TITLE : 黄昏ゆく街で
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黄昏ゆく街で
1
人には時の流れの中で自分がどれくらい変わったかを知る術は何もない。できることといえば、黄《たそ》昏《がれ》てゆく街を茫然とながめていた自分がそこに立っていたことを確かめようとすることだけだろう。
僕はただ、枯れ木の谷に落ちてゆく夕日がとても優しかったのだけは今でもはっきりと覚えている。言葉よりもっと暖かく暮れてゆく街並みは、ルビーのような輝きを解き放っていた。
何かがね、足りなかったのさ。君に似合う優しさのすべてを捧げるには、もうすでにあの時気づいていてさえ遅すぎたのかもしれない。ただ君と別れてから振り返りざまに見たあの黄昏へと消えてゆく街並みの中に、僕は心から君に送り返してあげたい本当の何かを見たような気がしたんだ。だからね、お願いだから笑わずにこの話を最後まで聞いてほしいんだ。僕の黒いひとつぶの染みが、純白の君の中でいかに愚かであるかをさらけ出してしまうために。そして、それがせめてもの諦めと希望のレクイエムになることを僕は望んでやまない。
僕は駅の改札口で一年ぶりに会う君がどんなに変わったかを想像しながら、時計が午後三時を指すのを待っていた。君に会ったら最初になんて言おう。すこし照れくさく、なんだか怖い気さえしていた。
僕は運命というものさえも信じるようになった。僕は、正直さより上《う》手《ま》くごまかせる人間になりたいと思う気持ちのほうが強くなってしまったし、騙《だま》されるより騙してやりたいと思う気持ちのほうが強くなっている。
そんな僕は今の君にどんなふうに映し出されるのだろう。
君が一年ぶりに突然電話をかけてきたのは、君自身も、僕の中でもう一度自分を確かめたかったのだろう。君からの電話を、僕は少し前から予感していたんだ。だけど僕の心はあの日から閉ざされたままだ。ずいぶんと勝手な言いぐさかもしれないが、僕らが出した唯一の答えは裏切ることなんだろう。
そんなこと、分かってくれる誰かが一人でもいるとは思わない。けれど、人間として理解されることを期待してしまうのも、当然のことだと僕は勝手に解釈している。
何故って、人間は傷みを忘れるようにできているじゃないか。人間は明日を信じることを当然のように思って生きているじゃないか。それが何故なのかを知るために僕らは何かを裏切る。いやもうすでにこの世に生を享《う》けた瞬間に裏切っていたのだろう。知りたいがために傷つけ合い、確かめたいが故に嘘をついてゆく毎日の自分をごまかしているのを忘れるために。
そこにあるのは何のためのものなのだろう。人は何のために涙を流すのだろう。何のためにそんなに体を求め合い、息も詰まるほど、抱きしめ合うのだろう。
あの日からそんなことばかり考えているのもおかしな話だ。何度かやり直せる自分を思い描いてきた。それに近づけば近づくほどはかなく無意味なものだと感じた。
決して辿《たど》り着けない君の聖地へと一歩でも近づくために、僕は何度となくどれくらい強く思い願っただろう。それがたんなる言葉のあやとでもいえるほど、ひどく軽いあたりまえのないものねだりだったのかを、僕が気づくまでに。だからね、君に会ったら最初にこう言おうと思った。今はもう黄昏てゆく街で、誰の愛も僕は見つけられやしない……。
三時を五分過ぎて君は現れた。やぁ、元気だったかい。僕は、はからずもそう呟《つぶや》くように君の瞳を見つめた。君は控えめに冷たい眼差しで微《ほほ》笑《え》みながら、ただ空間に次の僕の言葉を探していた。
僕はあの日のようにはもう生きてはゆけないんだ。僕はそう言おうと思った。思い出の淵に深くなればなるほど僕は心を傷めている。それに心の傷みを抱え込んで暮らすことは絶対にできないんだ。でも今の暮らしにそれほど不満をもって生きているわけじゃない。
君と別れてからいろいろ考えてみた。そしたら辿り着いたところがね、僕の想像以上に何もないところだと気づいたんだ。答えも傷みも笑顔も喜びも何もないところだった。というよりむしろ、どうやって自分の胸の思いを消し去ってゆくかだけなんだ。君も僕がそのことに気づくことを期待し、またそれを恐れていたんだろうね。
君を忘れるのに一年もかかって最後に残されたものはといえば、すべてを忘れる傷みだったんだ。
これはあと何年かかっても消せないかもしれない。僕が最後に見た君と同じ色をした黄昏がもう一度訪れたとしても……。
「その最後に見た黄昏ってどんな色をしていたの」君は少しだけ微笑みながら僕を覗き込むようにそう言った。
「何もかもすべてを燃やし尽くしてしまった後にたちこめる火の粉のような黄昏だった」
「ふぅん……。黄昏っていろいろな色があるのよね……」遠くを見つめる君はその言葉をどこかへ投げ捨ててしまうように呟いた。
「僕はいまだに君から逃れられないでいる自分が嫌でたまらない。君を責めているわけじゃないよ。ただ自分という人間が嫌でたまらないんだ」
「私を忘れることなんて簡単じゃない」君はただうつむいてそう言った。
どうすれば忘れられるんだい……。僕の頭の中の空白の部分にそのことが刻まれていた。
「その夕暮れを闇《やみ》の中へ葬り去ってしまえばいいのよ。あなたが私を忘れるのに一年もかかったと思うと私はやりきれないわ。せいぜい私は三日もあれば充分だったわ」
僕は君を睨《にら》みつけていた。
「何よ。嘘じゃないのよ。私のプライドはそんなにセンチメンタルじゃないの。どんな人と寝てもあなたを思い出したりはしなかったわ。時間の中に自分を閉じ込めてもしょうがないじゃない。何のためにそんなに自分を責める必要があるのよ。今の自分を大切にできなければ、今の私の愛も意味がなくなるでしょ。大切なのは今の自分の愛を貫くことじゃないの。あなたの見た夕暮れ、私には分からない。だけどあなたと別れたあの後、ほんの少しだけ泣いていたのよ。こんなものなのかなって」
僕は西に傾いた太陽の光が黄昏をつくり出すのを感じていた。
「どうしたの……」君は静かな溜息をついた後、僕の瞳を探していた。
「いや別になんでもない……」
僕たちは米軍基地跡の大きな公園をゆっくりと歩いた。金《きん》木《もく》犀《せい》や銀木犀の匂いだけがほのかに秋の夕暮れを包んでいた。公園で遊ぶ子供たちの声が遠くから響いてくるのに耳をかたむけながら君は、ねえ、あそこのベンチに座らない、そう言って僕の手を取って引っ張った。午後の冷たい風がやがて訪れる夕暮れを迎え始めたようだ。ベンチは冷たく僕らの体温を吸い取っていった。
「寒いな」
僕は君の手の甲が寒さに真っ赤にはれているのを見て、僕のジャンパーのポケットの中に君の手を入れて、僕の手のぬくもりで温めた。君に微笑みながら……。
「昔を思い出すわね……」君はまるで自分がすっかり変わってしまったとでも言いたげに、なげやりに、それでも僕の手を強く握った。
そうだったね。僕はそれがどんな意味をもつものなのかを探さなかった。それは二人が互いの胸の奥にしまっておくほどのたわいもないじゃれあいだと思い過ごすことができなかったからだ。僕は悲しみの理由を整理し疲れたのだろうか。
「たぶん生きているうちでいちばん楽しいことって、自分を試していた時じゃないかしら」
君は瞼《まぶた》を閉じて僕の胸に顔をすりよせた。僕はそっと肩を抱いた。
「答えのでないものに必要以上にこだわりすぎてもしょうがないってことかい。たとえば優しいだけの心とか、いちばん正しい生き方とかさ、そんなものを求めすぎて、せっかく大切に育んできたはずの愛情さえ犠牲にしてしまったんだから、僕は……」
「すべてがうまくゆかなければ気が済まなかったんでしょ」
「あぁ、すべてのバランスが崩れてしまうんじゃないかと思っていた。そのひとつが足りないせいで……」
君は僕のポケットから手を抜いて僕の顔をながめていた。
「そうね。やっぱり何かが足りなかったのよ。足りないものがひとつあってもふたつあってもやっぱり足りないものは足りないわ。あなたは自分に手かせや足かせをつけて思い出を美化しようとしているんでしょ。おかしな人ね」
僕は返す言葉にいくらかのためらいを感じていた。
僕は君を忘れるための間に、君にどんなことが起こっているのかをまるで考える余裕がなかったし、新しい暮らしをつくり上げてゆくことで精一杯だったんだ。忘れるために新しい暮らしをつくろうとしていたのか、新しい暮らしを見つけるために忘れなければならなかったのか、どちらのためだったのか僕にはもう分からなくなっていた。
ひとつだけ言えることは、別れた理由の裏側にいつも精一杯だったと自分で刻み込んでいたことだ。それだけで僕は自分を支えてきた。そしてその両方を正当化してきたんだ。
ただ君のために覚えていようとしたすべてが最後には僕の手から離れ、君のものでも僕のものでもなくなってしまったんだ。
高くなった秋の空の夕映えは、まるで宇宙のすべてを凝縮しているようだ。
「そんなことを言われたって……」僕は言い訳がましくそんなふうに答えてみた。
「だって僕は君に受け入れられたことがあったのかどうかすら、今はもう分からなくなってしまったんだ。君を愛したことの意味さえ、もう今は分からない。君に会うたび、僕は君の何かを失っていたんだろう。ねぇ、君は僕を失うことに怯《おび》えていたことがあったかい」
「たとえばどんなふうに」君は頬杖をつきながら遠くを見ていた。
「だから君のまえから姿を消して行方が分からなくなってしまうようなことさ」
君は少し表情を変え、疑うような眼差しでこう答えた。
「そう……。あなたを自分の殻に閉じ込めていたのはやっぱり私にも責任があったのね。そしてあなたのそんなところが嫌いであなたを諦めることができたのかもしれないわ」
「僕を諦めるってどんな気持ちだったの」
「あなたを自分の殻に閉じ込めておくことよ。そうね……。優越感に似た失望」
僕たちは少しだけ笑った。
「結局僕を失うことをそんなものに置き換えることができたんだね……」
「どう思う」君はいかにも厭《いや》味《み》そうな顔で僕の顔を見た。そしてまた違う顔をして少しだけ微笑んでから、爪先でちょこんとベンチから立ち上がると、もう行こう、そう言って歩き出した。
その頃にはすっかり空は暮れていた。
「ねぇ、あなたあれから誰かに恋をしたの」
「そんなにうまくゆくと思うかい」
「だって誰だって一人じゃいられないもの」
枯れた桜の木の向こうにいくつかの街灯が灯り、空は少しずつ少しずつ赤い絵具に闇の暗さを混ぜ合わせていた。
過敏になりすぎた僕の頭の中は、傷つかないことや傷つけないことに夢中になっていた。
君は空白の隙間に何も残さないでいようと書き記しているようだった。
そうだあの三年も前の日、雨さえ降らなければ僕たちは出会わなかったかもしれない。
あれは僕がようやく大学を卒業したばかりの、社会人一年生になって間もない六月の半ばだった。
梅雨のじめじめとしたなま暖かい風は雨粒をなびかせ、僕の首筋を濡らしていた。
花屋の前を通り過ぎると、とても綺麗なあじさいが咲いていた。そのあじさいの花の向こうに、偶然君を見かけたんだ。
君を見るのはこれで二度目だった。まえに一度だけアメリカへの留学が決まった友達の送別会で会ったことがあったんだ。その夜、君は銀色のワンピースを着ていた。酒に酔っていたせいもあったかもしれないが、今までに出会ったことのない、雰囲気のある女性だなと思って、僕は普段にないくらい積極的になって君に声をかけた。
「あの、あなたもケンの知り合いですか」僕は初めて会う君にそう切り出した。君は初め少し警戒した様子で、僕の質問になかなか答えてくれなかった。
「えっと、同じ大学でしたっけ。どこの学部に行ってるの」
「あっ、私ですか……。あのぉ……私ケンさんとは幼なじみで……」
「ああっ、そうだ。あいつが言ってた。幼なじみで可愛い子が来るから、手を出すなよって」僕はふざけ半分にそう言ったが、少し前に、留学することになったケンという友達から可愛い幼なじみがいるという話を聞いたことがあったし、今日その子が送別会に来てくれるかどうか、心配していたのも知っていた。
「えっ、あの人そんなこと言ってたの。そう……」君は少しの間、沈黙してから、慌ててしゃべり出した。
「そう、そうなの。彼のこと、小さい頃からよく知っているのよ。あの人、今でも私をからかうんですよ。だけどそんなこと言ったの、可《お》笑《か》しいわ」君はすこし照れたように笑いながら小声で答えてくれた。
「あいつの彼女でもないのにあいつらしくもないよ。まったく」僕はついそんなことを言ってしまった。ただ本当に僕の知っているケンはそんなことを言うようなタイプじゃなかった。
ケンは僕と君を見つけると側に寄ってきてこう言った。
「ヒロ、おまえこの子にだけは手を出すなよ」ケンはかなり酔っぱらっていたが、真面目な顔をして、そう僕に宣言した。
「ケン、何だよ……。そんなこと言うなよ。おまえの言ってた幼なじみなんだってな。可愛いじゃないか。紹介しろよ」僕はケンをちゃかすようにそう言った。
「何を言ってるんだ」
ケンはそう言って僕を突き飛ばした。ケンはかなり酔っていた。僕もいささか腹をたてたが、その酔っぱらったケンはいつものケンとは違っていた。
「ケンちゃん、いい加減にしなさいよ。お友達が困ってるじゃない」君はそう言ってケンをなだめた。
「美《み》冬《ふゆ》、もう俺を困らせるのはやめてくれ。早く決心してほしいんだ。俺がアメリカへ行くわけは分かってくれているんだろ」
ケンが涙ぐんでいるのを見て、僕はびっくりした。
「ケンちゃん、私のことなら平気よ。分かっているから、待っていてね。ケンちゃんの悪いようにはしないから。向こうに着いたら連絡して。それより、きちんと勉強することを考えてよ」
「美冬……。親父にはもう会わないほうがいい。俺が外国に行っている間に、親父と君がどうなるか分からない」
「ケンちゃん、その話はやめようよ、こんなところで……。私のことなら大丈夫だから安心して」
僕には、二人の会話が何かとても大切なことを話しているという以外は、何だかさっぱり分からなかった。
「ケン、元気でな」僕は付け足すようにそう言った。
「ヒロ、今夜はとことん付き合って飲んでくれるんだろうな」
「分かってるよ。まったくおまえにはかなわないな」
そして僕らは朝まで飲み明かした。君はもうその時にはどこかへ消えてしまっていた。
僕は飛行場までケンを見送りに行った。そして別れ際までケンは君のことを心配していたが、その時はまだ、君がケンにとってどういう関係なのか、僕にはまったく分からないままだった。
ケンは晴れ晴れとした四月の空の向こうに飛び立っていった。
僕は花屋の中に入り、君に話しかけた。
「あの、君はもしかしたらあの時の子じゃないかな。ほら、ケンの送別会で一緒だった、そう、えっと、銀色のワンピースを着てた子でしょ」僕はすこし慌てながら君にそう尋ねた。君は不思議そうな顔をして僕の顔を横目で見つめていた。
「ねっ、そうでしょ。ケンの幼なじみの、えっと、名前は……」
びしょ濡れになった君の髪から流れ落ちる雨の雫《しずく》が涙のように見えた。
「あなたはケンちゃんのお友達の方ね」たくさんの花に囲まれながら、君は静かにそう答えた。
「覚えてますか、ほらケンが酔って僕にからんできて、君が助けてくれたんだよ。思い出せませんか。僕、ヒロっていいます。ケンとはよく一緒に遊んでたんだけれど」
「あぁ、あなたね。ヒロっていう人のことはケンちゃんからよく聞かされてたの」
「偶然だね。こんなところで会うなんて」
「ええ」
君はひどく辛そうな顔をしていた。
「どうしたの。なんだか顔色が悪いみたいだけれど、気分でも悪いの」
「いえ、大丈夫ですから。何でもありません……」
そう言ったとたん、君は急にお腹を抱えて顔を真っ青にしてかがみこんだ。
「どこか具合でも悪いんですか」僕はかがみこんだ君の細い肩を支えながら、君のスカートの下から血が流れるのを見た。
痛いっ。痛い。助けて……。
「大丈夫。ちょっと待って。今すぐ救急車呼ぶからね」僕は気が動転した。
「すいません。誰か来てください」僕は店の奥にいる店員を大声で呼んだ。
店の中から店員が駆けつけて来た。
「どうしました」
「彼女の様子がちょっとおかしいんです。今すぐ病院に連れてかなくちゃ。すいません、電話で救急車呼んでもらえませんか」
君はかがみこんだままうめき声をあげていた。足首にかけて血はますます流れてゆく一方だった。
救急車は十分後に来た。サイレンとともに集まって、人だかりができていた。
「知り合いの方ですか」
「はい、友達です」
「じゃあ、一緒に、ついてきてください」
君は担架に乗せられながらひどい痛みにうめき声をあげ、脂汗をかいていた。僕は君につき添って救急車に乗り込んだ。
「大丈夫かい」
君は半分意識をなくしていた。
病院に運ばれ君はベッドに横たわっていた。診察の結果は流産だった。君はようやく痛みから解放され、静かに眠っていた。
君が目覚めたのは午後の九時頃だった。
「あたし……」君はここが病院だと気づくと泣き出した。
僕はなんと言っていいのか分からなかった。
「体、もう痛くないかい」君は泣きながら静かに頷《うなず》いた。
「今日一日は、病院で安静にしていなさいって、先生が言っていたよ」
君は泣いたままだった。点滴が静かに流れ落ちていた。
「誰かに連絡しておかなくてもいいのかい。なんだったら僕がかわりに電話してあげようか」
「電話なんてしなくていいの」
君はひどく冷たい言葉でそう言った。
「でも僕一人じゃ……」
「いいの、もう帰ってください」
君は窓の外をながめながら強い口調でそう言った。
「そうかい、じゃ帰るけど、なんかあったらここに電話してくれればいつでも僕は出てこれるから。ここに僕の電話番号書いて置いておくよ」
僕はメモ帳を破いて、自分の部屋の電話番号を書いた紙を君の枕もとに置いたまま病室を出た。病棟は静まりかえり、僕の足音だけが響き渡っていた。
君から電話をもらったのはそれから一カ月後のことだった。このあいだのお礼がしたいから会いたいということだった。
「このあいだはどうもありがとう」
「あぁ、別に気にしなくていいよ。それより体のほう平気かい」
「おかげでもうすっかりよくなりました。ほんとにどうもありがとう」
「そうですか。早く治ってよかったですね」
話しながら僕は君の心の傷みに触れるのが怖かった。心の中に深い傷が残されているんじゃないかと思うと、とても辛かった。
「このあいだのお礼がしたいんですけれど、今度一緒にお食事にでもゆきませんか」
「えぇ、僕のほうは全然かまいませんけれど。いいんですか」
僕は君の体の具合を心配した。
「ぜひもう一度お会いしたいんです」その時の君の声はとても心細く聞こえた。
「じゃあ、明日はどうですか。僕、明日は何にも予定がないから。君に明日何か都合が悪いことがなければ。都合が悪いなら他の日でもいいんだけど」
「私のほうはかまいません。明日お会いできるならそうしたいんですけれど……」
「じゃあ、渋谷の伝言板の前で待ち合わせませんか」
「はい。かまいません」
「じゃあ、六時に伝言板の前で……」
「はい……」
そう言って電話を切った後、僕の胸にはこみあげるものがあった。きっと僕は君の心の傷みの奥に入り込んでしまうだろうと思ったからだ。
心の傷みを引きずりながら落ちてゆく恋はたまらなく虚しいにきまっている。
暮れてゆく公園からは、はしゃいで遊ぶ子供たちの声が遠ざかり消えていった。
「あともう一年もあればすべて忘れてしまうんじゃないの」君はなげやりにそう呟くとふと立ち止まり、あっ、そうだあなたからもらった指輪まだ家にあるのよ、あれ返すわ、と言って急に涙ぐんだ。
「勝手に捨ててくれればいいんだよ」僕はそう言って、わけが分からないまま君をじっと見つめていた。
「そういうわけにはいかないものよ……」君はまるで不思議な優しさを持つ風のようにそう言って、ひとつぶの涙をぬぐった。僕はただ心を閉じたまま、立ち尽くしているよりほかなかった。
「じゃあ、こうしましょ。この桜の木の下にあなたからもらった指輪を埋めておくから」
「そんなふうに思い出を残しておいてもいいのかい。僕は辛いよ……。そんなことをしたらますます自分を救えなくなるような気がする」
「だから、あなたを救ってあげるから。だってこんな夕暮れを待っていたのはあなたのほうじゃない、あなたが永遠に彷徨《さまよ》っているその黄昏を今夜限りで消してしまいなさいよ。もう二度と開かない扉の鍵をここに埋めてしまうの。あなたはこの大地の上で自由に生きてみるのよ、そして桜の咲く頃だけ少し涙を流して、失いかけて彷徨っているすべてをまたここに埋めてしまえばいいのよ」
枯れた桜の木の下で僕らは幾年月かの時間の流れを思い浮かべていた……。別れがあまりにも残酷なことならば、許すということはあまりにも切ないものだ。忘れることができずにいる自分をみじめにさらけ出す。黄昏はそんな人間の心を影絵のように彩って、まるで叶えられなかったすべてをもとの場所へと連れ戻してくれそうだ。深い闇を通り抜け、新しい朝を迎えられるような、そんな気持ちにさせる。
「あの時君に声をかけずにいたら、今こんなふうに話し合うこともなかっただろうね」
「あなた、そのほうがよかったと思うの」君は暮れてゆく空にひとつだけそんな疑問を残すように、僕に尋ねた。
「君は僕らの出会いが別れよりも大切なことだったと言うのかい」
「こんなにたくさんの思い出も、その日がなければこんな気持ちには、きっとならなかったのにね……」
空の向こう、遠い彼方にわずかに残った黄昏が、跡形もなく吸い込まれてゆこうとしているのを、僕は見つめていた。
2
六時を過ぎても君は現れなかった。一カ月の間に街はすっかり変わってしまっていた。
夏の夕暮れは照り返しが焼けつくように暑く、蒸せかえる人混みのなま暖かい空気が街中に漂い、鼻をつく。喧騒と人波に呑み込まれた頭は混乱し、君を探しながら気が狂いそうになる。通り過ぎてゆく女性のすべてが野性と理性を兼ね備えているようだ。人混みは僕を見つけ出し、疎外してゆく。
四十五分過ぎても君はまだ現れなかった。すると待ち合わせの時間の中に取り残されてゆく胸の中で、街並みはいつしかぎこちない安らぎと平和に満ち溢れているように見え始めた。したたる汗の滴《しずく》を滲ませたシャツは遥か遠い異国の熱帯夜を思わせる。はかなくも虚しい存在を意味しているようだった。
それでも不意に君がどこからともなく現れ、微笑むのを、僕は胸の奥のどこかで期待していた。人の心の安らぎの隙間を見つけ、ようやくこの雑踏の中へ舞い降りてこれたのだと、君は僕にそう呟くだろう。
人は支払った現実と夢との代償に、自分の足をどこかで踏み止《とど》める。まるで幻聴に脅かされながら、閉じ込められた部屋の中で足踏みを止められずに歩き回る囚人のように。
電光掲示板のデジタル時計が六時四十五分を指してから秒読みを始める。一、二、三、四、五、六、……。頭の中で作用するアルファ波が、暗算する僕をますます覚《かく》醒《せい》させる。
チェスのひと駒を相手がどう動かすかを待つように、僕は自分の存在を確保していた。僕にはそれ以外の方法がない。時間はまたたくまに過ぎてゆき、君を見つけ出すことと待つことにくたびれてしまった。
街並みは、西に傾いたぼんやりと大きな夏の太陽の日差しの中で活動をゆっくりと止めていった。太陽の陰に隠れたビルの壁面が次第に冷え、人々の歩幅を縮めてゆく。
三百二十五秒を数え、覚醒し疲れた僕の弱った神経の向こう側に、ようやく君が現れた。
その瞬間の思いを言葉に置き換えてしまうのならば、来るべき時が来たのだ、と思った。
「遅れてごめんなさい。ちょっと用事があったものですから……」君の表情は暗かった。何か大変なことがあったのだろうか。君にはいつも影があった。
「ううん、来ないかと思ったよ」
鼻の頭に汗をかいた君が目の前に現れたとたんに、僕は何のこだわりもなくしたかのようだった。そして二人が一歩、歩き出すとすぐに、嬉しさとも喜びとも違う、好奇心に似た戯れの中で押し流されるように人波にもまれた。
「どこに行きましょうか」僕の質問に、君は遠慮がちに首をかしげ、そして目をそらした。その視線は誰か他の知り合いを探しているようにひとなつっこく、寂しさに震え輝いている。
「それじゃ、よろしければ僕が知っているお店へ行きませんか。とっても静かないいところなんです」
「えぇ、そうしましょ」
桜色のシルクのブラウスと白の麻のスカートを身につけた君は、脂ぎった街並みの中に咲く一輪の花のようだった。
僕らはタクシーをひろい青山に向かった。日曜日だということもあって、青山の街はとても賑やかだった。僕たちは信号の手前で降りてから少し歩き、奥まった静かな場所に建てられた店に入った。そこは以前普通の家だったところをそのまま改造してフランス料理の店にしたものだった。だから変に気取りがなく、お客も皆ざっくばらんな感じで、普段着のくつろぎの中に腰掛けていた。
真っ白なテーブルクロスの上に整理された食器や、キャンドルの炎の輝きとうつろう影の中で、僕はほんの少し落ち着いて君を見つめることができた。
君はもう何度も見て飽きたように、壁にかけられた絵を見つめていた。
僕はドライシェリーを頼み、君はカンパリオレンジを食前酒に頼んだ。
「乾杯」僕は心の中で、今夜僕といたことが幸せな思い出になることを願った。
「お酒は強いほうですか」
「いえ、そんなに強くないんです」ほんのりと赤みを帯びた君の頬は、今にもとろけそうに柔らかく見えた。
「このあいだは本当にありがとうございました」
「いいえ、とんでもない。お体のほうはもうなんともありませんか」僕はあまりこの話で君が怯《おび》えてしまわぬように、静かに丁寧に話した。
「えぇ、もうすっかりよくなりました……」
「そうですか、それならよかった。じゃあ今夜はゆっくりと食事ができますね」
店の片隅でピアノとバイオリンの演奏が始まった。聞き覚えのある旋律が流れた。弦楽器の弦を擦る時のタイミングがそれぞれ微妙にずれて聞こえるせいか、やけにピアノだけが走っている気がした。ネジを一杯に巻いたオルゴールのせかされたようなテンポが、独特の切なさで店の中を埋め尽くした。
「音楽は好きですか」
僕は知る意味がないことを知りながら、つまらない会話を繰り返す。
君の心に触れることがまだ怖かったからだ。それなのに君は唐突に、僕の胸に突き刺さることをしゃべり始めた。それは僕がまだ一度も触れたことのない心の領域へと僕を誘うものだった。
「でもどうしてそうなんでしょうね、男と女って。お互いの弱さを知るたびに一歩ずつ離れていくんだもん」
「そうかな。君はそんな経験があるのかい」僕は君の瞳を探った。
君は首を振りながら、そうじゃないわ、と言って、細い腕で体を抱くような仕《し》種《ぐさ》をした。
オレンジジュースに溶けたカンパリの微量なアルコールに体を火《ほ》照《て》らせた君は、まるで熱帯魚の色《いろ》艶《つや》が放つ心地よい感覚に包み込まれてゆくようだった。
「なんだかもう酔っちゃったみたい。あぁ、もう今の自分に疲れてしまったなぁ。あなた、ケンちゃんのお友達でしょ」そう言って君は目を伏せて微笑んだ。
「私は、本当はケンちゃんの幼なじみなんかじゃないのよ」今度は声を出して笑った。
「君はケンの幼なじみじゃないのかい」
「何だと思う」
僕はグラスを素早くつかみ、怯えた瞳で君を見つめた。そして渇ききった喉にドライシェリーを流し込んだ。
「そう、違うのよ。どういう関係だと思う」君は少し呆れたような口調でしゃべった。
「分からないよ。だって君とケンはまるで本当の幼なじみみたいだったよ」
「それが違うのよ」君は僕の心とは正反対を向いてまた笑い出した。
「私、本当はケンちゃんのお父さんの愛人なの。あぁ、今はもう、愛人だったって言ったほうがいいのかな。あの日、あなたに助けてもらった時、私、流産したでしょ。あれ、ケンちゃんのお父さんの子供だったの」
僕は気持ちの整理がつかぬまま君の言葉に唖《あ》然《ぜん》としていた。君はさばさばとした口調でしゃべった後、僕の顔を見て、はっとした顔をして、こう付け加えた。
「あっ。ごめんね、こんな話を聞かせて。もういいわ……」
君は舐《な》めるようにグラスを口元にあてがい、冷たく無表情に口をむすんだ。
僕は、いらついた気持ちを必死に落ち着かせようとしていた。そして渇いた喉に息を詰まらせながら、なんとか君に向かってしゃべり始めた。
「それじゃ、ケンの幼なじみだっていうのは全部嘘だったのかい。でもどうしてケンとあんなに親しくしていたんだい。だって君はケンの父親と付き合っていたんだろう。だけどケンだって、あんなに親身になって君をかばっていたじゃないか。君は……君とケンはいったいどんな関係だったんだい」
僕は心のわだかまりを全部口にしようとした。そしてしばらくためらって、君を凝視しながら、小さな悲鳴をあげるように僕はこう言った。
「ねぇ、三人の間にいったい何があったんだい……」
君は僕の質問の無神経な過ちを見透かして、少し顔を歪《ゆが》めた。
「ケンちゃんとはただのお友達よ。ただ、ケンちゃん、私のことが好きだったみたい。それだけよ……」
君はあるものすべてを君の手で確かめてから、何もかもすべてを壊してしまいそうな冷たい眼差しで、また壁にかけられた絵を見つめていた。
「そうか、ケンは君のことが好きだったのか……。でもどうして君をおいてアメリカに行ったんだろう」
溜息をつくように君は話した。
「それはね、私も後からアメリカに行くはずだったからよ。ケンちゃんのお父さんと別れるってケンちゃんに言ったの。それでケンちゃんアメリカに……」
「ケンは君をアメリカで待っているんだね……」
君はさめた仕種で長い髪をゆっくりとかきあげた。
「それで、行くつもりなの……」
「どうしようか迷っているの」
「だってケンは向こうで君が来るのを待っているんだろ。ケンとは連絡をとっているんじゃないのかい。それともケンが今、何をやっているのかまったく知らないのか」
ピアニシモにシンコペーションして流れる静かなバイオリンの余韻の中で、君と僕は互いにまったく違った気持ちを激しくぶつけ合っているようだった。
「ケンちゃんとは……。ケンちゃんから私のところに何度か電話があったわ。お父さんと私のことまだずいぶん気にしているみたいだった。それと、私がいつになったらアメリカに行けるようになるのか、そればかりしつこく何度も聞かれて、なんて言ったらいいのか分からなくて……。当分は一人で考えてみたいと思っているの。だけどケンちゃんは……」
「君が早く来るのを待っているんだね」
「そうなの……」
ボーイが料理のメニューとワインリストを持って来た。
僕はオードブルにキャビアを、君はフォアグラのテリーヌをたのんだ。冷たいかぼちゃのスープとコンソメをそれぞれたのみ、サラダと、フィレステーキをレアとウェルダンで注文した。それから、ワインの前にシャンパンをたのんだ。
僕らはシャンパンでささやかにもう一度乾杯した。
君は小さくちぎったパンにフォアグラをつけて口へ運び、僕はキャビアをクラッカーの上にのせて、卵の白身だけを少しふりかけた。
僕たちはしばらくの間互いに何もしゃべらず黙っていたが、君のほうからこう話し始めた。
「私、生まれは北海道の札幌なの。高校を卒業してからすぐ、東京のデパートで受付をしていたのよ。そしたらそこで、銀座のクラブのママに、私のお店で働かないかって名刺をもらったの。デパートの受付よりお金がいいっていうし……。だから後でそのお店のママに電話したら、私だったら一日二万のところを三万にしてもいいって言われたのよ。それでデパートを辞めてそのお店で働くようになったの」
シャンパンの酔いがキャンドルの炎に妖しげに揺れ動いていた。
「勤め始めてから、一カ月くらいした頃だったわ、藤谷さんに会ったのは……。藤谷さん、初めて会った時から、私のことずいぶんと気に入ってくれてね……。それからは、毎日のようにお店に通ってくれたわ」
「そうだったのか……」
君の話とシャンパンの酔いで、僕は驚きで冷えきっていた気持ちを、知らぬ間にまったくどこかに忘れてしまっていた。
「それで、ケンのお父さんに誘われたんだね」
「うぅん」君は首を横に振って、諦めたように話し始めた。
「私からね、藤谷さんの会社に電話したの。週に一度お客さんを誘ってお店に行く日があって、それで私……藤谷さんと一緒に行こうと思ってね……。待ち合わせしたの。藤谷さんの会社の近くの喫茶店で。そう、それがちょうど、藤谷さんとお会いしてから一カ月くらい経った頃かな」
君は思い出の中に深く沈み込んだ。しかしそれは深海の淵で太陽の光をさえぎられたものではなく、透き通った水の底で、光り輝く何かを見つけ、手にした喜びの表情に似ていた。
「ケンのお父さんて、優しい人だったのかい……」
僕はありきたりの言葉で、君を捕まえようとした。けれど君は、思ったとおり、僕に微笑み返すだけだった。
「ケンちゃんのお父さんの藤谷さんて、それまでに会ったことのないタイプの人だったわ。でも私にしてみれば、あの頃は何もかもが新しかったのよ。東京も、仕事も、人との出会いも、何もかもね……。ちょっと変なこと言うようだけど、水割りを作る時の氷の音の響きが、まるで風鈴のように聞こえたの。そしてその音はどんどんと音色を変えていったわ。時が経つごとにどんどんとね……」
おかしいわね。君はそう言って詩人のように笑った。
「待ち合わせして、コーヒーを飲んで、それから食事をしたの。お寿司をごちそうになったわ。東京で、初めて男の人と二人きりでお寿司を食べたの。その時藤谷さん、私の着ていた真っ赤なワンピース、よく似合うねって、ほめてくれたわ……」
僕は君の物語を聞きながら、知らぬ間に相《あい》槌《づち》をうっていた。
ボーイがスープを運んできた。スープ皿は、君の話を壊さないように静かにゆっくりと置かれた。
君は長い髪をかき上げ、そしてスープを口にする前に、ほんの一瞬だけ微笑んだ。
僕のたのんだ冷たいかぼちゃのスープは銀色の味がした。
「ねぇ、そういえばあなたの名前、なんていうの。ヒロとしか聞いてなかったわ。教えて」
「えっ、僕の名前かい。僕の名前は鈴木裕行っていうんだ」僕は照れた。
「じゃあ、君の本当の名前も教えてくれるかい。今度は嘘なしの、本当の名前だよ」
僕は冗談まじりに言ったつもりだったけれど、君は気まずそうな顔をしていた。
「私……。私の本当の名前はカ・ワ・シ・マ・ミ・フ・ユ。川島美冬っていうの」
「川島美冬ちゃんか。可愛らしい名前だね」
僕はうつろうキャンドルの炎の中で正常な言葉を探していた。よくは分からないけれど、胸の中でいっぺんにはじけてしまいそうな何かを感じていたからだ。
「そう……。皆には冷たい名前だねって、よく言われたけれど……」
君は冷たいものに触れてしまったように呟いた。
「ねぇ、ケンちゃんのお父さんの名前知ってる」
「知らないよ」
「ケンちゃんのお父さんの名前、剛造っていうのよ。ゴ・ウ・ゾ・ウ……。なんだかおっかない名前よね」
君はそう言って笑った。君の心の中のわずかなケンの父への思いが、伝わってくるようだった。僕らは何度もシャンパンを注ぎ、君はそんな冗談を言えるほど酔っていた。桜色のブラウスを着た君の胸元には、真珠のネックレスが揺れていた。
「ケンちゃんのお父さんと付き合い始めて一年とちょっと経った頃かな。私、ケンちゃんがお父さんのところにかけてきた電話を取ったのよ。びっくりしちゃった」
君はまるで冗談をほのめかしながら僕を否定しているようだった。
「私ね、ケンちゃんの親が別居してしまったのは知っていたの。お付き合いを始めてからちょうど一年になる頃だったからよく覚えているわ。それにケンちゃんのお父さん、何でも私に話してくれていたから……」
