[#表紙(表紙.jpg)]
蕎麦屋の恋
姫野カオルコ
目 次
蕎麦屋の恋
お午後のお紅茶
魚のスープ
[#改ページ]
蕎麦屋の恋
[#地付き]汝《なんじ》、嘆くなかれ。世間《みな》、恋などしておらぬわ。
[#地付き]───ヘンリク・グスタフソン
一 京浜急行に乗った男の章
ぱちん。ごく軽い衝撃がひとさし指の爪に。ちーっ。かすかな音。爪と皮膚との境目が、小気味よい滑りを感じる。
「御破算で願いましては一万とび八六三円|也《なり》……」
五の珠《たま》を整列させて、男は計算を始める。
ぱち、ぱち、ぱちぱち。珠と珠がぶつかる音が、誰もいない部屋で、踊るように鳴る。
「…円也。…円也。…円也」
男の口のなかだけで発音される数。読経のように。
山藤製薬、経理部。もうオフィスにはだれも残っていない。コスト削減のため、照明も男の周辺だけである。
男は、早く計算をすませて退社しようとしていた。
ぱちぱち。ぱちぱちぱち。ぱち。珠の音が止んだ。
「なんだ、ここか。桁《けた》をまちがえて電卓打ちやがったんだな……」
ほとんど口を開かずに男はひとりごち、出納帳の数字を書き直した。
五時になろうかというころ、伝票集計にミスが出た。帳簿を確認させたが金額が合わなかった。それで男は自分が計算をしなおしてみると、他の者を帰らせたのである。
計算作業は電卓より算盤《そろばん》のほうがずっと融通がきく。金額が合わなかった原因が、単純な計算ミスであろうと見当がついたので、他の社員を帰らせた。
算盤。この道具を、彼は毎日、使っている。珠算検定一級の男。名を秋原健一《あきはらけんいち》という。
秋原は出納帳をかたづけ、首をまわし、肩を叩《たた》いた。目は閉じていた。一息、長く吐き、目を開く。
算盤がスタンドの光に照らされている。毎日のことである。毎日、秋原は算盤を見、ふれ、使う。毎日。
一九九×年、十月。なぜか、いつになくしげしげと算盤を見つめた。
五の珠の列をひとさし指の腹で強く押し、指を滑らせてみる。きい。五の珠は滑り、指の腹は紡錘形の尖《とが》りを感じる。
五の珠と他の珠とはレールで仕切られている。レールには赤い丸印が等間隔で刻まれている。桁を示す印。
御破算、の状態にしたあと、秋原はぽつりと言った。
「普通」
一円を入れた。ひとつだけ珠がレールにくっつく。
「急行」
また一円を入れた。珠はふたつ。
「特急」
さらにもう一円入れた。珠は三つ。
「快速特急」
今度は二円入れた。四つの珠が下に下がり、五の珠がひとつレールにくっついた。
秋原は、算盤にできた「五円」のかたちを見つめた。ごえん。つぶやき、そして会社を出た。
秋原は埼玉県立の大野商業高校を卒業して山藤製薬に入社した課長である。
普通科に進学したかった。とりわけ勉強が好きだったわけでもないが、普通科に行くのだろうと思っていた。「普通科高校から普通くらいの大学へ」。それが彼が思春期のころの「普通のコース」だったから。
が、中学三年になった春に父親が入院したのである。秋原にはすぐ上に姉がひとり、下には弟がふたりいた。
家は魚屋をしていた。父が入院したからといって一家青ざめる経済状態ではなかったが、さりとてまるで介せずにいられるほど裕福でもなかった。たとえ数カ月ののちに父親が無事退院し、家業経済がもとどおりになったとしても、ゆくゆく自分が家業を継ぐ気にはなれない。いっそ大学のことなど考えず、商業高校で簿記やら何やら専門技術を体得し、どこかの会社にさっさと就職したほうが無駄がない。と、思春期の性急で決めた。大野高校は、商業高校としては伝統があった。財界にも出身者がよくいる。すでに姉が通っていた。彼女は過ごしやすそうに通学していた。
中学での成績はよいほうだったから、さして受験勉強に苦労もせず、彼は大野商業に合格し、中学時代と似たような高校時代を送った。平均的な十代の人間が送ったような日々。
ただ、算盤だけには励んだ。商業科生のアイデンティティを求めていたのかもしれないと、これはずっと後年になって思った。
山藤製薬では、秋原が入社する直前に、経理上の事件があった。新聞の三面記事に載ったていどの事件だったが、会社の金を部長代理の役職社員が使い込んだのである。この事件がある意味で幸いしてか、秋原の珠算一級、簿記二級という技能は就職試験できわめて正当に評価された。同期の男性で、大学中退を含む高卒者は数えるほどだったが、上司に恵まれたこともあり、平から課長へと順調に昇進してきた。
「秋原課長、四十三歳か……」
歩をとめ、会社のビルをふりかえる。高いビルである。何社かの入った高いビル。入社したころ、山藤製薬はもっと小さな建物のなかにあったのだが。
「ひな菊の・花の・首飾り」
秋原はメロディがつけられないくらいに小さな声でうたった。
年端もゆかぬ子供のころにその歌はヒットした。まだ「大きくなったらパイロットになる」と親きょうだいに言えたころ。
「やさしく・編んで・いた」
高校生のころにもこの歌をよくうたった。まだ「レコードデビューしたいよな」とバンド仲間で言えたころ。元歌をアップテンポにアレンジしてうたったものだった。
「私の・首に・かけてください」
秋原はポケットに片手を入れる。十月の夜風のなかには、もう冬の、枯れる季節のスパイが、目立たぬように潜伏していた。スパイは秋原の、ネクタイをしめた首の横をさっとすりぬけ、秋原の目もとに表情を与えた。哀愁と、自嘲《じちよう》と、ふたたび暑い夏が訪れてはくれぬだろうかという漠然とした期待。それらが均等にまじった表情を。
しかし、それはすぐに消え、彼は明日の会議のことなど考える。
「総務の消耗品費を切り詰めてほしいものだ。OAってやつはとにかく紙も電気も食う」
算盤は電力を食わない。そんなことを思ったりする。
時計を見た。
九時半。これから山手線で品川まで出、そこから京浜急行で金沢文庫まで帰るのである。そこに新しくできた社宅に、数年前から住んでいる。その前の千住《せんじゆ》住宅のほうが通勤には便利だったが、いかんせんせまかった。
22時08分発の『快特』に間に合うよう秋原は歩をはやめた。快特こと『快速特急』。これだと品川の次がもう川崎で、つづいて横浜、上大岡、そして金沢文庫である。
「ビールでも買っていくか」
品川駅で、売店のほうへ行こうとしたとき、声をかけられた。
「これからお帰りになるんですか」
製品管理検査部の女性社員である。間宮《まみや》…理恵《りえ》、だったと思う。それとも恵理《えり》だったか。
先週、経理部と管理検査部の何人かが、会社近くの「まったくの無煙」が売り物の焼肉屋ではちあわせし、合流した。そのときこの社員もいたのだ。
「どうしたの、品川なんかで。きみの家はたしかこの付近ではなかったよね」
「ええ……。ちょっと大学時代のお友だちと会ってて……。高輪《たかなわ》で会ったものですから……」
「ふうん」
間宮は今年入社したばかりと聞いた。お嬢様学校として知られる大学卒だとも。まだまだ学生気分なのだろう。焼肉屋での席でもそんなかんじだった。
秋原は時計を見た。『快特』に乗らなくてはならない。
「じゃ、気をつけてね」
間宮に挨拶《あいさつ》してから売店へ向かおうとすると、
「あの、これ、車内で飲んでください」
缶ビール二本の入ったポリエチレン袋を彼女は秋原によこした。
「え?」
「失礼します」
間宮は走り去ってしまった。『特急』発車の旨、アナウンスされ、ベルが鳴る。秋原は改札を抜けた。『特急』の次の発車が『普通』で、その次が『快特』である。待ち列に並ぶ。このぶんならすわれそうだ。
なぜ間宮がビールを自分によこしたのかふしぎだったが、きっと駅構内で彼女のほうがずっと先に自分を見つけ、このあいだの礼に代えて買ったのだろうと解釈した。
『快特』がホームに到着する。ドアが開く。
窓際の席にすわった。発車。ほどなくしてビールを開ける。
「…………」
このあいだ焼肉屋からはタクシーで帰った。途中まで間宮を同乗させた。彼女は都内の私鉄沿線に住んでいた。彼女の家近辺で降ろした。
「すみません。遠回りさせて送っていただいて」
「いや、ぼくは遠いからちょっとくらいの差は同じだよ」
秋原は言ったが、その夜は金沢文庫には帰らなかった。間宮を降ろしたあと、そのまま彼女の住む私鉄沿線と並行しているもうひとつの私鉄沿線の駅でタクシーを降りたのである。実際のところ、遠回りではなく途中まで乗せたにすぎない。
降りた駅に笛子《ふえこ》のマンションがある。
笛子は管理検査部部長である。間宮やほかの同僚とともに無煙焼肉屋で、小一時間前までいっしょに飲んでいた女である。有名な薬科大学を卒業した社内唯一の女性部長だ。
秋原よりは八歳年上で、五年前に関係があった。
笛子には子供はいなかったが夫はいた。なぜ「そういうこと」になったのか、秋原自身にもよくわからない。
部署がちがうということで、ひどく気をつかうということがなかった。上司への気を、という意味でだが。
笛子は年齢よりはずっと若く見える。スーツがよく似合い、TVのドラマに出てくるようなキャリアウーマンの外見をしていた。そのくせ気さくな人柄。
「根が下町育ちだからね」
それが口癖で、なにかと秋原によくしてくれた。何度か食事をいっしょにしていた。そして「そういうこと」になった。
「なぜだろう。たしか、あの日は飲んでもいなかったのに」
ふたりで泥酔して、その勢いでホテル旅館等の場所に行ったというならともかく、その日、秋原も笛子も飲んでいなかった。
『快特』の振動を背骨に受けながら秋原は「そういうこと」になった日のことを思い出す。
「映画を観たな」
題名は忘れた。チケットが二枚あるからと笛子が誘ったのだ。
「カタカナの題名の……」
思い出せない。明るいアメリカ映画だった。場所は新宿の映画館で、若い男女の客が多かった。
「もっとも、映画館に来るのはたいてい若い男女だが」
『快特』の振動は秋原の背骨から頸椎《けいつい》へとひびき、左右にゆれる振り子をじっと見つめているときのような、催眠術にかけられそうな気分になる。意識は五年前にもどった。
*
「ねえ、ハンバーガーを食べながら観ない? 行儀悪いけど」
笛子が映画館近くにあるファーストフード店前で立ち止まった。
「いいですよ。夕食どきだから、観てるうちに腹がへるだろうし」
ハンバーガーとポテトとコーラを買う。秋原が注文し、ひとりぶんずつ袋わけしてもらった。
「はい」
秋原が袋をひとつわたすと、
「ありがとう」
笛子は無邪気な笑顔を見せた。会社内や、あるいは会社の何人かといっしょに行く店では見せたことのない笑顔だった。むろん笛子の笑う顔なら何度も見たことはあったが、まったくちがう笑顔だった。
「ありがとう」
予告編がはじまったときにも、笛子は礼を言った。ちかちかと予告映像の光に照らされる笛子の顔は、やはりとてもうれしそうだった。
「なんだか学生時代にもどったみたいだわ」
明るいアメリカ映画をハンバーガーを食べながら観る行為に、笛子の気がはずんでいるらしかった。
映画館を出たときは、すでにかなり遅い時刻だったが、新宿はにぎやかである。ブラブラと散歩がてらゲームセンターやら、なにを主体に売っているのか不明な雑貨屋を冷やかした。
「たのしいわ。こんなふうにしてるの、すごくたのしい」
笛子は何度も言う。
「そういえば、ぼくも久しぶりに映画を観たな」
上司や目上の人間に対することばづかいではなく、気さくなそれで秋原も言った。
「奥さんと観たりしないの? たしか高校時代からのガールフレンドだったんでしょ」
「ガールフレンドだったころは観ましたよ」
妻、亜弓も大野商業の珠算部にいた。
「子供ができるとそれどころじゃないでしょう。ウチのは映画はもっぱら子供といっしょにですよ。ぼくと観ることなんか、もう発想さえしない」
「そうか。お子さん、ふたりだったっけ。女の子だったわよね」
「ええ。来年は、上のが受験だし、映画さえ観る余裕もなくなるんじゃないかな」
「受験って、小学校受験? すごいわね。教育熱心なパパママじゃないの」
「とんでもない。大学受験ですよ」
「大学受験ですって?」
笛子の顔が近づいた。
「びっくりしたわ。そんなに大きな娘さんだったなんて。結婚がすごく早かったのね」
「そうなんです。二十一になるかならないか。上の子ができちゃって、そのまま結婚」
「そうなの。わたしなんか三十越えてから結婚したから、そんな話を聞くと嘘みたいよ。偉いのね」
「偉い?」
「そうよ、偉いわ。彼女が妊娠したからってちゃんと結婚して。男らしいわ」
「それは……」
言い澱《よど》む。亜弓とは高校からずっとつきあっていた。妊娠の責任をとったつもりはない。
「そんなんじゃない」
「そんなんじゃなくないわ。男らしいわ」
「いや、それはちがうと思う……」
うまく言えない。珠算部とブラスバンド部の気の合った者でバンドのまねごとをした。そういうことをしたくてたまらないとしごろだったのだ。
グループに亜弓もいた。ギターを弾いていた。秋原もギターをやった。亜弓より格段にうまかった。
〈算盤《そろばん》もギターもうまいのは、ゆびが、きっと、すごく器用だからなのね〉
そう言った亜弓は、彼女の女体を不意に秋原に感じさせた。
楽器を演奏するといったような共同作業をしていると、していない男女より連帯感が強まるから、亜弓と秋原が異性としての好意を抱き合うのは自然にして間もないことだった。それが三年つづけば、あとは、
「あとは…なんとなくだ」
笛子にというより自分に、秋原は言う。あとは、なんとなくそのままつきあいがつづき、子供ができたから結婚した。それだけのことだ。男らしく責任をとるといったニュアンスは亜弓との結婚にはない。が、ごく自然に結婚に至ったというのでもない。婚姻届の用紙に名前を記すさい、普通科をやめて商業科を選んだときと同じていどの、ある種の翳《かげ》り、がどこかにあった。
しかし、その翳りの実態を掘り下げようとはしなかった。してはならない。すれば亜弓を不愉快にさせる。それは避けるべきだ。若い潔癖感と同時に若い狡猾《こうかつ》。若さの選択による結婚だったと、結局はいえる。
「もうあと一年、子供ができなかったら結婚してなかったかもしれない。そんなもんじゃないんですか」
秋原は笛子のほうは見ない。
「暮らす、っていうことはそんなことかもしれないわね。花火大会は夏の一日だけのこと。あとの三六四日は、ただの暮らし」
暮らし、という語は秋原にも共感を呼ぶ語である。
笛子はなぜ今の夫と結婚したのだろう。きっと、笛子には笛子の暮らしの流れがあったのだ。もしかしたら、今の夫とはべつの、べつでいて今の夫と同じ年齢の、同じような外見の、同じような経済力の男と結婚していたかもしれない。おそらく、そんな男と笛子は実際、めぐりあっていたはずだ。
