[#表紙(表紙.jpg)]
平岩弓枝
御宿かわせみ27 横浜慕情
目 次
三婆
鬼ごっこ
烏頭坂今昔
浦島の妙薬
横浜慕情
鬼女の息子
有松屋の娘
橋姫づくし
[#改ページ]
三《さん》 婆《ばば》
一
この年の夏、深川は霊巌寺《れいがんじ》の富突講《とみつきこう》の話で賑っていた。
富突講は別に百人講とも呼ばれ、多くの人々が一枚いくらのくじを買い、その中の当りくじに多額の金を配分するもので、幕府はこれを、寺院や神社の建物修復などの資金集めを目的とした場合だけ、許可していた。
そもそもは、京都の仁和寺《にんなじ》門跡などの大本山が朝廷からの援助を受けられなくなって衰微したのを、こうした勧進によって復興させようというもので、勿論、上方でも行われたが、江戸はとりわけ住民の数が多かったこともあり、しばしば富興行が行われるようになっていた。
有名なのは、享保年間、八代将軍吉宗の時、仁和寺の建物修復のために、江戸の護国寺に仁和寺の毘沙門天王像を運び、正月と五月と九月の二十三日にその祭を行うのに合せて催された富興行で、大きな木箱に木札を入れ、その中から錐《きり》を先につけた棒で札を突いて当り札としたところから富突きという名が生れた。
いつの時代でも一攫千金を夢みるのは人の常で、とりわけ、江戸っ子は宵越しの金は持たないと突っ張る気性があるせいか、これが大当りに当って、谷中感応寺、目黒不動、湯島天神では始終、富興行があるために、江戸の三富などと呼ばれ、大いに賑った。
勿論、富興行が催されるのは、その三ヵ所だけではなく、お上に願い出て許可が下りれば、大抵、どこの社寺でも行うことが出来た。
但し、射倖性の強いものだけに、本来、博奕《ばくち》を禁止している幕府としては、そう易々と許しはしない。
深川の霊巌寺は七年ぶりの富興行で、数年前の大嵐で本堂、護摩堂が著しく傷んだのを改築するために漸く認められてのことであった。
「富札を入れます箱が五つでございまして、これが、いろはにほの文字がつきます。一つの箱には各々、千枚の木札が入りますので」
つまり、「い」の箱に一番から千番までの数の書かれた木札が入る。
「ですから、売り出しました富くじは、全部で五千枚、一枚が一分でして〆めて千二百五十両、その中の千両が霊巌寺さんにおさめられます分で、残り二百五十両が当りくじになります」
夕方から川風が吹き込んで、軒先の風鈴が良い音で鳴り出した大川端の「かわせみ」で嬉しそうに話しているのは、深川長寿庵の長助《ちようすけ》、聞き役は講武所から帰って来て一風呂浴びたばかりの東吾《とうご》と、千春《ちはる》を遊ばせながらの|るい《ヽヽ》、それに、こういう話となると俄然、目の色が変って来るお吉《きち》であった。
「それで、長助親分、当りくじは何本あるんですか」
一膝乗り出してお吉が訊き、長助が両手の指を開いた。
「十本と決りましたんで……お寺社のほうから、なるべく喜ばせる人の数を増すようにとのことでして……」
一番くじが百両、二番くじが五十両、三番が三十両で、四番が二十両、五番から八番までが各々十両で、九番と十番が五両ずつ。
「まあ、一番くじが百両と申しますのは相場でございますし、大当りがなくては景気も上りません」
一分で買ったくじが百両になるのであるから四百倍であった。
「百両の当りくじは一枚だけですか」
五千枚売る富くじの中からたった一枚ということになる。
「一番くじは無理でも、せめて十両当てたいところですよねえ」
十両当っても四十倍だと、お吉はしきりに指を折っている。
「まあ、当らなかったところで、霊巌寺さんへ寄進したと思えばいいんで……」
ちょいと気ばって賽銭箱に一分放り込んだと思えば腹も立たないと長助は笑っている。
「親分も買ったのか」
団扇を使いながら東吾が訊き、長助がぼんのくぼに手をやった。
「町内の義理もありまして、あっしと嬶《かかあ》と一枚ずつで……」
霊巌寺の檀家が世話人になって、町々を売って歩いているが、今のところ、売れゆきは悪くないらしい。
「けっこう遠くから、お寺へ買いに来る者もあるてえ話です」
富突の日は、来月十五日だから、あと二十日余りであった。
「その頃になったら、少しは涼しくなるだろうな。どうも、こう毎日かんかん照りじゃかなわねえ」
まだ暑さの残っている西の空を眺めて東吾がぼやき、長助はやっと長居に気づいて腰を上げた。
それから十日ばかり過ぎて、東吾は兄からことづかった到来物の干鮑《ほしあわび》を届けがてら、本所の麻生《あそう》家へ出かけた。
「たまには麻太郎《あさたろう》を連れて行ってやってくれ。毎日、稽古所通いでは気が変るまい」
通之進《みちのしん》がいい、東吾はこのところ、めきめきと背が伸びた麻太郎を伴って永代橋を渡った。
暑さは盛りを過ぎた感じだが、大川に映る日ざしはまだ強い。
麻生家の玄関を入ると、琴の音が聞えていた。あまり上手とはいい難いところから、稽古をしているのは花世《はなよ》だとすぐわかる。
おまけに、東吾が顔を出したとたんに、あろうことか琴をとび越えて走って来た。
「花世、まあ、あなたという人は……」
東吾と共に入って来た母の七重《ななえ》が悲鳴を上げたが、当人はどこ吹く風で、それでも麻太郎に気がつくと、少々、照れて、
「とうたま、お出でなされませ」
蛙が潰れたような恰好でお辞儀をした。
「もう、いい加減に、そのとうたまはやめたほうがいいぞ」
と東吾がたしなめても、首をすくめて、
「では、若先生……」
「馬鹿……」
「なんと呼んだらいいのですか」
目玉を蜻蛉《とんぼ》のように廻してみせる。
「叔父様とおっしゃい」
と母親に叱られても、
「どこの叔父様かわかりません」
きゃっきゃっと笑ったあげく、
「やっぱり、とうたまがいい」
東吾の首にしがみついている。
「本当にもう、いつになったら女の子らしくなるのでしょう」
ほとほと匙を投げた恰好で、七重が茶の支度に部屋を出て行くと、
「麻太郎様、貝合せをしましょう」
違い棚にのせてあった貝桶をどっこいしょと下して来る。
漆を塗った桶は平たい蓋の上から紫の紐がかけてある。
紐をほどき、蓋を取って、なかから美しく彩色した貝を取り出す花世の手許を麻太郎は驚いたように眺めている。
「麻太郎は、貝合せなどしたことがあるのか」
東吾に訊かれて、麻太郎は、
「いいえ、ありません。でも、見たことはございます」
と答えた。
蛤の貝を二つに分け、どちらも美しく加工して一方には絵、一方には文字が書いてある。
「これは、変った絵柄だな」
一つを手に取って東吾は眺めた。
能面をつけ、天冠を頭にしている姿は能の「羽衣」の天女のようである。
片方の文字のほうは、どうやら謡曲の「羽衣」の一節と思えた。
「珍しい貝合せでございましょう」
茶を運んで来た七重がいった。
「それは、むかし、清水の琴江様から……」
といいかけて少し、ためらったが、結局、
「麻太郎様のお母様から頂いたものなのですよ」
さらりと打ちあけた。
「貝合せの図柄はいろいろなものがあって、大抵は百人一首のお歌と絵姿なぞだと思って居りましたら、これは謡曲百番を、舞姿と謡曲の言葉とに分けたものなのです。父が謡曲をたしなむので下さったのだと思いますけれど、あまり見事なので時々、出して手入れを致しますの」
花世にいった。
「これは大切なものですから、勝手に触ってはいけないと申しましたでしょう。どうしてそうききわけがないのですか」
花世が黙々と貝を桶に戻しはじめ、麻太郎がそれを手伝った。
「麻太郎様はよろしいのですよ。叱ったのは花世なのですから……」
七重が少し慌て、そんな七重に東吾はつい苦笑した。
「そう、がみがみいうなよ。花世だって間もなく蛹《さなぎ》から蝶になる。そうなったら、もう、とびついて来いといったって、とびついてもくれなくなるさ」
七重が娘の時のように口をとがらせた。
「でも、女の子の躾は母親の責任だと、父が私を叱りますの」
廊下を宗太郎《そうたろう》の声が近づいて来た。
「東吾さん、久しぶりですね。まさか、御用の筋ではないでしょうな」
相変らずの筒袖にくくり袴で、東吾の前へすわり込む。
「少し見ない間に麻太郎君は随分、背が伸びましたね」
やっと桶におさまったのを、麻太郎が違い棚へ上げるのをみながら、東吾にいった。
「貝合せというのは、本来はさまざまの貝を持ち寄って、その貝にちなんだ歌を詠み、優劣を競ったものらしいですね」
「そんな小むずかしいこと、俺が知るものか」
「この節は子供の手遊びですが、横浜あたりで異人相手に商売をしている者は、百両が二百両でも手に入れたがる。つまり、その何倍かで異人に売ろうというわけです」
「異人に和歌だの謡曲だのが、わかるのか」
「いや、あちらさんは美術品として欲しいのでしょうが……」
ところでと、しょんぼりしている花世を目のすみに入れながら続けた。
「本所深川は月見の話より富くじでもち切りですよ」
「まさか、買いはすまいな」
「買いませんが、もらいました」
「誰に……大方、治療代のかわりにとでもおいて行ったのだろう」
「残念ながら、はずれです。実は花世が髭もじゃもじゃの親分の悴《せがれ》の小文吾に条件つきでもらって来たのです」
宗太郎が髭もじゃもじゃといったのは永代の貸元などと呼ばれている文吾兵衛のことで、数年前、花世が迷子になって厄介をかけて以来、麻生家と昵懇《じつこん》になり、東吾とも顔なじみであった。
「条件とは、なんだ」
東吾に訊かれて、花世が急に元気になった。
「もしも、当ったら、小文吾と横浜へ行くのです」
「横浜だと……小文吾の奴、横浜になんの用があるんだ」
「お船をみたいのですって。それから、花になんでも買ってくれる約束です」
「驚いたな」
たしかに、横浜は魅力のある町だと東吾も思っている。
「小文吾は、いつか船に乗って異国へ行ってみたいらしいのですよ。勿論、今は御禁制ですがね」
宗太郎が笑った。
「いずれ、そういう日が来ると思いますよ。この子達が大きくなる頃には、日本も大きく変るのではないかと……」
「そうかも知れないな」
ひとしきり宗太郎と話をしている間、花世と麻太郎は、花世の弟の小太郎《こたろう》をまじえて庭で輪なげをしたり、縁側で指相撲だ、しりとりだと飽きることもなく遊んでいる。
やがて、宗太郎に患者が来て、東吾は麻生家を辞去した。
帰り道に、東吾は思いついて、麻太郎をつれて霊巌寺をのぞいてみた。
広い寺内には仮ごしらえの舞台が出来かけていて、大工達が働いている。
「若先生……」
と声をかけて来たのは、さっき宗太郎の話に出た小文吾で、やはり富興行の準備に来ているという。
「花世がたのしみにしていたぞ。当ったら横浜へ行くんだってな」
東吾にいわれて、慌てて手を振った。
「当るわけがありませんや。ですが、夢をみる分には親父に叱言《かす》を食うこともねえんで……」
「横浜なら、いつか折があったら連れて行ってやるよ」
「ありがてえ。実をいうと、花世嬢ちゃんの口から若先生のお耳に入ったら、そういって下さるかも知れねえと……」
「お前も軍師だな。三分はその軍資金か」
「いえ、ありゃあ、親父がつきあいで買わされた中の三枚で……」
富興行の日には、この舞台に五つの木箱が並ぶのだと小文吾はいい、麻太郎に寺の奥にしまってある木箱をみせてやるといって連れて行った。
本堂の柱には、富くじ売り切れました、と断りの紙が張り出してある。
茶店のほうから大きな女の声が聞えて、東吾はそっちを眺めた。
縁台に三人の老婆がすわっている。その一人がえらい剣幕でまくし立てるのを、しきりになだめているのが長助だとわかって、東吾はそっと近づいた。
「大体ね、姉さんって人は愚図っぽくて、いいたいこともいえないでいるから、そんなふうになっちまうんですよ。どこの世界に嫁に銭箱握られて、へえへえいってる姑があるものかね。そりゃあ今はいい嫁さんかも知れないが、嫁は嫁、娘じゃないんだから、その中《うち》、本性現わして、何をいい出すか知れたもんじゃない。銭箱さえ取り上げちまえば、こっちのものだと、今頃、お腹の中で舌を出して笑ってますよ」
威勢よくどなりつけているのは、三人の中では一番小柄で小肥りで、年齢はもう六十に近いのだろうが、まるで悟りすました所もなく、気の強いのが顔にも体つきにも滲み出ている。
その前で神妙にどなりつけられているのは痩せぎすで品のいい老女で、白髪をきれいに結い上げ、薄化粧で、身だしなみは三人の中で最もよい。ただ、如何にも気弱そうで物腰はのんびりしすぎている。なにしろ、茶店で注文したらしい餡団子を一つずつ串からはずしながら食べているのが、みていてまどろこしくなるほどのろいのであった。
どなりつけているほうの老女の横においてある皿には、とっくに食べてしまったらしい団子の串が二本残っているだけというのに、どなられているほうはまだ一本の団子が半分も食べ終えていない。
その二人から少し離れてお茶を飲んでいる老女は中肉中背だが、色が黒く、ちまちました目鼻立ちで、我関せずと境内を眺めている表情が少々、小ずるそうでもあった。
「とにかく、富くじはもう売れちまったんだし、今更、何をいっても仕様がねえ。一枚買って当ることもありゃあ、百枚買っても当らねえって者もいるんだから……」
長助の声が聞え、
「そうはいいますがね、親分、富くじなんてものは二十枚、三十枚と買って、漸く当ったと喜ぶんで、それだって滅多にあることじゃない。一枚買って、そいつが大当りなんて話、あたしゃ聞いたこともありませんよ」
小柄で小肥りがやり返した。
「しかし、およねさん」
情なさそうにいいかけた長助が東吾をみつけ、救われたようにこっちへやって来た。
「若先生、いつ、こちらに……」
「宗太郎のところへ行った帰りなんだ」
随分と富興行の準備が進んでいるな、と東吾が仮設舞台へ目を向け、長助がうなずいた。
「深川じゃ久しぶりのことなんで、地元が気を入れて売りまくりまして……」
「もう、売り切れたようだな」
「それで、揉め事が起っています」
「あの婆さん達か」
茶店を少し離れた所まで移動してから、東吾は三人の老女を目で示した。
「だいぶ、手を焼いていたらしいが……」
「およね婆さんは女瓦版という綽名《あだな》がついてるくらいですから、口じゃとてもかないませんや」
三人の老女は姉妹で、小名木《おなぎ》川沿いの町名主の娘だという。
「もっとも、親はとっくに歿《なくな》りまして、只今は甥の悴の代になって居ります」
長女のおつるは六十一歳、深川門前仲町の巴屋という菓子屋へ嫁ぎ、次女のおかめは同じ町内の小間物屋、三河屋へ嫁入りした。
「およね婆さんは末っ子で、うちの近所の佐賀町で、河内屋と申します瀬戸物屋でございます」
年子だから、おかめが六十、およねが五十九になる。
「三人とも五十を過ぎましてから、各々、亭主に先立たれ、女隠居というような案配でして……」
おつるの所は一人息子だが、嫁をもらい、孫が二人いるし、おかめは長男が父親の跡を継いで、二人の娘はどちらも嫁に出している。
「およね婆さんは子沢山でして、一番上の久太郎は三十七になりますんですが、そのあとに六人も子が居りまして、末のおとめが十八でございます」
自分の縄張りの中のことで、長助の舌は滑らかであった。
「妹にどなられていたのは、おつるか」
「よくおわかりで……」
長助がむこうを眺めた時、三人の老女の間では一悶着があった。
茶代をおく段になって、おつるが愚図愚図し、知らん顔で立ち上ったおかめにおよねがどなった。
「たまには、おかめ姉さん、払ったらどうなのさ。いつだって、あたしと姉さんに払わせてばっかりなんだから……」
「今日は持ち合せがないのよ」
「自分がしっかり銭箱抱えている人が、巾着に百文の銭もないのかね」
「巾着を忘れちまったのさ」
「富くじ四十枚も買う人は違うね」
おつるが漸く巾着の中から小銭を出して茶店の支払いをした。
その間におかめはどんどん歩いて行き、追いすがるような恰好でおよねが嫌味をいい続けている。
「三軒とも、商売はうまく行ってるようで、別に金に困っているわけじゃありますまいが……」
たかが茶代で姉妹喧嘩もすさまじいと長助が見送って苦笑した。
「只今の揉め事も富くじを何枚買ったかてえことでして……」
おつるが一枚しか買わなかったというので、およねがせめて十枚は買わないと当らないとさわぎ出し、寺へ来てみたら売り切れという。
「おつるを、どじだ、間抜けだとののしり出しまして……」
「およねは何枚買ったんだ」
「子供が七人居りますんで、一人に四枚、合せて二十八枚だそうです」
「上の何人かは所帯持ちだろう」
「へえ、まだ独りなのは、下から二番目の余吉と末娘のおとめだけでして……」
「自分のは買わなかったのか」
「子供がみんな親孝行なんで、自分のは要らねえといってました」
「おかめは四十枚買ったようだな」
「あそこは、おかめ婆さんが先に立って商売の采配を振っているような家でございますから……」
名主の家に生まれた三姉妹が各々に異った老境を迎えているらしいのが、東吾には興味深かった。
あれほど、いい争ったりしていたのに、三人の老女はいつの間にか肩を並べて霊巌寺の門を出て行くところであった。
「まあ、なんのかのといい合っても、年をとった姉妹が近くに暮しているのは悪かないと思います」
長助がやれやれという顔でいった時、小文吾につれられた麻太郎が参道を戻って来た。
二
その日、東吾が軍艦操練所から帰って来ると、どうもどこかで聞いたような声が「かわせみ」の台所のあたりから聞えて来る。
で、着替えを手伝っているるいに、
「誰か来ているのか」
と訊くと、
「それが、もう大変……」
青い眉を軽くしかめた。
「お吉が客用の茶碗を少々、まとめて注文致しましたの」
「かわせみ」は宿屋だから客用に使用している瀬戸物類を調達する時は、少々のまとめ買いをしているのだが、それでも長い間には割ったり、ふちが欠けたりして数が少くなって来る。
たまたま、深川の茶碗屋で染めつけの、気のきいた湯呑茶碗をお吉がみつけて来て、使い勝手もよさそうだし、値段も手頃なので、五十個ばかりを注文した。
それが、さっき届けられて、届けに来た茶碗屋の奉公人が立ち会いで、一つずつ紙にくるんであるのを開けて行くと、一個だけふちが欠けているのがあった。
で、茶碗屋のほうでも恐縮して、早速、新しいのと取り替えて持参致します、と詫びて帰ったのだったが、
「茶碗屋のお内儀さん、といってもかなりのお年なんですけれど、お詫びにってみえたんです。それはいいんですけど、口上が長くて長くて、おまけに世間話をはじめたら油紙に火がついたみたいで、あたしもお吉も太刀打ちが出来ない有様で……」
「お吉が太刀打ち出来ないとなると、もの凄いな」
「普段は悴さんが来ますの。そちらは口の重い、お愛想もいえないような人なんですけど……」
「母親がお喋りだと、息子は無口になるものさ」
薩摩|絣《がすり》の単衣に着がえて縁側へ出てみると、ちょうど台所口を出て裏木戸への道を帰って行く老女の姿がみえた。
「なんだ。あいつだったか」
一人言に呟いて居間へ腰をすえると、早速、お吉がよく冷えた麦湯を運んで来て、
「お帰りなさいまし」
と挨拶した後、るいに向って、
「河内屋さん、やっと帰りました」
と報告した。
「まあ、次から次へと、よくあんなに口が動くもんだと感心しますよ。こっちは若先生がお帰りなすったのがわかってますから、早く麦湯をお持ちしたいとあせってるのに、こちらさんはお客商売なのに、随分、上等の瀬戸物をお使いなさいます。本当に趣味がよろしくて、ですが、お若い女中衆はいいも悪いもわからずぞんざいに扱いますから、たまりますまいなんていうんですよ。聞いてたお石《いし》が小さくなって、すみませんなんてあやまって、大きなお世話ですよ、うちの奉公人がいくつ落して割ろうと、あちらさんにただで取り替えろっていって行きゃしまいし、ああいうのはお愛想のつもりか知れませんが、嫌味に聞えてかないませんです」
お吉がいつもの調子でいいつけるのを、東吾は苦笑して聞いていた。「かわせみ」一番の口達者なお吉と、あの婆さんとなら、おそらくいい勝負に違いないが、今のお吉の様子をみると、どうやらむこうが一枚|上手《うわて》で、お吉に口をはさませない勢いでまくし立てて行ったらしい。
「河内屋というのは、深川佐賀町だろう」
東吾が口をはさみ、お吉が、
「よく御存じで……」
と応じた。
「あの婆さん、名前がおよねで七人もの子沢山だ。親は名主で三人姉妹、一番上は門前仲町の巴屋に嫁入りしている」
「その通りでございますよ。愚図で間抜けな姉だが、巴屋の月見団子は格別おいしいから、どうぞ御注文を、なんなら数をうかがって当日、お届け申させますなんていうんですよ」
「それで注文したのか」
「しなけりゃ帰りそうもありませんから、しょうことなしに……」
「もう一人の姉さんは小間物屋だぞ。そっちは何か買わされなかったか」
「いいえ、そんな話は致しませんでした」
「あなた……」
とるいが訊いた。
「どうして、河内屋を御存じでしたの」
東吾が返事をする前に、お吉が両手を叩いた。
「わかりました。およねさんには若くて可愛い娘さんがいなさるんです。大方、なにかで若先生は……」
るいが急に笑いをひっこめたので、東吾は慌てた。
「よせやい。なんで、およね婆さんに可愛い娘がいるなんて知ってるんだ」
「およねさんがいいましたんです。今年十八で器量も心がけもよい娘なので、どうぞどこかによいお聟《むこ》さんがいたらお世話下さいましって……」
「あきれたな、茶碗の欠けたの取り替えに来て、娘の縁談まで頼んでいったのか」
霊巌寺で、長助がおよねとおつるの姉妹喧嘩の仲裁をしている所に出くわしたんだとるいに説明した。
「富くじを一枚しか買わなかった姉さんを、一枚じゃ当らねえと叱言《こごと》をいってたらしいんだ」
「一枚じゃ当りませんですか」
といったのはお吉で、
「買ったのか」
と訊くと、小さくなって頭を下げる。
「当らないとは限らないよ。百発百中ってことは一発一中ってもんだろう」
当ったら、どうするんだ、と笑いながらいうと、大真面目で、
「千春嬢様にさし上げますです」
と胸を張る。
「当りっこないと思って、よくいうこと……」
るいが冷やかして「かわせみ」はいつもの天下泰平な夕暮を迎えた。
そして十五日。
富突きを見物に出かけたお吉が、
「くじは当りませんでしたけど、お団子を巴屋へ寄って受け取って来ました」
格別、がっかりした様子もなく帰って来て間もなく、長助が顔を出した。
「まさか、親分、当ったんじゃありますまいな」
嘉助《かすけ》が冗談半分に問いかけると、大きく手をふって、
「当ったのは、巴屋のおつる婆さんなんで」
という。
聞き耳をたてていたお吉が仰天した。
「いくら当ったんです」
「|ほ《ヽ》の十一番、大当り百両です」
「一番くじかね」
嘉助も目を丸くしたのだが、長助の表情は冴えなかった。
「そいつが、ちょいと揉めてまして……」
巴屋からはおつるがもたもたするので、悴の金之助が町役人《ちようやくにん》つき添いの上、|ほ《ヽ》の十一番のくじを持って名乗り出て、百両を受け取ったのだが、そのあとで三河屋のおかめから苦情が出た。
「もともと、|ほ《ヽ》の十一番というくじはおかめ婆さんが買った四十枚の中の一枚で、そいつはおよね婆さんが四十枚も買ったのだから、一枚ぐらいおつる姉さんにやったらいいと無理矢理、持って行ったものだったそうなんで……そいつが当ったとなると厄介でございまして……」
今のところ、霊巌寺側も立ち会った寺社方の役人も当惑して返事を保留しているという。
「姉妹のことですから、なんとか話し合いがつくんじゃねえかと思っていますが……」
と長助はいったが、結果はむしろ、こじれた。
寺と寺社方から調停をまかせられた町役人がいくら説得しても埒《らち》があかず、遂に町奉行所へ廻されることになって瓦版に書き立てられた。
たまたま北町奉行所が月番であったので、お裁きはそっちの担当になったのだが、
「どうも、手を焼いているようですよ」
宿帳改めに「かわせみ」へやって来た畝源三郎《うねげんざぶろう》が洩らした。
おかめは妹の持ち去ったくじが、間違いなく|ほ《ヽ》の十一番だったと申し立てているのだが、持ち去ったおよねは、|は《ヽ》の十一番だといってゆずらないという。
「実は、おつるの手許にあった二枚のくじは|は《ヽ》の十一番と|ほ《ヽ》の十一番だったのです」
およねは、
「おつる姉さんの買った札が|ほ《ヽ》の十一番だと知っていましたので、どうせなら同じ番号がよかろうと、|は《ヽ》の十一番をおかめ姉さんから貰って来たのです」
といっている。
「困ったのは、肝腎のおつるが、自分の買ったのが、|ほ《ヽ》の十一番か、それとも、|は《ヽ》の十一番だったのか、しっかり憶えていないと申すのですよ」
自分の買った富くじの番号を記憶していないわけはあるまいと、取調べに当った役人が叱りつけたが、なにしろ六十一の老婆のことである。おまけに、おつるは物事を正確に頭に入れるのが苦手で、年中、周囲から苦情が出ていたと、これは、おつるの悴夫婦や奉公人、近所の者までが口を揃えて証言した。
「確かに、|は《ヽ》と|ほ《ヽ》は字面《じづら》からしても似ています。おつるが、|は《ヽ》だったか、|ほ《ヽ》だったかと迷い出すのもあり得ることでして……」
もし、おつるに欲心があれば、およねの証言の通り、自分の買ったのが、|ほ《ヽ》の十一番と申し立てればよいわけで、それを、どっちだったかわからないというのは、かえって正直ではないかと判断も出来る。
「悴さん夫婦は、聞いていないんですか。おっ母さんの買ったくじの番号ぐらい……」
お吉がいったが、
「残念ながら訊かなかったそうです。母親が楽しみで買ったくじのことを、何番かなぞと訊くのは、なにか下心がありそうに思えていやだったのと、たった一枚買ったくじが当る筈がないと考えていたようでして……」
「おかめのくじを調べたらどうなんだ。四十枚も買ったのだから、大方、続き番号とか、つながっているものじゃないのか」
例えば、おかめの持っているくじが、|ほ《ヽ》の十一番の前後のであれば、当りくじはおかめのところから持ち去ったものと見当がつく、と東吾がいったが、
「残念ながら、おかめは四十枚をまとめて買っていませんでした」
源三郎が苦笑する。
寺へ何回も出かけて行ったり、檀家の総代が勧めるのを買ったり、
「それも続き番号ではなくて、自分の年だの、悴夫婦や孫たちの生れ月やら生れた日やら、易者にみてもらってよいという番号やら、とにかく滅多矢鱈な買い方をしていたのです」
北町奉行所でも音《ね》を上げて、いっそ百両をおつる、おかめの姉妹で分配してはといったが、おかめがどうしても承知しなかった。
「あの婆さんは少々、つむじがまがっている感じだったよ。おまけに、相当、けちな性分らしいし……」
霊巌寺でみかけた時のおかめの印象を思い出して、東吾がいったが、それから数日後、瓦版でその結着が知らされた。
「おつるさんの悴さんが、百両をおかめさんに返したんですと」
若い衆を走らせて買って来た瓦版をお吉が大声で読み上げた。
それによると、おつるの悴の金之助が、こんなことで親類同士がいがみ合うのはよろしくない。もともと、一枚はおかめの所から持って来たに違いないし、母親の記憶もはっきりしないことだから、この際、四十枚も買った人のほうへ戻すのが順当と考えての上だという。
「四十過ぎてるだけあって、分別のあるいい悴さんですよ。別に百両なければ商売が成り立たないわけでもなし、母親に不自由はさせて居りませんからって、まあ、孝行息子を持つと安心ですよ。百両返した上に、お上に御厄介をかけて申しわけなかったってちゃんとお詫びをしてなさるんですから……」
お吉が口を極めて誉めそやしたが、それは世間一般の印象でもあったようで、巴屋の評判が上った反面、おかめの三河屋はえらく不人気になってしまった。
「なにも金に困っているわけでなし、姉妹で半分ずつにしたって罰は当るまいと、三河屋の前で聞えよがしにいって通る連中もあるてえ話でして……」
と「かわせみ」へ来て話した長助も、はずれくじ、花世が小文吾にもらった三枚も紙くずになってしまった。
「どうも俺達の知り合いには、くじ運の強い奴はいないらしいな」
と笑った東吾だったが、小文吾と花世に、横浜へ連れて行ってやると約束したのは忘れて居らず、秋にでもなったらと考えている。
月が替って、長助がこの秋一番の蕎麦粉を届けに来て、八丁堀の神林《かみばやし》家の分も持っているのだが、と、いささか一人で届けに行くには敷居が高いような顔でいうので、東吾は、
「それなら俺が届けに行くよ」
と下駄をはいた。
律義な長助は、東吾がかついで行くという蕎麦粉の袋を、とんでもないことで、と自分が肩にして八丁堀までついて来たが、神林家の冠木《かぶき》門をくぐり、用人の取り次ぎで香苗《かなえ》が出て来て丁重に礼を述べると、例によってしどろもどろになり、たて続けにお辞儀をして逃げるように帰ってしまった。
「旦那様が御在宅なのですよ。どうぞ、お上りになって……」
義姉に勧められて、居間へ通ると、兄の通之進は貝桶を前にして、その一つ一つを眺めている。
「これは、麻生家にあった……」
といいかけて、東吾はあたりを見廻したが、麻太郎の姿はない。
「麻生の義父《ちち》上が、麻太郎の生母の形見であるからと、届けて下さったのだよ」
謡曲百番の貝合せは珍しいといった通之進に香苗が、
「でも、清水様ではどうなさったのでしょうね。大事になさっていらしたものなのに、貝が一つ、片方だけになってしまっていると申すのは……」
その話を、ずっと昔に聞いたような気がして、東吾は聞いた。
「片方だけになっているのは、なんという曲のものですか」
香苗がさらりと答えた。
「花月《かげつ》ですって。とてもよい曲で……」
ちらと通之進をみて、つけ加えた。
「以前、旦那様もお稽古をなさっていらっしゃいましたね」
今、お茶を、と香苗が立って行ってから、東吾は兄へ向いた。
「手前は不調法者で存じませんが、花月と申すのは、どのような謡曲なのですか」
通之進が弟を眺め、それから桶から出した貝を戻しはじめた。
「花月は親子対面のめでたい曲じゃ。幼い日、さらわれて親と別れた若者が、長じて親とめぐり合う物語だが」
はっとして、東吾は兄の横顔を窺ったが、通之進はそれきり黙って、貝桶の紐を結び、それを東吾へ渡した。
「すまぬが、納戸へしまって来てくれ」
頭を下げて、東吾は納戸へ行った。
亡父の遺愛の品だった碁盤が桐の箱に納めてあるのの隣に貝桶をおき、僅かの間、眺めた。
清水琴江がこの貝桶を麻生家へ贈ったのは、たしか、夫に死別し、まだ幼い麻太郎を伴って、京極家の奥方へ奉公すると決まってからだったと思う。
夏の朝の、狸穴《まみあな》での蝉取りの光景が鮮やかに東吾の瞼に甦っていた。
幼い麻太郎と偶然、出会って、蝉取りの手伝いをした。
あの時、抱きかかえた麻太郎のひなたくさい髪の匂い、東吾を少しも怖れず、ごく自然に蝉取りに夢中だった麻太郎の出生の秘密を、その時の東吾はまだ知らなかったのだが、琴江が麻太郎を伴って、本所の麻生家へ別れの挨拶に来て、宗太郎からそれと知らされた時、東吾は本能的に麻太郎は俺の子と悟ったものだった。
琴江がもし、意識的に麻生家へ贈った貝桶の中から、花月の貝の片方を取りのけておいたとしたら、それは我が子の未来に対する、母の祈りのようなものではなかったかと東吾は思う。
すでに琴江はこの世になく、麻太郎は神林家へひき取られて、通之進夫婦の養子となった。
将来、兄は神林家を、明らかに弟の血を継いでいる麻太郎にゆずる気持でいるのは、東吾にもわかっている。
廊下に麻太郎の声がして、東吾は慌てて納戸を出た。
「叔父上、お出でなされませ」
廊下にぴたりとすわって挨拶をし、東吾が手をさしのべると嬉しそうに立ち上った。
「出かけていたのか」
「はい。素読《そどく》のお稽古に行って参りました」
「そうか」
一緒に居間へ戻ると、通之進が新しい本を手にしている。
「麻太郎は進みが早いぞ。もう礼記《らいき》を読んで居る」
目を細めたのが、日頃の通之進らしくもなく、まさに親馬鹿の表情であった。
兄の屋敷で夕方まで過して、大川端へ帰りかけると、むこうからやって来た畝源三郎に出会った。
「昨夜、三河屋へ盗っ人が入りました」
三河屋というのがぴんと来なくて反応が遅れた。
「門前仲町の三河屋です。怪我人はありませんでしたが、二百両余りの金が盗まれたのです。その中に、隠居の百両も入っていましてね」
それで気がついた。
「富くじの百両か」
「左様です」
盗賊は、金箱から洗いざらい取り出したおかめに対して、他に富くじの百両がある筈だといい、仏壇のひき出しからそれを出させて退散したのだといった。
「すると、知り合いの仕業か」
「富くじの一件は瓦版に何度も出ましたから、いちがいにはいえませんが、盗っ人の首領は女が男の恰好をしていたようだと、三河屋の者が長助に申し立てたそうです」
「女か」
なんとなく、およねを思い浮べた。
あの勇ましい婆さんなら、やりかねないと苦笑いが出る。
「賊は何人だったのだ」
「五人だそうです」
およねには、たしか七人の子がいた。が、よもや、母親が子供をひきつれて、姉の家へ盗っ人には入るまい。
「東吾さん、なにを考えているんですか」
源三郎が笑った。
「長助は念のためだといって、瀬戸物屋を調べていますが……」
およねの店であった。
「源さんは違うと思うんだな」
「およねなら、三河屋の連中はすぐわかりますよ。素人がそう化けられるものではありません」
「それもそうだ」
「実をいうと、似たような押込みが神田のほうにもあったのです」
春のことだったが、本所の回向院《えこういん》の富突きの後、一番富の百両が当った神田の煎餅屋に入った賊の手口とよく似ているといった。
「富くじに当った奴をねらうってのか」
「二度重なると、今まで見えなかったものもみえて来ますから……」
自信のある口ぶりで、源三郎は八丁堀のほうへ去った。
「あいつ、近頃、俺に助っ人を頼まなくなったな」
いささか不満で、東吾は夕風の中を「かわせみ」へ帰った。
それから二日、長助が浮かない顔で「かわせみ」へやって来た。
深川では河内屋のおよねが、三河屋へ入った盗っ人の一味だという風評が立ってしまい、河内屋は大戸を下したままだという。
「あっしが、およねに話を聞いたのが悪かったようでして、いくら、あの晩、およねは家で子供達と問屋から届いたばかりの皿小鉢の荷ほどきをして、夜更けまで働いていたのがはっきりしていると申しましても噂が一人歩きをしちまいまして……」
およねは、その夜、末の二人の子と近所の湯屋へ行き、帰りに夜鳴き蕎麦を食べていた。
「それが、もう九ツ(十二時)近かったってことは、夜鳴き蕎麦の親父や、湯屋の連中も申していますんで……」
三河屋へ押込みが入ったのは四ツ半(十一時)だから、およね一家が盗っ人の筈はないと長助は口が酸っぱくなるくらい、深川中をいって歩いているのだが、一度、噂になるとなかなか消えない。
「四ツ半の押込みってのは、早いな」
東吾がいい出した。
深夜には違いないが、まだ起きている家もある時刻であった。
「左様で……ですから三河屋でもうっかり戸を開けちまったそうでして……」
女の声で、遅くにすまないが、半衿が入用なのでといわれて、悴の五兵衛が戸を開けたところ、五人が押込み、五兵衛に匕首《あいくち》を突きつけた。
「奉公人はみんな湯屋へ行っちまってまして、家にいたのは、おかめ婆さんと五兵衛夫婦、それに五兵衛の二人の子でして……おかめ婆さんはもしも、孫でも殺されたらと夢中で金を出したそうです」
押込んでから金を奪ってひき上げるまでが、あっという間で、家族はみんな息を殺していて、さわぎ出したのは奉公人が帰って来てからだという。
「誰かが、盗っ人の頭がおよねに似ていたといったそうじゃないか」
東吾が訊ね、長助は忌々しそうに手をふった。
「そいつも、よくよく聞いてみますと、一番先に湯屋から帰って来た手代の清吉と申しますのが、三河屋の近くで黒っぽい着物を着て、手拭を吹き流しにかむった女をみかけ、その女がおよねのような小柄で小肥りだったと申すだけのことでして……」
それが押込みの一味とは到底、考えられないという長助に、東吾がささやいた。聞いていた長助が目を光らせ、
「合点です。畝の旦那に申し上げてみます」
そそくさと帰って行った。
畝源三郎の手配と、長助の聞き込みが効を奏して、三河屋へ押入った盗っ人が捕縛されたのは間もなくのことで、その瓦版を読んだ人々が驚いたのは、その盗っ人一味が母親と四人の悴だったからであった。
「まあ、世の中、何があるかわかりませんですね」
お吉が何度も歎息したのは、五人は回向院裏の三軒長屋に別れて住み、各々に行商で生活を立てていた。
「その中の一人は瓦版の読み売りをやってたっていうんですから始末におえませんね」
世間の噂をいち早く知って大金が入ったところにねらいをつける。
それも大金持や大店は敬遠して、奉公人や家族の数も少い店に、何かでまとまった金が入ったという情報をまめに小耳にはさんで来ては盗みを働いていた。
「負け惜しみをいうわけじゃありませんが、盗みに入る時刻が早いところから、盗っ人の一味が物売りの恰好をしているのではないかとは考えていたのです」
江戸の夜は更けても、稲荷鮨やこはだの鮨を売り歩く。その他にも夜鳴き蕎麦の屋台を曳いて通ったり、新内の流しだ、樽拾いだと、夜の間に稼ぐ商売は少くない。
五人は、押入る家が決まると、各々に夜の物売りの姿となって、しめし合せた場所に集り、盗っ人を働いたあとも、物売りをしながら各々、長屋へ帰って来るので、これなら人目に触れてもあやしまれることはない。
東吾が考えたのもそのあたりで、畝源三郎も同じことを思案し、物売りを洗っていたのだったが、流石《さすが》に母親と四人の悴というのは想像外であった。
「なんに致しましても、盗っ人がつかまりまして、河内屋も商売が出来るようになりましたんで、ほっとして居ります」
と長助は安心したが、その後の話では河内屋のおよねがどうも昔のような威勢がなくなって、立板に水で喋りまくらなくなったという。
「近所の者はおよね婆さんのお喋りにほとほと迷惑して居りましたんで、やれやれといった気分なんでございますが、逆に巴屋のおつる婆さんが悪口三昧になりまして……」
