ホーンテッド!
平坂読
目次
プロローグその1 〜愛にあふれた世界〜
プロローグその2 〜美少女幽霊とブーメランばばあ〜
プロローグその3 〜美少女幽霊と死にたがり少女〜
便宜的本編 〜墓穴掘り人形とままならぬ世界〜
暫定的エピローグ 〜愛にあぶれた世界〜
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プロローグその1 〜愛にあふれた世界〜
あれから、もう一ヶ月が経つことになる。
僕の恋人が――――交通事故で死んでから。
高校生活二年目に入って一ヶ月ほどが経過した、よく晴れたある日のこと。
「悠紀《ゆうき》!」
授業が終わっていつものように教室を出た久遠《くどう》悠紀(つまりそれは僕のことだ。十六歳の高校二年生。身長は割と小柄、体格は割と細身、顔は割と美形……と自分で言ってみる。愛称《ニックネーム》は特に決まってないが、〔墓穴掘り人形〕とかいう超ありがたくない二つ名《エイリアス》が一部に存在。あるいはもっと端的に〔狼少年〕とか〔嘘吐き〕とか呼ぶやつも数名いる)は、ものすごい顔をした深春《みはる》に呼び止められた。
深春というのは白咲《しらさき》深春という十六歳の高校二年生の少女のことであり、身長は僕より少し低い程度、髪型は耳にかかる程度のショートカットで、スレンダーな肢体に、多少幼さは残るものの客観的に見てもかなり整った顔立ちの、ちょっと吊り上がった勝気な感じの大きな瞳が印象的な、極めて記号的に表現するならば〔ボーイッシュな美少女〕という言葉が適切な外見をしている。愛称《ニックネーム》は僕同様特に無いのだが、一部(つまりそれは僕の脳内で、ということだ)で呼ばれている二つ名《エイリアス》は――〔愛と平和の使者《パトリオットミサイル》〕。
僕と深春《みはる》はいわゆる〔幼なじみ〕というやつであり、幼稚園、小学校、中学校と全て同じクラスという、何者かの陰謀としか思えないような十二年間を過ごし、さらには高校一年生のクラスまで同じだった。「僕は一生こいつから離れられないのだ、そろそろ腹か首をくくるべきなのかもしれない」と半ば本気で考えていたのだが、二年生になってようやく、初めて別々のクラスになることができた。
……その深春が今、真っ直ぐに僕の目を見つめている。〔勝気〕どころではなくむしろ〔殺気〕すら感じられるその視線に射抜かれ、冷や汗が浮かんでくるのを自覚した。鬼気迫るという表現がぴったりの、世にも恐ろしい表情である。
……十年以上の付き合いの中で、僕の精神に幾重にも刻まれたトラウマ体験の数々が脳裏をよぎる。〔幼なじみ〕という単語から連想されるどことなく甘美な幻想を打ち砕いてさらに粉末状に磨《す》り潰《つぶ》すような無数の惨劇《さんげき》。例えば、幼稚園のときままごとで手作りのホウ酸団子を食わされそうになったこととか、小学生のときお医者さんごっこと称して解剖されそうになったこととか、中学の文化祭の演劇で真剣で斬られそうになったこととか、高校の合格発表のとき嬉しさのあまりその場でコブラツイストをキメられ一週間寝込んだこととか…………えーと……どうして僕はまだ生きているのでしょうか。
……ともかく、深春といえばトラウマ体験である。それはもうこの世の摂理として僕の脳髄《のうずい》に叩き込まれている。
ダッ! 僕は迷わず、迫るライオンの群れを発見したガゼルの如《ごと》く、踵《きびす》を返して逃げ出そうとした。予備動作ゼロの見事なターン、そしてダッシュ、しかし、
「あー! 逃げないでよ悠紀《ゆうき》!」
一瞬にして追いつかれ、むんずと腕を掴まれる。さすが一年のときから陸上部短距離走のエースだけある。その瞬発力は並ではなかった。握力と腕力も並ではないので、こいつならきっとどんなスポーツでも活躍できることだろう。
「……ふう」
もともと逃げられるとは思っていなかったので、ため息をつきながらも僕は大人しく深春に向き直る。
「……なんだよ、深春」
「悠紀、ちょっとボクと一緒に来てくれる?」
語尾に疑問符をつけたにもかかわらず、僕の返事も待たずに(というか「一緒に来てくれる?」の「い」のあたりで既に)深春は僕の腕を掴んで歩き出した。丈の短いスカートをひらめかせてずんずん歩いていく深春に、売られていく子牛の心境でついていく僕。そんな僕たちを見て、冷やかすような視線を送ってくる女子生徒たちと羨《うらや》ましそうな顔の男ども。羨ましいなら誰でもいいから代わってくれ。命の保障はできませんが。
ずんずんずんずんずんずんずんずんと深春が僕を引きずるようにしてやってきたのは学校の屋上だった。
屋上。昼休みにときどき飯を食いに来ることがある。そのときにはたいてい他にも何人かの生徒がいるのだが、今は昼休みではなく放課後だからか人の姿は無い。深春はきょろきょろあたりを見回したあと、小さく「よし、誰もいない」と呟いた。
どうして誰もいないことを喜んでいるのだろうか。すごく嫌な予感がするんですけど。
脳内でシミュレートしてみる。
・ドラマや漫画でよくある光景その(1)
「おうおうテメエ調子こいてんじゃねえぞゴルァ。ちょっくらオレたちがヤキいれてやらあ!」「ひ、ひいー」どかどかげしげし「おらあ!」「ぐえっ」ぼこぼこごすっ!「や、やーめーてー」…………まあ、こんな感じで。
・ドラマや漫画でよくある光景その(2)
「どうしたの、緋山《ひやま》さん(仮)。こんなところに呼び出したりして」「あ、あの……稲葉《いなば》君(仮)、私、あなたのことが、す、好きです! 私と付き合ってください!」「も、もちろんOKさ! 俺も五年前からずっときみのことが……」…………なんだかすごくムカつくが、まあこんな感じで。
…………………………あー。………………今回の場合(1)ですね。間違いなく。
ばんっ!
そんな僕の予想を裏付けるように、僕の背中はいきなり、一メートル半くらいの高さのフェンスに乱暴に叩きつけられた。そんなに痛くはないが怖すぎる。
さらに深春は僕が逃げられないように、僕の身体を挟んで両手でガシッとフェンスを掴んだ。不良が通行人に対してカツアゲしているような図式だ。
さあ僕はこれからどうなってしまうのか。ていうかそもそもどうして僕はこんな状況に陥っているのですか。別に僕、最近は深春を怒らせるようなことなんて何もしてないはずだけど。別々のクラスになってからはあんまり二人きりで話す機会もなかったし。意味もなく天を仰いでみたりする。神様、もしいるなら助けてください。五歳のとき神社の境内を御神体ごと全焼させたことは謝りますから。あれは深春のアホが「神様って燃えるのかな?」とか言い出したのが悪いんです。エィメン。
……しかし僕に襲い来るはずの、思わず目を背けたくなるようなバイオレンスの嵐はいつまで経っても始まらなかった。
見ると深春は、腕をフェンスに突き立てた格好のまま、顔を俯《うつむ》けていた。
「み、深春……?」
引きつった笑みを浮かべながら、僕はかすれた声を出した。
僕の言葉に反応したのか、深春は何かを決意したかのように顔を上げた。きっと「さあ殺《や》るか」という決意だろう。僕はかなり本気で死を覚悟した。
「悠紀」
「お、ぅおうっ!」
精一杯の虚勢を張って答える僕。ただし声が裏返っている。
「あのね」
…………?
不思議なことに、深春の声は微妙に震えていた。顔が耳まで真っ赤だ。……よっぽど怒り心頭に発しているのだろうか。ああやっぱり僕はここで死ぬんだな、確実に消されるな。南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》。思えば後悔ばかりの人生でした。生まれてきてすいません。
「僕が一体何をした……」と僕が呟くのと、
「ボク、悠紀のことが好き」
と深春が言うのは、ほとんど同時だった。
「…………」黙る僕。
「…………」恐ろしく据《す》わった目で僕の顔を見つめる深春。
…………………現状認識――失敗《エラー》。思考回路六十四倍速でフル稼動――破裂《バースト》。悪性変異発生。五感に異常確認。第六感に識別不明反応。見当識消失。自己同一性損耗《そんもう》。前方に未確認物体出現! ダメです、回避不能です! 脳内偉人はかく語りき、「お前はもう死んでいる」、第二人格が云《い》う。「逃げちゃダメだ」。現状再認識。警告、警告、警告、手遅れ。
深呼吸。
すぅ――――落ち着け、僕。
コマンド選択。〔たたかう〕〔にげる〕
→〔にげる〕
「……おっといけない、早く家に帰って〔俺様のレストラン〕の再放送を見ないと」
「逃げないで」
しかしまわりこまれてしまった。
「もう一度言うね。ボク、悠紀が好き。幼なじみじゃなくて、恋愛対象としてボクを見てほしいんだ」
上目遣い。
微かな香水の匂い。
薄い口紅。
潤《うる》んだ瞳。
紅潮した頬。
「…………う」
正直に言おう。グッときた。
ゆうきは五千万のダメージを受けた。ゆうきは死んでしまった。おおゆうき 死んでしまうとはなさけない。お前が真人間になるにはあと二千億五千十一万三十五ポイントの人生経験が必要じゃ。うるせえ。
「好きです! ボクと、付き合ってください!」
再々度、深春が、今度は怒鳴るように叫んだ。僕はというと、
「…………はぁ」
とりあえずため息なんてついてみる。息とともに寿命がごっそり出て行くような感覚。
「…………正気か?」
僕が端的に尋ねると、深春は真剣そのものの表情でゆっくりと頷《うなず》いた。正気らしい。何者かに洗脳された様子もナシ、と。
「えーと……いつから?」
「ずっと前から」
「どれくらいずっと前?」
「二歳のときから」
「マジすか」
恋心どころか、まだはっきりとした自我すら確立してないような気がするのだが。
「……ごめん、二歳ってのは冗談。でも、ずっと前からっていうのはホント。いつからなんてはっきりわかんないくらい、すっごく昔から」
「……で、なんで今になって?」
「ほら、今年初めて、ボクと悠紀って別々のクラスになったでしょ? 顔合わせる機会も減っちゃって――――悠紀が離れてく気がしたから」
「…………ふむ。それなりに信憑性《しんぴょうせい》はあるな」
「そ。じゃ返事は?」
「………………ちょっと考えさせてくれ」
「わかった。待ってる」
そう言うと深春は、妙に晴れやかな顔で走り去っていった。僕は一人、ぼんやりと屋上のフェンス越しの景色を見る。校門、グラウンド、道路、バス停。下校する生徒たち、部活動を開始する運動部の生徒たち。微かにブラスバンド部の演奏が聞こえてくる。
「あーあ、青春だねえ……」
……正直なところ、ずっと前からなんとなく予感はあった。ほんとに、ずっと前から。けれど気付かないフリをしていた。深春の気持ちに。うざったいと思っていた。面倒くさいと思っていた。いや、そう思おうとしていただけだ。意識することが怖かった。幼なじみという関係が、面倒で鬱陶《うっとう》しい反面、確かに心地よくもあった。ぬるま湯の冥利《みょうり》というか。……だから――壊したくなかった。
「このヘタレめ」
自嘲気味に呟いてみる。さ、これからどうするか。あんまり返答を先延ばしにすることはできない。あいつ、気が短いし。だが、ちょっと考えたくらいで答えが出るような問題なら最初から苦労はしない。
……あーあ、悩むのは嫌いなのになあ……。……慣れてはいるけどさ。
と。校門をくぐる生徒たちに交じって、深春の姿を見つけた。あいつ、めちゃくちゃ足速いな……。ついさっきまでここにいたのに。……グラウンドには陸上部の姿もあるが、どうやら今日はサボるつもりらしい。ま、気持ちは分かるけど。
深春は人の波をくぐり抜け、走っていく。何か恥ずかしいことがあったりすると意味もなく全力で走り出すのがあいつの癖だ。
爽快《そうかい》なくらいのスピードで深春は走っていく。走っていく。校門を出て、バス停を通り過ぎ、コンビニの前を通り過ぎ、アパートの前を通り過ぎ、横断歩道のある交差点に差しかかる。
信号がちょうど赤から青に変わった。深春は風のように、爽《さわ》やかに、軽やかに、爽快に、壮快に、軽快に、無警戒に、走る、走る、走る、はし
信号が変わったにもかかわらず無理な左折をしてきた大型トラックが、深春の身体を跳ね飛ばした。撥《は》ね飛ばした。
軽やかに、
爽快なくらい軽やかに、
どこまでも軽やかに、
イノチの重みなんて所詮《しょせん》こんなもんかと思ってしまうくらい、
カロヤカニ、
深春は、
血だまりの中に、一人の少女が倒れている。そばにはトラックが停《と》まっていて、運転席には運転手が呆《ほう》けたように座っている。バンパーはへこみ、ガラスにまでべっとりと赤い液体と黒っぽい何かとか茶色っぽい何かとかがこびりついている。ちょっとそこで待ってろ。警察が来る前に殺してやる。
…………………現状認識――失敗《エラー》。思考回路六十四倍速でフル稼動――破裂《バースト》。悪性変異発生。五感に異常確認。第六感に識別不明反応。見当識消失。自己同一性損耗。前方に未確認物体出現! ダメです、回避不能です! 脳内偉人はかく語りき、「彼女はもう死んでいる」、第二人格が云う。「逃げちゃダメだ」。現状再認識。警告、警告、警告、手遅れ。
深呼吸。
すぅ――――落ち着け、僕。ごめん無理。
「うわ……こりゃひでえな」「……死んでるよな……絶対」
野次馬の声。ごもっとも。こりゃあ死んでるね。間違いなく。残念ながら、僕の幼なじみである白咲《しらさき》深春はわき腹のあたりから内臓のほとんどをはみ出しながら、頭からどう見ても脳みそにしか見えないものをはみ出しながらでも生きていられるような宇宙人じゃなくて肉体的にはごく普通の人間だ。普段はガサツで暴力的だけど化粧して好きな人に屋上で顔を真っ赤にして告白したりするごく普通の可愛い女の子だ。ちなみにその好きな人ってのが僕だ。どうだ羨ましいか。羨ましいか羨ましいか羨ましいかこの僕が羨ましいか
カシャッ
僕の隣にいた男子生徒が携帯電話のカメラで写真を撮った。
あ。
とりあえずぶっ殺す。
携帯を奪って、割って、壊して、投げて、それが野次馬の一人に当たって、血、悲鳴、罵声、殴って、殴って、殴って、殴って、喚《わめ》いて、意味不明なことを喚いて喚いて喚きまくって、蹴って、蹴って、蹴って、吠えて吠えて吠えて吠えて壊れたように、何かが壊れたように壊してやる壊してやる壊してやる狂ったように、狂え狂え狂え狂え狂えいっそ狂ってしまえたらどれだけラクになれるのだろうかしかし心のどこかにはまだ理性が残ってる狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え! ワケノワカラヌコトを狂ったように口走る僕、僕から離れていく野次馬ども、嫌悪、侮蔑《ぶべつ》、嘲笑、そして何より憐憫《れんびん》の視線、そうだそれでいい。狂った僕を見ろ。深春の死体を見るな。見るな、見るな、深春から離れろ。そうだそれでいい。おいこら、何がいいっていうんだ?
血の海を歩きながら、深春の身体に近づいていく。足にからみつく血液を踏みしめるようにゆっくりと歩いてく、僕。
本当にギリギリのところで原型を留めている、そしてそれゆえに異常なまでにグロテスクな深春の死体、いっそ粉々の肉塊になってくれればどれほど良かったかと思うほど無惨な姿の深春を、抱き起こした。
涙がこぼれた。
ああ、僕は今泣いているんだなとここではじめて自覚する。
「深春……」
へんじがない。ただのしかばねのようだ。
血と内臓と脳漿《のうしょう》を撒き散らした、正真正銘のただの屍《しかばね》だ。
「……好きだ」
ぽつり、と呟き。
「好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ」
あーあみっともないねえ、ぐちゃぐちゃに鼻水垂らしながら涙ぐちゃぐちゃで血まみれですげえ光景だぜ? 交通事故っつーより殺人現場だ。犯人僕。気味悪そうな周囲の目。いいさ、どうでも。どうでもいいんだ。
現実感がない。これは何? 夢? 夢オチ? つまんないよ? 悪趣味だし。なんでこんな、わけのわからない、僕は、どうして、なんで、深春、え? だってさっきまで、深春、生きて、僕は、どうして、現実、死、理不尽、不条理な、容赦の無い、これは何?
「わけわかんねえよくそったれがあッ!」
僕は絶叫した。涙と鼻水まみれになってみっともなく絶叫した。発狂しそうなくらいに絶狂した。絶境した。
「僕もお前が好きだ深春!! ずっと前から好きだった! 好きだったんだ! なんで過去形で言わなきゃいけねえんだよくそったれ! 今好きなんだよ死ぬほど大好きなんだよしょうがねえだろ好きなんだから! 好きですからお願いでずがらぼぐどづぎあっでぐだざい、ぼぐは、ぼくは、僕はああああああ、お前がああああああ、死ぬほど、
大好きだああああああああああああ――――――――――ッ!!」
「ホントに!? 嬉しい!」
間髪入れずに。緊張感のない、喜色満面感情全開の脳天気な声が僕の後ろで弾《はじ》けた。
…………。
……………………。
………………………………。
深春の声だった。振り返った。深春がいた。頭が急速に現実を取り戻していく。脳が認識を正常化していく。精神が混沌を駆逐していく。
「……ぬう……」
僕は小さく呻いた。
ああそうか、と思い至る。僕としたことが、完璧に失念していた。ガラにもなく取り乱しすぎて、完膚《かんぷ》なきまでに忘れていた。
……そういえばこの世界には、こういう奇跡があるってことを。
あれから、もう一ヶ月が経つことになる。
僕の恋人――になったばかりの幼なじみ白咲深春――が、交通事故で死んでから。
……交通事故で死んだあと、ゴーストになってから。
………………………………………………………………………………どちくしょう。
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プロローグその2 〜美少女幽霊とブーメランばばあ〜
それこそ人類が猿と分化して間もなくの大昔から、〔霊〕だの〔魂〕だのという概念は、人類文化の中に深く浸透していた。とはいうものの、それをじかに見たり言葉を交わしたりできるのは、常にごく一部の特殊な人間しかいなかった。しかも彼らが本当に不思議な力を持っていたのか、科学的に証明することはできない。だから幽霊なんてものが実際に存在するのかどうか、普通の人間には分からない。科学がこれだけ発達した現代社会だ、幽霊の存在なんて信じていないという人間の方がおそらく多数派だっただろう。
三年前までは。
三年前を境に、幽霊の存在を信じない人間はほとんどいなくなった。死んだ人間の約一割が、普通の人間にも姿が見えて声が聞こえて会話ができる幽霊――〔ゴースト〕として蘇《よみがえ》るようになってからは。
三年前の大晦日《おおみそか》、とある大きな神社で初詣《はつもうで》に訪れた参拝客や神社の関係者百五十六人が、爆弾テロによって死亡するという悲惨な事件があった。だが新年早々ニュースのトップを飾ったのは、その事件自体ではなく、惨劇と連鎖して起こったある現象だった。
なんと、犠牲者のうち二十二人が、ゴーストとしてこの世に残ってしまったのである。
しかも事件はこれだけでは終わらず、そのとき以来、これと同じ現象が世界各地で発生するようになった。統計的には死亡者の約一割が、ゴーストとしてこの世にとどまっているという。ゴーストになる人間は、統計的には「若者が多い」「生前、意志が強かった人間が多い」「交通事故や殺人事件、不治の病など、悲劇的な死に方をした者が多い」などの一応の共通点らしきものは見受けられるものの、厳密な条件などはよく分かっていない。
この〔ゴースト〕というのが一般的にいう〔幽霊〕と本当に同じものなのかについても、よく分からないらしい。一説には、その人間の記憶をもとに再現されたプログラムのようなものであるという。ゴーストの言動は「生前のこの人ならばこうするだろう」「生前のこの人ならこう言うだろう」というシミュレーションに基づく反応にすぎないとかなんとか。しかしこれは「じゃあそもそもゴーストというのはどういう原理でこの世に姿を留めているのか。ていうかどうしてこんな現象が起きてんのか」という根本的な疑問にまったく触れられていない。
ゴーストは物理法則からは完全に外れた存在だ。空を飛ぶし壁をすり抜けるし、声だって空気を振動させて音を伝えているわけではないらしい。ほとんどのゴーストは喋るとき口を開くが、それはただ生前からの習慣でそうしているだけで、彼ら彼女らの声は、実際はテレパシー(まさかこんな単語を日常的に使う日が来るとは思わなかった)のようなものだという。だからもちろん、声を録音しようとしてもできない。ちなみに写真やテレビにもうつらない。
……ともあれ。三年前から一般的になったこのゴースト化という奇跡(ああ、なんて便利な言葉だ)、もちろんゴーストになった当人やその縁者(かくいう僕もその一人)など、永遠の別れを回避できて喜ぶ人だってたくさんいるのだが、しかしそれ以上に困ったことも多い。
ゴーストの人権はどうするのか。殺した人間がゴースト化した場合、犯人には殺人罪を適用すればいいのか。ゴーストの証言に証拠能力は認められるか。ゴーストとの結婚はOKなのか。ゴーストが法を犯した場合どうするのか。特に物理的な干渉を無効化するという特性上、ゴーストによるプライバシーの侵害は大きな問題だ。
そうこうしている間にも着実に増えていくゴーストの数(死亡率が約一〇パーセントとして世界の年間死亡者数は約六千万人だから、単純計算でゴーストの数は一年で約六百万人増える。つまり現在では、世界に二千万人近いゴーストが存在することになる。マイノリティと呼ぶには多すぎる数だ)。正体の解明も、諸問題を解決すべき法整備も、三年前からほとんど進展していないというのが現状なのだ。まったく困ったもんである。
「起っきろ――――――――っ!!」
耳元で、誇張ではなく脳に直接がんがん響くような大声が聞こえた。どうやら寝ぼけて思索にふけっていたらしい。意識がぼんやりしているときに益体《やくたい》もないことを考えてしまうのは僕の癖だ。
がんがんする頭をおさえつつベッドから起き上がって、横にいた声の主を見る。ボーイッシュな感じのする美少女がそこにいた。服装は半袖のTシャツにミニスカート。ただしその身体はふわふわと宙に浮いており、しかもちょっと透けて後ろの背景が見えている。ちなみに服も透けている。
白咲深春。〔愛と平和の使者《パトリオットミサイル》〕。一ヶ月前に交通事故で死んでゴーストになった、僕の幼なじみであり、なおかつ非常に不本意ながら、あのとき錯乱して大勢の公衆の面前で「好きだ」と連呼してしまった手前、一応恋人でもある。
「おはようっ! 悠紀、せっかくの休みなんだからいつまでも寝てちゃダメだよ」
「……深春……。お前どこから入って来やがった……」
「ん? そこの窓から。朝日とともにじゃじゃーんって」
部屋の窓を見ると、開けっ放しになっていた。暖かかったから、寝るとき閉め忘れたらしい。窓ガラスの真ん中あたりには、何やらよく分からない模様が書かれた護符が貼り付けてある。ここだけじゃなく、家中の壁やドアにはこれと同じものが貼り付けてある(玄関と義妹の部屋のドアだけは十字架が掛かっている)。
なんだかオカルトにかぶれたイタい人のようだが、最近ではこれが普通だ。なにせ実際に効力がある、つまりゴーストの進入を防ぐことができるのだから。
ゴーストは、護符や十字架など、霊的な力を持つと言われているものに守られたところには進入できないのだ。
例によって、詳しい理由はよく分かっていない。実際にそれらが霊的な力を持っているのか、それともゴーストは精神的な存在だから図形などによる暗示的な影響を受けやすいからなのか。
まあ、実際に効き目があるならどうでもいいというのが大方の意見ではある。
ちなみにこの護符ステッカー、百円ショップに行けば五枚セットで売っている。複雑な模様が印刷してあるだけのただのシールなので、僕的には霊的なパワー云々《うんぬん》よりも暗示的影響力がどーたらの方が説得力はあると思う。
「……で、何の用だ」
顔をしかめながら言う僕に、深春は「えへへ」と笑いながら言った。
「デートしよっ」
「断る」
「えー」
「あのなあ。毎週毎週遊んでばっかいられるか。数学の予習も休みのうちに済ませときたいし、現国の課題の提出期限もたしか月曜までだからな」
深春も一応、学校には通っている。しかし現在の法律ではゴースト化しても死亡扱いとなるため、学校に深春の籍はない(ただし教師や生徒の好意……というか嫌がらせで席だけはしっかり僕の隣にあったりする。生前はクラス違ったのに)。
「もー。悠紀ってばマジメすぎー。勉強ばっかりやってると、つまんない大人になっちゃうぞー」
「いいよそれで。将来はいい大学に入っていい会社に就職していい家庭を築くんだ。現代社会の歯車となって細々と一生を終えてやる」
「若くないなあ」
頬を膨らませてぶーたれる深春。余計なお世話だ。
「ねーねーいいじゃーん、ゆーきー。デートしようよー。買い物行ってーご飯食べてー映画見てー。あ、なんだったらホテル行こうか? ボクたち恋人同士なんだし」
「……ホテルに行ってどうしろっていうんだ」
「悠紀の好きにしていいよん」
「不可能だろうが物理的に!」
「そのへんはまあ、どうにか精神力でカバー」
「できるか!」
……アホな会話だが、しかしこれ、なかなか切実な問題なのである。
深春との関係が幼なじみから恋人になるというのはまあ、千歩くらい譲ってよしとしよう。憎からず思っていたのは事実だし。
だが、せっかく恋人になったというのにちゅーもなし当然えっちもナシ、これからもそういうチャンスは一〇〇パーセント無しというプラトニックなお付き合いだけで我慢できるほど、僕は悟った人間じゃない。バカ話をしてときどき一緒に出かけるだけで、これでは幼なじみのときと変わらない。物理攻撃がなくなったのは嬉しいが。
他の女の子に手を出そうにも、深春が死んだ事故のときの、僕のあの恥ずかしスプラッタな言動は何故か美談として一ヶ月が経過した今でも語り草になっており、僕と深春は全校生徒公認カップルになってしまっている。ナンパなどしようものなら学校中からつるし上げをくらうこと間違いナシだろう。おかげでこの一ヶ月、欲求不満が溜まりまくりだ。
ちなみに深春の方はというと、どうやらゴーストというのは人間の三大欲求のうち食欲と性欲の二つが無くなるらしく、現状にさしたる不満は持っていないようだ。
「いいか深春、この際だからハッキリ言っておくぞ。僕はね、猥褻《わいせつ》なことができない女に興味はないんだ。僕にとって女なんざ性欲の対象、欲望のはけ口にすぎないのさ」
この上もなく冷たい表情を浮かべて、僕は言い放った。全女性を敵に回しそうな台詞にさすがの深春も目を丸くして、
「わお、腐ってるねー」
「ああそうだ。僕は自己中心的なド腐れ外道で最低最悪のクソ野郎、発情期のハエ以下のケダモノ、再生途中のトカゲの尻尾以下のキワモノなんだ。誰にも愛されず、蛇蝎《だかつ》のごとく忌《い》み嫌われて子供には石を投げられ女には唾《つば》を吐きかけられ、肥溜《こえだ》めに落ちて寂しく野垂れ死ぬのがお似合いのウジ虫人間、それが僕だ」
……なんで僕は自分のことをここまでボロクソに貶《けな》しているのだろうかと疑問に思わなくもない。
「悠紀……」
僕の言葉を聞いた深春はしばらく考える様子を見せたあと、
「でもボクは、そんな悠紀が、だ、い、す、きっ」
大抵の男なら一発で恋に落ちてしまうであろう満面の笑顔で堂々と言い切った。
……もともとゴーイングマイウェイな性格だったが、ゴーストになってさらに拍車がかかったような気がする。それともゴースト化云々は関係なく、告白したことで何かが吹っ切れてしまったのか。どちらにせよはた迷惑な話だ。
「はあ……」とうとう僕は観念した。「あーもう、分かったからちょっと待ってろ。まだ朝飯も食べてない」
「デートしてくれるの!?」
ため息とともに僕は頷いた。深春はぱあっと顔を輝かせ、僕に抱きついてくる。実際には触れられないので抱きつく真似をするだけだが、不覚にも顔が赤くなるのを抑えることができなかった。なんてシャイなやつなんだ僕は。
「悠紀、大好きっ!」
「へいへいそうですか。僕も大好きですよ深春さん。もう君しか見えません」
誠意と生気のカケラも含まれない声で僕は言った。
「えへへ、ボクもっ!」
皮肉を完璧に無視して、深春はキスする真似をした。
……どうにでもしてくれ、もう。
「で、どこに行くんだ?」
家を出たところで、僕は地面から三〇センチほどふわふわ浮かんでついてくる深春に尋ねた。深春は何がそんなに楽しいのか知らないがとにかく楽しそうに笑いながら、
「悠紀の行きたいところでいいよ」
「……自宅」
「だーめ。それ以外で」
「……だったら深春が適当に決めてくれ。ちなみに成層圏とかマントルの中とかはナシの方向で」
「あはは、そんなところ、いくらゴーストでも行けないって」
深春の言葉は本当だ。ゴーストは物理法則を無視し、あらゆる物体を通り抜け、空間を自由自在に飛び回ることができる(ただしスピードは普通に走るのと同じくらいまでしか出せない)が、しかし実際に空の彼方や地下深くまで行こうとした、勇敢なのかアホなのか微妙なチャレンジャーゴーストたちの話によると、地表から数十メートルとか地下数十メートルのところまで行ったところで、急激に猛烈な息苦しさを感じるらしい。身動きが出来なくなるような凄《すさ》まじい圧迫感に襲われ、引き返すしかなくなるという。これも心理的な影響だと言われているが、詳しいことは不明だ。
「うーん、じゃあ商店街の方にでも行くか? ……歩いて行けるから交通費タダだし」
僕が言うと、深春は嬉しそうに頷いた。
商店街はまあ、商店街なので店がたくさん並んでいる。
ここ遠夜《とおや》市はそれなりに発展している街で、ブティックとか喫茶店とかゲーセンとか、まあとにかく色んな店があり、そのぶん人通りも多くて鬱陶しい。ときおりゴーストの姿も見かけるが、深春のように生きている人間(僕)と腕を組んで歩いている(ように見える)やつはいない。今もまた、二十代半ばほどのお姉さんが一人、僕たちの頭上をふわふわと飛んで行った。
「悠紀? どうかした?」
「いやべつに。ちょっと綺麗なお姉さんに目移りしただけ」
深春がジト目になって僕を見る。
「……『君しか見えません』っていう朝の台詞は何だったの?」
「あれは嘘だ」
「あ、なるほどー。悠紀らしいね」
「……そうアッサリ納得されても悲しいものがあるんだけど。まるで僕が不誠実な人間みたいじゃないか」
すると深春はけらけらと笑って、
「大丈夫大丈夫っ。悠紀は不誠実なのがアイデンティティみたいなものなんだから。個性は大事にしなきゃ。嘘吐《うそつ》きじゃない悠紀なんて悠紀じゃないよっ!」
……口ではこんなことを言いつつ、もしも僕が実際に浮気などしようものなら、深春は間違いなく烈火のごとく怒るだろう。要は程度の問題だ。綺麗なお姉さんを目で追うくらいなら容認してもらえるが、深刻な裏切りには容赦ない制裁を加える。それが深春だ。
……にしても、不誠実なのがアイデンティティって、随分と嫌なアイデンティティもあったものだ。まったく否定できない自分が悲しいけど……。
と、そこで。
「あーこれカワイイ!」
通りがかったブティックのショーウィンドウを見て、深春が歓声を上げた。
「買わんぞ」
とりあえず付き合いで言ってみたものの、そもそもゴーストは服を買う必要がない。
「気に入ったら着替えれば?」
深春の見ている春物の服を一瞥《いちべつ》し、僕は言った。「そうだね」と深春は頷き、それから目を瞑《つむ》り、「むむむむ……」と唸《うな》りだした。別に便秘で苦しんでいるというわけではない。
数秒後、深春の身体が変化を始めた。身体が淡い緑色の燐光《りんこう》を放ち、全身を包み込む。姿が見えなくなるほどの強い光にもかかわらず、決して眩《まぶ》しくはない不思議な光だ。オーラだとかアストラル反応とかスピリット発光だとか、いかにもな名前で呼ぶ奴もいる。
光が収まり、再び深春が姿を現したときには、彼女の格好はこれまで着ていた半袖とミニスカートではない、どこぞの清楚なお嬢様といった感じの白いワンピース姿になっていた。ショーウィンドウに飾られているのと同じものだ。ご丁寧なことに頭にはリボン付きの麦藁帽子まで被っている。こちらはショーウィンドウにはない。
「おお〜」という歓声が周りから上がる。気付くと通行人の何人かが僕たち(正確には深春)を見ていた。
「えへへ〜。どう?」
気をよくしたのか、深春はその場でくるりと一回転。またも歓声。恥ずかしい……。
ゴーストは、強くイメージすることで自分の外見を変えることができる。その姿に制限はないが、生前の自分の姿でいるのがやはり一番楽で、動物や他の人間などに化けるのは非常に疲れるためそう長くはもたない。今の深春のように服装を変えることも自由だが、現物を見ながらのほうが当然イメージを固めやすい。……と、深春が言っていた。
そうこうしている間にも、深春はショーウィンドウの服を片っ端から試着している。って、おいおい深春さん、夏でもねーのにその格好はちと大胆すぎじゃないかい? お前胸小さいんだし。……ん、ふむ……やっぱこいつ、ミニスカート似合うなあ。美脚ってやつか。そういえば小学校の国語の教科書にミニスカートを讃えた詩があったっけ。「生きるということ、それはミニスカート」とかいうやつ。意味分かんないけど。
……まさにこれぞ本当のウィンドウショッピング。ただ見てるだけで商品をコピーできるんだから店としては商売もなにもあったもんじゃない。
深春が服をチェンジするたびにギャラリーが増えていく。
僕は他人のフリをして、ブティックの隣にある電気屋のテレビに目をやった。
一つのテレビがニュース番組を映し、三日前に東京で起きた爆弾による無差別テロについて扱っていた。どうやら自殺教からの犯行声明が公開されたらしい。
自殺教というのは最近、正確には三年前ゴースト化現象が起きるようになってから台頭してきたカルト宗教で、正式には〔来世の幸福と人類進化の会〕とかいう名前だったと思う。「ゴーストは進化した人類である」という教義をもち、より多くのゴーストを誕生させるため、三日前のようなテロ活動を行っている困った連中である。母体となったのはごく普通の仏教系の教団らしいが、現在は宗教法人ではなくテロ組織として摘発の対象となっている。こういった妙な集団は、自殺教だけでなく世界中に幾つも存在する。日本でも、自殺教の陰に隠れて目立たないが、過激なカルト集団は他にも幾つかあるらしい。
まったく物騒な世の中になったものだ。……いや、もともと不況やら戦争やらで物騒だったのが、さらに物騒になっただけか。
と、そのときひときわ大きな歓声が聞こえて、僕は深春の方に視線を戻し――絶句。
「……お前、なにやってんだ」
「えへへ、似合う?」
「似合う〜!」と叫んだギャラリーの一人をギロリと睨《にら》んで黙らせ、改めて深春の姿を凝視する。
……どうしてこんなものが展示してあるのか分からない、ピンク色のレオタードのようなものとフリル付きミニスカートのようなものを組み合わせたような不思議なコスチュームを纏《まと》って右手には変てこなステッキを持った、いわゆる一つの魔女っ娘《こ》ルック。今の深春の格好はそれだった。
しばらくこめかみを押さえて沈思したあと、僕は何も言わず歩き出した。
「あー待ってよ」
ギャラリーをかきわけて足早に離れる僕のあとから、深春がついてくる。……魔女っ娘の姿のまま。ブティックから数十メートルほど離れたあと僕は振り返り、
「……その痛々しい格好はやめてくれ。僕まで変な趣味の人に見える」
「えー、ほんとは嬉しいくせにー」
「残念ながら僕の脳髄はそこまでマジカルには出来てないんだ」
げんなりして僕は言った。…………まあ、確かに似合ってるけどさ。
ブティックを離れたあと、僕たちは映画を見た。
その映画は全米ナンバーワンのハリウッド超大作であり、世界中が涙するほどの愛と感動のスペクタクルヒューマンラブストーリーだった。パンフレットにそう書いてある。
「あー面白かったー」
映画館を出たあと、深春は伸びをしてそう言った。僕は深春が映画やらテレビやら漫画やらを見て「面白かった」以外の感想を言ったのを聞いたことがない。よって、こいつの感想はまったくアテにならない。
「たしかにCGは凄かったな」
批判することが生き甲斐の自称映画通のような感想を僕は言った。それを聞いているのかいないのか、深春は興奮冷めやらぬ様子で、
「やっぱり愛だよね、愛! 愛が地球を救うんだよ」
「……そうだっけか? 僕の記憶が確かなら、地球を救ったのは博士が残した謎のびっくりスーパーロボットだったと思うけど。悪の組織をなんていうかこう、火力で」
「それが愛なの! 愛の炎なんだよ! ラブファイヤーなんだよっ!」
「ンな無茶な」
深春にとっては愛と物理攻撃は同義らしい。そんな愛は嫌すぎる。
……僕としては、愛で地球を救うなんてのは〔不可能〕の代名詞だと思うのだが。だって愛はCGで表現できないし。
と、そのとき。不意に肩に、どんっ! という衝撃がきて、僕はよろめいた。
「うおっと」
「どけっガキっ! 邪魔だ!」
悪態をつきながら、後ろから僕の肩にぶつかってきた男はそのまま慌てた様子で走っていく。中肉中背中年のどこにでもいるようなオッサンだった。腕に何かを抱えているようだったが、それはまあどうでもいい。
「……ったく、なんだよあれ」
肩を手で払いながら、僕は顔をしかめた。
「まあまあ。気にしない気にしない。それより、次はどこ行く?」
「そうだな……」
