ラノベ部 第1巻
平坂 読
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[#小見出し] 暫定的プロローグ 〜ラノべ部はじめました。〜[#「暫定的プロローグ 〜ラノべ部はじめました。」は太字]
物部文香《もののべふみか》[#「物部文香」はゴシック体]、十五歳。
高校に入学したばかりの一年生。
背は低めて顔つきも幼いため、たまに小学生に間違えられる。
人からよく「いつも眠そうな顔してるね」と言われるのだが、実際いつも眠い。
文香が「この学校に文芸部はないので申請をやり直せ」みたいな主旨のことを担任の先生から言われたのは、部活動の入部届を提出した日の放課後のことだった。
文香の通う公立|富津《とみづ》高校(通称フツ校)は部活動に力を入れていて、生徒は必ず何かの部に所属しなければいけないことになっている。
正直放課後はすぐに家に帰って勉強したり寝たりしたいと思ったけど、もちろん帰宅部なんて正式には存在しない。
運動があまり好きじゃないから体育会系は絶対に御免だったし、文化系にしても特にやりたいと思うことがなかった。
部活どうするかなあと迷っている間に部活動の見学期間が終わってしまい、入部届の提出日が来てしまった。
それでまあ、とりあえず「文芸部」と書いて提出した。
理由は国語が苦手だから。
小学校の頃から、他の科目はそこそこ出来るのに国語の成績だけは悪かった。
それなのに何故《なぜ》文芸部? と思われるかもしれないが、文香《ふみか》には恐るべきしんぼうえんりょがあった。
文芸部に入るような生徒はきっと国語が得意だろうから、面倒な宿題を写させてもらったりテスト前に教えてもらったりできる。
それに文芸部なんて普段はどうせ部室で本を読むだけで、活動らしい活動といえば年に数回部誌か何かをちょちょっと発行しておしまいみたいな感じのヌルい部活だと相場は決まってる(←偏見)。
だからこの選択は最善だと思う。
(わたしは自分のしんさんきぼうが恐ろしいです)
だが。
(……ない、ときましたか)
なかなか予想外の展開だった。
冷静に考えれば、若者の活字離れが叫ばれて久しい昨今、文芸部なんて存在しなくたって不思議でも何でもないけども。
(最近の若者にも困ったものですね)
自分のことを棚に上げて文香は思う。
(……でも、たしかにどこかで、文芸部の部員募集ポスターを見たような気がするのですが……)
自分の思い違いだったのだろうか。
そんなことを考えながら、どうしたもんかと文香は放課後の校内を歩く。
(とりあえず、適当に文化系の部活を見学しましょう)
みんなが正式に入部届を出した今になって見学させてもらうというのはちょっと気まずいけれど、まあなんとかなるだろう。
部活に向かう生徒達が文香の横を通り抜けていく。
みんな目的地があるのに自分だけない。
(まるでわたしだけが世界から取り残されてしまったような感覚なんちゃって。わたしってば詩人ですね)
特に寂しさを覚えることもなく、呑気《のんき》にそんなことを思う。
文化系の部室が並ぶ部室棟の廊下をのんびりと歩く。
(……この学校、たくさん部があったんですね)
他の一年生より二週間ほど遅れて文香はそれを実感した。
天文部、囲碁部、将棋部、科学部、化学部、オカルト研究会、漫画研究会、ゲーム部、映画研究会……様々な部名の書かれた室名札。
扉の前で一瞬だけ足を止めるものの、すぐに歩き去ってしまう。
どうもピンとこない。
本当はもっと焦るべきなのかもしれないが、せっかくだからのんびりと決めるのもいいかなーと思う。
入部が一日遅れるのも一週間遅れるのも大して変わらないし。
料理研究会、現代視覚文化研究会、考古学部、考現学部、歴史研究会、日本史研究会、世界史研究会、オセアニア史研究会、東南アジア史研究会、中国史研究会、遺伝子工学部、UMA研究会、茶道部、軽小説部、ボランティア部、
(……おや?)
ふと気になるのがあって足を止める。
『軽小説部[#「軽小説部」はゴシック体]』
(…………小説《ヽヽ》)
よーく記憶を辿《たど》ってみる。
前に見かけた部員募集のポスター、しっかり思い出してみるとあれって、『文芸部』ではなく『小説部』だったような気もする。
ちらっと見かけただけだから、『小説』の前に何か一文字あっても見落としていたかもしれない。
(……となると、わたしが入部しようとしていたのはこの部だったということになりますねー)
まじまじと室名札を読み返す。
軽小説部[#「軽小説部」はゴシック体]。
小説部というからには、小説の部なんだろう。
でも『軽』というのがよくわからない。
単純に考えると、軽い小説。
小説に重いとか軽いとかあるのだろうか。
重量……?
ページ数の違い?
過去に約三十行の国語のテストの問題文で眠ってしまったことすらある文香にとっては、三十ページ三百ページも変わらず長い。
それとも内容?
重い物語と軽い物語。
(……恋と愛の違いのようなものでしょうか)
その二つがどう違うのか、文香にはよくわからなかったけれど。
「う〜ん……」
扉の前で首を傾《かし》げる文香。
その横からいきなり声。
「あなた、タイが曲がっていてよ」
「ほえ?」
そちらを向く。
声をかけてきたのは一人の女の子。
「可愛《かわい》い」と「綺麗《きれい》」のちょうど中間くらいの魅力的な顔立ち。
身長は平均的で、やや細身だが胸は目立ちすぎない程度に出ているという、(文香的には)理想的なプロポーション。
緩《ゆる》くウエーブのかかった薄茶色の髪に、校則違反にならない程度のナチュラルメイク。
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制服のリボンタイの色は赤。
フツ高の制服のタイの色は学年によって違い、一年生がピンク、二年生が赤、三年生が赤と白のストライプ。
となると、この少女は二年生か。
「どうしたの? ぼーっとして」
見た目は今風の美少女なのに、小首を傾《かし》げる仕草はまるで古風なお嬢様みたいな感じで、ちょっとだけ違和感があった。
「もしもーし?」
「……はっ」
我に返る。
思わず見とれていた。
「すいません。ぼーっとしてました」
「そうみたいね」
くすっと笑う。
笑い方もお上品だった。
それはそうと、
「あ、タイでしたね」
文書は自分の胸元を見る。
しかし特に曲がっているということはなかった。
怪訝《けげん》に思う文香に先輩《せんぱい》は、
「……通じなかったか」
と小さく呟《つぶや》いた。
「え?」
「あー、ごめん、タイが曲がってるっていうのは冗談《じょうだん》」
「じょうだん?」
「いわゆる小粋《こいき》な小ネタよ。挨拶《あいさつ》代わりの軽いジャブよ」
……よくわからなかった。
「それはどういうふうに面白いんですか?」
「え」
「実際にタイが曲がっているわけではないのに初対面の後輩に突然『タイが曲がっていてよ』と声をかけることに、どのようなおかしみがあるのでしょうか?」
「ええと……」
他意はなく純枠に疑問の色を浮かべてストレートに尋ねる文香に、先輩は少し面食らった顔をした。
「……ええと、つまり『タイが曲がっていてよ』というのはあたしが好きなとある小説ので中で主人公と祥子《さちこ》お姉様(《かっこ》その小説のヒロインかつあたしの脳内お姉様)《かっことじる》が初めて出逢《であ》う名場面で言われた台詞《せりふ》でありあたしもいつか使ってみたいと思っていたところ部室の前でぼーっとしている女の子つまりあなたを見かけたからもしかしたら通じるかもしれないと思って試しに言ってみたけどまったく通じなかったばかりか『どんなふうに面白いのか』って真顔で訊《き》かれて『スベってしまったネタの解説を自分でする』なんてありえない羞恥《しゅうち》プレイをする羽目になってしまったの。つまり一番|滑稽《こっけい》なのはこのあたし! 笑いたければ笑うといい!」
「え? え?」
いきなり早口でよくわからないことを言う先輩に、文香はただ戸惑う。
「……ごほん」
先輩がわざとらしく咳払《せきばら》いした。
少し顔が赤い。
「ところで軽小説部に何か用?」
「あ、そうでした」
露骨な話題転換だったが、文香はあえて乗った。
「せんぱいはこの部の人なんですか?」
「うん」
「見学したいんですけど」
「いーよー」
さっきまでのお嬢様っぽい上品な笑顔とは違う、親しみを感じる笑顔。口調も普通の明るい女子高生という感じになっている。きっとこれが彼女の素なのだろう。
*
「おじゃまします」
先輩と一緒に文香は部室に入った。
部室の中は窓がなく、四方の壁は入り口以外|全《すべ》て本棚で埋まっていた。
大きなテーブルが二つ置いてあり、奥の方のテーブルで一人の少女が静かに文庫本を読んでいる。
色白の小柄な少女。
リボンの色は文香と同じで一年生。
少女はちらりと文香たちを一瞥《いちべつ》し、すぐに視線を本に戻してしまった。
楽しそうでもなくつまらなそうでもない、無表情。
読んでいる本にはカバーがかかっていて、どんな本なのかはわからない。
「暦《こよみ》ちゃん、みんなはまだ来てない?」
先輩が少女(暦という名前らしい)に尋ねると、彼女は無表情のままこちらに少しだけ顔を向けて小さく頷《うなず》いた。
先輩は文香に向き直り、
「部員は他に女子がもう一人と男子が三人いるんだけど、今日は来てないみたい。基本的にこの部、普段は自由参加だからね。特に新刊の発売日とかだと本屋さんに行っちゃう人の方が多いのよ」
「はあ」
……ヌルそうな部活、という文香の予想は当たっていたらしい。
促されるまま、とりあえず近くの椅子《いす》に座る。
テーブルの上には幾つかのコミックスが置いてあった。
「そういえば自己紹介がまだだったわね。あたしは部長の浅羽美咲《あさばみさき》[#「浅羽美咲」はゴシック体]。あなたは?」
「物部《もののべ》文香です」
「フミカ……字は?」
「文章の文に、カはええと…………」
『香』の字の説明が浮かばない。
「香辛料の香?」
先輩――美咲が助け船を出してくれた。
「こうしんりょう…………あ、はい。それです、多分」
「お、いい名前ね。なんとなく文学少女っぽい。イメージ的に」
何故《なぜ》か嬉《うれ》しそうに笑う美咲。
「文学少女、ですか……」
だとしたら名前負けしているなあと文香は思う。
文学小説なんて国語の教科書か読書感想文の宿題でしか読まない。
「……すいません、わたしはあまり本を読まないんです」
なんとなく謝ると、美咲は笑って、
「そうなの? まあ、あたしも基本的に読むのはラノベ[#「ラノベ」はゴシック体]ばっかりだけどね」
ラノベ。
いきなり美咲の口から知らない単語が出てきたので、文香は首を傾《かし》げた。
「らのべ……って、何ですか?」
「ライトノベル」
「?」
聞いたことがあるような、ないような。
ノベル――novelというのは「小説」だろう。
ライトは?
Write novel――小説を書きなさい。
Right novel――正しい小説。
Light novel――軽い小説。
正しいよりは軽い方が好《す》きだなと文香は思う。
正しいのは、なんとなく押しつけがましい感じがする。
……そこで気付く。
「もしかして、『軽小説』というのはその『ライトノベル』のことなのでしょうか」
「そゆことね。別に名前なんてラノベ部でもライトノベル部でもなんでもよかったんだけど、龍《りゅう》ちゃんがどうしてもカタカナ系はイヤだって言うから。なんか人に言うとき恥ずかしいんだってさ。ちなみに龍ちゃん以外はみんな普段『ラノベ部』って呼んてる。言いやすいから。……あ、龍ちゃんっていうのは二年生の男の子ね」
「はあ」
……自分たちで名前を決めたということは、この部は美咲たちが作ったのだろうか。
自分で部を立ち上げるなんてすごいなあと思う。
よっぽどライトノベルとやらが好きに違いない。
「それで、『ライトノベル』というのは何なんですか?」
訊《たず》ねると、美咲は少し困った顔をした。
「説明するのはちょっと難しいわね……。なんていうか、こんな感じの本よ」
そう言って、テーブルの上に置いてあったコミックスを文香に渡す。
表紙には頭にキツネか犬みたいな耳を生やした女の子が描いてある。
ぱらぱらとペーシをめくる。
「あれ……」
漫画本だと思いきや、絵はなく文字だけが書かれている。
最初の方のページにカラーのイラストがあって、中のページにもたまにイラストが入ってるけど、これは小説だった。
「なんかそういうの[#「なんかそういうの」はゴシック体]がラノベ」
ものすごくアバウトな説明と一緒に、美咲は近くの棚から何冊か表紙に絵が描いてある本を取り出して文香の前に置く。
ピンク色の髪の毛の女の子、銃を持っている女の子、剣を持っている男の子、セーラー服姿の女の子、描かれているモチーフはバラバラで、似ている絵もあるけどどれも絵柄が違っている。女の子が描かれた表紙が多いような気はする。
適当にぱらぱらめくる。
冒頭に数ページの漫画が載っている本もあるけれど、どれも小説だった。
「……つまり、表紙とかに漫画やアニメみたいな絵が描いてある小説がライトノベルなんですか?」
「そんなところね。……あ、でも最近はイラストがないのもあるしハードカバーのもあるし最近は一般文芸どころか昔の文学にまで漫画家のイラスト付けて売られることもあるし……むー、ううん」
一人ブツブツと言いながら、美咲は首を傾げる。
傾げられても困るので、文香も頭の上に「?」を浮かべて首を傾げたりした。
「うーん……まあ、だいたいそんな感じ[#「だいたいそんな感じ」はゴシック体]」
「そんな感じと言われましても」
またしても適当だった。
「とりあえず何冊か読みやすいのを貸すから、それを読んでみたらいいんじゃない?」
名案を思いついたとばかりに、笑顔で美咲。
たしかに、実際に読んでみるのが一番手っ取り早いだろう。
でも、
(……読みやすいもの、ですか)
小説そのものに苦手意識がある文香には、『読みやすい小説』というものがいまいち想像できなかった。
「ちょっと待っててね……」
美咲は立ち上がると、真剣な顔で本棚を物色し始めた。
「うーん、どれがいいかなあ……やっぱり基本は……あー、でも最近のやつの方がいいかも……最近の人気作っていうと……あああでもこっちも捨てがたいわねえ……個人的には私をこっちの世界に引きずり込んだコレを……でもちょっとアクが強いような……あ、そうだ大事なことを訊くのを忘れてたわ!」
いきなり振り返り、
「文香ちゃん、ホモは好き?[#「ホモは好き?」はゴシック体]」
「……は?」
意味のわからないことを訊かれて戸惑う。
「ホモは好き?[#「ホモは好き?」はゴシック体]」
もう一度訊かれた。
「……いえ、べつに好きでは。特に偏見もないつもりですけど」
そもそも同性愛について深く考えたことがないし。
「じゃあエロいの[#「エロいの」はゴシック体]は好き?」
臆面《おくめん》もなく訊かれ、文香は顔を赤らめた。
「へ、べつに……好きじゃないです。……特に嫌いでもないですけど」
性について深く考えたことがないわけでもないけれど、好きか嫌いかという視点で考えたことはなかった。
文香の回答に美咲は得心したように頷き、また本の選別に戻る。
「ふむ……いきなりディープなものをぶつけて一気に嵌《はま》らせるというギャンブルはとりあえずやめとくか……あたしもそんなに詳しいわけじゃないしね……となると……うーんやっぱ迷うなー。あたしの選択が部員獲得の鍵《かぎ》を握ってるんだから責任重大って感じ。ああ困った困った超困った♪」
困ったと言いつつ、妙に嬉しそうな様子だった。
そんな美咲に文香は少し困惑する。
真剣に選んでくれるのはありがたいけど、自分はそもそも、それほど積極的に本を読みライトノベルとやらについて知りたいわけでもないし。
ふと室内を見回す。
本棚に並んだたくさんの本。
これが全部ライトノベルなのかと思いきや、知っている少女漫画のコミックスや週刊漫画雑誌とかも普通にまざっていた。
そこでふと、奥で本を読んでいた女の子と目が合う。
美咲の本選びは当分終わりそうにないので、文香は彼女の方に近寄った。
「一年生の人ですよね。わたしは物部文香と言います」
文香がぺこりと頭を下げると、無表情な少女は抑揚のない平坦な声で、
「……藤倉暦《ふじくらこよみ》[#「藤倉暦」はゴシック体]」
「藤倉さんですか。藤倉さんは何組ですか? わたしは2組です」
「……私も2組」
「…………」
……同じクラス[#「同じクラス」はゴシック体]でした。
入学して二週間以上|経《た》つのに同じクラスの子の顔を知らなかったというのは、いくらマイペースな文香でもさすがに気まずい。
「……ご、ごめんなさい」
「……べつに」
「…………」
「…………」
沈黙。
空気が重い。
美咲はこちらに気付いた様子もなく本選びに熱中している。
「……それより」
沈黙…を破ったのは、意外にも暦の方だった。
机の上に置いてあった本を一冊取り、文香に差し出す。
日本刀を持ったマント姿の少女が立っている表紙。
「?」
「……ラノベ、ライトノベル、軽小説……呼び方はどうでもいい……こういう小説を、あなたはどう思う?」
「……?」
文香、渡された本をパラパラとめくる。文章、文章、文章、文章、文章、文章、たまに絵。文章、文章、文章、あ、なんか女の子がお風呂《ふろ》に入っている。
「……どうと言われても、中身を読んでないので……漫画やアニメみたいな絵が描いてある小説だなあと思います」
正直に文香は言った。
「……その『漫画やアニメみたい』という言葉を、あなたはどう思う?」
「……?」
意味がわからず戸惑う文香に、暦はスッと目を細め、
「……|漫画やアニメみたいでくだらなさそうだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、と思う?」
「? 漫画やアニメはくだらないものなんですか?」
よく意味がわからずに文香は聞き返した。
「わたし、あんまり漫画を読まないしアニメも見ないので……わからないんです。あ、でも、たまにしか読まないわたしでもちゃんとすらすら読めるので漫画はけっこう好きです」
「……そう」
暦は小さく言って 一瞬だけ、口の端を吊《つ》り上げた。
(あれ。今、笑った……?)
怪訝《けげん》に思う文香に、暦は言う。
「……こういう小説は、あなたのような人のために書かれている」
平坦だが熱の籠《こ》もった声だった。
「読んだことのないものを偏見から判断することなく、ジャンルや定義や権威に囚《とら》われることなく、『漫画みたい』『アニメみたい』という形容をネガティブなものとして捉《とら》えることなく、|こういう小説《ヽヽヽヽヽヽ》のことをただ|こういう小説である《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》と受け入れることができる新しい感性を持った少年少女のために、『こういう小説』は書かれている」
「……はあ」
正直、よくわからなかった。
昔から家族や友達から「ボケている」と言われてきたから、新しい感性とか言われてもまったくピンとこない。
「……私はあなたに、|こういう本《ヽヽヽヽヽ》を読んでほしいと思う。|こういう本《ヽヽヽヽヽ》に、あなたのような人と出逢《であ》ってほしいと思う。それは多分、本と読者の双方にとって幸せなことだから」
淡々と言った次の瞬間。
暦の顔がポッと火がついたように真っ赤になった。
「ごほん」
わざとらしく咳払《せきばら》いして、
「……というようなことを、ある小説家の知り合いの知り合いが言っていた」
そう言って暦は静かに席を立ち、奥のテーブルへと戻って読書を再開した。
澄ました顔をしているけどその頬《ほお》はまだ林檎《りんご》みたいだった。
熱く語ったことを照れているのだろうか?
……ものすごく可愛《かわい》い人だなあと文香は思った。
*
結局文香は三冊の本を借りた。
美咲がどうしても選びきれなかったので、最後は二十冊くらいの中から文香が表紙の絵で適当に決めた。(そのとき美咲は、「これまた興味深い組み合わせねえ」と驚いたような顔をした)。
家に帰った文香は一時間ほど寝て、夕ご飯を食べて、お風呂に入って、宿題はないからテレビでも見ようかと思って適当にチャンネルを回したけど特に面白そうな番組はやっていなかったから自分の部屋に戻ってとりあえず明日の時間割でも合わせようと鞄《かばん》を開けてその中に教科書じゃない表紙に漫画みたいな絵が描いてある小説が入っていたのを見てようやくその存在を思い出した。
(……ボケているにもほどがありますね)
さすがに我ながら呆《あき》れた。
もしかすると、小説に対する苦手意識のせいでこれまで脳が思い出すのを拒否していたのかもしれない。
先輩《せんぱい》は返すのはいつでもいいと言っていたけど、入部するかどうかなるべく早く決めなければならないから、せめて一冊くらいは読んでおくべきだろう。
三冊の本のうち、適当に一冊を手に取る。
女子高生と思《おぼ》しき制服姿の女の子が表紙に描かれていた。
この子が主人公なのだろうか。
文香はページを開いた。
*
その本の主人公は高校生の男の子で、ヒロインは同じクラスの女の子だった。
表紙に描かれていたのはヒロインらしい。
ヒロインは非常に刺々《とげとげ》しい性格で、クラスでは浮いていて、いじめとまではいかないけど、たまにいやがらせをされたりもする。
主人公も他のクラスメート達と同様にヒロインのことをあまり良く思ってはいなかったけれど、ふとしたきっかけでヒロインの秘密を知ってしまい、彼女のことを意識するようになる。
最初主人公のことを拒絶していたヒロインも、生まれて初めて得た味方……いや、友達に、心を開いていく。
そんな筋書きだった。
……文香は男の子じゃないし、ヒロインのように攻撃的でもなければすごい重大な秘密を持っているわけでもない(ちなみにヒロインは実は世界を守るために人知れず怪物と戦っているのだ)。
同じ高校生ではあるけど、文香とヒロインとは立場が全く違う。
でも、想像することは出来る。
もしも自分が人には言えないような重大な秘密を抱えていて、誰《だれ》かと親しくなったらその人にまで危険が及ぶかもしれないという立場だったら。
自分はきっと、ヒロインと同じように誰も周囲に寄せ付けないことを選ぶだろう。
だが、もしも自分の秘密を知りながら、危険も顧みず自分を助けてくれるような人が現われたなら――それはとても、嬉しいことに違いない。
ヒロインのように、その人のことを好きになるかもしれない。
文香は、人を好きになるという気持ちなら知っている。
近くにいるだけでどきどきしてしまったり、気がつくとその人のことを目で追っていたり、告白したいのに勇気がなくて何も言えなかったり、そういう気持ちを知っている。
孤独な戦いに明け暮れていたヒロインは、恋愛経験が少ない文香よりもさらに奥手で不器用で、とても不味《まず》いお弁当を作ったり、主人公が他の女の子と歩いているのを見て勘違いして落ち込んだりと失敗してばかりで、とても可愛《かわい》く思うと同時に、まるで子供の頃《ころ》の自分を見ているようで、もどかしかったり恥ずかしかったりする。
ヒロインが恋をしたことで、現実にはありえない自分とは全く違う境遇を生きている彼女のことが、すごく身近に思えるようになった。
……最後まで読み終えたとき、文香はまるでずっとヒロインと一緒になって戦ってきたかのような感覚に包まれた。
この物語はまだ続くらしい。
敵の正体などまだ明かされていない秘密もあってそれも気になるけど、何より、主人公とヒロインの恋の行方がどうなるかを知りたいと思った。
次に読んだ小説の主人公は、文香やさっき読んだ小説の主人公たちと同じくらいの年齢の女の子だった。
しかし学生ではない。
彼女はとても強い魔法使いで、一人で旅をしている。
魔法使い。
そう、この小説の舞台は、魔法やモンスターが存在するファンタジー世界なのだ。
文香の住む現実とはまるで違う世界に生きる、文香とは価値観も持っている能力も全然違う女の子の物語。
彼女は一人でどんなトラブルでも解決してしまうほど強くて、さっきの小説のヒロインたち達と違って精神面でも自立していて、ほとんど悩んだりしない。
迷わずにまっすぐ進んでいく、同世代とはとても思えない凄《すご》い人だった。
でも、そんな自分とかけ離れた主人公なのに、文香はぐいぐいと物語にのめり込んでしまうのだった。
めまぐるしく動くストーリー展開。
次々に登場する個性豊かなキャラクター達。
敵だと思っていた人が仲間になったり、仲間だと思ったら敵になったり。
主人公たちが繰り広げる会話は、漫才のように楽しい。
全然退屈することがない。
イラストのおかげで人物の外見や服装がハッキリしているから、頭の中でキャラクターが動く姿を想像しやすいし(それに『ハルバード』とか『ショルダーガード』といった単語だけが出てきても文香にはよくわからない)。
文章もすごく読みやすい。
さっきのも読みやすかったけど、これはもっとスイスイ読める。
しかもたまに、
[#5段階大きな文字] どかああああああん!!