おつるは、当りくじの一件からややぼけかけた様子だったが、口のほうは俄かに達者になって、悴や嫁にいいたい放題をいうようになってしまったらしい。
「悴をとっつかまえて、あんたの顔はむじなにそっくりだの、嫁さんにお前の声は腹をすかせた牛みたいだの、奉公人には馬鹿六、間抜けの七之助、豚左衛門と綽名をつけて大声で呼ぶんだそうでして、家中が困り果てています」
そんな話を聞いて数日後、東吾はるいを伴って深川の永代寺へ出かけた。
境内で菊人形を飾っているのを見物に行ったものだが、茶店にあの三姉妹の婆さんが並んで黄粉餅を食べているのが目についた。
で、それとなく近づいてみると、
「大体、あんたの所は行儀が悪すぎるよ。いくら犬のお産より軽いっていったって、七人もの子供ってのは多すぎる。おまけにもう終りにするつもりでおすえとつけて、その後にまた生れて余分の余吉、それでも足りなくって打ち止めのおとめだなんて、よくもまあ、そんなくだらない名前をつけたもんだ。つけられた子こそ、いい迷惑じゃないか、このおたんこなす」
甲高い声でどなりつけているのが、上品な顔付のおつる婆さんで、黙々と姉の悪口に耐えているのが、女瓦版と綽名のあったおよね婆さん、そして、少し離れて、相変らず知らん顔で茶を飲んでいるのがおかめ婆さんであった。
「あれが……例のお婆さんたちですか」
東吾と並んで窺っていたるいが、小さく声を立てた。
おかめ婆さんが、お喋りに夢中のおつる婆さんの皿の上の黄粉餅をすばやくつまんで自分の口にほうり込んだからで、秋の陽ざしの中で三人の老姉妹は各々に幸せそうな顔を並べていた。
[#改ページ]
鬼《おに》ごっこ
一
立秋を過ぎても酷暑のままだった江戸は、月の終りに大雨が二日ほど続いて、漸く凌ぎやすくなっていた。
やがて処暑が来て、白露まであと幾日という頃、
「すっかり、いい陽気になりまして……」
深川長寿庵の長助が、大川端の「かわせみ」へ顔を出した。
午下りの、ちょうど宿屋の一番、暇な時刻で、近所の湯屋へ出かけていた嘉助が団扇を使いながら帳場へすわったばかりで、その嘉助のために麦湯を運んで来たお吉が廻れ右をして、すぐにもう一つ余分の麦湯の茶碗をお盆にのせて来た。
「若先生なら、まだお戻りじゃありませんよ。今日は軍艦操練所のお仕事で品川までお出かけで、お帰りは夜になるとおっしゃってましたから……」
例によって捕物の智恵でも借りようとやって来たに違いないとお吉は思ったのだったが、長助の反応はのんびりしていた。
「するってえと、また練習船にお乗りなさるんで……」
「そうじゃあなくて、横浜から来る英吉利《えげれす》のお役人と、品川のお寺でお会いになるとか。なんなら、うちのお嬢さんに聞いて来ましょうか」
腰を上げかけたお吉に、嘉助が左手の掌を突き出した。
「はいよ、お吉さん、一文……」
お吉がああっと口を押えて、
「いやだ。また、いっちまった」
頬っぺたをふくらませて、帯の間から巾着をひっぱり出し、その中から一文を出して嘉助の掌にのせた。
「全くがっかりしちまうよ。今日はこれで四文……」
「いや、五文だよ」
嘉助が渋紙で作った小さな紙袋をのぞいて、受け取った一文をその中に加えた。
「なんです、いったい」
眺めていて、おおよそ様子はわかったものの、念のためといった恰好で長助が訊く。
「いえね。うちのお嬢……。ちょいと、番頭さん、今のは、なしですよ。長助親分に話をするんだから……」
お吉がまっ赤になって釈明し、嘉助のさし出した手をぴしゃりと叩いた。
「つまりね。うちの御新造さんが、いつまでもあたしや番頭さんがお嬢さんって呼ぶのはおかしいから、もう、おやめっておっしゃって……でも、つい昔っからの癖で、なかなか、うまくいかないものだから、あたしと番頭さんで相談して、お嬢さんっていったら一文、おたがいに取り上げるってとりきめにしたんですよ」
「今だけで、もう二文……」
嘉助が笑い、お吉がむきになった。
「だから、今のは、なしだっていったでしょうが……」
長助が二人を制した。
「それで、今のところ、どっちが勝ってなさるんで……」
「そりゃあ、俺だよ」
嘉助が胸を叩いた。
「昨日っから、はじめたんだが、まだ一日と半分で十六文……お吉さんに取られたのはたったの一文……」
「仕様がないんですよ。あたしのほうが、お、いえ、あの、お傍にいることが多いんだし、第一、御新造さんだなんて、なんだか別の人を呼んでるみたいで……」
「今更、文句のいいっこなしさ。いくら呼びにくくたって、お嬢……いけねえ……」
「番頭さん、はい、一文」
ひとしきり大笑いをしたあとで、長助がやっと自分の用件を口に出した。
「実は、その、一人、お宿をお願え申してえというのが居りますんで……」
嘉助が麦湯の茶碗をお盆へ戻した。
「まさか、どこかに待たせていなさるんじゃねえだろうね」
「いえ、今はうちの嫁が湯屋へ連れて行ったり、髪結いへ寄って来るってんで、一緒に出かけて居りますんで……」
なにから話したものかと、少々、思案してから、長助は筋道立てて説明をはじめた。
長助の悴の長太郎の女房はおさとといって、実家は神田連雀町の蕎麦屋だが、そのおさとの母親は飯倉《いいぐら》の生れであった。
「飯倉二丁目の紙問屋で遠州屋という大店がございますんですが、おさとの母親は嫁入りがきまるまでそこに奉公して居りましたそうで……」
おくらというのが、その母親の名前だと長助はつけ加えた。
「今年、四十八になります」
ところで、その遠州屋にはその当時、おくらと同い年の娘がいたのだが、
「十八の時に、男とかけおちをしてしまいまして……」
相手は近所の山崎屋という水油の仲買いをする店に始終、出入りをしていた伊太郎という行商人で、まず、大店の娘の聟としては身分違いであった。
「その上、お信さん、つまり遠州屋の娘ですが、お信さんと山崎屋の悴、千之助ってのが許嫁《いいなずけ》ってことになってまして、これじゃあ、親が首を縦にふるわけはございません」
「それで、かけおちしたんですか」
世間にはままあることだと、お吉がしたり顔で相槌を打つ。
「すると、そのお信さんが江戸へ帰って来なさったのかね」
のんびりした長助の話に、嘉助がつい先くぐりをしたのだったが、
「いえ、戻って来ましたのは、お信さんの娘のおたよさんでして、お信さんのほうはもう二十二年も前に、実家へ帰って居りましたんで……」
長助の話はいよいよ厄介になった。
「その、順を追ってお話し申しますんで、もう少し御辛抱を願いますが……」
かけおちをして八年目に、お信は伊太郎と別れて、飯倉の実家へ帰って来た。
「子供が三人出来て居りまして、一番上のおたよってのが伊太郎の許に残り、お信さんは吉之助とおみよと、二人の子を連れて江戸へ戻ったようで……」
八年の歳月は頑固だった父親の気持も変えていた。
「跡取りの永太郎って悴が病気で歿っていたこともありまして、結局、お信さんは勘当を許されて家へ入りまして、何年か後には聟を取ったんですが、それも一昨年だったかに歿りまして、今はお信さんの悴の吉之助が遠州屋の跡取りになって居ります」
そして、別れて二十二年、伊太郎の許に残したおたよが江戸へ帰って来た。
「まあ、くわしい事情はわかりませんが、いきなり母親の家へ行くのも具合が悪かったんでしょうか、おたよってのが、飯倉のおくらの実家へやって来まして……」
そこから嫁入り先の神田連雀町まで来たものの、おくらは町内の人々と信濃の善光寺へ出かけて留守であった。
「それで、近所の衆がおくらの娘が深川の長寿庵へ嫁に入っていると教えたそうでして、うちへやって来ました」
長助が話を聞いてみると、いきなり母親の所へ顔を出すのも気がひけるし、せめて一夜、江戸で過し、それなりの覚悟をして会いに行きたいという。
「とても、こちらのようなところへ泊れる身分とは思えませんが、当人が申しますには、金の用意はある、見栄を張るのではないが、親を訪ねる前の晩くらいは身分不相応でも、ちゃんとした宿へ泊りたいと、まあ、そんなことを聞きますと、お願い出来るのは、こちらしか……」
長助がぼんのくぼに手をやり、嘉助が承知した。
「いいとも、そういうことなら、御新造様にはあっしからよくお話しして、部屋の用意をしておくから、いい時分にお連れなさい」
お吉もいった。
「大丈夫ですよ。うちの御新造様はものわかりがいいし、長助親分のおたのみを、今まで一度だってお断りになったことはありゃしませんでしょうが……」
よけいな遠慮は水くさいとまでいわれて、長助はいそいそと深川へ帰って行った。
二
おたよという女が、長助に伴われて「かわせみ」へやって来たのは夕方で、湯屋へ行き、髪結いにも寄って来たとのことで、こざっぱりとはしていたが、身なりはひどく貧しげであった。
途中、新しい下駄と半衿を買って来たという包を大事そうに抱え、お吉に案内されて桐の間へ入った。
あらかじめお吉から事情を聞いていたるいも帳場へ出て来て挨拶をし、どことなく不安そうな長助に、
「大丈夫、御膳でもすんだら、それとなく明日、どうなさるかうかがってみます。その上で、うちの旦那様とも相談しますから……」
例によって女長兵衛で引き受けた。
長助が礼をくり返して帰り、るいも居間へ戻って来ると、追いかけるようにお吉が入って来た。
「あの娘さん、もう三十になるんですと。それにしては若くみえますですね」
せいぜい、二十五、六と思ったと首をすくめ、
「お父つぁんと一緒に、ずっと行商の旅ぐらしだったそうですよ」
随分、苦労をしただろうのに、その割には荒くれていないと感心している。
「お嫁には行かなかったのでしょうね」
三十という年齢を考えて、るいはいったのだが、
「そこまでは聞きませんでしたけど、ずっと子供の時からお父つぁんと二人だったといってましたから……」
夕餉は長寿庵ですませて来たので要らないといっているので、あとでちょっとしたおしのぎになにか持って行ったほうがよいだろうかと訊き、お吉はそそくさと台所へ去った。
秋風と共に江戸へ出て来る客が増え、今夜の「かわせみ」はもう空いている部屋はない。
娘の千春を湯に入れて、晩餉を食べさせ、暫く相手をしてやっていると、
「お父様がお帰りになるまで起きているの」
と、いう口の下から居ねむりが出て、布団へ連れて行くと、すぐすやすやと寝息を立てた。
で、るいが台所へ行ってみると、板前が小さな塗りの鉢にちらし鮨を作っている。
「桐の間のお客様に、どうかと思いまして」
お吉の指図だと聞いて、るいはそのちらし鮨と大ぶりの筒茶碗にたっぷりのお茶をいれて、自分で桐の間へ運んで行った。
「ごめん下さいまし。もうおやすみでございますか」
廊下から声をかけると、
「いえ、まだ起きています」
はっきりした返事があった。障子を開けて、
「お蕎麦だけでは如何かと思いましたので」
お盆の上を見せると、
「まあ、きれいな……」
子供のような声を出した。
「召し上って頂けますか」
部屋へ入って、るいはいい位置にお盆を置いた。
中庭にむいた張り出し窓を開けて、おたよは空でも眺めていたのか、立ち上ってお盆の前へ来た。
部屋にはまだ夜の支度が出来ていなかった。
「お疲れでございましょうに。すぐ、布団を敷かせますので……」
ちらし鮨を珍しそうにみているおたよにいうと、
「いえ、先程、お女中さんがおっしゃって下さいましたんですが、もう少し、あとにしてもらいたいと勝手を申しまして……」
すまなさそうに弁解した。
「なんですか、江戸へ出て参りまして、それだけでも落つきませんのに、このような立派なお宿へ泊るのも、はじめてのことで、わくわくしてしまって……」
るいの勧めたちらし鮨の箸を取った。
「こんなきれいな御膳を頂くのも、はじめてなのでございます」
「お口に合いますか、どうか……」
「おいしゅうございます。まるで、夢のような……」
「どうぞ、ごゆっくり。のちほど、新しいお茶を持って参じます」
部屋を出て、廊下を戻って来ると、お吉が来た。
「お嬢さんが、お持ち下さいましたんで……」
といってしまってから、あたりを見廻して、
「よかった、番頭さんのいる前じゃなくて」
ちょろりと舌を出した。これでは、るいも叱りようがない。
「よけいなことかも知れないが、明日、飯倉へ行かれるにしても、お一人ではさぞかし敷居が高かろうと心配なのでね」
るいの言葉に、お吉があっけらかんと答えた。
「長助親分は自分がついて行くつもりみたいですけど……」
「それはどうかしら。ただ、長寿庵の御主人という立場ならまだしも、お上の御用を承っている人とわかってしまうと、むこうさんが変にかまえて本音で話が出来なくなりはしませんか」
長助は岡っ引としては温厚で粗野なところがないが、それでも見る人が見れば、堅気の旦那衆とは肌合いの違いがわかってしまう。
「ですが、お嬢さん、両親が夫婦別れをした時に、父親のほうに残った娘さんが、お父つぁんが歿って、母親のほうに帰って来たわけですから、別に厄介はないと思いますけど……」
「それはそうなんだけど、あちらの御様子をみていたら、なんだか、もう少し事情があるような感じがしたのでね」
とにかく、今はちらし鮨を召し上っているから、布団を敷くのはもう少しあとにしておくれといい、るいはそのまま帳場へ行った。
嘉助に同じことを告げると、こっちはお吉ほど単純ではないので、
「そりゃあ、おっしゃる通りで……。普通なら、血を分けた母親を娘が訪ねて行くのに、なんのためらいもあるわけがございません。それを、まっすぐ訪ねて行かず、昔の知り合いを頼って愚図愚図しているのは、なにか厄介な事情があるに違いありません」
一番いいのは、おたよが訪ねて行った相手、つまり、昔、遠州屋に奉公していたというおくらがついて行ってやることだろうが、あいにく善光寺へ出かけていて江戸にいない。
「筋からいえば、おくらさんの娘のおさとさんでしょうが、まだ年も若いし、小せえ子供もいることですから……。いっそ、お吉さんでもつけてやったほうが、万一、話がこじれた時に、おたよさんをここへ連れて帰ってくるにも都合がいいかも知れません」
一夜の客には違いないが、他ならぬ長寿庵と少々、かかわりのある人だけに、そっけない真似も出来ますまい、といわれて、るいは苦笑した。
「お吉はそそっかしいし、あんまり頼りに出来ないけれど……」
嘉助も笑った。
「そりゃあ、内ではそんな所もございますが、亀の甲より年の功で、けっこう、やる時はやりますから……」
帳場で打ち合せをして、るいは再び茶の用意をして桐の間へ行った。
おたよはちらし鮨をきれいに食べ終えて、煙草をのんでいた。外見はお吉がいうように若々しいが、そんな恰好には三十女の落つきのようなものも窺われる。
「御馳走様でした」
ちょっと恥かしそうに煙管を煙草盆に叩いて、しまった。
「お酒はお父つぁんもやりませんでしたので……でも、煙草はつい二、三年前から味をおぼえて……」
るいは柔かくうなずいた。
「煙草のみの方はよくおっしゃいますね。この味を知らないのは、極楽を知らないようなものだと……」
「気分が落つかない時には、いいように思うんですけどね」
お内儀さんは江戸のお生れですか、と訊いた。
「ええ、すぐ、この近くですけど……」
長助が何も話していないと気がついて、るいはさりげなく答えた。
「親御さんは御健在で……」
「いえ、母は私がまだ幼い頃に……父は歿りまして、もう十年を越えました」
「御兄弟は……」
「私は一人っ子で……」
「左様ですか」
僅かに間をおいて続けた。
「夫婦別れなぞ、するものではございませんね。好いて好かれて一緒になったのなら、尚更、なにがあっても添い遂げてくれませんことには、子供がつらい思いをします」
自分の両親のことをいっていると思い、るいは言葉を探しながら答えた。
「私も、そのように思いますけれど、世の中には、さまざまの事情を抱えてお出での方がございますから……」
「お内儀さんは、おつれあいは……」
「ございます。娘も一人……」
「お幸せでございますね」
「ありがたいことだと手を合せて居ります」
おたよが、視線を窓へむけた。
開けっぱなしの障子のむこうに月がみえる。
「随分、お月様をみました。おっ母さんがいなくなった晩も、お父つぁんと身を寄せた信州のお寺の庭からも……宿場のはずれで野宿をした時も……お父つぁんの野辺送りの夕方にも……」
指先で目のすみを押えた。
「今、思い出すと涙が出ますけど、その時にはちっとも悲しくなくて、ああ、いいお月様だとか、お父つぁんもとうとうお月様の所へ行っちまったんだなと……」
「どちらでお歿りになったのですか」
「沼津でした。前の日が雨で私達、行商に出ませんでした。お寺に泊めてもらっていて……お父つぁん、どういうわけか、坊さんと仲よくなるのが上手で、よくその土地のお寺へ泊めてもらいました。木賃宿よりゆっくり出来るし、本堂や境内の掃除を手伝ったりするのは後生のためにいいからって……」
るいがうなずくのをみて、茶碗に手をのばした。
「一日中、雨を眺めて煙草をのんでいたんです。いつもなら、薪を割ったり、拭き掃除をしたりして、ちっともじっとしていない人が、ぼんやり、いつまでも雨降りをみていて、あたしがお粥を炊いて来たのを、梅干で、旨いなあって一膳食べて、それから丸くなって寝てしまいました。朝になって、いいお天気なので境内の掃除に出かけようと声をかけたら、返事がありませんでした」
「それは、お苦しみもなくて……」
「ええ、坊さんが本当に極楽往生だって……」
「おいくつでいらっしゃいました」
「おっ母さんより四つ上でしたから、五十二でした」
「まだ、お若いのに……」
「でも老《ふ》けていました。幸せなことがなかったとは思いませんでしたけど、苦労を子供の頃から背負って生きた人でしたから……」
「沼津から、江戸へ出て来られましたの」
「いいえ、以前、身を寄せたことのある信州のお寺へ、お骨をおさめて来ました。そこの坊さんはお父つぁんの叔父に当りますので……お父つぁんにとっては、たった一人の身よりなんです」
父親の両親はとっくに歿って居り、兄弟は村を出て、行方知れずのままだといった。
「お父つぁんも江戸へ出て来て、水油の行商をしていたそうです」
遠州屋の娘であるおたよの母親と知り合った頃のことだとるいは気がついたが、黙っていた。
「おっ母さん、あたしの顔、おぼえているでしょうかね」
だしぬけに、おたよがいった。
「あんた、誰だいなんていわれたら困っちまう」
「おぼえてお出でですよ。我が子ですもの。もし、見間違えたとしても、すぐ気がつきます」
「別れた時、七つでしたからねえ」
「もし、さしつかえないようでしたら、明日、うちの者を飯倉までお供させます。おくらさんの江戸での知り合いとでもいうことにして……」
おたよが少し、考えるそぶりをみせた。
「江戸は勝手がわかりませんで、飯倉のおくらさんの実家へ行くのにも苦労しましたし、そのあと連雀町へ行き、深川へたどりつくまで、何度も人に訊ねました。もし、どなたかついて行って下されば助かります」
「では、そのように……」
夜が静かに更けていた。
「お布団の支度をさせましょう、ゆっくりおやすみ下さいまし」
廊下へ出ると、お吉がとんで来た。
「若先生がお帰りです」
帳場のほうで東吾が嘉助に話している機嫌のよい声が聞えている。るいはお盆をお吉に渡して、小走りに出て行った。
三
翌朝、といっても巳《み》の刻《こく》(午前十時)近くに、おたよは「かわせみ」を出た。
前の晩に、るいから話をされていたお吉も、それなりに張り切って支度をし、嘉助が駕籠を呼びに行こうとすると、おたよが、
「歩いて参ります」
という。「かわせみ」のほうはびっくりしたが、おたよはそれが当然といった顔で新しい下駄を履き、丁寧に挨拶をして暖簾《のれん》をくぐった。お吉も慌ててその後を追って行く。
「大丈夫かね、お吉さん」
嘉助が心配顔で見送ったが、どうにも仕様がない。
「お吉には余分にお金を持たせたから、適当な所で駕籠を拾うのでは……」
と、るいは呟いたが、長年、行商をして歩き廻っていたおたよが、お吉の足許を気づかってくれるかどうか。
なにしろ、今朝のおたよは母親に会いに行くのに気持が昂ぶっているらしく、とても他人を思いやる余裕はないように見えた。
おたよが出て行くのと一足違いに長助が来た。
「お吉さんが行って下さいましたんで……そりゃあ、申しわけのねえことです」
しきりに恐縮したが、安心もしていた。
「そういっちゃあなんですが、なんといっても実の娘のことで、遠州屋のお内儀さんも必ず喜んでくれるに違えありません」
長助のいうのを聞いて、るいはふと訊ねた。
「遠州屋のお内儀さんだけど、なんで娘さんを別れた人の許に残したんでしょうね」
長助も首をひねった。
「おたよさんの下の悴と、その下の娘は自分が連れて戻ったそうですが……」
まだ七つだった娘を一人だけ父親の手許においた理由がわからない。
「まさか、父親が手放さなかったってことでもございますまい」
母親のほうは、実家へ戻れば一応、暮しのめどが立つが、父親には何もなかった筈である。実際、昨夜のおたよの話から察しても、寺の厄介になり、旅から旅への行商だったようである。
なんにせよ、父親の許に残ったばっかりに今日まで苦労したおたよにも、母親と再会すればいい日が廻って来るに違いなかった。
疲れ切ったお吉がおたよを伴って大川端へ帰って来たのは、ぼつぼつ日が暮れようという時刻であった。
「お吉さんには本当に御迷惑をおかけしました。いろいろと御世話になってしまい、すみませんでした」
丁寧にるいへ挨拶して、自分の部屋へ去った。
「お吉、いったい、なにがあったの。わけを話しなさい」
口もきけないほどぐったりして、それでも漸く足を洗っているお吉を、かわいそうだとは思いながら、るいがせかしたのは、おたよの様子が只事とは思えなかったからで、果して、
「どうもこうもないんですよ。お嬢さん」
やけくそのようにお吉が喋り出した。
「飯倉二丁目の遠州屋というのは、そりゃあ立派な大店でございました。おたよさんがためらっているので、私が奉公人をつかまえまして、お内儀さんを呼んでくれと申しましたら、その声が聞えたのか帳場のむこうから女の人が出て来まして、それが、おたよさんをみたとたんに、まさか、おたよって叫んだんでございます」
「おたよさんが、わかったのね」
昨夜、母親が自分をおぼえているかどうかと案じていたおたよであった。さぞかし嬉しかったろうとるいは目をうるませた。
「それで、おたよさんは……どうなすった」
るいと一緒に聞いていた嘉助が体をのり出して訊ねた。
「おたよでございます、おっ母さんって、小さな声で……おたよさん、もう泣いていなすって声が出なかったんです」
「そうでしょうとも……」
るいがいそいで手拭を取り出した時、お吉が、ぼそっといった。
「そうしましたらですね。むこうのお内儀さんが、なにしに来たのっていいなすったんです」
「なんですって……」
出かかっていた涙が急に止った感じであった。
「なにしに来たって……会いに来たんじゃありませんか」
「おたよさんが何もいわないもんですから、私がいいましたんです。こちらさんはお父つぁんがお歿りになって、それで江戸へ出ておいでなすったんですと」
お吉の目から涙があふれ出したので、るいは自分の手拭を渡した。
「遠州屋のお内儀さん、さぞ、驚いて居られたでしょう」
お吉が手拭で顔を拭いた。
「別に驚いてはいませんでした。そうだったのかいっていいなすって、これからお前はどうするつもりかと……」
「そんなことをおっしゃったの」
「さいでございます。私でさえ、耳を疑いましたです。でも、おたよさんは泣くばっかりで……そうしましたら、お内儀さんが、おたよさんに、お前はわたしと別れる時、なんといったかおぼえてお出でかっていいなさいました」
「別れる時、なんといったかですって……」
「おたよさん、涙を拭いて、おぼえていますって……で、申しわけありません。とんだお邪魔を致しましたって、すっと店を出て行っちまったんです」
仰天してお吉は後を追い、とっつかまえたものの、おたよはなんにもいわない。
「そのまま帰るのもなんでございますから、飯倉の仙五郎親分の家に寄りまして、ざっと事情を話しましたところ、おくらさんが善光寺へ行ったのは飯倉の昔なじみの人と一緒で両親の供養のためだってわかりました。ですからもし、神田へ帰る前にこっちへ寄ったら、うちのほうへ声をかけてくれるよう頼みましたんです」
すると、仙五郎が午餉《ひるげ》もまだだろうからと近くの鰻屋へ連れて行ってくれて、鰻飯を御馳走してくれたが、お吉はともかく、おたよは半分も咽喉を通らない状態だったという。
「仙五郎親分が駕籠を頼んでくれまして、おたよさんを乗せ、私も乗らせて頂きまして、なんとか帰って参りましたんでございます」
話し終って体中から力が抜けてしまったようなお吉を休ませて、るいは途方に暮れた。
さぞかし、手を取り合って再会を喜んだだろうと思っていたのに、おたよを迎えた母親の態度は、どう考えても解《げ》せない。
「別れた時に、いったい、何があったんでございましょうねえ」
嘉助も腕をこまねいた。
その時、おたよがやって来た。この家へ来た時と同じように小さな包を抱え、るいの前へ手を突いた。
「いろいろお世話になりましたが、これでお暇《いとま》を申します。ほんの僅かで、きまりが悪いのですけれど、これをお納め下さいまし」
さし出した紙包は、今朝、お吉と連れ立って行く際に宿賃だと出したのを、るいがせめてものはなむけだと押し返したものであった。
「お待ち下さい。間もなく日が暮れます。こんな時刻にいったい、どこへ……」
「浅草のほうに、私ども行商人に品物をおろしてくれる家がございます」
実をいうと、父親と旅をしている時、二度ばかり行ったことがあると打ちあけた。
「江戸へ参りましても、江戸では商いを致しませず、仕入れだけですぐに立ち去りました。ですが、この家のことはよくおぼえて居りますので……」
嘉助がいった。
「なにも、今すぐお発ちなさることはありますまい。今夜はお泊りなすって明日……」
「こちらは、私共が泊めて頂けるようなお宿ではございません。身分不相応で……」
るいがいった。
「宿賃のことでしたら、どうぞ御心配なく」
「ありがとう存じます。でも、こうして皆様に顔をみられているのも恥かしいのです」
飯倉で実の母親にひどい仕打を受けたことなのかと、るいは胸が痛くなった。
「不躾なことを申しますが、何かお母様との間に誤解があったのではございませんか」
おたよが首を振った。
「いえ、おっ母さんのいったことは正しいのです。もしかすると、そういわれるのではないかと怖れていました」
「いったい、何を……」
「いってはならないことをわたしはいってしまったようなのです。七つの子は、それほどに思っていったのではありませんでしたけど、自分がだんだん大人になって来て、それがどんなひどいことだったのか、わかるようになりました。だから、もし、おっ母さんがあの言葉をおぼえていたらと心配でした」
心配が的中したと、おたよは涙ぐんだ。
「おっ母さんのいう通りなのです。あたしは怨んでいません」
「しかし、お前さん、これからどうやって……」
嘉助の言葉を、おたよは制した。
「行商を続けます。今までそうやって暮して来たんですから……これから先も……」
お辞儀をして、まだ上りかまちに脱いだままになっていた自分の下駄を履いた。
「さようなら、お世話になりました」
敷居をまたぐのに、るいは跣《はだし》で追った。
「お願いだから、おたよさん、浅草で用事をすませたら、もう一度、ここへ戻って来て下さい。私達、なにもいいません。なにも聞きません。だから……」
おたよがふりむいて、もう一度、お辞儀をし、そのまま、まっしぐらに走り去った。
四
「かわせみ」の人々にとって重苦しい一夜があけて、るいはいつものように東吾の朝餉の給仕をしていた。
「他人のことで、そう、くよくよするなよ。世の中の人間は大なり小なり厄介の種を抱えているものだ。そいつをみんな背負い込んだ日には長生き出来ないぞ」
昨夜から何度もくり返した慰めを東吾が口にした時、嘉助が廊下をやって来た。
「実は、遠州屋のお内儀さんが飯倉の仙五郎親分と一緒にみえて居りまして……只今の時刻は旦那様がお出かけ前だから困るとは申し上げたんですが……」
るいが返事をする前に東吾がいった。
「俺はかまわないよ。仙五郎が一緒なら、二人ともここへ通してくれ」
嘉助はちらとるいの顔色を窺ったが、そのまま頭を下げて戻って行った。
「私、お目にかかりたくありません」
小さく、るいはいったが、
「まあ、むこうさんの言い分も聞いてみるものだ。話は一方口《いつぽうぐち》だけですますものじゃないぞ」
年下の亭主はわかったようなことをいい、さらさらと残っていた飯を茶漬にしてかき込んだ。
やがて、嘉助に案内されて、恐縮し切っている仙五郎の後から初老の女が入って来た。
るいがはっとしたのはその女の顔がおたよにそっくりだったからで、お辞儀をする恰好から、ちょっとした物腰まで、母娘とはこんなにも似るのかと驚くほどである。
「かような時刻にお邪魔を致しまして、まことに申しわけございません。昨日は娘がお世話になりましてありがとう存じました」
東吾が箸をおいていった。
「あんた、二十二年前に、なんで娘を亭主の手許において来たんだ」
遠州屋のお内儀、お信が手をついたまま答えた。
「子細はのちほどお話し申します。どうぞ、娘をお呼び下さいまし。昨日のことを、おたよに詫びたくて、夜のあけるのを待ちかねて出て参りました」
るいが小さく声を上げ、東吾が返事をした。
「おたよなら、もう、ここには居ないよ。昨夜、飯倉から帰って来てすぐに、ここの連中の止めるのもきかず、発って行っちまったそうだ」
お信の顔色が変った。
「それは、本当でございますか」
「うちの内儀さんなんぞ、跣で追っかけたが韋駄天《いだてん》みてえに走って行ったとさ」
「いったい、おたよはどこに……」
「ここの家の者には、浅草の行商の者に卸《おろ》しをする店へ行くといったそうだが……」
お信が仙五郎をふりむいた。
「お願い申します。私をそこへお連れ下さいまし」
仙五郎が当惑した。
「そりゃあ、お内儀さん、無理でございますよ。浅草にはそういった卸しの店がごまんとありますし、昨日、そこへ行ったからって、今まで愚図愚図していることはございません」
卸しの店は宿屋ではないと仙五郎になだめられて、お信はいったん上げた腰を力なく下した。
「やっぱり、昨夜の中《うち》におうかがい申すべきでした。いいえ、おたよにあんな酷いことを申すのではございませんでした」
悲しみの余り、涙も出なくなっているお信へ、東吾はいたわるような目を向けた。
「どうも、二十二年前の別れ方がしこりになっているらしいな」
その言葉で仙五郎が腰を上げた。
「あっしは嘉助どんの所で、お待ち申しています」
出て行くのをみて、るいもいった。
「私も御遠慮させて頂きます」
「いいえ、お内儀さんはここにいて下さいまし。どうぞ、この愚かな母親の気持を聞いて頂きとうございます」
居間の中がひっそりした。
耳に聞えて来るのは、大川を行き来する舟の櫓《ろ》の音ぐらいである。
自分から聞いてくれといったにもかかわらず、お信は何から話したものかと迷っている様子であった。
それを見て東吾のほうが口を切った。
「うちの内儀さん達が知っているのは、あんたが若い時分に伊太郎という男とかけおちをして、三人の子をもうけ、二十二年前に別れて実家へ帰ったということぐらいらしいが……」
お信が顔を上げた。
「その通りでございます」
「さっきも訊いたが、どうして男のほうにおたよを残したんだ」
「三人とも、連れて実家へ帰ろうと思って居りました。ですが、おたよは私を責めました。おっ母さんは貧乏に飽きて、お父つぁんを捨てるのか。お父つぁんが何故、おっ母さんと別れるといい出したのか、本当の気持がわからないのか。お父つぁんはおっ母さんや私達がかわいそうになって別れる気になった。どうして、そのお父つぁんを捨てて行けるのかと……」
その時の光景が瞼に浮んだようで、お信は遠い目になり唇を噛みしめた。
「おたよの申す通りかも知れません。あの人と江戸を出て、旅から旅の暮しが八年。どこへ行っても落つくことが出来ず、まともな仕事もみつからず、明日のあてもない毎日に、つい、実家のことを思い出します。もし、両親の許で暮していたなら、子供達は腹をすかせることもなく、寒さに凍えもしなかったろう。桃の節句には雛人形を飾り、五月になれば鯉のぼりを喜ぶ顔もみたであろうと、思えば思うほど情なさがつのりました」
子供達にかこつけるようだが、とお信は言葉をえらびながら話し続けた。
どちらかというと感情に流されず、淡々と話そうとしているのを、みていて、るいはおたよが自分に身の上話をした時と同じだとまたしても、母娘の相似を思ってしまう。
そうしたるいの気持とは無頓着に、お信はいった。
「私も、あの人に愛想がつきていました。まともに妻子を養うことも出来ず、子供が飢えて泣いても手をつかねているような男に腹が立って来て……」
語尾が消えて、そのまま黙り込んだお信に東吾が訊ねた。
「あんたのいうことはよくわかった。俺ももっともだと思う。ただ、気になるのは、おたよはここを出て行く時、自分はとりかえしのつかないことをいってしまった。七つの時はたいしたことではないと思っていたが、大人になるにつれ、それが母親にとってどんなにひどいものだったかと気がついて、ずっと後悔していたというような話をしたそうだ。それは、あんたを責めたことなのか」
お信がゆるく首をふった。
「親子と申すものは、どんなにひどい言葉を投げつけ合っても、少し経てば、すぐ忘れてしまいます。決してあとには残らないのが親子でございましょう」
「では何故だ。あんたも二十二年ぶりに会った娘に、お前が何をいったかおぼえているかと訊いたそうではないか」
「それは……」
畳に片手を突き、お信は青ざめた。
「いいたくなかったら、聞こうとは思わないが……」
東吾の言葉をはね返すようにいった。
「おっ母さんは、汚いっていったんです」
「汚いだと……」
東吾より先に、るいが女の直感で気がついた。
「どうぞ、もう、おやめ下さい、お話しにならずともよろしゅうございます」
お信の顔に泣き笑いが浮んだ。
「下の二人は六つと四つでしたから、母親が生きるためになにをしたか知りはしません。でも、七つのおたよにはわかっていた筈です。だから……でも、それを強いたのは父親だと承知もしていた筈なのに……」
流石に、東吾が口をつぐんだ。
るいにしても、いうべき言葉がみつからない。
生きるために身を売った母親が、我が娘から汚いと罵られた時、お信の心がどれほど傷ついたか。
それを口にしてしまった七つの子は、自分が母の年齢になって、漸く言葉が鋭い刃になって母親を切り裂いていたのに気がついた。
「すまない。俺達が迂闊だった。聞いてはならないことを聞いてしまった」
東吾が詫び、お信は穏やかな表情に戻った。
「昔むかしのことでございます」
口に出して、むしろ、心が軽くなったといった。
「私はどうかしていたのでございます。おたよが帰って来てくれて、嬉しくて心が躍り上っていたというのに、何故、口ではあのようにいってしまったのか。昨夜はどれほど泣きましたことか……」
実をいえば、後悔はおたよが店を出て行った直後に起っていたとお信は情なさそうに告げた。
「手代にあとを尾《つ》けるように……おたよがどこへ行ったか見届けて来いと申しました」
手代はおたよとお吉が仙五郎の家へ入るのを確かめて、帰って来て報告した。
「ですから、夜があけるのを待って、すぐに仙五郎親分を訪ねまして、こちら様へつれて来てもらいました」
だが、娘はすでに飛び去って、その行方は知れなくなった。
「縁がないでは片づけられない思いでございます」
万一、おたよがここへ来るようなことがあったら、どうか自分の気持を伝え、飯倉へ帰って来るよう説得してもらいたいと哀願して、お信は待っていた仙五郎と共に、しおしおと「かわせみ」を辞した。
「なんていう母親ですかねえ。今頃になって娘を探しに来るくらいなら、あの時、なんだって、あんなひどいことをいったんですかねえ」
お吉はしきりに腹を立てたが、お信の話を東吾もるいも、話すわけにはいかない。
東吾は長助の所へ行って、母娘の心の深いところにあるものについては語らず、ただ、母親が後悔しているので、なんとかおたよの行方について探せないものかと相談し、律義な長助は浅草を歩き廻って、おたよの手がかりをつかもうとしたが、すべて徒労に終った。
そして十日、飯倉の仙五郎が、善光寺詣でから帰って来たおくらを伴って「かわせみ」へ来た。
「おたよさんが、こちら様へ御厄介になりましたそうで……」
仙五郎から遠州屋母娘のいきさつを知らされて、どうしても聞いてもらいたいとやって来たのだという。
「遠州屋のお内儀さんは長いこと、おたよさんのことを心配し続けてお出でだったんです。無事でいてくれるか、病んではいないだろうかと、近所のお不動さんに跣まいりまでなすっていて、お正月が来るたびに、下の娘さんと同じように、おたよさんの晴着を作って……下駄まで新しいのをお買いになって……」
おくらが泣き崩れ、るいは「かわせみ」から飯倉へ出かけて行く朝、おたよが江戸で買った新しい下駄をおろして履いたのを思い出した。
母と娘の思いは、そんなところでもつながっていたのかと切ない気持であった。
話しては泣き、泣いては話したおくらが、仙五郎にうながされて「かわせみ」から帰る際、るいも嘉助と共に外まで送って出た。
「かわせみ」の店の外では、近所の子供が鬼ごっこをしていた。
一人の子が目かくしをして鬼になり、他の子供が手を叩いて、その周囲を走り廻る。
「あたしが江戸に居りさえしたら、おたよさんに、ちゃんとお内儀さんの気持を話すことが出来たのに……」
愚痴をくり返しながら、おくらは手拭を目にあてて、とぼとぼと歩いて行く。
軒下にたたずんでいるるいの耳に子供達の声が聞えていた。
「鬼さん、こちら、手の鳴るほうへ」
鬼は必死になって手をのばすが、子供達はひょいひょいと逃げ廻って捕えられない。
嘉助が呟いた。
