ホーンテッド!(2)コトコトクライシス
平坂 読
目次
ぷろろうぐ 〜まつりのまえ〜
修学旅行 一日目 〜奈良 古都に萌ゆる恋の噺(はなし)〜
修学旅行 二日目 〜京都 古都で燃ゆる恋の噺(はなし)〜
修学旅行 三日目 〜京都 古都を燃やす濃い噺(はなし)〜
えぴろうぐ 〜まつりのあと〜
あとがき
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思へばこの世は常の住み家にあらず。
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし。
きんこくに花を詠じ、栄花は先つて無常の風に誘はるる。
南楼の月を弄《もてあそ》ぶ輩も月に先つて有為の雲にかくれり。
人間五十年、下天のうちを比ぶれば夢幻《ゆめまぼろし》の如くなり。
一度生《ひとたびしょう》を享《う》け、滅せぬもののあるべきか。
『敦盛《あつもり》』
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ぷろろうぐ 〜まつりのまえ〜
久遠悠紀《くどうゆうき》。十六歳。性別・女。
きわめて不思議なことに自分でもときどき忘れそうになるのだが、僕は正真正銘、どこに出しても恥ずかしくないような、ごく普通の高校に通うごく普通の高校生である。
たまに超人ババアや幼なじみの幽霊少女と一緒に引ったくり犯を捕まえたりとか、地味な特殊能力を持つイタタなリストカット少女の自殺を止めたりとか、デパートを爆破したヘラヘラ笑いのテロリストと嘘吐《うそつ》き合戦をしたりすることもあるのだが、べつにそういうのが本職ではないのである。本当である。
それらは僕の人生という名の物語においては断じてメインストリームではなく単なる寄り道イベントにすぎないのであり、僕本来の行く道は、学生として〈不純異性交遊〉勉学やスポーツに励み、社会に出たあとは〈ヒモにでもなって〉まっとうな会社員として堅実に働き、〈ハーレムでも作って〉結婚でもして子供でもこさえて〈浮気のあげく離婚して〉、七十歳か八十歳くらいで孫とか親戚とか〈愛人とか〉に囲まれて幸せな顔でポックリ逝《い》くような、そんなごく普通の人生なのである。それは疑いよう〈しか〉のない事実である。妙に取り消し線が多いような気がするが、それは気のせいである。ええそりゃあもう。
強いて言えば、性別が実は女性であることを周囲に隠し男として生活しているというところが、ちょっとだけ変わっているかもなあと言えなくもない極小の可能性がなきにしもあらずかもしれないのだが、しかし人間誰しも、人に言えない秘密の一つや二つくらいは抱えているものだ。例えば、(そう、あくまで例えばの話だが)、実はカナヅチだとか、ギャルゲーが好きだとか、胸の発育が悪いのを密かに悩んでいるとか、そんな秘密を。
それに、漫画やアニメやゲームを見れば男装の美少女《萌えキャラ》など幾らでも、それこそ掃《は》いて捨てるほど転がってるし、なにもフィクションの世界でなくとも、中世ヨーロッパや江戸時代の貴族や武士の家においては、実際に女児を嫡男《ちゃくなん》として育てることもあったという。よく知らないけど。
というわけで僕は普通だ。おめでとう。
で、普通である僕は今日もまたいつものように学校へ行き、きわめて没個性的ないち高校生として平凡な一日を過ごすのである。
「……――き、……ゆうき、――悠紀」
…………ん。
何やら僕の名前を呼ぶ声がしたので、僕は目を開けた。目を開けてみて初めて、自分が目を閉じていたことに気付いた。
……僕がいるのは私立│遠夜東《とうやひがし》高校の2年B組の教室であり、今はたしか六時間目の数学の授業中だったはずだ。……すいません寝てました。寝ながら夢の中で自分がいかに普通人であるかということを自分に言い聞かせていました。アホか僕。半睡状態のときにつらつらと益体《やくたい》もない思考を垂れ流してしまうのは僕の癖なのだが、最近やけにその内容が〔人生について〕だの〔自分とは何か〕だの、妙に青臭《あおくさ》くて鬱陶《うっとう》しいテーマであることが多い。まあ、青臭くて鬱陶しいことは嫌いじゃないけどさ。思春期万歳。青春ストライク。
「やっと起きた。おはよう悠紀《ゆうき》っ」
隣の席で、半透明の身体をした一人の少女が僕に笑顔を向けた。さっきから僕の名前を呼んでいたのはこいつだ。
白咲深春《しらさきみはる》。ボーイッシュな感じの美少女で、僕の幼なじみであり、一応、便宜的に、暫定的に、理論上は、形の上では、僕のカノジョということになっている。僕が勝手に決めた二つ名は――〔愛と平和の使者《パトリオットミサイル》〕。
ちなみに深春の身体が透けているのは、彼女が〔ゴースト〕と呼ばれる存在だからで、ゴーストというのは三年前から突如として出現するようになった、なんだかよく分からないがとにかく幽霊みたいなものである(投げやりな説明で申し訳ない)。統計的には死んだ人間の約一割がゴーストとなり、こうしてこの世に留まっている。
深春が死んだのは今から一ヶ月半くらい前で、僕に告白してきてから三分後、大型トラックに撥《は》ねられて一瞬にしてぐちゃぐちゃになった。そのことは僕の精神に大きなトラウマを残したりもしたのだが、当の深春はといえばゴーストになっても以前と変わらず――いや、むしろ生前よりも元気になって、毎日こうして楽しそうに死んで《生きて》いる。
「……ういーっす……おはよぅございまふ……」
まだ眠気が取れない僕は、机に突っ伏したまま顔だけ深春の方を向いてそう言った。
「悠紀、大丈夫? ひょっとしてまだ寝てる? ここはどこで自分が誰だか分かる?」
深春に言われて、僕は再び目を閉じてじっくり考えてみた。
「……うーん、果たしてここはいったいどこなのだろうか。僕はいったい誰なのだろうか。僕が今いる〔ここ〕とは、本当にこの世界に存在しているのだろうか。もしかしたら〔ここ〕はただ、〔僕〕の認識上にのみ存在しているだけの世界ではないのだろうか。では〔僕〕とはいったいなんだ?〔ここ〕を認識している〔僕〕とは実際に存在しているのだろうか?〔僕〕のいるこの世界が〔僕〕の認識によって仮想されたものであるならば当然ここにいる〔僕〕もまた実在していないことに……いや、そもそも〔実在〕とは、〔存在〕の定義とは何だ……?」
…………ああ、なんということだろうか――。
「…………大変だ深春。僕は〔ここ〕が〔どこ〕で〔自分〕が〔誰〕だか分からないぞ」
僕が沈痛な面持ちで、哲学的思考の末に到達した恐るべき結論を口にすると、深春は、
「うん、そのわけの分からないところが、やっぱりいつもの悠紀だねっ」
と失礼なことを言って笑った。
「……ま、いいや。さて、馬鹿なこと言ってないでさっさと帰るか。今日の夕方から『振り返ればやつがいるような気がする』の再放送が始まるんだ」
時計を見ると三時二〇分。六時間目どころか、帰りのショートホームルームもとっくに終わっている時間であり、教室内ではクラスメートたちが騒がしく駄弁《だべ》っている。
……誰か起こしてくれよと思わなくもないのだが、うちのクラスでは〔寝ている奴は放っておく〕という基本ルールがあるのだ。生徒の自主性を尊重とか自己管理能力を養うとかいう名目があるわけではもちろんなく、ただ単に他人に冷たいだけである。僕はそんなこのクラスが大好きだ。ほんとだよ?
僕は開いたままだった教科書やノートを鞄に入れて立ち上がった。そこで深春《みはる》が、
「悠紀《ゆうき》、まだ帰っちゃダメだよ」
と笑いながら呼び止めた。
「え? なんで?」
「修学旅行のグループ決めだって。放課後にみんなで適当に決めろって先生が」
修学旅行! ……おお、なんと学園モノっぽい言葉。かぐわしい青春の〈臭い〉匂いがする気がする。僕はちょっと変なところで感動してしまった。
……この学校では二年生の七月の初めに、二泊三日の修学旅行に出かけることになっている。行き先は京都・奈良で、いかにも修学旅行という感じだ。本当は沖縄の予定だったのだが、去年の暮れに空港で自殺教のテロがあり、今年は急遽《きゅうきょ》、近場の京都・奈良になったのである。小学校や中学校のときに行ったという生徒も多く、当然多くの不満の声が上がっているのだが、沖縄といえば海であり、海といえば水着である(断言)。女であることを隠している僕としては、これは実にありがたい変更なのであった。
で、修学旅行では六人くらいの班での行動が中心となるため、その班を今決めているというわけか。
たしかによく見れば、みんな好き勝手に喋っているように見えて、教室には幾つかのコロニーが形成されているようであり、僕のように帰宅の準備をしている生徒はいなかった。
「基本的に班の構成は自由。男子だけとか女子だけでも問題ないって」
「……なるほど。つまり完全な仲良しグループってわけか。まったく、時山《ときやま》先生も無責任だよな。こういう〔自由に仲の良い人と組みなさい〕ってときは、必ず何人か仲間はずれができるものだと思うんだけど。で、その一人が僕になる可能性はきわめて高い、と」
「え? なんで?」
深春が不思議そうに首をかしげた。
「だって僕、このクラスに仲のいい友達がいないし」
わりと悲しい発言を僕はした。すると、
「おいおいそりゃないッスよセニョリータ!」
突然、やかましい叫び声とともに一人の男子生徒が僕と深春《みはる》の間に入ってきた。
「久遠《くどう》、お前には俺という、固い友情で結ばれた親友がいるじゃないか!」
「え!? マジで!?」
「本気で驚いたような顔するなよ! 切なくなるじゃねえかよセニョリータ!」
「うーん、でも僕、紺藤《こんどう》と親友になった記憶がほんのシナプス一欠片もないし。ていうかお前、セニョリータの意味わかってないだろ」
「細かいこと気にすんな! ドイツ語ってことだけ解ってりゃ十分だ」
「スペイン語だ」
「え? マジで? ……ま、気にすんなよマドモワザル!」
そう言ってガハハと笑う男子生徒。……マドモワゼルだ、と突っ込む気にもならない。しかもセニョリータもマドモワゼルも、どちらも女性に対する言葉だ。僕は女だが、しかしそのことをこの男が知るわけもない。つまりこいつはただのバカである。
ちなみに、この無意味にテンションの高いバカの名前は紺藤│数馬《かずま》といい、僕のクラスメートである。僕の中での二つ名を〔ディアホース〕。親愛なる数馬――という意味では勿論《もちろん》なく、鹿《ディア》と馬《ホース》(要するに馬鹿だと言いたい。ヒネりがなくて申し訳ないのだが、このバカの二つ名をヒネることに時間を費やすのはもっと馬鹿げているような気がしたので、あえて適当に考えたのである……というような解説に思考を費やすのも勿体《もったい》ないくらいのバカだ)である。中肉中背で、顔はそこそこ男前なのだが、どことなく軽薄な印象を受ける。髪は金髪で、明らかに染めているのだが教師には「天然です」と言い張っている(それで許されるのがウチの学校のすごいところだ)。
「つーワケで久遠、俺と一緒の班になろうぜ!」
紺藤が言った。……どうせなら女子だけのハーレム状態のウハウハな班を作りたかったのだが、残念ながらクラスメートに「僕のハーレムに入れ」と言う勇気はなかった。
「……うん、特にその提案を断る理由も見つからないな」
「だろっ!?」
「だが断る」
「な、ナニユエッ!?」
「……紺藤、君はいい友人だったような気がするのだがね、君の父上がいけないのだよ」
「おのれえ! 謀《はか》ったな久遠! こうなれば特攻してくれる!」
解らない人にはさっぱり解らないであろう漫才のあと、紺藤は本当にフライングボディプレスをかまそうと跳んできたので、僕は慌てて椅子から立ち上がりそれを回避した。
「なにいいいい――――ッ!?」
勢いあまった紺藤《バカ》の身体は、そのまま僕の後ろの席にいた小柄な女子生徒に向かって突撃していき、
「きゃーっ!」
ごがしっ!
その女子生徒は悲鳴とともに、まるでハエでも叩き落とすかのように片手で紺藤《こんどう》の頭をぶん殴り、自分の身体に接触する前に強引に紺藤を床に沈めた。
「ぐ、ぐおおおぉぉ……」
「あ、あう〜、だ、大丈夫ですか紺藤君っ。ごめんなさいですぅ!」
床でダウンしている紺藤に、妙に舌っ足らずな喋り方でその少女は声をかけた。
彼女の名前は抹白吏架《まつしろりか》。先ほど〔小柄〕と表現したが、その一言で片付けるには難しいほどのロリっ娘《こ》で、下手すると小学生五年生くらいに見える。またの名を〔美幼女《イデア》〕。屈託のない笑顔と無邪気な言動で、わがクラスのマスコット的な存在としてみんなに親しまれている。小学生に見える高校生なんて、もはや奇跡と呼ぶに相応《ふさわ》しい。僕は彼女を初めて見たとき、彼女こそが│神の似姿《イデア》であると確信したほどだ。小五ロリと書いて〔悟り〕だし。しかも彼女の誕生日は四月なので、なんと十七歳なのである。僕はまだ十六歳だから、これはもう一歳年上であると表現しても差し支えないだろう。年上のロリっ娘。ニュースで繰り返されているように、十七歳とは本当に危険な年齢であると僕は思う。……まあ、それはともかく。
「大丈夫? 吏架ちゃん」
と深春が尋ねると、
「あ、うん深春ちゃん。吏架は大丈夫です。で、でも紺藤君が……ごめんなさい、いきなり飛んでくるから、吏架びっくりしちゃってつい」
つい、で高校生男子を片手で撃沈というのも凄いが、そこには触れないでおこう。
「気にしなくていいよ、紺藤だし」
僕が言った。床に倒れ伏したままの紺藤がうめく。
「ぐ、く、久遠《くどう》……この薄情者……ぐふっ……」
仰向けになって、紺藤はゆっくりと目を閉じた。
「きゃー! しっかりしてください紺藤君! り、吏架、また人を……人を……」
「紺藤……お前の死は無駄にはしない。……ところで吏架ちゃん。〔また〕って……?」
と、そのとき。
「……相変わらず騒がしいなお前たちは」
僕の後ろから、凛《りん》とした感じの涼やかな声がかけられた。振り向くと、そこに吏架ちゃんとはまったく逆のタイプの美少女が立っていた。
「あ、カヨ」
深春《みはる》がその少女に笑いかけた。「ああ」と少女も返す。
……一ノ瀬可夜子《いちのせかよこ》。このクラスのクラス委員長である。僕はこっそり〔猟奇《りょうき》委員長〕と呼んでいたりするのだが、むろん口には出さない。
背は僕と同じくらいで、スレンダーな体格のくせに胸はかなりある。羨《うらや》ましい。腰まであるやたらと長い黒髪(紺藤《こんどう》の金髪といい、うちの学校は頭髪に関してはものすごく寛容であるらしい)と、やや吊り目がちで意志の強そうな黒い瞳が印象的な、美人と美少女の中間くらいのきわめて整った顔立ちをしている。
陸上部に所属しており、深春とは一年生の頃からの親友である。親友と普通の友達の区別が僕にはよく判《わか》らないのだが、少なくとも深春本人はそう言っている。で、必然的に僕ともその頃から知り合いなのだが、どうも彼女は僕のことを嫌っているらしく、他の人に接するときと比べて僕への態度が妙に素っ気ない。僕としては美少女に嫌われるという事態は避けたいところなのだが、まあ、嫌われているものは仕方ない。誰にでも好かれようと思うほど、僕は傲慢ではないのだ。
「……で、お前たち、もう班は決まったのか?」
吏架《りか》ちゃん、僕、深春の順に視線を移して(倒れている紺藤のことは完璧に無視である)、一ノ瀬さんは言った。
「まだ全然」
と僕。すると深春が、
「うん。ボクと悠紀が同じ班ってことしか決まってないよ」
とか言ったので、僕は即座に突っ込みを入れる。
「ちょっと待て。ゴーストのお前も数に入れるのか? まあ、どうせ修学旅行にも憑《つ》いてくるつもりだろうとは思ってたけどさ。……ていうかそもそもお前、何故かB組に居座ってるけど、死ぬ前はF組だったじゃん」
「細かいことは気にしない! ね、カヨっ」
深春が一ノ瀬さんに言った。彼女は一瞬だけ迷うような顔をしたものの、
「ああ、問題ないだろう。深春を含めればこのクラスは三十六人だから、ちょうど六人の班が六つできることになって都合がいい」
「……まあ、委員長の一ノ瀬さんが言うなら僕も文句はないけど。……ってことは、あと四人か。……あ、吏架ちゃんもどう?」
僕が誘うと、吏架ちゃんは、
「……(ちっ)。……うんっ。吏架、もちろんいいよっ! 深春ちゃんや久遠君と一緒で吏架とってもうれしいなっ!」
と元気よく頷いた。……今、小さく舌打ちしたような気がしたのだが……きっと気のせいだろう。吏架ちゃんがそんなことをするわけがない。
「あとは……」
男子も入れておいた方がいいだろうと思い、僕は適当に教室を眺めた。すると、机三つほど離れたところに、一人だけぽつんと椅子に座り本を読んでいる男子生徒を見つけた。
神河史記《かみかわしき》。二つ名を〔紙一重《ボーダーライン》〕。細身で眼鏡をかけた、白皙《はくせき》の美男子。いかにも「私は勉強が出来ます」といった外見通り、実際にこの学校でダントツの成績優秀者なのだが、べつに彼はガリ勉というわけではない。今だって、自習をしているように見えるが、実際に読んでいるのは怪しげなオカルト雑誌だ。彼が勉強をしている姿は誰も見たことがなく、彼自身、特に勉強なんてやっていないと言っている。つまり〔秀才〕ではなく、〔天才〕と呼ばれる人種なのだ。
「おーい史記ー」
僕が名前を呼んでも、史記はひたすら本を読みふけるだけで無反応である。無視されているというわけではなく、おそらく本当に気付いていないのだろう。たしか昼休みくらいからずっとあの状態だったような気がする。授業も聞かず、それでも学年トップ。努力という言葉が無意味に思えてくる。……もっとも、僕は努力に意味があると思ったことはないけれど。努力にあるのは意味ではなく価値だ。……それはどうでもいいとして、こういうときは、
「史記〜! 紺藤の眼球の中にお父さんがいるぞ〜!」
僕はすごいことを叫んだ。……すると。
史記は突然、ゆっくりと椅子から立ち上がり、つかつかと僕たちの方へ歩いてきた。それから倒れた紺藤を見下ろし、その表情と同様に感情の無い声で、
「……どっちの眼球だ?」
と僕に尋ねた。「右目」と僕が答えると、彼は「そうか」と頷き、紺藤の顔のすぐ近くでしゃがみ込み、
「……!? お、おい神河!? な、なにするんだうぎぇやあああぁぁあぁあ――――ッ!!」
……無理矢理右のまぶたをこじ開けられ、紺藤がたまらず悲鳴を上げた。史記はその悲鳴にまったく頓着《とんちゃく》せず、暴れる紺藤の胸部を左手でおさえつけて床に固定し(史記は細身のくせに意外と怪力らしい)、じっくりと紺藤の右目を観察した。そして、しばらく目玉のお父さんを探したあと、ようやく立ち上がった。
「……いないようだが?」
「ごめん。見間違いだったかもしれない。これからは気をつけるよ」
僕は素直に謝った。史記はかぶりを振って淡々と、
「……いや、気にするな。誤認はよくあることだ。むしろUFOやUMAなどにおいては、誤認であることが大半だと言ってもいい。それでも必ず中には〔本物〕があるのだと信じることから、真実への道は開けるのだと俺は思う。これからも誤認を恐れず、不思議なものを見たら俺に報告してくれ」
「解ったよ。ところで史記《しき》。修学旅行の班、僕たちと同じでいい?」
「ああ」
それだけ言って、史記はさっさと自分の席へと戻っていった。「お、俺の立場って一体……?」という声が足下で聞こえたのだが、……まあ、紺藤だし。
と、そこで。
「久遠。私もお前たちと同じ班に入るぞ」
一ノ瀬《いちのせ》さんが言った。
「え?」
と僕は驚いた。わざわざ嫌っている人間のいる班に好んで入るなんて……。彼女はこのクラスで非常に人望があり、彼女が入ると言えばどの班でも大歓迎だっただろう。
「……なんだ。何か不満でも?」
気分を害したように、一ノ瀬さんは言った。
「あ、いや、全然。むしろ歓迎」
僕は誤魔化すように曖昧《あいまい》な笑みを浮かべた。
「わーいカヨちゃんだー」と吏架《りか》ちゃんが笑い、一ノ瀬さんに抱きついた。美少女に抱きつく美幼女。……ああ、写真に残しておきたいくらい素晴らしい光景だ。
「……さて、それじゃああと一人は……」
「だから俺だよ俺! オレオレ!」
立ち上がって僕の目の前にずいずい顔を突き出してくる紺藤を無視して教室を見回す。しかし既にあらかたグループは決定されているようで、残念ながら余っている生徒はほとんどいなかった。
「はあ……仕方ないなあ……」
「だからなんでそんな嫌そうなんだよセニョリータ!」
「だってお前、バカだし」
「な、なんですとっ!?」
まるで指摘されて初めてそれに気付いたように絶句する紺藤。
「ふう……」と一ノ瀬《いちのせ》さんがため息をついた。「……それにしても、濃い連中が集まったものだな」
「まったくだね」と僕が同意する。〔愛と平和の使者《パトリオットミサイル》〕白咲深春、〔美幼女《イデア》〕抹白吏架《まつしろりか》、〔紙一重《ボーダーライン》〕神河史記《かみかわしき》、〔猟奇《りょうき》委員長〕一ノ瀬可夜子《かよこ》、〔ディアホース〕紺藤数馬《かずま》。このクラスでというか、全人類レベルでもかなり上位に食い込むかもしれないような、無駄に個性的な連中ばかりが集まってしまった。不思議なことに。
「……久遠。他人事のように言っているが、お前も勿論《もちろん》そのうちの一人だぞ。まともなのは私だけだ」
一ノ瀬さんがそんな冗談を言った。彼女が僕に冗談を言うなんて珍しいので、僕は笑ってみせた。
「ははは、面白いなあ一ノ瀬さんは」
すると一ノ瀬さんは何故か呆れたように嘆息し、
「……ふう……深春。お前も大変だな。こんなのが幼なじみ――いや、恋人で」
「うーん。でも、それが悠紀だしねっ」
深春が笑って答えた。……あれ? 僕、ひょっとしていま端的に馬鹿にされた?
「そうか」
一ノ瀬さんはそう言って微笑んだ。親友に向ける、温かな眼差しだった。
……と、いうわけで。
こうして、修学旅行で一緒に行動するメンバーが決まったのだった。
「……そのときはまだ、あんな事件が起こるとは、誰も思いもしなかったのだった――」
「黙れ紺藤」
変なモノローグを入れた紺藤を、一ノ瀬さんが拳で黙らせた。
……しかし、紺藤の言葉がまったく間違ってはいなかったことを、僕たちは現地で痛感することになるのだった。……いや、一つだけ間違っているか。誰もじゃない。少なくとも僕は、この旅行でも何かが起きるに違いないと思っていた。
何故ならこの僕――〔墓穴掘り人形〕久遠悠紀の学園生活が、何のトラブルもなく平穏無事に過ぎていく筈がないからである。
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修学旅行 一日目 〜奈良 古都に萌ゆる恋の噺(はなし)〜
班を決めて約一週間後の、修学旅行の初日。
朝八時に学校に集合してクラスごとにバスに乗り、遠夜東《とおやひがし》高校二年生一同は奈良を目指す。そのバスの中に変態がいた。
「は〜いみなさんこんにちは〜(ここで「こーんにーちは〜!」という紺藤の声が響いたのだがそれはべつにどうでもいい)。あら、元気のいい子ね。お姉さん好きよ(ここで「ぐはあっ俺も好きッス!」という紺藤の(略))。えー、わたくしが奈良に到着するまでの三時間ほど皆さんのお相手を務めさせていただきますバスガイドの逆本麻紀《さかもとまき》と申します。どうぞよろしくおねがいいたしますね。ちなみに年齢や体重は全部ナ・イ・ショ・ですっ。あ、でもやっぱり言っちゃうわ。年齢は若い身体を持てあます二十四歳。身長は一六七センチ、体重は四十九キロ、スリーサイズは上から八九・五一・八三のよく熟れた果実なの。えー、ちなみに運転手は丸橋高志《まるはしたかし》さんと申しまして、年齢は三十二歳の男盛りで妻子持ち。働き者だけど休日には必ずお子さんを遊びに連れて行ってあげます。家族を大切にするいいお父さんなんですね。でも一週間前にわたくしと寝ました」
「ぶっ!」
ぐらっ!
「きゃああ〜!」「うおっ!?」「いやああ!」「ぐげっ」「ぎゅ」「やんっ」「ひでぶっ」
いきなりバスガイドのお姉さんにとんでもないことを暴露され、運転手がハンドル操作を誤ったらしく、車体が大きくよろめいた。幸いにして事故にはならなかったが、衝撃で頭や身体をぶつけた生徒も何人かいたようだ。ちなみに僕は飲んでいたオレンジジュースを、前の席からこっちに身を乗り出していた紺藤の顔面に吹き出していた。
「あらあら丸橋《まるはし》さん、わき見運転をしては危ないですよ。あなたの運転にはここにいる学生さんたちの命がかかっているんですから。……うふふ、そうそう、その調子です、さすがお上手ですねプロのドライバーだけあります。ですが丸橋さんがお上手なのはバスの操縦だけではないんですよね。わたくしの身体もあの夜は丸橋さんに思い通り操縦されてしまいました。ぽっ。……あら? そちらの女の子、顔が真っ赤よ大丈夫? 車酔いかしら?(「……平気です」という一ノ瀬さんの掠《かす》れたような声)。あらそう? うふふ、ホントは分かってるわ、やっぱり高校生のお嬢さんには刺激が強すぎたのね? ごめんなさい。……でもお姉さん喋っちゃう。包み隠さず余すところなくのべつまくなくあることないこと喋っちゃうわ! ……そう、あの夜のことは今でも忘れられません……。忘れようとしても、この身体の火照《ほて》りが消えてくれないの。……あの雨の日の夜、五年間付き合っていた彼と別れたわたくしは――……」
以下、延々と官能小説も真っ青な十八禁トークが続くことになる。その全《すべ》てをここで明らかにするわけにはいかないのだが、出てきた台詞まわしのごく一部を紹介しよう。
〔雄々しくそびえ立つ黒い巨塔〕〔深い茂みの奥で口を開いた遺跡〕〔なだらかに連なる山脈〕〔肌色がかった雪原を自由に這い回る五匹の蛇〕〔奥さんと別れて〕〔挿《い》れて〕
……などなど。……逆本《さかもと》さん、バスガイドよりエロ小説家になった方がいいかもしれない。なんで修学旅行の目的地へと向かうバスの中でバスガイドと運転手の不倫話を聞かされなければならないんだと僕は心底疑問に思ったのだが、止める者は誰もいなかった。なんだかんだ言ってみんなお年頃《としごろ》というやつである。もちろん僕も。
担任の時山《ときやま》先生は瞑想《めいそう》中(一番後ろの席で座禅を組んでいる)だったため、何も言わなかった。ときどき運転手の丸橋さんが動揺のあまり事故を起こしそうになることがあったのだが、それでもどうにか、僕たちを乗せたバスは、無事に修学旅行最初の目的地である、奈良は斑鳩《いかるが》、法隆寺《ほうりゅうじ》前の駐車場へとたどり着いた。
☆
バスを降りて、僕たちのクラスはとりあえず班ごとに集まった。法隆寺前にいる制服姿の高校生は僕たち2年B組の生徒だけで、他のクラスの生徒の姿はない。
遠夜東《とうやひがし》高校はAからF組までの計六クラスがあるのだが、クラスごとにバスから降ろされる場所が違う。どのクラスがどこで降りるかは各クラスの代表者(うちのクラスは委員長の一ノ瀬さんだったが、べつに代表になるのは担任教師だろうが無関係の八百屋のおっちゃんだろうが構わない)がくじ引きで決める。これは我が校に昔からある伝統らしい。……よく考えると変な伝統だ。もっとも、世の中にある古い伝統の大半は変なものばかりだけど。
「うーん、やっぱり外はいいねっ! 天気もいいし、いい気持ち!」
深春が軽く伸びをして、さらに深呼吸(の真似)をしながら言った。
「そうだな」と、一ノ瀬さんが眩《まぶ》しそうに目を細めて空を見上げた。
七月初旬の、よく晴れた空。
雲一つないというわけでもないが、そう表現したところであながち大げさだとは言えないような青空が広がり、まだ初夏とはいえ日差しもそこそこ強い。要するに絶好の修学旅行日和《びより》というわけだ。天気予報を見る限り、この三日間はひたすらいい天気が続くという。雨の古都というのもなかなか風情があって良いものだとは聞くが、そんな情緒を理解できるほどに僕は奈良や京都の古い街並みに関心を持っていなかった。多分、大多数の高校生はそんな感じだろう。雨自体は嫌いではないが雨に濡れることは嫌いなため、そういう意味でもやはり雨より晴れの方が嬉しい。
そんなステキな空の下、
「吏架はバスガイドさんのお話、難しくてよく分からなかったです」
吏架ちゃんが無邪気に、みんながバスを降りるなり頑張って忘れようとしていたことを蒸し返した。一ノ瀬さんや深春の表情が目に見えてひきつる。そういうことに関心があり、知識としては知っていても、逆本《さかもと》さんのバスガイドとしてのスキルを無駄にフル活用した情感溢れるハイクオリティなセクハラトークは、高校生の少女たちには刺激が強すぎたようだ。
「ねえねえカヨちゃん、〔雄々しくそびえ立つ黒い巨塔が水気を帯びた深い茂みの奥で口を開いた遺跡へと呑み込まれていった〕ってどういう意味です?」
「……わ、解らないな。私は現代国語だけは苦手なんだ」
「えー、そうだっけー? じゃあ深春ちゃんは?」
「え、えーと、ボクにもちょっと難しくて……」
一ノ瀬さんが顔を真っ赤にし、深春も珍しく言葉を濁して顔を背けた。そのとき、
「それなら俺が教えてあげるよ吏架ちゃん! 〔雄々しくそびえ立つ黒い巨塔〕というのはつまりチン――」
「こら――――っ!!」
ぼこごすげすごぶっ!
