平岩弓枝
旅路(上)
大正十四年十一月の或《あ》る晴れわたった朝、北海道|手宮《てみや》駅で貨物掛をしている室伏雄一郎は、真新しい紺のラシャ服に身をかため、父と母の二つの骨壺《こつつぼ》の入った旅行|鞄《かばん》をさげて函館《はこだて》本線の乗客となった。
その行先は、父母の故郷の南紀州の尾鷲《おわせ》というところで、尾鷲には父の兄にあたる伯父夫婦がまだ健在だった。
雄一郎の住む北海道|小樽《おたる》市にほど近い塩谷《しおや》から函館までがざっと九時間、青函《せいかん》連絡船の待合せに一時間ばかりかかり、津軽《つがる》海峡を渡って今度は青森から仙台行の列車に乗った時はすでに深夜だった。東京の上野駅に着いたのは翌日の午後七時、塩谷を出てからここまで約四十時間かかった。
たった十日間の休暇では東京でゆっくり休んでいる暇はない。直ちに、上野から東京駅へ行って東海道線に乗り継ぐと、亀山《かめやま》着が翌日の正午、更に乗りかえて相可口《おうかぐち》(現在の多気《たき》を当時はそう呼んだ)を経て鳥羽《とば》まで行き、鳥羽の港から尾鷲へ向う船へ乗った。
遠く熊野《くまの》の山々を背にして、海へ向った尾鷲の町は、まだしんと寝静まっている。
尾鷲でいったん船を降り、そこから又小さな船に乗り換えて須賀利《すがり》という漁村へ向った。
生れてはじめて見る紀州の海は、ふだん見馴《みな》れた小樽の海にくらべると、眼のさめるほど明るく優しい印象を雄一郎に与えた。
(この海で、父が産まれたのか、母が育ったのか……。この海が父母の故郷《ふるさと》なのか……)
雄一郎はじっと海をみつめていた。今は亡き父母の面影が波間に揺れている。
ふと気がついて、雄一郎は旅行鞄から両親の骨箱を出し、胸に抱いて甲板へ出た。
「親父さん……故郷へ帰って来たんだよ!……おっ母さん、あんなに言っていた紀州へ連れて来てやったんだぜ……」
胸の中で、雄一郎はそっと骨箱の両親に話しかけた。
父の嘉一が鰊《にしん》漁の操業中、海へ落ちて死んだのは今から十年前、雄一郎が十歳のときだった。嘉一は故郷の須賀利を出て亡くなるまでの二十五年間、ただの一度も此地には帰らなかった。五年前に胃潰瘍《いかいよう》で死んだ母のしのにしても同様である。
晩年のしのは、亡くなるその日まで、紀州の生れ故郷である小さな漁村へ夫の骨を抱いて帰ることを夢見ていた。
「なあ、はる子……紀州へ行くとき、むこうの親類への手土産はなにがよかろうのう……」
札幌《さつぽろ》の鉄道病院のベッドの上でしのは、看護をする雄一郎の姉のはる子にうわ言のように繰返した。
「やっぱり、北海道の名産みたいなものがええかのう……」
そんな母の言葉を思い出すたびに、雄一郎は一日も早く父母の骨を須賀利にある室伏家先祖代々の墓所に納めてやりたいと思うのだが、その頃、やっと電信科の試験に通り本採用されたばかりで、なかなか思うようには行かなかった。
眼の前に、その須賀利の緑豊かな山々や、キラキラと陽《ひ》に輝く村の家々の屋根が近づいてくる。ここが父と母の生れ故郷だった。
(とうとうやって来た!)
長いあいだ抱きつづけてきた望みだっただけに、雄一郎の胸には何か急に熱いものがこみあげてきた。
白い水鳥が船の舳先《へさき》をかすめて翔《と》んで行く。その翼が水色に染まりそうなほど、青く澄みわたった空だった。
伯父の室伏久夫は須賀利で網元をしていた。漁船も何|艘《そう》か持ち、雄一郎が想像していたより裕福な生活のようであった。
雄一郎が訪ねて行くことは、すでにはる子から手紙で知らせてあり、伯父も伯母も、このはじめて見る甥《おい》っ子を心から歓待してくれた。
一応、伯父の家に落着き、ひととおりの挨拶《あいさつ》をすますと、雄一郎はすぐ両親の骨壺《こつつぼ》を抱いて室伏家の菩提寺《ぼだいじ》をおとずれた。
「嘉一さんもおしのさんも、とうとう骨になって故郷へ戻って来なすったか。この土地を出て行くときは、二人ともまだ夫婦になったばかりで、ぴんぴんしとられたがのう……」
寺の老住職は二つの小さな骨壺に合掌し、黙祷《もくとう》した。
「せめて、母だけでも生きているうちに帰らせてやりたかったと思います」
「うん、うん……」
老僧は深くうなずいたが、すぐ眼をあげて、
「しかし、まあ、あんさんがえろう立派になって二人のかわりに帰って来なすったで……きっと、御先祖様がたも喜んでいなさることじゃろう」
一語一語、雄一郎の胸に刻みつけるように言った。
夜、伯父夫婦は雄一郎を炉端《ろばた》に据え、次から次と酒と肴《さかな》の御馳走《ごちそう》攻めにした。伯父夫婦には子供が無い。北海道からやってくる珍客のために、一週間も前からいろいろ準備をし、楽しみに待っていたのだった。
話題はやはり亡くなった嘉一としのの事、北海道のこと、雄一郎の仕事のことなどで、伯父も伯母も同じ質問を何度でもし、そして雄一郎は何度でもそれに答えた。
伯父はかなり酒好きだった。父はあまり飲めないほうだったのに、雄一郎は酒に強い。
(もしかしたら、俺は伯父さんのほうの系統かもしれない……)
飲めば飲むほど上機嫌になって行く伯父の顔を眺めながら、雄一郎はふとそんなことを考えた。
伯父は嘉一よりも小柄で肥っていたが、声の調子も顔だちも父によく似ていた。話に熱中しているうちに、なんだか父と話しているような錯覚におちいることもしばしばだった。伯父の声がいつの間にか父の声になり、雄一郎も十歳の子供の頃にかえって、十年前の囲炉裏端《いろりばた》での一家|団欒《だんらん》の光景に変って行った。
「雄一郎、お前大きくなったら何ンになるんじゃ」
「俺《おれ》か……俺、大きくなったら鉄道員になる……学校出たら鉄道に入って機関手になる」
雄一郎は立派な機関手になったつもりで、汽車の排気音から警笛まで全部一人でやって炉端の線路を走り回った。
「これ、雄一郎止めんか、危い……」
しのが眉《まゆ》をひそめるのを制して、嘉一は、
「まあええわ放っとけ……塩谷の南部駅長さんが言っとった、鉄道は貧乏人でも勉強次第でいくらでもえらくなれるんやと……雄一郎、機関手になるんじゃったらうんと勉強せないかんぞ」
嬉《うれ》しそうに眼を細めながら激励する。
「ああ、俺ア、きっと機関手になる……」
雄一郎はますます図にのって、炉端を駈《か》け回った。
嘉一が、そんな息子の様子をさも頼もしげに眺めるのには理由があった。彼は元々、若い頃から機関手にあこがれていた。だが、それは彼が左足の関節炎を患ったことにより断念せざるを得なかった。その夢を彼は息子に托《たく》しているといえば少し大袈裟《おおげさ》だが、すくなくとも、雄一郎が鉄道に入りたい考えを持っていることを喜んでいるのは確かだった。
雄一郎は父の死んだ日のことを思い出す。春とはいえ、まだ氷のように冷《つ》めたい北の海に落ちた父の遺骸《いがい》は、大勢の仲間たちの手によって家に運び込まれた。
変りはてた父の遺体にとりすがって泣いている母や妹たちを残して、突然、雄一郎は近くの浜辺へ駈け出して行った。姉のはる子が気がついて後を追ったが、追いつけなかった。
浜辺には父の生命を奪った波が、いつもと変りない何食わぬ顔で打ち寄せていた。
雄一郎の胸に哀《かな》しみが突き上げてきた。が、歯をくいしばって、彼はそれに耐えた。大きな海と向いあい、すっくと立っていた。
はる子がようやく浜辺の雄一郎を見つけたとき、彼は海に向って何か大声で叫んでいた。
「お父う……俺は機関手になる……誰にも負けない……誰にも負けない……」
声は途中で泣き声に変った。
「機関手になる……お父う……お父うッ……」
あれからもう十年、雄一郎は機関手にこそならなかったが、少年の日の希望どおり鉄道で働く身の上である。
「がんばれよう、うんと勉強してえらい人間になるんだぞ……」
雄一郎には、そんな父の声が聞えるような気がした。
「しかし、まあ、嘉一の奴《やつ》も苦労ばっかりして死んだようなもんだが……雄一郎がこんな立派な息子になって、ほんまに地下で涙ながして喜んどるやろ……」
伯父の声で、雄一郎はふと現実に引きもどされた。
「どうしたんや雄一郎はん、もっと飲みいな……」
伯母が向う側から笑いながら雄一郎の顔をのぞきこんでいた。
「さ、盃《さかずき》をあけて」
「はい、いただきます」
雄一郎は一息に盃をほした。
「そうそう……あんた、いつぞやおしのさんから手紙で頼まれとったことがおましたやないか」
伯母が急に思いついたように言って、伯父の膝《ひざ》をつついた。
「なんやったかいな」
「なんやったかいなじゃないがな……ほれ、雄一郎はんのことで……ほれ……」
伯母が伯父の耳に何事か囁《ささや》いた。
「ふむ、そうやったなあ……」
伯父もようやく思いだしたらしく、意味ありげな微笑を雄一郎に向けた。
「何んですか、母がお願いしたことって?」
「あんさんのな、お嫁はん探し、頼まれてまんねん」
伯母はにこにこ笑っている。
「嫁さん……?」
雄一郎は眼をむいた。
「あんさん、今年で幾つにならはりましてん……」
「僕はまだ……二十歳《はたち》ですよ、嫁さんだなんてそんな……」
「そんでも、来年は二十一やでのう、この辺の若い衆は二十一、二で嫁はん貰ろうん、たんとあるさかいに……雄一郎はんかて、決して早いことおまへんえ……なあ、あんた」
伯母は伯父に同意を求めた。
「そりゃ……嫁とり婿とりは縁次第やけどなア、遅いより早い方がええもんや、お前は長男やしのう」
「なあ、あんた、ほれ、この前、話のあった尾鷲の中里はんとこの嬢《とう》はんなア……あれ、雄一郎はんにどうやろう?」
「まあなア……中里の嬢はんじゃ、ちと身分が違いすぎるさかいに……」
「そんでも、むこうさんもちっと遅れてるのやし……雄一郎はんはれっきとした鉄道員やないか」
「ふうん……それもそうやのう……」
「あんた、一遍きいてみたらどうなの」
「そうやな」
伯父と伯母の間で話がどんどん進んでいくのをみて雄一郎は慌《あわ》てた。
「お、伯母さん……」
「まあ、ええがの……こういう話は大人にまかしとくもんや」
「それだって……」
「まあええ、まあええ……」
伯父までが伯母と調子を合せて、雄一郎の抗議に耳をかそうともしない。
(紀州の人は気が早いんかな……)
雄一郎はあっけにとられて、伯父夫婦の顔を見守るばかりだった。
瓢箪《ひようたん》から駒《こま》が出る、という。
歿《な》くなった母が、いつ、そんな依頼を伯父夫婦にしたのか、雄一郎には想像もつかなかったのだが、この人の好い伯父夫婦はすっかり雄一郎を気に入って、この甥《おい》の嫁の世話は、なんとしても自分たちの手で、と思いこんでしまっていた。
話は、雄一郎の知らない所でどんどん進んだらしく、翌日、尾鷲《おわせ》へ出かけた伯父は、やがて鬼の首をとったような勢いで帰って来た。
「先方は大乗気でのう、とにかく、見合だけでもと言うてなさるんや。なんなら、明日にでも、お屋敷の方へというて来たが……」
「冗談《じようだん》じゃありませんよ、見合だなんて……そんな……」
雄一郎は口をとがらせた。
「まあ、そう言いなさるな、中里はんというたら、尾鷲一番のええお家や……山林をようけに持っとってのう、大阪中の材木問屋のあらかたと取り引きがあんなさるそうや……縁談のおかたは、その中里はんの上の娘はんでのう、年は二十三、ちいっとあんさんより年上じゃが、世間にはよくある例やし……お家柄じゃけん、お人柄もおっとりしていて、なかなかいい器量の娘はんや……」
伯母にそう言われると、雄一郎としても絶対にいやだとは言えなくなる。
「実のところをいうとのう、ほんまなら、とても、うちとこなんぞに縁談の来る相手やあらへん……けど……その中里はんが、ちょうど五年ほど前に先代はんが急死されて、そのあと、御当代はんはまだお若いよってに……悪い番頭がいいように帳簿をよこしましてしまいよってのう……そいで、少々、身代が悪うなってしもうたんやね……ま、悪うなったというても、うちとこなんぞとは桁《けた》違いの大金持やで、なんということはあらへん……それと……上の娘はんは子供のころに病気がちやったとかで、ちっと縁談が遅うなっとってのう……兄さんに当る御当代はんが、ま、身分なんぞより、人物のしっかりした相手と早う縁組させたい言うてはるもんやさかいに……騙《だま》された思うて、いっぺん逢うてみ。見合いうたら大袈裟《おおげさ》やけんど、ただお座敷へ挨拶《あいさつ》に行って、娘はんの顔見てくるだけやと思うたらええんや、な、そうしてえな、お前が行ってくれはらへんと、間に立ってくれた人にわしの顔がたたんよってな……」
伯父に掻口説《かきくど》かれて、雄一郎は途方にくれた。
翌日、雄一郎は紋付羽織|袴《はかま》に威儀を正した伯父に連れられて、なかば強制的に尾鷲へ向った。
無論、結婚の意志はまるでない。
雄一郎の胸には、幼馴染みで、塩谷の南部駅長の孫娘三千代への失恋の痛手が、まだ、くすぶっていたし、まして、今日の相手が尾鷲一の名家の令嬢と聞いてはそれだけで、自分とは無縁の存在に思われた。
(まあ、いいさ、どんな令嬢があらわれるか、見るだけはみてやろう……)
塩谷で待っている姉や妹へ、愉快な土産話が出来る。雄一郎は、ふてぶてしく構えていた。
尾鷲へは船に乗る。
伯父の家の若い衆が櫓《ろ》を漕《こ》いだ。
「うっかりして訊《き》くのを忘れたんやが、現在のところ、好きな女子《おなご》や約束した女子はおらんのやろな……」
伯父が心細そうな声を出した。
いままでは夢中で見合の段取りにとび回っていたが、急にそのことに気がつき、はっとしたらしい。迂闊《うかつ》といえば、こんな迂闊な話はない。
雄一郎は、わざとそれには答えず、苦笑していた。
「え、どんなんや……そんなもんあらへんのやろ」
「はあ……別に……」
「そうか、そうか……」
伯父はほっとしたように相好をくずした。
「たぶんそうやろうとは思うたんじゃが、なんだか急に心配になりだしたもんでのう……」
雄一郎は黙って眼を沖に向けた。
水平線の上に、まるで春のような雲が浮いている……。
柔らかく、まるいその雲の形が、雄一郎に三千代のことを想い出させた。
雄一郎が三千代に初めて会ったのは、まだ、彼が小学校の二、三年の頃だった。三千代は学校へ行くか行かない位だったろう。
三千代の母は塩谷駅長南部斉五郎の一人娘で、東京の銀行員に嫁いでいたが、夫が満洲へ転勤になるので、その前に三千代を連れて塩谷へ帰って来たのである。
雄一郎は都会育ちのこの少女に秘かに豆狸≠ニいう仇名をつけた。
二度目に会った時、雄一郎は南部駅長の勧めに従い、塩谷駅で駅手見習として働いていた。駅手見習は無給である。毎日毎日水くみや便所掃除ばかりやらされていた。
三千代は見違えるように娘らしくなり、母の遺骨を抱いて塩谷駅に降り立った。母の静子が満洲で病気になり、東京で療養中死亡した、その死の間際《まぎわ》の遺言で塩谷に分骨することになったのだそうである。
この時は、雄一郎はつとめて駅長官舎にいる三千代を避けていた。小倉服《こくらふく》を着て、便所掃除や水汲《みずく》みをし、駅長に大飯ぐいと怒鳴られてばかりいる自分の姿を、彼女にだけは見られたくないという気持が強く働いていた。
ところが、どうしてそんなことになったのか、妙なことから、雄一郎は三千代に恋文を出す破目になってしまった。
雄一郎の小学校の友だちに遠藤という男がいて、その男が三千代にすっかり熱をあげてしまった。彼は雄一郎に恋文の代筆を頼みに来た。雄一郎は遠藤が惚《ほ》れた相手が三千代と知ると、その恋文の代筆を引き受け、自分自身の三千代への気持を綿々と書き綴ったのだ。恋文の作者が雄一郎だということは、すぐに三千代にばれてしまった。三千代に問いつめられて、遠藤が喋《しやべ》ってしまったからである。しかし、三千代は怒らなかった。それどころか、逆に雄一郎にたいして好意さえ持っているらしいことが分った。が、それも束の間、別離はすぐにやって来た。三千代は東京へ帰らなければならなくなったのだ。そのことを三千代は浜辺で雄一郎に告げ、そして泣いた。
雄一郎は言葉を失った。手をのばして三千代のふるえている肩に触れたいと思った。しかし、彼が起した行動は、足許の石を拾い、力一杯、海へ向って投げることだった。一つ、また一つ、おだやかな波の上に、石は線を引いてとび、白いしぶきをあげた。
そして三度目、恋文のことがあって五年ぶりに、三千代が東京から帰って来た。三千代は更に美しくなっていた。
雄一郎は、そのとき、通信科の試験にパスして、駅手見習ではなく、一人前の雇員として手宮駅で働いていた。彼の心には、なつかしさと同時に、五年間、心ひそかにあたためていた三千代へのほのかな愛があった。だが、三千代の態度は雄一郎の期待をよそに、どこかよそよそしかった。
三千代には、ちょうどその頃父方の祖父母のすすめる縁談が起っていた。相手は帝大を首席で卒業した秀才で、東京でも一流の銀行に就職している男だった。しかも彼の父は、その銀行の支店長だという。家柄といい才能といい申し分なかった。
しかし、三千代はこの縁談に気乗り薄だった。実は彼女もこの五年間、雄一郎の愛を心の支えにしてきたのである。が、二人とも、自分の気持を思いのままに表現するには、まだ恋の技術が未熟すぎた。
二人とも、おたがいに好意をよせ合っているのに、言葉のやりとりがつい、ちぐはぐに心を遠ざけてしまう。
三千代は遂に東京へ去った。
彼女の乗った列車が、細長く煙を吐いて、雄一郎の視界から全く消え去ったとき、雄一郎の心の中に、ぽっかりと穴があいた。
三千代が結婚したという噂《うわさ》を、雄一郎が風のたよりに聞いたのは、その翌年の春だった。
あれから、すでに一年半が経過している。
だが、このことは雄一郎にとっては、生れてはじめての失恋だったし、また折にふれて、はげしい悔恨《かいこん》をともなって疼《うず》いた。
中里家は、尾鷲《おわせ》の町の中心にあった。
如何にも、代々続いた由緒ある名家らしく、門構えも立派で、趣きがあった。
この辺の人々は中里の家のことを、中里のお城≠ニ呼ぶ、まことに城とよぶにふさわしい家構えであった。
肩をすぼめるようにして潜戸を入る伯父のあとから、雄一郎は、のんきな顔でついて行った。
中庭に面した長い廊下を抜け、二人は客間へ通された。部屋は昔ながらの書院風だが、畳に分厚いペルシャ絨毯《じゆうたん》を敷きつめ、その上に黒檀《こくたん》の椅子《いす》とテーブルをでんと置いてあった。
部屋に香を焚《た》き染ませてあるのか、どこからともなく、ふくよかな芳香がただよってくる。
「立派なお屋敷や……」
伯父が眼をまるくして、嘆声をもらした。
「ほれ、その違い棚の上の時計みてみい……ありゃア、舶来やで……戸棚の戸オは螺鈿《らでん》や……ほう、結構なお道具使うてる……腐っても鯛《たい》や……」
そのとき、廊下に足音がしたので、伯父はあわてて居ずまいを正した。
障子が開き、女中がうやうやしく茶菓を捧げ、二人にすすめると、ていねいにお辞儀《じぎ》をして出て行った。
「こりゃア、羊羹《ようかん》やな……上等のもんや、色がなんとも言えんのう……」
雄一郎には当り前の羊羹にしか見えないのだが、伯父はためつすがめつして、ただ唸《うな》るばかりだった。
ふたたび廊下に足音がして、これも紋付に羽織袴《はかま》の、鼻下に髯《ひげ》をたくわえた、かなり恰幅《かつぷく》のいい男が入って来た。
「やあ、ようお出でなした……」
この家の主人かと思い、雄一郎がいそいで立ちあがると、
「こりゃあ、浦辺はん……どうもこの度はえらいお骨折なことで……雄一郎、村会議員の浦辺友之助はんじゃ……」
伯父が二人を紹介した。
「甥《おい》の室伏雄一郎ですねん、何分よろしうお頼申《たのもう》しますがな」
「どうぞよろしく」
「浦辺だす……」
男は鷹揚《おうよう》に会釈を返した。
顔の造作が大きく、おまけに陽焼《ひや》けしているので、あまり品のいい顔立ちとはいえなかったが、いかにも世話好きな人の好さそうなところがある。
「鉄道につとめてなさるいうこってすな」
人なつっこい笑顔をみせた。
「はあ、北海道の手宮駅に居ります」
「手宮……?」
「小樽《おたる》のすぐ近くです」
「はあはあ……」
分ったのか分らないのか、浦辺は曖昧《あいまい》に頷《うなず》いた。
廊下で足音がした。
今度こそ主人かと緊張すると、先刻の女中があらわれ、
「申しわけございません、浦辺様……ちょっと」
浦辺を呼んだ。
「わしか……?」
浦辺が廊下へ出ると、女中が何かひそひそ囁《ささや》いているようである。どうやら、奥で面倒なことが起っているらしい。はっきりとそうは聞こえないが、女中と浦辺の声の調子から、雄一郎はたぶんそうだろうと察した。主人がなかなか現われないのも変である。
ちらと伯父を見ると、彼もはっきり不安そうな表情を浮かべていた。
「どうもどうも……」
浦辺が戻って来た。
さり気無い顔はしているが、明らかに動揺している。
「えらいお待たせして……なんせ、女の人のお化粧ちゅうのは、えらい暇のかかるもんでのう……もうちっと猶予してくれいうこってすわ」
おもむろに煙管《きせる》を取出して煙草を吸いはじめた。
「そらまあ、えらい念の入ったお化粧をしてはるのやなア……」
伯父は雄一郎の気持を引き立てるため、わざと冗談《じようだん》めいた言いかたをした。
「そらそうや、一世一代の見せ場やもんな」
浦辺が笑った。
雄一郎は笑う気になれなかった。
むっつりと、鴨居《かもい》に懸《か》けられた『巧偽不如拙誠』の扁額を見つめていた。
そのうち、伯父も黙り、浦辺は時間を持てあまして、煙草を吸い、灰叩《はいたた》きを鳴らしてはわざとらしく咳《せき》ばらいばかりしていた。
(だから来なければ良かったんだ……貴重な一日を無駄に費《つか》ってしまった……)
しかし、一旦、来てしまったからには、勝手に帰ってしまうわけにもゆかない。雄一郎は次第に苛立《いらだ》ちを感じはじめた。
と、そんな彼の耳に、どこからともなく、優しい琴の音が聞えてきた。
意識的かどうかは分らぬが、重苦しい部屋の空気が、その琴の調べで動きだした。
「ほう、お琴じゃのう……」
伯父の唇《くちびる》に微笑が浮かんだ。
「なにせ、趣味のええ家じゃで……」
浦辺がほっとしたように言った。
雄一郎はじっと琴の音に聴き入った。
その頃、中里家の奥の居間では、苦い顔をした当主の中里勇介と、これも不機嫌な顔の勇介の母のみちが向い合っていた。
今日の雄一郎の見合の相手、弘子がすっかり化粧もすませ盛装して、すこし離れた部屋の隅で、二人の会話をまるで他人事のように聞いていた。
「それじゃ、お母さんはこの縁談に反対だとおっしゃるんですか」
「反対ですよ……なんですか、尾鷲の中里家ともあろうものが、どこの馬の骨とも知れんような者《もん》と縁組みするなんて……」
「どこの馬の骨やありませんよ、須賀利の網元の、室伏久夫さんとこの甥ごさんです」
「身分違いですよ、あんな漁師あがりの甥っ子なんぞと……第一、弘子がかわいそうです」
「縁組は身分じゃありません、人物さえしっかりしとったら、それが一番です。浦辺さんの話では、北海道で鉄道員しとるということだし、なかなかしっかりした見所のある男だということです」
「仲人口なんぞ、あてになりませんよ」
「ですから、今日、逢《お》うてみるんじゃありませんか」
勇介は噛《か》んでふくめるように言った。
「それも、見合というような固苦しいのと違って、気易く、顔見て話してみたらどうやということにしてあるんです。お母さんは二言目には身分違いとおっしゃいますけど、弘子が今日まで縁談がまとまらなんだのは、お母さん、あんたが高のぞみなさるからです……昔の中里家なら、それでもよろしいかもしれんが……お母さんも知っての通り、今の家はお父さんの時の全盛と違って、いろいろと苦しいのです、それを、お母さんも考えて下さらないと……」
「なに言うてるんや……」
みちは、きっとした。
「この家の内情が苦しうなったのは、みんなあんたの落度です、あんたに甲斐性《かいしよう》がないよってに、性悪《しようわる》の番頭にあんじょうまるめられてしもうて……」
「わたしはわたしなりに努力はしています……そんなことより弘子の縁談……」
「弘子は不同意ですよ」
みちは横を向いてしまった。
「お母さん……」
勇介は弘子を見た。
弘子は先刻と同じように、まるで他人事のような顔で着物の袂《たもと》をなぶっていた。
それまで緩やかだった琴の調子が、急に高くなった。
「うるさいのう……」
眉根に皺《しわ》を寄せて、みちは足音荒く障子を開けた。
「こんなときに悠長らしく琴なんぞ弾きくさって……」
みちは廊下へ甲高い声を張りあげた。
「有里《ゆり》……有里、やめんか……有里……」
ふっと、琴の音が跡絶えた。
尾鷲《おわせ》の中里家といえば、江戸時代から続いた素封家《そほうか》で、全盛の頃は、大阪まで他人の地所を通らないで行けると噂《うわさ》されるほどの山を持っていた。
それが先代の中里勝吉がそんな年でもないのに、脳溢血《のういつけつ》で急死したどさくさに、子飼の番頭が米相場に手を出して、店の金を流用し、莫大《ばくだい》な借金を作ってしまった。
以来、表向きは昔ながらの見得をはっているものの、内実は火の車という苦しい算段を、弱冠《じやつかん》二十五歳の勇介が寝食を忘れてたて直しに奔走している現状であった。しかし、先代の未亡人みちは今だに昔の夢が忘れられず、ことごとに息子の勇介にたてついたし、そんな母親に勇介もほとほと手を焼いている感じだった。
それが、たまたま、長女弘子の縁談で正面からぶつかり合ったのである。
そのとばっちりを受けた雄一郎こそいい面の皮で、長いあいだ待たされた挙句《あげく》のはて、
「それが……障りいうほどのことやおへんのやが……先代の未亡人が、えらい慎重なお人じゃよってに……弘子はんを会わす前に、もうちっと、室伏はんの家の事情のことなど聞きたいと、まあ、こう言わはってのう……」
浦辺を通じて伝えてきた。
「へえ……?」
伯父は拍子抜けしたように、呆然《ぼうぜん》と浦辺の顔を眺めている。
「すまんが、明日、もう一度出直して来てくれんか……それに、うっかりしとったが、どうも、今日は仏滅やそうな、お日柄も悪いよって……」
浦辺は言いにくそうに、つけ加えた。
「ほう、仏滅……そりゃそりゃ……」
なんだか要領を得ない話だったが、伯父の久夫がひたすら恐縮しているので、雄一郎は苦情も言えない。
翌日、伯父と二人で、再び出直してくると、中里家の玄関先で、浦辺友之助が待っていた。
「昨日は、えらいすまんことで……弘子はん、今、おめかしの最中でな、その間にあんたと少々、打合せをせんならんが……」
雄一郎の顔色をうかがいながら、
「どうや雄一郎はん、ぼんやり待ってるのもしんきなやろ、そこらを散歩して来てもらえんやろか……ちょうどこの先に、中里はんのお家《いえ》の大けな竹林があるでのう……あれだけの見事な竹はなかなか見られんで、そんなもんでも見物して来てもろうたらどうやろう思うとるんじゃが……」
と言った。
「いいですよ、お邪魔なら、竹林でも杉林でも見に行って来ます、ま、ゆっくり御相談下さい……」
雄一郎は内心、むかっ腹をたてたが、それでも伯父の立場を考えてそこを離れた。
しかし、尾鷲の自然はのどかで美しかった。
すすきが白い穂をみせている。秋の陽《ひ》が如何にも温く、道端に野菊が可憐に咲いていた。
広々とした畑のはずれに農家があり、その前庭で老人が一人、竹を磨いている。
「中里さんの竹林は……?」
と、尋ねると、
「この道を真っすぐ上ったらすぐや、どうせ下の畑に用があるさかい、案内してあげんしょう」
気軽に、そばにあった籠《かご》を肩にひっかけて先に立った。
竹林へ続く小道にも秋の陽が木の葉洩《も》れに、ちらちらと影を落していた。
明るい陽の光である。
道の傍に蘇鉄《そてつ》が茂っていた。
北国に生れ、北国に育った雄一郎の眼に、この南国育ちの樹木は、なんともエキゾチックに映った。
頭上に茂っている木の枝が次第に重なり合って、深くなった。
陽の光は気がつかない中に薄くなって、やがて昼なのに小暗い樹木のトンネルになった。
その突当りに木戸があった。
そこまでは、岩を抉《えぐ》った細道である。木戸を押すと、視界がぱっとひらけた。
「ほら、遠慮しとらんとお入り……」
老人は雄一郎を残して、下の畑へおりて行った。
なるほど、見事な竹林である。
秋の陽が幾筋も糸をひいて空間を流れている。なだらかな斜面から窪《くぼ》みにかけて、竹が見事に伸びていた。
風もなく、ひっそりとした午後なのに、竹林の中にはなにかが玲瓏《れいろう》と揺れていた。
竹の青に、空気が染まるようであった。光が、まるで水のようにあたりに漂って、あるかなきかの漣《さざなみ》を創り出している。
そこに立つと、雄一郎の心の中まで、竹の青が染みるようであった。
声をのみ、雄一郎は夢のように突っ立っていた。
眼を閉じると、さやさやと小さな笹《ささ》のさやぎが聞える。息をつめ、心を一つにして、雄一郎は竹の声を聞いていた。
ふと、竹の声の中に、別の足音が聞えた。
落葉をふんで、ゆっくりと竹の声の中を歩いてくる。小さな……小さな、かろやかな足音であった。
足音は、四阿《あずまや》の中の雄一郎に、全く気づいていないふうであった。
眼をあけて、雄一郎は竹林を見た。
ぎっしりと生え茂った竹の太い幹の間に、黒っぽい絣《かすり》の着物がちらと動いた。
続いて、赤い帯のはしが、みえた。
黒い髪と白い顔が、竹の青の中で、海の水のような青い空気の中で、ゆっくりと竹から竹へ、光の彩りの中を歩いている。
竹の精≠ェ若い娘の姿をして現れたのか、と雄一郎は幻覚した。
実際、その娘の現れ方は、あまりにも唐突で、夢幻的であった。まぼろしをみるように、雄一郎はその娘をみつめていた。
娘がはっと足をとめた。敏感に人の気配をさとったからだ。
そこに、声もなく突立って、自分をみつめている雄一郎に気づくと、娘の頬《ほお》にかすかな恥らいが浮かんだ。そして、そっと頭を下げると、そのまま、小走りに駈《か》けて行った。
「あ、ちょっと……」
雄一郎は声にならない声を出した。
が、娘にはその声が聞えたのか、木戸のところで立ち止り、ふりむいた。
まだ見送っている雄一郎を認めると、ちょっとはにかんだ微笑を浮かべ、すぐ、木戸の外へ消えた。
しばらく呆然《ぼうぜん》としていた雄一郎は、やがてはっと我にかえると、娘のあとを追って外へ出た。
農家の前庭で、先刻の老人がまた竹を磨いていた。雄一郎を見つけて、向うから声をかけた。
「どうやったね、ええ竹の林やったろが……」
「はあ……あのオ……今、僕が来る前に……竹の林から出て行った人がありませんでしたか、この道を通って……若い娘さんで……絣の着物をきて……赤い帯の……」
「ふん、それやったら、本家はんの娘はんや」
「本家……?」
「中里はんのお屋敷の娘はんやね……あのお人もえろうこの竹林が好きやでのう、子供の頃からよう来なした……竹と話をするんじゃ言いなすって、一日中、竹ん中に坐っておったりなア……」
「へえ、じゃあ、中里さんの……」
雄一郎の眼に、灯が点《とも》った。
老人への挨拶《あいさつ》もそこそこに、雄一郎は中里家へ駈け戻った。もはや、不快もなにも、どこかへ吹きとんでいた。
あの娘が、見合の相手だとしたら……。あの竹の精のような娘が……。
雄一郎は、もう一度、自分の眼で、しっかりと竹の精を捕えたかった。いや、なんとしても、もう一度あの竹の精に逢《あ》いたかった。
客間では、伯父の久夫と、村会議員の浦辺が雄一郎を待ちかねていた。
どうやら、浦辺の説得が功を奏して、とにかく、会うだけは会わせようと、弘子の母親のみちがようやく首をたてに振ったところであった。
雄一郎が席につくと、それから十分ほどして、女中を先導に、みち、弘子、勇介の順でしずしずと入って来た。
「ほなら、ご紹介させてもらいまっさ……」
浦辺が、もったいらしく咳《せき》ばらいを一つして、まず中里家のみちから勇介、弘子の順、次に、久夫、雄一郎と紹介していった。
雄一郎は弘子を見ていた。
(あの竹林の娘ではない……)
雄一郎の顔に、はっきりと失望の色が浮かんだ。
「雄一郎さんは鉄道へお勤めだそうで……」
当主の勇介が、まず口をきった。
「何年くらいにおなりですか?」
「はあ……もう五年になります」
「そうすると、失礼ですが、学校は……」
「はあ、高等小学校までです」
雄一郎は臆《おく》することなく答えた。
それにたいして、みちは露骨に軽蔑《けいべつ》の眼をした。
「まあ、小学校だけですか……」
「はあ……家が貧乏でしたし……父も居りませんでしたから……」
「お父さんはいつ歿《な》くなられたのです」
勇介が訊《き》いた。
「十年になります、僕が十歳の春でしたから……」
「お母さんもいらっしゃらないのですね」
「はあ……」
「ご兄弟は?」
「姉が一人、妹が一人です」
「まだ、ご縁談は?」
今度はみちが尋ねた。
「はあ……」
そのとき、不意にまた琴の音が聞えてきた。
雄一郎は、なんとなく、はっとして眼を庭へ移した。
「お姉さんのお年は……おいくつですねん……?」
みちが重ねて訊いた。
が、琴に気をとられていた雄一郎には、聞えなかった。
「お姉さん、おいくつ?」
「これ、雄一郎……」
伯父に膝《ひざ》を突かれて、雄一郎ははじめて我にかえった。
室伏雄一郎と中里家の長女、弘子との見合は、一方的な形で終った。
弘子の兄の勇介は、雄一郎の人柄にかなりの好意を持ったらしいが、先代の未亡人で、彼らの母に当るみちの態度はひどくそっけなかったし、言葉のはしはしには棘《とげ》さえあった。
だが、それにもまして雄一郎を失望させたのは、見合の相手が、あの竹林で見た娘ではなかったということだった。
「なあ、雄一郎、気い悪うせんといてな……」
伯父が言いにくそうに結果を告げた。
「中里はんの御当主はんは、もののわかったええお人やけど……あのお母はんでは纏《まと》まる話もわやや……ま、この縁談《はなし》、なかったことにしてえな」
「はあ、僕の方は一向にかまわんですよ……」
別に負けおしみでもなんでもない。もともと今度の縁談は、一生懸命の伯父への義理立てからだったのだ。
だが、それとは別に、雄一郎の心に懸ることがあった。
「伯父さん……中里さんの娘さんは、今日お会いした弘子さんというかただけですか」
「いいや、もう一人、お有里はんいう人が居やはるそうやが……」
「ゆ・り……」
「けどなあ、もう中里はんはあかん……姉《あね》はんがあかんのやし……それやったら妹はんというのもおかしいやないか」
「い、いや、別にそんな意味じゃないんですよ」
中里家の末娘についての話題はそれだけだった。
臨時に貰《もら》った、雄一郎の休暇もあとわずかになっていた。いよいよ明日は、なにがなんでも出発しようと荷物をまとめはじめた。
「なんせ、魚の他はなんにもない土地やさかい、ろくな土産ものうて気の毒やけど……」
そう言いながら、伯父と伯母は用意してあった土産物をうずたかく積みあげた。
「いやあ、いろいろお世話をかけてしまったうえ、こんなことをしていただいちゃあ……」
辞退したが、そんなことで引きさがる伯父や伯母ではない。
雄一郎の荷物は、みるみる、来たときの三倍くらいにふくれあがった。
「近いうちに、今度ははる子はんやお千枝はんにも来るように言うてえな、春の紀州もなかなかええもんや……桜も三月には咲くよってなあ……」
伯母のかねが名残りおしそうに言った。
夜、囲炉裏端《いろりばた》で、雄一郎が伯父の晩酌の相手をしていると、ひょっこり、村会議員の浦辺友之助が訪ねて来た。
「おや、なんでいま頃……」
不審そうな伯父夫婦に、
「それがのう……」
浦辺はかなり薄くなった頭をかいた。
「あれからいろいろ話をしたんじゃが……中里はんで、もう一度、当人同士、会わせて欲しい言わはるのや」
「そやかて、浦辺はん、あの縁談はもう……」
伯父と伯母は眼をまるくした。
「いや、わしは中里はんの様子を観て、もうあかん思うとったんじゃが、だんだん話を聞いてみると、むこうの兄さんの勇介はんがえらい乗り気やそうで……もう一遍、弘子はんと二人っきりで話し合うてみたらちゅうことになったんや……」
「へえ……そやったら、あの弘子はんが、雄一郎を気に入ったんと違うかいな」
「どうも、そんなとこやな……」
浦辺はにやにやした。
「雄一郎はんは、なかなかの男前じゃて、女子衆に好かれるんや……」
「しかし伯父さん、僕は……明日帰らなけりゃならんし……」
「いや、分っとる分っとる」
浦辺はまかせておけといった手振りをした。
「せめて出発の時間まで、尾鷲《おわせ》を弘子はんが案内するちゅうことでどうや」
「だけど、それでは……」
「ま、ええからええから……あんさんもいろいろ気に入らんこともあるじゃろうが、この浦辺友之助の顔をたてて、な、一時間ほど、尾鷲見物してえな……」
「雄一郎、そうしてやれ……」
伯父もそばから口をそえた。
結局、雄一郎は伯父や浦辺のいいなりになるより仕方がなかった。
尾鷲の港には、浦辺友之助といっしょに中里勇介が、妹の弘子をつれて待っていた。
そこから浦辺の家へ案内され、軽い食事をすませてから、弘子が雄一郎を案内するという段どりになっていた。
弘子は、美人は美人だが、線の細い神経質そうな娘だった。
「尾鷲いうても、なんにもない所なので……もう少し時間があると、この先の熊野へむいたほうに鬼の洞窟《どうくつ》なんたらいう見事な岩があるんやけど……」
あまり口をきこうとしない弘子にかわって、兄の勇介が一人で気をつかっていた。
雄一郎には、今日のことが弘子の意志ではなく、勇介の希望によって行なわれたのだということが一目で判った。
浦辺の計らいで、雄一郎は、弘子に岬へ案内してもらうことになった。そこは、尾鷲で一番眺めが良い所なのだそうだ。
一同に玄関まで見送られて、雄一郎と弘子は外へ出た。
「紀州というのは、いい所ですね、はじめてだけれどすっかり気に入りました……」
「そうですか……」
「あなた北海道へ来られたことおありですか」
「いいえ……」
肩を並べて歩いていても、弘子はどこか打ち解けないふうで、こうしていることじたい、多少迷惑な気配さえみえた。
だが、雄一郎はつとめて明るく振舞った。
「あの島、面白い形ですねえ……」
岬に立つと、熊野|灘《なだ》が一望のもとに見渡せる。その中に、ちょっと変った形の島を見つけて雄一郎はふりかえった。
「はあ……」
「名前あるんですか?」
「ええ……」
短かく答えるだけで、弘子は雄一郎の訊《き》かないことには触れようとはしなかった。しばらく待っても、それきりなので、雄一郎はもう一度訊いた。
「教えてください、何という島なんです」
「桃島《ももじま》っていいますの……」
「桃島……」
「ええ……」
「なるほど、桃みたいな形ですね」
「あの……風が冷めたくありません?」
気がつくと、弘子は寒そうに肩をすぼめている。海から吹きあげる風がこたえるらしかった。
「そうですね……」
雄一郎はむしろほっとした。
「戻りましょうか」
「ええ……」
頷《うなず》いたくせに、すぐ、
「どっちでも……」
と弘子はつけ加えた。
十日間の休暇が明日一日で切れるという日の朝、雄一郎は東京へ着いた。
ここでの目的は伊東栄吉に会うためだった。
伊東栄吉というのは、嘗《か》つての姉の恋人である。はる子はいまでも伊東が好きらしいのだが、その伊東からはこのところしばらく、何の音沙汰《おとさた》もなかった。
彼は、はる子と同じ小学校の幼な友達だった。高等小学校を卒業して鉄道へ入り、雄一郎と同様、塩谷駅の駅手見習からスタートして、倶知安《くつちやん》駅、小樽《おたる》駅と転勤し、たまたま北海道へ来ていた鉄道省の尾形政務次官にその人柄を認められて、現在、鉄道の大学ともいわれる東鉄教習所で勉強していた。
以前、彼が小樽駅に勤めていた頃、はる子と時々|逢《あ》っていたのを雄一郎も知っている。
伊東はいよいよ東京へ出発するということが決まると、思い切って、はる子に結婚を申し込んだが、それは、はる子が断った。理由は、病身の母とまだ一人前でない雄一郎、千枝を抱え、彼女が一家の支えとして働かなければならなかったからだ。
「君が結婚できる状態になるまで、ぼくはいつまでも待っているよ……」
そう言いのこして伊東は去った。
それから五年の歳月が流れた。
はじめのうち、伊東からはる子の許へ、頻繁に手紙が寄越された。が、いつの頃からか、それもばったり途だえてしまった。
はる子は思い切って上京したが、運の悪いことに、母のしのの病気が悪化して、とうとう伊東には逢えずじまいで帰らなくてはならなかった。
はる子の結婚のことは、歿くなった母もいつも気にかけていたことだったし、雄一郎も千枝もいつも心配していた。
雄一郎は、今度の旅行の途中伊東を訪ねて、彼の本当の気持を確かめるつもりであった。
東京駅に降り立った雄一郎は、すぐ、伊東の勤務している新橋運輸事務所へ電話をした。ところが、伊東は今日、休んでいるという。
止むなく、雄一郎は伊東が寄宿している神田駿河台《かんだするがだい》の尾形邸へむかった。
尾形清隆の屋敷は、すぐに分かった。
石塀のある思ったよりはるかに立派な邸宅だった。
案内を請うと、女中風の若い女が出てきて、一旦《いつたん》引っ込んだが、すぐに戻ってきて、
「どうぞこちらへ……」
鄭重《ていちよう》な物腰で、雄一郎を伊東の部屋にあてられているらしい別棟へ案内した。
その様子から、伊東がこの尾形邸で、かなり大切にあつかわれているらしいことがわかった。
六畳の和室はきちんと片づけられていて、机の上には花が飾ってある。座布団も花模様の派手なものだし、置き棚には、手造りらしい人形がおいてある。
それらに、雄一郎はこの部屋に始終出入りする、若い娘の影を感じた。
しばらくすると、和服姿の伊東が入ってきた。
