。
無造作に彦一と君江は、部屋の中へ入って来た。
「車が故障したって……」
彦一がいった。
「池田の奴が、姉さんの車にぶつかったっていうじゃないか」
有里子は黙っていた。なにをいっても始まらないと思う。
「お怪我がなくて、なによりでしたわ」
君江がそらぞらしい口調でいい、抱えていた紙袋を重そうにベッドの上においた。
「この町は、なかなかいい店があったよ」
買い物が出来たと彦一がいった。
紙袋の口からハンドバッグだの、靴だの、衣類が各々、のぞいている。
「ドイツは刃物がいいっていうんで、お土産に買ったのよ」
君江がみせたのは鋏《はさみ》であった。三十センチもある大きなもので、刃の先のほうが鳥のくちばしになっているデザインが洒落《しやれ》ていた。
「お義姉さんは、しょっちゅう、こっちへ来ていらっしゃるから、お買い物の必要はないわね」
二十分ばかり喋り散らして、彦一夫婦は自分の部屋へ戻って行った。
すっかり冷えてしまった牛乳に有里子が口をつけたのはそれからであった。
トリアの町へ出て買った果物の袋を持って、林より子が部屋を訪ねると、有里子は如何にも気分の悪そうな様子でドアを開けた。
「なんだか、胸がむかむかして、吐いてしまったの」
「事故の後遺症でしょうか」
追突事故などの場合、よくあることであった。
「牛乳のせいじゃないかと思うの」
「牛乳……」
「一口飲んだら、なんとなく変な味がして、それから胸が苦しくなって吐いたんです」
林より子は緊張した。
「その牛乳、みんな召し上ったんですか」
「一口だけでやめて、洗面所へ流してしまったの」
きれいに洗ったコップがテーブルの上へおいてあった。
牛乳に異常があったとは思えなかった。ここは一流のホテルである。
「牛乳、いつ、来ました」
「あなたが行ってから、間もなく」
「すぐ、飲まれたんですか」
「いいえ、ぼんやりしていて、そのまま……」
「どなたか、部屋へいらっしゃいませんでしたか」
「弟夫婦が来ました」
「牛乳を召し上ったのは、彦一さん達が帰られてからですか」
「ええ」
医者をたのみましょうか、という林より子に対して、有里子は持ち合せの薬を飲んだから大丈夫だといった。
「ほんの一口でしたし、すぐ吐いてしまったから、心配ないと思います」
より子は早々に部屋を出た。
エレベーターで一階に下りる。
池田新太郎は国松聡とバアの奥のコーヒーハウスで食事をしていた。向い合って大井三郎と松原理代の顔もみえる。
コーヒーハウスにいる日本人は彼らだけであった。それでも、より子は用心をして声を低くした。
「有里子さんに、おかしなことがあったんです」
牛乳のことを話すと、池田新太郎が顔色を変えた。
「牛乳に、なにか入っていたのか」
「ホテル側のミスではないと思います」
有里子のいない席では、より子も遠慮しなかった。
「彦一夫婦が……」
「他に考えられないじゃありませんか」
牛乳のコップは、テーブルの上におかれたままであった。
「有里子さんに気づかれないように、コップになにかを入れるのは、二人なら、出来ないことじゃないな」
大井三郎もいった。
「一人が有里子さんと話をしているうちに、もう一人がやればいい」
「なにを入れたのかしら」
松原理代がいった。
「毒物……」
それを彦一夫婦は日本から用意して来たのか、或いは旅先で入手したのか。
「葡萄の畑に、殺虫剤みたいなものは必要じゃないの」
松原理代の問いに、大井三郎が答えた。
「使いますよ」
葡萄畑の周囲に花を植えるのは、害虫はまず葡萄より先に花につくからで、
「花に虫がついたら、すぐに畑全体へ殺虫剤をまいていますからね」
「君は、なにか心当りがあるのか」
新太郎に訊かれて、理代がうなずいた。
「今朝、ホテル・ニコライを出発する前、犬が吠えていたでしょう」
前夜、早川教授が帰っていないことがわかって、みんなが大さわぎをしていた時である。
「あたし、あの時、ホテルの外にいたの。犬がなんで鳴いているのか、そっちへ行ってみたんだけど……」
犬は、百姓家の納屋の近くで吠えていた。
「そのむこうを、彦一さんが走って行くのがみえたんだけども、あれは、納屋へなにかを盗みに入って、犬に吠えられて逃げたのかも知れないわ」
「農家の納屋には、殺虫剤がありますね」
大井三郎が断定的にいった。
「農薬か……」
呟いたのは新太郎で、
「有里子さん、気がついているのかしら」
理代がいった。
弟夫婦に命をねらわれていることであった。
「多分、御存じだと思います」
より子がいった。
「あたし、かなりなこと、いってしまいましたから……」
「そのほうがいいよ。知らなかったら、危険だ」
三郎が同調した。
「有里子さんに電話で、夜中にドアをノックする者があっても、決して開けないことといってあげたほうがいい」
その言葉で、より子が思い出した。
「そういえば、アスマンズハウゼンの最初の夜、有里子さんの部屋のドアをノックした人がいたんです」
あの時の有里子の話だと、弟かと声をかけてみたが返事がなかったので用心してドアを開けなかったといった。
「翌朝、有里子さんが彦一さんに訊いたら、自分たちではないって……そうだわ、有里子さんがノックの音に怯《おび》えて、彦一さん達の部屋へ電話をしたら、誰も出なくて、そのことを彦一さんは、列車の通過する音がうるさいので、フロントへ部屋をとりかえる交渉に行っていたと弁解してました」
「おかしいよ」
すぐに三郎がいった。
「あの人たちはドイツ語も英語もからきし駄目なんだろう。どうやって、フロントに交渉したんだ」
大井三郎がグループを伴って、ホテルに到着した夜であった。
「僕はフロントで、みんなの部屋割をしたり、鍵を受け取ったりしたけれども、彦一さんをみかけなかったよ」
夜が更けて、コーヒーハウスの中の客が少くなった。
遺跡、ポルタ・ニグラを照らしている電灯は一晩中、点《つ》いているらしく、その部分だけが青白く浮んでいるが、その背後に長く延びている商店街は、外灯を残して、すべて灯が消えていた。
有里子の部屋へ電話をかけに行った林より子が戻って来た。
池田新太郎は、むっつりと考え込んでいる。
それまで一座に居ながら、全く言葉をさしはさまなかった国松聡が、その時、初めて発言した。
「ところで、有里子さんの旅のスケジュールは、明日から、どのようになっているのですか」
より子がメモを出した。
「明日は、こちらの皆さんと同じコースでシャンパーニュ地方へ入ります。ただし、有里子さんの取引のおありなのはポメリー社なので、モエ・エ・シャンドン社には参りません」
その夜の泊りはランス・ボワイエというシャトウホテルであった。
「それは、僕らも同じです」
大井三郎がいった。
「早川先生が、是非、ランス・ボワイエをと御指定で、あそこはグループをとらないんですが、特別に頼んで承知してもらいました」
「有里子さんの予定は、そのあとパリへ出て一泊されてお帰りになります。弟さん夫婦はパリに三泊して、そのあとロンドンで三泊、コペンハーゲンに二泊で帰国ですが、有里子さんはお店をいつまでも留守には出来ないからとおっしゃって……」
「弟さんたちは観光ですか」
穏やかに、国松が訊ねた。
「というよりも、ショッピングが主らしいです。パリではエルメスとカルティエ、ロンドンはアクアスキュータム、コペンハーゲンではクリステンセンで毛皮を買うのが目的といってましたから……」
「よく、そんなにお金があるのね」
松原理代が唇をまげた。
「あの人たち、大金持なの」
「いや……」
池田新太郎が苦笑した。
「そんな筈はない。彼が父親から相続した分は、とっくに使い果して、借金さえあるという噂《うわさ》だよ」
「借金があるのに、買い物旅行……」
「だから、彼らにはその金が手に入るあてがあるということだ」
林より子がなにかいいかけ、肩をかすかに慄わせて沈黙した。
「失礼ですが……」
再び、国松が口を開いた。
「彦一さんの奥さんは、どういうところからお嫁に来られたか、御存じですか」
その質問は、かつて有里子の夫であった新太郎にむけられたものであった。
「あの女に関しては、有里子もあまりくわしいことを知らないようなのですよ」
「御自分の弟さんの奥さんなのに……」
理代が少し笑った。
「おかしいじゃない」
「たしかに、そうなんだが、君江という女が自分の素性をかくしているんだろう。とにかく、わかっているのは鳥羽《とば》のほうの生れで、両親も兄弟もいない。彦一との結婚にも出席したのは友達の女ぐらいのもので、それも水商売時代のだったそうだ」
「水商売だったってことは、すぐわかるわ」
クラブのママをしているだけに、理代は女をみる目があるようであった。
「それもね、かなり程度の低い……あの人は、かなりのすれっからしよ。お金に汚くて、欲の皮が突っぱっている。おまけにそういう損得勘定に関しては、けっこう頭がいいってことね」
女が女を評価する時の辛辣《しんらつ》さは、理代においても顕著であった。
「彦一さんが結婚されたのは、いつ頃です」
最初と全く変らない口調で、国松が質問を続けた。
「入籍は、僕らの結婚とほぼ同じ頃でしたが、同棲《どうせい》はその前からですよ」
「彦一さんの御家族は反対だったんでしょうな」
「勿論です。亡くなった有里子の父は、最後まで反対し続けていました。結局、息子に押し切られて……。なにしろ、父親に暴力をふるう男ですからね」
「有里子さんも、お父さんと同意見で……」
「ええ、まあ、常識からいって賛成出来る女じゃないんです。水商売はとにかく、客を欺《だま》す名人で、詐欺まがいのことはやっている。彦一の他に男出入りもあったようで、僕が当時、知っているだけでも、到底、まともな人間じゃありませんでしたから……」
「とすると、君江さんという人は、有里子さんを怨《うら》んでいますな」
国松の言葉に、新太郎がうなずいた。
「彼女が自分のことを棚上げにして考えれば、おっしゃる通りでしょう」
コーヒーハウスの客が、五人の日本人だけになった。ボーイが閉店を告げに来る。
「とにかく、彦一さん夫婦から目をはなさないことですね」
ぽつんと国松がいい、五人が椅子から立ち上った。
翌朝は、見事に晴れた。
何日ぶりかの陽が輝いて、遺跡の城門の上に秋空が抜けるほど青い。
大井三郎はマイクロバスに荷物を運ばせたり、チェックアウトでいそがしく動き廻っていたが、グループの大方はホテルの外へ出て、ポルタ・ニグラを背景にカメラをかまえていた。
そんなところへ、国松聡がやって来た。
「今日は、私も皆さんと御一緒にバスに乗せて頂きたいのですが、よろしいでしょうか」
早川教授が一足先に行って、グループの到着を待っているシャンペンの名門、モエ・エ・シャンドン社へ同行させてもらいたいという申し出に、まず、吉田重吉が喜んで承知した。
「どうぞ、どうぞ。バスは空いていますし、先生のようなお方と御一緒出来るのは光栄です」
医者の高山も、いやな顔はしなかった。
「先生のお車は、どうなさったんです」
訊ねたのは竹内喜夫であった。
「実は、有里子さんたちにお貸しすることにしたのですよ。といっても、わたしの車をお使いになるのは、彦一さん夫婦とガイドさんで、有里子さんは私と一緒に、やはりこのバスに乗せて頂けると有難いのですが……」
「勿論、かまいませんとも……」
グループの誰もが、昨日の事故の話を知っていた。
「あちらも、お怪我がなくてなによりでしたね」
しかし、いざ出発になって林より子が不快を顔中にあらわして、いいに来た。
「彦一さんが自分が運転するのはいやだから、有里子さんに一緒に行ってくれとおっしゃって、きかないんです」
より子は、自分が運転して行くといったのだが、
「それも、いやだといって……」
国松はちょっと考えるようにして、有里子をみた。
「では、わたしが運転して行きましょう」
ちょうどロビイへ下りて来た彦一夫婦に近づいた。
「有里子さんは昨夜の事故のショックで、今日はハンドルを握りたくないとおっしゃっています。よろしければ、わたしが運転をして行きましょう」
思いがけない申し出だったので、彦一がうろたえた表情になった。
「しかし、姉も一緒でないと……」
「わたしも美人がお隣にいて下さったほうがけっこうですな。有里子さんは助手席に乗って頂きましょう」
「後が三人じゃ、窮屈よ」
君江が文句をいい、それにも、国松聡は穏やかに答えた。
「ガイドさんはマイクロバスにお願いしますかな。わたしはドイツ語はまるでいけませんが、フランス語ならなんとかなります。今日はいよいよフランス入りですから、御不自由はおかけしません」
彦一も君江も、返す言葉がなくなった。
マイクロバスが、まずホテルを出発して行った。
そのバスの乗客の中に、池田新太郎の姿はなかった。
彼の車は、昨日の事故現場において来たままだと思い、有里子は彼が今日、そっちへ行ったのかとも考えていた。
今朝のダイニングルームでも、新太郎の姿はみなかった。より子に訊いても、知らないという。
「では、私たちも参りますかな」
国松がいい、有里子は助手席のドアを開けた。
ホテルのドアマンが愛想よく手をふってくれる。
国松の運転は正確で歯ぎれがよかった。
トリアからフランスへ入るには、ルクセンブルグを通る道もあるが、今日のコースはそっちを避け、モーゼル川に沿って国境へ急いでいる。
川が青空のせいで明るかった。
「昨日も、このくらいのお天気だと、よかったですね」
ピースポーターの畑が、さぞ見事だったろうと国松はのどかな口調で話しかけた。
「昨年は、とても見事な収穫の時に行き合せましたの」
国道を通りながら畑を眺めただけだったと有里子は話した。
「ハートさん御夫婦を存じ上げなかったものですから……」
後部の座席で、彦一夫婦はむっつりしていた。
国松聡がけむったいらしい。
モーゼル川との別れが、国境であった。
係官はパスポートをざっとみただけで、厄介なことはなにもない。
ドイツ側の検問所から数十メートルのところに、今度はフランスの検問所があった。ここもあっさり手をふって、行けという。
国境を越えたところから、フランス語の広告であった。
不思議なくらい、家の造りも、あたりの風景も変った。
葡萄畑は全くなくなって、そのかわりに広々とした畑に、青い野菜、さとうきびや菜っ葉の収穫がはじまっていた。
その他は牧草地で、牛が鳴いている。
山の容《かたち》も、大地の豊かさも、今まで通って来たドイツとは、まるで別の世界であった。
第三章 ホテル・ボワイエ
北フランス・シャンパーニュ地方は、のどかな秋であった。
車がエペルネに近づくにつれて、なだらかな丘陵は再び葡萄畑《ぶどうばたけ》になる。
収穫はすでに終っていた。
黄ばんだ葡萄の葉を、秋の陽がどこまでも照らしていて、空も地上も豊かな明るさがみなぎっているようである。
「国松先生は、よく、こちらへお出かけになりますの」
助手席から有里子が話しかけ、ハンドルを握っていた国松聡が前方をみつめたまま、穏やかに答えた。
「ランスには何度か来たことがあります。御承知でしょうが、あそこにはシャペル・ノートルダム・ド・ラ・ペ。俗にフジタ礼拝堂と呼ばれるのがあります。それをみるためと、カテドラルの中のステンドグラスで、シャガールの下絵によって作られたというのが面白そうだったので……、有里子さんはごらんになりましたか」
「はい、父と参りました折に、一度だけ」
ランスは、シャンパーニュ地方の首都で三世紀以来、フランスのキリスト教の中心地であった。
紀元八一六年から一八二四年まで、歴代のフランス国王の戴冠式《たいかんしき》は、大方、ここで行われたという格式の高いカテドラルがある。
「弟さんは如何《いかが》ですか。このあたりの風景は……」
国松画伯がバックミラーを通して後部の座席へも声をかけ、むっつりした顔の彦一が吐き出すような返事をした。
「田舎廻《いなかまわ》りは飽き飽きしましたね。早くパリへ出たいですよ」
「そうですか」
穏やかに、国松画伯が続けた。
「もう一日でパリですから……。しかし、今夜のホテルはなかなか優雅ですから、きっとお気に召すと思いますよ」
ランスにあるシャトウホテルであった。
車の前を走っていたマイクロバスが、道のすみに停った。それをみて、国松画伯も車を片寄せる。
マイクロバスから、ツアーコンダクターの大井三郎が下りて、こちらへかけ寄ってくる。
「間もなくエペルネですが、早川先生との約束で、まっすぐモエ・エ・シャンドン社へ参りますので、よろしくお願いします」
国松と有里子がうなずくのをみて、バスへ戻って行く。
「姉さん、なんだって……」
後から彦一がいい、有里子はふりむいた。
「ドン・ペリニヨンというシャンペンを知っているでしょう。そちらを訪問するのよ」
「どうでもいいけど、腹がへったな。旨《うま》いレストランはあるんだろうね」
「あちらへ着いたら、訊《き》いてみます」
道の両側が、いつの間にか人家になった。広大な邸宅ばかりで、塀をめぐらした林の中にネオ・クラシック風な館がみえる。
「この道をシャンパーニュ通りと呼ぶそうですよ」
国松画伯がいったあたりは、有名酒造会社が軒を並べていた。
もっとも、軒を並べるといっても、一軒が貴族の居城ほどもある。
モエ・エ・シャンドン社はその中でもきわだって豪華な建物を誇っていた。
観光バスが数台、駐車している前庭には、ここのシャンペンの命名の由来でもある、ドン・ペリニヨン僧正の銅像がある。
先に到着したマイクロバスの人々は、その胴像の前で記念写真を撮っていた。
有里子が車を下りた時、モエ・エ・シャンドン社の玄関から大井三郎が金髪の女性と共に出て来た。
「早川先生の御配慮で、今日の昼食は、こちらの迎賓館に用意されているそうです」
金髪の女性がフランス語で挨拶《あいさつ》をし、招待者の氏名を読み上げた。
早川教授のグループ全員と、綾有里子、彦一、君江の夫婦、ガイドの林より子、それに国松聡の名も入っている。
総勢十四名であった。
迎賓館までは、少々の距離があるらしかった。
「国松先生の車は、こちらへおいて、マイクロバスで御一緒に行きましょう」
大井三郎がいい、全員がバスに乗った。
「遠いのかね」
こうした場合、必ず一言は苦情をいわずにはいない彦一が訊き、
「いやだわね、今来た道を戻るんじゃないの」
君江が唇をとがらせた。
が、その不平も、マイクロバスが町の郊外へ出て、葡萄畑に沿った道を登りかけるとたちまち、どこかへ消えてしまった。
前方の小高い丘の上に、ルネッサンス風の堂々たる館がみえて来たからである。
それは文字通り白い城といった雰囲気で、周囲は美しい林に囲まれている。
「あれが、迎賓館なの」
君江が叫ぶようにいい、彼女の前にすわっていたフリーライターの倉重浩がショルダーバッグからカメラを取り出しながら返事をした。
「来てよかったじゃないですか、奥さん」
白い砂利を敷きつめた前庭でバスを下りると、玄関の前にみるからに上品な紳士と、貴婦人といった印象の女性が出迎えていた。どちらも、モエ・エ・シャンドン社の重役である。
館の中は、どこも優雅であった。
広間で食前酒が出る。
「早川先生は、どちらですか」
大井三郎が英語で訊いているのが聞え、有里子はそっちへ耳をすませた。
相手の返事は、いささか要領を得なかった。
昵懇《じつこん》の早川教授から要請があったので、この午餐の設営をしたという。
「早川先生は御出席なさらないのですか」
重ねての三郎の質問にも、よくわからないという返事であった。
「どうなさったのでしょう。早川先生」
同じようにそっちへ顔をむけていた国松画伯に、有里子は訊《たず》ねた。モーゼル川のほとりの、ベルンカステルで別れて以来、もう二日、姿をみていない。
「お加減でも悪くて、ホテルへお入りになったのでしょうか」
有里子の二つの問いの、どちらにも国松画伯は答えなかった。眉間《みけん》に軽く皺《しわ》を寄せ、なにかを考えているふうである。
やがて案内された食堂は、華麗な中にもシンプルで、なによりの景観は、窓のむこうに広がる見事な葡萄畑であった。
テーブルの席は決められていた。
いわば主賓の席が彦一と君江になっていて、その隣にモエ・エ・シャンドン社の重役二人が並ぶ格好である。
午餐には、その他にもモエ・エ・シャンドン側から四人が参加した。その中の一人の、営業のシュバリエ氏と、有里子は面識があった。いい具合に席が向い側である。
談笑の間に、有里子はさりげなく、早川教授のことを訊ねてみた。
「私には、よくわかりません」
というのが、シュバリエ氏の返事であった。
早川教授とモエ・エ・シャンドン社の関係は、日本の雑誌に何度か、早川教授がモエ・エ・シャンドン社を紹介する原稿を書いたり、ワインに関する著書の中で、大きく取り上げたりしたという程度のものらしい。
シャンペンから始まって、さまざまの料理と共に供せられるワインに、大方の人が酔っていた。
「ナポレオンは、出陣の度に、我が社へ立ち寄って、我が社のシャンペンで乾盃《かんぱい》をして行き、必ず勝ちました。彼が敗けた時、彼は我が社に立ち寄らずに出発したのですよ」
モエ・エ・シャンドン社の重役の話を大井三郎が通訳し、食卓の雰囲気は明るく、にぎやかであった。
こうした贅沢《ぜいたく》な午餐の配慮をしてくれた早川教授のことを忘れているわけではなかったが、とりわけ気にしている人も少かった。
すでに二日、グループを離れて、単独に行動している老人を、いささか気まぐれで我儘《わがまま》と解釈している者が多い。
二時間余りをかけて午餐が済み、一行は再び、マイクロバスでモエ・エ・シャンドン社の見学へ戻った。
君江が有里子に激しく当りはじめたのはバスの中からで、
「お義姉《ねえ》さんは、あたしに恥をかかすつもりで、あんな席につけたのね」
ヒステリックな声をあげた。
「あたしが英語もフランス語も喋《しやべ》れないのを、みんなの笑いものにしたかったんだわ」
主賓の席についたばかりに、接待側から英語やフランス語で話しかけられて、食事もろくに咽喉《のど》を通らなかったという。
「それは違います」
林より子が慌てていった。
「席順は、あちらが作ったんです。有里子さんは関係ありませんよ」
「ガイドは黙ってなさいよ。大体、あんた、お喋りだよ」
君江がどなりつけた。言葉使いも今までと違って、ひどくぞんざいになった。怒りにまかせて、君江の地金が出たという感じであった。
「この人はむかしからそうなんだ」
有里子の顔の前に人差し指を突き出した。
「あたしがなんにも知らないと思って馬鹿《ばか》にして……。笑わせるんじゃないよ。水商売の女だから、どうだってんだ。あんただって、つぐみ亭の主人っていやあ、水商売じゃないか」
「君江さん……」
狭いバスの中であった。
有里子は君江の口をふさぎたい思いで、彼女を制した。
「そんなこと、なにも、皆さんの前でいわなくても……」
「気どるんじゃないよ。乙《おつ》にすましやがって……。あんた、いつだって、そうなんだ。虫も殺さぬ顔をしてさ、悪いのは、みんな弟、みんな弟の嫁ってことにしちまってさ」
「やめてちょうだい。あたしがいつ……」
「あたしが知らないと思ってるの。あんた、レンタカーのブレーキがきかなくなったの、彦一が細工したっていってるんだって……」
「君江さん……」
悲鳴に近い有里子の声で、国松画伯がバスの通路に立った。
「おやめなさい。ここにいる皆さんは、ワインをたのしむための旅をしているんですよ。折角、シャンペンの牙城《がじよう》へやって来て、いい気持で見学をしたい、そういう気分をこわすようなことはいけませんな」
「そうですよ」
倉重浩がいった。
「失礼だけど、仮にも義理の姉さんに当る人を、この人だの、あんただのって呼ぶの、どうかと思いますね。水商売だからって軽蔑《けいべつ》する人はないが、そういう口のきき方で、人から馬鹿にされるってことはあるんじゃないですか」
君江が、なにかいいかけた時、マイクロバスはモエ・エ・シャンドン社の門に到着した。
「それじゃ、皆さん、御案内しますが、中がかなり広いので、迷い子にならないようについて来て下さい」
いわゆる観光客のために、このシャンペンの高名な会社は要領のいい見学コースを作っていた。
一般の人がシャンペンの出来上る過程を知るのには都合がよいが、ワイン好きには少々、もの足りない。
「もう一軒、ちょっとこぢんまりしたシャンペン会社をみたいですね」
いい出したのは北川ゆきで、グループのみんなが同意見であった。このまま、ホテルへ向うには、時間もまだ早い。
大井三郎が少し、考え込んだ。
今回のワインの旅は、どこも早川教授の紹介のところを廻って来たものであった。その早川教授がいないので、どのシャンペン会社がそうした希望に適合するか、彼には判断がつきかねたのだ。
みかねて、有里子が遠慮がちに申し出た。
「よろしかったら、私の知り合いのシャンペン会社へ御案内します」
一般の観光客は入れないが、オーナーが比較的、日本人に好感を持っているので、なんとかなるといった。
「会社はそれほど大きくはありませんが、銘柄としては一流ですし、多分、歓迎してくれると思いますの」
「そりゃいい、是非、お願いしますよ」
倉重浩がいった時、彦一が例によって異議をとなえた。
「俺達《おれたち》はごめんだな。先にホテルへ行くよ」
毎度のことなので、有里子も驚かなかった。
「それじゃ、そうして下さいな。林さんに一緒に行ってもらいますから……」
うつむいていた林より子が顔を上げた。
「申しわけありませんが、私、ガイドをやめさせて頂きます。有里子さんの買いつけのお仕事も、今から行くシャンペンの会社で終られますし、それがすみ次第、失礼させて頂きます」
明らかに、林より子は、彦一夫婦に腹を立てていた。先刻、君江にどなりつけられたことで、今までの鬱憤《うつぷん》が爆発したという感じであった。
有里子がなにかいいかける前に、松原理代が口を開いた。
「いいわ。それじゃ、あたしがこちらさんと御一緒するから……。あたし、シャンペンは苦手だし、さっきの食事で飲みすぎて、頭が少し痛いの。ホテルへ行って休みたいのよ」
すぐに国松画伯もいった。
「では、私も御一緒しますかな」
大井三郎が慌てた。
「ですが、チェックインやなにかが……」
「大丈夫、なんなら大井さん、ホテルへ電話をしておいて下さいな。心配しないで、皆さんがいらっしゃるまで、なんにもしないで、大人しくしていますから……」
さっさとマイクロバスへ行って松原理代はボストンバッグを下して来た。
「大きなスーツケースは、おいて行くから、皆さんがホテルへ到着なさってから、あたしの部屋へ運ばせてちょうだい」
彦一夫婦は、すでに車に乗っていた。運転は国松画伯がするらしい。
大井三郎が車に近づいて、ホテルまでの道を丁寧に教えた。
「すみません、勝手をいいまして……」