みたいな感じで効果音の文字が大きくなっていたりして、小説の筈《はず》なのに、まるで漫画みたいな印象がある。
小説は堅苦しいものだと思っていた文香の認識を一気に覆すような驚きがあった。
……本当にもう、最初から最後まで一気に読んでしまった。
すごく爽快《そうかい》で、楽しかった。
こんな小説なら何冊読んだっていいと思った。
三冊目に読んだ本の主人公も文香と同じ世代の男の子で、登場人物の多くも少年少女ばかりだった。
読みやすい文章で、恋をしたり人間関係に悩んだりする普通の子供たちの気持ちが丁寧に描かれているから、文香はすんなりと彼らに感情移入することが出来た。
……後悔するくらい、すんなりと。
物語の舞台は二十一世紀の日本。
しかし文香たちの今住んでいる日本とは大きく異なり――戦争をしていた。
人の心は荒《すさ》み、暴力や殺人が日常茶飯事の悲惨な世界。
その日の食べ物にすら困る状況で、なんのために戦っているのかさえわからずに、襲ってくる敵と戦い、また、自分たちからも戦いを仕掛ける。
そんな世界で必死で生き延びようと足掻《あが》く、兵士になった少年少女たちの物語。
主人公やその仲間たちも、生きる延びるために人を殺す。
先に読んだ二つの小説の敵はモンスターや魔族だったけど、この小説にそんなものは出てこない。
超能力も魔法もなく、武器は銃とナイフ。
殺そうと襲ってくるのは人間で、助けてくれる人も人間で、殺される人も殺す人もみんな、生きたいと願うごく普通の人間だった。
奪ったり奪われたり裏切ったり裏切られたり殺したり殺されたりが繰り返される終わらない戦いの日々の中、仲間たちは次々に倒れ、残ったのは主人公とヒロインだけになって、最後にはその二人も死ぬ。
物語はそこで終わるけど、その世界ではきっと戦いは続いていくのだろう。
世界のどこか――普段はテレビの向こう側の出来事としか思えない、しかし文香たちが生きているのと同じ世界で、今も争いが続いているように。
「…………」
読み終わったあと、文香は閉じた本を片手に、人間の歴史や社会や世界のことや、初めて人を殺したときの主人公の気持ちや、子供をかばって銃弾に倒れた母親の気持ちや、主人公の目の前で死んだ兵士のことや作中には描かれていないその兵士の家族や恋人のことや、政治や宗教のことや、その他いろいろなことについて思いを馳《は》せた。
国語のテストのように制限時間なんてない。
思う存分に、疲れるまでどこまでも考え続けた。
「作者の伝えたかったことを五十字以内で答えなさい」なんて文字数制限もない。
多分、正解すらないのだろう。
作者が何を伝えたかったのかなんて、実はどうでもいいのかもしれない。
大事なのは、自分がこの本を読んでどんなことを考えたのか、この本から、どんなことを受け取ったのか、だ。
文香が国語を苦手なのは、物語を読むとこんな風に色んなことを考えてしまうからで、それを五十文字や百文字ぽっちでまとめることなんてできない。
小学生のとき読書感想文の宿題で『銀河鉄道の夜』を読んで原稿用紙百二十枚の感想文を書いてしまい、それを五枚にまとめることがどうしてもできなくて結局提出できずに叱《しか》られたことがある。
国語のテストで、「このときの主人公の気持ちを答えなさい」という問題とは関係のない箇所《かしょ》の脇役《わきやく》の気持ちの方がどうしても気になってしまい、テストにまったく手がつかなくなることがよくある。
「何を考えるか」を強制される読書なんて、全然楽しくない。
だから文香はいつしか国語が大の苦手になった。
……ふと気付けばもう、朝の五時。
カーテン越しに朝日が差し込んでいた。
一晩中本を読み続けていたことも、一日で三冊の小説を読み終えてしまったことも、文香にとっては初めての経験だった。
(……あ、そっか)
自分は今、読書をしたのだと、文香は生まれて初めて実感した。
国語の教科書や読書感想文の宿題として読まされた課題図書では感じたことのない――それは、とても充実した気持ちだった。一冊目は恋愛色の強いアクションもので、二冊目は冒険ファンタジーで、三冊目は戦争モノと、それぞれ全然違う内容で、ライトノベルというのがなんなのか、結局よくわからなかったけれど、わからなくてもいいのだと思った。
暦が言っていた、「あなたのような人のために書かれた小説」という意味が漠然とわかった気がする。
読みながら楽しかったり悲しかったり悩んだり考えたりして、読み終わったあと、この本を読んで良かったと思えている自分がここにいる。
それ以上に大事なことなんてきっとない。
*
その日の学校。
徹夜したので授業中は居眠りしてしまった。
休み時間中もずっと寝ていた。
昼休みになって、文香は職員室の担任の先生のところへ行った。
入部届をもらい、その場で書いて提出する。
クラス 1年2組
氏名 物部文香
( 軽小説部 )に入部を希望します。
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[#小見出し] ネコミミモード[#「ネコミミモード」は太字]
「よく猫とか犬の耳が生えた人っているじゃない」
唐突に美咲《みさき》が言った。
浅羽《あさは》美咲[#「浅羽美咲」はゴシック体]、高校二年生
垢抜《あかぬ》けた感じの今風の美少女で、公立|富津《とみづ》高校の軽小説部――通称でラノベ部』の部長をしている。
「いるんですか?」
「いねえよ」
美咲の言葉に、部室にいた一人が同時に対照的な反応をした。
前者は物部文香《もののべふみか》[#「物部文香」はゴシック体]。
最近ラノベ部に入部した新入生で、どことなく眠そうな顔をしている小柄な少女。
入部して以来、放課後は毎日部室に来て部屋にある本を読んでいる。
後者は竹田龍之介《たけだりゅうのすけ》[#「竹田龍之介」はゴシック体]。
美咲と同じく二年生で、ラノベ部の部員の一人。
身長は平均くらいで細身。
少し冷たい印象のある精悍《せいかん》な顔立ちで、眼鏡《めがね》をかけている。
彼も本を読んでいたが、表紙にイラストがない新書サイズの本だった。
なんたら哲学のなんとかという難しそうなタイトルがついている。
「いないんですか?」
文香が言うと、竹田は眼鏡をくいっと持ち上げて、
「少なくとも現実にはな」
淡々と、つまらなさそうに言った。
すると美咲、
「もちろんラノベとか漫画の中の話よ龍《りゅう》ちゃん」
「そうだとは思ったが、お前の言い方だとまるで現実に猫や犬の耳が生えた人間がいるように聞こえたから一応ツッコんだ」
「龍ちゃんは昔からツッコむのが大好きよね。えっち」
「何でそうなる!?」
からかうように言う美咲に、竹田は声を荒げた。
「まあそれはさておきケモノ耳の話よ」
「さておくな! ツッコむはツッコむでも俺《おれ》がツッコむのはそういうアレ的なアレではなくアレだ!」
「せんぱい、つっこむのが好きだとどうしてえっちなんですか?」
「え」
「う」
真顔で尋ねる文香に、美咲と竹田が言葉に詰まる。
下ネタを詳しく説明するのは恥ずかしい。
「…………」
二人して顔を見合わせたあと、竹田は眼鏡《めがね》を直し、
「……さて、ケモノ耳の話だったな」
「そ、そうよ」
そう言う美咲の手には、表紙に犬っぽい耳が生えた少女が描かれた小説があった。
シリーズものの五巻で、表紙の少女は狼《おおかみ》の化身という設定だった。
文香も今ちょうどその一巻を読んでいるところだった。
「ふと疑問に思ったんだけど、こういうケモノ耳少女って基本的にみんな髪の毛で顔の横側が隠れてるじゃない。こんなふうに→」
[#挿絵(img/1-044.jpg)]
「これって、ホロ以外もみんなそうなんですか?」
ラノベや漫画にあまり詳しくない文香が首を傾《かし》げると、
竹田が少し考えたあと頷《うなず》く。
「……まあ、俺が思いつく限りではみんな隠れてるな。んで?」
美咲、
「あの下ってどうなってるのかしら? 普通に人間の耳があるの?」
「それは設定によるだろう」
特に悩んだ様子もなく竹田は即答した。
「どういうこと?」
「頭の上についているケモノの耳が、眼や鼻のように人類と同じ器官なら、頭の横にはついていないことになる。たとえばファンタジー作品などに登場する、『猫や犬が人と同じような形状に進化を遂げた種族』という設定だったら、頭の上に耳があるのに横にもついているというのは生物《せいぶつ》学的に考えておかしい」
「なるほど〜」
美咲が感心した顔をする。
「じゃあ、ケモノ耳の他《ほか》に人間の耳もあるケースは?」
「ケモノが人間に化けているという設定だったら、ケモノ耳とは別に人間の耳があってもおかしくはないな。いや、人間を模している以上、耳だけないというのはむしろ不自然だ。だからあると考えるのが安当だろう」
「おおー。やるわね龍ちゃん」
これまたすらすらと答える竹田を、美咲が賞賛する。
竹田は少し得意げな顔をした。
そこで文香が言う。
「だったら、ケモノ耳の人と内緒話をするときは上と横どっちの耳に囁《ささや》けばいいんでしょうか?」
「え……」
竹田が言葉に詰まる。
「そういえばそうね。上と横の両方に耳がある場合、どちらが本物なのかしら?」
「それは……やっぱり上についているケモノ耳の方が本物なんじゃないか? 本来の姿ならそっちが耳なわけだから……」
「じゃあ横側の耳には意味がないってこと?」
「そうなるな……いや、待てよ?」
竹田は首を振る。
「動物の耳は、その動物の身体に最適なカタチで進化してきた。つまりネコミミなら猫の身体、イヌミミなら犬の身体、ウサミミなら兎の身体でないと上手く機能しないだろう。特に人間は、耳から情報を受け取る大脳が他の動物と大きく違う。人間にそのまま他の動物の耳を取り付けたら、確実に不具合が生じると予想される。他の生物に人間の耳をくっつけてもおそらく同じだろう。もしも見た目……つまり外耳だけがケモノの耳で、奥の三半規管や蝸牛《かぎゅう》がまったく人間と同じものだったとしても、生えている位置が大きく違う以上それを脳と連結させるには頭蓋骨からいじる必要があるだろうし……」
「そういやとあるラノベに、頭頂にケモノ耳が生えたせいで脳に障碍《しょうがい》があるキャラがいたわね……。となると、人間の姿になっているときは、頭の横についてる人間の耳の方が本物の耳ってこと?」
「そうなるな」
「だったら、上についているケモノ耳は一体なんなの?」
美咲の問いに、竹田はまたも悩む。
「う……あれは……あれは………………」
しばらく考え、重々しく口を開く。
「……あれはその………………角[#「角」はゴシック体]だ」
「角?」
怪訝《けげん》な顔で聞き返す美咲に、竹田は真顔で頷《うなず》く。
「ああ。見た目は耳に見えるかもしれないが、あれは本当は角だ」
「毛が生えてるのに?」
「牛や鹿《しか》の角だって、最初のうちは皮膚に覆われている。完全に角に変化する前の段階でストップしていると考えればいい」
「……なるほど。でも、何のためにわざわざそんな耳……いえ、角を頭から出す必要があるわけ? 完全に人間に化ければいいじゃない」
「……それは、その」
またしても言葉に詰まり、黙考し……
「……つまり、おしゃれ[#「おしゃれ」はゴシック体]だ」
「おしゃれ?」
「牡鹿《おじか》の立派な角は戦いの武器としても使われるが、牝《めす》を惹きつけるためのアピールポイントでもあるだろう? それと同じ理屈、だ……と思う……」
自分でもあまり納得していない感じの竹田。
しかし美咲は感心した顔で、
「なるほど、納得したわ」
「納得したのか!?」
竹田が驚く。
「つまり端的に言うとアレでしょ? 萌《も》えるから[#「萌えるから」はゴシック体]ってことでしょう?」
「え……」
「なるほどそっかー。確かに可愛い娘がネコミミ付けてたら萌えるもんね。本物のケモノっ娘も、アレと同じ理屈だったわけね。元々が動物の姿だから惑わされがちだけど、要するに人間に化けた動物が、それからさらにケモノ耳少女のコスプレをしている[#「人間に化けた動物が、それからさらにケモノ耳少女のコスプレをしている」はゴシック体]と解釈すればいいのね」
「いや……いいのか?」
竹田は釈然としない様子だったが、
「ありがと龍ちゃん。すっきりしたわ」
そう言って美咲は読書に戻る。
話が終わったようなので、文香も読書を再開した。
狼《おおかみ》が変身した少女と主人公の軽妙なやりとりがとても楽しい。
しかしふと気付く。
(……あれ?)
作中で、少女が頭の耳をぴくぴくと動かしていた。
(これ、神経が通ってますよね……)
文香は一度は本から顔を上げたものの、楽しげに本を読む美咲と気難しそうな顔で本を読んでいる竹田を見て、声を上げるのをやめた。
(……ケモノ耳の人と話をする機会があったら、そのときに考えましょう)
[#改ページ]
[#小見出し] 友情は見返りを求めない[#「友情は見返りを求めない」は太字]
昨夜はついつい夜中の二時まで本を読んてしまったので朝からずっと眠くて、どうにか寝ないように頑張っていたのだがついに四限目の授業、あと十五分で昼休みというところで爆睡してしまい、授業が終わるとき先生に「寝る子は育つって言うから、物部も早く大きくなれよ」とからかわれ、クラスメート達に笑われた。
「ふわぁ……恥ずかしかったです……ふぁぁ……」
傍目《はため》にはまったく恥ずかしがっているようには見えない眠たげな顔で欠伸《あくび》をしながら、物部文香はお弁当を持って暦《こよみ》の席へ向かった。
前の席の人の椅子《いす》を借りて、彼女と向き合って座る。
藤倉《ふじくら》暦[#「藤倉暦」はゴシック体]。
背は文香と同じくらいで小柄。
あまり表情を変えることがなく口数も少ないので、クールな印象を受ける。
クラスが同じで部活も同じ軽小説部なので、文香はここのところ彼女と一緒に昼食をとっている。
文香のお弁当はふりかけのかかったご飯に冷凍食品の春巻きや夕飯の残りのポテトサラダなどを詰めたオーソドックスなもの。
暦の方は、コンビニのおにぎり(ツナマヨネーズ)が二つだけ。
はむはむ、はむはむ。
二人は小さな口に少しずつ食べ物を入れていく。
暦は自分から話しかけることが滅多《めった》にないし、文香はあまり沈黙を苦痛に感じる方ではないので、一緒に食べているのに会話はあまりない。
二人が黙々とご飯を食べるその様子は、ウサギやリスなどの小動物が一生懸命エサを食べている光景を思わせる。
教室で食事している生徒の中には、二人の方を「かわいー」などと言いながら微笑《ほほえ》ましげに見守っている者もいた。
と、不意に文香が口を開いた。
「先生も気付いたなら起こしてくれればよかったのに……意地悪です」
「?」
暦が無表情のまま首を傾《かし》げる。
「さっきの授業のことです。どうして起こしてくれなかったのでしょう」
不満げに言う文香。
なにも授業終了まで放置しておかなくてもいいのにと思う。
「先生というのは普通、授業中に寝ている生徒がいたらふんがいしてすぐに起こすものではないでしょうか。少なくとも中学の頃はそうでした」
「……ん」
暦は少し沈黙し、淡々と言う。
「……何度か、起こそうという素振りは見せた」
「そうなんですか?」
「そう。でも、あなたの席に近づいて寝顔を見るたびに、ため息をついて戻っていった」
「……なぜでしょう」
「……多分、あなたの寝顔が天使のようだったから」
「そうなんですか?」
真顔で言う暦に、素で聞き返す文香。
暦の席と文香の席は机を二つ挟んだ隣にあり、ちょっと視線を横に向ければお互いの様子がわかる。
「……そう」
暦は頷いた。
次の瞬間、暦の顔が真っ赤になった。
「ど、どうしたんですか?」
「なんでもない」
淡々と言う暦だったが、その顔は赤いままだった。
「本当になんでもないんですか?」
「ん」
「そうですか。わたしは自分の寝顔を天使のようだと言われたのは初めてだったので、少し恥ずかしいです……ふぁぁ」
ちっとも恥ずかしそうな様子はなく、欠伸までする文香だった。
「ぁぁ…………あ、ところで藤倉さん」
「ん」
「すいませんが、さっきの時間のノートを貸してもらえませか?」
寝ていたので、当然ラスト十五分……授業のまとめとなる一番大事なところの板書を取り逃していた。
「ん」
暦は頷き、机の中からノートを取り出そうとした。
が、不意にその手を止め、手にしたノートを再び机の中に入れてしまった。
「どうしたんですか?」
「……やっぱりだめ」
「え!」
驚く文香。
「どうしてですか?」
「………………………………あなたのためにならないから」
数秒の沈黙ののち、暦は言った。
無理矢理《むりやり》ひねり出したような理由だった。
宿題を写させてくれと頼んでいるわけではないし、授業で聞き逃したことをそのままにしておく方がよくないと思う。
「おねがいします」
「……だめ」
「この春巻きをあげますから」
箸《はし》で自分の弁当箱の中に最後に残っていた春巻きをつまんて差し出す。
暦はそれをじっと見つめ、
「…………やっぱりだめ」
「わたしたち、友達じゃないですか」
文香が少し拗《す》ねたように言うと、
「……友達なの?」
真顔で聞き返されてしまった。
「え、どうなんでしょう……」
思わず首を傾げる文香。
「友達じゃないんですか?」
文香がさらに聞き返すと、暦は淡々と、
「…………友達、のような気もする」
「ですよねえ」
「…………違う気もする」
「ですよねえ」
知り合ってまだ数日だし、お互いのことをほとんど何も知らない。
ラノベ部に入っているのだからラノベが好きなのだろうとは思うけど、暦は部室で本を読むときいつもカバーをかけているので、どんな本を読んでいるかも知らない。
読書以外の趣味について語り合ったこともないし、どこの中学出身かも知らない。
なんとなく一緒にご飯を食べて一緒に部活に行くくらいだ。
「でも、こうして一緒にご飯を食べるというのは友達っぽくないですか?」
「……そうかも」
「でも、べつに友達同士じゃなくても一緒にご飯を食べることくらいありますよね」
「…………そうかも」
頷く暦に文香、
「そもそも、友達って具体的にはどういう関係なんでしょう?」
「……友情で結ばれた関係」
暦が少し首を傾《かし》げつつ答えた。
「わたしと藤倉さんは友情で結ばれていますか?」
「……微妙」
「ですよねー」
緒論が出てしまった。
「わたしと藤倉さんは、友達じゃないですね」
「そうなる」
「…………」
「…………」
無言で見つめ合い……。
「ところでそれはそれとして、ノート貸してくれませんか?」
「だめ」
「春巻きあげますから」
「……」
「思うんですけど、友達ならノートの見せ合いくらい何の見返りもなくやると思うんです。そこをあえて春巻きと引き替えにすることで、わたしと藤倉さんはびじねすらいくな冷めたお付き合いということになるのです。今後もこのような冷めたお付き合いをしていくためにも、ここは春巻きとノートを交換してはもらえないでしょうか」
眠そうな顔で(本人的には)情熱的に交渉する文香に、
「……私はあなたと友達になりたいけど」
不意に暦が、相変わらずの淡々とした調子でそう言った。
直後、赤面。
あまりに直球だったので、文香も少し顔を赤くした。
「……実はわたしも藤倉さんと友達になりたいです。なりますか? 友達」
「……ん」
暦が小さく頷いた。
文香は微笑《ほほえ》み、
「というわけで、ノートを貸してください。友達に見返りを求めるのは失礼なので、もちろんこの春巻きもわたしが自分で食べます」
「待って」
春巻きを口に運ぼうとした文香に、暦がストップをかけた。
「なんですか?」
「あなたがその春巻きを私にくれて、しかし私はその見返りに何もあげないという選択肢もある」
「なるほど…………って、ないです。それはただのぼったくり[#「ぼったくり」はゴシック体]じゃないですか。さくしゅというものです」
「……違う」
淡々と暦、
「……それが、友情」
「嫌な友情ですね」
「……私もそう思う」
頷く暦。
その視線がじっと春巻きに注がれていることに気付いて、文香はなんとなく笑ってしまった。
「藤倉さん。あーんしてください」
「ん」
素直に開けた暦の口に、文香は春巻きを運んだ。
はむはむ。
少しずつ暦の口へと消えていく春巻き。
春巻きが全《すべ》てなくなったあと、
「おいしかったですか?」
「…………きわめて普通」
「まあ、冷凍食品ですからね」
文香は箸を弁当箱にしまい、席を立った。
ノートのことは諦《あきら》めよう。
元はといえば授業中に寝てしまった自分が悪いんだし。
「ん」
自分の席に戻る文香のうしろから、声。
振り返ると、暦がノートを差し出していた。
文香が受け取ると、暦は無言で自分の席へと戻っていった。
何故突然貸してくれたのかよくわからなかったけど、とにかく文香は昼休みが終わる前にノートを写し終えるべく、自分のノートを出してから暦のノートを開いた。
開いた瞬間、思わず吹き出した。
今日の授業の板書を写したページの下の方に、机に突っ伏して寝ている女の子のスケッチが描かれていた。
女の子の背中からは、鳥のような羽が生えている。
めちゃくちゃ上手《うま》いというほどでもないが、そこそこよく描けている絵だった。
(というか、これは……)
髪型から考えると、描かれているのは多分文香だろう。
文香は暦の方を見た。
すると暦は慌てた様子で顔を背けた。
その顔が耳まで真っ赤なことに文香は気付いた。
この落書きを見られたくなかったから、暦はノートを貸すのを嫌がったのだろう。
(面白い人ですねえ)
[#挿絵(img/1-061.jpg)]
ノートを写し終えたあと、文香は暦の席へ向かう。
「藤倉さん」
「なに」
暦は無表情だったが、微妙に視線が泳いでいた。
文香、微《かす》かに笑って、
「今度はわたしが描いてあげます。居眠りするときは覚悟してくださいね」
「…………そうする」
小さく言って、暦は微かに口の端を吊《つ》り上げて笑った。
二人はとっくに友達だった。
[#改ページ]
[#小見出し] 桜野綾《さくらのあや》[#「桜野綾」は太字]
文香と暦が部室に行くと、桜野|先輩《せんぱい》が床を転げ回っていた。
桜野綾[#「桜野綾」はゴシック体]、二年生。
そこらの女優より遥《はる》かに整った美人系の顔立ちに、どんなトリートメントをしたらこんなふうになるのかという艶々《つやつや》な長い黒髪。
物腰も柔らかくて、男の子にも人気があるんだろうなあと容易に想像がつく。
……その桜野綾が、なんか「うひゃ〜〜〜〜〜」とか「くきゅるぅ〜〜〜〜」といった奇声を発しながら床を転がり回っている。
(……と、どうしよう……)
いつもマイペースな文香もさすがに引いた。
目の前で奇行[#「奇行」はゴシック体]を繰り広げる、同じ部活のメンバーとはいえまだそんなに話したことがない美人の先輩。
気まずいにもほどがある。
文香は助けを求め、隣の暦を見た。
同じく硬直していた暦は、表情を変えないまま無言て踵《きびす》を返した。
慌ててその鞄《かばん》をつかんで引き止める。
「ちょ、逃げないでください藤倉さん」
「急用を思い出した」
「嘘《うそ》を言わないでください」
「嘘だけど帰る」
「待ってください、それじゃわたしも、」
そんなやりとりをしているうちに、綾が二人に気付いて奇怪な動きを止めた。
なにごともなかったかのように立ち上がり、そっと撫《な》でるような静かな動作でスカートの埃《ほこり》を払う。
そして持っていた扇子を開いて口元を隠し、上品に笑う。
「あらあらわたくしったら、新入部員のお二人にお見苦しいところをお見せして、お恥ずかしい限りですわ、うふふ」
……本気で見苦しくて恥ずかしかったのだが、こんなふうにあまりに見事な微笑《ほほえ》みを見せられると、あの常人には挽回《ばんかい》不能な奇行がまるで些細《ささい》なことだったような気がしてくるから不思議だ。
ちなみに綾の扇子には『腐』という文字が行書で書かれているのだが、文香には読めなかった。
「……桜野せんぱい、さっきのは一体なんだったんですか?」
文香は訊《き》いてはいけないと思いつつも好奇心に負けて尋ねた。
「あれは萌《も》え転がっていましたの」
「萌え転がる?」
萌えというのはなんとなく文香にも聞き覚えがあった。
だが、転がる?
「トキヤ様の台詞《せりふ》とシチュエーションと声優さんの演技があまりにも素晴らしかったので興奮のあまり我を忘れてしまったのですわ」
綾は部室の机の上を指さす。
一台のノートパソコンがあって、画面には眼鏡《めがね》をかけた銀髪の美少年(これが多分トキヤ様とやらだろう)と、「ふん、まったく困った奴《やつ》だ……だが、俺《おれ》の全ては既に貴様のものだからな。好きにするがいい……」というメッセージが表示されていた。
「これは何ですか?」
「ノベルゲームですわ」
尋ねる文香に一瞬の躊躇《ためら》いもなく回答する綾。
「のべるげーむ?」
「小説《ノベル》のようなゲームのことですわ」
びっくりするほどそのまんまな説明だった。
「そんなゲームがあるんですか?」
「よろしければやってみますか?」
「あ、はい」
綾の提案に素直に頷《うなず》く文香だったが、
「……あ……」
暦が小さく躊躇《ためら》うような声を上げた。
「どうしたんですか藤倉さん」
「……その、ゲーム……」
暦の顔が赤くなった。
「?」
「うふふ、どうかなさいましたか、藤倉さん」
綾がからかうように笑う。
「……そのゲーム……成人向け」
「聖人?」
「……十八歳未満はやってはいけないゲーム」
「そうなんですか? 桜野せんぱい」
文香が尋ねると、綾はあっさりと、
「まあお気になさらずに。これは現代人にとっての基礎教養の一つですから」
「……そうなんですか? 藤倉さん」
「……違う」と赤面したまま暦。
「違うそうですけど……」
「うふふ、では藤倉さんは、何故このゲームが十八禁だと知っていたのでしょうね?」
「…………」
ますます顔を赤くする暦。
「正直に白状してしまいなさいな。藤倉さんもこの手のゲームをプレイしたことくらいあるのでしょう?」
「…………なくはないこともない」
小さく言って暦は顔を背けた。
「藤倉さんもやったことがあるんですか。だったらわたしもやってみた方がいいのかもしれないですね」
思い出してみれば中学生の頃に男子が教室でエッチな本をみんなで読んでいたのを見たことがあるし、親戚《しんせき》のおじいちゃんは未成年の文香にいつもお酒を飲ませてくる。
十八歳未満禁止のものを本当に十八歳になるまで触れない人というのはそうそういないのかもしれない。
「その通りですわ物部さん。なにごとも挑戦です」
綾は可憐《かれん》に微笑む。
その目の奥に何やら邪悪なものが見えたような気がした。
「ささ、どうぞどうぞ」
セーブしてタイトルに戻り、「ニューゲーム」を選択。
文香をパソコンの前に座らせて、マウスを握らせる。
「クリックすると文章が進んでいきますわ。細かい操作は特に必要ありませんから、小説を読むのと同じような感覚で読んでいけば問題ありません」
「ほへえ?」
あんまりゲームっぽくないなあと文香は思った。
ともあれ綾に言われるままマウスをクリックし、画面下のウィンドウに表示される文章を読み進めていく。
たしかに小説を読むのと同じような感覚だった。
「主人公は男の子なんですね」
なんとなく文香が言うと、
「ヒロインもちゃんと男の子[#「ヒロインもちゃんと男の子」はゴシック体]ですから、何の問題もありませんわ」
……何やらさらりとおかしなことを言われた気がする。
「……ヒロインなのに男の子なんですか?」
「ええ。最近はこのような女性向けのノベルゲームも増えてきて、わたくしとしては嬉しい限りですわ。もっとも、わたくしは男性向けでも全然OKですけれど」
綾は感慨深げに言った。
物語の舞台になるのは全寮制の男子校で、転校生である主人公 (男)は、そこで大勢のの魅力的な男の子たちと出逢《であ》い、彼らと友情を深めていく――というのがこのゲームの大筋らしい。
「友情ではありません。愛情[#「愛情」はゴシック体]ですわ」
真顔で言う綾。
「愛情、ですか」
「はい。愛情[#「愛情」はゴシック体]です。大事なことなので二回言いました」
ちょっと怖い。
ともあれ、とりあえず話を進めていく。
するとプレイ開始十五分くらいで、何やら選択肢が出てきた。
親切な男の子(金髪の美少年)が、転校してきたばかりの主人公に学院を案内してあげようかと言ってきたのだ。
その申し出を受けるか、一人でうろつくかの選択。
当然、せっかくだから案内してもらう方がいいに決まっていると文香は判断し、申し出を受ける選択肢を選ぼうとした。
「お待ちを。特定のキャラの好感度を上げすぎると強制的にそのキャラのルートへ入ってしまう可能性がありますわ。彼がお目当てのキャラでないのなら、あえて誘いを断ることも大切なのです。それにまあ、ネタバレになってしまいますけれど誘いを断ればまた別のキャラと知り合うことが可能ですし」
真剣な顔で綾。
「そうなんですか? でも、せっかく親切にしてくれているのに断ったりしたらこの人は気を悪くするんじゃないでしょうか」
「そんなことは絶対にありません」
断言した。
「どうしてですか?」
「何故《なぜ》なら彼は人を恨むということなど絶対にしない人格者で、人に冷たくするくらいなら冷たくされる方がいい、人を騙《だま》すくらいなら騙される方がいいと本気で考えている完璧《かんぺき》な聖人君子です。ちょっと申し出を断られたところで、彼はあなたに対し一欠片《ひとかけら》としてネガティブな感情を持つことはないでしょう」
「へえ……すごい人ですねえ」
「ええ。現実にいたら確実に全財産をむしり取られて路頭に迷うタイプですが、こういう好人物がちゃんと幸せになれるのがゲームのいいところです」
うんうんと頷きながら綾が微笑む。
しかし文香、綾の説明を聞いて余計に思案顔になった。
「うーん……」
「どうなさいました?」
「すごくいい人みたいですけど……そこまでかんぺきにいい人だと、逆に苦手です」
「あら、どうしてですの?」
怪訝《けげん》な顔をする綾に、文香は訥々《とつとつ》と答える。
「……なんとなくですけど、そういう人は、他人を必要としてないと思うんです。多分、いつか恋人と別れるときが来ても、仕方ないってすぐに割り切っちゃうような気がします。完結しちゃってる人っていうのは……ちょっと……怖いかなって」
「へえ……なかなか面白い考えですわね……」
綾はしげしげと文香を見つめた。
その目には、これまでにはなかった興味の色。
「じゃ、こっちにします」
文香はそう言って、選択肢を選んだ。
「……あら?」「……?」
綾と、それから後ろでちらちら見ていた暦が意外そうな顔をする。
文香が選んだのは、彼の申し出を受けて校内を案内してもらう選択肢だった。
「……あの、物部さん。どうしてそちらの選択肢を? こういうタイプの人は苦手だとご自分で仰《おっしゃ》ったではありませんか」
すると文香、少し困った顔で、
「せんぱいの言葉だけでこの人のことを決めちゃうのもなんだかなあって。あ、別にせんぱいの言葉を信じてないわけじゃないですよ」
「……なるほど。あくまで自分の目で確かめたいと」
「はい」
綾は微笑んだ。
「……ふふ、テレビや週刊誌で愚にもつかないゲーム批判をしていらっしゃる自称知識人の皆さんにも見習わせてさしあげたい姿勢ですわね」
「?」
呟《つぶや》きはよく聞こえず、文香が少し首を傾《かし》げた。
そのとき。
「……何をやってるんだお前らは……」
部室の扉が開き、呆《あき》れたような声がした。
少し冷たい雰囲気の眼鏡男子、二年の竹田龍之介だった。
「部室で堂々とそんなゲームを……アホか」
すると綾、竹田からパソコンの画面を隠すようにして両腕を大きく広げた。
そして必死に訴えかけるように、
「待って竹田くん! 彼女たちは何も悪くありませんわ! 悪いのはすべてわたくしなのです! わたくしが物部さんを誘ったのです!」
実際にその通りなのだが、綾の口ぶりだと、まるで文香と暦をかばうために嘘をついているように聞こえる。
しかし竹田はそんな綾の態度に惑わされることなく、
「当たり前だ。そのパソコンはお前のだし、部室で堂々とアダルトゲームをやる奴《やつ》なんてお前以外にいるか。大方、新入部員を腐女子の道に引きずり込もうとしていたのだろう。特に物部の方は、これまでゲームとか漫画にほとんど触れてこなかったらしいからな。今なら染め放題というわけだ」
眼鏡をくいっと持ち上げて指摘すると、綾は上品な苦笑を浮かべた。
「あらあら、やっぱり竹田くんにはかないませんわね」
それからため息をついて、
「残念ですが物部さん、続きはまたの機会ということで」
「あ、はい」
文香からマウスを受け取り、綾はゲームを終了した。
まだ全然序盤だったけど、音楽や声がある豪華な小説という感じで割と面白かったのでちょっと残念だと文香は思う。
それはそうと、ふじょしの道とは何だろう。
引きずり込まれるまでもなく自分は女の子なのだが。
「……あ、そうそう竹田君」
「ん?」
「今なら純真な新入生を自分の趣味に染め放題……わたくしもそう思っていましたけど」
文香の方をちらりと見て、くすっと愉《たの》しげに笑う。
「意外とくせ者ですわ、この子」
「え? 何がですか?」
不思議そうに首を傾げる文香に、綾は穏やかに微笑む。
「何でもありませんわ。それでは今後ともよろしくお願いしますね、物部さん」
「あ、はい」
パソコンを鞄《かばん》にしまい、綾が部室を出て行く。
変な人だなあと文香は思った。
[#改ページ]
[#小見出し] ボーイミートボール[#「ボーイミートボール」は太字]
「悪い藤倉、ちょっとかくまってくれ!」
文香と暦が教室で昼ご飯を食へていると、いきなり一人の男子生徒が教室に駆け込んてきて暦の机の下に潜り込んだ。
「ひゃっ、な、なんですか!?」
「しーっ!」
「え? あ、はい」
男子に言われるまま、とりあえず黙る文香。
(誰《だれ》……?)