「ぐぐぇえぇぶおぁッ!?」
深春が最大出力の精神波を浴びせ、僕と一ノ瀬さんがタコ殴りにして紺藤を黙らせた。この純真無垢《むく》なまだ成熟しきっていない青い果実を、下界の毒に穢《けが》させるわけにはいかないのである……って、なんか僕まで逆本《さかもと》さんの言い回しが感染してるし。恐るべしバスガイド逆本麻紀《まき》のハチミツ授業。
「……(ふっ、ガキどもめ)」
あれ? なにやら小さな呟きが聞こえた気がしたのだが……そちらを振り向いても吏架ちゃんしかいなかったので空耳だろう。僕もちょっと疲れているのかもしれない。
「……〔雄々しくそびえ立つ黒い巨塔〕というのは恐らく旧約聖書におけるバベルの塔を表しているのだろう」
いきなり史記が、いつものように淡々とした口調で、いつものようにわけのわからない電波トークを始めた。
「要するにあのバスガイドは、バベルの塔が崩壊し、人間の言葉がバラバラになり、世界に暗黒の時代が訪れたことを文学的な表現で説明していたのだ。いささか観念的ではあったが、なかなかに趣深い内容だったな」
何が〔要するに〕なのかはさっぱりだったが、史記の中ではそれは自明のことであるらしい。相変わらず面白い奴だ。電波と天才は紙一重というが、彼は電波でもあり天才でもある。要するに紙一重の紙の部分だ。よって二つ名は〔紙一重《ボーダーライン》〕。
と、そこへ。落ち着いた足取りで、一人の男がゆっくりとバスから降りてきた。
三十代半ばほどの、スーツ姿の男である。身長は平均的で、体格はやや痩せぎすだが、貧弱な印象はまったくなく、むしろ鍛《きた》えられた戦士のような印象がある。僧侶のように剃髪《ていはつ》しており、いかめしい顔立ちと鷹《たか》のように鋭い目が相まって、まるで孤高《ここう》の修験者《しゅげんじゃ》を思わせる。僕は彼のことを、畏怖《いふ》を込めてこう呼ぶ――〔聖人《ミーニングレス》〕と――。
……とまあ、そんな「え? この話って本当に学園モノなの?」と首をかしげざるを得ないような描写しか思いつかないこの人物こそ、僕らのクラスの担任教師、時山時雨《ときやましぐれ》先生である。
時山先生がバスを降りると、僕たちの班と同じように騒いでいた他のクラスメートたちは、まるで水を打ったようにシンとなって、時山先生に注目した。なんというか彼からは、周囲を黙らせる無言のオーラみたいなものが出ているのだ。
「整列!」
クラス委員である一ノ瀬さんがよく通る声で叫ぶと、みんなはきびきびとした動作で各班ごとに一列になって、時山先生の前に整列した。時山時雨と一ノ瀬可夜子、二人の人望《プレツシャー》のなせるわざである。この二人でなければ、問題児の多いこのクラスをまとめることなど到底不可能だろう。
時山先生は、ゆっくりと自分のクラスの生徒を睥睨《へいげい》し、重々しく口を開いた。べつに今が特別なのではなく、この人は基本的にいつも重々しい。
「……いいか……」低く、耳に残る声で時山先生は語る。「かつて、とある偉大な男がこう言った……。人という字は二人の人間が支え合って出来ているのだと――……」
ごくり、と誰かが唾を飲み込む音が聞こえた。これから、どんなありがたい説法が始まるのだろう……そんな期待を抱かずにはいられないような、深みのある喋り方である。
が。
「………………解散」
先生は一言だけそう告げた。
わーっと、各班、思い思いの方向へ散っていく。
……時山先生は、しばしば過去の偉人の言葉や意味深な言葉を口にするのだが、口にするだけであとに続かない。〔言ってみただけ〕というやつだ。だが、先生の話には意外とファンが多く、「奴の話は深い」と他のクラスの生徒が授業に紛れ込んでくることもあるほどである。僕にはその深さはさっぱり判《わか》らないのだが。でもまあ、箴言《しんげん》とか名言名句って大抵そんなもんだけど。
そういえば、〔人という字は二人の人間が支え合っている〕というのは誰の言葉だっけか。たしか武田…………信玄《しんげん》だったかな? うん、多分そうだろう。人と人の繋がりを大切にする戦国武将だったって話だし。まったく有り難いね、さすが箴言《しんげん》。
「ねえねえ、ところでボクたちはこれからどこに行くの?」
深春《みはる》がふわふわと楽しげに飛び回りながら僕に尋ねた。
この修学旅行は、三日間、日中のほぼ全《すべ》ての日程が班単位の自由行動なのだ。今日も、集合時間までに旅館に到着しさえすれば、どこへ行っても自由。べつに奈良観光をしなくても、京都や大阪まで足を延ばしてもいい。もっとも、他の府県まで行くとなるとスケジュールがかなり厳しくなる上、交通費も馬鹿にならないため、わざわざ実行する人間はほとんどいないだろうが。
「うーん、僕としては、さっさと旅館に行ってのんびりしたいんだけど」
「そんなのは駄目に決まっているだろう。せっかく奈良まで来たのだ、色々と見て回らなくてはどうする」
一ノ瀬さんが呆れ顔で言った。
「そういえばカヨ、古い建物とか好きだもんねー」
「ああ。日本の情緒ある建物を見ていると心が和《なご》む。お前もそうは思わないか?」
一ノ瀬さんがいきなり僕に同意を求めてきた。
「え? ああ、うん……そうだね。気のせいか、心が和むような気がするような気がするよ。古い建物っていいよね」
「……お前に聞いた私が馬鹿だったようだ」
またしても悲しくなるような発言をされる僕。やっぱり嫌われているに違いない。
「……とりあえず、せっかく法隆寺《ほうりゅうじ》にいるのだ、見て回るとしよう。これからのことは歩きながら相談すればいい」
「そうだね」と深春が頷く。
「うんっ、吏架もさんせー」と美幼女。
「問題ない」史記も頷いた。紺藤だけは、まだ「うぐぐぐ……」とうなりながら地面に倒れていたのだが、気に留める者は誰もいなかった。
☆
駐車場から南大門に至る参道を、土産物屋をひやかしながら歩いていく。ブロマイドやらペナントやらキーホルダーやら木刀やら、買ったはいいが邪魔になりそうなものがたくさん置いてある。
「そこまで珍しいものは見当たらないな……。例えば呪いの藁《わら》人形とか」
僕が言うと、深春が笑って、
「やっぱりあのとき一つくらい買っておけばよかったかもね」
……呪いの藁《わら》人形とは、二週間ほど前に喪髪《もがみ》デパートで開催されていた、〔呪われた人形展〕で売っていたものである。ちなみに現在、デパートは自殺教の爆弾テロによって派手に壊され、廃ビルより酷い有様になっている。。
実は僕と深春《みはる》、それから一緒にいた後輩の紀史元《きしもと》ひかりちゃんは、運悪くそのテロが起こったとき現場にいたのである。さらに、その犯人である謎のテロリスト集団とも鉢合わせしてしまったのだが、そのとき僕は偶然手にした一丁の銃を片手に、果敢にテロリストに立ち向かい、どうにか深春とひかりちゃんを、黒違和慶介《くろいわけいすけ》という名の恐るべき強敵の魔の手から守り抜くことに成功した。ああ、みんなにも見せたかったな僕の獅子奮迅《ししふんじん》の大活躍を。そうすれば一ノ瀬さんや吏架ちゃんも、思わず僕に惚れてしまうに違いない。
「そういえばひかりちゃんは元気かな?」
僕が言うと、一ノ瀬さんが口をはさんできた。
「ひかりとは、紀史元ひかりのことか? 彼女なら元気すぎるくらい元気だ」
「知ってるの?」
「ああ。うちの部のマネージャーだからな」
……そういえば前に深春が、ひかりちゃんを陸上部に紹介したって言ってたっけ。
「カヨ、ひかりちゃんに『お姉さま』って呼ばれて懐かれてるよね」
深春が笑う。一ノ瀬さんは困った顔をして、
「……私はどうもあの娘《むすめ》が苦手だ。なにかというとすぐに手首を切りたがるし」
「可夜子《かよこ》お姉さまは私のことが嫌いなんですかそうなんですかそうなんですね!? わ、私もう死にますさようならお姉さま! 一足先に天国で待っています!」
僕がひかりちゃんの口調を真似して言うと、一ノ瀬さんは憮然《ぶぜん》とした顔で、
「……見ていたのか?」
「え? 適当に言っただけなんだけど……本当にそんなことがあったの?」
「……知らん」
そう言ってそっぽを向き、すたすたと歩いて行ってしまった。
「……はは、相変わらずみたいだなひかりちゃん」
ていうか本当にあの娘がマネージャーで大丈夫なのか陸上部は。ただでさえ短距離走のエースだった深春が死んで、戦力が大幅にダウンしてるのに。
「でも、ひかりちゃんはホントに役に立ってるよ? ひかりちゃんが来てから、陸上部全員の記録が大幅に伸びたの」
「マジで? なんで?」
「うん。記録が悪いとすぐに手首切りたがるから、みんな頑張るんだよ」
「みなさんの記録が伸びないのは私のせいなんですかそうなんですね!? わ、私なんてやっぱりみなさんの足を引っ張るだけのゴミ虫なんですね!? し、死にます! 私もう死にます! 死んでみなさんにお詫《わ》びをします! さようなら! 今までお世話になりました! 天国でもみなさんのことは忘れません!」
「あはははは! うんうん、そんな感じそんな感じ! ていうか似すぎ!」
深春《みはる》が腹をかかえて空中で笑い転げた。……そんなに似てるのか。なんか複雑だ。
「……でもまあ、なんとかうまくやってるみたいで安心したよ。僕はデパートでの一件以来、ひかりちゃんとは会う機会がなかったからな」
「心配してたの?」
深春の声が微妙に、本当に少しだけ、険しくなった。
「もちろん。もと恋人として、ね」と僕は冗談っぽい口調で言った。
「責任を感じてたり?」
「もちろん。だから僕はひかりちゃんが真人間になれるよう、最大限の努力を惜しまないつもりだよ。僕に協力できることがあれば何だって言ってくれ」
今度は真剣っぽく言ってみた。しかし深春は、何故か笑い出した。
「あはは、冗談ばっかり」
「ぬう、失礼な。…………で、なんで冗談だって判《わか》ったんだ?」
……もしや、真人間に更正しつつあったひかりちゃんを、自分が女性であることを暴露して再び自虐キャラに叩き落としたことを知っているのだろうか。一応あれは僕なりの優しさのつもりだったのだが。ちょっとびっくりしたくらいで揺らぐような、上辺だけのパーソナリティなんて意味がないし。厳しさの中にある優しさというか。…………まあ、ひかりちゃんをからかって楽しんでいたことも確かだけど。性格悪いな、僕って。
しかし深春は、べつに例の一件のことを知っているというわけでもなかったようで、
「悠紀って、ものすごく誠実な顔で嘘を吐《つ》くからねー。基本的に、優しい台詞は全部口だけだと思っておいて間違いないから」
「うわひでえ。今ものすごく傷ついたぞ。ほら、僕ってこう見えて繊細だし」
「ごめんごめん。でも、本当に繊細な人は自分から繊細とか言わないよ」
「そうかなあ。人それぞれだと思うけど」
まあ、僕の場合はたしかに繊細っていうより浅才の方が適当かもしれないけどさ。つまんないことをやらかしては墓穴掘ってるし。繊細な浅才。わはは大爆笑。……笑えよ。
僕は自虐的に小さく笑い、それから先に行ってしまった一ノ瀬さんたちを追いかけた。
☆
南大門から境内に入り、さらに中門をくぐる僕たち。深春は、せっかくなので救世観音《ぐぜかんのん》立像を見てくるとか言って、さらに先の夢殿《ゆめどの》まで一足先に行ってしまった。その像がある部屋は特定の時期しか開扉されないのだが、ゴーストならフリーパスというわけだ。
……なにげに深春は、一ノ瀬さんと同様に古い建物好きなのである。深春と一ノ瀬さんが友達になったのも、一ノ瀬さんが陸上部の部室に『日本の神社仏閣完全ガイド』とかいう、写真無しで文字ビッシリのすごくつまらなさそうな本を持ってきて、それに対して深春だけが興味を示したことがきっかけだったという。
「はっ、やっ、とうっ! 荒ぶる鷹《たか》のポーズ!!」
何を思ったか、いきなり五重塔をバックに怪しげなポーズをとり始めた馬鹿が一名。手には木刀を持っている。何故かどこの観光地に行っても売っている定番アイテムを、早くも買ってしまったらしい。
「……お前、そんなの買ってどうする気なんだ」
僕が呆れて尋ねると、紺藤は至極当然といった様子で、
「だって木刀だぜ木刀! 普通は買うだろ! 攻撃力も上がるし」
「いや、買わない」
……ていうか攻撃力を上げてどうする気だお前は。
「分かってねえなあ。カタナは日本男児のロマンだろ。あーあ、俺もいつかは本物の日本刀を手に入れたいもんだなあ」
「ふーん、僕は日本男児じゃないから解らないな」
「え! そうなのか? 帰国子女とか?」
……おっと、つい口を滑らせた。「そもそも男ではない」と正直に言うわけもなく、
「ああ。生まれはフランスで、育ったのはベトナム。中学のとき日本にやってきた」
「おおすげえ! ……あれ? でも前に深春ちゃんにお前とのなれそめを聞いたときは、生まれたときからの知り合いだって言ってたような気が……」
「だから深春も帰国子女なんだよ。両親がフランスの外国人部隊にいた戦友同士でね」
……なんてすごいバカ設定だ。こんなものを信じるのはよほどのバカしかいないだろう。
「そうだったのか!」
……例えば紺藤とか。
「ふう……、相変わらず馬鹿なことばかり言っているな、お前たちは」
気付くと、横で一ノ瀬さんが呆れた顔をしていた。……失敬な。馬鹿なことばかり言っているのは僕ではなく紺藤なのに。
「少しは日本の伝統的な建造物をじっくりと堪能しようとは思わないのか? 何のための修学旅行だ」
「んなこと言ったって修学旅行なんてしょせんは遊びゅごっ!」
口を挟んだ紺藤を、一ノ瀬さんはものすごく自然に裏拳《うらけん》で黙らせた。……こわ。
「……さすが〔猟奇《りょうき》委員長〕……」
「何か言ったか?」
「いや全然なんにもこれっぽっちも言ってないよ」
「そうか」
「うん。ところで一ノ瀬さん。古い建物を堪能することを前向きに検討したいと思うんだけど、具体的にはどんなところに注目して堪能すればいいのかな」
僕が問いかけると、一ノ瀬さんは困った顔をした。
「え……具体的に、と言われてもな……」
「たとえば柱の黒ずみ具合とか? ほら、日本最古の木造建築だし」
「……そんなマニアックなところに注目してどうするんだ。……まあ、べつに悪いとは言わないが……それは楽しいのか? 久遠、お前は柱の黒ずみ具合に何らかの価値を見出せる人間なのか?」
「いや全然。……うーん、だったら、建物を人体に例えてみたりするのはどう? 夢殿《ゆめどの》が顔だとすると胴体は多分、大講堂のあたりかな」
「……まあ、そんなところだろうな」
「うーん、じゃあ五重塔《ごじゅうのとう》はなんだろうね。天高くそそり立つ、長い間使い古されて黒ずんだ彼《か》の尖塔《せんとう》は、人体だと一体どのあたりに該当するんだろう。一ノ瀬さんはどう思う?」
「ふむ…………。五重塔は…………、五重塔を……人体……頭、胴体、手足、腰…………」
一ノ瀬さんはものすごく真面目な顔をして考えはじめ、不意に、
「…………!」
ボッと顔を真っ赤にした。僕は真面目な顔で詰め寄る。
「あれ? どうしたの一ノ瀬さん。さあ、早く僕に教えてくれないかな。一ノ瀬さん的には法隆寺《ほうりゅうじ》の五重塔は人体で言うとどのあたりなのか。さあ、大きな声で正直に、自分の気持ちを素直に口にするんだ! それがきっと幸せへの第一歩さ」
「ふ、ふざけるな馬鹿者! だいたい、どうして人体で例えなければならないんだ! セクハラで訴えるぞ」
「あれー不思議だなあ。どうしてこれがセクハラになるんだい? 僕にはさっぱり解らないや。説明してくれないかな。一体君はいかなる理由をもって僕をセクハラ呼ばわりするのか。君が五重塔で何を連想したのかまで克明《こくめい》に! さあ、さあ、さあ!」
「う、うるさい!」
一ノ瀬さんは顔を真っ赤にして怒鳴った。なんと、目には少しだが涙まで浮かんでいる。……やべ、ちょっとからかいすぎた。
「……まったくお前という奴は……。なんで深春はよりによってこんな奴を……」
吐き捨てるように呟く。多分、本人は口に出していることを気付いていない。あーあ、嫌われちゃったな、今度こそ徹底的に。とりあえず、この場は素直に謝っておこう。せめて上辺だけでも誠意をもって謝ったふりをすればきっと許してもらえるはずだ。
「ほんとにごめん。調子に乗りすぎたよ。だってほら、一ノ瀬さんをからかうチャンスなんて滅多にないからさ。あと、好きな娘《こ》に対してついつい意地悪をしてしまうアホな小学生の心理みたいな?」
「な……!」
一ノ瀬さんの目が驚いたように見開かれ、その直後、もともと赤かった顔がさらに赤くなる。そして絞り出すように、
「す、好き……だと?」
…………。…………あれ、たしかこんな展開が前にもあったような……。……だ、駄目だこの流れ! すごく嫌な予感がする!
「あ、好きっていうのは冗談! 言葉のあやってやつ! いやべつに一ノ瀬さんのことが嫌いとかそういうわけでもなく単に君に対して恋愛感情なんてまったくこれっぽっちも持っていないというだけであってこれから先もただのいちクラスメートとして末永く他人行儀にお付き合いしていこうと思うんだよOK?」
「……早口でよく聞き取れなかったが、ものすごく失礼なことを言われたことは判《わか》った」
ムスッとした顔で、一ノ瀬さんは言った。なんかすごく怖い。しかし彼女は紺藤《こんどう》のときのように僕を暴力によって制圧しようとはせず、
「……ふう――。まったく本当に――なんで……」
何故か、大きくため息をついた。……なんだかよく分からないが、とにかくこの場は退散することにしよう。ちょうど金堂《こんどう》の入り口あたりで史記が〔UFOを呼ぶ呪文〕いつものように無表情で唱えてるみたいだし。
「そ、それじゃあ一ノ瀬さん、僕は史記と一緒に祈ってくるよ」
そう言って、そそくさと彼女に背を向ける。が。
「久遠!」
呼び止められた。仕方なしに振り返る。彼女は少しだけ俯《うつむ》いて、
「――他人に対して好きとか、簡単に言うな。……その…………照れる」
「う、うん。気をつけるよ」
踵《きびす》を返す。しかし。さらに。
「それから久遠!」
「……な、なに?」
また慌てて振り向く僕。
「恋愛感情がまったくないとか言うな。……そ、その…………傷つくだろうが」
早口で、彼女にしては珍しくか細い声でそう言い、一ノ瀬さんはすたすたと僕の横を通り過ぎ、金堂《こんどう》の方へ歩いていった。あとには僕と、倒れたままの紺藤だけが残された……。
☆
法隆寺《ほうりゅうじ》の建物を一通り見て回ったあと、僕たちはバスに乗り、法隆寺のある斑鳩《いかるが》から、奈良公園の近くにある新薬師寺《しんやくしじ》を訪れ、日本最古最大の十二神将像とおたま地蔵を拝観した。ちなみにおたま地蔵とは男性器のついた珍しい像であり、僕はダビデ像のようなリアルなアレを想像していたのだが、意外とぷりちーなアレだった。紺藤はそのあと、「ま、負けた……大きさはともかく芸術点で負けた!」とか馬鹿なことを言っていた。こいつのチ●コの評価基準には芸術点が導入されているらしい。……どうでもいいけど、なんだかここ最近下ネタがやたらと多い気がするな。気をつけよう。
ともあれ新薬師寺をあとにした僕たちは、奈良公園に向かう途中にあった食事処《どころ》で遅めの昼食をとった。
食事を終え、女性陣が連れだってトイレに行ってしまったその機会を見計らって、
「久遠、ナンパに行こう!」
バカの紺藤がこのようなバカな提案をしてきた。
「ナンパ?」
僕は眉をひそめる。僕たちがいるのは店の裏手であり、自分たちのぶんだけ勘定を済ませたあと、紺藤に無理矢理連れてこられた。史記はまだ店の中にいる。
「そうだナンパだ! ナンパこそ旅の醍醐味《だいごみ》! そうだろ!?」
二本の木刀(増えているのは途中の土産物屋でさらに一本買ったからだ)を振り回して力説する紺藤。バカっぽいのでやめてほしいと僕は思った。
「……まあ、否定はしないけど。というか旅先に限らず、綺麗な女性に声をかけるのは人生の醍醐味と言ってもいいかな。でも、なんで急に?」
僕が尋ねると、紺藤はやけに真面目な顔になって語り出した。
「……久遠、お前なら分かってくれるはずだ。奈良に来てから――いや、修学旅行の日取りが決まってからというもの、俺がどれだけ不遇だったか! 何か言うたびに殴る蹴るの暴行を受け、気の休まる暇がなかった!」うん知ってる。その場で見ていたというか、殴る蹴るの暴行を加えたのは半分くらい僕だし。「このままだと、俺は駄目になってしまうかもしれない!」……既にお前は十分ダメだろう。「だが俺はくじけない! 自分の運命は自分で切り開くものだと俺は思う!」安っぽい青春アニメとかに出てきそうな台詞だな。「不幸を断ち切るのは即《すなわ》ち恋! これしかない! 恋をするとみんな幸せになれるんだ!」そうかなあ……。我が身を振り返ると、とてもそうは思えないんだけど。「だからこそ、ナンパだ! 俺は素敵なお姉さんと知り合って幸せを掴むことをここに誓う!」
「そうか頑張ってくれ。それじゃさよなら紺藤。素敵な出逢《であ》いがあるといいな」
「だーかーらー久遠、お前も一緒に来てくれよ! 知ってるか? ナンパの成功率は一人より二人の方が圧倒的に高いんだってさ。『週刊ぼくのお姐《ねえ》ちゃん』に書いてあった」
「そんなこと言われてもなあ……そもそも僕、深春《カノジョ》いるし。死んでるけど」
「おいおい、今さらなに言ってんだよ久遠クン? ちょっと前まで後輩の女の子と二股《ふたまた》かけてたくせに」
「うっ」
……やっぱり知られてたのか。普通に教室来てたからなあひかりちゃん。
「だけど一ノ瀬さんたちはどうするんだよ。いきなり行方不明になったら怒るぞきっと」
「書き置きでもしとけば大丈夫だよ。ていうかむしろ、委員長が困るのはいい気味だ」
「好きな娘《こ》にはついついイジワルしちゃう小学生の心理か?」
「な、なぬっ!?」
紺藤は、面白いほど真っ赤になって狼狽した。あれ? もしかしてこいつ……。
「ち、ちちちちがうぞ久遠! 俺はべつに委員長のことなんて何とも思ってないぞ! お、俺はその、あれだ、いつも委員長には酷い目に遭《あ》わされてるからたまには困らせてやりたいと……まあ、つまりその……」
聞いてもないのに言い訳をしだすところがもはや決定的だ。分かり易い奴だなー。
「……ま、べつにどうでもいいけどさ」
これは本音。他人の色恋沙汰に口を挟むほど無粋ではない。
「……そういえばどうして史記は誘わないんだ」
史記はちょっと洒落にならないくらいの美形なので、学校でも主に後輩の女子に非常にモテる。一緒にいればナンパ成功率はグンと上がるだろう。
「おいおい。女の子の前で、〔俺の前世は聖徳太子〕だの〔金閣寺が炎上したのはユダヤ人の陰謀である〕だの〔レムリア大陸文明と法隆寺《ほうりゅうじ》の関係〕だの語られてみろ。せっかく引っかけた女の子たちが速効で引いてくぞ」
「……なるほど」
……紺藤のくせに正しい見解だ。実際、史記に告白した女の子たちは、いきなり語られ出すぶっ飛んだ電波トークについていけず、一人の例外もなく自分から告白を撤回している。中には史記の理知的で物静かな容貌《ようぼう》と話の内容とのギャップに現実認識が追いつかず、自分が告白したことを忘れてしまった女の子もいるという。……僕はけっこう好きなんだけどな、史記の話。ネタになるし。
「……ま、たまにはお前に付き合ってやるのもいいかな……」
僕は言った。正直なところ、どうにも五重塔《ごじゅうのとう》の一件以来、一ノ瀬さんと顔を合わせづらくて居心地が悪かったのだ。
「そうか! 付き合ってくれるかセニョリータ!」
輝くような笑顔を見せる紺藤。こいつのこういう表情は、割と童顔なのと相まって、意外と魅力的に見えたりする。
「よし! いざ征《ゆ》かんナンパの聖地、奈良公園へ! うおちゃあああ――――!」
それからバカっぽく、元気の良い奇声を上げて走っていく。魅力激減。こいつも史記同様、黙ってればもっとモテる筈なのになー。まったくもって馬鹿だ。
「……奈良公園がナンパの聖地なんていう話、初めて聞いたんだけど……」
気乗りしないけれど、僕もそのあとに続く。……あ、その前に史記の携帯にメールをいれておこう。『思うところあって旅に出ます☆ 捜さないでネ☆』
……数秒後、史記から『ああ』というすごく簡潔な返事がきた。すると紺藤がこっちにやってきて、
「なに? メール? ……あ、そうだ久遠、俺にも携帯の番号とアドレス教えてくれよ」
「え? なんで?」
「なんでって、俺ら親友じゃん!?」
「ははは。相変わらず面白いなあ紺藤君は。そんなわけないじゃないか」
「うお、さらりとひどいことを言いやがりますねお前……」
がっくりうなだれた紺藤とともに、僕は古都の道を歩いていくのだった。
☆
奈良公園。北に行けば東大寺《とうだいじ》、東に行けば春日《かすが》大社があり、予定では昼食後、東大寺に向かうはずだった。そのうち深春たちと鉢合わせするかもしれない。
で、春日大社へと至る表参道の南側に位置する鹿苑《ろくえん》にて、
「う、うおおおおおおおお――――――!!」
紺藤が吼《ほ》えている。
「な、何故だああああ! どうして俺ら以外の観光客がみんなじーちゃんばーちゃんばっかりなんだああああああ! 同年代の可愛い女子高生は!? 女子大生のお姉さんは!? うら若いOLのお姉さまがたは!? いったい、どこに、いるんだ!? そうか、みんな隠れてるんだな!? 私を見つけてごらんなさーいウフフってことなんだな!? よーし探すぞー待ってろよ可愛い子羊ちゃん、お兄さんが探して食べちゃうぞー」
「正気に戻れ紺藤」
「ぐ、ぐおおおっ!」
ごん、と壊れ気味の紺藤の頭を手加減せずにぶん殴り、とりあえず黙らせる。
紺藤の言うとおり、奈良公園には老人を中心に、外国人の観光客や暇そうなオバサンとかばかりだった。しかし、べつにそれはここに限ったことではなく、法隆寺《ほうりゅうじ》や新薬師寺《しんやくしじ》でも同じだった。違うのは、ここには鹿《しか》がいることくらいか。
……まあ、当然といえば当然だろう。平日の昼間に学生やOLがこんなところに来るわけもないし、今は七月の初旬という半端な時期で、ちょうど他の学校の修学旅行と重なりやすそうな時期からは外れている。うちの学校にしたって、テロの影響で急遽《きゅうきょ》この時期の奈良・京都に変更になったのだ。それに最近は何かと物騒なせいか、そもそも客の数自体が少ない。人が集まるだけあって、観光地での自殺教のテロはかなり多く、修学旅行が中止にならなかったことがむしろ不思議なくらいなのだ。
ともあれ、紺藤のナンパして幸せになろう計画は早くも土台から崩れそうだった。
「わかいおなごー。わかいおなごはいねがー」
なまはげとゾンビの中間生物のように、目を血走らせて紺藤は徘徊《はいかい》する。仕方ないので優しい僕が、彼に救いの言葉を告げてやる。
「……紺藤、女の子ならいるぞ。あ、ほら寄ってきた。お前に気があるのかもな」
「な、なぬ!?」
僕の言葉に、紺藤がびっくりした顔をして振り向く。
「おおお、確かに! 思わず守ってあげたくなるような小柄な体格に、吸い寄せられそうなつぶらな瞳、魅惑的な細い足、少しワイルドで癖のある薄茶色の毛、ピンと立ったチャーミングな耳――って、鹿じゃん!」
五匹ほどの鹿が、僕たちの方へ近づいてくる。
「ああ。あの中にはきっと女の子もいるよ。可愛いし。しかも全裸。やったな紺藤っ」
「そりゃ普通は可愛くて全裸だよな、だって鹿だし! つーか本当にあいつらが雌だったとしても、鹿にモテたって嬉しくないッス!」
「わがまま言うなよ。モテないよりはいいだろ? そもそも人間の雌なんて、お前には勿体《もったい》ないし」
「久遠……頼むから俺を人間として扱ってくれないか?」
僕はしかせんべいをヒラヒラと振ってやる。すると鹿たちは駆け足で寄ってきたので、僕は彼らによく見えるように、そのしかせんべいを紺藤の制服の背中に入れた。
「うおっ、何するんだ久遠! って、え!? わ、や、やめろ! ええい服をかじるなケダモノども! ぎゃー! そんなところを舐めるんじゃない! 感じちゃうだろうが! あーやめてやめて! 俺の腕を食べないで――――ッ!」
――――三分後。
身体のあらゆる部分を鹿《しか》にしゃぶり尽くされた紺藤が、若草の上に横たわっていた。背中には無数の足跡がついている。いくら奈良公園の鹿が人に馴れているとはいえ、ここまでやられるのはやはり紺藤だからだろう。ある意味すごい。
「……うぅ……俺は汚されてしまった……陵辱《りょうじょく》されてしまった……。……こ、殺す……絶対にぶっ殺してやるぞあいつら……可愛ければ何をしても許されると思うなよ……」
涙を流しながら、それだけ聞いたら絶対に誤解されそうな台詞を吐く紺藤。
「まあまあ。動物のやったことだし、大目にみてやれよ」
「……お、お前がそれを言うのか……」
「気にするな。世の中にはライオンに指を食われても笑って許してやる大人物だっているんだし。ほら、奈良公園銘菓《めいか》のしかのふんでも食べて元気だせよ。ちょうどそこに落ちてるぞ」
「おう、そうするよ……って、これモノホンの鹿のウ●コだろうが! 食えるか! あぶねえあぶねえ、あやうく手でウ●コ掴むところだったぞ!」
「ごめんごめん。本物の鹿の糞《フン》がどんな味なのか知りたかったんだよ。許せ」
「うわ、超棒読みだし。ここまで誠意の感じられない謝罪ってのも珍しいな……。怒りを通り越して呆れも通り越して思わずフォーリンラブしそうなくらいだぜ。ていうか、味を知りたければ自分で食えばい…い…だ……ろ――」
紺藤の声は、次第に尻すぼみになっていった。
「どうした?」
紺藤の視線は、僕の背後の一点に釘付《くぎづ》けになっていた。訝《いぶか》りながら、僕は紺藤の視線を追う。……そして紺藤同様、それに釘付けになった。
僕たちから十五メートルほど離れた参道を、春日《かすが》大社方面に向かって、一人の女性が歩いていた。遠目からでも判《わか》る、とんでもない美女である。
年は二十歳前後だろうか。サラサラと風になびく絹のような黒髪は、一ノ瀬さんほど長くはないが、背中くらいまである。憂いを帯びた切れ長の目は、どことなくミステリアスな印象をうける。それから、紅葉模様の真っ赤な着物を着ていた。
古都の情景にものすごくマッチしていて、それゆえに声をかけづらいような雰囲気を持った、雅《みやび》やかな美女。
「すっげえ美人……」
ぽかんとした間抜け面で、紺藤は呟いた。
「……ま、否定する要素はカケラも見当たらないね。……って、まさか紺藤、あの人をナンパしようとか言うんじゃないだろうな?」
「あ、当たり前じゃねえか。あれだけの美人だぜ? お知り合いになりたいと思わない男なんて地球上に存在しないだろ! ああ生まれてきて良かった! あの人はきっと、いつも不幸な目にあってる俺に対する神様からのプレゼントに違いないな!」
鼻息も荒く勢い込む紺藤。都合のいい神様もあったものだ。
「うーん……」
対する僕は、少し考えこんでいた。たしかにあの人はとんでもない美人だ。美人なのだが……いや、美人だからか、すごく嫌な予感がする。
僕の知り合いには義妹《いもうと》のくおんと若き日のブーメランばばあ(僕が見た写真は十七歳当時のもので、白黒だがあれは本当にすごかった。残念ながら現在は見る影もないが。時間は残酷だ……)を筆頭に、深春にひかりちゃん、一ノ瀬さん、〔魔女〕や〔探偵〕や〔女教師〕など、何故か頭抜けた美人がやたらと多いのだが、そういった連中は例外なく、容姿だけでなく性格面でも規格外で、関わるとロクなことにならないのである。美少女でありなおかつ性格もまともな人間なんて、今のところ一人しか心当たりがない。もちろんそれは僕だ。
「なあ、やっぱりあの人はやめておこう――っておい!」
僕が口を開くよりも前に、紺藤は着物の美女の方へ走り出していた。はやっ。
だが。
紺藤は何故か、彼女から十メートルほどのところまで近づいたかと思うと急に方向転換し、近くにあった木の後ろに隠れてしまった。
「…………なにをやってるんだお前は」
僕が近づいていって、ジト目になって尋ねる。紺藤はややばつが悪そうに、
「か、隠れて様子を窺《うかが》ってるに決まってるだろ。あれだけの美人だ、ちゃんとタイミングをはかってだな、戦略的にこう……」
「ヘタレ」
「ぐ……っ」
呻く紺藤。
「いいか紺藤。深春と付き合うようになるまで〔遠夜東《とうやひがし》のレディキラー〕の二つ名を欲しいままにしていたかもしれないこの僕が、お前にナンパの極意を教えてやろう」
「かもしれないって……しかも微妙にダサい二つ名だし……」
「いいから黙って聞け!」
「は、はいっ!」
僕が一喝すると、紺藤は背筋をピッと正した。……やっぱりヘタレだこいつ。
「いいか、女性を口説く上で一番大切なのは真心を見せることだ。自分を偽ろうとするな。等身大の自分でいくんだ。特にああいう、都会で遊んでるようなタイプとはまったく逆の、清純そうな女性に対しては、カッコつけるのはむしろ逆効果なんだ。タイミングをはかろうとか、小細工を弄《ろう》するのもNGだぞ。体当たりでいくんだ」
「おおっ! なんかすげえもっともらしく聞こえるぞ! そ、それで、具体的にはどうするんだ!?」
目に敬意を浮かべて僕を見る紺藤。……ほんとにノせやすい馬鹿だなー。
「言っただろ? 体当たりでいけって。自分をさらけ出すんだ。本能を解放し、ワイルドに、玉砕覚悟でぶち当たれ。言葉遣いも乱暴なくらいでちょうどいい。不良言葉で喋り、相手を呼ぶときは〔ネエちゃん〕だ。本性を剥き出しにして、相手が引くくらい積極的に攻めまくれ。最初は嫌がる素振りを見せるかもしれないが、怯《ひる》まず押せ。そのうち相手もお前の野性的な格好良さに気づく筈さ。いいか紺藤、お前は野獣だ。野性に返れ! 隠した牙を解放しろ! お前は野獣だ、野に放たれた野獣になるんだ紺藤!」
「お、おうっ!」
「さあ行け! お前の生き様を見せてくれ!」
「っしゃあ! オレは野獣だ! 行っくぜえええええ――――ッ!」
雄叫びを上げて綺麗なお姉さんへと吶喊《とっかん》していく紺藤。そして、
「おいコラそこの女ァ! ちょいと一発ヤらせろやぁ!」
………………うわあ……。
……ホントに言っちゃったよあいつ……。ここまでバカだとかえって清々《すがすが》しいかも。
美女は怯《おび》えと戸惑いの色を浮かべて紺藤を見る。そして外見通りの落ち着いた声音で、
「……な、なんですか……?」
「うっせえ! 四の五の言わんと付き合わんかい! しばくぞコラァ!」
「……ま、まさかヤクザ屋さんか何かですか? 私はまだ何も……」
「へっへっへっ、安心しな。抵抗しなければ痛い目見なくてすむからよう」
そう言って、紺藤は女性の腕を無理矢理引っ張る。
「や、やめてください! 離して!」
「ぐへへへ、ホントはネエちゃんもその気なんだろ? 楽しませてやるぜ」
……恐らく、これほどまでに天然で小悪党的な言動が可能な人間も珍しいのではなかろうか。僕は呆れるよりも感動さえしてしまった。
「は、離してください! 人を呼びますよ!」
「げははは、誰も助けになんて来てくれねえよ! さあ、早くこっちに来い! たっぷりとっくり可愛がってやるぜぐえっへっへぶぐぉっ!?」
紺藤が下品な哄笑《こうしょう》を上げたまさにそのとき、なんと、一つの人影がいきなり横から出てきて、紺藤に跳び蹴りを食らわせたではないか!