林より子が、有里子に詫《わ》びた。ガイドとして契約しながら、感情的になってしまったことを、多少、後悔している様子であった。
「いいえ、林さんが怒るのが当り前よ。本当にいやな思いばかりさせて、すみません」
そこへ大井三郎が戻って来た。
「お待たせしました。行きましょうか」
有里子が案内したシャンペン会社はモエ・エ・シャンドン社と同じシャンパーニュ通りに面していた。建物の規模は小さいが、ここも堂々としたシャトウであった。
有里子が受付へ行き、やがて一人の中年の男がエレベーターを下りて来た。
「ゼネラル・マネージャーのピエールさんです」
有里子が紹介し、長身のフランス紳士は、有里子が案内して来たグループを愛敬《あいきよう》よく迎えた。
「折角ですから、私共のシャンペンを試飲して頂きましょう。シャンペン造りの工程もごらん下さい」
セラーの案内は、彼自身がつとめた。
シャンパーニュ地方でも、今年の葡萄は出来が悪く、収穫量もいつもの年を下廻ったという。
セラーの見学を終えて、応接室でグループが試飲をしている間に、有里子はシャンペンの買いつけをすませた。これで、今回の旅の目的は一通り、終ったことになる。
「それでは、私、お別れします」
今から列車でパリへ出ると林より子がいい出した。
パリからフランクフルトへ旅客機で帰る予定である。
「せめて、今夜はランスへ泊って行って下さい。ガイド料の支払いもありますし、どっちみち、パリへ泊るのもランスへ泊るのも同じじゃありませんか」
今度の旅はトラブルが多かった。
最初にフランクフルトから頼んだ車は途中で故障し、次に呼んだレンタカーはブレーキがおかしくなって事故を起した。そうした支払いの計算は、かなり厄介に違いない。
まさか、シャンペン会社の応接室で勘定も出来かねた。
さすがに、林より子もそれ以上、我意を張らなかった。
「わかりました。ともかくも、ホテルまではお供をします」
よく晴れた一日だったが、秋の陽はやはり釣瓶落《つるべおと》しであった。
一行がマイクロバスに乗った時、すでにあたりは暗くなっていた。
「急ぎましょう。先発の皆さんが首を長くしていらっしゃるでしょうから……」
大井三郎は運転手をせかして、あたふたと出発した。
ホテル・ボワイエはランスの丘の上にあった。
やはり、シャンペンの、ポメリー社が所有していたシャトウを、フランスでも高名な料理人ボワイエ氏がオーナーとなってホテルとして開業したばかりである。
有里子も、このホテルへ泊るのは、はじめてであった。
驚いたことに、ホテルの玄関に早川教授が出迎えていた。
「皆さん、勝手をしてすみませんでしたな。迎賓館での午餐は如何でした。お気に召しましたかな」
にこやかな表情の早川教授に、まず、倉重浩が訊ねた。
「お具合は如何です」
「それが、あまり思わしくないのですよ。今日も、皆さんを迎賓館でお待ちするつもりだったが、どうも一つ、気分がすぐれなくて、失礼して、ホテルで休んでいました」
茫然《ぼうぜん》と突っ立っている大井三郎の肩を叩《たた》いた。
「心配をかけてすまなかった。どうも、年をとると我儘になってね。皆さんにも申しわけのないことをした」
グループの部屋割は二階と三階に分れた。さして部屋数の多くないシャトウホテルである。
有里子の部屋は二階の廊下の突き当りであった。窓を開けると、正面にこのホテルの門がみえる。
「彦一さんはこのお隣です」
ついて来た林より子が教えた。
「こんなこと、私が申し上げるのは筋違いですが、くれぐれもお気をつけて下さい」
有里子は眼を伏せた。彼女から忠告を受けるのは、二度目であった。弟夫婦に用心するようにと、林より子はトリアのホテルでもいった。
「ありがとう。でも、まさか……弟ですから」
他にいいようがなかった。
「あなたも、今夜はここに泊って下さい。食事の時、弟たちと顔を合せるのがおいやなら、大井さんたちと御一緒なさってかまいません。あたしから大井さんに申し上げておきますから……」
林より子は頭を下げ、そっと部屋を出て行った。
スーツケースを開け、ナイトガウンを取り出しながら考えた。
気をつけろといわれても、どうしてよいかわからない。相手は弟夫婦であった。この旅が終っても彼らとのつきあいは永遠に続く筈である。
彦一や君江が、麻布の「つぐみ亭」や有里子の家を訪ねてくるのを、いけないと拒否するわけにもいかなかった。まして、なんの証拠もないのに、弟夫婦が自分を殺そうとしていると、警察に保護を求めることも出来ない。
ナイトガウンに着がえて、窓辺に立った。
門の内側の庭にマイクロバスと乗用車が二台、駐車しているのがみえる。一台の乗用車はフランスのレンタカーで、国松聡がパリから乗って来たものである。もう一台はドイツナンバーのレンタカーであった。ひょっとすると、早川教授が乗って来たものかも知れなかった。このホテルには、今のところ、日本人グループの他には泊り客は何人もない様子である。
ホテルの周囲は葡萄畑であった。黒っぽく広がっている畑の上に、月が出ていた。
午後七時のディナータイムになると、ホテルのダイニングルームには、ぼつぼつ客が集って来た。
高名な料理人がオープンしたホテルは、レストランとしても有名で、ランスやエペルネは勿論《もちろん》、パリからも食事のためだけの客が来る。交通渋滞さえなければ、パリから車をとばして来て一時間足らずの距離でもあった。
有里子がシルクのワンピースに着がえて階下へ下りてみると、日本人グループはダイニングルームの隣にある広いバアで食前酒をたのしんでいた。
早川教授の顔もみえ、林より子もグループの仲間に入っていた。
「弟さん御夫婦は、どうなさったんですか」
大井三郎に訊かれて、有里子は苦笑した。
「部屋をノックしてみたんですけれど、返事がありませんの。先に食事に下りたのかと思って来てみたのですけれど……」
ドライ・シェリーのグラスを手にしていた松原理代が少し甲高《かんだか》い声で笑った。
「お二人とも、おやすみかも知れませんよ。ここへ着いてから、バアで随分、飲んでいらしたし、フランス料理はもう飽きたから、今夜はインスタントラーメンでも食べようなどとおっしゃっていましたもの」
「このホテルへ泊って、インスタントラーメンというのは、もったいないですな」
レストラン経営者でもある、グループの竹内喜夫がいった。
「わたしはこの旅の中で、このホテルへ泊るのを一番、たのしみにして来ました」
「それだけの値打はありますね」
医者の高山がバアを見廻した。バアといっても、貴族の館の居室そのままであった。
「廊下がまるで迷路みたいね」
北川ゆきがいった。
「同じ二階でも、廊下がすぐまがっているし、小さな階段を上ったり下りたりするでしょう」
たしかに、いわゆるホテルの建物のように長い廊下の両側に部屋が並んでいるという造りではなかった。
廊下はまがったところに階段が五、六段あって、その先が二部屋、或《ある》いは三部屋のワンブロックになっている。
「結局、プライベートルームとして独立していた部分を二つか三つに分けて客室に改装したんでしょうな。それで、あんなふうになっているんですよ」
倉重浩が説明した。
「僕は吉田さんと竹内さんと北川さんの部屋をみせてもらったんですが、全部、広さも造作も違うんです。壁紙も別々だし、バスルームのデザインもまちまちで、しかし、どこも実にすばらしいんですよ」
「火事になったりすると困りますわね」
吉田夫人のたま子がいくらか不安そうにいい出した。
「廊下をどちらへ逃げたらいいか……」
「それは心配ありません」
大井三郎がいった。
「さっき、フロントで訊いて来たのですが、ワンブロックずつになっている部屋の廊下の突き当りには必ず窓があって、その下に鉄製の非常階段がついています」
窓は内側から鍵《かぎ》がかかっているが、掛け金《がね》式なので素人でもすぐはずすことが出来る。
「あの窓、まるでロミオとジュリエットのお芝居に出て来そうなロマンチックなものですね」
北川ゆきは自分の部屋の外にある、その窓を開けてみたといった。
「ロミオは、あそこから忍んで来たんですよ。北川さんも用心して下さい。夜中にどんなロミオが忍び込むかわかりませんよ」
高山が冗談をいい、北川ゆきが陽気な笑い声をたてた。
「だったら、部屋の鍵をかけないでおこうかしら」
部屋の鍵も古風であった。
「皆さん、部屋を出る時、ちゃんと外からロックして来たでしょうね。このホテルのドアは閉めると自動的にロックされるというのではありませんよ」
大井三郎の言葉で早川教授が腰を浮した。
「いかん。鍵をかけて来たかどうか、うっかりした」
「僕がみて来ましょう」
「いや、私が行くよ。食後に飲む薬もとって来たいのでね」
早川教授の出て行ったあとで、吉田が妻のたま子にいった。
「俺たちは閉めて来たかな」
「鍵はあなたが持ってらしたんですよ」
「お前にあずけたじゃないか」
「それは、部屋を出てからですよ」
吉田たま子がバッグの中から鍵を取り出した。
「あなた、念のため、みて来て下さいよ」
「そうするよ」
そこへ国松聡が入って来た。
「いや、どうも遅くなってすみません。ちょっとベッドに横になったら、つい、ねむり込んでしまって……」
慌ててとび出して来たらしく、ネクタイが少しゆがんでいる。
「大丈夫ですよ。皆さん、今、部屋の鍵の確認にいらしたところです」
早川教授が戻って来、一足ちがいで吉田重吉も帰って来た。
「それでは食事に参りましょう」
ダイニングルームには、このグループのためにテーブルが二つに分けてセットされていた。
「有里子さんと林さんも御一緒にと思いまして……」
それは早川教授の配慮で大井三郎が給仕人に指示しておいたらしい。
六人と七人に分れて二つのテーブルについた。
有里子と同席したのは、林より子、早川教授、国松聡、高山夫妻であった。
運ばれて来た料理は如何《いか》にも秋の気配が濃かった。きのこのソティや鴨《かも》のロースト、鹿肉《しかにく》の煮込み。
「ソースがこってりして、如何にもフランス料理の典型ですのね」
高山夫人の悦子がいった。
「大変、おいしゅうございますわ」
「たしかに旨いが、老人むきとはいえませんな」
高山広和が苦笑した。
「量も少々、日本人には多すぎますよ」
「日本人もグルメになりましたが、どうも、フランス人とは胃袋の出来が違いますね」
国松聡は話しながら、それとなく早川教授の食欲をみているようであった。体の具合があまりよくないと自分でもいっているように、皿の上の料理はほんの僅《わず》かしか手がつかなかった。そのかわりのように、ワインのグラスはすぐ空になる。
「先生……」
国松画伯の視線に気がついて、有里子がいった。
「早川先生、少し、お酒を召し上るのが早すぎませんかしら」
つぐみ亭の客の中でもワイン好きで有名な早川光三だが、いつもゆっくりと味わうように飲んでいて、量はさして多くはない。
「御忠告はありがたいが、ドクトールの御主人がいわれたじゃないか。悪いワインを飲むには人生はあまりに短い。わたしにいわせると、いいワインを飲むにしても、人生は短すぎる」
笑い声が酔っていた。
「この旅も、もう終りですな」
高山広和がしみじみとした口調でいった。
グループの旅のスケジュールでは、明日パリへ入って三泊すると帰国であった。
「あちらは、どうなさったのでしょう」
ぽつんと林より子がいい出した。
「池田さん、トリアからお目にかかっていませんけど……」
有里子は手にしていたワイングラスに視線を落した。
「私も、気にしているのですけれど」
ブレーキの故障で危く、車ごとモーゼル川へ落ちるところを助けてもらったきりであった。
「車の始末をしたら、こちらへ向うとおっしゃっていらしたんですけれどね」
林より子の言葉で、国松画伯が訊ねた。
「早川先生はトリアからここまで、タクシーでしたか」
「いや、レンタカーですよ。自分で運転して来ました」
「それでは、よけいにお疲れでしょう」
「まあね。しかし、人間、やる気になれば、なんでも出来るものでね」
三時間近い夕食は、やがて終った。
さすがに疲れた顔で、グループのみんなが各自の部屋へ戻って行く。
「弟の部屋へ電話をしてみますわ」
ダイニングルームを出たところで、有里子は林より子にことわって、館内電話をかけた。
林より子がフロントで明日のパリ行の列車の時刻を調べていると、有里子がやや恥かしそうな顔で近づいて来た。
「カップラーメンを食べたんですって」
より子は改めて頭を下げた。
「パリまでお供しなくてすみません。明日は国松先生が、有里子さんと弟さん御夫婦をパリへお送り下さるとおっしゃいましたので」
どっちみち、パリへ帰る国松であった。それに、マイクロバスもパリへ向う。
「これ以上、私がお供すると、彦一さん御夫婦が気を悪くなさるでしょうし……」
「本当にすみませんでした。日本へお帰りになることがあったら、是非、つぐみ亭へいらして下さい」
「ありがとうございます」
すでに、林より子への支払いはすんでいた。
「ここのホテルの宿泊費は、勿論《もちろん》、私が明日、出発の時、あなたのお部屋の分も払って行きますから……」
彼女が何時にこのホテルを出発してもかまわないといった。
その時、早川教授が少し、おぼつかない足どりでフロントへ来た。
「あなたは、明日、フランクフルトへお帰りですか」
もし、さしつかえなかったら、自分の借りたレンタカーで帰ってもらえないかという申し出であった。
「ベルンカステルのラウェルベルグさんに手紙をことづけたいのですよ。郵送でもいいのだが、一緒に持って行ってもらいたい品物もあるのでね」
レンタカーはフランクフルトまで乗って行っていいし、その使用料は自分が持つといった。
「いいですよ」
林より子が承知したのは、ここからフランクフルトまで、距離的にはたいしたことがないのがわかっているからであった。
グループがワインセラーを訪問し、悠々と四日をかけて来た道だが、まっすぐに車をとばして行けば、一日でフランクフルトへ帰りつける。むしろ、パリへ列車で出て、そこから空港へ移動し、フランクフルト行の便に乗り継ぐ厄介がない。
「明日、早朝に出発します。今夜のうちにお手紙を頂けますか」
一日でたどりつけるドライブだが、より子はなるべく早くにこのホテルを出たほうが安心だと考えたようであった。
「わたしの部屋へ寄って下さい」
早川と一緒にエレベーターに乗り込む際に、より子は改めて、有里子へ頭を下げた。
「それでは、明日は私のほうが先にホテルを出ると思います。もう、御挨拶《ごあいさつ》はせずに参りますので……」
「お気をつけていらして下さい」
小さな階段を上って、有里子は自分の部屋へ戻った。
彦一夫婦の部屋は、すでに灯が消えている。
翌朝、有里子がめざめたのは、車の出て行く音によってであった。
起き上って窓からのぞくと、思った通り、ドイツナンバーのレンタカーを運転して林より子がホテルの門を出て行くところであった。
時計は七時少し前、外は漸《ようや》く朝の光がさしはじめた様子であった。
松原理代の死体が発見されたのは、更にそれから二時間が経ってからであった。
出発時間になっても、松原理代が姿をみせないので、大井三郎が彼女の部屋をみに行き、ベッドの上で死んでいる彼女をみつけたものであった。
部屋に鍵はかかっておらず、松原理代の死因は毒物によるもののようであった。
そのさわぎの中に、有里子は途方に暮れた顔で訴えた。
「あの……、申しわけありません。弟夫婦の姿がみえませんの」
彼女もまた、出発時間になって、弟夫婦の部屋のドアをノックした。
「返事がありませんので、ドアのノブに手をかけてみると開きました。でも、部屋には誰《だれ》もいなくて……」
荷物もそのままであった。
「ホテルのあちこちを見て廻ったのですけれど……」
「散歩にでも出かけたんじゃありませんか」
グループの中から倉重浩がいった。彼らも松原理代の変死で逆上している。
「でも……パジャマで散歩に出かけますかしら……」
消え入りそうな声で、有里子がいった。
「パジャマで……」
「私、弟たちの荷物を調べましたの」
服はすべて洋服|箪笥《だんす》にかかっていた。
「パジャマだけがみあたりません」
「そりゃ、おかしいですな」
その時、大井三郎が高山広和と階段を下りて来た。
医者である高山に、松原理代の遺体をみてもらっていたものであった。
「早川先生は、どちらにいらっしゃいますか」
叫ぶような彼の声で、グループのみんながこの場に早川教授の姿がみえないことに気づいた。
いや、一人だけ、大井三郎の問いかけよりも早く、早川教授を探していた人物がいた。
「実は、わたしも、さっきから早川先生のお姿がみえないので、部屋まで、みに行って来たのですが……」
国松聡であった。
「部屋にもいませんか」
大井三郎が顔面|蒼白《そうはく》になってどなった。
「探して下さい、すぐに……」
だが、全員が立ち上るまでもなかった。
このホテルのマネージャーが、とり乱した様子で大井三郎へ近づいた。
中庭で、日本人が一人、死んでいるというのであった。
「どこですか」
食いつきそうな顔で三郎がいい、中庭へとび出して行った。
早川光三は、さっきまでホテルのロビイにいたのと同じ恰好で、中庭の平たい石によりかかるようにして死んでいた。
顔は穏やかで、皮膚には、まだあたたかみが残っている。
「こりゃあ……」
走って来て、死体をみた高山が息を呑《の》むようにした。
「青酸化合物ですよ」
大井三郎の唇がぶるぶる慄《ふる》え、涙が頬《ほお》を伝い出した。
静かなシャトウホテルは蜂《はち》の巣を突ついたようになった。
日本人旅行者が二人も死んだうえに、もう二人が忽然《こつぜん》と姿を消してしまったのである。
救急車が到着したが、松原理代は勿論、早川教授も、すでに絶命していて、どうすることも出来ない。
警官も来た。
「犯人は、居なくなった二人ではないのか」
という声を、有里子はぼんやり聞いていた。
頭の中が空洞になったようで、なにかを考えなければと思っているのに、思考力がまるでなくなってしまっている。
あれほど沈着だった大井三郎にしてからが、痴呆《ちほう》のようになっていて、殆《ほとん》ど、役に立たなかった。
まして、グループ全員は茫然自失の状態である。
その中で、ホテル側や警官への応対は、国松聡が当っていた。
フランス語が出来るということもあったが、彼が一番、冷静なようであった。
二つの死体は、とりあえず病院へ運ばれて、高山医師と国松聡、それに大井三郎が立ち合って、検屍《けんし》を受けた。
その結果、早川光三のほうは、高山医師が最初にいったように、青酸カリの中毒死、松原理代のほうは、
「どうも、農薬による中毒死ではないかといわれました」
高山医師が一部屋に集っていたグループのところへ戻って来て報告した。
「自殺なんですか」
訊いたのは、倉重浩で、
「さあ、それは、わたしにはわかりませんが……」
少くとも、早川光三の場合、僅かの時間に、あんなところへ連れて行かれて、青酸カリを飲ませられるというのは、まず考えられなかった。
声を上げれば、ホテルの従業員がかけつけてくるような中庭での出来事である。
誰かに脅迫されたり、力ずくで飲まされるとは思えない。
夜になって、もう一つの知らせがフランクフルトから届いた。
林より子が運転してフランクフルトまで行ったレンタカーのトランクの中から、二つの死体が発見されたというものであった。
ホテル・ボワイエで起った日本人グループの殺人事件は、やがて早川光三の部屋から発見された、彼の遺書ともみえる手紙が解明の端緒になった。
内容は意外なものであった。
我が子、孝太郎の怨《うら》みをそそぐために、大久保彦一夫婦を殺害したことと、関係者各位に迷惑をかける点を詫《わ》び、又、この殺人は全く自分一人の手によって行ったものであり、誰《だれ》の協力もなかったと書かれている。
手紙の宛名《あてな》は国松聡になって居り、国松画伯はそれを読んでから、改めて決心したように、パリとボンとからやって来た日本大使館員の取調べに、すべてを語った。
パリとボンと両方の大使館から係官が来たのは、殺人現場がフランス国内で、彦一夫婦の死体の発見されたのがレンタカーの中ではあったが、ドイツ国内であったためである。
「実をいいますと、私がパリからやって来て早川先生の旅行グループに合流したのも、このようなことが起るのではないか、と考えて、なんとか早川先生のお気持を翻したいと思ったからでした」
沈痛な表情で話し出した国松画伯の傍には大井三郎と、綾有里子、それに事件を知ってかけつけて来た池田新太郎が同席していた。
「私事で恐縮ですが、私が早川先生とお近づきになったのは、今から五年ほど前に、或《あ》る出版社の企画で、先生と私がボルドーのワインセラーを訪問し、先生は探訪記事を、私はシャトウのスケッチをしまして、それを一冊の本にまとめるという仕事をしてからのことでした」
当時、早川光三は一人息子の孝太郎と二人暮しであった。
「孝太郎君は国立大学の学生で、お父さんと同じく西洋美術史を専攻されて居られました。学問好きで人柄のいい好青年で、早川先生にとってはかけがえのない一粒種でもあり、大変に将来を期待されて居られたのです」
一つには、孝太郎の母親と正式に結婚することが出来ず、一人息子を認知して手許にひきとったものの、男手一つで育て上げたということや、孝太郎が早川光三にとって五十歳をすぎてからの子供だったせいもあり、その溺愛《できあい》ぶりは並みの親馬鹿《おやばか》を通り越していたと、国松聡は語った。
「そうした生い立ちのせいもあったと思いますが、孝太郎君はまことに聡明《そうめい》な一面、苦労知らずで人のよすぎるところがありました。更に幼い日に母親と別れ、女親の愛に飢えているような部分があり、それが悲劇の原因になったと私は思います」
子供の時から真面目《まじめ》一方で、勉強好きの優等生だった孝太郎が大学生になってたまたま知り合ったのが、
「大久保彦一の妻である君江だったのです」
二人の出会いは、都内のホテルのプールであった。
「孝太郎君は子供の頃《ころ》からあまり健康とはいえず、殊に冬は風邪をひきやすいのを、早川先生は心配されていました。それで、なにかスポーツをやったらどうかということになって、孝太郎君の希望もあってNホテルのスイミングクラブの会員になりました。皮肉なことに、大久保君江もその会員の一人だったのです」
君江は当時、すでに結婚していて彦一の妻であったが、そのホテルのスイミングクラブの会員になったのは、彼女の豊満な肉体を武器にして会員の男たちをひっかけ、夫の彦一と共謀して美《つつ》人局《もたせ》めいた恐喝をやるのが目的で、それが露見しなかったのは、ひっかかった男たちが地位も金もある立場から、被害を表沙汰《おもてざた》にしなかったためであった。
もっとも、君江が孝太郎に声をかけたのは金が目的というより、若くてハンサムな青年と情事をたのしみたいという浮気心からであった。
十五、六から男との修羅場をかいくぐって来ている君江にとって、ガールフレンドもろくになかった孝太郎を誘惑するのは赤児の手をねじるよりも容易で、知り合って一か月も経たない頃には、もう同じホテルの一室で、午下《ひるさが》りの情事を持った。
一度、異性の肌を知ると、孝太郎はずるずると君江へのめり込んだ。彼女の機嫌を取るために、手当り次第にものを買って贈ることからはじまって、グアムやハワイへ旅行するまでの仲になった。
やがて、君江の口から孝太郎がかなりの資産家の息子と知って、彦一が乗り出して来た。
「それまで孝太郎君は、君江が独り者と思っていたので、ひどいショックを受けたようです。それでも、孝太郎君は君江と別れることが出来なかったようです」
君江は夫と別れて、孝太郎と一緒になることをほのめかし、夫に対する慰謝料を孝太郎に調達してくれないかと頼んだ。
「それも、なかなか巧妙な持ちかけ方でして、あとから早川先生に孝太郎君が告白したのによると、君江は自分が親からゆずられている山林を処分して金を作る、ただし、すぐには売れないので、その間、知り合いから金を借りて、彦一に支払ってくれ。まごまごしていると、彦一の気が変るし、下手をすると自分も彦一に殺されるかも知れないといったそうです」
ともあれ、孝太郎は君江のいうままに、自分の家の登記書を持ち出し、土地建物を担保にして君江から紹介された金融業の男から、一千万円を借りた。
「勿論《もちろん》、金融業の男も、彦一夫婦とぐるです。たまたま、早川先生はお仕事でフランスへ行って居られたのですが、帰って来て、ことの重大さに気づかれ、知人に依頼して調べてもらったところ、すでに家も土地もそっくり他人の手に渡っているという始末でした」
さすがに孝太郎も慌てて、君江を追及したところ、彦一と手に手をとって、外国へ出かけてしまっていて、全く埒《らち》があかない。
「女に騙《だま》されたと知って、孝太郎君は随分、悩んだようです。なにしろ、父親の財産をあらかたなくしてしまったわけですから……」
孝太郎が自殺したのは、その年の暮で、パリから帰って来たばかりの国松聡は、幽鬼のようになっていた早川光三に対面した。
「おそらく、その頃から、早川先生のお気持の中には、彦一夫婦への復讐《ふくしゆう》を考えられていたと思います」
それが具体化したきっかけは、今年になって早川光三が体調を悪くして入院したことによると、国松聡は語った。
「病名は肝硬変でした。しかし、早川先生は癌《がん》だと思っていらしたのかも知れません」
自分の寿命を悟って、早川光三は決意した。
「早川先生が、今度の旅に出発なさったいきさつは知りませんが、わたしはたまたま東京の家内から早川先生がドイツからフランスへワインの旅に出かけられたことを聞きました。わたしはなんとなく不安になって、家内に大久保彦一夫婦が東京にいるかどうかを弁護士に調べてもらってくれとたのみました」
国松聡の友人の弁護士は、かつて早川孝太郎が彦一夫婦に騙されて、父親の財産を失った事件の時に、国松が紹介して、被害を最小限に食いとめるべく尽力した人間であった。
「そんな関係で、弁護士は彦一夫婦の住所を知っています。家内からパリへかかった電話では、彦一夫婦が、早川先生と時を同じくして、同じ場所へワインの買いつけに出かけているということでした。わたしがとるものもとりあえず、パリを発って、モーゼルのベルンカステルへかけつけたのは、そのためです」
もし、早川光三が彦一夫婦の殺害を企んでいるとしたら、なんとしても阻止しなければならないと決心して、国松聡は車をとばしてベルンカステルへ来た。
「幸い、ドクトールさんの家で、早川先生に会うことが出来ました。で、私は強引に早川先生をベルンカステルのホテルへひっぱって行ったのです」
国松聡の説得に早川光三は承知したかのようにみえた。しかし、安心した国松画伯が席をはずしたすきにホテルを逃げ出して行方知れずになってしまった。