だが、その男と結婚しなかったのは、そのとき、その男の暮らしの流れと、笛子の暮らしの流れの、波長が一致しなかった時期だったのだ。そんなものだ、結婚など。
「わたしね、主人がわたしが仕事をすることをよく理解してくれててありがたいの。幸せなのよ」
「そうでしょうね。それは表に出てますよ。だから会社のみんなからも好かれてるんだろうし」
世辞ではない。笛子は、いわゆるキャリアウーマンの颯爽《さつそう》と、家庭のある女の安息と、その両方を兼ね備えている。
彼女のほっそりとした顔。唇のわきに皺《しわ》がある。目尻《めじり》にも。その皺に白粉《フアンデーシヨン》が入り込んでいる。白粉はごく薄い。うっすらと皺に入り込んだ白粉は、予定外に淫蕩《いんとう》なよじれを顔に作る。若い女の顔には出ない予定外。そそる、と一瞬思った男が背徳を感じる予定外。
「幸せだけど、ときどき怖くなるのよ。このまま、ずっと、こうして暮らしてゆくのかしらと思うと」
笛子の上腕が秋原の肘《ひじ》にあたり、マンモス・キャバレーのネオンサインが青と赤を交互にびかびか光らせた。
キャバレーの前の道をまっすぐ歩いてゆくとホテル街に通じる。秋原と笛子はなにも言わずにその方向へ歩き、ホテルに入った。一円が入り、また一円が入り、また一円が入り、そして、また一円が入るべきところ、ふと二円が入って、五の珠《たま》が赤い印にくっつくように。
一円ぶんのはずみだった。
*
笛子とは一年半ほどつづいた。
頻繁に会いはしなかった。いつのまにか切れた。「そういうこと」になった原因がはっきりしなければ、切れた原因もはっきりしない。
切れていたが、無煙焼肉屋の帰りに笛子のマンションに泊まった。大勢で飲み食いをしていても、特定の人物とだけ会話をかわす瞬間は、ある。夫は出張中だから。これからあそこまで帰るのたいへんでしょ。蒸し返しはなしで。別々に出て、あとで電話を。ざわめきのなかでの短い会話。
ただ、泊まっただけである。笛子も飲酒で疲れたのか、たいした話もしなかった。
「川崎」
車内アナウンスが告げる。
秋原の前の席が空いた。うつむいた彼の視界に光沢のある肌色のストッキングに包まれた膝《ひざ》が現れた。膝はゆっくりと秋原の膝へと近づいた。
顔をあげる。
「えっ」
前の席の女の顔を見て驚いた。間宮である。
「なぜ」
なぜ彼女がこの電車に乗っているのか。秋原のビールを持つ手が中空でとまる。
「京浜急行『快特』の後ろから四輛目。課長の好きな帰宅の方法ですか?」
間宮の言うことは秋原の疑問には答えていない。
「朝は金沢文庫7時26分発の『快特』。必ず前から三輛目。あたし、京急の時刻表も買ったんです」
「はあ」
「あたし、課長のことなんでも知ってたいんです」
「はあ」
「あたし、うれしい。あたしがあげたビール、ちゃんと飲んでくださって」
恵理だったか理恵だったか、そういう名前の間宮は、膝を秋原の膝に密着させてくる。
「あの」
秋原は中空でとまっていたビールの缶を、やっと窓の桟に置いた。それからようやく訊《き》いた。
「あの、なぜ間宮さんはこの電車に乗ってるんです?」
「だって」
いっそう彼女の膝は秋原にすりよる。
「だって、あそこでお別れしてからすぐ、あたしも切符買って『快特』に乗ったから。それからこの車輛まで来て、課長の前の席が空きますように、ってターニャにお祈りしたんです」
「ターニャ?」
「あたしが小さいときからあたしを守ってくれてる野うさぎのターニャ。ターニャはあたしが一所懸命、お祈りすれば願いをかなえてくれるの」
「なるほど……」
すこしも納得できなかった。だが、娘にするように秋原は相づちを打った。
間宮の口はふさぐ暇がないまま動きつづける。ファミコンゲームをしたこともなく、やり方もわからぬ者が、ファミコンをしている者の横で、画面のゲーム・キャラクターがちょこまかと落ちつきなく動くのを、いささか目をちかちかさせながらながめている塩梅《あんばい》で、秋原は間宮の口をながめていた。
二十二歳だと聞いている。二十二といえば長女と同じだ。次女と比べてもふたつしかちがわない。そういえば彼女の顔だちは長女に似ており、背|恰好《かつこう》は次女に似ている。
長女は手堅い性格の子で、横浜の銀行に入った。次女は短大で女性だけのバンドを組み、ときどきライブハウスで演奏している、らしい。娘との関係は良好だが、といって、行動の一部始終を把握している関係では、もうない。亜弓は次女のバンド活動にあまりいい顔をしないが、秋原はおおいに許している。
(気のすむまで夢に賭《か》ければいい)
こう思う点、彼には柔軟な若さが充分に残っていた。
(女のほうが夢に賭けられる)
家でギターを手入れしている娘に期待と羨望《せんぼう》のまなざしを送ることがある。しかし、
(夢がかなわなければ結婚すればいいんだから)
こう思う点、彼は、娘たちとは完全に隔たりのある旧《ふる》い世代に属してもいる男だった。
(俺もあのままギターを弾くことに突っ走っていたら……)
男には無茶ができない社会の仕組みがあるのだ。そう覚悟して、あっさりとやめてしまったギターの感触が、なくしてしまったものへの惜しみとなって指によみがえる。
(サラリーマンの毎日とはまったくべつの暮らしを送っていたかもしれない。住む所も着るものも話す内容も、今とはまったくちがう暮らし。もしかしたらそういう暮らしを送っていたかもしれない)
また、暮らし、だ。不意にわびしさが彼の全身をくるみこむ。このわびしさはいったい何なのだ。
考えるのをやめる。考えつづける生ぐさい活力を、自分の体内から絞り出してくることが、もうおっくうだ。
(この子はいつまでしゃべっているつもりだろう)
秋原は間宮のしゃべりがとぎれるのを待った。待って、おっくうそうに訊いた。
「あの、間宮さん、どこまで乗って行くんですか?」
「決めてません。課長といっしょに電車に乗ろうって、それで乗っただけですから」
もうすぐ横浜に着く。横浜で降りるようにと秋原は間宮にすすめた。
「じゃ、降ります。降りますから課長も降りてください。それなら降ります」
おっくうである。秋原はおっくうである。
しかし間宮は、
「課長が降りてくれたら、あたしも降ります。でなきゃ金沢文庫までついて行って課長の、奥様の待ってるお家までついて行っちゃう」
周囲の乗客にも聞こえわたるような大きな声を出す。
困る。そんな。きみ。ちょっと。ぶつ切れの単語を不明瞭《ふめいりよう》に秋原が発音すればするほど間宮の声は大きくなり、課長、奥様のいるお家、課長と、乗客たちの好奇を煽《あお》る。
「横浜」
車内アナウンスが横浜着を告げ、秋原は間宮に負けた。というより乗客の好奇の視線に負けた。『快特』を降りた。
「お酒飲みたい。あたし、課長とお酒飲みたいんです」
「もう遅い」
「どこが? まだ十一時にもなってないじゃない。明日は土曜よ。夜更かししたってかまわないわ」
ホームで間宮は秋原の腕に自分の腕を巻きつける。そのしぐさは次女が、亜弓が許可しなかったことを父親である秋原にねだってくるのとそっくりだ。
「あそこにすわろう」
ホームのベンチに向かいかける。
「いや。あんな所、いやです」
「いやならいい。ぼくだけがすわる」
先にすわった。しかたなさそうに間宮は彼の隣にすわった。
「きみのくれたビールがまだ一本あるよ。ここで、これを飲めばいい。横浜の、よく知らない店で、落ちつきなく飲むより」
ビールをわたした。しかたなさそうに間宮は受け取る。
「課長って恋愛結婚なんですか」
「ああ」
「奥様ってどんな方?」
「美人だ」
「すっごーい。愛してるんですね」
一瞬の、不服そうな表情ののちに間宮は言った。
「ああ」
いつわりはない。亜弓を秋原は愛している。長い暮らしの蓄積は愛情を育てる。
「こっちに」
秋原は線路を指さした。上り電車が来る線路を。
「こっちに。次の電車が来たら乗ろう」
電車のライトが遠くから駅に向かっている。
「いやです。あたし、今夜は課長といっしょにいるって決めたんです」
構内アナウンス。電車がとまる音。
「ぼくもいっしょに乗る」
開くドア。ベンチから立ち上がる秋原。自分から先に電車に乗る。空《す》いている。すわる。意外な顔をしてついて来た間宮。すねたようにすこし離れて隣にすわる。
「あたし、焼肉屋さんの御会計のとき、課長が指を、ちゃちゃっと動かして暗算したのに大感動したんです」
発車ベル。
「おやすみ」
秋原は言うと、だっ、と閉まりかかったドアからホームに飛び出した。ふりかえらなかった。
逃げだした電車が駅を遠く離れた気配を背中で感じてから、時計を見た。
(最終の『快特』はあるかな)
ホームにぶらさがる時刻表を調べかけたが、彼の視線は電車のない線路や、歩く人の服の色に向く。どこかで酒を飲みたい気分に、秋原のほうがなった。
帰りたくない。だが、どこに行きたいわけでもない。間宮がよこしたビールの入っていたポリエチレンの袋。空の缶が入っている。手応《てごた》えなく軽い。ためいきをつく。
「あら、悩みごとかしら」
背後からの女の声に秋原はぎくりとなる。間宮がもどってきたのか、と思った。
「ものすごい驚きようね、秋原さん」
沙耶《さや》だった。
「おととい、ふたりとも京急だからもしかしたら偶然出会うこともあるかもしれませんね、ってしゃべってたばかりじゃないの」
なめらかな生地の、仕立てのよいシンプルなワンピースを沙耶は着ていた。彼女は高収入らしかった。秋原より五歳年上なだけで、彼の倍近い収入があるはずである。
沙耶は博濤広告代理店第五プロジェクト室室長。山藤製薬の同僚を通じて顔みしりになった。広報課にいる彼と秋原は同期である。おとといも彼をまじえて、バーで沙耶と飲んだ。
「おとといの今日だったから……」
やっと沙耶にことばを返す。
「ずいぶんと長い間をおいたご挨拶《あいさつ》ね。悪いことでもしたあとじゃなかったの?」
「そんなことないですよ。あんまり奇遇なので驚いてしまって」
「ほんとにそれだけかしら」
わざと勘ぐるような表情を、沙耶はしてみせる。
「帰ろうとして電車に乗ってたんですが、横浜だと車内アナウンス聞いたら、なんだかふと酒でも飲もうかと、そんな気になって。降りてみたものの、さてどうしたものかとぼうっとしてたんですよ。だから驚いたんです」
「あら、そうなの。そういうことなら、うちに寄ってかない? 帰りはタクシーになさいよ。タクシー券が一枚あるから」
沙耶は横浜の瀟洒《しようしや》なマンションにひとりで住んでいる。件《くだん》の同僚といっしょに二、三度遊びに行ったこともある。生活感のまるでない家具で統一された部屋は、部屋というより「店」だった。静かに流れる音楽。間接照明。バーの設置されたダイニング・ルーム。同僚と行ったときも、女性の部屋を訪ねた、というより、しゃれたバーに飲みに来た、という感覚しかなかった。
「そう、だな……」
だから、沙耶の提案は「どこかで軽く飲んでいかない?」というニュアンスにひびいた。間宮との妙な一件がもたらした疲労感も、沙耶の部屋へ向かわせる作用となった。
*
「バーボンでいい?」
沙耶は秋原の返事を待たずに切り株の上に置いた。ハーパーとグラスと氷。前に来たときにあったバー・カウンターはなくなっている。ダイニングとリビングの仕切りがなくなり、うんと広い部屋。中央に細長いソファ。床に切り株。太い木の切り株を加工したものをテーブルにしてある。
「乾杯」
勝手に沙耶は言い、グラスを片手に出窓に腰かけ、ラジオをつけた。
あたりさわりのない話をしながら、早いピッチで沙耶は飲んだ。グラスが空になるたび、窓辺からソファへとバーボンを注ぎにくる。
「あなたも勝手に飲んでね。わたし、おかまいをいっさいしないから」
無頓着《むとんちやく》な態度が、秋原の酒もすすませる。
「なあに、この袋」
何杯めかのバーボンを注ぎに来て、沙耶は秋原の鞄《かばん》の下にあるポリエチレンの袋に目をとめた。
「缶ビールの、空いたやつ」
「なんでそんなもの、持ってるの?」
捨てそびれて。バーボンの琥珀《こはく》色が間接照明をはねて複雑に色あいを変えるのだけを見つめて、秋原は言った。
「わたしが捨ててあげるわ」
沙耶は、さっと袋をとり、キッチンへ持ってゆく。「わたしが捨ててあげる」。その声は一抹の救済のような気がした。背広の上着を秋原はソファにかける。
なぜだろう。
笛子といい沙耶といい、昔から年上の女ばかりから親切にされる。親切。古めかしいひびきを持ったことばだが、それがもっとも的確だ。
中学のときも高校のときも、ラブレターというのとはちょっとちがう、気づかいの手紙をよく上級生からもらった。亜弓も一級上だし、山藤製薬に入ってからも年上の女性社員から親切にされる。恋愛としての好意を示されるのとは、ややちがう。親切にされるのだ。専務が女性ならもっと出世できたかもしれないくらいだ、と冗談で思ってしまう。
「何か聴く?」
オーディオ機器のそばで、秋原には背を向け、CDラックの前で沙耶がたずねた。
「べつに、なんだってかまわないですよ」
「でも、ちょっとなにか提案してみてよ」
「それなら……」
すぐに思いついたが、口がすぼんだ。
「ないだろうから、いいや」
「え、なに? なによ。言ってみて」
沙耶は若い話し方をする。仕事がらなのか、不自然ではない。高い収入、高い学歴、高いセンス。そういう生活が作る若々しい容貌《ようぼう》。名前を聞いただけで高そうなフィットネスクラブに通っている。どう意地悪い目で見ても三十代に見える。もとから美貌に恵まれ、もとから高い学歴に進める環境に生まれ、したがって、まるでもとからのように高いセンスが身につき、高い収入を得、美貌は保たれる。まるで逆の環境にいる女が世の中にいるのと同じに。
「ねえ、なんなの? わたしが聞いたら、ドッヒャーってのけぞりかねないやつ?」
「わからない。ただ、持ってないと思う」
「気になるじゃない。言ってよ」
「花の首飾り」
「なんだ。あるわよ」
「えっ、ほんとに?」
まさか。秋原はバーボンのグラスをどんと切り株に置いた。ごち。切り株は重たい音をたてた。
「えーっと、どこだったかしら」
CDラックを沙耶はさがす。床に膝《ひざ》をつき、よつんばいになるかっこうで。臀《しり》が強調され、ワンピースの裾《すそ》がずりあがる。それを知ってそのかっこうになったように秋原は思う。そのかっこうをしてみせるために、沙耶は彼になにか特定の音楽を提案させたような。
「あったわ、これね。えーっと六曲目ね」