あまりにも綺麗に決まったそのキックで、なすすべもなく吹っ飛ぶ小悪党。紺藤には目もくれず、颯爽《さっそう》と現れて美女の窮地《きゅうち》を救った正義の味方は、美女に向けて涼やかに微笑んだ。
「お怪我はありませんか? 美しいお嬢さん」
ああ、一体何者なのかしら、私を助けてくれたこの見目麗《うるわ》しい美少年は――と、美人のお姉さんは思っているに違いない。まあ、紺藤をいきなりぶっ飛ばした正義の味方とは要するに僕なんだけど。
「あ、ありがとうございます。危ないところを助けていただいて……」
と、美女が僕に言った。
「いえ、当然のことをしたまでです。ところでお嬢さん。あなたのような美しい方が一人で歩いていては、さっきのような暴漢に襲ってくれと言っているようなものです。よろしければしばらく僕と一緒に歩きませんか?」
「は、はい……」
ほんのりと頬を染めて、美女は頷いたのだった。というわけでナンパ成功。
「って待てええええい!!」
歩き出した僕とお姉さんを、後ろから紺藤が呼び止めた。ちっ。もう生き返ったか。
「どういうことだよ久遠! なんでお前の方が美人のお姉さんと仲良くなってんだよ!?」
「なんでと言われましても。普通に声をかけただけだが」
「どこがだよ!?」
何故か納得できないようなので、仕方なく解説してやる。
「いいか紺藤。ナンパの常套《じょうとう》手段の一つに、いわゆる〔正義の味方作戦〕というものがある。何人かのサクラを雇って女性を襲わせ、頃合《ころあ》いを見計らって救出するんだ。するとたいていの女性はコロリさ。かなり昔からよく使われている手法で、オーソドックスすぎて面白味に欠けるけど、古典的ってことはつまりそのぶん有効性が高いってことだ。僕が今やったのがそれさ。適当な悪役をけしかけてタイミング良く助ける」
「なるほど! その適当な悪役ってのが俺か!」
「うん。この通りバッチリ成功しただろ?」
「おお、さすが――って、その場合俺の立場ってものはどうなるんですかねえ!」
「はっはっは、馬鹿だなあ。そんなのあるわけないじゃないか。あ、ちなみにもちろん普通は、サクラとは前もって打ち合わせをしておくんだけどね。紺藤、お前なら打ち合わせなしでもチンピラ役を完璧にこなしてくれると僕は信じてたよ!」
「そんなところで信頼されても嬉しくねえ……」
涙さえ流して、紺藤はがっくりうなだれた。と、そこで。
「あのう……これはいったいどういうことなんでしょうか……?」
和服のお姉さんが、ものすごく困惑した様子で声をかけてきた。
☆
「……まあ要するに、あなたがあまりにも美しかったから、普通に声をかけられなかったんですよ。まったくお恥ずかしい。ご迷惑をおかけしてすいませんでした」
「そ、そうです! 久遠の言うとおり! あなたがあまりにも綺麗だからッス。ごめんなさい。許してください」
春日《かすが》大社への道すがら、僕たちはお姉さんに一通り事情を説明した。
「いえ……べつに気にしていませんから」
そう言って、お姉さんは微笑した。僕たちと普段縁のない、いかにも大人の女性という感じの、落ち着いた微笑みだった。しかし、どこか寂しげというか儚《はかな》げというか、――厭世的《えんせいてき》というか、どちらかというとネガティヴな印象を受けてしまう笑みだった。というか、この人の雰囲気全体が、どうにも厭世観が漂っている。〔気にしていない〕という言葉も、べつに大人の余裕とかいうものではなく、本当に心の底から〔どうでもいい〕と思っているような感じである。
また、顔色が異様に悪い。おしろいを薄く顔に塗っているのだが、その上からでも十分に判《わか》ってしまうほど青白い顔だ。服装や非常に整った目鼻立ちと相まって、まるで怪談話に出てくる幽霊のような印象を受ける。
「あ、そういえばまだ自己紹介してなかったッスね。俺は紺藤数馬、こっちの奴は久遠悠紀っていいます。お姉さんのお名前は?」
「私は……美弥乃宮都古《みやのみやみやこ》といいます」
「み、みやみや……」
「美弥乃宮都古です。……すいませんね、分かりにくい名前で」
「い、いえ、全然そんなことないです! 素敵なお名前ッス!」
「そうかしら……」
「そうです!」
「…………嘘よ」
「へ……?」
底冷えのする、やけに断定的な口調で言われ、僕と紺藤は戸惑う。
「本当は、いい名前だなんてこれっぽっちも思っていないのでしょう? 覚えにくくて、漢字でどう書くかも判《わか》らなくて、早口言葉みたいなおかしな名前だって思っているのでしょう?」
「え、あの……? えーと、都古さん?」
「いいの、わかっているの。小学生の頃、よくこの名前のせいでからかわれたわ。先生が私の名前を呼ぼうとして噛むたびに、いつもクラス中が私を指さして笑うの」
「子供って、死ぬほどくだらないことでも笑いますからね」
僕がとりあえず話を合わせると、
「……そうね。くだらないことなのよ。私の名前なんて、本当にくだらないものなのよ……何の存在意義もないわ……私という人間と同じ……死んでしまえばいいほどくだらないのよ……」
「い、いや、べつにそういう意味じゃ……」
……うわあ。やっぱり〔美人=変人〕の図式は、今回も当てはまってしまうのか。物事をネガティヴにネガティヴに考える人なのかな? 紀史元ひかりちゃんをアッパー系のペシミストだとすると、この人はダウナー系のペシミストといったところか。どっちにせよ、イタいことには変わりない。
「いいのよ、私なんかに気を遣わなくても……」
「…………」
「………………」
……空気が妙に重い。どうしてこんなに重くなってるのか意味不明なくらいに重い。
「あ、あはは、それにしても空が綺麗だな〜わはは」
紺藤が無意味に笑ってみせたものの、
「そうね……青空は綺麗ね……それに引き替え、私の心は醜《みにく》いわ……」
「…………あ、鹿《しか》だ。鹿は可愛いですね! もちろん都古《みやこ》さんも可愛いですよ!」
僕もどうにか場を取り繕う努力をする。が、
「そうね……あの鹿たちのように、何の悩みもなく生きていられたらどんなに楽かしら。でもそれは無理だから、いっそ…………」
…………。
そんなものすごく寒々しい会話を続けながら、僕たちは春日《かすが》大社に着いた。鮮やかな朱色をした綺麗な建物だが、さほど派手派手しさはなく、どちらかというと落ち着いた佇《たたず》まいである。
朱《あか》い社殿をバックに立つ、赤い着物を着た都古さんは、放っておくとそのまま背景に溶け込んでしまうような気がするほど、その場に調和していた。
「そういえば、都古さんはどこから来たんですか? いやべつに、これは哲学的な問いかけではなく、単に住んでるところを訊《き》いてるだけですけど」
「……それを知ってどうするの? 私がどこに住んでいるのかを知ったところで、あなたの人生に何らかの利益がるのかしら。そんなのは無意味なことよ。私の人生と同様に」
「……だからそんなに悲観的にならなくても……。ただの世間話じゃないですか」
苦笑しつつ僕が言うと、都古さんは相変わらずの陰気な口ぶりで答えた。
「……私は……仕事の都合で、各地を転々としていたの。もう十年近くになるかしらね……。辛いこともあるけれど、それなりに充実した日々だったわ……」
「へえ、じゃあ都古さん、ひょっとして役者とか? その着物もなんだかそれっぽいし」
「べつに役者ではないし、これは普段着よ」
「そ、そうっすか……」
淡々と否定され、紺藤はうなだれた。不憫《ふびん》なやつ。
「こっちに来たのも、お仕事の関係ですか?」
「……違うわ。もう辞めたの。仕事」
うわ、僕の方も墓穴を掘ってしまったみたいだ。聞いてはいけないことを聞いてしまった。『いた』とか『だった』とか、過去形で話されてる時点で気付けよ。
「ここへ来たのはただの気まぐれよ。落ち着いた古い街並みを歩けば、心も落ち着くと思ったから……。……でも違ったわ。心が落ち着くどころか、長い年月を経ても変わらないものがあることを見せつけられて、むしろ胸が締め付けられる」
「む、難しいお話ッスね……」
「……いいえ、これっぽっちも難しい話ではないわ。要するに私は――――傷心旅行をしているのよ」
遠い目をして、都古さんは呟いた。紺藤が驚きの声を上げる。
「傷心旅行……ってことは都古《みやこ》さんを振った男がいるってことですか!? 信じられないヤツだなあ」
「……ふふ……振ってくれたなら、どんなに良かったか……」
怨念《おんねん》さえ籠《こ》もった都古さんの声に、場の雰囲気がさらにズッシリ重くなる。
「な、何があったのか、聞いてもよろしいんでしょうか?」
「……べつに、何もないわ。三年間交際していた人が、二週間くらい前に行方不明になった――それだけよ。私にはなんとなく分かるの。彼は多分……もう生きてはいない」
まるで自分もその後を追おうとしているかのような、どんよりした陰鬱《いんうつ》な口調だった。
「……でも、まだ死んだって決まったわけじゃないんでしょう?」
「そうね、でも、つまらない希望なんて持たない方がいいわ。だって、私の悪い予感が外れたことはないもの。……良いことが起こる予感は、例外なく外れるのにね」
あ、それ僕と同じだ。
「ふう……うまくいかないものね、世の中って……」
そう言って都古さんは、重々しくため息を吐《つ》いた。そこに垣間見えた、世界の全《すべ》てに絶望しきったような表情。僕はその表情に、何故か酷く胸が締め付けられた。
「……都古さん。僕の恋人は、僕の目の前で車に轢《ひ》かれて死にました」
努めて淡々と、僕は言った。……やめろ、そんなつまらないことを話すな。傷口をまたほじくり返すような真似をするな……! そう思いつつも、言葉は勝手に口をついて出てきた。
「え……?」
都古さんが、驚きの表情を浮かべて僕を見た。
「今から二ヶ月くらい前かな……あいつは僕の幼なじみだったんです。で、ある日僕に告白してきたんですよ。死んだのはその直後。へへへ、意外にヘビーな過去を持ってたりするんですよね、僕って」
「そう……なの……」
都古さんは憐《あわ》れむような――僕の話を自分に重ねることで、僕と同時に自分をも憐れむような顔をした。
「……ええ。あいつ……深春のことは、今でも忘れられません……。あいつは、死んでもずっと、僕の心の中にいるんです」
「ていうか深春ちゃんはゴー――すぐぼっ!」
空気を読まず無粋なツッコミを入れてきた紺藤を速やかに黙らせ、なにごともなかったかのように話に戻る。都古さんも紺藤のことは完璧に無視した。……哀れ紺藤。
「……べつに、僕の方があなたよりも辛いとか、そんなことを言うつもりはありません。世の中にはもっと辛い人がいるんだから元気を出せとかいう馬鹿な説教を垂れるつもりもありません。悲しいものは悲しい。それは人と比べられるものじゃない」
都古さんが悲痛な表情をする。
「だったら……だったらどうして、私にそんなことを話したの……?」
僕は「さあ?」と肩を竦《すく》めてみせる。
「どうしてでしょうね。ただ、誰かに話を聞いてもらいたかっただけなのかもしれません。はは、何をしたいんでしょうね僕は。こんなことをしても……傷の舐め合いにしかならないのに。……深春が生き返るわけじゃないのに」
「いや、だから深春ちゃんはゴーぶごぉっ!?」
復活するなり裏拳《うらけん》で沈む紺藤。……なんか最近復活が早いなー。
「傷の舐め合いにしかならない……たしかにそうかもしれないわね……」
ぽつり、と都古さんが言う。
「でも……」
「でも?」
「傷の舐め合いは、そんなに悪いことなのかしら……たまには、弱いもの同士が縋《すが》り合ってもいいのではないかしら……」
「……都古さん。それは僕のことを誘っているんだと解釈してもいいんですか?」
「だめ、かしら……?」
嫣然《えんぜん》と微笑む、儚《はかな》げな美女。…………イイ。
やったー、年上で美人のお姉さんゲットだぜ! ……って、なんて外道なんだ僕は。恋人が死んだ過去をナンパに利用するなんて! ま、悲劇なんて、女性を引っかけるくらいにしか利用価値はないけどさ。漫画やアニメでも悲しい過去を背負ったキャラ(特に美形だとなおさら)って基本的に人気あるし。
……さて、こうなったらなるようになれだ。とりあえず少しは都古さんも元気になってくれたみたいだし、こうなったら古都を舞台に年上の美女とのアバンチュールと洒落込もうか――なんてことを考えていた矢先。
「久遠! ついでに紺藤!」
突然、そんな怒声が響いた。僕たちが来た道とは反対側の、東大寺《とうだいじ》方面の道から、髪の長い美少女がつかつかと寄ってくるのが見えた。
「……やべ、委員長だ。もう見つかっちまった」
復活した紺藤が顔を引きつらせた。
「お知り合いなの?」
都古さんが首を傾げる。ああ、やっぱり綺麗だなあ。顔色は超悪いけど。しかし一ノ瀬さんに見つかった以上、ナンパを続けるわけにもいかない。
「ウチのクラスの委員長です。修学旅行で来たんですけど、班から抜け出してきたんですよ、僕たち」
「そうなの……」
「ええ。すいません都古さん。どうやらもうお別れしなくてはいけないみたいです」
「そう……」
都古さんは、切なそうな目で僕を見たあと、
「残念ね、久遠君。……どうやら私には、救いは訪れないみたいね……。訪れかけた幸せも、すぐに私から離れていってしまうの……」
「いや、そんな大げさな……」
「……気を遣わなくていいわ……それでは、私はこれで……」
「え、あ、はい。また会えるといいですね」
「フフ……そんなことを言って、きっともう二度と会えないの……人生ってそういうものよ……少なくとも私の人生はいつもそうだったわ……」
悲観的な台詞を吐いたあと、都古さんは一礼して、僕たちから離れていった。
彼女は一ノ瀬さんとすれ違うときにも一礼し、一ノ瀬さんも戸惑いを浮かべたものの会釈を返した。
☆
「……さっきの人は誰だ?」
一ノ瀬さんが不機嫌そうな様子で言った。「私の知らない美人のお姉さんとお話しするなんて許せないわ! 私、妬いちゃうんだからプンスカッ!」というのなら嬉しいのだが、そんなことがあるわけもなく、単に迷惑をかけられたことを怒っているのだろう。
「紺藤がナンパで引っかけたお姉さん」
「うわ、それだとまるで俺だけがナンパしてたみたいじゃねえか! むしろ久遠の方が都古さんと仲良ぶぎょごっ!」
僕に無実の罪をなすりつけようとする紺藤を、僕は自らの名誉を守るため速やかに鎮圧した。事実無根の誹謗《ひぼう》中傷は、決して許されるべきではないと人権派な僕は思う。よって名誉│毀損《きそん》で現行犯処刑。断じて口封じではない。
「……ナンパ……ナンパか……」
一ノ瀬さんの底冷えのする声に、僕はぎょっとする。
「神河《かみかわ》から『あいつらは大いなる運命に導かれて、悟りを啓《ひら》くための旅に出た。平たく言うと自分探しというやつだ。できれば捜さないでやってほしい』と聞かされて、どういうことかと思っていたら……」
……さすがは史記。いつの間にか〔運命〕とか〔悟りを啓《ひら》く〕とかいう電波な単語が追加されてる。……まあ、それは今はどうでもいいや。
「よりによってナンパだと……? 私が奈良の町を捜し回っている間、お前たちは綺麗な女性をナンパして楽しんでいたというわけか……」
「あ、あのう……一ノ瀬さん? ひょっとして怒ってます……?」
「当たり前だ! 馬鹿者!」
……即答で怒鳴られてしまった。
「まったくお前らは……紺藤の馬鹿は今さら直らないだろうから捨て置くとして、問題はお前だ、久遠悠紀!」
「は、はいっ! 僕ですか!?」
思わず姿勢を正してしまう僕。
「お前にはちゃんと、深春という恋人がいるだろうが。それなのに他の女にうつつを抜かすとは……まったく、度し難い。少しは恋人らしくしようとは思わないのか?」
「うわあ、大変痛いところをついてきますねえ……」
僕が軽い調子で言うと、一ノ瀬さんはさらに不愉快そうな顔になり、
「またそういう巫山戯《ふざけ》た態度ではぐらかそうとする……。本当にロクデナシだなお前は……。まったく、どうしてお前なんかのことを……」
ひどい言われようだなあ……。いくら僕でも、ちょっとカチンときたぞ。だいたい、どうして赤の他人にそこまで言われなきゃいけないんだろう。深春の親友だろうが何だろうが、そういうのは付き合っている当人同士の問題じゃないか――
――なんてことは、小心者の僕には決して口に出せないので、僕は話題を変えることにする。
「そういえば、その深春たちはどこ?」
「……吏架と神河は東大寺《とうだいじ》前の喫茶店で茶菓子を食べている。昼食を食べたばかりだというのに……あの二人は細いくせにやたらと食うな……まあそれはいい」
「深春は?」
「正倉院《しょうそういん》だ」
……小学校の歴史の教科書にも載っている、七〜八世紀ごろに唐や西域からもたらされた宝物《ほうもつ》が九〇〇〇点ほど収められている有名な倉である。
「でも正倉院って、一般人は入れないんじゃ……あ、ゴーストだから関係ないのか」
「そういうことだ。普通は秋に奈良国立博物館で開かれる特別展示会でしか、正倉院の宝物は見られないからな……羨《うらや》ましい」
「はは、深春のやつ、自分がゴーストってことをフル活用してんなー」
…………あれ?
「ということは、僕たちを捜してたのは一ノ瀬さんだけってこと?」
「……ああその通りだ。私にはクラス委員長としての責任があるからな。まったく、お前たちといい他の三人といい、集団行動というものを何だと思っているんだ!」
「……ごめんなさい」
憤慨する一ノ瀬さんが怖かったので、素直に謝っておく。
「謝るくらいなら最初から紺藤にそそのかされて脱走などするな、馬鹿者。……深春も深春だ。自分の恋人の手綱くらい、しっかり握っておいてほしいものだな」
「深春、僕がいなくなったことに対して何も言ってなかったの?」
おそるおそる、僕は尋ねた。すると一ノ瀬さんは、何故か少し顔を赤らめ、「ごほん」とわざとらしい咳払いをして、
「……『大丈夫。悠紀はああ見えて、しっかり考えて動いてるから。ボクは悠紀のことを信じてるよっ』……だそうだ」
「うわあ……」
相変わらず、恥ずかしい台詞を吐くやつだ。僕は顔が火照《ほて》るのを隠せなかった。一ノ瀬さんも、言ったあとすぐにそっぽを向いてしまった。よっぽど恥ずかしかったのだろう。
「恥ずかしいなら言わなくても良かったのに……」
「お、お前が訊《き》いてきたんだろうが!」
「まあ、それはそうだけどさ。なにも深春の台詞を一字一句忠実に再現することはなかったんじゃないかな?」
「……う。……う、うるさい。そんなのは私の勝手だろう」
「ごめんごめん」
「な、何を笑っている!」
「いや、一ノ瀬さんがあまりに可愛いから」
「か、かわ……ば、馬鹿者ッ!」
これ以上赤くするには血を流すしかなかろうというくらい顔を真っ赤にする一ノ瀬さん。……僕の見たところ、これは〔照れ〕もあるだろうが、それ以上に〔怒り〕のウェイトが大きい気がする。……またからかいすぎたかも。こういう生真面目なタイプはからかいやすくて面白いんだよなあ……。
一ノ瀬さんは、憮然《ぶぜん》とした顔でスタスタと歩いて行ってしまう。が。
「前々から疑問に思っていたのだが!」
いきなり立ち止まると、一ノ瀬さんは僕に背を向けたまま声を上げた。
「な、なに?」
びびりつつ、僕は尋ねる。一ノ瀬さんが振り返る。で、
「――――お前と深春は、本当に付き合っているのか?」
…………わお。これまた核心的なことをズバリと……。
「うーん、言ってる意味がよく分かんないんだけど」
僕がすっとぼけてみせると、一ノ瀬さんは少し困ったような顔をして、
「……なんというか、お前と深春を見ていても、あまり〔恋人〕という感じがしない。お前たち、幼なじみだけあって、一年生の頃からかなり親しげにしていただろう? その頃と今を比べてみても、あまり違いが見られないように思えるんだ」
「そうかなあ」
とか言いつつ、「そうだよなあ」と内心では思う僕であった。たしかに〔付き合う〕前から、僕と深春はよく一緒にいたし、あいつが学校へ行くとき起こしに来たり、一緒に登下校したり買い物に行ったりしていた。傍目《はため》には、たしかに一ノ瀬さんの言うように、前前から既に付き合っているように見えただろう。
「あ、でも、深春が恥ずかしい台詞を言う回数は、付き合うようになって確実に増えたよ。今のところ、深春の口から〔愛〕って単語が十回以上出なかった日はないから」
「……そんなことをいちいち数えてるのか……」
少し呆れた顔をする一ノ瀬さん。
「まあ確かに、深春の中では変わったのかもしれないな。ノロケ話を聞かされることも多くなったし。……それで――」
…………。
「――久遠。お前はどうなんだ?」
「どう、っていうと?」
「深春と付き合っている自覚はあるのか、ということだ」
…………。
……自覚、ねえ……。
……僕は少しだけ、真面目に考えてみた。
……………………………考えてみた。
…………………考えてみた。
………考えてみた。
……結論。
「……そんなことを、どうして君に言う必要があるんだい?」
あえて冷たく――突き放すような口調で、僕は言った。
怒るかと思いきや、一ノ瀬さんはただため息をついただけだった。
「……ふう……。やっぱりお前は……よくわからない奴だな」
そして、
「お前みたいな変な奴と付き合えるのは、やっぱり深春しかいないと思う。……私は多分、深春のように寛容にはなれないからな……。私は、自分の恋人には、いつもそばにいてほしいと思う。浮気なんて絶対に許さないだろう。冗談でも他の女をナンパしたりしていたら、ぶち殺すかもしれない」
「な、何が言いたいの?」
本気で解らなかったので僕は尋ねた。すると一ノ瀬さんは、柳眉《りゅうび》を逆立てた。
「ええいこの鈍感め! つまり私が言いたいのは、だ! ……そ、その…………深春を大事にしろということだ!」
「あ、う、うん……。前向きに検討するよ」
あまりの剣幕に気圧《けお》され、僕はこくこく頷いた。一ノ瀬さんはそんな僕をキッと睨《にら》んだあと、荒い足取りでズンズンと歩いていった。
……な、なんなんだよいったい。深春を大切にしろって……要するにそれが言いたかっただけなのか? だったらあんな回りくどい言い方をしなくても、それだけ伝えてくれればよかったのに。自分の説明不足のせいでなかなか本旨《ほんし》が伝わらないことを逆ギレされてもなあ……。まったく困った人である。
と、そこで。
「どうしたんだ? 委員長、なんか怒ってるみたいだけど」
ようやく復活してきた紺藤が、僕に尋ねた。……こいつ、僕のときはすぐに復活するのに、一ノ瀬さんにやられると復活までの時間が長いのか……? ……なんかむかつく。
「委員長、ナンパするような奴はサイアクだってさ。ぶち殺したいほどむかつくって言ってた。よく肝に銘じておいた方がいいぞ」
「ま、マジで? ほんとに委員長がそう言ってたのか?」
「ああ」
「うわあ……」
くくく、動揺してる動揺してる。やっぱり紺藤をからかうのは面白いなあ。
「……………………………………………………はあ……」
むなしい。
☆
そのあと、東大寺《とうだいじ》にて僕たちは深春、史記、吏架ちゃんと合流した。
東大寺《とうだいじ》で――というか奈良県で最も有名だと言っても過言ではない建造物、〔奈良の大仏〕を見る。
「わあー、すっごくおっきいですっ! 吏架、大きいのが大好きなのっ」
「……実は大仏の額にあるチャクラは宇宙人によって埋め込まれたものなのだ。伝承によれば世界が危機に瀕《ひん》したとき、この大仏は巨大ロボットになって平和のために戦うとされている。過去に三度、大仏が起動したことが記録に残っており、最新の記録は第二次世界大戦時にアメリカ軍の空爆から奈良の人々を―(略)」
「なあ久遠、この柱の穴って、たしか大仏の鼻の穴と同じ大きさなんだよな。くぐってみようぜ!」
「僕は遠慮しとくよ。あ、そうだ紺藤、今思い出したけど、この穴を全裸でくぐり抜けると必ず恋が実るっていう、奈良県民しか知らない都市伝説があるんだ」
「なにっ! マジか! 早速実行だ! うおおおお――――!」
「きゃ、きゃああーっ! 変態よ! 変態がいるわ!」
「警察を呼べ!」
「あ、警備員さん、こっちです! 変態はこっちです!」
「うわあああ! し、しまったあ! 奈良県民しか知らない都市伝説をなんで久遠が知ってんだよ! ま、またしても謀《はか》ったな久遠! うわ、ち、違うんだ、俺はハメられただけなんだよおおお――――ッ!!」
「…………紺藤……。馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、まさかここまでとは……僕は初めて、お前のことをすごい奴だと思ったよ……」
「もーっ! どうして大仏の中に入れないのさー? せっかく中がどうなってるのか見たかったのにー! 正倉院《しょうそういん》にも護符が貼ってあったし! 宮●庁のバカバカバカ――! あ、悠紀ー、さっき地元の人に聞いたんだけどね、大仏の鼻の穴を一緒に抜けたカップルは永遠に幸せになれるんだって! 今度こっそり忍び込んで、ボクと一緒に鼻の穴をくぐって幸せになろっ」
「……ハナクソの真似をしてまで幸せになりたいとは思わないなあ……」
「うん……やはり何度見てもこの大仏には圧倒されるな……。しかしこの大仏を建立するために、大勢の人の犠牲があったことを、我々は忘れてはいけないのだ……って、お前らちょっと五月蠅《うるさ》すぎるぞ! もう少し落ち着いていられないのか! まったく、クラス委員長として恥ずかしい。少しは伝統ある遠夜東《とうやひがし》生徒としての自覚を持ったらどうなんだ。特に紺藤。お前が一番恥ずかしい」
「な、なにをう! 眼鏡もかけてないくせにー! それでも委員長か!」
「……意味の解らんことを……」
「いたぞー! あそこだ! 変態はあそこだー!」
「や、やべえっ!」
「あ、待て紺藤! 委員長は眼鏡をかけていなければいけないのか!?」
…………とまあ、こんなノリで大仏サマを堪能したあと、集合時間も近づいてきたので、僕たちは東大寺《とうだいじ》をあとにしたのだった。
☆
一日目の宿泊場所である旅館〔あぽかりぷす〕は、奈良県と京都府の県境の山間にあった。広い温泉もある、そこそこ大きな旅館なのだが、周囲に人家がほとんどない寂しい場所にあるため、僕たちのように修学旅行で来る団体以外はほとんど客が来ないように思われた。2年A組、B組、C組の三クラスの生徒がここに宿泊することになっている。
僕たちの班は集合時間ギリギリにどうにかそこへたどり着き(一時間に一本しかないバスに乗り遅れたので、仕方なく坂道を歩いてきたのである)、既に食堂に集まっていた他の生徒たちと夕飯を食べた。山菜がメインの食事はまあ、旅館だけあって普通に美味しかったのだが、白│味噌だけはどうも苦手だった。
「ふーっ、今日は疲れたなあ……」
食事を終えて部屋に入るなり、紺藤は畳の上に仰向けになった。八人部屋で、僕と史記もこの部屋である。あーあ、今夜はムサい男たちと一緒にここで寝るのか……。
小学校や中学校の修学旅行でもそうだったのだが、実は女性であることを隠している僕にとって、これはかなり神経を使う。風呂や着替え、トイレなど、女であることがバレないように細心の注意を払わなければならないのである。旅館での時間こそが、僕にとって修学旅行本番であると言っても過言ではない。
「そういや、風呂っていつからだっけ?」
紺藤が訊《き》くと、クラスメートの一人が答える。
「俺らは九時。今は多分A組の連中が入ってるんじゃないか?」
「九時かー。それまで暇だよなー。トランプでもするか?」
「高校生にもなってトランプか……」
「脱衣アリで」
「男だけでやってどうすんだって気もするが……ま、暇だしな、やるか。脱衣トランプ」
……激しく身の危険を感じたので、僕は立ち上がって部屋を出る。イカサマを駆使すればまず負けない自信はあるが、万一ということもある。男装の美少女の性別が明らかになる理由が脱衣トランプというのはあまりにも悲しすぎるし。
「あれ、久遠、どこ行くんだ?」
もう少しで部屋を出るというときに、紺藤が呼び止めた。……ちっ。
「深春のところでちょっとイチャついてくる。悪いけど、男同士で脱衣なんてカノジョ持ちの僕には耐えられないよ」
ぐおーあいつ殺す! だの、ちくしょーいいなあカノジョいる奴は! だの、でも白咲《しろさき》さんってゴーストじゃん! だの。男どもの怨嗟《えんさ》の声をあとに、僕は部屋を出た。
方便で深春のところへ行くと言ったのだが、他に時間を潰《つぶ》すアテもないので本当に深春のところにでも行こうと思いながら歩いていると、廊下で修験者《しゅげんじゃ》のような風貌をした禿頭《とくとう》の男――時山時雨先生に出くわした。……ちょうどよかった。
「あ、先生。宗教上の理由で、みんなと一緒に風呂に入れないんですけど、どうにかなりませんかね」
僕がきわめて自然な口ぶりでデタラメを言うと、先生は、
「わかった。従業員用の風呂を使わせてもらえるよう、旅館の方に頼んでみよう」
なんと二つ返事でOKしてくれた。なんでも言ってみるもんだなあ……。
「先生って、見た目は怖いけど面倒見がいいですよね」
僕が素直に褒《ほ》めると、先生は微妙な顔をした。
「……怖いか?」
「少なくともチャーミングではないです」
「……そうか。私が道を歩いていると、よく近所の子供たちにハゲだハゲだと言われて親しまれるのだが」
……嫌な親しまれ方だな。まあ、スーツ姿のスキンヘッドというのも珍しいので、子供が興味を持つのも無理はないのかもしれないが。
……と、そこでちょうど旅館の女将《おかみ》が客室の一つから出てきたので、先生は僕の風呂の件を頼んでくれた。
「……十時までなら、離れにある従業員用の風呂を自由に使ってもいいそうだ。湯も張ってある」
「ありがとうございます」
僕は先生と女将に一礼して、その場を去ろうとした。すると、
「……久遠」
「はい?」
「……かつて、とある偉人がこう言った……『若さゆえの過ちというものは、認めたくないものである』と……」
「……はあ。つまり先生がハゲなのは若さゆえの過ちだということですか? 駄目ですよ、ちゃんとヘアケアをしないと」
……僕は真面目に答えたつもりだったのだが、先生は何故か少し傷ついたような顔をして、そのまま何も言わずに僕に背を向け、歩いて行った。
☆
離れにある風呂場の扉には〔使えます〕というプレートが掛かっており、それを裏返すと〔入浴中は決して覗《のぞ》かないでください。鶴《つる》になって飛び立ちます〕という文章になった。……な、なんでこんな、思わず覗きたくなってしまうような文句が書いてあるんだろうか……。……深く考えないことにしよう。
脱衣所で制服を脱ぎ、籠《かご》に入れる。それから胸に巻いたサラシをほどいていく。十年近く続けているためもう慣れたのだが、やはりサラシはきつい。胸の成長を妨げるらしいし……。だがそのぶん、ほどいた時の解放感もブラの比ではない。
全裸になり、浴室へ。残念ながら温泉ではなく、普通の家庭にあるようなちんまりした風呂だった。シャワーで身体を洗ったあと、そろそろと浴槽《よくそう》に足を入れる。熱い風呂は苦手なのである。子供の頃に深春の家に泊まったとき、四十五度以上の風呂に一時間ほど入れられて、危うく死ぬところだった。一緒に入った深春は何故か平然とした顔をしていたのだが……。もはや身体の性能が根本的に違うとしか思えない。
「……ま、それも昔の話か」
もう二度と――ああやって深春と一緒に風呂に入ることは出来ないのだから。
「なにが昔の話なの?」
「――ッ!?」
いきなり深春の声がして、めちゃくちゃ驚いた。見ると天井から深春がコウモリのように生えていた。
「……前にも言ったかもしれないけど、頼むからその無駄に凝《こ》った登場はやめてくれ」
「えへへ、ごめんごめん」
反省ゼロの笑顔を浮かべて、深春がひらりと僕の前に降りてくる。ちなみに、風呂場なのに服は着たままである。マナーに反する。……まあ、脱がれても困るのだが。
「……ふーん……」
「な、なんだよ」
深春は何故か僕の身体をジロジロと凝視し始めた。恥ずかしいので僕は湯船に鼻の頭まで浸《つ》かる。頬を染めて恥じらう美少女の図。いいねえ、これが自分でなければ萌えてしまいそうだ。まあ、自分でも萌えるけどさ。…………って、変態か僕は。
「悠紀ってけっこうスタイルいいよね……。胸なんかひかりちゃんより大きいよ」
「ひかりちゃんより大きくてもあんまり嬉しくないなあ……。ていうか見たことあるのかあの娘《こ》の胸を」
「うん。三日に一回くらいは見てるよ?」
「な、なぬっ!?」
たしかに僕と深春とひかりちゃんは、かつて三人でお付き合いをしていた。喪髪《もがみ》デパートの一件で僕とひかりちゃんの関係は切れたのだが、しかし、まさかあのあとも深春とひかりちゃんだけは関係を続けていたというのか!? ひかりちゃんはゴーストに触れるという特殊な体質を持つ。だから深春はそれをいいことに、いかがわしいことを三日に一度のペースであれやこれやと……! 具体的には、「だ、ダメです深春さん、そんなところ……は、恥ずかしいです……」「うふふ、大丈夫だよひかりちゃん、ボクにまかせて……」「あ、や、やん、あぅ……」「どう? ひかりちゃん……声を上げてもいいんだよ……この時間なら誰も来ないし……」「は、はうぅ……み、みはるさんのいぢわるぅ……いやぁ……」
…………ぐ、ぐはあっ!