「どうも、遠州屋のお内儀さんとおたよさんのようで……」
誰かが、つかまえられる気になって鬼の前に立ってやらない限り、目かくしをした鬼に仲間を捕える機会はなさそうに思える。
「かわせみ」からお吉に抱かれた千春が外へ出て来た。面白そうに鬼ごっこを眺めている。いつまで経ってもつかまえられないのに腹をたてて突っ立ってしまった鬼に、子供達が声を大きくした。
「鬼さん、こちら、手の鳴るほうへ」
[#改ページ]
烏頭坂今昔《うとうざかこんじやく》
一
よく晴れた秋の日の午後、神林東吾が講武所から帰って来ると、大川端の旅籠「かわせみ」の前に羅宇《ラウ》屋の荷がおいてあって白髪頭の職人が仕事をしている。
その斜め前に、これもしゃがんで職人の仕事ぶりを眺めているらしい嘉助の後姿がみえて、別段、なんの話をしているというのでもなさそうだが、老人二人を取り囲む雰囲気がいい感じであった。
で、東吾は声をかけなかったのだが、そこは長年、定廻りの旦那の若党をつとめて来た嘉助のことで、まだ足音が聞える距離ではないあたりで、もう、こちらをふりむいた。
「若先生、お帰りなさいまし。御苦労様でございました」
素早く暖簾の奥へも声をかけて、東吾へ走り寄って来る。
「珍しいな、羅宇屋か」
「はい、万三さんが廻って来ましたんで……」
二人の声で、万三と呼ばれた羅宇屋の親父が立ち上って頭を下げた。年頃は嘉助とほぼ同じくらいに見える。
その親父が手にしているのは嘉助がいつも使っている煙管《キセル》で、竿の部分をすっかり取り替えたらしく、見違えるほどきれいになっている。そして、もう一本、台の上にのせてあった煙管は親父がくるくると布に巻いて革袋に入れ、
「それでは、こちらはおあずかり申して参ります」
と挨拶した。
ちょうど千春の手をひいて外まで迎えに出て来たお吉がそれを見て、
「なんとか、うまいことなおりますですかね」
と心配そうにいう。それで東吾は気がついた。
数日前、神林家から麻太郎が遊びに来ていた時、なんの話から始まったものか、お吉が曲芸の独楽《こま》廻しのことを身ぶり手ぶりでやってみせた。早速、千春が客用の煙管を持ち出して来て、この上で独楽を廻そうといい、麻太郎が必死になって、ああだこうだとやっている中に煙管の雁首の部分がおかしくなってしまった。
帰って来た東吾がいろいろやってみたが、どうも煙の通りがよろしくない。
「こいつは羅宇屋にでもみせないことには駄目だな」
といった煙管が、今、羅宇屋があずかって行こうという品物だったのである。
で、東吾もお吉の問いに、羅宇屋の親父がなんと返事をするかと耳をすませたのだが、万三の返事は、
「へえ、悴がなんと申しますか。なんとか目立たねえように修理が出来るとようございますが……」
いささか頼りない返事であった。
るいに出迎えられて、東吾はそのまま奥へ入ったが、お吉のいない時をみはからって、
「あの煙管、えらく厄介なことになっちまったらしいな」
と訊いてみると、
「独楽遊びのせいではございませんの」
と苦笑した。
「わたくしもお吉も煙草をたしなみませんので、うっかりして居りましたのですけれど、長年、お客様方がお使いになって雁首の所が傷んで居りましたの。万三さんにいわれて、それならもう新しいのを買うと申しましたら、いい品物なのでもったいない、悴さんが錺《かざ》り職なので、うまく修理が出来るか、あずからしてもらいたいって……」
「成程、そういうことだったのか」
「嘉助が、あの羅宇屋さんを贔屓なんでございますの。あの親父さんのいうのに間違いはないので、まかせてみましょうと勧めるものですから……」
「そりゃあ、餅は餅屋というからな」
廊下を嘉助が宿帳を持ってやって来た。季節がよくなって商用で江戸へ出て来る人々が多くなったらしい。
るいが宿帳へ目を通している間に東吾は嘉助に訊いた。
「万三という羅宇屋だが、住いはどこなんだ」
「王子だそうでございます。|うとう《ヽヽヽ》坂と申す坂の近くだと聞いたことがございます」
「|うとう《ヽヽヽ》坂」
烏の頭と書く烏頭かと東吾は考えた。
「王子とは随分、遠くから来るんだな」
「普段はせいぜい不忍池《しのばずのいけ》あたりまでしか廻っていないそうですが、この先の鹿島屋さんの御隠居が駒込の御知り合いに紹介されて、以来、大層なお気に入りで月に一度、二ヵ月に一度でもよいから来てもらいたいと声をおかけになりましたそうで。鹿島屋さんで評判を聞いた者が、忽ち常連になりましたんで、この界隈でも十軒以上のお得意先が出来ました」
八丁堀の組屋敷の中にも二、三軒、万三を贔屓にする家があるといった。
「すると、嘉助が知り合ったのは、庄司家に奉公していた時分からなのか」
「いえいえ、そんな古いことではございません。手前は鹿島屋さんの帰り道に、この前を通りました万三さんに、偶然、声をかけまして……」
三年ほど前からのつき合いだといった。
るいが宿帳を嘉助に返し、客の部屋について、少々の打ち合せをはじめ、東吾は千春を抱いて縁側から庭を抜け、大川のふちへ下りた。ちょうど物売り舟が来ていて、お吉が買い込んだ芋だの菜だのを女中に運ばせている。
「千春嬢様、黍団子《きびだんご》がございますよ。召し上りますか」
千春が、はあいと嬉しそうな返事をし、東吾の腕の中で大きく体をゆすった。
翌日、今度は軍艦操練所へ出かけた東吾がいつもよりやや遅くなって「かわせみ」へ戻って来ると、早速、お吉が報告した。
「今日、万三さんが来まして、煙管がそりゃあきれいになりましたんです」
得意そうに持って来たのをみると、雁首も吸い口の部分も磨かれて、新品同様になっている。
「一服つけてごらんなさいますか」
傍から嘉助もいうので、東吾は客用の刻みをつめて深々と吸ってみた。たしかに、煙草が旨い。
「こりゃあ、たいしたものだな。万三の贔屓の多いのがよくわかるよ」
東吾が賞めて、嘉助は正直に嬉しそうな表情になった。
「雁首の大事な所が少々、いびつになって居りましたそうで、そこんところを錺り職の悴さんが修理をしたらしゅうございます」
雁首に彫ってある細工を傷つけないように、いい手ぎわで仕上っているという。
「親子だけあって、息子もいい腕なんだな」
「手前もそう申したんですが、実の息子ではなく、娘さんの聟だそうで……」
「ほう……」
「以前、聞いたことでございますが、その娘さんもお内儀さんの連れ子とのことでして……」
生れは川越のほうで二十年ほど前に江戸へ出て来て羅宇屋になった。
「お内儀さんというのは、その頃、世話をしてくれる人があって一緒になったらしゅうございます」
「万三というのは、いくつだ」
「五十八だとか」
二十年前だと、三十八であった。
「遅い嫁取りだな」
「内儀さんのほうは一ぺん嫁に行って亭主に死なれ、娘を抱えて出戻って来たようで……」
しかし、二十年は万三にとって、まことに幸せだったらしいと嘉助はいう。
「昨年、その内儀さんが歿《なくな》りまして……」
それまで身の上話のようなことは何もしなかったのだが、女房に先立たれた悲しみのせいか、そんな話を打ちあけたという。
「六十近くなって、やもめか」
「ですが、娘夫婦がよくしてくれるのでと申して居りました」
「そりゃあいいなあ」
如何にも実直な職人らしい万三の風貌を思い出して、東吾は珍しく二服目に火をつけた。煙管の持ち具合がまことにいい。
「そんなにお気に召したのでしたら、若先生のに致しましょうか」
とお吉がいったが、東吾は笑って手を振った。今日はたまたま勧められて一服したが、普段の東吾は滅多に煙草は吸わない。
その月のなかばに、東吾が兄の使いで本所の麻生家を訪ねた帰りに小名木川の袂まで来ると、雨の中をむこうからやって来る畝源三郎と長助に出会った。
「源さん、御用の筋か……」
この雨の中を町廻りでもあるまいといった東吾へ源三郎が苦笑した。
「島抜けの知らせがありましてね」
大島へ流罪になっていた盗賊の一味が漁舟《いさりぶね》で逃亡したという。
「このところ、江戸も雨続きですが、海もかなり荒れていたそうなのですよ」
そういう時は、よもやこの荒天に舟を出すことはあるまいと考えて、流人小屋の見張りがついおろそかになる。
「逃げたのは、何人だ」
「根吉と磯五郎、それに鬼藤次と名乗っていた侍くずれです」
「そいつらを挙げたのが源さんなのか」
「訴人がありましてね。浅草のほうのかくれ家を張り込んで四人を残らず召捕ったのですが……」
牢内で一人が死に、三人が大島へ流罪になった。
「ちょうど一年前のことでした」
「わかったよ。源さん、その訴人した奴が、この近くに住んでいるんだろう」
盗賊の場合、訴人というのは大方が仲間割れによるものが多い。そうでなくとも、訴人によって捕えられた賊は、刑期を終えて娑婆へ戻って来るとしばしば訴えた相手へ報復することがある。
役人の中にはあまりそうした後のことまで気の廻らない者が多いが、この律義な友人は自分のかかわった事件に関しては、実に細やかな心くばりをするのを東吾は知っている。
「実は、東吾さんの想像通りなのですよ」
雨の中での立ち話でもないので、なんとなく東吾も源三郎について歩きながら事情を聞くことになった。
「鬼藤次の一味は、五人だったのですよ。その中の一人、彦三郎というんですが、これはもともと田舎から出て来て、職がない。つい誘われて仲間に加わったものの、鬼藤次のやり方が乱暴で、なにかというと人を斬る。だんだん怖くなって来て、訴人に及んだものでして……」
一味に加わっていても、せいぜい見張りとか金箱をかついで逃げるぐらいのことで、お上も訴人したことを手柄に彦三郎を罰しなかった。
「今は海辺大工町の長屋暮しで、すぐ近くの真光寺という寺で、寺男のような仕事をさせてもらっています」
「島抜けした連中は、それを知っているのか」
「ああいう連中は、草の根を分けてでも探し出すようですからね」
とりあえず、長助が若い者に見張らせるが、当人の耳にも入れておこうということらしい。
海辺大工町というのは小名木川沿いに何ヵ所かに分れているが、源三郎が訪ねたのは海辺新田の隣で、真光寺はその南側にあった。
最初に長屋をのぞいてみたが、誰もいない。
彦三郎の入っているのは、三畳の板敷きで、その上に古|筵《むしろ》を敷いている。夜具らしいのが片すみに二つ折りにしてある以外は、家財道具らしいものはない。上りかまちに七輪と鍋、その脇に茶碗が一つ、みるからにわびしい男所帯であった。
もっとも、この長屋の住人は、彦三郎の所と似たりよったりの暮しのようであった。
井戸端で水を汲んでいた老婆に長助が、
「彦三郎は、真光寺さんかね」
と声をかけると、
「さあ、どうかねえ」
という返事であった。態度からしても、彦三郎に好意を持っているとは思えない。
長屋を出て、真光寺へ行った。
雨のせいもあるのだろうが、参詣人の姿はなく、庫裡《くり》の玄関を上ったところで、小坊主が手習をしていた。
「彦三郎は来ているか」
という問いに、いいやとかぶりを振る。
「しかし、ここの寺男だろうが……」
いささか中っ腹で長助がいうと、
「あの人は、勝手な時にしか顔を出さないから、和尚さんもあてにはしていない」
書きそこなった半紙を怨めしそうに眺めている。
「それじゃあ、いつも、どこへ行っているんだ」
小僧が鮮やかな手つきで真似をした。
「大方、これだね」
びしゃびしゃと降る中を境内を抜け、東吾がいった。
「どうも、あんまり、まともじゃなさそうだな」
「この御時勢ですからね。なかなか正業にはつきにくいのですよ」
「それにしたって、折角、寺男の口にありついたんだ。正直に働いていりゃあ、小坊主にあんな言われ方はしないだろう」
「おっしゃる通りです」
小名木川のほうへは戻らずに、真光寺の裏から西側の霊巌寺の境内を抜ける。
「こう雨降りが続くと、昼間っから賭場が立つんだな」
東吾が呟き、長助がぼんのくぼに手をやった。
「この辺は、文吾兵衛が取りしきって居りますんで、あんまりひどい噂は聞いていませんが……」
永代の貸元と呼ばれている文吾兵衛のことは東吾もよく知っていた。悴の小文吾とも昵懇である。
本来、賭事は御禁制だが、いつの時代でも少々のお目こぼしはある。
本所深川にある大名家の下屋敷の中には抱え屋敷と称して、敷地内の大方が田畑であるのが少くなかった。そこで収穫される作物は藩のまかないの助けになる。
そうした抱え屋敷の中の建物は本来、農事の監督人のためのもので、日頃はあまり使われていない。
それを承知で、藩の知り合いなんぞにたのみ込み、たまに胴元をたてて賭場を開帳することがある。
胴元が悪質だととんだことになるが、しっかりした胴元だと、ちょっとした気晴しが出来る。
深川界隈の下屋敷で催される賭場の胴元は今のところ、大方が文吾兵衛の息のかかっているところが多く、長助のいうように、あまり悪い噂は出ていない。
それでも、賭場にも上下があって、比較的、金持の旦那衆の集る所もあるし、その日稼ぎの連中が小銭を賭けて大さわぎをするようなのもあった。
霊巌寺を出たところで、むこうからやって来た男が長助と源三郎をみて、傘で顔をかくすようにした。
「彦三郎じゃねえか」
目早くみつけた長助が鋭くいった。
「昼間っから、どこへしけ込んでいやがった。大方、久世《くぜ》様の抱え屋敷だろう」
あてずっぽうにいったのが的を射たらしい。
彦三郎が小鬢《こびん》に手をやった。
「あんまり、よく降るんで、くさくさしちまったもんですから……」
たて続けにお辞儀をした。すばやくその耳許に源三郎がささやいた。
「神妙にしていることだ。昔の仲間が島抜けをした」
彦三郎が顔色を変えた。
「それじゃあ、江戸へ舞い戻って来やがったんで……」
「そいつはまだわからねえが、当分、用心したほうがいい」
「冗談じゃねえ。お上はいってえ、なにをしてなさるんだ。あんな連中、とっとと獄門にかけちまったらよかったんだ」
顔をひきつらせるのを、長助がなだめた。
「とにかく、俺のほうでも気をつけるが、むやみに出歩かねえことだ。まして、賭場なんぞはまっさきにあいつらが目をつけるぜ」
「そんなことをしていたひには、顎が干上っちまいまさあ」
「寺でまともに働いてりゃ食うぐらいのことはなんとかなるだろう。愚図愚図してねえで、とっとと帰《けえ》りな」
長助にどなられて、彦三郎は矢庭に走り出した。素袷の背中にまで泥はねをあげながら境内を抜けて行く。
「どうも、源さんが情をかけてやるほどの奴じゃなさそうだな」
東吾が呟き、長助もいった。
「あいつのことは、時々、文吾兵衛から聞いて居りますんですが、賭場じゃ、けっこう荒っぽい張り方をしますそうで、訴人の一件は文吾兵衛にも話して居りませんが、貸元は、前科《まえ》のある奴じゃねえかと考えていなさるんで……」
それだけ、彦三郎という男に、翳があるということか。
「まあ、あんまり心がけのいい奴にはみえないな」
それはそれとして、島抜けの三人の行方を早くつきとめることだと東吾はむしろ、友人を案じた。
「源さんも気をつけろよ。悪党ほど逆怨みをしやあがるからな」
もっとも、そんなことを怖れていては、町方役人はつとまらない。
永代橋を渡ったところで、東吾は源三郎と別れ、「かわせみ」へ帰った。
二
この年、江戸の秋は長雨であった。
時雨にはまだ早いというのに、降りみ降らずみの日がずるずると続いて、大川へ流れ込む幾筋もの河川がみな増水して、時には路上にまであふれ出す。
町奉行所では市中見廻りを強化し防災につとめたが、なにしろ一向に雨がやまない。
その日、東吾は亀島川が増水していると知らされて、兄の屋敷へ見舞に行った。
神林家では当主の通之進が奉行所へ出仕した後は、老齢の用人と女中ぐらいしか奉公人がいない。さぞかし、兄嫁も麻太郎も不安だろうと思ってかけつけたのだったが、行ってみると八丁堀の組屋敷一帯は案外、おっとりしていた。
「旦那様が、昔からこのあたりはかなりな大雨でも水が出ることはないから心配せぬようにとおっしゃってお出かけになりましたのですよ」
実際、用人は何度も日本橋川や亀島川のほうまで見に出かけたが、水が岸辺を越えるには、まだ充分の余裕があるといったと、兄嫁の香苗は笑っている。
それでも、万一の時のために、大事なものを一まとめにしていくつもの包にし、運び出せるようになっているのは、流石《さすが》であった。
「こちらよりも、東吾様のほうが危険なことはございませんの」
「かわせみ」は大川端だからといわれて、東吾は胸を張った。
「あそこは馴れていましてね。大雨になると忽ち家財道具は二階へ上げてしまいます」
もっとも、大川へ向ってしっかりした石垣も築かれているし、土盛りをして庭が高くなっているから、まず浸水したことはなかった。
「本所深川はどうなのでしょう。あちらは河川が多いから……」
香苗はむしろ、実家の麻生家を心配している。
「ついでですから、ちょっと見舞って来ましょう」
といっている中《うち》に雨が上って来た。
もっとも河川の増水は雨がやんでも油断が出来ない。
神林家を出て日本橋川のほうへ行くと、道ばたで男が二人、向い合っている。
どうも畝源三郎と彦三郎のようにみえたので走り寄って行くと、東吾の姿をみて彦三郎は川っぷちのほうへ歩き出した。
「あいつ、何しに来たんだ」
彦三郎の後姿をみながら訊くと、
「まだ、島抜けの連中が捕らないなら、どこか安全な所へかくまってもらいたいといって来たのですよ」
いささか、もて余したといった表情の源三郎がいう。
「とんでもない奴だな。女子供じゃあるまいし……」
「当人の気持を思えば、あまりすげなくも出来ませんがね」
彦三郎の訴人のおかげで、盗賊一味を捕えることが出来た。
「島抜けの、その後の消息はわからないのか」
「品川を中心に、海辺一帯を調べているそうですが、これといって知らせは入って来ていません」
ただ、海は相変らず荒天で、漁師も全く舟を出していない日が続いている。
「大島あたりの海にくわしい者の話では、下手をすると外海に流されている可能性が強いと申すのですが……」
海の藻屑となってしまったのなら問題はないのだが、だからといって死体でも上らない限り探索の手をゆるめるわけにも行かない。
雲の切れ間から陽がさして来て、東吾は源三郎と別れ、日本橋川に沿って大川へ向った。気がついたのは岸辺のところに羅宇屋の荷物をおいて、万三がむこうをむいていたことである。
その後姿は茫然自失といった恰好であった。
東吾は万三のみている方角へ視線をやった。
水かさの増した日本橋川が永代橋の方角へ音をたてて流れて行く。
そのずっと先の岸辺に鳶頭《とびがしら》らしいのが若い衆をつれてこっちへ来る姿がみえ、更にその前方を彦三郎が深川へ歩いて行く。
万三は何をみているのかと近づきかけると、その万三が急に荷をかついで走り出した。
東吾が声をかける間もなく、一目散にかけ出して、その姿は忽ち彦三郎を追い越して永代橋を渡って行った。
逆にむこうから来た鳶頭が東吾をみると会釈をした。本所の麻生家へ出入りしている辰三郎という男で、
「小名木川は随分と水面が上りましたが、麻生様のお屋敷の附近は浸水も致しませんで、今から神林様へそのことをお知らせに参ります」
という。
おそらく、姉が心配しているだろうと考えて七重が使を頼んだのだとわかって、東吾はもう本所へは足をのばさず、「かわせみ」へ帰った。
出迎えた嘉助に、
「そこで、万三に会ったよ」
というと、多分、八丁堀の得意先へ行ったのだろうと答えたが、その万三が深川のほうへ向ったと聞くと首をひねった。
「川むこうまで商売に行っているとは聞いたことがございませんでしたが……」
それにしても、いくら贔屓が増えたといっても、王子の住いからこのあたりまで商売に出て来るのは大変だと、嘉助は苦笑した。
「あの人は律義者で、お客から頼まれると断れないようなところがございますから……」
奥からお吉と一緒に旅支度の客が出て来た。
雨が上ったので、今日の中に品川まででも行っておきたいという。
「かわせみ」の暖簾のむこうから、水たまりで水あびをしている雀の声が聞えて来た。
中一日おいて、「かわせみ」へ畝源三郎が来た。
彦三郎が殺されたという。
場所は海辺大工町の長屋、彦三郎の住居で、
「殺されたのは、昨夜の中らしいのです」
長助からの知らせで、これから行く所だと聞いて、東吾は腰を上げた。
少々、気になることがないでもない。
海辺大工町の長屋の前には町役人がいて、野次馬を追い払っていた。
長屋の住人は足止めされて、彦三郎の家の隣、糊屋の婆さんの所に集められていた。
出迎えた町役人の案内で、まず彦三郎の家の敷居をまたぐ。
狭い所に布団が敷かれ、彦三郎はその上で、入口へ向って仰向けに倒れていた。
兇器は出刃庖丁で、柄に近い所まで深々と彦三郎の胸に突きささっている。
「もの凄い力で突いたもので……」
長助が眉をしかめた。
「長屋の者がみつけました時、彦三郎の顔の上には掛け布団がのっていまして……」
つまり、押し倒して胸を突きさした後、声が外へ洩れないように布団を顔の上に押しつけたものに違いないといった。
「殺しに馴れた者の手口じゃねえかと思います」
「下手人を見た者はいないのか」
と東吾。
「隣の糊屋の婆さんが壁越しに人の話す声がしたと申しますんで……」
いったん外へ出て、井戸端へおさだという隣家の老婆が呼び出された。
この前、東吾が源三郎や長助とこの長屋へ来た時、井戸端で水を汲んでいた女である。
「彦三郎の所で人声を聞いたと申すが、それは何刻頃だったのか」
源三郎の問いに、おさだは困った顔をした。
「何刻といわれてもわからねえが……」
自分は大方、六ツ半(午後八時)には寝てしまうが、年寄のことで夜中に二、三度は目がさめる。
「ひとねむりして、ふっと目がさめた時に、隣に人が入って来て、彦さんと話をしていたように思うので、多分四ツ(午後十時)にはなっていなかったんじゃあねえかと……」
別に小用に起きたのではなく、なんとなくうとうとして、また眠ってしまったといった。
「どんな話をしていたか、聞いたか」
と源三郎が訊いたのに対しても、
「耳が悪いで……、それに、ひそひそ声で話していたようで、壁に耳をつけたところで何も聞えなかったでねえ」
忌々しそうな顔をする。実際、おさだはかなり耳が遠かった。
ここの長屋の壁は薄い板一枚だから、物音にせよ、話し声にせよ、実によく聞える。
おさだにしても、話の内容は聞き取れなかったとしても、彦三郎の所へ来たのが男だとはっきり断言した。
「一人だよ。男が一人来たのに間違いはねえです」
別に悲鳴のような声は聞いていないし、人の倒れる音などもしなかったという。
彦三郎の住居は三軒長屋の一番、入口に近い角であった。従って、彦三郎の所へ人が来たのを知っているのは、おさだだけで、奥に住む大工の夫婦は全く知らないし、向い側の三軒長屋の住人も口を揃えて何も気がつかなかったといっている。
異変に気がついたのは、今朝、彦三郎の向いに住む船頭が井戸へ顔を洗いに出て来て、彦三郎の入口のところに手拭が落ちているのをみつけた。拾い上げてみるとべっとりと血がついている。それで大さわぎになって彦三郎の家をのぞいたものだ。
手拭はごくありふれたものであった。青く染めてあるが、柄もなにもない。使い古しである。
彦三郎の胸にささっていた出刃庖丁にしても、どこにでもあるような代物で、そこから下手人の手がかりを掴むのは難かしそうであった。
畝源三郎と長助はかなりの手間をかけて、彦三郎の日頃のつきあいから、怨みを持つ者がないか、或いは彦三郎が強請《ゆすり》などを働いていなかったかなぞを調べ廻ったが、徒労に終った。
海辺大工町へ来てからの彦三郎はあまり人づきあいをせず、真光寺でこづかい稼ぎをする以外はもっぱら賭場で稼いでいたらしい。
「賭にはけっこう強かったようで、僅かな元手で少々まとまったものを持って帰っていましたよ。なにしろ、無口で賭場でも滅多に口をききませんし、あいつと親しかったなんて奴は一人もいないんじゃありませんかね」
と小文吾もいう。
無論、身よりらしい者もなく、生れ故郷もわからないままに、真光寺の住職が、
「これも、仏縁かも知れませぬで……」
と経をあげて、無縁仏として葬ってくれた。
「やっぱり、下手人は島抜けの連中ですかね」
糊屋の婆さんは、訪ねて来た男は一人だといったが、一人が彦三郎と話をし、あとの二人は黙っていて、殺しに加担したと考えると、鮮やかな殺しの手口も納得出来る。
町奉行所では鬼藤次以下三人の島抜けの人相書まで出して探索させたが、手がかりはなかった。
「とっくに江戸を出ちまっていると思います。上方へでも行って、ほとぼりをさましているんじゃあ……」
長助は口惜しそうにいったが、東吾は別のことを考えていた。
時折、嘉助に、
「羅宇屋の万三は来ないか。もし、みかけたら、俺が用があるといっていたと伝えてくれ」
と訊いたりしていたが、
「そういえば、このところ、廻って参りませんようで……」
嘉助の返事も冴えなかった。
もっとも、万三が王子からこのあたりまで廻って来るのは、今まで月に一度か、二ヵ月に一度だったから、暫く姿をみせなくとも、別に不思議ではない。
もう数日で、月が変ろうという時になって、町奉行所へ思いがけない知らせが入った。
大島を島抜けした三人が、今月はじめに下田の商家へ押し込み、女達を犯して一家皆殺しにした上で放火をした。
三人はその後、追われて山へ逃げ込んだが下田奉行所の役人や猟師の山狩で鬼藤次は射殺され、残りの二人も大怪我をし、入牢中に死んだという。
直ちに江戸からは畝源三郎が下田へ向い、大島からも首実検の役人が下田へ渡った。
源三郎が江戸へ戻って来たのは月が変ってからであった。
三人は鬼藤次、根吉、磯五郎にほぼ間違いないという。
「死んでから日が経っていますので、顔形で見極めるのは無理ですが、島抜けをした時の着衣を島役人が三人のものと申しましたし、島抜けに使った舟が下田の浜に乗り捨てたままになって居りました」
更にいえば、鬼藤次には左の脚に古い刀傷のあったのが、掘り出された死体でどうにか判明したし、磯五郎は左の小指が根元から切断されていたのだが、それも明らかになった。
また、遠島の時に、三人共、腕に幅三分ずつ、二筋の入墨をされていたのだが、それも死体にしっかり残っていたという。
三人が下田の商家へ押込みに入ったのは、島抜けをして三日目の夜で、これも海上を漂い、下田の近くの浜へたどりついてと指を折れば平仄《ひようそく》が合う。
「なんのことはありません。我々が血まなこになって江戸市中を探索していた時分、いや、それどころか、江戸へ三人の島抜けの知らせが入った時、すでに三人は下田で捕えられたり、殺されたりしていたわけです」
と苦笑した源三郎が、東吾をみつめた。
「これで、彦三郎殺しは、島抜けの三人ではないということになりましたが、東吾さんは何か考えているものがあるのではありませんか」
「源さんも、実は彦三郎殺しの下手人は島抜けの連中ではないと疑っていたんだろう」
「正直に申せば、その通りなのですが、手前にはなんの持ち駒もないのですよ」
「俺も、そうだよ」
「本当ですか」
「話せば、源さんは笑うと思うよ」
彦三郎が殺された二日前のことだと東吾はいった。
「日本橋川のほとりで、源さんはあいつと話をしていた。俺が近づくと、彦三郎は逃げるように川っぷちの道を深川へむいて行った」
あの後、自分もその道を歩いて行き、途中で羅宇屋の万三に出会った、と東吾はいった。
「万三は永代橋の方角をみていたんだ。俺から見えたのは後姿だがね。なんというのかな。凄じいというか、異様なものを感じたんだ。それで急に走り出してね」
「彦三郎を尾けて行ったんですか」
「いや、見ていたら追い越した……」
源三郎が合点の行かぬ顔をした。
「俺も、実は追い越して行ったので、安心して家へ戻っちまったんだが、考えてみると追い越して、どこかにかくれ、じっくりと彦三郎の顔をみるってこともあるだろう。それから、奴のあとを尾けて住居を知る」
「しかし、その万三という羅宇屋が彦三郎を殺す理由はなんですか」
「そんなこと、俺が知るものか」
「それでも、東吾さんは万三を気にしているわけですな」
東吾が昔、悪戯をこの友人にみつけられた時のような表情になった。
「無駄かも知れないが、源さん、一緒に王子まで行ってくれないか」
「行くのはかまいませんが、なにか口実を作って訪ねたほうがよいでしょう」
「それは考えてある」
源三郎と別れて、東吾はまっしぐらに本所の麻生家へ行った。
八丁堀の神林家では兄が煙草をのまないので、煙管がないが、麻生家は麻生源右衛門が煙管に凝っていて、時折、自慢らしく新品を披露している。
麻生家へ行ってみると花世は琴のお稽古、小太郎は手習の師匠の所へ各々、出かけていて、家の中はひっそりとしていたのだが、七重にむかって、
「この家にやにのつまった煙管とか、要するに羅宇屋へ持って行くような奴はないか」
と東吾がいったとたん、娘の頃と同じ剣幕でいいつけた。
「東吾様がおいでになったら申し上げようと思っていましたの。花世や小太郎に剣術のお稽古をして下さるのはけっこうですけれど、なにも煙管で叩き合いなんぞをしなくとも……」
「誰が、煙管で叩き合いをやらかしたんだ」
「うちの旦那様が、二人の子を相手に大さわぎをして、父の大事にしている煙管を折ってしまいましたの」
「あの名医が、そんなへまをやらかしたのか」
「類は友を呼ぶとか申すのでしょう。だんだん東吾様に似てくるようで……」
「わかったよ。羅宇屋へ持って行ってやるから、そいつを出してくれ」
首尾よく上等の煙管の、無惨に折れたのを手拭にくるんで懐中し、東吾はすみやかに麻生家を退散した。
翌日、畝源三郎と待ち合せて王子へ向った。
万三の住居は王子権現の裏、烏頭坂の下と嘉助から聞いている。
道中は二人とも、口が重かった。
とりわけ、東吾は日頃の彼らしくなく、憂鬱な表情をしている。
板橋の宿で軽く腹ごしらえをして、その先の茶店の脇の道へ入った。
これが滝野川弁天へ行く道で、王子権現へ出るには一番の近道である。
野中の道は秋の気配に満ちていた。
木々の梢はすでに紅葉しかけている。
滝野川弁天の名で有名な金剛寺の境内を抜け、音無川にかかっている木橋を渡ると山道の行く手に王子権現の鳥居がみえる。
時折、参詣人の姿がみえるが、紅葉見物には少々早く、広大な境内は静寂に包まれて、滝の音と川の瀬音が聞えて来る。
社務所で烏頭坂はどこかと訊ねると、この社殿の裏側だと教えられた。
「むかしの日光街道の一部でございます。細い坂が下へ行くほどに出崎のように広がって石神井《しやくじい》川まで続きます。ちょうど烏の頭のような恰好なので、古くは烏頭坂と申しましたが、この節はもっぱら地蔵坂と呼ばれて居ります」
坂の途中に地蔵菩薩の石像がある故らしい。
礼をいって、東吾と源三郎は裏手へ廻った。
木立の間に坂がある。
「こんな道が、昔の日光街道ですかね」
源三郎が呟いたが、確かに寺社の裏坂にしては道幅があり、そこから見下す景色はなかなかのものである。
坂は下るにつれて道幅がやや広がり、荒川の右岸の原に突き出した感じになった。
音無川へ出たところの茶店で万三の名を出すと、すぐ北側の百姓地を指した。
茶店の裏手は見渡す限り田と畑であった。
田はすでに稲の刈取りが終って居り、畑のほうは掘り返されて麦が播かれるらしい。
万三は畑にいた。
野良着で鍬をふるって土をたがやしている。
六十に近いとは思えないようなたくましい腕が鍬をふり上げ、さくっさくっと土を返して行く。
万三が東吾に気づいた。それでも、手は無意識のように鍬を土に打ち下している。
「羅宇屋より百姓のほうが本業らしいな」
東吾がゆったりと声をかけ、万三がかすかに頬をゆるめた。
「死んだ女房が残した田畑ですよ。長いこと二人で百姓をして来ましてね」
「百姓で食えるのに、なんで、羅宇屋で江戸の町を歩き廻ったんだ」
「夫婦になる前、あっしは羅宇屋でございましたんで……」
「そうか。人を探すには、羅宇屋が便利だな」
万三が手を止めた。油断のない体つきで東吾と向い合った。
「あんた、彦三郎を知ってたんだな。いや、あんたの探してた相手が彦三郎だったのか」
東吾の口調は変らなかった。畑の道に立っている姿にはなんの緊張もない。
万三がふっとうつむいた。
「あなた様は怖いお人だ。わしがあいつを追って行くのをみただけで、なにもかもお見通しか」
「彦三郎は昔、あんたに何をしたんだ」
「あいつは彦三郎じゃございません。川越に来た時は彦松でございました」
今からざっと二十年も昔のことだといった。
「わしは川越の百姓で、女房は娘が八つの時に患いついて死にましたが、娘と二人、まあ幸せと思わなけりゃ罰が当る毎日で……」
男手で育てた娘が十七になった時、村に行商で彦松がやって来た。
月に一度くらいの割合で近在を廻り、女子供の喜びそうな品物を売って歩いていた男がどうやって自分の娘に近づいたのか、万三は全く知らなかった。
気がついたのは、娘がかけおちを決めた日のことである。
「三日も前から大雨が続いていて、わしは田んぼの見廻りに出ていたですよ。隣の婆さまがかけて来て、娘が彦松と江戸へ行く、むこうで落ついたら、必ずお父つぁんを迎えに来るから、それまでよろしくお頼み申しますと頭を下げて出て行ったと……婆さまは慌てて娘をひき止めたが、彦松が烏頭坂の下の御代《ごだい》橋の袂で待っているからと、ふり切って行ってしまったと知らされて、わしは雨の中を走ったですよ」
田から烏頭坂までは遠かった。
「お城の辰の方角で、坂の上に熊野神社があります。坂の下には不老川《としとらずがわ》が流れていて、その坂は、あそこの地蔵坂と同じで川へ向って突き出した恰好の坂でございました。烏の首から頭へかけての形に似ているから烏頭坂だと寺の坊さんが教えてくれたもので……」
万三が顔を上げて、石神井川のむこうにのぞける烏頭坂を眺めた。
「わしが坂の上までかけつけた時、娘は橋の袂に立っていましたで、わしは娘の名を呼んだが……」
距離はあるし、降りしきる雨音で父親の声は娘に届きはしなかった。第一、その時、雨音よりもすさまじい川の音が御代橋へ襲いかかっていたものだ。
「わしには何がなんだかわからなかったです。川の水が橋を押し流したのも、娘の立っていた所が岸ごとえぐり取られて川ん中へ消えちまったのも……傍へたどりついてみるまでは、なんでそうなったのか……」
万三が黙り込み、東吾と源三郎は声を失って、その姿をみつめた。
再び、万三が口を開いたのは、茶店の方角から客を送り出す女達の声が聞えて来てからであった。
「あとで、わしは知ったですよ。彦松の厄介になっていた寺の和尚さんから、その朝早く、彦松が江戸に急用があるからと、俄かに旅立って行った。それも、娘の待っている御代橋のほうではなく、まるっきり反対の街道へ出る道をまっしぐらにかけて行ったと。それで、わしは何もかも合点がいったです」
彦松は娘を玩具にし、かけおちの約束をしたものの、その日になって面倒になり、結局、約束の場所には行かず、おいてきぼりにした。
「川の水が増して、橋が流され、娘が死んだのは、運が悪かったのかも知れません。ですが、わしは彦松が憎い。八つ裂きにしても飽き足らんと思ったですよ」
四十近い年で万三は故郷を捨てた。
江戸へ出て、たまたま道中、知り合った人の口ききで煙管職人の家で働くことになったという。
最初に落ついたのは駒込のほうだったが、たまたま王子権現へ参詣に来て、烏頭坂の名を知った。
娘が死んだ場所と、地形もそっくりなら、名も同じ烏頭坂に、つい惹かれてこっちへ来ることが多くなり、茶店で働いていたおかつと知り合った。
「おかつという女はご亭主に死に別れて、八つの娘を抱えて、父親の残した田畑と茶店の手伝いで暮しを立てていたんです。死んだ娘も八つで母親をなくしてましたんで、そんな所も話が合って……おかつと夫婦になりましたんですが……」
江戸へ去った彦松への怒りと怨みは消えなかった。
「それでも二十年の歳月が過ぎ、娘のおたみはいい亭主を持ちましたし、孫も三人……」
忘れていた幸せが戻って来た今となって、日本橋川の袂で彦松をみつけてしまった。
「自分が自分でなくなりました。ただもう、橋の上に立っていた娘の姿と、川に流された時のことだけが頭の中に一杯になっちまって……」
力を失ったように、草に腰を下した。
「人を殺せば、自分がどうなるか知らないわけじゃあございません。ですが、自分からお上に人を殺しましたと出て行く気には、どうにもなれませんで……申しわけのねえことでございます」
すがるような目が、東吾に注がれた。
「わしが彦松を殺《や》ったこと、娘夫婦はまるで知らねえ。どうか、御慈悲をお願い申します」
田のむこうに子供の声がした。
「爺ちゃん」
と呼ぶ幼い声にまじって、
「お父つぁん」
という女のやや不安そうな声が近づいて来る。
顔色を失った万三に、東吾は素早くいった。
「心配するな。俺達はあんたを捕えに来たわけじゃない。実は彦三郎という奴、盗っ人の一味でね。仲間を売って自分だけは太平楽を決めていたんだが、どうやら昔の仲間にみつかって殺されたらしい。そういうことさ」
二人の少年と一人の女の子が万三にとびついた。
「爺ちゃん、迎えに来たよ」
百姓姿の若い女が心配そうに東吾と源三郎をみた。
東吾は懐中から折れた煙管を取り出した。
「こいつは俺の知り合いが気に入っていたものなんだ。孫どもが悪戯をして、こんなになっちまったんだが、父つぁんに修理を頼みたいと思ってね。ちょうど、こっちへ来るついでがあったんで訪ねて来たのさ」
手を出せないでいる万三の膝の上へおいた。
「どうだね。なんとかなるだろうか」
「へえ」
かすれた声で万三が応じた。
「必ず、お直し致します」
「そいつはありがたい。源さん、ここまで来た甲斐があったな」
源三郎が晴れやかに笑った。
「どうも、東吾さんにしてやられましたよ」
万三へいたわりのこもった目をむけた。
「それじゃ、東吾さん、我々は行きますか」
王子の空は十条の台地へむけて青く澄み渡っている。
畑の道を街道へ戻って行く東吾と源三郎の姿を、万三が茫然と見送り、その万三を取り囲むようにして、娘と孫が立ちすくんでいる。
気がついて、源三郎がふりかえり、大きく手をふった。
子供達がそれに対して、小さな手を上げた。
