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平岩弓枝
御宿かわせみ20 お吉の茶碗
目 次
花嫁の仇討
お吉の茶碗
池の端七軒町
汐浜の殺人
春桃院門前
さかい屋万助の犬
怪盗みずたがらし
夢殺人
[#改ページ]
花嫁《はなよめ》の仇討《あだうち》
このところ、大川端の旅宿「かわせみ」では、藤の間に滞在している客のことが話題になっていた。
中津川から出て来た母娘で、材木商を営む日ノ木屋源助女房おさだ、娘おたかと宿帳に書いてある。
「まあ、きれいな娘さんなんですよ。今時、あんな初々《ういうい》しいひとは、江戸じゃ滅多にお目にかかれませんよ。おっ母さんは娘がひっこみ思案で縁談がまとまらないってこぼしていますけど、若い女の出しゃばりほど困ったものはないんですから。あたしはあのくらいひかえめでちょうどいいと思ってます」
例によって女中頭のお吉《きち》が居間へ晩餉《ばんげ》を運んで来ながら、東吾《とうご》に喋《しやべ》りまくった。
江戸の桜が散って、雨もよいの生温い宵のことである。
「いったい、なんだって、その母娘は中津川から出て来たんだ」
着替えをすませて長火鉢のむこうに腰を下し、東吾はまず、|るい《ヽヽ》がいれてくれた番茶を一口飲みながら、お吉の話相手になった。
「それがでございますよ、最初は江戸見物だといっていましてね。毎日のように浅草の観音様だの、両国の回向院《えこういん》だのへ出かけていたんです。娘さんをこれみよがしに着飾らせましてね」
「出来れば、江戸で娘さんにいい縁談をみつけたいとおっしゃっていますの」
お吉のまどろこしい話を、るいがあっさりひき取った。
長火鉢の銅壺《どうこ》をのぞいて、酒の燗のつき具合をみている。
「中津川じゃ、いい縁談がないのか」
「狭い土地なので、なにかと厄介なのですって。是非、嫁に欲しいと御身分のある方からのぞまれたそうですけれど、娘さんがどうしても気が進まないとか……」
「成程、そうなると、土地じゃ嫁にやりにくいかも知れないな。中津川あたりで身分が高いといえば、あそこは苗木藩だが、まさか縁談の相手は武士じゃあるまい。それとも案外、重役なんぞが妾にさし出せといって来たんじゃないのか」
どっちにしたところで、土地の有力者を断ったのでは、他に縁談を探すのは難しくなる。
「しかし、江戸に確かな知り合いもなしに出て来たって、娘の縁談をまとめるのは無理だろう」
東吾が旨《うま》そうに盃の酒を干したところで、お吉が反撃した。
「それがそうでもないみたいです」
江戸は諸国から人が集まって来て暮しを立てている。いわば、人間の吹きだまりのような所だから、地方のように親類縁者や昔からの知り合いが狭いところに固まっているわけではない。
「ですから、娘や悴《せがれ》が年頃になったからといって、いい縁談を持って来てくれる人もいないってのが、けっこう多いそうですよ」
そうした人々のために、この節、仲人医者というのが流行《はや》っているとお吉は得意そうに話し出した。
「仲人医者というと、本業は医者なのか」
「そうなんです。お医者ですから、あっちこっちに出入りしていますでしょう。どこの家に年頃の悴がいるとか、どこの娘はきれいで気立てもよいとか、すぐわかるじゃありませんか」
「医者なら病気がちか、十人も子供が産めるような娘か、よくわかるわけだな」
東吾が軽口を叩き、姉さん女房がちょっと睨《にら》んだ。
「ところで、よもや中津川から来た連中は、その仲人医者に縁談を頼んだわけではあるまいな」
東吾が苦笑し、お吉がここぞと膝を進めた。
「その、よもやなんでございます」
「頼んだのか」
「先程、お帰りになって番頭さんにお話しになったそうで、番頭さんも心配しています」
その番頭の嘉助《かすけ》が、東吾の晩餉のすむのをみはからって奥へやって来た。
「お吉がお話し申しましたそうで……」
よけいなことを耳に入れるようだがと断って、おさだとおたかの母娘が鶴田典庵という医者に会ったいきさつを話した。
今日、母娘は上野の寛永寺へ出かけ、不忍池《しのばずのいけ》の近くの水茶屋で休息していると、近くで茶を飲んでいた男が話しかけて来た。
それが鶴田典庵で、世間話をしているうちに母親のおさだは、娘の縁談を求めて江戸へ出て来ていることを話してしまったらしい。
「どうも、仲人医者などと申す手合は口がうまいので、田舎から出て来た母娘などは、あっという間に丸めこまれてしまったのではないかと存じます」
「それで、その医者はいい相手を世話するとでもいったのか」
「心当りがないこともないので、先方の気持を聞いてから、なんなら紹介をするといって、宿を訊《き》いたそうでございます」
「お節介な奴だなあ」
「金がめあてでございますよ。この節は仲人を商売にする者が増えて居ります。首尾よく縁をまとめて嫁入り、聟《むこ》入りとなりますと大体、礼金は結納金、持参金の一割と申しますから、悪い稼ぎではありますまい」
縁談をまとめた相手が裕福であれば、結納金が百両などというのは珍しくない。
「口をきいただけで十両か」
ここ数年、江戸は物価の変動が激しいとはいえ、一両で米は八斗前後が相場になっている。
下級武士の年俸が俗に三両一人|扶持《ぶち》といわれるのから考えても、十両は大金であった。
「中津川の母娘は金持なんだろうな」
「お泊りになった折、帳場に百両ほどおあずけになって居ります。上等の檜《ひのき》の山々を先祖代々、受け継いでいらっしゃるとか」
母親のなりはそれほどでもないが、娘の衣裳はなかなか立派なもので、髪飾りなどにも思い切った金のかけ方をしていると、これは客商売でお吉も嘉助も、ひとめで気がついたという。
「そうすると、その仲人医者って奴も、母娘の身なりをみて、いい鴨だと声をかけたわけだ」
そもそも寛永寺あたりの茶屋に、江戸者ではないような母娘が着飾って休んでいれば、下心のある奴にとっては、とんで火に入る夏の虫のようなものだろうと東吾はいった。
「しかし、その仲人医者がいい縁談を持って来りゃあ、中津川のほうも文句はなかろう」
「そりゃあそうなんでございますが、世間には礼金めあてで、随分とひどい縁談のまとめ方をする奴も少くないと聞いて居りますので……」
むこうから声をかけたことといい、あまりにとんとんと話を運んだあたりが胡散《うさん》臭い、と、嘉助は心配している。
「まあ、そいつがやって来たら、せいぜい用心して、中津川の相談にのってやることだな」
と、その夜はあまり気のない顔で笑っていた東吾だったが、翌朝、庭で木剣の素振りをしていると、たまたま藤の間の庭に面した障子が開いて、低い柴垣越しに若い女が縁側に出て来たのがみえた。
で、あれが評判の中津川から来た娘かと眺めていると、娘のほうが東吾に気づいて、慌《あわ》てて部屋へ入ってしまった。
たしかに、嘉助やお吉が気を揉むだけあって、愛くるしい美人である。
朝餉の前に、東吾は、
「ちょいと、源さんの所へ行って来る」
るいに声をかけて、そそくさと出かけた。
八丁堀の畝源三郎《うねげんざぶろう》の屋敷へ行ってみると、一人息子の源太郎が東吾に教えられたように、小さな木剣を振って朝稽古をしているのを、源三郎が縁側に立って眺めていた。
「早いですな、東吾さん」
なにかありましたか、といわれて、東吾はまず源太郎の挨拶を受け、源三郎の女房のお千絵《ちえ》が運んで来た座布団に腰を下した。
「いや、源さんが出かけない前にと思ってね」
鶴田典庵という仲人医者を知っているかという東吾に、源三郎は、
「いや」
と首を振った。
「医者が仲人をするという話は聞いていますが……」
「どうも、うちの連中は心配性でね」
昨夜、嘉助とお吉から聞いたのを、そっくり受け売りすると、
「その娘は、どんな器量ですか」
と訊く。
「どんなも、こんなも、ぴかぴかのかぐや姫みたいなんだ」
「そうだろうと思いましたよ。そうでなければ、東吾さんがこんな朝っぱらから来るわけがない」
源三郎夫婦が顔を見合せて笑い出し、
「冗談いうな。うちの連中がやいのやいのとうるさいから……」
照れながら東吾は弁解した。
「他ならぬ東吾さんのおたずねですから、早速、その鶴田典庵について評判をきいておきましょう。御用の帰りに御報告|旁《かたがた》、そのかぐや姫だか、弁天様だかを拝ませてもらいに行きますよ」
うっかり調子にのった源三郎が女房の顔を眺めて笑い出した。
「東吾さん、おたがい気をつけなければいけません。口はわざわいのもとです」
その日の午《ひる》下り、坊主頭に十徳《じつとく》を着た男が、いささか気取った物腰で「かわせみ」の暖簾《のれん》をくぐった。
「こちらに中津川の日ノ木屋の御新造おさだどのが御逗留されて居る筈じゃが……手前は鶴田典庵と申します」
嘉助が心得て藤の間へ取り次ぎ、典庵はおよそ一刻近くも話し込んで帰った。
その後で、嘉助がるいを呼びに来た。
「藤の間のお客様が、お嬢さんにお話をきいて頂きたいとおっしゃっていますので……」
るいが出て行き、入れかわりに本所の麻生《あそう》邸へ行っていた東吾が帰って来た。
「鶴田典庵という人が来ました」
とお吉がいうと、軽くうなずいて居間へ入った。
「源さんは来なかったか」
るいの代りに茶をいれているお吉に訊いているところへ、当の源三郎がやって来た。
鶴田典庵が来たというと、
「そりゃあ来るでしょう。典庵の仇名《あだな》はすっぽんというのだそうで、一度、喰いついたら最後、雷が鳴っても離れないといいますよ」
お吉から茶碗をもらって唇をしめすと、すぐに話し出した。
「鶴田典庵の住いは日本橋小舟町、家族は女房のお加女《かめ》だけで子供はいません。医者としては可もなく不可もなく、口が旨くて如才がないので患家からは重宝にされているそうです」
東吾が口をはさんだ。
「たいした医者ではないのは確かだよ。麻生家で訊いたが、宗太郎《そうたろう》は知らなかった」
「当り前ですよ。将軍家御典医の御子息が、仲人医者なんか御存じのわけがありません」
「嫁入り、聟入りの口入れ業のほうが繁昌しているわけか」
「少くとも、そっちの収入《みいり》のほうが多いのは間違いありませんよ」
当人は、苗字が鶴田で、女房の名前がお加女、つまり、鶴亀に通じるので自分に仲人をしてもらうと縁起がいいのだと吹聴しているらしい。
「女房がまたお調子者で、どこそこの町で花見に行くといえば、伝手《つて》をみつけてついて行く。芝居の総見だ、踊りのおさらいだと、人の集まるところには残らず顔を出して、年頃の娘を物色したり、その家の様子を探ったりしているといいますから、夫婦そろって仲人で稼いでいるわけですな」
無論、仲人をして礼金をもらうのは罪にならないし、場合によっては人助けになる。
「いささか気になるのは、典庵夫婦が好んで世話をするのは、嫁にしろ、聟にしろ、少々の難のある者の縁談なのだそうです」
子供の時に疱瘡《ほうそう》にかかって、あばたになってしまった娘とか、熱病のせいで口がよくきけなくなった悴とか、その他、奇癖悪癖のあるために縁遠くなっているようなのは、親のほうも不愍《ふびん》がって沢山の礼金を包み、どうぞ良い縁談をみつけてくれと、典庵に頼み込む。
「そういうのを、きちんと然《しか》るべきところに世話し、縁談をまとめるというのなら、これは人助けと申せましょうが、典庵のやりくちは欠点をごま化して夫婦にしてしまう。つまり、盃事《さかずきごと》をすませてから欺されたと気がつくのが少くないという話です」
例えば、大金持の家の娘という触れ込みで嫁に来たものの、あとで調べてみると借金だらけだったとか、三百両の持参金つきで養子をとったら、その男に寝小便の癖があったなぞというもので、
「婚礼を挙げたものの、結局は離縁にするより仕方がないが、そうなっても典庵のほうは、左様なこととは全く存じませず、といって礼金は返さない。こうなると騙《かた》りも同然なのですが、訴えても罪になりにくいのと、世間へ知れては恥の上塗りだと、泣き寝入りにしてしまうといいます」
典庵のほうは、それを承知で人泣かせの仲人商売を繁昌させているところがあると源三郎は苦い顔をしている。
「悪い奴だな」
「まあ、仲人口《なこうどぐち》といいますし、鷺《さぎ》を烏《からす》といいくるめるのは、大抵の仲人がやっていることかも知れませんが、典庵のは性質《たち》が悪すぎる。医者だけに許せない気がしました」
頼むほうは医者だからと安心する。典庵はそれにつけ込んで金もうけをしている。
「寝小便の癖のある養子の件ですが、典庵は寝小便に特効のある薬というのを一年も続けて飲ませ、莫大な薬料を取っているのです」
そんな話をしているところへ、るいが藤の間から帰って来た。
「今、源さんから典庵の評判をきいていたんだ」
という東吾へ、
「なんですか、ひどい縁談《おはなし》を持って来たようでございますよ」
青い眉をしかめた。
「あいつに仲人を頼むのはやめろといってやれよ。どうせ夜中に首が屏風の上までのびるような聟が来る」
東吾が笑い、るいは、
「まさか、ろくろっ首ではないと思いますけれど……」
典庵の持って来た縁談の相手は、浅草で口入れ屋をしている辰巳屋利兵衛の悴、久松という者だといった。
「嘉助が申しますには、辰巳屋利兵衛というのは侠客《きようかく》を気どっているけれども、博徒の親分で、大勢の破落戸《ごろつき》を抱えているとか」
源三郎がうなずいた。
「その通りですよ。浅草の盛り場を根城にしていましてね。ゆすり、たかり、いかさまがお手のもの。まあ、口入れ屋としてあっちこっちの大名家へ出入りしているんで、なかなか威勢がいい。正直な所、奉行所も下手に手を出すと、上のほうにさし障りが出るという厄介な奴です」
大名が参勤交代の制度で一年おきに江戸と国許を往復する際、一番、苦労するのは格式をととのえるための供揃えであった。
殊に江戸を出立《しゆつたつ》する時は体面上、身分相応の行列が必要であった。
とはいっても、それだけの人数を、侍はともかく、諸道具をかつぐ若党、小者など、かなりの数を奉公人として常時、江戸屋敷においておくのは莫大な費用がかかる。
で、江戸を発《た》つ時、口入れ屋から決められた人数を調達してもらい、その連中はさも、その大名の奉公人のような顔で小田原あたりまでお供をして行く。
そこから先は各々の宿場で人足をやとって荷を運ばせるので、逆に小田原まで行った連中は、今度は国許から江戸へやってくる大名の行列に加わって、毛槍を振ったり、はさみ箱をかついだりして江戸へ戻って来るのであった。
口入れ屋はこの人足の元締をしているので大名家の威光をかさに着て、随分と無法を働くが、畝源三郎のいう通り奉行所も迂闊《うかつ》なことが出来ないでいる。
むこうも、そのあたりは心得ていて、盗賊のかくれ家を訴人《そにん》したり、奉行所のおたずね者になっている無宿人が立ち廻ったりすると知らせて、役人の心証をよくしようとするところがある。
「典庵ってお医者がいうには、親は荒っぽい商売だけれども、悴の久松は気の優しい、学問好きの子で、当人は坊さんにでもなりたいといっているそうですが、親としては世間並みに女房をもらって跡継ぎを残してもらいたい。一生、金には不自由させないで、一軒、好きな所へ家をもたせ、親の稼業とは関係なく暮せるようにするという条件でお嫁さんを探しているとのことなんです」
「そんな家へ素人の娘が嫁に行きますかね。親だって、やくざの悴を聟にしたくないでしょう」
お吉が口をとがらせる。
「ですから、その悴さんが気に入って、先方も嫁になってもよいというのならば、持参金はいらない。それどころか支度金として三百両までは出してもよいというんです」
「中津川の娘は、金に困っているわけじゃあるまい」
と東吾。
「ええ、ですから考えるまでもないと思うのですが……」
「断ったんじゃないのか」
「あんまり親切に勧めるので断りそびれたとおっしゃいますの。ですから、手前どもで、しっかりした代理人を立てて、断ってさし上げましょうと申しましたのですけれど、それでは失礼になるから、自分のほうで話を致しますと……。それ以上は押しつけがましくて、何も申せませんでしょう」
「それもそうだな」
源三郎がいった。
「ひょっとすると辰巳屋の実態がわからないのかも知れません。嘉助にでも、そこの所をよく説明させるとよいと思います」
その上で助力が必要なら、自分が典庵なり辰巳屋に話をしてもよいとまで源三郎はいった。
「下手に返事を遅らすと、かえって厄介になりましょう」
「嘉助に、そう申します」
やがて源三郎が帰り、嘉助はかなり長いこと藤の間へ行って話をして来た。
「母親のおさださんも、娘のおたかさんも手前の申すことをよく聞いてくれましたので」
安心したようにいい、るいも東吾もやれやれと思ったのだったが……。
翌日、藤の間から髪結いを呼んでもらえないかと注文が出た。
これまでにも髪結いを呼んでくれといわれたことはあったので、女中は気にもしないで、出入りの女髪結いに声をかけた。
そして半刻、
「駕籠《かご》を二挺、お願いしますって」
帰りがけに髪結いが、嘉助にことづけをいった。
毎日のように出かけている母娘のことである。外は上天気であった。
駕籠が来て、女中が知らせに行き、出て来た母娘は美しく着飾っていた。
「今日はお芝居でございますか」
といった嘉助に、おさだは困ったような笑いを浮べ、娘をうながして駕籠に乗った。
帰って来たのは夕方で、いつもなら、どこへ行ったの、何を見たのと嘉助やお吉に話をするのに、帳場では挨拶をしただけで、そそくさと藤の間へひき上げた。
「よほどお疲れのようですよ」
晩餉を運んで行った女中がいい、
「遠出でもなさったのかねえ」
とお吉は思った。
翌日も、その翌日も、母娘は出かけたが、それはもっぱら買い物のようであった。
「中津川へお帰りになる準備かも知れませんね」
江戸での縁談をあきらめたのではないかと「かわせみ」では噂をしていたのだったが、間もなく、そうではないことがはっきりした。
深川の長寿庵の長助《ちようすけ》が、永代《えいたい》の元締と呼ばれている入船町の文吾兵衛《ぶんごべえ》と共に、「かわせみ」へやって来た。
ちょうど東吾も居間にいて、
「久しぶりじゃないか。こっちへ通せ」
とお吉にいい、るいが自分で案内してきたのだったが、入って来ると挨拶もそこそこに、
「こちらに、中津川の日ノ木屋さんのお内儀《かみ》と娘が泊って居りますそうで……」
帳場で嘉助に確認したらしい長助が口を切った。
「まさかと思うんですが、その娘の嫁入りが決ったなんてことは、お耳に入《へ》えって居りませんでしょうね」
東吾とるいが顔を見合せ、文吾兵衛が膝を進めた。
「実は浅草に辰巳屋と申します口入れ屋がございます。同業の悪口はいいたかございませんが、正直のところ、あまり見上げた奴ではなく、子分にも乱暴者が揃って居ります。その辰巳屋利兵衛の一人息子に久松という、ひねた奴が居りまして、こいつが近々、嫁をもらうとかで、どんな家から嫁が来るのかと聞いてみると、こちらのお名前が出ましたんで、びっくりしまして、長助旦那のところへ参りやした」
長助が、あとを続けた。
「元締が心配してなさるのは、田舎の人で、辰巳屋のことを知らず、仲人口にひっかかったんじゃねえかってことなんで、それなら、とにかくお知らせ申そうってわけでして……」
るいが漸《ようや》く、応じた。
「なにかの間違いじゃありませんか。たしかに、うちにお泊りの日ノ木屋さんの娘さんが鶴田典庵というお医者の口ききで辰巳屋さんとの縁談を勧められたってことは聞いていますが……」
「あの仲人医者が口ききですか」
長助が顔をしかめた。
「あいつはいけません。畝の旦那のお指図でここんところ、あいつの噂を集めて廻っているんですが、どうも非道なことばっかりしてやがる。つい、このあいだ、といいましても昨年のことですが、新宿の先の柏木村の大百姓の娘で、なんでも母親が長患いで歿《なくな》って、嫁入りが遅れていたのを百両の持参金つきで、本所亀沢町の料理屋の悴の嫁に世話したそうです。ところが、この悴というのが化け物でござんして、どこでそういう馬鹿な真似をおぼえたのかは知りませんが、女を青竹でひっぱたいたり、荒縄でひっくくったりして責めさいなむ癖があるんだそうで、今までに何度、嫁をもらっても逃げ出してしまう。逃げた嫁さんの口からそういう癖があるってえことが広まりますから、誰も嫁のなりてがない。そこで、典庵に大金を掴《つか》ませて嫁を物色させてたらしいんで……」
長助が珍しく長話をはじめ東吾が口を入れた。
「その柏木村から嫁に来た娘は、どうなったんだ」
「身投げをしたんです」
「なんだと……」
「ですが、助けられて里方へ帰ったそうです」
「百両の持参金はどうなったんだ」
「本当なら仲人をした典庵が、悪いのは聟のほうなんで、そっくり取り戻して女のほうへ返してやるところでしょうが、どうも、知らぬ顔の半兵衛をきめちまったようです」
腹立たしそうに長助が続けた。
「ですから、その典庵の口ききなら、どうせ、ろくなことはいっちゃあいませんぜ」
東吾がるいをふりむいた。
「藤の間は、帰っているのか」
「ええ、さっき、お戻りになったみたいですけど……」
「お吉にそういって、ここへ呼んでくれないか」
るいがすぐに出て行き、やがて二人の女をお吉が案内して来た。
おさだのほうは四十なかばだろう、如何にも田舎の女房風だが、勝気そうなしっかり者の印象である。おたかは、一目みた文吾兵衛と長助が思わず、ほうっという顔をしたほどの器量よしで、これならいくらでもいい縁談が舞い込んで来るだろうに、なにもよりによって堅気でもない家へ嫁入りする必要はなさそうに思える。
「早速だが、あんたたち、鶴田典庵の持って来た縁談を断ったんだろうな」
単刀直入に東吾が訊き、おさだがはっとうつむいた。
「お節介をやくようだが、もし、断ってないならば大急ぎできっぱりと断りの返事をしたほうがいい。もしも、自分からいいにくいのなら、ここにいる長助親分に使者に立ってもらってもいいんだ」
黙っている母娘に長助がまず、鶴田典庵がどんないい加減な医者かを説明し、続いて、文吾兵衛が辰巳屋について丁寧に稼業を話した。それでも母娘はじっと聞いているだけでなんにもいわない。
たまりかねて東吾がいった。
「これで、あんたたちにもわかったろう。みたところ、金に不自由はなさそうだし、娘さんも心がけ次第では、どんないい相手だってみつかるだろう。あせる必要はない。なんなら俺たちもその気になって嫁入り先を探してやろう」
おさだが顔を上げた。
「今のお話ですと、典庵という人は、辰巳屋からお金をもらって、嫁の世話をしようとしているそうですが、そうやってまとめた縁談が、祝言を挙げたあとでこわれたら、どうなりますか」
文吾兵衛が答えた。
「わたしが聞いたところでは、辰巳屋利兵衛は、悴のほうに落度もないのに、相手が自分の商売のことで苦情をいい立てないよう、よく説得するよう典庵にいっているそうだ。典庵もそれは承知して、相手には口入れ屋稼業についても、よく話してあるし、納得して嫁に来るのだから、万事、まかせてくれと大見得を切ったらしいが……」
「変な嫁を押しつけたら、辰巳屋は怒るでしょうね」
「そりゃあそうだ。辰巳屋は今度、悴がもらう嫁はれっきとした素人娘で、瓦版にでも載りそうな器量よしだと自慢している」
嬉しそうに娘が笑った。
「おっ母さん、お江戸って面白いところですねえ」
文吾兵衛が慌てた。
「面白いどころのさわぎじゃない。あんたは嫁にいっても気に入らなけりゃ離縁すればよいとでも考えているのかも知れないが、利兵衛は怖い男だ。それに悴を可愛がっている。悴の嫁が亭主を裏切って出て行こうとしたら、子分も承知はしない。おどかすわけじゃないが、あんたの身はどうなることか。下手をすりゃあ殺されるし、命が助かってもおもちゃにされて女郎に売りとばされる。素人さんとは違うんだ。そこのところを、よく考えて……」
「かまいません。あたし、もう嫁に行くと決めましたので……久松って人も気に入りましたし……」
「なんですって」
るいがあっけにとられた。
「あなた、もう、辰巳屋の悴と……」
「お見合もすませました。むこうも是非にっていいますし、女はのぞまれて嫁に行くのが一番の幸せだと、死んだお父つぁんもいってましたから……」
おさだが丁寧に手を突いて頭を下げた。
「なにしろ、当人がこの通りなのでございます。久松さんにすっかり夢中で……先方さんも、別に辰巳屋の稼業を久松さんに継がせる気はない。素人と同じように考えてくれといいましたので……」
いろいろと御親切にありがとう存じました、と礼をいって、娘と共に出て行くのを、一同は茫然と見送った。
「ひょっとして、あの娘さん、なにかとんでもないような難があるんじゃありませんかね」
といい出したのは、お吉で、
「こういうことをいうのは申しわけありませんが、体のどこかにあざでもあるとか……」
「まさか、夜中に行灯《あんどん》の油をなめやあしねえだろうな」
東吾もまぜっかえしたが、なにかの欠点があって地元では嫁に行けず、江戸へ出て来て縁づけようとしたのだとすると、その相手が、いわばならずものの親分の悴でも已《や》むを得ない、むしろ好都合と判断したのではないかというのが「かわせみ」をはじめ、長助や文吾兵衛の出した結論であった。
とすると、もう、なにもいえない。
そうこうする中《うち》に、鶴田典庵が来て仮祝言の日が決ったと知らせた。
中津川のほうは、なにしろ遠方なので身内を江戸まで呼ぶのは大変なので、とりあえず江戸で仮祝言をあげてもらい、陽気のよい時に、夫婦で中津川へ来てもらって、むこうはむこうで知り合いを招いて披露をしたいということにしたらしい。
「ついては、まことに申しわけありませんが、こちらから嫁入りさせて頂けますまいか」
とおさだに頼まれて、るいは断り切れなかった。
江戸には知り合いのない母娘なのである。
それに、もし、お吉のいうように、なにかの負い目があって、悪い縁談でも已むなく嫁入りしようと決心したのだとすると、娘が不愍であった。
気が強そうだから、わざと明るくふるまっているのだろうが、注意してみていると、部屋からぼんやり庭を眺めている姿には、かくしようのない思いつめたものがうかがわれる。
東吾は、そんなるいの話を聞き、また、嘉助やお吉にも、母娘の様子を細かく訊ねていた。
そして、時折、畝源三郎や長助と何事か相談しているようであった。
やがて祝言の日が来た。
鶴田典庵は朝から「かわせみ」へ乗り込んで来た。
「以前、たいそう器量のよい娘を、器量のぞみで先方に世話したところ、いざ、祝言をあげて綿帽子を取ったら、似ても似つかぬ女になって居った。つまりは器量の悪い娘を偽者で欺して嫁がせようという不届きな親の仕業でな。おかげで仲人としては、先方に面目なく、礼金はふいになる、いやはや、えらいめに遭ったものだ」
などと、嘉助に話すところをみると、花嫁が替え玉にならないか見張りに来たというところらしい。
その典庵も、化粧をすませ、花嫁衣裳をつけたおたかの姿をみて、
「これは、これは」
と感嘆し、
「こなたどのとは、不忍池の茶屋で出会うたのだったが、よもや、不忍の弁財天が娘に化けたのではあるまいな」
などと冗談をいって上機嫌であった。
時刻が来て、花嫁のおたかは、見送りの「かわせみ」の人々に対して、
「本当にお世話になりました。それでは参ります。皆様の御親切は死んでも忘れません」
と高島田の頭を重たげに下げて挨拶をした。
「どうぞお幸せに。なんぞありましたら、いつでもお力になりますから、決して無分別を起してはいけませんよ」
と、るいが声をかけ、
「なんぞありましたら、とは御挨拶だ。そのようなことがあってたまるか」
鶴田典庵が聞えよがしにわめいた。
母親のおさだは、祝言が終ると、ここへ戻って来ることになっているので、
「それでは行って参ります。いろいろとお世話になりました」
流石《さすが》に言葉少なであった。
辰巳屋からの迎えが到着し、花嫁とその母親が駕籠に乗る。
行列を見送って居間へ戻って来たるいは、東吾の姿がみえなくなっているのに気がついた。すると、お吉がやって来て、
「長助親分が、行列のあとを尾《つ》けて行きました」
という。
男たちから何も知らされていない「かわせみ」の女たちは顔を見合せたが、そういうことには馴れている。
一方、大川端を出た行列は豊海《とよみ》橋の袂《たもと》から用意されていた舟に乗り、大川を上って柳橋の料亭、大黒屋に着いた。
祝言の盃事は大広間で、客の目前で行われ、そのまま、飲めや歌えの大盤振舞の宴となる。
花聟と花嫁は長いこと金屏風の前にすわらされて居り、夜は賑やかに更けて行った。
外は少々、風が出て来ていた。
辰巳屋利兵衛は客の間を廻っては、しきりに盃のやりとりをしていた。
得意満面なのは鶴田典庵とお加女の夫婦で、客たちから、
「お骨折り御苦労」
だの、
「おかげで辰巳屋も子孫繁栄、商売繁昌」
などといわれて悦に入っていた。
宴もやがて果てようという時、客の一人が、
「本日の花嫁は、弁天様の申し子のような滅法界の器量よしと承った。ついてはお床入りの前に御開帳、御開帳……」
といい出し、酔っぱらった客から、
「みせろ、みせろ、減るものじゃあるめえ」
などと野次がとんだ。
利兵衛はちょっといやな顔をしたが、それでも悴の嫁をみせびらかしたい気持はあったらしく、典庵の女房に命じて、花嫁の綿帽子をとりのけさせた。
花嫁は最初、それを拒む様子をみせたが、
「なんにも恥かしがることはありませんよ。さぞ、皆さんが、お聟さんを羨しがることでござんしょうよ」
いささか手荒く、綿帽子をひきめくった。
あっ、という声が起った。
花嫁の容貌は無惨であった。
厚塗りの白粉《おしろい》の下からまっ赤に腫れ上り、顔中がでこぼこになって目も鼻もその中に埋没してしまっている。
隣にすわっていた花聟が悲鳴を上げ、あっちこっちで、
「化け物だ」
という声が上って、客が総立ちになった。
そのとたんに、誰が倒したのか燭台が派手にひっくり返り、廊下の障子が開いて、突風が大広間へ吹き込んだ。
灯が消え、客がさわぎ、皿小鉢の割れる音、そして、芸者や女中が我先にと部屋を逃げ出して、大黒屋はてんやわんやになってしまった。
我に返った利兵衛が子分たちを叱咤して灯を運ばせてみると、花聟は目を廻していたが、花嫁と花嫁の母の姿がなかった。
大黒屋中をさがしても、みつからない。
追手は大川端の「かわせみ」へ向った。
その「かわせみ」には東吾が帰って来ていた。
「辰巳屋の者が、花嫁を探しに来ました」
と嘉助が取り次ぐと、自分で帳場へ出て行った。
「花嫁がどうかしたのか」
のんびりした東吾の言葉に、追手は苛立った。
「とにかく家探しさせておもらい申しますぜ」
土足で上りかまちに片足かけた奴を東吾が手にした木剣ですくい上げるように払った。
男は土間にころげたまま動けない。
「静かにしろ」
東吾がどすのきいた声でたしなめた。
「今、何刻だと思ってるんだ。ここは宿屋、お客様はぐっすりおやすみになっていなさるんだぞ」
花嫁も花嫁の母も出て行ったきり戻ってはいない、と東吾はいった。
「俺の言葉が信用出来ねえというなら、勝手に外で張り込んでいろ。ただし、一足でもこの家にふみ込んだら、賊として叩き斬るから覚悟しろ」
るいがすばやく東吾に大刀を渡し、それをみた辰巳屋の子分は倒れている仲間をかついで、慌てて逃げ出した。
しばらくの間、「かわせみ」のまわりは辰巳屋の子分によって昼夜の別なく見張られていた。
「御苦労様だな」
東吾も嘉助も、にやにや笑っていたが、町奉行所のほうでは、ひそかに探索が進んでいた。
「かわせみ」の藤の間には、中津川の日ノ木屋の内儀おさだから、るいにあてた手紙と三百両の包みが残されていた。
手紙には、迷惑をかけてすまないという意味のことが書かれて居り、この金は辰巳屋から受け取った支度金だが、先方に返してもらいたいとある。
その金を、畝源三郎が見て、
「申しわけありませんが、少々、借ります」
偽金ではないかという。
「昨年あたりから江戸に出まわりはじめているのと同じもののような気がしますので……」
その三百両が偽金とわかって、奉行所が辰巳屋利兵衛を呼び出した。
利兵衛の口から偽金の出所が割れて、その一味を奉行所が襲って一網打尽にした。
「どうも、一味をかげであやつっていたのは、さる藩の重役らしいのですが、そちらはもみ消されました」
奉行所としては、偽金作りの本拠を押え、細工職人を捕えれば一件落着となる。
「辰巳屋利兵衛は遠島になりましたが、その子分が鶴田典庵と女房に仕返しをしたようです」
こうなったそもそもは典庵がろくでもない娘を世話したからだと短絡に考えた結果である。
「典庵夫婦は、自分の家の鴨居からぶら下げられていましてね。その騒動は隣近所も気がついていたのですが、怖くて番屋に知らせに行けなかったそうです。もっとも、典庵夫婦は近所からも憎まれていたので、多少、いい気味だという了見もあったかも知れません」
なんにしても、町役人《ちようやくにん》が来て、二人を下してみたが、首を絞められていて、手のほどこしようもなかったらしい。
「おかげで偽金作りが捕まりましたので助かりました」
と報告して源三郎が帰りかけるのに、東吾が訊いた。
「あっちはどうなった」
源三郎が少し笑った。
「御心配になるようなことはなにもありません」
「治ったのか」
「まあ、ぼちぼちでしょうな」
るいはその会話を聞いていたが、なにも訊ねなかった。
時期が来れば、東吾が話してくれるのがわかっていたからである。
そして、ひと月。
「かわせみ」に若い夫婦者が宿を取った。
「折入って、御主人様御夫婦にお話ししたいことがございまして……」
関東郡代の手代をしているという男のほうがいい、嘉助の取り次ぎに東吾はちょっと考えた。
「どこから来たといった」
「柏木村と宿帳に書かれましたが……」
東吾が笑った。
「そういうことなら、ここへ通してくれ」
るいに茶の支度をさせているところへ、その夫婦は遠慮がちに入って来た。
「お初にお目にかかります。手前は彦七と申し、これは女房のおみつでございます」
東吾がおみつという女を眺めた。
もう二十七、八にはなっているだろう。しかし、初々しい若女房ぶりである。
「あんたが、おたかの姉さんか」
ずばりといい当てられたのだろう、おみつが少し青ざめた。
「どうして、それを……」
訊ねたのは彦七で、
「そのことにつきまして、今日はお詫びに参りました」
改めて手を突いた。
「詫びることなんぞ、なんにもないさ。むしろ、奉行所は礼をいいたいところなんだ」
辰巳屋から出た支度金が偽金で、それが端緒になって一味が捕縛されたという話を、彦七夫婦はあっけにとられて聞いている。
「ところで、あんたのお袋と妹は随分と気が強いな」