「……う、羨《うらや》ましい……」
「悠紀、なんかやらしいこと考えてない?」
深春が冷たい目で僕を見ていた。慌てて、脳裏に浮かんだピンク色のヴィジョンをどうにか理性で打ち消す。
「ウウン、ボク、ゼンゼンソンナコトカンガエテナイヨ!」
「……なんでカタコトなの? 一応言っておくけど、ボクは陸上部の部室で見てるだけだからね?」
「陸上部の部室でお前とひかりちゃんが夜な夜なえろいことを?」
「するかっ! 部室で着替えるときに見るだけだよ!」
「え? でもひかりちゃんってマネージャーだろ? なんで着替えるんだ?」
「陸上部のみんなが無理矢理ひんむくの。自分たちだけ見せるのは不公平だからって」
「……うわ、それは――」
完璧にイジメじゃん。と言おうと思ったのだが、浴室の外側から砂利を踏みしめて近づいてくる足音が聞こえてきたため言葉を切った。
……誰だろう。もしかしたら覗《のぞ》きかもしれないと思ったのだが、本館の露天風呂《ろてんぶろ》に現役の女子高生たちが大量にいるのに、わざわざ従業員のおっちゃんおばちゃんしか使わないようなこの風呂を覗く物好きもいないだろう。いないと信じたい。
「おーい久遠。そっちにいるのかー?」
……紺藤の声だった。慌てて浴室の小窓を半分閉め、顔を覗《のぞ》かせる。それに気付いた紺藤がこっちへ寄ってくる。
「あ、いたいた。風呂、俺らのクラスの番だから呼びに来たぜ……って、ひょっとしてお前、今風呂に入ってんのか?」
「ああ。従業員用のを特別に使わせてもらってる」
動揺を悟られないように、努めて平然とした口調で返す。
「なんでわざわざそんなことしてんだ? A組の奴に聞いたけど、ここの露天風呂《ろてんぶろ》、めちゃくちゃ豪華らしいぞ。〔アポカリプス温泉〕とかいう名前」
……なんて怪しげな名前の温泉だ。絶対に変な成分とか含まれてそうな気がする。まあ、それはともかく。
「温泉ってあんまり好きじゃないんだよ。それに……」
僕はさらに何か適当な言い訳で誤魔化そうとした。が、そのとき。
「こんばんは、紺藤クン」
深春が壁を通り抜け、ぬうっと顔だけを外側へ突きだした。
「うおっ! み、深春ちゃんもいたのか……」と紺藤が驚いた顔をする。
「うん。だってココなら、二人っきりでイロイロできるもんね、ゆーきっ※(w-heart.png) ……あ、ちなみに紺藤クン、今ボク、何も着てないから、覗いたらダメだよ?」
深春が笑顔で堂々と口から出任せを言った。紺藤は真っ赤になって、
「――ッ! って、ってことはつまりお前ら、今まさにココで、そういうことを!?」
「……まあね」と僕。とりあえず、ここは深春に話を合わせておこう。
「ゴーストなのにか!? 触れないのにか!?」
「そのへんはまあ、どうにか精神力でカバーしてるし。……人間、ヤろうと思えば不可能はないってことさ」
「そうそう。悠紀ったらあんなに激しいんだもん……。あんまりイジワルなコトしないでよぉ……」
甘えるような声で言う深春。ちなみに僕の位置からは、浴室側に突き出た深春の下半身しか見えないので、ちょっと笑える感じになっている。
「ああ、分かったよ深春。これからはもう少し優しく可愛がってやるよ。…………というわけだ紺藤。お前は邪魔だからさっさとどっか行け」
僕が言うと、「……わ、分かった……」と紺藤はどこか放心したような様子で踵《きびす》を返し、本館の方へと歩いていった。
「……ふう……なんとか誤魔化せたな」
紺藤の姿が見えなくなってから僕は窓を閉め、ホッと一息ついてから再び湯船に浸《つ》かった。そんな僕の様子を、深春がじーっと見ている。
「な、なんだよ」
「べっつにー」
悪戯っぽく笑う深春。……何なんだろう。何か企んでいそうなこの顔は……。
「……どうでもいいけど深春、お前もそろそろ出てけ。なんか落ち着かない」
「えー。これからえっちなことするんじゃないの? 触れないのは精神力でカバーして」
「無理。不可能」と僕が即答する。
「優しく可愛がってやるって言ったのにー」
「それは早急に忘れてくれ」
紺藤を追い返すための方便とはいえ、ああいう台詞を言うのは僕だって恥ずかしいのだ。
「……うーん残念。ま、久々に悠紀のハダカが見れたから、今日のところは満足しておくよ。でも、いつかは悠紀とやらしいことしたいな」
そう言って深春は、登場したときと同じように空中でくるりと反転し、そのまま天井の方へ上がっていく。
と。
「……あ、ちなみに悠紀。ボクはひかりちゃんとえっちなことなんてしてないからね?」
「あー、わかったわかった」
「……(ときどきしか)」
「!? ぶぼっ! げほっ! げほっ!」
驚きのあまり湯船の中でバランスを崩して一瞬溺《おぼ》れかけた僕に、「ばいばーい」と軽い笑顔で手を振って、深春の姿は天井を通り抜けて見えなくなった。
……な、なんと……深春とひかりちゃんがそんなことになっていたとは……。まあ、予想してはいたけどさ……。……しかし……。…………! ……! ……ああ……。
…………僕は一人悶々としながら、一時間ほど風呂に入っていたのだった。おかげですっかりのぼせてしまった……。
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修学旅行 二日目 〜京都 古都で燃ゆる恋の噺(はなし)〜
修学旅行の二日目は、京都である。旅館〔あぽかりぷす〕から京都に向かうバスにも、例のセクハラバスガイド・逆本麻紀《さかもとまき》さんが乗っていて、またしても濃厚な十八禁トークを披露してくれたのだが、昨日よりもさらに危険な内容であったため、残念ながらここで詳細を述べることは出来ない。
一時間ほどバスに揺られて、僕たちのクラスは金閣寺へと到着した。ここからはまた班ごとの自由行動となる。一応、僕たちの班の予定では、金閣寺、北野天満宮《きたのてんまんぐう》、二条城の《にじょうじょう》順に回り、それからは残り時間と相談した上で、清水寺《きよみずでら》、三十三間堂《さんじゅうさんげんどう》、銀閣寺《ぎんかくじ》などから幾つかを選んで回ることになっている。
「……昨日のようにどこかの馬鹿どもが脱走したりしなければ、かなり多くの場所を見て回ることが出来るのだがな」
一ノ瀬さんが少し冷たい声で言った。
「そうだぞ紺藤。一ノ瀬さんの言うとおり、今日はみんなに迷惑をかけるなよ」
「俺だけかよ!?」
「不思議なことを言うやつだな。お前以外に誰がいるんだよ」
「お前だ、久遠」
ごん、と僕は一ノ瀬さんに頭を軽く殴られた。お約束のボケにまであえて突っ込むなんて、相変わらず生真面目な委員長だ。……あ、でもなんか新鮮な感じ。一ノ瀬さんは基本的に、紺藤以外には暴力を振るわないのである。
……あれ? ということは僕はついに彼女の中で紺藤級の馬鹿者としてランク付けされてしまったのか!? い、いかん……それだけはいかん。どうにかして挽回《ばんかい》せねば。
と、そこで紺藤が大きなあくびをした。
「ふあぁ……それにしてもなんか眠いな……」
「……お前たちのことだ。どうせ昨日の夜は遅くまで騒いでいたのだろう」
顔をしかめる委員長に対し、珍しく史記が口を開いた。
「いや。昨夜は俺の部屋の人間たちは全員、夜の十一時には寝入っていた。紺藤はもっとも先に眠っていたな。最後まで起きていたのは俺だ」
「おう。まったく不覚だったぜ。修学旅行のメインイベントっつったら夜の暴露大会だってのに、あっさり寝ちまったんだからなー。しかも十一時。すっげえ良い子ちゃんだよな俺ら。だから今夜こそぜってー徹夜してやる。……あー、ところで神河。最後まで起きてたなら知ってるよな、俺が寝てる間に額に〔ホルモン〕って書きやがったのは誰だ!? ていうかなんだよ〔ホルモン〕って! なんで牛の精巣なんだよ意味分かんねえよ! 普通は〔肉〕だろ! しかも油性マジックで書きやがって!」
怒る紺藤に、史記が淡々と答える。
「それを書いたのは久遠だ」
「うん。僕」
「あっさり認めるねお前! ちょっとは罪悪感とか感じないわけ!?」
「え、なんで?」
「な、なんでって…………いいよもう……どうせ俺なんて……」
紺藤がいじけてしまう。まあべつにいいけど。紺藤だし。
「そういえば、女子の部屋の方はどうだったの?」
僕が尋ねると、吏架ちゃんが元気な声で、
「あのねー、吏架たちの部屋はね、好きな人の名前の言いっこしたのっ。みんなの好きな人がわかっちゃったよー」
「おおっ! いかにも修学旅行って感じだね。でもそれはすごい。ところで吏架ちゃんの好きな人は誰なのかな?」
「…………(少なくともお前らじゃねえよ)」
「え、なに?」
「えーとね、吏架はみんなのことが好きだよっ! 久遠君も紺藤君も神河君もカヨちゃんも深春ちゃんも!」
……ま、仕方ないか、吏架ちゃんだし。
「じゃあ、他の人の好きな人とか教えてくれるかな?」
「えー、駄目だよー。これは女の子だけのヒミツってやつなの。あ、でも深春ちゃんは久遠君が好きだって。ねー」
ねー、と笑い合う深春と吏架ちゃん。……いかん。なんか見てるこっちが恥ずかしい。
「でもね、カヨちゃんだけ、どうしても好きな人を教えてくれなかったの」
「……あ、当たり前だ。消灯時間は十時だからな」
理由になっていないことを言う一ノ瀬さん。……うーん、ちょっと気になるな。態度からすると、いることはいるみたいだけど。
「吏架ちゃん。今夜はぜひ委員長の好きな奴を暴いてくれ。そしたらアイスおごるよ」
さっそく吏架ちゃんを買収に乗り出す紺藤。僕はニヤニヤしながら小声で、
「やっぱり一ノ瀬さんのことは気になるのかな紺藤クン?」
「な、何の話だ? 俺は委員長の弱みを握ってやろうと思ってるだけで……」
言い訳をする紺藤の方を、僕は「わかってる、お前の気持ちはよ〜くわかってるよ」という感じで、優しくぽんぽんと叩いてやる。
「だ、だからべつに俺は……」
「……いい加減にしろお前たち。何のための修学旅行だと思っているんだ」
一ノ瀬さんが冷たい声で言った。しかしその頬はやけに赤い。そのことを指摘しようと思ったけれど、ますます彼女の中で株を下げるのは避けたかったので、僕はあえて突っ込まなかった。だから代わりに、
「何のためかと聞かれると難しいね。修学旅行って何のためにあるの?」
逆に問われ、一ノ瀬さんが微妙に顔をしかめる。そして二秒ほど黙考したあと、
「勉強のためだ」
力強く言い切った。ある意味すごい。
「……なるほど。模範的だね。で、何を勉強するんだい? 歴史の勉強なら図書館やネットで資料を調べた方が、現地に行くよりもよっぽど効率的じゃないかな?」
「そんなことはない。実際にその場所へ行ってみなければ分からないこともたくさんある。長い歴史を経なければ持ち得ない重厚な雰囲気を肌で感じたり、現地の人々と接したり、名物の食べ物を食べたり。勉強とは試験で良い点を取るためだけにするのではない。人間的な成長を促すもの全《すべ》てを勉強と言うのだ」
「……一ノ瀬さん、ひょっとして将来は学校の先生になりたいとか?」
あまりに模範的すぎて眠くなるような回答に苦笑しながら僕が言うと、彼女は「その通りだが何か?」と堂々と肯定してきた。
……へー、先生になりたいのか。ちょっと想像してみる。…………あ、なんかすごくいいかも。いかにも〔女教師〕って感じで。ぜひとも二人きりで放課後の進路指導室とかで優しく導いてもらいたい。「久遠……この私が、いろいろと指導してやるぞ……さあ、服を脱げ……」「は、はい、一ノ瀬先生……あの、優しくしてください……」「ふふっ、良い子だ……」ってな感じで是非、嬉し恥ずかしのハチミツ授業を!
「……悠紀って普段はポーカーフェイスのくせに、やらしいこと考えてるときだけはすごく分かりやすい顔になるよね」
深春が意味不明なことを言った。
「……まあ、それはともかくとして」僕はいつものように真面目な顔で一ノ瀬さんに向き直る。「一ノ瀬さん。人間的な成長を促すもの全《すべ》てが勉強だって言うんなら、こうやってつまらないお喋りをしているのも勉強ってことにならないかな?」
すると一ノ瀬さんはあっさりと首肯《しゅこう》した。
「ああ、それはその通りだ。人との交流は重要なことだからな。……だが、紺藤とじゃれあうことは、べつにこの場所でなくても出来ることだろう? せっかくならその場でしか出来ない経験をする方が得だ。金閣寺を実際にこの目で見ることが出来るのは、金閣寺に来たときだけだからな」
ふむ、やはり模範的。こうも模範的だと……ちょっと絡んでみたくなるのが人のサガというもの。
「たしかにそうだね。でも一ノ瀬さん。〔せっかく金閣寺に行ったのに金閣寺をほとんど見ないでひたすら意味のない会話をしていた〕って経験も、金閣寺に行かなければできない経験とは言えないかな。他にも例えば、〔奈良公園で鹿《しか》にエサをあげる〕ことは奈良公園でしかできないけど、〔奈良公園で鹿にエサをあげない〕ことも、奈良公園でしかできない。修学旅行や体育祭や文化祭に参加するのは学生でないとできないことだけど、それらのイベントをサボって家でゴロゴロしているのも、学生以外にはできないことだよね。そもそも参加する権利がなければ、その権利を放棄することもできないんだから。もっと分かり易いところでは恋愛もそうかな。〔好きな人に好きだと告げる〕ことも〔好きな人に好きだと告げない〕ことも、まず〔好きな人がいる〕という条件が必要だ。〔経験〕の裏にはそれと表裏一体の、等価な別の〔経験〕があるのさ。つまり本当に価値があるとすればそれは選択肢が発生しうる〔状況〕や〔条件〕そのものであって、そのときどちらを選択するかなんてことは個人の自由じゃないのかな?」
「…………ふむ。なるほど……そういう考えもあるか……」
一ノ瀬さんは、真面目な顔をして小さく頷いた。……あの、納得してもらっても困るんですけど。ただの詭弁《ヘリクツ》だし。
一ノ瀬さんは、それからまたしばし黙考した。そして、
「……だが、お前はそれで楽しいのか? 金閣寺に行って金閣寺を見なかったり、奈良公園で鹿《しか》にエサをあげなかったり、高校でしかないイベントに参加しなかったり、好きな人に好きだと告げなかったり。そんなことで、生きていて楽しいのか?」
わりと決定的な問いかけに、僕は肩をすくめて答える。
「それこそ人それぞれじゃないかな」
そもそも――――楽しく生きたいと思うか思わないかさえ、選択肢の一つなのだから。
一ノ瀬さんは呆れたように嘆息し、
「……では勝手にしろ。私は金閣寺に来た以上は金閣寺を堪能するし、奈良公園で鹿にエサを与えるし、修学旅行も体育祭も文化祭にも参加する」
「うん。どうぞご自由に」
そして僕たちは金閣寺の敷地内を歩き回った。
ちなみに、せっかくなので僕は金閣寺を意識的にほとんど見なかった。
絢爛《けんらん》豪華な舎利殿《しゃりでん》(金閣)も、それが鏡湖池《きょうこち》に映って揺らめく様も、夕佳亭《せきかてい》の風雅な佇《たたず》まいも、庭園の調和のとれた美しい光景も、できるだけ目に入れないように下を向いて歩いていた。
……金閣寺をあとにして北野天満宮《きたのてんまんぐう》に向かう道すがら、深春は笑いながらこう言った。
「悠紀ってときどきすっごくバカになるよね」
ごもっとも。
☆
午前十一時近くになって、僕たちは北野天満宮に到着した。
政略争いに敗れた平安時代の貴族、菅原道真《すがわらみちざね》は、延喜三年(九〇三年)、流刑先の太宰府《だざいふ》で没した。そのあと京の都では地震や雷などの災害が相次いで起こったため、これは道真の祟《たた》りであると人々は恐れた。その道真の霊を慰めるため天暦元年(九四七年)に創建されたのがここ北野天満宮である。だが、道真が没した年と北野天満宮が創建された年にはじつに四十年もの開きがあり、何故人々が自然災害を何十年も前に死んだ菅原道真の祟りだと考えたのか、疑問が残る。また、穏和な性格だった道真は、政争と無縁の太宰府での生活をさほど苦痛には感じていなかったという説もあり、悪霊となって京の都を襲うとは考えにくい。つまりこれは、道真の死を利用して国家転覆を謀《はか》った壮大な陰謀なのである。道真の祟りという噂を流すことで自分たちの姿を巧妙に隠し、裏で暗躍していた謎の組織があるのだ。そしてその正体はなんと、宇宙からの侵略者である。雷や地震などについても宇宙人の仕業ならば説明できる。彼らは地球侵略の手始めに日本を支配することを目論《もくろ》み、周到に計画を進めていった。そしてその陰謀を奈良の大仏の力を借りて秘密裏に打ち砕いたのが、かの高名な陰陽師《おんみょうじ》、阿倍晴明《あべのせいめい》なのである――……
……というような史記の電波トークを適当に聞き流しながら、僕たちは境内を歩く。
菅原道真《すがわらみちざね》は学問の神様としても有名であるため、全国から多くの受験生たちが参拝に訪れる。今も、浪人生と思《おぼ》しき人の姿が何人か見受けられる。高校や大学くらい神様なんかに頼まずとも自力で合格しろよとか思ったりもするのだが、まあ、それで少しでも本人の気が治まるのなら、それはそれで良いことなのだろう。精神の安定って勉強にけっこう重要だし。
……もっとも、神様に頼らなければ安定しないような脆《もろ》い精神で、受験戦争以後のこのストレス社会をどうやって生きていくつもりなのか、すごく気になるところなのだが。神頼みなんてことは、人間の力では本当にどうにもならない場合に限ってやるべきだと僕は思う。
というわけで、僕は賽銭箱《さいせんばこ》に十円を投げたあと、パンパンと手を叩いて天神様にお祈りをした。
「頭が良くなりますように頭が良くなりますように頭が良くなりますように。……紺藤の」
「俺の!?」
「ああ。お前の頭が良くなるなんてことは、人智を超えたパワーが働かなくては到底不可能だからな。ありがたく思えよ紺藤」
「うわ、さらりと失礼だなお前。言っとくけど、俺けっこう学校の成績はいいぞ?」
……実はその通りなのである。紺藤の馬鹿は、史記ほどではないが学年で毎回二十位以内に入る程度(ちなみに僕と一ノ瀬さんも大抵二十位前後だ)には勉強ができたりする。もちろん紺藤が勉強している姿など誰も見たことがなく、僕の中では遠夜東《とうやひがし》高校七不思議の一つに認定されている。ちなみに他の七不思議には〔吏架ちゃんはどうしてあんなに可愛いのか〕〔なぜこの学校には無駄に個性的な連中が多いのか〕などがある。正規の七不思議に入ってもおかしくないくらい、本気でものすごく不思議な事柄ばかりなのだが、ホラー性が全くないところが唯一の難点である。
「頭が良いことと勉強が出来ることは別次元であるという悪い例だな」
一ノ瀬さんがきわめて的確かつ辛辣《しんらつ》なことを言った。
「悪い例なのかよ!?」
「いやあ……だって紺藤だし」と僕。「そうだね、紺藤君だしね」と深春。「うむ。紺藤だからな」と史記。「うんっ、紺藤君だもんねっ」と可愛く吏架ちゃん。
「ぐわあ! なんか俺の存在を全否定されたような気がする! え、なにこれ新手のイジメですか!?」
「うるさい少し黙れ」
ごん、と一ノ瀬さんに殴られ、賽銭箱《さいせんばこ》の前で崩れ落ちる紺藤。他の参拝客たちが迷惑そうな顔をするものの誰も助けようとはしないというのが、じつに紺藤的な光景である。アーメン。
☆
北野天満宮《きたのてんまんぐう》近くの適当に入った料理屋で食事をとったあと、僕たちは二条城へ《にじょうじょう》向かった。けっこう距離があるのだが、歩くことも京都観光の醍醐味《だいごみ》ということで、バスを使わずに徒歩である。
初夏の京都を昼過ぎの一番暑い時間にだらだらと歩くのは運動不足の身にはなかなか堪《こた》えるのだが、幸いにして僕はべつに運動不足ではなかった。だが、馬鹿だけあって体力のある紺藤や陸上部で鍛《きた》えている一ノ瀬さんはともかくとして、どちらかというとひ弱な印象のある史記やロリっ娘《こ》の吏架ちゃんまで平然としているというのは、なんというかちょっと不条理な感じだ。いやそれどころか、僕と紺藤と一ノ瀬さんは普通に額に汗がつたっているのに、この二人は本気でまったく汗一つかいてないのである。意外に体力があるとかいう次元ではない。汗をかくかどうかなんて体力云々《うんぬん》ではなく新陳代謝の問題のはずだ。……この二人、ほんとに人間なのか? ……〔紙一重《ボーダーライン》〕に〔美幼女《イデア》〕――、「実は宇宙人です」と言われても素直に信じてしまうかもしれない。
そんなことを悩みながら歩き続けて、三十分ほど経った頃だろうか。吏架ちゃんが雑誌でやたらと美味しいと紹介されていたアイスクリーム屋を発見したのでそこで休憩をとり(たしかにやたらと美味しかった。八つ橋アイス)、それから店を出てしばらく歩いたところで、最後尾にいた紺藤と史記がいつの間にかいなくなっていた。そのことに気づいた一ノ瀬さんが、
「またしても逃げたのかあの馬鹿!」
とお怒りになるのと同時に、僕の携帯に史記からのメールが来た。
「……えーとなになに……〔拝啓久遠悠紀殿。日々益々《ますます》のご健勝のことお喜び申し上げ候。それがし少々思うところあり候ゆえに、しばし自らを見つめ直すべく旅に出る候。皆々様には宜《よろ》しくお伝えくださるようお願い申し上げ候。多大なるご迷惑をおかけすること申し訳なく思い候。貴殿の益々のご活躍のことお祈り申し上げ候。草々〕……だ、そうです」
どうやらナンパにでも行ったらしい。僕ではなく史記を連れて行ったのは、昨日僕にさんざんな目に遭《あ》わされたからだろう。史記には『とにかく黙ってろ絶対に喋《しゃべ》るなむしろ息もするな』とでも頼んでおけば、どうにか〔寡黙《かもく》な美少年〕で通るし。
「……手紙の書き方が間違っている。候と入れれば懐古調になるというわけでもないぞ」
一ノ瀬さんはまず冷静にそんなことを突っ込んだあと、
「……って、何を考えてるんだあいつらは! くそっ、やはり首に縄でもつけておくべきだった!」
携帯をぶん投げそうな勢いで怒った。本当にぶん投げられては困るので僕は慌てて彼女の手から携帯を回収し、
「まあまあ。どうせ昨日みたいにすぐに合流できるって」
「昨日脱走した当事者が言う台詞ではないな。反省の色がゼロに聞こえる」
「……すいません」
怖かったので、僕は素直に謝った。
「紺藤クン、またナンパ行っちゃったの〜? あ、それじゃあ吏架もちょっと行ってくるねっ! この近くにお団子が美味しいお店があるんだ〜。カヨちゃんたちも行く?」
「行かない。というかどうしてお前はそんなに食えるんだ」
「甘いものはベツバラだよー。それじゃ、行ってくるねー」
「あ、おいっ!」
一ノ瀬さんが呼び止める声は届かなかったようで、ものすごく可愛い笑顔を浮かべて吏架ちゃんは走って行ってしまった。
「さーてと、それじゃボクも、せっかくだからお寺めぐりをしてくるよ。京都ってお寺や神社が多いけど、前に来たときはほとんど奥に入れなかったんだよねー。御本尊とか見てみたかったのに」
そう言って、深春はふわりと上空十メートルのあたりまで浮かび上がり、そのままどこかへ飛んでいってしまった。ゴーストならではの身の軽さである。
「…………」
「…………」
というわけで、石畳の路地の真ん中には、僕と一ノ瀬さんだけが取り残された。僕は肩をすくめ、
「……まったく、みんな自分勝手なんだから。集団行動ってことを何だと思ってるんだろうね?」
「だから昨日脱走した奴が他人事のように言うな」
ものすごく不機嫌そうな一ノ瀬さん。しかし、基本的に協調性とは無縁のうちのクラスの中でもさらに気ままな性格の人間が集まったような班である。こうなることくらいは予想の範囲内だと思うが。……もっとも、予想しつつも放置できないような性格だからこそ、クラス委員長なんかをやっているのかもしれない。
「で、久遠。お前はどこに行くつもりだ?」
「うーん、僕はみんなと違って特に行きたい場所はないからね」
美味しいものにも、珍しいものにも、綺麗なお姉さんにも、特に興味はない。……あ、最後のは嘘。綺麗なお姉さんには興味ある。ただし性格が普通の人限定で。
「一ノ瀬さんはどうするの? 昨日みたいに紺藤たちを捜しに行く?」
「……私は予定通り二条城《にじょうじょう》へ行く。あんな馬鹿どものことなんか……もう知らない」
どことなく拗《す》ねたような感じで言う一ノ瀬さん。
「……そう。それじゃあ行こうか」
僕が言うと、「え?」と一ノ瀬さんは何故か驚いた顔をした。
「ん? どうかした? 早く行こうよ二条城」
「え、だって、そんな」
何故かしどろもどろになる一ノ瀬さん。……? 僕は首を傾げる。
「だって、お前、それは、私と二人で二条城を見に行く、ということか」
「まあ、そうなるね。他の連中がいなくなっちゃったし」
「そ、そんなのお前、まるでその……デ、デエトみたいじゃないか」
どことなく怒ったように、顔を赤くして一ノ瀬さんは言った。……ああなるほど。つまり僕と二人で街を歩くのが嫌だってことか。まったく、嫌われたものだ。
「わかったよ。それじゃ僕も適当なところをぶらぶらしてるから、旅館で合流しよう」
「ま、待て!」
踵《きびす》を返して歩き出す僕を、何故か慌てた様子で一ノ瀬さんは呼び止めた。
「お前までいなくなったら、完全に班がバラバラになる。委員長として、それだけは容認できない。よって不本意だが、非常に不本意だが、お前は私と一緒に来い」
「べつに一人だけになっても二人いても、班としてバラバラになってることに変わりはないと思うけどなあ」
「馬鹿者。一人と二人では倍違う」
「史記と紺藤も一応二人で動いてるけど」
「紺藤は一人分として数えない」
うわ、すごい言いようだ。紺藤が聞いたら泣くかも。
「分かったら早く来い、久遠」
そう言って、僕の返事も待たずスタスタと行ってしまう一ノ瀬さんを、僕は慌てて追いかけた。
☆
二条城は、かつて徳川家康《とくがわいえやす》が京都での住居として造営し、徳川慶喜《よしのぶ》が大政奉還を行ったことで知られる、徳川《とくがわ》幕府とともに在り続けた優美な名城である。戦争を目的に造られた城ではないため堅牢《けんろう》さにはあまり重点が置かれておらず、城というよりは立派な屋敷といった印象が強い。石垣と堀で囲まれた広大な敷地と通りを繋ぐ、正門に相応《ふさわ》しい風格のある東大手門をはじめ、桃山風文化の粋《すい》を凝《こ》らした多くの絵画や彫刻がある二の丸御殿、和風庭園に芝生という和洋が見事に調和した清流園など、見所はたいへん多い――……というような話を道すがら一ノ瀬さんがしてくれたのに対して、「ほうほう」とか「わあそれはすごい」だのと適当に相づちを打っていたところ、何故か一ノ瀬さんは不機嫌になって解説をやめてしまった。
「……本当は興味がないのに私に話を合わせているだけなのが丸わかりで不愉快だ」
「いや、べつにそんなことはないけど」まあ、本当はその通りだけど。
「気を遣わなくていい。私の話が面白くないことなんて、自分でよく解っている。ガイドブックでも読んだ方がよっぽどマシかもしれないな。どうせ、神河のいい加減な説明の方が、まだ面白味があっていいとか思っているんだろう?」
「いや、べつにそんなこともないけど。……あ、いや、たしかに特に面白くはないけど、少なくとも退屈ではないよ」
「……本当か?」
「うん。それに、一ノ瀬さんと話すこと自体がけっこう楽しいし」
「な……!」
一ノ瀬さんはまたしても怒ったような顔になり、顔を赤くする。
「だからどうしてお前は平気な顔してそういうことが言えるんだ……」
「そういうことって?」
「……べつに、何でもない」
そう言って早足で歩き出す一ノ瀬さん。
それきりほとんど会話もなく、僕たちは黙々と歩いていく。微妙に気まずい。べつに沈黙が苦痛というわけでもなくむしろ静かなのは望むところなのだが、こうやって誰かと一緒にいるのに会話がないというのはどうも苦手だ。会話がないような相手と一緒にいるくらいなら一人でいた方がマシだと思うほどではないのだが、それに近い程度には嫌である。何か会話の糸口を見つけねば。しかしそうやって無理して会話を作っても、一ノ瀬さんには見抜かれてますます気まずくなること請け合いだ。ああどうしよう…………なんてことを考えて歩くと、意外と時間を忘れられるのでおすすめです。楽しくはないけどね。
金閣寺同様に京都観光の定番の名所だけあって、二条城《にじょうじょう》へ向かう道にはそれなりに人通りが多かった。大学生くらいのお姉さんのグループとすれ違い、僕は昨日奈良公園で会った美弥乃宮都古《みやのみやみやこ》さんのことをちょっと思い出す。
都古さん、綺麗だったなあ……顔色は死ぬほど悪いけど。それからふと、隣を歩く一ノ瀬さんの顔を見てみる。目つきが少々鋭いが、美人系の顔立ち。細いのに出るところはちゃんと出ている抜群のプロポーション。腰ほどまである綺麗な黒髪。はっきり言って完璧に近い。
「……何を見ている」
僕の視線に気づき、一ノ瀬さんが少し怒ったように言った。
「あ、いや。一ノ瀬さんって着物が似合いそうだなあって」
都古《みやこ》さんも着物が抜群に似合う美人だった。
「そ、そうか? そんなことを言われたのは初めてだが」
「うん。間違いなく死ぬほど似合うと思う。いやもう、普段着にしてもおかしくないくらい。ていうかぜひそうしてください」
からかわれたと思って怒るかと思いきや、一ノ瀬さんは真面目な顔で答えてきた。
「……悪いが、私は着物なんて持ってない。そもそも、いまどき普段から着物を着る奴がいるか」
え……。二人ほど心当たりがあるんだけど。一人は都古さんで、もう一人はうちの義妹《いもうと》の久遠くおんだ。どちらも落ち着いた感じの美人。……だから一ノ瀬さんにも絶対似合うと思うんだけどなあ……。僕がそんなことを思いながら歩いていると、一ノ瀬さんがぽつりと言った。
「……まあ、そのうち着物を購入することを検討してみよう」
「マジですか!?」
「そんなに喜ぶな、恥ずかしい。言っておくが、べつにお前のために買うわけではないぞ。前々から欲しいとは思っていたんだ。ただその……私には、似合わないと思って」
「うーん。よく分からないな。一ノ瀬さんだったら基本的に何を着ても似合うと思うけど」
「……世辞はよせ」
憮然《ぶぜん》とした顔で言う一ノ瀬さん。……べつにお世辞でも何でもないのに。
と、そこで、一つの土産物屋が目に入った。
「あ、一ノ瀬さん、ちょっとそこの店に寄っていいかな?」
「ああ」
その店は、小さいけれどなかなかセンスのいい店構えで、よく分からない提灯《ちょうちん》やらペナントやらタペストリーが見境なく置かれている他の店と違い、どうやら小物の専門店らしい。キーホルダーにイヤリング、ブローチ、ハンカチ、簪《かんざし》などが綺麗に並べられていて、ちょっと目移りしてしまう。
僕はそこで、簪を二つ買い求めた。派手な装飾はなく落ち着いた感じの、なかなか粋なシロモノである。……え、一本二千円ってマジですか? 意外と高いな……。まあいいや。
一つは義妹への土産で、もう一つは、
「はい、プレゼント」
「……どういうつもりだ?」
一ノ瀬さんは怪訝《けげん》な顔をして、差し出された簪《かんざし》と僕の顔とを交互に見る。
「いや、特に深い意味はないんだけど。なんか似合いそうだなーと思って」
僕は自分のファッションには無頓着なくせに、他の大勢の女の子たちがそうであるように、他人を着飾るのは好きなのである。深春とデートするとき、あいつは毎回毎回色んな格好に変身してミニファッションショーをやらかすのだが、恥ずかしいと思いつつそれを止めないのは、僕が可愛い服を着た可愛い女の子を見るのが好きだからだろう。
「良かったらつけてみてよ。気に入らないなら捨て……るのはもったいないから僕が持ち帰るよ」
「ほ、本当にもらってもいいのか?」
「もちろん」
一ノ瀬さんはおずおずと簪を受け取り、それを髪と髪の間に差し込んだ。……うん。やっぱり似合う。はっきり言って、これで服装が学校の制服ではなく着物なら僕の萌えポイントにクリティカルヒットだ。
「ど、どうだ」
「バッチリ」
「そ、そうか……だったらありがたく頂戴し《ちょうだい》ておこう」
一ノ瀬さんは顔を真っ赤にしながらも、はにかみながらそう言った。喜んでもらえたようで嬉しい。
そのとき。
「おーおー、見せつけてくれるねー」
「あちいなー、羨《うらや》ましいなー」
「君さー、女のコにプレゼント買ってる金があるんならさ、オレらにもちょっとお小遣いくれない?」
……いかにもガラと頭の悪そうな男が五人ほど、僕たちの目の前に立ちふさがった。髪を茶色や金色や赤色に染め、だらしなく着崩した学ランに、チェーンなどをじゃらじゃらと飾り付けている。
学校をサボって意味もなくたむろして街をうろつく地元の不良高校生――そんな感じだ。三人が前方に立ち、二人が後方に回って逃げ道を塞ぐ。なかなか手際が良いところを見ると、常習犯なのだろう。
……たしかに僕は普通の高校生男子と比べて小柄(そもそも男ではないので当然だが)だし、不良君たちから見ればカモに見えるのかもしれない。
「……なんだお前たちは?」
一ノ瀬さんが簪《かんざし》を外し、不快そうに顔をしかめた。
「カツアゲじゃないかな」と僕。「多分彼らは、いつもこうやって、修学旅行中の学生や観光客を狙ってるんだよ。普通の中高生に比べて、お金を持ってる場合が多いからね」
「……ふん、海外にはよくいる手合いだな。だが、まさか京都でこんな連中と遭遇するとは思わなかった」
「まあ、最近は物騒だからね。テロも多いし。これも国際化ってやつじゃないかな」
「それは違うだろう……」
妙に呑気な会話に、不良君たちが怒りをあらわにする。
「おいコラ、余裕ぶっこいてんじゃねえぞ」
「ムいちまうぞてめえ」
「ていうかこの娘《こ》マジ可愛くね? ねえ君、オレらと一緒に遊ばない?」
そう言って、馴れ馴れしく一ノ瀬さんの腕を掴む。
…………すげえ。
僕は少し、感動していた。今時、こんな分かり易い不良がいたなんて。僕の前に出てくる人たちって一筋縄ではいかない連中が多いから、たまにこういうのが出てくるとすごく嬉しい。人生はまだまだ捨てたものではないなあと思えてくる。彼らと出会えたことに感謝しておとなしくお金を払ってやろうと本気で考えたのだが、さっき簪を買って四千円の出費があったのでやめておく。それに、
「……失せろ。せっかくのいい気分が台無しだ」
一ノ瀬さんがものすごく怖い顔をしてるし。彼女は腕を掴む男の手を乱暴に振り払い、キッと不良たちを睨《にら》みつけた。
「おーこわあ。そんなに怒らないでよ」
「でも、怒った顔も可愛いぜ。オレ、ちょっと強気なコの方が好みなんだ」
そう言ってゲラゲラと下品に笑う。
……たしかに不快ではあるな。せっかくなのでたまには格好いいところを見せよう。
「一ノ瀬さん。何人くらいなら同時に相手にできる?」
「な、なんてこと聞くんだお前は――……って、ああ、そういうことか」
「何だと思ったの?」
「何でもない。べつにこの程度の連中なら私一人でも十分だ」
「あ、やっぱり? でもまあ、僕にも少しは活躍の場を与えてくれると嬉しいんだけど」
「勝手にしろ」
不良たちは、最初唖然として僕たちの会話を聞いていたものの、どうやら自分たちが馬鹿にされているということが解る程度の知能はあったようで、
「てめえら! ざけんじゃねえぞ!」
茶髪の男が、すごく小悪党っぽい台詞を叫んで襲ってきた。そうそうこれこれ! こういうシンプルな馬鹿が欲しかったんだ。やっぱり僕のような小者には、ザコキャラの相手こそ相応《ふさわ》しい。
僕は笑顔で不良Aのストレートを半歩左にかわし、そのまま感謝の気持ちとともに右足でひざげりを相手の腹に叩き込んだ。さらに追い打ちで左の肘を頬にぶち込んだあと、左足のかかとで相手の背を打つ。
「ぐげぇっ!」
前のめりになって倒れ、そのままうずくまる不良A。……あ、かなり痛そう。
「ごめん、足技って苦手だから手加減できないんだ」
ちなみに右腕を使った攻撃は、二週間前に右肩を銃で撃たれて後遺症が残ってしまったため使えない。直接殴るなんてもってのほか、せいぜい拳銃を撃つくらいだ。
「ほう……なかなかやるじゃないか。何か武道でも習っているのか?」
「〔女の子でもできる護身術〕ってのが売り文句のトンデモ武術を少し。深春や師匠に比べたら全然へっぽこだけどね」
「なるほど。そういえば前に深春に聞いたことがある。……だが、護身術にしてはかなり過激だな。相手が普通に行動不能になっているようだが……」
「うん。〔未至磨抗限流《みしまこうげんりゅう》〕の基本精神は〔手加減無用、攻撃は最大の防御なり〕だから」
「……それは護身術と呼んでいいのか?」
呆れたように言った一ノ瀬さんに隙を見出したか、一人の不良が果敢に突撃する。しかし彼女はそれをマタドールのように優雅な動きで軽くいなし、一瞬で敵の背後に回り込んで無防備な背中に痛烈な掌底《しょうてい》を打ち込んだ。おおすごい、一八〇センチくらいの男がものすごい勢いで吹っ飛んでしまった。「ぐえっ!」不良の身体は吹っ飛んだ先にいたもう一人の不良を巻き込んで地面に叩きつけられた。
「ちょっとやりすぎたか……。どうも金髪の男というのはみんな紺藤に見えて、手加減する気が失せる……」
パンパンと手を払いながら、ものすごく酷い台詞を吐く。
「すごいね、一ノ瀬さん」
「当然だ。クラス委員長だからな」
……まったく理屈になっていないのだが、なんとなく納得してしまうのがすごい。
「くそっ! 死ねやコラァッ!」
一ノ瀬さんの後ろから殴りかかる馬鹿が一名。後ろから攻撃するのにわざわざ叫ぶのはどうなのだろう。彼なりの武士道ですか? ともあれ一ノ瀬さんは、その不良に対して見事な後ろ回し蹴りを決めた。本人としても会心の攻撃だったらしく、「フッ……」と強気な微笑を浮かべる一ノ瀬さん。僕は拍手喝采《かっさい》する。
「おおスバラスィー。特に制服で蹴りというのがナイスです。白い悪魔のトライアングル地帯をバッチリ拝ませてもらいました。さすが清純派!」
「……! お、お前は……!」
動揺して赤くなる一ノ瀬さんを、後ろから最後の一人が襲う。どこから持ってきたのか知らないが手には角材を握っている。それを、完全に殺意を浮かべた目で振り上げる。
……あ、これはちょっとやばいかも。仕方ないので僕は左腕で一ノ瀬さんを抱き寄せ、先ほどの彼女にならって回し蹴りを相手の胴に叩き込む。男子の制服がスカートでなくて良かった。穿《は》いたことがないわけではないけれど、あれは太ももがスースーしてあんまり好きじゃないんだよな。ともあれ、僕の足は吸い込まれるように不良の股間に――ってやめろそんなところに吸い込まれるんじゃない僕の足!
