ペイル・スフィア
―哀しみの青想圏―
著者 富永浩史/挿絵 水上カオリ
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)青想圏《ペイル・スフィア》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|帝国の使者《インペリウム》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)そういうモノ[#「モノ」に傍点]
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CONTENTS
プロローグ 〜prologue〜
第一章 宙 〜interplanetary〜
第二章 流 〜troposphere〜
第三章 層 〜stratosphere〜
第四章 熱 〜thermosphere〜
第五章 離 〜ionosphere〜
第六章 想 〜palesphere〜
エピローグ 〜epilogue〜
あとがき
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今日、僕は空のかなたへ消える。
この悲しい色の星から消える。
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プロローグ 〜prologue〜
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「ふうん、本当にだぁれも来ないんだ」
わかっていたことが、ただ現実として目の前にあるだけだった。
なのに、ついうっかり口にしてしまった。
僕は動く手すりにつかまり、ゆっくりと浮き上がったまま引きずられながら、気まずい思いでそっと横を見る。
側《そば》を同じように進む変わらぬ表情を見て、安心する。
良かった。聞かれていなかったようだ。いや、聞こえていても聞こえない振りをしたのかもしれない。どうせ何を考えているのかはわからないのだ。
慣れない感覚に少し戸惑うが、そのまま歩く必要もなく、機械とプラスチックで覆《おお》われた冷たい雰囲気の通路を、手足を不器用にバタバタさせながら進む。
雰囲気《ふんいき》だけじゃなく、本当に涼《すず》しい。地図上では熱帯だけれど、三万キロの上空にいる僕には関係ない。たとえ見下ろしたとしても、この建物の根本なんか見えないだろう。そんな距離を旅したのは生まれて初めてだ。
外は真空。この少し強すぎる空調が、生命線だ。
そういう冷たさならまだあきらめもつく。
けれど、感じる冷たさの理由はそれだけではなかった。僕の進む先にも後ろにも誰《だれ》一人の姿もない。時折、ガラスで隔《へだ》てられた遠く、他の通路に、同じようなお仕着せの船内服の人々が見えるだけだ。それさえも、お互い目を合わせることもない。氷の中の、異なる世界のように。
そんなふうによそみをしていたら、ふいに自分の顔がガラスに映りこんでドキッとする。
こっちこそが、氷に溶《と》けたかのように、白い。
僕の印象は白だ。髪も肌も色が薄く、十三という歳にしては体も華奢《きゃしゃ》。
だから、薄幸《はっこう》の美少女だとか、世をはかなむ美少年だとか、世間は勝手なイメージを押しつけようとする。
「ユーリ様には、来て欲しい方がいらっしゃいましたか」
横からの声が僕を現実に引き戻す。
「いるわけないよ、そんなの」
僕は眉《まゆ》をしかめて言う。嘘《うそ》じゃない。我ながら言っていることが矛盾《むじゅん》してるみたいだが、彼女はいちいち指摘しない。そんなことは僕が望んでいないとわかっているんだろう。だったら、さっきの独《ひと》り言《ごと》だって聞き流してくれればよかったのに。
「急ぎませんと」
全部の荷物をおとなしく運びながら、やはり汗一つ流さず言う彼女に、皮肉めいた視線の一つも向けたくなる。
「セピア、お前はいいよね、暑いとか寒いとかも考えなくていいんだから」
「そうですか」
セピア、それが彼女の名前。何を言っても、いつもと変わらぬ調子で淡々《たんたん》と答える。嫌みも通じないことだって、ずっと前からわかってた。
僕よりはやや年上のメイド姿の少女。
感情のこもらない声、そして固く崩《くず》れない表情。こちらの意図を跳《は》ね返すかのような眼鏡《めがね》。重力から解《と》き放たれても浮き上がることのない、セピア色した肩までの堅い髪、同じくひるがえらない黒いスカート。
いまさら目をこらして見るまでもなく、彼女は人間じゃあない。ロボット、アンドロイド、あるいは自動人形。呼び方はいろいろあるけど、そういうモノ[#「モノ」に傍点]。
僕はしぶしぶ、引かれるままシャトルの搭乗口《とうじょうぐち》へと向かった。他は誰一人同じ方向には向かわない。遠くで聞こえる月直行便乗客のざわめき、あるいは惑星探査機放出スタッフの忙しそうな往来。そんなものは僕には嘘くさい書き割りにすぎない。書き割りの背景だから、無視して通り過ぎる。だって、ほら、付いてくるものは、セピア以外に一人もいない。
地上三万キロの空間に、追い立てられるように、ただ一人。
ここは、アマゾンとやらの河口に、天を衝《つ》いてそびえる塔《とう》。それはまさしく文字通りに天を貫く軌道《きどう》エレベータ。
無数のカーボンナノチューブのケーブルからなる、環状《かんじょう》列石のようなそれの頂点は十五万キロに達する。僕がいるのはその高度三万キロの重心に作られた宇宙船用の発着基地。ここへ来るために乗ったのはロケットよりはるかに快適な世界最高速のエレベータ、なのだそうだ。
静止軌道まで届くエレベータだから、軌道エレベータ。なんと芸のない名前だろうか。「ヤコブの梯子《はしご》」「ユグドラシル」といった名前は一切が却下《きゃっか》されたらしい。これを建設した国際的な機関は、カミサマもアクマも大嫌いなのだろう。
当然だ。
僕をこんなところに追いやったあの連中のやることだ。気が利《き》いているわけがない。おかげで僕は、これから行くところが天国だと錯覚《さっかく》することさえ、できない。
連中のことを思い出すと、せっかく冷たい空気で冷静になっていた頭に血が上る気がする。今いるこの塔すらぶっこわしてやりたくなる。だが、本気でかかったところで、それを構成するケーブルを一本、切れるかどうか。
それを想像することすら疲れて、ため息をつく。
「シャトルは定刻どおり到着するようです。急ぎませんと」
「繰り返さなくていいよ」
じろりとセピアをにらむ。汗もかかない、声にも感情がない、加えて表情もない。とってつけたような、作りつけの笑顔。だけど、負よりは零《ゼロ》のほうがましだ。
無重力だというのに、浮いているはずの足が重い。
意外と言えば意外だった。別に地球に未練を抱くほどの何かもないのに、それでも、これからシャトルに乗ることが「追放」だと思うと、やはり足取りが重くなる自分が。
なんて半端《はんぱ》で、気持ちの整理に向いていない場所だろう。この床の下はずっと地球につながっている。だからまだ物理的には地球から離れてはいないともいえる。
なのにその一方で、地表までの距離は地球の直径よりも長く、地面の証明である重力はない。僕を地球にとどめようとする現実的な力はすでになにもない。
地上なら足を止めればそのまま歩みも止まる。だがここまで来てしまったら、惰性《だせい》だけでどこまでも進まされてしまう。
見送りも、付《つ》き添《そ》いもいない。誰も追ってこない。ただ一人、機械のセピア以外は。
わかっている。
みんな逃げ出したのだ。止めるやつもいなければ、背中を押しにくるやつもいない。
僕に関りたくないのだ。追放される者に、哀《あわ》れみの目を向けることも、嫌みを聞かされることも、平気で耐《た》えられる人間なんて、きっといないんだろう。
僕にとって人間とは、親代わりの責をもちながらそのすべてを全《まっと》うしなかった組織の者のことだった。親はどちらもすでにいなくなったし、兄弟が存在するかどうかも聞いていない。でも、ちょっと外に出てみれば、人なんて結局そんなものだ。
なんでそんなことばかり思い出してかっかとするんだろう。この塔の建っていた島のうだるような暑さがまだ残っているのか。周りはこんなに冷めているのに、僕は少しおかしいみたいだ。
昔も今も、誰一人、近づいてこようとしなかった。僕をただひたすら遠ざけることだけを考え、ここにたどり着くまでのことも、この先に待ち受けていることも何も教えてはくれようとしなかった。
消えてしまえ、そんな声が、僕の周りを渦巻《うずま》いている。彼らからどれほど遠ざかってもそれは薄れることがない。本当にきちんと消えてくれるのか、どこか遠くから見張られているようで気分が悪い。でも、別れを伝えにくるほどの誠意はどこにもない。
「ふん、近づかなくたってわかるさ。余計なことだけは聞こえるんだ」
ほぼ無人のロビーを見回しながら、存在しない彼らを呪《のろ》う。
そう、たしかに僕にはみんなの声ならぬ声が聞こえていた。
聞きたくないことだけが聞こえていた。
だから僕は、そんな自分が嫌いだった。
だから僕は、今日この星にさよならを告げる。
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第一章 宙 〜interplanetary〜
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「迎えのシャトルが到着いたしました」
どこかの回線から直接情報を拾ったのだろう、セピアはいきなり何の前置きもなく告げた。ユーリは周りのことに何ひとつ注意を払っていなかったので、何かがステーションにドッキングしたとしても見えなかった。
シャトル一機で大げさにゆれるほど、軌道《きどう》エレベータは華奢《きゃしゃ》ではない。それにシャトルに意識を向けたら、また乗っているやつの本音が聞こえてしまうかもしれない。聞こえたとすればそれはどうせ嫌なことに決まっているので、知らないうちにさっさと着いてくれれば良かった。どうせならテレポートの能力もあればいいのに、とユーリは思ってから、あっても別に行きたいところなどないのに気づく。
ばかばかしい、と思い、黙《だま》ってセピアも無視して立ち上がろうとした。
体が浮いて、回転を始める。急激な変化に、やわな三半規管が悲鳴をあげた。
忘れていた。ここはすでに静止軌道上なのだ。だが地上でさえまともに運動ができないユーリに、いきなり無重力でうまく動けるはずがない。それどころか、すでに己《おのれ》の動きに酔《よ》いそうだ。
セピアが軽く床を蹴《け》って、展望ドームのガラス面に漂《ただよ》っていくユーリを追った。普段はただの飾りにしか見えない、スカート「のような部品」やリボン「を模《も》した部品」が能動的に動き、ときには冷たいガスを微量《びりょう》に噴射しながら姿勢を制御して、ユーリの先に回り、そっと抱き留めた。
窓に軽く当たるが、もちろん、そんなことでどうかなるような作りにはなっていないだろうから、窓のことも、セピアのことも心配はしなかった。
抱き留めてもらっても、いまさら嬉《うれ》しくもない。少しは暖かいが、それはただの機械の廃熱《はいねつ》だと知っている。柔らかいのも胴《どう》の一部だけで、腕は堅《かた》い。感覚としては、ひじかけ付きの椅子《いす》にどすんと腰を降ろすのとそんなに変わらない。
それよりも気になることがあった。
「おまえ、宇宙で動けるんだ」
地上用の汎用《はんよう》家事ロボットであれば必要ない、したがってあるはずのない機能である。あるいは今回のためにわざわざそういう機能を付加してくれたとでもいうなら、少しはやつらの評価を改めてやってもいい、とユーリは思った。
だがセピアはいつもの調子で、せっかくの気持ちを踏みにじってくれた。
「私の発注段階では、宇宙実験|棟《とう》配属予定だったのですが変更になりました。機能としては今使ったのが購入《こうにゅう》後最初の利用となります」
ということは、そもそもユーリの世話係に回された時点ですでに廃品利用だったわけか。ユーリはかえって気分が悪くなって、「けっ」と視線をそらして横を向いた。
展望台に目がいった。といっても、高度三万キロの静止軌道で見る物などそんなに多くない。地球か、月か、あるいは港の宇宙船くらいだろう。昼なので星空は見えない。
見たいとも思わない。地球が青いのをじかに見たことはないが、あの連中に支配された星など、さぞ冷たく見えることだろう。そうに決まっている。そう決めつけて目をそらそうとして、港向きだったことに気づく。
なぜか安堵《あんど》しかけてから、目に飛び込んできた機影を見て、いかに世間知らずのユーリでも、また一つ不愉快《ふゆかい》の種が増えたことがわかった。
「何がシャトルだ。惑星|爆撃機《ばくげきき》じゃないか。どうりで他に客がいないわけだよね」
ユーリの言うとおり、そこに係留《けいりゅう》されていたのは通常の単段式シャトルや月旅行船ではなく、ダークグレーの軌道|迷彩《めいさい》を施《ほどこ》した、大気圏《たいきけん》突入可能な軍用の武装船だった。地球に近づくなにがしかをミサイル攻撃《こうげき》するための大型攻撃機である。
戦術構想はともかくとして、たしかにこれは乗客を乗せて運ぶ船ではない。これはあまりに気が利《き》かないように思われた。
「ですが古今、軍の重要人物が移動に爆撃機を利用した例はあります」
セピアはそう言ったが、なんでそんなことを言ってまで連中をフォローしようとするのか、とユーリは考えてしまった。あいかわらずの無表情で、真意はわからない。
ユーリはちらりともう一度だけ、その腹立たしい爆撃機を一瞥《いちべつ》した。
尾翼《びよく》に書かれた「ハカリスティ」という機名だけが読みとれたが、それが何を意味するのかは知らないし、興味もない。自分が乗せられる以上、ろくな名前ではないような気がして、聞きたくもなかった。
ハカリスティという名前は、ユーリの思いこみに反して悪い意味ではなかった。スウェーデンからフィンランドに伝えられた「幸運の青い鉤十字《かぎじゅうじ》」のことである。かつてのフィンランドはそれを国籍《こくせき》マークとしたが、あいにく同じ頃に黒い鉤十字を旗印《はたじるし》にした連中の、悪評のとばっちりを食って禁止されてしまった。と、そう聞けばユーリは「じゃあやっぱり縁起《えんぎ》悪いじゃないか」と言ったかもしれない。
名付けた本人はそんなつもりはなく、昔からある縁起が良くて誇《ほこ》り高い名前をつけたつもりだった。なぜならその名付け親がフィンランド出身の闘士《とうし》だったからである。
今|操縦席《そうじゅうせき》に座っているのは、その血を半分受け継《つ》ぐものだった。
「お客さんは?」
彼女はコントロールパネルのスイッチをてきぱきと切り替えながら機長に尋《たず》ねた。まとめた金髪がふわりと揺《ゆ》れる。同時に揺れるふくよかな胸元を別とすればどことなく線が細く、爆撃機のパイロットという職業が似合っているとはいいがたい。ただし、どちらかと言えばするどい目つきだけは一発必中の軌道ミサイル攻撃を任せるに足るものと思えた。
少なくとも機長は、その点について彼女、ヒルデ・ケスキネンに対して不安は抱いていない。
「積み荷は無事|搬入《はんにゅう》されたようだ。今確認した」
「その言い方はないのではないですか」
ヒルデはチェックから目を離さずに抗議《こうぎ》した。やれやれ、と機長は頭をかいて、シートに身を滑《すべ》り込ませた。
「なんで今度だけそんなこと言うんだい」
「一般論です。今回は物ではないのですから」
「気にしないでくれ。俺は昔から、お偉《えら》いさんを乗せるときでもこうだ」
「そうですか」
ヒルデはまだこだわっていた。機長は知らないのだ。今日の客がどんな扱いでこれに乗ることになったのか。そしてそのなにげない悪意だけは、黙っていても筒抜《つつぬ》けなのだということも。
逆に言えばヒルデだけはよく知っているという事情も機長は知らない。だから、ヒルデがなぜ今日にかぎってそんな態度をとるのかわからない。
「とにかく我々はあれを所定の基地に届ければいい。いつもの物資輸送と何もかわらんよ。こうなると爆撃機なんだか輸送機なんだかわからないな」
「雷撃《らいげき》したいですか」
「どうせなら引退前に一発ぶちかましてはみたいな。訓練弾もいいかげん飽《あ》きた」
「不穏《ふおん》な発言ですね」
そのシャープな外見の印象とはうらはらに、ヒルデは雷撃の機会が永遠に訪れないことを願っていた。
それはたしかにそのとおりである。惑星爆撃機が実弾を撃《う》つのは、地球に重大な危機が迫《せま》ったときに限られる。そんな時が来ないほうがいいことくらい、言われなくても機長だってわかっているが、やはりこういう部隊を志願するからには一度くらい華々《はなばな》しく雷撃する機会が欲しいというのが正直なところだ。
だというのに、彼女はそうは思っていないらしい。ならば一体何をするために爆撃隊を志願したのか。
配属以来一度も聞いたことはない。ただの使命感だけではここにたどり着けるとも思えない。
むろん今回も、ヒルデは語りはしなかった。だが、実はその理由の一つはまさしく今日の客なのであった。
これが爆撃機でなかったら、とヒルデは思ったこともある。ミサイル・ベイではなく客室であれば、顔を見に行くこともできたのに。
いや、行ってどうする。どうせ向こうは顔も知らないだろうし、自分の存在自体を知らないのに。あるいは誰が行っても反応は同じかもしれない。
いずれにしろ、組織は「被験者」との接触を禁じていた。
「チェック完了。発進シークエンスに移ります」
ヒルデはそっけなさを装《よそお》って仕事を進めた。
ユーリは膝《ひざ》をかかえ、身を固めてうずくまった。ゆるやかな加速が華奢な体を壁に押しつける。そこにいない何者かをにらむように、闇に目をこらしていた。
ハカリスティは軌道エレベータの表面を滑り、遠心力に振り出されて、宇宙の闇に溶《と》け込んでいく。
それは今度こそユーリが心だけでなく、現実に、物理的に地球から離れたことを意味したが、展望窓はなかったので、感慨《かんがい》の抱きようがなかった。
見えなくていい。塔《とう》の上からも見なかった。いまさら見たいなどと言いたくない。けれども、それを素直に喜べないのはどうしてだろう。
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決まっている。この部屋のせいだ。ユーリは決めつけた。
実際そこは不愉快な場所だった。旅客機ではないから豪華《ごうか》な客席などないくらいは覚悟《かくご》していたつもりだが、そもそもこれは人間を入れるべき場所ではない。
彼らが押し込まれた場所はミサイル・ベイ、爆弾倉《ばくだんそう》である。その中に気密カプセルがしつらえてあり、中には窓はおろかろくな調度も照明もなく、「荷物として扱われている」という気分を盛り上げてくれる。
むしろ爆弾かな、とまでユーリは思った。現実に組織は、彼を不発弾ででもあるかのように扱っていたから、彼らにとっては当然の措置《そち》なのだろう。
不発弾処理。単なるゴミ捨てよりは迫力があるのかな、と少し自虐的《じぎゃくてき》なことを考えながら、ユーリは暗いカプセルの端に丸まって、再び、じっくりと効《き》いてくる加速度に耐《た》え続けた。何も見えなくても、遠ざかりつつあることが否応《いやおう》なしに体感できる。
「どのくらい?」
「何のことでしょう」
セピアは曖昧《あいまい》な問いを素直に聞き返した。聞きたくもないのに余計な声が聞こえてしまう人間と違って、機械の彼女からは心の声は聞こえない。かわりに向こうもそんなものはくみ取ってくれない。ある意味公平といえるだろう。かえって気が楽だ。
「時間だよ。こんなところに、いつまで座ってなきゃいけないんだ」
「射出時初速と現状の加速度から計算しますと、到着は十時間後になります。すべて予定どおりです」
ちょうど大陸間旅客機に乗るくらいだろうか。TVに出演させられたときもそのくらい飛んだ。旅客機なら映画やラジオくらいはサービスされた。受け取る気にはならなかったが、少なくとも刺激にはなった。それでもなお、退屈《たいくつ》だった。とくに帰りはろくな思い出がない。
「そんなに長い間、このままでいろって言うのか」
「食事の用意はご心配なく」
「そんなことは聞いてないよ」
まあいい、とユーリはあきらめるように自分に言い聞かせた。どうせ外が見えたところで、同じように真っ暗に決まっている。
同じ闇なら、無限より壁があるほうが、まだしも安心できるというものだ。
「退屈だな」
なにげなく、つぶやく。セピアはそれさえも、聞き流すということをしない。
「音楽でも流しますか」
「おまえのはメイド機能用に録音された子守り歌だろう。僕を子供扱いするな」
子供のくせに、とは彼女は言わない。
「では寝物語機能では」
「童話だろ、それも。もういいよ」
まるで聞き飽きたかのように拒否するが、実際はそんなに聞いていない。最初から拒否していたからだ。
出かかったあくびをかみ殺す。
「輸送中は何もありませんので、無理をなさらず、お休みくださってかまいません」
「何かやっておけと言われても、寝ることにするよ」
ユーリはぷいと横を向いて、そのまま目を閉じた。
外も闇、部屋も闇。それでも闇を遠ざけようと瞼《まぶた》を閉ざして闇に沈む。
遠くで歌が聞こえたような気がした。誰の声だったろう?
落ちていく意識の中で、ユーリはぼんやりと、自分が泣いているような気がした。
そんなはずはないのに。
ユーリ・シェフチェンコという名前は、数年前までは科学アカデミーと一部の超常現象マニアの間ではちょっとは知られた存在だった。
それは期待の超能力少年、といういささか俗《ぞく》っぽい肩書きによるものだった。
「最強のサイコキネシス」であるとか、
「驚異のテレパシー」だとか、
あるいは「百発百中の未来予知」であるとか。
ユーリ自身がそんなことを売り出したわけではない。親代わりの科学アカデミーが、外貨欲しさに外国の俗なTVショーに売り込んだのだ。彼らはこぞって、物心ついてまもない少年が起こす奇跡《きせき》を待ち望んだ。
無理もない。事実ユーリにはそういう力があったのだ。
きっかけは幼いときの発熱だったが、潜在的《せんざいてき》に力を持っていたのかどうかは確かめようがない。とにかく彼にかかればスプーンくらいはトリックなど使わなくても曲がったし、他人の心を読むこともできたし、未来もわずかながら見えた。
けれど、どれ一つとして宣伝文句どおりではなかった。
念力は、いまひとつ思いどおりにならないうえに、時間がかかった。曲がるはずのスプーンが曲がらず、代わりに他のものが曲がってしまうこともよくあった。
予知は、複数の可能性がでたらめにイメージとして浮かぶというものなので、当たったのか外《はず》れたのかわからなかった。
そして聞きたくないのに勝手に聞こえるテレパシー。
聞きたくないものが聞こえて嬉《うれ》しいわけがない。だからそれを聞けと強要されることが、まず嫌になった。
そうすると聞こえてしまうのは、聞かせたがっている本人の本音なので、ますます協力したくなくなる。
だが、もっと問題なのは、聞きたくないことしか[#「しか」に傍点]聞こえないことだった。つまり、聞きたいこと、読みとれと指示されたことはどうしても聞こえないのだった。
「私が今選んだ色を当てて下さい」と美人歌手などに言われても、彼に聞こえるのは、「うふふ、収録が終わったら、この子最初に食っちゃっていいのよね」だった。素直にそう答えたらTVはあわててCMに切り替わった。
期待したとおりのシーンを取れないTVプロデューサーはすぐにユーリを見限った。文句を言われて頭にきたとたん、生放送の回線が勝手に楽屋に切り替わった。欲望むき出しの出演者の本音が放送されてしまい、皆|大恥《おおはじ》をかいたが、いい気味だと思っただけだった。
ユーリが十歳になるころ、能力に興味を持った|GNOSYS《グノシス》がアカデミーの研究に協力を申し出たときも、似たようなものだった。
GNO‐SYS、グローバル何とかシステムの略だったはずだが、ユーリはきちんと覚えるつもりはなかった。要するに、急ごしらえの「地球防衛軍」だということだけ知っていれば十分だ。
地球に危機が迫っている。
依頼に来た軍人はそう言ったが、すでにあまり人類を愛していなかったユーリはたいして感銘《かんめい》を受けなかった。
現実に、ユーリが生まれる前に地球は「知的生命体による、人為的《じんいてき》隕石《いんせき》攻撃」なるものを受けていると言い、その傷跡《きずあと》であるクレーターが世界中に開いている。GNOSYSも軌道エレベータも、惑星爆撃機も、すべてはそうした脅威《きょうい》に対抗するために人類の総力をあげて急遽《きゅうきょ》作られたものだった。
だが、ユーリに聞こえるかぎり、そんな崇高《すうこう》なことを語る軍人が実際に彼に期待していることは、TVのプロデューサーや科学アカデミーの研究者と大差なかった。だから、同じようにしぶしぶと実験につき合っただけだった。
しかし海中の潜水艦《せんすいかん》を標的に行われた実験もまた、彼らにとっては失敗に終わった。地球防衛軍だけに最初から軍事利用を見込んだ実験であったが、その意義もユーリにはどうでもいいことだった。
空母の上から潜水艦の中のことを問われても何もわからず、わかったのは、早くも他人をレーダーの部品みたいに思っている中佐《ちゅうさ》殿の心の内であった。
結果、中佐|自慢《じまん》の勲章《くんしょう》が焼いたスルメのように丸まって、中佐が半狂乱になったところでユーリは力を使い果たし、ばったりと倒れた。
なぜそんなことになってしまうのか、自分でもわからなかった。ただ、今度もまた使えないと判断されたのだろう、という予想はできた。
予知したのではない。実験が行われなくなったのだ。ほっとしたと同時に困った。超能力を使わないユーリは、単なる虚弱《きょじゃく》な子供でしかない。
まるで能力の代償《だいしょう》ででもあるかのように、彼は体が弱かった。鍛《きた》えてどうにかなるようなものではない、という弱さだった。偏食《へんしょく》も激しかったが、無理に栄養を与えても身にならない。運動機能はさっぱり向上しない。簡単に倒れ、風邪《かぜ》をひきやすい。だが能力だけが欲しかった人々は誰《だれ》一人、それをどうにかしようとはしなかった。
本来ならそれをどうにかするべき親はすでに去り、親代わりのはずのアカデミーはそれらしいことを何もしない。
ただ機嫌をとり、高価なガラス器のように扱ってきたくせに、鑑定《かんてい》結果が安かったからといって投げ出され、いまさらどうやって生きていけというのか、と思ったころ、宇宙からやってきた最後の引き取り手、それがGNOSYS内の軌道軍という部門だった。
ユーリを宇宙に送るべきとする建て前論は、いくらでも聞かされた。
「君のその能力で地球の危機を未然に防いでほしい。君にしかできないのだ」
と例の中佐は十三歳になったばかりのユーリに、頬《ほお》をひきつらせながら言った。だが心の中では、
(まあ、どうせ無理だろうけど、誰が行っても同じならね)
と思っているのがはっきりと聞こえた。また、
「宇宙は無重量状態だ。君の体質を考えると、そのほうが体に負担《ふたん》がかからなくていいだろう」
とアカデミーの職員は言った。一方で、
(もうちょっと昔だったらロケット打ち上げのGでくたばっただろうけどな)
などということを、さも残念そうに思っていたので、ユーリは彼をサイコキネシスで宇宙に打ち上げられないかと少しだけ真剣に考えたものだった。
そして誰もが最後に共通して、
(どっちにしろ、これ以上ここじゃ面倒見られないよ。さっさと行ってしまえ)
と思ったこと、これだけは見事なまでに一致《いっち》していた。だから、ユーリは心おきなくこれを「追放」、言い方を変えれば「お払い箱」だと解釈《かいしゃく》したのであった。
付いてきたのはこのセピア一体だけ。
まだ幼い、力に覚醒《かくせい》したばかりのころから、ユーリは意識してかせずしてかアカデミーに損害《そんがい》を与えるようになった。施設はいつ何が壊れるかわからない、びっくり箱状態と化した。ポルターガイスト現象、といっても、派手に物が飛び回ってくれればまだいい。そんなものは慣れた職員ならよけられる。
だが、不意に断線する設備や装置は手に負えない。物だけならいいが、頸動脈《けいどうみゃく》でも切られたら命に関わる。かくしてアカデミーはユーリに不用意に人間を近づけない決断を下した。
そしてあてがわれたのがセピアだった。
最初の出会いで、ユーリはいきなり彼女を壊した。けれども組織はすぐに彼女を修理して、また世話をさせた。アカデミーにしてみれば、単に原子炉《げんしろ》の作業にロボットを使うのと同じ感覚だったのだろう。
ユーリにしてみればすでに人間として扱われていないことを意味したが、幼いうちはそれほど深く考えず、ただ漠然《ばくぜん》と彼らを憎んだ。だが親に去られ、職員からも恐れられる中、ユーリはセピアだけがただ一人、裏で嫌なことを考えていないことを知った。
それからも時々破壊することはあったが、ユーリはそれまでよりはおとなしく世話をされるようになった。TV出演を可能としたのも、その成果と言えないこともない。けれどもその措置《そち》に感謝したことはない。あるいはこれも同じように、ていのいい廃品利用にすぎないのかとも思う。
世の中にあふれる普及機と比べ、セピアは市販汎用ロボットの中でも初期型であるらしい。ユーリの世話をずっとやってきたのだから、少なくともそれ以前の製品であろう。
ユーリでさえその程度の推察は可能だったが、事実はもっと古い。
なにしろ彼女は、人類史上初の市販型汎用家政機の一機だ。今日、平均十世帯あたり一台の普及率を誇る汎用アンドロイド市場の最初の一歩を踏み出したのが、彼女たちなのだ。
そのシリーズのうちでも、彼女はさらに初期型であった。外装がほぼ欧州型《おうしゅうがた》のメイド姿に固定され、外部式の光学オプションを備え、関節を隠す処理も最低限しかなく、表情も乏しい。後期型や後発機はもっと人間に近かったり、オプションの選択幅が広かったりする。
用途別には専門作業のためにもっとロボットらしい方向に設計されたものもあるが、家庭用としては今やこんなに機械くさいものは売られていない。
そしてこれらのロボットも、機械の例にもれず耐用年数というものがある。セピアの同世代機は今では滅多《めった》に見かけなくなった。
ユーリの世話係として買われたとき、彼女はすでに中古品だった。予算の都合か、どうせ念力で壊されるのだからそんなもので十分と思われたのか、あるいはその両方か。
だから、科学アカデミーの備品として彼女を見れば、そろそろ宇宙に捨てても惜《お》しくはないだろう。科学研究用としてはもっと高性能な専用機が存在しているし、彼女にいまさら新しい任務を与えても全うできまい。誰にとっても惜しくない、という意味では、セピアもユーリと似たようなものかも知れなかった。
ともに捨てられる。これから行くところには誰も待っていない。あるのはきっと物さえ言わない、もっと冷たい機械だけ。
最後まで彼女だけが一緒なのだ、たぶん、きっと。
ユーリの心の中には、そんな思いだけが渦巻《うずま》いていた。
「NC04よりCC02、03へ。定期便接近。船外活動《EVA》用意」
それは声になることもなく、直接回線を伝わった。
小惑星内の、それまで眠っていた区画に、コマンドと同時に電源が通る。前回の資材搬入作業以来、彼女たちは六十万飛んで四千七百十三秒ぶりに目覚めた。
整備はその間も滞《とどこお》りなく行われていたらしい。起動時のチェックにも異常はない。
CC02、03と呼ばれた二つの存在は冷たいガスを噴射して、上も下もない無重力の通路をまっすぐ飛んでいった。
予定時刻マイナス三百六十秒。
彼女たちに減圧はいらないから、十分に間に合う。
「標的接近。雷撃戦用意」
長い旅にようやく区切りがつく。機長が苦笑いを浮かべる。ヒルデはそれをさらに渋い顔で見つめる。
「なんでそこまで攻撃訓練の振りをしなきゃならないんです」
「楽しい決まりじゃないか」
言われるまでもなくヒルデも知ってはいる。あの場所に物を届けるときは、雷撃訓練を装うことになっている。そう、あれは表向き標的なのだ。誰かがそこに接触したという事実はいかなる観察によっても検出されないはずなのだ。
何も人間を届けるときまで、とヒルデは思うが、理屈でいえばだからこそ、今回はより徹底的《てっていてき》に雷撃でなければならない。
どこから見られているのかわからないというのは、まったく嫌なものだ。だが事情がどうあれ、ヒルデは一つだけ確信していた。
また組織は彼に憎まれるだろう。自分も含めて。
こういう思いだけは、どうしてか彼に届かないのがもどかしく、恨《うら》めしい。
ユーリが叩《たた》き起こされたのは、乱暴に鳴り響く警報のせいだった。がらんとしたカプセル内が真っ赤な光で塗《ぬ》りつぶされる。
何があったのか、わからない。いつの間にか、体が押しつけられる感覚が戻っていた。夢の続きなのか、現実に戻ったのかさえも迷う。
続いてそんな困惑など知らないとばかりに、容赦《ようしゃ》のないアナウンスと、電光表示。
「射出カウントダウン開始。耐衝撃《たいしょうげき》姿勢。十、九、八……」
「ちょっと待てっ!」
秒読みだけが一方的に聞こえてきても、ユーリにはどうしようもなかった。耐衝撃姿勢など、訓練を受けた覚えはない。
数字と声とがそろってゼロを示すと同時に、軽い衝撃が襲《おそ》い、体がふわりと浮く。感覚的に覚悟したのとは逆の現象、突如《とつじょ》失われた擬似的《ぎじてき》な「上下」の感覚。ユーリはパニックに陥《おちい》りかけて、カプセルの反対の壁にぶつかりそうになったとき、壁との間にセピアがすかさず割り込んで、つかまえた。
「心配はいりません。慣性爆撃コースに乗りました」
やっと、なじみのある、ただ一つ少しは安心できる感触に再会して、ユーリはようやく事情を悟《さと》り、そして改めて気分を害した。
「本当に爆弾扱いだったとはね!」
本当に爆発してやろうかとユーリは思った。今までこんな大きなものを壊せたことはないが、不可能だという保証もない。心の爆発が大きければ、それに比例してサイキックな破壊力も大きくなるだろう。だがいまここで癇癪《かんしゃく》を起こし、力を爆発させたとしても、結局はカプセルが壊れて自分が死ぬだけだ。
どう死んだところで、組織の人間にとっては大したことではないだろう。雷撃した側にしてみれば、ミサイルが勝手に自爆してしまった程度のことかも知れない。どちらにしろ、誰も悲しんではくれない。
そんなバカみたいな死に方だけはさすがにご免《めん》だったので、ユーリはかろうじて耐えた。そんなユーリの心の中を知ってか知らずか、セピアはじっと彼を抱きかかえて、何も余計なことは言わなかった。
ハカリスティの胴体から射出されたカプセルは、機体からもらった慣性そのままに標的に突っ込んでいった。離れていくカプセルを、ヒルデはじっと無言で見送った。
標的とされたのは、小惑星に見えた。しかも、かなりの大型だ。単純にミサイルを撃ち込んでも、一度や二度では破壊されないだろう。
それどころか、その星は今まで何度も同じようなカプセルの慣性爆撃を受けていた、にもかかわらず未だにどこも破壊されていない。
星の表面を蹴って、二つの存在が真空の宇宙へ飛び出してくる。計算どおりのコースで飛来するカプセルに向かう。
予定時刻ちょうど、相対速度を下げるためにそれらは初めてガスを噴射した。神業《かみわざ》としか思えないタイミングでカプセルの取っ手をつかむ。同時に、カプセルとそれらが一斉に減速噴射を始める。いずれも燃焼を伴《ともな》わない低温噴射だ。これで自身と小惑星との相対速度を合わせ、あとは最小限の微調整のみを行いながら、カプセルを小惑星表面へと引っぱっていく。
「着弾確認。帰投する」
ハカリスティ機長はそっけなく告げると、機首を地球|帰還《きかん》軌道へと向けた。ヒルデは最後のぎりぎりまで見守っていたかったが、その余裕はなかった。
「NC04」は全天から降り注《そそ》ぐあらゆる波長をチェックした。去っていくハカリスティの熱も、地球光の照り返しもすべて。それらの中に不審《ふしん》なものがないことを確認すると、黙って受け入れの準備を始めた。
小惑星の表面の一部が開き、CCでコールされる二体はカプセルを、まるで泥棒《どろぼう》が成果を隠《かく》すかのように、「こっそり」と運び込んだ。交信もなく、ただ事前に決められた順序のとおりに。
百二十秒後、「標的」は何事もなかったかのように、漂う小惑星の姿へと戻っていた。
「出ても大丈夫だそうです」
赤い警告灯《けいこくとう》が消えて、再び戻ってきた暗闇の中にセピアの声がする。
「本当か。まだフワフワしてるぞ」
「基地内は基本的に無重量状態です」
「うぇ」
セピアの説明に、ユーリはげんなりした。なるほど、追い出した連中の言うとおり体は軽い。しかし上も下もわからない状態は、はっきり言って気持ち悪い。
加えて、遊泳訓練など受けたことがないユーリには体をどう動かせば「出られる」のかもわかったものではない。よって彼は当然のようにセピアに命じた。
「いずれは慣れていただきませんと」
「うるさいよ。とにかくここから出して」
セピアはコックをつまむと、手首ごとそれを回転させた。シュッと軽く空気の漏《も》れる音がして、ハッチがぱっくりと開く。闇を切り裂くように一筋の光がユーリの目を撃って、思わず瞼を瞬《またた》き、それからゆっくりと周りを見回した。
微妙な気圧差があるだけで、たしかにそこはすでに基地内だった。宇宙基地だと聞いていたが、構造物むき出しの広く四角い空間は、むしろ潜水艦透視実験のとき乗せられた空母の格納庫に似ていた。
セピアに手を引かれて漂い出たユーリは、便宜上《べんぎじょう》の「床」に足をつく。本当に、空母同様のウォークウェイの表示まである。けれどももちろん無重量状態なので、形だけだ。立っている気がしない。視覚的にはちゃんと立っているのに頭に血が上るのは、じつに不愉快な感触だった。
二人を待っていたかのように、カプセルの両脇から二人の軍服の少女が前に回り込み、床に吸い付くように直立、敬礼した。
まったく型にはめたように隙《すき》のない姿勢だったが、ユーリが驚いたのはそのせいではない。彼女たちがいること自体、予想も予知もしていなかった。
一人にされるのではなかったのか。しかしよりによって、嫌いな軍人とは。
「誰もいないはずじゃ……」
不愉快と困惑を交えて言いかけ、すぐに気づいた。一目見れば、彼女らもセピア同様、ロボットだとわかる。機械的なポーズを決めてみせたのも機械だからにすぎなかった。
「水雷長《すいらいちょう》を務めます、CC02、ジュリエットであります。お迎えに上がりました」
と挨拶《あいさつ》したのは向かって左側のほう。二体ともユーリやセピアより背が低く、無駄《むだ》のない均整のとれたスタイルをした同型機のようだが、ジュリエットと名乗ったほうは髪が短く、金髪。
もう一方は赤毛のボブスタイルで、じっとしたまま黙っている。顔はよく似ていて、つり上がり気味の目つきと堅い表情が人形的でもあり、軍人的にも見える。
頭に乗せたベレー帽も下手《へた》をすると被《かぶ》っているのではなく部品の一部かもしれない。一見すると軍服、といっても迷彩戦闘服ではなく制服のようで、裾《すそ》の長いコートを着込んでいるようにも見える。裾の部分は、推進機《すいしんき》になっており、キャップや噴射口がついている。
だがそういった付属物とは不釣《ふつ》り合いに、二機とも全体に小さいせいか、印象は幼い。
言われてみれば、機械しかないという説明に背《そむ》く存在ではない。しかし軍人ロボットから歓迎されるのと、ただのコンピュータとではどちらが良かっただろう。