「やあ、やっぱり君だったのか……」
伊東はとても懐しそうだった。雄一郎はほっとした。
「いつ、上京したんだ……」
「今朝です……十日間ばかり休暇がとれたので、両親の骨を紀州へおさめに行って来ました。その帰りなんです」
「そうか……、南部の親父さん変りないか」
「相変らずですよ」
南部の親父さんというのは、現手宮駅長、南部斉五郎のことである。雄一郎の初恋の女性、三千代の祖父だ。
誰をつかまえても「この大飯くい!」と怒鳴るのが珠《たま》に瑕《きず》だが、それをのぞけば、部下にとってはまるで慈父のように懐しい存在だった。伊東も南部駅長には、随分世話になった者の一人だった。
「新平|爺《じい》さんは……?」
「やっぱり、線路の神さまですよ、新平爺さんがいる限り札小《さつしよう》線に事故は起るまいって、みんな言っています」
新平爺さん。岡本新平は一介の線路工夫にすぎない。彼は夏でも冬でも、一年中線路を見回って歩く。彼の鋭い眼は、一本の犬釘《いぬくぎ》のゆるみをも見逃さない。
五年程前、塩谷《しおや》駅付近で雪崩のため線路が破壊され、あわや大事故になるのを防いだのも彼だった。
新平爺さんは、まるで雪だるまのようになって塩谷駅にかけ込み、当時の駅長、南部斉五郎に報告した。南部は直ちにそのことを電信で蘭島《らんしま》駅その他に連絡したのだった。
このことは、それまで機関手にだけあこがれていた雄一郎の眼を覚まさした。
汽車というものは機関手だけでは動かない。みんなが力を合せてこそ、はじめて機関車は動くのだ、ということに雄一郎はようやく気がついた。
「そうそう、新平爺さんの息子が機関庫にいますよ、目下見習中です」
「ほう……」
伊東は雄一郎のする故郷の話に、むさぼるように耳を傾けた。
廊下で人の足音がした。
「伊東さん……入ってもよろしい?」
若い女の声である。
「はあ、どうぞ……」
伊東が応《こた》えると、障子が開いて、紅茶茶碗《こうちやぢやわん》をのせた盆を持った娘の顔がのぞいた。
「いらっしゃいませ」
雄一郎に愛想のよい笑いを浮かべた。
「やあ、わざわざ恐縮です」
伊東が坐り直して言った。
「お茶なら、お千代さんに持たせてくれればよかったのに……」
「ええ、でも、伊東さんの大事なお客様のようだったから……」
娘は伊東の傍へ坐ると、改めて雄一郎に一礼した。
着物も帯もかなり高価なものを着ている。
「尾形さんのお嬢さんの和子さんだ……」
早口に言い、和子にも、
「同郷の室伏雄一郎君です」
と紹介した。
「室伏さんとおっしゃると……」
和子がちょっと思い出すような眼をした。
「いつか、此処へおいでになった方の弟さん……?」
「姉が……お会いしたんですか」
はる子はそんな事を一言も言わなかったが、もし会ったとすれば、この前、伊東に逢うため上京した時だろう。
「ええ……」
和子は、はにかんだように笑って、
「あの時は……ちょうど、伊東さんが大阪へ出張なさっていたんですの、ですから……」
ちらと、伊東を見あげた。
「うん、そうでした……」
伊東が、ふっと眼を伏せた。
和子が居る時の伊東の態度には、雄一郎への気がねからか、彼女が恩人の娘だからか、なんとなくぎこちなさが目立つ。
伊東が黙りこくっているので、雄一郎もつい言葉のきっかけを失って、黙りこんでしまった。
そんな部屋の空気を感じたのか、
「じゃ、ごゆっくり……」
和子もようやく腰をあげた。
伊東は何を考えているのか、和子が去ってしまっても、いつまでも黙然と紅茶を啜《すす》っていた。
(あの娘と伊東との関係はいったい何んなのだろう、ただの、恩人の娘と下宿人というだけだろうか……)
雄一郎は不安になった。
「伊東さん……、伊東さんはもう小樽へは帰らんのですか」
「いや、帰るつもりだったんだが……なかなか帰れないことになってしまってね」
「小樽では、伊東さんが、こちらの尾形さんに気に入られて、このまま中央に残られるのだともっぱら噂《うわさ》をしているんですよ」
「…………」
伊東は曖昧《あいまい》な笑いを口元に浮かべただけだった。
雄一郎は、思い切って伊東にきり込んだ。
「実は……きょう伺ったのは姉のことなんです。僕が紀州の帰りに東京で伊東さんと会うことを、姉は知りません。従って、これから僕が言うことは、姉の意志というよりは姉の気持を推しはかって、僕が余計なお節介をやきに来たと考えていただければと思います……」
雄一郎は伊東から眼をそらさなかった。
「第一にうかがいたいのは、伊東さんは姉をどう思って居られるのか……つまり、姉と結婚する意志がおありなのかどうかということなんです」
「雄一郎君……」
伊東が当惑したような眼をむけた。
「姉は……僕のみる所、伊東さんを好いているようです……少くとも、僕にはそう思えるのです」
「はる子さんが……?」
伊東は、意外だという表情をした。
「はる子さんが、ぼくと結婚する意志がある……本当かね雄一郎君……」
「意志がなければ、一人で東京へ、伊東さんを訪ねては来んでしょう」
「そうか、はる子さんが、俺《おれ》を……」
だが、伊東の眼に灯がともったのはほんの一瞬で、たちまちそれは苦悩の表情へと変っていった。
「そうだったのか……」
深い溜息《ためいき》をついて、また黙りこんでしまった。
「これは、伊東さんも御存知だと思いますが、僕の家は父の死後、ずっと姉が一家の柱でした。母は病身だったし、どっちかというと、その母でさえもが姉を頼りにしきっているふうで……、経済的にも、気持の上でも、姉が一家を背負って来たようなものなんです。そのために、姉は婚期を逸しかけています……いくつかあった縁談を、姉はふりむきもしなかったし、実際、姉が嫁に行ける状態でもなかったんです……しかし、今は違います、僕もどうやら一人前に働いているし、妹も近頃、南部駅長さんのお計らいで小樽駅の売店で働かしてもらっています。家の状態も、金持ではないが、姉を嫁がせるくらいの余裕はあります……」
「雄一郎君……」
「どうでしょうか、姉をもらって下さいませんか」
雄一郎は必死だった。姉を想う気持が全身から迸《ほとばし》るようだった。
「…………」
伊東は答えない。
「それとも、伊東さんにその意志がないといわれるんでしょうか」
「…………」
憮然《ぶぜん》としたその表情からは、彼が何を考えているのか推しはかるすべもなかった。
「伊東さん……」
不意に障子が開いて、和子が今度は緑茶に菓子をそえて持って来た。
「お話中、お邪魔してごめんなさい、私の作ったビスケットなんですのよ、いかがかしら……」
雄一郎に菓子をすすめると、伊東に小声で、
「あの……お父さまが、ちょっと来てくださいって……」
と囁《ささや》いた。
「はあ……」
伊東が立ちあがった。
「室伏君、ちょっと失敬する……」
伊東が出て行くと、和子もそのあとを追って行った。
雄一郎は、あらためて部屋の中を眺めまわした。
書棚には、雄一郎が見たこともないような専門書や文学の本などがぎっしり積まれている。机の上には、読みさしの分厚い洋書が置いてあった。
(伊東さんは勉強しているなあ……)
雄一郎は、恵まれた伊東の境遇をうらやむと同時に、彼と姉とのあいだの隔たりがますます大きくなるような気がして、心配になった。
天気が変ってきたのか、風が窓を鳴らしている。
せかせかとした足音が廊下でした。
「雄一郎君、すまないが、公用ですぐ出かけなけりゃいかんことになった……」
伊東が、さも残念そうに言った。
「さっきの話、あらためてゆっくり話し合いたいんだが……君、休暇はいつまでなんだ」
「明日、一日です」
「すると……?」
「夕方の列車に乗る予定なんです……六時二十分上野発です……」
「よし、それだったら、五時三十分に上野の待合室で逢おう……都合はどうかな」
「結構です、五時三十分、上野駅の待合室ですね」
「うん」
和子がやって来た。
「伊東さん、車が来ているんです、お父さまがお急ぎよ」
「今、行きます……」
伊東は上着のボタンを嵌《は》めながら返事をした。
「じゃあ……」
雄一郎に片手をあげて、あたふたと出て行った。
「僕もこれでおいとまします」
雄一郎も帽子を持って立ちあがった。
「そうですか……」
和子は雄一郎の視線をはずした。
「なんのお構いも致しませんで……」
「お邪魔しました」
「お帰りになりましたら、お姉さまによろしく……」
眼を伏せたまま言った。
上野駅の待合室で、午後五時三十分、会おうと言った伊東栄吉は遂に来なかった。
列車が動きだし、雄一郎は心残りと腹立たしさで、遠ざかって行く東京の灯をみつめた。
雄一郎は、東京で伊東に逢ったことは姉は勿論、妹の千枝にも話さなかった。
尾鷲で、伯父夫婦に無理矢理、見合をさせられた話をすると、
「折角伯父さんがお世話してくださったのに、もっと真面目にやらなくては駄目でないの……」
はる子は、まるで自分が見合に失敗したように残念がった。
十日間の休暇が終ると、雄一郎には、又、鉄道員としての忙しい明けくれが戻ってきた。
朝の八時に出勤すると、翌朝の八時まで、びっしり二十四時間の勤務である。
そして――。
宿直室の窓に、雪のちらつく夜が次第に多くなって行った。
北海道に、今年も又、冬将軍の訪れる季節が来たのである。
南部駅長の孫娘、三千代の結婚式は明治節の日に東京で行なわれ、小樽からは、祖母の節子が上京し、出席したという噂《うわさ》が雄一郎の耳にも風のたよりに伝わって来た。
三千代の結婚の話を、雄一郎は自分でも意外なくらい平静で聞けた。
諦めというのではなく、今の雄一郎にとって、三千代は遥《はる》か遠い存在であり、彼女への初恋も、もはや過去の出来事になってしまっていた。
そんな或る日、千枝が一通の封書を持ってやって来た。
「兄ちゃん、オワシの伯父さんからだよ」
「馬鹿だな、尾鷲と書いてオワセと読むんだ」
手紙は、昔気質の伯父らしく、巻紙に毛筆で認めてあった。
「伯父さんから、何んと言って来なすったの……」
炊事場に居たはる子もとんで来て、手紙をのぞき込んだ。
「まあ……中里さんが小樽へ来なさるんじゃないの」
はる子が思わず声をあげた。
「姉ちゃん、中里さんて誰アれ?」
「ほら、このあいだ雄ちゃんがお見合した……」
「ああ、あの人……」
が、千枝は首をかしげた。
「だって、あの縁談、駄目だったって言ってたじゃないの。なんで、それなのに小樽へ来るのよ」
「先様で、もう一度雄ちゃんと会ってみたいっておっしゃるんだって……」
「じゃ、そのお嬢さん、余っ程、兄ちゃんに惚《ほ》れちゃったんだね」
千枝の眼が好奇心で輝きを増してきた。
「振られても振られても、離れないなんて……まるでスッポンみたいなお嬢さんだね」
「馬鹿……」
「えへ……、兄ちゃん、ぐっといい男ぶっちゃってる……」
「馬鹿……」
千枝は亀の子のように首をすくめると、ペロリと舌を出した。
「この浦辺さんていうかたは?」
「ああ、尾鷲の村会議員とかいっていた。もともと網元の家でね、同業だから伯父さんとも親しいし……中里さんとも商売かなにかで関係があるらしい……。村会議員なんてのは、そんな世話ばかりやいて歩いてるもんじゃないのかい。中里さんが小樽へ来るっていうの、おそらく、その人あたりのお膳立てだよ」
「そうかしら……、でも、やっぱり向うさんが雄ちゃんを気に入ったからじゃないの、そうでもなけりゃ、わざわざ北海道くんだりまで出向いていらっしゃるかしら……」
「どうせ、暇だから、北海道でも見物してやろうっていうのか、浦辺さんの顔を立てなきゃならない義理があるんじゃないのかな……」
「あんなこと言って、内心、うれしくってわくわくしているくせに……」
千枝が悪戯《いたずら》っぽい眼をして言った。
「馬鹿……」
「ほうれ、赤くなった……」
「こらッ」
雄一郎が撲《なぐ》る真似をして腰を浮かすと、千枝はまるくなって土間へ逃げた。
「止めなさい、雄ちゃん……、千枝も……」
しかし、はる子は手紙のことが気になってならないらしかった。
「近いうちにって書いてあるけれど、もし、年内にいらっしゃるんだったら、雄ちゃん、着物と羽織新調しとかんと……」
「いいよ、そんなの……」
雄一郎は面倒くさそうに言った。
「そうはいかないわ……、それにこの家、もう少しなんとかせんとね……」
「こんなボロ家見たら、兄ちゃんの縁談あかんようになるかのう」
千枝が不安そうな声を出した。
「うるさいな、家だの着物だの、どうだっていいだろう……とにかく、俺は絶対に結婚なんかしないよ……真ッ平ごめんだ……」
雄一郎は肩をそびやかした。
雄一郎の気持は複雑だった。
見合の相手の中里弘子には、別にどうという感情もなかったが、彼女の妹の有里を想うとき、心にほのかな揺めきが湧《わ》いた。
なにを馬鹿な、と自分で自分を叱《しか》りつけながら、雄一郎は、あの竹林での、あまりに鮮烈な有里の印象を忘れかねた。
しかし、そんなこととは知らないはる子は、弟の縁談にすっかり夢中になっていた。
人一倍気の回るはる子は、その晩、手宮《てみや》の南部斉五郎の官舎を訪ね、伯父からの手紙を見せて相談した。
「まとまるものなら、なんとしても纏《まと》めてやりたいと思うのですが、なにしろ、こんなこと生れてはじめてなもんですから……」
はる子は正直に自分の気持を打ちあけた。
「ふーん、しかし、それでわざわざ、小樽まで出てくるというのは解せんなあ……」
話を聞き終ると、南部は首をひねった。
「雄一郎は、この浦辺というお方に、中里さんが何か義理があって、それで一応|恰好《かつこう》をつける意味で北海道まで出向いてくるのだと申すんですけれど……」
「或はそうかも知れん……」
まるい顎《あご》を撫《な》でながら、天井を見上げた。
「でも、その弘子さんてかたが、お見合のとき気のり薄に見えたっていうの、雄一郎さんの誤解だったんじゃありませんか。女ってものは、お見合の時なんぞに、なかなか本当の気持を表に見せないものですよ。まして深窓育ちのお方でしたらねえ……」
南部の妻の節子が、そばから口をはさんだ。
「そうか、女ってのは嘘《うそ》つきだからな……」
「いいえ、慎しみ深いからですよ、第一、はじめてのお見合なら、恥かしくって、顔も上げられないものですわ」
「なにを言っとる。見合の席で洋食ぱくぱく食いやがって、テーブルのかげで帯をゆるめてやがったの、どこのどいつだ……」
「あら、知ってらしったんですか」
「当り前さ、伊達《だて》や粋狂で見合したわけじゃないわい」
二人のやりとりを、はる子は半ば羨《うらや》ましいと思いながら眺めていた。
南部駅長の坐っている場所に、伊東栄吉が坐り、南部夫人の所に自分が居たら……。
(ああ、そんなことは考えないことだ……私には、まだまだそんなことは許されない。結婚することだけが女の仕合せではないのだ……)
はる子はいそいで、妄想《もうそう》を振りはらった。
「失礼だけど、御器量は……?」
節子がこちらを向いて何か言っていた。
「は……?」
「そのかた、お綺麗《きれい》なの?」
「雄一郎は、美人だって申しましたけれど……」
「あいつに女の器量なんぞわかるものか。女ならみんな美人に見える年頃だ……。とにかく、その人が来たら、わしが一遍会ってみよう。顔を見りゃ、大抵《たいてい》のことは見当がつく。これでも無駄には年はとっとらんつもりじゃよ」
「お願い致します」
はる子は両手をついた。
「それと……はなはだ勝手なお願いなんですけど、駅長さんがご覧になって、もし、よいお嬢さんだったら、なんとしても雄一郎のところへ来て頂けるよう、駅長さんからお口添え願いたいのですけれど……」
「いいとも、及ばずながら尽力しよう」
南部は大きく顎を引いた。
「有難うございます……なんですか、雄一郎の話を聞いたときからこっちがわくわくしてしまって、仕事もろくに手がつきませんの。これでほっとしました」
はる子はあらためて礼を述べて、座を立った。
南部は玄関先まで見送って来たが、ふっと声をひそめて、
「はる子さん、あんた雄一郎君の縁談に夢中になるのはいいが、あんた自身のことも考えにゃいかんよ」
と言った。
「この次来るときは、あんた自身のことで相談に来なさい。尾鷲《おわせ》にゃ、生憎知りあいもないが、東京にはいくらでも居る……、もしあんたの相手が東京に居る人間なら、たぶん、なんか役に立てると思うでな……」
はる子は思わず南部の顔を見た。
(駅長さんは、栄吉さんのことを……)
恥らいが、はる子の頬《ほお》を赤くした。
「じゃ、おやすみ、気をつけてな……」
南部の微笑に送られて、はる子は門を出た。
外に出たとたん、何か冷めたいものが頬に当った。朝からの曇り空が、とうとう雪を降らせはじめたのだろう。
しかし、はる子の胸には、南部斉五郎の慈父のような言葉の数々が染みていて、まるで春の陽《ひ》を浴びてきたように暖かかった。
伊東栄吉が尾形政務次官の娘と結婚するかもしれないという噂《うわさ》を、雄一郎は姉にも妹にも話さなかった。
その日、彼は南部駅長に呼ばれて、駅長室に行った。駅長の顔を見たとたん、雄一郎は、
(これは何かめんどうなことだな……)
と思った。案の定、話は伊東栄吉とはる子のことで、
「はる子さんの恋人は伊東栄吉だと聞いた記憶があるが、間違いないか?」
と尋ねられた。
「はあ……恋人というのかどうかはよく分らんのですが、伊東さんが東京へ行くとき姉に求婚したらしいんです」
「なんでその時、OKしなかったんじゃ」
「はあ、姉が嫁に行けるような家の状態じゃなかったんだと思います……」
「うむ、しかし、拒絶したわけでもないんだろう?」
「姉の気持からすると、いい加減な返事をしたとは思えません。ずるずる待ってくれなどと言える姉じゃないんです……。しかし、伊東さんからは其の後も手紙が来たり、姉にパラソルを送って来たりしていました」
「今も、ちょいちょい手紙が来るのか」
「いや……、ここんとこ来んのです」
「お前、この間、紀州の帰りに東京へ寄ったな、あれは伊東と逢《あ》うためか」
「はあ……」
「逢えたのか」
「はあ……」
「姉さんの話はしたか」
「しました……、しかし、結論が出なかったんです……、実は、もっともっと立ち入った話をするために、上野駅で待ち合せすることにしたんですが……、来ませんでした」
「すると、なにか……、伊東からその後、そのことについての釈明の手紙でも来たのか?」
「来ません」
「ふむ……」
南部は眉根《まゆね》に皺《しわ》をつくって、考え込んだ。
「駅長、なぜそんなことを訊《き》かれるんです」
「うむ……」
南部は机の上の手紙を取った。
「お前の姉さんと伊東のことで、ちょっと東京の親しくしている者に照会してみたんじゃ、尾形君に、それとなく尋ねてみてくれっちゅうてな」
「なんと言ってきましたか」
「尾形君には娘が一人居るのを知っているか」
「はあ、一遍お目にかかりました。伊東さんを訪ねたとき、お茶を運んでくれました」
「そうか……、その娘を尾形君は伊東と妻《めあ》わせるつもりでいるらしい……」
「尾形さんの娘さんが伊東さんと結婚するんですか」
「もっとも、この話を伊東栄吉がどう思っとるかは、知らんが……」
「…………」
「まあ、まだたんなる噂ていどの段階じゃ、姉さんをあんまりくよくよさせんように気をつけてやるんだな……」
しかし、雄一郎が考えても、この情報は真実性があった。
尾形邸を訪れたときの、伊東栄吉の部屋の様子といい、和子という令嬢の馴《な》れ馴《な》れしい振舞いといい、どれも、南部駅長の言葉を裏づけるに充分だった。
伊東栄吉の将来からいっても、鉄道省の要職にある尾形の娘との結婚は、輝やかしい未来につながっている。又、長年、世話になっている恩人の要請であれば、伊東としても断りにくいだろうことは、雄一郎にも、容易に想像できた。
そして、それらの想像を更に決定的づけるのは、伊東栄吉がとうとう上野駅に現れなかったという事実であった。
雄一郎は姉の顔を見るのが辛《つら》くなった。
はる子は、弟の縁談に夢中になっている。
尾鷲《おわせ》の伯父からは、今月中に弘子と、彼女の母がたぶんそちらへ行くという手紙が届いていた。
(そうなれば、いそいで障子の張りかえもしたいし、お客用の布団も、もう一組作らなければ……)
はる子の頭と体は、めまぐるしく回転をはじめた。
「馬鹿だねえ、姉ちゃん、中里さんってのは尾鷲で一番の金持なんでしょう。そんな家の人たちが、こんな荒家《あばらや》へ泊ると思う? 小樽《おたる》にいくらだって宿屋があるっていうに……」
千枝に嗤《わら》われても、
「そりゃア、そうだけれど、もしもってこともあるし……、それに、宿屋さんじゃいろいろと御不便だろうと思ってね。荒家だって心をこめておもてなしすれば、きっとわかって下さると思うのよ」
と、取り合わなかった。
その、はる子の耳にもう一つ、ちょっと気になることがとび込んできた。
千枝の勤める、小樽駅の売店で一緒に働いている小母さんが、家へ立ち寄ったついでに話して行ったことなのだが、
「この頃、どうも変な男が千枝ちゃんに惚《ほ》れて通ってくるらしいんだよ、余っ程の甘党らしくて、毎日アンパン買ってくんだけど、なにしろ千枝ちゃんだって嫁入り前の娘だもんねえ……」
声をひそめて報告した。
「なんでも、手宮駅機関区にいる機関手だとか言ってたけど……」
はる子は、その夜、千枝に小母さんの話の真偽を問い糺《ただ》した。
「うん、その人だったら毎日アンパン買いに来たんだけれど……ここんとこずうっと来んのよ」
千枝はちょっと複雑な表情をした。
「飽きたんだろう、アンパンが……」
雄一郎は先日の仕返しに、千枝をからかった。
「今度は蕎麦屋《そばや》に日参しとるのと違うか……」
「そうかな……」
千枝が急に肩をおとして、しょんぼりとした。
「なんだ、やけにしゅんとしとるじゃないか。アンパン売れなくなって、がっかりか……」
「アンパンに飽きたのなら、仕方ないけど……あたいに飽きたんじゃったら、癪《しやく》じゃもん……」
「お前に……?」
はる子と雄一郎は思わず顔を見合せた。
「だって、売店の小母さん言うとったんよ、あの人、千枝に気があってアンパン買いに来よるんじゃって……」
「千枝……その人いったいどこの人、なんて名前……?」
はる子の声が思わずうわずった。
「さあ、知らん……」
千枝はけろりとした顔をしている。
「そいつ、機関手だといったな」
雄一郎も真剣になった。
「うん……、手宮の機関区に居るんじゃと……」
「雄ちゃん、手宮の機関区ならすぐ近くでしょう」
「ああ……」
「知っている人、居ないの?」
「いるよ、いくらだって……」
雄一郎は知っている人間の顔を思い浮かべた。
「そうだ、岡本新平|爺《じい》さんの伜《せがれ》もあそこに居るんだ」
「ああ、何度も試験に落ちてばっかりいる人ね」
はる子は意味ありげに笑った。
保線の神様とまでいわれる岡本新平爺さんの息子が、何度試験を受けても落っこちて、万年|釜《かま》たき見習と呼ばれていることは、この辺の鉄道関係者のあいだでは評判だった。
「そうそう、いつか雄ちゃんが札幌《さつぽろ》で酔っぱらった時、送って来てくれたわね」
はる子の言うのは、雄一郎が三千代に失恋した帰りに、はじめてやけ酒を飲んだ時のことである。
「いっぺん、その人に訊《き》いてみてよ、千枝の売店へ来る人のこと……」
「なんで訊くの?」
千枝が不安そうな眼をした。
「だって、心配じゃもん。いい人ならいいけれど……」
「いい人だよ」
「それにしても、どうして名前くらい聞いておかなんだの、千枝……」
「こっちから聞くの損じゃからね」
「どうして損なの」
「知らんの、姉ちゃん……」
呆れたといった顔つきをした。
「先にいろいろきいた方が相手に気があると思われるもん……安くふまれて損なんじゃ」
「千枝、あんた、そんなこといったい誰に聞いたの」
「聞かんでも、そのくらいのこと知っとる」
千枝は首を縮めて、くすりと笑った。
その日の昼休み、雄一郎は姉の言付け通り、手宮の機関区へ出かけて行った。
手宮駅から機関区までは、駈《か》け足でほんの五分の距離である。
機関車が何台も入っている機関庫で岡本良平の名前を言うと、
「ああ、万年釜たき見習か、あいつ油灯の掃除しとるわ」
一番隅の機関車の所だと教えてくれた。
良平は顔から手足まで煤《すす》で真黒になって、油灯の掃除をしていた。
雄一郎が声をかけると、
「おお、あんたか……」
そこだけが異様に白い歯を見せて笑った。
「凄《すご》い煤だな、洗い落とすの大変だろう」
と感心すると、
「ああ、毛穴に煤がもぐっとるからね、洗っても落ちん。眼のふちと耳ん中が落せるようになったら一人前じゃと……」
他人事のように答えた。
「なにか用事かね」
「いや、ちょっとききたいことがあってね……、この機関区の機関手で、アンパン好きな奴がいるかい」
「アンパンね……」
良平は眉《まゆ》をしかめた。
「俺もよく食うが……」
「いや、釜たきじゃなくて機関手なんだよ」
「機関手ねえ……みんな食うだろ、アンパンくらい」
「特別、好きらしいんだなそいつが。毎日昼飯がわりに食ってるらしい……」
「へえ……」
「ここの機関庫に機関手は何人くらい居るかな」
「そりゃ、沢山いるよ……名前わからんのかい」
「わからん」
「年齢《とし》とか、顔は?」
「まあ、当人を連れて来て見せれば判るんだろうがな」
「当人?」
「うん、妹なんだ」
「あんたんとこ、妹も居るのかい」
「姉と妹と三人きょうだいだ」
「そりゃいいのう……」
良平は羨《うらや》ましそうな顔をした。
「うちは親一人、子一人じゃ」
「お袋さんは?」
「もう居らん」
「それじゃ、飯たきや洗濯は誰がするんだ」
「学校出てからは俺がやっとる」
道理で、いつか機関庫で洗濯している手際がいいと思った。
「だけど君、アンパン食う男、なんで尋ねとるんじゃ」
「いや、ちょっとね……」
雄一郎は言葉をにごした。
「いずれ妹を連れてくる、そのときは頼むよ」
「ああ、俺もなるべく聞いてみておいてやるよ」
良平と別れて、雄一郎は、道々千枝とはる子のことを考えていた。
(同じ姉妹だというのに、どうしてああも違うんじゃろう……なにもかんも、みんな正反対じゃ)
雄一郎は、二人を足して二で割れば、女として一番仕合せになれるのではないだろうかと、ふっと思った。
二、三日して、雄一郎は昼休みに千枝と待ち合せて、手宮《てみや》機関区へ向った。
岡本良平に、アンパン好きの機関手を探して貰《もら》うためである。
「なあ、兄ちゃん、岡本さんてどんな人?」
「いい奴さ……仕事熱心で、いつ行っても真黒になって働いとる」
「そいでも、雇員《こいん》試験に落ちてばっかしいて、まだ、釜《かま》たきにもなれん人でしょう」
「試験が苦手らしいな……、つまり勉強は嫌いだが実地で働くのは好きというタイプなんだな……」
雄一郎は、通りすがりの機関手に良平を呼んでくれるように頼んだ。
千枝は機関車に見とれている。
「兄ちゃん、日本で機関車がはじめて走ったのはいつ?」
「明治五年十月十四日、東京、横浜間が最初だ。イギリスやアメリカはそれより四十年くらい前から鉄道があったそうだ」
「北海道では、この手宮が最初なんだってね」
「うん、明治十三年の、ちょうど今頃の季節に、手宮、札幌間が開通したんだ。その頃は駅も、たった四つしかなかったそうだよ、手宮、開運《かいうん》町、銭函《ぜにばこ》、札幌……」
「ふうん、その頃からこの機関車が走っとったの?」
「ちがう、ちがう、最初のはアメリカ製のモーグル型という奴だったんだ。形もずっと小さくて、煙突の大きな奴さ。一番最初に走ったのが義経号……源義経の義経号さ、二番目が弁慶号、三番目が比羅夫《ひらふ》号、四番目が光圀《みつくに》号、五番目が信広《のぶひろ》号、六番目がしづか号だ」
「しづか号って、静御前の静だね」
「面白い話があるんだ。明治十八年の冬、義経号と弁慶号が張碓《はりうす》のトンネルの近くで大雪のため立往生したとき、この手宮の機関区から、しづか号が救援に駈けつけたんだとさ」
「へえ、まるでお芝居みたいだねえ……」
そんな話をしているところへ、良平がひょっこり顔を出した。
今日はまた一段と真黒で、眼ばかりぎょろぎょろしている。
「やあ、先日のアンパンの奴のことでね、妹を連れて来たんだが……」
「こんにちは……」
千枝も雄一郎のうしろから挨拶《あいさつ》した。
すると、良平が急にそわそわと落着かなくなった。
「今、ちっといそがしいんじゃ……又にして下さい……いそがしいんでのう……」
あたふたと消えてしまった。
雄一郎があっけにとられていると、千枝がケタケタ笑い出した。
「なんじゃ、今の人、真っ黒くろ助で、まるで南洋の土人じゃ……」
だが、途中でふっと笑いが止まった。
「おかしいなあ、どっかで見たような顔なんじゃが……」
その夜、偶然早番同士だった雄一郎と千枝は、誘い合せて、良平の家を訪ねた。
良平の家は、手宮駅構内の引込み線大踏切のすぐ近くにあって、煤煙《ばいえん》ですすけた、いわゆる汽車長屋と称される路地の一角にあった。
近くの線路を、石炭を満載した貨車が通るたびに、地響をともなって、激しく家が揺れる。
しかも、手宮は道内一の石炭積出港なだけに、貨車の往来が頻繁で、そのはげしさも又格別だった。
二人は最初玄関から声をかけたが、返事が無いので裏口へ回った。
「こんばんは……」
千枝が案内を請うと、今度はすぐがらりと裏の戸が開いて、割烹着《かつぽうぎ》姿にシャモジを持った男が首を出した。
「なんだい……」
その男の顔を見たとたん、
「あら……あんた……」
千枝の唇から、奇妙な声が迸《ほとばし》った。
「あっ!」
良平も眼をむいた。
が、次の瞬間、彼は足許の手桶《ておけ》を引っくりかえして、その辺を水びたしにした挙句、家の中へ逃げ込んだ。
「馬鹿にしてるわ、機関手だなんて嘘《うそ》ついて、万年|釜《かま》たき見習いのぺいぺいじゃないのさ……」
腹だちまぎれに千枝が怒鳴った。
「この大嘘つき――女誑《おんなたらし》――」
「おい、よせよ、みっともないぞ……」
雄一郎は慌てて千枝を制した。
「隣近所に筒抜けじゃないか」
「いいんだよ、あんな奴……」
千枝の機嫌は容易になおりそうもなかった。
「まあ、そういうなよ、あいつだって悪気で嘘をついたわけじゃないんだから」
途々、歩きながら、雄一郎は千枝を宥《なだ》めるのに一苦労した。
「あいつの気持はわかるんだ……俺だって小倉服《こくらふく》の駅員見習の時分は、若い女の子にじろじろ見られるのが、きまり悪かったもんだ」
「だったら、うんと勉強してラシャ服着れるようになったらいいじゃないの、嘘つくなんて卑怯《ひきよう》よ……」
そんな千枝の様子を眺めながら、雄一郎は、
(くろんぼとアンパンの恋、此処《ここ》に畢《おわ》る、か……)
心の中でつぶやいて、苦笑した。
(いま頃、良平の奴、どんな顔をしてるかな……)
雄一郎は、そのときふと、なんの脈絡もなしに、尾鷲の竹林の娘の面影を思い浮かべた。
(たぶん、あの娘とは二度とめぐり逢う機会はないだろう……あの、姉の弘子と結婚でもしないかぎり……)
雄一郎は急に、胸を締めつけられるような哀しみに襲われた。
三千代の時とは違う。
三千代が結婚のため、東京へ去るのを見送ったときのそれは、悔恨《かいこん》であった。手を伸ばせば届いたものを、自分の臆病《おくびよう》さから逃がしてしまったことへの憤りであった。
今度の、中里有里に対する雄一郎の気持はそれとはまったく違っている。
有里は、雄一郎にとって、手の届かない存在だった。家柄が違う、距離が遠い、姉の弘子との縁談は、更に二人を結びつける可能性を薄くしていた。
そして、竹林で見た有里の美しさは、時がたつにつれ、雄一郎の胸の中で永遠化され、非現実化されて行った。だが、それとは逆に、夜、夢の中で逢う有里は、雄一郎と談笑し、時として、彼の腕の中でやさしい愛の言葉を囁《ささや》きかける……。
雄一郎は、自分の心の中に生じた、この二つの世界の矛盾に悩んだ。
(俺は案外、嫌な人間なのかな……)
雄一郎は自分で自分を持て余した。
このところ、しばらく晴天の日が続き、雪が消えて夜道が歩きいい。
雄一郎と千枝が家に帰りつくと、
「雄ちゃん、大変……大変なのよ」
はる子がとび出して来た。
「なんだよ姉さん、眼の色かえてさ……」
「この手紙見てよ、尾鷲の中里さんからなのよ……」
「へえ、何んだって……」
雄一郎は、姉の差出す手紙をちらと眼のすみに入れただけで、囲炉裏端《いろりばた》に腰をおろした。
「十三日に尾鷲を発って、こちらへおいでになるんだって……」
「十三日……」
「北海道は初めてだし、女ばかりなので、出来れば函館《はこだて》まで迎えに出てくれないかって……」
「勝手だなア……随分……」
それは雄一郎の本音だった。
尾鷲でも、ずいぶん向うの我儘《わがまま》勝手に腹を立てたが、北海道へ来てまでそれをされるのはたまらない。
「俺《おれ》は行かないよ」
不機嫌な顔をして言った。
「そうはいきませんよ、あちらは、はるばる紀州から出ていらっしゃるんじゃないの」
「十三日尾鷲を発つとなると十五日か……、俺ちょうどその頃勤務があるんだ」
はる子は手紙を読みかえした。
「函館着は十七日の午後になっているわ」
「十三日に尾鷲を発って、十七日に函館……おかしいじゃないか」
「途中、熱海《あたみ》で一泊、東京で二泊、仙台の温泉で一泊なさる御予定なんですって」
「まるで物見遊山だな」
「お年寄がご一緒ですもの」
「ええッ、お袋も一緒に来るのか」
「当り前よ、お嬢さん一人をこんな遠くまで出せるものですか」
雄一郎はうんざりした。
「そうすると、十七日は夜勤あけだから、十八日がおやすみだし、よかったわ……」
はる子はひとりで決めてしまった。
「ほんとは私も行くといいんだけど、大急ぎで客布団の仕上げをしなきゃならないし、畳の裏がえしも頼まなければならないから……千枝ちゃん、あんた行きなさい、売店お休みとれるんでしょう」
「とれんこともないけど……」
千枝はまだ機嫌がなおらず不貞腐《ふてくさ》れている。
「千枝なんて来たって仕様がないよ」
雄一郎は、つまらなそうに、その場にごろりと横になった。
「まあまあ、いったいどうしたっていうの、二人ともいい歳して、喧嘩《けんか》ばかりして……さっさと洋服着換えなさい」
はる子は、二人が帰宅の途中喧嘩でもして来たと思ったらしい。まるで母親のような口ぶりで、二人を炉端から追い立てた。
「いますぐ食事の仕度するからね……」
はる子が台所へ去ると、千枝が雄一郎を見て、くすりと笑った。
「姉ちゃん、喧嘩したと思ってるんだ……」
「うん……」
「そんならそれで……そう思わしておこうよ、心配するからね」
「ああ」
雄一郎と千枝は、もう一度顔を見合せて苦笑した。
「お風呂へ入らないんだったら、手と顔を洗っておいで……」
台所で呼ぶはる子の声が聞えた。
10
北海道の室伏雄一郎の家が、中里家の人々を迎える準備に大童《おおわらわ》の最中、尾鷲の側では、弘子が母親のみちと妹の有里と共に東海道を東へむけて、のんびりと旅を続けていた。
雄一郎の許へ出した手紙では、弘子とみちの二人だけということだったのが、出発間際になって急に有里を加えることになったのは、思ったよりも荷物が増えてしまい、到底、弘子とみちの手には負えなくなったからだった。
荷物持ちというこの割の悪い役柄を押しつけられたことを、有里は嫌な顔もせず、むしろいそいそと引き受けた。
まだ見ぬ北海道という土地にたいする憧《あこが》れもあったが、それよりも、正直にいって、有里は竹の林で出逢《であ》った青年に、素朴な好意を持っていた。あのときの胸のときめきを、有里はまだ忘れていない。しかし、彼が姉の見合の相手だということも有里はけっして忘れなかった。
心の奥に永遠にしまい込まなければならない、雄一郎へのときめきと知っていて、有里はそれでも、彼と逢うことに心がはずんだ。
普通、尾鷲から東京方面へ行くには、船で鳥羽《とば》へ出るのだが、弘子が船酔いするというので、馬車をやとって三瀬谷《みせだに》へ出た。
当時、紀勢本線は、まだ三瀬谷駅までしか開通していなかったのである。
三瀬谷から相可口《おうかぐち》(今の多気《たき》)へ出て、そこから亀山《かめやま》へ、亀山から東海道を熱海へというのが、第一日目の旅程だった。
翌日は東京へ出て、市内見物、買物をしたり芝居を観たりして時をすごした。
みちは東京は二、三度来ていたが、弘子も有里も生れてはじめての上京で、見るもの聞くもの、ただ眼を見張るばかりだった。
ことに、去年の関東大震災で東京の町は廃墟《はいきよ》と化したと聞いただけに、そのすばらしい復興ぶりには、三人とも、ただ眼をみはるばかりだった。
弘子も有里も、学校は京都の女学校へ行った。だから、西洋風の建築物も、市電もべつに珍しくはなかったが、町全体から吹きあげてくるような熱っぽい活気には度肝を抜かれた。
宿屋の二階から見回しても、見えるのは家々の屋根と電柱ばかりで、緑の山も煌《きらめ》く海も見えないのが、なんとも奇妙な感じだった。
「やっぱり東京やなあ……」
有里はため息ばかりついていた。
「あんまりキョロキョロせんといて、うちらまで田舎もんと思われて恥かしいやないの」
弘子はそんな有里を見て眉《まゆ》をしかめた。
その弘子だが、尾鷲に居るときもそうだったが、旅に出てから、まだ一度も雄一郎のことを口にしたことがなかった。
(北海道へ先方の家や土地の下見をしに行くというのに、そんなことでいいものだろうか……)
有里は不思議でならなかった。
(こういう時は、女はもっと夢と期待に胸をふくらませているものではないのか……)
弘子は汽車の中でも、宿屋でも、彼女の好きな啄木《たくぼく》の歌集ばかり読んでいた。
「北海道って、なんやロマンチックな土地《ところ》らしいわねえ、石川啄木の歌に北海道をうたったものが随分あるわ……」
「どんなの、教えて……」
「そうね……うす紅《あか》く雪に流れて入日影、曠野《あれの》の汽車の窓を照らせり……ああ、これは小樽の歌だわ、かなしきは小樽の町よ、歌うことなき人人の声の荒さよ……どうも人柄が小樽は悪いらしいわね……」
「でも、それは啄木がそう思っただけでしょう」
「これなんかどう……?」
弘子はちらと有里を見て、眼のすみで笑った。
「うたうごと駅の名呼びし柔和なる、若き駅夫の眼をも忘れず……」
「もう一遍……」
有里は雄一郎のことを思い出しながら言った。
「うたうごと駅の名呼びし……」
弘子は有里のために、もう一度その歌をよみあげた。そして、
「あの方も、この歌の駅員さんくらいロマンチックならねえ……いつも電信柱みたいに突っ張りかえって、ろくに口をきけんのよ、きっと、いつもプラットホームでライオンのように吠《ほ》えとるんと違うかしら……」
弘子は可笑《おか》しそうに笑った。
有里はそんな姉をじっと見つめた。
(こんなことでいいんだろうか……こんなことで結婚してしまって……)
有里は急に不安になった。
「お姉さま……」
「なあに……?」
弘子は読みかけの箇所の頁を探していた。
「お姉さま、あの方のこと、どう思っていらっしゃるの」
「あの方って、室伏さん……?」
「ええ、……今度の縁談、真面目に考えていらっしゃるんですの」
「私、いつだって真面目よ……」
ちらと、その眼に有里をからかうような色が浮かんだ。
「でも、どの縁談も本気ではないわ」
「お姉さま……」
「あなただって知ってるでしょう……、私、結婚するのなら、文学と結婚するわ……」
「だって、そんな……」
弘子は京都の女学生時代、文学に親しみ、ことに詩歌は自分でもよく作った。尾鷲のものだが、短歌の雑誌の同人にもなっていた。
「私ね……、お針をしたり、お料理を作ったりすることになんの意義も認めないの、夫に仕え、子供を育てて、平凡な忍従の一生を送るなんて真ッ平よ。そんなものに、なんの価値があると思うの。ただもう、毎日を※[#「てへん+屋」]促《あくせく》と暮して、気がついた時にはお婆さんになっている……。ごめんだわ、そんな女の一生……」
「そうかしら……、夫にしろ、子供にしろ、愛するものたちのために尽すのは仕合せなんじゃないかと思うけれど……」
「それはね、才能もなんにも無く生れたのなら仕方がないかもしれないわ……でも、私は文学が好きなのよ……、私は美しいお歌にふれたり、すばらしい文章を読んだりすることに生甲斐《いきがい》を感じるの。京都の女学校で学んでいた時、国語の先生がおっしゃったわ、あなたの才能を大事にするようにって……でも駄目ね……」
弘子は本をぱたんと閉じた。
「いくら才能があったって、あんな田舎に暮していたのじゃどうにもなりはしないわ」
「そんなことはないわ」
有里は慌てて言った。
「お姉さまが雑誌に投稿なさったお歌は、みんな尾鷲の美しい自然が生き生きしていて、私、好きですもの」
「あなたに好かれたって仕様がないわ。もっと、東京のえらい先生がたに認められでもしないかぎり……」
「じゃあ、お姉さまは一生結婚なさらないおつもり……?」
「そうもいかないわね」
口許《くちもと》に微笑を浮かべた。
「いつまでも嫁に行かず、あの家に居すわっていたら、お兄さまが嫌なお顔をなさるし……、今だってもう邪魔にされているんですもの、これでお兄さまにお嫁さんでも来たら、どんなことになるかしら……」
弘子は立ちあがって窓辺へ行った。
「女って、つまらないものね。結婚しないで生活できたら、どんなにいいかと思うか……」
ガラス越しに、夜の東京の町の灯をぼんやりと眺めていた。
有里は畳の上の歌集を手にとり、ぱらぱらとページを繰った。
活字を見なくとも、先刻弘子がよんでくれた若い駅夫の歌は思い出せる。
(うたうごと駅の名呼びし柔和なる 若き駅夫の眼をも忘れず……)
有里の眼には、あのときの青年の姿がありありと浮かんできた。そして、雄一郎をまったく無視した姉の態度に、有里は小さな抵抗をさえ感じた。