「実をいうと、そのようにわたしはグループの皆さんにお話ししました。けれども、真相はそうではありませんでした」
夜があけるまで国松聡は早川光三と話し合った。
「漸《ようや》く、早川先生はわたしの勧めに従って、グループから脱け、単身、フランクフルト経由で日本へ帰国されることを承知してくれました」
早川の旅行グループはコースからいって、有里子と彦一夫婦の行程をなぞるようになっている。
「なにはさておいて、早川先生をグループからひきはなすことだと、わたしは判断したわけです」
そのことを、国松聡は大井三郎に電話で知らせた。
「すぐに早川先生には、タクシーを呼んで、フランクフルトへむけて出発して頂きました」
だが、グループの人々には、早川光三がフランクフルトへ戻ったのではなく、間違ってトリアへ行ってしまったと説明した。
「理由は、グループの中に、もう一人、彦一夫婦に怨みをもって、あの旅行に参加していた人物があったからです。その人はもし、早川先生が復讐を阻止されて、空しく日本へひき返したと知ったら、たった一人でも、行動を起す可能性がありました。そのために、先生がなにかの必要でグループの先へ先へ行かれたように思わせれば、早川先生のほうに、なにか意図することがあると判断して、一人では動き出さないのではないか、少くとも、そう思わせておくために、わたしはグループの皆さんに嘘《うそ》をつきました」
ここで、取調べに参加していた、駐仏大使館付の三熊参事官から質問が出た。
彼はこうした外国での事件に備えて日本の警察庁から出向している参事官であった。
「その、早川光三以外に、大久保彦一夫婦に怨みをもつ人物というのは、誰ですか。この際、名前を明らかにしてもらえませんか」
国松画伯がためらい、そのかわりにそれまで深く頭を垂れていた大井三郎が顔を上げた。
「国松先生、僕からいいます」
大井三郎の眼は充血していた。
このところの不眠のためというよりも、彼がひそかにこぼして来た涙のせいであった。
「御質問にお答えします。只今《ただいま》、国松先生がおっしゃった人物は、ホテル・ボワイエで死亡した松原理代です」
池田新太郎が大井三郎をみた。
「いったい、何故、彼女が……」
三郎の表情が翳《かげ》った。
「それは、大久保彦一夫婦によって自殺に追い込まれた早川孝太郎の母親が、彼女だったからです」
三熊参事官が眉《まゆ》をひそめた。
ホテル・ボワイエで変死した二人の男女、早川光三と松原理代がかつて夫婦関係にあったということが、もう一つ、ぴんと来ないようであった。
たしかに、テーブルの上におかれている早川光三と松原理代の写真は年齢的にかなりかけはなれた感じがする。
三熊参事官が二つのパスポートを確認した。
「早川光三は一九一二年生れで七十三歳、松原理代は一九二八年生れで……ほう五十七歳ですか」
意外そうな声であった。
実際、松原理代の外見は到底、五十七歳にはみえなかった。グループのほとんどが四十代と思い込んでいたくらいである。三熊参事官が写真を眺めて、随分、年齢の差のある夫婦だと思ったのも無理ではなかった。
「そうすると、先程、国松さんがおっしゃった、早川光三の内縁の妻というのは、松原理代さんのことだったのですね」
国松聡がうなずいた。
「その通りです。早川先生と松原理代さんは孝太郎君という子まで成したにもかかわらず、遂に正式に結婚せず、別れてしまったのです。その理由について、早川先生は性格の不一致が障害になったとおっしゃっていました」
「すると、今度の事件は早川光三と松原理代の共同謀議によるものと考えていいのですかね」
三熊参事官がいい、国松聡はそれに対して沈鬱《ちんうつ》にかぶりをふった。
「さあ、それに関しては、わたしにはわかりかねます」
質問が、それで大井三郎へ向けられた。
「大井さんは早川教授を中心とする今回の旅行のツアーコンダクターの立場から、なにか知っていることはありませんか」
三郎が重く唇を開いた。
「今となっては、なにもかもありのままに申し上げたほうがいいかと思います。僕の知る限りでは、早川先生が今回の旅行を思い立たれたのは、東京麻布のつぐみ亭で、ここにいらっしゃる綾有里子さんからこの秋のワイン買いつけの旅には彦一、君江の夫婦が同行するときいてからのようです」
ツアーコンダクターの立場の大井三郎が急に彦一夫婦を呼び捨てにしたので、三熊参事官は少々、不思議そうな表情をみせたが、黙って話の先をうながした。
「最初、早川先生はお一人で旅に出る予定だったそうです。ところが、先生から航空券やホテルなどの手配を依頼された旅行社のほうで、最近のワインブームから、ラインラント・プファルツ州のワイン街道を早川教授と共に廻るツアーを作ったら、けっこう参加する人が多いのではないかと考えたそうです」
旅行社のそうした勧めに、早川光三はなにもいわなかったようだと大井三郎はいった。
「急のことだったので、結果的にはそんなに大勢の客は集りませんでしたが、九人のツアーがまとまって、少人数のことで東京から添乗員はつかず、フランクフルトにいた僕が旅行社からの依頼もあって、お世話をすることになりました。というよりも、僕が希望してコンダクターをひき受けたといったほうが正確かも知れません。その理由は、あとで申し上げます」
「松原理代がツアーに参加した理由はきいていますか」
と三熊参事官。
「彼女は、早川先生と結婚はしませんでしたが、その後も時折は連絡を取り合っていました。殊に孝太郎君が自殺した時は知らせを受けて、かけつけ、葬儀にも参列しました。それがきっかけになって、一人ぼっちになった早川先生の身の廻《まわ》りの世話などに時折、行っていたようです。従って、早川先生が突然、外国旅行に出かけると知り、それがグループ旅行と知ると自分も早速、申し込んだそうです」
「それは、大久保彦一夫婦を殺害するという目的のためですか」
「いや、最初は老齢の上に、病体の早川先生を案じて、ついて行くつもりだったようです。けれども、アスマンズハウゼンのホテルで有里子さんと彦一夫婦に出会って、はじめて早川先生の本当の目的に気がついたのだと思います」
「松原理代は早川光三の目的を知って、それに協力しようと思っていたのですかね」
「彼女は早川先生次第だったのではないかと思います。早川先生が彼らを殺すなら、喜んで協力する決心だったと思います。けれども、早川先生が思い止まるようなら、彼女もそれに従ったのではないかと……ただ、僕には五分五分のような気がしたので、万一を考えて、国松先生にお願いして、早川先生がフランクフルトへ戻られたことは内緒にしておいたのです」
しかし、フランクフルトから帰国すると思った早川光三は、ベルンカステルからまっすぐランスのホテル・ボワイエへ直行していた。
「多分、早川先生はホテル・ボワイエで我々グループと共に到着する彦一夫婦を待ちながら、体力、気力をととのえて居られたのだと思います」
早川光三にとって、ホテル・ボワイエは最後のチャンスであった。
パリへ入れば、早川のグループと、有里子たちの泊るホテルは別々であった。
実行はかなり困難になる。
「大井君」
三熊参事官が訊《たず》ねた。
「あなたは松原理代、並びに早川光三の心理について、かなり立ち入った供述をしているが、松原理代はコンダクターであるあなたに、なにか打ちあけ話のようなことをしていたのですか」
大井三郎が、きっぱりした調子で答えた。
「たしかに、僕は今回の事件について、当事者の気持をよく理解しているつもりです。そして、この旅行のそもそもから、早川先生、並びに松原理代に対して細心の注意を払い続けて来ました。二人の気持が誰よりもよくわかっていながら、なんとかして二人の手が血に染まるのを阻止しようとひそかに苦心して来ました。それは、すべて水泡に帰してしまったわけですが……」
青ざめた頬《ほお》を涙が一筋したたり落ちて、大井三郎はそれを指で拭《ぬぐ》った。
「僕は松原理代の弟です、母親は違いますが……僕と彼女は血を分けた姉弟です」
有里子が小さな叫びを上げ、池田新太郎が彼女の肩を抱くようにした。
さすがに三熊参事官も絶句し、彼から大井三郎の言葉を通訳されたランスの警官たちが一せいにざわめいた。
「私、あの時は本当に口がきけないくらい、びっくりしましたわ。だって、大井さんが松原理代さんの弟さんだったなんて、全然、気がつかなかったんですもの」
その年の十二月。
場所は東京麻布のレストランンつぐみ亭であった。
まだ夕食には早い時刻で、店の内はひっそりしていた。
キッチンの中ではコックたちが料理の下準備にいそがしく立ち働いていたが、テラスにあるテーブルのところまでは、そのざわめきも聞えて来ない。
ドイツの民家風にベージュの壁と自然のままの丸木の柱を組み合せた素朴な内装のつぐみ亭は、はやばやとたそがれてくる冬の陽がよく似合った。
テーブルについているのは女主人の有里子を中心に、池田新太郎、それにつれ立ってやって来た国松聡と大井三郎の四人であった。
「申しわけありません。僕は父の後妻の子で、姉とは年齢が二十も離れています。それに、姉は早くから家を出て、上京してしまいましたので、姉弟としてのつき合いはあまりなかったんです」
大井三郎の実家は新潟の造り酒屋で、理代は十八の時、近隣の松原という家へ嫁いだが一年足らずで夫の病死に遭い、その後、洋裁で身を立てようと上京してそっちの勉強をはじめた。
「松原の家は一人息子で、むこうの両親は姉にいずれ養子を迎えて、松原の墓守りをしてもらいたいという理由で、理代の籍を抜きませんでした。それで、姉は未亡人になってからも、松原姓だったんです」
大井三郎が姉の理代に会ったのは、彼が東京の大学に入ってからのことであった。
「姉はSという銀座のファッション企業で働いていたんですが、パリへ留学するための資金作りに、夜は銀座のバアでホステスをしていて、早川先生と知り合ったそうです。僕がN大で早川先生の講義を受講するようになったのは全くの偶然なんですが、その頃、すでに姉は早川先生と別れていました」
下宿暮しの三郎は、時折、理代のアパートへ訪ねて行っては、姉の手料理を御馳走《ごちそう》になったり、悩み事を打ちあけられたりするようになっていた。
「N大を出たあと、僕がドイツへ留学してからも、姉とは文通が続いていました」
たまたま、日本へ帰っていた時に、孝太郎の自殺という事件があって、大井三郎はとり乱した姉から、その顛末《てんまつ》を聞き、義憤を感じていたという。
「ですから、或る日、東京の姉から電話があって、早川先生と一緒にワインロードを廻るツアーに参加して、そっちへ行くからという話を聞いた時、これはなにかあるんじゃないかと思いました。ところが、同じガイドの仕事仲間の林より子さんから、麻布のつぐみ亭の女主人のワイン買いつけの通訳の仕事が来ていることを知り、よくよく訊《たず》ねてみたら弟夫婦が同行するという。僕は早川先生と姉の目的は、これだと気がつきました」
有里子が彦一の姉に当ることは、孝太郎の自殺の件を訊《き》いた時に、知っていた。
「旅行社のほうでは、僕と林より子さんと二人が、早川先生のグループと、有里子さんの個人旅行と、どっちがどっちを担当してもいいという。それで、僕は早川先生のグループのほうに志願しました」
早川光三と松原理代を、コンダクターとしてツアーに参加することで、看視しようとしたのである。
「幸い、国松先生も協力して下さって、なんとか阻止出来ると思ったんですが……」
食前酒に、有里子が出したキールのグラスに唇をつけて、大井三郎は悲しい表情をした。
「僕も有里子と同じく、ランスの取調べで、大井君が真実を打ちあけるまで、松原さんと姉弟とは知らなかったので、驚いたんですがね。あの時、すぐ心配になったのは、大井君に嫌疑がかからないかということでしたよ」
池田新太郎がいった。
大井三郎が松原理代の弟と判明すれば、ひょっとして彦一夫婦殺しの共犯の疑いを受けるのではないかと、池田新太郎は不安を持ったのだが、
「いや、その点は心配なかったのですよ」
渋いツィードの上着に、なんともいい、コーヒーカラーのネクタイを締めている国松聡が苦笑した。
「あの晩、ホテル・ボワイエの夜の大井君のアリバイは完璧《かんぺき》でしたのでね」
日本人グループのうち、一人部屋が松原理代と北川ゆきとの二人になって、ホテル側は部屋割に苦労した。
「早川先生は先に着いて、一人部屋に入って居られたんです。あとは吉田さん夫妻と高山さん夫妻がツインルームで、そのほかにホテルが僕らのグループに提供してくれたのは、ツインが二部屋です。それで、倉重さんと竹内さんが一部屋に、僕と国松先生がもう一部屋に入りました」
通常、コンダクターは一人部屋が原則であったが、事件の夜はそうした理由で、大井三郎は国松聡と同室であった。
「わたしも大井君も、あの夜が無事にすぎれば、なんとか、未然に防げるのではないかと話し合っていましてね。そのためには早川先生と松原さんから目をはなさないことだと話し合っていました」
で、シャンペン会社、モエ・エ・シャンドン社から彦一夫婦が一足先にホテルへ行きたいといい出し、松原理代がそれに同行すると申し出た時も、すかさず、国松聡が一緒に行くことにした。
「ホテルへ着いてみると、なんと早川先生もみえている。これは危いと思いました。幸い、先生も理代さんも、バアでワインを召し上りながら、お話をしていらしたので、わたしもそこにがんばっていました」
そのうちに大井三郎が残りの人々を案内してホテルに到着した。
「食事の時に、わたしは考えたのです。今夜、早川先生を睡らせてしまえば、安心なのではないかと……そこで、普段、旅行の時などに私が使用する睡眠薬……といっても非常に軽いものですが、それを先生にビタミン剤だといってさし上げたんです。先生は血圧の薬などと一緒に飲まれたと思ったのですが、結果から考えると、あれは、私の見間違いで飲まれてはいなかったんだと思います」
食後、グループのみんなが各自の部屋へひきとったあと、国松聡と大井三郎は一緒に早川光三の部屋を見に行った。
「ドアに耳をつけて聞いてみますと、先生の鼾《いびき》が聞えてきて、ああ、これで大丈夫だと二人とも、自分達の部屋へ帰りました」
それでも、なかなか眠る気になれず、ぼそぼそと今後のことについて話し合った。
「もしも、早川先生が彦一さん夫婦に殺意を持って居られるのなら、東京へ帰ってからが心配です。しかし、私たちは先生の健康状態からしても、おそらく帰国後は直ちに入院されることになるのではないかと考えました」
肝硬変がかなり進んでいることからしても、体力は日々、衰えるに決っていた。
「病気にのぞみをかけるというのはおかしいのですが、殺人よりはましだと思っていました」
二人が辛うじてねむったのは、夜明けが近づいてからであった。
その間に事件は起っていたのだ。
「彦一夫婦に毒物を飲ませたのは、松原さんなんですかね」
沈痛に池田新太郎がいった。
分析の結果、彦一夫婦と松原理代の命を奪ったのは、日本でも園芸用に市販されている殺虫剤であった。早川光三だけが青酸カリである。
「多分、姉ではないかと思います。三熊参事官も、そのようにいって居られましたから」 最初に、ホテル・ボワイエへ到着したあと、松原理代は彦一夫婦に、夕食後、部屋へ遊びに来ないかと誘ったのではないかと大井三郎はいった。
「姉の部屋と彦一さんたちの部屋は上と下です。あのホテルはシャトウだったので、独特な造りなんですが、一階と二階と二部屋が階段でつながって独立した一ブロックになっているんです。客によっては上と下を一部屋として使ってもよく、階段のところのドアに鍵を下して、二部屋としても使用出来ます」
あの夜は二部屋として使われていたが、双方からドアを開ければ、内から行き来が出来る。
「そういう部屋の構造に、僕が気がついたのは事件が起ってからで……考えてみれば、こんな間抜けなことはありませんでした」
松原理代は、そうした部屋の構造を利用して、彦一夫婦と連絡を取り、毒物入りのワインを持って彦一夫婦の部屋を訪問し、それを飲ませた。
「夕食後のことだと思います」
夜が更にふけてから、しめし合せておいた早川光三がやって来て、二人で力を合せて二つの死体をレンタカーのトランクへ運んだ。
そのレンタカーは、その早朝、なにも知らない林より子が運転してフランクフルトへ帰って行った。
「僕が、わからないのは、松原理代さんと早川先生の自殺なんだ」
池田新太郎がいった。
一人はその夜のうちに自分の部屋で、早川光三は翌朝、みんなの前に姿をみせていて、松原理代の死体が発見される直前に、ホテルの庭へ行って服毒した。
「姉が先に死んで、早川先生が残ったのは、僕に大事なことを告げるためだったと思います」
大井三郎が打ちあけた。
その朝、大井三郎はやはり心配で、早川光三の部屋へ行った。
「ドアをノックすると先生が顔を出されて、こういわれたんです。何事が起っても、すベての責任は、わたし一人にある。そのことを忘れないでくれ。そういってドアを閉めたんです。聞き直そうと思ったんですが、グループの食事の時間だったので、とにかく階下へ行きました。まさか、すでに事件が終っているとは思いませんでしたし……」
今になってみれば、早川は自分が殺人の罪の一切を背負って自殺するから、松原理代は無関係だといったのだと思う、と大井三郎はいった。
「その時点で、早川先生は、姉が自殺しているのを知らなかったんだと思います」
国松聡が深い息をついた。
「せめて、先生のおっしゃったように、松原さんだけでも助けてあげられるとよかったんですが……」
考えてみれば、それは無理なことだったのかも知れないといった。
彦一夫婦を殺害した毒物と、松原理代の死因になった毒物が同じで、早川光三だけが違ったということは、手を下したのが松原理代という裏付けになった。
「松原さんにしてみたら、生きている気持はなかったのでしょう」
自らの罪を自らの手で償って、我が子の後を追って逝った。
「今頃は天国で、早川先生と孝太郎君と三人、むつまじく暮しているのかも知れません」
大井三郎が力のない声で呟いた。
その夜のつぐみ亭での会食はドイツへ帰る大井三郎の送別の宴でもあった。
「姉の四十九日もすみましたし、納骨も終りましたので……」
「日本には、まだお帰りになりませんの」
有里子が訊ねた。
「両親は帰って来いといいますが、どうも、僕はドイツでの浮草暮しが合っているみたいで……」
ガイドを生活の糧にしながら、ワインの里を訪ねて、そこの畑で働く人々とつき合って行くのが、たのしみだといった。
「有里子さんは、来年もドイツへいらっしゃるんでしょう」
「多分、秋に参りますわ」
「その時は、僕も行くと思いますよ」
池田新太郎がいい、有里子がはにかんだ微笑を浮べた。
「おまちしています」
つぐみ亭を出たのは、国松と一緒であった。
池田新太郎は、店へ残っている。
外は十二月の夜らしく、かなり冷えていた。
それでも、フランクフルトにくらべれば穏やかな初冬である。
「有里子さん、幸せそうでしたね」
麻布十番の通りを歩きながら、三郎がいった。
「この前、ドイツでお会いした時は、孤独が体中にしみ渡っているような印象でした」
どこか怯《おび》えたような、不安そうな顔付が、有里子に翳《かげ》を作っていて、それが大井三郎の心を惹きつけた。
今夜の有里子に、そうした不安感は拭《ぬぐ》ったように消えていた。
象牙色《ぞうげいろ》のとろりとしたシルクジャージィの服に真珠のネックレスを無造作に巻いていたのが、なんとなく花嫁を連想させる。
それほど華やかで、女らしかった。
「あの人は、早川先生と理代さんに感謝しているでしょう」
キャメルのコートの衿《えり》を立てて、国松聡が低くいった。
「実の弟とはいえ、有里子さんにとっては悪魔のような存在だった人間が二人とも、この世を去ったんですから……」
出来の悪すぎる弟であった。
実の姉に暴力をふるい、悪態をつき、夫婦でいじめ抜いた。
「下手をすると、有里子さんはあのつぐみ亭まで、乗っとられたかも知れませんよ」
強欲で、姉にゆずられた父親の遺産に目をつけていた彦一であった。
そのためには、姉を殺しかねなかった。
「しかし、それでも血を分けた弟ですから、有里子さんはつらいでしょう」
自分の姉が、有里子の弟を殺したのであった。
非は彦一夫婦のほうにあっても、殺人にかわりはない。
姉の松原理代にとって、彦一が息子の敵なら、有里子には松原理代が弟の敵になる理屈であった。
それを想うと、大井三郎は重苦しい気分になった。
「有里子さんは、池田さんと再婚するのかも知れませんね」
風の中で、国松がいい、大井三郎もうなずいた。
「僕も、そんなふうに思いました」
もともと、夫婦であった二人である。
別れたのは、池田新太郎の過去が原因だが、ことを大きくして別れねばならないように仕向けたのは、彦一だったと大井三郎はきいていた。
池田新太郎が有里子を追ってドイツへ来たのも、再婚の意志があってのことと、林より子が話していた。
弟を失って、有里子は文字通り、天涯孤独であった。
女一人、これからの人生を歩いて行くためには、なにかよりどころが欲しいに違いない。
池田新太郎は、彼女にとって充分、頼りになる存在であった。
タクシーの空車が来た。
大井三郎を芝公園の近くのホテルへ送り、国松聡は番町《ばんちよう》のマンションへ帰って行った。
同じ頃、つぐみ亭では、有里子がきびきびと働いていた。
このレストランは麻布にあるどのレストランよりも繁昌しているといわれている。
客はあらかじめ電話で予約を入れておかないと、まずテーブルがとれない。
ラストオーダーが九時で、閉店は十時半であった。
従業員は終電車には間に合うように店を出る。
その夜、池田新太郎は最後まで店に残っていた。
有里子が店を出たのが、十二時であった。
つぐみ亭から歩いて五分ばかりのところにあるマンションに、有里子の住いがある。
「けっこう寒くなったね」
シルバーフォックスのコートを着せかけて、新太郎が有里子の眼の中をのぞくようにした。
「今夜、一緒に行ってもいいかな」
ドイツから帰って来て以来、新太郎はよくつぐみ亭に来た。
最初は食事だけして帰ったが、次第に閉店までいて、有里子をマンションまで送ったが自分はそのまま、有里子のマンションの駐車場へ入れておいた自分の車で帰って行った。
それは、一つのけじめのようなものであった。
いつ、彼がそのけじめを破って、二人の間の垣根を乗り越えてくるか、有里子は或る期待をこめて待っていた。
それが、今夜のようである。
有里子は黙って歩き出し、新太郎は彼女の肩を抱くようにして、マンションまでついて来た。ここまでは、いつもの通りであった。
マンションの玄関を入る時、新太郎がもう一度、有里子をみつめた。
「いつまで待てばいい………永遠に駄目なのか」
男の表情が子供っぽくなっていることで、有里子は優しい気持になった。
「あたしは、いつでも……」
新太郎の顔が輝いたようであった。
並んでエレベーターに入る。
有里子の部屋は最上階であった。
一人暮しには広すぎる四LDKであった。
各々の部屋も広かった。
十五畳近くもあるリビングと、ほぼ同じ広さの寝室と、プライベートルームと和室がある。
池田新太郎が、この部屋へ入るのは、今夜がはじめてであった。
「寂しくないのか、こんな広いところへ一人っきりで……」
「寂しかったわ」
リビングの戸棚にはウィスキーもブランディも揃《そろ》っていた。
「なにか、召し上る……」
新太郎が首をふり、有里子をひきよせた。
ゆっくり顔が近づいて、唇が重なった。
有里子の体は、それだけで熱くなった。
「お風呂《ふろ》の仕度をするわ」
男の手から抜け出して、バスルームへ行った。新太郎は物珍しそうについてくる。
ゆったりした風呂場は、有里子の父の好みで和風に造ってあった。
このマンションを買う時に、造り直させたものである。
「どうせなら、二人で入ろう」
ささやかれて、有里子は逆らわなかった。
少しずつ、夫婦であった頃の感覚と習慣が甦《よみがえ》って来ている。
十年前、夫だった人の背中を流し、その人から湯舟の中で体中を愛撫《あいぶ》されたのも、昨日のことのようである。
湯の中で、新太郎の指が動くと、有里子の記憶はその部分から鮮明になった。
有里子の寝室は、セミダブルのベッドが一つ、おいてあった。
外国サイズだから、かなり広い。シーツの寸法からいうとダブルベッド並みである。
「ここへ、誰か来たことはないの」
新太郎が耳朶《みみたぶ》へささやき、有里子は抱かれている体をねじった。
「どうかしら……」
「つぐみ亭の常連は、みんな、君のファンだからな」
上体を重ねながら、新太郎が続けた。
「大井三郎も、君にいかれてるようだ」
有里子が閉じていた眼を開いた。
「なんのこと……」
「大井三郎は、君に惚《ほ》れてるってこと……」
「まさか……」
「彼は、僕が店へ残ったのをみて、がっかりしていたよ」
「嘘ばっかり……」
「彼は僕より若いからな」
「そんな意地悪をいうなら、帰って下さい」
有里子が背中をむけ新太郎は背後から久しぶりの妻の肉体を抱きしめた。
白い、柔らかな肌のどこに、有里子の性感が息づいているのか、熟知した男であった。
やがて、有里子は瞼《まぶた》の中に、十年前と同じ大輪の花火が砕けるのを感じ、声を上げた。
これで、十年前が取り戻せたと思った。
なにもかも、昔のままの幸せが戻って来ると信じ切った。
けれども、事件はこれが終りではなかった。
葡萄《ワイン》街道《ロード》の殺人は、まだなにも解明されて居らず、真実は二人のすぐ近くで、牙《きば》をむいていた。
第四章 そして一年
一年が過ぎた。
この年の西ドイツは秋晴れが続いていた。
九月のなかばになっても、日中は上着なしでもいいくらいの陽気で、ライン川沿いもモーゼル川沿いも、葡萄《ぶどう》の甘みは日に日に濃くなっている気配であった。
大井三郎がフランクフルトのアパルトマンへ十二日ぶりに帰って来た日も、川の上に青空が広がっていた。
閉めきりだったカーテンをあけ、窓の鎧戸《よろいど》を引くと、午後の陽光が部屋の中にまでさし込んでくる。
どちらかというとドイツ人は家具に陽の当るのを嫌って北向きの部屋を歓迎するが、大井三郎は多くの日本人がそうであるように、南向きの部屋を好む。このアパルトマンにひっこしたのも、日当りがいい上に家賃が比較的、安かったからであった。
ここ数年、ドイツの住宅事情はあまりいいとはいえなかった。
不況が続いて、家の建設が減ったし、建築費の値上りで新しいアパルトマンはひどく家賃が上っている。
電話のベルが鳴って、三郎はベッドサイドの受話器を取った。
「もしもし、あたし。林より子」
