平岩弓枝
旅路(中)
僅《わず》かな雲の切れ間から月が覗《のぞ》いた。
広い原野の中に、銀色に光るレールがゆるいカーブを見せている。
あの激しい風雨が、まるで嘘《うそ》のようだった。
雄一郎はときどき立ち止り、うしろから来る三千代を待った。
「三千代さん、もうすぐですよ。宿へついたら、とにかくその濡《ぬ》れた着物を取りかえましょう」
雄一郎は月明りに時計を透かした。
彼が乗務する旭川《あさひかわ》発午前六時二十分の列車まで、あとわずか一時間四十五分しかなかった。
「寒いですか?」
「…………」
三千代は首を振った。
「宿でひと休みしたら、僕の乗務する小樽《おたる》行の列車で札幌《さつぽろ》へ帰ってくださいよ、いいですね」
「嫌だと申しましたら……」
「たとえどんな事があっても、僕はあなたを札幌まで連れて行きます」
「ずいぶん強引なかたね……」
口許《くちもと》で薄く笑った。
「いずれにしても、旭川の駅からお宅の方へ連絡をしておきましょう、少しでも早くあなたが無事であることをお知らせして、安心させてあげなくては……」
雄一郎は手をのばして三千代の腕をとった。
「さア、すこしいそぎましょう、もうあまり時間がありませんから……それに体も温まりますよ」
何をされても、三千代は逆らわなかった。
つい先刻《さつき》までその瞳《め》の中にはげしく燃えていた炎が、今ではすっかり消えていた。それどころか、三千代の体がふるえているのが、濡《ぬ》れた衣服を通して雄一郎にもはっきり感じ取れた。
雄一郎はちらと三千代を見た。
その横顔は青白く、まるで仮面をかぶったように表情が無かった。
(三千代さん……何故自殺だなんて馬鹿な考えを起したりしたんだ……)
訊《き》いたところで三千代は答えはしないだろう。また訊けもしなかった。
その原因の一つに自分が含まれているらしいことを、雄一郎は漠然とではあるが感じていた。
幼な馴染《なじ》みの三千代が、それほどまでに追いつめられたのは哀《あわ》れだと思う。しかし、雄一郎はそれにたいして特別に何もしてやれない。恐らく将来も何もしてやれないだろう。
彼が三千代にしてやれることといったら、宿屋について濡れた着物を着換えさせ、札幌の南部宅に送り届けることくらいだった。
そんな事なら、アカの他人でもする。
あとは、三千代の心の傷の癒えるのを手を束《つか》ねて見守るより仕方がなかった。
(すこし無責任すぎはしないだろうか……)
雄一郎はひどく惨《みじめ》な気持がした。
(もし俺《おれ》が現在独身だったとしたら……三千代さんに対してどういう態度をとっていただろう……)
雄一郎はもう一度三千代の横顔を盗み見た。
少しいそいだせいか、三千代の頬《ほお》にうっすらと紅《あか》みがさしている。歩くとき、足許《あしもと》にまつわりつく濡れた裾《すそ》の乱れをしきりに気にしていた。
(もう大丈夫《だいじようぶ》……)
雄一郎はほっとした。
「さっきは済みません、あなたを撲《なぐ》ったりして……つい夢中であんなことをしてしまったんです、ご免なさい……」
「いいえ、いいんですの……」
三千代は雄一郎のほうは見ないで、ただ首だけ振った。
「私……おかげで夢から覚めましたわ……」
「申しわけありません……」
「私、我儘《わがまま》でした、祖父や祖母のこともちっとも考えなかったんですものね」
「はア……」
三千代は自分から雄一郎の手をはずした。
「危いですよ、いいからおつかまりなさい」
「いいえ、もういいんです。一人で歩けます……」
「そうですか……」
雄一郎は淡白に言って手を引っこめた。
まったく三千代の言葉ではないが、先刻《さつき》の事がまるで夢のようだった。
『雄一郎さん、もう探さないでください、お願いです、私の好きなようにさせてください。いつまでもお仕合せに、さようなら……三千代』
テーブルの上にあった三千代の走り書を見たとたん、雄一郎は折からの激しい風雨の中へとび出して行った。
三千代はなかなか見つからなかった。
ゴーゴーと音をたてて逆巻《さかま》く河の流れを見るたびに、雄一郎は胆を冷やした。この流れの渦の中にとびこんでしまっていたら、そのときは最早《もはや》絶望である。
彼は三千代の無事を神に祈りながら、河岸にそって走った。
しかし三千代の姿はおろか、遺留品らしいものも見あたらない。
(駄目《だめ》だ、彼女は死んでしまった……)
半ば諦《あきら》めて、雄一郎は岸辺に立ちつくした。
三千代の子供のころや少女時代の面影が、次々と彼の脳裏をかすめた。
どのくらいそうしていたのだろう、気がつくと、雨も風もかなり小止みになっている。彼は駅へ真直《まつす》ぐ帰るつもりで、線路の上をとぼとぼ歩きだした。
その時だった。彼はふとさっきの三千代の言葉を思い出した。
「私だって鉄道員の家族です、鉄道にご迷惑をかけるような死にかたはいたしませんわ……」
それは三千代の精一杯の強がりだったに違いない。
三千代は雄一郎がこの次の小樽行の一番列車に乗ることを知っている。
(そうだ、もしかしたら……)
雄一郎は踵《きびす》をかえして、線路の上を、もと来た方向にむかって走りだした。
線路と線路の間の枕木《まくらぎ》の上で、倒れている三千代の姿を発見したのはそれから間もなくのことである。
「三千代さん、しっかりするんだ」
雄一郎に助け起されて眼をあけた三千代は、それが雄一郎だと知ると、はげしく身をもがいた。
「嫌、放《ほう》っておいて!」
強い力で雄一郎を突きはなそうとした。
「三千代さん……」
「あんたなんかに関係のないことだわ、どうせ私なんか死んでしまったほうがいいのよ」
「どうしてそんな馬鹿なことを言うんだ、あなたが死んでしまったら、南部のおやっさんや奥さんはどうなるんだ……」
「そんなこと、どうだっていいことよ、私の勝手よ」
「馬鹿《ばか》!」
雄一郎の手が三千代の頬《ほお》で鳴った。
叩《たた》いてしまってから、彼はハッとした。
三千代に済まないことをしてしまったという悔恨が、彼の全身を強張《こわば》らせた。
「み、三千代さん……」
「…………」
突然、三千代が声をあげて泣きだした。
堪《た》えに堪えていた哀《かな》しみが、急に堰《せき》を切って流れだしたかのようだった。
三千代は線路に頬を押し当て、身をよじって泣いた。
そんな三千代の姿を、雄一郎はただ呆然《ぼうぜん》と見つめていた。
こんな三千代を見るのははじめてだったし、実際彼は何をしたらいいのか、まるで見当もつかなかった。彼はただ待つよりほかに方法がなかった。
しばらくすると、三千代がふッと泣きやんだ。そのままじっと動かない。
雄一郎はそっと三千代の顔をのぞき込んだ。
三千代は空《うつろ》な眼で、闇《やみ》をぼんやり見つめている様子だった。
「さ、帰ろう……三千代さん……」
雄一郎は立ち上ると、帽子をかぶり直した。
「足許が暗いから気をつけて……なんなら、僕の手につかまりなさい」
三千代は首を振ると、のろのろした仕草で身を起した。
「だいじょうぶ、一人で行けます……」
「そう……じゃア気をつけて……」
雄一郎はわざとそのまま歩きだした。
もう三千代が逃げだすことはあるまいと思った。
駅前の宿屋の主人は、真夜中のこの騒動に、ありありと迷惑を顔に出していた。
だが、制服の雄一郎が手を合わさんばかりにして頼んだのと、全身|濡《ぬ》れねずみの三千代の姿を見て半分は同情から、あとの半分は好奇心からとにかく女房の古着を出してくれたので、三千代はどうやら見苦しくない程度の形をととのえることが出来た。
その三千代の手をとって旭川の駅へ駆けつけた雄一郎は、やっとのことで乗務員点呼に間に合った。
同僚たちは、普段|真面目《まじめ》な雄一郎が女の手をひいて、しかも点呼ぎりぎりに駆けつけたことにたいして、一斉に不審の眼を向けたが、雄一郎は三千代のことを考えて、わざと弁解しなかった。
たとえ何と思われようとも、絶対に疚《やま》しいことをしてはいないのだという自信も手伝っていたのである。
旭川から札幌まで、雄一郎は客車の三千代から目をはなさなかった。
また、雄一郎が気を遣っているのを知っているくせに、三千代は一度も彼の方を見なかった。
(それでいい……人生を途中下車する気さえ捨ててくれたら、いくら彼女に恨まれたって俺《おれ》は構わない。あとはただ彼女が仕合《しあわ》せになるのを祈るばかりだ……)
雄一郎はそう思った。
(もう彼女と俺とは別々の目的地へ向って走る列車なのだ、決して後もどりするわけには行かない……俺と同じ列車に乗っているのは彼女ではなく、有里なのだ……)
彼は胸の中で、自分自身に向ってきっぱりと言い切った。
窓からは、明るい太陽の光がいっぱいに射しはじめた。その光が、寝不足の彼の眼にはひどく眩《まぶ》しかった。
雄一郎は昨夜のことを払いのけるように胸を張った。
「毎度御乗車ありがとうございます、乗車券をお持ちでないかた、乗り越しのかたはいらっしゃいませんか……」
いつもと変らぬ張りのある声で歩いて行った。
旭川での三千代との出来事を雄一郎は家族の誰にも話さなかった。
夕食の団欒《だんらん》の折に話すにはあまりに複雑であったし、話したくない気持のほうが強く働いた。
しかし、雄一郎と三千代が旭川で出逢《であ》ったという話は、さまざまな憶測や尾ひれがついて、あっという間に、世間へ広まった。
有里がその噂《うわさ》を耳にしたのは、そのことがあって十日あまり後の盆踊りの夜であった。
近くの神社の境内《けいだい》で、毎年旧盆の頃、櫓《やぐら》を組んで盆踊りをする。
千枝は毎晩のように出掛けて行ったが、有里は夫が勤務のときはもちろん、非番で家に居るときでもめったに外へは出なかった。
家には結構仕事があったし、夫だけ残して外へ遊びに出る気がしなかった。
だが、その夜は、どうしても有里に盆踊りを観せたいという千枝の熱意と、
「俺は構わん、千枝と行って来いよ、どうせ一年に一回のことだもんな……」
という雄一郎の言葉もあって、有里は珍しく出掛ける気になった。
神社の境内では、櫓の太鼓《たいこ》に合せて、浴衣《ゆかた》姿の老若男女が楽しそうに踊りの輪をつくっていた。
「ね、有里姉さん、踊ろう」
千枝が有里の手を引っ張った。
「ううん、私は見物してる、千枝ちゃん踊ってらっしゃい」
「踊りなんかすぐおぼえられるよ、ね、行こうよ」
「私は見ているほうが楽しいの……だから、行ってらっしゃい」
「そうかい、じゃ……」
千枝はすぐ踊りの輪にとけ込んで行った。
一度踊りの中にはいってしまうと、千枝はなかなか出て来なかった。
有里はまだお詣《まい》りをすませていないことを思い出して、そっとその場を離れた。
お水屋《みずや》で手と口を漱《すす》いでいると、すぐそばで人の話声がした。どうやら話の中心になっているのは、千枝の勤めている売店で一緒《いつしよ》に働いている小母さんらしい。
むこうからは暗くてよく見えないらしく、売店の小母さんは有里には気がつかなかった。
あとで挨拶《あいさつ》するつもりで濡れた手を拭《ふ》いていると、会話の中に、ちらと雄一郎や千枝の名前が出たので思わず聞き耳をたてた。
「それがさ、もともと千枝ちゃんとこの兄さんってのは、南部駅長さんとこの三千代さんに惚《ほ》れてたでネ……三千代さんが東京へ嫁に行って失恋したんで、そのかわりに今の嫁さんをもろうたんだっていう話だよ」
「そったら、焼けぼっくいに火がついたべな」
そう言ったのは、どうやら駅前の畳屋の女房らしかった。
「南部さんとこの娘は離縁になって戻って来たのかね」
これは顔が木の蔭になっていてよく見えない。
「まだ籍はそのままだべな」
畳屋の女房が答えた。
「それで、他の男と逢引《あいびき》しとるってか?」
「そりゃア前にもよう小樽で逢うてたでよ、いっぺんなど、ばったり二人で肩を並べて歩いとるのに出合うたことさえあったわね」
「それでも、なにも旭川まで行って忍び逢わんでもよかろうがね」
「それがサ、二人で駆け落ちしようとしたんじゃと……」
売店の小母さんが声をひそめた。
「ええッ、駆け落ち……?」
「はア……どうにも抜きさしならんことになってしもうたらしいんじゃね、一方は亭主持だし、一方は女房持じゃもんな……」
「それで、どうして捕ったんじゃ?」
「南部さんの家の方から手が回ったそうだでや」
「室伏の嫁さんは、どうしたかの」
「それが燈台下暗しで、何んにも知らんらしい……今夜も暢気《のんき》らしゅう、盆踊り見物しとったで……」
畳屋の女房が声をころして笑った。
「だども、気の毒にさあ、はるばる紀州から嫁に来ただによオ……」
売店の小母さんが言った。
「そいでもよ、嫁さんも顔に似合わず腹黒い女じゃというでないの、もともと、姉さんの婿《むこ》さんになるのをわきから取ってしもうて……その上、嫁に来て早々婿さんの姉さんを横浜サ追ん出したっていうじゃんか」
「あれは、はる子さんが自分から去ったでよオ」
「いいや、追い出したのかも知れんて……それが証拠にその横浜とかへ行んだ姉さん、一度もこっちへ帰って来てねえっていうでねえの」
「フン、そりゃそうじゃ」
有里は聞いているうちに、息がつまりそうになった。
もはや、盆踊りの太鼓の音も、人々の笑いさざめく声も聞えなかった。
有里の頭の中で、今聴いたばかりの夫と三千代とのことが激しく渦を巻いていた。
噂のどれもが有里には嘘《うそ》だと思われ、また真実にも思われた。
有里はそっと逃げるように、その場をはなれた。
盆踊りはまだ続いていた。
しかし有里は、すでに踊りを見物する気力さえ失ってしまった。群衆の中に居るのがつらかった。
有里はなんだか急に人目が気になりだした。
(でも、まさかそんなことが……)
いくら打ち消しても、いや、打ち消せば打ち消すほど不安は前にも増してつのるばかりだった。
有里は境内の隅に積んである材木の処へ行って腰を下した。
夫の顔と三千代の顔がかわるがわる眼の前に浮かんでくる。
雄一郎はいつも有里に、
「お前が俺にとって初めての女だし、これからもそうだ……」
と言っていた。
無口で誠実な雄一郎のことだけに、よもや嘘ではあるまい。もしそれが嘘だったとしたら……。
親にそむいてまで北海道くんだりまで嫁いで来た有里は、これから先、何を信じて生きて行けばいいのだろう。
有里はあわてて首をふった。
(いいえ、そんなの嘘だわ、嘘にきまっている……)
有里の足許《あしもと》で蟋蟀《こおろぎ》が鳴いていた。
それが有里の心を、ふっと遠い故郷の尾鷲《おわせ》へ運んで行った。
尾鷲でもいまごろは盆踊りが盛んである。一夏に二、三度は有里もその踊りの輪の中へはいっておどった。
そんな時、村の若者たちの眼は一斉に尾鷲一の資産家中里家の末娘有里に向けられるのだった。
男たちは好奇心と一種の近寄りがたい畏敬《いけい》の眼で、娘たちは羨望《せんぼう》の眼差《まなざ》しで有里をみつめた。
涼しい夜風が、濃い潮の香を運んでくる。磯《いそ》に打ち寄せる波の音が聞える夜もあった。
躾《しつけ》の厳しい中里家でも、この時だけは夜の帰宅時間が多少大目に見られた。といっても、午後九時半までには帰らなければならなかったのだが、有里にとって盆踊りの夜こそは|冒 険《アバンチユール》と幻想《ロマン》とを充分満足させてくれる時だった。
盆踊りがすむと、それは暑い夏の終りであると同時に、有里にとっては楽しい夏休みの終りをも意味した。再び京都の女学校での寄宿舎生活に帰るのである。
姉はそんな有里のことを幼稚だといって笑ったが、有里はやはり幾つになっても盆踊りが待ちどおしかった。
そのとき、有里の傍《そば》にそっと人影が立った。
「おばんです……」
有里はふと我にかえった。
「あら、岡本さん……」
千枝の恋人の良平が立っていた。
「千枝さん、今、踊りの中よ」
「いいです……俺、ちょっと、あんたに話があるで……」
「私に……?」
「はあ……」
良平はちょっとあたりを見回した。人気のないのを確めると、
「実は……今、俺のお父《どう》が室伏さんの家へ行ったッす……」
緊張しきった表情で言った。
「お父さまが、うちへ……?」
「はア……お父……室伏さんのこと、誤解しとるで……俺《おれ》と千枝ちゃんの縁談ことわりに行ったっス」
「縁談を……?」
有里は眉《まゆ》をひそめた。
「お父……つまらん噂《うわさ》、本気にしとるで……室伏さん、誤解したでね」
「主人を誤解なさるって……」
「噂、まだ聞かんかね……」
良平が当惑したように頭をかいた。
「噂……」
有里はハッとした。
(それでは、さっき売店の小母さんたちが話していた……)
有里の顔色が変ったのを知ると、
「でたらめの噂だべ……俺アちゃんと知っとる……でたらめじゃ。世間の人はみんな誤解しとるべさ」
あわてて言った。
「岡本さん、噂って……主人と……三千代さんのことでしょうか……」
「いやあ、知ってなさったかね」
「ええ……」
「信じたのかね」
「わかりません……まさかとは思いますけど……」
「でたらめじゃい……大嘘だべ」
良平は語気鋭く言った。
「岡本さん……」
「室伏さん、そんな人でない……でたらめじゃ、みんな誤解しとるね」
「ありがとうございます……」
有里は思わず礼を言ってしまった。
正直な気持、今の有里にはこの良平の言葉くらい有難く、勇気づけられるものはなかった。
「でも、岡本さんのお父さん、あの噂で千枝さんのことを……」
「お父は単純だで、人の言うことすぐ真《ま》にうけるでね……放《ほう》っとけば、きっと分る……もう少し時間かけてみれば、なにが正しいのか、なにが間違ってるか良く分るでね……奥さんももう少しの辛抱だベサ」
「ええ……」
「俺、当分、千枝ちゃんに逢《あ》わねえでね……辛《つら》いが、お父が逢ったらいかんというでね、逢わんよと約束したで……お父に今、逆らうと余計こじれるでね、あんたから千枝ちゃんによく言うてやってけれ」
「岡本さん……千枝さんのこと……心変りしないで下さいね。千枝さんはあなたのこと好きなんですよ」
「俺、三年もかかって千枝ちゃんに惚《ほ》れたでネ……忘れろといわれても、そう簡単には忘れられんでよ……安心してけれ」
良平は人なつっこい笑いを浮かべると、
「じゃ、よろしく頼ンます」
くるりと背を向けた。
「あっ、待ってください」
有里が呼びとめた。
「え、なんだね」
「岡本さん、一つだけきかせて……主人と三千代さんとが、昔、好きだったってこと……本当なんでしょうか」
良平の眼に明らかに狼狽《ろうばい》の色が浮かんだ。
「俺、知らん……本当に知らんでよ……」
「…………」
有里は眼を伏せた。
(やっぱり、噂はある程度は本当だったんだわ……)
なんだか熱いものがこみ上げてくるのを、有里はあわててのみ込んだ。
「それでも……奥さん……」
良平が戻って来て、遠慮がちに口をひらいた。
「もしも、昔、室伏さんと三千代さんが好き合うていたとしてもよ……ずっと昔のことだでよ……三千代さんは人の奥さんだし、室伏さんにはあんたが居るでよ……昔のことより、今のほうが大事だベサ……な、そうでねえけ、奥さん……」
「ええ……」
有里は眼を伏せたまま頷《うなず》いた。
踊りの輪が次第に広がっていた。太鼓の音がいちだんと高くなり、踊りも活気を帯びている。
昔のことより、今が大事……。
良平の言葉を唯一《ゆいいつ》の杖《つえ》にして縋《すが》りつきながら、有里の心はやっぱり晴れなかった。
考えれば考えるほど、昔、雄一郎と三千代が特別な感情を持ち合っていたということは、真実のように思われた。
有里は、はじめて三千代と逢ったときのことを思い出した。自分をみつめた三千代の眼の色を思い出した。
有里の記憶にある三千代の眼はいつも激しく、有里をみつめていた。
それは、三千代が今もなお、雄一郎を愛している、なによりのあかしのように思われた。
「ああ面白かった……」
ようやく踊り疲れたのか、千枝が踊りの輪から脱けて来た。
「盆踊りっていいもんだねえ、千枝、毎年踊ってるけど……いつ踊っても楽しいよ……どうしてお姉さん踊らなかったの」
「なんだか、きまりが悪くて……」
「兄ちゃんと一緒なら踊ったでしょう」
「さあ……」
有里は千枝から眼をはずした。
「踊る阿呆《あほう》に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損、そん……ってのがあるでしょう」
「…………」
「お姉さん、なに考えてるの?」
いつもと違う有里の様子に、千枝は不審そうな顔をした。
「ううん、別に……」
有里はあわてて笑顔をつくった。
家に戻ると、雄一郎は一人でじっと何事か考え込んでいた。
二人が帰って来たことに気づくと、
「やあ、お帰り……」
とってつけたような微笑を向けた。
「面白かったか?」
「うん、とっても良かったよ、兄ちゃんも来ればよかったのに……」
「…………」
雄一郎はちょっと何か言いかけたが、結局何も言わずに読みさしの本をひろげた。
千枝が風呂《ふろ》へ這入《はい》りに行ったのを見すましてから、有里は雄一郎の隣りに坐《すわ》った。
「あなた……」
「なんだ……」
本から顔をあげずに答えた。
「留守《るす》中に、どなたかいらっしゃいませんでした……?」
「いや……何故だ」
雄一郎はやっぱり本を読んだままである。
しかし有里は夫の横顔に微妙な翳《かげ》りのあることに気づいていた。
「何故そんなことを聞くんだ」
ようやく顔を上げて、さぐるような眼で有里を見た。
「いいえ……ただ、うかがってみただけですけど……」
有里はさりげなく風呂の加減をみに立ち上った。
盆踊りの夜から、雄一郎と有里の間に微妙な心のくいちがいが生れた。
夫が自分に嘘《うそ》をついている。
留守中に岡本新平が訪ねて来たことを、雄一郎が隠している……。
そのことが有里にはショックだった。
けっして疑うまい、疑ってはならないとあせればあせるほど、その気持と裏はらに、有里の心の中の夫への不信は芽をふき、枝をのばして行くばかりだった。
おたがいの心をおたがいに隠そうとする余り、雄一郎と有里は逆に口数が多くなっていった。
そのくせ、会話は二人の心を通り抜けず、上っ面だけをなでて通って行った。
心の通い合わない会話を持つ空《むな》しさは、いっそう夫婦の間に違和感を増した。
そんなある日、雄一郎と千枝をいつものように送り出してしまってから、有里は気をとり直して戸棚の整理をはじめた。
結婚して二年目である。ぼつぼつ使い古した衣類だの、縫い直しをしなければならないものなどが出て来ている。
有里は古いものと、まだ使えるものとを丹念によりわけ、一つずつ整理して行った。
そうしていると、不思議と有里は気持が落着くのだ。
昼近くなって、どうやら全部の整理が終り、最後に大きな箱を棚の上へあげようとすると、棚の奥にあったらしい小さなボール箱がはずみで下へころげ落ちた。
落ちた拍子《ひようし》に、箱の蓋《ふた》があいて、中から古い手紙の束が散らばった。
なにげなく拾いあげて、有里はどきりとした。白い封筒の差出人の名は三千代であった。
封筒の古びていることから察しても、その手紙は何年も前のものと思われた。
封をひらいて、中味を読みたい誘惑を漸《ようや》く堪え、有里はのろのろと手紙を箱の中へ納めた。
有里の胸の動悸《どうき》がはげしくなっていた。
(やっぱり本当だったんだ……)
こんな手紙を大事そうに保存しているところをみると、雄一郎はまだ三千代をきっぱり思い切っていないのに違いない。
有里は目の前が真暗《まつくら》になるような気がした。額に脂汗がにじんでいる。
(いいえ、そうじゃないわ……あの人を疑ってはいけない、あの人はそんなひどい人ではない……)
有里は果てしもなく広がる疑惑の中で、かろうじて踏み止《とど》まった。
噂《うわさ》は噂を呼ぶという。
また、四面楚歌《しめんそか》という言葉があるが、これは一夜あけてみたら、まわりはすべて敵の歌ばかり聞えて来たという、中国の故事である。
雄一郎の場合がそうであった。
旭川で雄一郎のとった行動にも、多少の無用心な点があったことは事実だが、世間はいつのまにか雄一郎と三千代の関係を抜きさしならぬもの、宿命の悲恋、道ならぬ恋ときめてしまっていた。
雄一郎は今更のように、噂の怖《おそろ》しさ、馬鹿馬鹿しさを知った。
噂に対して、雄一郎は沈黙を守りつづけた。それが、彼の唯一《ゆいいつ》の抗議であった。
しかし、雄一郎が沈黙することで、一層窮地に立たされたのは有里であった。
外からも内からも、有里は激しく心を苛《さいな》まれた。
井戸へ水を汲《く》みに行くと、それまで井戸端でにぎやかに喋《しやべ》りながら洗濯やら炊事《すいじ》をしていた近所の女たちが、みんな一斉に話をやめて有里を意識する。
有里が居なくなると、また待ちかねたように喋りだす。
狭い土地だけに、噂の伝わるのは早かった。
岡本新平が良平と千枝の縁談を断りに室伏家を訪れたことも、もうこの辺一帯で知らぬ者はなかった。
千枝はある日の夕方、勤めから戻ってきて有里の顔を見ると、いきなりワッと声をあげて泣きだした。
「千枝さん、どうしたの、ね、千枝さん……」
いくら尋ねても、千枝は理由を言わなかった。
恐らく、それを言えば、雄一郎と三千代とのことにも当然話が触れなければならないためだったからだろう。
毎朝、しょんぼりと家を出て行く千枝の後姿に、有里はまるで自分のことのように胸を痛めた。
また、三千代のことで有里を哀《かな》しませまいとする千枝の心遣いが嬉《うれ》しかった。
(千枝さん、だいじょうぶよ、こんなことくらいで負けはしないから……)
心の隅でそっと呟《つぶや》いた。
しかし、その頃頼まれて村の娘たちに裁縫を教えていたのを、村長から、娘たちへの影響上当分休んで欲しいと言われた時には、有里は完全にうちのめされた。
そんなにも、夫と三千代との噂が世間に広まっていようとは夢にも思わなかったのである。
流石《さすが》に有里はまっすぐ家へ帰る気になれなかった。
道を歩くのも辛かった。世の中のすべての人が、自分を笑っているような気がした。
有里の足はなんとなく海岸へ向った。
浜辺の漁船のかげに腰をおろして、ぼんやり海を眺めた。
海をみつめていて、有里は尾鷲《おわせ》の海を想い出した。
浜にうち寄せている白い波……。沖に浮かぶ、小さな島……。そこには幼い日の想い出がいっぱいに詰っている。
母は今頃なにをしているだろう……、兄は、姉は……、屋敷の庭の萩《はぎ》は今年も白い花を咲かせたろうか……。
だが、有里の幻想は、突然、大きな男の声で中断されてしまった。
「中里の有里さんじゃありませんか」
有里は吃驚《びつくり》して、ふりかえった。
白絣《しろがすり》に小倉の袴《はかま》を着けた若い男が立っている。有里の顔を見ると、ぽっと表情がかがやいた。
「尾鷲の……浦辺です。公一ですよ……」
「まあ、公一さん」
思わず、有里の声もうわずった。
浦辺公一は、尾鷲の村会議員、浦辺友之助の長男だった。
有里とは子供の時からの遊び仲間であった。
彼は母親と幼い時に死別し、その後、二度目の母が家にはいったということもあって、小学校を出ると、すぐ東京の学校へ入学し、そのまま、寄宿生活をしていて、めったに尾鷲には帰らなかったから、有里も、つい忘れるともなく忘れていた存在だった。
「お久しぶりです……実はこれからお宅をお訪ねするところだったんですよ」
公一は子供のときと同じように、厳《いか》つい体つきのわりに眼がやさしかった。
「いつ、北海道へいらっしゃったの」
故郷の尾鷲のことを想い出していたときだけに、有里は公一が眼の前に立っていることがまだ信じられない気持だった。
「それにしても、どうしてこんな所へ……」
「この春やって来ました、僕、北大へはいったんです」
「まあ……東京の学校へ行っていらっしゃったんでしょう」
「ええ、僕……やはり医学を専攻しようと思って……北大を志望したんですよ……実はこの春、三年ぶりに尾鷲へ帰ったらあなたが小樽へ嫁に行ったことを聞きましてね。北大へはいったら、すぐお訪ねしようと思っていたんですが、つい機会がなくって……」
「まあ、そうでしたの、懐しいわ……」
今の有里にとっては、百万の味方を得たように心強かった。
ともあれ、有里はこの幼馴染《おさななじみ》を塩谷の家へ案内した。
「この家ですの、とり散らかして居りますけど、ちょっと、お茶だけでも召し上って行って下さいな」
路地の奥の、尾鷲の実家にくらべたらまるでちっぽけな荒家《あばらや》だったが、有里はべつに気恥ずかしさは感じなかった。むしろ、自分たちの力で勝ちとった新所帯に誇りさえ抱いていた。
「私たちの結婚のとき、お父さまにはすっかりお世話になってしまって……」
「いやア、親父はああいうことが好きなんですよ。半分は道楽にやっているんです。かえってご迷惑だったんではないかと心配です……」
「いいえ、とんでもない、何もかもお父さまのお蔭ですわ……」
有里は土間の障子を開けて中をのぞいた。
今日は朝から千枝が腹痛をうったえ、売店を休んでいた。
「きっと寝冷えだよ、すこし寝ていればすぐ良くなるから、有里姉さんは補習に行っといでよ……」
千枝も言うし、顔色も案外良いので、有里は安心して出掛けたのだった。
だが、どこにも千枝の姿は見えない。
「千枝さん……ただいま……」
呼んでみたが返事がなかった。
勝手に外出するはずもないがと思いながら、念のため奥の部屋の襖《ふすま》を開けて仰天《ぎようてん》した。
千枝が蒲団《ふとん》から転がりだし、体を海老《えび》のように折り曲げて苦しんでいた。
「千枝さんッ、どうしたの!」
千枝は眼をあけたが、呻《うめ》くだけではっきりした言葉にならない。額にべったり脂汗が浮いていた。
「苦しいの……苦しいの、千枝さん……?」
有里は千枝の背中をさすった。
余程苦しいのだろう、汗で寝巻が湿っていた。
「ごめんね千枝さん、ちっとも知らなかったのよ……どこが痛いの、お腹……?」
千枝が顔をしかめて頷《うなず》いた。
「しっかりするのよ、千枝さん、いますぐお医者さんを呼んできてあげるからね……」
奥の異様な空気に気づいたらしく、
「どうしたんです?」
土間から公一がたずねた。
「すみません……義妹《いもうと》の具合がちょっと……朝からお腹が痛いっていってたんですけど、とっても苦しいらしいので……」
「そりゃいかん、近くにお医者さんありますか」
「診療所があるんです、路地を出て左へ行ったところ……」
「よしッ……僕、行ってきます」
公一は返事も待たずにとび出して行った。
千枝の腹痛は急性盲腸炎であった。
診療所の医者はとりあえず、応急処置をして、患者の落着いたところで札幌の鉄道病院へ移して手術をすることになった。
居合せた浦辺公一は、さすがに医者の卵と自称するだけに、てきぱきと入院の準備を手伝い、有里と一緒に荷物を背負って札幌の病院までついて来てくれた。
鉄道病院の医師は、更に念入りな診察をしてから、
「やっぱり、手術は急いだほうがよいと思います。手遅れになると面倒ですから……」
と有里に告げた。
「あの……先生……手術に危険なことは……」
「いや、盲腸の手術はそんなに危険なものではありませんよ……それに、患者さんの状態も決して悪くはありませんし……」
医師はもの慣れた調子で言った。
出来れば雄一郎に相談したいところだが、彼はいま列車に乗務していて、早急に連絡のしようがない。
「ちょっと、義妹と話をしてもよろしゅうございましょうか」
有里は咄嗟《とつさ》に手術をさせる決心をしてから、医師に言った。
「かまいません……どうぞ……」
有里が病室をのぞくと、千枝がたった一人で心細そうな顔をして寝ていた。
「千枝さん……」
声をかけると、
「あたい、お腹切るんだって……切らないと死んじゃうんだって……」
いまにも泣きそうな顔で、しっかり有里の手を握った。
「だいじょうぶよ、千枝さん。盲腸の手術は簡単だって、お医者さんがおっしゃっていたわ」
「だけど姉さん、千枝、怖《こわ》いんだよ……姉さんそばに居てよ、千枝の手、しっかり持っていて……ね、お願い……」
「いいわ、傍《そば》に居てあげる……そのかわり頑張《がんば》ってね」
たった二年間、一緒に暮しただけなのに、千枝はまるで実の姉のように頼り切っている。有里にはそれが涙の出るほど嬉しかった。
ただそれだけで、北海道へ来た甲斐《かい》があったような気がした。
「頑張るのよ……」
有里はもう一度、しっかりと千枝の手を握って言った。
しかしそれは、半分は有里が自分自身に向けて言った言葉でもあったのだ。
千枝の盲腸炎は、患部が癒着しかかっていたため、手術はかなり長引いた。
手術の間中、有里は約束どおり千枝の手をしっかりと握りしめていた。
いくら簡単だといっても、手術は手術である。千枝は痲酔をかけられて朦朧《もうろう》としていたが、有里は流石《さすが》に顔色が紙のように蒼《あお》ざめていた。
だが、その眼はしっかりと手術の進行と千枝の状態をとらえてはなさなかった。
(私は結婚したときから、室伏の家を義姉《ねえ》さんから託されているんだもの……どんなことがあっても挫《くじ》けてはいけないんだわ……)
有里は心の中で繰り返した。
手術がようやく終り、廊下へ出ると、公一が走り寄って来た。
「どうでした。手術……?」
「成功だそうです、ほんとに有難うございました、みんな公一さんのお蔭だわ、私ひとりだったらどうなっていたか……」
「いや、僕はなにもしやしない……随分疲れたでしょう」
有里を抱きかかえるようにして壁ぎわのベンチへ連れて行った。
「すこしお休みなさい、でないと今度はあなたが参ってしまいますよ」
「公一さんこそ……勉強でいそがしいんでしょう」
「なあに……どうせ寄宿舎へ帰ったからって勉強なんかしやしません。友人とダベるか、将棋《しようぎ》をさすくらいがオチですよ」
「まあ……」
有里はやさしく公一をにらんだ。
「駄目《だめ》ですよ、ちゃんと勉強しなくちゃ」
「はい、済みません……」
公一が殊勝らしく頭を下げたので、有里はつい吹きだした。
ちょうどそこへ千枝の手術を執刀した医師が通りかかり、二人の会話は中断された。
「ありがとうございました……」
有里が立ち上って礼を述べた。
「やあ、もう御心配はいりません……順調に行けば一週間で抜糸できるでしょう」
「お蔭さまで……本当に、何とお礼を申しあげていいか……」
「いやいや……しかし、奥さんは気丈ですな、御婦人は血を見ただけで大概貧血を起されるものなんですが……いや、驚きました」
「まあ……」
有里は顔が熱くなった。
「一生懸命、我慢していただけですわ……」
「それがなかなか出来ないんですよ」
医師は笑いながら去って行った。
「嫌だわ……ああ、恥かしい……」
両手で、赤くほてった頬《ほお》を押えた。
それを眺めていた公一が、
「やっぱり変らないなあ……」
感に堪えたといった表情をした。
「何が……?」
「有里さんがさ……昔とちっとも変っていない……子供のころも、あなたは普段やさしいくせに、いざとなると馬鹿に勝気で、しんの強いところがあった……」
「あら、そうだったかしら……」
「そうですよ。僕はいつだって有里さんの……」
言いかけて、途中で口を噤《つぐ》んだ。
「でも良かった……あなたが昔とちっとも変っていないんで……安心しました」
すこし間を置いてから言った。
公一はそれからも、今夜は千枝の病室に泊るという有里の手伝いをしたり、弁当を買って来てくれたりしていたが、連絡を受けた雄一郎がようやく駆けつけて来たころには、彼の姿はいつの間にか消えていた。
有里が雄一郎に今日の出来事を話し、二人して公一に礼を言おうと捜したが、彼の姿はどこにも見えなかった。
そのときになって、有里はようやく、公一が子供のころ中里家の塀の白壁に、自分の名前と有里の名前をいくつも並べて落書しているところを発見され、こっぴどく叱《しか》られたことがあったのを思い出した。
(あの人も、ちっとも昔と変っていないみたい……)
有里はひとりでに微笑した。
(照れ屋で、人がよくって、世話好きで……世話好きなところはきっとお父さんに似たんだわ……)
このところ、辛い思いばかりしてきた有里の胸に、ようやくちょっぴり、暖い春のような陽射しがさし込んだ。
「おい、何を思い出し笑いしてるんだ……?」
雄一郎が不審そうに有里を見た。
「べつに、なんでも……」
有里は、だが、すぐに言った。
「公一さんがあんまり昔と変らないもんだから、ついおかしくなったんです」
「なんだ、そうか……」
雄一郎は頷《うなず》いたが、すぐ複雑な表情になって視線を逸《そら》した。
千枝の手術は経過もよく、回復も早かった。
病院のほうでも、もはや夜の付き添いは必要がないというので、有里は塩谷の家と札幌とを往復した。
夫と三千代との噂《うわさ》は相変らず有里の心の奥深いところに影を落していたが、それよりも、差し当って有里の頭を悩ましていることがあった。
室伏家の経済である。
もともと、有里が嫁に来た当時から、室伏の家には殆《ほと》んど余分の金はなかった。
はる子が倹《つま》しくして僅《わず》かずつ貯えたものは、雄一郎の縁談で尾鷲から中里一家を迎えた時だの、雄一郎の結婚などで、あらかた無くなっていたし、有里が実家《さと》の兄から貰《もら》って来た金も、結婚後のさまざまなもの入りや、捨て児の奈津子の一年間の養育費、病気をしたときの費用などで消えていた。
車掌として雄一郎が働いて得る月給は家族三人の生活に、まあまあの額だったし、売店からもらう千枝の僅かな給料は、千枝の身の回りの品を買ったり、残りは嫁入り仕度に貯金しているが、それも、たかの知れた金額であった。
一家の主婦となって、有里は初めて自分が金を貯《た》めるのが上手でないということを知った。
やりくりは決して下手ではないのだが、どういうわけか金が残らない。自分に贅沢《ぜいたく》をするわけではなかったが、千枝のもの夫のものに関して、つい、予算よりも良いものを買ってしまうのである。
それは、一つには有里の育ちのせいでもあった。
家が傾きかけているとはいっても、尾鷲一番の山持ちの家に生れて、幼い時から上等のものを見馴《みな》れて育っている。
いいものをみる眼が自然にこえていて、着物一枚買うのでも、つい、安かろう悪かろうというのは敬遠してしまう。その結果、予定より出費がふえても、貧乏のどん底を知らずに育った楽天性が、つい家計簿の帖尻《ちようじり》を甘くしてしまうのだった。
その日、朝、眼をさましたときから葡萄《ぶどう》が食べたいと千枝が言うので、有里は早速札幌の町へ買いに出掛けた。
ちょうど家計のことを気にしていた時だっただけに、果物屋の店先で中等と上等とどちらにするか散々迷った揚句、結局、上等の方を買ってしまった。
金を払って歩きだそうとしたとき、道の向う側から、笑いながらこちらを見ている公一に気がついた。
「あら、公一さん……」
有里の方から駆け寄った。
「この間は本当にありがとう、お礼を言おうと思っているうちに、いつの間にか居なくなってしまって……ごめんなさいね、ちっとも知らなかったの……」
「いや、ちょうど御主人も来られたし、なまじっか声をかけるのも悪いと思って……それに寮のほうにも門限があったさかい……」
「まあ、そうだったの……それで間に合ったの、門限に……」
二度目なので、有里も公一もずっと打ちとけていた。
こうして逢って話していると、十何年という歳月をとび越えて、たちまち子供のころの有里ちゃん、公一さんの仲になった。
「ところ天でも食べへんか?」
公一から誘った。
「そうやネ……」
久しぶりにお国言葉が出た。
公一は近くのよしず張りの氷屋へ有里を案内した。店先の水槽《すいそう》にところ天が入れてあり、小さな噴水が涼しげに飛沫《しぶき》をあげていた。
「なつかしいわ、尾鷲の浜のところに、夏になると、ところ天屋が出来たでしょう。そっと食べに行っては見つかって叱《しか》られたもんやわ……」
「そうやったネ……僕もようあの頃のこと思い出すわ、君も結構おてんばやったもんな」
「フフフ……」
有里は首をすくめた。
尾鷲と同じガラスの器でところ天が運ばれて来た。
「どうぞ……」
有里に誘われ、公一も箸《はし》を割った。
「妹さん、その後どうです」
「おかげさまで……とっても順調でね、もう二、三日で退院出来るそうやってお医者さんもおっしゃって下さってるんよ」
「ほう、そら良かった……どう、もう一つ、今度は氷を食べへんか、僕がおごるよ」
「でも……」
「だいじょうぶ、このくらいおごったって破産はしないから……」
公一は冗談を言って有里を笑わせながら、奥へ氷あずきを二つ註文《ちゆうもん》した。
「それにしても、ほんとに有里さん昔とちっとも変っていないなア……奥さんだなんて嘘《うそ》みたいだ……」
「奥さんは失格なの、私……」
「どうして?」
「だって……」
有里は苦笑した。
「ものすごくやりくり下手なの……一生懸命家計簿つけてやってるんだけど、どうにも下手で困ってしまうわ」
「そりゃア、有里さんみたいなお嬢さんに家計簿つけさせるほうが可笑《おか》しいよ、信用できる女中さんを探すんだね」
「女中さん……?」
「うん、僕は当然そうしてると思っていた」
「女中さんなんて要らないもの……夫婦二人っきりで……」
「失礼だけど……有里さん、炊事《すいじ》も洗濯もみんな一人でやってるの?」
「ええ……当り前やわ」
「そやかて、中里の嬢《とう》はんともあろう人が……」
「あたし、そんなんじゃないもの」
「しかし……そりゃあ僕だって、中里さんのお宅が昔のような状態でないことは聞いている……それにしたって……」
公一は有里に抗議でもするような調子で言った。
「尾鷲の中里さんといえば、大阪にだって聞えた名家でしょう。家が破産してしもうたのならともかく、そうでもないのに……たかが北海道の鉄道員の嫁さんになったと聞いて、正直のところ、ほんまに吃驚《びつくり》したんや……」
「公一さん」
有里は軽く公一を睨《にら》んだ。
「ずいぶん失礼やないの……」
「え……?」
公一が気がつかぬらしいので、有里は笑いだした。
「だって、それじゃ、まるで私が不仕合せな結婚をしたようじゃないの、たかが北海道の鉄道員だなんて……」
「いや……ごめん……」
公一が頭をかいた。
「そんなつもりじゃないけど……とにかく、尾鷲へ帰って、君が北海道へ嫁入りしたと聞いて驚いたんだよ……まさか……そんなに早く嫁さんに行くとは思っていなかったからネ……」
ふっと眼をそらした。しかし、すぐ、
「僕は……」
強い視線で有里をみつめた。
公一の眼の奥に、何か思いつめた色のあるのを知って、有里は急に不安になった。
「公一さん……」
先に有里の方から口をはさんだ。
「実は……このあいだからお願いしようと思っていたことなんだけど……」
「なんだい?」
人のいい公一は、すぐ身をのりだした。
「公一さん、どこか質屋さんを知らないかしら……」
「えッ、質屋……」
あっけにとられて、有里を見た。
「知らないでしょうね、質屋さんなんて……」
「いや、知ってますよ」
公一はすかさず言った。
「でも、それがどうしたんだい……?」
「行ったことはないんでしょう」
「ありますよ」
公一は、むしろ得意そうに胸を張った。
「嘘……」
「君に嘘なんかつかないよ……男ってのは、時々つまらんことに金をつかうもんやからネ……」
「だったら、私をそこへ連れてってもらえないかしら……」
「君を……質屋へ……?」
公一が眼をむいた。
「質屋へ何しに行くんや」
「もちろん、お金を借りに……」
「まさか……」
「いいえ、本気です……でも、何も聞かんで欲しいの……」
「フーン……」
公一はむずかしい顔をして腕を組んだ。
「だけど、いったい何を質入れする気なんです」
「ちょっと待っててくれます……?」
有里が腰を浮かした。
「病院に置いてあるから、すぐ取って来るけど……」