秋の陽は、まだ高い。
茶店の前を旅人が三人、賑やかに話しながら通って行く。
東吾と源三郎は石神井川を渡り、烏頭坂を上って行った。
[#改ページ]
浦島《うらしま》の妙薬《みようやく》
一
このところ商用で、しばしば江戸へやって来るたびに「かわせみ」を常宿にしている浦島屋太郎兵衛という男がいた。
横浜で異人を相手に商売をしているらしいが、でっぷりと肥って愛敬のある顔をしている。酒も好きだが、甘いものにも目がなくて、江戸へ来ると必ず評判の菓子屋へ出かけて行ってあれこれと買って来る。自分も食べるが「かわせみ」の女中達にも勧め、旨いか、旨いだろう、いや、実に旨いよ、と一人で悦に入《い》っている。
「殿方で、あんなに甘いものを召し上るってのは珍しいんじゃありませんかね。いくらお好きだからって饅頭をいっぺんに三個も五個もぺろりと平げて、それから晩餉の御膳を召し上るんですよ。それでもって、夜、布団を敷きに行きますと、土瓶でお茶を持って来るようにとおっしゃって、また、菓子折を開けるんですから、みているほうが胸が悪くなっちまいますよ」
女中頭のお吉がるいにいいつけて、
「お客様のことを、そんなふうにいってはいけないと女中達に教えている筈のあなたが、まっさきになってあれこれいうのはみっともないでしょう」
と、たしなめられた。
「ですけど、うちで一番食べ盛りのお石だってあきれているんですよ。毎度、お櫃《ひつ》がからっぽになるまで召し上るお客様なんて開闢《かいびやく》以来ですよ」
あんなお客ばっかりだったら、宿屋商売上ったりだなぞとぼやきまくっていたお吉が、
「あの人は大飯食いの上に大法螺吹《おおぼらふ》きです」
と、今度は東吾に訴えた。
ちょうど、東吾とるいが娘の千春をまん中にして夫婦、親子水入らずで晩餉の膳に向っていた時で、給仕はいらないと、るいにいわれたにもかかわらず、お櫃の前にすわり込んでお盆を膝に、てこでも動かない。
で、東吾が、
「いったい、どんな法螺を吹いたんだ」
と水をむけると、得たりと膝を進めて、
「あちらさんの屋号が、浦島屋さんとおっしゃるものですから、珍しい屋号ですねといいましたら、生国が浦島太郎の故郷だというんですよ」
浦島太郎の話は、かちかち山や桃太郎、一寸法師のお伽噺と一緒に、この頃、千春が好んで東吾やるいに、
「また、おはなしをしてください」
とねだる一つであった。
それらは勿論、お吉も子供の時に聞いていたに違いないのだが、千春が熱心に、くり返しくり返し、親から聞かせてもらっているのを、なんとなく傍にいて耳にしては、
「まあ狸というのは、なんと悪いけものなんでしょうね。恩を仇で返すなんて……。殺されたおばあさんもお気の毒ですけれど、それを狸汁だと思って食べてしまったおじいさんはどんな気持がしたでしょう」
などといい出して、困惑したるいが、
「お伽噺というのは子供に聞かせるお話だとばかり思っていましたのに、お吉がいうのを聞くと、あまりに残酷で、千春に話していいのか心配になりました」
と東吾に相談する始末であった。
で、今も、浦島太郎と聞いたとたんに、夫婦はなんとなく顔を見合せたのだったが、今日のお吉は単純で、
「浦島太郎なぞと申しますのは、作り話で、本当にあったことじゃございませんでしょう」
と訊く。
「そりゃまあ、龍宮城だの、玉手箱を開けたら、白髪の爺さんになっただのというのは、作り話だろうが……」
東吾が、どう話したものかと慌しく思案しながら答えかけると、お吉がいった。
「玉手箱があるというんでございますよ」
「なんだと……」
「浦島太郎さんのお墓もございますんですと」
「どこなんだ」
「東海道の子安村の近くで、村の名前まで浦島村だなんて、全く、人を馬鹿にしてますじゃございませんか」
お吉の鼻息が荒くなったので、東吾は慌てた。
「子安村の近くというのは初耳だが、浦島伝説というのは、あっちこっちにあるらしいよ」
「なんでございますって……」
「昔、兄上が教えて下さったことなんだが、大昔の歌にも歌われているそうだ。みずのえの浦島子の物語といってね」
「それじゃ、本当のお話で……」
「浦島子というのは漁夫だな。漁に出かけておそらく時化《しけ》にでも遭ったのだろう。舟が流されて、見知らぬ国へたどりつく。俺も自分が船に乗るようになって、いろいろと知ったんだが、この国の北と南、つまり、国を取り巻いている海には激しく流れる海流があってね。それに乗ってしまうと、とてつもなく遠くまで運ばれることがある。だから、浦島太郎の乗った舟が清国だの琉球だの、高砂やもっとその先の安南《アンナン》なんぞまで行っちまうこともあるらしい。もっとも、漁師のちっぽけな舟では、そこへ行くまでにひっくり返る可能性が高いがね」
お吉が真剣な顔でうなずき、東吾は内心、大いに照れながら話し続けた。
「要するに浦島さんの舟も気が遠くなるほど流されたんだ。運よくひっくりかえらずに、見知らぬ国へたどりついた。故郷へ帰りたいと思ったところで、あんまり遠くまで来ちまったものだから、おいそれとは帰れない。心ならずも何年かをその国で暮し、やっと機会をみつけて帰って来たら、あまりにも歳月がたちすぎていたものだから、親は死んじまった。兄弟もどこかへ行っちまったんだろう。第一、さんざん苦労したせいで、年齢《とし》よりも老けてしまって、村の人にはそれが昔、漁に出て行方知れずになった浦島太郎とはわからない。軍艦操練所の教官の話だが、嵐なんぞに遭って幾日も漂流した人間は、一夜にして髪がまっ白になってしまったなぞということもあるそうだ」
「玉手箱のせいじゃございませんので……」
「日本は島国だから、どこへ行っても、漁師が海で遭難して、ずっと後になって帰って来たなんて話はあるだろう。それが、みんな浦島太郎の話になっちまうのさ」
「そうしますと、太郎さんはお一人というわけには参りませんですね」
「兄上の話では出雲のほうにも、丹後にも、四国や九州にもあるらしいとおっしゃっていたよ」
「子安村の近くのも、その一つで……」
「多分、そうではないかな。駿河にもあるというからね」
「さいでございますか。まあ、大法螺吹きなどといっては、申しわけありませんですねえ」
お吉が納得し、東吾はやれやれと茶碗の飯を湯漬けにして、さらさらとかき込んだ。
翌日、東吾が軍艦操練所から帰って来ると、まるで角力取りのような体格の男が菓子折を開いて、盛んに嘉助に勧めている。その男が東吾をみると、
「これはこれは、御主人様でございますか。手前は浦島屋太郎兵衛と申します。いつも、御厄介をおかけ申し、かたじけないことでございます」
と挨拶した。で、東吾も、
「いやいや、当家を贔屓にして下さる由、礼は当方より申さねばならぬ」
つとめて丁重に応対した。それで、ふと思いついて、
「実は今日、軍艦操練所にて子安村の近くに浦島寺と申すものがあるという話を致した所、それは観福寿寺《かんぶくじゆじ》のことではないかと申す者がいたのだが……」
と訊いてみた。太郎兵衛は満面に笑みを浮べた。
「おっしゃる通りでございます。観福寿寺、私どもでは通称、浦島寺とか浦島観音堂と呼んで居りますが……」
「海にむかって高く崖が張り出したようになっていて、頂上に見事な枝ぶりの松の大樹がある。その根方に大きな灯明台があって、夜、あの辺りを航海する船は、それを目じるしにして参るのだが、あれが浦島寺か」
「左様でございますとも。灯明台のございます所は、お寺から石段をおよそ二百段も上りまして、更に山道を頂上まで登り切ったところで、毎日、陽が暮れるとお寺の坊さんが灯明の油を持って上り、灯をつけて居りました」
「よく知っているな」
「子供の頃、弟と一緒によく遊びがてら登りましたので……貴方様は軍艦にお乗りと承って居りますが、軍艦の上からも、あの灯明がみえますので……」
「陸に近づいた時はよく見えるよ。あそこは少々、入江になっている。あのあたりの沖は季節によって厄介な風が起ってね。うっかりすると舟が覆る。漁師はよく知っていて、風がおかしいと思うと、速やかにあの灯明をめあてに舟を逃げ込ませるそうだ」
「左様でございますか。浦島太郎が流されたのも、あの沖を通るつむじ風のせいだと、村の年寄がよく話して居りました」
自分の生れ育った家は村でも指折りの大百姓で、かなりの田畑を持ち、寺の世話人もしているといった。
「手前は百姓仕事が嫌いで、若い時分に村をとび出しまして、まあ今はなんとか商人としてやって居りますが……」
「田畑は弟が継いだのか」
太郎兵衛が驚いた顔になった。
「どうして、手前に弟があると……」
「さっきいったではないか。弟と浦島寺へ登ったと……」
頭に手をやって太郎兵衛が笑い出した。
「どうも、御主人様は頭の鋭いお方で……」
東吾のほうは苦笑した。
「浦島寺には玉手箱があるそうだな」
「はい、寺の宝になって居ります」
「いい所なのだろうな」
「それはもう。是非一度、お出かけ下さいまし。なんと申しましても、音に聞えた浦島太郎の故郷でございますから……」
奥から出て来たるいと、千春を抱いたお吉が待っているのに気がついて、東吾は話をやめ、大刀を腰から抜き、片手に提げて奥へ入った。
「やっぱり、玉手箱がございますんですかねえ。浦島太郎さんの生れ故郷なんて、どんな所か見物したいものでございますよ」
お吉が夢みるような顔をし、東吾は、
「子安村なら、江戸からせいぜい五里ぐらいのところだろう。その中《うち》、長助でも誘ってみんなで見物に出かけたらいい」
千春を抱き取りながら、こともなげにいった。
二
月が変って間もなく、麻生宗太郎が「かわせみ」へやって来た。
患家を廻っての帰りらしく、重そうな薬籠《やくろう》を提げ、もう八つに近い刻限だというのに、
「昼飯がまだなのですよ。なにか、こう、あっさりしたものでいいですから……」
例によって遠慮なく、るいに声をかけた。
ちょうど深川の長寿庵の長助がこの秋の蕎麦粉を持って来たところで、
「なんでしたら、あっしが蕎麦を打ちますので……」
というと、宗太郎は大喜びした。
居間に腰をすえた宗太郎の前に、とりあえず酒と、お凌ぎにと板前が松茸を焼き、穴子の鮨を小さく握って運んで来る。
そこへ東吾も帰って来て、
「やあ、東吾さん、いい所へ。まず一杯どうですか。ここの酒は腑《はらわた》にしみるほど旨いですね」
どっちが主人かという顔で、宗太郎が盃をさし出す。
「驚いたな。腹ぺこで帰って来たら、先客ありか」
「なにかあったんですか」
「毎度のことさ。上のほうが例によって、つまらん枝葉にこだわって、ああでもない、こうでもないで日が暮れるんだ」
国の内外でことが多すぎるせいもあろうが、肝腎の幕府は強烈な決断力を持つ人材に不足している。朝令暮改は珍しくもなく、そのせいで下は右往左往する。
「世も末だといいたいが、俺達の代で末にしちまったら、子供達に申しわけがないからな」
るいとお吉が次々と運んでくる肴で飲みながら、東吾が笑い、宗太郎が手を打った。
「その子供で思い出しましたがね、拙宅の花世が、東吾さんとの約束があるといっていましたよ。なんでも、横浜へ連れて行くと指切りしたのに、一向に音沙汰がない。なんなら、お父様のメスで指を切りにかわせみへ行こうかなんぞといいましてね」
「たしかに約束したよ。忘れていたわけじゃない」
だいぶ前のことだが、今度、横浜へ行く時は連れて行ってやろうと花世にいった憶えがあった。
「子供との約束は守らねばなりません」
厚焼の卵を旨そうに口へ放り込んで宗太郎が真面目な顔をした。
「近《ち》か近《ぢ》か、横浜へ行くあてがありますか」
「用はないが、五日ばかり暇が出来た」
品川沖で練習艦に乗る筈が、肝腎の艦が大坂へ行っていて戻って来ない。
「上のほうの方々に、思惑があってね。こっちはどうでもいいことなんだが……」
講武所のほうは、その予定で稽古をやりくりしてしまっているので、東吾としては五日間の休みになる。
「成程、横浜へ行ってもよいというわけですね」
「ついでに、浦島寺へも連れて行ってやるよ。千春はまだ無理だが、源さんがいいといったら、源太郎も一緒にと思うんだが……」
「休みはいつからですか」
「明後日からだがね」
「けっこうですね」
長助が自分で運んで来た蕎麦を眺めて、宗太郎が嬉しそうにいった。
「わたしも一緒に行きますよ」
「なんだと……」
「横浜から知らせが来ましてね。今度入った船が、新しい医学の書物をかなり沢山、積んで来たそうです。そういうものは自分で見てからでないと買えません。他にもいろいろと横浜で入手したいものがあるので、出かけて行こうと思ったのですが、何分にも大金を所持せねばなりません」
「わかった。用心棒か」
「うちの奥方が申すのですよ。東吾さんにでもついて行ってもらえるのなら安心だが、そうでもないと夜も眠れないくらい心配だと」
「おきゃあがれ。どこの世界に人にものを頼むのに、女房ののろけを聞かす奴がいる」
長助がそっといった。
「子安村の近くの、浦島寺へお寄りなさるんで……」
「子供達にみせてやりたいと思うんだ。玉手箱なんてものが、寺の宝物になっているそうだからな」
「そいつはお吉さんに聞きましたんで……。若先生があっしをお供に連れて行って下さるてえことでして……」
思わず、東吾は笑い出した。
たしかに、お吉のいる前で長助でも誘って出かけるとよいといった。
「それじゃあ、長助の所も孫を連れて行くか」
「とんでもねえ。うちは何人も居りますんで、一人を連れて行くと残りが承知致しません。今度、あっしだけがお供をして、眼の保養をしてえと思います」
宗太郎が蕎麦をたぐりながらいった。
「決まりですね。東吾さん、明後日は早立ちにしましょう」
とんとん拍子に話がきまって、東吾は夜、時刻をみはからって八丁堀の畝源三郎の屋敷へ行った。
話をすると、源三郎夫婦も喜んで、
「御厄介をおかけしますが、何分よろしくお願い申します」
と頭を下げる。無論、源太郎の喜びようは並ではなく、
「先生、ありがとう存じます」
といったきり、あとの言葉が出て来ない。
畝家を出て、東吾は兄の屋敷の前を素通りした。
本来なら、麻太郎も連れて行ってやりたい所であった。が、今回は声をかけるまいと決めていた。
東海道は麻太郎にとって、生母と江戸へ向って来た道であった。
もう一息で江戸という品川御殿山で、母は京極藩の追手によって殺害された。母から密書を托されて必死で逃げた麻太郎には、おそらく忘れられない悲しい旅であろう。
子安村へ行くためには、その東海道を通らねばならない。
すでに神林通之進夫婦の嫡子として落ついた日々を過している麻太郎だが、まだ、切ない思い出の道を歩かせるには忍びないものがあった。
それで、今回は麻太郎を連れて行かないと考えているのだが、正直の所、東吾にしてみれば、一番、喜ばせてやりたいのが麻太郎なので、つい通り過ぎた兄の屋敷をふり返ってみたりする。
「そうだ。永代の元締のところの、小文吾とも約束していたな」
この夏、深川の霊巌寺の富突講の際、花世から小文吾が横浜へ行って異国の船を見たいと希望していると聞き、当人に機会があったら同行してやるといっておいた。それを思い出して、東吾は律義に永代橋を渡り、深川の三十三間堂に近い文吾兵衛の住居へ足をのばした。
だが、行ってみると、小文吾は父の文吾兵衛と共に、日頃、お出入りしている仙台藩の重役の帰国に、土浦宿まで見送り旁《かたがた》、ついていったので、江戸へ戻るのは早くて三日後の夕方になるだろうと留守番の者がいう。
それでは、明後日には間に合わない。
「それじゃあ、小文吾との約束はこの次にするか」
東吾は深川を逆戻りして大川端町へ向かった。
なんにせよ、今回の横浜行は宗太郎と花世、東吾と源太郎に長助という五人連れのつもりだったのだが、「かわせみ」へ帰ると、るいが申しわけなさそうにそっといった。
「明後日の横浜でございますけれど、お吉をお供させてはいけませんか」
東吾は思わず笑い出した。
「そうだった。お吉も浦島寺へ行きたがっていたんだな」
「当人はなんにも申しませんけれど、あの人は正直で、お腹《なか》の中がすぐ顔に出ますでしょう」
いい年をして、本当に困り者で、と、るいは眉をひそめたが、子供の頃からの忠義者のお吉を喜ばせてやりたいというるいの本心は東吾にもすぐわかった。
「俺のほうはお吉が行ってくれりゃあ助かるが、宿商売の手は大丈夫か」
子供連れの旅だからどうしても四日はかかるだろうと腹づもりをしていた。
「私が留守番ですもの」
「なんだ。るいも行きたいのか」
「いいえ、私は千春がもう少し大きくなったら、嘉助と一緒に参ります」
「わかった。お吉にそういってくれ」
「あなたからおっしゃって下さいまし。私が申しますと遠慮をするんです」
「いいとも、呼んで来いよ」
るいがいそいそと立って行って、お吉が神妙な顔で居間へやって来た。
「すまないがな、横浜へ行く旅なんだが、源太郎も連れて行くことになったんだ。なりはでっかくなったが、なんのかのと道中、手がかかる。お吉に行ってもらえると助かるんだが……」
お吉があっと声を立て、慌てていった。
「ですが、お嬢……いえ、御新造様も千春嬢様もお留守をなさいますのに……」
るいが微笑した。
「でもね、お吉、今度の旅は宗太郎先生の大事なお買い物もあって、三、四日はかかるそうだから、道中、お身の廻りのものの洗濯だの、いろいろとお世話をする人がついて行かないと旦那様がお困りになるの。あたしだって、なにかと心配だし、他の若い女中にお供をさせたんじゃ、お吉のようには気が廻らないでしょう」
東吾が続けた。
「お吉がいいよ。花世も源太郎もなついているし、長助だって気がねがないだろう」
「お供をさせて頂きますでございます」
お吉が頭を畳にすりつけた。
「留守中のことは、お石達によくよく申しきかせて参ります」
「そうしてくれると安心ですよ」
お吉が台所へとんで行き、夫婦は声を忍んで大笑いした。
当日は、まず畝源三郎夫婦が源太郎を送って「かわせみ」へ来た。すでに長助は八丁堀の畝家へ行って、源太郎の身の廻りのものを一包にしたのを自分の背にしょっている。
そこへ、麻生宗太郎が花世とやって来た。
花世は馬乗袴をつけている。
「道中、馬に乗るかも知れないし、このほうが歩きよいからときかないのですよ」
少年のような娘の姿を父親はむしろ、たのもしがっている。
「そうか、源太郎も花世も乗馬の稽古をしているのだな」
品川を過ぎたら、乗せてやってもよい、と東吾がいい、二人の子供は大喜びしている。
さわやかな秋の気配の中を、一行は出発した。
「いつの間にか、大きくなったもんだな」
張り切って歩いている源太郎と花世を眺めて東吾が感慨ぶかくいい、宗太郎がうなずいた。
「光陰矢の如し、ですよ」
「おぬしが長崎から帰って来て、かわせみへ草鞋《わらじ》を脱いだのが昨日のことのように思えるがね」
「おたがい、若かったですよ」
「今だって若いさ」
「爺さんになるのは、坂道をころげ落ちるより早いものです」
「よせやい」
品川までおよそ二里を一息に来て、ゆっくり昼飯を食い、休息した。二人の子供もお吉もあまり疲れた様子もない。
約束だからと、東吾が立場《たてば》へ行って、馬をえらび、源太郎と花世が各々に乗った。無論、手綱は馬子が曳いて行く。
海沿いの風景はなかなかのもので、お吉も長助も時折、小手をかざして沖の白帆を眺めたり、道ばたの社寺に手を合せたりと、すっかり遊山《ゆさん》の気分になっている。
その夜は川崎泊りであった。
藤屋という本陣並みの上等の宿だが、宿賃は安い。
「みんな、よく歩いたな。明日は浦島寺だ。玉手箱がみられるぞ」
東吾の言葉に子供達より長助とお吉のほうが張り切っている。
飯がすむと子供達は早速、布団へ入ってあっという間に寝ついた。旅の一日目で流石《さすが》に疲れたのだろう。洗い物を干して来たお吉も、真面目な顔で旅日記をつけていた長助も、横になったとたんに鼾《いびき》をかいている。
「明日は、浦島寺で、みんなが疲れているようなら泊ってもよいし、元気そうなら横浜まで行ってしまおう」
浦島屋太郎兵衛の話だと、寺には参詣客を泊める用意があるそうだし、横浜のほうは麻生宗太郎の実家である天野家が昵懇にしている薬種問屋の横浜の出店のほうの別宅があり、これまで宗太郎が横浜へ来る度に厄介になっているので、そちらへ飛脚で宿を頼んである。
「横浜のほうは遅く着いても大丈夫ですが、まあ、みんなの様子をみてのことにしましょう」
のんびりと話していた宗太郎も眠ってしまい、やがて東吾も仮眠した。
この宿屋は本陣が一杯の時は大名行列も泊めるほどの格式だから、まず、夜中にごまの灰なぞが忍び込む心配はないが、それでも、宗太郎がかなりの大金を持っているだけに、東吾は油断していなかった。
なにしろ、客が入れ込みになる木賃宿なぞでは寝ている間に、有り金残らずさらって行かれたなぞということが珍しくはない。
が、何事もなく夜があけた。
宿を出て、鶴見へ向う。
「鶴見っていいましたら、なんと申しましても、よね饅頭ですよ」
遥かに箱根の二子山がみえる辺りから、しきりにお吉がいい続け、結局、鶴見の宿では七軒もある饅頭屋の中の亀屋というのに入って饅頭を食べた。
子安村が近くなると景色が一段とよくなった。
「ここらの海辺を本牧の沖というそうでございますよ」
道ばたで魚の干物を売っていた老爺から聞いたと長助がいい、子供達は長助やお吉と一緒に浜辺へ下りて貝を拾って来た。
浦島寺までは、ほんの僅かであった。
東吾とお吉が驚いたのは、道ばたの百姓家から人を叱りつけるような大声が聞えて、そっちをみると、縁側に立っていたのが浦島屋太郎兵衛だったからである。
「浦島屋さんじゃありませんか」
お吉が思わず垣根のところから声をかけ、太郎兵衛がびっくりした様子で庭へ下りて来た。
「こりゃあ、かわせみのお吉さん……御主人様も御一緒で……」
丁寧に挨拶する。
「ここは手前の実家でございます。まあ、ちょっとお寄り下さいまし」
手を叩いて家人を呼び、茶の支度をいいつける。
「そうもして居られぬのだ。これから浦島寺へ詣でて、今日は横浜まで行こうと思っているのでね」
と東吾がいったが、
「浦島寺でございましたら、うちの者に御案内をさせます。まあまあ、お茶でも……」
如才なく縁側に座布団を並べる。
みたところ、百姓家としてはなかなか立派なもので広い土間には米つき道具まで備わっている。
「手前は少々、弟に話がありまして、昨夜、横浜から参りまして、今からむこうへ戻るところでございました」
太郎兵衛に指図をされて右往左往していた中年の夫婦を、
「弟の次郎作と女房のおたけで……」
と挨拶させる。そこへ若い女が茶を運んで来た。
「弟の娘のおいねで……」
こちらのお客様が浦島寺へお出かけになるから案内をするようにと太郎兵衛にいわれて、娘はたて続けに頭を下げた。
「なにか、茶菓子はないのか。それ、今朝作ったあんころ餅が……」
太郎兵衛がいい、おいねが、
「あれは残りを伯父さんが横浜へ持って帰るというから、竹の皮にくるんで……」
といいかけると、父親がひどく狼狽した。
「馬鹿なことをいうでねえ。あんな残りものを、お客に出せるものか」
東吾が制した。
「心配しないでくれ。俺達はたった今、鶴見で饅頭をたらふく食って来たばかりなんだ」
太郎兵衛が両手をすり合せた。
「それはようございました。名物に旨いものなしと申しますが、鶴見のよね饅頭はけっこうおいしゅうございますよ。手前も江戸へ参ります往復には必ず立ち寄りますので……」
茶を飲み、東吾達はすぐ腰を上げた。
「厄介をかけた。それでは……」
「横浜はどちらにお泊りで……」
それに対して宗太郎が薬種問屋の名を告げた。
東吾達が表へ出ると、おいねという娘が追って来た。
「御案内を申します」
固くなっていう。娘を先に立てて、一行は村の道を進んだ。
田はぼつぼつ稲刈りがはじまっている。
「いそがしい季節《とき》に世話をかけてすまないな」
と東吾がいったが、おいねは、いいえと首をふり、気をとり直したように前方を指した。
「むこうのお山が浦島寺でございます」
それは山と呼ぶには、たいした高さではないが、みるからに急峻であった。
田の間の小道の突き当りに石段があり、それを上るとまた石段になる。三つ目の石段は長くて百段近くもあった。
やや広い所に出ると右手に藁葺屋根の方丈がみえ、それが観福寿寺であった。
「浦島さんのお墓も観音堂もまだ上のほうです」
おいねが松の木の茂った中にみえる石段を指した時、方丈から坊さんが出て来た。
「次郎作のとこのおいねでねえか。昨夜、太郎兵衛が帰って来たそうだが、また、難題を持ちかけたんでねえのか」
おいねが兎のように走っていって、東吾達のことを話している。
坊さんが人のよさそうな顔で合点した。
「それじゃ、玉手箱を出しておくで、お詣りの帰りに寄りなされ」
石段は急で嶮しかったが、子供達はずんずん上って行く。
石燈籠をおいた広場があり、そこから更に石段を上り切ると正面に観音堂がみえた。
「浦島さんのお墓はそこです」
おいねが指したのは観音堂の左手で、いくつかの石塔や墓石が並ぶ中にある石の塚であった。苔むして古風な墓石は如何にもそれらしい。
お吉が江戸から持って来た線香に火をつけて、墓前に供え、みんなは神妙に合掌した。
「ここの境内に、大きな松がないか。その近くに灯明台があるそうだが……」
東吾が訊ね、おいねは観音堂の裏山へ続く道を指した。
「そこを上ると……あります」
おいねが山道を上り出し、東吾が続いた。
「よけいなことを訊くようだが、浦島屋が難題をあんたの家へ持ち込んだというのは、どんなことだ。坊さんが心配そうだったが……」
東吾の問いに、おいねは唇を噛みしめるようにした。
「お客さんはお役人ですか」
「役人にみえるか」
「横浜の伯父さんがぺこぺこするのは、お役人だけだから……」
「残念ながら、役人じゃない。俺の内儀《かみ》さんは宿屋の女主人で、あんたの伯父さんはよく泊りに来るよ。俺は剣術《やつとう》を教えたり、軍艦《ふね》に乗ったり……一緒に来たのは医者と蕎麦屋の亭主と……みんな、困っている人間がいると、つい、お節介をしたがる奴ばかりなんだ」
おいねが肩から力を抜いた。
「伯父さんは、お父つぁんに田んぼを売れっていうんです。百姓をやめて、横浜へ来て店を手伝えって……」
「ほう」
「伯父さんは若い時分に家を出ちまって、あとはうちのお父つぁんがずっと祖父《じい》ちゃんや祖母《ばあ》ちゃんと一緒に田んぼを守って来たんです。でも、祖父ちゃんも祖母ちゃんも歿《なくな》って……そしたら、伯父さんが田んぼも家もみんな自分のものだから、売ってしまうと……」
「あんた達は横浜へは行きたくないんだな」
「祖父ちゃんがいい残したですよ。百姓が土地をなくしたら、おしまいだと……」
「いくらかを売って、いくらかをあんた達の家族のために残すって話にはならないのか」
泣きそうな目でおいねが海を眺めた。
山道を上り切ったところからは海が広く見渡せた。枝ぶりの立派な松と灯明台がある。
「伯父さんは、俺が跡取りだからって……お父つぁん、泣いてました。横浜へ行ったってなんにも出来ねえ。他《よそ》の小作人にでもなって、ここで暮すしかねえだろうと……」
はあはあと息をはずませて宗太郎と長助が上って来た。続いて二人の子とお吉。
「これは、いい景色ですねえ」
宗太郎が感動した。
「灯明台が、つまり燈台なのですね。そうか、東吾さんは軍艦からここを見たことがあるんだな」
お吉がいった。
「浦島さんも龍宮から帰って来て、ここから海を眺めたんでございますかね。こんなことなら、帰って来るんじゃなかったって……」
源太郎が訊ねた。
「先生、龍宮城というのは、海のずっとむこうの国のことなのでしょう」
東吾が返事をする前に花世がいった。
「花は、いつか軍艦に乗って龍宮城へ行きたいと思います」
「女は軍艦に乗れないよ」
源太郎がおかしそうにいい、花世がむっとした。
「男の恰好をします」
「でも、女だってわかるよ」
「意地悪、源太郎さん、嫌い」
まあまあと長助が二人をなだめ、それがきっかけで麓へ下りた。
観福寿寺でみた玉手箱は古めかしい漆塗の箱で紫の紐がかかっている。どこか安っぽく、流石のお吉も感心しなかった。
おいねは一行を村のはずれまで送って来た。
別れる時、東吾はそっといった。
「さっきのことだが、横浜であんたの伯父さんにそれとなく話をしてみるよ。あんた方の役に立つかどうか自信はないがね」
おいねはすがるような目をし、丁寧にお辞儀をした。
街道へ戻って、すっかり遅くなった昼飯をすませ、一行は思ったよりも早く横浜へたどりついた。
三
横浜に出店のある薬種問屋、千種《ちくさ》屋は江戸が本店だが、長崎にも出店を持っている。
「この節、長崎は漢方の薬種ばかりになりまして、西洋の薬種はみな、横浜のほうへ参ります」
外国船の入港が横浜に多くなり、商取引も長崎を越える勢いになった。
「ただ、ここらで一発当てようというきわどい商いをする者も入り込んで参りまして。そうは申しましても、世の中、それほど旨い話がころがっているわけでもございません」
成功するのはそれらの中のほんの一割にも満たないと聞いて、東吾は千種屋の番頭である清兵衛に訊いてみた。
「浦島屋といって、やはりこの横浜で異人相手に商売をしている者のことを知らないか」
清兵衛は自分は知らないがといい、手代を呼んで訊ねてみると、それは異人に商売女を斡旋する店だといった。
「表むきには日本の人形やら諸国の物産などを集めて来て、異人の土産用に売りさばいて居るようでございますが、あまり商売がうまく行っている様子はありませんので……まあ、女を紹介すると申しましても、この節はその種の見世が増えまして、お金のある者は安心して遊べるそちらのほうへ参ります。結局、もぐりのような商売の女を求めますのは安南人とか呂宋《ルソン》人とか、下級の船員のようでございまして、あまり儲けにはなりますまいと存じます」
港の裏町にある店は、まことに小さな貧弱なものらしい。
「驚いたな。あいつ、女衒《ぜげん》の真似事をしているのか」
東吾は首をすくめ、お吉は、
「冗談ではございません。そんなことでございましたら、次からはお宿をお断り致しましょう」
頭から湯気が立つほど怒った。
そこへさっきの手代がやって来て、
「このようなことをお耳に入れるのはどうかと存じますが、先程、お訊ねのあった浦島屋の主人が急に歿ったらしいと、出入りの者が申しますので……」
と知らせて来た。
「まさか、今朝、別れたばかりだが……」
半信半疑で東吾がいい、一同は顔を見合せた。
「若先生がお出かけなさることはございませんです。そのようないかがわしい商売をしている人が死のうと生きようと……」
とお吉はいったが、東吾には少々、気になることがある。で、飯がすむと、
「子供達を頼む。俺はちょっと浦島屋の様子をみて来る。かまわないから先に寝てくれ」
といい残して千種屋の別宅を出た。いいというのに、律義な長助は東吾について来る。
教えられた浦島屋はみるからにいかがわしい店であった。まわりは異人へ安っぽい土産物を売る店や居酒屋が並んでいて、外国船の水夫や風体のよくない男達がたむろしている。
浦島屋の表は閉っていて、裏へ廻ると丁稚《でつち》とも手代ともつかないような年頃の奉公人が町役人《ちようやくにん》といった感じの老人と、誰かを待っている様子で突っ立っている。
「こちらは浦島屋さんで……」
長助が心得て、声をかけた。
「こちらの旦那になんぞ変事があったようだと聞いて参ったんでござんすが……」
老人のほうが答えた。
「それがな、急に倒れて、そのまま、いけなくなってしまった」
「倒れたとおっしゃいますと……」
「昨日から子安村の近くの実家へ行っていたそうだが、今日の昼すぎ神奈川宿の飯綱権現で具合が悪くなり、あそこは御存じあるまいが山のてっぺんで、神官達が板戸にのせて、苦労して石段を下までかつぎ下したそうじゃ。その時は、まだ意識があって横浜の浦島屋へ運んでくれというので駕籠に乗せ、ここまで来たところが、息が絶えていた」
そうじゃろう、と老人が若いほうをみて、同意を求めた。
「この人は、浦島屋の奉公人で貞吉、わしはここらの差配をしている長兵衛という者でな。間もなく子安村のほうから太郎兵衛さんの弟がかけつけて来るというので、待っているんじゃが……」
「そうしますと、こちらの太郎兵衛さんの御家族は……」
貞吉というのが、みかけよりもしっかりした口調で答えた。
「うちの旦那は独り者で、家族はいません」
「すると、奉公人は……」
「俺一人です」
東吾が穏やかに問うた。
「太郎兵衛はなんで飯綱権現になんぞ寄ったんだ」
「船乗りにたのまれたんですよ。あそこの神様は船神様で船であっちこっちへ出かける人は嵐なんぞに遭って船が沈まないように、みんな御守を持って行くそうで、唐人の水夫はよくいいますよ。長崎には船神様の媽祖《マソ》様ってのが祭ってあるが、横浜にはないので、飯綱権現でその代りをするんだと……」
長兵衛もいった。
「それは、わたしもよく聞くが、なにしろ、飯綱権現は高い所に社殿があるので、みんな億劫がって行きたがらない。太郎兵衛さんはそのあたりを見込んで、一度に数多くの守札を授って来ておいて、適当に売りさばいているようだが、どうもあんな所で具合が悪くなったというのは罰が当ったのかも知れないねえ」
「そんなに高《たけ》えところにあるお社なんで……」
長助は浦島寺を連想したらしいが、
「高いのなんの、なにしろ石段が一の鳥居までに三百余段、それから先も急な坂道を何丁も登って行くような所だから……」
といわれて黙ってしまった。
そこへ提灯を提げた人影が寄って来た。男と女の二人連れで、女のほうが背の高い東吾に気がついて、
「あっ、あなた様は……」
と叫んだ。おいねである。その声で父親の次郎作もこっちをみる。
「やあ、着いたな」
東吾が長兵衛にひき合せた。
「この人が太郎兵衛の弟の次郎作だ」
「やれやれ、着きなすったか」
ほっとした調子で長兵衛がいい、裏の戸を貞吉が開けて、なんとなくみんなが家の中へ入った。
六畳と四畳半がつながった部屋に、布団を敷いて太郎兵衛は寝かされていた。
枕許におそらく長兵衛が供えたのだろう、線香が燃え切っている。
茫然としている次郎作に、長兵衛が子細を話した。次郎作は余程、動転しているのだろう、それらを殆ど聞いていないようにみえる。その上、長兵衛の話なかばにふらふらと立ち上って、
「兄《あに》さんの荷物は、どこだね」
という。長兵衛が少しばかり気を悪くした様子で布団の脇の風呂敷包を指した。
「わしが知っているのは、それだが……」
次郎作が這うような恰好でその荷物を取り上げた。風呂敷をほどき竹の皮包を出して開く。あんころ餅が二つ、食べ残りといった恰好で包まれていた。
「どうしただ。お父つぁん」
おいねが心配そうに父親に寄り添った。
「あんころは五つあった……」
咽喉の奥のほうで次郎作が呟く。まるで、自分にいいきかせるような調子であった。
「それが、どうしただ。伯父さんは甘いものが好きだで、途中で食いなすったでないの」
長兵衛が業《ごう》を煮やした。
「あんころの話はどうでもよかろう。これから通夜をするなら、坊さんはどこから呼ぶのか、それとも、あんたの家のほうへ仏を運んでからにするのか、そこらを決めんことには、わしは家へ帰れんで……」
東吾がすっと立ち上った。無言で竹の皮の包を手に取る。
「こいつは俺があずかって行くよ」
長助に耳打ちして、先に家を出た。
外で待っていると、やがて長助が出て来た。
「今夜は身内だけで通夜をして、明日、むこうへ運んで野辺送りをするようです」
「俺達の宿は教えて来たな」
「へえ、おいねさんに……」
「いいだろう」
歩き出すと長助がいった。
「まさか、弟が兄貴を殺《や》ったんじゃあ……」
「そいつは、このあんころ餅が教えてくれるよ」
千種屋の別宅へ帰って来たのは夜更けであった。
「二人の子はお吉が世話をしてくれて、湯に入ってやすみましたよ。お吉も同様です」
東吾が懐中からあんころ餅の包を出した。
「これに、なにが入っているか調べてもらいたいんだが……」
宗太郎が苦笑した。
「あんころと餅以外に、ですか」
「厄介かな」
「まあ、ここは薬種問屋ですからね。調べようと思えば出来ますよ」
「疲れているところをすまないが……」
「そんな気を使うのは、東吾さんらしくありませんよ。まあ、お先におやすみなさい」
宗太郎があんころ餅の包を持って母屋のほうへ行き、東吾は待っているつもりが、いつか前後不覚に寝てしまった。
目がさめたのが夜明け近くで、ふと横をみると隣の布団で宗太郎が眠っている。もう片がついたのかと思い、東吾は再び目を閉じた。
翌朝、昨日とは格段に差のついた豪華な朝餉の膳についていると、千種屋の番頭が入って来て、東吾に、
「お客様でございます」
という。
「一人か、二人か」
と訊くと、
「親娘の方でございましょうか」
二人だと返事をした。
それをみて宗太郎が、
「昨夜のあんころ餅ですか」
と笑う。
「そういうことになるかも知れないと思ってここの店の者と相談しておきました。子供達は長助親分とお吉さんがついて、千種屋の手代が横浜を案内するそうです。わたしはさっき東吾さんと相談した通りのことをすませてここへ戻って来てから、用足しに出かけます」
「買い物は一緒について行くよ。なにかあって七坊から苦情をいわれたんじゃかなわない」
「何分、よろしく」
宗太郎が手を鳴らすと、手代が来て、心得顔にいった。
「お客様は店のほうに待って頂いて居ります」
そそくさと宗太郎が出かけ、続いて身支度をした子供二人に長助とお吉が、
「それでは行って参ります」
手代の後からいそいそとついて行った。
入れかわりに、番頭が次郎作とおいねを案内した。
二人とも、昨夜は全く眠っていないのだろう、とりわけ、おいねは目を泣き腫らしている。東吾をみると、いきなり、おいねが手を突いた。
「助けて下さい。お父つぁんを助けて……」
次郎作が娘をかばって前へ出た。
「それはもういい。もういいんだ」
東吾へ向って手を合せた。
「俺は兄殺しでお仕置を受ける覚悟が出来ています。お願いは、女房と娘のことで……」
東吾が、この男独特の明るさで応じた。
「誰が太郎兵衛を殺したと……」
