第二章 セパレーツ・ウェイ
1
「ア・フランシ!」
エヴァリー・キーの声は、潮騒《しおさい》の中でよろめくように聞こえた。その声には、咋日までの元気はなかった。
いつもは必ず呼んでいた、『シャー』という言葉は、呑みこんでいた。
波に浮く板ぎれに横になっていたアフランシは、その彼女を見ようともしなかった。
チ、チ、チ……カチ………
例の音が、頭の中で鳴っていたからだ。
しかし、エヴァリーの波を切る音が、アフランシに、彼女の存在を感じさせ続けた。
それ以上に、彼女の存在が、波の音にまじって、アフランシに襲いかかり、のしかかって来た。
『重いな……』
アフランシの頭の中が、呻《うめ》いた。
その声は、アフランシの表層意識の言葉ではない。
「え……?」
アフランシは、あまりにもはっきりと別の自分の意識の声を聞いたので、上半身を起こして、エヴァリーの方を見てしまった。
サンゴ礁《しょう》の海底の色が浮きあがった水面に、エヴァリーの茶褐色のしなやかな肢体《したい》が、鮫《さめ》よりもすっきりと水を切っているのが、透けて見えた。
『なんで、エヴァリーの身体《からだ》だけが、透けて見えるのだろう?』
アフランシは、かすかに考えた。
しかし、その物理的な疑問よりも、彼女の『存在』がアフランシに迫った感覚の方が、鮮明な記憶になって残った。
「………」
悲しくなったアフランシは、また、板の上に横になった。
「星々から襲いかかってきた人の感覚に似ている………」
アフランシの金髪を、風がなぶった。
『ああ……!』
アフランシは、その潜在意識の中の衝動に身を任せて、身体をグルッとまわして、板から海中に滑っていった。
ザザッ!
泡が周囲に上り、潮が、アフランシの身体をあたたかく包んだ。
エヴァリーの肌は、身体の芯に燃える情熱で脈打ってアフランシに迫るのだが、潮の鼓動は、そのような命とは別の、大きな流れでもって、アフランシを包んでくれた。
その潮の幾十もの幕の向うに、かぐわしい香気をうちに秘めたエヴァリーの肢体《したい》が、あざやかにあった。
彼女の腰布は、とうの昔に外《はず》れていた。
アフランシは、エヴァリーから逃げるように泳いだ。
あの機械のところに引かれるように……
エヴァリーは、波間に息をつくたびに、「シャー!」と、声にしていた。
アフランシは、まだ刻《とき》があると感じていた。
だから、エヴァリーの手が、アフランシの脚に触れた時には、抵抗しなかった。
「ああ……! アフランシ! 行かないで!」
エヴァリーは言い、ふたりの身体がもつれて、潮に浮き沈みした。
「……!」
「なぜ、答えないの? なんで、行かないと言ってくれないの?」
エヴァリーの堅い乳房が、アフランシの胸に押しつけられて、あえいだ。
それは、潮の中でもよく分った。
が、アフランシの視界の中には、あの岬《みさき》の機械があった。
「マン・マシーンか……!」
それは、アフランシの造語だったが、彼には、なつかしい響きを持った言葉になっていた。
しかし、アフランシには、その種の機械を見た記憶などはない。
あるのは、その昔……もっと昔!
エヴァリーが、腰布を外すよりも昔……
それは、いつ?