避難訓練のように机の足につかまり、ちらちらと教室の扉の方を気にしている少年。
小学生体型の文香が言うのもアレだが、少し子供っぽい顔立ちで、身体もそんなに大きくない。
(……どこかで見たような気がするのですが)
暦のときのように「実は同じクラス」というオチはない……と思う。
まだ名前は全然覚えてないけど、最近ようやく同じクラスの人の顔くらいならわかるようになった。
同じクラスでないとすればどこで見たのだろう。
同じ中学でもない(と思う)し、他のクラスの男子生徒と顔を合わせる機会なんてほとんどない。
小学生のときこんな感じの男の子が結構いたから、どことなく既視感を覚えているだけかもしれないとも思う。
文香がじーっと顔を見ていると、少年の方もこちらの顔を見てきた。
足下でしゃがんでこちらに顔を向けられると、自分のスカートの中まで見えてしまう気がするのだが、少年は特に気にした様子もない。
……見えていないのだろうか。
「その位置で顔を向けられるとわたしのスカートの中が見えてしまうと思うのですが、見えてないのでしょうか?」
疑問をそのまま告げると、
「ん? ああ、そういや見えてるな。あんたのパンツ」
彼はどうでもよさげに言って、再び教室の扉の方に注意を向ける。
文香にも一応パンツを見られたら恥ずかしいと思う程度の羞恥心《しゅうちしん》はあるのだが、こうもどうでもよさそうにされると気にする自分の方がおかしいのではないかと思えてくる。
今どきの男子高校生は女子のパンツくらいで騒がないのが普通なのだろうか。
小説や漫画にも、パンツが見えている女の子の絵なんていくらでもあるし。
小学生の頃、いつもぼーっとしている文香はよくスカートめくりの被害にあっていたので男の子はみんなパンツが好きなのだと思い込んでいたのだが、それは自分の被害妄想だったのだろうか。
「……藤倉さん、わたしはこの場合、どんな反応をすればいいのでしょう。男子生徒のいる教室で堂々と着替えをするハルヒのように平然としているべきなのか、シャナのようにげきどして日本刀を振り回すべきなのか。あ、でも困りました。わたしは日本刀を持っていません」
困ったときは友達に相談する。
暦はいつものように無表情で文香の顔と机の下の少年を交互に見つめ、
「……足がすべった」
蹴《け》った[#「蹴った」はゴシック体]。
「いてえっ!?」
裏返った悲鳴を上げる少年。
脛《すね》に当たったらしく本気で痛そうだった。
「なにすんだ藤倉!」
[#挿絵(img/1-079.jpg)]
涙目で抗議する少年。
彼の目には今度は暦のパンツが見えていることだろう。
「また足がすべった」
またも淡々と言って容赦なく蹴る。爪先《つまさき》で脛を。
「ちょっ、やめっ! 脛を狙《ねら》うな!」
「なるほど、シャナ的な対応が正解なのですね」
のんきに頷く文香に暦も頷き、
「……法律で決まっている」
「法律?」
「女子のパ……」暦の顔が赤くなる。「……スカートの中を見た者は、死刑」
「死刑なんですか。可哀想《かわいそう》ですね」
「どこの世界の法律だよ!?」
ついに少年が机の下から出てくる。そのとき、教室の入り口あたりから声が上がった。
「あ! 見つけたぞ吉村《よしむら》!」
教室に入ってきたのは長身の少年二人。ネクタイの色からすると二人とも三年生だろう。
「げっ!」
死刑の少年が顔を引きつらせ、文香と暦には目もくれず、教室に入ってきたときと同じようなすごい勢いでダッシュ。
先輩たちが入ってきたのとは反対側の扉から逃げていった。
「くそっ、待て吉村!」
「へへっ、相変わらずいい足だな吉村! 絶対にうちの部に入れてやる! お前は俺のものだ! 俺とお前は一緒になる運命なんだ!」
口々に言って、二人の先輩は死刑少年のあとを追いかけて教室を出て行く。
死刑少年ほどではないが、二人ともかなりの俊足だった。
「……今の先輩、サッカー部のキャプテンじゃなかった?」
教室でご飯を食べていた誰かがそんなことを言うのが聞こえた。
「藤倉さん、さっきの死刑の人は誰ですか?」
文香が尋ねると暦は、
「知らない人」
クールに言い放ち食事を再開した。
むしゃむしゃとおにぎり(たらこ)を咀嚼《そしゃく》する。
「……もしかして藤倉さん、いま怒ってますか?」
「……少し」
「藤倉さんでもパンツを見られたら怒るんですね。まさかいきなり男の子を蹴るとは思いませんでした。びっくりです」
あまりびっくりしているようには見えない顔で文香が言うと、暦の顔が真っ赤になった。
「…………私のはどうでもいいけど[#この行は小さな文字]」
「え? なんですか?」
「……なんでもない」
そう言って、暦は文香のお弁当箱からミートボールを一個つまんだ。
「おいしいですか?」
「……普通」
「レトルトですからね」
と、そこで文香は会話の流れとは一切関係なく思い出した。
どこかで見覚えがあると思ったらあの死刑少年、入学式のときに新入生代表で挨拶《あいさつ》をした人だ。
あれは入試の得点が一番良かった人が選ばれるらしいから、入試でものすごく苦戦した文香はすごいなあと感心した記憶がある。
(入試が一番でもパンツを見て死刑になってしまうなんて、悲しい世の中ですね)
[#改ページ]
[#小見出し] 憧《あこが》れ[#「憧れ」は太字]
放課後、文香が軽小説部の部室に行くと、美咲の他に一年生の男子がいた。
「あれ、あんた昼間藤倉と一緒にいた……」
「あ、死刑の人」
昼休みに文香と暦の机の下に潜り込んできた少年だった。
何故この人が部室にいるのだろう?
「吉村くん、死刑なの?」
文香の呟《つぶや》きに美咲が怪訝《けげん》な顔をする。
吉村と呼ばれた少年は顔を真っ赤にして首をぶんぶん振る。
「ち、違うッス!」
「わたしと藤倉さんのパンツを見たので死刑なんです」
「吉村くん、文香ちゃんと暦ちゃんのパンツを見たの?」
「見たッス!」
美咲の問いにハキハキした口調で正直に答える吉村。
「正直ね」
「浅羽先輩に嘘《うそ》はつけねえッスから!」
背筋をぴんと伸ばし、体育会系のノリで答える。
「何色だった?」
「えーと……すいません、興味なかったんで覚えてねえッス!」
「え、吉村くんはパンツに興味がないの? 男の子なのに」
「す、すすす好きな人のパンツにしか興味ねえッス!」
「ふうん」
美咲は吉村に、変わったものでも見るかのような視線を向けたあと、
「ちなみに文香ちゃんのパンツは何色?」
「極彩色《ごくさいしき》です」
「そう。ちなみにあたしは非スペクトル色よ」
「……非スペクトル色って、どんなパンツッスか?」
真剣な顔で考える吉村。
「冗談《じょうだん》よ」
「わたしも冗談です」
こないだ読んだ小説で『極彩色』という単語を覚えたので使ってみただけだ。
「こないだ読んだ小説で『非スペクトル色』という単語を覚えたから使ってみたの」
「……かぶりました」
「?」
美咲が首を傾げる。
「……冗談ッスか」
何故か残念そうに吉村。
「文香ちゃん、本当は何色なの?」
「秘密です。せんぱいこそ本当は何色なんですか?」
「本当ははいてないわ」
「ぶっ!」
吉村がむせた。
文香も(本人的には)真剣な顔で、
「せんぱい。せんぱいのスカート丈でノーパンというのはとても危険ではないでしょうか。それとも、もしかしてわたしが知らないだけで今どきの女子高生はパンツなどはかないのが常識なのでしょうか。そういえばこないだ読んだ小説には、とても短いスカートなのに明らかにパンツをはいていないという、とてもだいたんふてきな服装の女の子のイラストがありました。今度藤倉さんにもはいているかいないか訊《き》いてみないといけません。もしはいていたら教えてあげなければ」
「冗談よ。……文香ちゃん、もしかして混乱してる?」
「……あ。あ、あー、冗談ですか。思わずどうようしてしまいました」
いつものように顔にはそんなに出ていないのだが、ここ最近で一番びっくりしたかもしれない。
「それじゃあ本当ははいてるんですね?」
すると美咲は悪戯《いたずら》っぽく笑う。
「さてどうかなー。確認してみる?」
「確認してもいいんですか?」
「文香ちゃんのパンツも見せてくれたらいいわよ。せーので見せ合うのはどう?」
「うけてたちましょう」
「受けて立つな!」
スカートの裾《すそ》に手をかける美咲と文香に、顔を真っ赤にした吉村が叫んだ。
「パ、パ……その話はもういいじゃないっスか! それより、藤倉と一緒にいた人。あんたもラノベ部だったんだな、いやー驚いたぜー!」
強引に話題を変える男の子に文香は頷いた。
「そうです。……『も』ということは、」
「おう。一の四の吉村だ。よろしくな」
「あ、わたしは二組の物部文香と言います」
ぺこりと挨拶《あいさつ》を交わす二人。
「文香ちゃんと吉村君、部室で顔を合わせるのは初めてだったのね。吉村君、入部したっていうのに全然来てくれないから」
ちょっと責めるような口調の美咲に、吉村は心底申し訳なさそうな顔をする。
「す、すいません。あいつらしつこくて……。先輩たちに迷惑がかかると思って、なるベく部室には寄らないようにしてたんスよ」
「あいつら?」
「サッカー部と野球部とバスケ部とバレー部と剣道部と柔道部ッス」
「そういえばお昼休みにサッカー部のキャプテンさんに追いかけられてましたね」
文香が言うと、吉村は恨めしそうな顔になる。
「キャプテンの田岡《たおか》先輩とフォワードの中村先輩な。藤倉のせいであやうく捕まりかけたぜ。あいつら足はええし体力あるから休み時間終わるまで逃げ続けるのがすげー大変だったんだぞ」
ちゃんと逃げ切ったというのが凄《すご》い。
「なんで運動部の人たちに追われてるの?」
「パンツを見たからですか?」
「ちげえよ! パンツの話題から離れろよ!」
ビシッと漫才のツッコミのような手の動きで否定する。
それからうんざりした様子で、
「勧誘ッスよ勧誘。体験入部の期間はとっくに終わって正式にラノベ部に入部届けも出したっつーのに、それでも諦《あきら》めないとは思わなかったッス」
「あー、たしかに部によってはかなり勧誘すごいところがあるわね。特に運動部。この学校って結構部活に力入れてるから、大会で優秀な成績を収めたりすると部費とかグラウンドの使用権とかでかなり優遇されるのよ。だから有力な一年生は、どの部も喉《のど》から手が出るほど欲しいってわけ」
「吉村くんは有力な一年生なんですか?」
文香は吉村をじっと見る。
背が低めで、体格もどちらかといえば痩《や》せている。
高校の男子運動部で活躍するには不利な印象だった。
「あんだよ、何か言いたいことでもあんのか?」
「背が低いのに大丈夫なのかなと思いました」
「ンだとこのガキ、喧嘩《けんか》売ってんのか!?」
いつものように素直に思うところを述べた文香に、吉村は声を荒げた。
どうやら身長のことは気にしていたらしい。
その気持ちは文香にもわかるので、ストレートに背が低いと言ってしまったことは悪かったと思う。
悪かったとは思うが、
(だからといってがきは酷《ひど》いと思います。たしかにわたしは身長がやや低めかもしれませんが、同級生なのに)
それに文香としては、見かけによらず精神的にはけっこうせいじゅくしているつもりだった。断じてガキではないと思う。
「そういえば吉村君、中学のとき剣道だか柔道だかの大会で優勝して表彰されてたわね」
「覚えててくれたんスか先輩!?」
美咲の言葉にぱあっと顔を輝かせる吉村。
「正確には、中一のときには柔道、中二のときには剣道で、どれがどれだかよく覚えてないッスけど地区大会か何かで優勝したッス」
「すごいじゃないの」
「で、中三のときはバレー部だったんスけど、これは県ベストフォーまでしかいけなかっス。僅差《きんさ》で負けたんスけど、オレにあと十センチくらいタッパがあればブロックできた場面が何度かあったのは悔しかったッスね」
「……中一のときは柔道で、中二のときは剣道で、中三では県ベストフォーに入るバレー部のレギュラーだったってこと?」
「うッス」
こともなげに言う吉村に、美咲がぽかんとなる。
「あと、小四のときにサッカーのスポーツ少年団に入ってたんスけと、六年の人数が少なかったんでそっちの試合に出たりしてたッス。そんときに中村先輩と一緒にツートップだったんスけど、あの人ずっとオレのこと覚えてたらしくてしつこく勧誘してくるんスよ。三年間ずっとお前の代わりを探し続けたが、やっぱりオレを満たしてくれるのはお前しかいないしとかわけわかんねーこと言って」
「……綾が聞いたら大喜びしそうな台詞《せりふ》ね。そこはかとなくBL臭がするわ」
「へ?」
「なんでもないわ。……ちなみにサッカー以外では何かやってたの?」
「小五のときは野球とテニスと卓球、小六のときバスケと体操ッスかね」
「戦績は?」
「詳しい結果は忘れたッスけど、賞状を何枚かもらったんでそれ確認すればわかるッス」
つまり大活躍だったらしい。
「どうしてそんなにコロコロと部活を変えるんですか? 長く続ければもっと上まで行けたかもしれないのに」
文香が尋ねると、
「しょうがねえじゃん。おもしれー漫画がたくさんあるんだから」
「…………漫画、ですか?」
意味がわからない。
「サッカー始めたのはサッカー漫画にハマったからだし、野球とテニスと卓球は雑誌で同時期に連載されてたからだし、バスケと体操もたしか同じ雑誌だったかな。それからちょっと昔の柔道漫画のアニメが再放送されてるのをたまたま見てハマって柔道部に入って、戦国時代で武士が主人公のアニメが夜中にやってるのをたまたま見てハマって剣道部に移って、めっちゃおもしれーバレー漫画を友達に教えてもらってハマったから中三でバレー部に移った」
「……つまり吉村くんがスポーツをやるきっかけは全部漫画やアニメの影響ってこと?」
「そうッス」
頷く吉村に美咲は呆《あき》れたような感心したような顔。
「まあ、バスケ漫画がヒットしてバスケブームになったり囲碁漫画がヒットして小学校で囲碁が流行《はや》ったり、漫画をきっかけに何かを始める人って結構いるみたいたからそれはいいんだけど。それであっさり上手《うま》くなっちゃうところがすごいわね」
「や、あっさりじゃないッスよ先輩」
吉村は珍しく美咲の言葉を否定した。
「他の奴《やつ》らより遅く始めたぶん、たくさん練習はしたッス。十歳のときにサッカーはじめたら、一歳のときからやってる奴に勝つためにはそいつの十倍練習するしかないッスから。まあ、瞬発力とか持久力とか反射神経とか、色んな種目で共通する部分もあることはあるんスけど」
「……よくまあそんなに頑張れるわね」
「しょうがねえッスよ。出逢《であ》っちまったんだから」
はにかむような子供っぽい表情で吉村は言った。
「おもしれー漫画に出逢って、主人公とか他のキャラのことをすげーとかカッコイイとか思うじゃないスか。そしたら、自分もこうなりたいって思うじゃないスか。こうなりたいって思ったら、なるために頑張るしかないじゃないッスか」
自明の理のように言う。
どうやら彼の頭の中では、『憧《あこが》れること』と『追いかけること』は同義らしい。
「まあ、もしかすると世の中には漫画を読んで海賊王を目指したり新世界の神を目指しちゃう人もいるかもしれないから、それに比べたら全然現実的なのかもね。漫画やアニメがきっかけでプロのスポーツ選手やミュージシャンになった人も実際にいたりするし」
美咲は苦笑しつつもどこか眩《まぶ》しそうに目を細めて吉村を見た。
「ちなみに吉村くん、今は何かハマってる漫画はないの?」
「漫画では特にないッス。中三の三学期にラノベを知って以来、ラノベばっかりひたすら読んでるッス」
だから運動部の勧誘を振り切ってラノベ部に入ったのか……と文香は思った。
「じゃあ今ハマってるラノベは何?」
「これッス! 先輩が読んでるのを見かけて以来、去年から何度も何度も読んでるッス」
鞄の中から元気よく取り出したのは一冊の小説だった。
美咲が面白いと言っていたので文香が近々読んでみようと思っていたシリーズ。
たしか、様々な魔法を操る戦士たちが、それぞれの正義のために戦いを繰り広げるという話だったと思う。
「…………」
「…………」
本を見て、美咲と文香は押し黙った。
「どうしたんスか?」
怪訝な顔をする吉村。
「……吉村くん、この本の中にも憧れてるキャラがいたりするの?」
「もちろんッス!」
「…………これは……海賊王や新世界の神ばりにキてるわね……」
戦慄《せんりつ》の表情を浮かべて呻《うめ》く美咲。
「サムライ漫画を読んで剣道を始めたりするのはアリだと思うけど、これは吉村くん」
「うっす」
「……魔法戦士[#「魔法戦士」はゴシック体]になるのはさすがに厳しいのではないでしょうか」
美咲が言おうとしたことを文香が引き継いだ。
「ち、ちげえよ!」
吉村が顔を赤くして否定。
「違うの?」
「当たり前ッス意外そうな顔しないでください先輩! オレが憧れてるのは魔法戦士じゃなくて科学者ッス科学者ッ!!」
「……科学者?」
そういえばこの作品の世界観はファンタジーではなく未来の地球が舞台で、『魔法』という呼ばれ方をしているだけでれっきとした物理現象であるという設定だった。
「うっす。主人公の兄貴が魔法士じゃないけど知的で大人っぽくてすげーかっこよくて、いやもちろんiブレイン(なんか魔法が使えるようになるすごいシステム)なんてオレが生きてるうちには作れないと思うッスけど、魔法と区別がつかないようなすげー技術なら現代にも結構あるんスよ。オレはそれに関わってみたいッス」
ニカッと、無邪気な子供のように堂々と、吉村は言った。
……そういえば吉村は入学式で新入生代表=入試の成績トップ。
科学者になるなら最低でも教学と理科と英語は必須だろうから、その三つが完璧ならトップでもおかしくない。
案外、彼なら本当に将来すごい科学者になるかもしれない。
……また別の作品にハマってあっさりやめてしまう可能性の方が高いけど。
(あれ?)
ふと疑問。
吉村はこれまで、何かのスポーツにハマるたびにそれに応じた部活に入ってきた。
(科学者になりたいのに、なんでラノベ部なんでしょう?)
この学校には科学部も化学部もSF研究会もあるし、魔法戦士やら超能力ソルジャーが好きなら超能力研究会やオカルト研究会もあるのに。
不思議に思いながら文香は吉村を見る。
……吉村は、「頑張ってノーベル賞とか獲《と》っちやいなよ、ユー」なんて美咲に笑顔で言われて、「ま、まかせてくださいッス」などと顔を真っ赤にしていた。
*
ちなみに。
吉村士郎《よしむらしろう》は結局、サッカー都に入部することになった。
校則では運動部の掛け持ちは不可だが、文化部との掛け持ちなら活動時間が重ならない限りOKとなっており、サッカー部の部長がラノベ部部長の美咲に吉村を入れても問題がないかどうか直接掛け合いに来て、美咲は「基本的に自由参加だから部員が他の部と掛け持ちしてても特に問題なし」と答えた。
それが決め手になり、吉村はついに折れて勧誘を受け入れた。
最後まで渋々だった吉村だが、美咲の「試合に出るときは教えてね。暇で気が向いたら応援しに行くから」という微妙な一言で突然やる気になって、今は元気に練習に励んでいる。
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[#小見出し] 幸運☆星[#「幸運☆星」は太字]
「ねえ龍ちゃん。チョココロネってどっちから先に食べる?」
「食わない」
唐突な美咲の質問に、竹田は素っ気なく答えた。
放課後の部室。
部屋にいるのは美咲と竹田の二人だけ。
本を読んでいる竹田と、机の上に腕を伸ばし顎《あご》を乗せてだらーっとしている美咲。
「…………おーい龍ちゃんよー。コミュニケーション拒否ですか? それじゃ会話が続かないじゃんよー。せめて上か下かのどっちかで答えてよー。そこから会話を広げましょうよー」
不満そうに言う美咲に、
「いや、食わないものは食わねえし。つーか、俺が甘いもの苦手なことくらいお前も知ってるだろうが」
「知ってるけど、そこを曲げてあたしとチョココロネについて語り合いませんか? 龍ちゃんは本当は甘いものが大好きで、昼食にはいつもチョココロネを食べているという設走でひとつ」
「なんで事実をねじ曲げてまでお前とチョココロネについて語り合わねばならんのだ。お前そんなにチョココロネが好きだったのか?」
すると美咲はきょとんとして、
「え、べつにそこまでは。普通に美味《おい》しいとは思うけど」
「なら別に語る必要ねえだろ」
「わかってないわねー。必要だから語るわけじゃないのよ。なんとなくダルくて本を読む気分でもないからとりとめのない会話でもして適当に間を持たせようというわけよ」
「知るか!」
「どうでもいい暇潰《ひまつぶ》しの会話の中から意外な発見が生まれるかもしれないわよ?」
「暇潰しをしてる暇があったら勉強でもしろ」
「べつに暇潰しをしてもいいじゃない。どうせ娯楽も学問も芸術も、生存と生殖に関わらないあらゆる事柄は人生の暇潰しなんだし。……ほら、何気ない会話の中からまた一つ名言が生まれた」
「それのどこが名言だ。遊んでばかりいる怠惰な人間の自己正当化にしか聞こえん。あとチョココロネ関係ねえし」
「別にチョココロネについて語りたいわけでもないしなー。チョココロネについての話題から何かおもしろげな会話に発展すればいいし」
「だったらもう目的は果たしただろう。名言が生まれたし。なんだっけ、お前の人生は暇潰し? なるほど真理だな」
美咲は不満そうな顔をする。
「まるであたしが遊んでばかりいる怠惰な人間みたいね」
「違うのか」
「遊んでばかりいることは否定しないけど怠惰ってのが納得いかないわね。あたしはいつだって全力で遊んでるわよ。勉強とかやってるときよりも遥《はる》かに力を注いでいると断言できるわ」
「勉強も全力でやれよ」
「いやよ。ハゲたら困るし」
すると竹田の顔がぴくっと引きつる。
「……おい美咲。それは最近|俺《おれ》の親父《おやじ》の頭がだんだん薄くなってきたことを知った上での発音か?」
美咲はにやりと笑みを浮かべる。
「あれえ、もしかして龍ちゃん将来ハゲること気にしてるの? そういえばハゲって遺伝するらしいわね。たしか龍ちゃんのおじいちゃんって二人ともつる――」
「さて、チョココロネの話をしようか」
「それはもういいわよ。それよりも龍ちゃんの家系が代々ハ――」
「美咲はチョココロネの上と下どっちから食べるんだ?」
「気にしたことないわよそんなこと。それより――」
「そういえばチョココロネは巻き貝のような形をしているな!」
「そうね。巻き貝と言えば螺旋《らせん》よね。螺旋といえばDNAの二重螺旋ね。DNAといえば遺伝子……ところでハゲが遺――」
「なんとなくチョココロネの形は竜巻にも似ていると思わないか?」
「そうね。ところで竜巻によく似た現象につむじ風があるわね。つむし……ところでハゲにはつむじからハゲる場合と前から――」
「だからどうしていちいちチョココロネの話からハゲの話に飛ぶんだ!」
「龍ちゃんが巻き貝だの竜巻だの、ハゲの話題に持って行きやすいようなネタフリをするからしやない」
「俺はハゲないからな!」
「そんなふうに怒ってばかりだとストレスでハゲるわよ?」
「ハゲねえって言ってるだろ!」
憤然《ふんぜん》とした顔で言って、竹田は会話を断ち切るように読書を再開した(新書で、タイトルは『ハゲは遺伝する』)。
美咲はくすくすと可笑《おか》しそうに笑って身体を起こした。
「龍ちゃんをからかって気分がすっきりしたわ。あたしも何か読もっと」
と、そのとき部室の扉が開いて一人の小柄な少女が入ってきた。
文香だった。
「あら、こんにちは文香ちゃん」
「こんにちは」
文香は美咲とぶすっとした顔で本を読んでいる竹田に交互に視線を向け、
「……なんだか喧嘩するような声が聞こえてきたんですけど……」
「あー。ちょっと会話が盛り上がっちゃって」
笑いながら美咲。
「何の話をしていたんですか?」
「ハ――」
「チョココロネについてだ」
竹田が美咲の言葉に割って入った。
「チョココロネを上から食べるか下から食べるかなどという愚にもつかない話題でついついヒートアップしてしまった。俺はそんなとるに足らない男だ。ハゲないが」
「龍ちゃん……そこまで嫌だったの……?」
美咲が少し申し訳なさそうな顔をした。
「あの……」
文香がおずおずと手を挙げる。
「なんだ物部。俺のようなハゲてないことだけが取り柄のくだらない男に何か質問でもあるのか?」
「チョココロネってなんですか?」
「「!?」」
美咲と竹田が同時にギョッとした顔をする。
「文香ちゃん、チョココロネを知らないの!?」
「はい」
「信じられん……お前は本当に日本人か……?」
二人して声を震わせる美咲と竹田。
「……そんなに常識的なものなんですか?」
少し不安そうに言う文香に、二人は力強く頷く。
「チョココロネとは菓子パンの一種だ。巻き貝のような形をしたパンの中にチョコレートが入っている」
「……巻き貝に……チョコレート、ですか……」
想像してみる文香。
「ええと…………」
…………ちなみに現在、彼女の頭の中にある巻き貝はアンモナイトとかカタツムリの殻のような形状をしており、チョコレートはクリームではなく板チョコだった。
「……あの中に……チョコレートが???????」
上手《うま》くイメージできずに混乱する文香。
「絵で描いてみるわね。名前は知らなくても見たことならあるかもしれないし」
美咲がノートとシャーペンを取り出しチョココロネの絵を描き始める。
「ほら、こんなのがチョココロネよ」
「はあ……」
[#挿絵(img/1-103.jpg)]
じっと絵を見つめ、
「うんちみたいですね」
文香は思ったことを素直に口に出した。
「ま、待って文香ちゃん。あなたの思ったことをストレートに言う癖は立派な個性だしある種の萌《も》え要素だと言えなくもないけど、その発言は天然系美少女キャラとしての領域を逸脱している気がするわ。これがギャルゲーやアニメの世界だったら、これまで文香たん萌え〜とか文香たんハァハァとか言っていた人たちが一瞬で萎《な》えるレベルかも。その部分だけ抜き出されて動画の素材に利用されるかもしれないわ」
「うんちがですか?」
「だから女の子がそんな下品な言葉を口に出してはいけません。お下劣な台詞《せりふ》は全部綾のやつにでも任せて、あなたは清純派ヒロインのままでいて……」
「はあ……」
よくわからないけど頷く文香。
「ま、まあそれはともかくだ。こういう菓子パンに本当に見覚えはないか?」
竹田が尋ねる。
文香は絵をじっと見て、頷く。
「……たしかに食べたことがありますこれ。巻き貝っていうからてっきり……。これ、チョココロネっていう名前だったんですね」
文香の答えに美咲と竹田はホッとする。
「よかった、さすがにチョココロネを見たこともない子がいるわけがないわよね」
「ふう……危うく俺の中の常識が一つ崩壊するところだった」
「よくわかりませんが、安心してもらえてよかったです」
文香が言う。
「ちなみに文香ちゃんはどっちから食べる?」
「ええと……上? ですか? この細い方の先っぽから……」
「お。あたしと同じね」
「先っぽから中のチョコクリームを吸って、そのあと残ったパンを食べます」
「…………」
「…………」
美咲と竹田は暫《しば》し沈黙し……同時に叫ぶ。
[#5段階大きな文字]「「それは邪道だ!」」
[#改ページ]
[#小見出し] ハーレム[#「ハーレム」は太字]
「ハーレムってあるじゃない」
美咲が言うと、
「ゾウアザラシの社会にな。中東の大金持ちの屋敷あたりにもあるんじゃないか」
竹田が淡々と答えた。
「わかってると思うけともちろんラノベや漫画の話よ。冴《さ》えない男の子とかごく普通の女の子の周りに、何故か美少女とか美少年が集まってきてモテモテになるっていう羨《うらや》ましいシチュエーション」
「まあ、割とよく見かけるな」
「ああいうのって現実にもあるのかしら」
「あるわけねえだろ。現実にないからこそ、フィクションの中で読者の願望というか欲望を満たす作品が求められるんだ。ハーレムものはその筆頭だな」
「うーん、やっぱりないかあ……」
「ああ、ない」
「あるよ? ハーレム」
二人の会話に不意に口を挟んできた者がいた。
部室には美咲と竹田の他に、もう一人の生徒がいる。
堂島潤《どうじまじゅん》[#「堂島潤」はゴシック体]。
美咲たちと同じく二年生。
性別は男だが華奢《きゃしゃ》な体格で顔も美少女然としており、男子の制服を着ていなければ誰もが女性だと間違えるだろう。
「あるの?」
「うん」
堂島は一〇〇%美少女にしか見えない笑顔を浮かべて頷いた。
「適当なこと言うな。そんな都合のいい状況が現実にあるわけねえだろ」
憮然《ぶぜん》とした顔で竹田が言うと、堂島は可笑しそうに、
「当の主人公キャラご本人が何言ってるのさ。龍くんの現在の状況なんてハーレムそのものじゃないか」
「はあ?」
怪訝《けげん》な顔をする竹田。
「なるほど、そういえばそうよね」
美咲がぽんと手を打った。
「お前まで……」
「客観的に見ると、ラノベ部の中は龍ちゃんを主人公にしたハーレムになってるわよ。まずあたしでしょ? 綾でしょ? 文香ちゃんに暦ちゃん。あと潤くん」
「待て。なんで堂島が入ってるんだ」
「酷《ひど》いよ龍くん……ぼくだけ仲間はずれだなんて……そんな意地悪なこと言わないでよ」
堂島が瞳《ひとみ》を潤ませて上目遣いで竹田を見る。
「うるさい黙れ死ね」
「ンだとコラアお前が死ねよこのファッキン眼鏡がァ」
冷たく言った竹田に、堂島はいきなりガラが悪くなった。
目はつり上がり、美少女っぽさはまったくなくなった。
しかしすぐに元に戻り、
「うわあん美咲ちゃん、龍くんが意地悪するよう」
「泣かないで潤くん。龍ちゃんは照れてるだけだから。ツンデレだから。ホントは潤くんのことが一番好きなのよ」
「なあんだ、ツンデレだったら仕方ないね。ホントに龍くんは不器用な男なんだからぼく、そんな龍くんが……」
「アホなこと言ってんじゃねえ!」
「そんな龍くんが、死ねばいいと思うよ」
「……頬《ほお》を赤らめながら言う台詞じゃねえな」
げんなりしながら竹田が言うと堂島は笑って、
「冗談《じょうだん》冗談。可愛い冗談だよただのツンデレだよ」