また、自分勝手で、結婚というものになんの夢も、努力も持とうとしない姉と見合のつづきをさせられている室伏雄一郎に、ひどく済まないような気がした。
(お姉さまが、もっと真剣にあのかたのことを考えてくださればいいのだけど……)
弘子の後姿を眺めながら、有里はふとそう思った。
翌日、東京での滞在予定を終り、宿を出たときには、山のような母と姉の買い物が、ほとんど有里の荷物になっていた。
11
室伏雄一郎は二日間の休みをもらった。
それに夜勤あけの休日を加えると、どうにか丸三日間が休める。
これも、売店を休んだ千枝と二人、早朝に小樽を発った。函館まで、中里家の一行を出迎えるためである。
(なにもわざわざ、函館まで出迎えさせることはないじゃないか……)
夜勤あけの疲れも手伝って、雄一郎は機嫌が悪かった。
「変な人ねえ、自分の嫁さんになるかもしれん人を迎えに行くのに、ぐうすけ眠ってばっかりいるなんて……」
千枝が首をかしげた。
「ねえ、弁当食べなよ、お茶もあるからさ……」
「うるさい、夜勤あけは眠いんだ、すこし静かにしておれ」
千枝を怒鳴りつけて、眼をつぶった。
雄一郎は、うつらうつらしながら、あの竹林で見た娘のことを思い出していた。
こちらをふり向いて、ちょっと、はにかんだように笑ったその顔がどうしても忘れられない。それだけに、彼は余計腹がたって仕方がなかった。
しかし、雄一郎は知らなかった。自分がこれから出迎える中里家の一行の中に、その面影の人、有里が加わっていようとは。
有里は無論、雄一郎のほのかな慕情を知らず、雄一郎は、又、有里がひそかに好意を持っていようとは夢にも思わなかった。
ただ、この日、運命の神は、しずかに二人を近づけつつあったのだ。
雄一郎が汽車で函館へ向っている頃、有里は青函《せいかん》連絡船の甲板から、じっと海をみていた。
北の国の海は、冬の陽《ひ》の中で、灰色に小さなうねりをみせていた。尾鷲の温い南の海にくらべると、きりっと引き締り、なんとなく男性的な感じがする。有里は北海道に近づくにつれて、次第に胸がときめいてきた。
「あの子変ねえ、だんだん元気になるみたい……」
「本当に落着きのない子だねえ、いくつになっても子供が遠足に行くような調子なんだから……」
船室では、みちと弘子が笑っていた。
「さっき甲板へ行ってみたら、あの子ったらあまり品のよくない若い女の背中をさすっているのよ、どうしたのかと思って聞いてみたら、悪阻《つわり》の介抱なんですって……」
「おやおや……」
みちが眉《まゆ》をひそめた。
「そんなことをして、もし、そんな女に引っかかりでも出来てしまったら、いったいどうする気なんだろうねえ」
「人がよすぎるのよ、いまにそれできっと失敗すると思うわ、世の中は善人ばかりが住んでいるんじゃないんだから」
「もう少し、身分てものを考えなくちゃねえ」
「そうなのよ。有里ったらねえ、私があの方と一緒になればいいと本気で思っているらしいのよ。どうかと思うわ」
「馬鹿馬鹿しい……」
みちは、吐き捨てるように言った。
「世間には裏と表ってものがあることを、さっぱり分っていないんだよ。浦辺なんて成り上り者の機嫌を取らなきゃならないなんて、尾鷲の中里も随分落ち目になったもんだよ」
「みんな兄さんがだらしがないせいよ」
弘子は眉をしかめた。
「あんな、まだ下っ端の鉄道員風情と見合をすること自体、妹の経歴に傷がつくってことがどうして分らないのかね。すこしは体面ってものも考えてもらわないと……」
「私はいいのよ、お母さま、何事も勉強だと思っていますもの、そういう意味では面白いかた、あの室伏雄一郎という人……」
「変人だよ、すこし……」
母と娘は顔を見合せて、思わず笑いを噛《か》みころした。
「ね、お姉さま、函館よ、もうすぐ上陸よ」
有里が息をはずませて報告した。
船の汽笛が鳴った。
青函連絡船、松前丸は次第に速度をおとして、函館駅連絡桟橋へ近づいて行った。
「あっ、来たよ、兄ちゃん」
のびあがって沖をみつめていた千枝が、船を指さして叫んだ。
「大きな船だねえ……」
「うん……」
「あれで何人くらい乗れるのかな」
「さあ……」
「兄ちゃん、浮かん顔しとるね……」
千枝が心配そうに、雄一郎の顔をのぞきこんだ。
「ほんとに嬉《うれ》しくないの、お嫁さん来るっていうのに……」
「俺《おれ》は……」
雄一郎は松前丸をにらんだまま言った。
「結婚なんかしないよ」
「どうして……だって、むこうさんはそのつもりで来るんでしょう」
「分るもんか……」
「兄ちゃん、弘子さんて人、好きじゃないの?」
「ああ、好かん……」
「へえ……」
千枝は眼をまるくした。
「じゃ、わざわざ振られにくるようなもんじゃないか……」
が、途中から不安そうな顔になった。
「でも……、断ったら義理が悪いんじゃないのかい、尾鷲の伯父さんやなんかに……」
「まあな……しかし、自分の一生のことを義理やなんぞできめられてたまるものか」
雄一郎はきっぱりと言いきった。
「俺は愛のない結婚など、絶対にしないぞ」
「へえー、兄ちゃんて、案外しっかりしてるんだね」
「馬鹿ア……」
妹に揶揄《からか》われて、雄一郎は照れた。
松前丸が、ゆっくりと桟橋に横づけになった。
「兄ちゃん、中里さんに逢ったらどうするの?」
「三十六分待ちで、函館本線の下りが発車するからな」
「まっすぐ、家へ来てもらうの」
「うん、中里さんだってそのつもりだろう」
桟橋では職員たちが、忙しそうに走り回っていた。
舷梯《タラツプ》から、大きなトランクや信玄袋をぶらさげた乗客たちが、ぞろぞろと降りて来た。
雄一郎は、伸び上がって、みちと弘子の姿を探した。
「兄ちゃん、判る?」
千枝も雄一郎のうしろから首を伸ばして、話にだけ聞いたことのある、二人の顔を見つけようと一生懸命だった。
誰か東京の名士がこの船に乗っていたらしく、日の丸の小旗を持った人々が大勢つめかけていた。やはり出迎えに駆り出されて来たらしい中学生の楽隊が、たどたどしい行進曲《マーチ》を演奏している。
その間を、接続列車に乗ろうとする人々があたふたと駈《か》け抜けて行った。
「兄ちゃん、居ないの?」
千枝が心細そうな声を出した。
「待て待て、そう慌てんでも、いまにきっと来る、どうせここを通らなければ、外へ出られんのだ……」
雄一郎の言った通り、人と人の間に挟《はさ》まれて、よたよたとこちらへやってくるみちの姿を見つけるのに、そう時間はかからなかった。
「中里さん、遠いところをわざわざおいでいただいて恐縮です」
雄一郎はみちの前へ出て、制帽を脱いで挨拶《あいさつ》した。みちのうしろに弘子が居た。
「こんにちは、よくいらっしゃいました」
彼は弘子にも頭を下げた。
「これはまあ、室伏さん、お迎えごくろうさま……」
みちが鷹揚《おうよう》に、それでもさすがにほっとしたように言った。
「これ、妹の千枝です」
雄一郎は千枝を二人に紹介した。
「こんにちは、遠いところをよくおいでくださいました。さぞかし、お疲れだったでしょう」
千枝は昨夜姉に教えてもらった言葉を、下手な役者の台詞廻《せりふまわ》しのように、一語一語、確かめるようにして言った。
「本来ならば、姉もお出迎えに参るところなのですが、いろいろ用事がありますもので……」
雄一郎も一応、神妙に口上を陳《の》べた。
「荷物を持ちましょう……」
千枝がみちと弘子の持っている旅行|鞄《かばん》を見て、ちょっと首をかしげた。
「あら、荷物これだけですか?」
「いいえネ、大きいのはあとから……」
みちがうしろを振りかえった。
その視線を追って、雄一郎は、一瞬全身の血が逆流したかと思うような、激しい衝撃を感じた。
有里……だった。
雄一郎は、それを有里だと認めた瞬間から、有里以外の物も音も、すべてを意識の外へ消してしまった。
雄一郎には有里以外のものはなにも見えなかった。また、聞えなかった。時の流れも忘れてしまった。
二度と逢えないものと、半ば諦めていたのだ。現実の女性《ひと》ではないのだと、自分に言いきかせていたのだ。
喜びは静かに、そして大きく、胸の底から、まるで津波のように全身に打ち寄せて来た。
しかし、それが喜びだと気がつくまでには、それから多少の時間の経過が必要だった。
有里は……。
有里は、やはり立ちどまって、雄一郎をみつめていた。
あの、竹の林で見た時と同じように、頬《ほお》にかすかな恥らいが浮かんでいる。だが、紫色の道行を着た彼女は、この前、紺の絣《かすり》に赤い帯をしめていたときにくらべると、ずっと大人びて見えた。
「こんにちは……」
雄一郎は、有里の声をはじめて聞いた。
それは彼が想像していたよりも、もっと、ずっと素直でやさしい声であった。
「こんにちは……よくいらっしゃいました……」
雄一郎は、本当の気持とはうらはらに、極めて平凡な挨拶しかしなかった。
こういう時、どうすればいいのかを、雄一郎は知らなかったのだ。
でも、そんな簡単な言葉の中で、雄一郎も有里も、お互に好意を寄せ合っていることを、素早く感じとっていた。
12
みちたちが、真直ぐ函館から小樽へ行くだろうと計算したのは、雄一郎の早計だった。
「そろそろ列車の出発する時間ですので……」
いつまでも、駅の食堂でぐずぐずしているみちをうながすと、
「おや、私どもでしたら、この先の湯《ゆ》ノ川《かわ》温泉へ宿をとってございますのよ」
逆に、怪訝《けげん》そうな顔をされてしまった。
「すると、まっすぐ小樽へはおいでにならないんですか……?」
「勿論ですわ、ふだん、あらくれた仕事をしているわけじゃございませんのでね……。一息に又、列車を乗り継ぐなんて、とてもとても……体がたまりませんよ」
「はあ……」
雄一郎は、かえす言葉もなかった。
「それでは、宿のほうへごいっしょして下さるんじゃございませんの、折角ですから、函館見物をごいっしょにと思っておりましたのよ」
「お母さま、ご迷惑よ……」
有里が堪《たま》りかねて言った。
「室伏さん、お仕事を持っていらっしゃるんですもの……」
「おやそうかい、だけど私は別に無理にと申し上げているわけじゃありませんよ」
みちは平然としていた。
「須賀利《すがり》の室伏さんには言っといたんだから、当然こちらへも連絡してあると思ってたんですよ」
「わかりました。ご一緒いたします」
それまで黙っていた千枝がいきなり言った。
「千枝……」
雄一郎は、狼狽《ろうばい》した。
「お前、そんなこと……」
彼が慌てたのは、仕事がいそがしいというより、財布の中味が乏しかったからだ。まさか湯ノ川の旅館に泊るなどとは、夢にも思わなかったのだ。
(千枝の馬鹿野郎……)
雄一郎は千枝をにらみつけた。
しかし、千枝はすましている。
「兄ちゃん、ちょっと……」
雄一郎をうながして、店の外へ出て行った。
「千枝……お前、あんなこと言ってしまって、いったいどうする気だ……」
外へ出てから、雄一郎は千枝を怒鳴りつけた。
「だって、兄ちゃんの休み、あと二日間あるんでしょう……あたいも大丈夫だよ」
「馬鹿、湯ノ川温泉へ泊るとなれば、只《ただ》じゃすまないんだぞ、そんな金の用意して来てやしないんだ」
「へ……、お金ならあるよ」
「なに……?」
雄一郎は眼をむいた。
「どこに……?」
「出がけにね、姉ちゃんが渡してくれたの……」
千枝は手提げの中から財布を引っ張り出した。
「むこうさんがひょっとすると函館見物をとおっしゃるかも知れないから、その時はこのお金を使うようにって……姉ちゃんて、なんでもお見通しなんだよね」
そばに人の居ないのをたしかめて、
「兄ちゃん、これで恥かかなくって済むよ……」
小声で言った。
「貧乏人だからって、馬鹿にされてたまるもんか……」
千枝も、みちには腹を立てていたのだ。
雄一郎は、千枝に手渡された財布を無言で握りしめた。
(姉さん、ありがとう……)
胸の中で、そっと呟《つぶや》いた。
湯ノ川温泉は函館の郊外にある静かな温泉地だった。
北海道では、もっとも早く、約三百年前に発見されたといわれている。
雄一郎は千枝と共に、中里家の一行を、この温泉地でも一流の宿へ案内した。
無論、部屋は別だった。
しかし、夜の食事は当然一緒にするものと考えて、雄一郎と千枝は温泉にも入らず、着換えもせずに、向うから声をかけてくれるのを待っていた。が、中里家の部屋からはなんの音沙汰《おとさた》もない。
「おなか、すいたねえ、兄ちゃん……中里さん、なにしてるんだろうねえ」
夕食をたのしみにしていた千枝が、まず弱音をはいた。
「お前だけ先に食ったらどうだ」
「いいよ、待つよ、一人だけ先に食べたら失礼だもの……」
普段食いしんぼうで有名な千枝が、空腹をこらえて、廊下の足音に耳をすませている様子が、雄一郎はいじらしかった。
時計が九時を回るころ、廊下に足音がした。
「あ、来たよ、来たよ、兄ちゃん」
「うん……」
雄一郎の腹も、さっきから空腹のため鳴りっぱなしだった。
「おや、こちらのお客さん、まだ、お食事なさらんかったのかね」
襖《ふすま》を開けた女中が、呆《あき》れたような顔をした。
「どうして、まあ、今ごろまで……」
「実は、あちらの連れと一緒にするつもりなんだが、むこうは何をしてるかな」
「あちらの、鈴蘭《すずらん》のお客さんなら、もう、とっくにお食事すませて、休んでなさるよ」
「なにッ……?」
「はあ……、ひどく疲れたとおっしゃって、あんまさん呼んでなあ」
雄一郎と千枝は顔を見合せた。
あまり馬鹿馬鹿しくって、怒る気にもなれなかった。
「兄ちゃん、じゃ、早く御飯にしようよ」
「うん、では、こっちも御飯にして下さい、腹がぺこぺこなんだ」
「へえ、きっと御飯もお汁も冷めてしまったべなあ……」
女中は気の毒そうに言って、出て行った。
女中が襖を閉めるやいなや、
「兄ちゃん……」
千枝が泣きそうな顔で雄一郎を見た。
いままで我慢していたものが、急に堰《せき》を切ってあふれだしたのだ。
「千枝……」
雄一郎の胸も熱くなった。
「千枝、飯くったら夜行で小樽へ帰ろう……」
「でも、そんなことしたら、兄ちゃん……」
「いや、紀州の伯父《おじ》さんの顔をつぶすまいと我慢してきたが、もう嫌だ……もう、真ッ平だ……」
「中里さんたちはどうするの?」
「そんなこと、知るもんか、自分たちこそ勝手な真似ばかりしてきたんじゃないか」
雄一郎は、ちらと有里のことを考えた。折角逢えたばかりなのに、こんな別れかたをするのは残念だが、
(仕方がない……)
と、思った。
有里にもやっぱり中里家の血が流れている。彼女だけは、みちや弘子とは違うと勝手に想像していたが、その期待は見事に裏切られた。たとえ、そうではなかったとしても、あの母親の許《もと》では、所詮《しよせん》、雄一郎とは別の世界の人間だった。
(そのことに早く気がついただけでも、仕合せだった……)
雄一郎は、強いて、そう自分に思い込ませた。
(いまのうちなら、彼女の嫌な面を見ないでもすむ……)
だから、廊下の外で、
「ごめんください……」
有里の声がしたとき、雄一郎は咄嗟《とつさ》に返事が出来なかった。
逢いたい気持と、逢いたくない気持が相半ばしていた。
「中里でございますが……ちょっとお邪魔してもよろしいでしょうか……」
「兄ちゃん……」
千枝にせかされ、雄一郎はようやく畳から起き上り、
「どうぞ……」
と応えた。
襖が開いて、有里が遠慮がちに入って来た。
「もうおやすみかと思ったのですけれど……一言だけ、お詫《わ》びが申し上げたくて……」
「お詫び……?」
「本当にごめんなさい……私どもの勝手ばかり申しまして、さぞかし、お気を悪くなさったと思うんです。あなたがお仕事をお持ちだと分っていながら、こんな……」
有里は消え入りそうな様子で言った。
実際は、東京から此処《ここ》へ来る途中で、青森の浅虫《あさむし》温泉へ泊っているが、そこでも、みちは室伏家のことを無視して、予定より二、三日余計に滞在しそうな形勢だった。
有里は一計を案じ、その晩たのんだ按摩《あんま》にチップをはずんで、その旅館にまつわる怪談ばなしをしてもらい、臆病《おくびよう》なみちを早々に出立させたのだった。
室伏家のことを全く眼中におかない、母と姉にかわって、有里が一人で気を遣い、どうやら函館までやって来た。
しかし、着いたとたんにこの始末で、今度は有里が間に立つ余裕もなかったのである。
有里は、みちや弘子の我儘《わがまま》については雄一郎に何も言わなかった。みちも弘子も、彼女にとっては大事な母であり、姉だった。
だからこそ、母や姉のために、一人でそっと非礼を詫びに来たのである。
「なにしろ、道中が長かったものですから、母が疲れておりまして……」
ちょうどそこへ、女中が夕食の膳《ぜん》を運んで来た。
「やっぱり汁がさめてしもうたがね……」
がたびしと、雄一郎と千枝の前に膳を置いた。
「あの……今頃、お食事……?」
有里が不審そうな顔をした。
雄一郎と千枝は、何んと答えたものか、互に顔を見合せた。
「お客さんはね、ずっと、あんたがたと食事をするつもりで待っておいでたんよ」
女中がかわりに答えた。
「じゃ、ごゆっくり……」
女中が去ると、
「ごめんなさい……」
有里が、突然、両手を顔に当てた。
「ごめんなさい、私が馬鹿だったんです……」
あとの言葉は声にならなかった。
「お嬢さん、泣かんといて……ねえ、お嬢さん……」
千枝が驚いて、有里のそばへ駈《か》け寄った。
「ちっとも気がつかなくて……ぼんやり者だから……ごめんなさい……」
有里は小きざみに肩をふるわせた。
いろいろなものが、一度に胸にこみあげてきた。ただ、無性に有里は哀《かな》しかった。
「いいんですよ……」
雄一郎がようやく口をひらいた。
「僕たちも気がつかなかったんです。もっとちゃんと連絡すればよかったのに……へんに遠慮したのがいけなかったんです。どうぞ、もう、気にしないでください」
「そうよ、お嬢さんが悪いんじゃないわ、私たちが早のみこみしたのがいけないのよ、……だから、ね……」
千枝も有里の肩に手をかけて、やさしく言った。
「もう泣かんで……ね、お嬢さんが泣いとると、私、ごはん食べられんもん……」
「そうですよ、僕たちいまにもぶっ倒れそうなんだ……」
雄一郎がおどけた調子で言った。
「はい……」
有里が泣き笑いの顔をあげた。
「じゃ、私、お給仕しますわ」
「いいよ、お嬢さんにそんなことさせられんよ」
千枝が制したが、それより早く有里は立ってしゃもじを取った。
「お嬢さんなんて言わないで……、私、有里っていうんです、はい、どうぞ……」
茶碗《ちやわん》を雄一郎へさし出した。
「すみません……」
雄一郎は礼を言って箸《はし》をとった。
(やっぱり俺の思ったとおりの娘さんだった……)
汁は冷めていたが、雄一郎の胸の中は、満足感で温くふくらんでいた。
千枝も雄一郎も、遠慮なく、何度も有里におかわりを頼んだ。
そのたびに有里も、いそいそと茶碗に飯をよそった。
13
翌日、雄一郎と千枝は中里親子をつれて、函館を案内した。
昨夜の有里の態度が、雄一郎の心も、千枝の心もすっかり和ませていた。
案内するといっても、雄一郎も千枝も函館は、はじめてであった。おまけに函館見物の大半は弘子の希望で、石川啄木にゆかりの土地ばかりを観て歩くことになった。
石川啄木が函館に暮したのは、明治四十年の五月から九月までである。たった四か月ではあったが、「僕はやっぱり死ぬときは函館で死にたいように思う」と語ったほど、彼はこの土地が気に入ったらしい。
函館の青柳町《あおやぎちよう》こそ悲しけれ
友の恋歌矢車の花
しらなみの寄せてさわげる
函館の大森浜《おおもりはま》に思いしことども
函館の臥牛《がぎゆう》の山の半腹《はんぷく》の
碑《ひ》の漢詩《からうた》もなかば忘れぬ
啄木が函館の町をうたった歌は多い。
弘子は啄木に心酔しているだけに、永いこと、函館の町に憧《あこが》れを持っていたらしかった。
今度の北海道旅行の目的も、どうやらそのへんにあったのではないだろうか。
とすれば、室伏一家にとっては、大変に迷惑な話だった。
弘子は、青柳町はもちろん、啄木の歌に出てくるとおぼしき箇所を歩き回った。
やがて、啄木の墓のある臥牛山の中腹の共同墓地へ寄った。
「とうとう、やって来たんだわ……」
弘子はうっとりと墓碑を眺めていた。
「やっぱり来てみないと、本当の歌の意味はつかめないわねえ……」
一人で勝手に感動したり、はしゃいだりした。
立待岬《たちまちみさき》から、雄一郎は一行を五稜郭《ごりようかく》へ案内した。
幕末の頃、安政四年から、八年がかりで造られたという日本最初の洋式設計の城郭である。また、明治維新の際、江戸を脱出した榎本武揚を主将とする幕臣たちが、明治政府軍と激戦を交えた、つわものどもの夢の跡でもあった。
しかし、弘子はせっかくの雄一郎の案内にも、啄木ゆかりの場所以外はまるで関心をしめさなかった。
そんな弘子と、楽しそうに雄一郎の説明を聞いている有里との対照は、なんとも奇妙なものだった。
知らない人が見たなら、雄一郎の見合の相手は、弘子ではなく有里かと思い違えるかもしれなかった。
それほど、弘子の態度は自分勝手で、そっけなく、それを補おうとする有里は、遠慮がちにではあったが、どうしても雄一郎や千枝との会話が多くなった。
そして、弘子と雄一郎の違和感は、湯ノ川温泉へ帰りつくころには、かなりはっきりとした形となってあらわれるほどになってしまっていた。
翌朝、ようやく腰をあげた中里家の人々と共に、雄一郎と千枝は函館本線を塩谷へむかった。
塩谷の駅には、はる子とそれから思いがけず手宮駅長南部斉五郎が出迎えていた。
「駅長さん、留守中に何かあったんですか」
雄一郎は思わず南部に駈け寄った。
「私の手落ちかなにかで……」
すると、南部は鼻下のチョビ髯《ひげ》をふるわせて笑った。
「なんにもありゃあせん……わしゃ、お前の親がわりだからなあ、わしの伜《せがれ》のお客さんを迎えに来たんじゃよ」
「駅長……」
雄一郎の胸に、熱いものがこみあげてきた。
「駅長じゃない、親父《おやじ》さんと呼べ、この大飯ぐい……、いいか、こういう時は、わしたち年をくった者に任しとくもんだ」
そういうと、南部は中里みちのところへ歩み寄って行った。
「どうも遠方を……よういらっしゃいました」
駅長らしい鷹揚《おうよう》な敬礼をしてから、うしろに慎しく控えたはる子を紹介した。
「これが雄一郎の姉のはる子でございます」
「遠いところを、ようこそ……」
はる子は一歩前へ出て、ていねいに一礼した。
雄一郎には、みちがなんとなくけ圧《お》されている様子なのがよく分った。位負けとでもいうのだろうか、いつも人を小馬鹿にしたような顔で応待する女が、南部の前では一応神妙にしている。
はる子の態度にほとんど隙《すき》のないのも、みちを驚かせたらしい。
尤《もつと》も、みちがけ圧されるのも道理で、南部斉五郎という男は、普通なら今頃は東鉄の要職にある人物だった。今をときめく尾形政務次官とは中学時代の同窓で、お前俺と呼び合う仲だったが、尾形が岩鉄《がんてつ》(岩倉《いわくら》鉄道学院、明治期鉄道の最高学府)を出たのに対し、彼は家が貧しかったため、中学だけで鉄道へ入った。しかし、清廉潔白《せいれんけつぱく》、人情の機微を解し、昇進こそ遅かったが、現場での信望は篤《あつ》かった。
当時、東鉄内部では、上層部と現場の間に意見の対立があり、彼は現場を代表させられて上司の尾形と激論をかわし、結局意見がいれられなかったため、彼はいさぎよく身をひき、自らすすんで地方の駅長の道をえらんだのだった。
しかし彼の人物を惜しむ声は多く、つい先日も、尾形政務次官の内命を受け、札幌管理局の大岡局次長が、南部の中央への復帰を要請してきたが、彼は、
「誤解されるといかんから申し上げておくが、私は決して十五年前のことにこだわって居るわけじゃない、従って、尾形君にも私怨《しえん》はさらさらないつもりだ……、意見の相違はあっても、彼と私とが年来の友人であることは気持の上で少しも変っていないつもりだ。しかし、私はすでに骨を北海道に埋める気でいる。たって、私を東京へ復職させるというのなら、私は鉄道を辞職する……」
と、きっぱり拒絶した。
南部斉五郎が部下を思うことは大変なもので、それは雄一郎の例でも判るように、実の父親以上であった。
雄一郎を鉄道へ入れてくれたのも彼だし、千枝を売店で働けるように取り計らってくれたのも彼だった。両親を失った室伏きょうだいが曲りなりにも生きてこられたのは、すべて彼のお蔭だった。
彼の下に働く者は、実際、いつでも彼のために生命を投げ出すことを辞さないほどだった。
この日も南部斉五郎は雄一郎のために、完全に父親の役をつとめてくれていた。
南部駅長は先に立って、中里家の一行を塩谷の室伏家へ案内した。
家の中は、はる子の心づかいできちんと片づき、棚には菊の花が飾られていた。
無論、尾鷲の中里家には比ぶべくもなかったが、部屋のすみずみにまで、中里親子を心から歓迎する気持がこもっていた。
しかし、みちや弘子が家へ上って、じろじろと部屋の中を観察してみるまでもなく、彼女たちは、この室伏の家にはまったく不釣合いであった。
弘子は囲炉裏《いろり》の煤《すす》で、てかてかに光った柱や天井の梁を気味悪そうに眺めていた。
有里は、みちと弘子の従者といった形で、二人のうしろに控え目に坐っていた。
会話は、もっぱらみちと南部のあいだで取り交わされた。
みちは出来るだけ沢山、雄一郎の非を探し、帰ってから浦辺友之助や勇介に数えたてるつもりだったし、南部はこの親子が、将来雄一郎の嫁として、義母としてふさわしい人物かどうかを観察していた。
「すると、鉄道というのは、およそ何年くらい勤めれば駅長さんになれるもんなんでございましょうねえ」
「当人の努力次第ですな。年月じゃありません」
「それでもなんでございましょう……帝大を卒業した方と小学校卒とじゃ、先へ行って随分とひらきが出来てしまうんじゃございませんか」
「いや、それも当人次第ですな」
南部はみちの意地の悪い質問を、柳に風と受け流していた。
「左様でございましょうか、どこの社会でも、やっぱり学歴というものが出世にひびいてくるものと違いますか」
みちは、あくまでも学歴有用論で南部を組み伏せようとする。
「私の周囲では、すくなくともそうなっているようでございますがねえ……」
南部の眉《まゆ》がすこし動いた。
「ほう、そうですかな……」
表情はいつもと同じ温顔である。
「帝大出てきた奴でも駄目な者は駄目、小学校卒でも役に立つ奴は役に立つ……。人間の価値は学歴でもないし、肩書でもない、役に立つか否かです。鉄道は駅長になったから偉いというもんじゃありません、線路工夫でもえらい奴はえらい……」
南部は話しながら相手の反応をじっとみつめていた。
「この保線区に岡本という爺《じい》さんがいます。保線、つまり、常に線路を守る役目ですな、雪崩や崖《がけ》くずれで列車が危険におちいることがないか……、事故を未然にくい止める、いわば縁の下の力持ちですな。岡本爺さんにとって、札幌、小樽間の線路はまるで我が子みたいなものなんですよ、どこの区間が雪崩に弱いとか、どこそこは高波にやられやすいとか、我が子の体みたいに手、足、爪《つめ》の先まで健康状態がわかっとる。肩書なんかありゃしません、大学卒でもない……、しかし、そういう人が鉄道にとってはひじょうに大切なんです、なくてはならない存在なんですよ」
「線路工夫のお話など、承っても仕方がございませんわ」
みちは、ぴしゃりと言った。
「左様ですかな……」
南部は苦笑しただけだった。今度は弘子の方に向き直り、
「お嬢さんも鉄道にはあんまり関心をお持ちじゃないようですな」
と質問した。
「よくわかりませんの、鉄道のことなど……」
「ほう……」
眼許《めもと》に浮かべた微笑はそのままで、
「あなたは、失礼ですが、どんな趣味をお持ちですかな」
と聴いた。
「短歌の勉強を致しておりますの、明日香《あすか》会と申す女流歌人の方々の雑誌にも、時々投稿致して居りますようで……」
母のみちがかわって答えた。
「ほう……」
こんども、微笑をたたえたままである。
「今度こちらへ参りますにも、北海道は石川啄木が住んだことのある土地だというので、とても楽しみにして参りましたんですのよ」
「ほう……」
南部の顔から、微笑が消えた。
「あの……」
はる子が、そっと口をはさんだ。
「みなさま、長い道中でお疲れでございましょう、よろしければお風呂も沸《わ》いておりますから……」
「お風呂は宿へ戻ってに致します」
「宿……と申しますと?」
「小樽には、少々ましな宿屋もあるそうでございますね」
「はあ……でも、もしよろしければ、むさくるしゅうはございますが、私どもで、気易くおくつろぎ下さいませんでしょうか」
「いいえ、そういうわけには参りません、宿のほうが勝手でございますから」
みちはきっぱりと断った。
「よろしい、小樽の宿へ御案内しましょう……」
南部がすぐさま引き取った。
「はるちゃん、お望みにまかせたほうがいい……な」
はる子に、眼で素早い合図を送った。
「はい……」
はる子は南部の合図の意味が分って、素直にうなずいた。
この日のために、彼女がどれだけ多くの苦労をして準備をし、また、楽しみにしていたかなどということは、みちや弘子にとっては、なんの意味もなさなかった。それを察するだけの、心の豊かさも広さもなかった。
有里だけが、いまにも泣きだしそうな顔をして、じっと俯《うつむ》いていた。
14
翌日、雄一郎は勤務につく予定だったが、事情を知っている同僚の佐藤が休日をかわってくれたので、一日、小樽を案内することになった。
中里家のみちのためでも、弘子のためでもなく、ひたすら、詫《わ》びをこめた眼差《まなざ》しですがりついてくるような、有里への思いやりのためであった。
小樽は、もう冬であった。
ぼつぼつ根雪の来る時期である。
重くたれこめた空、凍《い》てた大地……、そんなものに弘子が眉《まゆ》をひそめ、失望しているのが、雄一郎には手にとるようにわかった。
忍路《おしよろ》高島が見晴らせる岬へ案内したときも、有里が眼を輝やかせて、春になるとこの海がニシンでいっぱいになるという、雄一郎の話を聞いていたのに反し、弘子は、
「暗い海……どうして、こんなに暗いのかしら……見ていると、なんだか押しつぶされそう……」
と呟《つぶや》く始末だった。
岬をまわってくると正午になった。
雄一郎は弘子と有里を小樽のうなぎ屋へ案内した。
だいぶ前、南部駅長の孫娘の三千代を待っていて、つい、酔って寝込んでしまった思い出のあるうなぎ屋だった。
ところが、いい匂《にお》いをぷんぷんさせたうなぎの重箱が運ばれて来たとたん、弘子が不意に立ち上った。
「お姉さま……」
有里が驚くと、
「私、疲れたの……ちょっと寒気もするし……先に宿へ帰ります、有里は勝手にしなさい」
そう言い残して、さっさと帰って行ってしまった。
しかし雄一郎にとっては、むしろこのほうが具合いがよかった。
「どうしますか?」
有里に聴いてみた。
「私、うなぎご馳走《ちそう》になりますわ、姉が勝手にしていいと申しましたし……」
「じゃ、このあとの見物もこのまま続けましょうか」
「ええ。もう二度と小樽へ参れるかどうか分りませんから……」
やっと二人きりになれたことで、雄一郎はすっかり有頂天になっていた。弘子が手をつけずに置いていった重箱も、結局全部、彼が平らげてしまった。
雄一郎は手宮公園と古代文字|洞窟《どうくつ》に有里を案内し、その帰途、いつも子供の頃遊びに行った浜辺へ立ち寄った。
「僕は子供の時から機関車が好きだったんです。機関手に憬《あこが》れて、毎日毎日、駅へ行っては機関車を見ていた……」
雄一郎は有里に、自分の過去のことを知ってもらいたかった。そして、普段口数の少ない彼にしては珍らしく、次から次と喋《しやべ》り続けた。
「学校卒業したら機関手になる……、日本一の機関手になるって、そう言い続けて来たんです……」
有里は、そんな雄一郎の話を熱心に、しかも楽しそうに聞いていた。
「鉄道へ入って、いろいろな事がありましたが、結局機関手でなく駅で働くことになりました。最初はちょっと悩みました。僕の夢は日本一の機関手になることじゃなかったのかってね。しかし、機関手だって駅手だって、やっぱり道は一つなんだと思えるようになりました……、それを教えてくれたのが南部の親父さんなんです……」
「立派なかたですのね」
「本当なら、こんな地方の駅長なんかしている人じゃないんですよ……」
雄一郎は、有里が南部を褒《ほ》めたことが、まるで自分が褒められたことのように嬉《うれ》しかった。
「東京に居れば、今頃、中央で鉄道を背負って立つような立場にあったかもしれないのに……若い頃に親友でもあり、同僚でもあった人と仕事の上で論争し、どうしても自分の主張を曲げなかったんです。主張としては南部の親父さんのほうが正しかったのに、時の勢いでその意見がとりあげられず……、以来、親父さん、臍《へそ》をまげて北海道の駅長になっちまったんだそうですよ」
「まるで、西郷隆盛みたいな方ね……」
「そうか……、そういえば、ふとってるところなんか、よく似てるな……」
雄一郎は有里の言いまわしが気に入って、愉快そうに笑った。
「いまに北海道名物の熊かなんかと肩を組んだ銅像でもつくるといいかもしれない」
「まあ、駅長さんのこと……悪いわ、言いつけてあげる……」
有里は雄一郎をやさしく睨《にら》んだ。
「訂正、訂正……」
雄一郎は笑いながら、石を拾うと、沖へ向って力いっぱい投げつけた。
石は暗い空に弧を描き、はるかかなたに白い飛沫《ひまつ》をあげた。
「小さい時も、よく、こうやって石を投げたな……何か自分の心の壁にぶつかると……」
雄一郎は、次々と石を拾っては海に放り投げていた。
有里は何気なく、
「今も、ぶつかっていらっしゃるの……?」
と言ってしまってから、はっとした。
ふりかえった雄一郎の眼が、恐いくらい真剣だったからだ。
雄一郎はじっと有里をみつめていた。
その眼に射竦《いすく》められたように、有里は動けなかった。
「有里さん……」
ようやく、かすれた声で雄一郎が言った。
「おぼえていますか……、尾鷲の竹の林で逢《あ》ったときのことを……」
有里は子供のような仕草で、こくりと頷《うなず》いた。
「あの時……、僕、君を……竹の精かと思った……」
「竹の精……?」
雄一郎は再び石を拾うと、力いっぱい海へ投げた。
その後姿を見ているうちに、有里は不意に自分の頬《ほお》が熱くなるのを感じた。
有里は、雄一郎に送られて宿へ帰った。
二人は途中、あまり口をきかなかった。
黙って歩いているだけでも、身体中に充ち足りた充実感があったし、かと思うと、逆に二人の前途の多難さを思い出して塞《ふさ》ぎ込んだ。
有里はやや伏目がちに、雄一郎から二、三歩遅れて歩いて行った。
雄一郎は時々ふり返り、温い眼差《まなざ》しでじっと有里をみつめた。そのたびに有里は、男の太い腕に抱きしめられたような、はげしい動悸《どうき》を感じるのだった。
宿へ着くと、部屋ではみちと弘子が荷物をまとめて帰り仕度をしていた。
「明日発ちますからね。お前も明日になってあわてないようにしておおき……」
廊下に雄一郎が立っているのを見つけると、
「おや、ちょうどよかった、ちょっとこちらへ入ってくださらない」
みちは雄一郎に、テーブルの前の座布団を眼で示した。
「明日、お帰りですか」
「ええ……なにしろ寒くてね、私もこの子もどうも寒い土地は性に合わなくて……、まさか十一月の陽気がこんなに寒いとは夢にも思わなかったもんだから」
みちは風邪でもひいたのか、時々、軽い咳《せき》をしていた。
「ねえ、室伏さん」
向いあって、坐り直した。
「せっかくのお話でしたけれど、今度のあなたと弘子の縁談、やっぱり御縁がなかったことにして下さいな。そりゃあ、あなたのお人柄をとやかく申すのじゃございませんよ……、でもねえ、人間、やはり住む土地が性に合う、合わないってことは大事だと思いましてね……、来てみてようございました。こういうことは念には念を入れるものでございますねえ……、浦辺さんとあなたの伯父さんのほうへは私から事情をお話し申しますが、よろしゅうございますね」
「結構です……」
「どうもいろいろお世話さまでございましたねえ……、お姉さんによろしく、もうあらためてご挨拶《あいさつ》には伺いませんから……」
「分りました。じゃあ……」
雄一郎はあっさり立ち上った。
正直なところ、弘子に未練はなかった。それどころか、はっきり断ると宣告されたことでほっとしていた。
しかし、今の雄一郎の気持は複雑だった。
雄一郎は有里を見た。有里の悲しそうな視線にぶつかった。有里にたいする感情が一時に溢《あふ》れだして、それをどう処理したらいいか分らなかった。
「じゃあ……」
たったそれだけの中に、雄一郎はすべての思いを織り込んで、部屋を出るより仕方がなかった。
もしかしたら、有里が追ってくるかもしれないというはかない望みから、雄一郎は宿屋の前にしばらく佇《たたず》んでいた。
が、有里は現れなかった。
雄一郎の胸の中に、ぽっかりと大きな穴があいた。
15
家に帰りつくと、雄一郎は早速このことをはる子と千枝に報告した。
「馬鹿らしいったらありゃしない……」
まず怒ったのは千枝だった。
「なんで、兄ちゃん、自分の方から先に断ってやらなかったのよ。むこうから御縁のなかったものだなんて言われて、へいへいと引き下ってくるなんて……、馬鹿らしくって馬鹿らしくって……、腹が立つわ」
「いいんだよ、今度の話は最初から尾鷲の伯父さんの顔を立ててのことなんだ。伯父さんはいい人だし、いろいろ世話もかけた。その伯父さんが一生懸命骨折ってくれたことに対して、俺《おれ》たちは出来るだけのことをした……これでよかったんだよ」
雄一郎は冷静だった。
「私も雄ちゃんのいうのが正しいと思うの……これでよかったのよ」
はる子の表情も落着いていた。
「姉さん、本当にそう思ってくれるかい?」
「ええ……、私ね、今だからはっきり言うわ、千枝ちゃんにお金を持たせたけれど、もし、あちらさんが函館へ泊らず真直ぐ家へいらっしゃるようなら、この縁談は本気で考えなけりゃならない……。函館へお泊りになるようなら、纏《まとま》らなくて仕合せ……悪いけど、そう思っていたの」
「なんで……?」
千枝には姉の言う意味がよくのみこめないらしかった。
「なんで函館へ泊るようならあかんの……」
「それはね……」
はる子は苦笑した。
「あちらさんが本気で雄一郎のことを考えていらっしゃるのなら、一日も早く、一刻も早く、雄一郎の家族や家の状態などについて知りたいと思うのが人情じゃないかしら……、それを、のんびりと函館見物なんかなさってるようじゃ、まず、冷やかしと思っていいんじゃないかと……ね……」
「当て推量で判断して、もし違ったらとんだことになってしまうでしょう。それに、たとえなんであれ、雄ちゃんと御縁のあったお方じゃないの、あとで後悔するような真似はしたくなかったの……」
「姉さん、ありがとう……」
雄一郎は頭をさげた。
それほどまでに気を使っていてくれたのかと思うと、涙が出るほど嬉《うれ》しかった。
「なによ、あんたはこの家の主人なのよ、男がそう安っぽく頭を下げるもんじゃありません、さ、御飯がさめてしまうわ」
はる子は囲炉裏《いろり》の鍋《なべ》から、汁を椀《わん》によそった。
「……頂きます」
千枝も箸《はし》を取った。
「頂きます……」
「南部駅長さんには、ちゃんと御報告しておかなければね」
「ああ、明日、俺、報告しておく」
「なあ、姉ちゃん、湯ノ川の旅館とってもよかったよ、姉ちゃんもいっぺん行ってくるといい……」
千枝はまだ温泉旅館の味が忘れられないようだった。
「こいつったら、イカがうまいうまいって俺の分まで食っちまってさ、あとの言い草だけはしおらしいんだ。こんな美味《うま》いもん、姉ちゃんにも食わせたいとさ……」
「だって……」
千枝が口をとがらせた。
「本当にそう思ったんだもん……」
「ありがとう……、千枝……」
はる子がしんみりした声で言った。
「そのうち、きっとみんなで行こうね」
「うわあ、又、行かれるの……」
千枝は箸と茶碗《ちやわん》を持ったまま小躍りした。
「なんです、千枝、その恰好《かつこう》……」
はる子が千枝を睨《にら》んだ時だった。
カタリ……と、表の戸が音をたてた。
「おや、誰か来たんじゃないのか……」
「そうね」
はる子が立ちかけるのを押えて、
「俺が行く」
雄一郎は立って、表戸を開けた。
「どなたですか?」
闇《やみ》をすかしたとたん、眼を瞠《みは》った。
「有里さん……」
雄一郎の息が白く凍った。
有里の吐く息も白かった。
彼女ははるばる汽車で塩谷までやって来たのだ。
「君、一人?」
雄一郎が訊くと、有里は頷《うなず》いて、眼を伏せた。
「どなた?」
はる子が出て来た。
「まあ、中里さんの下のお嬢さん……どうぞ、散らかして居りますけど、どうぞお上りになって……」
「いいえ、ここで失礼いたします……、そのつもりで参ったんです」
「でもせめて、家の中へ……」
はる子は有里の手を引いて、土間へ入れた。
「明日、お帰りになるんだそうですねえ」
「はい、明日、朝の汽車で帰ります。その前にどうしてもお詫《わ》びをしなければ……と思って来てしまいました。なんといってよいのかわかりません……御迷惑をかけてしまいまして……」
「お嬢さん、そんなこと……」
「あの……、母や姉はけっして悪い人ではないんです。悪気があったわけでもないんです……。ただ、成り行きでこんなことになってしまって……、堪忍《かんにん》して下さい……。お詫びしてすむことだとは思っていません。でも、どうしてもお詫びにうかがわずにはいられなかったんです……」
涙がこぼれそうになったのか、有里はあわてて戸をあけた。
「では、ごめん下さいまし……」
「あっ、お嬢さん」
有里の姿は、たちまち闇に消えた。
はる子の額に、冷めたいものが当った。