深春の言葉に僕が答えようとした矢先。
「どけええええええいッ!!」
そんなしゃがれた怒鳴り声とともに、今度は背中に、またしても衝撃がきた。
「ぐへえっ!?」
先ほどの男よりもはるかに凶悪な破壊力に、僕は前のめりにぶっ倒れた。
「悠紀!?」
深春の声。さらに、
「おのれえ待たぬかそこの悪漢めがあッ! 逃げるなあ! そこになおれぇぇいッ! このわしが直々に成敗してくれるわあぁぁ――――ッ!」
……僕の背中から、何やらしゃがれた怒鳴り声が聞こえる。重い。僕にぶつかった相手が、僕の背中に乗ったまま何やら喚いている。声からすると老婆のようだ。しかもこの声、聞き覚えがあるような……っていうか完璧に知り合いだ。
「……あのーお婆さん」
「大人しくこっちへ戻ってこーいッ! 今戻れば命だけは助けてやらんこともない! じゃがもし逃げるのであればこの未至磨《みしま》ツネヨ、未来永劫《えいごう》貴様を一族郎党呪い続けてくれるぞおおッ!!」
「もしもーし」
「おのれえ、これだけ言っても分からぬかあッ! ならば仕方ない、我が一族に先祖代々より伝わる秘術をもって貴様に地獄を味わわせてやる! 安らかに死ねると思うでないぞ! 生き地獄の正確な定義を貴様の染色体の一本一本にまで刻み込んでくれん!」
「うるせえババアッ!」
僕はたまらず叫んだ。そこでようやく、ババアは下敷きになっている僕の存在に気付いたらしく、
「……んん? 誰かと思えば久遠《くどう》のところの悪餓鬼《わるがき》じゃないかい。どうしてそんなところで寝てるんだい。相変わらず変わった趣味だね」
「あんたが突き倒したんだろうが」
「おや、そうかい」
まったく悪びれた様子も無くババアは立ち上がり、ひょいっと僕の背から降りた。
……ったく。相変わらず無駄に元気なババアだ。
「師匠、お久しぶりでーす」
深春が脳天気に挨拶をした。
「ひひひ、深春ちゃんは礼儀正しい良い子だね。こっちの悪餓鬼とは違って」
「余計なお世話だ」
僕は背中についた靴跡を手で払い落としながら言った。それから老婆に向き直る。
未至磨ツネヨ。またの名を(僕の脳内で)、〔ブーメランばばあ〕。深春同様、僕の人生に暗い影を落とし続ける一人である。こいつに巻き込まれたトラブルは数知れず、僕に刻んだトラウマの数は深春を上回る。
年齢は九十歳を超えているはずだが、腰も曲がっておらず背は僕より頭一つ分くらい高い。不愉快なほど元気なババアである。ボケてはいないが、頭のネジがグロス単位でぶっ飛んでいるため痴呆《ちほう》よりタチが悪い。髪は総白髪だがフサフサで、顔面には無数の皺《しわ》が刻まれている。常に笑っているように細められた目にはまるで血に飢えた狼のように鋭く邪悪な光が宿っており、どこぞの魔女のようなその外見は、子供が見たら泣くことうけあいだ。ちなみに僕が生まれた直後に初めて目にしたものは、母親ではなくこのババアの顔のどアップだった。自分が鳥でなくて本当に良かったと思う。
〔未至磨抗限《みしまこうげん》流〕という怪しげな武術の師範でもあり、深春と僕、それに僕の義妹は何故かそこの門下生だったりする。情けないことに、その中で一番弱っちいのは僕だ。
ちなみに二つ名の元ネタとなった〔ブーメランばばあ〕とはこのあたりに伝わる都市伝説であり、国道を車で走っていると突如として前方に出現し、突進してくる車をブーメランのごとく空中で回転して避《よ》けるという、一体全体何がやりたいんだかよく分からない妖怪(?)である。しかしこっちの方はただの笑い話で済むが、目の前にいるババアの迷惑度は本家をはるかに上回る。地球のためにも早々にくたばるべきだと思う。
「……それで、出来ればあんたが僕にいきなりボディプレスをかましてきやがった理由について、納得のいく説明をしてもらいたいんだが。さてはいきなり押し倒して、この僕のみずみずしい肢体を肉欲の赴《おもむ》くままに貪ろうという魂胆《こんたん》か」
するとババアは、魔女という表現が相応《ふさわ》しい底意地の悪い嘲笑を浮かべた。
「ハッ、悪いけど、あんたみたいな変態にまで手を出さねばならんほど、あたしゃ色恋沙汰に不自由してないんでね。もうモテてモテてしょうがないのさ」
「それはいったい何億年前の話だ。ジュラ紀か」
「いんや、たしかカンブリア紀だったかねえ」
僕の嫌味をババアはあっさりと流した。小癪《こしゃく》な。
「……アノマロカリスと交尾でもしてろ、この妖怪ババア」
「あのー、師匠。どうでもいいですけど何か急いでたんじゃないですか?」
僕とババアの信じられないくらいにつまらない漫才を遮《さえぎ》って、深春が言った。
「おお、そうじゃった。早く今の男を追いかけねば」
「そこまで男に飢えてたのか。やっぱり年は取りたくないな――いてえッ!」
予備動作ゼロの動きでババアは僕に空手チョップを食らわした。
「今の男は引ったくりじゃ。いきなり後ろからわしの鞄を奪っていきおった。まったく、最近は物騒になったものじゃな。わしのようなか弱い老人を狙うとは」
台詞とは裏腹の実に楽しげな顔で、ババアは言った。
「……師匠のことだから、わざと鞄を奪われたんじゃないですか?」
深春の言葉に、ババアはあっさりと首肯する。
「うむ。どうも最近退屈だったんでね。たまにはこういう暇つぶしも悪くないさ」
「どうせ鞄には発信機でも仕込んであるんだろ?」
「当然じゃ」
こういう性格なのである。わざと隙を見せて引ったくりに鞄を奪わせ、一度はあえて取り逃がす。そして相手が逃げ切ったと思ってホッとしているところを捕まえる。他人の絶望に歪《ゆが》む顔を見るのが好きで好きでたまらないという、まるで悪魔のようなババアだ。
「……いや、ババアのような悪魔なのか」
「聞こえとるぞ糞餓鬼《くそがき》。……まあいいわい。それじゃ、そろそろ行くとしようかね」
ガウンの中から小型のハンディナビを取り出してババアが言った。
「はい、師匠」
頷く深春。……って待て。何か文脈的に不自然な展開があったぞ。どうしてババアが引ったくりを追いかけるのに僕たちまで一緒に行かねばならんのだ。
そうこうしている間にも、ババアはすでに歩き出しており、深春もその後ろからふわふわ飛んでついていく。そこに自分の行動に対する疑問は感じられない。余計なことに首を突っ込むのが楽しくて仕方ないという悪癖《あくへき》は生前と変わらない。
「ほら、悠紀もはやくー」
「…………はあ……」
僕は大きくため息をついた。
白咲深春と未至磨《みしま》ツネヨ。一人でも十分に厄介だが、二人揃うとさらに洒落にならないトラブルを引き起こす。さながら化学反応のごとく。水素分子と酸素分子が結合して水になるように、〔愛と平和の使者《パトリオットミサイル》〕の持つ悪性トラブル吸引素子と〔ブーメランばばあ〕の持つ論理消失型パニック発生因子が結合してエントロピー暴走型カタストロフ級常識破壊が引き起こされるのである。……すいません、自分でも言ってて意味がわかりません。
ともかく、こいつらといるとロクなことがない。それはもうほんとに、これまでに何度も、嫌になるくらい、厭《いや》になるくらい経験してきた。
…………いつの間にか、トラブルに首を突っ込むことに抵抗がなくなるほどに。
「世の中にはどうしようもないこともあるんだよなあ……。人間、諦《あきら》めが肝心さ」
若者らしからぬ後ろ向きな台詞を吐きながら、僕は二人を追って歩き出した。
ナビによると、現在、引ったくりは映画館から二百メートルほど離れたところにある公園にいるようだ。商店街と住宅街のちょうど境目くらいにある、わりと大きな公園だ。きっと犯人は、ここまで来れば大丈夫だろうと安心しているところだろう。可哀想に。
数分後、僕たちはその公園へとやってきた。引ったくり犯はその場を動いてはいない。並木道沿いにあるベンチに腰をおろし、ババアから奪ったハンドバッグを手に抱えている。その様子を木の陰から見ながら、
「……なあ。どうしていちいちそんなアホくさいことをしなきゃいけないんだ?」
「いいじゃない。悠紀、そういうの得意でしょ?」
「なんでそうなるんだ。僕はただの善良な一般市民だぞ」
「ヒヒヒ、どうだかね」
ババアが相変わらずの嫌な笑い声を上げた。
「……ったく」
僕は肩をすくめ、引ったくり犯に気付かれないよう、後ろから回り込むように近づいていった。捕まえる前にちょっとビビらせてやるのが目的だ。ちなみになぜ僕がやるかというと不本意ながらじゃんけんに勝ってしまったからである。ま、出来るだけ穏便にことを済ますなら僕が動くのがベストだろうけど。軽く脅《おど》かしたらさっさとバッグを取り戻してしまおう。
四十がらみのさえない容貌《ようぼう》のひげ面の男は、ごそごそとズボンのポケットを漁《あさ》って何かを取り出し、それを見ながら大きなため息を吐《つ》いた。……どうやら写真のようだ。まあどうでもいいや。
僕は男のすぐ後ろに忍び寄り、
「……動くな」
ここへ来る途中にコンビニで買ったサインペンの先を男の背中に突きたて、できる限り感情を殺した低い声でそう言った。
「ひっ!?」
「おっと振り向くな。振り向けばこいつが火を噴き、貴様の心臓を撃ち抜くぞ」
凍りついた男に、僕はペン先にさらに力を入れる。
「な、なにもんだ、てめえ……」
「私はある組織の始末屋だ」
「し、始末屋……?」
「香港《ホンコン》に本拠地を持つ、大陸で十本の指に入る巨大な組織だ。噂くらいは聞いたことがないか? かのテロ組織〔稀代の魔女の工房《ファクトリー・オブ・メディア》〕が二年前に中欧で起こした武装蜂起《ほうき》、そこで使われた武器弾薬を提供したのも我々なのだよ。貴様の奪ったそのバッグには、その取引の詳細を記録したファイルが入っている。あの老婆は組織の運び屋でね。まったく、とんだ大失態をやらかしてくれたものだ。無論彼女はもうこの世にいない。つい五分前に消してきた。こいつでな。役立たずには死を、だ。さて、貴様がどこの組織の人間だか知らないが、まずは大人しくファイルを渡してもらおうか。それから洗いざらい知っていることを吐いてもらおう。我々に反抗する者がどうなるか――たっぷりと味わいながらな。死ぬ前にも地獄が見られることを光栄に思うのだな。硫酸とガソリン、どちらがお好みだ?」
「お、俺は組織なんか知らねえよ! わ、分かった、こいつを返せばいいんだろ? 返す、返すから命だけは……」
恐怖で震えながら言う男。……うわ、この人僕の与太話を完全に信じてるよ。
「ふん、愚か者が。貴様は組織のことを知りすぎた。たとえ貴様の話が本当だとしても、見せしめを兼ねてあの世に行ってもらう」
「あ、あんたが勝手に話したんだろうが!」
「冥途《めいど》の土産というやつだ。感謝するがいい」
「ひ、ひい――ッ!」
男は世にも情けない悲鳴を上げた。そのとき、
「ぷっ、あは、あははははは、だめ、ボクもうだめっ! 『硫酸とガソリン、どちらがお好みだ?』あは、あははは、悠紀ノリすぎ! ていうかこのオジサンもノリ良すぎ!」
いつの間にか僕の後ろに忍び寄り、深春とババアが笑っていた。
「ヒヒヒ、まったく、よくもまあそんなにペラペラと口から出任せが言えるもんだね。……ところで、誰がもうこの世にいないって?」
「……気にするな。〔そうだったらいいなあ〕っていう心の底からの欲求が無意識のうちに混じってしまっただけだから。ほら、小説や漫画とかでも作者の心中願望が露骨に反映されてることってよくあるだろ?」
「フン、悪いけど、あたしゃまだまだ生きるよ」
そこでようやく、様子がおかしいことに気付いた男が振り返った。
「な、なんだてめえらは!? ッ! あ、て、てめえはさっきのババア! ――ああっ! それ、ただのペンじゃねえか! てめえ、クソガキ、騙《だま》しやがったな!」
「そんなに怒らないでくださいよおじさん。ただのお茶目なユーモアじゃないですか」
「ざけんじゃねえ!」
何故か逆上してしまった男がベンチから立ち上がり、僕に殴りかかってきた。体重も乗ってないし動きも単調。僕はそれを半歩横に動いて難なくかわし、ババアはよろめいた男の手から目にも留まらぬ早業でバッグを奪った。
「か、返しやがれ!」
「……もともとあんたのものじゃなかろうに。もっとも、あたしに勝てたらこのバッグをくれてやってもかまわないけどね。どうせ映画館の中で拾ったもんだし」
「置き引きじゃねえか!」
なんてババアだ。だが僕のツッコミにババアは平然として、
「あとでちゃんと警察に届けるさ。……ちんけな小悪党と一緒にね」
にたり、と男に笑いかける。見慣れている僕でさえ少しびびってしまうほどの異様な迫力があるその笑みに、男は顔に冷や汗を浮かべてじりじりと後退し、
「お、おぼえてろ!」
古式ゆかしい捨て台詞を残して逃げていく。バッグも取り戻したことだし、普通ならこれで終わるところだったが――、
「さて、深春ちゃんに久遠の悪餓鬼。追いかけるよ」
「はいっ師匠」
……思ったとおり、徹底的に叩き潰してしまうつもりらしい。僕はつくづくあの引ったくり犯に同情した。
と、そこで僕は、ベンチの上に一枚の写真を発見した。男が持っていたものだ。そこには小学校高学年か中学生くらいの女の子がピースサインをしていた。快活な印象の、〈色々と需要がありそうな〉可愛らしい娘さんである。
「あの人の子供の写真、かな?」と深春。
「……多分な。きっとあのオッサン、娘のために犯罪に手を染めてでも金が欲しかったんだ。苦労してそうな顔だったし」
僕が言うと、深春はしんみりした顔をした。
「師匠……」
「ああ、分かっておる」
ババアも真剣な顔で頷いた。深春が力強く言う。
「子供のためなら犯罪をやってもいいなんて思ってる甘ったれた小悪党、ボクたちで徹底的に叩き潰しちゃおう!」
「うむ。当然じゃな」
……ああやっぱりね。この二人に武士の情けなんてあるわけないか。この二人に関わったことがあの男の運の尽きだ。大人しく警察に行ってもらおう。今回が初犯ならそれほど重い刑にはならないだろうし、常習犯なら情けをかける必要もないし。
そして僕たちは、引ったくり犯の追跡を再開した。
ときどき後ろを振り返りながら、引ったくり犯は逃走を続ける。
それなりに鍛《きた》えているのか、足は中年オヤジにしてはなかなか速い。しかし常人を遥《はる》かに超えた運動能力を持つ妖怪ブーメランばばあと、生前から駿足を誇りゴースト化して体力のパラメータまで無限になった深春、それにこいつらによって幼い頃から(強制的に)鍛えられてきた僕の三人には到底及ばない。ジョギングでもする程度の余裕の表情で、三十メートルほどの距離を保ったまま男を追う。男の顔が恐怖でひきつっているのが遠目にも分かる。気持ちはよく分かるぞ引ったくり男。
現在僕たちがいるのはあの公園からさらに北上した、マンションが立ち並ぶ住宅街である。人通りもそれなりに多く、道行く人は生者も死者《ゴースト》もみんな揃って好奇の視線を送ってくる。が、こいつらと一緒にいて人目を気にしていたら、僕はとっくの昔にノイローゼになっていただろう。要は慣れだ。
「……なあ。もういい加減に捕まえてやらないか? あのオッサンが不憫《ふびん》だろ」
走りながら僕が言う。
「ひひひ、まあそう慌てなさんな。焦《じ》らすのもテクニックのうちさ。覚えときなよ」
「……何の話だよエロババア。あんたは鬼か。あんたには優しさってもんがないのか」
「本当の優しさとは一体なんだろうね。馬鹿弟子よ、情けをかけることだけが優しさだとでもいうのかい?」
「そうとは限らんが、少なくともあんたのは絶対に優しさとかじゃないと思うぞ」
「ねえ悠紀に師匠。引ったくりのおじさん、マンションに入ってくよ」
僕たちの上空三メートルにいた深春が、不毛な言葉の応酬《おうしゅう》を遮って言った。
見るとたしかにオッサンが、通りの先にある十階建てのマンションへと入っていく。わざわざ逃げ場のない建物の中に逃げ込むとは、よっぽど錯乱しているらしい。あるいはあのマンションにオッサンの部屋があるのかもしれないが、それだと住んでいる場所を特定されることになるのでこれまた愚かしい。
コンクリートの階段を駆け上がっていくオッサン。どうせ逃げられっこないので、僕たちはゆっくりと上に向かう。
最上階まで上り、僕たちは男を追い詰めた。というか勝手に男が追い詰められた。
「ひ、ひい……」
男は一番奥の部屋の扉の前の手すりにもたれかかるようにして怯《おび》えた目でこっちを見ている。あー、なんか切羽詰まってるなあこの人。窮鼠《きゅうそ》というか手負いの獣というか、逃げられないことが分かって観念するのではなく、やけっぱちになっている感がある。
「く、来るな! とっとと消えろ! これ以上近づいたら……」
「近づいたら、どうするんだい?」
楽しげに言いながら、ババアはずいっと一歩踏み出した。男は顔をひきつらせ、
「近づいたら……その……こ、ここから飛び降りてやる!」
「笑わせてくれるね若造」ババアが嘲笑を浮かべる。「やれるもんならやってみな。あんたが死んだところで、あたしらは何とも思わないけどさ」
「らとか複数形で言うな」
僕もべつに悲しくはないだろうが、後味の悪さくらいは感じる。だって真人間ですから。
「く、くそ……!」
目に涙を浮かべながら、ついに観念したように膝をつく男。
「ふむ、思ったより呆気《あっけ》なかったね。ま、暇つぶし程度には楽しませてもらったよ。さて、それじゃ大人しく警察に――」
そのとき。
一番奥の部屋――男のすぐそば――のドアが開き、中から一人の少女が出てきた。年は僕や深春と同じか少し下くらいだろう。やや童顔で長い黒髪が印象的な、おしとやかな感じのする美少女である。……それはともかく、なんて間が悪い娘なんだ。
「やばいな」「まずいね」僕とババアが同時に呟く。少女は状況がまるで解っていないようで、僕たちを見てきょとんとした表情を浮かべた。
「えっ、なんですかあなたたち――って、きゃあっ!?」
男が、いきなり懐から果物ナイフを取り出すと、その少女を後ろから抱きすくめてナイフを首筋に突きつけた。
「う、動くな! さっさと立ち去れ! でないと……この娘を殺すぞ!」
完全に本気の目だ。少女が怯えた目で僕たちと男を交互に見る。
「……あーあ。だからさっさと捕まえればよかったんだよ」
「ヒヒヒ、なかなか面白い展開になったじゃないか」
嘆息混じりに言う僕と、こんな状況でも楽しそうな人でなしババア。
「な、ななななんなんなんですかあなたたちは!? も、もしかして私今ちょっとピンチですか!? 人質にされちゃってますか!? あ、あの、おじさん、わ、私なんて人質にしたって意味ないですよお、私なんて、私なんてほんと、存在価値ナシのクズなんです、勉強できないし運動音痴だし手先不器用だし性格暗いし友達いないしお父さんは変な宗教に嵌《はま》っちゃうしお母さんは出て行っちゃったしほんと生きてる価値ゼロって感じですよねそうですよね生まれてきてすいませんほんとすいません!」
恐怖と混乱からだろう、よく分からないことを口走る少女。
「生まれてきてすいません生まれてきてすいません生まれてきてすいません」
何故かひたすら謝りながらついには泣き出してしまった少女に、さすがに引ったくり犯も困惑している。
「お、おい! お前ちょっと黙ってろ」
「あ、は、はいっ、す、すいませんすいません! 私のようなゴミ虫が人間様の言葉を喋ること自体、不相応にもほどがありますよね、まったく、身のほどをわきまえろって感じですか? すいませんほんとすいません、もう金輪際人間様の言葉なんて喋りません、ゴミ虫はゴミ虫らしくゴミ虫の言葉を喋ることにしますごみーごみーごみごみごみー」
ゴミ虫語(?)を喋りだす少女。……うーむ、この娘は錯乱しているのではなく、素でちょっと頭がおかしいのではないかという気がしてきた。しかし僕がそのことについて結論を出すより早く、男の背後からその叫び声は聞こえてきた。
「お願い、もうやめてッ!」
「な、なんだ!?」
男が慌てて振り返った。そこには一人の少女が宙に浮かんでいる。小学校高学年か中学生くらいの明るい感じのする美少女――男が落としていった写真の少女だ。ちなみにその身体は透けており、その正体は深春であることが分かる。……あいつ、道理で姿が見えないと思ったら、変身してたのか。服を変えるのではなく他の人間や動物に変身するのは難度が高く、時間がかかるのだ。
腕を胸のあたりで十字に交差させ、いかにも「わたしは美少女です!」というようなあざといポーズをして、深春が言う。
「お願い、もうこれ以上、罪を重ねないで」
瞳を潤ませ、迫真の演技(かなりわざとらしい感じもするが)を見せる深春。外見も口調も違うので、まるっきり別人だ。
「え……な……な、なんで……こんなところに……」
男は呆然と呟いた。少女から腕を離し、深春に向けて手を伸ばす。
「愛の力よ! 愛の力で生霊になって、私はここにやってきたの! あなたを止めるために! だからお願い、もう悪いことはしないで!」
「くっ……そんな……」
論理展開が無茶苦茶な深春の言葉に、しかし男は呻いて拳を固く握り締めた。その手は震えている。どうやら深春の言葉が心に響いているらしい。ンな馬鹿な。……うーん、でもたしかに、源氏物語にも愛の深さゆえに生霊になった女が出てくるし、昔から愛って言えばどんな理不尽なことでも納得してしまいそうな観はあるよなあ……。
深春は男をただじっと、いたわるような切なげな顔で見つめる。
……どれくらいそうしていただろうか、
「……分かった。……俺……警察に……自首することにするよ……」
がっくりとうなだれて呟いた男の言葉に、深春は顔をぱあっと輝かせて言った。
「ありがとう! お父さんっ!」
その瞬間、男の表情が強張った。
「なん……だと……?」
「ど、どうしたのお父さん」
「お、お前、誰だ!」
怒りをあらわにして男は怒鳴った。どういうことだろう。自首するんじゃなかったのか。深春は慌てた様子で取り繕うように言う。
「な、何を言ってるの、お父さん、あ、それともパパ? ダディ? と、とにかく私よ、あなたの娘よ!」
「ふ、ふざけるのもいい加減にしろ! どうして今をときめくネットアイドルの〔もえみちゃん(十二才)〕が俺の娘なんだ!」
「……あ」
深春は困った顔をして僕に視線を向けた。
「むう……」
僕は気まずくなって目をそらす。……ぬう、最近増えているロリ系アイドルは一通りチェックしていたつもりだったのだが、ネットアイドルはほとんどノーマークだった。僕もまだまだだな。もっと精進せねば。…………いやべつに、僕はロリコンというわけではありませんよ? たんに子供が好きなだけで。…………ほんとだよ?
「えへへ、説得失敗」
深春は舌をぺろりと出してもとの姿に戻り、ふわりと僕たちのほうに飛んできた。まったく。なんのために凝った登場したんだか。
「て、てめえらあ……、どこまでも俺をおちょくりやがって! どいつもこいつも……俺を馬鹿にして……そんなに俺が滑稽《こっけい》か! 彼女がいないどころかこの二十九年間、女の子と手をつないだこともない、入社三年目で痴漢で捕まってリストラされた惨《みじ》めな俺をそうまでして笑いたいのか! ぶ、ぶぶぶぶち殺す! て、てめえら、絶対にぶぶぶぶっ殺してやるぞ!」
人質には目もくれず、男は果物ナイフを振りかぶりながら僕たちの方へと突進してきた。完全にぶち切れてしまっている。あーあ。ま、気持ちは分かるけど。
「おらああああ―――ッ!」
「はっ!」
「ぎぇっ」
ババアが一瞬で間合いを詰めて、ナイフを振る暇さえ与えず男に当て身を食らわした。カエルが潰れるような呻きを漏らし、あまりに呆気なく崩れ落ちる中年オヤジ(……だと思ってたけど実はまだ二十九歳だった人。でもまあ所詮人間は見た目だ、オヤジと表現しても差し支えあるまい)。
「……最初からこうしてればよかったのに」
「覚えときなひよっこ。戦いの虚しさを知ることが大人の階段を上る第一歩なのさ」
「そんな大人の階段は嫌だ」
「ともあれ、これにて一件落着だね。うんうん、苦労して目的を達成したあとって気持ちいいよねっ!」
深春が相変わらず楽しそうに言った。
……寄ってたかってオッサンを散々からかっただけって気もするけどな。正直すまんかった。足元に倒れている男に、深春とババアに代わって心の中で侘《わ》びを入れておく。意味ないけど。
それから引ったくり男は、警察に引き渡された。
人質になったあの少女は僕たちが帰る際にも何か言っていたけれど、ゴミ虫語だったので僕には解らなかった。ていうか本当に大丈夫かあの娘は。
「……ねえ、悠紀」
「ん」
ババアと別れ、僕と深春は夕暮れの街並みを連れ立って歩いている。
「今日のデートも楽しかったね」
深春が言った。
「ふざけるな」
と僕が答えて、深春は「あはは」と笑った。心から楽しそうに笑った。
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プロローグその3 〜美少女幽霊と死にたがり少女〜
僕たちが引ったくり犯(あとで判《わか》ったことだが、あのおっさんは引ったくりの常習犯だったらしい。警察から僕とババアに感謝状が届いた)を捕まえて二週間ほどが経過したある日の放課後。
いつもはバカ話をしながら深春と家に帰るところだったが、今日は何となく学校の図書室に行った。読書は割と好きなので一年生の頃はちょくちょく訪れていたのだが、深春が死んでからはそれどころではなくて疎遠になっていた。
ちなみに深春は図書室には来ない。べつに入り口や壁が護符で守られているわけでもないのだが、あいつは生前からここの物音一つ立てただけで睨まれそうな雰囲気(漫画じゃあるまいし、完璧に偏見だ)が苦手らしく、「図書室に行くくらいなら死ぬ!」とまで言い切っていた。実際に死んだあとも苦手なものは苦手らしい。
……今度から深春から逃げるときはここに来ることにしよう。
そんなことを考えながら、棚を適当に眺めていく。学校の図書館なので純文学や学術書が多く、若者向けの情報誌や漫画は一切ない。僕としてはぜひとも最近の漫画やライトノベルなども入れるべきだと思う。萌え萌えな感じの。〔萌え〕とは日本文化の最先端であり、一説には日本古来の〔わび・さび〕の精神にも通じるものがあるという。……ものすごくこじつけくさい気もするが。
閑話休題。一通り小説の棚を眺めるも、特に興味を惹くものはなかった。仕方ないのでとりあえず新聞でも読もうと思い、窓際にある新聞コーナーへと足を運ぶ。残念ながらスポーツ新聞はなかったので経済新聞で我慢するとしよう。
ふむふむ……景気は相変わらず悪いな。平均株価はちょっと上がったと思ったらまたすぐ下がるという危なっかしい低空飛行をしている。ほうほう、アメリカで対ゴースト用の新兵器開発……ふーん霊子銃ねえ……霊子理論、前に論文読んだけど観念的すぎてさっぱり解らなかったな、それにしても相変わらず変なものを作る国だ。放射能とか出さなければいいけど。……十字架や護符の売れ行きは相変わらず伸び続けている。元僧侶が設立した下着メーカーが早くも上場……かの〔対霊仕様ブラジャー〕などの商品でヒットを飛ばした会社だ、オイシイ商売ですな。イギリスでカルト教団による爆弾テロ、うーんと、たしかこいつらは自殺教と同じような団体だったっけ。おや、こっちではレメゲトン教会のデモ行進か。ゴーストを狙った犯罪も相変わらず後を絶たない。
……補足説明。欧米では反ゴーストの団体によるゴースト誘拐事件が頻発している。護符や聖水で清められた檻《おり》や網にゴーストを閉じ込めるというものだ。精神的な存在(であるとされている)ゴーストは何日もそこに閉じ込められて精神が衰弱するとやがて消滅する。いくら既に死んでいるとはいえそこまでやるのはさすがに人道にもとると問題視され、世論の高まりからゴーストに対する保護法案ができた国も多い。ちなみに日本ではどちらかというと自殺教のようにゴースト肯定派の方に過激な連中が多いため、まだ保護法案は成立していない(審議はされているようだが)。
適当に目についた記事を一通り読み終え、僕は新聞を閉じた。あー面白かった経済新聞。図書室の、時々ノートをめくる音が聞こえるだけの静かな環境も最高だ。僕の周囲って深春をはじめ、無駄にテンション高い奴らばっかりだから疲れるんだよな。僕的には無用なトラブルに首を突っ込むことなく心穏やかに生きていたいのに。
首を軽くまわしたあと、僕は窓から外を見た。この高校の校舎はL字(もしくはかぎ括弧《かっこ》)型になっていて、図書室はLの短い方の棒線の端にあたる部分の四階に位置する。
グラウンドでは野球部やサッカー部が練習に励んでいて、校内にも文化系の部活動の連中や教室で駄弁《だべ》っている連中の姿が見え、放課後独特の活気がある。
視線をさらに上にもっていくと、屋上が見えた。…………まあ、それは、いいのだが……屋上には一つの人影があった。位置的には僕が深春に告《コク》られたあたりか。……それも、まあ、べつにいいのだが…………。
問題は、その人影がフェンスの外側、つまり校舎と空の境界に立ってグラウンドを見下ろしているということだ。
きっとサッカー部のミニゲームを特等席から観戦しているのだろう。よっぽどサッカーが好きなんだろうなあ。それとも好きな人でもいるのかなあ。サッカー部はモテていいなあ。頑張れよ命短し恋する乙女(ちなみにその人影は女子だ。スカートだから)。僕も陰ながら応援しています。
……………………ってわけにもいかないよな……やっぱり……。
まあ普通に考えれば飛び降りだろう、この状況は。つーかなんでこんな時間、あんな場所でやるんだよ。死ぬのは勝手だけど頼むから僕の見てないところでやってくれよ。いっそ見なかったことに……でもこのまま死なれても後味悪いしなあ……女の子だし……。しかもシルエットから直感すると、けっこう可愛い娘っぽいし……。
……まあ、人として当然の対応くらいはしときますか。僕は常識人ですから。
というわけで仕方なく僕は図書室を出、急いで屋上に向かった。……まったく、屋上にはロクな思い出がない。
屋上に到着。えーと………あ、いたいた。少女はまだ、フェンスの向こう側に立ってグラウンドを見下ろしていた。僕に気付いた様子はない。
……さて、どうやって声をかけるべきか。こっそり近づいていきなり「わっ」と脅かしてみたい誘惑に駆られるが、さすがに洒落ではすむまい。かといって脅かさずに話しかける方法というのも思いつかない。仕方がないので普通に声をかけることにした。
「ヘーイベイビーそこの子猫ちゃん、オレっちと一緒に茶ぁでもシバきませんかー?」
すると少女は慌てた様子でこちらを振り返り、
「け、けっこうですシバきませんっ、ほんとすいませんごめんなさい、でも私なんかほんとに誘う価値なんてないですよ一緒に喫茶店に入るだけでお店の空気が汚れてしまいます、それにお茶なんて私にはもったいないです! わ、私なんかお風呂の残り湯で十分なんです、お願いですから私にはかまわないでくださいごめんなさいすいません生まれてきてすいません!」
……あれ。この反応、どっかで見た気が……。大人しそうな感じのする、長い黒髪の可愛い女の子。両手首には黒いリストバンドをしているが、それは見なかったことにしよう。この娘は確か、追い詰められた引ったくり犯にナイフを突きつけられていた――、
「あ、君はあのときのゴミ虫の娘」
「ええそうです私なんてどうせただのゴミ虫なんです生きてる価値ないんです所詮は卑《いや》しい虫ケラなんです! 生きててすいません、生まれてきてすいません……ごめんなさい、うう……ごめんなさい、ごめんなさい……」
フェンスに顔をうずめて泣き崩れる少女。おいおい……どうすんだよ。
「あ、いや、ごめん、そういう意味じゃなくて、ほら、僕のこと憶えてない?」
「え……?」
少女は顔を上げて僕の顔を見た。その目が驚きで見開かれる。
「あ、あなたはあのとき私を助けてくれた……!」
どうやら憶えていてくれたらしい。……べつに僕が助けたわけじゃないけど。そもそもこの娘が人質にされたこと自体、僕たち(というか悪いのは全部あのババアか。僕だって巻き込まれたクチだ)が原因だったわけだし。
「二年B組の久遠悠紀。同じ学校だったんだね。よろしく。で、君は?」
「い、一年D組の紀史元《きしもと》ひかりです。ひらがなでひかり」
あーあ……名前聞いちゃったよ。なんかますます引き返せなくなった感じ。
「ふーんひかりちゃんか。可愛い名前だね」
「な、名前負けしてるってよく言われます」
「駄目じゃん」
……はっ! しまった、ついいつもの調子で突っ込んでしまった。
「そ、そうですよね……。駄目ですよね……私、生きてる価値ゼロの駄目人間ですよね……触ると駄目人間がうつるくらい駄目人間です。先輩の言うとおり、半径五メートルに駄目人間特有の不快オーラを撒き散らしちゃってますよね」
「い、言ってない! そこまでは言ってない!」
「で、でも安心してください先輩! 私、今から死にますから! ここから飛び降りて、綺麗なお星様になりますから! 生きてる価値ゼロの虫けらは、最期に大地に真っ赤な花を咲かせて散るのです! さようなら先輩! 天国でも先輩のことは忘れません!」
聞いちゃいねえし。困った娘だなー。それに真っ赤な花っていっても、人体には骨や内臓があるから咲いても綺麗な赤にはならないんだけど。
「早まるなひかりちゃん、落ち着いて話し合おう。自分に生きる価値がないなんて、悲しいこと言うなよ! 大丈夫、君にはいいところがたくさんあるじゃないか!」
するとひかりちゃんは、すがるような目で僕を見た。
「え……た、たとえばどんなところですか?」
「えーと……」
問われて言葉に詰まる。……ていうか僕、この娘のことなんて全然知らないし。やたらとネガティブで思い込みが激しい、致命的にイタいキャラなのは判るけど。
「た、たとえば……」
「たとえば?」
「……思いやりがある?」
「なんで首を傾げつつ疑問形なんですか!?」
「だ、大丈夫だよ! 人生は長いんだ。これから探していけばいいじゃないか」
「……それってつまり、今はいいところが無いってことですよね……?」
「…………」
僕は思わず目をそらしてしまった。
「や、やっぱり私にはいいところなんて一つも無いんですね! 先輩も遠まわしに私のことを人間的魅力ゼロのゴミ人間だって言ってるんですね! 早く死ねって言いたいんですねそうなんですね!? せ、先輩ひどいです! 死にます、もう死にます! 私、死んでも先輩のことを恨み続けますから! 絶対に化けて出ます!」
「それは困るなあ……」
深春一人でさえ難儀しているというのに、その上この娘の相手までするのは精神的にキツすぎる。エクスクラメーションマーク連発で喋る相手ってどうも苦手だ。
「お、思いついた! 君のいいところ!」
ひかりちゃんは疑わしそうな目で僕を見る。僕はそんな彼女に言った。
「君のいいところは、あれだ! そう、顔だ! 君は顔がいい!」
咄嗟《とっさ》に口をついて出た自分の言葉に自分で納得する。うん、確かにこの娘は(見た目だけは)フツーに可愛い。おおっ、僕は誰かのいいところを探す天才ではなかろうか。
「顔……ですか?」
「そ、そう。ひかりちゃん、君はすごく可愛い。美がつく少女、つまり美少女だ!」
「や、やめて、からかわないでください」
顔を赤くして俯くひかりちゃん。……意外と単純な性格かもしれない。しかし確かに、口元をむにゅむにゅ動かしながら上目遣いでこちらを見るその仕草は、美少女と呼んでも過言ではないくらい萌え萌えなのは事実だった。まるでギャルゲーのワンシーンのようだ。相手があと数センチで地上へまっ逆さまな場所にいなければだが。
「いいややめないね、からかっているつもりもない。これは僕の本心だ。美しいものを前にして賛辞を述べないのは僕のポリシーに反する。君は美しい、その髪その目その口その鼻その眉その頬その首筋その足その手その腕その胸……もまあ控えめな感じでいいんじゃないかな、君を形作る全てが美の結晶であると言っても過言ではない、花も恥じらうとはまさにこのこと美の女神アフロディーテさえ君の美しさの前には嫉妬することだろう君の瞳は百万アンペア地上に降りた最後の天使、君を創り出した君の両親を僕は尊敬するまさに君は遺伝子の最高芸術品にして自然界の奇跡そんな君に出会えた素晴らしい幸運を僕は心から神に感謝するああ神様ありがとう今なら愛で地球が救えそうな気がするよ!」
そこまで早口にノーブレスで言い切って、「どうだ!」とばかりにひかりちゃんを見る。あー息が苦しい。ぜえぜえ。すると、
「あ、あの、先輩」
「ぜーはーぜーはー、……ん?」
「そ、それってつまり」
「うん」
「先輩が、私のことを」
「うん」
「そ、その、す、好きだということでよろしいんでしょうか!?」
「うん」
……………………。
…………。
……。
「……あれ?」
なんか、
今、
僕、
とんでもないところで頷いてしまったような気がするんですけど……。
「せ、先輩……」
ひかりちゃんは目をまるくして顔を真っ赤にして僕を見ている。
「あ、いや、その、今のは……」
僕が慌てて取り消すよりも早く。
「わ、私も先輩のこと好きです!」
「な、なんだってー!?」
「先輩に助けてもらったあのときから、私、先輩のことばかり考えていました! でもお名前さえ分からなくて、もう会えないとばかり……。まさか同じ学校だったなんて……。そ、それだけでも素敵なのに、先輩も……その……そうだったなんて……う、嬉しいですっ、すごく嬉しいですっ、こんな素敵なことがあっていいんでしょうか……ほんと、私、すごく、嬉しい……先輩、私、生きる勇気が湧《わ》いてきました。ありがとうございます、ありがとうございます先輩!」
目から大粒の涙をこぼしながらひかりちゃんは言った。……後戻り不能?