その時、僕は、君が指にとてもよく光るサファイアとエメラルドとルビーをちりばめた指輪をはめていることに気づいた。
「あっ、これ。自分で買ったのよ」君の瞳はその指輪の輝きを打ち消すほど潤み輝いていて、君の話すことすべてが真実を物語るようだった。
「その電話ね、やっぱり奥さんからの言付けだったの……。ケンちゃんのお父さんは、何で奥さんが自分で電話してこないのかって怒ったらしいの。そしたらケンちゃん、お父さんの愛人のこと持ち出したらしくて、ずいぶん言い合いになったんだって。私、それを聞いてたから、ケンちゃんに私のことが分かったら嫌だなって思ってたのよ。そしたら……」
僕はその言葉の先に固《かた》唾《ず》をのんだ。僕は、君の中で僕とケンの存在が交錯しながら、君が次の言葉を口にする瞬間を捕らえようとしていた。
「ケンちゃん、私のことを会社の前で待ち伏せていたのよ。仕事を終えて帰ろうとしたら、いきなりケンちゃんに呼び止められたの」
その時僕は、君がケンを苦しめていたのだと思った。そして、君は、まるでケンの意思をくみ取ったように話し始めた。
「きっとケンちゃんの心も冷えきっていたのよね。ケンちゃんね、私に、こんなことをしていてもしょうがないからお父さんと別れてほしいって、言ったのよ。昔のお父さんはこんなんじゃなかったって……。ケンちゃん、本当にどうすればいいのか分からないって、今にも涙をこぼしそうだったわ」
君はまるで同情を誘うように僕の胸元に視線を落としてから、そっと僕を見上げた。僕もケンからそんな話を聞かされたことを思い出し、そして君の瞳の奥にはっきりと炎のようなものを見た。
「ケンちゃんのお父さん、早くに両親を亡くしたのよね……。おばあさんに育てられたんでしょ。十七歳の時から働き始めて、今の会社をつくるまでは釘の一本も探して拾うような暮らしだったって、それがあの人の口癖だったもの」
君の口調は整理し尽くされていた。
「でも今では、業界でも有名な貿易会社だものね。土地もたくさん持っているの、知ってるわ。有名な人にも何度も会わせてもらったことあるの。なくしたり、捨てたり、裏切ったり、裏切られたり、本当に苦労が多かったみたい。でも優しい人だなって思った。だからケンちゃんの言いたいことも分かる気がしたのよ。変かしら……」
「ケンは君に本当のことを教えたかったのかな」
「本当のことって何」君は眉《み》間《けん》に皺《しわ》を寄せ、隠しきれなくなった傷みに、哀れみを誘うように唇を噛み締めていた。
「ケンが幼い頃憧れていた父親のことだよ。僕もケンからそんな話を聞いたことがあったんだ」僕は君の仕種の中にケンの瞳を思い出していた。
「ねぇ、ケンちゃんのお父さんの会社が倒産しかかった時のこと知ってる」君は質問しながら表情を変えた。
「うん、ケンから少しだけ聞いたことがあるよ」
「仲間の人にお金を持ち逃げされたのよね」
「ああ、そうらしいね……」僕が困った顔で頷いたのは、君の話にとりとめのない女っぽさを感じていたからだ。
「ケンちゃん、あなたといると落ち着くって言ってたわ」
君は誘うような仕種でそう言って、じっと僕を見つめていた。君の瞳は濡れていた。
「そうかな。僕はケンに何もしてやった覚えはないけれど。ケンは遊んでいる時もいつも心の中に何かを隠しているようだったな。アメリカに行くって聞く少し前から、あいつちょっと様子が変だったのかもしれない。ただ、いつも物思いにふけっている時間のほうが長いやつだったからね」
君もまた胸の内にケンの何かを隠していた。
「あなたって、おかしな人ね」
「そんなことないよ」
君はその日、僕に向かっていちばん素敵な笑顔を見せた。
「僕のことよりケンのことはどうするつもりなんだい。こんなことを、会って三度目で言うのもおかしいかもしれないけれど、ケンはたぶん君をずっと待っているんじゃないかな。もしかしたらあいつが初めて心を開こうとしている時かもしれない」
「そうかしら……」
その言葉は、打ち解け合ったものを二人の会話からはじき落とした。
「私、今住んでいるところから、そろそろ引っ越すつもりなの……。どこかいいところが見つかればいいなぁ」
君は運ばれてきたフィレ肉を目の前にすると、美《お》味《い》しそう、と言ってはしゃぎ、小さく切った肉を一口頬張りながら僕の瞳を見つめていた。
僕は赤ワインをたのみ、濃縮されたブドウのまるで血のような色を味わいながら、もう一度君の瞳をじっくりと見つめ直した。
「そのね、お寿司を一緒に食べた時に、彼が私に、君はこんなところで働いているような子じゃない、僕の会社で働きなさいって言って、マンションまで借りてくれたの」
「じゃあ、今君はそこに住んでいるんだ」
「そうよ」
ふと気がつくと、君はまったく別の顔をしていた。まるで何かに腹をたてたような表情だった。
「でも、もう引っ越さなくちゃならないの」
「どうして」僕は君の機嫌を損なわないように、なるべくゆっくりとしゃべった。
「私、今日、彼と別れたの。何もかも全部終わっちゃった。二年間があっという間に過ぎてしまったわ。もう二十歳だもんね。はやいなぁ、何もかもあっという間だったなぁ。ねぇ、あなたの誕生日っていつなの」
「僕の誕生日は十一月二十九日の射手座だよ。君は」
「私は一月の二十一日生まれの水瓶座。私が生まれた朝はね、大雪が降りやんで晴れ晴れとした青空が広がっていて、周りはとても綺麗な雪化粧だったんですって。それで、とっても美しい冬の朝に生まれたから美冬って名前にしたんだって。そう母親が言っていたわ」
君はナプキンで口の周りを軽く拭きながら、子供に返ってはしゃいでいた。
僕はふと美冬の両親のことが頭に浮かび、それとなく尋ねてみた。
「ねぇ、君の両親は今どうしてるの……」
「私の父親は私がまだ二歳の頃に死んでしまったの。お母さんは私が五歳の時に再婚してね。父親の違う妹がいるのよ」君はしっかりした口調で話し、また絵を見つめた。
僕は質問したことを後悔した。
「そうだったのか。変なこと聞いてごめんね」
「うぅん、いいのよ。別に気にしなくてもいいの。札幌には今年のお正月帰ってお母さんにも会って来たのよ。元気そうだったわ……」
ボーイがデザートの注文を聞きにくると、君は泣き顔を隠すようにカシスのシャーベットをたのみ、僕はコニャックを飲んだ。
「ねぇ、私たちいいお友達になりましょうよ。あなたにいろいろ聞いてもらいたいこともまだたくさんあるし……。ね、いいでしょ」
「あぁ、かまわないよ」
僕はそう答えたが、ケンにこの事情をなんと言って説明すればいいのか戸惑ってしまった。
「ねぇ、ケンちゃんのこと考えてるんでしょ」
見透かされたその時の僕は、言い訳がすぐに思い浮かばなかった。
「ケンちゃんのことは心配しないで。ケンちゃんとはいいお友達だったの。ケンちゃんのお父さんのこともあるし……。もしケンちゃんからあなたのところに電話があっても、私のことは黙っていてほしいの」
僕は君の唇を見つめた。君の求めるすべてが僕を苦しめるものだということに僕は気づき始めながらも、何故かは分からないが、恋に引きずり込まれていく自分がそこにいた。
キャンドルの炎は静かに揺れ続けていた。幻影は二人を温かく包んだ。触れることも消し去ることもできずただ見つめるだけの炎は、黄昏のように切なく燃えていた。
僕は店の勘定を払おうと、テーブルにボーイを呼んだ。すると君は、いいの、今日は私のほうから誘ったんだから、と言って微笑みながらハンドバッグから財布を取り出し、勘定を払ってくれた。
そして店の外に出ると、僕の瞳を見つめながらこう言った。
「また今度会いましょ。電話するわ……」
3
店を出て美冬と別れてから、僕は柔らかい街灯の明かりに照らされながら歩いた。まるで彼女の話した言葉が頭の中で混乱していることを象徴するように、僕の影は街路樹の枝葉が落とす綴《つづれ》織りの影の中に紛れ込んでいる。
街並みは静けさを漂わせている。繁華街から流れ歩いてきた酔っぱらいたちの奇声が時々聞こえたが、街並みは昼間の喧騒をまったくどこかへ消し去ってしまっていた。
銀行のデジタル時計は、十一時十分を示している。僕の腕時計は十一分を曖《あい》昧《まい》に指していた。
車の流れもまばらだった。君の言葉を何度も反復しながら、街路が彩る光の中に溜息をつくだけのやり場を見つけ出すことぐらいしかできない。
時々柔らかに吹く風の囁きに耳を傾けながら、気持ちをどこか遠くに取り残してしまいそうになっていた。それは激しくもなく、温かいものでもなかった。今まで熱かったものが冷めてゆくような感じがした。心に溢れているのは常温を保った彼女と僕の語らいだけだ。
何ひとつ心の浄化を示唆するものはない。ただ常識というレールの上に管理され、縛られた人々の心が、それから逃れようとしているだけのように感じる。
僕はケンと美冬のはざまに立たされ、心を揺れ動かしていた。まるで本能に勝ち得ない理性が罪と罰を背負い始めているようだ。
彼女を一概に責めることなどできはしない。それに、僕だって、今、彼女が何かを失おうとしていることを黙って見過ごせやしない。
心地よく静まり返った街並みには、微かな揺らめきがあった。少しずつ熱を失ってゆく夏の夜の空気はしなやかに研ぎ澄まされている。まるで巨大な瞳の中を浮遊しているようだ。
僕の心は、何かに確実に捕らえられている。美冬の小さな囁きが胸の中でこだまする。
真理と現実を振り分けてゆかなければならない気がする。もしそれが不可能ならば、美冬への思いは永久に心のざわめきとなって僕を苦しめるだろう。
僕の歩調はアスファルトの上で不確かな運命を追っているように思われた。美冬を愛する本当の意味を、どこまでも追求し始めている。彼女の存在は、か弱くはかなくも、僕を魅了しているのだから……。
街灯の周りに、一匹の大きな蛾が金色の輝きの鱗粉をふりまきながら羽ばたいている。
僕はタバコに火を点《つ》け、タクシーがつかまるまで、今住んでいる部屋の方角へ向かって歩くことにした。静まり返った闇の中では本当に何ひとつ僕を映し出すものを感じない。
静寂の暗闇の中に人々が残していった熱の残骸をすり抜けてゆくだけでいい。迷信とかジンクスをすべての僕の存在理由に置き換えながら、闇はますます深さを増してゆく。
ようやく空車が一台、車線を外れながら勢いよくこちらに向かって来た。
僕は手を上げ、そのタクシーを拾った。
ウィンドー越しに一晩中咲く花のようなネオンを見つめていた。そこには美冬の温もりがあった。目に焼きついた残像のように記憶の彼方で黒く赤く青く蘇《よみがえ》ってしまう。
僕はシートに深くうずもれ、しばらくの間目を閉じていた。
通り過ぎてゆく街並みに君の気配はもうなかった。独特の哀愁を放つジェラシーを持つべき理由などないのだから。ただ君は僕の胸の奥に隠れて、安らぎの眠りについている。
茶沢通り沿いの銀行の前でタクシーを降りた。すっかり眠りについた下北沢の繁華街には、ゴミ置き場の残飯を求めた野良猫らが駆けずりまわっている。
住宅街の中を通り過ぎる時には、眠りについた子供を起こさぬような慎重さでなるべく足音をたてずに歩き、マンションの前に着くまでは僕の頭は呼吸を感じているだけで、ほとんど無感覚だった。
エレベーターのボタンを押し扉が開くと、僕は箱の中に閉じこもるように中に入り、四階のボタンと扉の閉じるボタンを手際よく押した。
まるでボーイソプラノの全音域を滑らかに上行してゆくようなモーターの音に包まれ、無重力状態の中にいるようだった。そしてエレベーターは何かにつまずいたように止まり、扉が開いた。
マンションのこげ茶色のドアは、密室の意味を持つように重々しかった。セカンドバッグから鍵を取り出し、慎重に鍵穴に差し込み右に回すと、ロックされていた鍵は僕の手に心地よい振動を伝えて開いた。
部屋の明かりを点けると、いきなり酔いがまわってきた。ネクタイをすこしゆるめて、ソファーに腰掛けながら、美冬のことを考えてみた。
彼女はいったい何が欲しいのだろう。
愛人だったことやケンとの関係を、何のために話したのだろう。
しばらく考えているうちに、そんなことを思いつめている自分自身がたまらなく可《お》笑《か》しくなって、何度も鼻で笑ってみた。
身体中が汗ばんでいるのを感じる。僕はスーツを脱ぎ、冷たいシャワーを浴びて、酔いと疲れを癒《いや》した。
バスローブをはおり、ソファーに寝転がりながら、気分を変えるためにテレビのスイッチを入れた。深夜番組のほとんどはトーク・ショーだ。薄っぺらなデカダンをさりげなく示唆している。
僕はこの類のテレビ番組に常識や知識を求めているのではない。そこにあるのはナンセンスだ。満たさず、絶やさずに番組は構成されている。
僕はいつ自分に素直になれるのだろう。美冬の屈託のない笑顔と自由奔放な生活は、いつまで続くのだろう。それを僕はいつまで見つめることになるのだろう。
美冬は寂しさ故に僕の愛を試そうとしているのだろうか。それにしても彼女は人の愛に対してあまりにも無防備すぎやしないだろうか。もしも美冬が、僕のどんなことを聞いたとしても、きっと精一杯の言葉の中にむりやりあてはめた返事が返ってくるに違いない。
それとも、とりとめもない傷みの中でもがく彼女の心の変貌を想像しながら、僕が愛されたいと思い始めているのだろうか。もしそうだとしても、美冬はそんな僕の気持ちなどきっと理解しないだろう。僕を疑った眼差しで見つめ続けるに違いない。
部屋の窓からは新宿の高層ビルが見える。まるで生き物の目のように赤いランプが点滅している。この街の息づかいや、鼓動が聞こえてくるようだ。僕も美冬もこの街の中に呑み込まれて暮らしている。
冷やしておいたバドワイザーを冷蔵庫から取り出し、熱《ほて》った体の内部に流し込んでみた。ホップの苦みがちくちくと喉をつついた。味覚も視覚も考え方も無感覚になってゆくようだった。
人の心は何故すれ違うものなのだろうか。そう思いながら、僕はテレビを消した。その疑問に、こだわりを覚えたからだ。遠くに車のエンジン音が、遠吠えのように聞こえる。
部屋は言葉の跡切れた絵本のように静まり返った。
僕はタバコに火を点けて、感覚のない喉に煙をくゆらせていた。
美冬に電話してみようかと思ってもみたが、やはり今夜はやめておくことにした。こんな気持ちは、空回りするにきまっている。タバコをもみ消し、ビールを一息に飲んでからベッドに転がるようにもぐり込んだ。
けれど、それからも僕の目は冴えわたっていた。いくら目をつぶっても、眠ることができなかった。虚ろに、いくつもの思いが、脳裏に蘇る。それらのすべてがどこかに、完璧な信頼を持つことのできない人の心のやり場のなさを滲ませていた。明日のことを考えたり、過去のことを思い起こしたりして、なかなか眠りにつけなかった。
しょうがなく僕はベッドから這《は》い上がりもう一本のビールを開け、テレビをもう一度つけた。僕の瞳に真っ白な電光が広がった。テレビキャスターの言葉は、美冬が僕に残した小さな思いを不自然に蘇らせ、それから明け方近くになるまで、冷蔵庫に冷やしておいたビールを全部飲み干して、ようやく僕は眠りにつくことができた。
翌朝、僕は寝坊しそうになり慌てて出勤した。ラッシュアワーの電車に飛び乗り、車中に充満した体臭と化粧品の臭《にお》いとで吐き気を覚えた。電車が揺れるたびに体を押しつぶされそうになりながら、何度も息を詰まらせていた。
会社に着いても、二日酔いで疲れていて仕事に集中できなかった。今のこの仕事が自分にむいているのかどうか、そんなことばかり考えていた。
デスクに積まれた山のような書類の中に埋もれてしまいそうだ。自分が自分でなくなる瞬間を何度も味わう。早口でしゃべる上司の命令と余計な世間話に頭を痛める。沈黙した時間の中で今日一日の無意味さを知る。渋滞した環状線の道から排気音が聞こえ、化学変化して人体に害を与えそうな太陽光線が窓越しに光っている。まるで危険な一日を警告しているようだ。会議室に閉じ込もった人々の愛想笑いが、時々大声で響きわたる。まるで僕の存在のちっぽけさを嘲笑っているかのように。僕はそんな一日の中でただ黙々と書類を睨みつけていなければならなかった。
午後五時になってようやく仕事から解放された。飲みに行かないかと同僚に誘われたが、用事があるからと言って断った。
人と人の隙間を見つけて駅のホームに立ち、滑り込んで来た電車に乗り込む。帰りの電車は朝のラッシュアワーより規則的に揺れ、夕暮れの街をただひたすら走り続けた。僕は一駅ごと、扉が開くたびに視線を落とし溜息をついていた。
ほんの数カ月会社に通勤している間に、僕は線路沿いの風景の中にいくつかの目標をつけた。坂道のポプラ並木、ビルの間の空、錆《さ》びた金網、赤と白で書かれた神経科の病院の看板、歩道橋に掛けられた交通安全の横断幕、いくつもの繁華街のイルミネーションの輝き……。
駅の改札はごった返して、押し寄せる人混みや、階段に流れる人波の中に心のやり場はない。
すれ違うふとした女性の仕種にためらいや偽りを感じて、僕はようやく社会の束縛から解放された気分になり、空を見上げた。数えるほどの小さな星をちりばめた夜空が、建物の間にパズルのように区切られて、雑踏に紛れ込んでいる僕を見つめている。
ざわめきを通り過ぎると、ぽつんとたたずむ街灯の下に美冬が立っていた。
「あなたを待っていたの」
君は照れたように、上目遣いで僕を見つめながら、そう呟いた。
「あなたの部屋にあがってもいいかしら」
僕に話しかける君の仕種には、なくしたものを塗りつぶそうとする寂しいこだわりがあった。
「うん、いいよ。けど、部屋は散らかっているからな……。それでもいいかい」
「かまわないわ。それより、あなたにどうしても相談したいことがあるの」
君の瞳を見つめると、涙がこぼれ落ちそうになった。めまぐるしい日常に狂い出しそうな僕の弱い心に、そっと寄り添ってくれるようだったからだ。
「どうしたの。疲れているのね……。ごめんなさいね、勝手に会いに来ちゃって」
「ううん、そんなんじゃないんだ」僕は心を空白にして感情を抑えた。
「じゃあ、狭い部屋だけど、よかったら、どうぞ……」
歩き出すと、僕の横で君は遠くを見つめる瞳をしていた。いつも心のどこかに自分を隠しているように、透き通っていて、そんな時君の心を探しても、僕の戸惑いだけがガラス越しに映し出されてしまうようだ。
マンションの狭い入口の蛍光灯が切れかかっていて、点いたり消えたりしていた。
「それより、よくここが分かったね」
「昨夜ね、ケンちゃんから電話があったの」君は傷に触れる時のような慎重さで、ぽつりと呟いた。
僕は何も答えずに、ただ黙ってエレベーターが降りてくるのを待っていた。
エレベーターに乗ると、君は黙り込み、今度は狭い空間の中で僕の心を見つけようとしているようだった。
四階のボタンを押すと、まるで跡切れた会話をつなぎ止めるようにエレベーターは上昇した。扉が開くと、僕は君を一瞬だけ見つめて前を歩いた。
「ここが僕の部屋なんだ」鍵を開けながら、いつもの重々しいドアの感触に触れると、僕は君を取り残しそうな強い孤独を思い返した。
「あがってください」
そう言って招くと、君はにこりと微笑んで玄関の中に入り、まるで裸体をさらけ出すように、そっとハイヒールを脱いだ。その細い足首はとても印象的で綺麗だった。
「おじゃまします。素敵なお部屋ね」
「狭い部屋だろ。でも一人でいると、こんな狭い部屋でも時々寂しくなるんだ」
明かりを点けて、散らかった雑誌を整理した。
「汚いけど、ここに座ってよ」
「ありがとう。うわぁ、素敵な写真ね。これ裕行さんが撮ったの」
君は壁に飾った額縁の中の写真を見つめていた。
「ああ、趣味なんだ。学生時代は、東京の雑踏の中で写真を撮りまくっていたよ。その中で、いちばん好きな写真がそれなんだ。夕暮れの街が好きでね。その写真を撮った時には、交差点の真ん中に寝転がって、人の足だけを狙ったんだ。夕暮れの人混みは、まるで墓標のようだった」
その写真は真っ赤な夕暮れの街並みの中に、足だけがいくつも写っているものだった。
「最近はもう撮らないの」
「たまに撮るけど、昔ほど熱中してないな」
「ふぅん、ねぇ、写真って難しいんでしょ」
「そんなことないよ。気に入ったものに向かって、何度もシャッターを押せばいいんだ。それに、僕の場合は趣味だから、プロのカメラマンほど苦労はしないからね」
「そっか」君はじっとその写真を見つめて、なんとなく他のことを考えているように見えた。
「私も写真を撮ってみたいな。今度写真のこと教えてくれる」
「いいよ。写真って、けっこう面白いよ。教えてあげるよ」
「本当。嬉しいわ」君の瞳はファインダーを覗く時のように、時間を止めてしまいそうなくらい正確な描写で僕を見つめていた。
「ケンと何を話したんだい」僕はだいたいの見当をつけていた。
「何もかも話してみたの。ケンちゃんのためにもそのほうがいいと思って。あなたのことも話したの」
「僕のことって何のことだい」
君は遠回しな口調だった。
「もうね。何もかも元どおりにしたいの。東京に来る前は、こんな生活になるなんて思ってもみなかったのよ。でも、だめね。お金とか着飾ることに夢中になっていた自分が、今になって馬鹿げている気がしているの。私、あなたと食事しながら、初めて東京に着いた時のこと思い出しちゃって、なんだかずいぶん自分が変わっちゃったなって変に寂しくなっちゃって、タクシーの中で泣いちゃって、それから……」
君は涙に埋もれてゆくように、がっくりと肩を落として泣き出した。
「ねぇ、君がそんなに悲しむ理由は何もないよ。誰にだって時には何にも見えなくなってしまう時があるものだから。ちょうど今がそんな時なんだよ。せっかく自分で見つけてきた生き方なんだし、誰も君を責めたりはできやしないんだから……」
僕はなんとか君を慰めようとしたが、それでも泣きやまなかった。しばらくは泣き崩れている君を見つめているよりほかなかった。
「何か飲むかい。僕の好きなスコッチがあるんだ、一緒に飲もうよ」
君は涙にむせながら子供のように何度も頷いた。
「水割りにする。それともロックがいいかい。何がいい」そう聞くと、君は涙を拭きながら立ち上がった。
「私がつくってあげる……」
「いいよ。座ってなよ」僕は君の肩を叩き、初めて君の体に触れた。
「いいの……。私に……つくらせて、お願い……」涙に体を震わせながら、目を真っ赤にして、視線を床に落とし、さっきよりももっと涙を流しながら僕の前に立ち尽くしていた。
僕は君の肩に触れながらスコッチを取り出し、じゃあこれ、一緒に飲もうと言ってもう一度肩を叩いて君をテーブルの前に座らせたが、君は泣きながらグラスを取りに行き、涙に顔をくしゃくしゃにしながら、ねぇ、このグラスでいいのと呟いた。
「うん、それでいいよ」
「氷は」
「冷蔵庫にあるよ。エビアン水も冷やしてあるから。分かるかい」
君は背を向けたまま、僕のほうに横顔を向けて静かに何度も頷き、時折きらきらと輝く大粒の涙を床にこぼし、グラスに氷を入れたり、スコッチを注いだりしながら、ひっくひっくと泣いていた。その後ろ姿は抱き締めたくなるほど、か弱い親しみがあった。
グラスを両手に持って来る時には泣き顔を隠せずに、恥ずかしがって、うつむいたまま涙をこらえていた。
「じゃあ、乾杯」
君の手は震えていた。
「ねぇ、写真を撮る時にいちばん面白い時って、どんな時だと思う」タバコに火を点け、深く吸い込んだ。
君は必死に何かをしゃべろうとしていたが、しゃべると泣き出しそうになって、困った顔をした。
「写真を撮る時にいちばん面白い時っていうのは、シャッターを切った瞬間に、まるで生命のすべてが懺《ざん》悔《げ》しているように感じる時なんだよ。いちばん面白い時なんだけれど、初めてその気分を味わった時には、死にそうなほど怖かった。パラシュートも付けずに、三千メートルの高さから急降下してゆくような感じなんだ」
君はグラスを両手で持ちながらまだ震えが止まらないでいた。
「それを初めて感じた時の写真があれなんだよ」僕は壁の写真を指差した。
「そ……う……な……の……」息をつまらせた君の瞳はテーブルの隅を見つめていた。
「今日は、あんまり笑わないね」僕はタバコの灰を灰皿の中に叩き落としながら、苦笑いして、グラスを飲み干した。
すると君は空になった僕のグラスを持って黙って立ち上がり、冷蔵庫から氷を取り出して、新しく水割りをつくり、僕の前に差し出した。
「は……い……」涙を小指の先でぬぐいながら、一生懸命笑顔をつくろうとしているのにすぐに涙がこぼれてしまいそうだった。
「ありがとう。気がきくね……」
君は大きく首を横に振った。
「私ね、もうね、今までみたいに暮らすのやめようと思うの」
僕は黙って頷いてグラスに口をつけた。
「それでね……。私のことを……分かってくれる人が……いたら……いいなって……思って……いるの」
君は両手で持ったグラスを口元にあてがい、一口だけくちにふくんで、涙と一緒に飲み込んだ。
「裕行さん、今誰か好きな人いるの……」君はようやく涙を止めて、真剣な眼差しで僕を見つめた。
「いいや……。今は……誰も」
「そう……」泣き顔を隠すようにして、君はいつものように笑おうとしていた。
「私ね、ケンちゃんに、全部話したの……。お父さんの子供を流産したことも、今までのそんな自分が嫌になっていることも、それからあなたのことも……」
僕は君の肩を見つめながら、タバコをもみ消した。
「好きな人ができたって言ったの。その人といると安心するの……」
それからの君の話はとりとめもなかった。
「だから……ケンちゃんにね、私……他に好きな人ができてしまったって正直に話したの……。だから、私たちのことはもうこれでお終《しま》いにしましょうって話したのよ。そしてね、その人にも私の本当の気持ちを話したいからって言って……あなたの……あなたの住所を教えてもらったの……。あなたのことが好きになっちゃったから……」
僕は愕《がく》然《ぜん》としたものを覚えた。ケンに対しての同情ではなく、自分自身が美冬に科した罪の意識を感じたからだ。
「ケンちゃん、諦めた様子で、あなたの住所や会社のことをいろいろと話してくれたわ。それでね、ケンちゃん、もう一度だけ私と話がしたいから、今週のうちに日本に帰ってくるんだって……」
「ケンは、他に何も言っていなかったのかい」
君は首を横に振って、また涙を流していた。その涙は汗のように悲しみの言葉のはざまから滲み出し、首筋から胸元に流れ落ちた。
僕はグラスをテーブルの上にゆっくりと置いて、君の肩にもう一度触れてみた。涙の雫《しずく》が指先を濡らした。静かに君の髪をかきあげ、汗ばんだ額を見つめると、目を閉じて涙ぐんだままの君の体は悲しみに硬直し、震えている。肩を抱き寄せると、僕の胸の中に倒れ込み、思い切り泣き出した。
部屋の明かりが鮮明に形あるものの光と影を彩る。時間は君と僕を取り残すように流れているようだ。なのに、物音ひとつしない部屋の中で二人の温もりは、何もかもすべてに包まれている。僕はひとつひとつ思い浮かぶものにシャッターを切り、そしてその意味が忘れ去られてゆくたびに胸を熱くした。君は小さな呼吸の中で、氷のように冷たい涙を流し続ける。今、すべてのものが懺悔の中に、息をもつけぬ速さで急降下してゆく。時間が逆行しているように感じる。規則的に揺れ動く瞳の奥の闇が気持ちの中で混乱する。たわいもない言葉が頭の中にいくつも現れる。酷《ひど》く激しい孤独を感じ始めた。優しさよりも、もっと単純な慰めが欲しい。君の額の汗と閉じた瞼《まぶた》から流れる涙をぬぐい、手を握ってみた。すると君は、まるで眠りにつくようにしなやかに体の力を抜いて、僕に体をあずけた。死んだように無防備な体からは、綺麗で印象的な足首が露出されていた。僕は君の体を静かに横たえ、じっと君の顔を見つめた。何かが僕から君を隠そうとしていたが、それはやがて君の唇を見つめる強さに変わっていった。僕はそっと唇を重ねた。君の細い腕は僕の体を包みながら、昆虫が這うような感触でそっと力をこめていた。眩《まぶ》しいものに目を奪われたように僕は目を閉じた。原色の絵具が混ざりあうようだ。何を描こうとしているのかは、まだ分からない。青から赤へ、赤から黄色へ、そして黒から白へ、白から灰色へ、目の前には色だけが、意識の中には温もりと呼吸だけが、波の上の空に模型飛行機を飛ばすように緩《ゆる》やかに、枯れた噴水の淵にこぼす涙のように穏《おだ》やかに続いていた。二人は固い床を温めるように転がった。
そこにあるのは、きらめく月明かりだけ。そして映し出されているものは、僕が初めて見る水流の一粒の描写。連続して切られるシャッターの中で二人は時間の経過を忘れた。
観葉植物がたたずむ壁の横で重なり合うと、君は温かい涙を僕の頬に流した。
カワレルカシラ……。ワスレラレルカナ……。シンジテモイイノカナ……。ヤリナオセルカナ……。ウマクイクノカナ……。ドウナルノカナ……。
コレデイイノカナ……。
君の吐息は呟く。黄昏の街並みに降り注ぐ足音のように。
人はいたるところに墓標を見つける。光は時の流れを忘れさせる。いまそこに渇いた喉を潤す一滴の涙がこぼれる。
僕は君にこう囁いた。
「二人の心が優しくなれるまで……」
君は笑顔よりも優しい泣き顔で、一度だけ静かに頷いてみせた。
4
僕たちは思い浮かべてしまうもののひとつひとつをかき消すように、ベッドの上を転がった。
脱ぎ散らかした二人の衣類が、眩しい朝の光に照らされている。美冬の白と紺の水玉模様のワンピースの上には、珊《さん》瑚《ご》のブレスレットと真珠のイヤリングが無造作に置かれていた。
美冬はいつのまにか眠りについていた。横たわる彼女の右手の中指には、小さなダイヤをちりばめた指輪がはめられている。彼女は目を閉じて、じっと息をひそめているだけのような不安な表情で、額に汗をかいていた。汗ばんだ髪は新緑の匂いがする。
肌の温もりを確かめ合っても、何度口づけをしても、まるで激しい情念だけが狭い部屋の中で空回りしているようだった。
僕は彼女の髪を撫でながら、どんな夢を見ているのかを想像してみた。そして、ふと彼女が急に目覚めてしまうことに怯えてしまった。
たった一夜で象《かたど》った二人の輪郭が、言葉にならない空白の朝の中で壊れてしまいそうに思えてならなかったからだ。君を苦しめるものから護る術など分かるはずもないまま、じっとその無表情な寝顔を見つめていた。
一睡もできなかった。僕は、会社を休むことに決めて、上司の家へ電話するために、虚ろな気持ちで君を残したままベッドから抜け出した。
入社してから会社を休むのは初めてのことだった。風邪をひいて熱が高く、とても動ける状態ではないと言って説明すると、上司は、さも分かりきったという様子で休暇を許可してくれた。
コーヒーの豆をひく音の中で君はゆっくり目覚め、まるで朝日に産声をあげるように背伸びしてみせた。
「おはよう」君は部屋の冷房に冷えたのか、ベッドの上で微かに体を震わせながら、僕を見つめていた。
「おはよう。コーヒー飲むかい」僕は、気持ちに少し距離をおいて、君の側に座り、僕のバスローブを君の肩にかけた。
「うん……」君は両腕で僕を抱きしめ、まるで僕を喜ばそうとするように頷きながらはしゃいだ。
「私が淹《い》れてあげる」君の瞳は孤独にきらめいていた。
僕はその瞳の輝きの眩しさから目をそらすように、ぽたぽたとこぼれ落ちるコーヒーの滴を見つめた。
君はコーヒーカップとコーヒー皿をふたつずつ食器棚から取り出して、部屋の小さな台所に並べると、自分の頬を撫でながら溜息をついていた。その仕種はとても冷めていた。僕が君を見つめているのに気がつくと、君はまた瞳を潤ませて微笑んでみせたが、その笑顔は寂しかった。
「ねぇ、お砂糖とミルクどこにあるの……」君はまるで、子供がおねだりする時のように僕のパジャマの裾《すそ》を引っ張りながら、甘えた声でしゃべった。君はいくつもの夢の中で現実とすれ違っているようだ。
「あぁ、ここだよ」僕は上の戸棚から砂糖を取り、冷蔵庫の中からクリームを取り出して君の目の前に並べた。
「ねぇ、裕行さん、お砂糖とミルク入れる」
「うぅん。僕はブラックでいいんだ」
「分かったわ」鼻唄を口ずさむような陽気さを彼女の後ろ姿に感じた。朝日と君はようやく調和したように思えた。
白いバスローブをはおった君の背中には、朝の静かな時間が流れているようだ。
僕は、Marvin Gaye の曲をかけた。コーヒーの香りの中でいつもと少しだけ違う朝の温もりに包まれている。
美冬はそっとコーヒーをテーブルに運んできた。
「はい」
「ありがとう」
美冬はけして笑顔を絶やさなかった。ひたむきな笑顔は、寂しさから来るものなのかもしれない。彼女の必死な思いが、この朝をとりつくろっているようだ。
「このコーヒー美味しいわ」そう言った後君は、伏し目がちに僕の言葉を探していた。
僕は頬に笑みを浮かべて、君の不確かな気持ちを優しく包むように話した。
「今日ね、会社休んだんだ。一緒にどこかに行かないかい。そうだ、綺麗な写真が撮れるところに行こうよ。ねっ、いいだろ」
「うん。私も行きたい」そう言ってから、君は泣き出しそうになって目頭を押さえながら、じっと涙をこらえていた。
朝日は窓辺に光を集め、その眩しさを次第に強めていた。空はまれに見るほどの美しい青空が広がっていた。涙すらもこの空に吸い込まれて、悲しいことなんか忘れさせてくれそうだ。まるで人の抱える悩みが、どれほどちっぽけなものかを知っていて、それでいて見向きもしないでいるような、大きな雲がゆっくりと空に流れていた。
僕は白いTシャツの上にベージュ色の麻のジャケットをはおりジーンズをはき、戸棚の奥にしまっておいたカメラの道具を一式用意した。
「このカメラを使うのは久し振りだな」僕はファインダーを覗き込み、君にピントを合わせシャッターを押した。
美冬は洋服に着替えて、スタンドミラーの前で髪をとかしていた。
「もぅ、お化粧もしていないし、恥ずかしいから私は撮らないで」彼女は照れたように顔を手で被った。
「まだフィルム入れてないんだ」僕はそう言って笑いながら何度もシャッターを押した。
「なぁんだ。もぅ……」美冬はつまらなそうな顔をして、また髪をとかし始め、鏡の向こうにいる自分に問いかけるように、薄いピンクの口紅をぬっていた。
彼女の唇を見つめていると、僕は急に吸い込まれるように衝動的な欲望にかられた。けれど彼女の背中に触れると、その感触が僕を現実に引き戻した。人の温もりは、その裏側に酷《ひど》く寂しく冷えきった心を支えているようだ。
「ねぇ、用意できたわ」君はワンピースの裾の皺《しわ》を気にしながら、心のやり場を探していた。
「それじゃ、近くの店で朝食を食べようよ」
「うん」君は涙の理由を忘れてしまったように明るい笑顔を見せて頷いた。
部屋を出ると、いつにもまして日差しは強く、太陽の輝きはアスファルトに激しく反射している。
見知らぬ街に紛れ込んでしまったようにうつむいた君は、僕の傍らを歩きながら言葉をなくして、口をむすんでいた。
「この店にしようか。ここのピラフけっこう美味しいんだ」
僕たちはパンプキンという喫茶店に入り、店のいちばん奥の席に座った。山小屋のロッジのような内装の壁に一枚の写真が掛けられていた。
「あの写真、僕が撮ったんだよ」
それは三色のパンジーの花の写真で、僕が三年前に撮ったものだった。
「えっ、本当。あれパンジーだっけ」君の大きな瞳は、その一枚の写真に祈りを込めるように輝いていた。
「写真、撮ってたら、急に雨が降り出してね。慌てて近くの煙草屋の軒先に駆け込んで雨宿りしてたんだ。そしたらパンジーの植えられた植木鉢がひとつだけぽつんと置いてあってね。雨に濡れたパンジーの色は、迷子になった猫のように見えた。そしてまるで太陽の光を待ち焦がれるかのように、雨の中で見たこともないくらい色艶を深めていたんだ。自然の色って、こんなにも激しく何かを表現しているんだなぁって、僕も雨に濡れながらそのパンジーを撮ったんだ」