「うわっとおっ!?」
慌てて軌道修正したせいでモロにバランスを崩し、どうにか不良の腹を蹴飛ばすことには成功したものの、勢い余って僕は一ノ瀬さんをかかえたままアスファルトに倒れ込む。受け身をとったので怪我はないのだが、なんというか、まあ……客観的には、二人が抱き合ったまま横になってキスしているように見えるのではなかろうか。実際その通りだし。受け身をとるとき力いっぱい抱き寄せたため、ちょうど身長が同じくらいの僕と一ノ瀬さんの顔と顔は、必然的にくっつくことになってしまったわけだ。
「うおっ!」
慌てて顔を離して立ち上がる。唇にはまだ、魅惑的な感触が残る。
一ノ瀬さんが顔をうつむけて、ゆらりと立ち上がる。長い髪に隠れたその表情を窺《うかが》い知ることは出来ないが、間違いなく怒っていることだろう。握りしめられた拳が震えているのが解る。
「………………………………………………………………………………………ごめんなさい」
僕はとりあえず謝ってみた。
すると。
「…………どうして……」
「…………」
「――どうしてお前はそうなんだ!!」
キッと顔を上げて僕を睨《にら》む彼女は――目に涙を浮かべていた。
……げげ……まさか泣かれるとは思わなかった。
「……あ、あの、ホントにごめん。ホントに事故だったんだ。ホントに悪かった。……えーと、もしかして初めてだったとか……?」
しかしそんな僕の言葉など聞こえていないように、彼女はただ、唇を噛みしめ、掠《かす》れたようなか細い声で呟く。
「…………どうしてお前はそう……私を動揺させることばかりするんだ……これでは……あきらめられなくなるだろうが…………」
「え?」と僕が思わず聞き返したそのとき。
「てめえら何してやがる!」
後ろから怒鳴り声がした。見ると数人の不良っぽい格好の男たちが、パチンコ屋の中から出てくるところだった。……雰囲気から察するに、ここで倒れている五人のお友達らしい。どうしよう。戦って勝てないこともないが……修学旅行先で大きな騒ぎを起こすのはちょっとまずいかもしれない。僕がどうするか考えていると、
「ちっ! 逃げるぞ久遠!」
一ノ瀬さんが僕の左手を掴み、二条城の《にじょうじょう》方へ走り出した。まだ目は赤いものの、凛《りん》としたその横顔はいつもの一ノ瀬さんのものだった。
☆
「ふう……ここまで来ればもう大丈夫だろう」
呼吸を整えながら、一ノ瀬さんが言った。
「はぁ、だ、大丈夫どころか、はぁ……ちょっと逃げすぎな感じもするけどね」
全力疾走したせいでバクバク暴れている心臓を押さえつけながら、僕は声を絞り出した。額から汗の粒が砂利の敷き詰められた地面に落ちる。
僕たちが今いるのは、二条城の《にじょうじょう》東大手門をくぐって道なりに進んだところにある、唐門である。豪華な装飾が施された、かなりごつい感じのする大きな門だ。
「たしかにそうだな……。東大手門をじっくり見るのを忘れていた」
一ノ瀬さんが少し的はずれなことを言った。
「今からでも見に行けばいいんじゃない? あいつらももう追ってきてないだろうし」
僕が言うと、一ノ瀬さんはゆっくり首を振り、
「いや、いい。もう何度も見たことがあるからな……」
「そう。ところで一ノ瀬さん」
「ん?」
「そろそろ左手が痺れてきたんだけど」
「……! あ、す、すまない」
一ノ瀬さんが慌てて、握ったままだった手を離す。……ちなみに手が痺れたというのは方便というわけではなく、力強く握られていたため本当に痛かったのである。一ノ瀬さん、握力強すぎです。
「で、これからどうする? みんなと合流するなら、このあたりで待ってるのがいいと思うんだけど」
僕は努めて平然を装い、一ノ瀬さんに言った。彼女はしばらく考えたあと、
「とりあえず中を見学しよう。あいつらが戻ってくるのはいつになるか判《わか》らないからな」
「それもそうだね。あ、なんだったら僕はここで待ってようか?」
僕の提案に、一ノ瀬さんは少し顔をしかめた。
「……つまりそれは、私と一緒に行くのが嫌だということか?」
「いや、僕じゃなくて一ノ瀬さんの方こそ嫌なんじゃないかなあと思ったんだけど。なんか色々と嫌われるような言動があったりしたし」
「……べつに、気にしていない。さっきのは事故だし……。だからほら、一緒に行くぞ」
そう言って彼女は、すごく自然に僕の手を取って歩き出した。
「…………あ」
二の丸御殿の玄関で靴を脱ぐとき、再び彼女は僕の手を握ったことを意識したようだ。
「ゴホン」
わざとらしく咳払いをして、手を離す。
二の丸御殿。遠侍《とおさむらい》、式台、大広間、蘇鉄之間《そてつのま》、黒書院、白書院の六棟からなる、入母屋《いりもや》造りの広い建物である。無数の障壁画が描かれているのだが、中が暗いため、残念ながらかなり見づらくなっている。
玄関から中に入り、かつては来客の受付に使われていた柳の間を通り抜けて奥へ進むと、遠侍《とおさむらい》の間にたどり着く。ちなみに、二の丸御殿の中に客は僕たちしか見あたらない。
「遠侍の間は三つの部屋からなっていて、当時は来客の控え室として使われていた。身分によって通される部屋が違ったらしい。ちなみに通称〔虎の間〕とも呼ばれている。ほら、そこの壁に虎の絵があるだろう。それからあれは豹《ひょう》。当時の日本に虎や豹はいなかったから、二条城の《にじょうじょう》障壁画を担当した狩野《かりの》一門は、毛皮を見て想像で描いたんだ」
「へえ……」
僕が生返事をすると、一ノ瀬さんは少し落ち込んだような声で、
「……やはり退屈か? 私の話は」
「いやべつにそんなことはないけど。一ノ瀬さん、やっぱり博識だね。感心するよ」
「……そ、そうか? 観光ガイドにも書いてあるような話ばかりだが」
「たとえ内容が同じだろうと、自分で解説を読むのと可愛い女の子に口でしてもらうのとでは全然違うよ」
…………あれ。〔口で解説してもらう〕だと〔解説〕という単語が重複するんで省略したら、なんだか卑猥な台詞になってしまった。案の定、一ノ瀬さんが赤面してるし。ま、いっか。セクハラ万歳。
遠侍の間を出て、さらに式台の間を通ると、いよいよ大広間である。大政奉還が行われた場所で、歴史の資料集などにも大抵その場面を描いた絵が載っている。大広間近くの廊下を歩くと、キュッキュッと音がする。有名な鶯張《うぐいすば》りの廊下である。……余談だが我が家の二階の、くおんの部屋へ続く廊下も鶯張りになっている。老朽化が進んでいるという意味の比喩《ひゆ》ではなく、本当にわざわざ工事して鶯張りにしてもらったのである。理由を尋ねると、彼女は「曲者《くせもの》が来てもすぐに分かるようにです、義姉上《あねうえ》」と当然のように答えてくれた。わが義妹《いもうと》ながら不思議なやつである。
「鶯張りの廊下は、観光客が何人も通ったせいで床がすり減ってしまっている。だから久遠、出来るだけ慎重に歩くんだ」
思い出したように一ノ瀬さんが言った。
「慎重にと言われましても……。ていうか、今さら僕たち二人だけが気をつけてもあんまり意味がないんじゃないかな」
「そんなことはない。一人が気をつければ、他の人間も気をつけるようになる。どんな大きな運動も、最初はわずかな人間によって行われるのだ」
「一人の人間が道端にゴミを捨てたせいで、いつの間にかその道全体がゴミだらけになるのと同じだね」
「間違ってはいないが……それは悪い方の例えだろう」
「じゃあ、一個の腐ったミカンがあると、箱全体のミカンが腐ってしまうってのは?」
「それも悪い例だ」
「駄目な生徒が一人いるとクラス全体が駄目になっていく」
「生徒はミカンではない」
「千里の道も一歩から」
「ようやくまともなのが出たな。例というか諺《ことわざ》だが」
「一寸の虫にも五分の魂」
「それは微妙に……というか完璧に的はずれだ」
「マッチ一本火事のもと」
「もうなにがなんだか……」
一ノ瀬さんがあきれ顔になる。さて。
「……ところで一ノ瀬さん。これは僕の勘違いだといいなあと思うんだけど」
「なんだ」
淡々とした口調で応じる一ノ瀬さん。ただし、彼女の頬に汗(冷や汗)が伝うのを僕は見逃さなかった。なんだ、彼女も現実逃避の真っ最中だったのか。
僕はそんな彼女に、世間話でもするような口調で、言った。
「あのさ――――燃えてない? 二条城《ここ》」
☆
「なるほど……やはり私の気のせいではなかったようだな」
一ノ瀬さんが嘆息した。
大広間のちょうど真ん中あたりに、僕たちはいる。その周囲から、どこからともなく焦げ臭い臭いが漂ってくる。臭いに気付いたあたりではほとんど何の異常もなかったのだが、天井はものすごい勢いで黒煙に浸食されつつあった。
――モクモクと、
――黙々と、
暗い広間の中でもはっきり視認できるほどの黒い煙が、徐々に天井を覆っていく。炎はまだ見えないが……それも時間の問題だろう。どうしていきなりこんなことになっているのか、さっぱり解らない。式台の間を抜けたあたりではまったく異常はなかった。大広間で障壁画を見たり一ノ瀬さんの話を聞いたりしている間に、どこからか火の手が上がり、その煙がこっちまで来たのだ。
「まさかさっきの不良どもが放火したのか?」と一ノ瀬さんが顔をしかめる。
「それはないと思うけど……」
「だが、かつて金閣寺が炎上したのも高校生の放火だった」
……なるほど。……だが、今は犯人のことを考えてるときじゃない。そんなものは警察の仕事。火を消すのは消防署の仕事。観光客は、ただ逃げることを考えればいい。
自分の役割を間違って出過ぎた真似をすると――――墓穴を掘ることになるだけだ。
「とにかく逃げよう、一ノ瀬さん」
「ああ、そうだな」
落ち着いた様子で頷く一ノ瀬さん。
「ずいぶん落ち着いてるね」
「避難訓練は小学校のときから何度もやっただろう? それに私はクラス委員長だからな」
余裕さえ感じる口ぶりで答えてくる。
「わお、頼もしい。思わず惚れてしまいそうだよ」
「な、ば、ば、馬鹿なことを言うな! こんなときに!」
一ノ瀬さんは、さっきまでの冷静さが嘘のように狼狽しだした。……うーん、彼女、ときどき面白くなるよな。どうも色恋系の話をするのがNGのようだ。ピュアなんだね。あとでたっぷりからかってあげよう。
「ほら、早く行くぞ」
一ノ瀬さんが怒ったように僕の手を引っ張り――
後方で火柱が上がったのは、まさにそのときだった。
「なっ!?」
驚愕に目を見開く一ノ瀬さん。鶯張《うぐいすば》りの床を爆音とともに突き破り、まさに火柱と呼ぶしかない、高さ一メートルほどの赤い炎の柱が、突如として僕たちの後方三十メートルあたりで噴き上がったのだ。火柱は、まるで何かに操られるかのように近くにあった柱を炎に包み、蛇が這うような軌跡を描きながら広い天井を侵攻していく。それはまるで芸術性さえ感じさせるような、見事な炎の大蛇だった。油か何かを染みこませて、炎を誘導しているのか……? 前もって入念に準備をしていたとしか思えない、すごく規則的な炎の動きに、僕たちは圧倒された。
「な、なんなんだこれは。こ、こんなの……本当に現実か……?」
一ノ瀬さんの声が震えているのが判《わか》る。ついでに足も。
……ま、当然の反応か。彼女が(というかほぼ全《すべ》ての高校生が)これまでやってきた避難訓練とは、あくまで〔避難経路がしっかり設定されている学校から〕または〔家庭科室や理科室から出火という設定の、普通の火災から〕無事に避難するためのものであり、〔火元もないような二条城《にじょうじょう》のど真ん中で起きた異常な火災から〕逃げることなど想定されていなかったのだから。人間、予想外のものに対しては反応が鈍くなるのは当然だ。
……で、僕もこんなふうに落ち着いて一ノ瀬さんの心理分析なんてしているものの、もちろんかなり焦っている。普通の人に比べたら突発的なトラブルに慣れているとはいえ、僕の場合は慣れているというだけで、それに対して上手く対応できたためしがないのである。いくら経験値を積もうが、レベルアップのときパラメータが上がらなければ意味がない。デパートでテロに巻き込まれたときだって、助けを待たずに自力で脱出しようとしたせいでテロリストと鉢合わせしてしまったことだし。
自発的に動くと大抵失敗するので今回は頼りになる一ノ瀬さんにお任せしようと思っていたのだが……。この様子では、またしても自分で動くしかないらしい。
「ほら、とにかく逃げるよ!」
「あ、ああ……」
僕はなおも呆けている一ノ瀬さんの手を掴むと、煙を吸わないようにもう片方の手で鼻と口を押さえ、走り出した。
後方は既に火が回っているため、道は前にしかない。古い木造建築ということもあってか、とにかく火の回りは異常に速い。広間を囲む障子は紙のためさらに燃えやすく、本当にあっという間に炎が燃え広がっていく。
「やばいなー……」
僕は全力で一ノ瀬さんの腕を引っ張り走る。大広間から、将軍と大名が対面するのに使われた黒書院へと至る廊下へ差しかかる。黒書院の方は、まだ炎が回っていないらしく、前方には薄暗がりが広がっている。
……よし、あと少し行けば、二の丸庭園に降りられる。建物から脱出できさえすれば、火災はどうということもない。あ、よく考えたら靴を入り口のところに置いたままだったな……。出火元がどこなのか判《わか》らないが、もう燃えてしまった可能性は高い。残念、あのスニーカー、ちょっと気に入ってたのに。
余裕からかそんな思考が生まれる。その僕の余裕をあざ笑うかのように、
ずどっ!
大広間と黒書院をつなぐ廊下の天井が、爆音とともに落ちた。
天井を支えていた柱の全《すべ》てが同時に真ん中から爆破され、瓦《かわら》がガシャガシャというどことなく小気味良い音を立てて僕たちの目の前の道を埋め尽くした。
「な、なんだよこれ!?」
僕は思わず叫んでしまった。
柱の全《すべ》てにものすごく小型の爆弾が仕掛けられていて、柱一本を折る最低限の爆発を起こした――……。恐ろしく計算された発破だ。
以前テレビで見た、ダイナマイトでビルを破壊する映像が思い出される。数十階建ての高層ビルが、まるで地面に吸い込まれていくかのように、ものの数秒で廃墟《はいきょ》と化してしまったのだ。そのときの光景をミニマムにしたものが、この渡り廊下で起きた。
あまりの見事さに感心さえしてしまった僕に追い打ちをかけるかのように、背後に炎の気配が迫ってきた。障子と床が燃え、僕たちの退路を遮断する。
……くそっ……こうなれば強引に炎を突っ切って――
「ゲホッ! ゲホッ!」
一ノ瀬さんが苦しそうな咳をした。苦悶《くもん》の表情を浮かべ、胸元を掴んでさらに咳き込む。どうやら煙を吸い込んでしまったらしい。
「ぐ……ゴホッ!」
……彼女を連れて炎を突っ切るのはちょっと無理か……。仕方ない。
「一ノ瀬さん、ちょっと姿勢を低くして」
そう言って僕は彼女と肩を組み、まだ炎が来ていない方へと歩いていく。とにかく……炎から逃げ回りながら助けが来るのを待つしかないか……。
と、そこで一ノ瀬さんが弱々しく口を開いた。
「久遠……私のことはいいから、お前だけでも逃げろ」
…………。
僕はちょっと口の端をつり上げて、
「ははは、一ノ瀬さんの冗談は相変わらず面白いね」
「……笑い事じゃゴホッ……ない……ゲホッゲホッ……さっさと行け……」
苦しみで顔を歪めながらもいつものような毅然《きぜん》とした表情をつくろうとして、それが見事に失敗している。彼女は肩にまわされた僕の腕を振りほどこうと身をよじりながら、弱弱しい声で僕に言う。
「は、はやく逃げ……――」
「――――巫山戯《ふざけ》るな。寝言は寝て言え」
「――ッ!?」
感情を殺した冷たい声で吐き捨てるように僕が言うと、彼女は息を呑んだ。どことなく怯《おび》えたような表情で僕を見上げてくる。僕はそんな彼女に軽く右肩をすくめてみせ……ようとして失敗し、誤魔化し笑いを浮かべて、
「……なんてね、驚いた? ……悪いけど、僕の頭の中に君を見捨てていくなんて選択肢はないよ。いや、ついさっきまではあったんだけど、今の君の言葉で完全に消えた。自分のことはいいから逃げろなんてクサい台詞を素で言えるような人間なんて、今どきすごく貴重だよ? そういう人は……なにがなんでも守りたいと思う」
だって――きっと、そんな人間の命は、この僕の命より価値がある。
「君は僕が守る。…………できるだけ」
僕は言い切った。すると一ノ瀬さんは、なぜか「ぷっ」と吹き出した。
「うわ、なんて失礼な。人がせっかく、すごく格好いい台詞を言ったっていうのに」
「……ああ、……すまない。ふふ……まさかお前から、そんな台詞が聞けるとは思わなかったから。……深春あたりなら言いそうだと思うけど」
苦しそうにしながらも、一ノ瀬さんは無理やり顔に笑みを浮かべた。
☆
炎から遠い方へ遠い方へと向かっているうちに、僕たちは自然、大広間〔一の間〕、将軍が座る場所へとたどり着いていた。大政奉還の図では最後の将軍、徳川慶喜《とくがわよしのぶ》が座っている場所である。ときどきここには大政奉還の様子を再現した人形が置いてあるらしいのだが、今はない。
不思議なことに、炎の侵攻は先ほどより勢いが弱まっている。いや、周囲で燃え上がる炎自体は強いのだが、何故か一の間まで炎が広がってこない。……とはいえ、それも時間の問題だろうが。その前に消防隊が駆けつけてくれるかどうかで、僕たちの命運は決まる。前回みたいに防火シャッターで閉ざされているというわけでもないし。前回……そう、前回のデパートの件のように〔ブーメランばばあ〕未至磨《みしま》ツネヨが、壁をぶち抜いて来てくれればいいんだけど……残念ながらそれは期待できないだろう。あのババア、今は何故か北極に行っているらしい。自殺教の陰に隠れる謎の組織を追っていた筈なのだが……何故に北極。秘密基地でも潰《つぶ》しに行ったのだろうか。……まあどうでもいいや。
「まったく、織田信長《おだのぶなが》にでもなった気分だよ。ここが二条城《にじょうじょう》じゃなくて本能寺だったら完璧だね」
僕が軽口を叩くと、一ノ瀬さんは怒るかと思いきや、
「ふっ……なんだったら、『敦盛《あつもり》』でも歌おうか?」
呼吸も落ち着き、余裕が出てきたらしい。もっとも、それが虚勢であることは明らかなのだが。僕はそれに気付かないふりをする。
「歌えるの? そんなの」
「カラオケでの十八番だ」
カラオケで『敦盛《あつもり》』を歌う女子高生…………想像するだに嫌すぎる。ていうか何でそんなものが入ってるんだ。
一ノ瀬さんは、咳払いをしたあと、なんと本当に歌い出した。どうやら彼女も相当にテンパッているらしい。
「にいいいいいんげえええええんんん〜〜〜ごじゅうねえええええん〜〜〜〜〜」
「――はいぃッ!?」
あまりの酷い音程に、僕は我が耳を疑った。メロディを完全に知っているわけではないけれど、以前大河ドラマか何かで信長《のぶなが》が舞っていたものとは似ても似つかぬ、とんでもなく調子外れな歌声だった。というかコレはもう……拷問《ごうもん》の領域だろう。たしかに『敦盛』は厳密には歌じゃなくて能だから、特殊な発声をするのは分かるけど……それにしても酷すぎる。
「ぐぇええええてぇえええええんんんんぬぅぉおおおおおおおおおおううううううううちいいいいいいいぅをぉおおおおおおおおおくうううううらあああああああぶううううううるぅぇえええええええぶわあああああああ――――」
「も、もういい! もういいから! 一ノ瀬さん! お願いだからやめてくれ!」
「ゆううううめええええ――……そ、そうか。すまない。たしかに不謹慎だったな……」
本当はもっと切羽詰まった理由なのだが、ともかく一ノ瀬さんは歌をやめてくれた。……あー危なかった。怪音波のような歌声って、実際にあるんだな……。
僕はふらふらと、その場でへたりこんだ。一ノ瀬さんも、僕の隣に腰を下ろす。
おそらくここが最も炎が来るのが遅い場所だろうから、僕たちは姿勢を低くしてここから動かないのが最善だ。もっとも、最善の方法でも確実に助かるとは限らないというのが世の中の厳しさなのだが。……くそったれ。
「……なあ、久遠……ゴホッゴホッ!」
一ノ瀬さんがまたむせた。見ると顔がかなり青ざめている。……調子が良くなったように思えたのはただの演技で、さっきの歌も、ものすごく無理をしていたに違いない。
「だ、大丈夫? 一ノ瀬さん」
「心配するな。もともと、子供の頃から気管支が悪いからな。部活のときだって、こんなのはいつものことだ」
「でも……あんまり喋らない方がいいよ」
しかし彼女は、弱々しく首を振った。そして、
「久遠……一つ……聞かせてくれ……」
「なに?」
「その……」
彼女は逡巡《しゅんじゅん》の色を浮かべたあと、決意を確認するように僕の顔を見据《みす》え、
「――私が死んだら、深春のときのように泣いてくれるか?」
「…………!」
僕は絶句する。なんてことを訊《き》くんだこの人は……!「ふざけるな……!」僕は一ノ瀬さんにそう言おうとして、やめた。
彼女の目は、すごく真剣だった。そしてひどく、切なげだった。まるで僕に何かを懇願《こんがん》するかのような潤んだ瞳に、僕は吸い込まれそうだった。
僕が答えないでいると、一ノ瀬さんはさらに続けた。
「深春が事故に遭《あ》ったと聞いたとき、私は練習をやめてすぐに現場へ行った。現場には野次馬が集まっていて……その中心に、お前はいた。……ちなみに深春はお前の真上で浮かんでいたが……それはまあいい。……道路の真ん中で、深春の遺体――いや、残骸の前で、お前は狂ったように泣いていた……違うな、あれは……怒っていたのか……」
「いやあお恥ずかしい。あのときの僕は若かったからね」
僕の軽口は無視された。
「……私はそれまで……お前のことをよく分からない変な奴だと思っていた。いや、今でもそうなんだが……それまではなんというか……不気味というか……」
「…………」
「常に……演技をして生きているような気がしていたんだ。深春にお前のことを聞かされるたびに、正直、気持ち悪いと思っていた。……どうして深春は……あんな奴のことを笑って話せるんだろう。幼なじみなのに、どうしてあいつの浮かべる表情は表面的なものに過ぎないことに気づかないのか……あいつはただ、周りのみんなが笑っているから笑い、泣いているから泣くだけで、本当は楽しさや悲しさなんてこれっぽっちも感じていないんだ……何度それを深春に指摘してやろうと思ったか分からない」
「随分な言われようだね」否定はできないけれど。
「でも……あのときのお前を見て、考えが変わった。……お前はたしかに、普段は自分の本性を表に出さないけれど……それは心が無いわけではない。……奥の方には、普通の人間以上に、とてつもない量の激情が渦巻いている。……お前の普段の態度は、その凶暴な激情を押し隠すための、二重の壁なんだろう……」
「……さあね。でも、それが正しいかどうかは別として、あんまり本人の前では言わないで欲しいんだけどな」
一ノ瀬さんは微かに笑みを漏らした。
「これが最後かもしれないから……だから、どうしても言っておきたかったんだ……。久遠悠紀、私はあのときから――」
轟音。
目の前で、炎に包まれた天井の一部が落ちてきた。それを契機《けいき》とするかのように、僕たちがいる一の間にも炎が浸食してきた。
「……うひゃー、やっばいなー……」
半笑いになって呟く僕。体中から普通の汗と冷や汗が同時に吹き出る。
でも……本気でどうしようもないぞこの状況。これはマジに覚悟を決めた方がいいのか? そんな……テロリストに銃を向けられた時でさえ希望を捨てなかったこの僕が? あきらめるしかないと? ふざけるな! 何か手はある! 冷静になって周囲を観察。希望はまだある筈だ!
※
希望遠すぎ! …………………あー、これは駄目だな。打つ手なしだ。あきらめよう。
「……一ノ瀬さん。最期にお願いがあるんだけど」
「な、なんだ……」
「もう一回ちゅーさせてください」
「はあ!?」
「……あのときの君の唇の感触がどうしても忘れられない。せめて死ぬまでにもう一度だけ、あれを味わっておきたいんだ!」
「ばっ……! こんなときに悪趣味な冗談はよせ…って! お、お前、目、目が血走ってるぞ! やめろ、こんなの……! わ、私にも心の準備というものが……」
「そんな暇はないよ」
優しい笑みを浮かべ、じりじりと迫る僕。一ノ瀬さんは逃げようとするも逃げ場はない。僕の手が彼女の頬に触れる。
「……い、いや、…………や、駄目……そんなの…………ぅ、うう……」
…………やべ、また泣かせた。絶望感しか湧いてこないネガティヴモードの思考回路を強引に矯正するための、ちょっとした冗談だったのに。僕も相当、焦ってる。
「……ごめん」
「ふ、ふざけるな馬鹿馬鹿馬鹿! ひっく……お前はいつもそうやって……うう……こんなときくらい、もっと真面目になれ! ……ひ、人がせっかく……ひっく……!」
そのとき、再び轟音がした。
庭園の方で――柱が崩れる音とは違う、何かで木の壁をぶち破る音。
僕と一ノ瀬さんは思わず顔を見合わせる。彼女の目には希望の色がある。
「助けが来たのか!?」
僕たちはじっと庭園側を見つめる。だが、炎の壁に阻《はば》まれているせいでその先の様子を窺《うかが》い知ることはできない。それでも僕たちは待つ。それしか……希望を信じることしか、僕たちの生き残るすべはないのだから。
……待つ。……待つ。……待つ。待つ。
時間にすればわずかだろうが、それが今の僕たちには永劫《えいごう》にも近い長さに感じられる。
そしてついに!
炎の中に人影が見えた!