「うるせえ死ね」
「おめぇが死ねよコラァ。で、まあそれはそれとしてさ、傍目《はため》から見ればラノベ部が龍くんのハーレム状態に見えることは確かじゃない?」
「う……」
竹田は呻《うめ》く。
「……いや待て、堂島を抜いたとしても、この部の男子は俺だけじゃなくて一年の吉村もいるだろう」
「士郎くんはアレだよ。何かとアドバイスしてくれる主人公の親友的なポジション」
「……親友どころか、まともに喋《しゃべ》ったことすらほとんどないんだが。あいつあんまり部室に来ないし」
「友情に過ごした時間の長さは関係ないんじゃないかな?」
「ああなるほど。もう一年以上の付き合いになるのに俺とお前の間に友情が芽生えないのと同じ理屈か」
「代わりに愛情が芽生えたけどね」
「芽生えてねえよ」
「ひどいっ! 龍くんの馬鹿っ! 眼鏡が割れてガラスが眼球に刺さってショック死すればいいのに!」
「生々しいな!」
「でまあそれはそれとして」
「…………」
いきなり素に戻った堂島にジト目になる竹田。
「士郎くんはなんかほら、ハーレムラブコメよりバトル漫画かスポーツ漫画の主人公っぽいんだよね。恋愛要素はあってもオマケみたいな。その点龍くんはこう、冴えない眼鏡野郎だし童貞だしムッツリっぽいし、もうバッチリじゃない?」
「……俺に同意しろと?」
「え、もしかして龍くん童貞じゃないの?」
「そこだけピンポイントで尋ねてくるなよ!」
「童貞だよね?」
「…………」
苦々しげな顔で黙る竹田。
「ほらやっぱり。やっぱりハーレムラブコメの主人公は童貞じゃないとね。一生」
「一生!?」
「少なくとも作品が無事に完結するまでは。どれだけエッチなイベントに遭遇したってどれだけ女の子といい雰囲気になったって、いいところで邪魔が入ったりして絶対に最後の一線は越えられないんだ」
「まあ、たしかにその手の作品は寸止めが多いが――だから別に俺はハーレムラブコメの主人公じゃねえ!」
憤然《ふんぜん》とする竹田。
「……大体、いくら状況的には『女子の中に男子が一人』でもその……心が伴わなければ意味がないだろう。登場人物のほとんどが主人公に対して好意を抱いていて初めてハーレム的状況というのは成立するんじゃないか?」
「ぼくは龍くん好きだけど」
「お前はどうでもいいよ」
「なんだとゴラァ」
堂島はチンピラのようにガンを飛ばす。
「へん、ぼくだって好きと言っても『潰《つぶ》れたムカデの死体よりは好き』っていうレベルの好きなんだよばーかばーかお前の母ちゃんめーがねー」
「眼鏡になんか文句あんのかお前はってあれ? そういやお前って、蛇とかムカデとかゲテモノ系好きじゃなかったか?」
「だからかなり好きってことだよ」
「わかりにくいわっ!」
と、そこで、
「……でも確かに、龍ちゃんの言うことも一理あるわね。女の子たちがある程度好意的じゃなかったらハーレムとは言えないのかも」
美咲が言った。
「綾は生身の男の子にまったく興味がないから問題外だしー、あたしも龍ちゃんに対して恋愛的な感情なんてこれっぽっちも持ってないしー」
「……そうかい」
ハッキリ言われるとこれはこれで複雑だった。
「ベ、ベつにあたし、ツンデレとかじゃないんだからねっ! 昔はともかく今は本当に正真正銘恋愛感情ゼロなんだからっ!」
「……知ってるよ」
「あっそう? で、あとは一年生の暦ちゃんと文香ちゃんだけど…………ま、ないわね」
「ないってなにが」
「だって龍ちゃん、年下の女の子に好かれるタイプじゃないし。無愛想だし冷たいし俺様キャラだし。本当に女の子がたまたま[#「たまたま」はゴシック体]周囲にいるだけ[#「だけ」はゴシック体]って感じね。あー、やっぱりラブコメ的なハーレムなんてそうそう存在しないのね……ハァ……」
美咲は残念そうに嘆息した。
「……待て。もしかしたらその……一人くらいはいるかもしれないだろうが。俺にその……惚《ほれ》れる奴が。いやまあべつに惚れられたいというわけではなくて、あくまで可能性の問題として」
「あー、まあ……、可能性だけ[#「だけ」はゴシック体]は、あるわね」
「そうだよね、可能性だけ[#「だけ」はゴシック体]はあるよね」
励ますような生暖かい目になる美咲と堂島。
「か、可能性があるだけじゃない! 俺が本気になればハーレムラブコメの主人公ばりにモテまくることだって夢じゃない」
「そうだね。無限に枝分かれした平行世界にいる龍くんのうちの誰か一人くらいはそんな人がいてもいいのかもしれないね」
「もしくは龍ちゃんに『願望を実現させる能力』的なものがあればどうにか……」
「いくらなんでもそこまで夢物語じゃないだろ!?」
「人の夢と書いて儚《はかな》いって読むんだよ」
「だから夢じゃねえっつーの!」
叫ぶ竹田に、二人は生暖かい視線を向けたままだった。
「……もしかしたらその……一年の二人のどっちか一人くらい、何かの間違いで俺のことをその……アレになったりするかもしれないだろうが」
「『何かの間違いで』って自分で言っちゃうあたり、自信がなくなってることがよくわかるわね」
「『好きになる』って言葉にすることさえ恥ずかしい龍くんのことがぼくは好きだよ」
「……お前ら………………いいよもう……」
完全にふてくされた顔で竹田は本を読み始める。
さすがに少しからかいすぎたかと、顔を見合わせ微妙に反省の色を浮かべる美咲と堂島。
「ま、べつにこの部の子とは限らないけど、そのうち龍ちゃんにもカノジョの一人や二人できる日が来るかもねー。そんときはお祝いしてあげるわ」
「……いらねえよ」
すねたように言う竹田に美咲は――幼稚園のときには結婚の約束までしたことがある幼馴染《おさななじ》みの少女は――可笑《おか》しそうに笑ったのだった。
[#改ページ]
[#小見出し] ポリシー[#「ポリシー」は太字]
ラノベ部の部室の壁は扉があるところ以外ほとんどが本棚で埋まっていて、その本棚にはまだまだスペースに余裕があるとはいえ大量のライトノベルを中心とする文庫本や、漫画や雑誌、ハードカバーの本などが雑多に並んでいる。
これらの本は部員が自由に読むことができて、基本的には家に持って帰ることもOK。
文香は毎日のように部室に来て、美咲や暦に薦められた本とか自分がなんとなく表紙の絵やタイトルやあらすじで興味を引かれた本を一冊か二冊持ち帰っては読んでいるけど、まったく読み切れる気がしない。
中には二十巻とか三十巻を超える大長編シリーズもあったりするし。
そういう大作にもそのうち挑戦してみようと思う。
今日はどれを持って帰ろうかと物色しながら、ふと思う。
「そういえばここにある本って部費で買ってるんですか?」
部員たちに尋ねる。
部室にいるのは美咲と暦と綾。
「あー、違うわよ」
美咲が答える。
「この部、創部してまだ一年で部員も少ないしこれといった実績もないからねー。部費なんてほとんどもらえないのよ」
「そうなんですか」
「うん。だから部室内に置く本の購入は基本的に自腹。今ここにあるやつは、あたしと綾と龍ちゃんと潤くんの二年生四人と顧問の井上先生がみんなで持ち寄ったものがほとんどね」
「といっても、わたくしが持って来たものはほとんどありませんけどね」
綾が微笑《ほほえ》みながら付け加えた。
『美少年』と書かれた扇子を開いたり閉じたりしながら、
「……創部したばかりの頃、部室に本がないなんて寂しいということで、わたくし張り切って軽トラの荷台いっぱいに本を積んで来ましたのに……竹田くんがほとんどの本を部室に置いてはいけないなんて意地悪を言うんですもの」
「あはは、綾が持ってきたのってほとんど十八禁の漫画ばっかりだったからねー」
「それが駄目だなんて言われておりませんでしたわよ」
「言うまでもないからよ。一応ここは小説の部だからね。しよっぱながら漫画だけで本棚を埋めるわけにはいかないでしょ。しかも十八禁の」
「あら、そういえばわたくしたち、設定上は未成年でしたわね」
「いや、設定上も何も普通に十六歳だし。リアル女子高生だし」
苦笑する美咲。
「あら、わかりませんわよ? 特に文香さんと暦さんなんていかにもそれっぽいですし」
「それっぽい?」
「見た目は小学生に見えますが設定上は十八歳以上なのでエッチシーンOK……四字熟語で言うと、いわゆる『合法ロリ』というものですわ」
ポッと暦の顔が染まる。
よく意味がわからなかった文香は首を傾げて、
「わたしは十五歳ですけど」
「あら残念。その見た目で十八歳未満だなんてユーザーに対する裏切りですわ。めっ」
「え……すいません?」
何故か怒られたので謝る文香。
「謝らなくていいって文香ちゃん。ったく、あんたのゲーム脳はどうにかならんのか」
美咲があきれ顔で言う。
「でも真面目《まじめ》な話、お部屋いっぱいのえっちな漫画に囲まれて過ごす女子高生ライフというのも素敵だと思いませんこと? ねえ文香さん暦さん」
「え……」
「思わない」
一応真面目に『えっちな漫画に囲まれた部屋の女子高生ライフ』を想像してみる文香と、無表情で即答する暦。
「どこが真面目な話なのよ……」
「……うふふ、いつの日かこの部屋を美少女ゲームと美少年ゲームとアダルト漫画とアダルト小説と萌えアニメのDVDで埋め尽くしてみせますわ……」
綾はなにやらぶつぶつと不穏なことを呟《つぶや》いた。
「そういうわけで、文香ちゃんと暦ちゃんも、いらなくなった本とか布教のために二冊買った本があったら持って来てね。新しい本があったら多分みんな読むから。少なくともあたしは読むわ」
「あ、はい」
頷く文香と、無言の暦。
暦が無言なのはいつものことなので美咲は気にしない。
「あ、それとね」
「はい」
「ここの本の中に気に入ったものがあったら、なるべく自分でも買ってほしいなって思ったりしちゃったり」
「はい?」
少し首を傾げる文香に美咲、
「まあ、あたしがそうしてるってだけで、声理矢理《むりやり》押し付けることじゃないけどね。やっぱり気に入った本があったら手元に置いておきたいし、自分が買ったらそのぶん売り上げがアップするわけじゃない。本がヒットしたら続編とかも期待できるし……ていうか、ヒットしてほしいっていうより、売れなくて続きが出なくなることが怖いってのが大きいわね。一巻が死ぬほど面白くて大ハマりしたシリーズが途中で打ち切りになってどれだけ悲しい思いをしたことか……。だからあたし、ここに本を持ってくるときは自分か買ったやつの他にもう一冊買うことにしてるの。そんでまあ、あたしが持ってきた本にハマってその人がまたもう一冊買うようになればいいかなと思うわ」
「……いい心がけ、だと思う」
ぽつりとそう呟いたのは暦だった。
「本が売れること、とても大事。打ち切り、とても悲しい。一冊でも多く、買って、ほしいと思う……」
「なんでカタコトなの?」
おかしそうに言う美咲に、暦の顔が赤くなった。
「でも暦ちゃんの気持ちは伝わってきたわ! 好きな作品が打ち切りになるのは悲しいもんね。信者的にはこれからもどんどん買いまくって布教しまくりましょうね!」
「ん……」
美咲はがしっと暦の手を握り、暦もその手を握り返す。
「あは、なんか初めて暦ちゃんとわかり合えたような気がする。愛よね、愛」
暦の顔はますます真っ赤になった。
と、そこで綾が「ごほん」と咳払《せきばら》い。
「ん? なに綾」
綾、誇らしげな笑みを浮かべて、
「一年前、わたくしが部室に入り切らないほどの漫画をトラックいっぱいに詰め込んで実家から運ばせたときのことです……」
「うん」
「何を隠そう、あの大量の漫画本、実は全て新品だったのですー」
「…………(美咲)」
「…………(暦)」
「わたくしがこれまで過去に読んだ中でも選りすぐりのものばかり、部の皆さんに布教するために新しく購入したのですわ! 全部![#「全部!」はゴシック体]」
「そ、そうだったんだ……」
「おそろいですわね、浅羽さん」
「えー……」
「うふふ……さすがに引かれるかと思って黙っていたのですが……考えてみれば布教用に新しく買い直すなんて常識ですものね」
「ごめん綾。ちょっと引いた」
美咲が言って、暦も頷く。
「何故ですの!? わたくしとも美しい友情を誓い合いましょう?」
「ごめん、布教用にトラック一台分のエロ漫画を買っちゃう綾の気持ちはその……重いわ……。残念だけど受け止める自信がないの。初デートでいきなり高価な宝石をプレゼントされる感じというか」
「つまりエロ漫画は宝石にも匹敵するものだと? さすが浅羽さん、よくわかっていらっしゃいますわね」
「ごめん例えが悪かった。あんただっていきなりプロレスや相撲やK−1のビデオの一年分とか送られたら困るでしょ?」
「反吐《へど》が出ますわ。マッチョなどこの世から滅びればいいのに」
「あたし結構好きなんだけどマッチョ……。まあとにかく、本日の結論。『欲しいモノがあったらなるべく買う』、『布教活動は度が過ぎると引く』、それから、『照れ屋さんの暦ちゃんは超|萌《も》える』」
美咲の言葉に暦の顔はまた真っ赤になって、綾が「あらまあ、たしかに可愛いですわね思わずお持ち帰りしたくなってしまうくらいに。三次元で存在を許されるのは幼女のみですわ」などと言って笑う。
「……幼女じゃない」
「え? では夢の十八歳以上ですか?」
「……十五歳」
「うふふ、あと三年で合法ロリのできあがりですわね。くれぐれもそのまま大きくならないでくださいね」
「こらこら。後輩に無茶《むちゃ》なこと言わないの」
「……まだ、きっと 大丈夫[#この行は小さな文字]」
和気《わき》藹々《あいあい》としたユルい空気を背に、文香は本選びを再開する。
……そういえば文香は、自分のお金で本を買ったことが一度もない。
[#挿絵(img/1-123.jpg)]
美咲や綾の言うような他人に布教したくなる気持ちや、作者や出版社を応援しようという感覚もよくわからなかったりする。
(たくさん読んでいれば、そのうち藤倉さん達の気持ちがわかるのでしょうか?)
明日あたり、とりあえず本屋さんに行こうと思った。
あと、照れた暦の可愛さを先輩たちより先に知っていたことが少し嬉《うれ》しかった。
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[#小見出し] 自在書房にて[#「自在書房にて」は太字]
市のはしっこの方にある富津《とみづ》高校からバスで十五分、自転車なら三十分くらいのところに繁華街があって、そこに自在書房という書店がある。
県下で二番目か三番目くらいに大きい書店で、ライトノベルや漫画の品揃《しなぞろ》えもいい。
放課後、その自在書房に文香はやってきた。
(ここに来るのは半年ぶりくらいでしょうか)
中学三年生のとき一度だけ高校受験のための参考書を買いに来たことがあり、今日が二度目の来店となる。
美咲や暦の話によれば、参考書と同じく、ライトノベルは書店によってはほとんど扱っていないこともあるらしい。
特に地方のライトノベル愛好家にとっては、ライトノベルに強い店を見つけることは死活問題だとか。
自在書房は、市内で数少ないラノベに強い書店の一つである。
床面積はそんなに広くないが三階建てで、一階は雑誌や一般小説など。
二階が漫画やライトノベル、ゲームの攻略本など。
三階には参考書や実用書のコーナーがある。
エスカレーターで二階へ。
前に来たときは三階で目的の参考書を購入してすぐに帰ってしまったので、ちゃんと見るのは初めてになる。エスカレーターはフロアの中心あたりに位置し、南側は完全に漫画で埋め尽くされ、北側の七割以上も漫画で、ライトノベルのコーナーは北側のすみっこの方に攻略本コーナーと分け合うような形で存在していた。
ラノベコーナーへと向かう途中、びっしりと棚に並んだ無数の漫画にも自然と目がいく。
世の中にはこんなにたくさんの漫画があったのかと驚く。
文香も読んだことのある少女漫画や、ドラマやアニメになったメジャーな作品や、ラノベ部の部室で見かけた憶《おぼ》えがあるような本もある。
しかし見たことも聞いたこともない漫画が圧倒的に多い。
これらを全部読んだ人はいるのだろうか。
そんなことを考えながら歩いていると、
「よう」
後ろからいきなり声をかけられた。
「はい?」
振り返ると、同じ高校の制服を着た眼鏡をかけた男子生徒――竹田がいた。
「こんにちは」
ぺこりと頭を下げる文香に、
「ああ」
竹田は軽く手を上げて返した。そして、
「…………」
「…………」
沈黙があった。竹田は視線を彷徨《さまよ》わせる。そんな竹田を文香は相変わらずのぼーっとした目で見る。
「…………」
「…………」
よくわからない沈黙が続き、
「……何を喋《しゃべれ》ばいいのかわからん[#この行は小さな文字]」
ボソリと言う竹田。
「はい?」
首を傾げる文香に竹田はぶすっとした顔で、
「……偶然みかけた部活の後輩にとりあえず声をかけてみたはいいが、そういえばあまり喋《しゃべ》ったこともなかったので少し困っている」
「あ、なるほど。なんとなくわかります。別に仲が悪いわけじゃないけど特に親しいわけでもない微妙な関係の知り合いと二人になったときって、困りますよね」
文香が思ったことをそのまま言うと、竹田は頷いた。
「そうそう。今まさにそんな感じだ」
「なるほどー」
「…………」
「…………」
双方、黙る。
自分たちの関係をはっきりと『特に親しいわけでもない微妙な関係の知り合い』と認め合ってしまったことで、お互い何を話せばいいのかますますわからなくなった。
「何を話せばいいのかますますわからなくなりましたね」
素直に言ってみる文香。
「……そうだな」
頷く竹田。
その竹田の手元に、この書店の紙袋があることに文香は気付いた。
「それ、本ですか?」
「ああ」
「小説ですか?」
「いや、さっき上で買ったやつだ」
二階は参考書や実用書のフロアになっている。
そういえば竹田は部室でも漫画やラノベではなく、いつも難しそうな分厚い本とかを読んでいた。
「せんぱいはよくここに来るんですか?」
「ああ、学校帰りによく寄る」
「おうちどこですか?」
「水帆《みずほ》町。水帆北中学」
高校からバスで二十分くらいかけて繁華街の中心にある駅に行き、そこから電車でさらに十分くらいで水帆駅に着く。
自転車だと軽く一時間以上かかるので、水帆出身の生徒は半分以上がバス&電車通学だという。
「たしか浅羽せんぱいと吉村くんもそうでしたよね」
「美咲はそうだが、吉村もなのか?」
「浅羽せんぱいと同じ中学って言ってましたけど」
「……そうだったのか。知らなかった」
微妙な顔で竹田は言う。
まあ、学年が違う生徒の顔なんて知らなくてもおかしくないと思う。
文香など、同じクラスの生徒の顔さえ覚えてなかったし。
「お前はどうなんだ?」
「あ、わたしは金花《きんか》中学です」
「金花か。近くていいな」
「はい」
金花中学は富津高校と同じ市内で、自転車で十五分くらいのところにある。文香の家もその近くで、自転車通学している。近いので、今年金花中から富津に進学した生徒は文香を含めて三十人くらいいる。
「ここにはよく来るのか?」
「いえ、今日が二回目です」
「あー、そういや金花とは逆方向だな」
納得顔の竹田だが、文香は首を振る。
「いえ、こっちの方には昔からたまに来てました。服とか買いに」
あまり発展しているとは言い難い富津高校周辺からさらに山の方へ行った金花は紛れもないド田舎で、大きな書店どころかデパートも若者向けの服屋もファミレスもCD屋も娯楽施設もなく、コンビニも夜九時に閉まる。
金花の中学生たちは、ショッピングやデートがしたいときはえっちらおっちら自転車をこいで、駅近くの繁華街まで行くのだ。
「ふうん」
竹田は特に興味がなさそうだった。
それきり会話が尽きる。
「それでは」
「おう」
踵《きびす》を返してラノベコーナーに向かう文香。
しかし竹田もついてきた。
「……?」
「いや、不思議そうな顔をされても困るが。つか物部、さっきから眠いのか?」
「今はそんなに眠くないです」
文香は眠そうな顔で答え、
「竹田せんぱいもライトノベルコーナーに用事があったりするんですか?」
「用事っつーか、本屋に来るときは一通り見て回るな」
「じゃあせんぱいも、漫画とかライトノベルを読むんですか?」
「あ? そりゃ読むさ」
何故そんな当たり前のことを訊《き》くのかわからないといった様子だった。
「でもわたし、せんぱいが部室でライトノベルや漫画を読んでるところを見たことがないんですけど」
「そういうのは家で読んでるからな。部室……っつーか、人前ではあんまり物語系は読まない」
「なんで人前では読まないんですか?」
「……大したことじゃないから気にするな」
「そう言われましても」
「大したことじゃないから気にするな」
「二回言われましても」
……気にはなるが、教えてくれなさそうだったので文香は追及するのをやめた。
そうこうしているうちにラノベの棚の前に着いた。
でたらめに並べられた部室の本棚とは違って、レーベルごとに作者名の五十音順で綺麗《きれい》に並んでいる。
最近出たばかりの本や人気シリーズなどは表紙が見えるように平らに並べられていて、ところどころに『店員のオススメ』などと書かれたポップが立っている。
竹田は新刊コーナーの前で立ち止まる。
文香はとりあえずざっとコーナー全体を見て回ることにした。
小説のコーナーに足を踏み入れること自体初めてだったので、なんとなく見ているだけで新鮮な気分。
漫画の棚の前を歩いているときと同じように、世の中にはこんなにたくさんのライトノベルがあるんだなあと驚く。
部室で見た憶《おぼ》えのある本もあったけど、ほとんどは知らない本ばかり。
初めてラノベ部の部室を訪れた日に借りて文香が初めて読んだシリーズのところに、店員が描いたらしいヒロインのイラスト付きのポップが立ててあったのがちょっと嬉《うれ》しかった。一通り見終わったところで、竹田のところに戻ってきた。
竹田は新刊コーナーで一冊の本を手に取り、カバー裏のあらすじを読んでいた。
文香に気付くと本をそっと丁寧に元の場所に戻し、
「なんか探している本があるのか?」
文香は首を振り、
「特にないです。いつも部室にある本を読んでばかりなので、たまには自分で買ってみようと思って」
「そうか」
「はい。……あ」
文香は新刊コーナーのすぐ近くに『今週の売り上げランキングベスト10』というコーナーがあることに気付いた。
数が多すぎてどれを買うか全然選べそうになかったので、このランキングの中から選ぼうかとコーナーを見てみる。
しかしそこに並んでいたのは全部人気シリーズの続編で、そのうちの二つは文香が部室で借りて読んでいるシリーズの最新刊だった。
他のシリーズもたしか部室にあった気がする。
「ここにあるシリーズなら全部部室にあるぞ」と竹田。
「そうみたいですね」
迷う。
気に入ったシリーズがあったら自分でも買うという美咲の方針を真似するのもアリだと思うのだが、せっかくだから読んだことのない本を買いたいとも思う。
でも、どれを選んだらいいのかよくわからない。
「せんぱいはいつもどうやって買う本を選んでるんですか?」
「俺《おれ》?」
「はい」
「うーん……」
竹田は暫《しばら》く気難しそうに眉根《まゆね》を寄せて、
「俺は…………いろいろ、かな」
「……いろいろ、ですか」
「表紙で選ぶこともあるし、作者で選ぶこともあるし、タイトルで選ぶこともあるし、あらすじで選ぶこともあるし、最初の方を立ち読みして面白そうだったら買うこともあるし、あとがきを読んで決めることもあるし、キャラクターの設定で選ぶこともあるし、ページ数で選ぶこともあるし、金銭的にピンチの時には値段を最優先にすることもある。アニメ化とか漫画化とかしているやつもまあチェックするし、あと、そこにあるような売り上げベストテンとか『店員のオススメ』みたいなやつも参考にするし、美咲や堂島が薦めてきたらそれも買う」
「……いろいろ、ですね」
「おう」
文香はこれまで、美咲や暦から薦められた本ばかり読んでいたので、そんなにたくさんの選び方があるとは思わなかった。
でも、
「それだけいろんな選び方をしていたら、面白くない本を買ってしまう可能性も高くなるのではないでしょうか」
「ん?」
「ええと、友達におすすめされた本とか、ランキングベストテンとかならわかるんですが、表紙とかタイトルとか設定だけだと、面白いかどうかよくわからない気がします」
「そりゃそうだ」
竹田はあっさり頷いた。
「でもまあ、人が熱心に薦めてきた本や人気の本が、自分にとっても面白いとは限らないしな」
「それは……そうですね」
そういえば、前に美咲にとても面白いと薦められて読んだ本が、文香にはちょっとよくわからなかったことがある。
だからといって美咲を責める気持ちは全然ないし、これからも色んな本を紹介してほしいと思うのだが。
「『面白さ』というのは基本的に主観だ。まあ、テーマが斬新《ざんしん》だったりキャラ立てや心理描写が上手くて感情移入がしやすかったり構成が上手かったり描写に臨場感があったり、作品自体の『面白いと思わせる力』ってのは確かにあるから、決して主観だけとは言えないけどな」
文香は首を傾げる。
「だったらやっぱり、おすすめされたものや売れているものばかりを読んだ方が、面白いものに当たる可能性は高くなるんじゃないですか? 一〇〇%面白いものに当たることは無理でも」
「そうだな」
竹田はまたもあっさり頷く。
「でもまあ、面白くない読書はあっても、意味のない読書はないからな」
「……? どういうことですか?」
「つまらなかった本でも、そこから思考を巡らせることで得られるものは数多くある。もしかしたら『あー面白かった』で満足して終わった本よりも多くのものを得られるかもしれない。要は『どんな風に読んだか』だ。俺はこれまで、つまらないと思ったことは正直腐るほどあるけど、『この本は読む価値がなかった』と思ったことは一度もない」
「ほー……」
感心したように頭く文香に、竹田はハッとした顔をする。
「言っとくけど、あくまで俺の場合だぞ。娯楽なんだから面白いに越したことはないと思うし。お前が面白いものを読みたいなら、構成が巧みで人物が魅力的で文章が読みやすくて設定も馴染みやすくて小説を読み慣れてない女子でもほぼ確実に満足でき、それでいてじっくり読めば深いテーマも持っているという鉄板の大傑作を教えてやろう。二十シリーズくらいな。つうか、教えたい」
慌てたように言う竹田。
なんとなく、「お前には、俺のようにつまらない読書の中にさえ意味を見出せる力などないから、大人しく人の薦めに従っておけ」と思われているような気がした。
文香は首を横に振った。
口の端を僅《わず》かに吊り上げた微妙な笑みを浮かべて、
「せんぱい、それはまた今度教えてください」
*
竹田との会話を切り上げて、文香は再びラノベコーナーを見て回る。
部室にある本もそうだったけど、やっぱり女の子の表紙が多いなあと思う。
昨日部室で借りたのは人がたくさん死んだりするかなり暗めの話だったから、今日は楽しそうな話が読みたいなあ……となんとなく思う。
明るい感じの絵で、女の子が笑ってたり、中心の女の子以外に可愛くデフォルメされたキャラが載ってたりすると、楽しそうかなと思う。
青とかピンク色の髪をした女の子が描いてあるのもあった。
実際に高校にいたらちょっと怖いと思うけど、イラストだとこのカラフルな色遣いは可愛くてポップな印象を受ける(顔も可愛い女の子だし)。
(えーと、タイトルは、SH@…………っと……よし、覚えました)
特に気になったものを記憶に留《とど》めつつ、ゆっくりと見ていく。
少女漫画っぽいタッチで男の子と女の子が抱き合ってるのもあった。
手にとってあらすじを読んでみると、やっぱり恋愛モノみたいだった。
恋愛モノもいいかなあと思う。
制服姿の女の子が槍《やり》みたいな、長くてものすごく複雑なデザインの武器(?)を持ってる本も気になった。武器を持っているので多分バトルものっぽいけど、絵がすごくキレイで目を引く。
日本刀もいいと思う。
制服が可愛いやつもいいなあと思う。
女の子の顔がアップになってるやつがあって、なんとなく全体のデサインからお洒落《しゃれ》な感じが漂っていてこれも気になる。あらすじを読んでみたら、コメディらしい。いいかも。
(ほんとに、いろんな本がありますね……)
目移りしてしまう。
この中で実際に読めるのは本当に一握りだけど、こんなふうにぶらぶらと見て回り、たまに手にとって、イラストやあらすじやタイトルやオビなどから話の内容を想像するだけでも楽しい。
部室の本棚と違って整然と並んでいるのも気持ちいいし。
これは実際に本屋さんに来なければわからなかった楽しさだ。
服を買うときはこんなふうにゆっくり見て回るけど、本屋さんでも同じような楽しさがあるとは知らなかった。
まだまだ見ていない棚はたくさんある。
タイトルが平仮名四文字のやつが結構あるなあと思う。
意味がわからないし内容も全然想像できないんだけど、なんか楽しそうな、やわらかそうな感じがする。
表紙も可愛い。これならきっと、人が死んだりぐちゃぐちゃになったりはしない、楽しい内容に違いない。
[#挿絵(img/1-141.jpg)]
(ええと、『ねくろま。』、『ねくろま。』、『ねくろま。』、覚えました)
表紙が見えるように並べてある本だけでなく、棚に刺さった本も、適当に手に取ったりしてみる。
見覚えがある作者名。作者の名前はあんまり覚えないのだが、全部カタカナだったのでなんとなく印象に残っていた。
裏表紙をめくったところに作品リストがあったので見ると、前に読んで面白かった本の作者が、文香の読んだ本の前に書いていたシリーズらしい。気になる。
MF文庫JやGA文庫は背表紙にもキャラクターの顔が描いてあって、棚から出さなくても絵の感じがわかって便利だなあと思う。でもやっぱり小さいので、少しでも気になったら取り出すのだが。
ラノベコーナーの棚は、漫画コーナーや雑誌コーナーよりもなんとなく地味な感じだなあとも思う。
そういえば漫画や雑誌だと、背表紙も結構カラフルだ。
背表紙のタイトルが、表紙のと同じような凝った書体で書かれて(描かれて?)いるものが多くて、棚に並んでいても見つけやすい。
なんで小説の背表紙はそうしないのだろう?