「ぼくが、どこから来たものか、どのようなものか知りたいんだ。そうしなければ、ぼくは、安心してエヴァリーを愛することは、できそうもない………」
「なぜ? わたしはここにいるのよ? わたしがいるだけでは、愛することができないなんて、それは、ウソよ!」
彼女の歯が、アフランシの唇を噛《か》んでいた。
2
エヴァリーは、アフランシに背を向けると、機械に向って泳ぎ出した。
それは、力強く、背中の筋肉がまるで男のそれのように、グイグイと盛り上って、潮を押し分けた。
「エヴァ!?」
アフランシは、立ち泳ぎの姿勢で、上体を波の上に持ち上げて、異様な力強さで泳ぐエヴァリーを振り向かせようと、叫んだ。
『あの力は……?』
そう、自分に向けられるべき力が、別のものに向けられると、寂《さび》しくなる。
放り出されたと感じてしまう。
忘れられた存在になってしまうという焦り……。
これも、肉体と感情を持った人間の勝手な感情なのだ。
全裸のエヴァリーは、岬の岩場に駆けあがり、あの濃い緑色の機械に向った。
その機械は、あいかわらず、打ち寄せる波に巨体を揺すっていた。
ゴゴッ………ッ
サンゴ礁を削りながら、以前に増して、元気に揺れているように見えた。
「こんなのっ! こんなのっ!」
エヴァリーの手にしたサンゴの破片が、その機械に当って、はじけ飛んだ。そのエヴァリーの姿は、蟻《あり》が象に挑むように、滑稽《こっけい》なものに見えた。
その機械の上の方にへばりついた海草は、乾燥し、まるで髪の毛のように風に揺れていたが、その髪が、エヴァリーを笑うように千切れた。
「エヴァリー・キー!」
アフランシは、彼女のフル・ネームを呼んで、彼女の両腕を、背後から抱いた。
「いやぁよぉー!」
エヴァリーの絶叫の一部が、その機械のコックピットの空洞に飛び込んで、かすかに反響した。
それは、深い緑色の機体を持つ人型《ひとがた》らしいマシーンの拍動《はくどう》のように響いた。
「これが来たから、ア・フランシは、行っちゃうんだっ!」
その悲しい絶叫は、真実を突いていた。
しかし、アフランシの意識は、それほど明瞭に論理を直結しない。
「そんなことはないよ! 違うんだ。ガバ・スーが宇宙に行けと遺言《ゆいごん》したから……」
アフランシは、その言葉を口にしたとたんに、悲しい言い訳でしかないと、判った。
「ア・フランシは、あたしよりも、機械が好きだなんてっ、それはひどいよ!」
「ひどい……?」
その論理の飛躍をアフランシは、曖昧《あいまい》なものとは感じない。
『そうまで分ってしまうのが、人の能力の素晴しさなのだ』
彼のなかに、そう断定する潜在意識があった。
アフランシの腕に抱かれたエヴァリーは、怯《おび》える瞳《ひとみ》をアフランシに向けた。
その瞳からは、不思議なほどたくさんの涙が、筋になって流れていた。
「ああ! エヴァリー………」
アフランシは、力一杯、彼女の肩を抱きしめた。
『……ボクにも分らないんだ。なんで、ボクは、宇宙に行かなけれぱならないのか!』
それを言葉にする勇気はない。
言葉にしたら、否定できない現実になってしまうという恐れが、言葉にしない……。
しかし、アフフンシは、
次の嵐が来るまでは、力一杯、エヴァリーを愛してやろうと決心した。
3
また、嵐が来た。
この嵐の風と潮の方向が、アフランシ・シャアにとって絶好なのは、いつもの季節のことで、分っていた。
だからこそ、あの人型の機械も、海庭に沈んでいる時から、幾度も幾度も揺さぶられて、アフランシの住む島に、にじり寄ってきたのだ。
そして、アフランシが成人したこの時代《とき》に、あの機械は、ようやくアフランシの島に上陸した……。
「ココナツの木を見て来なければ……」
アフランシは、嵐が、頂点に達した時、そう言って家を出た。
そのアフランシの小屋では、この数日エヴァリーが、新妻のように暮した。
島の老人たちも、若者たちも、それを当然と受け入れた。