「雄ちゃん、雪が降ってる……」
「姉さん、俺、ちょっと行ってくる」
雄一郎は、立てかけてあった傘《かさ》を掴《つか》んで表へとび出した。
「有里さーん」
まだそれほど遠くへは行くまいと思ったのに、有里の足は案外早く、追いついたのは、塩谷の駅の灯がそろそろ見えだすあたりだった。
「随分足が早いなあ」
「道が暗いので、夢中で……」
顔はよく見えなかったが、雄一郎が追いかけて来てくれたことが嬉しそうだった。
雄一郎は傘を有里にさしかけた。
「すみません。こんなことまでしていただいて……」
「でも、よく来てくれましたね……もう逢えないのかと思った」
「母や姉には、こちらに大事な忘れ物をしたからと言って……」
雪の夜道である。
見る人もないのを幸い、雄一郎は相合傘で有里を塩谷の駅へ送って行った。
塩谷駅は、山間の、ひっそりした停車場だった。夜ともなれば、あまり人の乗り降りもない。待合室はひっそりとして、他に人影もなかった。
小樽へ向う汽車が到着するまでには、まだ三十分あまり時間があった。
「なにしろ田舎だから、列車の数が少ないんですよ」
「尾鷲はもっと田舎ですわ、なにしろ汽車が通っていないんですもの」
「ああ……」
雄一郎は笑った。
とにかく、有里と一緒だと、それだけで楽しいのである。
「この駅、僕にとっては懐《なつか》しい駅なんですよ。鉄道へ入って最初に勤めたのがここなんです。もっとも臨時|雇《やとい》で、正式の鉄道員じゃなかったですがね」
「南部駅長さんも、ここにいらしったんですの?」
「ええ、そうなんです……。西洋人の言葉に、仕合せな人間は一生に二人の父を持つことが出来る、一人は血をわけた父、もう一人は恩師である、というのがあるそうですが、そういう意味では僕は仕合せな人間だと、いつも思っています」
「本当……羨《うらや》ましいわ」
「お父さん、歿《な》くなられてさびしいでしょう」
「ええ、それは……でも、だんだん慣れますわ、一生父に甘えているわけにはいきませんものね……」
有里はふっと表情をあらためた。
「母は可哀想な人なんです、父は派手好きでしたし、父の生きている頃は家の状態もよかったもんですから……、母は嫁に来て以来、なに不自由なく、父の好み通りの派手な生活を続けて来たんです。兄の代になって、家が左前になったと聞かされても、どうにも実感が湧《わ》かないのでしょうし、自分でも今更生活を変えるのは、土地の人への体面もあって、なかなか出来ないらしいんです」
「分るような気がします……」
雄一郎は頷いた。
「人間の過去というのは、そう簡単に消せるものではありませんからねえ」
「でも、室伏さんのお宅では、お姉さまも妹さんも、あんなに懸命になって働いていらっしゃる、一家が力を合せ、肩を寄せ合って生きているってこと……本当にうらやましいと思いました」
「家は貧乏だから……」
「私の家だって貧乏ですわ、外見《そとみ》だけは体裁がよくっても、内は借金だらけ、室伏さんのところより、もっと貧乏ですわ」
「僕にはよく分らんな、金持の貧乏ってことが……」
「私にもよく分らないんです」
「なあんだ……」
二人は思わず顔を見合せて、ほほえみ合った。
「ごめんなさい、こんなつまらない話をして……」
「いや……」
上り列車の改札がはじまった。
「一緒にホームまで行きましょう」
雪はだんだんはげしくなっていた。
ホームに立つと、急に別離の意味が二人の胸を締めつけだした。
「もっと早く、君に逢いたかった……」
雄一郎は太い息を吐き出しながら、ぼそりと言った。
「すくなくとも、あんな見合をする前に……」
有里がはっと顔を上げた。
「室伏さん……」
「僕は今度の見合が駄目だったことは、すこしも気にしていません、そんなことより、僕は君と別れることの方が……」
「私も……私もそうなんです」
有里の眼が、構内の電燈の明りにキラリと光った。
「なぜ、姉なんかとお見合をなさったの、よりによって、私の姉と……」
強い地響きと共に、列車が進入して来た。
「さようなら……」
有里の声は、機関車の轟音《ごうおん》にかき消された。
「有里さん!」
雄一郎はしっかりと有里の手を握りしめた。
「有里さん……」
列車が静止した。
「室伏さん……、さようなら」
有里は自分から力をこめて、雄一郎の手を握りかえしてから、そっと手をはずした。
「今度はいつ逢えますか?」
雄一郎は追いすがるように言った。
「…………」
有里は哀《かな》しそうな眼で、雄一郎をみつめただけだった。
一旦、尾鷲へ帰ってしまえば、二度と再び北海道へ来ることは覚束無《おぼつかな》い。二人ともそのことはよく知っていた。
「じゃ、元気でね……」
雄一郎は無理に笑いを作った。
いつでも、すぐにまた逢える恋人のように振舞おうとした。さもないと、本当に有里とは、これっきり逢えなくなるようで不安だった。
「室伏さんも……」
有里も敏感に雄一郎の気持が分ったらしく、無理に明るくほほえんだ。
発車のベルが鳴っていた。
「また……」
「ええ、またね……」
有里が手をのばした。
雄一郎はその手をしっかりと握りしめた。
列車が、ガクンと揺れ、そして静かにホームを滑りだした。
「危いわ……」
有里が言った。
しかし、雄一郎は手を離さなかった。
「手紙、出していいですか」
「…………」
「有里さん」
「お待ちしてます……」
雄一郎は列車と共に走った。
「さようなら……私も手紙、お出ししますわ……」
「うん、じゃあ……」
雄一郎はようやく手を離した。
「体に気をつけてね……」
「室伏さんも……」
あとの言葉は風に消された。
「有里さあん……」
去って行く列車に向って、雄一郎は大きく手を振った。
降りしきる雪の中へ、有里を乗せた列車はたちまち小さく消えて行った。
いつか、東京へ嫁入りする三千代を見送ったホームで、雄一郎は有里を見送った。
三千代の時は、遠ざかる列車の赤い光が消えたとき、別れの実感がひしひしと雄一郎に迫って来た。
有里を見送って、雄一郎は不思議と、別れるという感じがしなかった。
(これから、はじまるのだ……)
雄一郎は我が胸に、強く言いきかせた。
16
母と姉と共に、津軽《つがる》海峡を渡って本州へ帰って行った有里のあとを追うようにして、雄一郎は彼女へあてて手紙を書いた。
恋文というには、あまりにそっけない、ごく普通の手紙だった。
折りかえして有里から返事が来た。これも愛とか恋とかいう表現の何一つない、さりげない文章であった。
その中に、雄一郎は押さえた有里の愛を見るような気がした。なによりも、すぐ返事をくれたことが、彼女の愛の証のような気がした。
雄一郎と有里の手紙の交換は、ひんぱんに海峡を往復した。
正月になって間もなく、有里からの手紙に、今後、私宛の手紙を左記宛にお願いします、この場所は、いつか、あなたを竹の林へ御案内したおじいさんの家です。私を本当の娘のように可愛がってくれている人ですから、けっして御心配なさらないでください、と書いてあった。
雄一郎は自分と有里との文通を、中里家が喜んでいないことをさとった。
だが、障碍《しようがい》にぶつかって、二人の心は一層強く結びついた。
雄一郎は前より以上に竹林の老人へあてて、有里への手紙を書き送った。有里からも間をおかず、返事があった。
大正十五年春。
雄一郎は手宮駅から再び塩谷駅へ移り、出札掛を拝命した。
勤務の比較的楽な駅へまわして、少しでも勉強の余裕をあたえようという南部駅長の思いやりからであった。雄一郎は来年の春、信号構内掛の資格試験を受ける予定だった。
勤務が終り、家へ帰って来ても、雄一郎は夜おそくまで勉強を続けていた。
そんな或る日、疲れた頭を休めるため、囲炉裏端《いろりばた》でぼんやり爪《つめ》を翦《き》っていると、それを待ちかねていたように、はる子が傍へ来て坐った。
「ちょっと話をしてもいいかしら……」
「なんだい……?」
「これ、見てごらん」
はる子は、ちゃんと表装された写真を雄一郎の前に置いた。
「なんだい、これ……」
「駅長さんの奥さんがわざわざ持って来てくださったのよ」
「…………」
南部駅長の妻の節子が、近ごろ、雄一郎の嫁さがしに奔走しているという噂《うわさ》を彼もそれとなく耳にした。
中里弘子との縁談がこわれたことを知って、俄《にわか》に思い立ったことらしかった。が、有里を想う雄一郎には、迷惑な気がした。
「ねえ、見るだけでもみてごらん」
「いいよ、そんなもの……」
「でも、せっかく持って来て下さったんじゃないの、このあいだもそんなこと言ってお断りしてしまったし、奥さんに申しわけないでしょ」
「いやだ……」
雄一郎はきっぱり言った。
はる子はちょっとたじろいだ様子で、雄一郎を見ていた。人一倍礼儀正しいはずの雄一郎が、折角節子が持って来た写真に一瞥《いちべつ》もくれないということは珍《めずら》しい。
(これには何か理由《わけ》がある……)
はる子はすぐ、或ることに思い当った。
「雄一郎……あんた、好きな人がいるんでしょう」
「そんなもん……居らん……」
雄一郎の眼に狼狽《ろうばい》が走った。
「嘘《うそ》、知っとるよ、姉ちゃん」
「かまかけても駄目《だめ》だよ」
「じゃ、言ってあげようか、その人の名前……」
「姉さん……」
「ずいぶん手紙たまっとるんでしょう……」
はる子の眼がやさしく笑っていた。
「いいのよ、別にお節介やいてるわけじゃないの……あの人はいいひとだし……、姉ちゃん、はじめて逢ったときからそう思った……。紀州でのお見合が、妹さんのほうだったら良かったのになあって……」
「姉さん……」
雄一郎は俯《うつむ》いた。
「雄一郎、あんた有里さんをお嫁さんに欲しいんでしょ、有里さんなら嫁にもらいたいって考えているのね」
「…………」
「はっきりしなさい、男じゃないの、好きなんでしょう、有里さんが……」
「好きだ……」
雄一郎はぼそりと言った。
「そう……やっぱりそうだったのね」
「姉さん」
「有里さんはいい人でも、お母さんがああいう方だもんね。弘子さんとの縁談だってあんな拗《こじ》れかたをしてしまったし……、それを、又、あらためて妹さんのほうを戴きたいといっても、おいそれとねえ……」
「俺もそう思ってる……まず、望み薄だな」
「あんた、ひとごとみたいにいうけれど、諦めきれるの?」
「あきらめられないんで困ってるのさ……」
「あきれた人ね」
あまり正直な雄一郎の返事に、はる子は思わず苦笑した。
「ま、姉ちゃんに任せなさい。駄目かもしれないけど、いっぺん尾鷲の伯父さんに頼んでみるわ」
「まず、駄目だな」
「何もしないうちから弱音を吐くな、この大飯ぐい!」
はる子が南部駅長の口癖《くちぐせ》を真似たので、雄一郎の表情がゆるんだ。
その夜、はる子は須賀利《すがり》にいる伯父にあてて、長い手紙を書いた。
はる子は正直に、伯父に雄一郎の気持を打明け、彼と有里が手紙を交換し、愛情を育てていること、他の縁談に見向きもしないことなどを述べて、はなはだ勝手ではあるが、弘子との見合は無かったことにして、あらためて有里との縁談を中里家に申し入れてもらえないかと相談した。
この手紙は、数日を経て須賀利の伯父の許《もと》に届いた。
はる子や雄一郎が心配したように、伯父も手紙にひととおり眼を通すやいなや、首をひねった。
「これは面倒なことになったのう……」
久夫は妻のかねに手紙を見せた。しかし、これも一読するなりむずかしい顔をした。
「どんなもんじゃろうなあ、中里はんへ行ったもんかのう……」
「ほんになあ……」
かねは深い吐息をついた。
「ま、ほんまのことをいえば、この前の中里はんのやりかたはあんまりや、わざわざ、函館まで迎えに来さしておいて、雄一郎はんが気にいらんから断るいうのは、なんぼ金持か知らんが人を馬鹿にしとるわ」
かねはこの前きたはる子の報告で中里家のことをまだ憤っていた。
「しかし、中里はんでは、雄一郎が気に入らんのやのうて、小樽へ住むのんがいやや言うとるんや」
久夫が取りなし顔で言った。
「そんなもん、どっちかておんなしですわ、仲に立った浦辺はんもいうとりましたわ……、なんや、中里はんの奥さんは、最初っから弘子はんを雄一郎はんにやる気イが無かったんやと……」
「ありゃ、弘子はんがはっきりせなんだがいけなかったんや」
「けど、あんた、弘子はんはもう齢《とし》やで……今まで、どの縁談もあかなんだのやさかい、うちのような身分違いと見合しはったんや。けど、お有里はんは誰にでも好かれる働きもんや、どこというて難はなし、あの人やったら嫁はんにしたいちゅう人が、よおけにおるやろう……」
「そうじゃのう……」
久夫が溜息《ためいき》をついた。
「そんな人を、うちらがもらいに行っても、ようおくれんわな」
「そいでも、はる子はんの手紙では、お有里はんは雄一郎を好いとるようじゃいうて来とるが……」
「うん、そう書いてはあるが、ほんまかいな……」
「ま、折角こうして頼んで来てるんやさかい、無駄とは思うが、一度浦辺はんに話してみようかいの」
「そうやなあ、まあ、あかんやろとは思うけどなあ……」
かねも、雄一郎と有里の縁談に関してはあまり気乗りがしない様子だった。
17
それから四、五日たった、眩《まばゆ》いばかりの五月晴《さつきばれ》の日、浦辺と久夫は、中里家の客間でみちと勇介と向い合っていた。
勿論、有里と雄一郎の縁談をすすめにやって来たのである。
「まあ、弘子はんと縁談のあったもんが、妹はんをというのも可笑《おか》しなもんやけど、こういうことは世間にもよくあるこっちゃし……何事も縁や思うて、前の話はなかったことにして、あらためて今度の話を考えてみて欲しいのやけどなあ……」
浦辺がまず話の糸口をつくった。
「おっしゃることは、ようわかりました。そんなふうにおっしゃって頂くと、うちらのほうも話がしやすうなります、な、お母さん」
勇介はみちの顔色をうかがった。
「さあ、どんなもんでしょうねえ、私どもじゃ、この前、弘子との縁談の時に、わざわざ北海道くんだりまで行って、やっぱりあかんと思うて話をとり止めて来たんですから、今更、有里のほうをというて来られても……結局、おんなしことですわ」
「けど……、小樽が寒いさかい、あかんと言わはったのは弘子はんのほうで、有里はんのほうは……」
久夫は、今日は甥《おい》のために、中里家から良い返事が聞けるまではたとえテコでも動かぬ気構えだった。
「有里かて、おなじですねん」
みちの答えは簡単だった。
「そいでも、有里はんと雄一郎はんとは、ずっと手紙を出し合うてなさるいうことじゃし……」
「それは……、あちらさんから何度か手紙をお寄越しになったそうですが、若い娘には迷惑な話ですから、有里にもお断りするようきっぱり言いきかせました。今年になってからは、まだ一度も文通して居りませんよ」
「いや、そんなことはおへん」
久夫がすかさず言った。
「小樽からよこした手紙にも、有里はんとは今でも手紙を出したり、もろたりして居るっちゅうことだす」
「まさか、そんな……ふしだらなことを……」
「お母さん、とにかく一遍、有里の気持をきいてみようじゃありませんか。弘子は弘子、有里は有里です。弘子が断ったからって、なにも有里もお断りするとは限らんでしょう」
「あの子は私の子なんです。弘子にしても、有里にしても、あの子たちが何を考えてるのかくらい、私はよう知っとります。第一、姉と縁談のあった者が、姉に断られたからって、すぐ妹の方に乗り換えるなんて、まあ、ようそんなことを……、お話の外ですわ」
「お母さん、だから、前の話は無かったもんにして、と室伏さんも言うてなさいます」
「そうはゆきませんよ。弘子の断ったもんを有里にだなんて、それじゃ有里が可哀そうじゃありませんか……」
「…………」
どうやっても、みちの気持は変りそうもなかった。一座の空気は次第に重苦しいものになって行った。
「ま、とにかく、無駄かもしれんが、当人の気持を聴いてみては……」
浦辺が結論を出し、みちもしぶしぶその意見に従うことになった。
女中を呼び、すぐ有里を此処《ここ》へ連れてくるよう言いつけた。
やがて、有里がやって来た。
「お母さま、何か……」
「ええ……」
みちは、ちょっと躊躇《ためら》った。
「あなた、まさか、まだ北海道の室伏さんと文通しているわけじゃないでしょうねえ」
「…………」
「実はね、北海道の室伏さんのお宅から、弘子のかわりに、あなたを嫁に欲しいといって来なすったんだよ、失礼な話じゃないか……、姉が駄目なら妹でもいいだなんてさ、まるで人を馬鹿にしている、……」
「お母さん……」
勇介はみちを制した。
「それは違いますよ、先方では有里が気に入ったから、弘子との話は無いものとして、改めて有里を嫁にもらえないかと言って来ていなさるんです。だから……」
今度は有里を見た。
「お前も姉さんの見合の相手だということは忘れて、この話を考えていいんだよ」
「はい……」
「有里、言っときますがね、私はこの縁談には反対です……」
「お母さま……」
有里の眼に哀しみの影がさした。
「お前だって、一緒に行ったのだから、よく知っているでしょう、一年中、冬みたいな暗い土地、頭から圧さえつけられるようなどんよりした空。おおいやだ……、思い出してもぞっとするよ、第一、あんな遠い所へ行ったら、めったに里帰りも出来やしない、汽車と船と、乗りつづけて行ったって、まるまる三日もかかるところじゃないか、そんなところへ大事なお前を出せるもんかね」
「そのことは……」
有里は眼を伏せたまま口を開いた。
「私もよく考えています……」
「そうだろうとも」
みちは大きく顎《あご》を引いた。
「なんていったって、女には実家《さと》がいざというとき一番の頼りなんだからね。なにも好きこのんで北海道くんだりへ嫁入ることはないさ」
「いえ、私だけなら、そのことは覚悟が出来ています、ただ……」
じっと、みちの顔をみつめた。
「いざというとき、お母さまやお兄さんのお手助けが出来ないのが、申しわけなくて……」
「そんなことどうだっていいんだ」
勇介がもどかしそうに言った。
「問題は、お前が雄一郎さんをどう思っているかだ。構わないから正直にいいなさい、兄さんはお前の気持次第でどうとでもしてやろうと思っている、嫁に行く気があるのかないのか……」
「有里、よく考えなけりゃいけないよ、女が仕合せになれるかどうかの境目なんだから……」
みちは有里の顔をのぞき込んだ。
浦辺も久夫も勇介も、じっと、有里の口許をみつめた。
しかし、有里の唇《くちびる》はなかなか開かなかった。
「お断りするんだね、有里、そうだろう……、遠慮なんかしなくたっていいんですよ、どっちみち先方が非常識なんだから……」
みちのその言葉で、ようやく決心がついたかのように、有里が顔を上げた。
「お母さま……」
「さ、言ってごらん……」
みちは、有里があの寒い遠い土地へ行くはずがないと信じていた。みちは学歴の無い鉄道員を軽蔑《けいべつ》していた。貧乏ほどつまらないものはないと思っていたし、小姑《こじゆうと》がああ多くては、気づまりで仕方がないと考えていた。そして娘も自分と同じ考えであると、勝手に決めていたのだった。
だから、有里が、
「お母さま、私、北海道へ嫁に参ります……」
と、きっぱり言いきったとき、彼女は自分の耳をうたぐった。
「有里……」
呆然《ぼうぜん》と娘の顔を眺めていた。
「私、あの方を信じているんです。あの方とご一緒なら、どんな険しい道でも、安心してついて行けます」
普段おとなしい娘だけに、有里がこれだけはっきりとものを言ったことにみんなは驚いた。しかも、自分の意志を堂々と述べている。
みちは勿論、浦辺も久夫も、勇介も、すっかり気をのまれてしまい、黙って有里の顔を見守るばかりだった。
「お兄さん、私、お兄さんが、今、どんなに苦労なさっているか知っています。この家の一番大事な時に、嫁に行ってしまうなんて、本当に勝手で申しわけないんです……、でも、私、小樽へ参りたいんです」
有里は、兄の眼にすがるように言った。
「そんな心配はいらないよ」
勇介の表情には強い感動の色があった。
「お前には、今|迄《まで》にも随分苦労をかけた。弘子と違って買いたいものも買わず、一生懸命、家のために働いてくれた。私はいつも、お前には済まない済まないと思っていたんだよ、それだけに、お前はなんとしても仕合せになってもらいたかった……、しかし、雄一郎さんなら、きっと、お前を仕合せにしてくれるだろう、兄さんも、お前の選んだ道は間違っていないと思う……」
「兄さん……」
有里が泣きそうな声を出した。
「有里」
みちが厳しい眼で有里を見た。
「お前、弘子の立場というものも少しは考えなさい。妹のあんたが姉をさしおいて嫁になんぞ行ってしまったら、弘子はますます縁遠くなってしまう、それでは、あれがあまり可哀そうじゃないか」
「お母さん、弘子は弘子、有里は有里です」
「お前は黙っていなさい、私は有里に聴いてるんです」
みちは勇介をきめつけた。
「すみません、お母さま、……そのことだけは私もつらいんです、私もいろいろ考えました……ですから、室伏さんとのお話、一応約束だけということにしておいて下すって、お姉さまの縁談がきまってからにしてもいいんです。もし、それであちらが待ってくださるんなら……」
有里がそこまで言ったとき、音もなく障子が開き、弘子が入って来た。
「お断りするわ、有里……」
弘子の顔は蒼《あお》ざめていた。
「あんまり人を馬鹿にしないでちょうだい、姉の私が嫁ぎ遅れで哀れだから、私のもらい手がみつかるまで嫁に行かないって……? 冗談じゃないわ、そんなことされたらこっちが迷惑だわ……」
「お姉さん……」
「それほどあんな男が気に入ったんなら、さっさとお嫁に行ったらいい、私に遠慮することないわ……、私は、あんな男は真ッ平だって、きっぱり断ったんですからね、捨てたものを拾うのはあんたの勝手よ」
「…………」
「そうね、そういえばあんたって、小さいときから私のものを欲しがるくせがあったわね。人形でも絵本でも、私がうっちゃっておくといつの間にか拾って大事にしてる……今度もそうなのね、驚いたわ、まさか見合の相手まで拾われるとは思ってもみなかったわ」
弘子は言うだけ言うと、有里に侮蔑《ぶべつ》のこもった一瞥《いちべつ》を投げ、部屋を出て行った。
浦辺と久夫が顔を見合せた。二人とも白けきった表情である。
「有里、気にするんじゃないよ、弘子は弘子、お前はお前なんだからね……」
勇介が慰めたが、有里は哀しそうに俯《うつむ》いたままだった。
18
弘子は弘子、有里は有里、結婚だけは自分の意志を通しなさい。さもないと一生後悔することになる……という、兄勇介の言葉に励まされ、有里は北海道の室伏雄一郎の許へ行く決心をした。
しかし、有里と雄一郎の婚約は成立したといっても、最後まで反対の意志を翻《ひるがえ》さない母と、まだ未婚の姉の弘子に気をかねて、有里の立場は微妙だった。
伯父の久夫から報告の手紙が届くと、塩谷の雄一郎からはいつでも来てくれるようにという、喜びが行間に躍るような手紙が来たし、彼の姉のはる子からも、それこそ身一つでなんの仕度もいらないからと、心の行き届いた便りがあった。
四月……。
尾鷲の田圃《たんぼ》に、薄桃色のれんげが一面に咲く頃、有里は僅《わず》かな嫁入り仕度で、ひっそりと故郷を発った。
彼女に付添うのは、兄がただ一人である。
母に逆らって嫁いで行く有里にとって、この兄の理解が唯一の心の支えであった。
ところが、その兄すらも、止むを得ない事情で途中から引き返さねばならぬということになってしまった。
ちょうど列車が仙台駅を発車してすぐだった。車掌が一通の電報を持って、乗客の間を尋ね尋ねしながら勇介のところへやって来た。
「あなたが中里勇介さんですか?」
「そうです」
「大阪から電報です」
「ほう……」
勇介は電報の発信人を見た。
それは、勇介が財産処分の相談をしていた大阪の弁護士からだった。
「どうしたの兄さん……」
走っている列車の中へまで電報を打つとなると、これは余程急を要することに違いない。
「何かあったの?」
「うむ……」
勇介は眉《まゆ》の間に深い皺《しわ》を作っている。
「ねえ、兄さん、いったいどうしたの」
すると、ようやく勇介は口をひらいた。
「これはお前の知らんことだが、実は借金の整理に、残っていた山を手放すことにきめていたんだよ。その処分をまかせておいた大阪の勝山さんから、至急、俺に帰れというて来たんだ」
「まあ……」
悪い番頭のために、莫大《ばくだい》な借金を背負いこんだということは有里も聞いて知っていたが、その穴うめに、山を手放すというのを聞くのははじめてだった。
今まで、山の木で生計をたてていた家が、山を手放せばどういうことになるのか。
そんな計算の出来ない勇介ではないはずだが、おそらく、損得を考える余裕のないほど追い詰められているのだろう。勇介はそのことを母にも妹たちにも言わないで、一人で必死の努力をしているのである。
昔、大阪まで他人の土地を踏まずに行けるといわれた中里家は、まさに崩壊寸前だった。
(それで兄さんは私たちの結婚をいそがしたのかもしれない、せめて、中里家が崩れ去ってしまわないうちに……)
有里は暗澹《あんたん》とした気持になった。
「他のことと違うて、妹の嫁入りだから、めったなことでは帰れとは言うてこんはずなんだが……」
「うん……」
勇介は腕を組んで考えこんでしまった。
有里にしても、もし勇介に引き返されてしまったら、それこそ、たった一人、身一つで嫁入る破目になるわけだった。肉親の一人も出席しない結婚式をせねばならぬ。心細いといって、これほど心細いことがあるだろうか。
(でも、北海道にはあの方が居る……、あの方さえ居れば寂しいはずがないではないか……)
有里は気をとり直した。
「もし、兄さんが行かないで、山が安く買い叩《たた》かれるようなことになったら……取り返しがつかないでしょう」
「しかしなあ、まさか、お前一人で……」
「私なら平気……」
有里はつとめて明るい笑顔をつくった。
「子供じゃないんですもの、今度のお嫁入りだって、もし兄さんが賛成してくれなかったら、私、家出してでも北海道へ行ったかもしれないんです……、大丈夫、心細くなんかないから……」
「うむ……」
有里の言うのが兄を安心させようとする言葉であることぐらい、勇介にはすぐに判った。
有里の本当の気持は心細くてたまらないはずだ。が、この電報も緊急を要する。
勇介には、なかなか判断がつきかねた。
「ね、次の駅で降りて、東京へすぐ引き返せば、とにかく明日中には大阪へ行けるでしょう。兄さん、そうして……その方が私も安心よ」
「…………」
勇介は有里の眼を見た。
有里は自分の心細さよりも、今の中里家の興廃のほうを、より心配していると勇介は思った。
(そうかもしれぬ、有里はそういう娘や……もし俺が小樽へついて行ったところで、有里は大阪のことが気になり、おそらく婚礼どころではないだろう。それになんといっても有里はしっかりした娘《こ》や……)
勇介は心の中で、有里にそっと手を合せた。
「有里、では兄さんは大阪へ行く……」
「そう、それがいいわ」
有里はほっとしたように言った。
勇介は懐中に手を入れてから、あたりを見回した。通路を隔てた隣りは、人柄のよさそうな初老の夫婦連れである。彼は安心して、懐中から袱紗《ふくさ》包を引き出した。
「これはなア、お前が嫁入りの時、もたせてやろうと思って、お母さんにも内緒で貯金しといたもんだ……持ってお行き……」
「兄さん……」
有里の声が改まった。
「私は一銭もいらない……余分のお金があったら、家をもり返すのに使って……」
「いや、そんな大した金じゃない、せめて、兄さんの気持だと思って持って行くんだ。まさかの時に役立てば、兄さん嬉《うれ》しいんだよ」
「兄さん……」
有里は感動を隠さなかった。
「ありがとうございます、兄さんの気持は一生忘れません……」
「なに、そんな大げさなもんじゃないんだ……」
勇介は照れて顎《あご》をしきりに撫《な》でた。有里がそれを受取ったことが、ひどく嬉しそうだった。それから、ふっと真顔になり、
「お前は子供の時から、一度こうと決めたらなかなかあとへ引かんところがあった。……雄一郎さんはいい人だと思うが、何ぶんにも北海道は知らぬ土地だ、寒さもきびしいという……きっと苦労も多かろう、とにかく嫌なことはすぐ忘れて、一生懸命頑張るんだよ、いいね……」
と言った。
「はい……」
有里には兄の言葉が、そっくりそのまま父の言葉のような気がした。死んだ父が兄の口を借りて、有里に注意を与えているのに違いないと思った。
「分りました……」
有里は深く頷《うなず》いた。
「それでも辛《つら》くなったら、いつでも帰っておいで……、つまらん意地を張って、取り返しのつかんことになってはいかんぞ。お母さんや弘子のことはあまり考えるな、私かどうとでもしてやる、いいな……」
いざ別れるとなると、勇介はあとからあとから心配になってくるらしかった。
二十年近くも、一緒に一つ屋根の下に暮してきた兄と妹だ、哀しくないのがどうかしている。有里はいつの間にか、眼を真赤にしており、勇介は、ともすれば溢《あふ》れだしそうになる涙を懸命にこらえていた。
そんな二人の様子を、通路をへだてた隣りの席から初老の夫婦連れがそっと眺めていた。
彼等は御子柴達之助・セイといい、西陣の織元で、岡崎に大邸宅を構えている。有里は知らないが、室伏雄一郎が勤務する塩谷駅の予備助役、関根重彦の妻比沙の両親だった。
二人は、勇介と有里の話を聞くともなしに聞いていた。
そして、深い事情は判らぬにしても、妹が兄を気づかい、兄が妹のことを思う気持になんとなく好意を持ったらしかった。
勇介が名残りを惜しみつつ下車してしまうと、有里はたった一人ぽつんと取り残された。
しばらくすると、セイが菓子包をひらいて、
「あの、おひとつどうどす……?」
有里の前へ出した。
「はい、ありがとうございます……まあ、きれいなお菓子……」
それは松竹梅に型取り着色した美しい乾菓子《ひがし》だった。
美しいものを美しいと、素直に眼を瞠《みは》る有里を、御子柴は好もしそうに眺めていた。
「あんさん、どちらへ……?」
「はあ、北海道です」
「ほな、うちらとおんなしですわ、なあ」
セイは達之助に言った。
「うん、そうやなあ……北海道は、失礼やけど、どちらどす」
「はい、塩谷へ参ります」
「塩谷……?」
「はい、小樽のすぐ近くですの」
「ああ、それやったら重彦はんの勤めてはる駅どすなあ」
「うん……そうや……」
関根重彦は小樽駅に籍を置き、目下のところ、塩谷駅に予備助役として勤務しているのである。
「下の娘が嫁に行《い》てましてな……婿はんが転勤で札幌に居りますよって、一度様子を見に行ってやろう思うて、春になるのを待ちかねて出て来たんどすえ。娘の手紙では、冬の北海道はシバレるたらいうて、寒さがえろうきつい申しとりましたが……、京も寒うおすけど、北海道は又格別らしうおすなあ……」
「ええ、私も前に一度参ったことがありますけど、それは寒いところですわ」
「京都は桜が咲いとりましたが、こちらはこんなにまだえらい雪どすもんなあ……」
セイは窓の外を眺めながら、感慨深げに言った。
「京都ですか?」
有里が聴いた。
「へえ……岡崎どす」
「ああ……、私、女学校が京都でしたので、女学生の頃、京都に居りましたの、京都っていい所ですわ、町を歩いていてもなんだか心が吸い込まれるような気がして……よく友だちと岡崎辺を歩きました、懐しいですわ……」
「ほな、そうどすか……」
二人は眼を細めた。
旅に出て、住んでいる土地の話が出る時くらい嬉しいものはない。あの町角、春になると庭に梅の花が美しく咲く家、苔《こけ》の生えた用水路、御子柴夫婦と有里の間に、そんな共通の話題が取り交わされた。
話しているうちに、御子柴夫婦はすっかり有里の人柄に惚《ほ》れ込んでしまったようだった。
セイが有里の女学校の先輩であることも判り、両者の親しみを一層増す結果になった。
ただ、達之助もセイも、有里が何故たった一人で北海道くんだりへ出掛けて行かなければならないのかを聴きたがったが、京都にはいろいろ知人もあるし、母や姉の蔭口をきくのも嫌だったので、有里はその点だけは曖昧《あいまい》な返事しかしなかった。
19
中里有里を乗せた列車が小樽へ到着する時刻は、有里の手紙によると、四月十八日午後六時五十分の予定だった。
この列車は急行列車であるため、塩谷駅は通過である。有里は小樽駅で下車するはずになっていた。
小樽の駅には、はる子と千枝が雄一郎の代りに出迎えに行き、塩谷駅では、雄一郎が時計の針を眺めながら、なんとも落着かない時をすごしていた。
その塩谷駅には、小樽から関根重彦が予備助役として来ていた。
関根重彦は帝大法科出身の秀才で、年齢は雄一郎と幾つも違わないが、東京の教習所を出ると、いきなり北海道で助役見習として勤務することになった。
普通、雄一郎のような高等小学校出が判任官の助役になるためには二十年くらいかかるのが珍しくなかったから、関根は異例の出世である。
しかも、二、三年助役や駅長として現場の修業を終ると、大概管理局へ入り、将来は鉄道省の役人というのがお定りのコースだったし、彼の母方の伯父が鉄道省の尾形政務次官というに及んでは、最早や、眼をつぶっていても出世コースを歩むこと間違いなしという男だった。
それだけに、現場で十年二十年たってもまだ駅手などという連中には関根の存在は面白い筈《はず》がなく、なにかにつけて反感を抱く。関根もまた、そういう連中を無視すると同時に、現場の経験に乏しいから、蔭で関根のことを良く言うものは余り無かった。
その彼が、どういう風の吹き回しからか、雄一郎とはよく馬があって、よく判らないことがあると尋ねるし、悩みなども打ち明けてきた。
雄一郎は、他の者たちのように関根を色眼鏡では見なかったし、多少お坊っちゃん育ちで我儘《わがまま》な所があるが、人は極くいいので、割合親しいつき合いをしていた。
有里のやってくるという日、雄一郎はあいにく当直だった。
「おい、どうしたんだ、馬鹿に落着かんじゃないか」
関根に肩を叩《たた》かれて、雄一郎は頭をかいた。
「関根さん、まだ居たんですか、もうとっくに帰られたのかと思った……」
「いや、勤務は終ったんだが、今夜の下りで女房の両親がやってくるんでね、小樽へ出迎えようと思ってその時間待ちさ」
「そうですか、そりゃあ偶然だなあ……」
雄一郎は眼を瞠った。
「偶然……?」
「実は、僕の知人もその列車に乗ってるんです」
「知人……?」
関根は急ににやにやした。
「そうか、判ったぞ、噂《うわさ》に聞く恋人がいよいよやってくるんだな、道理で間の抜けた顔をしてると思った……」
「間の抜けた顔とはひどいなあ」
関根と雄一郎は声を出して笑った。
「よし、ついでにその恋人の所へ行って、挨拶《あいさつ》してこよう」
「向うには姉と妹が行っています」
「ああそうか、姉さんの方ならよく知ってるよ、すごい美人だものなあ……」
関根は冗談を言いながら帰って行った。
雄一郎は時計を見た。
午後六時である。もうそろそろ、有里を乗せた列車が小樽駅に到着する。雄一郎は何の間違いもなく、有里が小樽に着いてくれることを神に祈った。
子供のころから、父を失い、母に先立たれ、苦労な目に逢いつづけてきただけに、有里だけは、またあの意地悪い悪魔の手に奪われてはならないというのが、雄一郎の正直な気持だった。
もし誰かが雄一郎に、逆立ちをしたままホームを一周して来い、そうすれば有里の安全は保障してやるといえば、恐らく彼は直ちにそうしただろう。
小樽駅へ午後六時五十分に到着とすれば、次の普通を待合せるとして、塩谷駅へは有里は遅くとも八時には着かなくてはならない。
ところが、どうしたことか、有里はその当然乗っていなければならないはずの普通列車から降りてこなかった。無論、はる子と千枝の姿もない。
(おかしいなア……青森で打った電報にも、たしかに午後六時五十分小樽到着の列車に乗ったとあったんだがなあ……)
雄一郎は、すぐ事務室へとって返して、どこかで事故が発生していないかを調べた。青函《せいかん》連絡船にも、函館本線の列車にも事故は発生していなかった。
(どうしたんだろう……)
やがて、有里を迎えに行ったはる子と千枝がしょんぼり帰ってきた。
「どうだった!」
雄一郎はホームまで一気に駈《か》けあがって訊《き》いた。
「それがねえ、雄ちゃん……」
はる子の声にはなんとなく力が無い。
「有里さんに、逢えなかったのよ……」
「え、逢えない?」
雄一郎が顔色を変えた。
「有里さん、あの汽車から降りなかったんだよ」
千枝が説明した。
「そ、そんな馬鹿な……」
「ずいぶん探したのよ、ホームも待合室も……」
「念のためにね、兄ちゃん、いつか中里さんたちが泊った小樽の旅館まで行ってみたんだよ」
「…………」
「有里さんはお兄さんと一緒のはずだから、まさか間違いはないと思うけれどねえ……」
はる子は心配そうに、小樽の空をふりかえった。真暗い空に、光の薄い星が二つ三つわずかに瞬いていた。
雄一郎は茫然《ぼうぜん》と闇《やみ》をみつめた。
はる子と千枝は、
「もし、家のほうに電報でもあればすぐ知らせるから……」
と言い、不安そうに帰って行った。
その夜、当直だった雄一郎は、終列車が通過してしまうと同僚と交替で仮眠した。
しかし、電話の鳴るたびにとび起きると、次々と悪い連想が浮かんできて、とても眠れたものではなかった。
一方、室伏の家の方でも、はる子と千枝が眠れない夜をすごしていた。
「姉ちゃん、まだ、ねむれんの?」
「ああ……」
「有里さん、どうしたんだろうねえ」
「ねえ、千枝……」
はる子は床の中で天井を見上げていた。
「有里さん、やっぱり北海道へ嫁にくること、辛《つら》くなったんじゃないかしら……」
「どうして?」
「だって、もし途中で具合が悪くなって下車したんなら、一緒においでの兄さんが電報をお寄越しになるはずでしょう。今まで待っても、電報もなんにも来ないというのは、やっぱり……」
「でも……お嫁に来るって、ちゃんと兄ちゃんと約束したんだもの……」
「そりゃあそうだけれど、お母さまが最後までこの縁談には反対だったというし……」
「姉ちゃん、有里さんてそんな人じゃないよ」
千枝は寝ていられなくなり、布団の上に起き上った。
「あの人はいっぺん約束したらきっと来るよ、そういう人だよ、有里さんて……」
はる子は、むきになっている妹に微笑した。
「本当をいうとね、千枝、姉さんも有里さんてそういう人だと思っているのよ……」
「そうだろう、そうだよ……」
「だから心配なの……」
はる子は再び表情を曇らせた。
「なぜ、姿も見せず、連絡もないのかって……なにか余っ程、悪いことが起ったんでは……」
「姉ちゃん……」
千枝はいまにも泣きそうな声を出した。
夜明けの二時、雄一郎は同僚と交替した。
春なお寒い駅のホームは、かなり強い風が吹いていた。
一番列車は早暁四時二十分に塩谷駅にすべり込んでくる。
雄一郎や、はる子や千枝の心配をよそに、またいつものような忙しい一日が始まるのだ。
雄一郎は切符を売り、それから鋏《はさみ》を持って改札へ行った。
塩谷のような小さな駅では、夜勤の場合、どうしても一人で何役か兼ねることになる。出札もすれば改札もする。手小荷物の受付もしなければならないときがある。乗降客の少い駅だから、それでも充分間に合った。
列車が到着して客たちが降りてくると、今度は切符を受け取る番である。
客は二人ほどあって、そのうちの一人は酔っ払っていた。雄一郎が差し出された切符を見ると登別《のぼりべつ》までとなっている。
「もしもし、お客さん、乗り越しですよ」
「なに……?」
「この切符は登別までです」
「なんだと、ここは登別だろう」
「違います、登別からは四つも先の駅ですよ」
「へえ……」
酔客は眼をまるくしている。
「そらあ、ちっとも知らなかったなあ……」
「お客さん、どこへ行かれるんですか」
「どこって、登別さ、きまってるじゃねえか」
雄一郎は苦笑した。
駅につとめていると、しばしばこうした客の相手もしなければならない。
「それでは、もう三十分もすると上り列車が来ますから、そこの待合室で待っていて下さい、いま、切符にそのことを記入してあげますから」
そう言いながら、雄一郎はひょいとうしろを振り返って息をのんだ。
有里が、たった一人で立っていたのだ。
雄一郎は、咄嗟《とつさ》には声が出なかった。
「ごめんなさい、おそくなって……」
有里が小さな声で言った。
彼女は矢絣《やがすり》の着物に赤紫の被布《ひふ》を着ていた。
ようやく明るくなりだした空を背景にして、そんな有里の姿は、寝不足気味の雄一郎の眼には眩《まぶ》しすぎた。
「有里さん……」
雄一郎はかすれた声を出した。
「やっぱり、来てくれたんだね……やっぱり……」
あとの言葉はふたたび咽喉《のど》にからんだ。
20
有里は、手紙や電報で報《し》らせておいた列車で来られなかった理由《わけ》を、御子柴セイが長い旅の疲れと冷え込みから、持病の胃痙攣《いけいれん》を起したためだったと説明した。
「その奥さまは、小樽まで辛棒《しんぼう》できるとおっしゃったのですけれど、見ていてあんまりお苦しそうだったし、車掌さんに相談したら、長万部《おしやまんべ》によい病院があるからと、すぐ手配してくださって……」
「御主人も吃驚《びつくり》なさったでしょう……」
はる子が眉《まゆ》をひそめた。
「ええ、お薬を飲ませたり、背中をさすったり、いい御主人でした」
「そんなこととは知らないから、こっちじゃずいぶん心配したんだよ」
千枝はいつもの調子で、さらりと言った。
「ごめんなさい……でも、その時はただ夢中で……荷物はあるし、御主人一人ではとても無理だったので私が……」
「長万部の病院までついて行っちゃったんでしょう」
千枝がしたり顔で言った。
「ええ……」
「そういう人なんだよ、有里さんて……千枝、たぶんそんなことじゃないかと思っていたんだ……」