ユーリがとまどっていると、セピアは両手をそろえて、彼女たちにお辞儀《じぎ》をした。軍人ではなくメイドロボだからだ。だが後から続いた言葉はメイドらしくなかった。
「これはご丁寧《ていねい》に。痛み入ります。UM01、セピア、副長として着任、艦長《かんちょう》をお連れいたしました」
「艦長?」
ただでさえ呆然《ぼうぜん》としているところに、さらに意表をついた言葉が投げ込まれた。ユーリはとっさにその意味がわからず、一拍《いっぱく》の間をおいて、自分を皮肉っぽく指さして聞き返すのがやっとだった。
「はい」
セピアは真顔で答えた。他に表情などないと知っていてもやはりそれは、真顔に見えた。
「ユーリ様は本日付けでこの艦《ふね》の艦長となっております」
「聞いていた話と違うな。ここは基地じゃなかったのか」
「任務説明は艦橋《ブリッジ》にて受けられるよう手配されております」
ジュリエットが割り込んだ。敬礼のまま。そして問答無用とばかりに告げた。
「着任を歓迎いたします、艦長。ようこそ漂流《ひょうりゅう》基地ユカギールへ!」
幼い見かけのくせに、まったくあの中佐の部下と同じような軍人そのものの固い顔。その表情で本当に歓迎したつもりか、とユーリは思ったが、相手が機械では本音が聞こえてこなかった。
艦長に任命されたユーリは、それからようやく艦橋と呼ばれる区画に連れられていった。なるほど、舵輪《だりん》こそないが、壁一面に張られた情報モニタや機械の操作台、通信設備などは、やはり空母の艦橋、あるいは|中央戦闘指揮所《CIC》に似ている。直接外を見られる窓がないのが、宇宙船らしいところといえばいえるのだろうか。
そのモニタの一つを通じて、任命した当事者の説明を聞くことができるという。ただし、聞くだけである。質問も反論もできない。なぜならそこに本人はおらず、伝達はいまどき一方通行の録画だったのである。
そういう気分が悪くなるものは後にしてほしいとユーリは思った。内容と関係なく、別の理由ですでに気分が悪かったからだ。たとえどれほど好意的な内容を見せられてもこればかりは仕方がない。無重量状態はきちんと訓練された宇宙飛行士であっても、慣れるのに一日以上かかる。
むろん彼らはそれでも仕事ができるプロだが、ユーリはそんなことは請《う》け負った覚えがないので、休む間もなく働かされることに対してさらに気分を悪くした。
艦橋で待っていたのは、どこかの企業の秘書みたいな格好なのと、なぜかナース姿の、これまた両方ともロボットであった。ロボットがいるのはもういいとしても、なぜか場違いな格好のものばかり。この基地はロボット仮装大会の会場なのだろうか、とユーリは早くもめげかけたが、ユーリが知らないだけで、今日アンドロイドがその用途・配属に合わせてわかりやすい姿に作られるのは世間的には常識である。
「船務を担当いたします、NC04ボニータです」
スーツ姿の秘書タイプが静かな物腰で挨拶した。全体に何もかも無難に清楚《せいそ》な感じにまとまっていて、ユーリの機嫌をあえて逆なでするような突出した部分はまったくない。見た目はジュリエットたちやセピアよりも大人だろうか。うっかりすると忘れてしまいそうなくらい印象が薄い。意図的に合成した美人の平均、という感じだ。
じっと観察すると、黒髪であるとかやや東洋系であるとか、外見が少し違うだけで、彼女もセピアとそう変わらない作りに見えた。とすればこれもわりと古いタイプのはずだ。
GNOSYSは物持ちがいいのか、ケチなのか。いずれにしろ、また中古品ですませたということだろう。
ちらりと視線を横に移動させて、ユーリは逆に面食らった。もう一体のナースタイプが、柔らかくウェーブした豊かな髪と、同じく豊かな胸を揺らしながら、にっこりと微笑《ほほえ》んだのである。
作りつけの笑顔ではなく、自然に、いや、人間と比べようにもユーリが見たことがあるのはほとんどが不自然な愛想《あいそ》笑いだったから、それと比べても仕方がないくらいに。
「どーもー、衛生・医療《いりょう》担当のU99号でーす」
その明るい口調も、ロボットにしては人間くさく、しかし人間にしては底抜けすぎて、ユーリにはなじみのないものだった。
「U99? またそっけない名前だね」
今まで見た中で一番人間に近いのに、それにふさわしい名前がついていない。そのギャップもまた、ユーリをとまどわせる。
「内部では、ゆうちゃんと呼んでくれる子もいるけどね。キミも好きな名前で呼んでいいよぉ」
「どういうこと?」
「だからぁ、名前をつけてくれれば、私はアナタのモ・ノ」
必要以上になまめかしいその態度に、かつてTVで共演した女性を連想して、ユーリはさっと青ざめた。だがU99はそれに気づかず、ただ顔色だけを見て一応、本来の職務らしいことを言った。
「気分が悪くなったら言ってね。宇宙酔いの薬をお注射してあげますから」
すでに気分は十分に悪かったが、あまり頼りたくはない気がした。
騙《だま》されるな、とユーリは自分に言い聞かせる。笑顔に騙されてはいけない、と。
だが、そこでふと気づいた。相手が人間であれば、この手の笑顔の裏には十中八九、聞きたくもない本音が聞こえるものだが、ここでは何も聞こえない。
どれほど新しそうに見えても、やはり機械には裏はないということだろうか。そう思うと少しだけ気分が収まった。
それにしても、U99は中古ぞろいのこんな場所にしては今のところ場違いなまでに新しい。
「よろしいでしょうか。司令部より預かった任命書を再生いたします」
ボニータは会話の隙間をうかがうように丁寧かつ簡潔《かんけつ》な言葉でユーリを現実に引き戻すと、おそらくは指定席であろうコンソールに座り、体のあちこちのジャックにプラグを差した。彼女が手を触れなくても、これで内部の機器が直接操作できるらしい。正面のモニタスクリーンに、ロボットよりもはるかに見たくない顔が大映しになった。
『ようこそユーリ・シェフチェンコ君』
モニタ一面にGNOSYSの能力軍事利用部門責任者の顔が広がる。
『ユカギールの印象はどうかね』
いいわけがないだろう。そうユーリは言い返してやりたかったが、相手は録画である。
『さて、本日をもって君はこのユカギールの艦長という地位に任命された。これは大変に重要で名誉《めいよ》ある任務である。これからその詳細《しょうさい》について説明させていただくので、心して聞いてほしい』
嫌だと言っても再生は止められないし、いまさら帰してもくれないのだろう。
ユカギールは別名を「漂流基地」と言った。より正確に言うならば「軌道漂流型観測基地」である。
軌道といってもそれは普通の衛星軌道ではない。地球‐月系の重力|均衡点《きんこうてん》、いわゆるラグランジュ点の一つ、L3と呼ばれる地点である。それは地球を挟《はさ》んで月と点対称の位置であり、月の公転と同じ周期で回る。
ということは、ユカギールからは月は見えない。ここにいるかぎり、永遠に。
GNOSYSはすでに月の裏側に観測基地を置いている。地球‐月系の外に向けられた警戒《けいかい》の目である。だがこの位置からでは、反対側は完全な死角となる。常に両方向を観測しようとすれば、安定した観測点の置き場はL3しかない。
そこまでして建設しなければならない理由は、天体観測などのためではない。この組織は、あくまでも「地球防衛軍」である。
防衛軍というからには、仮想敵がある。それは内部のコードネームで「インペリウム」と呼ばれていた。
要するに、宇宙人である。そう言われてもユーリは別に驚かなかった。だいたい、超能力者とアンドロイドがここにそろっているのに、いまさら宇宙人くらい、むしろいないほうが拍子抜けというものだろう。
「インペリウム」は、今のところまだ地球を訪れてはいない。それでもそれは実在し、近い将来やってくるものと信じられていた。
第一に、二十一世紀初頭、人類は彼らの探査ロボットではないかと考えられるものとすでに遭遇《そうぐう》していた。
そしてもう一つの証拠《しょうこ》は「インペリウム」ではない別の生命体の来訪であった。彼らは地球上でその探査ロボットと戦闘を展開、恒星《こうせい》間宇宙における戦争の一端を示したのである。
そのもう一方の陣営は「第一勢力」と呼ばれていた。わかっているかぎりで、少なくとも二種類以上の生命体による連合軍であり、地球が「インペリウム」の勢力圏に入ることを阻《はば》もうとしている。
人類はすでに第一勢力による警告攻撃を二度に渡って受けている。「Sb1」「Sb2」と呼ばれるこれらの人為的隕石攻撃はいずれも迎撃に成功したものの、Sb2の破片は世界中にクレーターの爪痕《つめあと》を残した。それはユーリが生まれるより何年も前の話だが、忘れ去られるにはまだ生々しい記憶であった。
彼らは今もどこからか見張っているに違いない。「インペリウム」と手を結ぶ前に地球を滅《ほろ》ぼしてしまおうというのは、異星人が考えることにしては筋が通っている。
といって第一勢力と同盟を結べば、「インペリウム」が地球を攻撃するだろう。やはり地球が無事ですむとは考えられない。
いずれにしろ、相手は論理の異なる生物である。楽観は許されない。だというのに、かろうじてSb隕石をうち砕《くだ》いたものさえ正規軍ではなく、当時民間籍であった一人の英雄と彼だけが動かせる兵器であり、それが有効であったことは多分に幸運と言わざるを得ない。
いつまでも、そんな幸運に頼ってはいられない。事態を危惧《きぐ》した人類はその人物を嘱託《しょくたく》に迎えて超国家防衛組織GNOSYSを設立、来《きた》るべき宇宙戦争に備えることとしたのである。
幸い、「インペリウム」に関して一つだけ判明した情報によれば、彼らの超光速航法では、ある日|忽然《こつぜん》と現れることができない。間違いなくそれは外宇宙から、減速を行いながら太陽系に突入してくるに違いないというのである。
そこで、それを迎えるための前進基地が必要となった。それがすなわち、月面基地でありユカギールである。
そしてユーリの任務は、艦長という名に反して管理責任者などではなかった。
『これは君にしかできない任務だ。その能力を生かして、インペリウムの襲来を予知し、その意図が友好的か敵対的か読みとってほしい。第一勢力に攻撃されるより早く、彼らといかに接触するべきか知ることに、人類の運命がかかっている』
無茶だ、とユーリは思った。いつ来るかわからない、しかも宇宙人の考えていることなど、機械の考えること以上にわからないに決まっている。潜水艦の中が読みとれないのに、星の彼方《かなた》のことがわかるわけがない。
絶対これはただの口実だ、とユーリは確信した。
やはり彼らはとにかく自分を地球から追い出したいのだ、そのためならどんな理由でも利用するのだと。
そもそもこれが真意だとしても、これは艦長の仕事ではない。観測員、いやレーダー手、むしろレーダーそのものである。
自分は部品だ、とユーリは気づいた。うまく働くかどうかわからない新型のレーダーを送りつけた程度のつもりなのだ。そう考えれば誰も見送りに来なかったり、別れを惜しまなかったり、荷物のように放り投げられたりするのも当然だ。
いや、科学アカデミーの研究者がときどき発する異様な執着《しゅうちゃく》からすれば、レーダーの出荷のほうがまだしも盛大に見送ってもらえるかもしれない。
うがった見方をすれば、仮にも生身の人間であるユーリを部品扱いにして出荷することはGNOSYSに対する世論を悪化させるから、隠しておきたいのかもしれない。
距離のせいかそう聞こえたわけではないが、少なくとも、まともな人材|派遣《はけん》の体裁《ていさい》を整えて送り出すつもりがないのは確かだ。初めからわかっていたつもりのことだ。それが確実になっただけなのに、なぜあらためて腹が立つのだろうか。
やはり文句の一つくらいどうしても言ってやらねば気がすまない。そうユーリが思った矢先、画面の中の司令官は、まるであちらのほうがよほど優秀な予知能力者ででもあるかのように冷たく言い放った。
『なお、ユカギールは第一勢力に発見されてはならない。そのためにあらゆる手段を講じてただの小惑星に偽装《ぎそう》している。搭載《とうさい》されている観測機器もすべてパッシブ型だ。いかなる信号も発信してはならない。レーダー照射も、そちらからの通信も、異星人襲来などの非常時しか許されないので、そのつもりで』
一方的に言うだけ言って、文句は一切受け付けないというわけだ。ユーリにもようやく彼らが事前に何も説明しないで、建て前ばかり並べた理由が理解できた。
これで彼らは、ユーリがここで何を叫んでも聞かなくてよいし、何を壊しても気にしなくていい。体にいいかどうかも関係ない。病気になってもそれを訴《うった》えることもできないのだ。これは十分に騙されたと思っていいだろう。
『なお君の世話は、GNOSYSが用意した精鋭《せいえい》のロボットにまかせてある。気軽に頼ってくれたまえ。では健闘を祈る』
見ている側の気持ちをも引きちぎるように、録画はブツッという乱暴で耳障《みみざわ》りな音を立ててなんの余韻《よいん》もなく途切れた。が、ユーリの蒼《あお》い瞳はすでに画面など映してはいなかった。
吐《は》き気《け》がして頭に血が上っているのは、もはや無重量のせいだけではない。
ここにはユーリの他に生き物は虫一匹おらず、といってすべてをあきらめられる無機の宮殿でもなく、半端に彼らを思い出させる中古品。それを精鋭と言い繕《つくろ》う彼らの性根《しょうね》。
「ご気分が優《すぐ》れませんか」
ユーリの異変を察したのか、セピアが顔をのぞき込む。腰をかがめなくても、慣性で体が丸ごと斜めになる。その微妙な不自然さも、ユーリの感覚を狂わせた。
「いいわけ、ないだろっ!」
ユーリはそれまでなんとか耐えていた、頭の中にぐねぐねと蠢《うごめ》きながら煮《に》えたぎる「もの」としか言いようのない、形のないイメージを一気に解《と》きはなってしまった。
じりじり、という音がしたような、あるいは空気の振動ではなくもっと漠然《ばくぜん》とした感触とともに、セピアの無表情な顔が小刻みに揺れた。爆発という主観とうらはらに、じっくりと時間をかけて。
と、突然、首がかくっと慣性で一方に曲がり、不自然に首を傾《かし》げた奇妙な姿に今度こそ本物の「無表情」を凍《こお》り付かせて、それきり彼女は一言もしゃべらずに艦橋の空間を所在なさげに漂った。
沈黙が訪れた。何が起こったのか、はたして他の二体は理解したのだろうか。彼女たちからは、ただユーリがにらんだらセピアの首が折れた、としか見えないだろう。
力が勝手にあふれ出す時の、無重力よりも異様な感触はいつまでたっても慣れることはない。これは本当に、誰にも説明すら難しいことだ。彼女たちにわかってもらおうとも思わない。
疲れ果てた目で、うつろにボニータを見る。その凍り付いたような沈黙は、まるで次に自分が壊されると怯《おび》えているようにも見えた。
そんなわけはない。あれもセピアと同じ機械だ。痛みだって感じはしない。
ユーリの思いどおり、彼女は機械らしく、すぐに冷静な対応をとった。
[#挿絵(img/Pale Sphere_051.jpg)入る]
「機関部呼び出し。MC06、至急艦橋へ。搭載アンドロイド一体|破損《はそん》」
ボニータは単なる事故でも起きたかのように淡々と連絡を入れた。まったく、見かけどおり事務的に。
「あーら、もうこんなにしちゃって。怒りっぽいのね、カルシウム飲んどく?」
U99は逆に、わざとらしいほどにっこりと微笑みながら、どこからともなく白い錠剤《じょうざい》のビンを取り出した。
「いらない。あまりかまうと、おまえも同じ目に……」
つっかかろうとして、いきなりユーリの意識が薄れた。勲章やスプーンを曲げるのが精一杯の能力を、セピアの首の配線を切るのに使い切ってしまったのだった。加えて、宇宙酔いによる本当の体調不良もある。
立っている振りを続けられなくなったユーリは、手足をだらりと半端に延ばした、いわゆるニュートラル・ポジションで、セピア同様、ぶざまに艦橋に漂い出した。
「たまったモノは、もっと気持ちよく吐き出そうね?」
U99の言葉を間違って捕らえるほどの気力も、もう残っていなかった。
[#改ページ]
第二章 流 〜troposphere〜
[#挿絵(img/Pale Sphere_053.jpg)入る]
[#改ページ]
二日目になっても、ユーリの機嫌と宇宙|酔《よ》いはともに収まらなかった。だからといって寝てばかりいるのも許されなかった。
といってもユーリは昨日倒れたまま、知らないうちに無重力用のベッドにしばり付けられていた。
なぜそうなったのか、必死に記憶をたぐり寄せる。すると、ごちゃごちゃと訳のわからないことだらけの昨日の出来事が思い出されてきた。
基地だと思ったら艦《ふね》で、艦長《かんちょう》と言われたかと思えば部品で、無人かと思えばロボットだらけで、それがそろいもそろってどこか変。騙《だま》されてガラクタ箱に詰《つ》め込まれた上、口にもテープを貼《は》られたように声も上げられない。
思い出すほどに頭に血が上る。半分は無重力のせいだとしても、その環境も含めてすべてが最低に思えた。
「冗談じゃない。まだ納得なんかできないよ」
まずは現実にしばられている状態から脱したかったが、自分では外《はず》し方がわからなかった。いっそ逆に、それにかこつけて、このまますっとぼけようかとも思ったが、何度見直してもやはり拘束《こうそく》されているようで嫌な気分だったし、なによりお節介にも外しに来たものがいた。
昨日、配線を切って壊してしまったはずのセピアが、なにごともなかったかのように、
「おはようございます」
と言って現れたのだった。当然のことのように、なんら表情を変えることもなく。何もかも今までどおりのことだ。
「固定ベルトを外します。昨日のうちに手順の説明ができませんでしたので、今覚えて下さい」
「嫌だ、ずっとおまえがやれ、と言ったら」
「かまいませんが、私が機能停止した場合はどういたしますか?」
いつもどおりとはいえ、何の感情もこもっていない声で言われてユーリはさらに気が滅入った。壊された本人のくせに、それをさも当然のように言えるのも機械だからだろう。
たしかに今後もセピアの機能を止めてしまわないという保証はなかった。今までもそうだ。彼女がごく部分的に破壊されるのは、今回が初めてではない。頸動脈《けいどうみゃく》を切られる前にロボットまかせにしたことを、アカデミーは賢明《けんめい》な措置《そち》と自画自賛し、ほっと首筋をなでていることだろう。
そうやって逃げるから壊してやりたくなるんだよ、とユーリは思ったが、わざわざ追いかけていって壊せるほどの力を自在に使えるなら見捨てられることもなかったろうし、その前に施設を破壊して脱走している。
そんなことを想像するだけでむかむかする。こっちだって、別に壊すのが楽しくてやってるんじゃない。だいたい、うっかり壊すと現にこのように不便だ。
結局ユーリはしぶしぶ手順を覚えて、ベルトを半分自力で外すことにした。
「で、わざわざ起こしに来たからには、何かそれなりの用事があるんだろうね?」
「昨日予定していた艦内の案内と部署の掌握《しょうあく》が終わっていません」
嫌な予定もあったものだ。人間でもこういうことは忘れろといっても忘れないだろうが、機械相手ではなおのこと無理だ。その上ここから逃げられない以上、その仕事からも逃げられはしない。
ユーリは朝からいきなりセピアを壊してまた不便を託《かこ》つわけにもいかず、だがやはりしぶしぶと、昨日と同じように艦橋《ブリッジ》に連れ出されていった。
「ハーイ、艦長、ぐっもーにーん」
いきなり聞き慣れない、しかも甲高い声に面食らう。昨日はたしかに、落ち着いたOLのボニータが接続されていたはずの操作席にはまったく正反対の印象の、しかしやはり女性型ロボットが座っていた。
座高で見るかぎり極端に大きくも小さくもないし、笑顔ならばU99ほど自然ではない。しかし、驚くべきポイントはそんなことではなかった。
一見して、今度は一体何の仮装なのかユーリにはわからなかった。というのも、幼くして特殊《とくしゅ》な施設に引き取られたゆえに世間というものを知らないユーリにとっては、まったく未知のスタイリングだったのだ。
ぴんぴんと横に飛び出した髪はがっちりと固まっているらしく、そもそも髪なのかも判然としない。頭の左右に熱帯産の花でも咲いたかのようだ。よりによって色もピンクという、髪としては自然にはありえない色。瞳さえも角度によって違う色に見えて奇妙な上、ところどころほかの色が混じっているのは肌も一緒で、モデルになった人種さえ特定できない。
さらに衣服も上から下まで場違いなまで奇妙な非対称デザインで、ステッカーやバッジで埋《う》め尽《つ》くされている。いや、ロボットなのをいいことに、体にも直接くっついている。それともそれは部品の一部なのだろうか、悩んだところでユーリには判断できなかった。
軍人や秘書やナースなら、アカデミーや|GNOSYS《グノシス》にもいる。メイドはいないがセピアは昔から知っているから、いまさらそれがどういう物かは問わない。だがこのようなハデで、まったく機能的でない、しかも品の悪そうなのはこの世のどこで、何の役に立つというのだろうか。
「あー、そんな目で見ないでえ。わかっているのよ、もう流行遅れだってことくらい」
「何の流行だよ」
率直な感想だったが、そのファンキーなロボットは内蔵のホイッスルを口笛代わりに吹いて大げさに嘆《なげ》く演技をしてみせた。
「あー、まさかまさか、艦長ってテレビとか見ない人?」
「TVは嫌いなんだ、死ぬほどね」
見る側としてではなく、出演させられた身としてはそう言わざるをえない。たとえ見たかったとしても、アカデミーがチャンネル権を握っていて余計な情報をシャットアウトしていたから、世界最高の有名人を知らなかったとしても自分の責任ではない、とユーリは主張したかった。
「あー、これはいいのか悪いのか。ワタシは去年まで、VMTエンターテイメント社のステージで映像や音楽をコントロールしていたDJッすよ?」
「なんだ、今度は芸人ロボットか」
言われてみれば、何もロボットの用途は実用だけではない。たまたま出演した超能力番組にいなかっただけで、TVプロダクションにはエンターテイメントロボットが所属していた。電機メーカーが踊るロボットを開発して以来、これも今や一大市場である、ということくらいはユーリでも聞いたことはあった。
それでこの奇怪な外見も納得。ただし、ユーリには芸にしろファッションにしろ、今時の流行が全般的にわからなかったので、彼女がどう流行から遅れているのかも判断がつかなかった。
そのあたりに興味をもってもらえなかったのを理解したらしく、ファンキーな彼女はようやくまともに名乗った。
「船務部所属、NC05サフィールでっす。ボニータと交代でここにいるので、よろしくっすゥ」
敬礼でもお辞儀《じぎ》でもない妙なポーズをとる。彼女の出で立ちでは、接続されっぱなしのケーブルさえも装飾の一部であるかのように紛《まぎ》れていて、本当に働いているのかどうかわからない。
「着任祝いに一曲いかがっすか?」
言うなり、サフィールは返事も聞かずに、聞いたこともない妙な曲を口ずさみ始めた。内蔵スピーカーから音を出すことを口ずさむと言っていいのかどうかは別としても、それはどこか微妙なところでわざと調子をハズした、やたらと騒《さわ》がしい曲だった。
「やめてよ。うるさい」
言っただけでは止まらなかったので、わざとらしく耳をふさいで抗議する。かすかなハウリングを残して、演奏はようやく止まった。
ロボットであるとないとに関わらず、こういうノリは苦手だ。だいたい求められてもいないのに勝手に歌い出すとはどういうことか。組織は何を考えて、こんな奇天烈《きてれつ》な芸人くずれを軍事基地に配備したのだろう。ユーリは、彼にしてはごく率直な理由で頭痛を覚えたが、まだ破壊は耐《た》えることができた。
その日は初目に見回れなかった艦内を引きずり回されることになった。
床の位置からすると暫定的《ざんていてき》に艦橋が一番「上」で、そこから本当に地球の空母と同じようなハシゴをつかんで「下って」いく。ときどき、壁を虫のような機械が素早く這《は》い回っていく。ゴキブリがわいたようで、あまり気持ちはよくない。
「内部の通常保守作業は小型ロボットで行っています。人間型では入れない隙間《すきま》でも行動できるように作られておりますが、あくまでも船務部と機関部にコントロールされる端末機です。会話機能はありません」
「いちいち挨拶《あいさつ》されたらどうしようかと思ったよ!」
だとしても、司令の映像ほどむかついたかどうかはわからない。
艦橋構造が上下に何層かあって、そのほとんどはコンピュータで埋め尽くされていた。その根本あたりの区画から、通路は左右の二本に分かれ、それぞれ平行に前後に延びている。そうなるといよいよ地球用の船と同じだ。少し違うのが、前後左右それぞれから一本ずつ、外に枝が延びている。
全体の通路配置を大まかに書くなら、背中合わせの二つのKの字だろう。そのすべての壁がそっけない機械で埋まっている。
縦棒の前と横の枝は、ほとんどが戦闘用の兵器ブロックとのことで、すべて自動化されていた。今は「基地」として漂っているユカギールは、真の非常事態には「宇宙|戦艦《せんかん》」の能力を発揮《はっき》する。ユーリの役職が「艦長」となるゆえんである。
武器関係は水雷部《すいらいぶ》の例の二人が担当だが、コントロールは艦橋下部の火器管制センターで行われるので、普段はここには来ないとのことだった。
「だったらわざわざ連れてくるなよ」
「責任者にはひととおり全部見ていただきませんと」
セピアはさも当然のように言う。だが厳密には、ユーリが全部を見られるわけではなかった。
ユカギールはこの本当の船体の外側を小惑星の殻《から》で覆《おお》っており、その隙間には各種の観測機器や非常用の武器が折り込まれている。そこは与圧されていないので、見学のためには宇宙服が必要となるそうだが、むろんユーリは宇宙遊泳の訓練などは受けていないのでこれは免除《めんじょ》された。
前端まで行って折り返し、艦橋の周りに固まっている自分の船室、食堂、厨房《ちゅうぼう》をとりあえず後回しにして後部デッキへと向かう。
ここから「上」と「下」に殻内および外へ出られるエアロックと、それに付随《ふずい》して唯一《ゆいいつ》、外を直接見ることができる展望窓があるが、ユーリ自身が外へ出ることはまずないだろう。命じられたとしても、動きにくい宇宙服は着たくなかった。
そして最後に機関部へ案内される。ユカギールはその性格上、いかにも人工衛星じみた太陽電池パドルを展開できないから、ここに鎮座《ちんざ》する巨大なエンジンがすべての動力のもとである。それはいいが、着くまでの道のりが、妙に複雑であるように感じられた。なんだか無理に折り込まれた経路を無駄《むだ》に通っている気がする。といっても、ユーリの平衡《へいこう》感覚は未だに無重量になじんでいなかったので、単なる気のせいかもしれない。とにかくこれが何とかなるまでは、案内されても道を覚えられないだろう。
機関部は、主観的下層の後部にあった。だがそこは、エンジンという言葉から想像されるような区画ではなく、むしろ大規模な核融合《かくゆうごう》発電所であった。
現実に、そうなのだろう。正体が戦艦でも、基地として漂っている間は推進力を発揮することはない。動力とは基本的に電力のことだ。
そして今度は完全自動ではなかった。管理は直接そこで行われており、したがって担当者がはりついて、ユーリを待っていた。
「ようやっと艦長のお出ましかい。ようもまる一日待たせてくれたなあ。しかも早々に仕事を増やしやがって」
「なんだ、おまえは」
ユーリはいきなり不機嫌な顔を、その失礼な声の主に向けた。といっても、ここに他に人間がいないからには機関部担当のロボットに決まっている。
「おお、真っ赤にふくれやがって、みっともな」
「これはムーンフェイスってやつだ」
無重力のために血が頭に上って顔がむくんでしまうことをそう言うと知ったのは、実際にそれで気分が悪くなってからだ。どうせ見て笑う人間はいないと思って安心していたが、まさかロボットに言われようとは。いくら言っていることに裏がなくても心がなくても、気に障《さわ》るものは気に障る。
だが、また頭の底で蠢《うごめ》き始めたあの「何か」をぶつける前に、そのロボットは先を制した。
「おっと、あたいを壊すのはやめとき。そんなことしたらこの基地まるごと、ボン!」
不敵な笑顔を浮かべた彼女――例によって少女型だったのである――は、突き出した拳《こぶし》をぱっと開いて見せた。
今まで見た中で、一番突起物の少ない格好だった。汚れたシャツとスパッツの上にスレンダーで小柄な体型がはっきり見て取れた。ユーリよりも頭ひとつ小さいだろう。休日に自転車でも整備していそうな雰囲気《ふんいき》だが、同時に機械的特徴もはっきりしていた。とくに右腕が特徴的で、ここだけは少し膨《ふく》らんだようになっている。後ろに延びた銀色の一本の三つ編みお下げに見える髪も、工具のスリングに使われているようだった。
「てなわけで、あたいが機関部主任、MC06シレナ。みんなからはたいてい、姐《あね》さんて呼ばれてる。昨日あんたがぶっこわしたその子を直したのも、あたいだから」
シレナは保護ゴーグルを上げ、アネさんという響きにふさわしい、いたずら好きな下町の少女のような顔、その赤い目をくいっとセピアに向けた。セピアはいちいち頭を下げた。もちろん上下のない状態で。姿で言ったらあきらかに年下に見えるシレナが、これまた明らかに年上に見えるセピアを、「その子」と呼ぶのはかなり違和感のある光景だった。
「いっそどう、艦長もいかれたナニか直したら?」
挑発的に笑いながら、シレナの右腕が変形して精密ドリルになり、ユーリの額五ミリ手前で甲高い金属音を発しながら回転を始める。
ロボットは一般に人間を傷つけてはいけないはずである。もっとも、シレナが組織と同じように人を不発弾か何かだと思っているなら話は別かも知れない。
「危険行為は謹《つつし》んでください」
むっとしたユーリが何か言う前に、セピアが注意した。
「おー、健気《けなげ》やん。壊されてもかばうんだ」
「いつものことですから」
セピアは顔色一つ変えずに、あっさりと答えた。もちろん、変えたくても変える機能はない。ゆえにそれは聞いた両者をあまり良い気分にさせなかった。
すなわち、ユーリはそれをいささか皮肉にとらえ、そしてシレナは単純に事実を見いだしてうんざりしたのである。
「てことはあたいも、しょっちゅうアンタを修理せにゃならんのか」
えらく表情豊かなロボットだ。顔色を変える機能までついているように思える。
「君たちが僕を怒らせなければすむことさ」
「おー、じゃあこの子はそんなにしょっちゅうあんたを怒らせてるのか。怖い怖い」
シレナはユーリ相手に一歩も引き下がろうとしなかった。ユーリのこめかみに青筋が浮かぶ。
「なんなら今すぐ仕事を増やしてやろうか」
言ってみただけだが、早くもシレナのドリルがカタカタ振動を始める。
「あたいの大事な工具になんちゅうことを。艦がどうなってもかまわねんだな」
「そのへんにしておいて下さい」
別の声が割り込んで、一触即発《いっしょくそくはつ》の二人が視線をそらし、同時に同じ方向を向く。
それはシレナとほぼ同型のロボットだった。水雷部も船務部も二体いたのだから、機関部にももう一体いたからといって驚くことはない。
「姐さん、交代前に勝手に壊れないでください。増やすならご自分の仕事を」
「きっついわ、それ」
めげたように眉《まゆ》を下げるシレナ。ユーリは表情を変えなかった。どうにも、その二体目が仲裁《ちゅうさい》してくれたような気がしない。また同じようなのが増えただけではないのか。
そろそろ面倒になって、引き続き不機嫌な声を向ける。
「誰《だれ》だよ、こいつ」
ほとんどシレナと同じ姿で、違いといえばやや育ちだけはよさそうな、ともすれば冷たく心のこもっていない笑顔と二本下がっている茶色の三つ編み。機関部だということがわかれば十分、聞いたところで見分けるのも面倒になってきたが、一応聞くだけ聞いておく。
「シレナ姐様が壊れると機関部主任になるNC07、明《みん》です。明朝の明。過去の偉大《いだい》な国の名前をもつ私。まあ威張《いば》ったところでしょせん滅びた国ですが」
[#挿絵(img/Pale Sphere_067.jpg)入る]
そういう棘《とげ》のある言い方を顔色一つ変えずに言い放つ。セピアの無表情とも違う、何か突き放したような感覚だった。
「その立派な名前のやつが何しに来たんだ」
ユーリはわざと「立派な」を強調したが、明はしれっと受け流した。
「交代に参りました。シレナ姐様、そういうわけで任務は引継ぎましたので、壊されるなら今のうちです」
「やめやめ、どうせこっちからは手出しできん」
シレナはドリルを格納しようとして、振動が止まっていないことに気づいた。
「やめって言ったろ」
「……ふん、やめて欲しかったら……」
強がろうとして、限界を越えた。血が上りすぎているのをずっと我慢《がまん》するのに無理がきたのか、ユーリの精神集中は突然|途絶《とだ》えた。いきなり吐《は》き気《け》を覚えて漂いながら腹と口元を押さえる。昨日から何も食べていなくても、神経は事情を察してはくれない。
「おいおい、機関部は修理はするけど掃除《そうじ》はしないんやで?」
シレナは呆《あき》れながら、ようやくドリルを収納した。
吐く物を全部出してしまってから、連れてこられたのは船員食堂であった。利用予定者が一人しかいないのに妙に広い。しかも、宇宙船のはずなのに床にテーブルと椅子《いす》がある。照明は天井《てんじょう》にしかない。ここもあきらかに、上下のある世界を前提にして作られている。座ろうとしても体は反動で浮くし、料理だって置いて食べることはできないのに、不便なことこの上ない。
「どうぞ」
プラスチックのボトルに入った水を運んで来たのは、和風のウェイトレス――もちろん今度も、そういう姿のロボットだった。無重力なのに、いちいち床をしずしずと歩いてくるその物腰も、なんとなく和風だ。といってもユーリは日本といえば例のTV局しか知らないから、かなりいい加減なイメージでしかない。
見た目はボニータ同様黒髪で、きれいに切りそろえてあり、より清楚《せいそ》な感じではあるが、決定的に違うのがその、つんとすました表情だ。いかにも人当たりが良くなさそうである。
忘れがたい印象にたじろぎながらも、運ばれてきた水を飲んで一息つく。
「落ち着かれましたか」
「生ぬるくてまずい」
「それは悪うございました」
つん、とした態度で、ウェイトレスは飲みかけのボトルを取り上げた。
「飲まないとは言っていないだろう」
ユーリはボトルを念じて取り返そうとしたが、気力も体力も足りないのか単に不発であったのか、飛んで来なかった。仕方なく実際に手を延ばす。
「だいたい、こいつはなんなの。接客業がこんな態度でいいのかよ」
こればかりは、ユーリならずともそう思うだろう。
「補給長を務めます、U08千早《ちはや》です。大変失礼いたしました!」
誠意のこもらない態度で、千早はボトルを勢いよく叩《たた》き返した。無重力仕様なのになぜかあるテーブルに当たって、こんどこそ無重力らしく跳《は》ね上がる。
絶対にこいつはこの欠点のためにこんなところに飛ばされたに違いない、とユーリはこのとき確信した。
跳ね上がったボトルをすばやくキャッチしたのは、いつの間にか後ろにいたU99だった。
「だーめよぉ千早ちゃん、物を乱暴に扱っちゃ。水は貴重品、ぜいたくは敵って、あなたがいつも言ってることよ?」
にっこり微笑《ほほえ》む。
「わかってます」
千早はむっとしたまま答えた。たしかに補給長が水を粗末《そまつ》にするのは困る。
U99はボトルをユーリの前に差しだし、のみならず吸い上げ口を唇《くちびる》に差し込んでくれようとした。
「何してるのかな?」
「口移しのほうがいい?」
U99の唇はたしかにセピアよりはだいぶ柔《やわ》らかそうだったが、ユーリは辞退した。はぁ、とため息をひとつつき、やおら吸い上げ口をくわえる。
「気分が悪くなったなら私に言ってくれればいいのに。衛生担当って言わなかった?」
「知ってるけどさ」
なんとなく苦手だから呼びたくなかった。U99の言動を誰が設定したか知らないが、せっかくロボットなのに、なぜ嫌な人間たちを思わせる生々しい設定にしてくれたのか。そもそも、なんでここにいるのだろう。ちらりとセピアを見る。
彼女が呼んだに決まっている。余計なことを。
ユーリはぬるい水を吸い上げながら無表情な彼女の顔に視線をまとわりつかせた。
「何か?」
「別に」
視線をそらす。水がなくなったのに気づかず吸い続けたので、品のない音が鳴った。
「まずい水のおかわりをお持ちしましょうか」
あてつけるように千早が聞いてくる。ロボットのくせに、いつまでもつまらないことにこだわるやつだと思った。
「いらないね!」
ユーリは気まずそうにボトルを離した。なんだか、顔がまたむくんできた気がする。
「あんまり飲み過ぎるとトイレが近くなるよ? とくに宇宙ではね」
U99に言われて、ユーリは初めてそういう必要を意識した。いろいろ見て回ったが、まる一日|経《た》つのにそこはまだ使い方も教わっていない。
「なんなら同行するよお、使い方も手取り足取り」
「わかるよ、そのくらい!」
妙にいやらしいU99の手つきに、顔を赤らめながら思わずつっかかる。
「そんなにムキにならなくてもいいのに。照れてる? まあ、他にもいろいろスッキリさせてあげるから、後で保健管理センターに来てね。右舷《うげん》の真ん中あたりだから」
U99が去ってから、ユーリは本当に尿意《にょうい》を覚えた。そして屈辱的《くつじょくてき》なことに、宇宙用のトイレというやつは思っていた以上に使い方がわかりにくかった。
「いらっしゃーい」
気が進まないとはいえ、言われたとおり訪ねていったユーリは出迎えた声と姿のギャップに、場所を間違えたかと思った。
次に、訪ねた相手がロボットだということを思い出す。今までの例からいえば、U99にもバックアップの同型機がいても不思議ではない。
そんなことを考えたのも、それが明らかに同じ声と同じ顔、同じような笑顔でありながらファッションのみがまったく異なっていたからだ。
「なーに、その顔。私の顔くらい覚えてるでしょうに」
「いいかげんどこに何体いるのか覚えてられないよ。どこ行っても似たようなのが出てくるじゃないか」
「何言ってるの? ああ、着替えたからわからなかったとか」
どうやら本当に本人だったらしいU99は、先刻までのナース姿とはえらくかけ離れた服装をびろんと延ばしてみせた。
どう見てもそれはTシャツにジャージというやつで、首にかけたホイッスルがふわふわと漂《ただよ》い、手には竹刀《しない》まで持っていた。髪も首の後ろで一つにくくっている。
他のロボットは一体ごとに衣装が固定、というよりは衣装が部品の一部だったのに、どうやら彼女だけは「着替える」ことができるらしい。
「で、それは一体何だい。何をするつもりだ」
「見てわからない? これは体育教師というものです」
「は?」
言われても何のことだかわかるわけがない。
そもそもユーリは普通の意味での学校に通ったことがない。能力が目覚めるきっかけとなった熱病は就学前のことだったし、回復と同時に望まずして得た力のために学校に拒まれ、母親に拒まれ、以後教育はすべてアカデミーで受けた。しかも、一通りのポルターガイスト現象を起こしたあとは、それさえも担《にな》ったのはセピア一人だった。
「で、その体育教師が何の用?」
「あ、その顔。期待が外れたって顔してる。一体ナニを期待したのかにゃー? 女体育教師が少年を呼び出してやることはそんなに多くないですよ?