東吾がおみつにいい、おみつが小さく返事をした。
「申しわけございません。私が頼りないもので……ですが、妹は妹ですが、もう一人は母ではなく、叔母でございます。妹の気の強いのは叔母に似まして……」
「すると、おっ母さんは歿ったのか」
うなずいたおみつの代りに彦七がいった。
「長年、これがまことによく看病致しました。妹のおたかは母親が患いつきました時は、まだ子供で、おみつは母と妹の面倒をみている中《うち》に嫁にいきそびれたのでございます」
「典庵とは、どこで知り合ったのだ」
東吾が訊いた。
「おみつが知り合ったのは、典庵の女房のお加女だったのでございます」
母親の法要で内藤新宿の大宗寺へ行った折に、お加女のほうから声をかけてきた。
「大宗寺は菊人形が評判で、お加女は知り合いに誘われて見物に来たのだと申しましたとか」
父親は早くに歿って、長患いの母親も死んだ。心のたががはずれたようなところへ、お加女は言葉巧みに近づいた。
「おみつは自分がいつまでも嫁《かたづ》かないと、妹の縁談にさしさわると思ったようでございます。それで、ろくに相談もせず、自分で嫁入りを決めてしまったので……」
たまたま、彦七は関東郡代の御用で八王子へ出かけていた。
「半月ぶりで帰って参りまして、おみつが江戸へ嫁入りしたとききまして……その時の手前の気持は」
言葉をつまらせた相手に、東吾が苦笑した。
「冗談じゃないぜ、好きなら好きで早く唾をつけとかねえから、そういうことになる。俺なんぞは子供の時からちゃんと……」
るいがそっと東吾の袖をひいて、彦七とおみつが漸く肩の力を抜いた。
「まあ、しかし、あんたも世間知らずでひどいめに遭ったが、こんないい御亭主にめぐまれてよかった。だが、なんだって、叔母さんと妹は、あんたの仇討をしようと思ったんだ。あんたが幸せになれたのなら、もう、危いことなんぞしなくたってよかろうが……」
おみつが顔を赤くした。
「二人とも、江戸に出るまで知りませんでしたのです、わたくしたちのことを……」
「するってえと、あんたたちは……」
彦七までがまっ赤になった。
「手前とおみつは、祝言を挙げまして、まだ三日目で……」
るいがすかさず、頭を下げた。
「それは、ほんにおめでとう存じました」
「ありがとう存じます」
消え入りそうな二人に、東吾が明るく告げた。
「それで話の平仄《ひようそく》があったよ。あんたが江戸でひどいめにあったと知って、あんたの気の強い叔母さんと妹が、姉さんの仇討に出かけて来た。しかし、仇討をすませて帰ってみたら、姉さんにはいい人が出来ていたってことか……」
おみつが涙を浮べた。
「私、妹や叔母に申しわけなくて……」
「妹の漆瘡《うるしかぶ》れは治ったらしいな」
おみつの表情が泣き笑いになった。
「おかげさまで、ほんの少しの痕も残りませんで……」
「そいつはよかった。それが一番、心配だったんだ」
なんにも案ずることはない、ゆっくり江戸見物でもして帰るがいいと東吾がいい、若い夫婦は何度も頭を下げて居間を出て行った。
「いつ、お気づきになりましたの」
お吉が待っていたように晩餉の膳を運んで来て、るいが訊いた。
「仇討だってことにですよ」
「長助親分が、ここで典庵の話をしただろう。あの時、柏木村の娘がいやな癖のある男の嫁にされて、身投げまでしたが助かって実家へ帰ったと……」
「それだけで、おたかさんとおみつさんを姉妹だとお思いになったんですか」
「そういうわけじゃないが、おたかという娘が、いやに典庵の立場にこだわっていただろう。つまり、辰巳屋のような乱暴者が、とんでもない嫁を典庵に世話されたとわかったら、ただではおかないだろうという点にさ」
「それがねらいだったんですね」
お吉が嬉しそうに口をはさんだ。
「かわいい悴の嫁が、弁天様みたいな美人から、お化けみたいになっちまったら、辰巳屋は恥をかかされたって、典庵を半殺しにするでしょうから……」
実際、花嫁の事件がきっかけになって、辰巳屋の子分は典庵夫婦を殺害した。
「典庵夫婦もやりすぎさ。仲人はいいが、金めあてで人を不幸にしちまっちゃあ、天罰が当ろうってもんだろうが……」
「どうやって逃げたんですか、花嫁とその叔母さんは……」
「源さんの話だと、舟が待っていたそうだよ。ということは、あらかじめ、叔母さんは柏木村の自分の亭主と連絡を取っていたんだな。源さんがみていると、その舟は女二人を乗せて神田川を上って行った。あとは長助たちが尾けて、柏木村まで行ったのさ」
「そんな手筈がついていたのに、私たちにはなにもおっしゃらないで……」
るいが睨んでみせて、東吾はその矛先《ほこさき》をかわすつもりで、とんだ失言をした。
「まあ、しかし、よかったよ。俺はあの弁天様が思いきり、自分の顔に漆を塗りたくったときいて、もしも、治らなかったら、えらいことになると心配していたんだ」
まだ子供のような年頃なのに、実に勇気があって、たいした姉さん思いだ、と調子よく喋っていた東吾が、お吉の目まぜで気がついた時には、もう遅い。
「そうでございましょうとも。おたかさんは若くて初々しくて、勇気があって……さぞかし、どなたかさんは御心配で、御心配で……」
お吉がそっと逃げ出し、東吾は途方に暮れて、あたりを見廻した。
春の宵、どこかで犬が吠えている。
長火鉢の上の鉄瓶の蓋が、ちんちんといい音を立てはじめた。
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お吉《きち》の茶碗《ちやわん》
江戸は、このところ大売出しで賑っていた。
そもそもは日本橋の白木屋が四月一日、いっせいに冬物から夏物へ品替えをするのに先立って、昨年の売れ残りの夏物の着物や帯を半値にして五日間に限って大売出しをしたのが当りに当ったのがきっかけであった。
売れ残りといったところで、すべてが新品で、越後|縮《ちぢみ》や小千谷縮《おぢやちぢみ》の上物から単《ひとえ》で着る木綿太織、真岡桟留《もおかさんとめ》、絹小紋、女物では絽や紗のような高級品から浴衣までふんだんに品数が揃《そろ》って、値段が昨年の半分となると、客が行列するのが当り前で、
「なんてったって白木屋さんですからね。大売出しといっても、悪い品物なんぞ金輪際、まじっていない、正真正銘の大安売りなんです。これ以上のお買い得はありませんよ」
とお吉が鼻をうごめかす大奉仕ぶりが瓦版にもなり、
「白木屋さんがおやりなさるなら、うちでも……」
と本町通りの呉服屋が火のついたようになった。
このところ、世上不穏で不景気風が吹きまくって、金も品物も動きが鈍いのにあせり出していた商人にしてみれば、多少、利は薄くとも、それがきっかけで商いにはずみがつけばなによりだと布団屋、箪笥《たんす》屋から桶屋に茶碗屋まで店をあげての大盤振舞が連日、あちこちで催されている。
大川端の旅籠《はたご》「かわせみ」で、一番、大売出しに敏感なのが、女中頭のお吉で、どこで小耳にはさんで来るのか、今日は本町通りの鍋釜問屋、明日は富沢町で蚊帳《かや》を三十帳まで半値にするそうだ、と若い衆をお供につれて走り廻っている。
「いい加減にしなさい。いくら安いからってすりこぎばっかり十本も買って来て、華板さんが笑ってますよ。肩叩きにでもしましょうかって」
るいがいくらたしなめても馬耳東風で、今日も朝からどこやらへ出かけて行ったかと思うと、やがて長寿庵の長助が、
「あいすみません。こいつをお吉さんにことづかりましたんで……」
大きな木箱を大八車に積んで若い衆にひかせて「かわせみ」へやって来た。
ちょうど縁側で爪を切っていた東吾が出て行って男三人で木箱を庭へ運び込んだ。
「えらく重いが、まさかお吉の奴、沢庵石の大安売りを買い込んだんじゃあるまいな」
東吾が笑い、長助が額の汗を拭きながら律義に答えた。
「いえ、石じゃござんせん。深川の佐賀町の骨董屋が大売出しをやって居りまして」
「石灯籠でも買ったのか」
「皿小鉢やどんぶり鉢だそうです。古物《こぶつ》ですが、滅法、いいもんなんだって、お吉さんは喜んでましたが……」
るいが冷えた麦湯を自分で運んで来た。
「申しわけありませんねえ。長助親分にまで御厄介をかけて……」
長助が慌てて、ぼんのくぼに手をやった。
「とんでもねえことで……骨董屋はあっしの店のすぐ近くで、実はあっしもその店をのぞいたもんで……」
「親分も、どんぶり鉢を買ったのか」
「蕎麦屋に、あんな高値《こうじき》などんぶり鉢は使えませんや」
懐中から紙入れにはさんだ小さな包を出した。
「お吉さんを笑えませんや。あっしもつい勧められて、こんなものを買っちまいました」
根付であった。
ぶんぶく茶釜の中から狸が顔だけ出している。
「こいつはいいや」
「かわいいじゃありませんか。これなら、いい買い物ですよ」
東吾とるいに賞《ほ》められて、長助がしきりにぼんのくぼへ手をやっている最中に、お吉が帰って来た。大きな風呂敷包を下げている。
「どうもすみません。おかげで助かりました」
と長助に礼をいい、
「本当は足袋の安売りがあるって聞いたもんですから深川まで行ったんですけど、ついでに骨董屋の大売出しにぶつかっちまいましてね。九谷のいいお皿が、まあ、二束三文みたいなお値段で、なんでも西国のほうのお大名の下屋敷から出たものなんだそうですよ」
庭に運び込んである木箱を縁側へ上げてもらって、いそいそと蓋を取った。
赤絵の大きな鉢に、揃いの皿が十枚、それに染付の小鉢が十客。
「これは、若先生が御酒を召し上る時にいいかと思いまして……」
唐津焼らしい徳利と盃まで、一つ一つ丁寧に布にくるみ、桐の箱に入っている。その他に紙にくるんで、はんぱものの茶碗だの土瓶だの、
「これ全部で一両なんですよ」
得意そうにお吉が胸を張った。
「一両なんて、そんなお金、どうしたの」
るいが慌《あわ》て、
「まだ払っていないんですよ。骨董屋の御主人が、大川端のかわせみならあとで届けてくれればいいって……ですから一両、頂戴したいんですけれど……」
お吉はそこで少しばかり小さくなった。
主人に無断で一両の買い物をしたのを申しわけながっている風情である。
「困った人だこと、お金も払わず、品物をもらって来るなんて……」
るいが眉を寄せ、東吾がお吉に助け舟を出した。
「神棚に俺の給金がのっているだろう。そこから一両出すといい」
講武所の教授料は本来、扶持《ふち》米だが、あらかじめ切手を札差に渡して金に代える手続きを、東吾は畝源三郎の妻のお千絵の実家にまかせていた。月割にしていくらでもないが、お吉の買い物ぐらいでは驚かない。
「ありがとうございます」
お吉が盛大に頭を下げ、るいは苦笑しながら、東吾のいう通りにした。
その一両はついでだからと長助があずかって骨董屋へ支払ってくれることになり、お吉は木箱を台所へ運んでもらって、今度は板前たちにやきものの講釈をしている。
「あきれたものですよ」
長火鉢の鉄瓶に水を入れに台所へ行ったるいが戻って来て東吾にいいつけた。
「木箱にいろいろがらくたをつめておいて、どれでも一箱一両で売っているんですって」
九谷なぞといっても、あれで一両ではたいした品ではなかろうと眉をひそめる。
「一両あれば、お米が二俵は買えるのですから……」
東吾のほうは大様《おおよう》だった。
「いいではないか、お吉がよかれと思って買って来たんだ。唐津焼の徳利なんぞ、なかなか面白かった」
「あなたは、お吉に甘いから……」
だが、るいは気がついていた。お吉にしろ、番頭の嘉助にせよ、もともとはるいの家の奉公人であった。長年、るいに忠義を尽してくれている者の、ちょいとしたしくじりをとがめもせず、必ず、かばう立場に廻る東吾の気持の中には、るいが夫によけいな気をつかわないようにと、温かな思いやりがあるからなのだ。
で、お吉が一つの古ぼけた茶碗をもって来て、
「これ、さっきの箱に入っていたはんぱものなんですけれど、あたしが頂いてもよろしいでしょうか」
といって来た時、笑いながら、
「いいですとも。好きになさい」
と返事をした。
お吉がそそっかしくて、よく自分の飯茶碗を割るのを知っていたからである。
その茶碗は、本来は茶の湯に使うために作られたのかも知れなかった。
いわゆる飯茶碗よりは大ぶりで、糸底もゆったりしている。
淡い褐色の地肌に細かいひびが文様のように入っているのが、古いだけに貧乏くさくみえる。
茶碗の柄は朱色で細い注連縄《しめなわ》がぐるりと廻っていて、それに緑色の葉のようなものが下っているだけのさっぱりしたものであった。
華美では勿論ないし、高級なふうでもない。
だが、お吉はその茶碗をきれいに洗って飯をよそい、時には味噌汁などをかけて、嬉しそうに食べていた。茶碗の地肌の柔かい感じが気に入っている。
それから三日後、小雨の中を長助がやって来た。
八丁堀の組屋敷へ行った帰りだという。
「実は、お吉さんが買い物をした骨董屋に賊が入りまして……」
さきおとついのことだと聞いて、東吾が飲みかけの盃を眺めた。
「すると、こいつをお吉が買って来た日じゃないのか」
「その夜でございます。もっとも、みつかったのは翌日の朝になってからで……」
午《ひる》すぎになっても骨董屋の店が開かず、人の気配もしないので、不審に思った近所の者が勝手口から声をかけた。
「返事のない代りに、戸口に桟が下りて居りませんで、おそるおそる開けてみたら、家の中、といっても勝手口を入ったところでしたが、主人の勝助さんが胸を刺されて死んで居りまして……」
ひえっ、と声を上げたのは、長助のために茶碗酒を運んで来たお吉で、
「あの御主人が殺されたんですか」
信じられないとべったり腰を落した。
「知らせがあって、近所ですから、あっしが一番にかけつけたんですが、家の中はそう荒した様子がなく、ただ、帳場格子のところに銭箱がからっぽになって放り出されて居りましたんで……」
「骨董屋は、独り暮しか」
「へえ、川越のほうに女房子がいるそうですが、まだ江戸へは呼んで居りませんで、勝助の話では、迷っていたようでございます」
茶碗の酒を一口飲んで、長助が続けた。
「もともと、あそこの骨董屋の主人は伝兵衛と申しまして、四十を過ぎているのに独り者でございました。少々、変った人柄でして、あまり近所づきあいも致しません。奉公人も面倒がっておいて居りませんで、当人が出かける時には店を閉めて行くといった按配で」
時折、同業らしい男が顔を出すくらいで、たまに冷やかし半分の客が入っても、主人が無愛想なので、早々に逃げ出してしまうらしい。
「伝兵衛が家主に話したそうですが、いいお得意先がかなりあって、そちらの注文の品やお好みのものを、仲間内から探し出して届けるだけでけっこう金になるんだとか、ふりの客はまるっきりあてにしていねえとのことでした」
それは大方の骨董屋に共通したことで、いい品物を入手すると、これはどこそこへ持って行けば必ず買ってくれるという、いわゆる骨董好きの金持の客を何人も持っていないと商売が成り立たない。
無論、一見《いちげん》の客を相手にすることもあるが、それは一年の売り上げの中の微々たるものであった。
「その伝兵衛なんですが、ちょうど一カ月ほど前に卒中で歿《なくな》りました」
裏の共同井戸で米を研《と》いでいるうちにぶっ倒れて、
「糊屋の婆さんが仰天して医者を呼んで来たんですが、大きな鼾《いびき》をかいたまま、その夜のうちに歿りまして……」
家主が伝兵衛から生前、実家は川越のどこそこで弟の勝助というのが百姓をしているときいていたので、早速、そこへ知らせてやった。で、その弟が川越から出て来て伝兵衛のとむらいをし、とりあえず商売を受け継ごうと思ったらしいが、
「まあ、田舎の人ですし、骨董のことなんぞろくにわからねえようで、暫《しばら》くはうろうろして居りましたが、結局、品物を処分して田舎へ帰る気になったんじゃありませんか」
今度の大売出しは、そのためだろうと長助は考えている。
「しかし、骨董屋のような場合、店を閉める際は同業者に品物をひき取ってもらうものではないのか」
がらくたのように、一箱いくらで安売りをするというのが、東吾は合点が行かなかった。
「あっしにはよくわかりませんが、あの店には、けっこうろくでもないものもおいてありましたんで……」
なんにしても、もう川越から女房なり親戚なりが着く頃だと、長助は一杯の茶碗酒を飲み干して雨の中を帰った。
暫く、東吾は考え込んでいた。
そういう時は下手に話しかけても上の空の返事しか戻って来ないのを知っているるいは黙って針仕事をしていた。
翌朝、雨は上っている。
講武所の稽古のない日だが、東吾はいつもと同じに起きて木剣の素振りをし、朝餉《あさげ》が終ると、
「深川まで行って来る」
珍しく着流しで、まだ湿っている大川沿いの道をすたすたと永代橋へ歩いて行った。
長寿庵へ寄ってみると、
「親父は、骨董屋へ行って居ります」
釜場で働いていた長助の悴《せがれ》が、丁寧に挨拶をしてから告げた。自分が案内するというのを断って、東吾は教えられたように道を横切った。
三河屋という酒屋の角をまがる。
驚いたことに、骨董屋は袋小路の突き当りであった。
およそ、店を出すような場所ではない。
右隣は空地、左隣はお稲荷さんの境内である。
骨董屋の裏は大川へ流れ込む掘割であった。岸辺に漁師の舟だろう、かなり古ぼけたのがもやってある。
店の前に立つと、家の中から長助がとび出して来た。他に人の姿はみえない。
「昨夜、川越から勝助の女房のおせいと申しますのと、おせいの兄の喜作といいますのが到着致しまして、今はその先の寺へ経を読んでもらいに行って居ります」
無人の家に長助がいたのは、
「なにか見落したものはねえかと思いまして」
昨夜の話では、この店の品物を片付けてから、勝助の遺骨を持って川越へ帰るということなので、
「なにせ、下手人も挙がって居りませんことですから……」
店の様子が変らないうちにもう一度、家の内を見ておこうと思ったという。
「成程、骨董屋というより古道具屋だな」
店を眺めて東吾が苦笑するように、土間にはろくなものが並んではいない。
浦島太郎が亀に乗っている置物や、高砂の松の掛け物だの、福の神の木彫、古ぼけた碁盤、埃まみれの壺、水盤、使えそうもない古箪笥、屏風、火鉢。
「少々、上等のものは店の奥の押入れに入って居りまして……」
長助がその襖《ふすま》を開けると、皿小鉢を入れてあるような木箱が雑然と積み上げてある。
「これをみんな大売出しで、売ろうってのはえらいことで……」
「売出しはよく売れたのか」
東吾が訊き、長助が手を振った。
「とても白木屋の大売出しのようには行きませんで……まあ、二日で五、六人も客があったら上等だったろうと思います」
それも噂を聞いて、この近所の者がのぞきに来たもので、
「たいしたものが売れたとも思えません」
実際、一箱一両の札のついたのが、土間に六個も残っていた。
「ああいうのが十個ほど店の前に並べてありまして、その中の一つをお吉さんがお買いになったんです」
売れたのは、お吉の買ったのを含めて四個ということになる。
「銭箱に入っていたのは四両、その他に少々売り上げがあったとしても十両にはなっていないだろうな」
「まあ、そんなところで……」
十両を盗むために、賊は勝助を殺している。
「勝助というのは元気な男か。力自慢とか、賊にむかって行きそうな気の強い奴だったのか」
そんなことはございません、と長助が答えた。
「田舎で野良仕事をして居りますから、体はしっかりして居りましたが、とても賊に手むかい出来るような男ではなかったと思います」
「普通なら縛り上げて金だけ盗《と》って行きそうなものだな」
この店に、勝助が一人だった。
「ですが、この節、盗っ人の手口もだんだんと荒っぽくなりまして……」
手当り次第に人を殺すというのも珍しくはなくなった。
「そりゃそうなんだが……」
長助と家の中を一通り見て廻った。
平家で、土間のある店の奥が六畳間、その隣に同じような部屋がもう一つあって、物置にでも使っていたらしい三畳の板敷、あとは台所と雪隠《せつちん》という間取りであった。
「骨董屋になる前は、大工の親子が住んでいたそうですが、悴のほうが足場から落ちて死んじまって、親はがっかりして生れ故郷の房州へ帰っちまったときいています」
「それは、いつ頃の話だ」
「十年は経ってねえ筈で……」
「それから、伝兵衛というのが店をはじめたのだな」
「へえ」
近所なので、長助の返事には自信がある。
「伝兵衛は最初から独り暮しか」
「そうです。あんまり女が出入りするって話も聞きませんでした」
独り者の中年男の家に女がちらつけば、すぐ近所の評判になる。
店を出て、東吾が長助に訊いた。
「深川|界隈《かいわい》で、骨董屋というと、どこだ」
「この近所でしたら、門前仲町の彩古堂がまあ老舗《しにせ》ですが……」
「そこへ行こう」
表通りへ出て、富岡八幡へ向うと左側に彩古堂と看板のある店がある。
これは、さっきの袋小路の奥の古道具屋とは違って、かなりの高級品もおいてありそうな骨董屋であった。
店には主人の伊左衛門というのが、手代を相手に時代物らしい双六盤《すごろくばん》を磨いていた。
佐賀町の路地奥の骨董屋を知っているか、と東吾が訊ね、伊左衛門が、
「おつき合いはございませんが……」
と応じた。
「それは、先代の伝兵衛のことか」
「はい、伝兵衛さんが歿って弟さんが店の後始末に出て来られたとか」
「その勝助が賊に殺されたよ」
伊左衛門がうなずいた。
「聞いて居ります。とんだことで……」
「勝助は、店じまいをすることについて、ここへ相談に来なかったか」
「おみえになりました」
「来たのか」
東吾が嬉しそうな顔をした。
「そこんところを、話してもらえないか」
「へえ」
伊左衛門は僅かばかりの間思い出すように視線を宙に上げていたが、
「今月に入って間もなくでございましたが、勝助さんが突然、手前どもへお出《い》でになり、自分は佐賀町で骨董屋をしていた伝兵衛の弟だと名乗られました」
長いこと、音信不通同然だった兄が死んで川越から出て来たが、とても自分にああいう商売はやって行けそうもない。店を閉めたいので、
「品物をみてもらえないか、とおっしゃいます。ですが、お断り申しました」
「どうせ、がらくたばかりで見ても仕方がないと思ったのか」
伊左衛門は黙り込み、その様子をみていた東吾がいった。
「ひょっとして、伝兵衛の店で扱っていたのは盗品ではなかったのか」
はじかれたように伊左衛門が顔を上げた。
「やはり、左様でございましたか」
「あんた方の仲間内で、伝兵衛が故買品を扱っていると噂があったのだな」
東吾にたたみかけられて、伊左衛門は已《や》むなくといった表情で話した。
「噂というほどのものではございませんでしたが、扱っているものの出所が一つ、はっきりしないようだとか」
盗品をそれと承知で売るのは重罪であった。
「真偽のほどは存じませんが、多少なりとも悪い噂のあった店のものをみたり、或いは買ったりするのは避けようと思いまして……」
「しかし、あいつの店の土間に飾ってあったのは、ろくでもないがらくたばっかりだったぞ」
「もしも、万に一つ、伝兵衛さんとおっしゃる方が後暗いことをなすっていらしたとしたら、店はそのようにとりつくろっていただろうと存じます」
「目くらましか」
「はい。それに、まさか、盗品を店に飾るわけには参りませんから……」
「そりゃあそうだな」
盗品を売りさばく仲間は、あらかじめ、自分の客が、
「李朝の壺が欲しい」
というと、それを仲間内から探してくる。
大体、収集家が大金を積んでも手に入れたいと思うものは、すでに決った持ち主があるので、その持ち主が金に困って売りに出すか、或いは賊に盗まれるかしなければ、まず手に入ることはない。
その点を承知の上で、収集家はもし、自分のものになるなら、少々、後暗い相手からでも買ってしまう。
骨董好きがしばしば踏み込む落し穴でもあった。
窩主買《けいずか》いと呼ばれる盗品の売買をする連中は、そうした収集家を得意先に持っていて、闇から闇への取引をしていた。
「驚きました。あの伝兵衛が窩主買いだったとは……」
彩古堂を出て、長助が冷や汗を拭いた。
「近くにいながら、まるで気がつきませんで、全く情ねえ話です」
がっくりしている長助をみて東吾が笑った。
「わからなくって当り前さ。ああいう連中はまず滅多なことでは尻尾を出さねえ」
「若先生は、どうしてお気がつかれましたんで……」
「あてずっぽうさ」
伝兵衛が急死して、弟の勝助が川越から出て来た。江戸に知り合いのない男である。
「仮に呉服屋が店を閉めようと思ったら大安売りをするか、同業者に安くひき取ってもらうかだろう」
勝助は近くの骨董屋、彩古堂を訪ねて相談したが、伊左衛門は相手にならなかった。だから手当り次第に店の品物を十把一からげにして一箱一両で売りに出した。
「お吉が買って来たのをみた時、ちょっと変な気がしたんだ。俺は骨董のことなんぞ知らないが、それでも一箱に入っているものが、滅茶苦茶なのはわかった」
高級品と安物を組合せるにしても、
「或る程度のきまりがあるだろう」
祭の夜店で子供が買うような手遊《てすさ》びと名のある職人が精魂こめて作った細工物を抱き合せにすることはないと東吾はいった。
「だが、お吉の買って来た箱の中は、そういう感じだったんだ。つまり、まるっきりの素人がわけもわからず適当に箱の中に突っ込んだ」
勝助が川越の百姓なら当然だが、いくらものを知らないといっても、いきなりそんな真似はするまい。必ず、同業者のところへ話を持って行く筈だ。
「とまあ、話がこれでぐるりと元へ戻るわけだが、話を持ちかけられた同業者にしてみれば、うまい話じゃないのか。売り手は骨董のことなんぞなんにも知りはしない。店先においてあるものががらくたにせよ、奥にはもう少し上物があるかも知れない。それを買い叩けばどれほど儲けがあるのか、商売人なら当然、欲が出るだろう。ところが、彩古堂の主人は、にべもなく断っている。それは何故かと考えりゃあ、当然、答えが出て来るじゃないか」
長助がうなった。
「勝助は、兄貴が故買人だとは知らなかったわけで……」
「長年、音信不通だったというんだろう」
「そうするってえと、勝助を殺したのは……」
「おそらく、故買人仲間だろう」
「なんだって、そんなことを……」
「一つは、勝助がわけもわからず大売出しをはじめた。その中には骨董好きにはこたえられないたいそうな品が入っていたのかも知れない。それに気がついて奴らは仰天した。売られたものから足がつく危険もある」
長助はあの店に帳簿がなかったのに気がついたかと東吾はいった。
「商人の店に、帳簿はつきものだ。骨董屋なら、どこから入手し、どこへ売ったか、心おぼえに書きとめておくだろう」
帳場格子のところにも、机の中にも、押入れにも、
「帳簿らしいものは見当らなかった」
長助が頭を下げた。
「たしかにおっしゃる通りで……」
「勝助が殺害された晩、奴らが持ち去ったのは、伝兵衛の帳簿だ。もしかすると手控えのようなものかも知れない」
それを見れば、故買人仲間の正体がばれる。
「荒っぽい手口からして、そいつらは盗賊かも知れないな」
骨董品をねらって大名屋敷を荒らす盗賊が跳梁《ちようりよう》しているという話を聞いていると東吾はいった。
「何年もそいつらが捕らないのは、盗みに入られた武家屋敷のほうで、体面を重んじるせいで届け出ないからなんだ」
侍の家に賊が入られただけでも恥辱なのに、盗まれたものが先祖代々の由緒のあるもの、将軍家から先祖が拝領したものだったりすると、家名にかかわるどころか、下手をすると当主がお上からおとがめを受ける。で、ひたかくしにかくすから、町方としては探索のやりにくいこと、この上もない。
「その話は、畝の旦那にお聞きしたことがございます」
長助が俄然、勢込《いきおいこ》んだ。
「勝助を殺したのが、その一味なら……」
「とっつかまえるには二度とない機会だぜ」
勝助を殺した連中がこのまま、ひっ込むかと東吾は考えていた。
「あの店の押入れには、何百両、いや、何千両もするかも知れない代物ががらくた同然にしまってあるんだ」
彼らも慌てていたのだろうと東吾はいった。
「この前は、勝助を殺している。自分達にかかわりのある帳簿だのなんだのを探して持ち出すのがせい一杯だったのかも知れない」
押入れの中が雑然としていたのは、おそらく勝助が滅茶苦茶に手をつけたからで、大売出しのために、高級品もがらくたも一緒にしてしまった。
「そんな中から金目の品をえらび出して持ち出すにはえらく時間がかかる。奴らとしては出直してくるより仕方がない」
「出直して来ましょうか」
「盗っ人は欲が深いからな」
勝助の女房と、その兄は今後どうするのだと東吾が訊いた。
「今日、野辺送りがすみますと、店の品物をまとめてとりあえず、どこかへあずけて、明日の夜舟で川越へ帰るというようなことを話していましたが……」
盗賊が襲うとすれば、今夜だろうかと長助は勇み立っている。
「とにかく、源さんに話してみよう」
長寿庵へ戻って東吾は腹ごしらえをした。
その間に長助は若い者に骨董屋を見張らせ、自分は畝源三郎を迎えに行った。
春の午下り、満腹で長寿庵の二階に行儀悪く寝そべっていると、瞼《まぶた》が重くなって来る。
「若先生、若先生」
遠慮そうな声に、東吾が目をさますと、長助の下で働いている松造というのが梯子段のところに立っている。
「すみません、骨董屋に妙な客がやって来まして……」
みたところ、商家の番頭といった恰好で、
「骨董屋が店を閉めるなら、品物をそっくりゆずってもらいたいといってます」
という。東吾は長寿庵をとび出した。
骨董屋へ行ってみると、その客はもう帰ったが、
「心配ありません。仙吉兄ぃが尾《つ》けて行きました」
その仙吉にことづけを頼まれたという三河屋の小僧が胸を張って知らせた。
「流石《さすが》、長助親分のお膝元だな」
野辺送りから戻って来ているおせいと喜作に訊いてみると、やって来た男は、京橋の古道具屋で池田屋というのの番頭で知り合いから深川佐賀町の同業が店をやめるときいて品物をゆずってもらいたいと丁寧な申し出だったらしい。
「それが、この店にありますものを、いいものも悪いものも、ひっくるめて三十両ではどうかという話で、どっちみち二束三文で手放すことになると思って居りましたので……」
おせいと喜作は願ってもないと承知した。
商談はまとまって、番頭は、店の品は自分達で仕分けをして箱づめにするから一切、手を触れないようにといい、夕刻までに金を持って出直して来ると、いそいで帰って行ったという。
長寿庵へ戻って来ると、いい具合に長助が畝源三郎と共に待っていた。
「そりゃあ東吾さん、推量通りかも知れません」
おそらく、その番頭は窩主買いの仲間か、盗賊の一味に違いなく、
「夜になって盗みに来るどころか、正々堂々、引き取りに来るところが敵ながら天晴《あつぱ》れですな」
まともな古道具屋なら、店の品物をろくにみもしないで、洗いざらいで三十両などと値はつけない。
「相手が素人の田舎者と知って、甘くみたものですな」
「残念ながら、盗賊という証拠がないんだ」
夜陰に乗じて盗みに来れば、ひっとらえることが出来るが、三十両で商談がまとまって品物を運んで行くのであってみれば、捕方の出る幕はない。
「無理に捕えて、品物の中に盗品があったとしても、手前どもは全く知りませんで、といわれたひには、吟味方も手が出せまい」
彼らが品物を取りに来る前に、骨董屋の押入れの中のものを調べることだと東吾はいった。
「源さん、伝兵衛が死ぬ前に、どこか上等の骨董を盗賊にやられた所はないのか」
「一月のなかばに、蔵前の住吉屋の別宅の蔵が荒されました」
大雪で、蔵の屋根瓦が割れて屋根職人が修理をしている間に、賊が入った。
「万に一つだ。住吉屋から盗まれた骨董にくわしい奴を呼んでくれ」
長助が自分でとび出して行き、入れかわりに仙吉が戻って来た。
番頭は間違いなく京橋の池田屋へ入ったが、
「念のために、隣町の骨董屋で池田屋の評判を聞いてみますと、どうも変り者の主人で同業のつきあいはまるでなく、なんとなく胡散《うさん》臭い感じでございました」
という報告である。
これは十中八、九と東吾も源三郎も確信したが、この際、一味を一網打尽にするには、しっかりした証拠が欲しい。
長助が住吉屋から主人と番頭を呼んで来た。
直ちに骨董屋へ行って押入れの中の木箱を片はしから開けて調べる。
表には仙吉と松造が見張りに立って、池田屋の番頭が来るのを見張っていた。
「おい、一人は川っぷちを見張れ」
東吾が気づいて指図をした。この家は裏口が掘割に向いている。
住吉屋の蔵から盗まれたものは、近江の神社の御神体だったという十一面観音の懸鏡と、古伊万里の大壺、室町時代の大日如来像、それに象牙が三本などで、それらは当時、被害届が町奉行所に出されている。
東吾にとっても、畝源三郎にとっても、長く長く感じられる時が過ぎた。
「ございました」
住吉屋の主人が大声をあげたのは、もう陽が西空へ落ちようという時で、
「これでございます。十一面観音の懸鏡、これは、この世に二つとあるものではございません」
続いて大日如来像が出て来た。
源三郎が決断し、急遽《きゆうきよ》、捕物の手配がなされた。
盗賊と窩主買いの一味は捕縛された。
京橋の池田屋の蔵からは盗品が続々と出て、その中には住吉屋から盗まれた象牙だの、古伊万里の壺もあった。
奉行所は暫くの間、押収した盗品を分別し、その持ち主を探すのにてんやわんやのさわぎになった。
なにしろ、七、八年前にさかのぼって盗まれた品まである。
「伝兵衛が、いつ頃から窩主買いの仲間になっていたのか、死人に口なしでわからないが、あの家は堀から舟で出入りが出来るだろう。いつの頃か、盗賊は盗品をまず伝兵衛の家へ運び、かくしておいて、適宜に売りさばいていたらしい」
水路なら、夜更けて町々の木戸が閉っても容易に通行が出来る。
「長助親分もびっくりしたでしょうね。自分の近所に盗っ人の巣があった上に、知らないとはいいながら、その店で根付なんぞ買っていたんですから……」
お吉が少しがっかりした顔でいるのは、自分が買って来た一箱も、そっくりお上に没収されたからで、
「本当に、ろくでもない買い物をしてすみません」
もういいからとるいがいっても、何度となく詫びをくり返している。
あと二日で五月という日に、東吾は兄に呼ばれて八丁堀の屋敷へ行った。
兄の通之進《みちのしん》は少し疲れていたようだったが、機嫌はよかった。
「お吉の買った木箱の内身《なかみ》だが、漸《ようや》く、お調べが終った」
赤絵の大鉢と揃いの皿十枚は九州の大名家の蔵から盗まれたもので、染付の小鉢は本所の旗本の所有だったとわかったらしい。
「驚くなよ。それだけで千両ほどの価《あたい》になるそうじゃ」
「お吉が知ったら、腰を抜かすでしょうな」
