ホーンテッド!(3)ラッシュ・アンド・ラッシュ
平坂 読
目次
プロローグ(前編)
前編 ラッシュ ―rush―
エピローグ(前編)
プロローグ(後編)
後編 ラッシュ ―rash―
エピローグ(後編)
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【rush】
[動詞]突進する、殺到する、急行する、にわかに起こる。
[名詞]灯心草。くだらないもの。
【rash】
[形容詞]性急な、向こう見ず
[名詞]発疹《ほっしん》、吹き出物、(事件などの)多発。
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プロローグ(前編)
ボク、久遠悠紀《くどうゆうき》、十六歳っ☆ ちょっぴりドジッ娘《こ》な高校二年生の女の子なのっ☆
……というような乙女ちっくなプロローグで始めてみようと思ったけど虫酸が走ったのでやめておく。特に☆がむかつく。ごめんなさい。どうも脳味噌が少し膿《う》んでいるらしい。
今年の夏はあつい。これはべつに、オリンピックで日本人選手が大健闘して日本中が熱狂しているとか、我が遠夜東《とうやひがし》高校野球部が甲子園に出場して地元がすごく盛り上がっているとか、インターハイのために部活の練習をものすごく頑張っているとかいう意味の〔熱い〕ではなく、単純に〔気温が高い〕という意味において〔暑い〕。もうぶっちゃけあり得ないくらいに蒸し暑い。太陽が一日も休まず狂ったように超ハッスル、連日のようにニュースでは〔観測史上初の記録的な猛暑〕のオンパレード。もはや最近では気温四十度以下だったら「へえ、今日はまあまあ過ごしやすい陽気だな」とか「おや、珍しく今日は記録更新されないんだな」とか思えてしまうくらいの異常気象が日本を襲っている。
八月初旬。大抵の高校ではいわゆる〔夏休み〕という長期休暇の最中であり、一介の高校生である僕もまた、夏休みを満喫していた。一日中クーラーの効いた部屋に引きこもって惰眠を貪ったり、『合い言葉は正義』の再放送を見たり、ときどき遊びに来る深春《みはる》とどうでもいいことを延々と喋って時間を潰《つぶ》したり――そんな楽園のような生活だった。「一生こんな日が続けばいいのに」と、駄目人間の典型みたいなことを思っていた。
だがあるとき突然、まるで天が怠惰な僕に罰を与えるかのように、悲劇は起こった。
いきなり僕の部屋のクーラーがぶっ壊れやがったのである。僕の部屋は風通しが異様に悪く、クーラーを使わないと日中はほぼサウナ状態になるため、とてもではないが居られない。よって他の部屋に涼みに行くしかないのだが、我が家には僕の部屋と義父の仕事場にしかクーラーがない。だが現在、義父の久遠煉獄《れんごく》(職業・漫画家。ペンネームはくどう恋国《れんごく》。『月刊コミックフリッカー』にて『REN☆AI☆天国《パラダイス》』をぼちぼちの人気で連載中!)は締め切りが相当ヤバいらしく修羅場モードに突入しているため、邪魔するわけにはいかない。冷房の効いた図書館やプールにでも行ければ良いのだが、先ほど一歩家の外に出たところ、アスファルトの照り返しによる熱気で美少女の干物になりそうだったので諦めた。
やむを得ず僕は、家の中では比較的風通しの良い和室で、畳の上に仰向けになって死体のように寝転がっていた。扇風機《せんぷうき》をパワー全開にしてこちらに向けているものの、妙に生暖かい風しか来ない。
「あぢい……死ぬー。むしろ死なせてくれー」
半袖のワンピースの胸元をぱたぱたやりながら、もう何度目になるか分からない怨嗟《えんさ》の呻きを上げる僕。
「もう。悠紀《ゆうき》ってばだらしないなあ」
天井を泳ぐように飛び回る、一人の少女が言った。
白咲深春《しらさきみはる》。僕の恋人。ゴースト。Tシャツにキュロット。以上。説明終わり。あー暑い。
「……しょーがねーだろー……僕は暑いの苦手なんだよー。ほら、僕って冬生まれだし」
死にそうな声で僕は言った。深春はいつものように楽しそうに笑って、
「ボクだってそうだよ。でもボクは冬より夏の方が好きかな」
「そりゃお前はゴーストだからなー。暑さ寒さとか関係ないだろ。でも、僕みたいに普通の人間には、この暑さはとてもじゃないけど耐えられん」
「えー、そんなことないよー。ほら、くおんちゃんだって全然平気そうだよ?」
そう言って深春は、部屋の入り口の方を見た。僕も目だけそちらへ向ける。一人の少女が、スイカの載った皿を持って立っていた。
久遠《くどう》くおん。二つ名を〔妹姫《マイヒメ》〕。今年で齢《よわい》十三になられた、僕の義理の妹である。
身長は一三〇センチ弱。顔立ちは、年相応のあどけなさが残るものの、ちょっと信じられないくらいに整っている。ただしきわめて表情に乏しく、何を考えているのかよく判らない。今どき珍しいおかっぱ頭と相まって、月並みだが〔日本人形のような〕という表現がしっくりくる美少女だ。
その服装もまた、何を考えているのかよく解らない。着物なのは別に良いとして、柄が問題だ。なんと髑髏《ドクロ》である。鮮やかな赤色の生地に、無数の頭蓋骨《ずがいこつ》が描かれているその柄はシュール極まりない。驚くべきことにこれが彼女の普段着であり、中学校へ行くときもこの姿である。部屋の箪笥《たんす》には同じ柄の着物が大量に入っていて、興味本位で覗《のぞ》くとびっくりして腰を抜かすかもしれない(僕は実際、そうなった)。また、首からは十字架《ロザリオ》をぶら下げている(驚くべきことに、彼女が通っているのはミッション系の学校なのである)。あと、着物なのでパンツをはかない。
これだけでも十分に変なのに、さらに拍車をかけるものを腰に下げている。日本刀だ。刃を潰《つぶ》してあるとはいえ、れっきとしたモノホンの銘刀《めいとう》である。彼女は〔未至磨抗限流《みしまこうげんりゅう》〕剣術の免許皆伝であり、特に居合いを得意技とする一流の剣客でもあるのだ。
……ともあれ、このように何から何まで常軌《じょうき》を逸《いつ》していて、思わず〔おいおい、そんなに欲張らなくても基本的に妹キャラは無条件で人気が出るから大丈夫だよ〕と言いたくなるようなハイブリッド美少女、それがマイシスター、〔妹姫《マイヒメ》〕久遠《くどう》くおんなのだ。
「……義姉上《あねうえ》。スイカを斬ってみたのですが、お食べになりますか?」
くおんは寝転がっている僕の横まで摺《す》り足で歩いてきて、鈴の鳴るような声でそう言った。ああ、我が義妹《いもうと》ながら相変わらず可愛いなあ……。可愛い娘《こ》には、ついつい甘えてみたくなる。
「たーべーるー。でも起きあがる気力がなーい。くおんちゃぁん、たべさせてぇん※(w-heart.png) 」
ややキモい声色で僕が言うと、
「……義姉上、それはノーサンキューです」
ほんの少しだけ困ったように眉毛《まゆげ》を動かし、くおんは淡々と答えた。
「そうかい。そりゃ残念」
僕はよろよろと起きあがった(ノーサンキューにはツッコミ無し)。くおんがテーブルにスイカを置き、僕は貪るようにそれを食べる。よく冷えていて美味しい。
「いーなー。ボクも食べたいなー」
深春《みはる》が上空を飛び回りながら、羨《うらや》ましそうに言う。くおんはというと、僕や深春など目に入っていないかのように小さな口で無心にスイカを囓《かじ》っている。
……ほどなく、食べ終わる。
「……ふう、ごちそうさま」
とりあえず、スイカで脱水症状だけは免《まぬが》れた。だが、根本的な解決にはなっていない。このうだるような暑さを早いとこどうにかしなければ。
「なあくおん、どうにか手っ取り早く涼しくなる方法はないかな?」
何故か汗一つかいていない義妹に僕が尋ねると、くおんは視線だけこっちを向けて、
「……あります」
「あるの!?」
くおんはこくんと頷いた。そして淡々と、
「……心頭滅却すれば火もまた涼し、です。義姉上《あねうえ》」
「…………さようでござるか。とても素晴らしい意見をありがとうサムライガール」
要は〔頑張れ〕と。そういうことですか。……期待した僕が馬鹿だった。ていうかその台詞を言った高僧って、結局その場で焼け死んでるし。
「北の方に行けばちょっとは涼しいんじゃない?」
深春《みはる》がお気楽な声で口を挟んできた。
「……北、ねえ……シベリアとか?」
「あは、そこまで行かなくても……北海道でいいじゃない」
「……北海道ねえ。どっちにしろ海外だよな、海越えるし。シベリアとそう変わらん」
そんなことを言いつつ、広大な北の大地を夢想してみる。……何故か流氷の映像が浮かんできた。いくら北海道とはいえ真夏に流氷はねえだろ! と自分でツッコミを入れる。脳内熊が僕に熊パンチ。ぎゃー血まみれ! 僕の脳髄《のうずい》が色んな意味でピンチですクマ。あー、いかんクマ。そろそろ本格的に脳がやられつつあるクマ。
「……はあ……行きたいよなー、北海道」
ため息を吐《つ》きながらぼやく。もっとも、家から出ることさえ困難なこの状況では、叶《かな》わない願いだろうけど。もっと現実的なことを考えようと僕は思った。現実逃避、ヨクナイ。
……だが、そのとき。
「ヒヒヒ、それはちょうど良かったね!」
聞き覚えのある不愉快な声が、突如として部屋に響き渡った。
「――ッ! まさか!?」
嫌な予感がよぎり、僕は慌てて後ろを振り返――
るよりも早く、
ぼすっ――……と、首のあたりに、鈍い衝撃。
「はう……」
……これはまた……いつにも増して唐突な…………。
薄れていく意識のなか、僕は唖然とする深春とくおん、そして愉《たの》しげに嗤《わら》う悪魔のようなババアの顔を見た気がした――……。
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前編 ラッシュ ―rush―
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……………………目を開けると、僕は知らない場所に倒れていた。
岩肌が露出した地面のあちこちに黄色と白の花が咲き乱れ、さらに遠くの方に焦点を当てると、岩場に淡い紫色をした綺麗な花がぽつぽつと咲いているのが見える。少し殺風景なお花畑のような景色の中に僕はいた。…………あれれ、向こうで死んだはずの恋人が笑いながら手を振ってるのが見えるよ……。ということは、ここは……
「……えーと…………天国?」
とりあえず連想した単語を呟きながら、まさかそんなわけがあるまいと思いなおし、寝ころんだままの体勢で、目の前に生えている花をまじまじと観察してみる。草丈は十センチほど、花弁は五枚で色は白、その中心には無数の黄色いおしべやめしべがある。僕はそれほど植物に詳しいわけではないけれど、たしかこの花は、高山植物の中ではかなりメジャーなものだったような気がする。名前はたしか――チングルマだっけか。
……。………。…………ん? …………高山植物……?
「ここはどこだ!?」
嫌な予感とともにがばっと上体を起こす。すると、横から鈴の音のような声が答えた。
「……カムイエクウチカウシ山です、義姉上《あねうえ》」
くおんだった。着物姿の義妹《いもうと》が、お花畑の中で立っている姿は実に絵になる。足には、特注品のオサレな下駄を履いていらっしゃる。それはともかく、
「……カムェ……なんだって?」
独特な響きのある名前にどことなく嫌な感じを覚えつつ、僕は聞き返してみる。
「カムイエクウチカウシ山。日高《ひだか》山脈のちょうど真ん中あたりだって」
くおんとは別の声。深春だった。ひらひらと手を振りながら、相変わらず楽しげに笑っている。
「悠紀《ゆうき》、やっと起きたね。もう、相変わらずお寝坊さんなんだから」
「……いや、お寝坊さんとかそういう牧歌的な単語が適切な状況ではなかったと思うんだけど……たしか僕は家でスイカを食べて……いきなり……謎の声が聞こえて――」
徐々に頭がハッキリしてきた。現実認識のため、もう一度尋ねる。
「……ここはどこだって?」
「日高山脈の、カムェ……カ・ム・イ・エ・ク・ウ・チ・カ・ウ・シ・山。もうっ、何度も言わせないでよ。舌噛みそうな名前なんだから」
何故か怒り出した深春にはかまわず、僕は思考を巡らす。……日高山脈……言うまでもなく、北海道の南部を走る日本有数の山岳地帯の名前である。
「……カムイエクウチカウシ山とは、標高二千メートル近い、日高山脈で二番目の高さを誇る高峰です。この名はアイヌ語で〔クマが転げ落ちるほどの険しい峰〕を意味すると言われています。山並みは非常に険しく、岸壁は岩だらけで道らしき道もありません。上級者以外は登らない方が賢明でしょう」
くおんが無表情で解説してくれた。
「…………丁寧にどうも。で、ナニユエに僕はそのような天国に近そうな場所にいるのでしょうか。僕はこんなシャングリラを目指した覚えはないぞ。……まあ、誰の仕業かは分かってるんだけどさ」
いきなり他人を拉致《らち》して北海道まで連れてくるようなふざけたことを考えるのは――そして現実にそれを実行可能なのは――、あの妖怪〔ブーメランばばあ〕しかいない。〔ブーメランばばあ〕とは僕と深春、そしてくおんの学んだ自称護身術〔未至磨抗限流《みしまこうげんりゅう》〕の師範、未至磨ツネヨのことであり、恐らくモノノケの類かと思われる超常生命体である。意識を失う直前に聞こえてきた謎の声も、間違いなくあのもののけ婆《ばば》のものだった。
「……毎年恒例、未至磨抗限流・夏の強化合宿、だそうです」
くおんが淡々と言った。
「毎年恒例って、合宿なんてこれまで一度もやったことないだろうが」
「……今年から毎年恒例、だそうです」
「相変わらず無茶苦茶だな、あのババア」
僕はため息を吐《つ》いた。しかし、僕の心は自分でも不思議なくらい落ち着いている。ここ最近、テロだの無理心中だの、立て続けにくだらない事件に巻き込まれたから、トラブルに対する耐性がついてしまったのだろう。慣れとは恐ろしい。とりあえず現実を受け入れつつ、ふと思った疑問を口にする。
「そういえばあのババア、どうやって僕たちをここまで運んできたんだ?」
近年、多発するテロの影響により、日本における空港でのチェックは今や中近東の国々と同じくらい厳しいものになっていて、出入国はなかなか認められない。もちろん、国内便であってもチェックの厳しさはさほど変わらない。船の便も同様だ。ついでに、青函《せいかん》トンネルは一年ほど前に自殺教によって爆破されている。そんな中で、人間三人を運んで海を渡るなど、到底………ひょっとして、津軽《つがる》海峡を泳いで運んできたとか? ……あり得ないとは言い切れないのが怖いところだ。
「ヘリコプターだよ」と嬉しそうに深春が答えた。
「……あっそう」
ヘリ、ね。ヤツにしては意外と現実的な手段……と言うべきなのかな?
「悠紀が気絶したあとにね、師匠が庭にあったヘリコプターに大急ぎで連れ込んだの。なんか格好良かったよ。黒っぽくて。それにすっごく速かった。ねー、くおんちゃん」
「……はい、白咲《しらさき》様」
どうやら気絶させられて運ばれたのは僕だけらしく、深春とくおんは状況を把握しているようだ。
「……ていうか、お前らはどうしてあのババアを止めてくれなかったんだ。のこのこと北海道まで来やがって」
「え、だって」
深春とくおんが顔を見合わせる。
「……北海道に行きたい、と言っておられたのは義姉上《あねうえ》です」
「……なるほど」つまりこの二人にも常識は期待できません、と。まあ、知ってたけどね。
「……それはそうと、黒幕《ババア》の姿が見えないみたいだけど?」
「師匠なら、ボクたちをここに降ろしたあとすぐに行っちゃったよ」
あっけらかんと深春が言った。
「……あっそ。つまり自力で山を下りるサバイバル訓練ってことか……」
足下を見ると、登山用の無骨なブーツを履かされていた。もちろん、今着ているワンピース(普段はこういうヒラヒラした服は着ないのだが、今日は暑かったし外出の予定もなかったので、気まぐれで着ていたのだ)にはまったく合わない。というか、薄手のワンピース一枚で山にいる方がおかしい。
現在地の標高が何百メートルなのかは知らない(少なくとも山頂ではなく、雲よりも低いことは確かだが、周りを見渡しても山や岩や崖《がけ》しか見あたらないので現在位置が把握できない)が……かなり肌寒い。つい数時間前の酷暑《こくしょ》とのギャップから、さらにそう感じるのかもしれない。
「へくちっ」
タイミング良く(?)、くしゃみまで出たし。長居してたら風邪をひきそうだ。さっさと山を下りないと……。
「……義姉上《あねうえ》。これが地図です。これを参考に生き延びてみせよ、とのことです」
くおんが、近くに置いてあったリュックから地図を取り出して僕に手渡した。
「へえ、地図なんてあのババアにしては意外と親切――」
――なんてことがある筈もなく、渡されたのは世界地図(しかも手書き)だった。縮尺も超適当。……つまりはあのババアの世界認識の基準で描かれた世界の地図なのであり、こんなものを参考にしたら間違いなく普通の人間は野垂れ死ぬ。
「…………」
僕は無言でその地図をくおんに返した。なんかもう、呆れてものも言えない。
「……とりあえず出発しようか」
山を下りさえすればこっちのものだ。北海道はべつに無人島というわけじゃない。観光客が激減しているとはいえ、人も住んでいれば大きな街もある。道路だって整備されてるし車だって走っている。街に着けば、あとはどうとでもなる。すぐに本州へ帰るなりちょっと観光するなり自由だ。それにテロに巻き込まれる心配もないし。やたらとテロリストとの遭遇率が高い僕でも、さすがにこんな山奥でテロ屋さんに出くわすことはないだろう。今回は、ここ最近のとんでもないトラブルに比べたら全然余裕のお茶の子さいさい――
「……義姉上」
くおんがくいくいと僕のワンピースの裾《すそ》を引っ張った。
「ん、なに?」
「……もう一つ、お渡しするものがあります」
そう言ってくおんはリュックをがさごそと漁る。
「……どうぞ」
「…………。……なに、これ」
……無造作に差し出されたのは、黒光りするえらくゴツいL字型の物体だった。僕の視覚と記憶に異常がないと仮定するならば――それは拳銃と呼ばれるモノだった筈である。モデルガンではない。……二ヶ月前のデパートでのテロといい一ヶ月前の修学旅行のときといい、いつの間に日本は銃社会になってしまったのだろう。……ま、初めて銃を持ったのは三歳のときだった僕が言うのもアレだけどさ。
「……師匠が傭兵《ようへい》時代の戦友から譲り受けたものだそうです」
「……あのババア、傭兵だったのか。初耳だぞそんな話」
……まあ、べつにどうでもいいけど。僕は戸惑いながらも、くおんから銃を受け取る。
ハンドガンにしてはかなり大きく、そしてズッシリと重い。二キロくらいはある。無骨でパワフルなデザインが印象的。これが格好いいと思うかどうかは好みによるだろう。ちなみに僕はあまり好きじゃない。まじまじと観察してみるまでもなく、この銃のことは知っていた。
その名を〔砂漠の荒鷲《あらわし》〕――――デザートイーグル五〇AE。
ゲームや映画などでも大人気、イスラエル製の軍用大口径自動拳銃である。ハンドガンの弾としては最大の五〇AE弾を使用する拳銃はこれ以外になく、破壊力、命中精度ともに申し分なし。通称〔ハンドキャノン〕と呼ばれる、紛れもなく世界最強のハンドガンの一つである――……って、おい待て。
「……なお、予備のマガジンはありません。入っている七発だけでどうにか生き延びろ、とのことです」
銃に続き、ショルダーポーチのようなホルスター(それなりにカジュアルなデザインではあるが、これまたものすごくワンピースには似合わない)を手渡される。
「……生き延びろって言われてもなあ……。こんな物騒なの、山を歩くのには邪魔なだけだろ。やたらと重いし。……そのへんの谷底に捨てていい?」
まがりなりにも〔未至磨抗限流《みしまこうげんりゅう》〕の銃遣い《ガンナー》とは思えないような僕の台詞に、くおんは少しだけ首を傾げて、
「……それで戦えるのならば、義姉上《あねうえ》のご自由に」
……戦う? 日高《ひだか》山脈名物のヒグマとでも戦えというのだろうか?
「……そりゃまあ、たしかにデザートイーグル《こいつ》なら熊だろうが虎だろうが瞬殺できるだろうけどさ……」
ずっしりとした銃器をダンベルのように上下させながら、へらへらと僕は笑った。するとくおんはすっと目を細めた。
「……師匠の話では――」
「――敵も用意しておいたって」
くおんの言葉を継いで、深春がやけに楽しげに言った。
そのときだった。
「……敵?」という僕の声を、銃声が打ち消したのは。
パァァ―――――――ンッ!
山の澄みきった空気を切り裂く、鋭い音。それなりに聞き慣れた音ではあるけれど……状況が状況だ。どうしてこんな山の中で銃声が? そう思うやいなや、次に聞こえてきたのはなんと、〔ヒヒーンッ!〕という馬の嘶《いなな》きだった。
「馬あっ!?」
僕と深春が同時に素っ頓狂《すっとんきょう》な声を上げて顔を見合わせる(くおんは当然のようにノーリアクション)。何故に馬。たしかに日高《ひだか》地方はサラブレッドの牧場で有名だが、こんな険しい山脈にまで馬が生息しているなんて話は聞いたことがない。
そんなことを僕が考えていると、またも嘶きが聞こえてきた。ついでに……蹄《ひづめ》の音も。どんどん近づいて来る。どんどん近づいて来る! 来るなよぅ!
さらに嘶き。僕たちから二〇メートルほど離れたところにある崖《がけ》の方からである。そしてほどなく、嘶きの主が崖の上から姿を現した。
それは紛れもなく馬だった。遠目にもはっきりと判る、風にたなびく立派な鬣《たてがみ》が印象的な、栗毛の馬だ。馬。……馬……なのだが……。
人が乗っていた。
その馬には二人の人間が乗っていた。
一人は男で、なんかカウボーイみたいな格好をしている。片手で馬の手綱を握り、もう片方の手には拳銃を持っている。
男の前には一人の少女が座っている。髪は銀色で太陽の光に輝いている。黒ずくめのドレスを身に纏《まと》い、フリルのついたスカートが風に揺れる。あれはいわゆるひとつのゴシックロリータ、略してゴスロリと呼ばれるファッションだろう。
驚愕するところはそれだけではなかった。馬の後ろから……もう一人、人間が走ってくるのが見えた。……走ってきたのだ。何の乗り物にも乗らず、自らの足で、問答無用で走ってきたのだ。馬と同じスピードで。
大柄な黒人で、その男は、なんというか、その…………西部劇で見かけるインディアンのように見えた。頭にはイーグルの羽根飾り、顔には派手なペイント。ひらひらした民族衣装っぽい服を着ている。それが走ってきた。男は馬の横に追いつくと、何事もなかったかのように立ち止まってこちらを睥睨《へいげい》してきた。
……高さ十メートル以上はある崖の上から僕たちを見下ろす――
―――馬と、カウボーイと、ゴスロリ少女と、インディアン。
率直な感想――――「変態だ」と僕は思った。口に出ていたかもしれない。
「なんなんだ一体……」
「…………ねえ悠紀……どうするの、アレ」
珍しく、深春が顔に困惑を浮かべている。どうやら僕より高い非常識適正値を誇る深春から見ても、アレは反応に困る類のモノらしい。
「……あれが師匠の言っていた〔敵〕でしょうか」
特に動じた様子もなく、くおんが言った。僕はため息を吐《つ》く。
「……サバイバル訓練じゃなくて、戦闘訓練だったってオチか……。どちらにせよ、あんな連中とは絶対に関わり合いになりたくないな。というわけで見なかったことにしよう」
深春が「それがいいね」とすぐに頷いたので、僕たちは踵《きびす》を返し、三人組から逃げようとした。だが、
パ――――ンッ! ヒヒ――――ンッ!
……またしても銃声と嘶《いなな》き。そして、
「HEY! チョイと待ちなァ、お嬢さんがた」
後ろからの声を無視して、僕はかまわずダッシュで逃げようと思った。けれど、くおんが馬鹿正直にも足を止め、
「……呼んでおられるようです、義姉上《あねうえ》」
と僕の袖《そで》を引っ張って引き留めた。
「しっ、目を合わせちゃいけません。アホがうつる。アホってのは呪いのビデオと同じで、見るだけで感染するんだ」
そんなことを言いつつ振り向いたところ、くおんはすでに刀の柄《え》に手をかけ、バリバリの臨戦態勢で相手を凝視していた。
「……殺《や》る気満々だね、マイシスター」
苦笑しつつ僕が言うと、
「……義姉上、お気を付けください」くおんは三人組を見つめたまま呟いた。「……気を抜くと――こちらがやられます」
「え?」
えらく緊張した様子のくおんを訝《いぶか》しく思ったそのとき。
ひらり――と、フリルヒラヒラの黒スカートをはためかせ、銀髪の少女が体重を感じさせない動作で馬から下りた。そして無造作に右手を背中に伸ばし――次の瞬間、ギラッという眩《まばゆ》い光が目に入った。少女が背負っていたもの――それは、西洋剣だった。
シュン、と、鞘から刃が高速で引き抜かれる音。光。髪と刃の銀色の反射。
僕がそれらを認識するが早いか、なんと少女は、無造作に崖から飛び降りた。
とん、と軽やかに、足場の悪い岩場に着地。剣の切っ先を僕たちの方に向ける。
「綺麗なコだね」
深春が言った。
「……だな」と僕。「……手が出せなくて残念だったな、深春」
ちょっとした嫌みを言ってみる。……深春には、僕の知らないところで色んな女の子に手を出しまくっていたという前科があるのだ。
「もうっ。悠紀のイジワル」
深春がふくれた。
……ともあれ『綺麗な娘《こ》』、という深春の表現は実に正鵠《せいこく》を射ていた。
年はくおんと同じくらいだろう。身長は一四〇センチあるかないか。北欧系の顔立ちで、目は異様なくらい澄んだブルー。〔綺麗〕という形容しか出てこない、ため息を吐《つ》きたくなるほど整った容貌《ようぼう》の美少女だが……しかし、その顔からは感情を読み取ることが出来ない。どことなく気怠《けだる》げな感じのする無表情。……同じ無表情でも、凛《りん》とした雰囲気を持つくおんとは似ているようで違う。くおんが日本人形だとすれば、彼女はフランス人形といったところか。手にしている武器(いやまあ、そんなものを持っていること自体がおかしいのだが)もちょうど、日本刀と西洋剣で対照的だし。
くおんが僕をかばうように一歩前に出る。銀髪の少女は、剣の先を僕たちに向けたままぴくりとも動かない。
と、そのとき。不意に崖の上にいた馬に乗ったカウボーイ(年は三十過ぎくらいだろうか、髪はボサボサの金髪で、無精ひげを生やしている。よく見るとなかなか男前かつ愛嬌《あいきょう》のある顔立ちの白人だ)が、ひらりと馬から下りて声を上げた。
「確認だプリティガールたち! ユーたちはユウキ・クドウ、クオン・クドウ、ミハル・シラサキで、間違いねェかい!?」
「人違いです!」
と僕は即答した。
「な、なんだってェ――!?」と慌てるカウボーイ。隣で佇《たたず》むインディアン姿の男(年はよく判らないが多分カウボーイと同じくらい。黒人で、身長は二メートル以上ある。威風堂堂といった言葉がピッタリの貫禄ある偉丈夫だ)に、困った顔で話しかける。「おいリカルド、どうするよォ? 人違いらしいぜ!?」
「――笑止千万」
えらく渋い、しかしよく通る声でリカルドと呼ばれたインディアンが答えた。
「ターゲットはあの三人だ。間違いない」
「ハハハ、バァカ言っちゃいけねェよリカルド! あんな清楚で可憐《かれん》で純真で、世の中の汚い部分なんて何一つ知らなさそうな美少女が嘘なんて吐《つ》くわけねェだろ」
ぐさぐさっ! ぼ、僕の心に見えない刃が……!
「……悠紀、泣きそうな顔してるよ?」深春が笑いをこらえきれない顔で言った。それから意地悪っぽく、「……清楚で可憐で純真、だって」
「……僕の在って無きが如きアイデンティティを根っこから覆すような危険な発言だね。さすがに驚いたよ」
あんなことを言われたのは生まれて初めてだ。そうか、女物の服を着た僕は清楚で可憐で純真に見えるのか。…………ああなんて恥ずかしい。もう死にたい。
「……よく見よカルロス。あの娘《むすめ》、腰に銃を下げている」
リカルドが言った。するとカルロスと呼ばれたカウボーイは、
「ハハハ、相変わらずリカルドはモノを知らねェなァ。アレはジョシコーセーの必須アイテムの一つ、携帯電話さ!」
「……ならばあの着物の娘の日本刀はどう説明する」
「携帯ストラップじゃねェかな?」
「……付き合っていられん」
リカルドが呆れ顔をしたそのとき、
「――――それで、やるの? やらないの?」
銀髪の少女が無表情のまま、心底どうでもよさそうな口調で、上で漫才を繰り広げる男たちに尋ねた。
「構わん、やれ、イリス。ただし、お前の相手はその剣士だけだ」
リカルドが言った。
「――そう」
イリスと呼ばれた少女は一言呟き、剣を構え直し――次の瞬間、一陣の黒い風と化した。風は真っ直《まっす》ぐ、飛ぶが如き速さでくおんに向かって行く。くおんの顔に一瞬、わずかだが緊張が走る。しかしそれは本当に、〔わずか〕で〔一瞬〕のことだった。
くおんの右腕の肘から下が一瞬ブレた――そう認識した瞬間には、既に腰に下げた鞘からは日本刀が抜かれていた。〔未至磨抗限流《みしまこうげんりゅう》〕剣術・免許皆伝の使い手、〔妹姫《マイヒメ》〕久遠くおん。その神速の抜刀術は僕ごときでは到底目で追えない。……一応、ガンナーである僕の動体視力は常人より上の筈なんだけどなあ……。
――ッギッッッ!!
金属と金属がぶつかるというか、擦れるような音。正面から振り下ろされたイリスの剣と、振り払ったくおんの刀。双方ともに神速。日本刀と西洋剣の刀身が火花を散らした。その次の瞬間には、くおんは赤い風、イリスは黒い風となり、それぞれ逆方向へ跳躍して距離をとった。……この超人ロリータどもめ。
「相変わらずスゴイねー、くおんちゃん。刀を抜くところ、よく見えなかったよ」
深春が言った。〔まったく見えなかった〕ではなく〔よく見えなかった〕というのがミソだ。ここにも超人さんがいらっしゃる。
「そのくおんとやり合うイリスって娘《こ》も何者なんだ……」
くおんとイリスが、数メートルの距離をとったまま勾配《こうばい》のある岩場を併走する。決して平らな道ではないというのに、二人ともその軽やかな足運びに乱れはない。くおんは抜き身の刀身を下段に構え、イリスは両手持ちで正面に剣をかざしながら、互いに相手の動きを牽制《けんせい》しあう。
先に仕掛けたのはイリスだった。無言で、横に薙《な》ぎ払う。高速の剣閃《けんせん》が銀色の残像を残す。それより少し遅れ、銀の髪の煌《きら》めきも残像を結ぶ。くおんはその剣戟《けんげき》を、上に跳んで回避した。横走りからのジャンプとは到底思えない、自分の身長ほどの高さまで、予備動作も無しに一気に跳躍。
「……ヤッ!」
裂帛《れっぱく》の気合いとともに、空中から、イリスの手の甲めがけて刃を突き出す。弾丸のようなその突きを、イリスは半歩横に動いて回避。その頬のすぐ横を日本刀が掠《かす》め、切断された美しい銀髪が数本風に舞った。くおんが着地。それと同時に少し腰を落とし、さらに追撃の突きをイリスに繰り出す。イリスはそれを、今度は剣で振り払った。
ガキンッ!
鋭い音とともに、再び火花が散る。くおんの剣戟《けんげき》がわずかに逸れたその隙を突いて、イリスは逆袈裟《ぎゃくげさ》に剣を振った。紙一重で後ろに回避したくおんは、負けじと刀を振り下ろしてイリスの剣を斬りつけ――いや、叩きつける。再び飛び散る火花、火花、火花――――鋭いが、かなり荒っぽい攻撃だ。自分の刀の硬度を信じていなければ、あそこまで思い切った振りは出来ないだろう。
イリスが一瞬、怯《ひる》む。それを見逃すくおんではない。距離をとろうと後ろに跳躍したイリスを、赤い疾風となり追撃。力強く踏み込んだ袈裟斬りは、わずかにイリスに届かなかった。イリスはさらに横に疾駆《しっく》し、くおんとの距離をとる。くおんも刀を構え直し――しかし! その瞬間、イリスがなんと、くおんから離れながら剣を振ったではないか。イリスの剣の刀身は一メートルもない。到底攻撃の有効範囲ではな――だがっ!
「ッ!?」
くおんの顔に緊張が走る。突如として、イリスの剣が伸びた。超人的な反射神経で咄嗟《とっさ》に後ろに跳んで避《よ》けるくおんを、剣の切っ先がまるで獲物に食らいつく蛇のように追う。くおんが空中で身体をひねって、アクロバティックに方向転換、真横に避ける。しかしさらに追尾する刃の蛇。逃げられない――! しかしくおんは、さらに超人的な動きでもってこれを回避した。
ビュッ――ザッ!
空中で刀を自分の真下目がけて突きだし、岩の地面に突き刺さった刀の鍔《つば》を足場にして、さらに跳躍したのである。それから、腰にさしたままだった鉄製の鞘を空中で抜き、迫り来る刃を弾き返した。シュルル――という蛇を思わせる風切り音とともに、イリスの刃の長さが元に戻る。そこでようやく、くおんは軽やかに地面に足をついた。滞空時間はじつに数秒間。くおんが刀を引き抜く。その頬を、一筋の汗が伝う。イリスの追撃はなく、二人はいったん距離をとった。
「……ふーん……」
相変わらず無表情でくおんを凝視し、イリスは僅《わず》かにため息を漏らした。
「……蛇腹剣《じゃばらけん》、ですね」
ぽつり、とくおんが呟いた。
蛇腹剣――一見するとただの西洋剣のように見えるのだが、その刀身が鋼線で繋がれた十枚ほどの刃に分離し、鞭《むち》のような形状に変化させることが可能なのである。それがイリスの得物だった。話に聞いたことはあるけれど……実物を見るのは初めてだった。そもそも蛇腹剣なんて、鋼糸や大鎌《デスサイズ》などと同じ類の、実用性皆無のフィクションの中だけの武器だと思っていた。
「……めちゃくちゃだ」
偽《いつわ》らざる本音の言葉を、僕はため息とともに漏らした。
「……おいおいリカルド、今の見たかよ? あのサムライガール、イリスのオロチをかわしやがったぜ?」
「……うむ」
やけに陽気にカウボーイ・カルロスが言って、インディアン・リカルドもまた、分厚い唇を笑みの形に歪めて頷いた。
「……これが未至磨抗限流《みしまこうげんりゅう》、か……相手にとって不足無し。――ぬんっ!」
重い気合いの声とともに、リカルドが崖から飛び降りた。どんっという響きとともに着地。そして八極拳《はっきょくけん》のようなファイティングポーズをとる。それだけで、まるで大気が重くなったかのような強烈なプレッシャーがこの場を包んだ。
「……な、なんなんだよアンタらは! 名を名乗れい!」
プレッシャーに堪《た》えきれず、僕が叫んだ。何故か時代劇風。
すると。表情をぴくりとも動かさず、まず大男が渋い声で答えた。
「……リカルド・ザ・ブラックウィング。それが今の我が名だ」
次いで、崖の上のカウボーイ。
「俺はカルロス・リンドバーグ。ちなみにこの馬は相棒のヒンデンブルグだ。ヨロシクな、ウルフガール」
……ウルフガール? ……狼少女……ああ、要するに嘘吐《うそつ》きってことか。
「……そちらの激マブ美少女は?」
くおんと睨《にら》み合っている(ように見えるが互いに無表情のため本当に睨み合っているのかどうかはよく判らない)銀髪の少女を目で指し、僕が尋ねた。すると聞こえていたのか、少女は淡々と、
「――イリス・クレセント」
それだけ言うと、少女は再び、くおん目がけて剣を振った。一瞬にして五メートル近い長さの鞭《むち》になった蛇腹剣《じゃばらけん》の一撃を、くおんは刀で弾き、一気に距離を詰めて一閃《いっせん》。しかしイリスは得物を鞭から剣の状態に戻し、くおんの攻撃を受け止めた。戦闘再開、斬り結ぶ赤と黒の剣士。まるで見事な剣舞を見ているかのように、その戦いは美しかった。二人の容姿の可憐《かれん》さを抜きにしても、ほとんど芸術に近い。思わず見惚れそうになる。
だがこれは――紛れもない、命のやりとりだった。
「やりすぎじゃないですか。あんなの、一歩間違ったら大怪我《おおけが》じゃ済みませんよ!」
リカルドとカルロスに対して抗議する僕。
「これは異なことを……」リカルドが淡々と言う。「戦いとは、己の全てを懸《か》けるものだ。貴様も武人の端くれならば解るであろう」
わかんねえよ。……そもそも、武人の端くれなんてものになった覚えはないし。
「でも、もしも死んじゃったら修行にならないでしょうに」
「……修行? なんのことだ」
リカルドは眉根を寄せて、訝《いぶか》しげに呟いた。……とぼけている、というわけでもなさそうだし…………あれ? ひょっとして、僕は大きな勘違いをしている?