「俺だ。俺一人の量見で……女房も娘もなんにも知りません」
「どうやって殺したんだ」
次郎作が血走った目をすえた。
「兄さんが、俺に薬をくれたです。俺は腹が弱く、あまり飯が食えないので、それを知っている兄さんが、よく効く薬だから毎日、手の平のくぼみに軽く入るくらいを水で飲むようにと……」
「うむ、それで……」
「俺は心配になったです。兄さんは親からの土地を全部売るつもりになっていて、俺がこればっかりは親父の遺言だで手放せねえ。そのことは庄屋様も浦島寺の和尚さんもみんな知っているで、その二人に相談してくれろといい張ったで、腹を立てていなすったです」
「お前が死ねば、親からの土地は太郎兵衛の好きに出来るわけだな」
「庄屋様から聞いたです。お前の兄貴は横浜で悪い仲間とつき合っている。いざとなると何をしでかすか知れんで、用心しろと……」
「あんたは、本当に薬かどうか、心配になったんだな」
「すまねえことをしでかしたです。猫や犬でためしてみればいいものを、どう魔がさしたか、兄さんが残りはもらって行くといったあんころ餅に、その薬をまぶしつけて……」
「それが五個のあんころ餅だな」
次郎作がぶるぶると慄えた。
「兄さんはあんころ餅が好きだで、帰り道に三個も食ったで……それで……」
東吾が机の上の竹の皮包を取り上げて、なかからあんころ餅を出した。
「すると、こいつにも入っているわけか」
「へえ……」
「それじゃ、この一つを食ってみるか」
おいねが東吾の手からあんころ餅を払い落した。
「やめろ。お父つぁんが悪いんじゃねえですよ。お父つぁんを殺そうとした伯父さんが一番悪いんだ」
「お前達、なにを考え違いしているんだ」
あんころ餅を拾い上げて、東吾はそれをむしゃむしゃと食った。二人は声もなくみつめている。
「このあんころ餅には、たしかに薬がついていたそうだ。重曹といってね。そいつはたしかに腹にも効くそうだ。といってもたいした薬とはいえないらしいがね。異人はパンというものを焼くのに使う。絹や羊の毛なんぞを洗う時にも役立つそうだが、俺はそっちの専門じゃないから、くわしいことは知らない。はっきりしているのは、こんなものをいくら食ったところで死にはしないということさ」
「ですが……兄さんは死んで……」
「そいつは今、名医が調べに行ったよ。間もなく帰って来るから、じかに聞くがいいが、今朝、俺の話を聞いて、おそらく心の臓が急に停る病気だろうといっていたよ。太郎兵衛のように肥っている奴が、急な石段を上ったり、坂道だらけの飯綱権現みたいな所へ出かけると、急な発作が起りやすいそうだ。とにかく、あんたが兄貴を殺したわけじゃない。安心して茶でも飲んで待つことだ」
東吾が声をかけて、千種屋の女中が茶を運んで来た。
次郎作もおいねも、まだ茫然としている。
やがて、宗太郎が帰って来た。
「間違いありません。やはり心臓の発作です。ついでに荷物を調べてみましたら、本覚寺が出している黒薬というのを、沢山、買って持っているのですよ。あれは、俗に中風に効くといわれていますから、当人は前からその不安があったのでしょう」
頭痛や息苦しさや胸の痛みを自覚していたに違いないと宗太郎はいった。
「とにかく、死因は心臓の発作です」
東吾が嬉しそうに親娘へいった。
「この名医はな、将軍様の御典医の悴で、親父よりも腕がいい、正真正銘の名医なんだ。その名医が診立てたんだから、安心して野辺送りの支度をするといい」
おずおずと次郎作が紙包を出した。
「これは、兄さんが俺にくれて……」
次郎作があんころ餅にまぶしつけたものであった。
宗太郎が手に取って、白い粉末の匂いを嗅ぎ、指先につけてなめた。
「重曹ですよ。なめると胸がすっとしたようになる。制酸剤ですから、他の薬剤とまぜて処方することはありますがね」
次郎作にいった。
「こんなものより、生れつき胃腸が弱いのなら、いい漢方の薬がある。今、もらって来てやるから持って帰って、毎日、煎じて飲みなさい。もし、効くようなら処方を書いておくから、神奈川の薬屋で買うといい。決して高いものではないから心配するな」
とりあえず、今日の分は無料でいいと、宗太郎は先に母屋へ出て行った。
次郎作親娘は、その後姿を伏し拝んでいる。
あいつも俺も、相当のお節介のお人よしだと内心、苦笑しながら、東吾はおいてある重曹をせっせとなめた。
さっきのあんころ餅が胸につかえたようで気分がよくない。
朝っぱらから、好きでもないあんころ餅なんぞ食うものではないと後悔しながら、次郎作とおいねをうながして立ち上った。
千種屋の縁側から見渡せる横浜の海に白い鴎が舞っている。
宗太郎が薬の入った袋を持って、せかせかと戻って来た。
「東吾さん、出かけますよ、今日は一日、歩き廻りますから、覚悟をして下さい」
千種屋の奉公人が可笑《おか》しそうにこっちを眺めている。
東吾は咳ばらいをし、大刀を手に店のほうへ出て行った。
[#改ページ]
横浜慕情《よこはまぼじよう》
一
横浜の中央にある波止場の突端に立って、町をふりむいてみると、どこか長崎の出島に似ていると神林東吾は思った。
もっとも、横浜はもともと大岡川と帷子《かたびら》川の三角洲、砂嘴《さし》の上に出来た土地で、ここに外国船が入港するようになるまでは、せいぜい八十戸ばかりの漁師の家が散在する小さな村であった。
「僅かの間に、随分、変りましたね」
と麻生宗太郎がいうように、波止場の東側は土地が開発されていささか変形ながら一応、碁盤の目のように敷地が縄張りされて、そこは外国人の居留地として商館や居館が建っている。
一方、西側は町作りが進んで、海岸に近いところから海岸通り、北仲通り、本町通り、南仲通り、弁天通り、大田通り、駒形通りと七本の大通りが走り、その南側には新しい町屋が続々と出来上りつつあった。
港には二艘の外国船が停泊していた。三本マストの白い帆はいずれもたたまれて居る。船尾にユニオン・ジャックの旗が飜っているところから、二艘とも英吉利《イギリス》の船であった。
「東吾さんは船をみると子供のような顔になるんですね」
並んで眺めていた宗太郎が笑った。
「名医だって、腕白小僧の顔じゃあないか」
「いつか、乗って行きたいと思いますよ。日本ではまだまだ思うような医学書が入手出来ません。それに本を読んだだけではわからないことが沢山あります」
「医学は、むこうのほうが進んでいるんだろう」
「漢方にも良いところはありますがね」
その宗太郎はすでに十冊以上の医学書を買い込んでいた。その他、医療器具を扱う店で、東吾にはいったい何に使うのかとあっけにとられるような様々の道具をごっそりと手に入れた。
それらは四つの包に分けて、男二人が両手に提げている。
「ぼつぼつ、千種《ちくさ》屋へ戻ったほうがいい。子供達が腹をすかせているとかわいそうだ」
一昨日、江戸を発って初日は川崎泊り、二日目には子安村の近くの浦島寺を見物して、そのまま薬種問屋、千種屋の横浜の出店へ来て、別宅へ泊った。
千種屋の本店は江戸にあり、宗太郎の父、天野宗伯の屋敷は古くからの大得意先であった。勿論、宗太郎も使用する医薬の大方はここに注文している。
そうした関係で下にもおかぬもてなしをしてくれて、今回、横浜へ同行した花世、畝源太郎の二人の子供、それから供としてついて来た長助、お吉を含める四人は、今日の午前中、千種屋の者が横浜案内に連れ出してくれていた。
で、宗太郎の買い物につき合った東吾のほうは昼餉までに千種屋へ戻って四人と合流する約束になっている。
海岸通りを抜けて本町一丁目の千種屋の別宅へ戻って来ると、
「皆様は只今、弁天様へおまいりに行ってお出ででございます」
と手代が笑いながら教えてくれた。
一度、戻って来たが、東吾達がまだ帰っていないのを知ると、
「それじゃ、ちょっと弁天様まで行って参りましょう」
ということになって、又、出かけたらしい。
荷物を千種屋へおいて、東吾と宗太郎は弁天社へ向った。
「どうも今回は信心深い旅になりましたね」
往きにも浦島寺へ寄ったことを、宗太郎はそんなふうに笑っていった。
弁財天の社のあるあたりは海に突き出て島のような形状になっている。
こちら側からは大きな池になっている水べりに架っている橋を渡ると、砂洲の松林の中に赤い弁財天の社の建物が眺められた。
そこの境内の茶店に一行はいた。
各々が串団子で茶を飲んでいたのが、東吾達をみると、慌てて立ち上った。
「お戻りなさいましたんで……」
長助が少しばかり照れくさそうに、ぼんのくぼに手をやった。
「その団子は旨そうだな。俺にも一皿もらってくれ」
東吾が声をかけ、お吉が嬉しそうに茶店の奥へ行く。
「飯の前に団子ですか」
宗太郎が笑いながら、
「わたしにも一皿下さい」
という。
「なんだ。みんな、腹は北山なんだな」
茶店からは海がよく見渡せた。
波止場に停泊している英吉利船からみると、ずっと小さな舟が白い帆を上げて沖へ出て行く。
「ここから江戸湊までは、海上八里なんだ」
同じ江戸湾の中だから、時化《しけ》でも来ない限り、穏やかな航海である。
「お前達は、どこを見物して来たんだ」
茶店の婆さんが運んで来た串団子に手をのばしながら東吾が訊くと、
「千種屋の番頭さんが御案内下さいましてね。野毛村とか申します所にある御陣屋のあたりから、大岡川のそばの清正公《せいしようこう》様のお寺へ参りまして……」
お吉の話を長助が横取りした。
「吉原町がすっかり出来上っていたのには驚きました。大門口の所からのぞいてみたんですが、茶屋の造りから揚屋の並び方まで江戸の吉原そっくりで……」
その一角は清正公様を祀った寺と堀割で区切られている。
「なかへは入ってみなかったのか」
「とんでもねえことで、朝っぱらからいけませんや」
第一、女子供連れだと、長助は暗にいっている。
「港へも行ったの。外国のお船をみました」
花世がいつもより子供っぽい口調で東吾に甘えた。
「異人の屋敷も見ました。前に先生がお話下さったのと、そっくりで……」
源太郎が花世に張り合うように告げた。
「外国の人々が歩いていただろう」
「はい、女の人も、子供もみました。女や子供でも海を越えて来るのですね」
花世がいった。
「わたしも船で外国へ行きます」
源太郎も叫んだ。
「わたしも、行きたいと思います」
東吾がうなずいた。
「お前達が大きくなる頃は、そういう時代になっていると思うよ」
串団子を食べ終えて、茶を飲んだ。
「そうすると、異人館見物をすませて、千種屋へ戻ったのか」
「左様でございます」
お吉が東吾と宗太郎の団子の皿を片付けながらいった。
「番頭さんと千種屋へ戻って来ましたら、宗太郎先生も若先生もまだだとおっしゃいますので、近くの弁天様へ行ってみようってことになりまして……」
長助がつけ加えた。
「番頭さんが一緒に行くとおっしゃったんですが、すぐ近まなんで、大丈夫だからって出て来ました」
「番頭が一緒だと、串団子が食いにくいってことだろう」
東吾のいったのが図星だったらしく、四人が笑い出した。
「ですが、ここの弁天様は砂洲にあるので洲乾《すかん》弁天ともいわれるし、境内に七つもの湧水があるんで清水弁天とも呼ばれるんだそうでございますよ」
茶店の婆さんに教えてもらったと、お吉が新知識を披露する。
「もう、おまいりしたのか」
「私は花世様のお供をして参詣しましたけど、男の方はこれからで……」
「なんで男女が別々なんだ」
お吉が困りながら返事をした。
「いえ、弁天様は男と女が一緒におまいりすると焼餅をやくからよろしくないと申しますでしょう」
「それじゃ、男ばっかりで行って来るか」
茶代を払って東吾が立ち上り、宗太郎が一緒に縁台から立った花世にいった。
「お前はお吉さんとここで待ちなさい」
花世は不服そうだったが、素直に腰を下した。
歩きながら、東吾は気がついていた。
弁天様は好き合った男女が揃って参詣すると嫉妬してその仲を裂くという俗信がある。
それを知っているお吉としては、将来、もしも、源太郎と花世が好き合うことになったり、縁談が両家の間で起ったりしたら一大事と気を廻したに違いなかった。
無論、そのことは口に出さない。
弁天社はなかなか立派で古雅な建物であった。
治承四年に源頼朝が武運を祈願して、伊豆の土肥から勧請《かんじよう》したという由緒がある。
境内も広く、およそ一万二千坪あるらしい。
「ここらの浜辺は遠浅でございますから、春には汐干狩で賑うそうで……」
風景の美しさに目を細めながら長助がいった。
畝源三郎の捕物の御用で、何度か横浜に来ている長助だが、ゆっくり見物したのは今日がはじめてだという。
「こんなきれいな所を眺めて居りますと、盗っ人だ、人殺しだって浮世の話が嘘のように思えますですね」
しみじみと長助がいい、一行は弁天社におまいりをすませ、千種屋の別宅へ帰った。
二
午《ひる》からは宗太郎が案内役になって浅間山へ上ることになった。
横浜の南東にあるこの山からは江戸湾も、横浜の町も一望の下に眺められるという。
「東吾さんのおかげで、買い物が手ぎわよくすみましたから、あとは子供達につき合いますよ」
という宗太郎は横浜へ来た目的の大半が首尾よく片付き、あとの薬種類は千種屋がすっかり手配をしてくれたので上機嫌であった。
どっちみち、今夜はもう一泊、千種屋に厄介になって、明日早立ちで江戸へ帰る予定であった。
千種屋を出て、まず本町一丁目の突き当りにある横浜渡船場へ行った。
中央の波止場が主として外国船などの大船が停泊するのに対して、この渡船場は白帆をかかげる小型の船が入る所で、ここから入江を横切って、向い岸の宮之河岸渡船場まで渡し舟も往復している。
つまり、東海道を横浜に入るには東吾達一行が昨日たどって来たように神奈川の海沿いに権現山の麓を通り、本覚寺の門前町を抜けて横浜道へ入る。さらに、入江沿いの切り通しを迂回して野毛村へ入り大岡川の橋を渡るというふうに常に左手に海を眺めながら大きく廻って来るのが普通なのだが、入江を横切る舟渡しだと、横浜からいきなり宮之河岸、即ち権現山の麓の東海道へ出ることになる。
「明日、天気がよかったら、江戸までの船旅は無理だが、ここから舟で宮之河岸まで行ってもいいぞ」
と東吾がいい、子供二人はわあっと歓声をあげた。
浅間山へ行くには海岸沿いに中央の波止場へ出て、そこから異人館の集っている一画のふちを廻って帷子川へ出る。
橋を渡ると、そこは元町で一丁目から五丁目まで家並が広がっている。
浅間山への石段は元町二丁目と三丁目の間の道を行ったところにあった。
山へ向って、この石段もかなり急で長い。
「さて、上まで行けるかな」
と東吾はいったが、花世も源太郎も元気よく先頭を切って登って行く。
「あんまり急ぐと息が切れるぞ」
お吉の足を考えて、東吾はゆっくりと石段を上りはじめたが、そのお吉も浦島寺の石段ですっかり馴れてしまったらしく、案外、達者な足どりで、
「若先生の前ですけど、こうみえても毎年、お嬢……いえ、御新造様のお供をして愛宕山へ上って居りますから、石段にはびくとも致しません」
と、いばっている。
愛宕山は本来、京都の西北、山城と丹波の境にある山で、山上の愛宕権現は軍神また防火の神として古くから信仰を集めている。
だが、お吉のいった愛宕山とはそれではなくて、増上寺の地続きの、北側にある愛宕山のことであった。
京都の愛宕山にはくらぶべくもないが、それでも山上に勧請した愛宕権現までの石段は急勾配で、その昔、三代将軍家光の頃、曲垣《まがき》平九郎が騎乗のまま、石段を往復したことで有名になっている。
毎年、六月二十四日は、この日参詣すれば千日詣でる分の御利益があるというので、多くの人がやって来て火除けの御神符を授って行く。
「かわせみ」も宿屋商売で火を使うことが多いので、るいが必ず参詣に行き、そのお供はお吉と決っているのは、東吾も知っていた。
「お吉さんも、年の割には元気ですね」
東吾と並んで登っていた宗太郎がいい、それが聞えたらしく、
「年の割だけはよけいですよ」
お吉がふりむいて片目をつぶってみせた。
流石《さすが》にその声が少々、息苦しそうである。
石段も、その先の坂道もけっこう大変だったが、上り切ってみると眺望のよさは横浜随一と宗太郎のいう通りであった。
よく晴れているせいで、江戸湾はすみずみまで見渡せたし、その果には安房上総までが冬空の下に浮んでいる。
「こいつは絶景でございますねえ」
肩で息をしながら、長助も感嘆の声を上げ、小手をかざしている。
そこで一息入れている大人達をよそに、源太郎と花世は木立の中を走り廻っていたが、
「源太郎さん、あれは……」
という花世の叫び声に続いて、
「やめなさい……」
源太郎がどなったと思うと、ずんと重い地響きがした。
で、東吾を先頭にまっしぐらにその方角へ走って行くと、地上に男がころがっていて、源太郎と花世がその傍にかがみ込んでいる。
「どうしたッ」
と東吾が近づくと、
「首くくりです」
源太郎が立ち上っていった。
「首くくりだと……」
「あの枝のところに紐をかけてぶら下っていたのです。花世さんがとびついたら紐が切れたかして、落ちました」
花世がいった。
「父上、この人、生きています」
宗太郎はすでに男の頭を持ち上げて様子をみていた。
「誰か、水を……」
というので、長助がふっとんで行って水屋から柄杓で水を汲んで来ると、男は宗太郎に抱き起された恰好で、自分で水を飲んだ。
首をくくったというのに、首筋に痕らしいほどのものも残っていないのは、ぶら下ろうとした瞬間に花世がとびついて枝が折れたということだろう。
それにしても、男の恰好はひどかった。この季節に布子一枚、股引だけ、しかも、男の髪は茶色でちぢれて居り、眼は蒼い。
「おい、あんた、もしかしてジョン水兵じゃないか」
東吾がいささか彼らしくない大声でいい、男がまじまじと東吾を仰いだ。
「トウゴ……トウゴさん」
東吾の腕にしがみつき、男がわあっと声を上げて泣き出したのを、二人の子供はもとより、長助とお吉は肝っ玉がでんぐり返ったような顔で眺めた。
「御存じだったのですか。東吾さん」
宗太郎が面白そうに訊き、東吾は苦笑した。
「奇遇だよ。てっきり、もう英吉利に帰ったとばかり思っていた」
一昨年、軍艦操練所の練習船に乗り込んで長崎へ行った時のことだと東吾はみんなに説明した。
途中、嵐に遭って練習艦が破損し、長崎で修理をしたので予定以上の長滞在になった。
「その折、機会があって停泊していた英吉利船へ見学に行ったんだよ」
東吾達の教官は英吉利人で、たまたま日本へ来た英吉利船の船長と友人であった。
「そんな関係で、俺達は教官と一緒に何度か英吉利船へ出かけて、むこうの乗組員といろいろ話をしたり、教えてもらったりして親しくなったんだが、その時、俺達の面倒をみてくれたのがジョン・バックルでね。長崎は二度目だそうだが日本語がずば抜けて達者で、俺達は長崎にいる間中、彼から英吉利語を習い、ジョンには日本語を教えていたんだ」
間もなく東吾達は江戸へ帰り、ジョンの乗っている英吉利船もシンガポールへ向けて出航すると聞いていたのだが、
「わたしネ。シンガポールからまた日本へ来たですヨ」
たった今、首をくくりかけていたとは思えない口調で、ジョン・バックルが喋り出した。
泣いたあとで目はまっ赤だし、声もしゃがれているが、すっかり元気をとり戻したという恰好である。
「先月、横浜へ入りましたヨ。もう二日で上海へ出航ですネ」
「それはわかったが、なんで首なんぞくくろうとしたんだ」
東吾に訊かれて、ジョンは再び泣き顔になった。
「助けて下さい。わたしを助けて……トウゴさん」
「だから、わけを話さないと……」
風が吹いて、ジョンが大きなくしゃみをした。長助が羽織を脱いで、ジョンに着せかける。それをみて宗太郎がいった。
「とにかく、千種屋へ連れて行きましょう。こんな所を人に見られては、なにかと厄介です」
「それもそうだな」
ジョンに訊いてみると、とにかく船の乗組員に顔をみられたくないというので、長助の手拭で頬かむりをさせ、みんなで取り囲むようにして浅間山を下りた。
海岸側とは逆の人通りのない川のへりを通ってなんとか千種屋の別宅へたどりつく。
奥の部屋で、漸くジョンは人心地がついたような顔をした。
腹が減っているので、蕎麦が食べたいという。早速、千種屋が近所の蕎麦屋へ手代を走らせた。
「変ってますね。異人さんのくせにお蕎麦が好きだなんて……」
お吉が目を丸くしたが、やがて運ばれて来た天麩羅蕎麦を食べ、ジョンは東吾に訴えはじめた。
ジョンの乗ったセント・フランシス号が横浜へ入港して上陸許可の出た夜、ジョンは吉原見物に出かけたらしい。
「長崎の丸山、とてもきれいネ。横浜の吉原、とてもきれい。でも、ちょっと馴れないネ」
気後れして、うろうろしていると初老の日本人から声をかけられた。
「掏摸《すり》がねらっているから、気をつけなさい、といわれましたヨ」
驚いてみると、目つきの悪いのがこっちを睨んでいる。それで、ジョンは登楼する気がなくなって帰ろうとすると、背後でわあっと声が上った。ふりむいてみると、先刻、注意してくれた初老の男が目つきの悪いのに突きとばされたかして、路上に倒れている。
「悪い男、逃げました」
人通りのある路上での出来事である。
「わたし、かけよって助けました」
すると初老の男は、今の掏摸は自分がジョンに忠告したのを見て、腹いせに乱暴を働いたのだと訴えた。
「腰打って歩けない。わたし、家まで送りました」
自分を助けたせいで、ひどいめにあったのはすまないと考えたからである。
「家へ着くと、娘さん出て来て、驚いて介抱しました。お父さん、元気になって、わたしにお礼いう」
結局、ジョンはその家で手厚くもてなされた。
「命の恩人、いわれましたヨ」
ジョンが日本語が出来るので、話ははずんで、飯を御馳走になり、酒も勧められた。
「気がついたら、わたし、酔って寝てしまったようネ」
体には布団がかけられていた。帰ろうと思ったが、夜はかなり更けている。それに、港の方角もよくわからない。
「そこへ、娘さん、来ました。なにもいいません。でも、わたし、娘さんの気持、わかりました。ですから、一緒に寝ました」
宗太郎が東吾をみ、東吾が呟いた。
「ひっかかったんだな」
照れくさそうにうつむいているジョンに訊いた。
「それから、どうした」
「朝になって、わたし、船へ帰りました。娘さん、港まで送って来て、また、逢いましょう。わたし、約束しました」
「で、家へ行ったんだな」
「翌日、行きました。その次の日も、ずっと……下船出来る日は必ず……」
「金は取らなかったのか」
「はい、わたし、お金取って下さい、いいました。娘さん……お柳さん、いいますが、ラブ、お金なしよといいました」
長助が小さな声でいった。
「いけませんや。相当の悪《わる》でございますよ」
ジョンが長助にうなずいた。
「悪い人です。でも、わたし、わからなかったですヨ」
「で、その先は……」
東吾にうながされて、ジョンはまたしても泣き顔になった。
「昨日、行きました。もうすぐ船は出ます。おわかれに、ギヤマンの壺持って行きました。娘さん、それ持って行き、かわりにお父さん、来ました。娘、嫁にもらえ、船に乗せて行け。わたし、それは出来ません。船長、腹立てます。わたし、お払い箱になります。すると、お父さん、金払えと……」
「いくらだというんだ」
「日本のお金で百両……わたし、そんなお金ありません」
「百両たあ、ふっかけやがったものですね」
長助があきれた。
「この節、江戸の吉原のお職を身請けしたって、そんなにはかかりゃあしませんよ」
ジョンがわめいた。
「わたし、お金ありません。困りました。すると、目つき悪い男二人出て来ました。一人は、前に掏摸だとお父さんが教えたのと同じ人……お父さんと三人で、わたしの服はぎ取りました。服かえしてもらいたければ、百両持って来い……そして、この着物くれました」
布子一枚、股引姿で追い出された。
はぎ取られた服は、乗組員の制服であった。
それがなくては、船に戻れない。
「わたし、山へ上りました。港に船見える、でも帰れない。死にたくなりました」
東吾がジョンの肩を叩いた。
「わかった。よく、わかった。悪い奴にひっかかったものだが、心配するな。服は俺が取り返してやる」
ジョンがまた声を上げて泣き出した。
三
千種屋の番頭にジョンのひっかかった話をすると、大きく合点した。
「たしかに、この土地で不馴れな異人とみると美人局《つつもたせ》のような悪事を働く者があるという噂は聞いて居ります。なにしろ新開地でお上の目の届かぬところもあり、困ったものでございます」
それにしても、欺されたジョンというのは船乗りにしては随分と世間知らずだと番頭はいった。
「あいつは初心《うぶ》なところがあるんだ。第一、異人は背が高いから、うっかりするんだが、まだせいぜい十六、七の筈だよ」
長崎で親しくなった時、年齢を訊いて驚いたことを東吾は思い出した。
「なにしろ、母親の形見だっていう銀の首飾りを寝る時も手放さねえような奴だからな」
これから相手の家へ行って、なんとか話をつけて来るという東吾に宗太郎が心配した。
「金なら、千種屋にたてかえてもらいますがね」
「どうにも話がまとまらなかった時は頼むかも知れないが……」
「ここは江戸ではありませんからね。乱暴を働くと厄介なことになりますよ」
「俺が、それほど無分別にみえるか」
東吾は一人で行くといい張ったが、宗太郎はどうしてもついて行くと主張するし、長助も、
「あっしはお供を致します」
と決めている。
子供達をお吉にまかせて、男三人は千種屋を出た。
ジョンに教えられた家は元町のはずれであった。
外からみると、ごく普通の|しもた屋《ヽヽヽヽ》である。
「とにかく、男三人が雁首を並べたんじゃあ、むこうも用心する。なにかあったら声を上げるから、その時はとび込んで来てくれるなり、逃げるなり、その場の様子をみて適当にやってくれ」
下手に動かれると、かえって足手まといになるからと念を押して、東吾は一人で格子戸を開けた。
まるで芸人の住居のような、粋な造りである。
別に声をかけもしないのに、格子戸を開けた音で若い男が出て来た。目つきに鋭いものがあり、手首のところに刺青《いれずみ》がのぞいている。
「俺はジョンの友達だが、当家の主人は在宅か」
からっとした声で東吾がいい、相手はいったん奥へひっ込んだが、
「旦那がお目にかかると申していやす」
中途半端な言い方で、先に立って案内をした。
庭にむかって縁側のある部屋は陽が当って温かい。長火鉢の前に初老の男がすわっていた。
「これは、わざわざのお運び、おそれ入ります」
言葉だけ慇懃《いんぎん》に東吾を迎えた。
向い合って座ると、
「ジョンさんのお知り合いとのことでございますが、どのような……」
早速、探りを入れる。
「ジョンとは、長崎で知り合った」
「失礼でございますが、あなた様のお仕事は……」
「俺も船乗りだ」
「左様で……」
まるで、東吾の言葉を信用していないという表情をみせた。
「ところで、手前どもへお越し下さいました御用件は……」
東吾は用意して来た金包を前へおいた。
「これで、ジョンの服を返してもらいたい」
相手が紙包をのぞいてせせら笑った。
「三両でございますな。なにかのお間違いではございませんか。手前どもではジョンさんが娘を気に入って女房にしてもよいとおっしゃるので、安心して娘をおまかせ申しました。それを、あの方は反故《ほご》になさろうという。下世話に申す食い逃げでございますな。それでは娘があんまりかわいそうで、異人に傷物にされては、この先、まともに嫁入りも出来ません。どうしても娘を嫁にするのがいやだとおっしゃるならば、娘が一生食って行けるだけのものを頂戴したいと、このように申し上げましたが……」
かたんと小さな音がした。
襖のむこうで、誰かがこっちの話を立ち聞きしている。
「残念だが、俺がジョンのために出してやれる金は三両が目一杯だ。それだって俺のありったけでね。すまないが、それで服を渡してくれ」
「ごめんこうむります。これでは、娘の顔が立ちません」
「そうかな」
穏やかに東吾は相手を眺めた。
「ジョンの話だと、ここの家へ通ったのは十日足らずだとか。そりゃあそうだろう。セント・フランシス号が横浜へ入って、今日で半月、船乗りは交替で休みを取るから、ジョンが上陸出来たのはよくて八日か九日ってところなんだ。この節、吉原のお職だって揚げ代は祝儀ぐるみで一分がせいぜいだ。仮にジョンが十日通っても二両と二分、三両なら御の字じゃないのか」
相手が煙管を長火鉢の角で叩いた。
「女郎の相場は存じませんが、手前どものは正真正銘の生娘でございますよ」
「では、その娘に会わせてくれ。こうみえても俺は女の鑑定は本阿弥並みなんでね」
さらりと襖が開いた。
女がそこに立っている。
洗い髪に縞の袷を下馬付《したうまつき》で着崩した恰好はどうみても苦界の水をさんざん飲んだ女のなれの果だが、目鼻立ちは悪くはない。
「成程、親父が自慢するだけあって、いい女だな」
女が笑った。
「百両で、あたしを女房にしてくれませんか」
「男冥利に尽きるといいたいが、あいにく、俺は女房子がいるんだ。おまけにさかさにふっても、百両なんて金はない」
「でも、ジョンさんのために三両もお出しになった」
「だから、そいつは俺のありったけなんだ」
「横浜でお内儀さんやお子さんに土産でもお買いになるつもりでお持ちになった……」
「まあ当らずといえども遠からずだが、そっちはどうでもいいんだ。とにかく、友人が首っつりをしようてえ所へ出くわしちまったんで、人の命にゃ替えられねえ」
東吾の言葉に女が眉をひそめた。
「ジョンさんが首つりを……」
「お柳……」
と、初老の男が制したが、女はかまわず続けた。
「助かったんですね」
「いい具合に、俺達が浅間山へ上って行ったところでね」
「浅間山……」
「あいつ、泣きやがってね。どうせ死ぬなら海が遠くまで見える所で死のうと思ったそうだ」
黙り込んだ女の表情はすさんだ外見に似ず、どこか人のよさそうなものがある。
「図体はでっかいが、あいつまだ十七なんだと。死んだお袋の形見を大事に首に下げていたから、お袋さんが助けてくれたのかも知れないよ」
「つべこべいいやがって、お涙頂戴でごま化そうたって、そうは行かねえぞ」
初老の男が今までとはがらりと語調を変えて、どなった。
「服が返してもらいたけりゃ、百両耳を揃えてもって来い。びた一文、負からねえからな」
するりと女が姿を消した。かと思うと、すぐに風呂敷包を持って来た。
「三両でまけとくよ。これ、お返ししますから……」
初老の男が血相を変えた。
「冗談じゃねえ。そんなはした金で渡してたまるか」
「三両が、はした金だって……」
女が睨みつけた。
「ジョンと寝たあたしがいいってんだから、お前が文句をいうことはないんだよ」
「お柳……」
「知らないのかい。こちらは大層な御身分の方なんだよ。下手なことしたら、忽ち、御陣屋から役人が来る。叩かれたら、とんだ埃が出る体だってこと忘れたのかい」
男が絶句し、お柳は風呂敷包ごと、東吾に押しつけた。
「どうぞ、お持ちなすって下さいまし」
「いいのか。あとであんたが困ることになりはしないのか」
「あたしみたいな女のことを、心配して下さるんですか、若先生……」
情感をこめて、お柳が東吾をみつめ、東吾はあっと思った。自分を若先生と呼ぶからにはこの女は神林東吾の素性を知っている。
「大丈夫なんですよ。こいつらのおまんまはあたしが養ってやっているんですから……」
さあ、お帰りはこちらと、障子を開けた。
止むなく、包を取って東吾は玄関を出た。お柳は東吾を押すようにして一緒に外へ出る。
「お前、本当に大丈夫なんだろうな」
低声《こごえ》でささやくと、お柳がその胸に片手をかけた。
「相変らず、情が深いんですねえ。若先生って人は……」
「お前は、江戸にいたのか」
「若先生はお忘れでしょうけど十年前には深川にいました」
「それが、なんで……」
「野暮はききっこなし。三両も頂いてるんですから、うちの人もなんにもいいやしませんよ」
気をつけてお出でなさい、と一歩下って小腰をかがめた。
「世の中、広いようで狭いって本当ですね。横浜で若先生と会うなんて……」
一人言のように呟くと、格子戸の中へさっさと消えた。
あたりを見廻すと、隣との路地から長助と宗太郎が出て来た。
東吾が無言で歩き出し、二人が距離をおいてついて来る。
帷子川を渡ったところまで来て、長助が東吾から風呂敷包を受け取った。
「伊達や酔狂で顔を売っとくものじゃないというのが、よくわかりましたよ」
肩を並べて宗太郎がいった。
「聞いてたのか」
「あの界隈の家は造作がお粗末ですからね。軒下にしゃがむと、けっこう家の中の声が聞えます」
長助がいった。
「深川の女が、横浜へ流れて来ちまったんですかね」
「長助は知らないか。名前はお柳だが……」
「深川での名前は、別でしょうから……」
十年前では、顔をみてもわからないだろうと長助はいった。
「ああいうところの女は、なかなか一つ所に落つかないものでして……」
「そうだろうな」
千種屋の別宅へ帰って来ると、ジョンは花世と源太郎に西洋の骨牌《かるた》を教えている。
「おい、取り返したぞ」
東吾に声をかけられて、わあっと声を上げた。
「トウゴさん、ありがとございます」
長助から風呂敷包を受け取って何度も礼をいい、遂には風呂敷包に顔を埋めて泣き出してしまった。
四
「まあ、異人の男って、あんな情ないとは思いませんでしたよ。なにかっていうと子供みたいに手放しで泣き出すし、そうかと思うと、今泣いた烏《からす》がもう笑ったなんですから」
と、大いにジョンを非難したお吉だったが、一度、船へ帰ったジョンが夕方、千種屋へやって来て、船長の許可を取ったので、船を見物に来ないかといい、
「滅多にないことだぞ。みんなで行こう」
張り切った東吾に連れられて、波止場のセント・フランシス号へ出かけるとすっかり神妙になり、船長や乗組員の歓迎を受け、船内を見学し、葡萄酒を御馳走になる頃には、すっかり異人贔屓になってしまった。
「御立派な船長さんが、御自分で戸を開けて私を先に通して下さいますんで、もう、申しわけないやら、きまりが悪いやらで……」
何十遍も長助に繰り返している。
宗太郎の買い集めた荷物の大半は、千種屋のほうで、
「どっちみち、江戸の店へ荷を運ぶついでがございますので、大事におあずかり申し、三日後ぐらいには必ず本所のお屋敷のほうへお届け申します」
といってくれたので、どうしても持って帰りたいものだけを長助が、
「なんのためにお供をして来たのかわかりませんですから……」
強引に持って行くといい、東吾が、
「まあいいさ。道中、坊主持ちってことにして三人で交替しよう」
と決めた。
千種屋からは花世には西洋人形、源太郎には三本マストの蒸気船の模型が土産にと用意されて居り、二人の子供はそれを枕許において眠った。
翌朝は早立ちで、東吾が約束した通り、横浜の渡船場から宮之河岸までを舟で渡してもらい、東海道を江戸へ向った。
大川端の「かわせみ」へ帰ったのは、翌日の午すぎであった。
「お帰りなさいまし。さぞお疲れになりましたでしょう」
るいと千春《ちはる》、老番頭の嘉助《かすけ》が嬉しそうに出迎えて、東吾は、
「道中、天気がよくて助かったよ」
と笑顔で答えたが、内心、当惑していた。
なにしろ、ジョンのために三両、財布の底をはたいてしまったので、るいにも千春にも嘉助にも、なんの土産もない。
で、そのことをどう説明しようかと迷っている中に、
「お湯が沸いて居りますから、一汗お流しなさいませ」
るいがまめまめしく世話を焼いてくれるので一風呂浴び、さっぱり着替えをして居間へ戻って来ると、千春が西洋人形を抱えている。
「お吉が土産に買って来てくれましたの。千種屋さんが花世さんにさし上げたのがあんまりかわいらしかったので、あちらの番頭さんに教えてもらって、同じ店へ行き、求めて来たそうですよ」
どなたかさんは、ちっともお気がつかないで、と、やんわり女房に皮肉をいわれて、東吾は頭をかいた。
「こいつは安かないぞ。お吉の奴、よくそんな金を持って行ったものだな」
「嘉助には眼鏡がお土産ですって。やっぱり、ああいう舶来のものは横浜が一番だと千種屋さんで聞いたので、宗太郎先生にみて頂いたらしいのですよ」
「それは知らなかったが、嘉助は喜んだだろう」
「帳面の字が、今までの眼鏡より、ずっとはっきりみえますとか……」
「お吉の奴、西洋人形だの、眼鏡だの、高いものばっかり買いやがって、自分の土産は買えたのかな」
「なんにも買わなかったようですよ。浦島寺へはお詣りしたし、異人さんの船には乗せて頂いたり、夢のような旅をさせて頂きましたって、そりゃあ喜んでいますの」
るいが改めて手を突いた。
「お吉を連れて行って下さって、本当にありがとう存じました」
「よせやい。内儀さんから礼をいわれる筋はないよ」
本当は、るいに何か買って来たかったんだが、奇妙な英吉利人と出会っちまってね、とジョン・バックルの話をし、ついでに浦島屋の一件まで喋って、それが土産話になった。
だが、三日後、本所の麻生家から使が来て、美しい布地を届けて来た。
「このたびは、いろいろと神林様にお世話になりましたので、主人よりその御礼として、御新造様にとのことでございます」
帯にでも仕立ててもらいたいと口上を告げ、使が帰ったあとで、るいが広げてみると、鮮やかな花や異国風の鳥などが染め出してある綿布であった。
「古渡り更紗です。以前、越後屋さんでみたことがございましたけれど、南のほうのじゃがたらなどという国で染められるのですって……」
るいはそれを広げて、
「たっぷりありますから、繻子《しゆす》と腹合せに作れば、帯が二本取れますもの。一本はお吉に分けてやりましょう」
いそいそと寸法をはかって見積りをしているところへ長助が来た。
「どうも気になりますので、お柳って女のことを調べました」
間違いなく、十年前まで深川の丁字屋にいた芸者で本名がお柳、深川での名前は染吉といったという。
「丁字屋の隠居が昔のことを知っていまして、一人っきりの弟がやはり深川で船頭をしていたんですが、十七の時に患いついてあっけなく死んじまってから、世の中すねたんですかね、大酒飲みになって朋輩といざこざは起す、結局、土地にいられなくなって品川のほうへ住み替えしたそうです」