「ちょっとお節介すぎたかもしれませんわねえ……」
「いいえ、困った時はお互いさまですもの、それでよかったのよ……。その御夫婦もどんなにか嬉しかったことでしょう」
はる子はそれがまるで自分のことのように嬉しそうだった。
「別になんのお役に立てたわけでもないんです……、病院でお医者さまがすぐ診てくださって、注射をして、もう大丈夫心配ないとおっしゃったので、すぐ駅へひきかえしたんですけれど、私、あわててしまって、電報をうつことすっかり忘れてしまったんです、申しわけありません……」
有里は両手をついて、うなだれた。
「なにをおっしゃるの……」
はる子がふっと涙ぐんだ。
「あなたが無事にこうして来て下さったことだけで、もう……ありがとう、有里さん……」
「お姉さま……」
有里もあわててハンカチを出した。
千枝はそんな二人の様子に思わずもらい泣きしそうになったが、それを誤魔化《ごまか》すためあわてて、
「兄ちゃん、なにしてるのよ、早く出てらっしゃいよ」
奥にいる雄一郎を呼んだ。
「い、今、行く……」
どぎまぎした雄一郎の答えがした。
「ほんとに、いったい何遍|髭剃《ひげそ》ったら気がすむのかしらね……兄ちゃん、そんなに髭ばかり剃ってると、顔の皮が擦《す》りむけちゃうよ……」
「まあ……」
「これ、千枝……」
有里とはる子は思わず顔を見合せて、笑いだした。
千枝の間抜けた行動が、湿っぽくなりかけた部屋の空気を一変させた。
やがて、雄一郎も加わり、室伏家の囲炉裏端《いろりばた》には明るい笑い声が満ちあふれた。
その日の午後、はる子の指図に従って、雄一郎は手宮駅に南部斉五郎を訪ねた。
「ふむ、嫁さん、来たな……」
雄一郎の顔を見るなり、南部は言った。
「はあ、今朝、着きました」
雄一郎は照れて、額《ひたい》の汗をふいた。
「そうじゃろう、そういう顔しとる」
「はあ……」
雄一郎はとりあえず、今朝有里から聞いた事情や、兄が途中から急用が出来て帰ったことなどを報告した。
「ほう一人で……そりゃ、可哀そうだったな……で、嫁さん、今どこに居る?」
「とりあえず僕のところで憩《やす》んでいます。姉が、女一人を宿屋へ泊めるわけにも行かんといいまして……」
「そりゃあそうだな……しかし、嫁さんが式の前から婿さんの家に居るのも妙なものだな、第一、嫁さんも気がねだろう……」
南部はちょっと考えて、
「よし、俺《おれ》んところへ寄越せ、俺んとこなら婆《ばあ》さんが一人っきりだ……。婆さん、ちょうど用が何もなくてうろうろしとる、いい案配だからこっちへ寄越せ……」
気軽に言った。
「実は、それをお願いしに来たんです……」
雄一郎は頭をかいた。
「なんだ、そうか……」
南部も大きな腹を抱えて笑った。
「まあいい、とにかく、千枝ちゃんでもつけて、あとで家へ寄越しなさい。婆さんには俺から連絡しておく」
「ありがとうございます、よろしくお願いします」
雄一郎は礼を言った。
駅長室を出ようとすると、
「おい、大飯ぐい!」
南部に呼びとめられた。
「はあ……?」
「嫁さん貰《もら》うんだから、無理もないがな、あんまりそわそわしてホームから落っこちるなよ、足が地べたについとらんぞ」
「はあ」
「気ヲツケー」
突然、南部が大声で号令をかけた。
雄一郎はあわてて、姿勢を真直ぐに立てなおした。
「まわれ右、かけ足イ……」
雄一郎が両手の拳《こぶし》を腰に当て、駈《か》けだそうとすると、もう一度、南部斉五郎の声がした。
「事故を起すなよ、嫁さんが歎くでな……」
「はい!」
雄一郎は元気よく応えた。
有里はその晩から、手宮駅長、南部斉五郎の家へ引き取られ、夫妻に気に入られて、まるで、実の娘のように可愛がられ、重宝がられた。
大正十五年四月。
室伏雄一郎と中里有里の婚礼は、手宮駅に近い、南部斉五郎の官舎で行なわれた。
仲人は南部夫婦、雄一郎の側は姉のはる子に、妹の千枝、有里の側は、ふとした縁で仮親を買って出た御子柴夫婦であった。
御子柴達之助、セイの二人は、あれから病院でまる一日をすごし、次の日の列車で小樽へやって来た。
しかし、なにぶんにも病後のことなので、しばらく関根重彦の家で旅の疲れを癒《いや》し、健康の回復したところで、普段関根が世話になっている礼に南部の許を訪れ有里に出逢った。ちょうどその時、有里はこれから始まる婚礼の仕度にいそがしかった。尾鷲から有里の身内が誰も参加しないと南部に聞いて、達之助は妻と共に有里の仮親として出席したい旨を申し入れた。
有里はもちろん、南部も快くその申し出を受け入れた。
斉五郎はこの日、わざと、歿《な》くなった雄一郎の父親嘉一の紋付羽織|袴《はかま》を着て一同の前に現れた。
それは、
「雄一郎の親父さんも、さぞかし、息子の婚礼には出席したかろう……せめて、形見の着物だけでも……」
という、南部の行き届いた思いやりからであった。
式は、正面向って右側に雄一郎が真新しい紋付姿でかしこまり、左側には有里が、五年前に死んだ父がこの日の為に揃《そろ》えておいてくれた、黒地に金糸銀糸の縫いが入った御所車の裾《すそ》模様の紋付に、帯は西陣、錦の亀甲の丸帯を締めて、初々しい高島田に鼈甲《べつこう》の花簪《はなかんざし》をつけ、やや伏目がちに坐っていた。
そして、雄一郎の側には、はる子と千枝、有里の側には仮親の御子柴達之助夫妻が、互に向い合って並んだ。
「では、これより、早速三三九度の盃事を……」
南部斉五郎が厳粛な面持で、新郎新婦の前まで膝行《しつこう》し、まず雄一郎に盃をとらせて酌をした。
雄一郎が不器用な手つきで、満された酒を三度に分けて飲み終えると、その同じ盃を有里のところへ運び、これには、やや加減して酒をついだ。干された盃は再び雄一郎の許へ戻る。これで一の盃が終る。続いて二の盃は有里から始まり雄一郎へ、そして有里のところで終る。こうして、三の盃まで行ない、めでたく三三九度の盃事を終了した。
南部斉五郎は、いったい何処《どこ》で見おぼえて来たのか、見事に所作を終えて自座へ戻った。
「さてと……」
南部は、ほっとした表情の一同を見回した。
「これで二人はめでたく夫婦となったわけじゃが……仲人として一言いわせてもらうなれば、この広い世の中で、縁あって一人の男と一人の女が夫婦になる……どうかこの縁《えにし》を大事に育ててもらいたい。夫婦なんてものは、いい時ばかりじゃない、不運な時、辛《つら》い時こそお互いがお互い同士支え合って、人生の雨風をしのいで行く、それが本当の夫婦じゃとわしは思っとる。それからなあ、お有里さん……」
南部は、しんみりした声になって、有里の方へ向き直った。
「鉄道員の一人として、わしはあんたに頼みがあるんじゃ」
「はい……」
有里が緊張しきった眼をあげた。
「いいかね、室伏雄一郎は鉄道員じゃ……鉄道の仕事というのは、人様の大事な生命をお預りしている、一つ間違ったらそれこそ取り返しのつかないことになるのだ……分るかね」
「はい」
「そこで、あんたにお願いする。これからの長い人生、亭主が出勤するときは、必ず笑顔で送り出してやってくれ……。不快なこと、悲しみ、怒り、不満、みんな事故に直結しとる。そういうものは、どうかあんたの胸一つに納めてもらって、亭主がいい気分で、安心して家を出られるようにしてやって欲しいのだ……、あんたにとって、これは無理な頼みと判っていて、あえてお願いする……」
「わかりました」
有里は、はっきりと応《こた》えた。
「ふつつかではございますが、一生懸命、お言葉を守ります」
「有難う……」
南部は心を籠《こ》めて礼を言った。
一座の者は、みんなこの二人のやりとりに感動して静まりかえった。御子柴達之助は、何度も何度も深く頷《うなず》いている。千枝までが、姉に話しかけるのを忘れていた。
「さ、それでは婆《ばあ》さん、その盃をはる子さんの所へ持って行け、お次は親族固めの盃だ……」
わざと気分を変えるように、明るく言った。
親族かための盃は、はる子から始まった。はる子の飲んだ盃を有里へ、次は千枝へ回り、最後は南部節子に収められた。そして、改めて盃を変え、有里の親がわりの御子柴達之助から雄一郎、それから御子柴セイへ戻り、南部斉五郎がその盃で最後のしめくくりをつけた。
これで、雄一郎と有里の婚姻の儀はとどこおりなく終了した。
「ま、すべてこの世は男は度胸、女は愛嬌《あいきよう》だ、二人ともうまいことやってくれ……」
大任を果しおえ、南部はいつものくだけた表情に戻った。
「さてと、本来ならばここで仲人が、高砂《たかさご》やこの浦舟に帆をあげて……とやるんだが、どうもそっちの素養はないし、どうだ、みんなで鉄道唱歌をうたわんか……どうです、御子柴さん」
「ああ、結構どす。一つ、陽気に発車しまひょう、汽笛一声、新橋を……」
「いや、いや、ここは北海道ですからね、汽笛一声札幌をですよ」
「よろしゅうおす、郷に入らば郷に従え、その、札幌ステーションから発車オーライと行きまほ……」
「では……」
南部斉五郎の音頭とりで、みんなは一斉に歌いだした。
※[#歌記号]汽笛一声札幌を 早や我が汽車は離れたり
棚引《たなび》く煙りを後にして 矢のごと走る勇ましさ
思えば昔時《むかし》は蝦夷《えぞ》と称《よ》び 北の端なる荒蕪《こうぶ》の地
今は開けて我が国の 富源の一つに数えらる……
雄一郎も歌った、有里も歌った、はる子も千枝も御子柴夫婦も、みんな、ありったけの声で心をこめて、北海道の鉄道唱歌を合唱した。
汽笛一声札幌を、はや我が汽車は離れたり……≠サれは、まさに、雄一郎と有里という二台の連結車が、長い長い旅路へ向ってスタートするにふさわしい新婚歌であった。
21
その夜、新婚の雄一郎と有里を、二人っきりにしてやろうとの思いやりから、はる子と千枝は南部斉五郎の宅へ厄介になることにした。
節子と千枝が一足先に銭湯へ行ったあと、はる子は、宴会の残りの燗《かん》ざましをちびりちびり嘗《な》めている南部斉五郎の前へ行って両手をついた。
「駅長さん、ありがとうございました、お蔭さまで……」
「いい婚礼だったね」
南部はしみじみと言った。
「有里って娘は、ありゃいい娘だ……、雄一郎はいいかみさんを貰い当てたよ」
「はい、私もそう思います」
「二人とも若いんだ、ま、これからいろいろな山坂もあるだろうが、どうにか手をとり合って登って行くだろう……、長い目でみてやろうじゃないか」
「ありがとうございます……」
礼を言っても、はる子はまだ何か言いたそうにもじもじしている。
「何かわしに用事かな、もし話があるのなら、あんまり酔っちまわないうちに聴こうじゃないか……」
「はい……」
南部の言葉に誘われて、はる子はようやく口を開いた。
「実は私、あの家を出ようと思って居ります……」
「なにッ、家を出る?」
「はい、お蔭さまで、弟もあんないい嫁を迎えることが出来ました、有里さんなら、安心してなにもかも任せることが出来ます……」
「おいおい、ちょっと待てよ……」
南部は事の重大さに、驚いて坐り直した。
「なにも、あんたが出て行くことはあるまい、一緒に仲よくやったらいいじゃないか……」
「私、今まで、あの家のことは総《すべ》て自分の手でやって参りました。弟の身の回りの世話から食事の世話まで……およそ一家の主婦の役目は私が果して来たのです。あの家の柱にも壁にも、私がしみ込んでいます、弟も妹も、すっかり私に頼りきって来ました。たとえば、手拭《てぬぐい》一本さがすのでも、姉さん、手拭どこにあるって私に聴くんです。そういう生活が今日までずっと続いて来たんです」
「なるほど……」
「もし、私が明日から弟夫婦と妹と四人で暮すことになったら、弟と妹は、おそらく、今までのまんま、私に寄りかかってくるでしょう……、姉さん、俺《おれ》のシャツどこだっけ、姉ちゃん、お芋《いも》ふかしてよ、って……。そうなったら、有里さんの立場がなくなります。駅長さん、一家に主婦は一人でなければいけないと、私は思うんです」
「そうかなあ……」
南部はほっと溜息《ためいき》をもらした。
「有里さんに主婦の座をゆずって、あんたがいっしょに暮すことは駄目なのかい」
「無理だと思います」
はる子はきっぱりと言いきった。
「私がその気になっても、弟や妹が、ついうっかり、昨日までの習慣をくり返さないとは限りません……。それに、万事不慣れな有里さんよりは、私に言ったほうが言葉も少くて足りる、その気楽さが、私は怖しいと思います。夫婦というのは、言葉が足りなかったり、うまく通じなかったりして、誤解したり失敗したりして、その積み重ねでお互の気性をのみ込んで行くものだと思うんです……。妻より姉のほうが先に弟の気持が判ってしまっては、有里さんもやりにくいし、雄一郎のためにも決してよいことはないでしょう……、私、ほんの少しでも、若い二人にとって邪魔な存在になりたくないんです。そうなったら二人も可哀そう……私も、みじめです……」
たぶん、雄一郎と有里の婚約が成り立った時から、或はそれよりもずっと以前からかもしれないが、はる子は雄一郎の結婚後のことを幾晩も寝ないで考えたのであろう。あれやこれやと迷い抜いたあげく、最後にこうした結論に到達したものと思われる。
両親なき後は、父ともなり、母ともなって雄一郎や千枝の支えとなってきた、はる子であった。そのために、伊東栄吉との結婚を見送らねばならなかったはる子だった。
そのことは、室伏家を蔭になり日なたになって見守ってきた、南部斉五郎がいちばんよく知っていた。それだけに彼は、はる子が哀れでならなかった。
南部は、じっとはる子をみつめた。
どう説得したところで、彼女の決心が変らぬことはすぐに判った。
「よし、わかった……」
南部の眼には涙さえ浮かんでいた。
「まったく、あんたという人は……」
南部はあとの言葉を飲み込んだ。
「で、家を出て、何処《どこ》へ行こうというのだな」
「あてはございません……、でも、北海道でない所へ参ろうと思っています……北海道から遠ければ遠いほどいいんです」
「うむ……」
南部が複雑な表情になった。
「お願いと申しますのは、私が家を出るということを、駅長さんから雄一郎に納得させてやって頂きたいのです……。もし、私の気持を間違ってとられますと、有里さんがかわいそうです……、そんなことにならないように、私は私自身のためにあの家を出るのだということを、雄一郎に話してやって頂けませんでしょうか」
「…………」
南部はすっかり考え込んでしまった。
「駅長さん……」
はる子が重ねて言った。
「よし、わかった……」
南部がようやく眼をあげた。
「引受けよう」
「駅長さん……」
「そのかわり……あんたの行く先は、わしに任せてもらいたい。勝手な所へ無鉄砲にとび出されては困るんだ……。約束してくれるかい」
「はい……」
はる子には、南部の好意が身にしみた。
「実はな、横浜にわしの母方の従姉妹《いとこ》で、小西という未亡人の婆さんが居る。元町《もとまち》で異人相手の洗濯屋をやっとるんじゃが、男まさりでそれは気風《きつぷ》のいい女だ……。それへ、わしが紹介状を書く、あんたそこへ行きなさい、決して悪いようにはせんでな」
「ありがとうございます、駅長さん……」
はる子は思わず涙ぐんだ。
「だが、あんた、いったい何時ここを発《た》つつもりだ?」
「明日……、明日発ちたいと考えています」
「明日?」
南部が眼をまるくした。
「そいつは少し早い、早すぎるぞ……」
「私が出発するのが早ければ早いほど、雄一郎夫婦が二人して新しい巣を作ることが出来ると思うんです」
「しかし、せめて有里さんが新しい生活に慣れるまで見守ってやってはどうかな」
「新しい生活は、二人で作りあげるものだと思います、他人の助けは要らないのではないでしょうか」
「…………」
「私、そのつもりで、家中《いえじゆう》なにもかも新しく致しました。畳も障子も新しくして……、あの家のにおいは、今日から有里さんが作らなければいけないんです、有里さんは立派に作れる人なんです……」
「千枝ちゃんはどうする……?」
「あの子は、有里さんの邪魔にはならないと思います、素直ですし……。私を呼ぶのと同じ声で、有里さんを姉さんと呼べる子です」
しかし、翌朝、千枝はいよいよ出発するというはる子の腕をつかんではなさなかった。
「行かんで、姉ちゃん……、行ったらいかん、お願いだから行かんで……」
千枝にしてみれば、はる子が家を去ることは全く寝耳に水で、なんとも理解しがたいことだった。十九年間、片時も離れたことのない姉である。まるで母親にたいするように甘えてきた姉だった。その姉が居なくなるというのだ……。
「いやじゃ、姉ちゃん、横浜へなんぞ行ったらいかんよ。なあ……、千枝、なんでも姉ちゃんの言うこときくよ、朝もちゃんと起きる、御飯も炊《た》くよ、お針も居眠りせんでやる……。なあ、だから、行かないでよ、姉ちゃん……」
「千枝……」
はる子だって、千枝と別れるのは辛《つら》い。このまま家に残って、みんなと一緒に暮したいのは山々だった。千枝に泣きつかれると、折角の決心も、思わず、にぶりがちとなる。
「それに、兄ちゃんだって、姉ちゃんが行くこと反対するにきまっとるよ」
「雄ちゃんには黙って行くつもりなのよ、だから、雄ちゃんには千枝から、姉さんの気持をよく話してやってもらいたいのよ」
「そんなの駄目だよ……、兄ちゃんだって、姉ちゃんが居らんかったら、困るにきまっとるよ」
「雄ちゃんのことは、もう有里さんにお任せしたの……、なにもかも……」
「それだって、困るよ……有里さんだって、まだ家のことに慣れて居らんもん」
「千枝、もうこれからは有里さんじゃないのよ、あんたにはお姉さんなんだからね」
「うん……」
「有里さんのわからないことは、あんたが教えてあげなさい。いつも言っておいたでしょう……有里さんを本当の姉さんと思って、なんでも話し合って、仲良くしなければいけないって……」
「うん……、だから姉ちゃんだって、仲良く一緒に暮せばいいじゃないか、有里さんはいい人だから、姉ちゃんを邪魔になんかせんよ」
「わかっています、私は邪魔にされるから出て行くんじゃありません」
「姉ちゃん」
千枝には、姉の言葉の意味がよく判らないらしかった。或いは、判りたくなかったのかもしれない。はる子はそんな千枝に、まるで噛《か》んでふくめるように説明しなければならなかった。
「姉さんはね、自分で自分の道を歩きたいのよ。今まで、姉さんは室伏の家のことばかり考えて頑張って来たわ、自分のことなど考える暇もなかった……でもそのことは、姉さんちっとも後悔していない、これでよかったんだと思っているの……。けれども、こうして雄ちゃんもどうやら一人前になり、千枝ももう自分で働いている。この辺で姉さんも自分自身のために生きたいのよ……。姉さん、生れてはじめて、やってみたいことをやろうとしているの……わかる……千枝?」
「横浜へ行って、なにするの?」
「働くのよ、力いっぱい……」
「もっと近くじゃいかんの」
「千枝……」
はる子はそっと微笑した。
「横浜は東京に近いでしょう……、東京には誰がいると思う……?」
千枝はまじまじとはる子をみつめた。
「東京には誰がいるって……」
しかし、すぐ千枝の顔に明るさが甦《よみがえ》った。
「ああ……伊東栄吉さん……、姉ちゃん、伊東さんとこへ行くのか……」
「さあ……ね」
はる子が曖昧《あいまい》に笑った。
「そうか……そいで姉ちゃんは横浜へ行くのか……」
「わかった……? わかったらもう、駄々こねないでね」
「うん……だけど、姉ちゃんが居らなくなると困るなあ……」
千枝はまた肩をおとした。
「じきに困らなくなるわよ、それに、千枝にはいい薬になるわ……、なんでも自分でやるようになるだろうし……。さっき、なんとか言ってたじゃないの、早起きもするし、お針もするって……」
「そりゃあ言ったけどさ……」
「しっかりやってちょうだいね」
「うん……」
千枝もしぶしぶ、姉の出発に同意した。
「だけど、たまには帰ってくるんでしょう」
「帰ってくる……、ちょくちょく、帰ってくる……」
千枝はそんなはる子の顔をじっとみつめた。
「嘘《うそ》、姉ちゃん!」
「なんで……」
「嘘、嘘……、姉ちゃん、もう当分帰らんつもりじゃ……」
「帰ってくる……」
はる子はいつもの通り、自然に振舞おうとした。が、無理に作った笑いは、途中で頬《ほお》に固く凍りついた。
「姉ちゃん、嘘つき!」
「嘘じゃないよ、千枝……、姉ちゃんはあんたが嫁に行くときは必ず帰ってくる」
不意にはる子の眼にも、圧さえていたものがこみあげてきた。
「千枝、ききわけてね、こうすることが一番なんだから……ね……」
「…………」
千枝は唇《くちびる》を噛《か》んで俯《うつむ》いた。
彼女は彼女なりに、哀しみと闘っているらしかった。やがて顔をあげたとき、千枝の表情には先程までの哀しみの蔭は無かった。
「そんなら千枝、大急ぎで婿さん探そう……」
「うん、いい人を探すのよ。人間、顔形じゃないわ、心よ……、雄ちゃんみたいな心の綺麗《きれい》な人でなけりゃ駄目よ」
「へん、兄ちゃんより、もっといい人探すよ。やさしくって、千枝を大事にしてくれる人……」
「そうね、そうしなさい……」
はる子は帯の間から、用意しておいた手紙を出した。
「これ、雄ちゃんと有里さんへ宛てた手紙なの……姉さんが発ってから、あの二人に渡してちょうだい……」
「うん……」
「あら、もう十時ね……いそがなけりゃあ……」
はる子は慌てて立ち上った。
「千枝……体に気をつけるのよ」
「姉ちゃん……」
じっと堪《た》えていたものが急に堰《せき》を切ったようにあふれだした。
22
姉のはる子が横浜へ発って行ったことを、雄一郎は知らなかった。
はる子を乗せた急行列車が、塩谷駅を通過して行くのを、雄一郎は何も知らぬままにホームで見送った。
また、その日、有里はいそいそと働いていた。
有里にとっては、雄一郎と一緒になってはじめて迎える朝である。家の中の掃除、洗濯、夕飯の仕度……、なんということもない女の仕事が、有里にはたのしくてならなかった。それは、有里にとっては満ち足りた一日であった。
夕方、有里は何度となく時計をのぞいた。
部屋のほうへお膳《ぜん》をこしらえ、茶碗《ちやわん》や箸《はし》を並べる。台所から漬物や煮物を盛ったどんぶりを持って来て膳へ並べ、もう一度時計を見た。そろそろ、雄一郎の帰ってくる時刻である。
有里はお膳に布巾をかけてから、仏壇へ炊きたての御飯を供え、いそいで鏡台の前に坐った。
有里は、そっと鏡の中の自分の顔を見る。昨日にくらべて今日は、自分の顔がひどく大人っぽくなっているような気もするし、まったく変りがないような気もする。しかし、気持の上で、有里は自分がすっかり変っているのを知っていた。
(今日から私は一人じゃない……)
そう思うと、有里は急に胸がきゅんと締めつけられるような気がした。
昨日まで他人だった人が、今日から夫という名で呼ばれ、自分はその人の妻なのだということが、なんとも奇妙で不思議な気持だった。
だが、不思議だろうと、奇妙だろうと、とにかく今、有里は嘗《か》つてないほど充実し、仕合せだった。自分の周囲のものが、いままで見たこともないほど生き生きとして感じられていた。
玄関の開く音がした。
「あッ……」
有里は、弾かれたように立ちあがった。
やっぱり雄一郎だった。
「ただいま……」
「お帰りなさい、早かったのねえ」
二人とも、まだなんとなく照れくさいのが先で、出てくる言葉もぎこちなさが目立つ。
「みんなが早く帰れ帰れって、うるさく言うものだから……」
雄一郎は頭をかいた。
「一人でさびしかった……?」
「いいえ……」
有里は、はにかんだように笑った。
「姉さんや、千枝はまだ?」
「ええ」
「遅いなあ……」
雄一郎は着換えをしながら言う。
「千枝さんは、いつもの売店だと思いますけど……」
有里は雄一郎の着物を持って、彼が洋服を脱ぎ終るのを待っていた。
「お姉さまは、今日はこちらへお帰りになるのでしょう?」
「そう……もうそろそろ帰ってくるだろう」
「案外、あちらの奥さまにひき止められていらっしゃるのかもしれませんわ」
「そうだな……あの奥さん、話好きだからな……」
「お寂しいのよ、お二人っきりですもの……、お孫さんは東京にいらっしゃるんですってね……」
「ああ……」
雄一郎は、ちらと有里を見た。べつに深い意味があっての言葉ではなさそうだった。
雄一郎が和服に着換えて炉端《ろばた》に坐るのを待って、有里は茶をいれた。
「ねえ……、もし今夜もお姉さまや千枝さんが、南部さんへ御厄介になるようだったら、あなたから、早くこちらへお帰りになるようおっしゃって下さいな……。私、一日も早くお二人と一緒に暮して、お気持をのみ込みたいの、私、きっとお二人に気に入られるようにしますわ」
「うん……」
「あなたのお姉さまは私にとってもお姉さま……妹さんは私にも妹、生れた時からの姉妹のようになりたいんです」
「ありがとう……」
雄一郎には、それがたとえ口先だけのことであっても嬉《うれ》しかった。両親に早く死に別れただけに、雄一郎にとって、いままで姉と妹はこの世でかけがえのない大事な存在だった。
ふたたび、玄関のあく音がした。
「あら、お帰りかしら……」
有里が腰を浮かすのと同時に、千枝が物も言わずに、のっそりと入って来た。
「お帰りなさい」
有里は嬉しそうに迎えた。
「ただいま……」
千枝は、かろうじて笑ったという感じだった。
「お帰り……」
雄一郎がふりむいた。
「姉さんは……まだ、手宮の親父《おや》っさんとこに居るんか……?」
「…………」
「ああ、お前は売店に行ったから知らんのだな」
ふと、千枝の顔がゆがんだ。
「兄ちゃん……」
「千枝、どうした?」
「兄ちゃん……、姉ちゃんはもう、帰ってこんよ……」
「なに?」
「横浜へ行っちゃったよ」
「横浜……、神奈川県の横浜か……?」
「うん……」
「どうして……、なにしに行ったんだ」
「……南部の、駅長さんとこの、従姉妹にあたる人が横浜にいて……異人さん相手の洗濯屋やってるんだと……」
「馬鹿ア、そんな話どうだっていい、姉さんは……どうしたんだ……何故、横浜なんかへ行ったんだ……」
雄一郎が苛立《いらだ》って、大声を出すと、千枝がわっと泣きだした。
「あなた、そんなに言ったって……、千枝さんだって、どう話していいか、判らないわよ。ね、千枝さん、お姉さまは……その南部さんの親類のかたの所へ行ったの……そうなのね……」
「うん……」
千枝は涙でくしゃくしゃになった顔を上げた。
「俺、これから南部の親父さんとこへ行ってくる……」
雄一郎は、いきなり羽織を掴《つか》んで立ち上った。
「千枝の話じゃ、さっぱりわけが判らん」
「待って、兄ちゃん」
千枝がすがりつくように言った。
「姉ちゃんが……、姉ちゃんが、兄ちゃんにこれをお見せって……」
はる子に托《たく》された手紙を差し出した。
雄一郎は、千枝の手からひったくるように手紙を受け取ると、すぐ封を切った。
まぎれもなく、姉のはる子の字だった。
『雄ちゃん、勝手なことをしてごめんね。なんの相談もなく横浜へ行ったと雄ちゃんが知ったら、どんなに驚くだろう、腹を立てるだろうと、その顔がこの手紙を書いている今も、はっきりと眼に浮かびます。
でも、私は自分でこの道を選びました。考えに考えた末なのです。いつか、私は室伏の家を出て、一人で歩かねばならないと考えていました。雄ちゃんも結婚し、千枝もどうにか一人前になった今がその機会だと思ったのです。けっして、考え違いをしないでください、私は私の幸せのためにこの道を選んだのですから……。
有里さん。
本当はあなたが、もう少し室伏の家になれてから出発しようかとも思ったのです。でも、同じことなら、最初からなにもかも、あなたにお任せしたほうがいいと思い直しました。
雄一郎も千枝も、わがままで寂しがりやです。きっと、いろいろとあなたに御苦労をかけると思いますが、どうか、よろしくお願いします。
雄一郎は普段は丈夫で薬いらずですが、お酒を沢山飲んだ翌日、もし具合が悪そうにしていたらせんぶりを煎《せん》じてやってください。あの子の二日酔いには、それが一番効くようです。
千枝は針仕事の嫌いな子なので、よく綻《ほころ》びたままの着物を着ているくせがあります、みつけたら、きつく叱《しか》ってやってください。必ず自分でお針を持つよう言ってください、それが先へ行って、あの子のためになることですから……。千枝の食べすぎには、げんのしょうこがよいようです。
せんぶりもげんのしょうこも、昨年乾しておいたのが台所の棚にあります。今年もまた、裏の空地にげんのしょうこやせんぶりが生えたら、忘れずに摘んでおいてください。
雄一郎が不機嫌なときは茶碗蒸《ちやわんむ》しを作ってやると、不思議に機嫌がなおります。千枝はまさかりかぼちゃの煮たのが好物です。二人の衣類は押入れの行李《こうり》に、それぞれ夏冬に分けてはいっています。
どうか、よろしくお願いします。
有里さんも気候風土の違う土地での暮しですから、くれぐれも体に気をつけて、けっして無理をしないようにしてください。
どこに居ても、どこで暮していても、いつも、みんなの幸せと健康を祈っています。
[#地付き]は る 子
雄 一 郎 様
有   里 様
[#地付き] 』
23
雄一郎と有里の新しい生活が始った。
横浜へ去った姉のはる子からは、元気で働いているから安心するようにとの、心の籠《こも》った手紙も来た。
はる子の思いやりは、有里の心に強く残った。
義理の姉の、このこまやかな心づかいに対しても、よい嫁となって、室伏の家の柱にならなければ、と有里は懸命であった。
そして、五月。北海道の遅い春は、梅も桜も桃もいっせいに花盛りとなった。
ある日、有里が浜の魚屋で、魚をえらんでいると、
「あの……あなたは、もしや……」
乳呑児《ちのみご》を抱いた若い女に声をかけられた。
「ああ、あなた……いつか青函連絡船で……」
有里もすぐ気がついた。
「やっぱり、あの時のお嬢さんで……」
女は瀬木千代子といい、昨年の秋、有里が母や姉の弘子と一緒にはじめて北海道へ渡る途中、青函連絡船の甲板で、気分が悪くなっているのを見て薬を与えたことがあった。
「あの節は本当に有難うございました」
千代子が懐しそうに言った。
「いいえ……」
有里の眼は赤ん坊に吸い寄せられている。
「赤ちゃん、何か月ですの」
「まだふた月とちょっとなんですけどね……あのときはまだお腹の中にいたのに、生れてしまうと早いものですわ」
「あの時、御主人はたしか釧路《くしろ》にいらっしゃるって……」
「ええ、それがね、釧路へ訪ねて行ったら、ほんの一足違いで小樽へ行ったというんですよ。それから小樽へ来て、まあ、どうにか一緒に暮してるんですけどねえ」
「そうでしたの……」
「お嬢さん、この近くにお住いなんですか」
「ええ……すぐそこの塩谷村に……」
有里は眩《まぶ》しそうな眼をした。
「四月に、嫁に来たんです」
「おや、それは……お目出とうございます……で、旦那《だんな》さんはやはりここの……」
塩谷は小さな漁村である。どうしても、それに関係のある職業の人が多かった。
「いいえ、鉄道員です」
「そりゃあようございますねえ、なんといっても堅気の商売が一番ですよ……、やくざな亭主を持ったら、女は一生泣かされますからねえ……」
「御主人、船員さんでしょう」
「ええ、まあね……酒と博打《ばくち》が好きなんですよ、それさえ無けりゃ、いい人なんですがねえ……」
女の顔が、ふっと翳《かげ》った。
「流れ流れて、こんな北の果まで来ちまって……ほんとに、明日のことを考えると……」
腕の中の子供の顔をじっとみつめていた。
有里はいそいでいたので、この時、瀬木千代子とはそれだけで別れた。
ところが、それから一週間程たった頃、売店の仕事を終えて、千枝が家へ戻ってくると、家の前を見慣れぬ女がうろうろしている。
女はまだ生れて間もない赤ん坊を抱いていた。
「あの、ちょっと伺いますが……」
千枝を認めると、女は自分の方から近づいて来て言った。
「ここの家、室伏さんのお宅ですか?」
「そうですよ」
千枝は女をじろじろ見た。
まだ若いくせに、ひどく疲れているようだった。
「あの、御主人が鉄道へ勤めておいでになる……」
「ええ、そうですよ」
すると女は、一言の礼も言わず、ふらふらと去って行った。
「おかしな人……」
千枝はしばらく、女の去った方を眺めながらそう思った。
千枝はそのまま家へ這入《はい》った。そして女のことは、忘れるともなく忘れてしまった。
有里がお茶をいれてくれたので、それを飲みながら、世間話をしていると、どこかで赤ん坊の泣き声が聞えた。
有里と千枝はどちらともなく顔を見合せてほほえんだ。
「赤ちゃんの泣き声っていいわね」
「うん、赤ん坊が泣くのって、あれ運動のかわりなんだってね……」
だが、赤ん坊の泣き声は止むどころか、ますます激しくなり、まるで火のついたように泣きだすに及んで、二人はあらためて顔を見合せた。
「変ねえ、どうしたのかしら……」
「このへんじゃあ赤ん坊が生れたって話も聞かんけどねえ、赤ん坊連れのお客でも来たのかなあ」
「でも、あれはただの泣きかたじゃないわ」
有里が眉《まゆ》に皺《しわ》を寄せた。
「誰もそばに居ないのかしら……」
「ああ、そういえば、さっきあたいが帰って来たとき、赤ん坊おんぶした女の人が家の近くをうろうろしていたなあ」
「そう、じゃ、きっとその人ね」
「それがねえ、その女の人ったら、どうもうちを訪ねて来たみたいだったんだよ。御主人が鉄道へお勤めのかたですか、だなんてね、そのくせ、うちの前を通りすぎて行っちゃったんだけどさ……」
「妙な人ねえ」
「うん……」
その間にも、赤ん坊はいっこうに泣きやむ気配もない。
「ちょっと見てくるわ……」
有里は居たたまれなくなって立ちあがった。
「あんなに泣かしては、可哀そうよ……」
「うん、そうだね」
千枝も有里のあとに続いた。
有里は表の引き戸をあけて外をのぞいた。千枝の見たという、それらしい女の姿はない。だが、赤ん坊の泣き声はしている。
有里はふと足許を見て、思わず息をのんだ。
小さな籐籠《とうかご》の中に顔だけ出して、赤ん坊が真赤な顔をして泣いていた。
「あっ……赤ちゃん……」
有里は夢中で抱きあげた。
あとから首を出した千枝も眼をまるくしている。
「千枝さん。ちょっと、籠の中に手紙かなにかはいっていないかしら、たぶん捨て児だと思うんだけど……」
「えーッ、捨て児」
千枝は奇妙な叫び声をあげて、とび出して来た。
「なんだべ、千枝ちゃん……?」
隣りの小母さんも、騒ぎを聞きつけて出て来た。
「家の前にね、赤ん坊が置いてあったんだよ」
千枝は籠の中をさぐりながら答えた。
「ああ、それでさっきから赤ん坊が泣いとっただな」
隣りの小母さんは有里の抱いている赤ん坊をのぞき込んだ。
「こりゃ、女の子だなあ……」
そのとき、千枝が手紙を見つけた。
「あッ、あったあった……」
「なんて書いてあるか読んでみて」
「うん」
宛名に、室伏奥さんへと書いてある手紙を、千枝は一応有里に示してから封を切った。
「いいかい、読むよ……、室伏奥さん、どうかお願いします。この子をしばらくの間預ってください。東京へ帰って、もう一度やり直しをしたいのです。どうか、この子をお頼みします。きっと、いつか引き取りに来ます。この子の名前は奈津子といいます。瀬木千代子……」
「へえ――、ずいぶん勝手なこと言ってるねえ」
隣りの小母さんが今度は手紙を読み下した。
「お姉さん、瀬木千代子って人、知ってる?」
「そう……今、考えてるところなのよ……」
有里は赤ん坊の顔から、母親の面影を思い出そうとしているらしかった。
「お姉さんは北海道へ来てまだ間がないんだから、そんなに前に逢った人じゃないよね。うちの兄ちゃんの職業まで知ってるんだもの」
「あ、思い出した。あの人だわ、きっと……」
「やっぱり、知っとったの」
「ええ、ほんのちょっとね……。それより、千枝さん、すまないけど、どこかで牛乳買って来てくれない、この子お腹がすいてるのよ」
「うん、でもどうするの、この子……」
「それは……あとで考えるわ、とにかく牛乳……」
「うん、買ってくるよ」
千枝は家から空瓶《あきびん》を持ってくると、井戸でよく洗った。
「どのくらい買えばいいの」
「腐るといけないから、一合か二合ね」
「よし、わかった」
千枝はいそいで走って行った。
「おお、よしよし、泣かないでね。すぐ、おっぱいが来るからね……よしよし、いい子ね、いい子ね……」
まるで自分の子のように、あやしつづける有里を、隣りの小母さんがあっけにとられて眺めていた。
24
室伏家の前に捨てられた赤ん坊は、昨年の秋、青函連絡船で有里が介抱した瀬木千代子の子供であった。
赤ん坊には、ミルク瓶とつぎはぎだらけのおむつが十枚、それに肌着と替えが一枚ずつ添えてあった。
その哀れな捨てられかたに、理由ははっきりしないまでも、母親の追いつめられた様子がはっきりと判った。
しかし、その日から、室伏一家は赤ん坊のために翻弄《ほんろう》される結果となった。
大人たちの浴衣は次々と解体され、子供のおしめに変えられて行く。常時、大声で話すことも、足音をたてることもできない。すべての生活が、赤ん坊を中心として回転した。
雄一郎は毎日、いつか瀬木千代子が有里に言ったという言葉をたよりに、小樽の周辺を子供の母親を探して歩いた。
有里と千枝は、瀬木千代子はもう東京へ発ってしまったという意見だったが、雄一郎だけは、案外小樽あたりでぐずぐずしているような気がすると言い張った。
もっとも、雄一郎の本当の気持は、思いもかけない闖入者《ちんにゆうしや》にいささか辟易《へきえき》して、一日も早く、この邪魔者を母親の許に帰そうというのが本当の狙いらしかった。
実際、赤ん坊のおかげで、新婚早々の甘い生活などどこかへ吹きとび、夜は子供の泣き声で眼をさまされ、夜勤あけの翌日など、ゆっくり休んでいる暇もなかった。もちろん、有里は赤ん坊にかかりっきりである。
しかし、奈津子の母親はなかなかみつからなかった。
その日も雄一郎は疲れ切って帰って来た。
「どうでした、瀬木さん……」
有里が待ちかねたように聴いた。
「見つかりまして?」
「いや、船会社の事務所をきいて回ったんだが、瀬木なんて名前の船員はどこにもおらん……」
「まあ……どうしてかしら……」
「それで、事情を話したら向うでも気の毒がって、船員仲間に聴いてくれたんだが……、その中に、内地から女が追っかけて来て、赤ん坊の生れた奴《やつ》がいるというんだ。もっとも瀬木じゃなくて片山という男だがね……」
「あなた、きっとその人ですわ、まだ正式に結婚しなくて、名前が別々だったんですわ」
「ところが……」
雄一郎は顔をしかめた。
「困ったことに、その男は、五日ほど前の夜に殺されちまったんだ……」
「えッ、殺された……」
「うん、博打《ばくち》のことから喧嘩《けんか》になって、胸を刺されたんだ、病院へ担ぎ込んだ時はもう死んでいたらしい……それも刺されてから、長い時間、路端に放っておかれたんだそうだよ……」
「まあ……」
有里はそばに寝かせてある奈津子をふりかえった。
奈津子は、すやすや可愛い寝息をたててよく眠っている。父親が無慙《むざん》な最期を遂げたことなど、夢にも知らないのだ。奈津子がこのことを大きくなって知ったら、はたしてなんと思うだろう。そう考えると、有里は眼頭が熱くなるのを感じた。
「とにかく、その男の家を教えてもらって行ってみたが、誰も居ない……。隣りで話を聴いたら、やっぱり片山という男と暮していたのは瀬木千代子という女だった。二月の末に女の子を産んで、育てていたそうだし、子供のことを奈っちゃんと呼んでいたそうだ……」
「瀬木さんはどうしたんでしょう……?」
「近所では、赤ん坊を連れて葬式の晩に夜逃げしたと言っていた……。家賃から米、味噌《みそ》、醤油《しようゆ》の代金まで借り倒しだったそうだよ」
「それで奈っちゃんをうちの前に……」
「赤ん坊を連れてちゃ、どうにもならんしな……」
有里が、ほっと歎息をもらした。
「ほんとうに可哀そうな奈っちゃん……」
「ねえお姉さん、どうするのこの赤ん坊……」
千枝が心配そうに言った。
「隣りの小母さんが言っとったけど、村役場に捨て児だって届けると、捨て児の収容所みたいなところへ連れて行かれちゃうんだって……そういう所へ入れられた赤ん坊は可哀そうなもんだってね、人手は足りないし、お金もないから……すぐ死んじゃうんだって……」
「ふーん、なにしろまだ二か月だからなあ……」
雄一郎は深か深かと腕を拱《こまね》いた。
「こんな小さいんだもの、病気をしたらいっぺんでころりよね……」
「しかし……うちで育てるわけにも行かんだろう……」
雄一郎はちらと有里を見た。
「そりゃ、夜、ピイピイ泣かれたらうるさいだろうけど……でも、死んだらかわいそうだよねえ」
千枝は直感で、有里がもはや奈津子を育てる気でいるのを知っていた。だから、いざとなれば、有里の肩を持つつもりだった。
有里は黙って考え込んでいる。
奈津子が泣くと、手早くおむつを換えはじめた。
翌々日の夜勤あけに、雄一郎は村役場へ出かけて行った。
むろん、赤ん坊の処置について相談するためである。
雄一郎は、人の家の前に子供を捨てて行った女に腹を立てると同時に、自分の子供でもないものを育てようとする有里の気持が理解できなかった。
雄一郎は、役場の書記に子供に添えられてきた手紙を見せた。
「役場には捨て児を育てるような場所があるんですか……?」
「ここには無いが、小樽へ行けば乳児院ちゅうもんがあってな、親なしっ子や、親が育てられん子供を収容しとるんじゃ……」
書記は人のよさそうな老人だった。
「この瀬木千代子という人とは親しいんけ?」
「いや別に……家内がちょっと知り合いだったらしいです」
「じゃあ、まるきり他人の子け?」
「はあ、まあそうです……」
「だら、手続きさえすれば、いつでも子供は引きとるけえのう」