「……あなた達はブーメラン……あ、いや、未至磨《みしま》ツネヨ師匠に〔敵〕役として雇われたんじゃないんですか?」
恐る恐る聞いてみた。すると、カルロスが、
「ハハハ、ンなわけねェだろお嬢ちゃん。俺たちは――」
「〔未至磨│抗限流《こうげんりゅう》〕の三人の継承者の抹殺《まっさつ》――それが此度《こたび》の我らの仕事だ」
「そうそう。ちなみに依頼主は、」
「馬鹿者。それを明かしてどうする」
リカルドがカルロスの言葉を遮った。
……抹殺、だって……? なんで僕たちが殺し屋に狙われなきゃいけないんだ!?
「なんでボクたちが殺し屋に狙われなきゃいけないのさ!?」
深春が、僕の疑問をそのままぶつけた。
「……愚問」とリカルド。「……我らはただ、強者を求むるのみ」
「オイオイ、我ら、とか言うなって。強者なんて求むってんのはリカルドだけだってェの。俺とイリス、そいでヒンデンブルグは、正真正銘、ただの流れの何でも屋さァ」
飄々《ひょうひょう》とした口ぶりで、苦笑を浮かべてカルロスが言った。
「だからとりあえず……死んでくれや」
片手に持った銃を構え、カルロスが崖の上から僕を狙う。褪《あ》せた金色っぽい光沢を放ち、長い銃身が印象的な、全体的にシャープなフォルムを持つその拳銃の名はコルトSAA(通称ピースメーカー)キャバルリー。西部劇では必ずといって良いほど登場する、かなりカッチョイイ銃である。むしろデザートイーグルなんかよりこっちの方が欲しかった。
……百年以上前に開発された品なので命中率自体はそれほど良くない筈だし、SAA(シングルアクションアーミー)は一発ごとにハンマーを起こしてからトリガーを引く必要があるため連射も難しい……筈だ。……しかし蛇腹剣《じゃばらけん》なんてマニアックな武器を自由自在に使いこなすイリスを見る限り、このカウボーイも恐らくは凄腕《すごうで》の銃遣い《ガンナー》と見て間違いないだろう。……〔未至磨抗限流〕門下の中では図抜けて脆弱《ぜいじゃく》な僕が、果たしてこの男に対抗できるのだろうか……?
「待て、カルロス」
不意にリカルドが言った。
「……銃遣い《ガンナー》には、銃遣いの流儀があろう」
「そっか。いけねェいけねェ。危うく金に目がくらんで、自由なカウボーイの誇りってヤツを忘れるとこだったぜ」
そう言ってあっさりと、カルロスは銃を腰のホルスターにしまった。
「ってワケでお嬢ちゃん。腰のものを抜きな。丸腰の女性を撃てるほど、俺は腐っちゃいねェんでね――」
……ふむ、なるほど。銃を抜かなければ撃たないのか。……――なら、話は簡単だ。
「……降参します。殺さないでください」
そう言って僕は両手を上げた。
「ちょっ、ゆ、悠紀!?」
深春が唖然として言う。カルロスもまた、
「いや、その……抜いてくれないとこちらとしても困るんだが。頼むよお嬢ちゃん。ガンナー同士の決闘っつったら、早撃ち《ファスト・ドロウ》だろ? 闘《や》ろうぜ?」
「嫌です。僕は戦いたくありません」
「オイオイ……」
心底困った顔をするカルロス。と、そのとき、
「……さて」
ずいっ、と、リカルドが一歩を踏み出した。それだけで、冷や汗が出る。……そうだよ。カルロスの方はどうにかなっても、まだこの人がいたんだ。見たところ武器は持っていない……ということは彼の専門は徒手空拳《としゅくうけん》? だが、〔未至磨抗限流〕三人娘の中で体術を使うのは深春だ。しかし深春はゴーストである。くおんはまだイリスと熾烈《しれつ》な戦いを演じてるし……必然的に、僕がこの人の相手をしなければならないことになる。……銃を使えばあるいは……しかし銃を抜けば崖の上からカルロスに狙い撃ちされる……。
「愚問」
そんな僕の思考をねじ伏せるように、リカルドが言い放ち――――そして、疾駆《しっく》。
二メートルを超える巨漢でありながら、イリスやくおん(あと、馬)に勝るとも劣らない恐るべきスピードで突進してくる。
目の前に迫る巨躯《きょく》。くわっと目を見開き、その眼力だけで人が殺せそうな強烈な覇気をまき散らす!
「ガアアアアアアアアアアアア――――――ッ!」
獣じみた咆哮《ほうこう》とともに、丸太のような腕を振り上げ――拳を水平に薙《な》ぎ払う。
深春を狙って。
「ええっ!?」
深春の、どこか間が抜けた悲鳴。次の瞬間、
どうんっ!
「ええええええええ――――ッ!?」
深春の身体が吹っ飛んだ! ゴーストに物理的な攻撃は一切効かない筈――それにもかかわらず、リカルドの振るった拳は深春を十メートル以上も吹っ飛ばした。
霊媒《れいばい》体質……! ごくまれに存在する、ゴーストに物理的接触が可能な特異な能力……というか体質。かつてこの僕と、命を賭《と》して拳銃の引き金を引き合った電波少女、紀史元《きしもと》ひかりちゃんと同じ体質を、どうやらこの男も備えているらしい。インディアンの格好は伊達じゃなかったのか!
「……ふん」
リカルドは、どこかつまらなさそうに言った。
「未至磨抗限流――かの伝説の傭兵《ようへい》、未至磨ツネヨが編み出した究極の武術……どうやら、まともな使い手はあの剣士のみのようだな」
「そんなこと言われても……」
僕が呟くと、ギロリ、と鋭い目でリカルドは僕を見下ろした。ひいいぃ……メチャクチャ怖いよう……! だが、そのとき彼の後ろから、
「ちょっとちょっとおっ! いきなり殴りかかるなんてヒドイじゃない!」
ピンピンした様子で深春が出現した。その服装は……何故か緑色のチャイナドレスになっていた。ゴーストは〔変身〕することによって、自由自在に服装を変えることが出来るのだ。ちなみに、深春がダメージを受けている様子はない。
「ほう……我が拳は霊をも砕《くだ》く……。それを耐えるか」
感心したように、リカルドは深春に向き直る。深春は実に好戦的な笑みを浮かべ、なんとなくカンフーっぽい構えをとる。
「えへへ、ちょっとは痛かったけど、でも、四トントラックに激突された衝撃と比べたら全然たいしたことないね」
「……深春。それ、あんまり笑えない」
深春は三ヶ月ほど前に、トラックに撥《は》ねられ、ぐちゃぐちゃの肉塊となって死亡したのである。僕は今でも時々、その光景を夢に見る。軟弱な精神力だと、自分でも思う。
「ごめんごめん」反省ゼロの口調で深春が言って、不意に、その表情を真剣なものに改める。キリッとした……なんというか、まさにそれは〔戦士〕の顔なのだった。この顔は知っている。死亡する直前、僕に想いを告げてきたときと同じ顔をしているのだ。恋愛は戦いに等しい――それは僕の持論の一つなのだが、どうやら深春にとっても同じみたいだ。
「オジサン、いきなり女の子を殴るなんて良くないよ? 女の子には優しくしろって言われなかった?」
軽い口調で――ただしその目はまったく笑っていない――深春が言う。
「笑止」リカルドが油断なく構え、応じる。「戦士と戦士の間に、老若男女の境界など無し。我が求むるはただ、強者のみ。弱者はただ、打ち払うのみ。そして」唇が僅《わず》かに吊り上がり、眼光の圧力が増す。「……貴様は立ち上がってきた。故に認めよう。娘よ――貴様は、このリカルド・ザ・ブラックウィングの前に立つ〔敵〕に足る戦士であると」
「えへへー」ちょっと嬉しそうに深春が笑い、「ならば!」何故か時代がかった口調で告げる。
「〔未至磨抗限流《みしまこうげんりゅう》〕体術・免許皆伝、白咲深春、いざ参る! なんちてっ!」
次の瞬間、深春の姿がブレた。
「ぬっ!?」
リカルドが目を細める。次の瞬間には、深春は十メートルほど上方へ飛び上がっていた。ゴーストでなければ到底不可能な動きだ。
「いきなり新必殺技! ゆーき、ちゃんと見ててねーッ!」
視認できればな。
僕がそう思ったのと同時に、チャイナドレスの深春の足が、矢――どころではない、まるでロケット弾のごとき勢いでリカルドに向かって行く。緑色の砲弾と化した深春の蹴りを、リカルドは咄嗟《とっさ》に腕をクロスしてガードする。大樹のようなその体躯《たいく》は、弾丸のような一撃を微動だにせず受け止めてみせた。
「ふぬおっ!!」
気合いの声とともにリカルドの腕が深春を振り払った――ように見えたのは僕の気のせいだった。深春は自分から離れたのだ。ひらりとリカルドの頭を飛び越え、背後をとる。そして後頭部目がけて膝蹴りを放った。いわゆる――シャイニングウィザード。
どがっ! というすさまじい音とともに、リカルドの巨体が吹っ飛ぶ。しかも吹っ飛んだ先は足場の悪いこの山でも特に急勾配《きゅうこうばい》になっていた箇所《かしょ》で、リカルドの身体はゴロゴロと岩の斜面を転げ落ちる。うわあ……すっげえ痛そう。
「ぐ……ッ!」
どうにか両腕で岩を掴み、一気に立ち上がるリカルド。そして深春の姿を探す。しかしどこにもその姿はない。周囲にも、上空にも。
リカルドが眉をひそめた、まさにそのとき。突如リカルドの背後から、深春が出現した。地面の下に潜《もぐ》っていたのだ。以前にも使ったことのあるツッコミをあえてまたここで入れよう。お前はゲッター2か。
「てえええ――――いッ!」
深春の裂帛《れっぱく》の気合いとともに放たれた、地対空ミサイルのようなニーキック! それはリカルドの背中を強襲し、なんとその巨体を一メートルほども浮かせたではないか。そこへさらに追い打ちがかかる。深春はニーキックの勢いのまま高速で浮上し、今度はリカルドの脇腹に痛烈な掌底《しょうてい》を叩き込んだ。
「ぐぉぶ…っ」
リカルドが苦痛の呻きを上げ、吹っ飛ぶ。それでもどうにか立ち上がり、急ぎ後ろに跳躍して深春から距離をとる。しかし跳んだ先の足場が悪く、岩に蹴躓《けつまず》いてバランスを崩す。そこへ再び上空から深春の彗星《すいせい》キック(たった今名付けた)が。今度はモロに食らい、リカルドは「がはっ!」と後ろに倒れ込んだ。
「圧倒的じゃないか……」と僕が呆れに近い感嘆を漏らす。もともとかなりの使い手だったとはいえ、生前の深春はあくまで人間レベル(つまりは本気モードの一ノ瀬《いちのせ》さんと同じくらい)だった。だがゴーストの特性をフルに活かし、空へ地下へと自在に動き回る深春は、まさに化け物のような戦闘能力を発揮していた。しかも足場の悪さが、リカルドに厄介な障壁となってのしかかっている。深春の勝ちは揺るぎない。
「おいおいマジかよ……イリス! リカルドがピンチだ! サポート頼む!」
カルロスが声を張り上げた。
「……ん」
くおんと壮絶な斬り合いをやっていたイリスは、顔色一つ変えずすぐにくおんから距離をとって深春の方へ疾駆《しっく》。一瞬にして蛇腹剣《じゃばらけん》の有効射程範囲に深春を捉《とら》え、一閃《いっせん》。蛇となった刀身が深春の背後に襲いかかる! 回避は不可能! ……だが通り抜けた。
「……あ」
「しまったァッ! ゴーストにゃリカルドしか触れねェんだった! 普通にドツキ合いしてたから忘れてたぜェッ!」
ぽかんとしたイリスと、頭を抱えるカウボーイ。深春はイリスおよび自分の身体を貫通した(ように見える)銀の刃をまったく無視して、リカルドへ追撃をかける。受け身をとっていたらしいリカルドはどうにか立ち上がるも、変幻自在に全方位からくる深春のラッシュに防戦一方だ。また、イリスの背後から、くおんが赤い風となって追撃。イリスは気配に気付き急いで蛇腹剣の刀身を剣状に戻し防御を試みるも、くおんの斬撃《ざんげき》の方が一瞬だけ速かった。
「……!」
イリスの表情に、初めて焦りが浮かぶ。ガキンッ! という激しい音とともに、蛇腹剣がくるくると宙を舞い、ザクッと地面に突き刺さった。そのすぐ横では、リカルドが深春によってノックダウンさせられたところだった。
「……勝負あり、です」
くおんがイリスののど元に刀の切っ先を突きつけ、淡々と宣言した。その額に一筋の汗が伝う。平然としているように見えるが、息もかなり上がっているようだ。……くおんがこれほど疲弊《ひへい》しているのを見るのは初めてかもしれない。
……さて。それでは、
「――動くな!」
突如としてそう叫んだのは――僕だった。腰のデザートイーグルを抜き、カルロスの方に銃口を向ける。くおんを撃つため銃を抜こうとしていたカルロスが凍りつく。だが、その表情にはまだ余裕が見てとれた。……僕は構わず告げる。
「跪《ひざまず》け! 命乞《いのちご》いをしろ! 次は耳だ! ――というゴミのような人の名台詞《めいぜりふ》はともかく、どうでしょう? ここで大人しく退くなら、今回は三人とも見逃してあげますよ」
「……ハハハ、冗談キツいぜミシマのガンスリンガーガール。それで脅してるつもりかい?」ちょっとニヒルな笑みを浮かべるカルロス。「嬢ちゃんの銃……よりにもよってデザートイーグルだろ? ハリウッドのB級アクション映画じゃあるめェし、そんな大口径の銃なんて、女の子の細腕で扱えるわけが……」
「――――扱えないと、本気で思いますか?」
感情を殺した冷たい声で、僕はカルロスの言葉を遮って言った。
「な…に……」とカルロスの顔に戸惑いの色が浮かぶ。それから、出来る限り自信たっぷりに聞こえるように、
「……たしかにこいつは、女子供が撃てば、あまりの反動で肩が外れるとさえ言われているシロモノです。こんなものを構えている僕の姿は、ちょっと銃に詳しい人間から見たら、さぞかし分不相応で滑稽《こっけい》に思えるんでしょうね。ですが……」ニヤリと笑う。「この僕を誰だと思っているんですか? あの伝説の傭兵――裏社会でその名を知らない者はいないという最強の戦士、未至磨ツネヨが考案した最強の戦闘術〔未至磨抗限流〕の銃技を極めたこの僕、久遠悠紀が、たかがデザートイーグルを……ちょっと重くてちょっと威力が大きいというだけのごく普通のハンドガンを扱えないと、あなたは本気でうんですか? くおんと深春……僕の同門である剣士と武闘家の圧倒的な戦いぶりを見たあとで、ガンナーであるこの僕だけ戦闘力が低いだなんて……そんな都合の良いことがあり得ると、あなたは本気で思ってるんですか?」
「ウ……そ、それは……」カルロスが呻く。「……だ、だが、それならナゼ、さっきは銃も撃たず降参したんだ。それだけの腕前があるなら、俺たち三人を一気に殲滅《せんめつ》することも可能だったハズじゃねェか」
「……簡単なことです。僕の弾丸は決して狙いを外さない……。外せない、と言うべきでしょうか。……でも僕は、人間の身体に五〇AE弾で大穴が開く光景なんて、好んで見たいとは思いません。それに〔未至磨抗限流〕は、あくまで護身術。無益な殺生は禁じられています。――だけど!」
「……っ!」
怯《ひる》むカルロスに、僕はたたみかける。
「だけど僕は――いざとなったら躊躇《ためら》いなく発砲します。……だから、もし、あなたが……その腰の銃を抜こうとしたら――、その瞬間に、僕はあなたを撃ちます」
「……お、俺の早撃ちは、自分で言うのもアレだが、けっこう大したモンだぜ?」
「なら――試してみますか? 出来れば撃ちたくないんですけど」
暫し無言で、僕とカルロスの視線が交差する。緊迫した空気。カルロスの逡巡《しゅんじゅん》が手に取るように解る。自分の腕を信じて、一か八か銃を抜くか。それとも僕の言うとおりここは退くか。……さて、どう出る、カルロス・リンドバーグ。僕の頬に汗が伝う。
と、そのときだった。
「ヒヒーンッ!」
カルロスの傍らにいた馬が小さく嘶《いなな》き、なんと、まるでカルロスを庇《かば》うかのように彼の前――デザートイーグルの射線上に立ち塞がったではないか。
「ヒ、ヒンデンブルグ……おめェ……」
カルロスが驚きの声を漏らす。馬は動かず、ただ主人の前で壁となる。これでは……カルロスを狙えない。カルロスの方も僕を撃てない。つまるところ戦闘の続行は不可能だ。
「……いい馬、ですね」と僕が言った。これは紛れもなく本音だった。本当に主人を庇《かば》っているのかどうかは知らないが。
カルロスは、苦笑を浮かべ、しかしどこか誇らしげに言う。
「ああ。俺の自慢の相棒だ」
それから、彼の口からため息が漏れる。
「……オーケイ。ヒンデのために今は退こう……リカルド、文句ねェな?」
仰向けに倒れたまま、いつの間にか意識を取り戻していたらしいリカルドが頷く。
「……久々に敗北を味わった……」起きあがり、「見事であった……ミハル・シラサキ。貴様を強者と……生涯を賭《と》して追うに足る、我が宿敵と認めよう」
「うんっ、インディアンのオジサンもなかなか強かったよー。またやろうねっ」
妙にサワヤカな笑顔で深春は言った。
「……いずれまた、必ず。……イリス、退くぞ」とリカルドが言うと、イリスはのど元に刀を突きつけられているにもかかわらずこくりと頷いた。……咄嗟《とっさ》にくおんが刀を引っ込めたため、怪我はなかったが……危ないことするなあ……。
「……じゃ」
イリスは短くそう言って、地面に突き刺さった蛇腹剣を抜いてから、リカルドとともに走り去る。だが、彼女は不意に振り返り、ガラス玉のような目で僕をじっと見つめてきた。深く透明なブルー。吸い込まれてしまいそうな――まるで鏡の内側から覗《のぞ》き込まれているような、不思議な感覚を覚える。
「……なに?」
少し怯《ひる》んで僕が尋ねると、イリスもまた、眉をぴくりと上げ、少し戸惑った顔をした。自分でも自分の行動の意味が解らない……そんな顔だ。
「……べつに」
それだけ言って再び無表情に戻り、僕に背を向けて駆ける。
「はいやァッ! 行くぜヒンデンブルグ!」カルロスも馬に跨《またが》り、巨漢と銀髪少女の消えた方角へ向かって駆けて行き――――ほどなくして、三人の刺客《しかく》の姿は見えなくなった。
「………結局なんだったんだろうね? あの人たち」
深春が言った。僕は「さあ?」と肩をすくめる。気にはなるけど、無理に知りたいとは思わない。
「……また、お手合わせ願いたいものです」
ぽつり、とくおんが漏らした。……僕は御免だ。
「そういえばあのイリスっていう娘《こ》、ちょっと悠紀に似てたよね」
不意に深春が、そんな意味の解らないことを言った。
「……はい。そうですね」とくおんまでもが何故か頷く。
「……僕に? どこが? 似てるっていったらくおんの方だろ。無表情だし」
「えー、違うよー。くおんちゃんはちょっとクールなだけだもん。イリスちゃんの方は感情が麻痺してる感じかな。……だから、うん、やっぱり悠紀と似てる」
深春は――どことなく懐かしそうに目を細めて言った。
「――――昔の悠紀と、ね」
謎の三人組と交戦してから約三時間後。険しい山道をどうにか乗り越えて、僕たちはようやくカムイエクウチカウシ山を下りることに成功した。ババアによって連れてこられたのは山の中腹よりも少し下のあたりだったらしく、ひたすら下に向かって下りていったところ、思ったよりは簡単に登山口にたどり着くことが出来た。渓流《けいりゅう》に転落することも、ヒグマと遭遇することもなかった。とても意外なことに。
で。
「……車、来ないねー」
深春が退屈そうに言った。
「…………」座禅を組んでいたくおんが、無言でこくんと頷いた。
……現在、登山口のすぐ前の道路でヒッチハイクをしようとしているところなのだが――見事なまでに一台も車が通らない。美少女が三人もいる(一人はゴーストだとか一人は銃持ってるとか一人は日本刀持ってるとかはとりあえず考えないでおく)のだから大抵の運転手ならば止まってくれる筈なのだが……
「……ま、こんなご時世だからな……」
大きくため息を吐《つ》き、僕。
「でも、こんなんじゃ日が暮れちゃうよ。街まで歩いた方が良くない?」
「うーん……」
迷う。道路の脇でぼーっと車を待ち続け、既に三十分以上が経過している。深春の言うことにも一理ある。でも…………めんどくさい。疲れるからやだ。道路の先に視線をやってみると、地平線の先には見渡す限りの高原が広がっている。建物一つない。人一人いない。……街って……どこだよ。あまりに果てしない道のりを思うと、正直、気が萎《な》える。
「行こうよ悠紀っ! 迷わず行こう行けば分かるさっ!」
「へいへい。いーち、にー、さーん、だー」
弱々しく拳を突き上げて、僕は立ち上がった。
そのとき。
遠くの方から何故か――
――北島三郎の『風雪流れ旅』が、聞こえてきた。
日本のココロである(と言う人もいる)演歌の、こぶしを利かせた独特な歌い方。情感の籠《こ》もった渋い声はどこか寂しげで、しかし聴く者の心に何か熱いモノが湧き上がってくる(と言う人もいる)ような、そんな歌が。地平線の先から、まるで船乗りを誘惑するセイレーンの歌声の如く、僕たちの耳へと響いてくる。
「……深春。何故かサブちゃんの歌が聞こえてきた。僕はもう駄目かもしれない……」
「しっかりしてよ悠紀! これ、幻聴じゃないよっ!」
そのとき、くおんが目を開けた。道路の先を見据え――
「……来ます」
かくてやってきたのは、一台の大型トラックだった。市街地だったら間違いなく騒音で苦情が来るような大音量で北島三郎を流しながら、法定速度よりもかなり遅いスピードで悠々と、威風堂々と、こちらへ向かってやってくる。
僕は道路の脇で親指をピッと立て、「乗せてください」というヒッチハイクのジェスチャーをする。くおんが悠然と立ち上がり、広い道路の真ん中に佇《たたず》む。……危ないことするなあ。深春もくおんの横に並ぶが、こっちは別に危なくない。あの時と違って死なない。
そうしている間にもトラックが近づいてきて――――僕の目の前で止まった。BGMの演歌も、ちょうどそこで終わる。
……そのトラックの荷台には派手派手しいグラフィティアート風のペイントがなされていて、後ろ側には『疾風怒濤《しっぷうどとう》』という汚い文字がでかでかと躍っていた。いわゆるデコトラ――デコレーショントラック――というやつだろう。
「さあ、遠慮せず乗ってくれたまえ! 可愛い女の子たち!」
窓から運転手が顔を出して、僕たちに叫んだ。
「ありがとうオジサンっ!」深春が笑顔で礼を言い、それからふと怪訝《けげん》そうな顔をして、
「…………あれ? オジサン、どこかで見たことがあるような……」
僕もなんとなく、そんな気がした。たしかにどことなく見覚えがあるような……。
三十路ちょっと過ぎくらいの、どちらかというと都会的でこざっぱりした雰囲気のおっさんで、あまり〔トラックの運ちゃん〕という感じはしない。ネクタイ締めてるし。それから、頭には帽子……バスの運転手がかぶるような制帽をかぶっていて――
「あっ! 思い出した! 修学旅行のときのバスの運転手さんだよっ!」
ああなるほど……! 深春の言葉で、記憶が完全に一致する。たしか名前は丸橋高志《まるはしたかし》さん。七月上旬、僕たちが奈良「京都へ修学旅行に行ったとき、2年B組のバスを運転していたのが彼だ。ちなみに、そのとき一緒に乗っていた変態バスガイド、逆本麻紀《さかもとまき》さんと不倫をしていたらしい。
「ま、まさか君たちは……! あのときの……あの悪夢のような旅路で一緒だった……遠夜東《とうやひがし》高校二年B組の生徒なのかい……?」
丸橋さんもまた、驚愕に唇をわなわなと震わせて言った。
「……あの、どうしてバスの運転手のあなたがこんなところに?」
恐らく訊《き》いてはいけないことだろうと思いつつもどうしても気になって、僕は訊いた。
「……どうして、だと……よくぞ訊いてくれた! ならば語ろうではないか……!」丸橋さんの目になんだかヤバめな、炯々《けいけい》とした光が宿る。「……あの淫乱バスガイド逆本麻紀君は、君たちだけでなく職場の同僚たちにも、私《わたし》との関係を暴露しまくっていたのだ! うう……誘ってきたのは向こうなのに……な・に・が『アナタの股間のエクスカリバーで、わたくしの邪な心を貫いて※(w-heart.png) 』だよぅ! 嗚呼《ああ》、この世に正義はないのだろうか! ……ともあれ、そのせいで私は周囲から冷たい目で見られ、いたたまれなくなって会社を辞めた! さらには女房と子供にまで愛想をつかされて出て行かれ、仕方ないのでここ北海道の実家に戻ってきて、仕事のツテで手に入れたこのデコトラを日がな一日乗り回して心の傷を癒しているというわけなんだよ! どうだい恐れ入ったかい!?」
……ごめんなさい本気で恐れ入りました。……これほどまでに同情すべきなのか笑うべきなのか判断に困る悲劇のエピソードも珍しい。……ちなみに、僕としては笑うところだと思う。ただし本人のいないところでこっそりと。
「だが、やはり故郷はいいね……雄大な北の大地でデコトラを乗り回していると、心が洗われるようだ……。華やかな都会に憧れ、私は中学卒業と同時に家を飛び出し上京した。きっと、都会に行けば何か別のものになれると思っていたんだろうな……。しかし私は結局、そこで世間の厳しさを知っただけだった。そしておめおめと北海道に逃げ帰ってきたのだ……。こんな私のことを、負け犬人生と人は呼ぶのだろう……」
遠い目をして、丸橋さんは語った。彼の全身からは、まさに負け犬の哀愁《あいしゅう》とでも呼ぶべき何かが漂っていた。
「……義姉上《あねうえ》、彼からは負け犬の哀愁とでも呼ぶべき、ある種の趣《おもむき》を感じます」
くおんがボソリと言った。この正直者ちゃんめ。……しかし幸い丸橋さんには聞こえていなかったようで、
「ここで会ったのも何かの縁だ。乗りたまえ。君たちがどこへ行くのか、どこまで行けるのかは知らないが、私《わたし》は出来る限りの手助けをしよう……」
「ありがとうございます」
お礼を言って――僕とくおん、そして深春は、〔負け犬《アンダードッグ》(今つけた二つ名)〕丸橋高志《まるはしたかし》さんのデコトラに乗り込んだ。ちょうど有線放送で流れてきたBGMは――『三年目の浮気』。丸橋さんはちょっと気まずそうな顔をした。
僕たちは、丸橋高志さんの実家である牧場に行くことになった。よく考えると僕たちは無一文で、街へ行っても宿も食べ物もなく、空港に行ってもすぐには帰れないという状況だったからである。そんな僕たちに丸橋さんは親切にも、お金まで貸してくれるという。当初はデザートイーグルを売り払って路銀を稼ぐつもりだった僕は、ありがたくその厚意に甘えることにした。今日は彼の家で一泊し、明日、帯広《おびひろ》空港から本州へ帰る――そういう予定だ。
「何故ここまでしてくれるのかって? それはね、美女と美少女には優しくしろというのが、私の人生哲学だからさ」
逆本麻紀《さかもとまき》さんに酷い目にあわされたにもかかわらず、丸橋さんは堂々とそんなことをのたまった。ある意味、とても真っ直《まっす》ぐな人なのかもしれない。
ちなみに丸橋家の牧場は、ヒッチハイクをしたところから車で一時間ほどかかる、日高《ひだか》地方でもとりわけ辺鄙《へんぴ》な原野地帯にあるらしい。牧場は現在、丸橋さんの妹(まだ十九歳らしい)の千夏《ちなつ》さんが一人で切り盛りしているという。
「……妹は私と違ってしっかり者でね……三年前に親父が死んでからも、ずっと牧場を守り続けているんだ。いつかダービー馬を育てるのが、あいつの小さい頃からの夢なんだよ。私は牧場なんて売り払って、東京に来るよう何度も言ってきたんだが……頑として聞かなくてね。……だが、そのおかげで私は路頭に迷わずにすんだ。本当に、千夏には頭が上がらんよ。まったく、私にはもったいないくらいよくできた妹だ」
誇らしげに、丸橋さんは言った。だがいもうと自慢なら僕も負けてはいられない。
「そうなんですか。ちなみに僕の義妹《いもうと》もしっかり者でしてね。彼女の小さい頃からの夢は世界最強の剣客になることで、日夜鍛錬《たんれん》を欠かしたことがありません。今では抜刀術で岩を真っ二つにするほどの腕前です。僕は何度も、もっとおしとやかな女の子になるように言ったんですが、頑として聞きませんでした。……でも、そのおかげで、僕は謎の刺客《しかく》に斬殺《ざんさつ》されずに済みました。本当に、くおんには頭が上がりません。まったく、僕にはもったいないくらいのよくできた義妹です」
「……義姉上《あねうえ》。お世辞はノーサンキューです。照れます……」
僕の膝の上に座っているくおん(助手席は狭いのでこうやって座っているのだ。くおんの髪、いい匂い)が、淡々と言った。顔が見えないので、本当に照れているのかどうかは判断できないのだが……ま、いいか。
「はっはっはっ、久遠悠紀君、君は面白いねえ」
僕の言葉を単なる冗談だと思ったのか、丸橋《まるはし》さんは笑った。――しかし、その笑みが不意に強張る。
「な、なんだありゃあ!?」
悲鳴を上げた丸橋さんの視線の先には、トラックのサイドミラー。そこに映っていたのは、またしても、馬に乗ったカウボーイ&ゴスロリ少女と、馬と同じスピードで併走するインディアンだった。
カルロス・リンドバーグ、イリス・クレセント、リカルド・ザ・ブラックウィング、そして立派な鬣《たてがみ》を靡《なび》かせて疾走する馬のヒンデンブルグ。ちょっと前に山で交戦したばかりの刺客《しかく》たちが、またも僕たちを追いかけてきていた。
「あいつら、諦めたんじゃなかったのか!?」
「し、知り合いなのかい?」と丸橋さん。
「知り合いというか……」
どう説明したものやら迷う。「命を狙われています」なんて言ったら、車を降ろされてしまうかもしれない。
と、そのとき、くおんが身じろぎをした。傍らに立てかけてあった刀の鍔《つば》もとを握り、いつでも飛び出せるよう腰を浮かす。くおんちゃん、またしても殺《や》る気満々です。
「……丸橋さん、どうにか振り切ってもらえますか?」
「合点承知だ!」
厄介ごとに巻き込まれて迷惑かと思いきや、丸橋さんは何故か異様に楽しそうな、まるで甲子園出場を決めた高校球児のような輝く笑顔で頷き、アクセルを踏んだ。デコトラはぐんぐん加速し、後ろの変人トリオを引き離していく。
「はっはっはっ! あれは良い馬だな! だが、まだまだだ! やらせはせんよ!」
何かがぶち切れてしまったように哄笑《こうしょう》する丸橋さん。だがっ!
銃声が――〔バキューン〕という、いかにも〔鉄砲〕という印象の快音が――響いた。カルロスがピースメーカーをぶっ放したのだ。途端、車体に衝撃が走り、以後、まるで舗装されていないデコボコの道を走っているように車体が揺れ続ける。……どうやら、後輪の一つがやられたらしい。四五口径の弾丸だ、恐らくパンクどころではないだろう。
「まずは足を止めようってわけか……!」
「お、おいおいおい久遠悠紀君!? もしかしてもしかすると、あれって本物の銃ではないのかね!?」
驚愕を顔に張り付かせ、丸橋さんは叫ぶ。
「そうですよ。それが何か?」努めて平静に、僕が頷く。
「い、いつから日本は銃社会になったのだね!?」
「僕もよく知りませんけど、少なくとも三ヶ月くらい前には既にそうでした!」
「そうだったのかい!?」
「ええ。一昔前に流行った歌にもあるでしょう? ナントカ娘。の〔ニッポンのミライは戦争《ウォー》! 戦争《ウォー》! 戦争《ウォー》! 戦争《ウォー》! 強奪機械《ロブマシーン》!〕とかって戦意高揚ソングが! だから走行中に撃たれても慌てないでくださいね! これはよくあることなんですから!」
「よし、分かった!」
……分かられてしまいました。ハリキリモード全開の丸橋さんは、さらにアクセルを踏み込み、ジグザグにトラックを走行させる。そのとき、二度目の銃声が。……どうやら今度は当たらなかったようだ。いや、躱した……というべきか?
三発目、四発目と、弾丸が次々に放たれるも、タイヤと紙一重の地面を穿《うが》つのみ。
さすが元プロのバスドライバーだけあって、後輪が一つやられているにもかかわらず見事な運転テクニックを見せる丸橋さん。……トラックで銃弾を躱《かわ》すのはちょっと見事すぎるのではなかろうかと思わなくもない。
「その調子です丸橋さん! 格好いいですよっ! 思わず恋に落ちてしまいそうです!」
「えっ! それは本当かい!? それでは是非今度一緒に食事でも――」
丸橋さんの注意が逸れた。――やばいっ!
ズキュンッ! ――――がくっ!