兄弟が顔を見合せて大笑いし、兄嫁の香苗《かなえ》がたしなめた。
「かわいそうでございますよ。お吉にしてみたら、さぞかしよい買い物と喜んで居りましたでしょうに……」
千両箱一つは消えようという骨董を一両で買って来た。
「盗品でなければ、お吉は今頃、大金持ですよ」
ところで、と通之進が小さな包を東吾の前へおいた。
「かわせみから押収した木箱の中のものは、どうやら、元の持ち主が判明したのだが、これ一つはわからぬそうじゃ。それ故、一両のかたに下げ渡してよいと決った」
池田屋にせよ、佐賀町の店にせよ、高級な骨董もあったが、いわゆる世間をごま化すためのがらくたも店においてあった。
無論、それらは盗品ではないし、奉行所としても始末に困る。
で、古道具屋を呼んで払い下げにしたらしいが、お吉のように骨董屋の大売出しで買った者はその中に盗品ではないものがあった場合、返してやることになったのだと通之進は説明した。
東吾が開けてみると、
「これは、お吉が飯茶碗に使っていた奴です」
古くさいが素朴な味のある茶碗であった。
「お吉が喜びますよ。あいつ、とても気に入って、これで大飯を食っていたんです」
いそいそと東吾はそれをもらって兄の屋敷を辞した。
だが、奉行所の人々も、通之進も東吾も知らなかった。
江戸は今川橋の橋詰に桑名の萬古焼《ばんこやき》を扱う老舗があった。
桑名に、美濃、尾張、伊勢などで作られる陶器を扱う問屋で沼波《ぬなみ》家というのがある。
今川橋詰の店は、沼波家の江戸の支店であった。
享保の昔、沼波家に一人の秀れた陶工が出現した。
沼波|弄山《ろうざん》である。
彼は当時、京でもてはやされていた尾形|乾山《けんざん》のやきものに心酔し、桑名に京風の窯《かま》を築いて独自の作品を作り出した。
この弄山のやきものには「萬古不易」の印が押してあったので、世間は萬古焼と称した。
弄山はもっぱら外国風のものに関心が深く、阿蘭陀《オランダ》から渡来した書物から外国の動物や文様を写して、やきものの図柄にしたり、阿蘭陀文字を描いたりしたので、その作品は高貴な人々の間で評判になり、大層な人気であった。
弄山の死後七十余年経った今でも、彼の作品を収集する好事家は少くない。
もしも、奉行所で萬古焼にくわしい役人がいたら、或いは判ったかも知れない。
いや、奉行所は盗品の骨董の分別に、或る程度の専門家の手をわずらわせたに違いない。
その専門家がうっかり見落すほど、その茶碗は沼波弄山らしくなかった。
あらゆる珍奇な画材を描き尽した弄山が晩年になって、もっとも日本風な注連縄に心惹かれ、童心に戻って絵付をして焼いたのが、この注連縄赤絵茶碗であった。
誰の手から誰の手へ移り、廻り廻って佐賀町の店のがらくたの中に混ったものか。
欲しいとのぞむ人なら、何十両、いや、何百両でも出そうという沼波弄山の茶碗で、お吉は今日も満足そうに飯を食べている。
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池《いけ》の端七軒町《はたしちけんちよう》
池の端七軒町の角に小さな煎餅《せんべい》屋があった。
間口一間ほどの土間の上りはなに焼きたての煎餅を木箱に並べ、その奥で老婆が手拭で汗を拭きながら、商売物の煎餅をひっくり返している。
醤油の焼ける香ばしい匂いに足を止めて、神林東吾は店をのぞいた。老婆が顔を上げて、
「お出《い》でなさいまし」
と愛想よく立って来る。
で、煎餅を二十枚ずつ二包にしてもらった。
この先の刀剣屋へ刀の手入れを頼んでおいたのを講武所の稽古の帰りに足をのばして取りに来た帰り道である。
煎餅は「かわせみ」の連中も大好きだが、八丁堀の神林家の兄嫁も好物であった。
小さな煎餅屋には老婆が一人きりらしかった。六十すぎでもあろうか。みたところ、右足が少しばかり不自由そうである。
「お婆さんは、一人暮しか」
手ぎわよく渋茶を一杯、それに売り物の煎餅を添えて東吾に勧め、自分は丁寧に煎餅を包んでいる老婆に、東吾は声をかけた。
「いえ、孫が一人居りますが、池の端仲町の料理屋へ奉公に通って居ります」
「そうか、そりゃあいいな」
老婆の返事がしっかりしていると東吾は思った。言葉の様子がこのあたりの裏店《うらだな》住いの者のようではなく、大店の内儀といってもおかしくない。
渋茶を飲み、煎餅を食べる。
思った通り、こんな小汚い店にしては抜群に旨かった。
使っている米の粉も醤油も一流の店のようである。
「こいつは上等だな」
東吾が褒めると、老婆は嬉しそうに目を細めた。
「そうおっしゃって頂くと張り合いがありますよ」
値を訊《き》くと、馬鹿に安い。
「それでは儲けになるまい」
「この辺りでは、この価《あたい》でも高いといわれますんで……」
口調が少々、愚痴っぽくなった。
「孫は、もう昔とは違うんだから、粉も醤油《おしたじ》も分相応にしろと申しますが、それじゃ、やっぱり、気がすみませんで……」
「昔は、どこに店があったのだ」
「日本橋の本町通りのほうでございましたが……とっくに人手に渡りました」
煎餅二包とひきかえに、東吾は少し余分の銭をおいて、その店を出た。
日本橋の本町通りといえば、かなりいい店だったのだろう。
小さな町の小さな店にも人の世の浮き沈みがあるものだと思いながら不忍池のふちを通って池の端仲町の番屋の前にさしかかると、番屋の障子が開いていて、畝源三郎がこっちをみて笑っている。
「珍しい所で会いましたね」
「刀屋の帰りなんだ」
番屋をのぞいた。
「なにかあったのか」
「夫婦喧嘩の仲裁ですよ。ちょうど通りかかったら、派手に出刃庖丁なんぞふり廻していましたのでね」
「危いな」
「どっちも酒に酔って正体がなかったんです。天水桶の水を一杯、浴びせたら少し目がさめたようでして……」
あとは町役人《ちようやくにん》にまかせて行くという。
源三郎が番屋から出て来ると、このあたりの岡っ引の吉松というのが送りがてらついて来る。
で、東吾は池の端七軒町の煎餅屋のことを訊いてみた。
「お源婆さんの煎餅屋でござんしょう」
あそこの煎餅は旨いが価が高いので、そうは売れないという。
「しかし、あれだけの煎餅を日本橋で買えば、倍の値がつくだろう」
「それはそうなんですが、やはり、この辺の者は茶請《ちやう》けの饅頭や煎餅にまで、なかなか銭が廻りませんから……」
「土地柄ですよ」
と源三郎も笑った。
「本町通りの商家の小僧は、駄賃で買い食いする茶菓子が上等だから、口がおごって仕方がないといいますからね」
「お源婆さんは、もともと日本橋ですから」
と吉松がいった。
「本町通りでかなり大きな煎餅屋の店を親代々持っていて、何不自由ないお内儀《かみ》さんだったといいます」
「店が人手に渡ったっていってたよ」
「あの婆さんの悴《せがれ》が、なにかの相場に手を出してしくじったとか聞いてますが……」
「孫がいるそうだな」
「そこの池の端仲町の大黒屋で働いています。しっかり者でいい娘ですが、どうも、婆さんとは喧嘩ばかりしているようで。まあ、もっとも、それなりの理由はあるんですがね」
湯島のほうへ行く源三郎と、東吾は広小路のところで別れた。
八丁堀まで戻って来て、兄の屋敷へ寄り、兄嫁の香苗に煎餅の包を一つ渡し、冠木門《かぶきもん》を出て来た所で、ばったり源太郎に出会った。
畝源三郎の一人息子である。
素読《そどく》の稽古に行った帰りだといわれて、東吾はつい、もう一つの煎餅の包を源太郎に渡した。
「母上にお見せしてから頂きます。ありがとうございます」
嬉しそうにかけ出して行くのを見送って、東吾は大川端へ帰って来た。
別に煎餅の話をしなくてもよかったのだが、話のついでに一通り喋って、
「そういうわけで家への土産がなくなったが、そのうち、またむこうへ廻って買って来てやるよ」
とるいとお吉に約束した。
実際、そのつもりだったのである。
けれども、講武所の帰りに池の端七軒町まで足をのばす機会はなかなか来なかった。
この前は刀屋へ行ったついでだったのである。たかが煎餅を買うだけで、かなりな廻り道をする気はない。
で、三日四日と過ぎて、
「若先生、このお煎餅でございますか」
講武所から帰って着替えをしている東吾へ、お吉が得意そうに鉢に盛った煎餅を持って来て披露した。
「なんだ。わざわざ買いに行ったのか」
と東吾が笑い、
「あなたがそのうち、買って来て下さるからと申しましたのに、お吉はせっかちで……」
るいがいいわけした。が、お吉は、
「そう申してはなんですが、若先生がわざわざ買いにお出でなさるような店ではございませんよ。お煎餅は安くておいしゅうございますから、これからついでのある時に寄って買って参ります」
まあ、召し上って下さい、と勧められて東吾は一枚を取り上げた。
「あの婆さん、元気だったか」
「お源さんですか。それが、あたしが行きました時、孫娘のおひささんというのに、こっぴどく叱られていましてね」
その話を東吾にいいつけたくて、うずうずしていたようである。心得て、東吾がうながした。
「いったい、孫はなんだって婆さんを叱ったんだ」
「なんでも、おひささんが家へ帰って来たら、お源さんが店を留守にしていたらしいんです。すぐ近所へ縫い物を頼みに行って来たそうなんですけど、火を扱う商売だから、留守にする時は、きちんと灰をかけて行かなけりゃいけない、火事にでもなったらどうする気だ、と。そりゃまあ、その通りですが、なにも年とった人を、ああ、ぎゃんぎゃん頭ごなしに叱りつけることはないと思いますよ。とにかくお煎餅を買おうってお客が入って来ているのに、油紙に火がついたようにどなりつけてるんです」
るいが傍からとりなした。
「でも、若い娘さんにしてみたら、年をとったお祖母《ばあ》さんのなさることが、危っかしくみえるんでしょうし、いくら、きついことをいったって孫のことですもの、お源さんにしてみたら、なんとも思わないんじゃありませんか」
血の続いた母子、姉妹は遠慮がない分、喧嘩が激しいが、なにをいってもいわれても、すぐけろりとして、後くされのないものだとるいはいった。
「そりゃそうかも知れませんけれど、おひささんが奉公先へ戻ってから、お源さん、泣いていましたよ。年のせいか、孫にきつくいわれるのが年々、身にこたえるって……」
煎餅を一枚食べ、茶を飲んで、東吾はちょっと考えた。
「どんな娘なんだ、おひさってのは……」
「器量は十人並かも知れませんが、若い女がああ口汚く罵ってるのを聞いたら、誰でも愛想を尽かしますよ」
「婆さんのほうは、いい返さないのか」
「いわれっぱなしです。お源さんがいってましたけど、あの子にどんなことをいわれても、自分が悪かったのだから仕方がないって」
「なにが悪かったんだ」
「この前、若先生もおっしゃってましたけど、お源さんっていうのは本町通りの大きな煎餅屋の一人娘で、御養子さんを貰ったんだそうですけど、男の子が一人出来たところで、おつれあいが若死にしてしまったんです」
主人夫婦の居間に、でんと腰をすえて、お吉は自分の聞いて来たことを全部、聞いてもらわないうちは、到底、御輿《みこし》を上げようとはしない。
るいはもともと、自分の奉公人という気持があるので、東吾の手前、はらはらしているが、東吾は馴れていて、むしろ、聞き上手であった。
「そうするってえと、あの婆さんはけっこう若くて後家さんになっちまったわけだ」
お吉がここぞとうなずいた。
「女手一つで子供を育てたら、どうしたって甘くなりますよ。かけがえのない一人っ子なんですから……」
「下谷《したや》の岡っ引の、吉松親分というのがいっていたよ。お源婆さんの悴が店を潰しちまったんだと……」
「悪い取り巻きがいたんだって、お源さんがいってましたよ。お人よしなんで、人の口車に乗せられて、相場に手を出したんだそうです」
「その悴は、どうしたんだ」
お吉が大きな歎息をついた。
「気の弱い人だったんですかねえ。首をくくって死んじまったんですと」
流石《さすが》に東吾は絶句し、二枚目の煎餅を眺めた。
「悴の嫁さんはどうした」
気をとり直して訊いた。
「生れたばかりのおひささんを残して、実家へ帰ったそうです。親御さんが二十にもならないのに後家を通させるのは、あんまりかわいそうだってんで、一年ほどして品川のほうへ嫁入りしたっていいます」
「おひさは、婆さんが育てたのか」
「ええ、そうなんです。本町通りの店を処分して借金を返し、少しは残ったので、そのお金でおひささんを育て上げたとか。でも、おひささんは二言目にはお祖母さんがお父つぁんを甘く育てたから、こんなことになったんだと責めるらしいです」
「理屈はそうだがな」
「気の毒ですよ。あの年で細々とお煎餅を焼いて、手塩にかけた孫には邪慳《じやけん》にされて……」
すっかりお源に同情したお吉は、しきりに鼻をつまらせている。
「まあ、せいぜい、煎餅を買いに行って慰めてやることだな」
長話に東吾がきりをつけ、お吉は漸《ようや》く重い腰を上げて居間から出て行った。
「お吉はお婆さんの肩を持っていますけれど、おひささんという娘さんにしたら、つらいこと、悲しいことも多いんでしょうし、つい、甘えが出て、お祖母さんに八ツ当りしているのかも知れませんね」
とるいがいい、
「どっちにしたって他人の家のことなんだ。はたからみて、あれこれいってもはじまらないな」
東吾も苦笑して、その話はそれきりになった。
江戸は梅雨に入っていた。
連日、針のような細い雨が降り続き、大川の景色も煙ったままで気温もぐんと下った。
その日、東吾は講武所の教授方の寄合に列席し、正午前に終って、そのまま、神田川を越えて湯島のほうへ廻り道をした。
いい具合に雨が上って、雲の切れ間から陽がさして来た。
傘をつぼめて妻恋坂を下りて来ると、その先の番屋の前で町役人らしい男と立ち話をしているのが吉松であった。
むこうも東吾に気がついて走って来て挨拶をした。
「なんだか、鹿爪らしい話だったようだな」
難しい顔付で町役人が去って行くのを見送って東吾が訊くと、
「お上から女髪結はいけねえというお触れが出ましたので……」
という。
昨年あたりから、幕閣に諸事倹約を奨励する気風がきびしくなって来て、さまざまの禁止令が出ている。
「今度は、女髪結か」
「そうなんで……」
なんとなく東吾について歩き出しながら、吉松は気の重い顔をしている。
「旦那方のお話ですと、江戸だけで女髪結は千四、五百人はいるだろうってことでござんして、その中には亭主が病気で女房が髪結でなんとか暮している者も居りますし、女手一つで親を養っている者も、あっしは知って居ります」
突然、仕事をしてはならないといわれて、その女たちがこの先、どうやって生計を立てるのか。
「お上のなさることに苦情を申せた義理じゃございませんが、どうも気の毒なことでして……」
昨年は、麦湯を売る女たちが取り締りに遭《あ》った。
夏の夜、小さな掛け行灯に「むぎゆ」と書いたのを屋台の上に立てて、夕涼みの客に冷たい麦湯を売る女たちの姿は、それなりに風情があったものだが、それがお上から禁止された。
「別に女髪結をなくしたって、世の中が景気よくなろうってものじゃあるまいにな」
東吾が憮然として呟《つぶや》いたのは、いつの時代でも諸事倹約の皺よせを食うのは、その日暮しの庶民たちで、金持はお上の目の届かないところで舌を出しているのを知っているせいであった。
「ところで、七軒町の煎餅屋の婆さんは変りないか」
思い出して訊ねたのは、最初の中《うち》、お源に同情して、せっせと煎餅を買いに行っていたお吉が、長雨になってふっつり御無沙汰だったからである。
それでなくとも、大川端から池の端まではかなりの距離であった。
「そいつが、ちょいとばかり厄介なことをしでかしましてね」
「なに……」
「不忍池に、どんぶらことやらかしかけましたんで……」
蕎麦屋をみつけて、東吾は吉松を誘った。腹もすいていたし、吉松の話も聞きたかった。
吉松は恐縮しながらついて来る。
酒と蕎麦を注文して、東吾は改めて訊いた。
「お源が身投げをしたというのか」
「へえ、幸い、あっしが通りかかりまして、慌ててひっぱり上げました」
場所は不忍池の西北、喜連川左馬頭《きつれがわさまのかみ》の上屋敷の横のあたりで、
「あっしは若い者を連れて、根津の近くまで行った帰りでした」
根津の娼家に揉め事があって出むいたのだと、多少、得意そうにいう。
「そいつはお手柄だったな」
東吾の言葉に、吉松は調子にのって喋った。
「全く、もうちょっと遅けりゃ、あの婆さんは土左衛門でさあ」
不忍池は底が沼のようになっていて、沈んだら最後、とび込んで助けるのが難しい。
「大方は舟を出しまして、竿で突っつき廻して探すんですが、まず助かりません」
酒が来た。東吾に酌をしてもらって、吉松は押し頂いて飲んだ。
「手酌で好きにやってくれ。俺も勝手にするから……」
寄合では茶も出ないしきたりなので、酒が旨かった。
「煎餅屋は、なんで、身投げなんぞしようとしたんだ」
蕎麦の合いの手に二、三杯、盃を干して訊いた。
「まさか、孫娘と喧嘩をして、腹立ちまぎれにってわけじゃあるまい」
吉松が盃をおいた手で自分の額を叩いた。
「それがまあ、そうしたもんでしたんです」
「狂言身投げだったのか」
孫娘へあてつけかと思った。
「あっしのみた限りでは本気だったようです」
沢庵石を抱いてとび込もうとしていたし、止めようとする吉松に必死で反抗した。
「とにかく手を焼きました。あっしも若い奴も、あっちこっち、ひっかき傷だらけにされまして……」
「ただの口喧嘩じゃなかったんだな」
「根は深いようですが……」
きっかけは、おひさの恋人が、別の女と夫婦になったことだといった。
「大黒屋の板前で伊之吉と申しますのが、その色男で、おひさとは一年越しの仲で、大黒屋でも大方が知っていたそうです」
いずれは夫婦になるのだろうと思っていたのが、
「神田佐久間町に蓬莱屋という料理屋があるんですが、そこの一人娘のおかねの聟《むこ》になっちまったんです」
盃を干して、吐息をついた。
「あっしも、お源を助けたいきがかりで、大黒屋でいろいろ訊いてみたんですが、伊之吉の兄に当るのが、同じ神田佐久間町で小さいが、よくはやっている一膳飯屋を出しているんです。蓬莱屋との話は、その兄貴が持って来たものだそうで……」
おかねというのは十七で、美人ではないがおっとりと育った素人娘で、気立ても悪くない。
「伊之吉にしてみたら、またとない出世だろうと思います」
「それで、おひさを袖にしたのか」
「かわいそうですが、年寄を抱えた年増じゃ勝負にならねえでしょう」
「男の風上にもおけねえな」
「近頃の若い者は、はっきりしてますから。それに、伊之吉のほうでは、別におひさと夫婦約束をしたわけじゃねえといっています」
酒を二本、蕎麦を食べ終えて、東吾は店を出たところで吉松と別れた。
足はそのまま池の端七軒町に向う。
煎餅屋をのぞいてみると、お源の代りに若い女が洗いものを畳んでいる。
「すみません。祖母ちゃんが風邪で、お煎餅はありません」
東吾をみて、すまなさそうに頭を下げた。
小柄で色は浅黒いが、ひきしまったいい顔をしている。
「あんたがおひささんか」
店へ入ると、娘は勝ち気そうな目で、じっと東吾をみた。
「そうですけど……」
「大黒屋はやめたのか」
おひさが笑った。
「やめるわけないでしょう。やめたら、おまんまの食い上げだ」
「それじゃ、祖母さんの看病で休んでいるんだな」
「暇な時間に帰って来ただけですよ。祖母ちゃんの晩餉の支度もあるし、また、くよくよ考え込まれると困るし……」
お客さんは、と、少しばかり底意地の悪い表情になった。
「どこかで、つまらないこと聞いて来なすったんですか」
「俺は一カ月ほど前に、ここで煎餅を買ったんだ。あんまり旨いんで、今日、寄り道しようとして、近くで知り合いに会ってね」
「あたしの話を聞いたんですね。この界隈《かいわい》じゃ、その噂でもちきりですよ。恩知らずの孫娘が祖母さんをいじめて、身投げするところまで追いつめたって……なにせ、祖母ちゃんを助けた吉松親分が自慢たらたら喋りまくるんだから、神田のむこうまで評判なんですとさ」
「しかし、祖母さんは思いつめたんだろう」
「祖母ちゃんのせいじゃないって、さんざんいったんですよ。今更、なにをいっても負け犬が吠えてるみたいですけどね。あたしは伊之吉と夫婦にならなくてよかったと思ってますよ。女が本気で惚れてるのに、年寄がついてるからって夫婦になるのを一日のばしにするような男、こっちから熨斗《のし》をつけてくれてやりますって……」
「本気で惚れてたのか」
「馬鹿ですからね。あたしは……夢がさめるまでは夢をみていたってことですかね」
「思いきりはついたのか」
「つかなきゃ、祖母ちゃんがかわいそうですよ。それでなくたって、鬼娘は年中、ぎゃんぎゃん叱言《こごと》ばっかりいってるのに……」
「お前なあ」
上りかまちに腰を下して、東吾はふてくされているようなおひさを眺めた。
「お節介だろうが、もう少し、祖母さんに優しくしてやれよ。いや、お前のお腹《なか》が優しいのはよくわかった。だから、口も優しくしてやることだ。年寄の気持ってのは、お前が考えてるより寂しいものなんだぜ」
「あたしの気持はどうなんです」
低いが、鋭い声であった。
「働き先で、誰が何をいおうと、はいはいと笑って、お客さんに愛敬をふりまき、一日中、体の節々が痛くなるまで奉公して、ここへ帰って来て、また、祖母ちゃんに猫なで声を出すんですか。それこそ、こっちが不忍池へとび込みたくなっちまう」
まるで、そこにお源がいるみたいに目を光らせた。
「祖母ちゃんがいけないんだ。迷惑をかけるのも、たいがいにしてもらいたいよ。自分が身投げをしたら、あたしの立場がどうなるか。いい年をしてなんにもわからない人なんだから……甘ったれるのもいい加減にしたらいい」
奥からお源の泣き声が聞えて、東吾は慌てた。
「お前、なにもそんな大声でどなることはないだろう」
「腹が立つんだよ、腹が立って立って、たまらないんだ」
早々に、東吾は店をとび出した。
二日ほどして、畝源三郎が中年の男を伴って「かわせみ」へやって来た。
「毎度、御厄介をかけますが……」
部屋は空いていますか、と訊かれて、嘉助が笑った。
「畝の旦那の御用でございましたら、お断りするわけはありませんよ」
手を叩いて女中を呼び、すすぎの水を運ばせているところへ、東吾が帰って来た。
で、源三郎がひき合せ、男が丁寧に挨拶した。
「手前は小田原で数珠《じゆず》屋を致して居ります者で、市五郎と申します。池の端七軒町のお源は手前の伯母に当りますので……」
東吾は、ほうという顔をした。
「煎餅屋の婆さんには、こんな立派な甥がいたのか」
市五郎がきまり悪そうにうつむいた。
「申しわけございません。もっと早くに、手前が伯母を引き取りに参ればよかったのでございますが、何分、手前は養子の身で……ですが、知らせをもらいまして、びっくりして出て参りました」
七軒町の家は狭い上に、女住いなので、これから行って泊めてもらうのも気の毒なので「かわせみ」に厄介になりたいという。
女中が市五郎を梅の間へ案内し、東吾は源三郎を居間へ通した。
「あいつ、知らせをもらって、といっていたが、源さんが呼び出したのか」
東吾が訊き、
「いやいや、お上はそれほど世話焼きではありませんよ」
源三郎がいった。
「そこの亀島橋の近くに天神屋という薪炭問屋があるのを知っているでしょう。そこの番頭が、昔、お源の店に奉公していたんだそうですよ」
どこで聞いたのか、お源の身投げ騒動のことを耳にして、小田原の市五郎へ文をやった。
「市五郎というのは、母親が子供の頃に死んで、お源の厄介になっていたというのですよ。小田原の数珠屋へ養子に行ったのもお源の才覚だとか。それでまあ、元番頭としてはこの際、市五郎がお源の面倒をみてもよいのではないかと判断したのでしょうな」
天神屋というのは、八丁堀の組屋敷へ出入りをしている商人の一人で、
「その縁で、手前のところへ、主人が相談に来ました」
と源三郎は笑っている。
「毎度、源さんは面倒見がいいな」
「なにかにつけて、かわせみをあてにするわけです」
「宿をするのは一向にかまわないが、市五郎はお源を引き取る気があるのか」
「そのつもりで出て来たと申しています」
「おひさはどうするんだ」
「それは当人の気持を聞いてからのことだといっていますが、市五郎としては小田原へ連れて行くのはお源一人で、なるべくなら、おひさのほうは住込み奉公でもしてもらって、なんとか自分の口は自分で養ってもらいたいというのが本音でしょうな」
それに厄介者の年寄がいなくなれば、嫁入りの話も出て来るだろうし、江戸育ちの若い女が小田原の田舎町にひっ込むのは如何なものかと市五郎は考えているらしい。
「市五郎はこれから七軒町へ行ってお源と話をするといっています。まさか、手前がついて行くわけにも参りませんので、長助をつけてやるつもりです」
深川長寿庵の主人で、岡っ引の長助が一応、夏羽織などを着て「かわせみ」へやって来て、恐縮する市五郎と一緒に七軒町へ向った。
「そりゃあ、そういう頼り甲斐のある甥御さんがいるのなら、お源さんは小田原へ引き取ってもらったほうがいいですよ」
源三郎が帰ると、早速、お吉が意見を述べた。
「年をとったら、閑静な田舎で、のんびり暮すのがなによりです。鬼のような孫娘にがみがみ叱言をいわれながら暮すことはありませんよ」
嘉助の考えは違っていた。
「いくら昔、面倒をみたといっても、甥は甥じゃありませんか。むこうには市五郎さんの女房子もいるだろうし、養父母もいなさるようでございます。お源さんにしてみたら、肩身もせまかろう。気がねもあろう。それよりは、気のおけない孫娘と暮すほうがいいように思いますが……」
東吾が二人に手を振った。
「他人がなにをいっても仕方がない。こいつはお源とおひさのことなんだ。俺も一度、よけいな世話を焼いて、威勢のいい孫娘にどなりとばされたよ」
るいがうなずきながら苦笑した。
「でも、気が揉めますね」
なんとなく落ちつかない気持で「かわせみ」の人々は市五郎の帰りを待ちかねていた。
長助が市五郎を伴って戻って来たのは五ツ半(午後九時頃)に近かった。
「飯はむこうですませましたんで……」
長助が心得顔にいい、市五郎は礼を述べて部屋へ引き取った。
「おひさは大黒屋から帰って来るのが、早くても五ツ(午後八時頃)すぎだと申しますんで、お源と市五郎が話を致しました」
その結果、お源は小田原へ行くことを承知し、明日、支度をして「かわせみ」へ来るという。
「婆さんとしては、自分がひっついていれば、いつまで経っても、孫がまともな嫁入りも出来ねえ。この上、孫の厄介になるよりも、甥の親切を受けようってことだろうと思います。まあ、市五郎って人も少々、煮え切らねえところはありますが、根は正直者のようでございますから、お源さんを粗末にするようなことはありますまい」
一通りの報告をして、長助は深川へ帰って行った。
おひさが、「かわせみ」へどなり込んで来たのは翌朝のことである。
もっとも、最初は、
「こちらに小田原の市五郎という人が御厄介になっていますか」
と神妙だったが、たまたま、東吾が帳場へ顔を出すと、
「やっぱり、お侍さんがお上にいいつけたんだね。そんなことじゃないかと思ったんだ」
まっ赤な顔をしてどなり出した。
「どういうつもりか知らないが、よけいなことはしないでもらいたいね。あたしは別に、お上に御厄介なんぞかけちゃいない。そりゃあ、親孝行でお上から御褒美をもらったこともない代りに、祖母ちゃんに不孝を働いたおぼえもないんだ。なんで、ほっといてくれないのさ」
東吾に何をいうひまも与えないほど、大層な剣幕でまくし立てたあげく、梅の間から出て来た市五郎をみると、
「小父《おじ》さん、どうもお久しぶりでございました」
木で鼻をくくったような挨拶をし、
「折角ですけど、祖母ちゃんはやっぱり江戸がいいっていいますので、お断りに来ました。世間はなんといってるか知りませんけど、あたしにとってはたった一人の祖母ちゃんです。死水はきちんと取りますから、どうぞ御心配なく」
ぺこりと一つ頭を下げて、「かわせみ」の暖簾《のれん》をかき分けて出て行った。
東吾も市五郎も、帳場の嘉助も、奥から出て来たるいもお吉も、あっけにとられて暫《しばら》くぼんやりしていたが、
「そうすると、手前はこのまま帰ってよろしいものでしょうか」
と市五郎がいい出して、当惑した。
「小娘のいうことを、まともに取っちゃあいけませんや。もう一ぺん、お源さんの気持をたしかめてお出でなさい」
年の功で嘉助が勧め、深川の長助へ使をやって呼ぼうかといったが、市五郎は、
「それには及びません。もう勝手もわかって居りますから、手前一人で行って、伯母と話をして参ります」
そそくさと出かけて行った。
帰って来たのは八ツ半(午後三時頃)近くで、ついでに浅草の観音様へおまいりして、午《ひる》食をすませて来たといい、
「伯母も、ひと晩、考えて、やはり江戸から離れたくないと申しますので、手前は小田原へ帰ります」
さばさばした口調で、すぐに梅の間へ行くと旅支度をして出て来た。
日の暮れも近いというのに、
「今夜は品川泊りに致しますので……」
まるで、お源の気が変るのを怖れるように慌しく発《た》って行った。
「あの人、本心はお源さんを引き取りたくなかったんですね。昔の奉公人に文で知らされて、世間体が悪いし、ひょっとしてお上におとがめでも受けるんじゃないかと江戸へ出て来たっていうことですか」
見送ったお吉が、がっかりした声でいい、「かわせみ」は後味の悪い思いで夜を迎えた。
「とにかく、源さんに話してくるか」
もう奉行所から戻っているだろうと、東吾が出かけようとしているところへ、当の源三郎が長助とやって来た。
「今、天神屋で話をきいて来ました」
市五郎は「かわせみ」を出た足で天神屋へ寄り、子細を告げて品川へ向ったらしい。
「いろいろと御厄介をおかけして申しわけありません」
長助のほうは、どうも合点が行かないようであった。
「昨夜の話では、婆さんはすっかり小田原へ行く気になって居りましたが……」
孫娘の嫁入り支度も出来ているし、なんの心配もないのだといって、わざわざ葛籠《つづら》を開けてみせたという。
「ぎっしりと着物だの、帯だのがしまってありまして、長い間に丹精して用意したんでございましょう。親心……いえ、祖母さんの孫を思う気持がよくわかって、胸をつまらせたものでしたが……」
明日にでも七軒町へ行って、自分からお源の本心を聞いてみようと考えている。
「その上で、本当は小田原へ行きてえってんでしたら、あっしが送って行ってやってもよろしゅうございます」
しかし、その長助が翌日の夕方、「かわせみ」へ寄っての報告では、
「婆さんは、やっぱりおひさが心配で江戸を出て行く気はないようで……ですが、おひさってのはよくよく口の悪い女で……年寄にむかって、行きたけりゃいつでも小田原へ行くがいい、数珠屋でくたばりゃあ、極楽往生疑いなしだなんぞとぬかしゃあがって……同じことなら、もうちっと優しいことがいえねえもんかと聞いていて腹が立って来ました」
と、顔をしかめている。
「まあ、それでいいんだろう。世の中にゃ、どなり合いながら仲よく暮している人間はいくらもいるんだ」
「かわせみ」へことわりをいいに来たおひさの気持を、東吾もるいも、なんとなくわかっていた。
「あいつ、きついことをいいながら、祖母ちゃんが大事、祖母ちゃんが大好きなんだ」
たしかに年寄を背負って、若い女が生きて行くのは大変だろうと思う。
「愚痴も出るだろう。やけくそになることも多いんだろう。しかし、それでも、あいつは祖母ちゃんと別れられないのさ」
そう考えてやらないことには、あいつがかわいそうだと東吾がいい、長助はぼんのくぼに手をやりながら帰った。
梅雨は中休みの状態が長く続いていた。
夏のような暑さと強い日ざしにあぶられて、江戸の町はどこも白茶けて、風が吹くと埃が舞い上る。
「もう上ったんですかね。それにしちゃあ、雷様が鳴りませんでしたが」
雷が鳴らない限り、梅雨は上らないと信じているお吉がしきりに空を仰いでいる頃、下谷一帯に火災が起っていた。
火は根岸の布団屋から出て、昼だというのに、もの凄い早さで燃え広がった。
池の端七軒町に飛び火したのは、八ツに近かった。
乾き切っている長屋は火の廻りが早い。
どこの家も男は仕事に出かけていて女子供ばかりであった。
火に追われて逃げまどい、大方は不忍池のほうへ声をかけ合って避難した。その時になって、誰かが、
「お源さんはどうしたろう」
といい出した。
日中、おひさは大黒屋へ行っていて、お源は一人である。しかも、右足が不自由な老婆であった。
「親分、お源さんがいないんですよ」
女たちに声をかけられて、吉松は若い連中と七軒町のほうへ走った。
なにしろ、道の両側が燃えている。
「親分、いけませんや。こっちからはとても通れやしません」
下っ引の一人がいい、吉松は不忍池のふちを通って心行寺の脇の坂を上った。
ここはまだ火が廻っていないが、まっ黒な煙が立ちこめていて、まともに目が開けられないくらいである。
坂の上を女が狂気のように走っていた。
「親分、ありゃあ、おひさですぜ」
下っ引が煙をすかしてみて告げた。
「あいつ、婆さんを心配して大黒屋からかけつけて来たんじゃありませんか」
男三人が口と鼻を手拭で押えて、なんとか坂を上りきり七軒町のほうへ向ったが、そのあたりにおひさの姿はみえなかった。
池の端七軒町の焼跡から、お源とおひさの焼死体が出たと知らせを受けて、東吾は源三郎と現場へ向った。
不忍池のふちは茅町《かやちよう》までが燃え、高台にある加賀宰相、前田家の上屋敷の土塀までが焼け野原になっている。
吉松は町火消の連中と七軒町の焼跡にいた。
東吾と源三郎をみると、目をまっ赤にしたまま、かけよって来た。
お源とおひさの遺体は、今しがた、他の焼死体と一緒に、この先の正慶寺へ運ばれたという。
「婆さんとおひさと一つかたまりになっていました」
おそらく抱き合うようにして焼け死んだのだろうといった。
「あっしが、ここまで来ました時には、家はがんがん燃えていまして、その中から、祖母ちゃん、祖母ちゃんっていうおひさの声が聞えたんです。火消が水をかぶって家の中へ突っ込もうとしたんですが、とても入れたものじゃございませんで……」
まっ黒な顔に涙が流れている。
東吾も源三郎も、言葉がなく、まだくすぶっているお源の家のあたりを眺めた。
燃え残りの葛籠を男たちが運び出している。
蓋は燃えてしまって、焼けただれた着物や帯が無惨であった。
長助が話していた、おひさのためにお源が用意したという嫁入り支度かと思う。
不忍池の方角に雷鳴が聞え、やがて雨が沛然《はいぜん》と降って来た。
焼跡の灰の上がみるみる黒くなって行く。
雨の音の中に、