そんなことを思いながら、棚に刺さった本を出したり戻したりする。
(……ほんとに、迷います……)
べつに一冊だけしか買えないわけじゃないし、今日買わなかった本もまた今度買えばいいだけなのだが。
迷うことがまた、楽しい――……。
*
自在書房を出るときには夕方になっていた。
文香の鞄《かばん》の中には、自在書房のロゴが入ったカバーのつけられた文庫本が一冊入っている。
二時間以上かけて選んだ、見たことも聞いたこともない作者の、見たことも聞いたこともないタイトルの本。
この本が面白いか面白くないかは読んでみないことにはなんとも言えないけれど、初めて自分が自分の感覚だけで選び自分のお金で買ったこの本の名前は、きっといつまでも忘れないだろうなと思う。
「ふう」
隣で竹田が疲れたようなため息を吐いた。
竹田は文香が本を買うまでずっと、書店の中をぶらぶらしていたのだ。
「せんぱい、どうして待っててくれたんですか?」
文香が尋ねると、竹田は普段の少し不機嫌そうな顔で、
「なんとなくだ」
と答えた。そのあとまたも不機嫌そうに、
「……なんかよくわからんが、俺の言葉でその、怒った? というか、『意地でも自分で選んでやるモード』的な感じになったような気がしたし……。それで俺だけさっさと帰るのはなんかアレかなあと思って……。なんか楽しそうだったら早くしろと水を差すわけにもいかず……。あとまあ、単純にお前が何を選ぶのか少し気になった」
文香は少し驚く。
あまり表情が表に出る方じゃないという自覚はあったから、少しムッとしたのが察知されていたことが驚きだったし、文香に気を遣って二時間も付き合ってくれていたことにも驚いた。
正直、もっとオレサマ系の人だと思っていた。
……思ったよりいい人かもしれない。
「ありがとうございます、せんぱい」
「あ? なにが」
怪訝《けげん》な顔をする竹田に、「なんでもないです」と文香。
「……ところで、わたしが買った本って面白いんですか?」
「知らねえ」
竹田は素っ気なく答えた。
「せんぱいの主観でいいんですけど」
「いや、読んだことないし」
「あ、そうなんですか」
「面白かったら教えてくれ。俺も読む」
「わかりました」
「ん。じゃあな」
そう言って、竹田は駅の方へすたすたと歩いていってしまった。
……くすっ。
竹田の後ろ姿を見ながら自分でもよくわからないまま自然と笑みが漏れ、文香は珍しく微笑《ほほえ》みを浮かべたまま自転車に乗って家路についた。
[#改ページ]
[#小見出し] みんなの部活動[#「みんなの部活動」は太字]
「そういやこの部活って、なんかみんなで活動みたいなことはやらないんスか?」
吉村が言った。
部室にいるのは美咲と竹田と綾と堂島と暦と文香。
つまりラノベ部の部員七名が全員|揃《そろ》っている。
この部は基本的に自由参加のため、放課後にこうして部室に全員が集まることは珍しい。
「去年は文化祭のときに部誌を発行したわね。四人で」
美咲が言うと竹田が苦い顔を浮かべ、
「……各自が適当に書いた原稿をとりあえず一冊にまとめてみただけって感じの冊子だったけどな」
「美咲ちゃんが『オススメのラノベ百選』で、龍くんが『ライトノベルの歴史』についての小論文、ぼくが短編小説て、綾ちゃんが『オススメのBLゲーム&BLマンガ五百選』だったよね、たしか。四人で作ったにしてはかなり分厚かったよね」
生島が美少女然、としたにこやかな笑みを浮かべて言った。
「混沌《こんとん》としてるッスね……」
「……ああ。本気でカオスだった。しかも九割以上が桜野の原稿だったからな。なんかもう、なんの部活の部誌だかよくわからなかった」
冷や汗を流す吉村に竹田が頷《うなず》く。
すると綾は『バックで貫け、俺の武装錬金』と書かれた扇子をバッと広げて笑う。
「うふふ、あのときは申し訳ありませんでした。本当は美咲さんにならって小説の部らしく『BL小説百選』にしようと思っていたのですけれど、恥ずかしながら当時は小説の方はそれほど読んでおらず、仕方なく自分の得意ジャンルで書くことにしたのですわ」
「……あれはあれでインパクトはあったから、ある意味成功だったのかもしれんがな……」
「うん……どういうわけか半日で完売しちゃったしね……」
遠い目をして言う竹田と美咲。
「文化祭以外では何かやらなかったんスか?」
「うーん……特にこれといった活動はしてないわねえ。一応、誰かが小説を書いてきたらそれを読んで意見交換するみたいなこともたまにやるけど。あとはアレね……リレー小説をたまに思い出したよーにやってたわね」
「リレー小説ってなんですか?」
文香が尋ねる。
「決まったページ数だけ小説を書いて、他の人が続きを書いて、その続きをまた他の人が書くの」
「面白そうッスね」
「……まあ、気分転換にはなるな」
微妙な顔で竹田が言って、美咲も苦笑い。
「ま、大抵は完結せずにぐだぐだで終わっちゃうんだけどねー。……新入部員も入ったことだし、久々にやっちゃう?」
「わたくしは構いませんわ」
「ぼくもいいよー」
「……ふう……」
竹田はため息をついたが、別に反対ではないようだ。
「一年生のみんなもいい?」
「OKッス」と吉村。
暦も無表情でこくんと頷く。
「わたし、小説を書いたことなんてないんですけど」
「心配すんな、オレもねえ!」
文香が言うと、吉村が元気に笑った。
「士郎くんの言うとおりよ。どうせみんな素人だから気楽に書いてくれればいいわ」
「そうそう。めちゃくちゃな展開にしても次の人がなんとかしてくれるしね」
「……嫌がらせのようにわざとめちゃくちゃにするのはやめろよ」
堂島の言葉に竹田はイヤそうな顔をして言った。
「あはは、大丈夫だよ。次の人が龍くんじゃなければやらないから」
「俺でもやるなよ!」
「はい、それじゃルールを説明するわね」
美咲が言う。
「まず原稿は一ページにつき、四十文字×十七行のMF文庫Jフォーマット」
「どうしてMFなんですか?」
「え? なんとなく」
「……なるほど」
「一ページ書いたら次の人に交代。ちなみに『私はガクリと地面に膝《ひざ》をつ』みたいな感じで文章が途中でも、ページが変わったら交代ね」
「了解ッス」
「一人あたりの時間制限は……まあ、いつもは三十分だけど、今回は新入部員も参加だからとりあえず一人一時間をめどに。執筆に使うのは綾のノートパソコン。部活の時間が終わったら明日に持ち越し。全員が書いたらまた最初の人に戻る。……そういえばみんなパソコンは使えるわよね?」
吉村と暦が頷く。文香も、
「少しの文章を書くだけなら大丈夫だと思います」
「ん。えーと、ルールはこれくらいかしらね。そんじゃ順番を決めましょうか」
七人でじゃんけんをして、勝った人間から好きな順番を選んでいく。結果はこうなった。
1番、浅羽美咲《あさばみき》
2番、桜野綾《さくらのあや》
3番、藤倉《ふじくら》暦
4番、吉村|士郎《しろう》
5番、物部《もののべ》文香
6番、堂島潤《どうじまじゅん》
7番、竹田龍之介《たけだりゅうのすけ》
「…………俺がアンカーか……しかも堂島の次か……」
竹田は心底嫌そうに呟《つぶや》いた。
[#改ページ]
[#小見出し] リレー小説『伝説のアルチメットセイバー伝説』[#「リレー小説『伝説のアルチメットセイバー伝説』」は太字]
[#ここからゴシック体]
【美咲パート】
「ご機嫌よう、ミサコさん」
私(ミサコ)が朝学校に登校してくるとサチエお姉様に声をかけられた。
お姉様はマリア様のような美人でとても綺麗《きれい》である。
お姉様は学校のみんなの憧《あこが》れの的で、生徒会長であり成績優秀でスポーツ万能のとてもすごい人だ。
私はお姉様のことをとても尊敬している。
だから声をかけられただけで顔が真っ赤になって、カチカチに緊張してしまった。
「な、なんでしょうかお姉様」
「ちょっと放課後、屋上で待っていてくださるかしら」
お姉様に呼び出されるなんて信じられない。
これは夢じゃないかしらと思って自分の顔をつねってみたけど夢じゃなかった。
私になんの用だろう。まさか告白? きゃっ、いやあん。
きーんこーんかーんこーん。
授業が終わって放課後になった。
私は猛ダッシュで屋上に向かった。
屋上にはお姉様が待っていた。
私が声をかけるとお姉様は振り返って私に言った。
[#ここでゴシック体終わり]
「あらあら。今回は女子校モノなのですね」
美咲の原稿を読んで綾が言った。
「一応、イメージ的には「マリみて」っぽい爽やかな感じを目指してみたわ。別に女子校って決めてるわけじゃないから、そのへんは綾の自由にしてよ」
「ええ。…………自由に、させていただきますわウフフ……」
[#ここからゴシック体]
【綾パート】
「わたくし、あなたに隠していたことがあるの。実はわたくし……いや、俺は、男だったんだ。しかも本当はイギリス貴族だったんだ。本当の名前はレオン・ローゼンバッハ・フォン・エドワード」
そう言ってお姉様は長い黒髪を上に持ち上げた。なんとお姉様はヅラだったのだ。
その下から夕日に輝く金色の髪が現れた。
「隠していてすまない。だが、お前にだけは嘘《うそ》をつきたくなかったんだ」
お姉様……いや、レオンは私を真《ま》っ直《す》ぐにみつめた。その美しいブルーの瞳《ひとみ》から、涙がこぼれ落ちる。彼にこんな切ない表情をさせているという事実に胸が痛んだ。
「すまない」と彼は深々と頭を下げた。
「お姉様……いえ、レオン。私もあなたに隠していたことがあるのです」
「え?」
「私は……いや、僕も、本当は男だったんだ! 僕の真の名前はクロヴィス・ローゼンベルグ・フォン・エドワード……そう、僕もまたエドワード家の人間なんだ」
「なんてことだ! 君が行方不明になっていた俺の弟だったなんて!」
「兄さん!」
僕とレオン兄さんは運命の再会を喜び、抱き合った。そして熟い口づけをかわした。
「ン……ンぁ………」「ふぁ……に、にィさァん……」ねっとりと舌を縮ませあい激しく求
[#ここでゴシック体終わり]
ごん。
暦は机に顔をぶつけた。
2ページ目にして早くも話が崩壊していることに、本気で意識が飛びかけた。
「あら、どうなさいましたの暦さん。どうぞあなたの好きなように妄想の赴《おもむ》くままその続きをお書きになってくださいませ」
綾がおっとりと微笑《ほほえ》む。
「え、ちょっ、な、なんでミサコとお姉様が男になってんの!? しかも外人!」
たまらず抗議する美咲。
「…………これの、続きを……私、が……?」
声表情のままパソコンの画面を見つめ、絞り出すように暦は言った。
そして弱々しくキーボードを叩き始める――……。
[#ここからゴシック体]
【暦パート】
め――――――どかーん。
急にすごい爆発が起きた。
爆発の威力は凄《すさ》まじく、鉄筋コンクリートの校舎を跡形もなく消し飛ばすほどだった。
レオンとクロヴィスも、校舎の中にいた何百人もの生徒と同じように木《こ》っ端《ぱ》微塵《みじん》になってこの世から消えてしまった――……。
そして、王国は滅亡した。
国の未来の指導者たる名門貴族の令息令嬢達が数多く通う私立ドリアン学院を一瞬で消滅させたのは、軍事超大国である隣国ゴッドバルド帝国の秘密兵器、超高性能のステルスミサイルであった。
それとほぼ同時刻、国内のあちこちの軍事施設や庁舎、病院や学校、警察署や消防署などがピンポイントで爆撃にあった。
このあまりにも突然の大規模破壊によって国王や大臣など要人の大半が死に絶え、警察や消防もなく、国の機能は完全に崩壊。
各地で暴動が起き、王国は阿鼻叫喚《あびきょうかん》の地獄と化した。
そこへ攻め込んできた帝国軍の軍勢に人々はなすすべもなく蹂躙《じゅうりん》された。
[#ここでゴシック体終わり]
暦が書き始めてから書き終わるまで、わずか三分程度だった。
ものすごい執筆速度である。
しかも途中からキータッチの音が何だか荒々しかった。
「……あの、もしかして暦さん、怒っていらっしゃいます?」
綾が恐る恐る尋ねると、
「……べつに、怒ってない」
無表情で淡々と暦は答えた。
「内容はともかく暦ちゃん、タイピングめちゃ早いわね。ブラインドタッチだったし。もしかして家でも小説とか書いてたりするの?」
美咲が尋ねると暦の顔が赤くなった。
「……書いてない」
席を立ち、部室の隅《すみ》っこで本を読み始める暦。
「おっし、やるぜー!」
暦と交代でパソコンの前に座った吉村が、勢い込んで続きの執筆を開始した。
[#ここからゴシック体]
【吉村パート】
しかし王国にはたった一つだけ希望が残されていた!
それが王国科学技術局が極秘裏に開発した究極の武器、アルティメットセイバーだ!
中世ヨーロッパで主流だった剣みたいな形をしているがハイテク技術の結晶であり、異相空間上に存在する万能粒子≪マクスウェル≫を自在にコントロールすることで、まるで魔法のような現象を引き起こしたり亜光速《あこうそく》戦闘が可能になるのだ!
「おお、これが伝説のアルティメットセイバーだな!」
かつて科学技術局があった場所の地下深くの非常用地下シェルターにアルティメットセイバーが封印されているという噂《うわさ》を聞いた俺《おれ》は、どうにか帝国軍の包囲網《ほういもう》をかいくぐり、ついに剣のもとにやってきた!
「たしかにすげえ力を感じるぜ!」
俺は剣を手にとってみた!
ギューン!
剣が輝き、俺は眩《まばゆ》い光に包まれた!
「すげえ力を感じるぜ! これさえあれば帝国軍の手からこの王国を救うことだって夢じゃない!」
剣を手にして俺は帝国軍の基地に乗り込んだ。バシュッ! ズバッ! 「ぎゃあやられた」敵をばったばったとなぎ倒す! おっと、そういえば自己紹介がまだだったな。俺は
[#ここでゴシック体終わり]
「え。俺は……誰なんですか?」
文香が困惑して尋ねる。
「おう。主人公の正体は」
「おっと、他の人が展開について口出しするのはNGよ」
吉村が説明しようとすると、美咲がそれを止めた。
「自分のパートが終わったら次の展開は次の人に完全にお任せなのよ。たとえ甘酸っぱい女子校青春ストーリーのつもりで書き始めた話をいきなりよくわからんBLモノにされても涙を呑《の》んで諦《あきら》めるしかないのよウグググググ……!」
「そうなんですか……」
眠たそうな顔で文香は続きを書き始める。
[#ここからゴシック体]
【文香パート】
ゴッドバルト帝国の第三王子、ふみまろです。
俺を捨てた父親……皇帝だいすけにふくしゅうするためにがんばっています。
的《(ママ)》の吉《(ママ)》に乗り込んで、俺は敵をすごいたくさんやっつけました。
アルチメットセイバーはとてもすごいいりょくだなあと思いました。
そうしたら帝国軍のえらい人が出てきました。
なんとそのえらい人はお姫様のゆきかちゃんで、私の妹でした。
「おねえちゃん、もうこんなことはやめてよ」
と言って、ゆきかちゃんは泣いてしまいました。
ゆきかちゃんが泣くのはかわいそうだなあと思ったので、私はアルチメットセイバーを捨てました。
そうして私はゆきかちゃんといっしょに帝国に帰りました。
お父さんともよく話し合って仲直りしました。
そうして私は家族みんなで幸せに暮らした。
めでたしめでたし。おしまい。
[#ここでゴシック体終わり]
「あれ!? 終わっちゃったよ!?」
続きを書くべくパソコンに向かった堂島が素《す》っ頓狂《とんきょう》な声を上げた。
「やばい……どこからツッコんでいいのかわからん……」
竹田も冷や汗を浮かべた。
「文香ちゃん。リレー小説で順番が最後まで行かないまま終わらせちゃ駄目でしょ」
「あ!」
美咲に言われて文香はハッとした。
「す、すいません……」
「……とりあえず、今回はこれで終わりだな。一応完決しただけマシということにしておこう」
竹田がどことなくホッとしたような顔で言った。
「残念……せっかく龍くんに無茶《むちゃ》振りをしてやろうと思ったのに」
少しむくれた顔で堂島が言って、それから文香に向き直り、
「ま、次の機会もあるからいっか。……ところで文香ちゃん。ゴッドバルド帝国の第三王子の名前がどうしてふみまろなの?」
「自分の名前を男の子っぽくしてみました」
「なるほど。ふみかだからふみまろ…………なんでまろ!?」
「王子さまなので貴族っぽい方がいいかなって」
「あー、麻呂《まろ》って日本の貴族っぽいね確かに。微妙にスジが通ってるような気がするのが超ヤな感じ。……んじゃだいすけっていうのは?」
「わたしのお父さんの名前です」
「貴族っぽさはどうなった。……ゆきかは?」
「雪華《ゆきか》ちゃんはわたしの妹です」
「物部さん、妹がいらっしゃるの!?」「文香ちゃん、姉妹《スール》がいるの!?」
何故か綾と美咲が嬉《うれ》しそうな声を上げた。
堂島は二人を軽くスルー。
「アルティメットセイバーがアルチメットセイバーに変わってるのはなんで?」
「小さい『イ』の出し方がわからなかったんです。TにIだと出ないんですね」
と、そのとき後ろで「……かはっ!」と喘《あえ》ぐような笑い声が聞こえた。
後ろの方から画面を覗《のぞ》き込《こ》んでいた暦が、顔を真っ赤にして心臓の発作でも起きたかのように胸元を押さえてひくひくと身体を痙攣《けいれん》させている。
[#挿絵(img/1-161.jpg)]
「ど、どうしたんですか藤倉さん」
「…………っ…………ッ! …………っ! ……ぁっ」
心配する文香だったが、暦は泣いているような笑っているような苦しんでいるような表情で微《かす》かな喘《あえ》ぎを漏らすばかり。
しばらくしてようやく落ち着き、深呼吸する暦。
「すー、はー、すー、はー……ぁはぁ……」
「ほんとにどうしたんですか藤倉さん」
「…………ツボにき…………ぁはっ……!」
小さく言って後ろを向き、また身体をひくつかせる。
「……うーん……何が面白いのかよくわかりませんが、藤倉さんが笑ってくれてよかったです」
釈然としない様子で文香は言った。
(……小説を書くのって難しいですね……)
……こうして、本年度第一回ラノベ部リレー小説は終了した。
[#改ページ]
[#小見出し] コイバナ[#「コイバナ」は太字]
「ふう……」
美咲が読んでいた本をぱたんと閉じてため息をつき、
「……なんかさー、好きな人が出来ちゃったのよね」
少し頬を紅くして、そんなことを言った。
部室にいるのは美咲の他に、綾と文香と暦。女子部員四人が揃《そろ》っている。
三人が美咲の方に視線を向ける。
「なんのゲームのキャラですの?」
綾が何の疑問もなくそう尋ねると、美咲はぱたぱたと手を振った。
「いやゲームじゃなくて」
「では漫画?」
「漫画でもなく」
「あぁ、浅羽さんは小説メインでしたわね」
「だからなんて二次元ばっかなのよ。三次元よ三次元」
呆れ顔で美咲が言うと後は驚いた顔をする。
「三次元……え、ついにフィギュア[#「フィギュア」はゴシック体]に手を出しましたの? 立体モノはのめり込むとあっという間にお金を吸われますからご注意を」
「ちゃうわ! 普通に現実に生きている男の子よ!」
「はぁ?」
綾が「君が何を言っているのかわからないよ」という顔をした。
「……いや『はぁ?』て。なんでそんな不思議そうな顔するのよ」
「浅羽さん、現実の男の子なんかに未練がございましたの?」
「未練って……。別にあたし、あんたと違って二次元至上主義じゃないし」
「失敬な。わたくしだって三次元に興味くらいありますわ」
「フィギュアでしょ?」
「ええ」
胸を張って答える綾に美咲はため息をつく。
と、そこで文香と目が合った。
文香は美咲をきょとんとした顔で見ていた。
「ん? どしたの文香ちゃん」
「あ、その……」
文香は少し言いづらそうに、
「……浅羽せんぱいって女の子が好きじゃなかったんですか?」
…………。
……。
「なんでやねん」
平坦な関西弁でツッコも美咲。
「だってせんぱい、ええと……ゆり? ですか? がーるずらぶ? そういう小説や漫画が好きみたいなので……。桜野せんぱいみたいにぼーいずらぶも読まないですし。初めて会ったときも「脳内お姉様」がどうとか言ってましたし」
文香の言葉に美咲はこめかみを押さえる。
「……待ってくれたまえユー。いやまあたしかにあたしは百合モノ大好きだけど。愛してるけど。百合好きの女がズーレーとは限らないんだ、ぜ! あと確かにあたしの脳内お姉様は祥子《さちこ》お姉様だけど。『マリみて』超愛してるけど! 『マリみて』に限らずあたしは割とソフトなやつ……恋か友情かって言ったらどちらかと言えば友情寄りで、見方によっては『あれ、これって恋じゃね?』とか『(冗談《じょうだん》半分に)もう結婚しちやいなよユー』的なふうにも見えなくはないくらいのレベルのやつが好きで、正直ガチな同性愛モノはそんなに好きじゃないというかちょっと苦手というか! わかる!?」
「え……わかりません」
「わかってよ!」
「はあ」
文香は首を傾《かし》げながら、
「つまりせんぱいは別に女の子が好きというわけではないんですか?」
「……少なくとも現実の女の子を恋愛対象として見たことはないわね」
美咲は神妙な顔で言って、文香から暦へと視線を向ける。
「もしかして暦ちゃんもあたしのことリアル百合《ゆり》少女だと思ってた?」
「…………」
暦は無言で顔を背けた。
「お前もかー!」
「……だって」
「ん?」
「……たまに物部文香の方を見てニヤニヤ……」
「う……それは……!」
口ごもる美咲。
正確には文香を見ていたのではなく仲良しな文香と暦二人の姿を見てたびたび脳内で百合妄想を繰り広げていたのだが、言えるわけがなかった。
「……それは?」
「…………それは……それはともかく![#「それはともかく!」はゴシック体]」
強引に誤魔化《ごまか》した。
「あたしは現実ではノーマルだから。ユーコピー?」
「こぴ?」
文香が首を傾げる。
「うお、通じなかった。『了解しましたか?』みたいな意味よ。ちなみに了解のときはアイコピーと答えるがよろし。ユーコピー?」
「わかりました」
「アイコピーだっつってるだろーが」
美咲は頬《ほお》をふくらませ、それから深々と嘆息した。
「……ふう……どうも文香ちゃんや暦ちゃんとの問に距離を感じると思ってたけど、まさかそんなふうに思われてたなんてね……。ユー達はちょっと現実とフィクションをごっちゃにしすぎです」
「……アイコピー」
「使い方ちがう。……ほんとにもう……せっかく女しかいないからたまにはジョシコーセーらしくコイバナでもしようかと思ったら、思わぬ事実が発覚してびびったわ……」
美咲が冷や汗を拭《ぬぐ》う。
「じゃあせんぱい、好きな人ができたっていうのは」
「え? まあ、それはホントだけど」
「大事件じゃないですか」
「別にそこまで大ごとじゃないと思うけど」
「そんなことないですよ」
「そんなことないことないわよ。別に初恋とかいうわけでもないし」
「そんなことないことないことありません。女の子にとって恋はいつだって何より大事なことです……ってこないだ読んだ本に書いてありました」
「まあよくある台詞《せりふ》だと思うけど……んじゃ聞く? 聞いちゃいます? あたしのラブなトークを」
「聞かせてください。とてもきょうみがあります」
眠そうな顔で文香が頷《うなず》いた。
「…………」
暦は少し頬《ほお》を赤らめて微妙に視線を彷徨《さまよ》わせる。興味はあるらしい。
「わたくし、生物《せいぶつ》に興味がないので……」
綾は『三次元の人間に興味ありません byハルヒ』と書かれた扇子で口元を隠し、本気でどうでもよさげに欠伸《あくび》をした。
「あんたはほんとに割り切ってるわね……」
美咲は綾に呆《あき》れたような感心したような顔をしつつ、
「……まあいいわ。んじゃ文香ちゃん暦ちゃん、語るわよ」
「はい」
「……ん」
文香と暦が注目すると、美咲は少し顔を赤くした。
「……あー、やば……なんか急に恥ずかしくなってきた。やっぱやめよっかな……」
そう言いつつも話し始める。
「……まず相手。名前は野島浩太《のじまこうた》くん。同じクラスで、席は近い」
当然といえば当然だが、文香の知らない生徒だった。
「どういう人なんですか?」
「うーん……顔は普通かな……。背は結構高め。足も長め、かな? 性格はあんまり喋《しゃべ》ったことないからわかんないけど、友達は多いみたい。目がちょっと悪いみたいだけど眼鏡《めがね》やコンタクトはしてないみたいで、授業中たまに変な顔になって黒板をじーっと見てる。部活はサッカー部みたい。昼休みはいつも中庭でサッカーボールをツーバウンド以上させたら負けみたいなルールのゲーム? あれやってる」
「ふむふむ……」
「うん、以上」
終わってしまった。
「え、以上って……」
「他に話すことないわねえ……そんな特徴があるわけでもないし」
「その人を好きになったのはどうしてですか?」
「えー………………なんとなく?」
首を傾げながら美咲は言う。
「なんとなく……ですか」
「うん」
頷く美咲に、暦が淡々と言う。
「……廊下でぶつかってしまった、とか」
「ベタベタね。ないわよ」
「………雨の日に捨てられた子猫を抱いているところを見た」
「これまた超ベタねえ。一昔前の少女漫画の不良じゃあるまいし……」
「……タイが曲がっていたのを直してもらった」
「マリみてから離れなさい」
「……怪物に襲われているところを命がけで助けてもらった」
「マリみてから離れればいいってもんじゃねー!」
「……むしろ先輩が怪物に襲われている野島浩太を命がけで助けた」
「あーはいはい、うるさいうるさいうるさい」
「……前世からの運命で……」
「今どき前世もないでしょうに」
「……先輩が家でシャワーを浴びているところに野島浩太が」
「なんであたしんちのお風呂に野島くんが入ってくるのよ」
「……先輩の母親と野島活太の父親が再婚して同居」
「勝手にうちの両親を離婚させないでよ!」
「……逆に野島浩太が家でシャワーを浴びているところに先輩が」
「それ一〇〇パーあたしストーカーですよね!?」
「……先輩が道を歩いていると突然空」
「から野島くんが降ってきてたまるか!」
「……野島浩太のパソコンの中から先輩が」
「あたしは電脳空間で生まれた知性体だったのね。自分の正体にびっくりだわ。……ていうか、ほんとにそういう特殊なのはないから」
そう言って、美咲は頬を染める。
「なーんかさあ、いつの間にか目に入ってくるようになってて、知らないうちにじわーって染みてきてるのよ。ラブが。マイハートに。わかる?」
「……雑巾《ぞうきん》に牛乳が染みこむような」
「なにそのイヤすぎる例え!」
「……一度染みこむと無視できず、なかなか臭《にお》いが落ちてくれないあたりが……」
「にーてーまーせーんー。恋と牛乳雑巾が似ててたまるかい」
暦の言葉を美咲は断固として否定した。
「……まーさっき言った通り『野島くんって授業中たまに変な顔になるなー』って気付いたのが、たまに野島くんの方に目がいくようになったきっかけだと思うから、それが恋のきっかけと言えばきっかけになるのかなあ」
「授業中たまに変な顔になるのが?」と文香。
「うん。授業中たまに変な顔になるのが。ちなみにこんな顔ね」
美咲は変な顔をしてみせた。
目を細め眉毛《まゆげ》を吊《つ》り上げ、唇をちょっと歪《ゆが》めてアヒルみたいに突き出している。
「たしかに変な顔ですね」
「ほんとは眉毛は片方しか上がらないんだけどね。目は両方とも同じように細めてるのに眉毛だけ左右非対称なのよ」
「へえ……」
文香は眉毛の片方だけ動かしてみようと思ったけどできなかった。
「……できませんね……」
「でしょう? どうやってんのかしらあれ」
くすくすと笑う美咲。
「くき――――っ! これだから現実は! ロマンの欠片もありませんわ!」
興味ないと言いつつ一応話を聞いていたらしい綾が突然叫んだ。