「ふぅん……。でも何でこの店に飾ってあるの」君の瞳はまっすぐに僕を見つめたまま、その輝きの深さを変えていた。
「僕が写真をパネルにして持ってこの店に来たら、写真を飾らせてもらえないかって、この店のマスターに頼まれたんだよ。どうせ狭い自分の部屋に飾るところもないし、山菜ピラフただにしてくれるっていうからあげたんだ」
「ふぅん……。じゃあ、私その山菜ピラフ食べようかしら」君は微笑みながら写真を見つめていた。
「僕もそれにしよう。それとニンジン・リンゴ・ジュースも美味しいよ」
「私、ニンジンだめなの」君は少しすねて甘えるように僕を見つめた。
「うぅんと、それじゃキウイ・パイナップル・ジュースにしたら」
「あぁっ、それ美味しそう」
「君って、時々本当に子供みたいに喜ぶんだね」
君は照れて首をすくめた。
「そうかしら。可笑しい」君は僕の瞳を探っていた。
「うぅん。そんなんじゃないよ。可愛いよ」
「ありがとう」少し口をとがらせて、とぼけた表情をする君は、悪《いた》戯《ずら》好きの子供のようだ。
僕たちは、山菜ピラフふたつとニンジン・リンゴ・ジュースとキウイ・パイナップル・ジュースを注文した。
ピラフを食べながら君は、なんだかこのピラフを食べると、あなたがずぶ濡れになっている姿を思い描いちゃうわ、と言って笑った。
「僕は、軒下に置かれた鉢植えのパンジーを思い浮かべて、いつも青春時代を思い出すんだけどな」
「そうね……。青春だもんね」
「そうさ、青春さ」
言葉の意味が陳腐な響きをもつ中で、僕たちは微笑みを浮かべていた。
朝食を終えると、僕はコーヒーを君はアプリコット・ティーを追加した。僕がタバコを口にくわえると、君はそっとライターに火を点けて僕の口元に差し出し、僕の唇が微笑みに歪むのを見て、満足げに頬を染めていた。
日差しが向こう側のビルの壁を強く照らしている。建物の隙間にわずかに見える青空には、白い雲が大きな波のように立ち込めていた。
「どこに行こうか」
君の表情には少しの翳《かげ》りもなく、その言葉に返事はなかった。
「それじゃあ、天気もいいし、公園に行こう。高台にあるながめのいい公園に行ってみようよ」
君は微笑みながら、額縁の中の絵を凝視するように僕を見つめていた。
「じゃあ行こう」
君の瞳の中に映る僕の破片が、君の心の中で静かに飽和してゆくのが怖いくらいによく分かった。
僕は店の勘定を払い、大きなカメラバッグを抱えながら、君と手をつないだ。すると君は僕の肩に頬を寄せて、足元に視線を落としながら歩調を合わせるように歩いた。僕はぎこちなさと、その温もりの優しさに気持ちを高ぶらせていた。
フィルムを買い、通りに出てタクシーを拾い、君を先に乗せて、運転手に行く先を伝えると、君はそっと僕の手を握り、長い髪の先をつまみながら、僕の胸元を見つめていた。君の中で、今までにはなかった僕への新しい感情が生まれているのだろうか。
それは冷ややかな感じさえする、とても洗練されたものに感じられた。
「どうしたんだい」僕は堪えきれずに君の瞳を見つめながらそう尋ねてみた。
君はタクシーの排気音に言葉を隠したまま首を横に振って、心に触れられることを嫌うように、けして僕と目を合わそうとはしなかった。
しばらくしてから君は、ぼんやりと僕を見つめ、えっ、なぁに、と思い出したように呟くと、また視線を落としてから目をつぶった。
「さっきから何もしゃべらないから……。どうかしたのかい」
流れる風景はすれ違う車の合間に跡切れ跡切れに映し出される。君は身動きひとつせずにうとうとと眠りについてゆくようだった。そして羽を休めた小鳥のように、小さく身をまるめながら、君は僕の肩にもたれ、自由な空想と安らぎの中へその身をゆだねるように、静かな眠りについた。
車の振動に時折眉をひそめたり、反射した太陽光線の眩しい光に溶け込んでゆく君の寝顔を僕はぼんやりと見つめながら、昨夜の一部始終を、時間の経過を行ったり来たりしながら断片的に思い返してみた。
もう何が二人の始まりだったのかなど、理由が何ひとつ見つけられなかった。ただそこに新しい出会いへのささやかな祝福があればいいのだと僕は思った。
渋滞した通りをようやく抜けて僕たちは公園の手前でタクシーを降りた。まだ寝ぼけた顔をしている君は、そこがどこなのか分からない様子だった。
公園の樹木や草木の香りが季節の喜びの中に満ち溢れている。強い日差しを解き放つ太陽は、光の象徴のように高々と青空を生み出していた。
「私、タクシーの中で眠っちゃったのね……」君は広々とした公園を目にしながらゆっくりと目覚めかけ、まだぼんやりとしていた。
「向こうへ行ってみよう」僕は君の前を静かに歩いた。
公園の前でぼんやりと立ち尽くす君は、眩しさの中で怯えているように見えた。
「向こうにとっても見晴らしのいいところがあるんだ。おいでよ」
君は頷きもせず、ただ眩しい緑の草原の中へ、まだ夢の続きでも見ているような錯覚に囚《とら》われながら、僕の後ろについて歩いた。
少し歩くと僕たちの目の前に広々とした街並みが見えた。まるで積木で作られた模型都市のような殺《さつ》伐《ばつ》とした街が、スモッグに歪められた太陽の光に支えられている。
「ここがあなたの好きな場所なの」君は期待を裏切られたような思いと、僕への好奇心をこめた口調でそう呟いた。
「あぁ……。でも君に見せたいのはこの風景じゃないんだ。もっと夕暮れになってからもう一度この場所に来て、その風景を見てほしいんだ」
「そう……」
僕はタバコに火を点けてから、歩き出した。
「もっと、涼しい場所に行こう」
公園を通り抜けて、閑静な住宅街を歩いた。そこにはたくさんの樹木にかこまれた大きくてゆるやかな坂道が、木漏れ日の中に続いていた。
君は安心したように僕と手をつないで歩いた。
「ここで写真を撮ろう」僕はカメラを取り出し、ファインダーを覗いた。レンズに包み込まれたひとかけらの木漏れ日と坂道の風景が、僕を激しい孤立の中に溶け込ませてゆくようだった。
閑静な住宅街の壁際に続く木漏れ日と坂道のひとつひとつを確かめながら、ピントと露出を丹念に合わせてシャッターを切った。僕の片方の目に映る描写はシャッターを切った瞬間に時間を止め、そして身体中を駆け抜けてゆくようだ。
「ねぇ、君を入れてこの風景の写真を撮らせてくれないかい」僕には君の周りの空気がわずかにきらめいているように見えた。
「えっ、いいけど。恥ずかしいわ。どうすればいいの」
「普通に、ただその場所に立っていてくれればいいんだ」
「うん。わかった」なげやりにそう呟く君を坂道の真ん中に立たせて、僕は坂道のいちばん下まで下っていった。
そして僕はしゃがみこみ、木漏れ日の中にたたずむ一人の少女に向かって何度もシャッターを切った。
その少女はいつもどこかに心のやり場を探しているように、目覚めたり眠たげに溜息をついたりしながら、ただじっと木漏れ日と時折吹く優しい風の中に身構えていた。そして突然泣き出しそうな表情で僕を睨みつけると、静かに目を閉じた。
僕はそこで写真を撮るのをやめた。
「ありがとう。今度は君が撮ってごらんよ」
「えっ、もういいわ。また今度にしましょ」
「疲れちゃったのかい」
「うぅん。そうじゃないけど、なんだか難しそうだし……」
「そんなことないよ、簡単だから。これオートフォーカスにもなって、自動的にピントと露出が合うようにできているんだよ。面白いから、そんなに真剣に考えないで思ったものを撮ってごらんよ」
「じゃあ、あなたの写真撮らせて」
「いいよ。どんなポーズすればいい」僕は頬杖をついて君の足元にしゃがんだ。
「いい。じゃあ撮るわ」君は思ったよりもいろいろな撮り方で僕に向かってシャッターを押していた。
「ねぇ、これでちゃんと撮れてるかしら……」
「うん。思った以上に上手だね。初めてじゃないのかい」
君はカメラを覗くのをやめて、にこりと微笑み、僕に頷いたように見えた。
夏の空気は空に吸い込まれるように、その熱を次第に失ってゆく。緑の匂いがそこらじゅうに激しくたち込めている。ふと思考を止めると、その香りの中に巻き込まれて、人間が思い描き作り出した、自然に対する価値観を消滅させられてしまいそうだ。
僕たちはそれから昼食をとり、バス通りに出て車の流れを撮ったり、歩道を寄り添い歩く恋人たちに向けてシャッターを押したり、雲のひとつひとつに名前をつけながら写真を撮ったり、そうやって時間を過ごした。そして青空がだんだんと黒ずんでゆく頃、もう一度公園のいちばん見晴らしのいい場所へ向かって歩き出した。西の空には夕焼けが生まれている。
僕たちがその場所に戻ると人影はもうまばらだった。季節を押し流すような心地よい風が素肌を通り過ぎてゆく。
君は目の前に広がる夕暮れの街並みを、涙を流す時のようにじっと見つめていた。
「これがあなたの言っていた街並みなのね……」
「あぁ、そうだよ。綺麗だろ」
「この街並みの夕暮れを、上手く撮れるかしら……」
立体的な影の中で街並みは静かにたたずみ、空には夕焼けが高く燃え上がっていた。
「分からない。君が撮ってごらんよ」僕はそう言って君にカメラを渡した。
すると君は何度も何度も夢中になって、その風景の一点に向けてシャッターを切った。カメラのフィルムがなくなってもそれでもいつまでもシャッターを押し続けた。君の心が叫んでいるようだ。ちっぽけにたたずむ街並みが、この夕暮れの中に呑み込まれてゆく情景がもついくつもの瞬間の意味を、君は丁寧に消し去ってゆくようだった。
そしてふと全身の力をなくしたように君はカメラから目をはずし、僕を見つめた。
「ねぇ、何かが足りないの……」君の瞳は薄く涙を浮かべていた。
「何かって、なんだい」僕は無気力にそう付け加えるように答えた。
「分からないわ。だけどね……、何かが本当に足りない気がするの……」
僕は君の手からカメラを取り、ぽつりぽつりと明かりのともり始めた街並みを覗いてみた。そこには確かに何かが足りないように感じる夕暮れがひっそりと広がっていた。
新しいフィルムを入れてシャッターを押した。シャッターにはいつもより重みがなかった。夕暮れの街は懺悔しているのでもなければ、新しい何かに期待しているのでもなかった。墓標のようにレクイエムを奏でるものは何ひとつなかった。罪を抱きながら貪《どん》欲《よく》に荒れ狂うものも、静かな安らぎを暗示させるものもなかった。ただぼやけた映像の片隅に力なく茜《あかね》色《いろ》の空と見慣れた街があるだけだ。
「もう一度撮らせて」君は僕の手からカメラを受け取り、シャッターを切らずにじっとその街並みを見続けていた。
そしてカメラをはずしてからにこりと微笑んだ。
「ねぇ、もう行きましょ。ちょっと歩かない……」
すっかり太陽の隠れてしまった歩道を、僕たち二人は肩を並べて歩いた。歩道橋を渡りながら君は周りを見回していた。
「ここも同じ。この街の匂いがしないわ」
「この街の匂いって何のことだい」
君は首をかしげながら、なんのことかなぁ……、とそう言って足を止め、僕の瞳の奥を探った。
「私が初めて東京に着いた時にね、やっぱり同じように感じたの。何かがこの街には足りない気がするなって」君の瞳はいつものように遠くを見つめていた。
「だから一生懸命探していたのよ。何が足りないのかなって。あなたに会えてひとつだけ分かったの。この街って、どんどん逃げていっちゃうのね。追いかければ追いかけるほど、どんどんと……」
僕は黙って君を見つめ視線を落とした。
「私、デパートに勤めている時ね、初めて貰ったお給料で金のピアスを買ったの」君の瞳は夕暮れの暗闇の中で街灯の光と月明かりを受けていた。
「その時、嬉しかったわ。なんだかこの街のひとつが自分のものになったみたいで……。ハートの形のピアスだったの。そのピアスをつけてね、鏡の中の自分をずっと見ていたの。寂しいわよね」
「ふぅん……」
僕が頷くと君は背を向けてゆっくりと歩き出した。君の後を追うように歩きながら、僕は夕闇に包まれ、君を見失いそうだった。
「ねぇ、そのピアス今でも持っているのかい」僕は、君がそのピアスに抱いた感情の行方が知りたかった。
「持ってるわ。でも……、もう今はつけたりはしないけれどね……。たぶんジュエリーボックスの奥のほうにしまってあるはずよ」
「君には、そのピアスよりももっと大切なものが見つかったのかい」
「そんなことないわ。あのピアスも好きよ。でも……、今の自分がよく分からないのよ。それだけなの……」君は瞳を暗がりの中へ隠し、たった一人でなくしたものを探しているようだった。
「ねぇ、あのマンションの非常階段を上ってみないかい。きっともっとながめもいいはずだから」僕は二十四階建てのマンションの迷路のような非常階段を指差しながら、君の耳元でそう呟いた。
「えっ、あんなに高いところに上るの。なんだか疲れちゃいそうだけど……面白そうね。行ってみましょうよ」君はすこしどきどきした様子で僕を見つめていた。
階段は急な角度で、一段一段にこめる力は僕でさえ疲れを感じた。君はゆっくりと一歩一歩階段を上りながら、怯えているのか鋭い眼差しで周りを見渡していた。
「大丈夫かい。足元に気をつけてね」君に手をかそうとしたが、君はそれにすら気づかなかった。君は、一段ずつ上って行くたびに、少しずつ変わってゆく風景の驚きに喜びを感じているようだ。ひとつ上り周りを見つめ、またひとつ上っては周りを見渡していた。
「ねぇ、なんだか変な感じなのよ」君はぽつりとそう呟いた。
「いったい何が変なんだい」
息をきらしながら君の瞳を見つめようとすると、君の瞳は暗がりの中で小さな一粒の輝きとなって、僕ではなく、その風景をじっと見つめていた。
「ひとつ上るたびになんだか違う何かを感じるの。でもそれはすぐに慣れてしまうのよ。でもそうやって上っているうちにもういちばん上まで来てしまったわ。ねぇ、見て。あそこにほんのわずかだけれど小さな夕暮れが残っているわ。あの夕焼けの破片は、足りないと思っていた何かに似ているわ……」
「あの夕暮れの破片は美冬に似ているよ」
君はゆっくりと僕のほうを向いて静かに目を閉じた。僕は優しく君に口づけした。
5
その口づけはそっと長く続き、夕闇が街を呑み込んでゆく素早さの中で、二人は互いの一粒の温かな涙を確かめ合えた。
美冬はこわばりながら、ふっと僕から離れ、怯えたような瞳でこう呟いた。
「私、あなたが好きよ……」
僕は言葉の中に君の幻を見つけ出していた。
君は、ともすれば取り残されてしまいそうな夕闇の中で僕の手のひらを握り、そっと力をこめている。
「僕もだよ……」僕は美冬を抱き寄せた。
「ねぇ、なんだか明日を信じてもいいような気がするの……」君の言葉は僕の胸の中に温かに刻み込まれた。
そして君は僕の胸元に視線を落としたまま、しばらく考え込んでから話し始めた。
「あなたのおかげで、大切なものが見つかりそうな気がするの。何かが始まる時って素敵な気持ちね……」
君は静かに階段を一歩下り、そしてふと立ち止まると、微笑んでこう付け加えた。
「終わりを知っているからかしら……」
夏の熱気を奪うように吹き上げる風が、階段の上に立ち止まる二人を凍えさせた。見上げると、見慣れた星たちが夜空の中で、波にうちあげられた貝殻のようにちりばめられている。
「ねぇ、二人の写真を撮ろうよ」
僕は君の心が少しずつ離れてゆくような距離に気づき、それが怖かった。
君は不思議そうな顔をして僕を見つめ、首をかしげた。
「いいかい、もう暗くてシャッタースピードが一分くらいかかるから、絶対に動いちゃ駄目だよ」
その言葉で君は僕の気持ちを見透かしたようだった。
僕はカメラを階段の上に置いて、スイッチをタイマーに合わせシャッターが切れるのを待ちながら、美冬の小さな肩を後ろから両腕で包み、彼女の髪に口づけをし、このまま時間が止まればいいのに、とそう思った。
二人のぎこちないためらいを溶かすように、シャッターが切れる音がした。そして彼女は振り向き僕に口づけして、ありがとう、とそう呟いた。
それから二人はゆっくりと足元を確かめながら階段を下った。階段を下りながら、吹き上げる風の中に微かな泣き声のような旋律が聞こえる。静かに耳を澄まし美冬を見つめると、彼女は街明かりのひとつひとつを見つめながら小声で口ずさんでいた。僕はその歌声にずっと耳をかしながら階段を下っていった。
階段を下り終えると、路面に残された余熱が、風に吹かれていた二人の凍えた肌を心地よく包み込む。ヘッドライトが眩しく僕たちを照らしては通り過ぎてゆく。
僕らは繁華街のネオンの明かりのほうに向かって歩いた。華やかなネオンは、黄昏を探し続けていた寂しげな余韻を消し去ってしまうようだ。人の体温が放つ噎《む》せかえるような熱気が漂っている。雑踏に紛れ込むと、僕たちは引き離されてゆくようだった。混み合う街並みを行く人々の視線は鋭く、そして貪欲で虚ろだ。そこに黄昏があった時のことを思い浮かべる余白など、ありはしなかった。たぶん誰も黄昏を見ずにこの夜に紛れ込んだのだろう。美冬ももう、他のことを考えているような気がした。
「どこかで食事しようか」
君は僕の言葉に表情も変えず、瞑《めい》想《そう》しているように無言のままだった。そしてふっと何かまったく別なことを思い浮かべたように話し始めた。その言葉は雑踏の中で、独り言のように、僕の耳元で空回りして聞こえた。
「可《お》笑《か》しいものね。せっかく見つけ出せそうな大切なものが、もう見えなくなっちゃったのよ。なんだかもっと別なもの……この雑踏の空気に触れると、私にとってはどうでもいいようなものを追いかけなくちゃいけないみたいな気がしてくるの」
君は唇をかみしめ、路上を睨みつけていた。
「私、もう帰るわ。また電話するわね」
「食事していかないかい」君を追いかけるように問いかけたが、君の心はもう僕にはとどかなかった。君はうつむきながら微笑んでいた。
「ねぇ、今度、あなたの部屋の写真の話、もう一度聞かせて」
「あぁ、それはかまわないけど……。いつ電話くれるんだい」
君は人波の流れの中に立ち止まり、僕を見つめていた。
「分からないけど、近いうちに必ず電話するわ。そしたら話聞かせてね。でないと私、自分が自分でなくなりそうな気がするから……」
君は僕に背を向けて歩き出し、人混みに紛れ込み消えていった。
君を見失うと僕は急に、激しい人波に押し流されていることに寂しさを覚えた。わけもなく訪れる透明な怯えが、無意味で頽《たい》廃《はい》的な生き方を僕自身に許容させてしまいそうだ。なす術がないことを僕も理解しなければならないようにすら思えてくる。
僕は現実と理想とのはざまで、もしくは惰性から逃れるために、今、心の葛《かつ》藤《とう》を持ち始めているようだ。
僕は葛藤の中に彼女を思い返しながら、カメラに残った数枚のフィルムで、雑踏に向けて何を撮るわけでもなく激しくシャッターを切った。
街並みは何かに怯えているようだ。フレームの中では、身動きのとれない群衆の心理が渦を巻いている。誰かは逃げようとしている。誰かは立ち止まろうとしている。そして誰もが失ったものを探している。
それは僕を裁こうとするものであり、僕をつかまえようとしているもののようだ。人は誰しも、自分の世界から逃れることのできぬ苦しみを背負っている。
ミフユ……。最後の一枚のシャッターを切る時、僕はそう呟いてみた。彼女の永遠の神秘を物語るように、僕の口元からはかなく、そして優しくこぼれ落ちる。彼女が背負う運命との戦いや共存は、今、僕とともにすべてのものとつながりながら、揺らめいているように感じている。
彼女の言葉、笑顔、仕種、ただそれだけなのに……そこに僕のすべてが受け止められているような気がしてくる。この気持ちをもっと上手に理解できたならば、僕はもう少しだけ冷静になれると思うのに。まるで僕は跡切れ跡切れの短い心の呟きを、はかなく書き続けているようだ。僕は人混みの中、家路を辿っているはずなのに、どこを歩いているのかを忘れそうになるほど歩き疲れていた。
そして雑踏の中に逃げ場を探すように駅の改札をくぐり抜けた。人の視線に怯えてしまう。人間のはかない弱さを感じる。そう思いながら僕は駅のホームに並ぶ人の列に紛れ込んだ。
電車はすこしあせった様子でホームに滑り込んで止まり、慌てて扉を開き、僕と群衆を順番に乗せるだけの時間をとってから、無表情に走り出した。何かを示唆するような夜の街が、深く胸の奥に沈んだ僕の気持ちを優しく撫でながら、ガラス窓の向こうに流れてゆく。
彼女を思う僕の気持ちが純粋であろうとすればするほど、いろいろな気持ちが複雑にからんでしまう。気持ちを整理することもできずに、ただ時間の流れの中に僕と美冬とが揺らめいている。なのに思い返せば思い返すほど彼女の影が、僕の心の中から消えてゆく。
背中を押し退けながら電車から降りると、川の流れのような人波が出口へと続いている。ぽつりぽつりとたたずむ人の心が置き去りにされているようだ。
コンクリートの階段はいくつもの足跡を刻み、人々は毎日違う日々を似たように歩いている。
僕は見慣れた街並みを歩きながら、ようやく家路を辿っている感触を覚え、暖かな部屋の温もりを思い出していた。
音のない部屋のドアを開け、暗がりの中でカメラバッグを床に置いた。明かりを点けると、美冬の温もりが部屋の中に漂っていた。部屋のどこかに彼女がいるようにすら感じる。その気持ちを求めるたびに彼女を思い出している。だが、それが次第に僕の心の虚無感に変わってゆく。
狭い部屋の片隅に答えの出ない気持ちだけが取り残されている。そして僕は心を隠さなければならないと思うほど、その感覚に脅かされ始めた。
美冬が整理してくれたキッチンの上には、折りたたまれた台フキンと綺麗に洗われたコーヒーカップとグラスがふたつずつ置かれていた。
僕は美冬を思い出しながらグラスを取り出し、昨夜彼女と一緒に飲んだスコッチをストレートで口にした。すると一口のスコッチが僕に美冬を強く思い返させた。
耳なりのような空間の隙間を縫う感覚だけが僕を包み、何もかもが無駄で無意味に思えてくる。ストレートのスコッチの酔いの強さの中、僕はなおも強い寂しさを胸に抱きながらテレビのスイッチを入れ、冷蔵庫の氷を取りにいこうと立ち上がると、思わず大きな溜息をついた。
冷蔵庫の扉を開けると、ひやりと白く冷たい煙が夏の部屋の空気に流れ落ちる。希薄な人との関わり合いがむなしく漂っているようだ。無造作に氷をつかみ、グラスの中に投げ込むと、氷は音をたててひび割れ、グラスの中を泳いだ。冷蔵庫の扉をひじで押して閉め、グラスを口にあてがい一口飲みながら、無性に外の空気が吸いたくなり窓を開けた。そして、息のつまりそうな部屋の空気とは違う、なま暖かくしっとりとした外の空気を大きく吸い込んで、しばらくのあいだ街灯の明かりを見つめていた。
窓を閉めると美冬の温もりは、もう部屋の中から消え去っていた。
僕はそれでも美冬の温もりを心のどこかで求め、美冬を抱いたベッドの上に顔をうずめたが、美冬の香りすら思い出せなかった。そしてその夜、彼女からの電話はなかった。
翌日から、僕はまた仕事に追われる日々を過ごし始めた。時折、美冬の残した温かな言葉と笑顔を思い出す。ひとときの仕事の休憩の合間に、必ず美冬を思い出した。
そして知らぬ間に一週間が過ぎていった。彼女からの電話もなく、僕からかけることもなかった。
日毎に彼女の素顔の笑顔を忘れてゆく。ただ彼女の言葉の意味を探すことだけが、僕の胸の内で幾度も繰り返されていたが、やがてその言葉すら忘れていった。
その日、会社の帰りに、彼女と二人で撮った写真を取りにいった。僕は人波に流されながら、その中の一枚の写真をそっと取り出してみた。
それは彼女が木漏れ日の中で微笑んでいる、とても素朴な写真だった。木々がアスファルトに落とす綴《つづれ》織りの影が彼女を優しく包んでいる。
人混みの中で僕はその写真に写る彼女の微笑を抱きしめるようにゆっくりと歩いた。
部屋に帰ってから、僕は一枚一枚の写真をながめ、あの日のことを思い返した。
街並みを写した写真はとても平凡なものだったけれど、僕にはまるで映画のように物語が続く。そして美冬の写った写真を一枚一枚並べて、本当に無邪気な彼女の姿を何度も確かめてみた。
彼女が撮った僕の写真は何だか滑稽だ。まるで僕一人だけが、美冬の瞳の中ではしゃいでいるように思える。
二人が昼食をとった時の、アップルパイを頬張る彼女。口のまわりにソフトクリームを一杯につけておどけてみせている僕。幸せそうに手をつないで歩いていた恋人。母親に手をひかれ黄色い風船を持って微笑んでいた子供。じっと遠くを見つめてベンチに腰掛けていた老人。大きな犬に引っ張られて散歩していた少女。バス通り沿いに咲いていた一輪の名もない花。勢いよく通り過ぎていった自動車も写真の中では静かにたたずんでいる。青い空とふわふわと浮かぶ雲。ぎらぎらと輝きながら汚れた空気の中にたたずむビル。
夕暮れの街並みを写した写真を手に取り、美冬への複雑な気持ちを思い返していた。
彼女への思いは僕の胸を強く締めつけ、その写真が上手に撮れているのかどうか判断できない。けれど確かに彼女が言っていたように、その写真に写った夕暮れの街並みは、何かを失いかけているように、何かが足りない。
僕はベッドに横たわり、その写真をじっと見つめていた。そしてしばらく目を閉じて、夕暮れの街並みを思い返してみた。
輪郭を失いかけた残像のような絵。平坦な街並み。この写真には、街の吐息がないのかもしれない。空もただ色褪《あ》せて、不器用な人々を包み込む優しさが感じられない。
美冬はそのことに気づいていたのかもしれない。
そんなふうに思うと、僕はなんだかようやく彼女の優しさに気づいたようだ。きっとその思いの持つ優しさを伝えたくてあんなに考え込んでいたのだろう。目を閉じたまま涙がこぼれ落ちそうになった。美冬の生きざまの強さが、とても強くしっかりと僕の胸に響いている。僕はその写真を胸に抱いたまま眠りにおちていった……。
どれくらい眠ったろう。時計を見ると、あれから三時間ほど過ぎて、時計の針は午後十時を過ぎている。僕は電話の鳴る音で目を覚ました。
「もしもし……」
電話の相手は何もしゃべらなかった。
「美冬かい……」
受話器の向こうで、すすり泣く声が聞こえる。その泣き声は何かをためらいながらしばらく続き、僕を戸惑わせた。僕はそのすすり泣く声の中で、美冬が甘えながらしゃべり始めることを待ち続けた。そしてようやく……。
「……私よ」
「美冬なんだね……」僕はその口調に少し慌てた。
美冬はゆっくりと呟くように話し始めた。
「さっきね……。ケンちゃんから電話があってね……。今、日本に帰ってきてるんだって。それでね……ケンちゃん私に……あなたのことが本当に好きなのかって何度も聞くの……。けれど私、上手に話せなくって……」
美冬はそこまで話すと電話越しに泣きじゃくって、話をやめた。
彼女がしきりに泣く間、僕はケンと彼女とに、どんな会話があったのかを想像してみた。彼女の素直な気持ちを聞くのには、多少のためらいがあったからだ。僕の彼女への思いすらどんなふうに説明がつくものなのか、僕にも分からない。ただしきりに求めていた彼女への思いの答えが、彼女の次の言葉で出されてしまう。その事実が、切実に僕を追い詰めている。僕は心を被い隠すようにして、彼女に話しかけた。
「その後……ケンとなんて話したんだい……」
彼女は泣いたまま何も話せなかった。だから僕も、しばらく彼女が気を落ち着かせるまで、待っているよりなかった。が、しばらくして、泣き声も電話口から消えてしまった。一瞬、電話が切れたのだと思うほどの時間の空白が訪れ、僕は息を呑んだ。
「それでね……」
そう突然彼女がしゃべり始めた時には、僕の心臓は止まってしまいそうだった。
「それでなんて話したんだい……」
「ケンちゃん、私と直接会って、話が聞きたいって言うの……。だから……明日また電話してって言って電話を切ったの……」
その返事に僕は胸を撫で下ろしたが、逆に美冬の本当の気持ちを知る欲求に強くかりたてられ、彼女に聞き返してしまった。
「それで、もしケンに会ったらなんて言うつもりなんだい」
「えっ……」君は言葉をつまらせ、一瞬の沈黙をつくり、慌てて話し出した。
「うっ、うん……。もしあなたのこと聞かれたら、素直に話すつもりよ。あなたと出会った時のことから全部……」君の言葉に嘘の翳りが漂った。
「ケンちゃんのお父さんとのことも、全部話すつもりでいるの。分かるでしょ……」
「あぁ……」僕には君の心が何かに戸惑っている様子が、寂しいくらいによく分かった。
「ケンちゃんのお父さんとは、もう何でもないし……本当に今の私にとって必要なのは、あなたなの……」君はとても冷静にそう言った後、また泣き出したようだった。
僕の求めていた答えを、君は思ったよりもあっさりと出してしまったように思えた。それが妙に僕を寂しくさせた。
「ねぇ、また明日電話してもいいかしら……」
「あぁ、かまわないよ。それよりも明日会わないかい」
「うん、会いたいわ」
「会社から帰ったら電話するよ」
「分かったわ……」
「もう平気かい……」
「うん、もう平気……」君は僕の意思に添うようにそう答えた。
「じゃあ、明日会社から帰ったら必ず電話するからね」
「うん……」
「あっ、それからあの日撮った写真がね、もうでき上がったよ。明日会う時に、見せてあげるよ。君が撮った写真、とってもよく撮れているよ」僕は床に並べた写真に気づいて、君の写った写真を一枚手に取り、じっと見つめた。
「本当、早く見たいわ。私の写った写真あるでしょ……。恥ずかしいわ……」
「とっても綺麗に撮れてるよ」
「えぇ、嫌だわ……」君は電話の向こうで涙を乾かして笑った。
「それじゃあ明日電話するよ」
「うん、じゃあね……」
「じゃあね」
そう言って電話を切った。
その後僕は何故か、彼女にとって、今いちばん大切な存在が僕だと言った言葉の裏側に、違う響きを思い返した。素直に喜んでみることができない自分がいた。
写真の中の彼女に、隠されていた影が見えるような気がする。何か女性だけがもつ傷のようなものが……。
神経の苛立ちを覚えた。それに会社から帰って何も食べていない。僕は冷蔵庫を開け、昨日の食べかけのピザを温め、それからビールを飲んだ。そして写真を一枚ずつ手に取り、ながめてみた。彼女の孤独と不安な気持ちが、僕の心に映し出される。
優しさだけを見つめていられるのならば、失うことにもっと強くなれるのかもしれないと思う。
五本目のビールの酔いが体を包み始めた。空腹と苛立ちを、いつの間にか忘れ去っていた。彼女への不安な気持ちさえ今はもうない。ただ、安らぎと眠りの中にすべてを投げ込みながら時が過ぎてゆく。
僕は着ているものを着替え、部屋の明かりを消して、ゆったりと深い眠りについていった。
翌朝、僕はクリーニングに出したばかりのスーツを着て会社に出かけた。
この日は時間の過ぎるのがとても早く感じられた。日頃思い悩む煩わしさも、美冬に会うことだけを考えていれば、何もかもを忘れてしまうように消えていった。ただ彼女への期待だけが僕を包み、すべてがそこに集中している。
あっという間に一日が過ぎていった。僕は帰りの電車に乗り、いつもより急いで部屋へ向かった。
夕暮れは街を包み、長い間ずっと街並みを見つめているようだ。
部屋の前に辿り着くと、少し緊張した。ひとつのことだけをずっと考えて過ごした一日が勢いをつけて流れ出し、どこかへ放り投げられてゆくようだ。僕は慌てながら鍵を開け、ドアを開いた。
ネクタイをゆるめながら、上着をベッドの上に放り投げて電話の前に座り、美冬の部屋へ電話をかけた。番号を押し終えた瞬間、僕の胸は高鳴りに張り裂けそうだった。
ルルルル……ルルルル……ルルル……
発信音が僕の胸の苛立ちのように鳴り始めた。
ルルルル……ルルル……
十回ほど待ってみたが、美冬は受話器を取らなかった。
ルルル……
それから先、僕の頭の中は、発信音を数えられなかった。
ルルル……
向こうに必ず美冬がいる。そう思ってかけた電話の発信音の先に、彼女の気配はなかった。ただ彼女の影が、妄想のようになって僕を追い立て続けた。
ルルルル……
唖然とした思いを納得しながら、発信音の先に美冬を追いかけた。
ルルル……
僕の頭の中で、発狂した気持ちが小さく破裂した。そこでようやく受話器を置いた。
ミフユガイナイ……ドウシタンダロウ……アレ……イッタイナニヲシテイルンダロウ……。
僕の心の呟きは発信音のように無機質に繰り返した。
窓の外には、焼けただれた夕暮れがふつふつと煮えたぎっている。僕は荒れ狂ったように赤く、どろどろとした黄昏の中に取り残された。
思い直して、それから何度も彼女の部屋に電話してみた。逆らえない何かに逆らうように何度も、何度も……。
けれど彼女は現れなかった。僕は時間をかけて、すこしずつ気を失ってゆくように、だんだんとぼんやりして、すべての気力を使い果たした。
それからは窓の外が真っ黒に染まるまで椅子に腰掛けて、ぼんやりと美冬の写した写真を手に取り見つめていた。
ドウシタンダロウ……。
すでに彼女への電話を諦めながらも、その思いが身体中に響きわたった。知らぬ間に持っていたタバコを一箱吸い終えて、灰皿の中には吸殻が山のように積まれていた。体が燃え尽きたように軽く思えた。
頬杖をつきながら同じ姿勢でどれくらいいただろう……。遠くにサイレンの音が聞こえる。耳鳴りの中でだんだんと大きく響く。よく聞くと電話の音のようだ……。
デンワダ……。
それはすこしずつ輪郭を強めていった。確かに電話の鳴る音だった。僕はそれほど慌てずに受話器を取った。
「もしもし……」女性の声だった。
「私。美冬です。裕行さん……」美冬だった。僕はいきなり背中を押されたように我に返った。
「美冬かい……。どうして電話にでなかったんだい」
「うん……。それは後でゆっくり説明するわ。今ね、ケンちゃんと一緒にいるの。お店にいるから、裕行さん出てきて……。お願い……」
「いいよ。それで今どこにいるんだい」
「あのね。……今新宿のケンブリッジホテルのラウンジにいるの。来てくれる……」
「分かった、すぐに行くよ」僕は自分の耳を疑いながらそう答えた。
「すぐに来てね。じゃあね」美冬はそう言って、僕が返す言葉も聞かずに電話を切った。
僕は慌てて背広をはおり部屋を飛び出し、表に出てタクシーを拾い新宿へ向かった。言われた場所に着くまでいったい何が起こったのかいろいろと考えてみたが、考えれば考えるほど分からなくなっていった。
思い込む時間の長さの中を、タクシーは素早くすり抜けてゆくようだった。
三十分かけてそのホテルに辿り着いた。僕は急いでタクシーから降りて、ホテルの中へ駆け込んだ。
一階のロビーに集まった人混みを押し退けながらエレベーターに乗り、ラウンジのある階で下りた。
二十五階にあるラウンジの前に辿り着くと、店のボーイの視線が僕を立ち止まらせた。
いらっしゃいませ。何名様ですか……。
ボーイのその声の向こうの薄暗い空間に、ケンと二人で肩を寄せ合いながらグラスを手にして座る美冬を見つけた。
美冬は時折ケンとじっと見つめ合ったまま何も話さずに動かない。
僕の胸の中には、激しいジェラシーが燃え上がっていた。そしてその消し方を見つけられずに、ただ、ただ立ち尽くしていた。
6
「あっ、裕行さん」美冬は少し驚いたように僕を見つめた。その瞳には、僕だけを見つめようとする力がこめられていた。
「やぁ」僕は力なく答えながら、そっと二人のテーブルに歩み寄り、店のざわめきに溶け込んでゆくようだった。
ケンは僕から視線をそらしたまま黙り込み、時折手にしたグラスを傾け、意識を殺すように静かにタバコをふかしていた。
「ケン、元気だったか」ケンは僕のその言葉に答えはしなかった。ただ横目でちらりと僕を睨み小さく頷いてみせた。
ケンのその無愛想な態度を見ていると、僕の思い描いていたジェラシーは影をひそめてゆくようだった。ケンの思いがわずかに僕の胸に伝わる。ケンが美冬を思う気持ちが真剣なのは一目瞭然だ。ケンと僕は暗黙のうちに、彼女にゆだねられた采配の答えを待ち続けている。