「しようがないなあ……」
公一は仕方がないといった表情をした。
「駄目だといったって質屋へ行くにきまってるんだ……とにかく持ってらっしゃい、見てあげるから……」
「ありがとう……じゃ、すぐ戻って来るから、ちょっと待ってて下さいね」
有里は軽い身のこなしで、小走りに外へ出て行った。
(本当に質屋へ行かねばならぬほど困っているのだろうか……)
公一には有里の言うことがまるで信じられなかった。
彼女の表情のどこにも、生活の疲労など見あたらない。それどころか、以前よりもっと生き生きとして楽しそうだった。
(女って不思議な生物だな……)
公一は首をかしげた。
金ならいくらでもあり、大勢の使用人に囲まれてなに不自由なく暮しているくせに、顔色も悪く、始終|愚痴《ぐち》ばかり言っている女を公一は何人も知っている。
(結局、女を美しくするものは、金でも暇でもないっていうことかな……)
彼なりの結論を出したころ、有里が小さな風呂敷包《ふろしきづつみ》を胸にかかえて帰って来た。
「これなんだけど……」
テーブルにそっと置いた。
「どれどれ……」
重みはそれほどでもない。
開けると、厚みはそれほどでない美しい布張りの箱が出て来た。
公一は、箱の蓋《ふた》を取って、
「こりゃあ……」
眼を瞠《みは》った。
本|鼈甲《べつこう》で作られた、豪華な花嫁の簪《かんざし》である。
「なくなった父が、私の嫁入り仕度に注文して作らせておいた品なんです……上等の鼈甲で、細工も悪いものではないと聞いてましたけど……こういうものでは駄目かしら……」
「いや……」
公一は首を振った。
「しかし……こんな大事なものを……」
「いいんです、今の私には必要のないものなんだから……」
「それにしても……」
「どうしてもお金がいるんです……これで五十円くらい借りられないかしら、まるでそういうことにはうといんだけど」
「そうだなあ……」
公一は、いくら安く見積っても三百円は下るまいと思った。
「そんなに貸してくれないかしら……」
「有里さん……」
公一は有里の無知なのに呆きれた。
「いいかい、有里さん……質屋というのは約束の期限の日までに、借りた金に利息をつけて返さないと、品物が戻って来ないんだよ、つまり質流れしてしまうんだ。五十円、返すあてがあるのかい……」
「…………」
「もし返せなかったら、あとではとりかえしがつかないよ」
「分ってます……それでもいいんです」
「有里さん……」
「お願いします、質屋さんへ連れてって……」
有里の眼は真剣だった。
「でないと、困るんです……」
「…………」
「公一さん……」
有里が重ねて言った。
「お願い……ネ……」
公一はちょっと考え込む様子だったが、やがて顔を上げると有里を見た。
「金……今日要るんですか?」
「いいえ……明後日ごろまでだったら間に合うんです」
「よし、分りました、明後日の何時に札幌へ来られますか」
「午後一時頃だったら……」
「午後一時ね……だったら午後一時半に此所《ここ》へ来てください。僕がこれ預かっといて、質屋から金を借り出して来ておいてあげます」
「公一さん……」
「女が行くより男が行ったほうが、交渉もきっとしやすいでしょう……まア、委せておおきなさい」
「でも……」
「僕が信用できない……」
「いいえ、とんでもない……ただ、あなたに質屋さんに行ってもらうのが申訳なくて……」
「そんな心配は無用ですよ」
公一は笑った。
彼は髯《ひげ》も眉毛《まゆげ》も人一倍濃いほうである。体も大きい。そのため普段はなんとなく恐しそうな印象を与えるのだが、一度笑うと彼のやさしい気持がむき出しになった。
「僕なんか月に二、三度、へたをすると一週に二度くらいくぐりなれてる暖簾《のれん》ですからね……」
「すみません、それじゃお願いします……」
「じゃ、明後日の一時半ね……」
「ええ……」
公一が先に立ち上った。
勘定を払って外に出ると、有里が待っていた。
「じゃ、これで……病院で義妹が待ってますから……」
「気をつけてね、いもうとさんによろしく……」
「ありがとう……じゃ、お願いします」
「ああ……」
二人は手を振って右と左へ別れた。
有里の姿が曲り角へ消えると、公一はあらためて美しい鼈甲《べつこう》の簪《かんざし》を眺めた。
(こんな大事なものを手離さなければならないなんて……)
公一は有里の結婚後の生活を思い、暗い気持になった。
(俺だったら、有里さんにこんなみじめな真似はさせないのに……)
公一はあらためて、長い間一言も他人に漏《も》らさなかった、有里にたいする自分の一方的な愛について考えた。
(有里さん……たとえ君がどんな悪い状態や境遇になったとしても、俺の気持は変らないよ……)
彼は急に怒ったような顔つきになって、肩をゆすって歩きだした。
横浜のクリーニング店、白鳥舎で働いているはる子は、千枝の病気のことも、雄一郎夫婦の危機も知らなかった。
伊東栄吉は休みを利用して、せっせと横浜へ逢《あ》いに来たし、二人の間には、やがてそろって北海道へ帰って行く日の計画が、つつましやかに語られはじめていた。
来月は歿《な》くなった両親の法要を塩谷で行なうことになっている。
はる子は、月が変ったら早々に北海道へ久しぶりで帰るつもりだった。
そのことをちらと伊東に漏らすと、
「そうか……そんなら俺《おれ》、はるちゃんと一緒に行こうかな……」
と言った。
「ええッ……」
まったく思いもかけないことなのではる子が眼をまるくすると、伊東は、
「厚かましいようだけど……法事にも出たいし、この際、雄一郎君にもはるちゃんと僕のことを正式に話をして来たいと思ってね……」
きわめてさりげなく言った。
「俺……もう、一人で暮してるの嫌なんだよ……法事がすんだら……むこうで仮祝言《かりしゆうげん》だけでも出来ないかな、どっちみち、東京ではきちんと式も披露《ひろう》もしなけりゃならんが……」
「そんな……困るわ……」
はる子の耳たぶが真赤《まつか》になった。
色の白い方だけに、首筋までも桜色に染っている。
「なにか、困るかい……?」
伊東は照れくさそうに、ぼそっと言った。
「別に困らないけど……でも、千枝の式もこの秋っていってるし……」
「こっちはその前にすませようよ、元々こっちのほうが先口《せんくち》なんだから……」
「また、そんな……」
はる子がやさしく睨《にら》んだ。
「でも……弟や妹に話すの、きまりが悪いわ……」
「話は俺がするよ、はるちゃんは黙って知らん顔しとりゃいい……」
「そんなわけに行かないわ、自分のことなのに……」
「なんのかんのといって、俺んとこへ嫁に来ない気じゃないのか、はるちゃん……」
伊東が遂に眉《まゆ》を顰《しか》めた。
「ちがうわ……違います……」
はる子はあわてて否定した。
「ただ、あんまり急だから、どうしていいかわからなくて……」
「はるちゃんは急かも知れんが……俺はもう七年間も待ってるんだよ……」
「ごめんなさい……」
「いいか、これ以上待たすと、もう、待ってやらないぞ、はるちゃん……」
伊東が笑いながらおどかした。
「嫌、嫌よ、栄吉さん」
はる子は伊東の腕にしがみついた。
伊東の言葉が冗談と分っていながら、はる子はおびえた。
(もし、ほんとうにそんなことになったとしたら……)
はる子は考えてみただけで、背筋を冷たいものが走るのを感じた。
折角つかまえたばかりの仕合せが、今にもするりと手の中をすべって逃げだしそうな気がした。
伊東はそんな彼女の不安に気がついたのか、
「はるちゃん……」
胸の中にしっかりと、はる子の体を抱きしめた。
その日は二人にとって、生涯《しようがい》に二度と無いような仕合せな一日だった。
伊東もはる子も、北海道での仮祝言のこと、東京での披露宴、結婚後の事柄について、ただもう夢のように語り合った。
そして別れぎわ、もう一度伊東は、
「はるちゃん、北海道へ帰る日がきまったらおしえておくれ、かならずいっしょに帰るからね」
と念を押した。
伊東は、はる子と別れると真直ぐ下宿へ戻った。
玄関をはいると、待ちかねたように下宿の小母さんが顔を出して、
「伊東さん、お客さまよ……」
二階の方を顎《あご》でしゃくった。
「もう二時間も待ってなさるんですよ」
「二時間も……」
「そう……」
ちょっと意味ありげな微笑を見せて、
「女の人よ……」
声をひそめた。
(女の人って……誰だろう……)
伊東の下宿へたずねてくる女の人といえば、はる子以外には無い。そのはる子にはついさっき別れてきたばかりである。しかも二時間も前から伊東の帰りを待っているという。
まったく心当りの無いまま、伊東は部屋の襖《ふすま》を開けた。
「お久しぶりでございます、お留守にお邪魔いたしまして……」
きちんと両手をついて挨拶《あいさつ》したのは、尾形清隆の娘和子だった。
稽古《けいこ》帰りの途中らしく、かたわらに普段楽譜入れに用いている鞄《かばん》が置いてあった。
「御無沙汰《ごぶさた》しています。尾形先生も奥さまもお変りありませんか」
伊東もあらたまって挨拶した。
「はい、おかげさまで……でも、父のほうはこのところお医者さまから御注意が出て居りますの……血圧が又、高いようですわ」
「そりゃあ……お気をつけにならんと……お酒を少しひかえられるといいのですが……」
「家では慎んで居りますのですけれど、他所《よそ》ではやはり……宴会が多うございましょう。秘書の大原さんがそれとなく気をつけて下さっているのですが、やっぱりねエ……」
「相変らず、夜はおそくなられますか」
「ええ、十時より早いことはめったにありませんの」
「そうですか……」
階段に足音がしたので、二人はふっと沈黙した。
小母さんが気をきかして、お茶をいれて持って来たのだった。
しかし、小母さんが去っても、和子はしんとうつむいて黙りこくっている。
「あの……僕に、何か御用だったんじゃありませんか?」
伊東は遠慮がちにきいた。
「ええ……」
「お一人でいらっしゃったんですか」
「ピアノのお稽古の帰りなんです……」
「ここへお寄りになること、お屋敷では御存知ですか」
「いいえ……」
「お嬢さん……」
「伊東さん」
和子が何か思いつめた表情で顔を上げた。
「私、あなたにどうしても直接、おうかがいしたいことがあったんです……」
「なんですか……?」
「私の周囲では……いつも、私に本当のことを言ってくれません。父も母も……大原さんも……ずっと前に、あなたがまだ家にいらっしゃった頃、父が私に申したことがございます。伊東さんをどう思うかって……」
和子はそっと視線をそらした。
「その頃の私……まだ子供で……あなたのこと嫌いではありませんでしたけれど……結婚するとか、妻になるなどということはずっと遠い世界のことで……とても、実感にならなかったのです。それでも、いつでしたか……あなたが、大阪へ出張なさっているお留守に北海道から……その写真の方がみえたとき……」
和子はちらと伊東の机の上に飾られた、はる子の写真を見た。
「嫉妬《しつと》というのでしょうか……ねたましいような、そんな気持になったことがございます」
「お嬢さん、その話だったら私は……」
伊東が口を挟もうとするのを押えて、
「あなたが私の家から出ておしまいになってしまって……私、うすうす気がついていたのです。伊東さんが私との縁談を嫌っていらっしゃる……ご迷惑なんだということが……。父や母は、あなたが屋敷を出ていらっしゃってから、あわてたように、私に見合をさせました……何度も、いろいろな方と……」
和子は話し続けた。
「どうしてもその気になれなかったんです、私……そんな私を見て、父はまた大原さんに相談したようですわ、私が伊東さんを忘れられないのなら、なんとかして、あなたと結婚させてやりたいと考えたのだと思います。どうしても、あなたが承知しないときは……あなたを恩と権力で金縛りにしてでも……馬鹿な娘を押しつけようと……」
「おやめなさい、お嬢さん……」
伊東はたまりかねて言った。
「ご自分のことを、そんな言い方されるのはおよしなさい」
「でも伊東さん……あなた、私との縁談をお断りになるとどうなるか、おわかり……?」
和子はちらと伊東の反応をうかがうような眼をした。
「父が鉄道省でどれくらいの実力者か、伊東さんのほうが御存知ですわね」
「失礼ですが……お嬢さん、尾形先生は公私を混同される方じゃありません……が、仮に私が先生の怒りにふれて、どういう立場に追い込まれようとも、私は自分の意志をひるがえそうとは思っていません……」
伊東は坐《すわ》り直すと、膝《ひざ》の上に両肘《りようひじ》を張った。
「私は妻を娶《めと》ることで出世の裏づけをしたくないのです。それでは、お嬢さんにも申しわけがない……又、長い間私が妻と決めていた女《ひと》に対してもすまないと考えています」
「……長い間……妻ときめていた女……」
恩人の娘という、一段高い所からものを言っていた和子の姿勢がぐらりと揺らいだ。
肩をおとして、はる子の写真を眺めた。
「その写真の方なんですのね」
「お嬢さんも、一度逢われたことがある筈《はず》です」
「そんなに……あの方が好きなんですか……」
「はあ……もう七年も待たされているんですから……」
「七年……」
「尾形先生が私を東京へ呼んで下さる前からのつき合いなんです……」
「そう……」
いまにも泣きだしそうなのを、持ち前の勝ち気さでからくも堪えていた。
「伊東さん……失礼なことうかがってよろしい……?」
「はあ、どうぞ……」
「あの方と伊東さん……七年前から……プラトニックラヴ……?」
「はあ、そうです……今でもそうです」
「そんなことがあるでしょうか……七年間も……」
「信用できませんか……?」
伊東は苦笑を浮かべた。
「信じられないけど……伊東さんがおっしゃるのなら、信じますわ……でも……よくお待ちになりましたのね、七年間も……」
「気は長いほうですな、どっちかというと……融通もきかんほうらしいですよ」
「何故もっと早くに結婚なさらなかったんです」
「最初のときは、むこうの都合が悪かったんです。家庭の事情で……つまり、彼女が経済的に一家を支えていたんです……そのあと、私のほうも東京の教習所に二年行っていたし、震災以後一、二年は鉄道の復旧やら開発などで夢中ですぎてしまったんです……」
「あの方が東京へ出ていらっしゃったのは、たしか震災の翌年でしたわね」
「そうです。あの頃が結婚できる二度目の機会だったんですが……」
「私のことで、こじれておしまいになったのじゃありません?」
「こじれるというより……連絡が切れてしまったんです」
「連絡……?」
「お嬢さんは、私がどうしてお屋敷を出たかご存知ないのですか……?」
伊東が不意に真剣な色を眼に浮かべて和子をみつめた。
「つまり、直接の原因です」
「父がなにかあなたに申し上げたのでしょう、私との結婚のことで……」
「そうじゃないんです……」
ふっと眼をそらした。
「実は彼女と私との間にとりかわされていた手紙が、お互いの手許に届かなくなっていたのです……」
「どういう意味なんですか、それ……」
「私はあの頃、手紙をお屋敷の加代さんに投函《とうかん》してもらうようにしていました。勤めに出る途中で出せばよかったんですが……いつも加代さんが出してくれるというので……届かなかったんですよ、その手紙が……」
「伊東さん……」
和子は眼を瞠《みは》った。
伊東の話は和子には寝耳に水だった。
事実としたら大変なことである。父もおそらくそのことは知らないだろう。
「ほんとうですか、それ……」
「こっちから出す手紙が届かないばかりじゃない……むこうから私へあてた手紙も、私の手には届きませんでした。それがわかったのは、今年の春、私が公用で北海道へ行き塩谷へ立ちよった時なんです……」
「母ですわ……」
突然和子がはっとしたように言った。
「母の仕業です……なんてひどいことを……」
「どなたの仕業でもかまいません、もうすんだことなんです」
「知りませんでした、私……本当に知らなかったんです。でも、やっぱりそれは私の罪ですわ……」
「どうしてですか、そんなことはありませんよ」
「いいえ、私が伊東さんをあきらめないから……それで母がそんな卑怯《ひきよう》なことを……」
「いいんです、もう誤解はとけたんですから……わたしたちは横浜で逢いました……七年ぶりでした。七年目に逢ってお互の気持が全く変っていないことを知ったんです。今度こそ、結婚しようと思っています……今度こそ必ず……」
伊東は夢みるような遠い眼つきになった。
だが、すぐ和子のことに気づき、
「お嬢さん、あなたのお気持は有難いと思っています。私のような男にはもったいないほどです……しかし、お嬢さんには私でなくとも、いくらでも仕合せの道があります」
とつけ加えた。
「伊東さん……」
和子はうらめしそうに言った。
「やっぱり私がお嫌いなのね……お嫌いだからそんなことをおっしゃるのね」
「いや、違います」
伊東は、はる子の写真を見た。
「この女《ひと》には、私しかいないのです。長い間、不仕合せを不仕合せと思わず、けなげに生き抜いて来た女なのです……私が仕合せにしてやらなけりゃア……絶対に仕合せになれん女だと……己惚《うぬぼ》れかもしれませんが、伊東栄吉はそう信じて居るのであります。どうか分ってください、お願いします……」
率直に気持を打ち明けて、頭を下げた。
和子はじっとうなだれて、彼の言葉を聞いていた。
一言一言が鋭く胸に突き刺さった。いっそ耳を覆ってしまいたい思いを、じっとこらえて聞いていた。
和子にとっては、生れてはじめて味わう敗北であり、屈辱だった。今まで、父の権力、地位を利用すれば、およそ通らぬものはなかった。
どんな傲慢《ごうまん》な人間でも、権力者でも、一言父の名を口にすれば簡単に尻尾《しつぽ》を振って来た。
ところが、ここにたった一人父の権力や地位、財産をもってしても、びくともしない人間が居たのだ。
和子は哀《かな》しかった。そういう人間こそ、彼女にとっては望ましかったのに……。
しかし和子は懸命に哀しみと戦った。
そして、坐《すわ》り直すと顔をあげた。
「伊東さん、わかりました……和子は……あの方が羨《うらや》ましいと思います……同じ女ですのに……」
涙が出そうになったので、あわてて立ち上った。
「ごきげんよう、お仕合せに……」
伊東を見ないようにして、部屋を出て行った。
千枝の退院が明日という日、有里は札幌の小さな喫茶店で浦辺公一と逢《あ》うことになっていた。
公一に頼んでおいた鼈甲《べつこう》の簪《かんざし》を質入れして五十円の金を作ってもらう約束の日であった。
有里が出掛ける仕度をしていると、ひょっこり良平がやって来た。
有里が良平を見るのは、いつかの盆踊りの夜以来である。
彼は本当にあれから、ただの一度も千枝と逢っていないらしかった。
いくら父親の命令でも、いい年をした若い者がそのまま恋人に逢わずに居られるものなのかどうか、有里には不思議だった。
しかし、そこが良平の良平らしいところかもしれない、と有里は思った。
ただ、哀れなのは千枝である。
新平|爺《じい》さんの腹を立てた原因が、雄一郎と三千代とのことだけに、雄一郎はもちろん、有里も千枝に本当のことが話しにくかった。
千枝は病室でも、それとなく良平のことを有里に聴いた。そのたびに、
「きっとお仕事がいそがしいのよ、いまに必ずここへみえるわ……」
などと、曖昧《あいまい》なことを答えて誤魔化《ごまか》すより仕方がなかった。
だから有里は、良平が見舞物らしい林檎《りんご》を入れた籠《かご》をぶらさげているのを見て、内心ほっとした。
「お見舞いに行ってくださるんですね……」
良平の顔を見たとたんに言った。
「いよいよ明日、退院出来ると思うんですよ、経過がとっても良くて……」
「いやア……そうかね……」
良平は案に相違して口ごもった。さも困惑したといった表情で、頭をかいている。
「だめなんですか?」
「いやア……俺、そのつもりだったんだが、お父がどうしてもなんねえというでね……俺が行かんで、千枝ちゃん怒っとるかね」
「怒ってはいませんけど……寂しそうにしています。余り口には出さないけれど、あなたが来てくれるのをじっと首を長くして待ってるんです。それがわかるだけに、私もつらくて……」
「申しわけねえッス……俺が見舞いに行ってやれねえわけ、どういってあるだね」
「お仕事がいそがしくて……」
有里は眼を伏せた。
「それしか言えませんわ……」
「すまねえッス」
「お父さん、まだ千枝さんとあなたのこと……」
「はア……お父は頑固者《がんこもん》だで……つまらん噂がとんでるうちは承知せんでね……」
「すみません……うちのことであなたにまでご迷惑をかけてしまって……」
「なに、言うかね……」
良平はあわてて手を振った。
「あんなのデマだよ、世間の奴《やつ》らが面白ずくに、はんかくさい噂ふりまくで……あんたも苦労だべ……なアに、人の噂も七十五日っつうでね、あんまり気にせんでねえ……」
「岡本さん……あの話……主人と三千代さんとのこと、本当にただの噂だと思って下さいます?」
「ああ嘘だべ、嘘にきまっとる……雄一郎さんはそんな人と違うでよ」
「岡本さん……」
有里は急に目頭が熱くなるのを感じた。
「ほんとうにそう思ってくれるんですね……」
「はア、信じとるで……あんなもんに負けてはだめだよ、な、奥さん……」
「すみません……ありがとうございます……」
良平の言葉は、今の有里にとっては本当に涙の出るほど嬉《うれ》しかった。
札幌の病院内でも、有里の居ないとき、三千代が雄一郎に見舞を口実に逢いに来たという噂があったからである。
それを聞いた有里の気持は、やはり雄一郎を信ずる気持と疑いの気持とが五分五分だった。
有里は鋭い刃物の上を素足で歩いているような気持がしていた。ちょっとしたきっかけでバランスをくずしたが最後、取りかえしのつかない事態が生ずるのは必至だった。
良平にはげまされて、有里は勇気をとり戻した。
この広い世の中で、夫を信じてくれている他人が一人でも居るということが有難かった。
信じなければと思う。
赤の他人の良平が信じてくれているのである。妻の自分が、どうして信じないでいてよいものかと思った。
浦辺公一と約束した氷屋へいったとき、時間は少し早かった。公一はまだ来ていない。
奥の方へすわって、有里はそこから表の通りを眺めていた。
註文《ちゆうもん》の、ところ天がやって来た。
割《わ》り箸《ばし》を二つにしながら、なにげなく表通りへ眼をやった有里は、はっとした。
雄一郎と三千代が肩を並べて通って行ったのである。
有里は二人のあとを追おうとして腰をあげかけたが、再び力なく坐《すわ》ってしまった。
絶対に見間違いではない。
夫は鉄道員の制服だったし、三千代はいつかの矢絣《やがすり》の着物を着ていた。
有里は目の前が真暗《まつくら》になったような気がした。
(やっぱり噂は本当だった……)
証拠をはっきりと見てしまったのだ。
最早、どうにもならない事を有里は悟った。
何も考えられなかったし、考えたくもなかった。
夫に裏切られたという悲しみが、全身に徐々に染みわたって行った。
「有里さん……有里さん……」
肩を叩《たた》かれて、有里ははじめて我にかえった。
公一が不審そうな顔つきで立っていた。
「どうかしたんですか……」
「あ、いいえ……」
有里は強いて微笑を作ったが、それも途中でこわばってしまった。
「顔色が悪いですよ」
心配そうにのぞき込んだ。
「いいえ、もうだいじょうぶ……ちょっと頭痛がしたんだけど治りました、それより面倒なことお願いしてすみません……」
「なあに……」
公一は鞄《かばん》の中から金包を出した。
「これ、約束の五十円……質札は僕が預っておくよ、どうせ出しに行くときも僕が行ってあげるからね……」
「ありがとう……ほんとうに……」
「しかし、元気がないねえ……」
公一はしきりに有里の健康を気にした。
「医者に一度診てもらうといいよ」
「二、三日寝不足したので、そのせいなのよ、きっと……」
「そうかい……」
疑わしそうな眼で見て、
「ほんとうにそれだけならいいけれど……とにかく、よけいなことかもしれないけど、君が金の苦労をするなんて……そんな苦労をしなくてもいい筈の人なのに……」
と視線をそらした。
公一と別れた有里は、重い足どりで病院へ向った。
千枝の枕許《まくらもと》にさっきは見られなかった花束がいけてあるのに気づき、
「まあ、きれいなお花……」
思わず見とれていると、
「三千代さんが持って来てくれたんだよ……その前に兄ちゃんが来ていて……兄ちゃん、三千代さんをそこまで送って行ったんだよ、もうすぐ帰ってくるよ……」
なんとなく有里に気がねしながら説明した。
「そう……」
有里は良平の見舞いの林檎《りんご》を取るふりをして、さりげなく千枝に背中を向けた。
「岡本さんがおいしそうな林檎を届けて下さったわ、食べる……?」
「一度くらい、自分で持って来てくれたらいいのに……」
千枝はうらめしそうに言った。
「お仕事がとても忙しいんですって……おやすみが全然とれないそうよ」
「ふーん……」
千枝は寝がえりをうつと、そのままいつまでも窓の外を眺めていた。
有里がのぞいてみると、北海道特有の青く澄みきった秋の空に、薄く刷毛《はけ》でかいたような白雲が流れている。
その雲を眺めているうちに、有里は次第に悲しくなった。
ひしひしと、孤独感に胸を締めつけられるようだった。
有里は室伏の家に嫁に来てから初めて、自分が危機に立たされていることを知った。
今迄《いままで》、夫と口喧嘩《くちげんか》くらいはしたことがあるが、それは危機と呼ぶには、余りにも根の浅いものだった。
ちょっとした言葉の行き違いや、感情の食い違いはあっても、夫の自分にたいする愛を疑ったことは一度もなかった。
すべては、夫の愛情を土台にして成りたっている有里の生活だった。
それが、根底から音もなく崩れだしたのである。
(まさか……)
とも思う。
又、無理にでもそう信じたいところがある。しかし、どうやらそれは果無《はかな》いのぞみだった。
数々の噂《うわさ》といい、それを裏づけるような事実を次々と眼にしては、有里は噂の方を信じないわけには行かなかった。
(もし、夫が三千代さんを愛しているのなら、いさぎよく身をひこう……惰性や憐《あわれ》みにすがって一緒《いつしよ》になっているのは嫌……)
有里は考えに考えた末、最後の結論に到達した。
雄一郎と別れたからといって、何処《どこ》へ行くあてもないし、今更、尾鷲へ帰るわけにも行かなかった。
しかし、この家に居ることは、もっと有里にはつらかった。いざとなれば京都の女学校時代の先生か友達を頼って行けば、何とかなると思った。
有里は早速、雄一郎にあてて手紙を書きはじめた。
『長い間お世話になりました。あなたと三千代さんとのことを知った今となっては、もはや、一刻もこの家に留まるわけにはまいりません。私はどなたも恨みません。ただただ自分のいたらなさを恥じ入るばかりです。でも……どうしてこうなる前に一言なりと、あなたの口から直接おっしゃっていただけなかったのでしょうか。それだけが唯一《ゆいいつ》の心残りです。言ってどうせ判らないこと、判らない女だとお思いだったのでしょうか……』
こう書いて来て、有里は本当にまだ一言の弁解も夫の口から聞いていないことに気がついた。
夫はかたくなに口を噤《つぐ》んでいるが、自分もそれについてまだ一度も夫に真相を問い糺《ただ》したことはない。
(夫婦ってそんなものじゃないのではないかしら……もっとざっくばらんに話し合うのが本当の夫婦というものじゃないかしら……)
三千代との真相を問い糺し、それに対する夫の弁解が気に入らなければ、それから出て行っても遅くはない。
考えてみると、夫と自分との間には、結婚してまだ日の浅いせいもあるが、随分他人行儀なところがあった。そういうことが、今度の問題を一層複雑にし、取り返しのつかぬ状態まで二人を追い込んでしまったのではなかったろうか。
有里は書きかけた手紙を破って捨てた。
(短気は損気……)
子供の頃、母からよくきかされた言葉を思い出した。
有里はちらと時計を見上げ、いつものように夕食の仕度をしに台所へ立った。
いつも、やり慣れた仕事なのに、段取りが逆になったり、つまらない間違いをしたりで、仕度が出来るまでに、いつもの倍くらいの時間がかかってしまった。
でも、どうやらこうやら居間の方へ食器を運び終った頃、ガラリと戸が開いて、
「ただいま……」
夫の呼ぶ声がした。
普段、そんな事は一度もなかったのに、夫の声を聞いたとたん、ドキッとして、あやうく小皿を落すところだった。
「お帰りなさい……」
有里はつとめて平静を保とうと努力した。だが笑おうとすればする程、頬《ほお》がこわばるのをどうすることも出来なかった。
雄一郎はそんな有里の表情をちらと見て、彼女の気持の動揺を敏感に察知したらしかった。
「病院へ帰ったら、お前が一足さきへ帰ったというんで、急いで戻って来たんだ……結局一列車あとになってしまった……」
「すみません、待っていようかと思ったのですけれど、晩御飯の仕度が気になって……つい……」
「三千代さんを送って行ってたんだ……」
雄一郎はさりげないふうを装いながら、突然有里の真正面から斬《き》り込んで来た。
三千代と雄一郎との関係を、今夜こそ直接彼の口からはっきり説明してもらいたいと思っていた有里も、いざとなると、やはり心が臆《おく》した。
説明はしてもらいたいが、今すぐでないほうがいいと思った。
「あなた、お風呂《ふろ》がわいてますから……」
有里が逃げるように立ちかけたのを、逆に雄一郎のほうからとめた。
「有里……お前……噂きいてるだろう……」
「あなた……」
有里は口籠《くちごも》った。
そこへすかさず、
「俺と三千代さんとのことだ……」
ズバリと言って、有里の顔をじっとみつめた。
「俺……今日三千代さんに言って来た……病院へ見舞いにくるのも困る……これから逢うのも、お互いに避けよう……」
「あなた……」
「誤解しないでくれ……俺と三千代さんとはなんでもない……誓って、なんでもないんだ……」
雄一郎の声に一段と熱が加わった。
「そりゃあ、ずっと昔、三千代さんがまだ嫁に行く前、俺……あの人に好意を持ったことがある……初恋といえばいえるかもしれない……しかし、今、考えてみると、俺のあの人に対する気持は本物の愛ではなかったような気がするんだ。まけ惜しみでも弁解でもない……俺、あの人が嫁に行くために塩谷を発つとき、黙って見送った……三千代さんの乗った列車を見送って……別れだと思った……本当に好きだったら、あんな別れ方はしなかったんじゃないかと思うんだ……お前と逢って、それがはじめてわかったんだ。同じ塩谷の駅で、お前と別れたとき、俺は別れるとは思わなかった。どんなことをしても、お前と再び逢おうと思った……どんなことをしても、お前が欲しいと思ったんだ……」
雄一郎はふと眼をそらした。
「旭川でのことは、すぐお前に言わなんで悪かった。俺は自殺までしようとした三千代さんの気持を考え、また、南部の親父《おやつ》さんの立場を思って、わざと誰にも言わなかったんだ……言えば必ず誤解されるんでないかと……」
「あなた……もういいんです……」
有里は夫が嘘をついていないことはすぐに分った。
普段無口な夫が、一生懸命三千代とのことを話してくれたのも嬉《うれ》しかった。
「私、わかっています。あなたを信じるって、嫁に来たとき約束しました……どんなことがあっても、あなたを信じてついて行くって……」
「有里……」
「三千代さんとのことを聞いたとき、本当はとてもつらかったんです……悲しかったんです……でも、信じようと思って……一生懸命信じようと思って……」
有里の瞳《ひとみ》が濡《ぬ》れていた。
「私……自分を仕合せだと思っています……私にくらべて三千代さんは、どんなにつらいだろうと……同じ女なのに……あの方は……今頃……」
「もうよせ……人にはそれぞれ持って生れた運命というものがあるんだ……俺が好きなのは、有里、お前だけなんだ……それさえ分ってもらえればそれでいいんだ……」
「あなた……」
「すまない……俺が不注意だったんだ。成り行きでそうなってしまったんだが……世の中から誤解されるようなことをしてしまったのは、俺が悪かったからだ……そのために、お前によけいな苦労をかけた……」
「あなた、もういいの……」
「有里……」
雄一郎の手がそっと有里の手を取った。
「俺も世間の奴らの噂は知っていた……友人から、南部の親父さんの孫娘を誘惑して、お前それでも人間かと怒鳴《どな》られたこともあった……誰に何と言われようと俺はこたえなかった、別に間違ったことをしたおぼえがないからだ……したが、お前がこのところずっとそのことで苦しんでいるらしいのを見て、俺はどうしていいか分らなくなった……いっそ話したものか……それとも黙っていようかと……」
「私、噂なんか信じなかったんです、でも……今日、あなたが三千代さんと肩を並べて歩いて行くのを見てしまって……」
「送って行ったんだ途中まで……そして正直にさっきお前に言った事を話したんだ……」
「まあ……それで三千代さん何て言ってました……?」
「どうやら分ってくれたらしいよ……」
雄一郎はちょっと眼を伏せたが、すぐ明るい微笑に戻って、
「有里……昔から沈黙は金だというけれど、そうでない場合だってあるんだな……」
と言った。
「ええ……」
有里は嬉しかった。夫が自分とまったく同じことを考えているのが分ったからだ。
「お喋《しや》べりはダイヤモンドの時だってあるんだわ」
「うん……」
雄一郎の手に、思わず力がこもった。
「有里……」
夫のぶ厚い胸の中に顔をうずめながら、有里はほっと溜息《ためいき》をついた。
矢っ張り、短気は損気……。
手紙を破っておいて良かったと思った。
また一つ、夫が身近になったような気がして、有里はそっと眼をつぶった。
千枝も札幌の病院を退院して、塩谷の雄一郎の家は又、平凡な生活が戻ってきたかに見えた。
有里は終日、家の裏手にある畑へ出て働いたり、時には豆の選《え》りわけ作業に出た。これは十勝《とかち》方面から集まってくる豆を良質のものとそうでないものと選りわける仕事であり、この頃の鉄道員の家族たちが、少しでも家計の助けにと働きに出たものだった。
有里も赤字つづきの経済をたて直すために、早速仲間に入れてもらった。
冗談好きな鉄道員の間では、このところしばしば、
「おい、お前とこの嫁さん、どこ行った……?」
「はア、豆選《とうせん》女学校へ行っとるよ」
などという会話がきかれた。
豆選女学校、つまり豆選り作業場のことである。有里はさしずめ、豆選女学校一年生というところだった。
ひじょうにこまかい仕事なのと、長時間立ったままで居なければならないので、初めのうちは家に帰ると眼がチカチカしたり、足がだるかったり、肩こりがしたりした。
しかし、良い面も沢山あり、有里は豆選女学校で働きながら、鉄道員の妻としての智慧《ちえ》をいろいろ身につけることが出来た。
特に、勤続二十年というベテラン機関手の妻の吉川里子からは、苦しい家計の中から貯金する方法だの、冬の石炭の安い買い方、野菜の貯蔵法、薬草の見分けかた、衣類、食糧の上手な買い方、漬物《つけもの》のつけかたに至るまで、いままで有里の知らなかったことで、この北海道で暮すにはどうしても必要な事柄を学んだ。
その吉川里子が遠い汽笛の音にふと耳を傾むけ、
「はあ、ありゃ、うちの人の機関車だべ……」
というのを聞いて、有里はあらためて夫婦の年輪というものについて考えさせられた。
つまらぬ噂に惑《まど》わされて、家を出て行こうとした自分が恥かしかった。
とにかく、この昭和二年という年は、有里と雄一郎の家にも変った事が起ったが、鉄道に働く者にとっても、ずいぶん奇妙な出来事のあった年であった。
その一つは、全国の駅名掲示の変更が一年のうちに二度もあったということである。
もともと、日本の鉄道の駅名の掲示は、右横書きの平仮名であった。
ホームに立っている、駅名を知らせる立札があるが、普通それに『しほや』とか『さっぽろ』などと平仮名で右から左へ向って横に書かれている。
それが、昭和二年の四月七日、時の鉄道大臣、井上|匡四郎《ただしろう》の命令でこれを一斉に左横書きの片仮名に改めたのである。
この井上鉄道大臣は学者であり、かなり当時としてはハイカラ好みの人だったので、ついでにローマ字はすべてヘボン式を用いるようにとの指示も与えている。
大臣の鶴の一声で、日本全国津々浦々の各駅は、アッという間に平仮名の右横書きから、片仮名左横書きの掲示板がホームに並んだ。
ところが、その掲示改正が行なわれて、たった十三日目の四月二十日に井上鉄道大臣は退任となり、かわって小川平吉が鉄道大臣として就任した。
そしてその夏、再び鉄道の駅名掲示は日本式に改められ、片仮名は平仮名に、左横書きは右横書に戻ったのである。
これに要した費用、労力は大変なものであった。
たまたま、二度目の改正が発令された頃、伊東栄吉と室伏はる子は休暇を利用して、箱根への日帰り旅行に出掛けていた。
東海道線の列車に向い合って坐っていると、ただそれだけで、はる子は嬉《うれ》しさで胸が一杯になった。
こんな日が現実になろうとは……。まるで夢のようだった。
(時間がたつのが惜しい……いっそ、このまま時間が停《とま》ってしまえばいい……)
はる子は本気でそう思った。
窓の外に刻々と移り変る景色は、いつも見るときとはまるっきり違っていて、木々の緑は一層あざやかに、空の色は生れて初めて見るような美しさだった。
すべてのものが、はる子に感動を与え、胸の奥深く染み通った。
伊東栄吉は生き生きとしたはる子の顔を眺めながら、これも嘗《かつ》てない幸福感に酔いしれていた。
列車が藤沢駅に停車したとき、ホームではちょうど駅名を『フジサハ』から『ふじさは』へ書き直している最中だった。
「たいへんねえ、ああやって一枚一枚書き直すんだから……」
「まったく馬鹿な話だよ……変更する人はもちろん理由もあり、信念をもってやったことだろうが、現場の人間はたまったもんじゃないよ……」
「北海道でも今頃、ああやって駅ごとに書き直しているのかしら……塩谷《しおや》、小樽、手宮《てみや》、蘭島《らんしま》……」
「なつかしいかい、北海道……」
「そりゃあ、生れ故郷ですもの……」
はる子は歌うような声で言った。
「なつかしいよ、今でもよく北海道の夢を見る……南部さんに大飯ぐいと怒鳴《どな》られた夢……塩谷の駅で切符きりしとる夢……あの頃、よく歌ったもんだ……」
伊東は故郷を懐しむように眼をとじ、小声で歌いはじめた。
※[#歌記号]親の因果が子に報い
今じゃ鉄道の切符きり……
その哀調をこめた節廻《ふしまわ》しが、二人の心を余計望郷の想いに駆りたてた。
「そういえば、そろそろ小学校の同窓会がある頃だな……」
「今度はもしかしたら、一緒に出られるかもしれないわね……」
言ってしまって、はる子は急に頬《ほお》を赤く染めた。
この年の四月一日に、小田急電鉄が新宿から小田原まで開通し、箱根への遊山客の数も前年よりぐっと増えて賑《にぎ》やかになっていた。
伊東とはる子は箱根神社に参拝し、芦《あし》の湖《こ》で舟を浮かべた。
そして昼の食事は、旅の汗とほこりを流しがてら、塔《とう》の沢《さわ》の宿でとることにした。
温泉で汗を流し、くつろいだ気分で向い合って膳《ぜん》に坐《すわ》ると、はる子は面映《おもはゆ》いような、浮き浮きするような、なんともいえぬ妙な気分になった。
だが、それとは逆に、こうしていることが至極当り前で、いつもこうしていない方がかえって不自然なのだという気持にもなった。
宿の女中は心得たもので、はる子は奥様、伊東は旦那様と呼んでいたが、そんな些細《ささい》なことが、はる子にはひどく嬉しかった。
「はい……お酌……」
「うん……はるちゃんにお酌してもらうのはじめてだな……」
「お気に入りませんでしょうけれど……」
「そ、そんなことないよ……はるちゃんも、どう……」
「じゃ、一つだけよ……」
そんなことを言いながら、注《さ》しつ注されつ、といってもはる子はほんの盃《さかずき》に二、三杯だったが、していると、二人とも恋人同志というよりはすでに夫婦になってしまっているような錯覚さえおぼえた。
「なんだか夢のような気がするよ……こうやってはるちゃんと向い合って飯を食うなんて……そんな日があるとは思わなかったな……」
ほんのり眼許《めもと》を桜色に染めた伊東の言葉は、そっくりそのままはる子の気持でもあった。
食事がすむと、二人は広い宿の庭を散歩した。
「この宿はねえ、前に尾形先生のお供で来たことがあるが、かなり古いんだそうだよ。明治の初めに、皇女、和宮様が湯治に来られたこともあるんだって……」
「和宮様って……徳川の将軍家へお輿入《こしい》れされたお方ね……」
「ああ、幕末の公武合体の犠牲になられた方だね……この宿で湯治をなさっていらっしゃって、結局、ここで歿《な》くなられたのだ」
「まあ、そうなの……」
はる子はあらためて周囲を見回した。
「ほんとに静かないいところね……」
「うん……」
伊東はちらとはる子を見た。
「ねえ、はるちゃん、今日、箱根神社でずいぶん長いことおがんでたけど、なにを祈った……?」
「いろんなこと……弟や妹たちが達者で仕合せでありますように……有里さんに早く丈夫《じようぶ》で可愛《かわい》い赤ちゃんが授かりますように……栄吉さんが健康でますます活躍できますように……それから……」
「それから……?」
「いえないわ……」
「どうして……」
「恥かしくて……」
はる子は照れくさそうに笑った。
「なんだ、言えよ」
「……じゃ、そっち向いてて……そしたら言うわ」
「よし……」
「絶対にこっちを向いては嫌よ」
「ああ……」
「あの……本当にこっちをむかないで……」
「わかったよ」
「あのね……あの……今度こそ、栄吉さんのお嫁さんになれますように……」
「はるちゃん……」
伊東はふり返った。
「あら、駄目よ、こっちを向いては……」
あわてふためくはる子の手を、伊東はしっかりと握った。
「はるちゃん、ほんとだよ……」
女心は複雑なものだという。
日帰りの旅を日帰りで帰りながら、どこか物足りないものがはる子の心の底で揺れていた。
この旅行を栄吉と約束したとき、心のどこかで怖れながら期待するものがあったのではなかったろうか。
列車の窓から夕暮の箱根山が遠くなったとき、はる子の胸を悲しみが甘く、流れた。
10
室伏家の法事は九月二十二日ときまった。
まだそれほど寒くもない頃だし、その日がちょうど雄一郎の非番の日だったからである。
法事といっても親類は遠いし、特に来てもらうほどの知人もないので、ごく内輪だけのささやかなものになる筈《はず》であった。
それでも有里は、久しぶりに帰郷するはる子のことを考えて、あれこれと心を配った。
その中で、有里が一番心を痛めていたのは千枝の縁談であった。
はる子が帰ってくる前に、なんとか岡本新平の誤解をといて、円満に結婚話を進行させておきたかった。
新平爺さんのところへは、実はあれから何度も有里は足を運んでいる。しかし頑固《がんこ》者で名の通っている新平は、有里がどんなに説明しても、頼んでも首を縦に振らなかった。
そうこうしているうちに、良平と千枝の縁談にとって、決定的とまでいえる不利な条件が現われてきてしまった。
それは、雄一郎の釧路《くしろ》転勤がいよいよ本決りとなったことである。
雄一郎たちが釧路へ行ってしまえば、良平と千枝は今より更に逢う機会が少くなるし、新平爺さんの誤解をとくこともむずかしくなるだろう。
有里はいろいろ考えた末、遂に或る方法を思いついた。
ちょっと荒っぽいようだが、早急に新平爺さんの首をたてに振らせるには、これ以外に手がないと思った。