品川から横浜へ流れたんですかね、と慨歎して、つけ加えた。
「なんでも三味線が上手《うま》く、声がよく、十八番は清元の文屋《ぶんや》で……」
そこで東吾が思い出した。
「なんだ、文屋の染吉か、あいつなら知っていたよ。酒が強くて、うっかりするとこっちが飲みつぶされそうになる。そういえば、昔、酔っぱらって、あいつに安物のかんざし買ってやったことがあったよ」
とたんに、るいが向き直った。
「そうでしたの。昔むかしのおなじみさんだったので、三両ものお金をお出しになって、お柳さんとやらは、さぞかし、お嬉しゅうございましたでしょうね」
長助が泡をくって逃げ出し、東吾は進退きわまった。
[#改ページ]
鬼女《きじよ》の息子《むすこ》
一
大川に薄く靄《もや》の立ちこめた初冬の夕方、「御宿かわせみ」と文字の浮き出す掛け行燈に灯を入れていた女中頭のお吉は、いきなり暗い中から出て来た男の姿に年甲斐もない悲鳴を上げた。
帳場にいた嘉助がとび出してみると、軒下に棒立ちになっているお吉の前に明らかに在所者といった恰好の男が腰をかがめてあやまっている。
「どうかしたのかい。お吉さん」
嘉助が声をかけると、その男が嘉助のほうへ向き直った。年頃は四十なかば、ひょっとすると五十に手が届いているかも知れない。
夕闇の中で男の渋紙色の顔がひどく狼狽していた。
「驚かせて、すまねえことをしました。わしは決してあやしい者ではねえです。ちっとばかし、ものを訊ねてえと思って……」
相手を一瞥《いちべつ》して、嘉助はその昔、捕方時代に身につけた鋭い光を眼の中から消した。如何にも実直そうな宿屋の老番頭の表情に戻って、もの柔かな口調で答えた。
「いったい、手前どもに何をお訊ねで……」
男が少しばかりためらってからいった。
「こちらさんは旅籠屋さんで……」
「左様でございます」
「みなと屋さんといいなさるお店かね」
「手前共は……」
嘉助が掛け行燈へ相手の視線を導いた。
「かわせみと申しますが」
「このあたりに、みなと屋という旅籠は……」
「さあて……失礼でございますが、町の名なぞは御存じで……」
「大川端町と聞いていたです」
「大川端町には、旅籠は手前共しかございませんが」
大川に面した狭い地域であった。北は日本橋川が大川へ流れ込む川口に架っている豊海橋まで、南はやはり亀島川から大川へ向う堀割を境に向い側が白銀町となる。
南北に細い町は子供の足でもあっという間にぐるりと廻って来ることが出来た。
「こちらさんの外に、旅籠はねえとおっしゃるので……」
「みなと屋さんなんて聞いたこともありませんよ」
様子を眺めていたお吉が口をはさんだ。
「嘘だと思うなら、御近所で訊いてみるといい……」
男が豊海橋のほうを指した。
「あそこの酒屋で訊いたですが、この町内の旅籠といえば、こちらさんしかねえと教えられたでごぜえます」
「うちはみなと屋じゃありませんよ」
お吉の切り口上を嘉助が制した。
「お前さん、みなと屋という店を探していなさるのかね」
「へえ、娘がそちらに奉公して居りますで……」
これは立ち話ですむことではないと嘉助は判断した。
「ま、往来ではなんだから、ちょいとお入りなさい」
嘉助が暖簾をかかげると、ちょうど千春を連れたるいが奥から出て来た。
「旦那様のお帰りじゃなかったの」
るいが訊き、お吉が下駄を脱ぎながら答えた。
「うちを他の旅籠と間違えたみたいなんですよ」
続いて暖簾をくぐった男が、るいをみて思わずといった恰好で問うた。
「こちら様が、御主人様で……」
お吉が胸を張って応じた。
「手前共の御主人様ですよ。旦那様はお上の大事なお仕事をなすっていらっしゃいます」
お吉の終りの言葉を男は聞いていなかった。
「わしの娘が奉公に上った先も、大層、お優しい女の御主人だと聞かされて居りますだ」
「しかし、お前さんの娘さんの奉公先はみなと屋で、ここはみなと屋じゃございませんよ」
嘉助が慌てて、男を押し戻すようにした。男は上りかまちに両手を突いて、下からるいを仰ぎみている。
「そちら様の娘さんのお名前は、なんとおっしゃいますの」
るいが訊いた。
「おくみと申しますだ。三年前に江戸の大川端町のみなと屋という旅籠に奉公が決って故郷《くに》を出て行きましただが……」
「おくみさん……」
るいが助けを求めるようにお吉をみ、お吉がうなずいた。
「おくみさんなんて娘さんは、うちには居ませんですよ」
嘉助が男の肩へ手をかけた。
「お前さん、在所はどこだね」
「中山道の大宮宿の近くでごぜえます。わしの名は彦作と申します」
「うちには、大宮宿から奉公に来ている子は居ませんよ。みんな身許ははっきりしてますし……」
とお吉がいい、るいが命じた。
「とにかく、うちの女中達をここへ連れて来て、こちら様にみて頂くといい」
「冗談じゃありませんよ。この忙しい時に」
ぶつぶついいながらお吉が台所へ行き、やがて五人の女中が帳場へ出て来た。
お石を筆頭にお竹、おみね、おすみ、おかよと各々に名乗るのをみていた彦作が、がっくりと肩を落した。
「申しわけねえことでごぜえます。わしの娘は、こちらさんには居りませねえだ」
「だから、最初からうちじゃないといってるのに……」
お吉が女中達を台所へやり、嘉助が改めて訊いた。
「お前さんの娘さんは、いったい、どういう伝手《つて》で江戸へ奉公に出なすったのかね」
「かわせみ」の女中達はおおむね、前任者の紹介で奉公に来た。
例えば、今、女中達の中で、お吉の片腕になって一番働いているお石は武州所沢の出身で、「かわせみ」で四年奉公し、嫁入りの話が決って暇を取ったお松という娘と同じ村の生れだったところから、お松の親が紹介して「かわせみ」へ来た。
他の四人にしても、同じような経緯で奉公に来ていて、この節、うっかり桂庵《けいあん》なぞへ頼むと、とんだすれっからしをよこすことが多くなっているから、「かわせみ」のように同郷の者を次々と雇用する店が増えている。
嘉助が、どういう伝手でと訊ねたのは、そのあたりを考えてのことだったが、彦作の返事はあまりはっきりしなかった。
「わしの村の近くのおかねという婆さんの悴が越後屋さんに出入りをしていて、その幸助さんという人が、いいお店へ紹介してくれるもので……」
嘉助がほうという顔をした。
「越後屋というと、本町通りの呉服屋の越後屋かね」
彦作が、やや頼りなげに肯定した。
「そのように聞いたですが……」
「越後屋さんへ出入りしているのなら間違いはない。なにはさて、越後屋へ行ってその幸助という人を訊いてみるがいい」
早速、越後屋までの道順を丁寧に教えると彦作は何度も礼をいって、とぼとぼと「かわせみ」を出て行った。
「あの人、大宮宿から来たんですねえ」
お吉が呟いた時、彦作を送りがてら外へ出ていた嘉助が、
「若先生のお帰りでございますよ」
はずんだ声でるいへ知らせた。
「なんだったんだ。今の奴は……」
入って来た東吾が一番に訊いたのは、この家を出て歩いて行く彦作とすれ違ったからで、
「なんだか、えらくがっかりした顔をしていたが……」
大刀をるいに渡しながらいう。
「間違えたんでございますよ。うちをみなと屋とかいう宿屋と……」
お吉がしたり顔で告げ、東吾は、
「父上、お帰りなさいませ」
行儀よく手を突いた千春を抱き上げて、るいの後から奥へ入った。
「なんですか、わけのありそうな人だったのでございますよ」
居間へ入って、東吾の着替えを手伝いながら、るいがいいつけた。
「中山道の大宮宿から出て来たそうですけど、娘さんが江戸の大川端町のみなと屋と申す旅籠に奉公しているとか……」
「みなと屋なんてのは聞かねえな」
「おまけに、そちらも女主人なのですって」
「娘の奉公先の名前がとっ違ってるってのはどういうわけだ」
「おそらく、あちらが聞き間違えたのでしょうけれど……」
「馬喰町あたりの旅籠じゃないのか」
さっさと着替えをすませ、東吾は炬燵にすわり込んで千春の相手をはじめ、るいは夫のために熱い茶をいれる。
外は木枯が吹きはじめていた。
二
翌日、東吾が軍艦操練所の入口を出て来ると、本願寺橋の袂に畝源三郎がこっちをむいて立っているのが見えた。
で、走り寄ると、黙って本願寺の塀に沿って歩き出す。どこにいたのか、長助がついと背後に続いた。
「俺に、用なのか」
軍艦操練所が終るのを待っていたのだとわかって訊くと、源三郎が苦笑した。
「たいしたことではないのですよ」
「かわせみ」のほうへ行ってもよかったのだが、
「客商売の店先で、土左衛門の話というのは縁起がよろしくないので……」
という。
「この寒空に土左衛門か」
「今朝、神田川に浮びましてね。財布の中に、江戸大川端町旅籠みなと屋、と書いた紙が入っていたのが唯一の手がかりなのです」
「大川端のみなと屋だと……」
「大川端にみなと屋などというのはありませんが……」
旅籠といえば「かわせみ」しかない。
「待てよ。あいつかも知れない」
「心当りがおありですか」
「俺はすれ違っただけだが、内儀《かみ》さんがいっていたよ。かわせみとみなと屋を間違えたとか……」
「東吾さんは、その男の顔をみているのですね」
「ああ」
「首実検をお願い出来ますか」
「いいとも……」
死体はとりあえず浅草御門に近い番屋へおいてあるというので、東吾はまっしぐらに神田へ向った。
番屋の奥に運び込まれていた遺体は少々、面変りはしているものの、まぎれもなくあの男であった。着ているものも、東吾がすれ違った時に記憶した通りであった。
木綿の絣に灰色の袖なしを重ね、股引に草鞋《わらじ》という足ごしらえである。
「まさか、身投げじゃないだろう」
東吾がいい、源三郎が答えた。
「死因は水死ですが、頭になぐられた痕がありますので……」
何者かに突き落されたものだろう。
「おそらく、昨夜、更けてからのことでしょう」
死体が発見されたのは新シ橋の近くで、土手の棒杙《ぼうぐい》にひっかかっていたという。
そのあたりは通称、柳原通りといい、夜は殆ど人通りもなく寂しい場所であった。
「陽気のいい季節ですと、夜鷹めあてにやって来る連中がありますが、こう冷えては余程の物好きでもないと……」
従って目撃者を探すのは困難だろうと源三郎は予想している。
番屋を出て、揃って「かわせみ」へ向う。
如何に縁起が悪くとも、死体の身許を調べるには「かわせみ」の人々の話を聞く他はない。
「どうも、毎度、ろくでもない話を持ち込むと評判が悪くなりそうですな」
源三郎が笑い、東吾がいった。
「なあに、あの連中は、そういう話になると俄然、いきいきしてくるよ」
神田からの途中で陽が暮れた。
夜気は冷えて来る。
だが、「かわせみ」の居間は長火鉢の鉄瓶が白く湯気を上げ、東吾が源三郎と長助を伴って炬燵に向い合うと、すぐにお吉が酒の肴と熱燗の酒を運んで来る。
やがて、呼ばれて嘉助も部屋へ入る。
大宮宿から来た彦作という男が土左衛門になったという話にお吉もるいも息を飲んだ。
「なんで、あのような人が……」
とるいが呟き、
「それを源さんが調べるんだから、なんでもあいつから聞いたことを話すんだ」
東吾がうながした。
といわれても、三人が耳にしたのは、大宮宿の在で、名が彦作、娘のおくみが江戸の大川端町のみなと屋に奉公しているのを訪ねて来たという程度のことである。
「おかねという老婆の悴の幸助というのが、越後屋に出入りしていて、それの口ききで奉公に出たのが三年前と申して居りました」
嘉助の言葉に源三郎がほっとした表情をみせた。
「すると、越後屋で訊ねれば彦作の足どりがわかるかも知れません」
少くとも、彦作は「かわせみ」から本町通りの越後屋へ向った筈である。
それが暮れ六ツ近く、越後屋は大戸を下してしまうかも知れないが、裏へ廻れば奉公人の出入口がある。嘉助もそのように教えてやっていた。
「それにしても、おくみさんという娘さん、奉公に出て三年も経つのに、藪入りなぞに帰らなかったのでしょうか」
るいがいった。
中山道大宮宿は江戸から七里余、女の足では決してちょっと帰るというわけには行かないが、それでも早朝に江戸を発てば、午後にはたどりつく。奉公に出たばかりの年ではおいそれと暇も取れまいが、二年、三年ともなれば、藪入りの前後をやりくりして親の顔をみに戻れないことはない。
「まあ、店によってはなかなかきびしい所もありますから……」
なんにせよ、早速、越後屋を当ってみましょうといい、源三郎と長助は折角、温まったというのに夜風の中へとび出して行った。
そして、翌日、長助がいささか浮かない顔で「かわせみ」へ報告にやって来た。
越後屋での話によると、たしかに彦作というのが訪ねて来ていた。
「ところが、越後屋のほうでは出入りの者に幸助というのは居りませんで、中番頭までが出て来ていろいろと考えたのですが、どうにも心当りがなく、その旨を彦作に申したそうでございます」
「越後屋さんもすげないじゃありませんか。あれほどの大店ですから、出入りの者も少々ではございませんでしょう。そう、あっさりと知らないですませるなんて、在所者だと思って馬鹿にしたんですかね」
お吉がまくし立て、長助がぼんのくぼに手をやった。
「あっしもそう思ったんで、奉公人を片っぱしから呼んでもらってきいてみたんですが、幸助という名にも、大宮宿にも全くおぼえがねえと申します」
第一、出入りをしていたといっても、どういう仕事で越後屋とかかわり合っていたのかがわからなかった。もっとも考えられるのは越後屋から品物を卸《おろ》してもらって商売をする小売りの商人だが、越後屋は問屋ではないので、そうしたつきあいの相手はあるものの、数は限られているし、名前もわかっていた。
「その中にも幸助と申しますのは居りません」
「越後屋さんでそんなふうにいわれて、彦作さんはどうしたんですかね」
お吉が訊き、長助が情ない顔をした。
「小僧の一人が見送っていたところ、本町通りを浅草御門のほうへ歩いて行ったと申しますんで……」
それが戌《いぬ》の刻(午後八時)を廻っていたといった。
彦作の歩いて行った方角には馬喰町があった。馬喰町あたりは旅籠が多い。
「ひょっとすると、旅籠を聞いて廻って、みなと屋というのを探したんじゃねえかと畝の旦那がおっしゃいますので、今日はうちの若え連中が総出で馬喰町を聞いて歩いて居りますんで……」
長助もこれからそっちへ向うのだと、挨拶もそこそこに出て行った。
「あの時、もう少し、ひきとめて話を聞いておけばようございました」
嘉助が後悔し、「かわせみ」の人々はなんとなく重い気分になった。
土左衛門になった彦作の財布には一両足らずの金があり、行きずりの盗っ人の仕業ではあるまいと思われた。
となると越後屋を出た彦作が次に誰を訪ねたかが重要な鍵になるのだが、長助達の熱心な聞き込みにもかかわらず、馬喰町界隈にはみなと屋という旅籠もなければ、彦作が立ち寄ったという宿も見当らない。
これは、やはり大宮宿まで人をやって、彦作の家を探し、家族に話を訊くしかあるまいというのが取調べに当った役人の考えであった。
たまたま、瓦版に、彦作の事件が書かれた。
大宮宿から、江戸へ奉公に出た娘を探しに来た男が殺害されて神田川から死体が上ったといった程度のものだが、このところ、江戸にそれほど凶悪な事件がなかったせいもあって、少々、派手な書かれ方ではあった。
その日、東吾は講武所で教授方を勤めている早瀬左門というのが風邪をこじらせて、病状がかなり悪いと聞き、根津へ向った。
早瀬左門の住居は根津権現の裏手にある。
講武所の稽古が終ってからの廻り道なので、冬の陽はもう西へ傾いていた。
早瀬左門は槍術の名手だが、身分は軽輩で、東吾が訪ねた屋敷はまことに貧しげであった。玄関先で妻女の話を聞くと、当人はひどく弱っていて、今朝からは意識もなくなり、医者が来て手当をしているという。
「もはや、回復は難かしいとお医者から申し渡されました」
そんな中で気丈に礼をいう妻女の様子に胸をつまらせながら、なにか手伝うことはないかと訊いてみたものの、病人の死を待つような状態では、これといってすることもない。
医者が出て来ての話では、思いの外、体力もあり、心の臓がしっかりしているので、ここ一両日は持ちこたえるだろうという。
東吾は見舞金の包を妻女に渡し、医者と一緒に早瀬家を辞した。
病人の容態についてぼそぼそと話をする医者と並んで不忍池に流れ込む小川のふちを来ると、いきなり横の道から若い女がよろよろとよろめき出て、東吾のほうへ手をさしのべるような恰好のまま、ばったり倒れた。
走り寄って抱き起すと、必死の形相で東吾にすがりつく。
「おい、どうした。しっかりしろ」
東吾の声にとぎれとぎれにいった。
「あだちがはら……おにばば、助けて……」
「なに……」
娘の口に耳を寄せたが、苦しげな息が洩れるばかり、血の気を失った唇が慄えている。
「しっかりするんだ。お前の名は……」
「わたし……ひこさくのむすめ……お、く、み……」
娘の首が倒れて、医者が脈を取った。眉をしかめて東吾を見る。
男が三人、娘のよろめき出た道から姿をみせた。
「畜生、あんなところに……」
ばらばらと東吾の前へ来た。医者が怯えた様子をみせた。
東吾は黙って娘の体を抱いて立ち上った。
「お前ら、この女の知り合いか」
男の一人が慌てた返事をした。
「そうなんで……」
「この様子は只事ではないな」
娘の顔も、むき出しになった腕も、はだけかかった胸のあたりにも無惨な痕があった。
明らかに激しく折檻されたものに違いない。
別の一人が進み出た。
「お武家さん、そいつは女郎でござんすよ。女郎が折檻されるにゃ、それ相応のわけがあるんで……」
「理由はなんだ」
「二度も店を逃げ出そうとしやがって……」
「それで、責め殺したのか」
「御法度でござんすからねえ」
東吾が歩き出し、三人の男が立ちふさがった。
「どこへ行きなさるんで……」
「番屋だ」
「そいつはいけねえや。悪いことはいいません。女をお渡しなすって……」
「抱え主に番屋へ来いといってくれ。訊きたいことがある。その上で、場合によったら、弔《とむら》い料は俺が出す」
東吾が前へ出ると、三人の男は勢いに押されたように道を開いた。
医者は途方に暮れて立ちすくんでいる。
番屋へ女をかつぎ込んで、東吾はあっけにとられている番太郎に自分の姓名を告げ、定廻りの畝源三郎を呼びにやった。
あとは東吾一人きりである。
板敷に女の死体を寝かせ、あり合せの菰《こも》をかけてやった。
女の顔はよくみるとまだ幼さが残っていた。
痩せこけた体には若い女らしいふくらみもない。これが彦作の探していた娘なら、いったい、この娘になにがあったのかと思う。
親は旅籠に女中奉公しているとばかり信じていたのだ。
番屋の外に人の声がした。
「ごめん下さいまし」
と戸口からかけた調子は案外、神妙である。
だが、東吾は油断なく大刀をひきつけた。
「誰だ」
「ひさご屋の者で……」
「俺は主人に来いといった筈だ」
がらりと戸がひきあけられて、男が二人とび込んで来た。が、東吾の動きのほうが早かった。
東吾のつかんだ心張棒が風を切って、一人は足を払われ、もう一人は胸を突かれて戸の外へころがった。
「出ろ」
鼻先に心張棒を突きつけられて、四つん這いになった男は番屋を逃げ出した。
東吾はすかさず戸を閉めた。
どうも荒っぽいことになったと思ったが、この際、仕方がない。
「親分が来たぞ」
という声がして、戸口に人が立った。
「ごめんなすって」
十手の先を戸口にさし込んで、ずるずると押しあけた。
「あっしはお上から十手捕縄をおあずかり申している庄三というけちな野郎で……」
「御用聞きか」
「へっ」
「俺は神林東吾だ。今、番太郎が定廻りの旦那を呼んで来る。話はそれからだ」
庄三という岡っ引が絶句した。あまり人相のいい奴ではない。上眼遣いに東吾の顔を窺って、
「神林様で……」
「そうだ」
考え込んでしまった相手に東吾が命じた。
「戸を閉めろ、風が入る」
「へい」
うっかり返事をして戸を閉めて、あっという顔になった。
「それじゃあ貴方様が……」
一人で合点して、おずおずと申し出た。
「ひさご屋の亭主を呼んでめえりましょうか」
「そのほうが、話は早いな」
番太郎が畝源三郎を探して来るのは時間がかかりそうであった。本来なら、定廻りの旦那が町廻りを終えて奉行所へ戻る時刻だが、源三郎が果して帰っているかどうか。
庄三が東吾にお辞儀をして出て行った。
「あちらは御奉行所のえらい御方の弟さんだ。気をつけろ」
大声でどなっている庄三の声が聞えて、東吾は内心、ぎょっとした。
こんな所で、兄の七光りが出て来るとは考えてもみなかった。
落つかない気持で腰をかけていると、やがて、
「若先生、ひさご屋を連れてめえりました」
庄三が先に立って、初老の男を案内して来た。みるからに女郎屋の亭主といった感じだが、庄三にいい含められて来たのか、えらく腰が低い。
「若《わけ》え者が御無礼を働いたようで、まことに申しわけございません。きつく叱っておきましたので、何卒、お許し下さいまし」
庄三と同じく、なんとなく東吾の表情を窺っているところが食えない奴といった印象であった。
「そんなことはどうでもよい。ここにいる娘はお前の店の抱えか」
東吾が背後の死体へ目をやり、ひさご屋の主人は頭を下げた。
「どうも、とんだことで……千代春と申します妓《おんな》でございます」
「本名は……」
「たしか、おくみと……」
「親許は……」
「在所は上州だとか、親なしでございまして……」
懐中から請状を出して、東吾にさし出した。
年季は二十年、ひさご屋への借金は五十両となっている。
請人の名は幸助。
「幸助というのは女衒《ぜげん》だな」
「いえ、おくみの兄だと申すことでして……」
「兄が妹を苦界に沈めたのか」
「二人の親が大病のあげく歿って、借金のかたに田畑をとられかけているとか申して居りました」
女郎屋がよく使う口実だと東吾は思ったが口には出さなかった。
こうした手合は絶対に真実を白状しない。
「おくみは二度にわたって足抜けをしようとして折檻され、責め殺されたようだが、理由はなんだ」
ひさご屋の亭主が顔をしかめた。
「それが、どうもわかりませんので……日頃はおとなしい妓で、足抜けなどというだいそれたことをやるとも思えませんでしたが、ここ何日か突然……」
「ここ数日の中に二度か」
「左様で……」
「もしや、瓦版などを読んでからと申すことはないか」
「さあ、それは気がつきませんでしたが……たしかに足抜けは御法度で、他の妓の手前、みせしめもあって折檻したようでございますが、責め殺すつもりはなく……当人は日頃から体が弱く、病がちでございましたので……」
ひさご屋の主人が弁解をはじめた時、番屋の戸が開いた。
「源さんか」
といいかけて、東吾は自分の目を疑った。
戸を開いたのは番太郎だが、二人の若党を従えてそこに立ったのは、兄の神林通之進であった。
「兄上」
といいかけた東吾を目で制し、通之進は弟の脇に立った。
「何事があった。理由《わけ》を申せ。かまえて包みかくしは許さぬ、正直に申し述べよ」
凜とした声はまさに吟味方与力のもので、ひさご屋主人も岡っ引の庄三もちぢみ上ってひれ伏した。
三
「驚きました。兄上はいったい、どうしてあんな所へお出ましになったのですか」
一足遅れてかけつけて来た畝源三郎にあとをまかせて、八丁堀へ帰る兄の供をしながら、改めて東吾は冷や汗を拭いた。
若党が照らす提灯の灯の中を歩きながら、通之進が笑った。
「どうしてと申す程のことではない。たまたま通り合せただけじゃ」
奉行所を退出しかけたところへ、誰やらが畝源三郎を探している声が聞えた。
「聞いてみると、そちの名が出て、番太郎が畝を迎えに来ていると申す。どうせよからぬことをしでかして助けを求めているに違いないと、兄弟のよしみで出かけて来たまでのことよ」
さらりと通之進はいってのけたが、東吾には兄の胸中がよくわかった。
ひょっとすると弟が窮地にあるのかも知れないと、急ぎかけつけてくれたに違いない兄であった。そのあげく、吟味方与力の要職にある身が、場所もあろうに番屋で前代未聞の取調べを行った。
「申しわけありません。兄上に御迷惑をおかけするとは夢にも思いませんで……軽はずみでした」
恐縮しながらついて来る弟を、通之進がふりむいた。
「軽はずみついでに、ちと動いてみぬか」
どうも気になる、とつけ加えた。
「死んだおくみと申す女は、おそらく神田川に浮んだ彦作の娘に違いあるまい。請状に上州とあるは、おそらく身許を明らかにせぬためであろう」
おくみは東吾の推量通り、彦作が神田川で殺害された件を瓦版で知ったのだろうと通之進はいう。
「父親が何故、江戸へ自分を探しに来て、殺されたのか、おくみはそれを考え、或ることに気がついた。それ故、お上に訴え出ようとして、ひさご屋の者共に殺されたとわしはみる」
ひさご屋はあくまでも足抜けを口実にしているが、真相は他にあると通之進は見通していた。
「もう一つ、そちが聞いた、おくみの最後の言葉、あだちがはら、おにばばじゃ」
「安達ヶ原の鬼婆ですか」
奥州、安達ヶ原の伝説は能にも芝居にもなっているから、女子供でも知っている。
紀州熊野那智山の僧、東光坊祐慶が布教のために諸国を廻り、安達ヶ原にさしかかった時、日が暮れて、やむなくその辺りに住む老女に宿を求めた。夜更けて老女は寒さしのぎの薪を取りに外へ出る。その際、決して奥の部屋を見るなと祐慶にいいおくが、みるなといわれるとみたくなるのが人の常で祐慶がさりげなく奥の部屋を窺うと、そこには喰い荒らされた人の死骸が積み重なっていた。
さてこそ、老女は鬼ならんと気がついて祐慶は逃げ出すが、それを知った鬼は追いかけて来て祐慶に約束を破った怨みを述べる。祐慶は必死で鬼を祈り伏せ、遂には法力によって呪伏せしめたという物語であった。
つまり、おくみの最後の言葉「あだちがはら、おにばば」はその物語を指しているのではないかと通之進は能にも芝居にもあまり縁のない弟へ語った。
「人を喰いものにする鬼と申せば、女衒であろう」
貧しい家から娘を買って、苦界に売りつける。
「やはり、おくみの請人になっている幸助は兄ではなく女衒でしょうか」
「そのあたりは大宮宿へ参り、彦作の家を調べ、家族に訊ねるのが早道じゃ。誰彼と申すより、東吾が参るのが間違いがなかろう。乗りかかった舟じゃ。行けぬか」
事情を知らない同心をやっては、下手をすると肝腎の悪人を取り逃がすことになると兄が考えているのを悟って、東吾は頭を下げた。
「軍艦操練所のほうはどうともなります。明日にでも大宮宿へ行って参ります」
岡場所と女衒がぐるになって貧乏人を欺し、女を地獄に落しているならば、見逃しには出来ない。
八丁堀の屋敷に兄を送り届けて東吾が「かわせみ」へ帰ると、更けてから畝源三郎が来た。
神林家へ寄って、すべての報告をすませて来たという。
「東吾さんが明日、大宮宿へ行って下さるそうで……」
通之進の指図で、長助が供をするといった。
「成程、それでないと筋道が立たないな」
表むきは源三郎の命を受けて、長助が探索に行くという恰好である。
「根岸の番太郎が耳打ちしたことですが、ひさご屋では半年ほど前に、もう一人、抱えの妓が首をつって死んでいるそうです。その女とおくみとは同郷らしいというのですが……」
「そいつは大事な話だな」
もしも、幸助という女衒が大宮宿あたりの娘を江戸へ女中奉公と偽って、次々に連れ出し、女郎に叩き売っていたとしても、何も知らない親は、娘が良家に奉公していると安心しているに違いない。
にもかかわらず、その中の一人の娘が苦界の暮しに耐えかねて自殺をし、おそらく女衒は適当にとりつくろって、娘の遺骨を実家へ持って行ったのだろうが、それを聞いたおくみの親の彦作がどことなく不審を持って、娘を訪ねて江戸へ出て来るという段取りになっても可笑しくはない。
「御厄介をおかけしますが、何分、よろしくお願い申します」
と頭を下げた源三郎が、通之進から弟へ渡すようことづかって来たという紙包を開いて、東吾は苦笑した。
十両入っている。大宮宿の往復には多すぎる金であった。御用にかこつけて、兄は弟に昔のように小遣いを渡してくれたのかと、東吾は嬉しくなった。
別に金に困っているわけではないが、いい年をして兄に甘えている気分はなかなかのものである。
十両を東吾は紙入れとは別にしまい込み、るいには話さなかった。
翌早朝、長助が迎えに来て、東吾は大川端を発った。
夜明け頃の道は凍てついて、寒気がきびしかったが、板橋を過ぎ、蕨《わらび》の宿で一服する頃には陽も高く上り、けっこうな冬日和で、東吾も長助も道中羽織を脱いでしまった。
浦和を経て、午より前に大宮へ入る。
道中、けっこう人が多かったのだが、その旅人の多くは大宮の武州一の宮、氷川明神社に詣でるらしく、中山道から入る長い参道を行く。
宿場はその氷川明神社の門前町のような恰好で町並が広がり、本陣一軒、脇本陣九軒、その他に旅籠も大小二十軒ばかりあって、賑やかであった。
ここで泊るつもりはなかったのだが、たまたま一軒の宿の前に神官を囲んで数人がなにやら話しているのをみて、長助がそこへ行った。戻って来た時は老人と一緒で、
「若先生、こちらは大宮宿の庄屋さんで五兵衛さんとおっしゃるそうで、彦作さんのことを御存じなんで……」
という。
東吾の身分を江戸の役人と思い込んだような五兵衛が丁寧に挨拶し、
「実は只今、あちらで話をして居りましたのも、彦作のことでございまして……」
自分の家はすぐ近くなのでさしつかえなければ、ちょっと立ち寄ってもらいたい、という。
五兵衛の家は氷川明神社の裏手であった。
草鞋を解くのも厄介なので、陽のよく当る縁側に腰を下し、茶のもてなしを受けたのだが、彦作の死を告げると、五兵衛は驚きながらもうなずいた。
「左様なことになっているのではないかと案じて居りました」
一日か二日で帰って来る筈の彦作が出て行ったきり、まるで音沙汰がない。
「出かけて行った理由が理由だけに、これはどうもいけないと考えて居りました」
「彦作が江戸へ出かけた理由は何だったのか」
東吾が訊ね、五兵衛は暗い顔をうつむけた。
「彦作を殺した下手人は、お上によって挙げられましたのでしょうか」
「それが、江戸では全く手がかりがない。ただし、彦作の娘のおくみと申すのが、根岸の岡場所で働いて居り、それが彦作の死が瓦版に出て間もなく、足抜けをしようとして捕えられ、折檻のあげく命を落した」
その場所に偶然、通りかかって、おくみの最期に立ち会ったと話した東吾に五兵衛は涙を浮べた。
「それではっきり致しました。やはり、娘達は欺されて売られていたのでございましたか」
大宮宿だけで、すでに七人の娘が江戸へ奉公に出ていると五兵衛は告げた。
「親達はみな、娘が江戸の大店へ奉公し、行儀作法から嫁入り前の稽古事なぞも身につけて帰って来ると楽しみにして居りましたのでございます」
ところが、半年程前にその一人が江戸で歿り、遺骨が届けられた。
「届けた者の申すには、悪い流行《はや》り病にかかって、医者にも診せ、薬も金に糸目をつけず買い与えたものの、寿命であったのか、とうとう果敢《はか》なくなった。野辺送りは御主人の家で丁寧に行ったから心配しないでくれと申しまして、三年働いた給金と供養料と合せて五両の金をもらったそうでございます」
病で死んだのなら致し方がないが、大宮宿から江戸まで七里少々、男なら半日でたどりつける距離である。
「なんで病だと便の一つももらえなかったのか。死んだと知らせがあれば、かけつけて行って、せめて死顔なりと対面したかったというのが親どもの気持でございます」
それを、骨にして持って来るのは、どうも合点が行かないといい出した。
「それ以前にも、奉公に行っている娘に何か送ってやりたいからと、奉公先を訊ねても、その必要はない、なにもかも御主人のほうでよいようにして下さっていることだから、よけいなことをして、娘に里心がついては困ると、知り合いが江戸へ行っても訪ねてはくれるなと、それはきびしく申します。あまり何度も念を押されますと、親どもはだんだん不安になって参りまして……」
そこへ、奉公に出た娘の一人が死んだ。
「彦作のところは、田畑もかなり持って居りまして、決して貧しくはございません。おくみを奉公に出したのも、行儀見習のため、嫁入り前の修業のためでございました。それで彦作が大層、心配を致しまして、自分で江戸まで行き、娘の奉公先を訪ねてみると申して出て参ったのでございます」
その彦作が非業の死を遂げ、立派な旅籠に奉公している筈の娘は、岡場所に売られていたあげく、責め殺されたとあっては、他の娘の身の上も危いと五兵衛は青ざめた。
「心配するのはもっともだが、残りの娘達を救う道はある。まず、教えてもらいたいのは、娘達を江戸へ奉公に出す手引をした者だが、それはどうやってこの村に入り込んで来たのか。名はなんという……」
東吾の問いに五兵衛が目を怒らせた。
「あいつは他国者ではございません。幸助はこの近くの生れで……」
「幸助というのは、おくみの兄ではないのだな」
「とんでもないことでございます。あいつはこの先の足立ヶ原に住むおかねの悴なので……」
おかねという女が若い時分、江戸へ奉公に出て、妊ったまま帰って来た。
「いわば、父なし子でございます」
「安達ヶ原だと……」
それは奥州ではないかといいかけた東吾に五兵衛がかぶりをふった。
「その安達ヶ原の話は誤《あやま》りでございまして、こちらの足立ヶ原のほうが本当なのでございます」
この東の方角に古くから広い原があり、里人は足立ヶ原と呼んでいた。
「只今も、そこに古塚が残って居りまして、かつての黒塚だと伝えられて居るのでございます」
なによりの証拠はその近くに東光寺という寺があるが、それは鬼女を呪伏した東光坊祐慶がその後、そこに庵を結んだのが起りだと五兵衛はいう。
「足立ヶ原の鬼女か」
おくみが苦しい息の下からいい残したのは、自分達を苦界に落した鬼は、故郷の足立ヶ原にいると、東吾に伝えたかったに違いない。
五兵衛の案内で、東吾と長助は直ちに足立ヶ原に向い、おかねという女を捕えた。
おかねの家の台所の床下からは壺にかくされた三百両近い金が発見され、また、仏壇からは七人の娘達を売った先を書いた帳面が出て来た。
それによると、根津のひさご屋に二人、品川に三人、本所の緑町の岡場所に二人であることが明らかになり、死んだおくみともう一人のお里は別にして、五人の娘が無事に苦界から救い出されて親許へ帰った。
おかねの身柄は江戸の女牢に送られ、取調べを受けたのだが、悴の幸助の居場所だけは知らぬ存ぜぬで遂に口を割らなかった。
「なにしろ、親一人子一人でして、それは仲がようございました。母親は悴が越後屋へ出入りをし、結城など紬《つむぎ》の買いつけに廻っていると自慢話をして居りました」
実際、村へ戻って来ると売れ残りと称してきれいな着物や帯を村の娘達に惜しげもなく与えたりしていたので、江戸へ奉公に行かないかという幸助の誘いには、親よりもまず、娘のほうがその気になって出て行ったのだと大宮宿の人々の話を聞いて、奉行所は一計を案じた。
江戸の高札場に、小塚原《こづかつぱら》で処刑されるおかねの罪状が書きつらねられ、人々の注目を集めた夕方、幸助が南町奉行所に自首して来た。
「お袋は何も知りません、俺がお袋を楽にさせてやりたくて、やったことでございます。お袋だけはお助け下さい。御慈悲をお願い申します」
娘達を売りとばしたのは無論、幸助の仕業であったが、彦作をなぐって神田川へ突き落したのも彼であった。
幸助は親達が安心するように、時折、大宮宿へ帰って親許を訪ね、娘が元気に働いているだの、主人やお内儀さんに気に入られて、それは大事にされているだのと、口から出まかせを話していた。
そうした訪問の際に手土産として江戸の菓子を持って行ったのだったが、彦作はその菓子折についている掛け紙を大事に取っておいた。
その菓子屋が神田、豊島町の「福屋」で、幸助はその裏店に住んでいた。
彦作は越後屋を出て、豊島町の「福屋」を訪ね、そこで幸助の住居を知った。
「彦作さんの姿をみた時は驚きました。ですが、こうなったらもう仕方がないと、おくみさんの奉公している店へ案内するといい、新シ橋のところで、なぐりつけ、川へ突き落しました」
母親の命を助けてくれと、泣いて役人にすがりついた男は自分の犯した殺人に関しては、むしろ、けろりとした表情で語り、取調べの畝源三郎達をぞっとさせたという。
幸助は死罪、おかねは八丈島へ流刑となって、この一件は落着した。
そして、或る日。
東吾は大宮への旅で全く使わなかった十両を、書物の裏にかくして書架においたまま、忘れるともなく忘れていたのだったが、ふと思い出して取り出してみると、金がなかった。
で、しきりに書架を探していると、いつの間にか、るいがやって来て、
「何を探していらっしゃいますの」
と訊く。致し方なく、ここに兄上から頂戴した十両を、うっかり置いておいたのだがと答えると、
「まあそうでしたの。実は先だって千春があなたの机の上でおいたをして居りまして、慌てて片付けましたら、机の上に十両ものお金が散らばって居りましたの。とりあえず、おあずかりして居りますから、御入用の節はいつでもおっしゃって下さいまし」
にっこり笑って出て行った。
ぼんやりすわっていると、庭のほうで千春が母親の声に合せて手まり歌を歌っている。
あんな愛くるしい娘もいつか嫁に行って、おっかない内儀さんになる日が来るのかと考えて、東吾は取り出した書物を書架へ戻した。
これで当分、内儀さんに頭が上らないと思い、忌々しい顔で机の上を片付けている東吾の耳に聞えて来る手まり歌は如何にも楽しげであった。
[#改ページ]
有松屋《ありまつや》の娘《むすめ》
一
この冬一番の冷え込みが江戸を襲って、家々の天水桶に厚い氷が張り、屋根にはまっ白く霜が下りた。
が、それも高々と陽が上るとあっさり融けはじめて、軒端からまるで雨が降り出したような滴《しずく》を落しはじめる。
その雨だれをくぐって長助が顔を出した時、東吾は帳場の脇の小部屋で嘉助を相手に将棋をさしていた。
講武所が非番の上に、女房が娘の千春を伴って暮の買い物に出かけたのを幸い、久しぶりに将棋盤に向った所で、
「長助か、まあ上れよ」
と東吾が声をかけたのは、あまり形勢のよろしくない嘉助が腕を組んで長考といった恰好だったからである。
長助も嫌いなほうではないから、かついで来た蕎麦粉の荷を上りかまちにおいて、早速、下駄を脱いだ。