…………これで「ごめん、今の冗談」とか言ったら……やばいよなあ……絶対飛び降りちゃうよなあこの娘……。
「と、とりあえずこっちにおいでよ。いつまでもそんなところにいないで」
「は、はいっ! 私、もう死ぬなんて言いません! リストカットも三日に一回くらいで我慢します!」
なにげにコワいことを言いながら、ひかりちゃんはフェンスをよじのぼって(あ、パンツ見えた)こちら側に戻ってきた。……ふー、これで一人の少女の自殺を止めることに成功したぞ。僕はなんて偉いんだ。その代わり取り返しのつかないことをやらかした気もするけど。〔墓穴掘り人形〕の面目躍如といったところか。……嫌すぎる面目だ。
とてとてと僕に寄ってくるひかりちゃん。一メートルくらいのところで止まり、潤んだ目で僕を見つめる。
「先輩……」
「……あのー、ひかりちゃん」
「は、はいっ、なんでしょうか!」
僕はあさっての方に目をやりながら、
「……さっきのは冗談だって言ったら…………怒る……かな、やっぱり?」
ちらりとひかりちゃんの顔を見ると、表情が消えていた。完全に無表情。怖すぎるっ!
「嘘、だったんですか?」
感情のない声でぽつりと言うひかりちゃん。
「先輩、私を騙したんですか? ……そう、そうですよね……私なんかを好きになってくれる人がこの地球上に存在するわけがありませんよね。なにせゴミ虫ですからね。騙された私が悪いんですよ、えへへ、すいません、ちょっと調子に乗ってました。はは、あははは……先輩さよなら! 私やっぱりここで死にます!」
「わー! ま、待て、早まるな!」
またしてもフェンスの方へ駆け寄ろうとするひかりちゃんの腕をどうにか掴まえる。
「放してください先輩! 私なんてどうせ生きてる価値ないんですもう死なせてくださいお願いします! で、でないと先輩も道連れにしちゃいますよ!?」
えーい、もうどうにでもなれ!
僕は力ずくでひかりちゃんを振り返らせ、がばーっとその身体を抱きしめた。
「せ、先輩!?」
腕に少し力を込める。あ、これってセクハラ?
「せ、先輩、わ、私……」
「……冗談なんかじゃないよ。僕は、ひかりちゃんが好きだ。本当だ」嘘だけど。「……だから、死ぬなんて悲しいこと言わないでくれ」
可能な限り優しく言って、それから自分の台詞によってびっしり鳥肌が立った腕を離す。
「先輩……」
ひかりちゃんはもう逃げようとはせず、潤んだ目で僕を見上げてきた。それから、なぜか目を閉じ、唇を少し前に突き出した。
……あの……これは……もしかして、あれですか?
ほんのり桜色に上気した頬と、それよりもさらに赤い薄い唇。
あれだよなあ……。腹くくれ、僕。
……いただきます。
自分の顔を彼女の顔にゆっくりと接近させ。その唇に、ちゅーをした。よくあるラブコメのように寸前で邪魔が入ったりもしなかった。僕はちゅーをした。抉《えぐ》りこむようにちゅーをした。ちゅーをしたあっ! 脳内で『はじめてのチュウ』が何故かラップ調で流れ出す。ヤッタ、ヤッタ、ヤッタYOーッ! やっちまったよおおお! 嗚呼《ああ》、あああ……、……いやまあ、別に初めてのチュウ《ファーストキス》というわけでもないんだけど。
「ん……ん、ん……ん…………」
……数秒くらい堪能《たんのう》したあと、唇を離す。ごちそうさまでした。
「先輩……」
耳まで真っ赤なひかりちゃんが口を開いた。
「わ、私……今……せ、先輩と……! し、失礼しますっ!」
そう言って、彼女は屋上から走り去って行った。
……あーあ……えらいことになっちまったなあ……。どうするよ、僕。
翌日。朝はいつものように始まった。深春が家まで迎えに来て一緒に学校へ行って、教室でホームルームが始まるまでちょっと寝て、一時間目の数IIでちょっと寝て、二時間目の古文でちょっと寝て、三時間目の英語でちょっと寝て、四時間目の体育でちょっと寝た。
そんないつものような日常は、昼休みになってあっさりと瓦解《がかい》した。破壊された。
「く、久遠先輩!」
購買にパンを買いに行こうと教室を出た僕は、一人の女子生徒に呼び止められた。ちなみに今、僕の隣には深春がいる。
……恐れていたことがついに起きてしまった。
「せ、先輩! 私先輩の分もお弁当を作ってきたんです! い、一緒に食べませんか? あ、あの……やっぱり駄目ですか? そ、そうですよね、私が作ったお弁当なんて食べられませんよね。腐った生ゴミみたいな味がしますもんね、そんなものを毎日食べている私はきっと生ゴミにたかる蝿以下の下等生命体なんですええきっとそうですこんなもの捨ててやる! 飛んでけ私の人生ごと!」
「うわー待つんだひかりちゃん! 食べる、食べるから! ぜひ一緒に食べようじゃないかそのお弁当を! たとえ生ゴミみたいな味がしようとも僕は君の作ったものなら食べられる! それはもう美味しくいただくから!」
廊下の窓から自分の身体ごと弁当を放り投げようとしたひかりちゃんを慌てて止める。
「ほ、本当ですか、先輩? 飼いならされた豚のようにガツガツと、生ゴミのような私のお弁当を本能のままに貪っていただけるんですか!?」
「ほんとほんと。いやあ楽しみだなあ生ゴミ――じゃなくてひかりちゃんの手作り弁当! というわけでどこか人目につかないところまで行こうかきわめて迅速かつ極秘裏に」
「は、はい、先輩!」
僕はひかりちゃんの手を引き、そそくさとこの場を離れようと、
「……待って、悠紀」
後ろから、心臓が凍るような恐ろしい声が聞こえた。ぎぎぎ、と首だけ動かすと、そこには微かな笑みを浮かべた深春の顔があった。……深春の特徴の一つをここで紹介しておこう。こいつは、本気で怒っているときはまるで菩薩《ぼさつ》のように穏やかに微笑む。
「その子、誰? 一年生だよね。ボクにも紹介してほしいな」
うわ……こわ……。
「……えー、この娘は紀史元《きしもと》ひかりちゃん。お前も会ったことあるだろ? ほら、ババアと一緒に引ったくりを捕まえたときに人質にされてた娘だって。……ひかりちゃん、こいつは白咲深春。僕の幼なじみで見ての通りゴースト」
平静を装って僕は二人に互いを簡潔に紹介した。
「あ、あのときはありがとうございました、白咲さん! 紀史元ひかりです、こ、このたび、久遠先輩と……お、お付き合いさせていただくことになりましたっ! よろしくおねがいいたしますっ!」
うわー余計なことを!
「お付き合い?」
「もちろん友達としてだよ」と僕が言うより早く、
「は、はいっ! 昨日をもちまして、私は久遠先輩のか、かかかか、カノジョになりました! キ、キスもしました! 先輩が望むなら、そ、その……ア、アレだって……あ、でも避妊はちゃんとしてくださいね」
「ぅをいっ!? どうしてそんな致命的な発言をさらりと連発するんだ君は!? そんなに僕が憎いのか!?」
「え? なんですか先輩」
ひかりちゃんは不思議そうに首をかしげた。空気読め。
「へえ……そうなんだ……カノジョなんだ……」
「はいっ」
世にも恐ろしい微笑みを浮かべる深春と、頬を染めて可愛らしくはにかむひかりちゃん。
「悠紀」
深春が相変わらず穏やかな笑みを貼りつけたまま僕に視線を向けた。
「……おう」
「可愛い子だね」
「ああ。見た目だけなら申し分ないと思う。まったく惜しいな」
「やだもう、先輩ったら」
ひかりちゃん、悪いけど褒《ほ》めてないよ。
「悠紀、どういうことなのか説明してくれるかな? ボクというものがありながら……」
「はあ……」僕は深々と嘆息し、「……すまん。成り行きでこうなった」
言い訳はしない。ていうかどうせ聞く耳持たないだろうし。
「成り行き?」
「なんというか、その場の雰囲気に流されてしまったというかあのときはこうするしかなかったというか偶然が幾つも重なり合ってしまった結果というか……」
「……なにそれ。意味わかんないよ」
「僕にも正直、どうしてこんな愉快な状況になってるのかよくわからん」
深春は無言。……よし、こうなったら徹底的に開き直ってやるぞ。
「……いや、だからさあ、その……あれだよ。毎日毎日お前とドタバタラブコメディ的なノリを展開するのも疲れたっていうか」
「ボクに飽きたの?」
「ぶっちゃけその通り。まあ僕も思春期ど真ん中の十六歳ですし、たまには他の可愛い娘に手を出したくなるときもあるというか、一時の気の迷いというかつまみぐいというか」
……何やらけっこう外道なことを言ってますか僕。案の定、
「悠紀ッ!!」
いきなり怒気をむき出しにして深春は怒鳴った。グサグサと脳髄に突き刺さるようなダイレクトな怒りの感情。いや〔ような〕ではなくマジで攻撃的な精神波が脳にクる。ゴーストのこの攻撃は耳元で叫ばれるよりもはるかに効く。
「つ――ッ!」
「この浮気もの――ッ!!」
「ぐはあっ!」
脳幹に針を突き立てられるような強烈な頭痛に顔をしかめ、僕は呻いた。深春はそんな僕に凶悪極まりない視線を向けたあと、勢いよく窓から飛び去って行った。
「……ふう、まったく困ったもんだなあいつも。ねえひかりちゃ――」
ひかりちゃんは無表情だった。
「…………一時の気の迷い、ですか」
ぽつりと。淡々と。
「う」
「……つまみぐい、ですか」
「あのー、ひかりちゃん? もしかして、怒ってますかー?」
「先輩」
「ん?」
無表情な目にじわりと涙を浮かべて、ただ一言だけひかりちゃんは言った。
「…………先輩のばか」
うおっ! 効く! これは効く! 僕の心のやらかい場所を万力のようにギリギリと締めつける! てっきり昨日のような自虐系台詞がくると思って構えていたのに、こんな可愛らしいストレートな罵倒《ばとう》でくるとは。エキセントリックな電波娘と健気っぽい後輩のツーパターンのキャラを見事に使い分けている。なかなか芸が細かいですな、この小娘。少し見直したよ。
「ばか――ッ!」
ひかりちゃんはもう一度、今度は感情全開に叫んで、ついでにその右手は僕の頬を痛打した。ぐーで。おお、深春が死んで以来久しぶりに物理攻撃を食らったような気がする。あまりの懐かしさに変な感慨までこみ上げてきた。
「ばかばかばか――!」
ひかりちゃんは、ばかと連呼しながらそのまま走り去って行った。
僕は黙ってその後ろ姿を見送った。
ひかりちゃんの姿が廊下の角に消えた。どたどたという荒い足音も罵《ののし》りの声も聞こえなくなった。
…………さて、と。
厄介ごとが一気に二つ片付いたところで、メシでも食いに行くとしますか。今日は気分がいいので豪勢にカツ丼(四五〇円)プラス野菜サラダ(一五〇円)でも食べよう(いつもは野菜サラダとマヨネーズ(無料)なのだ)。
ああちなみに、深春とひかりちゃんの両方を怒らせたのは意図的である。やっぱり世の中平穏無事が一番。全て世はこともなし。ああいうエキセントリックな連中とは付き合いきれん。手っ取り早く付き合いを絶つには嫌われてしまうのがベストだ。うーん僕って策士だねえ。痴話げんかを生温かい目で見ていたギャラリーどもが何やら僕に冷たい視線を向けてくるが気にしても仕方ない。
さて、今日から僕はトラブルとは無縁の新しい自分だ! 目立たない没個性的で画一的な、どこにでもいるような一介の十六歳の高校生としてごくごく平均的に生きるぞ。クラスメートの話題についていくために興味もない低俗なバラエティ番組や愛だの恋だのいう毒にも薬にもならないドラマを見たり偏執的《へんしつてき》に流行のファッションを気にしてみたり将来のことや親や友達との対人関係についてアレコレ悩んだりして存分に貴重な時間を無駄に過ごしてやるのだ! 恋人だってつくるぞ。死んだあともつきまとってくる幼なじみや電波ペシミストな後輩ではない、ごく普通の女の子と輝かしい青春を謳歌《おうか》するぞー!
……と思ったのですが、どうも僕のささやかな野望《ユメ》は早くも頓挫《とんざ》しそうです。
放課後、校門前にひかりちゃんがいた。彼女は僕の姿を見つけるとしばし顔に躊躇《ちゅうちょ》を浮かべ、それから意を決したように駆け寄ってきた。
「先輩! 昼間はすいませんでした!」
ひかりちゃんはいきなりぺこりと頭を下げて謝った。謝られてもなあ……。昼の一件は一二〇パーセントの割合で完膚なきまでに僕が悪かったんだけど。ていうかむしろそう受け取ってもらわないと困るし。
「ほんとすいませんでしたごめんなさい! 私のようなゴミ虫が先輩に対してあろうことか暴言を吐くなんて到底許されることじゃありません! すいませんすいませんほんとすいません――」「――生まれてきてすいません」
ひかりちゃんの台詞とハモッて僕は言った。ひかりちゃんが怪訝《けげん》そうに顔を上げる。
「いや、ぶっちゃけそのネタもう飽きたから」
「ネタ扱い!? しかもワンパターンですか!? 私ワンパターンですか!? すいません私頭悪いので気の利いた台詞なんて言えないんですごめんなさい! で、でも」
ひかりちゃんは言いながら涙を拭った。
そして、言った。僕の目を正面からしっかりと見つめて、
「でも好きなんです先輩が好きなんです好きで好きでしょうがないんです先輩が! ごめんなさい! 迷惑でしょうけどお願いですから先輩のことを好きでいさせてください!」
真剣な顔をして大声で言うひかりちゃん。おいおい、なにも放課後の校門で言わなくても……。ざわざわとギャラリーが集まってくる。まいったなあ……。
「……とりあえず、場所を変えよう」
「は、はい……」
ひかりちゃんも衆目を集めまくっていることに気付いて、耳までどころか手足まで赤っぽくなった。……やっぱりこの娘、本来はとても内向的な性格なのだろう。弁当を作って学年の違う教室までやってきたり今のように大胆なことをするのは、よっぽどの勇気が必要だったに違いない。
……やばいです。
クラッときました。
僕たちは学校から歩いて十五分くらいのところにある小さな公園にやってきた。近くに子供が住んでいる家はほとんどないようで、僕たちの他に人はいない。とりあえずベンチに腰を下ろす。ひかりちゃんも僕にならう。二人の間の距離は人一人分より少し狭い。うわーなんか恥ずかしいなコレ。
……けど、照れてる場合じゃないぞ久遠悠紀。
「単刀直入に訊《き》くけど」
「は、はいっ」
「僕のどこがいいの? 自分で言うのもアレだけど、僕、人間的にけっこうダメな部類に入ると思うんだけど。性格悪いし口も悪いし優しくないし嘘吐きだし」
「そうですねえ」
僕の言葉に、ひかりちゃんは考え込む素振りを見せた。……少しは否定してください。
「強《し》いて言えば、顔ですかね」
悪戯っぽく笑うひかりちゃん。……それは昨日の僕に対する仕返しか。
「まあ、確かに僕の顔はそれなりに悪くないね。いやむしろかなり良い部類に入ると言っても過言ではないと思う。顔が良いだけじゃなくて成績も優秀だし、周りが超人ばっかのせいで自分でも忘れそうになるけどなにげに運動神経抜群だし。……あれ? よくよく考えると僕って実はかなりのハイスペック人類じゃないか? ていうか僕はどうしてこんなにモテないんだ!? これまでの人生、不可解なくらい普通の女の子と縁がなかったぞ。僕ほどの人間ならモテてモテてモテまくってもよさそうなものなのに」
やっぱりいつも深春が一緒だったからだろうか。
……最後以外は思わず口に出していた僕の思考に、ひかりちゃんは微苦笑を浮かべ、
「あはは、先輩、自分でそういうことを言いますか」
「事実だからね。僕は正直ものなんだ。これまでの人生で一度も嘘を吐いたことがないのが何よりの自慢」
「知ってますか先輩? 地球上で一番多く吐かれた嘘は〔私はこれまでに一度も嘘を吐いたことがない〕っていう嘘なんですよ」
「ぬう……なかなか的確なツッコミを入れてくれるね」
「す、すいません」
「褒めてるんだって。僕は普段から嘘ばっか吐いてるけどこれは本当。気の利いたツッコミを入れてくれる娘は大好きだよ。恋愛感情を抜きにしてね」
ひかりちゃんは頬を赤らめてはにかんだ。……やばい、マジで可愛いぞこの娘。
「まあそれはさておき、そろそろ本当の理由を教えてくれないかな? ちなみに〔自分を助けてくれたから〕ってのは却下ね。昨日のはともかく、初めて会ったときは僕は本気で何にもしてないから。どうせババアが何とかすると思って、自分が助けようって気持ちさえなかったし」
我ながら実に薄情な台詞だ。でもまあ、事実だし。
「……顔が好きっていうのも本当なんですけどね」ひかりちゃんははにかんだまま言う。
「えーとですね、特に理由はないんです。なんとなく好きになっちゃったっていうか、一目惚《ひとめぼ》れっていうか、電波がビビッときたっていうか」
そりゃまた随分抽象的だな。たしかに理路整然と「私は74%のこうこうこういう理由と22・3%のこうこうこういう理由とさらに3・7%のどうこうという理由でもってあなたに好意を抱いた。その好意が恋に発展したのは46%の(略)」と数式のように証明されるのもそれはそれで嫌な感じだけれど、まったくの無根拠というのも気持ちが悪い。
そんな僕の内心を読み取ったのか、ひかりちゃんはさらに続ける。
「根拠なんてほんとに何にもないんですけど……この人なら私とうまくやっていける、この人なら私を解ってくれる、この人と一緒にいれば、私は楽になれるだろうなあって、そう思ったんです」
「……んー、よく分からないけど」
「私もです。自分でもよく分かりません。理屈じゃなくて……えーと、私って昔から霊感とか強い方でしたから、そういうのがなんとなく判るのかも。魂が引き合うっていうのかな……」
……魂、ね。これまた厄介なキーワードだ。ゴースト化現象が発生するようになって以来、ただでさえ宗教や宗派、文化的背景や個人の価値観の間で曖昧模糊《あいまいもこ》としていた〔霊〕だの〔魂〕だのというものの定義付けはさらに混迷を極め、あちこちで論争が起きている。
「……ひかりちゃん、ひょっとして運命とか信じてる人? 〔魂が引き合う〕なんて、僕からしてみれば〔あなたは私の運命の人です〕って言われてるのと同じくらいに胡散臭《うさんくさ》いんだけど」
「うーん……運命っていうのとは全然違うと思うんですけど……。すいません、分かりにくい説明で」
「いや、別にいいよ。〔人を好きになるのに理由なんていらない〕ってよく言うしね」
僕は皮肉っぽく笑った。そして、
「……ま、理由がないってのなら、この話はこれでおしまいかな。ところでひかりちゃん、僕に作ってきてくれた弁当ってまだ残ってる?」
「あ、はい。ありますよ」
ひかりちゃんはいそいそと鞄の中を探り、可愛いナプキンで包まれた弁当箱を出した。
「それ、ここで食べていい? なんかお腹減っちゃって」
「え、あ、はい。もちろんです」
少し戸惑いながらもひかりちゃんは僕にそれを手渡してくれた。
弁当箱の中は意外なことに普通だった。ご飯、玉子焼き、ウィンナー、ハンバーグ、ごぼうのサラダ、リンゴ。いかにも「お弁当」といった感じのオーソドックスなものだ。
「たこ型ウィンナーにウサギ型リンゴ……。僕も昔作ったことあるけど、これって結構難しいんだよね」
「えへへ、私、刃物の扱いだけは得意なんです。慣れてますから」
「……どうして慣れたかは怖いから聞かないでおくよ」
「じゃあヒントだけ。……手首」
「だから言うなってのに!」
「冗談ですよ、本当は小動物を――」
「もっと悪いわ!」
ちょっと想像しそうになりながらも、弁当を口に運ぶ。基本的に食事中は喋らない主義なので、自然と静かなときが流れる。何やらすごく幸せそうな表情でこっちを見ているひかりちゃんには気付かないフリを。
「ごちそうさま」
食べ終わって、僕は言った。
「ど、どうでしたか?」
「うん。普通に美味かった」
ひかりちゃんは露骨にホッとした顔をした。それから照れたように、
「簡単なものばかりですけどね。失敗する方が難しいというか」
「たしかにね」と頷きそうになり、しかし首を振る。「……いや、そんなことはないぞ。前に深春が作ったやつはホントに酷いもんだったから。ハンバーグなんて、何をどう混ぜたらこんな味になるのか分からんようなすごい味だったし」
深春の名前を出すと、ひかりちゃんの顔が微妙にひきつった。まあ、予想どおり。弁当を貰ったのは深春の話題を自然に出すための伏線だ。
「深春さんっていうとあの、自分のことをボクって呼ぶイタい人ですよね」
……なかなか辛辣《しんらつ》なことを言う。というかイタさ加減ではひかりちゃんも相当なものだと思うのだが。
「本当のところはどうなんですか? 先輩とあの人って、付き合ってるんですか?」
「向こうはそのつもりらしい」
「先輩は?」
「よく分からん」
「……そんなのズルいです。あの人のこと、好きなんですか? 嫌いなんですか?」
責めるような口調のひかりちゃんに、僕は苦笑する。
「嫌いではないんだろうね。でなきゃいくら幼なじみだからって十年以上も一緒にいたりしない。でも好きかどうかって言われるとホントに困る」少し考え込むフリをしてから、
「……ひかりちゃん、あいつが死んだときのことって知ってる? けっこう学校中で噂になったと思うんだけど」
「私、友達いませんから」とひかりちゃんは微かに寂しそうに笑いながら首を横に振った。
「……あいつ、僕に〔好きだ〕って告白した直後にトラックに撥ねられて死んだんだ。時間にして二分か三分後くらいかな」
淡々と言った僕に、ひかりちゃんは「え?」と驚いた顔をした。
「……多分、僕は告白された時点では、まだあいつのことを幼なじみ以上の存在としては考えてなかったんだと思う。でも、あれを見たとき――むぐ……」
「せ、先輩!? 大丈夫ですか!?」
……うげ。やべ……。まだ記憶の中枢に焼き付いている光景がフラッシュバックのように蘇ってきた。……ああもう! あれから一ヶ月半も経ったっていうのに。猛烈な吐き気に、食べたばかりの弁当を戻しそうになる。
「だ、大丈夫さ。はは、ちょっと食べ過ぎちゃったかな。……さて、話を続けよう」
吐き気を強引に殺し、感情のない声でさらに喋る。
「……ぐちゃぐちゃの、血まみれ内臓まみれ骨まみれ脳漿まみれのあいつの死体を見たときに、僕は何がなんだかわからなくなったんだ。まるで自分が死んだような気持ちになった。悲しいとさえ思えなかった。ただ、膨大な喪失感だけがあった。あの喪失感に、僕は、自分があいつのことを好きだったんだろうって思ったんだ。自分の本当の気持ちにようやく気付いたんだと思った。よく言うだろ? 〔失って初めて大切なものに気付く〕って。それだと思ったんだ。……それでまあ、好きならたとえ相手がゴーストになったって付き合うべきだと思って付き合ったんだけど……」
言葉を切る。
「でも、違った」
「違った?」
「うん。僕は確かに深春のことが好きだったんだと思う。けどそれは、何十年も付き合ってきた幼なじみの女の子じゃない。恋人って関係になった今のゴーストの深春でもない。僕が好きな……いや、〔恋人として愛していた〕深春は多分、あのとき、深春の死体を見たあの瞬間の深春だったんだ。ああ、べつにグロテスクな死体が好きって言ってるわけじゃないよ。それじゃただの変態だ。……僕が愛していたのは、深春そのものじゃなくて――あのときに誕生し、その瞬間に喪《うしな》われてしまった、僕の中に存在していた深春だったんだ。〔本物〕の深春じゃない、深春の死をこの目で確認してこの脳内で認識したあのときあの瞬間に、過去の思い出や目の前のグロい死体を基に僕というフィルターを通して形成された、〔深春〕という〔概念〕だったんだ。……そしてそれはもう、たしかに〔死んだ〕んだよ。あのときあの瞬間に」
「……よく、分かりません」
僕の話を聞き終えたあと、ひかりちゃんはぽつりとそう言った。それから、何を思っているのか読めない表情で、自分の足元の方にじっと目を向ける。
……ちょっと喋りすぎたかな。
ものすごい後悔と自己嫌悪に襲われる。
どうして僕はこの娘にこんなことを喋ってしまったんだろうか。普段はへらへらしてるけど実は重いものを背負って一人で悩んでいる悲劇の主人公でも気取るつもりか? ハッ、そりゃまた随分女の子に人気が出そうなキャラクターですね。何が〔あのとき誕生してその瞬間喪われた深春という概念〕だ。観念的な言い回しで煙に巻こうとしやがって。意味わかんねーっての。
僕が今の深春を疎《うと》んじているのはセックスができないから。それでいいじゃないか。その方が分かりやすくていいじゃないか。欲求不満を感じてるのは言い訳のしようがない事実なんだし。深春と〔恋人〕になってから、自慰の回数が明らかに増えただろ? 見栄張るなよ。別に僕は真実の愛を探求する旅人じゃない。肉欲にまみれたただの俗物だ。薄汚れた心身を持った凡俗だ。だったら凡俗に相応しい生き方をしてればいい。
「よく分かりませんよ。私、先輩と違って頭悪いですから」
僕の思考をねじ切り、ひかりちゃんはもう一度繰り返した。そして、僕の方を見る。
「だから答えだけ聞きますね」
「え……?」
ひかりちゃんの真剣な目に――僕は思わず怯《ひる》んでしまった。
「先輩は、私と付き合ってくれるんですか? 結局のところ、どうなんですか?」
……くそっ、どうすりゃいいんだ。どうすれば、この娘に効率よく嫌われることができるだろうか? 正直、この娘は僕の好みのタイプすぎる。外見もそうだが――
童女めいた愛くるしさと電波めいた哀狂《あいくる》しさの並立。
健気で無防備な天使と利己的で計算高い悪魔の共存。
今にも死にそうな脆《もろ》さと、決して斃《たお》れそうにない強さの二律背反。
魂が引き合う感覚、か。解る気がする。この娘はきっと……僕に似ているんだ。どこかが決定的に壊れてしまっているところが僕そっくりだ。
割れた鏡を見ているような不愉快、
レントゲン写真のような不可解。
色褪《あ》せた写真のような寂寥《せきりょう》、
現像前のフィルムのような荒涼。
水面に映る姿のような動揺、
過去のビデオのような茫洋《ぼうよう》。
潤んだ黒瞳《こくどう》への恋慕、
そこに映る自分への嫌悪。
銃弾飛び交う戦場に脇差《わきざ》し一本で挑む侍のような気持ちで、僕は彼女に戦いを挑む。
負け戦だと分かっていても……最後の抵抗くらいはしておかないと。
「……君も物好きだね。絶対に後悔するよ?」
荒んだ笑みを浮かべた僕に、ひかりちゃんはどこか透明な表情で微笑んだ。
「平気です。私はこれまでの人生で、後悔しなかったことなんてありませんから」
「駄目じゃん」
とりあえず突っ込んでしまう自分の習性が少し悲しい。
「なら……付き合ってやってもいいぜ? 君がどうしてもって言うならね。このところ欲求不満でさ。ずっと――欲望のはけ口を探していたところだ」
とびきり底意地の悪い嘲笑めいた表情で言ってやる。
ひかりちゃんは無言で、ただ純粋に微笑むことで、僕の悪意を受け流した。「悪ぶっても無駄ですよ」とでも言われているようだ。くっ……ならば趣向を変更する。
「……あー、言っとくけど、僕といると散々な目にあうよ? 僕はトラブルに巻き込まれることにかけては天才的だからね。不本意ながら」誠意溢《あふ》れる心からの忠告その(1)。
「大丈夫です。私も似たようなものですから」むう、それは困るな。
「変な知り合いがたくさん増えちゃうよ? 深春とあのババアの他にも、変な知り合いがたくさんいるんだ」誠意溢れる心からの忠告その(2)。
「私の知り合いにも変な人はいますから大丈夫です」うわー会いたくねー。
「僕、実はカナヅチなんだ」いきなりの弱点暴露。
「今度教えてあげますよ。私、運動は全然駄目ですけど泳ぐのだけは昔から得意なんです」
水着(を着ている女の子を見ること)は好きなんだけどなあ……。
「中一まで義妹と一緒に風呂に入ってた」恥ずかしい過去の暴露。
「そ、それじゃあ今度は私と一緒に……ボッ(顔が一気に赤面する擬音)」やべ、ちょっと想像してしまった。
「一日に最高十三回……」……これはさすがにやめとこう。人としての尊厳がピンチだ。
「……? 何が最高十三回なんですか?」オ……おっと。
「実はアニメとかゲームとか好きなんだ。しかもジブリとかドラえもんだけじゃなくて結構オタクっぽいやつも。ギャルゲーとか」駄目ポイント暴露。
「あ、だったら今度の夏の祭典に一緒に行きましょう」うわ、この娘もっと駄目な人か!
「スプラッタな表現とか好きなんだ。ホラー映画とか」ヤバ目ポイント暴露。
「ホントですか! 私もなんですっ」やっぱりね……。
「貧乳はちょっと、ねえ……」相手の身体的な欠点に難色を。
「これから大きくなります! 先輩も協力してください!」……僕にどうしろと?
「イタい女は嫌いなんだよ」相手の性格を非難すると同時に自分の酷薄さを露呈。
「でも、もう慣れてきたんじゃないですか?」ごもっとも。
「(英語で)このクソ虫め! 病気持ちの淫売《いんばい》め! パパの精液がシーツの染みになってママの割れ目に残ったカスがお前だ!」脈絡のない海兵隊式罵詈雑言《ばりぞうごん》(うろ覚え)。
「サー、イエッサーッ!」か、完璧だ!