「ねえ、あなた、私も千枝さんと良平さんのことでは随分考えてみたんですけど……」
或る晩、有里は夫に切りだした。
「いっそ、あの二人を駆け落ちさせたらどうでしょう……」
「えッ、駆け落ち……?」
雄一郎は眼をまるくした。
「良平さんも千枝さんもお互いに好きなのに、新平爺さんが頑固だから結婚できないでいるんでしょう……。そりゃア、理屈に合った頑固なら、何とでも怒りのとけるのを待つってこともあるでしょうけど、理屈もなにもない頑固さなんだから、少しおどかしてみてもかまわないんじゃないかしら……」
「ふーん……駆け落ちか……」
雄一郎が溜息《ためいき》をついた。
「いけませんか?」
「呆《あき》れたよ……」
「え?」
「お前がそんなことを考えるなんてな……お前って、案外、無茶苦茶《むちやくちや》なところがあるんだな」
「あら……」
有里があわてて頬を押えた。
妻が顔を赤くしたのを見て、雄一郎は笑いだした。
このしっかり者で健康優良児的な妻が、どこにそんな茶目っ気と冒険心を持ち合せていたのかと思うとおかしかった。
他方、室伏一家が塩谷を去るかもしれないという話は、親孝行でのんびり屋の岡本良平をあわてさせた。
もはや、彼としても、そのうち親父の誤解もとけるだろうなどと気楽なことをいって居られない心境に追い込まれたのである。
良平は有里と雄一郎との間に交わされた話は知らなかった。
彼は塩谷の浜辺で二時間あまりも千枝と相談したあげく、彼としては一世一代の大決心をして、雄一郎の家へやって来た。
「俺……雄一郎さんに頼みてえことがあって来たッす……」
ひどく改まって坐った良平に、有里と雄一郎は顔を見合せた。
「俺んとこの親父様は知っての通り頑固者だで、一ぺん、つまらん噂《うわさ》をのみ込んだら、なかなかうまいこと吐き出したがらんでよ、まごまごしとると、千枝さんに嫌われるで、いっそ駆け落ちサしてみせたら親父様の頑固の角も折れるんではねえかと思って……」
「駆け落ち……」
雄一郎はあらためて有里をふりかえった。
有里は自分がそそのかしたのではないというように、首を振った。
「俺もいろいろ考えたけんど、それしか方法が無えべさ」
「しかし、……そりゃ、君のほうの都合はそうだろうが、こっちにとってはたった一人の妹だからな……なにも駆け落ちなどという真似《まね》までさせて嫁に出さんでも……」
「兄ちゃん、あたい良平さんの嫁さんになりたいんだよ、他の人じゃ嫌だ……」
千枝は雄一郎をにらみつけた。
「この人親切だし、まめしいから、千枝をきっと大事にしてくれるよ……」
「千枝……」
「雄一郎さん、千枝ちゃんを俺の嫁っこにくれ……な、お願いします。きっと、仕合せにするでよ、俺……千枝ちゃんの他に好きな女なんぞ一人も居ねんだ……」
「兄ちゃん、兄ちゃんだって自分の好きな嫁さんば貰《もら》ったでないの……したから、良平さんが、好きな嫁さん貰いたいっていうの反対なんぞせんでよ」
良平と千枝の攻撃を受けて、雄一郎はたじたじだった。
しかし、ようやく態勢をたて直し、
「反対はせんよ……しかし、駆け落ちはいかん……」
これは台所の方へ立った有里にも聞かせるつもりで、声を張り上げた。
「そんなこといってると、千枝、いつまでたっても良平さんの嫁さんになれんで、おばあさんになってしまうよ。兄ちゃん、千枝が一生嫁に行かんで、いつまでも兄ちゃんの厄介者になってもいいのかい」
「なあ、雄一郎さん、俺を信用サしてけれ……信用して駆け落ちサさしてけれ……」
「いかん」
「兄ちゃん……」
「岡本……お前そんなはんかくさいこと考えとるんか……お前ら二人が駆け落ちして、そんで、あわてて結婚を許すような新平爺さんと思っとるのか……よしんば、新平さんをおどかして結婚したとして、それで嫁と舅《しゆうと》の間がうまく行くと思うか……親を欺《だま》してまで、あわてて結婚せんならんのか」
「雄一郎さん……」
良平はいまにも泣きそうな顔になった。
「兄ちゃん……」
千枝が前に進み出た。
「あたいと良平さんの話がこわれたのは、兄ちゃんのせいじゃないか、兄ちゃんが三千代さんなんぞとつき合うから……」
「千枝さんッ……」
台所から出て来た有里があわてて止めたが間に合わなかった。
「岡本……帰ってくれ……とにかく、今後、話がすっきりするまでは、千枝に近づかんでくれ……千枝もいいな……」
「兄ちゃん……」
「帰れよ、良平……」
「ああ帰るでよ……」
良平も中腹で立ち上った。
「良平さん……」
雄一郎と良平の間で、千枝はおろおろするばかりだった。
「千枝……すわってろ、見送るでない」
「それだって……」
口をとがらす千枝に良平は、
(千枝さん、黙ってろ、逆らうでないよ……)
と眼で合図を送った。
千枝はその意味が判ったらしく、不服そうではあったが、上げかけた腰をおろした。
有里が一人で良平を戸口の外まで送って行った。
「岡本さん……うちの人は決してあなたのこと反対してるわけではないのよ。ただよかれと思ってああ言ってるんです……わかってくださいね……」
「はあ……」
良平は曖昧《あいまい》に答え、視線をそらした。
「それじゃ、おやすみ……」
いそぎ足で暗闇《くらやみ》の中へ消えて行った。
(困ったわ……ますますこじれてしまった……)
有里はそっと空をふり仰《あお》いだ。
ぼんやりとした月のまわりに、大きなまるい暈《かさ》が出ていた。
11
しかし、岡本良平と千枝が手に手をとって駆け落ちしたのはその翌日だった。
一番最初にそれに気がついたのは良平の父親、新平爺さんで、彼は仕事を終えて帰宅し、居間のテーブルの上にのせてある良平の書き置きに気がついた。不審に思って開けてみて流石《さすが》に蒼《あお》くなった。
すぐ雄一郎の所へかけつけ、手紙を見せた。
「た、た、大変だ……あんたとこの千枝さんとうちの良平の奴が、一緒になれんのを悲しんで、心中しに行ったベサ」
「ええッ、心中……」
読んでみると、なるほど良平の書き置きには、心中をほのめかしたような箇所がある。
まさかとは思うものの、雄一郎も途方にくれた。
こんな事もあろうかと、千枝には売店を休ませ、一歩も外へ出るなと命令しておいた。有里も千枝の監視をするように言っておいたのだが、僅《わず》かの隙《すき》に出て行ってしまったものらしかった。
そして更に、その有里までもが責任を感じてか、近所の者に言付《ことづ》けして千枝と良平を探しに行ってしまったらしいのだ。
良い智慧《ちえ》も浮かばないまま、とにかく警察へ届けるという新平爺さんを宥めているところへ、たまたま東京から帰ったばかりという南部斉五郎がやって来た。
雄一郎にとって、この時の南部は、ちょうど地獄で仏に逢ったようなものであった。
雄一郎から事情を聞いた南部は、
「なに、心中……馬鹿《ばか》な、あの二人が心中なんぞするもんか……」
二人の心配を一笑に付した。
「だっても駅長さん、人のこんだでそんなこと言ってるが……」
新平は不満そうに言った。
「自分のこととなったらそうはいかんがのう……」
「うん、それはそうだ……」
南部は真顔になって頷《うなず》いた。
「そんな馬鹿な真似はせんと思うが、放《ほう》っとくわけにも行かんな……」
「新平爺さんは警察へ届けるというてますが……」
「警察……そりゃアまずい、こんなせまい土地でつまらん噂はすぐひろがる……下手をして良平が鉄道に居れんようになっては可哀《かわい》そうだ……」
南部がふと眼をあげた。
「待てよ……あの二人が家出したのは今日の何時頃かわかっとるのか?」
「機関区の吉川さんが昼すぎに塩谷の駅で良平君と逢ったそうです」
「良平一人か?」
「はあ、その時は一人だったらしいです」
「吉川君は機関区へくる途中か」
「はあ……」
「すると、上り列車だな……」
南部は駅長時代の癖が出て、馴《な》れた仕草《しぐさ》で懐中時計をちらと見た。
「あの時刻だと……」
「下り六八列車、札幌行です」
雄一郎が即答した。
「それに吉川君が乗った……で、次の上りは……?」
「上りは一〇一列車、普通です、函館行十二時四十八分塩谷発……」
「む……次の下りは……?」
「四二列車、旭川行、午後一時五十六分……」
「すると一時間八分の間があるな……」
ちょっとむずかしい顔つきをしたが、すぐ、
「下りじゃあるまい、まず上りだ……一時間も塩谷の駅でうろうろして居ってはすぐ人目につく。まず、上り一〇一列車に乗ったんじゃろう……」
との判断を下した。
「とにかく、このことは外部へは洩らすな、俺がこれと思う駅へ内緒で問い合せてみる……まず、上り一〇一列車に乗ったとして……函館まで行ったか、それとも岩内《いわない》線にのりかえたか……」
「千枝は函館の湯ノ川温泉へ行ったことがあります」
「よし、俺にまかせろ……どうも、良平と千枝ちゃんの縁談のもつれの原因には、俺のところも一枚からんでいるらしいからな……」
ちらと新平に視線を投げた。
「駅長さん……、おらは何も……」
「まあいい、まあいい、話は二人がみつかってからだ、俺は駅へ行くぞ、君たちは勤務に戻れ……駆け足イ……」
久しぶりで南部斉五郎の号令を聞き、雄一郎はもちろん、新平爺さんまでが思わず固い表情をくずした。
その頃、良平と千枝は、岩内の宿屋でそれぞれ別々に部屋をとり、駆け落ち最初の夜を迎えようとしていたのだ。
良平は案外落ついていたが、しかし、千枝は女だけに、さすがに心細くなって、そろそろ後悔しはじめていた。
布団《ふとん》に這入《はい》っても、目先に兄や有里の顔がちらついてどうしても眠れない。
なんだか、ものすごく大それたことをしてしまったような気がして、恐《こわ》かった。
塩谷を立つときまではそれほど感じなかった不安が、いまでは支えきれないほどの重みとなって千枝の上にのしかかっている。
千枝はなんだか涙があふれそうになったので、あわてて頭から布団《ふとん》をすっぽりかぶった。生温いものが眼尻《めじり》をつたって枕《まくら》にしみた。そのときだった。廊下の外で女中の声がした。
「あいすみません……お連れさまがお着きでございます……」
「お連れさま……?」
千枝は布団をはねのけた。
(誰かしら……)
咄嗟《とつさ》に頭に閃《ひら》めいたのは、自分たちを連れ戻しに誰かが此所《ここ》へやって来たということだった。
(大変だ……どうしよう……)
千枝はおろおろと布団の上を這《は》い廻《まわ》った。
「お客さん、開けてもいいかね……」
廊下の外から、女中がまた言った。
「ちょ、ちょっと待って……」
さっき、良平が這入《はい》って来ない用心に女中から借りて襖《ふすま》に支《か》っておいた心張り棒を、もう一度しっかりと入れ直した。
そうしておいて、千枝は手早く着物に着換えた。
「千枝さん……」
廊下の外から、今度は女中でない女の声がした。
「千枝さん……あたしよ……」
「あッ、有里姉ちゃん……」
千枝は声をあげると同時に、心張り棒にとびつくようにして襖を開けた。
「千枝さんッ」
「有里姉ちゃんッ」
二人はしっかりと手を取り合ったまま、崩れるように坐った。
「よかった、よかったわ……」
有里は千枝をようやく探し当てた喜びを全身で示していた。
「ずいぶん探したのよ、あっち、こっちと……まるで気違いみたいに……千枝ちゃんにもしものことがあったら、あたしどうしようかと思った……」
「ごめんなさい……」
そんなに心配してくれていたのかと、胸が熱くなった。
「よく分ったね。ここが……」
「最初、塩谷の駅できいたのよ……そしたら、ホームで草むしりしてた小母さんが、たしか上りに乗って行ったというので、そのまま家に連絡もしないでとび乗ってしまったのよ。そしたらそれが小沢止りだったの……小沢の駅で函館行に乗ろうか、それとも岩内線かと随分迷ってね……」
「結局岩内線に乗ったんだね」
「それはまあそうだったんだけど、その前に、もしやと思ってホームの売店で千枝さんと良平さんのこと聞いてみたのよ」
「ああ……私たちあそこでアンパンとラムネ買った……」
「そうなのよ、たしか岩内行の発車間際だったって言ったんで、私も岩内線に乗ってまず終点から調べてみるつもりだったの……運が良かったわ、最初の所で逢えたんだから……でも旅館を一軒一軒探してたんで足が棒のようになってしまったわ……」
「ごめんね、有里姉ちゃん……」
「ううん、そんなこといいのよ……ただね、今頃みんな心配してると思うの、出来ればこれからすぐ塩谷へ帰ったほうがいいわ……」
「帰ったら、怒られるだろうねえ」
「それは……でも帰らなかったらもっと悪い結果が出ると思うの……」
有里はふとしんみりした表情になった。
「本当のこと言うと、最初私も駆け落ちに賛成だったのよ……でも、今日それがいけないってことが良く分ったわ、駆け落ちはやっぱり卑怯《ひきよう》よ」
「だども、ほかに方法が無かったでよ……」
いつの間にか、良平が襖のかげに立っていた。
「こうするより仕方なかっペサ……」
「いいえ、正面から何度でもぶつかるべきだったんだわ……」
「お父《どう》は頑固もんだで……」
「頑固なら、余計そうよ。逃げては駄目《だめ》……とにかく家へ帰りましょう、ね……」
有里は自分が千枝のことを心配してみて、はじめて駆け落ちの非を認めざるを得なかった。
大事なのは、逃げることではなくて、二人が一緒になることが、二人にとってどんなに大切であり、またプラスであるかを根気よく周囲の者に知らせることであった。
駆け落ちは一見情熱的でロマンチックではあるが、それによって必ずしも二人の愛の強さ、確かさを証明できるわけではない。
むしろ逆に、衝動的であるとか我儘《わがまま》であるとか思われる方が多かった。
有里はこれらのことを二人に説明してやった。又、二人の意見も聴いた。
「帰ろうか……」
ようやく千枝がその気になりだした。
「したが、お父はおっ怖《か》ねえでよ、すぐ俺の横っ面ひっぱたくでなア……」
良平は憂鬱《ゆううつ》そうに顔をしかめた。
「乱暴はしないように、私からもよく頼んでおいてあげるわ……」
「有里姉ちゃん。お願いね……」
千枝が心細そうに言った。
宿屋から塩谷の駅へ電話をしてもらい、雄一郎に二人が無事であることを知らせるよう依頼して、有里は二人と一緒に下り列車に乗った。
塩谷にたどりついたのは、夜半に近かった。
宿屋から連絡があったので、新平爺さんも雄一郎の家で待っていた。
「お父……俺《おれ》が悪かっただ、家出してお父に心中するなんて嘘《うそ》の手紙サ書いたのは、俺が悪い……俺が千枝さんを誘ったんで、千枝さんに罪はねえでよ……だども……それもこれも、みんな千枝さんと一緒になりてえばっかりに仕組んだことだで……な、お父、堪忍《かんにん》してけれ……どうか、どうか千枝さんを嫁にもらってけれ……」
「お願いします、あたしきっといい嫁さんになります。悪いところは叱《しか》ってもらって……一生懸命にやりますから、どうか、あたしを良平さんの嫁さんにして下さい……」
良平と千枝はかわるがわる新平の前に両手をついた。
「岡本さん、私からもお願いします。どうか結婚させてあげてください……」
有里もそばから口を添えた。
しかし新平は口を固く結んだまま、一言も発しようとしなかった。
「お父……なんとか言ってけれ……な、お父……」
「嫌だ……」
「お父……」
「良平ッ……」
新平がはじめて良平のほうに向き直った。
「いいか……俺がこの縁談に不承知なのは、だいたいお前たち二人の了見が気に入らんからだ……今のような了見でいっしょになったとて、どうせうまく行く筈はねえ」
「岡本さん、それはたしかにその通りです。私たちも含めて、若い者は考えなしの不了見とお叱りをうけるのもよくわかります。しかし、夫婦ってものはお互いに欠点だらけの人間がいっしょに生活し、怒ったり泣いたり笑ったり喜んだりして、だんだん一人前になるんじゃないでしょうか……。良平君にしても千枝にしても、まだまだ至らない人間かも知れません。しかし、いっしょにしてやることで一足ずつ成長して行くということは考えられんでしょうか……」
雄一郎が適当な言葉を少しずつ捜しながら、新平の機嫌をそこなわないように取り成した。
「室伏さん、あんたのいうのはまだまだ先のことだべ……」
じろりと白い眼をむいて新平は言った。
「わしが見るところ、良平と千枝さんもちっとも足が地べたについとらん……足が宙に浮いてしまった者同志が一緒になって、どうしても一足一足歩けるもんだべ……とにかく、二人の足が地べたサついたら、そん時はわしも又考え直すかもしれん……だども……今は駄目だ……」
「お父《どう》……なんで俺の足が地べたサついとらんのだべ……俺、今までに一度だってお父に逆らったことがあったか。千枝さんとのことだって、お父がいけねえというで、我慢に我慢サしとったでねえか……けんどもよう、もう、我慢出来ねえだ……」
「辛抱サ出来ねえのなら、勝手にしたら良かっぺ……」
「お父……」
「なんにしても、今はいかん……先へ行ったらどうかしらんが、とにかく今のお前にゃ嫁さん貰《もら》う資格はねえでよ」
「そったらこといったって、室伏さんとこもうじき転勤サするっちゅうでねえか、そったらことになったら俺、千枝さんとますます逢えなくなるで、それで俺……」
「フン……」
新平は鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「アメリカと日本とに別れ別れになっとったって、お互いが信じ合っとりゃ、どうということはねえ」
「そったら言ったってよ……そうはいかねえんだ……お父は若い者の気持わからんでよ……」
「良平……俺のいうこときけねえのか」
「きけねえ……俺、このことだけは、お父の言うことでもきけねえ」
良平は珍しく父に反抗した。
両肘《りようひじ》を張って、一歩も後へ退かぬ決心がありありと見えた。
新平はちょっと意外そうな表情をしたが、すぐ態勢をたて直し、息子《むすこ》をにらみつけた。
睨《にら》み合いはしばらく続いた。
雄一郎も有里も言葉を挟むことが出来ないほど、二人の表情にあらわれているものは険悪だった。
やがて、新平の方が我慢できなくなったとみえ、
「よし、そんなら出て行け、親の言うこともきけんような者《もん》と一緒に居《お》っても、腹が煮えるだけでよ」
呻《うめ》くように言って立ち上った。
「お父……」
「勝手にしろ……俺《おら》、……帰るで……」
「お父ってば……」
良平があわてて腰をあげた。
「ついて来たって、家には入れんでよ……今日からお前みたいな者、息子とは思わねえ……」
足音も荒く出て行ってしまった。
新平の剣幕のすさまじさにあきらめたのか、良平はさすがにがっくりと肩をおとした。
「どうするの、良平さん……大変だよ……」
千枝がおろおろと良平に取りすがった。しかし、良平の表情は案外静かだった。
「千枝さん……俺、覚悟サきめたでよ……俺、やっぱり家サ出て、当分鉄道の独身寮へ入るべ……お父を一人にすんのは気がかりといえば気がかりだども、俺の足が本当にお父のいうように地べたサついとらんかどうか考えてみるべ……」
「そしたら、いったい私はどうしたらいいのよ……」
「千枝さん、お願いだ、待っとってけれ……俺が嫁にもらいに行くまで待っとってけれ……。な、頼む……」
「いつ……いつまで待つのよ……」
「さあて……今すぐ答えられねえけんど……達磨《だるま》さんだって壁に向って九年たったら悟りをひらいたっていうでよ……」
「い、嫌だよ、九年もたったら千枝、おばあさんになってしまうよ……」
「俺ア……そんなにはかからんと思うでよ……」
「分らんよ、あんた、釜《かま》たきの試験、九回も落っこちたじゃないの」
「千枝……」
雄一郎がすっかり取り乱した千枝をたしなめた。
「千枝さん、ちょっとの辛抱よ、すぐ良平さんは迎えに来てくれるわ……」
有里もそっと千枝の肩を押えた。
「雄一郎さん、そいじゃすまんけんど……俺、一生懸命けっぱって働いてみるで、どうかそれまで千枝さんをお願いします。必ず迎えに行くで……」
良平は眼に涙さえ浮かべて、雄一郎夫婦の前に両手をついた。
12
雨の後には晴れ間がのぞく。
良平と千枝の駆け落ち事件のあと、良平は鉄道の寮へはいり、雄一郎の小樽の車掌区から釧路へ転勤する辞令も出て、いよいよこの月の半ばには釧路の官舎へ移転が本決りとなった。
官舎は家賃が要《い》らないと知って、なんだか有里はホッとした。その余分を質屋へ入れてある簪《かんざし》の利息に回せばよい。
あれから公一は何とも言ってこないが、そろそろ期限のきれる頃だった。
しかし、何といっても室伏一家を明るい喜びで包んだのは、二年ぶりのはる子の帰郷だった。
北海道の九月は稲刈りの真盛《まつさか》りである。
そろそろ山では紅葉がはじまっていた。
はる子からは前もって手紙でしらせて来てはいたのだが、駆け落ち事件、転勤と次から次とあわただしかったので、ついはる子のことを忘れていた。
それだけに、はる子の顔を見たときの驚きと喜びは大きかった。
「電報うってくれたら迎えに行ったのに……」
と雄一郎が言うのへ、
「自分の家へ帰るのに迎えもなにもあるものですか、チッキは塩谷の駅どめにしてあるから、雄ちゃんあとで取りに行って来てね……。あんた少しふとったかしら……有里さんはちょっと痩《や》せたようね……何かあったんじゃないの、駄目よ、奥さんに苦労かけては……」
相変らず、よく気のつく姉であった。
「別にそれほど苦労はかけてないよ……」
雄一郎は形勢危うしと見て、話題をかえた。
「姉さん、伊東さんと一緒に帰ってくるんじゃなかったのかい?」
「ほんとう、私もさっきから伺《うかが》ってみようと思っていたんだけれど……」
有里も怪訝《けげん》そうに言った。
「ええ……それがね、いよいよになって駄目になってしまったの……」
「なんで……?」
「鉄道省の尾形さんが突然病気でお倒れになってしまったのよ」
「まあ、尾形さんが……」
有里も雄一郎も思わず眼を瞠《みは》った。
「いつ……?」
「おとといの夜なの、脳溢血《のういつけつ》だったんですって……倒れた場所がお屋敷の中だったので、そのままそっとしておいたのが良くって、危険な状態はもう過ぎたのだけれど……やはり、まだね……」
「そりゃアそうだ……脳溢血というのは怖《こわ》いそうだからね。伊東さん、尾形さんのそばに……?」
「そうなの、栄吉さんは尾形さんにはご恩があるし、それに奥様がとっても栄吉さんを頼りにしていらっしゃるらしいので、あたしからもすすめて、今度は東京に残ってもらうようにして来たのよ」
「そうか……」
雄一郎は少しがっかりしたような声で言った。
「残念でしたわね……」
有里も思いは同じだった。
「折角、いい機会だったのに……」
「仕方がないわよ、そうするのが人間の道だもの……北海道は来ようとさえ思えば、いつだって来られるわ」
思ったより、気にしていない様子だった。
「ナナカマド、綺麗《きれい》ね……汽車の窓から見て、懐しかったわ……」
「今年はいつもの年よりキノコが沢山採れてね……稲も豊作らしいし……」
「そうね、分るわ、塩谷の駅から家まで来る途中、なんとなく活気があったわ……」
「これ、うちの畑でとれたんですよ」
有里が焼きたてのトウキビを、皿に山盛りにして持って来た。
「ウワー素敵ッ……」
はる子は歓声をあげた。
「懐しいわ……」
子供のようにはしゃぐはる子に、雄一郎と有里は顔を見合せて、思わずほほえんだ。
雄一郎の家がはる子を迎えて活気づいている頃、岡本新平の家では、新平老人がたった一人で夕食の仕度をしていた。
新平も良平も、まだ互いの意地を張り通しているらしかった。
南部斉五郎は、そうしたこじれにこじれた新平爺さんの気持をなんとか和らげて、良平と千枝の二人を仕合せにしてやりたいと念願していた。
南部がたずねた時、新平はのろのろした動作で食卓へ食器を運んでいるところだった。
南部はそれを見て暗い気持になった。
親と口論するのもいい、面白くなくて家をとび出すこともあるだろう。しかし、年老いた親をたった一人で放り出し、食事の仕度まで自分でさせて良いものだろうか……。
(良平の奴も、近頃どうかしとる……明日にでもとっ掴《つか》まえて、少し説教してやらにゃいかんな……)
取りなすつもりで来たのが、急に気が変って戻りかけると、
「おや、南部駅長さんじゃねえだか……」
新平がようやく気がついて、声をかけた。
「どうぞ上ってくだせえまし」
「いや、今日は止そう、また出直してくるよ、食事の仕度を続けなさい……」
「はあ、その積りじゃったが、釜《かま》のふたサあけてみたらばちゃんと飯がたけとるし、味噌汁《みそしる》も作ってある……魚のたき合せもある……みんなわしの留守中に作っておいてあったでよ……」
「良平君か……?」
「ああ、どうもそうらしいな……良平の来れんときは千枝さんが来とるらしい……こないだなんぞ、魚を煮るのにソースと醤油《しようゆ》サ間違えおって、妙な味のもん食わされました……」
「そうか、二人で来るのか……」
南部は腹をかかえて笑った。
笑いながら胸のつかえが落ちるのを感じた。
「わしに見つからんように苦労しとるようだで……わしもうっかり家へも帰られねえでよ……」
「そりゃアいいや、掃除も洗濯もその手かね」
「はあ……わしのやることは何んもねえっす……」
「なあ、新平さん……どうだ、ぼつぼつ俺に仲人《なこうど》させんかい……」
「駅長さん……」
「事情はよう分っとる。お前さんが反対する理由もわかるが……若い者のやることだ、いい加減に堪忍してやらんか……好きな者同志、一緒にしてやりなさい」
「駅長さん……あんたはどう思ってなさるか知らんが、わしは千枝ちゃんが気に入らんでこの縁談に文句サつけとるわけではないで……わしが腹立ててるのは、良平にしても室伏さんにしても、鉄道員としての心構えがなっとらんと思うからです」
「ほう……」
「室伏さんと三千代さんのことにしても、わしは最初から噂なんぞ本気にはしとらん……わしが怒っとるのは、そんだら噂を立てられる雄一郎さんに心の油断があったっちゅうことだべ。噂の種にされるのは、結局、本人に自覚が足らん、用心が足らん、慎重さが足らんのです。良平にしてからがそうじゃ……俺が反対しとるで、駆け落ちじゃ心中じゃと騒げば俺が折れると思ったという、そういう軽はずみなことしてて、大事なお客様の生命を預かり、機関車を走らせるなんてことが出来ると思いますか……」
「ウム……」
南部は思わず呻《うな》った。
無口な新平爺さんから、こんな筋の通った言葉を聞こうとは夢にも思わなかった。あらためて、新平を見直した。
「駅長さん、俺は室伏さんが好きだ……見所のある人だと思っとるで……又、良平の奴《やつ》もめんこい……めんこいで叱っとる。あんなことで南部の親父さんがいつも言うとる鉄道を背負って立つ男になれっと思うかね……それだで、俺は強情サ張っとる……」
「そうか、そうか……流石《さすが》だよ、新平爺さん……」
「なあに、年寄りの冷や水だでよ……こういう事ばっか言っとると、伜にも嫁にも憎がられるで……」
「それでいいんだよ、憎がられることが有難いんだ……わかったよ、新平さん……仲人はもっと先だな……」
「へえ……有難てえが、もうちっと先にお願えしますだ。どうか、もうちっと待ってやってけれ……」
「いいとも……しかしなんだよ、お前さんの気持は連中もうすうす感づいとるらしい……雄一郎の奴が言っとった、叱られたのは良平じゃなくて俺だとな……良平の奴は小樽の海岸へ行って毎晩座禅の真似事《まねごと》をやっとるそうだ……はて、いつ悟ることやら……」
「なにせ、一つのことに人様の五倍、十倍まわり道をせんならん男だで……」
「それがいいんだ。そういう奴が鉄道を動かす底力になる……みんな背のびして走って、転ぶ……転んで起きて行くのを、俺たちが見ててやらなきゃな……」
二人は顔を見合せ、頷き合った。
してきたことは違っていても、二人とも鉄道に生き、鉄道のことだけを一途に考えつづけてきた男たちだった。
口には出して説明しなくても、その眼の中に燃えているものは同じである。齢はとっても、体を流れる血はまだ熱かった。
彼らはある意味で鉄道の鬼である。世間には名も知られぬ、こうした何百人、何千人の鬼たちが日本の鉄道を守り育て、支えて来たのであった。
13
約二年ぶりに帰郷したはる子を加えて、室伏家の法事は、ひっそりとごく内輪だけで行なわれた。
内輪とはいえ、焼香には南部斉五郎や雄一郎の勤務している小樽車掌区の人々、それに塩谷駅の元の同僚たちが集まってくれた。
岡本良平が来たのはもちろんだが、新平爺さんが法事の終る間際に来て、一言も口をきかず焼香をして行ったのが印象的だった。
寺での法事を終え、客のすべてが帰ってから、雄一郎、有里、はる子、千枝の四人は久しぶりに水入らずで両親の墓に詣《もう》でた。
紀州の須賀利《すがり》にある本家の墓に分骨はしたが、日頃、香華《こうげ》をたやさぬために、父親が歿《な》くなった時にたてたこの墓も、そのままにしてある。
「雄ちゃん、あんたが釧路へ転勤になったら、このお墓どうする……?」
墓の周囲の草をむしりながら、はる子が言った。
「ああ、そのことは俺も考えたんだ……いっそ釧路へ移そうかとも思ったんだが、ここ当分は転勤が続くだろうし……」
「そうねえ、鉄道員はどうしても転勤が多くなるわね……」
「うん、そのたびごとに移すのもなんだから、当分ここへ置いておこうと思っている」
「そのほうがいいかもしれないわ……」
「どうせ転勤てったって札鉄管内だから、どこへ行ったって、このお墓の供養は忘れないよ、姉さんは安心してお嫁に行ってくれよ」
「ありがとう……せいぜいお言葉に従うようにするわ」
はる子は楽しそうに笑った。
「姉ちゃん、伊東さんといよいよ結婚するんだって……?」
千枝が聴いた。
「ええ、そのつもりよ……」
「いつ……?」
「いつって……本当はこの秋にもと思っていたのだけれど、尾形さんのご病気がもう少しよくなって下さらないとねえ……」
「結婚したら、伊東さん、札鉄へ帰ってくるのかい?」
「そうね……できればそうしたいって言っていたわ」
「きっと今度帰ってくるときは管理局へ勤めるようになるかもしれんな」
「さあ……栄吉さんは現場で働きたいって言っていたけど……」
「みんなで北海道で暮らせるなんて、ほんとに夢みたい……」
有里が歌うように呟《つぶや》いた。
雄一郎が掃き集めた落ち葉に火をつけた。
それで線香に火を移し、雄一郎はみんなに少しずつ分け与えた。
有里が持参の菊と桔梗《ききよう》の花を墓前に供えると、雄一郎から順に進んで両手を合せた。
おわると、みんな崖《がけ》っぷちに立って塩谷の海を眺めた。
雄一郎、はる子、千枝の三人は此所《ここ》に生れ、育ち、そして両親と別れた土地である。
有里にとっては、又、たった一人で嫁入って来た、思い出深い場所だった。
しかし、間もなく此所ともお別れだ。
みなそれぞれの感慨をこめ、いつまでも海をみつめていた。
家へ帰ると、東京の伊東栄吉から手紙が来ていた。
尾形清隆の容態があまりかんばしくないため、二、三日遅れてもと思っていた北海道行は完全に中止せざるを得なくなった。残念だが仕方がないと書かれてあった。
それを読んだはる子は、予定を二、三日繰り上げて横浜へ帰ると言い出した。
「折角いらっしゃったんだから、やはり予定通りなさったら……」
と有里は引きとめるのを、
「どうせ、結婚したら、ずっとこちらに住むのですもの……」
はる子は笑ってとりあわなかった。
いよいよ明日、はる子が横浜へ帰るという夜は、雄一郎も勤務を早目に終えて帰宅した。
すでに売店をやめている千枝も家に居たし、その千枝も、南部斉五郎の口ききで、雄一郎夫婦が釧路へ転勤した後は、機関手の吉川の家へ家事の見習のため預けられることがきまっていた。
いってみれば、この夜は、三人きょうだいが生れてはじめて、完全にばらばらになる別れの宴でもあったのだ。
それぞれの膳《ぜん》には、浜から買って来た新鮮な毛ガニ、秋イカ、サンマなどの料理が載っていた。
この夜だけは、有里は財布の底をはたいても、精一杯の御馳走《ごちそう》を出したかった。
女たちは盃《さかずき》に二、三杯の酒で、たちまち頬を桜色に染めた。しかし、三人の中では千枝が一番酒に強く、いつの間にか手酌で飲みはじめて、はる子を心配させた。
「千枝……あんた今日は好きなだけ飲ませてあげるけど、吉川さんのお宅へうかがったら、どんなことがあってもお酒なんか飲むんじゃありませんよ」
「わかっとる、わかっとる……」
千枝はすでにかなり酔っているらしく、呂律《ろれつ》があやしかった。
「千枝……それからお嫁に行ってからもお酒は駄目よ」
「なんして……なんでいけないんだい……」
「あんたは雄ちゃんに似てお酒が強いらしいから……夫婦で飲んでいたら、良平さんがどんなに働いたって追っつかない」
「イヤーダ……千枝、身上《しんしよう》つぶすほどなんて飲まないよ」
「駄目、絶対にお酒はいけませんよ。今迄は、なんといっても雄ちゃんや有里さんが蔭になり日向《ひなた》になって千枝をかばってくれた……吉川さんご夫婦はいい方だけど、それは何といっても他人様なのだから、あんたが余《よ》っ程《ぽど》気持を引き締めていないと、とんだ恥をかくことになるのよ」
「そうだ、吉川さんはお前が機関手の妻として、ふさわしいかふさわしくないか試験をするわけだからな、吉川さんに見放されたら、お前がどんなに良平の女房になりたくとも、鉄道のほうでお断りだ……」
「千枝さん、なにかあったら、すぐ電報うってくださいね、私、いつでもすぐとんできますから……」
有里も、千枝をたった一人で塩谷に残して行くのが気懸りの様子だった。
「けっして遠慮はしないでね」
「うん……それでも、有里姉ちゃんもだんだんお腹が大きくなると動かれんようになるもんね……」
「あら……」
有里がはる子と顔を見合せた。
「千枝……」
はる子が千枝をたしなめたが、時すでに遅く、
「なんだ……いったい……?」
雄一郎が不審そうに聴いた。
「駄目ねえ、千枝は……有里さんが話すまで黙っているって約束だったのに……」
「ごめんネ、うっかりしちゃった……」
「いいのよ、私じゃなんだか恥かしくて、とっても話せそうもないし……」
「なんのことだ、はっきり言えよ……」
「実はね、有里さん、さっき病院へ行って来たのよ、あんたが帰ってくる少し前に帰って来たの……」
はる子がかわりに言った。
「病院……?」
雄一郎にはその意味がまだのみ込めず、有里を上から下へと眺め回した。
「お前、どっか悪いのか?」
「違うよ、兄ちゃん、有里姉ちゃんに赤ン坊が出来たんだよ」
「ええッ……」
「おめでとう、雄ちゃん……これからは有里さんを大事にしてあげなくては駄目よ」
「有里ッ……」
一瞬、狐《きつね》につままれたような顔をして、雄一郎は有里を見た。
有里は含羞《はにか》んで眼を伏せた。
「おい……本当なのかッ……」
「……もう三月にはいってるんですって……」
「いつ、生れるんだ……」
「四月の末の予定なんです」
「それでどっちだ、赤ん坊は……女か男か……」
「何を言ってるの……」
女たちが笑いだした。
「馬鹿だなあ、兄ちゃんは……そんなことがまだわかるわけがないでしょう……」
千枝にまで馬鹿にされて、雄一郎は頭をかいた。
「そうか……だけど、そうだったのか……」
「だけど雄ちゃん、引越しのとき、重いもの持たせたらいけないのよ、今月一杯が殊に大切なのだから……」
「ああ、荷物運びは俺がやる」
「千枝もやるよ、釧路の家の掃除もみんなやってやる……こんなときに役に立たなくちゃ、有里姉ちゃんにすまんもんね」
「千枝さん……」
有里は何といって自分の気持を表現していいかわからなかった。
ただ嬉しさが、胸一杯こみ上げていた。
「そのかわり、今度千枝が赤ン坊産むときはお願いね……」
「ええ、それはもう……まかしといてちょうだい……」
ポンと胸を叩《たた》いて笑った。
明るくて、気さくな室伏家の色に有里もいつの間にか染っていた。
「心配するな千枝、先輩面して、いまにいらん世話までやくようになるぞ……」
「あら……そんな……」
有里が雄一郎をにらむと、それがおかしいと言って、千枝とはる子は又笑った。
「でもさ、有里姉ちゃんだってまだ子供が出来るし、千枝のお産と有里姉ちゃんのお産とかち合ったら困るわね……」
「困らないわよ、千枝、そんなときは私が駆けつけてあげますよ」
「だって、そんなこといったって、はる子姉ちゃんだってお産するかもしれないんだよ」
「まあ……」
はる子はみるみる真赤になった。
「よおし、今夜は飲むぞ……」
雄一郎は張り切って叫んだ。
この夜の室伏家には、仕合せがあふれていた。
多少の屈折はあっても、間もなく、はる子も千枝も、心から愛し合える人と結婚への道を歩きだすことが予想されていた。
そして、雄一郎と有里の間には、来年四月、北海道に遅い春が訪れる頃、可愛い赤ン坊が生れてくる。
ささやかな仕合せを、このつつましい家族は胸一杯に吸い込んだ。
小さな、この仕合せをそれぞれに大事にみつめていた。
明日の日は知らなくとも、この夜、室伏家は、たしかに仕合せが匂《にお》いこぼれるようであった。
14
翌日は、小樽のホームまで、千枝と有里が見送りに来た。
「体を大事にしてね、あなたの体はあなた一人のものではないんだから……いつも赤ちゃんと二人連れ……そのことを忘れないでね」
発車間際に、はる子は有里に言った。
「この次は赤ちゃんを見に帰ってくるわ……」
千枝には、
「一日も早く良平さんのお嫁さんになりたかったら、一生懸命努力するのよ。人に甘ったれていては駄目《だめ》、人に寄りかかっていてはいつまでたっても一人前にはなれないわよ。姉さんはいつも、あんたが本当に仕合せになれるよう祈っているからね……」
と言った。
発車のベルが鳴った。
「有里さんのこと気をつけてあげてね……」
「うん、だいじょうぶだよ」
「有里さん、体を大事にね……」
「はい、お姉さまもお体に気をつけて……今度こそ、仕合せになってください……」
「ありがとう……」
三人はお互いに姿が見えなくなるまで、手を振った。
次第にスピードをあげて行く列車の窓から、小樽の町を眺めながら、はる子は、いつか千枝一人に見送られて、この駅を発った日のことを思い出していた。
あれから一年半余り……。
(これでよかった……やはり、あの時ああして良かったのだ……)
はる子は心の中で幾度も頷《うなず》いた。
よい弟、よい嫁、よい妹……。それらの顔が次から次とはる子の目に浮かび、それは、やがて伊東栄吉の面影になった。
(今度、小樽へ帰ってくる時、私は伊東栄吉の妻になっている……)
その思いが、はる子を仕合せの中に押し包んだ。
はる子が上野駅へ下りたったのは、小樽を発った翌日の昼であった。
駅から伊東栄吉の下宿へ電話をしてみると、伊東は尾形の入院している築地《つきじ》のS病院へ行ったきり、もう一週間も戻っていないという。
はる子の足は、ためらいながら、やはり築地へ向っていた。
S病院は東京でも一流の大病院で、良い医者の居ること、設備の良いことなどで有名だった。
受付で尾形の病室をたずね、はる子は長い廊下を歩いて行った。
病院特有の陰惨な影は此処《ここ》には無い。明るくて、清潔感にあふれていた。
白い制服、制帽の看護婦や、医師やそろそろ退院らしい患者の姿が廊下にちらほら見えた。
はる子は受付で教えられたように、廊下の突き当りを左に曲った。
ここからが、内科の重症患者の病棟だという。なるほど、軽病患者の病棟にくらべ、此処は全く人通りがなかった。
廊下の空気もどことなく重苦しい。
はる子はようやく、自分がこんな所へ来るべきではなかったことに気づいた。
その時、廊下の奥の方の病室のドアが突然開き、大勢の看護婦と医者がどやどやと出て来た。
はる子は嫌な予感に襲われた。
その辺が、受付で聞いた尾形の病室らしく思えたからだった。
医者の近づくのを待って、はる子は一礼した。
「あの、ちょっとお伺《うかが》い致しますが、尾形さんに何か……」
「お身内の方ですか……?」
「は、はい……」
「まことに残念ですが……只今《ただいま》、息をひきとられました……」
「えッ、では……あの……お歿《な》くなりに……」
「病気の変化が急だったものですから、手のほどこしようがありませんでした……」
医者は、黙礼して立ち去った。
(尾形さんが歿くなられた……)
はる子はまだ自分の耳を疑っていた。
手紙で病状が良くないことは伊東から知らされていたが、まさか死ぬとは思いもしなかった。
ちょうど病室のドアが開いていたので、はる子は外からそっと中をのぞく気になった。もしや、伊東の姿くらいは見られるかもしれぬという気持からだった。
はる子が歩きだそうとしたとき、不意に、そのドアから、尾形未亡人らしい年配の婦人が、両脇《りようわき》を南部斉五郎と伊東に支えられるようにして出て来た。
婦人はハンカチを顔に当てたまま、崩れるように、廊下のベンチに腰をおろした。
きっと遺体を清めるため、しばらく廊下に出ているように病院側から言われたのだろう。
はる子は母が病院で歿くなったときのことを思い出した。
未亡人はもちろんだが、伊東の頬にもやつれの色が濃かった。
はる子は伊東に近づいて、声をかけようかどうしようかと迷った。
さいわい、南部も居ることだし、そばへ行くには都合が良かった。伊東と尾形家とのあいだに、どんな経緯《いきさつ》があったにしろ、尾形清隆が伊東の恩人だったことには変りはない。
その未亡人に悔みの言葉を述べるのは、当然のようにはる子には思えた。
南部も伊東も、尾形未亡人を一生懸命はげましているらしく、はる子のことには全然気がつかなかった。
看護婦が二人、新しいシーツと脱脂綿をかかえて、尾形の病室へはいって行った。
病院内に礼拝堂があるらしく、荘重なオルガンの曲に合わせて、静かな讃美歌の歌声が流れはじめた。
それは、肉体をはなれた尾形清隆の霊を慰めるかのごとく、高く低く、あるいはゆるやかに、信者ではないはる子も思わず襟《えり》を正したくなるような敬虔《けいけん》で清らかな歌声だった。
はる子は眼をとじて、そっと尾形の霊に祈りを捧げた。
(長い間ほんとうにご苦労さまでございました……安らかにおやすみくださいませ……)
再び眼を開けたとき、はる子は思わずはっとした。
伊東栄吉の胸の中に、すがりつくように泣いている和子の姿が見えたからである。
和子はおそらく、ずっと病室の中で悲しみをこらえていたのだろう。それが、今の讃美歌によって、堰《せき》を切ったようにあふれだしたのに違いない。
和子は伊東に甘えていた。
はる子にはそれがよくわかった。
伊東はこちらに背中を半分向けているので、顔はよく見えないが、何かやさしい言葉で和子をなぐさめているらしい。
はる子はあわてて廊下の角へかくれた。
胸の動悸《どうき》が激しくなっている。
自分がすっかり混乱しているのが、はる子にはよくわかった。
柱のかげからのぞくと、和子も伊東も元の姿勢のままだった。
はる子は小走りにその場を離れた。
途中、尾形の関係者らしい男が四、五人、あわただしく重症患者病棟の方へ走って行くのとすれ違った。
その中には、いつか伊東との結婚をあきらめるよう説得しに来た、大原という尾形の秘書が居たのだが、はる子は気がつかなかった。
気がついた時、はる子は横浜へ行く列車に揺られていた。
瞼《まぶた》には、たった今しがた、病院で伊東栄吉と尾形和子の光景がこびりついている。
見てはならぬものを見てしまったという思いが、はる子の胸の中をしきりに駆けめぐっていた。
15
横浜の白鳥舎では、はる子の帰宅をみんなが喜んでくれた。
奥へ挨拶《あいさつ》に行き、すぐそのあとで、店員たちから留守中の報告をきいたり帳簿をみたり、はる子は自然に仕事の中へ自分をとけ込ませて行った。