「まずい、後輪が二つともやられた!」
丸橋さんの悲鳴と同時に車体が大きく左右にスリップする。慌ててブレーキを踏む丸橋さん。目に見えて減速するデコトラに、後ろからヒンデンブルグが追いついてくる! 丸橋高志さん、なんて使えないスケベオヤジだろう。この人はきっと、一生女性関係のトラブルで苦しむんだろうなあと、余計なお世話なことを考える。
「HEY! ストップ! 大人しくしなァッ!」
後方五メートルのところまで追いついてきたカルロス(と馬)が、空に向かって銃を撃ち威嚇《いかく》する。慌てた丸橋さんがアクセルを全開に踏む。喋ると舌を噛みそうなくらい揺れるものの、どうにかまだ、デコトラは真っ直ぐに道路を走っている。
「なんでまた追いかけてくるの!? 今は退くとか言ってたじゃない!」
身を乗り出し、三人組(と馬)に向かって深春が叫んだ。答えたのはリカルド(インディアン姿の巨漢が短距離走の選手の如く全力で道路を走っているサマは、なかなかシュールなものがある)だった。
「愚問なりミハル・シラサキ! あのとき我らは再戦を約した筈!」
「あ、なるほどー」
納得してしまう深春。……いやまあ、たしかに『またやろうね』『いずれ必ず』とかいう会話が深春とリカルドとの間で交わされたような記憶はあるのだが……。
「でも、ああいうのは普通、一年間みっちり修行したあとで再び戦おうとかそういう意味だろ! なんで三時間後にまた出てくるんだよ!」
顔を窓から出して僕は叫んだ。するとカルロスが発砲、深春の身体を通り抜けた銃弾が僕の頭上を掠《かす》めた。背筋が凍る。……あれは間違いなく、わざと外したのだろう。
「ハッハッハァッ! 愚問だぜェお嬢ちゃんッ! 善は急げって言うだろ!? それにさっき三人と一頭で反省会をしたところ、俺たちが負けたのは地形が悪かったのと油断が原因だってェことに気付いたんだ! まともに戦えばきっと俺たちの方が強いぜェ!」
……うわあすっげえポジティヴ思考。立ち直るの早いなー。……やっぱり、追い払うだけじゃなくて腕の二、三本は折っておいた方が良かったのか?
――と。
「ちょっ、な、なにしてるの!?」
身を乗り出して後ろの様子を見ていた深春が、慌てた声を上げた。バックミラーで確認すると、カルロスの前に座っていたイリスが、馬上でつま先立ちしている。まるで曲芸師のような、信じられないほどのバランス感覚だ。
「よっしゃっ! 行ったれイリス!」
「ん」
カルロスが叫び、イリスが無表情で剣を一振り。蛇となった剣の切っ先は、真っ直ぐにトラックの荷台に突き刺さり、イリスはなんと、馬上からこちらへ向かって跳んだ。剣をロープ代わりにした軽やかなアクロバット。バックミラーからイリスの姿が消失する。
「荷台の上に飛び移られました! 丸橋さん、すぐに振り落としてください!」
「オッケーまかせてくれたまえッ!!」
――快諾《かいだく》して。丸橋さんは――この大バカ色ボケ運転手は――、あろうことかハンドルを思いっきり切りやがったではないか! 脳味噌がキレて《プッツンして》いるとしか思えない!
「なにずんでずが正気でずがあんだばあああぁぁぇぇぁ――――――ッ!?」
僕の悲鳴。「……ぐるぐるです」くおんの意味不明な呟き。「うおおおおおおおお――――ッ!! 回れ回れ! 地球よ回れええええぇぇぇ――――ッ!」どうやらまともに頭が回っていないらしい丸橋さんが、アドレナリン全開の恍惚《こうこつ》とした表情で叫ぶ。突然の凶行にさすがのヒンデンブルグも驚いたか、馬の嘶《いなな》きが響いた。
デコトラがスピンする。
「ほわああああ――――せいやあぁぁァっッ!!!」
すっかりアタマがイッておられるらしい丸橋さんが、アクセルだかブレーキだか(視界がブレて認識できない!)を勢いよく踏みつける。
後輪が二つともパンクしている車でのこの暴挙! 当然ろくでもない結果が起きる。
猛烈なスピンを強引に止めたことによる、身体全体を襲う強烈な反動。こ、これが地球のGか! などとしょうもないことを思った一瞬の間に、僕たち(とイリス)を乗せたトラックは、道路の脇にあった広大なヒマワリ畑へと猛スピードで突っ込んでいく。視界に広がる一面の黄色に呑み込まれていく!
「……義姉上《あねうえ》。危険です」
くおんが言った。と同時に、トラックのドアを蹴り開ける。
「くおん!?」
「……出ます。お二人とも急いでください」
言うが早いか、くおんは外へ飛び出す。「あひゃひゃひゃひゃひゃ――――ッ!」狂ったような哄笑《こうしょう》を上げる丸橋さんも運転席のドアを開け、その身体がヒマワリ畑に吸い込まれるように外へ投げ出された。……たしかに、すごく嫌な予感がする。僕もまた、ほとんど生存本能の赴《おもむ》くままにくおんを追ってトラックからダイブ!
「――ぐっぁッ!!」
時速八十キロを超えていたであろうトラックから飛び出した衝撃は半端なものではなく、何本ものヒマワリをなぎ倒しながら数メートルは空を飛んで、僕の身体は地面に叩きつけられた。……うくっ……すげえ痛い……ヒマワリがクッションにならなかったら死んでたかも。
そのとき。
黄色い世界の先で――僕が投げ出されたあとも暴走を続けていたトラックが――――ついに派手な音を立てて転倒して――――そのあと―――― 爆発した。
「わあお……」
転倒した衝撃そのものが原因だったか、それともカルロスの銃弾やイリスの剣でエンジンに引火していたのか……ともあれ、爆発した。アクション映画さながらに、派手に燃え上がるデコトラ。風がないため周囲に燃え広がるスピード自体はそれほど速くない。今回は二条城で火災に巻き込まれたときとは違って、焼死の心配はなさそうだ。……さて……とりあえず、周囲を確認。
僕が落下した地点でヒマワリが何本か倒れている。すぐ近くではトラックの暴走の跡がくっきりと道のようになっていて、なんとなくモーゼのエジプト脱出を連想する。
周囲は見渡す限りのヒマワリ。人の気配はない。くおんも深春も丸橋さんもあの三人組も見あたらない。ヒマワリの背丈が僕の身長よりも高いため非常に視界が悪く、状況がさっぱりつかめない。……たしかに北海道といえばラベンダーかヒマワリなのだが……日高《ひだか》地方にもあったんだな……ヒマワリ畑って。……ヒマワリは嫌いじゃない。こんなときでなければ黄色い海のような光景を堪能できたのだが……。
今はそんな場合じゃない。まずはくおんや深春と合流しなければ。しかしどうしよう。多分くおんはそう遠くない場所にいる筈だが、大声で呼べばカルロスたちにも自分の居場所を知られてしまうことになる。トラックの跡に出来た道に出れば見渡しはきくだろうが、いい狙撃《そげき》の的だ。……そういえば深春はどうしたんだろう。物理法則を無視できるあいつなら、空中から僕たちのことを見つけてくれそうなものだが……。まさか、すでにリカルドと闘《や》っているとか?
「……くそっ、どうしてこう厄介な状況ばかりやってくるんだ」
毒づき、とりあえずホルスターからデザートイーグルを抜く。それから、まずは耳をすませて状況を把握するよう努める。戦闘中なら必ず音が聞こえる筈だ。……なんだかサバゲーでもやってる気分になる。ヒマワリ畑でくそ重たい鉄砲構えて――。
――なにやってんだろ、僕。不意に冷めた思考が流れ込む。
なにがやりたいんだろうか。
なにかやりたいんだろうか?
「ああくそ、くだらないっ。相変わらず流されっぱなしだな僕は……!」
声に出して毒づいたそのとき、近くで〔がさっ〕という物音が聞こえた。
「……ッ!」
心臓が跳ね上がる。誰だ……? そう思った瞬間、目の前にあった二メートル近いヒマワリが数本、真ん中から綺麗に折れた――いや、斬れた。
「くおんか?」
呟いたそのとき、視界に銀の煌《きら》めきが入った。
「――ッ!」
反射的に身を躱《かわ》す。その直後、まるで銃弾のように僕のいた場所を高速で刃の蛇が通過した。躱せたのは本当に僥倖《ぎょうこう》った。銀色の光が彼女の髪だと咄嗟《とっさ》に気付かなければ、僕は死んでいただろう。刃の蛇は、僕の後ろのヒマワリを何本か斬り裂いたあと、戻っていく。蛇腹剣の切っ先が消えた方向に目を向ける。……五メートルほど離れた場所で、銀髪の少女――イリス・クレセントはヒマワリに囲まれて佇《たたず》んでいた。
……これはまずいな……。頬を冷や汗がつたう。最初の一撃を躱せたのはまったくのまぐれでしかない。まともに戦えば――絶対に勝ち目はない。どこにいるんだくおんは……。一か八か大声でくおんを呼ぶか、どうにかして時間を稼ぐか――。
……しかし。
何故か、イリスは攻撃してこなかった。それどころか無造作に剣を下ろし、
「……どうして?」
と、無感情な声で呟き、わずかに首を傾げてみせた。
「……? なにが?」と僕も首を傾げてみる。
「どうしてイリスを撃たなかったの? ユウキは早撃ちが得意なんでしょう? カルロスとおんなじで」
ガラスのような瞳で僕をじっと見つめてくるイリス。……似てる、か? 僕に? このすごく綺麗な少女が? まさか。深春とくおんの目は節穴か。
「……まあ、たしかに勝機はあったけどね」恐らくは、最初で最後の勝機が。「……攻撃を躱《かわ》した瞬間に、その一撃が来た方向に向かって発砲していれば――」
「ユウキはイリスを殺せた」
「……その通り」
言って、肩をすくめる。
「じゃあ、なんで?」本気で不思議そうに、イリスは尋ねた。
「……なんでとか訊《き》くなよ……。君は、殺されてもよかったっていうのかい?」
すると彼女は――あっさりと、本当にあっさりと、何の躊躇《ちゅうちょ》もなく――
「ん」
頷いた。
「だって、殺すのに失敗したら殺されるのは当たり前でしょう? リカルドが言ってた。それは戦士として当然の覚悟だって」
……なんて、時代錯誤な。こんな言葉をまだ幼い少女に言わせてしまうようなあの筋肉馬鹿インディアンに、僕は怒りを覚えた。それを抑えて、訊《き》く。
「……で、君は戦士なのかい? リカルドや……それから僕の義妹のくおんみたいに、戦いの道を極めようとしていたりするのかい? とてもそうは見えないけどね」
「…………」
イリスが沈黙した。それから、
「……なんかおかしい。いつものイリスと違う」ぽつりと呟いた。「ユウキはなんか変な感じ。だから――――」
イリスが蛇腹剣を握り直す。
「――だから死んじゃえ」
突然、イリスが高速で剣を振るった。五メートルの間合いをものともしない銀色の鞭《むち》が、蛇の這いずるような風切り音を立てて僕に襲い来る。躱《かわ》せない! しかし!
ガギギッッ――――!
火花が散り、剣の軌道が逸れた。真横からヒマワリを切り倒して飛び出してきた赤い影――久遠くおんが、イリスの攻撃から僕を護ってくれたのだ。
「ふう……助かったよ、くおん」
しかしくおんは僕には一瞥《いちべつ》もくれず、イリスの方を見据える。油断無くイリスに注意を払いつつ、刀を鞘に戻す。かちゃん、という鍔《つば》が鳴る。……戦闘回避ではない。手は柄《え》を握ったまま、重心を落としていく。――くおんの十八番、抜刀の勢いを利用して高速の斬撃《ざんげき》を放つ――〔居合い〕の構えだった。
「……それでは、死合いましょうか。イリス様」
淡々と告げるくおんに、
「ん」
イリスもまた、無感情な視線で応じた。
かくて再び、超人同士の対決が始まる――――。
巻き込まれてはかなわんと、僕はくおんの陰に隠れるようにしてじりじりと後退する。が、ヒマワリに進路を遮られ、バランスを崩した。
「わっ、」
――その声(?)を合図に、くおんとイリスが同時に動いた。くおんの高速の抜刀術。逆袈裟《ぎゃくげさ》の刃跡《じんせき》を、イリスは後ろに跳躍して回避する。日本刀の攻撃範囲外からの中距離戦に持ち込むのがイリスの狙いか。まるで後ろに目があるかのように巧みにヒマワリを避《よ》けながら、イリスはスルスルと後退していく。しかしくおんの追撃は苛烈《かれつ》を極める。くおんが刀を一閃《いっせん》するたびに、ヒマワリがスパスパ斬り倒されていく。……この畑って、どう考えても私有地だよなあ……。所有者がこの光景を見たら泣くに違いない。
「……んぅ」
なかなか距離をとれないためか、イリスの顔に僅《わず》かな苛立ちが浮かぶ。次の瞬間、イリスが剣を一閃! だが、不意打ちのようなその攻撃にもくおんは冷静に対応した。
ガギンッ!
イリスの一撃を刀ではじき飛ばす。火花が飛び散る。しかしイリスは怯《ひる》まなかった。あさっての方向へと向けたまま剣を鞭《むち》状態にして、なんとそれを、自分の頭上で振り回したではないか。全方位に対する攻撃を、くおんはイリスの攻撃範囲ギリギリのところまで退いて避ける。それでもイリスの攻撃(?)は終わらない。まるで新体操のリボンのように、くるくると、自分の身体の周囲で刃を回す。一歩間違えば自分自身が斬り刻まれることになるというのに、その顔には何の焦りもない。
ズタズタに――まさにズタズタに、イリスの周囲のヒマワリが斬り刻まれていく。
人の首が落ちるかのように、ヒマワリの花が次々と地面に落ちていく。
桜が舞い散るかのように、斬り刻まれた葉が緑色の吹雪となってイリスの周囲を舞う。
緑と黄色で構成された幻想のような光景の中を、銀と黒の人形のような少女が踊る。
魅惑的でありながらその実、恐ろしく苛烈な舞踊。くおんはそれを、慎重な足取りでイリスと一定の距離を保ちながら見据え、攻撃のチャンスを窺《うかが》う。
――そのチャンスは唐突に意外なところから訪れた。
「ほらほら、こっちこっちっ!」
「ぅぬおおおおぉぉぉぉ――――ッ!」
イリスの真横から、いきなり飛び出てきた一人の幽霊少女。それを追うようにして登場した、巨漢のインディアン。
深春がイリスの刃の障壁を通り抜けて逃げる。しかしリカルドの方はそうはいかない。
「ぬ……!」
目前にいきなり出現した白刃の竜巻に、やむなく足を止めるリカルド。さらにイリスの方も、いきなり出てきた深春とリカルドに怯んだらしい。剣の竜巻の勢いが弱まった。それを見逃すくおんではない。イリスを囲む銀色の渦巻きに生まれた、ほんの僅かの隙間。普通ならば隙とも言えないような隙だ。くおんは、その刃と刃の間隙《かんげき》を狙って突きを繰り出した。まさに神速。僕には見えない。そして恐らく、イリスにも見えなかったのだろう。イリスは蛇腹剣を回すのをやめて身をよじり、くおんの突きを回避しようと試みた。しかし間に合わない。日本刀の鋭い刃がイリスの真っ白な腕へと吸い込まれ――
――る前に、イリスとくおんの間に割って入った一人の人物。リカルド・ザ・ブラックウィング! 彼はなんと、くおんの必殺の一撃を――刀の切っ先を両手で挟み込むことによって止めたではないか!
「――ッ」
くおんの顔に驚愕の色が浮かんだ。いくら常に平静な彼女とはいえ――さすがに焦るのも無理はない。〔真剣白羽取り〕――一歩間違えば確実に死に至るような危険な防御技を、リカルドはくおんの神速の技に対してやってのけたのだ。こんなことが出来る人間は――やろうと思う人間さえ――、〔ブーメランばばあ〕未至磨《みしま》ツネヨを除いてはこの世に数人いるかいないかだろう。
「……んく……ッ」
くおんが二撃目を放つために後退しようとする。だがリカルドは、両手で刀を挟んだまま放そうとしない。さらには、
「ぬんっ!!」
白羽取りの体勢のまま上半身をよじり、刀ごとくおんを僕の方へと軽々と放り投げた。両手が塞がっていたので思わず避《よ》ける。
「ぁやっ!」という悲鳴を上げて、ばきばきとヒマワリをへし折りながらくおんは地面に叩きつけられた。
「ちょっとおっ! くおんちゃんになんてことするの! 女の子はもっと優しく扱うものだよ! 特に小さい女の子は!」
深春がイリスの身体をすり抜けて戻ってきて、リカルドに抗議する。リカルドは泰然《たいぜん》と佇《たたず》み、腕組みして答える。
「愚問。戦士に老若男女の区別無し。我が戦場に立ちふさがるもの――これ全て、武人なり。武人に対し手を抜くは、相手に対する侮辱に等しい」
「だからべつに僕らは武人なんかじゃないっつーの!」
と、僕が叫んだそのとき、
「……――フ」
ため息ともつかぬ、微かな笑声《しょうせい》が、後ろから聞こえた。おかしいな……僕の後ろには、くおんしかいない筈なのに……そう思って振り返ると……――予想通り、後ろにはくおんが立っていた。それはいいとして、――――驚くべきことに、くおんの口の端が、微妙に吊り上がっているではないか。
……笑っている。
あのくおんが笑っている!?
「ど、どうしちゃったんだくおん?」
「……義姉上《あねうえ》に白咲《しらさき》様。リカルド様の仰《おっしゃ》る通りです……」
「え?」
くおんは抜いたままだった刀を鞘に入れ、重心を低くして――居合いの構えをとった。それからじりじりと摺《す》り足で僕の前に進み――リカルドを鋭く見据える。
「……武人《もののふ》に情けは不要です。必要なのは、ただ、互いの武と武。技と技。死力と死力。闘志と闘志。魂と魂。それ以外の雑事は全て無意味、無価値。年齢、性別、国籍、人種、得物、流派、何もかもがとるに足りません。
大切なのは――あなたが私《わたし》の敵であるというその事実……!」
……こんなに楽しそうなくおんは初めて見た。一つ言葉を発するたびに、くおんの全身から放たれる闘気が研ぎ澄まされていくのを感じる。なんだかよく分からないけれど、久遠くおんは燃えてしまったらしい。
「是非も無し……!」
リカルドが凄絶《せいぜつ》に笑む。それだけでプレッシャーに押しつぶされそうになる。
「……――私は今、感動しています。ベリー感動していると言っても過言ではありません」
かちゃ――という鍔《つば》鳴り。
「……よもやこのようなところで――サムライと巡り会えるとは……!」
「うむ……!」
「……未至磨抗流《みしまこうげんりゅう》免許皆伝――刀遣い、久遠くおん」
「我流――徒手空拳《としゅくうけん》、リカルド・ザ・ブラックウィング……!」
「「――我らが行く手に国境無し、我らが闘志に境界無し、我らが力に限界無し!」」
お前ら練習してきたのか? というくらいピッタリに、くおんとリカルドは声を揃える。
「……この剣と」「……この拳《けん》で」「「……いざ、語らん――」」
「「……――推して参る!!」」
刹那《せつな》――くおんが抜刀。リカルドに向かって疾駆《しっく》。
――リカルドが拳を構える。くおんに向かって疾駆。
くおんの剣先が突き出される。その瞬間、刀とくおんの腕が一瞬だけブレる。
三段突き――一回の踏み込みで、左右に少しずつずらして瞬時に三回斬りつける、かの新撰組《しんせんぐみ》の沖田総司《おきたそうじ》が得意とした技である。未至磨抗限流の剣術は、沖田の学んだ天然理心流《てんねんりしんりゅう》をはじめ、数多くある剣術の流派の中からとりわけ実戦向きな流派の複合で成っているのだ。いいとこ取り、とも言う。パクり、とも言うかもしれない。ちなみにキャッチフレーズは〔頑張れば、君も人斬り抜刀斎〕。
……そして見ての通り、くおんは頑張った。その攻撃は、刃が潰《つぶ》してあるとはいえ、食らったら間違いなく重傷は免《まぬが》れない。素手では受け止めることさえ出来ないだろう。真剣白羽取りも、この技に対しては不可能! 勝負あったか!?
だが! リカルドはなんと、高速で迫るくおんの刀目がけて、強烈なハイキックを繰り出した! ブーツの先端と日本刀の切っ先がぶつかる。飛び散る火花、響く甲高い音。どうやらリカルドのブーツには金属が仕込まれているらしい。
「――!」
くおんが顔をしかめる。一撃の威力ではくおんよりもリカルドの方が上だ。まともなぶつかり合いでは押し負ける。リカルドが追撃の掌底《しょうてい》を繰り出す。強靱《きょうじん》な肉体による、当たれば熊さえ倒せそうな一撃。食らったらくおんマジで死ぬぞやばいヤバイマジヤバイ!
「逃げろくおん!」
思わず叫ぶ。くおんはかろうじて、上体を反らしてその掌底を回避。しかしそこに、さらに追撃。今度はローキック! あの体勢からではいくらくおんでも回避は不能! そこでくおんがとった行動は、回避や防御ではなく攻撃だった。スウェーバックの体勢のまま腰の鞘を引き抜き、それをリカルドの腹部目がけて突き出す。鋼のような筋肉に覆われたそこには、半端な体勢で繰り出された鞘の攻撃などではびくともしない。だが、くおんの狙いはそこにあった。彼女は、リカルドの身体を鞘で押すことで反動をつけ、普通なら不可能なスピードで後ろに跳躍したのだ。
リカルドが感嘆の声を漏らす。
「見事なり……! 山での戦いの折は地面に突き刺した刀を足場に使ったのを見て感心したものだが――此度《こたび》の機転はその上を行く! 見事、見事なるぞクオン・クドウ!」
「……刀は――」鞘を左手に。「――私《わたし》の身体の一部ですから」刀を右手に。無表情だが誇らしげに、くおんは告げた。
そのくおんを、突如、リカルドの後ろから伸びてきた刃の蛇が襲う。
「――!」
くおんは咄嗟《とっさ》に鞘でガードするも、蛇腹剣は鞘に巻き付き、くおんの手からそれを奪い取った。まさに、鞭《むち》としての蛇腹剣の本領発揮か。
「……これで、イアイは使えない」
奪った鞘を無造作に地面に投げ捨てて――リカルドの後ろから、イリス・クレセントが淡々と言った。
「……イリス、神聖なる戦いの邪魔をするな」
リカルドが険しい声で言った。
「邪魔したのはリカルドの方。イリスの方が先に戦ってた」
「む……確かに」
リカルドが眉を寄せて呻く。そこへ、
「あのねえっ!」
不機嫌そうな顔をした深春が、イリスとリカルドのすぐ近くに出現して叫んだ。
「そもそもリカルドさんは、ボクと戦ってたんでしょ!? それがどうして途中からボクのことなんてまったく無視してくおんちゃんとバトり始めてるわけっ!? 失礼しちゃうなあもうっ!」
「……貴様は、まともに戦おうとはせず、逃げ回ってばかりだったではないか」
「あれは準備運動だよっ! せっかく久々に戦える相手に出会えたんだから、山のときみたいにあっさり勝負を決めちゃったらつまんないじゃない!」
「…………ぬ」
ものすごく侮辱的なことをさらりと言う深春に、リカルドは気分を害したようだ。だが、さすがはリカルド、オトナの対応ですぐに怒りを収め、
「……たしかに、あのときの戦いぶりでは、我が侮られるのも無理はない、か……」
「そうそう。あんなの、戦いにもなってなかったよね」
無邪気な顔で頷く深春。……悪意はないんだろうなあ……。
「……では、改めてここで再戦を願う、ミハル・シラサキ。此度《こたび》は、先ほどのような無様な戦いは見せぬと約束しよう」
そう言って、リカルドが構える。戦闘バカだ。
「うん、そういうことなら――」
深春がチャイナドレス姿に変化。地上に降り立ち、ファイティングポーズをとる。戦闘バカその2。
が、そのとき。
「……お待ちください白咲様」
くおんが、どう考えても怒っている声で言った。……戦闘バカその3はここにいた。
「……リカルド様の相手は、私《わたし》がいたします。お下がりください」
「えー、いやだよー。せっかくボクに触れる相手なのに。くおんちゃんはイリスちゃんでいいじゃない。剣と剣で」
僕としては深春の言い分の方に理があると思うのだが、くおんは首を振り、
「……イリス様の技には魂がありません。戦うに値しません」
……ああもう、どうしてこう、どいつもこいつもストレートな物言いでナチュラルに他人を挑発するのが好きなのだろうか。もっと日本人らしく穏便に人間関係を築こうとは思わないのだろうか。大切なのは馴れ合いのココロですよ?
「……リカルド、イリスの技には魂がないの?」
イリスが首を傾げた。……べつに怒っている様子はない。彼女だけは、戦闘バカではないらしい。
「……愚問だイリス。魂とは己で見つけ出すもの」
答えになっていないことをリカルドが言った。イリスはしばしその言葉について考えていたようだが、不意に、
「……なら、べつにいい。魂なんてなくても」
そう言って、いきなり蛇腹剣を一閃《いっせん》! くおん目がけて剣が伸びていく。
「破ッ!」
気合い全開モードのくおんは、一刀のもとにその一撃をはじき飛ばす。
「あれ、さっきまでと違う……なんか、重い。じんじんする」
イリスが不思議そうに、剣を握る手を見つめて言った。
「……これが、魂の重みです」
呟くようにくおんが言って、直後、くおんはイリスを無視してリカルドに向かって剣を振るう。
「……チェストです!」
「笑止ィィッ!!」
裂帛《れっぱく》の気合いとともに放たれたくおんの神速の斬撃《ざんげき》――二の太刀不要《いらず》と呼ばれる一撃必殺の古流剣術、示現流《しげんりゅう》をパクッた強烈な打ち下ろし――を、リカルドは重力を無視したような軽業――バック転――で回避、と同時に刀を蹴り上げ――いや違うこれはバック転じゃない、これはサマーソルトキックだ! ――た。くおんが怯《ひる》み、咄嗟《とっさ》に距離をとる。
……どうもリカルドは、足技を得意とする拳法《けんぽう》の使い手らしい。山では足場が悪くてろくな足技が使えなかったというわけか。深春もそれに気付いたらしく、実に嬉しげに、
「えへへっ、盛り上がってまいりましたあああああ――――ッ!」
上空に飛び上がっての、流星キック! ゴースト深春の得意技だ。
「笑止! 同じ技はそう何度も食らわぬ!」
完全に見切っていたらしく、リカルドは余裕すら感じる声で叫び、半歩引いて深春の攻撃を躱《かわ》した。だが、回避されたにもかかわらず深春は流星キックを途中で止めようとはしなかった。すさまじい勢いのまま、そのまま地面の中へと突っ込んでいく!
「ぬっ!」
半秒後、深春の身体が地中よりリカルドの背後に出現。だが、その深春の行動さえ読まれていたのか、リカルドは振り向きもせず裏拳を放った。
「〜〜〜〜〜〜あひゃうぅううう〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!」
深春の身体が、すごい勢いで吹っ飛んでいく。ヒマワリをすり抜けていったため、その姿はすぐにヒマワリの陰に消えて見えなくなった。
「……はっ!」
予備動作ゼロでくおんが踏み込む。太刀筋が見えないほどの高速の逆袈裟《ぎゃくげさ》、それを弾いたのはイリスだった。瞬時にリカルドの前に躍り出て、鞭《むち》ではなく剣状態の蛇腹剣の腹を使ってくおんの刀を受け止める。そのまま激しい鍔迫り合《つばぜりあ》いに発展するかと思いきや、イリスはすぐに逃げるように後退した。
イリスを退けたくおんは、そのまま二撃目をリカルドに放つ! 袈裟斬《ぎ》り。
「ぬんっ!」
リカルドはそれを右に半歩動いて回避、反撃で左のストレートを放つ。風を切って迫る豪快な一撃を、くおんは後ろに高く跳躍して回避し、空中で一回転して着地。そのまま攻撃の構えをとる。リカルドもまた、人が殺せそうな眼光でくおんを見据え、構える。
「……ん。おかしいな……」
リカルドの隣で、イリスが右の手のひらを閉じたり開いたりさせていた。どうやら、手が痺れているらしい。
「……イリス、下がれ。お前には、このサムライの相手は荷が重い」目はくおんに向けたまま、リカルドは重々しく言った。「……クオン・クドウ……一撃を放つごとに、その技のキレが増してゆく……まこと、末恐ろしい」
「……貴方という好敵手に巡り会えたからこそ、です」
「左様《さよう》か。それは重畳なり」
楽しげにニィっと口元を歪め――次の瞬間、リカルドが横に跳んだ。何でっ!? と僕が思うが早いか、つい一瞬前までリカルドの立っていた地面から深春が飛び出てきて、生前僕が何度も苦しめられてきた強烈な錐揉《きりも》みアッパーカット(つまり昇竜拳《しょうりゅうけん》みたいなもの)を繰り出したではないか。
「あ、あれ!?」不意をついた必殺の攻撃が回避され、深春は驚愕の表情を浮かべる。そこへリカルドのパンチ。「んわっ!」かろうじて躱す深春。慌てて距離をとる。
「おっかしいなー。なんで避《よ》けられたの?」
感嘆混じりの声で深春が尋ねた。
「愚問。たとえゴーストといえど……殺気は感知できる」
「えー、山で戦ったときはちゃんと当たったのに」
深春は拗《す》ねたように頬を膨らました。
「愚問。今の我は――クオン・クドウと同じく、研ぎ澄まされている」
「ふーん、そうなんだあ……」何故かやけに楽しげに、深春は言った。
「――なら、こっちも本気出していかないとね……」
すう――と、深春の目が細められる。
……――怖い。いつものお気楽ゴースト娘ではなく、〔未至磨抗限流〕格闘術を極めた武闘家としての白咲深春が、そこにいた。
「……では――久々に白咲様と肩を並べることにいたしましょう」
くおんが深春の隣に進み出て、刀を上段に構えた。こっちもまた、とんでもないプレッシャーを放っている。
二人の超人の闘気を一身に向けられてもなお、インディアン姿の巨人が怯《ひる》むことはなかった。それどころか、さらに笑みを深める。
「……愉快、まことに愉快なり! これほど愉快なのは何年ぶりであろうか!! クオン・クドウ、ミハル・シラサキ、二人同時に来るが良い! そして存分に死合おうぞ!」
――ついていけない。
……そう思ったのは、どうやら僕だけではなかったらしい。
「……イリスは疲れてきた。早く帰りたい」
言うが早いか、すたっ――と、イリスが重力を感じさせない跳躍を見せる。リカルドの巨体を軽々と飛び越え、下降中に剣を振り上げ――――その剣を、着地と同時に振り下ろす! 剣が唸《うな》りを上げて伸びる! 狙いは――――僕!?
まずい! 反射的に、手にしたデザートイーグルで身体を庇《かば》う。蛇腹剣の切っ先と、黒光りする銃身が触れ合い、ガリッという嫌な音を立てる。斬鉄《ざんてつ》すらやってのけるくおんと斬り結んでいたためひょっとしたら銃ごと斬り裂かれるのではなかろうかと一瞬思ったが、その心配はなく、なんとか僕は無事だった。さすがデザートイーグル。
「義姉上《あねうえ》!」「悠紀!」くおんと深春の悲鳴。
しゅる――――と、蛇腹剣が戻っていく。
「……暗殺失敗」
無表情に、イリスが言った。
「いい加減に――しろおおおおおおぉぉぉ――――ッ!」
深春が咆哮《ほうこう》し、イリスに対して攻撃的な精神波を放ちながら突撃。ゴーストの精神波には慣れていないらしく、イリスは顔をしかめたが、突撃してくる深春に対してはノーリアクションだ。
「無駄なのに……」イリスの言葉通り、深春のパンチはイリスの身体を通り抜けた。だが。「――ッ!?」イリスの顔が強張る。深春の後ろからは、くおんが続いていたのだ。深春に気をとられ無防備だったイリスは、くおんに接近を――致命的な接近を許した。
くおんが刀を翻《ひるがえ》し――一閃《いっせん》。ガキンッ! 荒々しい音とともに、イリスの手から蛇腹剣が弾かれた。
「あ――」イリスが剣の飛んでいった空中に視線をやり、その瞬間、くおんはイリスの首にとんっ、と手刀を打ち込んだ。「――はわ」
可愛らしい悲鳴とともに、イリスは呆気《あっけ》なく昏倒《こんとう》し、ぽて、と地面に倒れた。続けて、まるで墓標のごとくイリスのすぐ近くの地面に蛇腹剣が突き刺さる。くおんはそれを引き抜き、全力で投げ捨てた。
「……さっきのお返しです」
倒れているイリスに向かって、淡々と告げるくおん。……鞘を捨てられたことを、実は根に持っていたらしい。
「……では……」
くおんと深春が、リカルドに向き直る。
「邪魔者もいなくなったことだし、仕切り直しだねっ」
「うむ」
リカルドが構える。……イリスがやられるのを、この男は黙って見過ごした。全力で戦いたいがゆえに。……なんか気に入らないな、こういうの。
「悠紀、手は出さないでね?」
まるで僕の心を読んだように、深春が釘をさしてきた。
「……出さないよ。ていうか、出せない。お前らの超人バトルなんて、目で追うのがやっとだし」
「そっか。それじゃ――いくねっ! たまにはボクが、カッコイイとこ見せてあげる!」
深春とくおんが左右に分かれて、リカルドに向かって駆ける!
かくて――死闘が始まった――――。
右サイドからリカルドに接近していた深春が、上空に飛び上がる。ぐんぐん空へと昇っていき、上空十五メートル以上の高さまで到達。不敵な笑みを浮かべてリカルドとくおんの戦闘を眺める。
「今だッ!」
リカルドがくおんに大振りの攻撃を繰り出そうとしたそのとき、深春は急降下。お得意の流星蹴りがリカルドを襲う。
「ぬおおおお――ッ!」リカルドが咆哮《ほうこう》。深春の蹴りがリカルドの背中へと到達する寸前、リカルドは後ろ蹴りを深春に向けて放つ。咄嗟《とっさ》に軌道を逸らし、距離をとって地面に降り立つ。その深春に対してリカルドが突撃。跳躍し――ハイキック!
「くうっ!」
深春はその攻撃を、腕をクロスして受け止めたものの、あまりの衝撃に吹っ飛ぶ。しかしすぐに空中で旋回、どうにか踏みとどまり再度リカルドに対して疾駆《しっく》。飛び上がって掌底《しょうてい》を放つ。が、リカルドが腰を落としたため空振りに終わる。
くおんと深春の位置が入れ替わる。
くおんが振り向きざま、リカルドに向けて逆袈裟《ぎゃくげさ》の一撃を放つ。
「ぬんっ!!」
空中で向きを変え着地と同時に、リカルドは深春に向けて左腕のストレートを放つ。
「させないっ!」
回避、それと同時に反撃、疾風怒濤《しっぷうどとう》のパンチのラッシュ。リカルドはそれを、全部背中で受けた。だが、苦悶《くもん》の表情を浮かべながらも彼は耐え、深春に後ろ蹴り、
……いかん……もう駄目だ……――――
くおんがリカルドの左側から接近、一足飛びに横薙《よこな》ぎの斬撃《ざんげき》を放つ!