「……性格悪いし口も悪いし優しくないし嘘吐きなんだ」人間的欠陥の再指摘。
「知ってます!」だからちょっとは否定してください。悲しくなります。
「愛ってなんなのかな?」不意打ちで質問。
「わかりません」素直な答えだ。僕もわからない。
「それでもあえて答えるとするなら、愛とは?」追及。
「世界で一番危険な妄想」微妙に納得。
「ならば、恋とはいかに?」質問二問目。
「世界で一番甘美な幻想」これまた奇妙に納得。実はこの娘、頭いいんじゃないだろうか。
「……僕のこと、本当に好きなの?」疑惑の提示。
「はいっ」即答。
「僕のために何でもできる?」意地悪な問いかけ。
「はいっ」即答。
「例えば?」意地悪。
「手首を――」やめろ。
「あー、実は僕は…………………………」
……………………………………………………………………………駄目だ。思いつかない。
ネタ切れだ。いや、ネタ自体はあるけれど、これ以上は時間稼ぎにしかならない。僕の言葉《こうげき》がひかりちゃんに届く気がしない。愛や恋を虚構だと言い切った上でなお〔恋愛〕が出来るような人間を説得可能な文句が見つからない。
……紀史元ひかり。……厄介な人間に目をつけられてしまったものだ。
「か、勝てる気がしない……」
絶望的な声で僕は呟いた。
そんな僕に、
「先輩」
ひかりちゃんは、
「ん?」
キスをした。
「!」
頬っぺたに。軽く、ちゅっと。
それだけで、かああ〜っと顔中がどんどん熱くなっていくのが解る。や、やばい、やばすぎる……いつものポーカーフェイスが出来ない。どうしよう。どうしよう。身体が火照る。心臓がバクバクいっている。僕は恋する乙女ですか。昨日と立場が完全に逆転、いや、それより遥かに圧倒されている。くそっ……こんな、恥辱……中二のとき義妹に自慰を見られたとき以来だ。らしくないにもほどがある。
…………僕の、完全な敗北だった。うちのめされた。ぶちのめされた。
恋《じごく》に叩き落とされてしまった感じだ。
「…………明日のお弁当には梅干しを入れてくれると嬉しい。あと、ちりめんじゃこが好きなんでよろしく。今日みたいな手作りハンバーグもお願い。それから果物はリンゴより柑橘《かんきつ》系が好き。特にレモンが」
がっくりとうなだれて敗北宣言をした僕に、ひかりちゃんはまるで聖母のように微笑み、
「分かりました。……好きですよ、先輩」
語尾にハートマークをつけて、真っ正面からそう言った。
そして僕は、ベンチから立ち上がって叫んだ。
「というわけだ深春! 僕はこの娘と付き合うことになった! ごめんなさい!」
「ごめんなさいじゃないでしょバカ悠紀!」
いきなり足元から声(のような思念)がして、地面からまるでモグラのようにぬうっと深春が出てきた。
「きゃっ!?」
さすがに驚いて悲鳴を上げるひかりちゃん。
僕も少しビビッた。……深春のことだから絶対にどこかで見ているとは思ったが、地中に潜《ひそ》んでいるとは思わなかった。お前はゲッター2か。上空かすぐそこの木の陰かと予想していたのに、僕もまだまだ修行が足りない。もっとも、途中からは完全にひかりちゃんに気をとられていて、深春のことなんて意識の片隅にもなかったわけだが。
「……深春、世の中にはどうしようもないことだってあるんだ」
神妙な面持ちで言った僕を、深春はギロッと睨んで黙らせた。な、なんというプレッシャーだ! ただものではない……ッ!
深春は強烈な視線を僕に向け続け――――不意に、その目から涙を零《こぼ》した。涙は大地に落ち、そのまま跡形もなく地中へと沈んでいった。
「うえっぐ……ヒドイよ悠紀……。ボク、こんなにも悠紀のこと好きなのに……。ずっとずっと、好きだったのに……」
一難去ってまた一難。いやまあ、正確にはまったく一難さえ去っていない問題山積みの状態なのだが、とりあえず他にいい表現が思いつかないので(それでもあえて言うならば〔泣きっ面に蜂〕あるいは……〔泥沼〕)。……ともあれ第二ラウンド開始。
それにしても……まさかこいつに泣かれるとは思わなかったなあ……。
「……なあ深春。僕の話を聞いてたなら解るだろ? 僕は……お前のことが、好きじゃないんだ」
「だったらこの娘のことは好きなの!?」
涙を滂沱《ぼうだ》と流しながら(涙の量が不自然なまでに多いのは、変身の応用で増量しているからだろう。芸の細かいやつだ)、深春はひかりちゃんを指差した。
「う……それは……」
それを言われると困ってしまう。深春のことが好きではないというのは、ひかりちゃんと付き合う理由にはなり得ない。何故なら僕はひかりちゃんのことも好きではないからだ。まあ、いずれかなり好きになってしまうというか強制的に惚れさせられてしまうのではないかという予感はあるのだが、今はせいぜい深春と同程度の好感度しかない。つまり好きでもあるけど、死ぬほど苦手でもある。嫌いじゃないのは確かだが。
……あー、いい感じに狂ってんなー僕の倫理観。古き良き爽やかな青春はどこに行ったのかねえ? まったく、死にたくなる。
「……み、見苦しいですよ、白咲先輩。久遠先輩はもう、わ、私のモノです」
緊迫した空気を震わせたその声に、僕と深春が顔を向ける。うわー泥沼。ド修羅場。
「……えーと、紀史元ひかりちゃん、だっけ? ……今、なんて言ったの?」
深春が聞き返した。……やばい。こいつマジで怒ってる。ひかりちゃんは微かに震えながらも深春をしっかりと見据《みす》え、
「く、久遠先輩は、わ、私の恋人なんです! 諦めてください!」
「キミこそ悠紀に言い寄らないでよ! ボクと悠紀は学校中が公認してるラブラブカップルなんだからね!」
……ら、らぶらぶかっぷるってお前……。よくもまあそんなクソ恥ずかしい単語を……。
「わ、私は認めてませんでした! ……そもそも知りませんでしたし」
「認めなさい!」
「嫌です!」
「強情な娘ね! 何なのさっきのあれ! あんなの告白じゃなくて脅迫じゃない!」
「告白も脅迫も同じようなものです!」
……ひかりちゃん、さすがにそれは暴論だろう。
「年下のくせに!」
「あ、あなたなんてゴーストじゃないですか! 一年経てば私の方が年上になります!」
「ボ、ボクは悠紀の幼なじみだもん!」
「だから何ですか! 私の方が先輩を想う気持ちは強いんです!」
「ボクの方が悠紀のこと好きだ!」
「わ、私の方がもっと好きです!」
「ボクの方がもっともっと好き!」
「私の方がもっともっともっと好きです!」
「ボクはもっともっともっともっと好きなんだ!」
……ガキかお前らは。
「先輩、こんな人ほっといて帰りましょう!」
ひかりちゃんが強引に僕の腕を掴んで立たせた。両腕を絡ませて不必要なまでにぎゅっと胸を押しつけてくる。……ふむ、この感触は……まあ、悪くないかな。
「あーっ! なんてことするのさ! 色仕掛けなんてズルいぞ! 胸ないくせに!」
「む……っ」
あ、ひかりちゃん、マジで怒ってるっぽい。
「……深春。お前も人に言うほどないぞ」
しまった、つい口に……。どうして僕はこう無用なツッコミを入れてしまうのか。
「あ、あるもん!」
言うが早いか、深春の胸が恐るべき勢いで膨らんでいく。うわ……ちょっと気持ち悪いぞそれ。豊胸手術の過程を見せられている気分だ。信じられないほど非常識な大きさになったあと、深春は自慢げにぶるんと胸を反らし、
「どうっ!?」
いや、どうとか言われましても……。そもそも僕、胸は控えめな方が好きだし。しかしひかりちゃんには効果があったらしく、
「ず、ずるいですそんなの!」
「ほーらほーら」
……ぶらんぶらんと、まるで嵐に揺れるヤシの実だ。うげえ、夢に出そう。
「い、いくら大きくたって触れなければ意味ないです! ほら先輩、あんなインチキ胸よりこっちの方がいいですよね!?」
ぐいぐいぐいぐいっと。わーい、なんか傍目《はため》にはすごい光景が広がってますよ。羨ましいかい全国の中高生諸君。誰でもいいので死にたければ代わってください。
「こ、この小娘は……!」
怒ってる……深春怒ってる……。
「悠紀は渡さないんだから!」
叫び、僕のもう片方の腕にしがみついてくる深春。しかしその手は虚しく僕の腕をすり抜ける。
「おいおい深春――」
つまんないことはやめろ、と言いかけて、僕は言葉に詰まった。
「このっ、このっ、このっ、このっ!」
「……深春…………」
「このっ! このっ!」
……なんていうか……あれだ。
ひどく……痛々しい。
何度も何度も、深春は僕の腕を掴もうとする。泣きそうな顔をしながら、何度も。
しかしその手は僕の腕に何の影響も与えないまま、通り抜けてしまう。
こいつはゴースト。世界の理《ことわり》から外れた存在。その事実を改めて実感する。
「うっ、うっ、ううっ……!」
ついには泣き出してしまう。それでもなお、深春は無駄な努力をやめない。
「……白咲先輩……」
ひかりちゃんもいたたまれなくなったのか、僕の腕に絡める力を抜いた。
「ずるいよ。ずるいよキミ。ボクだって、悠紀に触りたいのに! まだキスだってしてないのに……!」
怒りでも嫉妬でもなく、憎悪をたぎらせた瞳で深春はひかりちゃんを見た。
「ずるいよおッ!!」
深春はひかりちゃんの頬に手のひらを叩きつけた。しかしその手は虚しくひかりちゃんの顔をすり抜け――――すり抜けなかった。
ぱんっ!
快音とともにその手は、ひかりちゃんの頬を痛快にぶっ叩いた。微かに頬が赤くなっているところをみると、深春の手がひかりちゃんの頬に物理的に接触したのは間違いない。
「え……?」
深春自身も戸惑いを隠せない様子で、自分の右手をまじまじを見つめる。そして、
「えいっ」
ぱん。ひかりちゃんの左の頬をぶつ。
「えい」
ぱん。今度は右の頬を。
「えいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいっ」
ぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんっ!
何度も何度も、深春は嬉しそうにひかりちゃんの頬をぶちまくる。……ひかりちゃんのこめかみがひきつっている。うわ……けっこう痛そうだし。
「おーい深春……そろそろやめた方が……」
僕が言う前に、ついにひかりちゃんがキレた。
「なにするんですか人の頬っぺたをパンパンパンパンと! 痛いじゃないですか!」
べちこーん! とひかりちゃんは深春の顔に真正面から張り手をぶちかました。
「いたあっ!?」
涙目になって、しかし妙に嬉しそうに深春の身体が吹っ飛ぶ。
「まったく、何考えてるんですか失礼な人ですねっ! 先輩、やっぱりこんな人より私の方が……あれ、どうしたんですか先輩? ぼーっとして」
「いや、だって、あの、ひかりちゃん、今、深春をぶっ飛ばしたよね」
「だ、だってあの人が私のこと叩くから」
憮然《ぶぜん》として言うひかりちゃん。
「あ、いや、そうじゃなくて……君、深春に触った……よね? 深春からも触られた、よね。なんかもうかなり普通に」
「ええ、普通に触られつつ触りましたけど……」当然のように言う。「言いませんでしたっけ? 私、昔から霊感強いんです。ラップ音とかよく聞きますし」
「まあ……確かに聞いたような気はするけど……」
話の文脈上、〔魂〕とか〔運命〕と同様の、会話のノリで出てきただけのどうでもいい単語の一つだと思ってさらりと聞き流していた。……えーと、あれってなにげに重要なキーワードだったんですかい?
「私、幽霊とかは全然見えませんでしたけど、三年前から出てきたゴーストさんなら普通に触れるんですよ」
……確かに、そういう能力者――いや、〔特異体質〕の人間が世の中にいることは確認されている。ゴーストに触れたり、触れられたりできる、不思議な特性を持つ人間が。もともと霊能力者として活躍していたうちの何人かとか、恐山《おそれざん》のイタコの何人かとか、あるいはそういうものとまったく縁のなかった一般人の中にも。〔霊感〕と呼ぶのが適切なのかどうかは意見が分かれるが、現実にそういう能力は実在する。
「……いや、でもなあ……こんな身近にいるってのはなあ……」
テレビの中でしか見たことがないような現象を見せられて、さすがに僕も驚いた。深春の方はというと……、……?
「あの……深春?」
深春はただでさえ大きな目をまん丸に見開いて、ひかりちゃんの方をじっと見ていた。
「な、なんですか……?」
少し脅えたようなひかりちゃんの声。深春は、
「さわれたああっ!」
歓声を上げてひかりちゃんに抱きついた。
「ちょ、ちょっと」戸惑った声を上げるひかりちゃん。
「うわーっ、触れる触れる! ぷにぷにぷにぷにっ! ほら悠紀っ、この娘触れるよ!」
頬っぺたを引っ張ってみたり、鼻をつまんだり、胸を揉んだり、やりたい放題だ。ひかりちゃんはというと、実に嫌そうな顔をしている。
「あ、あの……白咲先輩。いい加減にしてもらえませんか……?」
「ひかりちゃんっ!」
深春はひかりちゃんをいじくるのをやめたあと、にっこりと笑って手を差し出した。
「友達になろうっ!」
ついさっきまで罵り合っていた相手に向けたとは思えないあけすけな笑顔で、深春はそう言った。一方のひかりちゃんはというと、戸惑った顔で深春の手を見つめ、
「ト、ト、ト、トトトトトトトモダチですか?」
「うんっ!」
「と、ともだち……私に……ともだち……」
何かいけないクスリでもやっている人のように胡乱《うろん》な表情でひかりちゃんは呟く。けっこう怖い。彼女はしばらくそうしていたかと思うと、
「ト、トモダチッ!」
それしかニホンゴを知らずに密航してきた外国人のように両手で深春の手を握った。……よっぽど友達がいないんだなあこの娘……。
「友達だねっ」
「トモダチッ!」
手と手を固く握り合う二人の少女。アア、イイ光景ダナア。
……さて。
「というわけでめでたしめでたしだな。それじゃ、あとは二人で友情を深めてくれ。僕はそろそろ退散するから」
僕が爽やかに言うと、
「待って悠紀」「待ってください先輩」
二人は同時に僕へと向き直った。
「まだ話は終わってないよ。ボクとひかりちゃん、どっちを取るか、ちゃんと決めてよ」
「……いや、だって、その……お前ら友達になったんだろ? だったら僕が選ぶことで二人の友情にヒビを入れるわけには……ねえ、ひかりちゃん」
「いいえ」ひかりちゃんは即答して首を振った。「友情は友情、恋は恋です」
くっ……せっかくこのまま有耶無耶《うやむや》にして終わらせようと思ったのに。
「悠紀」「先輩」
二人は睨むようにしてこっちを見てくる。ううう……やっぱり僕が決めなきゃならんのかね?
「えーと……」
「うん」「はいっ」
「……どっちも(選ばない)……ってのは、やっぱり……」
僕の腑抜《ふぬ》けた台詞に、二人は顔をしかめた。
「……あ、あはは、や、やっぱり駄目っスかね? ……駄目ですよねすいません……」
うなだれる僕。しかし。
「なるほど……」
「それはいい考えですね」
何故か二人は納得したように頷きあった。…………え?
「……ホントはボク一人の悠紀でいてほしかったんだけど……ひかりちゃんとならまあ、いいかっ」
いや、深春、「いいかっ」って何が?
「やっぱり、恋も友情もどっちも大切ですからね」
……おいおいひかりちゃん、この流れはまさか。
「三人で末永くお付き合いをしていきましょう!」
「うわあああああああやっぱりいいいいっっっ――――ッ!」
頭を抱えてみっともなく絶叫する僕に対して、
「これからもよろしくね、悠紀っ! 大好きだよっ」
「私もです、先輩っ!」
二人の美少女は、それはもう絶望的なまでに、トテモカワイク微笑んだのだった。
…………と、いうわけで。
不肖《ふしょう》このわたくし、久遠悠紀は、白咲深春と紀史元ひかり、二人同時にお付き合いさせていただくことになってしまいました。いわゆる両手に花というやつである。どうだ参ったか。ちなみに僕は参った。もう駄目だ。ぎゃふん。あっちょんぶりけ。
[#改ページ]
便宜的本編 〜墓穴掘り人形とままならぬ世界〜
突然ですが人生について考えてみようと思います。
あのときああしていればよかった――人間誰しも、一度や二度はそんなことを思ったことがあるだろう。けれどこの僕、久遠悠紀ほど頻繁《ひんぱん》にそう思っている人間も珍しいのではないかと思う。
例えば、放課後深春に呼び止められたとき全力で逃亡していれば。告白されたとき、その場で返事をしていれば。引ったくり男の追跡なんかに付き合わなければ。ひかりちゃんの飛び降りを止めようとしなければ。きっと今とは違った状況になっていたのだろう。
……選択肢は、幾つもあったのだ。〔〜する〕〔〜しない〕――選択をすることが困難な局面はあるにせよ、しかし選択肢自体が存在しない状況というのは考えられない。自分は周囲に流されてきただけ、親や教師に従ってきただけ、自分では何も選べなかったという人間でさえ、〔選ばない〕という選択肢を選び、〔何もしない〕という行動を起こしている。漫然と生きているだけでも〔死なない〕という選択肢を選び続けているのだ。妥協も諦念《ていねん》も絶望も、全ては自分自身の選択の結果としてのみ発生する。抵抗不可能な運命などあり得ない。何も出来ない状況など決して存在しない。あるように思えても、それはただ選択肢に気付いていないだけだ。
目を凝らせば、思考を巡らせば、どんな場面にも必ず複数の分岐がある。そして少なくとも、僕にはそれが見えていた筈だ。見えていたからこそ、より望ましい未来へと進めるように、僕は選択を重ねてきたのだ。
……それなのに、どうしてこうもユカイな状況に陥っているのだろうか。よかれと思った選択が、全て悪い方へ悪い方へと進んでいくものばかりだった。振り返れば、自分で自分の首を絞めるような行動ばかりを選んでいたことに気付く。気付いたときには既に遅く、墓穴を掘りまくって全身までずっぽり浸《つ》かっている。
まさに――墓穴を掘る専門家《エキスパート》だ。あまりに一つの方向性《ライン》に特化しすぎて、それ以外のことが何一つとして出来ない専門家《ラインワーカー》など、きっと自動人形《ラインワーカー》と大差ないのだろう。
当人の望む望まざるに関わりなく、ただ機械的、自動的にそれを繰り返す(……この一連の流れはもしかしたら〔運命〕とか〔予定調和〕とか呼ばれるものに似ているのかもしれないが、しかし〔似ている〕とは〔どこかが決定的に違う〕ということと同義だ)のみ。
故に。自滅的な選択肢を選ぶことの専門家《スペシャリスト》を、墓穴を掘る天才《スペシャリスト》を、トラブルに巻き込まれるのではなく、トラブルを巻き込むクソ迷惑な特性《スペシャリティ》を、ある人物はこう呼んだ。
〔墓穴掘り人形〕と。
…………そんな、面白くもなんともない浅薄なMY哲学に耽《ふけ》っているうちに、だんだん意識が覚醒してきた。目を開けると眩しい朝日。耳を澄ませば小鳥の囀《さえず》り。
「…………そんじゃまあ、今日も一日頑張って生きのびようか……えいえいおー」
死にそうな声で自嘲気味に呟き、僕はベッドから起きあがった。
あのド修羅場から四日が経過した日曜日の朝、空は嫌になるくらいの快晴だ。天気予報ってのは外れてほしいときに限って外れない。
……ああまったく気が重い。何故なら今日は深春&ひかりちゃんと出かけることになっているのだ。いわゆるデートというやつである。
待ち合わせの場所である公園(僕が引ったくり犯を脅かしたあの公園だ)に行くと、池の前の時計のところで一人の少女がものすごい勢いでぐるぐる回っていた。
清楚な感じの白いワンピースがとてもよく似合っている(ちなみに同じ色のリボンが両手首にも巻かれていて、まあ、可愛いと、思うよ、うん……似合ってるし……)、〈いかにも手首切ってそうな感じの〉まるでどこかのお嬢様のような美少女だ。
彼女、紀史元ひかりちゃんは、傍目にも緊張しまくっているのが丸分かりで、ひきつった表情で時折ちらちらと時計を見上げる。
一応マナーとして待ち合わせ時間の二十分前に来てみたのだが、あの様子だともっと前から待っていたのだろう。……ちょっと嬉しかったり。
「ひかりちゃん」
僕が声をかけると、彼女は回転を止め、
「せ、先輩、きょ、今日はよろしくお願いいたします、わ、私こういうの初めてでどうしていいのか……す、すいませんああやっぱり駄目です私のような根暗なゴミ虫風情が、デ、デエトなどという人間様の真似事なんて恐れ多いこととてもとても! か、帰ります、私帰ります母なる海へと還っていきます!」
「還るなーっ! しかもそこ海じゃねえし!」
今にも緑色に濁った池に飛び込もうとするひかりちゃんを慌てて引き止める。
「はっ、す、すいません! またしても先輩にご迷惑を! すいませんすいません、生まれてきてすいません!」
ガチガチに緊張してやたらとネガティブな台詞を吐くその様子には、つい先日僕を圧倒した少女の面影はどこにもない。
「……べつにそんな緊張しなくていいって。適当に遊びに行くだけなんだからさ」
「は、はい……すいません。でも一応、これが私たちの初デートとなるわけですし……心の準備というものが……ああドキドキします。聞こえそうな鼓動が恥ずかしいです」
自分から胸を押しつけてきたやつの台詞とは思えん。そう思ったが口には出さず、
「あー、ところで深春は? まだ来てない?」
「え、あの……深春さんなら……さっきからそこに……」
ひかりちゃんは僕の方――いや、僕の肩のところを指差した。「え?」と振り向くと、
「うおわあっ!?」
僕の右肩から半透明の深春の首が生えていた。……びびった。素でびびった!
「やっほー。悠紀、気付くの遅いよ」
「てめえ、いつからそこにいた!?」
「悠紀が家を出たときくらいからかな」
どうやら僕の身体に重なって付いて(憑《つ》いて?)きたらしい。となると僕は、こんなホラーなんだかギャグなんだかよく分からないような姿でずっと街を歩いていたのか。
「くそ……毎回毎回凝った登場しやがって……それしかアピールポイント無いのか」
「何か言った?」
僕の身体から離れて正面に回りこみ、深春は口を尖《とが》らせた。
「何でもございませんよ。それで、今日はどこへ行けばいいんだ?」
低血圧な感じで僕が言うと、
「悠紀が決めていいよ」
とお決まりの答えが返ってきた。
「……深春、今の時代、女性はもっと自分の意思をハッキリ表明しなきゃいけないんだぞ。特に日本人女性は控えめなことを美徳とする感覚が根強くて、それが我が国での女性の自立を妨げている。これはまさに民族的な因習と言えるだろう――って、この前読んだつまらない本に書いてあった」
「はいはい、わけわかんないこと言ってないでさっさと決める! ボクは悠紀と一緒にいられるだけで楽しいんだからさっ!」
……ぬう、この笑顔とこの台詞は反則だろう。大抵の男ならば遺伝子レベルで逆らえない筈だ。しかし、
「……よし分かった、それじゃあ図書館で勉強会だ!」
反撃を試みる僕。ふっ、残念ながら僕は〔大抵の男〕ではないのだよ。
案の定、深春は頬をふくらませた。
「だーめっ! 図書館なんて、そんな退廃的なデートは禁止!」
「おいおい、退廃的とまで言わなくてもいいだろ。図書館はとっても楽しいところだぞ。だって会話しなくてもいいし」
「全然駄目じゃない」
「一緒にいられるだけで楽しいんじゃないのか」
「図書館だけは別!」
そのとき、ひかりちゃんが口を開いた。
「あ、あの。私、行きたいところがあるんですけど……」
ああそうだった。僕も深春もついいつものノリでやってしまったが、今日はこの娘もいるんだった。
「行きたいところって? はっ、まさかホテル? ……うん、そうだねっ、昨日のボクらの特訓の成果を一刻も早く実践――」
「ち、違います! あ、あんな恥ずかしいこと、先輩の前で出来ません! そんな、舌をあんなふうに……」
耳まで真っ赤になってよく分からないことを口走るひかりちゃん。……えーと昨日の特訓とかあんな恥ずかしいことって何でしょうか? 昨日は女性二人で一体ナニをしていらっしゃったんでしょうか。…………まあ、深く考えないようにしておこう。
「で、ひかりちゃんはどこに行きたいんだ?」
「あ、はい、ええとですね、モガミで今人形展をやってるんですけど、それに行きたいなーって……。だ、駄目ですか? 駄目ですよね、そんなの先輩興味ないですよねすいませんどうか今のは忘れてくださいむしろ私の存在を忘れてくださいううっ、うう……」
……ここまで言われて「駄目です」と言える人間がいるわけがなかった。言ったらどうなるかなーとはちょっと思ったけど。
「……まあ、べつにこれといって行きたいとこもないし、それを見に行こうか。デパートなら他にも色々見るもんあるだろうし。深春もそれでいいか?」
「いいよ。人形展なんてけっこう面白そう」
深春が頷いて、行き先は喪髪《もがみ》デパートに決まった。
……よし。なんとしてでもごく普通の、「今日は疲れたねーあはは、でも楽しかった」で終われるようなデートをしてやるぞ。目指せ正統派ラブコメディ。ヒロインが二人という時点で既に終わっている気もするが。
喪髪デパートは隣の市との境目あたりにある、地上が十階、地下は二階の、それなりに大きなデパートである。地下は地下鉄の駅とも繋がっている。公園前のバス停から十五分ほどバスに揺られて、僕たちはそこに到着した。
ちなみに深春も僕たちと同じくバスに乗ってきたのだが、なにげにこれ、研究者たちの頭を悩ませている現象の一つだったりするのだ。
ゴーストが全ての物理法則を無視するならば、ゴーストを乗せた車が移動したとき、車は中のゴーストを通り抜け、ゴーストはその場に取り残されなければおかしい。しかしゴーストは、普通に車の動きに合わせて移動するのである。重力を無視するゴーストが、どうして慣性の法則に遵《のっと》っているのか(ちなみに、有名な〔走行中の電車の中でジャンプする実験〕は、ゴーストに〔ジャンプ〕というアクションができないため実験そのものが不発に終わっている)。新しい事実が発見されればされるほど、ますますゴーストについての謎は深まっていくばかり。
……まあ、そのへんのことはどうでもいいや。正解のない問題なんて学校の試験には出ないし。勉強とはいい大学に入っていい会社に就職するためにやるものだ。
ともあれ僕たちは、休日のためかなりの人が訪れているデパートの地下一階にある、人形展の会場へと向かった。ゴーストはエレベーターには乗れるがエスカレーターには乗れないことを付け加えておく。
で。
「……ひかりちゃん。そういえば聞いてなかったけど、今日の人形展ってのは、一体どういう人形展なわけ?」
会場の入り口にかかった垂れ幕に書かれた〔呪われた人形展〕という文字をなるべく見ないようにしながら、僕は尋ねた。
「はいっ! 世界各地からいかにも呪われていそうな人形を集めた展示会です。一般家庭から寄贈されたものばかりで金銭的価値とかはほとんどないんですけど、実際に使われていた人形が多数展示されているって評判なんです」
とても嬉しそうに言うひかりちゃん。対照的に、僕と深春は少々引きつった笑みを浮かべていた。深春が不安そうにヒソヒソと、
「……ねえ悠紀、使われていたってどういうこと? やっぱり黒魔術の儀式とかかな?」
「……僕に聞かれても……。入ってみるしかないんじゃないか?」
展示場の中は……えーと、名前の通り〔呪われた人形〕展だった。
まったくもって看板に偽りなし。できれば偽りあってほしいと思ったけど、こういうものに限って内容を的確に表していたりするから嫌になる。ちなみにパンフレットに書かれた煽り文句は、〔きっとあなたの夢に出る〕……なるほど、たしかにこれは夢に出る。
無数の穴が開いた藁《わら》人形、無数の髪の毛が絡まった藁人形、無数の釘が刺さった藁人形、なんか指っぽいのが釘で打ち付けられた藁人形、脳天から杭《くい》が突き立てられた藁人形、指だけが妙にリアルに作られた藁人形……、藁人形だけでその数実に五〇体以上。
「……世の中には色んな藁人形の使い方があるんだなあ……」
何故か妙に感心したコメントを発している僕がいたり。もちろん展示されているのは藁人形だけではなく、
「先輩、ほら見てくださいこの雛人形セット。手足だけ全部切り取られてますよ! あ、こっちのフランス人形は頸部《けいぶ》に無数の裂傷が。……ふむふむ、私が見たところこの傷口は果物ナイフですね。……果物ナイフ…………今度試してみようかな……」
……試すって何をだ……。ちょっと怖いので、僕はひかりちゃんから離れて見てまわることにする。
……うえ、この日本人形、自分の髪の毛で首絞めてる……。このコケシに付いてる黒っぽいのはどう見ても血だよなあ……うおっ、さすがに骨はイカンだろ骨は! ……むう、このテディベア、腹部が切り裂かれていて中から綿が……げげっ、綿じゃないぞ何だこのナマっぽいものは!? ……あっ、これはリカちゃん人形じゃないか、ようやくマトモなものが見つかった、昔はよく深春や義妹の人形遊びに付き合わされたっけ、懐かしい思い出だなあどれどれ……………リカちゃん。その手に持ってる血がついた包丁は何ですか?
「ゆ、悠紀ぃ……なんかすごく怖いよお……」
深春が珍しく泣きそうな顔をしている。モノホンのオバケがこういうものを怖がるというのもおかしな話だが、これが正常な反応だろう。珍しく深春が常識的に見える。
「心配するな、僕もかなり怖い」
……あ、入り口付近で子供が泣いてる。その両親らしき二人もかなり気味悪そうにしている。興味本位で入ったら思いのほかとんでもない内容でびびりまくっているのだろう。あの子、絶対トラウマになるな。かわいそうに。
……普通こういう展示会ってのは客足を伸ばすために行うのではないのだろうか。しかしどう考えてもこのイベントで客が増えるとは思えない。主催者が何を考えているのか、というか何か考えているのか、非常に理解に苦しむ。
……少なくともデートで来る場所ではないよなあ……。いやいや、でもデートっていうのは相手が楽しんでくれてナンボだ。ひかりちゃんはあんなに楽しそうにしているんだから、こういうデートもアリだろう。まあ僕も、少なくとも退屈ではないし。大丈夫、お化け屋敷やホラー映画を見に行くのと同じようなものだ…………ということにしておこう。思い出のアルバムには〔人形展に行った〕とだけ記しておけばいいさ。…………あ、リカちゃんのパパが首吊ってる。
「ふうー、堪能しました」
一時間ほど数々の呪われてそうな人形たちを見てまわり、ひかりちゃんはうっとりした顔でそう言った。ちなみに僕たちが今いるのは会場の入り口付近で、すぐそばには〔呪いの藁人形販売コーナー〕がある(安かったので義妹や知人へのお土産に買っていこうかとも思ったけれど、自分が呪われそうなのでやめた)。
「……喜んでもらえて僕も嬉しいよ」
とりあえず笑みを浮かべてみたものの、それがひどく硬いものであることは自分でも分かる。……本日の教訓。〔くまちゃんに肉を詰めるのはやめましょう〕。……しばらく肉は食べたくないな……。
「ああ、これでもう思い残すことはありません。今日はホントによかったです」
「……なにもうこれで終わりみたいなこと言ってるのさ、ひかりちゃん。デートはまだまだ始まったばかりだよ」
深春が苦笑しながら言った。
「そ、そうですね。まだお昼過ぎですもんね。これから先輩たちとお昼をご一緒して、それからお買い物をして、それからお夕飯をご一緒して、そ、それから…………」
ひかりちゃんの顔が見る見るうちに赤面していく。
「それから何なのかなー? ひかりちゃん」
深春がニヤニヤしながらからかうような口調で言う。……それから、何なんだ。答えをはっきり聞きたいような聞きたくないような……。
聞かないことにしよう。
「……それじゃ、とりあえず昼飯にしようか。ひかりちゃん、何か食べたいものある? このデパート、けっこう色々メシ屋が入ってるから大抵のものはあると思うけど。ちなみに割り勘でよろしく」
「え、えーと、そうですね……」ひかりちゃんは少し考えたあと、「えーと、私は出来れば中華が食べたいなー、なんて。す、好きなんです中華料理。その……ギョウザとかシュウマイとか」
「中華あぁっ! しかもよりにもよってギョウザとかシュウマイッ!」
僕は思わず叫びそうになった、というか叫んだ。
僕の記憶が正しければ、ギョウザとかシュウマイとは動物の屍《しかばね》をバラバラに細かく引き裂いたものを皮に詰めて蒸したり焼いたりしたモノだった筈である。
「あの、先輩? どうしたんですか?」
首をかしげるひかりちゃん。隣では深春が僕と同じくひきつった笑みを浮かべている。
「……ちゅ、中華ね、いいね。美味しいもんね、中華。ボクは食べられないけど……悠紀……頑張ってね」
「先輩、ひょっとして中華料理お嫌いですか? でしたら牛丼とかカツ丼とか」
それらは確か、牛や豚の死体を解体して切り刻んだものをご飯にのせた、庶民に大人気の食べ物ですよね。うん、美味しいよね、とても美味しいよね、肉。
「って余計悪いわ!」
「せ、先輩?」ひかりちゃんが驚いた顔をした。しまった、またしても叫んでしまった。しかも自分ツッコミ。今日の僕は少し壊れ気味かもしれない。
「……あ、えーと、中華でいいよ。ていうか中華大好き。マーボードーフとかチンジャオロースとかホイコーローとか! いやむしろ中華じゃないと嫌だ!」
かなりやけっぱちになる僕。ひかりちゃんは「よかった〜。私もですっ」と言って素直に微笑んだ。少しは空気が読めるようになるといいね。
「……それじゃ、行こうか。飯屋が集まってるのは七階だっけ。地下にもラーメン屋くらいならあるけど、せっかくだから美味しいものを食べよう」
「はいっ」
ひかりちゃんが嬉しそうに頷いた。
大きな爆発音が連続して響いたのはそのときだった。
「――!?」
まさに〔どっかーんっ!〕という感じの、映画やテレビなどではかなり頻繁に聞かれる音だった。妙に耳に馴染みのあるそんな音、実際に何かが爆発した音をじかに聞いたことなんてほとんどない僕でさえすぐに爆発音だと判る、まさに爆発音な感じの爆発音が五回ほど響いて、フロアの空気を振動させた。はっきりと聞こえたものの、耳を塞がなければならないほどの大音ではなかった。だが、爆発が起きたのは恐らく店内。だとしたら無視するわけにもいかない。
「な、何があったんだ……?」
僕たちの近くにいた客の一人が呟く声が聞こえた。他の客たちも不思議、そして不安そうな顔をして何やら喋っている。
そのとき、悲鳴が聞こえた。一人ではなく、複数の悲鳴。
「悠紀、行ってみよう」
深春が言った。僕たちのいる〔呪われた人形展〕会場は東西に長い長方形をしたデパート地下一階の最西端にあり、このフロアは壁で仕切られていて、外の様子が見えない。
悲鳴は今も絶え間なく続いている。多くの人の――逃げ惑う声だ。
「せ、先輩……」
「……とりあえず、様子を見てくる。すぐ戻るから、ひかりちゃんはここを動くな」
「は、はい……」
不安を隠せない様子ながらも、ひかりちゃんは頷いた。
「よし。行くぞ、深春」
「おっけー」
妙に楽しそうに深春が頷いた。……まったくこいつは。
僕と深春は展示場を出た。
……店内の、僕たちがいる場所の丁度反対側が炎上していた。距離はかなり離れているものの、炎と黒煙が上がっているのがはっきりと分かる。
人々が慌てふためき、逃げ惑っている。悲鳴、泣き声、怒声、罵声……混乱の渦。
東側には書店や旅行代理店など、ブース毎《ごと》に区切られた店舗が多いため、炎が燃え広がるスピード自体は遅い。だが……。
「火事、みたいだね」と深春。
「ああ、でも何かおかしい。火元が一箇所じゃない。それにあの爆発音……」
一箇所で発生した火が燃え広がったのではなく、複数の場所で同時に火災が発生しているようだ。火元の多い料理店とかならともかく、本屋や旅行会社から火が出るというのも妙だ。それに遠目なのでよく見えないが、どうもショーケースや本屋のブースを区切っている壁などが粉々に割れているようだ。
……これ、どう考えても普通の火事じゃないな。
「早く逃げた方が良くない?」
深春が言った。声にあまり緊張感がないのは、深春には死ぬ危険がないからだろう。
「……そうだな」
原因を考えていても仕方ない。とにかくひかりちゃんを連れてさっさと避難しよう。
そう思い、踵を返そうとしたそのとき。
「危ないっ! 悠紀!」
深春の叫びと、〔ガシャンッ〕という金属っぽい何かが床と接触する音と、僕が背中にぞっとするような風圧を感じたのはほとんど同時だった。
「な……!?」
僕が恐る恐る振り返ると、すぐ後ろでシャッターが下りていた。火災が発生したので被害拡大を防ぐために防火シャッターが下りた――というわけではないだろう。複数のシャッターが同時に、まるでギロチンの刃のように床に振り下ろされたのだ。危険すぎる。ほんの一歩分立っている場所がずれていたら脳天にシャッターが直撃だった。
「あ、危なかったあ……」
全身から冷や汗がどっと噴き出すのを自覚する。
「悠紀、大丈夫?」
「……あ、ああ」
そのとき、シャッターが外側からガンガンと叩かれた。逃げてきた人がシャッターを叩いているのだろう。だが、叩いてどうなるようなものでもない。
悲鳴交じりの声が聞こえてくるが、危険なのは僕たちも同じだ。シャッターによって、僕たちがいる場所である西側のさらに片隅の一角は、完全に地下フロアから隔離されてしまった。脱出ルートを塞がれた? ………いや、そんなことはない。人形展の会場にも非常口はある筈だ。
「ボク、ちょっと向こう側を見てくる!」
そう言って深春はシャッターの向こう側に行こうとして、
「きゃあっ!?」
深春の手がシャッターに触れたとたん、バチッと緑色の火花のようなものが散った。
「もうっ! 痛いなあ!」
顔をしかめて深春が怒る(ただ、ゴーストは痛みを感じないらしいので「痛い」というのは反射的に出た言葉だろう)。
それはともかく、ゴーストが通り抜けられないということは、このシャッターには護符か何かが貼ってあるのだろうか。………あった。シャッターの上の方に、銀色に輝く(多分メッキだろう)十字架が釘か何かで打ち付けてあった。ジャンプしても届かない高さだし、届いたとしてもあれを取り外すことは簡単にはできないだろう。進路を塞ぐ全てのシャッターに、同じように十字架が打ち付けてある。
……しかし、どうして防火シャッターに対ゴースト処理が施してある?