書記は老眼鏡越しに雄一郎を見上げた。
「けど、手紙にはあんたんとこへ頼むと書いてあるけんども……」
「ええ、それで困ってるんですよ」
「もし、育てるんだったら、この手紙にあるように、あんたんとこで暫《しばら》く預かるっちゅうことにすんだべな、そんなら別に役場へ届けさ出すには及ばねえ……届けがいらねえっていうんじゃねえだが、ちょっとの間ならさしつかえあんめえちゅうこった……」
「そうですか……」
「その子の戸籍はどうなっとるかな」
「さあ……、どうも両親が正式に夫婦になっとらんようですから……」
「内縁じゃな」
「そうだろうと思います」
「だども、名前さついてんだから、戸籍には入ってるんだべ……小樽に住んでたんだな……」
「はい……」
「よし、とにかく、籍が入ってるかどうか調べといてやっから、そっちでも自分で育てるか乳児院に入れるか、よく考えておいてくれや……」
「分りました。二、三日中にもう一遍出直して来ます」
「ンだな、養子ってこともあっから、じっくり考えてやんなせ……」
雄一郎は決心のつかぬまま、村役場をあとにした。老書記の言うのを聞いていると、なんだか子供は乳児院に入れるより、里子という形で育てたほうがいいという意味を、言外にほのめかしているような気がする。
(そりゃ、可哀そうには違いないんだが……)
雄一郎には、どうしてもあの子を家で育てるという気が起らなかった。
雄一郎が家の前までくると、ちょうど有里が乾いたおしめを取り込んでいるところだった。
有里は雄一郎の来たことに気がついていない。たのしそうに歌をうたっている。雄一郎もはじめて聞く、鄙《ひな》びた子守唄だった。
彼女の横顔が夕陽《ゆうひ》にほんのりと紅く染まり、余計、活き活きとして見えた。
(余っ程、子供が好きなんだなあ……)
雄一郎は感心して有里を見ていた。
「あら、お帰りなさい……」
有里がようやく気がついてふりかえった。
「いつもより遅かったんですのね」
「うん、役場へ行って来たんだ……」
「役場……?」
「赤ん坊どうしてる」
雄一郎はちょっと家の中をのぞき込んだ。
「よく寝てますけど……」
有里の表情が引き締った。
本能的に赤ん坊を取られまいとする、母親の防禦《ぼうぎよ》の姿勢である。
雄一郎は、その有里の表情の一部始終を見守っていた。
「あの……、役場へ届けを出したんですか?」
「いや、子供を拾った事情を話してきただけだ」
有里の表情が、ふっとゆるんだ。
「やっぱり、乳児院へ入れなければいけないんでしょうか……」
雄一郎は、じっと有里をみつめた。
「お前……、乳児院へ入れろといわれて、あの赤ん坊を手放せるかい……?」
「…………」
有里は眼を伏せた。
恐らく、雄一郎が手放せといえば有里はその通りにするだろう。しかし、有里の胸にぽっかりと大きな洞《あな》があくことも事実である。雄一郎にはそれがよく判った。
「まあ、いろいろ話を聴いてみたんだが、乳児院へ入れんでも、あの手紙を証拠に、瀬木さんから預かったということにすれば、うちで育ててもかまわないそうだ……」
「あなた……」
有里の表情がぱっと輝いた。
雄一郎はそれには気がつかないふりをして、わざと横を向いて言った。
「俺はうちで育ててもかまわないが……、お前はどうする……」
「許してくださるんでしょうか、あの……赤ちゃん、うちで育てても……」
有里の声は上ずっている。
雄一郎は苦笑した。赤ん坊を育てることがそんなに嬉《うれ》しいことなのだろうか。
(女というのは、不思議なものだ……)
と雄一郎は思った。
「大変だよ、犬や猫の子じゃあないんだから……病気にでもなったらどうするんだい、俺は意地悪で言ってるんじゃないが、本当に大丈夫か……」
「私、やってみます……大丈夫ですわ、あなたさえ許して下されば、あたし一生懸命やってみます……。きっと、丈夫な大きな赤ちゃんに育てますわ……」
「有里……」
雄一郎は、赤ん坊を乳児院へ送ることは諦めた。明日にでも、そのことを役場へ行って話して来ようと思った。
有里を見ているうちに、はっきりと決心がついたのである。
「ごめんなさい、あなたに御迷惑かけて……」
有里は済まなそうに言った。
「でも、あたし……、たった五日間一緒に暮しただけなのに、あの子が可愛くって……、まるで自分の子みたいな気がするんです。なんにも判らないくせに、まあるい眼をしてじっと私をみつめて、時々にこっと笑うの……、なんにも疑わずに、母親だと思うのかしら……、子守唄をうたっていると、腕の中で安心しきって眠ってしまう……、そんな赤ちゃんを、私、とても乳児院なんかへ渡せない、誰にも渡せないんです……」
「わかったよ……」
雄一郎はいつくしむような眼で有里を見た。
「俺も協力する……二人で、いい子に育てよう……」
「あなた……」
有里の眼が夕陽を受けて、キラリと光った。
「ありがとう……」
「うん……、だけどなあ……」
雄一郎が、ちょっとはにかんだように唇《くちびる》をゆがめた。
「その……、俺のことも忘れないでくれよなあ……」
「まあ……」
有里がにらんだ。
「忘れるはずがないでしょう……」
雄一郎が頭を掻《か》いた。
「ちょっと心配になったんだ、俺……」
「嫌ねえ……」
二人は夕陽に向って、明るく笑った。
25
春の遅かった北海道にも、やがて、まっ白なこぶしの花が群がって咲いた。
雨のたびに、緑が濃くなる林の奥で、かっこうが鳴き、北海道の花すずらんが慎ましやかに初夏の到来を告げて花ひらく頃、室伏家の赤ん坊は有里の丹精ですくすくと成長していた。
しかし、この数か月間の有里の苦労というものは、並大抵のものではなかった。
まだ充分に気風ものみこんでいない土地で、有里は貰い乳に歩き回り、重湯を作り、牛乳をのませ、おしめの取りかえ、洗濯と、有里の一日はまるで戦場のようであった。
それでも、日一日と可愛らしさを増して行く奈津子を見ていると、有里は疲れを忘れた。
だが、赤ん坊の成長と共に、赤ん坊にまつわる噂《うわさ》が次第に尾ひれをつけて、人々の耳から耳へと囁《ささや》かれて行った。
或る日、雄一郎が待合室の傍にある井戸のポンプの故障を直していると、列車待ちをしている行商の女たちが、何か声高に話しているのが耳にはいった。
「ほれ、ここの駅の室伏さんとこの嫁さんなあ、ついこの間嫁に来たと思うたら、もう、赤ん坊背負うて歩いとるがな……」
「ありゃ、どこぞの子を預かっとるちゅう話じゃがな」
「それがあ……」
三人目の女が声を低めた。
「そんなこと言うとるが、わかるものかね。なんでも、式を挙げるより先に産まれてしもうた子を、よそへ預けとったんじゃが、晴れて夫婦になったもんで、ひきとったんじゃと……」
「へえ――、それじゃ、あの子は嫁入り前に産んでしもうた子かいの」
「考えてもみなんし、誰が嫁入り早々、他人の子を預かる馬鹿があるもんかね」
「そらそうじゃのう……」
「だどもよう……」
三人の中では一番年配の女が言った。
「あの赤ん坊、ほんとに御亭主の子かいな……?」
「さあて、そんなこと俺《おら》知んねえな……」
「案外、知らぬは亭主ばかりなりかもしれんよ……」
三人は声をひそめて笑った。
窓の外でこの会話を聞いていた雄一郎は、唖然《あぜん》としてしまった。
そのような噂は、かなり広範囲にひろがっているらしく、千枝も同じようなことを耳にして憤慨していた。
奈津子の実の親である瀬木千代子からは、あれ以来、まったく何の音沙汰《おとさた》もなかった。
ちょうどこの頃、もう一つの噂が、この付近の人々の間に伝わっていた。
それは南部駅長の孫娘、三千代に関するもので、彼女が最近、東京の嫁入り先を離縁になり、手宮の駅長官舎に帰って来ているというのである。
この話を室伏家では、千枝がいちばん最初に聞いた。相手は言わずと知れた、早耳で有名な売店の小母さん、東《あずま》きみだった。
「へえー、まさか……」
小母さんからその話を聞いたとき、千枝は息が止まるほど驚いた。
「だって、三千代さんは東京のいい家へ是非といわれてお嫁に行ったんだよ、帝大出の銀行員で、すごくハンサムな立派な人だったんだ。一度わざわざ東京から南部駅長さんや三千代さんに逢《あ》いに来たのを見たんで知ってるんだけど……」
「それがね、その婿《むこ》さん、肺病なんだとさ」
「ええッ、だってまだ若くて丈夫そうな人だったよ。顔色もよかったし……」
「それが、ほんとうは学生時代から胸が悪かったんだと……」
小母さんは、さも重大な秘密を打ちあける時のような顔つきをした。
「婿《むこ》さんは、三千代さんと結婚して、ほんのひと月かそこらで具合が悪くなって、入院しちまったんだってさ。おまけに、婿さんの姉さんていう人が嫌な女でねえ、病気になったのは三千代さんのせいだといわんばかりに、ねちねちと意地悪をしたそうだよ」
「へえ……」
「それでね、三千代さんのお父さんが腹を立てて、三千代さんを実家に連れ戻したんだと……」
「可哀そうだねえ……そうだったの、へえ、……三千代さんあの時はあんなに仕合せそうだったのにねえ、人の運てわかんないもんだねえ……」
「可哀そうなのは婿さんのほうだよ、そりゃ、なにがあったか知らないが、とにかく夫婦になったんだもの、亭主の看病くらいはするのが女房たるものの務めじゃないか」
「でも、胸の病気ってうつるんでしょう」
「そうなんだよ、だから慌てて逃げだしたんだろうけどねえ……そこはやっぱり夫婦なんだからさあ……」
「看病しなけりゃいけないかね」
「そりゃあそうだよ、女房が一心不乱に看病してこそ、直らない病気も直るってもんでね、それが貞女ってものさ」
「だけどさ、貞女もいいけど、もし病気がうつって死んじゃったら……」
「ま、そうなりゃ不運さね。だども、夫の看護がもとで死んだのなら、女としては立派さね」
「嫌だねえ、死ぬなんて、あたいだったらやっぱり逃げちゃうな」
「そりゃあ千枝ちゃんにはまだ判らないんだよ、男と女の仲というのは微妙だからね……」
小母さんは、いつになくしんみりした顔つきをした。
「亭主に惚《ほ》れてなけりゃあ逃げるだろうよ、けど、本当に惚れ合って一緒になったんなら、とても、そんな不人情な真似は出来ないもんだよ」
「そんじゃ、三千代さんは婿さんに惚れてなかったのかね」
「そうなんだよ、みんな噂してるよ、あの人は金に目がくらんで嫁に行ったんだから、本気で看病なんかするもんかってね」
「ふうん……」
千枝はすっかり考え込んだ。
(人は見かけによらぬものだ、三千代さんはそんな人だったのだろうか……)
人の噂《うわさ》というものが、どんなに事実と違い、また無責任なものであるかを、自分の家の例で身にしみているくせに、他人のこととなると、千枝はすっかり噂の渦の中に巻きこまれてしまっていた。
(三千代さんて、思ったよりひどい人だ、兄ちゃんもあんな人と結婚しなくてよかった……)
千枝は本気でそんなことを考えていた。
だが、三千代の場合も、室伏家の赤ん坊と同じように、事実は世間の噂とは随分かけはなれていた。
三千代は金のために結婚したのでも、看病が嫌で逃げだして来たのでもなかった。
そのことは、このところ毎日南部家で繰りかえされている会話を少しでも耳にすれば、すぐ理解できるはずだった。
「お前の気持は判らんことはないが、そんなにくよくよ考えてばかりおったら、身体がもちゃせんぞ……」
南部は三千代の気持をすこしでも引きたてようと苦労していた。
「…………」
「婆《ばあ》さんも、どんなに心配しとるかしれやせん……な……三千代……」
「おじいちゃんッ!」
三千代の感情は指先で触れただけで、甲高い音を発しそうなまでに張りつめていた。
「あたし……利夫さんが病気になったことは、不運だったと諦めがつきます……。あきらめきれないのは……、あきらめきれないのは、利夫さんの看病をしてあげられないということなんです」
「三千代……」
「私は利夫さんの妻なんです、たとえ期間は短かくても、妻は妻なんです……。それが病気の利夫さんを捨てて、実家へ帰ってしまった……、それが妻のすることでしょうか、仮にも夫婦になった者のすることなんでしょうか……」
「お前が悪いんじゃない、お前の父さんが無理にお前を連れ戻した……が、それだって、みんなお前のためを考えてのことだったんだろう……」
「連れ戻された私が馬鹿だったんです。私は利夫さんの妻で、もう花巻《はなまき》の家の人間だったのに……、のめのめと実家へ戻るなんて……私、口惜しいんです。なぜ……なぜ……、父に逆っても利夫さんのそばに居なかったのかと……、自分で自分に腹が立つんです……」
三千代の頬《ほお》を涙が伝った。
南部は三千代をじっと見た。
ついこのあいだまで、まるっきり子供子供していた孫娘が、いつの間にかすっかり大人に生長していて、涙を流し、苦しんでいるのだ。
「三千代……お前の言うのはもっともだ」
南部は、ともすれば乱れがちな気持をまず落着けた。
「しかし、花巻の家のほうにも、お前を利夫のそばへ置きたがらないふうがあったとわしは聞いておる。だから……あの場合、お前としては実家へ帰るより仕方なかったのだとわしは思うよ」
「おじいちゃん……」
三千代が濡れた眼をあげた。
「いいか、三千代、人生とはそういうものだ。何度も何度も後悔にぶつかるもんだ……後悔のない人生なんて、そう、めったやたらにあるものか、後悔しながら少しずつ手さぐりで歩いて行く、そんなもんだよ……三千代……お前のように後悔だけしていたって仕様がない、大事なのは、この次に同じ後悔を二度とくり返さないということじゃないのか……それでなくては、後悔したことの意味がありあせんよ」
「同じ後悔を二度とくり返さないこと……」
三千代が呟《つぶや》いた。
「うん……」
南部は顎《あご》を引いた。
「わしはね、人生というのは長い長い旅路だと思っとる……。長い道中には汽車に乗りはぐれることもあるだろう。乗ろうと思って待っとった汽車が、なにかの都合で来ないことだってあり得る……。乗るまいと思った汽車に、ついうっかり乗っちまうこともある。そして、上り坂あり下り坂あり、雨も降ろうし、大雪もある……。一度汽車に乗り間違えたからって、旅を投げ出すわけには行かんのだよ、線路は汽車の前に長く長く、続いとるんじゃ……」
三千代は眼を庭の薔薇《ばら》へ移した。
蕾《つぼみ》が大きくふくらんで、あと二、三日もすれば咲きそうな気配だ。
(おじいちゃんは、後悔のない人生は無いという……、後悔を乗り越えて前進するのだという……、しかし、汽車にだって乗り越えられない山坂があるように、人間にも、とうていそれを乗り越えることの出来ない苦しみというものがあるのではないだろうか、すくなくとも今の私には、この苦しみを乗り越えるだけの力はない。ではどうすればいいのか……、それも私には判らない。私に判ることは、とにかく今、こうして生きて行くのが辛いということだけだ。眠るか……、死ぬか……する以外に、私には安息はないような気がする……)
三千代はふっと、雄一郎のことを想い出した。
近頃、しきりと雄一郎とのことを想い出す。結婚前の娘のころがただ無性になつかしかった。
(雄一郎さんに逢《あ》いたい、逢って、あらいざらい胸の中にたまっているものを吐きだしてしまいたい、そうすれば、すこしは気持が軽くなるのではないだろうか……)
世間の人たちなどはどうでもよかった。が、雄一郎にだけは、ほんとうの自分の気持を理解してもらいたいと三千代は思った。
26
函館本線、塩谷駅は平常、夜勤は三名であった。
駅長が、このところ夏風邪をこじらせて休んでいるので、いつものように、小樽から予備助役の関根重彦が手伝いに来ていた。
その夜の当直は、関根とポイントマンの佐伯、それに室伏雄一郎という組合せだった。
十時すぎ、札幌から長万部《おしやまんべ》へ行く終列車が通ってしまうと、あとは貨車が通過するだけである。
事務所では、北海道名物のごしょいも、つまり、じゃがいもを蒸して来て、眠気ざましの雑談に花が咲いていた。
「君んとこ、赤ん坊が居るそうだね……」
関根がふと思いついたように言った。
「捨て児だって……?」
「はあ……、まあ、そういうことです……」
「世間では、いろいろ妙な噂をたてる奴もいるらしいが……」
「はあ……、しかし、世間の奴は世間の奴ですから、別に気にはしてません」
「しかし、先日、駅長が心配しておられたんで、ちょっと君にも注意しておこうと思ってな……」
「駅長って……?」
「ほら、南部の親父さんさ」
「親父さん、どんなこと言っとられましたか?」
雄一郎は身をのりだした。
「まさか、世間の噂をそのまま……」
「当り前さ、親父さんがそんな軽薄な噂を信じるものか……、だがね、室伏君……」
佐伯がヤカンに水をくみに出て行くのを待って、声をひそめた。
「南部の親父さんは、君が新婚早々で、そういうことにいつまでも耐えられるだろうかと心配しとられたぞ」
「そういうことといいますと……」
「つまりだな、自分の子のことなら我慢できることでも、他人の子ではなかなかそうはいかんということらしいな」
「…………」
「そういえば、正直なところ、僕だって結婚したてのころは子供なんてちっとも欲しいとは思わなかったものな……、しかし、夫婦なんてものには、そういう期間がある程度必要なんじゃないだろうかね、女房だって、子供が出来てしまえば変に所帯じみて、皺《しわ》がふえる一方なんだし……新婚早々の甘い生活の記憶なんてものが、あとへいって、かなり重要な役割をはたすような気がするんだ。そういう意味では、どういう事情があるかしらんが、君は可哀そうだと同情するよ」
そこへ佐伯が戻って来たので、話はそこで打ち切られた。
「君、君はたしか小樽の出身だったね」
関根は、今度は佐伯の方へ向きをかえた。
「はあ、そうですが……」
「小樽にはいい産院あるかね」
「サンイン……?」
「ほら、赤ん坊を産むとき這入《はい》る病院さ」
「ああ……」
佐伯は首をひねった。
「さあ……、産婆《さんば》さんならかなり居るようですが……」
「やっぱり、病院は札幌の方がいいかね」
「誰か、赤ん坊が出来たんですか」
雄一郎が訊《き》いた。
「うん、まあな……」
関根は照れくさそうに言って、顎《あご》を撫《な》でた。
「関根さんですか」
「どうも、そうらしいんだ……」
「そりゃあ、おめでとうございます」
雄一郎は関根の妻をよく知っていた。いつか関根の誕生日に呼ばれて、彼女の舞う地唄舞《じうたまい》の雪≠観たことがあった。舞踊のことは余り知らない雄一郎にも、彼女の舞いはまったく素晴らしいものだった。
また、彼女、関根比沙の実家の両親が、たまたま有里の結婚式の仮親になってくれたこともあり、その後京都から届けられて来たお祝の反物や帯を、彼女がわざわざ有里の許まで届けてくれたりして、二人はかなり親しくしているらしかった。
「いつ頃ですか、生れるのは……」
佐伯が尋ねた。
「医者の話では、暮か正月頃ということだがね」
「どうせだったら元旦がいいですな、おめでたくって……」
「無責任なことを言うなよ、佐伯君。それよりいよいよ親父になるかと思うと、まるで坊主に引導渡されたような気がするぜ」
「そんなものですかね……」
雄一郎が言った。
「とにかく不愉快だね、女房はこれで亭主を家庭に縛《しば》りつけられると思って喜んでいるらしいが……縛りつけられてたまるかってんだ……」
「でも、助役さんの顔みていると、とっても嬉《うれ》しそうですよ」
佐伯がからかった。
「馬鹿いえ、馬鹿いえ……」
そのくせ、関根は腹の底からこみあげてくる笑いを、隠そうともしなかった。
「なあ、室伏君、そのうち君の所のかみさん、うちへ遊びに行ってやってくれないか、大事をとって家にばかり引き籠《こも》ってばかり居るので、少々可哀そうでね……」
「はあ……」
雄一郎は複雑な気持でそれを受取った。
(やっぱり、自分の子と他人の子は違うのかもしれない……俺は一度もこんな、関根さんが見せているような気持を味わったことはなかった……)
雄一郎は、自分の気持が索莫《さくばく》としてくるのを、どうすることも出来なかった。
翌日、雄一郎はまだそのことにこだわっていた。
夜勤あけの日は、昼間すこしでも寝ておかないと、次の日の勤務にさしつかえる。周囲が全部活動しているとき眠るというのは、なかなかむずかしい。そのうえ、奈津子が、やれおむつだ、やれ空腹だといってはよく泣いた。
そのたびに、有里があわてて奈津子を抱きかかえて外へとび出して行く。
(有里も気をつかっているのだ……)
と思いながらも、腹が立ってたまらなかった。
雄一郎をゆっくり寝かせたいと思うからそうするのだろうが、彼が寝ているときだけ有里がそばに居たところで、どうしようもないのだ。彼が眼を覚ますと、家の中から有里と奈津子の姿が消えている。
南部駅長の心配していたという言葉の意味が、ようやく、彼の胸にしみた。
空腹感をおぼえても、誰もそれに気づいてくれる者もない。
有里は外で隣りの小母さんにつかまり、どうやら奈津子の母親のことを根掘り葉掘り訊《き》かれているらしかった。
「有里、有里……」
雄一郎は妻を呼んだ。
「あら、起きたんですね、ごめんなさい」
有里がいそいで戻って来た。
「隣の婆さん、口がうるさいんだ、つまらんこと話すな」
雄一郎は不機嫌な顔をしていた。
「はい……御飯にします?」
「ああ……」
有里は奈津子を隣室に寝かせ、勝手で食事の仕度をはじめた。
雄一郎は傍に置いてあった本を取りあげて読みはじめた。念願の車掌科の試験を受ける準備である。段々課目がむずかしくなるので、文字通り寸暇をおしんで勉強しないと及第は覚束無《おぼつかな》かった。
そんなことへの焦りも、余計、雄一郎を苛立《いらだ》たせていたのかもしれない。
隣室の奈津子が、またむずかりだした。
「うるさいなあ、昨日から、馬鹿に泣くではないか!」
雄一郎は本を投げだして、珍しく大きな声をだした。
「すみません……、別に熱もないようなんですけど、どうしたのかしら……」
有里がおろおろと隣室へはいって行った。
「一日中抱いとるから、抱き癖《ぐせ》がついたんだろう、こんなじゃ、家で勉強もよう出来ん」
「どうしたの、奈っちゃん……お利口だから、泣かないのよ……ね、奈っちゃん……」
奈津子はなかなか泣きやまない。有里のほうも泣きそうな声を出していた。
「もういい、外で食ってくる……」
腹立ちまぎれに、雄一郎は本を懐へねじ込むと、足音も荒く外へ出て行った。
「あなた、もう御飯できましたけど……」
そんな有里の言葉に、ふりかえろうともしなかった。
家をとび出した雄一郎は、結局小樽へ出た。
この頃の小樽は、にしんの漁場であると同時に商人の町であった。
俗に、札幌は官員の町、小樽は商人の町といわれるくらいで、小樽には、石炭をはじめとして、十勝《とかち》地方で作られる雑穀類やパルプ材など、ありとあらゆるものが集まって来た。
町の中に立ち並ぶ巨大な倉庫と、肩で風を切って歩く越中《えつちゆう》だの江州《ごうしゆう》だのの商人たちが、小樽を支えるエネルギーであった。
あらゆるものが活気に溢《あふ》れ、それだけに荒っぽさも目立った。
たとえば、これは雄一郎が実際に出合ったことだが、或るやん衆の親方など、小樽、札幌間五十五銭の切符を買うのに二十円の札を出し、つり銭がないと言うと、あっさり要らんと答えたくらいである。
北角《きたかど》、南角《みなみかど》、という遊廓などは、一晩三円から五円が相場だが、毎晩たいへんな賑《にぎわ》いかただった。
そうした場所は、薄給な鉄道員である雄一郎などには無縁な場所だった。
空きっ腹をかかえて、駅前の小さな蕎麦屋《そばや》の暖簾《のれん》をくぐると、雄一郎は新しく腹が立ってきた。本来ならば、今頃は有里の手料理で、夫婦水いらずの食膳《しよくぜん》にむかっていられる筈《はず》なのだ。
すぐそばの椅子席で、三歳くらいの女の子を連れた夫婦ものが、仲睦《なかむつ》まじく蕎麦をすすっていた。
雄一郎は急にみじめな気持に襲われて、あわてて眼をそらした。
27
普段なら、大好物の蕎麦なのに、何か胸のあたりに固いしこりのようなものが出来て、あまり美味いとも思わず、雄一郎は箸《はし》を置いた。
ぼんやり眼をあげたとたん、二階の階段から良平と千枝がおりてくるのにぶつかった。
雄一郎は黙って二人を見ていた。
先に雄一郎の居ることに気づいたのは千枝だった。
「兄ちゃん……」
吃驚《びつくり》して、駈《か》け寄ってきた。
「なんだ、お前……」
雄一郎は、良平と千枝を交互に見くらべながら言った。
「こんなところに居ったのか……」
「こんちは……」
良平が頭を下げた。まるで、子供が悪戯《いたずら》をみつけられたときのように首をすくめ、困ったような笑いをうかべている。
「兄ちゃん、岡本さんにお蕎麦ごちそうになったんよ」
千枝は、雄一郎と良平とのあいだの微妙なニュアンスには気づかず、いたって無邪気な表情であった。
「いつも、妹がいろいろとお世話になっています……」
雄一郎は、ちらりと良平を見てから礼を述べた。
「いやいや、そんな……」
良平はちょっと顔を赤くした。
「世話をかけてるのは俺のほうだで……」
「兄ちゃん、岡本さんねえ、機関助手の試験やっと合格したんだって……」
「ほう……」
雄一郎は素直に眼を瞠《みは》った。
「そりゃあ、よかった……」
「明日から札幌の教習所へ岡本さん行くんよ」
「うん……、御苦労さんです。新平|爺《じい》さんもきっと大喜びだろう」
「いやあ……」
良平は照れて、手を頭へ持って行った。
「千枝、お前これからどうするんだ」
「もう家へ帰るよ、兄ちゃんは……」
「俺も帰る、いま蕎麦湯を飲んだらな……」
「じゃ、待ってるよ、一緒に帰ろう」
「うん……」
「それじゃ、わしはこれで……」
「そうかい、じゃ、どうもごちそうさん……」
千枝は思ったよりあっさり言った。
「元気でがんばってね……」
「ああ、さいなら……」
良平も千枝には軽く手をあげただけで、雄一郎に目礼し外へ出て行った。
「千枝……」
「ええ……?」
「お前、ここの二階へ岡本とちょいちょい来るのか」
「ううん、今日がはじめてだよ」
「二階でなにしてたんだ……」
「なにって……」
千枝は不思議そうに雄一郎を見た。
「お蕎麦たべとったよ、鴨南《かもなん》ばんとラムネと……」
「それだけか?」
「ああ、なんで、兄ちゃん……」
「馬鹿、嫁入り前の娘が男と二人で蕎麦屋の二階なんぞへ上るもんでないぞ」
「何んして……」
「上ったらいかん」
「だから、何んしてさ……」
「わからんのか」
「わからん」
雄一郎は拍子抜けがした。
「男女七歳にして席を同じゅうせずというだろう」
「男と女が同じ席に坐ったらいかんの?」
「そうだ……」
「そいでも、汽車に乗ったらそんなこと言えんよ、男の人の隣りだって、席があいていれば坐るよ、みんな……」
「人の大勢いるところならいい、二人っきりはいかんということだ……」
「ふうん……」
千枝にはまだよく判らないらしかった。
「それでも、岡本さん、別になにもせんよ」
「今日なんにもせんでも、明日なんにもせんとは限らん、男とはそういうもんだ」
「へえ、そういうもんかね」
千枝は驚いたようだった。
「兄ちゃんもやっぱりそうかね……」
「馬鹿……」
雄一郎はあわてて蕎麦湯を口へ運んだ。
「兄ちゃん、今日はたしか非番だね……」
「そうだ……」
「どうして今頃、小樽なんかへ出て来たの……」
千枝が雄一郎の顔をのぞき込んだ。
「昨夜《ゆうべ》、泊りだったから、今朝は家へ帰って一ねむりして、今頃、ほんとだったら有里姉さんと夕飯たべてるわけでしょう?」
「それが……、うるそうて寝られん」
吐き出すように言った。
「奈っちゃんが泣いたの?」
「泣いても泣かんでも、赤ん坊が家に居ると落着かんもんだ」
「なに言ってるの、そんなの贅沢《ぜいたく》だ」
千枝は兄をにらみつけた。
「兄ちゃんみたいに神経質なこと言うとったら、鉄道員は子供育てられんよ」
「そりゃ、自分の子なら我慢もするさ……、どこの馬の骨ともわからん奴の子なんだぞ……」
「兄ちゃん……、そんなこと言うたら奈っちゃんが可哀そうよ。家で育てるってこと、兄ちゃんだって賛成したんでないの……」
「…………」
「わかった……、兄ちゃん、お姉さんにあまりかまってもらえんので、それで、奈っちゃんに焼餅《やきもち》やいとるのね」
「馬鹿……」
「そうよ、そうなのよ、兄ちゃん……」
千枝の眼が次第に光を増して来た。
「奈っちゃんが泣いたんで、うるさい言うて、有里姉さんを叱ったんだね、そうだね……」
雄一郎が黙って蕎麦湯を飲んでいると、
「兄ちゃん!」
凄《すご》い声で怒鳴った。
雄一郎は驚いた。
「お、おい、大きな声だすな……、人が見るでないか……」
「見たってかまわん……」
千枝は坐り直した。
「兄ちゃん、あんた、そんなの我儘《わがまま》だよ。奈っちゃんはなんてったって赤ん坊だろ、口がきけんから、泣くより仕方ないんだよ……。赤ん坊だってね、虫の居所が悪かったら泣くよ、それを大人がいちいち腹立ててたら仕様がないよ、お姉さんを怒ったら可哀そうだよ……。兄ちゃんがうちに居るとき、お姉さん、奈っちゃんのことでどれくらい気い遣うてるか、兄ちゃん知らんの。夜だって、ちょっとむずがるとすぐおんぶして表へ出る……、真夜中だってそうなんだよ。兄ちゃん、自分の子でもなんでもないからっていうけど、お姉さんだって、自分の子でもなんでもないよ……」
「そんなこと、判っとる……」
「わかっとらんよ。兄ちゃん、奈っちゃんをどうせい言うの……、あんなになついとるものを、あんな可愛い子を、兄ちゃん、乳児院へやれって言うの……、兄ちゃん、鬼だね……、鬼だよ、兄ちゃん……」
「千枝……」
「千枝、兄ちゃん嫌いだよ……、そんな惨《むご》いこという兄ちゃん、嫌いだよ……」
千枝はくるりとうしろを向いてしまった。
そっと袂《たもと》で眼を拭《ふ》いている。
「千枝……」
雄一郎は立ちあがると、千枝の肩に手をかけた。
「いや!」
千枝が激しく振りはらった。
「わかったよ、千枝……、帰ろう……、有里がきっと心配しとる……」
「兄ちゃん……」
「俺がわるかった……、なんだかむしゃくしゃしとったんだ……帰ろう……」
「うん……」
ようやく、千枝の頬《ほお》に笑いが浮かんだ。
雄一郎が出て行ってしまったあと、常になくむずがる奈津子を宥《なだ》めながら、有里は赤ん坊といっしょに声をあげて泣きたい気持だった。
しかし、有里は泣かなかった。
こんな場合、普通の女なら、まず嫁いでくる時、実家の兄から「つろうなったら、いつでも帰っておいで……」と囁《ささや》かれた言葉を思い出すところであろう。が、彼女が思い出したのは兄の言葉ではなく、雄一郎との婚礼がすんだあと、自分から横浜へ去って行った義理の姉、はる子の残して行った手紙のことだった。
有里は神棚から、そっとはる子の手紙をおろして読んだ。
有里に主婦の座をゆずるため、住みなれた土地を離れたはる子のこまかい心遣いが、一つ一つ痛いほど身にしみた。
(こんなことでへこたれたら、お義姉《ねえ》さまに申しわけがない……)
有里は、しっかりと自分に言い聞かせた。
しばらくすると、気持は嘘《うそ》のように平静になった。有里の気持が落着いたせいか、奈津子も眼をさまさない。
有里は、晴れ晴れとした表情で台所へ立ち、雄一郎の好物の茶碗蒸《ちやわんむ》しを作る支度をはじめた。
雄一郎と千枝は、ちょうど茶碗蒸しが出来あがったところへ帰って来た。
「奈っちゃんは……?」
千枝が顔だけ出し、小声で聴いた。
「ねてるわ、とってもよく……」
すると、千枝はじろじろ有里の顔を眺めた。
「有里姉さんは泣かなんだ?」
「私が……? いいえ、奈っちゃんは泣いて困ったけれど……」
「そう……」
千枝はくるりとうしろを向いて、手まねきした。
「兄ちゃん。大丈夫だよ、お姉さん、泣いとらんよ」
「馬鹿……」
雄一郎が照れくさそうな表情で這入《はい》ってきた。
「お帰りなさい……」
有里は笑顔で迎えた。
(これがお義姉さんの手紙を読む前だったら、はたして笑顔で迎えられたかどうかわからない……)
と有里は思った。
「ごめんなさいね、奈っちゃんをあんなに泣かせて……」
「いいんだよ……」
雄一郎はずんずん奥へ上って行ってしまった。
「あのね、兄ちゃん、小樽の蕎麦屋に居ったんだよ……。自分で腹立てて出て来たくせに、お姉さんが泣いとるかもしれんと心配しとったよ……」
千枝が有里の耳許で囁《ささや》いた。
「まあ……」
それだけの言葉が有里にはひどく嬉《うれ》しかった。
「ごめんなさい、千枝さんにまで心配かけて……」
思わずしんみりと義妹の顔をみつめた。
「おーい、みんな、早く来いよ――」
雄一郎が呼んでいた。
「はーい」
行ってみると、いつの間にか雄一郎が台所から茶碗蒸しを持って来て、自分の膳《ぜん》の上に置いていた。
「おい、早く食おう……冷めないうちに……」
有里に飯茶碗《めしぢやわん》をさし出した。
「頂きまあす……」
雄一郎は飯をよそうのも待ちきれずに茶碗蒸しに箸《はし》をつけ、相好《そうごう》をくずした。
「うん、なかなかうまいぞ……、千枝、姉さんのよりコクがあるな……」
「なんだって……、生意気いってら、ねえ……」
千枝は同意を求めるように有里を見たが、そのまま眼は有里に釘《くぎ》づけされた。
「あれ……、今日のお姉さん、なんだかとても綺麗《きれい》だよ……」
まじまじと有里を見つめた。
「あっ、お化粧しとるね……、兄ちゃん、お姉さん、お化粧して兄ちゃんのこと待っとったんだよ……」
「馬鹿……」
「嫌だわ……」
雄一郎と有里は思わず顔を見合せ、頬《ほお》を染めた。
28
札幌の関根重彦の妻から、遊びに来てくれという言伝てがあったのを、つい延ばし延ばしにしてしまった有里が、赤ん坊の奈津子を千枝に預けて、札幌へ出掛けたのは、七月半ばの日曜日であった。
関根の妻の比沙は、少しやつれて、気だるそうに見えた。まもなく、六か月目にはいるのだと言っていた。
「起きていらっしゃっていいんですか……」
浴衣を着て、団扇《うちわ》をつかっている比沙の身を有里は気遣った。
「娘の頃から、夏まけのする体質《たち》どすよってに……、北海道は冬が寒むおすさかい、夏は凌《しの》ぎやすい思うたら、結構、暑うおすな」
「塩谷は少し山になるので、朝晩は涼しいようですけれど……」
「そういえば、どこぞにお針してくれはるお人知っといやしたら、おせとくれやす……」
「お針……?」
「へえ、大方は実家のほうで用意してくれはるようやけど、おしめや、ねんねこくらい、こちらでも作っておかんならん思いますよってに……」
「おしめくらいでしたら、私、お手伝いします」
「そやかて、赤ちゃんがおいやすのに……」
「ええ、でも眠っている暇に、ほどきものや直しものぐらい、お急ぎでなかったら出来ますし……」
「おおきに……、なんや知らんけど、冬のさなかのお産どっしゃろ、いろいろと気イつけんならんことが多いさかい……、いっそ、実家へ帰って産んだほうがええかしら思うてみたり……」
「御主人様はなんておっしゃっておいでです?」
「あの人は、なんでもお前のええようにせいとしか言わはらへん」
比沙はちょっと不満そうな顔をした。
「でも、とっても嬉しそうにしてらっしゃるって、主人が申しておりますよ」
「おたくは、まだ……?」
比沙が有里の眼をのぞき込んだ。
「…………」
有里は笑って首を振った。
「他人の子オ、育ててはって、自分のことがお留守になってはいけしまへんえ……」
「ええ……」
有里は眼を伏せた。
「あの……、おしめにする古い浴衣《ゆかた》見てくれはります……?」
比沙がいそいで話題をかえた。
「はい……」
「ちょっと待ってておくれやす……」
比沙はいそいそと立ちあがった。
その比沙が流産したのは、それからまだ半月とはたっていない夜のことだった。
関根の家から預ってきた浴衣を、有里がせっせとほどいていると、今日は夜番《よるばん》だったはずの雄一郎がひょっこり戻ってきて、いきなり、
「おい、大変だよ……」
有里の顔を見るなり言った。
「関根さんとこの奥さん、入院したんだ」
「ええッ」
有里は雄一郎のそばへ駈《か》け寄った。
「流産らしい……昨夜だ……」
「まあ……」
そう言ったきり、有里は絶句した。
「お前、今夜、奈っちんが寝たら、隣りの小母さんにでも頼んでおいて、札幌まで行ってくれないか……、関根さんの奥さんのところだ……」
「はい、そうします」
「鉄道病院だから、ちゃんと看護婦さんもついてるはずだが、やっぱり、なにかと心細いだろうし……」
「ええ……」
有里は、あんなに嬉しそうにしていた比沙のことを想い浮かべると、すっかり気が動転してしまい、これからいったい何をしたらいいのかさえ判らなくなってしまった。
「しかし、奈っちんは大丈夫かな……」
「あの子は、近頃、ミルクを飲んで寝てしまえば、朝までぐっすりですもの……」
「じゃ、そうしてくれ。千枝をとも考えたが、場合が場合だから、千枝よりお前のほうがいいだろう」
「関根さんはどうしていらっしゃいますの、病院にずっとついていらっしゃるんですか?」
「いや、昨夜は夜っぴて病院に居ったそうだが、今朝は定刻に出勤されている。あいにく駅長がまだ休んどられるし……、関根さんという人も、あれで、なかなか責任感の強い人だから、休まないんだろう……」
「私、なるべく早く札幌へ行きます」
「うん、頼む……、じゃ、俺は駅へ帰るから……。ひょっとすると、二、三日家へ帰れんかもしれん、なるべく関根さんの宿直かわってあげたいと思っとるから……」
「はい、あなた、体に気をつけて……」
「うん……」
二人はこの日、そのまま別れた。
そして、関根比沙の流産が、その後どんな大事件につながって行くか、二人は全く知るよしもなかったのだ。
その時の塩谷駅は、坂本駅長が風邪から肺炎を併発して長期にわたり休んでいたため、助役の戸波と予備助役の関根重彦とが、駅長の仕事を代行するという形になっていた。
塩谷の駅は、上り下りともに単線であった。
上り列車と下り列車のすれ違いは、駅の構内で行われる。
地方の単線の区間を走る列車に乗ったことのある方は、経験されたことだろうが、駅の構内で、「上り列車との待合せのため、何分停車……」などという指令や、又、駅長と機関手とが駅の発着ごとに交換する、まるい輪の端につけられた小さなケースの中の、タブレットと称する通票など、いずれも単線のため、線路上で上りと下りの列車が鉢合せしないための配慮である。
従って、単線区間の場合は、駅では絶対に事故の起らぬよう、列車を発車させるにしても、通過させるにしても、又、構内に進入を許すにしても、すべて運転指令に基き正確に慎重に隣り同士の駅と連絡をとり、それによって信号とポイントの操作を行っている。
一方、列車を走らせる機関手は、あくまでも信号に忠実に列車を走らせることを義務としているのである。
以上のことでも判るように、鉄道員にとって、事故は起すべからざるものであり、鉄道の業務がすべて正確に行われているかぎり、絶対に起る筈《はず》のないものであった。
しかし、事故は起り得べからざる時に起る。そして……、人間は神ではなく、鉄道員もまた、人の子であった。
大正十五年七月二十九日の黒い翼は、函館本線塩谷駅に、音もなく舞い下りた。
その時刻。
塩谷駅で働いていたのは、予備助役の関根重彦、出札係の室伏雄一郎、改札係の岡田均以下ポイントマンその他合計八名であった。
坂本駅長は欠勤、助役の戸波はちょうど勤務時間が終えて、駅から歩いて二分ほどのところにある官舎へ帰っていた。
つまり、駅長、助役の仕事を代行していたのは、どちらかというと現場にはまだ不馴れな関根重彦であった。
その時の列車交換に関する運輸事務所からの緊急指令を受けたのは、従って、関根重彦だったのだ。
『上りの急行列車が二十三分遅れのため、塩谷駅で、臨時に下りの普通列車を行き違い変更させる』という指令である。
平常のダイヤでは、急行列車は塩谷駅には停車しない。この上り急行列車は、本来ならば、蘭島《らんしま》駅で下りの普通列車と待ち合せ、すれ違う筈であった。しかし、二十三分遅れのこの上り急行列車は、平常ダイヤ通り塩谷駅を通過してそのまま驀進《ばくしん》して行けば、定時に蘭島駅を発車した下り普通列車と、まともに正面衝突してしまうことになる。
だから、蘭島駅でなく、塩谷駅での行違い変更の指令が発せられたのである。当然、この指令により、塩谷駅では上り急行列車の臨時停車の手配をすべきだった。
ところが、どう魔がさしたものか、この運転指令を黒板にきちんと記録しておきながら、関根重彦は塩谷駅の関係者たちに、急行列車を停める連絡を失念した。
おそらく、二日間も病院で、妻の容態を案じつつ徹夜した疲労もあったであろう。初めての子の流産というショックもあった。しかも、現場に不馴《ふな》れなという悪条件が重なった。ベテランの駅長、助役が二人ながら不在であったというのも、いってみれば一つの運命を決定したといえる。
塩谷駅の信号は、小樽を発車した急行列車を通過させるべく、場内信号も通過信号もすべて青のままであった。
そして逆の方向からは、下り普通列車が定刻どおり、すでに蘭島を発車し、塩谷へ塩谷へと近づきつつあったのだ。
それは、ちょうど夕刻のことで、出札も改札もかなりいそがしかった。
駅全体が、いつもの通り、定められた歯車の噛《か》み合せで回転していた。
駅の事務室に居たのは、だから、妻の容態を気にして落着かない関根と、出札の窓口に坐っていた雄一郎の二人だけだった。
しかも、最初に異常に気がついたのは雄一郎だった。長年の勘が働いたのである。
彼は出札をしながら、いつものように近づいてくる下り普通列車の音を聞いていた。ところが、何故か彼は、
(おや……?)
と思った。いつもとは駅へ接近するスピードが違う。ブレーキのかけかたが異常である……。そして、次の瞬間、彼の耳はけたたましい汽笛の断続音をとらえた。
(なんだろう、あの汽笛の音は……?)