それを横目にみて、嘉助はおもむろに腰から煙草入れを抜いた。唐桟《とうざん》の煙草入れは嘉助が長年、愛用しているもので、ちょっと面白いのは飾りに銀細工のごまめがついている。
「うちの番頭さんたら、年中、ごまめの歯ぎしりしているもんだから、とうとう、あんな煙草入れを買って来ちまって……」
と女中頭のお吉が笑ったものだが、長助には嘉助の気持がよくわかった。長年、捕物にかかわり合ってくれば、みすみす犯人とわかっていても証拠がなくて捕縛出来なかったり、或いは上から大きな力が働いて犯罪をうやむやにされたりという苦い思いを何度も重ねているに違いない。ごまめの飾り金具のついた煙草入れに托す嘉助の気持は所詮、女には理解出来ないだろうと思う。
たまたま、煙草入れの話をしようと思ってやって来た長助は日頃のそんな感慨も含めてこういった。
「番頭さんの煙草入れはなかなか粋なものだが、世の中には何十両、何百両という煙草入れに目の色を変える手合が居りましてね」
嘉助は長助の言葉が耳に入らなかったのか、煙管に煙草を詰めながら目は将棋盤の上から離れない。
その代りに東吾が応じた。
「金唐革《きんからかわ》の煙草入れという奴があるそうじゃないか。阿蘭陀《オランダ》渡りの金ぴかの革に、背中に羽の生えている異人の子供が奇妙な笛を吹いている図柄なんぞが打ち出されている。俺が見たのは昔々に本所の伯父上のお供で長崎へ出かけた時、会所の役人の屋敷に飾ってあった衝立だったが、そういう革で煙草入れだの紙入れだのをこしらえたのは、法外な値がつくと聞いたよ」
長助が膝を乗り出した。
「おっしゃる通りなんで、若先生。あっしがみせてお貰い申したのは、金唐革の中でも一番上等の臙脂手《えんじて》とかいう奴でして、金と赤が有松絞りみてえになっている揉《も》み皮みてえな、そりゃ奇麗なものなんで……」
前飾りは金の松だといった。
「金唐革ばかりじゃございません。その他にも金華山織金唐革ってんだそうでして、織物の上にびろうどの模様のついた布地で作ったのも、やっぱり阿蘭陀渡りなんだそうでして……」
要するに異国から入って来た特別な素材を使って日本の煙草入れに作らせたものだと、長助は仕入れたばかりの知識を披露した。
「誰なんだ、そんな上等の煙草入れを持っているのは……」
「室町の福田屋と申します塗物問屋の隠居なんですが、若え時分から煙草入れを集めるのが道楽だと申します」
「それじゃいくつも持っているんだな」
「へえ、大きな塗箪笥にぎっしりだとか」
「使い切れねえだろうに……」
「時々、出しては眺めるのが楽しみだというんですがね。使いもしねえでしまっとくってえのはもったいねえと思いましたが、その隠居の話だと、そういう高値なものはしまっておくと値上りするんだそうでして、どうも金持のやることってのは見当がつきません」
「俺は金唐革の煙草入れなんぞより、嘉助のごまめの煙草入れのほうが余っ程、好きだがなあ」
「へえ、あっしもそう思います」
嘉助がひょいと東吾のほうを向いた。
「若先生、こいつは詰んで居ります」
東吾が笑った。
「どう考えても無理ってことか」
「いえ、若先生のほうが詰んで居りますんで、手前の勝でございますよ」
「なんだと」
慌てて東吾が将棋盤へ身をかがめ、背後からのぞき込んだ長助が大声でいった。
「番頭さんのいう通りでござんすよ、角道《かくみち》がまっすぐ若先生の玉まであいちまっているじゃございませんか」
男三人が大笑いしている所へ、お吉が先触れをした。
「はいはい、千春嬢様のお帰り、御新造様のお戻りでございますよ。それから、麻太郎坊ちゃまも御一緒で……」
その声の後から麻太郎が千春の手をひいて入って来た。片手に風呂敷包を持っている。
「お邪魔を致します。父上が凧を作るなら、東吾叔父様に教えて頂きなさいと申されましたので……」
出迎えた東吾の頬がゆるんだ。
「そうか、今年ももう凧作りの季節になったんだなあ」
二人の子供に囲まれて東吾が奥へ入り、るいが長助に会釈をした。
「ちょうどよかった。おいしいお団子を買って来たのですよ。お茶にしますから待っていて下さいな」
長助が這いつくばってお辞儀をし、嘉助は将棋盤を片づけた。盤も古いが、駒は更に古びている。
「若先生は、あんなに……」
将棋が下手だったっけといいかけて長助はいい直した。
「なにか考え事でもなすっていらっしゃったのかねえ。御自分の玉が詰んでいるのも気がつかねえなんてのは……」
嘉助が苦笑した。
「昔は、もうちっと上手《うま》かったんだが、滅多に指さなくなったんで腕が落ちなすった」
「それにしたって……」
「なにしろ、若先生に将棋の手ほどきをしたのがわたしだからね」
なつかしそうに嘉助が将棋盤と駒を眺めた。
「若先生が、五つかそこらだったかね。それまでは身分相応に板の将棋盤で安物の駒だったんだが、若先生にお教えするのに、それじゃあいけねえと、あの頃のあっしにしたら清水の舞台からとび下りた気で買って来た将棋盤だが、若先生が喜びなすってねえ」
嘉助の話し方は淡々としていたが、長助は鼻の奥がつんと熱くなった。
八丁堀の組屋敷で同心の家はどこも似たり寄ったりだから、庄司家も畝源三郎の屋敷と同じようなものだったに違いない。
よく陽の当る縁側で、遊びに来た幼い東吾に将棋の指し方を教えている若い日の嘉助の姿が目に浮ぶようであった。
与力の若様という身分のある少年のために、おそらく給金のありったけをはたいて買って来たに違いない将棋盤と駒は、長い歳月、それに向い合って来た嘉助と東吾の情愛を眺めていたことにもなる。ものの値打とはそういうものだと気がついて、長助はいった。
「金じゃ買えねえなあ」
嘉助が笑った。
「売れねえよ。千両箱を積まれたって……」
金唐革の煙草入れより、嘉助のごまめのついた煙草入れのほうが好きだといった東吾の言葉を思い出しながら、長助は別の話をした。
「番頭さんは、室町の嶋屋という木綿問屋を知ってなさるかね」
嘉助が軽く首を振った。
「いいや」
「嶋屋の旦那の弟に半兵衛さんというのがいてね。長いこと兄さんの片腕になって働いて来たそうだが、深川に小さな店を持ってかれこれ十何年にもなる筈だが、有松屋といって有松絞りを扱う店でね」
「有松屋なら知ってますよ」
いきなりお吉の声が男達の頭上から降って来た。
お盆に茶と団子の皿をのせたのを持って長助と嘉助の間に割り込んだ。
「小さな店だけど有松絞りのいいものはあそこが一番だって評判だから、この夏も千春嬢様のを買いに行きましたよ」
有松絞りは東海道有松の宿場で作られている染物であった。
江戸で木綿物というと大方が縞の織物なので、同じ木綿でも赤や藍の絞り染めの有松絞りはなかなか人気がある。
けれども、有松絞りを仕入れている店はそう多くはなかった。
「そういえば、あそこのお内儀さんが歿ったって聞きましたけど……」
話がずれそうになって、長助は慌ててひき戻した。
「有松屋の旦那がいい煙草入れを持ってなさってね」
心得て嘉助が話の方角へ舵《かじ》を取った。
「そいつも金唐革かね」
「なに、金唐革よりずっと渋いもんでね。古渡り木綿だそうだが、元は能装束に使われていたもので薄茶色の地にいい藍色で波の模様が織り出されている、そりゃあ品のいい布なんだよ」
「お能の装束なら上品にきまってますよ」
また、お吉が口をはさんで、長助は言葉を継いだ。
「飾り金具が凝っていてね。前金具は三番叟、緒締めに翁の面、煙管を入れる筒は黄楊《つげ》でそこに千歳の絵が描いてあって、煙草入れの裏座は扇と面箱の彫りてえんだから……」
「そりゃあ洒落たもんだなあ」
「昔、兄さんの店で働いていた時分、有松へ買いつけに行く途中、街道筋の道具屋でみつけて手に入れたってんだが、あれはいい買い物だったよ」
「有松屋のおきたさん、ちょいと見ない中《うち》にいい娘さんになりましたよ。おっ母さんが病気で、奉公先から暇を取って帰って来たといってたけど、もうお聟さんなんか決ったんですか」
長助が困った顔で手を振った。
「そこんところは、あっしもまだ……」
「早いとこ、いい聟さんを探したほうがいいですよ。おきたさんは歿ったお内儀さんの連れ子だっていうし……」
暖簾を分けて今日一番の泊り客が着き、そこで帳場のお喋りは終った。
二
それから二日ばかり後の午下りに、有松屋半兵衛が大川端の旅宿「かわせみ」へやって来た。
夏に有松絞りを買い求めた際、伊勢木綿のしっかりしたのも仕入れているのを知り、るいが見本帖をみて何反か注文しておいたのが漸く入荷したものであった。
居間で半兵衛が広げてみせた反物はどれも見本よりも上質で縞目もはっきりしているし、これは少し着馴れるとなかなか具合がよさそうに思えた。
るいは喜んで反物の支払いをすませたのだったが、勘定がすんでも半兵衛はなんとなくたたんだ風呂敷のへりを撫でるようにしてためらっていたが、やがて遠慮そうに訊いた。
「つかぬことを伺いますが、こちら様ではお女中衆などの手は足りていらっしゃいますでございましょうね」
いぶかしげなるいの視線を受けて、頭を下げながら続けた。
「かようなことを申し上げるのはまことに不躾とは存じて居りますが、実は手前どもの娘のおきたをこちら様に行儀見習|旁《かたがた》御奉公させて頂けますまいかと考えまして……」
思いがけない申し出に、るいは少々驚いた。
「おきたさんを、とおっしゃるのですか」
傍にいたお吉が女中頭の顔になって半兵衛に訊いた。
「たしか、おきたさんは室町のお店に奉公してなさいましたね」
半兵衛がうなずいた。
「左様ですが、そちらはこの夏のはじめにお暇を頂きました」
病気の母親の看護のためだったといい添えた。
「では、そちらへお戻りになるのは……」
「出来ることなら、そうでないほうがと娘も申しますし、手前も同様でございます」
決して不都合があったわけではないが、
「娘は母親に似て、手先の仕事が好きでございます。今度、御奉公に上るなら、お針を仕込んで下さるような所がよいと申します」
というのを聞いて、お吉が胸を張った。
「そりゃまあ、こちらではあたしがお針を教えて、嫁入りまでには一通りの縫仕事が出来るように仕込んでいますけど……」
黙っていたが、内心、るいは苦笑していた。
たしかにお吉は針仕事が達者だが、そそっかしいので時々、袷を間違えて単衣に仕立ててしまったり、羽織にする筈のものを着物とかん違いして裁ってしまい、大さわぎになったりする。おまけにこの節は目が悪くなったとみえて嘉助の眼鏡を内緒で借りて針のメドを通しているのを、決してるいには気づかれまいと必死になっている。
「おきたさん、おいくつです」
るいが口をはさみ、半兵衛は顔を上げて、
「正月が参りますと十五になりますので……」
嬉しそうに答えた。
「それでは、まだ一、二年は……」
「はい、当人もあまり早く嫁には行きたくないと申しますので……」
「深川とここは近いですけど、通いをおのぞみですか」
るいが訊き、半兵衛は、
「いいえ、それでは御奉公になりません。やはり住み込みで仕込んで頂きませんことには……」
という。僅かにいいよどんで、
「この際、はっきり申し上げたほうがよいと存じますので、あえて聞いて頂きますが、手前とおきたは血が続いて居りません。あの子は歿りました女房の連れ子でございます」
今までは母親のおさんがいてくれたし、
「二つの年からあの子を父親として育てて参りましたので、心の底からおきたは手前の娘でございます。けれども、おさんが歿り、おきたもだんだん大人になって参りました今は、やはり血の続かない仲と申すことに気を使わねばならないと考えて居ります。あの子を嫁に送り出すまで、世間様からほんの少しでもいやな噂は立てられたくもございませんし、あの子の心を傷つけるようなことだけは父親として防がねばならないと思って居ります」
そのためにも、父娘で同居することは避け、よい家で嫁入りの修業をさせてもらい、縁談が決るまであずかって頂きたいと半兵衛は涙ぐみながら訴えた。
「もし、こちら様へ御奉公がかないますなら、歿った女房もさぞ安心するだろうと……」
両手を突いた半兵衛をみて、るいは考えた。
今のところ「かわせみ」には五人女中がいて一応、それで手は足りていた。
けれども五人の中の一人、お竹というのが、来年十八になるので、三月の出替り時には暇を取って川越の実家へ帰りたいといっていた。従って、どっちみち、三月には新規に女中をやとわなければならないところであった。
るいがお吉をみると、この忠実な奉公人は大きくうなずいてみせ、お嬢様がお気に召したならというそぶりをあからさまにした。
「それでは、おきたさんがよろしければ、どうぞ来て下さいな。お役に立つかどうかわかりませんが、大事な娘さんをしっかりおあずかりする心算《つもり》でございますから……」
「ありがとうございます、早速に御承知下さいまして、どのように御礼を申し上げてよいやら、この通りでございます」
幾度も頭を下げ、これから帰って娘と相談し、改めて御挨拶に参りますといい、半兵衛はいそいそと帰って行った。
その夕方、東吾が木更津河岸で買った凧の材料を抱えて戻って来ると「かわせみ」の裏口に娘が立っていた。
東吾の足音にふりむいて、まじまじとこっちを見る。小柄でいささかきかない顔をしているが、年よりも子供っぽい表情が愛くるしい。
「ここの家に、何か用か」
東吾が声をかけると、首をすくめて、
「かわせみの若先生でしょう」
という。
「俺は神林東吾。お前は……」
「有松屋のおきたです」
裏木戸が開いて、るいが顔を出した。
「やっぱり、貴方でしたの。お声が聞えたので……」
すかさずおきたが頭を下げた。
「かわせみのお内儀さんですね。有松屋でございます。いつも、お父つぁんが御贔屓になりまして」
一息に挨拶してから、別にいった。
「すみませんが、あたしの話をきいて下さいまし」
事情がわからぬままに、るいはおきたを居間に通した。ひょっとするとここへ奉公に来るのがいやだというのかも知れないと思う。
だが、おきたが取り出したのは一枚の掛《か》け袱紗《ぶくさ》であった。
浅黄地の縮緬に色糸で花鳥が縫取りされている豪華なものである。
「申しわけありませんが、これを買って頂けませんか」
あっけにとられて、るいはおきたと掛け袱紗を交互に眺めた。
「これは、いったい……」
「あたしが父親の家から送り返されて来た時、上にかけられていたんだそうです」
自分の母親は有松でも指折りの橋本屋という有松絞りの問屋で働いていたと、おきたは他人事のような口調で話し出した。
「橋本屋の若旦那の三郎兵衛って人に口説《くど》かれてあたしを産んだそうですけど、お七夜にあたしと一緒に実家へ戻されたんです」
正式に祝言をあげたわけではなく、いわば悴の不始末だが、橋本屋では生れてくる子が男の子だったら正妻は無理でも妾奉公させてもよいと考えたのだと、おきたはいった。
「でも、生まれたのが女だったのでお払い箱になったっておっ母さんがいいました。実家へ帰って子供を育てながら、有松絞りの仕事をして働いている中に、絞りの柄のことで注文に来た今のお父つぁんと知り合って、次の年にお父つぁんに伴われて江戸へ出て来て夫婦になったんですと」
少しばかり白い歯をみせて笑った。
「だったら、この掛け袱紗は、あんたの本当のお父さんの形見のようなものじゃあありませんか。それを何だって売ろうというんですか」
るいに訊かれて、おきたはそれが癖らしく亀の子のように首をちぢめた。
「有松まで行って、橋本屋三郎兵衛って人の顔をみて来ようと思って……」
「なんですって」
「ちょうど、むこうへ行く人がいて、途中まで道づれになってやってもいいというから、この際、行って来ようと思います。ついてはお金がありませんから……」
「まあ、待ちなさい」
東吾が遂に口を出した。
「あんたが有松へ行くこと、父親は知っているのか」
「お父つぁんには、お金が出来たら話そうと思って……」
「ならば、これを売る前に相談しなさい」
「そういうものでしょうか」
「内緒で出かけるわけではないのなら、最初からあんたの気持をよく話して許しをもらって出かけるのが順というものだ」
「それなら、そうします」
おきたが掛け袱紗をひったくろうとしたが、るいは渡さなかった。
「これは、うちのほうから半兵衛さんへお返しします。もし、あんたが他へ売りに行くといけないから……」
おきたが舌を出した。
「信用がないんだな」
もう一度、首をすくめると、さっさと部屋を出て行く。
「あの人、何を考えたんでしょう」
掛け袱紗を膝にのせてるいが呟き、
「母親が死んで、実の父親に会ってみたくなったんじゃないのかな」
と東吾は応じた。
「そういえば、この前、半兵衛さんもいっていましたよ。長年育てて我が子のようにしか思えないが、おきたと自分をつなぐ糸だったお内儀さんが死んでしまって、残ったのは血の続かない父娘っていう気持だったっていうようなことを……」
「しかし、半兵衛はがっかりするだろうな。今更、おきたが実の父親を恋しがって会いに行くと聞いたら……」
「といって、実の父親に会いたいっていうおきたさんの気持ももっともですものね」
とにかく、袱紗は有松屋へ返さねばというので、お吉を呼んだ。
「きれいな掛け袱紗じゃございませんか」
掛け袱紗は慶弔の時、先方へ贈る品物の上に掛けて行くもので、これだけ豪華なのは身分の高い武士か大商人か。
「橋本屋さんというのは、随分なお金持なんでしょうねえ」
るいから話を聞いて感心している。
「こいつはやっぱり、るいが自分で有松屋へ行って話をして来たほうがいい。なにか行き違いがあるといけない」
東吾がいい出して、結局、るいがお吉を供に、有松屋へ掛け袱紗を届けに行った。
やがて帰って来て、
「半兵衛さんは驚いていましたけど、やっぱり男だけあって顔色にも出しませんでした。これはおきたにとって大事な掛け袱紗だし、こんなものを売らなくとも、旅の入用ぐらいは工面が出来ますし、娘とよく話し合ってみるからといっていました」
多少、半兵衛に同情したような口調でるいが報告した。
そして年の瀬。
年越し蕎麦を打つために、わざわざ蕎麦粉持参で「かわせみ」へやって来た長助が有松屋半兵衛の伝言を告げた。
「本当なら、こちらさんへ御挨拶に参ってお話しするところでございますが、お忙しい年の暮に他人の家の中のあれこれでお耳をわずらわせるのも申しわけないと存じまして……」
という前口上で、おきたが有松へ旅立ったことを知らせて来たもので、
「とうとう出かけたんですか」
聞いていたお吉が情ない声を出した。
「お連れがあるっていってたけど、いったい、どういう方が御一緒に……」
年末であった。
長助がこれもお吉に負けないほどがっかりした声で打ちあけた。
「そいつが板前でして……」
この夏のはじめまでおきたが奉公していた料理屋の若い板前で仙吉といい、
「今の店を暇を取って、上方へ修業に行くってんですが、流石《さすが》に日本橋まで送って行った半兵衛さんは声も出ねえくらいびっくりしたようです」
「じゃあ、出立の日まで、半兵衛さんはおきたさんの連れがどなたか知らなかったんですか」
るいがあきれ、長助が自分のことのように恐縮してぼんのくぼへ手をやった。
「どうも、そのようでございます」
「あんな子供みたいな顔をしていて、だからこの節の娘さんは怖いんですよ」
お吉が憂鬱そうにいった。
「それじゃあ、半兵衛さん一人っきりのお正月ですねえ」
るいのいうのをきいていた東吾がやはり憮然として呟いた。
「半兵衛は覚悟したと思うよ。有松へ行って実の父親に会い、話がうまくまとまれば、おきたは橋本屋の娘なんだ、それ相当の扱いを受けるかも知れない、そっちから冷たくあしらわれても、いい男がついているんだ、一緒に上方へ行って所帯でも持つだろう。どっちにしても江戸へ帰って来るあてはないさ」
長助が大きく合点した。
「半兵衛さんの話ですと、死んだおさんさんの遺髪を持たせてやったそうですよ。有松で供養をするようにと……」
なんのかので、けっこう大枚の金を持たせてやったらしいが、その金は、
「いつぞやここの番頭さんにお話し申しました煙草入れを室町の福田屋の隠居に売っちまったんだそうでして……」
古渡りの能装束で作った洒落た煙草入れの話を、長助がもう一度披露して「かわせみ」の人々はいよいよやり切れない気持になった。
三
新しい年があけて、有松屋の話はごく自然に「かわせみ」の人々の間から消えた。
なんといっても、他人の家の出来事である。
東吾は子供達を相手に思う存分、凧あげをし、日が暮れても日本橋川の岸で凧をあげ続けているのを兄の通之進にみつかって、
「よい加減にせよ、子供達はとうに屋敷へ帰って居るではないか」
と叱られた。
「かわせみ」のほうは正月早々、年始などで江戸へ出て来た客達のおかげで連日、多忙であったし、長助の長寿庵も暮はもとより、正月も富岡八幡へ参詣の客や、深川の岡場所で遊んだあげくの朝帰りの客などで商売繁昌の日が続いている。
一月が駆足で通りすぎようという或る日、東吾は軍艦操練所の帰りに深川へ出た。
有松屋の前を通ったのは、ふと、半兵衛とおきたの一件を思い出したからだったが、何気なく眺めた店先に狐顔の女がすわっていて、しきりに客の相手をしている。足を止めて眺めたが、店の中に半兵衛の姿はなかった。
長寿庵まで来ると、いい具合に長助は店にいた。入って来た東吾をみると嬉しそうに出迎えて、小さな声で告げた。
「有松屋ですが、後妻が入りましたんで……」
「狐顔の女か」
「ごらんになりましたんで……」
鼻の上に皺を寄せる。
「どこから嫁に来たんだ」
「そいつが……根岸の岡場所の女だって噂でございます」
「成程なあ」
半兵衛の気持がわからなくもなかった。
まだ四十のなかばすぎといった年齢でもある。
「まあ、そういった所の女にしては商売上手のようでして、よく店に出て居ります」
「半兵衛はみえなかったぞ」
「店は女房にまかせて、もっぱら外廻りをしているそうでして……」
「けっこうなことというべきかな」
「ただ、その、おきたさんが帰って来たりしますと……」
「帰って来ないだろう。かれこれもう一ヵ月なんだ」
「有松の父親の所に居るんでしょうかねえ」
「男と上方で暮しているかさ」
どちらも冴えない表情で笑った。
そして二月。
北風の吹きつける「かわせみ」の裏口に女が立った。
おきたである。
みつけたのは嘉助で声をかけると人なつこい笑顔になって近づいて来た。
「その節は、御厄介になりました」
ぺこりとお辞儀をした恰好は相変らず子供っぽい。
「あんた、いつ、江戸へ戻って来なすった」
そこは寒いからと、戸を開けてやると神妙について来る。
「おやまあ、あんた……」
上りかまちにいたお吉が仰天し、おきたは小さな体を更に小さくした。
「今、帰って来たんです」
嘉助の問いに返事をし、
「もっと早くに帰りたかったんだけど、道中、風邪をひいて、有松のおっ母さんの知り合いに厄介になったりしていたもので……」
弁解らしくつけ加えた。
「それでお父つぁんとは会いなすったか」
おきたのいうことが、どうも自分達の考えているのと喰い違うような気がして、嘉助は一番、肝腎なことを訊ねた。
「橋本屋三郎兵衛って人なら、たしかに見て来ました」
「見て来た……」
「ええ」
「話なんぞはしなかったのかね。親子なんだ。昔はともかく、今は三郎兵衛さんとやらも、れっきとした大旦那になりなすっているのだろうから……」
若旦那の立場なら、親に反対されて泣く泣く恋人と我が子を実家へ返しただろうが、店の主人となっていれば、おのずと事情は変って来る筈だと嘉助は思ったのだが、おきたの返事は、やっぱりずれていた。
「最初っから名乗るつもりはありません。口なんかきいてやるもんですか」
「だが、あんたは父親に会いに行ったんだろう」
むずむずしていたらしいお吉が嘉助の言葉に重ねていった。
「冗談じゃないわね。おきたさん、いったい有松まで何しに行ったのさ。お江戸から八十何里、岡崎様のお城からだって五里も遠いって所なんだそうじゃないか。そんなに旅をして……」
「だから、あたしは橋本屋三郎兵衛って人を見て来たんです」
「おきたさん」
「誰があんな奴、親だと思いますか。自分の子を掛け袱紗かけて送り返すなんて。掛け袱紗ってのは、人にものをやる時、その上へのせるものじゃありませんか。あたしは祝物の饅頭か鰹節なみに掛け袱紗で人にやられたんですよ」
ああ、と嘉助が嘆息をついた。
「あんた、そんなことを考えて、有松へ行ったのかね」
「好かない奴でしたよ。生白い顔をして、奉公人をどなりつけて、近所の話じゃ大酒飲みで始終、医者の厄介になって、どの道、長生きは出来ないだろうってね」
いい気味だと、ちょろり舌が出る。
「この人は、まあ、なんてこと。そんな気で有松へ行ったと半兵衛さんが知ったら、なんていうだろう。半兵衛さんはあんたの旅のお金を作るのに、大事な煙草入れを売っちまったんだよ」
はじめて、おきたの表情が緊張した。
「あの煙草入れ、売ったって……」
「そうですとも」
「翁面のついた煙草入れですか」
「そうなんだよ」
ひいっと小さく悲鳴を上げて、おきたは「かわせみ」をとび出した。草鞋ばきの足ごしらえが地を蹴って走って行くのを見送って嘉助もお吉も、やれやれ、これでとにかくおきたは半兵衛の許へ帰って来たのだと胸をなで下したのだったが、おきたと一足違いに帰って来た東吾にその話をしたとたん、
「まずいぞ、そいつは……」
といわれて、目を丸くした。
「俺は話さなかったか」
お吉が口をとがらせた。
「何をでございますか」
「半兵衛が内儀さんをもらったってことだ」
ええっと声が上って、東吾は一度脱いだ下駄をまた履いた。
「ちょっと深川まで行って来る」
嘉助がその後を追いかけた。
「おきたさんが有松へ参りましたのは……」
息をはずませて教えた。
「自分を掛け袱紗をかけて捨てた男の顔を見てやるって量見だったそうで……」
「そういうことか」
もういい、と嘉助に手をふった。
「俺はおきたを連れて来る。話はそれからだ」
嘉助が足を止め、東吾は永代橋へひた走りに走った。
有松屋の前まで来たが、おきたの姿はなかった。店では狐顔の女が煙草を飲みながら外を眺めている。
通りすぎて永代寺の近くへ来た。
「若先生」
木かげにおきたが立っている。
「どこへ行くんですか」
「どこへ行くものか。お前が来たと聞いたから、追っかけて来たんだ」
「それは、どうもすみません」
なんとなく永代寺の境内へ入って行くので東吾も続いた。
「お前、家へは戻らなかったのか」
おきたが声を立てて笑った。
「店へ入ったら、いらっしゃいましっていわれたんです」
「狐顔の女にか」
「あたし、すぐぴんと来たから、こちらのお内儀さんはいらっしゃいますかっていってやったんです。そしたら、あたしに何か御用ですかって……だから、お店を間違えましたって出て来ました」
「けっこう、いい度胸じゃないか」
その光景が瞼に浮んで、東吾は苦笑した。
「あたし、子供じゃありませんよ」
暗い中で、おきたが目を光らせた。
「お前、見に行ったんだってな。お前とお前のお袋を捨てた男を……」
「捨てられたから腹を立ててるんじゃありません。掛け袱紗をかけられたことに……」
「そりゃあ理屈だ」
「でも、全然、違います。あたしの気持が違うんです」
声がむきになっている。
「男はどうした」
「男ってなんですか」
「連れがいたのだろう。仙吉とかいう板前と手に手をとって東海道だったんじゃないのかい」
「あの人は上方へ行きました」
「夫婦になるつもりは……」
「ありませんよ、最初から……」
「しかし……」
男と女が何日も旅を続けて、といいかけて東吾は黙った。
どうも、親父が娘に説教をしている気分である。
「最初っから、江戸へ戻って来る気だったのか」
「そうですよ」
「ならば、何故、そのことを半兵衛にいって行かなかった。自分を掛け袱紗なんぞをかけて捨てやがった男の顔を見てやるだけだといったならば、半兵衛の気持は随分と違った筈だ」
育ての父親は、娘が実の父親を恋しがって去って行ったと思っていた。
「あの人がいけないんですよ」
泣き出しそうな調子でおきたがいい出した。
「おっ母さんが死んだとたんに、俺とお前は血の続かない間柄だなんて……そんなこと三つの年から、ちゃんと知ってるし、それでも親子でやって来て、別になんともなかったのに、二人っきりになったって、親子に変りはないと思ってたのに……だから、あたしはお父つぁんはたった一人だっていいたくって、有松へ行って自分の気持を確かめて帰って来たっていうのに……」
東吾が肩を落した。
「そいつは無理だ。お前がいくらそう思っていたところで、半兵衛には通じやしない」
おきたが大きく吐息を洩らした。
「そうなんですよ、そうだったんです。あの人にはあたしの気持はわからない。第一、あの人はおっ母さんが死んで、結局、おっ母さんのことも、あたしのことも忘れちまうつもりだったんですよ」
だから煙草入れを売ったんだと、おきたは足で地面を蹴った。
「あの人が煙草入れを売ったって聞いてわかったんです。あの煙草入れはあの人とおっ母さんの思い出だっていうのに……」
有松へ買いつけや染め柄の注文にやって来ていた半兵衛がおさんと知り合って、来年必ず迎えに来ると夫婦約束をした時に、半兵衛は持っていた金のあらかたをおさん母子《おやこ》のためにおいて行った。
「そのお金は、岡崎の道具屋で前の年に、目についた煙草入れをどうしても手に入れたくて半金払って取っておいてもらった、その残りの支払いのお金だったんですって。おっ母さんはそれを知って、あの人が江戸へ帰ってから岡崎まで行って煙草入れを買って来たんですよ」
翌年、三人揃って江戸へ行く際、煙草入れは女房から亭主へ贈られた。
「あの人にとっても、おっ母さんにとっても、忘れられない思い出の煙草入れだったのに、それを売っちまったってことは、思い出を売っ払ったってことですよ。今までの毎日をすっかり忘れて出直そうって考えたんですよ、あの人は……」
「そうじゃない、煙草入れを売ったのは、お前に持たせる金を作るために……」
「違います」
大気を切り裂くような声であった。
「あたしに持たせたお金ぐらい、有松屋には充分、貯えがありました。煙草入れなんか売らなくとも……」
ぶるぶるっと体を慄わせて、おきたは凄いような笑いを浮べた。
「いいんです。わかっていたんです。あの人があたしにあんたとは血の続かない親子だっていい出した時、あたしとあの人を結んでいた糸は切れたんですから……」
おきたが歩き出し、東吾は追った。
「どこへ行く」
「有松へ帰ります。おっ母さんの知り合いが絞り染めをする気があったら、いつでもおいでっていってくれましたから……」
さっきまでは夢にもそんなことは考えなかったが、今はその気になったといった。
「かわせみへ来い。ゆっくり話をして……」
突然、境内の奥のほうへおきたが逃げた。
「おい、待て……」
足が石に当って、それほど履いていない下駄の前緒がふっつり切れた。
ふみ止まったものの、一瞬、目を逸らした隙に、おきたの姿が消えている。
「おきた……待てよ」
声をかけ、跣になって境内を探し廻ったが、あたりはとっぷりと暮れている。
長寿庵へ行き、長助に手助けを頼もうと暖簾をくぐると、長助の女房がとんで来た。
「つい、今しがた、おきたちゃんが……」
あいにく長助が出かけているので帰って来るまで待てといったが、
「どうしても、いそぐからって……それで、もし、若先生がおみえになったら、ちゃんと有松へ行きますから御心配なくといってくれろと申しまして……」
ひき止める間もなく走って行ったという。
「それで、おきたはどっちへ行った」
「永代橋のほうへ向って……」
「すまない、下駄を貸してくれ」
長助の女房から下駄をもらって東吾は永代橋へ行った。
橋番に訊くと、たしかにおきたらしい女が駕籠を拾って橋を渡って行ったという。
「駕籠は、どこのだ」
「佐賀町の駕籠竜の若い衆で……」
それなら、やがて帰って来たところを問いただせば、おきたの乗って行った先がわかる。が、どこへおきたが向ったにしろ、二度と半兵衛の許へ帰るつもりはないに違いなく、切れた糸はもうつながらない。それがわかりながら、東吾は無意識に永代橋から日本橋川沿いに駕籠の後を追っていた。
冬空に、星が散らばり、地にはもう霜が下りはじめている。
[#改ページ]
橋姫《はしひめ》づくし
一
七草の日の午後、神林東吾が軍艦操練所から大川端の旅宿「かわせみ」へ帰って来ると、本所の麻生宗太郎が来ていて、さも旨そうに七草粥を食べている。
「ここの家の七草粥は実にいい味だと思ったら、上等の昆布と鰹節をたっぷり使った上に、鶏の骨を煮込んで取った汁をまぜているそうですね。素人ではそこまでは出来ませんよ」
挨拶はそっちのけでおかわりをしている。
「相変らず名医は多忙らしいな。ぼつぼつ晩餉に近かろうという時刻に、やっと昼飯か」
両刀をるいに渡して東吾が笑い、宗太郎は女中頭のお吉がよそって差し出した大ぶりの椀を嬉しそうに受け取って、また、さらさらとかき込んでいる。
「医は仁術と申しますけど、お医者様というのは本当に大変な御商売だと思いますよ。病人には暮も正月もないわけでございますからねえ」
新しい茶葉を急須に入れ、長火鉢の鉄瓶の湯を注ぎながらお吉が気の毒そうにいう。
「全くお吉さんのいう通りですよ。患家廻りだけでも昼食の時間がないというのに、今日は人さらいの探索までさせられたんですから……」
次の間で着替えをしていた東吾が聞きとがめた。
「人さらいだと……」
「御存じありませんか。暮からこっち、奇妙な人さらいが流行《はや》り出しているのですよ」
もっとも、自分がそれを知ったのは昨日のことだとつけ加えた。
「俺は知らんぞ。正月に源さんと会った時も、なにもいっていなかったが……」
「お上の耳には入っていない筈ですよ。なにせ、すみやかに片付いてしまうようですから……」
粥の椀をやっと膳へ戻し、宗太郎はお吉のいれた茶に手をのばした。
「人さらいは金とひきかえに子供を返すのだな」
人さらいにもいろいろとあって、女子供を手当り次第にさらっては売りとばすといった乱暴なものから、裕福な家の子をねらって誘拐し、何時の何刻にどこそこまで何ほどかの金を持って来いなどという金めあてのものもある。
後者の場合、必ずといってよいほど、お上に届けたら子供の命はないと脅迫つきなので、金で我が子の無事が買えるならと、相手のいうままに金を出してしまう例が少くない。
だからといって、必ずしも子供が無事に戻って来るとは限らないのだが。
お上はまだ知らない筈だと宗太郎がいったことで、東吾はそうした金めあての人さらいを連想した。で、
「子供はみんな親許へ戻っているのか」
と訊くと、宗太郎が悪戯っぽい表情を浮べた。
「わたしは、さらわれたのが子供だとは申していませんよ」
「では、女か」
年頃の娘をさらわれたら、親はまず世間に知られないことを願うだろうと東吾は合点した。
金を渡して無事に取り返しても、娘が疵物《きずもの》にされている場合があるし、そうでなかったとしても、とかく、世間はそうと決めて噂をする。
従って娘が無事で帰って来ることと同じくらいの重さで、世間へ知られまいと必死になる。
お上へ届けるなどは論外であった。
「親の気持もわからぬではないが、それが困るのだ。悪人どもをつけ上らせ、いよいよ悪事を重ねる。その中には無事で帰れぬ者も出て来る」
東吾の言葉に宗太郎がかぶせた。
「ですから、東吾さん、手伝って下さい」
「そりゃあいいが……」
着替えをすませて、宗太郎の前へすわった。
「さらわれたのは、いったい……どこの娘なんだ」
「娘には違いありませんね。日本橋通り四丁目に紀伊国屋という薬種問屋があります。そこの先代の一人娘で、名前はおとらです」
「行方知れずになったのは……」
「家族の話ですと、といってもおとらが出かけるのを見送った女中の申すことですが、関口水道町の今大路家へ行って来ると……」
「おとらは、自分から家を出て行ったのか」
「そうです。念のためにいいますと、関口水道町の今大路家というのは、わたしの母方の実家に当る今大路の家の別邸でして」
「成程、そこから宗太郎へ話が廻って来たのだな」
「別邸には薬園があるので、そこで働く者のたばねをするために、今大路家の執事、まあ町家でいうなら番頭のような者ですが、佐藤協太郎と申すのが住んでいます。佐藤の話ですと、暮の二十八日はおろか、別の日にも、紀伊国屋からは誰も訪ねて来てはいないと……」
「暮の二十八日だと……」
「そうです」
「行方知れずになったのは暮の二十八日なのか」
「紀伊国屋ではそう申しています」
すでに十日が過ぎていた。
「金を持って来いという知らせは……」
宗太郎がはじめて眉を寄せた。
「それが、未だになんの音沙汰もないといいます」
「では、さらわれたのかどうかわからぬではないか」
男とかけおちしたというようなことはないのか、と東吾がいい、宗太郎が真面目に答えた。
「まあ、年が年ですから、かけおちということはないと思いますが……」
「いくつなのだ。おとらは……」
「もし、どこかで生きているのなら、本年とって六十七歳になります」
「六十七……」
東吾があっけにとられ、真剣に耳をすませていたるいとお吉が顔を見合せて笑い出した。
「人をからかうにもよい加減にしろ。なにが娘だ。六十七の婆《ばばあ》じゃないか」
「家付娘には違いないのですよ。一人っ子で二十の時に養子をもらって、悴の嶋之助というのが、もう四十のなかばですかね。無論、嫁さんがいて、子供も三人……」
東吾がやけになったように冷《さ》めた煎茶を飲み、菓子鉢の中の饅頭にかぶりついた。
「どこの馬鹿が六十いくつの婆さんをさらうものか。熨斗《のし》をつけて持って行ってくれといったって断わられる」
宗太郎も菓子鉢に手をのばした。
「しかし、さらわれているんですよ」
「六十の婆がか」
「一人は六十二、もう一人は五十八だというのですがね」
「誰が本気にするものか」
その時、障子のむこうに足音がして、嘉助が廊下から取り次いだ。
「畝の旦那が、折入って若先生に御相談がおありだとかでおみえになっていらっしゃいます。なんでも、婆さんがさらわれて、金を取られたとか」
返事は東吾より宗太郎のほうが早かった。