「ケンちゃん……」美冬はケンの顔色をうかがいながら、ケンの肩に触れようとしていた。
そんなささいな仕種がケンに向けられていることに、僕はまた新たな憎しみをも含むほどの感情を見出していた。僕はそのジェラシーにはじらいすら覚えた。心を閉ざして激しい感情のたかぶりを否定しようとしている。涙がこぼれ落ちそうだった。
「裕行さん、そこに座らない」テーブルの向こうで美冬は、僕に詫びるように席をすすめながら唇を噛みしめていた。
店の明かりが、きらきらと輝く美冬の瞳にまつ毛の影を落とす。
「何かお飲みになる……」美冬は泣き声のように呟いた。
「うん、美冬ちゃんは何飲んでるんだい」僕が彼女に話しかけると、ケンは僕らの会話に耳をふさぎ、ふてくされているようだった。
「私は、白ワイン……」
「そう……。じゃあ、僕はビールにしようかな、急いで来たんで、喉が渇いたよ」
ケンはストレートでウイスキーをあおっていた。酔っているようだった。ケンはいつも無口なやつだ。まして今夜の彼はとても寡黙だ。
ケンが深く物思いにふけるその理由が分かっている分だけ、僕には何も話しかけるきっかけがつかめなかった。
「ケン、お帰り」僕はボーイが丁寧に注いでくれたビールを片手に、ケンにそう話しかけた。
ケンは僕の言葉に何の反応も示さなかった。ただ、美冬はそんなケンの態度に僕の気分が悪くならないようにと気づかいながらグラスを重ねて、にこりと微笑んでくれた。僕はグラス半分のビールを一息で飲み干した。何か深い思いを飲み込んだように、ずしりと重く腹にたまる。わずかな酔いが頭をかすめると僕は無防備になった。黙り込んだケンへの気持ちが遠くなり、美冬がしとやかに僕に思いをよせ始めていることだけが気にかかる。
美冬の瞳に翳りはなかった。ただケンを気にする時だけ、わずかに表情がくもるようだった。僕は美冬をかばうように話しかけた。
「もう酔ったみたいだよ……。美冬ちゃんは酔ってないのかい」
「うん、なんだかぼんやりとしてる感じ……。裕行さん、わざわざ来てくれてありがとう。ケンちゃんと話し合ってくれる。ケンちゃんアメリカから、もう帰ってくるつもりなんだって。それに……あたしと一緒に暮らしたいって。あとね……」
美冬は何か別なものを隠しているようだった。
「ヒロ、美冬はおまえのことが好きだとか言っているらしいけれど、俺のことが嫌いなわけじゃないんだぜ」
ケンはそう言いながら強引に美冬の手を握りしめた。
「ケンちゃん、やめてよ」美冬はケンの温もりに異性の温もりを感じているようだ。ケンもまた、そのことに優越感を覚えているような素振りだった。
ケンは美冬の顎《あご》をつかみ、強引に口づけしようとした。
「やめて」美冬は泣き出し、席を立ち上がろうとした。
「美冬、ヒロが来るまでは、俺にべったりだったじゃないか。ヒロが来る前に俺たちが何やっていたか話してやろうか」ケンは席を立ち上がり、僕らに背をむける美冬に激しく言葉を投げつけた。
「ケン、おまえは何が言いたいんだ。いったい何のために意味のないことを美冬に押しつけようとしているんだ」
僕が堪えきれずにケンに怒鳴ると、ケンは少しおとなしくなり、息を詰まらせ言葉を探しているようだった。心の奥に秘めた本心をごまかせず、言葉をなくしてしまったようだ。僕はケンの震える肩を見つめた。
「ヒロには関係ないよ」
「何を言ってるんだ、おまえはただ彼女をいじめているだけじゃないか」
ケンはしばらく黙ってから唐突にしゃべり出した。
「おまえと俺と、どっちが美冬にとって必要なのか、そんなことまだ分からないぜ。親父とのことだってあいつまだ完全に切れたわけじゃないしな。だいたい、おまえ本当の美冬を知っているのかよ。あいつが話したことを、おまえは全部信じているのか。とんだお笑いだぜ」
僕はケンの言葉を冷ややかに聞きながら、拳を握りしめた。
「じゃあケン、おまえは彼女に何ができるんだ」
その時ケンを見つめると、ケンの瞳にはやりきれない思いが溢れているようで、僕はすこしだけ冷静さを取り戻した。
「やけになってるだけなんだろ、ケン……」
「まったくしょうがねぇよな、女なんて」
ケンのその呟きは自分を責めているようにも聞こえた。
「おい、ところでアメリカどうだった」ケンが上の空で、そんな質問に答えるはずもないと知りながら、僕はケンの肩ごしに壁の絵を見つめ、そう尋ねた。
「別にたいしたことでもないさ」
「ケン、そんなふうに何かを隠しながらしゃべるなよ。みっともないぜ」
「別に何も隠してなんかいねぇよ。分かったような口をきくんじゃねぇよ。勝手に横からでしゃばりやがって。美冬の前でいいかっこしてみせたいだけなんだろ」
僕は堪えきれずにケンの胸ぐらをつかんだ。
「どこが違うのか言ってみろよ。えっ、言ってみろよ」
まるで子供の喧嘩だ。馬鹿らしくなった。それにケンの体は僕の怒りに対して無防備でまるで力が入っていない。
「殴れよ」
僕は少しその言葉にためらった。ケンはただ殴りつけられることを望んでいるようだった。
「どうした、殴れよ。殴れねぇのかよ」ケンの瞳には涙が浮かんでいるようだったが、こぼれ落ちない涙のその悲しみのやり場のなさに、ケンはそれ以上の悔しさを感じているようにも思えた。
「おまえ……」僕はそっとケンから手をはなした。
店の観葉植物の陰からそっと美冬が戻ってきた。手にハンカチを握りしめ、涙がいつこぼれ落ちてもいいように、覚悟しているようだ。
「ケンちゃん、本当のこと……話していいよ。わたしがいけないんだもん」
ケンはその言葉にますます自分の立場をなくしたようだった。そして自分の優しさを引き裂くようにしゃべり出した。
「じゃあさ、なんでさっき俺と寝たんだよ。ヒロが来るって分かってるくせに、なんで俺に抱かれたんだよ。おまえ、ヒロが好きだなんて言っておいてなんで俺に平気で抱かれるんだよ」
「ケンちゃん……」彼女は裏切られたように、そしてその悲しみにただ一人くるまりながら、諦めた様子で涙を流し始めた。
ミフユ……僕は自分の耳を疑った。
カノジョハマダ、ケンガ、スキナノカナ……。
「泣かなくたっていいから、答えろよ。ヒロだってそのほうが納得するだろ」
ケンはあっけにとられている僕を睨みつけていた。彼女はそれ以上何もできないといったように、体を震わせて泣いていた。
「だって……」
彼女のその先の言葉は口にしなくても分かることだった。
ケンも彼女のその言葉の先を見通してか、黙ったままグラスを口にしていた。ただ僕だけが取り残されてゆくようだった。僕はその先の彼女の言い訳が聞きたかった。せめてそうでもしなければ、僕の中の美冬は姿を消してしまう。それは僕にとってあまりにも残酷だ……。
「親父のことはどうなってるんだよ。早くあのマンションから出たほうがいいんじゃないのか。それに今度はヒロかよ……。あきれちまうよ……。俺の家もめちゃくちゃだしな……」
「ごめんなさい……」美冬は泣きながらケンに詫びていた。
「おい、ケン……」
僕は振り向きざまのケンの左頬を右拳で殴りつけた。彼は体の重心を右にわずかに傾かせながら目をくらませていたが、僕の憎しみを受け止めるでもなく平然としていた。
「さっきから聞いていれば……おまえの言っていることはガキみたいだぜ。いくらなんでも、おまえの親父と家のことは今さら彼女の前で言うことじゃないだろ。だいたいおまえだって俺から美冬を取り返したいんだろ。わざと彼女に嫌われることまで言って何になるんだよ。いったい彼女が好きなのか嫌いなのかどっちなんだ。彼女に責任のすべてをなすりつけるなよ」
ケンは左頬を押さえながら僕を闘士の目で睨み始めていた。
「やめてよ。お願い……。裕行さん……私がいけないんだから」彼女は涙をぬぐいながら、僕たちから逃れようとするように言葉を選んでいる。
「いいの、本当にもういいの。私がいけないんだから。ケンちゃんの言うとおりよ。何にも解決しているものなんてないのよ……。でもね……、私だって努力しているのよ。本当よ、信じて……」美冬は小さく身をかがめ涙を流している。
「いったい何を努力してるんだよ。信じろだって、おかしなこと言うなよ。勝手なことばかりしておいて」ケンは冷たく美冬にそう言うと席を立ち上がり、僕を無視して歩き出した。
「おいっ、ケンどこに行くんだよ」
「関係ないだろ。美冬と上手くやれよ」
美冬は泣き崩れていた。僕は席を立ち上がりケンの後を追った。
「ケン、まだ話は済んでないだろ、ちょっと待てよ」
「これ以上何を話すことがあるんだよ。後はあいつが自分で決めることだろ」
「おまえ、本当に彼女に何かしたのか」
「おまえこそ、俺のいない間に何かあったんだろ。お互いさまだね」
僕は言葉をなくし、ケンを見つめた。ケンは分かりきった様子で僕を鼻で笑い飛ばしているようだった。
「彼女をこのまま置き去りにしていくつもりなのか」
「さぁね。おまえが美冬から手をひくのなら、俺が代わってやってもいいんだぜ」
「そういう言い方はよせよ」
「じゃあ、美冬が俺を、俺を選んだらおまえは手をひけよな。これでいいか」
「彼女の気持ちを理解してあげることが、ケン、おまえにできるのか」
「馬鹿。じゃあ、ヒロ、おまえにはできるのか」
「ケンよりはな……」
ケンは鼻で笑うように答えた。
「俺よりはって、おまえに何が理解してやれるんだよ」
「だってケンは父親のことや家の問題にこだわりすぎてるよ。もしかして、親父さんとおまえの間に、俺には隠している、彼女のことでなんか特別なことがあったんじゃないのか」
ケンの表情はその言葉に流されるように曇っていった。
「あったとしたら、どうだって言うんだよ。おまえに彼女の傷が癒せるのか」
「ケン、おまえ変わったな」
「別に変わっちゃいないさ。ただ親父の他に、おまえが美冬との間に割り込んできただけだよ」
ケンは立ち止まり、僕を厭味な目で見つめながら自信たっぷりに話し始めた。
「ヒロ、今夜美冬は、おまえのところに行くと思うのか。あんまり期待しないほうがいいぜ。あいつと俺には約束したことがあるんだ。おまえには言えないけどね」
「何だよそれ」
「俺の口から言うつもりはないよ。美冬に直接聞いたらどうだい」
僕の体はその言葉が持つ激しい屈辱にこわばっていた。
「何だよ。また殴れば気が済むのか」
ケンは僕の前に立ちはだかって、自分の行く後を追う僕を阻止するように言葉をはき捨て、まるで僕の中に映し出されている自分の姿を探しているようだ。
「殴ったって済む問題じゃないさ。ただ、このままじゃ気が済まない」
「じゃあ、どうしろって言うんだよ。ヒロ、焦ったって何にもならないぜ。どうせ今夜になれば分かるさ。美冬が俺とおまえのどちらを選ぶかってことがね……」
僕はケンのその言葉に力をなくした。彼女への信頼が揺らぎ始めていた。ケンの持つ自信がいったいどんな意味を持つのか分からない。薄暗い店明かりの中に、僕たちの会話が陳腐な装いのまま溶けてゆく。
賑わう店内のあちこちのテーブルの上で語り合うたくさんの人々の意識は、結ばれ時折反発し合いながら、小さな花火のように浮遊している。
ケンは話し終えると僕の次の言葉を待たずに素早く振り向き歩き出した。僕はもう後を追わなかった。
美冬はソファーに深く身をしずめて、涙の乾いた瞳を右の人差し指でぬぐい続けている。彼女の小さな肩は、雨にうたれ冷えきったように小刻みに震えていた。そして、もう誰の言葉を待つまでもなく、一人孤独と戯れているようにさえ思えた。
「ケン、どこかへ行っちゃったよ」
「そう……」
「ケンと何か約束したのかい……」
彼女は恨むような目で僕をしばらく見つめてから、また視線を落とし独りの世界に入り込み、その質問に答えはしなかった。
僕は諦めて、ぬるくなったビールを口にした。
彼女と僕とが互いに別々の思いにいて、僕もまた独りきりであることを知らしめるように、店のざわめきがだんだんと強く耳元で重なり合い始める。
グラスの中で揺れる氷の音、心を引っ掻くような耳障りな笑い声や話し声、雨音のようなざわめきが溢れている。居心地の悪さを感じながら、彼女を見つめていた。
薄暗い明かりの中で何度も溜息をついてみせる彼女は、横顔を向けたままだ。その横顔には、はっきりと僕に対する憎悪のようなものが表れていた。
「どうするんだい……」
彼女はしばらくためらってから静かに答えた。
「どうするって何」
「だからさ、これからどうするつもりなんだい」
「分からないわ……。あなたはどうしたい……」
「君と一緒にいたいよ」
彼女は水割りのグラスを頷くように口にしてから、静かに僕を見つめた。
「ケンちゃんとあなたはどうなるの」
「分からないよ。でもたぶん、前のようには付き合えないだろうな」
「わたしのせいよね」
「君だけのせいじゃないさ。僕にも責任はあるよ」
「わたしのせいよ」
君の言葉はとても冷たい響きを持つものだったが、僕の心に届くまでにたくさんの意味を持ちながら優しさに変わってゆくようだった。
「ねぇ、どこか他の店に変えないかい」
「うん……もう少ししたら行きましょ」
「もう行こうよ。なんだかここじゃ落ち着かないよ」
彼女は諦めた様子でセカンドバッグを抱え、僕のほうを見向きもせず黙ったまま席を立ち、僕は慌てて勘定を払い彼女を追いかけるようにして店を出た。
言葉をなくした彼女は、エレベーターを待ちながら息苦しさを覚えているように苛立ってみえた。蛍光灯の明かりが二人の影をいくつもまばらに落とす。
誰も乗っていないエレベーターの扉が開き、箱の中ではかげろうのように空間が揺れていた。降下していくエレベーターの微かな無重力感に、とりとめもなく放心する。
彼女は無言のままだった。
一階のロビーに着き扉が開くと、美冬は足早に走り出した。僕は慌てて彼女を追いかけ、追いつくと彼女の肩をつかんだ。
「どうしたんだい。いったいどこに行くつもりなんだい。ケンのところへ行くのかい」
美冬はその質問に答えなかった。僕が激しく彼女に問いかけると彼女はようやくぽつりぽつりと話し始めた。
「分からないわ……。あなたはどうしたいの」
「君と一緒にいたいよ」
彼女はようやくわずかに心を開いてくれたようだ。
「そう……でも今夜はもうこれで別れましょ。きっとそのほうがいいわ」
今まで見たなかでいちばん遠い目をしながら、美冬はそう答えた。
「いったい、僕はどうしたらいいんだい。僕は自分が分からなくなりそうだよ」
彼女は哀れむ様子もなく、ただ僕をさげすむように見つめていた。
「わたしにも分からない……。こたえられないのよ……。ごめんなさいね……」
美冬は振り向き、僕に背を向けて歩き始めた。
僕は彼女を追いかけたが、次第にその足どりを落とした。彼女の背を見つめながら、美冬はやがて僕から離れてしまうのだろうという、諦めの気持ちを感じ始めたからだ。
ロビーは夜の街灯に集まる昆虫たちのような装いをしていた。ホテルのボーイたちは、しつけられたとおりの歩調で歩き、訪れた客たちは彷徨《さまよ》うようにたたずんで見えた。
誰も何かのためにいるのではなく、与えられたものを抱き、与えられることを待ち続けているようだ。
一人になった僕は、しかたがなく外へ向かって歩き出した。ホテルを出ると外は闇が深く、僕は行く先をなくしてしまいそうだった。街灯の明かりをたよりに歩く、まばらな人影が微かに夜の歩道を行くのが見える。僕はどこからともなく感じる鼓動を頼りに歩いていた。どこかに隙間ができてしまったように、今にも僕の心は崩れ落ちそうだ。僕は立ち止まり必死に自分自身から心を隠そうとした。
少し先に電話ボックスが見えた。僕は目を疑った。そこにいるのは美冬だった。彼女への思いが強いせいだろうか、電話ボックスの不透明な明かりに照らされた彼女は不安そうで真剣な面もちに見えた。
僕はゆっくりと美冬のいる電話ボックスへ向かって歩いた。いろいろな思いが頭の中をかけめぐっているが、それを忘れるためだけに僕は必死になろうとした。
街並みの影が夜空の中にひそやかに浮かび、風が時折優しく僕を包んだ。
彼女が辺りを気にしながら電話ボックスから出てきた。小石にでもつまずいたのか、足元を気にしながらうつむいている。
僕は彼女が僕に気づくかどうかを気にしていた。
彼女はなかなか僕のほうを見つめずに、しばらく電話ボックスの前で立ち尽くしていた。
何台かのタクシーが彼女を照らしては通り過ぎていった。彼女はホテルの窓明かりのほうに視線を投げながらたたずんでいる。
僕は足どりの重いまま、ゆっくりと美冬のほうへ歩いた。
「美冬……。ここにいたのか……」
彼女は小さく頷いた。
「このままどこか連れていってくれない」
カッテダナ……。僕はそう心の中で呟きながら、彼女の胸の中にいるケンのことを思った。
「いいよ。どこに行きたい」
「どこでもいいわ」
「食事はもう済ませたのかい」
「うん。それより、どこか人の来ないところでお酒が飲みたいわ」
彼女の髪が風になびいている。
「うん、そうだな……。僕の部屋に来ないかい」
「あなたの部屋には行きたくないわ」
僕は黙って頷いてみせた。
「それじゃあ、とにかくタクシーに乗ってどこかに行こう。そうだな、たとえば海とか……」
君は笑っていた。
「海に行くかい」僕はその笑顔の意味が知りたくて、意味もなく聞き返した。
「そうじゃないのよ。そんなに遠くじゃなくてもいいの。静かなところがいいの。でも……海みたいなところもいいわね」
「じゃあ、海に行こうよ」
君は笑い続けていた。
「そうね、でも、今夜はやめましょ。海みたいな場所とは言えないけれど、静かなところ知ってるのよ。そこに行ってみない」
「いいよ。それ、どこにあるんだい」
「麻布なんだけど、この時間なら混んでないと思うわ」
僕は微笑みながら答えた。
「分かったよ。じゃあ行こう」
僕たちはすこし歩きながらタクシーが通るのを待った。
月が柔らかな光の中で輝いている。星が静かな溜息をついているようだ。
僕らはさっきまでのことを、すっかり忘れてしまったように、落ち着いていられた。
「さっきの電話ね、ケンちゃんとだったのよ。もう私たちだめだから……ってそう言ったのよ」
君は諦めたような微笑みを浮かべていた。
「そう……」僕はケンと君との間に割り込むことに少しだけ疲れを感じていた。けれど、彼女がそばにいることが、そして彼女が安らいでいることが、とても幸せに感じられた。
僕の気持ちの中には、ケンと美冬の関係がまだ尾を引いていたが、それは受け止めることのできるものだった。たぶん彼女に距離を置くことができているからだろう。
激しいジェラシーも今はもう生まれてこなかった。心のどこかで彼女への思いを引き止めているからだろう。それができていることが何故なのかは分からない。ただ、時折冷えそうになる二人の心のはざまを埋めようと、僕たちは言葉を探したり、空を見つめたりしていた。
通りかかったタクシーを拾って、彼女の言う場所へと向かった。
僕たちは言葉を選びながら、いたわり合うように会話を続けていた。
触れぬように、壊さぬように、静かに、柔らかに、そっと心を包むように。
しばらくの沈黙の後、彼女は窓の外を見ていた瞳を僕のほうに向けてこう言った。
「裕行さん、ごめんね……」
僕は静かに笑顔をつくって彼女を見つめていた。
7
タクシーは小さな繁華街の明かりを通り抜け、ぽつりぽつりと灯る街灯に照らされた住宅街の小道を走り続けた。暗がりの中に点滅する小さな交差点で二人はタクシーを降りた。
「お店この近くなの……」美冬は、瞳を遠くに向けそう呟いた。
「そう……」僕は足元に視線を落としながら、街灯の明かりが落とす薄くまばらな影を数えるように見つめていた。
「そのお店には、よく行くのかい」
「うぅん、たまにお友達と行ったり、時々一人で行ったりするの……」
「ふぅん……」僕は彼女の心を探ることに疲れながら言葉をなくしていた。
真夏の夜風は大きくゆっくりと二人を包むように流れてゆく。静かにたたずむ住宅街は新緑のように柔らかだが、枯れ葉のようにもろいものに思える。
彼女は物思いにふけっていたが、僕には何を考えているのかまるで分からなかった。それとも、美冬はただぽかりとあいた彼女の心の隙間を埋められずにいるだけなのだろうか。
やがて彼女のことばかり考えている自分が、なんだかおかしくなった。
そして美冬の心に触れることが怖く思えた。さっきまでケンに抱かれていたからか、それとも今までの彼女の生き方すべてに対してなのかは、分からない。
「どうしたの……」彼女は横目で僕をうかがいながら静かに話しかけてきた。
「うぅん……なんでもないよ」僕は自分の心に描いた彼女への思いが、僕自身を蝕《むしば》んでゆくように感じた。
「もうすぐそこなの……」彼女は住宅街の坂をすこし下ったところにある、明かりのない小さな黒いドアを指差した。
僕は彼女に誘われるようにそのドアを開けて中へ入った。
店内は真っ暗で人影もまばらだった。客が数人、酔いの勢いでおおげさな手振りで話し続けている。大きなテーブルをかこんだ何組かのカップルたちは静かに話していたが、それでもどことなくお互いが攻撃的な印象をもっているように見受けられた。
僕たちは大きなテーブルの中のいちばん奥の席に座り、メニューを見ながら何にしようか考えていた。椅子は腰掛けるといった程度のもので座り心地はあまりよくはなかったが、僕は外の蒸し暑さに喉が渇いていたので、ビールを注文した。美冬はさんざん迷った後に、メニューを指差し、これ、と言ってウエイターにテキーラを注文した。
僕たちは大きな黒い楕円形のテーブルに並んで座った。二人の座る席の向かい側には誰もいなかった。真っ黒で大きなテーブルの向こうでは、カウンターでカクテルを作っている。店内が暗いせいか僕の気分は閉ざされてゆくようだ。彼女は足を組みセカンドバッグからタバコとライターを取り出し、その中から一本だけ抜き出して唇にくわえてみせた。そしてそっと火を点《つ》けると目に涙を浮かべていた。
「君がタバコを吸うなんて、僕の前では初めてだね」
「そう、たまにいらいらしている時とか吸ったりするの……」
彼女は浅く吸い込んだ煙の中に、心の思いを少しだけ滲ませるようにして、そっと宙に煙を浮かべた。
僕が美冬に話しかけようとすると、ウエイターが二人の間に割り込むようにして注文した飲物を二人の前に並べて去っていった。
「ねぇ、今夜はどうするんだい。ケンのところに行くつもりなのかい」
彼女は少し間をおいてから呟いた。
「さっきも言ったでしょ……」
美冬は怒ったようにそれ以上話そうとはしなかった。
「あぁ……分かったよ……」僕は諦めて頷き、自分のタバコに火を点けた。
「あぁ、ごめんなさい」美冬はそう言いながら自分のライターを手にして差し出そうとした。
「いいんだよ。そんなに気を遣わなくたって」
僕は彼女の横顔を見つめながら次の言葉を探した。言いたいことを言葉にしようとすれば山ほど見つかるのだけれど、聞きたいことはひとつだけだった。もつれた二人の心の間を埋める上手な言葉が見つからない。
「ケンのやつ何か言ってたかい」
「何かってなんのこと……。そうね……、ケンちゃんのお父さんのことを話してたの。ケンちゃん、私のことで、お父さんと会うんだって。あなたのことは特別何も話さなかったわ……」
「そうか……」僕はビールを一口くちにした。
彼女はテキーラのグラスにあたる薄暗い店のわずかな明かりを、じっと見つめたまま黙っていた。
「じゃあ何を話していたか教えてあげるわ」美冬はそう言って、グラスを手にした。
「あぁ……」
彼女は意味ありげに微笑んでから、一口のテキーラをくちにした。
「あのね……ケンちゃんのお父さん、最近、体の調子がよくないの。それに今、奥さんと別居していて一人きりでしょ、だから三人で会うことにしたんだって。それに……私のせいでそんなことになっちゃったんだもんね、もうどうしたらいいのか分からない。ケンちゃんもかわいそうなのよ、だから……」
彼女の言葉の意味は胸のうちに隠されているようだった。
「それに、ケンちゃん、アメリカから帰ってきて、すごく変わっちゃったみたいだったわ。もう私のことなんか真剣に考えている様子じゃなかったの。でもね……なんだか安心したし……それから、とても考え方とか、大人っぽくなったみたいだったから……」
美冬の言葉は、ひどく露骨で卑猥に聞こえた。僕は彼女の肉体が、今まで思い描いていたものと違ったものに思えてくることを感じ始めていた。何かに汚されてしまったものに対する哀れみなのか僕には分からないが、ひどく彼女の体が今までと違ったものに思えていた。
ケンノイッテイタコトハ、ホントウナノカイ……。
僕のその気持ちは喉まで出かかっていたが、どうしても言葉にはできなかった。それは僕自身がプライドに傷がつくことを怖れているからかもしれない。
「そうだね……ケンの奴、とても変わったよ……」僕は言葉を選んで話した。
「そうよね……」
美冬は安心したように頷き、そしてテキーラをまた一口飲み込んだ。
「ケンちゃんたち三人が会った後、私も多分ケンちゃんのお父さんと会うんだと思うわ。どうしよう……」美冬は何もかも分かりきった様子で話した。
「分からないけれど、自分に素直になる以外ないんじゃないかな。でないと確かなものなんか何も手にできないんじゃないかな。それから……」僕は言葉に躊《ちゆう》躇《ちよ》した。
「それから……なに……」
彼女は、次の言葉に自分の運命をゆだねるように僕を見つめていた。
「それから……もう……ケンの親父さんとは別れたほうがいいよ。ケンをこれ以上傷つけないためにもね」
「ふぅん……」美冬はまたグラスのふちを指で撫でながら、自分一人の世界を浮遊するような表情で僕を脅かすように横目で睨んでいた。
「もちろん、もう君がケンの親父さんとは関係のないことは分かっているんだよ……」
僕の言い訳じみた言葉は、彼女の心の前で消滅していた。
「うん……でも……」美冬は僕の言葉を何かに切りかえることを待ちかまえているようだ。
「どうしたんだい……」
「うぅん……何でもないわ」
「そんなこと言わずに、話してごらんよ」
「そ・う・ね。あのね……子供流産したでしょ、あれケンちゃんの子供かもしれないの」
「えっ、どういうことだい」僕は一瞬身をひいた。
「あの子供が、ケンちゃんの子供なのか、ケンちゃんのお父さんの子供なのか、本当は分からないの」
僕は戸惑いを隠すようにビールを飲み干し、気分が落ち着かず、いらついた気分で意味もなく視線を店のあちこちに投げかけていた。
「驚いたでしょ。ケンちゃんね、私に子供ができたって知った時に、私と結婚してくれるって言ってくれたの。でも……ケンちゃんのお父さんが猛反対して……。ケンちゃんのお父さん、ケンちゃんに、アメリカに行って勉強して帰ってきたら、結婚のことも考えてくれるって約束して……。それでケンちゃんアメリカに行ったのよ。でもね、そんなことしても結婚なんてさせてくれるはずないって、私、分かってたの。多分、ケンちゃんもね、分かってたはずよ……」
美冬は視線を床に落とし、涙ぐんでいるようだ。
「ねぇ……嘘ついていてごめんね」
「えっ、あぁ……」僕は真意もつかめぬまま、彼女の胸の内にあるすべての偽りを許すように諦めながら頷いた。
「それでケンは、結婚のことはどうするつもりだって言っていたんだい」
美冬は胸を押さえながら小さな溜息をつき、ぽつりぽつりと話し始めた。
「うん……でも流産しちゃったし、ケンちゃんもなんだか、私に冷たくなっちゃったみたいだし……。きっとね、ケンちゃん、お父さんにさんざん言われたんだと思うわ。それにね、ケンちゃんのお父さんには、ケンちゃんがアメリカに行っている間に何度も、ケンちゃんと別れてくれって、本当にしつこく言われたのよ。ケンちゃんがアメリカに行ってすぐの頃は毎晩私の部屋に来て……しばらくしたら、もうあんまり来なくなったけど、それからはしつこく電話をかけてきたわ。ケンちゃんと別れろって……」
彼女は指の間にグラスをはさみ、テキーラを一口舐めながら僕を見つめていた。
僕にはケンの気持ちが分からなかった。
「うん、でもケンの気持ちがよく分からないよ……」
「そう……私自身にも悪いところはあるし……。私にもなんだかよく分からないけれど、正直に生きることって何なのかしら。あなたなら分かる……」美冬は自分の生きた軌跡を振り返るように小さな溜息をついた。
僕はもうその話題に触れることには意味がないのだと思った。美冬の横顔がなんだかとても綺麗に輝いて見えるのは、何故なんだろう。
正直に生きてゆくことは難しいことだ。時には誰をも傷つけまいとして、逆につかなければならない嘘があるのだとしても。それでも嘘は、正直に生きてゆこうとする自分の姿を悲しくも、はかなく映し出しすべてを過《あやま》ちに追いこんでゆく。
僕たちは一杯ずつのお酒を飲み干してから店を出た。表通りには生暖かい風が、静かにうごめいている。月明かりのような街灯の明かりが、こうこうと輝いていた。街並みは静かなたたずまいをみせ、遠吠えのようなエンジン音が、どこからか遠く聞こえていた。
「私の部屋に来る……」美冬が、僕を自分の部屋に招待してくれると言ってくれたのは、初めてのことだ。僕はなんだか釈然としなかった。
「行ってもいいのかい」もう一度念を押すように尋ねてみた。
「あら、いいわよ。すぐそこだし、来てよ……」美冬の言葉はいつになく優しく聞こえた。
「あっ、タクシーが行っちゃったわ。もう……」彼女は遠く走り去って行くタクシーをいつまでも目で追いながら、振り向きざま僕の顔を見ておどけた顔をしてみせる。
「あっ、もう一台来るわ。あれに乗ろう……」
美冬は車の通りの少なくなった道路に、半分身を乗り出すようにして右手を大きく振ってタクシーを捕まえた。
「ねぇ、運転手さん、広尾までお願いね。ねぇ、私のマンションの側に芸能人がいっぱい住んでいるところがあるのよ。あれなんて言ったかしら……。えぇと……忘れちゃった、まぁいいわ、関係ないものね。あっ、そこを左に曲がってください」
美冬は、まるで故郷を見つめている子供のように、粗削りな瞳をしたまま、通りゆく道筋の中を一人はしゃいでいた。
「そこの一方通行入ると近道なんだけど、入れます……」
彼女の質問に運転手は首をかしげたまま黙っていた。
「じゃあいいわ。遠回りだけどその先をぐるっとまわってください。お願いしまぁす」
「バックして入ってもらうとすごく近いんだけどなぁ……」彼女はこだわるように小声で呟いていた。
タクシーは五十メートルほど大回りしながら路地へ入り込んで行った。
「じゃあ、そのマンションの前でけっこうです。おつりいいですから」
運転手は軽く彼女に会釈して走り去っていった。
「ここなの」
そこには似たようなマンションがいくつも建ち並んでいた。僕がどのマンションなのか分からず迷っているのに気づいた彼女は、僕の手を引くように彼女の住むマンションの前まで連れていってくれた。
建ち並ぶマンションの中でもこぢんまりとした品のいい新築のマンションだった。
「いいマンションだね」
「そう、中は狭いのよ……」彼女は小さく微笑んでいた。
彼女は郵便受けからたくさんの手紙やらチラシを手にして、おおざっぱにそれらに目を通しながら、オートロック式のドアの暗証ボタンを押していた。
大きなガラス戸でできた自動ドアはなんとなく急いだ様子で開き、僕たちはドアが閉じてしまう前に慌てて入口を通り抜けた。
「こっちよ……。階段しかないの……」
彼女の手招きに導かれて、僕は二階の彼女の部屋の前に辿り着いた。美冬はそそくさとドアの鍵を開けた。その開け方にはまるで用心がなかった。
「入って」彼女は玄関の中に僕を呼び寄せ、あっ、ちょっと待っててね。すぐかたづけちゃうから、と言って部屋の中を整理していた。
「いいわ、あがってよ」
「じゃあ、おじゃまします」
美冬の部屋には独特な雰囲気があった。小綺麗に整理されていたが、どことなく秘密めいたものを感じる。
「綺麗な部屋だね」
「そう……」美冬は手紙やチラシをひとつひとつ調べていた。
「あっ、何か飲む。お酒はないんだけど……あっそうだ、近くのコンビニエンスストアでお酒売ってたわ、買いに行こうか」
「うん、でももうお酒はいいよ……。君は飲みたいのかい」
彼女はしばらく考えてから、
「うん、私ももういいわ。じゃあ、コーヒーかジュースでも飲む」そう言った。
「あぁ、じゃあコーヒーもらおうかな」
「分かったわ。じゃ、すぐに淹《い》れるね」美冬はそう言いながら音楽をかけた。
疲れた心を癒すような環境音楽が静かに流れた。まるで異次元を思わせるように組み立てられた旋律は、スラーしながら僕の身体中をかけめぐる。
それはある種不快なものであったが、引き込まれてゆきそうな孤独さが、僕の心を温めてゆくようだ。
彼女はテーブルにコーヒーを注いだコーヒーカップを丁寧に並べ、床に敷かれた黒と白の模様の絨《じゆう》毯《たん》の上にちょこんと腰をおろした。
「ここの家賃、今度から私が払おうと思っているの。敷金とか礼金とか引っ越しの費用もないから、しばらくはここを使わせてもらうんだけど。でも近いうちに、別のところに引っ越すけどね」
「そう……」
僕はコーヒーを飲みながら、彼女が無造作にならべた写真集を見つめていた。
「こういう本、好きなのかい」
「うん、たまに見るの」
彼女はにこりと笑ってから付け加えるように話した。
「本当はそれ、剛造さんからのプレゼントなの。彼ね、絵とか写真とかが好きだったみたいで、自分の好きな写真集とか絵の本とかよくくれたわ」
「ふぅん……」
本の表題は「幸福の素顔」、エリオット・アーウィット写真集。バックミラーに映る恋人同士のキスシーンが湖の辺りを背景に写されていた。とてもユーモアのある写真が表紙に使われているのが印象的だ。
「あっそうだ、裕行さんも写真をやるんだもんね。ねぇ、どう、そういうのって面白いと思う」
「うん。君は、全部見たのかい」
「ううん、全然見てないわ。ただ剛造さんが来て、この写真面白いだろとか言われて見るくらいなものなの」彼女はおどけるように微笑んだ。
僕は美冬のほうを気にしながら、ケンの父である剛造の美的感覚から分かる彼の精神を推しはかるように何度も頷いていた。
「ねぇ、今度二人でどこかに行かない。海とか山とかさ……」
「いいよ。でも、どうしてそんな気分になったんだい」
「えっ、なんとなくよ。いいでしょ、それとも裕行さんは行きたくないの……」
「行こうよ。別に何の問題もないよ。海にする、それとも山にしようか、どっちがいい」
「裕行さんが決めて」
「そうだなぁ……じゃ、箱根かなんかに温泉にでも入りにいこうか」
「いいわよ。でも帰りに海も見たいわ」
「じゃあ両方ってことにしようかな……」
僕は笑ってみせた。
「そういうことね……」彼女は甘えるように笑ってみせる。
「裕行さん何日くらい行けるの。だって会社があるでしょ」
「そうだな、土曜日は会社が休みだから、金曜の夜出発して二泊三日かなぁ」
「じゃあそうしましょうよ。……ね」
彼女が体をすり寄せてくるたびに、思わず抱きしめたいという衝動にかられた。だが、その衝動は繰り返し繰り返し、止められ消え失せ、そしてまためらめらと燃え上がる、逃れようのない苦しみを含んでいた。
ケンやケンの父親のことや、いろいろな煩わしい思いが僕を彼女から引き離そうとしているようだ。
不意にドアのチャイムが鳴った。
「誰かしらこんな夜中に」
ケンが訪ねてきたのだろう、僕はそう思った。思いながら、言い訳にならない怯えが僕の心をつかんでいた。
「ちょっと待ってね。見てくるわ」美冬はそっと立ち上がり、ドアの覗き穴から外を見つめて身動きを止めていた。
「どうしよう」美冬は今にも泣き出しそうなほど驚きながら僕を見つめた。
「誰だい、ケンかい」
彼女は首を振りながら身をかがめた。
するとドアのチャイムがたて続けに二度も鳴らされた。
「ケンちゃんのお父さんが来ているの」
「えっ、ケンの親父さんが来たのかい」