翌朝、はる子は久しぶりに物干場へ上ってみた。
九月の横浜は、空と海とがそれぞれの蒼《あお》さで重なっている。
港に停泊中の外国船の上にも、いつの間にか秋の雲が浮かんでいた。
はる子がぼんやり海を眺めていると、
「お早よう……」
うしろで、男の声がした。
「昨日、帰ったんだってね。元町の兄貴のところに行ってて知らなかった……法事はどうだった……」
白鳥舎の女主人きんの一番末の弟で、亮介という。
年齢は、はる子より五つ六つ上らしいが、なかなかのやり手で、日本の陶器をアメリカへ運んでかなりいい商売をしているらしかった。
きんの話だと、すでに相当の財産もあり、サンフランシスコとニューヨークに小さいながら店を持っているそうだった。
一度、アメリカの婦人と結婚したが、うまくゆかず、二年ほど前に別れたのだとも言った。
最近、ハワイにある彼のビルに、白鳥舎の支店を出さないかと、きんにしきりと勧めているらしい。
きんは暗に、はる子にその支店の支配人として行ってもらいたい腹らしく、折にふれてその事を言外ににおわすのだが、はる子は笑って取り合わなかった。
「あなたが北海道へ行っている間に、僕も九州へ旅行したんです……」
亮介は、はる子の横へ来て並んだ。
「九州……?」
「伊万里《いまり》ですよ、僕、日本の焼き物をアメリカへ持って行って商売している……どうせ日本のものを売るからには、いい物を売りたいんです。これが日本の焼き物だと胸を張って見せられるようなものをね……擬《まが》い物は嫌です、日本が誤解されるのは真《ま》っ平《ぴら》ですからね……」
はる子は亮介の顔を見た。
同じ家に居るので、ちょいちょい言葉を交わすこともあるが、彼がこんなに熱っぽい喋《しやべ》りかたをするのは初めてだった。
「伊万里へ行って、非常な収穫がありました。いい職人をみつけたんです……若いがいい腕を持っている、なによりいいのは根性があるということです……」
それから、急にふっと調子を変えて、
「僕、来月早々、アメリカへ帰ります……」
と言った。
「アメリカって、どんな所かしら……一遍行ってみたいですわ……」
はる子は沖を見ながら呟《つぶや》いた。
それは彼女の偽りのない気持だった。
いつも、この物干場に上って港を眺めながら、はる子は海の向うにあるという外国のことをさまざまに想像していた。
白鳥舎のお得意さんで、はる子のことを特に可愛《かわい》がってくれる貿易商のジョーンズ夫人や、ドイツ・レストランの主人ハインリッヒなどから聞かされる彼等の国の風俗、習慣、景色の話は、はる子の外国に対する夢を大きく育てていたのだった。
だが、亮介はかすかに口許をゆがめた。
「船の旅って、実に面白いものですよ、赤だの青だの、テープが乱れ飛んで、ドラが鳴って……いいもんだ、見送ってくれる人が一人も居なくたって……いいもんですよ……」
「船、揺れませんの……あたし、青函連絡船で一度、船が大ゆれにゆれて、それ以来船に乗るのがなんとなく怖《こわ》いんです……」
「外国船は大きいから、揺れるっていうほど揺れません……」
亮介は沖を見つめたまま言った。
「それと、馴《な》れるっていうのかね、よく我々の仲間は言うんです……船と酒はほんの少し酔っぱらっているのが一番具合がいいってね……」
「まあ……」
「航海がはじまると、来る日も来る日も海ばかりだ……底の知れないような黒い海、白い波……ハワイを出てしまうと、最早、島影もない……とにかく、どこまで行っても海、海、海なんです。無性に人が恋しくなる……陸地が恋しくなる……そのうちに頭の中が空っぽになって、気持がなんともでっかくなる……」
亮介はほっと溜息《ためいき》をついた。
「いいもんですよ……人間社会のこせこせした感情なんぞ、どこかへ吹っとんでしまってね。生れたときのまんま、まさに天衣無縫の気持になる……そのせいかな、船の旅では、案外男と女の間にロマンスが生れやすい……陸地で口説いて駄目な女は、船にのせるといいと思いますね……そのかわり、航海が終ると恋も終る……」
「まるで経験なさったみたいですわ」
「姉にもそう言われましたよ……」
はじめて、はる子を見て笑った。
「しかし、残念ながら、こっちは女ってのに愛想をつかしていましたからね……」
「愛想をつかして……?」
「きいていませんか、僕の女房の話……」
「いいえ……」
亮介が離婚の経験者であることは聞いていたが、そのくわしいことは勿論《もちろん》知らなかった。
「女房の奴、僕のほかに恋人を作っちまったんですよ」
「まあ……」
「僕も悪かったんです、商売に夢中になって、女房のこと余りみてやりませんでしたからね。日本の女性はそういう時、女は我慢するものだと躾《しつけ》られている……むこうの女性は、はっきり自分を主張します。人格を無視するなと抵抗してくるんです」
ちょっと視線を落したが、すぐいつもの表情にかえった。
「僕はそういう女に馴《な》れていなかったんで失敗したが……それで良かったと思いますよ。日本の女だって、女にかわりはないんだ、夫に無視されたら腹を立てるべきです……しかし、びっしゃりと、他に恋人を作られた時は正直の話、がっくりしましたな……まさか、妻に裏切られるとは夢にも思っていませんでしたからね、甘い男ですよ……離婚したときは、もう二度と女なんか信じまいと思いましたね、結婚もごめんだ……」
「それでですのね……女に愛想をつかしたなんておっしゃったのは……」
「ええ……しかし、人間の気持なんてものはあてになりませんね、僕、性懲《しようこ》りもなく、又、女の人に夢を持とうとしている……もっとも、こんどはだいぶ用心しつつではありますがね……」
亮介は港を見ていたが、ふっとはる子をふりかえった。
「はる子さん、恋人いますか?」
その問いが、あまり唐突だったので、はる子は驚いて亮介を見上げた。
亮介は背が高く、姉のきんに似て日本人ばなれした彫りの深い顔をしている。
「ハワイへ来ませんか……姉もそれを望んでいるし、僕も大賛成だ。あなただったら、どこへ行っても立派にやってゆける……そういっては失礼だが、僕もあなただったら一緒に仕事をしていてとても楽しい……」
「そんな……困りますわ……」
はる子はあわてた。
外国のことをあれこれ空想してみたり、憧《あこが》れたことはあったが、そこに住みつこうなどとは夢にも思ってみなかった。
まして、伊東栄吉との結婚を控えた今となっては、まるで問題にならないことである。
きんは伊東栄吉とのことは知っているが、たぶん亮介には話してないのだろう。
はる子自身も、大勢の店員たちを取り締る立場上、伊東との交際はなるべくみんなの目に立たぬようにしていたのだ。
「僕は外国暮しが長かったせいか、自分の気持を偽ることが出来ません……正直いって、僕はあなたに関心を持っています。しかし……」
亮介はいつの間にか立ち消えた煙草に気づくと、苦笑して、その長いままの煙草を惜し気もなく捨ててしまった。
「どうやら、あなたには恋人がありそうだな……」
はる子の方は見ないで言った。
「あるんでしょう……正直に言ってください……かまいませんよ、好きな人が居るんでしょう……?」
「はい、ございます……」
はる子は、はっきり答えた。
なまじ隠しだてすることは、かえってよくないと思った。
「ときどきあなたを訪ねてくるという、鉄道の人ですね」
「はい、そうです」
「このあいだも確か電話があったようだった……そうだろうと思っていましたよ……」
「すみません……」
「なにも、すまながることはありませんよ……」
亮介はさっぱりした調子で笑った。
「結婚するんですか?」
「その積りでおります……」
頭の中を、ちらと昨日の伊東と和子の抱き合っている姿がかすめた。あの時は気が動転したものの、よく考えてみると、父を失ったばかりの娘をなぐさめていただけではないか。冷静になってみれば、それほど大袈裟《おおげさ》に騒ぎたてるほどのことでもなかった。
「そうですか……」
亮介が幾度も頷《うなず》いた。
「どうやら僕は、あなたに会うのが遅すぎたようですね……」
そして、明らかに寂しさを表情に出して笑った。
「いろいろご親切にしていただいて、私、どんなにありがたいと思っているかしれません……このあいだも、おかみさんが、私にハワイへ行かないかとおっしゃってくださいました……私のようなものをそれほどまでに信用してくださって……考えてみますと、本当にもったいないことだと思います……でも、私、申しわけないのですが、やはりお断り致すつもりで居ります……」
「鉄道員の奥さんになるんですね……」
「私、その人のお嫁さんになることを、子供の時から夢みてまいりました……夢がようやく叶《かな》えられようとしているのです……」
「羨《うらやま》しいと思いますよ、あなたのような人に、それほど思われている男が……」
「申しわけありません……私、今、とても苦しいんです。ご恩をうけたお店のお役にも立てず、間もなくお店をやめなければならないということが……」
「止むを得ないでしょう、姉はがっかりするだろうが……」
亮介は外国人がよくやるように、右手を広げ、肩をすぼめた。
「しかし、僕、まだあなたを諦《あきら》めませんよ……人間の一生は長いですからね……」
さりげなく言って、
「いや、けっして迷惑はかけません。そんな男じゃありませんよ」
いそいで付け足しながら笑った。
16
雄一郎夫婦が釧路へ引越しの日は、朝からよく晴れた。
九月下旬、北海道はもう秋であった。
山ぞいでは、ぼつぼつ赤く色づいた梢もみられるし、吹く風も肌寒い、なによりも群青《ぐんじよう》に深く澄んだ空が秋の色であった。
小樽から札幌へ出て岩見沢《いわみざわ》、滝川《たきがわ》、富良野《ふらの》、帯広《おびひろ》、池田、浦幌《うらほろ》と列車は東へ東へと進んで行く。狩勝峠《かりかちとうげ》の絶景は、有里も千枝も声もなくみとれた。
(これが北海道だ……)
と有里は思った。
山も海も、見馴《みな》れた小樽より更にきびしく、それでいて、地の底から湧《わ》き上ってくる北海道の夢があった。
釧路の官舎は、駅のすぐ近くにあった。
三軒が一棟になっていて、釧路駅の助役の桜川孝助が左隣り、右隣りは雄一郎の上役に当る釧路車掌所の主任、岡井亀吉であった。
おどろいたことに、雄一郎夫婦と千枝が到着してみると、官舎は岡井亀吉の妻のよし子の指図で釧路車掌所に勤務する人々のかみさん連中が総出で、すみからすみまで掃除が行き届き、すでに到着していた家具類もほとんど荷がほどかれて、今にも運び込めるような状態で待っていたことである。
挨拶《あいさつ》もそこそこに、有里も千枝も身仕度をした。しかし、手を下すことはほとんどなかった。
箪笥《たんす》はそこに、布団は押入れにと指図だけをしていれば、すべてがあっという間に片づいた。
おまけに、一段落した時、岡井の妻は大きなヤカンに焙《ほう》じ茶をいれ、にぎり飯を山のように作って届けてくれた。
彼女は体格もいいが、仕事も人一倍よくする。何かしていないと気がすまない性質らしく、いつも人々の先頭に立って、声をからし、くるくるとよく動き回った。
「さあさあ、みんな一休みしましょうよ、ご苦労さんでしたね……」
有里が言うことを自分が言って、さっさとみんなに握り飯をくばった。
「まあ、すみません、こんなことまで……私、ぼんやりして居りまして……」
有里はあわててお茶をついだ。
「なにを言ってるんだね、郷に入らば郷に従えってね、まかせておくもんだよ、さあ、いくらでも食べてちょうだいよ、うまいむすびだよ……」
よし子は自分から先にむすびを取った。みんなが遠慮しないようにとの配慮である。
それから、そこに集った車掌所の女房たちの紹介をはじめた。おかげで有里は、すぐみんなの中にとけ込むことが出来た。
「ところで、あんた実家はどこかね?」
「紀州の尾鷲《おわせ》です」
「そりゃア遠いねえ……したが、遠い親類より近くの他人さ、これからはなんでも相談して下さいよ、これでも、あんたよりは長いこと世の中を生きてきているんでね、亀の甲より年の功……まあ、力になってあげられると思うがね……」
それから声を低めて、
「奥さん、あんた一休みしたら、隣の桜川さんとこへ挨拶に行って来たほうがいいよ……もうぼつぼつ、旦那さんも事務所から帰ってくるだろうが、なるたけ、早いほうがいいでね」
と言った。
「はい、すぐに行ってまいります……」
「あのねア……余計なことかも知れんけど、わたしらはがさつ者でざっくばらんの性質だから、どうということもねえけんどよ……お隣の奥さんはそういうわけに行かねえで、気イつけるんだよ」
「はア……」
「まあ、何かあっても、わたしらがついているで、別に心配せんでもいいがね……」
そこにいる女房たちも、なんとなく眼でうなずきあっているようである。
(何もかも、うまくは、仲々いかないものだ……)
有里はちょっと気が重くなった。
よし子の顔色から推しても、隣りの桜川夫人はかなり気むずかしそうである。
荷物が片付き、車掌所の女房連中が引き上げて行ってしまうと、有里はすぐ、千枝を連れて隣の家へ挨拶《あいさつ》に赴いた。
「あの……お隣りに引っ越してまいった室伏の家内でございますが……」
おずおずと声をかけた。すると、中から岡井よし子とはまったく対照的に、痩《や》せて眼鏡をかけた五十がらみの婦人が出て来た。
「どうぞ……おはいりくださいまし……」
声はとてもやさしい。
二人は土間へはいった。
「ごめん下さい、申しおくれました。私、今日お宅さまの隣りに引っ越して参りました室伏雄一郎の妻、有里でございます……」
「妹の千枝です……」
「ふつつか者でございますが、今後ともよろしくお願い致します……主人もあらためてご挨拶に参ると存じますが、只今《ただいま》、車掌所の方に挨拶に行って居りますので失礼いたします……」
有里は言葉の端々にまでも気を配って、叮嚀《ていねい》に頭を下げた。
それを桜川夫人、民子は黙って聞いていたが、
「まあまあ、ご挨拶がよく出来ましたこと……」
にこやかに言って頷《うなず》いた。
「あなたさま、失礼ですが、どちらのお生れ……?」
岡井よし子と同じことをきいた。
「紀州の尾鷲でございます……」
「おや、それはまあ……あの、失礼でございますが、あなた、お学歴は……?」
「は?」
「いえ、あの……どちらの学校をお出になられたの……?」
「ああ……それでしたら、京都の白川女学校を卒業いたしました……」
「まあまあ、女学校を……」
民子は大袈裟《おおげさ》に首を振ってみせた。
「それは結構でございますこと……やはりネ、ちゃんと学問をなさった方とそうでない方とは、お言葉遣いからして違いますものね……」
眉《まゆ》をひそめて、声を低めた。
「……どうも、この辺の方はお言葉が悪くて……私、子供の教育のことを考えると、いつも途方にくれて居りますの……あなた、お子さんは……?」
「はあ……あの……」
「お腹ん中に一人……まだ、三か月ですけど……」
千枝がかわりに答えた。
「まあまあ、それは大事になさいませんと……お気をつけなさいませ、三か月が一番難かしい時期だと申しますからねえ」
「はい、ありがとうございます」
「実は今日、お手伝いにあがろうと思っておりましたのですけれど……」
民子はそっと上眼遣いに有里を見た。
「なんですか、岡井さんあたりが朝から騒いでいらっしゃるようなので、私どもはご遠慮申しましたのよ、ごめんなさい……」
「いいえ、とんでもございません」
有里はあわてて首を振った。
「あの……余計なお節介かもしれませんけど、岡井さんにはお気をつけなさいまし……あちらは大層な世話焼さんでしてね、あなた、おとなしくしてらっしゃると、とんだことになりますわよ」
「はア……?」
「ま、あなたもネ、お住みになるといろいろのことがおわかりになってくるでしょうけれど……」
民子は鶴のように細い首を振った。
「とにかく、お気をつけあそばせ……」
「はあ……」
有里は早々に桜川家から退散した。
どうやら、今度引っ越した家の両隣り、岡井よし子と桜川民子とは犬猿の間柄らしいことが、有里にも朧気《おぼろげ》ながらわかりだした。
夕方、帰宅した雄一郎に千枝が早速この話を持ち出した。
「右隣りの主任さんとこの奥さんは、すごくざっくばらんな人だけど、こっちの隣りはなんだかややこしいよ」
「なんか言われたのか……?」
「挨拶に行ったら、有里姉ちゃんのこと……まあ、ご挨拶がよく出来ましたこと……だってさ……」
「桜井さんの奥さんは昔、小学校の国語の先生をしとられたそうだ……」
苦笑しながら、雄一郎が言った。
「へえ……道理で……」
「今日、車掌所で注意されたよ、桜川助役さんと岡田主任さんとこは、かみさん同志仲が悪いから、真ん中に入って苦労するってさ……」
「やっぱり……」
千枝が不安そうに有里の顔をのぞき込んだ。
「なんだか面倒なことになったね……どうする……?」
「大丈夫、なんとかなるわよ……」
しかし、有里にもあまり自信はなかった。
既に引っ越して来てしまった以上、他の家へ移るわけにも行かない。
「まあ、なんとかやってくれ……」
雄一郎は無責任なことを言って、ごろりと横になって新聞を読みはじめた。
そのとき、
「こんばんは……」
玄関の方で声がした。
「あッ、岡井さんだわ……」
有里がすぐ腰を浮かした。
「なに、岡井さん……?」
雄一郎も起き上った。
二人|揃《そろ》って玄関へ出て、あらためて、今日の礼を述べた。
「なあに、家の中のことは旦那さんに関係ないでね……礼なんか言われるほどのこともないよ……」
よし子は照れくさそうに笑った。
「うちの奴は世間知らずなもんで、いろいろご迷惑をかけると思いますが、どうかよろしくお願いします……」
「はいはい……まだ若いんだもの……二十歳やそこらで世間知りになっちまったら、とんだすれっからしだわね。それでなくたって浮世の風は冷めたいからねえ……」
しんみりとした表情になったが、途中でふと気がついて、
「そうそう、奥さんが三か月だっていうから、知りあいの産婆さん頼んどいてあげましたよ……いつなんどき世話になるか知れないし、知らない土地で心細い思いをするといけないからねえ……」
と言った。
「えッ、お産婆さん……?」
有里は吃驚《びつくり》した。
たしかに有難いには違いないが、今日引っ越して来て、識り合ったばかりというのに、産婆さんの世話をするというのは、いくらなんでも気が早すぎる。
しかし、よし子はそんな有里の驚きをよそに、片手の土瓶《どびん》をさし出した。
「それからこれ、煎《せん》じ薬ね……引っ越しで疲れたりすると流産しやすいっていうから……これ、疲れにとてもよく効くんだよ、まあ騙《だま》されたと思って、飲んでごらんなさいよ。じゃ、おやすみ……」
言うだけ言うと、さっさと立ち去ってしまった。
「へえ……ききしにまさる世話やきだな……」
雄一郎が溜息《ためいき》をついた。
「でも良かったわ、親切な人がお隣りに居て……」
「親切なのはいいが……度がすぎて迷惑にならんといいがな……」
「もしかするとね……」
有里も雄一郎と同意見だった。
「えらいところへ引っ越して来ちまったねえ……」
千枝が深刻な表情で言ったので、二人は思わず吹きだした。
しかし、ほんとうは笑い事ではないと、有里は思った。
「私、どちらの悪口も言わないように気をつけるわ……」
よし子の持って来てくれた煎じ薬を台所へ仕舞《しま》いに立ちながら、有里は誰へともなく言った。
17
引越しの日に感じた有里の不安は、しだいに現実となってあらわれはじめてきた。
家の中がようやく落着くと、千枝は小樽の吉川機関手の家へ女房見習という名目で行ってしまい、有里は、雄一郎を送り出してしまったあとのガランとした家の中で、毎日少しずつ小物類の整理をしていた。
その日も有里は、夏物の衣類を入れた箱を棚の上に乗せようとしていると、突然、庭から岡井よし子が飛び込んできて、有里の手から箱を奪い取った。
「あれ、いけないよ、そったらことしたら……」
有里が口もきけないくらい驚いて、よし子をみつめていると、
「だめだよ、あんた、上へ手をあげたり、重いもの持ったりしたら……こういうのがお腹の子には一番悪いんだよ……」
まるで自分の娘にでも言うように叱《しか》った。
「なんで一言、声をかけてくれないのかねえ……隣同志ってのは、親類よりも力になるのが当り前なんだよ、こういう時はいつでもとんできてやるからさア、遠慮しては駄目だよ」
「すみません……」
有里は素直に頭を下げた。
あまり驚いたので、まだ胸の動悸《どうき》はしずまらないが、よし子のその気持は嬉《うれ》しかった。
気がつくと、座敷の真中に大きなまさかりかぼちゃが転がっている。
「ああ、そうそう……」
よし子がようやくかぼちゃを拾いあげた。
「まさかりかぼちゃ食うたことあっかね」
「ええ、北海道へ来て初めて……」
「そうだろうね、こりゃ、ここにしかないんだってさ……ま、今夜のお菜にしてちょうだいよ」
「ありがとうございます……でも、奥さんだってお買いになったんでしょう……」
さっき手紙を出しに行ったとき、よし子が行商の女からまさかりかぼちゃを買っているのを、有里は見て知っていた。
「そんなことどうだっていいのよ、黙ってもらっときなさいよ……」
かぼちゃを無理に有里に抱かせた。
それから、急に声を落して、
「お隣り何か言って来たかね……?」
重大な秘密を探ぐるような表情で言った。
「いいえ、何も……」
「そうかね……ま、あんたは何も知らんだろうが、桜川さんとこは変りもんだで、あんまり気をゆるさんほうがええよ」
「はア……」
有里は曖昧《あいまい》な返事をした。
岡井夫人と一緒になって、桜川夫人の悪口を言うほどまだよく彼女の事を識らなかったし、たとえ識っていたにしろ、人の悪口を言うのは好きではなかった。
よし子は有里が話に乗って来ないのが不満そうだった。
「あの人はねえ、小学校の先生をしていたくせに、自分の子供ってものは一人も持ったことが無かったんだからねえ……えらそうなこと言ったって、子供のことなんぞ、なんにもわかっちゃいないのさ。あれで、よく先生がつとまったもんさね」
「はア……今は学校の先生やっていらっしゃらないんですか?」
「ああ、若いうちだけで、もうとっくの昔にやめちまったんだよ……なにかというと、すぐ先生風を吹かしたがるけどさ、あんたも騙《だま》されるんじゃないよ」
「へえ」
有里がさも驚いたような顔つきをすると、よし子はようやく安心したのか、
「じゃ……また来るからね、なんでも困ったことがあったら言っとくれよ……」
人なつっこい笑顔を見せて、帰って行った。
(あんなに人のいい奥さんなのに、どうして桜川さんのこととなるとああなんだろう……)
有里はほどきかけの浴衣《ゆかた》を取りあげた。
ぼつぼつ古い浴衣を出してきて、おむつを作りはじめていた。
岡井夫人が帰って十分もたつかたたないころ、今度は桜川夫人が、やはり庭からそっとはいってきた。
「あらッ……」
そのタイミングの良さに、有里は唖然《あぜん》とした。
どうやら、岡井夫人の帰るのを見届けてやって来たものらしかった。
しかし、民子はそんなことはおくびにも出さず、
「いいお天気ですねえ……ご精が出ること……おしめですか」
静かに縁側へ腰をおろした。
「予定日はいつです?」
「四月の末だとか……」
「そう……そりゃ寒いときでなくてなによりですよ、ここらの寒さは、小樽などから見ると、又、一段としばれますからね……」
一人で頷《うなず》き、更に話をつづけた。
「あなた、いいねんねこをお作りなさいよ。なにしろこういう土地ですからね、子持ちのよそゆきはねんねこみたいなものでないとねえ……みんな上等の銘仙《めいせん》などをなおしてねんねこを作りますよ。あなたもお作りなさい……」
「はい、早速、用意します」
有里はねんねこの事はまだ考えていなかったので、桜川民子のこの話は有難かった。
忘れないように、しっかりと頭の中に刻みつけた。
「お産婆さんはどうなさるの……?」
民子が言った。
「あの……それは、お隣りの岡井さんで……」
「おや、駄目ですよ、岡井さんの知り合いの産婆さんなんぞ……あの人は根はいい人ですが、そそっかしくてね……私がとても上手な人を知っていますから、今度いっぺんお連れしましょう。こういうことは、早くからちゃんと段どりをしておかなくては、いざという時あわてますからねえ……」
「はア……」
有里は当惑しきっていた。
まさか二人の産婆さんにかかるわけにもいかないし、かといって、どちらを断ってもまずい。相手が好意で言ってくれているだけに、有里は返答に窮した。
「そうそう……お宅、石炭どうなさる……?」
「石炭……」
「ほら、冬の間、ストーブをお使いになるでしょう……もう、岡井さんにお頼みになった?」
「いえ、それは、まだ……」
「おやまあ、それはよかった……なんでしたら、うちと一緒に買いませんか、一貨車まとめて買うと、とても安くいい品物が手にはいりますよ」
「一貨車なんて、そんな……うちはたいして使いませんから……」
「いいえ、そうじゃないの、大勢で買うんですよ……宅が釧路管理局の運輸所長さんと親しくしていただいておりましてね、いつもまとめて一冬分買っているんですよ、よかったらお仲間にお入れしましょう。ほんとにお安いのよ」
このところ、物の値段にひどく敏感になっている有里は、一も二もなく、この話に飛びついた。
「ありがとうございます、是非お願い致します」
「それじゃ、早速、声をかけておきますよ……」
桜川夫人はすっかり上機嫌になっていた。
「なんでもおっしゃってくださいよ、何かあったら必ず声をかけてくださいね……」
「はい……」
「それから、あなたも普通の体ではないのだから、充分お気をつけなさいよ。冷えるのが一番いけません、座布団《ざぶとん》なぞ二、三枚重ねて敷くようになさいね」
「はい、そうします」
「岡井さんはやることが荒っぽいから、なるべく用心して傍《そば》へ行かないことです。さっきも、無理矢理かぼちゃを押しつけていなすったようだけれど、あんなことをしてもし流産したらどうするんでしょうねえ……ほんとに無神経というか乱暴というか……」
民子は有里が頷くのを見届けてから、ようやく腰をあげた。
「それじゃ又……」
来たときと同じように、もの静かな足どりで帰って行った。
桜川夫人を見送ってしまうと、急に疲れが出たようだった。
(だけど、ほんとにお産婆さん、どうしよう……)
有里はほっと溜息をついた。
18
十月の声をきくと、横浜の白鳥舎の奥向きは、なにがなしに慌《あわただ》しくなった。
遅れていた、伊吹きんの弟の亮介がアメリカへ出発する日も、いよいよ十月下旬に横浜を出航するアメリカ船プレジデント号と決まり、亮介と一緒に伊吹きんもハワイへ出掛けることになっていた。
例のハワイへ建てる亮介のビルに、白鳥舎の支店を出すという計画の下見を兼ねてであった。
きんとしては、はる子に同行してもらい、支店を彼女にまかせたい希望が強かったのだが結婚を間近に控えているとあっては止むを得なかった。
なにしろ、きんとしては生れてはじめての外遊のわけだし、食事もパンや肉類が苦が手とあって、米、味噌《みそ》、醤油《しようゆ》から、玉露、煎茶《せんちや》の類まで持参する始末だった。
出帆の日が近づくと、きんは何も手につかなくなってしまい、かわりにはる子が荷造りやら、外遊手続やらを引き受けなくてはならなくなった。
はる子にとって毎日が、まるで眼のまわるような忙しさだった。
そのお蔭で、いつか病院の廊下で垣間見《かいまみ》た伊東栄吉と尾形和子のことを、忘れるともなく忘れることが出来たし、また、あの場合、伊東栄吉の立場としたら、ああするのもある程度は仕方がなかったのだと思えるようにもなった。
ちょうど、そんな頃、伊東栄吉から久しぶりの電話があった。
店が閉ったら、元町のいつものコーヒーショップで待っていてくれとのことだった。
心にもゆとりのできていた時期だったので、はる子は伊東のこの言葉を案外素直に聞くことが出来た。
コーヒーショップのドアを押すと、すでに伊東が来て待っていた。
はる子を見つけて、嬉《うれ》しそうに奥のテーブルから手を振った。その顔を見たとたん、心の片隅にまだ幾分かは残っていた蟠《わだかま》りが、風に吹き散らされた霧のように消えてしまった。
「はるちゃん、告別式に来てくれたんだって……?」
伊東がすぐに言った。
「ちっとも知らなかったんだ……どうして声をかけてくれなかったんだい?」
「なんだか、すごく忙しそうにしていたから……それに人も随分大勢いたし……」
「うん……」
伊東はちょっと物足りなさそうな顔つきだったが、すぐに元の微笑にかえった。
「法事どうだった……尾形先生のことで約束もはたせず、ごめんよ……」
「そんなこと……尾形さんは栄吉さんにとって大恩人なんですもの、当然よ……。おかげさまで、法事は無事にすんだわ。それから、雄一郎は釧路へ転勤になったの……千枝と岡本良平さんとのことも、南部駅長さんがうまい具合にして下さったし……」
「ほう……?」
「時期を見て仲人をしてくださることになったの……それまで、千枝は機関手の吉川さんのお宅へ女房見習に御厄介になっています」
「なるほど、女房見習か……そいつはいい……」
伊東は面白そうに笑った。
「その後、尾形さんの奥さまやお嬢さまは……?」
はる子はちらと伊東を見た。
「うん、それがねえ……」
伊東の表情がみるみる沈痛な色に変った。
「とうとう昨日、麻布《あざぶ》のほうの小さな家に引っ越されたよ、駿河台《するがだい》のお屋敷は売り払われてしまってね……尾形先生は生前かなり派手な方だっただけに、余分な金を残して居られなかったし、それどころか、少なからぬ借財もあることがわかったんだ……頼りになる御親類も無いし、それまで尻尾《しつぽ》を振っていた連中がみんなそっぽを向くような始末でね……大原という秘書なんかでも、典型的なその一人なんだ。人間、落ち目になると、冷たいもんだなあ……」
「まあ、そんなことになっていたの……ちっとも知らなかったわ……」
はる子は複雑な気持だった。
尾形の娘に対しては、けっして快い感情は持っていなかったが、しかし、そのような不幸な境遇になっていると聞くと、ひどく可哀《かわい》そうな気がした。
尾形が死ぬと、まるで手の平をかえしたように見向きもしない人間たちが憎かった。
「まあ、当分は弔慰《ちようい》金や恩給などでなんとかやって行かれることと思うが、いつまでそれが続くか心配なんだ……」
「栄吉さん、今度のことでは尾形さんの御遺族のために随分よく働いたんですってね……告別式の帰りに南部駅長さんからうかがったわ」
「いや、俺なんか微力で、何のお力にもなれやしない」
「でも、奥さまやお嬢さまは、栄吉さんのことをとても頼りになさっていらっしゃるんでしょう……」
「なにしろ、奥さまの味方といったら、南部の親父《おやじ》さんと僕くらいだからなあ……」
伊東は哀《かな》しそうに眼を伏せた。
「なんだか世の中が信じられなくなったよ」
「だけど、栄吉さんは立派だわ……たとえ一人か二人でも、栄吉さんのような人間が居るってことは、世の中がそれほど見捨てたものじゃないってことだと思うわ」
「そうかなあ……」
照れくさそうに苦笑しながら、首をかしげた。
「俺にはよくわからん」
「栄吉さんがわからなくっても、私にはよくわかるわ……でなきゃ、いつまでもこうして……栄吉さんのこと待ってやしないわ……」
はる子は言い終って、急に赤くなった。
「いやだわ……恥かしい……」
「馬鹿だな、恥かしいことなんかあるもんか……」
伊東は笑ったが、ふと表情をあらためると、
「はるちゃん、実は俺……君に頼みがあるんだ……」
と言った。
「なに……頼みって……」
「…………」
「ねえ、なんなの、栄吉さん……」
「それがね……はるちゃんに済まなくって……」
ひどく言いにくそうにしているのが、ますますはる子の不安をかきたてた。
「栄吉さん、言って、いったいなんなの……ねえ……」
「うん、実は……」
伊東がようやく顔をあげた。
「俺、欧州へ発つことになったんだ……」
「えッ、なんですって……欧州?」
「ちょうど、はるちゃんが北海道へ帰っている留守なんだ……本省の運転課長の結城《ゆうき》さんから呼ばれて、ヨーロッパへ超特急列車の研究に行く視察団に参加するよう命ぜられたんだ……」
「栄吉さん、なんでそれをもっと早く言ってくれなかったの……急にそんなこと言ったって……」
「すまない……俺は最後まで今回の視察を辞退するよう頼んでいたんだ、その返事が昨日来て……」
「やっぱり駄目だったのね……」
「実は、俺、だいぶ前に列車のスピード・アップについて試案を本省へ提出したことがある。東京・大阪間の列車は、現在、特急富士で東京・神戸間、上り十一時間三十八分、平均時速五十三キロで走っているんだが、それを九時間に短縮する案なんだ……」
「九時間……?」
「本省の上役たちは、みんな夢だと思って相手にしなかった。ところが結城さんは俺よりもっと早くから、その案をねっておられたらしいんだ。それがたまたま俺の試案を目にされて、直ちに研究する気持になられたらしいんだな……」
「まあ……」
はる子はいつか伊東の話の中にひき込まれていた。彼がそんな大きな計画の立案者だったことが嬉しかった。
「それで……?」
「現在ヨーロッパには、フランスのパリ・シェルブール間を平均時速百十三キロ、イギリスのロンドン・スウィントン間を平均時速百六キロで走っている列車がある。その実物を視察し、研究するために本省から極秘に視察団が編成された……主として技術関係者なんだが、その中に俺も加えられたんだ……」
「そうだったの……」
はる子は胸の中の最後のわだかまりが落ちたような気がした。
「あたし、もしかしたら、尾形さんのお嬢さんのことでそうなったのかと思ったの……」
正直にはる子は言った。
「栄吉さんがどうしても、尾形さんのお嬢さんと結婚しなければならない立場に追い込まれて……それで、私にあんなことを言ったのかと……」
「馬鹿だな……」
伊東は驚いたように眼を瞠《みは》った。
「そんなことを考えていたのか……そりゃあ、はるちゃんと俺とは、まだなんでもない間柄だ……しかし、俺はねえはるちゃん、君のことをもう他人とは思っちゃいないんだよ……」
「栄吉さん……」
はる子の胸に強い感動の波が打ち寄せて来た。
「それで、欧州へ行くのはいつ?」
「正式の日取りは未定だが、案外早くなるらしい……」
「どのくらい行っているの……?」
「だいたい十か月くらいだそうだ……」
「そうすると、来年の夏頃ってわけね……」
「そういうことになるな……」
伊東はつらそうに眼を伏せた。
「俺が最初にはるちゃんに頼みがあるって言ったのは実はそのことだったんだ……」
「結婚がそれまでお預けってことね……」
「うん……とにかく外に出よう、此処《ここ》ではちょっと話せないこともある……」
先に立って外へ出た。
はる子は伊東より、すこし遅れてついて行った。
なにから話してよいのか、その思いは、伊東もはる子も同じだった。心があせればあせるほど、話はとりとめのないものになってしまう。
二人は夜の町の中をあてどもなくさまよい歩いた。
ふと気がついた時、二人はとある神社の鳥居の前に来ていた。そして、どちらともなく鳥居をくぐり、神前で手を合せた。
互に相手の仕合せと無事を祈り、一日も早く一緒になれる日を神に祈った。
はる子が先に顔をあげた。
「十か月なんて、長いわ……とっても長い……怖いみたいに長い……」
「はるちゃん……」
「栄吉さんが北海道から東京へ行ってしまって……なんのあてもなく、待っていた頃にくらべたら、今度は十か月って、ちゃんと先がきまっているのに……それなのに、こんなにつらいのは何故かしら……」
「はるちゃん、それを言うなよ……そう言われると、俺……なんといっていいか……」
「ごめんなさい、あたし、やっぱり年をとったのかしら、年をとって愚痴《ぐち》っぽくなっている……そうなのね……」
はる子は急に深い悲しみに襲われた。
「尾形さんが歿《な》くならなかったら……あたしたち、今頃、もう、ちゃんと式を挙げて夫婦になっていたかも知れないのに……」
涙があふれて来て、一筋二筋頬をつたった。
「はるちゃん……」
「あたし……せめて、栄吉さんの奥さんになっていたかったわ……一日でもいい、一時間でもいい」
「はるちゃん、夫婦になろう……」
伊東が突然言った。
「えッ……」
「仲人もいない……親、兄弟、親類もいない……けど……婿《むこ》さんと嫁さんはここにちゃんと居るじゃないか」
そう言うと伊東は、あっけにとられているはる子の前で、神前に供えてある三宝《さんぼう》の上の瓶子《へいし》と土器《かわらけ》を取り、
「すみません、ちょっとお借りします……」
頭を下げてから、土器をお水屋で洗った。
「さあ、これで三々九度の盃事《さかずきごと》をしよう……」
「ええ……」
はる子にも、ようやく伊東の言うことの意味がのみこめた。
それと同時に全身が熱くなった。
伊東は土器に酒をつぎ、まず自分が口をつけてはる子に廻《まわ》した。
はる子が口をつけた器から、伊東も酒をすすった。
正式のやりかたは知らないが、三度ずつ三回、互いに盃を交換して、再び神前へ三宝を返した。
「さあ、これでよし……室伏はる子は、今日から伊東栄吉の妻だ、いいね……」
「ええ……でも、なんだか寂しいわ……二人っきりの式なんて……」
「寂しいもんか……俺が居るじゃないか……」
「栄吉さん……」
はる子は伊東を見上げた。
「待っています……十か月なんて、すぐよね、すぐ終ってしまうわ……」
「はるちゃん……」
その胸に、はる子は夢中ですがりついて行った。
「ね、お願い……早く、早く帰って来て……」
はる子は生れてはじめて、我を忘れた。洋服にしみついている伊東の匂《にお》いに、思わず知らず、体のしんまでが痺《しび》れて行くような気がした。
伊東の胸のあたりから、力強いが、かなり速度を増した動悸《どうき》が聞えている。それが、更にはる子を息苦しくした。
「はるちゃん……」
伊東の両腕が、しっかりとはる子の体を抱き締め、しかも徐々に力は強められた。
「どんなことがあったって、俺は君をはなさないよ」
伊東の腕の力がふっと抜けた、と思ったとたん、はる子の唇は、伊東の燃えるように熱い唇でおおわれた。
「待ってておくれ、かならず帰ってくるから……」
はる子は、その時、どういうわけか故郷の初夏の海の光景を想い出していた。
波は陽に煌《きらめ》き、しずかなうねりを見せながら、荒い岩肌へ打ち寄せている。
音は聞えず、濃い潮の香だけがはっきりとはる子には想い出せた。
更にそれと重なり、少女時代のことが、次々と走馬燈のように頭の中を回転しはじめた。
「栄吉さん……」
自分が少女であるような錯覚にとらわれながら、はる子はそっと呟《つぶや》いた。
19
雄一郎夫婦が釧路へ落着いてから、早くも三か月がすぎた。
遠く雄阿寒《おあかん》、女阿寒《めあかん》の頂きを雪に埋めた冬将軍は、釧路湿原を凍りつくような風となって吹き荒さんだ。
釧路に、吐く息で睫毛《まつげ》も白く凍りつくという厳しい季節がやって来ていた。
雪は北の方から徐々に北海道を覆いはじめ、やがてそれがすべての大地を白く塗りつぶした頃、塩谷に住む岡本良平の父、新平が雪崩《なだれ》に呑《の》まれて死んだ。
保線の神様といわれたほどの名物男、岡本新平の死んだ夜は、小樽付近はまだ冬の最中《さなか》というのに気温がにわかに上昇した。
こうした晩は、ひじょうに雪崩が起りやすい。
新平は若い同僚の佐々木と組んで、注意深く線路の巡回を行なっていた。
案の定、小樽駅から札幌へ向って少し行った張碓《はりうす》、銭函《ぜにばこ》間に雪崩を発見した。
山ぞいの線路は約四、五十メートルにわたって、ずたずたに切断されている。
時計を見ると、間もなく下り五五三列車の通過する時刻であった。
「おい、お前、すぐ駅へ行ってけれ、俺はここで列車を止める……」
新平は直ちに行動を開始した。
彼にとっては、今迄《いままで》にもう何度となく経験している場面だった。別に慌てることはない。ゆっくりと線路の被害状況を調べはじめた。
だが、結果的にはそれが彼の油断であった。
ものすごい第二の雪崩が、カンテラをかざした新平の上へ落下して来た。
はっとした新平は、それでも逃げ出そうとして身を起したが、それよりも早く雪崩の巨大な腕は、彼をなぎ倒し、押し潰《つぶ》してしまった。
岡本良平はこのときのすさまじい雪崩の音を、現場のすぐ手前の銭函駅で聞いていた。
彼は奇《く》しくも、父が雪崩を発見したことにより脱線転覆を免れた五五三列車に乗務していたのである。
良平はたった一人の父親が、その雪崩の中に巻き込まれ、押し流されて行ったことを知らなかった。
ずたずたにされた張碓・銭函間の線路を必死になって復旧する保線区の人々の群の中に、自分の父親も汗を流して、除雪作業に従事しているものと信じて疑わなかった。
岡本新平爺さんが雪崩にやられたという報告は、すぐ銭函駅にも齎《もたら》された。
銭函駅で待機中だった良平は、吉川機関手からこの訃報《ふほう》を聞いた。
「そんな馬鹿な……お父《どう》は復旧工事に……」
初めは信じようとしなかった良平も、吉川から重ねて、
「新平爺さんの遺体は張碓に運ばれている……さっき、駅に連絡があったんだ……」
と説明されると、最早、疑うわけには行かなかった。
「どうする……すぐ張碓へ行くか……行くんなら列車のほうは君のかわりに機関助手を補充する。こんな場合だ、かまわんから仕事を休め……な……」
吉川は良平の家が親一人子一人なのをよく知っているだけに、余計、彼が不憫《ふびん》でならなかった。
「早く父さんの所へ行ってやれ……」
「吉川さん……」
良平が屹《き》っとして顔を上げた。
眼は涙で濡《ぬ》れている。
「吉川さん……俺……勤務中だで……勤務中だで……」
「それは構わん、特別の場合なんだからな……」
「いいや、俺は行かねえ……」
良平は駄々《だだ》っ子のように叫んだ。
「俺は今夜、五五三列車の釜《かま》たきだで……吉川さん……やっぱり終着まで、俺に釜たきやらせてけれ」
「やるのはいいが……しかし、大丈夫か……」
「はア……大丈夫だ、俺、お父が守った線路を……一番先に走る列車に乗るだ……俺が釜たきする……俺に釜たきさせてけれ、な、吉川さん、お父はそれが一番嬉しがるだで……」
最後のほうは嗚咽《おえつ》がこみあげ、言葉にならなかった。
良平は心配して集まって来た駅長、助役、他の同僚たちにくるりと背を向けると、大股《おおまた》に肩をいからせて機関車の方へ向って歩きだした。
悲しみが胸許までこみ上げていた。
早く機関車の中へはいり、声を限りに泣きたかった。
(お父……長い間御苦労さんでした……ゆっくり休んでけれ……そったらこといっても、お父は線路のことが心配で、毎晩見回りに出てくるべがさ……)
良平は空を見上げた。
夜空に冴《さ》え冴《ざ》えと三日月が出ていた。
雪崩の復旧工事は一昼夜を費してようやく終った。
踏みにじられた雪の上の、銀色に輝く二本の線路をまず渡ったのは、銭函に停車していた五五三列車であった。
機関車の上から現場をみつめる吉川の眼にも、必死で釜たきを続ける良平の眼にも、ただ滂沱《ぼうだ》たる涙、涙であった。
新平爺さんの通夜は、良平の乗務の終った夜、一日遅れで自宅で行なわれた。
仕度は、集まってくれた保線区の人々によって、手際よく準備されていた。
千枝は新平が雪崩《なだれ》に倒れたと知ると、すぐ現場へ駆けつけ、男たちに混って復旧作業を手伝った。
千枝は吉川機関手の家に預けられていた三か月間、よく新平に仕えた。最近では夕食の仕度はほとんど千枝がしていた。