近くにいるのだが、今から行ってもいいかといわれて、三郎はかまわないと答えた。
彼女が仕事で、この夏中、日本へ帰っていたのは知っている。
十五分ばかりで、林より子はやって来た。紙袋を抱えている。
「日本のお土産よ」
テーブルの上にほうじ茶や味噌《みそ》、米、辛子明太子《からしめんたいこ》、海苔《のり》のつくだ煮などが並んだ。
「重いものをよく持って来たな」
「持ち切れないものは送ったから、あとから届くわ」
「いつ帰ったの」
「四日前よ」
「俺《おれ》、今、帰って来たところなんだ」
「知ってるわ。旅行社で聞いたの。ローデンブルグのほうへ行ってるって……」
日本からのテレビロケの手伝いであった。
「もう終ったの」
「ロケ隊は今日、フランクフルトから帰国したんだ」
林より子が台所へ行って、お湯をわかし、ほうじ茶をいれた。
「東京でいろいろな人に会ったわ」
思い出したようにハンドバッグの中から白い封筒を出した。写真が三十枚余り、入っている。
「昨年、大井さんが葡萄《ワイン》街道《ロード》をガイドしたグループの皆さんが、お正月に写真の交換会をしたんですって」
各々が、あの旅行中に撮った写真を持ち寄って交換し合ったのだが、
「あたしや大井さんの写ってるのを、こっちへ送ったら、住所不明で届かなかったって」
「そりゃ悪かったな」
林より子は昨年の十二月に、大井三郎は今年になって早々に、二人ともアパルトマンを移っていた。
「たまたま、雑誌社でライターの倉重さんに会ったものだから、彼が皆さんに声をかけてくれて、夕食会をして頂いたの」
写真はその時、もらって来たという。
「なつかしいな」
大井三郎にとっては、痛恨の旅だったが、あのグループはみんないい人ばかりであった。
通常、あんな事件に巻き込まれれば、苦情が出て当り前なのに、誰《だれ》一人《ひとり》、文句をいうものがなかった。
もっとも、彼らの旅行のスケジュールは、少々の変更はあったものの、旅行社が別のガイドを派遣して、予定通りに帰国することが出来てはいた。
「倉重さんからね、早川先生や松原さんの入っている写真は、大井さんにショックだろうから抜いたほうがいいかって相談されたの。でも、あたし、もし、大井さんが不要と思えば捨てるだろうから、一応、あずかりますって頂いて来たの」
グループが並んで撮っている写真の中には早川光三の顔もあるし、松原理代が笑っているのもある。
「ショックじゃないよ、むしろ、有難いよ」
本心であった。
あの旅は、三郎にとって、姉との最後の旅行でもあった。弟はガイド、姉は客の立場から記念写真の時は別々に立ったものだが、一枚だけ、姉弟が並んでいるのがあった。
ベルンカステルの町の中で、倉重浩が松原理代を撮った時、たまたま近くにいた三郎を、
「大井さんもいらっしゃい」
と理代が呼んで、二人で並んだものである。
「その写真、倉重さんが、もしよければ大きく伸ばしてあげますって……」
松原理代は弟と並んで微笑していた。よくみると、笑顔が寂しげである。この旅の終りに、怖ろしい破局のくることを予想して、三郎と写真を撮ったようでもある。
「今夜にでも、皆さんに礼状を書くよ」
あの時のグループの名簿は保存してあった。
「そういえば、国松先生にもお目にかかれたの。つぐみ亭へ連れて行って下さったわ」
林より子の口から、いちばん、三郎の聞きたがっている人の名前が出た。
「綾有里子さん、前の御主人と再婚なさったのよ」
三郎は眼を伏せて、湯呑茶碗《ゆのみぢやわん》を取り上げた。
「やっぱりね」
「三月に正式に入籍したようなお話だったけど……」
新居は有里子のマンションで、池田新太郎はそこから会社へ出勤している。
「つぐみ亭は前よりお客が減ったそうだわ」
冗談らしく林より子が笑った。
「有里子さんが再婚して、ファンの人ががっかりしたんですって」
「そんなことはないだろう」
なんとなくむきになって三郎はいった。
「つぐみ亭はレストランなんだ。バアやクラブじゃないよ」
「でも、水商売よ」
林より子は、三郎の気持に無頓着《むとんちやく》であった。
「この秋、有里子さん、ドイツワインの買いつけに来ないかもよ」
「どうして……」
毎年、秋にはドイツのセラーを廻《まわ》るのが、有里子のたのしみであり、商売上の必要でもあった筈《はず》だ。
「御主人がフランスワインに切りかえるように勧めているみたい」
「何故……」
「例の有毒ジエチレングリコール混入ワイン事件のせいよ」
この夏、日本のワイン業界を震撼《しんかん》させたのは、輸入ワイン並びに国産ワインの一部に有毒ジエチレングリコールが混入されているのが発見されたことであった。
おかげで一時はデパートのワイン売り場や一流ホテル、レストランなどのワインリストからドイツワインが全く姿を消すという極端な現象も出た。
「あれは、ごく一部の不良品じゃないか。有里子さんが今まで仕入れているような一流中の一流のセラーは全く関係ないよ」
「御主人はもともと、フランスワイン党なんですって」
「しかし、そもそも、つぐみ亭の名前はドイツワインの店ということで名づけたんじゃないか」
有里子の父親がドイツワインのファンであったことを、三郎は有里子から聞いていた。
「つぐみ亭でフランスワインというのはおかしいよ」
「国松先生もおっしゃってたわ。近頃《ちかごろ》の有里子さんは、どんなことでも御主人のいいなりで、そりゃあ、可愛い奥さんですもの」
三郎は黙った。
「考えてみれば、無理もないわね。有里子さん、家族は一人もいなくなったわけだし……御主人の他に、頼る人もないのでしょう」
たしかに、孤独ではあった。両親はすでになく、弟夫婦は昨年、死んだ。
「でも、ま、有里子さん、幸せそうだったわよ。女はやっぱり、結婚が人生最高の幸せってことかしら」
三郎の気持を思ったらしく、林より子は急に話題を変えた。
夜になって、三郎は林より子からもらった米を炊き、味噌汁を作った。
長い一人暮しで、料理も洗濯も掃除も他人をわずらわすことなく、けっこう器用にやりこなすようになっている。
一人きりの食事も、別にわびしいとは思わない。
だが、久しぶりの日本食のせいか、三郎の脳裡《のうり》から、先刻、耳にした日本の話題が離れなくなっていた。
殊に綾有里子の再婚は衝撃が強かったようである。
あらかじめ、そうなるであろうことは、昨年の暮に、国松聡とつぐみ亭を訪れた時に察してはいた。
にもかかわらず、池田新太郎と有里子が正式に復縁したというニュースに三郎はこだわりを持った。
嫉妬《しつと》だけではなかった。なにか気になるものがある。
有里子は独りであった。
肉親はもうない。
彼女には資産があった。それも、かなりのものであるらしい。弟の彦一は、姉の財産をねらっていた気配があった。昨年の秋の旅で、もしも、有里子が事故死でもすれば、彼女の遺産は残らず、弟の所有になった。
今、有里子になにかがあれば、彼女の遺産相続人は池田新太郎になる。
そのことが羨《うらやま》しいのではなかった。
三郎の心の奥にあるものは、不安であった。
よもやと思う。
池田新太郎は、有里子を愛している。それに間違いはなかろう。
だが、ふと大井三郎はホテル・ニコライでの或《あ》るシーンを心に浮べた。
ホテル・ニコライのバアで有里子を追って来た池田新太郎に対して、彦一が投げた言葉である。
「貴様、色と欲で姉さんに近づこうたって、そうは問屋がおろすものか」
あの時、三郎は林より子から、彦一が姉の財産を強奪しかねない男だと聞かされていたから、自分のことを棚に上げて、なんという暴言を吐くのかと思った。
けれども、彦一の死んだ今、池田新太郎はごく自然に有里子とよりを戻し、その夫におさまっている。
もう一つ、三郎がこだわっていることがあった。
異母姉の松原理代と池田新太郎との間に肉体関係があったらしい点である。
理代がバアのマダムという職業柄もあって、何人かの男と適当に恋の火遊びをたのしんでいたことは、三郎も知らないわけではなかった。
池田新太郎との関係も、いわば、客との浮気の一つだろうと思う。
少くとも、三郎はこれまでに理代の口から池田新太郎の名をきいたことはなかった。
ただ、今になってみると気になる発言が一つだけあった。
いつだったか、記憶はないが、なにかの用事でフランクフルトから日本へ戻っていた時、理代のマンションで夕食を食べさせてもらった折だったように思う。
理代が、ぼつぼつ、バアを辞めたいといい、弟としてそれに賛成して、何気なく訊いた。
「結婚したい相手はいないの」
「この年齢じゃねぇ」
自嘲《じちよう》気味に笑った理代の表情に満更でもないものがあって、三郎は、おやと思った。
「今までにつき合って来た人と、この際、正式に一緒になるとか……」
そういってみたのは、早川光三のことが脳裡にあったからだったが、姉の反応は別であった。
「いい人なんだけど、あたしより年下なのよ。むこうさんはね、あたしのこと、まだ四十そこそこと思ってるらしいんだけど、正式ってことになれば、本当の年がばれちゃうじゃないの」
「バーテンとか、そういう人……」
「お客さんよ」
「うんと若いのか」
「そうでもない」
思わせぶりに笑って、理代は首をすくめた。
「でもね。よそうと思ってるの。あたしって好きになると、とことんまで入れあげちゃうじゃないの。なまじっか、結婚なんて欲を出さないほうが、いい関係でいられると思うのよ」
「むこうに、結婚する気があるようなのか」
「みたいだけど……でも、あたしはよしとこうと思ってる……」
「いい人だったら、年下でもいいじゃないか」
「駄目よ。あたしのほうが気になっちゃってね」
それより、あんたのほうはどうなの、と反問されて、その話はそれきりになった。
あの時、理代の瞼《まぶた》の中にあった男性は、誰なのかと思う。
よもやと打ち消しながら、池田新太郎をそこへあてはめてみると、案外、平仄《ひようそく》が合ってくるような気がする。
池田新太郎は、理代の店の客であった。しかも、けっこう親密だったらしいし、年齢的にも、やや下である。当時は独り者で、なによりも理代の好みのタイプであった。彼ならば、姉が夢中になってもおかしくはない。
そこで、三郎がひっかかってくるのは、好きになるととことんまで入れあげる、といった姉の言葉であった。あれは、言葉のはずみかも知れないし、自分の性格に対する一般論だったとも考えられる。
しかし、理代が死んで、三郎は彼女の店の整理をした。売上げがかなり黒字だったのは帳簿をみても、理代が長年、経理を依頼して来た税理士の話でも間違いはなかった。それなのに、貯金は殆《ほとん》ど残っていない。
「以前は好きなお客には高級ライターを贈ったり、デートの費用も自分持ちみたいなところがありましたがね、近頃は年齢のことも考えて、地道に貯金してるとばかり思っていましたが……」
バーテンも税理士も、首をかしげていた。
マンションの部屋に残されているものも、和服と洋服を合せて、かなりの衣裳《いしよう》があったくらいで、とりたてて高価な宝石類も見当らなかった。マンションは賃貸で、他に土地や美術品を所有していたふうでもない。
大井三郎としては、別に理代の財産に、なんの関係もなかったから、たいした貯金があろうがなかろうが、なんとも思わなかった。むしろ、借金のなかったことで安心したのだが、それも、今夜は馬鹿《ばか》に気になりはじめた。
少くとも、昨年の殺人事件で、もっとも得をした人間といえば、池田新太郎ではなかったかと思われるのだ。
池田新太郎が目的はなんであれ、有里子と復縁するために、障害となる筈の彦一夫婦、それに、障害とまではいえなくとも、いささか、かかわり合いのあった松原理代が死んでいる。
多くの殺人事件の場合、犯人はそれによって、もっとも恩恵をこうむる者というのが、犯罪の常識という推理小説家の一文を思い出して、三郎はねむれなくなった。
翌日も、三郎は自分の部屋にいた。
彼の場合、旅行社とは契約をしていて、ガイドの仕事がある時は、先方から電話で呼び出しがかかることになっていた。
従って、毎日、出社する必要はない。
二週間近くも留守にしていれば、部屋の掃除だの、洗濯だの、食料品の買い出しだの、雑用にはこと欠かない。
だが、三郎は、そのどれをも放棄して考え込んでいた。
電話のダイヤルを廻《まわ》したのは、午後になってからであった。
林より子は、彼女のアパルトマンの部屋にいた。彼女の住いも、ここからさして遠くはない。
「少し、訊きたいことがあるんだけど、今、時間あるかな」
遠慮がちな三郎の申し出に、彼女はいつもの明るさで答えた。
「いいわよ。どっちみち、今週は暇なの」
歩いて、三郎は林より子のアパルトマンへ行った。
彼女の部屋は、三郎のよりも一廻りほど広かった。
部屋のすみにキッチンがあり、バスルームはシャワーだけでなく、バスタブのついているもので、そのかわり家賃は四百マルクだといった。三郎のところよりも百マルクも高い。
「管理人がすごくいい人なの。それに、隣近所が世帯持ちか女性だから、気がらくなのね」
彼女の実家が比較的、裕福で、月々の仕送りがあるから出来る贅沢《ぜいたく》である。
林より子も三郎と同じように、旅行社にガイドとして契約しているだけなので、収入は不安定であった。
「どうしたの。なんだか寝不足みたいね」
コーヒーの仕度をしながら、より子にいわれて、三郎が最初に訊《たず》ねたのは、ホテル・ボワイエで事件が起った日の池田新太郎の行動であった。
「これが、あの時、僕がツアーコンダクターをつとめたグループの日程表なんだが……」
十月二十日に日本を発って来たグループを三郎がフランクフルトで出迎えたのが二十一日、その日がフランクフルト見物で、二十二日にハイデルベルグを観光して、深夜にライン川のアスマンズハウゼンへ到着した。
二十三日がライン川のワインセラーを廻って、同じくアスマンズハウゼンのホテル・クローネ泊り、翌二十四日にライン川を船で下ってザンクトゴアからモーゼル川沿いのベルンカステルまで。その夜の泊りはベルンカステルよりもやや下流のホテル・ニコライであった。
二十五日がホテル・ニコライからトリアまで。宿泊は、トリアのホテル・ポルタニグラ。そして、二十六日がトリアから国境を越えてフランスのランスに入り、ホテル・ボワイエに投宿した。
殺人事件は二十六日の深夜から未明にかけて、又、自殺と判断された早川光三の死は二十七日の午前中であった。
「僕らが池田新太郎さんに出会ったのは二十四日、ホテル・ニコライだったね」
林より子は、三郎の質問に対して不思議そうにしたが、返事は明快であった。
「そうよ。でも、有里子さんが池田さんにお会いになったのは、二十三日の夜、ドロッセルカッセのレストランだったそうよ」
「ああ、それは僕もきいた」
早川教授に誘われてリューデスハイムのドロッセルカッセへ寄って、そのレストランでたまたま、ワインを飲んでいた池田新太郎に出会った。
「有里子さんにとっては偶然でも、あの時、池田さんは有里子さんのあとを追って日本から、いらしたんでしょう」
だからこそ、有里子の予定に従って二十四日はホテル・ニコライに来た。
「二十五日にトリアへ行く途中、有里子さんの運転する車がおかしくなって、池田さんが自分の車を接触させて、川へ転落するのを防いだ」
それが、雨の中のピースポーターの畑の近くであった。
「あのあと、池田さんはトリアへ来て、ホテルで夜おそくまで僕らと話し合ったね」
その次の朝、有里子たちと、三郎がコンダクターをつとめるグループがトリアのホテルを出発する時、池田新太郎の姿はなかった。
「彼は前の日の事故の現場へ戻ったのかな」
「ええ、そう聞いたわ」
トリアからレンタカーの会社へ連絡をとり、現場へ行って、
「結局、保険やなにかのことで、フランクフルトまで戻ったんですって」
「それじゃ、二十六日の夜はフランクフルトで泊ったの」
「そう、翌日、フランクフルトからパリへ飛んで、パリのホテルで有里子さんと合流するつもりでいたら、そこへ国松先生から連絡が入って事件を知って、ランスへかけつけて来たといってらしたわ」
「彼から直接、きいたの」
「気になることがあったから……」
二十七日の早朝、林より子はレンタカーを運転してランスからフランクフルトへ戻った。
車をレンタカーの会社へ渡す時になって、トランクの中から彦一夫婦の死体が発見されて大さわぎになったのだが、
「あたし、フランクフルトまでのドライブの途中で、池田さんの車に出会わないかなと思って気をつけていたの。だって、もし、彼がランスへひき返すとしたら、レンタカーのほうがてっとり早いじゃない。それで、池田さんにあのあと会った時、どの道をランスへ戻ったんですかって訊《き》いたのよ」
考えてみれば、池田新太郎はランスで殺人事件が起るとは夢にも思わず、従って、有里子が予定通り二十七日にはランスからパリへ入ると思って、フランクフルトからパリへ向ったのだから、レンタカーより飛行機を利用するほうが自然だったとより子はいった。
「あたしったら、なんとなく、池田さんが車で来るものって思い込んでいて……」
「フランクフルトで池田さんが泊ったホテルはどこだろう」
「そこまでは訊かなかったけど……」
不審そうなより子の視線にぶつかって、三郎は、ぼんのくぼへ手をやった。
「ちょっと気になることがあってね。二十六日の池田さんの足どりが知りたいんだ」
「だったら、レンタカーの会社で訊いてみたら……」
モーゼル川の岸辺で事故を起した有里子の車も、接触させた池田新太郎の車も、同じレンタカー会社のものであった。
「あたし、あそこのボス、よく知ってるわ」
「口をきいてもらえると助かるな」
「お安い御用だけど、なにを頼めばいいの」
「二十六日に、池田さんと事故車のことで折衝した人がわかるといいが……」
「昨年のことですものね」
それでも、より子は気軽く受話器をとってレンタカーのオフィスへ電話をしてくれた。
西ドイツの日本大使館で働いていたことがあるというだけあって、林より子のドイツ語は正確で、丁寧であった。
ドイツ人というのは、何故かカタコトのドイツ語で喋《しやべ》る外国人をひどく軽蔑《けいべつ》し、相手にしないようなところがあるのだが、その点でも、林より子のドイツ語は安心出来た。
「ボスが調べてくれたわ、シュルツって人ですって。もし、会いたいなら、今、オフィスにいるそうよ」
「約束をとりつけてくれよ、すぐに行く」
「いいわよ」
十分後に、二人はアパルトマンを出た。
レンタカーのオフィスで、シュルツは二人の日本人を待っていた。
初老のエンジニアは幸いなことに、親日家であった。
第二次世界大戦が終った年が、十三歳だったという。
シュルツは昨年の秋の事件をよくおぼえていた。
レンタカー同士の、しかも、同じレンタカー会社の車が接触というのは、珍しいケースであり、借りた相手が日本人ということでも印象に残っているようである。
だが、シュルツは大井三郎が、一台の車のブレーキがきかなくなって、それを止めるためにもう一台が故意に接触したのだという話には、かなり驚いた様子であった。
「そんな話はきかなかったよ」
単なる接触事故と思っていたという。
「第一、うちの車は整備がいいんで有名だ。ブレーキの故障なんてのは、考えられないよ」
大井三郎は質問を変えた。あまり、彼のプライドを傷つける問いはあと廻しにしたほうがいい。
「シュルツさんは、二十六日の何時頃に池田さんと会われたんですか」
モーゼル川のほとりの事故車を取りに行ったのは、シュルツともう一人の若いエンジニアだったらしい。
「現場へ着いたのは午前十時すぎだったよ」
池田新太郎は、車のそばに来ていたといった。
二台の車の破損状態を調べてから、シュルツの車で池田新太郎はフランクフルトのレンタカーのオフィスへ同行した。
「書類をこさえたり、保険のほうの手続きをしたり……夕方までかかったと思いますよ」
はっきりした時間はおぼえていなかったが、彼がオフィスを立ち去ったのは、終業時間をすぎてからのことだったと説明した。
「少くとも、六時より前じゃなかった」
「彼はフランクフルトへ泊るといっていましたか」
「別に訊かなかったね。訊く必要もなかったから」
事故の後始末はすべて終っていた。
「池田さんが、新しくレンタカーを借りたってことはありませんか」
「いや、それはなかったね。うちの会社からは借りていないよ」
「事故の後処理の最中、池田さんがいそいでいるような様子はみえませんでしたか」
「時間は気にしていたね。何度も時計をみていた。しかし、我々には、なにもいわなかったよ」
礼をいって、三郎はシュルツと別れた。
秋のことで、フランクフルトの街はもう夕暮れている。
行きつけのレストランへ、三郎は林より子を誘った。学生やサラリーマンが利用する安直な店だが、ソーセージは旨《うま》かった。
「大井さん、なにを考えてるの」
ビールをもらってから、はじめてより子が訊ねた。
「もしかして、昨年の殺人事件のこと……」
林より子は頭の回転の早い女であった。
「あの犯人は早川先生と……」
「姉だってことになってるんだが……」
流石《さすが》にいいよどんだ。
「違うと思うの」
「動機から考えると、もう一人、犯人になってもおかしくない人間がいる」
「それが、池田さん……」
「断定するわけじゃない。だけど、今、きいた話から考えても、少し、おかしい点があるよ」
「いってみて……」
ジョッキを片手に、より子が体をのり出すようにした。
「彼は六時すぎにレンタカーのオフィスを出た。どうして、その晩、フランクフルトのホテルに泊る必要がある」
池田新太郎は有里子の身を案じていた。有里子が弟の彦一に、命をねらわれているかも知れないことを知っていた。
「止むを得ず、トリアからフランクフルトへ来たけれども、事故車の始末がついたら、まっしぐらにランスへ向うのが人情じゃないのかな」
仮に、池田新太郎の立場に大井三郎があったとしたら、
「僕なら、レンタカーの新しい奴を借りてふっとばすか、二十六日中にパリへ出て、パリからランスへ行くと思うよ」
フランクフルトからランスまでの道はかなり遠いが、夜でもあり、交通渋滞はまるでない。とばして行けば、深夜にはランスへ到着出来なくもなかった。
都合のいいパリ行の便があれば、更に早くたどりつける。
「何故、彼はフランクフルトになんか泊ったんだ」
「疲れたのか……」
より子の声が否定的であった。
「疲れてたって行くよ」
「そうだわね。池田さんは有里子さんを愛していたんですもの」
愛する女が危険にさらされている時に、千里の道も決して遠くはない筈であった。
「それとも、一晩くらい、安心だと思ったのかしら」
ホテル・ボワイエには有里子たち一行の他に日本人グループが泊っていた。
「あそこで、彦一さんが有里子さんをねらうことはないと判断したのでは……」
それはありそうであった。
ランスのような静かな町のホテルで襲うよりも、どさくさの事故にみせかけて有里子を殺すなら、パリのほうが具合がよかった。
「大井さんのグループとはランスを出たら、さよならの予定だったし、あたしのガイドもランスまでだったから……」
パリでは有里子と弟夫婦だけになる。泊るところも、日本人が滅多に利用しないホテルであった。
「たしかに、それはそうかも知れない」
すっきりした答えではなかった。三郎としては、納得が出来ない。
「大井さんは、二十六日の夜、池田さんがひそかにランスへ来て、彦一さん夫婦を殺したと考えてるの」
おそるおそるといった恰好《かつこう》で、より子が視線を上げた。
「だったら、松原理代さんと早川先生は、どうなるのよ」
「早川先生のことは、わからない。しかし、姉は、やっぱり……」
「池田さんが殺したと思うのね」
「その可能性はある、ってことだよ」
姉と池田新太郎は親密な関係だったと三郎は話した。
「彼が有里子さんとよりを戻す場合、姉の存在は邪魔になる……」
「そんなに、深い仲……」
「もしかするとね」
「推定だけなの」
しかし、林より子は昨年の旅の間の、松原理代の池田新太郎に対する様子を思い出しているようであった。
松原理代は池田新太郎にべったりしていたし、新太郎のほうは明らかに、それを迷惑がっていた。
「それで、大井さんはどうやって、彼が殺人を行ったと考えてるの」
三郎はビールのジョッキを飲み干した。
「こういうのは、どうかな」
酔いが、三郎の舌を前よりもなめらかにしていた。
「彼は車か、或《ある》いは空路で、二十六日の深夜にランスのホテル・ボワイエへ到着した」
ホテルの門は鉄柵《てつさく》だが、乗り越えようと思えば、むずかしいことではない。
「庭から、松原理代の部屋の外へ廻る」
姉を固有名詞で呼んだのは、そのほうが話しやすかったせいである。
「彼は、前もって松原理代にその夜、おそくなってもホテル・ボワイエに行くから、待っていてくれと約束しておいたんじゃないか」
「部屋はどうしてわかったの。松原さんの部屋がどこか……」
「彼がホテルへ電話をすればいい。松原理代に電話で部屋の場所を教えてもらう、庭にむいたテラスのカーテンを少し開けておいてもらうとか、目じるしの指定も出来る筈だ」
庭からひそかに、松原理代の部屋へ入った池田新太郎はあらかじめ用意した毒入りのワインを持たせて、階段でつながっている二階の彦一夫婦を訪問させ、ワインを飲ませたのではないかと、三郎はいった。
「じゃ、あなたのお姉さんもその毒入りワインを飲んだわけ……」
「彦一夫婦と一緒に飲んだのか、あとから、別に彼から飲まされたのか、その辺はわからない」
ともかく、死んだ彦一夫婦を池田新太郎は理代の部屋のテラスから庭へ運び出して、レンタカーのトランクへ入れ、理代の死体はベッドに寝かせ、自分はホテルを抜け出して、
「多分、パリ郊外の安ホテルに泊ったか、車の中で夜あかししたか」
「どうして、レンタカーのトランクに彦一さん夫婦の死体を入れたの」
「発見をおくらせて、捜査を混乱させるためだろう」
早川光三が自殺したのは、彦一夫婦の姿がみえないと有里子がいい出し、大井三郎たちが探し廻っている最中であった。
「僕の考えでは、早川先生は彦一夫婦がみえないときいて、すぐ、それは松原理代の犯行だと思われたんだ。それで、彼女をかばうために、自分が死んだ」
早川光三の自殺を発見したのが午前十時、松原理代の死んでいるのを大井三郎がみつけたのが午前九時すぎ、そして、有里子が弟夫婦の不在をグループの誰彼に訴えたのが午前九時半であった。
「もしかすると、早川先生は松原理代がすでに死んでいるのを御存じじゃなかったのかも知れない」
だとすると、早川光三が松原理代の罪をかぶる気で自殺したのだと納得がいく。
「でも、実際には彦一さん夫婦も松原理代さんも、池田さんが殺したんじゃないかと大井さんは考えてるわけね」
「姉は女だよ。女の力で、彦一夫婦の死体を車のトランクまで運ぶのは容易じゃないだろう」