「祖母ちゃん、祖母ちゃん」
と呼んでいるおひさの声が聞えるようで、東吾は鼻の奥が熱くなった。
源三郎がそっと傘をさしかけ、二人はお源とおひさの遺体が運ばれたという正慶寺へ向って歩き出した。
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汐浜《しおはま》の殺人《さつじん》
日本橋小網町の行徳《ぎようとく》河岸は、ここから浦安の行徳へ通う行徳船が出ているために、その名がついた。
とりわけ初秋の頃は、客で混雑した。
理由は、この季節、一泊二日で成田詣でに出かける者が多かったからである。
江戸から成田山までは、この行徳船で隅田川へ出て、更に小名木《おなぎ》川を通って中川、新川を経て浦安の本行徳河岸まで三里八丁の船旅をし、上陸して船橋へ出て成田街道を行くのが最も便利であった。
船なら老人、女子供でも座ったまま飲み食いをしたり、川岸の風景を眺めている中《うち》にたどりつけるし、船橋から成田山新勝寺までの道もほぼ平坦で難儀なことはない。
ただ、寒い時や雨が多い時分の船旅は具合が悪いので、陽気もよく晴天に恵まれる七、八、九月に参詣が集中するのであった。
大川端の旅籠《はたご》「かわせみ」の番頭である嘉助がその夕方、行徳河岸へ出むいたのは、成田から江戸へ出て来る客が今日の行徳船に乗って来ると、あらかじめ知らせがあったためである。
船が着くのは暮六ツ(午後六時)頃と聞いていたので、少々、早めに河岸へ行っていると、やがて日本橋川に威勢のいい船頭の掛け声が聞えて来て、ぎっしりと客を満載した船が、やや重い船足を漸《ようや》く岸へ漕ぎ寄せた。
ぞろぞろと下りて来る客の大方は江戸から成田詣での人々で、手には土産を下げ、いささかくたびれた顔で船頭に挨拶をしている。
それらの客の中に、嘉助は素早く、自分が迎えに来た相手を探し出した。
年の頃は四十なかばだろう、縞の着物に紬《つむぎ》の帯を締め、手には小さな風呂敷包、真新しい手甲脚絆に夕陽が当っている。
近づいて嘉助は声をかけた。
「間違いましたらお許し下さい。行徳の多田総右衛門様のお内儀《ないぎ》様ではございませんか。手前は、かわせみの番頭でございます。成田の高砂屋さんの旦那様からお手紙を頂きまして、お迎えに参りました」
相手がほっとした表情になり、丁寧に挨拶をした。
「総右衛門の家内でございます。このたびはお世話になれましょうか」
「お待ち申して居りました。どうぞ、御案内申します」
行徳河岸から大川端までは、たいした距離ではなかった。それでも、嘉助は、
「お疲れでございましたら、駕籠《かご》を用意致しますが……」
といってみたが、
「いえ、長いことすわって居りましたので、歩きとうございます」
物珍しそうにあたりへ目をやりながら、しっかりした足取りで嘉助について来た。
薄暮の中《うち》に「かわせみ」の暖簾をくぐると、待っていたように、
「お出でなさいまし」
威勢よくお吉が顔を出し、若い衆にすすぎの水を運ばせる。
「番頭さんとは、すぐお会いになれましたか」
嘉助から風呂敷包を受け取りながら、女客に訊く。
「はい、はやばやと声をかけて下さいましたので……」
「うちの番頭さんは、お客をみつけるのの、名人なんですよ」
嘉助がよせと、目くばせしているのを無視して自慢した。
「どんなに大勢の人の中からでも、すぐに迎えに行った相手のお客様をみつけるんです」
「おかげさまで、心細い思いをせずにすみました」
「さぞ、お疲れでございましょう」
さあさあとお吉が部屋へ案内して行き、少し間をおいて、嘉助が宿帳を持って上って行った。
神林東吾が帰って来たのは、ちょうど、そんな時で、
「若先生のお帰りです」
男衆が奥へ声をかけて、るいが小走りに迎えに出た。
「天気の続くのはけっこうだが、いつまでも暑いな」
居間へ通って、るいに大刀を渡しているところへ嘉助が来た。
「お帰りなさいまし」
と律義に頭を下げてから、るいに、
「成田の高砂屋さんから御紹介のお客様がお着きになりました。お部屋は藤の間で……」
宿帳を開いてみせる。
「行徳汐浜の塩屋さんのお内儀様でしょう」
乱れ箱から着替えを出しているるいに代って、東吾が宿帳をのぞいた。
行徳汐浜、多田総右衛門、妻つぎ、四十三歳と優しい文字で書いてある。
「塩屋というと、海の水から塩を採る商売だな」
浜辺に塩田を造り、海水を蒸発させ、更にその塩水を平釜で煮つめて塩を作る。
西は瀬戸内の塩が有名だが、関東では行徳と川崎海岸が盛んであった。
「こちらのお内儀《かみ》さんの御実家が成田でして、それで高砂屋さんを御存じだそうです」
成田の雑穀問屋、高砂屋万兵衛は商用で江戸へ出て来る時には、「かわせみ」を常宿にしている。
「塩屋の女房は、なんで江戸へ出て来たんだ」
東吾が訊き、嘉助が、
「そのことにつきましては、まだ何もおっしゃいませんので……」
宿帳を閉じかけたところへ、お吉が麦湯を運んで来て、
「江戸見物なら、お連れがあるでしょうから、大方、知り合いの祝いごとか法事かなんぞで出て来られたんじゃありませんか」
と勝手な推量を述べた。
「江戸は初めてだそうで、三、四日御厄介になりたいっておっしゃってました」
常連の紹介の客ではあり、「かわせみ」でも、それ以上、詮索する気はない。
「大切なお客様なのだから、よく便宜をおはかりして下さいよ」
るいに念を押されるまでもなく、嘉助もお吉も心得顔で居間を出て行った。
そして翌日、針仕事をしているるいのところヘ、お吉が報告に来た。
「行徳からお出でなすったお内儀さんですけど、どなたかを待っていなさるみたいですよ」
午《ひる》近くに、買い物に行くといって出かけたが、すぐに戻って来て、留守中に自分を訪ねて来た者はなかったか、と嘉助に訊いたという。
「そのあと、ずっとお部屋で縫い物をしていなさいます」
るいが針の手を止めた。
「どなたかと、うちで待ち合せでもなさるのかしら」
「番頭さんは、若い娘じゃないから、なにも心配することはないといってます……」
四十すぎの塩屋の女房であった。
「ですけど、お嬢さん、なんだか、ちょっと気になるんですよ」
るいのために茶をいれながら、お吉がもったいぶった言い方をした。
「気になるって、なにが……」
東吾は講武所へ出かけていて留守であった。
女二人の、誰にも気がねのない午後の一刻である。
「お内儀さんが縫ってなさるものが……長襦袢なんです」
今朝、膳を下げに行った時に、
「この近くに呉服物を売る店はございませんか」
とおつぎに訊かれて、
「大店は本町通りに軒を並べていますって申しましたら、ほんのちょっとしたものを買うので、なるべく近いところがいいとおっしゃるんです」
それで、豊海橋のむこうの京藤屋を教えたという。
「長襦袢をお求めになっていらしたの」
「そうなんです。それも、浅黄縮緬《あさぎちりめん》に紅葉を染めた……いってはなんですけど、田舎のお内儀さんにしたら、なんだか色っぽい……」
「いけませんよ」
流石《さすが》に、るいは女主人の顔に戻ってたしなめた。
「お客様のことを、あれこれいってはいけないといつもいっているのに……」
お吉が首をすくめて退散し、るいは茶碗を取り上げた。
田舎の人が江戸へ出てくれば、華やかなもの、美しいものに心惹かれるのは当り前だと思う。
そうした気持を、外からは見えない襦袢に托した、塩屋の内儀の女心を、むしろ、つつましいと感じる。
反面、女が襦袢えらびをする時、心のすみに必ず思い思われる人を意識するものだということを、るいは知っている。
いくつになっても、そうした女の気持は変らないのではないかと考えると、おつぎという内儀が、誰かを待っているというのが妙に気になりはじめた。
塩屋の内儀、おつぎが「かわせみ」に逗留して三日が過ぎた。
「本当に誰を待っているんでしょうねえ。折角ですからお江戸見物をなさいませんかって水を向けたんですけれど、連れが参りましたら一緒に行こうと思いますのでとおっしゃって、まるっきり外へ出ようともなさらないんですから……」
お吉は盛んに気にしているし、口には出さないが、るいも並々でない関心を持っていた。
ところが四日目の早朝、でっぷりした、如何にも田舎の旦那衆といった様子の男が「かわせみ」の暖簾をくぐって、
「行徳汐浜の多田総右衛門と申します。女房が御厄介になっていると存じますが……」
と嘉助に挨拶した。
「手前は商用で上総《かずさ》を廻って居りまして、昨夜、木更津から船で江戸へ出て参りました」
木更津通いの船は早朝に着くのが多いので、河岸からまっすぐ大川端へ来ると、ちょうど今時分になる。
嘉助は慌《あわ》てて、藤の間へ知らせに行った。
おつぎは朝餉《あさげ》をすませたところだったが、
「お連れ様が御到着なさいました」
といわれて、いそいそと帳場へ出て来た。
総右衛門は足を洗って上りかまちに立っていたが、おつぎをみると笑顔で手を上げた。
「商売が思いの外、早くに片づいてね。昨夜、木更津を発ったのだが夜船はやはり疲れる。ともかく、部屋へ行ってゆっくりさせてもらおう」
女房の肩を押すようにして二階へ上って行った。
「おやまあ、あのお内儀さんが待ってなすったのは、旦那様だったんですか」
眺めていたお吉が一人言をいい、たまたま、早立ちの客が出て来たこともあって、嘉助は慌てて新しい草鞋《わらじ》を取りに行った。
るいが、塩屋総右衛門のことを聞いたのは、庭続きの川っぷちで、東吾と葛西舟から大根や青菜と一緒に粟餅を買っている時で、台所方の若い衆に青物を運ばせたあと、竹の皮に包んだ餅を大切そうに受け取ったお吉からであった。
「それで、お内儀さんはどうだったの」
「別にどうってこともありませんでしたよ。あたしが旦那の御膳を運んで行ったら、旦那は大きな声で笑ってましたし、お内儀さんは鏡台に向ってお化粧をしてなさいました」
女二人の話を東吾が聞きとがめた。
「夫婦者の客が、どうかしたのか」
「どうってほどのことでもないのですけれども……」
居間へ戻って、東吾は早速、好物の粟餅を頬ばり、そのお相伴《しようばん》をしながら、るいとお吉がこもごも、総右衛門夫婦の話をした。
行徳から女房が先に江戸へ出て来て、商売で上総を廻っていた亭主が今朝、着いた。
「わかったぞ」
東吾が茶碗を受け取りながら、悪戯《いたずら》っぽく笑った。
「お前達は、その内儀さんが、ここの家で、亭主でない男と待ち合せをするつもりだったと推量していたんだな」
るいが困った顔をし、お吉が助け舟を出した。
「よもやとは思いましたんですよ。四十過ぎた田舎のお内儀さんに、そんな大胆なことが出来よう筈がない。あのお内儀さんが色っぽい長襦袢なんぞ買うから、廻さなくてもいい気を廻したんで……」
「長襦袢を買ったのか」
「そうなんですよ。江戸へ着いてすぐに浅黄縮緬の、そりゃあきれいな色合のを、せっせと自分で仕立てなすっていたもんですから、てっきり……」
「成程なあ」
東吾が意味ありげにるいを眺め、るいは真赤になった。
「お吉がいけないんですよ。別にたいしたことでもないのに、なんだかだと当推量をするものだから……」
「しかし、本物の塩屋総右衛門なんだろうな」
東吾がちょっと真顔でいい、お吉がきょとんとした。
「さっき、お着きになった人ですか」
「色っぽい襦袢を買ったお内儀さんの色男が御亭主の名をかたってやって来たってことはないのか」
「そりゃあ違いますよ」
お吉が大笑いした。
「とてもじゃありませんけど、色男って顔じゃございません。お年だってぼつぼつ六十って感じでしたし、第一、出迎えたお内儀さんがびっくりなすったように、まあ、旦那様っていいましたもの」
「女房は、びっくりしたのか」
「なんでも予定より早くお着きなすったってことでしたから……」
「亭主の様子はどうだった」
「御機嫌でしたよ。上総のほうの取引がうまく行ったとかで、嬉しそうにお内儀さんに話をしていなさいましたし、お内儀さんだって、江戸見物は旦那が着いてからっておっしゃってましたから、早速、あっちこっちお出かけなさるんじゃありませんか」
お吉の言葉を裏付けるように、塩屋の夫婦は午《ひる》になる前に出かけて行った。
「家内は江戸がはじめてで、いろいろと買い物もしたがって居りますので……」
晩餉は外ですませて来るといった。
もともと、馬喰町《ばくろちよう》あたりの旅人宿は、素泊りが定法であった。飯は外で食べ、風呂は近くの湯屋へ行く。
「かわせみ」の場合、最初から素人のやることで、客も以前、八丁堀時代からの知り合いばかりであった。
近所に適当な食べ物屋もなかったし、湯屋も少し遠い。
客の不自由を考えて、まず、朝餉を出すことにし、お上に願って内湯も作った。
場所が家の建て込んでいる町中ではなく、川っぷちの一軒家だったので、案外、早くお許しが出た。一つには、るいの亡父と親しかった奉行所の何人かが、格別に骨を折ってくれたせいでもある。
そのうちに、客に乞われて晩餉も注文されれば用意することになった。無論、宿賃とは別に飯代を払うのだったが、わざわざ外へ飯を食いに出かけなくとも済む、酒を飲んですぐ寝てもかまわないというのが客には便利で、わたしも、わたしもと注文が増え、結局、「かわせみ」はきちんとした板前をおき、料理も吟味するようになった。
従って、客によっては朝夕、「かわせみ」で食事をする者もいるし、晩餉は不要という客もある。
実際、江戸は繁華で、地方に名の知れた料理屋もあるし、出先で手軽く済まそうと思えば、安価な一膳飯屋がある。
ともあれ、塩屋総右衛門夫婦はいそいそと「かわせみ」を出かけて行った。
そして夜、東吾とるいが晩餉を終えて、くつろいでいる居間へ、嘉助が宿帳を持って、その日の泊り客の報告をしに来たついでに、
「塩屋さん御夫婦が、まだ、お戻りじゃございませんのですが……」
といった。
「今、何刻ぐらいだ」
東吾が訊いた時、この季節では珍しい雷鳴が聞えた。
「ぼつぼつ五ツ半(午後九時頃)でもございましょうか」
俄かに降り出した雨の音に耳をすませるようにして嘉助が続けた。
「今しがたお戻りになりました近江屋さんのお話ですと、日本橋あたりはかなりの降りでしたとか……」
送って来た駕籠屋は濡れねずみだったという。
「塩屋は、どこへ出かけたんだ」
「うかがいませんでしたが、大方、浅草か、上野、或いは本町通りあたりかと……」
「雨宿りをしているのかも知れないな」
初老の夫婦であった。
「町の木戸が閉まるには、まだ間があるだろう」
東吾がいいかけた時、帳場のほうからお吉がとんで来た。
「畝の旦那がおみえです。うちのお客様で、まだ帰っていない人はいないかとおっしゃって……」
東吾と嘉助が同時に立ち上った。
土間に立っている畝源三郎は、「かわせみ」の若い衆が渡したらしい手拭で濡れた顔を拭いていた。傘は持っているが肩先がずぶ濡れである。
「柳原で夫婦者が襲われました。行徳汐浜の塩屋総右衛門とその女房のようで、当人がかわせみに泊っていると申しましたので……」
お吉が金切り声で叫んだ。
「うちのお客様です。まあ、なんてこと……」
事件が起ったのは、五ツ(午後八時頃)近く、但し、大雨のせいもあって柳原界隈は人通りが全く途絶えていたという。
男の悲鳴を聞いたのは、神田川に架っている和泉橋の袂《たもと》の橋番小屋にいた橋番の治助という中年の男と、たまたまそこで雨宿りをしていた神田のお手先で助五郎という若い奴で、こちらは本職が船頭であった。
「外へ出てみたんですが、滝のような雨でござんすし、暗さは暗しでして……」
それでも、治助と助五郎は大声であたりへ叫んだ。
「誰だあ、どうかしたのかあ」
返事の代りに水音が立った。
「川へ落ちたか、とび込んだかってんで、小屋の後へ廻ってみると、つないであった小舟に人がつかまってばしゃばしゃやっているようでして、二人で舟にとび移って、なんとか助け上げました」
それが総右衛門で、
「舟へ引き上げたとたんに、女房が、女房がと半狂乱でして……」
彼が指す橋の袂のほうへ行ってみると女が一人倒れていた。
「小屋へ運んだんですが、首に縄が巻きついていまして……とてもじゃないが生きてるようには見えませんでした」
助五郎が医者を呼びに行き、ついでに番屋へも知らせに走った。
その番屋に畝源三郎がいた。
「町廻りの帰りでして、たまたま、少々の揉め事があって町役人《ちようやくにん》から話を聞いていたのです」
総右衛門の話から追いはぎに襲われたと判断し、一応の手くばりをしてから、念のため「かわせみ」へ来たものであった。
総右衛門の話というのは、次のようなものであった。
午少し前に「かわせみ」を出て、豊海橋の近くから駕籠で上野へ向い、まず、寛永寺へ参詣し、広小路を見物した。それから湯島天神へ行き、一服してから神田明神へ足をのばした。
そこで陽が暮れたので神田佐久間町へ出て、春木屋という店へ入って鰻の蒲焼を食べた。
で、大川端へ帰ろうと駕籠を探しに和泉橋のほうへ向うと、
「大雨になりまして、慌てて橋を渡って、お武家様のお屋敷の門の脇で雨宿りをして居りましたが、雨は止みそうもなく、こうしていても仕方がないと橋のほうへ戻りかけましたところ、いきなり肩を掴《つか》まれました」
雨の中、まっ暗な中である。
「なにがなんだかわかりません。あっと思った時には足をすべらせて川へ落ちて居りました」
流されながら、もやってあった小舟にしがみつき、幸い助けられたが、女房のおつぎは首を締められて、とうとう息を吹き返さなかった。
「手前は女房と一緒の時は、いつも、財布を女房にあずけて居りました。その財布がございませんところをみると、賊が奪って行ったのかと……」
神田川の岸、柳原堤のあたりは、たしかに事件の起りやすい場所ではあった。
昔は武家地だったのが、その後、町屋になったものの、いわゆる、床店《とこみせ》で昼は商売をしていても、日が暮れると各々、荷を片づけて帰ってしまう。
人家は遠く、夜はふっつりと人通りがなくなって寂しいので、夜鷹と呼ばれる売春婦が客をひきにたむろして、これがまた客としばしば揉め事を起す。かと思うと追《お》い剥《は》ぎが出たり、やくざが刃物|三昧《ざんまい》に及んだりする場所でもあった。
「昨夜はあの雨でございますから、夜鷹も出ては居りませんし、日が暮れたら駕籠屋だって寄りつきは致しません」
江戸に馴れた者なら和泉橋を渡りなぞしないで、神田で辻駕籠をみつけたものを、と助五郎は苦い顔をしている。
なんにしても、とんだ災難であった。
こうした場合、まず下手人は挙がらない。
総右衛門は半病人のようになっていたが、気をとり直し、女房を骨にしてもらって、行徳へ帰って行った。
明日が中秋の名月という日に、一人の男が「かわせみ」へやって来た。
病み上りらしいやつれた顔だが、まだ四十には間がありそうな、精悍な感じのする男であった。
「手前は横浜で生糸の商いをして居ります徳之助と申す者でございますが、姉はもう行徳へ帰りましたでしょうか」
おそるおそるといった感じで、帳場の嘉助に声をかけた。
たまたま、るいも帳場にいて、
「行徳のお方とおっしゃいますと、どちらさまで……」
用心深く嘉助が問いかける間に、そっと男を眺めた。
男にしては小柄なほうだろうが、若い時分に力仕事をしていたらしい筋肉質のいい体格をしている。身なりは如何にも横浜で異人相手の商売をしているらしく、どことなく垢抜けて、しかも嫌味ではなかった。
「姉は、行徳の多田総右衛門に嫁いで居りまして、おつぎと申します。この月のはじめに江戸へ出て参り、こちらさまへ御厄介になると、文で知らせて参りましたのですが……」
嘉助が顔色を変えた。
「あなたが、あのおつぎさんの弟さんで……」
「はい、横浜から姉に会いに出て来る筈でございましたが、途中、多摩川の近くで馬にはねとばされまして……」
腹を蹴られて半死半生の状態で医者の家へかつぎ込まれた。
命はとりとめたものの、衝撃が大きすぎたのか、意識がはっきりしなくなった。
「自分の名前はなんとか思い出したのですが、どこに住んでいたのか、何をしようとしていたのか、どうにもわからなくなりました」
幸い、医者も親切で、馬の持ち主も必死になっていろいろと面倒をみてくれたおかげでだんだん記憶が戻って来たといい、気がついたように表をのぞいた。
「すまなかった。お里さん、なかへ入って下さい」
若い娘がお辞儀をして入って来た。
「申しわけありません。うちの馬が急にあばれ出して、徳之助さんを……」
泣きそうな顔になるのを徳之助が制した。
「そのことはもういいんです」
別に嘉助にいった。
「お里さんは、わたしを心配して江戸までついて来てくれたのです」
それで、おおよそ事情がのみ込めたものの、今度は嘉助とるいが顔を見合せた。
「あなた、それが、とんでもないことになりましてね」
徳之助が多摩川で奇禍に遭って足止めされている中《うち》に、姉のおつぎは江戸で殺された。
とりあえず帳場の脇の部屋へ上ってもらって、嘉助が柳原での総右衛門夫婦の災難を話すと、徳之助は茫然自失の体《てい》になり、暫《しばら》くは声も出ない様子であった。
暫くして漸く口を開いて、
「それで、姉さんを殺した下手人はつかまったんでございましょうか」
と訊く。
「お上もいろいろと手を尽して下さっているようだが、何分にも行きずりの者の仕業となると、下手人を挙げるのは難しいと思いますよ」
自分もかつては八丁堀の住人だっただけに、嘉助も内心、歯がみをするほど口惜しかった。
だが、徳之助はそれきり黙り込み、るいや嘉助の慰めの言葉にも、どこか上の空であった。
やがて、気を取り直したように挨拶をし、そそくさと帰りかける。嘉助が、
「行徳へ行って、墓まいりをなさいますか」
と訊くと、
「今日のところは、横浜へ戻ります。改めて出直すことに致します」
という返事であった。
しょんぼりと肩を落して去って行く徳之助の背後からお里が、見送っているるいと嘉助に何度も頭を下げ、途方に暮れたように徳之助について行った。
「まあ、あの娘さんを多摩川まで送って行かなけりゃならないでしょうし、横浜の店のほうも心配だろうと思いますよ」
徳之助がまっすぐ行徳へ向わなかったことを嘉助はそんなふうに解釈した。
その夜の「かわせみ」では、おつぎの弟の徳之助のことが話題になった。
「それじゃ、おつぎさんが待っていなさったのは、弟さんだったのですか」
お吉が納得し、
「そうすると、亭主がやって来たのは、どういうわけだ」
東吾が訊いた。
「御主人があとから来るのは決っていたんじゃありませんか。お内儀さんは一足先に来て、横浜から出て来る弟さんと久しぶりに会って、いろいろ話をしようという……」
るいがいいかけて、ふっと考え込んだ。
「どうした。なにか合点の行かないことがあるか」
と東吾。
「いえ、別に。今申しましたことで辻褄は合うと思うのですけれど……」
なにかが心にひっかかるような気がする、と、るいは改めてここへ来た時のおつぎの様子を思い浮べた。
るいが部屋へ挨拶に行った時のおつぎは、どこか浮き立つような雰囲気を持っていた。それは、旅に出て、心がはしゃいでいるというのとも違ってみえたものである。そして、おつぎの膝の上に広げられていた浅黄色の、四十なかばの女にしては晴れがましすぎるような美しい長襦袢が瞼《まぶた》の中にある。
それは、勿論、総右衛門が妻の遺品として行徳へ持ち帰って行ったのだったが。
「そういえば……」
るいが小さく口走り、東吾が、
「なんだ」
と応じた。
「お内儀さんの長襦袢を、お吉が御主人にお渡ししたのですけれど……」
部屋においてあったおつぎの身の廻りの品や髪の道具と一緒に、
「こちらはお内儀さんが江戸でお求めなすったものでございますが……」
とお吉が包を広げてみせた時、
「総右衛門さんが長襦袢かとおっしゃって、ちょっといやな笑い方をしたような気がするんです」
お吉も、それに気がついていた。
「あたしは、御主人が照れているのかと思ったんですけど、今になってみると鼻の先で笑ったみたいな感じでした」
東吾が腕を組んだ。
「しかし、姉弟なんだろう」
ぽつんという。
「おつぎと徳之助が幼なじみかなんかなら、平仄《ひようそく》が合うんだが……」
その夜の話は、そこまでであった。
翌朝、東吾は起き抜けに、
「源さんのところへ行って来る」
朝餉の前に出かけて、帰って来たのは午すぎであった。
「どうも雨が曲者だ」
遅い午餉の膳に向いながら呟《つぶや》いた。
「なにしろ、あの夜はもの凄い豪雨だったろう。おかげで地面にゃ足跡も、人の争った痕も、まるっきり残っちゃいなかったそうだ」
総右衛門夫婦が襲われ、おつぎが殺された夜のことだとわかって、るいは膝を進めた。
「下手人のことで、なにかおわかりになりましたの」
「源さんも、俺と同じ疑いを持っていたのさ」
大雨の中で、いきなり通りすがりに追い剥ぎが夫婦を襲ったとして、
「総右衛門が殺されて、金を奪われたのなら、まだ、話がわかるんだ。男は川へ落ち、なんで、そのあと女が殺されたんだ」
「おつぎさんが手むかいしたんでしょうか」
「手むかいしたところで女のことだ。懐中の財布をさらって逃げるのはなんでもあるまい。おまけにそう遠くもないところに橋番の小屋がある。わざわざ女を締め殺すなんて厄介なことを何故やったんだ」
まだある、と言葉を継いだ。
「総右衛門の申し立てだと、神田佐久間町の春木屋で夫婦は晩飯をすませたそうだ」
畝源三郎が春木屋を調べたところ、たしかに総右衛門夫婦らしい二人連れが鰻を食べに寄っていた。
「春木屋の女中がいっていたそうだ。女房のほうは空模様を気にして、早く帰りたがっていたのに、亭主はのんびりと酒を飲んでいて、なかなか腰が上らなかった。おまけに二人が店を出る時には、もう雨がぽつぽつ降り出していて、女中が駕籠を呼びましょうかといったのを、なに、その辺で拾うからと、ずんずん、和泉橋のほうへ歩いて行ったとさ」
江戸に不馴れな夫婦だと東吾はいった。
「いや、総右衛門のほうは商売で何度か江戸に出て来ていたとしても、小半日、上野から神田まで歩き廻って、女房はさぞくたびれていただろう。外はもう夜だ。おまけに空模様が危い。誰だって帰りを急ぐ。駕籠を呼んでもらえないかと自分から頼むのが普通じゃないのか」
るいが眉をひそめた。
「では、畝様もあなたも、総右衛門さんがあやしいと……」
東吾が重くうなずいた。
「だがなあ、亭主が女房を殺す理由がみつからないのさ。源さんは長助を行徳までやって近所の噂を探らせたらしいがね」
多田総右衛門というのは、代々、塩田を取りしきっていて、お上から苗字帯刀を許されるほどの家であり、行徳でも指折りの資産家の当主だった。
「おつぎのほうは、成田の百姓の娘で、総右衛門の家へ奉公に来ていて、総右衛門の母親のめがねにかなって嫁になった。それだけに気立てのいい働き者で、総右衛門の両親が患いついた時も、最後まで行き届いた看病をしてどちらも死ぬ時は嫁に手を合せて逝ったそうだよ。しかし、総右衛門のほうは女房に子供が出来ないという理由で、けっこう女遊びが激しいそうだが、この節は成田の茶屋で働いているおふじというのに熱くなっている」
「それじゃ、お内儀さんが邪魔になって……」
「長助も、そう考えたらしいんだが、おふじには金五郎という土地のならず者がついていて、総右衛門もそれに気がついている。遊び仲間にも、あの女に深入りするつもりはないといっていたようだ」
加えて、総右衛門は女房にぞっこんで、おつぎが出入りの植木屋と口をきいても焼餅をやく。
「実家の両親の法事に行くにしても、自分がついて行けない時は、必ず女中を供につけ、寺を出たのは何刻だ、家に着いたのは何刻だと、そりゃあ口やかましいんで近所の評判になっている」
それほど女房に惚れ切っている男が、たいした理由もなしに殺害するだろうかと長助も報告しているといった。
「どうも、俺も源さんもお手上げだよ」
ただ、長助が聞いて来たことの中に、一つだけ、気になることがあるのだが、と東吾は憂鬱そうに話した。
「おつぎが江戸へ出て行った時のことだが、塩屋の奉公人の話だと、だしぬけだったというんだよ。総右衛門のほうは五日前に上総へ出かけて、およそ十日ばかりで帰る予定だったそうだが、主人夫婦が江戸で待ち合せることなんぞ、奉公人は誰も聞いちゃいなかったらしい」
もっとも、そのことについて総右衛門自身は、
「上総へ出かけます時、家内とは約束が出来て居りました。手前は家内が出かける時、奉公人に話をして行くと思って居りましたが、もし、話してないとすれば、きまりが悪かったのかも知れません」
といっている。
塩屋の店には番頭も手代も多く、主人夫婦が十日や半月留守にしても、商売にはなんのさしさわりもないとのことであった。
「ひっかかるんだが、どうにもならない」
投げ出したように東吾がいい、その件はそれきりになった。
その年の秋は、とりわけ足早やに過ぎて江戸は日に日に寒さが増した。
降りみ降らずみの時雨《しぐれ》が漸く上って、久しぶりの好天になったところに、成田から高砂屋万兵衛が「かわせみ」へやって来た。
「また御厄介になりますよ」
と、気に入っている桐の間へ通って、早速、るいが挨拶に出ると、
「先だっては、どうもいろいろと迷惑をかけたようで……」
と頭を下げた。
「塩屋のおつぎさんの実家は成田でね。歿《なくな》った父親は、うちの小作人の頭だった。その縁で、こちらを紹介したのだが……」
気の毒なことをしたと、沈痛に語尾を途切らせる。るいも宿帳を持って来た嘉助も返事のしようがなくて、口ごもっていると、
「ところで、総右衛門さんが殺されたのを御存じか」
と万兵衛がいい出した。
「なんでございますって……あの、塩屋の御主人が……」
嘉助が体を乗り出し、るいも息を呑んだ。
「先月の九日、左様、月は変るがおつぎさんの命日の日のことですよ」
早朝、汐浜の塩田の中に、総右衛門が倒れていて、その横腹に深々と脇差が突きささっていた。
「あのあたりはのどかな土地で、人殺しなんぞ、滅多にありはしない。汐浜に人殺しがあったというので、成田のほうまで大層な評判になりました」
嘉助が訊いた。
「下手人は挙がったので……」
「代官所は金五郎という遊び人をしょっぴきましてね、そいつの色女のおふじというのが成田の茶屋にいて、総右衛門さんといい仲になっていたのだが、別れ話がこじれて、金を出すの出さぬのと揉めていたらしい。金五郎もおふじも、自分達は知らぬ存ぜぬと突っぱねていたようですが、どういうものか金五郎は御牢内で病死したそうです。おふじのほうは女のことでもあり、お上が御放免にしたのですが、成田には居られなくて、木更津のほうへ流れて行ったと聞いています」
塩屋の店は親類が相談して、総右衛門の弟の子を養子にし、なんとか商売には支障がないよう周囲が助けているといった。
るいは夢中で訊いた。
「歿られたおつぎさんには、横浜のほうに弟さんがいらっしゃると聞きましたが……」
万兵衛が、こともなげに答えた。
「徳之助のことでしょう。あれは、本当の弟ではありませんで、おつぎさんの二度目の母親、つまり、父親の後妻の連れ子なのですよ。働き者のいい子じゃったが、おつぎさんが塩屋の嫁になったあと、家をとび出して川崎のほうの塩田で働いていると聞いていたが、先月、寺の和尚の話では、横浜で商売がうまく行っているとかで、かなりまとまった金を寺におさめに来て、両親の永代供養を頼み、その折、おつぎさんの墓を実家のほうへ戻してくれと頼んだそうでね、塩屋のほうと和尚が話をつけ、改めて親の墓のほうへ葬ったとのことですよ」
徳之助の横浜の店は、次徳《つぎとく》屋といい、生糸を扱っているそうだと、高砂屋万兵衛の話は延々と続いた。
翌日、東吾は畝源三郎と横浜へ発った。
お供には長助がついて来る。
おつぎと徳之助が本当の姉弟でないとわかっていれば、というのが東吾と源三郎の後悔であった。
「あっしが成田まで足をのばさなかったのがしくじりでございました。成田まで行って、高砂屋で話をきけば……」
長助は道々、何度もぼんのくぼに手をやっている。
「おつぎがかわせみで待っていたのは徳之助だったんだ」
今更のように、東吾も歎息した。
「徳之助が郷里を出奔したのは、おつぎが嫁入りしてすぐだという」
おそらく、二人は好き合っていたのだろうと推量出来た。
四つ違いの、血の続かない姉弟である。
二十年余り働き抜いて、徳之助は横浜で店を持つまでになった。
「おつぎとは文のやりとりをしていたんだろうな」
姉が不幸せな嫁入りをし、夫の横暴に耐えていると知って、徳之助はおつぎに家を出ることをのぞんだ。江戸で待ち合せたのは、おたがいの決心を確認するためであったに違いない。
夫が上総に商用で出かけるのを知って、おつぎは徳之助と連絡を取り、行徳から江戸へ出た。
「総右衛門が、どうして女房が江戸へ出たのを知ったかなんだが、高砂屋の話だと、おつぎが行徳を発ってから、塩屋の番頭が来たそうだ。お内儀さんから江戸の宿を聞きそこねましてといわれて、高砂屋はまさか、おつぎが家を出るつもりとは知らないから、かわせみを教えたんだ」
「番頭が、総右衛門に知らせたわけですな」
「総右衛門は上総の商用を放り出して江戸へやって来た」
「おつぎは、総右衛門に離縁してくれと頼んだんですかね」
「なんで江戸へ来たと問いつめられれば、白状するより仕方がないだろう。気のきいた嘘がいえるような女じゃなかったんだ」
おつぎは徳之助と夫婦になりたいといったのではなかろうと東吾はいった。
「仮にも姉弟なんだ。弟の厄介になって商売の手伝いでもしたいととりつくろったんだろうが、総右衛門には通用しない」
長助がなんどもうなずいた。
「焼餅焼きの亭主だって、店の者から町の連中まで口を揃《そろ》えていいましたよ。自分の塩田で働いている人足に、おつぎさんが茶を汲んでやっただけで、ひっぱたいたってんですから……」
「好きでもない男の焼餅は、女にとって地獄だっていいますよ……」
源三郎がほろ苦く呟いた。
豪雨の中で亭主が女房を締め殺す凄惨な地獄図が目に浮ぶようで、男三人は話をやめ、黙々と道を急いだ。
もはや、総右衛門がおつぎを殺したのは間違いなく、同時に行徳の汐浜で総右衛門を殺し、姉の敵を討ったのは徳之助だと見当がついていた。
「かわせみ」へやって来て、姉の死を知り、徳之助はすぐ真相に気づいた。
総右衛門を殺そうという決意は、あの時に生じていた筈だ。
東吾も源三郎も残念でならないのは、もっと早く真実を知っていたなら、徳之助に罪を犯させずに済んだと思うからで、横浜へ急ぐ足が重いのは、その故であった。
だが、横浜へ着いて、人に訊ね、次徳屋の店の前までたどりついて、三人の男はあっけにとられた。
店は大戸が釘づけになっていた。
「徳之助さんなら、先月のはじめに、店を売って横浜を出て行きましたよ。なんでも、たった一人の大事な姉さんに死なれて働く気がなくなったとか。西国を巡礼して、どこかの寺で坊主になるつもりだといっていました」