建物の窓や壁、一部の重要な部屋、更衣室やトイレの個室などをゴーストに侵入できないようにするのはたいていのデパートや会社がやっていることだが、防火シャッターにまでゴーストを通させない理由はない。
ひどく嫌な感じがする。シャッターに打ち付けられた十字架からは、いかにも急いで取り付けましたという観が漂う。全てのシャッターにこの処置をするのは相当に骨が折れるだろうが、このフロアだけなら一人か二人でも数時間で可能な範囲の仕事量だ。
「くそっ。とにかくひかりちゃんのとこに戻るぞ」
「う、うんっ」
走り出す僕。……ちなみに僕の脳裏には今、〔テロ〕という二文字が浮かんでいた。
「あっ! せ、先輩! どうでしたか?」
僕と深春が展示場に戻るとひかりちゃんは心配そうな顔で尋ねてきた。近くにいた十人ほどの客も僕たちの方を注目している。
「なんか東側で火事が起きたっぽい。で、シャッターが全部下りてて、この会場は地下フロアから切り離されてるみたいだ」
客観的な事実だけを端的に伝える。状況がはっきりするまで、余計な憶測は控えた方がいいだろう。が、そんな僕の思惑をぶちこわして、
「……ひょ、ひょっとして自殺教のテロか何かじゃないだろうな?」
三十半ばくらいの妻子連れの男が言った。小声だったが、その呟きは波紋のように人々の間に動揺を広げていく。……くそっ、馬鹿が。無駄に場を混乱させてどうする。
「せ、先輩、テロって……」
「まだそうと決まったわけじゃない。とにかくここから脱出しよう」
言いながら、非常口を探して周囲を見回す。わりと広いフロアだったが、それは簡単に見つかった。フロアの奥に、緑色に点灯するランプがあった。
ひかりちゃんの手を引いて、僕はそこへ向かう。何故か他の人間たち(その中には、本来なら率先して僕たちを誘導する立場である展示会のスタッフまでいる。ただのバイトっぽいので仕方ないといえば仕方ない……のか?)まで僕たちのあとをついてくる。……ま、どうでもいい。邪魔にさえならなければ。
「悠紀、なんか頼りになるね」
ふわふわと僕の頭上に浮かびながら、茶化すように深春が言った。
「僕の行動が正しいって保証はどこにもないけどな」
「でも、そのわりに先輩、すごく落ち着いてるじゃないですか」
まるでそれがすごいことのようにひかりちゃんは言った。
「いや……だって慌てても意味ないし」
状況がはっきりと分からないなら最善の解答なんて知る術もない。それなら自分が今出来ることをやるだけでいい。すごく簡単じゃないか。女の子の愛の告白にどう答えるべきか悩むよりもずっと楽だと思うのだが。
この状況で僕が出来ることといえば、非常口から脱出するか、この場で大人しく救助を待つことくらいだろう。どうしてこんな、たかだか二択の選択肢で慌てる必要があるのかさっぱり分からない。勘だけで選んでも五〇パーセントの確率で正解だ。……もっとも、どちらを選んでもゲームオーバーってこともあるだろうけど。
非常口の扉のノブに手をかける。金属製の扉は意外に分厚くて重く、開けるのはちょっと大変だった。誰かボーっと見てないで手伝ってくれりゃいいのに。
ガシャン、という音を立てて扉が開ききった。
その先に広がっていた光景は……瓦礫《がれき》の山だった。
上下に繋がる階段は、一階へと上る方は真ん中から上が完全に破壊されている。下、つまり地下二階へと下りる方も、階段それ自体は無事のようだが上半分が瓦礫によって埋まっている。
まだ煙が立ち込めているところを見ると、ここでも爆発がつい先ほど起こったということだろう。そのことに気付かなかったのは、非常口が防音になっていたからか、爆音がさほど大きくなかったのか、それとも僕が外の様子を見に行ったときにちょうど爆発が起きたからなのか。
……原因はどうでもいい。重要なのは、非常口からの脱出が出来ないという事実だ。
「ど、どうするんですか、先輩」
ひかりちゃんが不安そうに言った。
「……どうしようか」
とりあえず曖昧《あいまい》に笑いながら僕は首を傾げてみた。
「いやあっ! 私たち、助からないの!?」
子供連れの夫婦の、今度は妻の方がヒステリックに叫んだ。母親の叫びに、幼稚園児くらいの男の子も泣き出した。よくよく見るとこの子供、人形展で泣いていた子供じゃないか。一日に連続してトラウマ体験をするなんて運の悪い子だ。僕的にちょっと親近感が湧いたりする。強く生きてほしいものだ。
「ままー、ままー」と泣きじゃくる子供と、すすり泣く母親。それをなだめる父親(ちなみに彼は、先ほどテロではないかと発言して皆を不安にさせた男だ)。……やかましい家族だな。落ち着いて思考が出来ない。
「あのー、ちょっとうるさいんで静かにしてもらえませんか?」
僕が言うと、何故か母親が睨んできた。……僕を睨んでどうする。父親も父親で、
「し、仕方ないだろうこんな状況なんだ! どうして君はそんなに落ち着いてるんだ!」
「いや、どうしてって言われても困りますが……」
やはり、この家族のように無駄に慌てふためくのが一般的な反応なのだろうか。
他の人々も、騒がないまでも皆一様に不安そうな顔をしている。また、僕を見る目には冷たいものが混じっている気がする。まるで、この状況で落ち着いていることが悪いことだとでもいうように。
……なら、常識人である僕としても取り乱すのはやぶさかではない。
「……わかった、だったら僕も慌てることにしますよ」小さく言って、「大変だ、なんてことだ! 僕たちは火の海に包まれたデパートの地下に閉じ込められてしまったぞ! うわー! 外はシャッターで完全に閉鎖されているし階段も瓦礫の山で使えない! これじゃあ助けが来ることも期待できないじゃないか! こ、これはもしかしてテロリストの仕業なのか! まだどこかに爆弾が仕掛けられているかもしれない、いつ天井が崩れてもおかしくないぞ! 僕たち、このまま生き埋めになってしまうのか! それにテロリストがここに立てこもってたら自衛隊がテロリストごとミサイルでデパートを吹っ飛ばすかもしれない! 僕たちもその巻き添えになること間違いなしだ! うわー死ぬー死ぬー死んじゃうー! 僕たちはここで死んでしまうんだー! 脳みそや内臓ぶちまけて粉々に吹っ飛ばされて死体も残らずに瓦礫の中に埋もれてしまうんだー! 助けてー助けてーおとーさーん、おかーさーん! 死にたくないよおおぉぉ――ッ!」
最後に叫んで、頭をかかえてうずくまってみる。こんなところでどうだろう? ……うん、我ながら見事な慌てっぷりだったと思う。言ってて自分でも怖かったし。自らの慌てっぷりに満足した会心の笑みを浮かべて立ち上がり、僕は周囲の人々を見回してみた。
「あれ……?」
家族連れをはじめ、人々は一様に青ざめた顔をしていた。中にはすすり泣いている人もいれば、僕を睨んでいる人もいる。「しんじゃう、しんじゃうのー? いやだよー」とか言いながら泣いているのはさっきのお子チャマ。
……ああ、空気が重い。ま、軽くしようと思っていたわけでもないけどさ。
「な、なんてこと言うんだ君は……!」
怒りを滲《にじ》ませた声でそう言ってきたのは、僕に突っかかってきた父親だ。そもそもこの人が僕に「もっと慌てろ」と言った(微妙に違ったかもしれないが、大体こんなような意味の台詞だったと思う)からとりあえず慌ててみたのだが、どうして怒っているのだろうか。おっさんの考えることは解らん。世代の違いというやつだろう。
「深春、この人どうして怒ってるんだ?」
小声で深春に尋ねてみる。
「さあ? 多分仕事でストレスが溜まってたんじゃないかな? ほら、最近不景気だし」
「なるほど。それなら納得がいくな」
「でしょ?」
そんな僕たちの会話は男に聞こえていたらしく、彼はますます怒りと、そして隠しようもない困惑の色を滲ませ、
「ふ、ふざけてるんじゃない! 非常識にもほどがあるぞ君たちは! 今がどういう状況か分かってるのか!」
「……いや、全然分かりませんけど。でも、もしも本当にテロだったら、僕が言ったようなことになる可能性は十分にあるんじゃないですかね?」
「嫌あっ! 死ぬの!? 私たちここで死んじゃうの!?」というヒステリックな若い女性の声がした。大学生くらいの女性だった。僕に向けられた言葉というわけでもなさそうなので放っておく。あんまり美人じゃないし。
男はそちらをちらりと一瞥したあと、すぐに僕に視線を戻し、
「そんな、し、死ぬとかだな、こんなときに口にするんじゃない! まったく、どういう神経をしてるんだ……!」
「――でもオジサン。人間、死ぬときは死ぬもんだよ?」
本当に何気ない感じで口に出された深春の言葉は、一瞬この場の空気を凍らせた。
「なんだと……!」
男は深春を睨みつけ、しかし二、三秒で目をそらした。振り上げた拳を振り下ろす先が見つからなかったのだ――物理的な意味でも、心理的な意味でも。
……気持ちは分かる。悟ったような深春の言葉は、普通の《生きている》人間が言ったならペシミストかニヒリストを気取っているだけにしか聞こえないだろうが、しかし実際に死んでしまった人間の口から聞くとものすごい説得力がある。
――――人間は、死ぬときは死ぬ。
誰もが知っている、そして多くの人が目を背けたがる自明の真理だ。僕としては、明日にも、数時間後にも、数秒後にも自分の知り合い或《ある》いは自分自身が突然死んでしまうことを常に考えずに生きていられる方がよっぽど不思議なのだが。
人間は、そりゃもう本当にアッサリと死ぬ。で、たまに深春みたいにお化け《ゴースト》になったりする。それだけのことだ。目を背ける価値も無いただの現実だ。……一ヶ月半前までの僕は、そんなことも解っていなかったのだ。
「……もういい。君らと話していると気分が悪くなる」
吐き捨てるようにそう言って、男は妻と子供と一緒に展示会場へと戻っていき、非常口の入り口に程近い壁にもたれかかって座り込んだ。そして、まだ泣いている子供に「もう泣くな」などと言い聞かせ始めた。それをきっかけに他の連中もぱらぱらと非常口の外へ歩いていき、消沈したように座り込む。
最後の一人が出て行くと、ひかりちゃんは不安そうな顔で僕に、
「あの……それで先輩、これからどうするんですか?」
……どうするって聞かれてもなあ……。
「うーん……助けが来るのを待つしかないんじゃないかな?」
言いながら思考する。果たして本当に助けが来るのかどうか、来たとしてもそれは一体いつのことになるのか。被害状況が大きくて救助活動に時間がかかる場合も考えられるし、先ほど僕が言ったように天井が崩れたりテロリストが立てこもっていたりする可能性だってなきにしもあらず。そもそもこれは本当にテロなのか。テロだとしてその目的は何か。おなじみ自殺教の、ゴーストを増やすための無差別テロか? だったらシャッターで逃げる客だけでなくゴーストまで閉じ込めたのは何故だ? 自殺教ではない別の組織によるものか? 身代金目的? バカな、こんな市街地の真ん中のデパートでそんなことをしてどうする、逃げられるわけがない。人質の管理も難しいだろうし。げんに僕たちは閉じ込められたとはいえ割と自由に動き回っている。ただ日本国に打撃を与えるだけが目的? いや違うな。ここは所詮地方都市だし喪髪《もがみ》デパートも大きいとはいえ全国規模の大企業ではない。じゃあ何だ? ただの事故? テロよりはむしろこちらの方が説得力があるか? 駄目だ、意味が無い。こんなことを考えても意味が無い。状況の把握よりももっと切実な問題の認識と、現状を動かすための方法を考えろ。
場所柄、食料がまったくと言っていいほど無い。水は……会場を出たところにトイレがあったけど、水道がちゃんと使えるかどうか調べておく必要があるな。トイレの水を飲むのは御免こうむりたい。電気は通じているが、いつまでも大丈夫だという保証は無い。もしも明かりが消えたら、ここは地下なので闇の中で呪いの人形たちと過ごすことになる。それは怖すぎる。
「……深春、階段の先まで行けるか?」
「行ってみる」
すぐに深春は瓦礫を通り抜け、地下二階へと向けて飛んで行った。
ほんの数十秒で、深春は戻ってきた。
「どうだった?」と僕が尋ねる。
「えーとね、地下二階の非常口のところまでは行けたけど、そこから先は反対側から護符が貼ってあるみたいで通り抜けられなかった」
「階段の状態はどんな感じだった?」
「一番瓦礫が積もってるのがここだね。ここさえ通り抜けられればあとは特に問題ないよ。天井が崩れる様子もなさそうだったし、階段自体は無事だったし」
「ふーん……地下二階には火の手は?」
「とりあえず、非常口から煙は漏れてなかったから、そのすぐ先のフロアは無事なんじゃないかな。それ以外のことは分かんない」
僕の質問に的確に答えていく深春。ちゃんと僕の意図を汲《く》み取って、見るべきところを見ているあたり、さすがと言わざるを得ない。〔ブーメランばばあ〕未至磨ツネヨ直伝の護身術〔未至磨抗限《こうげん》流〕――身を護ること、即《すなわ》ち生き残ることを目的とするこの護身術の流派は、格闘の技だけでなくこういった非常事態へ対応する能力と精神力をも養う……らしい。今の今までカケラも信じてなかったが、あながち嘘でもないようだ。
「……地下二階も悪くて一階と同じ状態、良くて被害なし、地下鉄の駅まで脱出可能ってところか」
「どうするの、悠紀?」
既に僕の答えを知りながら、あえて確認するというニュアンスで深春は尋ねてきた。
当然のように僕は答える。
非常口から逃げることを決めたときのような、〔動く〕か〔動かない〕かという二択ですらない、今はもっと単純な問題。〔動ける〕か〔動けない〕か、それだけだ。そして答えは〔動ける〕。ならば当然、動くべきだろう。
「助かる可能性が高いように見える道を選ぶさ。さっさとこの瓦礫をどかして地下二階を目指そう。非常口の鍵は開いてると思うけど……閉まってたら蹴破《けやぶ》ればいい」
行動の成否や正否を考えることに意味は無い。助かれば正かつ成、死ねば終わりで判断不能、ゴーストになれば無限の時間の中でゆっくりと反省会だ。
僕は瓦礫に埋まる階段に近づき、一抱えほどもある大きさのコンクリートを持ち上げる。
「よっこらせっ」
……ちょっと年寄りくさい掛け声だったか?
……む……う……これ、重いな……。力仕事はあまり得意じゃないんだけど……。
「あ、て、手伝います先輩!」
ひかりちゃんがトテトテと寄ってきて、僕の反対側から「えいっ」とコンクリートを持ち上げる。尖った瓦礫を素手で持ち上げるのは結構痛い。
「ボク、助けを呼んでくる」
そう言って深春は展示会場の中へと、文字通り飛んで行った。
コンクリートを一メートルほど運んで、ゆっくりと足元に下ろす。よっぽどの衝撃がないと瓦礫の山が崩れたりすることはないだろうが、一応慎重に作業を進める。
僕が二つ目の、どうにか一人で運べる程度の瓦礫を持ち上げ、ひかりちゃんも一つの瓦礫を持ち上げて重そうに運び始めた。……ひかりちゃんの足取りは危なっかしい。ふらふらと、見ているこっちが不安になる。
「ひかりちゃん、あんまり無理するなよ」
「だ、大丈夫です先輩、お気遣いありがとうございます」
……まあ、本人が大丈夫って言ってるならそれでいいか。
そう思いつつ、僕が三つ目の瓦礫を除去しようと手を伸ばしたとき、
「先輩と深春さん、息がピッタリですね」
唐突に、ひかりちゃんが言った。
「……こんな状況なのに慌てずに、いつもの調子で協力し合って、その……お互いをすごく信頼してる感じです」
どことなく寂しそうなその声音に、僕は少し動揺する。
「……いや、さっきも言ったけど、慌てても意味ないだろ? 深春はゴーストだから死ぬ心配とかないからさ、コキ使っても大丈夫だし。それに僕たち、トラブルには結構慣れてるからね。まあ、さすがに爆弾テロに巻き込まれた経験なんてないけど」
心なしか早口で、どことなく言い訳のような口調になっていることを自覚した。どうした久遠悠紀。何を狼狽《うろた》えている。
「…………羨ましいです」
ぽつりとひかりちゃんは言った。思わず僕は聞き返す。
「羨ましい? トラブルに巻き込まれまくってるのが? それは随分と変わった意見だね。僕としては退屈でもいいから平穏無事な人生を歩みたいと常々思ってるんだけど」
僕の話を聞いているのかいないのか、ひかりちゃんは独白するように、
「深春さんは、私の知らない先輩をたくさん知ってるんですよね」
「……そりゃまあ、幼なじみだからね」
「羨ましいです」
ひかりちゃんは繰り返した。淋しげに、儚《はかな》げに。
……おいおい、こんな状況だというのに、ちょっとトキメイテしまったじゃないか。だから僕は、
「いいじゃないかひかりちゃん、これから新しい思い出をつくっていけば。深春に負けないくらいたくさんの思い出を、さ」
こんな歯の浮くような台詞を、思わず吐いてしまった。ああ恥ずかしい。恥ずかしいと思いながらも、せっかくなので口元から歯を覗《のぞ》かせて微笑んでみたりする。僕の脳内ではキラーンという効果音とともに歯が光った。……自分で言うのもアレだが、あまり似合っていなかった。
「……そうですね」
ひかりちゃんは微かに微笑んで、しかしやはり淋しそうに、
「……でも、先輩の心の中に、私の入る余地は本当にあるんでしょうか」
掠《かす》れるようなその呟きに、僕は聞こえないフリをした。僕に対する質問というわけではなかったらしく、ひかりちゃんはそれきり何も言わない。
………うわー気まずい。深春は一体何をやってるんだ。すぐそこから応援を連れてくるだけだろうが。僕が思ったそのとき、
「悠紀、応援連れてきたよー」
非常口から、数人の男が入ってくる。
意外なことに、最初にやってきたのはあの家族連れの父親だった。少しばつが悪そうにしながら黙って僕の脇を通り過ぎ、瓦礫を持ち上げて非常口付近まで運んでいく。……ああなるほど、この人を説得するのに時間がかかったというわけか。一度対立してしまった、いわば敵対関係にある人間が協力するとなれば、それ以外の人間もおのずと協力させやすくなる。つまり多少の手間がかかっても、優先的に説得すべき人間は彼なのだ。
深春は僕とひかりちゃんのところにやってきて、何故か暫《しばら》く無言でじーっと僕たちを見つめた。
「……悠紀、ひかりちゃんと何かあった?」
「な、何かって?」
本当に何も無いのに、思わず声に動揺を滲ませてしまった。深春がジト目になる。
「ひかりちゃん、本当? 悠紀にえっちなこととかされてない?」
「さ、されてません!」
顔を真っ赤にして言うひかりちゃんは、いつもの彼女と変わらなかった。少し安心して、僕はひかりちゃんに言う。
「ひかりちゃん、君はちょっと休んでてくれ。あとは僕たちでやるから」
「で、でも……私も先輩のお手伝いを――」
ひかりちゃんの言葉を遮り、僕は爽やか(だと自分では思っている)に微笑み、
「ひかりちゃん、僕は君にいいところを見せたいんだよ。美少女の前で見栄を張らないなんて生物として失格だ。ましてや力仕事を任せるなんて、そんなのは遺伝子レベルで欠陥品だからね」
「わ、わわわわかりました。気をつけてくださいね、先輩」
顔を赤らめ、ひかりちゃんは離れていった。
「じとー」
妙な擬音を口にしながら、深春が何故か唇を尖らせて僕を見る。
「な、なんだよ?」
「……ボクの前ではあんな言葉、一度も言ったことないのに」
「何だ? ひょっとして拗《す》ねてるのか?」
すると深春は表情を一転、「べっつにー」と悪戯っぽい笑みを浮かべた。
……どうやら深春には僕の真意などお見通しのようだ。
非常用だけあってこの通路はかなり狭く、大人が五人もいるとひかりちゃんはむしろ邪魔、いない方がマシだったのである。量より質、情より効率。人手が多ければいいというわけでもない。忙しいときに猫の手なんて借りても意味ないし、友達が百人もいたら人間関係が煩《わずら》わしいだけなのと同じことだ。
「悠紀は嘘吐きだけど、こういう嘘だったらボクはどんどんついてもいいと思うよ」
「……そりゃどーも」僕は照れ隠しに肩をすくめ、「……さて、それじゃ僕もそろそろ作業に戻りますか。お前もそのへんで休んでろ、美少女」
「はーい。頑張って見栄張ってね〜」
瓦礫の除去は三十分程度で終わった。もちろん完全に撤去というわけではなく、どうにか人が通るのに支障が無い程度だが。
「意外に早く片づいたな。……皆さんの協力のおかげです、ありがとうございました」
撤去作業をした僕以外の四人の男にとりあえず礼を言う。すると、例によってあの家族連れの父親が、
「いや、私こそさっきはすまなかった。君のように冷静に行動できる子がいて良かったよ。礼を言うのはこちらの方だ」
いかにも大人の男という感じの笑みを浮かべてそう言った。
……うん……まあ、こうストレートに褒められたりお礼を言われたりすると、悪い気はしない。意外といい人かもしれない、このおっさん。なんだかんだ言って、瓦礫の撤去も一番真剣にやっているように見えたし。やっぱり妻子が――守るべきものがいるというのは違うのだろうか。ガラにもなく、僕はそんなことを思った。
「あの娘の言った通りだな。君は誤解されやすいがいざというときは誰よりも頼りになる、最高にかっこいい自慢の恋人だって。……ああもきっぱり言い切られると、聞いているこっちが恥ずかしかったよ。……しかし、どうやらあの言葉は、ただのノロケではなかったようだね」
深春のやつ、そんなこと言ったのか。見ず知らずのおっさんに……。
さすがに少し赤面しつつ、とりあえず曖昧に笑い、早口で、
「僕はべつにそんな大した奴じゃないですよ。それに、お礼を言われるのはまだ早いです。さっさとこんな場所からは脱出しましょう。深春、ひかりちゃんたちを――」
会場で待っている女性たちを呼んでくるよう深春に頼もうとしたが、あいつの姿は見当たらなかった。
「……あれ、さっきまでそのへんでふらふらと……」
と。
「さ、悠紀、ちゃっちゃと行こう!」
深春は階段上方、非常口のところにいた。その後ろから、会場にいた人々がぞろぞろとついてくる。おっさんが愉快そうに、
「本当によく気がつくいい相棒だな、彼女。きっといい嫁さんになるぞ」
僕はちょっと頭をかいた。と、そこでおっさんは、はたと表情を曇らせ、
「……ああすまない、あの娘、そういえばゴーストなんだよなあ……」
その声には同情――おそらくは僕と深春の両方に対しての――が込められているように聞こえた。たしかに法律上ゴーストは結婚できない(死亡扱いだし)から、深春が〔嫁さん〕になることはできないだろう。僕は微苦笑を浮かべ、
「べつに、深春と結婚したいなんてカケラも思ってないんですけどね。そもそも僕は結婚制度に反対ですから。だって離婚するとき慰謝料取られるんですよ?」
おっさんは苦笑し、一言、「……やっぱり君は変わった子だな」と呟いた。
「そうですか? 普通だと思いますけど。世代の違いってやつじゃないですか?」
おっさんは曖昧な笑みを浮かべて、困ったように少し首をひねった。そのとき、
「先輩、お疲れ様でした」
ひかりちゃんがとてとてと駆け寄ってきたのでちょっと笑みを浮かべて返し、「それじゃ行こうか」と僕は言った。
階段を下りる。細かいコンクリートの残骸《ざんがい》に少し足をとられそうになるも、誰も転んだりすることなく僕たちは地下二階の非常口の前までやってきた。
扉には護符らしきものは見当たらないので、おそらくは内側に貼ってあるのだろう。深春が言ったとおり、扉の下から煙が漏れていたりもしない。
念のため扉に耳をくっつけて中の様子をうかがってみる。
………音はしない。
「人がいる気配はないな」
僕が呟くと、ひかりちゃんがホッとしたように、
「よかった、みんな無事に避難したってことですよね」
「地下鉄か、それとも外に出られるルートがあったのか、……とにかく、よかったな、これで助かったぞ」
おっさんが妻子に言う声が聞こえた。
……さて。僕はというと、なんとなく、嫌な予感がしているのだった。
妙な胸騒ぎ。このまま終わるわけがないという予感、いや――悪寒。
なにせ……ここのところ、僕の選択が正しかったことなんてほとんど皆無なのだから。
「悠紀、どうかした?」
「……いや、べつに。嫌な予感なんてこれっぽちもしてないぞ。このまま無事にみんなで安全なところまで避難できると、僕は心の底から信じてるよ」
「うそばっかり」
深春は、こんな状況でもいつもとまったく変わらない調子で笑った。
「マジだってば」
深呼吸して。
ノブを掴んで、ひねってみる。鍵はかかっていなかった。
扉を開ける。
扉を開けた。そこには
死体があった。
人形展会場の半分ほどの部屋で、数多くのダンボール箱が無造作に置いてあるところを見ると、単に物置として使われているらしい。上の展示会の人形たちが納められていたのかもしれない。
で、そのモノおきに、モノに交じって、まるっきりモノと同じように無造作に、何故か死体が、死体が、死体が死体が死体が死体が死体が死体が死体が死体が死体が死体が死体が死体が死体が死体が死体が死体が死体が死体が死体が死体が、死体が
「ひ――っ」という誰かの、声が潰れたような悲鳴が聞こえた。
ごくり、という誰か、あるいは僕の息を呑む音が、やけにはっきりと聞こえた。
部屋の真ん中で、白いスーツを赤に染め、血の海の中に倒れている、一体の遺体。うつ伏せになっているため顔は見えない。見たいとも思わない。
血の臭い、とても、いやなにおい。……ああくそ、吐き気がする。
ギリッ、と下唇を思い切り噛んで、その痛みで気を紛らわせる。大丈夫、この程度なら、まだ慌てる必要は無い……。あのときの深春の死体より、ずっとマシな状態だ。
大丈夫、落ち着け、落ち着け、落ち着け、オチツケ――――。
「ねえなにがあったの………あ……い、いやああああ――ッ!」
後ろで女性が悲鳴を上げた。声からするとあまり美人じゃない大学生っぽい人だ。ああうるさい。ちょっと黙っていてほしい。こっちは吐き気をこらえるのでいっぱいいっぱいなんだから。
しかし彼女の悲鳴を皮切りに、次は家族連れの母親が泣き声のような悲鳴を上げ、さらに連鎖的に悲鳴と泣き声がみんなの間に広がっていく。情けないことに、展示会のスタッフっぽい中年の男までみっともなく大声で泣き喚いている。まったく、男の泣き声ほど不愉快なものは……ないこともないが、不快指数はかなり上位にランクインだ。
ちなみに例の父親は妻子を抱きしめて「大丈夫だから」と言い聞かせている。お父さんご立派。僕の中でおっさんに対する好感度さらにアップ。だからどうだというわけでもないが。好感度一定値以上でお父さんルートに分岐してもちと困るし。
「せ、先輩……これ……」
掠れた声でひかりちゃんが言って、僕の服の裾《すそ》をぎゅっと掴んだ。怯えているが、この程度の反応で済んでいることは正直意外だった。
「……死体だよ。死んでる人の体さ」
感情を押し殺した声で、僕は淡々と言った。こんな口調でしか喋れなかった。
「……銃で撃たれて殺されたみたいだね。心臓のところを貫通してる」
死体に近づき、深春が顔をしかめて言った。死んだのではなく、殺された――ということは、殺した人間がいるということになる。殺されてそれほど時間が経っているようには見えないから、もしかするとまだ近くに殺人者がいるかもしれない。……くっ、瓦礫の除去なんてやらずに会場で助けを待っていたほうが良かったのか……? やはり、また僕は墓穴を掘ってしまったのか?
「……酷いことするね」
深春の淡々とした口調。死体に恐怖を感じている様子はない。おそらく、この場で一番落ち着いているのはこいつだろう。こんなことを冷静に考えている僕の場合は、思考とは別次元のところで結構限界だ。いやほんとに。
「ぺっ」
唇を強く噛みすぎて口の中に流れ込んできた血を床に吐き捨てた。
「……あー……気持ちわりい……」
嘔吐感《おうとかん》を堪《こら》えつつ呻く。くそ……死体なんて見慣れているのに。ちょっと前まで連日のように夢に見ていたあのときの光景に比べたら、こんなもの……。しかもこれは、深春ではなく見ず知らずの他人。そんな死体《モノ》は、ただの物体《モノ》にすぎない。さっき人形展で見てきた人形たちと大した違いはない、ちょっと変わったオブジェだ。……そんな、ことは、わかってる、はず、なのに…、…ッ! ……ああ畜生――腹が立つ。
「悠紀、大丈夫? すごく顔色悪いよ」
「全然大丈夫だ」
フラッシュバックするあのときの光景を、僕は頭から振り払おうとして――駄目だった。
「……外の様子を見てくる」
とにかく、一刻も早くこの場を離れたい。
「あ、危ないですよ先輩!」
「ひかりちゃんたちはここに残っててくれ。……深春、行こう」
「おっけー」
深春が即答して頷き、僕は死体を視界から外して入り口の扉へと目を向けた。が、
「ま、待ってください! わ、私も行きます」
ひかりちゃんの言葉に、「え?」と僕と深春が同時に驚く。
「だ、だって先輩、せっかくのデートなのに深春さんとばっかり……」拗ねたように少し唇を尖らせて言ったあと慌てて、「す、すいませんこんなときに。非常識ですよね」
赤面して俯くひかりちゃん。
…………なんて……ぶっ飛んだ娘《ムスメ》だ。あろうことかこの娘は、自分の命も危ないかもしれないというこの状況でもまだ、デートの最中だと考えているのだ。もともとこの娘に常識なんて期待してないとはいえ、これには流石《さすが》に苦笑を禁じえない。
……けれど、おかげで少し気分が楽になった。
「……分かった。その代わり死んでも文句を言わないでくれよ」
ひかりちゃんは顔をぱあっと輝かせ、
「は、はいっ! 先輩と一緒ならそれも本望です! どこまでもご一緒します! たとえ地獄の底までも!」
それは御遠慮願いたい。
……部屋を出た先の通路には、誰もいなかった。死体もない。
地下一階同様、防火シャッターが下りているものの、〔回〕の字状にフロア中央部を囲むようにして下りているだけで、外周を回ることは出来そうだ。これは単純に、避難経路を確保するためにシャッターが存在しないからだろう。
周囲を見てみると、ちょうど都合よく壁にフロアの案内図があった。東南の端っこの部屋に、〔現在地〕のマークがある。
ここ地下二階は、西は金丸《かねまる》デパートなどがある大通り方面に、南は隣町の商店街方面に、北は地下鉄の駅へと通じている。フロアの中央と西側、それに僕達がいる東側にはエレベーターとエスカレーターがある。すぐ近くにあるエスカレーターおよび非常口以外の階段はシャッターで閉ざされている。
さて、どのルートを使って脱出すべきか。エレベーターは論外(多分動いてないだろう)として、一番近い出口は南口か。まずはそこを確認して――
「悠紀、南口の出口は塞がってるよ。天井が崩れてる」
深春がそこの角から姿を現した。僕が地図を見ている間にすでに動いていたらしい。
「……となると、地下鉄の駅を目指すか。……そこも塞がれてなきゃいいけどな」
なんか、ものすごく嫌な予感がする。
「と、とにかく行ってみましょう」
ひかりちゃんが珍しく自分から歩き出した。本当にあれこれとよく動いてくれる(しかも妙に楽しそうに)深春に対抗しているのだろうか。……自分が生身の人間だってこと忘れてないだろうな……。
……通路を北上し、角を曲がる。そこにもまた、誰もいない。
ほどなくして、北へ抜ける出口へとたどり着く。……通路は塞がれていないようだ。爆発が起こった様子もない。通路は五〇メートルほどのところで折れ曲がっていて、その先の様子は見えない。しかも蛍光灯が破壊されているのか、かなり薄暗い。
あの暗闇へ進むしかないんだろうなあ。ああやだやだ、先の見えない暗闇、まるで人生のようだ。……さて、ちょっとお寒いことを思ってしまったところで行くとしますか。
と、そのとき、ひかりちゃんが無言で手を握ってきた。いきなりのことだったので少し驚き、しかし自然っぽく手を握り返す。
「あーひかりちゃんズルい! 抜け駆け!」
目ざとく気づいた深春が頬を膨らませる。
「ち、違いますこれはべつに……」
慌てるひかりちゃん(しかし手は離さない)に深春はくすっと笑い、
「分かってるって。今は見逃してあげる」
「ほー、深春にしてはオトナな対応だな」
からかい混じりに僕が言った。
「まーねー。やっぱり普通の人には怖いもんね、こんなところ歩くなんて」
……〔普通の人〕というのはきっと、〔ゴーストではない、生きている人間〕という意味だろう。僕やひかりちゃんとは大違いの、緊張感皆無な深春の呑気《のんき》な口ぶりに――ふと、とあるロクでもない考えが頭をよぎった。
つまり――ひょっとしたら、自殺教の連中が言うことは間違っていないのではないかと。人間は、ゴーストになった方がいいのではないか、と。
たしかにゴーストになると物体には触れられないし、美味しいものを食べたり本を読んだりスポーツをしたりという日常的な楽しみは失われる。
しかしそれと同時に、死への恐怖もなく、未来への不安もなく、食欲や性欲などのつまらない欲求もなく、わずらわしい日常生活の枠組みから解放され、能天気にマイペースに日々を送ることが可能になる。某有名妖怪アニメの主題歌にある通り、〔お化けには学校も試験も何にもない〕。僕たちを縛り付けている様々なしがらみが、何にもない。
まさに今の深春のように。それはひょっとして、すごく幸せなことなのではないのか。
深春の顔を窺《うかが》う。「ん?」という不思議そうな顔。先の見えないこの状況、謎の死体まで登場してきたこんな状況でさえ、まるで遊園地のお化け屋敷程度の娯楽にしか考えていないような、ドコカガコワレタ無邪気な顔――……。
…………あーやめだやめだ! 今はそんなことを考えてる場合じゃないだろ!