ウン……。美冬は床に視線を落としたまま小さく頷いた。
「どうしよう」
僕たちは鳴り響くチャイムの残響の中で、冷静な答えを見失いかけ、不確かでわずかな二人の絆《きずな》を確かめるように、ただ息を呑みたたずんでいた。
「僕たちが部屋にいること知っているのかな」
「うん、たぶん。だってこの窓、外からまる見えだもん」
しばらくの沈黙の後、美冬は急に笑い始めた。僕はあっけにとられて彼女を見つめていた。
「どうしたんだい」
「だって……なんだかドラマみたいなんだもん。秘密を知って悪者に追われる男と女、なんて感じ……。なんだか可笑しくない」
僕は彼女の態度の変わりように呆れた。
「いいわ。私、会ってくるからここで待っててよ。ケンちゃんのお父さん、体の具合もよくないっていうし、すぐ帰ってくるから。ね、いいでしょ」彼女は微笑んでいた。
「本当に平気なのかい。そんなことをしても、またケンのことをごたごたと言われるだけじゃないのかい」
「うん、たぶんそうだとは思うんだけど。ちょっと心配なの……」
僕はその言葉に彼女の優しさだけをくみ取った。
チャイムがまた鳴り響くと美冬は大きな声で返事をした。
「はぁい」
彼女は立ち上がり、少し慌て気味にドアのほうへ向かった。
「はぁい、今開けます」
そして手慣れた手つきでチェーンを外しロックした鍵を開けると、ドアの向こうの暗がりに立っている人影に微笑んでいるようだった。
美冬はその人影に何か話しかけていた。しばらくすると、その人影が美冬を後ずさりさせながら部屋の中に入ってきた。ケンの父、剛造だった。
「この少年は誰なんだね」
「あ、この人、私の友達の裕行さんよ」
「どういう関係なんだね」
「あのね、ケンちゃんの幼なじみなのよ」
剛造はしばらく黙ったまま僕を見つめていた。
「君が裕行君か……」
僕がケンの父親剛造を見たのは、まだ幼い頃のことだった。
「悪いけれど、今日は帰ってくれないかね」
僕は何も答えなかった。
「彼女と話がしたいんだ。悪いね……」剛造は、美冬と僕を見比べていた。
するととっさに彼女は答えた。
「裕行さん、ごめんなさいね。今日は帰って……。ねっ」
「ああ……」僕は諦めて首を縦に振った。
「ねぇ、お話ししてもいいけどここじゃ嫌なの。どこか他のところに行きましょ」彼女のその言葉には不思議な説得力があった。
「あぁ、分かった。じゃあ車の中で待っているから、早く来なさい」
「うん……」美冬は少しだけ怒ったように剛造に頷いた。
そして新しい服をクローゼットから取り出して、何も言わずにバスルームの中に入っていった。
僕は、ただわけもなく寂しい気持ちを噛みしめていた。
しばらくすると美冬はそれまでに見たことのないような、大人びた洋服を身にまといバスルームから出てきた。
真っ赤な口紅。背中の大きく開いたベージュのワンピース。ダイヤのちりばめられた豪華なピアス。イエローダイヤモンドと大きなサファイアの指輪。ルビーやサファイアやダイヤモンドのちりばめられたスケルトンの腕時計。どれをとってみても一流の豪華なものに違いなく、美冬もまたその装いの中に自分を隠してしまっているように見えた。
「行くのかい……」
美冬は小首をかしげて、困った様子で僕を見つめていた。
「うん、ごめんね……」彼女はそっと僕に近寄り、僕の肩に腕を回すと、じっと僕を見つめて、泣き出しそうになるとそっと唇を重ねてきた。
「今度、海に連れてってね」
「分かったよ」
そしてもう一度唇を重ね合うと、美冬はおもむろに振り返り玄関のほうに歩き出した。そしておろしたてのハイヒールを取り出し、かかとを通しながら時折僕を見ていた。
僕は彼女の後を追うように玄関から出た。表にはエンジンのかかったロールスロイスが止めてあるのが見える。美冬が部屋から出てくるのに気づくと、彼女のためにドアを開けて運転手が待っていた。
彼女は車に乗る寸前に僕に向かって囁いた。
「海に行こうね」
彼女は涙ぐむように微笑みながら車に乗り込んでいった。
8
剛造の車は美冬を乗せ走り去っていった。その時の僕にはせめて自分の心のやり場を探し出すことぐらいしかできはしなかった。自虐的な失望と競い合うように、心の思いを隠し、諦めの気持ちの一歩手前でその理由のひとつひとつを消し去っていた。残されたのは彼女の言葉の残骸と、未練がましい僕のみじめな思いだけだったのだから。
剛造を見た瞬間、それに剛造に対する美冬の態度を見た瞬間、二人の間に僕の入り込む余地など毛頭ないのだと思い知らされた。あんなにきらびやかな姿に身を隠した美冬を見るのは初めてのことだったし、なんだかそんな彼女を見るのは辛い気さえした。そして僕の知らない彼女があたりまえのように存在していることはあまりにも自然だった。たぶん、僕の知っていることなんて、この世間の常識の中の半分にも満たないのだろう……そう感じたんだ。
美冬のマンションを出てから車を拾うまでの道が、はっきりと分からないおかげで、僕はまるで出口のない迷路に迷い込んでいるようだった。路上に街灯の細く小さな光の粒が散乱していた。いつも同じ道を辿っている気がしてくる。何故なのかは分からないが、そんな気がした。都会の夜空には星の数も少ない。まして今夜はうっすらとした雲が夜空を覆っていた。今にも小雨がぱらつきそうだ。湿っぽい風が僕の肩を撫でる。このままどこかに姿を消してしまいたい。
何かが終わりを迎えているような気持ちと、何かをやり残しているような整理のつかない気持ちだけが交互に僕の頭の中をかけめぐる。どちらにしても今日という日が時間の中に埋もれてゆくのだが、それはまるでとりとめのない勘違いの模倣を繰り返しているようだ。
もう会うのはよそう……。これ以上彼女の心の中に踏み込んではいけない気がする。
僕が彼女に与えられるものは、漠然と過ぎてゆく心の空白の時間を埋めるためだけの、戯れにすぎないのだから。帰り道の足取りは重く、一人きり取り残された僕を、まるで夜空が嘲笑っているようだ。
ようやく車の往来のある通りに出た。車は三分に一台通るほどのまばらさで、空車のタクシーもなかなか通らなかった。僕は道沿いにもっと広い通りを探しながらのろのろと歩いた。
降り出した雨が街灯の光の周りを霧のように浮遊し始めて、僕の頬や額や服に湿り気を感じさせる。僕は小雨に濡れながら、その雨から身を隠す術もないまま車の流れる方角へと歩き続けていた。
ようやくタクシーを捕まえるまでにはそれから三十分以上もかかったが、美冬への言い尽くせぬ思いに時間の感覚が麻痺しているのか、タクシーを拾うこと、部屋へ帰ってくつろぐこと……、そんな思いがあるだけで時間が過ぎてゆくことの煩わしさはなかった。
タクシーは無言で扉を開き、運転手は振り向いて僕を確かめようともしなかった。行く先を告げると、車はいちもくさんに目的の場所へ向かって走り始めた。ウィンドーは曇り、窓の外の景色はよく見えなかった。閉じ込められた空間の中には囁くようなラジオの深夜放送が流れていた。車内は蒸し暑く、僕がウィンドーを少しだけ下ろすと、窓ガラスの隙間で音をたてる小さく激しい風とともに小粒の雨が僕の額を濡らす。
入り組んだ小道を抜けると、見覚えのある大通りに出た。夜空には明かりの消えたネオンの群れが息をひそめている。通り沿いにはタクシーを待つ人々がぽつりぽつりと傘もささずに、宵闇の中に立ち尽くしている。赤信号で止まった時によく外を見ると、雨足は少しずつ強まっているようだった。
うつらうつらと途中何度も眠りそうになりながら四十分ぐらい車に乗っていたのだろうか、僕はようやく部屋の前に着いた。お金を払い、ぼぅっとしたまま車を降りて、部屋へと上がっていった。夕刊を新聞受けから取り出し、ドアの鍵を開けた。誰もいるはずのない部屋の中には、頭の中に焼きついた残映が陽炎のように揺らめいていた。それらのひとつひとつをすり抜けてゆくように部屋を歩き、電灯の明かりを探った。ぱっとついた明かりの中には何もない、誰もいない静かな孤独がたたずんでいた。
僕は上着を脱ぎ捨てベッドに横たわった。美冬に会うために急いで飛び出した部屋に戻ると、彼女を迎えに行くまでにためらっていたあの時の時間が蘇る。
イッタイナニガ ボクヲコンナニ アセラセテイルノダロウ
僕は何度も冷静さを取り戻そうとしたが、そのたびに彼女の微かな温もりが僕の胸を締めつけた。たった一度の戯れが、こんなにも僕を苦しめるなんて思いもしなかった。
モウイチド アイタイ
それが正直な気持ちだった。ただ彼女には必要なものがすべて揃っているように思える。少なくとも僕なんかいなくても彼女の暮らしには、僕の代用になるものくらいはすぐにいくらでも揃うだろう。
人は自分の生活にあるものすべてにひとつひとつ賭をしているようだ。僕が彼女を必要とするのは愛情を感じるからだろう。彼女を諦める気持ちを持つことができるのは、彼女という一人の人間の人生に強さを感じるからだろう。彼女は僕の弱さを知りながら、そこに何を求めているのだろう。きっと心に何かがひとつでも足りないことを、彼女も感じているのだろう。それが何なのかを上手く言い尽くすことはできないが、きっともっともっと確かな信頼できるものを求めているのだろう。変わることのない平穏な幸せや、平凡な生活に憧れているように思える。僕は静かに横たわり、目を閉じていた。
翌朝、僕はいつもよりすこし早めに目覚めた。めまぐるしい思いのせいで、僕は深い眠りにつくことができなかった。あとあじの悪い夢を何度も見たような気がする。それでもぐったりとした体を起こしシャワーを浴びると、疲れが体から流れ落ちてゆくような心地よさを感じた。体についた水の雫が体温を奪ってゆくようだ。僕はテレビのスイッチを入れコーヒーを淹れた。深刻そうに語られるニュースキャスターの声はコーヒーの湯気の中で、ただ時間の経過だけを確かめているように無味乾燥に聞こえる。
僕は散らかした部屋を少しかたづけてからスーツに着替え、マグカップにいれたコーヒーをゆっくりと飲み、出勤の時間がくるのをじっと待った。時間になると大きく溜息をついて、鞄《かばん》を脇に抱えて部屋を出た。
出勤時のラッシュアワーの駅のホームに紛れ込むと、明確に理解しようとしていた自分の悩みは漠然としたものに変わっていった。それが街の生活のリズムなのかもしれない。大切なもののひとつひとつは少しずつ形を失ってゆく。それを追い求めていると、やがてすぐにこの街の片隅に追いやられ取り残されてしまいそうな気持ちになる。
朝刊に目をやりながら黙々と電車を待ち続ける僕によく似た人々は不自然な笑みを浮かべ、子供たちは空白の時間にしがみつきながら立ち尽くしているように見える。
満員の電車に揺られ、乗換えの通路を小走りに歩き、街の賑やかな広告に見つめられながら一日が始まる。
会社に着いた僕は知った顔ぶれと軽い会釈を交わしながらそそくさと階段を上がり廊下を通り抜け、静かに自分のデスクに腰掛けた。会社に着いた奴の中には早々と書類に目を通している奴もいる。まるで今日一日を占っているようだ。
僕は生きるためのわずかな手段に触れるように書類を開き、祈るように心を閉じた。するとあたりの雰囲気は急速に沈澱し、傷のついたレコードのようなリフレインが聞こえる。電話の呼びりんや人の往来の雑音は、細かく脳裏をつつきながら僕を縛りつける。会社や社会といった漠然とした殺伐なものに拘束されながらも、それに甘んじて生きようとする自分自身が嫌になるのはそんな瞬間だ。
ボーナスや会社の仕事以外のアルバイトで稼いだ金で高級ブランドの服を買い、若い彼女をつくって週末には食事をおごり、プレゼントをする。僕のような若い新入社員にとってそんな姿は、たまらなく飽き飽きする。僕にも好きな上司や尊敬する上司はいるが、仕事もたいしたことのできない野郎が、偉そうにニヤニヤ女子社員の前で服の自慢なんかをしているのを見る時には、その場でそいつをぶん殴ってやりたくなる。口もききたくはないが愛想笑いしてみせる僕自身も情けないと思うよ。それでも誰にだって悩みはあるのだろうし、そんなにたいした違いがあるわけじゃないんだ。僕は周りの嫌な連中を許しながら、そしてまた自分を許して生きている。
会社の一日はきまった時間に終わる。テレビドラマでみるような情熱なんて感じたことがない。夜まだ会社の電気が消えずに灯っているのは、暇をもてあました連中が会社で酒でも飲んでるんじゃないかと思うことがあるくらいだ。重役になればなるほどアルコール依存症になる人が多いらしい。もっともそんな連中に会えるほど僕は偉くもないし、たいした仕事を任されているわけでもない。だから僕は苦いコーヒーで目覚め、取るに足らない恋に心を傷めて、そんなつまらないことで睡眠不足になんかなるんだろう。
そんなふうに僕の胸の内からはまだ美冬の面影と、彼女と交わし合ったたったひと時の温もりが消えなかった。そして僕は彼女にとってきっと何か大切なものを持っているのかもしれないと、何度も自分を確かめてみる。この街の陳腐な習慣に呑み込まれてしまいそうな危惧から身を隠すように通りを歩きながら明日を夢見れば、そんな自分こそが思い浮かべれば浮かべてみるほど可笑しく思えてくる。会社での僕の生活のパターンはきまっていた。それ以上でもなければ、それ以下でもない。口に出してしまえばすべてが無意味になる生活に必要なのはすべてにおいて愛なのだろう。でなければ退屈さを紛らわしごまかせる生活習慣だろうか……。
僕の会社の連中は会社帰りにうさ晴らしにお酒を飲みに行くこともあまりしない。時々、社内でもあまり顔を合わせることもなく口もきかないような同僚に誘われて飲みに行くが、話は終始、学生時代の思い出話や上司に対する取るに足らない愚痴につきる。そんな連中と一緒にいると、あぁ僕の青春も終わったんだろうな、なんて諦めた気持ちになる。
学生時代の友達にはもう結婚した奴もいる。後は子供を作って老後の計画でもするのだろうか。またはそれが人生というものなのだろうか。それならそれで僕も生き方を考え直すべきなのだろう。僕にはそれを笑い飛ばすこともできなかった。
美冬に会いたい……。こんなふうに考えることすべてを悲観的にするのは、きっと僕自身に確かなものが何ひとつないからかもしれない。もし美冬と何かを誓い合うことができるものがあるとしても、それはいったいなんだろう。彼女の人生の一部分を僕が削り取ってしまうだけのようだ。そしてそれすら何ひとつ僕や彼女を満たすものではないのだろう。
苛立たしい一日。とりとめのなく排他的な社会の構造。自我の確立に到らずに過ぎてゆく自意識。日常や世間からはみ出してしまいそうな怯えが僕をまるで操り人形のように動かし続ける。そうして一日が過ぎてゆき、朝と昼と夜が理由もつかぬままに訪れる。
美冬は今何をしているのだろう。彼女もきっとまたこんなくだらない日常に何かを夢見ながら、しがみつき彷徨《さまよ》っている……のだろう。おかしなものだ……。僕はいまだにちっぽけな人間の営みにわずかな希望を探しているんだ。
いったい彼女にも僕にも何ができる。そして彼女を取り巻く人間たちに何ができる。お金や権力を振りかざすことで身を守るような弱さに何ができるというのだ。でも少なくともちっぽけな夢なら分け合えるかもしれない。そんなことぐらいで人と人は安らぎを覚え、また諦めを知るのだろう。
僕はいつもの道をいつものように歩き、いつものように街の中で蔑視と落胆と諦めに包まれながらいつもの道を辿り、部屋へ向かった。都会の喧騒や繁華街の人混みは何かを確実に捕らえようとしているが、誰も何も捕まえられやしない。それが何故なのか理由の分からない人々は、ただ恨めしく街を見つめている。諦めたように答えを握りしめる人々は、うつむいたまま何も語ろうとしない。路上ではいつまでもそんな光景が繰り返されている。そんなふうに僕は奥歯を強く噛み締めるように一日を終え、ようやく部屋へ辿り着いた。すると留守番電話のメッセージランプが点滅していた。僕は美冬からかもしれないと思って慌ててメッセージを聞いた。一本目も二本目も無言で終わっていた。テープには数秒間の無言電話が録音された後電話が途切れ、それに続いて機械的な発信音が録音されていた。
間違い電話なのだろうか。それとも美冬が何も言わずに電話を切ったのだろうか。僕は、美冬からの電話だといいのに……そう思った。三本目にはメッセージが入っていた。
名前は言わなかったが、それは正真正銘、美冬の声だった。
昨夜はごめんね。今日から三日間ちょっと出かけちゃうの。電話、できないかもしれないから……。帰ったらまた電話するね。心配しないでね。いつも迷惑かけて、ごめんなさい……。
たったそれだけ言い終えると電話はがちゃんと切られていた。美冬がどこに行くのかは分からなかったが、きっとケンの父親の剛造と関係があるのだろう、そう思った。
三日間の旅行がてら、剛造と話し合いにでも行くつもりなのだろうか。病気のせいで気を弱くしている剛造を見守ってあげようというのか。それともきっぱりとけりをつけるのか、どちらかだ。
美冬の部屋に旅行用の大きなトランクケースがあったのを思い出した。海外で買ったお土産のようなものが棚の上に並べてあった。
どこで買ったのか聞きはしなかったが、たぶん彼女が剛造と付き合っている頃に、一緒に旅行に行き、その時に買い揃えたものに違いないと思った。彼女が一度だけ僕に海外に行ったことがあるのかと、尋ねたことがあったからだ。
僕は、学生の頃友達と一週間くらい行ったことがあるよ、とそう答えた。君は……、と僕が尋ねると、彼女は笑顔をつくったまま何も答えず黙っていたんだ。その表情の裏側には男の影がくっきりと浮かび上がっていた。それにケンの父親がよく海外に仕事しに行くのを、学生の頃ケンからも聞いていた。たぶんその仕事に一緒についていったのだろう……。
留守番電話には、彼女からのメッセージ以外は何も入っていなかったが、その後も無言で切れている電話が何本か続いて入っていた。
僕は彼女を諦めるように自分に言い聞かせていた。これ以上自分を傷つけることばかりを繰り返したところで、いったい何になるというんだ。彼女を救えるのは僕じゃないんだ。彼女が求めているのは、僕が思い込んでいるような愛情なんかじゃないんだ。彼女に与えられるものなんて何ひとつありはしない。愛もお金も地位も名誉も財産も幸せも、何ひとつ僕には彼女に与えられるものなんかありはしない。たったひとつあるとすれば……、平凡な苦しみを背負ったたわいのない生活感だけだ。その苦しみを消すがために、人はそれを何かに、お金や宝石や何かにすり替えながら、たった一時の瞬間に幸福の絶頂を味わおうとするというのに……。僕には届かぬものばかりだ。
その日は近くのスーパーで買物をした。自分で料理するなんて、それほど得意なほうじゃないが、嫌いなことでもなかった。
僕はビーフシチューを作ることにした。シチューのルーと玉葱、人参、ジャガイモ、トマト、クローブとニンニク、それから牛肉をたっぷり買い込み、コツコツと煮込みながら灰《あ》汁《く》を取ったり、その間にテレビを観ながらビールを飲んだりしてゆっくりと作る。
自分でも可笑しく思えるほど、料理っていうのは作り始めると面白いものだ。寂しい一人きりの部屋が一変して姿を変える。ガス焜《こん》炉《ろ》の火や換気扇の音、鍋がコトコト音を立てて煮えていると、部屋の中に気心の知れた友達でもいるような錯覚にとらわれる。独り暮らしの寂しさが僕をこんな思いにさせるんだから、たぶんこれは病気みたいなものなんだろう。シチューひとつ作るのに最低でも二時間はかかる。もっと時間をかけてもいいんだけれど、ビールやウイスキーを飲みながら作っているとお腹が空いてきて、つまみの代わりについ食べ始めてしまうんだ。
テレビのブラウン管に向かってしゃべりかけるように笑い、解説者の話に頷きながら黙々と酒を飲みシチューを食べる。時折街灯が窓辺に輝いているのが目に止まると、とても寂しく思える。やっぱり僕は一人きりの寂しさに疲れているんだろう。シチューをお腹一杯食べて、酒を浴びるように飲んだ。僕は酔っぱらいながらも、酔っている自分に疲れてしまうようだった……。
翌朝は二日酔いで出勤した。会社に着いてから胃腸薬を飲み冷たい水をがぶ飲みして、どうにか頭を回転させようとしたが、僕の思考能力は緩慢になっていた。
帰りの電車に乗る頃にようやく、胃も頭も正常さを取り戻してゆくようだった。ただそうすると次第に心に寂しさを感じ始める……。日常のざわめきを感じられるようになればなるほど、僕にはそんな寂しさの繰り返しこそがあたりまえなのだと痛感する。
部屋に帰ると部屋中にシチューの匂いが充満していた。鍋の蓋を開けると水分のなくなったシチューが鍋底にこびりついていた。今夜もこれを温め直して食べるのかと思うと、胃のむかつきを覚える。かといって外食しようとも思わない。会社に入ってから食が細くなってしまったのは、こんな生活パターンの繰り返しのせいなんだろう。僕はビールを開け、早く酔って眠ってしまおうと思った。一人で飲む二日酔いのビールはそれほど美味しいものじゃない……。
午後八時半を過ぎた頃だった。電話が鳴った。美冬からかもしれない……。僕は意味もなくそう思い、慌てて電話を取った。
「もしもし鈴木ですけど」
「もしもし……。裕行、おまえか」
電話の相手はケンだった。僕は身構えるようにその声に耳を傾け答えた。
「あぁ、ケンか。いったい何の用だ」
「久し振りに二人で飲まねぇか。どうせ今、美冬もいないんだろ。知ってるぜ、親父と……。まぁいいや、会ってからゆっくりと話そうぜ。出てこれるか」
僕は断りたかった。美冬のことを思い出すのが辛かったからだ。それでも心のどこかで、彼女の何かをひとつでも知ることができればいい……、そう思っている自分がそこにいた。
「あぁ、いいよ。で、どこで会う」
ケンは僕の気持ちを見抜ききったように妙に自信に満ちた力強い口調でしゃべり出した。
「そうだな。六本木に来いよ。いい店に連れてってやるよ」
「あぁ、分かった。何時に行けばいい」
「出てこれるんならすぐ来いよ。六本木の交差点に九時半っていうのはどうだ」
「あぁいいよ」
「じゃあ、後でな。遅れるなよ」
ケンはそう言って電話を切った。たぶん今泊まっているホテルからかけてきたんだろう。ケンからの電話口には人の気配がなかった。
僕はジーパンにジャケットをはおりすぐに部屋を出た。タクシーもすぐつかまった。僕の住んでいるところから六本木までなら、道が空いていれば四十分で着く。
タクシーの中でケンがいったい僕に何を話そうとするのか考えてみた。まさか彼女の取り合いで口論するために僕を呼んだわけではないだろう。せめてまともな話し合いになればいいのだけれど……。
電話口のケンの口調は冷めていた。女のことで言い争うような態度ではなかった。僕はケンの胸の内を多少なりとも察しながら、彼が僕を呼んだ真意を探してみた。
ちょうど四十分で六本木の交差点に着いた。人混みの中に紛れ込むとケンを探し出すどころか自分の居場所すら定かではなくなりそうな気がする。
僕を見つけたのはケンのほうで、ケンは交差点から少し離れた六本木の駅のほうから歩いてきた。
「ようっ。じゃあ行こうか」
ケンはその場ですぐにタクシーを拾い、僕を連れて乗り込んだ。ケンは行く先を運転手に告げたまま黙っていた。
「じゃあここで……」
そう言ってタクシーを止め、ケンが僕を連れていったところはおくゆかしい雰囲気のあるイタリア料理の店だった。
いらっしゃいませ。品のあるウエイターが僕たちを迎えた。
「ここ親父の店なんだよ。まぁゆっくり飯でも食いながら話そう」
僕たちは店のいちばん奥に案内された。
フルボトルで白ワインを頼み、久々にケンと乾杯した。よく冷えた白ワインは飲み心地がよかった。食事に前菜やパスタやステーキをひととおり頼んだ。たてまえを充分に仕上げた後、いったいケンは何を話し出すつもりなのか。じっと息を呑んでケンを見つめていた。
「なぁ,ヒロ。あそこにいるあの女見てみろよ。あれ親父の前の愛人だぜ。毎晩この店で飲み明かしているってわけさ。一時はこの店までぶん取られちまいそうになったんだ。たいした女だろ」
「ケン、あれなんとかっていう女優じゃなかったか」
「あぁ、そうだよ」ケンは表情を変えもしなかった。
僕はその女優をじっと見つめた。まるで見られることに慣れているかのように、その女優は僕の視線に気づきながら、なおも派手な笑顔を振りまいていた。
「ヒロ、どう思う」
その言葉の意味はすぐに分かった。その女優が誰かに似ているということだ。
そうだ確かに似ている。どことなく……。そう。あの豪華な衣装に身を隠して微笑んでいた美冬に似ているんだ。
「ヒロ、俺たちはまだ若くて、ケツが青いのかもしれないな。女ってやつにこうも振り回されて生きてるんだとしたらさ……。もう俺はこのゲームからは下りたよ。けどよヒロ。俺からの忠告だぜ。親父の愛人なんて自分の自己満足を満たすことしか考えちゃいないんだよ。それ以外親父と付き合う理由があるか。それは親父が悪いんでもなければ、女が悪いわけでもないんだ。そういうものなんだよ。そんなたわいもないものが、どんどんと本当に大切な生活を蝕《むしば》んでいくんだ。人なんて弱いものさ。親父は俺にはいつでも優しいさ。お袋にだって冷たくしているわけじゃないんだ。美冬が言ってたよ。親父みたいに優しい人に会ったのは、生まれて初めてだってさ。今はさ、親父自身も何かに変わろうとしているのかもしれないな。生まれてから今まで、苦労に費やした時間を全部取り戻そうとしているんじゃないのかな。俺は子供ながらに、傍から見てそう思うよ」
ケンは終始一貫して自分の父親のことを話し続けた。女優のなんとかいう女性はケンを見つけると、ケンのほうばかりをじっと見つめていたが、ケンに話しかけようとはしなかった。
ケンの話が途切れがちになる頃には食事も終えて、二人で食後酒にコニャックを飲んでいた。僕は店内の照明が明るすぎて目がちかちかしたし、ケンの真剣な話に悪酔いしそうだった。僕は始終ケンに頷いたり首を振ったりしながら、ケンとケンの父とそして美冬のことを考えていた。
「この店と、あの女がいい見本だろ」
ケンは笑いながら目を閉じていた。
「ケン」
僕がそう呼びかけるとケンは酔いながら目をとろんとさせて僕を見つめた。
「ケン、俺もこの思いには早くけりをつけたいんだ。今度彼女に会ったら俺から身を退くよ」
僕はそう言いながら席をたった。勘定を払おうとすると、いいんだよ馬鹿、ここは俺の親父の店だぜ、おごりだよ、気をつけて帰れよ、じゃあな、と言ってケンはコニャックを飲み干していた。そして僕が店を出ようとすると最後にこう言った。
「ヒロ、でもおまえじゃあの女と手を切るのは無理かもしれないな。親父なんかまたハマっていっちまってるし……。せいぜい気をつけろよ。女にもいろいろと……」
僕はケンの話にそこまでしか耳を貸さず、酔いに多少足元をふらつかせながら店の外へ出た。ケンの話にやっぱり少し悪酔いしたようだ。僕は車を拾い、部屋へ戻った。
それから翌日僕はまた二日酔いで会社に出勤した。昨夜のケンの話がずっと頭の中で渦巻いていた。女性を見る感覚さえ違っているようだ。
夢を見ているように一日が過ぎていった。現実への帰属価値が曖昧な分だけ、どんなに理想を思い描いても無駄に思えた。
そして夕暮れが訪れ、その中に少しずつ少しずつ夜が生まれていた。
僕には生きていることの意味すらなくなりそうだ。美冬への思いはただ逃れようもないこだわりを生み続けている。いくら消し去ろうとしても彼女の面影が消せない。忘れようとすればするほど、彼女への愛情が芽生えそうになる。いい加減にしなくては……。何度も自分を否定しながら、美冬を思い浮かべることすらやめようとした。心にある彼女のすべてを燃やし尽くしてしまいたいのだが、何故かそれができない。彼女の笑顔と温もりにもう一度だけでも触れたい。そしたら……、そしたらきっと終わるだろう……。
僕は虚しさの中で彼女の面影を抱きしめ、そして消し去ろうとしていた。
その時、不意に部屋のチャイムが鳴った。僕はためらわずにドアを開けた。きっと美冬に違いない。
「こんばんは。元気だった」
僕はためらわず美冬を部屋の中に迎え入れ、まるで彼女の笑顔の中に吸い込まれるように強く強く抱きしめた。彼女は言葉ひとつもらさず、ただ黙って僕に体をあずけ、そっと目を閉じたまま体をしなやかにくねらせた。二人は熱く熱くひとつに溶け混ざり合った。
9
美冬は温かくて小さな吐息を何度も何度も僕の胸にこぼした。僕は彼女の柔らかな素肌の上を滑り落ちてゆくようだった。それはとても優しく僕の胸のつかえを取り除いてくれた。二人は互いの心に触れようとするように抱きしめ合い、時の過ぎゆくままにその身をあずけている。言葉にしてしまいたい。でも、もしそんなことをしたらいっぺんで二人の気持ちが冷めてしまう。そんな気がした。二人の時計の鐘が鳴り響いた。そして美冬は閉じていた目をうっすらと開き、僕らは瞳を見つめ合いながらにこりと微笑んだ。
「会いたかったよ」僕は空虚な空間にその言葉を投げかけ、言葉の意味が静かに落ちてくるのを思い描いていた。彼女は黙ったままだった。
「あれからケンに会ったんだ」
「そう……」美冬は僕に何かを気づかれたのだと思ったのだろう。何もしゃべらぬまま服を身につけ始めた。
僕はなるべく美冬と剛造のことを責めぬような言葉を選んで話した。
「剛造さんて、優しい人なんだってね。ケンは親父さんをずいぶんと理解しようとしているみたいだったよ」
「そうかしら……」美冬の言葉はとても冷たかった。
「何かあったのかい」
「ううん、別に何もないわよ」彼女のその言葉は部屋の空気を凍りつかせるほど冷めていた。
「剛造さんに何か言われたのかい」
「えっ、うん。でもあなたにこんなこと話してもいいのかしら。分からなくて」
「何でもいいよ。話してくれないか」僕の言葉の裏側に美冬は何かを読み取ったようだった。
「あの人にはもう別の恋人がいるみたいなの。何だか話し方も妙によそよそしいし、私がお風呂に入っている時に別の女の人のところに電話してたんだもの。それになんだか頭にくるようなことばかり言うし……。それが全部私のせいだって言うのよ。何でなの。だからね、私も言ったの。前から考えていたんだけどね、もう別れましょって。そしたらまた怒り出して。やってられなかったのよ。どうしようかしら……」彼女は鏡の前で乱れた髪をゴム紐《ひも》で束ねながら夢中になってしゃべりたてた。
「僕と君のことは気づいているのかい」
「分からないわ……。たぶん気づいていると思うけど、たいしたことだとは思っていないみたい。裕行さん、あなたケンちゃんに何て話したの」彼女は鋭い視線で僕を見つめた。
たとえ酔っていたからとはいえ、別れるつもりだと言ったとは答えられなかった。
「えっ、君のことは何も話さなかったよ。ただケンの親父さんのことをいろいろと聞いたんだよ」
「そしたら何て言っていたの」美冬が口調をこんなにあらげているのは初めてのことだ。
「ケンちゃんたらひどいのよ。私の周りの友達に私の悪口を言い回っているらしいの」
「友達っていうと……誰のこと」
「えっ、だから剛造さんの知り合いの人とかにね、私が剛造さんからお金を持ち逃げしようとしているんだとか言っているらしいのよ。ひどすぎるわ」彼女は涙ぐんでいた。
何故かしら彼女はいつも涙ぐんでいるように思えた。それとも人の暮らしなど涙に明け暮れるものなのか……。僕は慰めるように話を聞いてみた。
「ねぇ、そんな話誰から聞いたんだい」
「剛造さんから……」彼女の涙がとめどなく流れ出した。
「誰かが剛造さんに君のことを告げ口したんだ」
「告げ口じゃないわ。悪口よ」彼女はまるで剛造に対しての怒りをぶつけるように、僕の言葉にやつあたりし始めた。
「あぁ、そうだね」僕はぐっと我慢して彼女の幾筋かの涙を見つめた。
「でもそんなつもりまったくないんだよね」
「うん、だって私、剛造さんのこと好きだし裏切るつもりなんてないわ。だから別れる決心までしていたのに……」
僕にはその言葉が辛かった。僕が美冬を諦めようとしている気持ちと似ている。たぶん、いや、僕はまだ彼女を諦めきれないだろう。僕はその話にジェラシーを覚えた。でも僕は気をとり直しもう一度確かめるように彼女に尋ねた。
「でも剛造さんはそんな話どうでもいいと思っているんだろ」
「だって……。何だか他に女つくっちゃってるみたいなんだもの……」
「そのことについて何か聞いてみたの」
「聞いたわ」
「そしたら何て言っていたんだい」
「誤解だって。そんな人はいるはずないし、できれば私と一緒に暮らしたいって……」
「へぇ……。そうなんだ」僕はその言葉に愕然とした。
「でも奥さんとのことがまだきちんと整理されていないし、もう少し時間がかかるって言っていたわ」彼女は少し落ち着きを取り戻したようだった。
僕は彼女の話を聞いているうちに何だかとても寂しくなった。時計の針は午前三時を回っていた。
もう彼女と別れるべきなんだろうな。別れるしかないんだ。別れる時が来たんだ。僕は自分にそう言い聞かせた。
勇気を出して美冬に尋ねた。
「ねぇ、僕らはどうしたらいいんだろう……」
「えっ……」彼女は沈黙した。
もしかしたら彼女の中に存在する僕の意味はただ単に時の戯れにすぎなかったのかもしれない。彼女のこわばった表情の中にそんな気持ちがうかがえた。そして僕にはそう思えることが悲しかった。
「うっ、うん。いいお友達でいましょうよ」美冬の言葉は僕の胸をかきむしり引き裂いていた。僕が美冬に言おうとしていたことを逆に彼女の口から言わせてしまった。なんて計算違いなことを聞いてしまったんだ。僕はどんどんと自分を苦しめてゆくようだった。僕が彼女の肩を抱き寄せようとすると、彼女は少しそれに逆らって窓のほうを見つめていた。
「でもひどいと思わない、私が彼のお金を持ち逃げしようとしているなんて。ケンちゃんもあんまりだわ。ケンちゃん何か言っていたでしょ」
「いいや別に何も……」
「隠さなくてもいいのよ。私が説明したら分かってくれて、剛造さんも怒っていたもの。いくらなんでも私がそんなことをするわけないじゃない。ひどいわ。それに他の女の人ができたなら別れてもいいと思ったのに。私と会っていない間に彼にそんな人ができたって不思議じゃないものね……。でもそんなの勘違いだって彼は言うし……。ああぁ、あのマンションもどうしようかと思っていたのにな」
「そうだね……」
「どうしたの」美冬はしょんぼりとした僕に気づき、僕の顔を覗き込んだ。
「何でもないよ。で、剛造さんとはどうするつもりなんだい」
「うん、もう少し時間をかけて話し合うことにしたのよ。私の気持ちももっと整理して考えてみたいし」
「じゃあ、僕らはもう会わないほうがいいのかな」
「えっ、どうして。裕行さんはそうしたいの」
「ううん。そうしたほうがいいのかと思ってさ」このままじゃ僕が振り回されてゆくだけじゃないか。
「私もっといろいろと相談に乗ってもらいたいの。勝手なお願いかしら……」
僕は酷く疲れてしまった。ちくちくと頭をつつくような頭痛がする。
「何だか顔色が悪いわ。大丈夫」美冬は僕に体をすり寄せてきた。
「平気だよ」僕は素っ気なく答え、彼女の体から逃れた。
「じゃあ、私もう帰るわね」
「あぁ……」
「なんか来ちゃって悪かったかしら。ごめんなさいね」
「いいんだよ」
美冬は服を整えると、そそくさと玄関に行きハイヒールに足を通した。僕は彼女を止める元気さえなくしていた。
「じゃあまた電話するわね」美冬は少しだけ僕のほうに振り返り、潤んだ瞳をわずかに僕に向けただけで部屋から出ていった。
僕は彼女を玄関まで送ることもしなかった。ケンの言っていたように美冬もまたあの剛造の前の愛人であった芸能人の女性と一緒なのだろうか……。たぶん一緒なんだろう。きっともう電話もかかってこないかもしれないな。そしてこれが彼女との最後になるならば、それでもいいのかもしれない。