「授業中たまに変な顔をしているだけでフラグが立つなら誰もギャルゲーで苦労しませんわ! 『授業中に変な顔をする』なんて選択肢、わたくしは見たことがありませんもの! そんなものに惹《ひ》かれるキャラなど現実にいません!」
「あたしの存在全否定かい」
「桜野せんぱい、眉毛を片方だけ動かせるのはとてもすごいことだと思います」
文香が真顔で言って、暦もこくんと頷いた。
「……たしかに」無表情のまま片方の眉毛だけを動かそうとしながら、「……恋に落ちる理由として申し分ない天性の才能……」
「……いや、その、ユーたち。一応言っとくけど別にあたし、眉毛を片方だけ動かした変な顔に惚《ほ》れたわけじゃねえかんね? それはあくまできっかけですよ?」
妙な感じで納得してしまった一年生二人に、美咲は冷や汗を浮かべた。
*
次の日の五限目の休み時間、文香がトイレに行って教室に入ろうとしたとき吉村に出くわした。
移動教室らしく、教科書などを持っている。
「おっす物部」
「おっすです」
吉村は相変わらず全身から元気よさげな雰囲気を漂わせていた。
「相変わらず元気そうですね」
文香が思ったことをそのまま言った。
「物部は相変わらず眠そうだな」
「はい。前の時間は特に眠かったです……」
というか、寝た。
「吉村くんは眠くないんですか? 朝練とかあるみたいですし」
「んー。今んとこ平気だけど、朝早いから夜は早めに寝てるかな。だから本もあんまし読めてねえんだ」
「サッカー部は忙しそうですね」
吉村が掛け持ちしているサッカー部は毎日朝練があり、放課後も週に二日しか空いておらず、土曜日と日曜日にも練習がある。
「まーなー。楽しいからいいんだけどなー。日曜に練習試合もあるし」
「出るんですか?」
「あたりめー」
こともなげに言うけど、一年生の一学期で既に試合に出られるというのはかなりすごいような気がする。
さすが熱心に勧誘されていただけのことはある。
「って、そうだ試合だ物部」
吉村がハッとした顔をする。
「?」
「そ、その……アレだ。浅羽先輩に、今週の日曜にサッカー部の試合があってオレも出るって伝えといてくんね? 前に先輩に試合があるときは教えろって言われたから、やっぱり教えないといけないだろ一応、うん、一応」
顔を赤くして視線を彷徨《さまよ》わせながら言う吉村に、文香は頷《うなず》く。
「いいですよ」
「た、頼むぜ!?」
「はあ」
なんでそんな必死っぽいのかよくわからなかったけど、文香は頷いた。
と、美咲とサツカー部で思い出した。
「そういえばサッカー部に野島という人がいませんか?」
野島浩太――美咲が好きになったという男の子。吉村が頷く。
「二年の野島先輩か?」
「多分そうです」
「先輩がどうかしたのか?」
「いえべつに……」
美咲が彼を好きなことはもちろん女の子だけの秘密だ。
「……ちょっとだけ名前を聞きまして。どういう人なんですか?」
吉村は少し怪訝《けげん》な顔をしつつ答える。
「どんな人って……あんま話したことねえけど。レギュラーでポジションは左バック」
「……左バック」
文香はサッカーのルールを知らないのでよくわからなかった。
「左バックってなんですか?」
「バックって、あれだよ守備だよ。後ろの方で守る役目だよ」
「なるほど」
よくわからなかったけど特に興味もなかった。
「その人は上手いんですか?」
「ん? あー……あー……まあ、ふつーに」
言葉を濁す吉村の様子から、そんなに上手くはないとなんとなく察しがついた。
「あ、そういや――」
吉村が何かを言おうとしたとき、チャイムが鳴った。
「うおやべ、オレ次化学室なんだよ! んじゃあ物部、試合のこと先輩に頼んだぞ!」
そう言って、ものすごいスピードで吉村は廊下を走っていった。
次の授業の先生はまだ来ていなかったので、文香はのんびりと席に戻る。
と、
「ねーねー、ふみ姫《ひめ》って吉村くんと仲いいの?」
前の席の前園《まえぞの》さんが話しかけてきた。
ふみ姫というのはいつの間にか呼ばれるようになっていた文香のあだ名だ。
「へ?」
文香は『仲が良い』の定義について三十秒ほど考えて、
「べつに普通ですよ」
と答えた。
「ふーん?」
前園さんは文香に観察するような視線を向けた。
「?」
「……や、実はね……」
きょとんとする文香に前園さんが顔を近づけ、小声で言う。
「友達に吉村くんのことが気になってるってコがいてさあ。そいで気になったわけ。廊下で仲良さげだったから」
「ほおー」
眠そうな目を少しだけ大きく開けて驚く文香。
「吉村くんはあんまりモテない人だと思ってました」
「あは、はっきり言うなあ」
前園さんが笑う。
「でもサッカー上手《うま》いらしいからね吉村くん。ちょっとかわいいし。付き合いたいっていうより見守っててあげたいみたいな感じのコはけっこーいると思うよ。ちょこまかした感じがなくなってもっと背が伸びたら、多分かなりイケるんじゃないかと思う」
……ちょこまかした感じがなくなって背が伸びた吉村というのがいまいち想像できなかった。
「ちょこまかした感じがなくなって背が伸びた吉村くんというのが想像できません……」
「あはは、そりゃそうかも。あたしも言ってみただけだし」
神妙な顔で言う文香に、前園さんは笑った。
*
日曜日。文香は昼すぎまで寝ていた。
遅めの昼食をぼーっと食べながら、そういえば今日はサッカー部の練習試合の日だということを思い出した。
吉村に言われた通り美咲に試合のことは伝えたのだが、時間と場所は知らない。
まあ、美咲なら自分で調べて行くだろう。
もちろん、野島の活躍を観に。
そういえばラノベ部の部室にはサッカーの漫画も置いてあった。
知り合いがやってるスポーツだし、ルールくらい覚えておくのもいいかもしれない。
「雪華《ゆきか》ちゃん」
一緒にご飯を食べていた妹に声をかける。
物部《もののべ》雪華[#「物部雪華」はゴシック体]、中三。
顔や体型は文香にとても似ていて、よく双子と間違われる。
「なあにおねえちゃん」
「サッカーのルールって知ってますか?」
「一応基本的なことなら知ってるよ。ゆきの蝿《はえ》みたいな脳味噌《のうみそ》では基本的なことしか頭に入らなかったっていうのが正解だけど。キックやフォーメーションの種類とかその特性や最新の戦術理論くらいは説明できるけど、現在の日本以外のアジアサッカー界の有力選手の詳細なプロフィールとかは愚かにもせいぜい五十人程度しか言えないの。無知蒙昧《むちもうまい》なる妹でごめんねおねえちゃん」
「基本的なことだけでいいですよ。教えて雪華ちゃん」
すると雪華は驚きを露《あら》わにした。
文香と違って表情がころころ変わるのだ。
「ええっ! ゆきがおねえちゃんに恐れ多くも何かを教えるの!? そ、そのようなことが許されていいの?」
「だめ?」
「違うよ、全然違うよ。駄目なわけがないよ。じゃあおねえちゃんに比べたら塵芥《ちりあくた》にも等い非才の身なれど僭越《せんえつ》ながらこのゆきめがサッカーのルールについて教えたげる。ううん、謹んで教えさせていただきます。でも本当はおねえちゃんに比べたらサッカーのルールなんてうんこなんだけど。むしろおねえちゃんがルールだけど。ルールっていうかもう宇宙の摂理だけど。おねえちゃんならボールを自陣のゴールにスラムダンクしても30点くらい入ってコールドゲームだよ。おねえちゃんからボールを奪ったら即レッドカード」
「ありがとう雪華ちゃん」
「ゆきごとき愚昧《ぐまい》の輩《やから》に畏《かしこ》くもお礼を仰《おっしゃ》るなんて身に余る光栄だよおねえちゃん。神の愛に包まれているような心持ちだよ。あ、でも待っておねえちゃん、先に洗い物とか済ませちゃうね」
「手伝いましょうか?」
「いいよいいよ。ゆきごとき鈍物《どんぶつ》がおねえちゃんの手を煩《わずら》わせるなんて神罰《しんばつ》がくだるよ。おねえちゃんはくつろぎながらたまに視界の隅《すみ》にちらつくゆきを蝿を見るのと変わらない目で見てくれればいいの。それが天上人《てんじょうびと》の在り方というものなの」
そう言って雪華は食べ終わった食器を流しへと運び始める。
そのあと、文香は妹にサッカーのルールを教わった。
サッカーについてはもうかんぺきだ。
*
翌日の放課後、軽小説都の部室。
部屋の中には文香と美咲がいる。
「せんぱい、昨日はサッカー都の試合を見に行ったんですか?」
「ん? 行ったよ。勝ってた」
勝ったことは今日クラスメートが話しているのを聞いたから知っている。
6対5。
フォワードの吉村がなんか凄《すご》い活躍で、服部《はっとり》がなんとかとか。
しかし吉村のことよりも気になるのは、
「野島せんぱいという人はどうだったんですか?」
「うーん……」
美咲は苦笑いを浮かべた。
試合内容は、点数から察しがつく通り、点取り合戦だった。
フツ校と相手校、どちらのチームもフォワードが輝いていて、ディフェンスはそれにまったくついていけてなかったという。
野島も多分さっぱり活躍できなかったのだろう。
「げんめつしましたか?」
「幻滅? なんで?」
心底不思議そうに美咲。
「べつにサッカーが上手《うま》いから好きになったわけじゃないからねー。かっこいいから好きになったわけでもないし」
「だからかっこわるいところを見ても気にならないんですか」
「うーん、かっこいいに越したことはないし全然気にならないわけじゃないけど……まあ、そゆことね」
美咲は笑った。
……これ、野島本人に聞かせたら喜ぶんじゃないかなあと文香は思う。
「試合のあと、野島せんぱいと喋《しゃべ》ったりはしたんですか?」
すると美咲は苦笑。
「いやあ 勝ったけどバックスの人たちは反省会ムードだったからねー。あんまし気軽に話しかけられる雰囲気じゃなかったから帰ってきちゃった」
「吉村くんには声をかけてあげなかったんですか?」
「士郎くん? なんで?」
「いえ、なんとなく……」
吉村は多分美咲のことが好きなんだろうなーと、文香は昨日やっと気付いたのだが、美咲は全然気付いていないらしい。
「せんぱいは告白とかしないんですか?」
美咲の顔が赤くなった。
「いやー……まあ、それはもうちょっと仲良くなってからね。するつもり……」
はにかむような照れ笑いを浮かべて言う。
「せっかくクラス一緒なんだし、焦ることもないかなーって……うへへ」
口をもにゅもにゅさせる美咲の顔は、とても可愛《かわい》かった。
「うまくいくといいですね」
「おう。応援しててよね」
「はい」
「えへへ……」
野島という人は幸せだなあと文香は思った。
*
さらに二日後の放課後。
文香と暦が部室に行く途中、吉村と出くわした。
「おっす物部藤倉。これから部室か?」
「はい。吉村くんはサッカー部ですか」
吉村は通学|鞄《かばん》の他に、大きめのスポーツバッグも持っていた。
「おう。そいやサンキューな物部」
「え?」
いきなりお礼を言われたので文香は戸惑った。
「こないだの練習試合のこと、浅羽先輩に伝えてくれたんだろ? 先輩、試合見に来てくれたぜ」
「そうみたいですね」
吉村、ちらちらと窺《うかが》うように、
「……先輩、試合のこと何か言ってたか?」
「いえ、特には」
正直に答える。
「そっか」
心なしか落胆したような顔をした。
「……でもま、来てくれただけで十分だな、うん。勝ったし」
「大活躍だったみたいですね。まるではっとりくんだったとクラスの子が言ってました」
「はっとり? 誰だそれ」
「さあ? 昔のえーるすとらいくの人じゃないんですか?」
「……ハットトリック」
暦がぼそりと言った。
「……あと、エースストライカー。エールストライクはガンダ……なんでもない」
「あ、そうです、ハットトリックです。サッカー用語は難しいですね」
「……そうか?」
吉村がジト目で文香を見た。
「でもま、ハットトリック決めれたのは先輩が応援に来てくれたおかげだぜ」
「……浅羽先輩はべつにあなたの応援に行っもごっ」
暦の口を文香は慌てて塞《ふさ》いだ。
「とにかく、活躍できてよかったですね」
誤魔化《ごまか》すように言うと、吉村はニカッと笑った。
「おう! |野島先輩の転校前の最後の試合《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》だったしな! 勝ててよかったぜ!」
*
部室に入ると、美咲がコーラの缶を片手にやさぐれていた。
「……ったくさー、伏線くらい張っとけってのよー」
文香と暦の姿を見て、美咲は泣いているような笑っているような顔をして深々とため息をついた。
「……野島せんぱいという人、転校するそうですね。さっき吉村くんから聞きました」
「うーっす、そのとーりっす」
そう言って美咲はまたため息をつく。
……野島浩太は今週末、父親の仕事の都合で転校する。
明日は引っ越しの準備のため学校には来ないので、今日が最後。
新学期が始まってまだそれほど経《た》っていないこんな時期に転校というのも珍しいが、現実にそうなのだから仕方ない。
二週間くらい前からサッカー部員や親しい友人たちは知っていたらしいが、本人の希望でクラス全員の前での発表は今日まで控えていたとか。
「……っとに、間が悪いにもほどがあるわねあたし」
うなだれる美咲。
「……今からでも告白したりはしないんですか?」
「……あのねぇ」
美咲は少し怒った顔で文香を睨《にら》んだ。
しかしその表情はすぐに沈んだ。
「……あたし、野島くんの家知らないし。つーか今夜友達とお別れ会するって言ってたから、家に行ってもいないだろうし……」
顔をうつむけて前髪をいじりながら、
「……それにまあ、告っても一〇〇パー駄目だろうしね。マゾじゃないんだからわざわざ玉砕しに行くとかありえんし、万一OKされても遠恋《えんれん》だし……」
[#挿絵(img/1-187.jpg)]
ずーんと沈んでいく美咲の声。
文香と暦は何も言えず押し黙る。
と、美咲は突然顔を上げて、ニカっと笑った。
「つーわけで、今回のラブコメ話は終了! これをゲームのシナリオにして綾にやらせたらきっとクソゲーだって怒るわね。あたしもラノベてこんな話あったら怒るし。転校するならするで伏線くらい張っておけっての。失恋で終わるにしても切なさを際立たせるためにもっと親しくなるイベントとか配置しとけっての。うは、主役二人ほぼ他人じゃん!」
笑顔。
その日に涙はないけど、無理矢理《むりやり》作った笑顔だということはよくわかった。
「……ま、こんなもんでしょ。好意に気付いてさえもらえずに終わっちゃう恋なんてよくある話よくある話。きっかけもまあ、『授業中に変な顔してる』って超くだらないアレだったしね。なんとなーく好きになってただけだし」
「せんぱい……」
文香は思う。
くだらないきっかけでなんとなく始まった恋だって、真剣じゃないわけじゃない。
よくある話だ、というのはその通りなんだろう。
実る恋と実らない恋、きっと後者の方がずっと多いと思う。
でも、世界中のどこにでもあるようなありふれた話だったって、よくある話だったって、本人にとっては切実な問題なのだ。
ありふれていることやくだらないことが、悲しくない理由にはならない。
ありふれていてくだらない重大な問題に、いつもみんな悩んでいる。
「……本当に、これでおしまいなんですか?」
「うんおしまい。ま、どうせしばらくしたら次のラブが始まるでしょ。あたしけっこー惚《ほ》れっぽいしさ」
サバサバした調子で言って美咲は笑った。
次があることは、今が悲しくない理由になんてならないのに。
現実の物語はいつだって唐突に始まって、唐突に終わる。
小説やゲームみたいにわかりやすい伏線もなく、ドラマチックなイベントもなく、ともすれば物語が始まったことさえ気付かないうちにいつの間にか終わっている。
そういえば文香は、野島浩太の顔さえ一度も見ていない。
それはひどく切ないことのように思えた。
多分自分は、物語の登場人物ですらなかったのだと思う。
だからもう、文香に言えることは何もなかった。
と、そのとき。
不意に部室の扉が開き、竹田が入ってきた。
室内の重たい空気に気付いたか、入ってくるなり微妙な顔をする。
そんな竹田に美咲は笑顔で言う。
「へいマスター。今のあたしにピッタリなカクテルをプリーズ」
「誰がマスターだ。未成年に飲ませる酒はねえ」
いつも通りの不機嫌そうな顔で竹田が答えた。
「いいじゃねーかよー酒屋の息子ー。酔いたい気分なんだよー」
「コーラでも飲んでろ。……んで、何があった?」
「失恋しました」
「ふうん」
特に同情するでもなく深刻な様子もなく、普段通りに竹田が言った。
そして普段通りに机に鞄を置き、適当な椅子《いす》に腰掛ける。
「龍ちゃん」
美咲が唐突に立ち上がった。
「なんだよ」
「今からジショボ(自在書房)行くわよ。新しい本買いに。なんかおすすめを教えなさいラノベソムリエ」
「誰がラノベソムリエだ」
不機嫌な顔で言いながらも竹田は椅子から立ち上がり、
「……んで、落ち込んだ気分をさらにどん底に突き落とすような超陰惨な内容で逆に『今生きてるだけで幸せなのかも』と思えるかもしれないやつか、失恋から立ち直る筋書きの最初は暗いけど最後は前向きで感動的なやつか、読んだ後なにも残らないひたすらバカで笑えるドタバタラブコメ、どれがいいんだ?」
「んー、まかせる」
「んじゃドタバタラブコメな」
「意外ね。『こういう時にこそ現実から目を背けずに、痛いけどためになる本を読むへきだ!』とか言い出すかと思ったのに」
「少なくともお前にはそんなもんいらんだろ。すぐ立ち直るしな」
「わかんないよ? あたし今超傷心中だから、ファンタジー妄想にドップリ浸《つ》かって綾みたいになっちゃうかも」
「そのときは殴ってでも更生させるから安心しろ」
「厳しいねえ龍ちゃんは。ハゲるよ?」
「ハゲない」
「……そんじゃあたし、今日は帰るわ。文香ちゃん、暦ちゃん、また明日!」
美咲と竹田は連れ立って部室を出て行く。
「……ほんとにハゲないからな?」
「ハゲるってー」
「ハゲねえ!」
「ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアが命じる! ハゲろ!」
「いやじゃぼけー!」
軽口を叩《たた》きながら歩いていく二人の間には、他の人間には決して入り込めない、とても深い絆《きずな》があるような気がして――――ちくっ、と、胸が痛んだ。
「……っ?」
「……どうしたの?」
よくわからない感覚に微《かす》かに目を細めた文香に、暦が尋ねた。
文香は首を振る。
「なんでもないです。ところで藤倉さん、わたしも今、ひたすら笑えるようなラブコメを読みたいんですが、何かおすすめありますか?」
「……ん」
暦は立ち上がり、部室の本棚の前でしばらく考えたあと、一冊の小説を選んで文香に渡した。
*
その日の夜。
学校から帰った文香は、暦に選んでもらった本を読んだ。
それはたしかにとても笑える小説で、主人公とヒロインをはじめとするキャラクターもみんな面白くて、畳みかけるような展開で全然退屈しなくて、ちょっぴりエッチなシーンもあってドキドキして、そして最後はみんなが幸せに笑っている、文香の注文通りの最高に素敵なラブコメだったのに、何故《なぜ》か読み終わったあと、みしみしと胸が軋《きし》むような感じがした。
竹田せんぱいの家って酒屋だったんだ……と、小説とは全然何の関係もないことを唐突に思った。
[#改ページ]
[#小見出し] にゃ[#「にゃ」は太字]
「ねえ龍ちゃん、語尾《ごび》に『にゃ』を付ける女の子についてどう思う?」
「病んでるなと思う」
いつものように美咲が何気ない調子で言って、いつものように竹田かどうてもよさげな調子で答えた。
部室には美咲と竹田、文香と暦がいる。
「そんな言い方ってひどいと思うにゃ」
美咲がちょっと拗《す》ねたような口調で言うと竹田は心底げんなりした顔で、
「……そういうのは小説の中だけにしてくれ」
「小説ならいいんだ? てっきり『変な語尾で安易なキャラ立てするんじゃねえ!』とか言い出すかと持ったのに」
「……別に俺、そこまで狭量じゃないんだが」
不満げに竹田。
「それに小説だと、語尾っつーか特殊な喋《しゃべ》り方《かた》にもメリットがあるしな。そういう技術だと思えばそんなに気にならない」
「メリット?」
「誰が喋ってるかわかりやすい」
「あー、なるほど」
美咲が得心して頷く。
「どういうことですか?」
よくわからなかったので文香は尋ねた。
すると暦が言う。
「……小説での会話のシーン――特に一対一の会話ではなく複数の人間がその場にいるときは、『……と誰々が言った』と地の文で説明しなければ誰の発言かわかりにくいことがある。けれどそれぞれの喋り方に特徴があれば、説明が不要で文章のテンポがよくなる」
「具体的にはどんな感じかしら暦ちゃん」
美咲が言うと、
「……『狼《おおかみ》が来たにゃー』『急いで逃げないと食べられてしまうワン』『きゃあ、怖いウサ』『大丈夫、もしものときは僕が守るワン』『頼もしいにゃー』…………こんな感じ」
「おおー」
無表情で淡々と具体例を示してくれた暦に、文香が感心した声を上げる。
「……わかった?」
「あ、そういえば特殊な語尾の例だったんですね今の。藤倉さんが『にゃー』とか『わん』って言うのがとっても似合っていたので、語尾のメリットについての話ということを忘れちゃってました」
暦は顔を真っ赤にした。
「照れなくてもいいにゃ。暦ちゃん可愛かったワン」
美咲がからかうと暦は俯《うつむ》いてしまった。
「現実で『にゃ』も悪くないじゃない? 龍ちゃんも似合ってたと思うでしょにゃ?」
「……まあ、美咲よりはな」
苦い顔で竹田が認めた。
「……ともあれ、小説……特にリーダビリティを重視するライトノベルに関しては、変な語尾というのも悪くないという話だ。まあ、おかしな語尾に限らず、細かい口調の違いで人物の識別をしやすくするというのは一般的な手法だろう」
「というと?」と文香。
「例えば一人称。実際の発音には違いがなくても、書くときに人物によって『わたし』『私』『わたくし』『あたし』などと使い分けるのはライトノベルに限らずよく見かける。漢字か平仮名かの違いだけで、受ける印象も意外と違ってくるしな」
「ふーん……」
美咲は少し考え、
「……んじゃ、もしもラノベ部でのみんなの会話を文章に起こすとしたら、あたしが平仮名で『あたし』、綾が平仮名で『わたくし』、文香ちゃんが平仮名で『わたし』、暦ちゃんが漢字で『私』――。龍ちゃんが漢字で『俺』、潤くんが平仮名で『ぼく』、士郎くんが片仮名で『オレ』って感じになるかしらねー」
「……この部活でのどうでもいい会話を文章化する機会がこの先あるとも思えんが、まあ同意だな」
竹田が頷いた。
「わたしが平仮名で、藤倉さんが漢字なんですか?」
「平仮名の方がなんとなく柔らかそうな感じがするからな」
「わたしのしゃべり方ってやわらかそうな感じがするんですか……」
自分ではよくわからないので、文香は首を傾げた。
「私……わたし……私、わたし……うーん……やわらかいっていうか、『漢字が書けない子』みたいなイメージなんですけど……」
「……それはイメージではなく、事実」
暦がボソリと言った。
「そんなことないですよ。わたしはちゃんと難しい漢字だって書けます。むしろ漢字キャラです。ほら、憂鬱《ゆううつ》、薔薇《ばら》、蟲《むし》、鋼殻《こうかく》、刀鍛冶《かたなかじ》、処方箋《しょほうせん》、遊戯《ゆうぎ》」
手近にあった紙にすらすらと漢字を書いてみせる文香。
「確かにそれ全部書ける奴はそういないだろうが……俺も多分書けん……でもどっかで見た覚えのある漢字ばっかりだな。具体的にはこの部室の本棚で見たことがある」
「……ちなみに『鋼殻』は、造語」
竹田と暦がジト目で冷静にツッコんだ。
「ま、文香ちゃんは平仮名キャラ確定ってことで。いいじゃない可愛《かわ》くて。文章化されるときはさっきの台詞も『わたちむづかしいかんぢだってかけるもん。ゆううちゅ、ばら、むち、こうかく、かたなかぢ、しょうほうせん、ゆうぎ』って直されるわよ」
「むー……しゃくぜんとしません」
美咲の言葉に、文香は少し唇を尖《とが》らせた。
文香的には、もっと知的なキャラクターとして売り出していきたいのだが。
眼鏡とか似合うような。
「ちなみにあたしも結構難しい漢字は得意よ。例えば刹那《せつな》とか阿修羅《あしゅら》とか殲滅《せんめつ》とか鳳凰《ほうおう》とか麒麟《きりん》とか書けるし。龍ちゃん書ける?」
「…………刹那と阿修羅なら。……書けても実生活で使う機会あるのかそれは」
「あるかないかといえばないわね。でもまあ、学校の勉強だって実際の生活ではほとんど役に立たないからね。難しいものを覚えるための努力それ自体が、真に人生の役に立つものなのよ」
「……それなりに同意できる意見だとは思うが、授業中にラノベ読んでる奴が言える台詞か? たまには宿題くらい自分でやれ」
竹田の苦言を美咲はスルーして、
「ところで語尾《ごび》の話に戻るけど、おかしな語尾だってそのキャラに対する読者のイメージを助ける役に立つわよね」
「……総じて頭の弱い子というイメージがつくけどな。場合によっては作品全体の雰囲気をぶち壊すこともあるだろうし」
「まあ、確かにものすごくゴツいビジュアルの悪の大魔王とかの語尾が『にょ』とかだったら一気に緊張感がなくなるけど。……くくく、よくぞここまで辿《たど》り着いたにょ。ほめてやるにょ。しかしもう遅いにょ。この私が世界を破滅させるにょ」
「……語尾が『にょ』の奴に破滅させられる世界ってイヤすぎる……」
「くっくっく、実は私はお前の父にょ」
「何の躊躇《ためら》いもなく父親殺しに手を染められそうだ」
ジト目で竹田が言った。
「うーん、やっぱり語尾はそのキャラの造形ありきで決められるべきよね。あと、種族とか。猫とかネコミミキャラだったら語尾は『にゃ』みたいな。複数の種族が出てくるファンタジー小説とかだったら、みんな語尾に自分の種族がわかるような語尾をつけたら便利じゃない?」
「まあ安易ではあるが、種族によってある程度使用している言語が違ったり訛《なま》りがあったりという設定は、むしろ現実味があると言えるような気もする」
「なら猫は『にゃ』、犬は『ワン』、羊は『メー』、牛は『モー』、豚は『ブー』そんな感じかしらね」
「……鳴き声が定着している動物はそれでいいとして、それ以外の動物系はどうするんだ。トカゲとか魚とか」
「種族名をそのまま……ってのは? 『クマ』とか『ウサ』って語尾ならたまに見かけるわよ。『僕はクマだクマ! よろしくクマ』『よろしくサケ』『いただきますクマ』」
「鮭が食われた!」
「『俺《おれ》様はリザードマンのジョニーだトカゲ。よろしくトカゲ』『ひゃあー、食べないでイワシ』……リザードマンって何食べるの?」
「知らん。イワシは食べるんじゃないか。……エルフとかドラゴンもそれでいくのか?」
「『もちろんエルフ!』『その通りエルフ!』」
「エルフの持つ神秘的なイメージが一気に崩壊だな」
「ドラゴンは『よろしくトラゴン!』『俺様の力を見せてやるドラゴン!』ドラゴンはドラでいいかも。『僕のファイアーブレスでジャイアンを焼き尽くしてやるドラ』」
「おい、なんか猫型ロボットのパチモンくさくなったぞ!?」
「ちなみに連載初期のドラえもんは語尾に『なのら』って付けてたことがあるんだって。知ってた?」
「どうでもいい」
また話がずれたので竹田は軌道修正する。
「種族で語尾を決めるなら、人間はどうする?」
「人間かー。じゃ、メンで」
「メン!?」
「おはようメーン。覚悟はいいかメーン。お前の力を貸してくれメーン。いいともメーン。仲良くしようぜメーン」
「なんでそんなラッパーみたいな喋《しゃべ》り方《かた》なんだ」