勿論《もちろん》、ガバ・スーの喪《も》があけていないので、アフランシとエヴァリーの暮しぶりを非難する者もいた。
しかし、老人たちは、分っていた。
「アフランシは、ガバ・スーに従って、宇宙に出るのだ……だから、今だけ、エヴァリーを愛している」
と……。
「今だけの愛なんて……」
そう非難する娘たちは、その老人たちの憶測《おくそく》を、エヴァリーに告げ口しようとした。
しかし、結局は、誰もそうしなかった。
エヴァリーを悲しませるだけのことになるのは、分っていたからだ。
で、
今日までのふたりの短い新婚の生活が、続いた。
「わたしも行きましょうか?」
その時、エヴァリーは、かるい不安感を抱《いだ》いた。
しかし、それは、低気圧が通過する時の不安に似ていたので、彼女はこだわらなかった。
かすかな予感が、嵐の前に吹き消されたのだ。
で、
アフランシは、ひとりで嵐の中に出て、嵐がすすむ方向、島の反対に走った。
そして、アフランシは、海岸に隠してあったカヌーを引き出した。
外海に出てしまえば、風に乗って、定期船が出る島までたどり潜けるのである。
アフランシは、ルガーのついたカヌーで、荒れる海に出た。
サンゴ礁をぬけ出るまでは、油断なく、必死にオールを操《あやつ》った。
筋になった雨と風が、そのアフランシに抵抗をし、波が、ゴマ粒のようなカヌーを弄《もてあそ》んだ。
しかし、神と、あの機械が、アフランシに味方した。
アフランシのカヌーは、外海の狂暴な波の表面に出た。
息をつく間もなく、ガバ・スーとエヴァリーが住んでいた島が、暴風雨のむこうに見えなくなった。
波の壁が、アフランシと島を隔離《かくり》した。
『ガバ・スーが眠る島が……』
天を突くような波は、次に、地の底に向かって落下した。それが嵐の海だ。
「ガバー、俺を守ってくれっ!」
アフランシは、暴風雨に負けじと絶叫した。
島と別れる感慨などは消し飛び、激浪《げきろう》のさなか、アフランシは、カヌーを守るのに全精力を集中した。
「行ける! 目的の島にっ!」
アフランシは、激しく上下する波の中で、幾つかの波を利用して、カヌーをひっくり返した。
そして、海に入って、カヌーの船体の内側に、身をひそめた。
これが、島の人びとが言い伝えた暴風雨を回避する方法なのだ。
そこは、なにも見えない闇《やみ》。
かすかな空間。
そこに頭を突っ込んで、息を確保し、身体を支えた。
波の下には、膨大《ぼうだい》な潮の量を、揺する力が働いていた。
それをアフランシは、全身に感じながらも、カヌーごと空中に浮いているような錯覚《さっかく》にとらわれた。
白然は、どのように膨大な潮も空気も、奪ってしまうように荒れ狂うのだ。
『これが自然………』
さかさにしたカヌーの船体が、波の上に上った時に空気を取りこみ、アフランシを安心させた。
しかし、次に、カヌーは、彼の頭を打つように、波の底に沈んだ。
「ガバッ……!」
視界を奪われ、見えない巨人の手の中で上下、左右に揺さぶられるアフランシは、恐怖の闇にいた。
「ガバ!」
アフランシは、カヌーの船体の下で泣いた。
その間も、アフランシの身体は、揉《も》まれに揉まれた。
この感情は、曖昧《あいまい》ではない。
思考と感情が、かたまりになり、人間が作るもっとも根源的な感情、感傷さえも破壊した。
その試練《しれん》が、人を迷わせて、かつ、人を強くする。
今、アフランシの感情は、その感情の渦のなかで、もっとも直截《ちょくせつ》的に人を求めていた。
しかし、その人は、すでにエヴァリーではない。
アフランシは、冒険の渦中にいるのだから……
その嵐が島を去った時、
エヴァリー・キーは、アフランシとあの人型の機械が、潮に持ち去られていたのを知った。
彼女は、泣かなかった。
「涙なんて、さ……!」
吐き捨てるように言った彼女の言葉を、女友達の一人が聞いた。
しかし、その夜、
短い新婚の夜を過ごした小屋で、エヴァリー・キーは、朝まで泣いた。
4
嵐が去ったあとの海原は、それから一日、大きなうねりが続いた。