彼女の自由な生き方をとめる資格なんて今の僕には何ひとつないんだから。だって彼女を愛しているからというそれだけの理由がいったい何になるというんだ。彼女がそんな理由だけで僕を受け止めるはずないじゃないか。そんな理由だけで僕を受け止められるならば剛造に対してだって同じだろう。僕にはお金もなければ、地位もない。何ひとつとっても剛造にかなうわけもない。美冬も心のどこかで僕と剛造をそんなふうに比較しているんだろう。
それから一週間のあいだ美冬からの電話もケンからの連絡もなかった。僕の周りで時間はとめどもなく流れ、そして意味をなくしている。僕のほうから何度か電話してみたが、いつも留守番電話になっていたので、僕は何もメッセージを残さぬまま電話を切った。
いたたまれない思いで毎日を過ごした。彼女の、いい友達でいましょう、という言葉だけが僕の頭にこびりついていた。そして気持ちを整理しようとする思考をすべて破壊していった。いい友達っていったい何のことなんだ。剛造に隠れてこそこそと会うことなのか。そういう関係のことなのか。そして僕は彼女に何を求めているんだ……。いつも一緒に暮らしてゆくようなことを考えているのだろうか。そしたら僕は彼女に何を与えてあげられるというのだろう。馬鹿馬鹿しい……。僕には諦めることぐらいしか何も残されていないんだ。
そんなことで頭を悩ませて二週間があっという間に過ぎていった。そしてその夜、美冬から電話があった。
「こんばんは。電話しなくてごめんね。友達と旅行に行っていたの」
僕はその友達が剛造なのだということが彼女の口調ですぐに分かった。
「電話待っていたんだよ。電話かけてもいつも留守番電話だったから……」
「うん、ごめんね。お土産買ってきたから今度渡すね」
「…………」
「今ね剛造さんが来てるの。それといろいろと相談に乗ってくれてありがとう」
僕は彼女がいったい何を意味してそんなことをしゃべっているのかまったく分からなかった。
「そうなんだ。で、彼とは上手くいっているのかい」
「うん、私の言っていることが本当だってこと信じてくれたの。ケンちゃんも酔っぱらってあんなこと話してたらしいのよ。だから気にしなくてもいいからって剛造さんが言っているわ。あっ、じゃあまた電話するね。本当にどうもありがとう……」そう言うと彼女は慌てて電話を切った。僕は今度こそ完全に彼女に取り残された思いだった。
彼女の話し振りでは剛造とそうとう上手くいっているらしい。僕の入り込む余地など毛頭ない。でもそれが彼女の望むことならばそれでいい……。それに彼女は僕との関係に今まで以上の距離を置こうとしているようだ。それだけ剛造という人物に魅かれているのだろう。
彼女を恨む筋合いは何もないんだ。ただ僕が諦めればいいのだから。それとも彼女の幸せを願って忘れてしまおうか。どちらでもいい、彼女と僕は時の悪戯にまかせて触れ合った、ただそれだけなのだから。
それに彼女を忘れるいい機会だ。このまま思い出の中に閉じ込めてしまおう。
喪失したものに対する深い思いは、まるで人生の教訓のように重く、そして意味のあるものだ。僕は理解のもとに涙を流し、眠りについた。
それから僕は彼女を忘れるように努力した。ケンの言うとおりなんだと。剛造の周りに集まってくる女性は皆、自己満足を満たすことしか考えていないんだ。もう忘れよう。もう美冬のことは忘れよう……。
僕は昔付き合っていた晴美に電話した。晴美は僕のことが好きだったのだが、僕は遊び半分の気持ちだった。晴美と出会ったのは六本木のディスコだった。友達とナンパしたんだ。その時ケンもいたっけな。晴美の他にも付き合っていた女性は二人いた。晴美以外の二人の女性にも電話したけれど、もう真剣に付き合っている彼氏がいるからと言って、デートはあっさりと断られた。
晴美だけがデートの約束に応じてくれた。まだ僕のことが好きなのだろうか……。会わなくなってから半年にはなるけれど……。
晴美とは青山のイタリア料理の店で九時に待ち合わせた。晴美が今いったいどんな女になったのか、期待してみた。
いい女になっていればいいのにな。
晴美は九時半になってようやく現れた。肌に張りつくような黒いワンピースを着ていた。何だかあんまりあの頃と変わっていない。少し化粧が上手くなったかな。
「遅くなってごめん。元気そうね」
僕はビールを飲んで待っていた。美冬に比べて晴美はしっかりした女性に思えた。
「やぁ,久し振りだね。君も元気そうだね」
「そう。ありがとう」
彼女はレストランのボーイに席を勧められて席についた。ボーイに、何か食前酒はいかがですか、と言われると、晴美は僕のほうを見つめた。
「うぅんと、ヒロは何飲んでるの」
「僕はビールだけど、白ワイン飲まないか」
「うん、それでいいわ」晴美は素直な女だ。その分気取りがない。てごたえがないと言ってもいいのかもしれない。美冬はその分わがままで自由な女だ。
「綺麗になったね。素敵な彼氏でもできたのかい」
「友達はたくさんいるけど、なかなかこれって人は現れなくて……。それにね、最近親に勧められてお見合いしたのよ。でもタイプじゃないから断っちゃった」
「へぇ」
僕たち二人は昔の友達が今何をしているのかとか、そんなことを話しながら閉店時間まで話を続けた。それから昔行ったカラオケの店に行ったりして、一晩中飲み歩いた。
街角の暗がりで僕は晴美に口づけした。晴美は何の抵抗もしなかった。そしてそのまま晴美をホテルに連れていった。
晴美を抱いた。晴美の体は昔より少し太ったようだった。まるで昔に戻ろうとするように晴美は懸命だった。僕はそんな晴美の肌を優しく撫で何度も口づけした。二人は何時間も抱き合いそして最後にもう一度口づけしながら時を重ねた。
「あなた、何だか変わったみたい」
「そうかい……」
「昔はこんな抱き方じゃなかったわ」
僕は何も答えなかった。
「私あれからもずっとあなたのことが好きだったのよ。でもあなたには他にも彼女がいたから諦めようと思って電話もしなかったの……。ねぇ、今誰か好きな人いるの」
「えっ、誰もいないよ」
「嘘っ」
「本当だってば。この間ふられたばかりさ」
「ふうん……」
「晴美は誰か好きな人できそうなのかい。君みたいに可愛い女の子のこと、他の男がほっとかないだろ」
「私って好きになるとどうしようもないくらい、その人しか見えなくなっちゃうの。あなたの時もそうだったの。一生懸命つくしたのにあなたったら他の女の子と平気でデートしてるんだもん。悲しかったのよ……。馬鹿っ」
「そんなに好きならなんでもっと積極的に追いかけてこなかったんだい」
「ああぁ、あなたって勝手ね。あなたに振り回されてる間どれくらいあたしが悩んだのか分からないでしょ。だからね友達に相談したの。あなたってすぐに約束をすっぽかすじゃない。それも他の女の子とデートして」
「えっ、そうだっけ」
「そうよ。だから今度約束すっぽかされたらね、もう忘れたほうが私のためだからって友達がアドバイスっていうのかな、してくれて……。そしたら案の定あなたは約束すっぽかしたの。嘘つき」
「えっ、いつだっけ」
「ちょうどケンちゃんがアメリカに行った後だと思うわ……」
思い出した。美冬と出会った頃だ。
「ごめん。用事があったんだよ」
「どうせ他の女の人との用事でしょ……」
「まぁ、違うとは言えないけど。君の考えてるような付き合いの子じゃないよ」
「まぁっ、どうでもいいけど。で、今その子と付き合ってるわけ……」
「違うってば」
「どうせその子にふられたんでしょ。あっ、図星だ。自業自得よ。またその女の子の他にもいろいろな女の子と付き合っていたのがばれたんでしょ」
「全然違うよ。今度はけっこう真面目に……まぁいいじゃないか」
「何よ。馬鹿みたい」晴美はふてくされて背を向けた。
「誰が馬鹿みたいなんだい」
「あなたのことなんか好きにならなければよかった。他の女の子と付き合っていても、私に分からないように付き合ってくれればよかったのに。あなたって嘘が下手なんだもの。好きになったほうが損しちゃうわよ」
「ごめん」
晴美はその一言にもっと傷ついたようだった。
「あやまらないでよ。嘘つき」
僕は黙って服を身につけ始めた。
「もう帰るの……」
「あぁ、だって今日も仕事だからね」
「そうね」
「晴美は仕事じゃないのかい」
「今日は仕事休みなの。ずっと家にいるから……」僕からの電話を待っているという意味なのだろう。なんだか少しだけそのいじらしさが可愛くて僕はおでこにキスをした。
それから慌てて部屋に帰り、シャワーを浴びて服を着替え会社に出勤した。体は昨夜の酒が残っていたのと夜更しとでくたくただった。仕事なんてこんなもんかな。いつになく僕の気持ちはすべてを見つめる視点が冷めていた。ようやく美冬という精神的な錘《おもり》から解き放たれたからだろう。僕は久し振りに自由な気分だった。何だか仕事にも身が入った。
今夜もう一度晴美に電話してやろうかな。女性のことを考えるとまだ美冬のことを思い出してしまう。
仕事時間も終わり僕はまっすぐ自分の部屋に向かった。晴美に電話しようと思った。昔、晴美と撮った写真を探した。晴美にみせてやろう。きっと晴美なら喜んでくれるだろう。
そんなことをしているうちに二時間が過ぎた。慌てて晴美の部屋に電話した。晴美は電話に出なかった。どうしたんだろう。もしかしてまんまとはめられちゃったのかな。僕は何だかおかしな気分になったが、とりあえずもう一度後で電話することにして、昔の写真をながめていた。
すると電話が鳴った。晴美だろうと思った。何だかそんな気がしたからだ。僕は慌てずにすこしからかってやるつもりで電話に出た。
電話の向こうは美冬だった。美冬は泣いていた。
「美冬かい……。どうしたんだい」
美冬はなかなか話し出さなかった。ようやく涙をこらえてぽつりぽつりとしゃべり始めた。
「やっぱり、あの人に新しい女の人がいたの……」
「そうなのか」
「私に分からないようにしていてくれればよかったのに……」
「うん」僕は晴美の言葉を思い出した。
「ねぇ、これから部屋に行ってもいい。お願い、会いたいの」
僕は断りきれなかった。
「あぁ、いいよ」
「じゃあ今から行くね……。ごめんね」
美冬はそれから三十分もかからないで部屋に来た。泣き疲れているようだった。
「入りなよ……」僕はいつもより少しだけ冷たく彼女を部屋に招いた。
彼女は力なくハイヒールを脱ぎ倒れ込むように部屋に上がり込んだ。
「どうしたんだい。何か飲むかい」
美冬は首を横に振って涙にくれていた。
「剛造さんに他の彼女がいたんだ」
彼女は静かに頷いた。そしていつものようにぽつりぽつりとしゃべり始めた。
「いったい私どうすればいいのかしら……。やっぱり他に女の人がいたのよ……。私に分からないように付き合ってくれればよかったのに。それにもう私と別れてくれればいいのに……」
僕は遠い目で彼女の泣き崩れている姿を見つめていた。
「君も剛造って男に振り回されているんだね。ねぇ話したことなかったけど僕の本当の気持ちを聞いてくれるかい。僕はね君のことが好きでたまらないんだ。だから君から剛造やケンの話を聞くと辛いんだよ。でも君を忘れることにしたんだ。どうせ君は僕に振り向きゃしないだろ。振り回されるのって辛いからね……」
美冬は黙ったまま心を閉ざし、呟くように僕に尋ねた。
「じゃあどうすればいいの……」
「それはね、きっと君が剛造っていう人間の何が好きなのか考えるべきじゃないかな」そう言いながら僕は自分にも言い聞かせていた。
「そう……」
「人を好きになる気持ちはとても純粋だけれど、その気持ちの中で自分を見失うと辛すぎるよ。そうじゃないかな」
美冬は僕をじっと見つめていた。
「じゃあ、あなたは私が本当に好きなの」
「あぁ……」
彼女は僕に体をあずけてきた。僕の腕はそっと彼女を包んでいた。二人は軽く唇を重ね合った後、部屋の明かりを消し、静かに服を脱いだ。彼女は僕以外を見つめようとはしていなかった。暗がりの中で、ずっと僕の瞳を見つめていた。長いあいだずっと口づけを続けた。二人はひとつになった。そしてとても激しく抱きしめ合い始めた。電話が鳴っていた。たぶん晴美からだろう……。けれど僕の胸の中には美冬しかいなかった。
10
長く短い夜が過ぎていった。ようやく窓辺に朝日が溢れ始め、小鳥たちがさえずる声が聞こえた。美冬と僕はおでこをくっつけ合いながら静かに眠り、時折二人は眠たげな瞳を開き、目と目を合わせて互いが側に寄り添っていることを確かめ合っていた。諦めてしまおうと思っていた気持ちが、なお僕を強く彼女に近づけている。
彼女はとても自由だ。けれど人を自由に愛してゆくことなど、誰にもできはしないだろう。何故ならば愛は互いの気持ちを縛り合うものだからだ。無理して強く抱きしめれば壊れてしまうし、目をそらしているとすり抜けてどこかに消えてしまう。
それに愛は虚しいかけひきの中で、一度だけとても優しく輝いてみせる。その輝きに目を奪われてしまうと人は盲目になり、愛の炎の中にその身を投じようとするだろう。そして燃え尽きてしまうまでその熱の熱さに耐えなければならない。愛に辿り着く調和など用意されてはいないんだ。ただ愛は常に孤独を背負わせ孤独と戦わせている。
時計の針が朝の七時半を回った頃、僕はもう眠れずに仰向けになって考え込んでいた。
愛のせいで心が盲目になった僕は、美冬の温もりの虜《とりこ》になっている。その暖かさがそのうちにもっともっと熱く煮えたぎって、この身を焦がしてゆくことが怖かった……。美冬は計算しているわけではないだろう。ただ彼女は身の危険を避けるように振る舞えるだけだ。彼女に悪気は何ひとつない。責められるのは僕のほうかもしれないんだ。だって彼女の心の傷を慰めるふりをして、彼女の心をもてあそんでいるのかもしれないのだから。
「もう起きたの」美冬が寝ぼけた声でそう呟いた。彼女の言葉の響きは寂しく愛に渇望し冷えきっていた。
「うん。もう眠れなくて……」
「そう……」彼女はその寂しさにくるまりながら、まだ半分眠っていた。それとも目を開くのが怖いのだろうか……。
「まだ眠いのかい」僕の言葉に安心したように彼女は頷いた。
「なんだか時間の過ぎてゆくのがとても早く感じるわ。ねぇ今何時」
「今は、えっと八時ちょっと前だよ」
彼女は寝ぼけた眼差しで時計のある場所を探していた。
「もう起きようかしら」
「眠たいのならまだ寝てればいいよ」僕は彼女の肩にもう一度シーツをかけてあげた。
「ありがとう」美冬は今にも泣き出しそうな小声でそう答えてから僕の手を握りしめた。
僕がいなくなったら君はどうなってしまうのだろう。悲しい考え方なのだろうが、人が一人で生きてゆけぬ限り、たとえ僕と別れても彼女は誰か別の人を探すのだろう。そしてそれは僕もまたおなじことだ……。僕もまた別の誰かを探すのだろう……。
彼女は寝返りをうって窓辺にたまった朝日を見つめていた。
「私って矛盾しているわよね」
「えっ」僕は美冬の言葉に戸惑いを覚えた。
「あなたのことを好きになったり、他の男の人を好きになったりして、何だかとても矛盾だらけだわ。このままじゃ私、自分一人のことすら分からなくなりそう」
「自分が分からないのは君だけじゃないよ。僕だって自分のことなんか何ひとつ分かっていないんだから」
「慰めてくれなくてもいいのよ。あなたのことだって本当はもっと大切にしてあげなければいけないのに。私ったらいつの間にかあなたにあまえてばかりいるわ」
「いいんだよ。人間そんなに簡単に心の悲しみには耐えられるものじゃないし、それに君を慰めるつもりで言ったんじゃないんだ。ただ君の言い方じゃ、僕たちの関係があまりにも惨めに思えるんだ。辛いよ……」
「そう……」彼女は自分の非を認めまいとするように頷きながら、僕を遠くへと追いやる視線をしていた。
「だったらどうすればいいのかしら。教えて」
「僕に君の気持ちのすべてを話してくれないか」僕は彼女の心の扉をそっと開いてみたかった。そこにあるものが、ただ漠然とした彼女の言い訳にすぎないとしても……。
「いいわ……でも、いったいなんて言えばいいのかしら……」彼女はそこで言葉をつまらせ、遠い目をしてみせた。きっと彼女のその視線の向こうにあるものが、彼女の背負う偽りの答えなのだろう。心を開いておくれ……僕はそう願った。
そしてぽつりぽつりと美冬は話し始めた。
「あなたと出会ってからの私って、初めて東京に出てきた頃の自分と比べるとずいぶん変わったわ。私は自分の生活のために一生懸命だったの。そうね、それだけは今でも変わらないわね。でもね、私は一生懸命に人を好きになって、一生懸命幸せになろうとしたのに、どんどんと自分を見失っていったの……。大切なものが何だったのかすら、もう今の私には分からないわ。剛造さんと出会ってからそれが分からなくなったのよ。お金なんかじゃなかったと思うわ。いろいろな物を買ってもらって、いろいろなところに連れていってもらったけど、でも結局そんなことじゃ安らぎは得られなかったの。彼には家庭もあったし……そうよやっぱり馬鹿なのは私のほうよ。ケンちゃんのことも傷つけちゃって……。もう私って救いようがないわね」彼女は泣き出した。
僕は彼女の言葉に傷つきながら、彼女の涙の中に僕の愛を感じていた。
「それからね……」
僕は美冬が話を続けようとするのをそこでやめさせようとした。
「もういいよ」
「いいの。お願いだから、最後まで話させて」美冬は涙をぬぐいながら、また静かに話を続けた。
「いろいろなことがありすぎたのね。やっぱりそんなにたくさんのことをいっぺんに抱えられるものではないわ」彼女はそこで話をやめ、また遠い瞳を窓のほうへ向けていた。きっとたくさんの思い出の中から本当の自分を探し出そうとしているのだろう……。
そして中途半端に話はそこで途切れたままになった。僕は彼女の瞳の行方を探ってみた。けれど彼女はもう心を閉ざしたままだった。僕は彼女にかける言葉を失った。二人とも無言のまま時の過ぎてゆく早さだけを感じていた。
すると美冬は急に微笑んでこう付け加えた。
「でもあなたといると、時が過ぎてゆくのが怖いくらいにとても早く感じられるわ」
僕はその意味を探さずに視線を落として微笑んだ。
「もう少し眠らないか。なんだかまだ眠いよ」
「うん、でも私は帰る」
「えっ、帰るのかい」僕は慌てた。彼女が傷ついたまま帰ってしまうのが怖かった。
「もう少し側にいてくれないか。なんだかとっても寂しいんだ」
彼女は少しだけ微笑んだ。
「そんなふうに言ってくれるとなんだかとっても嬉しいわ。いいわよ、じゃ何か飲物持ってきてあげる。何がいい」
「そうだなビールでも飲もうかな」
「こんな朝から飲むの。大丈夫」美冬のその言葉はとても新鮮だった。僕をそんなふうに心配してくれることは初めてのことだったからだ。けれど少し寂しい気持ちになった。今まで知らずにいた彼女がようやくそこにいる。そしてその新しい彼女もまた別の悲しみを背負っているのだろう。
「平気だよ。レッドアイでも飲もうかな」
「あの、ビールをトマトジュースで割ったやつね」
「嫌いかい」
「別に嫌いじゃないわ。でもこんな朝早くから飲むと酔いそう」
「じゃあ君は何か別のものを飲んだら。ジャスミン・ティーとかさ、あるよ」
「じゃあ私はジャスミン・ティーにする」彼女の心が少しずつほぐれてゆくようだった。
朝日はゆっくりとその光の強さを増してゆく。僕たちは思い思いに心を象《かたど》りながら、静かにその光が強くなってゆくのを見つめていた。こんな自由な気持ちになれるのも不思議なことだと思った。
「ねぇ。私もレッドアイ飲もうかしら」
「いいよ。ワインクーラーもできるし、カクテルもカルアミルクもあるよ。女の子が飲むにはぴったりのお酒がこの部屋にはたくさんあるんだ」
「何だか若者むけのお店みたいね」
彼女の笑顔に応えるように僕はおどけた。
「ようこそヒロユキカフェへ。心ゆくまで飲んでください」僕は笑いながら彼女の頬に口づけした。
「じゃあ私も飲もうっと。えっと、何にしようかな」
「当店自慢のカルアミルクはいかがですか。それとも何かご希望にそうものがあればおっしゃってください」
「じゃあ、これと同じものをください」彼女はそう言って僕の飲みかけのグラスを片手に持って微笑んだ。
「かしこまりました。それではしばらくお待ちくださいませ」そう言ってふざけながら僕の気持ちは少しずつ冷めていた。
美冬は台所に立つ僕のそばに寄り添っていた。
「何かつまむもの作る」
「えっ、うん」僕は彼女を思わず抱きしめ、彼女の温もりを強く感じていた。
「何があるの」彼女は冷蔵庫の中をぼんやりと見つめていた。
「気のきいたものは何もないんだ。えっと、ツナの缶詰とスパゲティーとそれと……」
僕が戸棚の中を探していると美冬は泣き出しそうな笑顔で僕に抱きついた。
「どうしたの……」彼女にそう尋ねることはとても無意味に思えたけれど、彼女はその言葉にとても救われたようだった。彼女は僕の唇を求めていた。きっとわけもなく訪れる寂しさに耐えられなくなったのだろう。僕はそっと彼女に口づけした。
「じゃあ、スパゲティーを作ろうよ。これでも料理には少し自信があるんだ。とは言ってもレトルトのミートソースだけどね……。でもゆで具合が微妙なんだよ」
僕は笑顔を浮かべて美冬を見つめていたが、彼女は視線を僕の胸に落としながら黙っている。彼女の肩をそっと包み込んだ。
「まぁ、とにかくお湯が沸くまで少し飲んでいようよ。ねっ」
美冬は小さく頷きながら、胸のわだかまりを抑えているようだった。
僕は美冬にトマトジュースを多めに入れたレッドアイを渡した。
「それじゃあ、乾杯」
二つのグラスは重なり合い弾けるような甲高い音をたてた。
人には隠しきれない悲しみがあるのだろう。それはわけもなく訪れ、心を包み込んでしまうもの。それに逆らうこともできず、ただ人は悲しみの渦中に巻き込まれてゆく。
美冬はほんの少しグラスに口をつけただけで、無言のままだった。
「もう酔ったの」僕は心配しながら遠回しに彼女の心を探ってみた。
「ううん、ごめんね。これすごく美味しいわ」彼女は、はっと我に返ったようだった。
「そう……よかった。じゃあ安心したよ」
彼女は微笑を浮かべながら、忘れるための言葉を飲み込むように、グラスを口にあてた。けれど何か無理しているようで、いたたまれなかった。
「何か音楽でも聴こうか。何がいい。それとも、うぅんと、ビデオでも観るかい」
「音楽がいいわ。私音楽が好きなの。だって音楽っていつまで経ってもその旋律への思いが変わらないものだもの……」
僕は彼女が持つ大きな言葉の意味をすぐに感じとった。彼女の純粋な感情は無償の涙を誘うものだった。僕は涙をこらえた。
「じゃあ、何を聴こうか。何が好き」
「何でもいいわよ。あなたの好きなのをかけて……」
僕はスタンダード・ナンバーをかけた。そしていくつかの恋愛にまつわる話をしながら時を過ごした。美冬は三杯目のレッドアイと音楽に酔っているようだった。
太陽がカーテンの隙間から眩しく差し込み、時計の針は午前九時を指していた。
「私もう田舎に帰ろうかな。妹やお母さんのことも心配だし……。もう東京での暮らしは疲れちゃったみたい……」
彼女はそう言いながらベッドにもたれて、鍋のお湯がぐつぐつと煮える音の中で眠ってしまった。
僕は鍋の火を消して、彼女をベッドに運び、寄り添って眠った。
目覚めるともう夜だった。時計の針が七時半を回っていた。彼女もうっすらと目を開けている。天井に小さな街明かりが反射していた。
「ねぇ、私もう帰るわ……」
「夜御飯一緒に食べようよ。いいだろ」
「うん。でも一度帰って着替えたいの。いいでしょ……」
「あぁ、かまわないけれど。何食べようか。ねぇ、材料を買っておくから一緒に料理しようよ」
「いいわよ。でも、とにかく一度部屋に帰るから。それから連絡する……」
僕の心から余裕がなくなってゆくのが分かった。僕は少し意地になった。
「何時頃に電話してくれる」
「九時くらいには電話するわ」
「あぁ、分かったよ」僕は何だか嫌な予感がした。美冬が剛造からの連絡を気にしている様子がうかがえたからだ。
「もう、何もかもすべてに終止符を打つの」美冬は小声で強くそう呟いた。
「えっ……」
「うぅん、何でもないわ」彼女は一人孤独な気持ちを背負いながら、本心を確かめるように僕の顔を覗き込んで、こう尋ねた。
「ねぇ、裕行さん。本当に私のこと愛しているの」
「あぁ、もちろんだよ」僕は自分の言葉を胸の奥で繰り返し、その意味を確かめるように美冬の髪を撫でおでこに口づけした。
「よかった……」彼女は納得したように微笑んだ。
彼女は明かりも点けぬまま服を身につけると、僕の部屋の小さな玄関のところまで行き、じゃあ後でね、とそう言って去っていった。僕は散らかった部屋の中に一人取り残され、しんと静まり返った暗がりの中で天井に反射した一点の明かりを見つめ、彼女の言葉の意味を探しながら、その意味の重さに押しつぶされそうになっていた。
九時半になって美冬から電話があった。
「あのね。剛造さんのお店に来てほしいの。剛造さんも来るから。あなたのことを愛しているからって、彼に伝えたの。そしたら彼、あなたに会わせてくれたら私と別れてくれるって言うの。会ってくれるでしょ」
「いいよ……」
「お店の場所を言うわね」
「いやっ、知っているよ。この間ケンとそこに行ったんだ」
「そう……それじゃあ、何時に来れる」
「今すぐ出るから、十時半にしよう」
「いいわ……じゃあ後でね……」
僕は服を着替えすぐに部屋を出てタクシーを捕まえた。外はすっかり冬の気配を漂わせていた。その店に向かいながら、これからどんなことが起ころうとしているのか考えると、僕は落ち着かなかった。
店の前に着くと美冬が店の前に立っていた。
「遅くなってごめん」
「いいの、私も今着いたから。剛造さんも、もうすぐ来ると思うわ。中に入って待っていましょ」
僕は彼女の後を歩いた。ドアを開けて中に入り美冬が、藤谷の名前で予約してある者ですけれども、とそう言うと、ボーイは僕たちを丁重に少し奥まった席へ案内してくれた。
いちばん静かなとてもよい席だった。椅子もテーブルも他の席のものとは少し違っていた。
ボーイが、飲物を勧めるので、僕たちは白ワインをたのみ、グラスを口にしながら剛造が現れるのを待っていた。ハウスワインの味はほんのりと苦かった。
時間は静かに流れているようだった。剛造を待つことに張りつめていた気持ちが、ワインの酔いの中でだんだんと和らいでゆく。僕は美冬をじっと見つめた。
彼女は窓の外をじっと見つめたまま、何もしゃべろうとはしなかった。剛造が現れたら彼女は何を話すのだろう。僕は何をしゃべればいいのだろう。
窓の外に一台のロールスロイスが止まった。剛造が現れたのだと思った。僕は、おやっと思った。車の中から出てきたのが身なりのしっかりとした婦人だったからだ。
その婦人が店の前に立つと、ボーイはすこし緊張した面もちでその婦人に挨《あい》拶《さつ》し、彼女が開けかけたドアを素早く開いた。そして、あちらです、と言ってボーイは僕らのテーブルのほうへその婦人を招いた。
婦人は僕らのテーブルのほうへ足早に近づいてきた。そして美冬をじっと見つめた。
「藤谷の家内です。ちょっとお話があるので、来てくださらない」
美冬はその婦人の態度に一瞬ひるんだが、こうなることを予測していたようにすぐ毅《き》然《ぜん》とした態度でこう答えた。
「いいえ。剛造さんがいらっしゃるまでここで待ちます」
その言葉の後、婦人はいきなり美冬の頬を叩いた。
「あなた何だと思っているの。全部分かっているんですからね。おとなしく私についていらっしゃい。本当にっ、あなたって子はっ、いったい何を考えているのっ」
美冬は頬を押さえながら涙をこらえていた。そして車へと連れてゆかれるのを覚悟したように、こう呟いた。
「剛造さんはそこに来るんですか……」
「ええ。来ますわ」
「何でここに来てくれないんですか」美冬は堪えきれずに涙をこぼした。
「後で話します。さぁっ、いらっしゃって」剛造の奥さんは強引に美冬の手を掴み引っ張った。そしてちらっと僕のほうを見ると、こう言った。
「ごめんなさいね。主人とこの子と三人で話がしたいので、また今度にしてくださいね」
僕は上目遣いに婦人の瞳を睨んだ。美冬は泣きながら婦人の手に引かれ連れられてゆく。
「美冬、行くのかい」
彼女の涙がきらきらと輝きながら落ちていた。
「うん。行ってくる……」
「じゃあ電話待っているから」
美冬は困惑した表情の中で、微かに僕に微笑みながらこう囁いた。
「裕行さん。ごめんなさい。私あなたのことを愛しているわ……」
11
テーブルに涙と言葉だけを残し剛造の妻に連れられて店を出てゆく美冬を、僕は苛立ちながら見つめていた。
焦ってもしかたない、きっと彼女は僕だけを選んだ答えを剛造らの前で明らかにしてくれるだろう。僕にはそう信じるより他、手だてがなかった。
ぽかんと空いた美冬の座っていた席を目の前にしながら、僕は次第に途方に暮れていった。あっという間に起こった出来事がとても重要なことだったというのに、僕にはただ傍観する資格しかないことが寂しかったからだ。
ボーイはオーダーを取りにも来なかった。僕は膝《ひざ》に置いていたナプキンを雑に折り畳んでテーブルの上に投げ、静かに席を立ち上がり、ボーイに勘定をチェックしてもらった。店は静かな装いの中で賑わっている。
こんな気持ちじゃ、どんな料理も喉を通らないさ。僕はそんな思いで店内を見つめていた。
店を出ようとする時、ボーイが僕を呼び止めた。
「あの、お客様。お忘れものがございましたけれど。多分お連れの女性の方のだと思うんですけど……」
ボーイが差し出したのは、美冬が持って来ていたどこかの店の手提げ袋だった。
「あぁ、どうもすみません。それじゃあ、僕が預かっておきます。どうもありがとう」僕はそう言ってその袋を受け取った。
中には黒い包装紙に包まれリボンのかかった小さな箱が入っている。誰かへのプレゼントなのだろう。剛造に買ったものだろうか。それとも僕に……。
よく見ると手紙が添えられていたが、僕はあまり気に止めないようにした。次に美冬に会った時に聞いてみよう。それが剛造に宛てて書かれたものだと今分かったら、どんなに気がめげてしまうか分からない。そう思ったからだ。
タクシーを拾った。時計の針はもう夜中の十二時を回っていた。こんなときの時間は足早に過ぎていってしまう。
ぽつりぽつりと雨が降り出し、一雫ずつ落ちてくる雨粒がタクシーのフロントガラスにあたって弾けていた。
そういえばもう秋も終わりじゃないか。早いもんだな……。
僕は過ぎ去った季節を振り返るように、美冬のことを考えた。最初に偶然街で出会った時の彼女の顔はもう思い出せなかったが、次から次へと蘇る彼女との思い出に、僕の頭の中は塗りつぶされていった。
まったく……。僕の口からはわけもなく言葉にならない言葉が、たったひとつこぼれ落ちて胸の内に取り残され、そして今度は小さな溜息をついていた。
タクシーを降りて、部屋まで小雨に濡れながら歩いた。いつもならまだ賑わっている街の余韻が漂う街並みも、今夜は雨がそれを静めているようだ。目に映るものすべてが泣いているように静かにたたずんでいる。
部屋のドアを慌てて開けてみたが、電話の呼びりんが鳴っているはずもなかった。そんなことを気にするなんだかとても焦った自分自身に気がつくと、真っ暗な部屋のたたずまいは僕をぽつんと取り残そうとしているようだった。
美冬からの電話があるのではないかという思いに背中を押されて部屋の中に入った。すると青い闇を映す窓ガラスに僕の孤独は吸い込まれ、寂しさは飽和してゆくようだった。
僕は視線のやり場をなくし、大きな溜息をついてから明かりを点けた。留守番電話のメッセージランプが点滅している。
誰からだろう……。僕は留守番電話に残されたメッセージを聞いた。
無言で切れている電話がふたつと最後のひとつは晴美からだった。
もしもし、晴美です。この間は楽しかったわ。暇になったら電話してください。待ってます。お仕事頑張ってね。それじゃあ……バイバイ。
そう言ってメッセージは切れていた。
晴美には悪いことをしたな……。そう思ったが、あえて晴美に電話する気にはなれなかった。美冬のことで頭が一杯だったからだ。
男と女っていうのはずいぶん身勝手なものなのかもしれないな。見えているようでまったく何ひとつ確かなものなんて見えていないんだ。美冬か……。もう、彼女のことで悩むのは、これで何度目になるのかなぁ。なんだか、あっという間だったけれど、いろいろなことがあるよな……。
僕は諦めたように呟いていた。
その夜、美冬からも誰からも電話はなかった。僕は目まぐるしく思い描いているもののひとつひとつを白紙に戻してゆくような無意識の中で、ことんと眠りについていた。
次の朝に疲れは残っていなかった。いつもどおりに出勤し、会社は年末に向けての残務整理で皆飛び回っていた。最近よく会社を休んでいた僕は、学生気分がまだ抜けていないんじゃないかと上司に叱られてしまった。
まったくそのとおりかもしれない、そう思った。今のこの仕事がやりがいのある仕事というわけでもなかったが、社会人としての自覚が自分に足りない気がして惨めだった。
それに美冬に恋している僕はまだ本当に子供のようだ。好きだと思い込んで、仕事にも影響してしまっているじゃないか。僕は唇を噛み締めて仕事に勤《いそし》んだ。なるべく彼女のことは考えないようにしていた。でないと自分で自分自身が見えなくなる……。そんな気がした。
一日の中でこんなにも仕事について真面目に考えさせられた日は、今日が初めてだったのかもしれない。仕事も恋ももっと大人にならなくちゃいけない。でもいつもいちばん最初に思い浮かべるのは、やっぱり美冬のことだった。
僕と同期で入社した人の中には転職した者もいる。どんな理由だったのかは聞いたことがなかったが、辞めていった奴の一人がこんなことを言っていた。
あぁあ、青春時代も終わっちまって、今じゃ上司の間違いを消しゴムで直してくだけ、こんなものなのかな、人生なんて。
その言葉を聞いた時は、何でそんなに自暴自棄になっているのかよく分からなかった。けれど今は分かるような気がする。結局人生なんて、何かひとつでもがむしゃらになれるものがなくちゃ駄目なんだろう。それは人それぞれ何でもいいものなのだろうし……。
僕は久し振りに会社の仲間と一緒に飲みに行った。会社の連中は仕事の延長線でジョークを飛ばし、社内恋愛や上司の方針に難癖をつけている。僕は相《あい》槌《づち》を打ちながら、話を合わせていた。僕よりひとつ年上の先輩が話しかけてきた。
「裕行くんは彼女いるのかい」
五人で来た皆の視線が僕に投げかけられていた。僕はすこし戸惑いながら笑ってごまかすように答えた。
「えっ、そんな子いませんよ」
「それにしちゃ、最近よく会社を休んでるねぇ」
僕より五つも年上の先輩がそう言って僕をちゃかすので、僕は言葉につまって苦笑していた。
「まぁっ、それくらいの年頃だったら誰にでもよくある話さ。俺だって彼女と付き合い始めた時は彼女とばっかりいて全然仕事しなかったもんな。でもそのおかげでなかなか出世せずって感じだけどね」五つ年上の先輩はかなり酔っているようだった。
「でも、その後が最悪だったんだ。結局彼女にふられちゃったんだから……。まいったよ」
僕は視線を皆のグラスの並ぶテーブルの上に落とし、笑うに笑えなかった。
「でも最近は女の子にはついてるんだ。彼女が五人もいるんだからさ」
「先輩、かっこつけて嘘ばっかり言ったらいけませんよ。先輩の部屋に泊まりにいっても女の人から電話がかかってきたことなんて、先輩のお母さんくらいなものじゃないですか」
同期の奴が先輩をちゃかした。そしてそれにつられて僕も笑っていた。おかげで落ち込みそうな気分がいっぺんに晴れた思いがした。
三時間くらい皆で飲んでから解散した。僕はかなり酔っぱらっていた。他の人たちは、もう一軒他の店に行くと言って行ってしまったが、僕は帰ることにした。