「それに登場人物の大半が人間だって作品だと、語尾かぶりまくりで誰が誰だかさっぱりわからなくなるしね」
美咲は苦笑し、
「なら、役職はどう? フハハ、勇者よよくぞ来たまおー。わしが魔王だまおー」
「なんか必死で『自分は魔王なんだ』と主張しているようで痛々しいな。つーか、語尾でしかキャラ立て出来ないのかその魔王は。魔王のくせに」
「ロープレだと、ラスボスは最後の最後にしか出番がないパターンがあるからねー。語尾によるわかりやすいキャラ立てに頼ってしまっても誰が我を責められようかラスボス。世界など滅ぼしてやるのだラスボス」
「世界を滅ぼそうというラスボスがキャラ立てに必死になる理由がまずわからん。滅ぼしたら誰もいなくなるのに」
「目立ちたいだけで、本当に世界を滅ぼすつもりはないのよきっと」
「しょぼいラスボスだな……」
と、そこで文香、
「いっそのこと、自分の名前を語尾にするのはどうでしょう」
「おおなるほど」美咲がぽんと手を打つ。「それなら絶対にどれが誰の発言だかわからなくなることはないわね浅羽美咲」
「でも自分の名前をれんこするのってせんきょみたいですね物部文香」
「……テンポが悪いし、まるで自問自答しているような気分になってくるな竹田龍之介」
「そうそう浅羽美咲。なんか会話がつながっている気がしないのよね浅羽美咲」
「そうですね物部文香」
「ところでこの会話いつまで銃ければいいの浅羽美咲」
「やめますか物部文香」
「それがいいな美咲竹田龍之介。つーか今の、『物部文香をやめますか?』みたいな意味に聞こえたぞ竹田龍之介。うお、俺は自分が一体誰に話しかけているのかよくわからなくなってきた竹田龍之介」
「なんかこれ、話し相手がいないすごい寂しい人みたいよね浅羽美咲。はい、おしまい」
「……馬鹿みたいだった。……藤倉暦[#「……藤倉暦」は小さな文字]」
暦が今の会話を端的に評した。
すると美咲がハッとした顔をする。
「『馬鹿みたいだった。――藤倉暦』」
「……?」
「いや……、――こんな感じで『偉人の言葉』っぽく言ってみるのはどうだろうかなって。――浅羽美咲」
「――ダッシュを付けると名言っぽくなる、か。――ナポレオン・ボナパルト」
「――おお、龍ちゃんそれっぽい。まるでナポレオンが重大な局面でふと漏らした歴史的な一言みたい。――太宰治《だざいおさむ》」
竹田の捏造《ねつぞう》台詞《せりふ》に、美咲が笑って捏造を返した。
「――太宰と芥川《あくたがわ》が親しげに会話しているように聞こえる。――シェークスピア」
淡々と暦が乗った。
文香もやってみる。
「――偉人の名前を勝手に使ってしまっていいんでしょうか。――ええと……レッド・ツェッペリン」
「――レッド・ツェッペリンは人名じゃないぞ。確かに偉大な存在ではあるが。――エルヴィス・プレスリー」
「――でも偉人が本当にこんな台詞を言ったことがあるかもしれないし。だからいいじゃない適当に捏造したって。――テレビ朝●」
「――待て美咲、その発言は本気でマズい。――トーマス・エジソン」
「――世の中言ったもん勝ちよ。――毎●新聞」
「――お前はマスコミに敵意でもあるのか?――アイザック・ニュートン」
「――だってあいつら嘘ばっかじゃない。――テレビ東●」
「――お前はほんとに言いたい放題だな。――福田康夫《ふくだやすお》」
「――福田康夫って誰でしたっけ?――小泉《こいずみ》首相」
「――物部。少しはニュースくらい見ろ。――蘇我馬子《そがのうまこ》」
「――すいません馬子さん。これからはニュースも見ます。――物部守屋《もののべのもりや》」
「――この会話、発言者の名前が事実だったらめちゃくちゃすごいわよね。まあ、全部適当にでっち上げてるだけなんだけどね(笑)――産●新聞」
「――だから危険な発言はやめろというに。――大久保利通《おおくぼとしみち》」
「――問題になるのが怖くてマスコミなんてやってらんないぜ。――東●ポ」
「――もう大概にしろ。――桂小五郎《かつらこごろう》」
「――でも真実は自分で作るものさ。――江戸川《えどがわ》コナン」
「――コナンがそんなこと言うかよ――毛利小五郎《もうりこごろう》」
「――あはは。――せぱたくろう」
「――……セパタクローは人名じゃない。――寺元進《てらもとすすむ》」
「――そうなんですか? てっきり芸能人の名前だと……。――吉幾三《よしいくぞう》」
「――暦ちゃん、寺元って誰?――ゴルベーザ」
「――……日本のセパタクロー代表選手。――ヴェイン・ソリドール」
「――好きなの? セパタクロー。――ガーランド」
「――……セパタクローには無限の可能性があると思うから。――セフィロス」
「――ふうん。今度見てみよっかな、セパタクロー。――エクスデス」
「――……ぜひともそうするべきだと思う。――ケフカ」
「――もうなにがなんだか……。――東郷平八郎《とうごうへいはちろう》」
「――疲れますねこの会話。いつまで続けるんですか? ――大塩平八郎《おおしおへいはちろう》」
「――やめようか。――浅羽美咲」
「――ああ。――竹田龍之介」
「――やめましょう。――物部文香」
「――…………(無言で頷く)。――藤倉暦」
「「なんか言えよ!」」
美咲と竹田が同時にツッコんだ。
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[#小見出し] 勉強会[#「勉強会」は太字]
放課後。
文香はいつものように暦と一緒に部室に向かう。
廊下で吉村と会って今日はサッカー部の練習がない日だったので、一年生三人は揃ってラノベ部の部室へ入った。
部室の中には美咲と綾と堂島がいた。
「おーっす、一年生の諸君。お揃《そろ》いねー」
「うっす浅羽先輩!」
手をひらひら振ってきた美咲に、吉村が体育会系の挨拶《あいさつ》を返し、文香と暦はぺこりと軽く会釈をした。
美咲はそれから再び顔を机の上に向ける。
いつものように本を読んでいるのではなく、手にはシャーペンを持ちノートと教科書を広げている。
見れば綾と堂島も同じようにしていて、机の上には二年生の教科書や資料集などが置かれていた。
「なにをしているんですか?」
文香が尋ねると堂島が顔を上げ、美少女めいた顔に苦笑を浮かべる。
「見ての通りみんなでお勉強会だよ。二年生は週明けに実力テストがあるから」
「ていうかさー、なんでうちの学校、実力テストで追試とかあるの? 他の学校のコに聞いたら追試あるのは定期試験だけで、実テは追試なんかないって言ってたわよ。追試がなかったらべんきょーなんか絶対しないわ」
美咲が不満そうに言う。
「なに高校?」と堂島。
「んー、雀谷《すずめだに》と永佳《えいか》」
その二つは県内の公立高校の中で三番目と四番目に偏差値が高く、ここ富津《とみづ》高校は県で五番目となっている。
だが、県一位〜四位の高校の偏差値がほぼ横並びなのに対して、フツ校は少し水をあけられており、進学率も多少低い。
「どうにかしてもっと偏差値を伸ばしたいんだろうね、ウチの高校も」
「まったくもう。学校同士の偏差値争いなんてどうでもいいってのよ。うちの高校はそのぶん部活に力を入れてるわけだしー、部活動で頑張ればいいじゃない。……っつっても、ラノベ部は特に何もやってないけど……」
愚痴りながらも、美咲は教科書に何やら書き込みをする。
……ちらっと文香が覗いてみたら、偉人の顔にヒゲを描き加えていた。
「あーあ、今日に限って龍くんはいないしねえ……。ここで役に立たなかったら何のための眼鏡なんだよー」
勝手なことを言う堂島。
「龍ちゃんはお店の手伝いだって『実テストの勉強はしないの?』ってあたしが聞いたらね、あんにゃろー『実力テストは現在の実力を計るためのものだから、直前になって付け焼き刃の勉強なんてしても仕方ないだろう?』って当然のようにのたまいやがったわ。そりゃ追試がなかったらあたしだって本来の実力で勝負するわよ! そして堂々と赤点をとってみせるわ」
「竹田せんぱいはやっぱり頭いいんですか?」
文香が尋ねた。
「……とても腹立たしいことに、籠くんは今まで全ての教科で八十点未満の点をとったことがないらしいよ。順位は大体いっつも五番目から十番目くらい」
「ラノベとかによく出てくるようなオール満点の天才とかじゃない中途半端さがまた……いかにも『秀才』って感じでヤな感じなのよねー。ちくしょー、学生のくせに家で勉強なんてしやがってー」
「前にぼくが悔し紛れに『勉強なんかできても社会の役には立たないよ』って言ったらさー、あの眼鏡野郎に『そうだな。で、勉強すらできないお前は何か社会の役に立つのか?』ってKOOL《クール》に返されたよファック!」
「……それはむしろ潤くんがダサすぎると思うんだけど……」
「ぼくは存在してるだけで世界の宝だからいいんだよ。ほら、宝石って自分では何もしなくても価値が下がることはないでしょう?」
「そうね。潤くんは宝石宝石」
堂島の戯言《たわごと》を美咲はさらりとスルーした。
「さて……しょーがねー、ヒゲ描くのも飽きたし勉強するべかー……」
「せんぱい達は勉強ができないんですか?」
「ストレートに聞いてくるねえキミ」
堂島が楽しげに笑う。
「もちろん全部が苦手ってわけじゃないよ。ぼくは英語がちょっと危ないだけで他は大体平均くらいだし」
「あたしはあんまり得意な科目ってないんだけど、特に歴史が全然駄目。なんかもう全然頭に入ってこないのよね。年号と事実の丸暗記だけでほんっとにくそつまんない。先生も二年連続でハズレだったし。せめて教科書が小説だったらなー」
「歴史の小説読めばいいんじゃない?」
「たまに読んでるわよ。無双から入ったんだけど、三国志はホントに面白かったわね。でも教科書には呂布《りょふ》とか陳宮《ちんきゅう》とか王異《おうい》のことは一行も載ってこなくて、テストに出るのは九品《きゅうひん》官人法だけってどういうことよ。あれ作ったおっさんなんて三国志では出たかどうかも覚えてないような超チョイ役なのに。郭嘉《かくか》を出せ郭嘉を。あと、こないだ北条|時宗《ときむね》の小説も読んであの時代はめっちゃ詳しくなったんだけど、教科書には『二月騒動』とか出てこないのよ時宗と兄|時輔《ときすけ》が争うドラマチックな展開だったのに! 元寇《げんこう》のことが出てきても配点三点くらいで弘安《こうあん》の役か文永《ぶんえい》の役、どっちかの名前を選ぶか書くかっていう超しょぼい問題だけで元《げん》の九州上陸作戦やそれを迎え撃つ日本側の戦略が具体的にどういうものだったかとかは全然聞かれないの。ほんとなにあれ。あんなつまんない教科を勉強するなんて耐えられないんだけど!」
堂島が苦笑する。
「まあ、歴史なんて本気で細かくやったら、一年かかっても飛鳥時代すら終わらないと思うよ。割り切るしかないんじゃないかな」
「それはまあわかってるんだけどねー。前に龍ちゃんにも同じこと言われたし」
「げぇー! 龍くんと同じつまんない意見を言っちゃうなんて一生の不覚! 普通だと思われないように、ここは電波キャラで攻めてみるよ。ぼくちんー、実は幕末で人斬り抜刀斎《ばっとうさい》と戦ったことあるんだよー。きゃはっ☆」
「……潤くん、実は今かなりテンパってるわね?」
「あ、わかる? ……英語の教師とか死なないかな……。授業はじめの挨拶《あいさつ》がなんであいつらだけへローなの? 他の授業と同じようにお願いしますでいいじゃん!」
「もはやテストの話と全然関係ないわね……」
今度は美咲が苦笑した。
「桜野せんぱいも苦手な教科があるんですか?」
文香は綾に尋ねる。
美咲と堂島が雑談に興じている最中も、綾だけは真面目な顔で数学の問題集を見つめていた。
「あら、わたくしですか?」と綾が顔を上げる。
「わたくしは教学と化学の成績が毎回あまりよろしくないですわ」
すると暦が口を開いた。
「…………私も数学と化学、嫌い。すごく」
しかし綾は首を振った。
「違いますわ。嫌いというわけではありませんの。むしろ大好き……いえ、愛していると言っても過言ではありませんわ」
「愛、ですか」
意味がわからず文香が首をかしげる。
「そんなに好きなのに成績よくないんですか?」
「ええ……数学のテスト用紙なんてまるで天国という名の甘美な拷問のようですわ。どうして皆さんがあれを見て平然としていられるのかがわかりません。あんな……あのような『|×《かける》』がたくさん書いてある魅惑的な文書……!」
「かける!?」
「あー、腐女子の世界ではね、カップリングを掛け算で表すのよ。『キラ×アスラン』みたいな感じで」
美咲がフォローを入れてくれた。よくわからなかったけど。
「あんなにあちこちで交わられたら、どれに注目していいのかわからず、意識を正常に保つことなど不可能ですわ!」
「……かっぷりんぐ、ですか……。……|×《かける》……具体的には7x×9y=なんとかとか、その……数字[#「数字」はゴシック体]、ですよね?」
やっぱりよくわからない文香。
「ええ。特に同じ数字が何度も出てきたときなどもう、『あら、今回は※[#5の4乗根]の総受けですか?』みたいに興奮してしまい、とても冷静に計算などできませんわ」
「綾はxとyはどちらが受けかとか、3と7はどっちが受けかとか、そういうことを考えてるだけで一日過ごせちゃう人だから……」
凄《すご》いのか凄くないのかよくわからない話だ。
「化学はどうなんですか?」
「化学なんて数学よりももっと直接的じゃありませんか! あれほど淫《みだ》らな科目は他にありませんわ! あんな堂々と……結合したり、別れたり……!」
「は……?」
怪訝《けげん》な顔の文香に、綾は神の教えを優しく説いて聞かせるシスターのような口調で、
「たとえばCO2です」
「? 二酸化炭素が何か?」
綾は何故か赤面し、持っていた『クエン酸の構造式のエロさは異常』と書かれた扇子を開いて顔を隠す。
「これは炭素くんが双子の酸素くん兄弟を二股《ふたまた》かけています」
「…………はい?」
意味がわからなかった。
「次。たとえばO3です」
「はあ。オゾンですね」
「これは三つ子の酸素兄弟が三人でまぐわっています。即《すなわ》ち――3P。ああ……なんとう淫乱三兄弟……」
「ええ!?」
「ほんとに化学はもう、授業中でもテスト中でも常に鼻血が出そうで大変ですわ……。二酸化炭素やオゾンなんてまだ大人しいほうで……化合物によっては五十人くらい同時に交わっているものまでありますからね……もうわたくし、何がなんだかわからなくなってしまいますわ。分子式だけでありえないのに、構造式まで出てこられるともうほんとにホントにもうっ、刺激が強すぎて強すぎて! ああっ先生、ベンゼンくんの中にメチルくんが入り込んで大変なことになってますわ!」
「……文香ちゃん、大変なのは綾の頭だから真面目《まじめ》に考えない方がいいわよ」
「……そうみたいですね」
「ええとベンゼンとメチル……あ、トルエン[#「トルエン」はゴシック体]ッスね。って、それほんとにヤバい組み合わせじゃないッスか」
冷静に吉村が指摘した。
「ああっ、さらにトルエンくんの中にいつの間にかニトロ基くんが入り込みもっと大変なことにっ!」
「ニトロトルエンになっちゃったんスか!」
「おっと、二人の愛はさらに燃え上がりジニトロトルエンにっ! ああ、それでもなお情熱の炎はいっそう二人を熱く燃やし続けるのです!」
「駄目ッス! そのままいくと|T N T[#「T N T」はゴシック体]《トリニトロトルエン》ができちゃうッスよ!」
「ああ、駄目っ爆発しますわっ、ああ――ら、らめぇ――……ハァ……ハァ…………※[#ハート白、unicode2661]」
恍惚《こうこつ》とした顔で、綾は脱力したように椅子に背中を預けてぐったりした。
「……文香ちゃん、暦ちゃん、意味わかった?」
「……さっぱり……」
「……桜野先輩は意味がわからないということが、わかった」
「正解よ暦ちゃん。綾とは一年くらいの付き合いだけど、上手《うま》く付き合うコツは『理解しようと思わないこと』だから」
美咲は深々と嘆息した。
堂島も苦笑して、
「みんなそれぞれ苦手科目が違うから教え合おうってことだったんだけど、綾ちゃんはぼくらより成績悪いけど知識だけはすごいからね。教えようがないんだ。ほんと、ここである程度マニアックな話題にもついていける龍くんがいると便利なんだけどなー」
「それに最初からできるタイプの入って大抵、他の人がどうしてわからないのかがまったくわからない場合が多いから教えるのが下手なんだけど、龍ちゃんは地道に勉強していい成績を取るタイプだから勉強のコツを知ってるのよね。教え方も上手いし」
「へえ……わたしも教えてほしいです」
「ん? 文香ちゃんも何か苦手な科目があるの!?」
文香は少し回答を躊躇《ためら》う。
「……国語が苦手です」
「古文? 漢文?」
「……現代文です」
「そうなの?」
「お恥ずかしながら」
文香は頷き、
「せんぱい達は国語は得意なんですか?」
「そうねえ。国語だけは勉強しなくても毎回八十点以上は取れるかな」
「ぼくも大体そんな感じ」
「……私も」と暦が言った。
「やっぱり、小説をたくさん読んでいるからですか?」
「んー、実感ないけど多分そうかもね」と美咲。
「でも、ライトノベルと教科書に出てくるような小説って、全然違うじゃないですか。ライトノベルを読んでいて、国語が得意になったりするものなんですか?」
すると美咲、
「たしかに全然違うけど、小説を読み慣れてれば、問題文を読むスピード自体が上がるしね。そのぶん考える時間も増えるから。『〜を示す根拠を文中から抜き出せ』みたいな問題が出たときも手早く読み返せるしね」
「国語のテストの問題文なんてせいぜい二千文字くらいだと思うけど、中にはそれを読むだけで十五分とか二十分かかっちゃう人もいるらしいもんね。ぼくらだと長くても五分かからないのに」
「そういえば前にみんなで脳トレの文章を読むスピードをはかるやつをやったときは、全員最高ランクだったのよね」
「はー……」
文香は感心する。
「あとは漢字や語彙《ごい》力も自然と上がってるわね。まあ、漢字を書くのは読むだけじゃ厳しいかもしれないけど」
「……漢字、苦手です」
文香は微妙に顔をしかめた。
「……やっぱりたくさん本を読まないと駄目なんでしょうか」
「や、テストで良い点を取りたいんなら、それに特化した効率のいい勉強をした方がいいんじゃない? でもテスト勉強をやらずに国語が得意になりたい場合は、やっぱり量かな。……あたし達はそれで自然に国語が得意になった方だし」
「……なるほど」
文香は神妙に頷いた。
*
それから、美咲たち二年生はテスト勉強を再開した。
文香と暦と吉村は、勉強会の邪魔にならないように各自静かに本を読み始める。
たまにさっきのように騒がしいことになりながら、まったりとした勉強会は続く。
文香は思う。
自分でもすっかり忘れていたのだが、文香が小説の部活に入ろうと思ったそもそもの理由は、国語が苦手で成績を上げたかったからだ。
だが、いつの間にかできるようになっていた美咲たちに聞いても、あまり効率のいい勉強方法は学べないだろう。
地道に本を読んでいけば、いつかは国語が得意になるかもしれない。
……でも正直、今の文香には、国語の成績アップのために本を読もうという気持ちはまったくなかったりする。
――メリットがあるからではなく、好きだから、面白いから本を読む。
文香が国語を苦手とする最大の原因は、美咲たちが言ったような読書スピードや漢字力ではなく、『正解を無理矢理《むりやり》に考えさせられたり押しつけられたりすることが苦手というか嫌い』というものだから、本をたくさん読んで治るものではなさそうだし(テストの点数が多少アップはするだろうが)。
自分は多分、美咲たちのようにはなれないと思う。
ラノベ部唯一の、国語が苦手な部員のままだと思う。
でも、それはそれで別にいいかな、と文香はなんとなく思った。
期末テストや実力テストが近付くたびに暦や吉村と勉強会を開く理由になってくれるのなら、苦手な科目があるというのも案外……悪くない。
[#改ページ]
[#小見出し] ツンデレ[#「ツンデレ」は太字]
「べ、べつにあたし、あなたのことなんか何とも思ってないんだからねっ!」
文香と暦が部室のドアを開けると、美咲がいきなりそんなことを言ってきた。
部室にいたのは美咲一人で、手には表紙にピンク色の髪をした少女が描かれた小説を持っている。
「そうなんですか」
「……」
文香と暦はほぼ無反応だった。
なにごともなかったかのように部室に入る二人。
美咲は少し顔を赤くした。
「……あのー。もうちょっと何か反応があってもいいと思うんだけとなー、なんて……。ここまで無反応だとあたし、いたたまれないじゃない」
「そんなこと言われても……」
文香が眠そうに言う。
「今のはどこが面白かったんですか?」
「うおう、相変わらず容赦《ようしゃ》というものを知らないわね文香ちゃん……。スベったギャグに対して説明を求めるなんてすごい精神攻撃よ」
美咲は冷や汗を浮かべる。
「……ていうかそもそも文香ちゃん、ツンデレってわかる?」
「……つんでれ……最近たまに聞く言葉ですね。たしか、素直に好意を表現できずつんとした態度をとってしまう心の病気[#「心の病気」はゴシック体]? とかそんな感じだったような……」
「別に心の病気ってわけじゃないと思うけど……うん、でもまあ、大体そんな感じで合ってるわ。昔から漫画やアニメでそういう素直になれないタイプのキャラは人気があったらしいんだけど、ツンデレというキャッチーな言葉が生まれてからますます大繁盛するようになって、今では一作品に一人はツンデレがいると言っても過言だけどそれほどオーバーな表現じゃないくらいに流行《はや》りまくってるわ」
「なるほど」
「うん。それでさっきの『べ、べつにあなたのことなんか何とも思ってないんだからねっ!』みたいな『ベ、別に〜だからっ!』っていうメソッドに当てはめれば、お手軽にツンデレ台詞《せりふ》が出来ちゃうっていうわけ。何とも思ってないならムキになる必要なんてないのに顔を真っ赤にしてどもっちゃうってことは、逆説的にこれ以上ないくらい『何か思ってる』ことを主張しているようなものよね。本当は好きなんだけど素直に好意を示せない態度を端的に台詞化した感じね」
「……つまりさっきのせんぱいの台詞は、わたし達に対して先輩は好意を抱いているけど素直になれないのだという表現だったんですか?」
「そういうことになるわね」
「……せんぱい」「…………」
じーっと美咲を見る文香と暦。
「な、なに?」
「やっぱりゆりだったんですね……」
すると美咲は、綾のように「うふふ」と大人っぽく笑い、
「もしもあたしがあなた達のことが好きって言ったら……どうするのかな? かな?」
「引きます」「……引く」
「引くの!?」
即答する二人にショックを受けた顔をする美咲。
「……まあ、もちろんあんなのは冗談《じょうだん》なんだけどね……あたし百合《ゆり》じゃないし……テンプレートなツンデレ台詞で笑ってもらえたらいいかなーなんて思っただけで……べつに文香ちゃんと暦ちゃんのことをそーゆー目で見たこともないし……でもやっぱりねー……素で引くとまで言われちゃうとね! さすがにこう、傷付くわあ……正直、面と向かって嫌いって言われたみたいな……そんな気持ち…………」
美咲は机に突っ伏してしまった。
どうも本気で落ち込んでいるみたいなので、文香は少し罪悪感を覚えた。
冗談だとわかっていたのだから、こちらも冗談で「嬉しいですおねえさま」とでも言っておけばよかった。
「……藤倉さん。ここは二人でせんぱいを慰めましょう」
「……ん」
暦がこくんと頷く。
「せんぱい」
「ん?」
顔を起こす美咲に、まずは文香が口を開く。
「ベ」
いつもの眠そうな顔て、まったくの棒読みで、
「べつにわたし、せんぱいのことなんてなんとも思ってませんから」
「があんっ!」
何故か素でショックを受けている美咲。
さらに続けて暦が、無表情で淡々と冷たい口ぶりで告げる。
「あなたが嫌い[#「あなたが嫌い」はゴシック体]」
「ぎゃあああああ!」
美咲は衝撃に顔を歪《ゆが》めた。
「え、え、ちょ、ほんとになにそれ二人とも……あ、新手のいじめ? 追い打ち? 追加攻撃? トドメ? そこまであたしのことが嫌いだったの? 気付かなくてごめんね二人とも。空気が読めないカスみたいな部長でごめんね……あたしなんて、人間かうんこかで言ったらどちらかというとうんこ寄りだもんね、仕方ないよね…………うん……あたしもう部活やめる……もう二度と二人の前に顔を出したりしないから……」
「落ち着いてくださいせんぱい」
「え、なんですか文香ちゃ……いえ……物部さん。あたしのようなうんこ部長……いえ、ただのうんこ製造器にまだ何かご用でもおありですか?」
「今のはツンデレなんです。本当は浅羽せんぱいのことが好きだけど、素直に好きだと言うことができない様子を表現してみたんです。ね、藤倉さん」
暦もこくんと頷いた。
「へ…………?」
美咲は少し呆《ほう》けた顔をして、やがて復活。
目尻《めじり》に浮かんだ涙《なみだ》を拭い、
「……あ……あー、あはは……なーんだ……ツンデレかあ……あっはっは、なんだそっかあ、ツンデレだったのね、あー、あー、よかったあ……てっきりもう、ガチで嫌われちゃったのかと……」
立ち直った美咲に文香はホッとする。
「やっぱり藤倉さんのはちょっと冷たすぎたんですよ。わたしのように「ベ、べつに」が重要なんですきっと」
「……ん」
「待てい。暦ちゃんのもキたけど文香ちゃんのもけっこーキツかったわよ? なんかね、ほんとにいつも通りの喋《しゃべ》り方《かた》で眉一つ動かさずに言うもんだから、ツンデレメソッドとかそういうのが全然思いつかなくて、言葉通りに『あ、そっか……この子は本気で心の底からまったく、あたしのことなんてなんとも思ってないんだなあ……』ってのがすとーんと心の中に落ちてきたもの」
「そうなんですか……難しいですね、ツンデレというのは」
「……記号化されててわかりやすいはずなんだけどなあ……定番のツンデレ台詞をここまでツンデレっぽくなく言える子がいたということが驚きだわ……。……文香ちゃん……恐ろしい子……」
恐れられてしまった。
べつにツンデレになりたいわけじゃないけど、そこまでアレだったのかとちょっとだけショック。
と、そのとき、
「ちーっす」
部室に吉村がやってきた。
……ちょうどいいので、彼に練習台になってもらおうと文香は思った。
「吉村くん」
「おう」
「ベ。べつにわたし、吉村くんのことなんて何とも思ってませんから」
「は……?」
吉村はしばらく怪訝《けげん》な顔をしてそれから、
「……ああそうかよ。……ちぇっ、べつにオレだって物部のことなんて何とも思ってねえけどさあ……いきなり……そんな……オレ、あんまりこっちに顔出せてねえけど、同じ部活の仲間だって思ってて……ちっ、なんだよ……それ……」
拗《す》ねたようにぶつぶつと呟《つぶや》く吉村。
かなり傷付いてしまったようだ。
「……すいません。冗談《じょうだん》です。これからも仲良くしてください」
「冗談……? あ、あー、冗談かあ……。ったく、おめえの冗談はわかりづらいんだよまったくよう!」
どうにか機嫌を直してもらえたので文香はホッとする。
そこで美咲、
「あはは、まだまだね文香ちゃん。ちょっとあたしがお手本を見せたけるわ」
椅子から立ち上がり吉村の前に進み出る。
「? な、なんすか浅羽先輩」
緊張した様子の吉村に、美咲は少し視線をさまよわせながら、
「か、勘違いしないでよねっ! ベ、べつにあたし、士郎くんのことなんて好きじゃないんだからねっ!」
ポッ!