リカルドは後退し、紙一重のところで回避。回避と同時に強烈な拳をくおん目がけて打ち下ろす。
「――ッ!」
くおんは咄嗟に地面に倒れ伏し、転がるようにしてその攻撃を回避、自然、リカルドも腰を落とす。そこへ深春の攻撃。
「ぬおおおお――ッ!」リカルドが咆哮。地面に倒れるスレスレまで重心を低くして、後ろ――というか上に対してバックキック。くおんはその隙に地面を転がって距離をかせぎ、リカルドの攻撃範囲から逃れたところで立ち上がる。
「……させません」
深春を追撃するためくおんに背を向けた
リカルドを一瞬睨《ね》めつけ、風の如く疾走。リカルドに対して強烈な三段突きを繰り出す。リカルドはそれを腰を落として回避、振り向きざまにローキックで反撃。くおんは跳躍してリカルドの頭上を飛び越える。
くおんと深春の位置が入れ替わる。
深春が振り向きざま、リカルドの胴体目がけて二度目の掌底を放つ。
リカルドはその強靱《きょうじん》な足で垂直に跳躍。
空中で向きを変え着地と同時に、くおんに向けて右のミドルキックを放つ。
「……見えました……!」
回避、それと同時に反撃、舞うような回転斬《ぎ》り。リカルドはそれを、深春のいる方向へ退いて躱《かわ》した。苦悶の表情を浮かべつつ、後ろ蹴り、そのあとくおんへと前進、
――これ以上は、認識が追いつかない……
ガキンッ! キンッ! どこっ! ぎぐぐぐぐ! ジュベシュァァ! ザクッ! ぐわしッ! ごす! ンギギンッ! べちこーんっ! シュヴァアア――! ジョシュッ! げしっ! カキーンッ! どごすッ! ヒュッ! ひゅんっ! シャーッ! ギャガーンッ! ドドドドド――…… バシバシバシ! バッバッバッ! ギッ! ガギュッ! シャバババ――! 轟ッ! ばしっ! すとんっ! グヴェギュゲブォォ――――ッ! キシャ――ッ! しゅごごごご……ッッ! ザバッ! かあぁぁぁぁんっ! BACOOON!! ぼかんっ! ザッザッザッ! 喝ッ! ダダダダダッ! ダンダンダンッ! タンタンタタンタタンタンッ! びゅっ! ひゅうううう――…… すたたたた――たんっ――ッ! スタタタタッ! ゴロゴロゴロッ! カーン! コーン! ヒュゴーンッ! ばふっ! 襲ッ! がんっッ! ガガガッガガガッ! シュッシュッシュッ! ……ざわ……ざわ……! ひゅうぅぅぅ――…… しゅるるるうぅぅ! ザザンッ――! ぴぴる…… にゃるら――っ! ザクザクザクッ! ぶおんっ! どごおおおんッ! DOGOOON キィィィィィン――ッ! ドッドッドドドドドドド……! きゅいいいんッ! ドムーンッ! ダダーンッ! ぱふっ! ばすッ! 殺ッ!
――信じられないくらいにデタラメな死闘はなおも続く。三人の戦闘狂はかれこれ十分以上は激戦を繰り広げていて、くおんとリカルドは大粒の汗を流している。息も荒く、疲弊《ひへい》しているのは一目瞭然《りょうぜん》。
ゴーストである深春も、リカルドの攻撃を何発も食らい、かなりのダメージを受けているようだ。僕の脳裏に、嫌な記憶が蘇《よみがえ》る。数ヶ月前に喪髪《もがみ》デパートでテロに巻き込まれたとき、深春はゴーストにも効果があるという謎の銃で撃たれ、この世から消されそうになったのだ。ゴーストとはいえ、決して不滅の存在ではない。海外の反ゴースト派のテロリストたちは、ゴーストを狭い檻《おり》の中に閉じこめ、精神を弱らせて消滅させるという。未だまったくその正体が解明されていないゴーストだが、〔消えることはある〕というのは確かなのだ。深春の、二度目の死――その喪失に、僕は耐えられる自信がない。
三人とも疲労困憊《こんぱい》。だが、その闘志はいっこうに衰える気配を見せない。戦闘はまだ長引きそうだ。……誰かが死ぬまで、終わりそうにない。
「ちっ……!」
こんな、なんだかよく分からない変態インディアンに、深春や大切な義妹を殺されてはたまらない……深春は手を出すなって言ってたけど……そうも言っていられない。どうにかして止める方法はないか……。…………銃を使う……か? しかし、もしも狙いを外したら大変なことになる。それに、五〇口径の弾丸は、恐らく急所以外に命中したとしても、衝撃で命を奪うだろう。いくら死ぬ覚悟があるとかほざく戦闘狂インディアンとはいえ、殺すのは駄目だ。何故ならそれは犯罪だから。警察に捕まってしまうから。
と、そのとき僕の視界に、ばきばきに倒れたヒマワリの花とともに地面に横たわる銀髪の少女が映った。
……目を覚ます様子はない。…………。……ふむ。
「……ま、王道でいきますか」
三人は、都合良くイリスからかなり離れたところで戦っている。
僕は急ぎ、イリスの方へと走った。三人は戦いに集中していて、こちらに気付く様子はない。僕は右手に銃を持ち、左手だけでどうにか、気を失ったままのイリスを立たせる。そして彼女の首に手を回し――――彼女の頭に、銃口を突きつけた。……前にも同じようなことがあった気がするけど……ま、いいか。僕は叫ぶ。
「――戦いをやめろっ!」
……がきーん、ばしげしどげしばこんどふっ――……聞いてねえし。
「戦いをやめろっ この戦闘バカども!!」
もう一度、今度はあらん限りの大声で叫んだ。深春が振り向き、くおんとリカルドは目だけ動かしてこっちを見て――イリスが人質にされているのを見て、顔をしかめ、渋々ながらもようやく戦いをやめた。
「悠紀! 手出ししないでって言ったのに!」
深春がむくれる。
「ごめんごめん。お前が心配で、どうしてもこれ以上戦いを続けて欲しくなかったんだよ。何故ならお前を愛してるから。すべては愛ゆえの行いなんだ」
「ありがとっ。だったら許しちゃうっ! ボクも愛してるよ、ゆーきっ!」
……ふう、深春が単純バカで助かったぜ。愛って便利だな。なんか最近、この単語を使うことに抵抗を覚えなくなった自分がちょっと嫌だ。
「あ、もちろんくおんも愛してるよ。感じてくれこの美しい姉妹愛を」
「……ノーサンキュープリーズです、義姉上《あねうえ》」
……肯定なのか否定なのかサッパリ解らんな……。まあいいや。どうせくおんのことだ、怒っていたとしても一晩経ったら忘れるだろうし。
「……というわけでリカルドさん。イリスの命が惜しければ、大人しく引いてください。そして、二度と僕たちに手を出さないこと」
「……卑劣な」
鋭い目で睨《にら》みつける。その眼光に射られるだけで身体が動かなくなりそうだ。ならないけどね。眼力はブーメランばばあと時山《ときやま》先生で慣れている。
「何とでも言ってください。悪いけど、僕が師匠から学んだのはその二人とは大きく異なる。気力だの闘志だの関係なく等しく死を与える、手加減不能の殺人の技術――それが銃術。剣術と格闘術とは違い、これだけは自分を磨くことや正々堂々と戦って相手に勝つことなんて一切念頭に置いていないんです。いわば〔未至磨抗限流〕の暗部。僕の技は――いかにして効率よく戦いに勝つかということだけを目的にしているんですよ」
「……そうだったのですか」とくおんが呟いた。どうも本気にしているっぽいな。あとで訂正しておこう。
「なるほど……つまり貴様は、武人ではないということか……」
リカルドが吐き捨てるように言った。
「……そういうことです。軽蔑してくれてかまいませんよ。……さ、大人しく引いてください。あなたが去ったら、僕はイリスを解放します」
「――――断る」
リカルドは――そう言いきった。それきり僕には目もくれず、
「……さあ、ミハル・シラサキ、クオン・クドウ。闘いを再開するぞ」
「な、なにを言ってるんですか貴方は! この娘《こ》がどうなっても構わないって言うんですか!? 言っておきますが、僕は本当に撃ちますよ?」
「笑止。撃ちたくば撃つが良い。イリスとて、一角の戦士。戦いで命を散らす覚悟は出来ている筈だ。北欧で拾った剣の天才の命――ここで散らすは無論惜しいが、しかしそれもまた、戦場《いくさば》のならい。それに……天下の未至磨抗限流と争って敗れたのならば、決して恥ずべき最期ではあるまいて」
リカルドの言葉は恐らく本気だった。……心の底から、リカルドは言っている。そしてこの男は恐らく――自分がイリスと同じような状況に置かれても、同じことを言うだろう。常に死と隣り合わせに生きる覚悟……それは自分の死も仲間の死も等しく甘んじて受け止める非情な覚悟――。これが、戦士。これが、リカルド・ザ・ブラックウィング――――……くたばれこのクソ野郎。
「……気が変わった」
イリスの身体をそっと地面に横たえ……僕はリカルドの方へ銃口を向けた。
「悠紀?」「……義姉上《あねうえ》?」
二人が首を傾げる。
「深春、くおん。僕も参戦する。三人で、この格闘バカをぶっちめようか。覚悟しろよファッキンインディアン。この僕が……ぶっ殺してやる」
「わ、珍しく悠紀がやる気になってるよ!?」
「……ま、たまにはね」
言って、皮肉っぽく笑う。
「……面白い」リカルドが笑みを浮かべる。「……〔未至磨抗限流〕の継承者を三人同時に相手に出来るとは――武人として、これほどの誉《ほま》れはない」
「そんなこと言ってていーのかなー? リカルドのオジサン、ハッキリ言ってこっちの方が圧倒的に有利だよ?」
深春が挑発的に言った。しかしリカルドは泰然《たいぜん》としたままで、
「愚問。そのようなことは百も承知。だが我は――――負けぬ!」
「――ッ!」
いきなり斬りかかったくおんの一撃を、リカルドは横に回避する。そしてその勢いのまま、くおんの後ろから狙っていた深春めがけて突撃。その姿はさながら、金色の海を泳ぐ巨鯨の如し。
「ぬおおぉぉぉぉぉ――――――ッ!!」
咆哮《ほうこう》とともに深春へ大きく腕を振りかぶる。重く速いその一撃を、深春はかろうじて地面に埋もれて避《よ》ける。大砲のような拳が深春の頭を通り過ぎると同時に、深春はリカルドのアゴを狙ってカウンターの掌底《しょうてい》を放つ! しかしリカルドは、それを左腕でブロック。完璧にガードし、それから後方に跳躍。その目は深春でもくおんでもなく、僕の方――正しくは、僕の持つデザートイーグルの銃口へと向けられていた。僕がリカルドに銃口を向けると、信じられないような速さで位置を変える。これでは狙いがつけられない。
「やあああ――ッ!」「……や!」
深春とくおんの波状攻撃。リカルドはそれを、細かい移動を繰り返しながら――ときには銃の射線にくおんがくるように巧妙に誘導しながら、深春とくおんの攻撃を避けつつ、さらに攻撃まで行っている。
「ち……バケモノかあのオッサンは」
深春とくおん、そして僕の動きを同時に把握し、互角以上に戦う。信じられない。まるで鬼神の如き戦いぶりだ。……だが、こんな脳と本能を限界まで活用したような動きが、そんな長い時間続けられるわけがない。
さっき自分でやってみて分かったのだが、二人の人間の動きに同時に注意を払うのは恐ろしく大変なのだ。特にくおんと深春というトリッキーなアクションが大好きな超人二人を同時に追うなんて、正直言って人間の認識能力では不可能に近い。
リカルドはそれに加えて、僕にまで注意を払っている。僕自身はまったく動いていないとはいえ、デザートイーグル《こいつ》は一撃必殺の武器だ。銃口を向けられているというだけで大きなプレッシャーがのしかかるのは必定《ひつじょう》。
いつか絶対に――それほど遠くないうちに、リカルドの限界がくる筈だ。
……ならば時間を稼いでいれば必ず勝てる。しかしリカルドもそれに気付いているらしく、防御よりも攻撃を優先し、積極的に仕掛ける。威力の低い攻撃は、端《はな》から防ごうともせず、まともに食らって鋼の筋肉と気合いで耐える。
深春の通常のパンチやキックはほぼ無視、掌底《しょうてい》や流星蹴りなど、まともに食らうと吹っ飛ばされるような大技のみ、回避や防御を行う。
刀によるくおんの攻撃はさすがに無視というわけにはいかないものの、タメが不十分でキレがない一撃(それでも十分な威力がある筈なのだが)などは、腕で刀を弾くなどという思い切ったこともやってのける。
ほとんど捨て身のような攻撃の嵐に、深春とくおんは押され気味だった。
……本当に……限界なんて……くるのか? この化け物に。
「どおおおぉぉぉしたあああぁぁぁッ!!! 手が震えておるぞ銃遣《じゅうつか》い!!!」
突如、リカルドが僕に向かって吼《ほ》えた。
「く……っ!」
深春とくおんの攻撃をあしらいながら、リカルドはさらに続ける。……どうやら、僕にプレッシャーを与えて潰《つぶ》す作戦らしい。だが……作戦と分かっていても、リカルドの激烈なプレッシャーを受け流すのは至難のわざだ。
「デザートイーグル! その銃のことは知っている!」
「へえ、なにをですか!?」
負けじと僕は叫び返す。が、迫力で負けているのは瞭然《りょうぜん》だった。
「その銃の重さは二キロを超える!〔未至磨抗限流〕を学んだ貴様の銃の腕前はたしかにそれなりのものなのかもしれぬ! だが我の察するところ、貴様の筋力はこの二人と比べて著しく劣る。それどころか並の婦女子とさほど変わらぬと見たああッ!」
「な、何が言いたい!」
図星を突かれ、焦った声を上げる僕。
「愚問なり銃遣い! 二キロの鉄塊を構え続けるのは――貴様のような小娘にはいささか骨が折れるのではないかな!? ――そら、狙いが下がっているぞ!」
「……くっ!」僕は強引に笑みをつくり、「……そうやって僕にプレッシャーをかける作戦でしょう? 戦士とか言いながら、意外とセコいんですね!」
「笑止、まこと笑止なりィィィ!」
深春に右フック。くおんに左のミドルキック。
「はわっ!?」「……ぅく!」
それぞれ防御はしたものの、威力を殺しきれず後方へ吹っ飛ばされる。その隙を突き、
「戦士にあらざる者にこの神聖なる闘争の舞台を邪魔されるのも、そろそろ我慢ならなくなってきたのでなあぁぁぁ……ッ!」
リカルドが突進。僕の方へ! その距離、わずか二十メートル。
「五月蠅《うるさ》い虻《あぶ》は、そろそろ潰《つぶ》しておこうというだけよおおおぉぉぉ――――ッ!!」
激烈な威圧感とともにリカルドが迫る! 「悠紀!」「義姉上《あねうえ》!」くおんと深春が慌ててリカルドを追う。だが、追いつけそうもない! リカルドと僕の距離、十五メートル!
「う、うわああ――!」
銃口をリカルドに向ける。リカルドは銃口を凝視し、左右に跳躍しながら迫り来る。
「無意味! 所詮《しょせん》魂のこもらぬ豆鉄砲、恐るるに足らず!」
僕が銃口を右に向ければ左に躱《かわ》し、左に向ければ右に躱す。フェイントをかけようとしてみてもまったく引っかからない。おそるべき動体視力と判断力と瞬発力! 着々と僕に迫るリカルド、その距離、もう十メートルもない!
「ぬおおおおおおおおぉぉぉぉ――――ッ!!」
リカルドが拳を引き、重心を低くする。野生の猪《いのしし》を思わせる突進、だが決して猪突《ちょとつ》猛進ではない。身を焦がすような闘気を纏《まと》いながらも、その目には冷徹な理性の色がある。闘争専用に研ぎ澄まされた、本能に近い理性。闇雲に銃を撃っても決して当たりはすまい。
「ぐおおおおお――――!」
「う、うわああああ――――!」
距離五メートル、もはやリカルドの間合いに入っていると言ってもいい。銃口が震える。それでもリカルドに油断の色はない。焦った僕が引き金を引くのを、銃口を見据えたまま狡猾《こうかつ》に待っている!
「や、やだ……!」
半泣きとなって、情けない悲鳴とともに、僕は銃の狙いを自らリカルドから外してしまう。リカルドはなおも油断無く銃口を見つめながら、咆哮《ほうこう》しつつ接近! リカルドの巨体が、拳が、その顔が、僕の眼前に迫る。リカルドは横目で銃を睨《にら》みつつ接近! ついには、僕が銃を構え直すよりもリカルドの攻撃が当たる方が早いような、そんな超至近距離にまでリカルドの接近を許してしまった!
リカルドがようやく、銃口から目を逸らして、必殺の一撃を放つべく僕の顔を見据えた。
だが、そのとき。
「――!?」
リカルドの眉が、ほんの僅《わず》かだが怪訝《けげん》そうにひそめられる。
その理由は――この僕の顔が、笑っていたからだ。
恐怖のあまり小便ちびりそうになりながらも、僕は口の端をつり上げていた。何故なら僕は……――この機会をずっと待っていたのだ!
「かかったな……!」
「ぬ……!」
リカルドの目に逡巡《しゅんじゅん》するような色が浮かぶ。
「教えてやるよッ!!」
僕が吼《ほ》える。リカルドが何かに気付いたように、顔を強張らせ、僕の振り上げた左手に握られた銃を見た。僕はそれを大きく――――
「デザートイーグルの正しい使い方ってやつをさああああああ――――ッ!!」
――――リカルドの顔面目がけて振り下ろした!
二キロの黒い鉄塊は、重力と遠心力に突き動かされるままに、猛烈な速度をともなってリカルドの頬へと吸い込まれていく! この速さ、恐らく深春の一撃よりも速い! そして重い! リカルドの言う通り、二キロもの重量の銃を構え続けるのはすごく疲れる。だが、これを振り上げ、振り下ろしたならば――僕のような非力な人間でも……たとえそれが利き腕でない左であったとしても、強力な打撃を放てるというわけだ。……銃としての実用性はちょっとアレだが、鈍器としてはすごく使いやすいんだなコレが。
デザートイーグルの正しい使い方。
答え。
棍棒代わりにして思いっきりぶん殴る!
どごんっ!
「ウボァァァァァ――――――ッ!!」
クリーンヒット!
絶叫を発しながら、大きく後ろによろめくリカルドの巨躯《きょく》。
そこへ、「やああああ――――ッ!!」「……覚悟」
深春とくおんが、同時に攻撃。〔未至磨抗限流〕が奥義、〔必殺・雷神衝〕と〔秘剣・九頭龍撃(パクり気味)〕がリカルドを直撃。
「ぐぅぉがぁはッッ!」
リカルドが悲鳴とともに胃液を吐き出し――――
「……み、見事なり……ユウキ・クドウ……恐るべし……未至磨抗限流――……」
――――どたっ――その身体は、見るも無惨な光景となったヒマワリ畑へ、ゆっくりと崩れ落ちていった。……そのまま、起きあがってくる様子はなかった。しかしどうやら、息はあるようだ。……普通なら絶対死んでるけど……不死身かこのオッサンは。
「――ふう……どうにか……うまくいったな……」
僕が大きくため息をついた。と、
「こらあ悠紀ッ!」
何故か深春が、顔がくっつきそうなくらい近づけて怒鳴った。
「なんて危ないことするのさっ!? 鉄砲で人を殴るなんて……もしも暴発したら悠紀も死んじゃうところだったんだよっ!?」
「いや、その……」
深春の剣幕にたじろぎ――そのとき!
「義姉上《あねうえ》!」
くおんが突如として疾駆《しっく》、一閃《いっせん》! 僕の背後から迫り来た蛇腹剣の一撃を弾き返した。イリス! 振り向きざま、僕はデザートイーグルの銃口を、後ろに立っていたイリスに向けた。そのまま――――イリスは動かない。くおんが瞬時に接近、イリスの剣に斬りつける。イリスは――動かない。ガキンッ! という派手な音とともに、蛇腹剣は刀身が真っ二つに斬れてしまった。
「……あーあ」イリスは興味なさそうに、無造作に折れた剣を捨てた。そして、のど元に突きつけられた日本刀を無視して、無表情に僕を見た。
「……やっぱり撃たないね、ユウキ」
「……まあね」と僕。
「なんで? イリスは二回もユウキを殺そうとしたのに」
「教えてほしい?」
こくん、と頷くイリス。慌ててくおんが日本刀を引っ込める。
「ふふふ、それはね――」僕はがさごそとホルスターの中を漁り、あるものを取り出した。直方体をした、細長い物体。
「ああっ! それって!」深春が驚いた顔をした。
……僕の取り出したこれは、いわゆる五〇AE弾のマガジン――まあ要するに、僕が今持っている鉄砲《デザートイーグル》の弾なのだった。
「――弾が入ってなきゃ、撃てないだろ?」そう言って、肩をすくめる。
「い、いつから弾入ってなかったの?」と深春。
「えーと、山でイリスたちに襲われるちょっと前かなあ。くおんに銃を渡されたとき、すぐに抜いておいたんだ」
「……つまり最初から、発砲する意思は皆無だったということですか、義姉上?」
「うん。だって怖いじゃん。暴発すると危ないし。だいたいこんな反動がでかい銃、右肩がぶっ壊れてる僕に使えるわけがない。これ以上肩が上がらなくなったらどうするんだよ」
「山でカルロスさんに自信満々にしてたのは?」
「僕は〔僕にこの銃が使えないと思うんですか?〕って尋ねただけで、〔使える〕とは一言も言ってないぞ、たしか」
「…………ったく」「……義姉上《あねうえ》……」
深春とくおんが呆れた顔をする。と、そのとき。
「……――えへ」
微かな笑い声が聞こえた。イリスが――微笑んでいる。まるで人形のように整った顔に、イリスは、笑みを浮かべていたのだった。
「あ、あれ……? おかしい……」笑っていることが自分でも不思議なのか、イリスは首を傾げた。「……ユウキは、やっぱり変。なんか、イリスを変な気持ちにさせる」
「だったら殺すかい?」
皮肉っぽく言うと、イリスは首を横に振った。
「……ううん。もういい。なんか、あったかいから」
あったかいというのは、気温のことだろうか? それとも――……
と、そのとき。
「――……我らの完敗だ」
いつの間に立ち上がったのだろうか――リカルドが言った。瞬時に戦闘態勢に移行する深春とくおんに、リカルドは首を振る。
「……殺したくば殺すがいい。もはや我には、貴様らに抗う気はない」
「……もう二度と、僕たちを襲ったりしませんか?」
「……うむ。できれば再戦を望みたいところだが……ユウキ・クドウ。貴様がそれを望むのならば、我は戦士の誇りにかけてそれを誓おう」
「なら、信じます」
「……良いのですか? 義姉上」
くおんが言った。
「良くないのかい? くおん」
僕が訊《き》くと、くおんは静かに首を振った。
こうして、なんだかよく分からない戦いは、ようやく終幕を迎えたのだった――――。
が。
「……リカルド。カルロスは?」
イリスが言った。「む……」どうやらすっかり忘れていたらしく、リカルドが周囲を見回した。
「あっ! そういえば丸橋さんは無事なの!?」
「やべ……ッ」こっちもすっかり忘れていた。「運転席からは脱出した筈だけど……」
「む。いたぞ。カルロスだ」
リカルドが、まだデコトラが黒い煙を上げている場所からちょっと右にずれた方向を指さした。さすがヒマワリより長身なだけあって、周囲を見渡せるようだ。
「深春、空から丸橋さんを捜すんだ」
「おっけー」
「その必要はない」リカルドが言った。「マルハシ、というのは貴様らが乗っていたトラックの運転手だな。彼奴《きゃつ》ならばカルロスと一緒にいる」
「……へ?」
僕と深春とくおんは、思わず顔を見合わせた。
リカルドに先導されて歩くこと百メートル。ヒマワリ畑と道路を区切っているあぜ道に、カルロスと丸橋さんとヒンデンブルグはいた。何やら楽しげに談笑しており、丸橋さんがときどきヒンデンブルグの頭を撫でている。…………どういうこと?
「おっ、リカルドにイリスー。やっと来たかー」
僕たちの姿に気付き、カルロスが手を振ってきた。丸橋さんも、
「ほら、君たちもこっちに来たまえ」と手招きした。
「……?」「……?」
僕は隣を歩くイリスと、思わず顔を見合わせた。
ようやくヒマワリ畑から抜け出て、二人のオッサンのところへ行く。
「あの、丸橋さん。これってどういう……?」
「いやなに」答えたのはカルロスだった。「燃えるデコトラの前で倒れてたタカシを俺が助けたんだ。そしたらなんか気が合っちまってなァ」
「ああ。カルロス君と意気投合して、つい話し込んでしまったんだよ」
「今じゃ俺とタカシはすっかりマブダチさ! しかも聞いてくれよ、なんとタカシの実家は牧場だって言うじゃねェか。やっぱり馬が好きな奴に悪い奴はいねェよな! ってワケでリカルド、イリス、これからタカシんトコの牧場行くぜ!」
「ああ、大歓迎だカルロス君。デコトラは燃えてしまったが、代わりに私《わたし》は大切なものを得た。それは友人だよ。まったく、今日は良い日だ。さあいざ行かん我が家へ。幸いにして、ここからなら歩いてもさほどかかるまい!」
「おうよ親友!」
わっはっはっは――と、二人は脳天気に笑う。
「……カルロス」
リカルドが重々しく言った。
「ん? なんだ?」
「我らの此度《こたび》の仕事は……何だ?」
「そりゃお前、ミシマの三人娘の暗殺――って、あれ? そういえばなんでお前ら、ターゲットと一緒にいるんだ!?」
「…………ふう」リカルドが、珍しく脱力したようにため息を吐《つ》いた。「我らが死闘を繰り広げている間……貴様はのんびりとここで遊んでいたというわけか……」
「そ、そう怒るなって! 今からでも遅くない、それじゃお嬢ちゃんたち、悪いがここで死んで――」
ごん。
リカルドがカルロスの頭をげんこつで殴った。
「〜〜〜〜〜〜〜ッ!? なにすんだリカルド!」
泣きそうな顔で抗議するカルロスに、リカルドは、
「……我らは今回の依頼からは手を引くことに決めた」
「え、マジで? せっかくの大口の依頼だったのに。でもまア、親友の知り合いを殺すのもアレだしな! それがいいか!」
あっさりとそう言って、カルロスは陽気に笑った。
「……貴様のこだわりのなさには正直、感心する」
そう言って、リカルドは顔をしかめた。……なんだかなあ……。
「ともあれこれで、一件落着だね」
深春が笑った。
「……落着……なのかなあ?」
色々と疑問が残るものの――――僕は深く考えないことにした。
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エピローグ(前編)
北海道の雄大な大地を眺めながら、僕たちは丸橋高志さんの実家を目指して歩く。
チャイナドレス(すっかり気に入ってしまったらしい)の幽霊少女。ドクロ柄の着物を着たサムライガール。バス会社の制服を着たデコトラ運転手。ゴスロリ少女。インディアン。カウボーイ。馬。
…………なんなんだろうこのすごく頭が悪そうな組み合わせは……。
一緒に歩くのが恥ずかしかったので、僕は集団の一番後ろから、二十メートルほど離れて歩いていた。ああ北海道の空気は美味しい。自然が美しい。北海道はでっかいどう。現実逃避というほどでもないがなるべく現実について考えないようにしながら、僕は歩く。
と、そのとき――
「――――やれやれ、どうやら、なんともつまらない結末に落ち着いてしまったようだな。というか、間違いなくつまらない結末に落ち着いてしまった」
不意に横で……声がした。ハッとして真横を見ると、道路の真ん中に一人の半透明の男が立っていた。まさかここで車に撥《は》ねられて死んだ人間の霊!? ……なんてことを数年前までなら思っていたかもしれないのだが、今はさしたる驚きも感じない。
ゴースト――三年前からこの世界に出現するようになった現象。深春と同じ、正体不明の存在。男はそれだった。
「まさかあれだけの激戦を繰り広げておいて、誰一人として死なんとは。……〔未至磨抗限流〕の継承者たちと謎の暗殺集団との戦い》……これほどドラマティックな舞台はそうそうあるまい。というか、まずない。……故にサンプルとして最適。というか、私《わたし》個人としても非常に楽しみな観測対象だったのだが――やれやれ、世の中とはうまくいかないものだ。というか、うまくいかないことの集合をこそ世の中と呼ぶべきなのか」
よく分からないことをつらつらと喋る男。……僕に話しかけているのかどうかもよく分からないが、何となく耳を傾けてしまう。
年の頃は四十かそこらだろう。白いスーツを着た長身痩躯《そうく》のおっさんで、開けているのかどうか分からないほどやけに細い目と、左右にびろーんと伸びた立派な口髭《くちひげ》(スーパーマリオみたい、といえば分かりやすいかもしれない)が、なんともいえない滑稽《こっけい》な雰囲気を醸《かも》し出している。ゴーストにもかかわらずタバコ(変身の応用で作り出しているのだろう。ちなみに銘柄《めいがら》は不明だ)をふかしているのは、生前よっぽどタバコ好きだったからだろうか。……死因は肺ガン?
ふうううう――――――とタバコを吸って、長い煙を吐き出す。
……煙まで再現せんでも。深春の話によれば、〔自分の身体〕から離れたものの幻影を作り出すのはかなり大変らしい。自分以外の人間や動物に化けたりする以上に、精神を集中させなければならないとか。
「……あの。あなたは?」
関わり合いになりたくないと思いつつ、僕は尋ねた。深春たちは僕たちのことに気付いていないのか、どんどん先へ歩いていく。
「……喪神象事《もがみしょうじ》。それが私《わたし》の名前だよ。初めまして――と言うべきか、それとも久しぶり、と言うべきか、やや迷うところではあるが……とりあえずこんにちは。久遠悠紀君」
舞台俳優のように優雅に一礼する、謎のゴースト。
「はあ……。……あの……どこかでお会いしたことがありましたっけ?」
特徴的な外見の知り合いが多いとはいえ、彼の外見もまた、僕の知り合いたちに負けていないユニークなものだ。一目見ればまず忘れないと思うけど……。
「喪髪《もがみ》デパートでのテロを覚えているかね? そのとき君は、地下の倉庫で死体を見たのではないかな? というか、絶対に見た」
「――!」
思わず顔が引きつる。なんでそんなことを知ってるんだ? たしかにデパートから脱出するとき、倉庫の中に、銃で撃たれて殺されたと思しき男の死体があった。だが、あのとき僕や深春、それからひかりちゃんと一緒にデパートから脱出しようとした人たちのなかに、こんな面白い外見の男はいなかった。だとしたら……まさか、黒違和《くろいわ》たちの仲間か!? ――だが。男の口から発せられたのは、僕の予想とは違うものだった。
「その死体のことを覚えているかね? というか、そのときの死体が私だ」
…………………………。
…………………。
「……はあ?」
リアクションに困る……。そういえば、たしかにあの死体も白いスーツを着ていたけれど……でも、なんでその死体の持ち主が僕の前に現れたのだろう? ……男が嘘を吐《つ》いているようにも見えないし、そんな嘘を吐く理由も思いつかない。あの死体がこの人だというのなら、きっとそうなのだろう。ただでさえあの事件は不可解だったのだ。何が起こっても不思議ではない――……と、強引に自分を納得させる。
「ふう――――……」
男はタバコの白い煙を大きく吐き出した。
「タバコは身体に悪いですよ」と、とりあえずどうでもいいことを言ってみる。
「タバコをやめるくらいなら死ぬ。というか、死んだ」
……面白くもない冗談を言う変なオッサンだな。
「今、面白くもない冗談を言うナイスミドルなオジサマだな、と君は思ったね?」
「思ってないです」
「そうか」残念そうに言って、また一服。巧妙なことに、吸えば吸うほどにタバコが徐々に短くなっている。
「……まあ、別にどうでもいいですけど。他人の喫煙の習慣に対して口出しする趣味はありませんし」
すると喪神《もがみ》と名乗った変人は、すごい勢いで反論してきた。
「いや、それはよくない。君の友人知人にヘビースモーカーがいたなら絶対に止めさせるべきだ。何故なら喫煙は百害あって一利無しだからね」
「はあ。でもタバコの税率って高いですよ。国の財政に貢献してるじゃないですか」
まるで喫煙者のようなことを僕は言った。普通は逆だと思う。すると喪神さんは、
「いやあ、それは違う。というか、ものすごく違う。煙害によって引き起こされる国民の健康被害、そのための医療費が財政にかける負担は、到底タバコ税程度のはした金でまかなえるものではないという説もある。というか、私《わたし》の試算によると絶対にまかなえない」
そう言って、またも実に美味そうに空想のタバコをすぱ――――っと吸う。
「だが、ね――」短くなったタバコを、地面に落とす。地面に到達する前に、そのタバコは煙のように薄くなって消えた。「――タバコは悪。まごうことなき絶対的な害悪。毒の煙は肺を汚染し空気を汚染し自分を殺し他人を殺し国家をも殺す。この一本がつまり世界を滅ぼすきっかけとなるかもしれない。というか、なる。――――ああ美味い。……うん、それでも私はタバコを吸った。というか、今も吸う。この一本が何かを殺す。この行為で世界が滅ぶ。それを自覚しつつも実行するこの私の〔悪〕を止めることなど、何人《なんぴと》たりとも出来はしない。一切合切《いっさいがっさい》の言い訳も無く、〔悪〕であることを脳髄《のうずい》の全てで認識しながらも遂行するこの私の〔悪だくみ〕を――果たして誰が止めることが出来ようか。世界の全てを敵に回してでも止められないこの〔好奇心《トキメキ》〕。ああなんとロマンチストな私。私は焦がれ焦がれ焦がれ焦がれ焦がれ焦がれ焦がれているのだ。というか中毒《ジヤンキー》と言っていい」
芝居がかった口調で朗々となんか意味不明なことを話す喪神さんは――――、不意に、視線を横に移した。
「……だから邪魔はさせんよ――――〔最後の最後でぶち壊し《デウス・エクス・マキナ》〕」
夕陽をバックに背負い――地平線の彼方から歩いてくる、一つの人影。
一八〇を超える長身に、風になびく真っ白な髪。深い皺《しわ》が無数に刻まれた顔。笑っているようで笑っていない独特の嫌な嗤《わら》い顔。黒いジャケット、腰には二つのホルスター。デザートイーグル×2。
リカルドをも上回るような強烈なプレッシャーをまき散らして――〔ブーメランばばあ〕未至磨《みしま》ツネヨはやってきた。
「ヒヒヒ、ようやく会えたね。〔殺戮者《ヘビースモーカー》〕――喪神象事《もがみしょうじ》」
「おい変態ババア! 今回のは一体なんだったんだよ! いきなり人を拉致《らち》して北海道の山の中に放り出しやがって! 変な刺客《しかく》にも襲われたし! ちゃんと説明しろ!」
さっそく抗議する僕にババアは五月蠅《うるさ》そうに手を振り、
「ヒヒヒ、そんなことは気にしなくていいよ」
「気にするわ!」
「ったく、仕方ない餓鬼《がき》だねえ……」心底めんどくさそうに、ババアは言った。「全てはそこの男をこっちの世界に引っ張り出すためさ。あたしの弟子が三人山に籠《こ》もって修行しているとくれば、この男は必ずちょっかいを出してくるだろうからね。ああ、ちなみに刺客を差し向けたのはそいつだよ」
そう言って、ババアは喪神に目を向ける。喪神は微動だにしない。
「ヒヒヒ、なにせアンタ、普段はちっともこっち側に出てこないからねえ。面倒なんで、罠を張っておびき寄せたのさ」
「怪しいとは、思っていたのだがね……」タバコを吸いながら、喪神《もがみ》が苦笑する。「だが、罠の危険と好奇心、どちらを優先させるかといえば――当然、好奇心だろう」
「その通りさね。で、アンタはのこのこ出てきたわけだ」
「……あの。全然話が見えないんだけど」
二人だけで何やら盛り上がっているババアと喪神の会話に、強引に割り込む。
「ヒヒヒ、子供にはちょっと難しい話さ」
「その通りだ、久遠悠紀君。子供には少し早い。世界の外側を知らぬ子供には、ね。いや、かといって私《わたし》と未至磨《みしま》ツネヨ氏がオトナの関係であると誤解してもらっては困るよ? というか、ものすごく困る、というか、ものすごく嫌だ個人的に」
「しません」
「そうか。物わかりの良い子で助かる。それでは――」喪神が宙に浮かぶ。「私はこの場は逃げることにする! というか、いついかなる時であっても未至磨ツネヨに遭遇したときは逃げることに決めている!」
言葉通り、喪神は道路の脇に広がる草原へとダッシュしていった。白スーツの中年ゴーストがダッシュする姿はなかなか滑稽《こっけい》なものがある。……イリスやくおんに匹敵するのではないかと思うようなスピードで、喪神がすたこら走って逃げていく。
「ヒヒヒ、逃がさないよッ!」
ババアがホルスターから銃を二つ同時に抜き、二つ同時に発砲。二挺拳銃《にちょうけんじゅう》――デザートイーグルの。重量は二つで四キロ以上、僕では撃つどころか真っ直ぐ構えることさえ困難な大型の拳銃を難なく使いこなす超人ババア。ババアが引き金を引くごとに、爆音に近いような銃声とともに一メートルを超える火花がババアの前で弾ける。気が狂ったように景気よく連射される、ハンドガン用としては最大最強の弾丸を、喪神は走りながら器用に避《よ》ける。いや、恐らくはババアがわざと外しているのだろう。……外さなくても、ゴーストだから拳銃の弾なんて通用しないのだが。
「見てるかい久遠んとこの小娘! これがデザートイーグルの正しい使い方さ!」
……ンなわけねえだろ。二挺拳銃なんて出来るのはアンタだけだ。……僕のように鈍器として使うのもアレだが。手で耳を押さえながら、僕は思った。
――ほどなく、銃声がとぎれる。
硝煙《しょうえん》立ちこめる道路の真ん中から、ババアの声だけが聞こえてきた。
「おや、もう弾切れかい。ったく、どこかに弾が無限に出てくる魔法のマガジンみたいなものはないかねえ」
……そんなものがこのババアの手に渡ったら世界の終わりだ。
「さて――」かちゃんっ、銃をホルスターにしまう音。「……それじゃ、修行はここまで。あとは北海道旅行するなり家に帰るなり好きにしな!」
「な……!? ちょっ、待っ――」
……ようやく硝煙《しょうえん》が薄まったときには。
未至磨ツネヨも、そして喪神象事《もがみしょうじ》の姿も、どこにも見当たらなかった。
「……ぬう……あれが……未至磨ツネヨか。なんと恐るべき使い手だ。いつか……我が真の武人となったとき、手合わせ願いたいものだな……」
いつの間にか僕の後ろに来ていたリカルドが言った。振り向くと、深春とくおんとイリスもいる。
「ねえ悠紀、結局なんだったの? 師匠の目的って」
首を傾げる深春に、
「……さあ? ま、べつにどうでもいいよ。……どうせ、僕みたいなごく普通の人間には立ち入れない世界の話だ」
投げやりに笑って、僕は歩き出したのだった――――。
〔Rash in Hokkaido〕is the end.