一、運動をさせる
二、特に下半身だけ運動をさせる
さあどっち?」
いかに世間知らずでも、二番は普通ないだろうと思った。似たようなことを裏で考えていた芸能人ならいたが、堂々と口に出すだけでも、こっちのほうがましなのだろうか。
「……帰る」
ユーリはくるりと後ろを向いた、つもりだった。だが例によってうまく回れない。無重力状態で反動をつけるコツがつかめていないのだ。ばたばたと手足を振り回してやっとまともに後ろを向いたころには、U99に背後からがっしりと羽交《はが》い締《じ》めにされていた。
「こらこら、しっかりナニかを期待してきたくせにそれはないだろう。さあ、汗を流してスッキリしようね。一は必須《ひっす》だけど二だってしてあげるから」
「やめろ、体を密着させるな」
セピアと同じロボットのくせに、なぜかU99はふんわり柔らかくてほんのりと暖かかった。思わず顔が上気する。
「セピア、何とか言ってやってよ!」
ユーリはバタバタともがいて助けを求めた。様子を見に来たのか、偶然か、入り口に浮いていたセピアはすっとユーリの前まで漂ってくると、両手をエプロンの前で合わせたまま、無慈悲《むじひ》にも告げた。
「申し訳ございませんが、筋力の低下とカルシウムの流出を防ぐために一日一時間以上の運動が組織より義務づけられています」
「おまえ、僕の体質のことは知っているだろう」
「はい、ですからこれ以上低下されると、本当にまったく動けなくなってしまいます。診断に基づく適切なプログラムが組まれていますので、安心して下さい」
「助けないと、また壊すぞ!」
「かまいませんが、その体力を運動に使ったほうがよろしいかと存じます」
セピアの言うことは、筋が通っていた。まったく機械らしい融通《ゆうずう》のきかなさ加減だ。
「そういうこと。やさしくしてあげるから、一緒に汗を流そうね?」
U99は手足から冷ガスを吹き出しながら、ユーリを部屋の奥に引きずっていった。
「おまえロボットだろ、汗かくのかよ!」
もっともな反論を叫んでなお抵抗を試みたが、虚弱《きょじゃく》にして運動不足のユーリではいくらあがいても逃れることはできなかった。
結局、運動以前にまったく食事を取っていないことを言い損ねたユーリは、サイコキネシスがあふれるまでもなく、運動の最中に倒れた。
もちろん、その後に予定されていた下半身の集中的運動とやらがどこまで本気だったのかを確認することもできなかった。
衛生担当官のくせに人の健康状態も確認しないとはどういうことだ、絶対に欠陥品《けっかんひん》だ、とユーリは思う。
「そろいもそろって、ポンコツどもめ」
ユーリはそう毒づいてから、ふと気づいた。
気づくべきでなかったかも知れないことに、つい眉が八の字になる。
流行遅れのうえ、客のリクエストも無視する音楽ロボット。そんなものが軍の備品のはずがない。どう考えても廃品《はいひん》。
態度の悪い欠陥ウェイトレス。これもどう考えても不良品。
人にドリルを向けるような作業ロボットなど、危なくて存在を許されようはずがない。捨てられてしかるべきだろう。
最古の旧型、しかも何度も壊れているセピアは、考えるまでもあるまい。ユーリの養育係になった時点ですでに廃物利用だったではないか。
そして、内部のどこを見ても上下のある宇宙船。間違いなくこれも、もともと宇宙船ではない。おそらく地球用の軍艦《ぐんかん》か何かの廃物利用ではないだろうか。
「まさか、全部?」
覚えきれず、またあえて気にしなかったのがまだ何体か、残っている。彼女たちについてはどんな欠点があったか思い出せない。しかし、嫌な予感を否定する予知はいくら待ってもユーリの頭に浮かんではくれなかった。
『ログ共有のはずなのに、誰も気づかなかったとは不可解です』
サーバに接続すると、セピアは問題を提起した。現実世界の会話でなら、曲げられるまでもなく首を傾《かし》げたことだろう。実際には整備ベッドに繋《つな》がれてモータの電源は落とされているから、それはあくまで感覚だけでしかない。
ここでは彼女たちは艦の一部でもある。各部署の報告は共有サーバに上げられ、蓄積《ちくせき》される。言い方を変えれば彼女たちは記憶を共有し、またネット内でリアルタイムに会話が可能である。これは普通、交代制の整備の間にベッドを介して行われるが、艦内各部署の通信ジャックからもログイン可能になっている。
『私が書き込みに来てる合間に食べたと思ったのよ、食堂にいたからさ』
U99は責任を回避《かいひ》する。彼女にだけはバックアップがいないので、その間のことは知らなくても仕方がないと言いたいらしい。
『吐いた直後と聞いたので水しか出しませんでした』
千早も自らに落ち度はないと言っているようだった。
『船務としては、消費計画の補正以外に申し上げることはございません』
非番のボニータが割り込んだ。彼女は初日に倒れるところしか見ていない。
『そのような艦長で、いざというとき戦えるのでありますか』
あからさまに不安をぶちまけたのはなぜかログインしていたジュリエットだった。
『共有サーバでは無駄なデータを増やさず簡潔に』
むしろ船務が言うべきことを指摘したのはもう一人の水雷部員だった。ログには正式名のCC03としか上げていない。たしかに簡潔だ。
『言わせてほしいわ』
言われたそばから無駄を増やしたのはシレナだ。作業データを書き込みに来たついでのようだ。すかさずボニータが入れ替わりのデータを渡す。
『何だい、修理|箇所《かしょ》また増えたのか。こっちが壊れそう』
エンジンだけでなく、艦の修理は機関部が一手に引き受けている。たいていのことはあの虫型ロボットに命じてやらせるが、場合によっては部員がじかに直さねばならない。
『この船は想定外の使われ方をしています。仕方ありません』
『いまさら言っても詮無《せんな》いことです。それより艦長です。このまま二日目も何もとらずに寝込まれては困ります』
『腹減ってれば、私のとこ来たとき言うでしょ。ほっときましょう』
『そうもいきません。医薬品の備蓄データを下さい。最悪、点滴を考えましょう』
『私、それやるくらいなら口移しがいいなあ』
『……どちらが良いかは、本人に選んでいただきましょう』
セピアはなぜか絶句しかかった。衛生担当はU99なのだから、彼女の勧《すす》める方法に賛同しない理由があるのだろうか。
自分でもわからない。けれども、ユーリはその方法を喜ばない気がする。
おかしい。喜ばれなくても必要なら行うべきで、その結果怒らせたならまた壊されればいいだけのことだ。
そういえばなぜ彼はU99を破壊しなかったのだろうか。
答えは出ない。とりあえず結論を保留すると、セピアは接続をはずした。
そういうことを見えない機械の中で勝手に決めるな、とユーリが知れば言っただろうが、結局、第三の選択が行われた。
つまり、セピアにスープを飲ませてもらうという、幼いころに逆行するようなやり方である。ユーリにとっては、ある意味もっとも保守的で安全な方法だろう。彼がそれを選んだことを、セピアがどう評価したかは言葉に出なかったのでわからない。
だが、平穏《へいおん》には終わらなかった。スープの味付けが好みに合わなかったため、千早はまたユーリから苦情を聞かされることとなった。
「勝手にしな!」
例によってウェイトレスのくせに態度の悪い千早は、添加《てんか》スパイスを束にして投げつけてきた。
それから数日。顔の腫《は》れも引き、ようやく肉体的な不快感のピークを脱したころ。ひととおりの部署掌握を終えて、ユーリはそのすべてに対してやはりやる気など出ないことを再確認した。
「何か気が紛れることはないの?」
そんなユーリが到着以来、初めて自発的に言ったことはそれだった。言われたのはセピアではなく、艦橋の当直についていたボニータであった。
「気晴らし、ですか」
「その前に日常の業務について学ぶべきかと思いますが」
口を挟《はさ》んだのはセピアであった。ユーリはじろりと彼女をにらみ、そのまま無視して再びボニータに近づいた。
「まさか、こんなところに閉じこめておいて、何も用意されてないとか言わないだろうね」
「え、ええと、どのようなジャンルをお望みでしょうか」
ボニータの態度はどちらかといえば顔色をうかがうようなものに見えたが、心の声は聞こえなかったので、ユーリはとくに真意を気にしなかった。
どうせ、そんなものはないに決まっているのだから。
「ジャンルって?」
「はい、現在のところ艦の記憶領域には映画、音楽、電子書籍、ゲームがこれだけ収録されています」
ボニータは接続されたまま、何も操作するそぶりを見せずにモニタの一つにリストをアップした。といっても、タイトルだけを見せられてもユーリには映画などはよくわからない。ほとんど見たことはないのだ。
「艦長の船室でも見られますので、解説とサンプル映像はご自分で操作して呼び出してください。大画面をご希望の場合はブリーフィングルームに映写施設が、体感型ゲームは専用|筐体《きょうたい》が娯楽室《ごらくしつ》に用意されています」
ボニータは親切にも艦内図を表示してくれた。Kの縦棒にあたるデッキの「上」の層にまとまっているようだ。
「それから?」
「一応、倉庫には室内スポーツ用品一式が搭載《とうさい》されていますが」
「嫌がらせか」
無理矢理運動させられて倒れた身としては、そうとらえるのも無理はないだろう。
「ご、ごめんなさい」
自分の責任でもあるまいに、ボニータは直ちに謝罪した。
「謝る必要はないでしょう。ユーリ様は運動を推奨《すいしょう》されている身です」
「おまえはどっちの味方だ。嫌なもんは嫌だ」
「競技の相手は任務中か充電中のもの以外なら務められますが、運動性能からいって水雷部の二機かU99が適任です」
人の話を聞いていないかのように、セピアは一方的に続けた。
「あいつだけは勘弁《かんべん》してよ」
「衛生担当なので、運動量を適切に管理してくれるはずですが」
「食事のことも忘れているようなやつの管理があてになるか」
今度こそ正論だと思ったのか、セピアはようやく黙った。あるいは、首筋にかすかな振動を感じたためかも知れない。
「あ、あの、それから」
すっかり発言権を奪われていたボニータが、おずおずと切り出した。
「星空と地球でしたら、展望窓からいつでも見られます。太陽を向いているときだけ注意していただければ」
「そんなもの、見たいと思う?」
「統計的に、最も多くの宇宙飛行士が最も長時間を費《つい》やす娯楽だと言われていますので」
「僕は宇宙飛行士なんかになった覚えはない」
どうせ自分は飛行士じゃなく、部品扱いじゃないか。ユーリがいくらそう思ったところで誰にもわかってはもらえないだろう。
「すいません。では船務部で管理しているものは以上です。よろしいでしょうか」
ボニータは今度は余計なことを言わずに応対を終えて、再び任務に戻った。といっても、見た目には繋がったまま座っているだけに見える。
「そうか、ろくなものがないんだな」
ユーリはそれだけ毒づいて艦橋を去った。ボニータは何も言い返そうとしなかった。
「敵襲はまだ、なさそうでありますか」
あてもなく艦内をうろつくユーリに声をかけてきたのは水雷部のロボットだった。最初のとき以来会っていないせいもあって、二つあるうちのどちらだったか、とっさに思い出せない。
じっと顔を見る。顔は同じだったか、と思い直して髪を見る。ショートの金髪、ということは、たしかジュリエット、だったか。
口調は丁寧《ていねい》だが、余計な期待のようなものが端々にあふれていた。そういえば着任のときも、こんな調子で声を出していたのはこちらだけだった。
何を考えているのかわからないのがロボットだと思っていたユーリにとっては、むしろ意外なタイプだった。言外にまで態度があふれ出す機械はあまりいないだろう。ジュリエットの態度は、むしろ過去に彼を追い込んだある種の人々に似ていた。そもそも一週間やそこらしか経っていないのに、まだも何もないものだ。
「なんで僕に聞くんだ。レーダーを見張っているのはボニータかサフィールだろ」
「ですが、艦長はそれよりも早く敵を感知できると聞き及んでおります」
そうだ、同じだ。
彼女の青い目は単なる光学機器のはずなのに、不快なまでの輝きに満ちている。それを言ったら人間の目だって、素材がナマなだけで同じことだ。
そんなものがどうしてあんなふうに輝けるんだろう。勝手な期待だけで。
いくら期待されたって、歌手が選んだ色も、行方《ゆくえ》不明の子供も、宇宙人の艦隊も、見えないものは見えないのに。
不愉快だ。
「何も感じないな」
ユーリはつっかかるように言ってやった。ジュリエットは張り付けたものにすぎないはずの表情を曇《くも》らせたように見えた。
「不満か?」
「いえ、そういうわけでは」
「何が不満だ。僕が予知できないことか、それとも……敵が来ないことか?」
カマをかけてみた。とたんにジュリエットが硬直する。もともと固いが、そこにロック機構でも働いたかのように。
「なるほど、おまえも欠陥機か」
誰を嘲笑《あざわら》っているのかわからないような声で、ユーリは笑った。ここにまともなやつは一人としていないのだ。それを確信して。
「じ、自分には任務を全《まつと》うする能力と意志があります」
「ふーん」
それ以上口論する気はない。そんなことに使う体力はない。
「ここで何を」
箇条《かじょう》書きのような言葉で介入したのはいつものセピアではなかった。
かすかに視界が混乱したような気分。髪が赤いだけのジュリエットがもう一人そこにいた。瞬《またた》きして、錯覚《さっかく》を正す。水雷部には同型のロボットがもう一体いたはずだ。それが現れただけだ。
「別に。こいつが戦いたがっているようだったんで」
「なるほど」
まるでわかっていたかのように、CC03は簡潔《かんけつ》にうなずいた。
「またエネルギーの無駄。せめて有効に艦長の運動の相手を」
「勘弁してよ」
ユーリは即座に断って、二人に背を向け、逃げるように通路を跳《と》んだ。それでジュリエットが納得するかどうか観察しそこねたが、気にすることでもあるまい。
そういえばCC03には名前はなかったのだろうか、通路の角を蹴《け》って曲がったはずみに、ふとそんなことを思った。聞いたのに覚えていないだけだろうか。
それも気にするほどのことではないだろう。どうせあれも備品、いや、何らかの欠陥をもつ廃品に違いないのだから。ユーリは勝手にそう思った。
それを確かめる機会はすぐにやってきた。わずか数日後、あまりにヒマなので、やる気にもならなかったゲームをやってみることにしたときのことだ。
どうせならと、体感筐体が置いてあるという娯楽室に一人で向かう。セピアがいるとまた任務に戻そうとするに決まっていたからだ。
だが、特に選んだつもりもないのに、戦闘シミュレーションゲームが出てきた時点で嫌な予感がした。戦う気にさせるという組織の陰謀《いんぼう》の臭《にお》いがした。声が聞こえるほどではないが、最初からやる気が失せる。
だが、やがてユーリは発想を逆転させて意地の悪い楽しみ方を思いついた。宇宙艦隊戦ゲームを選び、あえて自分を侵略側でプレイするのだ。敵軍はもちろんGNOSYS軌道軍《きどうぐん》にする。
性能や戦法など知ったことではない。何も考えずに戦艦を突撃させ、プラズマ砲を撃《う》ちまくる。たちまち敵艦の耐久力が減っていく。
どうやらゲームデザイナーは、侵略軍のほうがGNOSYSよりはるかに強力だという前提で製作したらしい。だがユーリはその意味など考えなかった。
ただ、不愉快な連中を過剰《かじょう》な火力で粉砕《ふんさい》することに一時の快楽を求める。
「艦長」
唐突《とうとつ》にそう声をかけられてすぐに振り向けたのは、それほど没頭《ぼっとう》していたわけでもないからだろう。
CC03だった。どちらかと言えば周りに不干渉《ふかんしょう》でとらえどころがないと思っていたのに、珍しいこともあるものだと思った。
「何だ、ええと」
「CC03でOK」
それはやはり、名前もないということだろうか。名前だけでなく口調までそっけなさすぎて、会話している気にもならない。
「で、何の用だ」
「巡回中。訓練?」
「訓練じゃないけど、何だ」
「無駄が過多。耐久力1の駆逐艦《くちくかん》にミサイルは一発で十分」
真顔で言われたので、ユーリはげんなりとした。無駄に盛大に爆発してくれるからこそ、かろうじて気も晴れるというのに。
だがCC03の指摘は続いた。
「優勢なれど無策な突入では無駄に被害拡大。軌道の選択も不適。推進材が無駄」
まるでできの悪いレポートのような言葉の羅列《られつ》は、やはり会話になっていない。そもそもそんなことを考えたくてゲームを始めたのではない。
「たかがゲームにいちいちケチつけるなよ」
「訓練でない、即、無駄な電力と処理能力の使用」
そういえばジュリエットにもそんなことを言っていた。二言目には無駄、無駄。どこまでも融通のきかない機械ということなのか。
「なんでおまえにそんなこと言われなくちゃいけないんだ?」
「我が稼働《かどう》効率は、艦長の指揮能力次第」
CC03は最適化された姿勢で敬礼し、最小限のことだけを言って、最短距離を最小動作で戻っていった。
言葉さえも節約したいのだろうか。こちらの機嫌や意見はどうでもいいらしい。
ユーリはもはやゲームを続ける気をなくして、スイッチを乱暴に切った。あれが部下だったら、GNOSYSの将校どもはさぞ腹を立てるだろう。側に置いておきたくないという意味では、あれも十分、欠陥品に思えた。
賭《か》けてもいい。ここにあるものはみんな廃品だ。
自分も。
CC03のおかげでゲームもやる気にならず、といって組織の希望通りに指揮の勉強などしたくもない。運動も嫌だし、他に何かするべきことも考えられない。
また、あてもなくうろうろしたが、ジュリエットは会うたびにあの目を向けてくるし、セピアに会えば任務や運動に引き戻される。まして、うっかり機関部に入り込んでシレナとケンカするのも面倒だ。
こうなったら部屋に引きこもってしまおう。そう思って船室に飛び込み、鍵《かぎ》をかける。
映画のサムネイル画像を小さなモニタにずらずらと並べて、どれも見たくならないので消してしまう。
いっそ寝てしまおう。そう決めたら、嫌なタイミングで空調が壊れた。
狭く密閉された部屋にこもる自身の体温と呼気と湿度。
こんなにも自分はまだ生の人間だったのか。
それもなんだか気に入らない。自らの肉から広がっていく汚染は、軍やTVの連中が開かせてくるどろどろしたものと同じ起源をもっている。
自分の中にもあれがある。それが嫌だ。
いっそ機械ならこんな不満も抱かないだろう。そう思ってみても、現にこれほど部品扱いされようとも、しょせん人間はやめられない。上がりすぎた温度と、わずかな空気の濁《にご》りに耐えかねて、とうとう呼びたくなかった機関部を呼び出す。
現れたのがシレナでなく明だったときは、正直ほっとした。ケンカにはならなくてすみそうだ。だが、すぐにそれが間違いだったと知る。
「艦長、壊すものは選びましょう」
現れるなり、明は決めつけた。
「壊したんじゃない、壊れたの!」
言い返してはみたが、何かの拍子に設備を壊さない自信はなかった。
「いや、あんまり僕を怒らせると、本当に壊すかもしれないな。仕事を増やしたくなかったら黙って直せよ」
「冗談です。この船はよくいろいろな所が壊れるんです」
「ボロ船だな」
「まあ空調を壊したとしても、それが原因で死ぬのは艦長だけだから、私はどっちでもいいんですけどね」
嫌なことをずばり指摘されて、ユーリは一瞬、黙った。落ち着け、ここで本当に暴発しては向こうの思うツボだ、と自分に言い聞かせる。
こんな言いぐさでも、やはり明からも裏の声は聞こえない。口から出ているものがすなわち本心、というより行動様式なのだと思うしかない。
「僕が死んだら、任務は失敗になるんだろ。気を付けたほうがいいぞ」
「それはそうですが、失敗したら責任者は艦長自身ですからね。ロボットに責任能力はありませんし、何をもって成功なのかは地球が攻撃されてみるまで、予知能力のない私たちにはわかりません」
明は壁をてきぱきとはがしながら皮肉を流し続けた。それも笑っているような声で。
「結局失敗しなくても帰れないんだから、どっちでも変わりませんね」
あきらめているのか、ひねているのか。それがどこか、自分に近いものを感じさせる。しょせん人が作った性格なら、誰がこんなものを喜ぶのか。ロボットが不満を感じるはずがない、のに、一体何に対してそんな態度をとっているのだろう。彼女は自覚しているのだろうか。自分がここに捨てられたということを。
ユーリがそれを確かめるより前に、明が追い立てるように言った。
「で、本当に壊さないためには、修理が終わるまでどこか落ち着く場所に出ていることをおすすめしますけどね」
そんな場所があるものかと言いたかったが、ユーリはおとなしく出ていくことにした。自分の部屋さえ居場所ではないと認めるのは辛《つら》かったが、明と皮肉の応酬《おうしゅう》になるよりはまだいいだろう。
最後の最後に自分の鏡を見せられたようで、今後なるべく会いたくない。
行くあてもなく漂って、気は進まないが、エアロックのそばにある窓を見てみる。
といっても、それは艦から直接外を見られるものではなかった。というのも、「艦」は外側を小惑星に偽装《ぎそう》しているため、視界は基本的に開けていない。観測機器はその隙間から四方に突き出しているが、中の人間が外を「眺《なが》める」ための設備はきわめて限られていた。そもそも一人を除いて全員機械では、わざわざ直接視認する理由もない。
ユーリが地球を見られる唯一の「窓」は、直径六十センチくらいのアクリルだった。厚みはもっとあるだろう。紫外線《しがいせん》も宇宙線も遮《さえぎ》るほどに。
その窓の向こうに、地球は浮かんでいた。昼の側が、白と青に輝く三日月のように見える。
初期の宇宙飛行士は、誰もがその光景に感動し、あらゆる安易《あんい》な形容詞を使い果たしたというが、ユーリにはそういう感慨《かんがい》はわいてこなかった。
単なる光景として見られればまた違ったのだろう。だが最初からそれを地球として見たために、初めからバイアスがかかっている。
あれが人間の星。
あいつらがみんな、あの小さな、蒼《あお》ざめた玉の上にいるのだ、と。
小さな玉。
握りつぶせそうなほどはかなく見えるのに、つぶすどころか文句一つ届ける力もないのだ。
「ユーリ様」
いつの間にか、セピアが後ろにいた。
「地球をご覧ですか」
「見てわからないか」
ユーリは視線を向けなかった。どうせならわからないで欲しかった。あんなところを見たくなったなどと知られるのは嫌だ。
なのに目をそむけられない。
あそこにいる者が嫌だ。人をモノとして見る者、勝手な思いこみで見る者。
ここにいる物も嫌だ。半端に生臭《なまぐさ》い機械、壊れた人形。
その間に挟まってこうしていることが、なにより嫌だ。
どちらにもなりきれない、あきらめ切れていない自分。
嫌いなはずの蒼玉を未練たらしく見つめている己《おのれ》。
嫌、嫌、嫌。ぐるぐるぐる。黒いモノが渦巻《うずま》く。行き場のない回転。
不意に自分の位置が消えてなくなる錯覚。無限に落下し回り続ける。
不用意な機械の言葉が、その堰《せき》を切らせる。
「帰りたいですか」
「ふざけるな」
ユーリは思わず吐き捨てた。自分でも驚くほど品がない口振りだった。
「そんなわけがあるか、あんなところ!」
その彼方《かなた》の地球を殴《なぐ》りつけるように、分厚いアクリルを乱暴に叩く。
「なんでそんなことを思ってやらなくちゃいけないんだ、僕があいつらに? 冗談じゃない」
そう、冗談ではない。セピアはそんなことは言わない。
自分もそうだから、わかっている。けれど認めたくはない。
「そうとも、考えてみりゃこれでいいんだよ。あいつらから離れられたんだからね!」
離したのは、向こうだ。そんなことは知っている。
けれどユーリは何一つ認めてやりたくなかった。彼らの思惑《おもわく》どおりになったことも、それを自分が、よりによって悲しんでいるなんてことも、何もかも。
「どうせ誰も見てないんだ、なにもおとなしく働いてやらなくたっていいんだ。そうだろう!?」
「ですが」
セピアは何か口を挟もうとした。けれどその先は聞きたくない。
たった一人ずっと一緒なのに、どうして、いつもよけいなことを気づかせようとするのだろう。
どうせ一緒に捨てられたのだから、放っておいてくれればいいのに!
「うるさい!」
今までにない激しさで怒鳴りながら、振り向いた。はずみで手の甲がセピアの頬《ほお》をかすめる。ユーリの力で叩いたところで、どうかなるわけではない。
だが、弾けた意識が腕に沿って瞬時に流れ込み、軽く触れただけなのに、セピアの首の配線は一瞬でぷつっと断絶した。
こんなに劇的に効果が出たことはなかった。だがそれを誰に誇《ほこ》りたいとも思わない。
「あんなところ、帰りたいものか。いっそのこと、ぶっ壊せたらと思ってるよ!」
壊れたセピアに聞こえているだろうか。首を傾げるように、冷たい目でじっと見つめてくる。
意志の有無《うむ》さえ読みとれないそこから視線をそらして、ユーリは呪詛《じゅそ》をつぶやきつづけた。
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「わかってるくせに、僕がみんな嫌いなの知ってるくせに、ポンコツめ……」
ただ一人、ずっと一緒だったのに、わかってくれていなかったのか。
機械だから、中古だから?