CDがセットされた。沙耶がソファにすわる。横ならびになると、微量の香水が秋原の鼻腔《びこう》に弱く流れこむ。ちりちりとCDの、曲番を探る音。やがて明るくかろやかなメロディが部屋にひろがった。
「ちがうよ」
「ちがわないじゃない。オリーブの首飾りよ」
「ちがうって。ぼくが言ったのは、花の首飾り。ジュリーの、タイガースの」
「いやだ」
けたたましく沙耶は笑った。笑ったあと、笑いすぎて苦しいと、腹をおさえた。
「おなか痛くなっちゃった。ベルトとっていい? 行儀悪いけどさ」
「どうぞ」
沙耶はベルトを無造作にぽんと床に投げた。
「ごめんなさい。今、替えるわ。オリーブの首飾りじゃあ、秋原さんに手品でもしてもらわなくっちゃならない曲だよね」
「いいよ。替えなくても。だって、持ってるの? 花の首飾り」
「ううん」
「だからいいよ。これで。なんだっていいんだから」
「とにかくこれはやめるわ」
沙耶はラジオに切替え、適当にFM局を選んだ。
「あんまり笑いすぎて暑くなっちゃったくらいよ。ああ、おかしかった」
襟もとをひろげる。ワンピースは前に一列、釦《ボタン》が並んでいる。それをふたつはずした。
「ロックで飲むとまわるよね、バーボン」
たばねていた髪からヘアピンを抜く。
ソファで秋原は正面を向いている。正面を向き、背をまっすぐにして両手でバーボンのグラスを持っている。ゆるいウェーブのかかった沙耶の髪が肩におちるのを、秋原は目の端で見た。左目の端で。
「花の首飾り、ってどんな歌だったっけ?」
「うん……」
秋原の正面にはラジオのONランプ。
「なにか思い出がある歌? GSが流行《はや》ったころなんて、まだ幼稚園かそこらだったでしょ?」
「バンドで速いアレンジにしてうたってたから」
「バンドなんてやってたの?」
「若かったころ。ちょっとだけ」
若かったころ、ではない。正しくは、夫ではなかったころ、なのだ。夫ではなく、父親でもなかったころ。
「どうしたの?」
沙耶が顔をのぞきこんだ。しゅるしゅると彼女の首がのびたような気が、秋原にはした。
「どうしたの、って?」
秋原の正面にはラジオのONランプ。
「なんだかぼんやりしてるから。ちょっとぉ、元気出してよ。昔をなつかしがってたってしかたないじゃないの。暗いのはいやざんす」
ぽん、と沙耶の手が肩にまわってきた。暗いのはいやざんす。そんなおどけた口調で偽装してはいるが、肩に手をかける名分を絶好のタイミングでつくったような気が、した。
「みんなさびしいのよ。ほんとはね。大人だから外ではさびしくないようにしてるけど」
沙耶の声が甘味をおびた。唇が半開きになっている。秋原は、顔は正面に向けたまま、左目だけを移動させてそれを調べた。
(これ、誘ってるのかな……)
正面にラジオのONランプ。
(たぶん、そうなんだろうな)
また左目だけが移動。
(断ると怒りそうだなあ、この人……)
ラジオのONランプ。
(俺は経理だけどあいつは広報だから、気まずくなるといやだろうなあ……)
左目だけの移動。
(いや、そういう次元のことじゃないよな……)
ラジオのONランプ。
「でも、わたしはひとりでいるのが好きなの……」
沙耶の息が耳にかかる。
(どうしたらいいのかなあ)
どうしたらいいのか。いいや、やってしまえ。切り株にグラスを。全身が左に。沙耶の手が交差する。秋原の頸椎《けいつい》のうしろで。あなたの・その・手が・からみつく・よう・に。花の首飾り。
*
結局、その夜は沙耶の部屋に泊まった。朝、まだ彼女が眠っているうちに秋原は横浜駅に向かった。駅の階段を下りるやいなや、電車がホームに入ってくる。彼を待ち構えていたかのように。8時29分発の『快特』。
車内で秋原は亜弓へのいいわけをまとめた。
「明日は土曜日だから飲んでいこう、ということになりました。そしたら部長が悪酔いをしてそれはもうひどい酔い方でした。みんなで介抱してひとりが麻布《あざぶ》の自宅まで送ったくらいです。そのあと酔いもさめてしまい、気がつくと四人だったので麻雀《マージヤン》でもということになって徹夜になってしまいました。すみません。これでいいか……」
だが、それなら電話の一本くらいなぜかけられなかったのだ、ということになる。
「電話しとこうと思いました。雀荘から電話をしようと思っていたら電話を長話で占領してるやつがいて、そのうちゲームが佳境にはいってつい忘れてしまいました。ごめんね。これではどうか」
もともと麻雀はしかたなくするていどなのに不自然である。携帯電話を持っている者が一人くらいいたはずだ、とも言われる。ためいきをついた。亜弓を愛している。娘も愛している。働いた金のほとんどは彼女たちのために使う。家庭を愛しているから当然だ。だが、中高校生でもない男が、たまにふらりとひとりで行動したくなったからといって、どうしてこんなに説明が必要なのだろう。
「もし、女の部屋に泊まってきた、とだけ言えば亜弓はなんと答えるだろう」
いいわけをしても亜弓はすぐに嘘だと見抜くかもしれない。これまでも、見抜いた上でだまされていたのかもしれない。いいわけの信憑性《しんぴようせい》が問題なのではなく、いいわけをされるそれ自体で、妻の立場の尊厳が守られたと。
秋原が婚姻届に印鑑を押したときに抱いたのと同じ翳《かげ》りが、亜弓にはなかったとどうしてわかるだろう。他人なのに。
翳りの実体を掘り下げてはいけない。打算ではない。惰性でもない。疲れないようにすること。それが暮らしというものなのだ。おそらく。
ためいきは『快特』の窓ガラスにかかる。
亜弓には居酒屋にいたと言おう。なんとなく入ったと。有線で古い歌謡曲ばかりかかる安い居酒屋だった。『花の首飾り』がかかるかとずっと待っていた。かからなかったが、高校時代を思い出して飲んでいた。なぜかどうしても電話する気になれなかった、と。詳細を除けば、これは真実である。
「上大岡」
車内アナウンスに秋原は車輛をみわたした。上大岡。毎朝、この駅に来ると、車輛をみわたす。
土曜の朝、上大岡から、秋原の車輛にはだれも乗ってこなかった。
「そうだな、こんな朝に乗ってこないよな」
上大岡。ここからも海は見えない。新興住宅のかたまりが、つぎつぎと窓枠のなかに現れては過ぎてゆく。秋の陽が新建材の壁やアルミニウムのベランダ柵《さく》を容赦なく安っぽく照らす。
海は見えない。
しかし、たしかに海が近くにある証拠に、空は海辺の町に特徴的なハーフミラーガラスに似た色をしている。どこかの台地に立てば、すぐその向こうで海が悠然と大波をひろげているような錯覚がおこる。『快特/三崎口行』。「崎」のつく町。終点名からして、海はぜったい近くにあるのだ。しかし金沢文庫までの京急電車から、海は見えない。
大森海岸。三浦海岸。日ノ出町。海を連想させる駅を行く電車に乗り、品川駅の掲示板では毎日、久里浜、逗子《ずし》、浦賀、といった海町の名を目にしているのに、秋原の通勤に海はない。
「金沢文庫」
彼の背後で『快特』が去ってゆく。
改札を出、階段を下りる。
東洋信託銀行の壁にへたばってもたれかかるように、秋原の自転車が一夜を越していた。
「課長、課長。秋原課長、か……」
彼は家に帰っていった。自転車は漕《こ》がず、押しながら。
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二 京浜急行に乗った女の章
海は汚れていた。
波うちぎわで空き缶や菓子の袋がぶよぶよ揺れている。
だれもいない。
十月だからではなく、午前七時半という時間だからだろう。
女は捨てられた傘を拾った。黒いビニール傘。破れている。骨も折れている。柄だけはまっすぐである。
運動靴が波に濡《ぬ》れぬよう、いくぶんかのスリルを味わいながら、波が砂を湿らせるぎりぎりのあたりを歩く女。傘をひきずる。砂地に跡がつく。二十メートルほど歩いたあたりで、女の身体がずれる。乾いた砂浜のほうへ。波うちぎわにつーっと一本、筋がついている。二十メートルほどの筋。
女はしばらく筋を見ていた。波が消してしまいそうで消さない。
捨てられたコーラ缶を傘ですくった。缶の、飲み口に傘の先をつっこみ、すくいあげる。
缶を筋の左端に置いた。
「上大岡」
つぶやく。ウーロン茶の缶を傘ですくう。コーラより右にはなして置く。
「横浜」
濡れてどろんとした菓子袋もすくう。ウーロン茶よりさらに右にはなして置く。
「川崎」
それから傘を、筋の右端に突き刺す。
「品川」
コーラとウーロン茶と菓子袋と傘で印のついた筋をながめる。筋を線路に見たてていた。
女は石川県輪島市生まれ。聖名女子大文学部卒。名を波多野妙子といった。
波多野は上大岡に住んでいる。平日には品川まで『快特』に乗る。品川から京浜東北線に乗り換えて大井町にある専門学校へ行くのである。羽鳥調理師専門学校。おととしから通いはじめた。三十一歳。勤めていた三隅商事は辞めた。髪も刈り上げるほど短く切った。
髪を切った日。
三隅商事を辞めた三日後。成人の日の休日だった。
「すごく若く見えるわ。男子高校生みたいよ。写真撮って妙子の弟さんだと言われたら、みんな信じちゃうわ」
友人が言った。
「ほんと、若くなったというより、幼くなったわ」
もうひとりの友人も言った。
久しぶりに学生時代の友人三人で会ったのである。
雑談をしながら道を歩いているとTVのバラエティ番組を名乗る人気コメディアンが波多野に近づいてきて、マイクを向けた。
「新成人の女性にアンケートをお願いしています」
短い髪、ファンデーションさえ塗らず、コーデュロイのズボンとセーター、昔からあるようなデザインの腿丈《ももたけ》のコートを着た波多野を、芸人は二十歳と見た。きゃあ、新成人ですって。友人ふたりははしゃいだが、波多野は芸人と目を合わさぬようにして小走りに立ち去った。待ってよ、妙子。逃げることないじゃないの。友人は追った。
「いやなの。あの人と話したくなかったの」
波多野はうつむいた。
「え? ああ、あの人? そこまで嫌っちゃかわいそうよ」
友人たちは笑った。
芸人を、波多野は嫌っていたのではない。恐れていた。彼は日ごろからTVの番組内で、ゲストにも、会場に集まった客にも、ことあるごとに相手の顔を評するのだ。「いやいや、あなた、顔が大きいですね」と。それで笑いをとる芸なのである。彼にマイクを向けられるなり、波多野は恐れたのだ。顔が大きいですね、と言われるのではないかと。それが怖くて逃げたのだった。
「…………」
波うちぎわの筋に突き刺した傘。カギ形の柄に波多野は軽く手を置いた。片脚を上げた。上半身は下げてゆく。アラベスク。
五歳のときから九年間、波多野はクラシック・バレエを習っていた。
父親がバレエを怠けることを許さなかった。彼は輪島の役所に勤めていた。ごく田舎くさい人種。住んでいる町の大小を指す田舎ではない。田舎くさい人種は大都市にもいる。
父親には「ごく田舎くさい小金持ちの町医者の娘が送るような生活」に過度なまでの憧《あこが》れがあった。不可思議な憧れだった、とこれはずっと後年になって思った。彼が町医者のように暮らしたいと願うのではない。町医者の娘が送るような生活が幸せだと信じることで彼自身が安息するのである。
父親は自身の安息として、波多野にバレエを習わせていた。そのころ。小学生の波多野は、だからバレリーナになるのだとしか将来を空想できなかった。
バレエ教室の教師はやたらヒステリックな初老の女性で、振りをすこしでもまちがえると唾《つば》をとばして怒る。ちがうっ。また、まちがえたっ。その声は鞭《むち》のように鋭く、泣きながら教室をやめてゆく生徒が後をたたない。
波多野は泣かなかった。父親の不可思議な憧れに応《こた》えねばならぬ。義務感がのしかかる。その重みは、女教師のヒステリーを凌《しの》いで、波多野をバレエ教室に縛った。
中学生になったとき、町外の教室に替わった。電車で十分ほど先にある、にぎやかな町の教室。そこの女教師は若く、明るく、波多野はようやくバレエがたのしいものであることを知った。練習にも励んだ。足の指から血が出ても。実際、波多野はバレエがうまかった。甲斐《かい》あり、中二の発表会では主役をもらう。
衣装合わせの日、明るく、だれからも好かれる女教師は言った。
「妙子ちゃんの顔はバレエを踊るのにはちょこっと大きいね。首ももうすこし華奢《きやしや》だと舞台でパアッと映えるんだけどね。ガッツで勝負よね」
明るく悪気なく。
波多野は鏡に映った自分の姿を見た。思春期の完全主義は、彼女に言った。
私は醜い。と。
発表会を終えてから波多野は教室をやめた。父親は満足していた。彼は発表会当日、波多野にほどこされた化粧を「不潔だ」と怒鳴ったので、娘は自分のいいつけを聞いたのだと思っていた。本当の理由は今でもだれにも言っていない。
波うちぎわには鏡がないのが幸いである。
アラベスクの姿勢をとる波多野の身体はよくしなった。
脚が長くのび、上半身が弓なりに反り、乳房が海を挑発するように隆起している。彼女の顔と身体のバランスは決して見苦しいものではない。どころかバランスがとれている。ただ極端に小さくはないというだけのことである。若いバレエ教師は、ただ白人と比較しただけのことである。
「バレエに愛されるためには生まれついての肉体のかたちが制約されている。努力の域より外にある制約」
波多野は脚をおろし、突き刺した傘を倒す。今でもあのコメディアンが怖い。
空が曇ってきた。波多野は海岸をはなれた。土曜日であるにもかかわらず、早朝に目がさめてしまい、ふと海のほうまでスクーターで来たのだった。
(さあ、帰って洗濯でもしよう)
スクーターのエンジンをかけ、ゆっくりとしたスピードで波多野は部屋に向かった。海まで来たときがそうだったように、帰りも、地図は見ず、方向だけを適当に見当つけて走る。
金沢文庫駅近くに出た。向こうから男がやって来る。
ほかにも人通りはあったが、その男が波多野の気をひいたのは、彼が自転車を、押していた、からである。
(パンクでもしたのかなあ。なぜ漕《こ》がないで押してるんだろう、あの人)
距離が近づくにつれ、男がはっきり見えてくる。背広を着ている。グレー系の背広。中肉中背。肩をおとし、のろのろと自転車を押している。がっかりしているような、どことなく苦笑いしているような、それでいてさっぱりしているような表情を浮かべている。
男を波多野はどこかで見たことがある。男との距離が接近してくる。四十歳前後。すれちがいざま、波多野は顔を向けて彼を見た。
彼もまた彼女を見た。
目があった。知っている。向こうも自分を知っている、とも感じた。
(だれだっただろう?)