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プロローグ(後編)
「んがぐぐ」
胸のあたりにどうしようもない圧迫感を感じて、僕は目を覚ました。カーテン越しに光が差し込み、外からは小鳥の囀《さえず》りが聞こえてくるので、どうやら既に夜は明けているようだ。しかしおかしい。寝起きの悪いこの僕が、目覚まし時計の鳴る前に起きるなんて、夏休みに入ってから初めてのことだった。二度寝しようとも思ったけれど、なぜかまだ胸が苦しいので、眠い目をごしごしとこすって強引に意識を覚醒させる。部屋はエアコン全開の筈なのに、やけに暑いし。
……圧迫感の原因は、何者かが僕に抱きつき、胸に顔を埋めているからだった。まず目に入ったのは絹のような銀髪。次いで、白い首筋、白い肩、白い二の腕、白い背中――
「イリス!?」
僕は慌てて彼女の腕を引きはがし、がばっと上体を起こして布団をはね除ける。……何故か僕のベッドの上で安らかな寝息を立てるイリス・クレセント改め久遠イリスは、何故か全裸であった。触れることさえ躊躇《ためら》われるような一糸纏《まと》わぬ真っ白な肢体を、彼女は僕の眼前に晒《さら》していた。
……北海道で知り合った少女イリスが久遠家の養女となって、もう二週間が経つ。長年カルロス&リカルドと一緒にあちこち放浪していたイリスを、僕は北海道から家に連れて帰り、ウチで引き取ることを家族に提案してみた。すると義父と義母は二つ返事で快諾《かいだく》し、くおんも「……義姉上《あねうえ》が増えるのは良いことです」とあっさり受け入れてくれた(……壮絶な殺し合いを演じた仲なのに。ちなみにイリスの年齢はたぶん十四歳で、くおんより一つ年上らしい)。……というわけで僕に義妹が増えた。久遠家は三姉妹になりました。
……で、その義妹のイリスちゃんが、ナゼに素っ裸で僕の隣で寝ていたのでしょうか。……考える。……考える。考える考える考える。…………こたえ。『うだるような暑さですっかり脳が腐食していた僕は、ついカッとなって嫌がるイリスに無理矢理襲いかかり、劣情の赴《おもむ》くままにワイセツな行為を働いてしまった。今は反省している』――……
「……ば、馬鹿な……深春じゃあるまいし、この僕がそんなコトをするわけがない! いやしかし絶対にそういうコトがあり得ないかと言われるとその可能性はまったく否定できないちょっとエッチな僕! ちょっとエッチな女の子は好きですか皆さん! 皆さんって誰だ。……うん、だってイリス、めっちゃくっちゃカワユイし〜! ああもうこうして寝顔を見てるだけで食べちゃいたくなるよう! ええいこのぶりぶりらぶり〜な萌えっ娘《もえっこ》ちゃんめ! うわおっ、超やわらかいのぅこのほっぺた!」
ぷにぷにと指でイリスの頬を突っつきながら錯乱し、自分でもナニがナンだかワケワカラナイことを口走る僕。だが、朝起きたら裸の女の子が隣で寝ていたなどというファンタスティックな状況で正気を保てという方が無理だと思う。というか、絶対に無理。じゅるり。……イリス、ちびっこのくせに意外と胸あるな。さすが外人。着痩《きや》せするタイプなのか。…………あ、あれ、あれれ? ……ひょっとして僕…………負けて……る……?
僕が義姉《あね》としての尊厳について疑問を抱きそうになったそのとき、
「……う……ん……」
イリスが目を覚まして、半眼でこっちを見てきた。……いつものように気怠《けだる》げな無表情なのだが、しかしその無表情にはどことなく「ゆうべはおたのしみでしたね」的な物憂げな雰囲気があるように見えなくもない。肌もツヤツヤだし。
「……イリス……正直に答えてくれ……。君はナゼ、僕のベッドにいるんだ? 全裸で」
重々しく僕は尋ねた。すると彼女は淡々と、
「……なかなか眠れなかったから」
「…………。……ぬう、君は眠れないと他人のベッドに潜《もぐ》り込むのか? 全裸で」
「……ユウキの胸、気持ちよかったから。服は……」無表情のまま、自分の裸身に視線を落とす。「……寝てたら脱げたみたい」
おいおい。……見るとたしかに足の方に、イリスのネグリジェがあった。しかし何故ショーツまで脱げるのだ。……ともあれ、一安心。間違いがあったワケではなさそうだ。
「……一緒に寝るならくおんにしてくれよ……年も近いんだし」
「ん……クオンの胸は硬いから嫌」
本人に聞かれたら斬殺《ざんさつ》されそうなことを、イリスは平然とのたまった。
「なら、義母さんは?」
「カレンのは大きすぎて息が苦しい。イリスにはユウキの胸がほどよい」
解るような解らないようなことを言う。…………まあ多分、僕以外の家族に対してはまだ打ち解けてないってのもあるんだろうな……。
僕が久遠家の養女になったのは生まれてすぐのことだったから特に問題はなかったけど、中学生くらいの年齢の子がいきなり他人の家に放り込まれて〔今日から家族です〕と言われたところで、すぐに溶け込めるものではないのだろう。特にイリスは、コミュニケーションが苦手なタイプだし。ウチの義父さんと義母さんは養女だからといって隔意を抱く人間ではないので、もっと積極的に甘えても良いと思うけど……。
「……ま、ゆっくり馴染んでいけばいいさ」
それに、自分だけに懐いてくれる義妹というのは、これはこれで悪くない。
「……ユウキ?」
「……なんでもないよ。とにかく服着ろよ。この部屋、冷房ガンガンに入れてあるし。風邪ひくぞ。ああ、それから何度も言ってるけど、僕のことは呼び捨てじゃなくて『おねえちゃん』と呼ぶことっ!」
お姉ちゃん風をびゅーびゅーに吹かせてみる僕。……一度やってみたかったのだ。
イリスは少し黙考したあと――
「……イリスは服を着る。あっち向いてて……ユウキ」
「はいはい」
そのときだった。
「義姉上《あねうえ》」「ゆーきー」
部屋のドアが開かれ、くおんと深春が僕の部屋の中に入ってきたのは。
「…………(くおん)」「…………(深春)」「…………(僕)」
空気が凍りつく。イリスがいそいそとパンツをはく音だけが、鮮明に耳に響く。
「……今日も可愛いマイシスターくおんよ、おねえちゃんに何か御用でござるか?」
努めて平然と、まったく普段通りの口調で僕は尋ねた。
「……はい。北海道から葉書が届きました……」
無表情に、淡々と。くおんは答えた。が、その目から不意に、ぽろりと涙がこぼれた。
「ちょ、く、くおんっ!?」
泣いている! あのくおんが泣いている!? 彼女の泣き顔を見るのは何年ぶりだろうか……。ていうかこんな導入部のギャグパートでマジ泣きですか!? 〔無表情キャラの涙〕という最強に美味しい萌えイベントなのに! いいのかよそれで!
「……義姉上ズは……二人とも、モンキーさんです……今すぐ切腹すべきです……」
無表情のまま涙を流しながら――しゃきん――くおんが、腰の刀を抜いた。
「――えへっ、悠紀」
深春が、すごく可愛く、菩薩《ぼさつ》のように穏やかに微笑んでみせた。白咲深春の特徴――怒りゲージがマックスになると笑う。……今がまさにそれ。
「……深春、お前が何を考えてるのかはものすごくよく解るけどそれは誤解だ」
「うん。わかってるよ悠紀……」
「そうか。それは良かった。お前からもくおんに言ってやってくれ。誤解だって」
「くおんちゃん」ニッコリと――深春が笑い、トテモカワイク、「う・ち・く・び※(w-heart.png) 」
「……はい、白咲様」
「うわーいやっぱり全っ然っわかってませんねッ!? 少しは人の話を聞いてくれよ!!」
「問答無用!」」
くおんと深春の声が重なる。次の瞬間、金属と金属が激しくぶつかる音がした。
くおんの本気の斬撃《ざんげき》を、ネグリジェ姿のイリスの蛇腹剣が受け止めた。……この娘《こ》も武器を常に持ち歩いてるのか。……ていうか、どこから取り出したんだ? ……ちなみにこのイリスの剣は北海道でくおんに折られたものとは別物で、一週間前に未至磨抗限流に入門した記念として、未至磨ツネヨから譲り受けた(どうして蛇腹剣なんて持ってたんだあのババアは)ものだ。しなやかさと強度を併せ持つ、前の得物より優れた逸品だという。
新たなる武器を手に、イリスが淡々と言う。
「……怒りに身を任せたせいで、切れ味が鈍ってる。今のクオンは北海道で戦ったときとは別人。それではイリスの相手にならない」
「イリス、火に油を注ぐような発言しないで、君からも説明してくれよ!」
「……そう、ですね」そう言ったのはイリスではなくくおんだった。片手で涙を拭き……涙と一緒にすうっ――と、表情と剥き出しの殺気が消える。「……リカルド様との戦いで見出した、明鏡止水の境地より生まれし奥義……名付けて〔鬼と桜〕――。……義姉上《あねうえ》、とくとご覧《ろう》じてくださいませ」
「名付けるな! ゴロージたくねえ! や、やや、やめるんだくおん! 僕たちは深い家族愛で結ばれた姉妹じゃないか!」
「……姉妹なればこそ……道を踏み外した義姉上たちを放ってはおけません……。その心根が完全に腐り果てる前に、花と散らすが義妹《きょうだい》の役目――。……せめて……苦しまないようにいたします」
「……ん。なら、イリスも本気でいく。昨日ツネヨに習った蛇腹剣の奥義――〔秘剣・素戔嗚尊《スサノオノミコト》〕で、クオンを斬る」
知らない間にイリスも新必殺技を会得していたらしい。……あのババア、ホントにろくなことしねえな!
「……参ります、小義姉上。お覚悟を」
「ん。クオンこそ」
殺《や》る気満々の二人。――――かくて再び、死闘が始まった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――略。
久遠イリスと久遠くおんの姉妹喧嘩は、騒ぎを聞きつけてやってきた僕とイリスの義母にしてくおんの実母、久遠可憐《かれん》が止めに入るまで続いた。
「……そうだったんだ……やっぱり、リカルドさんやカルロスさんと別れて寂しかったのかもね、イリスちゃん……」
僕から事情を聞いた深春が、しみじみとした声でわかったようなことを言った。自分がくおんをけしかけたことは忘却の彼方らしい。
ちなみに現在、僕の部屋は久遠イリスの蛇腹剣〔ネオ大蛇《オロチ》〕が奥義〔秘剣・素戔嗚尊《スサノオノミコト》〕と、久遠くおんの銘刀《めいとう》〔村正・零型《ゼロがた》〕が奥義〔鬼と桜〕の激突による余波により、廃墟のような有様となっている。せっかく修理したエアコンも再び壊れ、室温は急激に上昇しつつある。ベッドには二本の剣が突き刺さっていて、まるで古戦場だ。持ち主であるくおんとイリスは、部屋の隅っこで仲良く並んで寝ている(義母さんが二人まとめてぶちのめした。これが久遠可憐《かれん》――未至磨ツネヨに最も近いと称される女傑《じょけつ》の力である)。
「……で、これが北海道から来た葉書ね」
ボロボロになって床に落ちていた、くおんが持ってきた葉書を拾い上げる。この葉書がポストに入っていたせいで、この惨劇は起こったのだ。
「ねえ、誰から?」
深春が覗《のぞ》き込んでくる。
「ん、お前もまだ見てなかったのか。……えーと、差出人は……カルロス&千夏《ちなつ》って書いてある」
「千夏さんとカルロスさん? 変わった組み合わせだね。何が書いてあるの?」
……ちなみに千夏さんとは〔負け犬《アンダードツグ》〕丸橋高志さんの妹の丸橋千夏さんのことで、年は十九歳。サバサバした性格の北海道美人である。二週間前に北海道へ拉致《らち》されたとき、僕たちは二日ほど彼女の家でお世話になった。料理がものすごく上手で、たった一人で牧場を切り盛りしているしっかり者。僕はこの人となら結婚してもいいと思ったのは秘密だ。
「たぶん暑中見舞いじゃないかな? 意外と律儀だよなあの人たち――」
そう言いつつ、僕と深春は葉書に視線を落とした。そして同時に凍りつく。
「ゆ、悠紀……これって――」
そこには、恐ろしいことが書かれていた。
結婚式の案内
新郎、カルロス・リンドバーグ
新婦、丸橋千夏
…………ああ……どうやらこの暑さで視力をやられているらしい。これではガンナーとして失格だ。いかんいかん……。目をこらして、じっと葉書を凝視してみる。
結婚式の日時は、明日だった。急だな。場所は、千夏さんの牧場。また行きたいな。さて、それではもう一度、新郎新婦の名前を見てみよう。
新郎、カルロス・リンドバーグ
新婦、丸橋千夏
…………。
「……ふう……。……深春、僕はようやく気付いたよ」
「なにを?」
「これは夢なんだ。目が覚めたら隣でイリスが裸で寝てたのも、くおんが泣いていきなりバトり始めたのも部屋が壊滅したのもエアコンが壊れたのも――いや、それどころか二週間前北海道に拉致《らち》されたのも、全部夢なんだ。よくよく考えてみれば、銀髪のゴスロリ美少女とかカウボーイとか拳法《けんぽう》家インディアンとかブーメランばばあとかデザートイーグルなんて、この世に存在するわけがないからな。うん、だからきっとこの手紙も嘘なのさ」
「……うんっ、きっとそうだねっ。そうなんだよっ」
とりあえず僕たちは。
現実逃避をしてみた。
「うぅん……」と、くおんとイリスが、同時に悩ましげな声を上げた。他人の夢に登場してまで寝顔を見せてくれるなんて、まったく可愛い義妹たちである。
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後編 ラッシュ ―rash―
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あれから何度も目を覚まそうと努力してみたのだが残念ながらこれは夢ではないという暫定的な結論が出たため、僕と深春とイリスとくおんは、早速北海道へ行く準備をした。逃げちゃダメだ、と僕は思う。……そして一夜が明け、早朝から空港へ。空港では話に聞いていた通り、かなり厳しいチェックが行われていて、当然のように義妹の美少女バーサーカーコンビがチェックに引っかかった(なんでいちいち刃物を持ってくるんだこのアホアホシスターズは!)。……そのため三時間以上も空港で拘束された。交渉の末、日本刀と蛇腹剣はどうにか貨物室に入れて運んでもらえることになったのだが、
「……刀は私《わたし》の一部なのです……片時も手放してはいけないのです……」
飛行機の客席で、くおんはまたシクシク泣いた。お前は明治維新のときの侍か。
対してイリスの方は、特に剣に対する執着は無いらしい。僕の隣でぼーっと雲を見つめていた。
帯広《おびひろ》空港から電車に乗り、丸橋牧場の最寄りの無人駅で下車する。時刻は既に午後三時を回っている。式の開始時間は僕たちの到着次第ということなので、あまり遅くなるわけにはいかない。
空港で電話したときの話では、迎えを寄越してくれるということだったのだが……駅を出てきょろきょろと周囲を見回すと、いきなりブッブーというやかましいクラクションが聞こえた。
「おーい、遅いゾー!」
……嬉しそうに手を振って見覚えのある派手派手しいデコトラ(爆発・炎上したのだが、奇跡的な復活を遂げたらしい)から降りてきたのは、丸橋千夏《ちなつ》さんだった。
半袖のポロシャツにジーンズ、それに麦わら帽子という洒落っ気の無い格好が逆にほのかな色気を醸《かも》し出す色白の美人で、ころころ変わる表情がちょっと子供っぽくて可愛い。
にしても……彼女こそが本日の結婚式の新婦の筈なのだが、〔花嫁さん〕という言葉とはまったく無縁のラフな服装だ。……ひょっとして、結婚というのは嘘か?
「お久しぶりです、千夏さん。ていうか、なんで花嫁さんがこんなところにいるんですか?」
「んー、だって他に迎えに行ける人がいないからねー。ダーリンは免許持ってないし」
ダーリン……ですか。それはやっぱり……あの陽気なカウボーイ、カルロス・リンドバーグのことなのだろうか。
「……お兄さんは?」
「あー、アニキ? んー、なんかねー、アタシが結婚するのがショックらしくって、リカルドさんと一緒にアメリカまで行っちゃった。『カ、カルロス君、君のことは親友だと思っていたのに! この泥棒猫め〜!』とか言って泣きながら出てっちゃったよ。ま、出産シーズンには手伝いに帰って来るって言ってたけどねー……あ、もちろん出産ってのは馬のことだよ? アタシはまだだから。今日が初夜。きゃっ、恥ずかしー」
……さほど恥ずかしそうな様子もなく、聞いてもいないことを語る千夏《ちなつ》さん。
「ま、とにかくアニキは目下のところ音信不通。今頃《ごろ》はルート66あたりで金髪ギャルでもナンパしてるんじゃないかなー?」
……丸橋高志さん……ますます駄目人間になっていく。同情の余地は多少あるけど。
「まったくしょーもないアニキだね。ちょべりばだよ」
「……? ちょべりばって何ですか?」
「あっれー? 悠紀ちゃん、現役のジョシコーセーなのに知らないの? ちょべりばっていうのは〔超ベリーバッド〕の略だよー。今、都会の女の子の間ですっごく流行ってるんだって。そんなんじゃ、流行に取り残されちゃうゾ!」
「そうなんですか。気を付けます」
「うん。そんじゃま、行こっかー。もうみんな集まってるよー。みんなって言っても、アタシの友達とか他の牧場の人とかが何人か来てるだけなんだけどね。式場もウチだし。ジミ婚ってやつっスよ。ホントはもちっと豪華にやりたかったんだけどねー」
千夏さんが苦笑いすると、深春が拳をぎゅっと握って力説し出した。
「大丈夫っ! 結婚は式の豪華さなんかじゃないよ! 大事なのは愛っ! つまりラブなの! 愛さえあればお金なんて全然問題じゃない!」
「あはは、ありがとー深春ちゃんっ! 超ベリーグッド、つまり〔ちょべりぐ〕だねっ! おっしゃあ! ゼッタイ幸せになるぞーっ!」
「その調子だよ千夏さん! ボク、全力で応援するよっ! えーと、ちょべりぐ? な感じでっ!」
……やれやれ、だ。
……ふとイリスの方を見る。彼女は……愛について語らう深春と千夏さんを、どことなく不思議そうな面持ちで見つめていた。
日高《ひだか》地方には全部で千を超える競走馬牧場がある。牧場には、繁殖牝馬《はんしょくひんば》を世話しその仔馬《こうま》を産ませるための〔生産牧場〕と、生産牧場から上がってきた一歳馬、二歳馬を競走馬として育て上げる〔育成牧場〕の二種類があり、丸橋牧場は前者――生産牧場である。
ほとんど千夏さん一人で切り盛りしているため、規模は小さく、馬の数も少ない。経営は――正直、かなり苦しいらしい。
……馬を一頭育てるには膨大な費用がかかり、特に種付けには、平均して二百万円程度、種牡馬《しゅぼば》によっては数千万円もの種付け料が必要になることもある。また、種付けをしても馬の受胎率は低く、死産することも多い。仔馬が産まれなければ売ることも出来ないため、当然赤字となる。
資金がなければ優れた馬に種付けをさせる費用も捻出《ねんしゅつ》できなくなり、優れた血統の馬が生産できなくなる。血統の良い馬でなければ、市場で高く売って利益を上げるどころか、ヘタすると売れ残ってしまう。
日本の競馬界では、血統が非常に重視される。優れた競走馬の仔馬《こうま》が優れた競走馬であることが多いことは確かで、その逆もまた、然《しか》り。親が大した競走馬でない馬が優秀な競走馬になることは――無くもないが、珍しいことは確かだ。〔競馬は血のスポーツ〕と呼ばれる所以《ゆえん》である。
また、生産した馬が競走馬としてレースに出られるようになるためには通常三年かかるため、長期的な資金運用が必要となってくる。
利益が得られようと得られまいと、馬の世話や牧場設備の維持で資金はどんどん飛んでいき、そしてますます経営は困難になる。経営が困難になればなるほど強い馬を生産できる可能性は低くなり、さらに経営は困難に。
……丸橋牧場は、そんな悪循環に陥ってしまった小規模牧場の典型だった。企業グループが経営している大規模牧場でさえ昨今の競馬不況で苦しんでいるなか、丸橋牧場のような小規模牧場が持ち直せる可能性は極めて低い。このままいけば、数年を待たずして牧場は閉鎖せざるを得なくなるだろう…………。
……――そんな生々しい話を、二週間前の食卓で、千夏さんは僕たちにしてくれた。そして彼女は、重々しくなった空気のなか、バカみたいに陽気に笑ったのだった。
「だいじょーぶだいじょーぶ! 強い馬がウマれる可能性はゼロじゃないんだからさ! あと数年の間にウチの生産馬が重賞をいくつか獲《と》ってくれればこっちのモンよ! そしたら向こうから種付けさせてくださいって頼みに来るからね。生産者賞もガッポリだし。今年三歳のチナツオラシオンとかチナツシルフィードなんて、結構期待できそうなんだー。あ、それからそれからねー、一昨年買われてったコにチナツマキバオーってのがいるんだけどね、こいつがまたすっごい元気なじゃじゃ馬で、上手く仕上がれば――……」
……――そんなウマい話を、夢物語のようなウマい話を堂々と語っている千夏さんを、僕は、心の底からすごいと思った。
……いや、べつに皮肉ではなく。冗句でもなく。
僕は、堂々と青臭い夢を語れる人を尊敬する。夢は叶《かな》うと信じられる人を尊敬する。悲惨な現実を笑い飛ばせる人を尊敬する。生きることに希望を持っている人を尊敬する。
僕は、自分に出来ないことが出来る人を尊敬する。
……――そうなりたいとは、思わないけれど。
丸橋家の牧場に到着。千夏さんが厩舎《きゅうしゃ》の近くにトラックを止め、僕たちは降りた。
「……あ、ヒンデンブルグ」
不意にイリスが、無表情で牧草地の方を見て呟いた。柵《さく》で囲まれた牧草地の中には数頭の馬がのんびり歩き回っていて、そのうちの一頭に、ひときわ立派な鬣《たてがみ》をした栗毛の馬がいる。それがカルロス・リンドバーグの愛馬、ヒンデンブルグだ。
長年カルロスたちと一緒に旅をしていたからか、彼女(ヒンデンブルグは牝である)はかなり人懐っこい性格で、僕たちに対してもよく懐いてくれる。
トラックに追いつくような速さで走れるくせに、普段はすごくのんびりした気性の馬で、乗馬の経験がない僕でも難なく乗ることが出来た。くおんなどは僅《わず》か一時間で、馬に乗った状態で刀を振り回すほどになった。……これはあんまり人懐っこさとは関係ないか。くおんが超人なだけだ。
「見てく? イリスちゃん。きっとヒンデも喜ぶと思うよ」
千夏さんが言うと、
「ん」
イリスはいつもの調子で小さくこくんと頷き、ヒンデンブルグの方に歩いていった。ヒンデンブルグの方もイリスの接近に気付いたようで、「ぶほほーん」と嬉しそうな嘶《いなな》きを上げてゆっくりと走ってきた。
「……元気そうですね、ヒンデンブルグ」
「うん。まだこの牧場に来たばっかりだからか、ときどき気分が不安定な感じになるけど、基本的には他のコたちとも仲良くやってるし。いいコだよ、ヒンデは。ちょべりぐだね」
微笑みながら、千夏さんは言った。
イリスが柵に手を伸ばすと、ヒンデンブルグは頭を下げてイリスの方に首を突き出した。イリスは彼女の立派な鬣をゆっくりと撫でる。ヒンデンブルグは、気持ちよさそうに首を振る。……なんだか、実に微笑ましい光景だ。
「……すっごく優しそうな顔」
僕の隣で深春が言った。
「そりゃまあ、馬だしね」と僕が言うと、深春は笑って首を振る。
「違うよ。ヒンデンブルグのことじゃなくて、悠紀のことっ」
「僕?」
「うん。なんていうかな、悠紀のイリスちゃんを見る目がこう……」
「いやらしい?」
「そうそう、今にも発情して襲いかかりそうな――って違うよ! 優しそうって言ったでしょーが! ……えーとなんていうかなつまり…………母性的な愛に溢れてる感じ?」
首を傾げつつ、何やらちょっと照れたような顔で深春は言った。
つーか、僕も恥ずかしい。……可愛い女の子に対する愛には溢れているつもりだが、〔母性的〕なんてことを言われたのは初めてだ。
「……そんなことないと思うけどな」
深春から顔を逸らす。すると、隣でじっと僕の顔を見ていたくおんと目があった。いつものように無表情なのだが――その顔はどことなく、機嫌が悪そうにも見えた。……どうしたんだろう。ついさっきまではむしろ、僅《わず》かだが楽しそうな微笑みさえ浮かんでいたというのに。
「……くおん、お前もヒンデンブルグと遊んできたらどうだ? イリスと二人で」
イリス、という言葉のあたりで、くおんの眉が少しだけぴくりと上がった。
「……いいえ。ノーサンキューです」
「そっか」
「……はい」
やはりどことなく不機嫌そうに、くおんは僕から目を逸らしてイリスの方を見た。……ひょっとしてくおん、イリスのことが嫌いなのだろうか。イリスを引き取ることについては簡単に承諾してくれたとはいえ、こいつも人見知りするタイプだし。……無表情キャラ同士、仲良くすればいいのに。
と、そのとき。
「おォッ! やっと来たかァ、ミシマの美少女戦士ども!」
ちょっと訛《なま》りのある、陽気な男の声がした。そちらを見ると厩舎《きゅうしゃ》の方から、カルロス・リンドバーグが歩いてきた。以前のカウボーイ姿ではなく、ツナギを着ている。意外なことにかなり似合っており、いかにもカリフォルニア州あたり(何故カリフォルニア州なのかというと、なんとなく田舎っぽいイメージがあるからである)にいそうな、〔牧場のおじさん〕といった雰囲気だ。
……一応この人、今日の結婚式の新郎さんの筈なんだけどなあ……。千夏さんといい、いくらなんでも服装に無頓着すぎると思う。それはともかく、
「お久しぶりです、カルロスさん。ところで、他の三人はともかく、僕は断じて〔戦士〕とかいう生き物ではありません」
最優先で否定しておくべきことを否定すると、カルロスは豪快に笑って、
「ハッハッハッ! リカルドをぶっ倒しちまった女の子がなァに言ってんだよ! もっと自慢してもいいくらいだぜ?」
……自慢になるかそんなもん。〔馬鹿でかいインディアンを馬鹿でかい鉄砲で殴り倒しました〕なんて、人に話したら笑い飛ばされるのがオチだ。僕は嘘を吐《つ》くのは大好きだが、嘘にしか聞こえないような本当のこと(こういった話のストックはかなりあったりする。まったく困ったことである)を話すのは大嫌いなのだ。
「ところでユウキ。イリスのやつ、そっちでウマくやってるかい?」
ちらりとヒンデンブルグと戯れるイリスに目をやったあと、不意に真面目な顔になって、カルロスは聞いてきた。
「特に問題はありませんよ。まだ家族とはあんまり打ち解けてくれませんけど。表情もやっぱりあの調子です」
「まァ仕方ねェさ。俺やリカルドといたときだって、表情らしい表情を見せたことはほとんどなかったからな」
「……そうなんですか。……学校に転入する手続きはもう完了してます。今は夏休みですけど……それまでにどうにか少しは愛想よくなってくれればいいんですけどね」
……二週間前、カルロスは僕と深春に、イリスにもっとちゃんとした教育を受けさせてやりたいと言った。リカルドと三人での旅暮らしも楽しいものの、女の子が育つ環境としてはどうかとカルロスは常々悩んでいたらしい。そこで僕が、イリスをウチの養女にして、中学校に通わせることを提案したのだ。イリスが転入することになるのはくおんと同じ中学で、学年もくおんと同じだ。
「……勉強は一応僕が教えてますけど、イリス、飲み込みがめちゃくちゃ早いですね。一度教えたことは忘れないし。初めは足し算も出来なかったのに……この分だと、中学レベルの学力なら夏休みが終わる前に身に付くと思いますよ。まったく、優秀すぎて教え甲斐の無い生徒です」
「そーだろそーだろォ! 俺とリカルドは勉強のことはサッパリだが、ためしに剣を持たせてやったらぐんぐん上達しやがったからなァ! 骨董品屋《こっとうひんや》で買った剣がいきなり伸びたときはビビったけどな。……蛇腹剣なんて使いこなせるのは世界中でアイツくらいじゃねェか? ちなみにあいつ、射撃と格闘のウデもちょっとしたモンなんだぜ? まさにオールマイティな天才少女だなァ」
カルロスは、まるで親バカな人が我が子を褒《ほ》めるように自慢げに笑った。
……いや、違うな。ように、じゃない。カルロスにとって、イリスは我が子にも等しいのだろう。
たとえ血の繋がりなんて無くても。カルロスとリカルドとイリスは、まぎれもない家族なのだ。…………えーと、つまり僕とリカルドは親戚ってことに? それは嫌だなあ……。
「あたしもイリスちゃんみたいな子供を産みたいなー」
千夏さんが笑いながら言った。するとカルロスはまるで子供のように赤面し、
「お、オウッ! 任せてくれハニィ!」
「うん、期待してるからねー、ダーリンっ」
そう言って、千夏さんはカルロスに近づき頬に軽くキス。
……ったく……ハニーだのダーリンだの……実際にこんな風に呼び合うカップルってこの世に存在したんだ……。妙に感心してしまったものの、こういうのは二人きりのときにやってほしいと僕は思った。
深春は意味ありげな視線をこっちに送ってくるし、くおんは微かに頬を赤らめて顔を背けたし。
「……バカップルどもめ」
小さく、僕は呟いた。……ともあれ、アツアツなのは解った。あーあ、結婚しちゃうのかあ千夏さん……。結婚は人生の墓場だってよく言うけどな……どうなんだろ、そのへん。
結婚式の会場(といっても、千夏さんの家のリビングと、リビングに面した庭なのだが)には、僕たちを含めて十五人ほどの人間がいた。千夏さんの友達(みんな子供の頃からの幼なじみらしい)である二十歳前後の男女数人と、丸橋牧場と付き合いのある牧場のおっさんおばさんが数人(何故かみんな泣いている)。
庭にはジンギスカンの準備がされ、驚くほど分厚い骨付き肉が山のように積まれている。リビングにはいくつかのテーブルが並べられ、その上には溢れんばかりの大量の料理がところ狭しと置かれている。
結婚式というよりは、アメリカのドラマなどで時々見かけるホームパーティーに近い印象なのだが――楽しそうな雰囲気であるのは間違いなかった。
司会者らしい、マイクを持った若い男が叫ぶ。
「レディィィィスエェェェンドジェントルメエエエエエエエン! それではこれより、我が友人にして丸橋千夏と、なんかよくわからん外人、カルロス・リンドバーグの結婚式を開催したいと思いますがその前に一つだけ言っておくことがある! ちなつぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ――――――――ッ!! 俺は子供の頃から、お前のことが好きだったんだああああああああああああああああああああああああああああ――――――――ッ!!」
…………お、漢《おとこ》じゃ……漢がおる……。
司会者の突然の告白で、場がしーんと静まりかえった。「……田辺《たなべ》って昔ッからタイミング悪ィんだよな」「そうそう。空気読めっつーの」という友人たちのヒソヒソ話。……本当に友達なのだろうか。
「ゴホン」田辺という名前らしい司会者が咳払い。目に滲《にじ》んだ涙を拭きながら、「あーそれでは、新郎新婦の入場です! 皆様盛大な拍手でお迎えくだせえッ」
悲鳴じみた絶叫とともに、スピーカーから最大ボリュームで音楽が鳴り響く。
ぱーんぱーかぱーんぱーん ぱかぱかぱーぱーぱ――
この場にいる全員が盛大に手を叩く。
「ほら、イリスちゃんもっ」
「ん」
深春に言われ、イリスもよく分かっていない顔で手を叩く。
広間の奥の扉が開く。
音楽に負けないくらいの拍手と歓声に包まれながら、奥からゆっくりと、腕を組んで歩いてくる新郎新婦。
カルロス・リンドバーグ。
千夏・リンドバーグ・丸橋。
二人の身体からは、頭部が切断されていた――……
……――などというようなことはなく、二人は普通に五体満足で登場した。……いや、なんとなくいつものノリだとこのへんでなんか物騒な事件でも起こるんじゃねーかなーとか思ってしまったのだ。不謹慎なこと言ってごめんなさい。
二人の服装は、さっきまでのラフすぎる格好よりは小綺麗《こぎれい》な感じになっていたが、それでもやっぱり結婚式の新郎新婦らしくはない。
だが、腕と視線を絡ませながら歩く二人は本当に幸せそうで、これはこれでいいんじゃないかと思えてくる。深春の言うとおり、式の豪華さなど問題ではないのだろう。
「くうううう、ちなつううううぅぅ……」司会者の田辺《たなべ》さんがゴシゴシと目を拭う。そして、「新郎カルロス・リンドバーグ!」
「お、おう?」
いきなり名前を叫ばれ、カルロスが驚いた顔で返事をする。
「あー、富めるときも貧しいときも、あなたは千夏を伴侶として生涯愛することを誓いますか!? どうなんだてめえ!?」
……神父の真似事まであんたがやるのかよ田辺さん。
「愚問だぜェッ! 俺は一生、千夏を離さない!」
リカルドのような熱い台詞を言って、カルロスは頷いた。何の迷いもなく――誇らしげに、力強く。不覚にも……その顔を僕は、格好いいと思ってしまった。
「……ち、千夏ぅぅ……えーと、まあなんかよくわからんこのガイジンを、生涯愛することを誓いますのンか!? どうなんだよコラ!」
「誓うよ」
何の迷いもなく――誇らしげに、力強く。千夏さんは頷いた。……格好いい人だ。
「ぞんなに金髪がいいんでずがああ――ッ! ……ゴホン。……そ、そそれではお二人に……ち、誓いの……く、くくくくく口づけを! 見せてもらおうじゃねえかゴルァッ!」
田辺さん、ヒートアップしすぎてもはやキャラがつかめなくなりつつある……。
「よ、よし、キ、キスだな……」
「えへへ、なんかみんなの前だと照れるねえ」
――二人がチュウをした。
さっきよりもさらに盛大な拍手と大歓声が、会場を包み込む。
「ぐおおおおおおおおおおお――――――! うあああああ畜生! 死ねえ! 死ねおめぇらあああ! 死ぬほど幸せになりやがれえええええ――――ッ」
田辺《たなべ》さんが、泣きながら絶叫した。
「えへへ、ありがとー田辺君!」
唇を離し、千夏さんが、頬を染めながら笑った。
――かくて、宴《うたげ》が始まった。
千夏さんは女友達数人に囲まれ、カルロスとの馴れ初《そ》めについてインタビューを受けている。「プロポーズはどっちからしたんですかー!?」「あたしー」「二人は付き合ってどれくらいなんですかー!?」「三日っ!」「カルロスさんのどこが一番好きですか!?」「面白いところ!」「子供は何人くらい産みたいですかー!?」「一〇一頭……じゃなくて、一〇一人!」「……千夏、あんた、今、幸せ?」千夏さんは極上の笑顔で即答した。
「超ベリー幸せ!」
司会者の田辺さんが酒の勢いでカルロスにからんで「千夏と結婚したければ俺を倒してからにしろ!」と主張してケンカをふっかけ、カルロスに二秒でKOされた。「へへ……俺の負けだぜ……彼女を……幸せに、な……」と、まるで重要キャラのような台詞を残して、そのまま丸橋牧場から走り去ってしまった。「え? 田辺君!? どこ行くの!?」呼び止める千夏さんに、「今は……そっとしといてやるんだ。なァに、アイツもいつか、自分の幸せを見つける筈サ――だってアイツは、俺たちの友達なんだから」と、芝居がかった口調で言ったのは、僕のクラスメートの神河史記《かみかわしき》が五歳くらい年をとったら多分こんな感じになるだろうという美青年だった。しかし彼は本編とまったく関係がない。「うん、そうだねトシちゃん。田辺君なら、きっとアタシよりいい相手が見つかるよね!」どうやら彼はトシちゃんというあだ名らしい。しかし本当に彼は本編とは一切関係がない。
くおんは無表情で淡々と寿司(ウニだのイクラだの、高いネタばっかり)をむさぼり食っていたところ、「お嬢ちゃん可愛いねえ」と声をかけてきた壮年のおっさんにラム酒を勧められるまま一気にあおり、「わっはっは、いい飲みっぷりだ!」とおっさんが感嘆した瞬間に、「……フ」と僅《わず》かに笑みを浮かべて、そのままぶっ倒れてしまった。なにやってんだあいつは……酒なんて飲んだことないだろうに……。
深春が、酔っぱらった男たち数人と一緒にカラオケ大会を始めた。料理を食べることは出来ない深春だが、あいつなりにものすごく楽しんでいるようだ。深春が歌う。深春はべらぼうに歌が上手い。腹筋を鍛えていたからか、声量も大したものだ。深春の伸びやかな歌声(に聞こえるけど本当は空気を振動させているわけではなくテレパシーみたいなものらしい)が、空に向かって響いていく(という表現は本当は間違いで以下略)。
てのひらをたいように。ミミズだってオケラだってアメンボだってみんな生きていて友達だという摩訶不思議《まかふしぎ》な内容の電波ソングを、深春が声高に歌い上げる。
僕らがみんな生きていることを、全身全霊で主張する。
戦場のような喧噪に満ちた結婚式の会場をそっと抜け出すと、厩舎《きゅうしゃ》の前でイリスが若草の上に座り込んでいるのを見つけた。
イリスはただぼんやりと、放牧地の方を見つめている。空は夕焼け。馬たちはすでに放牧地から厩舎へと入れられている。ヒンデンブルグの姿もない。
涼しい風が、銀色の髪を撫でる。
「イリス」
僕が声をかけると、
「ん」
イリスは振り返った。
「どうしたんだ? 料理、早く食べないと全部なくなっちゃうぞ」
「ん……イリスはべつにいい」
淡々と、気怠《けだる》げにイリスは言う。
「……あそこは、なんだか疲れる」
「……ま、たしかにね。僕もああいうバカ騒ぎはどうも苦手だ」
僕はイリスの隣に腰を下ろす。
「ユウキは騒ぐの、嫌いなの?」
イリスが意外そうな顔をして言った。
「別に嫌いってわけでもないけどね。ただ、ああいうアットホームな空気の中にいると、なんだか落ち着かなくなるんだ」
「……イリスも同じ」
「……そっか」
地に足のついていないような不安定感。
自分は本当はこんなところにいてはいけないのだという、漠然とした違和感。
理由はよく分からない、けれど確かに感じる、異物感。
昔は、こんな風に感じることがよくあった。集団の中にいても、自分一人だけが溶け込めないような感覚。家族や友達と一緒にいると、何故か知らないけど息苦しさに襲われる。べつに、彼らが僕を阻害しようとしているわけではなかった。むしろ、どうにかして僕と打ち解けたいと心から思っていてくれた……と思う。それなのに――相手が近づいて来れば来るほど、僕は彼らから遠ざかろうとした。そこにきっと、大した理由はなかった。
……こんな、拗《す》ねたガキみたいな感覚、ずっと昔に捨てた筈なのに。今ではすっかり、お調子者でちょっとドジッ娘《墓穴掘り》なキャラクターになれていた筈なのに。
最近になってまた――僕の中の拗ねたガキが蘇《よみがえ》りつつある。自虐ごっこはもうたくさんなのに。シニカルぶって斜《はす》に構えたメンタリティなんて、要するにただの根暗と変わりないことは解ってるのに。
最近――最近っていつだ…………決まってる、深春が事故で死んだときに。あのとき、絶望(……これは便利な言葉だ。愛や希望と同じくらい便利な言葉だ)した僕の中に、昔のバカなガキが蘇ってしまったのだ。
「――ユウキ」
不意にイリスが、名前を呼んだ。心の中で感謝する。あのままだと――際限ない自己嫌悪の渦に落ちていくところだった。ネガティヴなのはもうたくさんだ。もっと明るく楽しく。バカみたいに生きていこう。さて。それではまずは萌えキャラっぽく、語尾に「にゅ」を付けることから始めましょう。
「ユウキ、じゃなくてお姉ちゃん、だろにゅ? はい、もう一度にゅ」
「……ユウキ」
イリスは完璧に僕の言葉を無視した。「にゅ」にさえノーツッコミですか。ちぇっ、この照れ屋さんめ。
「――生きてるのと死んでないのは、どう違うのかな」
……そんなことを、イリスは聞いてきた。
「なんだよ唐突に……にゅ?」
「……さっき、ミハルの歌が聞こえてきたから」
「なるほ……にゅ」
……暫《しばら》く考えたのち、僕は答える。はい、ポジティヴ萌え萌え路線は早速挫折《ざせつ》。これからまたいつもみたいな、クソみたいにつまらない、自嘲と自虐と被虐と妄想と空想とクソにまみれたネガティヴなオレオレ哲学の時間が始まるよ!