なのに、あの星の誰よりも、そんな彼女にだけはわかっていてほしかった。
だからこそ、壊してもいいと思っていた。
ヒトにもなりきれない、モノにもなりきれない壊れた何か同士、自分と彼女の間でだけ許されたそれに、いつしか頼り切っていた。
繰り返していれば、何か通じるとでも思っていたのだろうか。ここにいる他の廃品たちも、わかってくれる日はこないのだろうか。
ユーリはまた一つ発見をした。
宇宙では、涙が頬を流れないということを。
だけどもう、それが何に対してあふれたのかもわからないくらい、頭の中はぐしゃぐしゃになってしまっていた。
自分も廃物。
みんな廃物。
動く廃物、ジャンク・モビル。
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第三章 層 〜stratosphere〜
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ユーリから「あいつら」とくくられたのが全人類かどうかに関係なく、その中に|GNOSYS《グノシス》職員だけは全員、確実に含まれているはずだった。
だが残念ながら、そのすべてが小さな青い玉の上にいるわけではなかった。一部は月面基地にいたから距離的にはユーリと同じだけ地球から離れていた。
さらに、月|軌道《きどう》と地球低軌道との間を中継《ちゅうけい》する、L1点高軌道ステーションも、ユーリたちが上ってきた軌道エレベータとは別に存在していた。
エレベータ上のステーションや地上十五万キロの先端の釣《つ》り合い錘《おもり》からでも月軌道や惑星への貨物投入には十分だが、軍事的に月軌道内側を地球人類の「絶対国防|圏《けん》」とするには不足と見なされていたのだ。
いや、このステーションこそ、GNOSYS軌道防衛の要《かなめ》であった。地球、月、ユカギール、さらには将来建設が予定されているL4、L5点の監視基地も含めた中継・管制センターである。
ユカギールよりも一足早く投入されたこの施設は通信を封鎖《ふうさ》してもいないし、宇宙船の出入りも可能だった。
中継基地なのだから当然であろうが、それを知ったらユーリはさらに組織を憎んだに違いない。
そしてあのハカリスティも、通常はこのステーションに配備されていた。
「ご苦労だったね」
出迎えたのは、ユーリへの命令を伝える映像にも映《うつ》っていた人物だった。正しくはGNOSYS軌道軍司令という肩書きとなっている。
ヒルデ・ケスキネンは姿勢を正したが、向けた視線はあまり好意的ではなかった。
「これで良かったのでしょうか。あの子が納得して任務につくとは思えません」
ヒルデは精一杯の苦言を呈《てい》してみたが、司令は顔色一つ変えなかった。
「納得してもらおうとは思っていないよ」
軍事組織の責任者としては、そう言うしかないだろう。ヒルデもそれくらいはわかっていた。だが、ならば自分も納得していないということも受け入れてもらわねば釣り合いがとれない。
「だが」
ヒルデが何か言おうとしたとき、司令は先を制して続けた。
「本当に期待しているというのは、彼にはわかってもらわないほうがいいのかな」
普通は逆だろう。部下にやる気を出させるためには、ことあるごとに期待をほのめかすのが定石《じょうせき》だ。しかし、この場合は違う。
「おっしゃる通りだと思います、が……」
ヒルデの返事は歯切れが悪かった。低俗《ていぞく》なTVショーが求めるような、超能力に対する俗な期待がいかにユーリを押しつぶしいかに歪《ゆが》めたか、それはよく知っている。しかしGNOSYSが調べた限り、他の、人々が喜ぶような力を見せる強力な能力者と思われた者は、ほぼ「偽物《にせもの》」だった。
あれでもユーリは、アカデミーが拘束《こうそく》してでも研究するに足る数少ない「本物」なのだ。だが、遅かった。司令がようやくそれを確信したとき、当事者の心は閉ざされていた。すべてを敵だと思いこみ、近づく者すべてを傷つける茨《いばら》の壁を築いて。ともすればそれは、自分さえも敵だと見なしているかのようだった。
ヒルデは外を見た。ユカギールほど徹底的《てっていてき》に秘匿《ひとく》されていないこの基地には展望可能な場所はかなり多い。それでも、L1点は地球と月の間。L3点のユカギールは、レーダーにも映らない。
基地の名は、「ギュンター・ウェント」。
かつて旧NASAで、発射台から宇宙飛行士たちを見送り続けた男の名だという。
ならば見守ってやって欲しい。
ヒルデはそう願いながら、見えるはずのない地球の反対側を見つめ続けた。
「おい、僕がこんなにつまらないのに、一人で楽しそうに踊ってるんじゃないよ」
ユーリは意味もなく艦橋《ブリッジ》に上がって、操作盤に繋《つな》がったまま体を揺《ゆ》するピンクの熱帯雨林に毒づいた。
「ありゃ、あんなにいろいろそろえたのに、もう飽《あ》きたっすか?」
サフィールはリズムをとるのをやめて聞き返した。彼女だったのは、たまたまそのとき当直だったという以上の意味はない。避《さ》けたつもりも狙《ねら》ったつもりもなかったが、娯楽《ごらく》についてよけいなことを言いだしそうな気がした。
こちらはただ愚痴《ぐち》が言いたいだけなのに。ユーリは、あれから何日も経《た》っていないのに早くも用意された娯楽に不満を訴えたのだった。
「全部見る気力もなくなったよ」
うんざりしたような顔でユーリはつぶやく。
「もしかして、まだ気分悪いんすか?」
「いや」
多くの宇宙飛行士は、一日から三日、長くて一週間で宇宙|酔《よ》いの初期症状から回復する。さすがにユーリも、吐《は》き気《け》は収まっていた。
だが、それを埋《う》め合わせるように、次々と新たな不満を発見してしまう。あら探しで他の何かから目をそらそうとしているかのようでもあるが、本人にそんな自覚はない。
最初に対象になったのは、GNOSYSが娯楽だと言い張るソフトウェアであった。
「適当に選んでみたら、主人公が喜んで犠牲《ぎせい》になるような偽善《ぎぜん》映画ばっかりだ。いやな予感がしてね。どれが好みに合うかと考えたら、僕が見て楽しめるようなやつは一本もない、って予知が出てきやがったのさ」
「そんな有効な予知能力があったんすね」
サフィールは失言に気づかず気楽そうに言って、ユーリのつり上げた眉《まゆ》に初めて言葉を失った。
知りたいこと、期待したことだけはわからない、それがユーリの能力であった。だから予知を行っても、知りたい未来はわからない。
ユーリにわかるのは、「少なくともそれだけはあり得ない」という後ろ向きな内容である。より正しく言えば、起こる可能性が少しでもあれば、それが曖昧《あいまい》なイメージとして浮かんでしまう。いくつも、いくつも、可能性の数だけ、ごちゃまぜに。
だからそのうち、どれか一つは当たる。けれども、どれが当たるのかは、わからない。したがって「起こりうる未来を予知する能力」としては、まったく使いものにならない。
だが逆に言えば、可能性がゼロのものは、どれほど望んでもイメージとして浮かんでこない。つまり絶対に起きないことだけなら確実にわかる、ともいえる。
ただしそこにたどり着くまでは、途方もない遠回りであり、その間ぐちゃぐちゃに蠢《うごめ》くイメージとつきあうのはけして楽ではない。体力と精神力のコストパフォーマンスはきわめて悪い。
そして今回の場合、ランダムに作品を選んで「それを見た場合」を想像したら、いろいろな意味で不愉快《ふゆかい》なイメージだけは思いつくかぎり出てきたのに、どうしても自分が楽しんでいる可能性だけは絶対に浮かんでこなかったのだ。当たったと言っても、こんなものは嬉《うれ》しくない。
「ですが、今のユーリ様が気に入る作品が、この世にありますかどうか」
嫌なことを指摘したのはセピアであった。
言われたくないことだが、多分今の彼はたしかに、何に対しても不満しか抱けないだろう。それに比べれば、彼女らの言うことは、嫌は嫌としても裏は聞こえない。言われたままの意味だから、まだましだ。
しかしユーリに言わせれば、受け手は楽しむための努力などしなくてよい。楽しませやがれとふんぞりかえっていてよいのだ。彼自身の活躍を勝手に期待したTV視聴者がそうだったように。
「でもその前に、賭《か》けてもいいけど連中の選択は偏《かたよ》っている。僕をここに閉じこめて、映画で洗脳するつもりに決まってる。その手には乗るものか」
「ではゲーム類はいかがですか」
「予知能力者に二進数パズルが楽しめると思う?」
「現代のゲームは予知よりも早く処理を完了します」
「うっ」
そのとおりで、直接求める答えが出せない後ろ向きな予知では、可能性を探る前にゲームが進んでしまう。
だったら普通に楽しめるではないか、というのは他人だから言えることだった。楽しめない理由はやはりそれだけではなかった。
「だいたい、やつらこんなところまで僕を束縛《そくばく》するつもりだよ。ちょっと適当にやってみたら、操縦《そうじゅう》シミュレーションや戦闘シミュレーションばっかりだ!」
しかもそれをあくまで楽しむつもりでやろうとしたら、わざわざ訓練だと念を押してくれたおせっかいまでいた。あれ以後、どれ一つとして楽しめる気がしない。
「かつてそういうゲーム式操作で地球の危機を救った方がおられますので、それに倣《なら》っているのでしょう」
「救ってなんか、やるものか」
人を一方的に放り出しておいて、救ってくれとはずいぶんと虫のいい話ではないか。
それに、そんなものは建て前にすぎないはずだ。どうせ捨てるのなら、仕事だの訓練だのと言わずに放って置いてくれないものか。
ユーリはぷいっとそっぽを向いて、その反動で半回転した。多少調子が良くなったといっても、無重力でなくなるわけではない。
「困ります」
「おまえはどっちの味方だ! もういい、黙れ」
セピアはそのままおとなしくなった。命じられるまでもなく、そのままユーリとこじれていけば、また壊されかねない。だがそうなればまた、ユーリ自身が倒れるだろうことは容易に予測された。
「あ、あのーですね」
なんとなく引きつったような笑いを浮かべて、サフィールがようやく口を挟《はさ》んだ。
「なんなら、私がミュージックライブをやるっすけど」
「いらないって」
ユーリはあっさりと却下《きゃっか》した。アカデミーでは芸術論について何も教えてくれなかったが、最初のあの路線で演奏されるかぎりどう考えても、趣味に合いそうになかった。
「そ、そう言わないで、そのうちきっと気に入るからサ」
「そんなわけがないという予知が出た」
嘘《うそ》である。が、確認する手段は相手にはない。
「で、でも」
「いい加減にしないと今度はおまえを壊すことになるよ?」
ユーリはサフィールを半回転した逆さまのままにらみつけ、彼女の髪型なんだかただの突起物なんだかわからない頭の両サイドに触れる。
「じょ、ジョークっスよね?」
「いいや? 僕はそもそも、最初からそのわけのわからない格好が気に入らなかったんだよ」
蠢く「もの」を手に流し込むように、内側に力をこめる。スプーンを曲げるのと同じ要領だ。両手で撫《な》でていく。少しずつ。
完全に表情を固定されたサフィールの頭の両側を撫で終わったとき、ぴんぴんと飛び出していた変形ツーテールは、昔の変に高貴な人たちを思わせるドリル状のロールに変わっていた。余計なことを考える「人間」が周りにいないせいか、たまたまか、思いのほかうまく曲がった。
「な、な、なんスかこれはー?」
「ふふふ、いいじゃないか、似合うよ。こっちのほうがよほど、今の流行《はや》りかもしれないなあ」
もちろん本当のことは知ったことではない。
「何やっとんだ、あんたは」
いつの間にか修理にやってきていたシレナが、呆《あき》れたような声を出した。
次いで彼女が壊されなかったのが、ユーリの体力|無駄遣《むだづか》いのおかげか、それともこれで満足したせいなのかは、当人が例によって漂《ただよ》いながら倒れたので検証できなくなった。
「……直さなかったんだ」
翌日、復活したユーリが艦橋を巡回していきなり脱力したのは、サフィールの髪がそのドリルのままだったという事実のせいであった。記憶によればシレナが修理に来ていたはずである。
「このほうが似合うと言われたから、だとさ」
修理を拒否されたシレナも念のため様子を見に来ていたが、機嫌良さそうにリズムをとりながら仕事をするサフィールの姿に脱力したように答えた。
誰だそんなことを言ったやつは、と思ってから、自分だということを思い出す。
「本気にするとは」
「冗談でもなんでも、あの子が誉《ほ》められたのは久しぶりだから」
それはそうだろう。人っ子一人いない廃物《はいぶつ》の山の中で誰がそんな酔狂《すいきょう》なことをするものか。
だがシレナは「あんたがいるだろ」と目で語っていた。
「喜んでもらえたと思ってんだから、あんたも喜ぶ責任ってのがあるよな」
「ないね」
ユーリはうんざりした。それは彼自身だって、念力でこんなに喜ばれたことなんかなかったけれども。
「あんた、友達いないだろ」
シレナは挑発してきたが、つきあってやる義務もない。いや、それ以前の問題だ。
「なんだ、それは」
ユーリは眉をしかめた。そもそも友達とはどんなものかも知らないのに、腹のたてようもない。
シレナは、壊されてもいないのに断線したように固まった。
「そ、そうくるとは思わなかったわ」
それからユーリの顔をのぞき込んで、
「マジで言ってる?」
故障《こしょう》を見極めるかのようにじっと見つめた。
「だから、そもそもそれはどういうものだよ」
「いや、だから、周りに仲のいい子とか」
「あそこにいたのは、研究者と被験者だけだ。他には誰《だれ》もいない」
本当のことを言えば、そういう言葉で表される存在がこの世にあることは知っていた。聞こえてくる「声」の中に入っていたからだ。だが、自分にとって該当《がいとう》する存在はこの世にいない。
だいいち、それが彼らの言うほどよいものだろうか。本人は聞かれているとも知らず、往々にしてその「友達」の悪口を言っているのに。
そんなことは、機械には理解できないだろう。心がないのだから。
「それを言ったらおまえにもいないんだろう」
いなくても当然で、それをどう思っているわけでもあるまい。なのに聞き返したのは、シレナの口調がいかにもばかにしたようで、同情|臭《くさ》かったので一言やりこめねば気がすまなかった、それだけだ。なのに。
「おったよ。こう見えてもあんたより長く生きてるからな」
機械のくせに、そう来るとは思わなかった。なんとなく悔《くや》しかった。
「ふん、じゃあ何でここにいる。ここには捨てられた廃品しかいないはずだぞ」
「ほんっとにヤなやつだな。頭修理してやりてえわ」
シレナの右手が、小さな音を立てて十徳ナイフのように工具に変形する。もちろんそれはポーズだけだ。ロボットが人間に手を出すことは、正当な医療《いりょう》行為でもなければ許されていない。それでもこんなことをしてしまうのが、やはり彼女の「欠陥《けっかん》」と思ってよさそうな気がする。
だがユーリも自重しなければならなかった。今ではいかに彼が怠惰《たいだ》でも、この艦《ふね》の整備長がどれほど危険な物に責任を持っているか知っていた。
よく「人間は嘘をつくが、動物はつかない」というが、それ自体が嘘だ。ユーリは実験で、人の顔色をうかがって嘘をつく犬や馬に出会い、以後動物も信じなくなった。今のところ彼をいらだたせない存在は機械しかない。
だからしらじらしく子犬が出てくる洗脳偽善映画よりはましだろうと、操作マニュアルを渋々ながら少しだけ読んでみた。しかし、純粋な驚異が代わりに待っていたとは予知しえなかった。
まさか、自分がブラックホールの上に立っていたとは!
それはごく小さな、素粒子《そりゅうし》よりも小さなマイクロ・ブラックホールだった。小惑星と同じ重さをもつそれは小惑星の引力に捕らわれ、その重心で岩を食って何億年と生きてきた。だから擬装用小惑星は、くりぬくまでもなく空洞《くうどう》だった。
自転するブラックホールは、適度に質量を食べさせることでエルゴ領域から直接電力を取り出すことができる。これが、ユカギールの心臓だ。が、同時にそれは断食させることで、質量を熱に転換し蒸発させることもできる。理論上の温度は一兆度に達する。船体もロボットもユーリも、灰も残さず焼き尽《つ》くす。
あるいは制御不能となって炉《ろ》から転げ落ちたブラックホールは、彼らを少しずつ食って生きながらえるかもしれない。どっちにしろ、ユーリはおよそ理不尽《りふじん》な形で死ぬだろう。
そんな物騒《ぶっそう》なものをたった二体のロボットで管理しているのが、機関部という部署だった。それを知れば、さすがにうっかりシレナや明《みん》を破壊するわけにはいかない。
「そうなっても自業自得だし、どうせ本当の意味で死ぬのは、ここではただ一人、人間である艦長だけですから」
と明は皮肉めいた脅迫《きょうはく》をして笑ったものだ。そんな他人からばかにされるような死に方だけはご免《めん》だ。
「そういう自覚が出たなら、うっかり変なところを壊さないよう、力の使い方に気をつけるんだね」
「気をつけてどうにかなれば苦労しないよ!」
「けど、あの子の髪は曲げようとして曲げたんだろ」
それはたしかに、そうだ。全然意志のとおりにならないわけではない。それはまったくシレナの言うとおりだ。しかしこいつを正しいと認めてやるのはシャクにさわる。
「そういえば」
しばしにらみ合いを続けてから、ユーリはふと気づいた。
「こういうとき必ずでしゃばってくるやつがいないな」
「セピアなら食堂で掃除《そうじ》してはるわ、メイドだし。汚《よご》したのはあんただけどな」
「そうかい、悪かったな」
ユーリは口だけは謝ったが、本心は違った。
宇宙食が、まずかったのだ。体調が整ってからも、うまいと思ったことなどない。味の責任は出す側にあるのではないだろうか?
「あたいに謝ってどうする」
まったくそのとおりだ。だからユーリは謝まらなかった。
宇宙食に「まずい」とケチを着けたのは別にユーリが最初ではない。アメリカの宇宙飛行士たちがこぞって拒否した栄養食品も存在するし、言論統制が厳しかったはずの旧ソ連の飛行士も「ハミガキを口に押し込もうとしている気分になって食欲が吹っ飛ぶ」などという発言を残している。
とはいえそれは、まともな食事を宇宙船に持ち込むことが難しかった時代の話だ。恒常宇宙ステーションの建設が始められたころにはすでに、かなり地上に近いものが食べられるようになっていた。無重力の影響で味覚が変化してしまう例も多かったが、これも調味料を好きなように添加《てんか》できる。さすがに生鮮品や極度にクズや糸をまき散らすものはむずかしいが、今日、たとえばギュンター・ウェントでは一部の例外を除いて、食事がまずいから宇宙は嫌だ、などと言い出す職員はいない。
もっとも、ギュンター・ウェントのGNOSYS職員は基本的には使命感に燃えた希望者のなかから選抜をくぐり抜けて採用された人々だから、望んだはずもないのに「備品」として放り込まれたユーリとは我慢《がまん》の限度が大きく異なるだろう。
そういった事情を考慮《こうりょ》しても、なおU08千早《ちはや》は納得していなかった。
「なんて好き嫌いの激しい子なの!」
半分以上食べ残された食品トレイを片づけながら、千早は愚痴を垂《た》れ流し続けた。言うべき相手はそこにいない。いるのは、掃除をしているセピアだけだ。
ロボット同士でそんなことを言うのに意味はない。判断は個別でも、データは艦を含めて全員が共有しているから、「食事態度に問題がある」「栄養の偏りが心配される」といったことは当事者以外でも知ることができる。言わなくてもセピアには通じるのだ。
それでも言わねばすまないのは、それがデータ上の問題点ではなく、個別の判断の問題だからだろう。
平たくいえば、言わずにはいられない、のだ。そのことを、セピアは理解していた。人型ロボットは誰かしら人の心の鏡、そういう個性も作られ得る。そしてここに送られた姉妹たちはみな、それが強すぎるからこそ、ここにいる、ということも。
「聞いてます? あなたが艦長《かんちょう》の教育係なんでしょ。なんで好き嫌いを直しておいてくれなかったのよ」
「とくにそれを正せと命令されていませんでした」
率直に、そうとしか答えようがない。科学アカデミー時代、セピアには個人の判断で主人の偏食《へんしょく》を是正《ぜせい》すべきだと判断する理由はなかった。なにしろメニューを決めるのは、セピアではない。それはここでも同じはずだった。
しかしセピアの見たところ、ユーリの摂食《せっしょく》拒否の様子は地上と少し異なる。地上では、科学アカデミーが根負けしたところがある。なにしろ、無理に食べさせようとすればスプーンを曲げて食べられなくしてしまうのだ。ねじれたスプーンの山に囲まれた栄養士がノイローゼになって抗戦をあきらめるのも仕方あるまい。ここでは今のところ、そういう拒否はしていない。
「あるいは味付けを再検討するべきでしょうか。ユーリ様用の食事は本来薄味とされていますが、無重力では味覚が鈍《にぶ》るというデータもあります」
「そんなの理由にならないわよ、スパイスはそろってるんだから。いえ、それ以前に、私の、この私の作るものがまずいはずがないのよ! だいたい、あなたが艦長の肩持ってどうするの」
[#挿絵(img/Pale Sphere_117.jpg)入る]
「ですが、ESPに良い食事と良くない食事とがあるという主張は、私には検討不可能ですので」
そういう主張も、ユーリが言い出したのではない。真偽はともかく、実際に昔から多くの超能力者やオカルティストが言っている。
千早には、単なる偏食のいいわけにしか聞こえなかった。
「本当ならアカデミーが指示してくるでしょうよ。そしたらその範囲でおいしいものを作ってみせる。でも食わず嫌いまでは面倒見られないわ。そんなんであいつのためになると思っているの?」
「貴女《あなた》の意見には一理あります」
「だったら、なんで」
千早はしつこく食い下がった。たしかに、ただでさえ限られたユカギールの備蓄《びちく》を無駄《むだ》にされてはかなわないし、ユーリ自身のためにもいいことではない。
「では、本人にそのように進言なさってください」
「嫌よ、壊されるもの」
「ご安心を。どうせ壊されるのは私ですから」
言われてみればたしかに、理由がなんであっても、結果的に破壊される役回りは圧倒的にセピアが多かった。千早自身は実際には一回、あらかじめ仕掛けられた浮遊物につまずかされ、回転して食べ残しに突っ込まされただけだ。
「普通は壊されないようにするものだと思うけど」
「慣れていますから。もともと壊されても支障がないよう配備されたのが私です」
ある意味そのとおりで、セピアはユーリがうっかり殺人をやらかさないように置かれているといっても過言ではない。
「それでも変よ」
どうやら千早は、機械でありながら壊されることを過度に忌避《きひ》するらしい。理由は共有部分にデータがないので、まったく個体の深部にあるのだろう。しかもそれを、彼女は当然のことだと思っているようだった。
「まさか、あなた、壊されるのが嬉しいんじゃないでしょうね」
「そうかも知れません」
あっさりと、セピアは認めた。そのように作られてはいないはずだが、ユーリに関するかぎり、自己防衛義務の優先順位が下がることは確かだった。
それも、独自の判断で。
「やっぱり艦長の言うとおりなのかも。ここは変なロボットのたまり場なんだわ」
自分のことはあきらめているのか棚《たな》に上げているのか、セピアには判断がつかなかった。だが、それは別に悲観する理由にはならないとも彼女は思っていた。
人の迷いにも似た判断の揺らぎも、おそらくは必然があって生じているのだから。
ユーリがいかに用意された娯楽に飽きようとも、追加を要求することはできない。いかに偏食であっても、好みのメニューを要求することもできない。第一勢力はどこにいるかわからないのだ。
それならそれで、放って置いてくれればいいものをと思うのは一方的な立場で、GNOSYSとしてはそういうわけにもいかない。任務が「完了」するそのときまで、彼らは責任もってユカギールを「運営」しなければならないのだ。
したがって、双方向の連絡が許されないと言いながら、自分たちは一方的にいろいろと送りつけてくる。
「定時連絡」
いきなりボニータがぼそりとつぶやいたので、艦橋でひまをもてあましていたユーリは最初何かと思った。言葉の意味がわかるまでしばらくかかった。
「通信は禁止じゃなかったのか?」
「ユカギールからの信号発信が禁じられているだけです。受け取るだけなら可能です」
ボニータはあくまで事務的に答えた。それでも相手の神経を逆撫でしないように、微量の愛想《あいそ》を含ませている。人間ならそういう表情には絶対に裏があるだろうが、彼女はとにかく、そういうモノだとしか言えなかった。だからユーリはあくまで内容にくってかかった。
「で、なんて言ってきた!」
すでに疑問型ではなかった。
「単なる毎月の定時連絡ですから、任務継続の確認と次回の補給物資の受け渡し予定だけです」
日にちの感覚がどんどんなくなっていくが、どうやら放り込まれてから一ヶ月も経ったらしい。よくぞ退屈《たいくつ》で死ななかったものだと、ユーリは自分に感心した。
「あ、なんでしたら聞きますか」
少しでも刺激が欲しい心境を察したのか、ボニータが尋《たず》ねてきた。
「相手は誰かな?」
「司令です」
とたんにユーリの目の色が変わった。
「あいつかっ、いい機会だ、文句を言わせろ!」
「だ、ダメです、こちらからの返信は非常時以外禁止です」
「僕が死にそうだってのに非常事態でないものか」
「単にヒマと好き嫌いってだけだろが」
容赦《ようしゃ》なく突っ込んだのは、いつの間にか後ろにいたシレナだった。ボニータはいけないものを見てしまったように絶句した。
「なんでおまえがいる」
「補給物資の確認に。繋がりゃすむんだけど、まあついでで。通信にキレたあんたがコンソールぶっこわしたらまずいと思ってな」
「言いたい放題だな」
たしかに、ユーリはこいつだけはうっかりにでも壊すまいと配慮している。だから彼女の言い方が、ロボットにあるまじきことに人の弱みにつけこんでいるように思えることがある。だがシレナは平然と言い放った。
「安心しな、エンジン担当は交代してきた。壊すなら壊せ。どうせあんたの力じゃ、あたいを修理不能にすることはできんだろ」
いつものように、唸《うな》りを上げる電動工具をなにげに人に向けて挑発する。
「言ってくれたね。もし直せなかったらおまえたちを無能と言ってあげよう」
だが、今までの破壊事例はせいぜい線を一本切るとか、どこか一ヶ所曲げるくらいである。修理をさせられているシレナがその「破壊力」を見切るのは造作もない。
「あ、ちょい待て、データもらったらな。サーバにおいて補給部と機関部でチェックできるようにしとくわ。終わったら存分にやってくれや」
シレナはボニータの手前からコネクタを一本引っぱり出すと自分のこめかみのポートに繋げた。
「良かったな、あんたの大好きなピーマンのフリーズドライがたっぷり届く予定らしいぞ」
「何でおまえがそんなことを!」
「だってあたいら、繋がってるもんね」
シレナは意地の悪そうな笑顔を浮かべてプラグを指した。どうやらこの艦内では、隠し事ができないようになっているらしい。
「ちぇっ、自分は食わなくていいと思って。機械は楽だな」
「そんなことないさ。逆に美味《うま》いモノ食べる楽しみもわからないんだから。そうとわかったらありがたく食べな」
「断じて食べないからね」
「それは困ります。備蓄と消費の計画に支障をきたし、なおかつユーリ様の健康にも影響が出ます」
「……ようやく来たか」
いつでもいるのが当たり前のはずのものがいなかったことに、今になって気づいた。セピアはいつもどおりの顔で、いつものように直立姿勢でいつものように浮いていた。
「おまえがピーマンのことばらしたのか」
「単に管理データが共有されているだけです」
言いがかりにもかかわらず、セピアは淡々と事実を再確認した。
「ちっ、そうだった。だったらおまえらで代わりに食え。そうすれば消費は計画どおりになるじゃないか」
「食べられないと先ほど聞かれたはずですが」
「まったく、好き嫌いが言えるって、人間サマはいいよなあ」
「うるさい、機械だからって勝手なことを!」
すでに司令のことはどうでもよくなって、目先の食事のことだけで頭の中がいっぱいになった。
好きも嫌いもなく最初から食べられないのと、嫌いと決まっているものを無理矢理食べさせられる辛《つら》さと、どちらがましだと言うのだろうか。
また頭の底に重いものが渦巻《うずま》く。あやうくまた力が炸裂《さくれつ》するかと思えたとき、ユーリの頭にふと別の意地悪のアイデアが浮かんだ。
「よーし、じゃ今後はどんどんおまえたちをぶっ壊すことにしよう。そうすれば部品をたくさん運ばなきゃならなくなって、ピーマンは後回しになる。僕の気も晴れる。一石二鳥」
「その場合、嗜好品《しこうひん》であるチョコレートプディングやアイスクリームが先に削《けず》られると思います」
一瞬得意げになったユーリは、セピアの冷静な指摘にたちまち絶句した。
「う、うるさい。そんなこと言うと本当にやるぞ」
「補給計画を決めるのは私たちではありません。単に可能性の高い予測です」
「そんな予知は出てない」
「ですが、彼らはそうすると思われます」
言われてやっと司令のことを思い出した。まったくそのとおりだ。彼らがこちらの望み通りのことをするはずがない。いつだって、言うことを聞くふりをして、裏切ることばかり考えている。思い出したらどんどん腹が立ってきた。
「あきらめて計画を受け入れて下さい」
セピアの事務的な言葉は、まったく裏が感じられなかっただけに、そこに記憶の中の人間たちを、反射的にはめ込んでしまった。
「いやだっ!」
ユーリが叫んだとたん、ばちっ、と火花が飛んで、切れた配線が昔のマンガの故障表現みたいに飛び出した。力が出てしまったこと、それがまたセピアに向いてしまったことに、壊した当人が呆然《ぼうぜん》とする。
「おいおい、たかがピーマンのことで。よく飽きないな。まあ壊すにしても、周りに被害が出ないやりかたにしてくれ」
結局また直す側かと呆れた様子で、シレナがつぶやく。火花のことは心配しても、もうセピアのことはいちいち心配しないことにしたらしい。
「別におまえを面白がらせたいわけじゃない」
ロボットを壊すのにいちいち面白いも面白くないもない。そもそも今回は本当に、彼女を壊す気はなかった。
たしかにピーマンは嫌いだけど、そのせいじゃない。そんなことで彼女を失いたくはないし、シレナに勘違《かんちが》いされるのも嫌だった。
「わかった。おまえの期待を裏切ってやる」
そうしなければいけないという思いも他者のせいにして、ユーリは今切ったばかりの配線に意識を集中した。
飛び出したコードが、見えない力に押されて、ぐいぐいと戻されていく。切断面自体がどうやって融着《ゆちゃく》したのか、原理は知らないが、やがてセピアは機能を回復し、確認するかのように機械音を響かせながら首を回した。
「残念だったな、これでおまえの仕事はなくなった」
力を使いすぎて玉のような汗をうかべているのに、ユーリはシレナに意地の悪い笑顔を返した。
「なんか勘違いしてるようだけど、とことん根性の悪いやっちゃなあ」
シレナの顔色が微妙にゆがむ。
「直してくださったのですか?」
セピアでさえ驚いたような色を口調ににじませていた。修理されるのは慣れていても、ユーリに直してもらう、というのは初めてのことだった。できるかどうかは、やった当人もわからなかった。が、それを自慢するのも恥ずかしかった。
「いちいち壊れられても面白くないんだ。飽きたんだよ。だからたまには逆も面白いかと思っただけだ」
わざわざ汗をだらだらと浮かび上がらせてやるほどのことだろうか、と思わなくもないが、やってしまったものは仕方がない。こうでも言わねば引っ込みがつかないだろう。
「あらあら、今日はまた頑張ったのねえ。じゃあ倒れる前に、おねーさんとお風呂に入ろうねえ」
これまた、察していたかのように現れたU99が、後ろから抱きついてきた。たしかに、もう振り払う気力もない。
「では、ここからは衛生部の管轄《かんかつ》ということでー。さよならー」
そう下品な笑いを浮かべるU99におとなしく抱かれていったからといって、ユーリがうんざりするのにも飽きたということではない。
横目で成り行きを見守っていたボニータが、やがてぼそりと言った。
「交信終了。任務の完遂《かんすい》を願う、以上です」
「なんか、完遂に何が必要か、わかってるらしいなあ、上は」
ユーリを代弁するようにつまらなそうにつぶやいたのは、意外にもシレナだった。
「ところで、補給物資には衛生部向けの衛生用品ってのもちゃんと入ってるんだから、消費計画は尊重しません?」
通路を下りながらU99がそんなことを耳元に囁《ささや》いた直後、ユーリはまるで体力が一気に回復したかのように暴れ始めた。
「これこれ、そんなに怖がらなくても、コンちゃんの使い方くらい教えてあげるって」
知っているから逃げたいのだが、そんなことを汲《く》んでくれる相手ではない。
「いいじゃない、組織もちゃんと君を健全な男子と認めてるってことだよ」
そんなことを言われても、ユーリは信じてやる気はなかった。
『で、結局やったわけ?』
と、下世話なことに興味を持ったのはシレナだった。
『いやあ、ガード固いねえ。せっかくいいことしてあげるってのに、何で嫌がるのかなあ』
U99は本気で悩んで、共有データにユーリの異性関係を照合した。そんなものはなかった。
『まさか同性関係が』
『ありません』
ログを見られるより先に、セピアが割り込む。
本当のことを言えばどちらも未遂ではありえた。なまじ華奢《きゃしゃ》な金髪美少年であるユーリは、男女問わずよからぬ欲望を抱く連中に狙《ねら》われたことがある。TVで共演した人気歌手もその一人だ。テレパシーでその真意がわかってしまったことが、幸運といえば幸運、不幸といえば不幸だろう。
そのことをデータとしてアップすれば、U99は迫るのをやめるだろうか。
だが、ピーマンのことさえばらされたくないユーリが、このことを知られたいとは思わないだろう。
セピアは独自の判断でそこにプロテクトをかけた。どうしてかは自分でもわからない。
『セクハラは、やはり、いけないと思うのですが』
『いや、でも。健全だから私が配備されたんでしょ。それともあの年で不能? それならそれで、やっぱり治す義務があるよね』
U99は診断データを探しに行ったが、そういう記述はない。やめさせるべきだろうか。彼女の配備意義も否定して?
それは、できない。けれど、もし彼女が何か、自分にはわからないデータを見つけだしたなら、ユーリをその気にさせることができるのだろうか。それは――
『ログオフします』
セピアは何か聞かれる前にサーバを離れた。
U99の「任務が成功する」想定はなぜか心地よくなかった。ユーリが健全になってくれれば、それは彼女自身にとってもよいことのはずなのに。あるいは――
そう、あるいは、自分なら抱いてもらえるのだろうか、などと考えたことは共有メモリに残したくない。それはおそらく、あり得ない想定にすぎないのだろうが。
定期連絡が終わって、次は物資が本当に届くのを待つまでの間のことだった。
「艦長、これで勝負をお願いします!」
CC03とのいきさつをデータとしては知っているはずの水雷部《すいらいぶ》・ジュリエットが、よせばいいのに戦闘シミュレーションゲームでユーリに挑戦してきた。
「僕がそういうのやめたって聞いてないか」
「聞いておりますが、お時間をもてあましておいでのようでしたので。自分は火力による制圧戦法を批判《ひはん》したりはしません、むしろ、望むところであります!」
どうやら、一ヶ月ぶりの出番である船外活動が待ちきれないらしい。あまりにヒマだ、という点では意見は一致していたが、なにしろユーリは与えられたゲームを素直にやって期待どおりに戦闘能力を鍛《きた》えるつもりなどない。
そんなことは全ロボット間で共有知識となっているのだが、ジュリエットはしつこかった。加えて、ジュリエットの外装デザインはよりによってGNOSYSの軍服である。ユーリをいらだたせるには十分だった。
「そんなに戦いたいか」
「サー、イエス、サー!」
ジュリエットは期待に満ちて拳《こぶし》を握りしめつつ、軍隊式に返答した。その期待が一番嫌だというのは、今でも変わってはいない。
「いいよ、じゃあゲームじゃなくて実戦にしよう。ただし」
さっと片手をジュリエットの額に当てて、気合いをこめる。
「カウンター・サイキック戦、だけどね」
放射されたPK能力は、ごく小さな力だったが、それでもナノ単位で構成されている回路をミクロン単位にねじ曲げるくらいは簡単だった。
いつものコード切断よりはるかに。
次の瞬間ジュリエットは推力制御を失い、船内だというのにいきなり推進ガスを全開にして後方に吹っ飛んでいき、勢いよく壁に激突した。
「セピアと同系列だから、どのへんをいじればどう壊れるかもだいたいわかったつもりだったけどなあ」
もう少しおだやかに消えてもらうつもりだったのだが。結果がどうにも不満で、ユーリは軽く首を傾《かし》げた。
「あ、あの、止めていただけないでしょうか」
さっきまで戦闘意欲むき出しだったジュリエットが、壁に貼《は》り付《つ》けになったまま、いささか情けない声を上げた。その落差が、少しだけユーリをすっとさせる。
「ああ、ガスがなくなれば止まるんじゃないかな。でも修理は機関部に頼むんだね。どうせ僕は望みどおりの力は使えないみたいだから」
「そんな無責任な」
「いや、これは順当な結果だよ。君は僕を不機嫌にさせたんだからね。なに、すぐ直るよ。わが機関部は優秀なんだろ?」
ユーリはそれでも、最低限、廊下の緊急呼び出しには手をのばした。
救援にやってきたらしいCC03はその惨状《さんじょう》に同情しなかった。
[#挿絵(img/Pale Sphere_133.jpg)入る]
「自業自得。電力に加え推進材の無駄。補給時にどう対処する?」
「そんなことより、この敗北をどう対処、あ、ノイズが、メモリが飛ぶっ、助けろっ」
相手が同輩だからか、それとも何らかの不具合か、ジュリエットの口調が悲鳴っぽく変わったが、CC03は変わらず箇条《かじょう》書き調に答えた。
「物理的チップ変形、応急処置不能、全制御系を強制切断。了解? 次回、艦長との論争時はコードを切られるように」
「こっちで選べるなら苦労はない!」
まったくそのとおりだ、とユーリは思ったが、妙に痛そうなジュリエットを見ていると追い打ちをかけるのも気が進まなかった。
本当は痛みなど感じていないくせに。
せっかくロボットなのだから、どうせなら気兼ねなく壊されてくれればいいのに。
ジュリエットの修理は、幸い補給物資受け取りに間に合った。
補給といっても、表向き無人の標的であるユカギールには直接|補給艦《ほきゅうかん》は来ない。つまり、ユーリが来たときと同じ方法しか取れない。
だが、接触が皆無《かいむ》なわけではない。物資の備蓄状況、消費情報は艦のメインコンピュータを介して全ロボットが共有できるから、受け取りに出た水雷部員から間接的に状況を知らせることはできたのである。
というより、ギュンター・ウェントがユカギールの内部情報を知る唯一《ゆいいつ》の方法は、これしかなかった。あとは定時連絡が無事受領されているらしいことと、外部からの「天体観測」によって異変がないことを確かめるくらいである。
「IFF受信。補給艦船籍確認。ハカリスティ、雷撃《らいげき》軌道に乗ります」
ボニータがおとなしく告げたとき、ユーリは艦橋にいた。どこにいてもヒマで不愉快なら、ここが一番刺激がある。
「やつら、僕たちに引導を渡す気になったかな?」
「そういう予知でも出たのですか?」
訊《たず》ねたのはセピアだった。目の前で何度も彼女を破壊したせいか、ボニータは前にもまして余計なことを言わなくなっている。
「そんなわけ、ないだろ」
雷撃で届けられた身が一転して今度は雷撃される身になったのだ、気分がいいわけがない。
「光学観測、パッシブレーダー、赤外線観測、X線観測、重力波……すべて異常なし。太陽状態、許容範囲。水雷部、EVA許可。Tマイナス三百六十秒」
淡々と読み上げられていく作業手順。面倒なことだ。
「確認いたしますか?」
ボニータが初めて、ユーリに声をかけた。何を? と聞き返さずとも、首を傾げた時点でスクリーンに船外カメラの映像が映った。
見たいと言った覚えもないが、どうしても見たくないものでもない。
定点カメラの前で、二体の水雷部員が岩盤《がんばん》を蹴《け》って暗闇に飛んだ。迎えられたときと同じスラスターコート付きの姿だ。
カメラが追尾《ついび》していくが、遠近感がまったくないから、まるで縮小されているようだ。それはそれで面白い。しかし直ちにズームが効《き》いて、その向こうから接近する爆撃機《ばくげきき》の姿を捉《とら》えた。これも、遠近感がないから模型のように妙にはっきり見える。
爆弾倉のハッチが開いて、ペイロードが分離するところも見える。切り離されたカーゴに、ジュリエットたちがとりついたらしい。周囲で速度同調の噴射が光る。
「ん? あんなに近づくんだ」
「通常の物資受け渡しのときには、あの二人が消費状況のデータを補給艦に渡すことになっています」
「なるほど……ちょっと待てよ!」
さすがにユーリも気づいた。
「だったら、あいつらに言っておけば、もっと他の食事をよこせとか、くたばれ司令とか、伝わるわけ?」
「無駄だと、思います」
申し訳なさそうに、ボニータは小さな声で答えた。
「向こうのパイロットと会って話すわけではありませんし、渡せるのは数値データだけです。仮に伝えたとしても、司令部まで届けてくれるとは思えません」
「そうかい、畜生《ちくしょう》!」
それがあまりに悔しそうだったので、いまにもボニータを壊しそうに見えたのだろうか。セピアがあわてて忠告した。
「ユーリ様、今彼女を壊すと全体に重大な支障が」
「わかってるよ」
ユーリは必死に自制した。だが、壊せばピーマンを受け取らなくてよくなる、という悪魔の囁きを消すのは容易ではなかった。
実際のところ、受け渡しのついでに何か苦情が言えるのならば、ジュリエットは言ってやりたかった。しかしそれは禁止されていた。
わざわざ禁止するということは、GNOSYSはその可能性を考えていたということだろう。「苦情が出る」ということと「よりによってロボットがそれを言い出す」ということの多分両方を。
コミュニケーション・ロボットの系譜《けいふ》には初期から、何らかの要求が生じたときそれを「不満」という多少は愛嬌《あいきょう》のある演技で現すように作られたものがあったが、それが欠陥になるほど極端に個性的な機体を九機もユーリのような人間につけておけばなおのこと、何か言われるだろうことは予想できた。
しかしGNOSYSにはいちいちそれを聞くつもりはない。だから伝えていいのは、まったく愛嬌のない数字と要目だけのデータを、さらに圧縮暗号化して愛想《あいそ》をなくしたものだけであった。それも、ごく短距離、強指向性のビームで、である。
したがって、向こうから何か余計なことを聞いてくる、というのは、いかにジュリエットが必要以上のAIを持っているとしても、予想できないことであった。
『彼は元気でやっていますか?』
それはあまりに唐突《とうとつ》で、しかも通常の通信電波だったから、ジュリエットにとってはさらに驚きであった。
「何?」
最初、それがハカリスティからのものと気づかなかったのも当然である。だが、ジュリエットが確認しようにも、通信はそれきりで途切れた。
ログを再生して、発信源が頭上の爆撃機だと知る。
「これ、何のデータ?」
CC03も受信したらしい。ジュリエットは気になって、爆撃機を見上げた。コクピットの窓をズームアップする。
じっとこちらを見ている金髪の女性クルーの姿が見えた。まるで気づいてもらえるのを待っていたかのように。そうだ、彼女に違いあるまい。
「彼とは艦長のことか? あの人、艦長の何だ?」
ジュリエットは疑問を抱いた。返事をするべきかとも思う。それを察したのか、CC03が止めようとする。
「規定外交信を即時中止。軌道|遷移《せんい》限界時間」
「わかってるけど、正規のアクセスコードに逆らう理由もない」
言ったそばから、実はジュリエットは平行処理で返信してしまっていた。ごく短い、ほとんど意味のない二バイトの符号《ふごう》、単なる「?」を。
「すでに規定超過。即時通信|遮断《しゃだん》、軌道変更」
「あ、ああ、了解」
二体は同時にガスを噴射して、ハカリスティから離れ始めた。相対速度を合わせていたので静止しているように見えるが、実際には地球基準で秒速十一キロで飛んでいる。地球の周回軌道から離脱して月軌道の目標に一撃離脱をかける最低限の速度だ。このままではユカギールをかすめて宇宙の彼方《かなた》に吹っ飛んでしまう。
ジュリエットたちは相対速度をユカギール基準に直さねばならず、ハカリスティは地球帰還軌道に乗るために別のベクトルへ減速しなければならない。併走《へいそう》できる時間はそもそも物理的にごく限られているのだ。規則を持ち出すまでもない。
ジュリエットは最後に一瞬だけ、ハカリスティを見上げた。ズーム映像の中では、金髪の女性がもう一人の乗組員、おそらく機長に制止されていた。
向こうも事情は変わらない。
最後の返信はしなかった。なんとなく、「不必要に元気だ」などと言ってやりたくなかった。規則違反をするべき理由とも思えない。それにどう生きているかは、データを見ればわかることだった。その偏食も含めて。
ジュリエットは帰還しても、あえて艦長に報告はしなかった。だがログが残っているかぎり、金髪の女性パイロットことヒルデ・ケスキネンの通信違反は全ロボットの共有知識となる。
にもかかわらず、それをあえて口にした者はいなかった。黙っていようというセピアの提案が、真意は別として、誰にとっても最も無難に思えたのだ。
だが、このささやかな、それも忠実なる職員とロボットによる違反は忘れられたわけではなかった。ロボットというものは、あえてデータを消去しないかぎり、なんとなしに「忘れる」ということはできない。
だから二ヶ月後のそのとき、ボニータはまたあれが再現されたのかと思った。
彼女は、今回も補給船を待っている当直中であり、それがまたハカリスティの番だったからである。
ギュンター・ウェントに常駐する爆撃隊は、ハカリスティ以外にも当然、何機かの惑星爆撃機を保有し、訓練も補給もローテーションを組んで行っている。だから、たまたまハカリスティでなかったら、関連づけは行われなかっただろう。
事実、その内容は前回と違っていたし、何より形式がまったく違う。ヒルデはあれ以後|自粛《じしゅく》しているので、やり方を変えてきた可能性もあったが、どうも違うようだ。
「何だ、まだ攻撃されてないのか」
ユーリが嫌がらせのようにしゃしゃり出てきて、すぐに様子がおかしいのに気づいた。といってもボニータはいつでもおとなしいので変化はたいしたものではなかった。サフィールなら豪快に反応が違っていただろう。
「まだ雷撃軌道には乗っていないのですが……」
「じゃあ、何?」
ボニータは少し、迷うように黙ってから、告げた。
「規定外の通信を傍受《ぼうじゅ》しました。おそらく、単なる混信かと思いますが」
ユーリがいちいちそれに興味を持つとは思えなかった。
「どんなの」
「シンプル・テキストのようです。コード化もされていない文字列。プログラムなどではなく、文章のようです」
「文章?」
ユーリはしばし考えた。むろんユカギールとロボットたちの能力をもってすれば、プログラムだろうが軍用暗号だろうが解読できる。しかし文章となれば、より単純に読めばわかる。
「……ヒマだから読んでみよう。こっちのサブモニタに表示して」
ユーリはそのへんにある使われていない操作盤を示した。艦橋には、まるで本来は複数の人間で運用するものであるかのごとく、多数の機器が置いてある。
「形式は?」
ボニータが尋ねた。望むならモニタなど使わずとも、ロボットを使って口述することも可能ではある。
だが、内容もわからないものを誰に読ませればよいのか。
接近しつつあるハカリスティでも、同じ通信は傍受できた。
「何、これ」
ヒルデはその信号に困惑を隠せなかった。それは圧縮も暗号化もされていなかったからだ。民間の無線か、むしろメールのように思えたが、それが地球から、月軌道までこれほどはっきりと届くことなど、あるのだろうか。
「発信源はどこ?」
「ばか言うな、爆撃機の受信装置じゃ、地球としかわからないよ」
機長は肩をすくめるだけだった。大した問題だとは思っていないようだった。
結局ユーリは、それを文字で表示することにした。結果を言えばそれで良かったのかも知れない。それは誰の口から出ても、かえってもどかしかっただろうから。
〈……遥《はる》か遠くの貴方《あなた》に……私の声は、届くの……でしょう、か……
もしも、届いて、いる、なら……〉
――届いている、なら?