「ここだ! 私たちはここにいるぞ!」
一ノ瀬さんが、歓喜の色を滲《にじ》ませ叫ぶ。
「そこかあああああ――――ッ!」
炎から出てきた一人の人物。その姿を確認したとき、「……ふう」「はあ……」僕と一ノ瀬さんは、同時にため息を吐《つ》いた。
「な、なんだよそのガックリきた表情は!?」
炎から現れた人物は、紺藤だった。全身に水をかぶって炎の中を突破してきたらしい。手にはどこから持ち出したか、シャベルを持っている。これで大広間の壁をぶち破ったのか。それはたしかにすごいことではあるが……。…………でも、意味がない。
「……紺藤。何しに来たんだ」
疲れたように一ノ瀬さんが言う。
「決まってるだろ! お前らを助けに来たんだよ!」
「……だからどうやって」
「そらお前、……………………」紺藤は周囲を見回し、「…………………」周囲は全《すべ》て炎。
「……ひょっとして逃げ場ナシ?」
「あったらとっくに逃げている。悪いが、お前が来てどうにかなるような生やさしい状況だったら、私たち二人でなんとでもなる。……まったく……馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、ここまで馬鹿とは」
責め立てるような口調の一ノ瀬さん。紺藤はたじろぎ、
「そ、そこまで言うことないだろ委員長!」
「いや、僕もお前は超絶的な馬鹿だと思うよ」
「ひでえ……それが命がけで助けに来た親友に向かって言う台詞かセニョリータ!?」
「文句は地獄で聞いてやるよ。先に行って待ってな」
「地獄行き決定っスか!?」
……なんだかなあ。はっきり言って、めちゃくちゃ危機的な状況だというのに、紺藤が来たらいつもの馬鹿なノリになってしまった。
これで状況も変わってくれればありがたいんだけど……ああやばい。騒ぎすぎたせいで酸欠だ。煙も、自分で思っている以上に吸い込んでるだろうし……本気であと数分も保《も》たないだろう。焼死と一酸化炭素中毒ってどっちが楽かな……。
死んだら…………僕たちも深春のようにゴーストになるのだろうか。確率は一割だが、なんとなく一ノ瀬さんと紺藤はどちらもゴーストになるような気がする。だってほら、キャラが立ってるし。僕は…………どうだろう。もしもゴーストになったら、永遠に深春とラブコメを繰り広げないといけないのか? ……それはそれで…………やっぱり嫌だ。……ああ……えっちなことがしたいよう。死ぬ前に吏架ちゃんを攻略したいよう……。何かないか、助かる方法、何か……何か…………。
しかし、いくら考えたところで周囲を囲う炎の海をどうにかする方法など、浅才の僕には思い浮かばなかった。まるで炎とは、絶望の象徴のようだ。単純な暴力も、僕お得意の嘘もハッタリも、何一つとして通用しない。
「……まったく……どうしてこんな無謀なことをしたんだ。いくら馬鹿でも、危険くらい察知できるだろう。むしろ馬鹿の方が野性の勘は働くのではないのか?」
一ノ瀬さんが紺藤に説教を続ける。ほとんど八つ当たりみたいな感じだ。
「ど、どうしてって……そ、そそそんなの……」
「そんなの……?」
一ノ瀬さんが首を傾げる。
「そ、そんなの……」
……ん? 心なしか、紺藤の顔が赤くなっているような気がする。いや、炎の照り返しを受けてみんな赤いのだが、それ以上に。
紺藤は僕をちらりと一瞥《いちべつ》したあと顔を一ノ瀬さんの方に向け、拳を握りしめ、うつむきながら叫んだ。
「そんなの、お前が好きだからに決まってるだろ!!」
一ノ瀬さんの目が驚愕《きょうがく》に見開かれる。……おおー、ついに言ったか紺藤。……お前……なかなか……やるじゃん……。意識がだんだん朦朧《もうろう》としてきたにもかかわらず、思わず僕は口元に笑みを浮かべる。が、火の粉が顔に当たりその笑みはあえなく歪んでしまう。
沈黙が訪れる。火の粉が爆《は》ぜる音と炎の揺らめく音が、克明《こくめい》に聞き取れるくらいの沈黙。
それを破ったのは、
「ほらほらおじさん、こっちこっち! ゆーきー! カヨー! あとついでに紺藤くーん。みんな生きてるー?」
どことなく呑気そうな深春の声と、
「無事か!?」という、ちょっと渋い消防隊員のおじさんの声だった。
☆
京都および奈良の神社仏閣を狙った、連続放火……いや、同時放火事件……いや、〔同時多発テロ〕。犯人は目下のところ不明。夕刊には、いい加減な新聞ほど『また自殺教か』という見出しが多い。
狙われたのは、東大寺《とうだいじ》、法隆寺《ほうりゅうじ》、薬師寺《やくしじ》、唐招提寺《とうしょうだいじ》、金閣寺、銀閣寺《ぎんかくじ》、京都御所《きょうとごしょ》、二条城《にじょうじょう》。出火時刻は全件ほぼ同時の、午後二時前後。被害状況は、東大寺は大仏殿が全焼(大仏も一部破損)、法隆寺は五重塔《ごじゅうのとう》と夢殿《ゆめどの》が全焼、薬師寺は敷地内のほぼ全《すべ》ての建造物が半焼、唐招提寺は金堂《こんどう》と講堂が全焼、金閣寺は金閣が全焼(これで三度目だ)、銀閣寺は敷地内の全てが全焼、京都御所は紫宸殿《ししんでん》が全焼。そして二条城は、二の丸御殿が半焼、一の丸御殿が全焼。ちなみに僕たちの靴も燃えたので、代わりの靴を時山先生が買ってきてくれた。
どの場所も、入念に下準備がされていたとしか思えないほど炎が燃え広がるのが速く、被害は甚大《じんだい》だった。また、各所で時限爆弾と自動発火装置が用いられたことも明らかになっている。観光シーズンを外れていたのと、炎上したのは一般人立ち入り禁止の場所が多かったことが幸いして、巻き込まれた観光客の数はテロの規模にしてはかなり少なかったのだが、それでも十人以上が死亡し、百人以上が重軽傷を負ったらしい。消防署の対応が迅速だったためか、周囲の建物に炎が燃え広がることはなかったのが、せめてもの救いだ。あと、うちの学校の生徒に犠牲者がいなかったことも。
僕と一ノ瀬さんと紺藤の三人は、あのあと病院に運ばれて簡単な検査を受け、三人とも特に問題なしという結果が出た。だからそのあとすぐに、迎えに来た時山先生の車で今夜の宿泊先である旅館〔ろんだるきあ〕に向かった。ただし紺藤の告白のこともあって、僕たちはほとんど会話を交わしていない。
「あーあ、それにしてもなんでこう行く先々でトラブルに巻き込まれるのかねえ……」
声に出して呟いてみる。僕が今いるのは、旅館の露天風呂《ろてんぶろ》である。時刻は夜の十時で、他に入っている人間はいない。先生がまたしても特別に取り計らってくれて、こうして生徒の入浴時間後に入っているというわけである。
自分でも気付かなかったが、頬のあたりを少し火傷しているらしく、湯につけると痛い。ほかにもあちこちにヒリヒリする部分があり、せっかくの露天風呂だというのにゆったりくつろぐことが出来ない。
「ほーんと、悠紀ってトラブル体質だよねー」
「うるさいなあ……」
見上げると、そこには深春が浮いていた。
「ていうか堂々と覗《のぞ》きに来るなよ。ここは男湯だぞ」
「いいじゃない。悠紀しか入ってないし」
「他の奴が入ってたら僕が困るだろうが」
「そうだね」
深春がくすくす笑う。
「というわけでお前もさっさとどっか行け。僕もしばらくしたら上がるから」
「けちー」
そう言いつつも、深春は素直に旅館の外の方へと飛んでいく。夜の京都見物にでも行くつもりなのだろう。もちろん夜は外出禁止だが、ゴーストには関係ない。
と、深春は塀の上のあたりで振り返った。
「あ、そうそう悠紀、さっきカヨが捜してたよ。なんか用事があるみたい」
「……へー、用事ね。なんだろう」
すると深春は、意地悪そうな笑みを浮かべた。
「悠紀、本当はわかってるんでしょう?」
「なにが」
「カヨの用事」
「さあ? 全然まったくカケラも見当がつかないな」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「ほんとにほんと?」
「ほんとにほんと」
「でも嘘だよね、それって」
「……うん」
僕が重々しく頷くと、深春は楽しそうに笑いながら、夜の闇へと消えた。ちぇっ。人ごとだと思って……。
☆
「久遠」
「――ッ!」
脱衣所を出てすぐのところで一ノ瀬さんに遭遇した。旅館の浴衣を羽織って胸元をはだけていたので、慌てて直す。ふう、危ないところだった。
「こんなところにいたのか。うちのクラスの入浴時間は八時から九時までの筈だぞ」
「……まあまあ、そう堅いこと言わずに。僕にも色々と事情がありまして」
「わかった。なら、それは不問にする」
意外なほどあっさりと、一ノ瀬さんは引き下がった。それから彼女はきょろきょろと周囲を確認する。うちの学校の生徒が泊まっているのは二階と三階で、さらに消灯時間は一応十時半のため(当然ながら、この時間が守られることはほとんどない)、ここ一階の廊下に人はいない。
「久遠。ちょっとついてこい」
そう言って、早足で歩き出した。僕がその場で突っ立っていると、「何をしている。急げ」と、彼女はつかつかと戻ってきて僕の手をとった。そして例のやたらと強い握力で僕の手を掴んだまま、僕を引っ張っていく。ちょっと……いやかなり痛い。
彼女はずんずん歩いていき、スリッパを履いたまま旅館の非常口から僕を外へ連れ出した。夏とはいえかなり涼しい夜風が、火照《ほて》った身体に心地よい。
「……このへんでいいだろう」
一ノ瀬さんが足を止める。
彼女が僕を連れてきたのは、旅館の裏庭のような場所だった。苔《こけ》むした庭石や小さな松の木などがある、こぢんまりとしているが風流な場所だ。昨夜の旅館と同様、少し交通の便が悪い山の中にあるため、上を見れば満点の星空を楽しめる。綺麗な、満月の夜だった。
「いい場所だね」と僕は素直に感想を口にした。
「ああ。こういうのは……雰囲気が大切だからな」
僕に背を向けたまま、一ノ瀬さんはわけのわからないことを言った。…………いやもちろん、本当は解ってるけどね。これから――何が始まるのか。
「久遠」
彼女が振り返った。僕は思わず息を呑む。
月明かりに照らされた一ノ瀬さんは、本当に、洒落にならないほどに綺麗だった。青を基調にした落ち着いた色合いの浴衣が、とてもよく似合っている。この旅館オリジナルのものらしいけど、なんでこう無駄に可愛い浴衣なんだろう。最悪だ。
それから、髪には昼間僕があげた簪《かんざし》をつけていた。
…………ふう、と思わずため息が出そうになるのを慌ててこらえる。
……まったく……これは大変だぞ。
僕はこれから、このとんでもなく綺麗な少女を、振らなければならないのだから。
「一ノ瀬さん。無断で外に出るのはまずいんじゃないかな」
「今だけは委員長の権限で特別に許可する」
「越権行為じゃない?」
「うるさい。今はいいんだ」
妙に可愛くそう言って、一ノ瀬さんは微笑んだ。「ごくっ……」と僕は唾を呑み込む。
「――いい月夜だな」
一ノ瀬さんは空を見上げた。その横顔も……信じられないくらい美しい。
「そうだね、綺麗だね。月が」
僕は努めて素っ気なく言った。
「うん、本当に月が綺麗だ。あと星も」
僕は繰り返して言った。
「ああ……」
一ノ瀬さんが、ほぅ――と小さく息をつく。その顔が、妙に艶《なま》めかしい。僕は彼女から顔を背けた。これはやばい……。思った以上の強敵だ。
告白とは、つまりは戦争なのだと僕は思う。いきなり愛の言葉《ミサイル》を打ち込むだけでは勝てない。普段の態度や何気ない仕草で巧みに相手との距離を詰めていき、外堀を埋め、ガードを崩し、自分のフィールドへと相手を誘い込む。戦略を駆使し、絶対に相手が逃げられないようなところまで追い込んでから、必殺の一撃を放つ。相手の拒否権も抵抗する意志も根こそぎ奪い、無条件降伏を受諾させる。
己の世界の全《すべ》てを賭けた、決して負けられない戦争。
べつに大げさな比喩《ひゆ》ではない。中学生や高校生くらいの人間――あるいはもっと年を経た人間でも――にとって、〔世界〕とは、その見える範囲、行動できる範囲、リアリティをもって認識できるきわめて狭い範囲に限定されている。家族、恋人、友達、クラスメート……世界を構成している人物なんて大抵はこの程度であり、国家や地球の裏側で死んでいく人々のことをリアルな〔世界〕として捉《とら》えられる人間など……いるにはいる(例えば〔ブーメランばばあ〕未至磨《みしま》ツネヨとか)が、本当に極少数に違いない。ならば告白とは、紛れもなく世界を巻き込んだ戦争だ。少なくとも僕たちの年代にとって〔恋愛〕が、自分の世界に極めて深刻な影響を与えるファクターであることは間違いないのだから。
僕にとっても、彼女にとっても――これは負けられない戦いだ。
言葉の牙を巧みに躱《かわ》せ。可愛い仕草に惑わされるな。艶《あで》やかさの中に隠された棘《とげ》に気をつけろ。相手に踏み込む隙を与えるな。恋心を燃やすな。恋心に萌えるな。甘やかな恋の萌芽《ほうが》は焼き尽くせ。…………だってほら、前にひかりちゃんに負けて酷い目に遭《あ》ったし。
「――――久遠悠紀」
一ノ瀬さんが僕をフルネームで呼んだ。さながら宣戦布告のごとく。
僕は無言で彼女の方を向く。澄んだ瞳に射竦《いすく》められる。
「話がある」
短く、言った。頬が仄《ほの》かに上気している。ついでに言うと、僕の方も。
「なに?」
だが彼女は、すぐには切り出さず、まずこんなことを言った。
「……紺藤には、申し訳なく思う。……それから…………深春にも……」
「…………」
「……本当はこんなこと、言うべきではないのだろう。だが、あえて言うことにする。今だけは……自分の気持ちに正直になりたいと思う」
「…………」
唾を呑み込む。
息を呑み込む。
あらゆる感情を呑み込む。
彼女に呑まれないように。
「久遠悠紀」
「…………」
「私は、」
…………戦争の終わりは、始まりがそうであるように、どうしようもなくくだらない理由で訪れることが多い。
京都の旅館の片隅で勃発《ぼっぱつ》した久遠悠紀と一ノ瀬可夜子の戦争もまた、しょうもない理由で停戦となった。
がさっ。
僕たちがいる場所から五メートルほど離れた生け垣のあたりで物音がした。
僕と一ノ瀬さんは顔を強張らせてそちらを見た。
生け垣の後ろから、
紺藤が出てきた。
「――! ……久遠。話はまた今度だ」
一ノ瀬さんは紺藤の姿を見るやいなや、逃げるように早足で、非常口から旅館の中へと入っていった。
「……すまん、邪魔したな。旅館の中を探検してたらこんなところに来ちまった」
「探検って……小学生かお前は……」
僕は呆れながらも、とりあえずこの場は紺藤に感謝した。
「……で、一ノ瀬さんを追わなくていいのか?」
僕が尋ねると、紺藤は首を横に振った。
「いや、委員長じゃなくて、ちょうどお前に用があったんだ」
「僕に?」
「ああ」
紺藤は、いつになく真剣な顔で頷いた。
「……そうか」
話というのは間違いなく、一ノ瀬さんのことだろう。こんな場面に遭遇してしまったのだ。何も言わない方がおかしい。なにせ――炎の中に飛び込んでまで助けようとするほど、真剣に好きな相手のことなのだから。
自分の命をかけてまで誰かを守ろうとする――それはきっと、愚行だ。生物として間違っているとしか言いようがない。
だが――僕自身、その愚行の経験がないわけではないのだ。だから僕はこの男に対して、共感のようなものを抱いていた。
「……二条城《にじょうじょう》でも言ったけど、さ……」
紺藤は赤面し、そこで口ごもった。
普段は馬鹿で軽薄なナンパ野郎だけど、どうやら本質的には純情な奴らしい。……なんか初々しくていいなあこいつ。
「俺さ……、好きなんだよ……」
……ああ分かってる、分かってるさ。
紺藤よ、お前の恋はこの僕が全力をもって応援してやろう。
打算抜きで考えてみても、一ノ瀬さんと紺藤って意外とお似合いのような気もするし。どっちも根は一途だし、わりと純情だし……。
はっきり言って、僕のようなヒネクレ人間なんかよりも、紺藤の方がはるかに一ノ瀬さんに相応《ふさわ》しいと心底思う。
だから紺藤。今すぐに一ノ瀬さんを追いかけて、お前の想いのたけをぶちまけ
「お前のことが」
…………。
……………………。
「…………………………………………………………………………………………はに?」
ぽかんとした間抜け面を晒《さら》してしまった僕を、紺藤は真剣な顔で見つめる。普段の言動が馬鹿丸出しなだけに、こうやってマジな顔をされると、ギャップがありすぎてすごく戸惑う。それにもともと、こいつの顔は悪くない。月明かりに照らされた紺藤の顔は――正直、惚れ惚れするくらいに凛々《りり》しかった。どうやら月光の魔力というのは、男女問わずに効果があるらしい。今度僕も試してみようかな、月明かりの下で告白。脳内シミュレート開始、「○○くん、ボク、キミのことが好・き※(w-heart.png) いつもは内気な女の子だけど、本当はキミのことを考えるだけでカラダの火照《ほて》りが収まらないイケナイ娘なの※(w-heart.png) 好き好き大好き超愛してるだっちゃダーリンうっふん※(w-heart.png) 抱いて抱いてホールドオンミー、今なら月とマリア様しか・見・て・な・い・ゾ※(w-heart.png) 」――って、暴走気味の現実逃避してる場合じゃねえ! ていうかキモいぞ死ね今すぐ死んでしまえ僕!
「……もう一度言うぞ。久遠、俺は……お前のことが好きだ!」
「え、あ、あの……その……」
困惑。混乱。困憊《こんぱい》。混濁《こんだく》。混沌。混迷。紺藤。動揺。動乱。錯乱《さくらん》。波乱。淫乱。乱心。乱入。乱戦《スクランブル》。緊急事態《スクランブル》! ど、どういうことだこれは予想外まったくの想定外の事態信じられないうそまじでえそんな馬鹿なあははは冗談だろ? 紺藤が相手だというのにガラにもなく真っ赤になり、僕は混乱する。……ちなみに。僕は異性から告白されるのは初めてです。……落ち着け、落ち着くんだ僕。……バカめ、これが落ち着けるか。
……まったく――思わぬ伏兵がいたものだ。わかりやすい一ノ瀬さんの露骨な好意に気を取られていて、他にもこういう戦い《こくはく》を仕掛けてくる人間がいることなど、考えもしていなかった。しかもそれがよりによって紺藤だなんて。本気でまったく気付かなかった。嘘を吐《つ》くことにかけてはエキスパートのようなこの僕に対して本音を隠しきるとは……紺藤数馬、意外と役者だ。油断した。
彼が本気であることは、目を見れば判《わか》る。本気で、こんな僕のことを――。
と、そこで重大な問題に気付く。好き? 告白? 紺藤が? 僕が女であることを知らない紺藤が?
「……紺藤、お前って……その……ホモだったの?」
何とか呼吸を整え、おそるおそる訊《き》いてみる。
すると。
「ち、ちげえよ! 俺はれっきとした女好きだ!」
れっきとした女好きってのも変な言葉だな……と僕は思った。が、それからすぐに紺藤の表情が曇る。憂いを帯びたその面差しは、普段とは別人に思えるくらいに大人びていた。それはどことなく――先ほどの一ノ瀬さんを思わせた。
「れっきとした女好き――そう思ってたんだ……。エロ本とかAVとかだって普通に見てる! ちなみにレースクイーンものが好きだ! あとナースものとかも好きだ! 巨乳の女優が大好きだ!」
……べつにそんなことは言わなくてよろしい。シリアスな場面が台無し。……ちなみに僕は、巨乳はあんまり好きではない。なにごともほどほどが一番。
「……だけど、それなのに……それなのに……。なんていうかお前を見てると、こう……胸がざわつくんだよ……。最初は普通のダチだと思ってたけど、いつの間にかそんなふうになってたんだ……」
苦しそうな切なそうな、今にも泣き出してしまいそうな顔で、紺藤は独白する。
「こんなの初めてなんだよ……。どうすりゃいいんだか、さっぱりわかんねえんだよ。昨日お前と二人で奈良公園を見て回ったときも、なんかすげえどきどきして、自分が抑えられそうになかったんだ。だから、ちょうど通りかかった都古《みやこ》さんをナンパした。ああいうすっげえ美人とお近づきになりたいって思ったのも確かだけど……でも、違うんだ。都古さんとお前が仲良くなるのを見て、胸のあたりがチクチクした。その日の夜にお前と深春ちゃんが二人で風呂に入ってるところに出くわしたときなんか、頭ん中がパンクしそうだったんだ」
…………。
なるほど。僕と深春のその場しのぎの嘘が、こいつをここまで苦しめてしまったのか。根は真面目だから、真剣に自分の気持ちに悩んだことだろう。
「俺は……だから今日、神河と一緒に班を抜け出したとき、あいつに相談してみたんだ。一応あいつ、頭はいいからな。もちろん久遠の名前は出してないけど……そしたらあいつはアッサリ、『それは恋だ』とか言い切りやがったんだ。……俺も――多分神河の言うとおりなんだと思う。この気持ちは……この気持ちこそが、恋ってやつなんだと思う」
紺藤は縋《すが》るような目で僕を見る。
「……なあ久遠、俺、おかしいのかな? お前はクラスメートで、友達で……男なのに」
「…………」
……お前の感情は正当なものだ。だって僕は女だから。だから、むしろおかしいのは僕や深春の方だ。……それを言うべきか、言わざるべきか。
僕には、判《わか》らなかった。
きっと、真実を言ってしまうのが常識的に考えて正しいのだとは思う。そうすると必然的に、僕は男である紺藤と付き合うのが正常で健全な在り方ということになる。
でも。
正常? 健全? はっ、なんだそれ? ……心の奥底で、そんなふうに嘲笑《あざわら》う僕がいる。
……今さら僕が……そんなところへ行けるわけがないだろう? ……いや……行けるのか? 戻れるのか? まっとうな道に。ここで紺藤に女であることを告白して、こいつの好意を受け入れてキスなりセックスなりすれば、僕は普通の恋愛が出来るのか? 白咲深春――ゴーストで同性でそれから……――との、異常な関係に終止符が打てるのか? それを僕は望んでいるのか?
分からない。
わからない。
ワカラナイ――……。
「紺藤。人の告白を邪魔しておいて抜け駆けとは、少し卑怯ではないか?」
不意に、凛《りん》とした声。
一ノ瀬可夜子。
今回のもう一人の敵が――いつの間にか非常口近くの樹の陰に佇《たたず》んでいた。
「委員長……」「一ノ瀬さん……」
彼女は、ゆっくりとこちらへ向かって歩いてくる。
「お、俺は抜け駆けだなんて、そんなつもりじゃ……」
紺藤が気まずそうに言う。
「解っている。お前にそんな計算が出来るとも思えん。それに…………お前が真剣だということも、私には理解できる」
妙に優しげな微笑みを浮かべ、一ノ瀬さんは紺藤に言った。そこにある感情は多分――共感……だろうか。同じ人間を好きになった者同士の……それとも……。
彼女は、今度は僕の方を向き、
「久遠悠紀。私はお前が好きだ」
さらりと、さっき紺藤の登場で邪魔された言葉を言い切った。そこに計算も迷いも躊躇《ためら》いもない。ただ、やり残していたことを片づけるだけの、その告白。いかにも一ノ瀬さんらしい、シンプルでさっぱりした告白だった。
「今すぐに返事をくれとは言わない。お前にも考える時間は必要だろうからな。この修学旅行が終わってからでいい……返事を聞かせてくれ。紺藤への返事と、一緒に。……紺藤。お前もそれで構わないか?」
「あ、ああ……わ、解ったぜ委員長。……まあ、思い切って言っちまって、なんかスッキリしたしな……」
紺藤が頷いた。……あの。ところで僕の立場というのはどうなるのでしょうか。返事しなきゃいけないの? 返事を保留したまま、なあなあで済ませちゃダメですか? ていうかまだ頭が混乱してるんですけど。
「……よし、というわけで、久遠、紺藤。そろそろ部屋に戻るぞ。もう消灯時間はとっくに過ぎている」
僕のことなんてお構いなしに、一ノ瀬さんは仕切った。
☆
一ノ瀬さんと紺藤と一緒に、僕は非常口から旅館の中に戻った。すごく憂鬱《ゆううつ》な僕と違って、二人は妙に晴れやかな顔をしている。こんちくしょう。
とにかく僕たちは、二階に続く階段へ行くために、ロビーの方へ向かった。
ロビーには禿頭《とくとう》の男――〔聖人《ミーニングレス》〕時山時雨先生が、僕たちを待ちかまえていた。
怒っている様子はなく、いつものように陰鬱《いんうつ》な声で淡々と告げる。
「……解っていると思うが……消灯時間は過ぎている。夜間の外出も禁止だ」
「すんません(紺藤)」「申し訳ありません(一ノ瀬さん)」
言い訳もせず、素直に謝る二人。時山先生は、静かに頷いた。
「素直で結構。……では三人とも、一時間ここで座禅を組め」
「座禅? 正座ではなく?」
一ノ瀬さんが訝《いぶか》しげに言った。
「……正座とは体罰だ。無意味な体罰は教育者のすべきことではない。……だが、座禅は精神の修練だ。罪を犯した者が真にすべきは、罰を受けることではなく、己を見つめ直すことなのだ」
そう言って先生は何故か自分も、その場で座禅を組み始めた。
「あの、どうして先生もやるんですか?」
僕が訊《き》くと、
「……私もまだまだ、教育者として未熟。故に毎晩こうしている。……精神を鍛錬《たんれん》し――煩悩を、断ち切るために」
「……そうですか」
一ノ瀬さんは、先生の隣に腰を下ろして座禅を組み始めた。紺藤も黙ってそれにならう。禿頭《とくとう》でスーツ姿の中年と凛々《りり》しい美少女と金髪の男子高校生が並んで座禅を組んでいる様子は、なんだか異様なものだったが、しかし三人とも、意外とサマになってはいた。
……仕方ない。それじゃ僕も、座禅を組むとしますか……。
僕が無言で先生の隣に腰を下ろすと、ふと、先生が口を開いた。
「……かつて、とある偉人がこう言った……。空腹ならば、己の頭を食せよ――」
「……なるほど。空腹は煩悩全般の暗喩《あんゆ》、己の頭とは精神を象徴する……。つまり人は精神の力により、あらゆる煩悩を克服することが出来る、ということですか。……きっとその偉人は、我々のようにつまらない悩みに煩《わずら》わされることなど無かったのでしょうね……。……しかし先生、私はこうも思うのです。つまらない悩みに煩わされることもまた、人間が人間たる所以《ゆえん》ではないか、と――」
一ノ瀬さんが、真面目な顔で言った。紺藤も、何故かうんうん頷いている。先生は何も言わず、ただじっと目を閉じていた。答えは己自身で見つけよ――まるでそう言っているかのようだった。
……ちなみに僕は、「それはア●パ●マ●だ!」とツッコミを入れるべきかどうか、ものすごく迷ったのだが、結局やめた。それどころじゃなかったし。最近ツッコミをサボり気味だ。ボケオンリーでツッコミ不在の漫才ほど見ていて痛々しいものはないのだが、べつに僕は漫才師でもギャグ小説家でもないから問題はない。
……さ、くだらないこと考えてないで精神集中だ。この苦境を乗り越える、強い精神力を得るために――……。
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修学旅行 三日目 〜京都 古都を燃やす濃い噺(はなし)〜
むかしむかしあるところに、一人の美少女がすんでいました。美少女はとっても美少女だったのですが、美少女は美少女でもちょっとボーイッシュな美少女でした。髪も短くて、スカートもはきませんでした。それはそれで萌えるのですが、口さがない美少女の幼なじみが、あるときこんなことを言いました。
「ゆうきちゃんって、男の子みたいだね」
美少女は自分の名前が女の子っぽくないことを気にしていて、それから幼なじみの名前の方が可愛くて羨《うらや》ましいとも思っていたので、むきになって言い返しました。
「なにおう。みはるちゃんのほうこそ男の子みたいだよ。……とくにじょうわんにとうきんが」
すると幼なじみは怒ってしまいました。
「それじゃあゆうきちゃん、あたしといっしょに男の子のかっこうをして、だれかに女の子だってきづかれるまで、ずっと男の子としてすごそうよ」
「いいよ。みはるちゃん、女の子にもどれなくなってもしらないよ!」
そうして二人は、短かった髪をさらに短くして、半袖と半ズボンになりました。自分の呼び方も、「あたし」ではなく「ぼく」に変えました。むしろその方が萌える気もするのですが、無邪気な女の子だった二人には、そんな大きなお友達の欲望なんて知る由もありませんでした。
それから二人は、一緒に街に出かけました。すると商店街で、変態で有名な八百屋のお姉さんが言いました。
「きゃあ、なんて可愛い女の子なのかしら。食べてしまいたいわ」
お姉さんに、どっちのことを言ったのか訊《き》くと、お姉さんは迷わず幼なじみの女の子を指さしました。
……というわけで、幼なじみは女の子の格好に戻りました。それから美少女と幼なじみは一緒に街を歩きましたが、美少女を女の子だと気付いてくれる人は誰もいませんでした。美少女はすっかりむくれてしまいました。
「こうなったら、あたしが女の子ってきづいてもらえるまで、ずっと男のふりをして生きてやるわ」
幼なじみは止めましたが、美少女の決意は固いのでした。美少女は男の子についての資料を徹底的に読み漁り、入念に演技の練習をして、どこから見ても男の子のように振る舞えるようになりました(美少女には演技の才能があったのです。でも照れ屋さんなので、役者になろうとはまったく思いませんでした)。言葉づかいだけでなく、思考する際の言語まで男っぽくしようと心がけました。墓穴掘りまくりです。そこへ、知り合いのお婆さんが通り掛かりました。美少女と幼なじみの武術の師匠で、ブーメランばばあという二つ名をもつ、すごいばばあです。
「おや、久遠のとこの小娘じゃないかい。……へえ、男の子になりたいのかい。ヒヒヒ、それじゃあちょっと待ってな」
お婆さんは暫《しばら》くして戻ってきて言いました。
「戸籍を書き換えてきたよ。これであんたの性別は男さ」
「わあ、ありがとう。ぼく、ツネヨおばあちゃん大好きっ」
美少女は素直にお礼を言いました。このクソババアいつか絶対ぶっ殺してやるなんて、このときはまったく思いませんでした。
……ですが、これが悲劇の始まりだったのです。
小学校に入っても中学校に入っても高校に入っても、美少女のことを女だと気付いてくれる人は誰もいませんでした。おかしいと思った人も少しだけいましたが、戸籍ではちゃんと〔男〕になっているのでそれ以上疑いませんでした。
また、中学の頃にはすでに、美少女は自分がレズビアンであることに気付いていたので、むしろ男として生きる方が好都合とさえ考えるようになっていました――……。
そして今に至る。
つまり僕は、子供のつまらない意地で、人生を狂わせてしまったのだ。間違いなくこれは、〔墓穴掘り人形〕久遠悠紀がこれまでに掘った墓穴の中でも最たるものの一つだろう。……もっとも、男か女か程度で狂うような部分なんて、人生において大した意味はないとも思うのだが。いやべつに強がりとかじゃなく。
性別の違いごときで、人間の本質は変わらない。男だろうが女だろうが、天才は天才であり、凡人は凡人であり、奇人は奇人であり揺らぐことはない。性差による不当な冷遇や理不尽な贔屓《ひいき》も、きっと世の中には数多くあるのだろうが、その程度で人生が左右されるようなら所詮《しょせん》その人間はその程度だったということであり、性差以外のとるに足らないファクターでもきっと左右されることだろう。
そして、この僕のように一度逸脱してしまった人間は――たとえ元に戻る機会があったとしても、逸脱したままなのだ。そもそも本人に逸脱する素養がなければ、初めから枠をはみ出すことなどなかったのだから。
……ちなみに、この前ひかりちゃんに説明した、〔久遠家の悲しい歴史(久遠家の長女は男として育てられるという話)〕はまったくの出鱈目《でたらめ》である。そもそも僕、養女だし。
☆
……――目覚めたら深春の顔のアップがあった。
「わっ、びっくりしたあ……。いきなり目を開けるんだもん」
「……ふあぁ……」僕はあくびをする。眠い。まだ頭がぼんやりしている。またしても夢の中でしょうもないことをつらつらと考えていたような気もするが……無意識の思考って嘘が吐《つ》けないから嫌いなんだよな……。
「……おはよう深春。…………あれ、ここどこ……?」
「旅館のロビー」
「……ふうん……あれ……。なんかやたらと背骨が痛い」
「そりゃ、座禅を組んだまま寝たら痛くもなるよね」
……このあたりでようやく意識がはっきりしてきた。そうか……どうやら昨夜は、座禅を組んでそのまま眠ってしまったようだ。ということは、今は修学旅行最後の日の朝か。
僕の両隣には、一ノ瀬さんと紺藤が同じく座禅を組んだまま寝息を立てている。……なんかすごく可愛い寝顔だ。一ノ瀬さんだけでなく、紺藤も。どちらも、子供のようにあどけない表情をしている。
「そういえば時山先生は? 一緒に座禅組んでた筈だけど」
「緊急の職員会議だって。今日の予定をどうするか話し合うみたい」
なるほど。なにせ昨日は同時多発テロが起きたのだ。このまま予定通り修学旅行を続けるかどうか、検討する必要があるのだろう。
……ま、常識的に考えれば中止だろうな。当初の予定では、今日も午前中は班ごとの自由行動で、僕たちの班は昨日行けなかった清水寺《きよみずでら》のあたりを中心に見て回る予定だったのだが……ちょっと残念だ。
「ところで深春。お前いつから僕の寝顔を覗《のぞ》いてたんだ」
「うーんとね、旅館に戻ってきたのが三時だったから……三時間ちょいかなー」
ロビーの時計を見て、さらりと答える。
「……三時間って……暇なやつだな……。ていうか飽きるだろ普通?」
「ううん、べつに。悠紀の顔だからってこともあるけどさ、ゴーストになってから、時間の感覚がなんか曖昧《あいまい》なんだよねー。気付いたら何時間とか経ってるの。夜も眠らないんだけど、いつの間にか朝になってたりするし、何日も前のことがついさっきのことみたいに思えるときもあるし」
「ふーん、そういうもんなのか……」
ゴーストが〔時間〕という概念とは無縁の存在であることを再確認させられる話だ。
長い時間の中、ただそこに存在し続ける。それは、悠久の時を経てもなお現代まで姿を留め続ける、京都や奈良の古い建造物の在り方に似ているのではないかと、僕はなんとなく思った。
……だが。
その古い建物たちにも、唐突に終わりは訪れた。世界最古の木造建築も、大勢の人々の願いと犠牲によって造られた大仏殿も、昨日、ものの数十分で焼失してしまった。
あまりにもあっけない、永遠の終わりだった。
ふと、思う。
だったら――――ゴーストにも、いつか終わりが来るのだろうか…………。
☆
十時ごろになってようやく職員会議が終わった。満場一致で〔中止〕の意見になるかと思いきや、どうやら会議はかなり紛糾《ふんきゅう》したらしく、部屋の外まで怒鳴り声が聞こえてきたという話もある。
意外なことに、修学旅行は予定通り続けることに決定されたらしい。といっても、時間は当初より大幅に遅れているため、〔予定通り〕に動ける班はないだろうが。
ともあれ僕たちは、当初の目的地である清水寺《きよみずでら》へ向かうことになった。
旅館からバスに揺られること二十分(このときは例の変態バスガイドではなかった)。五条坂で降り、クラスは解散、各班ごとの自由行動となる。
清水寺に続く清水新道(別名茶わん坂)をえっちらおっちら歩いていると、不意に先頭を歩いていた一ノ瀬さんが怖い顔をして振り返った。
「妹や部活の連中に土産も買わないといけないから……むう……高台寺と八坂神社を回るのが限度か……。お前たち、今日は死んでも勝手な行動は取るなよ」
「わ、わかったよ」「ま、まかせろ委員長!」「……善処する」「うんっ。吏架、良い子にしてるよっ!」
いつになく目が据《す》わった一ノ瀬さんの迫力に圧倒され、僕たちは素直にコクコクと頷いた。
「ねーねー、そういえばカヨちゃん、昨日はどうして部屋にいなかったのー? せっかくカヨちゃんの好きな人を聞こうと思ってたのにー」
……………………ぐわ。吏架ちゃんが、僕が今一番触れて欲しくない話題を無邪気な顔で持ち出してきた。
ちなみに一ノ瀬さんと紺藤は今朝から、昨夜のことなどまるで忘れたかのように、いつものように振る舞っている。
一瞬だけ、一ノ瀬さんと目が合った。その視線に、「いいか、答えは必ず聞かせろ。逃げたら殺す」という無言の圧力を感じた。
「り、吏架ちゃん。修学旅行は勉強をするためにあるんだよ。そういう話はやめて、もっとためになる話をしようじゃないか。たとえば平安時代と現代の政治体制の比較とか」
「うんっ、わかったよ。久遠君はマジメだね、吏架も見習いたいなっ…………(くくく)」
……? 今、何か不気味な含み笑いが聞こえたような気がしたけど……。また空耳か。やはり、昨日の精神的ショックから立ち直れていないらしい。
「久遠」
そのショックをつくった原因の一人が、僕の横に並んできた。そして、僕にだけしか聞こえないような小声で、
「昨日のこと……忘れないでくれ」
と真剣な顔で言った。……こういう真剣な表情がいやにサマになっていたりするから嫌になる。僕のような純情ピュアガールだと、思わず恋に落ちてしまうかもしれない。落ちないけどね…………今はまだ。
「……ま、まずはお友達から始めよう……というのはどうだろう」
小声で妥協案を提示してみる。
「え、俺たち前から友達じゃん」
「断じて違う」
「そ、そんな真顔で否定しなくても……」
がっくりうなだれる紺藤。こういうところは昨日までのこいつと変わらない。妙な安心感を覚える僕。と、そこへ後ろから史記が声を掛けてきた。
「何の話だ?」
「ああ、紺藤が史記のこと好きだってさ」
「なぬっ!? 言ってねえ! そんなこと一言も言ってねえよ!」
「そういえば紺藤君、昨日も神河君と二人でどこかへ出かけたよね〜」
吏架ちゃんが可愛く笑った。
「……ふむ……昨日相談してきたこととはつまり、俺のことだったというわけか……」
「ち、違うぞ神河! あれは断じてお前のことじゃねえ! あれはくどぶごぐおっ!?」
大声でとんでもないことを口走ろうとした紺藤を、未至磨抗限流《みしまこうげんりゅう》基本技〔末代殺し〕にて速やかに沈める。僕のはまだ未完成だが、生前の深春や未至磨ツネヨ師範がやると子孫がつくれなくなる危険な技である。……うん、紺藤を蹴飛《けと》ばして、ようやくいつもの調子が戻ってきたぞ。根本的な解決にはなってないけど。
「……紺藤。悪いが、俺はお前の気持ちには応えてやれない」
史記が普段通りの無表情で、道路にうずくまる紺藤に告げた。男に好きだと告げられても動揺しない男、神河史記。さすがだ。その鋼の精神、あるいは無関心を、僕に少しでも分けてもらいたいものだ。
「そういえば、史記って好きな人とかいないの?」
ふと気になったことを僕が尋ねると、史記は珍しく困った顔をした。
「むう……考えたこともなかったな」
「そうなんだ……」
「うむ。機会があればじっくり考えてみることにしよう」
なんとなくトンチンカンなことを言う史記だった。
☆
そんなこんなで僕たちは、京都で一、二を争う観光名所、清水寺《きよみずでら》へと到着した。
昨日の事件のこともあってさすがに観光客は少ない。その代わりに警察が警備に来ているかと思いきやそうでもなく、本気で僕たち以外にほとんど人がいない。どうやら京都府警は、昨日の事件の捜査にかかりきりのようだ。
「あ、吏架ちょっと滝の水飲んでくる〜」
そう言って吏架ちゃんは、元気よく音羽の滝へと走っていった。ほんと可愛いなあ。音羽の滝ってたしか美容に効くんだっけか。おいおい、吏架ちゃんがこれ以上可愛くなったらほとんど犯罪じゃないですか。じゅるり。
「……俺も音羽の滝を調べる。滝の水から微量なスカラー波が検出されるという噂があるのだ。共産主義者の陰謀の可能性が高い」
すたすたと史記が吏架ちゃんのあとに続く。
「それじゃあボク、せっかくだから成就院の方へ行ってくるよ」
深春がふわふわと木々を突っ切って上の方へ飛んでいく。
僕と一ノ瀬さんと紺藤(気絶しているのを一ノ瀬さんが片手で引っ張ってきた)が、拝観の受付場所に取り残された。
「……久遠。私はここに来る途中に言ったと思う。『絶対に勝手な行動を取るな』と」
押し殺した声で言う一ノ瀬さん。顔には穏やかな微笑みが浮かんでいるのだが、それがまたすごく怖い。
「そんなに……私は人望がないのか? 未熟なりに精一杯やってきたつもりなのに……しょせん私ごときにクラス委員長なんて分不相応だったのか? それともあれか? みんなで示し合わせて私をからかっているのか? これは新手のイジメか?」
「そんなことはないと思うけど……。ま、まあそれほど気にすることないんじゃないかな。一応清水寺《きよみずでら》の中にはいるわけだし、バラバラになったわけでも……」
「ふう――……」
一ノ瀬さんは大きくため息を吐《つ》き、
「うまくいかないものだな……世の中とは……」
しみじみと言った。
「と、とりあえず、僕たちは本堂にでも行ってみる?」
僕が言うと、一ノ瀬さんは微かに笑い、
「……そうだな……。せっかく二人きりになれたんだし」
と物騒なことを言った。……はあ、憂鬱《ゆううつ》。清水の舞台から飛び降りて死にたい気分だ。
「……たしか清水の舞台って、実際に飛び降りた人が何人かいるんだよね」
「ああ。京都府が〔飛び降り禁止〕という条例を出したほどだからな。……ちなみに、飛び降りて生還した人間も意外と多いぞ」
ともあれ、僕と一ノ瀬さんはその場に紺藤を置いて、清水の舞台で有名な本堂へ続く階段を上っていった。
☆
「ふう……いつ来てもすばらしい眺めだな……」
清水の舞台の上で、欄干《らんかん》から身を乗り出すように景色を眺め、一ノ瀬さんが満足そうな微笑みを浮かべた。
たしかに彼女の言うとおり、いい眺めだ。音羽山の新緑の向こう側に、京都の街並みが見える。本当に平和そのものな景色で、昨日テロがあって寺の幾つかが全焼したことが嘘のように思えてくる。
本堂にも観光客の姿はほとんどなかった。まるで貸し切りみたいでちょっと気分がいい。
と、そこで僕の視界に、見覚えのある人の姿が映った。
舞台の端の方で、欄干にもたれかかってぼうっと佇《たたず》む、一人の女性。真っ赤な着物を身に纏《まと》った、髪の長い絶世の美女(ただし顔色悪い)。
彼女はたしか――美弥乃宮都古《みやのみやみやこ》さん。
僕は彼女の方へ近づいていく。一ノ瀬さんも気付いたようだが、僕と彼女を交互に一瞥《いちべつ》して、また京の遠景へと視線を戻した。
五メートルほどのところまで近づくと、彼女も僕の接近に気付いたらしく、
「あら、あなたは――――」
僕を見て、穏やかだがどこか儚《はかな》げに笑った。
「――久遠悠紀君、でしたね」
「はい。覚えていてくれて光栄です。美弥乃宮都古さん」どうにか噛まずに言えた。「またお会いできましたね」
「ええ……。まるで奇跡のような偶然です。あなたには……もう一度お会いしたいと思っていましたから……」
艶《あで》やかに微笑む。……いいなあ。オトナの女の人っていいなあ……。
都古さんは、僕から視線を外し、景色に目をやった。その横顔も、洒落にならないほど美しい。
「ねえ久遠君。昨日、あちこちで古い建物が燃やされちゃったわね……」
「そうですね。残念です。でも、お互い無事でよかったですね。僕なんて昨日二条城《にじょうじょう》にいたから大変でしたよ」
「そうなの……。私は昨日もここにいたから、危ない目には遭《あ》わなかったわ」
「そうですか」
相づちを打ち、僕も遠くの景色に目をやる。
「でも久遠君。色んな建物が燃えてしまったというのに、ここから見える景色は、昨日と何も変わっていないわ……」
僕が抱いた感想と同じことを口にする都古さん。
「昔からある古いお寺がいくつか燃えたところで、この古都にとっては微々たることでしかない……。それが、悠久の歴史を積み重ねてきた街の強さなのね……。それに比べて私たち人間は……なんて儚《はかな》いのかしら」
都古さんが息を吐く。ただ呼吸するだけなのに、どうしてこの人はこうも色っぽいのだろうか。
「私がやったことは――ほとんど何の意味もなかったわ…………」
…………え?