「……生きてることと、死んでないことの違い、ね。そんな難しいこと、お姉ちゃんには分かんねえよ」簡単だ。生きてるのが深春で、死んでないのが僕だ。
「わからないの? ……ユウキ、頭いいのに」
「……頭がよかったら、もっとマシな人生送ってる。それに、イリスだって頭いいだろ。このぶんだと、夏休みが終わるまでに高校生並みの学力が身につくんじゃないか? ……僕もじきに追い抜かれるな。そしたら家庭教師でも頼むか。知り合いに一人、いい先生がいるんだ。頑張れイリス。そしていい大学に入るんだ、東大とか。知ってるかい? 愛し合う二人が東大に行くと必ず幸せになれるっていう都市伝説があるらしいぞ。まあ、性欲《あい》だけを原動力に東大を目指せるような奴の脳味噌は、多分最初からハッピーなんだろうけどね。……それはともかく、頭がいいとイロイロ便利だってことは確かさ。家に帰ったらまた勉強な。イリスは国語が苦手みたいだから、みっちりやろう。大丈夫、中学レベルの国語なんて所詮《しょせん》ルーチンワークさ。日本語さえ読めれば、登場人物の心理分析をする必要なんてまったくナッシング。算数とそう変わらん」
……そんなことを言って――僕は話をはぐらかした。
「でも、勉強が出来ることと頭が良いことは違うと思う」
「……それに気が付けること自体が、頭が良い証拠だよ。ほれ、お姉ちゃんがいーこいーこしてやろう」
僕は左手でイリスの頭を撫で回した。サラサラの髪が心地よい。
「ん……」
イリスは無表情ながらも、どことなく気持ちよさげに目を細めた。
「……ユウキ」
「ん」
「――結婚ってなに?」
……これまた唐突に……簡単なようで突き詰めると難しい問いかけを……。
「男と女が法律上の夫婦関係になること。少なくともこの国ではね」
「……それはイリスも知ってる」
「それ以上でも以下でもないよ。ただの書類上の問題さ。……ああ、そうでもないかな。イロイロとメリットもあるかも。相手が浮気とかしたら、離婚するとき慰謝料を取れるんだ。それから、死んだときも保険金とか遺産が手に入る。とっても便利な制度だね。ビバ結婚。みんなもいっぱい結婚してどしどしお金を儲《もう》けよう」
「……ユウキは、結婚が嫌いなの?」
僕の皮肉な物言いに、イリスは首を傾げた。僕は苦笑する。
「……おいおい、同性愛者《レズビアン》の僕にそれを聞くのかい? 日本じゃ同性同士は結婚できないからね。好きとか嫌いとか以前の問題さ。さらに言えば、僕のカノジョはゴースト。これまた結婚は認められてない」
「……だったら、女同士での結婚やゴーストとの結婚も出来るようになったら、ユウキは深春と結婚するの?」
イリスの問いかけに――
「しないね。絶対にしない」
即答――自分でも驚くくらい、ハッキリと僕は答えていた。
「……ユウキ?」
「生涯愛し続けるなんてのは嘘っぱちの綺麗事《きれいごと》だ。特に男が言うとますます疑わしい。べつにカルロスの悪口を言ってるワケじゃないよ。誰だってそうだ。永遠の愛なんてこの世界にありゃしない。少なくとも、僕は絶対に信じない。なにせ――」
口の端が皮肉っぽくつり上がる。
「――なにせ約一名、結婚して妻との間に子供が出来た直後に他の女をレイプしてガキを孕《はら》ませやがったクソ野郎に心当たりがあるからね」
「……ユウキ、痛い」
イリスの声でハッとなる。気付けば僕は、イリスの頭に置いた手で、彼女の髪を強く握りしめていた。
「ああっ、ごめんイリス」
慌てて手を離し、僕は謝った。
……まったく、どうかしてる。情緒不安定にもほどがあるぞ、僕。なんで僕は、イリスに……よりにもよって何の関係もない義妹に、こんな話をしてしまったんだ。あいつはもうこの世にいないのに。あれはもう……終わったことなのに。
と。
「イリスも、結婚はしないと思う」
淡々と――しかしどこか寂しげに、イリスが言う。
「イリスは多分、カレンみたいなお母さんにはなれないから。チナツは、なれると思う。でもイリスは、お母さんのことを知らないから。イリスは生まれてすぐに捨てられたの。お父さんは本当のお父さんじゃなかったからだって。施設の院長先生はいじわるだった。他の先生もいじわるだった。イリスの他にも施設にはいっぱい子供がいて、先生たちはみんなに平等にいじわるだった。神様みたいだね。先生たちは毎日毎日言うの。お前らはみんないらない子なんだって。あるときイリスは先生に呼び出されたの。こわい男の先生で、みんなに嫌われてた。先生の部屋に行く途中、お姉ちゃんに止められたの。お姉ちゃんっていうのは、イリスの二つ年上の女の子で、みんなにお姉ちゃんって呼ばれてた。本当の名前は忘れちゃった。先生は番号で呼ぶから。イリスは十七番だった。お姉ちゃんは、部屋に行ったら乱暴されるから行っちゃダメだって言ったの。でも行かなくても乱暴されるよって言ったら、それとは違う乱暴だってお姉ちゃんは言った。お姉ちゃんは少し考えて、逃げようイリスって言った。だからイリスはお姉ちゃんと一緒に施設から逃げ出した。でもすぐに先生たちに捕まっちゃって、路地裏に引きずり込まれていっぱい殴られた。特にお姉ちゃんはいっぱい殴られた。だから死んじゃった。先生はめんどくさそうな顔で、ああ死んだかって言った。イリスもここで死んじゃうんだと思った。でもそこでカルロスとリカルドが来たの。カルロスは怒って、先生の頭を撃ったの。それでおしまい。それからイリスはカルロスとリカルドと一緒に行くことになったの。ついてきたければついてこいってリカルドに言われたから。それが七年前のこと。それからあの国にはいられなくなったから、剣を買ってもらって日本に来たの。そこでヒンデンブルグに会っていろいろあった。それから北海道に来てユウキたちと会った。それでイリスはここにいるの」
抑揚の無い平淡な話し方で、内容も整理されてなくて……それでも……いや、それだからこそ、イリスの話は、酷く重々しかった。実際に経験した者だけが持つ生々しさがあった。何度話を止めさせようと思ったか……でも、出来なかった。僕はイリスの話に聞き入ってしまった。
――いらない子。いない子。いてはいけない子。間違って生まれてしまった子。
イリスの声と一緒に頭の中で鳴り響く、記憶の中にある嫌な声。トテモイヤナ声。
「……いっぱい話したからなんか疲れた。喋るのは苦手。こんなに喋ったのは初めてかも。やっぱりユウキはおかしい」
「イリス……」
不意に……僕は、イリスをただ抱きしめたいという衝動に駆られた。……こんな感覚は、初めてだ……。深春にさえ、こんなことを思ったことは無かったのに。
だから僕は、素直にその衝動に従った。
イリスの頭を包み込むように――抱きしめる。
「……ん」
イリスは、素直に僕の胸に顔を埋めた。
「……ユウキの胸、やっぱりほどよい」
「……ごめんな、イリス」
僕は言った。
「なにが?」とイリス。
「お姉ちゃんって呼べとか言って。……もう、二度と言わないから」
「……ん」
それきり、会話も無く。ただ穏やかに、風と時だけが過ぎてゆく。
既に日は暮れていた。
母屋の方では、なおもどんちゃん騒ぎが続いている。
「ユウキ、イリスはもう一つだけ聞きたい」
胸に顔を埋めたまま、不意にイリスが言った。
「なに?」
「ユウキは――」
と、そのとき。
――後ろから、がさっ、という足音が聞こえた。
イリスが顔を上げて振り向き、僕も後ろを振り返る。
立っていたのは、くおんだった。いつものような無表情で、僕たちに視線を向けている。
「や、やあくおん。酒に酔ってたみたいだけど、大丈夫か?」
なんとなく気まずくなって、僕はとりあえずそう言った。
「……平気です、大義姉上《おおあねうえ》」
答え、それからイリスに視線を移すくおん。
「……小《しょう》義姉上」
「ん」
「……大義姉上から、離れてください」
「なんで?」不思議そうに、イリス。
「……どうしてもです」
「……? へんなクオン」
「……べつに、変ではありません」
しかし、僕から見ても今のくおんはいつもと様子が違った。なんとなく、無理に感情を殺しているような……。僕から離れろ、というのもよく解らないし。
「イリスはユウキの胸が心地よい。しばらくこうしてたい」
「……駄目です。離れてください」
「やだ」
「……MKファイブです」
「なにそれ? 銃の型番?」僕が尋ねると、
「……真っ二つに斬る五秒前の略です。千夏様に教えていただきました」
「……そうなのか。最近は変わった言葉が流行ってるんだな」
「……はい。……それで、イリス・クレセント様。早く義姉上から離れてください」
「やだ」
「……ちょべりばです。これは〔超ベリーバッド〕の略語で、即《すなわ》ち大変悪い状態のことを指します。今の私《わたし》の心境を表すのに、これほど適切な表現はありません。……イリス様、これ以上私を怒らせないでください」
「イリスは何もしてない。クオンが勝手に怒ってるだけ」
するとくおんは、顔をうつむけ、刀の柄《え》に手をかけた。居合いの構えだ。
「な、なに怒ってるんだよくおん お前、やっぱり酔ってるんじゃないのか?」
慌てて僕が言った。……すると。
「……とから………せに……」
うつむいたまま、くおんは小さな声で何かを言った。
「え? なに?」と僕。
「……あとから来たくせに……」
「……くおん?」
「あとから来たくせに! 義姉上《あねうえ》は、私の義姉上なんですっ!」
驚いたことに、くおんが大きな声で叫んだ。
斬りかかってくるかと思いきや――くおんは刀を抜かずにそのまま踵《きびす》を返し、走り去っていった。
顔はよく見えなかったけど……泣いているように見えた。
「お、おい、くおん」
くおんを追おうと立ち上がった僕の前に、
「……今はそっとしておいてあげた方がいいよ」
深春が厩舎《きゅうしや》の壁を通り抜けて現れた。
「……なあ深春、くおん、どうしたんだ? 最近あいつ、情緒不安定じゃないか?」
僕が尋ねると、深春は怒ったように顔をしかめて、
「本当に分からないの?」
「……何が?」
「……もういいよ」ぽつりとそう言って、きょとんとした顔で深春を見つめるイリスを一瞥《いちべつ》する。「……なんか、ボクも妬けちゃうな」
深春はそう言って、ふわりと浮かんで去っていく。が、不意に振り返り、
「――悠紀。イリスちゃんは、悠紀とは違うんだよ」
そんなことを言って、母屋に入っていった。なんなんだよ深春もくおんも……。
僕とイリスは、黙って顔を見合わせる。そのとき、不意に冷たい風が吹いた。夏とはいえ、さすが北海道。夜は冷え込むらしい。
「……僕たちも戻ろうか」
「ん」
イリスは頷き、立ち上がった。
朝まで続くかと思われた乱痴気《らんちき》騒ぎは、意外なことに八時くらいでお開きとなった。牧場の人たちは明日の朝も早いし、千夏さんの友人たちも、それぞれ大学の研究やら牧場の手伝いやらで忙しいらしい。
人がいなくなって、会場は一気に寂しくなった。
祭りのあと。
夢のあと。
何かが終わってしまったあとには、常に喪失だけが残る。
賑やかで楽しい時間は、いつだってほんの一瞬だ。その一瞬を大切にするのか、それとも喪失を避けるために背を向けるのか。どちらがより良い生き方なのかは判らないけれど、少なくとも僕の生き方は確実に後者。後者だった、筈だった――……。
……千夏さんとカルロス、それに僕とイリスとくおんは、メチャクチャに散らかっている広間と庭を手分けして片づけた。くおんは、僕とイリスを避けていた。
片づけは二時間ほどで終わり、それからすぐに、僕たちは二階の客間で眠りについた。
……一階では、今頃《ごろ》新婚夫婦が子づくりに励んでるのかなーとか思いながら。
翌朝。目が覚めたら、またしてもイリスが僕の布団に潜《もぐ》り込んでいた。ちなみに今回はちゃんとネグリジェを着て、パンツもはいて、すやすやと安らかな寝息を立てている。
「……やれやれ、またか」
イリスを起こそうとして……やめた。寝顔があまりに可愛かったのと、その目尻に、涙のあとが見えたからだ。……悪い夢でも見たのだろうか。例えば――〔お姉ちゃん〕が死んだときの夢、とか。
僕の隣には、くおんが眠っている。白い和服の夜着で、イリス同様、無垢《むく》な寝顔だ。結局、あれからくおんとはほとんど話していない。
……枕元の時計を見ると、まだ朝の四時半だった。普通なら寝直すところだけど、何故かそれほど眠くない。涼しかったので、珍しく熟睡できたからかもしれない。
時計から少しだけ視線を上に持っていくと、そこには深春がいた。
「早起きだね、悠紀」
「……お前こそ」
「ボクは寝てないから」
「そっか。そういやゴーストは眠らないんだっけ。起きてたんなら、イリスが僕の布団に潜り込むのを止めてくれればよかったのに」
苦笑しつつ僕が言うと、深春は、
「んー、だってイリスちゃん、あまりにも自然に悠紀の布団に潜り込むんだもん。声をかけるタイミングが分からなかったっていうか。……あんなさりげなくて完璧な夜這《よば》い、初めて見たかも」
「……夜這いじゃないだろ」
「あはは、そうだね。……ねえ悠紀、せっかく早起きしたんだから散歩にでも行こうよ。ちょうど朝日も昇る頃だろうし」
深春が笑う。
「……まあ、べつにいいけど」
北海道で日の出を見るというのも、なかなかオツなものかもしれない。
僕は旅行鞄の中から着替えを取り出し、パジャマを脱いでもぞもぞと着替えた。Tシャツにジーンズという、我ながら色気のない格好である。これがイイ、という人も中にはいるのかもしれないが。
「さ、行くか」
イリスとくおんを起こさないように、気配を極限まで殺してゆっくりと立ち上がる。
「うん。ところで悠紀。イリスちゃんって、意外とおっぱい大きいよね。まだ中学生なのに。もしかして悠紀……負けてない?」
「……言うな。僕も少し気にしてるんだ」
「くおんちゃんは……まあ、今後の成長に期待ってとこかな」
「何を期待してるんだお前は。……それに、洗濯板は洗濯板で需要はあるぞ。中途半端なのが一番よくないんだ」
そんなバカな話をしながら――僕と深春は、二階から一階へ下りた。
「あれ? 悠紀ちゃん、随分早起きだねー」
リビングには、すでに千夏さんが起きていた。……そういえば、牧場では朝の五時前から仕事が始まるんだっけか。馬たちに餌を与え、ブラッシングをして放牧して厩舎《きゅうしゃ》の掃除をして、それからようやく人間の朝食だ。毎日毎日、お馬様《うまさま》中心の生活スタイル。たとえ結婚初日であっても、当然ながらそれは変わらないようだ。……まったく、感服する。
「おはようございます。千夏さん、昨夜《ゆうべ》はお楽しみでしたか?」
千夏さんは僕のセクハラ発言にも動じることなく、快活に笑った。
「おいさっ、種付け初日はバッチリ大成功っすよー。いやまあ、ちゃんと受胎してるかどーかはまだ分かんないんだけどね」
……た、種付けって……自分のことなのに。受胎って表現も微妙にアレだし。この人はやっぱり根っからの牧場の娘だ。
「で、種馬《カルロス》さんの方はまだ寝てるんですか?」
「あー、ダーリンならもう厩舎の方に行ってるよ。なんか昨日は種付けしたあとも興奮して寝れなかったみたい。あたしはばっちり熟睡できたんだけどね。二時間くらい」
……二時間しか寝ていないとは思えないほど、千夏さんは元気満々だった。どういう体力してるんだこの人。
「悠紀、お仕事手伝ってあげたら?」
深春が言った。
「……そうだな」
僕が頷いたそのとき。
「たたたたたたたたた大変だチナツ!!」
カルロスが、顔色を変えてリビングに飛び込んできた。『ハニー』ではなく『チナツ』と呼んだことからも動揺ぶりが窺《うかが》える。よく見ると靴も履いたままである。……厩舎《きゅうしゃ》にいたってことは……馬糞《ばふん》とか踏んでないだろうな。
「どうしたの?」
千夏さんが尋ねると、カルロスは今にも泣きそうな顔で、
「ヒンデンブルグの様子が変なんだ! 俺が近づいても唸《うな》って噛みついてきて――こんなの初めてだ!」
「え……?」
千夏さんは不意に真面目な顔になり、すぐに厩舎へ向かって颯爽《さっそう》と歩き出した。カルロスもあとを追う。
僕と深春は顔を見合わせたあと、二人に続いた。
ヒンデンブルグは、回っていた。
決して広くはない馬房の中を、ぐるぐるぐるぐると、唸り声を上げながら。
千夏さんやカルロスが近づいて様子を見ようとすると、ふしゅうううぅぅ――という変な声を出して威嚇《いかく》するような目でこっちを睨《にら》む。ときどき立ち止まり、後ろ足で地面を蹴るような動作をして、敷き詰められた飼い葉が飛び散る。
千夏さんの頬に、一筋の汗が流れる。
「ヤニもついてないしお腹もほとんど膨らんでないけど……こりゃあもしかして……だとすると……マズイかもね……」
緊張した面持ちで呟く。
「ど、どどどどどォどうしたんだチナツ」
千夏さんは、カルロスに向き直り、重々しく告げた。
「……ヒンデのやつ、どうも産気づいてるっぽい」
カルロスが表情を強張らせる。
「さ、産気づくって……こ、子供が出来たってことかァ!? 相手はどこのどいつだよ!?」
「そんなのアタシが知るわけないっしょ。ここにいるのは牝馬《ひんば》ばっかりだし。……ダーリン、なんか心当たりはないの?」
狼狽するカルロスと、驚くほど冷静な千夏さん。
「こ、心当たりって……」
「他の牡馬《ぼば》と一緒の牧場にいたとか、アメリカかどっかで野生の馬と交尾してたとか」
「えェと……ん……」しばし考え、どうやら思い当たることがあったらしく、カルロスは「あ!」と声を上げた。
「なに? なんか心当たりあるの?」
「……あ、あァ。……俺とイリスとリカルドは、ヒンデンブルグと一緒に日本中を旅してたんだ」
「うん、知ってる」
「……それでまァ、二週間前みてェなこと――まァ、ぶっちゃけヨゴレ仕事だな、ああいう依頼もごくたまには受けるんだが、基本は何でも屋のその日暮らしだ。リカルドや俺がドカチン系のバイトしたり、イリスと組んでストリートパフォーマンスをやったりな。……それで、ヒンデンブルグにも、仕事をしてもらうときがあったんだ。芸をやらせることもあったが、基本的には乗馬クラブに貸し出したりしてたんだよ。賢いし人懐っこい馬だからなァ、すぐに人気者になった。どうしても馬を連れて行けないときは、そこで預かってもらったりもした。……喪神《もがみ》のオッサンと知り合ったのも、あのオッサンが経営する乗馬クラブだったんだが……まァそれはどうでもいいか」
……喪神象事《もがみしょうじ》については結構聞きたいことがあるのだが……今はよそう。
「……つまりダーリンたちの知らないところでヒンデンブルグが他のオスと交尾してても不思議じゃないってことね?」
「……あァ」
カルロスは頷き、それから子供のような笑顔になって、明るい声で続けた。
「にしても、ついにヒンデンブルグもママになるってェのかァ。こいつァめでてェなァ! まったくめでてェこと続きだ! ハニー、俺たちもヒンデンブルグに負けねェように、頑張って子供をこさえようぜ!」
「……そうおめでたいことじゃないよ」
千夏さんは、らしくない淡々とした口調で言った。
「どういうこと?」と深春が首を傾げる。
「……ヒンデのお腹、ほとんど膨らんでないでしょ?」
……たしかにそうだ。以前テレビで、出産が近い馬の映像を見たことがあったけれど、その牝馬《ひんば》はお腹の部分がぽっこり大きく膨らんでいた。人間の妊婦と同じように。
だが、今のヒンデンブルグのお腹は、ほとんど膨らんでいない。よく見ればたしかに、牧場の他の馬と比べれば多少腹が出ているのだが、しかしこれは〔妊娠している〕というよりは〔言われてみればちょっと太ってるかも?〕というレベルだ。
「本当に子供がいるんですか?」と僕が尋ねると、
「ヒンデのこの様子、陣痛が始まったときの様子とそっくりだもん。ま、確実なことはお医者さんに見てもらわないと分かんないけどね……でもアタシ、これでも毎年、馬の出産を経験してきたから。そのへんの勘は確かなつもり――」
そう言ってから、千夏さんはフッと自嘲的な笑みを漏らし、
「……なーんて、口が裂けても言えないね。今は出産シーズンじゃないから……油断してた。アタシとしたことが、全然気付かないなんて……」
悔しそうに歯噛みする千夏さんに、カルロスが怪訝《けげん》そうに尋ねる。
「チナツ、何がそんなに問題なんだ?」
すると千夏さんは、珍しく声を荒げた。
「言わせないでよ察してよ! お腹がほとんど膨れてない、それなのにヒンデンブルグは産気づいてる! そんなの……答えは一つしかないじゃない!」
「……未熟児、ですね」
僕が答えた。
「……うん。それも、超がつくほどの未熟児だね。……いわゆる〔ちょべりみ〕? ……うははは……はぁ……超笑えないねー……」
千夏さんはこめかみをおさえた。
……人間でも赤ん坊が未熟児の場合、妊娠しているとは思えないくらい、ほとんどお腹が膨らんでいないことがある。馬も同じ、か。
「……それで、どうする? カルロス」
千夏さんが、夫に尋ねた。
「どうするって……何を?」
「未熟児の仔《こ》を、ヒンデに産ませるのかってこと。産まれたとしても競走馬としてやっていける可能性はゼロ。乗馬用にさえなるかどうか……」
千夏さんはそこで言葉を切り、ひどく淡々とした声で、質問――いや、詰問した。
「つまり――――堕ろすかって訊《き》いてるんだけど」
カルロスは当然、慌てた。僕と深春も、まさか千夏さんがここまでストレートに言ってくるとは思わなかった。
「な、何言ってるんだチナツ!?」
千夏さんは、冷静に続ける。
「……馬を一頭面倒みるのは、ものすごくお金がかかる。ただでさえ経営が苦しいのに、馬を増やす余裕なんてウチにはまったくない。ましてや、将来に利益が見込めない馬を育てるなんて馬鹿げてる。……ぶっちゃけアタシは、ヒンデンブルグだってそのうちどっかの乗馬クラブに売り払うべきだと思ってるの」
感情を殺し、残酷だが〔商人〕しては正しい事実を突きつける千夏さん。
「……アタシ、前にダーリンに言ったよね。アタシと結婚するってことは、一緒にこの牧場を支えていくことだって。いつかアタシの夢……ウチの牧場からダービー馬を出すって夢を叶《かな》えるためにね。……それはね、こういうことなんだよ。牧場の役に立たないコは、切り捨てなきゃいけないときだってあるんだよ。この先、何度でもね。馬が好きなだけじゃやってられないんだよ!」
すごくシビアで……オトナの発言だと僕は思った。ただ漠然と夢が叶うことを信じているわけじゃなかった。現実が厳しいことを知りながらも、夢のために現実を覆そうという〔意志〕と、夢のためならば何かを犠牲にする〔覚悟〕が、千夏さんにはあるのだ。僕や深春と三歳か四歳くらいしか違わないというのに……。やっぱりこの人は、すごい。
「……で、どうする? カルロス」
「…………それでも」カルロスはうつむき――そして、顔を上げた。
「――それでも俺は、ヒンデンブルグに仔《こ》を産んでもらいたい」
カルロスはハッキリとそう言った。
「もともとヒンデンブルグは、この牧場の馬じゃねェ。俺の相棒だ。その子供を、商売にならないから、なァんて理由で殺すわけにはいかねェ。いかねェよ……。もちろんヒンデを乗馬クラブに売り払ったりもしねェ!」
「……じゃあ、どうするつもり? 馬一頭世話するのにどれだけお金がかかるか、カルロスだってちょっとは知ってるでしょ? ウチには本当に……そんな余裕はないんだよ。マジに……超貧乏なの」
一瞬千夏さんは、すごく悔しそうな目をした。カルロスもきっと、それに気付いただろう。彼女だって、出来ることなら商売抜きに二頭の馬の面倒を見てやりたいのだ。
「……牧場の金が使えねェなら、俺が一人で面倒みてやらァ。もちろん牧場の馬たちの世話もして、この業界のこともちゃんと覚えて――さらにその合間に、汚れ仕事でもなんでもやって、ヒンデンブルグとその子供の面倒をみる金をどうにか稼ぐ」
「そんなこと、本当に出来ると思ってるの? 言っとくけど、牧場に暇な時期なんて、ただの一日もないんだよ。朝から晩までひたすら仕事仕事仕事。もちろんバイトを雇うお金もないし。他の仕事をやってる暇なんてないと思うけど?」
突き放すように言う千夏さんに――
「出来る」カルロスはそれでも、力強く頷いた。「いや――やらなきゃならねェ。それがヒンデンブルグの相棒としての、俺の役目だ」
「……そう」
千夏さんは、短くため息を漏らした。そして。
「おしっ! それでこそアタシが見込んだ男だねっ! それじゃまあ、頑張ってこーよダーリン! アタシも内職とかするからさ! これから二人で、ヒンデも、その子供も、一緒に暮らしていこう! そいで、幸せになろう!」
うって変わった快活な笑顔で、千夏さんは言った。カルロスは彼女のその変わりように戸惑っていたようだが、やがて、
「おうっ! 二人のラブパワーで未来に向かってれっつらGOだ!」
とガッツポーズをした。……どうも千夏さん、カルロスの覚悟を試していたようなフシがあるのだが……まあ、それは指摘しないでおこうか。
「よし、それじゃあハニー! これからどうしたらいいんだ!? ヒンデの出産のために、俺は何をしてやるべきなんだ!? 教えてくれ!」
「んー」千夏さんは暫《しばら》く考え、「……そっと見守ることかな。今はそれしかないよ」
まるで母親のような優しい微笑みを浮かべ、千夏さんはそう言ったのだった。
とりあえずヒンデンブルグの馬房にカメラをセットし、僕たちは厩舎《きゅうしゃ》近くのプレハブ小屋に入った。カルロスだけは、まだ他の馬に餌をやったりしている。
馬の出産時には、人間は刺激しないように離れているのが基本らしい。難産になりそうな場合のみ、人間が手を貸すのだ。産まれるまで、この部屋で二十四時間体制でモニターでヒンデンブルグの様子を見守る。小さなモニターの中で、ヒンデンブルグは落ち着かないように動き回っていた。
「産気づいてから産まれるまで、普通はどれくらいかかるものなんですか?」
僕は千夏さんに尋ねた。
「うーん……ケースバイケースだね。陣痛のあと三〇分も経たないうちにお産が始まる場合もあるし、何日もかかるときもある。前日までは全然そんな兆候がなかったのに、朝見てみたらいつの間にか産まれてたときもあったし。でもまあ、基本的にはお産が始まるのは夜だね。野生の本能でさ、敵に襲われる危険が少ないときに子供を産むんだって。よくできてるよね、自然ってやつはさ」
それから千夏さんはふと気付いたように、
「あ、悠紀ちゃんたちは家に帰らないといけないんだよね。ちゃんと駅まで送っていくから安心してね」
すると深春が、
「千夏さん、仔馬《こうま》が産まれるまでボクたちも手伝うよ。どうせ夏休みだし。ね、悠紀」
僕も頷く。
「……まあ、僕たちが出来ることなんて、交代でヒンデンブルグを見てることくらいでしょうけど……邪魔でなければ、もう少しいさせてくれませんか?」
千夏さんは実に嬉しそうに笑った。
「邪魔なわけないよー。ありがと、深春ちゃん、悠紀ちゃん」
と、そこへ、くおんとイリスが母屋の方からプレハブ小屋に入ってきた。……何故か二人とも寝間着がズタズタで、あちこち怪我をしているようだ。
「……ここにおられましたか、皆様」
「どうしたんだ? そんな格好で」
僕が尋ねると、くおんは千夏さんの方を見て、
「……申し訳ありません、千夏様。……先ほど、二階の客間が全壊しました」
いつものように無表情で淡々と、くおんはとんでもないことを言った。
「お前らなあ……またケンカしたのか?」
「……ケンカではありません。無礼者を成敗しただけです」
目を逸らし、言い訳をするようにくおんは言う。僕はため息を吐《つ》き、
「……なにがあったんだ? イリス」
「起きたらユウキがいなかったから、仕方ないからクオンの胸に抱きついた。そしたらクオンが起きて、イリスが『硬いね』って言ったらクオンが怒った」
ただ淡々と事実のみを述べる口調でイリスが言った。くおんと違って、怒りをこらえているという風でもない。心底どうでもいいと思ってる感じだ。
「やれやれ……お前ら、もっと仲良くしろよ……」
「……お断りします」
「クオンが嫌って言うならイリスも嫌」
くおんが即答し、イリスも淡々とそう言った。……やれやれ、だ。
「すいません千夏さん。義妹たちが迷惑を。部屋はちゃんと片づけますんで」
「あはは、いーからいーから! いわゆる反抗期ってやつだよね? 誰にでもあることだよ。なんせ馬にだってあるくらいだから! 中坊の頃は誰だってそんなもんさー。子供はやっぱり元気なのが一番! 勢い余って家を飛び出しちゃう、ウチのアニキみたいなのもいるけどねー」
千夏さんは快活に笑った。するとイリスはくおんの方を見て、
「つまりクオンは、馬やタカシと同じってこと?」
かあああああっとくおんの顔が見る間に真っ赤になる。そして刀の柄《え》に手をかける。……馬はともかく、丸橋高志さんと一緒にされるのがそこまで嫌ですかマイシスター。
「……なんという侮辱……もう許しません……! イリス様、表に出てください……!」
「ん」
決闘するため外に出て行こうとする二人に、僕は投げやりに、
「二人とも、せめて服を着替えてからにしろよ」
「……了解です」
「ん。わかった」
母屋に戻って着替えた二人が、決闘のため放牧地の方へ歩いていき、深春も二人の戦いを見物するために外へ出て行った。千夏さんも、朝食を作るため、母屋のキッチンへ。
僕は一人、プレハブ小屋のパイプ椅子に腰掛け、テーブルの上のモニターで、ヒンデンブルグの様子を見守る。ヒンデンブルグは少し疲れたのか足を止め、餌を食べている。
と、そこへ、馬を厩舎《きゅうしゃ》から放牧地へ出し終えたカルロスがやってきた。モニターを覗《のぞ》き込みながら、
「お嬢ちゃん。ヒンデンブルグの様子はどうだい?」
「異常なしです」
「そっか。そいつァよかった」
そう言って、まるでさっきまでのヒンデンブルグのように、部屋の中をぐるぐると回るカルロス。……なんというか、たいへんウザい。
「あのー、もうちょっと落ち着いたらどうですか?」
「そ、そうだな」
と言いつつ、カルロスはソワソワした様子で椅子に腰掛け、そのまま貧乏揺すりを始めた。僕は思わず苦笑し、
「緊張しすぎじゃないですか?」
「だ、だってよォ、馬の出産に立ち会うなんざ、生まれて初めてだからしょうがねェじゃねェかい!」
何故か逆ギレされてしまった。
「……そんなの僕だって初めてですけど……」そこでふと、怪訝《けげん》に思う。「カルロスさん、カウボーイなのに馬の出産に立ち会ったことないんですか?」
するとカルロスは呆れたような顔をして、ぱたぱたと手を振りながら、
「おいおいお嬢ちゃん、あんなのは趣味よ趣味! いわゆるコスプレってやつだな!」
……うわ、ぶっちゃけた。ぶっちゃけやがったよこの人!