ぶるぶると首を振って頭を切り替える。
「ど、どうしたんですか先輩?」
「あ、いや。なんでもない」
無理矢理誤魔化《ごまか》し、僕はひかりちゃんの手を引いて歩き出した。
壁にべたべたと貼り付けられたポスターやら広告を横目に、幅の広い通路を歩く。
曲がり角までたどり着く。
再び深呼吸。
それから顔だけ出して、薄暗い通路の先を覗き込んだ。
で。
………………思い切り、目が合ってしまった。
最悪のタイミングで、たまたま後ろを振り返った、銃を持った男と。
「――ッ!!」
やべえっ、と慌てて頭を引っ込めるも、
「誰だ!」
鋭い誰何《すいか》の声。それから、「誰かいたぞ」「顔を見られたかもしれない」「ならば殺せばよかろう」とかいう物騒な話が通路に反響した。
一瞬見ただけだが、多分人数は五人だった。僕たちから二〇メートルほどしか離れていないところで、銃を持った男たちが突っ立っていた。そのうちの一人とバッチリ目が合ってしまったのだ。
……くそっ、なんたる大失態! ここまで誰もいなかったことで、油断して注意を怠っていた。
カツカツという複数の足音、訓練された者特有の、等間隔の足音が近づいてくる。
「逃げるぞ!」
ひかりちゃんの手を強く掴み、踵を返して駆け出す。が、
「え、きゃ、きゃあっ!?」
ひかりちゃんが足を縺《もつ》れさせてしまい、二人、仲良くブザマに転倒する。
「いてて……」
咄嗟にひかりちゃんの体をかばったため腰をしたたかに打ちつけてしまった。痛みをこらえ、それでもどうにか立ち上がり、そこで、
「――動くな」
冷淡な声とともに、男たちが追いついてきた。
「く……」
……人数は五人。全員、オーケストラの楽団のように真っ黒な燕尾服《えんびふく》を着ている。手には楽器ケースと拳銃(なんというか、いかにも〔殺し屋が変装しています〕というノリなのだが、楽器ケースに銃器というのは漫画やアニメでよく見かけるせいか、どことなく安心感すら感じてしまう)。おそらく全員が日本人で、年は三〇代から四〇代ほどだろう。総じてガタイがよく、出来ればケンカしたくない。
……あーあ、やっぱり会場で大人しくしてれば良かったなあ……どうしてこう、やることなすこと裏目に出るのか。実は動くという選択をした時点で既に、また悪い結果になることを半ば予想してはいたけれど……やはりへこむ。今度から履歴書に特技〔墓穴を堀ること〕とでも書こうか――なんてしょうもないことをかなり本気で考えていたら、男たちの中でも一番若そうな長身の男が銃口を僕たちの方に向けて、
「……ふーん、見たところ高校生くらいか。デートかい? そりゃあ悪かったなあ。何よりも君らの運が、さ」
心底めんどくさそうな口調で言った。わりと精悍《せいかん》な顔立ちなのだが、無精ひげがそれを台無しにしている。燕尾服も、この男だけはまったく似合っていない。目を片方だけ細め、口の端を吊り上げ、どことなく気だるそうな薄笑いを浮かべている。
「さて、そんじゃまあ、大人しく死んでくれ」
まるで世間話でもするかのように、男は気楽な口調でヘラヘラ笑った。
直感する。……こいつはやばい相手だ。この男は、殺人に対して何の感情も持っていない。人を殺すことに対して快楽を得ることも、後悔することもない。血に飢えた殺人鬼ではなく、駄目なサラリーマン。ただ作業として人を殺す類の人間だ。
「……くッ!」
ひかりちゃんの腕を引っ張ってとにかく横に跳躍。男が無造作に引き金を引き、
パンッ!
という乾いた音が聞こえた。かわせた! すげえ僕今銃弾かわしたよ!
って、一発かわしただけで満足してる場合じゃない! すぐに二発目が、
しかし、
「ひゅう」
とヘラヘラ男は感心したように口笛を吹き、ワンテンポ置いてから狙いをつける。
そのとき。
「わあああぁぁぁ――――――――ッ!!」
という怒鳴り声――いや、声ではない、脳髄に直接クるような怒りの波動が響いた。
男たちから隠れるように天井に張り付いていた深春が、逆さまの状態でヘラヘラ男の真正面に下りてきたのだ。
「――うおっ!?」
物理的な衝撃はないとはいえ、まったくの不意打ちにさすがのテロリスト達も驚いたらしく、身じろぎしてあとじさりした。すぐに反応できたのは普段から深春のゴースト精神波を食らい慣れている僕だけだ。
「だあああ――っ!」
ヘラヘラ男の顔面を思い切りぶん殴り(惚れ惚《ぼ》れするくらいのクリーンヒットだったのに、自分の拳まで痛かった)、男はすぐ後ろにいた二人を巻き込んで倒れた。
「……ったく、いてえなあ……」
やけに緊張感の欠けた声でヘラヘラ男が言う。
僕はその隙に踵を返してジグザグに走って逃げる。
「って、ひかりちゃん! キミまでびびっててどうする!」
「あ、は、はい、すいません」
立ちすくんでいたひかりちゃんをかなり乱暴に、引きずりまわすようにして走りながら、ひたすら逃げる。
ぱんっ、ぱんっ、ぱんっ――――乾いた銃声が断続的に響く。
「こらーッ! ボクの悠紀になにするんだッ!」
深春の怒鳴り声と、「誰がお前のだ」という僕の心のツッコミと、
「ぐ――ッ!?」
右肩に、皮膚にはんだごてを直に当てられたかのような猛烈な熱を感じたのは、ほぼ同時だったと思う。
撃たれた……!
認識に遅れて痛み。激痛。鋭く、しかし同時に鈍い、いわく言いがたい、神経が蝕《むしば》まれていくような感覚、泣きそうになる。しかしここで足を止めては、今度は肩だけでは済まない。ならば足を止める理由はない、悲鳴さえ上げてる暇はない、合理的判断、痛みなんて知ったことか! 少しは根性見せてみろ! 幸いにして弾は掠めただけ、ええっ、掠めただけでこんなに痛いってもし直撃してたらどんだけ痛いんだ銃弾って!? ああ戦争のない平和な国に生まれてよかったなあと、肩口を押さえて無理矢理皮肉っぽく笑う。
と、そのときひかりちゃんが僕の右手を握ったまま僕の前に出て、さっきとは逆に僕をふりまわすように引っ張っていく。あ、意外に足が速い、いや、僕が遅いだけか、痛みのせいで、だ、駄目だひかりちゃん、そんなふうに引っ張ったら、
「あうっ、痛い痛い痛い――ッ! 腕、腕がもげるうううううう――ッ!」
撃たれたとき以上の、はっきり言って死んだほうがマシに思えるような激痛に、今度こそ僕は情けない悲鳴を上げた。
「す、すいません先輩!」
ひかりちゃんが慌てて手を離す。そのせいで転びそうになるも、どうにか体勢を立て直して全速力で逃げる。
すぐ足元で火花がはじける。アクション映画によくあるシーンのようで、まるで現実味を感じない、しかし当たるとものすごく痛いというか多分普通に死ぬ攻撃。
「悠紀、大丈夫? すごい血出てるよ」
そうこうしているうちに深春が追いついてきた。
「シュヴァルツ、追え!」
「ええー? 俺ですかあ?」
「早くしろ!」
「へーい」
男達の、妙に緊張感のない会話が後ろから聞こえた。くっ、追う側の余裕ってやつか。
僕達はデパートの中まで戻り、人形展会場から一緒に来た人々がいる倉庫とは逆方向、地下二階東側へと向かって走った。どうしてかは自分でも分からない。あの連中を仲間として信用していないからなのか、それとも、信じがたいことだが――僕達がオトリになれば、彼らの助かる可能性が高くなると思ったからか……。
自己犠牲なんて殊勝な精神が僕にあるとは思えないから、答えは前者、あの連中をアテにしていないからだろう、きっと。烏合の衆より少数精鋭の方が優れているのは過去の歴史からも明らかだ。僕とひかりちゃんと深春が精鋭かというと自信がないけど。
……ともあれ、選んでしまったものは仕方ない。東にも脱出ルートはあるはずだ。塞がれている可能性も高いが、それでも隠れる部屋くらいはあるだろう。
ああとにかく血を止めないと……うぅ、なんか足元がふらふらしてきた。痛い目には色々あってきたけれど流石に銃で撃たれたのは初めてだ。貴重な経験をさせてくれてありがとうクソ野郎。
案の定、東へ抜ける通路はシャッターで閉鎖されていた。幸いその近くに、〔従業員以外立ち入り禁止〕と書かれた部屋があったので、僕たちは急いでそこに入って扉に鍵をかけた。従業員の控え室らしく、部屋の広さは西側の倉庫と同じくらい。ロッカーやオフィス用の金属の机が並んでいるだけの殺風景な部屋だ。
わりと目立つところにあった救急箱の中から包帯を取り出し、椅子に腰掛け、だらだらと血が流れている右肩の付け根の部分に、服の上から思い切り強く、包帯をひたすらぐるぐると巻いていく。
「せ、先輩、まずは消毒しないと、バイキンとか入っちゃいますよ」
慌てるひかりちゃんに僕は痛みをこらえて無理に微笑み、
「大丈夫大丈夫」
何が大丈夫なのかは自分でも謎だ。僕の体はバイキンごときに負けないぜという意味なのか、どうせ死ぬから消毒なんてしても無駄ということなのか。
巻いても巻いても血が滲むので、かなりの量の包帯を巻き、肩がポパイのようになったところでようやくひと段落、しかしまだ何も終わってはいないことに気づく。血はかろうじて止まっても、ズキズキという痛みは消えはしない。
「……痛そうだね、悠紀」
深春が心配そうに言った。
「……痛そうじゃなくて実際に痛いんだ」
心なしか声が刺々《とげとげ》しくなってしまったのは、痛みからも無縁なゴーストに対する反発か、それとも羨望《せんぼう》か。
「あ、あの……先輩、それでこれから、どうしますか? ずっとここに隠れてるわけにもいきませんし……」
「どうするって言われてもなあ……どうしようか?」
深春に話を振る。深春も珍しく困った顔で、
「ボクに聞かれても……」
「だよなあ……」
「うん……」
沈黙が訪れ――しかしその沈黙は、ほどなくして破られた。
コンコン。
部屋の扉が外側からノックされた。
「……ッ!」
三人揃って息を呑む。がちゃがちゃと、ノブが音を立てる。
「中にいることは分かってるんだよねえ。血痕《けっこん》がこの部屋の中に続いてるから。……そんじゃ、ちょいと失礼させていただきますよー」
緊張感のないへらへらした声が聞こえ、その直後にガツッという銃声が。扉の鍵はその銃撃であっさりと破壊されたらしく、ドアノブがゆっくり回って扉が開かれる。
……部屋に入ってきたのは何故か、例のヘラヘラ男だけだった。他の男たちはいない。……僕たちを殺すくらい、一人で十分だということか。実際その通りなんだろうけどさ。
「はろー」
僕たちの姿を認めると、やはり男は得体の知れない笑みを浮かべた。そして無造作に銃を取り出し、その銃口を僕たちの方に向けた。僕とひかりちゃん、どちらでも、動いた瞬間に撃たれる……そんな確信があった。くそっ……!
「……何者なんですかあなた達は。自殺教ですか?」
僕は尋ねた。答えを期待していたわけじゃない。けれど驚くべきことに、男からは返事が返ってきた。
「うーん残念、自殺教じゃないんだなあこれが。過激なカルト宗教ってことは同じだけど、教義はむしろ自殺教と正反対だからね。あ、ちなみに俺は信者ってわけじゃなくて、教団に雇われたテロリストね。金払いがすごくいいんだよこの雇い主。やっぱり金を稼ぐなら宗教に限るよなあ。……そうそう、自己紹介がまだだったね、俺の名前は黒違和慶介《くろいわけいすけ》とでも名乗っておこうか。〔とでも〕とか言いつつ本名なんだけどさ。一応、〔黒《シュヴァルツ》〕ってコードネームはあるんだけどね、なんかほら、恥ずかしいじゃない。ネットでときどき見かける痛いハンドルネームみたいで」
……どうしよう。自分で尋ねといてアレだが、ペラペラと喋る男に戸惑いを抑えられない。こいつは何を考えているのか。というか、何か考えているのか? それともこれはあれか。いわゆる冥途の土産というやつなのか。なんて親切なんだ、くそくらえ。
「……自殺教と教義が正反対、と言いますと?」
僕はまた尋ねた。こいつ(黒違和慶介という名前らしいが……本当に本名?)が何を考えているにせよ、今は時間を稼がないと。
「ほら、自殺教っていうのはゴーストを増やすのが目的だろ? けど俺の雇い主の教団は、ゴーストは人類の敵だから減らそうっていうコンセプトなわけさ」
「はあ……」
……確かにそういうカルト宗教は幾つも存在するらしいが、日本ではあまり聞かない。本人がそう言っているなら間違いはないのだろうが――しかしそれではおかしな点がある。
「ゴーストを減らそうって人たちが、どうして人を殺したりするのさ! そんなの逆効果じゃない!」
僕が疑問に思ったことを、深春が代わりに口にした。
「答えは簡単さ、ゴーストのお嬢ちゃん。ゴーストが増えても……殺せばいい」
言って黒違和《くろいわ》は無造作に、銃口を深春の方に向けた。
「……?」
深春は訝《いぶか》るような呆れるような顔をした。ゴーストである深春に、銃なんて利かないだろう。が、そのときひかりちゃんが、
「先輩、あの銃、なんだか……変な感じがします」
「……霊感ってやつ?」
はい、とひかりちゃんは頷く。……嫌な予感がした。黒違和が無造作に引き金を引き、
「ダメですッ!」
ひかりちゃんの叫び声と、
ぱんッ!
普通の拳銃と何も変わらない、空気を切り裂くような乾いた音が響いて。
「い――ッ!」
深春の、驚愕と困惑が混じった押し殺した悲鳴。銃弾は――深春の左の脛《すね》あたりに当たった。ひかりちゃんが突き飛ばしていなければ、心臓に当たっていただろう。ゴーストの深春の、心臓に。
「……うー……痛い……痛いよう悠紀……おかしいよ……ねえ……なんで、なんでこんなに痛いの……? ……こんなの、すごく久しぶりな気がする……」
撃たれたところを押さえながら、深春が呻く。外傷はないが、その周辺だけ不自然に薄くなっているのが分かる。まるでこの世に存在する力そのものが弱まっているかのように。
「そんな……対ゴースト用の銃なんて、まだ米軍でも実用化されてない筈なのに……」
呆然とする僕。……理屈は分からないが、どうやらあの銃(銃に秘密があるのか、それとも弾が特別なのか?)はゴーストにも効果があるらしい。ひかりちゃんがいなければ……恐らく深春は死んでいた。今度こそ、完全に。
しかし驚いているのは僕だけではなかった。深春を撃った当事者である黒違和もまた、かなり驚いた顔をしている。
「……ねえ、君さ……俺の見間違いかもしれないけどさ、ひょっとして今、そこのゴーストの女の子を突き飛ばさなかった……?」
ひかりちゃんをまじまじと見つめて、黒違和が言う。ひかりちゃんは答えない。
「……なるほど……〔能力者〕ってわけか……はは、こりゃあいい」
何故か笑い、それからふと黒違和は僕に目を向け、
「へえ、いい顔してるじゃないか少年。そういう顔も出来るのか」
言われて気づく。自分が、怒りに満ちた形相で黒違和を睨んでいることに。深春を傷つけられたことが――そんなに悔しいのか、久遠悠紀。
……当たり前だろう。もう二度と、深春を喪いたくない。……嫌な汗が全身から噴き出す。怖い。深春を喪うことが――とても怖い。だから絶対に……守らなければ。
……だがどうする……どうやってこの場を切り抜ける……!
「ま、いいや。ところで君、名前は?」
僕に興味を失ったのか、黒違和《くろいわ》は再びひかりちゃんに声をかける。
「き、紀史元ひかりです」
素直に答えるひかりちゃん。
「ひかりちゃんか、いい名前だね。君さあ、俺と一緒に来てくれないかな? いやね、ウチの教団、君みたいな〔能力者〕を大勢集めてその力を研究してるんだよ。ほら、この銃の開発とかにもその研究成果が使われてるみたいだし」
な……!? いきなり何を言い出すんだこの男は!? ひかりちゃんも驚いた顔で、
「い、嫌ですよそんなの!」
「大丈夫だよそんなには痛くしないから。少なくとも俺はね。……ねえ頼むよ、今〔能力者〕の数が絶対的に不足してるらしくてさ、連れて行くと臨時ボーナスが出るんだ。すごいよ? なんと通常の報酬の三倍」
「し、知りませんよそんなの!」
「お願いだ。俺には君が必要なんだ!」
「こ、困ります、私には他に好きな人が……!」
……何の話をしてるんだ。……しかし、黒違和が本気でひかりちゃんを連れて行こうとしていることだけは確かなようだ。…………ならば、これを利用しない手はない。
「ひかりちゃん」
「え? あ――きゃっ?」
僕はひかりちゃんを左腕で後ろから抱きすくめた。何を勘違いしたのかひかりちゃんは顔を真っ赤にして、
「だ、駄目ですよ先輩、こんなときに……」
「ほほう、彼女は俺のものだ――ってやつかい? 見せつけてくれちゃってまあ……」
黒違和が楽しげに笑う。
「……ええそうですよ。ひかりちゃんは、僕のものです」
「せ、先輩……」ひかりちゃんがはにかんで顔を俯けた。僕はさらに続ける。
「僕のものなんです。……でも――」
「……? でも?」黒違和とひかりちゃんが同時に首をかしげる。
「僕と深春を見逃してくれるのなら、彼女をあなたに譲ってもいい」
「な……!?」
僕の提案に、黒違和は驚いた顔をした。しかしそれ以上に大きく反応したのは当然と言うべきかひかりちゃんで、
「な、なんてこと言うんですか先輩!? ひ、ひどいです! ひどすぎます! うう……」
泣かせてしまった。…………まあいいや。
「どうですか黒違和さん。悪い話じゃないでしょう?」
「ははは、なかなか外道だねえ少年。そういうの、嫌いじゃないよ。けどさあ……べつに君の許可なんてもらわなくても、君を殺してから無理矢理連れて行けばいいんだよね」
「だったら僕は、殺される前に殺すだけですよ」
言いながら僕は、机の上の、都合良く手を伸ばせば届くような位置に置いてある、包帯を切るときに使ったハサミに右手を伸ばす。腕に激痛が走るがそれを顔には出さず、視線は黒違和から外さない。
「くくく、なかなか面白いけど……本当に出来ると思うのかい? そんなハサミで」
「……ええ。僕はあなたに殺される前に――」
僕はハサミを手に取り、刃を閉じたままそれを、
「――ひかりちゃんを殺します」
彼女ののど元に突きつけた。僕が本気だということを示すために、少しハサミに力を込める。「つ――ッ」とひかりちゃんが痛そうな顔をしたが無視する。
「……! …………ぬう。そうくるか」
これはさすがに予想外だったらしく、黒違和は驚きに目を見開き、次いで困った顔になった。僕はさらにたたみかける。
「べつにあなたは熱心な信者ってわけじゃないんでしょう? だったら僕たちを見逃したところで何の問題もないはずです。たかだか二人の一般人のために、おいしいボーナスをフイにすることはないでしょう。なにせ通常の三倍なんですから」
「なるほどねえ……たしかにそれも一理あるかな……」
黒違和は、しばし黙考したあと…………目を細め、「にやり」と笑った。「越後屋、そちもワルよのう」的な笑みだった。
「……分かった。君の提案を呑もう」
「ありがとうございます」
僕も同じく、「いえいえ、お代官様ほどではございません」的な笑みを浮かべた。
「……それじゃあ、まずは彼女をこっちへ寄越してくれ」
銃を下げ、黒違和が言った。提案を呑んだフリをして騙し討ちを食らう可能性もあるが……残念ながら優位なのは圧倒的に向こうなのだ。ここは大人しく従う方が得策だろう。僕は頷き、ひかりちゃんの首筋にハサミを突きつけたまま、ゆっくりと黒違和に近づいていく。もう少し――もう少しで――――
が。そこで妨害が入った。
「い、いいかげんにしてください先輩!」
いきなりひかりちゃんが腕の中で暴れ出したのだ。
「わっ! こら、大人しくしてろってひかりちゃん! 危ないって!」
「嫌ですひどいです先輩のばかばか人でなしー! 先輩みたいな人が将来たくさんの女の子を泣かせるんです! いつか絶対〔先輩被害者の会〕が結成されちゃいますよ!? 生まれてきてすいませんって反省しても許してもらえないんだから!」
くっ、この……! 女の子ひとりとはいえ、こちらは片腕しか使えない。右腕の傷口がズキズキ痛んで正直泣きそうだ。
……くそっ……なんでこの娘はこう面倒なんだ……! これが深春だったら……ぐげっ! 肘はやめてくれ痛い痛い痛い痛いってば!! ていうかそれ以上暴れると本当に喉にハサミが刺さるぞ!? うわ、だからマジにやばいって!
「――ああもう! 言わなくても察しろよひかりちゃん! 近づいたときに隙あらば銃を奪おうって作戦なんだよッ!!」
「……え?」
「…………悠紀のバカ」
「あ……」
……時が止まる。
……し、しまったあっ……! 思わず声に出して叫んでしまった……! ま、まずい……本格的にマズすぎる……。
黒違和が呆れた顔で僕を見る。
「……なるほど。そういうハラだったのか。油断ならないね、少年」
「……てへ。僕のお茶目さん。……失礼しました」
へらへらと引きつった笑みを浮かべつつ、ひかりちゃんを盾にするようにして僕はソロソロと黒違和から離れていく。
「す、すいません先輩、私のせいで……で、でも私、先輩にだけはこんなこと、ほんとに……ごめんなさい……」
涙を浮かべるひかりちゃん。……今更謝られても遅いんだけど。僕はため息をつき、
「いや、説明しなかった僕が悪かったんだ。あの状況じゃ無理だったけど。……こんなイチかバチかの作戦、普通は言われないと分かんないだろうし」
「ボクは気付いてたけどね」
深春が口を挟んだ。その声にはいつもの元気がなく、顔には隠しきれない苦悶《くもん》の色が浮かんでいた。撃たれた場所はまだ薄くなったままだ。
「お前が気付いてたことに僕は気付いてたぞ。ひかりちゃんに何度も目配せしてたし」
「へえ、すごいね悠紀」
「おう。でも、お前もわりとすごいな」
「えへへ。……意味なかったけどね」
「……そうだな」
二人して、苦笑を浮かべる。ひかりちゃんは、そんな僕たちのことを怒ったような羨むような、いわく言い難い顔で見ていた。
と、そのとき黒違和が咳払《せきばら》いをした。ハッとしてそちらに注意を戻す。
「……まったく、ほんとに面白いねえ君は」
そう言う黒違和の顔や口調に、騙されたことに対する怒りは見受けられなかった。どちらかというと機嫌が良さそうな気配すらある。
「俺は久々に君みたいな面白い人間に会ったよ。教団の偉いさんがたもウチの上司も、杓子《しゃくし》定規で融通が利かない、ジョークの通じない連中ばっかりでさ。喋っててもホントつまんないんだよねえ。実に退屈な職場だよ」
「はあ。そうですか……」
職場のグチを僕に言われても困るのだが。それに、〔ジョークが通じる、喋っていて楽しいテロリスト集団〕というのも、よく考えると嫌すぎる。
「その点、君は面白いね少年。俺は君のことを、かなり気に入ってしまったよ。出来れば殺したくないと思ってしまうくらいさ」
「だったらぜひ見逃してください。あなたのことは誰にも言いませんから」
「ははは、そりゃあ出来ない相談だね。殺しのプロフェッショナルの端くれとしての勘が告げている。君は間違いなく……ここで殺しておくべき人間だ。ただの高校生とは思えない度胸にその頭の切れ――まったく末恐ろしいね。いっときの情に流されて間違った選択をしてしまうのは、俺の流儀じゃないんだよ」
「……買いかぶりですよ。僕なんて、いつも余計なことをしては墓穴掘ってばっかりの、ただのホラ吹き高校生です」
「そうなのかい?」
「そうですよ」
「んなわけないって」
…………。……畜生、やりづらい。どうしてこう、僕の前には一筋縄ではいかない連中ばっかり出てくるんだろうか。あのときの引ったくり犯みたいに、もっとスタンダードでチンケな小悪党が出てくればいいのに。小者の相手は小者でいいのだ。ミスキャストにもほどがある。テロリストなんてとんでもない悪党の相手をするのは、正義のヒーローや〔ブーメランばばあ〕未至磨ツネヨのような人外の役目だろうに。
「さて、そろそろ観念してひかりちゃんをこっちに渡してくれないかな? 俺のボーナスのために。……それにしてもこの状況、事情を知らない人が見たら、まるで俺の方が彼女を助けようとする正義の味方みたいだな」
黒違和は苦笑した。それでようやく、まだひかりちゃんののど元にハサミを突きつけたままであることに気付く。ひかりちゃんは恨めしそうに僕を見ている。
「……言われてみればそうですね」
そう言いながらも、僕はひかりちゃんを解放しない。申し訳ないが、ひかりちゃんにはまだ盾として、それに交渉の道具として役に立ってもらわなければならない。
……ああそれにしても……痛い。右肩の怪我は、普通にしているだけで全身がズキズキ痛む。にもかかわらずかなり長い時間腕に力を込めているため、ほとんど限界まできている。あまりの激痛に意識が途切れそうだ。
……くそ……っ! 心の奥底から絶望が湧き上がってくるのを感じる。どうする……どうすればいい? どうするのが最良だ? 選択肢は、ある。出来ることはまだある筈だ。だが……どれが、どれを選ぶのが、最も良い――いや、最も悪くない結果に繋がる……?
「……深春。こうなったらお前だけでも逃げろ」
と、僕はためしに、とてもかっこいいことを言ってみた。
「駄目だよ。扉が閉まってるからボクには出られないもん。……それに」
深春は何故か、僕に向かって微笑み。そして、何の躊躇《ためら》いもなく言い切った。
「――ボクが悠紀を見捨てて行けるわけないじゃない。そんなことをするくらいなら、死んだほうがマシだよ」
「――!」
……くそっ、嬉しいことを言ってくれる。不覚にも、感動しそうになってしまった。
そんな僕と深春の三文芝居を見て、黒違和はひどく楽しげに、
「ああ美しい愛情だねえ。ひかりちゃんの立場がまったくないような気もするけど」
……見るとひかりちゃんは、僕の腕の中でものすごく不機嫌そうな顔をしていた。
「……ま、所詮サブヒロインってことで」
「サ、サブって……。……う、うぅ〜……先輩、さっきから酷すぎますよう……」
……あ、どうもマジ泣きっぽいなこれ……。僕は慌てて取り繕う。
「う、嘘だって。君こそメインヒロインさ! 好き好き好き好き好き好き愛してる!」
「私の目を見て言ってください!」
「愛してるよ」
「ああーっ! その目は嘘を吐いている目です! も、もう騙されませんよ!」
……どうしろっちゅーんだ。
「や、やっぱり愛してないんですね、私なんて所詮は先輩に遊ばれるだけ遊ばれて最後には捨てられるただの当て馬役なんですね!?」
「…………」
「ひ、否定してくださいよおっ!」
「だーッ! 今はそれどころじゃないだろ! いい加減にしないと怒るぞほんとに!」
ややキツめの調子で叱りつけると、ひかりちゃんは雷に打たれたような表情をした。それから「ご、ごめんなさい……だから嫌いにならないでください……」と小さく呟き、しゅんとしてうなだれた。
……意外と素直に大人しくなったな。もっと手こずると思ったけど。……まあいいや。ひかりちゃんが大人しくなったところで、状況はまだ何も改善されていない。腕の痛みもさらに激しくなっている。あまりに痛くて、まともに思考が働かない。痛がってる暇があったら……考えなければいけないのに。……くそっ。
……とりあえず、痛みを紛らわす意味も兼ねて、僕は思いついたことを口にしてみる。
「……黒違和さん、こういうのはどうでしょう」
「どういうのだい?」
「僕と黒違和さんが、何か一対一で勝負をするんです。僕が勝ったら、黙って立ち去る。黒違和さんが勝ったら、僕たちを好きなようにしていい」
……急場の思いつきだけあって、なんてくだらないたわ言だ。プロのテロリスト相手に一体どんな勝負をする気なんだ。
しかし意外なことに、黒違和は「ほう……?」と食いついてきた。……娯楽に飢えているタイプだとは思っていたけど、正直驚いた。
「勝負ってのは何の勝負だい? モノによっては考えてもいいぜ」
そう言って黒違和は、なんと――構えていた銃をおろした。
「あの……本気ですか?」
僕が当惑して尋ねると、黒違和は苦笑し、
「おいおい少年、君が言い出したことだろう」
「……そりゃそうですけど」
「信じられないかい? さっきも言ったけど、俺は君が気に入ったんだよ。正々堂々戦って負けたなら、俺だって男だ、潔く君を見逃し、指名手配でもなんでもされてやるさ」
これ以上ないくらい真剣な目をして、黒違和は言い切った。
「……嘘じゃ……ないですよね」
「誓おう。俺は、これまでに一度も約束を破ったことがないのが自慢なんだ。俺たちの業界じゃ、約束違反は即、死につながるからね。こういう芝居じみた台詞はあんまり好きじゃないんだが……これは、男と男の神聖な約束だ」
……僕は思った。今の黒違和の顔は、卑劣なテロリストのものなんかじゃない。僕のことを対等な敵だと認め、決闘を望む、高潔なサムライの顔だ。
「……分かりました。なら、勝負です」
僕も腹をくくり、押し殺した声で告げた。
「では、勝負の内容を決めよう。君と俺が対等の条件で戦えるもの、なにかあるかな?」
「じゃんけん」
「却下」
「ですよねえ」
……かといってガチでの殴り合いとかじゃ、一般人に毛が生えた程度の体術しか使えない僕に勝ち目はないし……。
「……クイズ大会」
「悪いが、俺は中学もロクに出てないんでね」
「ならしりとり大会」
「……少年。ひょっとして、俺を馬鹿にしてるのかい? 真剣な空気に水を差すような真似はやめてくれないか」
「すいません」
怖かったので僕は素直に謝った。
「だったら――――」
すぅ、と息を吸い、呼吸を整える。
「――ロシアンルーレットなんてどうでしょう?」
銃に弾を何発か込めて、交代で自分のこめかみに銃口をあてて引き金を引くアレである。黒違和の手にしている銃が視界に入って安直に思いついてしまったゲームだが、しかし、まさに命がかかっているこの状況にこれほど相応しいものはないだろう。
「ちょ、ゆ、悠紀!?」
僕の言葉に、深春が慌てた声を上げた。黒違和は少し目を細め、
「……正気かい? 少年。……ひょっとして、銃を奪うためにそんな提案をしているんじゃないだろうね?」
「見くびらないでください。……たしかに、騙し討ちを企《たくら》むような人間が言ったところで説得力がないかもしれませんけど……僕は――本気です」
黒違和の目を正面から見据え、少し鋭い声で僕は言った。続けて、
「……それに、素人の僕が銃を手にしたところで、他人を狙って撃つなんてまず不可能ですから。肩の怪我も限界にきてますし。……だからせいぜい、至近距離で自分の頭を撃ち抜くくらいしか出来ませんよ」
「……ふむ……たしかに……。となるとやはり、本気ってことか……」
「はい」
僕は真剣な顔で重々しく頷いた。
「……なるほど。君の覚悟は解ったよ、疑って悪かった。……ならば少年。この勝負、受けて立とうじゃないか。まさか自分も命をかけることになるとは思わなかったけど……やっぱり真剣勝負ってのは、公平な条件でないといけないよな」
そう言って黒違和は、銃を床に置き、それを僕の方に蹴ってよこした。
「君を信じて、セットは君に任せよう。弾はたしか、あと三発入ってると思う。数を減らすなり、好きにするといい」
「……分かりました。……ひかりちゃん、もういいよ。これからは僕と黒違和さんの戦いだ。悪かったね」
謝って、僕は左腕の力を緩めた。ひかりちゃんは顔を俯けて僕の腕から離れ、僕とは顔を合わせずそそくさと後ろへさがった。
そして僕は、足下に転がる銃に手を伸ばす。もしかしたら黒違和がこの隙に飛びかかってくるのではないかと、少し警戒していたのだが、そんな様子はなかった。……やはり、本気のようだ。駄目サラリーマンだなんて言って悪かった。この人は、漢《おとこ》だ。
……銃を拾う。黒光りするリボルバータイプの拳銃で、三十八口径で砲身は四インチくらい。……う……話には聞くけど、本物の銃ってやっぱり重いんだな……。モデルガンとはえらい違いだ。それとも、怪我をしているからそう感じるだけなのか?