夜空が月明かりに照らされ明るい。都会の小さな星がちかちかと輝いて目に焼きつく。一人になるとまた美冬のことを思い浮かべていた。
電車に乗って部屋に向かった。夜の駅のホームは仕事帰りの人々で溢れ返っていた。疲れに肩を落とした人々の足元に滑り込んでくるような電車は泣き声を上げているようだった。
部屋に帰って服を着替えていると電話が鳴った。ちょうどいいタイミングだ。美冬からだろう。僕はそう思って電話にでた。けれどかけてきたのは美冬ではなく晴美だった。
「もしもし、今帰ってきたの。お帰りなさぁい」晴美の声は明るかったが、僕の心には届かなかった。
「どうしたの、疲れているの」
「いや別に……」
「あっ、お酒飲んできたんでしょ。女の子と一緒だったの、それとも会社の人と」
「女の子のわけないだろ」
「あっ、怪しいなぁ……。いいのよ、私に気なんか遣わなくたって……。裕行君はもてるから、しょうがないわよねぇ……」
「何言ってるんだよ。会社の人。それも、お・と・こ・だよ」
「あら、そう。そうなんだ……。ねぇ、ひとつ聞いてもいい」
「何だい……」
「最近彼女いるの」
「いないよ」
「嘘。私、友達から話を聞いちゃった。裕行君には今彼女がいるって言ってたわよ」
「まったく、誰だよ、そんないい加減なこと話すのは」
晴美は電話口で笑っていた。
「その彼女、けっこう可愛いらしいじゃない。よかったわね」
僕は馬鹿にされているようで腹がたってきた。
「それだけかい、じゃあ切るよ」
「あっ、ちょっと待って……。あのね、この間ヒロの誕生日だったでしょ。私そう思ってプレゼント買ったの。今度受け取ってほしいんだけど、いいかしら……」
「えっ。あっそうか、もう誕生日過ぎちゃったのか」
「えっ、やだ。自分の誕生日も忘れていたの。もう……しょうがない人……」
「あっそうだ、誕生日だったんだ」僕はあらためて自分の誕生日を思い返してみた。
「ねぇ、今度渡しに行ってもいい。お祝いしていないんだったら、ケーキも買っていってあげるわ」晴美は執《しつ》拗《よう》な優しさを僕に見せた。きっと寂しいのだろう。
「うん。ありがとう。暇な時でいいよ」
「うぅん。ヒロに合わせるわ。いつがいいの」
「そうだな。今はよく分からないから、こっちから電話するよ」
晴美はすこしためらったようだった。
「そんなこと言ってヒロから電話がかかってきたことないもん。いいわよ、彼女とのおじゃまになるようなことはしないから。やっぱりこれ別の人にあげようかしら」
僕はそう言ってふてくされる晴美が可愛く思えた。
「分かったよ。じゃあ明日はどうだい」
「無理しなくったっていいのよ。明日は……」晴美はそこまで話して言葉につまったようだった。
「明日は何にもないよ。それとも君の都合が悪いのかい」
「違うけど……。本当に明日大丈夫なの……。無理しないで」
「無理なんか何もしていないから。明日は豪華なディナーを食べようよ。僕がおごるよ」
「えっ、本当。嬉しい。あらっ、でもヒロの誕生日を祝うのにあなたにごちそうしてもらったら何だか変だわ」
「構わないよ、どうせ誕生日はもう過ぎちゃったんだから」
「うぅん、じゃあ私がごちそうしてあげる」
「いいんだってば。それだったら君の得意のロールキャベツでも作ってもらおうかな」
「うん、それでもいいわよ。そういえばヒロと付き合っていた頃は、いろいろな料理を作ってあげたわね。覚えてる」
自分の言ったことと晴美の話すことが僕に妙な寂しさを感じさせた。急に美冬のことが気になってしょうがなくなってきた。
晴美はそれに気がついたのか、心配そうな声で僕に尋ねた。
「どうしたの。やっぱり明日都合が悪いの」
「えっ、いや、そうじゃなくて。やっぱり僕がごちそうするよ。誕生日を思い出させてくれたお礼にね」
「うん……」晴美は心細い声を出した。
「じゃあ明日、麻布のハリスってお店に七時に待ち合わせようよ」
晴美はすこし黙っていた。
「いいだろ」
「うん……。じゃあ明日ね」晴美はまるで明日は絶対に会えないんだと思い込んだように返事をして電話を切った。
僕は電話を切ってからしばらくベッドで横になって自分の誕生日のことを考えていた。
そういえば誕生日の思い出っていうのは、あんまり覚えてないなぁ……。どうしてだろう……。酔いが眠気に変わって僕はうとうとしていた。
十二時近くだった。電話が鳴った。電気的な呼びりんは耳元でいつもより優しく鳴り響いていた。僕はうたた寝している間に眠っていた。
その電話が美冬からだろうと思うと何だか体が緊張する気がした。
「もしもし」僕は電話をとった。
「美冬よ。話したいことがあるの……。部屋に行ってもいいかしら」
「ああ構わないよ。ずいぶん遅いね。何やっていたの」
「ごめんなさい。こんなに遅く電話しちゃって」
「えっ、そういうつもりで言ったんじゃないよ。じゃあ、待っているから早くおいでよ」
僕は美冬の態度がいつもと違うことに気づいていた。
「うん。今から行くわ。今ね、私の部屋にいるの。ここからだと三十分もあれば行けるわよね」
「ああ、たぶんそれくらいあれば着くと思うよ」
「うん、じゃあ今からすぐ行くわ。じゃあね」
「じゃあ、待ってるよ」
「…………」美冬は何かを思いつめたようで、そっと電話を切った。
きっとまた剛造のことかケンのことで悩んでいるのだろう。それとも昨夜よっぽど酷いことを剛造の奥さんに言われたのだろうか。
僕はまたベッドに横になって、並べられた本の題名のひとつひとつを読みながら、物思いに耽《ふけ》っていた。
二十分くらいすると部屋のチャイムが鳴った。美冬だ。
僕は慌ててドアを開けた。するとそこには泣き出しそうな笑顔を浮かべる美冬が、いつもよりもっと深い悲しみを知ってしまったように立ち尽くしていた。
「あがってよ」
「うん……」美冬は心持ちしっかりしてそう答えたが、心の何かをなくしたように眼差しはとても悲しみに満ちていた。
「こんな夜遅くに、ごめんなさい」
「いいんだよ。さぁ、座って。何か飲むかい」
美冬は首を振った。
「いいの。気を遣わないで」
僕は黙って冷蔵庫からビールを持ってきて美冬の前に置いた。
「ありがとう」
「じゃあ、乾杯」
彼女はビールに軽く口をつけた後、ふうっと気を許したような表情を浮かべ、そして僕に向かって笑顔を見せた。
「どうしたんだい。今日はいつもと違うね」
「そう……」
「うん。昨夜大丈夫だったの」
彼女は答えなかった。
「変なこと聞いてごめんね」僕は彼女に謝りながら、そっと視線を彼女から外した。
ぺたんと座り込んだ彼女はいつになくぼんやりした口調で話し始めた。
「ねぇ、裕行さん、私といて私のことじゃまじゃない」
僕は彼女に微笑みながら答えた。
「全然じゃまなんかじゃないよ」
「本当」彼女の瞳は子供のようだった。
「本当だよ。君といると幸せだよ」
「ねぇ、男の人っていったい何を考えているの」
「考えているって、何のことだい」
「えっ。うぅん、ただ何となく聞きたかったの。何で私、こんなふうに悩んでるのかなぁってこと」
彼女は剛造のことが言いたいのだろうか、それとも自分自身の生活のすべてだろうか。
「えっと、よくは分からないけど、たぶん大人になってゆけばそれだけ考え方も変わってゆくってことじゃないかな。きっとあと何年か経ったらその違いが分かる時が来るだろうしさ。あんまり急いだってしょうがないことだってあるよ。狡《ずる》くもなってゆけば、弱くもなる。優しくもなれば、強くもなる。いろいろなことを覚えることで人間は変わってしまうんだよ」
僕は自分でもそんな言葉が口に出るとは思わなかった。
「裕行さんて頭がいいのね」彼女は優しく微笑んでくれた。
「ねぇ、私のこと好き」彼女の声は頭の残像の囁きに埋もれてしまいそうなほど、小さなものだった。
「うんっ、好きだよ」
「私のこと愛してる」
「愛しているよ」
僕は彼女が闇の奥深くで小さくなっているところまで降りていくように、彼女の体を優しく包んだ。そして美冬は小さな吐息を洩らして僕の背中に腕をまわし、僕にしがみつくように抱きついてきた。
きっと今まで泣いていたんだろう。何があったのかを聞く必要はない。今はただ彼女を優しく包んであげよう。
彼女と僕はそっと唇を重ね合い、静かに暗い闇の淵で激しい愛を交わし合いながら、少しずつ二人は光を集め輝き出した。
12
それから美冬は僕と二人で暮らし始めるようになった。
美冬はいつも自分の心の奥へ奥へと悲しみを押し隠そうとしているようにみえた。僕に見せる笑顔にもどこか諦めのような寂しさがあった。それとなく交わす会話のひとつひとつも言葉を選びながら慎重に話しているようだった。まるで季節が時の中でうつろってゆくように美冬は変わってゆく。
美冬は僕が仕事に行っている間に自分の衣服をいくつか持ってきたりした以外には、もう決して自分の部屋には戻ろうとしなかった。とにかく今までの自分を忘れ去ろうとしているのだろう。
おかげで散らかった僕の狭い部屋はいつも綺麗にかたづいていたし、仕事を終えて部屋に帰ると温かい夕食が用意されている。なんだかとても不思議な気持ちだった。どんなに近づこうとしても触れられなかった二人の心がひとつになってゆくようだったからだ。
おそろいの食器が並べられた。美冬が自分の貯金をおろして買ってくる。彼女は新しい食器を僕の前に並べるたびに、これ綺麗でしょ、これ可愛いでしょ、とそう言っては、自分が選んできた食器を前に僕に微笑んだ。
僕は美冬の小さな言葉のひとつひとつを包み込むように暮らした。何も思い出させないように。決して彼女の心の傷が痛まないように。そして二人の暮らしがこのまま壊れないように……。
休みの日には映画を観に行ったり、車を借りてドライブに出かけたりした。彼女は海を見るのが好きだった。僕はいつもカメラを持って出かけ海を見つめる彼女の写真を何枚も撮った。
自分でも海の写真が撮りたいと言う彼女にカメラの使い方を教えると、いつの間にか彼女もカメラの使い方を覚えてゆき、やがていろいろな写真を撮っていた。
夕食を食べながら撮った写真を二人でながめていた。ただ美冬はそれを見て微笑んでいるだけだった。上手に撮れたとか、思ったように撮れなかったとか、そんなことは一言も言わなかった。ただテーブルの上に静かに一枚一枚並べて全部見終わると、時々今度はこんな風景の写真が撮ってみたいな、とだけ言って自分が撮った写真を見返すようなことはしなかった。
美冬はゆっくり夕食を食べ終えると、きまって溢れるような笑顔を見せてから、食器をかたづけ始める。
「今夜の美味しかったかしら……」彼女が食器を洗いながらそう僕に尋ねる。僕は彼女に微笑みながら大きく頷いて、彼女の側まで行ってそっと背中を抱きしめた。
美冬は笑顔をけして絶やさない。でも時々ふっと僕の意識から遠ざかろうとする。そんな時彼女はきまって僕に笑顔を向ける。安心してね。遠くから僕にそう言っているようだった。
日毎に彼女は自分の中に閉じ込もってゆくようだった。まるで心の部屋の片隅にうずくまって震えているように見えた。そして彼女はその扉を閉じることすらできないでいる。
ある休日彼女と街に出かけた時のことだった。彼女がワイングラスを買おうと言うので、僕らはデパートに出かけ、いろいろな食器を見ていた。
彼女はひとつひとつグラスを丁寧に手に取って見比べていた。中にとても高価なものが置いてあった。
「ねぇ、これにしましょうか」
僕は苦笑した。
「ちょっと高すぎて、もったいないよ」
「うん……。でも……」
「こっちのでいいよ。ほらっ」僕は手頃な値段の書かれた値札が貼りつけてあるグラスを手にして彼女に見せた。すると彼女が首を振ってぽつりと答えた。
「あなたと初めて食事した時……私たちこのグラスでワインを飲んだのよ」
僕はその一瞬息を呑んで言葉をなくした。そして彼女が胸の奥に抱えているものが何なのか見えたようだった。
「そう……。でも……高くないかな」
「いいのよ。私が買うから」彼女は微笑んだ。
彼女が心の奥に抱えているものは、綺麗な思い出なのかもしれない。僕はそう思った。汚れてしまったいくつもの思い出を、いくつかの綺麗な思い出に塗り替えようとしているのかもしれない。僕は彼女がそれを買うことを止められなかった。
「悪いね……」
「いいのよ、私だって使うんだし……」美冬は僕の胸に視線を落としながら呟くようにそう言って、丁寧に包装された木箱に入ったグラスの袋をレジの店員から受け取った。
「僕が持つよ」
「ありがとう……」美冬は僕に手提げの袋を渡し僕の肩に頬を寄せた。
そして僕らは部屋に戻ることにした。僕には手に提げた高価すぎるワイングラスが妙に重く感じられていた。
何店もの高級なブランドの宝石店が並んでいた。ウィンドーにはおよそ僕の月給では手に入らないような宝石が並べてあった。たぶん誰だって高価すぎるものだと思うだろう。
その中には美冬がいつか身につけていたものと似たものがあった。僕は少し首をすくめて、その宝石と美冬を見比べるように彼女に目をやった。
けれど美冬はそんな店が連なっていることに興味をひとつも示さないで、ただ時々溜息をつくように目を閉じて僕の肩に頭をのせ歩いている。
僕は彼女の髪に頬を寄せ、二人が歩く人混みに視線を落としながら、彼女の歩調に合わせるように少しだけゆっくりと歩いた。
休日の街並みは人混みでごった返している。
初めて二人で食事した時か……。僕はその日のことを思い返してみた。
夏の熱気がいつまでも余韻を残している日。美冬はいつもどこか遠い瞳をして……。二人は言葉もなく静かな心を奏でながら、その波長が重なると初めて言葉を交わした。そしてグラスを傾け合い、セレナーデを歌うように静かな会話を楽しんだ。
そして今は……。美冬は今も時々遠い目をしてみせるが、今ならばすぐに僕の胸によりそって瞳を閉じる。
街並みはもうすっかり冬だ。クリスマスの飾り付けが街をおおい、人々の視線も冷たい空気に閉じ込もったまま混じり合うことがない。騒がしい街も息をひそめている。
美冬は時々僕を見つめる。そしてふっと安心したような表情を見せる。逃れようのない街の喧騒の戯れに疲れ、今やっとそこから抜け出し、ようやく静かに眠りについているようだ。静かで自由な夢を見ているのかもしれない。
僕はとても落ち着いた気持ちで彼女を見つめていた。ただ彼女が心を打ち明けようとするような時、僕の気持ちはとても動揺した。彼女が何かひとつ握り締めて放さないものがあることも分かっていたからだ。
それは僕と美冬との間に置かれたガラスのような壁で、時々自分を映し出したり光の反射で相手を見えなくしたりして二人を倒錯させる。
僕は美冬がいまだに捨てられないでいるものは、剛造からもらっていたお金というものへの執着だと思った。彼女はそれを僕の勘違いだと思わせたいのに、自分で自分を否定する術を知らないことに苛立ちと戸惑いを覚えていたようだ。
「ねぇ、クリスマスどうしようか」僕は彼女にそう話しかけた。
「うん、何か美味しいもの作るわね」
「どこかに食べに行ってもいいんだよ。それもどこか景色の綺麗なところに泊まりに行ったりしてさ……」
「あなたのお部屋でしましょ。私それがいい……」
「そうかい。もちろんそれで構わないならそうしよう。じゃあ、豪華な食事を作ろう。僕も手伝うからさ」
彼女は笑ってこう言った。
「いいわよ。じゃあ、手伝ってもらうわ。お台所のお掃除と後かたづけお願いね」
「えっ、それでもいいけど、僕には料理作らせてくれないの。僕料理上手いんだよ」
「えっ、あなたの味つけじゃあねぇ……。サンタクロースが帰っちゃうわ」彼女が僕の部屋に来てから初めて僕に皮肉めいた冗談を言った。何だか新鮮な半面怖い気さえしたくらいだった。
「あっ、僕の料理の腕前を知らないな。ちょっとしたものなんだぜ」
「まぁっ、じゃあ全部まかせちゃおうかな」
僕がむきになっているのをちゃかすように彼女はそう言って僕に微笑んでいた。
「うぅん、それもちょっと困る」
「あらっ、どうして」
「まっ、大きな声じゃ言えないけど、料理とはいってもシチューとカレーだけなんだ、僕が作れるのは……」
美冬はくすくすと小声で笑っていた。
「でもね、教えてもらえば覚えも早いしさ……」僕は美冬が笑うのが嬉しかった。そして怖かった。彼女の笑顔がいつ壊れて消えてしまうとも知れないほどか弱く小さな心の中から生まれてくるものだと感じたからだ。
「ねぇ、東京は雪が降るのかしら」
「えっ、何のこと」僕は美冬の言葉の意味を探した。
「札幌は雪で真っ白よ」
「ホワイトクリスマスだね。東京じゃ見たことないな」
「でもね、吹《ふ》雪《ぶ》いたりすると怖いのよ。風が窓を、ひゅーひゅーって鳴らすの」
「へぇ……」駅のホームに二人で並びながら、僕は彼女の髪にその吹雪の冷たさを思い浮かべてみた。
「東京はクリスマスに雪が降らないかもしれないな」僕は空っ風の吹く街並みを見つめながらそう呟いた。街は人混みの中で知らぬ間に少しずつうつろってゆく。
「私が東京に来てからは一度も見たことないわ」美冬は僕の瞳を見つめ、その視線を遠くに投げ落とした。
「雪の降るクリスマスって綺麗かなぁ……」
「でも北海道の冬は雪だらけよ。一面雪。それに寒いわ」
「ふぅん……」僕には想像がつかなかった。
「でも、綺麗なんじゃないの、雪景色ってさぁ……」
「そうねぇ、でも私にとっての北海道は六月とか八月がいちばんいいわ。とっても綺麗なのよ」
彼女はにっこりと微笑みを浮かべた。
「そう、僕もそんな話を聞いたことがあるな。六月に結婚して、新婚旅行を北海道にした友達がいてさ。レンタカーを借りて広い草原を横目にどこまでもまっすぐに続く道を走ったら、すごく楽しかったって言ってたな。そしてすごく綺麗だったらしいよ」
「そう……」
電車がホームに滑り込んできた。埃《ほこり》っぽい風が巻き上がり、北海道の雄大な草原の話を都会の気忙しさに塗り替えてしまう。
二人は人波に押され寄り添いながら電車に乗り込んだ。僕は手に提げた高価なワイングラスが割れてしまわないように気を遣いながら、そして彼女の肩を抱きしめたまま電車に乗り込んだ。
「小樽にね、可愛らしいガラス細工の店があるのよ。いつか北海道に行くことがあったらそこに行って可愛らしいコップとか欲しいわ。札幌から車に乗って三十分くらいのところにあるの。途中海も見えて綺麗なのよ」
「じゃあ、クリスマスは北海道に行こうよ」
「えっ、うん、でもそれこそお金がかかるし……」彼女は人混みの足元に視線を落とした。
「いいんだよ。僕の会社は冬のボーナスだってちゃんと出るんだから」
美冬は申し訳なさそうに僕を見つめていた。
「そしたらさ、小樽に行こうよ。そこで君の欲しいガラス細工をクリスマスプレゼントに買ってあげるよ。それに僕だって、ホワイトクリスマスを迎えられたらとってもいいなって思うさ……。何て言ったって生まれて初めてのことだし、想像がつかないしさ。ねっ、だから北海道に行こうよ」
電車は無味乾燥とし殺《さつ》伐《ばつ》とした街並みの中をくぐり抜けていた。僕は美冬の髪を撫で頭を胸に抱え、すしづめの満員電車の中で彼女のおでこに軽い口づけをした。
彼女は無言だった。そんな彼女を見ていると、きっと札幌に帰りたいに違いないんだなと僕はそう思った。
少なくとも今の生活が疲れを癒すためだけにあることは僕も充分承知している。それには故郷の空気を吸うことも必要かもしれない。彼女のためにも僕は北海道に行きたかった。
「でも……裕行さん仕事どうするの」
「休むよ」
「でも大丈夫なの、そんな時に休んだりして……」
「僕には有給休暇があと三日もあるんだよ。夏に休まず働いていたおかげさ。心配しなくたって平気だよ」
「本当、無理しないでね。いいのよ無理だったら……」美冬はもう北海道に行く気になっている。
僕は何としてでも北海道に行きたかった。
「チケット明日取っておくよ。二十四日の夜に着いて二十五、二十六と泊まって、二十七日に帰ろうよ」
「本当に大丈夫なの……」彼女は心配そうに僕を見つめていた。僕は彼女の顎に軽く手をあて唇に口づけた。唇を重ね合わせると満員電車の中で二人の時間だけが止まったように思えた。
誰も気づいていない様子だった。誰も気づかないふりをする。それが街の暮らしなんだろう。誰もが皆心を閉ざして生きてゆこうとするのは、寂しさに耐えきれないからだろうな。電車の揺れに体をまかせ何度も何度も口づけをした。
祈るように暮らしていた。明日はすべてが上手くゆくようにと……。正しいものなんて何ひとつなかったと悔やんでいるようだ。もう傷みを和らげるための嘘も尽きてしまった。大切だと思っていたもののすべてが虚しく消え去ってしまった。
美冬は口づける顔を時々僕から背けたが、それは涙をこらえているからだった。毎日ちっとも気にしないふりをしている暮らしにも悲しみはつのるものなのだろう。
「美冬愛しているよ」僕は彼女の耳元でそう囁いた。
彼女は小さく頷いて一雫の涙を零《こぼ》し、電車は揺れていたが僕らは抱きしめ合っているおかげで寂しくなかった。都会の人混みの中に安らぎを見つけだすことは難しい。
「北海道に行こうね」
僕が耳元でそう囁くと、彼女は小さく頷いてからこう言った。
「愛しているわ……」
傷つき涙が尽きるまで泣くがいい。今は何も望まずに暮らす美冬。それでも強がっているんだね。慰めも要らないと言うのかい。それより傷みを打ち明けたほうがいい。二人をつなぐ愛に囁いておくれ。
毎晩思い知らされるんだ。解決のできない悲しみは心の戦いのもとに人を変えてしまう。疲れて混乱していると、太陽さえ見えなくなる。
いつか分かる時が来ることを待ちながら子供じみた夢を捨てきれないんだ。どうして悲しみは消え去ってゆくことがないのだろう。
電車はそんな僕らを物知り顔で運んでゆく。街は決して僕らの何にもさよならとは言わない。人は誰も似た者同士だと言うように、埃っぽい夕暮れが訪れてきた。
ねぇ、僕らこんな街でまるで誰よりも悲しいと言いながら暮らしているようだ。
ねぇ、この人混みは満たされぬ心を持ったまま僕らの心に焼きついているが、いつまでたっても見慣れないものだよ。
ある人はもう二度と戻らぬ顔をし、どこへ行くのか分からないことすら平気だという顔で街に心を奪われている。ある人はいずれ終わると知りながら、自分の役を演じているようだ。皆一人ぼっちじゃないか……。
二人を乗せた電車が駅に着くと綺麗な夕暮れが孤独な涙を浮かべていた。
満たされぬ心が僕らをかたくなにしてしまう。祝福の笑顔なんてなかったが、すべてがあまりにも空しく消えていってしまうのでそれがあたりまえなのだと思えた。運命なんてもうきまっているのだろうか。冷たい街の夕暮れはとても早く闇を誘っている。何も上手くいかない夢に捕まっているようだ。街が黄昏てゆく。
改札口を出て部屋に向かいながら、時折思い出したように涙を流す彼女に囁いた。
「北海道に行こうね」僕は彼女が小さく頷きながら懸命に涙をこらえているのを、抱きしめる腕に感じていた。
13
街の雑踏と満員電車の息苦しさからようやく解き放たれ、僕らは部屋に戻った。
鍵をあけドアを開くと、美冬と僕の暮らしがあった。
美冬と暮らすようになって部屋の空間が変わったと思う。雑然とした独り暮らしの生活にはなかった綺麗な生活の香りが漂い始め、心が安らぎの形を繕おうとしていた。
真っ白なテーブルクロス。銀色の置き時計。一輪挿しの花瓶に咲く花。二人の写真がテーブルの上に置かれ、それらはすべて幸せの象徴として時の流れの中にたたずんでいる。
その日の夕食の時のことだった。食事をしていると、彼女がぽつりとしゃべった。
「ねぇ、私がこの部屋にいること、迷惑じゃない」
僕は少し驚いたふりをしながら、彼女の言葉を否定するように答えた。
「えっ、全然迷惑なんかじゃないよ。何て言ったらいいのかな……、本当に……、あのね、君と一緒に暮らしていると……、とても幸せなんだ」
僕は美冬が平然とした顔でその言葉を聞いているので、何だか照れてしまった。そして彼女の瞳に微笑み返しながらこう尋ねた。
「でも、何で急にそんなこと気にするんだい。僕との生活が息苦しいのかい……」
「えっ、うぅん、そんなことはないわ。ただ何となく聞いてみたの。変なこと聞いてごめんね」彼女は小さな悲しみを胸に抱えていた。
「でも、僕との暮らしに何か不満があるのなら何でも話してね。自分一人で悩んだりしないで……」
「うん……」美冬は小さく頷いた。
「何かあるのかい……」僕は何かとても辛そうな彼女の態度にそう聞かずにはいられなかった。
「何もないわ。私もね、楽しいし。だけど……」彼女はそこで話をやめた。
僕は慌てた。
「だけど、どうしたんだい」
「えっ、うぅん……。何でもないのよ」彼女はあまりに僕が心配そうな素振りをするので、少し驚いたように首を振って答えた。
僕はそれでも美冬の瞳をじっと見つめていた。そして真剣な眼差しで彼女に尋ねた。
「僕らの暮らしに疲れたのかい……」
彼女は怯えた様子で首を振った。
「違うのよ。私ね、あなたが私と一緒にいて、私のこと煩わしいと思っていないか、ちょっと心配だったの……。それと……」
「それと何だい」僕の気持ちは張りつめていた。
美冬は上目遣いに僕を見つめ、こう答えた。
「そんなに怖い顔して、見つめないで。私、今の生活本当に幸せなの。でも……。でもね、私の考え方とか、何だか上手く言えないけど、態度だとか、あなたの負坦にならないようにって思っているの。ただそれだけよ。分かる」彼女は泣き出しそうだった。
「そうか……。ごめん」
僕が手を伸ばしテーブルの向こうの彼女の肩に触れると、微かに震えているのが分かった。美冬の言葉の響きには剛造の影があった。僕は心の弱さを分け合うように、彼女の心の震えをも感じとっていた。
まだ剛造のこと思い出しているのかな……。そう思うとちょっぴり悲しくなった。心に刻まれたものは簡単に消せるものじゃないからなぁ……。けれど自分のそんな子供じみたジェラシーに胸が締めつけられる思いがして、恥ずかしかったし、そんな自分が嫌だった。なのに僕は彼女にこう聞かずにはいられなかった。
「まだ昔のことを思い出しているのかい」
美冬は辛そうな表情を浮かべていた。
「あっ、ごめん、変なこと聞いて……」僕はそう言って席を立ち上がり、彼女の背を強く抱きしめた。彼女が僕の意識からふっとすり抜けて、消えてしまいそうだったからだ。
「うぅん、いいの。私こそ、ごめんなさい……。思い出しているわけじゃないのよ。でもこれだけは本当に分かって。今はあなたがいちばん大切な人なんだから」
「ありがとう。そうだよね、僕も馬鹿げたこと言ったりしてごめん」
カンケイナイサ ムカシノ コトナンテ
僕はそう思いながら、美冬の髪に軽い口づけをした。
「さぁ、食べようか。せっかくの料理が冷めちゃうもんね。おっ、今日はハンバーグだ。僕これ大好きなんだ」
彼女は僕の子供っぽい笑顔をじっと見つめていた。
僕はハンバーグを一口頬張り、
「美味しいよ。料理上手だね」と言って彼女の瞳を探った。
「もう冷めちゃったでしょ」
「ちょっと冷めちゃったけど、すごく美味しいよ」
「本当」美冬はそう言って自分でも一口くちにして、にっこりと微笑んだ。
夜の窓辺には枯れた樹木が街灯の明かりの影となって映っている。言葉をなくした二人のように、何かを思いつめているようだ。
「何だかすっかり部屋の感じが変わっちゃったな」
「変かしら……」
「うぅん、すごく素敵になった。君のセンスのおかげだよ。ありがとう……」
美冬はハンバーグをまた一口食べてから、
「今度は何か絵を飾ろうと思うんだけど、どうかしら……」と瞳を僕に向けていた。
僕はすこし戸惑うようにして答えた。
「うん、いいんじゃないかな。でも、どんな絵にする。絵っていくらぐらいするのかな」
「うぅん、まだどんなのがいいか分からないけど、どうしようかなぁ……。それにそんな高い絵なんかじゃなくても、きっと素敵なものがあるはずよ」
美冬は首をかしげて天井を見上げていた。彼女の瞳は天井からの明かりを受けてきらきらと輝いていた。
「ねぇ、ワインでも飲むかい。フランスのちょっとしたやつがあったと思うよ」
僕は戸棚の中に並べておいた、いくつものボトルの中から赤ワインを取り出し、
「これなんだけど、飲むかい」そう言って、彼女の目の前に差し出した。
「じゃあ、少しだけ飲もうかしら」彼女は席を立ち、買ってきたばかりのワイングラスを取り出していた。
「ねぇ、今日買ったこれで飲みましょ」
「そうしようか」僕はコルクを懸命に抜きながら、そう答えた。
「綺麗なグラスね」美冬は明かりに透かしながら、じっとワイングラスを見つめていた。
「はいっ」
僕の前に、とても綺麗なガラス細工の施されたワイングラスが置かれた。
「本当に、何だか使うのがもったいないくらいに素敵なグラスだね」
彼女はワイングラスばかりをじっと見つめ、僕の言葉には何も答えなかった。
「それじゃ、乾杯」僕は気を取り直して、そう言った。
彼女は、はっとしたように僕の言葉に気づくと、慌ててグラスを手に持ち、「乾杯……」と、まるで無表情にそう答えた。
「どうかしたのかい」僕は彼女を気遣うように尋ねた。
「何でもないわよ」彼女は少しとぼけたように元気に答え、テーブルに視線を落としながら微笑んでみせた。
ワインを飲みながら食事をしていると、だんだん夜が深くなってゆくのを感じる。二人の暮らしはどこかぎこちなかった。それがどんな理由からくるものなのかも分かっていた。
ただ今はそれが傷みださぬように、彼女は知らぬふりをするように振る舞い、僕はじっと彼女を見つめているより他ない。
「ねぇ、北海道に行くのはやめない」美冬が急にそう言い出した。
「えっ、どうしてだい」
「だって……」
「何か嫌なことでもあるのかい」
会話はいつもとりとめもないすれ違いから始まる。そしてそれを埋めようと僕らは必死になる。互いの都合だけが表面的な理由として現れるのだけれど、それを生み出すのは互いを取り巻くたくさんの個人的な事情だ。
「せっかくだから行こうよ。でも、もし僕には話せない理由があるならば、別に無理して行くこともないんだけれど……。どうしようか」
彼女の気持ちは僕から離れてゆこうとしているようだった。このままゆけば、きっといつか美冬の気持ちは僕から離れてゆくのだろう。僕はそう感じた。彼女の心は僕の存在できる空間を、まだほんのわずかしか持っていない。彼女にとって僕は、疲れた体をよりかからせる一本の樹木のようなものでしかないのだろう。彼女は彼女にしか分からない言葉で僕に話す。
けれど僕には、そんな僕の気持ちを話すことはできなかった。彼女が何故心を開かないのかは分かっていた。というよりも僕にとって彼女は、僕の心だった。彼女は無意識に悲しみの影を僕の心に落とし、僕は彼女を僕の心の中で自由に歩かせているんだ。
僕がやがて疲れてしまうのも分かっていた。ただその答えが出る時、それまでは、できる限り、彼女のために優しくしたかった。
「うん、もうすこし考えさせて。せっかくあなたがそう言ってくれるんだから、私も行きたいけれど、何だか分からないけど辛いの……」
「そう……。じゃあ、もう少しその結論は待とうね。そのほうがいいよ。せっかくの、初めて二人だけで過ごすクリスマスだからさ」
「ごめんなさいね。わがまま言って」彼女は申し訳なさそうに、そう呟いた。
それからしばらく無言のまま食事が続いた。彼女はもう食べるのをやめていた。
「あれっ、もう食べないの。体の調子でも悪いのかい」
美冬は首を横に振ってからワインを少しだけ口にした。
「うぅん、何だかお腹、もういっぱいになっちゃった」
「そう……」
食器の上の食べ残されて冷めた食事は、何か二人の終わりを象徴しているようだ。僕はわざとおどけるように彼女に話しかけた。
「もったいないな。こんなに美味しいのに。僕が食べちゃおっと」
美冬は本当に言葉を失っていた。僕は彼女の心のわずかな隙間に、無理やり優しさを投げかけるように話した。
「買物に行って疲れちゃったのかな。僕も何だかね、疲れたよ。買物に行ったりすると、妙に疲れるよね。食事を済ませたら早めに眠ろうか」
「うん……」
部屋は夜の海のように青ざめてしまっていた。どうして僕は彼女の気持ちが上手くつかめないのだろう……。
二人の気持ちが離れてしまう時、まるで見ず知らずの他人が僕らを見つめているように感じる。彼らは二人の間に起こる厄介なものを嘲笑っているようだ。
「おやすみなさい。私、先に眠るね……」彼女は食事の後かたづけをした後、すぐにベッドに横になった。
美冬はその夜、波の上で揺れるように静かに眠りについていたが、僕には何ひとつ彼女の心は分からなかった。
結局僕は眠れずに、眠りについた美冬の傍らで一人ワインを空け、その後にウイスキーを飲んでいた。何だか独りの暮らしに戻ったようだった。美冬の寝顔を見つめると、よけいに寂しくなる。
閉めきった窓が部屋の明かりをやわらかく反射していた。僕はそっと目を閉じて、まるで何もなかったようなふりをしながらグラスをかたむけ、この暮らしの悲しみから目を背けようとしているようにウイスキーを飲み干した。
そして激しくて大きな寂しさの酔いの中に彷徨《さまよ》い込み、彼女の脇に横たわった。
翌朝、いつも僕より早く起きて朝食を作ってくれているはずの彼女は、まだ深い眠りについたままだった。
僕は彼女を起こさぬようになるべく静かにシャワーを浴びて、簡単な朝食を済ませ会社に出かけた。彼女は僕が出かけるまで眠ったきり起きなかった。美冬の寝顔は酷く疲れているようだった。
仕事の合間を見計らって部屋に電話したが誰も出なかった。まだ眠っているのだろうか。留守番電話になっていた。美冬が僕への電話に出ることに気を遣っているのかもしれないと、僕は何度も電話して、留守番電話には会社に電話してほしいと入れておいたが、それでも美冬からの電話はなかった。
僕は仕事をしていても、彼女のことが気になってしょうがなかった。会社の先輩に、今日のおまえちょっと変だぞ、と言われるくらいに確かに今日の僕はどうかしている。
北海道に行くと言ったことが、美冬にとってとても苦痛なことだったのだろうか。僕はそのことばかり考えていた。
肉親のことでとても大切な話し合いがあるからと上司に嘘をつき、残業分の仕事を部屋に帰ってからやるということにして、終業時間になると急いで部屋に戻った。
日常の時間の流れより早く部屋に帰ろうと思いをはせている僕には、電車の速度がとてもゆっくりに感じられ、辺りの人混みの忙《せわ》しさよりも僕の気は焦っていた。
僕は早足で、そして部屋の近くに来ると走り出し、慌ててドアを開けた。
ドウシタノ……。僕の耳元でそんな声がした。取り乱している僕を不思議そうな顔で見つめる美冬が、僕の思いの中にいる。だが、美冬は部屋にはいなかった。置き手紙もなかった。
部屋に帰ったのかな……。いったいどうしたんだろう……。
美冬の部屋に電話したが、誰も出なかった。
どうしよう……。僕は焦りはやる気持ちを抑えきれず、どうすべきか何ひとつ確かな手段が思い浮かばなかった。
彼女の部屋に直接行ってみようか……。もしかしたら剛造のところに行ったのかな……。ケンと会っているのだろうか。それとも買物に出かけたきりなのかな……。
考えあぐねたすえ、待つ以外なかった。何だか馬鹿らしくなってきた。
嘘つきだな……。僕は彼女に初めて憎しみの感情を抱いていた。
愚かだよな……。一人の女性を心から思い続け、傷ついては自分を偽っている。忘れてしまおうか。もう帰ってこないでおくれ。
けれど、忘れられるわけないじゃないか。これ以上、もう何をしても無理だとしても。
時間は心臓の鼓動の激しさと僕の溜息の中をどよめきながら流れていった。その日はいくら待っても美冬からの連絡もなく、帰ってもこなかった。彼女の部屋にも、何度も電話したが彼女はいなかった。
僕は待つことに疲れ果て、いつの間にか眠っていた。目覚めたのは午前四時半をすこし過ぎた頃だった。僕は彼女が消えてしまった寂しさに耐えきれず、目覚めるとすぐに彼女の部屋に電話した。電話の呼びりんが五回鳴った後、誰かが電話を取った。