「……それならひょっとして、リカルドさんのあの格好もコスプレですか?」
「あァ。もちろんそうだ」
……僕の中にあった〔ネイティヴアメリカンの誇りを守り、ひたすらに己を磨くことに専心する硬派な求道者〕というリカルド・ザ・ブラックウィングのイメージはあっさりと崩れ去った。まったくもってがっかりである。
そんな僕の内心も知らず、カルロスは続ける。
「……俺がカウボーイの格好をするようになったのは、ヒンデンブルグと出会ってからなんだ。それまではもちっと普通の格好をしてた」
「へえ……」
カルロスは、いそいそとツナギのポケットから何枚かの写真を取りだした。そのうちの一枚を僕に差し出して、
「ホレ、これが七年前の――ちょうどイリスを拾ったくらいの時の写真だ」
……なんでそんなもんいつも持ち歩いてるんだ……。そう言いたいのをこらえて、僕は写真に目をやった。
……その写真には、黒服に身をつつんだ、若き日のカルロス・リンドバーグが写っていた。サングラスをかけた、金髪で長身の男。やや陰のある、どっかのマフィアの美形幹部という感じで、意外なことにかなり格好いい。ちなみに銃はこの頃からピースメーカーだったらしい。
「……それがなんでまたカウボーイに?」
「決まってるだろ?」カルロスは、至極当然といった顔で答えた。「せっかく馬がいるんだから、カウボーイになっとかなきゃ損だろ」
「……そういうもんですか」
「そういうもんだ」
断言されてしまった。
「……他の写真も見ていいですか?」
僕が尋ねると、カルロスは「あァ」と渡してくれた。
写真には、カウボーイになったばかりのカルロスやインディアン姿のリカルド(七年前の写真の筈なのに、現在とまったく変わっていない)などが写っていた。そのうちの一枚に……七年前のイリスの写真があった。
「ぐおっ……こ、これはもう鼻血モンですな……」
蛇腹剣を抱きかかえるように持つ、六歳か七歳のイリス。今のイリスをそのままさらにちびっこにした感じで、くりっとした瞳やぷにっとしたほっぺたが、もう、たまらないくらいに愛くるしい。服装はゴスロリだが、ドレスの色は黒ではなく白だ。ああ……可愛いなあ……可愛いよう……萌え死にしてしまいそうだ。
「カルロスさん!」
「な、なんだ?」
何故か呆れたような顔をしてたじろぐカルロス。
「この写真、僕にください!」
「だ、駄目に決まってるだろがァ!」
「えー、なんでー? ちょうだいよぉカルロスさぁぁん」
「あ、甘えたような声を出しても駄目だ。へへ、俺には愛しのハニーがいるからなァ。乳臭ェ小娘の色香なんぞに惑わされたりしねェぜェ! いくらフェロモンを放出しようとしたところで――――貴様は所詮《しょせん》、Bカップ!」
「イーグルでドタマぶち抜くぞこのファッキンカウボーイ」
ややマジ切れしつつ僕が言うと、カルロスは不意に真面目な顔になった。
「これはなァ……思い出なんだよ」
イリス(ロリぷにモード)の写真の下に、カルロスとリカルドとイリス、それにヒンデンブルグが、ラベンダー畑をバックに並んでいる写真を僕は見つけた。カルロスはカウボーイ姿で銃を構え、リカルドは仏頂面で腕を組み、後ろにはヒンデンブルグ。イリスは二人と一頭の中心で、戸惑ったような顔でカメラを見ている。日付は三年前のものだった。
「この写真も欲しいです」
「やらねェよ!」カルロスは写真を僕から奪い取った。そして、その写真を見ながら、遠い目をして言う。
「――こいつはな、かつて俺たちが一緒にいたっていう、証拠だ。今じゃリカルドもどっか行っちまって、イリスもお前さんのとこで養女になって、俺は所帯を持った。ヒンデンブルグももう少しで母親だァ。……だがこの写真を見るたびによォ、俺は思い出すんだ。俺たち三人が一緒に過ごした日々を、な。……いつも腹ぺこで大変だったが……それでも大事な思い出だ。過ぎちまえば七年間なんてェあっという間だったが、忘れちゃいけねェ、大切な俺の人生の一部さ……」
「案外ロマンチストなんですね」
「カウボーイってェのは、みんなロマンチストなのさ」
そう言って、少し寂しげに笑う元カウボーイ(コスプレ)。
「……ひょっとしてカルロスさん、イリスを僕の家の養女にしたこと、後悔してます?」
カルロスは首を振った。
「いんや、喜んでるさ。なにせアイツに、家族が出来たんだからなァ。可愛いお義姉《ねエ》ちゃんと義妹がいる、最高の家族がよォ。まともな教育だって受けられるし、美味いメシも食える。イリスの幸せを考えりゃ、後悔なんてするわけねェよ。……まァ、娘を嫁にやる父親の気持ちってのはこういうモンなのかなァ――とは思うけどな」
写真をポケットにしまいながら、カルロスは言った。その瞳は――この上もなく、優しかった。きっと、あの写真の三人と一頭は、本当の家族だったのだろう。
僕やくおんとイリスも、いつかこんな風になれるのだろうか――僕は、出来ればそうなりたいと思った。しかしそれはとても難しいということも、僕は知っていた。
くおんとイリスの戦いが引き分けに終わって二人が部屋に戻ってきたのと同時に、千夏さんが朝食を運んできた。
パンと牛乳、ベーコンエッグ、ポテトサラダ、鮭《さけ》の塩焼き。五人分ということを差し引いても量はかなり多いのだが、千夏さんが作る料理は異様に美味いため、朝なのにどんどん食がすすむ。昨日の結婚式での料理もほとんど千夏さんが作ったらしい。新婦さんが料理を作る結婚式というのも珍しいのではなかろうか。
「ヒンデの様子はどう?」
パンを囓《かじ》りながら、千夏さんが言った。カルロスがジョッキに入った牛乳をがぶ飲みしながらモニターを覗《のぞ》き込み、
「あァ、今のところ異常ナシだ。いつ産まれるかねェ」
「あんまり早く産まれてもらってもちょっと困るけどねー。午後には先生が来るから、それまで待ってくれないと。できるだけ早く来てほしいんだけどね……なんか色々と立てこんでるみたい」
「先生?」とカルロスが聞き返す。
「お医者さんに決まってるじゃない。未熟児を取り上げたことなんて今までにないし。そもそも本当に妊娠してるのかどうかの確認もしてもらわないとねー。つーか、コレで実は妊娠してなかったらアタシめっちゃ恥ずかしいかも」
そう言いつつ明るく笑う千夏さん。しかしその表情は、どことなく無理して作っているような感じがした。……千夏さんも、不安なのだろう。兄の高志さんの代わりに牧場の仕事を教え込まれたとはいえ、彼女がこの牧場を切り盛りするようになったのは、ほんの三年前のことなのだ。
と、そのとき。深春が声を上げた。
「ねえ、なんか様子が変だよ!」
慌てて僕たちはモニターを覗き込む。
ヒンデンブルグが、ものすごい勢いで暴れていた。後ろ足で厩舎《きゅうしゃ》の壁を蹴りまくり、前足で穴でも掘るかのように飼い葉を散らす。
千夏さんとカルロスが、慌てて厩舎の方へ向かう。
僕たちもそれに続いた。
モニターで見る以上に、ヒンデンブルグの荒れ方は凄《すさ》まじかった。前足と後ろ足をデタラメに動かし、もがき苦しむヒンデンブルグ。彼女が壁や地面を蹴るたびに、轟音とともにオンボロの厩舎《きゅうしゃ》が振動する。
「はいっ、どうどうどう、どうどうどう――……」
千夏さんがヒンデンブルグを宥《なだ》めようと近づく。しかしヒンデンブルグは凶暴な嘶《いなな》きとともに、差し伸べられた千夏さんの手に噛みつこうとした。
「わっ、」
千夏さんは慌てて手を引っ込めた。勢い余ってヒンデンブルグの頭がぶつかり、がこん、と馬房の柵《さく》が揺れる。それからまたも、後ろ足で後ろの壁を蹴り始めた。……もしかしたら厩舎が壊れてしまうのではないかというくらい激しい蹴りだ。目は血走り、いかにも暴れ馬といった様相を呈している。あの大人しかったヒンデンブルグが……。
「おいこら落ち着けってヒンデンブルグ! 大丈夫! 大丈夫だ!」
カルロスが近づく。しかし、千夏さんのときと同じ結果に終わる。
「ちくしょう……どうしたらいいんだ……!」
カルロスは悔しげに呻く。千夏さんも顔をしかめ、
「まずいね……お産の前に体力を消耗させるワケにはいかないんだけど」
と、そのとき。
二人の間を抜けて、イリスが馬房の前に進み出た。
「イリス……?」
戸惑った声を上げるカルロスを尻目《しりめ》に、
「ん」
イリスは、普段とまったく変わらない様子で無造作に馬房の扉を開け、中に入っていってしまった。
「ば、バカ! 危ないだろ!」
僕が叫んでも、イリスは「……大丈夫」と言ってさらに一歩を踏み出す。
ヒヒィィィィィィンッ!!
侵入者に興奮したヒンデンブルグが、大きく嘶いてイリスに噛みついた。
「――――ッ!」
僕たちは息を呑んだ。悲鳴さえ上げられなかった。
ごりっ、という嫌な音がして、イリスの二の腕と、ヒンデンブルグの顎が重なる。すぐにヒンデンブルグは顎を離したものの、噛まれた場所からは黒い服の上からもよく分かるくらい、血がぼたぼたと流れ落ちていた。
「……ぁう」
イリスが苦痛に顔をしかめる。馬鹿かイリス! 相手は馬だぞ! ナウシカの真似なんてしたら大怪我《おおけが》することくらい解るだろうに……!
そんな言葉が出そうになったけれど、叫ぶとますますヒンデンブルグが興奮するかもしれないので、理性で強引に押しとどめる。
「くそっ……イリス……!」
「……大丈夫」
イリスが苦痛を殺した声で言った。そして、馬房の端で威嚇《いかく》するような唸《うな》り声を上げるヒンデンブルグに、ゆっくりと近づいていく。
イリスの手が、ヒンデンブルグの首の真ん中あたりに伸びる。ヒンデンブルグはなおも唸り声を上げるが、暴れようとはしない。
イリスは左の腕からぼたぼたと血を流しながら、右手でヒンデンブルグの鬣《たてがみ》を撫で続ける。すると……
「ヒィュウゥゥン……」
あれほど興奮していたヒンデンブルグが、徐々に大人しくなっていったではないか。血走っていた目は、傍目《はため》でもハッキリ判るほどに彼女本来の落ち着きを取り戻し、ときどき気持ちよさそうに細められる。
「……こいつァ驚いたな……」
カルロスが唖然とした顔で言った。イリスは頭だけ僕たちの方に向け、
「……このへんを撫でると、ヒンデンブルグはいつも喜ぶ」
淡々とそう言った。
そして、ぱたん――と、飼い葉の上に倒れ込んだ。
「ちっ!」
カルロスが慌てて馬房に入る。ヒンデンブルグはただじっとイリスの方を見つめるだけで、カルロスの侵入には反応しない。カルロスはイリスを抱き上げ、馬房から出る。
「ひぃぃん」と、ヒンデンブルグが小さく嘶《いなな》いた。……まるで、イリスに怪我をさせたことを詫《わ》びるかのように。
イリスをとりあえず母屋の風呂場に運び込み、カルロスを追い出したあと、千夏さんは服を脱がした。
「あーもう、なにこの服? どーなってんの」
なかなか脱がすことの出来ないフリル付きのブラウスに苛立ち、千夏さんはなんと、ハサミでブラウスの肩から下を切り裂くという豪快な行動に出た。血の染みついた布を無造作に放り投げる。
「うわ……」
深春と千夏さん、そして僕が同時に顔をしかめた。
イリスの二の腕に、抉《えぐ》れるような歯形が刻まれ、そこからは止まる様子もなく血が溢れている。……あまりに痛々しかった。傷は、見たところかなり深い。……思いっきりガブリってやられたからなぁ……。馬の顎の力は、下手な肉食獣よりはるかに強い。
「……まさか骨までイッてないだろうね……あーもう、ていうかアタシはべつに医者じゃないっての! 馬に噛まれたときの手当ての仕方なんて分かんないよ!」
千夏さんが悲鳴じみた声を上げた。……この人が取り乱すの、初めて見た。さすがにこの凄惨《せいさん》な光景は、慣れていないとかなり堪えるのだろう。
と、そこで。
「……千夏様。応急処置なら、私《わたし》が心得ています」
くおんが進み出て、いつものように淡々と言った。まず風呂場に運び込むように言ったのも、実はくおんだ。
「えらい! さすがくおんちゃん! で、どうすりゃいいの!?」と千夏さん。
くおんは一瞬だけ、死んだように横たわるイリスに視線を向け、
「……まずは、傷口を洗います。馬に噛まれてばい菌が入ったかもしれませんから、入念に。……イリス様が痛みで目を覚ますかもしれませんが、気にしてはいけません。そのたびに私《わたし》が再び気を失わせます」
……さらりと怖いことを、くおんは言った。
イリスの手当てはくおんと千夏さんに任せて大丈夫そうだったので、僕と深春はプレハブ小屋に戻った。というか、くおんに強引に追い出された。大勢いても邪魔なだけ、らしいが、
「……ホントは、イリスちゃんを心配する悠紀の顔を見たくないんだよ。それは分かってるよね、悠紀?」
「……まあね。あいつ、意外と判りやすい性格してるなあ……」
深春の問いかけに頷き、僕はしみじみと言った。
くおんは要するに……僕がイリスばかりかまうから妬いていたのだろう。……まったく、なんて可愛い義妹だ。あとで褒《ほ》めてやらねば。
「イリスの具合はどうなんだ」
モニターを見ていたカルロスが、焦燥を浮かべて聞いてきた。
「出血は酷いですが、止血すれば問題ないみたいです。腱とか骨は無事だから、後遺症が残ったりすることも多分ないらしいです」
……僕とは違って。そんな言葉を呑み込む。僕の右腕は、かつて銃で撃たれ、バッチリ後遺症が残ってしまっていた。どうして僕だけ……とは思わない。イリスが無事だったことは素直に喜ばしい。――――イリスは、僕とは違っていてほしい。
「……そっかァ」
カルロスはホッとしたような、しかしどこか悲しそうな顔をした。そしてぽつりと、
「さっきイリスがヒンデンブルグに噛まれたのを見てなァ……ちょっと懐かしいこと思い出しちまった。……俺がヒンデンブルグと出会ったのは、七年前のことだ」
「はい。前に聞きました」
「……アイツな、もともとは競走馬だったんだ。地方じゃあ結構良い成績を収めてて、もうちょい頑張ればGIも夢じゃなかったって話もあったくらいだ」
「え?」と僕と深春が同時に驚く。
たしかに素人目に見てもえらく立派な馬だなあとは思っていたけど……。
「俺も一目見たときからアイツを気に入っちまってなァ。普段は競馬なんてやらねェんだが、アイツが出るレースのときはいつもイリスを連れて競馬場に行ったモンだ。けっこう勝たせてもらったぜェ。リカルドの稼ぎより多かった日もあるくらいだ」
……想像してみる。七年前のカルロス……黒服にグラサンの男と、白ゴスロリの美少女が一緒に競馬を見ている光景。……シュールだ、シュールすぎる。
「ところがなァ」カルロスは不意に遠い目をした。「ヒンデンブルグのやつ、あるとき突然、ジョッキーに噛みついて大怪我させちまったんだよ。原因は不明。……いや、関係者なら何か知ってるのかもしれねェが、少なくとも俺たちには原因不明さ。ともあれ、そんな不祥事起こして、ヒンデンブルグは処分されることになった」
「え……そ、それでどうなったの!?」と深春。
「……どうもこうも、その噂を偶然聞きつけた俺は、リカルドやイリスと一緒にヒンデンブルグのいた厩舎《きゅうしゃ》に乗り込んで、そのままヒンデンブルグを連れ去ったんだよ。地元の新聞にも載ったぜ。〔謎のインディアン、大暴れ〕って見出しで。ヒンデンブルグが盗まれたこと自体よりもリカルドの方が話題になってて爆笑したなァ。それっきり、あの競馬場には顔を出せなくなっちまったが……馬券売り場のおばちゃん、まだ元気かねェ」
そう言って、小さく笑うカルロス。
「……色々あったんだね、カルロスさん」
深春が言うと、カルロスは深々と頷いた。
「あァ……色々あった。色々あったさァ……。相棒として――いや、家族として、何年も苦労を共にしてきた。そりゃあ色々あるわなァ……。死にそうな目にあったこともある。だからよォ……」
カルロスは、瞳にたまっていた涙を手で拭った。
「――だからよォ、あいつには、絶対に幸せになってもらいてェんだ。いや……幸せにならなきゃいけねェんだ。俺が絶対に、あいつを幸せにしてみせる」
そう、カルロスは言い切った。
つまるところ――この人は、いい人なのだろう。イリスを助けたり、ヒンデンブルグを助けたり、仔馬《こうま》を産ませようとしたり。〔いい人〕は――幸せになるための必要条件だ。
……十分条件ではないのが、つらいところだけど。
深春とカルロスには「トイレに行く」と言って小屋を出て、本当にトイレに行ってから、僕は何となく厩舎へ向かった。
ヒンデンブルグの馬房の前に来ると、彼女はのそのそと歩いて僕の方に寄ってきた。先ほどの狂乱ぶりが嘘のような大人しさだ。
……それに、どことなく苦しそうだ。馬の感情が判るほど僕は馬に詳しくはないけれど、なんとなく直感で僕はそう思った。目も、落ち着かない感じで少し泳いでいる。
……もうすぐ産まれるのかもしれない。
……だからこんなにも苦しそうなんだろう。
多分、ヒンデンブルグのお腹の中にいる仔馬《こうま》も。
この世界に産まれるために、苦しんでいるに違いない。
産まれたとしても、苦しいのは変わらないのだけれど。それでも。
「……お前も……可哀想なやつだよな」
不意に、そんな言葉が口をついて出た。
「……どこの馬の骨とも分かんないようなヤツの子供を産むために、こんな苦しい思いをしてるなんてさ。ほんと、しょうもねえよな、オスってやつは。お前と、お前の赤ちゃんがこんなに苦しんでるってのに……どうせそいつは、今頃《ごろ》どっかの牧場だか乗馬クラブだかで他のメス馬とよろしくやってるんだぜ? ……ったく、いい加減にしろって感じだよなあ……。あのケダモノどもは」
……言葉の解らない動物に話しかけるなんて……僕らしくもない。そんな乙女ちっくな趣味など、持ち合わせていない筈なのに。
ひひん、とヒンデンブルグは弱々しく啼《な》いた。馬が僕の言葉を理解したわけがないけど……彼女はまるで、頷いたようだった。僕は皮肉っぽい笑みを浮かべる。
「……あーあ、どっかに魔法のハサミとか落ちてねーかな。そしたら世界中のオスどものアレをネコソギちょんぎってやるのに。でも実際、ブーメランばばああたりなら頑張ればやれそうな気がしない? ……真夜中、薄暗い路地を痴漢が獲物を求めてコートだけを羽織って歩いていると、前からいきなりハサミを持ったババアが歩いて来るんだ……。痴漢が脅かそうとコートを広げた次の瞬間、その痴漢の股間からはアレが消えていた……!」
……ぶるっ……自分で言って想像して、ちょっと怖くなってしまった。
しかし妖怪チ○コ切りばばあの話は冗談としても、それ以外の言葉はわりと本音だった。だって馬に嘘吐《つ》いても仕方ないし……。
ヒンデンブルグが妊娠した原因って、人間に当てはめると要するにレイプだ強姦だ陵辱《りょうじょく》だ婦女暴行だ。発情した馬鹿なオスが美女のヒンデにいきなり襲いかかって交尾しやがったのだ。牝馬《ひんば》の方も発情してないと馬の交尾は成功しないとか、そういう細かいとこはどうでもいい。そのへんはもう全部オスの責任なのだ。罰として去勢《チンコ切り》しやがれ。
子供が作れなくなろうが知ったことか。種の保存とか人口の減少とか、どうでもいい。
……血なんか繋がってなくても、家族にはなれるし。
血の繋がりがなくても、僕とくおんはれっきとした姉妹だ。逆に、たとえ血が繋がった実の兄だろうが姉だろうが、好きならじゃんじゃん恋人にでも何でもなればいいんだ。
倫理も道徳も宗教も法律も、そんなもんは無視すればいいんだ。愛で。
国会議員のおっさんどもの大好物はバイアグラだし。口うるさいPTAのおばはんどもだって、ベッドの上で腰を振って子供を作ったワケだし。
奇妙で奇怪で歪《いびつ》で矛盾で理不尽で不条理で不可解で不愉快で――ああ、吐き気がする。
セカイなんてもともと壊れてる。
だからもっと――跡形もなく粉々になっちまえ。愛で。
大丈夫、愛も大量破壊兵器も同じようなものだ。げんに昔の偉い人の作った隣人愛の宗教が愛のミサイルで何万人も殺してるし。ああ素晴らしいな、愛。くたばれ。
そんなことを思いながら、僕はヒンデンブルグの様子をよく見ようと、扉に顔をくっつけた。するといきなり、ヒンデンブルグは舌を鉄柵《さく》の隙間から突き出して、僕の頬をべろりと舐めた。……もしかして、今、僕はチュウをされたのですか?
「っもう……いきなりなにするんだよ……」
温かくて少しザラザラした舌と、ねっとりとした唾液の感触が頬に残る。しかし、不思議と不快感はない。
ヒンデンブルグは、大きく黒い瞳で僕を真っ直《す》ぐに見つめてきた。
「……――頑張れ、ヒンデンブルグ。負けんなよ」
何故か涙が出そうになったので、僕は厩舎《きゅうしゃ》を出た。……まったく、なにやってんだか。
一階の寝室のベッドで、イリスは横になっていた。
左腕には包帯が巻かれ、寝間着代わりに半袖のTシャツを着ている。昨夜《ゆうべ》はこのベッドで千夏さんとカルロスが激しく愛し合ったのだなあ――などという妙な感慨をもってしばしベッドを観察したあと、イリスに声をかける。
「怪我の具合はどうだ?」
「……痛い」
目を開けて、イリスは答えた。
「……そりゃまあ、馬に噛まれたら痛いだろうね」
嘆息しつつ、僕はイリスの傍《そば》に寄り、
――――ぱぁん
イリスの右の頬を、平手で叩いた。イリスの真っ白な頬に、赤い跡がつく。
「ユウキ……?」
イリスが不思議そうな顔をして僕を透明な眼差しで見る。
「……いいかイリス。あんな危ないことは二度とするんじゃない。ヘタしたら大怪我してたかもしれないんだぞ」
「……大怪我したら、どうなるの?」
「僕が悲しい」
即答した。何の躊躇《ためら》いもなく、言い切った。するとイリスは、何故か「ぷっ」と噴き出した。イリスが笑うのを見たのは、これが二度目だった。
「な、何がおかしいんだイリス。僕は真面目な話を――」
「うん、でも……」僕の言葉を遮ってイリスが言う。「ユウキ、クオンと同じこと言うんだもん」
「え?」驚き、イリスの顔をまじまじと見る。よく見ると――左の頬にも、さっき僕が叩いたのと同じような、赤い跡がついているのが判った。
「イリスが大怪我したらどうなるの、って聞いたらね……クオンも、『私《わたし》が悲しいです』って言ったの。それからすぐに出て行っちゃった」
そしてイリスは、またも笑った。
「イリスは、ユウキやクオンに心配してもらってる。大怪我したら悲しいと思われちゃう。イリスは、なんだか嬉しい。だってこれが家族だと思うから」
僕は無言で――イリスの頭を撫でた。
「あぅ……」イリスは嬉しそうに目を細め、そして、「……ユウキ。イリスは、昨日、聞こうと思って聞けなかったことがある」
「なに?」
「――ユウキは、なんでイリスの家族になってくれたの?」
……カルロスがイリスにまともな教育を受けさせたがっていたから。リカルドのもとでは不安だから。イリスが可愛いから。イリスを不憫《ふびん》に思ったから。男だけだと色々困るだろうから。くおんと仲良くして欲しいから。
――色々と、理由を付けようと思えば簡単だ。
だが、イリスを僕の家族にした本当の理由は――……
「……ん。やっぱり、答えなくてもいい」
「え?」
「……だってイリスは、ユウキと一緒にいられればいいから。今、イリスはきっと幸せ。だから、いいの」
「そっか……幸せか。だったらその幸せ、大事にしないとな」
僕が言って、
「うん」
イリスが微笑んだ。
深春が、仔馬《こうま》が産まれそうだという報告をもって部屋にやってきたのは、その直後のことだった。
「……もうすぐだよ」
僕とイリスと深春が駆けつけると、千夏さんは少し離れたところからじっとヒンデンブルグの馬房の方を見つめたまま、緊張した声で言った。続いて、くおんとカルロスが、バケツにお湯を汲《く》んで運んできた。バケツを下ろすと、目を細めて、食い入るように馬房の中を凝視する。
ヒンデンブルグは、朝見たときよりもさらに激しく、馬房の中をぐるぐる回り、ときどき立ち止まって後ろ足で蹴る動作をしていた。身体には大量の汗が噴き出し、夏だというのにうっすらと湯気が立ちこめている。その周囲には彼女の糞《ふん》や尿が散乱していて、異様さを感じる光景だった。
と。
ヒンデンブルグは部屋の中心あたりでゆっくりと足を折り曲げ、座った。
心臓が跳ね上がる。
「いよいよか……!?」
カルロスが掠《かす》れた声で言った。
が、ヒンデンブルグはすぐにまた立ち上がった。
「フゥ――――」
誰か――あるいは全員が大きく息を吐き、その直後、「ぶふ――」という荒い息を吐きながら、ヒンデンブルグはまたゆっくりと座った。
何度も何度も、座ろうとしては立ち上がり、十回ほどそれを繰り返した頃だろうか。
ついにヒンデンブルグが、足を横に倒し、座ることに成功した。
ふーふー唸《うな》り、ヒンデンブルグの鼻から白い息が、沸騰《ふっとう》したヤカンのように細かく噴き出す。苦しんでいるのは、誰の目にも明らかだった。と、そのとき。
「ぶひんっ」
一際荒い鼻息がヒンデンブルグから噴き出す。次の瞬間、
じゅばぁぁあ――――
不意に、ヒンデンブルグのお尻のあたり――産道――から、尿のようなものが大量に溢れ出してきた。破水だ。
「お湯がおりた……! まだ先生が来てないけど……ま、しゃーないか……!」
千夏さんは緊張を滲《にじ》ませた声で小さく叫び、馬房の前まで駆け寄った。僕たちもぞろぞろと彼女に続く。
ふしゅううう――……ふしゅううぅぅぅ――…………
ヒンデンブルグは横たわったまま首を上下させ、何度も何度も荒い息を吐く。僕たちが近くに来たことなど、意識の片隅にもないようだ。
「……ヒンデンブルグ、苦しそう」
ぽつり、とイリスが言った。
「そりゃ苦しいさ。当たり前じゃない。だって新しい命が産まれるんだから」
千夏さんは厳しい表情で言った。
――――ふしゅうう……ふしゅうぅぅ…………フゥゥ……フゥ……・・・
「チ、チナツ、な、なにかやることはねェのか!? 出来ることはねェのか!? ホラ、テレビとかだとアレだろ、なんか人間が仔馬《こうま》を引っ張り出すのを手伝ったりとかするだろ、そういうのはいいのか!?」
狼狽して千夏さんの周囲をぐるぐる回りながら、カルロスが言った。
「……ダーリン、アレはあくまで難産になったときにやること。基本は母親に任せるの。今回の仔《こ》はちっこいから……産道を通ること自体は難しくない筈よ。アタシたちに出来るのは、応援することくらいね」
「で、でもよォ……!」
「ああもううっさいわねえェッ! そのためにアタシたちがこうして控えてるんでしょうが! ちっとは落ち着きなさい! カルロス、あんたは七年間もヒンデと一緒に暮らしてきたんでしょ!? もっと自分の相棒を信じたらどうなの!」
その一言で。
カルロスは、まるで雷に打たれたかのような顔で動きを止めた。そして、
「……そう、だな……。信じなきゃな。誰よりもまず、俺がヒンデンブルグを信じてやらねェとな……!」
カルロスは馬房の鉄格子に手をかけ、
「頑張れ……頑張れよ相棒……! 俺がついてるぞ!」
「……イリスもついてる」
カルロスの隣に歩み寄り、イリスは言った。腕に巻かれた包帯からは、赤い血が染み出てきていた。
「大丈夫……ヒンデンブルグは強いもん。負けないよ」
これほどまでに優しげなイリスの声を、僕は聞いたことがなかった。
・・・……ぶしゅうぅ――しゅふぅぅ――ふぅぅぅ――――……
「……義姉上《あねうえ》」
くおんが僕のシャツの裾《すそ》を、くいっと引っ張った。その手は、震えていた。
「……大丈夫だから」
僕は言った。その声が震えているのを自覚する。
「大丈夫だよ」
僕の耳元でそう言ったのは深春だった。
「ああ」
僕は頷き、震えを力ずくで止めた。
「頑張れ!」
イリスが叫んだ。
その瞬間。
「ぎゅぶぅ……ッ!」という、まるで人間の呻き声のように、ヒンデンブルグがひときわ痛々しく嘶《いなな》いた。
ずゅぶィ――ッ!!!
産道から、何やらヌラヌラと照り輝く、細長い袋みたいなものが覗《のぞ》いた。半透明の膜に包まれた、黒っぽい、茶色の、まるで一本の枝のような細い棒。それが、ヒンデンブルグのお腹の中から突き出てきた。
仔馬《こうま》の、足の先だった。
それは想像以上に細く、馬というよりはまるで鹿《しか》とかウサギの赤ん坊の足を思わせた。……鹿やウサギの赤ん坊を見たことはないけれど。
……以前テレビで見た産まれたばかりの仔馬のものよりも、随分小さくて細長く……ひどく弱々しいように見える。
妊娠しているのに気付かなかったような超未熟児だ……それも当然か。
千夏さんが馬房に入り、ヒンデンブルグに駆け寄る。そして膝をつき、産道を覗《のぞ》き込んだ。数秒後に顔を上げ、ホッとしたように言う。
「……よし、大丈夫、逆子じゃない」
その言葉に全員、安堵のため息をつく。
仔馬《こうま》は普通、前足から産まれてくるのだが、もしも頭の位置が逆の、いわゆる逆子の状態だと、通常の出産が出来ないため母子ともに危険となる。獣医もまだ到着していない状態でそんなことになっていたら……考えただけでゾッとする。
「カルロス、タオル!」
千夏さんの声に、カルロスは即座にバケツとタオルを持って駆け寄る。二人は、全身から滝のように噴き出している汗を拭きながらマッサージをする。
ぶるるぅぅ――ふしゅるぅぅう――――!