しかし、ふりむかない。ふりむくと奇妙に思われる。背中で男を気にしながら、そのまま波多野はスクーターを走らせ、部屋にもどった。
洗濯と掃除をして土曜日は終わり、日曜は夕方近くまで眠り、夕飯のあとにレンタルビデオを観て終わった。
*
月曜。
午前7時35分発の『快特』に波多野は乗った。
「妙子じゃない」
声をかけられた。江利だった。芸人から逃げた日にいっしょだった友人。江利は金沢文庫にある親戚《しんせき》の家で法事があり泊まっていった翌日だった。
「髪、短いままね」
江利は、波多野が髪を切ったときにはすでに結婚して、子供がいた。
「だって料理をするから」
「そうかあ。今、師範科だったよね」
「うん。生徒としては修了したんだけど在籍扱いになってるの。ときどき先生の代行したり……。臨時講師ってとこかな。今年からはずいぶん生活にゆとりの時間が出てきた」
「三隅を辞めて女板前を目指すって聞いたときにはどうなることかと思ったけどねえ。ほんとにびっくりしたのよ、あのときは」
「そのために勤めのラストの一年は節約してせっせと貯金したのよ」
「そうは聞いたけど、てっきり結婚資金を貯めてるんだと。でなかったら、外国に留学するのかなあなんて。それが昼は調理師学校へ通って、夜はお寿司屋さんで見習いするっていうじゃない。びっくりぎょうてんとはあのことよ」
あのときは驚いた驚いたと、江利はくりかえす。
「たいへんだったでしょう。お寿司屋さん勤めだなんて」
「どうかなあ。過ぎてみると過ぎたことだから……」
あわてて駆け込み乗車をしても、電車が駅を後にすれば、駆け込んださいの動悸《どうき》はほどなく静まってゆく。汗もひく。それと似たようなものだ。
「せめてレストラン・パブみたいなとこにすればまだ楽だったでしょうに」
「でも、寿司屋なら魚をおろすのを上達させるのに一石二鳥だと思ったの。ゆくゆくはふぐ調理師の免許ほしかったし、とにかく魚さばきがうまくならんといかんなって」
「すごいわ。魚おろすなんて。わたしにはとてもできないわ。目が怖くて」
江利は波多野の手をとり、
「毎日、本格的に料理するからこんなに爪が小さくなってしまって……」
と、目をほそめる。
「いやだ。これはもともとよ。もともと私はぺちゃんこ爪なのよ」
「え? あら、ごめんなさい」
車内なので、ふたりは息をできるだけ抑えて笑った。
「でも、そんなに荒れてないのね。妙子の手、すべすべしてる」
「ちゃんと手入れしとけばだいじょうぶ。ただし去年までは昼夜、包丁にぎりっぱなしだったんで手荒れ放題だったけど」
「そんなにまでして調理師になろうとしたきっかけは……、ねえ、やっぱり男と別れたから?」
声をひそめて耳打ちする江利。
「え?」
友人の推測は突飛だと波多野には思われた。異性との関係で自分の生活形態が変わる、という発想が波多野にはまったくなかった。
「当たってるでしょう。男と別れたから心機一転てかんじ」
江利が顔をのぞきこんでくるのにどう対処すればいいだろう。わからない。それがまた友人に、波多野はあわてていると見せた。
「そ、か。新しい男ができたからのほうの心機一転なのか」
「いえ……前から興味があったから」
そうとしか言えない。料理人、シェフ、コック、板前。この種の職業につきたいと波多野が思ったのは高校生のときである。はじめは、ティーンエージャーの思いつきにすぎなかった。クラシック・バレエには極端に小さな顔に生まれついてくることが要求されるとしたら、生まれついて手が大きいほうが有利な職業につきたい。とすればピアノか料理か。ピアノは今からではプロは無理だろう。料理なら。料理のプロに男が多いのは、大きなパンを自由に操るために手が大きいほうがよいからだとなにかで読んだ。そうだ、世界でも指折りの女コックになってやる。ティーンエージャーらしく、そう思ったのだ。そう思いながら、同級生の多くが大学へ進学するように波多野も進学した。思いつきにすぎない夢。当時は幼く、狭い範囲での生活しか知らなかった。大学の所在する大都市に暮らしていれば、そのうち料理人になるチャンスもあるような気がした。ただ、気がした。気がしたまま日々はすぎてゆき、すぎてゆく日々が、波多野に調理師専門学校への入学を決めさせたのである。恋愛とは関係ない。
「プロの調理師免許持ってたら、これはもう結婚するときには大有利よ」
「大有利」
意味不明な鸚鵡返《おうむがえ》しになる。波多野はとまどう。結婚。なぜ江利は、波多野が会社を辞めた理由や、調理師専門学校へ入学した理由を、結婚や男性と結びつけるのだろう。江利にかぎらない。三隅商事でも女子社員の興味は圧倒的に、それはもう圧倒的に、波多野を本当に圧倒してしまうほど、その興味は結婚だった。
「横浜」
『快特』のドアが開く。
「きっと妙子の彼、待ちくたびれてるよ。早く結婚して式には呼んでね」
友人は言い残して『快特』を降りた。
(結婚する予定はないのだが)
友人に言う前に『快特』のドアは閉まった。結婚したくないわけでも制度を否定するわけでもない。結婚について考えないのである。考えるにいたるほど、結婚に興味が持てない。結婚というものは波多野にとって、現実味がまるでない。
横浜。
もう七、八年も前のことになるだろうか。この街によく来た。いつも奈良研一《ならけんいち》といっしょだった。奈良とは大学生時代に知り合い、頻繁に会っていた。
*
「部屋に遊びに行っていい?」
港の見える丘公園に吹く風が冷たく、波多野は奈良に言った。彼は東急東横線沿線に住んでいる。横浜から近い。
「炬燵《こたつ》に入りたいんだけど」
「ああ。でも散らかってるんだ」
ずいぶん長いあいだ考えてから奈良は承諾した。
「炬燵、ある?」
「あるよ」
「よかった」
「あの……、来てくれるのはとてもうれしいんだよ。ほんとに。すごく」
妙な言い方をするな、と波多野は思う。
「でも、ほんとに散らかってて」
どんなに部屋が散らかっているかを長々と説明する。散らかっていることぐらいを、なぜ彼はこんなに説明するのか。
「だれの部屋だって散らかってるんじゃないの? もちろん入る前に十分くらいは部屋の外で待ってるよ」
「え、そんなの悪いよ」
「べつに悪くないじゃない。急な訪問をして炬燵に入れてもらうのに」
寒い日である。つまさきが冷たくなっていた。公園を歩いているときから波多野は炬燵に足を入れたくてたまらなかった。
「じゃあ、その……。行こう」
「うん」
部屋に行くと、すこしも散らかっていない。
「きれいじゃない。これで散らかってるって言う?」
「掃除機をかけてなくて」
「ふうん」
小物が少ないせいか、波多野には整然としているようにさえ見える。
「コーヒーも切れてるし」
「いらない。炬燵にあたりたかったんだからほかにはなにもなくていいよ」
波多野が言うと奈良は、くす、と笑った。
「なにがおかしいの?」
「うまい動機づけだなあって感心したからさ」
「動機づけ?」
波多野は奈良が何のことを言っているのか、わからなかった。が、わからないことをさして気にしなかった。そのときは。
「TVもある」
「あるだろ、それくらい」
「私、大学の寮だから部屋にはないの。食堂にしか。ねえ、TV見ようよ」
「つければ」
「つける」
寒い日の午後、TVはものまね番組の再放送をやっていた。波多野はよく笑った。炬燵で足をぬくぬくと温め、人と雑談しながらTVを見る。なんてたのしいのだろう。
家族で炬燵に入ってTVを見たことが、波多野にはない。輪島の家に、炬燵もTVもあったが、家族で炬燵に入ってTVを見たことはない。足の冷えた者がときどき足を入れて温め、温めたら出ていくもの。炬燵とはそういうものだった。ニュースを見る。TVとはそういうものだった。雑談しない。家族とはそういうものだった。
大学の寮の食堂。大きなTVが置いてあるが炬燵はない。あそこでTVを見ていると、つまさきと足の裏がじいんと痺《しび》れるほど冷たくなってくる。天井からの暖房なので、足が冷たいのと頭に温風が来るのとで気持ちが悪くなってくる。
炬燵にだれかといっしょに入ってTVを見る。波多野にとってそれはティファニー宝石店のウインドウのようなものだった。高価なもの、しかし、自分には縁の薄いもの。
「ああ、たのしかった」
カーテンを開けたままの窓の向こうが暗くなったとき、波多野は奈良に言った。満足感が全身に充《み》ちていて、頬が輝いているのが自分でもわかる。
「じゃ、そろそろ帰るね。どうもありがとう」
靴をはいて部屋の外に出た。
「駅まで送っていくよ」
奈良が追いかけてきた。
「いいよ。わかるから」
送られたくない。炬燵に入ってTVを見たのがあまりにたのしかったので、もし送られたら、たのしい時間は終わったのだと意識してしまう。炬燵に入ってTVを見たこと。波多野にとってそれはほんとうに大切なことだった。そういうことのできる人間として奈良を愛していた。
「おい、待てよ」
「どうしたの? 忘れ物した?」
「忘れ物じゃないよ。そんなにそっけなく帰ることないだろ。なにか怒らせたか?」
「怒る? なぜ?」
「炬燵に入りたいから部屋に行っていいか、なんて言って部屋にやって来て、ほんとうに炬燵に入って帰るなんて、怒ってるとしか思えないじゃないか」
「どうして? とてもたのしかったよ」
「それって、いったいどういう意味なのかな?」
「どういう意味って、それこそどういう意味?」
奈良は波多野の袖《そで》を掴《つか》む。
「実はWさんと昨夜《ゆうべ》会った」
共通の友人の名前を、沈黙ののちに、奈良は出した。
「そう」
急にWの名が出たことにとまどう。
「Wさんと渋谷《しぶや》で会った。彼女と、ホテルに行った」
「ええ。それで?」
ホテルに行った、と言ったあと、また奈良が沈黙するので、話のつづきを促した。
「それで、って。いやじゃないのか? ホテルに行ったんだよ。眠りに行ったんじゃないんだぜ」
「Wさんとセックスした、ということ?」
「……そうだ」
「それで?」
そうだ、のあと、また奈良が沈黙するのでつづきを促す。
「それで、って。俺は波多野を裏切ったんだよ」
「裏切る? なにを?」
「とぼけた言い方するのは、聞かなかったことにする、という意味なのか?」
「なぜ聞かなかったことにしなくてはならないの?」
「波多野にとっては不愉快な話だから」
「そうなの?」
「そうなの、って。俺に答えさせることじゃないだろ、それ」
「だって、ホテルって……。ラブホテルなら……」
波多野はホテルの室内を想像する。
「ホテルって炬燵《こたつ》があるの?」
「いや、なかった」
奈良の語調は憮然《ぶぜん》としている。
「ふつう炬燵なんかないだろ、ああいうホテルには」
「じゃあTVは?」
「あったんじゃないのか」
「TV、見た?」
「……見なかったよ、そんなものは」
「ほんとはWさんとTV見たかったけど、がまんしてた?」
「……だからね!」
奈良は語調を荒立てたのちに、つづけた。
「しなかったよ、そんながまんは。馬鹿馬鹿しいことは訊《き》くなよ。TVや炬燵のことなんかどうだっていいだろ。なにが言いたいわけ? そうやって細部にわたり俺に告白させることで俺を責めるのか?」
「だって……奈良くんのほうからWさんの話をしはじめたんじゃないの」
「それは、俺たちにとって話しておかなくてはならないこと……なのだと、俺は悩んだ末に話したんだ」
「へんな悩み」
「……わかった。もういい。よくわかった」
「私がわからないよ。なにがわかったの?」
「きみは俺のことを好きでいてくれてるんだと思ってた。でも、ちがった。それがよくわかった」
「好きだよ」
「お友だちとして、ね。そういうことだったんだ。それなのに、俺ときたら、波多野のことを身持ちの堅い女の子だと思ってた。だから大事にしてきた。俺も波多野のこと好きだったから」
「私も好き」
「だからそれは、お友だちとして、ってことだろう」
「へんだよ、その言い方。友だちを一段低く位置づけた見地からの言い方になるよ、それだと。私は奈良くんのこと、愛している。だっていっしょに炬燵に入ってTV見たんだよ」
「炬燵、炬燵って……。きみにはそんなに炬燵とTVが重要なのか!」
「うん」
奈良はガードレールに腰をおろした。黙っている。ずっと黙っているので波多野も黙っていた。
「炬燵に入ってTVを見るなんてこと、だれとでもできるものじゃないもの」
やがて波多野が言うと、
「とにかく送っていくよ」
奈良は駅まで黙ってとなりを歩いた。
*
「川崎」
車内アナウンスのあと『快特』が停車する。何人かが降りる。席が空いた。すわる。
奈良とは結局、その日が最後だった。それきり会わなかった。会わないでおこう。電話でそう言われたのである。
炬燵に入ってTVを見ることの幸甚を理解できない人間がいるとは、女子大学生の波多野は想像してもみなかった。
今はわかる。理解できない人間のほうが多いと。
炬燵に入ってTVを見る。そんなことは多くの人間は成人するまでにとうに、何度も何度も家庭内で経験し尽くしているのだ。
『快特』の座席で波多野は目を閉じた。
奈良と会っていたころより、もっと以前。ヒステリックな女教師にバレエを習っていたころ。
学校から帰ってきた波多野は、ランドセルから鍵《かぎ》を出して玄関を開けた。小学三年だった。母親は漆器問屋に勤めていた。家というのは、昼間はいつもだれもいないものだった。が、その日は廊下のつきあたりにある母親の部屋で人の気配がした。
泥棒だ。びくっとして、だが足音をしのばせて部屋のほうへ歩いて行く。襖《ふすま》が一センチほど開いていた。そうっとのぞくと母親の背中が見えた。部屋の中央に正座している。なんだ。安堵《あんど》する。安堵と同時に強い疑問がわく。なぜいるはずのない昼間に母親が家にいるのだろう。その一瞬の安堵と疑問が、すぐに声をかけそびれさせた。正座してなにをしているのだろう。さらにもう一瞬、波多野の口をつぐませた。母親の背中の様子は異様に熱心で、恐ろしかった。彼女は正座して、なにかを一心に、見ている、のか、しているのか、うつむいていた。なにをしているのかわからないが彼女の背中から気迫が放電されている。
声をかけてはならない。波多野は思い、しのび足で洗面所に行き、わざと水量を上げて手を洗った。
「あら、帰ったの」
すぐに母親が洗面所に来た。
「あっ、お母さん。どうして帰ってるの?」
今驚いたふりをする。
「印鑑がいるので、とりにもどっただけなの。また出かけて、七時には帰れると思うからね。ちゃんと鍵をかけておくのよ」
「わかった」