しかし、その日は、帆の下に座るアフランシには、平穏な一日となった。
水筒一本の真水と、カヌーに前もってくくりつけておいた椰子《やし》の実だけが、命の綱だったが、それだけで十分な航海なのだ。
風にのって流れる雲の間に、太陽が見えた。
島の老人たちは、まだかすかに、古代から伝わる海を渡る方法を諳《そら》んじていた。
砂の上に、石を使って語り伝えられる航法は、素朴だが厳然《げんぜん》とした技術として、伝えられていた。
そのようなものを、アフランシは、何度となく聞いた。
その教えを受ける時、子供たちは、頭に椰子の幹からそいだ冠《かんむり》をかぶった。
なぜならば、星と潮をみる技術は、極めて神聖なものであるから、身を清めなければ、教えてもらえないのだ。
夜になる前に、アフランシは、潮の息遣いで、海が嵐を忘れ始めたと分った。
アフランシは、そこで初めて、椰子の実を手刀で叩《たた》き割って、汁を飲み、その果肉を口にした。
太陽が沈み、月が上った。
「方位は、間違っていない……」
アフランシは、ひとり納得をすると、またも、カヌーに帆をかけた。
「すべてが予定通りだ……」
カチカチ………
アフランシの頭の中で、またも、あの音がした。
しかし、もう、あの島で考えたことや、知ったことは忘れようとしていた。
『すべて、ぼくの依頼人の仕掛けたことなのだ』
それが、アフランシの納得の仕方である。
『……しかし、ぼくには、暖昧《あいまい》なことが多すぎたように思うな』
それは、アフランシの表層意識の冷静さが、判断させることだった。
空に夕日の光がなくなって、幾つもの星が輝き始めた時、彼は、月の左右に輝く光をみとめた。
その光の集団が、スペース・コロニーの輝きである。
「スペース・コロニー……そんなところには、海はないだろうに……」
それが、アフランシの最も嫌悪する想像だ。
5
星の輝きを遮《さえぎ》るものがあれば、それが、島だ。
まだ嵐のうねりが残っている波間を走るカヌーの上で、アフランシは、立ち上った。
「……!」
島の形は、ガバに連れられて何度となく来た島である。星を遮る形さえ見えれば、確認できた。
左右にある別の島のシルエットを一緒にしても、間違うようなことはなかった。
「………」
アフランシは、精神のすぺてが充実しているのが分った。
「あそこから、火の柱を打ち上げているホンコンに行く船が出ている」
カヌーと潮がぶつかる時の、かすかな波の音以外、なにも聞えなかった。
海鳥たちも、とうに眠りについた。
アフランシは、何も見えない背後の水平線を、飽きずに見やった。
「………」
すでに、波は白い色も見せず、大きなうねりだけ………。
『エヴァ……』
その言葉は、感傷的すぎて、もう、アフランシを感動させない。
嵐が、一切の感傷を忘れさせてくれたのだろう。
アフランシは、しゃがんで、オールを使った。
一呼吸、一呼吸、確実にオールで潮をとらえた。
そうして、何時間かあとには、アフランシは、その島の港の灯を視界に入れた。
その灯は、島と海の境界線を作り、視覚を刺激した。
数は多くないのだが、キラキラと輝くそれは、人工的なものが作り出す、硬質な力があった。
アフランシのカヌーは、常夜灯を揺らしている人気《ひとけ》のない漁船のわきを、桟橋《さんばし》に向って流れていった。
6
コンクリートの桟橋の下にカヌーをつないだ。
アフランシは、蛇《へび》などの出ない場所で、野宿をするつもりなのだ。
桟橋には、大きな鉄の船が一隻、灯を消して停泊していた。
その周囲には、数十|艘《そう》の島の漁船が、夜の闇《やみ》に身を沈めて、くすんだ色を見せていた。
その闇を、ノロノロと押し分けるようにして、古い音楽が聞えていた。
『………アナスターシャ……』
その男性ボーカルのまどろっこしい歌が、島を包む湿気を思い出させた。
アフランシは、数本の街灯に誘われるようにして、港前のアスファルト道路に出た。
風はなく、空気が重くよどんでいた。
音楽は、その通りの一軒の飲み屋から流れていた。