彦一のほうは七十キロ以上はあったし、妻の君江にしても六十キロ近いと思われた。
「早川先生と理代さんの二人の力なら……警察の人は、そう考えたわけでしょう」
「早川先生は老人で、病人だったんだ」
「でも、人間、その気になれば、やって出来ないことじゃないわ」
「気になることが、もう一つあるんだ」
二十六日の夕食の際、国松画伯がビタミン剤と偽って、早川光三に睡眠薬を飲ませた。
「僕らは、早川先生が彦一夫婦を殺そうとしているのを知っていたから、先生をねむらせることで犯行を未然に防ごうとしたわけなんだ」
結果的には、殺人は行われていた。
「で、僕も国松先生も、薬は飲まなかったんだ、早川先生は僕らの企みに気づかれて、飲んだふりをして捨ててしまったのかと思ったんだが、それにしては、宵のうちに僕と国松先生が早川先生の部屋の外まで行った時、イビキが聞えていたんだよ」
「大井さんたちを安心させるために、偽のイビキを聞かせたんじゃないの」
「僕らも、そう考えていたんだが、今になってみると、それも疑わしく思えるんだ」
早川光三が睡眠薬を飲まされて、朝まで前後不覚にねむっていたとしたら、
「先生は、殺人とは無関係になる」
「なにがなんでも、池田さんを殺人犯にしたいみたいね」
より子が、はじめてきびしい眼をした。
「大井さん、あなた、もしかしたら、有里子さんに特別な感情をもっていて、有里子さんと再婚した池田さんが憎らしいんじゃないの」
三郎の顔が赤くなった。
「冗談じゃない。僕はそれほど浅ましい人間じゃないよ」
有里子に関心を持ちすぎていると、三郎も自覚はしていた。
そもそも、昨年の殺人事件に対して、今頃、こんな推理を組み立てたのも、有里子と池田新太郎が夫婦になったときいたのがきっかけであった。それだけに、林より子の指摘は耳に痛い。
「それじゃ、お姉さんを殺人犯にするのが、つらくなったの」
「それもあるが……」
三郎はテーブルをみつめた。
「なんだか、すっきりしないんだ。片づいた筈の、昨年の事件が、もう一つ、すっきりしなくなっちまったんだ」
隣のテーブルでは、学生らしいグループが陽気に歌っていた。彼らの前に並んでいるのはラインガウのワインの瓶である。
「どうも、よけいなことを、君に喋りすぎてしまったようだな」
酔いがさめたようで、三郎は苦笑した。
「証拠もなにもないのに、他人に殺人犯の疑いをかけるなんて、たしかに俺はどうかしているよ」
忘れてくれといった。
「ここんとこ、推理小説の読みすぎなんだ」
「大井さんの気持は、わかるわ」
より子がしんみりいった。
「お姉さんが殺人犯だってことになって、もしも、他に、お姉さんに罪を着せた真犯人がいるかも知れないって思いつけば、誰でも夢中になって、その考えにしがみつくと思うのよ」
「証拠が、なんにもないんだからな」
笑ったつもりが、唇がゆがんだ。
「あて推量じゃ、どうにもならない」
「証拠があれば納得するの」
突然、より子がいい出した。
「殺人犯の証拠じゃなくて、やってないっていう証拠があれば、大井さんは、悩まなくてすむわけでしょう」
池田新太郎の二十六日の夜のアリバイだとより子はいい出した。
「池田さんに二十六日の夜、フランクフルトの、どのホテルに泊ったかを訊いてみて、そのホテルの宿泊カードを調べて、その通りなら、彼は犯人じゃないわ」
二杯目のビールを注文して、より子はややはしゃいだ声でつけ加えた。
「あたし、池田さんからホテルの名前をきき出してみるわよ」
三郎の背後の古風な木造りの窓から、フランクフルトの秋の夜風が、ひんやりとしのび込んで来た。
東京は急速に秋が深くなっていた。
街路樹は慌てふためいて黄ばみ始め、その下を行く人々の服装は、木綿物から毛織物に変った。
風景も生活もオータムカラーに取り巻かれて、せっかちな人間はその先の冬を思い、どこか落ちつかなくなっている。
そんな季節の日曜日、有里子は正午すぎまでベッドの中にいた。目はとっくに覚めていたが、ベランダに面したカーテンをすっかり開けて寝室のなかばまで射し込む秋の陽の中で、また、うつらうつらしているのは、快かった。
そんなことが出来るのは、夫の新太郎がつきあいゴルフで前夜から伊豆に出かけて留守のためである。
普段は、そういうわけにいかなかった。
新太郎はジョギングに凝っていて、朝七時というと出かける。物音を立てないようにベッドを下りて行くのだが、神経質な有里子は必ず目をさました。
「つぐみ亭」というレストランを経営している関係で、有里子がマンションへ帰ってくるのは、毎夜十二時に近かった。それから一日の売上げ伝票の整理をして入浴すると、ベッドに入るのは早くて一時を過ぎる。もともと、有里子は寝つきのいいほうではなかった。
接客業で肉体的にも精神的にも疲れ切っていると、尚更、睡りにつくのに時間がかかる。
で、睡眠薬の力を借りて、やっと睡ったと思うと、夫の起床で熟睡を妨げられた。
新太郎の朝は一時間ばかりのジョギングから戻ってくるとシャワーを浴びて、それからコーヒーをいれる。
行きつけの店で豆をもらって来ては、自分で一回分ずつ挽《ひ》くほどのコーヒーマニアだから、有里子と暮すようになっても、これだけは自分でやる。
一杯のコーヒーをゆっくり飲み、時にはトーストの一枚も食べて、朝刊に目を通し、大体、九時|頃《ごろ》に雑誌社へ出かけて行くのが通常であった。
「かまわないから、君は寝ていなさい」
と新太郎はいうけれども、妻の立場として、そうもいかず、有里子は結局、夫がジョギングに出て行ってからベッドを下り、身仕度をしてキッチンに立つことになる。
毎日、コーヒー一杯では健康に悪かろうと思い、サラダや卵料理を作るのだが、新太郎は食べたり食べなかったりであった。
その上、出勤時間になって着がえをすることになっても、新太郎は自分の好みのワイシャツやネクタイを手早く洋服|箪笥《だんす》から出してさっさと身につけるので、有里子が手伝うことはなにもない。それでも、彼がマンションのドアを開けて出て行くまでは、なんとなく妻らしく振舞っていなければならなかった。
独りの時の有里子の起床時間は十時でよかった。十一時を過ぎてから、歩いて五分ばかりの「つぐみ亭」へ行き、従業員と開店前のミーティングをする。
「つぐみ亭」のほうは、この店をはじめた時からのマネージャーやシェフが万事をとりしきってくれているから、有里子はその報告を聞くだけでいい。
店と住居が近いから、昼食時間の終る二時頃から、夕食時間のはじまる五時近くまでは、店に用事のない限り、マンションへ帰って雑用を片づけることも出来た。
つまり一日二十四時間を、有里子はすべて自分に都合のいいスケジュールを立てて行動すればよかった。
新太郎と再婚して、改めて有里子は夫のために使わねばならない時間の処置に手を焼いた。
雑誌社という職場は、帰宅時間がまちまちであった。
仕事の忙しい時期になると、帰りは深夜になる。時には午前一時、二時ということも珍しくなかった。
そうでない時も、不規則であった。外食も少くないが、家へ帰って食べるといわれることもある。
新太郎が家で夕食をする日、有里子は午後の空いている時間に食料品の買い出しをすませ、マンションへ帰って下ごしらえをした。
帰宅時間は必ず、新太郎が出先から「つぐみ亭」へ電話をして来る。
「今、会社を出るから三十分後には帰る」
などといってくるのが、大方、七時前後で、「つぐみ亭」のようなレストランでは、最も客の混む時刻であった。
それでも、有里子はあとをマネージャーにまかせて、マンションへ帰り、夕食のテーブルをととのえて夫を待った。時には一緒にテーブルに向うこともあったが、大方は新太郎が箸《はし》をとるのをみてから、店へひき返す。
マンションの部屋の掃除や、洗濯は一日おきに通ってくる家政婦にまかせていたが、それも今までのようにまかせっぱなしには出来なくなった。
男が一人増えただけなのに、部屋の散らかり方も激しいし、衣類の整理も煩多になった。
有里子が、部屋の掃除や整理|整頓《せいとん》に気を遣う理由の一つに、時折、新太郎が予告なしに自分の部下をマンションに伴って来ることがあるからであった。
仕事の打ち合せや報告にマンションへやって来る新太郎の部下は大体、二十代の若い男女であった。
もっとも頻繁に来るのは横沢英一という二十七歳の青年と、増井良美という三十歳の独身女性であった。
どちらも有能な編集者で、新太郎にとっては気心の知れた仲らしい。
再婚後、間もなく有里子は二人を夫から紹介された。
どちらも気さくで、殊に増井良美のほうは女性ということもあって、有里子が働いているキッチンへ入って来て、なにかと手伝ったりした。戸棚や冷蔵庫なども遠慮なく開ける。
そのようにしむけたのも、新太郎であった。
「そこの戸棚のグラス取ってくれ」
とか、
「冷蔵庫からビール出して来いよ」
などといいつけて、気安くこき使う。増井良美のほうも、むしろ、それを喜んでいるようなところがあった。
有里子としては、夫がそのような態度でいる以上、次第に我が家のようにキッチンへ出入りし、勝手知ったように振舞う増井良美をとがめるわけにはいかない。
が、抵抗があった。
主婦にとって、キッチンは自分の城である。
他人に自由に出入りしてもらいたくない場所の一つであった。まして戸棚や冷蔵庫の中などをひっかき廻《まわ》されるのは、自分の裸をみられるような不快さがある。
有里子のそんな気持には、新太郎も増井良美も気づかない様子であった。
それだけに、有里子は部屋の掃除やキッチンの整理に神経を使うことになる。
有里子は少しずつ、疲労を貯めていた。
寝不足と神経の使いすぎで食欲が落ち、体力がなくなった。
たまさかの夫のいない日曜日に、有里子が正午すぎまでベッドにいたのは、それだけ疲れ切っていたからでもある。
開けはなした窓からは、秋の陽と共に、さわやかな空気が寝室に流れ込んでいた。
この二、三日、めっきり涼しくなっている。
淡いベージュのシルクのネグリジェに、同じ素材のガウンを重ねて、有里子はベッドに上体をおこした恰好《かつこう》でテレビをみていた。
玄関のドアホーンが鳴ったのは、そんな時である。
日曜日のことで、クリーニング屋が来る筈はなかった。荷物の配送か、新聞の集金かと思いながら、ドアホーンの受信器をとると、
「只今《ただいま》……」
新太郎の声である。
有里子は安心してガウンのまま、玄関へ出た。鍵《かぎ》をはずしてドアを開ける。
「早かったのね」
いいかけて、どきりとしたのは夫の背後に増井良美がいたからである。
「今朝、旅館の部屋で起きたはずみに足の指をひねったらしいんだ。たいしたことはないと思ったんだが、力を入れるとずきずき痛む。それで、増井君が俺の車を運転して送って来てくれたんだ」
軽くびっこをひくようにして、新太郎が玄関へ入り、増井良美がゴルフ用のバッグをかつぎ込んだ。
「申しわけありません。御迷惑をおかけして……」
ゴルフバッグを受け取ると、新太郎がリビングから声をかけて来た。
「増井君、上ってコーヒーを飲んで行かないか」
良美が明るい調子で応じた。
「ありがとうございます」
慌てて有里子は客用のスリッパを出し、リビングへ戻った。
新太郎は自分でコーヒーサイフォンを出している。
「ごめんなさい。私、こんな恰好で……」
ガウン姿で、夫の部下の前へ出てしまったことを詫《わ》びた。
「どうしたの。具合でも悪いのか」
「風邪気味だったので、休んでいたんです」
そうとでもいわないことには、恰好がつかない。
少くとも、夫の留守をいいことに、怠惰な半日を過していたと、増井良美に思われたくなかった。
「だったら、かまわないよ。休んでいなさい」
「もう大丈夫、ちょっと着がえて来ます」
「私のことでしたら、お気遣いなく」
傍から、良美がいった。
「コーヒーを頂いたら、すぐ帰ります」
「いいえ、本当にもう大丈夫ですから、どうぞ、ごゆっくりなさって……」
寝室へ戻って着がえた。
洗面をし、軽く化粧をすませてリビングへ出てみると、増井良美がキッチンでスパゲティを作っている。
「勝手にお台所を拝借しています」
屈託のない声で笑い、フライパンに大蒜《にんにく》を投げ込んだ。
強烈な臭いがキッチンに立ちこめて、有里子は吐き気をおぼえた。
「俺達《おれたち》、昼飯、まだなんだよ。増井君がスパゲティを作ってくれるというんでね」
新太郎はリビングで足の親指に湿布をしていた。
「お食事でしたら、私がしますのに……」
良美はフライパンを器用に廻した。
「スパゲティ・アラビヤータなんです。大蒜と唐辛子があれば、材料がなにもなくても出来ますから……」
冷蔵庫の中に、ろくなものがなかったからといわれたようで、有里子は赤くなった。
「それじゃ、スープでも作りましょうか」
気を取り直していった言葉も、新太郎に笑われた。
「スパゲティにスープはおかしいよ。イタリアでは、メニュウから選ぶ時に、スープかスパゲティということになってるんだからね」
追いかけるように、良美がいった。
「どうぞ御心配なく。トマトとレタスがありましたから、サラダを作りましたの。奥様も召し上りますか」
「いいえ、私は……」
到底、一緒にテーブルに向える気持ではなかった。
「君は寝ていなさい。どっちみち、増井君には、仕事の話もあるんだ」
ここにいるのは邪魔だといわれたような気がして、有里子はそっと寝室へ戻った。
彼女がリビングを去るのを、まるで待っていたように、良美の大きな笑い声が聞えて来た。
みじめになるまいと有里子は思った。
夫にしても、増井良美にしても、別に他意があってのことではあるまいと思う。
昨日のゴルフは広告関係の人々や作家など、池田新太郎が日頃、親しくしている仲間と計画して出かけたものだと聞いている。
増井良美は、女にしてはゴルフの腕がなかなかのものだというのも知っていた。彼女がコンペに参加しても不思議ではない。
又、彼女は新太郎の部下でもあった。上司が怪我をすれば送っても来るだろうし、気安くキッチンへ入って昼食の仕度をするのも親切からに違いなかった。
有里子の立場からすれば、
「ありがとう」
で済むことかも知れなかった。
寝室のベッドメイクをして、カバーをかけ、音を立てないように、棚やサイドテーブルを拭《ふ》いた。掃除機をかけたいところだが、隣室に客がいるのでは、それも出来ない。
増井良美は相変らず、大きな声で喋《しやべ》っていた。
大体が声の大きい女であった。やや甲高《かんだか》く、せわしない話し方をする。
歿《なくな》った父が、一番、嫌った声だったと有里子は思った。
人間の会話は通常、穏やかに、相手が聞き取りやすい程度の低音がよいといっていた父である。
父と暮している時は、気が楽だった。
父と娘の生活のサイクルを合せるのは、夫と妻の生活より遥《はる》かに簡単であった。
今のところ、有里子にとって夫婦の歳月よりも、父娘の歳月のほうがずっと長い。
有里子が生れた時からの生活様式が、父と二人の暮しでは、そのまま続いていた。
一般的に、父親ほど娘にとって安心な存在はない。夫には裏切られたが、父親は娘を裏切らない。そういうものだと、少くとも有里子は信じていた。
誰《だれ》よりも暖かく、誰よりも寛大で、力強い保護者だった父は、もうこの世にいない。
父が生きていてくれたら、と思っている自分に気がついて、有里子は、はっとした。
そんなことを考えるのは、池田新太郎との新しい生活に、自分が不安を感じているのではないだろうか。
隣室の食事が終るのをみはからって有里子は再び出て行った。汚れた食器を片づけるためだったが、新太郎は外出仕度をしていた。
「どうも、指が痛いんだ。増井君が兄さんの病院へ電話してくれたら、日曜でも診てくれるというので、これから行ってくるよ」
「でしたら、私、お供しますわ」
「いいよ、増井君が行ってくれる」
「でも、お帰りが……」
傍から良美がハンドバッグを抱え直していった。
「私、お送りします。どっちみち、今日は暇ですから……」
先刻、ここへ帰って来た時と同じように、新太郎は良美の肩をステッキがわりにしてマンションの部屋を出て行った。
リビングのテーブルの上は、きれいになっていた。帰って来てから、新太郎がたて続けに煙草《たばこ》を吸った筈なのに、灰皿に吸いがらもなかった。
キッチンも同様であった。
汚れた食器は残らず洗って、食器棚へ片づけられているし、フライパンもサラダボールも元の場所におさまっている。
調理台の上は勿論《もちろん》、キッチンのどこを見廻しても、昨夜、有里子が片づけた時と同じような状態になっていた。
もしも、有里子が外出でもしていて、その留守中に良美がやって来て、スパゲティを作り、夫と食事をして去ったとしても、このキッチンの状態では、おそらく、有里子は気づかないで終ってしまいかねない。
電話が鳴って、有里子は我に返った。
リビングへ行って受話器を取る。
女の声であった。銀座のクラブのホステスであった。いつも、新太郎が接待用に使っているクラブで、有里子の「つぐみ亭」へそこのママだのホステスを食事につれて来たこともある。
「あら、奥様ですか」
若いホステスは無邪気な調子であった。
「いつも、主人が御厄介をおかけしてます。只今、ちょっと出かけて居りますけど……」
「お留守ですか」
僅《わず》かの間があって、すぐにいった。
「じゃ、又、おかけします。あの、御主人におっしゃって下さい。このところ、ずっと御無沙汰《ごぶさた》なんですよ。ママが、どうぞお見限りなくって……」
舌足らずな笑い声と共に、電話が切れた。
新太郎のところへ、こうした電話がかかってくるのは珍しくはなかった。新太郎のような仕事をしていれば、バアで飲むのも、つきあいであり、仕事の延長である。
そんなことがわからない有里子ではなかったが、バアとかクラブとか聞いただけで、連想するのは松原理代のことである。
新太郎は、単に客とクラブのママという間柄だったといっていたが、二人の仲になにもなかったと、有里子は思っていない。
もっとも、そのことにこだわる心算《つもり》はなかった。
新太郎が独身時代のことではあるし、松原理代はランスで死んでいる。
ただ、この頃になって、ふと有里子が不安になるのは、新太郎の女関係であった。
有里子が新太郎と最初に結婚して、それが破局に至った原因が、やはり彼の女性問題であった。
相手はクラブのホステスで、それも結婚前の軽い浮気相手だったようだが、きちんと別れ話がついて居らず、その女がいやがらせの電話をかけるやら、新居に訪ねてくるやらで、有里子はまだ若かったこともあり、かなりひどいショックを受けた。
あとから新太郎が説明したところだと、あの時、女をけしかけていやがらせをさせたのは、有里子の弟の彦一で、それというのも、姉が結婚して、しっかりした相談相手が出来ると、財産を分ける時に、自分の思い通りにならないのではないかと考えてのことだったという。
たしかに、弟夫婦には、有里子が幸せになるのを阻止しようとする気配が強かったのは知っていた。
けれども、それとても新太郎にそうした女がいなければ、いくら、彦一が中傷しようとしても出来なかった筈であった。新太郎に弱味があったから、つけこまれたといえる。
新太郎の言い分を訊《き》くと、結婚の約束もしていないし、おたがいに大人のつき合いと割り切ったものだというのだが、彼のほうがそうでも、果して相手の女性が同じように考えていたのかどうか疑わしかった。
そして、有里子が一番、気にしているのは、新太郎にはいつもそうした種類の女の影がちらつくことであった。
独身の男性にはありがちなのかも知れなかった。仕事が出来て、男前で、性格的にも明るく人好きのするタイプの新太郎であってみれば、女のほうが放っておかないということもあろう。けれども、新太郎自身にもそうした女たちとのアバンチュールを、ごく気軽く考えている節がある。
それが、有里子には怖かった。
一度目の結婚の時がそうであったように、いつ、新太郎が遊びでつき合った相手が、有里子のささやかな幸せをぶちこわしにやって来ないとは限らない。
そんなことを考えた夜、有里子は睡眠薬の量がつい増えた。
国松聡が「つぐみ亭」へ訪ねて来たのは、朝方、急に冷え込んで、十一月なかばの気温だとテレビのニュースが報じた日の夕方であった。
国松画伯は北川ゆきと倉重浩を同伴していた。
「今日はお二人の婚約の前祝いにやって来たんですよ」
出迎えた有里子に、画伯が笑顔で告げた。
「御婚約ですって……」
まじまじと有里子が若い二人をみつめ、北川ゆきが倉重浩の肩に顔をかくすようにした。
「国松先生、今日は内緒にしておくって約束じゃなかったですか」
倉重が赤くなって抗議し、画伯が手を振った。
「なにを今更、照れることはないでしょう。結婚式の日取りも決っているのに……」
「おめでとうございます。お式はいつですの」
有里子が訊き、北川ゆきが恥かしがった割には威勢のいい声で返事をした。
「予定では、十一月三日。でもドイツへ行ってみませんと、わかりません」
「ドイツでお式をおあげになるの」
「彼女が、どうしてもトリアの教会で挙式したいっていうんですよ」
モーゼル川の流域の古い町であった。昨年のワイン旅行のコースでもあった。
「やっぱり、あの時からお二人はそうだったの」
思わず有里子がいい、倉重がいよいよ照れた。
「誤解しないで下さいよ。僕ら、あの旅行の間は、まだ恋人じゃありませんでしたよ」
「でも、あの旅がきっかけでしょう」
「そりゃそうですが……」
二人のやりとりを微笑《ほほえ》んで眺めていた国松画伯が言葉をはさんだ。
「有里子さん、やっぱりっておっしゃったが、あの旅行の最中から、この二人が結婚しそうだとお気づきでしたか……」
有里子がうなずいた。
「ええ、なんとなく……」
「そりゃいい勘でしたね。わたしは全く、気がつきませんでしたよ」
「お祝いをしなければ……ドン・ペリニヨンをプレゼントしますわ」
ソムリエを呼んで、有里子がシャンペンの仕度を命じた。
「ドイツへは、いつ御出発なさいますの」
有里子が訊ね、倉重が嬉《うれ》しそうに答えた。
「それが、どうも、昨年の旅と似たようなことになりそうなんです」
式をあげるのはトリアだが、いわばハネムーンもかねて、フランクフルトからライン川を下り、モーゼル流域へ入るつもりだといった。
「昨年、あんな事件があったのに、こんなことをいうのは無神経かも知れませんが、僕もゆきさんも、あのワインロードがとても好きなので……」
「わたしも好きですわ」
有里子が同意した。
「歿《なくな》った父も大好きで、よく一緒に参りましたもの」
「今年はいらっしゃらないのですか」
訊ねたのは国松画伯であった。
「毎年、必ず、いらしていたのでしょう」
「そうなんですけど……」
給仕人が運んで来た細長いシャンペングラスを一つずつテーブルへセットしながら、有里子が少し寂しげにいった。
「主人が今年はやめたらと申しますの」
「どうしてですか」
「夏に、私が体調をくずして、病院で検査を受けましたの。その折に、心臓が少し悪いといわれたので……」
「それはいけませんね」
「たいしたことじゃないんです、お医者様も心配はないとおっしゃって……ただ、念のため、月に一度ずつ、心電図を取りに行ったりしていますけれど……」
背後に人の気配がして、有里子はふりむいた。
「あなた……」
池田新太郎は、妻の驚きにうなずいてみせ、先に国松画伯に挨拶《あいさつ》をし、若い二人へいった。
「おめでとう」
「あなた、御存じでしたの」
「国松先生から会社へお電話を頂いたんだよ。お二人の婚約のお祝いをつぐみ亭でするとおっしゃるので、なにはさておいて、すっとんで来たんだ」
ちょうど、ソムリエがドン・ペリニヨンを運んで来た。
「それじゃ、御夫妻も……」
国松画伯が新しく二個のシャンペングラスを注文して、乾盃《かんぱい》の音頭をとった。
「御婚約、おめでとうございます」
よかったら、御一緒にと誘われて、新太郎だけがテーブルについた。
「それでは、どうぞ、ごゆっくり……」
他の客へのサービスもあるので、有里子は各々にメニュウを渡し、あとを給仕人にまかせて、そのテーブルを離れた。
「お二人はハネムーンにドイツの葡萄《ワイン》街道《ロード》を廻られるそうですよ」
シャンペングラスをおいて、国松画伯が新太郎にいった。
「そりゃいいですね。ちょうどワインの季節だ……」
起点は、やはりフランクフルトですかと新太郎が訊き、倉重がうなずいた。
「フランクフルトに一泊して、それからライン沿いに行くつもりですが……」
そのあとを北川ゆきが続けた。
「フランクフルトのホテルは、どこがいいでしょう」
昨年の旅で、グループが使ったホテルは駅前であった。
「便利でしたけど、あまりロマンチックとはいえなかったので……」
「ハネムーンだと、やはりインターコンチネンタルあたりですかね」
メニュウを眺めながら新太郎が答えた。
「アメリカ風ですが、川のふちで、まあ、ムードのあるほうでしょう」
「昨年はそこへお泊りになりましたの」
北川ゆきが訊いた。
「昨年……」
「ほら、旅の途中で車がトラブルを起して……たしか、御主人がトリアからひき返したことがあったでしょう」
ピースポーターの葡萄畑《ぶどうばたけ》の下の道で、ブレーキがきかなくなって、危く川へ落ちかかった有里子の車を、新太郎が自分の車をぶつけるようにして助けた。が、その結果、二台のレンタカーはフランクフルトから来たレンタカー会社の従業員にひき渡すことになった。
「あの時、あたしたちはまっすぐランスへ入って、ホテル・ボワイエへ泊りましたけど、池田さんはフランクフルトへいらしたんでしょう」
「そうです」
新太郎が唇をちょっと噛《か》むようにした。
レンタカーの事故処理でフランクフルトへ行っていて、ランスのホテルの事件には居合せなかった。
「あの時、フランクフルトのホテルへお泊りになったんでしょう」
「ええ」
というのが、新太郎の返事であった。
「その時は、どちらへ……」
「あれはハネムーンには向きませんよ。小さなホテルで……」
「小さいホテルというのはいいですね」
倉重がいった。
「僕はどうも貧乏性で、デラックスな高層ホテルより、古くても小さなホテルが好きなんです」
なんというホテルですか、と重ねて訊かれて、新太郎は苦笑した。
「ホテル・パトリックですよ。しかし、ハネムーンでお泊りになるようなところじゃありません。環境も悪いし、決してお勧め出来るような代物ではないのでね」
そこへ有里子がオードブルの盛り合せを自分で運んで来た。
「これはシェフがお二人のために作りましたの。つぐみ亭からのお祝いですわ」
如何にもドイツ料理らしく、馬鈴薯《じやがいも》のグラタン風なのをパイ皮で包んだものや、ソーセージ、アスパラガス、豆のソティなどが形よく盛りつけられている。