「それですよ。それですよ。すぐ、畝どのをこちらへお通しして下さい」
二
畝源三郎の話はすみやかで無駄がなかった。
「昨年の秋の終りあたりから噂は聞えていたのです」
裕福な家の女隠居が何者かに誘い出され、留守宅に法外な身代金が要求される。
「金を出さなければ年寄を殺す、その上、どこそこの誰は金を惜しんで、親を殺させたと張り紙をして天下に知らせるというのですから、ちょいと名の知れた大店ではあわてふためきます。身代金はきまって百両のようですから大金には違いありませんが、裕福な商家としては出して出せない金でもない。実際、我々が探索してこれまでに判明した家では全部が唯々諾々として出しています」
東吾が腕を組んだ。
「金を受け取る手口は……」
「場所は各々に異るのですが……」
持って行く人間は必ず、若主人の女房、つまり、さらわれた隠居にとっては嫁に当る女を名指して来る。
「例えば、夜半、向柳原を浅草橋御門から昌平橋へ向って歩いて行け、とか、駿河台の御火除地を三番から二番へ向けて御堀沿いをたどって行けなぞといって来たようです」
江戸市中でも、もっとも寂しい場所をえらんで、深夜、金を持たせて歩かせる。
「男でも足がすくんで歩けないというような所を、女が慄えながら行くと、どこからともなく黒い影法師のようなものが現われて、金を奪って逃げて行く。女はもう後を追うどころではありません。死にもの狂いで町の灯のみえる方角へ走るのがせい一杯でしょう」
「それで婆さんは帰って来るのか」
「帰って来ています。金を渡した翌日、ぼんやりした顔で家へ戻って来て……」
「一人でか」
「そのようです。但し、なにを訊いても自分は天狗にさらわれたと……ただ、それだけで連れて行かれた場所も、相手がどんな奴だったかもわからないらしいのです」
なんとも不可解だが、当事者にしてみれば隠居は帰って来たし、世間にも知れなかったとほっとして、格別、さわぎ立てもしない。
「源さん達は昨年の秋から探索をはじめていたといったな。世間へ知れない筈の婆さんさらいをどうしてお上が気づいたんだ」
東吾の言葉に、源三郎が苦笑した。
「東吾さんらしくもありませんな。かくせば現わるるとか申すそうじゃないですか。どんなに口を閉じたつもりでいても、奉公人だの出入りの連中は事件を承知している。婆さんも無事に戻って来たことだしと安心して、つい、ちょろりと知り合いに喋る。人というものは本来、黙っていろといわれると、よけいに話したくなるものですよ」
宗太郎が源三郎に訊いた。
「今のところ、お上が調べた婆さんさらいは何件ですか」
「当事者はいずれもそのようなことはなかったと否定しているのですが、周囲の話から間違いないと考えられるのは、八件です」
おそらく、それ以上の被害者があるに相違ないと源三郎が断言し、宗太郎が憂鬱そうに首をひねった。
「婆さんがいなくなって、金をよこせともいって来ないというのは、他にありませんかね」
「今のところ、紀伊国屋だけです」
宗太郎が力のない声でいった。
「やはり、紀伊国屋はお上に届けましたか」
「今朝、町役人付添いの上、届け出たようですが……」
今までの婆さんさらいからいえば例外であった。
「ひょっとすると悪い結果になりはしないかと心配しています」
それについて、と源三郎が改めて麻生宗太郎へ向き直った。
「すでにお耳に入っていると思いますが、紀伊国屋の女隠居が家を出る時、女中に関口水道町の今大路家へ行くと申しているのですが、紀伊国屋の当主、つまり、おとらの亭主、伝兵衛の申し立てによりますと、今大路家には以前、時折、御注文の薬種をお納めしていたが、この節は殆ど御下命がなく、ましておとらが今大路様へうかがう用事なぞあるわけがないというのです」
宗太郎がうなずいた。
「今大路家の執事、佐藤という者も、紀伊国屋から人が訪ねて来たということはないといっています」
「おっしゃる通りだと思います。ですが、今のところ、おとらに関する手がかりといえば、小石川、関口水道町の今大路様へ行くと申したことだけなのです。しかし、我々の身分では典薬頭《てんやくのかみ》の御別邸をお訪ねすることはおろか、ものを訊ねるのも憚り多い立場ですので……」
東吾が困惑し切っている友人の肩を叩かんばかりの調子でいった。
「わかったぞ。源さん、俺に宗太郎を通して今大路家へ話をつけてくれと頼みに来たわけだな」
「そうです。すると、嘉助が麻生どのがお出でになっていると申すので、おそらく同じ一件かと……」
さわやかに宗太郎が答えた。
「畝さんも水臭いですね、そんなことなら、なにも東吾さんを通さなくとも……。お易い御用です。というよりも、こちらも少からず気になっているのです。明日、よろしかったら手前が同道致します。関口水道町へお出かけ下さい」
「そう願えると助かります」
時刻は午《うま》の刻と決った。
「佐藤と申すのは変った男で饂飩《うどん》を打つのが得意です。午餉はむこうで饂飩を食いましょう」
「それは助かります」
男二人がとんとん拍子に話を進め、東吾が少しむくれた。
「俺は講武所の稽古があるから、その時刻には行けそうもないぞ」
源三郎と一緒に席を立ち上りかけた宗太郎が応じた。
「それは残念ですね。この季節だと佐藤は多分、鴨南蛮を用意すると思いますよ。あいつが手に入れて来る鴨は脂がのっていて実に旨いんです。饂飩に入れた残りは囲炉裏で焼いて、熱燗で一杯やると腹の底まで温まるんですがね」
そそくさと挨拶して二人が帰り、東吾は昼寝から目ざめた千春が母親と居間へ入って来るまで、なんとなくぼんやりしていた。
三
翌日の正午、東吾がこの寒空に汗をかきながら講武所から関口水道町へかけつけて行くと、宗太郎の末弟に当る今大路宗三郎が出て来た。
「お待ちしていました。どうぞお上り下さい」
宗太郎、宗二郎、宗三郎という天野家の三兄弟はまるで三ツ児のように面立《おもだち》がよく似ている。
長男の宗太郎が麻生家へ聟入りし、天野家は次男の宗二郎が継いだ。そして三男の宗三郎が母方の実家である今大路家へ養子に入っているのは東吾も承知している。
「兄は只今、台所で鴨をさばいています。畝どのは先ほど、おみえになったばかりで……」
案内された部屋は農家のような造りで大きく炉が切ってあり、天井から自在鉤がかかっている。
畝源三郎は炉端で注文書のようなものを眺めていたが、入って来た東吾をみると笑顔になった。
「早かったですね。東吾さん」
「俺の稽古は荒っぽいので、あんまり弟子がいないんだ。弟子が来ねえのに、道場に居すわっていても仕様がねえからなあ」
口では明るくいったものの、東吾の表情は笑っていない。そのわけは源三郎も知っていた。
京師《けいし》はすでに風雲急を告げている。
講武所の中でも腕の立つ者は次々と幕府の命を受けて上洛し、御所や二条城の守護の任についている。
教授方の東吾にしたところで、いつ、どんな下知《げじ》が下るかわからない情況であった。
だが、源三郎は何もいわず、手許にあった注文書を示した。
「これは、宗三郎どのがわざわざお持ち下さった薬種注文の覚え書ですが、これをみるともう五年前から紀伊国屋への注文はなくなっています」
東吾のために囲炉裏にかけてあった釜から薬湯を茶碗に注いでさし出した宗三郎がいった。
「紀伊国屋で扱っている薬種は和漢のものばかりなのです。この節は西洋から新しい薬種が多く入って来ますし、漢方にしてもなかなか入手出来なかったものが容易に入って来ています。そういう意味では紀伊国屋で扱っているものは少々、時代遅れということもありまして、おのずと注文が途絶えていたようです」
咽喉が渇いていたので、うっかり茶碗の薬湯をがぶ飲みした東吾が顔をしかめた。
「少々、苦かったですか」
宗三郎が兄にそっくりな微笑を浮べる。
「苦いのなんの。よく、ここの家の連中は飽きもせず、こんなものを飲むと思うよ」
「馴れると苦みの中に旨味を感じると申しますが……」
もう一杯召し上ってみますか、と真面目に勧められて、東吾は手を振った。
「それじゃ、紀伊国屋の婆さんはもっと注文してくれろと今大路家へねじ込みに行ったんじゃないのか」
宗三郎が否定した。
「おとらと申す隠居は本邸のほうにも来て居りません。それに、紀伊国屋はいい客を数多く持って居りまして、それらの大半は昔ながらの和漢の薬種を用いているので、薬種が売れなくて困るということはない筈です」
源三郎もいった。
「先程、こちらの佐藤どのにもうかがったのですが、仮に紀伊国屋が商売のことで今大路家へうかがうとすれば、それは必ず御本邸へであって、こちらには御当主をはじめ、主な御門弟の方も居られないのですから、来ても仕方がない。やはり、おとらは家を出る時の口実にこちらの名を借りただけと考えたほうがよいようです」
「おとらは、関口水道町に今大路家の別邸のあるのを知っていたんだろうな」
台所へ通じる入口から鉄鍋を下げた宗太郎が入って来ながら、口をはさんだ。
「東吾さんの今の問いは大事な気がしますよ」
宗三郎が兄の指図で自在鉤から茶釜をはずし、そのかわりに大鍋をかけた。
「宗三郎はどう思う。紀伊国屋の者はこの別邸を知っているのか」
知らないと思います、というのが宗三郎の返事であった。
「薬種問屋の者は、紀伊国屋によらず、みな本邸へ出入りをして居りますし、ここは弟子筋の者でも知らないほうが多いでしょう。義父《ちち》は時折、薬草の出来具合をみに参りますし、手前も月に何度かは足を運びます。あとは用事のある時に佐藤が自分で本邸へやって来ますから……」
鍋の中から温かそうな匂いがあふれて来た。
宗三郎があらかじめ用意してあった大きな椀を渡し、宗太郎が器用に竹箸を使って饂飩をよそい、鴨や葱を適当にのせて汁をかける。
「熱いですからね。舌を焼かないように」
渡された椀を抱えて、東吾と源三郎がすすりはじめた所へ、佐藤という執事が大皿盛りにした鴨肉の焼いたのに銀杏《ぎんなん》や唐辛子を添え、大きな酒瓶と共に運んで来た。
「どうも、手順が逆になりまして……」
子供の飯茶碗ほどもあろうかという盃に酒を注いで廻る。
「こいつは旨いなあ。お茶の水から空っ腹を抱えて走った甲斐があったよ」
と東吾が笑い、源三郎がすっかり赤くなった顔をつるりと撫でた。
賑やかな午餉をすませ、まだここの薬園に用があるという宗太郎、宗三郎兄弟を残して、東吾と源三郎は今大路家の別邸を出た。
この宏大な屋敷、といっても大半は薬園だが、その周囲は一面の田畑であった。
今大路家から見ると関口水道町は北側に当り、道をへだてた東側は長安寺という寺で、それを取り巻く南西側が田圃と畑になっている。
江戸川から分れた小川が二筋、田畑の中を蛇のようにまがりくねって流れている。
「小日向にも、まだ、こんな野っ原があったんだな」
東吾が呟いたように、農閑期の田畑は荒野に似ていた。
そのはるかむこうにこんもりした森があって寺の塔頭《たつちゆう》らしいのがのぞいていた。
「江戸もここまで来ると閑静ですよ」
源三郎がぐるりと見廻した。
「紀伊国屋のおとらが、何故、関口水道町に今大路家の別邸があると知っていたか、そのあたりが鍵になると助かりますが……」
「道順だ。本町通りへ廻ってみるか」
どうせ暇なんだと東吾が肩を聳やかし、源三郎は軽く頭を下げて肩を並べた。
紀伊国屋は本町通りでも指折りの老舗《しにせ》であった。
店がまえは広く、造りも重厚で奉公人の数も少くはない。
東吾と源三郎が暖簾をくぐった時、店には客がいた。
「これは、畝の旦那、直き直きのお運び、おそれ入ります」
丁重に挨拶したのは通町の名主、樽屋藤次郎で、紀伊国屋の隠居が行方知れずになったお届けには町役人として立ち会っているので、畝源三郎も知っている。
「どうだ。隠居の消息はまだ知れぬか」
源三郎にいわれて藤次郎が頭を下げた。
「手前も、そのことでちょっと顔を出したところでございますが、どうにも手がかりはないようで……」
店に出ていた四十すぎの男が両手を突いた。
「とんだことで、おさわがせ申してすみません。昨日も近所の占い師さんにみて頂きましたが、神かくしではないかといわれまして……」
藤次郎が顔をしかめ、源三郎にひき合せた。
「これは、こちらの旦那の嶋之助さんで、行方知れずのおとらさんの悴でございます」
そこへ茶を運んで来た女を、
「嶋之助さんのお内儀さんのおすがさんでして……」
と挨拶させた。
「おとらの連れあいの伝兵衛は留守か」
源三郎が訊くと、
「親父はちょっと他へ出かけて居ります」
と嶋之助が答えた。
この家ではおとらが出がけに関口水道町の今大路家へ行くといったのを、女中の聞き違えではないかと考えた。
「今大路様のお屋敷が関口水道町にあるなどとは親父も私も存じませんで、第一、母が今大路様へうかがったことは只の一度もございません」
「おとらが今大路家の名を口に出すのは、其方達にも合点が行かぬか」
「はい、どう考えましても、不思議でございます」
「おとらは日頃、商売に口を出すことはないのか」
「全くございません。商売のことは親父と手前にまかせきりで、当人は若い時から気儘に暮して居りまして……」
東吾がひょいと口をはさんだ。
「おとらの好きなことはなんだ。芝居見物か、それとも芸事か」
「そういった派手なことは好みませんで……」
「他出することは好まないのか」
「さあ」
嶋之助が女房をふりむき、おすがが小さな声で訴えた。
「普段はあまりお出かけにはなりません。お出かけになるとすれば、大抵は占いをみてもらうことで……」
「占いか……」
「よその方から、どこそこに上手な占い師がいると聞きますと、すぐに出かけてお行きなさいました」
「他には」
おすががうつむいた。
「別に何も……」
「おとらとあんたは姑と嫁の仲だな。おとらは万事に小うるさいほうか」
おすがは返事をせず、嶋之助が困った顔でいった。
「どちらかと申すと口やかましい性質《たち》で、なにしろ、家付娘で我儘一杯に育ったと自分でもよく申しますから……」
「奉公人にもきびしいのか」
「まあ、年寄は躾が大事と思って居りますようで……」
「それじゃあ、今は鬼の居ない間で、みんなせいせいしているだろう」
嶋之助がうろたえた。
「とんでもないことでございます。おっ母さんの行方が知れませんのに、せいせいなどとは……」
源三郎が東吾に目くばせし、藤次郎をうながして紀伊国屋を出た。
「東吾さんのおっしゃったように、紀伊国屋は、なんとなくせいせいしていますね」
通りに出て源三郎がいうと、藤次郎が大きく合点した。
「こう申してはなんですが、紀伊国屋の鬼婆てえ綽名がございましたくらいで……」
東吾がすぐに続けた。
「嫁いびりも、さぞ、すさまじかったんだろうな」
「おっしゃる通りで……おすがさんは嫁に来て、もう二十年になりますが、未だに奉公人の前で馬鹿呼ばわりをされて口惜し泣きに泣いているそうでして……」
「おとらの亭主は、どこへ行ってるんだ」
「大方、柳橋の|浜せい《ヽヽヽ》じゃございませんか」
元柳橋の芸者でお浜というのを落籍《ひか》せて、小料理屋をやらせているといった。
「近所では、みんな知って居りますが、おとらさんは知りませんようで……伝兵衛さんも女房にはひたかくしにして居りました」
「今は大っぴらか」
「おとらさんが帰って来るまでは、と申すことでしょうか」
通り四丁目が南伝馬町と名を変えるあたりで藤次郎と別れ、東吾と源三郎は八丁堀へ向った。
「どうも、紀伊国屋じゃ、おとら婆さんが帰って来ないほうが幸せらしいな」
夕風の中を歩きながら東吾がいい、それまで考え込んでいたらしい源三郎が話し出した。
「実は、かどわかしに遭って身代金を取られた婆さん達なんですが、町方で調べたところ、揃いも揃ってやかまし屋の鬼婆なのですよ。嫁いびりはもとより、一度、荒れ狂い出すと亭主も悴も手が出せないという……」
東吾が苦笑した。
「しかし、そいつらは百両、払ってもらって家へ帰って来ているんだろう」
「家族は、もし世間体というものがなければ、さらわれっぱなしでけっこうだというのが本音じゃありませんか」
「しかし、仮にも亭主にとっては女房、悴にしてみれば母親だろう」
「よけい厄介じゃありませんか」
亭主にしてみれば、あんな鬼婆はいやだといったところで、六十にもなって離縁というわけにも行くまい、と源三郎はいう。
「悴のほうは、もっと大変ですよ。女房と母親の間に立って、あちら立てればこちらが立たずでしょう」
その葛藤は老いた母親が死ぬまで続くことになる。
「紀伊国屋のおとらじゃありませんが、或る日、ふっと消えてくれたら、みんな大助かりということになりませんか」
「しかし、みんな帰って来ているんだ」
身代金の要求も来ず、行方も知れないのは紀伊国屋のおとらだけであった。
「源さん」
東吾があまり熱のない声でいった。
「俺はおとらの一件を解決するには、他の帰って来た婆さん達の件を洗い上げる他はなさそうに思えるんだがね」
「実は、わたしもそう考えてはいるのですが……」
どうも気が重いといった顔で、源三郎はたて続けにくしゃみをした。
日の暮と共に、寒気がきびしくなっている。
四
深川の長寿庵の主人、長助が「かわせみ」にやって来たのは藪入りの日であった。
商家の奉公人にとっては年に二回の休日の一つだが、「かわせみ」のような宿屋商売では暖簾をしまって「本日休業」というわけにも行かず、毎年、年の若い者を休ませることにしている。
無論、老番頭の嘉助と女中頭のお吉は休みなしだが、今年は、これも「かわせみ」開店以来の華板の伊助と古参の板前の留次郎の二人が台所方をつとめ、女手はお石が、
「あたしは藪入りの分を貯めておいて、こちらの御都合のよい時に、故郷《くに》の両親の顔をみに帰らせてもらいます」
という理由で残った。
どっちにしても日頃の「かわせみ」からすれば人手不足に違いないが、客のほうも心得ていて、
「晩餉は外ですませてくるから……」
と気を遣ってくれたりする。
客間の掃除も、休みをもらって出かける女中達が、いつもより手早くすませて、
「では、行って参ります」
と、るいから渡された小遣いを巾着に入れ、いそいそと出かけたので、留守番組にとっては、むしろ、いつもより暇な感じの午下りになった。
で、ひょっこり暖簾をくぐって来た長助をみて帳場にいた嘉助が、
「おやおや、長助親分も今日は手持無沙汰ってところかね」
と笑いかけたのだったが、長助の表情をみて、慌てていい直した。
「若先生なら、川っぷちで千春嬢さんと凧あげをしてなさるよ」
「お出でですかい。そいつは有難《ありがて》え」
長助がくるっと廻れ右をして暖簾を出て行くと、間もなく、
「冗談じゃねえぜ。こっちが汗水流して凧あげしてやってるのに、母子で猿廻し見物に行っちまってさ」
東吾の声を先頭に、るいと千春、殿《しんがり》に長助がついて、ぞろぞろと戻って来た。
「お帰りなさいまし。華板さんが千春嬢様のお好きなわらび餅を作りましたんですよ」
台所のほうからお吉がとんで来て、千春の手をひいて行き、るいが長助をふりむいた。
「かまわないから、居間へお通りなさいな。今日は長助親分も少しはゆっくり出来るのでしょう」
さあ、どうぞと勧められて、長助は東吾の後について行った。日頃、頼りにする畝の旦那は旗本の家の揉め事に呼ばれて出かけている。長助としては、「かわせみ」の若先生に助けを求めるしかない状態であった。
で、居間へ入るなり、
「若先生は宇治の橋姫ってのを御存じでございますか」
と切り出した。
「宇治の橋姫だと……」
炬燵に膝を突っ込んで、長助にも入れと勧めかけた東吾が、調子のはずれた声を上げた。
「へえ、なんでも京を荒し廻った鬼女を祀ったお社だとか」
「ああ、あの橋姫か」
俺も昔、兄上から聞いたので、くわしいことは知らないが、と前おきして東吾は話した。
「要するに妻のある男が別の女を好きになって女房を離縁しようとしたんだな。それを知った女房が貴船明神に丑の刻まいりをして生きながら鬼女となった。で、男を取り殺そうとしたんだが、男には安倍晴明という占い師がついていて、呪いを称えて鬼女を追っ払った。追っ払われた鬼女は八つ当りに夜な夜な京に出没して、相手が女なら男に化け、男なら女に化けて、相手の命を奪ったものだから、時の帝が源頼光に命じて、鬼女を退治させようとなさった。源頼光といえば酒呑《しゆてん》童子をやっつけた大将だ。長助だって知っているだろうが……」
るいが茶を運んで来て可笑しそうに聞いているのに気がついて、東吾は長助へ話を向けた。
「へえ、大江山の鬼退治で……」
「そうさ。酒呑童子すらかなわなかったのに一介の鬼女が太刀打ち出来る筈がない。困った鬼女は、もう二度と悪いことはしませんから、宇治川のほとりに社を建てて、私を祀ってくれ、そうすれば、人々の願い事をかなえる神になるといって、川の中に消えたそうだ」
「するてえと、宇治の橋姫っていいますのは……」
「鬼女だよ。もともとは嫉妬に狂った女が化けたものさ」
るいが長助のために酒の入った茶碗をおいてやりながら訊ねた。
「宇治の橋姫がどうかしたんですか」
「六十すぎの婆さんに憑《つ》いちまったんです」
最初からお話し申します、と長助は茶碗酒にちょいと口をつけ、それを力に喋り出した。
深川佐賀町に上州屋という大きな酒問屋がある。
「旦那は代々、三九郎を名乗るんですが、只今の三九郎旦那は四十を過ぎたばかり、父親は五年前に歿《なくな》りまして、母親のおいねと申しますのが今年六十二になりました」
三九郎には女房のおもんとの間に一太郎と次助という二人の男の子がいる。
「一太郎は十六、次助は十一でございます」
ところで、嫁姑の仲がどうもよろしくないと長助は苦い顔をした。
「おもんといいますのは、前橋の織物問屋の娘で、行儀見習に上州屋へ来ている中に三九郎旦那といい仲になりまして、夫婦になる前に、一太郎坊やが出来ちまいまして……」
姑のおいねは大反対だったが、まだ健在だった先代がなんとかなだめて二人を祝言させた。
「そういういきさつがございますんで、姑は最初《はな》っから嫁を嫌いまして、とにかくいざこざが絶えません。おもんさんが何度も婚家をとび出して前橋へ帰り、それを御亭主が迎えに行くといったさわぎがしょっちゅうでしたが、まあ、このところ、波風もおさまってと、町内の者は胸を撫で下しかけて居りましたんですが……」
この正月、日頃、信心している占い師の所へ出かけたおいねが帰って来て、
「宇治の橋姫様の御託宣てえ奴で、すぐ嫁を離別しないと、悴の命はないといわれたてえことなんで……」
るいが東吾の顔をみて、東吾がいった。
「冗談じゃねえぜ、そんな馬鹿馬鹿しい」
「三九郎旦那も相手にしなかったんだそうですが、二、三日前からどうも体の具合が悪くなって医者に診てもらったが、はっきりしない。そこへ持って来て今朝、あっしの所へ使が来ました。おいねに橋姫様が憑いて、嫁さんを打ちすえているってんで、かけつけて行きますと、目の釣り上った婆さんが心張棒で嫁さんを追い廻している。止めようとしたんですが、年寄とは思えねえ力がありまして」
まさか十手でぶんなぐるわけにも行かず、長助は大汗をかいて、おいねを押えつけ、三九郎と相談の上、とりあえず蔵へ監禁した。
「ですが、凄い声で叫びまして、蔵の中にあった道具なんぞで戸をがんがん叩きます。あの調子では戸が破れるんじゃねえかと……」
話している中に長助はその危機感を思い出したらしい。
「若先生、一つなんとか……」
腰を浮かしながら長助が哀願し、東吾はやむなく立ち上った。
「とにかく、行ってみよう」
永代橋を渡って深川へ向いながら、東吾は慌しく考えていた。
麻生宗太郎が持ち込んで来た紀伊国屋の女隠居の行方知れずの一件と、長助が話した上州屋の姑の件と、いくつか共通のものがある。
どちらも六十すぎの老婆で、そんな年齢になっても嫁姑の仲が悪い。嫁は勿論、家族ももて余していて、おそらく当人もそれに気がついているのだろう、家の中で孤立している。
息を切らしながら東吾について走っていた長助が弁解がましくいった。
「鰯の頭も信心からとか申しますが、年寄が占いなんぞに凝《こ》り出したら、ろくなことがございません。橋神だか鼻紙だか知りませんが、近所迷惑もいいところで……」
ふっと東吾の足がゆるんだ。
「占いか」
「へっ」
「上州屋の婆さんは占いに凝っていたんだな」
「左様で……」
「その占い師はどこに住んでいるんだ。深川か……」
「いえ、ひどく遠方で、なんでも小日向のほうだとか……」
「関口水道町とは聞かなかったか」
「さあ……ですが、おいねはいつも町内の駕籠屋を頼んで出かけると聞いて居りますんで、駕籠屋に訊いてみれば……」
「そうだな」
深川へ入ったところで、むこうから長助の下っ引で吾一というのが走って来た。
「親分……若先生、大変です。上州屋の婆さんが蔵の戸を叩き破って……」
東吾がすばやくいった。
「長助、麻生宗太郎を呼んで来い。俺はこいつと上州屋へ行く」
吾一が叫んだ。
「若先生、本所の麻生様なら、あっしも知っています。お使はあっしが参《めえ》ります」
確かに若い吾一のほうが足は早そうであった。
「よし、行け」
吾一が韋駄天のように大川沿いの道を突走り、東吾と長助は佐賀町の上州屋へとび込んだ。
店の中はひっそりしていた。長助が声をかけながら、店の土間を通って庭へ抜ける。
人々はそこに石のようになって突っ立っていた。
庭のむこうに蔵が見え、戸が開いている。
そっちを眺めて、東吾も長助もあっけにとられた。
若い女の長襦袢だろうか緋色のそれをまとい、顔は紅でくまどり、頭には三本の脚のついた五徳をかぶり、手には抜き身の脇差を持っている。口から泡を吹き、猿のような奇声を上げ、刀をふり廻すのが異様であった。
「あれが、おいねか」
東吾がいい、近くにいた男が生唾を呑み込むようにしてうなずいた。
「おもんはどこじゃ。おもんの奴、殺してやる……」
おいねがふらふらと歩み出し、東吾がその前に立った。
「おのれ、邪魔するか」
突き出された刀を東吾は無雑作に叩き落した。つかみかかって来るのを身を沈めて鳩尾《みずおち》を一突きすると、おいねの体は他愛なく土に崩れ落ちた。
「早く家の中に運ぶのだ。顔を拭き、着物を着替えさせろ」
東吾の言葉で、棒立ちになっていた人々が呪縛が解けたように動き出す。
東吾はこの家の仏間へ行った。
立派な仏壇の中に白木の神札がおさめてあって、そこに鮮やかな筆跡で「宇治の橋姫」と書いてある。
「これは、おいねが持って来たのだな」
東吾の言葉に、上州屋の当主である三九郎がうなずいた。
「おっ母さんが、占い師さんから授って来たものでございます」
「おいねはいつ頃からその占い師に凝り出したんだ」
「昨年の秋あたりでございましたか。やはり占い好きのお仲間に誘われたとかで、それからはもう三日にあげず通いまして、持ち出す金も百両を越えました。それで手前が意見を致しますと、突然、橋姫様がのり移りまして……」
今のようなさわぎになったという。
そこへ長助が駕籠屋を連れて来た。駕籠屋の口からおいねの通っていた占い師の住家が知れる。
「小日向の……関口水道町を出たあたりに長安寺という寺がありまして……あっしらはその寺の外で待っていますんで……御隠居さんはずんずん奥へ入って行きなさる……なにしろ境内の広いことといったら見通しがつかねえくらいで……」
駕籠屋からくわしく訊いてみると、長安寺というのは、どうやら今大路家の別宅のすぐ近くのようであった。
「若先生、御案内申しました」
吾一の声と共に宗太郎が入って来た。東吾が手早く話をし、奥へ入った宗太郎がやがて出て来ると片すみへ行って東吾を招いた。
「阿片《あへん》をやられています」
「俺もそんな気がしたんだ」
軍艦操練所の練習で長崎や横浜へ行くようになって、東吾も外国から渡って来る薬物にそれなりの知識を持っている。
「とりあえずの手当をしておきましたが、心臓がひどく弱くなっていますので……」
更に声をひそめ、東吾の耳に口を寄せた。
「わたしからもお知らせがあります。紀伊国屋を調べたところ、かなりの量の特殊の薬種が紛失していました。どうやら、おとらが持ち出したようなのですが、その中に阿片もまじっています」
「紀伊国屋がそんな薬物を扱っていたのか」
「やはり、時流にとり残されまいと、横浜などで仕入れていたのでしょうが、なにしろ、正確な知識もなく、従って管理も杜撰《ずさん》で……」
東吾が決然といった。
「俺は長安寺へ行くよ」
「わたしも行きます」
宇治の橋姫などと名乗る占い師が何者なのか、なんのために老婆ばかりをたぶらかしているのか。
「今大路家のお膝元で、不敵な奴らだ」
長助と吾一が供について、深川からまっしぐらに小日向へ行く途中、晴れていた空が急に曇り出して、今にも、雨か雪が降り出しそうな気配になった。
「降られると厄介だ。急ごう」
足を速めて漸く関口水道町を抜け、長安寺の門をくぐった時、むこうから女がやって来た。唐織とみえる豪華な小袖に錦の帯を結び、髪は古風な下《さ》げ髪にして紫の紐でくくっている。
女が東吾達をみ、優雅に会釈してすれ違って行く。
境内の奥のほうから畝源三郎がこっちへどなった。
「東吾さん、その女を捕まえて下さい」
はっとして東吾は女を追った。長助と吾一がそれに続く。
女がふりむいた。女の手が頭上で円を描いた。手に握られているのは水晶の連《れん》である。それがすさまじい早さで回転して、女の顔の前へ下りて来る。
源三郎が東吾の脇に立った時、女の口から言葉が吐き出された。
「動けまい。動けまい。おのれらは、橋姫の金縛りにかかって居る」
長助と吾一が女にとびかかろうとして逆にひっくり返った。
ひゅう、ひゅうと風を切って水晶の連が水車のように廻っている。
源三郎がふみ出そうとしてたたらを踏んだ。
東吾は大刀の柄に手をかけた。
「抜けまい。橋姫の金縛りじゃ」
女の目が異様に大きくなって、東吾の視線を吸い込もうとする。
東吾の唇から裂帛《れつぱく》の気合が洩れたのと、境内の鐘楼からごぉんという鐘の音が聞えたのが同時であった。
東吾の剣が鞘を走って、女の手の水晶の連を斬った。白い玉が地上に散らばり、源三郎がとびかかって女を押えた。
その女が宇治の橋姫と名乗る行者であった。
五
長安寺は三代将軍家光の寄進によるもので、どういうわけか、どの宗旨にも属さず、従って寺社奉行の管轄下にない不思議な寺であった。
住持はいるが、すでに老齢で寝ていることが多い。別に檀家もないので、寺男が一人と小僧一人で、将軍家から頂戴した寺領から上る扶持米で暮している。
四千坪近くもある境内の一部はいつの頃からか旗本の篠原家に貸していて、その邸宅が西側にあった。
従って、篠原家へ行くには、長安寺の境内を抜けることになる。周囲はすべて田畑であった。
この篠原家の当主の右近というのが公務で京に二年滞在する中に、土御門《つちみかど》家の血をひく女で小夜橋というのとねんごろになり、妻として江戸へ伴って来た。ところが江戸の屋敷にはすでに右近の妻がいた。郁江といい、こちらは御家人の娘であった。
「どうも、手前のような律義者には想像もつかないのですが、篠原右近は二人の女房を同居させ、どちらも本妻として扱いながら、その一方で諸所に新しい女を作っていたようなのです」
一件落着して間もなくの夜、「かわせみ」の居間で膳を囲みながら、畝源三郎が話し出した。一座にいるのは東吾とるい、麻生宗太郎、給仕を口実に部屋から動かないお吉と合せて五人であった。
「随分とおもてになるんですね。その篠原っていうお旗本。よっぽど男前なんですか」
給仕盆を膝にお吉が聞き、源三郎が笑った。
「いや、男ぶりからすればここにいる三人に及びませんがね。とにかく、まめな性格でこれと思うと熱心にくどく。口が旨くて親切だと大抵の女はその気になるのですかね」
るいがやんわりとさえぎった。
「それは、女にもよりましょう」
「その通りです。とにかく篠原は女道楽が過ぎた。その結果、或る日、倒れまして寝たきりになりました。本妻二人に変化が起ったのは、そのあたりからなのです」
二人の女は見舞客に全く篠原右近を会わせなかった。親類の中には、右近に子供のいないのを知っていて、もし病気が重いのならば、養子なども考えねばとその相談に出かけて行く者もあったが、いずれも女二人に拒絶された。
「実は手前が相談を受けたのは、その親類からなのですが、とにかく、篠原の当主が生きているのか死んだのかもわからない。しかも本妻の一人は呪術でも使うのか、力ずくで上へ押し通ろうとすると、急に気が遠くなって、はっとしてみると長安寺の外に立っていたなぞということが重なり、次第に気味が悪くなったと申すのです」
頼まれて内偵を続けていると、更に奇妙なことがわかり出した。
小夜橋という女が長安寺の方丈を使って占いをして人を集めている。それもみてくれるのは必ず五十過ぎの女と決っていて、どこで聞いて来るのか、老婆ばかりが熱心にやって来て祈祷をしてもらったり、お籠りをしたりしている。
「ですが、手前も、よもや、それが婆さんをさらって百両と引きかえにする一件とかかわりがあるとは思っていませんでした」
両方が結びつくようになったのは、東吾と宗太郎と三人で、今大路家の別宅へ来た時からだと源三郎はいった。
「あの折、御両所がいわれたことですが、紀伊国屋のおとらは関口水道町に今大路家の別宅のあるのを知らなかった。それなのに、家を出る時、女中に関口水道町の今大路様へ行くといったのは、何かで関口水道町へ来て、たまたま、近くに今大路家の別邸があるのを知ったということになります」
今大路家の別邸の近くには長安寺という少し風変りな寺があり、そこで占いをしている女は、篠原右近が京から連れて来た小夜橋という者だとわかった。
「だんだん、調べてみると紀伊国屋のおとらをはじめ、姿をかくし、百両の身代金で戻って来た婆さん連中は揃いも揃って占いが好き、おまけに気が強くて我儘で、嫁いびりが生甲斐と来ましたからね」
源三郎が盃を出し、それにお酌をしたお吉が訊いた。
「よくわかりませんのですけれど、お年寄をさらって百両の身代金をとったのも、その小夜橋とかいう行者さんなんですか」
「正確にいいますと、小夜橋と郁江の二人組の仕業です」
占いに凝ってやって来た老女達が口々に嫁の悪口をいう。思い知らせてやりたい、嫁の肩を持つ悴やおのれの亭主にも腹が立つ、なにか胸のすっとするようなことはないものかと訴えるのを聞いて小夜橋がいった。
「あなたのことを、御家族がどれほど大事に思っているか、それとも、粗末に扱っているか、ためしてみるのがよろしいでしょう。ついでに憎いお嫁さんにもそれ相当の怖しい思いをさせてあげます」
話にのせられた老女はどこへ行くともいわず家を出て、篠原家へ姿をかくす。その上で郁江が文を投げ込み、指定の場所へ出かけた嫁を襲って、金を奪って来る。翌日、老女はそ知らぬ顔で帰宅する。
「ぐるだったんですか、お婆さんも……」
お吉が叫び、源三郎がこの男らしい思いやりをみせた。
「小夜橋の口車にのせられたのは愚かですが、そうまでしても、自分が家の中でどう思われているかを確かめたかったのでしょう。自分のために百両の身代金を払ってくれるかどうか。しかし、実際のところ、家族が金を出したのは世間体のためで、老いてもて余し者の婆さんを大事に思ったせいではないのですがね」
お吉がよけいなことはどうでもいいといった調子で訊いた。
「紀伊国屋のおとらさんはどうなったんですか」
「篠原家の蔵の中にいましたよ。あの人は家族が百両出さなかったんです」
「でも……むこうから何もいって来なかったって……」
「世間にはそういっただけでして……おとらだけじゃありません。他に何人も同じような婆さんが薬漬けにされて死ぬのを待っていました」
るいとお吉が息を呑み、宗太郎がいった。
「どうも、寝覚めの悪い一件でしたね」
身代金が来ず、帰るに帰られない老女達を小夜橋は阿片を用いて廃人同様にし、蔵に閉じこめておいた。
「源さんが助け出して治療を受けさせましたが、まず長いことはないでしょう。まことに哀れとは思いますが……」
上州屋のおいねもその一人ということになる。
「兄上に聞いたんだが……」
重い空気をふり払うように、東吾がいった。
「土御門家というのは安倍晴明の子孫なんだってな。だから、小夜橋というのも奇妙な術を使うのかね」
小夜橋を捕縛しようとして長助と吾一は吹っとばされ、源三郎も前へ進めず、東吾は刀が抜けなかった。
宗太郎が大声で笑い出した。
「よして下さいよ。東吾さんはそんなことを考えていたのですか」
「あれは呪術ではないのか」
「強いていえば催眠の術、まあ、目くらましですよ。ああいうものは音を立てると簡単に破れます」
東吾が剣を抜こうとして、自らかけた裂帛の声と、宗太郎が撞《つ》いた鐘の音と。
「いい大人が、子供だましの手にのらないで下さい」
「美人だったのが、いけないんだな」
東吾が照れかくしに酒を飲み、鍋に箸をいれた。
「あんなでかい目でみつめられると、瘧《おこり》にかかったようないやな気分になるもんだ」
「東吾さんに教えてあげましょうか」
源三郎が手酌で飲みながらいった。
「小夜橋の年齢《とし》ですがね。六十七だそうですよ」
東吾が顔をしかめ、るいとお吉が袖を顔に当てて笑い出した。
「冗談じゃねえや。正月から不景気な捕物に狩り出されてさ」
小夜橋と郁江は八丈島へ流刑となった。
篠原家では、奥の座敷に死後少くとも一ヵ月は経ったとみられる右近の死骸が布団にくるまったまま発見されている。
けれども、江戸は相変らず占い好き、お喋り好きの婆さんが集って、我が家の嫁の悪口を並べて日がな一日を過している風景があちこちにみられる。
ただ、その婆さんの口がふっと重くなるのは、瓦版に大きく取り上げられた宇治の橋姫事件の話が蒸し返される時であった。
その時、老女達はいっせいにひっそりとして自分の立場を考えている。そのあげく、お寺まいりに出かけたり、仏壇に長いことお経を上げたりして、やがて周囲の人に訊く。
「どこかに、あたしの話を親切に聞いてくれる行者さんはいませんかね」
江戸は日一日と陽が長くなっていた。
初 出 「オール讀物」平成11年6月号〜12年1月号
単行本 平成12年4月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成十五年四月十日刊