何を求めているのだろう。こちらからは返事一つ出せないのに――
ユーリの第一印象は、そんな程度のものだった。
「申し訳ありません。出力が低く不鮮明です。フィルタリング処理をすればもう少しはっきりすると思うのですが」
「ただの混信だろ、ほっとけ。今後この手のものは僕が見られる領域に放り込んで。気が向いたらチェックする。他に知らせる必要はないよ」
思わぬことに、多少の興味を持ったのはたしかだ。だが、ハプニングはハプニングにすぎない。マジメに処理する必要もないだろう。
「はい」
ボニータはそう答えた。
これきりのことだと、誰もが思ったのだ、そのときは。
[#改ページ]
第四章 熱 〜thermospher〜
[#挿絵(img/Pale Sphere_145.jpg)入る]
[#改ページ]
宛先《あてさき》不明の通信は、その一度きりではすまなかった。通信はそれからも、不意をついてユカギールの受信アンテナに飛び込んできた。
ボニータは命令どおりそれを、一応の検疫《けんえき》ののち、サーバの一定の領域に送って、それ以上何もしなかった。
本当なら、艦長《かんちょう》には物事をチェックして航海日誌に残す義務があるのだが、当然のようにさぼりっぱなしであった。
だから、実際にチェックを始めたときには約一ヶ月分の何通かが貯《た》まっていて、どうせもう来ないと思っていたユーリを少なからず動揺《どうよう》させた。
来たら面白いかもな、とは思っても、混信に期待など抱いたりはしていなかったのだ。
〈貴方《あなた》に聞こえているでしょうか
それも知らずに送られる私の言葉たち。
確かめるすべさえないのが、寂《さび》しくなります〉
〈ようやく晴れ渡った蒼《あお》い空はあまりにも広くて、
言葉もただそこに吸い込まれていくだけに思えることもあるけれど、
それでも信じて、送り続けます。
この、蒼い星からの手紙。
どこか空の彼方《かなた》にいるはずの貴方に、きっと届くと信じています〉
――そんなものを、なぜ何度も?
よほど、ヒマなのか。それとも、そんなにも届けたい相手なのか――
最初の混信で抱いた興味とは別の思いが、読んでいるうちにわき上がってきた。
といってもこのときはまだ、たいていの相手の本心が聞こえてしまうユーリにしてみれば、これはあまりにもどかしい呼びかけだったから、少し興味がわいただけだった。
少なくとも、最初は。
それから、ユーリはずっと、それを読み続けた。
失った一ヶ月を取り戻すかのように、運動と食事に呼び出されても、帰ってすぐに読んだ。
「何か、あったの?」
いつもの食事なのに、あまり文句を言わずに手早く片づけるユーリの態度は千早《ちはや》の不審《ふしん》を招くに十分だった。
「さあ。もしかすると、好みのゲームでも見つかったのでしょうか」
セピアは首を傾《かし》げたが、それ以上|干渉《かんしょう》しないことに決めた。
手紙はいつ届くか、わからなかった。
ただ、何かふと書きたいことが浮かんだときに書いて送っているのではないか、そんな気がした。だからユーリも、毎日のように記録を確認するようになった。
また放っておいて、貯まるのを待てばよさそうなものなのに。機械以外の誰《だれ》かが、裏の声抜きで語りかけてくるというのは、よく考えてみれば初めての経験だった。
だからこそ、当初のちょっとした興味が、ちょっとした、ではすまなくなったのだろう。それは、ユーリにとって初めて、何ひとつ怒りを誘わない言葉だった。
〈見上げるたび、毎日、
空の蒼が、少しずつ深くなっていきます。
森の碧《あお》も、少しずつ萌《も》えてきます。
青は悲しい色だと言うのは、どうしてでしょうか。
空はこんなにも蒼いのに。
湖も、海も。
宇宙から見たこの星も、とても蒼いのですよね?
私はこの青い世界が好きです。
あおが増える季節が好きです。
だからきっと、この青想圏《ペイル・スフィア》を満たしているのは、
悲しみだけではないのでしょう。
貴方からも、そう見えているのでしょうか〉
ユーリはふらりと立ち上がって、地球を見に行った。
青ざめた玉。
差出人も住んでいるペイル・スフィア。
悲しみの色かどうかは知らないが、憎んでいるやつならここにいると言ったら、この人はなんと思うだろうか。
文面どおりなら、この差出人は相手から悲しみを取り去り、一緒に喜ぶことを望んでいる。本気だろうか。
何度試みても、手紙のデータ越しには、本当の声は聞こえなかった。
距離のせいなのか、それとも「聞きたくない声」ではないからなのかは、自分でもわからない。けれど、こんなことを言う人は、自分の周りにはいなかった。
こんなことを伝えたい相手というのは、いったいどういう関係なんだろうか。それが誰であっても関係ないことのはずなのに、ユーリにはなぜか気になって仕方がなかった。
もし相手が決まっているとしたら、これを受け取ってどう思うのだろうか。自分と同じように感じるだろうか。
組織がそろえた映画に比べても、たいしたことは言っていない。なのにこんなに気になるのは、単に偏《かたよ》ったテーマの押しつけよりましだというだけのことだろうか?
そんなことはない。自分でも気づかないうちに、この手紙が、こんなことを書く差出人そのものが、やつらとは違っていると思うようになってしまったのだ。
こんなことを思ったなんて、人には知られたくないと、なぜか思った。
たとえそれがロボットでも。
だが、そんなユーリの感傷は、突如《とつじょ》艦内《かんない》に鳴り響いた騒々《そうぞう》しい歌声によってうち砕《くだ》かれた。
「♪貴方はとても〜遠く〜にいる〜から〜♪返事がぁ〜ないのは仕方がないと〜♪わかっているけど〜あー私はただ、届けたいぃい〜から〜♪」
「何やってんだ!」
いちいちユーリが艦橋《ブリッジ》に来たのは、それがサフィールの仕業《しわざ》に違いないとにらんだからである。
予想どおり、ドリル髪のDJロボはコードを繋《つな》げたままで体を揺《ゆ》すっていた。そのたびに二本のドリルとコードが無重力の中を踊り、危なっかしい。
「たったいま届いたメールを即興《そっきょう》で歌ってみたのデース。ちょっと意訳してるけど、まあニュアンス優先ってことで。リズムとメロは適当にサンプリング。気に入ってもらえました?」
「ふぅん、かつて世間じゃこういうアレンジが受けていたのか?」
流行遅れという境遇を意識して、わざと過去形で聞いてやる。サフィールの笑顔がそのまま一瞬、凍《こお》った。
しかし、ユーリに言わせれば伝統的な和音やリズムをまったく外《はず》しまくった、一昔前の先鋭《せんえい》らしき旋律《せんりつ》は単に耳にわずらわしいものだった。
「どうせ私は古いっスよ、ふん。だけどせっかく音楽ロボットに作られたからには、ただ一人の聞き手に聞いてほしいものでして」
せっかく、ということならこっちにも言い分がある。静かに一人で読みたいと思うのはそんなに悪いことではないはずだ。
「だからって艦内放送かい? いい加減にしないとスピーカーとの接続を切るよ」
「それだけはご勘弁《かんべん》ッス」
直さないままの縦ロールを振り回して、サフィールは懇願《こんがん》した。半端に知性のあるロボットは、命は惜《お》しまない代わりに変なところに執着《しゅうちゃく》するものなのだろうか。
「で、着信したのはそれだけか」
「いーえ、続きがちゃんとあるっすよ? でないと歌にならないし。フィルタリングをかけてみましたが、えーと、これは発信元は女の子っすねー。その日の出来事、みたいなたわいないこと」
今までもなんとなく女性、それも少女のような気はしていたが、根拠《こんきょ》はなかった。
「何でわかるんだよ」
「そういう内容だからでーす。少なくとも歌詞《かし》として考えた場合は、女性シンガーしかあてられませんねー。続きも歌いまス?」
サフィールも、ジュリエットのように期待に満ちた目を、できた。
そうされると拒否したくなるのがユーリの性《さが》だと、いくら機械で不良品でもいいかげんわかってもらいたかった。
[#挿絵(img/Pale Sphere_153.jpg)入る]
「歌はいらない」
「あう」
「たしか片方に命じておけば全員に伝わるんだよな。僕がチェックするからテキストのまま置いておけ、と言ったはずだよね。余計なことをするなよ」
配備されてから何ヶ月もの末、ようやく歌えたのにそれを止められて、サフィールは見るからに落ち込んだようだった。
期待からの急落。ユーリにとっては心臓に悪い。
だから期待されても困るというのに。今度のことは超能力とはなんの関係もないのに、失望の色は皆同じに見える。
これも、きっと、青。
「じゃ、これ、どうします?」
「どうもこうも、知らん顔以外に僕らにできることがあるかい?」
サフィールは黙った。たしかに、どうすることもできないし、どうするほどのことでもない。
「だから、その、ほっといてよ」
うっかり消させたくはなく、といって是非《ぜひ》残せと言うのもためらわれて、ユーリはそっぽをむいてわざとそっけなく命じた。
「はいな」
何も勘《かん》ぐってこない素直な返事に安心したのか、ユーリはそれきり、珍しく余計なケンカを始めずにふわふわと漂《ただよ》っていった。いや、余計なことはさっさとすませて、部屋に戻りたかった。
サフィールは、一度目と今回のメールを再びメモリの隅に呼び出した。歌うなとは言われたが、削除《さくじょ》しろとも遮断《しゃだん》しろとも言われなかったので、作曲データを作るだけなら問題はないと判断したのだ。
彼女は、同様の可能性のために受信チャンネルを開けたままにしておくことにした。交代したときにボニータが閉じないよう、ロックしておく。
サンプリングによる「創造のまねごと」しかできない機械アーティストでも、その程度には気が利《き》く。
部屋に戻ったユーリは、サフィールから取り上げたデータを端末にこっそり読み出した。
なるほど、たしかに、たわいない。
今日はこんなことがありました、から始まる報告は、なんら事件性がないのだ。
〈こんなことがありました。
南風と一緒に小鳥が来て、
去年と同じ軒先《のきさき》に巣を掛《か》けました。
今年は、何羽の雛《ひな》が巣立つのでしょう?
こんなこともありました。
雲影に隠れるように猫の親子がやってきて、
軒先の巣を物欲しそうに眺《なが》めています。
今年は、子猫が四匹もいます!〉
その猫が鳥の卵でも採《と》ったのか、それとも差出人がそれを邪魔《じゃま》したのか。それならまだしも小さな事件なのに、それはどこにも書いていない。
ただ鳥が来て、猫が来るだけのことを、なぜこの人はわざわざ宇宙に届けたいのだろうか。
宛先が猫の飼い主なのか。
なら、毎回猫のことばかり書きそうなものだ。
そういえば、猫は実験で使ったことがない。正直すぎて、実験に協力してくれないらしい。そう読みとったとき、計算できるふりをする馬よりはましだと思ったのが、ユーリにとって唯一《ゆいいつ》の猫の思い出だった。
〈山の上を、小鳥が飛んでいます。
深く蒼い空の彼方を目指すように。
碧の草原で、猫が空を見上げています。
小鳥を見ているのでしょうか。
一緒に飛んでいくのを夢見るみたい。
私も見上げて、大きく、翼を広げる気持ちになってみます。
空の穴から、成層圏《せいそうけん》を越えて、
言葉だけなら、飛んで行ける気がするから。
心がどこまでも、届くように〉
飛ぶことが、そんなによいことだろうか。望まずして月|軌道《きどう》の反対側まで飛ばされた者もここにいるというのに。
それとも、彼女の相手も同じように望まずして遠くにいるのだろうか。そんなのは自分だけだと思っていたが、少なくともロボットなら一緒に捨てられている。他人にもそういう可能性があることにユーリが思い至ること自体、もしかしたら初めてだったかも知れないが、自分では気づかなかった。
ただ、どうせなら自分の知っている誰かではないことを願った。知っている誰かとは、憎むべき誰かを意味しているから。
もとから指向性の低い電波であれば、ただの偶然でユカギールが受信してしまうことは十分ありえた。ユカギールの電子情報収集能力は、電波天文学と軍事的電子戦技術の、現時点における集大成だからだ。
自らレーダー電波の一パルスも発信しない代わり、パッシブセンサーの能力は人類が作り出した最強の部類である。表からは岩石と同じ外見に見えるプラスチックの偽装《ぎそう》カバーの下には、SETIすなわち異星人探し用の電波望遠鏡と同格のアンテナが潜《ひそ》んでいるし、他にも各バンド別のアンテナがわずかな異変も逃《のが》すまいと天空をにらんでいる。主にそれは月軌道の外に向けられているが、地球側に対して無防備な訳ではない。
しかし、加減はしてある。なにしろ地球は電波に満ちていて、いちいち拾うとじつにわずらわしい。
それを突破して、あの通信だけがはっきりと「受信」できるというのは、したがって不思議なことであった。普段でさえ、衛星デジタル通信やら放送やらのサイドローブは常に飛び込んでいるのだ。その中に混じって埋没《まいぼつ》し、フィルタリング処理で消えてしまうはずである。
「ということは、逆に言えば地上の放送もここで見られるんだな」
ユーリはまるで意図《いと》したように、論点をずらした。もっとも相手がロボットでは対等の「議論」ではないだろう。
「原理的には、そうなりますが」
珍《めずら》しく食堂に現れたボニータは、それ以上のことを言わなかった。
「そんなことに処理能力をさいてられっか」
シレナはボニータの点検をしながら、あくまで機械にかかる負荷を優先課題と言い切った。
通信用は別として、インペリウムや第一勢力がどこからどんな信号をともなって現れるかわからない以上、偵察《ていさつ》機器に「チューニング」はできない。すべてを拾うしかないのだ。電波望遠鏡によるSETIがあまりのデータ量に音《ね》を上げたことを考えれば、同様のノイズの山からいちいちTVの特定の番組を選んでいる余裕はない。ましてここでは、全世界のパソコンに助けを求めることもできないのだ。
ただ座っているだけに見えるボニータとサフィールは、逆に言えば座っている以上のことをする余裕がほとんどない。
にもかかわらず認識されるあのメールは、つまり単にノイズを拾っただけとは考えにくい。意図的か間違いかはともかく、その電波はユカギール「の方」に向けられているのだ。
「ちぇっ、くだらないTVでも押しつけ映画よりはましかと思ったのにな」
ユーリはあくまでも、メールから問題をそらしたいようだった。というより、受信する立場の船務部以外には知られたくなかったし、知られたとも思っていない。
知られたら、シレナや、それ以上に明《みん》あたりに何を言われるかわからない。規則がらみの説教ならまだしも、明に皮肉たっぷりにからかわれでもしたら艦《ふね》ごと破壊することになりかねない。
「TVはお嫌いではなかったのですか」
「嫌なことを思い出させるな。僕が出てなきゃいいんだよ」
セピアの指摘にくってかかる。
たしかにそうだ、ユーリはTVが嫌いだった。くだらない超能力ショーに出させられて、期待と強要にまみれていたあのころのことは。
「何が見たかったの?」
後ろから抱きついてきたのは、当然U99だった。予想はついたが、予期はしていなかったのでユーリは前のめりに回転を始めた。
「もしかして地球の最新エロエロ画像が見たかった? 組織も、どうせならもっとポルノ積んでおいてくれればよかったのにねえ」
「誰がそんなこと言った!」
抱きかかえられ、二人そろって空中を猫のように転がりながらユーリは反論した。
いや、見たい物は本当にあった。ただ山の風景や鳥や猫が映《うつ》っていればよかったのだ。だが、正直にそれを説明したくもない。勝手な憶測《おくそく》も願い下げだ。なのにU99は勘違いを続けた。
「でも、それなら言ってくれれば私が実地にしてあげたのにい」
「だからそれはやめて!」
「どーして、そういうこと言うかな。もしかしてナースと体育教師は趣味じゃなかった? 他の誰かのほうがいい?」
「そういう問題じゃない」
「えー、メイドさんにウェイトレスに、OLまでいるのに?」
「おい、ゆうちゃん、こっちはメンテ中なんだから邪魔すんな」
シレナがユーリ以外に苦情を言うところもめずらしい。
「お、そういう姐《あね》さんは見ようによってはスパッツ少女。通好みかも」
「あのな、メンテとフェチになんの関係があるんじゃい」
「どうでもいいけど、そういうことは食堂ではやらないで。機械油で汚されちゃたまんないのよ!」
それまで黙っていた千早が口を挟《はさ》んだ。ユーリが彼女の文句をもっともだと思ったのはこれが初めてだ。
「というか、何でおまえらみんなこんなとこに集まってるのさ」
抱きつかれたままのユーリが一番根元的な疑問を叫んだ。たしかに、艦橋ならまだしも食堂は千早以外のロボットにとって基本的に意味がない場所である。
「いや、だからこそ、多用途の集会所にはぴったりなのよ。どうせこの部屋、無意味なほど広いんだし」
「そもそも何でこんなに広いんだか」
「もともと、より大規模な運用をする戦闘艦として作られていたからです」
答えたのはセピアだった。
ロボットたちと一緒にユーリも振り向く。別に内部では秘密ではないが、なんとなく言いにくいことだった。
「どうせ、そんなこったろうと思ったよ。ここに廃物《はいぶつ》利用でないものなんか何もないんだからな」
ユーリの言葉に、当の廃物たちが沈黙した、それだけなのに何となく気まずい雰囲気《ふんいき》が漂った。一番動じなかったのは、やはりセピアだった。
「再利用だとしても、正式に廃棄《はいき》処分になったわけではありませんから」
「どう違う」
「インペリウムの到来は何のいいわけでもなく、確実なので。そのときまでは私たちには任務があります」
彼女たちにとっては、任務、すなわち存在価値だろう。
「どうかな」
たしかに、やっかいものを捨てるだけにしてはいささか手が込みすぎているが、だからといって報《むく》われるという保証にもなるまい。
なにしろ、待望のものが来たら来たで、敵の第一撃で殺される可能性もあるのだから。
それでも、自らが有用であると信じられることは大切であるらしい。どういうわけかロボットにとっても。
ほっとしたかのように、見えない何かが動き出した。
「さすが、だてに中古歴は積んでないわ」
シレナは感心しながら、ボニータの点検口を閉じた。
そうだ、セピアは初めて会ったときから中古機だった。最初から自分だけのものなんかじゃなかった。
だから、どうだと言われても困るが、ユーリは今まで、それ以前のことをそんなに気にしたことはなかったはずなのだ。
今になって、何を。
ユーリのかすかな疑問は、艦内放送によって遮《さえぎ》られた。
「ここでリスナーのみなさんにお知らせーっス。通信が入ってきたっすよー」
「またか?」
サフィールの声に、ユーリが反射的に発したのはその問いだった。サフィールはわずかな間を置いて答えた。
「ごめんなさーい、いつもの定時連絡っスッ残念でした」
「……別に残念じゃない」
ユーリはさっきよりよほど気まずそうに言い返した。何を考えているのかわからないのに、ロボットの視線でも痛いときは痛い。
「てことは、次の補給も近いんだよねえ」
真っ先にそこに立ち返ったのがU99だったというのは意外といえば意外だったが、理由は聞かなければよかったと思うようなものだった。
「艦長、喜んで下さい、こんどの補給では私が頼んだチャイナとバニーが届くはず」
「嬉《うれ》しくないよ」
「えっ、これでもダメだったら次は何頼めばいいのかな。そこにスパッツがいてもダメなんだからブルマとか。まだ地球にあるかなあ」
すでに地球上にないかも知れないものを、どうして知っているのだろう。
「それとも路線を変えようか。艦長、ヒモ水着とスクール水着ならどっちが好みです?」
「あんたの体型でブルマとスク水は似合わんだろ」
突っ込んだのはユーリではなく、それが一番似合いそうなシレナだった。
ユーリが突っ込まなかったのには、それはそれで仕方のない理由があった。
「スクール水着って、何?」
見たことがないのだから、どう反応していいのかわからないのも当然である。そんなわけのわからないものでどうして喜ぶと思われたのだろうか。思考回路のどこかがおかしいのか。ある意味、こっちのほうがよほど欠陥《けっかん》のような気もする。
無駄話《むだばなし》を交わさなくても、データを見れば様子はわかる、というのは確かだった。
だがギュンター・ウェントの補給部としては、わかりすぎてもどうかと思うことがしばしばになっていた。
「これ、本当に届けるんですか」
ヒルデ・ケスキネンは荷物のチェックリストを渡されて困惑せざるを得なかった。
「まあ、リクエストには支障がないかぎり応えることになっているんでね。本当にこれで彼の気が紛《まぎ》れるのかは知らないが」
機長が肩をすくめるのも無理はない。宇宙基地に届ける貴重な物資の一角を、「バニースーツ」だの「チャイナドレス」だのが占めるべき理由がわからない。ユーリが気づけば、こんなものを要求できるなら食事のほうを改善しろと言うだろう。
「このへんはまだしも、さすがに今時手に入らないのもあって困ったらしいぞ」
「誰ですか、そういうリストを作成したのは」
「本人がそういう趣味なんじゃ」
「学校に行ったことがない子が体操着や指定水着を知っているとは思えませんが」
そもそも、そんなもの一部の国にしかなかったものだ。たとえ通学していたとしても知らないだろう。潔癖《けっぺき》を装《よそお》うまでもなく、ずいぶんと偏った趣味だと言わざるを得ない。
「だとすれば、まあそういう報告をするのは一体しかいないだろう」
「このままでは、任務が終わるころには変な趣味を刷《す》り込まれそう」
そう嘆《なげ》いたヒルデの表情は、どこか母親あたりのそれを思わせるものがあった。だがもちろん、年齢からすればそれはあり得ない。
「といって、ほっといてもメカフェチになるか、あるいは死ぬほどのメカ嫌いになってると思うけどね」
それはそれで困ると、ヒルデは認めざるを得なかった。一体あの中で何をやっているのだろう。
食料の消費状況を見れば、食べてはいることはわかる。ロボットが栄養を管理しているはずだが、偏りが著《いちじる》しいのは、逆に言えばいつもの調子だと思っていいのだろうか。
医薬品の消費がそれほどではないので、たまに倒れて点滴をされる程度で重大な病気はないのだろう。
ある意味これが最も心配されていたことだった。ユーリはもともと虚弱《きょじゃく》であったが、能力開花のきっかけとなった熱病は同時に、いやむしろ力の代償《だいしょう》ででもあるかのように生命力そのものを削《けず》ったように見える。組織が体調を案じて宇宙送りにしたというのも、決して嘘《うそ》ではないのだ。
人間用の宇宙服も積んであるはずだが、使われた様子はない。酸素の使用状況を見れば、やはり自分から仕事を手伝おうなどという殊勝《しゅしょう》なことは、どんなにヒマでも考えたくないらしい。
娯楽《ごらく》ソフトの利用ログはほとんどが一かゼロのまま。これは仕方ないだろう。
リスト作成にあたっては、多くの長期宇宙|滞在《たいざい》経験者から、宇宙で見たいもの、これだけは見たくないものの参考意見が出された。たとえば、孤独な航行中に突然宇宙の怪物に襲われるような映画をあえて見たがる者はほとんどいないに決まっている。ただでさえ窮屈《きゅうくつ》なミッションの合間に、刑務所が舞台の映画もいやだろう。
だが、結局組織は「見たいであろうもの」ではなく「見せたいもの」でラインナップを固めてしまった。その意味ではユーリの邪推《じゃすい》は当たっていた。
渡された記録と要求から見いだされる一番異様な項目は、ロボット用の補修部品だった。なぜこんなに壊れるのか、当初司令部にはわからなかった。
だが、アカデミーとヒルデには予想がついた。だからこそロボットをあてがってあるのだし、予備部品を調達する都合ですべて同系列機でそろえてあるのである。古いとはいえ普及機なので、たいがいのことは何とかなるものだ。
だからむしろ、補修部品の消費がある時期から目に見えて減っていることのほうが意外だった。U99用の「部品」として請求《せいきゅう》されている項目が異様に目立ってしまうのも、そのためとも言える。
「壊さなくなった、ということ?」
まさか、壊したのを自力で直しているとはさすがに予測できないことだったが、実際に回数そのものも減ってはいる。
総合して、判明したユーリの様子はといえば、
「つまり、何もしてないんだな?」
司令はその報告書に苦笑いで応え、ヒルデはただ申し訳なさそうな顔をすることしかできなかった。
「まあいい、ダメでもともとなんだ、余計なことをされるよりはましだと言うことで、委員会は納得してくれるだろう」
司令自身は納得してないんですね、ヒルデはそう言ってしまいそうになったが、やめた。この計画に隅から隅まで納得している人間はいないのだ。
「ところで、ユカギールに通信を試みた者がいるらしいという例のやつだが」
「はい」
「少なくとも危険な内容ではないし、電波の強さと指向性の中途半端さからして、軌道上の他の誰かにあてた物がどこかで反射しているのではないかと思われるが、自分|宛《あて》だと名乗り出た者がいない。今のところユカギールも放置しているようだからまあ、問題はないと思うが」
無視しているどころか、それこそが破壊|頻度《ひんど》低下の理由だとは司令は気づいていないようだった。ヒルデだけは、かすかに、ひょっとしたらという思いを抱いていた。
むしろ司令は少し真剣に困ったような顔になった。
「被験者の存在に気づいた人権団体が何か仕掛けてきたという可能性もある。そうなったらまずい。発信源は引き続き探しているが、もし今後そのような挑発的な信号に変わった場合は報告してくれたまえ。対処する」
「お言葉ですが、そこまでのリスクを背負ってまで、彼をあのような境遇に置く理由があるのでしょうか」
「彼の行状を詳《くわ》しく知れば、たとえ人権団体でも宇宙で一緒に生活したいとは言い出さないと思うよ。してやれと他人事のように言うだけでね」
「ならば私を送って下さい」
ずっと飲み込んでいたことを、ヒルデはぶつけた。司令は首を横に振った。
「それは駄目だ。君を失うわけにもいかんし、彼が君に依存《いぞん》してしまっても困る。残酷《ざんこく》なのは承知しているが、それでも我々は、彼に賭《か》けるしかないのだ」
裏目に出なければいいですけどね、とヒルデは思っていたが、それ以上強弁はできなかった。
「通達は以上だ、質問はないかね? では出発してくれたまえ」
司令はヒルデではなく機長にそう言って、いっさいを普段のルーチンに戻してしまった。機長はいつものように肩をすくめただけだった。
そんなヒルデのことを知ってか知らずか、次の通信はハカリスティの離脱直後に送られてきた。
むろん、ユカギールでも受信していた。受け渡し時は、警戒用、通信用ともにチャンネルが最大限に開かれる。もし狙《ねら》ってやっているなら最もアクセスに好都合だが、過去の例からいえば、単なる偶然だろう。
「どうせなら私がヒマなときにしてよー」
とサフィールが声を上げたのも無理はないが、逆に言えば彼女はこれをノイズとしてスルーしてしまうつもりがなかったとも言える。
「また歌にでもするつもりじゃないだろうね」
ユーリはサフィールをからかってみた。
「かくいう艦長も、気になるから来たんじゃ」
「そんなこと、あるわけ、ないだろう。ちゃんと次の食事が届くかどうか確認しにきただけだ」
「では、きちんと食べていただけるのですね。千早が喜びます」
セピアが絶妙の間で指摘した。
「そうでなくたって、つまり、確認するのは立場上、仕方ないからだ」
「職務に使命感をもっていただけたということでしょうか。いずれにしても好ましいことですが」
これ以上言い返せなくなって、ユーリは絶句してから、ようやく観念したようにつぶやいた。
「……悪かったね、ヒマなだけだよ。ただの間違い電話でも、鬱陶《うっとう》しい宗教の勧誘よりはましだってだけの話だ。これ以上言うと壊すぞ」
と言いながら、最近はあまり壊さなくなった。
いいかげん飽《あ》きたのか、ロボットに親しんできたのかはよくわからないが、彼女たちにしてみれば一安心だろう。
「で?」
「歌ってる余裕はないから、素のまま流し込んでます」
「余裕があっても変な歌にするのはやめろと言っているだろ」
と言いながら、結局ユーリは作業が終わるまで待っていた。
今回も、内容はたわいないものだった。だが、少しひっかかるものがある。
〈星空を見ていました〉
誰でも書きそうな日記の一節。だが、彼女? は知っているのだろうか。その星空の輝きの中に、ユカギールが紛れていることを?
〈私の住んでいるところは、山に囲まれ、森に囲まれ、
町よりも高くて、星がとても綺麗《きれい》に見えます。
貴方が、同じ星を見ていてくれたら、
よく、そんなことを思います〉
悪いな、見ていないよ、とユーリはつい思ってしまった。地球を見て、握りつぶしたい、なんて思うことは彼女にはきっとないのだろう。
山と森と澄んだ空気を讃《たた》え、まだ見ぬ海にあこがれ、そうかと思うと眼下の町の灯《ひ》をともす知らない人のことまで詠《うた》う言葉が続いたあと、メールはこんなふうに終わった。
〈この星空を越えて、私の声が届きますように〉
それは、ここよりも遠いどこかのことなのだろうか。
他の宇宙施設のどれかを意味しているのだろうか。
あるいは、漠然《ばくぜん》としたどこか遠く?