「これはおいしそうだ。早速、お相伴《しようばん》しますよ」
国松画伯が、遠慮している二人の様子をみて、まず皿に馬鈴薯のグラタンを取った。
「そういえば、こんなのを、昨年どこかのワインセラーで御馳走《ごちそう》になりましたね」
北川ゆきが、すぐに反応した。
「オットー・パウリーさんのところで頂いたピザ風のパイにも馬鈴薯が入ってましたでしょう。あれは、大井さんの大好物なんですって……」
「大井三郎さん……」
有里子がなつかしそうに呟《つぶや》いた。
「あちらは、まだ当分、ドイツにいらっしゃるんでしょうか」
「そんな話でしたよ。この前、林より子さんが帰国した時、彼女から聞いたのですが、今のところ、帰る心算《つもり》はないといっているそうで、親御《おやご》さんはとても心配していらっしゃるとか……」
「彼の実家は新潟なんですよ」
倉重浩が話に加わった。
「有名な造り酒屋で、彼は長男じゃないですか。歿《なくな》った松原理代さんとは、お母さんが違うんですよね」
「日本へ帰っていらっしゃればいいのに……」
北川ゆきがいい、国松画伯がなつかしそうにつけ加えた。
「大井君はよくラウェルベルグさんの葡萄畑へ働きに行っているそうですよ。あの老人を大変に尊敬している。老人のほうも大井君が気に入っているようで……」
「ドクトールの畑、グラーベンの畑……」
唇から吐息が洩《も》れるように、有里子がいった。
「収穫はどうだったんでしょう。もう、ワインを仕込んでいらっしゃるかしら」
誰の瞼《まぶた》にも黄金色《こがねいろ》の葡萄畑が浮んでいた。
見渡す限りの丘陵を埋め尽した豊饒《ほうじよう》の秋をラウェルベルグ家の人々はどんなふうに眺めているだろうか。
「行きたいわ。やっぱり……」
小さく有里子が嘆息をついた。
「毎年、行っていたんですもの。今年も行って、今年のワインをみて来たい」
「大井君は、今度、有里子さんがお出でになったら、是非、御案内したいワインセラーがあるといっていたそうですよ」
国松画伯の言葉を、新太郎が軽い咳《せき》ばらいで消した。
「ま、毎年、秋は必ずやってくるし、秋になれば葡萄は色づく。あせることはないよ」
それは、傍にいる有里子にいいきかせるような口調であった。
その夜の会話がきっかけで、有里子はドイツへ行きたいという気持が急に強くなった。
夫から、今年はやめておいたほうがいいといわれて、あきらめていたものが、俄《にわか》に未練がましく胸の中に波立って来る。
「あたし、ドイツへ行って来てはいけませんかしら」
夜のベッドで、有里子は夫に訴えた。
「買いつけのこともあるし、ほんの一週間でもいいから……」
「君が行かなくても、手紙を出しておけば、ラウェルベルグ家もオットー・パウリー家も、いつもの年と同じように、つぐみ亭へワインを送ってくれるんだろう」
新太郎の口ぶりは否定的だった。
「それはそうですけれど、やっぱり、お訪ねすればそれだけのことはあるのよ」
ラウェルベルグ家にしてもオットー・パウリー家にしても、注文があれば誰彼の見境なく、自分の家のワインを売るようなセラーではなかった。
売るほうが、売る相手を選ぶのであった。
本当に自分の家のワインの値打を知ってくれる客にしか、売ろうとしない。そういうところは頑固なまでに昔《むかし》気質《かたぎ》であった。
だからこそ、有里子は毎年の表敬訪問を跡切らせたくないと思う。
「あたし、体はどこも悪くないと思うのよ。毎日、お店へ出ていて、決して疲れもしないし、充分、旅行の出来る健康状態だと思っているわ」
「君はよくよく、あのワインロードが好きなんだね」
いささか、匙《さじ》を投げたように、新太郎がいった。
「それじゃ、一ぺん、医者に相談してみるよ」
「あたしが、うかがって来ます」
「君じゃ駄目だ。君は自分に都合のよいことしか、僕に報告しないもの」
自分が直接、医者の意見を聞いてくると新太郎がいった。
「パスポートはあるんだろう。いつでも出発出来るようにしておくといいよ」
いわれるまでもなかった。
ドイツへの旅行は慣れている有里子であった。
大きなスーツケースには外国旅行に必要なものが常時、入っている。あとは少々の衣類をつめるぐらいのものであった。
だが、有里子は夫の言葉を、そうあてにしなかった。
新太郎という人間が、自分のいい出したこと、考えていることを早急に変える性格ではないことを知っていたからであった。
「今年はやめたほうがいい」
と、夏の終りの頃からいっていたものを、今頃になって、有里子がいくら行きたいといったところで、それでは行って来なさいとは、まず、いいそうもない。
それでも有里子は机のひき出しに入っているパスポートを眺めたり、旅行に持って行く服をあれこれ思案したりしていた。
週末のことであった。
有里子が「つぐみ亭」から帰宅してみるとリビングに夫と増井良美がいた。
テーブルの上にはノートやメモ用紙が散乱している。
「お帰り、早かったね」
書類を手にして、新太郎が妻に声をかけ、増井良美は立ち上ってお辞儀をした。
「お邪魔して居ります」
改めて、新太郎へいった。
「それでは、私はこれで……」
「遅くまですまなかった。気をつけてお帰り……」
有里子が言葉をはさむひまもなく、増井良美はバッグを手にして、そそくさと帰って行った。
「旅行のスケジュールを検討していたんだよ」
テーブルの上のノートをまとめながら、新太郎がいった。
「なんとか一週間、休みが取れるようにしたいと思ってね」
なにをいい出したのかと、有里子は夫の口許を眺めた。
「ラインラント・プファルツ州だけなら、一週間で、なんとかなるんじゃないのか」
「なんのことですの」
期待をこめて、有里子が問い返した。体の芯《しん》が急に熱くなったような感じがする。
「君の好きなワインロードを行くのに、一週間の休暇じゃ無理かな」
「一緒に行って下さるんですか」
「君一人じゃ、心配で出せないよ」
「会社、お休みがとれますの」
「今、増井君とやりくりしていたところなんだ。少々、苦しいが、なんとかならないこともないようだ」
「でも、悪いわ」
夫の仕事熱心は承知していた。編集者として責任のある地位でもある。妻の商売の手伝いで、ドイツ旅行のために休みを取るというのは、気の毒であった。同じ会社の上役や同僚から、なんといわれるか知れたものではない。
「君は、僕がついて行くのが迷惑なのか」
苦笑しながら、新太郎がいった。
「とんでもない。一緒に行って下されば、どんなに嬉《うれ》しいか」
「だったら、ついて行くよ」
「会社の方から、なにかいわれませんか」
「いわれてもいいよ。どっちみち停年まで忠実につとめたところで知れている。仕事と家庭と、どっちが大事かといわれれば、もちろん、家庭だ。そういう御時世なんだからね」
夫の口ぶりにかすかな自嘲《じちよう》の響きがあるのに有里子は気がついた。
「私のために、無理をなさらないで……」
「大丈夫だよ。そのために、増井君にスケジュールを調整させてみたんだ」
多分、行ける、と新太郎はいった。
「医者も、そのほうがいいといったんだ」
「私、どこか悪いんでしょうか」
自覚症状はなにもなかった。
強いていえば、最近、疲れやすく、その疲労感が翌日になってもすっきりとは回復しないことであったが、年齢のせいで仕方がないとあきらめている。
「この前の時の検査では心臓がどうとかおっしゃいましたけど……」
「それは、君の生れつきのものだからね。先生も特に心配はいらないといわれたよ。ただ、全体的にいって、疲れすぎている様子だから、無理はさせないようにということなんだ」
「無理はしていませんわ」
「君が睡れないというのも、神経が疲れすぎているからなんだよ」
「それは……今まで、いろいろありましたもの……」
父の大久保正人が歿《なくな》ってから、弟夫婦にいびられ続けて来た。
遺産相続の問題からはじまって、ねちねちと金をせびられたり、深夜の電話で責められたり、およそ、神経をずたずたにされるような日々が続いていた。
だが、その弟夫婦も、今はいない。
「あたし、随分、元気になったし、明るくなったなんていわれます」
「そりゃあそうだろう。しかし、長年、貯まった疲労というのは一朝一夕には除《と》れないものだよ」
とにかく、ついて行く心算《つもり》だといわれて、有里子は微笑した。
「もし、そう出来たら、あたしたち、新婚旅行のやり直しになりますわね」
再婚してから、夫婦で旅に出るのは、はじめてであった。
「幸せだわ、あなたとワインロードの秋を旅行出来るなんて……」
うっとりと眼を閉じた有里子の隣で、新太郎は一度、ノートの中にはさみ込んだ一枚の紙片を、そっと眺めた。
それは英文タイプで打った処方箋《しよほうせん》のようであった。
第五章 深い霧
十月三十一日に、大井三郎はフランクフルト空港で倉重浩と北川ゆきを出迎えた。
二人ともハネムーンにしては軽装で、しかも表情がどことなく慌しかった。
それは、迎えた大井三郎も同様で、到底、新婚の友人を待っている者の顔ではなかった。
「どうでした、ホテル・パトリックは……」
真っ先に北川ゆきが訊《き》き、大井三郎は沈痛な表情で、首をふった。
「やっぱり……」
倉重浩の唇を洩《も》れた言葉が、三人の気持を更に暗くした。
「東京から電話をもらって、すぐホテル・パトリックのフロントに問い合せました。幸い、僕が契約しているこっちの旅行社に、ホテル・パトリックの支配人と親しいのがいて、調査はうまく行ったんですが、昨年、僕らがランス・ボワイエへ泊った夜、つまり十月二十六日に、日本人で池田新太郎という人物が投宿したかという件に関しては、宿泊人名簿に、その記載がないということが明らかになったんです」
「池田さん、ホテル・パトリックに泊っていなかったのね」
北川ゆきが呟《つぶや》き、やがて正式に夫となる倉重浩をみた。
「あたし、麻布のつぐみ亭で、あなたが池田さんに二十六日に泊ったフランクフルトのホテルを訊いた時の、池田さんの口ぶりで、なんとなく、彼は嘘《うそ》をついているんじゃないかと思ったのよ」
たしかに、あの時の池田新太郎の口は重かった。倉重浩にしつっこく追及されて、漸《ようや》くホテルの名前を白状したという様子であった。
大井三郎が、倉重浩と北川ゆきを自分の車で案内したのは、空港に近いホテルであった。
ハネムーン向きとはいえないが、それは、これからの三人の計画の上で、便宜上、決めたホテルだったからである。
フロントでチェックインをすませ、一度、荷物を部屋へ運ぶと、倉重浩と北川ゆきはすぐに下りて来た。
再び、三人が向い合ったのはコーヒーハウスの中である。
「で、どういうことになっているんですか」
改めて、大井三郎が口を切り、北川ゆきが説明した。
「十一月三日に、あたしたち、トリアの教会で結婚式をあげるんです。その立会人を有里子さん御夫婦にお願いしたんです」
池田新太郎と有里子が、同じ時期にドイツの葡萄《ワイン》街道《ロード》を旅行することになったからであった。
「実をいうと、立会人は、ちょうどパリへいらっしゃる予定の国松先生にお願いしてあったんですけれど、改めて、国松先生は倉重さんの側の立会人、有里子さん御夫婦はあたしの側の立会人ということにしたんです」
「それで……」
せっかちに、大井三郎がうながした。
「有里子さんは、いつ、こちらに……」
「あたしたちより、一日遅れて成田を発つ御予定ですって。国松先生も同行なさるそうだから……」
フランクフルト到着は、明日の朝ということになる。
「有里子さんがお疲れだろうから、明日はフランクフルト泊りにして、翌日中にトリアへ入って、三日の式に参列して頂くことになってるの」
流石《さすが》に結婚式の話になると、北川ゆきの声が、はずんだ。
「有里子さん、体の具合が悪いんですか」
不安そうに大井三郎が訊き、二人が顔を見合せるようにした。
「いいとはいえないんじゃないかしら」
「とにかく、痩《や》せたんですよ、相変らず、きれいだけれど……。国松先生も心配して居られるんです」
そこへボーイがやって来た。
倉重の名を訊《たず》ね、東京からお電話ですという。
「なんだろう」
不審顔でコーヒーハウスを出て行った倉重が、やがて顔色を変えて戻って来た。
「国松先生からなんだが、有里子さん夫婦は予定を変更して、昨日中にフランクフルトへ着いているというんだ」
「なんだって……」
声の大きさに気づいて、三人は自粛した。
近くの客が不思議そうに、こっちをみている。
「国松先生の話だと、ぎりぎりまで、同じ便に先生が乗ることを伏せておいたほうがよいと思って、有里子さんに告げてなかったそうなんだ。それで、先刻、つぐみ亭に電話を入れて、自分も我々の結婚式の立会人を依頼されているので、今夜、出発すると話そうとしたら、つぐみ亭のシェフが有里子さん夫婦は二十九日に成田を出発してフランクフルトへ向ったといったそうだ」
とすると、昨日の到着に間違いはない。
「フランクフルトは、どこのホテルだか、わかりますか」
感情を抑えて、大井三郎がいった。倉重がメモを出した。電話口で書いたものらしい。
「シュロス・ホテルというんですが……」
「シュロス……」
シュロスとは城のことであった。
そんな名前のホテルはフランクフルトにはない。
「つぐみ亭のシェフもよくわからないらしいんですが、池田さんが有里子さんに話しているのを傍で聞いていたら、なんでもフランクフルトの郊外でゴルフ場があるホテルというようなことをいってたというんです」
「ゴルフ場のあるホテル……」
あっと大井三郎が声を上げた。
「シュロス・ホテル……クロンベルグだ」
フランクフルトの北であった。
「英国王女で、プロシャの皇太子と結婚したビクトリア・フリードリッヒが晩年をそこで暮した城なんです。この前の戦争のあと、米軍の高級将校の専用クラブになったりしていたそうですが、その後、ホテルになって、もう十年以上、経つ筈《はず》です」
待って下さいといい、大井三郎は、フロントへ行った。
フロントからシュロス・ホテルに電話をかけて、池田新太郎、有里子夫妻が泊っているかを確認して戻って来た。
「間違いありません。昨日から滞在しているそうです。宿泊予定は三泊だそうです」
十一月二日にクロンベルグを出てトリアに向うつもりに違いない。
「これから、行ってみようと思います」
完全に大井三郎は落着きを失っていた。
「シュロス・ホテルというのは、僕の記憶だと林の中の城なんです。周囲はゴルフ場だの、バラ園だの……風景も環境もいいところですが、その分、寂しいといえなくはない……」
倉重浩も北川ゆきも、大井三郎がなにをいおうとしているかが、よくわかった。
「あたしたちも行ってみましょうよ。どっちにしても、国松先生からの連絡があったので、式に出て下さる打ち合せやら、御挨拶《ごあいさつ》やらに来たといえばいいわ」
北川ゆきは相変らず、頭の回転が早かった。
大井三郎の車は、アウトバーンへ出た。
クロンベルグまでは、そう遠くない。
ドイツの秋は、今年も早いようであった。
「それでも、九月は上天気が続いて、葡萄《ぶどう》はラインガウもモーゼルも、昨年にくらべたらずっと上出来ですよ」
かなりなスピードで車を走らせながら、大井三郎が、そんな話をしたのは、なんとか自分の気持を鎮めようというつもりらしかった。
だが、倉重浩も北川ゆきも、それに対してはかばかしい返事が出来なかった。
三人ともが、気持に余裕がなくなっている。
ここ数か月、東京とドイツと、何回となく電話や手紙で連絡し合って、三人はほぼ、同じ結論を出したがっていた。
昨年、十月二十六日、ランス・ボワイエ・ホテルで行われた殺人の真犯人は、松原理代でも、早川光三でもなかったのではないのか。
その想像は、ごく初歩的な推理から始まっていた。
有里子の弟の彦一夫婦と、松原理代が死んで、一番、得な立場になったのは、池田新太郎であった。
この一年の間に、池田新太郎は有里子と正式に結婚して、彼女の持つ莫大《ばくだい》な財産の正当な相続権を持った。
そして、その新太郎は相変らず、銀座のホステスと親しくし、殊に、最近は自分の部下である増井良美というハイミスとの仲が、つぐみ亭の従業員の間で噂《うわさ》になっているほどだという。
更に、大井三郎の調査では、昨年十月二十六日、ランス・ボワイエ・ホテルの殺人事件の夜、池田新太郎のアリバイはない。
車はアウトバーンをクロンベルグ・インターで下りた。
シュロス・ホテルは、そこから僅《わず》かである。
大井三郎がいったように、ホテルの建物はこんもりした森の中にあった。
外観は英国調である。
この城の最初の住人が、英国のビクトリア女王の娘であれば、当然かも知れない。
車を駐車場へ入れ、ホテルの玄関へ廻《まわ》ろうとして、大井三郎は庭の日だまりの長椅子《ながいす》に体を横たえている有里子を発見した。
胸のあたりまで、スコットランド風の膝掛《ひざかけ》をのせて、秋の陽の中で眼を閉じている。
やつれた、というのが、およそ一年ぶりに彼女をみた三郎の印象であった。
肌に生色がなく、全体に倦怠感《けんたいかん》がある。
三人が足をとめ、そっとうなずき合ってから、有里子に近づいた。
人の気配で、有里子が重たげな瞼《まぶた》を開いた。
どこか、おぼつかないような視線が、まず三郎を捕えると、体を起すようにして、なつかしそうな微笑を浮べる。
それだけで、三郎は胸が熱くなった。
「お久しぶりです」
「本当に……」
低く、有里子がいった。
「よく、ここが、おわかりになったのね」
「東京の国松先生から、お電話がありました。先生はつぐみ亭でお訊きになったそうです」
「こちらへいらっしゃるのでしょう、国松先生も……」
「今夜、成田をお発ちになるそうです」
北川ゆきが、そっと頭を下げた。
「申しわけありません。私たちが勝手なお願いをして……」
トリアでの式の立会人のことであった。
「いいえ、喜んでおひき受けしましたのよ。私でお役に立つことなら……」
「御主人様は、どちらですか」
倉重浩がそのあたりを見廻した。
宿泊客らしい老人グループが、日だまりの中で紅茶を飲んでいる。
「部屋へ参りましたの。電話をかけるところがあるとかで……」
呼んで来ますわ、といいながら長椅子から立ち上った。足許がよろめいている。北川ゆきが支えた。
「僕がお呼びしましょう。お部屋はどちらですか」
「二階の……あの角ですわ」
指して教えた。
「庭から声をかけて下さい。玄関へ廻るより早いわ」
芝生の中の道を大井三郎は走って行った。
建物を廻って、有里子の教えた部屋を下から仰ぐ。
おやと思ったのは、部屋の中で池田新太郎と思われる男が、しきりに動き廻る様子がみえたからである。
用心深く、三郎は自分の場所を変えた。
庭の少々小高いところへ来ると、部屋の中が遠くからみえた。
池田新太郎は明らかに、さがしものをしているようであった。
部屋の位置をもう一度、確かめて、三郎は裏口から建物へ入った。
二階の客室への階段は英国のチューダー調と呼ばれるもので、手すりの角の柱の上には凝った木彫の装飾がしてある。夜などは怪異にみえそうであった。
一八九四年に完成したという建物は天井が高く、豪壮だが暗い印象がする。
ドアの前へ近づいて部屋の番号をみ、それからノックした。
ドアがあいて、池田新太郎が顔を出す。
彼が手にしていたのは、女物のハンドバッグであった。有里子のものに違いない。
「君、どうして、ここへ……」
明らかに、池田新太郎は狼狽《ろうばい》していた。
「東京の国松先生から御連絡がありまして、ここに御滞在と聞きました。今日、倉重君と北川さんが到着して、三日の式のことで、御挨拶に行きたいといわれるので、御案内して来たんです」
「そりゃあ……」
ふと、視線を落して、池田新太郎は自分がなにを手にしているかに気がついたようであった。
慌てて、三郎に背をむけ、部屋の中へ戻って行く。一瞬だが、三郎は部屋の中をみた。
ベッドの上には女物の服が散乱していた。スーツケースはあけっぱなし、ボストンバッグも、有里子が昨年の旅でいつも肩にかけていた中型のショルダーバッグも、すべてがそのあたりにぶちまけてあった。
池田新太郎は、有里子に電話をかけてくると偽って、部屋でなにかを探していたらしい。そして、それはどうやら、今の時点ではみつかっていないと、三郎は判断した。
三十分ばかりして、新太郎は庭へ出て来た。
「ごめんよ。どうも、のんびりした旅に出て、気がゆるんだのか、手帳をどこかにしまい込んでしまってね。探すのに一苦労だった」
倉重浩と北川ゆきに、愛想よく挨拶をした。
「いよいよ、ですね」
三日の挙式のことである。
「あなた、皆さんとお昼を頂きませんこと」
有里子が夫をうながした。
ちょうど、そんな時間になっていた。
「いいね。ここの料理は、けっこういけますよ」
ダイニングルームは、その割に客が少かった。
料理は典型的なドイツ風で鹿肉《しかにく》やうさぎ、野鳥などが豊富であった。
ワインリストは池田新太郎がみた。
「キートリッヒにしてみようか。七五年のシュタインメッヒャーはどうかな」
有里子はそれに対して、なにもいわなかった。ただ、かすかに微笑しただけである。
昨年の旅で、有里子がモーゼルのワインを好んでいたのを大井三郎は知っていた。キートリッヒはラインガウである。
「ベルンカステルの畑は、今年はとてもいいですよ」
つい、三郎は有里子にその話をした。
「ドクトールの畑も、昨年にくらべて、ずっといい、ラウェルベルグさんたちも喜んでいます」
「昨年は、お気の毒だったから……」
有里子が運ばれたワインを、ちらと眺めて大井三郎へうなずいた。
「ラウェルベルグさんは、お元気……」
「ええ、相変らずです。今年は夏の間中、僕も畑へ手伝いに行ってました」
「ガイドのお仕事はなさらないで……」
「かけもちがたてまえですが、どうも、畑仕事のほうが、性に合っていたみたいです」
そういえば、と有里子が遠くをみるような眼でいい出した。
「林さん……林より子さんは……」
「彼女は、今、仕事でロマンチック・シュトラーゼのほうへ行っています。二、三日したら、フランクフルトへ戻るので、倉重さんたちの式には是非、かけつけたいといっていました」
昼食は簡単に終った。
有里子の食欲のなさに、改めて大井三郎は胸を衝《つ》かれた。
そのかわりのように、ワイングラスに手がのびる。
せめて、彼女の好きなモーゼルのワインを注文してあげればよいのに、と三郎は思った。
ラインガウが嫌いではないだろうが、キートリッヒのワインを、つぐみ亭が契約していないのを、池田新太郎が知らないとは思えない。なにも、彼女になじみのないワインを勧めることはあるまいと、つい考えてしまう。
もっとも、キートリッヒはラインガウでは最高級の畑に産した。こんなワインも知っておくほうがいいという池田新太郎の思いやりなのかも知れない。
食事がすむと、新太郎が時計を気にし始めた。
「ちょっと、ハイデルベルグまで行って来る。むこうに知人が来ていて、さっき、電話をしたら、ちょっと顔を出せというのでね」
有里子が顔を上げた。
「私も参りますの」
「いや、君は疲れるから、ここで静養していなさい。すぐ、帰ってくる」
大井三郎をみた。
「君、もし、さしつかえなかったら、家内の相手をしてやって下さい」
三郎にとっては、願ってもなかった。
池田新太郎がベンツのレンタカーで出かけてから、倉重浩と北川ゆきが大井三郎に訊いた。
「大井さん、ずっと、ここにいますか」
「そのつもりですが……」
夫の池田新太郎の許可がある。そうでなくとも、大井三郎は今度の旅の間、有里子の傍を離れまいと思っていた。
どうしたら、彼女を守ることが出来るかと、それだけを考えている。いや、それより先に、池田新太郎の化けの皮をはがさねばならないのだ。
「それじゃ、僕ら、一足先にフランクフルトへ帰ります。式までに用意しなけりゃならない買い物があるので……」
「いいですよ。こっちは、僕にまかせて下さい」
彼らのために、フロントへタクシーをたのみに行った。
有里子に別れを告げて、倉重浩と北川ゆきも玄関へ出てくる。
「やっぱり、池田さんを、あやしいと思いますか」
低く、倉重がいった。
「さっき、僕が部屋へ呼びに行った時、彼は有里子さんのバッグや鞄《かばん》を開けて、なにかを探していたんですよ」
北川ゆきが眉《まゆ》をひそめた。
「いったい、なにを……」
「わかりません」
「やばいな」
倉重が呟いた。
「有里子さんのこと、よろしく。くれぐれも気をつけてあげて下さい」
タクシーが来て、二人は心残りな表情でホテルを去った。
有里子は、一階のサロンで大井三郎を待っていた。
白っぽいガウンのようにゆったりしたドレスに包まれた肉体は、午後になっても、まだ睡りからさめないように、感覚が麻痺《まひ》していた。それは、昨夜、彼女が愛されすぎたせいのようであった。
池田新太郎が何故、あれほど異様に興奮したのか、有里子にはわからない。夫のエネルギーを受けとめかねて、有里子はダブルベッドの上を逃げ廻った。
「今日は疲れているから……ごめんなさい」
何度か繰り返された哀願にも、新太郎は応じなかった。半死半生になっている妻を狂気のように抱きしめて、一晩中解放しなかった。
が、そのおかげで有里子は朝まで熟睡した。
いつもは、睡眠薬の力を借りても、三時間もすると眼がさめてしまう。
大井三郎がサロンへ戻って来た時、有里子はぼんやり庭を眺めていた。
その横顔は童女のように無邪気で、あどけなくさえみえた。
「倉重君と北川さん、フランクフルトへ帰りましたよ」
三郎が告げると、有里子は微笑した。
「大井さんは、お帰りにならなくてよろしいの」
「御迷惑でなかったら、御主人がお帰りになるまで、ここにいさせて下さい」
「主人は遅いかも知れないわ」
有里子の声が苦しげだったので、三郎は思わず、彼女をみた。
「どうしてですか」
「もしかしたら……あたしの当て推量ですけど、ハイデルベルグに、あの人が来ているのかも……」
「あの人……」
三郎の顔色をみて、ゆるやかに首をふった。
「そんなこと、あるわけがないわ。まさか、そんなこと……あたしの思い過しでしょうね」
「御主人が、誰かをハイデルベルグに待たせているとお考えなんですか」
サロンの外の芝生に小鳥が来ていた。頭頂のところが、少しだけ赤い。三郎が、名前を知らない野鳥であった。
「でも、他に考えられますかしら。急に一人でハイデルベルグへ出かけて行くなんて……」
ハイデルベルグまでは、車で一時間少々の距離であった。
「あちらに、知り合いの方がいらっしゃるとか……」
「聞いたこともありません」
「お仕事でおつき合いのある方が、たまたまみえていらっしゃるということは……」
「もし、そうだったら、フランクフルトへ来るまでに、そういう話があると思いません。今日まで、そんな話はまるで聞いていませんもの」