夜など、良平の居ない留守、千枝が新平の肩を揉《も》んだり腰をさすったりした。
新平もすっかり千枝の裏表のないさっぱりした気性が気に入り、良平には言わないことでも千枝には機嫌よく話した。
彼が事故に逢《あ》った晩、やはり千枝が身仕度を手伝って送り出したのだが、出がけに、ひどく真面目《まじめ》な顔つきで、
「千枝さん……わしはこんな頑固《がんこ》者だし、良平の奴ときたら機関車のこと以外はまるで子供みたいな男だ……あんた、それでもこの家へ嫁に来てくれるかね……」
と言った。
「小父さん……いまさら何を言っているの……」
千枝が笑うと、
「ご苦労だが、良平を頼むでよ……めんこい孫をたんと産んでけれや……」
にこりともせず、真剣な表情で頼んだものだった。
新平爺さんの通夜の晩、千枝は泣けるだけ泣いた。千枝の心の中には、あの夜、線路の巡回に出て行く前に、新平が珍しく自分に対して語りかけた言葉の一つ一つが甦《よみがえ》っていた。
「孫はめんこいもんだで……孫の顔を見るまでは死んでも死にきれんで……」
新平の声が胸に浮かぶたびに、千枝は大声で泣いた。
千枝にとって新平爺さんは、気持の上でもすでに他人とは思えない存在となっていたのだった。
葬儀には間に合わなかったが、初七日には雄一郎も、知らせで東京から駆けつけて来た南部斉五郎も列席した。
南部はその後、或る運送会社の川崎支店長として働いていた。忙しい日程をさいて北海道へやって来たのである。
法事が終って、大方の人々は夜がふけるままにそれぞれ帰って行ったが、吉川機関手と南部斉五郎、それに室伏雄一郎の三人は、まだ新平爺さんの遺牌《いはい》の前に坐《すわ》っていた。
良平と千枝が最後の客を送っていった間に、南部斉五郎は雄一郎と吉川に向い表情をあらためて口をひらいた。
「ところで室伏君……」
「はあ……?」
「俺に一つ提案があるんだが……吉川君も聞いてくれ……」
「はい……」
「実は今夜、良平と千枝ちゃんを結婚させたいんだがどうだろう……」
「えッ、今夜……」
「俺はさっきから此処に坐って考えていた……今日、千枝ちゃんから、新平爺さんが出掛けて行った最後の夜、孫はめんこいものだ……孫の顔を見るまでは死にたくないと言ったという話を聞いて、俺はまったく臓腑《はらわた》の千切《ちぎ》れる思いがした……新平爺さんは、とうとう孫を抱く日が無かったんだ……」
「駅長さん、それは僕だって同じ気持です……」
吉川が再び洟《はな》をすすった。
「もう、それを言わんでください……」
「俺は考えた……この頑固おやじめ、自分で反対しておきながら、内心はどんなにか良平と千枝ちゃんの結婚式を待ちかねていたことか……こうして遺牌と向い合っていると、俺にはこのおやじの気持が痛いほどわかるんだ……。室伏君、俺はこの遺牌の前で二人を夫婦にしてやりたいんだよ……二人とも、この二、三か月の行動を見ておると、もうすっかり一人前だ、新平爺さんもきっと喜んで許してくれると思うんだ……」
「親父《おやつ》さん……」
雄一郎は頷《うなず》いた。
「僕には異存ありません……」
「私もいいと思います」
吉川も賛成した。
「よし、決った……」
南部は、あらためて岡本新平の遺牌の前に両手を合せ、二人の結婚についての了解をもとめた。
良平と千枝が恐る恐る部屋へはいって来た。外でうすうす今の話を立聞いたような様子である。
「良平と千枝ちゃん、お前たち、ちょっとそこへ坐れ……」
南部がふりむいて言った。
「俺の地声はでっかいから、今、言ったこと、たぶん聞えただろう……どうだ、お前たち、親父さんの前で夫婦になるか……」
「駅長さん……」
二人はおろおろと腰をおろした。
良平はまた右手の甲で顔を覆った。
「この大馬鹿野郎ッ……」
久しぶりで南部斉五郎のかみなりがおちた。
「親の死んだ時ぐらい思う存分泣かしてやろうと思って黙っとればいい気になりおって……いつまでめそめそしてるんだ……いい加減にけじめをつけないと、その横っ面ひっぱたくぞ、この大飯食いッ……さあ、とっとと返答せい、愚図《ぐず》愚図しやがると、千枝ちゃんを他の男んとこへ嫁にやっちまうぞ……」
言葉は少し荒っぽいが、裏には愛情が満ちあふれていた。
「待ってけれ……俺が千枝さんを貰《もら》うで……駅長さん、俺たちを夫婦にしてけれ……お願えします、駅長さん……」
良平は畳に額をすりつけた。
「よし、それなら俺が仲人をしてやる……」
南部は千枝に茶碗《ちやわん》と一升瓶を持ってくるよう命じた。
そして、仏壇の前に座布団《ざぶとん》を二枚並べ、灯明を新しくつけかえて線香を立てた。
道具立てが整うと、南部は二人を仏壇に向って坐らせ、
「新平爺さん、よく見ていてくれよ……二人とも一人前になったので結婚させる。あんたもこの二人を守ってやっておくれ……」
結婚の報告をした。
それから二人の前に茶碗を置いて酒をついだ。
「良平……お前は一日も早く一人前の機関手になれ、札鉄《さつてつ》一の、……いや、日本一の機関手になれ……千枝ちゃん、お前さんは新平爺さんの言葉通り、めんこい子を何人でも産むんだ……十人でも二十人でも……そしてそれを、みんな元気な役に立つ子に育てるんだ、分ったな、分ったら良平から茶碗をお取り……三々九度は間に合せだが、そのかわり高砂《たかさご》だけは本式にやってやるからな……」
良平と千枝はかわるがわる茶碗の酒を飲み交わし、終世変ることなき契りを誓い合った。
酒は吉川機関手がつぎ、雄一郎がそれを見守った。
新平爺さんの仏壇の前に、お経ならぬ謡曲『高砂』が朗々と流れた。
20
千枝は岡本良平の妻になった。
初七日に南部斉五郎の仲人で仮祝言《かりしゆうげん》をすませた千枝は、その夜は一たん吉川の家へ戻り、四十九日がすんでから、あらためて吉川夫婦に伴われて良平の許へ嫁いで来た。
長い間、まわりの者たちに気をもませた二人だったが、いざ結婚してみると、良平も千枝もなかなかのしっかり者で、近所の評判もよかった。
良平は結婚前の約束を守って、千枝を大切にした。
この年の暮、東京では浅草・上野間にはじめて地下鉄が開通した。
その翌年、昭和三年五月一日、有里は予定より一週間ほど遅れて、玉のような男の子を産んだ。
雄一郎はその知らせを帯広《おびひろ》の駅で受けた。
彼の乗務する列車がまさに発車しようとする寸前、ホームの向う側にすべり込んで来た列車の車掌の田辺が大声で知らせてくれたのである。
「オーイッ、室伏、男の子だ、男の子だぞオ……母子ともに健全だそうだ、よかったな、おめでとう……」
聞いたとたん、雄一郎は体中がぞくぞくした。
安心したのと、嬉しさでぼんやりしてしまった。そのとたん、
「いよいよ、お前も親父《おやじ》さんだ、怪我《けが》をしないよう気をつけろや……」
田辺の声にはっとした。
(そうだ、今日から俺は親父なのだ……しっかりしなければ……)
気をひき締めて、笛を鳴らした。
その日の雄一郎は、誰にでもお礼が言いたかった。有難うと連呼して、列車中を駆けまわりたい気持だった。
(有里が男の子を産んだ……母も子も元気だ……)
雄一郎の眼の前に虹《にじ》が輝いている。
彼は胸を張り、顔を上げて歩いた。
その日の雄一郎は、乗客の誰に対しても叮嚀《ていねい》であった。親切のありったけをつくした。誰に対しても愛想がよかった。
乗務を終ると、雄一郎は飛びたつように家へとんでかえった。
玄関の戸を開けると、出合いがしらに、
「まあ、室伏さん、おめでとう……よかったねえ、男の子ですよ、大きくって元気な赤ちゃん……あなたにそっくりよ」
桜川民子に祝いの言葉をかけられた。
「そうですかア……」
雄一郎は思わず相好《そうごう》をくずした。
「ま、赤ちゃんの顔をみておいでなさい、夕御飯はうちのほうで仕度してありますからね。うちの人が内祝に一杯やろうって、さっきから待ってるのよ、早くおいでなさい……」
「ふん、余計なお世話だね……」
背後で突然声がしたので、雄一郎は驚いてふりむいた。
右隣りの岡井よし子だった。
「ほんとに気がきかないったらありゃアしない……こんな時は、奥さんの枕許《まくらもと》で水入らずにゆっくりさせてやるもんだよ」
「なんですって……」
民子が眥《まなじり》をつり上げた。
「なにさ……」
よし子も負けてはいない。
「なにしろ産後だからね、なるべく安静にしてやらないといけないのに、さっきから用もないくせに覗《のぞ》きにばっかり来ていてさ……室伏さんとこじゃいい迷惑だよ」
「なんですか、あんたこそさっきから台所でがたびしがたびし……あれで安静といえるんでしょうかね」
「あたしはここの家のご亭主さんの夕飯つくりに来てるんだよ」
「夕飯なら、うちのほうでちゃんと用意してありますよ」
「あらそうですか、だけどお生憎《あいにく》さま、室伏さんはあんたんとこなぞへ行きませんよ……」
「いいえ、来ます……ねえ、室伏さん、うちへ来るでしょう……」
「行かないよねえ、室伏さん……」
「は、はあ……それが、その……」
雄一郎は途方にくれた。
ちょうどそこへ、奥からみんなの声を聞きつけたのか、産婆が出て来た。
「おや、旦那さん、帰ったかね……奥さんが待ってるでよ、早く、赤ちゃんと対面しなさいよ……」
「はい、どうも有難う、すぐ行きます……」
まだ睨《にら》み合っているよし子と民子をそのままにして、雄一郎はそそくさと奥へはいって行った。
襖《ふすま》を開けると、有里がさすがに疲れた表情で布団に寝ていた。
「やア……」
雄一郎が言うと、
「お帰りなさい……」
嬉しそうに笑った。
「どうだ、くたびれたろう」
「ええ……でも、もう大丈夫……」
そう言う妻の顔が、なんだかいつもと違っているように雄一郎には思えた。
急にしっかりとして、大人っぽくなったようである。
(そうか、母親になったからだな……)
ようやくその謎《なぞ》がとけた。
「赤ん坊は?」
「こっちの部屋ですよ」
産婆が隣りの部屋との障子を開けた。
「あなたに似ているでしょう?」
有里が誇らしげに言った。
「とても元気がいいのよ」
「うん、うん……」
雄一郎はそっと赤ん坊をのぞき込んだ。
なるほど、赤ん坊というだけあって、顔も手足もずいぶん赤い。顔中|皺《しわ》だらけなのも奇妙である。
それにしても、なんというちっぽけな存在だろう。
そのちっぽけな手の指の先に、ちゃんと爪《つめ》が生えているのを見て、雄一郎は驚いた。
「へえ、こんなチビのくせに、ちゃんと爪まで生えてるんだなあ……指も十本ちゃんとある……」
「当り前ですよ、それが無かったら大変じゃないですか」
産婆が笑った。
「でも奥さんはよく頑張りました、褒《ほ》めておあげなさい……」
ヤカンの水を足しに台所へ行った。
「有里……ありがとう、俺が居なくてさぞ心細かったことだろう……ごめんな……」
「あなた……」
有里はちょっと含羞《はにか》んだように笑った。
「本当をいうと、あなたに傍に居てもらいたかったわ……心細かったの……口ではえらそうなこと言ってたけど……」
「有里……」
雄一郎はそっと妻の手をさぐった。
「赤ちゃん、可愛《かわい》い?」
「ああ……」
「男の子よ、名前考えて下さいね……」
「そうか、名前をつけるんだったな……」
「嫌な人……忘れてたのね」
「うっかりしてた……」
雄一郎は頭を掻《か》いた。
「いつまでにつけるんだ?」
「お七夜までよ」
「お七夜というと……?」
「あと六日よ」
「よし、とびきり上等の名前を考えてやるぞ……」
雄一郎はもう一度赤ん坊の顔を見た。
何が気に入らないのか、赤ん坊は赤い顔を一層赤くして、声を張り上げて泣きだした。
「ほんとに、元気な赤ん坊だなあ……」
雄一郎の胸の中に、満足感があふれて来た。しかし、
(俺もいよいよ父親だ……)
そう思うと、急にその責任の重さを感じて心配になった。
「有里、赤ん坊って妙なもんだなあ……」
「妙って、何が……」
「とにかく妙だよ……これが俺の子だって思うと、ほんとに変な気持がする……」
「まだ、慣れないからよ……」
有里はおかしそうに笑った。
「私も最初はなんだか変だったわ……でも、おっぱいを飲ませているうちに、この子は私の子なんだなって、しみじみ思ったの……」
「なるほど、そういうもんかもしれない……」
雄一郎は寝ている我が子の枕許に行って、そっと言った。
「おい、これからよろしく頼むよ……なにしろ俺も今日親父になったばっかしなんでな、お前も新米だが、俺も新米だ、大いにけっぱろうな……」
21
室伏雄一郎と有里との間に生れた男の子は、秀夫と名づけられた。
その喜びの知らせは、横浜に居る姉のはる子の許にも届けられた。
そして、そのあとを追うように、岡本良平の妻になった千枝からも、来年の正月には、たぶん母親になるだろうという照れくさそうな報告が来た。
弟夫婦の家と、千枝のところと、二つの仕合せをはる子は素直に喜んだ。
同時に、心のどこかに自分もやがてと、恥らいながら未来を夢みた。
女なら、誰しも一度は祈るに違いない、愛する人の子を産みたいという祈りを、はる子も心のふかい処で、はにかみながら祈っていた。
いつの日か、愛する人の子を我にも亦《また》、授け給え……と。
だが、そういう間にもはる子の身辺は、白鳥舎の女主人きんの留守で、毎日が眼のまわるような忙しさだった。
そんなところへひょっこり、南部斉五郎が姿を見せた。
「よう、元気でやっとるな……おきん婆《ばあ》さん、まだハワイから帰って来んそうだな……」
「相変らず口が悪いんですね、おかみさんのことを婆さんだなんて……」
はる子がそっと睨《にら》むと、
「なに、女が五十過ぎりゃ、立派な婆アだよ。もっともあいつは子供ンときから婆ア面してやがったがね……」
遠慮のない声を張り上げて、周囲の店員たちを笑わせた。
それからしばらくは、二人の間に、北海道の雄一郎夫婦の間に子供が生れたこと、良平と千枝のところも来年早々出産の予定であること、南部がこの九月から業界第一の実績を誇る帝国運送株式会社の川崎支店長として迎えられたこと、あれからずっと東京に居た関根重彦が自分から希望して釧路へ転任したことなどを話し合った。
「関根の奴、今度はえらく気負って赴任して行ったそうだ……釧路には雄一郎も居るこったし、きっと二人でまた何かやらかす算段でもしているこったろう……」
「そういえば、なんですか北海道の鉄道をスピード・アップする計画を二人でねっているという手紙が雄ちゃんから来ていましたわ……」
「うん……ま、なにをやらかすか楽しみに見ていることにしよう……」
南部はそこでちょっと言葉を切り、今度は表情をあらためて言った。
「ところで伊東栄吉はどうしている……今頃はロンドンあたりかな……」
「はい、このあいだ葉書がまいりました、言葉が通じないので、なにかと大変なようですけど……」
「しかし、この秋には帰ってくるんだろうな」
「はい、予定よりは少し遅れるようですけれど……」
「帰って来たら、今度こそ有無を言わさずとっつかまえて式を挙げちまいなよ。もたもたしてると、又、とり逃がすぞ……」
「だって、そんな……」
はる子が笑った。
「いや、そういうもんだ……」
南部は真面目だった。
「おかしなもんで、人間の縁なんてものは、一つ取り逃がすと不思議に次々と駄目になる……気をつけなけりゃいけないよ。とにかく、伊東が帰って来たら、あいつの上役の誰かに声をかけて、それの音頭でぱアッと一気に披露《ひろう》しちまいな……わかったね」
「はい……」
「どれ……これ以上ねばって居ても、お茶うけ一つ出て来そうにないな、帰るとするか……」
南部は腰をあげた。
「あらッ……」
はる子が狼狽《ろうばい》すると、
「いや、冗談だよ……」
まるい体をゆすって笑った。
「はるちゃんも、伊東に早く帰って来いとせっせと手紙を書くんだな……早く帰って来ないと、他の男のところへ嫁に行ってしまうかもしれんとおどかしてやれ。どうもあいつは、肝腎《かんじん》のところでのんびりする癖があるんだ、しようのない奴だよ……」
南部を見送ってから、はる子の心の中に、彼が残して行った一つの言葉が妙にひっかかった。
人間の縁なんてものは、一つ逃がすと、次々と手からこぼれて行きやすいものだ……。
(そうかもしれない……)
と、はる子は思った。
漠然とではあったが、はる子はようやく自分の未来について、小さな不安を持った。
南部が帰って一時間もたたない頃、はる子はハワイからの一通の電報を受け取った。
差出人は亮介で、きんが急に発病し病院に入院して心細がっているので、至急ハワイへ来て欲しいというものだった。
白鳥舎の方は、横浜元町で質屋を営んでいる、きんの兄の和太郎と番頭の横川に頼んでおけば、まず当分は差支《さしつか》えなさそうである。
それと、あの気丈なきんがはる子に来てもらいたがっているというのは、よくよくの事に違いなかった。
はる子はハワイへ行く決心をした。
いよいよハワイへ向けて出発するという日の午後、わずかな時間をさいて、はる子は川崎の南部宅を訪れた。
しばらく日本を離れる挨拶《あいさつ》に赴いたのだった。
ところが、そこで、はる子はひどくものものしい表情の節子から、思いがけない事実を聞かされた。
「大変なことってなんでしょう……?」
はる子は咄嗟《とつさ》に伊東栄吉の事を思い浮かべて、蒼《あお》くなった。
「ま、まさか、栄吉さんの身に何か……」
「いいえ、伊東さんではないの……尾形さんのところでね大変な事が起きてしまったのよ……今朝早く知らせがあったのだけれど……」
「尾形さん……?」
「それがね……」
節子は声をひそめた。
「尾形さんのお嬢さんが自殺を計ったんだそうなの……さいわい発見したのが早かったんで、すぐ病院へ運び込んだから、たぶん助かるだろうという話だったけれど……」
「でもどうして、自殺なんて……」
はる子は息をつめた。
「なんでもね……あちらの奥さまのお決めになった縁談がどうしてもお嫌だったらしいのね……」
「まア……」
はる子の顔色が変ったのを見て、節子はいそいでつけ加えた。
「もっともね……これははる子さんとは別に何んの関係もないことだから、気にしないほうがいいわよ。ほんとうにそれが原因かどうかもはっきりしないのだし……」
しかし、敏感なはる子は、それだけですべてを察してしまった。
「あの……和子さんはどこの病院に入院なさったのでしょう……?」
「なんでも、お宅のすぐ近くの綜合病院だっていうことだけど……」
「それでは私、これで……駅長さんがお帰りになりましたら、どうぞよろしくお伝えください……」
はる子はそそくさと節子に挨拶《あいさつ》して出て行った。
はる子を見送った節子が、すぐはっとして、
「あ、はる子さん、待って……あなた、病院へ行っては駄目……」
あとを追ったときは、もうすでに、彼女の姿はどこにも見当らなかった。
川崎から東京へ……。
はる子は教えられた麻布の病院へ夢中で駆けつけた。
尾形和子が、何故、自殺までして縁談を拒否したのか、はる子には痛いほどわかっていた。
それほどまでに思いつめた和子の伊東栄吉への愛が、はる子には悲しかった。辛く、苦しかった。
はる子がようやく、麻布の綜合病院というのをたずねあてた頃、病院のベッドの上で、尾形和子はまだ昏睡《こんすい》からさめなかった。
はる子が看護婦の案内で病室のドアを開けたとき、昏睡状態のまま、苦しそうに呻《うめ》きつづける和子の枕許に、母親の尾形亮子がすっかり疲労しきった表情で坐っていた。
亮子ははる子を認めると、まるではじかれたように立ち上った。
「まあ、あなたは……」
「ごぶさたしております……」
はる子は伏目がちに言って、そっと和子の顔をのぞき込んだ。
鼻孔にさしこまれた酸素吸入のためのゴム管が痛々しい。
腕にはリンゲルの針が突き刺されたままであった。
すっかり血の気のうせた和子が、苦しそうに喘《あえ》いだ。
「和子、しっかりして……和子、和子……」
亮子がおろおろと娘の名を呼んだ。
しかしその時、
「伊東さん……伊東さん……」
和子が唇をかすかに動かし、伊東栄吉の名を切れ切れに呼ぶのをはる子は聞いた。
亮子がステーションに通ずるベルを押したらしく、看護婦が注射器を持ってやって来たので、はる子は廊下へ出た。
今、聞いたばかりの和子の譫言《うわごと》が耳について取れなかった。
はる子は急に、はげしい悲しみに襲われた。
自分がどうしたらいいのか、わからなかった。
(和子さんは死ぬほど栄吉さんを愛している……もし、私が栄吉さんと結婚するようなことになったら、和子さんは再び自殺を計るだろうか……)
いつか南部から聞いた話によると、尾形清隆の死後、尾形家では家屋敷はもちろん、高価な家財道具も手放して、現在では小さな貸家に住んでいるのだという。
尾形の盛んなときには、門前市を成すほど集った人々も、今では離れて見向きもしないし、親戚《しんせき》の者までが寄りつかないらしい。
はる子には尾形の遺族たちのやりきれない気持が判るような気がした。
今でも、尾形家に出入りし、未亡人を慰めたり、力になってやったりしているのは、南部斉五郎と伊東栄吉ぐらいのものだと聞いている。
はる子は、今の世の中の、まるで紙のように薄い人情を今更のように見せつけられた思いがした。
出発をあと数時間後にひかえ、はる子はいま自分のとるべき態度について考えた。
和子を救う一番良い方法は何だろう。
もちろん、恋を譲る気はない。しかし、情からいって、和子を見殺しにするわけには行かなかった。
「はる子さん……」
ふりかえると、尾形亮子が立っていた。
「私が……私が馬鹿でした……」
亮子は不意にハンカチで顔を押えた。
「あの子の気持も知らないで……でもあの子はその方が仕合せなのだと思ったものだから……あなたにこんなことを申し上げては大変に相済まないことと重々承知しているんですけれど、あの子には伊東さんがどうしても必要なのです……でも、それはあの子の我儘《わがまま》です、とうてい通用しない考えかたです……私はそれを思うと……いっそ私があの子にかわって死んでしまいたい……」
かつては鉄道次官夫人として、飛ぶ鳥さえも落とす勢いだった亮子が、昔の面影もないほど窶《やつ》れてしまい、今、はる子の前で生きる望みもないほどに歎き悲しんでいる。
はる子には、そんな亮子をそのまま見捨てて立ち去ることが出来なかった。
「奥さま……私、今夜ハワイへ発ちます……」
「えッ、ハワイ……?」
「ハワイに、今、私の働いております店の支店が出来るはずでございます……私、当分そこで働くことになると思います……」
「はる子さん……あなた、まさか……」
「ええ……もちろん栄吉さんに対する私の気持は変りません。でも……お嬢さまにとっては、私がしばらくなりと日本に居ないほうがいいのではないかと思うのです……お気持がもう少し静まってから、将来のことを決めてあげてくださいまし……そのあとで私は日本へ帰ってまいり、栄吉さんと式を挙げることにいたします……」
「はる子さん……」
「どうかお嬢さまをお大事に……ごめんくださいまし……」
はる子は足早に亮子の前から立ち去った。
東京から横浜へ帰ったはる子の足は、いつか夜の波止場へむいていた。
ついこのあいだ、神戸からヨーロッパへ発つ伊東栄吉の船を、見えるはずもないこの波止場から見送った朝のことが、はる子の胸に悲しく浮かんだ。
はる子は波止場にほど近い浜辺へ行った。
誰も居ない浜で、はる子は声をはなって泣いた。
海へ向けて泣いた。
浜辺に立つはる子の足許を波が洗っていた。
折角|掴《つか》みかけていた仕合せを、また先へのばさなければならぬ。
「気をつけなよ、はるちゃん……人間の縁なんてものは、一つ取り逃がすと、次から次と手の中からこぼれるものだ……」
南部斉五郎の言葉があらためて思い出された。
だからといって、あの状態のままの和子の前で、伊東栄吉と結婚するなどということが出来るだろうか。
一生に泣く涙のありったけを流しつくし、泣きつくした時、はる子の心に浮かんだのは、この海のはての異国で病床に呻吟《しんぎん》している伊吹きんのことであった。
赤の他人の自分を、娘のように慈しみ、信頼してくれた女主人が病床で自分の来るのを待ちかねているという事実であった。
行かなければならない、とはる子は思った。
私を待っていてくれる人がある。
私を信じて、頼りにしてくれている人がある……。
はる子の心の中に、勇気が湧《わ》いた。今までの青春の日々、どんな悲しみにも耐え抜いて来た根強い生活力が、はる子を絶望に似た気持から、しゃにむに引っ張り上げた。
(私は行かなければ……)
と、はる子は繰返した。
(私は生きなければ……)
と、はる子は思った。
もし、南部の言う時機を失し、万が一、恋を失ったとしても、私には愛がある……。そう思ったとき、はる子は冷めたい砂の中から懸命の力で起き上っていた。
水に濡《ぬ》れ、波にさらわれそうな足が、しっかりと砂を踏みしめて歩き出していた。
22
秀夫の生れた翌年の秋十一月、雄一郎は有里と秀夫を連れて尾鷲《おわせ》へ発った。
姉の弘子と大阪の薬種問屋の若主人との間に縁談がととのい、その結婚式に出席するためである。
式は大阪で行なわれるのだが、その前に、有里は結婚以来初めての里帰りをすることになったのだった。
有里の体中に、嬉《うれ》しさが匂《にお》い立つようだと、雄一郎は妻を眺めていた。
今度の帰郷については、実際それだけの喜ぶ理由があった。
第一に姉の結婚、第二に初めての里帰り、そして第三に、これらのことを母が自分で直接手紙に書いて来たことであった。
有里の結婚当時のみちの仕打ちについては、彼女自身かなり気がとがめているとみえ、あの時の弘子の立場を考えるとああせざるを得なかったとか、家業が思わしくなかったので、浦辺友之助などにたいし、つい感情的になってしまったことなどのことが弁解がましくくどくどと書かれており、最後に初孫の顔が見たいから、どうしても一緒に連れて来て欲しいと繰返し述べられていた。
姉の結婚で、はじめて生みの母から許されて、夫と共に里帰りが出来ることを、素直に喜んでいる妻を、雄一郎は愛《いと》しいと思った。不愍《ふびん》でもあった。
平気な顔はしていても、やはり、いつもそのことで秘かに胸を痛めていたのだろう。
とにかく、雄一郎にとっては四年ぶり、有里にとっては、三年ぶりの尾鷲であった。
その三年のあいだに、紀勢本線も相可口《そうかぐち》から南へ徐々にひらけ、結婚したころは三瀬谷《みせだに》までだったのが、今では滝原《たきはら》、伊勢柏崎《いせかしわざき》、大内山《おおうちやま》と三つの駅が新しく開通していた。
長いこと難航した弘子の結婚話がまとまったのと、可愛い初孫の顔を見た嬉しさで、雄一郎に対して、ひどくそっけなかった母のみちも、今度ばかりはまるで人が変ったように振舞っていた。
最初から雄一郎に好意的であった勇介は、わざわざ駅まで出迎えてくれたし、二人の訪問を心から歓迎してくれたのはもちろんである。
弘子の婚礼を明日にひかえて、中里家の中はどこもかしこもざわついていた。
応接間には、ひっきりなしに祝い客があるらしく、勇介はもっぱらそれの応待にかかりきりの様子だった。
あらためて、雄一郎は尾鷲の中里家の格式というものを考えていた。傾きかかっているとはいえ、とにかくこれだけの大身代なのである。
有里が北海道の一鉄道員の許へ嫁入って来たということが、どんなに勇気を要することだったか、あらためて考えさせられた。
雄一郎は、竹の林ではじめて有里と逢った日のことを思い浮かべた。
竹の精かと思うほど、可憐《かれん》で、すがすがしい印象だった有里。しかし、その気持はいまでもまだ雄一郎の胸の中から消え失せてはいなかった。
金とか地位とか名誉とか、およそ人間の欲しがるものに、有里はあまり強い執着を示さない。それが良いことか悪いことかは別として、有里ほど純粋できれいな心を持つ女は少ないのではないかと思う。
(不思議な女だ……)
太く黒びかりした柱、磨きぬかれた廊下、手入れの行き届いた庭園、そうしたものを眺めていると、余計そんなことを思ってみないわけには行かなかった。
それにひきかえ、姉の弘子の嫁入りは、如何にも尾鷲の中里家の長女にふさわしい豪華なものであった。
嫁入り仕度はすでに船で大阪へ送られ、尾鷲での最後の夜を、弘子は美しく着飾って、別れの宴にのぞんだ。
昔ながらの飲めや歌えの一夜が明けて、弘子は母や兄、それから雄一郎夫婦らと共に、大阪へむかった。
大阪には、弘子の嫁ぎ先の吉田屋から大番頭たちが出迎え、あらかじめ用意してあった宿へ案内した。
式は翌日の夕方、太閤館《たいこうかん》という料亭を買い切って行なわれる筈であった。
宿へ着くと、有里は早速秀夫を夫に預け、荷ほどきの手伝いに姉の部屋へ行った。
「有里……ほな、そっちの長持の花嫁|衣裳《いしよう》出して衣桁《いこう》にかけて欲しいね……」
みちが有里や勇介を指図して、明日になってあわてないよう、衣裳や道具の整理を始めた。
「弘子、あんたも坐っとらんと、そっちの荷ほどいてえな……」
部屋の隅に坐《すわ》ったきり、何もしようとしない弘子に言った。
「そやかて、なんや、うち疲れてしもうて……」
「疲れとるのはお互いさまや……あんたには道中、荷物も持たせず、みんなが気イ使うて来たやないか……そんなことで嫁に行ったら、あんじょう出来るかいな」
「だって、治夫さんが言うてなしたわ……芦屋《あしや》のお家では、古くから居る女中はんが何もかもしてくれるさかい、なんにもせんでええのやと……」
治夫というのが、今度弘子が嫁入る相手の男である。大阪の商家の息子《ぼんぼん》にしては、三十過ぎまで独身でいたという変りだねで、文学が好きで自分でも小説の何本かは書いたことがある。弘子にも結婚してからもずっと歌を続けることを許したのだそうだった。
「そらそうかもしれんけど、せめて治夫さんの身の回りのお世話くらいは、あんたがやらんわけには行かへんよ。ええな……家にいるのとは、わけが違うのやさかいな……」
しかし、弘子はそれには答えず、次の間で花嫁衣裳を取り出している有里に言った。
「有里、あんたとこ今、お給料なんぼくらい貰《もろ》うてるの……?」
「夜勤手当も含めて、大体六十七、八円てとこかしら……」
有里は素直に答えた。
「今、住んでるのが鉄道の官舎でしょう、お家賃が一銭もかからないの……食費が月三十五円くらいかかるし、うちの人のお昼代が一日十五銭くらいで四円五十銭、それから新聞雑誌に一円とちょっと……お風呂代が月二円……衣類などに五、六円から十円くらい……それに交際費なんかがあるから、なかなか貯金が出来なくて……」
「まあ、あんた、よくそうすらすらと数字が出てくるもんやなあ……」
そばで聞いていたみちが眼をまるくした。
「だって、家計簿つけてるんですもの……」
「家計簿……?」
「そう、家計簿つけて余程計画的にやらないと、すぐ赤字になってくるんよ……それでも、うちの人|煙草《たばこ》吸わないでしょう、その分だけ、吸ったと思って秀夫の名前で積み立ててるの……」
「へえ……それで、月にどのくらい貯《たま》るん?」
弘子はあまり興味のなさそうな表情できいた。
「二円……」
「そうすると、一年で二十四円……十年で二百四十円やないの……阿呆《あほ》らしい……」
「ま、阿呆くさいっていえば阿呆くさいけど、それでええのや……塵《ちり》も積れば山となるいうてな……」
みちは慰め顔に言った。
「お金が有ろうと無かろうと、その心掛けは大切やで……弘子、あんたも嫁入ったら少しは家の経済いうことも考えなあかんで……」
「あら、クリームが無いわ……」
弘子が不意に声を上げた。
「どうしたんやろ、たしか、ここへ入れて来たと思ったの……」
「なんや、又、忘れものかいな……」
「うち、うっかりしてクリーム忘れて来てしもうた、どないしょう……」
「お姉さんのクリーム、桜屋のでしょう……」
「ふん……」
「私、買うて来てあげる……薬局へ行けば売ってるわ……」
「すまんなあ……」
「ううん……どうせ襟《えり》を拭くベンジンも買わんならんし……」
「そうか……ほなら頼むわ……」
「ほんまにまあ……」
みちがあきれたように言った。
「おんなし姉妹なのに、なんでこうも似とらんのかいな……有里は随分マメなのに、お前は縦のもん横にもしくさらん……」
「うちは、お母はん似なんよ……」
弘子はおどけたように言って、首をすくめた。
翌日、弘子の結婚式は予定どおり、なんの故障もなく行なわれた。
嫁ぎ先の吉田屋は、江戸時代からの老舗《しにせ》だけあって、つき合いも広く、招かれた客の中には、東京からわざわざこの披露宴に出席するために来阪した代議士の顔も見えた。
さいわい、好天に恵まれ、何もかも順調だった。
披露宴を終えて、有馬《ありま》温泉へ新婚旅行に出発した新夫婦を見送って、雄一郎たちが宿へ帰りついたのは、その夜の十時近かった。
雄一郎が風呂を浴びて部屋へ戻り、しばらくして、ようやく有里がみちの部屋から戻って来た。
「お母さんのほう、すんだのか?」
「ええ、今、着換えてお風呂へ……ごめんなさい、あなたの方、なにもしてあげられなくて……」
「なあに……」
雄一郎は兵児帯《へこおび》を結び終ると、結び目をぐるりとうしろへまわした。
「したけど、お母さん、ひどくがっかりしてなさったようだなあ……」
「姉さんを嫁に出すまではって気だったから……なんだか急に風船玉がしぼんだようになってしまったんだわ」
「秀夫、兄さんの部屋に寝てるそうだな」
「ええ、尾鷲からついて来てくれた小作人で加吉さんという人がいたでしょう……あの人がうまくあやして寝かせてくれたらしいの……もう少したったら、こっちへ連れて来ます」
「うん、兄さんに迷惑かけるといかんからな……」
有里は今日着ていた着物の襟を拭《ふ》いている。雄一郎はそんな妻の横顔をじっと見つめた。
「有里……お前も疲れたろう……」
「いいえ、あなたこそ……」
「立派な結婚式だったなあ……」
「ほんとう……」
有里は手をとめて今日の結婚式を思い出すような眼つきをした。
「御披露宴も立派だったわね……姉さん、とっても仕合せそうだったわ……今夜は有馬温泉に泊って、明日から天《あま》の橋立《はしだて》のほうへ廻《まわ》るんですって……」
「そうだそうだな……」
「私、大阪の老舗のご主人というから、姉さん、さぞ大変だろうと思ったら、芦屋の別宅のほうに住むようになるんですって……それだったら、むずかしいお店のしきたりや、使用人たちに気をつかうこともなくてほんとに良かった……お母さんも安心していたわ……」
有里はしんから嬉しそうだった。
「有里……お前、後悔していないか?」
雄一郎が突然言った。
「なにを……?」
「つまり……姉さんの結婚式があまり立派だったからさ……お前だって、その気になれば……」
「まあ、何んのことかと思ったら……」
有里が顔を赤くした。
「だって……私はあなたが好きだったんですもの……」
「有里……」
「しかたがないわ、今更後悔したってあとの祭よ……」
悪戯《いたずら》っぽい目つきで、ちらと雄一郎を見た。
「こいつッ……」
「お互いさまよ、あなただって、潰《つぶ》れかかった家の娘を無理して貰うより、もっとお金持か、鉄道のえらい人の娘さんと結婚すれば得だったのに……」
「馬鹿……」
「ほら、その……人のこと馬鹿、馬鹿っていうのが玉に瑕《きず》よ、それさえ言わなきゃ満点なのに……」
「そうか……したが、いい女房だ、お前という奴は……」
「ほんのお世辞……?」
「馬鹿……」
「ほら、また……」
「あ、そうか……」
二人は顔を見合せ、思わず一緒に笑い転げた。
23
大阪での弘子の結婚式がすむと、雄一郎と有里はそのまま、尾鷲へは寄らず、真直ぐ釧路へ引返した。
雄一郎の休暇が、もはや残り少なくなっていたためである。
大阪から東海道を上り、上野から仙台を経て青森へ、そして青函連絡船という乗り継ぎ乗り継ぎの旅だったが、有里は仕合せであった。
ずっと心にかかっていた姉の結婚が無事にすみ、母に叛《そむ》いて嫁いだという重荷も、今度の里帰りできれいさっぱりなくなった。
ただ一つ気になったのは、秀夫を抱いて眼を細めていた母の髪に、めっきり白いものが目立ちはじめているということだった。
二人の娘を二人ながら嫁がせて、すっかり気落ちがしたような母との別れに、ふと、あまりに遠く離れて暮す親不孝が思われた。
「女って、嫁に行ってしまうと自分の家ってものが変るのね……娘の頃は、京都の女学校の寮でどんなに長いこと暮していても、家といえば尾鷲の我が家だったのに……今度久しぶりで里帰りしてみて、なんだかさっぱり落つかないの、懐しいことは懐しいのだけれど……もう、自分の家ではないのね……」
有里は釧路の家へ戻って来た晩、雄一郎にしみじみと言った。
「そういうものかな……」
「海を渡って、北海道が見えてくると、ああ、我が家が近くなったんだなって感じるの……」
「そうすると、親なんてあわれなもんだな、赤ん坊の時から大事に大事に育てあげて、あげくの果に赤の他人にくれてやり、その娘から、もはや実家は我が家ではないみたいなこと言われてさ……」
「あら、そんな……」
「いずれ、もし俺たちに女の子が生れたら、いつか又、そういう親の悲哀をたっぷり味わわされるだろうな、因果はめぐる小車の……か」
雄一郎が真面目《まじめ》とも冗談とも受取れるようなことを言った。
「仕方がないわ、子供というのは男の子でも女の子でも、親を乗り越えて行くものじゃないかしら……また、乗り越えられないような子では困ると思うわ」
「フム……しかし、お袋さん、今度はだいぶ気が弱くなっていたな、別れがとてもつらそうだった」
「発車間ぎわまで秀夫を抱いてはなさないんだもの、返してくれないんではないかと思って、ひやひやしたわ」
「俺はつくづく気がとがめたよ……可愛い娘を北海道くんだりまで奪って来てしまったんだものな」
「あのね……」
有里はくすりと笑った。
「母ったら単純なこと言ってるのよ、もうすぐ紀勢本線が尾鷲まで開通するようになるから、そうしたら、あなたに北海道から尾鷲へ転勤して来てもらえないかですって……」
「なるほど、紀勢本線か……」
「そんなこと出来ないっていったら、おなじ鉄道の中なのに、なんで出来んのかって……」
「そりゃあそうだ、出来んことはないさ……」
「あら、出来るんですかッ……?」
有里は眼をまるくした。が、すぐ元の表情にかえった。
「出来ても、あなたは札鉄以外のところへは行かないわよね……」
「どうして……」
「だって、あなた、札鉄を出るの嫌なんでしょう」
「別にそんなこともない……もっとも今は駄目だが……」
「知っています、関根さんと北海道の鉄道のために、なにか企んでいるんですものね」
「おいおい、企むとはなんだ、まるで俺たちが謀反をおこすみたいじゃないか」
「ごめんなさい……」
有里は自分でも気がついておかしそうに笑った。
「でも、あなたと関根さんのお話しているの、いつもひそひそ、いかにも密議をこらしてるって感じですもの」
「そうかなあ……」
雄一郎は意外そうな表情をした。
最近、釧路の運輸所長として東京から転勤して来た関根重彦は、雄一郎と相談して、ひそかに北海道の鉄道のスピード・アップの計画をねっていた。
一口にスピード・アップといっても、それにはいろいろな方法が考えられ、また、それの実行にともなう種々の困難な壁があった。
例えば、無駄な時間、つまり停車時間とか列車相互の交換時間をきりつめるとすると、それによって生じる危険性をどうするか、単線を複線にするための経費をどうするか、又、列車の速度を増した場合に生ずる燃費増加の問題……。
到底、一人や二人の知慧《ちえ》や努力ではどうにもならないことのようではあったが、関根も雄一郎も、敢《あ》えてこの問題に情熱を燃やしていた。
出来る、出来ないはともかく、たとえ何十年かかったとしても、これはやらねばならない事だったからである。
釧路へ帰った翌日から、雄一郎は疲れもみせず勤務についた。
ぼつぼつ、一年の終りに近づいて、貨物も旅客も増える一方である。
のんびりと家でやすんでいる暇は無かった。
阿寒の頂きは、雄一郎夫婦が釧路へやってきて、もう二度目の雪に白く覆われていた。
そして、そのころ……遠い海のかなたハワイでは、はる子が此処へ来て初めての冬を迎えていた。
以前横浜に居たころ、話には聞いていたが、此処には本当に冬という季節感はなにもなかった。
空は夏の空の青さであり、太陽の光も強く眩《まぶ》しい。
又、此処には、衣がえという日本のあの情緒的な風習もなかった。
「もうすぐ、お正月が来る……」
ペンキのにおいが強い白鳥舎の建物の中で、はる子はそっと心のカレンダーをめくった。
十二月、北海道の山々はもうまっ白な冬仕度の筈である。
ニセコアンヌプリもイワヌプリもチセヌプリもワイスホルンも目国内《めくんない》岳、岩田岳、そして雷電山も……。
はる子の眼に北海道の山並みが浮かんだ。
そして、それは忘れることの出来ない伊東栄吉の面影に続いていた。
日本へとっくに帰っているはずの伊東からは、一通も手紙が来なかった。
そのかわり、和子の母親の尾形未亡人からたびたび手紙が来て、和子がその後、順調に回復に向っていること、はる子のとってくれた今度の行為に対し、筆では記せないほど感謝していること、又、まことに申しわけないが私たち親子を助けると思って、もうしばらくこのままの状態を続けていて欲しいこと、そのかわり、あと半年もすれば必ず和子の気持を変えさせ、良き配偶者に妻《めあ》わせてから、伊東にはそれまでのすべての事情を打ち明けて許しを乞《こ》うつもりであることなどが綿々と書き記されてあった。
更に、伊東にはもちろんだいたいの説明はしてあるので、心配しなくていいとも書いてあった。
伊東から直接手紙が来ないことは寂しかったが、そのかわり、彼の消息は尾形未亡人が知らせてくれた。
伊東は帰朝するや、東鉄の運転所長結城慎一郎の懐刀《ふところがたな》として、いよいよ東京・大阪間に特急列車を運転する下準備にはいったということだった。
はる子は、蔭ながら東京の伊東栄吉の成功を祈った。
ハワイの白鳥舎の店を閉める夕方から、はる子は欠かさず病院に伊吹きんを見舞った。
容態の悪い時期には、病院へ泊りこみで看病したが、熱が下ってからは病院の規則に触れないように、夜の一時《ひととき》を病人と共にすごした。
はる子はハワイへ来て以来、白鳥舎の仕事に全力をそそいだ。
機械の配置、店員の人選から店の造作、ペンキの色までこまかく気をつかった。
そして、そんなはる子に、きんの弟の亮介はまったく色気ぬきの協力ぶりを示した。
「やっぱり君が来ないと駄目《だめ》だな、店員もよく働くし、お客もどんどんついた……」
亮介はあらためて、はる子の仕事ぶりに感嘆の声をはなった。
「別に、私のせいではありませんわ……おかみさんとあなたがちゃんと下ごしらえをしておいて下さったから……」
はる子は恥かしそうに言った。
「姉も、あなたのお蔭で、ここんとこ調子がいいらしい……食欲は相変らず無いようだが、気力はすっかり回復したね」
「でも、お医者さまはなんとおっしゃってますの?」
「熱がずっと続いたので、心臓がかなり弱っているそうだ……当分はまだ病院ぐらしが続くらしい……」
「無理をしてはいけませんわ、病気って治りぎわが肝心ですもの」
「ああ、こうなったら医者の言うとおり、ゆっくり静養する他に手はないのだが……実はそのことも含めて、今日、姉と話して来たんだよ、君のことをね……」
「私のこと……?」
「なにしろあの時は姉が危篤状態だったし、おまけに譫言《うわごと》で君の名前を言い続けだったから、前後の見境もなく、君に来てくれと頼んだのだが……とにかく、いつまでもハワイにいてもらうわけにも行くまいと思ってね……許婚の人、もう日本へ帰っているんだろう……」
「ええ……」