……どちらにせよ、さっき自分で言った通り、これを撃って黒違和に当てるのは不可能だろう。つまり、やはりこの勝負に勝つしか、僕の生き残る道はないということだ。
すぅ――――と、深呼吸をして……僕は、覚悟を決めた。
「……弾は一発でいいですか?」
「ああ」
黒違和が軽く頷いた。
……まず、弾倉から弾を取り出す。黒違和が言ったとおり、弾は三つ入っていた。……これが、ゴーストさえも殺してしまう弾丸……。ごく普通の鉄砲の弾(もっとも、普通の鉄砲の弾というのがどういうものかはよく知らないのだが)にしか見えない。黒っぽい光沢がある、見たところ鉛の弾だ。こんなもので――人が死ぬ。
二発の弾を無造作に床に捨てる。
……ああ……体が震える……右腕の痛みが体中を蝕んでいるかのような感覚、思うように手が動いてくれない……一つだけ残った弾を……そっと銃に近づけ――震えを無理に殺し――隣で心配そうな顔の深春、黒違和は何も言わず僕を見ている、目が合う――――目を逸らさないまま銃を見ずに――きっと、勝負は既に始まっているのだ――――弾を入れて――……よし、上手く入った。
最後にシリンダーをシュルッと回してセット完了。
「……それにしても、ロシアンルーレットかあ……。映画とかで見て、一度はやってみたいと思っていたゲームではあるけどね」
「……実は僕もなんです」
二人して軽く笑みを浮かべた。ただしその内心はまったく笑ってないけれど。
「さて、それじゃあどっちからやる?」
黒違和の言葉に、少し考えたあと、「それじゃあなたからお先にどうぞ――」と僕は言おうとした。しかしそのとき、
「待ってください」
ひかりちゃんが僕の右腕を掴んでそう言った。
「……ひかりちゃん、悪いけど、邪魔しないでくれないか」
少し苛立って僕は彼女の手を振り解こうとした。しかし、放さない。それどころか、なんとひかりちゃんは、僕から強引に拳銃を奪ったではないか。
「あっ! なにをするんだ!」
怒鳴る僕に、ひかりちゃんは、さらに驚くべき言葉を口にした。
「……わ、私が……代わりにやります。……ロシアンルーレットを」
これには僕も黒違和も深春も驚愕した。
「な、なに言ってるのひかりちゃん?」
「そうそう。ひかりちゃんは大人しく見てればいい。これは僕の勝負だ。それに、ひかりちゃんに代わってもらっても、黒違和さんは納得しないだろうし」
黒違和は無言で頷いた。
「違います!」
ひかりちゃんが声を荒らげた。
「違う……?」
「……ええ。私は、先輩の代わりにやるんじゃありません。私は……黒違和さんの代役として、先輩と勝負をします」
「はあっ!?」
寝耳に水の提案に、黒違和は間抜けな声を上げた。ひかりちゃんはそんな彼に向かって、
「……お願いです。私と代わってください。だって私はこの勝負の〔景品〕なんでしょう? 負けたら手に入らなくなるんだから……だったら私自身が代役として勝負をしても問題はないはずです」
「……むう、そりゃまあ、そうなんだけど」
黒違和は困った顔をして僕とひかりちゃんを交互に見た。僕は、
「……ひかりちゃん、どういうつもりだ。自分が何を言ってるのか分かってるのか? ロシアンルーレットってのはその……あれだよ? 自分で自分に銃を突きつけて引き金を引くんだよ? 負けるってのは……死ぬってことなんだよ?」
……あー、〔死ぬ〕と初めて明確に言葉にして、自分で怖くなってきた。
「ええ、もちろん分かってますよ」
しかしひかりちゃんは、あろうことか微笑んだ。そして、まるっきり話の流れとは関係のないことを言った。
「私は先輩が好きです。大好きです。こんなにも人を好きになったことなんて、今までに一度もありません。愛してます」
「……はあ。それで?」
戸惑い半分の冷たい声で僕が問うと、ひかりちゃんの顔から表情が消えた。いや、表情そのものは薄笑みを浮かべたままなのだが、それなのにどこかトウメイというか、生気がないような、不思議な無表情だ。
「先輩、愛する人と一つになる方法って分かりますか?」
「ベッドの上でプロレスごっこ」
即答した僕の答えを聞いているのかいないのか、ひかりちゃんは続ける。
「それはですね、どちらか片方が死ぬことだと私は思うんです。どちらかが死ねば、残された人の中にその人の影がいつまでも残り続ける。それは――本当の意味で二人が結ばれるってことじゃないでしょうか? だからこれは、またとないチャンスなんです。この勝負では、どちらか片方が必ず死んでしまいます。つまり――」
「あー、悪いけどさ」いつになく饒舌《じょうぜつ》なひかりちゃんの言葉を遮る。「それって、僕がひかりちゃんのことをその……あ、愛してるってのが前提だろ? 言っとくけど、僕は君が死んでも多分そんなに心を痛めないと思うよ」
「先輩は口ばっかりです」
ひかりちゃんは断定した。僕の心を見透かすような、不愉快な微笑を浮かべて。
「この勝負に勝つということは、先輩が相手を殺すということと同じです。私には分かります、先輩は、もしも自分が人を殺してしまったら、そのことを絶対に忘れません。後悔や罪悪感とはちょっと違うかもしれませんけど、どこまでもどこまでもその人の死を引きずります。深春さんが事故で死んだときのことを、自分の責任でもないのに、しかも深春さんはゴーストになったにもかかわらず引きずっているのと同じように。……先輩は絶対に、〔起こってしまったこと〕を自分以外の誰かや何かのせいにしたりしないから」
「…………」
指摘され、僕は言葉に詰まる。ひかりちゃんはさらにたたみかける。
「迷惑かけてごめんなさい先輩。自分でも馬鹿なことをしてるって思います。……でも、こうでもしなきゃ、私は先輩の一番にはなれないんです。結局、口で何を言っても先輩は深春さんが一番大事なんでしょう? 私を引き渡す代わりに見逃すっていう交渉をしたときも、隙があれば黒違和さんから銃を奪うつもりだったって言いましたけど……じゃあ、隙がなかったらどうするつもりだったんですか? ……先輩はきっと、そのまま私を見捨てていたんでしょうね。無駄な抵抗をして深春さんもろとも死んじゃうより、私一人を犠牲にしていたと思います」
「そんなこと……!」
「いいんです。責めてるわけじゃないんです。先輩は……そういう決断が出来る人です。諦めるという決定が出来る人です。出来ることは全部やる、助けられる人は全力で助けるけど、出来ないことはやらない、助けられない人は助けない人です。……私は……そんな先輩が好きです」
ひかりちゃんは、どことなくうっとりしたような表情で微笑んだ。
……くそ……なんだこの苛立ちは。反吐《へど》が出る。ああなんかもうマジでムカついてきたぞこの小娘。勝手に人のことを決めつけやがって。死ぬことで心の中で永遠に生きるとかたわけたことをほざくデンパ女のイタタな妄想に付き合ってられるかよ。お前なんかが死んだって悲しいわけあるか、なんてうざったい奴だ。この小娘、深春が可愛く思えるくらいのとんでもないトラブルメーカーだ。死んでも災いの種がなくなってせいせいするだけだろうさ。ああ、そこまで言うならやってやるよ。いいだろう、殺し合ってやるさ。おかげで吹っ切れた。君を殺す覚悟が出来たよ。紀史元ひかりちゃん。〔墓穴掘り人形〕の名にかけて(……いやべつに、こんな不名誉な二つ名なんて心底どうでもいいんだけど他に賭《か》けるものもないし)…………君を、墓穴《はかあな》に叩き落としてやろうじゃないか。
「……黒違和さん。申し訳ないですけど、ひかりちゃんと代わってもらえませんか」
抑揚を抑えた声で僕が頼むと、黒違和は嘆息し、
「……テロリストの俺が言うのもなんだが……君たち、イカレてるなあ……。ひょっとして最近の若い子はみんなこうなのかい?」
「そうです」
「……なるほど。時代は変わったんだなあ……。俺ももう若くないねえ」
お手上げだ、と黒違和は入り口の扉を閉め、腕組みしてそこにもたれかかった。選手交代を認めたのだ。
そして、僕とひかりちゃんの対決が始まった。
「さて、それじゃあどっちから先にやる?」
僕が尋ねると、「先輩が決めてください」という返事。その声には恐怖も動揺も見受けられない。くそ……こっちは緊張で手に汗がびっしょりだっていうのに。
「……レディーファーストでひかりちゃんからどうぞ」
……我ながら情けない。さっきまでの勇ましい覚悟はどこへ行ってしまったのか。だが、そもそも覚悟ってのは恐怖を感じながらそれでも進んでいくために必要なものであって、つまり恐怖を感じていることと覚悟を決めていることはまったく矛盾しないのだ。……はい、自己弁護終わり。
「ふふ、分かりました。それじゃ、私からやりますね」
僕の内心を見透かすように笑ったあと、ひかりちゃんは、先ほど僕から奪ったまま手に持っていた拳銃を、まったく自然に、まるで「あら、こんなところに枝毛があるわ」くらいの無造作な仕草で銃口をこめかみへと当てた。
最初の一回。弾が出てくる確率は六分の一で、勝負の流れ上、もっとも安全な回だと言える。……しかしそれでも、この回で勝負がつく――つまり弾が発射されて自分のアタマをぶち抜き、勝負が終わる、命が終わる、全てが終わってしまう可能性だって十分にある。最初の引き金は、助かる確率が高いとか、そんな打算とは関係ナシに、恐らくゲーム中でもっとも重い引き金となるだろう。なる筈なのだ。ならなくてはならないのだ。すさまじいまでの重圧がのしかかって、結局引き金を引けずに敗北を宣言してしまってもまったく不思議ではない筈だ。それなのに、それなのにひかりちゃんは、
「――いきます」
六分の一、たしか月の重力って地球の六分の一だったよなあなんてまったく関係なくてどうでもいいことをふと思った僕の目の前で、ひかりちゃんは銃の引き金をまるで月の地面で飛び跳ねるかのような軽さで引いた。
………………――――――カチャ、
そんな音が、シンと静まり返った部屋――僕とひかりちゃんの〔戦場〕に響いた。
……弾は、出なかった。
「ふう――……」
長い長いため息を、僕は吐いた。
「あれ、どうしたんですか先輩。なんだかホッとした顔をしてますよ?」
首を少し傾け、怪訝そうにひかりちゃんが言った。
「え……?」
指摘されて初めて気づく。確かに僕は、弾が出なかったことに――ひかりちゃんが死ななかったことにホッとしていた。もしもこの最初の一回で弾が出ていれば、勝負は僕の勝ちだったというのに。命が助かったというのに。正直、弾が出ることを神に祈るくらい切望したというのに。それでも僕は、弾が出なかったことに安堵《あんど》したのだ……。
「次は先輩の番です」
ひかりちゃんが銃を僕に差し出す。
「……あれ、先輩、震えてませんか?」
悪戯っぽく微笑むひかりちゃん。
「はは、まさか。肩の怪我が痛むだけさ」
銃を受け取る。怪我なんて、もうほとんど気にならない。こんな短期間で銃で撃たれた傷が治るわけがないけれど、不思議と痛くない。正確には、気にならない。痛いはずなのに。この傷は、ものすごく痛いはずなのに……!
「それじゃ先輩、気合いを入れてどうぞ」
「悠紀……!」
深春の押し殺したような悲鳴。
心臓の鼓動がどんどん激しくなっていくのが分かる。怖い。すごく怖い。震える右手で握った銃を、ゆっくり上へと持っていく。こめかみに当たる、冷たい鉄のカタマリの感触。人差し指が引き金に触れる。僕はぶつぶつと自分に言い聞かせる。
「ふう……。落ち着け――久遠悠紀。確率は五分の一だ……。大丈夫、大丈夫、大丈夫、弾なんて出ないさ、絶対に大丈夫だ。だってパーセントで表示すると二〇パーセントだぜ? ほら、ゲームでもそんな命中率じゃまず攻撃はヒットしないだろ? ああでも二〇パーセントって言ったら死人がゴーストになる割合の二倍、消費税の実に四倍なんだよなあ……。ゴーストなんて今じゃ珍しくもなんともないし、消費税って少ない財政をやりくりするためにはかなりの重荷になるし、つまり二〇パーセントってのは恐ろしく高い数字だってことか、もしも失業率が二〇パーセントだったら日本経済はもう救いようが無いくらいどん底ってことになるし。いやいや待て待て、そんな悲観的に考えてどうする。二〇パーセントだぜ? 高卒の就職率七〇パーセントとかでもマスコミじゃ『非常に低い就職率』とか言ってんだ、二〇パーセントなんてもう、ほとんど就職できる奴なんていないのと同じ、奇跡にも等しい、ゼロにも等しい感じがしないか? おし、大丈夫、大丈夫、大丈夫――ああ、でもなあ…………」
「早くしてくださいよ先輩」
ひかりちゃんのからかうような声。それがひどく僕を苛立たせる。
……くそっ。……僕はもう二度と――この娘には負けたくない。……そうだ、よく考えると、ひかりちゃんと対決するのはこれで二度目ということになるのだ。一度目は三日前のあの修羅場。あれは完膚なきまでに負け戦だった。あそこでひかりちゃんに負けたからこそ、僕は今こんな目にあっていると言っていい。
……だったら……今度こそ、負けるわけにはいかない。もう二度と、こんな死にたがりの小娘なんかに負けるわけにはいかないんだ。くだらないトラブルの連鎖を、今日ここで断ち切ってやる。
この引き金を引き――――僕は、勝ってやる。勝ってやるぞ!
緊張で感覚がほとんど麻痺している右手人差し指に全神経を集中、大丈夫、
「いのちをだいじにっ!!」
目を瞑り、ほとんど悲鳴のような情けない絶叫とともに、僕は引き金を引いた。
かちっ
絶叫にかき消され、あまりにも軽いこの音が聞こえたのは、耳元で聞いた僕だけだっただろう。
弾は――――出なかった。
「助かったあ……」
気の抜けた安堵の声を漏らす。ひかりちゃんはそんな僕に微苦笑を浮かべ、
「先輩、安心するのはまだ早いですよ。勝負はこれからなんですから」
……くそっ、そうだった。まだお互い、一回ずつ引き金を引いただけ。つまり本当の戦いは――これからだ。ああ嫌だなあ……。
「さ、先輩。銃を渡してください」
「あ、ああ……」
言われるまま、僕はひかりちゃんに銃を差し出し――ふと、口を開いた。
「……ひかりちゃん。一つ訊いていいかな」
「はい?」
すごく不思議に思っていたその疑問を、僕は問いかける。
「君は――――死ぬのが怖くないの?」
「え?」とひかりちゃんは首をかしげた。……質問の意味が分からなかったというわけではなく、どちらかというと、「どうしてそんな当たり前のことを訊くのかさっぱり理解できない」といった様子だった。
「怖くないですよ?」
平然と、本気で、ひかりちゃんはそう答えた。
「私、小さい頃から霊感が強かったって前にお話ししましたよね? 幽霊の姿自体は見えませんでしたけど、でもたしかに、すぐそばに存在していたんですよ。普通の人の目に見えない世界って。そこはとても冷たくて――でも、きっとすごく居心地のいいところなんです。誰も私のことを馬鹿にしたりしないし、失敗しても怒ったりしないし、いじめたりしない。お父さんとお母さんに食事もなしで暗いところに閉じ込められてるとき、特にそう思いました。真っ暗な世界だけど、そのすぐ隣にはいつも何かがいてくれる、だから一人でも寂しくなんてなかったんですよ」
陰惨な話を、まるで歌うように話すひかりちゃん。
「……私にとって、生と死にそれほど大した違いはないんです。死なんて、ちょっと足を踏み出すだけで、ちょっと深く手首にナイフを入れるだけで、簡単に行けちゃう別の世界なんですよ。ゴーストなんてものが一般化するずっと前から、そうだったんです」
酷く虚《うつ》ろな表情で笑い、
「――だから、こんなことは全然、どうってことないんですよ」
無造作に引き金を引いた。
……――――かちっ
またしても弾は出なかった。拳銃はひかりちゃんの頭を食い破る牙《きば》を吐き出さなかった。
「えへへ……残念でしたね、先輩。まだ私、生きちゃってるみたいです」
本気で少し残念そうにひかりちゃんは言った。
「……さ、また先輩の番ですよ。確率は三分の一ですね。ふふ、怖いですね」
銃が差し出される。
「…………」
僕は、銃を取らず、それを持つひかりちゃんの手首のあたりを左手で握った。
「な、なにするんですか……?」
戸惑う声を上げるひかりちゃんを無視し、僕はその手首に巻かれた白いリボンを右手で乱暴に剥ぎ取った。
「や……っ!」
短い悲鳴とともに、ひかりちゃんの手首に刻まれた、蚯蚓腫《みみずば》れのような無数の裂傷――リストカット痕《あと》があらわになる。僕はそれを――ひどく冷たい目で見つめた。
「み、見ないでください先輩。こんな……汚いの」
確かに、醜い。白い肌の上に幾重にも刻まれた傷跡。まるで何かの生物が這ったあとのように黒っぽい赤に膨れ上がった何本ものイビツな線。
「……ふん」
めいっぱいの嘲《あざけ》りを込めて、僕は小さく笑みをこぼし、拳銃を奪うように手に取った。
「な、なんなんですか先輩! 何がおかしいんですか」
怒りつつも戸惑いながら、ひかりちゃんは急いでリボンを巻いて傷跡を隠す。
「……楽しいかい?」
ぽつりと問いかけた僕に、ひかりちゃんはますます困惑を強める。
「楽しいかいひかりちゃん。自分の手首を自分で切り刻むのは。……ああ、そりゃ楽しいんだろうねえ。生と死の境界を行ったり来たりする――少なくとも、そのつもりになれるってのはさ」
小馬鹿にした笑みを浮かべる僕。ひかりちゃんは不愉快そうに顔をしかめ、
「……どういう意味ですか」
「呆れてるところだよ。あまりの君の薄っぺらさにね。ちょっと深くナイフを入れるだけで簡単に行ける別の世界だって? ハッ、笑わせんなよ」
ぎり、と頬が裂けるくらいの嘲笑を浮かべ、
「だったら――どうして君はまだ生きてるんだ!」
僕は怒鳴った。張り裂けるほどの大声で怒鳴った。
「……っ!」
ひかりちゃんが驚いてすくみ上がる。そんな彼女を、僕はあらん限りの敵意と憎悪を込めた視線で睨みつける。
僕は今、珍しくすごく怒っていた。キレていると言っても過言ではない。ここまで本気で誰かに対して怒りを覚えたのは、生まれて初めてのような気さえする。
「簡単に行けるならとっとと逝《い》けばいいだろうが! ちょっと深く? そのちょっとさえ出来なかったから今もまだ生きてるんだろ! 死にたければ一人でさっさと死ねばいいのに、今までずっとのうのうと生きてきたのは誰だ! 答えろよ紀史元ひかり!」
「そ、それは――」
「うるせえ黙ってろ! 君の声なんて聞くだけで虫唾《むしず》が走る! 君は死ぬのが怖くないんじゃない! 怖くないフリを――死ぬってことがどういうことなのか解らないフリをしてるだけだ! 本当は誰よりも死ぬのが怖いんだろ!? 本当は死ぬ覚悟なんてこれっぽちもないくせに! 学校の屋上から飛び降りようとしてたときもそうだ! どうせ心の中では誰かが来てくれるのを待ってたんだろ!? 待ってれば誰かが止めてくれると思ってたんだろう!? 飛び降り自殺なんて安っぽいアピールをして誰かに自分の存在を認めて欲しかっただけだろうが! 誰かに相手にして欲しいなら、相手にされるだけの価値がある人間になるしかないんだよ! 甘えてんじゃねえ! ふざけんなよくそったれ! 何が死ぬことなんて怖くないだ、生きていく覚悟もない奴に、死ぬことを望む権利なんてありゃしないんだよ! 世の中ナメるのもたいがいにしろゴミ虫が! 駄人間は駄人間らしく人様に迷惑かけないよう大人しく細々とミジメに世界の底辺を這いずり回ってりゃいいんだよ!」
……はぁ、はぁ…………。
久々に感情的に叫んだのでかなり疲れた。息が切れている。
……ったく、どうして僕がこんな安っぽい説教なんて垂れなきゃいけないんだ。こんなのは学校のセンセイや親の役目だってのに。ていうか……誰かに言われんでも自分で気付いとけこれくらい。なんだか今日は、分不相応な役回りを演じてばっかりだな僕……。
「……せ、先輩だって……」
顔を俯け、肩を震わせてひかりちゃんが呟く声が聞こえた。
「ん?」
ひかりちゃんは顔を上げてキッと僕を睨みつけ、
「先輩だってそうじゃないですか! 状況に流されてるだけじゃないですか! いつもいつもへらへら笑って、全然本気で真剣に生きてないじゃないですか! その場しのぎの嘘ばっかり言って、考えてるフリしながら行き当たりばったりで行動して墓穴掘って、自業自得じゃないですか! ……そんな人に……お説教なんてされたくありませんっ!」
なるほど。耳の痛い指摘だ。実に正しい。
「……ふん。そりゃまあ、ごもっともな意見だね」
自嘲気味に僕は言った。
「でも僕は――君とは違う。違ってみせる。君なんかと同じでたまるかよ……!」
吐き捨てて、僕は銃口を乱暴に自分のこめかみへと突き立てた。
そのとき。
「悠紀ッ! もうやめてよ! そんなことしないでよ!」
深春が悲鳴を上げた。黒違和の前に進み出て、
「テロリストのおじさん! お願いだから悠紀だけは助けてよ! ボクはどうなってもいいから! 一生のお願いだからさあ!」
懸命《イノチガケ》な命乞《いのちご》い。僕のための。それは、非情なテロリストの心さえも揺るがすものなのか――黒違和が、顔に逡巡《しゅんじゅん》の色を浮かべた。
だが、僕は。
「……深春、やめろ」
「悠紀……!?」
「……これは、僕とひかりちゃんの勝負だ。邪魔するな」
深春の顔に絶望が浮かぶ。僕はそんな深春に――――微笑んだ。たぶん、長い付き合いだが、こんな風に優しく笑いかけるのは初めてのような気がする。
そして僕は深春に告げる。
「深春、僕は――お前が好きだよ」
心から、そう思った。腐れ縁の幼なじみにして恋人、稀代《きだい》のトラブルメーカー。そんな深春のことを、僕はここにきてようやく、本気で好きになった。あのとき死んだ、僕の心の中にいた虚像の深春じゃない。今僕の目の前でたしかに生きている、本物の深春に、僕はようやく、恋をした。
「……だからこそ、僕はここでこの勝負から逃げるわけにはいかない。死んでも逃げたくない。馬鹿な後輩に思い知らせてやらなきゃいけないんだ。僕はひかりちゃんとは違うってことを。……生きてるってのが、どういうことなのかを――ね」
口元を無理矢理歪め、イビツに嗤《わら》う。
「さてと、それじゃあ――――墓を掘ろうか」
墓を掘ろう。
死ぬことからも生きることからも逃げ続けてきた少女のために。
流れに任せるまま、世界の全てに対して不誠実に生きてきた嘘吐きのために。
僕とひかりちゃん、どちらが勝とうが負けようが、少なくともそこで、一つの物語が墓穴に叩き込まれる。この僕が、叩き込む。
僕は再度、こめかみに銃口を突きつけた。
途端、身体が震え出すのを自覚する。冷たい銃口。たとえ弾が入っていなかったとしても、この無機的な感触に恐怖を感じないでいられる人間は少ないだろう。無論この僕とて例外ではなく、冷や汗が全身から滝のように噴き出す。
「……ああ、やっぱり怖いなあ……」
引きつった笑みを浮かべて言った僕を、ひかりちゃんは無表情で見つめる。
「…………」
沈黙。ひかりちゃんと深春、それに黒違和の視線が僕に集中している。
……弾が出てくる確率は三分の一。パーセントに直すと三が無限に並ぶ無理数が出てきてしまう。三分の一に三を掛けたら一になるのに、この無理数に三を掛けても一〇〇パーセントにはならず九が無限に並ぶ無理数が出てくるだけなのは何故なんだろう。九九・九九九九……(略)パーセントと一の境界にある極少の数字、存在の確定と不確定、有限と無限、有象と無象の境界線上にあるこの数は一体この世界のどこに存在するのだろうか。たしかこれを僕が疑問に思ったのは、小学校で初めて分数と小数を習ったときのような気がする。授業のあと担任の先生に僕がそれを尋ねると、彼女はその謎を懇切《こんせつ》丁寧に教えてくれた。しかし残念ながら当時小学生だった僕にはそもそも無理数という概念が理解できなかったので、説明を聞いてもチンプンカンプンだった。全体どうして、たしかに存在しているはずなのに明確に表現できない数なんてものが有り得るのか。すごく気持ちが悪かった。さっぱり解らない、小学生の頭脳にも解るように説明しろと言った僕に、先生はにこやかに微笑み、「一と〇・九九九九九…………以下略、の狭間《はざま》にある極少の数字は愛で出来ているのよ。だから目には見えないの」と諭《さと》すように言った(ちなみにそのあとさらに「愛って何?」と尋ねたところ、先生は何故かいきなり服を脱ぎ捨てて「こういうことよ!」と奇声を上げて襲い掛かってきた。久遠悠紀、小学四年生のトラウマ。それ以来、僕はおっぱいが大きい女の人が苦手です)。……今も僕は、その極少でありしかし無限でもある不可思議な数の正体を知らない。数学が得意な人間にでも訊けばすぐに答えを教えてくれて、今の僕ならば理解できるのかもしれないけれど、一度も尋ねたことはない。何故なら僕は、自分の中でその答えを既に見つけてしまったから。きっとそれは、ゴーストのような存在なのだ。目の前に存在していながらどこにも存在し得ない絶対矛盾。世界の摂理から外れてしまった特異存在。生と死の境界線上にある抽象概念。ゴーストの正体を解き明かそうとするのは、分数と無理数を同列に捉《とら》えることと同じくらい無意味で愚かで安直だ。つまり答えは、〔分からないことは、分からなくてもいい〕。思考停止? 違う。これはそう――現実の是認なのだ。生きていくために必要なことなのだと、そう思った。今でもそう思う。――そして僕は、諦めるということを覚えた。不誠実であることを覚えてしまった。自分のことが嫌いだった僕は、きっとあのとき、嫌いなままの自分を肯定してしまったのだと思う。……さて、つまらない思い出話はこれぐらいにしておこうか。ていうかそもそもどうしてこんな話になったのだろう、ああそうか、確率三分の一か。三回引き金を引いたら一回は弾が出てくる。その一回というのがこの回だった場合、僕は死ぬ。自分で自分の頭を撃ち抜いて死ぬ。死ぬ。死ぬ! 怖い。がち、がち、がち、がちがちがちがちがちがちがちがちがちがちがち――……煩《うるさ》いな一体何の音だ、ああそうか、これは僕の歯が鳴っている音か。震えているんだ、僕は今、静まれ、静まれ、震えるな。震えよ止まれ、顔面はきっと蒼白になっていることだろう、怖い。震えるな、さっさとその引き金を引くんだ、駄目だ、震えが止まらない、それどころかますます酷くなっている。足がガクガクと、もう立っていることさえ困難なくらい震えまくっている。銃を握る手だって同じだ。銃口を強く押し当てて固定し、手の震えだけはどうにか止める。あれ、そのとき僕の頬に温かいものが伝った。これは……涙? なんだ、なんだよ僕、震えだけじゃ飽き足らず、ついに泣き出しちまったよ、おいおい久遠悠紀……ひかりちゃんに説教垂れるだけ垂れといて、こいつはまたずいぶんとブザマな姿じゃないか。ああ情けない、自己嫌悪と単純恐怖の相乗効果で涙があとからあとから溢れ出てくる、鼻水もだ。じゅるり、とすする。ああくそ、マジで怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い! 小便ちびりそうだ。「死にたくない……」ついに嗚咽《おえつ》混じりの声が漏れてしまった。ああ情けねえなあ……。しかし声はほとんど自動的にあとからあとからこぼれ出す。『死にたくない』、ただ、この一言のみを掠れた声でうわごとのように繰り返す。「死にたくない……、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない……! 駄目だ、こんな引き金、僕には引けないよぉ……うぅ……くそっ、情けねえ……なざげねえ…………あぅ、うぅぅ……畜生、畜生、畜生、駄目なんだよ、どうせ僕は駄目なんだよ……出来るわけないじゃないかこんなの、こんなのイカレてるだろどう考えたって、おかしいよ、なんで僕はこんなところにいるんだよ、ああっもうやめだやめだ! くそっくそっくそっどうして僕ばっかこんな目に畜生、僕がいったい何をしたって言うんだ……結構色々やったっけ、墓穴掘るような真似ばかり、くそ、くそ、くそっ、クソクソクソクソクソクソクソクソ糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞ッ! ああもうこんな銃なんて捨ててや、るぇ、えぁ、あれ、あ……ゆ、ゆ、指が、な、なんか……動かないんですけど……いや、動かないっていうか、あ、あら? や、やば、どうして、こんなにも、指が、震えてるんだ、お、おい、おいおいおい、こ、これじゃ、いつ間違って引き金を引いてしまってもおかしくな―――あっ」
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かちゃっ
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緊張で随意筋が弛緩してしまった人差し指が、僕の意思によるコントロールを受け付けずに、こめかみに当てられた銃の、そのあまりにも軽い引き金を引いてしまったのだ。
微かに聞こえたオモチャみたいに間抜けな音の通り、弾は、出なかった。
「や、やったあ…………」
心の底からの安堵の声。僕のではなく、深春の。僕はというと、ほとんど放心した状態で、なおも震えの止まらない右手で持った銃をまじまじと見つめている。
「助かった……」と僕が口にする前に、手から銃が奪われた。奪ったのは無論――
「…………これで……確率は五〇パーセント、ですね。これが最後の一回……」
ひかりちゃんは、黒光りする拳銃だけを見つめながら、誰にともなく呟く。
先ほどとはうって変わった、掠れた声、緊張を滲ませた声音で。
……ひかりちゃんが、ここにきてようやく恐怖を感じている。それは多分、僕の情けなくブザマな姿から、恐怖が――死にたくない、生きたいという渇望が――伝染したからだろう。……ふん。だったら、あの醜態《しゅうたい》も無駄ではなかったというわけか。
「ひかりちゃん、もうやめなよ。死んじゃうよ?」
深春が気遣わしげに言った。しかしひかりちゃんは、半ばムキになってかぶりを振り、
「い、いいえ! やります……絶対に……負けません。死んでも負けません……!」
駄々っ子のように目に涙を浮かべ、ひかりちゃんはこめかみに銃口を突きつけた。これで弾が出れば、ひかりちゃんは死ぬ。発射されなければひかりちゃんの勝ち――僕の負け。僕は一〇〇パーセント発射される拳銃で自分の頭を撃ち抜くしかなくなる。それはもう勝負ではなく――ただの自殺だ。
ひかりちゃんは熱にうかされたように独り言を述べる。
「……大丈夫……か、確率は二分の一、大丈夫です……。それに死ぬことなんて怖くない、怖くないんです……先輩みたいな大ウソツキの言うことなんて気にしちゃ駄目……大丈夫、大丈夫、大丈夫、こ、こ、怖くなんか、ないもん……生きてたってしょうがないもん……! 私は、本当に、早く死にたいんだもん……こ、こんな世界に、一秒だって未練なんかないんだから……!」
唇をかみ締め、目をぎゅっと瞑り。ひかりちゃんは引き金に指をかけた。
「い、いきます……ッ!」
僕も思わず目を瞑った。永劫にも感じられる一瞬の静寂、そして、
―――――――――――――――かちゃっ
そんな、微かな音。
この部屋でこれまでに四回繰り返された音が、やけに大きく――――。
五〇パーセントの確率で弾丸を吐き出す筈の銃は、またしても火を噴かなかった。
「……あーあ」
目を瞑ったまま、僕は天を仰いだ。ついに決着がついた。勝負は――――
「……どうやら君の勝ちのようだね、少年」
パチパチという拍手とともに、黒違和のへらへらした声が響いた。
え? と僕は目を開けた。
……目の前には、ひかりちゃんが呆然と突っ立っていた。
銃の引き金を引いた瞬間の状態で固まっていた。
銃を――――銃を天井に向けた状態で――――涙を滂沱と流しながら。
……ひかりちゃんは、自分に向けて引き金を引けなかったのだ。
「死にたく、ないです……死にたくないです……死にたくないんです……! 怖かった、怖かった、怖かったんです……う、うぅ、うわぁぁぁぁん――ッ!」
ひかりちゃんの手から銃が床に落ちる。嗚咽を漏らしながら、ひかりちゃんはその場で子供のように泣き崩れた。
…………ああ…………よかった…………。どうしようもなく安堵している僕がいる。
僕は大きくため息をついたあと、扉のところで突っ立っている黒違和に向き直った。
「……さ、約束どおり僕たちを見逃してください」
すると黒違和は、軽薄そうな笑みを浮かべたまま、へたりこんだひかりちゃんの方へと近づいていった。
「……?」
僕はなんとなく首をかしげた。そんな僕に、黒違和は心から楽しそうに言う。
「いやはや、まさに真剣勝負って感じだったなあ。いいものを見せてもらったよ。素晴らしかった。感動した! ……ところで少年」
「はい?」
「あの約束ね、やっぱナシ」
黒違和は、床に落ちた銃を何気ない動作で拾って、その銃口を僕に向けた。
〔嘘吐きは泥棒の始まり〕という、子供でも知っている格言がある。嘘を吐くという悪事を重ねることによって、次第に窃盗《せっとう》という嘘より大きな悪事に手を染めても平気になってしまうという、要するにまあ「嘘はいけません」ということなのだが、そんな訓戒はこの場合どうでもよく、ここで重要なことは、〔嘘吐きは泥棒の始まり〕ということはつまり〔泥棒〕の前身は〔嘘吐き〕であり、つまり〔泥棒ならば嘘吐きである〕という十分条件が成立するということである。より大きな悪は、それよりも小さな悪を内包する。悪の漸次《ぜんじ》的発展。小悪を吸収し肥大化する巨悪。経験値を積んでレベルアップ。
……さてここで問題です。嘘吐きは泥棒よりも小さな悪であるという前提のもと、泥棒とテロリストはどちらがより大きな悪でしょうか。答えはもちろん……
「くそ……ッ!」
ぎりっと歯噛《が》みして僕は呻いた。
「約束が違うじゃない!」
深春が烈火のごとく怒りをあらわにする。黒違和はヘラヘラと笑い、
「いやあ、悪いねえお嬢ちゃん。……でも、テロリストとの約束を鵜呑《うの》みにしちゃいけないなあ」
「これまで一度も約束を破ったことがないのが自慢だって言ってたくせに!」
「ああ、あれは嘘だよ」
悪びれもせずアッサリと言い放ちやがった。
……ああそうだ……この男はこういう奴だ。そんなことは最初から分かっていた。こいつはやっぱりどこまでも利己的で、非情な、極悪テロリストだ。何が正々堂々の勝負だ……そんなもの、この男が受けるわけがなかったのだ。
「畜生……!」
あんなにも真剣な顔で、本当に誠意に溢れた声で、この人が嘘を吐いているなんて考えられないほど真摯《しんし》な目で、平然と嘘を吐くなんて、なんという最低な奴だろう。血のかよった人間だとは到底思えない。いったいどういう神経をしているのか。こんなクソ野郎、世の中のためにもさっさと死んでしまうべきだと思う。人を騙すことに良心の呵責《かしゃく》を感じない卑劣な悪党め。こいつはきっと、好きでもない女の子に対しても平然と、真面目な顔で「君が好きだよ」とか言ってしまえるような人間に違いない。……たしかそんな最低人間がこの男の他にも約一名いたような気がするのだが、よく考えるとそれは僕なのだった。
「この卑怯者《ひきょうもの》! バカ! アホ! ロクデナシ! あんたなんか死んじゃえ!」
深春が怒り心頭といった様子で罵声を浴びせる。黒違和はやや大仰に肩をすくめ、
「ま、否定はできないね。ごめんよ。ところで、最期に何か言い残すことはあるかい?」
……まさに絶体絶命。打つ手ナシ。ここまで絶望的だと、もう何も言えない。何も言えないとか思いつつも口を開く僕は何だろうか。
「……ったく……結局、僕ごときが足掻《あが》いたところで、全てをねじ伏せる単純な暴力の前にはまったくの無意味なんだなあ」自嘲気味に呟き、嘆息。「あーあ、ほんと……ままならないよな、現実ってやつは……。そんなことは……現実がどれだけ不条理でままならないものかなんてことは、とっくの昔に知ってたはずなのになあ……どうして今さら絶望なんて……。ちぇっ、僕の物語《じんせい》は、ここでオシマイか。やっぱり物語の幕切れってのは、こんなもんなのかな。特にヒーローでもなんでもない一般人クラスの物語なんてのはさ。まったく、ほんとに散々な人生だったよなあ……」
僕は深々と、これまでで一番大きなため息をついた。
「そうかい。……それじゃあ――お別れだ」
黒違和の目が細められる。銃を構えるその姿はいかにも堂に入っていて、絶対的な死を覚悟するのに必要十分な威容を放っていた。
「グッバイ、楽しかったよ、少年」
黒違和が無造作に、何の躊躇いもなく引き金を引いた。
銃口から吐き出された弾丸が――僕に向かって真っ直ぐに、迷いのない軌跡、ふらふらとあっちへ行ったりこっちへ来たりと迷走してばかりいるヒトの人生の軌跡とは正反対の、どこまでも真っ直ぐな、その直線、奇蹟《きせき》でも起きなきゃ到底避《よ》けられない、ニンゲンを鬼籍へと送り込むその奇跡のように迷いのない軌跡、そんな銃弾が、今、ついに、僕を殺すために吐き出され――――――――――かちゃっ――――
――――吐き出されなかった。
「……はへ?」
黒違和の間抜けな声。きょとんとした顔でまじまじと銃を観察したあと、
「……弾が……入ってない?」
不思議そうに僕を見る。それがなんだか無性に可笑《おか》しくて――――
「くく…………くくく……くくくく…………くはははははははは…………ッ!!」
こらえきれず、僕は笑い出してしまった。
「ゆ、悠紀?」
黒違和同様に戸惑いの色を浮かべる深春に微笑み、僕は上着の袖口から、勝負開始前に入れた――銃に装填《そうてん》したと見せかけてこっそり袖口に滑らせて入れた銃弾を無造作に取り出し、ぽいと床に放り投げた。
「な……!?」
黒違和、深春、ひかりちゃんの三人が、同時に絶句する。最初に我に返ったのは黒違和で、彼は自分のことを棚に上げ、
「……おいおい話が違うじゃないか。正々堂々、真剣勝負じゃなかったのかい?」
呆れたような怒ったような顔で非難した。それに対する僕の返答は一つしかない。
「ああ、あれは嘘です」
僕が肩をすくめると、黒違和はものすごく悔しそうな顔をした。やーいやーい。この男のこの顔を見られただけで、リスクを冒した甲斐があるような気がする。
……テロリストと嘘吐き、悪党としてのランクは考えるまでもなくテロリストの方が上。しかしそれはあくまで総合的に判断しての話だ。こと〔騙し合い〕とくれば、嘘も吐く黒違和に、嘘しか吐かない僕が負ける理由はない。現役の泥棒とテロリストが盗みのテクニックを競ったなら、恐らく勝つのは泥棒だろうし、ただの嘘吐きでもハッタリ勝負なら泥棒や引ったくり、それにテロリストよりも強い。
どこまでも誠実に、誠意をもって不誠実を遂行する。それが〔嘘吐き〕という生き物だ。
「これっぽっちも誇れることじゃないですけど……僕は、必要なら自分さえも騙す。いくらでもね。迫真の演技だったでしょう? なにせ途中から自分でも、本気で弾が入ってると思い込んでいましたからね」
僕は皮肉っぽく笑い、吐き捨てる。
「……ったく馬鹿馬鹿しい、誰が馬鹿正直にロシアンルーレットなんてやるかよ。あんなのは勝負でも何でもない、ただの運試しじゃないか。運を天に任せるなんて、死んでもゴメンだ」
黒違和は疲れたように嘆息した。
「……なるほどね。君を信じた俺の負けだ。ハッタリ勝負は君の勝ち。だが……それだけだよ。分かってるのかい? 状況は何も変わっていない。いや……むしろ悪くなった。今ので俺は確信したんだ。君は危険すぎる。絶対に、この場で殺しておかなければならない人間だってね。……個人的にも多少殺意が湧いたし」
「……なるほど。つまりまた僕は墓穴を掘ってしまったわけですか…………でも」
僕は言葉を切り、黒違和を睨みつけた。それから口の端を吊り上げ、
「何もしないくらいなら、墓穴掘ってた方がマシだ。状況が最低に悪くなろうが知ったことか。何もせずにただ運を天に任せるなんて、そんなものは死体か聖人君子のやることですよ。あいにく僕は頭の悪いただの俗物でね。さっきひかりちゃんが言ったように、出来ることは全部やるんです。保険はかけられるだけかけておくし、目的のためなら手段は選ばない。プライドなんてないし恥をさらすのも慣れっこだ。地べたに這いつくばってでも、最後の最後まで――……見苦しく、無駄なあがきをしてやるんだよ!」
そして僕は、黒違和に向かって殴りかかっていった。勝算なんてあるわけがない。単純な暴力において、嘘吐きがテロリストに勝てる道理はない。痛みで腕を振り上げることさえ辛い。これが恐らく、僕の最後の抵抗、いや、抵抗と呼ぶのもおこがましい悪あがき!