黙ってしまった三郎をみて、有里子はかすかな笑い声を立てた。
「よしましょう。私、ここのところ、疑い深くなっているんです。きっと、疲れているせいですわ」
「お加減が悪いんじゃありませんか」
遠慮がちに、三郎が訊ねた。
「さっき、あまり召し上らなかったようなので……」
「旅に出た時は、少し、ひかえめにしているんです。歿《なくな》った父が、よくそう申しましたのよ」
「機内では、運動不足になりますからね」
ボーイが近づいて来て、なにか注文はないかと訊ねた。
「お茶を頂きましょうか」
有里子の提案に、三郎が紅茶を二つ頼んだ。
このホテルでは、イギリス風に午後のお茶が似合いそうであった。
このサロンのムードも、ドイツというよりはイギリスである。
「早川先生のことですけれど……」
いいにくそうに、有里子が話し出した。
「ベルンカステルの墓地に埋葬したというのは本当ですか」
「ええ、そうなんです」
あの事件のあと、ラウェルベルグ老人が早川光三の手紙をあずかっていると申し出た。
それは、遺書のようなものであった。
自分がもし、外国で客死することがあったら、遺体はベルンカステルの墓地へ埋葬して欲しいというものである。
「東京から早川先生の財産を管理している弁護士さんが来て、遺言通り、ベルンカステルの墓地を購入して、先生の墓を建てました。ラウェルベルグさんがいろいろ面倒をみてくれて、お墓のお守りもしてくれています」
「早川先生の最初の奥様や息子さんのお墓は、日本にあるんじゃありませんの」
「弁護士さんの話では、奥様も息子さんも、先生の御希望で、奥様の御実家の墓地へ埋葬してあるそうです。御自分に万一のことがあれば、墓守りをする者がなくなるとおっしゃって、そうされたそうですよ」
有里子が小さくうなずいた。
「人は、誰《だれ》でも自分が死んだあとのお墓のことを考えるものなんでしょうね。お墓まいりをする人間、お墓守りをする人のことを考える……」
語尾が途切れて、また続けた。
「私の実家も……大久保家のお墓も、私が死んだら、お墓守りをする者がなくなってしまいますのね」
「そんなことを考えるのは、まだ早いですよ」
慌てて、三郎はいった。
「有里子さんは、まだお若いですし、御主人もいらっしゃることだし……」
「若くありませんわ」
声が寂しげであった。
「私、この一年で、急に年をとってしまったような気がします」
「そんなことはありませんよ」
わざと快活に三郎はいった。
「僕には、有里子さんが、前よりも眩《まぶ》しくみえますよ」
それは本音でもあった。
たしかに、やつれて憂鬱《ゆううつ》の気配の濃くなった有里子であったが、それが一層、三郎の心を惹《ひ》いた。
年上の女に、こんな激しい憧《あこが》れを抱いたのは、三郎にしても、はじめてのことである。
ボーイが、紅茶にビスケットを添えて運んで来た。
温かなお茶の香りが、二人の間にただよって、なにがなしにくつろいだ雰囲気を作った。
「三郎さんは、結婚はなさらないの」
うちとけて、有里子が訊いた。
「今のところ、まだ……」
「林より子さんは如何《いかが》。あの方もフランクフルトにいらっしゃるわけでしょう」
「外国で暮していると、日本人同士でそういう話もないわけじゃありませんが、僕と林さんには、そんな気持はありませんよ」
「あなたになくとも、あちらはどうかしら」
珍しく、有里子が追及した。
「ありませんよ。僕にも彼女にも……」
「三郎さん、好きな人がいらっしゃるみたいね」
相手の口調が、三郎を気軽くした。
「ないこともありませんが、高嶺《たかね》の花ですよ。第一、人の奥さんですから……」
視線がぶつかって、三郎は狼狽した。いいすぎたと後悔した。
「冗談ですよ。僕みたいな人間に、そんなロマンチックな話があるわけありませんからね」
お茶がすむと、会話も終った。
有里子の様子が疲れてみえたので、三郎は彼女を部屋まで送った。
「どうか、おやすみ下さい。僕は御主人がお帰りになるまで、下のサロンにいます。御用があったら、御遠慮なくサロンへ電話を入れて下さい」
有里子は素直にうなずき、ゆっくりドアを閉めた。
戻って来たサロンは夕暮の色が濃かった。
十一月である。ドイツの陽の暮は早い。
ハイデルベルグに、池田新太郎が女を待たせているのではないかといった、有里子の言葉を、三郎は考えた。
たしかにありそうに思えた。
そうとでも考えないことには、突然、ハイデルベルグへ出かけた理由がわからない。
東京で或る女としめし合せて、自分は妻と共にフランクフルトへ来る。一日遅れて、女はハイデルベルグのホテルへ到着した。
その女というのは誰だろうと思った。
銀座のバアのホステスか、或《ある》いは部下の女性編集者か。
次第に、大井三郎は許せない気持になっていた。
有里子と再婚して一年にもならないのに、そうした女の噂がある。おそらく、噂だけではないだろう。有里子のあのやつれ方も只事《ただごと》ではない。夫の女性問題に悩み苦しんでのあげくとしたら、なんのために再婚したのかわからない。
それに、池田新太郎が有里子と復縁しながら、他にも女性がいるというのは、それほど有里子を真剣に愛していない証拠ではないか。
愛してもいないのに、復縁したのは、有里子の財産が目的ではなかったのか。
とすると、昨年のランス・ボワイエでの事件は。
サロンに根が生えたようにすわり込んでいた三郎の前に、池田新太郎が立ったのは午後七時をすぎてからであった。
「君、まだ、いたの」
新太郎の言葉に、大井三郎は添乗員の声で返事をしていた。
「奥様はお部屋です」
「そりゃありがとう。気をつけて帰ってくれ」
玄関まで見送られて、三郎は止むなく自分の車に戻った。エンジンをふかしながら、それとなくみると、池田新太郎はまだ、同じところに立ってこっちを眺めている。
二階の角の部屋には、カーテンが引かれ、電気がついている。
三郎は唇を噛《か》みしめるようにして、車をスタートさせた。
フランクフルトのアパルトマンで、ねむれない夜をすごし、三郎は時間をみはからって空港のホテルへ電話を入れた。
倉重浩は起きていた。
「今、君のアパルトマンへ電話をしようかと思っていたところだったんですよ」
「なにか、用事が……」
「いや、昨夜、八時頃、電話したんだが、留守のようだったので……」
「戻ったのが、九時半だったかな」
帰る途中で食事をすませて来たといった。
「何時までホテルにいたの」
「七時すぎ……。御主人が帰って来られてから、失礼したから……」
「そんなに池田さん、遅くに帰ったのか」
倉重浩も驚いた様子であった。
「いろいろ、気になることがあって、これから、もう一度、クロンベルグへ行こうと思うんです。それで、申しわけないが、国松先生のお出迎えを頼みます」
「勿論、僕らはお出迎えに行きますよ」
同じホテルへ案内して、大井三郎からの連絡を待つといった。
「国松先生に、よろしくお伝え下さい」
電話を切って、そそくさと出かけた。
アウトバーンをまっしぐらに、クロンベルグへ向う。
シュロス・ホテルに着いたのが、九時であった。
池田夫妻は、まだ起きていないかも知れないと思いながら、ホテルの玄関を入ったのだが、驚いたことに、ロビイの先の階段を有里子が下りて来た。
「お早うございます。窓からみていたら、大井さんの車が入って来たので……」
部屋から出て来たといった。
今日はニット風のワンピースで幅広のベルトを締めている。
「主人は、もう出かけましたの」
流石《さすが》に、三郎は返事が出て来なかった。
「今日はボンに用事があるとかで、私がねむっているうちに出て行ったようですわ」
「ボンに……」
西ドイツの首都であった。
ボン大学のある町であり、ライン川の下流に当る。
「パスポートでも紛失されたんですか」
ガイドをしている者の発想であった。
ボンには日本大使館がある。
もっとも、パスポート紛失のような手続きは領事館でも行った。
フランクフルトには日本の総領事館がある。
「仕事ですって……」
有里子が苦笑している。
「大井さん、お食事、まだでしたら、ご一緒に如何」
昨日のダイニングルームで、三郎は有里子と向い合ってトーストを食べ、コーヒーを飲んだ。
「昨日、ハイデルベルグで、池田さんはどなたにお会いになったとおっしゃっていましたか」
立ち入った質問だとは思ったが、三郎は訊かずにはいられなかった。
「誰ともいいませんの」
「お訊きにならなかったんですか」
「主人の嘘をつくのをみているほうが、つらいと思ったものですから……」
「今日も、嘘だと思いますか」
「いやないい方ですけれど、どなたかとライン下りでもして戻ってくると、夜になりますでしょう」
「いいんですか、そんなことを、もし、御主人がしているとして……」
「証拠がないんですもの。私の妄想かも知れません」
「それにしては可笑《おか》しいですよ。有里子さん一人を、ホテルにおき去りにして二日も……」
本当なら、とっくにラインガウ、モーゼル地域を廻って、ワインの買いつけをはじめているべきではなかったのか。
「池田が、今年はワインを仕入れるのをやめるように申しますの」
「何故ですか」
「わかりません。在庫で充分だということでしょうか」
たしかに、つぐみ亭のワインセラーは品物が揃《そろ》っていた。
だから仕入れをひかえめにするというのはわかる。全く、仕入れないでは商売にさしつかえる。
「池田は、私につぐみ亭をやめるようにいいたいのかも知れませんわ」
ひっそりと有里子がいった。
「何故ですか」
有里子の健康上の理由かと思ったが、彼女は、否定した。
「あそこの経営は、黒字ですけれど、面白いほど儲《もうか》るというのでもありません。池田は、レストランなどはつまらないから、バアにでもするか、いっそ、売ってしまったらなどというんです」
「無茶ですよ」
怒りが、三郎を逆上させた。
「つぐみ亭は、有里子さんにとって、歿《なくな》られたお父様との思い出の店でしょう。それを売ってしまえというのは、いくらなんでも乱暴です」
「そんなふうにいって下さって、嬉《うれ》しいわ」
つぐみ亭を守りたいと、有里子はいった。
「あの店だけが、私の生甲斐《いきがい》ですもの。やめたくないわ。池田に、なんといわれても……」
池田新太郎を最初、主人と呼び、やがて、池田、と呼び変えたところに、有里子の心の屈折があるようであった。
「やめることはないですよ。つぐみ亭は有里子さんのお店なんですから……」
有里子の肩を持つ発言をしたことで、三郎は満足した。俄《にわか》に、池田新太郎への敵意が増したような気がする。
十時をすぎてから、三郎は空港ホテルへ電話を入れた。
「国松先生、今、チェックインなさったところなの。有里子さんのことを、とても心配していらっしやるわ」
「彼女、今日も一人なんですよ。池田さんがボンへ行かれたとかで……」
北川ゆきと話しているところへ、有里子が来た。
「国松先生、お着きになったの」
「ええ、今、フランクフルトの空港ホテルです」
「お目にかかりたいわ。今から、大井さんの車で行きましょう」
「大丈夫ですか」
「勿論よ。とても元気だわ」
今日の有里子は顔色もよかった。半病人のようだった昨日とは別人にみえる。
「もしもし、これから有里子さんをそちらへおつれします。待っていて下さい」
三郎が電話をしているうちに、有里子は部屋へ戻ってコートと小さなボストンバッグ、それにいつものショルダーバッグを肩にして下りて来た。
ちょっと小旅行にでも出かけるような恰好である。
「池田にはメモを書いて来ましたから……」
フロントにも、フランクフルトまで行ってくると、英語で伝えた。
車の中でも、有里子は見違えるほど明るかった。
ボンへ出かけて行った池田新太郎のことを吹っ切ったようにふるまっている有里子を三郎は痛々しいと思い、彼自身も有里子に調子を合せた。
フランクフルトの空港ホテルで、国松画伯は倉重浩や北川ゆきと共に、ロビイへ下りて待っていた。
「有里子さんがみえるというので、びっくりしましたよ。思ったより、ずっとお元気そうで、安心しました」
国松画伯に迎えられて、有里子はいつもの微笑を浮べた。
「昨日は旅の疲れで、やっぱり年でしょうね。でも、今日はもう、なんともありません」
昼食は、国松画伯の提案で、ドロッセルカッセへ行くことになった。
ライン川右岸のリューデスハイムにある、つぐみ横丁であった。
狭い小路の両側が、ずらりとワインハウスになっている。
「まずいことにならなけりゃいいがな」
有里子が北川ゆきや国松画伯と談笑しているうちに、三郎は倉重浩をすみへ呼んでいった。
「池田新太郎は、ボンへ行くといってホテルを出たそうなんだが……」
もしかすると、東京から呼んだ女と、ライン川の船下りをたのしんでいるのではないかという三郎に、倉重浩が目をむいた。
「まさか、そんな……」
「俺《おれ》も、まさかとは思うんだが……」
昨年の旅で、有里子が自分のあとを追って来た池田新太郎と偶然、再会したのはドロッセルカッセのワインハウスだったと思い、三郎はいやな予感がした。
ロビイのほうでは、有里子が華やかな声でこっちへ手を上げている。
外は秋晴れであった。
リューデスハイムのつぐみ横丁は、観光客で賑《にぎ》わっていた。
どのワインハウスも昼間から赤い顔をした人々で満杯である。
「これは駄目です。とても空いているテーブルがみつかりそうもありませんね」
一軒一軒を、ざっとのぞいて来た大井三郎がいい、それで北川ゆきが提案した。
「それじゃアスマンズハウゼンのホテルへ行きましょう。あそこのテラスで、ライン川を眺めながら昼食っていうのもいいじゃない」
昨年の旅行で泊ったホテル・クローネであった。
ダイニングルームの外側に葡萄棚《ぶどうだな》のあるテラスがあって、その下にテーブルと椅子を並ベて簡単な食事が出来るようになっていたのを、北川ゆきはおぼえていたらしい。
直ちに、一行は三郎の車でホテル・クローネへ移動した。
幸い、風のないあたたかな日で、戸外の食事にはうってつけであった。
「昨年だったら、こんなわけにいきませんでしたね」
給仕人に料理の注文をしてから、大井三郎がいった。
同じ時期だったのに、気温はずっと低く、曇り空からは今にも雨が降りそうな天気が続いていた。
「昨年の葡萄の出来が悪い筈《はず》ですよ」
食後のコーヒーの時に、ライン川を観光船が下って来た。
甲板《かんぱん》は鈴なりの人である。
「昨年は僕らもあの船に乗りましたね」
そっちを眺めて倉重浩が呟いた時、有里子が急に椅子《いす》から立ち上った。異様な表情で観光船をみつめている。
「どうしたんですか」
国松画伯が声をかけると、有里子はそのまま椅子へ腰を下した。うつむいてコーヒー茶碗《ぢやわん》へのばした手が、ぶるぶる慄《ふる》えている。
倉重、北川、大井、国松の四人がそっと顔を見合せた。
その気配に気がついたのか、有里子が小さく訴えるようにいった。
「ごめんなさい。私、どうかしているんです」
やや口早に、別のことをいった。
「これからベルンカステルへ行って、早川先生のお墓まいりをしませんこと……」
視線が合って、大井三郎が答えた。
「それはいいと思いますが、今からだとフランクフルトへ戻るのが……」
「そのまま、トリアへ参りましょうよ」
有里子の表情は、たのしそうであった。
「今夜はホテル・ニコライへ泊って、明日、トリアへ……」
「しかし、御主人が……」
「主人には今夜、電話をしますわ。どっちみち、明日はトリアへ入る予定だったんですから……」
三日の倉重浩と北川ゆきの結婚式のためには、明日の晩がトリア泊りであった。
「私、もう、クロンベルグへは戻りたくありませんの」
その表情をみて、大井三郎は決心した。
「僕は、かまいませんが、皆さんはどうされますか」
有里子は小旅行の仕度をしているが、他は着のみ着のままであった。スーツケースはフランクフルトのホテルにおいて来ている。
「それじゃ、僕らは一度、フランクフルトのホテルへ戻りますよ。明日、早々、予定通りトリアへ入ります」
倉重がいい、国松画伯もうなずいた。
「わたしたちは、明日、行きがけに早川先生のお墓のおまいりして行きましょう」
「勝手を申してすみません」
有里子が詫《わ》びた。
「明日、トリアでお待ちしています」
大井三郎がホテルから電話をしてタクシーを呼んだ。
「僕らはタクシーが来るまで、ここでお茶を飲んでいますよ。有里子さんたちは早く出発しないと、途中で日が暮れてしまう」
国松画伯がいい、大井三郎は助手席に有里子を乗せて一足先にホテル・クローネを出かけた。
「それじゃ、お先に……」
昨年はアスマンズハウゼンから、ゴールまで船で下ったが、今日はライン川の右岸を車で走ることになる。
となると、道はコブレンツから川を越えてモーゼル側へ入るしかなかった。
無論、車のほうが船よりは早い。
「ごめんなさい。馬鹿《ばか》なことをいい出して」
かなり走ってから、有里子が詫びた。
「船に、池田が乗っていましたの」
はっとして、大井三郎は有里子をみた。
「さっきの観光船ですか」
顔を正面へ向けてから訊《き》いた。車の通行は少いが、他所見《よそみ》運転は危険であった。
「ええ」
「御主人、どなたかと一緒だったんですか」
「遠目ですから、よくみえませんでしたけれど……一人ではなかったと思いますの」
それはそうであった。
クロンベルグのシュロス・ホテルに有里子をおき去りにして、ボンへ行くといって出かけた池田新太郎が、今頃《いまごろ》、ライン下りの観光船に一人で乗っているわけがない。乗るとすれば、女連れに決っていた。
突然、有里子がベルンカステルへ行きたいといい出した意味は、そういうことだったのかと三郎は納得した。今夜、クロンベルグのホテルへ帰りたくない気持も解る。
「気にしないで、大井さん。私、もう、主人のことはふっ切れていますの」
有里子が、やや明るい調子でいった。
「葡萄畑が見事ね」
車の窓からライン川沿いの斜面を見上げるようにして感動の声を上げた。
たしかに、それは美しい光景であった。
フランクフルトからライン川を下ってくると、右岸の斜面は見渡す限りの葡萄畑であった。この季節、葡萄の摘み取りはほぼ終っているが、色づいた葡萄の葉に秋の陽がさすと文字通り、黄金色に輝き渡って、バッカスの神の楽園という感じになる。
車はコブレンツでライン川を渡った。
モーゼル川流域は、ライン川沿い以上の豊饒《ほうじよう》の秋を迎えていた。
黄金の畑は、更に深みを増して、ところどころはすでに赤く染まっている。
にもかかわらず、畑には摘み取り作業の人の姿がみえていた。
モーゼル川沿いの葡萄の収穫は、ライン川沿いの畑よりも、やや遅れている。
それだけ天気が続いて、あと一日、あと一日と、葡萄に甘みの増すのを待っていたようでもあった。
「リルケの詩を思い出しますね」
ベルンカステルへ向けて、車のスピードを上げながら、三郎がいった。
「なんという詩……」
「御存じでしょう」
照れながら、三郎はその詩を暗誦《あんしよう》した。
あと二日
南国の陽を照らし給え
ぶどうの粒が
まるく熟れ
重いワインに
最後の甘みが出るように
有里子が小さな嘆息を洩《も》らした。
「あと二日……」
さりげなく視線を黄金色の丘陵へ向けた。
「お天気が続くかしら」
「今年は大丈夫でしょう。昨夜のテレビでも、週末までは晴天といっていましたから……」
道の下をモーゼル川が蛇行していた。
太陽が輝いていると、川の色まで蒼《あお》く、明るい。
ベルンカステルの墓地はドクトールの畑の下にあった。
まだ新しい墓石の前に野の花が飾ってある。
「ラウェルベルグさんの若奥さんが、いつもお掃除をしてくれているんです」
考えてみれば、ここはグラーベンの畑にも近かった。グラーベンは墓場の意味である。むかし、墓のあったところが、葡萄畑にでもなったものか。
「ラウェルベルグさんのところへ寄ってみましょう。きっと、びっくりされますよ」
ぼつぼつ日の暮れかけたベルンカステルの町を抜けて行ったのだが、あいにく、老人は息子と共にボンへ出かけて留守であった。
「それじゃ、トリアの帰りにでも、また、お寄りします」
大井三郎が挨拶《あいさつ》して、二人はベルンカステルの小さな街へ出た。
モーゼルワインの集散地だけあって、大きな酒屋がある。
有里子が、その一軒に入った。
「グラーベンの七六年、べーレンアウスレーゼを二本買ったの」
「凄《すご》いですね」
包みは三郎が持って車へ戻る。トリアまでは、まだ少々の距離があった。
「お疲れになりませんか」
隣の有里子の様子を窺《うかが》ったのは、今朝、クロンベルグからだと、トリアまで、かれこれ二百キロのドライブになるからであった。
「私は大丈夫。なんでしたら、運転を交替しましょうか」
笑われて、若いから三郎はむきになった。
「とんでもないですよ。僕らは一日に七百キロぐらい、ぶっとばすのもざらですから……」
「僕らはって、大井さんとどなた……」
「ドイツにいる友達……つまり、旅行関係なんかの」
「林より子さんのこと……」
「いや、彼女は慎重型ですから……」
有里子が、林より子にこだわっていると思った。なにかにつけて、彼女と大井三郎の間柄を親密かと訊いているような気がする。
それは、年上の女の好奇心かも知れなかったし、有里子の、大井三郎に対する関心のためかもわからない。
トリアへ入ったのは夜であった。
ホテルはアスマンズハウゼンから電話を入れておいたので、二室は確保されている。
各々の部屋は隣合せであった。境目の壁にドアがついているところをみると、コネクトツインのようである。家族などで旅行をした時にツインルームの二つが、内部から行き来の出来るほうが便利なために作られているので、別々に独立して使用する場合には、どちらからのドアにも鍵《かぎ》がかかっている。
夕食の時間を八時に決めて、大井三郎は自分用の部屋からフランクフルトのホテルへ電話を入れた。
最初に出たのは、北川ゆきであった。
「国松先生は、パリに急用がお出来になって、先程、飛行機でお発ちになったのよ。明日、ルクセンブルグ経由でトリアへお入りになりますって……」
倉重浩はレンタカーの予約に出かけたという。
「明日、私たちもモーゼル沿いにドライブして、トリアへ入りますから……」
そちらは、どうだったといわれて、三郎は苦笑した。
「予定通りですよ。早川先生のお墓まいりをして、今、トリアに着いたところ……」
「有里子さん、お元気……」
「思ったよりもね」
「気をつけてあげてね。あまり、ワインを飲まないように……」
誰《だれ》もが、有里子の健康を心配していると三郎は思った。食欲がなく、ワインばかりが強くなっている。
それは、心に大きな悩み事のある証拠のようなものであった。
八時にホテルのダイニングルームへ下りた。
有里子の疲労を考えて、外へ食事に出るのを避けたためである。
三郎は、ここへ着いてすぐに町にとび出して行って、下着と靴下、それにワイシャツを一枚、買って来た。なにしろ、着のみ着のままだったからである。
有里子にしても、小型のボストンバッグ一つだったが、夕食に下りて来た姿をみると、ブラウスが変っていた。
ベージュのシルクのブラウスに、メキシカンオパールの大きなブローチをアクセントにしている。化粧も昼よりは濃かった。
「クロンベルグに連絡なさいましたか」
まず、そのことを三郎は訊《たず》ねた。有里子がうつむいた。
「主人、帰っていませんでしたの」
上げた顔が笑っている。
「トリアへ来てしまって、よかったと思ってますわ。こんな時間まであの森の中のホテルに一人でいたら、気が狂いそうになってしまうわね」
三郎は返事が出来なかった。いったい、池田新太郎という男は、なにを考えているのだろうと思った。
ボンへ行くといって、早朝にホテルを出て夜の八時まで帰って来ない。アスマンズハウゼンで有里子が目撃したのが事実なら、彼は女と共にライン下りを楽しんで一日を過したことになる。
「気になさらないで……」
三郎の顔色をみて、有里子がいった。ワインリストをみて五九年のシュロスヨハネスベルガーのアウスレーゼを注文する。
「お食事には少し甘いかも知れませんけれど、私、今夜、甘いお酒が頂きたいので……」
三郎は、なんでもよかった。こうして、有里子と向い合って、二人きりで食事が出来るだけで幸せな気分であった。
「私ね、父が歿《なくな》ってから、とても孤独でしたの。たった一人の弟は、私の財産をねらって、いつ、私を殺すかも知れない状態でしたし……」
有里子の口から思い切った言葉が出て、三郎は驚いた。
たしかに、昨年の旅で、彦一夫婦が有里子に悪意を持っていたのは、三郎も知っている。
有里子にガイドとして同行していた林より子は、弟夫婦に殺意があると断定していたくらいであった。赤の他人ですら、気がつくくらいだから、本人が承知していて当然であった。しかし、こうして自らの口で、肉親から殺されかねなかったというのは、有里子のような女性にとっては勇気の要ることに違いなかった。
「弟夫婦がいなくなって、私、池田と復縁しました。それが一番、幸せだと思ったからですの」
ダイニングルームの間接照明の灯影で有里子の表情が切なげであった。眉をひそめ、息をつめるようにして、唇をかすかにわななかせている。それは、三郎に、或《あ》る瞬間を連想させた。ベッドの上で、有里子が歓喜の絶頂に達した時にみせる表情と同じような気がする。
「池田は、私の財産めあてに、私と再婚したのかも知れませんわ。そうでもなければ、私に、こんな仕打ちをする筈はありません」
その通りだといいたいのを、三郎はひかえた。有里子が気の毒で、たまらなかった。
こんなにも美しい人が、何故、空恐ろしいほどの不幸の谷間で苦しまなければならないのかと思う。
有里子の手がシュロスヨハネスベルガーのグラスをそっと持った。
「だとしたら、私、いつか、池田に殺されますわね」
ゆっくりと、ワインを一息に飲み干して、有里子が寂しい微笑を浮べた。三郎は、その微笑の中に心が吸い込まれた。
「そんな馬鹿な……」
否定の言葉は弱かった。今度の旅で三郎がみる限り、池田新太郎の行動はおかしかった。
ホテルの部屋で妻の荷物を調べたり、愛人と思われる女を東京から呼び寄せていて、妻を放ったらかしにして、遊び廻《まわ》っていたり。
少くとも、池田新太郎の行動は、有里子に精神的な虐待を加えていた。その証拠に、有里子はやつれ、アルコールに救いを求めるようになっている。
「そんなふうにお考えだったら、別れたらどうなんですか」
酒の酔いにまかせて、三郎は口走った。本心が遂に出たという感じでもあった。
有里子が独身なら、三郎の愛は、同じ愛のままだったとしても、随分、心安らかになると思った。
「別れてくれますかしら……」
有里子が呟《つぶや》いた。
「離婚を私が申し出たら……」
それは難しいかも知れなかった。夫が別れないといい張れば、厄介であった。