『……ここで、食事をしたことがある』
アフランシは、こんな時間に食事ができるとは思わなかったが、ドア越しに店内を覗《のぞ》いた。
数人の男の姿が、ダイダイ色の電気の明りの下に見えた。
ゲーム・マシーンの音が、無遠慮に店内の空気を揺すった。
煙草の煙が、店内の空気をどんよりとよどませ、電気の光をよりくすませていた。
『……嫌《いや》な臭《にお》いだ』
しかし、食べるものがあるのならば、食べたかった。金はあるのだ。
アフランシは、パンツのポケットに入れてあったパス入れを、シャツの下につっ込んでから、店に入った。
カウンターの男が、黒い肌に白い目をギョロつかせて、「なんだい?」と訊《き》いた。
「食べるものが欲しいんだ」
「食うもん?」
言いながらも、男の黒い手が、ピーナッツをつかんで、カウンターに置いた。
「………飲む物を頼まないといけないのか?」
「ここは、飲み屋だからな?」
「アルコールーの一番薄いものがいいんだ……」
「ガキか?」
「大入のつもりだが、こういう場所に、一人で入るのは、初めてなんだ」
「ククク………!」
かたわらで飲んでいた中年の男が、肩を揺すった。
「……?」
「水割りにしな」
カウンターの男がそう言って、グラスを取った。
「頼む……」
アフランシは、中年の男を無視して、ピーナッツの殻《から》を割った。
男は、継《つ》ぎ接《は》ぎだらけジャケットの襟《えり》を気にしながら、
「怒るなよ。こういう店では、あんたのように正直すぎる口のきき方は、妙に聞えるんだぜ」
「……奇妙?」
アフランシは、粒のふぞろいなピーナッツを噛《か》んで、暑さにめくれ上ったペンキの壁を見つめた。
「そうさ、奇妙って、言い方が分りにくければ、聞いていても恥かしいんだよ、っていう言い方がある……クク……これはいい表現だ。なぁ? グレン?」
中年の男が、カウンターの男に言った。
水割を作る男が、またも白い歯をニーッと見せた。
「恥かしい?」
アフランシは、ますます分らなかった。
かと言って、素性も知れない男に質問を返すのは、もっと億劫《おっくう》なことだ。かすかに色のついた水割りのグラスが、アフランシの目の前で音をたてた。
「同時に、金を払うもんだぜ? 兄さん?」
「そして、片手でグラスをつかんで、飲むんだよ? 島の青年……」
ひやかすように、中年男が言った。
「自分の勝手のはずだが?」
アフランシは、あらためてその中年の酒焼けした男の顔を見つめた。
「……へっ、へへっ……」
男は笑いでごまかして、グラスを口にした。
「……」
アフランシがピーナッツを口にして、水のような水割りを飲む間に、カウンターの男が、中年男に、もう帰ったらどうだ? と言った。
「青年……」
「………?」
「名前はなんと言う? 青年と言うのは、言いづらくていけない」
中年男が、言った。
「アフランシ。みんな、そう呼ぶ」
「アフランシ……か?」
その男が、身体をアフランシに向けた。
「その名前、誰がつけたんだ?」
アフランシは、その質間を無視した。
「その名前の意味を知っているのか?」
中年の男の上体が、アフランシに迫っていた。
「意味?」
アフランシは、眉《まゆ》をしかめて、その男の不精髭《びしょうひげ》と荒れた肌を見つめた。
「カーペンターなら大工、ジョンソンなら、ジョンの息子、そんな通俗的な意味じゃないのが、アフランシだ。知っているのか?」
「いや……この名前の音《おん》は好きだな」
「アフランシ……アフランシ……なんと言うんだ?」
中年男は、アフランシと発音した後、もどかしそうに指を鳴らして、回答を求めた。
「アフランシ・シャア」
「そうか………」
男は、両の膝の間に両方の手を置いて、煤《すす》けた天井を睨《にら》んで、
「アフランシ・シャアか………シンボルだな………」
男は、呻《うめ》いた。
「ただし、シャアは、気に入らんがね?」
そう言ってケタケタと笑った。
その口のなかには、治療を忘れた歯が、並んでいた。