徳之助と親しかったという隣家の主人の話を聞いて東吾と源三郎は顔を見合せた。
高砂屋万兵衛が、成田の菩提寺に、徳之助がやって来て両親の永代供養や、姉の墓のことを依頼したと話した時、ひょっとするとこういうことになっているのではないかと思わぬでもなかったのだ。
「まあ、敵討《かたきうち》なんだから、お上にお慈悲があるだろうとは思っていたんだが……」
「一応、総右衛門殺しの下手人は成田の牢で病死していますのでね」
「あっしも、なんだか、ほっとしました」
横浜で腹ごしらえをし、そのまま江戸へひき返す男三人の足は軽かった。
冬の陽が、徳之助が向ったという西の方角へ傾きかけている。
海からの風が、街道に磯の香を運んで来た。
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春桃院門前《しゆんとういんもんぜん》
麻布《あざぶ》本村町の高台から二ノ橋へ向って下りて行く五十間ばかりの道を仙台坂といった。
坂の片側が松平|陸奥守《むつのかみ》の下屋敷で、坂に面して立派な門があるために付いた名だが、その門の向い側に春桃院という寺がある。
臨済宗、京都妙心寺の末寺で、寺地が千八百坪ばかりもあり、仙台坂側が門前町になっていた。そこに小さな花屋がある。
秋の彼岸の中日で、花屋は墓参の客で混雑していた。
なにしろ、この一帯は寺だらけ、墓地も少くない。
突然、一挺の駕籠《かご》がそのあたりの人々を押しのけるようにして花屋の前へ止ると、垂れをはねのけるのももどかしいように、一人の娘がとび出した。
花屋の店先では、娘のおえいが客から花の代金を受け取ったところだったが、駕籠から下りた娘は、いきなりおえいの手を取った。
「あんたが、おえいなのね。知らなかった。こんな近くに、妹がいたなんて……」
いきなり声をあげて泣き出した。
あっけにとられて眺めていたお客は、やがて、その二人の娘が、身なりや髪形は違っても、色白の愛くるしい容貌が、まるっきり瓜二つなのに気がついた。
で、気のきいた一人が、娘を乗せて来た駕籠屋にそっと訊いた。
「飯倉三丁目の涵月亭《かんげつてい》のお嬢さんですよ」
それを小耳にはさんだ人々の中から小さなささやきが起った。
この界隈《かいわい》の人は、花屋の女主人が、麻布一番の料理屋、涵月亭の主人の囲い者と知っていたからである。
「それじゃあ、あの二人は腹違いの姉妹ってわけか」
「まるで双児みてえにそっくりだのう」
飯倉の岡っ引、桶屋の仙五郎はそういったささやきを耳にしながら、のび上って花屋の店先をのぞいた。
緋鹿《ひが》の子《こ》の結綿《ゆいわた》に、友禅の中振袖の着物の娘を、縞の木綿に赤い帯を締めた娘が、いささか途惑いながら抱きかかえている。
なんと申しますか、まるで芝居をみているような按配でして、と、飯倉の仙五郎が話しているのは、麻布の春桃院門前で姉妹が手を取り合ってから、およそ半月後、江戸は大川端の「かわせみ」の居間である。
「知らなかったんですかねえ、そのお嬢さん。自分の父親に、お妾さんがいたってこと……」
早速、仙五郎の話に反応したのは女中頭のお吉《きち》で、
「御本宅とその花屋ってのは、同じ麻布の中じゃないんですか」
と訊いた。
「涵月亭は飯倉三丁目でございますから、仙台坂とはすぐ近くってほどでもございませんが、そう遠くもありません。まあ、お順さんは一人娘として父親の仙右衛門さんがえらく箱入りに育てていたってことですから、妾のことは気がついていたでしょうが、そこに自分と一つ違いの妹がいるってことまでは、仙右衛門さんが歿《なくな》るまで知らなかったみたいでして……」
「歿ったんですか、涵月亭の御主人は……」
「先月のはじめに、近くの菩提寺へ、お内儀《かみ》さんの十三回忌の法事の打ち合せに行っていて急に具合が悪くなったとかで、住職が医者を呼んだが、それっきり意識も戻らねえで歿ったそうで。寺で仏になるとは手廻しがよすぎるなんぞと罰当りをいう奴も居りました」
「涵月亭の娘は、いくつだ」
口をはさんだのは神林東吾《かみばやしとうご》。
「お順さんは十八の筈で……」
「随分、早くにお袋をなくしたんだな」
「へえ、涵月亭のお内儀さんは、お順さんを産んでからずっと産後の肥立ちが悪く、長患いのあげくに歿ったんで。妾のおすがさんって申しますのは、もともと、涵月亭の女中で、旦那の身の廻りの世話をしている中《うち》に、お手がついたって奴でして……」
仙右衛門は、おすがとのことが世間へ知れる前に、女中をやめさせ、春桃院の近くに隠居所を借りて移したから、そのおすがが間もなく女児を産んだのは、涵月亭の奉公人でも、番頭の弥八ぐらいしか知らなかったらしい。
「お内儀さんが歿ったあと、そのおすがさんを後添えに直すつもりはなかったんですか」
と訊いたのは|るい《ヽヽ》で、宿屋商売にとっては一番、暇な午後のひととき、「かわせみ」では久しぶりに訪ねて来た仙五郎を囲んで、すっかり話の花が咲いている。
「やっぱり、お順さんの気持を考えたんじゃありませんかね。お内儀さんが歿った時、お順さんは五つかそこいらで、そりゃあ父親《てておや》になついていて、どこへ行くにもついて歩いていたんですから……」
その代り、おすがには春桃院門前の花屋の店を買ってやり、自分に万一のことがあっても暮しに困らないよう配慮したという。
「仙右衛門さんが歿った時、おすがさん母娘はお別れに来たんですか」
お吉が話の先くぐりをした。
「お順さんのいない時を見はからって、番頭さんが焼香させたんですが、そいつがあとになってお順さんの耳に入りましてね。それで、お順さんは妹のおえいに会いに行ったんだそうです」
そこで仙五郎が少々、可笑《おか》しそうに続けた。
「お順さんは、おえいをひき取りましたんで……。まあ、父親に死なれて一人ぽっち、寂しくもあったんでしょうが、同じ涵月亭の娘なのに今まで肩身せまく暮させてかわいそうだったってんで、着物から帯から髪のかざりまで、そっくり自分と同じものを作らせて、頭のてっぺんから足の先までそっくり同じふうにして、その恰好で客へ挨拶もさせる、客は顔も同じなら、様子も同じ、どっちがお順だかわからなくなって大慌《おおあわ》てですよ。そこで、お順とおえいを見分けた客には涵月亭のほうから賞品を出すというんで、そいつが大評判になりましてね。涵月亭は大当りに当りました」
なにしろ、瓜二つの若くて愛くるしい娘が交替に、座敷へ出て客の相手をする。客は今のがお順、いや、さっき出て行ったのがおえいだと大さわぎをする。
「芸者を呼ぶより、よっぽど面白いようでございますよ」
狸穴《まみあな》の方月館の方斎《ほうさい》からの文を届けにやって来て、そんな世間話をして仙五郎が帰ると、「かわせみ」では暫《しばら》く、涵月亭の姉妹の話でもちきりになった。
「お順ってのは利口者だな」
というのが東吾の意見で、妾腹の妹が自分にそっくりだと知って、店の話題作りに利用したのではないかと考えていた。
「若い娘さんが、そこまで智恵が廻りますかね」
反対したのはお吉で、
「仙五郎親分もいってたじゃありませんか。お父つぁんに死なれて寂しくなったって。十八かそこらで親も兄弟もなかったら、さぞ心細いと思いますよ。妾腹だろうと血のつながっている妹がいて、なつかしい、嬉しいってのが本心で、それが、たまたま、お客の評判を呼んだんじゃありませんか」
るいに同意を求めた。
そのるいは、ちょっと考えていたが、
「おえいさんのおっ母さんは、どうしたんでしょうね。娘さんだけがお店にひき取られて、一人で花屋をやっているんでしょうかしら」
首をかしげた。
「おっ母さんは無理じゃありませんか」
お吉は割り切りがよく、
「涵月亭には、歿ったお内儀さんの位牌もあるでしょうし、娘さんの立場ではお妾さんまで家に入れるってのは、おっ母さんの親類だっていい気持はしないでしょうし……」
という。
「まあ、今度、狸穴へ行ったら、仙五郎にそのあたりを訊いてみよう。涵月亭というのは鰻が旨いそうだから、なんなら方斎先生と行ってみるか」
うっかり東吾が口に出し、
「まあ、若先生ったら、きれいで若い娘がいるっていうと、すぐそうなんですから……」
お吉にぐっと睨《にら》まれた。
その日、仙五郎が持って来た方斎の文は例年、十一月一日に催される方月館の紅白試合に東吾が審判をつとめてくれるだろうかというもので、
「若先生の御都合が悪いようなら、老先生がおやりになるとおっしゃっていらっしゃいますが、先生も御門弟衆も、やっぱり若先生のお顔がないと物足りないと申しますか、寂しく感じてお出《い》でのようで……」
と仙五郎が遠慮がちにいっていた。
方月館の紅白試合は門弟がくじで紅白二組に分れて試合をし、腕を競い合うもので、いつの頃からか方月館の年中行事の一つになっていた。無論、審判は今まで必ず東吾がつとめていた。
「大丈夫だ。必ず、うかがうと先生に御返事申し上げてくれ」
短い返書と共に、東吾は口頭でもはっきり返事をしている。
で、十月三十日、東吾は講武所の稽古が終ると、その足で狸穴へ向った。
試合は早朝に開始するので、どうしても前夜から方月館へ行っていたほうが都合がよい。
方月館では、方斎をはじめとして、おとせと正吉、それに善助が、東吾の来るのを待ちかまえていた。
「無理をさせたのではないか」
心配そうな方斎に挨拶し、早速、明日の試合の組合せをみたり、少々の段取りを決めたりしてから晩餉《ばんげ》の膳についた。
久しぶりに会った正吉は背が伸びて、肩や腕がたくましくなっている。
東吾がおとせと善助から、飯倉の涵月亭について話を聞いたのは、方斎と正吉が早寝をしたあとであった。
「涵月亭の娘さんたちのことでしたら、この辺りでも評判でございます」
東吾のために甘柿の皮をむきながら、おとせがいった。
「私がお順さんとおえいさんをみたのは、先月、飯倉八幡の祭見物に参った時、仙五郎親分が教えてくれましたのですけれど……」
二人とも、祭のお揃いを着ていて、
「皆さんが、いずれが菖蒲《あやめ》か杜若《かきつばた》かとさわいでお出ででした」
「そんなに似ているのか」
「そりゃあもう……」
と、うなずいたのは善助で、おとせはちょっと考えた。
「たしかに、よく似てお出でですけれど、お二人が並んでいるところをみると、なんとなく違うようにもみえました」
例えば、おえいの母親のおすがが見れば、どちらが自分の娘か見分けのつかないことはなかろうといった。
「でも、仙五郎親分の話ですと、お二人は、お客にどっちが誰とわからないように、わざと声や喋り方も似せているそうですから、一人ずつが別に現われたら、まず迷ってしまうでしょうね」
「ところで、おえいの母親はどうしているんだ」
東吾が訊き、善助が答えた。
「相変らず春桃院の門前で花を売っていますよ。娘はともかく、母親まで涵月亭に入るわけには行かねえようで……」
「そいつは寂しいだろうな」
「ですが、娘の出世のためですから……」
花屋の娘より、涵月亭の娘でいるほうが、さきゆき、いい縁談に恵まれるだろうと善助はいう。
「二人の娘に、好きな男はいないのか」
「そいつは聞いて居りません。仙五郎親分は飯倉中の若い男が、みんなあの姉妹におか惚れだなんていってましたが……」
とにかく、大変な人気者であることは間違いなさそうであった。
夜が冷えて来て、東吾はおとせの用意してくれた夜具にもぐり込んだ。
翌日の紅白試合は熱戦が続いたが、正午にはすべての勝負が終った。
少年剣士達にまじって、東吾も握り飯を頬ばっていると、善助が、
「仙五郎親分が、先程から来て居ります」
そっと告げた。
で、道場を抜け出して台所へ行ってみると、
「若先生、えらいことになりましたんで……」
仙五郎が青い顔で近づいて来た。
「昨夜、おえいが心中致しました」
「心中……」
「へえ、板前の喜三郎てえ男と毒を飲みまして……」
石見銀山《いわみぎんざん》ねずみとりを酒に入れて飲んだものだといった。
「おえいというのは妾腹のほうだな」
「左様で……」
「姉はどうしている」
「あっしが涵月亭へかけつけた時は、妹の死体にすがって半狂乱で泣いていました」
「医者は心中だといったんだろうな」
「そうです」
「では、どうして親分は俺のところへ来たんだ」
仙五郎が困った顔になった。
「実を申しますと、おえいの母親が、娘は殺されたに違いねえと……」
「ほう」
仙五郎を待たせておいて、東吾はいったん奥へ行き、方斎の許しを得て戻って来た。
「一緒に飯倉へ行こう」
仙五郎は喜んで案内に立った。
涵月亭は、てんやわんやの最中であった。
「おすがさんが娘の死体をひき取って行きましたんで……」
仙五郎のところの下っ引がすぐに報告した。
「お順さんは、涵月亭の娘として、こちらで野辺送りをしてえといったんですが……」
そのお順は泣いた顔のまま、奉公人を指図していた。
東吾の目くばせで、仙五郎が近づいていった。
「おえいは春桃院のほうへ行ったらしいな」
「親分さん……」
お順が手拭を目にあてた。
「御厄介をおかけして申しわけありません。あたしは、せめて二人一緒に、うちの菩提寺で野辺送りだけでもしてやりたいと思ったんですけれど……」
「おすががいやだといったのか」
お順が小さくうなずいた。
「あの人は、あたしがおえいを家へ連れて来たのを怒っているみたいなんです」
愛くるしい顔が悲しげであった。東吾がみていると、大きな目から涙がひっきりなしに頬を伝っている。
「おえいのことについて訊きたいが……」
さりげなく東吾が仙五郎の脇から声をかけ、お順は驚いたように顔を上げた。
東吾を町奉行所の役人と思ったらしい。慌てて涙を拭き、固くなってお辞儀をした。
「おえいが板前の喜三郎といい仲になっているのを、いつ、知った」
僅かの間、唇を噛みしめるようにして、お順はしっかりした声で返事をした。
「おえいが、この家へ来て、すぐです」
「それについてお前は、おえいに何かいったか」
「妹のほうから打ちあけられました。喜三郎を好きだと……」
「で、なんといった」
「喜三郎は腕のいい板前ですけれど、妹の聟《むこ》として適当かどうかは、あたしにはわかりません。それに、妹はこの家へ来たばかり、世間様や奉公人に、涵月亭の娘として認めてもらう大事な時期なんです。だから、私は好きは好きでいいから、当分は人に気づかれないように、決して目立つようなことはしてくれるなと頼みました」
「おえいは承知したんだな」
「はい、あの子はあたしのいうことは、なんでも素直にきいてくれますので……あたしもおえいと喜三郎のことは誰にもいいませんでした」
「反対はしなかったんだな」
「はい」
「誰かが、二人の仲を裂くようなことをしたと思うか」
「さあ、別に心当りはありません」
「おえいの母親はどうなんだ」
「多分、喜三郎とのことは知らないと思います。よけいな心配をかけるだけだから、話す時がくるまで黙っているようにと、私が申しましたので……」
「では、何故、心中したんだ」
好き合っている男女が心中するには、どうしても夫婦になれない事情がなければならない。
お順が両手を握り合せるようにした。
「わからないのです。ただ……」
「ただ……なんだ。なんでもいい、思いつくことをいってみろ」
東吾にうながされて、重く口を開いた。
「喜三郎は男前ですから、けっこう、深い仲の女がいたかも知れません。おえいは気性の激しいところがありましたし、思いつめる性質《たち》でした」
「こうなる前に、あんたに相談はなかったのか」
「ありません。死ぬほど思いつめていたのなら、あたし、なんとしてでも、二人を夫婦にしてやったのに……」
わあっと声を上げてお順が泣き出し、東吾は慰め役を仙五郎にまかせて、その場を離れた。
涵月亭は店を閉めていた。
店先には番頭の弥八が出ていて、事件を知ってやって来る近所の人に挨拶をしている。
それが途切れるのを待って、東吾は声をかけた。
弥八は、仙五郎の子分にでも聞いたらしく、東吾の身分を知っていた。
「えらいことになったな」
東吾の挨拶に丁寧に頭を下げる。
「おえいのほうは母親が引き取って行ったそうだが、喜三郎はどうする……」
「お嬢さんのおいいつけで、うちの湯灌場で湯灌をすませ、とりあえず菩提寺へ運んで野辺送りをという段どりになって居ります。なにしろ、生国は下総《しもうさ》でございまして、知らせはやりましたが、親兄弟の誰かが出て来るとしても今日明日というわけには参りませんので……」
「そういう取り込みの最中にすまないが、二人が心中していた場所をみせてもらいたいんだ」
弥八は承知して店から奥へ向った。
涵月亭の建物は門を入って、少々の植込みのある道を玄関にたどりつくと、上りかまちが広くとってあって、右手に帳場格子をおいた部屋がある。弥八がいたのはその場所で、この表の建物には階下と二階と、客を案内する部屋が大小とりまぜて八つばかりある。
そして帳場の裏側が調理場で、その勝手口を出たところから中庭伝いに行くと家族の住居らしい家があり、その隣に土蔵があった。
弥八が東吾を案内したのは土蔵で、すぐ前のところに、仙五郎の子分が見張番をしている。
喜三郎の死体はまだ蔵の二階で、
「間もなく湯灌場へ運ぶことになって居ります」
という。
蔵の二階、といっても屋根裏部屋のようなところだが、そこに上るには小さな段梯子がついている。
仙五郎の子分の松之助というのが先に立ち、続いて東吾、最後に弥八がおっかなびっくり上って来る。
古い箪笥《たんす》や長持をおいた中に三畳分ほどの空間があり、そこに男が倒れていた。
誰の心遣いか、一応、古布団がかけてあったのを、松之助がそっとめくって東吾にみせる。
たしかに男前だが、悶死した顔はすさまじかった。
「おえいさんは、喜三郎に抱きつくような恰好で死んでいまして……」
二人の前には、酒の徳利と茶碗が二つころがっていたが、
「検屍のお医者が持って行きました」
「喜三郎とおえいは、いつもここで逢引をしていたのか」
東吾がふりむき、弥八はへどもどした。
「おそらく、そういうことかと……」
「二人がいい仲なのを、あんたや店の者はいつから知っていた」
畳みかけられて、亀の子のように首をちぢめた。
「手前はみたことがございませんでしたが、店の者から喜三郎がこの蔵へ入って行くのをみかけたと……」
「おえいが蔵へ入るのは……」
「おえいさんはお嬢さんと一緒に母屋のほうで暮していますから、蔵へ入っても店の者にみとがめられることは滅多にございませんので……」
たしかに蔵の入口は住居《すまい》の玄関と向い合っていて、店の側に竹垣があるから、勝手口からはみえない。
「二人の仲が噂になったのは、いつ頃からなのだ」
「先月のなかばぐらいでございましょうか。世間様へ洩れないようにきびしく口止めはしておきましたが、こんなことになってはもう……」
店の評判はがた落ちになると不安そうであった。
「二人のことを、あんたはお順に知らせたのか」
「いえ、申し上げませんでした」
「何故だ」
主人の仙右衛門が歿って以来、この店を取りしきっているのは、番頭の弥八ときいている。
弥八が苦渋に満ちた表情で答えた。
「手前どもは、喜三郎の相手がおえいさんかどうかわかりませんでしたので……」
「なんだと……」
反問して、東吾は気がついた。
「そうか。お順かも知れないと思ったんだな」
父親が死んで、住居で暮しているのはお順とおえいの姉妹だけであった。おまけに二人は顔形から着るものまでそっくりである。
「喜三郎から、なにか聞いてはいなかったのか」
自分の相手について、奉公人同士、話していなかったのかという東吾の問いに、弥八は顔をしかめた。
「あいつは変り者で、奉公人とは殆《ほとん》ど口をききません。大体が渡り者でして、ああいう男は一つ所に長くは居ないようでして……」
「涵月亭で働くようになったのは、いつからなのだ」
「今年の春からでございます」
その時分は仙右衛門もまだ元気であった。
「正直を申しますと、九月のはじめに旦那様が急死されまして、涵月亭はどうなるかと心配して居りました。二人のお嬢さんのことが評判になって、なんとかしのいで行けるかと存じて居りました矢先、こうなりまして……」
涵月亭のさきゆきは暗いと、番頭は予想しているようであった。
飯倉三丁目から、東吾は仙五郎と春桃院門前のおすがのやっている花屋へ行った。
こちらはもう通夜の用意が出来ていて、おすがが変り果てた娘の枕許に、ぼんやりすわり込んでいる。
「あんた、娘は心中する筈がないっていったそうだな」
線香をたむけてから東吾が訊くと、大きくうなずいた。
「おえいは殺されたんです」
「下手人は誰だ」
「お順ですよ」
「何故、そう思った」
「何故って、わかりませんけど、お順に間違いないんです」
「証拠は……」
「証拠なんてありませんよ」
「おえいが、あんたになにかいっていたのか」
おすがが情なさそうに応じた。
「なんにもいいませんでしたよ。あの子は、涵月亭へ行ってから一度も帰って来やしません。それどころか、お祭の時、思い切って訪ねて行ったら、親のことなんか見むきもしないんですよ。着飾って、姉さん、姉さんってお順のあとをついて歩いて、あんなお調子者になっちまうなんて、あたしは口惜《くや》しくって涙も出なかった」
「おえいは涵月亭へ行って満足していると思えたか」
「大満足でしたよ」
涵月亭へ行けば、お嬢さんだとおすがはいった。
「着るものから食べるものから贅沢三昧で、お客にはちやほやされるし、若い男は寄って来る、奉公人を好きなようにどなりつけて、なんでもお順さんと同じように振舞っているって聞きました」
花屋の娘なら、朝から晩まで働きづめで、
「きれいな商売だとお思いなさるか知れないが、一年中、水仕事ですからねえ」
夏はまだしも、これからの季節は指先はあかぎれだらけ。
「痛いなんてものじゃありません」
そうして僅かの金をもらい、母娘がつましく暮して来た。
「涵月亭の暮しをおぼえたら、ここの暮しなんて夢にもみたくないでしょう。若い娘なら当り前だと思います」
涙の乾いた顔でそういい切ると、おすがはそれっきり口をきかなくなった。
「要するにお順がおえいを涵月亭へ連れて行ったから、喜三郎といい仲になって、あげくに心中した。つまり、お順がおえいを殺したも同然だと、おすがはいいたいんでござんしょう」
仙五郎は、おすがのいい分をそう解釈したが、東吾は今一つ、すっきりしなかった。
「もしもでございますよ、おすがさんのいう通り、お順さんが二人を殺したんでしたら、こういうことは考えられませんでしょうか」
大川端の「かわせみ」へ帰って来た東吾の話を聞いて、まっ先に意見を述べたのは、例によってお吉で、
「お順さんは喜三郎といい仲で、それが、あとから来たおえいさんに喜三郎を奪われた。それで、二人を蔵の二階へ呼んで、毒入りの酒を飲ませて殺したってのは、どうでしょうか」
と得意そうに鼻をうごめかした。
「たしかに、そういうことも考えられましょうが……」
慎重に首をひねったのは番頭の嘉助《かすけ》で、
「もし、喜三郎がお順さんを裏切った、おえいさんも姉さんの恋人を盗んだってことですと、そういう二人が、お順さんに勧められた酒をあっさり飲みますかね。胸におぼえがあれば、それなりに用心するもんじゃありませんか」
という。
「うっかりしたんですよ、二人とも。お順さんだって、うまいこといったんでしょうし……」
「いや、おえいさんはともかく、喜三郎のようなしたたかな奴が、素人娘に騙されるとはどうもねえ」
嘉助とお吉のやりとりに、東吾も加わった。
「俺も、その点がひっかかるんだ。お順と喜三郎がいい仲で、喜三郎がおえいと出来た。お順が二人を殺そうとまで思いつめるには、その前に相当の修羅場があるだろう。どうかくしたって奉公人は気がつくもんだ。第一、喜三郎とおえいが、お順に殺されるまで待っているものか。とっくに手に手を取って涵月亭を逃げ出すだろう」
るいもいった。
「仙五郎親分の話ですと、お順さんとおえいさんは事件が起るまで、仔猫がじゃれ合うみたいにして暮していたと、お店の人達がいっているそうですね。もし、一人の男を取り合ったら、みせかけにせよ、そんな仲よく出来ますでしょうか」
お吉がむくれた。
「でしたら、こういうのはどうですか。おえいさんは喜三郎に夢中になったが、喜三郎のほうは他に好きな女がいてとり合わない。そうですよ、喜三郎が好きだったのは、お順さんだったんです。だから、おえいさんは思いつめて、喜三郎を殺して自分も死ぬ気になったってのは……」
東吾が腕を組んだ。
「仙五郎は、お吉と同じ考えなんだがね」
「若先生は違うんですか」
「俺がこだわっているのは、最初の仙五郎の話なんだ」
九月の彼岸の日、参詣客で混雑する春桃院門前へお順がやって来て、おえいと手を取り合い、姉妹の名乗りをして泣いたというところだと、東吾はいった。
不思議そうな顔でお吉がいった。
「それが、なにかおかしいんですか」
「どうして、そんな派手な真似をしたのだろう」
「当人は派手だとは思ってなかったのじゃありませんか」
「それにしてもだよ」
しかし、東吾の思案もそこまでであった。
いつまでも飯倉の心中事件に気をとられている程、世の中はおっとりしていない。
この年は五月から上方《かみがた》が大旱《おおひでり》で百日も雨が降らず、大坂は飲水にも困るというさわぎが起ったし、その影響で、西国は米が不作とあって秋に米の値段が急騰している。
月末に仙五郎がお上の御用で出て来たついでだといって大川端の「かわせみ」へ顔を出した。
「その節は、どうも御厄介をかけまして……」
と挨拶したのは、涵月亭の事件のことで、
「その涵月亭ですが、とうとう店を閉めることになりました」
心中事件でけちがついたということもあるが、
「仙右衛門さんの代から、どうもうまく行っていなかったとみえまして、今月限りで奉公人も暇を取り、店は人手に渡ることになっています」
といった。
「そうすると、お順はどうなるんだ」
東吾が訊き、仙五郎が案外、明るい感じで返事をした。
「あの娘は、来春、嫁入りしますので……」
それまでは麻布の親類の家へ身を寄せることになっていると話した。
「嫁入りって、いったい、どこへ……」
あっけにとられていた嘉助が口をはさむ。
「同じ飯倉三丁目に駿河屋といいまして、扇問屋がございます」
老舗で、あのあたりの大地主でもあるといった。
「悴《せがれ》の新兵衛といいますのが、三年間、京の本店のほうへ修業に行って居りまして、つい五、六日前に帰って参りました」
仙五郎が町役人《ちようやくにん》から知らされたところによると、駿河屋の主人と、歿った涵月亭の仙右衛門との間に口約束が出来ていて、さきざき、お順を新兵衛の嫁にすると決っていた。
「仙右衛門は一人娘を駿河屋へ嫁に出し、そのあとで涵月亭を閉める気だったそうでして……」
無論、お順は自分が駿河屋へ嫁入りすることは知っていた。
「新兵衛と申しますのは、手前も存じて居りますが、実直ないい男で、お順にとってもこの縁談は願ったりかなったりでございましょう」
そういうことがあるので、涵月亭を閉めるのは特に心中事件のせいというのではなく、前から予定されていたものだという。
「まてよ」
東吾がすわり直した。
「駿河屋新兵衛が江戸へ帰って来るというのは、いつ頃からわかっていたのだ」
「九月のあたまに仙右衛門が急死して、それを親からの文で知った新兵衛がお順にくやみ状をよこし、さぞ心細いだろうが、自分もこの秋のうちには必ず江戸へ戻るからといってやったと申しますから……」
「そうすると、彼岸の前あたりか」
お順は許嫁《いいなずけ》の新兵衛が間もなく江戸へ帰ると知ってから、春桃院門前に母と暮していたおえいと姉妹の名乗りをあげ、涵月亭へひき取ったということになる。
「仮に、お順と喜三郎が深い仲だったら、どうなる」
おそらく、そうなったのは、父親の仙右衛門が死んでからだろうと東吾はいった。
「一人きりで寂しかったのか、男のほうが忍び込んで手ごめにでもしたのか」
父親が死んだあと、お順はあの離れのような家で一人きりで住んでいた。奉公人のいる店とは庭続きだが、夜、少々声を上げても気がつかない距離でもあった。
「許嫁が帰って来ると知って、お順は夢から醒めたような気持だったろう。迂闊《うかつ》に身を許した相手は、新兵衛が帰って来たからといって、お順から手を引くような奴じゃない。最初からお順と涵月亭を自分のものにする気だったのかも知れないんだ」
仙五郎が目をむいた。
「するってえと、お順はおえいを自分の身代りに……」
「瓜二つの女が同じ衣裳を着て、毎日、暮すってのがまず奇妙だと思わないか。お順は奉公人達に、まず喜三郎と蔵の二階で逢引しているのが、自分か、おえいかわからなくさせたんだ」
無論、喜三郎と逢っていたのはお順で、
「こいつも俺の推量だが、おえいには自分の代りに駿河屋へ嫁入りしてもらうつもりだといい、喜三郎には夫婦になって涵月亭をやって行くと安心させておいたのだろう」
喜三郎とおえいが、すっかりお順を信頼していれば、二人を蔵の二階へ呼んで毒酒を飲ませるのはなんでもない。
「だが、証拠が、なにもないんだ」
下総の、喜三郎の家では母親が病気で、まだ誰も江戸へ出て来ていない。喜三郎の遺骨は菩提寺にあずけたままだと知って、東吾は仙五郎に智恵をつけた。
仙五郎が出かけて行ったのは、麻布市兵衛町の伯母の家に居候をしているお順のところであった。
お順は嫁入り支度の一つなのだろう、縫い物をしていたが、仙五郎に呼ばれると、あっさり外へ出て来た。
「どうも、気のきいた化け物はとっくにひっ込んじまっている時分に、こういうことをいうのはなんだが、下総の喜三郎の親からお上に訴えが出ているんだ」
老練の岡っ引だが、どちらかというと嘘やはったりは苦手の仙五郎が切り出すと、お順はまっすぐに視線を向けて来た。
この前、仙五郎が会った時からみると、ひどく痩せて、娘らしさがなくなった分、凄艶な美しさが加わったようである。
「お上に、喜三郎の親は、なんと……」
「それが、喜三郎から以前、といっても、十月のはじめぐらいらしいがね、文が来て、近く涵月亭の娘と夫婦になると知らせがあったというんだよ。しかも、その娘の名を、はっきり、お順と書いてある……なのに、おえいと心中したというのは合点がいかねえというんだねえ」
仙五郎がみるところ、お順は顔色も変えなかった。黙ったまま、じっと仙五郎をみつめている。
仙五郎のほうが長い沈黙に耐え切れなくなった時、お順がぽつんといった。
「方月館の若先生のところへ連れて行って下さいな。そうしたら、なにもかも申し上げますから……」
お順を駕籠に乗せて、仙五郎が大川端へ着いたのは午《ひる》すぎで、東吾は仙五郎の報告を待って家にいた。
「すみませんが、若先生と二人きりで話をさせて下さい」
居間へ入るなりお順がいい出し、東吾は困惑したが、るいは心得て、仙五郎をうながして部屋を出て行った。
「随分、いいところにお住いなんですね」
庭から大川を眺めて、お順がいった。
「それに、きれいな御新造様までお持ちなんですもの」
東吾が笑った。
「まあ、不足をいったら罰が当るな」
「あたしも、本当なら、不足のいいようのない暮しが出来たんです。喜三郎なんて奴が出て来なければ……」
低いが、激しい語気であった。
化粧気のない青白い皮膚に血の色が浮んでいる。
「あたしも馬鹿です。いくら、お父つぁんに死なれて、心が弱くなっていたからって、あんな奴と……」
「相談出来る人間はいなかったのか、親類とか、知り合いの中に……」
「あったら、人殺しなんかしませんでした」
「しかし、おえいを巻き込むことはなかっただろう」
「喜三郎だけを殺したら、下手人があたしだって、すぐわかります。あんな男のためにお仕置になるのはいやですから……」
「それにしたって、血を分けた妹だぞ」
「あの母娘は、おっ母さんの敵なんですよ。おっ母さんの生きてる時分から、お父つぁんをたぶらかして……あの母娘のせいでおっ母さんは寿命を縮めたんです」
いい負かされたように黙っている東吾をみつめた。
「あなたが、仙五郎親分に智恵をつけたんでしょう。今頃になって、喜三郎の親から訴えが出たなんて……」
つい、苦笑した東吾をみて、自分も笑った。
「喜三郎が親に文で、あたしと夫婦になるって知らせていたなんて、よく出来た話だと思いますけど、そんな筈がないんです」
笑った顔のまま、ずばりといった。
「喜三郎は無筆でしたもの」
東吾が膝を打った。
「そいつは、うっかりした」
笑いをおさめたお順にいった。
「それじゃ、どうして、仙五郎とここへやって来たんだ」
お順が小さく咳をした。
「なにもかもうまくいったと思ったんです。これで、駿河屋の嫁になって、平穏無事な暮しが出来る。たしかにそう信じていたんですよ」
「そうならないのか」
「駿河屋じゃ、後悔しているみたいですね。けちがついて潰れた店の娘を、なんで今更、悴の嫁にしなけりゃならないのか」
「しかし、新兵衛は……」
お順がまた、空咳をした。
きれいな眉を寄せるようにして、胸をさすっている。
「新兵衛は、あんたの父親が死んだのを知って文をくれた。早く江戸へ戻るからとなぐさめてくれたんだろう」
お順の目が西陽の当っている大川をみつめた。
「二年ぶりに会って……あの人、あたしが変ったって……別の女のようにみえるって」
声が慄《ふる》え出し、終りは涙声になった。
「変りますよ、二人も人を殺しているんですから……」
それっきり声をふりしぼるようにして泣きに泣いた。
が、やがて涙を拭くと、かすかに微笑した。
「胸が軽くなりました。重くて、苦しくて、どうしようもなかったのに……」
恥かしそうにつけ加えた。
「仙五郎親分を呼んで下さい」
お順は仙五郎につき添われて自首した。
そうなると放っておける東吾ではなくて、畝源三郎《うねげんざぶろう》に頼んで、なんとか情のあるお裁きをしてもらえないかと相談したり、牢へ差入れをしたりした。
だが、十二月、みぞれまじりの雪の降る夕方に畝源三郎が知らせに来た。
お順は今日、御牢内でおびただしく血を吐き、医者が手当をしたが、先刻、遂に息をひき取ったという。
「|癆※[#「病だれ<亥」、unicode75ce]《ろうがい》だったようだと、医者は申していましたが……」
それに返事が出来ず、東吾は大川の上の、どんよりと重い雨雲をみつめていた。
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さかい屋万助《やまんすけ》の犬《いぬ》
この秋、深川っ子を驚かせたのは、六万坪に出来た、さかい屋万助の別宅、通称、万助御殿であった。
数千坪はあろうかという敷地の西北側は、土塀で囲まれ、南東は仙台堀と木場から流れる水路に接している。
しかも、別宅の入口は水路に向って、そのためにわざわざ専用の舟着場が作られている。