母親が出たあと、小学生の悪びれのなさで、波多野は母親の部屋に行った。部屋はふだんとかわりがなかった。隅にたたまれた布団。父母はずっと別々の部屋で寝食している。別々の部屋で寝て、別々の部屋で食事する。
桐の箪笥《たんす》。衣桁《いこう》。鏡台。鏡台の化粧瓶の下に、四角い紙があった。なにげなく波多野はそれを瓶の下から引き抜いた。紙ではなく写真だった。父親の写真。役所の同僚らしい三人と写っている。全員、こしかけているのでバストアップになっている。いくぶんか前に撮られたものだろうが、そう古い写真でもない。ただ、父親の目が、針のようなものでくり抜かれていた。くり抜かれた部分の裏に指のはらを当てると、ちくちくする。くり抜かれたばかりの感触だった。
「やっぱり」
波多野は、いつものように思った。ただそう思った。
善良で平凡な家のなかで、波多野は父母が諍《いさか》いをしているのを一度も見たことがない。そして語らっているのも見たことがない。結婚するとはそういうことなのだと、波多野は思っていた。父母の結婚が不幸だとは思わず、したがって自分は平凡な家庭に、恵まれて育っている、と思っていた。後年になっても、その思いは、さして変化していない。
波多野は目を開けた。『快特』は品川に近づいている。
炬燵でだれかと雑談しながらTVを見るのは、波多野には幸甚なのだった。非凡で、非日常な幸甚なのだった。
『快特』の車窓からはビルが見える。ぐじゃぐじゃに突き立った高層ビル。車。道路。緑のない風景はなんとやすらかに落ちつくのだろう。灯《とも》されていないネオンサインの器具の褪色《たいしよく》した弱々しさはなんと愛らしいのだろう。
「あの、大丈夫ですか……」
波多野の肩に手がそっと置かれた。『快特』のガラスに額をぶつけるようにして上半身の体重をかけていた彼女が、前の席の乗客には気分が悪くなったように見えたらしい。
「大丈夫です」
姿勢を正した。乗客の顔を見る。
(あ、)
土曜日の朝、金沢文庫で自転車を押していた男である。
(そうだ。この人、毎日『快特』で出会うのよ。だから顔に見おぼえがあったんだわ)
波多野が彼を見るように、彼も彼女を見ていた。
土曜日には四十歳くらいだと思ったが、三十七くらいかもしれない。あるいは四十五で、ずっと若く見えるのかもしれない。道ですれちがったことをおぼえているだろうか。
「土曜の朝……」
訊《き》こうとして、やめた。そんなことを訊いてどうするのだ。
へえ、それは偶然ですね。金沢文庫にお住まいなんですか。毎日、この電車ですか。
『快特』は便利ですね。こんなふうなことをかわして、それで終わりだ。
「土曜の朝?」
「いえ、べつに……」
ぎこちなく見つめあったまま『快特』は終点、品川に着いた。どろどろとペーストのように乗客がホームに降りてゆく。が、波多野も前の客も席をたたない。
「降りないんですか?」
男が訊いた。
「降ります。あなたが降りたら降りようと思っていました」
「ぼくもそう思っていました」
男が席をたった。波多野も彼につづいた。ならんでJR線乗換口を通過した。高架通路。なにも話さなかった。
「じゃあ」
波多野が辞儀をすると、男もした。
男は、山手線〔1〕〔2〕番線ホームへの階段を下っていった。波多野は京浜東北線〔3〕〔4〕番線ホームへの階段を下っていった。
階段の半分まで下りたとき、咄嗟《とつさ》に、波多野は引き返した。高架通路に出ると、男ももどって来ていた。ふたりとも同じ行動をしたのである。
驚いた顔をしたまま、また黙って波多野は男を見た。彼も見た。
「あの」
男のほうが言った。
「花の首飾りという曲があるんです」
山手線の発着をいくぶん気にしながら、彼は不意に言った。
「タイガースの? タイガースの花の首飾りですか?」
「知ってますか?」
光が射したように男の顔が明るくなる。
「ええ」
「じゃあ」
今度は男のほうから辞儀をした。波多野もした。
〔3〕〔4〕番線への階段を、波多野は下り、今度は引き返さなかった。
花の首飾り。
その曲を、波多野はバレエ教室で聞いた。あたし、タイガースが大好きだったのよ。陽気な女教師はそう言って、レッスンのあとによくテープをかけていた。お・愛の・しるし。愛の証《あかし》である花の首飾りをかけてもらった白鳥が人間になる歌詞は、バレエ『白鳥の湖』を連想させた。
「かけたとき・嘆く・白鳥《しらとり》は・娘に・なりました」
口内でうたうと温かい息が胸に充満した。
「私は腕のいいコックになろう」
波多野は声に出して言い、学校に向かった。その身体はエクスタシーに火照り、つまさきまで熱い。
運命的な出会い。恋のはじまり。そんなものを感じられるほど、もう波多野は若くない。ただ、階段を下り、とちゅうで引き返し、花の首飾りという曲名を告げられた、その一分ほどの時間。その一分間には今まで体験したこともないエクスタシーがあった。
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三 京浜急行を降りた男と女の章
窓は開かない。
三十センチ四方の小さな窓。嵌《は》め殺しのガラス。山藤製薬・経理部、給湯室。
「こんなところから空が見えるのか」
秋原は、この窓を今日、発見した。簡易な食器棚に隠れていた。棚の裏手にまわらないと窓には気づかない。棚の裏手には、箒《ほうき》と塵取《ちりと》り、雑巾《ぞうきん》などがかかっている。
秋原は給湯室にはめったに入らない。入っても、ただ茶碗《ちやわん》を取るか、濯《すす》ぐか、十秒もここにいることがなかった。
「しかくい窓だ」
新鮮な心地がする。ガラスは汚れていた。かすれた空が見える。かわいた雑巾でこする。空色の空になった。
まだ明るみを残し、ちぎれた雲が空色の空のなかにのどかそうである。雲の下方にはところどころ橙色《だいだいいろ》が混じりかけている。午後四時半。
秋原は、鼻先がガラスにふれるほど窓に寄ったり、首を反らせて離れたりして窓を見ていた。一枚の絵のようだ。窓の下にプレートをつけ、題名を記せば。
「挽歌《ばんか》、というのはどうだろう……。ありふれてるか……」
平凡な題。平凡な題しか思いつかない、自分の平凡な暮らし。ありふれている。
窓からは空だけでなく、隣接するビルや看板も見える。高い場所にいる。それをあらためて知る。が、天から見れば、自分は蟻のようなものだろう。
「蟻、働け」
もごもごと秋原はつぶやいた。
「蟻、働け。レールを乱すな」
窓はしかくい。蟻は、たまにはレールから逸《そ》れてみたい。たま、でいいから。自己保身が約束される範囲での望みだと、卑小でずるい望みだと、天から冷笑されるような逸れ方でいいから。
「平凡だ」
ふたたびレールにもどれるていどの逸れ方を望み、もとにもどれないことを震えるほど恐れる。つくづく自分は平凡な男である。窓を見る。
「決して開かない窓」
題名をもうひとつ思いついた。
「どうかなさいました?」
女性社員の声で秋原は我にかえった。
「いや、べつに。ちょっと考えごとをしていたもので」
給湯室を出る。退社時刻まで窓のことは忘れた。
「お、どうだい。最近の調子は」
ビル一階ホールで、沢田と会った。広報課。秋原とは同期。
「平凡だよ」
「平凡、けっこうじゃないか。定番に勝るものなしだ。どう、近々またいっしょに?」
クイと手首を曲げ、飲む動作をする沢田。
「沙耶女史の優雅なご自宅なんかで、またどうだい。彼女、おまえに会いたがってたぜ」
沢田は悪戯《いたずら》っぽい目つきをしてみせた。
沙耶と「ああいうこと」になったのは、一円ずつ入れるところを、二円入ったようなものだ。分別のある年齢と地位の沙耶が、ああいうことになったのを口外するとは思えない。秋原も同様である。
「俺などに会いたがってくださるとは光栄だな。よろしく伝えておいてくれ」
「恵理ちゃんもいっしょ、っていうのはどうだ?」
「恵理ちゃん?」
「間宮恵理ちゃんだよ。管理検査部の」
間宮は、理恵ではなく、やはり恵理だったのか。
「あたし、秋原課長のファンなんです≠セと。『管検』のフロアじゃ噂でもちきりだよ」
「おい、やめてくれ。訂正しといてくれよ。ろくに話したこともないのに」
間宮は若くかわいらしい娘である。そのことを自分でもよく知っていて女の匂いを発散している。それが秋原にはおっくうでならない。自分の娘の下着を見させられているような心地がする。
「あれだけ大胆に恵理ちゃんが発言してるんじゃ、ナニかあったとはだれも思っちゃいないよ。かわいいじゃん、彼女」
「かわいいよ。かわいい、かわいい。うちの長女と同い年なんだぜ」
「男|冥利《みようり》につきるじゃないか、自分の娘のような若い女にファンだと言われて。もっとも、おまえは熟女にもモテるから。守備範囲が広いのが色男の秘訣《ひけつ》なのかな」
「やめてくれ。誤解を招くだろう。おまえだって結婚してるんだろ。ならわかるだろう。結婚してると、そういうことはもういいよ」
なら、なぜ自分は沙耶と寝たのだろう。ただ寝るだけなら結婚の貞節をふみはずさないと、あのとき思ったのだろうか。
「俺はぜんぜん、もういい、とは思わないよ。ただ四十三だと思うとぞっとする。ぞっとしたくなくて、いい女いねえかなと探す」
沢田は、そのあとすこし黙って、それからつづけた。
「いい女と、べつにセックスしたいわけじゃないんだな。したくないわけじゃないんだけどさ。話しててつまらないのは、もういい、って、さっさと思う。若いときは、つまらなくてもセックスしたさにがまんしてたが、今はセックスしなくても、つまらなくないほうがいい」
沢田はあけすけな性格で、そのせいか色恋の噂がいつも社内でたつ。
「とまあ、こんな話をしてる場合じゃないな。じゃ、近々に飲み会ってことで」
あけすける「度合い」も心得ている。沢田は手を軽く上げて、ビルから出ていった。秋原は品川へ向かった。
『Bali』。品川駅構内にある店。ここでビールを飲んだ。
残業もなく、同僚と会食する予定もなく、さっさと帰宅できる日にかぎって、こんな店で時間をつぶしてしまうことがある。
不倫の恋を渇望するわけでなく、疲労を感じるわけでなく、ただ帰りたくないという強烈な思いで立ち寄る。
しかし、今日は目的があって、ここにすわっている。待ち合わせたのだ。
(ほんとうに来るだろうか……)
待ち合わせた相手が来るかどうかより先に、相手を待つ自分がここにいる、ということが半信半疑である。
品川駅は「日常」の場所である。ときどき夢に出てくる。品川駅からニューヨーク行きのバスが出ていることになっていたり、品川駅を使って、まだ高校生の自分が通学していたりする。夢にはそんなことがよくある。
だからこうしてビールを飲みながら、だれかを待っていることになっている夢を見ているのではないかと感じる。高架通路を行き交う大勢の人間も夢のなかの人間ではないかと。
待つ相手は女で、彼女の名前を知ったのは二週間前である。顔は一年余り前から知っていた、というより、見ていた。
秋原が毎朝乗る『快特』。前から三輛目。習慣だった。金沢文庫の次の上大岡で彼女が乗ってくる。
短い髪。大きめのメンズ仕立ての上着に、ズボン、運動靴。なんのアクセサリーもつけず、化粧もせず、爪も染めず、指輪もせず、いつも背筋をまっすぐに、反り気味なまでにまっすぐにして立っている。
彼女はよく欠伸《あくび》をしていた。口に手もあてず欠伸をする。それが目についたさいしょだった。さくら色の歯茎から健康な歯が生えており、それが秩序正しくならんでいた。
沢田が言ったような、いい女がいた、といったかんじで目にとめたのではない。活発そうな外見であるにもかかわらず、彼女の顔には暗さがあった。陰気な幸薄い暗さではない。なにかを渇望してやまない感情が燃えて、それが陰影をつくっているような暗さ。いや、そうであってほしいと自分が望んでいるのだと、それはとりもなおさず、ギターとは無縁の暮らしを選択した自分の内の陰影だと気づき、以来、上大岡に停車すると、彼女をさがすようになった。
一年余り、名前も職業も年齢も知らなかったが、二週間ほど前、
「タエコじゃない」
と、彼女に声をかけた乗客がいて、知った。乗客は彼女を、タエコと呼び捨てたり、ハタノさんと、ときにさんをつけて呼んだりしていた。
欠伸をする女がハタノタエコという名前であることを、秋原はこのとき知った。
『快特』はボックス席である。女とその友人は、秋原のすわる席の背もたれにつかまり、話をしていた。下品とは知りつつ、彼は彼女らの話を盗み聞いた。
六年間勤めた三隅商事を辞めて、調理師専門学校に通いはじめたこと。師範科を修了したが学校に残り、臨時講師のような立場にいること。
横浜で、友人嬢は降り、川崎で、秋原の前の席が空いた。そこに、女はすわった。なぜか咄嗟《とつさ》に、秋原は新聞で顔を隠した。新聞を読むふりをして彼女を見ていた。彼女は目をつぶり、なにかを考えているようだった。目を開けると、窓ガラスに額を押しつけた。いつも姿勢のよい彼女の肩ががっくりと落ちている。
気分でも悪くなったのか。秋原は思わず声をかけた。
「あの、大丈夫ですか……」
「大丈夫です」
姿勢を正し、秋原に正面を向けた彼女はさびしそうだった。いや、さびしがっていてほしい、と秋原が望んだのだと思う。商社に平穏に勤務する暮らしよりも、果敢な挑戦を選んだ彼女は、果敢なゆえに孤独であろうと。そうあってほしいと。
『快特』を降りた品川駅の高架通路で、いったんは下りかけた山手線ホームへの階段を引き返し、秋原は彼女に言った。花の首飾りという曲があるんです、と。
なぜあの歌のことを訊《き》いたのか、わからない。だが、彼女は笑顔を見せた。ええ、と。
翌日から、彼女は『快特』の前から三輛目には乗ってこなくなった。二週間が過ぎた。
そして今日、秋原は二週間ぶりに会った。
『快特』車内でではなく、JR線に乗り換える通路で。わずかな歩行時間に、眩暈《めまい》がしそうなほど躊躇《ためら》った。名刺を渡すか否か。誘っていると思われるのがいやだった。が、彼女と話したいという欲求のほうが勝った。
「揺れる車内で本を読むのは疲れるから」
秋原は名刺を渡して言った。だから、時間がもし合うようだったら帰りの電車で立ち話でもと。
品川駅構内のスタンドで、秋原はハタノタエコを待っていた。
*
じゃりじゃりとコーヒー豆の粒が、爪と皮膚のあいだでこすれる。てのひらにも、甲にも。
波多野は手を洗っていた。羽鳥調理師専門学校、講師控室。ドリップで漉《こ》したあとのコーヒーで手をこする。そのあと石鹸《せつけん》で洗う。と、魚の匂いがとれるのである。