えっ、美冬。僕には信じられなかった。寝ぼけて間違えたところにかけたのかもしれない。そう思って丁寧に相手の名前を聞いた。
「もしもし。こんな時間に申し訳ありません。川島さんのお宅ですか」
しばらく電話は無言のままだった。そしてしばらくしてから女性の声がこう答えた。
「私よ」
僕の胸には悲しみと怒りが溢れてきていた。
「いったいどこに行っていたんだい」
彼女は何も答えなかった。
「どうして黙って出ていったんだい。何か不満があったのなら、話してくれればよかったのに」
「そう……。でも、そういうわけにはいかないものでしょ」
「何故だい」
「だって、あなたを悲しませない方法を選んだのよ」
「部屋を出てゆくことかい……」
「そうよ……」
僕の目には涙が溢れてきた。
「そうか。でも、君の言うことは嘘だよね。君が傷つかないこともちゃんと一緒に考えているんだから」
彼女は不満そうに電話口で溜息を洩らしていた。
「そう、ごめんなさい。でも、まだ何ひとつあなたに話せるほど私の気持ちもきまっていなかったの。ごめんなさい」
「北海道に行く話をしてから変だったけど、それが原因なのかい」
「違うわ。ちょっと一人になりたかったの」
「そう……」僕は少し間をおいて彼女にこう言った。
「君は嘘をついたり、間違ったことをしながら成長しようとしているんだね」
「そんなの、皆そうでしょ」
「そうだね……。いや、君にはそれが正しいと思えるんだね。僕が落ち込んだりすることを、どう思う……」
「分からない……」美冬はなげやりにそう答え、
「北海道に行ってもいいわ。でもその前に、私やっておきたいことがあるの」と、そう言った。
「剛造とかい、それともケンとかい」
「何を言っているの。あなた可笑しいわ」
「可笑しいかな……」僕の目から涙が止まらなかった。
僕はいったい何を演じているんだろう。彼女の悲しみをぬぐうはずだった。なのにいつの間にか自分のしていることが何なのか分からなくなってしまった。自分の心を放棄するようなまねをするつもりはなかったんだ。もし自分の心を偽ったら、すべての時間は無駄になると思う。
ただいつの間にか、本当に僕自身でさえ気づかないうちに、自分の不安を取り除くために美冬を必要としていた。いつの間にか逆さになっていたんだ。
この不安は愛というものへの代償なのか。
「寂しい人ね……」
「あぁ……」
「待っていて。今すぐ着替えてあなたの部屋に行くわ」
いいんだ。来なくてもいいんだ。そう言えなかった……。
「あなたは私のことを愛しているのかしら」
僕は笑った。悲しみが最高潮になると笑いになるというが、そんな笑いだった。そしてこう答えた。
「君の思っているとおりの僕がいる……。それだけだよ」
夜が明けようとしていた。夢はまだ覚めない。
「じゃあ、待っていてね」彼女の口調が柔らかく囁いた。
その時、彼女の肉体と心が風になびく激しい炎のように僕の脳裏をかすめ、憎悪と愛とが交互に揺れ動いていた。
「あぁ、本当に愛しているよ」
彼女の唇は僕の心に口づけるように呟いた。
「ありがとう。私もよ……」
14
美冬がいない部屋はこぢんまりと、そして雑然としている。整理された食器も一輪挿しの花瓶の花も、美冬といる時には気がつかなかったが、それらはまるで二人のためにあったかのようだ。一人で見つめていると、どれもこれもみなばらばらに分散して見える。僕はそれらひとつひとつの間に窮屈に押し込まれる思いでソファーに腰掛けていた。
そして彼女が来るのを待っていた。
息苦しい思いがした。彼女との別れがわけもなく脳裏をかすめる。理由を探してもしかたのないことだろう。彼女はいつでも自分で答えを出し、僕にその答えを置き去りにしてゆくのだから。
考えてみれば、美冬と一緒に暮らし始めてからもう一カ月近くにもなるんだ。時の経つのはあまりにも早い。
そういえば晴美からの電話がかかってこないなぁ……。僕はぽかんとそんな思いをつのらせていた。
どこか巷《ちまた》で美冬と僕の噂でも聞いたのだろうな。それとも晴美には、新しい彼氏でも見つかったのかなぁ……。男も女も所詮一人でいられるほど強くはないものだもの。
そんなとりとめもないことを考えているうちに、僕はだんだんうとうとと眠くなってきた。
僕はもう美冬に疲れてしまったのかなぁ……。彼女のことになると僕はいつもいらついた気持ちになる。なんでもっと安らげないのかなぁ……。
半分眠りに落ちた僕は、安らいだ気持ちの中でいつになく素直にそう呟いていた。本当にそれがいちばん素直な僕の気持ちなのかもしれない。
ただ、美冬がまた僕の気持ちを揺り動かさなければ、きっと答えは出るはずなのに。でもその答えは別れというものなんだろうな。とても簡単なこと……。
時間はもう一時間、いや、もっと経っただろう。僕は時計を見もしなかった。
窓越しの闇はまだ真っ暗だったが、きっともうすぐ小さな光が生まれ朝が来るんだ。
僕は、もしかしたら美冬はこの部屋に来るつもりはないんじゃないかと思った。
いつまで経っても部屋を訪れてこない彼女は、きっとまた新しい悲しみを背負っているに違いないだろう。
それが剛造のことなのか、ケンのことなのか、それとも僕のことなのか……。どちらにしても、彼女は自分を探そうと手探りしているんだから。
僕は半ば諦めて眠ってしまおうと思った。僕はどんどん睡眠の中に落ちてゆく。美冬の面影が頭の中で揺らめき始めた。
ドウシタライイ……。ドウシタライイ……
彼女への思いが激しい嫌悪感を伴って僕を揺さぶった。そして、はっと目が覚めた。僕が少しずつ冷静さを取り戻してゆくと、嫌悪感は次第にその息をひそめていった。気がついた頃、いつの間にか僕は彼女の甘い誘惑めいた面影に包まれる。それが何だかとても可笑しくて……馬鹿だなぁ……、そう呟いてみた。
もう白々と朝が訪れてきていた。少しずつ車のエンジン音が街に溢れ出している。
やっぱり来ないのだろう……。僕はもうひと眠りするためビールを開けた。白々とした朝のわずかな休息に飲み干すビールはとても苦かった。
三個目のビールを飲んでいる時だった。もう体はぐったりとしていたし、酔いがまわってもうろうとしていた。眠るにも後一時間足らずしかない。
その時だった。美冬が部屋を訪れた。
まるで懐かしい旋律を耳にしているような意識の中で、僕は彼女を遠くに見つめた。
「遅くなってごめんね」彼女は片手にコンビニエンスストアの袋を提げ、にっこりと微笑んだ。
「いいや、別にいいんだよ……」彼女に吸い込まれるように僕は彼女を見つめている。
彼女は僕のほうを振り向きもせず流しに立つと、
「何か作ってあげるわ。何にも食べてないんでしょ。そんなんで仕事に行ったら体に悪いわよ」
「えっ、そう……。なんだか悪いな……」
「いいのよ、気にしないで。さぁ、早く作らないとね」
僕はソファーの上で彼女の言葉の優しげな甘さの中に寄り添い、すがるように眠ってしまった。
彼女に起こされたのはそれからちょうど一時間後だった。会社にはなんとか間に合う時間だ。
「御飯できたわよ。早く食べて。会社に遅れちゃうわよ」
僕はぼんやりしながら頷いて御飯を食べた。テーブルの上にはできたての朝食があった。そしてテーブルの向こうには、美冬がいた。
彼女は何を考えているのだろう。まるで何も考えていないようだ。美冬の瞳に映っているのは今という、ただ刹《せつ》那《な》的に拘束された時間だけだった。それが何故なのか理解することは、きっと誰にもできないだろう。
僕は御飯を急いで食べた。
「ごちそうさま」
彼女は少しだけ笑ってくれた。
「早いわねぇ、もう食べちゃったの」
僕は背広に着替えながら彼女に微笑み返した。
「美味しかったよ」
背広に着替え玄関口まで行くと、彼女は御飯を食べるのを途中でやめ、玄関まで見送りに来てくれた。
僕は真剣な眼差しで美冬を見つめた。どこにも行ってほしくなかった。それでも強いことが言えない。
何気なく彼女に尋ねた。
「今日はどこかに行くのかい」
彼女はいつものように僕の胸元に視線を落としてこう言った。
「うぅん、どこにも行かない。でも夕食の買物に行ってくるわ」
「そう……」
「ねぇっ、何か食べたいものある」美冬は慌てたように、僕にそう尋ねた。
僕はゆっくりと答えた。
「えっとね。じゃあ、ゴゥジャスにステーキっていうのはどうだい」僕の口調は寂しさに怯えてしどろもどろだ。
「うん、いいけど。あれ、焼くだけで簡単なのよ。いいかしら」
それでも僕はどうにか笑いながら答えた。
「あれはね、焼き加減が大切なの……」
「あらっ、そう」彼女は屈託なく笑ってみせた。
「じゃあ、行ってくるね」
「あっ、待って。じゃあ、焼き加減は」
「そうだな、血のしたたるようなレアにして……」
僕は足を靴に通しながら美冬の気持ちを探っていた。美冬はぼんやりと僕を遠い眼差しで見つめながら、すべてを見透かしたように薄く笑顔を漂わせていた。
ドアを閉め、もう一度彼女の顔を思い浮かべた。
もうどこかに行ったりしなければいいのだけれど……。今度部屋を出て行ってしまったらどうすればいいんだろう。
諦めが強く僕の胸を締めつけていた。
いつもと変わらぬ日常に紛れ込むと、僕はいつになく寂しさにかられた。太陽の日差しは晴々とした空から細く柔らかく落ちてくる。僕は気忙しい人混みのわずかな足元の隙間に自分の辿る道を追い求めながら、急ぎ足で歩く人波に押し流されていた。
会社に着き自分のデスクに向かっても、しばらくは彼女のことが気になったが、もう最近ではそれも自分の中では整理されていることだった。僕は書類の山に埋もれるようにして、仕事の忙しさと美冬の煩わしさをすりかえる。美冬は僕じゃない……。
会社が終わり帰りの道すがら、僕は旅行代理店に駆け込んだ。美冬と約束した、北海道でクリスマスを過ごすための飛行機のチケットとホテルの予約をするためだ。
飛行機は二十四日の夜羽田空港を七時十五分に出発する便と、帰りの千歳空港を二十七日の夜七時五十分に発つ便を往復で予約し、ホテルはすすきのにあるスターホテルのセミスイートルームを三泊四日分予約することができた。
旅行代理店の受付の女の子に、
「向こうはもう雪が降っていますか」と、そう尋ねると、
彼女はにこりと微笑んで、
「ええ……」と、そう言ったきり視線を外し黙ってしまった。
クリスマスは本当に北海道に行くべきか、それとも美冬の本心を聞いてからにすべきなのか、僕はまだ迷っていた。
彼女の様子が変わったのはその話がでてからだったし、彼女には本当は別の予定があるのかもしれないと思えるふしもあった。
帰りの電車に揺られながら不安と寂しさばかりが僕の胸をえぐりとるようだ。
彼女は北海道に行くだろうか……。
内心僕は、たぶん、彼女が北海道に行くことはないと思っていた。でも、僕にはチケットを買わずにはいられない何かがあった。それは彼女を試すための偽りのような優しさかもしれない。
僕は鞄《かばん》から飛行機の予約チケットを取り出し、結論の出ない寂しさの中で茫然とそれを見つめていた。街明かりが冷たい空気に浸され、ゆらゆらと車窓の向こうに揺らめいている。
僕は電車を降りると小走りに慌てて部屋に向かった。美冬がまたいないんじゃないかと思えたからだ。けれど、途中でふと足を止めてしまった。
いったい、これ以上何ができるんだ。何を心配し続ければ……。
僕を不安にするものに、突然歯止めがかかり、揺れ動いていたものがひとつの答えになろうとしているようだった。
何故こんなにまで彼女に振り回されるのだろう。まるで彼女の心はいつも悪戯な戯れに酔い痴れているようだ。美冬のことを考えると酷く孤独を感じる。僕が彼女の立場なら、やはり同じように振る舞うのだろうか……。
ゆっくりと歩き、足早に歩く人々に押し退けられ取り残されながら、僕は自分の足元に落ちる影の中に自分を探しているようだった。
けれど部屋の前に辿り着くと僕の気持ちは安《あん》堵《ど》し、高揚した。ドアを開けると美冬が夕食の支度をしている。僕が帰ったことに気づいた美冬は笑顔で僕を迎えてくれた。
「あっ、お帰りなさい」
「ただいま……」
「どうしたの。なんか元気ないみたいだけど」
「…………」
だけど僕は、そんな優しい言葉をかけてくれる美冬の瞳の中に冷たさを感じている。僕は平静を装うと無理に笑うとした。
「そうかい。仕事疲れかな……」
彼女は僕の言葉を見透かしたように呟いた。
「やっぱり変よ……」
僕に背を向け食卓にいろいろな料理を並べながら、その表情はだんだんと冷めてゆくようだった。
ふっと一息溜息をつきながら背広からパジャマに着替え、冷蔵庫からビールを取り出し、コップに注いで一気に飲み干した。
「ふぅ……」
何だか一日がようやく終わってゆくようだ。窓には夜と夕暮れが二つに分かれて映し出されていた。
一瓶を空けてしまうと、美冬が僕を見つめて無表情に尋ねた。
「もう一本飲む……」
「あぁ……。君も飲むかい」僕はほろ酔いの中で、彼女の笑顔を心の中で思い描いていた。
「うぅんと。じゃあ、少しだけもらおうかなぁ……」美冬は僕が思っていたより少し少なめの笑顔でそう答えた。
「じゃあグラスを持ってくる」
彼女は右手にビール瓶を持ち、左手にグラスを持ってきて食卓に座った。
「はい……」彼女はそっと僕のグラスにビールを注ぎ、僕は彼女のグラスにビールを注ぎ返した。
「乾杯」そう言って声を合わせ微笑んだ後、彼女は、
「あぁ、美味しい」と、そう言って微笑んだ。
僕は彼女の無邪気な笑顔にほっとした。
「じゃあ、もうお肉焼いちゃおうかしら」
「もう少し飲もうよ」
「そう……。じゃあ、何かおつまみになるもの持ってくるわ」
「何があるの」
「えっ、それがね。今日初めて作ったから美味しいかどうか分からないんだけど、食べてみてくれる」
彼女は子供のように照れてみせた。そんな普通の仕種がとても新鮮だった。そしてその裏側に僕を脅かすものを感じてしまう。
彼女がテーブルに運んできたものは八宝菜だった。
「美味しそうだね」
「美味しいかしら。味見したんだけど……」
僕は彼女が取り皿に分けてくれた八宝菜を口にした。美冬は僕をじっと見つめている。
「あぁ、本当に美味しいよ」彼女に向かってそう微笑み返した。
彼女が今までこぼしてきた涙の味がした。熱い思いが胸に込み上げてくる。
「本当、私料理の才能あるのかな」
「いつも君の作る料理は美味しいよ。本当に……」
彼女は冷たく鋭い眼差しを隠すように瞳を伏せて笑顔を浮かべた。
二本目のビールを二人で空けた後、彼女はステーキを焼き始めた。彼女の後ろ姿にはいつも寂しさがあるのを今日はとても強く感じてしまう。たぶんそれは、美冬がこの部屋に来ていちばん優しく振る舞おうとしているからだろう。
「はいっ、できたわ」
彼女は僕の前にステーキをのせた皿を置きながら、上手に焼けたかしらと、そう首をひねり、
「ねぇ、赤ワインある」と、僕に尋ねた。
「うぅんと……、たぶんあると思うよ」
「あっ本当だ。あったわ」
彼女は戸棚の中から赤ワインを取り出してきて、テーブルの上に置いてあるこの間買ったワイングラスに注いでくれた。その時の彼女の笑顔は、本当に今まで見たこともないようにいちばん艶やかに輝いていた。
僕らはもう一度乾杯して、ステーキを食べ始めた。
「外、寒かったでしょ。今日買物に行った時、寒かったわ……」
「そうだね、風邪ひかないように気をつけてね」僕は口元に微笑みをたくわえた。
「うん」彼女は小さく頷き、ステーキを口元に運んでいた。
その時僕は、北海道行きのチケットを買ったことを思い出した。けれど、言い出すのが怖かった。僕は彼女の本心をまだ知らない。彼女の心をかき乱したくなかった。
どうかしたの。そんな目つきで美冬は僕を見つめていた。その眼差しは激しい熱を解き放ち、僕の心をわしづかみにして、そして僕の隠そうとしていたものをじわりじわりと暴露させる。
「あのさ、今日北海道行きのチケット買ってきたよ」
「そう……」
彼女の表情がすこし曇った。そして美冬は心を閉ざし、僕をじっと見つめている。
「ホテルはすすきののスターホテルのセミスイートなんだけど、どうかな」
「ふぅん……」美冬は違うことを考えているようだった。
「それともやっぱりやめるかい。今だったらまだキャンセルできるしさ」
「あなたに任せるわ」その言い方はあまりにもなげやりな言い方だった。
「もう北海道は雪が降っているんだってね……。旅行代理店の人が教えてくれたよ」
「そうね……、雪よ」
美冬はナイフとフォークを置いて、ワインを一口くちにして食事を止めてしまった。
どうしても北海道には行きたくないのだろう。
「出発の日まで後十日あるから、何を持っていったらいいか準備してくれないかな。すっごく寒いんだろう。暖かい手袋とかオーバーとか持っていったほうがいいかな」
「北海道の札幌市内はそんなに寒くないわ。どこの建物にも全部暖房が効いているし、タクシーで移動しちゃえばオーバーなんて暑すぎるわよ、きっと」
「そう……じゃあ、東京とあんまり変わらないね」
「うん。でも、路面が凍りついているから滑っちゃわないようにしないと、危ないし、人前で転ぶと恥ずかしいわよ」
「じゃあどうするんだい」
「靴の裏に金具を付けるのよ。どこの靴屋さんでも売っているから平気よ」
「さすがに詳しいね。後は心のわだかまりなく北海道に行けたらサイコーなんだけどな」
「そうね……」
その最後の彼女の受け答えに僕はいやらしい想像を植えつけられた。もしかしたら剛造とどこかに行くのではないかということだ。それともケンとだろうか……。そのことは前から考えていたことには違いないけれど……。
僕の心は愛憎の渦に巻き込まれ、美冬のあまりにも身勝手な恋愛話に打ちひしがれる思いを感じる。美冬の存在自体が許せなくなる。
きっと彼女は、やみくもな恋愛という風に吹かれながら、何かに憧れているに違いないんだ。それは現実上の欲望というものだけなのかもしれない。
「ねぇ……。まさか他の誰かと約束があるのかい」
ふふふ……。彼女は器用に、そして上手に笑ってみせた。それは嘘のためだけに作る心のない仕種。
「まさか、そんなことないよね」
彼女は僕から目を背け心を閉ざした。そしておもむろに食卓をかたづけ始めた。
僕はぽつんとひとり取り残され、胸が張り裂けそうなほど孤独に囚われていた。
何でなんだ。
僕の瞳からちっぽけな涙がこぼれ落ちた。美冬はそれに気づいたのか、僕に対しての表情が暗い。
「いったい、君にとって僕は何なんだい」僕は訴えるように彼女にそう叫んだ。
えっ。と、まるでびっくりした様子で僕を見つめる彼女は、僕が取り乱している理由をしばらく探していた。僕との間にある大切な何かに、初めて気がついたようだった。
それでも彼女の返す言葉はこうでしかなかった。
「あなたって子供よ。ちっとも現実的じゃないんだもん……」
「どういうことだい」
「もっと楽しんで暮らしてくれればいいのに……」
「そんなこと一人でできるわけないさ」
「でも……。でもそうでしょ、楽しくなかったら何もできないわ」
「何だかよく分からないよ」僕の瞳から涙は止まらなかった。合わせるように彼女まで泣き出した。
「私だってよく分からないわ。分かるはずないじゃない。傷ついているのは、あなただけじゃないんだからね」
「でもどっちが勝手なんだと思うんだい」
「私は何も勝手なことなんかしてないわよ」
「嘘でかためてゆくことは、勝手なことじゃないっていうんだね」
「嘘なんかついてないわよ」
「じゃあ、僕に黙って剛造やケンとの……」
「何よ……」
僕はそこまでで話すのをやめた。自分のジェラシーが自分を醜くちっぽけにしそうだったからだ。けれど、美冬を愛しているのならば、それは止められない。
「別れの辛さなんて君にはないんだね。皆と上手くやってゆければそれでいい、そんなふうに思っているのかな。何だか寂しい話だね……」
「そうかしら……。それだけでもないわ」
「それに、それは本当の恋愛とは違うよ」
「そんなのあなたの勝手な想像よ。だって、あなただって晴美って子と仲がいいらしいじゃない。どこが違うのよ」
「えっ、そんな話を誰から聞いたんだ。ケンか……、まだケンと会っているのか」
「そんなのどうでもいいわ」
「どうでもよくはないよ。僕は君だけを愛そうとしているのに……それも僕の勝手だと君は言うのかい」
「私だって必死よ……」
「誰に対してだい」
「あなたに対してに決まってるでしょ」彼女は泣き崩れた。
「嘘だ」
彼女は剛造にもケンにも僕にも同じような思いを寄せている。そのはざまを行ったり来たりしている。彼女は恋愛の放浪者なんだ。都合よく人を愛し、その手探りの優しさを伝って彼女は生きているようだ。
「あなただけを愛しているにきまっているでしょ」息を詰まらせながら彼女はそう言ってベッドにもぐり込んだ。
僕といる時は僕だけと言い、他の人といる時はその人だけと言うんだろうか。
「ねぇ」僕は彼女がもうこの部屋から出ていってしまうんだろうと思った。
「黙ってて」
「ごめん……」
人には誰にも一度の過ちでさえ許せないものがある。そしてその過ちは形を変えてゆくだけで決して消えてゆくものではない。人を愛することだってそうだ。愛は形を変える。そして時には罪にさえなるものだ。愛が罪になる時、それはいちばんの重罪になるのだろう。
僕は美冬の首筋を見つめ、ワインを一口くちにしながら、愛の罪を背負い始めていることに気づいた。
15
美冬はしばらく肩を震わせ泣いていた。
もはや二人の間にはクリスマスへの憧憬などありはしなかった。せっかく買ってきた北海道行きのチケットも、その意味のすべてを失ってしまったし、ただ二人の関係を冷たくするものでしかなくなってしまった。
僕のはやまった行動がもたらしたこの悲しい結果が、僕をなお惨めな気分に追いやる。堪える気持ちを噛み締めながら飲んでいると、ワインのボトルが一本空になった。
倒れてでも眠りつきたいほど疲れを感じる。
微動だにしない美冬の背中は寂しく僕を拒否していたが、それでも温かそうだった。僕はその背中を深い酔いと疲れの中でじっと見つめていた。
僕は今にも倒れて眠ってしまいそうだったが、彼女の悲しみが僕と一緒にいることであることが何よりもいちばん辛くて、なかなか眠れなかった。
勝手なのは美冬のほう……。それとも悪いのは僕なのか……。
それは二人の生き方が違うというだけのことなのだろう。彼女は愛を手探りするように、剛造やケンと一緒に僕を比べている。そして僕にはそれができない……。それを実行して、彼女を失ってもいいと思えるほどの勇気がない……。だから結局、無《む》下《げ》に彼女を責めることなど、僕にはできないんだ。
酔いがまわるほど美冬と言い争った言葉のひとつひとつが鮮明に蘇って、僕の胸を締めつけた。
アナタッテ コドモヨ。チットモ ゲンジツテキジャ ナイ。
繰り返し思い出すたびにその言葉の意味は僕の中で空回りする。そして僕がたくさんの理由で彼女と僕の距離を測るたびに、二人の何もかもすべてがこんがらがって渦巻いた。
モット タノシンデヨ。ウソナンカ ツイテイナイワ。ワタシダッテ ヒッシヨ……。ワタシダッテ ヒッシヨ。
いったい何がしたいんだい。僕以外に何が欲しいんだい。
アナタダケヲ アイシテイルニ キマッテイルデショ。
でも……。でも、そうは思えないんだ。いったい何が君を悲しませ、僕から遠ざかるの。そして何が僕から遠ざかる原因なの……。教えてくれないか……。
そうしてしばらく背を向けた彼女を見つめている間に、彼女はいつの間にかようやく静かな眠りについたようだった。もうあれから二時間以上も経とうとしている。
僕はもうろうとした意識の中でウイスキーを飲み始めていた。そして掴みどころのない気持ちで二人のことを考えた。
二人にとっていちばん大切なものは何……。
彼女を理解すること。ソシテ フタリハ キズツク。
愛を深めること。ソシテ フタリハ キズツク。
別れること。そして、二人は、傷つく……。
二人の愛は傷つくためにあるのか。愛は傷つけ合うものでしかないのか。そうなのだろうか……。
時計は午前五時五十八分を回ったところだった。もうじき朝が来る。けれど僕ら二人に朝はもう訪れないのかとすら思える。
点けっぱなしの部屋の明かりにはまだ夜がこびりついていた。三杯目のウイスキーのグラスの中で、溶けた氷の粒が小さく光りながら揺れている。ウイスキーの香りは夜に溢れた悲しみのように深く僕の鼻を衝《つ》く。僕はグラスを手にして、生温くなったウイスキーを一口くちにして床に這いつくばりそうだった。
朝が訪れるのを待っていた。その前に答えを出さなければ……。酔って疲れた体はもういうことを聞かず、瞼が重い。僕は半分眠り、まるで何かを思い出しながら悲しみの歌を口ずさむように、このとりとめのない二人のわがままな心を、捨て去ってしまう方法を考え続けた。
けれど何も思い浮かばない。ただ悲しみが苦しみになり、やがて果《は》敢《か》なさになって僕を苦笑させるに到るだけだった。それは悪い夢のように順繰りに、何度も何度も続いた。
そして二人の思いを断ちきってしまうことがただひとつ、本当に唯一の答えだと知るのだが、それはとても単純なことだけれど確実に実感することができない。
それが現実になるにはまだまだとても長い道のりを経なければならないようだ……。
彼女の面影すらも忘れ去ってしまわなければならない。それほどの覚悟と僕の自覚がなくては、到底彼女が離れてゆくことを、僕自身が許せないだろう。
そしてできることならば彼女の名前すら忘れてしまいたい……。そうすれば、少しは楽になれる……。
思い返すわけではないのだが、出会うことはあまりにも自然だった。そして何のためらいもなかったのに、こうして別れる術を探すことはとても苦しいことだ。それはいったい、何故なのだろう……。
彼女はもう深く眠りについている。少しだけ寝返りをうって静かに眠る彼女は、安らかな寝息をたてていた。心地よさそうだ。
そんな彼女を見つめると僕はちょっぴり安心した。そして不思議なほど、たったそれだけの仕種が、僕から一瞬のうちに重くのしかかっていた不安を取り除いた。
それと同時に僕の美冬への強い思いが心を弱くしてしまっていることに気づかされる。強くそれを自覚すると、なんだか寂しい気持ちでたまらなくなった。
だからそれを打ち消すように美冬への気持ちを整理しようとすると、また黒く重たい雲が心を覆うようになる。美冬のすべてが単純な悲しみに早変わりし、僕は彼女への思いの辛さにだけ耐えてゆかなければならなくなるんだ。
その両方の気持ちを抱えていると僕は心をなくしてしまう。目が霞んだ。
どこを見つめているのだろう。何を探しているのだっけ……。分からなくなった。
僕の鼓動は激しくなっていた。眠れそうもない。僕はいつの間にか一本のウイスキーを空にし、そして新たに別のスコッチをストレートで飲み始めた。体は疲れていて、もうアルコールを拒否している。それでも飲まなければ心の疲れは取れない。頭痛と憂《ゆう》鬱《うつ》な気分で朝の光は渦巻き始めた。
今はもうストレートのスコッチをいくら飲んでも、僕は酔わなかった。ただ体の疲れが僕を引きずっている。ただ気持ちに諦めがつかない。このまま眠らずにいれば、どこかに答えがある気がしてならないんだ。
僕はストレートのスコッチを五杯、一気に飲み干した。体が疲れ果て、床にへばりついた。涙が溢れた。何故こんなにまで偽りに戸惑っていなければならないのかと……。
そして目を閉じた。目を閉じるといつの間にか眠っていた。眠りに落ちる間際に脳裏をかすめたのは、美冬が僕の目覚める頃にまたどこかに行っていなくなってしまうのではないかという怯えだった。そこまでは覚えていた……。
僕がぼろぼろになって目覚めたのは、夕暮れ間際の光がカーテンから洩れる、午後四時半頃だった。
体の節々が痛む。落ち込んだ憂鬱な気持ちのまま僕はやっとの思いで、床にへばりついた体を起こした。
彼女がいないことは分かっていた。いてほしいとも思えなかった。けれどわずかに僕の心の片隅では、彼女の優しさと彼女がまだ部屋にいることをも期待している。
情けないくらいの寂しさで辺りを見渡した。
美冬はいなかった。僕はそれでも必死になって、彼女が手紙ひとつでもいい、何かを残していったのではないかと部屋中を見渡していた。
ベッドのシーツは乱れたままだった。僕が注ぎ尽くしたウイスキーの瓶が床に転がっている。グラスに残ったウイスキーが固まったように動かず、どんよりとした光を放っている。
助けてほしい……。この心の苦しみを救えるのは、もはや美冬しかいない。それは悲しすぎるほどせつない僕の諦めになろうとしているようだ。
一人きりだ。今はもう誰の声も聞きたくはない。なのにそれに反するように、どこからか悲しみの声が僕の胸に響き、鼓動を生み出し、僕を狂わせた。
それは美冬の波長だ。彼女のつかみどころのない存在だった。
僕の胸の傷みはますます激しくなるばかりだった。どうする術もない……。体が汚物を詰め込んでいるようだった。
僕は目を閉じた、するとありとあらゆるいろいろな思いが生まれては消え、消えては生まれる。
仕方がない……。そう僕は諦め、その思いのすべてに身を委ねてみた……。
やがてはっきりと残ったものは、薄情な哀れみを抱えた自分の歪んだ思いだけだった。最後に交わした美冬との冷たい会話が、思いもよらない妙な安らぎになって響いていた。
どうして僕はこうなんだろう……。もう終わりなんだ……。もう彼女のことは忘れよう……。今度こそ本当に忘れてしまうんだ。そうしよう……。
僕はうとうとと浅い眠りのなかを彷徨《さまよ》っていた。彼女の面影を消し去ってしまうことが、たったひとつの救いなんだ。
初めて彼女と出会った頃、彼女が遠い目をして見つめていた何かを僕は思い浮かべた。
それらのすべてが黄昏だった。その色はオレンジ色の輝きに生まれ、紫色の哀愁を伴いながら濃紺の空にいつまでも消えることはなかった。僕は何度も繰り返し黄昏の空を思い浮かべた。彼女が見つめていた視線の先にある、僕が覚えている黄昏を。ずっと……。ずっと……。
時折涙がわけもなく溢れた。体は鉛を抱えているように重く、ひとつひとつの単純な動作にさえ苦痛を感じながら、僕はその体の疲れを少しでも癒そうと、ベッドに這い上がった。
ベッドはもう冷えきっていた。なのに美冬の温もりを感じてしまう。そしてそれは優しいものだった。
体は脂汗でびっしょりだ。けれど着替える元気もない。眠れもしなかった。ただベッドはやがて僕の体温で暖まり、僕の思い描く夕暮れの光は時間を止めてしまいそうなほどぼんやりと輝いている。それでも一人きりの僕にはそれだけで優しかった。
誰もいなくなってしまったなぁ……。本当に一人きりだなぁ……。寂しいなぁ……。この寂しさはいつまで続くのかなぁ……。
やがて本物の美しい黄昏が部屋を覆い尽くしていた。
僕はじっとカーテンの隙間からその黄昏を見つめた。
綺麗だなぁ……。いつかこんな黄昏を、好きな人と一緒に見つめられたらいいのに……。僕はそっと目を閉じてそんな瞬間を思い浮かべてみた。
燃え上がるような黄昏が空高く舞い上がっている。その美しさは何もかもすべてを知り尽くした輝きを放っている。喜びも、悲しみも、愛も恋も、疲れた心をも……。
ただそれを見つめているのは僕ただ一人だけなんだ。同じように黄昏の輝きを見つめられる者は誰一人いない。そして黄昏の中にも映し出されない……。
何故だろう……。何故一人で見つめなければならないのだろう……。そんなにも人は、一人で生きる宿命をやどしているのだろうか……。
僕はそのわけを探すのをやめた。答えは歴然としている。それはただ僕の生き方や見つめるものが寂しいからなのだろう……。
気がつくとカーテンの隙間にはもう黄昏はなかった。思いあぐねている間に消え去ってしまった。だけど僕は時の長さや流れに関係なく、まだその黄昏を追い求めていた。たとえそれが溜息のように哀れで孤独なものだとしても……。何故ならそこにすべてがあるように思えてならなかったからだ……。孤独の輝きにこそ、消えゆく様々な一日を描く美しさがある。
それからどんなふうに時間が経過していったのかは分からなかった。僕は時間の使い方すら分からなくなっていた。
夜が来ると僕はウイスキーをあおった。次の朝が訪れるまで……。そして疲労が体をむりやりにでも眠らせてしまうまで……。そんな日が続いた。時間が過ぎていることも分からないままに……。
勿論、会社にも行かなかった。どうでもよかったのか、どうしようもなかったのかは定かではない。僕の体が僕の言うことを聞かなくなったようだった。
そしてどれくらいの日数が経ったのだろう。三日だろうか。それとも一週間だろうか。もう一カ月くらい過ぎたのだろうか。それともまだ一日経っただけなのか……。
分からない。答えられない。聞く者もいない。話す相手もいない。ただ部屋にあったアルコール類がほとんど空になっていることに気づくのみだった。
飲みすぎでだろう、胃が痛み出した。体が熱っぽくだるい……。体の節々が痛む。僕は寝込んだ。
アスピリンを飲み、脂汗をかきながら、眠れず、酷い夜を延々と過ごした。時折体の具合がよくなったかのように感じる時は、必ずまたアルコールに浸った。そしてまた体の具合を悪くし……。
それを繰り返し最後の一滴までアルコールを飲み干し、体を壊し、アスピリンと風邪薬を飲み続け、食欲をなくし、ただ眠り続けるしかなかった。
もう何も変わらないのだろう……。この苦しみから逃れることも不可能なのだろう。僕はそう思った……。僕はただこうして時間の過ぎるのも忘れて、待つしかないのだろう。
彼女を早く忘れたい……。そう願い続けた。
何故僕はこんなにも苦しめられるのか……。分からない……。
これがもし悪い夢なら早く覚めてほしい……。彼女を忘れさせてくれるだけでいいんだ。
でも、きっと誰一人にも分からないのだろうな。僕が彼女を早く忘れたい理由など……。彼女の自分勝手な、それともそれを自由奔放な生き方とでも呼ぶのか知らないが、どれほど僕を苦しめてきたかなど、誰に分かってもらえるというのだ。ただもう今は彼女が僕の前にいないという事実と、僕にとって彼女は悪夢でしかないのだということに終結するのみなんだ。
この長い長い闇の生む熱の地獄が恋の話を飾る最後の言葉だということなど、誰が求め、そして信じようか……。誰も信じるものか。誰もそれを知ることすら、求めていないのだから。
もう心も体もくたくたに疲れ果てた。立ち上がることができるのだろうか。彼女は僕がもう立ち上がることを否定しているのだろう。そして嘲笑っている。彼女にとって僕は、彼女の生き方を計るものにもなれやしなかったのだし、僕が彼女を包もうとした時、彼女の手によってそれは壊された。
もう電話は鳴らない。それでよかった。
そういえばクリスマスのことはどうしたっけ……。僕はふとそのことを思い出した。
どうでもいいことだ……。だってたぶん彼女はまだ剛造と会っているのだろうし、ケンとも会っているのだろう。でも、そんなことどうでもいいことだ。
あぁ、僕はもう生きる術を見失った。
離れても別れられない苦しみを語る術もなく……。僕は明日だけを信じている。
そして電話が鳴った。
「私よ……」美冬からだ……。
(未完)
本書は、平成四年六月小社刊行の単行本を文庫化したものです。 黄《たそ》昏《がれ》ゆく街《まち》で
尾《お》崎《ざき》 豊《ゆたか》
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平成13年4月13日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
Yutaka OZAKI 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『黄昏ゆく街で』平成 5年 4月10日初版発行
平成11年 4月20日12版発行