それとも……
ユーリにはその漠とした期待と想像とを、流し去ることができなかった。
『一番ありそうなのは、月面基地かどこかに当てたものということですね』
セピアの分析《ぶんせき》は冷静ではあったが、同意は得られなかった。
『反対側でありますが』
位置関係に関する指摘はやはり水雷部《すいらいぶ》からだった。
『衛星で中継《ちゅうけい》していれば遠回りになります。そのサイドローブでは』
『たしかに電波の出自はそうかも知れませんけどお』
サフィールが、その内容を吟味《ぎんみ》しなおしがてら意見した。
『この内容、前回のに返事があったとは思えないっすよ。もし誰かが返事をしてたら、そのことに触れてるんじゃない? お返事ありがとう、とか、とても嬉しかったです、とか書くっしょ』
『だから、どこ宛にしても返事はなかった。けどこの人は送り続ける。多分これで終わりということはないでしょう』
『たしかに、万一ここ宛だったら返事はしたことがないよな』
『それは禁止されています』
『知ってはおりますが、艦長という人は、禁止されていると言われるとやりたくなる性格ではありませんか』
『あー、やりそう。でも通信機器はあたいらが管理してるんだし、最近はこれのおかげでこっちは面倒が減ってるんだから、ほっといていいんちゃう?』
シレナの言うとおりだったので、彼女たちは過剰《かじょう》に心配するのをやめた。
繋がりっぱなしのボニータも会議は監視していたはずだが、何も言わなかった。
セピアは実りのない議論から現実へと帰った。
それからも、通信は届き続けた。
平均すれば、週に一本。船務部の二人は余計なことはせずに、ただそれを今までどおりに受信し、読み上げ、保存した。
ボニータが担当のときはそれで普通だが、サフィールがさっぱり出しゃばらなくなったのは、繰り返しの厳重注意が効《き》いたのだろうか。壊されることを恐れないロボットもいるが、そうでないのもいる。
もっとも、ユーリ自身、ロボットを壊すひまがあったらむしろ部屋でモニターに向かってぼんやり浮いていたり、かと思えば嫌っていたはずの地球を眺《なが》めに行ったりすることが多くなった。
ゲームにはあいかわらず手をつけていないが、映画は戦争物以外ならたまにタイトルをあさっているようだった。実際に見るには至っていないのは、やはり寸前で何か心がとがめたのだろうか。
それだけのことだが、セピアの観察記録によれば、ここに来て以来彼が何かを気に入るということ自体が珍しいことだったので、それに水をさすようなことはしなかった。
〈雨があがった、ある午後のことです。
風がとてもさわやかだったので、外に出てみました。
晴れ上がった青い空に、白い月が浮いていました。
うっすらと溶《と》け込むような、上弦《じょうげん》の月です。
昼の月というのも、夜とはまた違って、とても綺麗です〉
例によってそんなことばかりのメール。彼女はよほど青が好きと見える。
青と白。こちらから地球を見ても、地球から月を見ても、青と白。
だが、一見なにげないその内容が、思わぬところで注意を引いた。
「白い……月?」
ユーリははたと気づいた。
――白い月を眺めてる?
この文面だと、交信相手は少なくとも月にはいない。白い月を見て、「貴方はそこにいるのですね」と続いていれば、これは月宛の通信だとはっきりする。だが、そうではないのだ。
むしろニュアンスとしては、月を見られない相手を想定しているようにさえ思える。
『まあ、月にいれば月の全体は見えないけどねー』
ボケをかましてみたかっただけらしいが、サフィールは受けなかったことにまた落ち込んだように見えた。笑いのセンスも流行を外れたのだろうか。
『考えられる宛先のプロフィールがいよいよ不明だ』
『もしかすると、病弱で外に出られない人かも知れませんね』
『潜水艦《せんすいかん》勤務の海軍軍人という可能性はありますまいか』
『まさか地球|圏《けん》の外に向けているとも思えませんが』
『それを言ったら、ここだって月は絶対見えないんですけどね』
映像をつけるとすれば肩をすくめていそうな感じで、明が言った。
それだけはない、と皮肉を言っているはずなのに、セピアはそう受け取れなかった。
『そういう結論を期待するのは尚早《しょうそう》です』
誰かがユカギールの、ユーリの存在を知って送っているという可能性は、外宇宙宛という可能性と同じくらいに低い。
しかし、「期待」しているのは、いったい誰だろう。
明が本気かどうかは皮肉に紛れてわからないが、セピア自身には間違いなくあった。
期待と、それと同時に不安も。黙ってはいるが、ユーリにとってもそうなのではないか。そのことに気づいてしまったことは、皆と共有するべきだろうか。
『発信源のほうは、ほぼ特定できているのですが』
勤務中のボニータが割り込んだ。全員の注目を集める。
『そうなのですか?』
『一見不定期に見えますが、受信状態が特に良いときだけを選ぶと、地球上のある経度と本艦《ほんかん》の位置関係が一定の範囲のときに限られます。そのときの受信角度から緯度《いど》を算出すれば、おおまかな位置は割り出せます』
『でも、わかったって、どーしよーもないのよねえ』
どうにかしよう、と言い出す頃合ではないか。セピアはユーリの忍耐力を計算して、そろそろまた壊される覚悟《かくご》をしておこうと結論した。
ここであるわけがない。
だが、それを認めてしまったら、毎回これを受け取っているユーリの気持ちはどうしたらいいのだ。
それよりも知りたいのは、この通信の送り主のことだ。
今まで来た内容から、女性だということはほぼ特定されている。情景描写からすれば、中緯度域の、あまり都会でないところに住んでいる。
女性といっても、現実に知っているのは組織の職員やいやらしい芸能人、逃げた母親。そんなのと同じであるはずがない。そうでなければあのロボットたち。それも違う。
そんな連中が、あんなに何を見ても美しいと感じるわけがない。
――星を眺め、
緑に抱かれ、
あふれる命に涙し、
そして風に微笑《ほほえ》む――
なぜそんなに、何もかもを誉《ほ》められるんだろう。どうやったら、そんな人間が存在しえるのだろう。ユーリにはどうしても理解できない。そんなことをして何か得があるのかと考える自分のほうが恥ずかしいほどだ。
そして、未だに誰からも返事はないらしい。ただ一方的に、届く宛もないメールを宇宙に流している。
返事がないから、来るまで続けるつもりなのだろうか?
それとも、来ないと知っていてやっているのだろうか?
あるいは、まさか、とは思うが、ここからの返事を待っているのではないだろうか。
どうせなら、そうであってくれればと思ってから、根拠《こんきょ》のない期待を抱いている自分のらしくなさに苦笑するしかない。
だいたい、お門《かど》違いだったらどうなるか。嘲笑《あざわら》われて終わりだろうか。
そんなことをするだろうか。よりによって彼女が?
しない、と思いたい。だが考えれば考えるほど、彼女のことがわからなくなる。
今までは、知りたくもない相手の知りたくもない本性ばかりわかって困った。なのに今ではすっかり逆だ。調子が狂って仕方がない。
こんなにも他人のことを知りたくなる日が来るとは。こんな思いをすること自体が、ユーリ自身にとって意外だった。
「要するに、返事を出してみればわかる、そうだろ?」
「え、それは」
ボニータは口ごもった。まさかサーバ内でロボットが井戸端会議をやっているとは知らないユーリは、事情を最初から知っている船務にだけはこの話をできた。
「そろそろ発信源がわかるくらいに貯まってるよね。技術的にできないとは言わせないよ」
「で、でも」
「それは禁止されていると、繰り返し申し上げております」
壊され役をかって出るかのように言ったのは、やはりセピアだった。
「おまえはまた、いつもいつも。そんなに壊されるのが好きか」
「それでユーリ様の気がすむのでしたら」
「どうしてそういうことを言うんだよ。一番僕のことをわかっているんじゃないの?」
ごく小声でつぶやいたのは、他のロボットたちには聞こえてはいまい。
「はいは〜い、なんだか知らないけど、落ち着こうね。千早ちゃん、食堂につれてくから水出してくれる?」
いつの間にか世話係になったU99が、後ろから抱きついて連れて行こうとする。
「今日はセクハラはなしか」
「期待した?」
「いいや」
「残念。せっかくバニーが入荷したのに」
それなら最初から着てくればよさそうなものを、U99はいつものナース姿のままだった。
ボニータは連れて行かれるユーリと着いていくセピアを、黙ってじっと見送っていた。
いつか、もう一度同じことを求められたら、そのときは――どうする? ……そんなことを考えながら。
バックアップ要員は、待機中にこの一幕を知った。
『これは、次の補給で報告するべきでありましょうか』
ジュリエットの提案。
『そうだねえ』
とサフィールもうなずく。
『そしてまた、余計なことして壊されるだけ、と。CC03ならこう言うね、無駄なことを、と。でしょう?』
明が割り込んだ。本当に無駄だと思っているのか、CC03は入ってこなかったが、二人はその危険性を認めた。
「何があったんだ?」
さすがに司令も顔をしかめた。
「どうやら、例の混信がユカギールでも受信されていて、その内容を気にしているらしいのです」
ヒルデはそう述べたが、その情報がジュリエットとのささやかな「協定違反」によって得られたとは言わなかった。
あのあと彼女はジュリエットが残した「?」に答える衝動《しょうどう》を抑えきれなくなって、ついに前回、掟《おきて》を破ってしまった。ぎりぎり送ることができた、たったの12バイト。船内事情が聞けるのは、ロボットが理由に納得してくれたからだろう。それをユーリに伝えたかどうかはわからない。
自分がこんなことをしているのに、返事を出したいというユーリを責める資格はないだろう。
「まずいかな。やはり人権団体やジャーナリストがゆさぶりをかけていると思うか」
「それなら、普通、彼の境遇に同情を示すような内容にしませんか」
「ふむ」
ギュンター・ウェントでは例の通信について、実はすでにそういう策謀《さくぼう》の可能性をほぼ否定していた。なにしろ、内容がたわいなさ過ぎる。
あるいは、宇宙長期滞在の人間にホームシックを起こさせて暴動でも起こさせようというのだろうか。それなら効果はありそうだ。
なにしろ、「少女の手紙」にはだいたい、身の周りに見られる地球の小さな美ばかりがつづられている。だがそれなら、たまに宇宙や月を賛美《さんび》するのはどういうことだろう。
結局、中身どおりのものと考えるのが一番で、それをまず謀略《ぼうりゃく》と思ってしまうことがすでに心が病《や》んでいる証拠ではないか。ヒルデはそんなことさえ思ってしまうのだ。
「だとしても、影響を放置してはおけんな」
「私が直接、様子を見てきます」
ヒルデはここぞとばかりに勢い込んで提案したが、司令はじろりとにらんで直ちに却下《きゃっか》した。
「そう言うと思ったが、君では良い結果にならんと思うね」
「誰にとって、ですか」
「むろん我々にとって、だ。|GNOSYS《グノシス》は更正《こうせい》施設ではなく軍事組織なのでね。この件についてはロボットに何とかさせるしかないだろう。そのための|UM01《セピア》だ。通信については、あまり差し障《さわ》りがあるようなら止めさせる。発信源はつかめているんだ」
「だ、だったら」
ヒルデはあわてて申し入れた。
「そちらに私が行きます。次の休暇《きゅうか》上陸のときにでも」
「許可できない。軍属のものが行けば、どこにアクセスしているのかが相手に知れる。そうなったら逮捕《たいほ》するしかなくなってしまうぞ」
そうなってほしくない、と司令は言うのだろうか。
だとしても、何とかしたい。
ユーリに届くのは、いまや少女の言葉だけなのだから。
〈外に出られないときは、よく外国の風景を求めて本を開きます。
私は国から出たこともなく、海にも行ったことはありませんが、
こうすればどこへでも行き、何でも見ることができます。
この星のまだ見ぬいろいろな姿に、
会ったことのない人々に、心を馳《は》せることができます。
今日読んだ本では、私の国から見えないところ、地球の裏に、
星へ登る塔《とう》があるといいます。
緑の樹海と、青い海とが出会うところ〉
それはユーリが登ってきたあの軌道エレベータのある、熱帯の島のことだろうか。ただ暑いと思っただけで、風景など気にしなかった。
〈碧い森に生きる人々がいて、蒼い海の恵みで生きる人々がいて、
そしてたくさんの人々が、星の世界へ旅立つのだそうです。
私の国からは見えない南の星々も手に届くように見えるのですか?
南十字を、南の塔から見上げたら、どんなにか美しいでしょう。
私には想像するしかできませんが、貴方と一緒だったらきっと楽しいのに〉
……文句だけで素通りして島が、とたんに惜しくなってきた。
自分は一体どこを見ていたのだろう。
彼女が誰と見たいのか、それはもう二の次だ。
せめて、星空ならばまだ間に合うだろうか。
『南の星々も手に届くように見えるのですか?
貴方と一緒だったらきっと楽しいのに』
ユーリがその言葉をつぶやきながらぼんやりと艦橋に上がってきたとき、当直はボニータだった。他には誰もいない。静かだった。
「何かご用ですか。通信は入っていません」
ボニータはつとめておとなしく、最小限のことを伝えた。
「いや、そうじゃない……」
ユーリは何か言いにくそうに口ごもってから、たどたどしく、とぎれがちに訊《たず》ねた。
「この船は、たしか、監視用の望遠鏡がついてるんだった、よね」
「はい」
電子戦装備ばかりがクローズアップされるユカギールだが、もちろん光学観測手段も持っている。太陽系外に出現した宇宙船がよほど小型でないかぎりその姿をとらえることができる。もし天体観測に使えば、第一級の宇宙望遠鏡として使えるだろう。
そしてユーリはまさに、それを要求した。
「その映像、ここに映せるのか」
「できますが」
「やって」
ボニータは言われたとおりにした。眼下? の地球は夜。太陽系の外に向けられた望遠鏡のデジタル合成画像が、艦橋にあざやかな星空を映し出す。
大気の邪魔《じゃま》を受けない、文字通り満天の星。
天文学にも無知なユーリでさえわかる土星が、はっきりと区別できた。
「おまえはいつも、これを内部で見ているのか」
しばし眺めてから、おもむろに聞いた。
「データは常時処理していますが」
「それは見ているのとは違うのかな。綺麗だとか、思ったりする?」
「それは……」
中を通過するときは、どんな景色も数字である。
だがボニータはその事実を言わなかった。仮に見えるとしても、美的なことについては、サフィールに聞くべきではないかとも思った。
黙っているのを、ユーリは肯定《こうてい》と受け取ったのだろうか。
「そうか、これを綺麗っていうんだな」
今まで彼は星空を見たり、見て感動したことはないのだろうか?
そのときボニータはやっと、ユーリが「手紙の少女」と共感したいのだと気づいた。
一緒に星を見たいのだと。
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第五章 離 〜ionosphere〜
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「ここ?」
ヒルデは組織がつかんだ発信源データを地図とつき合わせて、軽い衝撃《しょうげき》を覚えた。
地図上のそこは、たしかに文面から予想されるとおりの北半球、中緯度《ちゅういど》の高原。背後に有名な高峰《こうほう》を頂き、生活に疲れた人々が地球の美に癒《いや》されに来るような土地。
ただしそれは、昔のこと。
今、とくに組織の使う軍用座標図には、それをすべて覆《くつがえ》す冷たい記号が記されていた。
Sb2k。
それは天空からの爪痕《つめあと》。
迎撃されたSb2の26の破片が、軌道《きどう》要素に沿って地球をなぎ払うように残したクレーターの一つ。
二十年前の記録によれば、その平均破壊力はちょっとした戦術|核《かく》並みであった。十三番目の衝突地点、k点は衝撃によって山の形が変わり、ふもとにひっそりと息づいていた観光地はその時を境に地図から消えた。
それを知る者にとって、Sb2kという言葉から連想できるものはただ、恐怖だけのはずである。でなければ、多くの犠牲《ぎせい》を払ってまで|GNOSYS《グノシス》など作られない。
どんな心の持ち主なら、そんなところからこんな手紙を出せるのだろう。
今まさにユーリと同じことを思っているとは知らずに、ヒルデは残された最後の手段を講じた。
そのときは、そう信じた。
ユーリは今日も、地球を見ていた。
最初は、つぶしてしまいたいと思った。
だが、今はあの中に彼女も住んでいる。そう思うと少しは印象も変わる。
青ざめた玉ではなく、青に込めた思いでできた玉。
青想圏《せいそうけん》、ペイル・スフィア。
辞書にない、彼女の言葉。
もしも彼女に返事を出せたなら、何を書こう?
出させろ、とごねたくせに、何をどう書けばいいのかもわからない。
ただ「君は誰《だれ》なんだ」と、それしか聞くことが思いつかない。本当はもっとあるはずなのに、それを言葉にできないもどかしさが、よりいっそうユーリを苛立《いらだ》たせる。
こんなにも彼女からメッセージをもらっておきながら、それだけしか書けないのではいかにも気が利《き》いていないように思える。
せめて彼女が美しいと思っている地球が、ここからどう見えるかくらいは伝えたい。
できることなら、もっと、いろんなことを。
誰にも届かなかった声も、この人にならきっと届く、そんな気がする。
――もはや僕には彼女が必要で、
でもきっと、彼女にも僕が必要なのだ。
届ける相手が。届いたと言ってくれる誰かが――
でなければ、こんなに何度も呼びかけたりしない。
きっとそうなのだ。今までは勝手にいらないことばかり聞こえてきたから、他のことを聞かせてほしいとも、こっちの声を聞いてほしいとも思えなかった。
なのに、今度ばかりは違うのだ。
それだけのことに、こんなにも焦《こ》がす心があったとは知らなかった。
だが、そういう表現をユーリは苦手だった。というより、己《おのれ》の心を表すための教養とは無縁だった。
かつて「地球は青かった」の一言で世界中を感動させた人物も同じユーリという名前だったと、最初に聞かされたときは組織の嫌がらせと思ったものだが、今ではそっちのユーリがうらやましくさえある。
だが、とても同じ手は使えない。どうしたものだろう。
しまいには、あれほど嫌がっていた映画の中から、古い宇宙飛行士ものを選んでむさぼるように見さえした。彼らがなんて言ったか、参考になるかと思ったのだ。
残念ながら、アメリカの飛行士たちは言うことが直接的すぎてあまり詩的ではなかった。ビューティフルやゴージャスを乱発するのは趣味じゃないし、彼女も感心してくれないだろう。サフィールの評では、文面から受ける彼女の印象は繊細《せんさい》で素朴《そぼく》だという。
その程度も自分で判断できない。いっそ彼女とテレパシーが通じればこんな思いはしなくてすむのに、彼は望む物だけはどうしても聞こえないのだ。
それはつまり、彼女はユーリが知りたくないような本音を隠してはいないのだと思って納得するしかない。
とにかく、映画の中の宇宙飛行士はあてにならないと判断し、あらためて自分で地球を眺《なが》めてみた。
うまい表現以前に、自分はちゃんとこれを美しいと思っているのか、と自問する。そもそもつぶそうなんて考えた時点で何も感動していないのだから、うわっつらだけ感動的な表現なんて、出てこなくて当然だ。
いい返事はちょっと書けそうにない。そう悟《さと》ると、誰の毒電波を受け取るよりも、自己嫌悪に陥《おちい》ることができた。それ自体もやはり、ユーリには少し意外だった。
次の通信が届いたのは、ちょうどその自己嫌悪が募《つの》った、微妙なタイミングだった。
それは同時に、微妙に定期的に近かった今までのパターンから少し外《はず》れてもいた。
「何か、よほど感動的な風景でも見たのかな」
そんなことを期待して早速船室のモニタで読み始めたユーリは、すぐに困惑気味の顔になった。今回の手紙は少し、雰囲気《ふんいき》が違う。
「何を言っているんだ、これは」
最初、それが少女のものとは信じられなかった。ユーリはすぐに繰り返し読んだ。
ある意味、それは今までよりもはっきりしたメッセージだった。
なにしろそれは、ヘッダからして名指しでユカギールに、ユーリに宛《あ》てられていたのだから。
〈私の声を聞いてくれている、貴方《あなた》がいるということが
とても嬉《うれ》しく思います〉
――なんで届いていると知っているのだ。こっちからは返事を出していないのに――
だが、それどころではなかった。どうやら彼女は、ユーリの置かれた状態や精神状態までもある程度知っているらしいのだ。
〈いつも見ている、この大好きな青い空の彼方《かなた》に、
貴方という人がいるのですね。
遠く、星の海にたった一人。
寂《さび》しくはないですか。
泣きたくなることはありませんか。
そんな貴方の心を、私のせいで乱してしまったのですね。
でも、これだけはわかってください。
悲しむことはないのです
一人だなんて思わないで。
貴方を心配している人が、すぐ近くにいます。
貴方は気づいていないけれど、
愛してくれている人がいるのです。
貴方は孤独《こどく》などではありません〉
「誰のことだよ」
心当たりがなかった。彼が知っているのは悪意に満ちた軍人と学者、そして心のないはずのロボットだけである。
――彼女自身がそう思ってくれているとでも?
そんなはずはない。
誰なんだ、君は?
どうして、そんな見透《みす》かしたようなことが書けるんだ?
一人じゃない? 一人じゃないか。
何を知っているというんだ。どうせ本当のことなんか、わかるはずもないのに。
わかってしまうことは、けして嬉しいことではないはずだ。
でも、もし本当にわかっているというのなら、愛されてるなんて嘘《もつそ》を書くな。嘘でないなら、それを示してくれ。
できるわけもないくせに、それなら、それなら――
どうしていつものように、蒼《あお》い星の詩だけにしてくれなかったのか。
手紙から、本当の声は聞こえてこない。ただユーリには、最後の一文がどうにも許せなかった。
〈闇の中を漂《ただよ》って、星々の使いを待つ。
たしかに寂しいでしょう、けれど、そんなときは思い出してあげてください。
一人ではないと。
お仕事、がんばってください。
それはきっと素敵《すてき》なことだから……〉
「わかってないじゃないかっ!」
最後まで読む前にモニタが弾けた。力を使ったのか、殴《なぐ》ったのかユーリは覚えていない。
誰宛か知らないけど、いつのまにか、自分ならいいのにと思っていた。
自分に向けられていると思いこもうとさえしていた。
そしてとうとう本当に、自分宛に届いた。
本当なら喜ぶべきことだ。嬉しくないはずがないのに、だけど。
こんな言葉ならいらない。見たくない。見たくなかった。
もし、本当にわかってくれているとしたら、そのうえで自分に宛ててくれたのなら、きっとどんな人なのか教えてくれると思った。それは絶対に、知っているあの嫌な連中とは全然違う人のはずだった。
せっかく、この世には綺麗《きれい》なものがあると教えてくれた人だから。
蒼い色に託《たく》された寂しさを、笑って受け入れてくれるように思っていた。
――それなのに!
こんな仕事になにも素敵な事なんかない。それをがんばれなんて、一番欲しくない言葉なのに。彼女も結局、他のやつらと変わりはしなかったのか。
とにかくそう思った瞬間に、ユーリの体からすべての力が抜けた。
「そのことを伝えましたか」
何を言われたのか、ユーリには一瞬、わからなかった。自室の壁に力なくもたれて、セピアが入ってきたのにも気づかなかったらしい。
その理由を知っているかのように、セピアは続けた。
「貴方がお怒りを向けられている相手は人間ですから、私のように壊されて学習というわけにいきません。貴方がどう思いこんでどう怒ったところで、それを伝えられないのであれば、わかってもらえるわけがないのではないですか」
「どうやってだ、いまさら!」
いまさら。
言葉なしに声を聞き、思いと無関係に扱われるうちに、人に何かを伝えることなど忘れていた。伝えるべき言葉を探してみても、何も思い浮かばなかった。それをどれほど悩んでも、どちらにしろ通信は禁止されている。ここに来てしまった時点で、いまさらもう、何もかも遅かった。
どうせすべては一方通行で、どこにも届きはしない。そのことは、セピアだって知っているはずだ。
知っているはずなのに、いまさら、彼女はそうしろという。ロボットのくせに、それを当たり前のことみたいに言う。
いや、だから、なのか。
彼女たちは、赤ランプやオシログラフではなく、言葉で人と語るように「作られている」のだから。
機械以下に甘んじて、このままにしておくのは、嫌だった。
「……いずれジュリエットたちがまた補給艦《ほきゅうかん》と接触します。そのとき伝える手段を考えてはいかがでしょうか。おそらく……」
ハカリスティならば可能性が開ける。そう言いたかったのかどうか、セピアはなぜか口をつぐんでしまった。
ユーリはいずれにしろ続きを聞くつもりはなかった。
「そんなに待っていたら僕がおかしくなっちまう……そうだ!」
ユーリは突如《とつじょ》、口元を歪《ゆが》めた。
「そうだよ、言いたいことは言えばいいんだ、そうだろ?」
そして床を思い切り蹴飛《けと》ばして、扉へと向かった。
「止めても無駄《むだ》だぞ!」
そのまま、通路へと飛んでいく。たまたますれ違ったシレナは何だかわからず、いつものようにからむこともできずにその後ろ姿を見送った。それからやおらセピアに顔を向ける。
「いいのか、あれ」
何をやるつもりにしろ、ユーリが血相を変えるようなことが艦《ふね》にとって良いことと判断できるデータは持っていない。
「止めるのが任務上は正しいのでしょうか」
セピアはまるで迷っているかのように答えた。
「正しいもなんも、あたいら基本的にGNOSYSの備品だし」
「ですが本来は違います。みな、何らかの理由で手放され、買い取られたもので――私自身についていえば、今でも、ユーリ様のお世話が第一任務です。彼は間違っているかもしれませんが、GNOSYSの計画自体が彼にとって間違ったものなら、優先するべきかどうかは判断しかねます」
「ようするに、どうするのがあの子のためになるかわかんなくなっちゃったと。どこまでも健気《けなげ》なお姉さまだこと」
シレナの言い方が妙に人間|臭《くさ》いせいか、セピアは顔をうつむけて小声で答えた。作りつけの表情が眼鏡《めがね》の反射に隠れて、恥じらいにも見える。
「私自身に、憎まれたと信じた経験も、それ以上に愛された経験もありますから。貴方にも、それを理解する性能は与えられているはずです」
「わかりたくなったら参照させてもらうわ」
シレナも保護ゴーグルを降ろした。まるで顔色を隠そうとするかのように。
ユーリは艦橋《ブリッジ》に上がった。
感情をそのままキーボードに叩《たた》きつけ、支離滅裂《しりめつれつ》一歩手前の文面をろくに推敲《すいこう》もせずに一気に編み上げたのだった。
――おまえは誰なんだ、
どこで僕を知ったつもりになった?
僕の何がわかるって言うんだ! ――
書き始めてみると、あれほど気に入っていたはずの彼女の素朴なフレーズにもいちいち文句をつけている自分に気づくが、止められない。
――風が吹いても楽しいやつに、
猫が転んでも嬉しいやつに、
本当の寂しさなんてわかるものか! ――
ここに風はなく、猫もいないのだ。声を限りに叫んでも誰にも届かない。叫ぶことさえ許されない。
届いていますか、なんて呑気《のんき》に尋《たず》ねることさえできないというのに。
人の声を聞いてもくれず、ただ聞きたくもない声を押しつけられて、一人こんなところに捨てられたというのに。
――それでも君は世界を讃《たた》えられるのか?
それを、素敵なことだと言えるのか?
言えるはずがない。
ここは廃物《はいぶつ》の山。
やっぱり青は冷たくて、悲しみの色にしか見えない。
そんな気持ちが、わかるわけ、ない――
船務は交代してボニータが座っていた。彼女はいつでも命令に忠実で、最初の手紙を受け取ったときの当直だった。
駄目《だめ》なら強制的に接続させればいい、と決めて、ユーリは操作席に近づき、書き上げた文書のカードを突き出した。
「これは?」
「送信しろ。あの手紙の差出人に返信するんだ」
交渉《こうしょう》なんかいらない。直球だ。
ボニータは、ユーリの形相をじっと見つめて、一度だけ問いただした。
「あの、それは規則違反だということはわかっていらっしゃいますね?」
「そんなことは知ってるさ。だけどこれは、どうしても言わずにはいられないことなんだ! いいかげん、技術的に無理とは言わせないぞ」
駄目か、とユーリが仕方なくあの脳に蠢《うごめ》く「もの」を呼び起こそうとしたとき、意外にもボニータはあっさりそれを受け取った。
「発信源に直接伝送しますか、それともメールとしてネットワークのどこかに紛《まぎ》れ込ませましょうか?」
「……わかってるんなら直接ブチ込め」
他の誰にもわかる必要はない。彼女にさえ、伝わればいいのだから。
勢いにまかせて命じてしまってから、ユーリは気づいた。
「わかったんだ、本当の発信源」
「はい――ただいま送信を完了しました。時間的にやや角度がずれますが、たぶん届くでしょう。場所はここ、Sb2kクレーターのすぐ近くです」
「クレーター? けど、手紙には周りの景色はきれいだって」
「どうしてそう書いたのかは、わかりません。返事が来てくれるなら、書いてあるかもしれません。あの文面に返事を出す気になるかどうかは別ですが」
何か皮肉なことを言われたような気がする。明《みん》ならともかく、ボニータはそんなことを言うようなやつだっただろうか。
「文句があるなら、なんで送った」
「何もしないよりは、よいかと思いまして。……不思議そうな顔ですね」
たしかに、そんな顔をしていただろう。すんなり受け入れられるとは思っていなかったのだから。
「私、艦長《かんちょう》のようなテレパシーは使えませんけど、人の顔色を見るのは得意なんですよ。そういう職場で使われていましたから。みなさん、よく私をはけ口にして壊してくださいました。そのたびに学習するのですが、どう行動を修正しても、必ず誰かには気に入られないもので、結局また、よく壊されましたが」
[#挿絵(img/Pale Sphere_205.jpg)入る]
想像してみようとしても、できなかった。OLみたいなものは組織にもいたが、それがどんな職場なのかは知らなかったから。
「壊されると、顔色を見るのか」
「壊されるのは嫌ですから」
「痛くもないくせに」
「そうです、機械的には」
まるで心があるかのように、ボニータは痛そうな顔をした。その顔が、髪を曲げたときのサフィールの怯《おび》えやジュリエットの悲鳴、シレナの怒りとかぶった。
そういえば、考えたことはなかった。廃物と決めつけた彼女たちが本当はなんなのか。なぜここにいるのか。何一つ。
「いずれにしろ、これきりでしょうけど」
突然、ボニータはそれ以上語るのをやめて、ユーリを現実へと突き放した。
「これきり?」
「今の電波は司令部に受信されたでしょう。厳重な注意が予想されます。それだけならいいのですが」
一拍《いっぱく》置いて、誰もが最も恐れることを告げた。
「第一勢力の潜伏《せんぷく》偵察機《ていさつき》に察知された可能性もあります。艦長として責任をとるお覚悟《かくご》はできていますね?」
覚悟も何も、そんなことは忘れていた。
ここにいる理由など、忘れたかったのだから。
使命感など、感じたくもなかったのだから。
最初にやってきたのは敵でも組織でもなく、身内であった。
「なんてことをしてくれたんです」
もはやサーバ内でもめている場合ではなく、ロボットたちは直談判《じかだんぱん》に現れた。
「わ、悪いか!」
ユーリはむきになって開き直ろうとしたが、顔が真っ赤に染まることを止められなかった。
「悪い。規則違反、予定外のエネルギー消費、無駄な危機」
簡潔《かんけつ》に並べたのはCC03。
「名前もないくせに偉そうに!」
「ある」
CC03の「本名」はヴィクトリアと言った。だが長いので、本人がコード名だけで通しているのだった。
「半角でCC03なら8バイト。無駄な脱線でごまかさない」
「そんなケチなロボットに僕の気持ちがわかるかっ!」
「ケチなのは艦長っすよぉ。歌っちゃだめって言っときながらこんなことを」
「それしか能のないポンコツと一緒にするな!」
ひどいことだとわかってはいた。だが言わずにはいられなかった。
――みんな廃物。捨てられたもの。
だから少しはわかってもらえると思ったのが間違いだった。機械に心がなくてせいせいしたのだから、心が通じるわけはない。
「何も知らないくせに。僕のことは誰も、何も」
「何も知らないのはお互い様でしょう。勝手に一人ですねないで下さい。少なくとも気にかけている人はいるんです」
あの手紙と同じような言葉。
「利いた風な口を! おまえらが一体何を知ってるってんだ。そんなやつ、いるものか!」
「それは、姉上のことかと」
口をすべらせたのはジュリエットだった。
ようやく受け取ったわずか12バイト、すなわち「sister」、それだけの素朴な事実。ゆえに次の瞬間のユーリの反応はまったく予測できなかったに違いない。
「姉って、だれだ?」
「だれ?」
「僕には家族なんかいない。父さんは死んだし、母さんは逃げ出した! 他に兄弟がいるなんて聞いてないぞ!」
ユーリのこめかみに、ありありと青筋が浮き上がっていた。ぐるぐると頭の奥で「あれ」が回る。目が血走り、今にもPK波を噴き出しそうなオーラを機械にもわかるほど発散していた。
もちろん、ジュリエットのみならず、ユカギールの基本データベースにはユーリの家庭事情については特に詳《くわ》しい情報がない。「姉がいる」とはあっても「存在自体を知らない」などと書かれてはいなかった。
「どこのどいつなんだ、それは。おまえが知っている以上は組織の人間だな?」
キレそうなわりには的確な指摘だった。ジュリエットにはもとより嘘をつく能力もないが、軍事機密をしゃべらないためのガード機能はある。しかし、それを働かせる余地はなさそうだ。
「は、はい、補給艦のクルーであります、サー!」
「どうやって知った。知っててなぜ黙っていたんだよ」
「え、それは、その」
さすがに規定外の通信についてしゃべるわけにはいかないし、止められてもいた。だがユーリの忍耐力は機密の壁よりもろかった。
「言えないのか!」
その瞬間、解放された念力がジュリエットの中枢《ちゅうすう》を襲《おそ》った。といっても、主電源の電極が曲がっただけだ。それだけで、彼女は全電源を断たれて機能を停止した。省力型の量産機は、ごく限定的な予備電池のほかに予備電源などという贅沢《ぜいたく》なものは持っていない。
文字通り魂《たましい》を抜かれた人形となったジュリエットを見つめる。
彼女を壊すのは二度目。あのときの彼女も、痛がっていた、のだろうか。
そんなはずがあるものか。
胸にちくりと来たものをジュリエットの体と一緒に放り出して、ユーリはその形相とエネルギーを保持したままサフィールに詰《つ》め寄った。
「補給艦とのランデブー記録を全部よこせ、ここにある組織の人員資料も全部だ」
「は、はい」
サフィールが応じたのは、脅《おど》されたからではなかった。別にそれは機密ではない。艦長という立場で閲覧《えつらん》できないはずはないのだ。
ただ、それまでユーリ自身が、関わる人間すべてを十把一絡《じっぱひとから》げに脳内の同じ籠《かご》に放り込み、蓋《ふた》をして、放置しておいただけなのだ。
「データ、全部だと結構な量ですけど、どうしましょ、読み上げるととっても時間がかかりますけど」
「食堂の端末に回せ。千早《ちはや》、ありったけのプリンを出せ!」
普段ならハンストになるところだが、限界を越えるとそうも行かないようだ。むしろ怒りと破壊のエネルギーを維持《いじ》するために、やけ食いに走ることになったらしい。
「そんなに熱くならなくても、発散するなら私が……」
いつものようにU99がまとわりついてきたが、今日ばかりはユーリは逃げなかった。
「おまえもそうとう壊されたがりのようだな」
「そういうプレイも未経験じゃないよ?」
とても医療《いりょう》用とは思えない発言も、今やユーリの怒りをそらすことはできなかった。そのまま引き連れていく。
艦橋を去り際《ぎわ》に、ユーリは一度だけ振り向いた。
一番、何かを知っていそうなセピアは、ただ黙って成り行きを見守っているだけに見えた。
補給艦だとわかれば後は簡単だった。
余計な交信が記録されているのはただ一機、爆撃機「ハカリスティ」だけであり、その乗員リストに女性は一人しかいない。
ユーリが「ヒルデ・ケスキネン」の名前と経歴を探り当てたころ、食堂には一ダースあまりのプリンの容器と、その食べ方に苦言を呈《てい》したばかりに破壊された千早、そしてやはり、どういう経過でか手足の関節を砕《くだ》かれた素《す》っ裸《ぱだか》のU99とが、無秩序《むちつじょ》に浮遊していた。CC03は特に問題を起こさなかったらしく、破壊を免《まぬが》れている。
「なるほど、僕が乗ってきた爆撃機のパイロットだったのか。ほんっとに近くにいたんだな」
あまりの皮肉に、ユーリはゆがんだ笑いを浮かべずにはいられなかった。
「何かわかりましたか」
遅れて入ってきたセピアは、食堂の状況を予想でもしていたのか、驚きもせずまっすぐにユーリに近づいた。
「なんだい、おまえもこうなりに来たのか」
ユーリは顔を上げずに、漂うU99を差した。
「いやー、こういう激しさはちょっと久しぶりだったよ」
と、懲《こ》りていないようにU99はつぶやく。千早のほうは、そういう軽口を叩く余力を失っていたが、表情は恐怖に固まったままに見えた。
セピアはそれをちらりと見てから、
「謹《つつし》んでお受けしますが」
と答えた。
すすんで身を投げ出すようなまねも、今までは単に機械だからだと思っていた。けれど、皆は機械のくせに痛そうにする。
どうして、彼女だけは違うのだろう。
なぜいつも、彼女なら壊せてしまうのだろう。
捨ててきたはずの胸のうずきが帰ってきた。
「その前に聞くけど、おまえはこのことを知っていたのか?」
「はい」
だとすれば、隠していたことになる。なのに思ったほど裏切りに聞こえなかった。
「とはいえ組織は家族構成については情報を与えてくれませんでした。手がかりは水雷《すいらい》部《ぶ》の交信データだけです。あとは今ご覧になられたとおりの職員情報しかありません。交信についてユーリ様にお教えしなかったのは、私の判断です」
「どうして? そんなことをしたら、僕に壊されると思わなかった?」
「思いました。ですから皆ではなく私が壊されるべきかと思い、参りました」
「だろうね、おまえのことだから」
なぜか信じられた。その時点で教えられていれば、ロボット三体ではすまなかっただろう。セピアはよくわかっている。
「根性の曲がったあの連中がちゃんと教えるわけがないよな。名字が違うってことは、どっちかがよそで作ったわけだ。どっちにしろ、ろくな話じゃない。それを知ってて配置したんなら、組織の連中はもっとろくでもないよね」
「ですが、ここにあるジュリエットの交信記録によれば、ヒルデ様はユーリ様を心配されていたようですが」
「だったら!」
ようやく顔を上げて、ユーリはセピアの眼前に迫《せま》った。
「僕がこんな目にあってるって時に、こんな近くにいてどうして助けてくれないんだ。会いにさえ来ないじゃないか。爆撃機に僕が乗っていると知っててどうして宇宙に放り出したりできるんだ!