鰺《あじ》をおろした手を洗い、ハンドクリームを塗り、波多野は白衣を脱ぐ。
「お疲れさま。どう、あの話、考えておいてくれた?」
背後から、羽鳥の声。この専門学校は同族経営である。父親が理事長、長男が校長。そして声をかけてきたのは次男だ。次男は、なんとなく学校にいる。肩書は主任講師だが、調理実技はしない。
「いい話だろ。常勤講師としてここでがんばってよ」
「ありがたい話なんですが……」
いい話にはちがいなかったが、波多野は、校内だけで料理を作るのではなく、いろんな人間に自分の料理を食べてもらいたいと思っている。その夢に賭《か》けて三隅商事を辞めたのだ。夢に賭けるというより、復讐《ふくしゆう》めいた気分もどこかにある。バレエに理不尽に拒否された恨みをはらす復讐。自分自身の肉体が自分の努力を裏切った。
「なにせ、波多野くんの魚のおろしっぷりは入学当初から目立ってたから。十八、九の男子生徒がおろおろと魚にさわるなかで、きみだけ荒っぽいほど大胆に包丁をさばいてたからね」
たしかに、活作《いけづく》りのさいしょの授業で、担当教官から手放しで褒められた。
「サラリーのほうも、もちろん優遇するよ。通勤しやすい町に部屋も見つけてあげようと思ってるんだ」
去年、離婚したという羽鳥次男は、波多野と同じくらいの年齢である。なにかと波多野に親切にしてくれる。
「女シェフになるってのは、きみらしくてかっこいいけどね。でも店を一軒きりもりしていくとなると料理の腕だけじゃない問題もあるんだぜ」
なにかと親切な次男は、
「どうしても、っていうなら羽鳥の冠のついたレストランを出すってのも、親父に申し出てみてもいいかなあって思ってるんだ。そこは、ぼくが経営をまかされるだろうから、そしたら料理のほうは……。まあ、一案だけどさ。それより、今度の休日なんだけどさ……」
と、なにかと親切にドライブに誘う。べつの日には、リゾートホテルに行って、そこでゴルフをしようよと誘う。バーキンという名の鞄《かばん》を買ってあげようかとも言う。
次男の親切に、波多野は感謝する。感謝するゆえに、なんと言って断ればいいのか考えねばならず、めんどうになる。ドライブにもゴルフにもバーキンの鞄にも、波多野はいっさい興味がない。本心をストレートに言っても、遠慮することないよ、と彼は信じないのである。
ねえ、なぜ結婚しないの?。次男はこうも訊いてくる。きみって、エッチなことを悪いことだって怖がってるとこない? 潔癖性っていうかさ。こうも、よく言う。親切でめんどうな次男だった。
結婚という二文字が自分に与える、暗く重苦しいイメージを、彼にどう説明すればいいのかわからない。性愛を嫌悪しているわけでも決してないが、それはマダガスカル共和国とかバヌアツ共和国とか、遠い海の向こうにある外国のような実感のないものだった。
「今夜、いっしょに夕飯でもどう?」
「今日は約束があるのです」
「寿司屋のバイトは辞めたんだろ? 最近は時間もラクなんじゃないの? それとも彼氏ができた?」
彼氏《カレシ》という語は、魚のカレイを連想させる。カレイ。と、カレイという語からレイを。レイ。LEI。首飾り。なぜ、あの男はあの歌のことを訊いたのだろう。
「彼氏はできません。知人と会う約束があるのです」
「そう。じゃ、またいつかね」
「はい」
次男に礼をして、波多野は学校を出た。
『Bali』に向かう。そこで待ち合わせをしている。
待ち合わせた相手の男は、二週間前、高架通路で唐突に訊いてきた。花の首飾りという歌、知ってますか。唐突な質問を、すこしも唐突に感じなかった。唐突だと思う前に、バレエ教師がよくかけていたテープの甘いメロディが波多野の胸にあふれた。
翌日から波多野は『快特』の前から三輛目に乗るのをやめた。理由はふたつ。そのとき胸いっぱいによみがえった花の首飾りのメロディを、そのままとっておきたいような気がした。あとは、どういう顔をして会ったらいいのかわからなかった。
それが今日、JR線への乗換までの通路で偶然、彼とならんだ。
おはようございますと、やや緊張して波多野が言うと、彼はしばらく躊躇っているようだったが、名刺をよこした。山藤製薬・経理課課長、秋原健一。名刺を見て名前を知った。
帰りは何時ごろなんですか? 彼は歩きながら訊いた。依然として躊躇っていた。まちまちです、今日は六時半ごろでしょうか。波多野も躊躇って答えた。明確な時刻を答えると誘っているようで。が、彼と話したいという欲求のほうが勝った。
『Bali』で六時半に待ち合わせることになった。
「そこにいますからいっしょに『快特』で帰りませんか。電車のなかで本を読むと揺れて目が疲れるし、たまには人と立ち話しながら帰るのもいい。なにか用ができて時間が合わなければ、べつに来てくれなくていいですよ」
そう彼は言い残した。
京浜東北線のなかで波多野は名刺を見直す。秋原健一。健一。字はちがうが、奈良と同じなまえである。炬燵《こたつ》に入っていっしょにTVを見ることのきらめきを、わからない、と言った奈良。
(健一。長男だ、きっと)
奈良もそうだった。ひとつ上の姉、ふたつ下の弟。姉は注文ばかりつけてくるし、弟はめんどうみてやってるのに憎たらしいし、長男だからって家継ぎの責任は重いし、妹がほしかったよ、けなげな妹が。奈良はよくそう言っていた。
名刺をポケットに入れ、波多野は『Bali』に入った。
*
秋原が今朝見たときより、彼女の頬は赤みをもどしている。朝の頬は青みがかっていた。
「あ、出ます」
彼女のすがたを見るなり、秋原は店を出た。『快特』で帰ろうと言ったのだから。それだけのことなのだから。それをとにかく示したかった。
「もう手袋をしてるんですね」
濃いブルーの手袋をしている。朝は気づかなかった。
「手足がすぐ冷たくなるので。包丁を持つときに手がかじかんでいると危ない……」
とちゅうでやめ、彼女は秋原に、自分は調理師専門学校で臨時講師をしているのだと言った。うむ、と曖昧《あいまい》にうなずく。すでに知っている。だが彼女と友人の会話を盗み聞いたと言い出せない。
「めずらしい模様ですね、それ」
話題を手袋にもどした。
「これ? これはもうかたちがゆがんでしまってるけど、もとはラケットの模様が編み込んであったの」
彼女の話し方は遠慮がちで、語尾の「の」はほとんど無音であり、「編み込んであった」と聞こえる。
「小学生のときに買ってもらいました。そのころ女の子のあいだで流行《はや》っていたテニスのアニメがあって」
秋原は足をとめた。
「小学生のときだって?」
「あの、私、小学生のころから手が大きくて……」
彼女も立ち止まる。
「そのテニスのアニメの主人公がビニール・アップリケになったのがついた合成皮革の、ところどころだけ毛糸の、子供用の手袋をみんな持ってたの。でも私の手には小さくて、せめてラケットの模様を編み込んだ手袋を買ってもらったんです。毛糸なら伸縮性があるから」
「いや、ぼくがびっくりしたのは、そんな昔に買ってもらったものを、よくまだ使ってると」
「とても大事に使ってたんです。買った当初はラケットの白がブルーにすごく映えてうらやましがられた。中学へ上がってから使わなくなって箪笥《たんす》にしまっておいたのを、大学生になって上京するとき、他の衣類にまじっちゃってて。でも、大学生時代やOLのときは手袋をはめることがそんなになかったから……。だからそんなには傷んでないから……」
商社時代の貯金をくずしながら、寿司屋でバイトしながら専門学校に通っていたことを秋原はすでに盗み聞いている。慎《つつ》ましい、しかしまるで惨めったらしいところのない、ハタノという人の清楚《せいそ》な暮らしを、秋原は想像した。
(食事はもう済ませた?)
訊《き》きかける。警戒されるのではないかと思う。やめる。京急のホームまで、ふたりはとことこと歩いた。
「次はなんだ、『普通』か」
電光掲示板を見上げる。
「その次が『快特』だわ」
「じゃ、あの列あたりにならぼうか」
ならんでいるあいだも、とくになにも話はしない。今日はすわれそうな気配ですね、とか、品川は始発だからわりとすわれるけど、とか。どうということのない話のままに、『快特』ではすわることができた。
「さっき、上京するとき、って言ってましたけど、郷里はどこなんですか?」
「石川県です。輪島」
「あ、漆器で有名な」
「ええ。秋原さんは」
「埼玉の与野《よの》市」
横ならびのボックス席で、秋原は会話をとぎれさせてしまった。困った。以前、盗み聞きした会話から、彼女が勤めていた会社名も、おおよその年齢も、彼はすでに知っている。かえって会話をつづけるのが難しい。ハタノタエコはどういう字を書くのか、それは訊けない。
窓側がハタノタエコ。通路側が秋原。『快特』が鮫洲《さめず》を通過したあたりで、高速道路の向こうに看板が見えた。秋原の会社の看板である。
「あれが」
ハタノタエコの肩ごしに、
「あれが山藤製薬です」
目立たぬよう指さした。
「あの看板のあるところに毎日通ってらっしゃるんですか?」
「いや、ぼくは有楽町です。経理ですから。看板のあたりはどこらへんになるんでしょう。いつも『快特』で通過するだけで、よくわからない」
「私も。さっき通過した駅は、鮫洲でしたよね」
線路のすぐ近くに高速道路の料金所が見えた。鈴ケ森料金所。
「鈴ケ森……。鈴ケ森って、昔、処刑場があったところでは?」
ハタノタエコは首を曲げ、秋原の耳に口を近づけた。処刑場、の部分をひそめて。怖がるように。
「そういや、聞いたことがある。歴史もののTVかなにかで」
「きっと昔は……。昔々はこのあたりってだだっ広い草むらだったんでしょうね」
草むらに竹矢来を張りめぐらせた、時代劇に出てくる処刑場を、秋原も想像する。
「磔《はりつけ》とか、火あぶりとかをしたのかしら……」
前の席の乗客に聞こえぬようにと、いっそう声をひそめ、いっそう秋原の耳に口を寄せて、ハタノタエコはおかしくなるほど怖がっている。
「きみ、そんな顔して子供のころもTVの怪談を見てたんじゃないの?」
するりと緊張が抜けて、秋原の話し方から硬さが薄れた。へ、とまことに素直にハタノも手を顔に当てる。
「どんな顔してました?」
「だから、子供がTVの怪談を見てるような顔だよ」
ハタノは顔に手を当てたまままじめに考えている。子供がTVの怪談を見ているような顔、というものがどんなふうであるかを、まじめに考えているらしかった。
ハタノタエコの襟足はバリカンで刈られている。ちくちくとした毛は、彼女を幼く見せる。顔も幼い。だが、童顔ではない。甘味のない顔だちである。意思の強そうな。その意思の強そうなところが、幼く見せる。小学校の学級委員がそのまま発育したような、不運な幼さがハタノの顔にはある。
(不運な清廉さ)
表現を変えた。戦後、闇米に手を出さなかった判事が餓死した有名な事件がある。それを思い出す。
「夜ごはん、まだだよね?」
秋原は率直に訊いた。
「はい、まだです」
ハタノも率直に答えた。
「川崎」
車内アナウンス。
「降りないか? いっしょに夕飯食べよう」
『快特』が川崎に当然停車するように、秋原は言った。ハタノもあとをついてきた。
「この駅って降りたことがなかった。いつも通過するだけで」
「ぼくもだ」
「え。くわしいのかと思った」
「全然知らない。どこか適当に入って食べよう」
とりあえず川崎駅前を歩きながら秋原は訊いた。すでに自分が知っていることを。
「きみ、名前はなんていうの?」
「あ」
ハタノは目を丸くして、こちらを見る。
「すみません。秋原さんのほうの名刺だけをいただいておきながら名乗りもせずに」
深く腰を曲げて謝る。
「なんだか、もう前に名前を知り合っているような気がしてしまって……。なぜこんな勘ちがいをしてしまったのかしら」
「かまわないんだ。あの日、ぼくのほうも唐突なことを訊いたから……」
いえ、と彼女は口ごもりながら、鞄《かばん》から紙を出し、手袋をしたままの手でボールペンを走らせた。
「まだ中途半端なポストなので、名刺は作ってないんです」
紙をよこした。羽鳥調理師専門学校。波多野妙子。それだけ記されている。ハタノタエコという名前が波多野妙子という字であることを、はじめて秋原は知った。
「波多野さんか。波多野妙子さん」
「はい」
「なにを食べようか。これは嫌いだって食べ物ある?」
「いいえ……あ、」
通りがかった一軒の店の前で、波多野は立ち止まった。
蕎麦《そば》屋だった。カレーライスも置いてあるような蕎麦屋。
「蕎麦がいいの?」
「ここ、TVがあるかな」
腕時計と蕎麦屋を見比べている。
「さあ、どうかな」
秋原は入り口からなかをうかがった。
「ああ、あるよ。置いてある」
「じゃあ、このお店がいいです」
遠慮がちに波多野。
「こんな店でいいの?」
「TVがあるから」
「昔の人みたいなこと言うんだな」
「昔の人?」
「昔はさ、ほら、どこの家にもTVがあったわけじゃないから、TVのある家や店や街頭に人が集まったじゃないか」
秋原から蕎麦屋に入った。TVの見やすいテーブル席には先客がいたので、すみに設けられている畳の席にした。そこに横にふたりならんですわった。
「ここなら、TVの真正面だよ」
「ええ」
波多野の頬骨筋《きようこつきん》が大きく動く。輝くばかりに、と言ってよい。
「ぼくは、ふつうの、海苔《のり》もなんにもかかっていないせいろがいいな。もり蕎麦。波多野さんは?」
「同じで」
店員がおしぼりと水を持ってきても、波多野はメニューを見ようともせず、TVのほうばかり気にしている。
「なにか見たい番組でもあったの?」
「『クイズ100%』というのがはじまったところだと思うの……。その、このチャンネルじゃなくて……」
波多野が臆病《おくびよう》そうに首をすくめるので、秋原が店員にそのチャンネルにかえてもらえるよう頼んだ。
「ありがとう」
波多野の顔は明るくなった。それはほんとうに、みるみる明るくなった。起きてカーテンを開けると雪が積もっていた朝のように、ぬきうちに明るい。
番組は、秋原も何度かは見たことがある。会場に百人が毎回来る。外国人もまじっている。局の外に百人を集めることもある。百人は同じ質問に回答する。その回答をゲストが当てる。もっとも多かった回答を当てたゲストが勝つルール。どうということのない番組である。
「そんなに好きなの? 『クイズ100%』が?」
「だれかと一度、いっしょに見てみたかったから」