吉村の顔が、火がついたように真っ赤になった。
「せ、先輩、そ、それって……それって……いわゆる伝説のツンデ……」
[#挿絵(img/1-227.jpg)]
「あは、冗だ――!」
「ちょ、ちょっとオレ、走ってくるッス!!」
美咲が何か言う前に吉村はいきなり踵《きびす》を返し、猛スピードで廊下へ飛び出して行ってしまった。
そのあと遠くで「ぃやっほおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお――――――!」という歓喜の叫びが聞こえてきた。
吉村がいなくなったあと、美咲は不思議そうな顔で首を傾《かし》げる。
「士郎くん、どうしちゃったのかな……」
「…………せんぱいも十分おそろしい人だと思います」
「…………吉村士郎……哀れ……」
「え? え?」
ジト目で見る文香と暦に、美咲はわけがわからないという顔をした。
*
そのあと部室にやってきたのは竹田だった。
「……なんかさっき吉村の奴《やつ》が廊下を爆走してやがったけど、何かあったのか?」
「さあ?」
美咲が首を傾げた。
「…………あの人でもツンデレの練習、しないの?」
小声で暦が文香に言った。
「え? だって、竹田せんぱいはせんぱいなので……失礼かなーって」
「…………」
きわめて真っ当な理由を述べた筈《はず》なのに、何故《なぜ》か暦は少し機嫌が悪くなってしまったらしく、美咲と喋《しゃべ》っている竹田の方をちらっと見て、僅《わず》かに唇を固く結んだ。
文香は怪訝《けげん》に思いつつ、
「藤倉さんは練習したりしないんですか?」
「……しない」
答えたあと、小さく、
「……あなたの前でだけなら、してもいい」
美咲と竹田は二人で喋っていて、文香たちの話は聞いていない。
「やってみてください。一緒にツンデレができるようになりましょう」
「ん……」
暦は小さく頷《うなず》き、頬《ほお》を紅潮させ、視線を泳がせ、唇を少し震わせて、小声で、
「……べ、べつに私、あなたのことなんて何とも思ってないんだから――」
言ったあと、さらに真っ赤になって下唇を噛《か》み顔を俯《うつむ》けてしまう暦。
……それは、たとえツンデレという言葉を知らなくても思わず見とれずにはいられないような、あまりにも、あまりにもパーフェクトなツンデレぶりだった。
「おおお……」
文香は驚愕《きょうがく》のあまり、珍しく目を大きく開けた。
頬《ほお》を紅潮させ、ほーっと深く息をつき、口から心の底からの声がこぼれる。
「……ツンデレって、素晴らしいかもしれません……」
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[#小見出し] 暫定的エピローグ[#「暫定的エピローグ」は太字]
私と物部文香が知り合って、約一ヶ月が過ぎようとしていた。
彼女との出逢いは衝撃的だった。
高校に入学した最初の日。
クラスで自己紹介をするとき、文香は私の隣の席だった。
順番が回ってきた文香は、鈴が鳴るような可愛い声で、
「物部文香です。中学は金花中学です。得意なスポーツはセパタクローです。好きな音楽は演歌です。好きな食べ物は干し柿と干しぶどうです」
その自己紹介に、クラスのみんながどっと笑った。
下手をしたら小学生たと間違われるかもしれないような小さくて可憐《かれん》な美少女なのに、かなりマニアックな趣味|嗜好《しこう》だった。そのギャップがおかしかった。
ウケ狙《ねら》いかと思ったけど、どうやら当の文香は何故《なぜ》笑われているのかわからないらしく
「ほえ? ほええ?」と小動物みたいな可愛らしい仕草で戸惑っていた。
「お、おわりですっ」
顔を真っ赤にして文香は椅子《いす》に座る。
そして私の方をちらっと振り向き、
「えへ……笑われちゃった」
そう言って照れ笑いを浮かべた。
その微笑《ほほえ》みはあまりにも可憐で、私はしばらくの間、彼女の顔が目に焼き付いて離れなかった。
おかげで自分がどんな自己紹介をしたのかも覚えていない。
席が隣同士ということで、私と文香はよく話すようになった。
お昼ご飯を食べるときも一緒で、体育で準備体操をするときのペアも一緒。
私は文香のことを学校で一番仲のいい友達だと思うようになっていたし、文香もきっとそうだろうと思った。
……しかし文香は、たまにひどく切なげな、憂いを帯びた顔をするのだ。
それは本当にたまにしか見せない表情で、いつも一緒にいる私くらいしか気付いている者はいなかっただろう。
童顔の彼女には似つかわしくない、まるで何十年、いや、何百年もの時を生き、この世にあるあらゆる悲しいことを目《ま》の当たりにしてきた孤独な老人のような深い深い眼差しに、私は吸い込まれそうになる。
彼女の抱える深い闇《やみ》を、私は癒《いや》してあげたかった。
だから私はあるとき、文香に何か悩みがあるのかと訊いてみた。
文香はあのとても寂しそうな目をして、それから逡巡《しゅんじゅん》するように視線を彷徨《さまよ》わせたあと、静かに口を開いた。
「あのね、実はわたし――……」
そのときだった。
不意に雷鳴が轟《とどろ》き、漆黒の曇天《どんてん》から黒い光が地上に伸びてきた。
黒い光の中にいたのは、前に図鑑で見たことがある不気味な外見の深海魚を無数に合わせたような禍々《まがまが》しい外見をした、この世のものとは思えないおぞましい怪物だった。
立ち尽くす私の目の前で、怪物が吼《ほ》えた。
刹那《せつな》、怪物の無数の口からそれぞれ漆黒の光が発射され、その先にいた木や家、そして人が音もなく蒸発してしまったではないか。
「やめなさい≪悪魔《アスモダイ》≫!」
凛《りん》とした声は私のすぐ近くから聞こえた。
「これ以上≪地上《ガイア》≫で好き勝手はさせない!」
……なんと、その声の主は文香だった。
手には金色に光り輝く一振りの巨大な剣を持ち、北欧神話の戦乙女《ヴァルキリー》を思わせる白銀の鎧《よろい》を身に纏《まと》い、背中には真っ白な翼があった。
あまりの美しさに、私は声も出せずにただただ見とれてしまった。
文香は寂しそうに微笑んだ。
「隠していてごめんね……。わたしの本当の名前はレイシス。≪天上界《セフィーリア》≫からこの≪地上《ガイア》≫を≪悪魔《アスモダイ》≫から守るために遣わされた、≪聖戦士《ワルキューレ》≫なの」
唖然《あぜん》とする私。
そのとき怪物が再び咆えた。
「いけない!」
文香は光の剣を振りかぶり、白い翼をはためかせて怪物めがけて飛びかかった。
敵の存在を察知した怪物も文香へと狙いを定め、攻撃を開始する。
そしてすごい戦いが始まってなんだかんだあって文香はピンチになった。
ボロボロになって倒れた文香に私は駆け寄る。
「大丈夫!? 文香ちゃん!」
文香は弱々しく口を開く。
「暦ちゃん……逃げて……」
「そんなことできないよ!」
そのとき再び怪物の口から黒い光が放たれた。
「だめえっ!」
文香が立ち上がり、私をかばうように両腕を広げ、その光線を真正面から受けた。
文香が倒れる。
明らかな致命傷を負った文香に、私は泣きながら叫ぶ。
「文香ちゃん! 目を開けて文香ちゃん!」
すると彼女は、最後の力を振り絞るように目を開け、苦しそうな喘《あえ》ぎとともに言う。
「……暦、ちゃん…………あなたの≪気《プラーナ》≫をわたしに……分け、て……」
「どうしたら、どうしたらいいの!?」
「わたしの……唇に……あなたの……唇を……」
「キ、キスをするってこと!?」
こんな状況なのに、私は思わず上擦った声を上げてしまった。
「……おねが……はや、く……」
「わ、わかった!」
……うなず私は頷き、文香の顔に自分の顔を近づけていく。
微《かす》かな喘ぎを漏らす彼女の薄い唇と、私の唇とが重なり――……
*
「う〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜わ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」
自室の机に座って、藤倉暦は顔を真っ赤にして頭を抱えて呻《うめ》いた。
「……私としたことが……!」
愕然《がくぜん》と机の上にあるノートパソコンの画面を見る。
文書作成ソフトで書かれた、よくわからない百合《ゆり》妄想小説。
物部文香が怪物と戦う翼の生えた戦士で、自分はヒロイン。
よくある超能力バトル系っぽいけど、ヒーロー役もヒロイン役も女性で何故かキスシーンまで。
(あ、危なかった……)
あのまま書き続けていけば黒歴史確定だった。
辞書とかネットとか一切使わずにノリだけで書いたから、用語もすごく適当だし。
改めて最初の方を読み返して、再び顔が真っ赤になる。
なにこの捏造《ねつぞう》。
文香が自己紹介で何て言ったかなんて覚えてないし、席が隣でもなかった。
もちろん趣味とかもギャップ萌《も》えを狙《ねら》って適当にでっちあげた。
顔と名前くらいは覚えていたけど、まともに話したのは文香がラノベ部に見学に来たときが初めてだ。
極めつけは、
「…………文香……ちゃん」
口に出してもの凄《すご》く恥ずかしくなる。
浅羽先輩のように気軽に名前にちゃん付けで呼べる人はすごいと思う。
よく漫画や小説であるように、「私の名前は藤倉暦。暦でいいよ」なんて気軽に言えるような性格だったらよかったのに。
あんな台詞《せりふ》、現実に使っている人はいるのだろうか。
「……はぁ――……」
深いため息をついて妄想小説を閉じる。
|〆切がものすごくヤバいというのに《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、妙な妄想小説を書いている場合じゃない。
代わりに他のファイルを読み込む。
新しい文章が画面に表示された。
それは書きかけの小説だった。
藤倉暦は、ライトノベル作家である。
中学二年のときに初めて書いて、読ませる相手もいなかったからなんとなく〆切が近かったライトノベル系の新人賞に応募してみた小説が何の間違いか最終選考に残ってしまい、賞は逃したものの中三の秋に本になって出版された。
中学二年生の少女が書いた小説ということで物珍しさもあったのか、デビュー作はそこそこ売れたのだが、他のプロ作家に比べて文章も構成も人物描写も全《すべ》てが未熟なことは暦自身よくわかっていて、「そこそこ」以上に売れることはなかった。
受験勉強の合間を縫って執筆した二作目が今年の春……大体一ヶ月くらい前に出たのだが、自分の周囲の環境をモチーフに書いたデビュー作とはガラッと変わって、ファンタジー世界を舞台にした冒険小説だったので力不足がさらに浮き彫りになった。
担当は「結構よく書けてると思うよ」なんて言ってくれるけど、自分の未熱さは自分が一番よくわかっている。
それでもまあ、人気のイラストレーターに挿絵を担当してもらえたこともあり、一作目と同じくらいには売れているらしい。
そして現在、その冒険小説の二巻を執筆中。
超スランプ。
高校受験が終わってからすぐに執筆にとりかかったというのに、まだ初稿すら書き上がっていない。
担当は暦が学生ということもあって、あまり強く原稿の催促をしてきたりはしないのだが、早くしろ早くしろという雰囲気がメールの文面や打ち合わせの電話でする会話の端々から伝わってくる。
シリーズものの刊行ペースは三ヶ月に一冊くらいがちょうどいいとされているのだが、このままでは到底間に合いそうもない。
……でも。
……書けないものは書けないのだから仕方ない。
「はあ……」
椅子《いす》から立ち上がり、ベッドにばたんと倒れ込む。
枕元に何冊か置いてある文庫本のうち一冊を手に取り、読み始めてしまう。
気分転換も必要だと自分に言い訳をしながら。
(……はぁ……やっぱり他の人の書いたラノベはおもしろいなぁ……)
幼い頃の暦は今以上に内気で、人と話すのが苦手というか怖くて、幼稚園ではいつも一人で本ばかり読んでいた。
本が特別好きだったわけじゃなくて、本を読むくらいしか一人で時間を潰《つぶ》す手段がなかったのだ。
小学校に上がってもそれは同じで、友達もできず、休み時間は図書館に行っては、つまらなくはないけどそれほど両白いとも思えない童話や昔の文学小説などを読んでいた。
しかし小学校高学年になって初めて親にお小遣いをもらえるようになって、暦はまず本屋さんに行った。
本屋さんくらいにしか一人で行く勇気がなかった。
そこで、アニメみたいな表紙の小説を見つけた。
漫画でもないし、学校の図書館には置いてない、初めて見るタイプの文庫本。
興味を惹《ひ》かれた暦は、初めてもらったお小遣いでその本を買った。
家に帰ってから気付いたけど、それはシリーズものの四巻だった。
もっとよく確認すればよかったと後悔した。
しかし一〜三巻を全部買うお金はなかったので、とりあえず買ってしまった四巻を読んでみた。
結論から言うと、けっこう面白かった(四巻だったけど)。
もちろん世界観やキャラクターの設定など、ところどころ理解できない箇所はあった(だって四巻だったし)。
特にその巻の最後にいきなり出てきて戦いになった敵キャラに関しては、「誰?」という感じだった(だって四巻だったし)。
自分がこれまでに触れてきた全《すべ》ての物語の中でトップクラスに入るほどに面白かったわけじゃなかった(だって四巻だったし、全体的に見るとそんなに好きじゃなかったとはいえ、図書館で読んだ古典文学や童話や児童書の中にも、すごく面白いと思えた作品はたくさんあったし)。
けっこう面白かった。
『けっこう』しか、面白くなかったとも言える。
けれどその本は、これまで読んできた全ての本の中で一番|しっくりきた《ヽヽヽヽヽヽ》。
やたら決断が早かったり怒りっぽかったり泣き虫だったり、普通の人間よりも個性が強調されているけど、それゆえにわかりやすくて入り込みやすい性格の登場人物。
TVゲームのRPGのような馴染みやすい世界観。
絵本ほど平仮名ばかりでもなければ海外の翻訳小説ほど文字がびっしりでもなく古典文学のように難しい表現が並んでいるわけでもない読みやすい文章。
キャラクターの外見や世界観を想像するのを助け、要所要所で物語を盛り上げてくれる、かわいくてかっこいいイラスト。
人物同士の漫才のように軽妙な掛け合い。
現実には絶対に有り得ない魔法やアイテムを使った派手なバトル。
荒唐無稽《こうとうむけい》の半歩手前の、奇想天外でめまぐるしいストーリー展開(というか初めて読んだ印象は完全に荒唐無稽だった。四巻だったし。のちに前の巻で伏線が周到に張られていたことを知った)。
翌月にそのシリーズの一〜三巻を買って読んだのを皮切りに、暦はもっぱら「その本みたいな本」ばかりを読むようになった。
そしてついには自分で書くようになり、プロデビューまでしてしまった。
読者から作り手の側に行った暦が高校のラノベ部に入った理由は、自分の書いている本を読んでいるのが一体どういう人たちなのか、自分の目で確かめてみたかったからだ。
自分が書いた小説の届く先を見たかった。
それから、読者と交流することで彼らの好みなどを知れば、小説執筆の役に立つかもしれないとも思った。
いわばリサーチ目的だ。
……役に立っているかというと、かなり微妙だけど。
お洒落《しゃれ》で社交的で普通に恋もする可愛い女の子、浅羽美咲《あさばみさき》。
すごい美人なのに現実に一切興味がない筋金入りの腐女子、桜野綾《さくらのあや》。
女の子みたいな外見だけど性格が悪い堂島潤《どうじまじゅん》。
バカっぽいけどやたらとハイスペックな能力を持つ吉村士郎《よしむらしろう》。
なんか偉そうな竹田龍之介《たけだりゅうのすけ》。
みんなやたらとキャラが濃くて、彼らを平均的なライトノベル読者として参考にするというのはどう考えてもムリがある。
リサーチ目的という暦のアテは完全に外れてしまった。
(…………でも、楽しいけど)
軽小説部の部室で小説を読んだり読まなかったり、みんなと喋《しゃべ》ったり喋らなかったり、リレー小説を書いたり書かなかったり。
それが楽しい。
幼い頃からずっと一人で過ごしてきた暦にとっては初めての、居心地のいい空間。
友達もできた。
物部文香《もののべふみか》。
いつも眠そうな顔をしていて、暦以上にあんまり大きく感情を表に出さない不思議な雰囲気の少女。
かといって暦のように人見知りするわけでもなく無愛想というわけでもない。
話し方や物腰が柔らかくて、口下手でついつい直接的な物言いをして相手にキツい印象を与えてしまう暦とは対照的だ。
そんな文香と一緒にお昼ご飯を食べたり、ノートの貸し借りをしたり、面白かった本を教え合ったりするごく普通の学校生活が、とても楽しい。一人で過ごしていた頃の暦は、現実の世界なんてつまらないだけだと思っていた。
物語の中のように胸躍るような冒険もなく、王子様やお姫様との素敵なラブロマンスもなく、世界中の人から賞賛されるような大活躍をする機会もなく、魔法も超能力も超古代文明の遺産も、前世からの運命で結ばれた恋人も、お互いのためなら命だって投げ出せる親友もいない。
自分の命や世界の平和を脅かす怪物も悪魔も妖怪《ようかい》も魔物も大魔王も悪の皇帝もいない。
倒すべき敵がいない。
守るべき世界がない。
守りたい人がいない。
手に入れたい未来がない。
いっそ完全に現実とフィクションの区別がつかなくなって妄想の世界に溺《おぼ》れることができたら楽だったかもしれないけど、中途半端に理性的で小賢《こざか》しい頭はそれさえ許してくれなくて、本は単に時間を潰《つぶ》すだけの道具でしかなかった。
どんなに面白い本であっても、夢中になるのは読んでいる間の数時間だけで、読み終えたあとはどこか虚しさがあった。
物語の登場人物たちは所詮《しょせん》自分とは無関係の他人で、自分はどこまでいっても物語の主人公になんでなれない平凡な人間なのだと、子供の頃からすでに気付いてしまっていた。
楽しげに談笑したり汗を流しながら一生懸命スポーツに励む他の子たちの姿を見ながら、何者にもなれない平凡な連中が群れていると内心で小馬鹿《こばか》にしていた。
今は違う。
文香やラノベ部のみんなと出逢《であ》って日常楽しさ……いや、『楽しい日常』を知ってしまった今の暦は、そんな昔の自分を恥ずかしく思う。
…………けど。
……日常が楽しければ楽しいほど……現実が充実していればいるほど……小説を書くモチベーションが下がってしまうのが困ったところだ。
正直、小説を書いている暇があったら文香と遊びに行きたい。
「……プロ失格…‥はぁ……」
自己嫌悪に陥りながら、そのままベッドに寝転がって小説を読む。
最近特に気に入っているシリーズの最新刊だけあって、期待通りとても面白く、ついついページをめくる手が止まらなくなる。
こんな面白い小説が書けたらいいのに。
気分転換のつもりだったのにそのまま最後まで読み切ってしまった。
本を枕元に置いた瞬間、不意に猛烈な気怠《けだ》さが襲ってくる。
こんなに面白い物語なのに、主人公もヒロインも他のキャラクターたちも凄《すご》くかっこよくて、自分の弱さと向き合いながら次々に降りかかる困難に対して果敢に立ち向かっていて、敵だってそれぞれに正義があってとても魅力的で、笑ったり泣いたり怒ったり悩んだり叫んだり愛したりして、暦の心を容赦なく圧倒的な興奮と感動で打ち据えたのに、でもこれは、現実じゃないんだ。
……そのまま、暦の意識は薄れていった。
……目覚まし時計に起こされたら朝だった。
机の上では、一晩中放置してあったパソコンのファンがうぃーんと音を立てている。
マウスをちょっと動かすと、スクリーンセーバーが終了し、画面に全然進んでいない書きかけの原稿がまざまざと映し出される。
「………………はぁぁぁぁ……」
深々とため息をつきながら電源を落とし、学校へ行く準備をする暦だった。
*
いつものように学校へ行き、いつものように授業を受け、いつものように文香と一緒に昼ご飯を食べて、いつものように文香と一緒に部室へ向かい、いつものように文香と一緒に適当なところに座る。
部室には珍しいことに美咲と綾と竹田と堂島と吉村が全員|揃《そろ》っていて、それぞれ本を読んだりゲームをやったり喋《しゃべ》ったりしている。
人が〆切に迫られて弱っているのに、みんなお気楽そうでいいなあと暦は少し苛立《いらだ》ちを覚えた。
居心地がいいはずのこの部室でそんなネガティブな感情を抱いてしまったことに、ますます気分が落ち込む。
「どうしたんですか? 藤倉さん」
文香が怪訝《けげん》そうに言った。
「……なんでもない」
淡々と答える。
「そうですか。ところで藤倉さん」
「ん」
文香は鞄《かばん》から一冊の文庫本を取り出した。
「この本、はなはだしく面白かったです」
いつものように表情は変わらず眠そうな顔をしているものの、「語りたくて語りたくてたまらない」みたいな雰囲気が微妙に漂っている。
「……これ、が?」
暦は微妙に訝《いぶか》しげな顔をする。
この本の元の持ち主は暦だ。
現在では手に入りにくくなっている、十年くらい前に出たマイナーな作品で、一年くらい前に古本屋で買って読んだけど、暦的には別にはなはだしく面白いということもない普通のライトなSFで、ストーリーもほとんど忘れてしまっている。
十年前の本にしては主人公の使う超能力の設定がかなり斬新だったような気はする。
このまま自分の部屋の本棚の奥で埋もれてしまうよりはいいかと思って、先日ラノベ部の本棚へ持っていったのを、文香が借りていった。
「…………どこが?」
尋ねると文香、
「リアがすごいせつなくて、とても共感してしまいました。リアが出てくるページを何度か読み返したりとかしました」
「………………」
暦の頭に『?』が浮かぶ。
「……リアって……誰?」
「覚えてないんですか? 酒場『銀色|子鹿《こじか》』で働いている女の子ですよ」
…………やっぱり思い出せない。
暦は文香の差し出した本をぱらぱらとめくり、そのリアとやらの登場シーンを探す。
すると意外とすぐに見つかった。
主人公やヒロインがたまに立ち寄る酒場の一人娘で、暦の記憶が確かなら、ストーリーにはまったく絡まない。
文香が言うには、このリアの言動の端々から感じられる主人公への好意がとても切ないらしい。
確かに言われてみればそんなふうに読めなくはないが……たとえ主人公に片想《かたおも》いしているという設定があったところで、やっぱり印象は薄い。
この小説にはメインヒロイン(幼なじみ)の他にお姉さん系キャラと幼女キャラが出てきて、どちらも主人公に好意を持っていて主人公をめぐり三人が揉《も》めるというシーンはあったけど、酒場の娘の出番はない。
サブヒロインですらない、完璧《かんぺき》な脇役《わきやく》だ。
挿絵を確認してみたけど、酒場で主人公たちが楽しげに騒いでいるシーンのイラストにさえ、彼女の絵はなかった。
それ以外に気に入ったところを聞いてみると、とあるシーンでのギャグがとても面白かったとか中盤の展開が意外だったとかで、暦が高く評価した超能力の斬新《ざんしん》さについては特に何とも思わなかったらしい。
「でもまあとにかくリアです。リアなんです」
「……そう、なの?」
「はいっ」
「…………」
…………すごい子だなあと改めて思う。
彼女はたまに、暦が思いもよらないような独特な視点でものを見る。
暦だけでなくほどんどの読者が名前すら覚えないであろう脇役の少女にここまで入れ込む読者はそうそういないだろう。
主人公でもなく主人公とくっついて幸せになるメインヒロインでもなく片想《かたおも》いをしているサブヒロインでもなく、この酒場の娘をこそ本当に一番好きなのだと文香は言う。
きっと文香の頭の中の登場人物の紹介ページでは、『リア=この物語の主人公』なのだろう。
暦は思う。
(……昔の私は、物語のヒーローやヒロインになれない自分や他人を嫌っていた)
(……今の私は、物語のヒーローやヒロインになりたいと思うことを恥ずかしいと思う)
……だがもしかしたら、それはどちらも違うのかもしれない。
これは物語だから、これは現実だからとあえて差別する必要はないのかもしれない。
どちらも全力で、自由に楽しめばいいのかもしれない。
小説や漫画やゲームやテレビの主人公と自分を重ね合わせて泣いたり怒ったり笑ったりするのも、友達と一緒に喋《しゃべ》ったり遊んだり勉強したり泣いたり怒ったり笑ったりするのと同じように、自分の現実の一部なのだから。
物語の中の世界や人物や冒険や友情や恋愛はフィクションでも、それで心を動かして泣いたり笑ったりする自分は確かにここにいる。
暦は、文香やラノベ部のみんなと過ごす日常が楽しい。
ライトノベルを読むことも楽しい。
ライトノベルのある日常が、自分は今、楽しいんだ。
不意に脳裏に、書きかけの原稿のことが頭に浮かぶ。
(…………大変なことに気付いた……)
〆切じゃなくて……いや、〆切も大変なのだが……、あの原稿が完成することで、他の人の『ライトノベルのある日常』をもっと楽しくすることができるかもしれないという、凄《すご》い事実に気付いたのだ。
暦にとって退屈な現実を紛らわすための手段でしかなかった小説が、誰かの日常に入り込んで誰かを喜ばせたり怒らせたり笑わせたり悲しませたりできるかもしれないのだ。
(…………ど、どうしよう…………それ、すごく、素敵……)
暦は自分の頬《ほお》が火照って真っ赤になるのを感じた。
「ど、どうしたんですか藤倉さん」
いきなり赤面した暦に、文香は眠そうな顔で慌てる。
「……なん、でも、ない……」
しかし暦の火照りは収まらない。
まるで恋にでも落ちたように心臓がドキドキいって、ますます全身が熱くなる。
「ぁはぁん……」
………妙に艶《なま》めかしい吐息が漏れた。
[#挿絵(img/1-253.jpg)]
「た、大変です、藤倉さんがなんだかえっちです!」
文香の焦りの声を耳ざとく聞きつけ、綾が興奮した声を上げる。
「えっ! ついに藤倉さんのエッチシーン解禁ですの!? 『TO F ujikura X RATED』だの『暦アフター』だの『リトルフジクラーズ エクスタシー』だのそんな感じのタイトルがついに発売決定!?」
「綾……あんたもう帰りなさい」
「病院に行くべきじゃないかな。脳の」
「なんすか? エックスなんとかとかアフターとかって」
美咲と堂島と吉村が口々に言う。
「……大丈夫なのか?」
竹田が近寄ってきて、文香の横に立つ。
文香の制服の袖《そで》と竹田の袖が微《かす》かに触れて、文香の口が本当にほんの少しだけモニョと動く。
暦はなんだか急に面白くない気分になる。
「……なんでも、ない」
いつものポーカーフェイスに戻り、暦は淡々と答えた。
…そしてまた、いつものラノベ部が始まる。
小説を読んだり読まなかったり、美咲がよくわからない話題を投げかけたり、ぐだぐだなリレー小説を書いたり。
藤倉暦の、物部文香の、富津高校軽小説部の面々の、ライトノベルのある楽しい日常は、どこまでも続いていく。
そんな中で、ふと暦は、なけなしの勇気を振り絞って友達の名前を呼んでみた。
「……文香……ちゃん[#「ちゃん」は小さな文字]」
「ちゃん」は小さすぎて、暦の口の中で消えた。
「はい? なんですか藤倉さん」
……小説だったらここで文香は全てを理解して優しく微笑み「暦ちゃん」と返してくれるべきだと思うけど、やっぱりそう上手《うま》くはいかない。
「……ありがとう、文香」
暦の唐突なお礼の言葉に、文香はいつものように眠そうな顔で、微かに首を傾げただけだった。
[#地付き](終わり)
[#改ページ]
面白いかもしれないあとがき[#「面白いかもしれないあとがき」は太字]
デビュー前、僕が初めてMF文庫Jの三坂編集長とお会いしたとき、「中高生の子達に国語の時間にライトノベルを読ませてあげたらきっとみんな『こんな面白いものがあるのか!』って夢中になると思うんですYO!」みたいなことを熱く語られて、それがずっと僕の頭の中にあったというわけでもなくて最近まで忘れてましたが、しかしそれがこの本を書くきっかけの一つではあったような気がします。別にこの本は「ライトノベルとは何か」とか「ライトノベルの書き方/読み方」みたいなハウツー本の類ではないのですが、これを読んだ人がライトノベルをもっと好きになってくれればいいなと思います。
でもまあ、本編で登場人物の一人が言っているとおりそんな作者の事情や人格や思惑なんてどうでもよくて、この本を読んだあなたが何を思ったかが一番大事なことだと思います。「『作者のことなんてどうでもよくて読者が何を思ったのかが一番大事』というのもまた作者の思惑ではないだろうか?」とひねくれ者の僕は思わなくもないのですが、それもまあ、スルーしてもいいし突き詰めて考えるのも面白いのではと思います。
当たり前のことですが、どんな超傑作でも一億冊売れたベストセラーでもつまらないと思う人はいるし、読んだ人の99%がつまらないと思うような本(僕は見たことがありませんが)でも必ずどこかにそれを面白いと思う人はいるように、結局のところ「面白さ」というのは多かれ少なかれ読んだ人の感性や事情や考え方に委ねられている面があるのですが、普通の(?)少年少女達の普通の(?)日常を断片的に描いたこの本は、特にそうした側面が強くなっているような気がしなくもありません。だからといって作者が作品を面白くする努力を放棄していいわけでは勿論なくて、僕はこの本を面白くしようと(正確に言えば、より多くの人に面白がってもらおうと)精一杯努力したつもりですが、それでも、この本が面白かったのなら、それはあなた自身が面白い人なのだと思います。
そんな感じで『ラノベ部』でした。読んでくれてありがとう。この本が面白かったにしろ面白くなかったにしろ、あなたがこれからたくさんの素敵なライトノベルや、ライトノベル以外の素敵なものや素敵な人に出逢い、素敵な「ライトノベルのある人生」を過ごされることを祈っています。
以下、謝辞です。地味な文章を華やかに彩ってくださったイラストレーターのよう太《た》先生をはじめ、担当さんおよび編集部の皆様、この本の製作・出版に関わった多くの皆様、友人知人、それから、小説に限らず数々の素敵な作品を世に送り出し続けている大勢のクリエイターの皆様に、心からの敬意と感謝を捧げます。ありがとうございました。
[#地付き]二〇〇八年八月下旬 平坂読《ひらさかよみ》