「都古さん、それってどういう……」
僕が訝《いぶか》ると、都古さんは僕の方を向き、着物の袖《そで》から何か四角いものを取り出した。
「久遠君、これが何だか判《わか》るかしら」
「…………リモコン、ですか?」
首を傾げつつ僕は答えた。平べったい長方形に、幾つものスイッチがついていて……どこをどう見てもリモコンだった。
「じゃあ、何のリモコンか判るかしら?」
都古さんが嫣然《えんぜん》と微笑む。
………………………………………………なんか。猛烈に。嫌な予感が。するんですけど。
「えっと…………扇風機?」
「はずれよ。正解はね、」
都古さんがたくさんあるスイッチの一つを押した。
爆発した。
清水《きよみず》の舞台の対面に立っている子安の塔と呼ばれる三重塔のてっぺんが、火柱アンド爆音とともに爽快《そうかい》にぶっ飛んだ。炎は上から塔を包み込むように一気に燃え広がっていき、すごい勢いで白煙を立ち上らせた。
「な――っ!? これは……」
僕は唖然としてその光景を眺める。
「驚いた?」
悪戯っぽく都古さんが笑う。
……どうやら、残念ながら嫌な予感は的中らしい。まあ、僕の嫌な予感はほとんど外れたことがないんだけど。
「今のは、都古さんが……?」
ほとんど確信しつつ、僕は尋ねた。
「ええ」
「……もしかして、昨日の同時多発テロも?」
「ええ。私がやったの。自殺教のしわざという噂もあるみたいですけど……全《すべ》て、私一人でやったことなのよ。遠隔操作できる高性能な爆弾と発火装置さえあれば、そう難しいことではないわ。お寺や神社には監視カメラも赤外線センサーもないから……普通のビルよりもよっぽど簡単」
あくまでも淡々と、寂しげな表情のまま語る都古さん。
「……どうして、こんなことを?」
「……それはね、久遠君……。長い長い時を刻んできたものを、壊してしまいたかったからよ。傷心旅行でこっちへ来たけれど、どうしても許せなかったの……。長い間、ずっと変わらないものがあることが。古いお寺を見るたびに、私の心は行方不明になったあの人のことを思い出してざわつくの」
「……そんな理由で……」
「私にとっては、十分な理由よ。あなたにだって少しは解るでしょう? 恋人を喪《うしな》ってしまったのなら……。その恋人を……愛していたのなら…………」
……僕に何を期待しているんだこの人は……。妙な仲間意識を持たれても困るのに。
と、そのとき。
「久遠!」
一ノ瀬さんが駆け寄ってきた。
「またしてもテロのようだ……。とにかく他の連中と合流するぞ」
それから都古さんにぺこりと一礼し、訝《いぶか》しげな顔をして、
「ところであなたは?」
都古さんが優雅にお辞儀をしてから答える。
「美弥乃宮都古、と申します」
「……一ノ瀬さん、彼女が今あれを爆破した犯人。ついでに昨日のテロもこの人のしわざらしいよ」
僕が言うと、一ノ瀬さんはよく意味を理解できなかったらしく、変な顔をした。
「何を言っているんだ? 久遠」
「こういうことですわ」
そう言うと都古さんは、一ノ瀬さんに見せつけるように爆弾の起爆スイッチを押した。
燃え上がったのは、清水《きよみず》の舞台の東側に位置する、奥の院、阿弥陀堂《あみだどう》、釈迦堂《しゃかどう》の三つの建物だった。爆発音はなく、屋根からいきなり炎が噴き出て、さながらとぐろを巻く蛇のように建物全体を徐々に呑み込んでいく。まるで意思を持っているかのように統率された感じがする炎の動きである。
「……これまた、凝《こ》った仕掛けですね……。準備にも手間がかかったでしょうに」
僕が半ば呆れて言うと、都古さんは嬉しそうに微笑み、
「慣れればそれほどでもありません。それに、楽しいですから。私の唯一の趣味なんですよ。私にとって、爆発は芸術なんです。職場では私のことを〔炎遣い《サラマンダー》〕なんて言う人もいましたっけ。……あの人も……私の作る爆弾は素敵だよって褒《ほ》めてくれました……」
なんて嫌な褒め方をする男だ。ていうか都古さん、それはどう考えても利用されているだけなのでは?
「……な……なんということを……!」
一ノ瀬さんが怒りに震える声で呟く。そういえば彼女は神社仏閣マニアだったっけ。
「……都古さん。あなたが犯人だったということは分かりました。でも、どうしてそれを僕に教えたんですか? 警察に通報すればあなたはすぐに指名手配ですよ。それとも美弥乃宮都古というのは偽名なんですか?」
「いいえ、本名です。言ったでしょう? 子供の頃それでいじめられたって。いじめていた子の家を燃やしてさしあげましたから、お互い様なんですけどね」
愉《たの》しげに――どこか壊れてしまったような笑みを浮かべる彼女。
「……いいんです……警察に通報されても。だって私は……ここで死ぬつもりですから。あの人のいない世界に、生きていても仕方ありません……」
「……そうですか。まあ、死にたいならご自由に。それじゃ僕たちはこれで。行こう、一ノ瀬さん」
「え? あ、おい」
僕は一ノ瀬さんの手を引き、都古さんに背を向けた。が、その背後から声がかかる。
「待ってください久遠君……。あなたには……私の死出の旅路に付き合っていただきたく思います」
「なんで僕が!?」
都古さんはほんのりと頬を染め、嫣然《えんぜん》と微笑む。
「……うふふ……だってあなた……あの人と似ているんですもの……」
「似てるって……外見が?」
それはまた随分と童顔な人だったんだな。都古さんのイメージから、勝手に三十くらいのオトナの男を想像していたのだが……ひょっとして年下とか?
「いいえ。外見ではなく、内面がよく似ているんです。口がよく回るところとか……世の中をなめたような雰囲気とか……決して自分の本音を出そうとしないところとか……」
「……短期間でよく見てるじゃないか」一ノ瀬さんがボソリと言った。うるせえ。
「それから……あなたも、恋人を喪《うしな》ってしまったのでしょう?」
まるでその寂しさを受け止められるのは自分だけだと言うような口ぶりで、都古さんは言った。こんな状況でなければぜひ受け止めて欲しいのだが、
「……たしかに僕の恋人の深春は事故で死にました。でも僕にはもう、新しい恋人がいるんです! 僕は彼女がいて超幸せです。つねにラブラブってます」
僕は言い切った。都古さんが目を細める。
「……その新しい恋人というのはひょっとして……」
「ええ。ここにいる一ノ瀬可夜子ちゃんです。さあ可夜子、僕たちのラブラブっぷりをこの人に見せつけてあげよう」
「へ? え? な、なに?」
思考が追いつかず混乱する一ノ瀬さんに、僕は、
ちゅーをした。
「むぐ――――!」
驚愕に目を見開き、抵抗しようとする一ノ瀬さんの唇を、そっと舐める。
「はぅ……」
すると彼女の身体から急速に力が抜けていく。僕は彼女の口に舌を突き入れ、蛇のごとく絡める。
「あぅ……う……うぅん……や…………う……ん…………」
三分ほどキスを続けて、唇を離す。一ノ瀬さんは潤んだ目でぽーっと僕の方を見ていたが、はたと我に返って顔を怒りの色に染める。
「な、なにを――」
そんな彼女の耳元に、優しく囁《ささや》く。
「可愛いよ、可夜子」
ボッ! という擬音《ぎおん》が実際に聞こえるほどに紅潮し、一ノ瀬さんは口を閉ざした。……というより、あまりのことに言葉が発せなくなっているのだろう。
「……というわけで都古さん。僕と彼女はこのようにたいへんラブラブなわけです。僕はあなたの心中に《しんじゅう》は付き合えません」
「……そう……なの……」
都古さんは呆然として呟く。と、そこで。
「こらあああああああゆうううううきいいいい――――!!」
……最悪のタイミングで、最悪なやつが空から現れた。
「み、深春!?」
一ノ瀬さんが慌てた様子で唇を拭う。深春はそんな彼女を一瞥《いちべつ》したあと僕に詰め寄り、
「ちょっと悠紀! いくらなんでもキスはやりすぎじゃないキスは! ひどいよ! ボクとはまだしたことないのに!」
あまりの剣幕に気圧《けお》されながらも、僕は弁解する。
「で、でもこの場はこうするしか……」
「言い訳しない!」
「悪かった。反省してる」
「謝っても遅い!」
「……べつにいいじゃん。お前だってひかりちゃんと……」
「……そ、それはそれ! これはこれ! ひかりちゃんは愛人だからいいの!」
「うわ、開き直りですか!?」
僕が呆れる。そのとき。
「…………どういうこと……なのかしら?」
冷たい声が背後から響いた。都古さんである。
「深春、というのはたしか、亡くなったあなたの恋人の名前ではなかったかしら……」
「……あはははは。……ええ、たしかに深春は死にましたよ。でも、ゴーストになって、こうして元気に楽しくやってます。超らぶらぶです」
「そう……なの…………」
都古さんは俯《うつむ》いた。
「…………して」呪詛《じゅそ》のような声。「……どうして……どうして…………いつもいつも……私ばかりがこんなにも不幸なのよ……。……現実はいつも私を裏切る…………世界は常に私を嘲笑《あざわら》う……! どうして……? どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして――――どうしてなのよおおおおおお――――――ッ!!」
激高する都古さんに、僕は肩をすくめて冷たく言い放つ。
「……さあ? 普段の行いが悪いからじゃないですか?」
「…………! ……殺す……ッ!」
呻き、都古さんはリモコンを懐にしまう。手が再び懐から出てきたとき、彼女の右手には、黒光りする拳銃《けんじゅう》が握られていた。
「うわマジですか!? あの……ちょっと訊《き》きますけど、ひょっとしてそれ、ゴーストを殺せるやつじゃないですよね?」
都古さんは訝《いぶか》しげに首を傾げた。どうやら違うらしい。黒違和《くろいわ》が使っていたのと同じような見た目だから、もしやと思ったのだが。
……安心した。……つまり今回は、深春を守る必要はないということだ。
「銃、か……」
一ノ瀬さんが都古さんを睨《にら》みながら呟く。
「……いっそ久遠などさっさと撃たれてしまえばいいと少しだけ思うのだが、さすがにそういうわけにもいかないか……」
「あの。考えてることが口に出てるんですけど」
「気にするな。ただの本音だ」
やっぱりさっきのことを相当怒っているらしい。あとが怖いなあ……。もちろんあれには、わざと嫌われてしまおうという魂胆もあったりするんだけどさ。
「……それにまだ、昨夜の返事を聞いていない。さっきの破廉恥《はれんち》な行為のことは、とりあえず水に流してやる。……だが演技とはいえ、まがりなりにもつい昨夜告白したばかりの人間にああいうことを平然と出来る貴様の性根は、いつか絶対に叩き直してやるがな」
……お願いですから僕のことはもうほっといてください。
「それから私は――」一ノ瀬さんは重心を低くし、何やら構えをとる。そういえば彼女、格闘技の心得があるんだっけか。「――古都を破壊するようなテロリストを見逃す気など毛頭ない。宮野……なんとかさんとやら。大人しく捕まってもらおう」
「美弥乃宮都古ですっ!」
都古さんが引き金をひく。空気を切り裂く乾いた銃声。しかしその銃弾を、一ノ瀬さんは半歩動いただけで躱《かわ》した。何者ですか!?
「なんだ……危なかったと思ったが……ただのへたくそか」
「う……」
一ノ瀬さんが吐き捨てると、都古さんは悔しげに呻いた。
……なるほど。銃弾の飛んでいった方向をよく見てみると、一本の柱に当たっていた。一ノ瀬さんのいる位置とはまったく別の方向で、べつに彼女が避《よ》けなくても当たらなかっただろう。
「む、難しいのよ銃の扱いは!」
テロリストにあるまじき発言をする都古さん。
「知らないな、そんなことは」
言い捨て、刹那《せつな》。
一ノ瀬さんはまるで一陣の風のごとく、都古さんとの距離を一瞬にして詰める。速い!
接近、そのまま掌底《しょうてい》を放つ。これは決まったな、と僕は思った。だが、
「なに!?」
一ノ瀬さんの驚愕の悲鳴。都古さんはなんと、突き出された一ノ瀬さんの腕を、右足で蹴り上げて、そのまま左足の回し蹴りで胴を攻撃。一ノ瀬さんは驚異的な反射神経で腕をクロスさせてガードするも、その身体は大きく後ろに吹っ飛んだ。
僕は慌てて彼女に駆け寄る。
受け身をとっていたらしくすぐに立ち上がり、一ノ瀬さんは呻く。
「…………なるほど……銃はヘタクソだが格闘の方は一流というわけか……」
「…………都古さん……着物なのにぱんつ穿《は》くのは邪道じゃないですか……」
ごん、と無言で一ノ瀬さんは僕の頭をげんこつでぶん殴った。わりと手加減ナシ。
「痛いよう……。義父さんにも殴られたことないのに……」
「……なるほど。だからお前はそんなふうに育ってしまったのか」
「まあね。うちの義父さん、めちゃくちゃ甘いし」
軽口を叩きながらも、意識は都古さんに集中。
「悠紀、カヨ、がんばってね……姉さんはここで見ていることしか出来ないわ」
「誰が姉さんだ!」
一ノ瀬さんが深春のボケに対してツッコミを入れ、その声を合図に二人同時に床を蹴って都古さんに接近。二人がかりなら、どうにか勝てるだろう。
一ノ瀬さんは右に回り込んで掌底を。僕は正面から蹴りを。
だが、都古さんは僕の足を右手で掴み、一ノ瀬さんの手首を左手で掴み、まるで指揮棒を振るような動きで僕たちを同時に床に転がした。
「いつつ……!」
どうにか受け身をとって転がり、すぐに立ち上がって僕は距離をとる。一ノ瀬さんの方は、立ち上がると同時に蹴りを放つ。しかしそれも都古さんの右腕に弾かれ、一ノ瀬さんは大きくバランスを崩して吹っ飛ぶ。
都古さんは悠然《ゆうぜん》と立ち、余裕の表情で僕たちを睥睨《へいげい》する。
……つ、強い……。細身で、それほど怪力ではない筈なのに、まったく歯が立たない。力の使い方が圧倒的に巧《うま》く、どこでどんな動きをすれば最も効率的か、相手の攻撃に対してどう対応すれば最小限の力でそれを返せるか、熟知しているのだ。重要文化財を幾つも炎上させた芸術的なまでの計算高さは、体術においても健在らしい。
と、そのとき後ろから声がした。
「おーい久遠……って、あれ!? 都古さんじゃないッスか!」
清水《きよみず》の舞台に、もう一人の人物が上がってきた。紺藤は僕たちの様子を見て不思議そうな顔をする。
「あ、あれ? お前ら何やってんの?」
「紺藤。都古さんは実は悪い人だったんだ。やっつけてくれ!」
「へ? 何言ってるんだ?」
「詳しい説明はあとだ!」
「お、おう……」
混乱する紺藤。
「……よし、もしもお前が都古さんを倒せたら、ちゅーしてやる」
「おっしゃあっ! わかったぜ! うおおおおおお――――!」
僕が言うと、紺藤は鞄から奈良で買った二本の木刀を取り出し、猛然と都古さんへと突撃していった。馬鹿だ……馬鹿すぎる。
「……! こ、来ないで!」
都古さんもあまりの馬鹿っぷりに驚いたらしく、紺藤に銃口を向けた。だが紺藤は、一瞬怯《ひる》んだ様子を見せたものの、立ち止まらない。おお、なかなかかっこいいぞ紺藤!
ぱんっ! 都古さんが発砲。
外れた。
…………信じられないくらいヘタクソだなー。今、銃弾が真上に飛んでいったぞ?
「うおおおおおおお――――!」
紺藤の突撃! そして、
「きゃあ!」
「うわああああああ――――!」
どごっ、と頬に強烈なストレートをもらい、吹っ飛ばされてそのまま動かなくなる。
「つ、使えねえ……」
自分の命も顧みず敵に向かっていったところは立派だ。「そこまで僕のことを……」と、本来なら感動するべきところなのだろうが……いかんせん、情けなさ過ぎる。
気持ちは本物でも、本物なのが気持ちだけというのはダメだろう。せめて少しはそのヘタレっぷりをどうにかしろ。なんで昨夜は、こんな馬鹿にちょっとでも心を動かしてしまったのだろうか……。
「……まったく。何しに来たんだお前は」
足下でぴくぴくしている紺藤に、呆れた顔をする一ノ瀬さん。激しく同意だ。
「……あ、愛の力で何倍もパワーアップした筈だったのに……ぐふっ……」
紺藤数馬、リタイヤ。
「……ふむ、なるほど。愛の力、か……。たしかにそれは間違ってはいない。だが、ゼロに何を掛けてもゼロだ」
一ノ瀬さんが真顔で紺藤の存在を全否定した。相変わらず彼女、紺藤にはどこまでも冷たい。恋敵《こいがたき》だから――というわけでもないんだろうな。思えば僕が紺藤と初めて会話を交わしたときも、こいつは一ノ瀬さんにぶっ飛ばされてたし。
「……それはさておき、どうする? とにかく爆弾の起爆スイッチと拳銃だけ奪えればいいと思うんだ。あとは警察に連絡するなりすればどうとでもなるし」
一ノ瀬さんに、僕は言った。
「そうだな……。だが、それにはやはり力ずくでいくしかない。圧倒的な力で、相手の計算を上回るんだ」
「そうなんだよねえ……。でも、それができれば苦労はしないよ」
「久遠」
不意に、一ノ瀬さんが真剣な顔で僕を見た。
「というわけで、パワーチャージだ」
そう言って。
彼女は僕に、キスをした。
「む――!?」
「ちょっ、か、カヨ!?」
や、やばい……身体から抵抗する力が抜けていく。頭から抵抗する意思も抜けていく。
意識が真っ白になって――……溶けちゃいそう。……あと……息が、できない。……舌が……はう……一ノ瀬さん……君はどこでそんなテクニックを……! ……なに、これ……さっきの僕のアレよりも何倍も……スゴイ…………。
「……ぃ……いちのしぇしゃ……ん……だ……はぅ……め……ん……ぁん…………」
…………………。
………………………………………。
「ぷはあっ!」
唇を離し、一ノ瀬さんはほのかに頬を染めつつも、凄みのある笑みを浮かべ、口元を拭った。
「愛の力でパワーぜんかいだ」
それから彼女は僕の顔を見て悪戯っぽく笑う。
「どうした久遠。耳まで真っ赤だぞ?」
耳まで真っ赤であるらしい僕は彼女に抗議する。
「な、ななななにするんだよいきなり!? ひどいじゃないか!」
「さっきのお返しだ。……やられっぱなしは、性に合わない。思えば修学旅行が始まって以来、お前にはからかわれ続けたからな……ようやくリベンジできた」
そして僕のあごを片手でくいっと持ち上げ、凄みのある笑みを浮かべた。
「あんまり私をなめるなよ? このセクハラ小僧が」
そう言って軽くキス。またしても僕はカッと顔が赤くなるのを抑えることが出来ない。この前のひかりちゃんのときもそうだったけど……僕はどうやら、不意打ちに弱いらしい。
「うう〜悠紀ひどいよお……。カヨと二回もキスするなんて」
僕なのか。僕が悪いのか。文句を言おうにも、頭が朦朧《もうろう》として口に出せない。
「こ、公衆の面前でなんて破廉恥《はれんち》な……!」
都古さんが青白い顔をさらに青ざめさせて、掠《かす》れた声で言った。
「公衆? いつからテロリストが公衆になったんだ?」
構えながら、一ノ瀬さんは強気に言い放つ。その目が放つ強烈な覇気《はき》は、それまでとはまるで別人のようだった。研《と》ぎ澄まされた刃《やいば》のような眼光に射竦《いすく》められ、都古さんが怯《ひる》む。
「……なんだか……身体が軽くなった気分だ」
実際にはそんなことがあるわけないのだが、一ノ瀬さんは軽く伸びをしてそう言った。受験勉強のような頭脳労働だけでなく、肉体労働においても、心理的な影響というのは大きく作用する。その傾向は特に、本来の能力が高い者ほど顕著《けんちょ》に見られる。メダル確実と言われていた選手がオリンピックでは全く力を発揮できなかったり、弱小のサッカーチームが地元では最強のチームを圧倒したりするのが、その典型的な例だ(ちなみに漫画やアニメなどでは、このような現象を〔ご都合主義〕と呼ぶこともある)。
――だから人々は、信じてもいない天神様にお祈りしたりして、少しでも気持ちを落ち着けようとする。自分の力を発揮するのを阻害する枷《リミツター》を、取り払おうとする。
今の一ノ瀬さんも――これまでずっとまとわりついていた〔恋する乙女〕という属性《リミッター》を外し、全能力を発揮できるように解放されていた。自分の力で、枷《かせ》を断ち切った。
……強いなあ……この人は、本当に強い。惚れてしまいそうだ。
「では、行くぞ」
軽いステップとともに、一ノ瀬さんの姿が僕の隣から消えた。長い黒髪の残像だけがそこにあった。一瞬後、彼女の身体は都古さんの正面まで来ている。なんて非常識な!
「――!」
都古さんが反応、素早いミドルキック。だがキックが相手に届くその時には、一ノ瀬さんの身体は、都古さんの視界からもかき消えていた。一瞬にして敵の左側に回り込んでいた一ノ瀬さんの、勢いに乗った掌底《しょうてい》。脇腹を狙ったその一撃を都古さんは、どうにか右腕で防御するも、衝撃は殺し切れずたたらを踏む。
「破ッ!」
一ノ瀬さんが気合いの声を吐く。都古さんにできた隙を見逃さず――ハイキック。右の手首を蹴り上げた。
「うっ……!」
苦痛の声とともに、都古さんが銃を取り落とす。床に落ちたその銃を、一ノ瀬さんは僕の方に蹴飛ばした。勢いよく滑ってきた銃を、僕は足で止めてから拾う。
「くっ……!」
都古さんがやけくそ気味に反撃の蹴りを出す。一ノ瀬さんはそれを回避して後退。そのままいったん距離をとる。それからやけに楽しげに、
「うん。ようやく本調子に戻ってきたぞ」
腰に手を当て、豊かな胸を反らしながら言った。〔猟奇《りょうき》委員長〕一ノ瀬可夜子、完全体――といったところか。すさまじい。
そういえば以前、深春が彼女のことを、〔強敵と書いて友と呼べる唯一の使い手〕と評したことがあったっけ……。女の子が親友を紹介する台詞とは思えなかったが、しかしそれはまったくの事実であったわけだ。
都古さんとの戦いは一ノ瀬さんに任せておけば大丈夫そうだ。僕はそう思った。
だが。
「……くっ! こうなったら……!」
都古さんが素早く懐に手を入れ、リモコンを取り出す。うわ諦めが早すぎ! こうなったらって、最後の手段に出るのはもうちょっと適当にやりあってからだろ普通! 様式美《おやくそく》ぐらい守れよ!
「ち――ッ!」
一ノ瀬さんが焦りの表情を浮かべて飛びかかるが、さすがにスイッチ一つ押す動作には間に合わない。
何の躊躇《ためら》いもなく都古さんは起爆スイッチを押し――爆音とともに巨大な火柱が上がった。場所は――本堂の中心。振動で足下がぐらつき、むせかえるような熱気がこちらにまで伝わってきた。
「やめろ!」
一ノ瀬さんはリモコンを奪おうと飛びかかるが、都古さんはひらりと後ろに跳躍して距離をとり、鋭い声で叫ぶ。
「離れて! でないと舞台の柱を爆破します!」
「な……!?」
一ノ瀬さんが絶句して動きを止める。
……清水《きよみず》の舞台は、懸造《かけづくり》という建築様式で、断崖の上に架かっている。その下で爆発が起これば、簡単に舞台は崩れ落ちてしまうだろう。
「そんなことをすれば、あなたも巻き込まれるぞ!」
「……かまいません。言ったでしょう? 私はもともと、ここで死ぬつもりだったんです。清水寺と、久遠君を道連れに。でも……一ノ瀬さん、でしたっけ? うふふ……あなたと一緒というのも、悪くありませんね……」
そう言って、凄絶《せいぜつ》な笑みを浮かべる。
「く……!」
一ノ瀬さんは悔しげに呻き、ゆっくりと後退する。やれやれ……ツメが甘いな。仕方ない、やっぱり僕も動くか。
「都古さん。リモコンを捨ててください」
そう言って、僕は右手で銃を無造作に構える。すると都古さんは、小馬鹿にしたように笑った。
「うふふ、その距離で当てられるものなら当ててごらんなさい? 拳銃の扱いって、すごく難しいんですよ?」
たしかに僕と都古さんの距離は十メートル以上もある。
「その大きさの拳銃では、素人が撃ってもまず当たりません」
ああ、その通りだ。だが、
ぱんっ!
かまわず僕は撃った。
がしゃっ!