そうかと、秋原は思った。二十一になる年に結婚するまでは、与野の魚屋の家で父母、姉、ふたりの弟と住み、結婚後は妻と、すぐに長女、次女もまじえて、住んでいる。ひとりで暮らしたことがない。したがって家でTVをひとりきりで見るというようなことは、めったにない。もしかしたら、生まれてから三回もなかったかもしれない。居間にはひとりでも、ほかの部屋にだれかがいた。だれかがTVの前を通ることもある。ひとりではない。
どうということのないクイズ番組を見るときもひとりである暮らしをしている波多野と、自分の送ってきた暮らしとはちがうのだと、秋原は思う。大勢の人間がいるのだから各々《おのおの》がちがう暮らしを送っているのは、あたりまえのことなのに、なぜかそのあたりまえの事態を、はじめてしげしげとながめたような気がした。ハタノタエコと名を知っていても、それが波多野妙子なのだとはじめて知ったように。
「秋原さん」
「なに?」
「あの……、次からの問題、いっしょに競争して当てませんか?」
「いいよ」
波多野はほんとうにたのしそうだ。
〈今日のアンサー百人は、全員、主婦の方です。問題、行きましょう〉
にぎやかな音楽が鳴り、司会者が問題を読む。
〈御歳暮にダンボール一箱もらって困るものは?〉
またにぎやかな音楽。波多野はTVのほうを向いて答える。
「ようかん!」
喜々として答える。
秋原は笑った。
「そうだな。ようかんをダンボールでもらったら困るだろうな」
「だめ。秋原さんも答えて」
喜々として波多野は彼に答えを求める。
「石鹸《せつけん》」
「だめよ。ほんとに考えて。石鹸はもらっても迷惑じゃないじゃない。腐らないし、実用的だよ。もらってうれしいもののベスト5にどっちかというと入ると思う」
しゃべり方までが弾み、声も高く、歯切れよい。
「そうだな。じゃあ……」
波多野につられた。秋原は考えて、言った。
「ハム」
と、それは回答の第二位だった。きゃあ、と波多野は卓をたたいた。秋原の腕もたたいた。波多野の明るさは異様なほどである。
「二位よ。じゃあ、一位はね。ようかんじゃなくてね、なくてね……、待ってよ、そうだ、バターとマーガリンにする。乳製品のセット。日持ちしないもん」
そうかと、秋原は思った。ダンボールはむろんのこと、小さな一箱のバターも、マーガリンも、チーズも使い切るのに日にちがかかるだろう。ひとり暮らしなら。
果して波多野の答えが第一位だった。彼女ははしゃいだ。秩序正しくならんだ歯が見えた。差し歯がない。紫色がかった部分が歯茎にない。
「ああ、おもしろい。次の問題はなんだろう」
蕎麦《そば》はひとくち食べただけで、波多野はにぎり箸《ばし》にしてしまって、TVに見入っている。
「早く食べないとのびるよ」
こんなにたのしそうにしているところに水をさすようで気が引けたが、蕎麦の具合も心配になり、秋原は言った。だが、
「はい」
と、波多野の表情はいっそう明るくなり、箸をもち直すと、今度は喜々として蕎麦を食べはじめた。
ふたりは、せいろもりの蕎麦を二枚ずつ、それを夕食とした。勘定のさい、波多野は金を秋原にわたした。その場では受け取り、蕎麦屋を出てから、秋原は波多野に金を返した。
「ここはぼくがごちそうするよ。ごちそうというようなものでもなかったけど」
返した金を、手袋をした手に置いてにぎらせた。波多野はうつむいた。
「ありがとう。ありがとうございます」
うつむいて震える。秋原はとまどった。なにかいけないことをしたのか。女性だからという理由で食事代をこちらが出すのは差別だったか。そうだな。差別にはちがいない。しかし今日、蕎麦代を払ったのは、自分が相手よりひとまわりほど年長だから。いや、年長者は必ず、目下の者に食事代を支払う義務があるだろうか。女性だから。年下だから。そういうことで払うのではない。ではなんだろう。
手袋をした波多野の手をにぎったまま、しばらく道路に立つことになってしまった。秋の夜風が吹いた。うつむいたままの波多野の短い毛先がぴゅうと吹かれた。
「どうということのない贈り物だよ」
秋原は手をはなした。
*
波多野は手袋をした手を差し出したまま、うつむいて、枯れ葉と塵《ちり》がくるりと風に吹かれたのを見た。蕎麦屋の、出汁《だし》と天麩羅《てんぷら》油の匂いが風でぴゅうぴゅうと散ってくれるのがシャワーを浴びているようだった。
手袋をせぬ秋原の手は、指が長く器用そうである。毛糸をとおして体温が伝わってくる。
蕎麦代を支払ってくれたのがうれしかった。『クイズ100%』を見ながら蕎麦を食べたのはたのしかったから。たのしかったのは、そうしたいと望んだ、その望みをかなえてもらったから。羽鳥次男から贈られたフェラガモのヴァラの靴を返したのは、欲しくなかったから。贈ってきた相手への好悪とも、高価な金額に感じる責任回避ともちがう。どんなに人気があろうが、波多野にとってその靴は「足の甲を実際以上にぼってりと見せる、もっさりしたデザイン」に映ったし、なによりも歩きにくく不便そうだったからだ。比して、TVを見ながら蕎麦を食べる。そして蕎麦代を支払われる。それは宮殿のレディとして扱われたようだった。蕎麦代は、ナイトのレディへの心意気の贈り物。うれしくて、ありがたかった。
「ありがとうございます」
波多野は顔を上げ、
「散歩しませんか」
秋原に道路を示した。
どちらも川崎の土地勘はない。ただぐるぐると駅の周辺を歩いた。
歩きながら波多野は三隅商事に勤めていたときのことを思い出していた。TVが置いてある場所と、他人と食事ができる場所、このふたつはなかなか一致しない。簡単なようで、見つけるのが難しい。同僚の男性に言った。部屋へ遊びに行っていいかと。たまたま社員食堂で隣り合わせ、たまたまTV番組の話になったから。
「こ、困るよ。そんなの困るよ」
彼は当惑した顔になり、あわてて波多野から離れて社員食堂を出ていった。変人。露骨。波多野は社内でそう噂された。
なぜTVをいっしょに見たがることを、人はそんなに驚くのか。そんなに変な提案なのか。
(それがこの人は、知り合って間もないのに、いっしょにTVを見てくれた。蕎麦がのびてしまうよ、とも注意してくれた)
家族で食事をしたことが波多野にはない。父は父の部屋で、母は母の部屋で、波多野は自分の部屋で、食べていた。家族でTVを見たこともない。
(ずっと前からの知り合いのようだ)
秋原のことを思う。
「秋原さんには生き別れになった妹がいますか?」
「いないよ」
秋原は笑った。彼の顔は、笑うと極端に印象が変わる。だまっていると口角が下がっていて、無愛想に見えなくもない。笑うと、相手は不意打ちをくらわされたように、その顔に人なつこさが現れるのを見る。
「どうしてそんなことを訊《き》くの?」
「秋原さんみたいな……」
お兄さんがいればよかったのに。だがそれはあまりに陳腐に過ぎて滑稽《こつけい》で、滑稽どころか不潔にもなりかねないと思い、波多野はやめた。
「いいえ、なんでもありません」
「波多野さんは? きょうだいはいるの?」
「ひとつ上に兄がいたけど、死にました。死産だったのです」
「ごめん。悪いこと訊いてしまった」
「いいんです。現実的な記憶がないし」
時計を見た。月曜の八時。TVが見たかった。さっきあんなにたのしく見たのに、まだ見たい。わがままで贅沢《ぜいたく》な欲望。わがままで贅沢な欲望が、自分の身体に充満する、この狂おしい背徳。月曜の八時。そんな時間にTVをだれかと見る。その非日常的な刺激。空想するだけでどきどきする。
(TVが見たい。TVが見たい。もっと見たい)
しきりに思った。
歩いている道はずっと塀がつづいている。前方にホテルがある。ご休息・二千五百円・一時間毎。という表示が電光で照らされている。ホテルに入ろうと、秋原が言ってくれないだろうか。そしたらTVが見られる。秋原を見る。彼は上方を見上げていた。
*
ネオンサインが光っているのを、秋原は見ていた。ブルーと白。山藤製薬。
(こんなところにも看板が出てるのか)
ネオンサインから、下方へと視線を移動する。ホテルの窓。窓という窓すべてに「目隠し」がしてある。
開かない窓。夕方、会社の給湯室の窓につけた題名を思い出した。
(もし、あの目隠しがなかったら、あのホテルの窓からは何が見えるのだろう)
さらに視線を移動させる。塀。塀からはなにか細長いものが出ている。何本も。それは卒塔婆《そとば》であった。
(墓場。ここは墓場なのか)
駅のすぐ近くに墓場があるのも意外だったが、墓場を取り囲むようにホテルが建っているのも奇妙だった。いかにもラブホテルという建築と、墓場のとりあわせが。
「秋原さん」
波多野が袖《そで》を引いた。
「このホテルに入っていっしょにTVを見ませんか」
ご休息の表示の前に、波多野は立つ。
「いっしょにTVを見ませんか」
きまじめに波多野はくりかえす。彼女は心からそれを望んでいるように秋原には見えた。
「いいよ、見よう」
「じゃ、これ」
二千五百円を波多野はよこす。
「…………」
秋原はしばらく金を見つめた。清楚《せいそ》な波多野の暮らしを想う。短くないあいだ考えてから千五百円を返した。蕎麦《そば》のように全額支払って、むろんかまわない。だが、四割だけ彼女が分担することで、秋原も心からTVを見ることを望んでいると伝えられるように思った。伝わってくれと託した。
ホテルの入り口で金を支払い、すみやかに部屋に向かおうとする秋原を残し、
「TVはありますね? どの部屋にもありますね?」
波多野はなおそこで、従業員に確認していた。
赤い部屋だった。赤い絨毯《じゆうたん》に赤いソファ。赤いカーテン。赤い布団。TVはどこにでもある色と形のものだったが、波多野はやや落胆していた。
「もっと居間みたいな部屋だったらよかったのに」
「こういうホテルのなかでは居間みたいな部屋に近いよ」
赤で統一してあるものの、ベッドやソファや部屋全体のインテリアはシンプルである。
「そうなの?」
「まあ、そうなんじゃないかな」
秋原はTVのスイッチを入れた。
「私が選ぶ」
選ぶう、に近い発音で、波多野はチャンネルをひとつずつ調べてゆく。ひとまわりしてからバラエティ番組に決めた。
「これにする」
「うん」
秋原は波多野に茶を淹《い》れてやり、彼女とともにTVを見た。『クイズ100%』ほどではないが、これも簡単なクイズがとりいれられたバラエティ番組である。波多野はよく笑った。さしておもしろい番組でもないのに、彼女が笑うので、見ているうちに秋原もおもしろくなった。クイズの問題に自主的に答えはじめる。
テレビは三十分単位のコイン式で、とちゅうで切れた。
「あっ、答えが知りたかったのに」
あわてて硬貨を入れたのは秋原のほうだ。あわてる彼を見て、波多野はいっそう笑う。
「ああ、おもしろかった」
番組が終わったとき、これも秋原が言った。
「ほんと。炬燵《こたつ》があったらもっとよかったのに。足が温められる」
炬燵に入って足を温めながらだれかとTVを見るのが波多野の冒険なのだろうと、秋原は想う。その慎《つつ》ましくつましい暮らしを。本心を語れば語るほど、他人からは偽装していると見られることの多い不運な清楚を。
追加硬貨ぶんの時間が残り、TVはまだついている。コマーシャルがつづいている。
「私ね」
波多野はソファにかけたジャケットを着、手袋をはめた。
「私ね、ほんとは、秋原さんに金沢文庫で出会ったことがあるの」
「知ってる」
秋原も背広を着た。
「自転車を押していた朝だろ」
「わかったの? 私、ヘルメットかぶっていたのに」
「ああ、なんとなく。こっちを見たから」
「そう。ふしぎね」
「そうでもない。ほんとはぼくも、きみの名前を前から知ってた」
友人女性との会話を『快特』車内で盗み聞いてしまったことを告白した。
*
(それで前からの知り合いのように感じたのかしら)
波多野は思った。
「TVを消してこなかったわ」
ホテルを出てから、その建物を、ふりかえった。
「すぐに切れるよ」
ホテルの電光に秋原の背広のグレーは、実際とはすこしちがう色に見える。
秋原も電光の文字をふりかえる。
(ご休息か……)
今、入ったような種類のホテルには必ずといっていいほど表示されている。ご休息、ご歓談に。
(いったいどこのだれが、こんなところでご休息やご歓談をするのかと思ったものだが、するやつもいるんだな)
秋原は思った。
*
『快特』に、ふたりはならんですわっていた。ドアの脇の席。
「秋原さんは、花の首飾りが好きなの?」
「好きだよ。く、がずれるところが」
「く?」
「ひな菊の・花の・首飾り……のとこ。首飾りの、く、が半音上がるだろ。ここの半音ずれが好きだった」
「くび・かざり」
「そう、そこ。くびかざりの、く」
『快特』の振動が、ふたりの背中に伝わる。
「さっきもドアの脇の席だったわね」
「そうだったっけ」
「うん。『快特』のここの場所だけは、窓が開くの」
「そうか。この窓だけは開くのか……」
やさしく・編んで。編んで・いた。ふたりは唇をごくわずかにだけ動かしていた。お・あいの。しるし……。
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お午後のお紅茶
ああ、なんだって。なんだって、ここに来てしまったんだろ。
小林くんは、足の指を靴のなかでぎゅっとちぢこまらせた。なにかの事情を抱えた人が口ごもるような塩梅《あんばい》で、彼の指は緊張してまるまっている。
たとえば、誕生日には早く帰ると約束していた父親が、それを忘れて同僚と飲みに行き、赤い顔をして帰宅する。約束をやぶったことを八歳の息子が指摘しても父親はウィーッとごきげんで、翌日になってはじめて平謝りする。両手合わせる父親を前にして「もういいよ、お父さん……、もういい……」と言うときの八歳男児の、やるせなさ。
またたとえば、下駄屋の松吉といい仲の大工の娘おりょうが、松吉のためにこさえた前掛けを渡そうとやって来ると、親方から告げられる。「じつはな、おりょう坊、松の奴ぁ、越後《えちご》屋の旦那《だんな》に気に入られてな、ありがてえ婿養子に行くことに決まったんだよ、おいらだっておりょう坊の気持ちは察してたんだが、だけどな、松吉の将来を思うとな、あのな……」。先をつづけようとする親方をさえぎって「もういいよ、親方……、もういい……」と言うときのおりょうの、忍耐とかなしみ。