「姉にも話したんだ……これ以上君に迷惑をかけるわけには行かん……姉の病気も、もう大丈夫だ、船の都合もあるが、なるべく早く帰国するといい……切符は僕が手配するよ」
「いいんです……私……」
「いいって……どうして?」
「私、まだ当分は日本へ帰りません……」
「そんな馬鹿な……君は本当ならとっくにあの許婚の人と結婚している筈だったじゃないか……」
「それが、当分日本へ帰れないわけが出来てしまったんです……」
「じゃ、やっぱり……君をハワイへ呼んだのがいけなかったんだね」
「いいえ、違います、そんなことじゃないんです」
はる子はつらそうに顔をそむけた。
「伊東さんがご恩になったお方のお嬢さんのことで、どうしても、当分はこちらに居なくてはいけないんです……それが、やっぱり人間の道だと思うんです……」
24
昭和四年元旦、岡本良平夫婦は、雄一郎たちに遅れること八か月余りで、女児の親となった。
名前は雪子、ちょうど雪の季節に生れたからという、良平の命名であった。
この年の冬、釧路管内には事故が無かった。なにしろ、運輸所長の関根が、連日のようにモーターカーをとばして現場を視察して歩いているのだから、自然、現場もビリビリして、その結果が無事故の記録を作ったのだという噂《うわさ》を、雄一郎は満足して聞いた。
同時に、雄一郎の内にも猛烈なファイトが湧《わ》いて来た。
関根に負けてたまるかの根性である。彼も亦《また》、日々の勤務に全力をあげた。
張り切っているのは、岡本良平も同様であった。彼は目下、機関手の試験を受けるべく準備を重ねている。女房をもらい、一児の父となっては、彼も亦、大いに張り切らざるを得なかったのである。
そして、四月十五日、雄一郎と有里の間に生れた秀夫が、ぼつぼつ初誕生という頃、千葉では房総線の上総興津《かずさおきつ》、北条線の安房鴨川《あわかもがわ》間が開通し、房総半島一周の鉄道が完成した。
こうした他の管内の動きにも影響され、関根重彦はますます発奮して、北海道の鉄道の整備計画に熱中し、見回りにも力がこもって行った。
しかし、ともすると、これが現場から浮き上り、単なる自己満足で終ることもままあった。
例えば、ある日、こんなことがあったと、保線の人間から雄一郎は聞いた。
関根はよくモーターカーで管内を見回っていたが、線路工事などの現場にくると、必ず車をとめて、彼等の労をねぎらった。
「やあ、御苦労さんです……」
関根は気軽に現場長のところへ歩み寄る。
「どうですか、復旧の進行状態は……?」
「まあまあですよ、ここらは昔っから地盤の悪いところだで……」
「そう……根本的に路面調整をしなけりゃならんとは、僕も前から考えとったんだ、なんとか予算を貰って、早く実現に努力しましょう……どうかそれまでがんばってください……」
「はあ、そうなってくれるとわしらも助かりますよ……」
現場長も表面はひどく愛想《あいそう》がいい。
「ま、お茶でもどうですか」
「ありがとう……」
関根はそう言いながらも、素早くそばの男の手の怪我《けが》を発見する。
「おいッ君、その手の怪我はどうしたのかね……」
「へえ……」
「なあに、石でこすったんで……大したこたアねえです」
傍から現場長が口をはさんだ。
「しかし、血止めぐらいしといたほうがいいな……あ、ちょっと待てよ……」
関根は車に積んであったカバンから薬を取って来て、手早く手あてをしてやった。
「すんません……」
「どうだ痛まんかね」
「はあ……」
「今日はあまり無理せんようにな、明日という日が無いじゃなしさ……」
関根は愉快そうに笑う。自分のとった処置に満足なのである。事実、誰の眼から見ても、これは極めて善いことに違いない。
「さてと……邪魔をしてすまなかったな、じゃ、よろしく頼みます」
気軽に手をあげて、彼はモーターカーに乗って走り去った。
これで、彼は現場の人間とかなり密接な関係になり得たと思っていた。
ところが、彼の姿が消えてしまうと、
「ふん……小憎《こぞ》っ子《こ》が、きいたふうなことをぬかしやがる……」
現場長は不愉快そうに吐き捨てる。
「おい、仕事だ仕事だ、ぐずぐずするな、それんばかりのことで……保線は手の白いお殿様じゃねえんだぞ……」
それを聞いた保線係の人々も、おかしそうにドッと笑った。
この話を聞いたとき、雄一郎はひどく嫌な気持がした。
現場と管理職の人間が、もっと呼吸を合せなければ、北海道の鉄道は絶対に良くなりっこはないと思った。
と同時に、自分たちが計画し、夢みている北海道の鉄道のスピード・アップ化は、予算とか、技術面での問題とは別に、こうした面でのひじょうな困難が予想された。
難問は他にもあった。
家庭内部の問題である。
先ごろの流産以来、関根の妻の比沙は体の具合が思わしくなく、ずっと京都の実家のほうで静養していたが、最近になってようやく母につきそわれて釧路へ来ていた。
その比沙が、ちょくちょく雄一郎の家へやって来ては、有里に愚痴《ぐち》を言うのである。
「うちの人……外から帰って来て、仕事の話なんにもしてくれはらへん……どこで何が起ったんかもさっぱり……」
「でも、御主人はおいそがしいんですもの……」
有里は慰めた。
「いそがしいのやろなあ……いつも帰って来やはると、まるで口もようきけんように疲れ切ってはるし……洋服脱いで、お風呂へ入って……黙ってお食事して……それっきりどすね、室伏はんとこのように、夫婦仲ようあれこれ話し合うことなんぞ、うちには、まるであらへん……」
「そりゃ、うちだって、めったに話なんかしてくれませんわ、余っ程機嫌のいい時だけ……あとはもう、新聞読み読み、私の話なんかも上の空で、フンフン言うだけで、なんにも聞いてやしないんですよ」
「お有里はん……それで、寂しいことあらへん?」
「寂しいって……」
有里は首をかしげた。
「それは腹の立つこともありますけど……」
「うちなあ……」
比沙はひどく哀《かな》しそうな表情になった。
「うちら夫婦、ひょっとすると、一日中、話もせんことがあるんよ、別に喧嘩《けんか》したわけでもないのに……たまに話しても、ほんまに必要なことだけ……子供の無いせいもあるのやけど、時々、うち、ふっと自分がなんやこう空しゅうなってしもて……うちみたいなもん、まるで、床の間の置物ぐらいにしか考えていないんと違うやろか……一にも仕事、二にも仕事、三も四も仕事……うちは、いつも独りぼっちや……」
「奥さん……」
有里は、雄一郎から聞いていた関根の最近の仕事ぶりを話してやろうかと思った。しかし、言っても無駄なような気がして途中で止めた。
言ったところで、比沙にはおそらく夫の仕事や夢の意味がよく分らないだろう。それは有里にしても同じことだった。
比沙の気持は、有里には良くわかる。
ただ、比沙と違って、有里は自分が床の間の置物だと思ったことは一度もなかった。
もし、たとえ一日なりとも、有里が働かないで床の間にでも坐っていたら、室伏家はたちまちその機能を停止してしまうことだろう。夫婦が力を合せて働いているのだという自信と誇りが有里にはあった。
それが比沙と違って、有里に夫への不満を抱かせない最大の原因となっていたのかもしれなかった。
三月になった。
まだ大地は冬の間に降り積った堅雪に覆われているが、それでもところどころ黒い土の出た線路ぎわなどに、早くも、蕗《ふき》のとうの白い花などが見られた。
ある日、雄一郎が帰ってくると、
「東京の尾形さんの未亡人が亡くなったそうだ……」
いきなり言った。
「尾形さんて……一昨年《おととし》おなくなりになった鉄道省の……?」
「うん、関根さんが尾形さんの遠い親戚《しんせき》なんだそうで、今朝、東京から知らせがあったらしい」
「じゃあ、奥さまもおなくなりになったんですか……」
有里は、尾形の死後、遺族たちが随分苦労しているという話を思い出した。昨年の令嬢の自殺未遂といい、今度の未亡人の死といい、一時は尾形家がかなり華やかな存在だっただけに、なんだか余計人の世のはかなさ哀れさを感じさせられるような気がした。
「心臓|麻痺《まひ》だったそうだよ……」
雄一郎もしんみりした口調で言った。
「もともと心臓は弱かったんだそうだが……湯上りにお嬢さんと話をしていて、急に倒れたんだそうだ……」
「そうすると、今度はお嬢さんがたったお一人になってしまったんですのね」
「そうなんだ、和子さんといってな、俺は前に一度逢ったことがあるが……ご両親に次々と逝《ゆ》かれて、気の毒だな……」
「これからどうなさるんでしょう……女ひとりで……」
「うん……」
雄一郎が眉《まゆ》を寄せた。
「姉さんはハワイへ行ったまま帰って来んし、面倒なことにならんといいがなあ……」
「え、面倒なことって……?」
「つまり、和子さんは今のところ、伊東さんを頼るしか方法がないと思うんだ」
「したら、伊東さんと尾形さんのお嬢さんが……?」
「まさか、そんなことは無いとは思うが、姉さんがハワイへ行ったやりかたは、伊東さんを捨てて行ったようなもんだものな……もうすぐ結婚するっていう時に、なんであんな馬鹿なことをしたんか……俺には姉さんの気持がわからん……」
「それはきっと何か理由があったんだと思うわ……でも、そういえば困ったことになったわねえ……」
突然の尾形未亡人の死が、遠いハワイのはる子の身にどのような影響を与えるか、有里には想像もつかなかった。
しかし、すくなくとも、伊東と和子を今よりも密接にする可能性はある。
伊東は恩人の娘に頼られればなかなか否とは言えまい。
伊東の誠実な人柄を知っているだけに、雄一郎と有里は、思わず、はる子の仕合せを神に祈らずにはいられなかった。
25
両親を失って、一人ぼっちになった尾形和子について、南部斉五郎夫婦は人知れず気をつかっていた。
無論、なくなった尾形夫婦にはそれぞれ兄弟もあり、孤児になった和子を引き取ってもよいという申し出もあったのだが、これは和子のほうからきっぱりと断ってしまった。
父の清隆が急死して、思いがけない多額の借財があることが知れたとき、それまで散々厄介になっておきながら、まるで手の平を返すように薄情な態度を見せた親類に対する、和子のせめてもの抵抗であった。
世の中のすべてに対して、かたくななほど用心深くなっている和子が、南部斉五郎にだけは心をひらいて、小父様、小父様と頼りにしてくる。
そんな和子がいじらしくて、いっそ引き取って暮そうかと思いながら、南部夫婦がためらっているのは、一つには尾形の親類に対しての遠慮と、もう一つはなくなった尾形清隆と、彼らが孫娘としてこれまで育てあげて来た三千代とのつながりの秘密の故であった。
この秘密は、ごく一部の者が知っているだけで長年の間隠されて来た。
三千代と南部夫婦とは実は血のつづきは無く、昔、事情があって引き取った尾形の隠し子のそのまた子供だったのである。
三千代は南部夫婦の温い手の中で育てられ、今日に至るまで、その出生の秘密は知らなかった。
しかし、和子はもしかしたらそのことを知っているかもしれない。なくなった尾形未亡人がその秘密を和子には明していたかもしれなかった。
南部斉五郎にしても節子にしても、和子には一日も早く良い配偶者を見つけてやることが一番だと考えるようになっていた。
「ねえ、どうなんでしょうね、伊東さんが和子さんと結婚してくれたら……」
或る晩、節子が遠慮勝ちに斉五郎にきり出した。
「もともと和子さんのほうは、死ぬほど伊東さんが好きだったんだし、それに、近頃は伊東さんもかなりマメに尾形さんのところへ行っているようですよ」
「うん、俺もそれを考えんでもないさ……しかし、それじゃ、はるちゃんがあんまり不愍《ふびん》だろ……」
「でも、はる子さんはハワイで亮介さんと結婚するんじゃないんですか……?」
「本当なのか、やっぱりその話……」
斉五郎は逆に節子にきいた。
「今日、白鳥舎のおきんさんから電話がかかって来ましてね……昨日、横浜へ着いたんですって……」
「ハワイから帰って来たんだな」
「むこうでは大病して散々だったけど、すっかり元気になったそうで、相変らずの若い声でしたよ」
「はるちゃん、一緒に帰って来なかったのか」
「それがね、はる子さんはハワイのお店に残ったんですって……」
「ハワイの店……?」
「ハワイに白鳥舎の支店を出したんですよ」
「じゃ、はるちゃんは日本へは帰らんのか」
「なんだかそんな話でしたよ、広川の亮介さんが相談役で、はる子さんが支配人ってことになってるんですって……それで、行く行くは亮介さんとはる子さんを一緒にして……」
「おきんが言っとったのか、二人を一緒にするって……」
「ええ、どうもそうなりそうだっていう話でしたよ……」
「そうか……」
やっぱり本当だったのか、と南部斉五郎は思った。
実は先日、尾形未亡人の四十九日の法事で伊東栄吉と逢《あ》ったときも、その話が出たのである。
伊東は帰国したらはる子とすぐ式を挙げるつもりであった。ヨーロッパへ行く前の約束を果すことを楽しみにしていた。
ところが、帰国してすぐ横浜へ駆けつけた伊東を迎えたのは、はる子がハワイへ行ってしまったという白鳥舎の店員たちのそっけない返事であった。
その間の事情は、南部未亡人がくわしく、はる子は和子の自殺を見て、自分から身を引く決心をしたのだという。前々から、白鳥舎の女主人の弟との縁談があったので、この機会にきっぱりと伊東との結婚を諦《あきら》めてハワイへ永住する決心をしたというのだった。
「未練がましいことは言いたくありませんが、正直な話、僕はなんだか、女というものが嫌になりそうです……」
伊東はその時南部に言った。
「親父さん、ひょっとすると、僕は一生結婚せんかもしれません……なんだかそんな気がするんです……」
「そんな馬鹿な……はるちゃんがそんなことをするものか……」
その時は一笑にふしたものの、もし節子の言うように、おきんが直接そう言ったというのなら、斉五郎もあらためて、そのことについて考え方を組み直さねばならなかった。
それは節子にしても、同じ考えだったらしく、
「今までは、はるちゃんのことがあったから、私も和子さんを可哀《かわい》そうだとは思いながら、どうしてあげようもなかったんですけど……もしはるちゃんがそんな具合なら、伊東さんと和子さんのことだって、あなた、望みなきにしもあらずなんじゃありませんか……」
と言った。
「あなたからも一遍、伊東さんに話してみてくださいよ、伊東さんだって知ってるんでしょう、伊東さんが欧州へ行っている最中に、和子さんが他の縁談を嫌って自殺しかけたってこと……可哀そうじゃありませんか、それほど思いつめてるっていうのに……」
節子は、あいつぐ不幸に同情してか、急に和子の味方になったような口ぶりだった。
「しかし、元はといえば、和子さんのその一件ではるちゃんはハワイへ行く気になったんだろ……恋をゆずる気になって……」
「そりゃそうですけど……そんなこといってたら、いつまでたっても堂々めぐりですよ、人間、思い切るところはきっぱり思い切らなけりゃあねえ……とにかく、若い娘をいつまでも一人にしておくことはいけませんよ」
「そうかもしれん……」
その点に関しては斉五郎も同感だった。
「三千代がいつも言ってますよ、和子さんつとめて明るく振舞ってはいるものの、やっぱり淋しそうだって……」
「三千代は和子さんとちょくちょく逢うのか」
「そうらしいですねえ、和子さんのお勤めしてる保育園のそばに、三千代の行っているレストランもあるらしいんですよ」
「大丈夫かな……」
「なにがです?」
「三千代をあんまり和子さんに近づけん方がいいんではないのかな」
「そりゃ、私も考えていますけど……でも、和子さん、知ってるんですか、三千代のあのこと……」
「どうかな、未亡人は知っとったが……」
「案外、お母さんから聞いていたかもしれませんね……でもね、和子さんは利口なお人だから、知ってても三千代に言うことはないと思いますよ」
「そう……俺もそう思う。しかし、和子さんの周囲の人間が危い……」
「他に誰か、三千代の秘密を知ってる人があるんですか?」
「ないとは言えんよ、尾形君は太っ腹な人物だったが、それだけに人を信用しすぎるうらみがあった……ま、とにかく用心しよう、せっかく今日が日まで、三千代になにも知らせず育てて来たんだ、知らせずにすむことなら、一生知らせんほうがいいのだ……」
「そうですねえ……」
節子も強く頷《うなず》いた。
しかし、南部夫婦が一生知らずにすむなら知らせずに、と願っていた三千代の素性がふとしたことから、明らさまになる日がそれから間もなく来てしまった。
それは、両国の川開きの夜であった。
三千代は尾形和子と伊東栄吉の三人づれで、大川端の料亭へ花火見物に行った。
「玉屋ア……鍵屋《かぎや》ア……」
のかけ声と共に、暗い空にたて続けに打ち上げられる色とりどりの閃光《せんこう》に、思わず息をつめて見守るうち、突然、隣りの席との境の衝立《ついたて》がこちらへ倒れて、それまで、かなり派手な悪ふざけをしていた芸者と客がこちらへなだれ込んで来た。
その客の顔を見たとたん、伊東と和子は顔を見合せた。
それは以前、尾形の秘書をしていた大原だった。又、芸者のほうは、いつか大原がそっと教えてくれた、尾形の隠し子で菊竜とかいう女である。
大原も菊竜もかなり酔っていた。
「なんだ、君か……」
彼もようやく周囲の人物が誰なのか判ったらしい。酔眼朦朧《すいがんもうろう》とした眼を伊東に向けた。
「こりゃあ、尾形さんのお嬢さん……」
「ごぶさたしております……」
和子は皮肉な調子で言った。
「こちらこそ……そうそう、奥さんが歿《な》くなられたそうですな、つい、忙しくておくやみにもうかがわず失礼しました……」
さすがに気がとがめたらしく、大原は遅ればせに頭を下げた。
「あら、この方が尾形さんのお嬢さん……?」
傍から菊竜が頓狂《とんきよう》な声を張り上げた。
和子に無遠慮な視線を走らせてから、
「どう、オーさん、あたしとこのお嬢さんと、どこか似ている……?」
「そうだな……そういえば、どこか似ているような、似てないような……」
「似てない筈はないでしょう、れっきとした姉妹ですものね」
「姉妹?」
和子が眉《まゆ》をひそめた。
「こら、菊竜ッ……」
あわてて大原が制したが、その時はすでに遅かった。かなり酒を飲んでいるらしい菊竜の眼がすわっていた。
「いいのよ、今更、姉妹のなんのと名乗って出て、手切金をもらおうというわけじゃなし……ただね、自分の父親がふしだらで生れた姉妹を、芸者はさも人間のくずみたいな眼つきで見てるのが気に入らないのさ、お嬢さんだろうと、芸者だろうと、元は一つの蔓《つる》から生れた唐茄子《とうなす》かぼちゃじゃないか……」
「やめなさいッ……」
伊東が呶鳴《どな》った。
「君は酔っているんだ、すこし向うへ行ってやすみたまえ……」
「あら、あんた……ずっと前、オーさんから尾形さんの娘を嫁にしてくれって頼まれていた人じゃないの……ねえ、オーさん、そうでしょう……」
「ああ、そうだよ……」
大原も度胸をすえたらしかった。
「結婚したの、このお二人……」
「いや……」
「そう……そうでしょうね、お父さんが鉄道省のおえらがたなら嫁にも貰おう、婿にもなろう……親が死んじまって、つながる縁で出世したくも出世できない……持参金もない……それじゃ今更、結婚したってはじまらないものねえ……」
「ま、そういうなよ……」
大原がにやにやしながら言った。
「そこまで言っちゃ可哀そうだ……」
相手が酔っているので、何を言われても我慢していた伊東もさすがに顔色を変えていた。
和子はうつむいて、じっと菊竜の辱《はずか》しめに耐えている。
事の一部始終を見ていた三千代は、その時たまりかねて腰を上げた。
「伊東さん、和子さん、参りましょう……こんな酔っ払いを相手にしてたってしようがないわ……さあ……」
「あんた、誰さ……」
菊竜が三千代の前に立ちふさがった。
「誰だっていいでしょう……大原さん、あなたも随分男らしくない人ですのね、あなたが何処《どこ》で、どんな恥しらずなことをなさろうと、私たちの知ったことじゃありません……けれど、この場所は私たちがお金を払って、花火をたのしみに来ている場所なんですよ。衝立一つでも隣りは隣りでしょう、もうすこし差別《けじめ》ということをお考えになったらいかがですか」
「なにイ……」
大原は眼をむいたが、酔っているので凄味《すごみ》はない。逆に三千代から、
「そういう人だから、大恩受けた尾形さんの奥さまがなくなられても、お線香一本たむけにも来ない……芸者さんに悪ふざけする暇はあっても、お墓まいりの暇はないんでしょ」
と決めつけられた。
「三千代さんお止しなさい、そんなこと言ったってわかるような相手じゃない……」
伊東が小声で言った。
「さ、行きましょう……」
「三千代……?」
伊東の言葉を小耳にはさんだ菊竜が、あらためて三千代の顔をしげしげと眺めた。
「三千代って……オーさん、この人なの、いつか話してた……尾形さんの友だちが貰《もら》って行ったっていう、尾形の孫に当る人……」
「尾形の孫……?」
三千代が眉《まゆ》をひそめた。
「私が……?」
「違うわ、違います……」
遮るように和子が叫んだ。
「大原さん、出鱈目《でたらめ》を言うのはお止しになって……」
「ほう……和子さん、あんたが顔色を変えたところをみると、さては、あんた知ってるんだね、この人が誰の子か……」
「私が誰の子かって……」
三千代は和子をふりかえった。
「それどういう意味なの、和子さん……」
「あんたじゃないわよ、あんたのおっ母さんよ」
菊竜がおかしそうに三千代の顔をのぞき込んだ。
「よせよ、菊竜……」
口では止めているくせに、大原も結構興味深げな顔つきで三千代を見ている。
「言わぬが花だよ、今更そんなことどうだっていいじゃないか」
「いいじゃないの、事実なんだもの……ね、三千代さん、教えてあげましょうか、あんたのおっ母さんの秘密……」
「菊竜さんッ……」
和子があわてて制したときはすでに遅く、
「あんたのおっ母さんはね、ずっと昔、尾形が若い時分に、同じ職場の若い女事務員に手をつけて生ませた子なのよ」
南部斉五郎が三千代のためを思い、長い間隠しつづけて来たことを、ほんの一瞬のうちに喋《しや》べってしまった。
「そんな……」
三千代の表情に、かすかな不安の影がさした。
「尾形はね、あんたが二つか三つになった頃、そこに居る和子さんのお母さんとの縁談がおこって、女と子供を捨てたのよ……女は子供を道連れに心中をはかったの……でもね、子供だけが生き残り、その子を南部さんとかいう尾形の友だちが引取って、北海道とかへ行ったんだそうよ……それがね、あんたのおっ母さん……だからね、歳はいくらも違わないけど、和子さんや私は、あんたの叔母さんってことになるのよ……」
「まさか、そんな……そんな馬鹿な……」
三千代は吐きだすように呟《つぶや》いた。しかし、心の動揺は覆うべくもない。
すがりつくような眼差しを和子に向けた。
「ね、和子さん、嘘《うそ》よね、嘘にきまっているわよね」
「ええ……」
頷《うなず》きながら、和子はふっと眼をそらした。
「和子さん……」
三千代は食い入るように和子をみつめた。
「三千代さん、あなたのお母さんは南部斉五郎さんの子だ、あなたは南部の親父さんの孫だ……そうにきまっているじゃないですか……こんな酔っ払いどもの言葉に耳を貸してはいけません……」
そんな伊東の忠告もまるで聞えないらしく、三千代は身じろぎもしなかった。
「ねえ、和子さん、本当なの……?」
「それはね……いろいろ事情があるらしいんだけど……」
和子の眼は、明かに狼狽《ろうばい》していた。
「やっぱり……本当なのね……」
咽喉《のど》にからんだような声で三千代が言った。
「みんな私に、嘘をついていたのね……」
顔をこわばらせて立ち上った。
「三千代さんッ……」
和子の声をふり切るように、三千代は走り去った。
その翌日から、三千代は南部斉五郎の家から姿を消した。
彼女がのこした書置きには、昨夜の事柄を述べ、最後に、決して不心得な真似《まね》はしないから心配しないでください、当分好きなように暮してみたいのです、気持が落着いたら必ず帰ります。とあった。
この手紙を見た南部斉五郎は、直ちに、八方手をつくして三千代の行方をたずねたが、何処《どこ》へ行ってしまったものか、その姿は杳《よう》として知れなかった。
26
昭和六年春。
有里は尾鷲の実家から、兄の勇介の結婚の知らせで、二度目の帰郷をすることになった。
勇介の結婚の相手は、村会議員浦辺友之助の娘幸子である。
今度は雄一郎の休暇がどうしてもとれず、有里一人が秀夫を連れて出掛けることになった。
最初から覚悟はして出発したものの、釧路から尾鷲への旅は長かった。
困ったのは、この前の里帰りの時は、車中で眠ってばかりいた秀夫が、なまじっかものが分りかけて来ているだけに、列車の中で少しもじっとしていないことであった。
知恵のつく盛りの年頃である、見るもの聞くものが珍しく、そのため、かなり興奮したのも又、止むを得ないことであった。
上野から東京駅へ行き、待望の特急列車『つばめ』に乗り継いで間もなく、有里は秀夫が急にぐったりしたのに気がついた。
額に手をあててみると、はっとするほどの熱である。
有里はうろたえた。
折りよく通りかかった車掌に事情を説明すると、
「そうですな……あと一時間ほどで静岡ですが……そうだ、少々お待ちください」
なにか心当りがあるらしく、大股《おおまた》に立ち去った。
間もなく、車掌は二名の医師を伴って帰って来た。
「こちらは小児科のお医者さんだそうです……あなた本当に運が良かったですよ、ちょうど大阪にお医者さんの学会がありましてね、この列車にはお医者さんが大勢乗っていらっしゃったんです」
「まあ、そうでしたの……」
有里はほっとした。
その間にも、二人の医師はてきぱきと秀夫の診察をつづけた。
「いかがでしょうか?」
「そう……だいじょうぶ、ご心配いりませんよ、きっとただの疲労ですな、悪性のものじゃないらしいです」
「ありがとうございました……ほんとにお蔭さまで……」
「じゃ、すぐ薬を届けますが、しばらく様子をみましょう……なにかあったら、この二つ先の客車《はこ》ですから、声をかけてください。もう三十分もしたら、もう一度診に来ます……」
二人の医師は去った。
走行中の列車の中で、一時はどうなることかと思った有里も、これでようやく胸をなでおろした。
それにしても、学会へ出席する医師が大勢乗車していたことは幸運だったが、それを咄嗟《とつさ》に思い出して、機敏な処置をとってくれた車掌には、それこそいくら礼を言っても言い足りぬ気持だった。
有里はすぐ夫のことを思い出した。
夫が同じ車掌という職業にあることが、なんだか嬉しく、誇らしい気持でさえあった。
医師から貰《もら》った薬をのませ、一時間もすると、秀夫の熱は嘘のように下ってくれた。名古屋までを、ぐっすり睡《ねむ》った秀夫は眼が覚めたとき、すっかりいつもの腕白坊主《わんぱくぼうず》に戻っていた。
名古屋で下車する有里たち母子に、親切な医者のグループは窓から手を振って別れを告げた。
そこから亀山へ、亀山から鳥羽へと秀夫は元気よく旅を続けた。
なつかしい尾鷲の港へ到着したのは、翌日の朝であった。
尾鷲の実家へ落着いて、有里は兄の勇介が今度の自分の結婚を、きわめてつつましく行なおうとしていることにすぐ気がついた。
披露宴もごく内輪にと考えているらしく、次々にやってくる祝い客にも、叮嚀《ていねい》に挨拶《あいさつ》して祝いものを辞退してしまう。そんな兄の姿に、有里はふと眼頭を熱くした。
妹二人を嫁がせるまでは、辛《かろう》じて保っていた中里家の体面を、今、かなぐり捨てようとしている兄の姿勢に、母にも妹たちにも知らせず、たった一人、中里家のたて直しに苦闘して来た男のかなしみがこもっているようであった。
しかし、こうした勇介のやり方に弘子は真向から反対した。
「とにかく、中里家の長男として、あんまりみっともないことはせんどいて欲しいわ、うちの人にだって、恥しゅうて顔もよう見られんわ……」
勇介がまるで取りあわないと知ると、今度は母のみちに訴えた。
「ねえ、お母はん……お母はんから兄さんによう言うて欲しいねん、たまさかに家へ帰って、実家の貧乏たらしいの見せつけられるのはほんまにかなわんわ……」
「そないなこと言うたかて、あんたを嫁に出したのが精一杯のところやったでなあ……勇介かて、なにも好きこのんで質素な式をあげるわけやないで……」
最近ようやく家の内情がわかりかけてきたみちとしては、弘子の言葉にもすぐは頷《うなず》かなかった。
「そやかて、お母はん、家が左前の時ほど、こういうことは派手にするもんよ、けちなことしとったら、家が潰《つぶ》れかけているのを、世間に対して自分の口から吹聴してるようなもんやないか」
「そらまあそうやけども……」
「でもねえお姉さん……お姉さんの言うのもよくわかりますけど……兄さんかていろいろ考えたすえ、ようやく結婚に踏み切ったんよ。今度は兄さんの思い通りにさせてあげたほうがいいと思うけど……なまじっか口出ししても、兄さんには何んのお役にも立たんのやし……」
有里は自分の気持を正直に言った。
弘子はそれを聞くと、明らかに軽蔑《けいべつ》の色をその表情に浮かべた。
「そら、あんたはもともと貧乏鉄道員の家へ嫁入ったのやさかい、見栄も体裁もあろう筈はないけど、うちらはそうは行かへん……うちかてあの人の手前、きまりが悪いわ。仮にも浦辺はんとこの幸子はんと結婚するいうのに、内輪だけなんて、そんなみっともない……」
(みっともない……?)
有里は唖然《あぜん》とした。
姉の気持がわからぬではなかったが、それとは別に、有里には、結婚して夫婦でありながら、お互いに見栄や体裁をそれほど重く考えねばならない姉の立場が気の毒でならなかった。
嫁に行った先で、弘子がどれほど背のびして暮しているかが眼に見えるようだった。
(私はそれにくらべれば、貧乏こそしているが仕合せだ……)
と、ふと思う。
貧乏世帯のやりくりは、毎日毎日が精一杯で、見栄も外聞もあったものではない。
結婚の夜、夫婦の間で隠し事はよそうな、と誓ってくれた夫の顔を、有里は今更のように懐しく思い出していた。
中里勇介の結婚は、彼の意志通り、尾鷲一の旧家にしては異例なほど、つつましく、内輪に行なわれた。
披露の終った翌日から、嫁の幸子は台所へ下りて甲斐甲斐《かいがい》しく働いていたし、勇介も普段とまったく変りなく仕事をはじめている。
大阪からやって来た弘子夫婦は、早々に帰って行ったし、有里も釧路へ帰る仕度をはじめた。
「なにも大阪が帰ったかて、お前までがそないに慌《あわ》てて帰らんでもええやないか……この前の時は、雄一郎はんの休みが少なかったさかい、ろくな話も出来んかったし……」
みちがいくら引き止めても、有里は、
「どうしても留守が気になって……だって一人っきりで置いてきてしまったんですもん」
滞在期間を延ばすことに同意しなかった。
「そやかて、お隣りが親切にしてくれているちゅう話やったやないか……三度の食事はそのお方たちがやってくださるから、心配せんでええって……」
「そりゃ、そうなんですけどね……やっぱり……」
「遠い所をわざわざ来たんやし、今度は又、いつ帰って来れるかわからんのやろ……」
「ええ……」
「それやったら、せめて二、三日……お前と秀夫と三人して、勝浦の温泉でも行こう思って楽しみにしてたんやし……」
「そんなこといったって……兄さん達が新婚旅行にも行かずにけっぱってなさるのに……」
「なんやね、その……けっぱるちゅうのん……」
「あら……」
有里は思わず笑いだした。
「いやだ、ついうっかり……けっぱるっていうのはね、北海道の言葉なのよ……頑張《がんば》るっていうような意味で使うの……」
「ほう……お前も嫁に行った先の言葉が出るようになれば、一人前や……」
みちは嬉しそうに眼を細めた。
いくら反対した結婚でも、娘が嫁入り先にどっかりと腰をすえてくれたほうが、母親としては安心なのである。
翌日、有里は秀夫を連れ、みちと勇介夫婦に見送られて尾鷲を発った。
27
有里と秀夫が尾鷲から戻り、親子三人の平穏な日々が続くかに見えた雄一郎にとって、この年、昭和六年五月の減俸騒動は、まさに青天の霹靂《へきれき》にも似ていた。
減俸騒動というのは、時の若槻《わかつき》内閣が官吏たちの給料を値下げすることで、国の赤字財政から約一千万円を浮かそうとしたのに対し、鉄道員たちが団結して反対したことをいう。
新聞の発表によると、まず内閣総理大臣は年俸一万二千円を一万円に引下げ、各省大臣は八千円を七千円、枢密院議長の七千五百円を六千五百円、局長クラス五千二百円を四千五百円などからはじまって、下は月給百六十円のものなら百五十円、百円の者なら九十五円というように、月給五十五円の者まで四分から二分の切り下げを行なうものであった。
鉄道員には月給百円以下の下級官吏が非常に多い、現場で働いている人間の大半がそうであった。月給五十五円で親子五人暮しなども珍しくない、ただでさえ軽い財布から五円もさし引かれるとあって、大さわぎになりだした。
減俸反対の運動は、たちまち全国の鉄道員の間にひろがり、もし月給を下げたら辞職するということで、北海道の雄一郎や良平までが辞職願いを書いて上司に預けた。
有里や千枝たち、鉄道員の妻たちの不安は大変なものだった。夫は勝手に辞職だ退職だと騒いでいるが、もし本当に辞職するようなことになったら、すぐ生活に影響する。おまけに、各地で警官の干渉がはじまり、検挙者もかなり出たらしいという噂《うわさ》もあった。
しかし、結局大事には至らず、五月十九日に始った減俸騒動は、二十一万六千人の鉄道員総辞職という危機をはらんで、遂に二十五日夜、鉄道大臣江木|翼《たすく》と、四人の鉄道側を代表する統制委員の間で、最終的な妥協案にこぎつけた。
それは、退職金は従来通り、諸給与も減額しない、積極的な人員整理もしないなどで、平山孝、江口|胤顕《たねあき》、片岡|謌郎《うたお》、河崎精一ら統制委員は、これに、百円以下は減俸しないことをつけ加えて、減俸運動、同盟罷業はとり止めることを約束したのだった。
雄一郎や良平たちはもとより、一番ほっとしたのは有里や千枝たちだった。
この年の九月一日に、清水トンネルの工事が完成し、上越線が全通するという明るいニュースがあった。
同じ九月十日には、春の減俸騒動で疲れきった、鉄道大臣江木翼が退職し、拓務大臣の原脩次郎が後任にきまった。
そして九月十九日、号外の鈴の音は、満州で日本と中国の軍隊が激突し、戦闘が開始されたことを告げた。
いよいよ日本が、あの果てし無い戦争の泥沼の中にはまり込んでいく序曲がはじまったのである。
しかし、そうはいっても、日本の国内はまだまだ平和そのものだった。
そんな頃の或る日、庭で有里が着物の洗い張りをしているところへ、大きな鞄《かばん》を下げた尾鷲のみちがひょっこり顔を見せた。
「あら、お母さん……」
あまり突然なので、すぐには声も出なかった。それでも、ようやく、
「電報うってくれれば迎えに行ったのに……いったいどうしたん……?」
と言った。
「それがな……ちょっとあんたや秀夫の顔が見とうなったんや……」
「だって、あんまり急でないの……」
「う、うん……それはそうやが……」
みちはどういうわけか、そわそわしていた。
「北海道は二度目やさかい、案外すらすらと来てしもうたんや……雄一郎はんは……?」
庭先から部屋の中をのぞいた。
「勤務中よ、まあ、上って……さあ……」
有里はみちの荷物を取り上げて、家の中へ早く上るよう促した。
「へえ……これが鉄道員さんの官舎かね、まるで昔の三軒長屋やないか」
「見かけよりはずっと住み心持がいいのよ、小ぢんまりとよくまとまっているから……」
「そうかのう……なんやこう猫の額みたようにせせこましい気イがするが……」
「尾鷲の家が広すぎるのよ、兄さんたち変りない?」
「ああ……」
みちの返事がちょっと曖昧《あいまい》だった。すぐ話をそらすかのように、
「秀夫は?」
と逆にきいた。
「お隣りの子供さんと近所へ遊びに行ってるの」
「そんなことさせて、大丈夫かいな、一人で外へ手放すなんて……」
「大丈夫……大きい人がついてるし、あの子、用心深くて危いことはしないほうなの……幸子さんどう、もうすっかり馴《な》れたでしょうね……そうそう、もう幸子さんでなくお姉さんと呼ばなくてはね……」
「あんた、この頃、浦辺はんとこの公一はんに逢《お》うたか?」
「いいえ、だって札幌と釧路ですもの……公一さん、大学へ残って勉強してなさるそうよ、獣医さんになるんですって……」
「はあ……」
有里は、今度も母が話題を変えたことに気がついていた。
(きっと尾鷲の家で何かあったんだわ……)
すぐそう感じたが、それは表情には出さなかった。
「でもまあ、ほんとにいい時に来て下さったわ、北海道はこれからがいいのよ、紅葉がまっ赤で……それでいて寒くもなし、暑くもなし……この前来たのは何月だったかしら……」
「あれは……十一月の末やったな……」
「今度は何日ぐらい泊っていけるの」
「そう……何日ぐらいちゅうてもなあ……」
「折角遠いところを来たのだから、ゆっくりしていらっしゃいよ、どっちみち、ご隠居さんで暇なんでしょう」
「別に、暇っちゅうこともないけど……」
そういいながら、みちはどっこいしょと立ち上り、有里が放り出しておいた襷《たすき》を取っていきなり庭へ出た。
「ここにあるの、はり板へはってもええのやろ」
「ええ、でもいいのよ、お母さんは疲れているんだから、ゆっくり休んでいて……」
「なに、どうせ手があいているんやから……」
みちはさっさと布をはり板へ張りはじめた。
「これ、あんたの袷《あわせ》やったなあ、縫い直しかの?」
「ええ、あんまりよく着たもんだから、少し膝《ひざ》が出てしまってね」
「ほう、こらえらいわ、こんなになる前に洗い張りせなあかんよ」
「ええ……」
有里はあっけにとられてみちの仕事ぶりを眺めていた。
普段、こんなことは女中にまかせ、自分ではめったにやったことがない。何故そうするのか、有里は首をかしげた。
翌朝も、六時起きで、みちは外の道の掃除をはじめた。尾鷲では、割合寝坊の方なのである。
しかし、掃除どころか、その次は、みちは雄一郎の靴を磨きはじめた。
有里も雄一郎もそのことに気がつかなかったが、ちょうどそこへ、隣りの岡井よし子が醤油《しようゆ》を借りに来て、玄関先で大声を張り上げた。
「あれ、あれ……室伏さん、駄目だねえ、遠いところからはるばるみえたというお母さんに掃除だの靴磨きなんどさせてえ……親にこんなことさせたら罰が当るよう……」
岡井夫人には、今朝家の前で有里がみちを紹介してあった。
「そんでも、まあ、よく気のつきなさるお母さんだこと……」
よし子はひどく感心している。
みちのほうがかえって照れて、
「いえ、ちょっと運動せんと、御膳《ごぜん》がよう頂けんでのう……」
と弁解した。
いずれにしても、このみちの働きぶりは少し異常だった。
だが、その理由もやがて判った。
尾鷲の中里勇介から速達が来たのである。
それによると、みちは嫁の幸子と近頃折合が悪く、その日も無断で家を出てしまったのだそうだ。どうせ行先は釧路と見当をつけているが、もしそちらに行っていたら、なんとかうまくこちらへ戻るよう説得して欲しいと書いてあった。
その話を有里から聞いた雄一郎は、
「なにしろ、嫁と姑《しゆうとめ》の関係っていうものはむずかしいもんだそうだからな……」
もて余したような苦笑を浮かべた。
「直接のきっかけは、兄が中里家の経済を母から取り上げて、幸子さんにまかせようとしたことらしいんです……兄にしてみれば、結婚してもまだ母に財布を握られていては、なにかとやりにくいのだろうし、逆に母としてみれば二人に邪魔にされたと感じてしまったらしいのね……」
「なるほど……それでか……」
彼にもみちの不可解な行動の意味がのみこめたらしかった。
「だけど、兄も幸子さんも、母が家を出てしまったことをとても苦にしているらしいのよ……それにね、母ったら、中里家の実印を持ち出しているらしいの……」
「実印……?」
「ええ……」
「そりゃあ、実印がなくては、兄さん困っとられるだろう……」
「やっぱり私から母に、帰るように言ったほうがいいかしら……」
「しかしなあ……」
雄一郎は眉《まゆ》を寄せた。
「うっかりお母さんが臍《へそ》を曲げて、この家から他所《よそ》へとび出されては俺たちも困るし、そのまま尾鷲へ帰るかどうかもわからんじゃないか……」
「それが一番心配なの……母にも体面というものがあるだろうと思うしねえ……かといって、いつまでも家に居られても困るのよ」
「俺はかまわんよ、気持が落着くまで、もう少しそっとしておいてあげたらどうなんだ」
「でも、母ったらあなたの身の回りのこと、世話をやきすぎるのよ、私のすること、みんなしてしまうんですもの……あなただって、母とばかり喋《しやべ》っていて、近頃、私には知らん顔でしょう」
「馬鹿、お前のお袋さんだから、なるたけ話相手になってるんだぞ、それを文句言われちゃ立つ瀬がないぞ」
「あら……」
有里がやっと気がついたらしく首をすくめた。
「馬鹿……お袋さんを妬《や》くやつがあるか」
雄一郎に笑われて、有里は頬《ほお》を染めた。
28
せまい家の中で、有里は母と夫との間で、なにかと気をつかうことが多くなった。
雄一郎が寛大であるだけに、いつもそれに甘えていることが辛かった。
有里は今更のように、自分が嫁いで来た時、はる子のとった行動について思い浮かべた。
しかし、母とはる子では年齢も立場も違う。母のみちに、はる子のような身の処し方を望むのは無理だとわかっていた。
みちが同居するようになって一番困ったのは、秀夫が目にみえて甘ったれになって来たことであった。
有里が叱《しか》ると、そのそばからみちが庇《かば》う。それに馴《な》れて、秀夫はなにかというと祖母のうしろへかくれて、親たちの小言を避ける知恵がついてしまった。
夜もみちは、秀夫と同じ部屋で寝るようになった。
雄一郎の勤務が不規則で、夜中に帰ったり、明方に出て行ったりが多いので、秀夫と同じ部屋では眠れないだろうということや、親が夜中に帰って来てがさがさしては、秀夫が目を覚して可哀《かわい》そうだというみちの主張なのである。
有里は、家の中に一日一日と、母の意志が大きく根をはって行くのに気がついた。
北海道ではどこの家にも、庭にナナカマドを植えてあることが多い。
ナナカマドとは、あの樹がとても火に強く、七度|竈《かまど》に入れても燃えないというところからそう名づけられたのだという。火に強いので、火事よけに庭に植えるのだともいわれる。
その、ナナカマドの実が真赤《まつか》に色づく頃、或る日、有里は買物の帰りに、隣の岡井夫人からみちのことで嫌味を言われた。
「ちょっと、室伏さん……あんたもまあ随分と水くさい人だねえ……」
普段、めったなことでは怒った顔を見せないよし子が、このときばかりは表情をこわばらせていた。
「はア……?」
有里にはなんのことやらさっぱりわからない。狐《きつね》につままれたような顔をしていると、
「そりゃあね、うちのサブが秀ちゃんの頭に瘤《こぶ》をつくったのは悪いだろうがサ……なんも、子供の喧嘩《けんか》に親が出ることはないだろう」
よし子は一気にまくし立てた。
「子供の喧嘩に親が……いったい何んの事でしょう……」
「ふん、とぼけるのもいい加減にしておくれよ、学校へ行って、なんも先生にまで告げ口することはないだベサ……サブが悪いなら悪いと、なんで私に言ってくれないのさ」
「先生に告げ口ですか?」
「そうさ、おまけにサブをつかまえて、秀坊に謝れって……なんも子供のちょっとした喧嘩じゃないかサ、そんなひどいことせんでもええでないの」
「いったい、誰がそんなひどいことを……」