ヒンデンブルグは、先ほどよりもさらに苦しそうな呻き声を上げている。
「イリスちゃん、こっち!」
千夏さんに呼ばれ、イリスはすぐにヒンデンブルグに駆け寄る。千夏さんはイリスにタオルを渡し、
「あんたもマッサージしてやって。ま、気休めだけどね……ヒンデ、あんたのことが好きみたいだから、少しは楽になるかも」
それを聞いたイリスは勢いよく首をこくんと振り、ヒンデンブルグの身体を拭く。しかしそれでも、なかなか仔馬が出てくる様子はない。
「……こりゃあ引っ張り出してやる方がいいかも……!」
千夏さんが腕まくりをしながら言ったそのとき、
「――ぶうるうううん――ッ!」
「わ……」
ひときわ大きく呻き、ヒンデンブルグは前足に力を込め、立ち上がってしまった。
――ふしゅぅ――ふしゅぅ――ふしゅぅ――…・・
荒い息を吐き、目を血走らせながら、ヒンデンブルグがいきむ。
少しだけ……ほんの少しだけ、前足が外に出る。
「いいぜェ……頑張れ、その調子だヒンデンブルグ!」
カルロスが微かに震える声で、力強く応援する。
「頑張って、ヒンデンブルグッ!」
深春が叫ぶ。
「……頑張ってください……ヒンデンブルグ様」
馬にまで様付けするくおん。
――ふしゅぅ、ぶしゅう、ぶぶしゅう、じゅしゅう――……
「いけっ、いけっ、いけっ、いけっ……ッ!」
千夏さんが、ヒンデンブルグの呼吸と合わせて声をかける。
「……もう少し、もう少しだ……!」
我知らず……僕もまた、掠《かす》れた声でヒンデンブルグを応援していた。
「……ん」
イリスが、包帯を巻いた左腕を上げた。その手を、ヒンデンブルグの鬣《たてがみ》へと持っていく。……優しく、撫でる。開いてしまった傷口から滴る血もかまわず、微笑みを浮かべてイリスは静かにヒンデンブルグに語りかける。
「……ん……そういえば、イリスとヒンデンブルグは、おんなじ頃にカルロスとリカルドに拾われたんだね……。だから、イリスとヒンデンブルグは、姉妹《きょうだい》みたいなものだよね。先に拾われたから、イリスの方がお姉ちゃんかな。……それとも、ヒンデンブルグの方が年上だから、お姉ちゃんかな……?」
鮮血がヒンデンブルグの立派な鬣を赤く染める。その光景を僕は、すごく綺麗だと思った。血の色。命の色。イリスとヒンデンブルグが、鮮血の鎖で結ばれる。
「……ヒンデンブルグが、お姉ちゃんでも妹でも、イリスには、とっても大事だよ。……ちょっと前にね、イリスにはね、お姉ちゃんと妹が出来たよ。ユウキと、クオンと、ヒンデンブルグで、イリスには三人も姉妹がいるね。……チナツとか、カルロスとか、ミハルとか、リカルドとか、タカシとか、カレンとか、レンゴクとか、ツネヨとか、他にも家族がいっぱいいるよ。だからイリスは、」
――――はらり、
イリスの目から、一筋の涙が流れた。
「だからイリスは、今、すごく幸せ。ヒンデンブルグの赤ちゃんが産まれたら、もっと家族が増えて、もっと幸せになれるんだよ――」
イリスが泣きながら笑う。同時に。
ヒンデンブルグが、力強く嘶《いなな》いた。
そして――――…………
どぼっ、
ヒンデンブルグの中から、半透明の膜に包まれた黒っぽいカタマリが、飼い葉の上に産み落とされた。
「や、や、や、やったああああああああ――――ッ!!」
千夏さんと深春が、同時に歓声を上げ、カルロスとくおんと僕は大きく安堵のため息を吐《つ》いた。イリスは、産み落とされた黒いカタマリを、信じられないような面持ちで呆然と見つめている。
千夏さんが急いで、タオルで仔馬《こうま》の鼻の穴から羊水を取り除き、ぬめっている身体を丁寧に拭く。その顔にあるのは……喜びと、そして……戸惑い。
足の先から受けた印象の通り、産まれた仔馬は、仔鹿《こじか》、もしくは仔ウサギを思わせるような弱々しさだった。
体長は――多分、三○センチ弱。産まれたばかりの仔馬の大きさは、一メートルくらいあるのが普通だ。だからこそ、馬の出産には難産が多い。だが、この仔馬は……未熟児であることは判っていたとはいえ……かなり衝撃的な小ささだった。千夏さんも、動揺を隠せないようだ。それでも彼女は無理にでも笑う。
「ほ、ほらヒンデ、あんたの子供だよー。可愛いねえ」
産むやいなやぐったりと座り込んでしまったヒンデンブルグの前に、仔馬を持っていく。仔馬は、頭と前足をもぞもぞと動かしている。……ひとまず、生きていることに僕は安堵した。最初はほとんど動かなかったから、少し不安だったのだ。
ヒンデンブルグは、自分の子供の背中をぺろりと舐めた。次いで頭、足、お腹、我が子の全身を、優しく舐めていく。
馬の赤ん坊は、産まれた直後から立ち上がる。
この仔馬も、その例外ではなかった。
……少なくとも、立ち上がるための努力はした。
「……わ」
イリスが目を丸くする。
普通の仔馬に比べて数分の一程度の大きさしかないような仔馬は、その木枝のように細い前足に精一杯の力を込めて、地面を踏みしめる。ヒンデンブルグは、優しい、理性さえ感じさせるような穏やかな眼差し――母親の眼差しでそれを見守る。
ふらふらした足取りで、仔馬《こうま》はゆっくり、ゆっくり、お腹を地面から離していく。
粘液でてらてらと光る全身。どこかグロテスクで、それでも美しく気高い、その姿。
これが命だった。
生きようとする命の、醜さと美しさを併せ持つ、崇高な輝きだった。
――頑張れ――……
出産のときとは違い、今度は誰も、その言葉を口に出しては言わない。こんな小さな命に圧倒され、声が出ない。けれど眼差しで仔馬を励ます。……この僕でさえ。
ゆっくり/ゆっくり/ゆっくり/ゆっくり/ゆっくり/ゆっくり/ゆっくり――
がんばれ/がんばれ/がんばれ/がんばれ/がんばれ/がんばれ/がんばれ――
仔馬の呼吸と、母馬の呼吸と、人間たちの呼吸と、ゴーストの呼吸が一つになる。
ぷるぷると震えながら、仔馬が、懸命に足に力を入れて、ゆっくり、その身体を、
ぱた、
仔馬が前のめりにへたり込む。
「あ……!」
誰かの焦りの声。だが仔馬は、一度失敗に終わってもすぐに、立ち上がるための努力《たたかい》を再開した。よろめきながらも、力強く……生きようと。ただ、生きるために。
ヒンデンブルグはただじっと、そんな我が子の様子を見守る。
仔馬が、また転んだ。それでもよろよろと、懸命に身体を起こす。
「……――頑張れ……!」
言葉が口をついて出た。千夏さんでも深春でもイリスでもカルロスでもなく、あろうことかこの僕の口から真っ先に、その言葉は出てきた。
掠《かす》れた声で、僕は叫ぶ。ほとんど無意識のうちに叫んでいた。
「頑張れ……生きたいなら頑張れ! お前は僕とは違う! 最初からみんなに望まれて、みんなを幸せにするためにこの世界に生まれてきたんだ! だから生きろ! お前は生きなきゃいけない! 千夏さんもカルロスさんもイリスもリカルドも丸橋高志さんも、お前の家族はみんなそれを望んでる! 僕もくおんも深春も望んでる! だから生きて生きて生きて生きて生きて生きて生きて生きて生きて生きて生きて生きて生きて生きて生きて生きて生きて生きろ! 負けるな! くそったれな世界なんかに負けるんじゃねえ! お前はヒンデンブルグの子供だろう! 父親はどんなクソ野郎なのか知らないけど、お前の母親は、それはそれはすごいヤツなんだからな! 速くて強くて賢くて、そのうえ優しい、すごい……すごい母親なんだぞ! ……大丈夫だ、僕みたいな奴がのうのうと生きていられるようなくそったれで不条理で愛にあふれたこんな生やさしい世界なんだ! お前みたいな奴こそが生きるべき世界なんだよ! だから立て! 立って生きるんだよ……!」
……どうして僕は……こうも感情を振り乱して叫んでいるのか。自分でも何を言っているのか解らない。いったい僕は、何をそこまでムキになっているのだろうか。相手はたかが動物なのに。なのに何故、僕はまるで自分のことのように感情移入して、この仔馬《こうま》に生きてほしいと願っているのか。…………そんなこと……今はどうだっていいさ……!
「……頑張れ……! 立ち上がれ……!」
僕の言葉が届いているのかいないのか、仔馬はなおも、己の四肢に力を込める。母親から譲り受けた、小さな小さな黒い蹄《ひづめ》で、仔馬は世界を踏みしめる。踏みしめようとする。世界に拒絶されるかのように前足が曲がる。ぐらつき、それでも、ふらつき、それでも、倒れ、それでも、藁《わら》の上に小さな身体を打ちつけられ、それでも、世界と戦うように。
何度も。
何度も。
何度も。
何度も。
何度も。
何度も。
そしてついに――……・・
・・……――ついに仔馬は、一度も立ち上がることはなかった。
この世界に生み落とされて、わずか三十分。
その間、ひたすら立ち上がろうと足掻《あが》いていた小さな仔馬は、倒れたと思ったら急にぴくりとも動かなくなって――慌てて駆け寄った千夏さんが抱き上げたときには、既に息絶えていた。
「……こうなるんじゃないかとは、思ってたんだけどね……ただでさえ馬の出産って死産や流産が多いし。ましてや未熟児だよ? むしろ無事に産まれるほうが奇跡だって」
さばさばした口調で、千夏さんはそう言った。しかしその目は真っ赤で、涙が流れていないのが不思議に思えるくらいだ。
「……でもさ、たまには奇跡の一つや二つくらい、起きて欲しいモンだけどね……」
ぽつりと悔しげに、千夏さんは呟いた。
カルロスもまた、妻の千夏さん同様、目を充血させながらも泣かなかった。二人は、無理に笑顔を作り、笑いかけてきた。
茫然《ぼうぜん》自失の四人の少女――久遠イリス、久遠くおん、白咲深春、そしてこの僕……久遠悠紀に、精一杯の励ましの笑みを浮かべた。
「しょうがねェよ……こういうこともあらァな。世の中、そううまくいくモンじゃねェってことさ……。大丈夫だ、これで終わりじゃねェ。ヒンデンブルグはもとは優秀な競走馬だ。まァ、そのことを公表するわけにはいかねェが、見る目がある奴には絶対にその良さが解る。種付けしてくれる相手だってきっと見つかるさ。だから来年になりゃあきっと、俺とハニーの子供と一緒に、元気なヒンデンブルグの子供が拝めるって。だからお嬢ちゃんたち、そう気を落とすな!」
不器用なりの、カルロスの慰めに、深春が答える。
「……ぐすっ……あは、カルロスさん……そんな目に涙浮かべて言っても、説得力……ぐすっ、ないよお……」
「そ、そうか、すまねェ」目をこすり、「で、でもホント、楽しみだなァ来年は! きっと、ヒンデンブルグの仔《こ》が――」
「……あ……ぁは、は、はは…………ダーリン、それね、無理」
カルロスの言葉を遮り、千夏さんが乾いた笑いを漏らした。
その瞳からは、大粒の涙が溢れていた。
ヒンデンブルグの傍らに立って、千夏さんは、泣いていた。
「ど、どうしてだよハニー。今回は不幸なことになっちまったが、もっとちゃんと準備して、ヒンデンブルグの体調もしっかり管理して、や……れ、ば……」
何かに気付いたのか。カルロスの声は、次第に小さくなっていった。
「まさか……ここまで超最悪なことになるとはさすがに予想してなかったよ……」
千夏さんが口を開く。
僕も……それに気付いた。気付いてしまった。すごく。嫌な予感。嫌な、予感。
「あのね……」
嫌だ、言わないでくれ、何も聞きたくない……言わないでください、千夏さん、お願いです、お願いですから……これ以上イリスやくおんを打ちのめすようなことは言わないでください、これ以上僕の可愛い義妹たちをいじめないでください。なあ、頼むよ。
仔馬《こうま》の亡骸《なきがら》を守るようにして座り込んでいるヒンデンブルグ――目を閉じたまま、まるで眠っているようにまったく動かないヒンデンブルグ――と千夏さんを交互に見ながら、僕はそんなことを思った。
千夏さんが。無情にも言葉を放つ。
「――――死んでるよ。ヒンデンブルグも」
その一言は――この場にいる全員を打ちのめした。
「う、ううううおおおおぉぉぉぁあぁあァ――――!! なんでだよォォ! どうして死んじまうんだよおぉォォォ――――ッ! 一緒に、これからもずっと一緒にいてやるって、俺、お前に、やくそ……ぅぅ……うああああああァァァァァ―――――ッ!!!」
一番泣いたのはカルロスだった。ここにいる中では最年長で、ついでに唯一の男性が、まるで子供みたいに泣きじゃくった。ヒンデンブルグの亡骸《なきがら》にすがって慟哭《どうこく》した。
深春とくおんは呆然と立ち尽くしていた。
イリスは、まるで心が凍ってしまったかのように、泣きじゃくるカルロスの傍らで、死してなお立派なヒンデンブルグの鬣《たてがみ》を優しく撫でていた。
――――僕は、泣かなかった。
午後二時をちょっと過ぎたあたりで、ようやく獣医の先生がやってきた。
彼の話によると、ヒンデンブルグのお産が失敗した理由は――母子ともに死亡という最悪の結果に終わってしまった最大の原因は――――ヒンデンブルグが、高齢であったからだという。
ヒンデンブルグ(ちなみに競走馬時代の名前は、〔グレートインテンション〕といったらしい。ヒンデンブルグとはカルロスが付けた名前だ)がカルロスに拾われたとき、彼女はすでに九歳だった。五歳か六歳で引退するのが普通な競走馬としては、かなりの高齢だ。それからさらに七年が経っているから、年齢は十六歳以上。これは人間でいうと、約六十歳にあたる。六十歳での妊娠、出産――人間でも馬でも、こういった高齢出産の事例がないわけではない。だが、これらが成功するには、万全の準備が必要なことは言うまでもない。
高齢で、さらにヒンデンブルグはあれが初産だったのだ。いくら子供が小さかったとはいえ……体力的に、耐えられなかった。出産には、走るのとはまた違う体力が必要だ。しかも先生が死体をざっと観察したところによると、ヒンデンブルグは、色々と身体に疾患を抱えていた可能性があるという。長年旅をして暮らしてきたから、健康管理に問題があったというのも頷ける話だ。
……つまりは――仕方なかったのだ。
これは成功する筈のない出産だったのだ。
それを強行した責任――ヒンデンブルグを死なせてしまった責任は自分にあるのだと、カルロスは自分を責めて、千夏さんはそんなカルロスをぶん殴った。いいオトナがいつまでもメソメソしてるんじゃない、あんたはこれから牧場の経営者になるんだから、この先こういうことは嫌ってくらい起きる、そのたびにあんたはぴーぴー泣くのかこのちょべりばカウボーイ、チンコ切っちまうぞコラァ、ほら、分かったらさっさと厩舎《きゅうしゃ》の掃除、お馬さんは人間の都合なんて考えてくれないんだよ!
……母屋の方から、そんな怒鳴り声が聞こえてくる。
「やっぱ強いな……千夏さん」
僕はのんびり放牧地を闊歩《かっぽ》する馬たちをぼんやりと見つめながら、呟いた。……多分彼女は、どんな辛いことがあっても、負けずに立ち向かっていくのだろう。いつかダービー馬を産み出すという夢に向かって、真っ直ぐに、力強く。カルロスも、大変な人と結婚してしまったものだ。
……そんな千夏さんに対して一つ、思うことがある。
千夏さんはもしかしたら――ヒンデンブルグの子供を、わざと助けなかったのではないか、と。あのとき、仔馬《こうま》が必死で立ち上がろうとしていたあのとき……僕やカルロスは、その悲壮なまでの生命の輝きに圧倒され、金縛りのように動けなかった。冷静な思考能力も失っていた。……だが、牧場で毎年毎年馬の出産に立ち会ってきた千夏さんまで動けなくなるということが、果たしてあるのだろうか? なにせ相手は、放っておけば死んでしまう可能性が高い未熟児だ。〔出産のとき、基本的に人間は見守るだけ〕というのはあくまで〔基本〕であり、あのような場合はすぐに何らかの手助けをして、仔馬が生きられる可能性を少しでも高めてやるべきではなかったのか。いくら未熟児を取り上げるのが初めてだからといって、あの千夏さんにそれくらいの判断力が無いとは思えない。
――よくできてるよね、自然ってやつはさ――……
多分……千夏さんはあの言葉通り、自然に委ねたのだ。彼女が敬意を抱く、自然のシステムに。生きられないものは容赦なく抹殺《まっさつ》される非情なシステムに、仔馬の生命を。
あの仔馬が自力で生き長らえるほど強いなら、そのときは覚悟と責任と愛情をもって、カルロスとともに仔馬を育てる。だがそうでないなら、あえて、見殺しにする。夢の障害にしかならない弱々しい生命は、自分の選んだ道には連れて行けないから――。
……もちろん、これは僕の勝手な想像でしかない。こんなこと、本人に聞けるわけもない。だが、もしもこれが正しいとしたら――
「僕には……無理だな……。……はは、やっぱすげえや千夏さんは……」
正しいとしても、僕は千夏さんを責めたりしない。彼女は凄いと思う。それだけだ。
僕ならきっと、手を出してしまうだろう。絶対に仔馬《こうま》を助けようとするだろう。その場しのぎのくだらない博愛で、リスクや責任を背負う覚悟もなく、それがどういう結果を引き起こすのかも考えず……墓穴を掘るだけだということにも気付かずに――……。
木の柵《さく》にだらんとしなだれかかり……ぽかぽかとした北海道の陽気に誘われるまま、このまま眠ってしまおうと思う。そうすれば少しはラクになれるかもしれないから。頭の中を蠢《うごめ》く、理性では割り切れない薄っぺらい義憤《ぎふん》が、多少は収まるかもしれないから。
だが。
不意に後ろから誰かが僕の服を掴み、そのまま体重を預けてきた。
「ユウキ……」
イリスの声だった。……服を掴む手に力がこもる。
「……う、うま、なんでっ、こうまも、ぃっく、ヒンデンブルグも、生きようって、ひっく、がんばったのに、なんでっ、なんで、みんな、がんばって、生きてほしいって、おもってたのに、チナツも、カルロスも、クオンも、ミハルも、ユウキも、みんなおうえんしたのに、なのに、なんで なんで死んじゃったのぉ……っ! イリスもがんばったのにぃ、すごくすごくがんばったのにぃ……! はじめて、ぃっく、イリスは、あんなふうに、だれかに、生きてほしいって、がんばれって、おもったのに、せっかく、ヒンデンブルグ、子供、イリスの大事なきょうだいの、子供、産まれそうだったのに、ねえ、なんで、」
僕は振り向き……両腕でイリスを抱きしめた。イリスが気持ちいいと言った胸で、イリスの顔を押さえつけるように、強く、強く。
顔を埋め、イリスはなおも泣く。綺麗な顔をくしゃくしゃにして、泣く。
「なんで、なんでみんな死んじゃうのお………おねえちゃん……っ!!」
なんで? なんでだって? なんで死んだのかって? …………なんでだろう?
なんで死んでしまったのだろう? どうしてあの勇壮なヒンデンブルグの子供が未熟児で、立つことさえ出来ないような弱々しい身体で生まれてしまったのだろう? みんなに誕生を祝福されたあの仔馬が、どうしてこの世界に生きることを許されない?
「わかるかよ……そんなこと……そんなこと、僕にだって分かんねえよ……!」
「う、うぅぅ……ぁうわああああぁぁぁぁぁん――――ッ!」
イリスは泣く。幼い子供みたいに、初めて感情を振り乱して、泣く。
「……好きなだけ泣けよ、イリス……。……泣いていいから」
「ひっぅ……おねえ、ちゃん、おねえちゃん……! お姉ちゃん! ぅぁあぁぁぁん!!」
イリスは泣く。悲しいときに泣けるのは、大事なことだと僕は思う。特に幼い頃は。無理に感情を殺して泣くのを我慢すれば…………いつかきっと、壊れてしまうから。
僕がイリスを家族にした理由。その一つはきっと――見てみたかったからだ。
見てみたかった。壊れなかった僕を。失敗しなかった僕を。楽しいときに笑って、悲しいときに泣ける僕を。イリスには――幼い頃の僕とそっくりな、この人形みたいな少女には――せめて、人間らしくあって欲しかった。だから……一人で背負い込んで暴走して、いつか取り返しのつかないような墓穴を掘ってしまう前に、どうにかしてやりたかった。イリスを人形から人間にしてやりたかった。その役目はきっと――一度失敗してしまった僕にしか出来ない……かつて取り返しのつかない墓穴を掘ってしまった僕にしか出来ない役目なのだと――そう、思ったのだ。何の根拠もないくせに。何の力もないくせに。
「……でもまあ、一応は作戦成功……かな。僕は何もしてないけど」
ぽつり、と僕は呟いた。泣きじゃくるイリスの耳には届かない小さな声。
僕は微かに笑っている。笑っていると思う、多分。…………確証は、ないけれど。
イリスは泣く。
よかったな、イリス。おめでとう、イリス。君は人間だ。人形なんかじゃ、ない。
――――ゆうきちゃんって、お人形さんみたいだね。
ふと脳裏をよぎるのは、そんな言葉。
遠い昔に聞いた、懐かしい声。人形だった僕を暗闇から救い出し、その後さらに深い奈落へと叩き落とされるきっかけになった懐かしい声。深春との最初の思い出。まだ自分たちの本当の関係を知らなかった頃の記憶。それは、血の記憶。
イリスは泣く。イリスは泣く。イリスは泣く。イリスは泣く。イリスは泣く。
泣けイリス。
涙を殺して失敗したあのときの僕の代わりに、思う存分に泣いてくれ――……。
「……すぅ……すぅ……」
泣き疲れ、イリスは僕の胸に抱きついたまま、眠ってしまった。
僕は柵《さく》にもたれかかって座り、イリスを膝枕《ひざまくら》して、ゆっくりとイリスの髪を撫でていた。と、不意に前に影がさす。顔を上げると、くおんがいた。
くおんは無表情で僕の顔と眠っているイリスの顔を交互に見つめ、何故か僕の横に来て、座り込んだ。そして、僕の服の裾《すそ》を引っ張る。
「くおん……?」
戸惑う僕にかまわず、くおんはさらに、頭を僕の腕に預けてきた。
「……あの? どうしたんだマイシスター?」
「……なんでもありません、義姉上《あねうえ》」
なんでもないわけがないのだが、くおんは淡々とそう言った。その声が、不意に震える。
「……なんでもありませんが……今は、私《わたし》の顔を見ないでください」
…………ひっく……ぃっく……ぃっく……
――漏れ聞こえる、微かな嗚咽《おえつ》。
…………やれやれ、まったく、世話の焼ける可愛い義妹たちだ。
イリスに続いて、くおんも泣き疲れて眠ってしまった。
仕方ないので僕は、イリスの頭を右の太腿にのせ、くおんの頭を左の太腿にのせるという、なかなかに笑える膝枕《ひざまくら》をしていた。
すると、深春が空からふわふわとやってきて、僕の目の前に降り立った。そして「じーっ」と僕を見つめる。
「な、なんだよ」
少したじろぎ、僕は言った。深春はからかうように笑って、
「べっつにー。ただ、変な膝枕だなーって」
僕は少し赤面する。
「わ、悪いかよ。……べつにやましいことはしてないぞ。妹が泣いてるなら、優しく慰めてあげるのがお姉ちゃんの役目さ」
僕がそう言うと、深春は少し、寂しげに笑った。
「深春……?」
「……だったらボクも、悠紀のことを優しく慰めてあげなきゃいけないのにね。膝枕とかして。……ごめんね、できなくて」
その微笑みがあまりにも悲しげで……今にも消えてしまいそうだったから。僕は無理矢理笑顔を作った。
「気にするなよ。僕はこんなことくらいじゃ泣かないから」
すると、深春は笑って。
「――うそつき」
僕は笑って――……笑いながら泣いて、
「ああ……嘘だよ」
と、言った。
クールぶってるわりに……自分が意外とよく泣くことに、最近ようやく気が付いた。
悲しいときに泣けるのは大事なことだ。気付くのがちょっとだけ遅かったけどね。
「……ヒンデンブルグも、ボクみたいにゴーストになればよかったのにね」
深春が呟いた。
「……そうだな」
馬が――というか、動物がゴーストになったという事例はない。人間だけだ。人間だけが……死んだあとも一割の確率でゴーストになり、この世に留まる。
「……うん。そうだよ……」
寂しげに言って……深春はふわふわと、厩舎《きゅうしゃ》の方に飛んでいった。
その姿が見えなくなったあと。
「……さて、僕たちもそろそろ戻るかな……つーか、帰るか……我が家に」
イリスの髪を撫でながら、僕はぽつりと言った。
……そのとき。不意に真上から、声がかけられた。
「――どうやら悲しいことが起こったようだね。というか、悲しいことが起こったことを私《わたし》は知っている」
……ふわりと僕の正面に降り立つ、一人の男。
笑える口髭《くちひげ》が特徴的な、白スーツの中年ゴースト――喪神象事《もがみしょうじ》。
二週間前に僕の前に現れて、未至磨《みしま》ツネヨが現れるとすぐにいなくなった、変なおっさんだ。喪神は、前に会ったときと同じく、実に美味そうにタバコをふかしながら言う。
「久しぶりだね、久遠悠紀君。というか、久しぶりというわけでもないかな? 二週間とはじつに微妙な長さだ。まあ、それを言ってしまえば三日とか一ヶ月とか半年とか一年とか三年とか七年とか十年とか百年とかいうのも、微妙といえば微妙だがね。というか、微妙だ。その微妙な時間で、世界が大きく変わることもあればこれっぽっちも変わらないこともある。実に面白いな、世界というものは」
「……あなたの話は聞いていて疲れるんです。今は遠慮してもらえませんか? というか、二度と現れないでください」
げんなりして僕が言うと、喪神はニヤニヤと笑って、
「やだぴょん」
とキモい喋り方で言った。マジで死ねと僕は思った。ちょべりばでMK5だ。
「……何か僕に用があるんですか?」
努めて感情を抑え、僕は言った。
「もちろん何か用だよ。というか、何もかもが用だと言うべきか。つまりは取り立てて君だけを対象にした用件というのは存在しない。気が向いたから出てきたのだ」
「とっとと消えちまえヒゲ野郎」
思わず乱暴な口調になってしまった。
「やれやれ乱暴だね。わかったわかった、では、私は去ることにしよう」
そう言って拍子抜けするくらいアッサリと、喪神は僕に背を向けた。が。またすぐに振り返った。…………。……ほんと、イライラするなあこのオッサン。
「そういえば、先ほど君の恋人の白咲深春君が、馬もゴーストになればいいと言ったね」
「言ってません」
「そうか。だがここは、言ったということにしておくべきだと思う。というか、する」
「…………ええ言いましたよ言いましたとも」
「うむ」喪神は満足そうに頷き、続けた。「馬は――動物は、ゴーストになれない。人間のみ、ゴーストとなってこの世に留まる。君はそこに不合理を感じないかね? というか、感じたまえ。何故この世界に存在するありとあらゆる生命の中で、人間だけがゴーストとなるのか。〔死んだ人間の意識が残る〕――つまり実質的に〔生き返る〕などという反則的事象が起こりうるのか。このようなこと、狂っているとしか言いようがない。というか、狂っている。実に狂っている」
そこですぱ――――――っと、気持ちよさそうにタバコを吸う、喪神《もがみ》。
「……あなただってゴーストじゃないですか」
僕が言うと、喪神はまるで舞台役者のように大仰に腕を広げ、
「その通り! 私《わたし》はゴースト。この世界の真実を探り、私の立てた仮説を自分で立証するために、自らゴーストとなったのだよ。どうだすごかろう。というか、すごいのだ」
「仮説……?」
「さよう! 恐らくこの仮説はほぼ確実。あとはサンプルの収集と検証を残すのみだ。今回のヒンデンブルグ君の一件も、貴重なサンプルの一つになったよ。君たちに感謝しよう。というか、死んでくれた馬に感謝しよう」
……どうしようもなく不快感がこみ上げるが、こんな変なおっさんに怒ったところでヒンデンブルグが生き返るわけじゃない。必死に怒りを抑える。
「……で、その仮説というのは?」
喪神はちっちっち、と指を振った。うわー超むかつく。
「ほとんど完成に近いとはいえ、まだ仮説なのでね。君に教えるわけにはいかんなあ。というか、完成しても教えないがね。どうしても世界の真実を知りたくば、私を追ってくるがいい。未至磨《みしま》ツネヨのように、な。……ではさらばだ、久遠悠紀君」
ぷは――――――っと煙を吐き出し、今回も喪神は、恐るべき俊足で走って去っていった。……相変わらず間抜けな退場シーンだなあ……。
……にしても……真実を知りたければ私を追ってこい、ね……。
「……やなこった。二度と来るなちょべりばヒゲオヤジ」
吐き捨てるように僕は言って、「二人とも起きろ、そろそろ帰るぞ」と、イリスとくおんを揺さぶり起こした。
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エピローグ(後編)
北海道から帰ってきてからは、特に変わったこともなく、大きなトラブルに巻き込まれることもなく、いつものような日々が続いた。
くおんとイリスは、相変わらず毎日しょうもないことで喧嘩し、剣を交えている。既に二人の技量は僕には理解不能の域にまで達し、深春の見たところ、二人とも戦うごとにさらにレベルアップしているらしい。新必殺技もいくつか編み出したとかなんとか。勘弁してくれと思う。……まあ、二人がだんだん表情豊かになってきたのはいいことだけど。
また、義妹たちは毎週、仲良く並んでテレビの前で競馬中継を見るようになった。これは義姉《あね》としてどうすればいいのか、正直対応に困っている。無表情(本当に眉一つ動かさない)で二人の超絶美少女が競馬中継を見ている姿はなかなかにシュールなものがあるのだが……。そのうち馬券を買うとか言い出さないか心配だ。……丸橋牧場の生産馬、チナツオラシオンが出走したときは、僕と深春も一緒に応援したけど。
時間はあっという間に過ぎていき――日付は八月三十一日、つまり、夏休み最後の日になった。明日からまた高校だ。だりいなあ……。ちなみに、イリスは中学校に行くのをそれなりに楽しみにしているらしい。学力的にはもう全然問題ないし、クラスはくおんと同じだから問題は…………山積みじゃん……。学校を(学級を、ではない)崩壊させないことを祈る。僕はもう知らん。
ついでなので、この夏休みのことをちょっと振り返ってみよう。
題して〔くどうゆうきの、なつやすみのおもいで。〕
――北海道に拉致《らち》されて。
――変な奴らと戦って。
――義妹が増えて。
――馬が死んで。
――打ちのめされた《ラッシュ・アンド・ラッシュ》。
ただそれだけの……とるに足らない物語。
まあ、つまり…………ごく普通の夏休みでしたとさ、と。
「……あーあ。やってらんねえよ」
と、投げやりに呟き。
僕はベッドに倒れ込んだ。
それから、とりとめもなく――……
来年の夏休みはどうなんだろうなあとか。明日はどうなるんだろうなあとか。未来はどうなるんだろうなあとか。暑いなあとか。やべえそういえば学校の宿題やってねえとか。でもまあべつに史記に写させてもらえばいいやとか。そろそろ学校でも女に戻ろうかなあとか。そしたら一ノ瀬《いちのせ》さんと紺藤《こんどう》はどういう反応をするかなあとか。千夏さんは元気かなあとか。カルロスは元気かなあとか。リカルドと丸橋高志さんは生きてるかなあとか。喪神象事《もがみしょうじ》のヒゲは笑えるよなあとか。ブーメランばばあはいつ死ぬんだろうとか。戦争と平和のこととか。ゴーストのこととか。テロのこととか。世界のこととか。愛のこととか。夢のこととか。人生のこととか。イリスは可愛いなあとか。くおんは可愛いなあとか。義父さんの漫画は相変わらず超つまんねえなあとか。義母さんは相変わらずバケモノじみた強さだなあとか。僕の実母である真里真理《しんさとまり》のこととか。僕の実父である白咲紅太郎《しらさきこうたろう》のこととか。白咲深春のこととか。そんなことを思って。
それから。
ヒンデンブルグのこととか。
生きようと必死で足掻《あが》きながら、わずか三十分で息絶えた仔馬《こうま》のことを思い出して。
不覚なことに。
不思議なことに。
僕の目から一筋――――涙が、流れた。
〔Rash in Hokkaido〕is the end.
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驚くほどつまらないあとがき。
みなさんお久しぶりですっ☆ 『ホーンテッド!(3)ラッシュ・アンド・ラッシュ』、楽しんでいただけましたでしょうかっ☆ 本屋さんであとがきを立ち読みしているそこのキミ、できれば買ってくれると嬉しいなっ☆ ………………すいません。若者っぽいフレンドリーなあとがきを書いてみようかと思ったのですが、どうやら私《わたし》には無理だということを悟ってしまいました。やっぱりいつものようにテンションの低い駄文を書こうと思います。というわけであらためましてこんにちは。へっぽこ作家の平坂《ひらさか》です。胸がきゅんと切なくなるような小説を書くのが得意です。切なくなるのは主に私だけですけどね、売り上げ的に。もっと売れたいです。愛はお金では買えないのだということをテーマにした美しいラブストーリーを書いてお金をがっぽがっぽ稼ぎたいです。発売して半年後には漫画化されて、次にアニメ化、映画化、さらにはドラマ化までするほどの大人気小説を書いて大金持ちになるという人生設計を立てています。一〇〇%実現できないという点にさえ目を瞑《つむ》れば完璧な計画だとは思いませんか。私は思いません。……さて、前振りはこれくらいにしてそろそろ本題に入りたいと思います。しかし今回はあとがきが二ページしかありません。大変です。書きたいことはあるのですが、短くまとめられるようなネタがありません。なのでとりあえずなぞなぞでも出してさっさとページを埋めようと思います。ちゃらりろりーん、第一問。私が色んなところでつい買ってしまうものってなーんだ? 一緒に考えてみてね。ふる、ふる、ふる、むーん! はい、時間切れ。答えは「顰蹙《ひんしゅく》」、でした☆ よい子のみんなは気をつけてね☆ でないと後ろから刺・さ・れ・る・ゾ☆ ……と、ついついこのようなことを書いては「ふざけるな!」と顰蹙を買ってしまいます。なんとかならないものでしょうか。多分ムリです。ところで今回もまた改行がありません。「あとがきが読みにくい」と不評なのですが、せっかくなのでしばらくは改行無しあとがきを続けようと思います。嫌われると分かっていてもやってしまうこの心理は、まるで好きな子にいじわるをしてしまう小学生男子のようです。私も読者の皆さんのことが好きだからこそ、このように読みにくいあとがきを書いてしまうのです。可愛いやつだなあと思って許してください。ちなみに私はそんなクソガキが大嫌いですけどね。さて、なんとかページも埋まってきたので最後に関係者にお礼でも言って終わりたいと思います。片瀬優《かたせゆう》先生、可愛い妹たちのイラストをありがとうございました。よく考えると今回、いわゆる「妹属性」を持つキャラが四人も出てくるのです が、みんな可愛いです。私は妹キャラが無条件で好きです。これから妹の魅力について熱く語りたいのですが、残念ながらページがありません。本当に残念です。………いつにも増して投げやりなあとがきですいません。
2005年2月、自分が騙《だま》されていたことに気付いた日 平坂読
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