つまり、この家に出入りする者は酔狂に泳いで来る以外は舟に限られることになる。
敷地の中は樹木が茂っていて、土塀側はもとより、水路のほうから眺めても建物は殆《ほとん》ど見えない。
けれども、この家に出入りする商人や職人たちの話によると総檜造りの豪勢なもので、殊に客をもてなすために作られた部分は贅美を尽し、まるで大名家の奥御殿といった有様だといい、実際、そこに招かれるのは幕閣の要職にある人々だと噂されている。
「いったい、そのさかい屋万助というのは何者なんだ」
と、ここは大川端の旅宿「かわせみ」の居間、まだ炬燵《こたつ》を出すには少し早く、長火鉢の前に行儀悪く胡坐《あぐら》をかいている東吾と、脇で茶の支度をしているるいと、少し下って深川長寿庵の長助、その長助に茶碗酒を運んで来た女中頭のお吉と、四人がのんびりくつろいでいる午後であった。
「なんでも、上方のほうで異人から鉄砲だの大砲《おおづつ》だの、そういったものを手広く仕入れている大商人《おおあきんど》だそうでして、二、三年前に品川へも店を持ったんだと申します。品物をおさめる先は公方《くぼう》様をはじめ、大名方ばかりだという話で……」
「鉄砲だの、大砲となりゃあ迂闊《うかつ》な者はおいそれと手が出せねえからな」
外国の船が続々と日本へやって来て通商貿易を求め、幕閣でも攘夷の、開港のと揉めに揉めている昨今のことであった。
洋風の武器弾薬を扱う御用商人が、深川に建てた別宅が、その商売のための取引の場になっているというのも容易にうなずける。
「しかし、六万坪といやあ、たしか細川越中守様の抱え地だろう」
と東吾がいったように、二十間堀川の崎川橋の東南にある、俗に六万坪と呼ばれている土地は、もともと埋立地であった。
元禄あたりまでは海だったのを江戸の塵芥の捨て場所として埋め立てて行き、やがて三分の一ほどが町屋となり、残りは開墾されて田畑となった。
それが、後に細川越中守の抱え地となって、西側が下屋敷に続いている。細川家の下屋敷はその他にも水路をへだてた南側にもあった。
「さかい屋ってえのは、細川様にえらく取り入っているんだそうで、こいつは出入りの者に万助がいったことらしゅうございますが、細川様のほうから、あそこへ別宅を建てるようお勧めがあったんだと申します」
「この節、大名家はどこも借金で首が廻らねえというからな。案外、細川家もそのさかい屋とかに首根っ子を押えられているのかも知れねえよ」
「それにしても、随分と不便な所に建てたもんですねえ」
といったのはお吉で、
「六万坪といったら、深川もはずれのはずれで、もうちょっと行けば中川の舟番所じゃございませんか。まわりは砂浜と新田ばかりだし、お大名の下屋敷ってのは、殆ど無人なんでしょう。そんな所に大金持が住んで物騒じゃありませんかね」
首をひねりかけたとたんに長助が膝をのり出した。
「そいつが、お吉さん、とんでもねえ番人がいるんでさ」
「用心棒でもやとっているってんですか」
「人じゃなくて、犬なんです」
「犬」
「でっかいの、なんの。絵に描いた獅子そっくりでござんしてね。最初に見た奴はてっきり化け物だと思ったそうでして……」
大きさは仔牛ほどもあり、全身が金毛で被われているという。
「見たんですか、長助親分」
「へえ、一度ですが、舟に乗せて富岡八幡へ万助旦那が参詣に来た折に連れて来たんで。まあ見物人が集って大さわぎだってんでかけつけて行ったんですが、正直の所、到底、犬とは思えませんでした。大の男が三人で曳き綱を取っているんですが、それでも下手をするとずるずるひきずられて居りましてね」
思い出しても身の毛がよだつような代物だったと長助はいう。
「長助親分は大袈裟なんだから……そんな犬がこの世にいるもんですか」
とお吉が笑い、東吾が、
「そいつは、日本の犬じゃないかも知れないな」
と応じた。
「へえ」
と長助が勢込《いきおいこ》んで、
「鉄砲を仕入れる異人の国から来た犬だってことで……」
「そうだろう。源さんがいっていたよ。横浜の異人館には犬とも思えねえような犬が海を渡って来ているそうで、そいつらは飼い主がけしかけると、大の男を噛み殺すほど獰猛《どうもう》だとさ」
「よして下さいよ。そんな犬が深川にいるなんて、もし、なにかで逃げ出しでもしたら、どうするんですか」
お吉がまっ青になった。
「ですから、万助旦那の家は高い土塀と川に囲まれて居りますんで……滅多に外へは連れ出さねえってことでして……」
「それにしたって、まあ、なんだって、そんなものを深川界隈へ持ち込ませたんですか。お上も、ちゃんと取り締って下さらないと、火事だの、地震だのの時にどうなるのか」
お吉の心配は次から次へと増幅して、律義な長助は頭を抱えて逃げ出した。
それから数日後、東吾は八丁堀の路上で畝源三郎に出会った。
「長助が、万助御殿の犬の話をしたそうですね」
のっけからいわれて、東吾は苦笑した。
「絵に描いた獅子だといわれて、お吉が怯《おび》えていたよ」
異国の犬らしいな、といった東吾に、源三郎がうなずいた。
「手前は見ていないのですが、富岡八幡へ連れて来た時は大さわぎだったそうで、おかげで町役人から苦情が殺到しています」
たしかに、町民が心配するのは当然で、
「以前、大火事の折、浅草奥山の掛け小屋から熊が逃げ出して騒動になったことがあるのです」
十何年も昔のことであった。
「あれは瓦版にも出たっけな」
結局、熊はどこかの侍に斬り殺された。
「奉行所のほうから、万助御殿へ何かいってやったのか」
東吾が訊ね、源三郎が眉を寄せた。
「一応、注意はあったようですが、むこうは歯牙《しが》にもかけませんよ。なにしろ、細川様の抱え地は奉行所の支配外ですからね」
「そんなに鼻息が荒いのか」
「大きな声じゃいえませんが、大大名に何万両という金を融通している豪商とのことですからね」
「しかし、成上りなんだろう」
外国との交易が急に盛んになったのは、ここ数年のことである。
「よけい、始末に負えませんよ」
それでなくても上方《かみがた》商人は豪商ほど江戸町奉行所を無視する風がある。
早い話が近江《おうみ》商人の白木屋なぞは、店の奉公人が金を持ち逃げしても、或いは女とかけおちしても、決して町奉行所に届けることはなく、すべて店の内で始末をつけてしまうので、場合によっては町奉行所の沽券《こけん》にかかわるという声も出る。
「なんにしてもだ、上方の贅六《ぜいろく》野郎が江戸で幅をきかすようになっちゃあおしまいだな」
町方の面目は丸潰れだろうといった東吾に、源三郎は生まじめに答えた。
「面目なんぞはどうでもいいですが、なにかが起らなければよいとは思っていますよ」
源三郎が危惧した何かが起ったのは、翌月二十日のことであった。
江戸は一日一日と冬の気配が濃くなって、本所深川を縦横に流れる水路の上に深い霧がたちこめる夕暮れ時、深川の長助が忿懣《ふんまん》やる方ないといった面持で「かわせみ」へやって来た。
ちょうど東吾は講武所から帰って来たばかりで、帳場のところで番頭の嘉助と立ち話をしていたのだが、
「若先生、俺はもう、今日という今日は我慢が出来ません」
といった長助をみて驚いた。
どちらかといえば、岡っ引にしたら温厚なほうで、年相応の落ちつきもある長助が目を血走らせて怒っている。
「いったい、何があったんだ。落ちついて話してみろ」
手を叩いて、お吉を呼び、一杯の茶碗酒を長助に渡したが、手を振って飲まなかった。
「とにかく、聞いて下さいまし」
自分の胸をさするようにして話し出した。
「深川佐賀町に大工で孫八ってのが居りますんで……」
まだ四十なかばだが腕のいい職人で、難しい仕事には名指しを受けることもあるといった。
「女房と、子が二人、上がおようっていいまして十八、下は十三になる亀吉で、こいつは同じ深川の材木問屋、木曾甚という店に小僧に入って居ります」
七日ばかり前に、例の六万坪の万助御殿が何人かの客を招いた。
「たまたま、孫八は万助御殿の離れの普請に棟梁と入っていて、先方が当日、手伝いに来てくれる女がいないかと棟梁に相談したんだそうです」
どちらかというと、万助御殿には広い割には奉公人が少い。
「万助ってのは、金持のくせにけちなんだそうで、客でもない限り、平素はそう沢山の奉公人の必要はないてえ了見だそうで、なにかの時は奉公人の知り合いの娘や内儀さんを臨時の手伝いに呼ぶんだと申します」
芸者は深川から何人か来るし、給仕の女も料理屋から仲居や女中を依頼してある。
足りないのは下働きで、湯をわかしたり、皿小鉢を洗ったり、板前の手伝いをする女が三、四人足りないというので、棟梁の娘や、屋根職人の女房などがひき受けることになって、その中に孫八の娘のおようも加わった。
「給金も悪くはありませんし、噂にきく万助御殿の中をみられるってんで、女どもは喜んで手伝いに行ったらしいんですが……」
十三日、朝から三人の女が揃って万助御殿へ入った。
「夜になりまして、まあ最初《はな》っから夜更けになるという約束だったんですが、かなり遅くなってから棟梁の娘のおみよってえのと、屋根職人の嬶《かかあ》のおたみは万助のところの舟で仙台堀の上の橋まで送られて、それぞれの家へ帰《けえ》って来ましたが、おようばかりは帰らねえ。近所のことで、孫八は二人が帰ったのがわかったんで、うちの娘はどうしたと訊くと、まだ御用があって残されたと、どうも、あんまりはっきりしねえ返事で、それでも、親はもう戻るだろうと待っている中《うち》に夜があけてしまったと申します」
朝になって、孫八が万助御殿へ行ってみると、応対に出た番頭が、おようには後片付をさせているといい、孫八が帰って来ると追いかけるようにして使が来て、
「万助旦那がおようを気に入って、側仕えにおきたいから、と五両おいて行ったそうです」
腕のいい職人とはいっても、五両というのは大金で、ありがたいが、娘の身も心配だというのが孫八夫婦の気持で、
「あっしに、事情をきいて来てもらえないかと頼みに来ました」
奉公するにせよ、一度、娘を家へ帰してもらって、納得ずくで万助御殿へやりたいという。
「もっともなことなんで、あっしが万助御殿へ行ったんですが、木で鼻をくくったとでも申しましょうか、まるっきり話にならねえんで……」
舟で行った長助を一歩も上へあがらせず、用心棒のような男が三人ばかり出て来て、町方の出る幕じゃねえ、ひっ込んでいろ、とか、万助御殿に不浄役人がふみ込めるものならふみ込んでみろ、なぞと悪口雑言を浴びせたあげく、例の犬をひっぱり出して来て、けしかけた。
「船頭はびっくりして舟を岸から離す。口惜しゅうございますが、あっし一人じゃどうにもならねえ。といって、畝の旦那に申し上げたら、旦那の御迷惑になるような気が致します」
話をしている中《うち》に、やや気が鎮まって来たのか、長助は肩の力が抜けて、しょんぼりしている。
「そうすると、おようさんって娘が、どうなっているのか、まるきりわからないんですね」
とお吉がいい、東吾は、
「乱暴な奴だな」
と腕を組んだ。
権力と手を組んだ御用商人の横暴は、よく耳にすることだが、こうして長助の口から具体的な話を知らされると、聞きしにまさるという感じが強い。
「俺の考えだと、その娘、万助御殿の中でなにかがあったに違いないな」
むこうのいうように、ただ、万助が気に入って女中にしたいというのなら、娘を家へ戻し、親とも相談させて、給金を決め、再び、やとい入れるという手順をふむのが当り前であった。
「それが出来ねえ事情が、むこうにあるんだ」
「おようさんが、奉公したくないといっているとか」
とお吉。
「その程度なら安心だが、長助親分への応対は只事じゃねえな」
余っ程、むこうに弱味があるからこそ、強く出ているので、
「ひょっとして、おようという娘を親にも会わせたくねえ理由があるとしたら、下手にさわぐと、或る日、おようの死体が川に浮んでいるってなことにもなりかねないぞ」
流石《さすが》に長助がまっ青になった。
「どうしたら、ようござんしょう」
東吾が、この男独特の余裕のある微笑を浮べた。
「ま、大手が駄目なら、搦《から》め手ということもある」
当分、長助は動くな、と指示をした。
長助を帰らせて、東吾は少々、考えていたが、
「ちょっと、髭《ひげ》もじゃもじゃに会って来る」
といい、大川端を出かけた。
髭もじゃもじゃというのは麻生宗太郎《あそうそうたろう》の長女、花世《はなよ》の口真似で、永代《えいたい》の元締、と呼ばれている深川入船町に住む口入れ屋の文吾兵衛《ぶんごべえ》のことであった。
文吾兵衛は家に居て、訪ねて来た東吾から熱心に話を聞くと、大きくうなずいた。
「お安い御用でございます。口幅ったいことを申すようですが、深川界隈は手前の持ち場でございまして、懇意の者が多うございます。神林様のお頼みでございましたら、若い連中も張り切って働きましょう」
「あまり目立っては困るのだ。妓達に話をきくにしても、誰かが調べていると気がつかせないようにやってもらいたい」
「勿論、その点にぬかりはございません」
一日、御猶予を願います、といった言葉通り、文吾兵衛は翌日の夕方、悴《せがれ》の小文吾を伴って「かわせみ」へやって来た。
「今月十三日に万助御殿へ呼ばれて参りました芸者は、染吉と志津若に君丸の三人で、共に分《わけ》ことぶきと申す家の抱えでございます」
万助は以前から深川で遊ぶ時には、この家の芸者を呼ぶようで、三人共、今までに何度となく座敷に出ていたが、万助御殿へ招かれたのは、この前が初めてだということであった。
「前からの約束通りに暮六ツ(午後六時)を過ぎてから、万助のところの使の舟で、六万坪の別宅へ参りましたそうで、芸者共が着いてすぐに客が来たと申します」
その客は五人、いずれも武士だったが、
「どちらかと申すと、あまり身分の高い方々ではなく、身なりは粗末なほうだったようで……ただ、万助旦那はその五人を大層、丁重に扱っていたらしゅうございます」
という。
「すると、江戸侍ではなさそうだな」
「はい、西国なまりがあったと申しますから、おそらく……」
小文吾が東吾の視線に応えてうなずいた。
「この節は御時世で、深川あたりにも西国のお侍衆がお遊びに来るとやらで、妓達もかなり国の訛《なま》りを承知して居ります」
なんにしても、三人の辰巳《たつみ》芸者が驚いたのは、五人の客がひどく酒癖が悪いことだった。
酔うと刀を抜いて、剣舞と称して踊り狂うし、杯洗に酒を注がせて一息に飲み干したりする。
「万助旦那も少からず、もて余していたようでございまして、その中《うち》に一人が手水場《ちようずば》へ立って行ったかと思うと、戻って来て、犬を斬ったと申したとか……」
東吾が眉を寄せた。
「犬を斬った」
「はい。それがきっかけで急におひらきになり、客が送り出されると、続いて妓達も舟で送り返されたそうでございます」
「他に、なにか……」
「帰ります時、余分の祝儀と一緒に、番頭が今夜のお客が酔って犬を斬ったことは、どうか世間へ洩らさないでもらいたい。たかが犬だが、相手の御身分にさわりがあるといけないからと、かなり、くどく口止めをしたと聞きましたが……」
「若先生……」
と文吾兵衛が膝を進めた。
「たしか、長助親分が孫八に頼まれて、かけ合いに行った時、むこうの連中が例の犬を曳き出して来て、けしかけたとうかがいましたが……」
「その通りだ。長助は別に犬が怪我をしていたとはいっていない」
「二頭、居りましたものでしょうか」
「いや、一頭だろう。万助が富岡八幡へ犬を連れて参詣に出かけたのは、異国の大きな犬を人々に見せて自慢にする気だったに違いない。もし、二頭いるなら二頭とも連れて行っただろう」
小文吾が父親と東吾の顔を等分に見た。
「では、客が斬った犬というのは……」
東吾が文吾兵衛父子に頭を下げた。
「厄介をかけた。おかげで手がかりがついたようだ」
文吾兵衛が気遣わしげに訊ねた。
「これから、どうなさいます」
「犬が斬られれば、まあ医者が手当てをするだろう。死んでいれば坊主が呼ばれる。というのは冗談だが、まず、医者から手をつけてみようと思う」
そっちは長助が適任だと笑った。
「この辺で、長助親分の顔も立ててやらないと、旨い蕎麦粉を持って来てくれなくなる」
父子が似たような顔で合点した。
「手前どもで何かお役に立つことがありましたら、どうぞ、お声をかけて下さいまし。たのしみにお待ちして居ります」
文吾兵衛父子が帰るのと一足違いに、その長助がやって来た。
「畝の旦那のお屋敷へ参った帰りでございますが、この前、頭に血が上って、みっともねえことをお耳に入れましたので、そのお詫び旁《かたがた》……」
という。
「長助親分は地獄耳だな。今から深川まで出かけようと思っていたところだったんだ」
文吾兵衛父子の話をすると、長助の目が光った。
「するってえと、斬られた犬が……」
「深川界隈の医者を調べたら、どうかな。案外、そこから……」
いいかけた東吾に長助が大きく手を振った。
「いけませんや、若先生……」
「いけない……」
「実はこの前、こちらへ参って、あのあと、家へ帰ってみますと、畝の旦那が待ってお出ででして、その、深川中の医者を調べて、万助屋敷へ治療に行った者はないかと……」
「源さんが調べさせたのか」
「へえ、その時は、はっきり理由が呑み込めなかったんでございますが……」
「で、わかったのか」
「それが、鴨がむこうからとび込んで参りました按配で……」
足を棒にして深川中をかけずり廻って二日。
「今日の午《ひる》すぎに、猿江橋の近くまで来ますと、横川を舟が参ります。なんの気なしにみますと、船頭の顔が、万助のところの若い衆でして、乗っているのがどうも医者らしい。で、気づかれねえように路地にかくれて居りますと、猿江橋の先のところに舟がついて、医者らしいのが下りました」
舟をやりすごし、長助は目で後を追っておいた医者の家へかけ込んだ。
「成川清庵というお医者でして、たしかに六万坪の万助の家へ呼ばれて行った帰りだってんで、しめたと思ったんですが……」
「どうした」
「若先生も、その医者が、酔っぱらいの客に斬られたおようの手当てをしに行ったと思われたんでござんしょう」
「違うのか」
「清庵が万助御殿へ行ったのは、今日が最初で、診《み》たのは万助の孫で、五歳になる万太郎でして、おまけに万太郎は怪我をしたんじゃねえんで。昨夜っから熱を出して、ひきつけを起したってんです」
東吾があっけにとられた。
「間違いはないのか」
「孫の命を助けてもらえるなら、何百両積んでもいいと、万助の奴、手を合せたそうです。清庵ってお医者はよく訊いてみると、麻生宗太郎先生のところにも勉強に通っているんだとかで、まあ、嘘をいっているとは思えませんでした」
で、そのことを畝源三郎に報告して来たところだといった。
「すると、別の医者が呼ばれたってことか、さもないと……」
おようは、すでに死んでいる可能性もある。
「ともかく、宗太郎の所へ行ってみる」
という東吾に、長助がついて、
「本当に、うちの旦那様と来たら、御膳も召しあがらないで……」
るいの心配そうな声に送られて大川端を出た。
「流石《さすが》、餅は餅屋だな。源さんも医者を探していたとは……」
本所の麻生邸へ向いながら、改めて東吾が呟《つぶや》いたのは、孫八の娘のおようが、万助御殿から帰って来ないと聞いて、畝源三郎も東吾と同じく、おようの身に何かがあったと判断して探索に乗り出していたと知ったからである。
「多分、孫八が町役人に娘のことを届け出て、そっちから源さんの耳に入ったんだろう」
長助がぼんのくぼに手をやった。
「そんなことも知らねえで、あっし一人が、から廻りをしちまったようでございます」
東吾が笑った。
「ひょっとして、源さんが俺と同じことを考えているとしたら、案外、宗太郎の所で鉢合せをするかも知れないよ」
その予言がぴたりと当って、麻生邸へたどりつくと、
「やあ、いらっしゃい。もう見えるだろうと話していたところですよ」
相変らず、おっとりと顔を出した宗太郎の背後に畝源三郎の姿がみえる。
しかも、離れになっている宗太郎の診療所の客は畝源三郎だけではなかった。
「若先生、あちらは……その……猿江橋の……」
外でお待ち申しますというのを、無理に上へひっぱり込まれた長助が、その客をみて仰天した。
「やっぱり、こちらが成川清庵どのでしたか。おそらく、宗太郎の所へ相談に来ているのではないかと想像したのが当りましたな」
東吾が会釈し、宗太郎が改めて成川清庵をひき合せた。
「実は、今、この二人に話をしていたのですが、万助御殿の万太郎の病気が少々、気がかりでしてね」
清庵から聞いた病状が只事ではないと宗太郎がいった。
「コロリとか、そういったものか」
「違うようですな」
言下に宗太郎がいい、清庵も応じた。
「コロリではございません。コロリならば、手前も、多く患者を診て居ります」
「では、なんなのだ」
「手前にはわかりません。判断をしかねまして、それ故、宗太郎先生の所へ参ったのでございます」
宗太郎が東吾を見た。
「手前は、これから清庵どのと一緒に万助御殿へ行きますが、なんなら東吾さん、弟子になって薬籠を下げて来ますか」
忽《たちま》ち相談がまとまって五人の男が外へ出る。
舟は二艘、長助が用意した。
先のには宗太郎と東吾、清庵が乗り、後のには、
「目立たぬように、ついて行きます」
源三郎と長助が、どちらも麻生家から借りた合羽《かつぱ》を着て、殊に長助は頬かむりをして顔をかくした。
小名木川から横川へ出て、崎川橋から水路を廻って六万坪の万助御殿の舟着場へ舟を寄せる。
清庵が先に上って門を叩くと、出て来た男が、
「先生、只今、先生の所へ使をやろうとしていたところでして……」
万太郎の容態がいよいよおかしいという。
「実は手前の師に当るお方をお連れした。すぐに患者の所へ御案内するように……」
そっと番頭の耳にささやいたのは、宗太郎の父、天野宗伯の身分だったらしく、番頭の態度がさっと変った。
女中に命じて、宗太郎と東吾を案内させ、自分は先に走って、主人の万助に知らせに行った。
通された病間は奥まった場所にあった。
五歳の万太郎は布団に寝かされていたが、状況は無惨であった。
眼をむき出し、舌を出し、顔も体も激しい痙攣《けいれん》を起してのた打ち廻っているのを、両親だろう、まだ若い男と女が左右から取りすがるようにして押えている。
おろおろと初老の男が立ち上って、宗太郎の前に手をついた。
「どうぞお助け下さいまし。この子の命が助かるなら千両万両も惜しくはございません。どうか、御慈悲を持ちまして……」
宗太郎が万助を押しのけるようにして病人の枕許にすわった。
眼球、舌、咽喉《のど》から胸を診て、その視線がむき出しになった肩に止った。
「これは、噛み傷の痕のようだが……」
万助が顔をくしゃくしゃにした。
「それは……その、犬に噛まれまして……」
「いつのことです」
「かれこれ、一月ばかりも前のことで……」
飼犬と遊んでいて、なにかのはずみに噛まれたといった。
「万太郎が泣きまして、すぐ犬を檻に入れ、噛まれたところをみますと、たいした傷ではなく、血止めをして薬を塗っておきましたところ、痛みもなくなりましたが……」
宗太郎が万助を制した。
「その犬は、どこにいますか」
「それがその……」
殆《ほとん》ど泣き出しそうな声で、万助が漸《ようや》くいった。
「死にましたので……」
この二、三日、奇妙な声でうなり続け、餌を与えても食べなかったのが、今日の午すぎに檻の中で死んでいるのを奉公人が見つけた。
宗太郎が沈痛な表情になった。
「その犬は、水を近づけると咽喉のあたりがひきつったようになり、はあはあ息を吐くのが苦しげにみえたりしませんでしたか」
番頭が答えた。
「おっしゃる通りでございます。餌を食べませんので、せめて水でもと口のそばへ水を近づけますと、ぶるぶる慄《ふる》えまして……」
「間違いない」
低く、宗太郎が清庵をふりむいていった。
「では、やはり、狂犬病で……」
清庵が小さく答え、まわりの人々がいっせいに声を上げた。
「ですが……」
よろよろとすがりついたのは万助で、
「万太郎が犬に噛まれましたのは、一カ月も前のことで……」
宗太郎が、この男にしては冷たすぎる声音《こわね》で返事をした。
「狂犬病とは、そういうものなのです。噛まれてから、早くて半月、遅いと七、八カ月も経ってから発病するのです」
「では、万太郎は……」
家族の目が、荒い息を吐いている少年に集まり、母親がその名を呼びながら、体をゆすぶった。
痙攣が衰えて、万太郎は深い昏睡に落ちて行くようである。
「先生、お助け下さい。手前の命に替えても、孫の命を……」
だが、宗太郎に脈をとられながら、小さな命はあっけなく終りを迎えていた。
泣き声の中で、宗太郎は小さな瞼を閉ざし、そっと手をついた。
「残念ですが、これまでです」
立ち上りかけて、東吾をうながした。
「手前は帰りますが、東吾さんは受け取って行くものがあるのでしょう」
東吾が万助にいった。
「わたしは、麻生宗太郎先生の弟子ではない。大工の孫八に頼まれて娘を引き取りに来たのだ」
ぎょっとした万助へ叩きつけるように続けた。
「人の不幸につけ込んでいうつもりはない。しかし、こうやって可愛い孫に先立たれてみりゃあ、人間誰しも、そのつらさ、悲しさは同じだと気がついたろう。おようがこの家に手伝いに来た十三日、いったい、なにがあったのか正直に話してくれ。あんたの懺悔《ざんげ》が、今、仏の許に旅立つこの子に、なによりの供養となると思わないか」
ううっと万助が嗚咽《おえつ》を洩らした。
「天罰でございます……天罰……」
おようの死体は、長持におさめて裏庭に埋めてあったのを、万助が奉公人に命じて掘り出させた。
かなり傷んでいる遺骸を宗太郎が検《あらた》めて、
「肩から胸まで斬り下げられています。これは、侍の仕業ですね」
と東吾と、改めて呼び入れられた畝源三郎に告げた。
おようを斬ったのは、十三日の客の一人、
「森川吉之進とおっしゃるお方でございます」
孫の死で観念したのか、万助は洗いざらい喋った。
それによると、日頃から酒癖の悪い森川吉之進は酔ったあげくに庭へ出て、犬の檻の戸を開けたという。
「少々前から獅子丸は様子がおかしゅうございました」
獅子丸というのは、例の異国の犬に万助がつけた名前だったが、
「もともと体が大きく、怖しげな顔をして居りますものの、性質はおとなしく、万太郎の遊び相手になって居りましたのが、急に気が荒くなりまして……」
一月前に、いきなり万太郎に噛みついた。
で、慌てて檻を作って入れることにしたのだが、それでも時折、うなり声をあげたり、檻の中を歩き廻るぐらいのことで、たいした変化はなかった。
「ところが、森川様が檻を開けると、矢庭に獅子丸がとびかかったそうで、森川様は大層、御立腹なさり、侍にむかって来るとは不届きだ、斬り殺してやると、刀を抜いて庭へお出になったのですが……」
たまたま、おようが井戸端で水を汲んでいたのを、
「酔ったまぎれで獅子丸と見間違えなすったのか、いきなり刀をふり下されまして……」
示現《じげん》流をよくすると武芸自慢の男だったから、おようはひとたまりもなく絶命した。
「森川様は、それでも犬を斬ったとおっしゃいまして……」
流石に森川の仲間は異変に気がついて、そそくさと帰ったが、困ったのは万助のほうであった。
「犬と間違えて斬られたと申しましては、先方のお名前が出ます。とりあえず一日のばしにして、なんとか……」
金で片をつける気だったと白状した。
「馬鹿野郎、人の命が金で買えるか」
思わずどなった東吾だったが、千両万両積んでも、孫息子の命が買えなかったのは、万助が身にしみている筈である。
おようの死体は長助が舟に積み、一同が万助御殿を出る頃には、東の空が白みかかっていた。
「犬が死んでいて助かりましたよ」
舟の中で、宗太郎がぽつんといった。
「畜生とはいえ、薬殺するのはいやなものですからね」
いったい、獅子丸はどこで病気にかかっていたものか。
「おそらく、万助が前の飼い主からゆずり受けた時には、もう病んでいたのかも知れません」
人が発病するのに時間がかかるように、狂犬病にかかった犬も、その病状が外に出てくるまでに日数を要するらしいと宗太郎はいった。
「狂犬病ってのは怖しいんだな」
治す方法はないのかと東吾がいい、宗太郎が首をふった。
「今のところ、お手あげです」
「いよいよ、おっかねえな」
「東吾さんも、野犬には気をつけて下さい」
人をみて逃げもせず、変にすり寄って来るようなのは用心したほうがいいと宗太郎に注意されて、源三郎も長助も首をすくめている。
さかい屋万助は、改めて奉行所に呼び出されて取調べを受けた。
その結果、森川吉之進は薩摩藩士とわかって、手順をふんで先方にかけ合ったが、薩摩藩では、森川吉之進なる者は江戸には居らず、また、さかい屋とは、なんのかかわりもないと突っぱねた。
「支配違いですから、まさか薩摩屋敷へ乗り込んで、森川を捕えるわけには行きません。まあ、よくあることなので、已《や》むを得ないとは思いますが……」
源三郎は口惜《くや》しさを、そんなふうに東吾にいった。
けれども、源三郎の尽力で、さかい屋からは孫八に対して百両の供養料が出され、一応、この事件は落着した。
「東吾さんのせりふじゃありませんが、金で命は買えません。しかし、孫八夫婦にとって百両あるのとないのとでは、随分とさきゆきが違って来ると思いましてね」
大川端の「かわせみ」では、お吉が毎朝、飼犬の「しろ」に水を与えて、気持よさそうにぴちゃぴちゃ飲むのを眺めては、東吾に報告していた。
「若先生、大丈夫でございますよ。うちのしろちゃんは、決して水を怖がりませんから狂犬病ってのじゃございませんです」
そして、その月の終りに、麻生宗太郎がひょっこり「かわせみ」へやって来た。
「用事がありまして、番町の父の屋敷へ行きまして、そこで耳にしたことですがね」
つい二、三日前、薩摩屋敷で藩士が一人病死したといった。
「それを診たのが、弟の知り合いの医者でしてね。どうも狂犬病らしいので、噛んだ犬をそのままにしておいては危険だと、当人や友人に訊ねたところ、たしかに犬に噛まれたが、それは野犬で、しかも自分が斬り捨てたと申したそうです」
東吾が目を大きくした。
「そいつが、森川吉之進か」
「そのようですな」
「あいつ、万助御殿で獅子丸に噛みつかれていたんだな」
「東吾さんは気がつかなかったのですか。手前は万助の話を聞いた時、必ず、森川は噛まれていると思いましたよ」
犬に噛みつかれて逆上したから、あやまって、おようを犬と間違えて斬った。
そして、その森川も狂犬病で死んだ。
「因果応報ってことか」
「坊さんならいうでしょうな、仏罰が当ったと……」
なんにしても、罪もない娘一人が死んでいることなので、東吾も宗太郎もすっきりと笑うわけには行かなかった。
その後も、さかい屋万助は商売繁昌を続けたが、翌年の大地震で万助御殿が倒壊炎上したのがきっかけで、江戸の店を閉め、上方へひき上げて行ったという。
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怪盗《かいとう》みずたがらし
この秋、大川端の旅宿「かわせみ」は、どことなく、ひっそりしていた。
別に商売がうまくいっていないのでもなければ、かわせみ一家に病人が出たのでもない。
世の中の景気がよくないとはいっても、相変らず江戸の町には諸国から人が集って来るし、「かわせみ」も亦、千客万来であった。
女主人のるいは若々しく色っぽいし、老番頭の嘉助は矍鑠《かくしやく》として帳場を守っているし、お吉は朝から晩まで威勢よくとび廻って、衰えを知らない口八丁手八丁に、他の奉公人を辟易《へきえき》させている。
にもかかわらず、「かわせみ」が、本来の「かわせみ」らしくないのは、一人が欠けるせいであった。
神林東吾は、このところ、軍艦操練所に復帰して、もっぱら幕府の軍艦、朝陽丸に乗船させられ、海岸巡視かたがたの練習航海へ狩り出されていた。
船は、東吾の気質に合っているらしく、当人は嬉々としているふうだが、航海に出れば少くとも四、五日は留守になる。
もう一つの講武所の剣術指南の役目は、軍艦操練所が講武所内に組み込まれているので教授方頭取の矢田堀景蔵が万事とりはからってくれて、まるで問題はなかったが、その折、
「貴公については、頭取の勝どのより、強い推挙があった。心得て、期待にこたえられるように……」
というような内々の言葉があった。
東吾にしては、勝麟太郎|義邦《よしくに》という人物が何故、自分を推挙してくれたのか、全く心当りがなかったが、とりあえず頭取部屋へ挨拶に行くと、
「あんた、船に滅法強いな」
のっけから、巻き舌でいわれた。
東吾が一瞬、なんのことかわからずにいると、
「いつぞや、伝習生たちが海岸巡視で遠州灘まで出かけたことがあったろう。あのあたりは普段でも波が高くて、弱い奴はげえげえ始める。あの折は時化《しけ》が来てどいつもこいつもまっ青になって動けなくなった。ところが、あんたは平気で阿蘭陀《オランダ》の教官の指示通り、帆の操作だなんだと甲板をかけ廻っていた。八丁堀育ちに漁師の悴がいる筈はなし、こいつは根っから海軍に向いてると思ったものさ」
まあ、しっかり勉強しろ、と肩を叩かれた。
で、八丁堀の兄の屋敷へ行った時に、その話をすると、
「勝どのといえば、微禄の旗本の出ながら、蘭学を学び、異国応接掛の岩瀬様、大久保様に認められ、洋学所創設に大いに力があったとか、また、剣をよくし、なかなかの人物と聞いている。それほどのお方に目をかけて頂けたは、そちの果報じゃ。ゆめ、粗略に思うまいぞ」
と通之進《みちのしん》は、嬉しげであった。
「それにしても、東吾は船に酔わぬのか」
不思議そうにいわれて、東吾も首をひねった。
「今のところ、少々、揺れても、どうということはありませんが……」
日頃、畝源三郎の手伝いをしていて、本所深川の水路やら大川などを猪牙《ちよき》で走り廻っていたせいかといったが、
「大海が時化ともなれば、とても左様な揺れ方ではあるまい」
と通之進は、弟の妙な資質に驚いている。
兄嫁の香苗は義弟の出世を喜びながら、
「軍艦と申しましても、板子一枚下は地獄とか申す船そのものにかわりはございませんのでしょう。危いことなぞにお遭いなさらねばようございますが……」
と心配そうでもある。
「大丈夫ですよ、義姉《あね》上。手前は水練のほうも河童なみですから……」
とにかく船は性に合っていると、東吾自身も気がついていた。
「勝頭取はいわれるのですよ。海の彼方にはさまざまの国があり、さまざまの人が住み、さまざまのことを考えている。そうしたことがよくわかっていないと、これからの我が国はとんでもないことになると……」