「あんたとこのお母さんだよ。私も長いこといろんな人と隣合せに住んだがね、子供のことで呶鳴《どな》り込まれたんは、これが初めてだよ」
「母がそんなことを……」
有里はようやく思い当った。
先日、秀夫が外から泣かされて帰って来たのを、みちがひどく憤慨していた。きっとそのことが腹に据《す》えかねて、学校へまで言いつけに行ったのだろう。
岡井家には普段からいろいろ世話になっているだけに、母の仕打ちが恨めしかった。
「なにしろ、同じ鉄道で働いてるんだから、こっちは親類も同様だと思ってるのに、こんなひどい事されて……私はほんとに口惜《くや》しくって口惜しくって……」
「岡井さん……」
どう謝ったらいいのかわからず、有里はよし子の見幕にただおろおろするばかりだった。
「とにかくね、今後、あんたとことは一切つき合わんでね……旦那さんにもそう言っといてちょうだいや」
よし子は投げつけるように言って、そのままどんどん行ってしまった。
その晩、有里はみちにそれとなく、近所づき合いを注意してくれるように話してみた。
むろん、雄一郎に相談してのことである。
「なんや、それやったら、私のやり方があかん言うのかいな」
みちは不満そうに言った。
「先生も言うてなすったえ、あのサブって子は、乱暴なんやと……」
「そんなことありませんよ。そりゃ、男の子だから少しは乱暴かもしれないけど、よく秀夫を遊ばしてくれるし……」
「お前は知らんのや、あの子はそれは蔭ひなたがあるんやで……親の見とる前では秀夫をちやほやして、見とらん隙《すき》にいじめるんや、秀がそう言うとったわ」
「あてになりませんよ、秀夫の言うことなど……とにかく、私になんの相談もなく、勝手なことをするのだけはやめて下さい、迷惑だわ」
有里はめずらしく強い調子できめつけた。
「有里ッ」
みちがこわい顔で坐《すわ》り直した。
「あんた、親に向って迷惑とはなんやね、迷惑とは……」
「まあ、お母さん、待って下さい……有里もつい言葉のはずみで言ったことだし……」
雄一郎があわてて口をはさんだ。
「別に差し出たことしとうてしたわけやないのや、秀夫が頭に瘤《こぶ》までつくられて、黙って居れますかいな」
「お母さん、僕たちは秀夫をたくましい子に育てたいと思っているのですよ、少々の瘤くらいで騒がんほうがかえってあの子の為なんですよ」
「少々の瘤ですんだからいいようなものの、もし、命にかかわる大|怪我《けが》だったらどないするのや、そうなってしまってからでは遅いのや……」
「そりゃ、まあ、そうですが……」
「そら、男の子はたくましゅう育てるのがよろし、けど、それはもっと大きゅうなってから、あんじょう鍛えたらよろしいがな、三つ四つの子オはまだ親が注意してやらなんだら、とんだことになりますがな」
「でもね、お母さん、隣近所には隣近所としてのおつき合いの仕方ってものがあるんですよ」
有里がたまりかねて言った。
「そやかて、別に、うちとこが悪いことしたわけやないで……」
「そんな単純なものじゃありませんよ、その調子だから、幸子お姉さんともうまく行かないんです……」
「有里、あんた嫁の味方して、わたしを悪者にする気かいな」
みちの眉《まゆ》がぴくりと動いた。
「わかった、ようわかりました……あんたら、私が邪魔になったんやね、そいで、なんやかんや言うて、私を追い出そうとするのやな」
「お母さん……」
有里は雄一郎と顔を見合せた。
「違いますよ、なにもそんなつもりで……」
立ちかけるみちを、雄一郎はあわてて止めた。
「邪魔やったら邪魔とはっきり言うたらいいのや、うち、なんぼでも出て行くさかいな」
「そんな必要はありませんよ、僕たちいつまでもお母さんに居て頂いてもかまわないんですよ」
むずがる子をなだめるような具合で、雄一郎も有里も逆にみちの機嫌をとるのに苦心する始末となってしまった。
みちが釧路へやって来て、かれこれ一か月にもなった。
尾鷲の勇介からは、その後もしばしば、なんとかなだめて帰らせてくれるようにと言ってくるし、雄一郎夫婦にしても、なんとかそうしたいと考えていたが、肝心のみちが釧路にでんと腰を落つけてしまって、どうすることも出来なかった。
長男の嫁が来てからめっきりひがみっぽくなっているので、下手に話をすれば、すぐ、邪魔なら出て行くと血相を変えるので始末が悪い。
おまけに、性来気が強いのと、孫の秀夫を溺愛《できあい》するあまり、隣近所とのトラブルが絶えなかった。
岡井よし子のところとは、雄一郎夫婦が交替で謝りに行って、どうにか納得してもらったものの、今だに、岡井よし子とみちは表で顔を合せても、つんとそっぽを向く有様であった。
みちが騒動を捲《ま》き起したのは、なにも岡井家ばかりではなかった。
或る日有里は、たった二日のことだからとつい気易く考えて、秀夫を母に預け、小樽の岡本良平と千枝を久しぶりにたずねた。
ところが、その二日の留守の間に、釧路ではまたまた大変な騒ぎが起っていた。
事の起りは、みちが秀夫を遊ばせていて、裏の洗濯物干場で鬼ごっこの相手をしてやったことである。
この物干場は、官舎ずまいの三軒が共同で使っているもので、その日は左隣の桜川家の洗濯物がいっぱい干されていた。
その間を、みちと秀夫が走り回っているあいだに、うっかり秀夫の体が洗濯物にふれ、竿《さお》が地面に落ちたために、折角の洗濯物が泥で汚れた。
みちがあわてて洗濯物を拾い上げているところへ、折悪しく桜川夫人が通りかかった。
「まあまあ、なんでしょう……」
民子が甲高《かんだか》い声を張り上げた。
「洗濯物干場で、子供を遊ばせてよろしいかどうか、いい年をして御存知ないんですかね」
彼女はどうもみちとは性格的にそりが合わないらしく、いままでにも、何度か感情的に対立したことがあった。その鬱憤《うつぷん》がここで爆発したのである。
しかし、面白くないと思っている点では、みちも同様であった。
「そやさかい、洗い直しさしてもらいますがな」
みちの表情には、明らさまな敵意がこめられていた。
「洗い直せば文句はおまへんのやろ」
「私は癇性《かんしよう》ですから、他人様に洗いものをいじられるのは真っ平ですわね」
「それじゃ、どないしたらよろしゅうございますねん、たかが子供のしたことで、そないめくじら立てんでもよろしいやおまへんか」
「あなたはね、子供が子供がとおっしゃるが、大体、秀夫ちゃん、このところ悪さがすぎますわね……お年寄がおいでになる前は、ききわけのいい子でしたがねえ」
「そやったら、なんですか、私が来てから秀夫が悪うなったとおいいやすんかいな」
「昔から申しますですね、年寄っ子は百文の損……それだけ人間の値打ちが下りますそうですね」
「阿呆《あほ》らしい……」
みちもけっして負けてはいない。まともに民子をにらみつけ、かえって落つきはらった声で言った。
「子供も産めんようなお人に、なんで子供のことがわかりますかいな、学校の先生しとられたそうやけど、あんたはんのような先生に教えられた子オはほんまに気の毒なことや」
「な、なんですって……」
民子の頬《ほお》がひきつった。
「あなた、私を侮辱なさいますか」
「いいえ、とんでもないことだす、うちでも子供はみんな大阪や京都のええ学校を出さしてもろてますけど、あんたはんのような、けったいな先生に逢うたのんは初めてやさかいな……」
「まあッ……なんでございますって、あなた……失礼な……」
桜川夫人は怒りのために口もきけなかった。それを小気味よさそうに横眼で眺めながら、みちは更に重ねた。
「失礼なんは、そっちやおまへんか、人の孫をつかまえて、年寄っ子は百文の損やなどと……大きなお世話や、憚《はばか》りながら尾鷲の中里いうたら、昔っからの名家だす……先祖は後鳥羽天皇様が熊野へ行幸あそばされたみぎり、ご先導を承った由緒ある家柄や、ここらあたりに住む人とはわけが違いますよってに……」
しかし、民子もなかなか負けてはいない。
「へえ、それほどのお家柄の末が、なんで亦、こんな貧乏鉄道員の嫁においでですの、なんで、娘さんのところでいつまでもお母さんが居候しておいでなさいますの?」
これにはみちも、ちょっと急所をつかれた形となった。
「……とにかく、汚れものは洗い直しさせてもらいますよってに……」
民子の手から洗濯物を取ろうとした。
「要らんこと、せんでください」
民子は取られまいとする。
「そやかて、汚れたもんは洗わしてもらいますがなッ」
「いいえ、結構です」
二人がしばらく揉《も》み合ううち、突然、大きな音をたてて布が破れた。
「あッ……」
みちが手を放したときはすでに遅かった。
桜川家の主人のワイシャツは、裾《すそ》から背中にかけて、ほぼ真っ二つに裂けてしまっていた。
29
有里はこの事件を、小樽から戻った翌日知った。
みちは例によって、
「そら、たしかに洗濯物を落したんは悪いかもしれん、けど、なにもわざとしたわけやなし、小さな子供のそそうやないの、それをねちねちといやらしい……こっちは洗い直しさせてもらいますと、詫びているのに、ほんまに好かん……」
被害者はむしろ自分だと言いたげな口ぶりである。
「そりゃあねえ、お母さんは好かんですむかもしれないけれど、私たちは隣りに住んでいるんですからね……」
そんな有里の言葉には耳もかさず、
「かまへん、顔合せたら、そっぽ向いとればええやないか、あんたかてちっともびくびくすることあらへん、こっちが間違ごうとるんやないさかいにな、そうやろ……」
と、まるで強気だった。
結局、いつでも詫《わ》びて回るのは有里の役目である。
困ったことだとは思いながら、やはり血の続いた仲であってみれば、つい人情で母親をかばってしまう。
桜川夫人からは、子供の教育に悪いとはっきり言われるし、有里は途方にくれてしまった。
といって、この年老いて愚痴《ぐち》っぽくなっている母を、素気《そつけ》なく尾鷲へ追い返すのも本意ではなかった。
それから二、三日たったある晩、なんだか秀夫が元気がないようなので、額にさわってみたが別段熱もない。はなも咳《せき》も出ていないので、昼間の遊び疲れかなにかだろうと気楽に考えていたら、
「どないしたん、秀夫……」
早速、みちが騒ぎだした。
「なんだか元気がないんだけど……別に熱もないようだから……」
「いいや、子供の病気は気イつけなあかん、勝負が早いよってな……」
おぶって寝かそうとしている有里の背中から無理に秀夫をおろして、額にさわったり、口をあけさせたりしている。
「だいじょうぶよ、お母さん……」
「こりゃ一遍お医者さんへ連れて行ったほうがいいかもしれんよ」
「でも、熱もないのに……」
有里は心中おだやかでないものを感じていた。夫とも相談して、秀夫をなるべくたくましく育てたいと思っていたし、このところ、みちのお蔭で、秀夫が少し我儘《わがまま》になっていると他人から指摘され、有里もそう考えていたからである。
「子供の病気は熱がのうても油断はできん……どうも様子がおかしいで……」
みちがそういうと、すぐそれにつられて、秀夫がメソメソしはじめた。
「いつもの我儘ですよ、睡《ねむ》くなると愚図るのよ」
「いいや……有里、ちょっと秀夫を私におぶわせてんか……」
「お母さん……」
「早よせんか……」
みちはさっさと秀夫を背負うと、
「ほなら、ちょっと行ってくるわ……」
そそくさと外へ出て行ってしまった。
このところ毎度のことながら、有里は主婦の座を母に侵害されたような気がして不愉快だった。
(やっぱり尾鷲へ帰ってもらおう……)
有里はやっと心を決めた。
ところが、それから約一時間ほどして隣りの桜川家へかかって来たみちの電話で、そんな決心はたちまち影も形も残さず吹っ飛んでしまった。
「有里、大変やッ、秀夫はひょっとすると疫痢《えきり》やて……」
「えッ、疫痢……」
「とにかく、すぐ来てんか……もし雄一郎はんに連絡つくようやったら連絡してな、駅前の木下病院やさかい、早く……」
「は、はいッ……」
有里は驚きのあまり、声も出なかった。
疫痢の恐しさは、有里も充分すぎるほど知っている。この付近でも、夏になると何人もの幼い命が疫痢によって奪われていた。
この病気にかかると、昼間ぴんぴんしていた子供が夕方ごろから様子がおかしくなり、その晩息を引きとるといったことが稀《まれ》ではないと聞いている。
有里は眼の前が急に暗くなるような気がした。
みちは桜川家とのいきさつなど考える隙《ひま》もなく、電話をかけてきたのであろう。
有里は詰所に雄一郎の連絡を頼んで、取るものも取りあえず木下病院へ駆けつけた。
医者は、疫痢は伝染病だから避病院へ移さなくてはと言った。むろん、秀夫は重態である。
「移せるんですか、こんな状態で……移しても大丈夫なんですか……?」
「さあ、それは問題じゃが……」
医者は言葉をにごした。
すると、有里より先にみちが横から飛び出して、医者の白衣にしがみついた。
「先生、お願いです、避病院などに移さんでください……あんな容態のもん、避病院へ移したら助るもんも助りやしまへん、先生、助けておくれやす……どうか、秀夫を助けておくれやす……」
恥も外聞もない、一途なみちの頼みに医師も心を動かされたらしい、結局、秀夫は大腸カタルの名目で、そのまま木下病院に入院した。
駅からの連絡で、雄一郎が木下病院に駆けつけたときは、そうした手続きの一切がすんだあとであった。
しかし、秀夫の容態はきわめて悪く、ずっと昏睡《こんすい》状態が続いた。みちも有里も、病室に泊り込んだ。雄一郎は一日だけ、乗務を交替してもらった。
二日目の夜、みちは雄一郎夫婦を廊下へ連れだした。
「あんたら、これから家へ帰りなさい、明日おつとめがあるさかい、そう幾晩も病院で徹夜したらあかん、あとは私が責任もって看病するさかい」
と、みちは言った。
「大丈夫ですよ、一晩や二晩の徹夜くらいなんでもありません、なれてますから……」
「あきまへん……」
みちはきっぱりと言った。
「あんた、鉄道員やおへんか、鉄道員いうたら、人様の大事な命を預かる大事な仕事や……人間はなま身やさかい、一晩でも寝なんだら、それだけ神経も疲れる、無理をして万が一のことがあったらどないするねん」
「お母さん……」
雄一郎は返す言葉がなかった。
「有里、あんたもや、秀夫のことは私がついとる、年はとっても三人の子を育てたんや、看病やったらお前なんぞにひけはとらん……それより、雄一郎はんにあったかい味噌汁《みそしる》でも飲ませて、元気よう送り出してやりい、それがあんたのおつとめやで……」
「でも……」
有里はさすがにためらった。
「心配せんでもええ、うちが命にかえても、秀夫は殺さへんッ……」
「お母さん……」
ちょうどその場へ来あわせた医者も、
「あんたら、お母さんの言う通りじゃ、何人ついとっても駄目なもんは駄目、助るもんは助る……あとは子供の生命力だけじゃ……さいわい手当が早かったで、もうめったなことは起らんじゃろう。それよりも、ゆっくり休んでお母さんと交替してあげなさい」
と自分の考えをのべた。
雄一郎と有里は、ひとまず家へ帰ることにした。が、有里はどうしても落つかない。秀夫のそばに居て、何もすることが無くても、やはりわが子の枕許《まくらもと》に坐《すわ》っていたかった。
夫の許しを得て、有里は再び病院へとってかえした。
秀夫の病室の前まで来て、有里はハッとした。部屋の中から、低くお題目を唱える声が聞えたからである。
有里はドアを細目にあけて、そっと中をのぞいた。
「どうか……どうか、お願い申します……婆アの命は只今《ただいま》すぐにでも差上げます、ですからどうか秀夫ばかりは……秀夫の命ばかりはお助けください……南無妙法蓮華経《なんみようほうれんげきよう》、南無妙法蓮華経……」
みちが両手を合せ、眼をつぶって一心不乱に祈る姿が見えた。有里にのぞかれていることも、みちはまるで気づかなかった。たぶん、有里が大きな物音をたてたとしても、みちには聞えなかったことであろう。それほど心をこめて、みちは秀夫の病気平癒を神に祈りつづけていた。
そうしたみちの心が神に通じたものか、一時は医者も匙《さじ》を投げた秀夫の容態が、三日目の夜、奇蹟的にもちなおし、秀夫はようやく昏睡《こんすい》からさめた。
「こりゃア助かるかもしれん……」
気安めでなく、はじめて医者が言い、雄一郎も有里もその言葉にしがみついた。
その間も、みちは秀夫の枕許から殆《ほとん》ど離れなかった。夜もまるで寝ない。食事も細く、それでいて、気力だけは鬼のようにしゃんとしていた。
もともと我儘なお嬢さん育ちで、言い出したらきかない気の強さも、人と妥協しにくいかたくなさもけろりと影をひそめて、今、みちを包んでいるのは、初孫の生死にただ無我夢中になっている極めて単純な祖母としての姿であった。
ひょっとしたらみちは、ベッドの上の秀夫と一緒になって、死と戦っているのではないかと思われた。
秀夫が苦しさのあまり呻《うめ》き声をあげるとき、みちの顔に脂汗が滲《にじ》んだ。どんな夜中でも、みちは秀夫のちょっとした体の動き、容態の変化をも見逃さなかった。
秀夫が身動きしただけで、みちの神経はまるで針ねずみのようにふくれ上るかのようだった。
そんなみちの看護ぶりに、有里は一途なみちの愛をみる思いがした。
このことは、有里や雄一郎が別段吹聴したわけではないのに、案外早く隣近所の者の知るところとなったらしく、みちとはあんなに仲の悪かった岡井よし子までが、わざわざ有里のところへやって来て、
「お母さん、よくやりなさるってね……入院してから一晩も寝てないんだって、うちの人がどっからか聞いて来て話してくれたのよ。普段はさア、あんたの前だが、ずいぶん気むずかしい人だと思っとったけどオ……今度という今度はすっかり見直しちまったよ……」
と眼をまるくして言った。
「ええ、秀夫の命が助かったのは、もちろんお医者さんのお蔭ですが、母の力もずいぶんあったと思うんです……本当に今度ばかりは母を有難いと思いました……」
「そういうものだよ、母親ってものは……なんのかんのと言っても、やっぱりいいもんだよねえ……」
よし子はこのあいだのいざこざなどすっかり忘れてしまったらしく、みちのことを褒《ほ》め上げて帰って行った。
ところが、続いて、民子までがやって来た。
「どう、秀夫ちゃん……?」
「ありがとうございます……どうにか命はとりとめたとお医者さんが……」
「よかったわねえ、あなた方も、そりゃ、ほっとなすったでしょう……これね、タマゴなんですけど、秀夫ちゃんに食べさせて下さいな、ほんの少しだけどね」
「まあ、それはどうも、ありがとうございます」
有里は、民子の好意の品を有難く頂戴《ちようだい》した。
すると、今度は、民子がひどく改まった表情になった。
「あの……お母さん、つきっきりだそうだけど、大事になさるように言ってくださいよ、秀夫ちゃんが癒っても、お母さんが倒れなすったら、なんにもなりませんからねえ……」
「はい……」
有里は思わず民子の顔を見た。
まさか民子がそんな事を言うとは、夢にも思わなかったからである。
有里にみつめられると、民子は急にそわそわ落つかなくなった。
「それじゃ、ごめんなさいよ」
早々に帰って行った。
その後姿を眺めながら、有里は涙が出るほど嬉《うれ》しかった。母が褒められたからばかりではない、近所の人たちの親切心と思いやり、それに、つまらぬ感情にこだわらぬ善良さが嬉しかった。
(みんな、なんていい人たちなんだろう……)
有里の胸に、熱いものが次々とこみ上げてきた。
30
入院十四日目に、秀夫はみちの背におぶわれて家へ帰った。
当分は家で静養ということだったが、当の秀夫はもちろん、みちの喜びようは、文字通り手の舞い足の踏むところを知らずといった有様であった。
そして、小樽の良平から、千枝が男子を安産したとの知らせが届いたのは、秀夫の退院後六日目の朝だった。
有里は秀夫を母にゆだねて、一人、釧路を小樽へ発った。
岡本家の長男の名前はすでに良平が苦心に苦心を重ねて、辨吉とつけていた。男の子だから、将来強い人間になってもらいたいと、武蔵坊辨慶の辨と西郷隆盛の幼名、吉之助の吉をとったのだそうだ。
「なんだか駅辨みたいな名だ……」
と千枝は不服そうだったが、有里が、
「立派な名前ね」
といったので機嫌を直したようだった。
ところがこの有里の留守中、釧路ではたいへんなことが起っていたのだ。
尾鷲の幸子からの電報で、勇介が警察へ検挙されたというのである。
みちは色を失った。
もはや嫁とのいざこざも、家へ帰ることへの気がねもどこかへ吹っ飛んでしまった。
その夜の列車で、みちはとび立つように尾鷲へ帰って行った。
むろん雄一郎からの連絡で、有里が直ちに帰宅し、秀夫の面倒をみられるということを何度もたしかめてからのことである。
北海道から尾鷲まで、列車を乗り継ぎ乗り継ぎ、みちは天翔《あまか》ける思いで我が家へ急いだ。
出来るだけ早く尾鷲へ着くため、いつもの鳥羽から船に乗るコースをやめて、紀勢本線を紀伊長島まで行った。
ちょうど前の年の昭和五年四月に、紀伊長島駅までが開通し、更に次の大内山駅へむけて工事が進行中であった。
紀伊長島からは材木を運ぶ馬車に乗せてもらった。
(いったいなんで、警察になんぞ挙《あ》げられたんやろう……人様の物に手をつけるようなそんな子やなし……)
もう、なりふりとか体裁をかまっている余裕はなかった。
(もしかしたら、商売上のことで何か……)
十二月の肌寒い季節なのに、みちは額に汗をにじませ、ショールを肩に巻くことすら忘れていた。
みちが尾鷲へ着いたのは、中里家が刑事たちによって家宅捜索された直後だった。
ちょうど門から、刑事たちがどやどやと出てくるのと、みちを乗せた人力車が停《とま》ったのとほとんど同時だった。
刑事たちのうしろから、おびえたような顔つきでついて来た幸子がみちを見つけて声をあげた。
「あッ、お母はん……」
「幸子はん、これはいったいどういうことなんや……勇介が何をしたというのや……」
「それが、あの……」
幸子はちらと刑事たちの方を見やった。
「うちにもよう分りませんの……」
「なんや、あんたにも分らんて……」
みちは刑事たちの中に混って、顔見知りの駐在巡査のいることに気がついた。
「ちょっと、あんた、こっちへ来なはれ……」
みちは巡査を手まねきした。
「いったいこれは何んの真似《まね》やねん?」
「奥さん、それがな……実はえらいことやね、勇介はんが京都で検挙されてしもうてな……」
「勇介がなんぞ悪いことでもしましたかいの」
「それが……思想犯の疑いやそうな……」
「思想犯?」
「そうやがな、勇介はんがアカやというのやして……」
「阿呆《あほ》らし……」
みちは立ち止まっている刑事たちに聞かせるため、わざと吐きだすように言った。
「なんであの子がアカやね、駐在はんかてそのくらいのことすぐ分りそうなもんやないか、あの子に限ってそんなこと絶対にあらしまへん」
「そらまあそうなんやが……実はな、今月の半ばに、左翼の一味が京都刑務所を襲撃して、警官一名に重傷を負わせた事件があったんや……あんた知ってなさったかね」
「そんなもん、うちとなんの関係がありますかいな」
「いや……新聞に出とったの読まなんだかね」
「新聞は肩がこるさかい、よう読みまへん」
「そうかね」
駐在巡査はちょっと言い淀《よど》んだが、
「奥さん、勇介はんが捕ったのは、その京都の刑務所を襲った左翼の一味と一緒に居ったからなんや、これにはちゃんとした証拠もある」
と告げた。
「勇介が、犯人と一緒に居たんやて……そんな阿呆な……」
「そやかて、警察が逮捕に踏み込んだ時、その主謀者の下宿に居ったんや」
「それは違いますッ……」
これまでに、もう何度も繰返したらしい科白《せりふ》を、幸子は再び口にした。
「うちの人は商売の用事で京都へ行ったんです、そんな人などとなんの関係もありません、きっと何かの間違いです、お願いですから、うちの人を早く帰してください……」
「そんで、駐在はん、勇介はいったいなんと言うとりますね、自分はアカやと白状しましたんかいな」
「いや、息子はんの言うところによれば、一味の首謀者、水橋という男は学校時代の同輩で、たまたま町を歩いとって出逢うたため、懐しさのあまり、誘われるままにそ奴の下宿へ行ったところを警察に踏み込まれたと弁解しとるそうな……」
「それやったら、やっぱり勇介になんの罪もないやないか……そら巻きぞえや、あの子がアカやないことくらい、親の私が証明します、そら勇介の言うんが正しい、絶対に間違いや」
「まあ、わしらも勇介はんの人柄は知っとるで間違いやろうとは思うとるが……こうなった以上、当局のほうでも、一応は調べてみんことには裏づけがとれんでな……」
「だいたい、なんの罪もない者を牢へ入れるなんて、警察も少しそそっかし過ぎるやないか、中里家いうたらな、先祖代々、尾鷲一の名家や、その昔、かしこくも後鳥羽天皇様の熊野詣《くまのもうで》の御砌《おんみぎり》、お供をいたしたほどの家柄や……それを間違うて牢へ入れるなんて、あんたらも、余っ程の間抜けやないか」
感情が激してくると、みちは持ち前の気性がむくむくと頭をもたげだした。
「さあ、すぐ勇介を釈放しなはれ、すぐ牢屋から出しなはれ、さもないと、逆にあんたらを牢屋へぶち込んだるで……」
「お母さん……」
幸子があわててみちを押えた。
「まあ、間違いか間違いやないか調べればわかるこっちゃ、間違いやったらそのうち釈放されるやろ、いずれにしても、そんな場所に居ったんが身の不運や……」
刑事の一人が嘲笑《あざわら》うように言った。
「おい、行こう……」
他の刑事たちをうながして歩きだした。
「待ちッ、ちょっとあんたら、待ちいな」
みちが叫んだ。
「間違いやったらそのうち釈放されるとはなんという言葉や、そんな無責任なことってあるかいな」
「まあまあ……」
駐在所の巡査もみちをなだめた。
「今はあんまりそないに言わんほうがええ、わしからもあんじょう有利なように報告しておくさかい……」
「そんなのんびりしたこと言ってられますかいな、うち、これからすぐ京都へ行って来ます、行って勇介の身柄を引き取って来ます」
「お母はん、今日はお疲れやさかい、明日にしてください……」
幸子はあわててみちをとめた。
こんなに興奮しているみちを京都へやったら、それこそ帰れるものも帰れなくなってしまいそうだし、旅の疲労と気疲れで、きっと病気になってしまうことだろう。
「それがいい、それがいい、どうせ明日はわしも向うへ出掛ける用事があるさかい、なんなら一緒に行ってやるで……」
人のよさそうな老巡査も言葉をそえた。
が、結局、勇介はみちが京都へ押しかけるまでもなく、水橋らの証言で、彼が事件に無関係なことが立証され、無事尾鷲に戻ることが出来た。
「ほんまに阿呆《あほ》な子や、いい年して、友だちの下宿なんぞへのこのこついて行くさかいアカなんぞと間違われるんやし……」
「いや、まさか水橋がそんな大それたことをしていたなんて、夢にも思うとらなんだもので……久しぶりに逢うたんで懐しかったんや、それがこんなことになるとは……」
勇介は母と妻の前で笑いながら頭をかいた。
「だいたいあんたは、子供んときから田舎芝居《いなかしばい》の行列について行って迷子になったり、富山の薬売りのあとについて山一つむこうの村へ行ってしもうたり、どのくらい親に心配かけたか知れへん、ほんまに気イつけなあかんえ……」
みちには、いつまでたっても勇介が頼りなく見えるらしかった。妻の幸子までが、
「あんた、今度は何を言うてもあかんわ、こんなにお母はんにご心配おかけしてしもうたんやし……」
みちの味方をした。
「そらまあそうやな……ほんまに、えらいすみませんでした」
勇介は完全に兜《かぶと》を脱いだ恰好《かつこう》で頭をかいた。
しかし、この事件も満更《まんざら》悪いことばかりではなかった。
喧嘩《けんか》をしてとびだしただけに、すっかり戻りにくくなっていた尾鷲の家へ、みちは大手を振って帰ることが出来るという結果になったからである。
勇介も幸子も口には出さないが、そのことを心から喜んでいるようであった。
31
今年もぼつぼつ、年の暮が迫っていた。
夫の世話から子供の世話、隣近所のつきあいと、有里の一日は落ちつく暇もない仕事の連続だった。
そんな或る日、突然有里の家へ浦辺公一が訪ねて来た。有里はちょうど洗濯物を干していたが、肩を叩《たた》かれてふりむくと、そこに人なつこい公一の柔和な微笑があった。
「あら、よく此処《ここ》がおわかりになったわね……」
有里は思わず声を上げた。
「連絡しなければいけないいけないと思いながら、つい……」
「僕こそ……妹の結婚式には逢えると思ってたが、急に風邪《かぜ》をひいてしまってね……」
「そうですってね……さ、どうぞ……」
有里は先に立って家へ案内した。
「今日はご主人は?」
「夜中にならないと戻らないの……ここのところ夜行の乗務が多くってね……」
「それじゃ僕は、此処で失礼しよう」
公一は玄関先で立ちどまった。
「いいのよ、あなたなら……さ、どうぞ……」
「僕なら安心ですか?」
公一はちょっと複雑な表情になって笑った。
「あの時は本当にありがとう、お蔭で助かったわ」
あらためて、簪《かんざし》の質入れを頼んだ時の礼を述べた。
「公一さんは、札幌にずっといらっしゃったの?」
「うん、大学に残って助手をしていたんだが……今度、急に日高のほうへ行くことになってね……」
「日高って……牧場……?」
「ああ、馬のね、専門医として来てくれないかという話があったんだ……ま、いつまでも親がかりってわけにも行かんし、教授の推薦でもあったしするから決心したんだよ」
「そうだったの、よかったわね、おめでとう……」
「うん、君にそう言ってもらうのが一番うれしいよ」
公一は深く頷《うなず》きながら眼を細めた。
「いつ行くの、日高へ……?」
「向うは早いほうがいいと言うし、どうせのことなら向うで正月を迎えたほうがいいと思ってね……こういう時はチョンガーは気楽ですよ」
「でも、尾鷲ではご心配のご様子だったわよ、公一さんがいつまでもお嫁さんも貰わずに北海道に居ることを……」
「親父はもうあきらめているよ」
ふっと眼をそらして、苦笑した。
「幸子のこと、手紙で何か言ってきますか」
「とてもよくやってくれるって……兄も感謝しているようよ、この間も手紙でわざわざおのろけを書いてきたわ」
「そう……きっと今にボロが出るよ、あいつも気が強いからねえ、お姑さんとうまく行くかそれが心配だよ」
「母も気が強いし、頑固だから……でも、大丈夫よ」
「やっぱり何かあったんだね……」
公一は有里の表情の中の微妙な動きに気がついたらしかった。
「ほんとに大したことじゃないの、第一もうすんでしまって、前よりもっとうまく行ってるらしいわ、雨降って地固るって……ね……」
「そんならいいけど」
「なんだかんだと言ったって、母も幸子さんのことは子供の時分から知ってるんですもの、心配はいらないわ」
「ま、心配したって、僕にはなんの力にもなってやれないが……」
幼馴染《おさななじみ》の気やすさ懐しさで、つい時の過ぎるのを忘れ、結局、公一は夕食をご馳走《ちそう》になって帰って行った。
この公一の来訪を、有里はただ、彼が日高へ就職がきまったので、別れに来たとしか思っていなかった。
暮の主婦の仕事は、次から次へと果てしがない。
やっと秀夫を寝かしつけ、さて、針仕事にとりかかろうとした時、有里は初めて縫い物の下に置かれた小箱のことに気がついた。
開けて見るまでもなく、有里はその箱に見おぼえがあった。
いつぞや、まだ有里が塩谷に居た時分、千枝の入院費やらなにやらに困って、公一に頼んだものである。
もともと請《う》け出すあてのない品だったし、やがてそのつもりもなくなった。とっくに質流れしているものと、あきらめていたのだ。
この箱を置いて行ったのは、もちろん公一に違いない。
(公一さんはこの品を質入れしなかったのかしら……そういえば、お金は受取ったが、質札は貰わなかった……)
きっと、この簪《かんざし》の由来を知った公一が、独断でこうした処置をとったものであろう。しかも、そのことは一言も口にせず、品物だけ届けて帰って行ったのだった。
有里は今更ながら、公一のやさしい人間味に触れた思いがした。
(公一さん、ありがとう……五十円かならずおかえしします、済まないけど、もう少し貸しておいて下さいね……)
心の中で、有里は公一に礼を言った。
艶《つや》やかな鼈甲《べつこう》の簪には、懐しい父の気持がこめられているし、北海道へ母の反対を押し切って嫁いで来た日の想い出があった。
ほんとうに無我夢中の六年間だった。
有里は首をのばして、そっと隣室の秀夫の寝顔を眺めた。
今年は、秋に満州事変がおこり、新聞やラジオのニュースによれば、満州では連日激しい戦闘が行なわれているという。
尤《もつと》も、ラジオは高価で、まだまだ身分不相応、もっぱら桜川夫人の報告によるのである。
又、今年は東北、北海道地方は冷害のため、稀《まれ》にみる大凶作で、土地や家を放棄する者、娘を売る者、自殺者などが相次いでいた。
なんだか、日本中が急にざわつきだしたような気がする。
有里のところにしても、貧乏とはまだ当分縁が切れそうもないし、仕事はますます忙しくなるだろう。
だが、有里はちっとも恐れを感じなかった。
(どんな苦しいことがあっても、私には子供が居るし、夫がちゃんとついていてくれる……)
それだけで有里は仕合せだったし、体中に充実感がみなぎるような気持がするのだった。
有里は立ち上り、鏡台の前に坐《すわ》った。
鏡の中の自分の髪に、そっと鼈甲の簪をさしてみた。
32
翌、昭和七年は、有里が漠然と予想したように、年があけると間もなく、今度は上海《シヤンハイ》で日本軍と中国軍の間に火蓋《ひぶた》がきられた。
当局の発表によると、一月十八日、日本人僧侶が中国人に襲撃されたのがきっかけだという、いわゆる上海事変であった。
つづいて二月、犬養内閣の手で総選挙が行なわれ、政友会が民政党にかわって多数をとった。その選挙の最中、浜口、若槻両内閣の大蔵大臣であった井上準之助が暗殺され、更に三月五日には、三井財閥の中核である団琢磨《だんたくま》が同じく暗殺された。
いわゆる井上|日召《につしよう》の率いる血盟団の、一人一殺主義の犠牲となったのである。
この年は、有里の周囲にも移動が多く、隣りの桜川家が倶知安《くつちあん》へ転勤し、運輸事務所で連日現場にハッパをかけ、この数年間無事故という輝しい記録を作った関根重彦が、再び東京へ帰って行った。
「東京へ行くんなら栄転じゃないですか、おめでとう……」
雄一郎が言うのへ、関根は、
「なアに、有難くもなんともないよ、北海道にはやりかけの仕事がまだ沢山残っている。君と計画したスピード・アップに関する試案も、まだ全然草稿の域を出ていないし……」
吐き出すように言った。
特に関根は、有里と別れるのが名残《なご》りおしそうだった。いつか、雄一郎の家に遊びに来ていて、酔ったついでにふと口をすべらせ、
「僕はむろん色恋などではなく、君の奥さんが好きなんだ、やさしくて、あったかで……そばに居るだけで、なんともいえずいい気分になる……これは男の僕だけじゃない、女房の奴もそう言うんだから間違いない、まったくお前がうらやましいよ」
と言って、雄一郎と有里を苦笑させたが、案外それが彼の本心だったかもしれなかった。
関根重彦、比沙の夫婦が去ると、なんだか急に釧路がさびしくなったような気がした。
夏になると、釧路には連日海霧がたちこめ、港から太い溜息《ためいき》に似た霧笛が聞えた。
そんな夜雄一郎と有里は遠いハワイに行ったまま帰らぬ、姉のはる子のことをよく話題にした。
「いったい姉さんはいつ帰ってくる気かなあ……」
「伊東さんはもう結婚なさったんですか?」
「さあ、どうかな、前に結婚するって話は聞いたが……どっちみち俺たちのところへは知らせて来んだろうな」
「そうでしょうね……でも……男の人ってそんなもんかしらね、あんなにお姉さんのこと好きだったのに……」
「仕方がないさ、姉さんがハワイへ行ったきり帰って来んのだから……」
「きっと何か理由があると思うわ、そうでなかったら、行ったきり帰ってこないなんて筈がないでしょ、お姉さんだって伊東さんが好きだったんですもの」
「向うで、他に好きな奴でも出来たのかなあ……」
「まさか……」
有里は雄一郎をにらみつけた。
「お姉さんにかぎってそんなことがあるはずないでしょう」
「わからんさ、男と女の仲なんてものは……」
「そんなこと絶対にないわ、私、お姉さんて方はもし伊東さんと結婚しないのなら、一生独身ですごすような気がするの」
「そりゃあ、お前の思いすごしさ、お前は姉さんて人をすこし美しく考えすぎているよ。姉さんだって人間だ」
「いいえ、女には女の気持がわかるのよ」
有里はムキになって主張した。
「お姉さんはそんな方じゃないわ」
「そうかなあ……」
雄一郎はそんな有里を見て笑った。
いつまでたっても、子供っぽいことを言う奴だといわんばかりの眼の色だった。
しかし、それは有里にもすぐにピンと来た。
「じゃ、あなたは本気でお姉さんが伊東さん以外の人と結婚すると思っているの」
「ふむ……」
雄一郎は曖昧《あいまい》に言った。
「別にそういうわけではないが……」
「じゃ、どういうわけなの、あなただって、お姉さんの気性はよく知っているじゃありませんか……嫌だわ、そんなの、お姉さんが他の男の人を好きになったかもしれないなんて、そんな考えかたは不潔よ」
珍しくはげしい有里の見幕に、雄一郎はちょっと驚いたようだった。が、すぐもとの落ついた表情に戻った。
「したがな、有里、俺は近頃つくづく考えるんだ……俺にしろお前にしろ、姉さんて人に或る清らかなイメージを持ちすぎているのじゃないかな……そして、そのことが無意識のうちに姉さんを縛りつけているんじゃないかと思うんだ。姉さんて人はこういう人だから、こうでなくてはならんみたいに考えすぎてやしないだろうか……もしそうだとしたら、それは結果的に姉さんを不幸にするおそれがあるんじゃないのかな……」
雄一郎は話しながら、ちらと有里を見た。有里は黙って彼の言葉に耳を傾けている。
「俺は、姉さんに、もっと気楽に生きてもらいたいと思ってるんだ、姉さんはすこし自分にきびしすぎる……立派でなくたっていい、もっと人生を楽しんでもらっていいと思うんだ」
それにたいする有里の返事は得られなかった。が、しばらくして、
「それも、そうね……」
ぽつりと言うのが聞えた。
その伊東栄吉は、やはりこの年、東京鉄道局千葉管理部総務課長を命ぜられていた。
伊東の胸の中には、むろん今でもはる子の面影が強く焼きついてはなれない。が、それを、伊東は無理にも消そうとしていた。
これ以上はる子のことを考えると気が狂いそうになったし、又、いくら考えてみても、どうにもなることではなかったからだ。
はる子がハワイで結婚し、向うに永住する覚悟をきめたらしいという噂《うわさ》は、風の便りに伊東の耳にも入っていた。
彼はそれを、そのままはる子の裏切りだとは受取らなかった。
はる子がハワイへ発ったのは、伊東がヨーロッパから帰国する少し前だったという。あんなに二人の結婚を喜び、固い約束をしていたものが、急にハワイへ行ったことの裏には、何か抜きさしならない理由がなければならないと考えた。
はる子の性格を子供のころから知っているだけに伊東は、彼女が自分の意志で日本へ帰って来ない限り、追っても無駄だとさとっていた。
伊東は、はる子の消息を時々|歿《な》くなった尾形未亡人から聞かされていた。
彼女がどうしてはる子の消息を知っているか不思議だったが、いずれにしても、はる子が白鳥舎の女主人伊吹きんの弟と次第に親しくなっていることは分った。
一度、伊東は尾形未亡人から、はる子が彼女宛に出した手紙を見せられたことがあった。それによって、はじめてはる子と尾形未亡人の間に連絡のあることが判ったのだが、手紙には、はっきりとはる子の手跡で、ハワイでの仕事が順調なこと、当分日本へは帰る気持のないことなどが記されていた。
そして、そのときはじめて、尾形未亡人から伊東は、はる子が伊東と和子の結婚を望んでいることを聞いたのだった。はる子がハワイへ行ったのも、実はそのためで、伊東が和子と式を挙げ次第、はる子も伊吹きんの弟と式を挙げる予定だと知らされた。尾形未亡人が倒れる十日ほど前のことである。
尾形未亡人が急死し、和子がまったくの天涯《てんがい》孤独の身となったとき、伊東は時期をみて南部斉五郎の家を訪ねた。
「親父さん、実は僕、結婚しようかと思っとるんです……」
いきなり切り出した。
「実は考えに考えた末の結論なんですが……」
「尾形の和子さんか?」
南部は別段驚いたふうもなかった。
「ハワイに居るはるちゃんはどうする」
「はるちゃんは僕がそうしたほうが仕合せなのです、そのことが僕にも最近ようやくわかってきたんです。あの人は僕が居なくても立派にやって行けると思います」
「しかし、和子さんと結婚したとして君は仕合せになれる自信があるのか」
「はア……」
伊東はちょっと眼を伏せたが、すぐに顔を上げた。
「少くとも、和子さんを不幸にはすまいと決心しています。いつか和子さんも言っていました、二人していたわり合って生きて行こうと……そういう気持で、結婚を考えるんです。親父さん、仲人をお願い出来ませんでしょうか、あなたの他に、僕らの気持をわかってもらえる人はないと思うんです」
南部はそんな伊東の顔をじっとみつめていた。
しばらくたって、仲人を引受けるか引受けないかの返事はせずに、
「伊東君、仕合せになれよ……」
とだけ深い感動のこもった声で言った。
33
伊東栄吉はいよいよ千葉へ行くと決った日、和子に連絡をとった。
母を失くして以来、和子は千駄谷の小さなアパートに一人暮しをしながら、近くの託児所で働いていた。
伊東は和子と、新宿のフルーツ・パーラーで待ち合せた。
和子は約束の時刻より、すこし遅れてやって来た。
「すみません、随分お待ちになった……?」
「いや、それより託児所の方よかったんですか」
「ええ、もう終りましたの、今日はちょっと仕事が残ってしまって……意地が悪いものね、いそいで帰らなくてもよい日にはなんにもなくて……」
「そんなものですよ……しかし、子供の世話というのは大変でしょう」
「ええ、馴《な》れるまではね……毎日家へ帰ると、体中の骨がバラバラになるような気がしましたわ、子供といっしょに動いている時はなんでもないのに……でも、習うより馴れろですわね、今はもう、なんともありませんの」
「想像出来ないですよ、昔の和子さんしか知らない人だったら……尾形先生も奥さまも、さぞかし吃驚《びつくり》しておられることでしょう」
「父や母はきっと喜んでくれてると思いますわ……それより、千葉へご栄転ですってね、おめでとうございます……」
「北海道から東京へ出て来て以来、ずっと新橋の運輸事務所だったんですが、この辺で、千葉へ行って苦労して来いと言われましてね」
伊東はいつもと変らぬ調子で言った。
彼ほど態度の変らぬ男もめずらしいと和子は思う。父がまだ生きていた時分でも、両親と死に別れ、わびしいアパート住いをしている今でも、伊東の和子にたいする態度は終始かわらなかった。
それが伊東の美点であることは間違いないのだが、時には欠点のように和子には思えることがある。もっともっとお互いの距離を接近させればいいのにと望んでも、伊東は何故かそれをしなかった。
理由はだんだん和子にもわかって来た。
伊東の胸の中には、たった一人の女が生きていたのだ。室伏はる子である。和子はその女の面影を伊東から消させようとして、何度か努力してみたが無駄だった。そのたびに、和子自身が傷つくだけであった。
その点さえ除けば、伊東ほど誠実で信義に篤《あつ》い男は居なかった。友人としてならば、彼は最高であった。