ああさぞかし見苦しいだろう滑稽だろう惨めだろう哀れだろう馬鹿みたいだろう!
なんて格好悪い。なんて無様。
――でも仕方ないよな、これが僕なんだから。
「うわあああああああああああああ――――――――ッ!!」
「無意味なことを……!」
黒違和が懐から大振りのアーミーナイフを取り出す。ああ無意味だろうさ無意味で悪いかこんちくしょう! ンなこといったら人生なんて無意味の集合体なんだよそんなことも分かんないのか、この世界に意味のあるものなんてほとんど無いんだ、愛も夢も希望も金も友情も地位も思想も名声も生命も、どうせ墓の中までは持って行けないんだ、意味のない価値ばかりなんだ、だったら……生きてるうちに全部吐き出さないと損だろうが!
「……死ね」
黒違和がナイフを構え、その銀の刃を突進する僕に向けて突き出――
――した、そのときだった。
「ヒヒヒ、あんたにしちゃあよく頑張ったねぇッ!」
突如として、ドガンッ! という爆音にも似た轟音《ごうおん》とともに、そんなしゃがれた叫び声が響いたのだった。
……次の数秒間の光景に、僕は驚愕している暇さえなかった。呆気にとられる余裕すらなかった。もうわけがわからなかった。意味がわからなかった。なんだこれ。え? ギャグですか? その光景は、ひたすらにシュールで意味不明で、難解ですらあった。
何が起こったかというと、なんと、僕の目の前で、部屋の天井の一部が崩れ落ち、瓦礫と同時に何故かババアが、どういうわけだかババアが、あろうことかババアが、何の脈絡もなくババアが――〔ブーメランばばあ〕未至磨ツネヨが猛烈な勢いで降ってきて、
「ぶひぇふぉえッ!?」
落下するままに黒違和の横っ面に跳び蹴りを食らわしたではないか!
冗談のような勢いで吹っ飛び、壁に叩きつけられるテロリストの身体。とんっ、と軽やかに着地したババアはそれに見向きもせず、
「ひひひ、無事かい? 深春ちゃん、ついでに久遠のところの悪餓鬼」
なにごともなかったかのように、相変わらずの嫌な笑みを浮かべた。
「し、師匠!」
深春が涙ぐんでババアに抱きつく(マネをする)。
「……相変わらず神出鬼没だな妖怪ババア。なんだって天井からいきなり湧いてきたんだ。通気口ってのは人間の通り道じゃないんだぞ。ようやくボケはじめたのか? 人類の夜明けは近いな」
反射的に憎まれ口を叩いたものの、僕は湧き上がる安堵を抑えることが出来なかった。泣きそうなくらい猛烈な安心感と脱力感に、その場でふらふらとへたりこむ。
「ハッ、相変わらず無礼な餓鬼だね。せっかく助けてやったっていうのに」
ババアは顔を意地悪っぽく歪めた。
「まあいいさ。……ちなみにどうしてあたしがここにいるかって言うとだね、近くを通りかかったらデパートで爆発が起こったって聞いて、面白そうだったから侵入してみたのさ。ああ、ついでに西の倉庫にいた生き残りの客たちも助けといたよ」
まるっきり平然と、非常識な台詞を吐くババア。
「……みんなを助けたって、どうやって……そもそもどこから入ってきたんだ? 脱出ルートは塞がってたっていうのに……」
僕の言葉に、ババアは小馬鹿にしたように笑い、
「あんなもんが塞がれてるうちに入るかね。シャッターはこじ開けりゃいいし、瓦礫の山は横の壁を壊して進めばいいんだよ。道ってのは、自分で作るモンなのさ」
「……そんなことが出来るのはアンタだけだ」
……まったく……この規格外人類、常識破壊人間、最終兵器老婆め。僕の苦労はいったいなんだったんだよ……。ババア《ヒーロー》の登場で形勢は逆転、状況は一気に好転、本当に……完膚無きまでに。なのに……この釈然としなさは何だろうか。ちなみに僕、ヤケになって黒違和に突撃すると見せかけて部屋の入り口に走り、扉を開いて深春を逃がすという、超かっこいい、まるで物語の主人公のような捨て身の救出行為を目論《もくろ》んでいたのだが……。
僕はまた、重く重いため息を吐き出した。そのとき、
「つう……いててて……まったく、とんだハプニングが起きたなあ……」
黒違和が起き上がり、ナイフを構えた。
「ヒヒヒ、往生際が悪い若造だねえ。勝負に負けたら見逃すってこの餓鬼《がき》と約束したじゃないかい。大人しく引き上げていればよかったのに。仕事熱心なのはいいけど、今回は墓穴を掘ったね」
……なんで僕がロシアンルーレットをすることになったなりゆきを知ってるんだ。……まさか……ずっと通気口から部屋の中の様子を見物していた……? ……あ、あり得る、ていうかこのババアなら確実にやる。自分が飛び出すベストのタイミングをずっと窺ってたに違いない。きっと、僕が弾を込めるフリをして袖口に隠したことも、こいつだけは分かっていたのだろう。
黒違和は憮然とした顔で、
「……下っ端の辛いところでしてね。手柄もなし任務も果たせないとなると、さすがに俺の立場が危ないんですよ。……あなたが何者かは知りませんが――少年少女もろとも死んでもらいますよ、ご老体」
刹那《せつな》、黒違和はナイフを構えてババアに突進する。速い! しかしババアは薄笑いを浮かべたまま、半歩横に動いただけでその攻撃をかわした。
「ちっ!」
今度は横薙《よこな》ぎに切りつける。
「ひょいっ」と何の予備動作もなく、ババアは一瞬にして黒違和の側面に回りこんでいた。本当に一瞬の動きで、瞬きをして目を開けた次の瞬間にはババアは移動していた。……まったく見えなかった。まさに怪奇現象だ。
僕には目で追うことさえ困難な黒違和のナイフを、ババアはまるで嘲笑《あざわら》うかのように目にも留まらぬ早業で避《よ》け続ける。
……遊んでやがる。圧倒的な技量の差。僕ではたとえどれほどのハンデがあっても勝てないであろうテロリストが、ババアの前ではまるで無力な子供だ。
「キヒヒ、それなりには使えるみたいだけど……でも、見たところそれ以上は伸びそうにないねえ……。あんたの技には魂が無い」
少しだけ残念そうにババアが言う。
「ここが、あんたの限界さね――」
黒違和の銃弾のごときナイフ、常人では即死を免れないだろう心臓へと真っ直ぐに迫る一撃を、ババアは余裕の表情で回避。そのみぞおちにただ一発、痛烈な拳を叩き込んだ。
どふっ!
「ぎぇっ……」
どたっ!
カエルが潰れるような呻きとともに、黒違和は床に崩れ落ちた。
あまりに……あまりに呆気ない幕切れだ……。
――単純な暴力は、それ以上に強大な暴力によって、いとも容易《たやす》くねじ伏せられてしまう。……今さら……こんな子供向けヒーロー番組のような安い教訓を、目の前でまざまざと見せつけられるとは思ってなかったな……。
「さて、と」
ババアはそれっきり黒違和に興味を失ったように僕たちの方を向き直り。
「それじゃ、とっとと脱出するよ。あと一〇分後には警官隊が突入してくる。面倒なのはごめんだからね」
「あ、ああ……」
「ほら、何をぼーっとしてるんだい。アホ面がますます目立つよ」
「……べつに。ただ……」僕は大きくため息をつく。「世界ってのはつくづくままならないもんだなあってことを痛感してるだけだ」
ババアが笑う。嗤う。
「ハッ、世の中ってのは、もともとそういうもんなのさ。それに気付いただけでも、あんたにしては上等かね。……もっとも、自分の主観だけを通して見た現実を〔世界〕だなんて大仰な言葉で呼んでるようじゃ、まだまだひよっこだがね。世界ってのは……もっともっと、とんでもないモノさ」
ババアは倒れた黒違和の背中をむんずと踏みつけて部屋を出て行った。
「……なんだかなあ。師匠らしいっていうかなんていうか。ホント、すごい人だよね」
僕同様に釈然としない様子で、深春が曖昧に苦笑した。
「……あーあ、ボクも師匠みたいにかっこいいお婆ちゃんになりたかったなー」
僕は何も答えず、それから、あまりの展開に呆然とへたりこんでいたひかりちゃんに向き直った。
「……ほら、ひかりちゃんも行くよ」
「え……?」
「……『え……?』じゃないって。君は死ぬことを拒絶した。怖いと思ったんだろ? だったら、生きていかなくちゃいけない。間違っても、僕たちがいなくなったあとそこに落ちてるナイフで手首なんて切らせはしない。その拳銃にもう一度弾を込めてこめかみを撃つなんてことも絶対にさせないよ。そんなことは、この僕が許さない。君が墓に入るのはまだ早い。生きていればきっといいこともあるさ、ごくまれにね。……愛してないよ、ひかりちゃん」
僕はこれまでで一番優しくひかりちゃんに微笑み、右手を差し出そうとして――肩に激痛が走ったのでやめた。
それに代わり、深春がひかりちゃんに向かって手を差しのべる。
……ひかりちゃんは、深春の顔をしばし呆然と見つめたあと。
大粒の涙を流しながらその手を握り返し、立ち上がった。
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暫定的エピローグ 〜愛にあぶれた世界〜
朝食を食べながらなんとなくテレビをつけると、一週間前に僕たちが巻き込まれた喪髪《もがみ》デパートでの事件のことが報道されていた。
〔死者百人以上、負傷者千人以上の、自殺教が起こした中でも最大の無差別爆弾テロ〕。
あの事件は、マスコミではこんなふうに報道されているのだ。四日前に自殺教からの犯行声明が出されたし、実行犯と見られる自殺教徒も何人か捕まっている。その中に、黒違和慶介《くろいわけいすけ》の名前はない。
……黒違和は、自分たちの雇い主は自殺教ではないと言っていた。あの嘘吐きテロリストが本当のことを言ったという確証はどこにもないのだが、自殺教ではないということだけは確かだと思う。……というか、報道されている内容と僕たちが遭遇した出来事がまったく結びつかない。恐らく、かなり大がかりな情報操作がされているのだろう。しかしそんなこと、国かそれ以上の力を持った組織でなければ不可能だ。少なくとも一介のカルト宗教ができることではない。
黒違和たちの目的は何だったのか。倉庫にあったあのスーツ姿の死体は何だったのか。どうして地下二階の通路には誰もいなかったのか。そもそも爆破事件を起こしたのは本当に黒違和たちなのか。よく考えたら、いくらゴーストを殺せるとはいえ、装弾数六発の拳銃一丁でテロなんて起こさないだろう。
結局、僕は事件の真相をほとんど何も知らない。知るすべもない。マスコミで報道されていることが事件の表側だとして、僕たちが巻き込まれたのは裏側なのか? もしかしたら、裏の裏まで存在するのかも? ……考えても答えは出そうにない。そう簡単に、僕ごときに全てを見せてくれるほど、世の中というのは親切ではないらしい。
……未至磨ツネヨ婆さんは、「面白そうだから」とか言って事件のことを色々調べているらしいけど――まったく、常識はずれにもほどがある。だがあのババアなら、事件の真相を暴き、自殺教の陰で暗躍する謎の組織をも単独で倒してしまうかもしれない。世界を牛耳る悪の巨大組織にたった一人で敢然と戦いを挑む、まるで子供向け番組のスーパーヒーローのように。何をやっても裏目に出る墓穴掘りの物語があるように、世界に一つくらいは、ああいう非常識でアタマの悪い、しかし愉快痛快爽快不可解な超人の物語があってもいいのかもしれない。
……テレビに目をやる。ほとんどの窓が吹っ飛んで壁に無数の穴が開き、変わり果てた姿になったデパートの姿。その写真をバックに、コメンテーターたちが事件について様々な見解を述べている。「被害者の皆さんのためにも、政府は一刻も早く自殺教をなんとかするべきである」という、毎度のように繰り返される発言をゲストの一人がした。
……被害者の皆さんのために、ねえ……。まったくご立派なことだ。
正直なところ、僕にはさほど、悲しみとか怒りとか、そういう類の感情が浮かんでこない。そりゃ多少は可哀想だと思うけれど、所詮は他人事……どこか遠い世界の出来事だという意識の方が強い。映画や小説、漫画やゲームの登場人物が死んでしまったりしたときの方が、よっぽど悲しかったりする。地球のどこかで自分の知らない誰かが何千人死のうと、その衝撃はフィクションのキャラクターの死にさえ及ばないという事実。
虚構と現実が曖昧になり、どちらが自分にとって本当の世界だか判らなくなる――この感覚自体は今の時代、決して珍しいものではないと思う。だがそれでも、自分が多少なりとも関わった事件でさえ現実感が持てないことには、さすがの僕も動揺を禁じ得ない。
生と死にさほどの違いはないなんてひかりちゃんは言っていたけど……あながち、それは間違ってないのかもしれない。
脳死、クローン技術、遺伝子操作、死刑制度、宗教対立、テレビ画面の中の戦争、テロの仕返しに民間人を巻き込んで街を爆撃する国。
どこからが生でどこからが死か。生命とは果たして何か。命の価値。こんな疑問はずっと昔からあったのに、僕たちは考えることを先送りにしてきた。
もしかしたらゴースト化現象というのは――人が死んだあともこの世に留まる、つまり実質的に生き返るという、まさに非現実《フィクション》そのものであるこのとんでもない現象は――、目を背けてきた疑問を人類に突きつける、世界からの最後通牒《つうちょう》なのかもしれない……。
「……なーんてな。はい、エセ思想家みたいなつまらない思考はおしまいっと」
口に出して呟き、僕は皮肉っぽく笑った。
答えの出ない思考をぐだぐだと巡らせている暇はない。今日もまた深春とのデートなのだ。あいつは相変わらず元気に死んでいる。黒違和に撃たれた部分は、一晩経ったらまたもとの状態に戻っていた。
だが、深春と違って僕の方はかなり重傷で、右肩の傷は、痛みはもうないのだが、腕が半分くらいまでしか上がらなくなってしまった。あまり力も入らないから重いものは持てない。治療をしたババアの話では、治る見込みは少ないという。……ま、腕なんて箸と鉛筆さえ持てればなんとかなるだろう。半分まで上がればセクハラはできるし。
朝食を食べて身支度をしたあと家を出た。待ち合わせはあの公園だ。学校に行くときは家まで迎えに来るのに、デートのときは待ち合わせってのもよく分からないが、複雑なオトメゴコロというやつだろう。
先週のように深春の首が僕の肩から生えていないかを確認しながら、公園へと至る道を歩いていく。その途中で運悪く、
「あっ! 先輩!」
……ひかりちゃんと出くわした。嬉しそうな顔をしてこちらに駆け寄ってくる。彼女とは、一週間前に別れたきり会っていなかった。どんな顔をして会えばいいのかちょっと不安だったのだが、どうやら僕の気にしすぎだったようだ。
「……やあ、久しぶり。元気だった?」
「はい! おかげさまで!」
洗脳でもされてるんじゃないかと思うくらい満面の笑顔で、ひかりちゃんは答えた。何かが吹っ切れたような――そんな感じの魅力的な笑顔だ。あの事件で、どうやら彼女の中で何かが変わったらしい。そのきっかけとなったのが僕なら、ちょっと嬉しい。
「先輩、これからどこかへお出かけですか?」
……相変わらず、素で答えにくい質問を投げつけてくる娘だ。僕は少し言葉を濁し、
「……ん、ああ、うん深春と」
「あ、デートですか……」
「うん」
「へえ……そうなんですか」
ひかりちゃんは上目遣いで僕を見て、少し拗ねたように唇を尖らせた。うぅ……微妙に気まずいよう。
「……先輩」
「うん」
「私、まだ先輩のこと好きですよ。ていうか、ますます好きになっちゃいました。……あの……私にこんなことを言う資格はないかもしれませんけど……その……」
顔を真っ赤にして、ひかりちゃんは俯いた。
「あ、あの……その……」
「ひかりちゃん」ひかりちゃんが次の言葉を言う前に、僕は口を開いた。「僕は君に隠していたことがある」
「はい?」とひかりちゃんは首をかしげる。
「――――僕はね、実は女の子だったんだ」
「…………………………は?」
あまりに突然すぎる僕の告白に、ひかりちゃんの目が点になった。何を言われたのかよく分かっていない様子。……ま、当然か。伏線も何もなかったし。
「……信じられないかもしれないけどさ、でも誓って本当だ。久遠家《くどうけ》に古くから伝わるしきたりでね。久遠家の長女は、十八歳になるまでは男として振る舞うことを義務付けられてるんだ。話すと長くなるけど……どうか聞いて欲しい」
ひかりちゃんが息を呑む。そして僕は騙《かた》り始める。久遠家の――悲しい歴史を。
――江戸時代半ばのあるとき。鎌倉時代より続く武士の家柄である久遠家は、世継ぎが生まれずお家断絶の危機にさらされていた。そこで時の当主久遠和正《かずまさ》は、当時五歳だった長女(本名は記録に残っていない)に男の振りをさせるという奇策を行う。男として育った長女はその後元服までして名を輝明《てるあき》と改めたが、その二年後当主の側室に男の子(のちの久遠和明《かずあき》)が生まれた。そのため邪魔になった長女は、病死に見せかけて暗殺されてしまったのである。後に当主となってそのことを知った和明は姉の死を悼《いた》み、この悲劇を忘れぬよう、長女を男として育てるように命じた。その風習が後世にまで伝わり、この僕、久遠悠紀もまた、男として育てられたのである――――。
……というような内容の話《うらせってい》を、情感を込めてたっぷり三〇分ほど物語ったところ、
「い、いやですよお先輩ったら冗談ばっかり。どうせいつもの嘘なんでしょ?」
ひかりちゃんは引きつった笑みで、絞り出すように言った。しかし僕は真剣な顔で、
「……ひかりちゃん。僕はもう嘘は吐かないと決めたんだよ。君が真人間に生まれ変わったように、僕も変わろうと思うんだ。……だからこそ……僕は君に秘密を明かした。それに、厳密には騙していたわけじゃない。思い出してみて欲しい。僕がこれまでに、一度でも自分のことを男だって言ったことがあったかい?」
「…………! ………………………………………………………………………。……っ!」
長い沈黙があった。その間、ひかりちゃんはときおり眉をぴくっと動かすだけでまったくの無表情。まるでアンドロイドがメモリーを検索しているみたいでかなり怖い。……そして、
「…………そ、そんな……ま、まさか……」
ひかりちゃんが愕然《がくぜん》としてよろめく。そう、僕はこれまで一度も、僕自身の口からは自分が男だと明言してはいないのである。男扱いされても否定しなかったけど。
「た、たしかに先輩、男の人にしては華奢《きゃしゃ》だし背もあんまり高くないし……声だって低くなくて、女の人って言われてもそんなに違和感ないけど……で、でもそんな……だ、だって体育の授業とかどうするんですか」
「うちの学校、プールないからね。意外とバレないもんだよ。胸はサラシを巻いて押さえてるし。幸か不幸か、胸の発育はあんまりよろしくないんだ」
「そそそそんな、で、ででででも……あ、そ、そうだ! 先輩、自分のことを僕って言うじゃないですか! 女の子なのに変じゃ――……あ」
どうやら、女でありながら自分のことを〔ボク〕と呼ぶ人物のことに思い至ったようだ。
「そう、深春同様、僕もいわゆるひとつの〔ボーイッシュな女の子〕だったってワケさ。これからはお姉様と呼んでくれても結構だよ?」
「呼びません! ……あ、そ、そうだ、深春さんはそのことを知ってるんですか!?」
「もちろんさ。十年以上の付き合いだからね」
「……それなのに先輩と付き合ってるんですか?」
疑わしげなひかりちゃんに僕はあっさり首肯し、
「言ってなかったっけ? あいつは真性のレズビアンなんだ。そして……僕も、ね」
「そ、そんなあ……。じゃ、じゃあ、デパートでの私の涙は一体何だったんですか!? 先輩が女の子だって言ってくれれば、深春さんに嫉妬してあんなイタすぎる行動なんてしなかったのに……。あ、あのルーレット対決はただの茶番だったんですか!? せ、先輩は、わ、私のことをからかってただけなんですかあっ!?」
今にも泣きそうな顔で抗議するひかりちゃんに、僕は優しく微笑み、
「……ひかりちゃん。僕の初恋の人が、かつて僕にこう言った。『戦いの虚しさを知ることが、大人の階段を上る第一歩なのさ』――ってね」
「そ、そんな大人の階段は嫌です〜〜〜〜〜ッ!!」
ひかりちゃんは耳を塞いで泣き叫びながら、僕の前から逃げるようにどたどたと走り去って行った。通行人たちが驚いて道を空けるのが見える。
……うんうん、あれでこそひかりちゃんだよなあ。イタい電波系ではない普通の可愛い女の子も結構板についていたけど、やっぱり人間、そう簡単には変われないらしい。自分で更正させといて自分でまた突き落とすというのもわりかし外道な感じだけど、
「……でも仕方ないよな、これが僕なんだから」
善意の嘘も悪意ある嘘も、どちらも平等に吐き散らす。それが、僕だ。
ひかりちゃんの姿が見えなくなった。やっぱり足速いなあ……。運動苦手って言ってたのに。……とにかく頑張れひかりちゃん。大人の階段を走馬灯よりも速く駆け上がれ!
「……さて、それじゃあ僕も行くとしますか」
皮肉っぽく笑って、僕は歩き出した。
公園に着いたのは、待ち合わせ時間の五分過ぎだった。一時間ほど余裕をもって出かけたのだが、ひかりちゃんと話していて思ったより時間をとられてしまった。幸い深春もまだ来ていないようだったので、ホッと一安心する。
……それにしても、ずいぶんアッサリと信じちゃったなあひかりちゃん。僕が嘘吐きだってことくらい、十分に知っている筈なのに。……ていうか、いきなり〔実は女の子でした〕なんて言われたって信じないだろ普通。常識的に考えて、〔男のフリをした女〕なんてフィクションの産物だし。漫画やアニメの見過ぎだ。
…………もっとも、〔常識〕とやらがどれほど頼りないかなんてことは、そして虚構《フィクション》と現実《ノンフィクション》の境界がどれほど曖昧かなんてことは、今さら言うまでもないわけだが。
それで、結局のところ僕の性別が本当はどっちなのかというと――
「――遅れてごめん悠紀! 待った?」
不意に上から声が掛けられて、僕はそちらを見た。半透明の少女がそこにいた。
「……いや、僕も今来たところだから。にしても、お前が遅刻なんて珍しいな」
「うん、ちょっと着ていく服で悩んじゃって」
……なるほど。たしかに、ファッション誌やカタログさえあれば好きな服装に着替えられるとなると、逆に選択肢が多すぎて迷うこともあるのだろう。自由というのもなかなかに大変なものだ。
深春がふわふわと僕の前に降り立つ。……ふむ。悩んだというだけあって、かなり気合いの入ったファッションである。気合いが入り過ぎていて、ブランドやら服の種類の名称に疎い僕にはどうやって服装の描写をすればいいのか分からない。……よって、今回はちょっとファジーに表現してみようと思う。〔なんかひらひらしてる感じ〕。以上です。
「なかなか似合ってるぞ」
僕が社交辞令を述べると、深春は「えへへへ、ありがとっ」と本当に嬉しそうに笑った。
「ね、悠紀、今日はどうする?」
「そうだな……商店街の方にでも行くか? 毎度毎度同じパターンで悪いけどさ。なんかお前の好きそうな映画がやってるみたいだし」
僕が言うと深春は、何故か少し驚いた顔をした。
「ん? どうした?」
「あ、えーと……ちょっと意外だったから。だって悠紀、いつもなら、どこでもいいとかボクが決めろとか言うじゃない。どうしちゃったの?」
「いや、どうしたって言われても……そこまで驚くようなことか?」
「そうだよっ! だってこれって、ようやく悠紀にボクの恋人としての自覚が出てきたってことじゃない!」
深春はすごく嬉しそうに言った。
「そういうもんかな?」
「そういうもんだって」
空中でふわっと回転してスカートをひらめかせ、笑顔で飛んでいく深春。……ふむ……ま、いっか。自分では何が変わったとも思えないのだが、それで深春が喜ぶのなら。
「悠紀ー、早く早くー」
深春が僕を呼ぶ。僕は小走りになりながら、
「そう慌てることないだろ。べつに商店街は逃げないし」
「商店街は逃げないけど、人生の時間はどんどん逃げていくんだよ」
なんか微妙に真理っぽいことを深春が言った。苦笑しつつ、深春の隣に並んで歩く。その幸せそうな横顔を見ているだけで、何故か晴れやかな気分になっている僕がいる。
「ところで今日やる映画ってどんなの?」
「愛と感動のラブストーリー」
……とCMで言っていた。しかしよく考えると愛とラブは同じである。意味を重複させてまで強調するとは、よほど愛に満ち溢れた内容に違いない。過剰摂取で精神の健康を損なわないように気を付けなければ。
「なるほどー。うんうん、やっぱり愛だね! 愛が地球を救うんだよ。楽しみだね!」
「そうだな」
僕は投げやりに返事をした。
深春は「うん!」と頷き、ふわふわと僕の前を進んでいく。
と。
「……ねえ悠紀」
深春は不意に立ち止まり、くるりと振り返った。
「ん?」
そして、極上の笑顔で僕に言うのだった。
「生きてるって、楽しいね」
唐突に、何の含みもなく、当然のようにそんなことを。そんな……素直に頷くにはあまりにも難解なことを。深春は、平然と言ってのけた。僕にはとても真似できない。
深春の透けた身体越しには、世界が見える。アスファルト、街路樹、公園、草花、車、マンション、家、人、電柱、鳥、雲、空、太陽、それにゴースト――――。
……気のせいだろうか。取り立てて変わったこともない、こんないつもと同じような景色が、今日は不思議と美しく見えるような気がする。
……断言しよう。「それは気のせいだ」と。勘違いの理由はきっと――深春がいるからだ。ただそれだけのことで、僕は自分に嘘を吐き、世界が美しいものだと錯覚できる。
深春が笑う。笑っている深春につられて、僕は笑みを漏らした。
生きることが楽しいかどうかなんて知ったこっちゃないが、しかし少なくとも僕は今、楽しいと思っている。楽しいと思っていると思う。……多分、いや、きっと。
愛で地球は救えない。けれど、世界くらいなら救えるのだと僕は思う。
愛ごときで救われてしまう僕の世界なんてきっと全然大したことはないのだが、そんな大したことのない世界で生きていくだけでもいっぱいいっぱいなのが僕たちなワケで、
「……ったく……ままならないよなあ実際……」
僕はくたびれたような笑みを浮かべて呟き、嘆息した。
事故に病気に殺人に自殺にテロに戦争、地球のどこかでは今この瞬間にもどんどん人が死んでいく。墓穴がいくつあっても、決して足りることはないのだろう。
それでも。
世界は美しく、未来は光り輝き、人の心は希望に満ち溢れ、憎しみや悲しみはいつかきっとこの世から消え去る。そう信じている。そう信じている自分を信じているのだと信じている。……こんなふうに自分を騙し《しんじ》ながら、僕たちは生きていくわけだ。
この――――化け物のような世界《ホーンテッド・ワールド》で。
…………ああ本当に、生きてるって素晴らしいなあ。最高だなあ。楽しいなあ。ラブ!
〔Haunted world〕is never BAD END?
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感涙必至、ハンカチ必須のあとがき制作秘話(嘘)
ものすごく面白いあとがきを書こうと思いました。なぜならあとがきというのは小説の中で非常に重要な要素であり、読者の中にはまずあとがきを立ち読みして、その本を買うかどうか決めるという人さえいるのです。というか私もそうです。しかもこの本は、私のデビュー作であります。つまりこのあとがきは、私がこれまで書いてきた数々の文章の中で、初めて大勢の人の目に触れる文章ということになるのです。「絶対に面白くしよう。本が売れるように、そして何より、初めて自分の文章を読んだ人達に少しでも楽しんでもらうために!」私は心からそう思いました。だから私は頑張りました。本棚から小説を五百冊ほど引っ張り出してきて、自分が面白いと思ったあとがきをピックアップし、「なぜこのあとがきは面白いのか」を一生懸命分析しました。私はそれらのあまりの面白さに魅入られ、あとがきに滲み出る作者たちの才気に愕然とし、自信を喪失しそうになりながらも、死に物狂いでそれらの諸要素を抽出し、混ぜ合わせ、組み立て、少しずつ少しずつ、自分のあとがきを書いていきました。そして気が遠くなるような長い長い死闘の末、ついに、ものすごく面白い、むしろ本編よりもはるかに面白い、奇跡のようなスーパーあとがきが完成したのです。「……す、すごすぎる……!」私は歓喜と自分の才能の恐ろしさに打ち震えました。「早く――一秒でも早く、この素晴らしいあとがきを誰かに読ませてあげたい……!」そう思った私は、急いで担当S氏へとその超オモシロあとがきをメールで送りました――。…………しかし。その三時間後に担当S氏から来た返事は、『ヤバすぎるのでボツです』という無慈悲なものでした。私はその場で泣き崩れました。よく考えると本作の第一稿を送ったときも、『このままではヤバいネタが多すぎて出せません』と言われた記憶があります。……私は完全に意気消沈してしまいました。「もうダメだ、この先、作家としてやっていく自信がない……ああ鬱《うつ》だ……もう死のう」……しかし! 今まさに自室のカーテンで首を吊らんというそのとき、私の脳裏に、これまでお世話になった、この本に関わった無数の人々の顔が浮かんできたではありませんか! 私を拾ってくれたMF文庫J編集部の皆様、厳しくも優しい編集長M氏と担当S氏、超素敵なイラストを描いてくださった片瀬優《かたせゆう》先生、営業・印刷・校正など数え切れないほど多くの人々、やたらと面白い逸話《いつわ》を持つ同期受賞者の羽田《はねだ》さん、意見や感想をくれた盟友のM田君にF枝君――(実は私がお会いしたことのない方もいるのですが、その人達はみんな二次元美少女の顔をしていました)……。「ああ、みんなのおかげで、私は今ここにいるのだ。私はまだ死ぬわけにはいかない!」……私は彼らに心の底から感謝し、そしてこのあとがきを書きました。私は今、泣いています。けれどもそれはさっきとは違う、とても温かい涙です。
2004年8月、賞金を貰って少しだけ人に優しくなれそうな気がした日 平坂読
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