今は書物の上で学ぶしかないが、いつの日か、軍艦で異国の地を訪れてみたいというのが、東吾のこの頃の夢であった。
だが、「かわせみ」の連中は突然、留守がちになった東吾の日常に途惑い、ひどく心細がっている。
それでも、るいから、
「旦那様は武士として立派な道をお歩きになっていらっしゃるのです。私達は旦那様が後顧《こうこ》の憂いなくお働き遊ばすよう、しっかりと家を守らねばなりません」
といわれて、
「承知致しました。若先生に要らぬ御心配をおかけしませんように、一生けんめい、つとめますでございます」
と張り切ったものの、東吾の留守が長くなると、
「若先生、いつ、お帰りになるんでしょうねえ」
縁側から大川の上の空を眺めて歎息をついている。
るいにしても、口には出さないものの、不安は限りなく、一日に何度となく神棚や仏壇に手を合せて、東吾の乗っている練習船とやらの航海安全を祈らずにはいられない。
そして、その神棚にはお吉がせっせと水天宮様だ、波除け稲荷だ、金比羅《こんぴら》様だと、ありとあらゆる所へおまいりに行っては頂いて来る御神符がところせましと並んでいて、たまたま、それに気がついた東吾が、
「おいおい、こう八百よろずの神様をひっぱって来ちゃあ、その中《うち》、重みで神棚が落ちるんじゃないか」
と冗談をいい、お吉は、
「いけませんよ、縁起でもない、落ちるなんておっしゃっちゃあ……甲板から落ちたら海の中、帆柱から落ちたら……ああもう、いやですよ、鶴亀、鶴亀……」
青くなって、泣き声を上げた。
ともあれ、東吾はひっきりなしに航海に出かけ、その留守の「かわせみ」は、
「どういうんですかね。若先生がいらっしゃらないと、家の中の明るさってえものが違うような按配でして……」
長寿庵の長助までががっかりしている。
自分がいけないのだ、と、るいは考えていた。
つとめて陽気にふるまっているつもりでも、つい口数が少くなっていて、嘉助を相手に宿帳をみていても、心は海の上へとんでしまっている。
侍の妻たる者が、これではならないと気を取り直し、商売に精を出しているが、東吾がいないと、畝源三郎や長助まで、遠慮しているのか、顔を出してくれても、すぐに帰って行く。
せめて本所の麻生家から花世でも遊びに来てくれると気がまぎれるのに、それも、このところ、足が遠のいていた。
その理由を、今日、宿帳改めにやって来た畝源三郎が話した。
「本所の麻生どのでは、宗太郎さんが御自分の勉強のために、阿蘭陀の先生をお宅に呼んでいましてね」
横浜に住んでいる医者だが、月の中《うち》、二回は江戸へ出て来て、麻生家に数日、滞在する。
それは、るいも知っていた。
宗太郎に誘われて、東吾が阿蘭陀の言葉を習うために、この夏のはじめから、せっせと麻生家へ通っていたからである。今でも、船に乗っていない限り、欠かさず教えを受けに行っている。
「宗太郎さんが、これからは子供のうちに異国の言葉を学んだほうがよいといわれて、我が家の源太郎もあちらへうかがっているのですが、この頃は花世さんまでが一緒に机にむかっているそうですよ」
競争相手が出来たので、源太郎は花世に負けまいと家へ帰ってからも大声で発音の練習をするので、
「手前も女房も、わけのわからんことをいわれて困っています」
親馬鹿をちらとみせてから、今度は嘉助にこの節、瓦版にまでなった「怪盗みずたがらし」の話をしている。
「みずたがらし」と奇妙な仇名をつけられた盗賊は、この秋のはじめ頃から江戸の富商を荒し廻っているもので、未だに正体がわからない。
何人かが仲間を組んで、押込み強盗を働くのだが、入られた家は有り金はおろか、金目のものは何一つ残らず、洗いざらい盗まれるので、まるで「みずたがらし」のようだと誰かがいい出した。
「みずたがらし」というのは、江戸の町の者はあまり耳馴れないが、水田などに群がって生える雑草で、春、白い花が咲く。根元から長い蔓が延びて、刈り取ろうにも、ひき抜こうにもなかなか厄介な上に、捨てておくとみるみる増えて、遂には水田が使いものにならなくなるところから「みずたがらし」と呼ばれるらしい。
「近頃になって、やっとわかったことですが、上方のほう、それも紀州とか伊勢、近江などを荒していた盗賊と手口がよく似ていて、おそらく、その連中が江戸へ出て来たのではないかといわれているのです」
ひょっとすると、社寺とか商人宿をねぐらにしているかも知れず、町方はもっぱら、そちらのほうから調べを進めているといった。
「まず、かわせみのような宿に泊るとは思えませんが、こうした御時世ですから、身許のはっきりしない客にはくれぐれも気をつけて下さい」
源三郎が帰ったあとで、長助が念のためと「怪盗みずたがらし」の記事の出ている瓦版を持って来た。
「かわせみ」では、その瓦版のことを知らなかったので、嘉助とお吉が早速、のぞき込んだのだったが、
「盗みに入る前に、ねむり虫をとばして家中の者をねむらせるなんぞと書いてあるが、どうも、こりゃあ、眉唾ものだねえ」
と嘉助が笑い出し、
「ねむり虫って、なんですか」
お吉につめ寄られて、長助がぼんのくぼに手をやった。
「どうも、そいつはよくわからねえんだが、南蛮渡来のねむり虫じゃあねえかと」
「ねむり虫がとぶとどうなるんですよ」
「つまり、みんな、前後不覚にねむり込んじまって、盗っ人に入られたのも知らねえで、朝までぐっすりってことらしいんで……」
「そんな馬鹿な……南京手妻《なんきんてづま》じゃあるまいし……」
嘉助がお吉を制して、長助に訊いた。
「瓦版には、もう六軒も入られたって書いてあるが、どこの家でも盗っ人の姿をみたものはいないのかね」
「そうなんで……」
「盗みに入った場所は……たとえば、戸口を叩きこわすとか……」
「そんな乱暴はしていねえんだ。畝の旦那のお調べによると、雨戸を開けて入ったのが一軒、あとは大方、裏口で、別に破れてもいねえんで、多分、内の者の中に、手引きをするのがいたのじゃないかとは思うが、今のところ、どう調べても、それらしいのが見当らねえんで弱っています」
こんな時に若先生がいて下さったら、と長助は怨めしそうな顔でいう。
「長助親分もやきが廻りましたね。若先生がいらっしゃらないと、手も足も出せないんだから……」
長助が帰ったあとで、お吉は憎まれ口を叩いたが、寂しそうに苦笑しているるいをみると慌《あわ》てて台所へ戻って行った。
翌日、今度は畝源三郎の女房のお千絵がやって来た。
お千絵の実家は、御蔵前片町の札差、江原屋である。
「番頭さんが上方へ行って参りましたの。つまらないものばかりですけれど……」
土産だといって、昆布やら打菓子やらと一緒に住吉様の御神符をさし出した。
「東吾様が、この節、船にお乗り遊ばすでしょう。上方では住吉様がそりゃあ御利益《ごりやく》があるそうで……」
という。
礼をいって神棚に供えたるいをみて、お茶を運んで来たお吉が、
「いよいよ、神棚が落ちますね」
とささやいたが、お千絵はなんのことかわからないで、おっとりと微笑している。
「おるい様のところは、女中などの手が足りていらっしゃいますの」
出て行くお吉を見送って訊いた。
「おかげさまで、なんとか……」
八丁堀時代からの忠義者の嘉助やお吉は、るいにとって、もう奉公人以上の身内のような存在だが、その下で働く女中や板前、下働きに至るまで、長い者は十年の余も続いている。女中は年頃になると嫁に行くので暇を取るが、
「自分が辞める時に、同じ村の知り合いの娘さんを是非、働かせてやってくれといって来たりしましてね、その人がみんな長続きして……」
十三、四で奉公に来て、大抵が五年は「かわせみ」にいて、行儀見習はもとより、針仕事やら煮炊物までおぼえて、いい嫁さんになっている。
「そうでしょうねえ」
お千絵がうなずいた。
「こちらは本当に、どなたにもよくしていらっしゃるから……」
近頃は奉公人が居つかなくて困っているうちが少くないという。
「殊に女中が長続きしないみたいで……」
昔は最低でも三年はつとめるのが当り前だったのに、
「一年どころか、三月の出替り時にもならないのに、突然、今日限りでお暇を頂きますなんていい出されて、女中頭は寝耳に水、お内儀《かみ》さんには、あんた達が意地悪でもしたのだろうと、身におぼえのないことまでいわれて、今度はその人が辞めてしまう。もう、大さわぎなんですって……」
お千絵が首をすくめて笑う。
「うちの番頭さんもいってました。上方でも女中が足りなくて、古くからの桂庵を通していたら間に合わないので、知り合いを頼んで、とにかく、半年でも一年でもいいからっていうそうですよ」
「そういえば、江原屋さんでも、古くからいた人が辞めてしまってお困りだとかいっていらっしゃいましたね」
るいが思い出し、お千絵が手を振った。
「あれはもう片付きました」
「良い人がみつかりましたの」
「つい、そこの、新川の田島屋さんに口をきいてもらいましてね」
針療治の按摩の紹介だといった。
「田島屋のお内儀さんが肩こりがひどくて、上手だという按摩さんをとっかえひっかえしたけれども、どうも思わしくなかったんですって。それが、たまたま、同じような肩こりで難渋していらした日本橋の飯田屋さんが、長崎のほうで蘭方の勉強をして来たとかいう変り種の按摩さんを教えてくれて、早速、頼んでみたら、とても具合がいい。今では御主人もその按摩さんを贔屓《ひいき》にしてお出でなんだけど、田島屋さんも御多分に洩れず、女中不足でね」
その按摩が、自分の在所にいい娘の心当りがあるというので頼んでみると、やがて来たのが、なかなかしっかりしている。
「在所から来たにしては、気働きもあるし、垢抜けているんで、連れて来た按摩さんに訊いたら、一度、桂庵の口ききで横浜へ奉公に行ったら、それがとんでもない家で、異人相手にお上に内緒で酒を飲ませたり、阿蘭陀|骨牌《かるた》とかいうのをやったりするのですって。その子はびっくりしてしまって、半年で逃げ出したっていうんですよ」
嫁入りの箔づけになるような立派な商家でなければ二度と奉公には出ないといっていたのを按摩が聞いて、田島屋に紹介したという。
「それで、お千絵様も、お頼みになったの」
「ええ、田島屋のお内儀さんが聞いてみてあげるとおっしゃって……そうしたら、四、五日して、いい子が田島屋さんへ来たから見に来ないかとお使があったんです」
で、江原屋の二番番頭と一緒に田島屋へ行って、その娘に会ってみた。
「田島屋さんで働いている女中はお新さんというんですけど、その従妹で、お咲さん。よさそうな子なので、江原屋へ来てもらって、まあ、よく働いてくれるようなのですよ」
江原屋では、お千絵の乳母の娘のお勝が女中頭として奥向きの一切を取りしきっているのだが、そのお勝も、お咲を気に入っているらしい。
「ただ、もう二十を過ぎているので、そう長くはつとめられないといっているそうなのですけれど……」
女同士の話はとりとめもなく、やがて、お千絵は夕暮に気がついて慌しく帰って行った。
「怪盗みずたがらし」の跳梁《ちようりよう》は毎夜のように江戸の町々をおびやかした。
しかも、神出鬼没で日本橋の茶問屋を襲った翌夜は薬研堀《やげんぼり》の質屋へ押入り、更に一日おいて品川の廻船問屋がやられる始末である。
更に、今までは家の者全員が、瓦版でいうところのねむり虫のせいかどうかはともかく、ぐっすり眠り込んでしまって、誰も気がつかない中《うち》に金箱をはじめ、目ぼしい品物が盗まれるという手口だったのが、日本橋の茶問屋では押し込んだあと、家に放火されたので、家中の者が焼死した上に、隣近所が類焼した。
それをきっかけに、薬研堀も品川も盗賊は目的を果して立ち去る際に、火をかけている。
「むごいことをしやあがるじゃありませんか。ねむり虫のせいで寝ている者は眠ったままであの世行きでさあ。よしんば、途中で目がさめたところで火の海の中、漸く外へ逃げ出したものの、黒こげで、口もきけねえまま息をひき取ったってんですから……」
長助が「かわせみ」へやって来て報告し、るいをはじめ、嘉助もお吉も眉をひそめた。
「なんだって、そんなひどいことをするんですか。なにか、その家に特別の怨みでもあって……」
お吉が首をかしげ、
「盗っ人のやる事に怨みもへったくれもないのでしょうが、それにしても、何故、急に火つけをするようになったんですかね」
嘉助は、そのあたりに謎がありそうだという。
「とにかく、火盗のほうでも派手に動き出しているそうで、八丁堀の旦那方も目の色が変っていなさいますが……」
長助が火盗といったのは、火付盗賊取締のことで、役目柄、町方役人とは賊を追ってぶつかる場合もあるし、手柄を争う例も少くない。
「それで、襲われた家の方は一人残らず歿《なくな》っているんですか」
黙って聞いていたるいが口をはさんだ。
「へえ」
ちょっと考えた長助が、
「そういえば、薬研堀の質屋で女中が助かったって聞いています」
「女中さん……」
「たしか、その筈で……」
取調べに当ったのは定廻《じようまわ》り同心の佐々木彦之進という旦那で、自分はくわしいことまでは知らないと答えた。
「女がよけいな口出しをしてすみませんが、その助かった女中さんのこと、もう少しくわしく訊いて来て下さいませんか」
るいが思いがけないことをいい出し、長助はきょとんとしたが、
「よろしゅうございます。早速、きいて参ります」
律義に「かわせみ」をとび出して行った。
だが、そのあとで、るいはすぐ後悔した。一人生き残った女中に関しては、取調べに当った人々が、すでに充分すぎるほど話をきいているに違いない。その上で、あやしい点があれば、とっくに手を打っている筈で、なにを今更、素人がつまらないことをいったものだと恥かしさがこみ上げて来る。
こんな時、東吾がいてくれればと愚痴にもならぬことを考えながら針仕事に一日を暮して夜になると、長助が戻って来た。
「堪忍して下さいね。それでなくともいそがしい親分に、馬鹿なことをいってしまって……」
といいかけるのを、長助が大きく手を振った。
「まず、お知らせ申します」
生き残った薬研堀の質屋の女中はおいそといって、今年の春から奉公に来た女だが、一度、嫁入りをして不縁になって実家へ戻ってから女中奉公に出たとかで、年齢《とし》はもう二十八になっているという。
「当人が佐々木の旦那に申し上げたのを、あの辺りのお手先で辰五郎と申しますのに訊いて来たんですが、おいそは賊の入った日、午餉《ひるげ》のあとから腹が痛み出した、晩餉もろくに食えない上に尾籠な話でござんすがひと晩中、厠《かわや》を出たり入ったりだったそうでして……」
たまたま、賊が入った時に、どうやらおいそは厠にいて、そのまま、息を殺していると、やがて、あたりがきな臭くなってものの燃える音がした。慌てて厠から這《は》い出し、火の中をくぐり抜けて薬研堀へとびこみ、杭につかまっているところを、火消しに助けられたという。
「よくよく怖しかったんでございましょう。当人は泣いてばかりいて、ものも食べられないというので、町役人が心配し、お上に願って、当人が望むままに実家へ帰したと、こう申すんでございますが……」
長助がそこで一膝のり出した。
「なんとなく気になりまして、帰りがけに日本橋の茶問屋、芳香軒に寄ってみたんでございます」
やはり「みずたがらし」にやられた店だが、店は全焼してしまい、家族も奉公人も皆殺しになっているのだが、
「近所で聞いてみますと、妙なことがわかりました」
芳香軒の女中でお柳《りゆう》というのが、事件の当夜、宵の口に使が来て、母親が危篤だと知らせて来た。
「で、すぐに支度をして使と一緒に実家へ帰ったんだそうで、ちょうど辻番所を通る時に番屋の爺さんが、こんな夜更けにどこへ行くんだと問いましたところ、そういうわけで今から神奈川の在まで行くと申したってえんです」
「それじゃ、その女中さんは助かったんですね」
と、るい。
「そういうことなんで……番屋の爺さんが女中に声をかけたのが四ツ(午後十時頃)前っていいますんで、芳香軒に火の手が上ったのが、もう一刻ばかりで夜が白みかけようって刻限でございますとか」
つまり、盗賊が押し込む前、芳香軒の家の者がこれから寝ようという矢先に、その女中は店を出たことになる。
「近所の者は運がよかったといっていますが、薬研堀の生き残りも女中、こっちも女中ってことが、ひっかかりまして……」
るいの傍から、嘉助がいった。
「そいつは長助親分、ひょっとすると、大変な手がかりになるかも知れませんぜ」
長助が嬉しそうに、るいにいった。
「あっしはこれから、みずたがらしの一味にやられた家を廻って、女中のことを調べてみようと思います」
ねむり虫にねむらされている間に、盗賊に入られた家の女中を片はしから調べたら、なにかがわかるのではないかと、長助は張り切って帰った。
「どういうんでしょうねえ、長助親分ときたら、若先生がお留守だと、うちのお嬢さんまで、あてにするんだから……」
お吉がぼやき、その耳に嘉助がそっとささやいた。
「まあ、なんてったって、うちのお嬢さんは捕物名人といわれた旦那のお血をひいてなさるんだ。俺はお嬢さんが女中のことを長助親分にいいなすった時、これはこれはと思ったぜ」
だが、その夜がやがて明けようという時刻、「かわせみ」の人々は半鐘の音でとび起きた。
「新川のほうが火事です」
一番にとび出した若い衆が知らせて、大川端町と新川では、うっかり風むきがこっちへ向けばえらいことになる。
とりあえず、お客にはいつでも避難出来るように身支度をしてもらい、るいとお吉はいざという時、持ち出すものをひとまとめにした。
けれども、間もなく様子をみに行った板前が帰って来て、火はどうやらおさまりかけているという。
「火元の田島屋さんだけで、類焼はまぬかれそうです」
ときいて、るいがああっと声を上げた。
「火事は田島屋さんなのですか」
「へえ、あのあたりは堀がめぐって居りやすから、近所が総出で水をぶっかけ、火消しもたいした働きぶりでした」
外へ出てみると、確かに明け初めた空に煙が立ち上っているものの、火は消えたらしい。
ところが火事見舞に行った嘉助が戻って来て、
「えらいことでございます。田島屋さんではお内儀さんをはじめ、大番頭さんから手代衆、小僧に至るまで一人残らず、斬られて居りましたそうで……」
火の手が上った時、隣近所が気がついて、新川は酒問屋が多く、それも大店が揃っているので、日頃から火事の時の訓練が行き届いていて、いっせいにかけつけて堀の水をかけて、ひたすら消火につとめた。
「それにしては、肝腎の田島屋さんの店の者の姿がみえないというので、鳶《とび》の頭《かしら》が水をかぶって店の奥へ入ってみると人が倒れている。大声で助けを呼んで、何人かを外へかつぎ出したところ、みんな、刃物で突かれるかして、すでに死んでいたという按配で……」
たまりかねたように、るいが訊いた。
「それで、助かった人は……」
嘉助がうなずいた。
「手前も、そこが大事だと思いまして……」
助かったのは、田島屋の主人、清兵衛只一人だといった。
「御主人が……」
「へえ、それが、宵の口に、深川の……旦那の囲っている女の所から赤ん坊が生れそうだと知らせが来て、お出かけなすったとかでして……」
偶然に命拾いをしたことになる。
「その他に、出かけた人はいないのですか」
「ございませんそうです。大番頭、中番頭、手代五人に小僧が三人、奥向きはお内儀さんと女中が四人、残らず殺されて居たと、畝の旦那がおっしゃいました」
「そんな……」
るいが小さく呟《つぶや》いた。
「みずたがらしの一味の仕業でしょうか」
「畝の旦那は、盗みを働いて火をつけた手口からして、おそらく、と……」
新川のあたりは慌てて家財道具を運び出し、大八車なぞに積んで逃げ出す者もいて、大変な混雑だったと、嘉助が話している時、開けてある大戸から、
「おい、無事でよかったな」
ひょっこり、東吾が入って来た。
「あなた」
「若先生……」
とび上るようにして出迎えるのに、
「すまない。水を一杯くれ。とにかく走りっぱなしだったんでね」
と東吾が笑う。
お吉が台所へふっとんで行き、るいは東吾の手から大刀を受け取った。
「船は昨夜遅くに石川島へ着いたんだ。しかし、なんやかやとあるから下船は今日の午後になる筈だったんだが、船上から火事がみえてね、どうも八丁堀のほうらしいというので、艦長が俺に心配だろうから下りて見に行けといってくれて、小舟で島からこっちへ来たというわけさ」
お吉の手から茶碗を取って飲み、居間へ入った東吾に、るいは矢も楯もたまらないという気持になって、夢中で「みずたがらし」の盗賊のことと、女中とのかかわり合いについて喋《しやべ》り出してしまった。
東吾はそんなるいの様子に少しばかり途惑った様子だったが、すぐ熱心な聞き手になって、ところどころで小さな質問をし、時折、口ごもる女房を誘導しながら、一切を聞き取った。
そして、
「番頭さんがお湯の支度をしていますが、御膳を先になさいますか」
と訊きに来たお吉に軽く手を上げて、
「ちょっと、源さんの所へ行ってくる」
着替えもしないで、そそくさと出かけて行った。
それっきり、午を過ぎても帰って来ない。
「いったい、どうなすったんでございましょうねえ。板さんが、久しぶりにお帰りなすったからって、若先生の好物をあれこれ作ったんですけども……」
お吉が台所と居間を行ったり来たりし、るいはつくづく、八丁堀育ちの因果を思い知らされた。
東吾が漸く「かわせみ」の居間へ腰をすえたのは、もう夕暮近くで、着替えを勧めるるいに、すぐに又、出かけるから、このままでいいといい、とりあえず、炬燵《こたつ》に胡坐《あぐら》をかいた。
「源さんの診立《みた》ても、るいと同じだったよ」
嬉しそうな顔で女房をみる。
「るいが長助に、女中を調べろといったってのを、源さんが聞いて、あいつ、はっとしたんだそうだ」
畝源三郎が麻生宗太郎のところへ行って、ねむり虫について訊いてみると、
「ねむり虫なんぞというものは、まず聞いたことがないが、ねむり薬というのはあるそうだ」
それも、近頃は外国の船がさまざまの薬種を持ち込んで来て居り、
「たとえば、酒や茶、汁などにぶち込んで飲ませると、一刻ぐらいして効いて来て、やがて死んだように眠りこけるという奴もあるらしいよ」
という。
「そうしますと、みずたがらしの一味はそういうねむり薬を使ったんでございますか」
お膳を運んで来たお吉が早速、話の仲間に加わった。
「ねむり薬を汁なり、茶なりにぶち込むことが出来るのは、まず、女中だろう。長助がここへ来て話したように、薬研堀でも日本橋でも、助かっているのは女中だった。そこで源さんはお手先を走らせて、今まで、ねむり薬でねむらされたところを調べさせると、六軒ともに、この春、新規にやとった女中がいた。その上、揃いも揃って、今までの桂庵から来たのではなく、知り合いが療治を受けていた按摩の世話でというんだよ」
「あなた……」
といいかけたるいを制して、早口で続けた。
「もう一つ、六軒とも、その新規の女中が、盗賊に入られたあと、江戸は怖くていやになっただの、体の具合が悪いだの、各々、理由をつけてその店から暇を取っているんだ」
るいが叫んだ。
「大変です。お千絵さんの実家も……江原屋さんも、その女中を……」
東吾が立ち上った。
「源さんが、もう手配をしているよ。心配はあるまいが、俺も乗りかかった舟だから、これから、ちょいと行って来る」
お膳の上のものにも手をつけず、すいと出かけて行くのを、るいもお吉も茫然と見送った。
翌日、夜明けに戻って来た東吾が、一風呂浴びて朝餉をすませ、そのまま、軍艦操練所へ出かけて、夕方近くになってから流石《さすが》に疲れた顔で「かわせみ」の暖簾《のれん》をくぐるのと一足遅れて、畝源三郎が礼|旁《かたがた》、報告にやって来た。
昨夜、江原屋を襲った「みずたがらし」の一味は、待ちかまえていた畝源三郎指揮する捕り方によって一網打尽になっている。
「驚きましたよ。捕えてみると男が二人に女が八人、全く前代未聞の盗賊でして……」
首領は、るいが考えた通り、按摩に化けた、本名、浅井四郎兵衛という男で、
「お奉行の御配慮で、藩の名は表沙汰にしないことになりましたので、申し上げるわけにはまいりませんが、西国の大名家の家臣でした」
その藩内では、ここ数年、飢饉が続き、悪政に悩まされ続けた百姓が、遂に一揆を企てた。
「浅井は百姓の味方をして、一揆の首謀者となったのですが、ことを起す前に訴人する者があって、結局、浅井は一族と何人かの村の者を伴って、国を逃散《ちようさん》したそうです」
本来なら、すぐに追手がかかるところだったのが、たまたま、殿様が急死し、嫡子として幕府に届けてあった若君が、二日後に、これも病死してしまった。
「公けになれば、藩はお取り潰しですから、重役はその対応に必死で、浅井のことどころではなくなった。で、なんとか逃げおおせて、以来、諸国流浪がはじまったようです」
行商人を装ったり、伊勢まいりだ、巡礼だと旅の口実を作り、適当な土地で誰かが病人に化け、滞在しては盗みを働いた。
「五年ほどの中《うち》に、仲間を抜ける者もあり、死んだ者もあって、結局、十人が江戸を荒していたわけです」
その手口は、女たちが富商の家へ女中に入り、内部の様子をすっかり探っておいて、機会をみて仲間と打ち合せをし、晩飯にねむり薬を仕込んで、みなが寝込んでから、仲間を呼び込んで盗みを働いた。
「ねむり薬は、横浜の薬種問屋を襲った時に入手したそうです」
最初の六件は、人も殺さず、火もつけていない。
「ところが、素人の盗賊ですから、金だけ盗むのではなく、手当り次第、ものを盗もうとする。殊に女は着るものに目が行って、長持ごと運び出したがる。けれども、お江戸は町々に木戸がありますし、夜中に大きな荷車を曳いていれば、忽《たちま》ち、あやしまれます」
源三郎が、るいへ軽く頭を下げた。
「おるいさんが、東吾さんにいわれた通り、火事になれば木戸は開きますし、大荷物を持って女たちが逃げても、誰も不思議とは思いません」
るいが、そっと訊いた。
「でも、田島屋さんでは、一人残らず殺されて……」
まさか、御主人が一味ではあるまいし、といいかけたるいに、東吾が胸を張った。
「実をいうと、源さんもそこでつっかえてたんだ。田島屋では逃げた女中はおろか、奉公人もいない。その上、田島屋だけがねむり薬ではなく、斬り殺されている。で、俺は考えたのさ。これは、一味に仲間割れが起ってどさくさまぎれに、そいつを殺したんじゃないかとね」
源三郎が笑った。
「毎度のことながら、女のことでは、東吾さんに一本取られます」
首領の浅井四郎兵衛にはお浪という女房がいて、それが副首領格で女達をとりまとめていたのだが、
「浅井は女房の目をかすめて、一味のお新という女に手をつけたのです。それが女房に露見して、裏切り者は殺せとなったそうですよ」
女は怖いですなあ、と大袈裟に慨歎した源三郎に、お吉がいった。
「どうぞ、畝様もお気をつけになって……」
「いや、手前は東吾さんのように、もてませんから……」
るいが、ふっと膝を浮かし、東吾が慌てて友人をどなった。
「この野郎、うちの内儀さんのおかげで盗っ人をつかまえやがったくせに、思わせぶりなんぞいいやがって……いつ、俺が女房を裏切った。証拠があるならいってみろ」
源三郎が慌てたように両手を突いた。
「失言でした。おるいさんにお礼を申し上げに来たのでした。まことにありがとうございました。では、ごめん」
逃げ出した友人の背中へ東吾が追い討ちをかけた。
「おい、あいつに塩ぶっかけてやれ」
だが、るいは東吾に寄り添ったまま、長火鉢の鉄瓶に徳利を入れている。
板前が松茸の焼いたのを運んで来て、東吾は漸く、我が家にくつろいだ顔になった。
「嘉助がいっていたよ。うちのお嬢さんは、あのまま、八丁堀にいたら、今頃は捕物小町って呼ばれていたかも知れないとさ」
「冗談じゃありませんよ。こんなお婆さんが小町なもんですか」
「源さんがさ、俺が船に乗っていても、るいに相談すりゃあ、一件落着、天下泰平だと」
「そんなに、お船がお気に召したんですか」
やんわりとるいが東吾の顔色をみる。
「別に、そういうわけじゃない」
「港々には、さぞかし、おきれいな方がいらっしゃって……」
「馬鹿、練習船が上陸なんか出来るか」
「今にお船で遠い遠い異国へいらっしゃって……るいのような古女房のことなぞ、すっかり忘れておしまいになるかも……」
「よせやい。久しぶりに帰って、俺にはるいが竜宮城の乙姫様にみえるぞ」
「でしたら、亀に乗ってお帰りになってしまうのでしょう」
「いや、俺は一生、竜宮城にいる。玉手箱なんぞ開けて爺いになっちゃあおしまいだからな」
他人には到底、聞かせられないなと思いながら、東吾は盃をさし出して、酌をしてもらった。
「かわせみ」では、これからが一件落着、天下泰平の幕が開く。
夫婦二人だけのひっそりした夜が更けて、大川のほうから、寒そうな櫓《ろ》の音が聞えて来た。
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夢殺人《ゆめさつじん》
大川端の旅宿「かわせみ」で、一番よく夢をみるのが、女中頭のお吉であった。
朝起きて来て、
「まあ、夢でよかった」
と胸をなで下している時は、大抵、なにかに追いかけられる夢をみたようだし、
「夢と知ってたら、お礼なんかいってないで、さっさと頂いちまえばよござんした」
などというのは、夢の中で団子か饅頭を食いそびれた場合だと、「かわせみ」の人々は承知していて、誰も何もいわない。
何故かといえば、うっかり、
「どんな夢を見たの」
と訊《き》こうものなら、
「ええと、それがでございますね。夢の中では、はっきり憶えていたんでございますが、目がさめたとたんに、ぼんやりして……たしか、あそこはお稲荷さんの境内で……それが、どこのお稲荷さんだったのか……とにかく、気がついたらお稲荷さんのところにいて、それから、ええと、どうしたんでしたか……」
延々とわけのわからない話が続くからで、そうなると当人も夢を必死で思い出そうとする余り、仕事が手につかなくなってしまうので、
「お吉さんに、夢の話は禁句、禁句……」
と番頭の嘉助が口に人指し指を立てたりしている。
「夢は五臓の疲れというから、お吉はよっぽど、五臓がくたびれているのかな」
東吾は心配したが、
「なにしろ、一日中、よく喋り、よく食べる人ですから、五臓が疲れるのも当り前でございましょう」
嘉助が茶化し、当人もけろけろと笑っている。
しかし、神林東吾はお吉が夢ばかり見るのを内心、気にしていた。
もし、なにか心身に悪いところがあるのなら、「かわせみ」の主人として早く医者に診せるなり、手当をしてもらわねばならないと考えるものの、お吉の日常は、嘉助やるいのいう通り、極めて健康で元気一杯に見える。
暮になって、たまたま、兄の用事で本所の麻生家を訪ねた時、思いついて、宗太郎にその話をした。
麻生宗太郎はよく日の当る裏庭で、薬草の手入れをしていたが、お吉の夢の話を聞くと人のいい顔で笑った。
「人が、どうして夢をみるのかということについては、外国の医学でも、まだ解明は出来ていません。ごく普通に考えられるのは、日頃、なにかが心にかかっているとか、ひどく疲れたとか、もっとも、あまり疲れすぎると熟睡して夢もみないともいいますがね」
お吉の夢の内容を聞いた限りでは、あまり心配はなさそうだが、
「世の中には、笑ってすませられないような夢をみる人もいるらしいのですよ」
神田三河町一丁目に、渋谷松軒という町医者がいる、と話し出した。
「わたしの父の門弟筋に当り、大変な勉強家で、人柄も悪くありません。時折、ここへもやって来て、自分が合点のいかない病人の症状などを相談したりするのですが……」
三日ほど前にもやって来て、奇妙な夢の話をした。
「行きつけの患家の娘、娘といっても二十三になっているそうですが、生れつき病身で嫁に行けず、親許でぶらぶらしている。その娘が、この頃、毎夜のように怖しい夢をみる。つまり、自分が自分の体の中から抜け出して人殺しをするという夢なのだというのです」
東吾があっけにとられた。
「いやな夢だな」
「そうです。当人も目がさめた時は、体中にぐっしょり汗をかいていて、暫《しばら》くは身動きも出来ないほど疲れているらしい」
「まさか、本当に人を殺すなんてことはないんだろうな」
「夢ですからね」
あまり笑えない顔で、宗太郎が応じた。
「その、夢の中で殺す相手というのは、誰なのか、判っているのか」
東吾が訊き、宗太郎が首を振った。
「松軒もその点をだいぶ突っ込んで娘に問いただしてみたそうですが、娘のいうには、夢の中では確かに殺した人物を憶えているのだが、目がさめると、まるでわからなくなってしまうといっているそうです」
「大方、その娘には殺してやりたい奴がいるんだろうよ。恋敵か、自分を裏切った男か、とにかく、ぶっ殺してやりたいほど憎い奴がいるのさ。しかし、人を殺せばどうなるかもわかっているし、人殺しは罪だと承知している。だから、夢の中では、はっきり相手がみえても、目がさめると忘れちまうんじゃないのかな」
「旨《うま》いことをいいますね」
宗太郎が破顔した。
「東吾さんは、このところ海軍に凝っているようですが、どうせ蘭学をやるのなら、医者の勉強もしてみてはどうですか。けっこう、名医の素質がありますよ」
「冗談いうなよ。宿屋の亭主と船乗りだけで精一杯だ。この上、たけのこなんぞ背負い込んだら、それこそ毎晩、竹藪《たけやぶ》の夢に追いかけられる」
お琴の稽古から帰って来たらしい花世が走って来て、男二人の会話はそこで終った。
この年、江戸に冬の訪れは早く、雪や霰《あられ》の降る日が続いた。
その日も粉雪の舞う中を、木挽町《こびきちよう》の茶道の師匠、寂々斎楓月《じやくじやくさいふうげつ》の宅で催された茶会に出かけて行ったるいが、帰りに若い男女を伴って帰って来た。
「こちらは神田三河町の東竜軒の若主人で、堀江平太郎さんとおっしゃいます。そちらはやはり神田の竜閑町《りゆうかんちよう》で三春屋というお菓子屋さんのお嬢さんでおふじさん、どちらも寂々斎先生のお弟子なのですけれども……」
ちょうど帰宅していた東吾にひき合せた。
「お二人は、年があけたら御祝言なさるのですって……」
「ほう、それは、めでたいな」
赤くなって頭を下げるのを、東吾はこもごもに眺めた。
二人がるいについてやって来たのは、おふじが嫁入り道具をととのえるのに、るいの鏡台や小箪笥をみせてもらうためだという。
「寂々斎先生がおっしゃいましたの。おるい様はお道具のお好みが大層、高尚でいらっしゃいますから、是非、相談にのって頂きなさい、と……」
甘えたような素振りで、間もなく夫となる平太郎をふりむくおふじは体中から若さが匂い立つようで、十九という年にしては、ひどく色っぽい。
「寂々斎先生は、お口がお上手なのですよ。とても、おふじ様のお気に入るようなものは持って居りませんが……」