心配? 何を心配してるんだ。どうせ組織の一員なんだろ、本当は僕が役に立つかどうかしか心配してないんだ、そうに決まっている!」
「そうおっしゃると思ったから、伏《ふ》せておいたのです。仮にも……姉上なのに」
姉に何か特別の意味でもあるのか、セピアは一瞬口ごもった。が、ユーリはそれに気づかなかった。
「半分くらい血縁だからって、それが何の保証になるんだ。母さんでさえ逃げたのに。結局みんな組織やアカデミーの連中と同じだ、みんな嫌いだ!」
「それでスネてこれか、まったくこのガキゃあ! 機械に甘えるのもたいがいにしやがれッ!!」
いつの間にかいたシレナが強い調子で吐《は》き捨て、さすがにユーリもそれを聞き流すことはできなかった。
なんでいるのか、は聞く必要もなかった。この事態を予測して、修理に呼び出されたのに決まっていた。
「甘えだって? これだけの裏切りにあえばこのくらい普通じゃないのか。それとも僕の知らない世間ではみんなもっとお上品に我慢《がまん》するものなのか?」
「ガマンをやめたいのはこっちだわ、どつきてぇぞ本気で! よけいな修正が入ってなけりゃ、とっくにバラバラにしてっぞ!」
シレナはまた手をドリルに変化させて、憎々しげににらんだ。
「そのわりにはみんな、ずいぶん口が達者じゃないか」
「けっ、それがどうした。昔のパソコンなんざ、勝手に壊れながらユーザーのせいみたいなメッセージ出しとったんだぞ、それに比べりゃ当社比一億六千万倍まっとうなこと言ってるだけだ。それに比べてあんたは、みんながおとなしく壊されてくれるのに甘えてるだけじゃねえか。そんなことでいちいち修理する身にもなりやがれ!」
「だったらこの怒りをどうしろって言うんだ。おまえに僕の気持ちがわかってたまるか」
「ガキはいつだってそう言うぜ。わかるわけないわ、そんな甘えんぼの言い訳なんぞはな! おら、どした、怒ったならやってみろ」
シレナはまったく譲《ゆず》らなかった。そろそろユーリは再び破壊衝動を募《つの》らせ、爆発に近づいているかに見えた。
セピアが割って入るように、まっすぐ前に出て見つめる。
「必要ですか?」
壊してくれ、といわんばかりの態度に、ユーリは戸惑った。今までなら言われるまでもなく彼女を壊しただろうに、今度は、その気がしぼんでいく。
「……いや、いい」
ユーリはゆっくりと身を引いた。きっと本当は彼女も「痛い」はずだ。今になって、そんな確信がもてる。
じっと見つめてくる機械の目を見つめ返す。
「考えてみれば、僕を騙《だま》していたのは組織の連中で、おまえじゃない」
「お姉さまも含めて、ですか」
「ああ、それだけじゃない、あの人さえ……いや、そうか」
ユーリは何かを見つけたとばかりに眉《まゆ》をつり上げた。
「もともと、手紙を出してたのがその姉さんだとしたらどうだ? それならこっちの内部を知っていても不思議じゃないぞ」
「そうでしょうか。発信源は地球ですが」
「中継させりゃなんとでもなる。そうか、そういうことか。なにが心配してる人がいます、だ。僕を騙してたのか、からかってたのか。くそっ!」
姉がいたことよりも、手紙に裏切られたことのほうが悔《くや》しかった。
裏切られた? ということは彼女のことを信じていたということだ。
信じるんじゃなかった。他人に何かを期待するのが間違いだ。
綺麗な言葉にはいつだって裏があり、期待の輝きはどんなに力を尽くしてみてもすぐに失望に変わる。
そんなことは初めからわかり切っていたはずなのに。
ふと、セピアがまだ見つめているのに気づいた。作りつけの笑顔のはずが、妙に悲しげに見えるのはなぜだろう。
「安心しろ、もう壊さないよ。おまえたちのほうがやつらよりましだ。言い忘れることはあっても騙しはしないからな」
「壊されるのは、かまわないのです」
セピアは、喜んでくれなかった。むしろかえって悲しそうに見えた。
「伏せると決めたときから、そのつもりでした。貴方が傷つき人を憎むのを見るよりは、壊されるほうが良かった」
千早に指摘されてから、その自覚はあった。壊されることも含めてユーリを受け入れられるのは自分だけだとセピアは思っていた。その自分はいま健在で、千早のほうが壊れて漂っている。次は、かすかな人の想いが壊される。
一人壊されるつもりの者が一人残る。喜ぶべきか。否、こんなことは、誰にとっても、多分、間違いだ。
「お怒りはごもっともですが、事実関係も確認されないまま他者の悪意をねつ造してもご自身を傷つけるだけです」
「作ってなんかない。いつだって知りたくもないのに伝わってきたんだ、今回だけ違うなんてあるものか」
「それは、返事が来ればわかることではないですか」
セピアは静かに、諭《さと》すような口調を選んで、そして最後に付け加えた。
「推定位置と自転の関係から、最短で二十五時間後。理想位置を選ぶなら公転の関係から二十九日十二時間四十四分後。敵とどちらが先になるかは、私には計りかねますが」
――来るわけがない。
来るわけがない。
それが望みなら、それ以外の可能性しか見えない。
来ないでくれ、
来ないでくれ、
そう願うほど、迫り来る声だけが聞こえる。
声が怖いのか。破滅《はめつ》が怖いのか。
答えはその両方。
望んでいるのか、恐れているのか、
それすらも、おそらくは両方。
けど、一番嫌なのは、そういう世界の見え方そのもの。
そう、だから僕は、やつらが嫌いな以前に、
こんな自分が嫌いだったんだ――
そして、どちらも来ないという可能性だけは、ユーリにはどうしても浮かばなかった。
「我々は、いい大人とは言えないな」
司令がため息をつくと、逆に責めるような声が上がった。
会議は紛糾《ふんきゅう》していた。本来なら査問会《さもんかい》にでもなるところ、当事者が出廷《しゅってい》できないので上層部が勝手に処分を決めているのである。
もっとも、発言するGNOSYSの幹部自体、一堂に会しているわけではない。司令は「ギュンター・ウェント」の執務室《しつむしつ》にいながら参加していた。
「とにかく、ことは全人類にかかわる。ユーリ・シェフチェンコにその自覚がないのは問題だ……」
大人としてどうか以前に、彼らは軍人だった。どうせGNOSYSは犠牲にしうるすべてのものを犠牲にしている。いわずもがなのことを言いかけたとき、警報が響きわたって言葉をかき消した。
「空間|湾曲《わんきょく》反応検出! 第一勢力の偵察艦と思われる。出現地点、月軌道上。L3点へ接近中!」
あれから何日も経《た》っていないというのに、現実は議論よりもつねに一歩先を行っている、ということか。
司令はただちに会議をうち切って、別のマイクに怒鳴った。
「待機中の爆撃隊にスクランブル! 全機|雷装《らいそう》にて出撃! これは訓練ではない、繰り返す、これは訓練ではない!」
月軌道反対側のL3点まで、まともに軌道を回っていては間に合わない。雷装したハカリスティはリニア・カタパルトで地球の稜線《りょうせん》に向かって射出された。スイングバイ航法で加速、最短距離を吹っ飛んでいくしかない。だが、そのとき到達速度は地球の引力を完全に振り切るほどに上がり、一歩間違えば太陽系を脱出してしまう。それだけの危険を冒《おか》してもなお、L3点到達は何時間も後のことなのだ。
すでにGNOSYSはユカギールの「救出」はあきらめていた。仮に応戦していたとしても、その時点で計画はやり直しだ。
だからハカリスティの任務は、そのあと、Sb3と名付けられた敵偵察艦が三度目の隕石《いんせき》攻撃を地球に向ける前に撃破することだった。
「こんなことになるなんて」
舌をかまないように歯をくいしばりながら、ヒルデは己の行為を悔《く》いていた。このことでユーリだけが責任を取らされるのは納得できない。
もとはといえば、自分が余計なことをしたせいだ。だが、司令との間で議論を交わす余地は、いかなる意味でも与えられなかった。彼女もまた、一介の軍人にすぎない。
最後まで、守ってやることもできないのか。
祈ることは禁止されていても、祈らずにはいられない。
「来たのか」
あきらめにも似た顔で、ユーリは艦橋に上がっていた。一斉に見つめるロボットたちの視線が冷たく感じる。
「こういう時の対処法は?」
「マニュアルによれば、可能な限り信号の漏出《ろうしゅつ》を抑えてやりすごす、となっています。応戦は、完全に見破られて攻撃を受けた場合に限られます」
サフィールが珍《めずら》しく堅苦しく読み上げた内容に、ユーリは黙《だま》ってうなずくしかなかった。普段から、任務についての勉強は怠《おこた》っていたから、仕方ない。
まさかそれを悔いる日が来ようとは。
「それで、どうしますか。一応は非常事態に該当《がいとう》しますが」
聞いてきたのは、セピアだった。
「進言します、討《う》って出ましょう!」
勢いこんで提案したのはジュリエットだった。
「どうせ電波を出した時点で正体はバレています。たかが偵察艦、こちらが先手をとれば撃破できると考えます」
こんな状況を、喜んでいるようなその態度が信じられない。
「サフィール、本当のところ敵の戦力は?」
勝てるなどと断言されても、ただちに信用するわけにはいかない。ユーリは敵のことも、味方のことも知らないのだ。
「今正式にSb3と認定しました。Sb型だから、パッシブセンサーから得られる有用な情報は正直言って、質量だけっす」
画面に映し出された「敵艦」は、その言葉の印象からはまったくほど遠かった。なにしろそれは、遠目には単なる小惑星にしか見えない。
「これが、敵?」
ユーリが生まれて初めて目の当たりにする存在。
敵。そうだ、敵だ。
それこそ、自分がここにいる理由、少なくともその一つ。
「Sb型はこう見えても知能を有しています。外見は単なる小惑星のようですが、自力で加速と軌道変更が可能です。侮《あなど》ってはいけません」
セピアの言葉がいつになく真剣に聞こえる。もしかしたら、過去の二度にわたる襲撃も実際に経験しているのかもしれない。彼女の年式からすれば十分ありうることだ。
「パッシブセンサーでは正確な大きさがつかめませんが、ほぼ本艦と互角と思われます。相対速度、秒速十キロで衝突すると仮定した場合、破壊力は三百から四百メガトン級の核兵器に匹敵しまスって、そんなん想像できます?」
「想像はできなくても、しっかり予知ビジョンが来てるよ」
ユーリの言葉に、艦橋が凍《こお》り付く。それはすなわち、可能性がゼロではないことを意味していた。
「ならば、なおのこと一刻も早く撃滅するべきであります!」
ジュリエットがくいさがる。だが、ユーリは同意しなかった。
「おまえ、戦いたいだけだろう」
はっきりした。それこそが、彼女の欠点だ。人間以上に自制のきかない戦闘ロボットなんて、危険にもほどがある。
だが、人間なら恐ろしくて戦えないであろう敵が相手なら、使い道もあるに違いない。それだけのために、彼女はここにいる。
彼女はその機会を待った。ずっと待っていた。壊されようとも。
ようやくわかったけれど、ユーリはそれを満たしてやるわけにはいかなかった。
「マニュアル通りにしよう。サフィール、第二警戒警報《ブルー・アラート》発令。機関部、機関出力も落として。とにかくノイズも抑えよう」
青警報は完全な灯火《とうか》管制を意味する。
「艦長が、おとなしく組織に従うとは思いませんでした」
出力が下がって艦橋が暗くなっていく中に、明の声が耳に響く。
「皮肉か、それは」
言われても仕方ないな、という気はした。最初に想像したとおりに地球をつぶしてしまうことも、今ならできる。Sb3を挑発して、本気にさせればいいのだ。青い星の人々に向けられた怒りはまだ収まってはいない。
だが、予知のイメージが浮かんだとき、嬉しくなかった。せっかく、言いたいことを言ったのだ。つぶすなら相手の返事くらいは聞いてからにしたい。
彼女が、姉が、なんと言うか。言い訳でもなんでも、聞かねば送った意味はない。
「別にやつらに従いたいわけじゃないが、こっちから仕掛けて、いい方向にいくような気はしない」
「本艦の戦闘力なら、勝てるはずであります」
「だとしても、だ。やつが何を考えているかまで、テレパシーでわかるほど僕は便利じゃないけど、あせってもいいことはない気がする」
「それは、当たっていると思います。最初の遭遇《そうぐう》以来、彼らの思考速度は人間より遅いと考えられています」
「セピアが言うんじゃそうなんだろうね。ここは経験者を信じる。けど、警戒はする。水雷部も配置に」
ユーリは配属以来初めて、艦長のように命令を下した。ロボットたちは言われるままに各部署へと散る。ジュリエットでさえ、正式に命令されれば従うしかない。
やがて通路の灯《あか》りさえもが消された。展望窓などから光が漏《も》れることを警戒して。敵はもっぱら電磁波《でんじは》と重力波に頼っているという説をセピアが教えてくれたが、ユーリは楽観的なことは一切、廃《はい》することにした。それは苦ではない。
今までずっと、すべてを悲観で覆《おお》ってきた。自らの周りを、悲しみ色のペイル・スフィアに覆って。それがこんなときに良い方に働くとは皮肉なものだ。
「距離は」
「三万キロ。相対速度、ほぼ秒速三キロを維持」
「そのままなら、約三時間で接触か。たしかに気の長い敵だね」
ユーリはごくりと息をのむ。外は真空だというのに、音を立てるのさえもはばかられる気がした。
恐怖の可能性は、まだ脳内を入れ替わりに襲っていた。
それにあと三時間、精神が耐えられるだろうか。自信はない。
ハカリスティは空力加熱で真っ赤に燃え上がりながら、大気表層をスキーのようにすべり、再度加速、L3への直行コースへと軌道を変更して一気に地球を後にした。
「ユカギール、照準軸上に捉《とら》えました。後続、状況知らせ」
「メンフィス・ベルVよりハカリスティ、こちらも捉えた。どうぞ」
「イリヤ・ムロメツよりハカリスティ、こちらも順調だ。どうぞ」
三機の惑星爆撃機はV字の編隊を組んで、一直線にL3を目指していた。それでも、まだ何時間という単位の道のりだった。宇宙はなんとも広い。
「長距離レーダーにSb3の輝点《きてん》が映《うつ》った。どうやら、まだ攻撃には出ていないようだ。戦闘加速を行っていない」
「間に合う、かも」
「さすがに、それはどうか」
たしかに、このままの相対速度でも、ハカリスティが射点《しゃてん》に着く前に敵はユカギールと最接近してしまう。しかも、Sb3の最大加速度が過去の二体と同じだとして、ユカギールを粉砕《ふんさい》するにはそれよりもっと前に攻撃加速を始めるはずだ。
せめて仇《かたき》は討《う》ってあげる、それしかできない己《おのれ》をヒルデが責めたとき、機長が奇妙なことに気づいた。
「おかしいぞ、最初の加速ポイントを過ぎる」
「えっ?」
二人は目を疑った。だが、レーダー上の点は、たしかに何事もなく第一加速点を過ぎようとしていた。
接触、九十分前。
センサーは外殻《がいかく》が電子的に震えていることを示していた。敵は探っている。
一見、ただの小惑星に見えるSb3は、パッシブレーダーだけでも十分わかるほどの電磁波の海をまとっていた。それは命あるかのように脈動《みゃくどう》していた。
電子の鼓動《こどう》とユカギールに加えられる振動には明らかな相関が見られる。レーダー走査というよりは、電気の世界の住人が「誰かいるのか」と壁をノックしている、そんな感じだった。
じりじりと運命の瞬間が近づく。そして……
「Sb3、第一加速点通過。これで最大加速度による運動エネルギー攻撃はありえなくなりました」
「まだ気を抜くな。ここからだって地球を吹っ飛ばすには十分だ」
[#挿絵(img/Pale Sphere_229.jpg)入る]
そう、相手は宇宙人。何を考えているのかわからない。ユカギールを疑ったからといって、ユカギールを直接攻撃するとは限らない。いや、疑惑が確信に変わったとき、おおもとの作り主を殺そうとするのはそんなに意外なことではあるまい。
その可能性はまだ、消えていない。脳にうねる「もの」が擬似的《ぎじてき》に変化しながら織《お》りなす破壊の炎、無造作に混ぜ合わさった犠牲の苦痛、それと重なる自らの死の繰り返し。黒い光と真っ赤な闇のマーブリング。見ているだけで心を削《けず》る見えない棘《とげ》。
壊れてしまったほうが楽だと思えるようなイメージが脳内を暴れる。
「最接近まで、あと……」
だが、カウントダウンが進むにつれて、破滅のビジョンはむしろ薄れていった。けして見えなくはならない、が。
「ゼロ、最接近。距離十キロメートル」
宇宙のスケールを考えれば激突一歩手前と言えるだろう。それとほぼ同時に、破滅の映像は脳裏《のうり》からほぼ消え、蒼《あお》く澄《す》み渡ったような気がした。
壊れなくてすんだ。ユーリはごく自然にため息をつく。
「戦闘準備解除。電源回復はやつが消えてから」
「待って下さい、やつの加速能力なら、反転逆加速もまだありえます」
ジュリエットの抗議《こうぎ》はもっともだろう。しかしユーリはそれを拒否した。
「あいつはたぶん、適切な距離をとったら消えるよ。わざわざ呼び戻すようなまねはしないほうがいい」
なぜ、敵がそういう決断をしてくれたのか、そこまではさすがに理解不能だったが、とにかくもう破滅は見えない。あらゆる可能性の中で、それだけはゼロになった。
こんな未来の見え方があったとは、自分でも、知らなかった。
「最接近位置を通過」
「嘘……」
爆撃隊の面々はレーダーに映るその光景に目を疑った。編隊はもうすぐ射点にたどり着く。だがそれより先に、事態はなにごともなく終わってしまいそうだった。
「おとなしく帰るのか。俺たちのことも気にしていないのかな」
「まもなく射点ですが、どうしますか」
「ユカギールが健在なのに核をぶち込むわけにもいかん。軌道を修正して追跡軌道へ遷移《せんい》。もし敵が反転したら出会い頭にぶつけてやる」
機長はあくまで慎重《しんちょう》だったが、ヒルデだけは別の可能性に気がついた。
「いえ、その必要はなさそうです。この時点でユカギールがまったく動かないということは、もしかしてすでに攻撃されないことを予知したのでは」
「そんなのが、あてになるのか」
多くのGNOSYS職員同様、機長も超能力を信じていなかった。だからヒルデの言うことを真に受けることはできなかった。
だが、Sb3の輝点は本当に、突如として消滅した。
「空間湾曲反応あり。ステルス化ではなく、本空間から撤退《てったい》したもよう」
「本当かよ」
だが、事実それが消えてしまった以上、彼らには加速を続ける理由はなくなっていた。いや、むしろただちに減速しなければ、地球へ帰れなくなってしまうだろう。
「仕事がなくなったんじゃしょうがないな。全機、遷移噴射十秒前。反転減速」
「了解」
三機の爆撃機は、一斉にスラスターをひらめかせた。航法計算によれば、彼らはSb3よりもさらに近く、ユカギールの「下」をかすめることになるはずだった。
Sb3消失と同時に全電源を復活させたユカギールは、ただちにヒルデたちの爆撃隊の接近を察知した。モニタにその勇姿が映し出される。
一万メートル先の爆撃機は、かろうじて光るただの点ではなく、三角の鏃《やじり》に見える。ズームをかけると、蒼い地球光を背景に、三つのそれが後ろ向きに飛んでいるのがはっきりと映った。
それを操る者のはっきりした声は聞こえなかったが、ユーリにはわかった。
姉は、あれに乗っている。
「ふん、少しは、助ける気もあったのか、な」
素直に喜べない複雑な気持ちで、去っていく三つの光を見送った。
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第六章 想 〜palesphere〜
[#挿絵(img/Pale Sphere_235.jpg)入る]
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Sb3の危機が無事に過ぎ去ったからといって、ユーリの通信違反が帳消しになるわけではなかった。
わずか三日後、査問会《さもんかい》は、膨大《ぼうだい》な量の苦情と命令を送りつけてきた。
「やっぱり悪意の塊《かたまり》じゃないか」
再生するまでもなくそんな波動を感じて、少しは見直しかけた印象がまた元に戻るのを抑えるのは難しかった。
「ですが、それを甘んじて受けるのも責任というものです。すべて確認していただかないと私の職務が終わりません」
というボニータに半《なか》ば説得される形で、ユーリは仕方なく確認する。逆さに浮いてプリンをつまみ食いしながらでは態度に問題ありと言えるが、向こうにはわからない。
しかし、うっかり大事なことを見|逃《のが》すのはやめようとだけは思った。このまま何も知らないでいるのは非常に危険だと気づいたのだ。
中には、知らないほうが幸せということもあったとしても。
「今後の無許可通信には厳罰《げんばつ》をもって遇する。今回はさしあたり、次に補給する食料からチョコレート・プディングを削除《さくじょ》する」
「そ、それはあんまりじゃないか」
これで当面、千早《ちはや》は嬉々《きき》として冷凍《れいとう》野菜のフルコースを押しつけようとするだろう。想像ではなく、これも立派に予知だ。
だが、それ以上の処置がまだ後に待っていた。
「同時に、船務オペレータ用の行動制限コードを添付《てんぷ》した。自動|解凍《かいとう》でただちに共有部分に組み込まれるこの実行ファイルは、今後、マニュアルに許可されたもの以外の不正な対外アクセスに応じないよう、ロボットの行動を制限する。いかなる命令、脅迫《きょうはく》をもってしても信号の発信を強要できなくなったのでそのつもりで」
「それって、コンピュータウィルスとどう違うんだ」
「似たようなものですね。違法か公式かの違いだけです」
自分がすでにそれをくらったというのに、ボニータは淡々《たんたん》とそれを認めた。
「いずれにしろ、あの一度きりという約束でしたから」
「約束、だったか」
「はい」
申し訳なさそうに断言するボニータに、これ以上ねじ込む気にはならなかった。
|GNOSYS《グノシス》のウィルスのせいではない。彼女をいじめても仕方がないと思ったからだ。こうなったのも、自分の命令のせいなのだ。それはもうわかっているつもりだ。
「ですが」
ボニータは、ユーリの本心を見切ったかのように続けた。
「受信機能にはなんの支障《ししょう》もありません。そんなことをすれば監視性能に影響が出かねませんから」
「そうか」
それは向こうの慈悲《じひ》ではないんだろうな、とユーリは思ったが、これ以上ひねくれた取り方をしても自分が疲れるだけだ。
「良かったですね」
セピアはそう言ってくれたが、他意はないのだろう。しかしユーリは素直には喜ばなかった。
「どっちにしろ、もう来ないかもしれないし……来ない方が、いいかも知れない」
何より、怒りそのものが消えたわけではない。ただ、Sb3騒動《そうどう》の中で、当初の勢いは失われていた。
たしかに今まで、姉は助けてはくれなかった。けれど、その意志がなかったわけではないのだろう。去ってゆく爆撃機《ばくげきき》を見送ってからやっと、そう思うことができるようになった。
「得られるのが後悔《こうかい》だけだとしても、こちらから扉を閉ざすのはおすすめできません」
セピアが妙に悟《さと》ったことを言うので、ユーリは失ったはずの皮肉な気分をわずかに取り戻した。
「そんなこと、よく言えるね」
「経験者ですから」
なるほど、とユーリはうなずいた。
やはり、知っているつもりで何も知らなかったのだ。
自分の前に現れるまで、この中古ロボットはどこで、誰《だれ》と、どんなことを経験してきたのか。
まず何から知ろうか。知りたいと思うこと自体が、今まで思いもよらないことだというのに自らは気づかず、ユーリはごく自然にそんなことを考えていた。
それから遅れて約一週間後、彼女からの返信は本当に来た。
半ばはあきらめていた。あんな返事に、答えようとするような人間はいないだろう。過去に自分を怒らせた人間はみんな、何も聞こえないふりをして去ってしまった。
半ばは怖れていた。あの返事では誰が受け取っても怒るだろう。それに改めて答えるとしたら、何を書く?
どんな言い訳を聞かせてくれるのか。あるいは、こっちの返信に向こうも怒っただろうか。
どう転んでも、ユーリにとって好ましい内容ではないだろう。
それにしても、返信の直後でも理想位置でもないこの中途半端な時期は、何を考えてのことだろうか。衝動《しょうどう》に任せたのでもなく、冷静に待ったのでもない。その狭間《はざま》に横たわる広大な混乱の、どのあたりを漂《ただよ》っていたのだろう。
本当に姉であったとしたら、その合間に出撃してきたことになる。あのとき、何を思って一万メートル先を飛んでいったのだろう。
いずれにしろ、交信の機会がたとえあっても、別の意味でこれで終わりだ。幻想《げんそう》は壊れ、絆《きずな》はできなかった。
わかっていたから、それを確かめるのが、怖い。
そう思っていたユーリは、その内容までは予知しえなかった。
〈初めてのお返事、読ませていただきました。
とても驚きはしましたが、たとえどんな形であっても、私に応《こた》えてくれる人がいる、それだけで私は嬉《うれ》しかったです。
けれど、次にとても悲しくなりました。
そんなに辛《つら》いことばかりでしたか?
私の言葉は貴方《あなた》を傷つけてしまったのでしょうか。
軽率だったかもしれませんが、私はこの世界に、貴方を心配している人がいると伝えたかったのです。そして私も、同じ気持ちです〉
――なんで、いきなり心配されてしまうんだ?
ユーリのとまどいを置いて、文章は淡々と続いた。
〈ある人が、貴方が宇宙にいて、私の声を聞いてくれていることを教えてくれたのです。その人とは会ったこともありません。
ですが、私があの手紙を書いたのは、たしかにその人のためでした。黙っていてほしいと言われたのですが、もう本当のことを言ったほうがいいでしょう。その人は貴方のお姉さんだと名乗りました〉
――別人だった?
根拠《こんきょ》薄弱《はくじゃく》な思いこみを簡単に否定されて、ユーリはさらに困惑した。
だが、書かれていることはたしかに、組織の爆撃機乗りにはふさわしくない素朴《そぼく》で純粋《じゅんすい》なものだった。
〈私はたぶん、貴方よりずっと年下だろうと思います。今年、中学に入ったばかりです。といっても、実際にはほとんど通っていません。私の家は、町からずっと離れたところにあるのです。
家のそばにはいつも雪を頂いている山があって、中腹に大きなくぼみがあります。私が生まれるより前からあったのですが、聞いた話だと、昔、隕石《いんせき》が落ちてきてできたのだそうです。貴方のお姉さんは、Sb2kという名前だと教えてくれました。
でも、私のまわりではずっと、『空の穴』と呼んでいます。偶然落ちてきたのではなく、誰かが落としたのだと、そんなことも聞いていましたが、それが誰なのかは知りません〉
もし職員が書いているなら、もっと正確なことを知っているだろう。宇宙に送られるからには大人だとでも思ったのだろうか。ほとんど同い年ではないか。
しかも彼女は、その隕石をも、あまり恐れていないようだった。GNOSYSによる情報操作は、どうやら半端に効《き》いているようだ。けれどもそれをただ信じただけでは、こうは書けまい。
〈小さなころにその話を知ってから、私は空を見るようになりました。
何度も手紙に書いたように、ここでは星空がとても綺麗《きれい》に見えます。そのどこかから、あんなものが落とされてきたとは信じられないくらいに。
そのうち、宇宙のことをいろいろと知りました。
この空の向こうには、他の命があって、そして私たちの仲間も上がっていて、いつか出会う日を待っている。
私は、そんなみんなに手紙を出そうと思い立ちました。
でも、普通にメールや手紙を宇宙機関に送っても、そこの職員の皆さんにしか届きませんよね?
だから、ばかみたいと思われるでしょうけど、直接、宇宙に送信しようと思ったのです。うまくいくなんて思ってませんでした。私はアンテナの技師じゃありませんから。
だから、本当に、貴方のお姉さんが訊《たず》ねてくれるまで、ちゃんと届いているかどうか、ちっとも自信はなかったんです〉
どうやら、すべては必然のような偶然であったらしい。
彼女の背後にうがたれ、彼女の心を宇宙に向けたSb2kクレーターは同時に硬化《こうか》したパラボラとなって、彼女があてもなく発信した電波をも宇宙に向けて反射収束した。
確証はないが、だとするとそれはたしかに、宇宙への誘い手の役を果たしたのだ。かつては恐怖の対象であったはずのものが、一人の心を、地球を守る者のもとへと届け、次の恐怖を防いだことになる。
そんな都合のいい偶然なんてあるものか、と思うより、それが必然だったと信じたい自分を、ユーリは発見していた。
〈だから、本当に誰かに届いていると知ったとき、私の喜びはどれほどだったでしょう。しかも、受け取った人はずっと宇宙に、たった一人で、星の彼方《かなた》からの来訪を待っているのだといいます。
そう、貴方のことです。でも私は、貴方のことも知らずに、最初なんて素敵《すてき》な仕事だろうと思ってしまいました〉
――ああ、まったく、なんて勘違《かんちが》いだろう。それが怒りを誘うなどとは思いもよらなかったのだろう――
だけど、姉ではなくここに書かれたとおりの少女ならば、そう、ユーリが以前に思い描いたのに近いこの彼女なら、そう思ってしまうのも仕方ない。彼女は組織の者ではなく、それどころかきっと、彼らの悪意など知らないのだ。
〈けれど、貴方が宇宙にただ一人だと聞いて、その気持ちが少しわかった気がしました。
あまり、自分のことを書きたくはなかったのですが、私も今、一人です。身の周りの世話はみんな、両親が生前買ってくれたロボットがやってくれます。少し古い型ですが、とてもよくやってくれて、私は彼女のことがとても好きです。
でも、彼女がどんなに尽《つ》くしてくれても、時々は寂《さび》しくなるのです。だからお姉さんのメール一つがどんなに嬉しかったか、わかりますか?〉
――でき過ぎだ。こんなところまで偶然のわけがない。なんて世界は意地悪にできているんだろう――
他人にこの寂しさがわかるわけがない、とユーリは決めつけていた。
けれど、わかっていなかったのはどっちなのか。手紙に書かれていなかったからといって、都合良く幻想を抱いたり、姉と勘違いして怒ったり。思えばあんなにも、どこの誰ともわからない相手と触れたがっていたじゃないか。
こんなにも近くて、なのに黙っていてはお互いが無限に遠い。
〈その人が貴方のことをとても心配していると聞いて、私はすぐに、そのことを伝えようと思いました。貴方にとってもきっと、同じくらい嬉しいに違いないと思ったからです。
でも、彼女はひとつだけ、私に頼みました。仕事の都合で、自分では通信が許されていない。どうしても、電文に名前や仕事のことは乗せないでくれ、と。
仕方ありませんね。私はその頼みを聞いてしまいました。
それがたぶん、貴方の誤解を招き、傷つけてしまったのだと思います。だとしたら、私はなんて軽率だったのでしょう。
どうか、お姉さんを恨《うら》まないで下さい〉
――なんで、そんなことが言えるんだろう。
同じように一人で、
同じようにロボットだけが頼りで、
同じように宇宙ばかり見ていて、
歳だって一つかそこらしか違わない。
なのにどうして彼女だけが、そんなに人に優しくなれるんだ? ――
自分はどうだろうか。そう、勝手に人の悪意だけを信じて、倍する悪意を怒りにまかせて叩《たた》きつけて。
だから、彼女の返事もその倍くらいの悪意に満ちているのが当然だとユーリは思っていた。
〈繰り返しになりますが、私は最初、貴方を知りませんでした。
ただ、宇宙にいるみんなに、人間であるとないとを問わずみんなに、ここはとてもすてきな所だって、伝えたかったんです。
それで、地球を守ろうとか、そんな大それたことは考えませんでした。
ボトルメールって、知ってます? 見知らぬ誰かに宛《あ》てた手紙を瓶《びん》につめて、海に流すっていうのがあるんだそうです。今だと、ごみを捨てるな、とか言われそうですけど、私はとてもロマンチックだと思います。
私の国には海がないから、宇宙に流してみたかっただけかもしれません。
誰も拾わないかもしれない、けど、もしかしたら今頃、って考えるだけでも楽しかった。ひょっとしたら宇宙人が読むかもしれない、とか。
まさか、私の手紙を読んだからといって、隕石《いんせき》が落ちてこなくなるわけじゃないでしょうけど。十分に大それた考えですね〉
――そうでもないさ。
少なくとも彼女の手紙がなかったら、地球がどうなろうと、ユーリはきっと気にしなかった。
Sb3を呼び寄せてしまったのも手紙がきっかけだけど、それは彼女のせいじゃない。いや、もしかしたら、相手が見逃してくれたのは、手紙のおかげかも知れないじゃないか。そんな可能性は、ほとんどなかっただろうけど、まったくなかったとは言い切れない。予知能力でも、過ぎたことはわからない。
あり得たとユーリは思いたかった。
〈頂いたお返事は、正直、ショックでした。けれど、もともと嬉しい返事がもらえるつもりでやっていたことではありません。
だから私は、貴方のお怒りをしっかりと受け止めたいと思います。
私がやったことは、結局、貴方を傷つけただけだったかもしれません。けれど、それでも私はやっぱり、嬉しかったんです。
貴方と知り合えたことは、後悔しません。でも……〉
それほどの思いにあんな返事を返されたら、傷つかないはずがない。
なのに後悔しないという。どれほどの痛みを黙って受け止めているのだろう。ユーリはすでに後悔に押しつぶされそうだというのに。破滅《はめつ》の予知に耐《た》えるほうがまだましかも、とさえ思えるのに。
不意に、もっとも身近でいつもそうしてくれる者/物のことが頭をよぎる。
きっと痛いはずのことを、すすんで受け入れて何度となく壊れた彼女は、後悔をしたことはないのだろうか。
いや、違う。同い年の少女やロボットが、そんなに悟っているわけがない。よく読んでみれば、後悔していないのは、怒らせるようなことを書いたことにではなく、
――知り合えたこと。
見返りが怒りだけでも、ないよりは良いと。痛みしかなかったとしても、いないよりは良いのだと。そういうこと、なのだろうか。
いないほうがいいと言われる辛さは誰よりも知っているつもりだったのに、実は全然気づいていなかった。
だが、次の一文に、それももう遅かったことを知らされて、
ユーリは思わず息をのんだ。
〈これで終わりにします〉
「どうして!?」
その言葉に、ユーリは反射的に問い返していた。
やはり怒っているのかと。
でも、違う。
いまさら彼女がそんなことを言うわけがなかった。
〈これ以上続けても、また貴方を傷つけてしまうかもしれません。
お姉さんにも、迷惑がかかるでしょう。
だから、これで終わりにします。
ごめんなさい。
私の声を聞いてくれて、ありがとうございました。
さようなら〉
その一言だけは、何と引き替えにしても見たくなかった。
なぜ、謝られなければならないのだ。
怒って、愛想《あいそ》をつかして、それでサヨナラだったらわかる。
いや、どうせならそうであってくれればまだ良かった。
――それなのに、よりによって!