しかも、列車は場内には入らず、信号機の手前で停止した様子だった。
雄一郎はなに気なく関根のうしろの黒板に眼をやって、思わず、
「あッ!」
と声をあげた。
そこには、先刻関根重彦が受け取った、塩谷駅での行違い変更の指令が書かれてあったのだ。
下り普通列車の機関手は、すでに塩谷駅での行違い変更の指令を受けていた。当然ホームへ入るつもりで来たのに、下り場内信号が赤になっている。彼は一応列車を停止させ、警笛を鳴らして、塩谷駅に注意をうながした。その音を雄一郎が聞いたというわけだった。
彼が咄嗟《とつさ》に考えたことは、急行列車を一刻も早く停めるということだった。
「たいへんだ。急行が来る!」
あとは何を叫んだか憶《おぼ》えていない。
雄一郎は夢中で事務所をとび出し、信号機のリバーにとびついた。
彼の眼には、黒煙を噴きつつ、まっしぐらに接近する上り急行列車の姿が、まるで大きな魔物のように映っていた。
気が動転しているせいか、膝《ひざ》ががくがくし、腕にもまるで力がはいらない。抱きつくような恰好《かつこう》で、雄一郎は次々とリバーをあげて行った。
まず場内信号機の青が赤に変り、次いで通過信号機、出発信号機が青色から赤色の光に変った。
急行列車の機関手が急ブレーキをかける。けたたましい金属音の悲鳴が聞え、車輪と線路の間で火花が散った。
巨大な鉄の塊である機関車は、乗客を満載した客車の列を引いたまま、すぐには停止できずに、線路上を滑った。同じ線路の上には普通列車が停止している。
雄一郎は思わず眼をつぶった。
そして、次の一瞬の結果を待った。
が、結果は、無気味なほどの静寂さだった。すべてのこの世の動きが停止してしまったのではないかと思えるほどの静けさだった。
雄一郎は、そっと眼を開けた。
急行列車は普通列車の約百五十米くらい寸前でぴたりと止まっていた。
(助かった……事故は防げた……)
急に全身の力が抜けて行くのを感じた。
と同時に、
(もう、一秒間、機関手がブレーキをかけるのが遅れていたら……)
そう考えると、雄一郎の全身に冷汗がふきだした。
ふと気がつくと、彼のすぐうしろに、関根重彦が蒼《あお》ざめ、虚脱したような眼で二台の機関車を眺めていた。
「関根さん……」
「室伏君……」
二人はどちらからともなく駈《か》け寄り、しっかりと抱き合った。
「よ、よかったですねえ……」
「ありがとう……、室伏君、ありがとう……」
関根はぼろぼろ涙をこぼしながら泣いていた。
29
塩谷駅での事故は不発に終った。
雄一郎の機敏な措置と、上り下り両列車の機関手たちの熟練した運転技術が、列車同士の正面衝突という大事故を未然に防いだのである。
だから、結果的には職員にも乗客にも異常なく、この未遂事故のことは表沙汰《おもてざた》にはならなかった。
しかし、それは世間一般にたいしてのことで、札幌鉄道管理局内部では、当事者の責任問題追求、現場検証など、頭の痛い問題が残っていた。
塩谷の坂本駅長、戸波助役は病気や非番で現場に居なかったにも関らず、上司に進退伺いを出したそうだとか、実際の責任者である関根重彦は、彼の父が鉄道省の某有力者と近しくしているので、恐らく軽い譴責《けんせき》か減俸処分くらいで済むのではないかなどの噂《うわさ》が、口さがない人々の間で、まことしやかに囁《ささや》かれはじめていた。
塩谷駅での未遂事故のあったその夜、なんとなく心配になった有里は、自家製のくず餅《もち》を持って比沙を見舞った。
比沙の病室の前までくると、案の定、中が騒がしい。通りがかりの看護婦に聴くと、さっき御主人がみえて暫《しばら》くたってから病人が興奮しだし、いましがた医師が鎮静剤の注射をしたところだと言った。
一時間ほど外で時間をつぶし、あらためて病室をのぞくと、比沙は少し落着いたのか、ぼんやりと枕辺に飾られた花を見ていた。
「奥さん……」
有里が遠慮勝ちに声をかけると、
「どうぞ……」
比沙は嬉《うれ》しそうに、ベッドのそばに置かれた椅子《いす》を示した。
「さっき来てくれはりましたのやろ……」
「ええ……」
「なんや、急に哀《かな》しうなってしもうてなあ……」
寂しそうに眼をそらした。
「奥さん……」
「うちのせいどした……うちが流産してしもて、それで主人は……それで主人はあんなことしてしもうたんどす……」
「奥さん、そのことはもう忘れましょう、お体にさわりますわ……」
「有里さん……、うち、主人に申しわけのうて……」
比沙は、突然両手で顔を覆った。
「うちの人は、なんにも叱《しか》らしまへん……、今しがた、ここに顔出して、心配かけた、堪忍《かんにん》せい言うて……。うちにはあの人の気持がようわかります、あの人は子供の時から鉄道が好きやった……、鉄道は男の一生をかけるにふさわしい、生き甲斐《がい》のある仕事やっていつも言うてました。今度のことで、あの人がもし鉄道やめんならんことになってしもたら……うち……あの人にすまん、あの人が可哀そうで、それ思うと……うち……こうして寝てるのが歯がゆうて……。あの人のためやったら、札鉄の管理局のお人の前に手ついて……、なんとかあの人の罪をつぐないたい……な、お有里はん……」
「わかります、奥さんのお気持はよくわかりますけど……でも、そんなに思いつめないで……。今度のことは、たとえどういうことがあったにせよ、お客さまに怪我人が出たわけでもないし……、大事にはならなかったのですから……」
「それでも、あの人は責任を感じています……うち、あの人があれ以来、ろくに眠っていないのを知っています。あの人は責任感の強いお人やし……、苦しんで……苦しんで、悔んで、悔み抜いて……、命の細る思いをしている……うち、わかります……」
比沙は再び興奮しはじめた。
「奥さん、落ついて……、御主人には立派なお父さまがついていらっしゃいます。奥さんがあんまり心配なさって、もし体でも悪くしたら、御主人にかえって、ご心配をおかけすることになりますわ……ね……」
有里は病院に来たことを後悔した。言葉では、どう比沙を慰めたところで、それで彼女が救われるはずのものではなかった。
有里は家へ帰って、このことを雄一郎に告げた。すると、雄一郎は、
「それは……、鉄道員だって人間なんだ、過ちもある、しかし、鉄道は過ちがただ過ちだから悪かったでは済まんのだ……。たとえ、どういう事情があっても、鉄道員はその職責を全うするのが義務なんだ……」
ぽつりと言った。
翌日、有里たちの耳に、手宮駅の南部駅長が辞表を出したとの噂がとび込んで来た。
彼が辞表を出したわけは、もともと関根重彦は手宮駅の所属であり、南部の部下である、部下の罪は、すべて上司たる自分の不徳の致すところ、ということらしかった。
次第に事情がはっきりするにつれ、南部斉五郎のとった行動に、彼を知るものはすべて、今更ながらその人物の大きさに感嘆すると同時に、思わず目頭を熱くしたのだった。
南部斉五郎は辞表を携え、札幌鉄道管理局長の前で、まさに声涙くだる演説を行なった。
「……無論、私も鉄道員のはしくれであります。自分の部下をかばうあまりに、事件の重大さをないがしろにするものでは決してありません……。ただ、私が申しあげたいのは、鉄道員もまた人の子であります、妻の流産に、心が動揺することもあったでありましょう、看病に疲れはてたということもあったものと思われます……。しかし、勿論そうした情状酌量が許されるとは考えて居りません。だが、重ねて申します。関根重彦は、有望な鉄道員としての素質を持っている男であります。今度のことで、彼は鉄道員たるものの道のきびしさを骨の髄まで思い知ったに相違ないのであります。誰が言うより、彼はおのれの罪の深さに悩み苦しんで居る……。このことを、私は彼の未来に生かしてやりたいと念ずるのであります。彼を譴責《けんせき》し、鉄道から追放することは容易であります。しかし、私はなんとかして、鉄道員として彼に、鉄道への償いをさせてやりたいと思うのであります。この不祥事によって、彼の前途を葬り去るより、彼の未来のよき教訓としてこれを生かしてやりたいと願うのであります。重ねて申し上げます。責任はすべて上司たる私にあります。老骨は消え去っても、若い伸び行く芽は枯らしたくないと念願致します……。鉄道の未来のために、有能なる若い芽は、断じて枯らしてはならんと思うのであります……」
南部の、自分を犠牲にして部下を救おうとする、この言葉は強く局長の胸をうった。
南部がほぼその目的を達して、局長室を出てくると、廊下に関根が立っていた。
関根はドア越しに南部の言葉を聞いていた様子だった。
「駅長……」
彼の眼には大きな感動の色があった。しかし、同時に、一旦決意したことを翻《ひるが》えさない固い決意もうかがわれた。
「関根君……、君、なにしにここへ来た……」
「…………」
南部は関根が手にした辞表をじろりと見た。
「そりゃあ何だ、まさか、辞表じゃあるまいな……」
「駅長……」
関根は真直ぐ南部を見た。
「僕は辞職します……」
「馬鹿ア!」
管理局の建物中に響きわたるような声だった。
「しかし駅長、責任は僕にあるんです、僕が責任をとるべきです……。このままでは、駅長にも、塩谷駅の方々にも迷惑をかけます……、僕は辞めます……断じて責任をとります」
関根は南部の視線をはねかえすように顔をあげていった。
「この大飯ぐらいッ!」
南部の親父さん得意の雷がおちた。
管理局に勤める人々の顔が、ドアから廊下をのぞいた。
「こんな紙っぺら一枚で……」
南部は関根の辞表をひったくった。
「こんなもんで貴様の罪が帳消しになると思っとるのか、この大馬鹿野郎……。いったい何度言ったら判るんだ、辞表一枚で、なにが責任……なにが反省だ……、鉄道はそんな甘っちょろいもんじゃないわい……」
「駅長……」
関根はなかなかひるまなかった。
「関根君……鉄道員の償いは、一生かかって鉄道に尽すことだ。たった一つしかない命を、一生かかって鉄道に捧げることだ……。これ以外にいったい何がある。なにが償いだ……なにが責任だ、顔洗って出直して来いッ」
「しかし、僕は……、父の地位で、父の権力で、罪をのがれたと思われたくない……父の蔭の力で、馘首《くび》になるのを免れて……、嫌だ……そんなみじめったらしい一生は真っ平だ……」
関根の眼には涙が滲《にじ》んでいた。
「この馬鹿……まだ眼がさめんのか……」
ちょうど通りすがりの掃除夫のさげていたバケツをひったくると、南部はいきなり関根の頭から水をあびせかけた。
「馬鹿もん……、いい加減にせい……」
「駅長……」
全身|濡《ぬ》れねずみになりながら、それでも関根は不動の姿勢を崩さなかった。
「いいか、お前の親父が大臣だろうと、閣下だろうと……、二本の線路の知ったことか……、とび込んでくる機関車の知ったことか……。鉄道を動かすのは権力じゃない……、地位や名誉でもない……真に鉄道を動かすものは、鉄道員の魂だ……、わからんのかそんなことが、この大飯ぐい……」
言葉ははげしくても、南部の声は慈愛にあふれていた。
「俺がお前を鉄道に残したいと思ったのは、お前のためじゃない、鉄道の未来にお前が役立つ人間と思うからだ……。これだけ言うてもわからんけりゃ、勝手に辞職でもなんでもするがいい……、それより、豆腐の角に頭をぶつけて死んじまえ、この唐変木……」
じっと関根をみつめた。その南部を関根はにらみかえした。
しかし、いつか二人の頬《ほお》を濡らす、二本の光る筋があった。
鉄道を動かすものは、鉄道員の魂だと叫び、鉄道員も人の子ぞと泣いた南部斉五郎の熱弁は、鉄道に生きる人々に大きな感動を与えた。
南部斉五郎は鉄道を去った。
そして、関根重彦は鉄道員として東京へ転勤して行った。
古い幹は枯れても、新しい芽は伸ばさねばならぬ……。南部斉五郎の、己れを殺しても、鉄道の未来を思う愛情は、関根重彦の胸に生きた。そして又、室伏雄一郎の胸に、鉄道に働くすべての若い鉄道員の胸に、炎となって燃えたのだった。
30
南部斉五郎が鉄道を去り、関根重彦夫婦が東京へ転勤となったその年の暮。
大正天皇の崩御があって、年号は大正から昭和とあらたまった。
翌年の春。
室伏雄一郎は予定通り車掌科の試験に合格し、札幌での教習期間を卒《お》えて、函館本線の車掌見習として勤務することになった。
その最初の日、雄一郎は小樽の列車従事員詰所で、車掌監督助手吉川の点呼を受けた。
先輩の車掌三田が挙手の礼をして、
「車掌三田、車掌見習室伏、制動手村林、只今より上り四十二列車に乗務します」
と報告する。
「御苦労さんです……」
それから、四人は時計の針を調整する。
そうしたことの一つ一つが、昨日とはまるで別の世界のことのように、雄一郎には新鮮に感じられた。
ホームには、四十二号列車が白い煙を上げて停車している。雄一郎にとっては、車掌として乗務する最初の列車だった。
「おや、室伏さんでないかい」
機関助手席から岡本良平が半身をのり出して雄一郎を呼んだ。
「やあ、すごいなあ……」
良平は、真新しい胴乱《どうらん》を肩にした雄一郎をしげしげと見た。
「いよいよ車掌さんだね、お目出度《めでと》う……」
「ありがとう……、君もいよいよ機関車に乗ることになったんだな」
「うん、それがね……、本当はまだなんだがね……」
良平はちょっと憂鬱《ゆううつ》そうな顔をした。
「実は当分、機関車とお別れせんならんでね、いま名残りを惜しんでいる最中なんだ……」
「どうして?」
「徴兵検査でねえ……」
「なんだ、君、まだだったのか」
「室伏さんはすんだのかね」
「もうとっくさ」
「へえ……室伏さん、体格がいいで、てっきり甲種《こうしゆ》合格かと思うとったが、そうでなかったのかね」
「残念ながら第一乙種だった。ロクマクのあとがあったんだとさ……、知らないうちにわずらっとったらしい……」
「そうかね……」
良平は頷《うなず》いてから、声を低めた。
「ま、大きな声ではいえんが、乙種でよかった……、家族のもんが可哀そうだでのう」
「君んとこ、親父さん一人だけだったな」
「うんだ、俺が居らなんだら不自由だでなあ……けど、まんずお国の為だで、仕方ないがね……」
「うん……」
雄一郎は時計を見た。そろそろ行かなければならない。
「じゃ、又……」
軽く敬礼した。
「ああ、じゃ……」
近頃、二人がどんなつき合いかたをしているか雄一郎は知らなかったが、良平は千枝のことをおくびにも出さなかった。
朝早く家を出ても、長万部《おしやまんべ》往復をして、詰所で勤務のあとの事務、引きつぎなどをしていると、どうしても帰宅は夜半に近くなる。
有里はたいがい甘酒をあたためて、雄一郎の帰りを待っていた。
時には千枝も、甘酒を目あてで起きていることもある。
雄一郎は、千枝に良平の徴兵検査のことを話してやった。
「へえ、良平さん、兵隊に行くの……?」
千枝は眼をまるくした。
「そりゃ、検査が済まなければわからん」
「甲種っていうのだと行くんでしょう」
「うん……」
「あの人、甲種になるかね」
「まあ、機関手になるもんはたいがい体がいいからな」
「そういえば、兄ちゃんは乙種だったね」
「ああ、みかけ倒しだと怒られたがなあ」
「あの人も、ロクマク、知らんうちに患った痕《あと》でもあるといいね……」
「こら、お前そんなこと外で言ったらいかんぞ」
「知ってるよ……」
千枝は首を縮めた。
「でもさ、あの人んちは良平さんが兵隊に行っちまったら可哀そうだよ」
「だがまあ、訓練うけるだけだからな……、日本が戦争してるわけではなし……」
「だけど、戦争起ると、甲種の人、すぐ出征するんだね」
「まあな……」
「嫌だねえ……、戦争なんぞ起らんといい」
「お前、今でも岡本とつき合ってるのか」
「うん……、ここんとこお互に忙しいんで、ちょっと御無沙汰《ごぶさた》してるけどね」
「お前もそろそろ嫁に行かなきゃならん年齢だからな、あまり、変な評判立てられんように気をつけろよ」
「わかってるよ、そんなこといちいち言われんでも……」
千枝は面倒くさそうに言って立ちあがった。
「なにさ、あんな万年|釜《かま》たき……」
「そのうち機関手になるさ」
「いつのことか知れんよ、釜たきになるのだって何年かかったか知れやせんもの」
「お前、嫌いか、あいつ……」
「別に嫌いじゃないけど……」
「嫌いじゃないけど、どうなんだ、結婚する気はあるのか……?」
「誰と?」
「岡本とさ」
すると、千枝は声をあげて笑いだした。
「やだあ、兄ちゃん……あんまり変なこといわんでよ……」
「なんで……」
「それだって……つまらんよ、あんな奴……」
千枝はまだ笑っていた。
しかし、岡本良平が明日徴兵検査に発つという日、千枝は良平の家を訪ねた。
良平は前掛をかけ、夕餉《ゆうげ》の仕度をしていた。
「やあ、千枝ちゃんでねえか……」
良平はあわてて前掛をとった。
「まあ、上れや」
「お父さんは?」
「最終列車が出んと戻らん」
「へえ、保線て、いつもそんなに遅いの」
「いいや、うちの爺《じい》さまだけじゃ、休みもめったにとらんしのう」
「ふうん……」
「ちょうど飯の支度してたとこだ、どうだ、千枝ちゃんも一緒に食ってかんか、いつも一人でつまらん思いしてるんだ」
「そうね、食べてもいいよ……私、手伝ってあげるよ」
千枝は良平のとった前掛をして、気安く上へあがりこんだ。
「あれ、こんなところにお裁縫がしかけてあるよ……」
畳の上に、縫いかけの袷《あわせ》が放り出してある。
「これ、あんたが縫ったの?」
「うんだ、うちは女っ気がねえもんだで……」
「ふうん、まめしいねえ」
千枝はすっかり感心した。
「料理だって出来るし、あんた、これじゃったら嫁さんいらんね」
「そったらことねえ、嫁さんはやっぱり貰わねえといかんね」
良平は真面目な顔になった。
その顔を見て、千枝はちょっと満足そうだった。
「そんなら、あんた、どんな嫁さん貰いたい?」
「そりゃ……」
良平はちらと千枝を見た。
「めんこい嫁さんがいいよ」
「めんこい嫁さん……」
千枝はますます機嫌がいい。
「でも、あんた、どこかに好きな女の人いるの?」
「そったらこと知らんね」
「知らんことないでしょう、自分のことじゃないの……、いたんでしょう、好きな人」
「そりゃ……居る」
「えっ、居ったの……?」
千枝は驚いて良平を見た。
彼女はこの際、良平の過去をのこらず聴いておくべきだと考えたのだ。しかし、良平のことだから、まさか、そんな気のきいたことの出来る筈《はず》はないと多寡《たか》を括《くく》っていた。だから、彼が過去に女が存在したと言ったとき、自分の耳をうたぐった。
「ほんとに……?」
「はあ……居る」
良平は苦笑した。
「ふーん、居るの……、めんこい人?」
「はあ、めんこいね」
「美人……?」
「はあ、美人じゃ」
良平はさばさばした顔をしている。
千枝は次第に呼吸がせわしくなるのを感じた。
「そいで、あんた、今でもつき合っとるの」
「はあ、つき合っとる」
「長いこと……?」
「はあ、かなりになるねえ」
「そんなら、さっさと結婚したらええのに……」
「はあ……実は、俺もそう思っとるね……」
さすがに、それだけは小さな声で言った。
千枝は眼の前が暗くなるような気がした。
「さあ、千枝ちゃん、食ってけれ……」
良平がごしょいもの煮たのを、ドンブリに山盛りにして持って来た。
「もう、いらん……」
千枝は立ち上った。
「そったらこと言って……千枝ちゃん、ごしょいも好きだって言ったでねえの」
「いらん」
「千枝ちゃん……」
「いらんいうたら、いらん」
「千枝ちゃん……」
良平がいまにも泣きだしそうな表情をした。
「良平さんの馬鹿、意地悪……あんたなんか嫌い……」
千枝は前掛をとって、良平に投げつけた。
「お前なんか、熊に食われて死んじまえ」
そのまま外へとび出して行った。
「あっ、千枝ちゃん……」
あとを追おうとして、良平は汁の鍋《なべ》をけとばした。
「なんたらことだべ……、さっぱりことわかんねえ……」
良平は首をかしげて、考え込んだ。
31
車掌という職業は、いつも乗客という人間を相手にせねばならぬ。
月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり、とは芭蕉の奥の細道の冒頭の名文だが、毎日毎日の列車の中にも、様々な人生の喜劇、悲劇のあることを、車掌になって、はじめて雄一郎は思い知った。
病人の世話から酔っ払いの世話、はては子供のおしっこの世話までする。
その日は朝から遺骨の忘れ物があり、くさっていると、長万部からの戻りの列車内で派手な夫婦|喧嘩《げんか》がはじまってしまった。
夫の方は小樽あたりの商人らしく、一見して芸者と判る女と一緒であった。弁当を女に食べさせてやったり、検札のときなど、別れるのがつらいから、定山渓《じようざんけい》でもう一泊しようなどと調子のいいことを言っていたが、どこから乗りこんだものか、本妻がやって来て、雄一郎の眼の前で男に武者振りついた。芸者があわてて逃げようとするのを、髪をつかんで引き戻す。男は女房を押えようとして逆に引っ掻《か》かれる。それこそ三つ巴《どもえ》の大乱闘となってしまった。
この場合、車掌の職責上、喧嘩を制止せねば他の乗客たちの迷惑となる。どうやらこうやら双方をわけたときは、雄一郎の顔は一面引っ掻き傷のミミズ腫《ば》れだらけとなっていた。
やっと乗務を終り、その顔で雄一郎が札幌駅のホームを歩いてくると、ばったり三千代に出逢った。
「やあ……」
「室伏さん……」
二人は複雑な表情で、互に顔をみつめ合った。
三千代が東京へ嫁入るため乗って行った列車を見送ってから、はたして何年になるだろう……。三千代がこちらへ帰ってきている事情を、雄一郎はうすうす聞いて知っていた。
「御主人、入院されとるそうですね……」
雄一郎は、三千代が仕合せでないことが気の毒でたまらなかった。
「まだ、癒《なお》らないのですか」
「ええ……」
三千代は寂しそうに眼を伏せた。
「悪い妻でしょう、病気の主人の看病もしないで……」
「三千代さん……」
雄一郎は言葉をうしなった。
「ご結婚なさったんですってね……」
急に調子を変えて、明るく言った。
「ごめんなさい、お祝を申し上げるのがあとになってしまって……」
「いや……」
雄一郎は苦笑した。
「僕だって、三千代さんの結婚のお祝まだ言っていませんよ」
「そんな……お祝を言っていただくような結婚じゃなかったんです……」
三千代の顔が曇った。
「三千代さん……」
「馬鹿な女だと思って、軽蔑《けいべつ》していらっしゃるでしょう、私のこと……」
「どうしてですか、軽蔑するにもなにも、僕はあなたのこと、なにも知っちゃあいませんよ」
「そうでしたわね……」
三千代はちょっと、おくれ毛を気にした。
「私って、いつもあなたに話したいと思うことを胸一杯もっているくせに……、いつも、あなたから逃げ出してしまって……」
列車従事員詰所から大西が顔を出して、雄一郎を呼んだ。
「おーい、室伏、時間だぞ……」
「じゃあ……点呼がありますから……」
雄一郎は鉄道式の敬礼をした。
「ごめんなさい、休息なさる時間を……くだらないお喋《しやべ》りしてしまって……」
「いや……、駅長お元気ですか?」
「もう駅長じゃありませんわ、毎日釣りばかりしています」
「このところ忙しくて、すっかりごぶさたしていますが、そのうちきっとうかがいます」
「どうぞ、お待ちしていますわ」
大西が再び雄一郎を呼んだ。
「じゃあ……」
「さようなら……」
雄一郎は歩きだした。
しかし、五、六歩行ったところで、
「室伏さん……」
三千代に呼びとめられた。
「はあ……?」
「私……、お話したいんです……」
すがりつくような眼の色だった。
「きいて頂きたいんです、なにもかも……、今度のお休みいつです?」
「あさってです」
「それじゃ、あさって……小樽へ行きます」
「…………」
「ね、室伏さん……。あさっての午後一時、いつかのうなぎ屋で……」
「あさって、一時、うなぎ屋ですね……」
声に出して繰返してから、雄一郎は詰所へ向って走りだした。
三千代がいつまでも自分を見送っているのを、彼は背中に感じていた。
(三千代さんが何を話すというんだろう……)
雄一郎は今みた三千代の顔を思い出していた。
(しばらく見ないうちに、すっかり変ってしまった……。あんなにふくよかだった頬《ほお》が、すっかり面窶《おもやつ》れして……、やっぱり仕合せではなかったんだ、あの人は……)
彼は、いつまでもそのことにこだわった。
その休日に、三千代と小樽の町で逢う約束をしたことを、雄一郎はなんとなく有里へ話しそびれた。
別に強いて隠さなければならない理由はないはずだった。
南部駅長の孫娘に当る彼女を、有里は知っている。知らないのは、自分と結婚する以前に、夫が三千代に好意を持っていたということだった。
そして、別にやましいことはないと思いながら、有里に内緒で三千代に逢うことに、雄一郎はやっぱり気がとがめていた。
世間一般の男性がよくそうであるように、雄一郎もまた、その日の朝は、有里にたいして無意識にやさしく振舞っていた。
小樽に用事があると言っておきながら、いつまでたっても出掛けようとしない夫に、有里は逆に気を揉《も》んでいた。
「あなた、ぼつぼつお仕度をなさらないと……」
「ああ、そうだな……」
有里が桶《おけ》を持っているのを見つけると、
「なんだ、水くみか、俺がやってやるよ」
などと珍しいことを言う。
「いいえ、毎日のことですもの……」
「いや、うちに居るときくらい、俺がやるよ」
「でも、遅うなるわ」
「なあに、まだ平気だよ……」
雄一郎は無理に有里の手から桶を取って、井戸の方へ出て行った。
(変ねえ、いつもと様子が違う……)
そうは思ったが、有里もまさか、雄一郎が初恋の女に逢いに行くなどとは夢にも思わなかった。
雄一郎は時間が気にならないわけではなかった。
有里のいうように、暢気《のんき》に水汲《く》みなどしている場合ではないと思う。けれど、何も知らない有里に、早く行かないと時間に遅れるなどと言われると、どういうわけかいそいで出掛ける気になれなかった。
風呂桶に水を汲み込み、台所の瓶《かめ》を一杯にしてから、ようやく雄一郎は仕度をする気になった。
一汗かいた顔を、井戸端で洗っていると、
「おい、雄一郎君……」
聞きおぼえのある声で、名前を呼ばれた。
「はあ……?」
濡《ぬ》れたまんまの顔をあげた。
「久しぶりだねえ」
伊東栄吉だった。
伊東が東京へ去ったのは、たしか震災より一、二年前の年だったから、おそらく五、六年ぶりの北海道なのではないだろうか。雄一郎が東京で彼に逢ってからでさえ、すでに三年が経過している。
伊東はひどくなつかしそうだった。
彼はすっかり立派になり、高等官の服装を着ていた。
「伊東さん……」
しかし、伊東を迎える雄一郎の気持はかなり微妙だった。
雄一郎には、この前東京で伊東に逢った時のことが、まだ胸の底に、固いしこりとなって残っていた。
32
伊東栄吉は雄一郎の姉のはる子の幼友達であった。
雄一郎と同じように、塩谷駅の駅夫から始って、小樽駅に勤務している時、東京から視察に来た鉄道省の尾形清隆に認められて、東京へ転任した。
その後、中央の教習所を卒業して、東鉄管内に勤務中、一度、雄一郎も尾形邸を訪ねて逢ったことがある。
その折、上野駅で再会を約したのだが、雄一郎の列車が発車するまで、遂に伊東は姿を現さなかった。
「あのときは本当にすまなかった……」
伊東も、まずそのことを口にした。
「東鉄管内に小さな事故があってね……、とうとう発車時刻にまにあわなかったんだ、手紙に書いたから知ってはいるだろうが……」
「えっ、手紙……」
雄一郎は眼を瞠《みは》った。
「うん、もっとちょくちょく書かんならんとは思うとっても、つい筆不精になってしまって……姉さん、元気かね……」
ちらと家の中を気にした。
「はあ……」
雄一郎は曖昧《あいまい》な応えかたしか出来なかった。
(これはいったい、どういうことなのだろう……、伊東は手紙を出したというが、そんな手紙はこちらでは受取っていない。また、伊東からはる子へ宛た手紙も、ここ数年間ただの一通も来ていない……)
雄一郎は、探るような眼を伊東に向けた。
伊東は別に冗談を言っている様子もない。
「さっぱりはるちゃんから返事も来んし、どこかへ嫁に行ったかと思ったりしたんだが……はるちゃん、結婚したの……?」
「いや……、しません……」
「そうか……まだ独りで……そうだったのか……」
伊東はほっとしたように言った。
「今日、留守……?」
「いや、あの、いつかそのことは手紙で知らせたと思いますが……」
「何を……いつ……?」
「もう、だいぶ前になりますけどね、姉さん、いま横浜へ行ってるんです。もうかれこれ一年以上になりますねえ」
「そのこと、手紙で僕に知らせてくれたのかね」
「ええ……」
「君が?」
「そうです」
矢つぎばやに質問してから、伊東は首をかしげた。
「おかしいなあ……僕はそんな手紙受取っていないんだ……」
それから、はっとしたように雄一郎を見た。
「それじゃ、僕が今年はるちゃんに出した手紙は横浜のほうへ回してくれたのかい」
「姉さんに手紙……いつですか?」
雄一郎にとっては、まったく思いもかけないことだった。
伊東が手紙さえ寄越してくれていたら、はる子は勿論、雄一郎にしたところでこんなに心配することはなかったのだ。
「いったい、いつ出したんです?」
「いつって……時々、少なくとも二た月に一度くらいは書いた筈《はず》だが……」
「この家あてですか」
「ああ……」
「来ていませんよ、一通も……とにかく家へ入りましょう、こんな所じゃ落着いて話もできません」
雄一郎は伊東を家の中へ誘った。
伊東の言うのは嘘《うそ》ではないらしく、彼は雄一郎が結婚したこともまだ知らなかった。このことも、雄一郎は手紙で知らせてやったのだ。
伊東は初い初いしい有里の新妻ぶりに、ただ眼を瞠《みは》るばかりだった。
「ちっとも知らなかった……、僕は返事も来んし、変だ変だとは思っとったんだが……」
「お前、受けとっとらんだろうな、伊東さんから姉さんへあてた手紙……」
「いいえ……」
雄一郎は有里の返事を聞いてから伊東を見た。
「第一、僕が東京で伊東さんと逢ってから、一度も手紙もらっていませんよ。あんまり手紙が来ないんで、姉も僕も、正直なはなし……伊東さん、もう僕らのこと忘れたのかと思っとったんですよ」
「忘れる?」
伊東は眼をむいた。
「僕がはるちゃんや君たちのことを忘れたって……?」
「……姉は、そう思っとったようです……」
「馬鹿な……、そんな馬鹿な……」
伊東は腹立たしそうに言った。
「僕は、はるちゃんから一度も返事が来んし……、はるちゃんこそ僕のことを忘れたか、わざと避けているんだろうと思うとったんだ……、そうか、そうだったのか……」
伊東はじっと考え込んだ。
「しかし、伊東さん、どうして手紙がつかなかったんでしょうね……、こっちへつかないばかりでなく、僕の出した手紙も伊東さんのほうへついとらんし……」
「うん……」
突然、伊東が顔を上げた。
「そうか……」
「どうしたんです、伊東さん……」
「そうだろう……、たぶん、そうとしか考えられん……」
「何がですか?」
「いや、手紙が届かなかったことで、ちょっと思い当ることがあるんだが……とにかく、今それを云々してもはじまらん。それより、その横浜のはるちゃんの住所を教えてくれないか」
「ええ……伊東さん、今度は長くこっちに居られるんですか」
「いや……、実は尾形さんの内意を受けて、南部さんにお目にかかりに来たんだ……」
「南部の親父さんに……?」
「尾形さんも、中央でも、南部の親父さんの今度の退職を非常に惜しんどられる……。あのかたは、まだまだ鉄道のために働いてもらわにゃならんお人だ、是非とも鉄道に関係のある仕事に戻っていただこうと思ってな……」
「そうですか……」
雄一郎は急に晴れ晴れとした気持になって、伊東をみつめた。
「ほんとに南部の親父さんはあのまま置いておっては惜しい人です、是非、そうなるよう伊東さんからも尾形さんにお願いしてください」
「いや、尾形さんのほうは問題ないんだ。なにしろ自分から言い出されたことなんだから……、一番問題なのは親父さんがうんと言うかどうかだ……」
「なにしろ、頑固ですからね……」
その時、ふと雄一郎は三千代との約束を思い出した。
「真直ぐ親父さんのところへ行かれますか」
「うん……」
「では、小樽まで一緒に行きましょう……。僕も小樽に用事があるんです」
「そうか、それはちょうどよかった……」
有里が気をきかして、はる子の住所を写して持って来た。
「や、これはどうも……」
伊東は機嫌よく立ちあがった。
「やっぱり、ここへ来てみてよかったよ。このぶんなら、きっと南部の親父さんとこもうまく行きそうだな……」
嬉《うれ》しそうに、声を出して笑った。
鉄道をやめてから、南部斉五郎は札幌の郊外に小さな家を借りて、悠々自適の生活を送っていた。
伊東栄吉が訪ねたとき、南部斉五郎は庭で唐手《からて》の稽古《けいこ》をしていた。これは、彼が若かった頃病弱だったので、自分で自分を錬《きた》えなおそうと思い、始めたことだった。人には言わなかったが、彼はすでに唐手三段の腕前を持っていた。
伊東は、庭の枝折戸《しおりど》の方から入った。
「駅長……」
思わず、以前の習慣が口をついて出た。
「なんだ……、お前か……」
久しぶりの息子の帰宅を迎える親のような顔を、南部斉五郎はした。
「ふん……」
軽く鼻を鳴らしただけだが、そのくせ、伊東の立派になった姿にすっかり眼を細めている。
「玄関で声をかけたんですが、どなたもお出にならないようなので、こちらへ回って来たんです」
「ああ、婆《ばあ》さんの奴《やつ》、又、近所へお喋《しやべ》りに出かけたんだろう」
「お久しぶりです」
伊東は改めて、きびきびした動作で腰を折った。
「ああ……、東京ではなかなかやっとるそうじゃないか、風のたよりに聞いておるよ」
「しかし、駅長は相変らずお元気ですね……五年前とちっともお変りになって居られません……」
伊東は正直に感想を述べた。
「こいつ、世辞をいうな……、第一、俺はもう駅長じゃない……」
「は、実はそのことで、尾形さんが私に北海道へ行って来いと……」
「そうか……、実は俺のほうもお前に聴いてみたいことがあったんだ。ま、上れ……」
「はっ……」
伊東は懐しそうに部屋へあがった。
北海道に居たころと家はまるで違っているが、置かれている調度などは、すっかり元のままだった。また、家というものは、そこへ住む人によって、その人特有の体臭がしみ込むものらしく、この家にも南部斉五郎独特の飄々《ひようひよう》とした雰囲気がただよっていた。
南部は自分で茶をいれて、伊東にすすめた。
「嫁さんは貰ったか……、そうそう、おっ母さん、歿《な》くなったそうだな」
南部は表情をあらためた。
「はあ……昨年の暮でした。風邪をこじらしたのがもとで……、あっけないくらいでした……」
「そうか……」
南部は眼をつぶった。
「しかし、まあ、お前がそれだけになったのを見届けてじゃから……、おっ母さんもまあまあ安心して逝《ゆ》かれたじゃろう……」
「孫の顔を見んで死ぬのが残念じゃったと……申しておりましたけれど……」
「うむ……」
南部は顎《あご》を引いた。
「ところで、いつだったか、尾形君がお前を娘の婿《むこ》にと思うがどうじゃろうと内々言うて来たことがある……、俺はそのとき思う所あって、なんとも答えてやらなんだが……、お前そのこと知っとったか……」
「はあ……」
伊東が俯《うつむ》いた。
「うすうすではありますが……」
「尾形君の所は一人娘だ……、ま、出来ればお前を養子にと考えて居るんじゃろう……、だが、お前はどうなんじゃ?」
「…………」
「こら、黙っとっては判らんぞ」
「実は……」
伊東が顔をあげた。
「そのことは、うすうす尾形さんからも奥さんからもうかがっております……。しかし、自分としてはお断りするつもりで居るんであります」
「なに、断る……?」
「はあ、自分のような者を、それほどまでにおっしゃって下さるご好意は大変に有難いと思うのであります。又、これまで尾形さんから受けたご恩を思うと……、まことに相済まないと思うのでありますが……」
「馬鹿……恩は恩、これはこれだ……、義理で結婚する奴があるか……、断りたけりゃ断ればいい」
「はあ……」
「それで、なにか……娘が気に入らんのか?」
南部は相好をくずしながら聴いた。彼は伊東の答えが満足だった。断る理由は判らぬまでも、
(こいつ、なかなかしっかりしてきよったわい……)
その反骨がぞくぞくするほど嬉しかった。
「一人娘だから我儘《わがまま》なんじゃろう」
「いや、違います。実は……、その……駅長の前ですが……」
伊東は言いにくそうに、首のうしろに手をやった。
「その……心に定めた女があるんであります」
「夫婦約束しとるのか?」
南部はますます相好をくずした。
「いや、そうではありませんが……、女房にするなら……と、きめとったんであります」
「うん」
大きく頷《うなず》いた。
「どこの女だ……」
「はあ……」
「遠慮するな、言うてみい」
「はあ……、それが……」
「雄一郎の姉さんか?」
南部はずばりと言った。
「駅長……」
伊東が眼を瞠《みは》った。
「御存知でありましたか……」
「あっはっは……当ったな」
南部は声をあげて笑った。
「よしよし、結構結構……、いや、実をいうと、お前と雄一郎の姉さんとが恋仲じゃっちゅう話を前から耳にしていたし、そこへ尾形君から養子の話があったんで、内心すこし心配しとったんじゃ、お前がどっちを選ぶかとな……。しかし、勘違いしてはいかんよ、俺はなにも貧乏人の娘を捨てて、金持の娘の婿になるなんぞという、月並な観念でみとったわけじゃない……。ただな、人間の心は常に不動のもんじゃない、お前がはる子さんを好きであってもだ、月日が経って、はる子さんより尾形君の娘のほうに好意を持つということもある、が、それはそれでいいんだ……」
「お言葉ではありますが……」
伊東は坐り直した。
「自分は頑固ものでありますから、一度|惚《ほ》れたら、一生惚れ抜きます……。心が変るなんていうことは、絶対にないんであります」
「そうか、そうか……」
南部は何度も頷いた。
「その一言、横浜に居るはる子さんにきかせてやりたかった……。ありゃアいい娘だ、尾形君の娘も別嬪《べつぴん》か知らんが、はる子さんは外側も内側も、ずば抜けて上出来の女だ。……ああいう女は仕合せにしてやらにゃあいかん」
「尾形さんが北海道へ行って来いといわれたのを幸い、自分としては、はるちゃんの気持を確めに……、今度はなにがなんでも、嫁に貰うつもりで来たのであります」
「なんだ、じゃあお前、はる子さんが横浜へ行ったことを知らなかったのか」
「はあ……、実はそうなんであります」
「手紙のやりとりもしとらんかったのか」
「それが……、今度来て初めてわかったのでありますが、自分の出した手紙が全部はるちゃんの手許に届いとらんのであります」
「なに……?」
「はるちゃんや雄一郎君からの手紙も、自分の手には届いとりません……」
「出した手紙が、お互の手許に届いとらん……」
「そうであります」
「ふむ……」
南部はちょっと首をかしげた。
が、すぐに頬《ほお》に笑いが浮かんだ。
「お前、今でも尾形君の家の離れに厄介になっておるのか」
「はあ……、何度も鉄道の寮へ替ろうとしたんですが……」
「この色男!」
南部は伊東をにらんだ。
「はあ?」
「尾形君の娘か、細君か……、手紙の消えちまった理由はそのあたりだな……」
「はあ、自分もたぶんそのあたりだろうと……。しかし駅長、自分は決心しました、今度帰ったら横浜へはるちゃんを訪ね、その上で尾形さんになにもかも打ちあけて話そうと思っとります……」
「よかろう……。尾形君も苦労人だ、いくら可愛い娘のことでも、それくらいの区別《けじめ》はつけるだろう。伊東、当って砕けろ」
「はい!」
伊東は洋服の内ポケットから、一通の分厚い封書を出して、南部の前に差し出した。
「肝心の用件があとになりました。尾形さんからのお手紙です……。それから、尾形さんはじめ、東鉄の方々の多くは、南部さんに東京へ帰ってもらいたいと強く希望されております」
「俺は、鉄道を止めたんだよ……」
「たとえ鉄道は辞職されましても、他に方法はあります。くわしくは、どうかその手紙をお読み下さい……お願いします」
「うん……」
伊東の熱意に気圧《けお》された恰好《かつこう》で、南部斉五郎は思わず苦笑した。
33
雄一郎との約束の時刻より多少早目に、三千代はうなぎ屋の暖簾《のれん》をくぐった。
女中に案内されて二階へ上る。
(ほんとに何年ぶりかしら……)
三千代は懐しさに胸が熱くなった。
なにもかも昔のままである。
古びたうなぎ屋の二階の部屋は、古びたままに、そっくり元のままだった。
小樽の町も、丘も、空も……、なにもかも昔のままなのに……、自分一人だけが変ってしまった。
三千代には、それが悲しかった。
三千代は花巻の家へ嫁ぐ前、はじめてこの部屋で雄一郎と逢った晩のことを思い出した。
二人の間に愛の芽生えがあることに気づき、また、三千代が花巻利夫の妻になることを好んでいないと知った南部斉五郎の、いかにも苦労人らしい配慮からだった。
しかし、三千代が部屋の襖《ふすま》を開けると、雄一郎は座布団を枕にして、大の字になって眠っていた。
南部の粋なはからいも、並はずれて背も高く、でっかい体をしているくせに、恋には初心《うぶ》な雄一郎には通用しなかった。
雄一郎は、あとから三千代が来るともしらず、南部がちらと漏《も》らした三千代の結婚話で、もはや目がくらむような絶望と悲哀のどん底に叩き落されたような気がした。
たいして飲めない酒をコップであおったため、前後不覚に寝込んでしまったのだった。
雄一郎がいつまでたっても目を覚まさないので、三千代は雄一郎の胸に、そっと自分の羽織をかけて家へ帰った。
港から、出船の汽笛が聞えていた。
雄一郎はまだ現れない。
三千代はそっと出窓の障子をあけてみた。
霧がたちこめて、小樽の町は墨絵のようにかすんでいた。
三千代が二階へ上って間もなく、この家の階下へ千枝と良平が這入《はい》って来た。
一番奥まった、あまり人目に立たない場所をえらんで席をとった。
「ほんとによかったね、大きな声じゃいえんけど……くじに落ちたなんて、運がよかったよ。甲種合格と聞いたときはほんとにどうなることかと思っちゃったんだ……」
「うんだ、知らせ持って来た役場さ人も、なんとなくにやにやしてたよ。残念じゃったのう、だと……」
「お腹ん中は誰だって同んなしだよ……」
「兵隊さ行くのはちっとも嫌でねえだども、機関車さ乗れなくなるのと、お父つあんが心配だでのう……それに、ぼつぼつ嫁さんさ貰わねえといけねえしなあ……」
「え、貰うの、嫁さん……?」
「はあ、貰えたら貰いたいでなあ、どうやら試験も受かったこんだし……」
「…………」
千枝が寂しそうな顔をしたのに、良平は気づかなかった。
「あのなあ……この家の二階なあ……」
良平が照れくさそうに、口ごもった。
「いっぺん、千枝ちゃんとここの二階でうなぎ食いてえべさ……」
「二階と下と、うなぎの味が違うのかい」
「そうでねえよ……」
良平はちらと千枝の顔色をうかがった。
「あのな……千枝ちゃん、怒らねえかな」
「なんで、あたいが怒るのよ」
千枝は良平をにらみつけた。
「ほ、ほれほれ……」
「怒らんよ、怒らんから言ってみな……」
「この家の二階なあ……ほんとは好き合ってるもん同士が飯くいに来るんだと……」
「うん……?」
千枝はまじまじと良平を見た。
それから、ぽっと赤くなった。
「やーだ、そんだらこと……」
「そんだって、仕方なかんべ、好きだもんな……」
「やーだ、良平さんたら、こんだら所で……おお、恥かしい……」
千枝は着物の袖《そで》で顔をおおった。
註文のうなぎ丼《どんぶり》がきても、千枝は箸《はし》をとらなかった。
「ほんとに良平さん。千枝のこと好き……?」
「ああ、好きだ」
「いつから……」
「いつって……そうだね、売店で逢うてからだべ」
「アンパン買いに来たころだね」
「ンだ……」
「だったら、なんでもうちっと早く言わんの……」
「そったらこと、気まり悪くて言えっか……」
「千枝のこと、めんこいと思っとる……?」
「ああ、思っとる」
「……どんなところが好き?」
「どんなところちゅうて……みんな、ええよ」
「お嫁に欲しいんだね」
「ンだ、欲しいよ」
「お嫁に行ったら大事にしてくれる?」
「そら大事にするって……床の間さ置いて、おがんでやってもええ……」
「またそんな、冗談ばっかし……」
「とにかく、俺は今日でも明日でもええけど……」
「はんかくさ……まだあんたのお父さんやうちの兄ちゃんや、姉ちゃんにも許してもらわないかんし……、それに、女にはいろいろ仕度もあるのよ、猫の子が貰われて行くのとは違うんだから……」
「そりゃ、そうだべ……、けど、早けりゃ早いほどええでね……。長いこと辛抱《しんぼう》しとったが、好きじゃちゅうて打明けてしまったら、胸がすっとして……なんたら、こう、あずましい気分だべ……」
良平は嬉《うれ》しくてたまらないといった顔をした。
ちょうどその時、良平は背中を向けていて見えなかったが、三千代との約束の時刻に遅れた雄一郎が汗をふきふきとびこんできた。
「あれッ……」
千枝が目を瞠《みは》った。
「なんだべ……」
良平もうしろをふりかえって、雄一郎を認めると不安そうな色をうかべた。
「まずいかな、こんなとこ見られて……」
だが、雄一郎は二人に気づかなかった。
「連れの者が先に来てると思うが……」
「はい、室伏さんですかね……」
「そうだ……」
「さっきから、お待ちでいらっしゃいますよ」
そんな、女中とのやりとりが聞えた。
「兄ちゃん、誰と待合せだろう」
「二階で鉄道の寄合でもあるんでねえのか」
「だって、この家の二階、惚れ合ってるもん同士が来るとこだって言ったじゃないか」
「そんでも、まあ、男同士ってこともあるだべさ」
「あんた、兄ちゃんのことかばってるんだね……、男の人って、浮気するときお互にかばいっこするっていうけど、あんたもいまに浮気するとき兄ちゃんにかばってもらおうと思って……、そいで兄ちゃんにゴマすってるんだね……」
「ちがうよ、千枝ちゃん……、そったらこと、今から考えとりゃせんてば……」
「わかるもんか……」
「しようがねえ千枝ちゃんだなあ……」
「ちょっと二階さ見てこようかな」
「や、やめれってば……」
「だって、相手が男なら、構わんでないの」
「そんでも、はあ、そったらことよしなよ、俺たちがそんなことされたら嫌だべさ」
「だども……」
千枝はそっと二階を見上げた。
しかし、千枝が心配するほどのことは、なにもなかった。
うなぎ屋の二階で三千代と雄一郎が語り合ったのは、ほんの一時間ばかり、それも、話題は主に退職中の南部斉五郎のことだった。
三千代は雄一郎の家庭についての話題を避け、雄一郎も三千代の結婚後のことには触れようとしなかった。
お互に聴きたいようで、聴きたくないような複雑な気持のまま、二人は次の雄一郎の休みに小樽でもう一度逢う約束をして別れた。
千枝と良平は、三千代の顔を見なかった。そうすることが、人間同士の大切な礼儀のように思われたからだ。
千枝も良平も、なんだか自分たちが急に一人前の人間になったような気がしていた。
その夜、二人は嬉しさのあまり、すこしいつもの破目をはずすことにした。
良平の教習所のある札幌へ行き、活動写真を観てもう一軒、つぶ焼きの店へ這入った。
「さて、ぼつぼつ行かんと、塩谷へ帰る列車、出てしまうで……」
「まだ、平気よ……」
千枝はつぶを食べながら言った。
「そんでも、乗りおくれるといかんで……」
「あんた、そんなに千枝のこと早く帰したいの?」
「そったらこと、ねえが……」
良平は残った酒を手酌でついだ。
「あたいにも、お酒ちょうだい……」
「千枝ちゃん、いかんでよ、そんなもん飲んだら……室伏さんに叱られるで……」
「あたい、お酒くらい飲んだことあるよ……」
「そいでもなあ……もう、時間だで……」
そういう間にも、千枝は二つ三つ盃《さかずき》を重ねた。
「おばさん、つぶ焼きちょうだい」
「千枝ちゃん……」
「お金なら、あたい持っとるよ」
「弱ったなあ……」
「だって……」
千枝が急にしょんぼりした。
「今夜、わかれると……、当分逢えないんだもん……」
「ンだなあ……」
良平も肩をおとした。
34
はじめて良平と札幌ですごした休みの一日を、千枝は少々楽しみすぎていた。
ようやく互の気持を確め合った嬉しさもあったし、いつもの小樽の町でなく、たとえ汽車で一時間足らずとはいえ、家から離れた土地へ来ているという解放感も手伝ったかもしれない。
千枝は陽気に酔っ払った。
そんな千枝に気を遣っているうちに、良平も無理にころして飲んでいた酔いが急に上って来てしまった。
「おいしいね……」
「うん……、うまいね、千枝ちゃん……」
二人は子供のように単純になり、二人だけの世界を楽しんだ。
「あたい、良平さん、大好きだよ……」
「俺だって、千枝ちゃんが大好きだべさ」
「はい、お酌……」
「へえ、へえ、ありがと……」
二人の頭の中には、最終列車の時刻のことも、家で心配している家族のことも、あとかたもなく消え去っていた。
二人は遂に最終列車に乗り遅れた。
「あの馬鹿、今頃までなにしてるんだ……」
雄一郎は心配のあまり、家を出たり這入《はい》ったりしていた。
「あなた、やっぱり何かあったんでしょうか……」
有里もおろおろと土間へ出て来た。
「お腹がいたくなったとか……道に迷ったとか……」
「馬鹿、子供じゃないんだ、朝から出掛けて……いったい今、何時だと思う……」
「すみません、もうすこし行先をよく聴いておけばよかったんです……、私がぼんやりしていて……」
「お前があやまったって仕様がない……」
「でも……」
「列車が遅れることはないと思うが、俺、ちょっと駅まで行ってくる」
雄一郎は言い捨てると、たちまち闇《やみ》の中へ消えた。
独りになると、有里は俄《にわか》に落着かなくなった。
雄一郎が居るあいだは、彼に話しかけることによって、多少とも気が紛《まぎ》れたのだが、独りで考えることといったら、すべて千枝に関する不吉な場面ばかりであった。
お金を落したのなら、駅で雄一郎の名前を言えば貸してくれる。病気や怪我なら病院から連絡があるはずだ。何かの原因で意識を失っているか、それとも誰かに監禁でもされていない限り、今頃まで、家に何んの音沙汰《おとさた》もないというのは変だった。
一時間ほどして、雄一郎が一人で戻って来た。
「あなた、千枝さんは……?」
「…………」
雄一郎は首を振った。
炉端《ろばた》に坐って、溜息《ためいき》をついた。
「あなた、千枝さんのこと何もわからなかったんですか」
「駅で、札幌の教習所の寮に電話してみたんだ……岡本良平がいるかどうか……」
「岡本良平さん……?」
有里は、はっと思い出した。
そういえば、近頃、千枝と良平についてとかくの噂《うわさ》を耳にしたことがある。
売店の小母さんなどは、先日、わざわざそのことで家まで注意しに来てくれたほどだ。
「それで、どうだったんです?」
「岡本もまだ寮へ帰っとらんそうだ……」
「でも、まさかあの二人が……きっと偶然です……」
「偶然かも知れん……そうでないかもしれん……」
「いったい、どこに居るんでしょう……千枝さん……」
雄一郎は腕を組んで考えこんだ。
一刻も早く千枝を探したいのは山々だが、彼女の居場所が知れなくては、探しに出ることも出来なかった。