「千葉へ行くとなれば、大変ですわね、お引っ越しの時はいつでもお手伝いに参りますわ」
「いや、その点は独り者の気楽さでしてね、みんなガラクタばかりですから……」
「それでも、何かさせて頂きたいわ。伊東さんには随分お世話になったし、せめて、私でお役に立つことがあったら……それに……」
和子は眼を伏せた。
「千葉へ行っておしまいになったら、当分お目にかかれませんでしょう……寂しくなりますわ、私……」
「はア……実は……」
伊東が何か言いかけて、ふと言い淀んだ。
「は……?」
和子は伊東を見た。伊東も和子をみつめている。しかしその眼はどうしたわけか落つきがなかった。
「実は、そのことで……あなたにご相談があるのです……」
「相談……?」
伊東は何か重要な事を述べる時の癖で、肩に力を入れ、両肘《りようひじ》を張っていた。
「こんなことを僕から申し出るのは不遜《ふそん》かもしれません……しかし、僕としてはそうすることが、一番いいことのような気がしたんです……」
和子は次第に不安になった。伊東の表情がいつもとまるで違っていた。次の言葉を聞くのがなんだか恐しいような気さえした。
「和子さん……」
伊東がようやく口をひらいた。
「もし僕のようなものでよかったら、嫁に来ていただけないでしょうか……」
和子はそっと眼を窓の外へ移した。
上海事変は始っていたが、東京の夜は、まだまだ平和だった。
窓のガラス越しに、二、三年前から流行しはじめた東京行進曲がかすかに聞えている。
暗くなった歓楽街を、青い灯赤い灯が華やかに彩りはじめていた。
「伊東さん……私、今、思い出していたのよ……」
和子が眼を外に向けたまま言った。
「ずっと昔、あなたの下宿へ訪ねて行って、あなたを好きだといって泣いた日のことを……あの時は惨《みじ》めだったわ、どんなにあなたを愛していても、あなたには、はる子さんという方がいる……あなたのはる子さんに対する愛は、びくともするものじゃないって知ったとき……悲しかったわ……」
「和子さん、あの人の話は……もう僕らの間ではしない約束じゃありませんか……」
「そうね、そうだったわ……でも」
和子の眼が真直ぐ伊東にそそがれた。
「今夜は話させて欲しいんです、どうしても、話さなければいけないと思うの」
「どうしてですか……」
今度は伊東から和子の視線をはずした。
「あの人のことは、もう過去のことだ……」
「いいえ、過去なんかじゃないわ……伊東さん、私、ついこの間、南部の小父さまからあなたとの結婚をすすめられたんです。あなたが私と結婚してもいいと思っていらっしゃると聞いて、私、夢ではないかと思いました……私、あなたが北海道から出ていらっしゃって、私の家へ住むようになった時からなんとなくあなたが好きでした……でも、あなたには、はる子さんという方がある……それを知っても、父や母は、あなたに私との結婚を半ば強制的に望んだのでした。あの当時は父も生きていて、鉄道省きっての実力者といわれた父の命令に逆える人は一人もいないとまで言われた全盛の時代でした。その娘聟《むすめむこ》にのぞまれて、あなたはきっぱりお断りになった……」
「それは……あの当時の僕には、それしか考えられなかったからです」
「わかっています、あたし、そういうあなたを見て、一層あなたが好きになってしまったんです。父が歿くなって、母は前よりも強く私とあなたと結婚させたがりました……でも、私あきらめようと思いました、あきらめなければならないと……でも、諦《あきら》めきれませんでした……」
「もう止めましょう。とにかく、再出発したいんです、千葉へ転勤を機会に……僕は僕なりに努力し、考えたんです、もし僕の過去を承知で、和子さんが僕のところへ来てくれる気持があるんなら……」
「伊東さん……」
「いっしょに、千葉へ来てくれませんか……僕は才能も無い、学歴もない、平凡な人間です……平凡な仕合せで満足してくれるのなら、あなたを仕合せに出来ると思っています……」
和子は黙って俯向《うつむ》いていた。いつまでたっても、口を開こうとしなかった。
「和子さん……返事をきかせてくれませんか」
「栄吉さん、私、あなたに隠していることがあるんです」
和子が思いきったように言った。
「隠す……?」
「ええ……そのことで私、今まで迷っていたんです……南部の小父様からあなたのお気持をうかがったとき、私、このことを一生あなたに話すまいと思いました。話さないでおけば、あたしはあなたの奥さんになることが出来る……私、悪魔になろうと思いました、せめて一生に一度の私の仕合せの機会なのですもの、悪魔にも鬼にもなろうと……でも……やっぱり駄目……駄目でした」
和子の眼に急に涙があふれだした。
「和子さん、なんのことです、いったい、悪魔とか鬼とか……」
「伊東さん……あなた、なぜはる子さんがハワイへ行ったきり日本へ戻って来ないのか、そのわけをご存知……」
「そんなこと、もうどうだっていいじゃないですか」
「いいえ、聞いてください、なぜ、はる子さんがハワイへ行ったきり帰って来ないのか……誰のためにあの方……」
「それは和子さんの思いすごしだ……あの人があなたのために恋を譲ったと考えているのなら、それは間違っている。あの人と僕との間で、そのことは、僕が欧州へ発つ前にちゃんと話合いがついていたんですよ」
「それは本当かも知れません、たしかそのころ、一度私の母が横浜へはる子さんをお訪ねして、私のため恋を譲って欲しいとお願いしたことがあったそうです……はる子さん、その時はきっぱりお断りになりました……」
「人間の愛情などというものは我儘《わがまま》なものです。また、そうしなければ達成できない場合だってある。或る時は他人を押しのけて行かなければならんのです。僕らはいつもそう話し合い、はげまし合って来ました……和子さん、あなたのお母さんの申し出すらきっぱり断ったはるちゃんが、なんで今度は帰って来んのです。僕にはどうしてもはるちゃんが身をひいたとは思えない、今更、そんな気持になるわけないんだ」
「それは……伊東さんがヨーロッパへ発つ時までは、そんな理由はなかったかも知れませんわ、でも、はる子さんがハワイへ発つ前に、そうした事情が起ったとしたら、どうなんでしょう……」
「ハワイへ発つ前に……?」
「私が……自殺しそこなったんです……」
「あなたが、自殺……」
伊東はさすがに愕然《がくぜん》とした様子だった。
和子はむしろ落ついていた。というよりは、必死になって、自分の感情を制していたのだ。
「私、母のすすめてくれた縁談が嫌で……母はあの頃もう自分の体が弱っているのを知っていたんです。自分の命のあるうちに、なんとか私を結婚させたい……そういう母の情を最初はこばみ切れずに同意してしまいました、けれど……いよいよ婚約がきまってしまうと、辛くて、苦しくて……もう、いっそ死んでしまいたくなって、くすりをのんでしまったんです……発見されて、病院へ担ぎ込まれて、昏睡状態が続きました。それをはる子さん、見てしまわれたんです」
「はるちゃん、どうしてそのことを……」
「ハワイへお発ちになる前に、南部の小父様のところへご挨拶《あいさつ》にいらして、それで……自殺の原因は母が話したらしいんですの」
「知らなかった……」
伊東は太い吐息をもらした。
「そんなことが、あったとは……」
「はる子さんは母に、私の気持が落着くまで日本へは戻らないし、伊東さんとも式を挙げないと約束したんだそうです。それなのに母はそれを利用して、出来るだけはる子さんが日本へ帰る日を遅らそうとしたんですわ……それが母の愛情だったんでしょうけれど、はる子さんはそのために……」
「なぜそのことを、もっと早く言ってくれなかったんです」
伊東の表情には怒りの色が浮かんでいた。
「何度も話そうと思いました、あんまり酷いと思いました……」
和子は伊東からどんな罰を与えられても、甘んじてそれを受ける覚悟をきめているようだった。
「でも、それを言ってしまえば、万に一つ残されていた私の仕合せの機会は、永遠に消えてしまうんです、ですから、出来ることなら、一生あなたに言いたくなかったんです……」
うなだれた白い首筋が、かすかにふるえていた。和子が眼をつぶると、その拍子に、スッと一筋涙が頬《ほお》を走った。
「でも、言わずには居られませんでした、同じ女ですもの、私にはわかるんです……ハワイであの方が、どんな苦しみに耐えていらっしゃるか……母のしたことを今でも本当に恥しいと思っています、だから……だから私……」
和子はたまらなくなって、両手で顔を覆った。
「ごめんなさい……私、伊東さんとはる子さんになんとお詫《わ》びをしたらいいか……」
細い、やさしい指の間から、低い嗚咽《おえつ》がもれた。
伊東はあわてて眼をそらした。
「和子さん、もういいです……あなたやお母さんを責める気持はありません。みんな……みんなそれぞれの愛情のせいなんですから、たしかに、愛にはそういう面もあるんです……」
34
昭和七年五月五日、上海事変は約五か月目に停戦を迎えたが、その同じ五月十五日、日本国内では海軍の青年将校と陸軍士官学校生徒の一団が、犬養首相を官邸に襲うという事件が起った。
首相は「話せばわかる……」と制したが、若者たちは「問答無用ッ」と叫んで、老首相を射殺し、更に別の一団は牧野内大臣邸、政友会本部、日本銀行、警視庁などに手榴弾《しゆりゆうだん》を投げ込んでから、憲兵隊に自首した。
世にいう、五・一五事件である。
しかしこの年、北海道の室伏雄一郎は初めて助役の試験を受けて落ちた。
彼としては生れてはじめて試験への敗北感を味わう破目となった。
助役試験が、今迄受けた試験とはくらべものにならないくらい難かしいものであり、そう簡単に合格出来るものではないと分ってはいても、やはり残念でならなかった。
又、雄一郎が試験に落ちたことを、有里は有里なりに反省していた。
結婚して以来、夫には何かと負担をかけすぎてはいなかったろうか。
秀夫が産れる前も、体が大儀なので、なにかにつけて夫に頼りすぎていたし、ここ二、三年は、やれ姉の結婚だ、兄の嫁とりだと始終尾鷲の実家へ帰ったりしていて、夫に落着いて勉強する暇を与えなかったような気がする。
それに子供が産れてからは、どうしてもそっちの方に手がかかり、夫の世話を充分してやれなかったようだ。
雄一郎の不合格は、自分が妻として不合格だったのだと有里は思った。
(もっと良い奥さんにならなければ……)
有里は心の中で、何度も繰返した。
そんな、いささか湿りがちな雄一郎の家に、まるで降って湧《わ》いたような、一つの事件がもちあがった。
そもそもの発端は、釧路の車掌従業員詰所で昼の弁当を食べていた雄一郎のところへ、以前彼の居た塩谷から電話がかかった。
瀬木奈津子という七歳の女の子が、たった一人、東京から北海道の両親の許へ帰るのだと言って、函館の連絡船でうろうろしているのを保護され、結局、女の子の言う通り、塩谷駅に送られて来たのだという。彼女の言葉によれば、親の名は室伏といい、鉄道員だということだった。
塩谷駅に勤務していて、室伏といえば、釧路へ転勤した室伏雄一郎に違いないというので、早速電話をして来たのだった。
瀬木奈津子の名前を聞いたとき、雄一郎は自分の耳を疑った。奈津子といえば、塩谷の家の前に捨てられていて、一年半ほど育ててやり、やがて生みの母親に引き取られて行ったあの奈津子に違いない。が、雄一郎には、奈津子がたった一人で北海道へ出て来たということがどうしても信じられなかった。
おまけに、自分たちのことを北海道の両親だといっているそうだが、いったいどういうわけなのか。彼女には父親こそ死亡して居ないが、母親は立派に存在するのである。
とにかく、塩谷駅に近い岡本良平の家に一応引き取らすことにして、雄一郎は電話を切った。
このことを有里に知らせると、彼女はすぐ塩谷へ行きたいという。
「今からだと夜になるが、秀夫と一緒で大丈夫か……」
「大丈夫です、早く奈っちゃんに逢《あ》って様子が知りたいし……あの子、きっと心細がっていると思うんです……」
結局、雄一郎は有里を先に塩谷に行かせ、自分も仕事が終り次第駆けつけることにした。
釧路からの夜行列車は空いていた。
片側の座席に秀夫を寝かせ、有里は七歳になったという奈津子の顔をあれこれと想像した。
赤ん坊の頃の奈津子の顔は写真を見なくても、瞼《まぶた》のうちに、はっきり浮かべることが出来た。
有里もまだ結婚したばかりだった、あの春の日、塩谷の家の戸口に捨てられて泣いていた奈津子……。貰《もら》い乳に歩いたり、牛乳を飲ませたりして、苦心|惨憺《さんたん》して育てあげた奈津子。
生みの母親が突然迎えに来て、わけがわからぬままに連れて行かれた日の奈津子……。
夜行列車に揺られながら、有里は想い出の中の奈津子を思い浮かべながら、遂に一睡もしなかった。
塩谷についたのは翌日で、奈津子は良平に連れられて近所の風呂《ふろ》屋へ行って留守だった。
しかし、奈津子に関する、更にくわしい事情を千枝が説明してくれた。
「それがねえ、あの子ったら、有里姉さんのこと本当のお母さんだって信じ込んでいるらしいんだよ……あたしは小さい時、よその小母さんに連れられて東京へ行ったんだ、本当のお母さんはこの人じゃないって、いつもそう思っていたんだって……早く大きくなって、本当のお母さんの所へ帰ろうって……」
「まあ……」
それだけで、有里はもう涙ぐんでしまった。
「したけど、どうして塩谷だの、室伏だのってわかったのかしらね……」
「あの子がなかなかあの女の人のことをお母さんて呼ばないもんで、あの人が私が本当のお母さんだよ、塩谷の室伏さんはただ少しの間、お前を預ってくれただけなんだよって話したわけよ……あの子はそれを聞いて、ああ、塩谷の室伏っていうのが自分の本当の両親なんだなと思い込んでいたというの。なんだか怖いみたいな子よ、眼の大きな可愛い子だけどね……」
「それで、汽車はどうやって……?」
「家が上野の近くらしいのよ、いつも駅へ遊びに行って、駅の人と仲良くなってね……そこで塩谷へ来る方法なんか聞いたらしいのね。あの子、夕方になると毎日、青森行の急行を見に行ったらしいよ、いつかあの汽車に乗って、きっとお母さんの所へ帰ろうって……」
千枝の声の調子がふっと変った。急に涙が押えきれなくなったらしい。
「あたい、それを聞いたとき、もう、泣けて泣けて仕方がなかったんだよ、汽車を見ているその恰好《かつこう》が眼に浮かんじゃってね……」
「そう……そうだったの……」
有里もあわてて眼頭を指で押えた。
「あたし、ちょっとそのお風呂屋さんまで迎えに行って来るわ、そんなにまでして来たのを、此処《ここ》で待っていたんじゃ可哀《かわい》そうだもの……」
だが、ちょうどその時、表の戸の開く音と共に、良平や長女の雪子の声がした。
「あッ、帰って来たらしいよ」
千枝の言う前に、有里は玄関へとんで行った。
「奈っちゃん……」
土間のところに、眼のくりくりしたお下げ髪の子が立って、じっとこちらを見上げていた。
有里にはその子が、一目であの奈津子だとわかった。
「奈っちゃんッ……」
「お母さんッ……」
奈津子が毬《まり》のような勢で、有里の胸の中にとびこんで来た。
「よく……よく帰って来てくれたわね……」
しっかりと奈津子を抱きしめながら、有里は奈津子の頬《ほお》に、自分の涙でびしょびしょになった頬を押しつけた。
その奈津子の眼からも、あとからあとからとめどなく涙が流れていた。
雄一郎の到着を待って、有里は奈津子を釧路へ連れて帰った。
しかし、気持が落着いてくると、有里も雄一郎も奈津子の身柄をどうするかで頭を悩ました。
二人のことを本当の両親だと思い込んでしまっているのも悩みの種だが、奈津子がいったい東京のどこに住んでいたのか分らないことが一番困った。
大体上野駅の付近らしいというので、こちらから連絡して、上野駅の構内に瀬木奈津子が北海道に居るから関係者は至急連絡して欲しいという貼紙《はりがみ》を出してもらった。
「あたし……もう、奈っちゃんを返すのが嫌になってしまった……あんなに私たちを本当の親だと信じ込んでいるんですもの、いっそ奈っちゃんをうちの子にしたいわ……」
有里は言ったが、雄一郎は許さなかった。
「いずれ必ずあの子にも本当のことがわかる時が来る、その時になって哀《かな》しむより、今のうちに生みの母親の手許へ帰しておいたほうがいいのだ……」
奈津子が釧路へ引き取られて来てから十日もたって、東京の奈津子の母親、瀬木千代子から手紙が来た。
奈津子を迎えに行きたいが、仕事の都合でどうしても行けないので、なんとか鉄道のほうに頼んで上野駅まで列車に乗せて来てくれないだろうか、到着時刻を知らせてくれれば、駅までは迎えに行くから、とあった。
この手紙を見たとき、有里はさすがに顔色を変えた。
「あんまりだわ、あんな子を一人で東京へ返せだなんて……あんまりひどすぎるわ……」
「むこうにも事情があるのだろう」
「いくら事情があったって、自分の子じゃありませんか。まして家出して来た事情が事情なんだから、もう少しあの子の気持を考えてくれたってよさそうなものだわ」
こんなことがあって、有里はますます、奈津子を東京へは帰したがらなくなってしまった。
それから更に一週間ほどたった或る日、隣家の岡井が妙な顔つきでやって来た。
「実はさっき車掌区の方へ警察から連絡があってな、瀬木奈津子という子を早く母親のところへ戻すように言ってきたんだ」
「警察……?」
雄一郎も眉《まゆ》をひそめた。
「なんで、警察がそんなこと言って来たんです」
「なんでも、東京のあの子の母親からそういう訴えが出されたらしい……なんとも非常識な女だ……わしから事情は説明しておいたが、そういうわけで、警察では一日も早くその子を東京へ送り返すようにとのことだった……」
雄一郎と有里は顔を見合せた。
驚くというよりは、ただ呆然《ぼうぜん》とするばかりだった。
「いったい、どこまで勝手なんだッ……」
さすがに雄一郎も、怒気を含んだ声で呟《つぶや》いた。
35
雄一郎夫婦にとって、奈津子を東京へ帰すことは、どうにも気がすすまなかった。
といって、生みの母親が返せといって来ているものを、返さずにおくわけにも行かなかった。
しかし、母親の瀬木千代子が自身で迎えに来たのならともかく、年端《としは》も行かぬ奈津子を一人で汽車に乗せて、東京まで返すことは、どうしても出来ないと有里は主張した。
結局、隣家の岡井亀吉が雄一郎の勤務時間とにらみ合せ、雄一郎が釧路から函館までを乗務する列車に奈津子を乗せ、雄一郎は函館で乗務を終り、そこからは休暇をもらって奈津子を東京まで送って行くことにした。
幸い、函館の車掌区に岡井亀吉の旧い友人が居り、事情をきいて協力してくれることになった。
朝の列車で、奈津子は釧路を発つことになった。
駅へは、有里と秀夫とそれに岡井よし子が送って行った。
別れ際に有里は、奈津子の手に一枚の葉書を握らせた。
「この葉書には、ちゃんと釧路の住所が書いてありますからね、もし何かあったら、この裏へ赤い丸を書いて、奈っちゃんの居る場所を仮名で書いてポストに入れるのよ。そしたら小母さん、なにをおいても奈っちゃんのところへとんで行きますからね、わかったわね……」
有里は昨夜、身を切られるような思いで、奈津子に自分が本当の母親でないことを話してきかせたのだった。
「体に気をつけるんだよ、ほらこれを持って行ってお食べ……一人で寂しいだろうが、車掌の小父さんが時々見にくるだろうからね」
よし子は茹《ゆ》で卵やチョコレートを入れた袋を奈津子の手に持たせた。
「途中で具合でも悪くなったら、すぐ車掌さんに言うのよ」
有里も重ねて言った。
「体に気をつけてね、小母さんはいつでも奈っちゃんが仕合せになるように祈っていますからね……」
奈津子が大きな瞳で、じっと有里を見つめた。
「小母さん……あたし……あたし、もう、小母さんに逢えないの……?」
「そんなことがあるもんですか……」
有里の胸に、不意に熱いものがこみ上げた。
「東京へ着いたら小父さんが奈っちゃんのお母さんとよく話して、年に一度くらいは北海道に来られるようにしてもらってあげるからね……」
「ほんと、お母さん……」
お母さんと呼んではいけないと有里に言われていたので奈津子はあわてて、
「小母さん……」
と言い直した。
「本当よ、奈っちゃんのほうから来られないときは、なんとかして逢いに行くから……元気を出して……病気なんかしないようにね……」
有里の声は途中からかすれた。
溢《あふ》れてきた涙を、あわててのみ込んで、有里は肩のショールをはずした。
「寒くなったら、これにくるまるのよ、いいわね……」
奈津子がこっくりと頷《うなず》いた。今度は秀夫に、
「秀ちゃん、さようなら……」
小声で言った。
釧路に居たわずかの間に、奈津子は秀夫の面倒を良く見た。本当の弟と思い込んでいたのか、釧路に置いてもらわないと困ると思ったのかは知らぬが、一度など、秀夫が近所の男の子たちにいじめられた時、身をもってかばって、彼等の袋叩《ふくろだた》きにあったこともあった。秀夫も、奈津子にはよくなついた。
「奈っちゃん……きっと、また来いよ……」
「うん……きっとね」
奈津子がはじめて嬉しそうに、にっこりした。
発車のベルが鳴り、いよいよ汽車が動きだしたとき、奈津子は窓から身をのりだして、
「お母さん……お母さん……お母さん……秀ちゃん……さよなら……」
と叫んだ。
午前中に釧路を発つと、函館到着は翌日の早朝である。
夜、雄一郎は何度となく奈津子の様子を見に行った。だが、そのたびに、有里のショールを抱きしめるようにして睡っている奈津子の姿を彼は見た。
函館では事情を聞いている車掌区の人たちが親切に雄一郎と奈津子を迎えてくれた。
雄一郎が乗務の引き継ぎをしている間、奈津子は函館従事員詰所のストーブのそばで、餅《もち》を焼いてもらって食べた。
雄一郎はここで勤務を終了し、午前九時二十分に函館を発つ青函連絡船に奈津子と共に乗り込んだ。
二人を乗せた列車は定刻通り、翌日の午前九時に上野駅に到着した。この列車に奈津子と雄一郎が乗っていることは、すでに有里が釧路で瀬木千代子に知らせてある。
雄一郎はホームに迎えに出ているはずの千代子の姿を探し求めた。
「どうだ、お母さん見つかったか?」
「ううん……」
「なにしろ、人が多いからな……」
雄一郎は窓から首を引っ込めた。
「とにかくホームへおりようか……」
その時、まだ母の姿を探していた奈津子が声を出した。
「あれッ……お店の小母さん……」
「なんだ、知ってる人が居たのか?」
雄一郎が再びのぞいた時は、既にそれらしい姿は雑沓《ざつとう》の中にまぎれて見えなかった。
「誰だい?」
「お母さんと同じお店で働いている小母さん……だけど、どんどん行っちゃった……」
「そうか、残念なことをしたな、その人に案内してもらえばよかった……」
「なんだか、こっちを見たら急にあわてて行っちゃったみたい……」
「ふうん」
結局、千代子は来ていなかった。
東京の地理に明るくない雄一郎は、止むなく駅長に相談することにした。例の奈津子の貼り紙の一件もあるので、その礼ものべたかった。
駅長は雄一郎の話を聞くと、すぐ佐伯という男を道案内につけてくれた。佐伯はずっと上野駅に勤務していて、この周辺の地理にくわしいという。
しかし、瀬木千代子の家を見つけるのに、思ったよりも時間がかかった。彼女の家がアパートで、駅の裏手のごみごみした場所にあったからである。
ドアを叩《たた》くと、寝巻に羽織をひっかけた千代子の青白い顔がのぞいた。
廊下に居るのが雄一郎だと知ると、すぐドアを開けて奈津子の姿を見つけ、不審そうに言った。
「あら、どうしたの、三千代さんと一緒じゃなかったの?」
「三千代さん……?」
雄一郎が聞きかえした。
「ええ、私がちょっと風邪をこじらせてしまったもので……お店のお友達にかわりに駅へ行ってもらったんですけれど」
「小母さん、来てたよ……だけど、いなくなっちゃったの」
奈津子が言った。
「変ね、どうしたのかしら……」
「ホームが混雑していたから、たぶん見つけそこなったんでしょう」
「ええ……」
千代子は奈津子の手を取った。
「どうぞお上りください……取りちらかしていますけど」
六畳一間という小さな部屋に、いままで千代子が寝ていたらしい布団《ふとん》が敷かれていた。それを手早く片附けて、千代子は両手をついた。
「このたびは、いろいろとご迷惑をおかけしまして……」
「いや、今度のことは奈っちゃんの思い違いでああいうことになったと思うんですが……わたしからも、家内からもよく言いきかせておきました……」
「申しわけございません……実は私のほうもあれから事情があって主人とも別れ、ずっと私が働いて、この子と二人の暮しを支えて来ましたので、いつもこの子には独りぼっちのさびしい思いをさせてまいりました。そんなこともいけなかったのだと思います……」
千代子は奈津子の手を取ると膝《ひざ》に抱き寄せた。
「奈津子、ごめんなさいね、母さんが悪かったのよ……でもね、あんたのお母さんは私なのよ、本当に私がお母さんなの……それだけは疑わないで……母さん、この上あんたに疑われたら、生きている甲斐もないわ……ね、奈津子……」
奈津子は黙って俯向《うつむ》いている。しかしその眼は、かならずしも有里に見せたような親しみのこもったものではなかった。
やがて、千代子は奈津子を連れて外へ出て行った。帰って来たときは千代子一人で、
「お待たせしました、奈津子、管理人さんのところへ預けて来ました。いつも、お店へ行くときそうしてるんです……」
と言った。
「でも、よかった……一時はどうなることかと思いましたよ……」
「いいえ、駄目です、あの子は私の言葉なんか信じちゃいません……私を本当の母親だなんて夢にも思っちゃいませんの」
「いや、そのことは私達もとっくり話しておきましたから……」
「いくらお話くださっても無駄ですわ、あの子、納得したんじゃありません、諦《あきら》めただけなんです……」
「諦める……?」
「あの子、そういう子ですわ、いつでも諦めて、何んにも言わないだけなんです」
「瀬木さん、今度のことで家内とも相談したんですが、もしあなたさえよかったら、時々奈っちゃんを遊びによこしてくれませんか、両方を行ったり来たりしているうちに、奈っちゃんにも次第に本当のことがのみ込めてくるだろうし……私たちにしても時折は奈っちゃんの顔を見たい、話し相手にもなってやりたいと思っています。私達で出来ることなら、なんでもお力になりたいと考えています……」
「ありがとうございます……でも、そのことでしたらきっぱりお断りします」
千代子は急にきびしい表情に変った。
「私、あの子をもう二度とあなたがたに逢わせたくございません、あの子はもともとあなた方が本当の両親と思い込んでいます。この上、あの子をあなた方に近づけたくないのです」
「しかし、わたし達は別に……」
「どうか、お引取り下さい。奈津子のことは母親の私がついて居ります。ご心配はご無用にねがいます……」
千代子はきっぱりと言い切った。
雄一郎は最初|唖然《あぜん》として千代子を見つめていた。まさかそんな言葉を千代子の口から聞くとは思わなかったのだ。しかし、すぐに平静に戻った。
「そうですか……」
ふっと息をはき出した。
「奈っちゃんのお母さんがそうおっしゃるんでしたら、止むを得ません」
「ご迷惑をかけながら、こんなことを申しますのは身勝手だと思っております。でも……私としましては、あの子に今更変な知恵をつけて頂きたくはございません」
「変な知恵?」
「とにかく、あの子は私の娘です。どんな苦労をしても、私はあの子を手放す意志はありません。奥様にもどうかそのようにおっしゃって下さいまし……」
「そうですか……しかし、それはあなたの誤解ですよ。私たち夫婦は、別に奈っちゃんをあなたから引き離そうとしているわけではないのです。ただ、純粋にあの子が可愛いので……止しましょう、何を言ってもあなたには分ってもらえそうもない……」
雄一郎は哀しそうに言うと、挨拶《あいさつ》もそこそこに立ち上った。
そのときドアの向う側で、人のぶつかるような鈍い音がした。
「誰……三千代さん……」
千代子が耳敏《みみさと》く聞きつけてドアを開けたが、廊下には誰も居なかった。
「三千代さん……といいましたね」
雄一郎はふと、妙な予感におそわれた。
「いくつくらいの人ですか」
「さあ、二十二、三ですかしらね、ひょっとするともう少し上かもしれませんよ……でも、何故?」
「いや、ちょっと探している人と名前が同じなんです……苗字《みようじ》は知りませんか」
「さあ……」
結局、千代子の書いてくれた地図をたよりに、雄一郎はその三千代という女のつとめている『みゆき』という小料理屋へ出掛けて行った。
『みゆき』はすぐに見つかった。店の前で水をまいている女に、三千代の名前を言ってたずねると、
「ちょっとお待ち下さい……」
女は奥へ引っ込んだが、かわって四十くらいの小ぶとりの女が出て来た。
「あたしが三千代ですけれど……」
その女が言った。
「えッ、あなたが……」
雄一郎は呆然《ぼうぜん》とした。
「ええ、斉藤三千代ですよ」
彼の知っている三千代とはまるで違っていた。
「瀬木千代子さんの友人の……?」
「そうですよ、何か御用ですか」
「すみません、人違いです……」
雄一郎は早々に『みゆき』を退散した。
しかし、本当は店の裏手にある女将の部屋に、南部斉五郎の孫娘の三千代がひっそり坐っていたのである。
女将の定子は戻ってくると、
「帰ったよ、うまいこといって追っぱらってやった……あたしが斉藤三千代だって言ってやったら、鳩《はと》が豆鉄砲《まめでつぽう》くったような顔をしてね……それにしても千代子さんから連絡があってよかったねえ……」
煙草に火をつけながら笑った。
「ええ……」
本物の三千代が頷いた。だが、雄一郎が立ち去ったと聞くと、
「もう、来ないでしょうか……」
視線をそらし、ぽつんと寂しげに呟《つぶや》いた。
36
この頃、昭和五、六年から七、八年にかけて、鉄道の現場で働く人々にとっては正に苦闘の時代であった。
世の中はうちつづく不景気で、鉄道もご多分に漏《も》れず大減収のどん底である。しかも、表向きは絢爛《けんらん》たる鉄道の発達の時代で、特急列車は走る、清水、丹那両トンネルの工事は進行中、一方においては、政治家の男≠ナ赤字線がどんどん開業の止むなきに至るといった有様で、鉄道の経営は苦しかった。
鉄道員の給料はこのためずっと釘《くぎ》づけとなり、しかも現場から、かなりの人員が整理の憂目《うきめ》をみなければならなかった。
人員整理の噂がとぶと、五十歳以上の鉄道員はみんな白毛染を買うという風評が流れるほどであった。
当時の名鉄局長の講演の中にも、宿屋へ泊った翌朝、お櫃《ひつ》に飯がまだ残っていても、いやしくも鉄道職員たるものは、弁当箱にまでそれを詰めることだけは遠慮して欲しい、などと述べている。
それほど現場の人々の生活は追いつめられていたが、といって、一旦職を失えば絶対に新しい職にはつけない程に、世の中全体が行きづまっていた。
赤字続きの鉄道はヤード(構内)にペンペン草が生え、留置車両は雨ざらしとなって錆《さび》つく始末だった。
そんな中で鉄道員たちは、上も下もありったけの智恵《ちえ》をしぼって、鉄道の増収、黒字への道へ、あらゆる対策、プランを練っていた。
その一つが、行く先を知らさない列車≠フ計画である。
これはイギリスのグレート・ウエスタン鉄道が発案した、ハイカース・ミステリィ・エキスプレスの模倣であったが、日本でも大成功をおさめた。
なにしろ、この列車の行く先は、運転する機関手にも、車掌にも、勿論、局長にも知らされていない。
知っているのは、東鉄の旅客課長の堀木鎌三と、列車運転の計画をやる天野辰太郎の他三名のみだった。
行く先は乗客に列車内で当てさせるのだから、秘密は厳守、乗客は列車に乗り込む前に、機関車がどっちについているかを確めて乗るさわぎであった。
八百人の乗客は、物珍しさに集ったおよそ千人の見物人たちに見送られて、上野駅を万歳の声と共に出発した。
赤羽をすぎて大宮駅に着き、大宮公園を見物して氷川《ひかわ》神社へ詣り、今度は常磐線に乗り入れて、江戸川を渡って埼玉県から千葉へはいり、清水公園へ行って宝さがしをやり、昼食、続いて野田町へ停車して、醤油工場を見学、相生《あいおい》駅へ出て、常磐線で上野へ向うとみせて、金町《かなまち》、新小岩へ出て総武線を両国駅へ終着した。
参加乗客は大喜びで、解散の時はわざわざ鉄道員に握手を求める有様だった。
この日、運転キロ数九十九キロ、参加人員八百一名、収入は九百二十二円八十銭だった。
また、昭和六、七年は農村にとっては大変な凶作の年でもあった。
それ以前から続いていた深刻な農業恐慌と相まって、農家は窮乏のどん底にあえぎ続け、東北、北海道の貧農の家では、若い娘を売りとばす者が多かった。貧困につけ込んで、悪質な人身売買業者が暗躍した時代だった。
その日、雄一郎は釧路から札幌へ向う急行列車に乗務していた。
前から、ひどく貧しい身なりの若い娘と、連れの眼つきの悪い五十がらみの男の居るのに気はついていたのだが、別にそれほど気にもとめずに雄一郎は車掌室で乗務記録をつけていた。
と、突然、車掌室のドアが開き、あの娘が蒼《あお》ざめた顔をのぞかせた。
「すみません、車掌さん……お願い、助けてください……」
娘は両手を合せた。それからすぐ背後をふりかえり、追いかけてくる者の居ないことを確めて、するりと中へすべり込み、ドアを閉めて大きく肩であえいだ。
「どうしたんです、いったい……」
「あたし、人買いに売られたんです……」
余程おびえているらしく、全神経をドアの外に集中して、追手の足音を聞いている。
「あ奴《いつ》が、お酒飲んで寝ている間に逃げて来たんです、捕ったらあたし……お女郎にされてしまうんです……お願い、助けてください……」
「困ったなあ……」
雄一郎は判断に迷った。
逃がしてやりたくても、此処は走る列車の中である、次の停車駅まではまだ四十五分も時間があった。
廊下に靴音がした。娘の表情がさっと緊張した。靴音がドアの外に止まる。そしてドアが開いた。娘は体をこわばらせ、観念したように両手で顔を覆った。しかし、はいって来たのは車掌の佐々木だった。
佐々木は不思議そうな顔をして、娘と雄一郎を見比べていた。
「いや、別になんでもないんだ……」
雄一郎はようやく腹をきめた。
「佐々木君、すまんが、この人を小荷物の貨車の中へかくまってくれ……わけはあとで話す、いそぐんだ……」
「はあ……」
佐々木は狐《きつね》につままれたような顔をしていたが、とにかく言われるままに娘を連れて行った。
娘が立ち去って間もなく、雄一郎が客車内の見廻《みまわ》りに出掛けようとドアを開けたところへ、例の連れの男がかなり慌《あわ》てた様子でやって来た。
「おい、車掌さん、俺の連れを知らんか」
車掌室の中をうたがわしげな眼つきでのぞき込んだ。
「さあ、どういうお連れさんですか」
「ほら、さっき検札に来た時、見ただろう……若い娘……」
「さあ、何分にも大勢のお客さんのことですから……お連れさんがどうかなさいましたか」
雄一郎はとぼけた。
「いなくなっちまったんだよ、ちょっと睡《ねむ》っている間に、見えなくなったんだ……」
「便所じゃないんですか、そういえばさっきから、向うに一つ、開かないのがありましたよ」
「おッ、そうか、そいつだ……どこだい車掌さん……」
「二つか三つ向うの客車です」
雄一郎はわざと小荷物車と反対の方の客車を教えた。
「そうか、ありがとう」
男はいそいで走って行った。
しばらくすると、男がまた戻って来た。
「居ねえよ、どこにも居ねえ……」
「おかしいですねえ……もしかすると、途中下車されたのではありませんか?」
「なにッ……畜生ッ……おい、帯広からこっちはどこへ停車したんだ……」
「帯広からですか……」
雄一郎は、わざとのんびりした仕草で時刻表を取り出した。
「ええと……富良野《ふらの》ですな……」
「フラノ……そこからどっかへ行けるかね……つまり、のりかえはねえかってことだよ」
「そうですね……二十四分の待ち合せで旭川行があります」
「旭川……そいつだッ……そいつでずらかりやがったな……」
男は唇を噛《か》みしめた。
「おい、車掌さん、すまねえが大いそぎで汽車を止めてくれ、次の駅はどこだね」
「この列車は急行ですから、滝川までは止りません。あと四十分で到着ですから、それまでお待ちねがいます」
「あと四十分ッ」
男はとび上った。
「じょ、冗談じゃねえや、その間に大事なタマに逃げられちまわあ……よう、車掌さんよ、なんとかならねえかよう……」
「残念ですが、規定ですので……」
雄一郎は冷めたく言った。
37
ふとしたことで、人身売買業者の手から雄一郎が救い出すことになってしまった娘の名は中田加代といい、年は十八だった。
雄一郎は加代を家へ連れて帰った。
厚岸《あつけし》にある両親の許へ帰れば、貧しい小作人で、家中が粥《かゆ》もろくにすすれないという生活状態なので、又、売られてしまうことは確実である。
雄一郎は加代のために、釧路で働き口をさがしてやらねばならなかった。しかし、どこもここも不景気風の吹きまくる御時世ではおいそれと職も見つからなかった。
加代は口数の少い、おとなしい子だったが、よく気がついて、すすんで家事を手伝ったり秀夫のお守りをしたりする。
有里もそんな加代をいじらしがって、自分の着物を与えたり、なにかにつけて面倒をみてやった。
家へ来て半月目に、隣りの岡井よし子が、釧路で一膳飯屋《いちぜんめしや》をしている店で下働きを欲しがっているという話を持って来てくれた。
客相手の商売では、と雄一郎も有里も案じたが、加代は自分からのぞんで、その店に住み込むことになった。
加代の器量が比較的良いことも、この場合先方の気に入られ、思ったより早く就職することが出来たのである。
加代の身許引受人になっている立場からも、雄一郎はなにかにつけて、一膳飯屋へ加代の様子を見に行った。
店が港に近いため、立ち寄る客も船員とか荷揚げ人足などが割合多い。そんな連中にもまれるせいか、加代は日がたつにつれ、みるみる女っぽさを増して行った。
その夜も、雄一郎は勤めの帰りに加代の居る店へ寄った。
風邪でもひいたのか、ちょっと寒けがするので熱燗《あつかん》と柳葉魚《ししやも》の焼いたの、それに豚汁《とんじる》を註文した。柳葉魚は特に釧路の名物で味も良い。アイヌ人たちが神の木とあがめる柳の葉が、水中に落ちて魚になったという伝説の美しい魚だった。
近頃、雄一郎の顔を見ると、加代がひどく嬉しそうな表情をする。時には妙に上気していることもある。それでも雄一郎は、一向に加代の気持の変化に気がつかなかった。
彼を見て嬉しそうにするのは、ようやく仕事に馴《な》れて来たせいだと思っていた。
加代が註文の酒を運んで来た。
「お待ちどおさま……」
酌をしようとするのを、
「いいよ、手酌でするから……」
そう言って、彼女の手から銚子《ちようし》を取った。
「奥さんでなくてすみません」
加代が嫉妬《しつと》するような眼つきをしたので雄一郎は吃驚《びつくり》した。
「なんだ、お前……」
まじまじと加代の顔を見た。
「いったい、いつ、そんな台詞《せりふ》をおぼえたんだ……」
「いやーダ……」
恥かしそうに顔をかくしたその仕草が、また、ばかに女っぽい色気がある。
「おたまじゃくしだっていつか蛙《かえる》になるでしょう……私だっていつまでも子供じゃいませんよ」
「うん、それもそうだ……」
雄一郎は言葉を失って、口をつぐんだ。
「お酒、もう一本持って来ましょうか?」
「うん、そうしてくれ……」
調理場の方へ行く加代の後姿を眺めながら、雄一郎はこの娘の将来のことが急に心配になりだした。
雄一郎は、ふと、いつか三千代のことを訪ねて行った、東京|池之端《いけのはた》の『みゆき』という小料理屋のことを思い出した。
あの時、三千代と思って訪ねた相手は、まったくの別人だった。
しかし、あの時出て来た女の年齢といい、態度といい、雄一郎にはどうも納得の行かない節があって、その後、東京の関根重彦に一度探ってみて欲しいと手紙で頼んでおいた。
関根は今、東鉄の旅客掛長をしているらしい。
鉄道の大きな流れの中心で働いている関根と、地方の末端に蠢《うごめ》いている自分と、比較しても仕方がないとわかっていながら、今夜の雄一郎は少々わびしかった。
それでも、酒はいい加減できり上げ、食事をすませて家に帰った。
秀夫はとっくに寝てしまい、有里は奥で縫い物をしているのか、雄一郎がはいって来たことに気づかなかった。
「こら、不用心だぞ、玄関のあける音にも気がつかんようじゃ……」
「あら、ごめんなさい、ちっとも知らなかったわ……」
有里はいそいそと立って夫の着換えを手伝った。
「すぐ食事になさいます……それとも銭湯の方が先……?」
「飯はすんだ、一休みしたら風呂へ行くよ」
「あら……」
有里はちょっと表情を曇らした。
「もうすんだんですか……」
「ああ、加代ちゃんの働いている店へ様子を見に寄ったついでにすませた……」
「そうですか……」
有里は雄一郎が着物に着換え終ると、茶の間に用意しておいた食膳を片づけ、台所で一人そっと食事を始めた。
「なんだ、飯まだだったのか……」
不愉快そうな顔をして、雄一郎が言った。
「ええ、あなたと一緒にと思って……今日はお帰りが早いとばかり思っていたから……」
「なんだ、皮肉か……?」
雄一郎がじろりと有里を見た。
「いいえ、皮肉だなんて……」
驚いて夫を見上げた。
「たまに外で飯くってくるのを、一々文句いわれちゃたまらんよ、時間が来たらさっさと飯をすませてくれ……」
「はい、すみません……でも、私、別に文句なんか言ってやしませんよ」
「口で言わんでも態度に出せばおんなじことだ……」
「態度にだって出るはずがありません、そんなこと思ってもいないんですもの……」
「こんな時間に飯も食わんで待っているのは嫌味だよ」
「だって、そんな……」
しかし、有里にも夫の虫の居所が悪いことにようやく気がついた。こんな時にはそっとしておくにかぎるのだ。
有里が黙ってしまうと、
「風呂へ行ってくる……」
手拭《てぬぐい》をつかんで、ぷいと外へ出て行ってしまった。
いつまでもあとを引くことはないが、雄一郎にも時々こうしたことがあった。
ひどく疲れたときとか、仕事がうまく行かない時などである。雄一郎自身もそれは良くわかっているのだが、だからといって、その気持をすぐ処理してしまうことも出来なかった。
結局、いちばん被害を受けるのが有里だったのだ。
たった一人で、冷えきった食事をしていると、有里はふっと悲しくなった。その悲しさがだんだん濃くなってきて、やがて、声をしのんで有里は泣きだした。
そんなことがあって、二、三日した夕方だった。
有里が晩のおかずを買いに行った帰りがけ、家の近くの風呂屋の前で、有里は若い男から突然声をかけられた。
「あんた、室伏雄一郎の女房かい?」
年は二十二、三だろうか。一見して堅気な仕事をしている者でないことがわかった。
「ちょっとそこまでツキ合ってくんねえか……」
「いったい何んの用なの……」
有里は誰かに助けを求めようかどうしようかと迷いながら、あたりを見回した。
「別に用ってほどのことじゃねえんだけどよ……実は、加代って女のことであんたにちょっと話しがあるんだよ」
嫌な眼つきで、下から睨《ね》めつけるようにして言った。
男の左の頬骨《ほおぼね》から眼の下にかけて、くっきりと長い一本の傷痕《きずあと》があった。夕陽をあびて、男の傷のある顔は、ひどく凄惨《せいさん》に見えた。
角川文庫『旅路(中)』平成元年1月20日初版発行
平成11年4月20日14版発行