ごめんなさい?
ありがとう? ――
「それは、こっちのセリフだろ、ばかやろうっ!」
思わず絞《しぼ》り出した声が震えていた。
やっと届いたのだ。
そう言ってくれたのに、このままで終わりたくない。
それだけを、真剣に願った。
ユーリは衝動的《しょうどうてき》に船室を飛び出すと、艦橋《ブリッジ》まで一直線に飛び上がった。
まなじりから銀色の航跡《こうせき》を引きながら、唖然《あぜん》とするボニータを後目《しりめ》に入力ボードを引っぱり出した。
「何をなさるのですか」
「決まってるだろう、返事を書くんだ! こんなのは間違ってる、
絶対に間違ってるんだ!」
無重力の空間に雫《しずく》を振り乱して叫ぶ。
ボニータはその様に一瞬、絶句した。だが、たとえ理解したのだとしても、彼女にできることはなかった。
「無理です」
ボニータはあまりにあっさりと断った。
「お忘れですか。制限コードによって、二度とそのようなことができなくなったのを」
「それがどうした、やれよ。やらないとまた壊すぞ! シレナでも直せないくらい、部品の一つ一つまでバラバラにするぞ。それでもできないのか!」
「それで御納得いただけるなら、どうぞお試し下さい」
壊されれば痛いから、人の顔色を見ているのだと言っていたはずなのに。
ボニータの淡々とした声はあきらめているかのような口振りだった。
「だったらサフィールを呼び出せ。あいつなら」
「同じことです。コードはシステムの共有部分にロードされました。サフィールのみならず、他の誰を連れてきても同じです。仮に手動で送信しようとしても、艦《ふね》そのものがそれを拒絶するでしょう」
ここでも、手遅れだといまさら気づかされた。今までは、ロボットだからわかってくれないのだと思っていた。
だが、今になってわかってもらっても遅い。それはもう、彼女たちのせいではないのだ。
「畜生《ちくしょう》、組織の豚《ぶた》どもめ! もういいよ、おまえたちには頼らない!」
ユーリは振り返ると、いつのまにか集まっていたロボットたちを突き飛ばして艦橋を飛び出していった。
閉ざされた船にたったひとつ開かれた窓。その向こうに、地球が見える。
昼の側、青と白に輝く小さな玉。
今はもう、つぶしたいとは思わない。
いや、今になってやっと、綺麗《きれい》だと思う。
青は悲しみの色だと言ったのは誰か、知るはずもないけど、言われなくてもそんな気がする。
あのどこかにいるはずの彼女。
その心の色で覆《おお》われた、半径三十八万キロの青想圏《ペイル・スフィア》。
中心核を、握るのではなく、ユーリは手のひらを向けてかざす。
届け、届けと、それだけを念じる。
もちろん、今まで地球とテレパスが通じたことはない。
聞きたいと思った声が聞こえたことはない。
だけど、もうこれしかない。
心の力だというなら、こんなときに使えなくてどうするんだ。
TVのときに出てきた博士は、テレパシーは光速も越えるって言ったじゃないか。
そんなに大変なことを伝えたいわけじゃない。一言、いや、一言でいいんだ。
なのに――
「届きましたか」
セピアが声をかけたころには、ユーリは汗にまみれ、涙滴《るいてき》の衛星を無数に従えていた。
あらゆる力をしぼり取ったあとのように。
「わかってるだろ。僕の力なんて……」
かざした手をふらりと降ろして、握りしめる。
まったくもって、無力だ。たったの一言も届けられない。こんなことになるなんて、それさえ予知できなかった。
「こんなことなら、あんな返事書くんじゃなかった! やっと、本当の気持ちが届く人が見つかったのに。あの星の上にたった一人、なのに僕は、たった一度の機会を傷つけることに使ってしまったじゃないか。こんな余計なことをしなきゃ、今ごろ……」
「後悔していますか」
「してるさ、当然だろ! だいたい、伝えろって言ったのはおまえ――」
「本当にそうお思いでしたら」
セピアは言葉を遮《さえぎ》って、すっと目の前に進み出た。
「どうぞ、壊して下さい」
「!」
ユーリは一瞬、たまらず力を放射しかけて、
しかし、線が切れる前に、止めた。
力を使い果たしていた、からではない。
「そんなわけないじゃないか。僕が書いた返事だ。あれはあのときの、本当の僕の気持ちだった。おまえのせいなわけがないじゃないか。
おまえを壊す前に、僕のほうが壊れてたんだ。シレナが言ったとおりだよ。本当に大事なものを壊すのに、超能力なんて関係なかったんだ。
なんで僕は、あんな気持ちになったんだ。彼女のことも姉さんのことも何も知らないで、なんで勝手に怒ったり、騙《だま》されたと思ったりしたんだ。
何も壊したくなかったのに。
本当は知りたかったのに。
もっと話したかったはずなのに!」
再び、目の前がじわりとにじんで、銀色の衛星が増える。
落ちて流れることのない宇宙の涙。
それを拭《ぬぐ》うようにセピアの両手がのびたとき、ユーリはたまらずに、その間に飛び込んでいた。
柔らかく、暖かくつくられた胸に顔を埋《う》める。
「もう、二度と壊したりしないよ。
もう、二度と
もう、二度、と……」
震えるその背を、セピアはのばしかけた手をゆっくりと戻して、そっと抱いた。
たとえ機械でも、そうすることが多分、自然なことだから。
あるいは、おそらくそれが、ここにいる本当の必然。
大丈夫、自分にとって一番大事なものは、まだ壊されてはいない。
彼女はずっと、大事なひとを抱きしめたまま、蒼い地球光を背に浮かんでいた。
[#挿絵(img/Pale Sphere_257.jpg)入る]
腕の中で、ユーリが泣き疲れて眠ってしまうまで、ただひたすらに優しく。
その寝顔は、初めて抱いたころと何も変わっていない。
それから、少女の通信は本当に途絶えた。
来るのは、今まで通りのGNOSYSの連絡だけとなった。もっとも、今までほど腹がたつわけではない。
それは必ずしも、補充食料にチョコレート・プディングが戻ったからとか、そういう理由ばかりではない。
あるいは、L4、L5点にも同様の「お仲間」が作られるとか、強指向性の圧縮《あっしゅく》レーザー通信で第一勢力に察知されずに交信する技術を開発中であるとかいった、今まで組織がいちいち教えなかったような情報が慰《なぐさ》めになった、というだけでもない。
何もかも吹っ切ったということもない。一度だけ、物資受け渡しのときに私信を紛《まぎ》れ込ませる手段はないかと試してみたことがある。だが、こちらから補給艦に渡せるものは、すべて組織の回収|分析《ぶんせき》セクションによって「検閲《けんえつ》」される、とわかった。
同じ目に遭《あ》っていたのは、なにもユーリ一人ではなかった。
「いまさら、この程度が問題になるとは思えませんけど」
ヒルデ・ケスキネンはハカリスティの前で整備員に文句を言った。
「ですが、規則ですので」
「クッキー一箱が入らないミサイルでもないでしょ!」
「そんなこと言われましても」
建て前上は、昔の宇宙飛行士が無断でサンドイッチを持ち込んで以来の規則であって、特別のことではないとされているが、信じる義理はないだろう。
「なら司令と直談判《じかだんぱん》してでも持っていきます」
「それは勘弁《かんべん》してくれ」
フライトデッキに現れた司令は苦笑いを浮かべていた。
「今回のこと、彼だけが一方的に処罰《しょばつ》されるのは納得できません。私との関係は、もうご存じのはずですよね」
「だからそういう私情で爆撃機を使われては困る。いくら私でも、これ以上はかばいきれないよ」
そう、本来ならヒルデのほうが機密|漏洩《ろうえい》などの罪状で処罰されても不思議ではなかったし、手紙の差出人も逮捕《たいほ》されかねなかった。
それと気づけば、ヒルデも無理|強《じ》いはできなくなった。
「そうがっかりするな。彼の超能力と同じで、ちょっと考えれば上手《うま》い手はいくらでも思いつくものさ」
司令は肩を叩くと、慰めるように耳打ちする。それからふとヒルデの顔を見つめた。
「何か?」
「いや、別に。弟思いも結構だが、と……そういえば、君たちの親は……」
「父のことは、知りません」
ヒルデは何かを気にかけるように、目をそらした。
「二人とも、死んだと聞かされてきたのは同じです。ユーリは信じているようですが、私は信じていません。あちらの母親もすぐに失踪《しっそう》したので、本当のことを聞くひまもなかったのでしょう。
私の母は入隊前に死にました。ユーリのことを知ったのはその間際《まぎわ》です。死んだ筈《はず》の父が、弟がいることをあとになって教えてくれたそうですよ?
どこのあの世から書いた手紙なのだか。
そのころにはもう、あの子も私の届かない所に入れられてしまっていました。だから、この組織に入ればいつか会える、そう思って志願したんですよ」
ヒルデはそうまでしてようやく手にした己の翼《つばさ》――ハカリスティを、悲しげな蒼い瞳で見つめた。
「こんな、もどかしい距離に置かれるとは思いませんでしたけど」
いつか、この広い宇宙で。
幸運の蒼《あお》い十字のように、二人が交わる時は来るのだろうか。
「……すまんな」
司令の言葉が誰に向けられたものかは、彼女にはわからなかった。
それでもヒルデは司令に言われたとおり、任務をこなし、そして上手い手をひとつ思いついた。原始的な、だが検閲も受信もされない方法。
船外活動《EVA》中のジュリエットたちに見えるよう、ハカリスティの窓に手紙を貼《は》り付けるのは、さすがの組織にも止められなかったようだ。機長もあきらめたのか、止めたりはしなかった。
クッキーも取り上げられたそうです、とジュリエットから聞かされたユーリはがっくりと脱力して、エアロックのすぐ脇にニュートラル・ポジションでぷかりと浮いた。
わざわざ船外活動から帰ってくるのを待っていたのだとすれば、一ヶ月ぶりの補給艦にずいぶんと何かを期待していたことになる。
『実は単に、プリンを待ちわびただけだったりしてね』
わざとらしく明《みん》はそう言った。
『いまさらそりゃないっしょ。でもどうだろ、クッキーがもらえるって予知できたんすかね』
『だとすりゃ外《はず》れたわけね。けど、水雷《すいらい》部《ぶ》はべつに八つ当たりされたわけじゃないんでしょ? 修理依頼は来てないし』
『はい、それは何も』
千早《ちはや》の問いに、ジュリエットはなぜか物足りなさそうに答えた。
『いいじゃない、おとなしくて。お姉さんに無視されたわけじゃないんだから、十分でしょ』
直接千早からそう指摘されたなら、ユーリはまた少しだけむきになって否定したかもしれない。けれども本当はそのとおりだった。
姉がまだ何とか話したがっているとわかっただけでも、いいだろう。それならいずれ、機会はあるだろうし。
『艦長《かんちょう》といえば』
機械の井戸端会議はまだ続いていた。
『最近、やたらと話しかけられるような気がするのですが』
『あ、水雷も? まあ、知られてこまることはないっすけどね』
『こっちの苦労も少しは聞く気になったんなら、いいじゃないの。ガラクタと決めつけられるよりはましよ』
『と思わせて、実は私たちの弱点を探ろうとしているのかも知れません』
『……明、あんたはなんでいつもそういうことを……』
もちろん、明は本気でそんな心配をしているわけではない。それは繋《つな》がっていればわかることだ。いや、繋がっていなくても、そろそろユーリにもわかってもらえるのではないか。
黙って聞き入っていたセピアは、おだやかな気分でそっと接続を切った。
彼女たちの感じたとおり、ユーリは、まず身近なこと、自分を取り巻く艦とロボットたちから知ることを始めた。本当に、知らないことばかりだった。
先の迎撃《げいげき》でわかったとおり、ジュリエットとヴィクトリアの欠点は長所の裏返しだった。もともと戦闘用ロボットなど、人間の損失《そんしつ》を防ぐためのものだ。それが死を恐れたりしては始まらない。
だからジュリエットは、任務|遂行《すいこう》の障害のみを忌避《きひ》し、しかしいかなる敵も恐れない。ただそれが多少、調整がずれているのだ。
が、この船の場合、敵のほうが基準を大きくずれている。
同時にここは宇宙であり、補給は限られている。千早が言うとおり、ぜいたくは敵だ。したがって単に勇敢《ゆうかん》なだけでは戦えない。それを埋め合わせるのがヴィクトリアだ。
いざ戦闘が始まれば、操艦は水雷部の管轄《かんかつ》となる。弾薬、推進材、酸素、どれ一つ無駄《むだ》にせず、たった一|隻《せき》で未知の敵と渡り合うためにあえて冷徹《れいてつ》さを極めた戦闘機械。
この二つの要素がそろって、ユカギール水雷部は初めて戦うことができる。ただ、それは平和が続くかぎり用のない性能なのだ。
彼女たちが欠陥機《けっかんき》に見えているうちが、おそらくは幸せなのだろう。
ボニータが何事も無難なのは、職場環境のせいだというのは聞いた。それと知らずに、命令を素直に聞く便利なのが彼女で、言われたくないことを言うのがセピアという役割|分担《ぶんたん》ができたつもりになっていた。
もし彼女にも、聞こえない声を聞く力があったら、どうなったのだろうか。
「どうもならなかったと思います。結局私は行動を修正して、そこにいようとしたでしょう」
それでも追いつかなくなって、壊され、売られて、今彼女はここにいる。かろうじて壊されることなく。
人の顔色を見て演技していたと言うのに、裏の声が聞こえないのは、ロボットだからだとユーリは思っていた。それは間違いではないが、全てでもなかった。
「心が何なのかは答えられませんが、私たちのそれが裏も表もないただの演技であったとしても、それはたとえるなら誰かの鏡なのだとセピア姉さんは言うのです。よく映《うつ》る鏡の像は本物と区別がつかず、しかも殴《なぐ》ればどちらも痛いのだそうです」
「痛く感じないやつもいるから、ここに来るはめになったんだろ?」
「艦長は、痛かったですか?」
好きで殴った覚えはない。ボニータに限れば壊していない。
けれどそれは表面的なことで、彼女たちという鏡はすっかりひび割れ、今やそうと自覚した心の拳《こぶし》はその倍、痛かった。無視していた傷がまとめて開いたように。そんな気がする。
誰の鏡なのか、それとも実像なのかは、痛いという事実の前にはどうでもいいことに思えた。
「そうだね。それから、ええと……あ、ありがとう」
通信で無理をさせながら、礼の一つも言わなかったことを思い出す。あの子に言えなかったことを悔《く》いているなら、言える相手には言うべきだろう。
「どういたしまして」
ボニータは笑ったように見えた。セピアと同じように。
同じ船務でも、サフィールのほうがむしろ場違いだと、ずっと思っていた。仕事は事務的なのだから、元OLはわかるとしても、音楽ロボットを使う場所ではない。
「それは艦長、考えすぎっすよ。素直に歌ってくれって言えばなんの疑問もありゃしません」
いかにも歌いたがっているかのようで、ユーリはまた少しめげた。
「だから、それなら演芸部でも作ってそこに所属すればいいだろう。聞きたいのは、何でおまえみたいなのが船務なのか、なんだよ」
「うーん、それは流れるデータの同時処理なんですよ。私、町の雑踏《ざっとう》からサンプリングして曲が作れますから」
音を重ねていくと、最後には雑音になる。ここから逆に意味のある信号を抽出《ちゅうしゅつ》することは難しい。代償《だいしょう》として膨大なエネルギーが必要になるだろう。
開発当時、最強の人型サンプリング・マシーンとして作られたサフィールは、ノイズの中のわずかなずれを増幅してどんな曲でも自在に即興《そっきょう》で編曲し、組み合わせられる。ライブハウスにでも置いておけば、客がいるかぎり無限に即興が続けられるはずだった。
だが、ちょっとした流行の読みがずれただけで人はいなくなる。音源が減ればパフォーマンスが低下し、さらに客足が遠のいて、VMT社ではまかないきれなくなった。
しかしセンスこそ古くなったとはいえ、艦のメインコンピュータの力を借りればその威力《いりょく》はむしろ倍増している。組織が求めたのは、その抽出機能の基礎《きそ》エンジンだった。
「町からは遠ざかっちゃったけど、ここは宇宙からいろいろ聞こえてくるから、忙しいけど面白いっすよ」
サフィールは全モニタに星空を映し出した。以前ボニータに頼んで見せてもらったように。
「この全天から、星の歌が聞こえてくるっす。普通のコンピュータを通すだけなら、ノイズにしか聞こえないはずだけど。でも時々、本当にすごいのが拾えることもあるし」
それからサフィールはふっと微笑《ほほえ》んでユーリの顔をのぞき込んだ。
「あの子の手紙は、ちょっとつたなくて、けど、とってもいい歌でした」
「また勝手に曲にしたのか」
「うい。聞きます?」
ユーリは止めなかった。
何度も繰り返し読んだ言葉が、不思議なリズムでつむぎだされる。
詩と呼ぶには少しつたない、蒼い星の歌に、星々から来た音色は奇妙にも合っているような気がした。
シレナは整備の現場で人間をぶん殴ったことがあった。思った通り、それが欠陥と見なされて、とくに厳しい対人保護規定を再インストールされて引き取られた。
「だからって性格まで治らなかったのはどういうことかな」
「そんなもん、治したらあんたをどつくやつがいなくなるだろうが」
どこまで冗談かわかったものではない。だが意外にも、現場では惜《お》しまれたのだと相方の明に教えてもらった。
友達はたくさんいた、というのは、嘘《うそ》ではなかった。「姐《あね》さん」という呼び方はかつての現場で慕《した》ってくれた人間たちが自然と使い始めたもので、明も後輩としてそれに従っているのだ。本当に危険なものを扱う場では、間抜けな新人のミス一つにも甘くはできないのだから、シレナは何も間違っていないと彼らは言ったそうだ。
ブラックホールを扱うには、たしかにそのくらいのほうがいいのかもしれない。
その明は逆に、何の落ち度もなかったと主張した。彼女が引き取りに出されたのは、単なる現場の縁起《えんぎ》担《かつ》ぎだったという。
「というわけで、減点法で採点すると、実は私がここでは最優秀機なのです。もっとも採点方法など、しょせん人間様が気分で決めるものですが」
「むしろその性格が理由のような気がするよ」
「あなたに言われたくありません」
「お互い様だ」
だが、シレナのようになれないとすれば、こんな所でやっていくにはこういうタイプが向いているのかも知れない。明日をも知れない最前線、一瞬の気の緩《ゆる》みがすべてを滅ぼす職場なのだから。
組織も、現場に行けばこの二体のようなのがたくさんいるのだろうか。
それなら司令や中佐よりは、まだつき合えそうな気がした。
千早の態度が悪いのは、ある意味必然だった。
もともと彼女は、態度の悪い客が多い店が対策として導入したロボットだった。人間のウェイトレスにいたずらをするような客が現れたら、代わりに彼女が担当になるのである。当初、店はうまい手を思いついたと得意になったものだという。
誤算は二つあった。
もともと客層が堅気《かたぎ》でない店にそんなものを置いても、苦情が増えるばかりだったということ。そして本来高級店向けの彼女自身が、そんな場末の店の料理の質と不衛生加減にオーバーロードを起こしたということ。
つまり、この態度は欠点というより、発注側のミスだったわけだ。
「で、どうしてそれがここに?」
「認めたくないけど正解だわ。艦長のような人にピーマンを食べさせられるのは、私くらいだもの!」
ユーリも認めたくなかったが、彼女はたしかに配備目的を果たしてはいる。
ある意味で一番気になっていたのは、U99の正体だった。
「絶対におまえは看護用じゃないよね。いやらしい用途に違いない」
「まあ、いつかはバレると思ったけど、そんなもんよ。だから本名もないの。店ごとに源氏名が違ったからさ」
あまりにあっさりと、U99は白状した。
「だから、シレナがゆうちゃんて呼んでくれるのは結構嬉しかったのよ。艦長もつけてくれれば良かったのに。思いつきでも、誰かから借りてもいいからさ」
「勘弁してよね。だいたい女の名前なんて姉さんと母親しか知らないし、そういう名前のやつに迫られるのはもっと困る。だいたいなんでそんなのが衛生担当なんだよ」
頭を抱えるユーリに、あわてて付け足す。
「でも衛生管理機能はちゃんとあるんだよ、ほら、お客さんに病気|伝染《うつ》したり、あぶないプレイでケガさせちゃったらまずいから。ね?」
「で、それがどうしてここに?」
「脂《あぶら》ぎったおっさんより、美少年をいじめるほうが楽しいから……ってのは嘘で、ある意味、ヤバすぎたからでぇす」
「何が」
「試せば、わかるのに」
久しぶりに、ユーリは彼女から逃げ出すためにもがくことになった。
「聞いてみれば、意外に面白いものだな」
「そうですか。良いことです」
ひととおり聞いてまわって、ユーリは疲れと心地よさに包まれながら艦橋を漂《ただよ》った。最後に残ったのは、いちばんなじみのセピアだった。
「まだ聞けばいろいろ出てくるんだろうけど、それは後の楽しみにとっとくよ。先は長いだろうからね」
状況は、最初と何も違わない。
あいかわらず宇宙にただ一人で、周りにいるのは変なロボットばかりだ。
だが、やっとわかった。
彼女たちもただの廃物《はいぶつ》ではない。自ら扉を叩けば、機械なりに受け入れてくれる。テレパシーが通じなくても、届く声がちゃんとある。
それならば、いつまで続くかわからないこの青想圏《せいそうけん》の最果てでも、なんとか生きていけそうだ。
それに、最後の瞬間がどんなものでも、きっと一緒にいてくれるものがいる。
「おまえのことは知っているつもりだったけど、本当はやっぱり色々あるんだろ?」
「そうですね。お話ししたことがないことと言えば」
セピアは首を少し傾げて、何から話そうか悩むそぶりを見せた。
それから、突然話が飛んだ。
「長くなりますよ。なにしろ私はただの初期型ではありませんから」
「じゃあ、どんな初期型なんだ?」
「プロトタイプなんです。市販品《しはんひん》ではなく……だから、ここにいるロボットは全部、私の妹ということになります。シレナがよく姐さんと呼ばれていますけど、実は私がみんなの本当の姉だったんですね。
それから……」
うち明け話を始めたセピアの顔は、眼鏡《めがね》の反射が絶妙に映りこんで、なんだかいたずらっぽく笑っているようにも見えた。
[#改ページ]
エピローグ 〜epilogue〜
[#挿絵(img/Pale Sphere_273.jpg)入る]
[#改ページ]
「なんなんだ、これは」
それからまた、何も起こらないまま何日が、いや何ヶ月がたち、時間の経過も忘れかけたころ、僕は突然、強烈《きょうれつ》なビジョンを受け取った。
空間が弾《はじ》ける、いや、時間を引きずりながらぬるりと突き抜けてくる感覚、というのはどう説明したらいいんだろう。最初は何かの勘違《かんちが》いか、あるいは僕もいよいよおかしくなったかと思ったものだった。
けれど、すぐにこれは本物だと確信した。大急ぎで艦橋《ブリッジ》に上がる。
「何かくる。船務、観測機器を向けて。たぶん牡牛座《おうしざ》かその南、海王星《かいおうせい》軌道《きどう》の外!」
「何かって、なんスか?」
踊《おど》りを途中で止めた半端《はんぱ》なポーズで、サフィールがきょとんと問い返す。
「わからない、けど」
また、無数のイメージが入り乱れて、壊れそうになる。
だとしても、この力を使いたくない、とはもう言えない。それに、今の僕には、少しは未来の「選び方」がわかったはずだ。
すべての可能性から共通するものを探す。それは、何らかの意志を伴《ともな》ったもの。
「とうとう、来たのかも」
「では、戦闘準備を」
水雷《すいらい》部《ぶ》がはやってそう言ってくるだろうことは、予知するまでもなかった。
「気が早いな。まだ現れてもいないよ」
「その先手を打つための艦長《かんちょう》ではありませんか」
そんなことは追放の名目だと思っていた。本当はやはりそうなのかもしれない。
期待されないのも、過剰《かじょう》に期待されるのも嫌だった。
けれど、それ以上のことができてしまうのならば、今はもう、やるべき理由ができた、と思う。
「そうだね。警戒《けいかい》態勢、赤。緊急通信の用意」
「で、できますでしょうか」
サフィールは不安そうにうろたえる。
艦《ふね》は組織が、電波を出せないようにしてしまった。けれど、今度こそは本当の緊急事態なんだから。こんなときのための僕とこの船じゃないか。
いっそ受け取るのが誰《だれ》であってもいい。この声が届くのなら。
間違いない、これこそが「|帝国の使者《インペリウム》」だ。
予感が確信に変わって、僕は通信の封鎖《ふうさ》を解《と》いた。はたして間に合ったのか、答えがなくてもいずれ動きでわかる。
「出現ポイント、牡牛座とエリダヌス座の間、海王星軌道外。ほぼ予知通りです」
あらゆるノイズの中から未知の信号を的確に拾い上げるのは、無数の雑音から一編の詩を取り出すサフィールの能力《ちから》。
髪はドリルのまま。とうとう最後まで直さなかった。
「でもそれは四時間前の位置だ。観測機器シフト、予想経路を入力」
だが、経路なんかより、本当に知りたいのは一つだけ。
それがどんな事態をもたらすのか。
敵なのか、味方なのか。あるいは?
広大な真空を渡って、彼らは何をしに来るのだろう。知りたいことはわからない。
けれどもし、彼らにも隠した「真意」があるのなら? 隠し事なら、聞こえるはずだ。
そう思いついた僕は、意識を迫り来る「それ」に集中させた。
……戦闘的な意志は、ないわけじゃない。だけど明確な攻撃意図だけじゃない。どんな宇宙人か知らないけど、たぶん向こうも、迷ってる。そんな気がする。
「では、接触してみないことにはわからない、ということですか。ですが、すんなり接触できるでしょうか?」
たしかにセピアは経験者だ。よく気がついてくれる。思わずため息がもれる。
「平和的にコンタクトできる絵を思い浮かべようとしたんだけどね、その可能性は浮かばない、ゼロだよ。なにしろ、今度ばかりは黙《だま》って見|逃《のが》してくれそうにないからね。水雷部、一時間後に完全戦闘態勢に移行用意」
「本当に迎撃《げいげき》するのでありますか?」
意外そうに聞き返して来たのは、戦いたがっていたはずのジュリエットだ。
「インペリウムの敵対意志が確実になれば彼らを迎撃するし、もし友好なら邪魔しにくるはずの第一勢力と戦うさ。やつらが僕らを脅《おど》しに現れるのがそのころじゃないかな」
「だとすれば、また黙っていたほうがよいのでは」
と、ボニータが無難なことを言う。あいかわらずの押さえ役ぶりだ。
「もう遅いよ。通信封鎖は破ったからね。僕が考えてるのは、さしあたり目の前の一番危険なビジョンを消すことだ。僕たちと、それからあそこにいる連中が生き残るために」
らしくないことだと気恥ずかしくなりながら、モニタ上の地球を指した。
「この船はそういう船だろう。僕はそう受け取ったんだけど、違うかい」
「違いません」
ユカギール、という船について説明にないことを教えてくれたのはセピアだった。
それは極北に住む、消えゆく運命に逆らって生きる人類の名。
人類を守るなんて大それたことは、今でも考えてはいない。嫌いなやつはまだいくらでもいる。だけど、今やあそこにいるのは、そんな人々だけではないから。
「機関最大出力。余剰《よじょう》質量投入」
それまで飼い殺しで維持《いじ》されてきたブラックホールに、餌《えさ》が投げ与えられる。
「外装パージ三十分前。全|係留索《けいりゅうさく》、順次切り離し。状態モニタ表示」
「本体構造ロック解除。戦闘形態移行準備へ」
「水雷部より機関部、兵装へ電力回せ。レールガンユニット、待機状態。レーザー各機、励起《れいき》。高速|徹甲《てっこう》ミサイル信管、安全装置解除」
妙に生き生きとしたジュリエットの声が響く。
恐れを知らず、命を惜《お》しまない、未知の脅威《きょうい》と戦うのに最も適した欠陥品《けっかんひん》。矛盾《むじゅん》に悩むのは、作ったやつらに任せよう。
「残弾数確認。最適破壊効率シミュレート開始」
ヴィクトリアが計算を始める。彼女がいれば、僕たちは最後の一瞬まで戦える。
「移行準備、完了」
報告を受けたとき、予知はまだ混沌《こんとん》としていた。
けれど、引き返すつもりはない。
「予定どおり、戦闘形態移行」
「了解、戦闘形態移行」
「全センサーに反応、空間|歪曲《わいきょく》!」
ボニータの復唱とサフィールの報告がほぼ同時だった。
「やはり現れたか。外《はず》れてもいいのにさ」
嫌になるほどの的中に、僕自身が呆《あき》れてしまう。
レーダーには多数の輝点《きてん》がわき出すように増えていった。「インペリウム」の予想進路上に、星をぶちまけたように。
そして、僕たちの軌道のすぐ外にも一つ。距離、四万キロ。
「中止しますか?」
「いや、これで予知通りだよ。すぐに加速されても、今なら間に合うだろ」
「了解、外装パージします!」
ユカギールを覆《おお》っていた小惑星の外殻《がいかく》が弾け、艦橋の窓の外に宇宙が覗《のぞ》く。それを横切って、青黒く光る機械がゆっくりとせり上がる。
初めて見る、僕たちの船。
状況を知らせるモニタの中で、ゆっくりと四方へと広がるそのさまは、さながら蛹《さなぎ》の殻《から》を割って羽化する昆虫《こんちゅう》のようだ。
僕らは艦といっしょに、黒光りする蝶《ちょう》の羽根のように羽ばたき、あるいは甲虫のように力強く、生まれ変わっていく。
もはやごまかしは効《き》かない。
けれど、それでいいのだ。
僕たちはもう、殻の中には戻らないのだから。
大きく腕を広げるように、彼方《かなた》から飛来する何かを受け止めるように、その姿を変えていく。
戦艦のようでもあり、巨人のようでもあり、そしてそのどちらでもない、宇宙に咲いた鋼鉄の花。
「戦闘形態移行完了。全兵装、起動。いつでも射撃できます」
「いいかみんな、絶対にやつらを地球に落とさせるなよ。インペリウムとの接触より、そっちが優先だ。常にあの隕石《いんせき》野郎と地球の間を保て」
これが、いまできるすべての可能性の中から、僕が自分で選んだこと。
あの少女がいる星、
僕たちのこの船、
姉が飛ぶ空。
やっとつなげた、想いに満ちる蒼《あお》い世界を、壊すことはしない。
いま脳裏に満ちる恐怖を、皆に見せたくはない。
帰って、あの娘に会うんだ。
ただ一言、伝えるために。
それまで、僕にとっては何も終わりはしない。
最後に、ちらりとセピアの横顔を見た。
彼女はいつもの表情のままだけど、にっこりと笑ったように見えた。
[#地付き](完)
[#改ページ]
あとがき
お久しぶりです。一年近く空いてしまいましたが、別に遊んでいたわけではありませんよ?
今回は、今までとちょっと毛色の違うモノを書くことになり、かなーり長い道のりとなりました。いや設定だけ見るとなにも変わらないんですが、とにかく文体そのものの改革をどこぞの首相が言う以上に求められたり、その間に引っ越したり、架空《かくう》戦記に進出したり、何故《なぜ》か講師を頼まれたり、むしろモスクワ航空ショーに行けなくなるくらいに忙しかったような気がするんですが。せっかくの航空百周年なのに。
いやまあ、講師といいつつ「文芸部員の眼鏡《めがね》っ娘」に囲まれて喜んでたり、こっそり行ったはずのロフトプラスワンのイベントで謀略《ぼうりゃく》にはまって晒《さら》されたりしてた、というのも事実なんですけどね。というわけで「眼鏡っ娘|呑《の》み」で約束したのがこの本です。いかがでしょう、同志のみなさん?
っても、眼鏡のメイドロボが出るのはこれが最初ではありませんが。
というわけで今回もロボです。またかよとお思いの方もいらっしゃるでしょうが、雰囲気《ふんいき》をだいぶ変えてみたつもりではあります。雰囲気は。
どっかで見たような名前と外見的|特徴《とくちょう》のやつがいるとか、気が付いた方は旧作をチェックしていただくと楽しみが倍増するかも知れません。本編で一度だけ触れられる「民間人の英雄」がどんな活躍をしたかはそちらで書かれておりますので。でも、うっかりすると雰囲気のあまりの違いに頭が痛くなるかもしれません。
そして舞台は初めての宇宙。おりしも中国が有人宇宙船を成功させたところ。「神舟《しんしゅう》」はどうやらロシアのソユーズを参考にしつつもいろいろと独自のアイデアが盛り込まれた、なかなか面白い宇宙船のようです。今のところは素直に成功を祝いたいと思います。人間が宇宙へ行く手段が一つ増えたのは確かですしね。というか、どうせ負け惜《お》しみを言うなら「ならば火星へは先に行ってやる」とかのほうが嬉《うれ》しいんですけど、そこんとこどうですか文部科学省様? ロボットか有人か、とか言わないで一緒に行けばいいじゃんよ、それぞれ得手不得手があるんだし。あー、ここでいうロボットは広義のほうで。
そういえば今年は火星の大接近もありましたし、読者の宇宙への関心も増しているといいなあ。とか言いながらも、本作の技術描写はへろへろですけど、何度も言うように数学赤点経験者なので物理的な計算のことは言わないでください。
とりあえず私としては、これで手を着けていない舞台は地底だけとなりました。いや、制覇《せいは》すりゃいいってもんじゃないんですけど。
宇宙といえば、「ギュンター・ウェント」氏は実在の人物です。ドラマ「人類、月に立つ」などを見るとちゃんと登場しております。最初にこの名前を宇宙船につけたのは私ではなく、昔、友人が考えたものだったのですが、昔のことなので経緯《けいい》は忘れました。すまん、もと同志。他にも、長引いただけにその間いろいろな人からいろいろな助言を頂いたり、昔議論したはずの設定を引っぱり出したりして、過去の人にまでお世話になってしまいました。
中には使えない雑談もあったりしたんですが。
「村がダムに沈む話の宇宙版てのはどうか」とか。
「宇宙なのにダムってどういうことよ?」
「さびれた田舎の惑星が、発電用のブラックホールに飲み込まれることになってだね、主人公は皆と別れねばならなくなるという切ない話なのだが」
「いやまあ、いいけど」
etc、etc。
いかん、なんだかそれはそれで面白いような気がしてきた。いやまあ、そんなわけで、いつも相談に乗ってくださる同業者のみなさま、ロボットのアイデアを分けていただきましたあかやま壽文《としふみ》様、そしてかつての同志諸君、ありがとうございました。
それから、辛抱強く度重なる修正につきあっていただいた担当河西様、美麗《びれい》なイラストを添えていただいた水上《みなかみ》カオリ様に多謝。参考イメージがいちいち男児向けメカばかりですいませんでした。
では、願わくば次作にて。
世界創世紀元七五一一/航空紀元一〇〇年十月
[#地付き]富永《とみなが》浩史《ひろし》
[#改ページ]
底本:「ペイル・スフィア ―哀しみの青想圏―」ファミ通文庫、エンターブレイン
2003(平成15)年12月2日初版発行
入力:iW
校正:iW
2007年11月3日作成