奥の間で奈津子が泣いたので、有里はいそいで奈津子を寝かしつけに奥へ這入った。
どのくらい時間が経っただろうか……。
奈津子が寝ついて、ほっとしたとき、表戸を叩《たた》く物音がした。
「はい、いま開けます……」
雄一郎が緊張した声で言い、戸を開けに立った。
やがて、表戸の軋《きし》む音と共に、男の声で、
「たった今、駅へ札幌から電話連絡が入った……」
報告するのが聞えた。
「岡本良平からじゃったが……」
声の主は、どうやら塩谷の駅の佐藤らしかった。
「千枝も一緒か……?」
「ンだ、お前が心配するといかんで、なんとか連絡してくれということだった……」
「あいつら、今、どこに居るんだ」
「それが……札幌の警察署からだ……」
「なに、警察……」
「なんでも、札幌で二人ともすっかり酔っ払ってしまい、川っぷちに寝とったところを巡査に見つかったらしいんだ……千枝ちゃんがどうやら商売女と間違われたかして、だいぶ面倒なことになっとるらしい……」
「千枝が商売女……?」
雄一郎の声が変った。
「千枝の奴がそんな女に間違われたのか……」
有里は、そっと足音をしのばせて、部屋を出た。
「なにしろ、時間が時間だでなあ……とにかくお前、駅から警察へ電話してみたらどうだ、四時になれば一番が通るで、札幌へ迎えに行ってやるにしても、千枝ちゃんの身許だけは、はっきりしておいてやったほうがええぞ……」
「うん……」
雄一郎がちらと時計を眺めて、むずかしい顔をした。
「あなた、今朝の勤務早かったんでしょう」
「何時だ?」
佐藤が聴いた。
「小樽発八時十二分の二十八号列車だ……」
「そりゃまずいな……」
佐藤が顎《あご》をなでた。
「警察へ行ったら、とても八時までには無理だな」
「そうなんだ……」
雄一郎は舌打ちをした。
「まったく、どこまで人に世話をやかせなきゃならんのだ、もう知らんぞ、みんな身から出た錆《さび》だ……警察ですこし反省すればいいんだ……」
「しかしなあ……そういうわけにもゆくまい……」
「あなた……」
有里がすすみ出た。
「私が行きます。あなたが駅から警察へ電話だけしといて下されば、四時の一番で札幌へ行って来ます」
「そうか……じゃ、すまんがそうしてもらうか……」
雄一郎がようやくほっとしたように言った。
だが、その頃、札幌郊外にある南部斉五郎の家でも、近くの交番の巡査に叩き起されていた。
「実はただいま本署から連絡があって、不審な行動をしとった男女二名を保護したところ、こちらの南部さんの知り合いだと申したそうで、念のため調べにまいったのですが……」
深夜のことなので、巡査も恐縮しながら言った。
「それはどうも御苦労さまでございます」
寝巻の上から羽織をひっかけた節子が応対に出た。
「それでその人たちの名前は何んと申しますのでしょうか……」
「女は室伏千枝、十九歳……」
巡査は手帳を読んだ。
「室伏千枝……まあ、あの子が……」
「やはり、御存知でしたか」
「はあ、よく存じております……。主人が鉄道に居たころ、大変に目をかけておりました者の妹でございますよ……」
節子はちょっと首を傾けた。
「でも、困りましたねえ……、あいにく今夜、主人は旭川《あさひかわ》のほうへ参って留守でございますが……」
「いや、別に御主人でなくとも結構ですが……、つまり警察では、しかるべき人を保証人として身柄をお引き渡し致すわけでして……」
「でもねえ、こんな夜ふけに……」
「おばあさん、あたし、札幌の警察へ行って来ます」
三千代が前にすすみ出た。
「お前ひとりでかい」
「でも、身許を保証するものがないと、千枝さん、いつまでも留置されていなければならないんでしょう。可哀そうだわ、どんなにか心細いでしょうし……」
「それでも、お前、まだ外は真暗だよ」
「仕度して、歩いているうちには明るくなるわ……、お巡りさん、その人、間違いなくうちの知り合いですから、どうかあんまりひどいことをしないように連絡しておいてくださいな」
三千代は身を翻《ひるがえ》すと、奥へ駈《か》け込んで行った。
35
警察に留置された千枝をもらいさげに、有里は夜明けに札幌へ出た。
満一年と少々になる奈津子は、出勤するまで雄一郎が面倒を見て、出勤の時、いつもお守りをたのむ隣りの小母さんに預けることにした。
札幌は夜明けの薄あかりの中に、ぼおっとかすんでいた。
爽《さわ》やかな朝の風が、すっかり青葉になったポプラの梢《こずえ》を吹いている。
その朝の中を、三千代もまた、千枝を案じながら、札幌の警察へいそいでいた。
千枝と良平は、警察の宿直部屋へ入れられていた。
千枝は時々、思い出したように泣きじゃくった。
「まあ、そう泣くな……家から引取りさ来たら、すぐ帰えしてやっから……」
巡査もほとほと手をやいたという顔つきだった。
「なあ、千枝さん、室伏さんには俺からようく謝《あやま》っから……なあ、もう泣くなって……」
「謝ったって、兄ちゃん許してなんかくれないよ……あんたがあんなお酒飲む所なんかへ連れてくから悪いんだよ……」
「すまん、勘弁してけれ……」
良平は千枝の前に両手をついた。
「な、この通り、この通りだで……俺だって、こったらこんになるとは、夢にも思っとらんかったでのう……」
「意地悪、良平の馬鹿、あんたなんか嫌いだよ……」
「そったらこと言わんでよ……な、千枝さん……」
「嫌い……」
千枝は横を向いた。
「だって、昨夜《ゆんべ》は好きだと言うてたでないの……」
「嫌い……」
「千枝さん……」
「こら、ええ加減にせんか」
巡査が見かねて注意した。
ちょうどそこへ、巡査に導かれて三千代がやって来た。
千枝を見つけて駈け寄った。
「千枝さん……」
「三千代さん……」
千枝は三千代の膝《ひざ》に顔をうずめて、おいおい泣きだした。
「もう大丈夫よ……落着いて、ね、千枝さん……」
「室伏千枝に間違いないかね」
巡査が三千代に訊いた。
「はい、間違いございません」
「そうかね……なにしろ、夜ふけに河原でこの男と二人で寝とったで、一応取調べのため連行したんじゃが、あんた、こっちの男も知っとるかね」
「さあ……」
三千代は首をかしげた。
「あれ、南部駅長さんとこのお嬢さんでねえすけ……俺、岡本新平の伜《せがれ》の良平だでよ」
「ああ、新平爺《じい》さんの……」
三千代はようやく良平を思い出した。
「どうしたんですか、いったい……?」
「面目ねえッす……面目ねえッす……つい酒に酔っちまって、河原で川風さ当っていたらいい気持で眠っちまったんす……」
良平はうなだれた。
そこへ又、別の巡査に連れられて、有里がやって来た。
「室伏千枝の姉さんだちゅうこってす……」
巡査が報告した。
「あっ、千枝さん……」
千枝は思わず走り寄った。
「心配したわよ……」
「ごめんなさい……」
千枝は再び泣きだした。
「どうも、妹がお世話をおかけ致しまして……室伏千枝の義姉《あね》でございます」
「いや……、遠方を御苦労さん……」
巡査が敬礼した。
「あの……千枝さんが悪いでねえす……」
良平が突然有里の前へ来て両手をついた。
「俺が、つい酔っちまってよ、時間がさっぱりこと判らなくなっちまって……終列車に乗り遅れちまったべさ。まことに、申しわけねえっす」
「いいえ、こちらこそ、妹がすっかりご迷惑をおかけしてしまいまして……」
「いやあ……すんません……」
「お姉さん、南部駅長さんとこの三千代さんがわざわざ来てくだすったよ」
「まあ……」
「お久しゅうございます」
三千代が叮嚀《ていねい》に頭を下げた。
「私こそごぶさたしておりまして……」
有里も低く腰をかがめた。
「あんまり心細かったから、南部駅長さんのこと思い出して警察に言ったんだよ、それで……」
千枝が、三千代の来たわけを説明した。
「まあ……、本当にとんだ御迷惑をおかけ致しまして申しわけございません……ありがとうございました……」
「いいえ、どういたしまして……」
有里が親しみのこもった微笑を見せたのにたいし、三千代は固い表情で眼をそらせた。
「それでは、私、これで失礼いたします」
三千代は有里を見なかった。
有里と眼が合ったとき、三千代は自分の胸の中が見すかされそうな気がして怖《こわ》かった。
有里に悪意を抱いているのでは、決してない。むしろ、一目で好感を寄せたくらいだ。
しかし、どういうわけか、三千代は有里を見るときの自分が平静でないのに気がついていた。
理由は自分にもよく判らない。
ただ、有里のそばに居ると、なんとなく自分が惨《みじめ》になって仕方がないのだった。
三千代は逃げるように、部屋を出た。
「あ、もし、ちょっと……」
有里の声は聞えたが、三千代は振りかえらなかった。
千枝と良平は、厳重説諭の後、釈放された。
それから四、五日たった頃、雄一郎の家へ、ひょっこり新平爺さんが尋ねて来た。
「岡本良平の親父でごぜえます……このたびは……」
非番で家に居た雄一郎と有里の前に、新平は両手をつき、額を畳にすりつけんばかりにして頭を下げた。
「伜がすまんこってす、ほんとうに、すまんこってす……」
夫婦は顔を見合せた。
「岡本さん、手をあげてください……。先輩のあなたにそんなことをされては、話も出来ません……」
「ほんとに、どうぞお手をおあげ下さい……」
有里も口を添えた。
「へえ……」
頷《うなず》くばかりで、新平は顔をあげようとはしなかった。
「札幌の警察へ行って、話は全部聞いたで……。あんたがた夫婦になんちゅうてお詫《わ》びしてよいか……わしゃ、もう、申しわけのうて、申しわけのうて……。さぞ腹もお立ちじゃろうが、どうか堪忍《かんにん》して下されや……」
「いや、罪は良平君ばかりではありません、千枝も悪いのです……。それは当人もよく分っとりますから……」
「いやいや、千枝さんは何んちゅうても女子《おなご》じゃで……。良平は男じゃ、男が悪いにきまっとります」
「まあ、しかし、大事が小事で済んだんですから……当人たちもこれを機会に大いに反省して、これからあまり無茶な真似はせんようになるでしょう……」
雄一郎はわざと、隣りの部屋で耳をすましているだろう千枝に聞えるように言った。
「ところで、良平君はどうしていますか……?」
「はあ、庭の木に繋《つな》いどります」
「えっ?」
「警察さ行ってみて、黒白がはっきり分りましたで、懲《こ》らしめのため、木に繋いでめえりました……」
「まあ、木に……」
有里が絶句した。
「はあ、あの腐った根性が直るまで、当分木に繋いでおこうと思っとります……」
隣りの部屋で、ガタンとかなりあわてて障子を閉めた音がした。
(ははア……千枝の奴だな……)
すぐ気がついたが、雄一郎は素知らぬ顔で新平に合槌《あいづち》をうっていた。
(千枝の奴、きっと吃驚《びつくり》して良平のところへとんで行ったに違いない……)
雄一郎は思わず浮いてくる笑いを噛《か》み殺すのに苦心した。
「こったらこと、しでかした揚句に、こったらこと言うのは、ゴクゴクしい奴じゃと腹さ立てなさるべえと思うだども、良平は、真実千枝さんが好きじゃと言うとります……。親は馬鹿じゃで、そったらこと聞けば、なんとか慕《おも》いを叶えさせてやりてえで……なあ、室伏さん、もしあいつが何年先か、一人前の釜《かま》たきになりよったら、千枝さんをあいつの嫁さんに貰えねえだべか、な、室伏さん……」
「一人前の釜たきって……彼は機関助手の試験に合格して、訓練中ではなかったですか……」
「はあ……、訓練中に警察|沙汰《ざた》おこしよりましたで……合格取り消しになりよるだべさ……。当然だべ、鉄道員にあるまじきことだでのう……」
「合格取り消し……」
雄一郎と有里は顔を見合せた。
「千枝は……?」
雄一郎は有里にそっと尋ねた。
「なんですか、さっき外へ出て行ったようでしたけど……」
有里はちらと新平の方を見た。
有里も千枝が良平のところへとんで行ったと思っているらしかった。
「合格したこと、あんなに喜んでいたのになあ……」
雄一郎は、まるで自分の合格を取り消されたような気持がした。
(千枝がどんなにがっかりするだろう……)
「良平君、さぞ気を落しているでしょう……」
雄一郎は新平に聴いた。
「さあなあ……それほどでもないようだで……」
新平は苦笑した。
「あいつの考えてることは、さっぱりわけがわからんですわ……」
36
はじめのうちこそ、奈津子は眼ばかりギョロギョロさせた痩《や》せた子だったが、有里の丹精の甲斐《かい》あってか、此頃では、まるまるとよく肥り、智慧《ちえ》も普通の子供以上に進んできた。
マンマから始まり、おかあちゃん、おとうちゃん、姉《ね》ンネなどと片言で話す言葉も可愛らしい。
最近、誰が教えたのかしらないが、
※[#歌記号]親の因果が子に報い
今じゃしがない切符きり……
という歌を覚え、まわらぬ舌で何遍でも繰返す。
どうせ、雄一郎か千枝が教えたものだろうが、有里がもっと子供らしい、可愛い歌を教えてやっても、どういうわけか、※[#歌記号]親の因果が子にむくい……とうたっている。
それを雄一郎が横眼で眺めては、嬉《うれ》しそうに笑っていた。
「よし、今に奈っちんは女車掌に仕立ててやるか……」
「あなた、東京の市電にはほんとうに女の車掌さんが居るんですよ」
「大阪の乗合自動車の車掌も女だそうだな」
そんな冗談の中にも、二人は奈津子の将来への夢を育てていたのだった。
奈津子は最早、この家にとって、なくてはならない存在になっていた。
千枝と良平の事件があって、およそひと月ほどたったある日の夕方、室伏の家の門口に一人の女が立った。
「ごめんくださいまし……」
服装といい髪かたちといい、一見して東京風のモダンなものだった。
千枝はちょうど井戸端で奈津子の相手をしていた。
「はい……」
奈津子の手を引いて近寄った。
「あの、奥さまは御在宅でしょうか……」
「奥さま……?」
「ええ、室伏有里……とおっしゃるかたです……」
「ああ、お姉さんなら買いものに行っとるよ」
「そうですか……」
女はふと奈津子に眼をとめた。
「あなた、奈津子ちゃん……?」
「うん……」
奈津子が頷《うなず》いたのと、女が奈津子にとびついたのと同時だった。
「奈津子……奈津子……逢いたかった……」
しっかり奈津子を胸に抱きしめ、頬《ほお》ずりした。
千枝は茫然《ぼうぜん》と二人を見つめるばかりだった。
買物に出かけた有里と雄一郎が戻って来たのは、それからおよそ一時間くらいたってからである。
有里が戸を開けるやいなや、待ちかねていた千枝が顔色を変えてとび出して来た。
「お姉さん、大変よ……」
「どうしたの、いったい……」
「奈っちゃんがね、さらわれちゃうよ」
「ええッ……」
そういえば、土間に見なれぬ女物の草履《ぞうり》が揃《そろ》えてある。
「千枝、どういう意味だ、それ……」
雄一郎も驚いて走り寄った。
「変な女の人がやって来てね、急に私が奈っちゃんの本当の母親だって言いだしたんだよ……」
その言葉が終らぬうちに、有里は茶の間に駈《か》け上った。
部屋の隅に、荷物が置いてある。
隣室から、障子越しに女の声が聞えた。
「ほら、ね、こんなかわいいお人形……これはクマさんよ……これは奈っちゃんのお洋服……赤い帽子好きでしょう……みんな奈っちゃんのよ……」
一生懸命、奈津子の機嫌をとっている様子だった。
有里は我を忘れて障子を開けた。
「奈津子……」
「お母アちゃん……」
奈津子が嬉しそうに抱きついて来た。
「奈津子……」
有里はしっかりと奈津子を抱きしめた。
「ごぶさた致しまして……何から申しあげてよいやらわかりません……いろいろ有難うございました」
女が両手をついた。
「あ、あなたは……」
有里は息をつめた。
女は奈津子の生みの母親、瀬木千代子だった。
「ほんとうに、何んとお詫《わ》びしてよいやら……何からお話してよいやら……」
千代子は奈津子の前では話しにくそうだった。
うしろに立っていた雄一郎が、すぐそれと気づいて、千枝を呼んだ。
「千枝、ちょっとの間、奈津子と遊んでやってくれ……」
「うん……さ、行こう奈っちゃん」
千枝は奈津子を、千代子の視線からわざと隠すようにして出て行った。
それを待っていたように、千代子は口をひらいた。
「ほんとに申しわけないことをいたしましたが……一年前の私は、あの子をああするより、仕方がなかったのでございます……。内地から、主人のあとを追って北海道へ参りまして、ようやく奈津子を生んだとたん、主人は酔った揚句の喧嘩《けんか》で命を落してしまいました。お金は無し……知らぬ土地で乳呑児《ちのみご》を抱え、どうすることも出来ませんでした……実際、何度あの子と一緒に死のうとしたかしれやしません……。あのままでは、奈津子と一緒に海へとび込むか、飢《う》え死にするか、おたく様の前へあの子を捨てるかするよりほかに、途がなかったのでございます……」
千代子は眼に涙を浮かべていた。
「奥様のお人柄はよく存じあげておりましたし、偶然、こちらでお目に掛ったとき、鉄道へお勤めの御主人様とお仕合せにお暮しの御様子をお聞きしました……。奥様ならきっと奈津子を不愍《ふびん》に思い、お預り下さると……勝手な考えではございましたが……申しわけございません……でも……奥さまは、やっぱり奈津子をお預り下さいました。あんなに大きく、丈夫な子にお育て下さいました……私、なんといってお礼申しあげたらよいか……」
「ちょっと、お待ちください……」
雄一郎が割り切れない表情で言った。
「奥さんは、奈津子を引き取りに来られたんですか……?」
「……私、あれから内地へ戻りまして……散々、苦労致しました。お話しするのもお恥しいほどの、どん底の暮しをして参りました。でも……、今年になって……働いておりますお店のお客様と所帯を持つというようなことになりまして……どうやら、人並な暮しが出来るようになりました……。それで奈津子のことを相談してみましたところ、快く承知してくれましたものですから、もう、とび立つ思いで参ったのでございます……」
千代子は懐中から金包らしいものを出した。有里と雄一郎の前に置いた。
「これは、今まで奈津子を養育してくだすったお礼といっては、ほんの僅《わず》かでございますが、あの子のお乳代と思って、どうかお収め下さいまし……」
有里は、なんとも情ない、やりきれない気持になった。雄一郎もまったく同じ気持になったらしく、
「いや、これは頂けません……」
いつもより荒い語気で言った。
「奥さん、僕らは養育費が欲しくて、奈津子を育てて来たんではない……、捨てられたあの子が不愍で、ただ無我夢中で育てて来たんです……。まだ乳離れもしない子を、不意に拾って、一年数か月……有里がどんなに苦労してあの子を育てて来たか……」
雄一郎は千代子に強い視線をあびせた。
「毎日、乳もらいに歩き回り、牛乳をのませ、夜もろくろく眠らんとおむつを取りかえ、布団をかけてやり……これはね、奥さん、もう他人《ひと》の子ではない、我が子です。我が子と思わんかったら、誰が育てられるものですか……」
「判ります……それはよく判りますが……」
「わかっとりません……奥さんには我々のこの気持がわかるもんですか……」
「では……奈津子をお返し下さらないとおっしゃるのでしょうか……」
千代子の眼に狼狽《ろうばい》の色が浮かんだ。
「いや、そんなことは出来ません……、いくら私たちが我が子同様に育てたからって、あの子の生みの親は間違いなく奥さんなんですから……、奥さんが返せといったら、返さないわけにはいきません……」
「すみません。本当に、なんと……なんと、お詫《わ》び申し上げたら……」
千代子が崩れるように前へ手をついた。
有里はたまりかねて、両手で顔を覆い、台所へ立った。
雄一郎は沈痛の面持で腕を組み、太い溜息《ためいき》をもらした。
奈津子の将来を想えば、生みの母親が育てるにこしたことはない。しかし、この一年余の歳月、奈津子の母親は有里であった。
(そのことを、いったいどうしてくれるのだ……)
と雄一郎は開き直りたい気持だった。
もう一つ、奈津子が千代子になついて行くかどうかだった。
雄一郎の同意を得て、千代子はおよそ二時間近くもかかって、幼い奈津子に言いきかせた。
「お前の本当のお母さんは私なのよ……、ここの家のお父さん、お母さんは本当は赤の他人なのよ……」
その声を台所で聞いている有里の心の痛みも知らぬげに、ただ、ひたすらに言いきかせていた。
やはり台所で様子をうかがっていた千枝は、口惜しそうに唇《くちびる》を噛《か》んだ。
「あんまりだよ……勝手すぎるよ……。邪魔な時は捨てちまったくせに……、今頃になって取り返しに来るなんてあんまりだ。奈っちゃんだって可哀そうじゃないか……昨日までは、ここの家の子だと思って安心して暮していたのに、急に変な女がやって来て、お前のお母さんは私なんだよだなんて……」
「千枝さん……いいのよ、このほうが先へ行けば奈っちゃんのためなんだから……」
「お姉さん……何んとか言っておやりよ……」
千枝は眼に涙をいっぱいためていた。
「いいのよ……」
有里の眼にも、新しい涙が溢《あふ》れだした。
「なんていったって生みの親なんですもの……、本当のお母さんの許で育つのが、いちばん仕合せなのよ……」
「生みの子を捨てるような人が、お母さんだなんて言えた義理ですか……そんな資格なんかありゃあしませんよ……」
「千枝さん……もう、言わないで……」
有里は両手で耳をおおい、うずくまった。
「お願いだから、言わないで……」
やがて、奥の部屋から、すっかり洋服を着換えさせ、人形を持たせた奈津子を抱いて千代子が現れた。
奈津子は、そこに雄一郎が立っているのを見つけると、彼にいきなりしがみついた。
雄一郎は奈津子を肩車にして、そのまま黙って歩き出した。
奈津子はわけがわからないまま、新しい服を着、美しい人形を抱き、そして悲しい顔をして、住みなれた家をあとにした。
雄一郎は駅まで送って行った。
千代子は、戸口の蔭でそっと見送っている有里と千枝に、叮嚀《ていねい》に頭を下げ、ずんずん先に行く雄一郎を追って行った。
奈津子の姿が見えなくなると、有里はいきなり家へ駈け込んだ。
すこし遅れて、千枝が家へ這入ってみると、有里は脱ぎ捨てられた奈津子の古い着物を顔に押し当てて、声もなく泣いていた。
37
奈津子の去った室伏家には、又、新婚当初の穏やかな生活が戻って来た。
しかし、一日中、どこに居ても子供の声のしていた家が、或日、ふっつりその声が聞えなくなった虚《むな》しさは、雄一郎も有里も千枝も当分の間、いやというほど思い知らされた。
なんとなく気勢のあがらぬ雄一郎の許へ、そんなものを一度に吹きとばしてしまうような、喜びにあふれたはる子の手紙が舞い込んできた。
『お手紙ありがとうございました。皆さんそろって変りなくお暮しの由、なによりでございます。私もどうやら仕事にも、横浜という土地にも馴れ、毎日夢中ですごしております。洗濯屋の仕事もようやく面白く感じられるようになりました。こちらでは、ラシャ服や毛織物もどんどん洗える薬や機械があります。それでも、まだまだ研究不足のこともあって、時々|天手古舞《てんてこまい》を致します。先月もドイツ人の奥さんが、蝉《せみ》の羽のように薄い布地で何段にも縫ってある服をお持ちになったのですが、取扱いがむずかしくて困りました。
でも、一回一回ごとに新しい方法をみつけたり、苦心したことが成功したりするのは、とても仕合せなものです。
このお店の御主人は女の方ですし、南部駅長さんの従兄妹に当る方なので、お顔にもどこかしら、南部駅長さんと共通した感じがします。気性のさっぱりした、とてもいい方です。私を信用して、なにもかもまかせて下さいますので、私もなんとか御期待に添いたいと一生懸命です。
そういえば、つい先日、東京から伊東栄吉さんが、お店へわざわざ尋ねて来てくださいました……』
ここまで雄一郎が読みすすむと、食事中だった有里も千枝も思わず箸《はし》をとめた。
「伊東さんが姉ちゃんとこへ行ったのかい?」
千枝は箸と茶碗《ちやわん》を放り出すように置いて、雄一郎の横へいざった。
「早く読んでよ、その先……」
「お姉さま、嬉しかったでしょうね」
有里も早くその先が知りたそうだった。
はる子の手紙は遠慮がちに、栄吉との再会を述べていた。
それによると、栄吉は、はる子にお互の手紙が届かなかったことと、その理由を説明して、遂に尾形の邸を出たこと、今、日本橋に下宿していることなどを告げた。
「そんなことをしていいの、栄吉さん……」
はる子が不安がると、栄吉は、
「なに、心配しなくていい……、それより、はるちゃん……許してくれないか」
と言った。
「許すって、何を……?」
「もう、何年放っといただろう……はるちゃんに嫁に来てくれって頼んでからさ……」
「あら……」
はる子は不意をつかれて、赤くなった。
「あれは……あの時、私がお断りして……」
「断られたなんて思ってないさ……俺、一遍定めたことは、めったには変えないんだ……」
「…………」
「はるちゃん……今、俺が、はるちゃんに嫁に来てくれっていったら……どうする、来てくれるかい……?」
「伊東さん……」
はる子は急に胸が熱くなった。伊東の顔が次第に、ぼーっと霞《かす》んできた。
「たのむ、はるちゃん……俺の嫁さんになってくれ……」
はる子は、初めて伊東の胸の中で涙をこぼした。
こんなに嬉しかったことはない、まるで夢のようだった、とはる子は最後の行につけ加えていた。
「これじゃ、当分、姉さん帰って来れそうもないぞ……」
雄一郎は手紙を畳んで、封筒へ収めた。
「しかし、姉さんが帰ってこんとなると……一遍、横浜へ行って来なきゃならんかな、姉さんの様子を見がてら、千枝の縁談のことも相談せんならんし……」
「二人で行っといでよ、新婚旅行のかわりに……」
千枝がすすめた。
「馬鹿、お前のことだぞ……第一、俺はそうそう休みはとれん……千枝が行くか……」
雄一郎は逆に千枝に言った。
「あたいも先週からずっと売店休んでしまったし……それに姉ちゃんとこへ行くの怖いよ……」
「なんで怖いんだ」
「姉ちゃん、札幌の警察のこと言ったら怒るよ……」
「そりゃそうだ……うんと怒られてこい」
「もう、兄ちゃんに散々怒られたからいいよ……それに、あたいきまりが悪くって……」
「きまりが悪いって柄か……」
雄一郎が笑った。
そのとき、一緒になって笑っていた有里が、ふと立って外へ出て行った。
「なんだろう、お姉さん急に外へ出て行ったよ、お客さんかね……」
千枝が不審そうに言った。
「よし、ちょっと俺が見てくる……」
雄一郎は腰を上げた。
戸を開けると、家の前に、有里がしょんぼり佇《たたず》んでいた。
「どうした、有里……」
「なんだか、奈津子の声がしたような気がして……」
聞きとりにくい声で言った。
「やっぱり空耳でした……」
「うん、なんにも聞えん……」
雄一郎は、そっと妻の横顔を覗《のぞ》いた。
彼はこのところ毎晩、夜中に有里が布団に起き上り、何か物思いにふけっているのを知っていた。
声をかければ、余計奈津子のことを思い出させることになる。雄一郎は、いつも有里の気持の静まるのを待った。それが一番良いのだと信じていた。
「気のせいだったんですね……」
有里がぽつりと言った。
「今頃、あの子、なにをしているでしょう……」
有里は空を見上げた。
「心配するな……生みの母親のそばに居るんだ」
「そうでしたわね……」
空には、まるい月が出ていた。
岡本良平と千枝の縁談の相談やら、秋にひかえた母の法事のことやら、又、はる子自身、伊東栄吉とのことをどう考えているかなど、さまざまの問題をかかえて、結局、有里が一人で横浜へ発つことになった。
一つには、旅をすることで、丸一年余、我が子同様に育てた奈津子との別れによって、心の中に、ぽっかり穴があいたような有里の気持の転換になるのではないかという、雄一郎の心遣いでもあった。
その頃、横浜では、はる子と伊東栄吉とが休みを利用しては、頻繁に逢瀬《おうせ》を重ねていた。
二人は港の見える外人墓地を、しばしば肩を並べて散歩した。
「今日はずいぶん、港に船が這入《はい》っているわ、ほら、ほら、あの白いお菓子のような船……イギリスの船でしょう……」
はる子の眼には、まわりのあらゆるものが、初夏の明るい陽射《ひざ》しに輝きわたって見えた。
「こうやっていると、小樽を思い出すねえ……小樽の港にも、よく外国船が這入っていた……」
栄吉も、いつの間にか洒落《しやれ》た白い麻の夏服が、ぴったりと身につくようになっていた。
「そういえば、いつか、小樽の公園で栄吉さんを待たせたことがあったわ……雪の寒い日だったのに、あんな吹きさらしの場所で……まるで子供みたいに気がつかなかったのね……」
「寒いなんて、一度も思ったことないよ……どうやってはるちゃんに、自分の気持を話そうかって、そんなことばかり考えていた……」
「お蕎麦屋《そばや》へよく行ったわね……男の人と二人きりでお蕎麦食べたの生れてはじめてだったわ……」
「俺だってそうだ……今でもあの頃のことよく思い出すよ」
「そうね……私も……」
以前はこうした思い出はすべて哀しみに通じていたのに、今は、昔の思い出が、まるで浜辺で桜貝を拾う時のように楽しかった。
だが、そうした中で、はる子は時々或る不安に襲われた。
「栄吉さん……」
「ん……?」
「いいの、尾形さんのお邸を出てしまって……」
「仕方がないさ……恩は恩……」
「尾形さんは、栄吉さんをお嬢さんのお聟《むこ》さんにって考えていたんじゃないのかしら……」
「さあ、どうかな……だが、俺みたいな田舎者は東京育ちのお嬢さんとじゃ、合いっこないよ」
「でも……」
はる子は眼を伏せた。
尾形の娘と結婚すれば、伊東の将来の出世の途は間違いなくひらけるのだ。
それを思うと、はる子はいつも気が重かった。
「はるちゃん、俺、機会を見て、北海道へ帰りたいと思っているんだ……実際、北海道へ転勤させてもらうよう頼んでもある。はるちゃんと一緒に北海道へ帰りたいんだ……」
「栄吉さん……」
「俺はね、はるちゃん、北海道の鉄道員だ……同じ骨になるなら、札鉄《さつてつ》の骨になりたいんだよ……」
はる子と栄吉は、あらためて互の愛を確かめ合うように微笑した。
ようやく二人の上にも、仕合せな日がめぐって来たかのようだった。
それは長い苦労の末、ようやくかち得た幸福だった。
(もう、絶対に離しはしない……)
はる子は眼をつぶり、心の中に誓った。
38
はる子と横浜での一日をたのしんだ夜、伊東栄吉は尾形の秘書の大原に呼ばれて、浜町《はまちよう》の料亭へむかった。
栄吉が通されたのは、静かな離れ風の部屋だった。
どこからか、三味線の音が聞えてくる。
やがて廊下を女の足音がして、年の頃十七、八の芸者が這入って来た。
「ごめんくださいまし……こんばんは……」
眼のぱっちりした色白の妓《こ》である。
「あの……大原さんからのお言付でございますけど……もう少し、あちらで御用談がございますので、お食事を先になさりながらお待ち下さるようにとおっしゃっておいででございます」
「はあ、僕のほうは結構です……別に用事はないですから……」
その妓が手を叩くと、女中が食事を運んで来た。
「お一つ、どうぞ……」
栄吉に酒をすすめた。
「いや、いいです……」
「そんなことおっしゃらないで……御前《ごぜん》から、あなたのお相手をするよう申しつけられて来たんですもの、さ、どうぞ……」
「はあ……」
栄吉は、ようやく盃を取った。
「あたし、はまのやの菊竜っていうんです……あなた、お名前は……?」
「伊東栄吉です」
「栄吉さん……お酌して下さいな」
菊竜が笑いながら、盃を出した。
「あ、どうも、すんません……」
栄吉はあわてて酌をした。
栄吉がどうも落着かない食事を済せた頃、大原が女中に導かれてやって来た。
「やあ、待たせてすまなかったね……」
それから、大原は菊竜にちょっと中座するようにと言った。
若い芸者が去ると、大原は小声で、今の芸者は尾形のかくし子で、尾形の若い時分|馴染《なじ》んだ芸者との間に生れた子だと説明した。
「まあ、尾形先生も家庭の事情はいろいろと複雑でね……先生のお元気なうちはよいが、一つ間違うと屋台骨はぐらぐらになる。そんなこともあって、先生は君をお嬢さんの聟にと考えて居られたのだ……」
「大原さん……」
栄吉が喋《しやべ》りかけようとするのを、大原は制した。
「まあ、聞きなさい……。本来なら、尾形先生ほどのおかたの聟だ、いくらでもいい家から養子のきてはある。しかし、先生は御自分が一代であそこまで立身出世をされただけに、家柄よりも人物本位をと強く考えられておられるのだ……」
「待ってください、その話は……。そのお話は……私のようなものを、それほどまでにおっしゃって下さることは本当に光栄です、身に余ることだと思います。しかし……私には……」
「聞いた。……約束した女性があるそうだね」
「はあ……」
「幼馴染とかいう話だったが……」
「そうであります……」
「なんとかならんか……」
大原はテーブル越しに身を乗り出した。
「正直のところ、先生の奥さんは最初は君を聟にする話には気乗り薄だった……。しかし、君が屋敷を出てしまってから……こうなったらざっくばらんに話をしよう……君が尾形さんの邸を出てから、お嬢さんは何度か見合をした。みんな立派な家柄の御子息ばかりだった。しかし、どうしてもお嬢さんがうんと言わん……お嬢さんは君を好いている……」
「しかし……」
「いいかね、あちらは一人娘さんだ……。尾形先生にしても、奥さんにしても、それほどお嬢さんが思いつめているならと……まあ親心だね……もともと、尾形先生はそのつもりだったし……伊東君、なんとか考えてもらえんかね。そういっちゃなんだが、仮にも鉄道省で飛ぶ鳥落すといわれる尾形先生だ、聟になって不足はないと思うがね……」
「大原さん……、お言葉を返すようですが、伊東栄吉は女房の実家を後楯《うしろだて》として立身出世を考える男ではありません」
「伊東君……」
「尾形さんには言葉でいい尽せぬ大恩を受けておりますし、お嬢さんは、私の如き男にはもったいないほどの女性であります。しかし……私にはすでに約束した女があるのであります。夫婦の盃はまだかわして居りませんが……心ではすでに妻のつもりで居ります……。その女は……幼い日から一家のために、自分の仕合せを忘れて苦労をして来ました……苦労を苦労と思わず、犠牲を犠牲と思わず、いつも家族の仕合せをわが仕合せと信じて働き続け、生き続けて来た女であります……。不肖伊東栄吉は、その心根に惚《ほ》れました……。尾形さんのお嬢さんには、いくらでもこれからよい縁談が出てくると思います……しかし、その女、室伏はる子には、私が必要なのであります……彼女を仕合せにしてやれるのは、私一人と心得て居ります。尾形さんへの大恩は、鉄道員の一人として一生かけて鉄道へお返し申したいと思って居ります……どうか、お許し下さい……大原さん」
栄吉は一歩下がって一礼すると、
「失礼します」
すっと立ち上った。
「伊東君……」
大原が呼びとめる隙《すき》も与えず部屋を出て行った。
それから四、五日たった日の朝、横浜のはる子の許へ有里が長旅の疲れも見せず、元気な姿を見せていた。
もちろん、雄一郎からの連絡を受け、はる子は店を休んで横浜駅に有里を迎えに行った。
「お姉さま――」
汽車の窓から身を乗り出すようにして、ホームを見ていた有里がすぐはる子を見つけて手を振った。
「有里さん」
はる子も手を振りながら走った。
何も話をしなくとも、二人はお互が仕合せに暮していることを、直ちに了解し合った。
それから、二人は宿へ急ぐ途中も、宿へついてからも、まるで堰《せき》を切ったように互の生活のこと、一年間の出来事を思いつくまま、気のつくままに話しつづけた。
宿で一休みし、有里は身じまいを直してから、はる子に連れられて、彼女の勤める白鳥舎の店へ挨拶《あいさつ》に行った。
たまたま外人の女が這入って来たとき、はる子がてきぱきと英語で応じるのを見て、有里は眼をまるくした。
白鳥舎でのはる子の立場がすこぶる良いのを見て、有里は安心した。
北海道の室伏家でなくてはならなかった人であったように、横浜の店でも、はる子はもはや女主人からほとんど一切を任された形で働いていた。
そんなはる子を眺めて、有里は嬉しかった。
立派な義姉を持っているという誇らかな気持だった。
しかし、よく、女房の留守に魔がさすという……。
その日、雄一郎が乗務した列車は札幌どまりだった。
札幌には南部斉五郎の家がある。
この前、千枝と良平が札幌の警察に留置されたとき、わざわざ三千代が駈《か》けつけて来てくれた礼に、まだ雄一郎は行っていなかった。
横浜へ発つ前、ついでがあったら南部家へ礼に行ってくれと有里にも言われたばかりである。南部斉五郎にも逢いたかった。
(行って来ようか……)
と雄一郎は思案を決めた。
南部の家は、札幌の町はずれの、どこにでもよく見かける小ぢんまりとした二階家だった。
玄関の戸をあけて案内を乞うと、以前とちっとも変らず、むしろ少し若くなったのではないかと思えるような節子が、にこやかに雄一郎を迎えた。
あいにく、南部斉五郎も三千代も留守だという。
それを聞いて、雄一郎はむしろほっとした。
節子にすすめられるままに座敷へ通り、
「先日は妹の千枝のことで、とんだ御迷惑をおかけしまして……」
雄一郎は型どおりの挨拶をのべた。
「いいえ、どうってことじゃありませんよ。主人も笑ってました、警察もとんだ不粋な連中が揃《そろ》っとるってね……」
節子は手を口へ持って行って笑った。
「千枝ちゃんと岡本新平さんの息子さんなら似合いだから、もう一遍仲人をやるかだなんて主人が言っていましたよ……、そういう話があるんでしょう……」
「はあ……実はあのあと、新平|爺《じい》さんから正式に妹をと言われまして……」
「決めたの?」
「いや、姉とも相談したいと思いまして、それで今、家内が横浜へ行ってるんです」
「まあ、お有里さんが横浜へ……それじゃ当分、別れ別れっていうわけね……どう、寂しいでしょう」
「いやあ、千枝が居りますから……」
「あんな……負惜しみ言って……」
節子にからかわれ、雄一郎は頭を掻《か》いた。
雄一郎は話し好きの節子の相手をして、夕方まで南部家に居た。
しかし、斉五郎も三千代も戻って米ない。
「じゃ、また出直してまいります……どうかお帰りになりましたら、よろしく……」
「まあ、いいじゃないの、もう帰って来ますよ、お夕飯を一緒にしてらっしゃい……」
節子の止めるのを、振り切るようにして雄一郎は南部家を辞去した。
途中、雄一郎は煙草屋へ寄った。
煙草はあまり沢山吸うほうではないが、詰所などで同僚が吸っているのを見ると、たまには吸いたいなと思う時がある。
雄一郎が釣銭を受け取っていると、
「室伏さん……」
うしろから声をかけられた。
ふりむくと、三千代が息を切らせて立っていた。
「ああ、三千代さん……」
「今、うちへ帰ったら、ちょうどお出になったばかりだと言うものだから……」
「はあ、今日はずっとお邪魔していたんです……」
「室伏さん、あたし、どうしてもお話したいことがあるんです……明日、お仕事は……?」
「明日は夜から出るんですが……」
「じゃ、おひる……小樽のこのあいだのうなぎ屋さんでお待ちしてます……」
三千代はそれだけ言うと、くるりと背を向けて、駈《か》け去って行った。
39
約束の日。
雄一郎は三千代の言った小樽のうなぎ屋へ出かける前に、小樽の海へ出た。
ここは、嘗《か》つて、姉の縁談のお供をしてはじめて北海道へ来た、有里と二人で歩いた浜辺だった。
海をみつめている雄一郎の胸に、あの日、自分と並んで海を眺めていた、有里の姿が浮かんで来た。
尾鷲《おわせ》の竹林で見た有里……。
母と姉と共に尾鷲へ帰る前夜、塩谷の駅で、なぜ、よりによって自分の姉と見合などしたのかと、精一杯の愛情を訴えた夜の有里。
思い出の中の有里は、いつも雄一郎の胸にぴったりと寄り添っていた。
思い出から覚めたとき、雄一郎の気持は落着いていた。
自分がどれほど有里を愛しているか、雄一郎は妻への愛情に自信を持った。
雄一郎は安心して、うなぎ屋へむかう坂道をのぼって行った。
三千代は今日も先に来て待っていた。
雄一郎の顔を見ると、すぐ、
「あたし、申しわけないことをしました……有里さんお留守だったんですってね……」
「ええ、横浜へ行ったんですよ、姉のところへね」
「そうですってね、祖母から聞いて驚きました……知っていればこんなところへお誘いしなかったんですけど……」
「別にかまわんですよ……」
雄一郎は笑って答えた。
「それより、話って何んですか?」
「ええ……もういいんです……」
「いいって……?」
「ごめんなさい、よく考えてみたら、お話するようなことでもなかったんです。今、そのことに気がつきましたの……」
「…………」
「私って、時々、なんでもないことを馬鹿げて深刻に考える癖があるんです」
三千代は笑いながら肩をすくめた。
「おかしいわ、本当に……私、近く東京へ帰ろうと思っているんです。主人が病院から戻りましたの……」
ちらと雄一郎のほうを盗み見た。
「胸をわずらって、ずっと療養してたんですけど……そのこと御存知でしょう……」
「はあ……」
「いろいろ考えたのですけれど、やっぱり戻りますわ。そうしなければいけないと思いますし……千枝さん、お元気……?」
三千代は急に話題を変えた。
「はあ、いつぞやは御迷惑をかけてしまって……」
雄一郎は改めてこのあいだの礼を言った。
「羨《うらやま》しいわ、好きな人がお有りだなんて……、結婚なさるのでしょう、いずれ……」
「たぶん、そうなると思っているのですが……」
「女は好きな人の許へ嫁ぐのが一番仕合せですもの……千枝さん、きっといい奥さんにおなりだわ」
「なんだか頼りない奴ですが、嫁に行けば責任が出て来てなんとかなるんじゃないかと思っています……」
「月日って怖《こわ》いようですのね……ここからみる小樽の町、ちっとも変っていないのに……人間はどんどん変ってしまう……」
三千代はふっと遠くを見るような眼つきをして、
「時々、女になんか生れてこなければよかったと思うことがあります……」
と言った。
「何故《なぜ》ですか……」
「この頃、私、人間の運命っていうこと、すごく考えるんです……。私って子供の時から両親について満洲へ行ったり来たり、母が病気で一人だけ祖父母の許へ預けられたり、そして又、父母の所へ帰ったり、始終あっちへ行ったりこっちへ来たりだったでしょう……。なんとなく、私って一つところに落着けない運命なんじゃないかって考えてしまうんです」
「そりゃあ、三千代さんの考えすぎですよ」
「そうでしょうか……」
「そりゃあ、人間が生きて行くうえには、人間の力の及ばない大きな不可思議な力が動いているのかもしれない……しかし、僕は自分の一生というものは、自分の責任で生きたいと思っています」
「それは、あなたが男だからですわ、女はダメ……どうしてもダメ……」
三千代は激しく首を振った。
二人は、やはりこの前と同じように、一時間ほど喋《しやべ》ってうなぎ屋を出た。
別れ際、次に逢う日の約束はしなかった。
雄一郎は三千代に、もう逢うまいと考えていた。
妻としての有里を愛していることがはっきりと分っている今、三千代に逢うことは、それがただの友情だとしても、有里にも三千代にも済まないと思ったからである。
しかし、世の中には、人間の意志とはまるで無関係なめぐり合せというものがあるのではないだろうか……。
この場合の、雄一郎と三千代がそうだったのだ。
二人がうなぎ屋の二階で逢って間もない、或る雨の夜行列車でのことだった。
雄一郎が、さかんに雨が吹き込んでくる便所のわきの窓をしめていると、車掌見習の田中が只事《ただごと》でない顔つきでやって来た。
「室伏さん、三号車のデッキに立っている女の様子がおかしいんだが、ちょっと見て来てくれませんか……」
「女……? デッキで何をしているんだ」
「それが、ただじっと外を見とるんです」
「切符はどこまでだ?」
「札幌から旭川までですが、席があいてるから車内へ這入《はい》るよう言っても、どういうわけか這入らんのです」
「荷物は?」
「ありません……」
田中はそこでちょっと声を低めた。
「どうも泣いとるようなんです」
「泣いてる……」
「ひょっとして、とび込みでもやられたら困ると思いまして……」
「よし、分った、俺が行ってみる」
雄一郎はなかなか閉まらない窓を田中にまかせて、三号車へ向った。
なるほど田中の言うように、うす暗いデッキに立ってじっと外をみつめている女の後姿が見える。
「もしもし……」
雄一郎は声をかけてから、思わずあっと息をのんだ。
女は三千代だった。
「なんだ、あなたでしたか……」
「知りませんでしたわ、室伏さんがこの汽車に乗っていらしたなんて……」
「偶然ですね……」
雄一郎は素早い視線を三千代の上に走らせた。
特に変った様子もない。
「どちらへいらっしゃるんですか……?」
さりげなく聴いた。
「ちょっと……祖父の使いで……石見沢《いわみざわ》まで……」
「そうですか……とにかく中へお這入りなさい、中はすいてますよ……」
「はい……」
三千代は素直に頷いた。
言われた通り、車内に這入って行く三千代を見送りながら、
(おかしい……)
と雄一郎は感じた。
田中の話では、三千代の持っている切符は旭川まで買ってあるという。
にもかかわらず、彼女は雄一郎に岩見沢へ行くと告げた。
旭川は岩見沢よりは約一〇〇キロメートルも先である。急行列車で二時間以上もかかる。
雄一郎は同乗の田中車掌見習が三千代を知らないのを幸い、彼女が南部斉五郎の孫娘ということを伏せて、ただ、様子に不審があるから注意しているようにと頼んだ。
やがて列車は、その岩見沢駅に近づいた。
「次は岩見沢……岩見沢……五分停車をいたします……」
客車を一つ一つ、雄一郎は回って歩いた。
三号車の三千代の傍を通りすぎると、彼女が立って、雄一郎のあとを追って来た。
「室伏さん……」
連結のところで声をかけられた。
「はあ……?」
「私、次で降りますから……」
三千代はにこやかに笑って言った。
「室伏さんはこの列車で旭川へいらっしゃって、すぐ又、折り返しに乗務なさるの」
「いえ、旭川発朝の六時二十分に乗りますから、その間は従事員詰所で休息します」
「そうですか、御苦労さま……」
そして、岩見沢駅に着くと、三千代は本当にホームへ降りて行った。
列車は三千代を残して発車した。
雄一郎の乗務した列車が終着駅旭川に着いたのは、午前零時二十分であった。
旭川にある列車従事員詰所で事務報告をすませると、次に乗務する始発列車まで、詰所で仮眠する予定だった。
しかし、雄一郎はそのまま詰所を出て、旭川駅の改札近くに待機した。
待つほどもなく、午前一時五十八分旭川着の急行列車がホームに入って来た。
雄一郎の勘は当った。
改札口を出る乗客の中に、三千代の歩いてくる姿があったのだ。
雄一郎は、そっと三千代のあとをつけた。
三千代は雨の中を傘《かさ》もささずに、どこというあてもなく歩いて行くようだった。
やがて、雨の中で水嵩《みずかさ》の増した川のほとりに出た。そこで、三千代は途方にくれたように佇《たたず》んだ。じっと、水の流れに耳をすませているようだった。
「三千代さん……」
雄一郎は、はじめて声をかけた。
「あッ、室伏さん……」
三千代が体を固くした。
「何をしているんです、こんなところで……」
そのとたん、三千代が逃げだした。
だが、雄一郎は三千代の腕をがっしりと掴《つか》んで離さなかった。
「離して……行かせて……」
雄一郎の腕の中で、三千代は激しく身を|※[#「足へん+宛」]《もが》いた。
「ダメだ、いけない……」
とりあえず、雄一郎は駅の近くの宿屋へ三千代を連れて行った。
「三千代さん、いったいどうしたんですか、あなたはさっき岩見沢へ行くと僕に嘘《うそ》をついたが、あんな所に立っていて、いったい何をするつもりだったんです……」
「…………」
「黙っていては分りません。余計なお節介と思うかも知れませんが、僕としては親同様に思っている南部の親父さんの孫にあたるあなたが、こんな知らぬ土地の、しかも雨の中をほっつき歩いているのを、見ぬふりをしては帰れないんです……事情を話してくれませんか……」
「…………」
「お宅では、あなたが旭川へ来ていることを御存知なんですか……」
三千代は何を言っても応えなかった。
「三千代さん……」
「放っといてください、私のことなんか……」
三千代がはじめて口をひらいた。
「人のあとを泥棒猫みたいにつけるのはやめて下さい。私が何をしようと、何処《どこ》へ行こうと私の勝手でしょう……あなたの指図なんか受ける必要ありません……」
「しかし……」
「私が自殺でもしそうに見えるんですか……そういえば、あなたといっしょに乗っていた車掌さんも、用事もないのに私のまわりをうろうろして……私だって鉄道員の家族です、鉄道にご迷惑をかけるような死にかたは致しませんわ」
「三千代さん……君はまさか……」
「死のうと生きようと、あなたの知ったことじゃないでしょう……あなたには美人で気立てのいい奥さまがいらっしゃるんですものね。大好きな方と結婚して、仕合せな家庭をお持ちになって……他人のことなんか、どうだっていいじゃありませんか、それとも雄一郎さん、あなた、私を憐んでいらっしゃるの……」
雄一郎はじっと三千代をみつめた。
三千代は濡《ぬ》れたままの着物を着ていた。髪の毛が頬《ほお》にへばりついている。
雄一郎は急に哀しくなって、眼をそらした。
「三千代さん、とにかく着物を着換えるんだ、そのままだと風邪をひいてしまう……」
先刻、女中が眠そうな眼をして部屋の隅に置いて行った浴衣を取って、三千代の傍へ置いた。
「僕も洋服を乾してくるから、そのあいだに着換えるといい……」
雄一郎は女中に頼んでおいた火熨斗《ひのし》を借りに階下へ降りて行った。
時計を見ると、すでに午前三時半をすこし過ぎていた。折り返しの乗務は六時二十分だから、もうあまり時間がなかった。
ざっと、濡れた上着とズボンに火熨斗をかけ、二階の部屋へ上って行った。
雄一郎は、三千代を自分の乗務する列車に乗せて、無理にでも札幌へ送り届けるつもりだった。
「三千代さん、這入ってもいいですか……」
一応、廊下から声をかけた。
しかし、中はしんとして、何のこたえも返って来なかった。
「三千代さん……」
雄一郎は不吉な予感に襲われた。
いそいで襖《ふすま》を開けてみた。
案の定、三千代の姿は部屋になかった。
ふと、テーブルの上に、三千代が走り書きしたらしい便箋《びんせん》があるのに気がついた。
『雄一郎さん、もう探さないでください、お願いです、私の好きなようにさせてください。いつまでもお仕合せに、さようなら……三千代』
読むやいなや、雄一郎は便箋をポケットへねじ込んで立ち上った。
(まだ、それほど遠くへは行かないはずだ……)
雄一郎は帽子をかぶり直すと、ふたたび、篠突《しのつ》く雨の中へとび出して行った。
「三千代さーん、三千代さーん……」
声はたちまち、激しい雨風によって掻《か》き消された。
時たま、稲妻に照らされて、遠い山際がくっきりと闇《やみ》の中に浮き上った。
雄一郎の眼には、豆狸にそっくりだった、あのあどけない少女の頃の三千代の姿がはっきりと見えた。
(哀しいのなら哀しいと……苦しいのなら苦しいと……何故一言いってくれなかったんだ……)
雄一郎の胸に、不意に熱いものが込み上げてきた。
「馬鹿、三千代の馬鹿野郎!」
雄一郎は怒りを叩きつけるかのように、嵐《あらし》に向って、真正面からぶつかって行った。
角川文庫『旅路(上)』平成元年1月20日初版発行
平成11年4月20日15版発行