「不貞は離婚の理由にはなりますが……」
仮に池田新太郎の不貞が立証されたとしても、彼が離婚に同意しない限り、裁判に持ちこまれる。それも、相手次第で長期に及ぶことが少くなかった。
「私って愚かね」
有里子があきらめの表情で話し出した。
「むかし、父からいわれたことがありますの。小さい時、歿《なくな》った母が、私のことを占いの人にみてもらったんですって。そうしたら、一生、結婚しないほうがいい、結婚すると必ず不幸になるっていわれたとか……」
「そんなことを、本気にしているんですか」
「でも、父は池田との縁談の時、最後まで反対でしたのよ」
「それは、お父様が、池田さんになにか信じられないものをお感じになっていたせいかも知れませんよ」
或《ある》いは一人娘を嫁に出したくない、一般の父親の心境のためか。
「父が長生きしてくれたら、私、池田とは再婚しませんでしたのに……」
父親と娘は、かなり心の深い部分でつながっていたようであった。有里子の話には、よく父親の思い出が出てくる。それにしては、母親のことは、あまり語っていない。
「お母様は、早く歿《なくな》られたんですか」
有里子が料理の皿にナイフとフォークを一つにして置いた。
鴨《かも》の料理は半分ほど残っている。
「食後に、もう一本、シュロスヨハネスベルガーを……今度はアイスワインがいいわ」
ソムリエを呼んで注文をした。
「母の思い出は、あまり、ありませんの。療養生活が長かったので……」
悪い質問をしたと、三郎は後悔した。
「僕の家は両親と弟がいるんですが、だからといって、住み心地のいい家じゃありませんよ」
話を大井家のことへ移した。
「父は二度、結婚をしていて、先妻の子が、この前死んだ松原理代です。僕は後妻の長男なんですが、どういうわけか、父とも母とも気が合わなくて、早くから家を出ました。父も母も、僕の弟は可愛いらしくて、店の跡つぎには弟を考えているようです。僕も、それでいいといっていますが、時折、ふと寂しくなることがあります。ドイツで根なし草のような生活を送っているのも、そうした家庭の影響があるみたいですが……」
二人で開けた二本のシュロスヨハネスベルガーは名酒であった。酔い心地に三郎は陶然とした。有里子のほうも、かなり酔っている。
彼女を支えて部屋へ戻った。ドアの鍵《かぎ》も三郎が開ける。
「それじゃ、おやすみなさい」
思い切ってドアを閉め、三郎は自分の部屋へ戻った。
服を脱ぎすてて、シャワーを浴びる。そうでもしないことには、このもやもやした気分から立ち直れそうもなかった。
が、バスタオルを巻いて、バスルームを出ると、ベッドの上に有里子がすわっていた。白いジョーゼットのガウンが、彼女を童女のようにみせている。
「どうしたんですか」
声が、かすれた。ドアは閉っていた筈である。
有里子が壁のドアを指した。
「そこから入って来たの」
コネクトツインのドアである。
「鍵がかかってなかったんですか」
「ホテルに頼んで、食事中に開けておいてもらったの」
あどけないような笑いが、三郎を包み込んだ。
「寂しくて、寂しくてたまらなかったの。怖くて、一人ではねむれそうもなかったから……ごめんなさいね」
それ以上を、三郎は有里子に喋《しやべ》らせなかった。彼女の唇はすでに三郎のものであった。慄えている柔らかな体を、三郎は夢心地で抱きしめ、若さにまかせて蹂躙《じゆうりん》した。三郎の勢いが尽きると、今度は有里子が彼を回復させた。
このたおやかな肉体の、どこにそんな女の情炎が残っているのかと三郎は驚きながら、彼女と共にどこまでも昇華した。
抱き合ったまま、眠った筈なのに、三郎が目をさましてみると、有里子の姿がない。
不安になって、間のドアをそっと開けた。
有里子は起きていた。
入って来た三郎をみて、テーブルの上に一本だけのせてあったグラーベンのワインをとり上げた。
「ちょうどよかったわ。これを開けて、夜明けの乾盃《かんぱい》をしましょう」
いわれるままに、三郎はワインのコルクを抜いた。
二つのグラスに注いで、一息に飲む。
「おいしいわ」
グラスをおいて、三郎へ手をさしのべる。
朝の情事は、新しいベッドで再開された。
三郎の思考は、昨夜から完全に動きを停め、ただ天女の肉体を抱きしめることで、我を忘れていた。
池田新太郎が倉重浩、北川ゆきと共に、トリアのホテルに到着したのは午すぎであった。
「いったい、どういうつもりなんだ、僕に無断で……大井君も大井君だ。トリアへ先に行くなら、何故、その旨、連絡しない」
どなりつけられて、三郎は答えた。
「御連絡は昨夜、有里子さんがなさっています。しかし、あなたはその時刻になってもホテルに戻っていらっしゃらなかったんです」
「何時だ」
「午後八時前です」
「冗談じゃない、とっくに戻っていたよ。ボンから帰ったのは夕方だった。家内の伝言があってフランクフルトへ行くとあったから、食事を待っていた。どんなに心配したかわからない」
今朝、フランクフルトの倉重浩から電話があって、はじめてトリアへ先行したのを知り、彼らと一緒にここへ来たといった。
「それではうかがいますが、貴方が昨日、ライン川下りの船に女性と乗っていらしたことの説明をして頂けませんか」
三郎の言葉に、池田新太郎が笑い出した。
「僕が、ライン川下りの船に女と乗っていた」
「アスマンズハウゼンで有里子さんが、それをみつけられたんです」
「驚いたな。有里子はそんなことをいっているのか」
胸のポケットを叩くようにした。
「冗談じゃない。僕は昨日、ボンの大学病院へ行ったんだ。その証拠もここにある」
有里子が蒼白《そうはく》な顔で、口を切った。
「あなた、私、あなたと離婚したいと思います。すぐ、そうして下さい」
「離婚……」
池田新太郎が有里子を見、それから視線を大井三郎に廻した。
「成程、新しい保護者が出来たというわけか」
僅かに沈黙して、すぐにいった。
「その返事はランスでしようじゃないか。今からランスへ行こう」
大井三郎が制した。
「ランスへなんのために行くのですか」
「倉重君たちの結婚式のシャンペンを買うためだよ。ドン・ペリニヨンの最上級のシャンペンを用意しよう。そのためにも、みんなでランスへドライブはどうかな」
彼の理由が、それだけでないのは誰にもわかった。シャンぺンは口実である。
有里子がうなずいた。
「いいわ。参りましょう。ランスで離婚の話し合いに応じて下さるなら……」
「僕も行きますよ」
大井三郎が叫んだ。有里子一人をランスへやるのは危険だと思った。
「俺《おれ》も行こう」
倉重がいい、北川ゆきが不安な表情をみせながら同意した。
一台の車は大井三郎が運転して、池田新太郎と有里子が同乗した。有里子はボストンバッグを膝《ひざ》にのせ、ひっそりとうつむいている。
もう一台には倉重浩と北川ゆきが乗った。
トリアからランスまでは国境を越えるが、距離にしては短い。
ランスは、葡萄の摘み取りをすっかり終えていた。ここの収穫も昨年以上らしい。
池田新太郎が指定したのは、ランス・ボワイエ・ホテルであった。
「急に行ったって、泊れませんよ」
三郎の抗議に、新太郎がいった。
「泊ろうとは思わないよ。あそこで夕食をとろうじゃないか。明日の倉重君たちの結婚式の前夜祭だ」
有里子が反対しないので、止むなく三郎は車をそっちへ向けた。あとでわかったことだったが、その時の有里子は口もきけないくらい、精神と肉体に異常を来たしていたのであった。
三郎が、それを知ったのは、車をホテルの庭へ入れてからであった。
ホテルの前庭には、昨年と同様に薔薇《ばら》の垣根があった。秋の薔薇がまだ咲いていて、庭師が殺虫剤のスプレーをかけている。
葡萄畑のふちにも、よく薔薇は植えられていた。虫がつきやすい花なので、葡萄に虫がつく前に、発見しやすいからであるという。
車から下りた有里子はその薔薇の垣根の近くまで行って、なつかしそうに花を眺めている。
その時、玄関から出て来た二人が、こっちをみて声を上げた。
「大井さん、どうしてここに……」
林より子と国松聡であった。
大井三郎も池田新太郎も、一足あとから車を下りた倉重浩と北川ゆきも仰天して、そっちへ走って行く。
「国松先生こそ、どうしてこちらに……」
「いや、ここで昼食を食べようと思って寄ったら、偶然、林さんと一緒になりましてね」
パリからランスを経て、トリアへ向う途中だったといった。
そこへ有里子も寄って来た。
「どうしました、有里子さん。顔色がよくないが……」
国松画伯がいうように、有里子は土気色《つちけいろ》の顔をしていた。
「花をみていたら、急にめまいがして……」
「それはいけない」
新太郎が彼女を抱いた。
「大井君、どこでもいい一部屋、きいてみてくれないか。夕方まででもいいんだ」
大井三郎が動く前に、林より子がとんで行った。ぞろぞろと、有里子を囲んでホテルのロビイへ入る。
「一部屋、都合してもらいました」
林より子が鍵を池田新太郎に渡し、彼は有里子を支え、彼女のボストンバッグを下げて階段を上って行く。あとからボーイと林より子が続いた。
有里子の体に、池田新太郎の手が触れるのを、大井三郎はたまらない気持で眺めた。が、今はまだ、彼は有里子の夫であった。
茫然《ぼうぜん》とロビイで待っている四人のところに林より子が戻って来た。なんともいえない表情をしている。
「お部屋なんですけれどね」
国松画伯をみた。
「あの部屋なんです……」
日頃、あまり顔色を変えない国松画伯が明らかに動揺した。
「さっきの部屋……」
「ええ、先生とみた……あの……」
「なんですか」
せっかちに大井三郎が訊いた。
「部屋がどうかしたんですか」
林より子がいい直した。
「昨年、松原理代さんが泊られた部屋と、彦一さん御夫婦の泊られた部屋……あの時は一階と二階が、別々の個室になるように階段の上のドアを閉めて使っていましたけれど、今日は上と下とつながった形で一部屋になっているんです」
「なんだって、そんな部屋に……」
よりによってという気持であった。弱り切っている有里子の神経に、あの思い出の部屋が、どんな影響を及ぼすのか。
「仕方がなかったんです。あの部屋を、ちょうど、私と国松先生がみせてもらって……そのあとだったから、ホテルの人は、うっかり……」
倉重が不審そうにした。
「なんで、国松先生と林さんは、このホテルの、あんな部屋をみていたんですか」
なつかしい思い出というものではなかった。
その問いに、国松が答えようとした時、池田新太郎が下りて来た。
「よろしかったら、僕らの部屋へ来ませんか。有里子は上の部屋で寝かしました。下の部屋はリビングになっているので……」
このホテルにはいわゆる客が談笑出来るロビイがなかった。シャトウホテルのために、それだけのスペースがとれなかったものである。バアもダイニングルームも、まだ閉っていた。ロビイで立ち話というわけにもいかない。
「どうか、部屋へ来て下さい。是非、皆さんにお話ししたいことがあるのです」
池田新太郎の言葉に、国松画伯が答えた。
「よろしい。参りましょう」
その部屋はホテルの前庭にむいていた。庭へ出る小さな戸口があって、その外は葡萄棚になっている。部屋の中は改装されていた。壁紙や調度が別のものになっている。やはり、ここで人が死んだということで、ホテル側が配慮したものでもあろうか。
松原理代が泊った時のベッドもなくなっていて、そこはリビングになっていた。二階が寝室、下が居間というような使用の仕方は、この部屋本来のものである。
テーブルを囲んで、全員が腰を下した。
「有里子さん、二階の部屋に一人で大丈夫ですか」
訊ねたのは三郎であった。そこで死んだわけではないが、昨年、彦一夫婦の泊った部屋なのである。
「大丈夫、御心配はいりません」
皮肉に池田新太郎が笑った。
「それよりも、本題にかかりましょう。さっき、トリアのホテルで大井君は僕が昨日、ボンへ行かなかったような発言をした。その反論をお目にかけましょう」
ポケットから出したのは、いくつかの診断書であった。
一つは日本の病院のものであった。なにげなく手にした大井三郎が、どきりとしたのは、それが精神科のものであったからである。
「大井君も林さんもドイツ語が達者なようだから、こちらも読めるでしょう。一つは精神科の診断書、もう一つは日本から持って行ったレントゲン写真をみての診断結果です」
大井三郎がそれをみた。脳腫瘍《のうしゆよう》に関する診断書である。
「結論から先にいいましょう」
池田新太郎が話し出した。
「有里子は異常を来たしていたのです。それは彼女の母親の遺伝です。彼女の母親は精神病でした。結婚後、二人の子供を産んでから発病し、そのあとの人生を精神病院で過して歿《なくな》りました」
北川ゆきが息を呑《の》んだ。
「有里子の父親は二人の子供への遺伝を案じて、なんとか二人を結婚させないように考えていたんです。有里子も彦一も今のところ正常だが、いつ発病するかわからない。二人が配偶者を持てば、子供が生れるかも知れない。孫への遺伝を大久保正人は食い止めようとしたんでしょう」
むしろ、平然とした表情で池田新太郎は喋り続けた。
「だが、彦一は君江という女が出来た。父親は彦一に事情を話し、子供を作らないように説得した。次にはわたしが有里子に惚《ほ》れた。わたしは有里子の母親の病名を知らずに有里子と結婚したんです。それを知ったのは、結婚後、彦一からでした。わたしは驚いて、その事実を大久保正人にただした。その結果、有里子の父親はわたしに頭を下げて、真相を打ちあけたんですよ」
国松画伯が、静かに口をはさんだ。
「それで、あなたは有里子さんと別れたのですか」
「子供を作れないとなると、考えますからね。わたしとしては自分の子供が欲しい。それに、妻がいつ、異常になるかも知れないというのは怖いことですよ。それでは安心して仕事も出来ない。男として、これは一生を左右しかねませんからね」
「それでは……」
怒りを抑えた声で、国松画伯が訊ねた。
「昨年、あなたが葡萄《ワイン》街道《ロード》へ、有里子さんを追って来た理由、また、有里子さんと再婚した理由はなんですか」
「心配だったんですよ。親父を失った有里子のことが……彦一という男の狂暴性は知っていましたし……」
たまりかねて、大井三郎が叫んだ。
「あんたは有里子さんの孤独を利用して、彦一さん夫婦を殺したんだ。昨年の殺人はあんたなんだ」
池田新太郎が嘲《ちよう》笑《しよう》した。
「これは、とんだことをいわれるものだ。なんで、わたしが殺人犯なのですかな」
三郎も、ひかなかった。
「あんたはフランクフルトでレンタカーの事故処理をすませるとすぐ空港へかけつけた。六時五十分発、パリ行の便にぎりぎり間に合う。パリ到着は八時。そこからタクシーをとばしてもレンタカーでもランスのこのホテルまでは一時間かからない。少くとも、僕らがダイニングルームで食事をしている最中に、あんたはこのホテルに着くことが出来た筈だ」
あの夜の食事は八時から始まって、三時間もかかっている。各自が部屋へひきあげたのは十一時であった。
「あの時、彦一さん夫婦は食事はいらないといって部屋にいた。フランス料理はもう真っ平だから、日本から持って来たカップラーメンでも食べるといって……あんたは彦一さんたちの部屋へ行って、彼らに農薬入りのワインを飲ませた。それから、この階段を下りて来て、やがて戻って来た僕の姉にも、そのワインを飲ませたんだ」
池田新太郎がテーブルを叩いた。
「馬鹿なことを……なんで、僕が松原理代を殺す……」
「姉さんとあんたは他人じゃなかった。あんたは姉さんに結婚をほのめかして、姉さんにみつがせていた。あんたには姉さんが邪魔だったんだ。有里子さんと再婚して、有里子さんの財産を手に入れるためにね」
「証拠があるのか。第一、俺がどうやってこのホテルの、どの部屋に彦一夫婦が泊っているのか知ることが出来る。ここのフロントに訊いてみろ。あの晩、日本人が来て、フロントでそういうことを訊いたかどうか……」
三郎が口を閉じた。
実をいえば、そのことの調査はすでに済んでいた。小さなホテルのことである。事件の翌日、フロントでは外部から客室の泊り客に関する問い合せは一切なかったと明言している。
絶句している大井三郎をみて、池田新太郎が勝ち誇った表情をみせた。
「それでは、君の知らない事実を教えてやろう。あの晩の殺人犯はこのわたしじゃない。有里子なんだ」
なにかいいかけた三郎を制した。
「彼女はすでに精神的に異常を来たしていた。弟が自分を殺すかも知れないという被害妄想、強迫観念にとりつかれていた。あの夜、彼女は弟夫婦の部屋へ農薬入りのカップラーメンを届けたんだ。彦一夫婦はそれを食って死んだ。まだ、あんた方がダイニングルームで食事をする前のことだ」
誰も口をきかなかった。池田新太郎だけが得意そうに話している。
「夜が更けて、みんながダイニングルームからひきあげてから、有里子は農薬入りのワインを持って、彦一の部屋から階段を下りてここへ来た」
「鍵はどうしたんです」
必死で三郎が反論した。
「あの晩、ここの間の鍵はかかっていた筈ですよ」
「有里子がフロントにたのんだのさ。上下の部屋に泊っているのは姉弟だから、それに、自分は心臓の持病があって夜半に発作をおこすと大変だからといって、メイドに鍵をあけておいてもらった。こっちのホテルは、女性からそうした申し出があった場合は疑わないからな」
メイドはその依頼をしたのが松原理代と思い込んで、彼女が食事に出かけている間に、間のドアの鍵を開けておいた。
「何故、有里子さんが、姉を殺したんです」
三郎の声は悲鳴に近かった。
「それは、あんたがいったろう。わたしと理代はいい仲だった。結婚の約束もしていた。有里子はそれを知って、わたしと復縁するために、理代の存在を否定したんだよ」
「それじゃ、彦一さん夫婦を車のトランクまで運んだのは誰ですか」
倉重浩が漸《ようや》く陣営をたて直したという感じで訊ねた。
「あれは、多分……」
池田新太郎が苦笑した。
「理代の……パトロンだよ」
「パトロン……」
北川ゆきが呟いた。
「だったら、池田さんが……」
「冗談じゃない。わたしは愛人だったかも知れないが、パトロンじゃない」
「誰です」
倉重浩が追及した。
「そいつをいってくれませんか」
「竹内喜夫だよ」
意外な名前が出た。
「彼は理代のパトロンなんだ。昨年旅行中も、二人はよくおたがいの部屋を利用していたよ。大井君は添乗員のくせに、知らなかったのかね」
「しかし、竹内さんは大抵、倉重さんと同室で……」
「松原理代は一人部屋だったね。それに、倉重さんは時々、そちらのお嬢さんの部屋へ泊り込んだことがあった筈だ。その時、竹内は自由だったろうが……」
「それじゃ、竹内さんが死体をトランクに運んだんですか」
信じられない表情で倉重が訊いた。
「何故、そんなことをしたのか。多分、彼はあの夜、倉重さんがそっちのお嬢さんの部屋へ出かけたのをみて、自分も松原理代の部屋へ行った。ノックをしても返事がなかったが、ドアは開いた。彼女はパトロンが来るかも知れないと思って、ドアの鍵は閉めていなかったんだ。入ってみると理代は死んでいる。二階へ通じるドアも開けっぱなしだ。そこから上ってみて、竹内は彦一夫婦が死んでいるので、更に仰天したんだろう。或る程度は理代から事情を聞いていた彼としては、理代が二人を毒殺して、自分も死んだと判断した。しかし、困ったのは自分の立場だ。事件が表沙汰《おもてざた》になって調べられると、自分と理代の関係が暴露されるかも知れない。女房子のある彼としては、とんでもないことだ。錯乱した彼は、ともかくも現場を混乱させたほうがいいと思った。それで二人の死体を理代の部屋のテラスから外の車へ運んだんだろう。その辺は、わたしとしても推察なのでわからないがね」
咽喉《のど》が渇いたといい、池田は部屋のすみにあった有里子のボストンバッグを開けた。その中に二本のワインの瓶があった。ベルンカステルで買ったグラーベンのワインである。
「池田さん」
国松画伯の声が静かに呼んだ。
「あなたのお話は大変、参考になりました。ただ、少々の間違いがあります。その点を訂正させて頂きましょう」
林より子が小さく画伯にうなずき、自分のメモ帖《ちよう》をさし出した。
「わたしは、こちらにいらっしゃる林より子さんの協力を得て、昨年の事件について、私なりの調査をしていました。それは、私の友人であった早川先生のためでもあり、気の毒な有里子さんのためでもあったわけです」
温厚な国松画伯の声に悲しみがあった。が、それをふり切るようにして続けた。
「有里子さんの家系、また、それに発する事件の発端は池田さんのいわれた通りです。有里子さんが被害妄想に追いつめられて殺人を犯すことになったのは……。が、そうしむけたのは池田さん、あなただったのではありませんか」
池田新太郎は虚をつかれたように狼狽《ろうばい》した。
「あなたは、お父様が歿《なくな》られたあと、なにかにつけて有里子さんに電話をして、親切ごかしに彦一さんの狂暴さを話し、欲のためには姉さんも殺しかねないといい続けた。そして、そのチャンスはドイツ旅行の最中に必ずやってくると暗示にかけた」
「知らない。そんなことは……」
「もう一つ、あなたは生来の派手好きとギャンブル狂いのために莫大《ばくだい》な借金を背負って困り切っている。私はあなたの編集部で、その話をききました」
「嘘《うそ》だ……」
だが、その否定の声は如何《いか》にも力がなかった。
「ともあれ、有里子さんは自分がいつか彦一さん夫婦に殺される、それがドイツのワイン旅行の最中だと信じ込んだのです。そして、かわいそうに、あの夜、上等のワインの瓶にこのホテルの庭で手に入れた薔薇の殺虫剤を入れて、それを彦一さんの部屋へ届けた。彦一さん夫婦は、それを持って階下の松原理代さんの部屋へ行った。その夜、彦一さんは理代さんから、池田さんとの仲について訊き出そうと考えていたのです。その約束を二人がしているのを、わたしはホテルのバアで御一緒して、耳にしていました。ですから、翌日、理代さんが自分の部屋で一人で死んでいると知って、これはおかしいと思いました。あの晩、理代さんの部屋でワインを飲んで死んだのは三人なのです。そこから先は、池田さんの推理が当っています。竹内さんはあの夜、理代さんの部屋を訪ね、三人で死んでいるのをみて仰天し、ともかく、彦一さん夫婦を別にしようと、部屋のテラスから外へ押し出した。けれども、そこで自分のしていることに気づき、怖ろしくなって、部屋へ逃げ返ってしまった。これは、竹内さん自身が、わたしに打ちあけられたことです。問題はそのあとです。大井さんがいったように、池田さん、あなたはあの夜、このホテルに忍んで来ていた。もしも、有里子さんが行動をおこさなければ、なんとかして、自分が彦一さん夫婦を殺す。さもないと、あなたは有里子さんと再婚出来ず莫大《ばくだい》な借金が表沙汰になって、社会的に葬られかねないところだったからですよ」
池田新太郎は黙っていたが、その顔には不貞腐《ふてくさ》れたような笑いが浮んでいた。
「あなたは、すべてが思い通りになったのをホテルの外に忍んでいて、気がついたと思います。もはや、自分は手を汚す必要がない。けれども、あなたにとって困るのは、あなたと再婚する前に、有里子さんが犯人とわかってはまずい。で、やはり、犯行をくらますために彦一さん夫婦の死体を、レンタカーのトランクをこじあけて、そこへかくしました。つまり、有里子さんが犯人なら、あの重い彦一さんを到底、外の車のトランクまで運ぶことは出来ないと判断されるからです。これは、結果的には、その通りでした。有里子さんは犯人にならず、あなたは恐怖と罪の意識でいよいよ神経を侵されていった有里子さんと、思い通りに再婚した。今、有里子さんが殺人犯人として告発されたとしても、あなたは少しも痛痒《つうよう》を感じない。誠実な夫として妻を弁護し、そして、やがて有里子さんの財産はすべて、あなたのものになる」
高らかに、池田新太郎が笑い出した。
「その通りかも知れませんよ。しかし、わたしは、なに一つ罪を犯してはいません。少くとも、殺人はわたしの手で演じられたわけではありません。それに、あなたが今、おっしゃったことは、すべて推量です。わたしが否定すればそれでおしまいだ。それに、もう一つ、教えてあげましょう。そこの診断書ですよ。有里子は精神に異常を来たしているだけではなく、先天的に脳に腫瘍があるのです。それは最近、悪化していて、いつその付近の血管を圧迫し、破裂させるかわからない。ボンの医者の診断では、早くて数か月、遅くとも、あと一年ということですよ。有里子は一年後に死ぬんです」
ワインの瓶を取り上げてグラスに注いだ。それは、昨日、三郎が有里子と半分だけあけたグラーベンであった。
如何にも旨そうに、池田新太郎がグラスを空ける。が、それと同時に彼の体に異常が起った。
苦悶《くもん》の声を上げ、激痛に顔をゆがませて池田新太郎がぶっ倒れるのを、人々はあっけにとられて見守っていた。
ホテルは大さわぎになっていた。
救急車がかけつけ、警官が車で乗りつける。そんな様子を三郎は崖《がけ》の下から眺めていた。
そこはランスの葡萄畑の中であった。
摘み取りの終った畑には、人の姿はなく、時折、小鳥の啼《な》き声が聞えていた。
三郎の傍で、有里子はひっそりと空をみつめていた。
穏やかな表情は、先刻、三郎に手をひかれてホテルを抜け出した時と少しも変っていなかった。
むしろ、三郎が知っているどの時よりも幸せそうで、落ち着いていた。
あと二日
南国の陽を照らし給え
小さく、有里子の口から、リルケの詩がくちずさまれた。
あと二日……せめて、あと二日……。
三郎も呟いた。
せめて、あと二日、二人で生きる天地があったら……。
が、それは無理であった。
「有里子さん……」
気をとり直すようにして、三郎は有里子の肩に手をかけた。
「僕が一生、傍にいるから……もう怖いことはなんにもない。心配しなくていいんですよ」
有里子が、三郎をみつめて、嬉《うれ》しそうにうなずいた。細い手がしっかりと三郎の手を握りしめる。
三郎はワインの瓶をゆっくり口に近づけた。
あの部屋から、どさくさにまぎれて持ち出した、もう一本のグラーベンであった。
コルクを抜き、そこへホテルの庭から盗んで来た農薬を入れた。それは、数時間前、有里子が池田新太郎を殺すために夢中でしでかしたのと、同じであった。
有里子は目を細めるようにして、三郎のすることをみつめていた。
「いいですか、有里子さん」
ワインを口に含み、三郎はその口を有里子の口に押しあてた。
抱き合って、葡萄畑にうずくまっている二人の傍で、枯れた葡萄の葉がかすかな風に鳴っている。
角川文庫『葡萄街道の殺人』昭和63年4月10日初版発行
平成9年6月20日18版発行