だが、るいが取り出してみせた鏡台も手文庫も、乱れ箱や文机《ふづくえ》まで、おふじはことごとくに感嘆の声をあげた。
「これを、どちらでお求めになりましたの」
「深川の宮越屋でございますが……」
「早速、参ります。こちらでお道具を拝見したと申しましても、かまいませんか」
嫁入り支度というのは、女をこうも浮き浮きさせるものかと、東吾は感心していた。
最初、はにかんで固くなっていたおふじが忽ち、のびのびと喋り、いきいきと振舞っている。
ひとしきり、るいと道具の話をして、やがて二人は待たせてあった駕籠で帰って行った。
「三春屋さんの娘さんだそうですが、随分と華やかと申しますか、お色気のある人でございますね」
送って外まで出ていた嘉助が、帳場へ戻って来て、るいにいった。
実をいうと、るいもおふじを色気がありすぎると感じていた。素人の、しかも大店の娘なのに、一つ間違うと水商売の女と思い違えられそうな蓮葉《はすは》さがある。おまけに気になったのは、るいの道具をみたり、話をしたりする間に、傍にいる東吾へ送る視線が妙に思わせぶりだったことだ。
が、るいは口に出さなかった。昔はともかく、今は、れっきとした神林東吾の妻として、つまらないことで、一々、目くじらを立てるつもりはない。
居間へ戻って来ると、東吾は炬燵の上に、小難しそうな書物をのせて読んでいたが、
「今の二人、なんだか、へんてこりんだったな」
るいを見て笑う。
「なにがでございますの」
長火鉢の炭の具合をのぞきながら、るいはとぼけた。
「女房になるほうは、小娘のくせに岡場所の女みたいに色気をふりまいてさ。亭主になるほうは、それを見て苛々《いらいら》している。あれじゃあ、とても共白髪まで添いとげられねえぜ」
「そんなことはございませんでしょう。平太郎さんは、若くて色っぽいおふじさんに夢中ですもの」
「亭主が女房に惚れてるのはいいさ。しかし、その女房が尻軽の浮気者だったひには、天下泰平とは行かなくなる」
「おふじさんは、そんな人じゃありません」
「一人娘じゃないだろう」
「たしか、上にお姉さんとお兄さんがいらっしゃるとか」
嘉助が宿帳を持って来て、東吾は矛先《ほこさき》を変えた。
「嘉助は、三春屋の内情を知っているか」
「昔のことしか存じませんが……たしか、旦那は最初のお内儀さんが歿《なくな》って、二番目をおもらいなすったんですが、それが、以前から馴染《なじ》みの芸者衆だったというようなことを耳にした憶えがございます」
「おふじは、その芸者の子だよ。あの色っぽさは血筋だろう」
東吾が当て推量をいい、
「どなたかさんは、随分とおふじさんがお気になるようですのね」
るいがとうとう角《つの》を出し、嘉助は慌《あわ》てて帳場へ逃げ戻った。
「宮越屋といえば、あそこの娘は木曾へ嫁入りしたんだな」
木曾路は雪が深いだろうと話題を変えて、東吾は炬燵の上の書物を片づけた。
味噌の煮える、いい匂いをただよわせながら、お吉が土手鍋を運んで来た。
それから二日、久しぶりによく晴れたものの北風が強く、底冷えのする朝に、麻生宗太郎が、ひょっこり、「かわせみ」へやって来た。
「東吾さんは、まだ居るでしょうね」
という声を聞きつけて、東吾は木剣の素振りをやめて縁側に上った。
「東吾さんが朝飯がまだなら、わたしも一緒にお願いします。なにしろ、この時刻を逃すと患者がつめかけて、とても飯どころではなくなるもので……」
出迎えたるいにいっている声がする。
「朝っぱらからどうしたんだ。七坊《ななぼう》と夫婦喧嘩か、それとも、朝帰りじゃあるまいな」
「そのどちらでもありません。実は今しがた神田から渋谷松軒が来ましてね。昨夜、三春屋の末娘が殺されたそうで、松軒としては、例の夢の話をお上に申し上げたものかどうか相談にやって来たのです」
東吾が途惑った表情になった。
「三春屋の末娘というと、おふじのことか」
「そうです」
「おふじと夢の話と、どうつながりがあるんだ」
「東吾さんに、この前、話したでしょう。松軒の患者で、人を殺す夢ばかりみる娘のことです」
「あれが、おふじか」
「いえ、おふじの姉のお銀です」
「待ってくれ。お銀がおふじを殺したのか」
「下手人はわかりません。松軒も話をきいて三春屋へかけつけたそうですが、家族の誰にも会えなかったといっています」
東吾が笑った。
「要するに、俺に三春屋へ行って、事件を調べろってことだな」
「こういうことは、畝さんに頼むべきかと思いましたが、どうせならば、東吾さんのほうが話が早いでしょう」
「なにが話が早いだ。なにかというと俺をこき使いやがって……」
「それは、おたがいさまです」
わあわあやり合いながら、るいとお吉の運んできた朝飯を食べ、
「それでは、東吾さん、何分よろしく」
と宗太郎は本所へ帰って行った。
「あの野郎、人にものを頼みに来て、朝飯食って行く奴がどこにある」
口では文句をいいながら、東吾は素早く身支度をして大川端を出た。
まっしぐらに八丁堀の組屋敷へやって来ると、ちょうど畝源三郎が奉行所へ出仕するところで、
「間に合ったな。八丁堀の出仕の遅いのは、こういう時に助かるよ」
肩を並べて歩きながら、ざっと話をした。
「そういうことなら、これからそっちへ行きましょう」
小者だけを奉行所へやって、畝源三郎は東吾と共に神田の竜閑町へ向った。
三春屋は大戸を下し、忌中の張り紙が出ていた。
その前で、町役人の森戸屋吉右衛門というのが、このあたりの岡っ引で、本職は髪床の亭主である金八というのと、立ち話をしている。
二人が、畝源三郎に気がつき、慌てて走り寄って来た。
「早速のお出まし、ありがとう存じます。御厄介をおかけ申します」
と森戸屋が挨拶し、金八が案内して、三春屋の住居のほうの入口へ向った。
三春屋は通りに面しているほうが店で、その奥が菓子職人達の仕事場で、中庭をへだてて家族の住居になっている。
その家の外側は鎌倉河岸から竜閑橋の下を通っている細い水路であった。
従って、中庭から鎌倉河岸の方角をみると、そちらに竜閑橋がみえる。
東吾と源三郎が金八を先に立てて、三春屋の中庭へ入った時も、竜閑橋の上に何人かが集って三春屋のほうを眺めているのが、よくわかった。
その中庭を住居にも仕事場にも寄らずに、横に突き抜けると隣との板塀へ出る。
板塀にはくぐり戸がついていた。
金八が恐縮した顔で、そのくぐり戸を押した。
「ここの外のところに、おふじが倒れて居りましたそうでして……」
自分が知らせを受けてとんで来た時には、もう遺体は家の中に運ばれていたのだといった。
「なんで、勝手なことをしたんだと苦情を申しましたんですが、親として娘を地べたにさらしておくのは忍びなかったと泣かれちまいまして……」
塀の傍の黒土には霜柱が立っていて、そのいくらかは踏み散らされている。
おふじの死体のあったあたりは人の足跡だらけであった。
「ここは、お稲荷さんの境内じゃないか」
東吾が見廻すようにしていった。
三人が立っている左側、水路を背にするような形で赤い鳥居の並ぶ後にお稲荷さんの社《やしろ》がみえる。
社殿の前に何本か立っている幟《のぼり》には「白旗稲荷」の文字が書かれていた。
要するに三春屋の板塀のくぐり戸を出て、左手がお稲荷さんの社殿ということになる。
社殿からは通りへ向って細い石畳が敷かれていて、左右にはお狐さんの石像が置いてあった。
「おふじの死体がみつかったのは、いつのことだ」
源三郎が訊き、
「朝になってからだそうで……毎日、一番にお詣りに来る、本銀町の笹屋の隠居がみつけまして……」
笹屋は、白旗稲荷のまん前、通りをへだてたところにある豆腐屋であった。
商売柄、家中が早起きで、午《うま》の日には商売物の油あげをお供えするのだが、隠居は信心深く、毎日、起きぬけに参詣しているという。
「三春屋へは隠居が知らせたのか」
「いえ、年寄は腰が抜けたようになって、悴《せがれ》に声をかけたようで……」
笹屋のほうから、若い男がやって来た。
店からは境内がみえる。役人の調べがはじまったと知って、自分から出て来たものらしい。
金八が手招きし、笹屋の新七というのが、源三郎と東吾にかしこまって挨拶した。
若くはみえるが、三十のなかばを過ぎていて、女房との間に三人、子がいるといった。
「あんたが、おふじの所へ行った時のことを話してくれ」
源三郎がいい、新七は緊張した表情で答えた。
「店で働いて居りますと、お詣りに行った親父が、お狐さんの像につかまって、こっちへ手を上げているのが目に入りました。てっきり、親父が卒中にでもなったのかととんで行きますと、指で、こっちのほうを指しますので……まだ、すっかりは明るくなって居りませんでしたが、女の人が倒れているのはわかりました。近づいてみると、それが、おふじさんだと……」
「体に手をかけなくとも、おふじだとわかったのだな」
と東吾。
「はい、仰むきにひっくり返ったような恰好でして……」
「死んでいると、すぐにわかったか」
「いえ……ですが、首に赤い紐が巻きついているのがわかりましたから……」
「それから、どうした……」
「女房も店から出て来て、親父の介抱をして居りましたから、自分は三春屋へ知らせようと、くぐり戸を開けました」
「くぐり戸に桟は下りていなかったのだな」
「開いたところをみますと、下りてなかったのだろうと思います。大声で呼びますと、職人の芳三さんが出て来ました。芳三さんがくぐり戸からのぞいて仰天して、また大声を出しましたので……」
次々と三春屋の者が出て来たが、その順は憶えていないという。
「とにかく、家の中へ入れようと、旦那が指図をして、おふじさんを運んで行きましたので……」
自分はそのまま、店へ帰ったが仕事が手につかないで困ったとひきつった笑いを浮べた。
「そのうちに親父がお上へ知らせたほうがいいというので、すぐ金八親分のところへ走りました」
くぐり戸のむこうから三春屋の番頭らしいのが小腰をかがめた。
役人が来たと店の者に知らされて、顔を出したようである。
再び、くぐり戸を入って、今度は住居のほうの内玄関に雪駄《せつた》を脱いだ。
おふじの遺体は夜具に寝かされて居り、その脇に家族だろう、四人の男女が見えた。
「こちらが旦那の長兵衛さんで……」
と、金八がまず三春屋の主人をひき合せ、その長兵衛が遺体にとりすがるようにして泣いている女を、
「家内のお永でございます」
と挨拶させ、続いて自分の隣にいた若い男女を、
「姉娘のお銀と、悴の春之助で……」
力のない声で告げた。
また、遺体の寝かされている夜具の裾のほうに、慈姑頭《くわいあたま》の医者が神妙にひかえている。
「三河町の渋谷松軒先生で……」
と金八がいい、東吾はこの医者が麻生宗太郎に、お銀の夢の話をした男かと合点した。
「検屍は済んだのか」
源三郎が訊き、松軒はにじり寄るようにして、低声《こごえ》で告げた。
「何者かによって、首を強く締められ、絶息致したものでございます。体には他に異常もなく、毒物によるものでもございません」
「あんたは……」
と東吾が無雑作にいった。
「事件を聞いて、この家へかけつけて来たが、玄関払いを食ったんだろう」
松軒が驚いた顔をし、廊下にいた番頭が慌てたように口をはさんだ。
「申しわけございません。先生が来て下さいました時、家中が大さわぎになって居りまして……」
「しかし、娘に異常があった場合、仮にもう息がねえとわかっていても、とりあえず医者に診てもらおうとするのが人情ではないのか」
東吾の言葉にそそのかされたように、遺体にすがりついていたお永が叫んだ。
「松軒先生を追い返したのは、先生の口からおふじを殺した下手人の名が知れると困るからですよ。それに違いないんだ」
待っていたように、東吾が訊いた。
「下手人は誰なんだ」
「ここにいる、お銀です」
「なにをいうのだ」
長兵衛が女房を制した。
「とんでもないことをいうものではない」
「とんでもないことかどうか、松軒先生が御存じですよ」
松軒が手をふった。
「手前は、金八親分に呼ばれて、おふじさんの体を検《あらた》めましただけで……」
「あんたがいうのは……」
と東吾がお永と向い合った。
「お銀の夢のことか」
お永がうなずき、長兵衛が慄えているお銀を片手で抱くようにした。
「冗談じゃない。夢で人が殺せるものか」
「旦那はおふじが可愛くないんですか。お銀が旦那の娘なら、おふじだって、れっきとした旦那の娘なんですよ」
お永が長兵衛につかみかかり、金八が慌てて抱き止めた。
「お役人様」
長兵衛が東吾へ向って、頭を畳にすりつけた。
「たしかに、お銀は奇妙な夢をみることがございました。ですが、夢は夢、お銀のような気の弱い、非力な娘が、なんで妹を殺せましょう。手前はお銀も可愛ければ、おふじも可愛ゆうございます。母親が違いましても、娘にわけへだては致して居りません。どうか本当の下手人を探し出して、おふじの仇を討って下さいまし」
だが、東吾はそれに答えず、遺体の枕許においてある赤い紐を取り上げた。
「源さん、これは、なんだと思う」
返事を待たずにいった。
「多分、隣のお稲荷さんの社前の鈴の緒《お》だよ」
源三郎と金八が、あっという顔をした。
「さっき、お稲荷さんの前まで行って、なにか怪訝《おか》しいと思ったんだ。参詣人がひっぱって鈴を鳴らす紅白の紐が、白一本だけになっていたんだ」
「力まかせにひっぱって千切っていますね」
紐を手に取って源三郎もいった。
「これは、女の力では無理でしょう」
長兵衛が救われたような表情になった。
「ところで……」
東吾が一同を見渡した。
「まず、昨夜のことから話してもらいたい」
おふじは昨日、家にいたのだろうな、といわれて、長兵衛が膝を進めた。
「晩餉は五人|揃《そろ》って頂きました。そのあと、お銀は風邪気味で早寝を致し、お永はかかりつけの按摩が参りましたので療治を、手前は店へ戻って、番頭と帳簿調べを致しました」
「おふじはどうした」
「おふじは蔵へ行きましたよ」
とお永がいった。
「嫁入りに持って行く衣裳と、おいて行くものと分けるといって、ここんところ、毎日、蔵で仕分けをしていましたから……」
「春之助は……」
下をむいていた春之助が体を固くした。
「おふじが手伝ってくれと申しますので……」
「蔵から出て来たのは……」
「五ツ半すぎ(午後九時頃)でしたよ」
お永がまた答えた。
「按摩が帰って、あたしがうとうとしていたら、おふじがおやすみなさいといいに上って来ましたから……」
この住居は二階家になっていて、上には長兵衛夫婦とお銀が廊下をへだてた部屋にやすみ、階下はやはり廊下をへだてて、おふじと春之助が寝ていたという。
奉公人と職人は、店の二階にやすむので、こちらの家は家族だけの夜になる。
長兵衛もいった。
「手前が店から戻って参りました時、おふじはもう自分の部屋の灯を消して居りましたし、春之助は部屋から出て来て、手前に挨拶をし、また自分の部屋へ入りました」
二階へ上って、お銀の部屋をのぞくと、
「松軒先生から頂いた薬が効いたのか、寝息を立てて居りました。家内も、うとうとして居りましたようで……」
自分も敷いてあった布団に横になり、朝まで目をさまさなかった。
「すると、おふじはみんなが寝しずまってから、一人で外へ出て行ったのか」
東吾が呟《つぶや》いた時、手代らしいのが廊下の番頭のところへやって来て、小さく告げた。
「東竜軒さんの御主人と若旦那がおみえになりましたが、如何致しましょう」
東竜軒の主人、堀江八郎兵衛とその悴の平太郎は、三春屋の店のほうの座敷に落ちつかない様子ですわっていたが、入って来た畝源三郎と神林東吾をみて、居ずまいを直した。
殊に、平太郎は東吾が大川端の「かわせみ」の亭主と気がついて、はっとしたようであったが、
「とんだことだったな。さぞかし驚いたろう」
と東吾に声をかけられると、目を赤くしてお辞儀をした。
それを見て、源三郎がいつもより、もったいぶった口調で八郎兵衛に訊ねた。
「其方《そのほう》の悴、平太郎と、この家のおふじとは、すでに縁組ととのい、明春早々、祝言という話を聞いたが、相違ないか」
「おっしゃる通りでございます」
神妙に八郎兵衛が答えた。
「それが、このようなことになりまして、手前どもは仰天致し、早速、悴と共にかけつけて参ったようなわけでございます」
「ところで、昨晩、平太郎はどこに居《お》った」
急に矛先が向いたせいか、平太郎はひどく狼狽した。
「どこと申しまして、家に……」
「どこへも出かけなかったと申すか」
「ああ、いえ、町内の寄合いに顔を出しまして……」
「それは、どこだ」
「柳橋のえびす屋と申す小料理屋で……」
「家に戻ったのは何刻であった」
「少々、飲みすぎまして……酔いざましに歩いて帰りましたので……」
「時刻は憶えて居らぬのか」
「へえ、裏口を叩いて、おっ母さんに開けてもらいまして……」
脇から八郎兵衛がいった。
「あれは、大方、四ツ(午後十時頃)ぐらいだったのではないかと存じます」
「其方は起きていたのか」
「いえ、横になったばかりで、女房が出て行くのに気がついて居りましたが……」
源三郎が東吾を見、東吾が訊いた。
「柳橋から三河町へ帰る途中、三春屋へ寄って、おふじに会ったんじゃなかろうな」
平太郎が蒼白になった。
「いいえ、そのようなことは致しません」
「おふじとは、うまく行っていたんだな」
「はい」
「おふじを怨んでいる者の心当りはないか」
「いえ」
「俺はあんたと一緒にかわせみに来た時にしか、おふじに会っていないが、十九というにしては、随分と色っぽい娘だと思ったが、おふじは誰にでも、あんなに愛敬がよかったのか」
「さあ、それは……」
「おふじのほうはなんとも思っていなくとも、おふじに岡惚れしていた男はあるだろう」
「わかりません。手前はなにも……」
東吾が苦笑した。
「まあいい、奥へ行って仏さんの顔をみてやるがいい」
番頭に案内されて行く東竜軒父子の後姿を見送って、東吾と源三郎は三春屋の外へ出た。
表の通りから白旗稲荷の境内に入る。
社前の鈴をみると、果して紅白の紐の赤いのがひき千切られていた。
「東吾さんは、平太郎を疑っているのですか」
源三郎が鈴の紐を眺めながらいった。
「あいつ、この前、かわせみへ来た時、どことなく苛々していたんだ」
「おふじが東吾さんに色気をふりまいたからですか」
「俺にだけじゃないだろう。おふじって娘は男とみると、誰にでも愛敬がいい、色っぽくなる。そういった女だったと思う」
「厄介ですな」
通りのほうへ戻りながら、源三郎が眉を寄せた。
「当人が気づかないうちに罪作りをしているということもありますな」
下手人はあらかじめ、時刻を決めておふじを白旗稲荷の境内へ呼び出した。
「そこで口論になって、鈴の緒をひき千切って締め殺したのか、最初から殺すつもりで鈴の緒を切っておいたのか」
どちらにしても、呼び出されておふじが深夜、家から出て来るのは、間もなく夫となる平太郎ぐらいのものだろうと源三郎はいった。
「東吾さんに声をかけられた時の平太郎の狼狽ぶりは異様なほどでした」
「しかし、平太郎は、どうやっておふじを呼び出したんだ」
「二人の間で、なにか合図とか、とりきめがあったんじゃありませんか。昼の中《うち》に文をよこすとか……」
そのあたりを金八に調べさせるといい、源三郎は三春屋へ戻って行った。
で、東吾は竜閑橋を横目にみて、日本橋川沿いの道を大川端へ帰ったのだったが、午餉《ひるげ》をすませて間もなく、嘉助が、
「若先生、三春屋さんからお銀さんとおっしゃるお方がみえましたが……」
と取り次いだ。
帳場へ出てみると、お銀は供もなく一人きりで、疲れ果てたようにすわり込んでいる。
「どうぞ、お上りなさいまし」
るいが手を取るようにして居間へ連れて行き、温かい茶を勧めると、お銀は人心地がついたようで、いきなり目に涙を浮べた。
「お父つぁんは、そんなことはないといってくれましたが、おふじを殺したのは、私かも知れませんので……」
火鉢に炭を足していたるいがあっけにとられ、東吾が訊いた。
「あんた、昨夜も人を殺した夢をみたのか」
お銀が小さくうなずいた。今朝のさわぎで、ろくに櫛も入れていないらしい髪がほつれて、化粧っ気のない痩せ細った顔が悲しげである。
「夢の中で殺したのは、おふじだったのか」
「憶えていないのです。でも、おふじだったかも知れません」
「お稲荷さんの鈴の紐を千切って、そいつでおふじの首を締めたのか」
お銀がぶるっと身慄いをした。
「わかりません。でも……」
「あんたの力じゃ、あの鈴の緒は切れやしないよ」
故意に明るく東吾はいった。
「それに、もし、あんたが夢うつつにおふじを殺したとすると、あんたの足の裏は泥んこの筈《はず》だ。朝起きた時、あんた、自分の足が汚れていたかい」
お銀は首を振ったが、その表情は暗いままである。
「あんた、おふじを殺したいと思っているのか」
いささか乱暴な東吾のいい方だったが、お銀は動じなかった。
「もしかすると、そうなのかも知れません」
「理由はなんなのだ。あんたは病身だ。年頃になっても嫁にも行けない。それにひきかえ、おふじは元気だ。色っぽくて男にちやほやされ、東竜軒へ嫁に行く」
ふっと言葉を切って、東吾はお銀を眺めた。
声はなく、ただお銀の両眼からは涙が滝のように流れている。
「その他に、あんたが、おふじを憎む理由はなんだ。おふじはお永の連れ子ではなくて、あんたの父親の娘だといったな。つまり、お永があんたの父親の妾になって、おふじを産んだ時、あんたの母親はまだ健在だったってことだろう」
「おっ母さんは……」
と、お銀が途切れ途切れにいった。
「弟の春之助を産んだあと、体を悪くして、十五年も寝たり起きたりの暮しが続いて……終りの二年はただもう生きているってだけのかわいそうな毎日だったんです。その最中にお永って女がおふじを連れて家へ入って来て、おっ母さんの命のある間から、もう、長火鉢の前にすわって、奉公人にお内儀さんと呼ばせたり、これみよがしにふるまっていました。おっ母さん、口惜し涙を流しっぱなしで死んで行ったんです」
お永にそういうことをさせた父親も悪いとお銀はいった。
「でも、同じ女なら、少しは女の気持がわかってくれてもよいと思いました」
「成程なあ」
東吾がいたわるように、お銀へいった。
「あんたが夢の中で人を殺したくなるのが、よくわかるよ」
しかし、あんたはおふじを殺してやしないと、力強くいい切った。
「つまらない心配をすると、また、体が悪くなる。弟の春之助のためにも、あんたがしっかりして、元気にならなけりゃいけねえぜ」
東吾になぐさめられて、お銀は何度も頭を下げ、駕籠を呼んでもらって帰って行った。
「お気の毒ですねえ」
もらい泣きをしていたるいがいった。
「あなたには申し上げなかったのですけれど、寂々斎先生がおっしゃいましたの。本当は東竜軒へ嫁入りするのはお銀さんの筈だったそうですよ。それを、お銀さんは体が弱くてとても商家の嫁はつとまらないということで、お永という人が旦那をくどいて、おふじさんに替えてしまったとか……」
いつの間にか廊下のすみにすわって話を聞いていたらしいお吉がいった。
「そういうことでしたら、やっぱり下手人はお銀さんじゃありませんか。非力な人でも夢うつつの時には鬼がのり移ったような力が出るものだって講釈で聞いたことがありますよ」
東吾が、すっかり冷えた茶を飲みながら応じた。
「まあ、そのうちに源さんが、なにか掴んで来るだろう」
畝源三郎が「かわせみ」へやって来たのは夜になってであった。
「どうも、いろいろなことがわかりました」
一番、臭いのは東竜軒の平太郎だといった。
「平太郎は、よく三春屋へ忍んで来ていたそうですよ」
結納の入る前から、夜更けに忍んで来て、おふじの部屋で逢引し、そっと帰って行くのを、三春屋の奉公人は大方が知っていたらしい。
「平太郎が忍んでくる夜は、おふじが例のお稲荷さんの境内へ通じるくぐり戸の桟を開けておくのだそうでして、親は二階ですから、娘のところに男が夜這《よば》いに来ているのに全く気がつかない。それを良いことに、結納が入ってからは毎夜のように来ていたと申します」
「昨夜も平太郎は来ていたのか」
「姿をみかけた者がいるのです」
お永の療治に来ていた按摩が、三春屋からの帰り、竜閑橋のところで、平太郎らしい男とすれ違ったと申し立てた。
「按摩の家は三河町一丁目で、東竜軒は同じく三河町の四丁目です。平太郎が柳橋からまっすぐ家へ帰るならば、竜閑橋を渡って三春屋の方角へ来る必要はありません」
「しかし、毎晩、逢引していたくらいなら、二人はいい仲だったんだろう。痴話喧嘩ぐらいで女を殺すか」
「東吾さん、いっていたでしょう、平太郎が苛々していたと。おふじは案外、平太郎以外の男ともいい仲になっていて、そいつを平太郎が知ったとなれば、どうなりますか」
「そういう男がいたと、確証があるのか」
「今、金八が調べています。なにしろ、おふじというのは、堅気の娘にしたら、とんだはねっかえりというか、あばずれというのか、実の兄にまでいちゃいちゃして、奉公人はとても、まともには見ていられなかったそうですよ」
血を分けた兄妹だから遠慮がないのか、湯上りのしどけない恰好でもたれかかったり、背中に虫が入ったみたいだから見てくれだとか、
「兄妹でなかったら、男を挑発しているとしか思えないようなことを、平気でやっていたといいますから……」
おそらく、おふじの相手の男もすぐ知れるだろうし、平太郎を調べれば、楽に白状するに違いないと、源三郎は自信ありげに話していたのだったが。
数日後、深川の長寿庵の長助が、信州から新しい蕎麦粉が入ったのでと、「かわせみ」へ届けに来たついでに、番頭の嘉助に話したところによると、三春屋のおふじ殺しに、畝源三郎はかなり手を焼いているという。
「金八がどう調べても、おふじの相手がみつからねえというんです」
無論、あの界隈の若い男で、おふじにちょっかいを出し、けっこう深い仲になったのは一人や二人ではないらしいが、平太郎と夫婦約束が出来てから、おふじのほうから全部、手を切った。なかには父親の長兵衛が手切金を出した者もあるくらいで、
「おふじも父親からきびしくいわれたんでしょう。平太郎の他には男を寄せつけなくなっていたと申します」
それに、おふじの相手になった男たちも、本気で夫婦になろうと思っていた者は一人もなく、面白ずくに遊んだだけで、おふじを殺すほど夢中になっていたというのは見当らなかった。
「おまけに、平太郎なんですが、畝の旦那のお調べにおそれ入って、確かにあの夜、三春屋へ忍んで行くつもりで、お稲荷さん側のくぐり戸までは行ったと白状したそうですが、そこからが奇妙なんでして、いつものようにくぐりの桟は下りていなかったので、まっすぐにおふじの部屋の外へ行き、雨戸を叩いたが返事がない。で、雨戸に手をかけると、こっちも桟が下りていなかったので少しばかり開け、部屋をのぞいたが、おふじの姿は見えなかった。その中《うち》に二階から誰かが下りて来るような足音が聞えたので慌てて雨戸を閉め、くぐり戸から逃げ出したというんだそうでして、決して自分はおふじを殺してはいないと、頑強にいい張って居りますとか……」
まず、下手人は平太郎であろうと思われるものの、これといって証拠もなく、源三郎も調べが行きづまってしまっているらしい。
「おふじさんの部屋まで行ってみたが、おふじさんがいなかったから帰ったなんて、随分、いい加減じゃありませんか。畝の旦那のお調べが手ぬるいから、白状しないんですよ」
とお吉は歯がゆがったが、東吾は珍しく考え込んでいて、なにもいわなかった。
そして翌日、ふらりと「かわせみ」を出た。行った先は三河町の渋谷松軒の家で、ちょうど在宅していた松軒に訊ねた。
「あんたは、三春屋の先の女房の時からのかかりつけだったそうだが、三春屋の内情はよく知っているだろうな」
松軒は不安そうに東吾の顔色を窺ったが、
「心配するな。俺は麻生宗太郎から、あんたのことを頼まれているんだ」
と打ちあけると、肩の力を抜いた。
「手前の知って居りますことなら、なんなりと申します」
といった。
「お銀と春之助は、仲がいいんだろうな」
そりゃあもう、と医者は力をこめた。
「春之助さんは大変な姉さん思いですし、お銀さんも春之助さんをたよりにしてお出ででございます」
「おふじとは、どうだ」
松軒が顔をしかめた。
「歿った人のことを悪く申すのは気がひけますが、あの人は男のほうをむいた顔と、女に向けた顔が、まるっきり別人になるという人でございまして……」
「春之助には甘ったれたが、お銀には冷たかったのだろうな」
「仮にも姉に当る人を、無視すると申しますか、邪魔者扱いで……あれで、もし、長兵衛旦那になにかあった場合、お銀さんは三春屋を追い出されはしまいかと、あそこの奉公人は本気で心配して居ります」
「あんたは、神田では古顔だから、案外、耳に入っているのじゃないかな。おふじは本当に長兵衛の子なのか」
松軒が絶句し、しかし、続けた。
「わかりません。ですが、お永さんという人は芸者の頃から相当にしたたかな女だと評判でして……長兵衛旦那はいいように欺されているが、おふじさんは別の男の子らしいと、手前の患家の者が話したことがございます」
「今でも、長兵衛はお永に丸めこまれているのか」
「いえ、それがそうでもございませんで、いつぞや、手前がお銀さんの容態を診ての帰りに、旦那が竜閑橋のあたりまで送ってくれまして、悪い女に欺されて、実の娘を不幸にしてしまったと口惜しそうにおっしゃったことがございます」
「それは、いつだ」
「今月に入って間もなくのことだったと思いますが……」
「悪い女とは、お永のことか」
「その時の感じでは、お永さん母娘というように受け取れました」
「長兵衛が、おふじを自分の子ではないと、うすうすかんづいているということは……」
「あろうかと存じます。世間では、けっこう、そのように噂をして居りましたので、知らぬは長兵衛旦那ばかりということでございますから……」
「ありがとう。いいことを聞かせてもらった」
松軒の家を出ようとしたところに、金八がとび込んで来た。
「えらいことです。三春屋の旦那が無理心中をしでかしたんです」
畝源三郎の指図で、検屍に松軒を呼びに来たのだと聞いて、東吾は松軒と共に三春屋へかけつけた。
白旗稲荷の社殿の裏で、お永は胸に脇差を突き立てられて死んでいた。そして長兵衛はその近くの松の枝からぶら下って縊死《いし》していた。
長兵衛の遺書には、自分の不明から悪い女を家に入れ、病妻と子供達を不幸せにしたことを思うと、夜も眠れないくらいに苦しんだこと、このままでは、もし自分に万一のことがあった場合、三春屋はお永母子のものになり、お銀と春之助の行く末が案じられ、遂に思い余って、おふじを殺し、今、お永を殺して自分も申しわけに死ぬと書いてあり、お上の御慈悲が何卒《なにとぞ》、残された二人の子に及ぶよう願い奉ると結んであった。
思いがけないことで、一件落着となってから、東吾は源三郎を八丁堀の屋敷に訪ねた。
「ここだけのことにしていいのだが、俺はおふじを殺したのは春之助だと思う」
あの夜について、平太郎の申し立てはほぼその通りだろうといった。
「平太郎とおふじは毎夜のように、おふじの部屋で逢引をしていた。廊下一つへだてた所にいる春之助が気づかぬ筈がない」
平太郎が本来なら、姉のお銀の夫となる男であったことを春之助は知っている、と東吾はいった。
「そして、お銀が人を殺すような怖しい夢に悩まされるほど、苦しみ、悩んでいることも春之助は承知していただろう」
ここから先は、全く俺の当て推量だが、と、いささか重苦しい表情で続けた。
「春之助はおふじの誘いに負けたことがあるのかも知れない」
血の続く妹と契りをかわしたことに悩んでいる春之助に、おふじは、自分が長兵衛の娘ではないと打ちあけたのではないだろうかと東吾は考えていた。
「すると、春之助は自分達と血の続かない女が、姉の幸せを奪い、自分を玩具にして東竜軒へ嫁いで行こうとしているのに、我慢が出来なかったというわけですか」
複雑な男心だが、わからないではないと源三郎もいった。
「春之助にしてみれば、自分を弄《もてあそ》んだ女が、毎夜、向いの部屋で男とみだりがましい声を上げ、傍若無人、これみよがしにふるまっている。殺してやりたくもなるでしょうな」
「おそらく、春之助はあの夜、おふじを自分の部屋へ呼び、その上で、かねて用意しておいたお稲荷さんの鈴の緒で締め殺した。そのあとに平太郎が忍んで来る。さんざん声をかけ、雨戸をこじあけたりしたが、結局、おふじは部屋にいなかった」
もしかすると、平太郎も、おふじと春之助の仲に疑念を抱いていたのかも知れないので、
「とはいえ、春之助の部屋まで押しかけて行く勇気は平太郎にないだろう。そうこうしている中《うち》に二階から長兵衛が階下の物音に気づいて下りて来た。平太郎は逃げる」
「長兵衛は、春之助がおふじを殺害したのを知ったのでしょうな」
春之助に手伝って、おふじの死体をくぐり戸の外に捨てたのは、
「平太郎に疑いがかかるように考えたのだろう」
実の娘のお銀を捨てて、おふじを取った男に、長兵衛は怒りを持っている。
「長兵衛は、いずれは春之助が下手人とわかる日が来ると思って、自分が身代りになったのでしょうか」
「それもあるだろうが、すべては自分の播《ま》いた種だと思う気持からではないのか。播いた種を自分で刈り取って死んで行ったような気がするよ」
「春之助を召し取るべきでしょうか」
真犯人は挙がるが、命をかけた親心は水泡に帰す。
「春之助がどうするか、様子をみたらどうかな。それから先は源さんにまかせるよ」
「つらい宿題を押しつけられましたね」
だが、もう三日で大晦日という午後、源三郎が「かわせみ」へやって来た。
「春之助が、死んだ者の菩提をとむらいたいと西国巡礼の旅に出ました」
三春屋の店は閉めず、職人と奉公人がお銀を盛り立ててやっているといった。
「不思議なことがあるのですよ。松軒先生の話なのですがね。お銀がすっかり元気になって、春之助が帰って来るまで、三春屋の店は自分がしっかり守るといって、見違えるほど、しゃんしゃんとして働いているそうです」
女は強い、といいながら、源三郎は東吾と並んで、ちょうど始まった「かわせみ」の餅つきを眺めていた。
今年はお吉がいい出して、杵を取るのはお吉、餅を返すのはるいと女二人が、がんばっている。
「俺の出る幕がないんだ」
東吾が呟き、源三郎はその肩を叩いた。
「なあに、間もなくお吉さんの腰が抜けますよ」
大川端を師走の風が吹いている。
江戸の年の暮は、近年になく温かであった。
初 出 「オール讀物」平成6年4月号〜12月号(7月号をのぞく)
単行本 平成7年4月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成十年四月十日刊