銃弾は、彼女が手にしている起爆スイッチの中心部を貫通した。
「そんなっ!?」
都古さんが悲鳴を上げた。まじまじと、穴の空いたリモコンと僕の顔を見比べる。
「素人だなんて、誰が言いました? それに、あなたみたいなヘタクソと一緒にされては困ります」
僕は肩をすくめる。深春が楽しそうに笑う。
「ひゅー、悠紀ってばやるね〜」
……〔未至磨抗限流《みしまこうげんりゅう》〕――稀代《きだい》の戦士、〔ブーメランばばあ〕未至磨ツネヨが生み出したこの護身術(と本人は言っている)は、大きく三種類の戦い方に分けられる。
深春と義妹《いもうと》のくおん、それに僕は、それぞれ一種類ずつを専門に学んだ。
深春は格闘術を。くおんは剣術を。そして僕は――銃術を。
喪髪《もがみ》デパートの事件では右肩を撃たれたせいでせっかく銃を手に入れても何も出来なかったけど……今回は違う。右手が肩まで上がらなくても、銃の射線を腕の延長のように捉《とら》えることさえ出来ればまず狙いは外さない。リハビリのときにもけっこう練習したし。まさかこんな早く役に立つ日が来るとは思わなかったけど。
「そんな……なんでただの高校生が銃なんて……! ずるいわ……」
都古さんが呻く。
「まあ、のび太くんの特技も早撃ちですしね。僕は『ドラえもん』におけるのび太くん的位置づけのキャラなんで。基本的に他力本願だし」
「でも、いざというときにはちゃんと格好いいとこ見せてくれるんだよね」
深春が照れることを言った。それには聞こえないフリをして、
「……というわけで、チェックメイトです。都古さん。大人しく自首してください。そろそろ火がこっちにも回ってきそうですし」
銃を構えたまま、僕は冷たく告げる。……都古さんは。
「……どうして……。どうして私だけがこんなにも不幸なの……」
涙を滂沱《ぼうだ》と流し、誰にともなく問いかける。
「ねえ、私が何をしたって言うの? 早口言葉みたいな名前のせいでいじめられて、学校に行けなくなって、そのうち家にも居場所がなくなって、やっと巡り会えた好きな人も、私には何も言わずに行方不明になって――今だって……死ぬことさえ、自分の自由にはできないだなんて……。こんなの……おかしいわよ。……世の中は……世界は……どうしてこんなにも狂っているの? どうして私は幸せになれないの? こんな世界は、みんな壊れてしまえばいいのよおおおおお――――ッ!」
泣き崩れ、既に機能しない起爆スイッチを連打する都古さん。カチカチという虚しい音が、何故だかひどく鮮明に聞こえた。
……ったく。
僕はため息を吐《つ》いた。
まったく――羨ましい。
そうやってなんでもかんでも誰かや何かのせいに出来たなら、どんなにラクだろうかと思う。皮肉でもなんでもなく、本当に心の底から羨《うらや》ましいと思う。
だってそれは――僕には決して真似できない生き方だから。
名誉も不名誉も希望も絶望も愛も憎しみも恋も失恋も好意も敵意も献身も殺意も夢も現実も栄光も没落も味方も敵も恋人も恋敵《こいがたき》も親友も怨敵《おんてき》も聖人も廃人も――全《すべ》て自分次第でどうにかなるものだと思っているような僕には。とてもじゃないが……真似できない。だから羨ましくて仕方がない。
悪いのは自分ではなく世界の方である。気に入らない。気に入らなければ壊せばいい。壊してしまえば全てなかったことになるから。それでも駄目だったら死んでしまおう。死ねばきっと楽になれるから。
……そんなふうにシンプルに考えられたら、きっと生きていくのはすごくラクだろう。
不幸な自分に酔って生きられたなら、これほどハッピーなことはない。
この世界に逃げ場があるのだと思い込めたなら、これほどステキなことはない。
……ほんと、羨ましい。でも、
「……真似しようとは、カケラも思わないけどね。……まったく……いい年こいてお気楽に生きてるんじゃねえよ」
シニカルに嗤《わら》って、僕は拳銃を下ろした。
……実に、手応えのない相手だった。お得意の嘘も虚言《ハッタリ》も小細工も必要なく、単純な暴力だけで十分に対抗できる、昨日の不良たちと同じ、ただの雑魚。こんなのに構っている暇はないのだ。このあと、一ノ瀬さんと紺藤の告白という超難敵をどうにかしなくてはならないのだから。
テロリストと戦うより恋愛の方がよっぽど難しいなんて、我ながらどうかしている。けれど、世の中なんてそういうものだ。
この戦いは、ただのくだらないケンカ。昨夜の告白は、戦争。少なくとも、僕の世界においては。
世間的に見てどうかなど関係ない。
地球の裏側の大虐殺《だいぎゃくさつ》よりも、目の前の一人の死。
歴史に残る大事件よりも、同級生の告白。
僕の世界は――すごく狭い。厭《いや》になるくらいに、狭い。
「……同情はする。だが容赦はしない。あなたを警察に突き出す」
一ノ瀬さんが毅然《きぜん》として言い放った。うーん、やっぱり格好いいなあ。
彼女がうずくまる都古さんに手を差し伸べ――た、そのとき。
「あ、みんないたあ。ねえねえ、なんだかいっぱい燃えてるよー」
……相変わらず可愛らしい声ではしゃぎながら、吏架ちゃんが姿を現した。
刹那《せつな》。
都古さんがいきなり立ち上がり、脱兎のごとく吏架ちゃんの方へ駆けだした。突然のことに、僕も一ノ瀬さんも反応できなかった。
「きゃっ! な、なにっ?」
「吏架!」
「動かないで! 動けばこの子の首をへし折ります!」
都古さんが吏架ちゃんを後ろから羽交《はが》い締めにして叫んだ。
「くっ……卑怯な……」
「……うふふ……こうなったら、炎がここを焼き尽くすのを待つだけよ。……みんな仲良く――焼け死んでちょうだい……」
陰鬱《いんうつ》な笑みを浮かべて、都古さんは言った。
と。
「…………(調子に乗るなよ、年増《としま》女が。その汚らわしい手で私に触れるな)…………」
吏架ちゃんが小声で何かを言ったのだが、よく聞こえなかった。
「え?」と都古さんが戸惑う。次の瞬間。
「きゃー、吏架こわいですぅ!」
吏架ちゃんはいきなり都古さんの腕の中で飛び跳ね、都古さんのアゴに強烈な頭突きをぶちかました。
「ひゃげっ!?」
よくわからない悲鳴を上げ、都古さんが仰向けにぶっ倒れる。吏架ちゃんは倒れたままの都古さんに、
「きゃーいやですー殺さないでー! 吏架いい子にするよお! みんな助けてー!」
などと黄色い悲鳴を上げながら、容赦ないヤクザキックをズカズカと見舞った。
……………………。
……………。
…………諸事情により、具体的な描写は割愛させていただきます。
「う、ううぅ……」
目を背けたくなるような暴行が終わったそのあと、ボロボロになった都古さんがようやく立ち上がる。綺麗な赤い着物にも無数の足跡がついている。僕たちは少し同情の目で彼女を見つめた。
「ご、ごめんなさいお姉ちゃん。吏架、ちょっとびっくりしちゃって……」
……吏架ちゃんよ。さすがにここまでやっといてその言い訳は苦しいぞ。
「……も、もう……もういや……私は……もう、いやよ…………」
ふらふらとした足取りで、舞台の縁《へり》へと向かっていく都古さん。
「あ!」
唖然としていた一ノ瀬さんがその意図に気付き、慌てて飛び降りを止めようと走るも、距離が離れすぎていた。
「さよなら――」
都古さんの身体はふわりと欄干《らんかん》を越え、文字通り清水《きよみず》の舞台から落下――――
だが!
その足を何者かの手が掴み、都古さんの身体は再び舞台の上へと引っ張り上げられた。
漆黒のスーツと、日の光に輝く頭頂。
時山時雨先生だった。
「目の前で自ら命を絶とうという者を、放ってはおけん……」
いきなり現れて人が落ちるのを止めるというものすごい離れ技をやってのけたというのに、先生の口調はいつもとまったく変わりない。炎と夏の太陽で相当暑いのに、汗一つかいていないのもすごい。
「は、離してくださいお坊さま。私はもう生きてはいけないのです!」
……お、お坊さまって……。でも、たしかに時山先生はあまり教師には見えない。しかもここは寺である。禿頭《とくとう》の男がいきなり出てきたら、僧侶と間違うのも無理はない。
「……娘よ……聞きなさい……」
都古さんの言葉を無視し、いきなり先生は語り始めた。
「その昔……ある偉人がこう言った……。発明とは一パーセントの閃《ひらめ》きと九十九パーセントの努力である、と……」
……どうしよう、本気で時山先生の意図がサッパリ解らない。何故に今、この状況で、……エジソン?
だが。先生の言葉を聞くや、都古さんの目がハッと見開かれた。何故か感銘を受けてしまったらしい。マジですか。
「……なるほど……。人が生きていくには、努力することが大切だとおっしゃるのですね……。生きていくことはつらく、険しいもの。それでもわずかの光明を見つけるために頑張って生きていけと……。……ああ……なんて厳しい……でも、ありがたいお言葉なのでしょうか……」
えーと……。たしかエジソンのあの言葉は、〔一パーセントの閃きがなければ、いくら努力してもまったくの無駄である〕というのが本来の意味だったような気がするのだが……。……もうどうでもいいや。またしてもツッコミ放棄。
「……ありがとうございますお坊様。おかげで目が覚めました。……私はこれまで、悪いことを全《すべ》て何かや誰かのせいにして、自分でそれを乗り越える努力をしてきませんでした……。それは……間違いだったのですね」
もっと早く気付けよ。
「……あの、お坊様、あなたは私に道を説いてくださいました。まるで生徒を導く教師のように。学生のときにあなたのような先生に出会えていたら、きっと今とは違う私になっていたことでしょう……。これは勝手なお願いなのですが、あなたのことを先生とお呼びしてもよろしいですか?」
「……ああ」……あ、先生の顔が微妙に引きつってる。どういうリアクションをすればいいのか困っている感じだ。
「……では先生。あなたの言葉を胸に、これからは一人でも強く生きていこうと思います。本当に、ありがとうございました……」
「……ああ」
都古さんは深々とお辞儀をして、舞台から走り去っていく。彼女の姿は、あっという間に見えなくなった。
……はたと気付く。
「ていうか自首しろよ……べつに強く生きなくてもいいからさ……」
誰も聞いてはいなかったけれど、とりあえず僕は突っ込んだ。
「……さて、そろそろ私たちも逃げるぞ。……ん?」
一ノ瀬さんの足下に、何かのリモコンみたいなものが落ちている。それは、都古さんが落としていった起爆スイッチだった。一ノ瀬さんは顔をしかめ、それを拾った。一応、都古さんの犯罪の証拠品だ。先生のおかげで(何故か)更正したとはいえ、一ノ瀬さんは都古さんのことを警察に通報するつもりなのだろう。僕はもう、どっちでもいい気分だけど。
ともかく僕たちは、駆け足で音羽の滝のあたりまで避難した。炎も、ここまでは広がってはいない。
都古さんの爆弾は、見事に狙った建物のみを炎上させているようで、子安の塔などの周囲の木々に燃え移っている様子もない。これなら山火事になることもなさそうだ。昨日も、燃えた神社仏閣周囲の民家や店などには、まったく被害がなかったみたいだし。さすが〔炎遣い《サラマンダー》〕だと、ちょっとだけ感心してしまう。
「……まったく。日本の伝統ある建物をなんだと思っているんだ」
気難しそうな顔をして遠くの炎を見つめながら、中心部に銃で穴が空いたリモコンを手で弄《もてあそ》び、そのスイッチを無造作にポチポチと押していく一ノ瀬さん。
「こんなオモチャで貴重な先人の遺産を破壊するなど、罰当たりにもほどが――」
どかん。
「…………」
豪快な爆音とともに、清水寺《きよみずでら》の舞台がガラガラと崩れ落ちていった。それはもう……見事なまでに跡形もなく、木片と化した清水の舞台が、音羽山の新緑の中へと沈んでいく。清水の舞台が落ちていく。
……どうやら僕の銃撃は、完全にリモコンを破壊したわけではなかったらしい。恐らく、中の配線を幾つか断ち切っただけで、機能自体はまだ生きていたのだろう。……精密機械の分際で、なんて非常識な。
「……あの……一ノ瀬さん……?」
自ら清水寺にトドメを刺したショックで完全に石化してしまった一ノ瀬さんの背中に、恐る恐る声をかけると、
「……人間五十年――下天のうちを比ぶれば、夢幻《ゆめまぼろし》の如くなり……一度《ひとたび》……生《しょう》を享《う》け……滅せぬものの……あるべきか……」
一ノ瀬さんは、ぽつりと『敦盛《あつもり》』を囁《ささや》くような声で吟《ぎん》じた。
「全《すべ》ては夢か幻、か――。人の造りし物もまた、夢や幻の如く、儚《はかな》いのだ――……」
くるりと、一ノ瀬さんは僕たちの方を振り返った。そして、
「…………見なかったことにしてくれ」
ものすごく真面目な顔でこう言って、リモコンを音羽の滝へと投げ捨てた。
ぽちゃん、という音とともに彼女の頬を伝う、一筋の汗。
僕たちは全員無言で、重々しく頷いた。
☆
帰りのバスには、またしてもあの変態バスガイド、逆本麻紀《さかもとまき》さんがいた。
「おかえりなさいませ皆さん、修学旅行はいかがでしたかー? たっぷりしっぽり、お楽しみしちゃいましたか? うふふ、みなさんちょっとお疲れのようですね。やっぱり昨夜《ゆうべ》はお楽しみだったのかしら。そうねそうよね、血気盛んな若い男女が集団で一つ屋根の下に泊まって、何もないわけがないわよね! 毎年修学旅行ではたくさんの若いカップルと水子が誕生しているというデータもあるもの。特に京都奈良なんて、学生さんにとっては退屈な場所でしょう? 昨日は何か色々と建物が燃えちゃって、今日も清水寺が全焼しちゃったみたいだけど、一体誰がそんなことをしたのかしら。……あら? そちらの女の子、顔が真っ青よ大丈夫? 車酔いかしら?(「……平気です」という一ノ瀬さんの掠《かす》れたような声)。あらそう? ……でも、べつにお寺が燃えるとか燃えないなんて、どうでもいいですね。修学旅行で燃え上がるのは恋だけでいいの。きゃっ、お姉さんちょっとウマいこと言っちゃったかしら。ともかく、そういうところで皆さんがすることといったらそういうコトしかないわよね、そうよね!? うふふ、わかってるわ、お姉さんは何もかも解ってるわ! ……ところでみなさん、実はわたくしにも、今回の旅で素敵な出会いがあったの。その男性の名前は……そうね、仮にK・Kさんとしておきます。なんでも彼は、行方不明になった恋人を捜していらっしゃるとか。なんてロマンティックなのかしら! わたくしは彼とともに京の街を駆けめぐりましたが、その女性は見つかりませんでした。なんでも彼女は、すごく思いこみの激しい方で、すぐにものごとを悪い方に考えてしまう女性だとか。そんな人と付き合うなんて大変ですね。わたくしが彼にそう言うと、彼は疲れたように頷いたのです。もう哀愁《あいしゅう》漂うその仕草がセクシーでセクシーで……わたくしは、我慢できず、彼を食べちゃいましたっ! きゃはっ。……ああ、いけないわ、恋人がいる男性との一夜限りの禁断の契り……。背徳の蜜の味がわたくしたちの情熱をよりいっそう激しいものにしました。彼の長い指がわたくしの――――」
以下略。五時間以上(道路で検問をやっていたため渋滞していたのだ)十八禁トークを聞きながらバスに揺られ、僕たちは遠夜東《とうやひがし》高校へと帰ってきた。時刻は夜になっていた。
……こうして。色々あったけど。一応。僕たちの修学旅行は、幕を閉じた。
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えぴろうぐ 〜まつりのあと〜
修学旅行から帰ってきた翌日は日曜日だったのでゴロゴロして過ごした。テレビや新聞では奈良京都の同時多発テロについての報道ばかりだった。被害総額はとんでもない数字になっており、テロ対策や経済政策でかなり困窮《こんきゅう》している現在の財政事情では、それら重要文化財の再建資金を捻出《ねんしゅつ》することは難しいという。
ちなみに犯人の美弥乃宮都古さんは、まだ捕まっていない。あれだけのことをやらかしたのがたった一人の被害妄想女であるとは誰も思っていないようで、大抵は〔犯行グループ〕という呼び方がされている。ちなみに僕たちも通報はしていない。言っても信じてもらうのは難しそう(証拠となるリモコンも捨てちゃったし……)だし、故意ではないとはいえ、清水寺にトドメを刺したのは一ノ瀬さんだし。……こうやって、人は汚れていくのだろう。きっとそれが、大人になるということなのだ(……と、一ノ瀬さんは学校に到着してからもブツブツと自分に言い聞かせていた)。
翌、月曜日からは普通に学校に行った。だが、授業の半分以上は寝て過ごした。うちの学校では成績さえ良ければ基本的には何も言われないので、授業中に堂々と居眠りをすることも許される。さらに神河史記のようにずば抜けて成績が良いと、授業中にオカルト雑誌を読みながらいきなり立ち上がり、「まずい! 現在この部屋は宇宙人からの侵攻を受けている! 今すぐスカラー波から身を守るために鏡の盾を用意しろ!」などと叫んでも、先生は文句を言わない。羨《うらや》ましい。いやべつに、そんな奇行をやらかしたいわけじゃないけどさ。
で、放課後。その史記に僕は屋上に呼び出され――――告白された。
「久遠。どうやら俺は、お前が好きらしい。よって、お前と交際することを所望する」
何の前フリもなく、いつものように無表情で、史記は淡々とそう言った。
「………………はい?」
あまりのことに、僕は硬直してしまった。
「昨日俺なりに、自分が恋愛感情を抱いているのは誰なのかと考えてみたのだがな。あらゆる方法論を試行した結果、お前という結論に至った」
やはり淡々と、事実のみを述べる口調で告げる史記。……あらゆる方法論って……どうせまた電波な内容なんだろうな。そのことについて言及するのは意味がなさそうなのでやめておく。
「……あのさ、史記。ひょっとして君も、そっち系の人なわけ?」
すると史記は、少しだけ眉をひそめて訝《いぶか》しげな顔をした。
「そっち系、とは?」
「だからその……要するにホモ……」
「……ふむ、不思議なことを聞くのだな。久遠、お前は女だろう?」
あっさりと。本当にアッサリと。史記はズバリと言い切った。
「…………え?」
「違うのか?」
「違わないけど……」思わず、素直に認めてしまう僕。「な、なんで知ってるの!? これまで誰にもばれたことなかったのに!」
「簡単なことだ。骨格が女性のものだった」
「こ、骨格って……」
やはり史記はすごい奴だった。
「……いつから知ってたの?」
「お前を初めて見かけたとき……つまり入学試験の日だな」
「そ、そんな昔から……」
恐るべし、神河史記。……知ってたなら指摘してくれよと思うが、しかしこの男にそれを期待するのは間違いだろう。きっと史記にとっては、僕の性別など本気でどうでもいいことだったのだ。だから、他人に言いふらすこともせず、本人に指摘することもなく、ただ放置しておいた。
「……で、久遠。返答はいかに?」
僕は史記の端正な顔をまじまじと見つめた。真剣な表情だった。もっとも、真剣ではない史記の顔なんて見たことがないのだが。
この男は、いつも真面目だ。常識を超越し、自分の生きたいように生きる――いや、自分の生きたいようにしか生きられない。紙一重のところで人間の領域に留まっているだけの、稀代《きだい》の奇人。それが、神河史記という人間なのだろう。
……ともあれこれで、僕はここ数日で三人の人間に告白されたことになる。あ、ひかりちゃんと都古さん(『一緒に死んでくれ』ってある意味告白だよね)を含めると五人か。わあ、唐突にモテモテじゃん、僕。でも全然嬉しくないのは何故だろう。
僕はしばらく考えたあと、
「うーん。史記のことは僕も好きなんだけどね……でも、付き合うのは勘弁して」
ていうか史記といい一ノ瀬さんといい紺藤といい、どうしてこう恋人のいる人間に平気で告白してくるんだろうか……。
「了解した」
まったく落ち込んだ様子はなく、史記はすたすたと僕の横を通り過ぎていく。
「あ、そうだ史記」
後ろから、僕は声をかけた。そして、
「……これからも友達でいてね」
そんなことを――言った。実に照れくさい。史記は、またしても平然と答えた。
「無論だ。お前も、紺藤も、一ノ瀬も、白咲も――俺の友達だ」
そして無造作に、屋上と校舎を隔てる扉を開けた。
「うわっ!」「のわあっ!?」
いきなり扉が開いたため、盗み聞きをしていた紺藤と一ノ瀬さんがバランスを崩して屋上の方へと出てきた。……まあ、気付いてたけどさ。僕と史記は割と小声で喋っていたので、会話の内容までは聞こえないだろうと思って放っておいたのだ。
「…………」
史記は二人を一瞥《いちべつ》したあと、何もなかったように無表情で校舎の中へ歩いていった。彼も盗み聞きに気付いていたのだろうか。……いや、史記のことだ、たとえ気付いていなかったとしても、あのように平然としていただろう。
「……で、なにか用?」
僕が尋ねると、二人はばつが悪そうに顔を背けた。
「べ、べつになんでもない。たまたま屋上へ向かう用事があっただけだ」
「お、おう。俺もそうだ」
僕は苦笑する。
「ふーん、でもちょうど良かったよ。僕も、一ノ瀬さんと紺藤に用があったんだ」
「…………!」
二人の顔が強張る。
そんな二人に、僕は言う。とてもあっさりと、まるで世間話でもするかのようにあっさりと、僕は言うことができた。僕らしからぬ、とてもサワヤカな笑顔で。
「こないだの告白の件ね。両方とも、キッパリお断りさせていただきます」
修学旅行二日目の夜の、あの心が締め付けられるような空気からは信じられないほど、簡単にケリをつけることができた。これはきっと、直前の史記の告白のおかげだと思う。あと、都古さんとの戦いも。あの戦いで、何かが吹っ切れてしまった気がする。自分の矮小《わいしょう》さを再認識して――……それでもいいか、これはこれで僕らしいと、投げやりに肯定してしまった。駄目人間ここに極まり。
「そうか……」「そっか……」
一ノ瀬さんと紺藤が、同時に残念そうな声で呟く。だが、その顔は妙に晴れやかで、失恋したことに対する絶望感のようなものは全く感じられなかった。……きっと〔友達〕ってこういうものなんだろうな、と僕は思った。
「あーあ、振られちまったな。委員長」
紺藤がさっぱりした笑みを浮かべて一ノ瀬さんに言った。彼女は憮然《ぶぜん》と、
「ふん、お前が邪魔したからだ。まったく、ことあるごとにお前は私の邪魔をする」
「なぬっ! それはこっちの台詞だっつーの!」
憎まれ口を叩き合う二人。……なんか、すごく親しげな感じがする。仲が悪いように見えて、心の奥底では好き合ってるとか?
「仲がいいね、二人とも。せっかくだからこの機会に付き合っちゃえば?」
僕が軽い口調で言った。すると二人は同時に、
『お断りだ!』
と言い切った。うわ、息ピッタリだし。
「久遠、冗談も休み休み言え」一ノ瀬さんがげんなりした顔で口を開く。「なんだって私がこの馬鹿な従兄弟《いとこ》と付き合わなければいけないんだ」
「へっ、それもこっちの台詞だ。誰がお前みたいなマジメぶりっこ暴力女と付き合うかっての。こんなのと親戚なんて、俺もついてねーな」
「は……? 従兄弟《いとこ》……? 親戚……?」
さらりと出てきたキーワードに、僕は首を傾げる。
「ん? ああ、そういや言ってなかったっけか。俺と委員長、イトコ同士なんだ」
「へえ……」
なるほど……従兄弟、ね。一ノ瀬さんが紺藤にだけ、やけに遠慮が無い理由。紺藤が妙に一ノ瀬さんに反発している理由。あの夜、一ノ瀬さんと紺藤が二人とも同じような空気を身に纏《まと》っていた理由。同じ人間を好きになった理由。全《すべ》てが〔血縁だから〕で説明できるなんて断じて思いたくはないが、似たような環境で育てば、似たような人間が出来上がるのはそう不自然なことでもないのだろう。
「家も隣同士だしな……。だからもう十六年以上の腐れ縁になるのか……。まったく、泣きたくなってくる」
「だからそれはこっちの台詞だっての!」
「黙れ馬鹿者」
「ぐぎゃーっ!」
一ノ瀬さんの予備動作ゼロの回し蹴りが、一撃で紺藤を沈めた。きっと紺藤の弱点を熟知しているのだろう。……長年こんな関係が続いていたのか……。まるで、僕と深春のようだ。大変だな紺藤も。…………それにしても……従兄弟……血縁、ねえ……。
☆
それから一ノ瀬さんは、気絶した紺藤を引きずって屋上から去っていった。
「……さて、と……。あとは今回の〔修学旅行編〕のシメを残すのみかな」
僕は苦笑して呟き、屋上を軽く見回したあと、呼んだ。
「おーい、そろそろ出てこいよ、深春」
……すると。
「おっけー」
深春が給水塔の中からぬーっと姿を現した。僕が気付いていたことに驚きもせず、覗《のぞ》いていたことに悪びれもせず、いつもと変わらない笑顔を浮かべて。
僕は、そんな深春に皮肉っぽく問いかける。
「……で、これで満足なのか?」
「んんー? なんのこと?」
深春は機嫌良さそうに笑ったまま、首を傾げた。
「とぼけるなよ。ずっと僕のことを試してたんだろう?」
「あ、バレた?」
「ああ」
「さすが悠紀」
悪びれもせず、深春は認めた。
……おかしいとは思っていた。深春が、親友である一ノ瀬さんの気持ちを知りながらも、何のリアクションも起こさなかったこと。一ノ瀬さんを牽制《けんせい》もせず、僕に釘も刺さず、まったく気にしていないかのように振る舞っていた。それどころか、むしろ自分から一ノ瀬さんと僕が二人きりになるよう仕向けていたフシさえある。普段のこいつの行動パターンからして、そんなことはあり得ないのに。
深春は、僕が誰かに告白されて、それでも僕の心が揺るがないかどうかを、一ノ瀬さんを利用して試験していたのだ。
二日目に僕と一ノ瀬さんが二人きりになったときも、深春は僕たちのあとをつけていたのだろう。二条城《にじょうじょう》でピンチになっていたとき、深春が消防隊員を先導してきたのはそのためだ。清水寺のときも、深春はすぐ近くにいたのだろう。で、こっそり僕が浮気しないかどうか見張っていた。けれども結局冷静な監察役には徹しきれず、僕が一ノ瀬さんにキスしたときに怒って出てきてしまったのは、深春らしいというか何というか……。
それから多分、深春は一ノ瀬さんだけでなく、紺藤の気持ちも以前から知っていたのだと思う。一日目の夜、入浴中に紺藤がやってきたとき、あんな風に紺藤を動揺させるようなことを言ったのは、紺藤を試験の〔二問目〕として使えるかもしれないと考えたからだ。
さすがに史記や都古さんのことまでは読めなかっただろうが、少なくとも今回の修学旅行中、僕を悩ませた多くの事柄は、深春によって仕組まれていた。
「……まったく。らしくないことするんじゃねえよ。こういう姑息《こそく》な手口は、どっちかっていうと僕の役回りだろうが。……そんなに僕って信用ないのか?」
少しきつい口調で問いつめると、深春はあっさり頷いた。
「うん。だって悠紀には、ひかりちゃんっていう前科があるし」
「……う」
そこを突かれると痛い。……もっとも、ひかりちゃんの件で痛い目を見て後悔したからこそ、一ノ瀬可夜子というきわめて魅力的な美少女の誘惑にも負けなかったと言えるのだが。……僕だって、反省くらいするさ。……あ、ちなみに紺藤の馬鹿を振ったのは、単に奴が彼氏としての及第点に満たないからである。あいつヘタレすぎ。
「……ともかく、今後はこんな僕を試すような真似はしないこと。オーケイ?」
「おっけーおっけー。愛してるよ、ゆーきっ」
反省ゼロの口調で言って、深春は屋上のフェンスを乗り越え、ふわふわとグラウンドの方へ下りていく。
グラウンドでは陸上部がすでに練習を始めていて、百メートル走のゴール地点には見覚えのある黒髪の少女が何やら喚《わめ》いている。
――悪いのは私のせいなんですかそうなんですね!?
きっと、こんな感じの言葉を。
……ある意味、全《すべ》てを自分以外のせいにする都古さんとは対極のキャラだよな、ひかりちゃんって。どっちも好きだけど、でも嫌いだ。
片方は僕に似ていて、もう片方は僕とは決して相容《あいい》れないがゆえに、〔好きかつ嫌い〕という矛盾を内包してしまう。
だが、〔似ていること〕と〔決定的に異なること〕が同義ならば、〔似ているもの〕と〔非なるもの〕もまた、同じようなものかもしれない。性格的に正反対の一ノ瀬さんと紺藤が、本質部分で似ているのと同じように。
紀史元ひかりちゃんも、美弥乃宮都古さんも、そして――僕も。
だが、もっとも僕に似ているのは、多分――――。
…………あ、そう言えば、まだ明らかにされていない謎があったっけ。
「なあ深春」
僕が呼ぶと、「なにー?」と深春が再びふわりと浮上してくる。
「ひかりちゃんとやらしいことをしているのは分かった。だったら、一ノ瀬さんとはどうなんだ?」
最後に残った謎。それは、〔何故、潔癖な性格に見える一ノ瀬さんが、あれほどチュウが上手かったのか?〕と、〔従兄弟《こんどう》が僕という同性を好きになったことについて一ノ瀬さんが何の反応も示さなかったのは不自然ではないか?〕という、一見かなりどうでもいいものである。だが、あらゆる謎が放置されたままだったこの前のデパートでのテロ事件とは違い、今回は一応、僕は〔事件〕の中心にいた。ならば、全《すべ》ての謎を明らかにする義務がある。物語を終わらせるのは主人公の役目なのだ。
深春が笑った。
「あはは、できるわけないじゃない。ボク、ゴーストだし」
「なるほど。そっか、それもそうだよな……一ノ瀬さんには超能力なんてないし」
……というわけで主人公の義務放棄。一ノ瀬さんは先天的なキスの達人であり、同性愛について何の偏見も持たないどころか、たとえ身内がそうであってもこれっぽちも気にしない、実に開明的な思想の持ち主だったということで納得してください。
「うん。……それじゃ、ボクは行くね」
「ああ。――あ、そうだ。じゃあ、お前がまだ生きてるときはどうだったんだ?」
ついでという感じで、冗談半分に僕は聞いてみた。すると。
「…………」
深春は僕からさっと顔を背け、そのまま逃げるようにグラウンドに急降下していく。
――って、おい!?
「え? あ、あの深春? おーい……え、ひょっとしてマジですか深春さん? ホントに一ノ瀬さんと? おいこら深春! カムバ――――ック!」
…………深春は地上に降り立ち、僕の声はもう届かない。
……謎は解明されてしまった。知りたくなかった嫌な真実が。……一ノ瀬さん、正統派ラブコメ系ヒロインだと思ってたのに……。
「おのれ深春……あの小悪魔め……」
僕は頭を抱え――――
「…………ま、いっか。過ぎたことだし」
それに、そういう相手に惚れてしまったのも、僕の選択だ。
ならばせいぜい、振り回されてやるのがスジというもの。いかなる誘惑もはね除《の》けて、僕はお前を好きでいよう。だからさ、深春――
「――ヒロインはヒロインらしく、どーんと構えてればいいんだよ。……姉さん」
皮肉っぽく、自虐っぽく笑い、僕は踵《きびす》を返す。
一ノ瀬さんが望むようなロマンチックな恋愛など、残念ながら僕には不可能だ。紺藤のようなまっとうな男と付き合っている自分なんて、想像もつかない。史記のことはけっこう好きだけど、あれはそもそも恋愛の対象外だ。超可愛い吏架ちゃんもあくまでマスコット。かといってひかりちゃんや都古さんのようなサイコさんは願い下げだ。逆本麻紀さんのようなただれた関係もちょっとアレだし。
前に一ノ瀬さんが言ったけど……僕にはきっと、深春しかいないのだろう。
たとえそれが、その先に何もない空虚な関係であっても。
だから、もっと、もっと、もっと、もっと――――
楽しいだけの一時《いっとき》の夢を、
悲しみのない刹那《せつな》の幻を、
救いようのない恋を、
情け容赦のない愛を、
――――思い知れ。
〔Romance in School excursion〕 is very BAD END!
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あとがき
(注・このあとがきは馬鹿には見えません)
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…………ごめん。むしろこのあとがきを書いている私が馬鹿にしか見えませんね。というわけでこれより『ホーンテッド!』2巻あとがき本編を始めます。一巻のあとがきでは三回も書き直しを要求されるという新人とは思えないような不祥事をやらかしてしまったので、今回は真面目に普通のあとがきを書こうと思ったのですが、実は既に一回ボツを食らっています。これは二巻のあとがきの第二弾です。パート※(II.png) です。セカンドです。リメイク版です。リローデッドです。しかも一巻と違って今回は五ページもあとがきがあるので、なんと三千文字近くも丸々ボツになったことになります。さすがに疲れ果てました。担当編集のSさんは鬼だと思いました。「馬鹿には見えません」という露骨なページ稼ぎをやらかしてしまったのは、編集の横暴に対する抗議の意味も含んでいるのですがこんなことを書くとまたボツになるかもしれないので心の中に留めておきます。情けない私を笑ってください。ちなみに現在も、ものすごくテンションの低い無気力状態でこのあとがきを書いています。気分も体調も悪いです。鼻が詰まって呼吸困難のためまったくやる気が起きません。鼻をかむと鼻血が出ます。親知らずも痛いです。あと便秘です。若さの残りカスを燃やしてどうにかキーボードを叩いている状態です。もしかするとこのあとがきを書き終えたとき、私は燃え尽きて死ぬかもしれません。となるとこのあとがきが私の遺《のこ》した最期の文章――遺書のようなものということになるわけです。いわば遺書に「この遺書は馬鹿には見えません」と書いてあるようなものです。よく人から常識を知らないと言われる私ですが、さすがにそこまで非常識なことはできません。だからまだ死ねません。どうにかもっとポジティブに物事を考えてみようと思います。一巻で四回、二巻で二回ということは、二冊しか本を出していないのに既に六回もあとがきを書いていることになります。うわー超ラッキー、通常の三倍だ! これならララァも大喜び! ………でもべつに初代ガンダム好きじゃないし……あぁ鬱《うつ》だ……もう死のう。しかし突然、私の脳裏にこれまでお世話になった人々の顔が浮かんできました(ええそうです前回のあとがきのネタの使い回しですとも! え、プライドですか? ……幼いころはありました)。片瀬優《かたせゆう》先生、新キャラが多くて苦労なさったでしょうが、今回も素晴らしい絵をありがとうございました。特に表紙が好きです。そこはかとなく漂うエロスがたまりません。その他にもたくさんの人がこの本に関わっています。ありがとうございました。読者の皆様にも感謝を捧げます。ファンレターやアンケート葉書を送っていただいた方には二割増しで感謝を捧げます。ところで余談なのですが、一巻のアンケートの集計によると、読者の男女比が8対2くらいという結果が出ています。それはどうでもいいのですが、興味深いのは女性読者の年齢層がやけに若いということです。男性読者の大半が高校生か大学生なのに対して、女性読者のほとんどが中学生以下なのです。なんと小学生の方までいらっしゃいます。私は「これはまずい!」と思いました。ネットでいくらボロクソに叩かれようと気にしませんが、小学生の読者がいるというのは大きなプレッシャーです。しかも今回は、既に本編をお読みになった方は御存知かと思いますが、やけに下ネタが多いのです。安易な下ネタに走るのは作家が落ち目の証拠なので、私は二巻にして既に落ち目です。それはともかく、もしもこの本を読んだ小学生の女の子が意味の解らなかった下品なギャグについて母親に「これってどういう意味?」と尋ねたとします。すると母親は「なんて駄目な本なのかしら。こんな本を子供に読ませてはいけないわ」とPTAに報告し、PTAは「こんな本は全《すべ》て焼き捨ててしまおう。また、この『ホーンテッド!』とかいう本をはじめとする表紙に漫画みたいな絵が描いてある本は全部教育に良くない本だろうからこの世から根絶するべきだ!」と『ライトノベル撲滅《ぼくめつ》キャンペーン』と称してメディアファクトリーなど各出版社に殴り込みをかけたり、国会議事堂の前でデモ行進をしたりするに違いありません。作家や編集者たちは次々に捕まり、殺されていきます。狂気に駆られる大人たちを女の子は必死に止めようとしますが無駄に終わります。それどころか、暴徒と化した彼女の母親が少女に対して火炎瓶《かえんびん》を投げつけました。しかし一人の作家が身を呈して彼女を庇《かば》います。火炎瓶の炎に全身を焼かれながら、その作家は「私の読者に手を出すな!」と叫んだではありませんか。女の子は酷い火傷を負った作家を連れて、山奥の洞窟に逃げ込みます。そこで作家の手当をしているうちに、作家と女の子との間に愛が芽生えます。ライトノベル業界は滅んでしまいましたが、その魂は二人の中に永遠に生き続けるのです。おしまい。
2004年11月、なんかもう色々と嫌になった日 平坂読
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