そんな塩梅に、小林くんの足の指はちぢこまっている。これは小林くんの癖である。なにかひとことでは言いきれぬ感情がわいたとき。ひとつひとつは些細《ささい》なことかもしれないが、いちどきにそれらがばしゃっと心の中に散らかってしまったとき。小林くんは、とりあえずササッと箱にしまうようなことができない子で、散らかったことにショックを受けてしまう。すると肉体はなんとかそれをやわらげようとして、足の指に吸収させるのである。ショック処理を一気に受け持たされた足の指は、それでぎゅっと団結してまるまるのである。
「ああ、なんだってこんなところに来ちゃったんだろう。ぼくはまたこんなところに……」
白いコンバースの内部で、小林くんの足の指は十本とも、ギュッギュッギュッと硬くまるまる。
小林くんは先輩といっしょに、遅い昼ごはんを食べるところだった。
美容師なので、お客さんのすいたときに休憩がもらえる。木曜日、午後三時二十分。美容院の近くにある『ポプリ』という店のテーブルの下で、小林くんの指はまるまっている。
『ポプリ』。目の粗い画用紙にクレヨンで書いたようなロゴの看板。1500円で、定食を出す。ごはん、みそ汁、小鉢一品、サラダ、それに日替わりのメインのおかず。女性店主がひとりでまかなう狭い店。
「先輩の話に気を取られてたからな……」
結婚式メイクも地方によって好みに特徴があるという話を先輩はしてくれていた。話に夢中だったから、先輩がひょいとこの店に入ってしまったのにつづいて入ってしまったのだ。胸ポケットで、美容院からつい持って来てしまったアイブロウ・ペンシルが、カサ、と動いた。
「もう来ないつもりだったのに……」
『ポプリ』に来るのは三度目だった。四月に一回、五月に一回、そしてずっと飛んで三月の今日。
*
小林くんは山際美容学校を卒業して試験を受け、合格後しばらく新宿の美容院で働いていたが、『ポプリ』にはじめて来た四月に自由が丘の美容院に移った。
「自由が丘は美容院天国だよ」
と、現在の店長に言われた。美容院天国と言われる理由はふたつある。まず、美容院の数自体が多いこと。もうひとつは、
「女性に人気抜群の街だから、お客さんは、かわいい女の子やきれいな奥様やかっこいいキャリアウーマンばっかりだ」
というもの。
「それはいいな」
小林くんは思って、移った。あわよくば、かわいい恋人ゲットやきれいなマダムの愛人になれるかもしれないという「いいな」ではない。
「女性に人気のある街は修業に役立つ。女性に人気のある街は、食べ物屋だって服屋だって美容院だって、おしゃれなことに力を入れて競争するから」
そう思ったのである。小林くんはたいへんまじめに総合美容師を目指している。山梨県の公立中学生のときから将来の希望を決めていた。公立高校生ともなると、
「ただ髪を切ったりパーマをかけたりするだけでなく、その人にはどんなヘアスタイルが似合うかアドバイスしたり、なにかのパーティがあるときとか、なにかの面接があるときとか、目的に応じたメイクをしてあげたり、洋服をコーディネイトしてあげたりできる総合美容師になるのが夢です。東京に出て一所懸命、修業して、ゆくゆくは三人くらいでオーナーになって総合美容サロンを開きたいです」
と進路指導の先生に作文まで書いている。
そのころは男のバレリーナの記事も集めていた。女のようにまろやかな身体のラインではない男が、どうすると流麗に動けるか。訓練されたプロの、日常生活での工夫やレッスンの詳細は、将来の総合美容師への勉強になると思ったのである。だが、
「やーい、オカマ、オカマ」
と同級生からからかわれた。からかわれても、まあ、しかたないな、と小林くんはとりたてて抗議もせず、
「へー、そうかー、バレエ観るのはオカマかー」
と、あっさりしたものだった。じっさい、小林くんは男の子が好きだった。からかう男の子たちも、「やーい、オカマ」とはやしながら、
「小林ー、昼めしのパン、おごってやるぞー」
などと無骨に親切だった。
「ほい、サンキュ」
小林くんのほうも、素直に親切に甘えた。
短距離走が得意で陸上部だったから、いつも日に焼けていた。髪が生まれつき茶色っぽく、直毛でパサリパサリしていて、瞳《ひとみ》の虹彩《こうさい》も茶色がかって、鍔《つば》のあるズック地の帽子を、よくかぶっていたから、
「スナフキンみたい」
女の子たちは評した。わりと人気もあった。なかでも、武藤さんは、
「これあげるね」
森下洋子の『くるみ割り人形』のプログラムをくれたりして親切にしてくれた。小林くんも武藤さんが好きだった。武藤さんの「写真に撮られるときの手」がとても好きだった。修学旅行や体育祭や、そういうときの写真で、武藤さんはいつも手がキマっている。腕を組んでいたり、友だちの肩にちょんとのせていたり、そばにある物をなにげなく持っていたり、その手首のくねらせかたとか、指の曲がりぐあい立てぐあいとか、手首、手の甲、てのひらの、生来のかたちそのものというのではなく、表情が、美しい女生徒だった。
そんなに有名ではないバレエ団の新人公演をいっしょに観に行ったこともある。そのあとほどなくしてキスをした。武藤さんとではない。
「小林は武藤なんか好きなのか。なんか変わってないか、あいつー」
陸上部の丸尾副部長は、ケーッ、とわざと大袈裟《おおげさ》ないやがりかたをしてみせて、そして小林くんにキスをしたのだ。小林くんにとってはそれがファースト・キスだった。放課後のグラウンド。高とびのベリーロールのクッションマットの上でふたりでぐでっと横になっているときだった。
丸尾副部長のまぶたには蒙古襞《もうこひだ》がなかった。あったのかもしれないが、すごく薄かった。鼻が高く、蒙古襞のない彫りの深い目もと。とくに横顔がきれいで、シャムの王宮で贅沢《ぜいたく》な憂鬱《ゆううつ》をもてあましている王子のようだと、小林くんはいつも思っていた。
丸尾副部長とファースト・キスをした翌日、校庭の裏の楠《くすのき》の陰で武藤さんの手をにぎった。武藤さんの手をにぎった次の次の日、丸尾副部長に部室で抱きすくめられ、小林くんも抱きしめかえし、身体のいろいろな部分をさわりあった。その次の週、武藤さんと同じようなことをした。写真部の現像室で。
武藤さんは女で、丸尾副部長は男であった。こんなことは小林くんには気にならないことだった。
「そおゆうことを、なんでみんなは、そおゆうふうに気にするんだろうな」
ふしぎだった。彼は、きれいなもの、がとにかく好きなのだった。生まれたときから、呼吸するように好きだった。
バレエも好きだし、神さまも好きなのである。神さまといっても、小林くんはなにかの宗教の熱心な信者ではない。神さまの彫刻のことである。美術室に置いてあるギリシア神話の神さまや女神さまのレプリカを見ているのが好きだった。
ギリシアの神さまは、定規で計ったように鼻梁《びりよう》が通っている。額から鼻がはじまるとき、そのチェンジング・ポイントがなく、窪《くぼ》むことなく、なだらかなスロープとして鼻になってゆく。白いレプリカにぐんと近づき、下から鼻を見ると、鼻の穴は、穴にはとても見えない。おだやかな海面の輝きにまで研がれたナイフの先でさっくりと削ったような縦のスジが二本、鼻の下には入っている。アポロンは男でアフロディーテは女で、ふたりともそっくりで、そしてふたりともとてもきれいである。
美しさをつきつめてゆけばゆくほど、そこには性の差はなくなってしまう。
これは真理であるが、小林くんはこの真理について考えたことなどなく、呼吸するようにわかっていた。なものだから、丸尾副部長も武藤さんも両方好きなことを、貞節の次元でちょっとうしろめたくこそあれ、性別についてはふしぎには思わなかった。
彼にとっては、男だとか女だとかということより、その人がかんじがいいか否かが最重要なのである。かんじがいい。無邪気なこの表現には、美というものの本質的な要素まで見きわめている彼の過敏が在るのだけれども、なにせ呼吸するように美をよろこぶ彼は、自分ではそれを知らない。
男だろうと女だろうと、かんじがいいと好きになり、もっとかんじよくなるといいのにと希望し、希望するから相手がそうなりやすいように自分も行動するのが小林くんだった。
東京に出てきて山際に通っていたときに、はじめてセックスをした。二十九歳のメイク講座の先生だった。石岡淳一先生。緻密《ちみつ》で透き通る肌をしていて、だから目の下には常に隈《くま》ができていた。眼輪筋を覆う部分の皮膚はだれでも角質が薄いのに、透明な肌質の彼はひといちばい薄かったからである。体温が低く、きめ細かな肌は全身、赤ちゃんのようだった。足のかかとまでつるりんことやわらかくてまるかった。石岡先生に比べると自分のかかとや脛《すね》はがさがさしててヤだなと、恥じた。前戯のとき、足の指がまるまった。
石岡先生とは三回射精し合ったけど、肉欲行為以外では会話がはずまず、頻繁にデートする気がおこらず、立場上の問題もあって、小林くんは同期の二階堂ユミさんとばかりデートした。
二階堂さんは達筆で、いつも和紙に墨で手紙を書いてきた。「ロット巻きのこと、ありがとう」とか「こないだはホットドッグをごちそうさまでした」とか、あとは映画やライブの感想とか。
墨の濃くなったところと淡くなったところ、その陰影が淑《しと》やかである。文字ののばすところと撥《は》ねるところ、その動きが愛らしい。日常的なことを綴《つづ》った表面から、非日常的な次元へと想像力をかきたてる力が、美しい墨文字にはあり、小林くんは二階堂さんから手紙をもらうと、長い長いことながめていたものである。古典で習った「雅《みやび》やか」というのはこういうのをいうのかなと思い。
ほかにも、接触のあった男女はもっといるけれども、国家試験に合格してから正式に二階堂さんとつきあいはじめた。二階堂さんは三鷹《みたか》にある叔母《おば》さんの美容院で働いている。小林くんが新宿の美容院にいたときは会いやすかったが、自由が丘に移ってからはちょっと会いにくい。
「いいよー、わたしが行くよー」
四月、桜の咲きかけた火曜日の定休日に、二階堂さんが自由が丘にやって来て、昼ごはんを食べに入ったのが『ポプリ』に入った最初だった。
*
自由が丘には、店がずらりと並ぶにぎやかな通りがいくつかある。そのうちの一本。ミシン屋さんとビール専門のバーにはさまれて『ポプリ』はあった。ミシン屋さんは古びた店がまえ。ビール・バーは昼間は閉まっている。だから『ポプリ』も目立たないといえば目立たない。が、この日は窓辺に飾られた花とイーゼルにたてかけたスケッチブックの地の白さが、たまたま小林くんと二階堂さんの目についた。
「お食事の店、って書いてあるよ」
二階堂さんはスケッチブックを指さす。たしかに、そう書いてある。読みづらい小さな字だったが。
「二時半だから、もう終わりなんじゃない?」
たいていの食べ物屋は、平日なら十一時半から二時までのランチタイムのあと、六時くらいまでクローズドになる。二階堂さんは腕時計を見ながら、もし終わってたらマクドナルドでいいと言い、『ポプリ』のドアからすこし離れてあたりをみまわす。
小林くんは花の飾られた窓から店内をうかがった。女の人がこしかけている。テーブルの上にはコーヒーだけ。テーブルの前にもうひとりエプロンをした人が立っている。
(お店の人の友だちかな?)
クローズドしてしまったが、女店主の知人である客は残って話をしている、ように見えた。
入り口ドアの脇のイーゼルにたてかけられたスケッチブックになにか書いてある。
(メニューなんだろう)
そう思いつつも、足の指が一瞬きゅんとまるまりかけたのは、その字である。クレヨンか色鉛筆で書いたその字が、なんともしれず読みづらい装飾文字のようなクセ字のような、だれかが読むことを、はなから拒否しているような字だった。
まるまりかけた指で、小林くんはマットを踏んだ。さっと自動ドアが開いた。
「あ、すみません。もう終わりですか?」
「××××××」
女主《おんなあるじ》のささやくような声と、後ろを車がブーッと通過するのとが同時。聞こえなかった。
「え?」
聞き返すのと、二階堂さんをふりかえるのとが同時。はずみで小林くんの片足がマットからわずかに持ち上がり、重みをなくしたマットは、さっと自動ドアを閉める。
(あ、閉まっちゃった)
後ろに向けた顔をもとに戻すのと、閉まったドアのガラス越しに女主の顔を真正面に見るのとが同時。その表情に、小林くんの足の指が十本とも、きゅるきゅるっとまるまる。
彼女は、次のように顔を動かしたのである。まず、ドアが閉まったとたん、鼻の穴をわずかにふくらませ、それからフと息を出し、つづいてくちびるのはしっこをひくりと上げ、上げてからわずかにくちびるを開き、その顔をコーヒーを飲んでいた客のほうへ向け、くすりと笑った。
が、小林くんは、自分の足の指がまるまったことに気づきながらも、身体のバランスをとる流れで、いったん上にずらした片足をふたたびマットにのせる。また自動ドアは開く。
「まだ、いいですか?」
あらためて女主に尋ねると、女主はドア越しに見せたのと似た表情で答えた。
「いいですよ、って言いましたよ、さっき」
なぜ足の指がまるまったのか、小林くんはなんとなくわかった。あのとき一瞬「なぜぼくをバカにしたように鼻で嗤《わら》ったのだろう」と彼は思ったのである。
「おまかせなんですけど、いいですか?」
女主は小林くんに訊《き》く。その声はささやくようで聞き取りにくく「おまかせ」というのがどういう意味なのかすぐにはよくわからない。
「は?」
女主の顔を見返す。
「メニューはね、決まっていて、おまかせなんですけど、それでいいですか?」
彼女は声を大きくした。大きくしたというより、きっぱり発音した。また小林くんの指がまるまる。
「は、はい」
二階堂さんのことを気にかけながらも、彼はうなずいた。女主の「いいですか?」は「いいですね」という半強制だった。
「だいじょうぶだって?」
二階堂さんが店に入ってきた。
「うん」
「よかったね」
二階堂さんが言ってくれたので、小林くんはほっとして、靴のなかで指を硬くしたまま椅子にかけた。
「あれ、小林くん、どうかした?」
二階堂さんはすこし首をかしげる。
「ううん、べつに」
二階堂さんのサワヤカな表情を見て、小林くんは自分がちょっといやだった。
(なんで、あんなことを気にしてしまうんだろうな)
些細《ささい》なことにひっかかってしまう自分がいやだった。
(俺ってねっとりした性格なんだな)
そう思われ、いやだった。
(ふつうの人なら、さっきみたいなことは、アリャ自動ドア閉まっちゃったぁ、って笑ってそれで終わりだ、きっと)
小林くんは自分も、そういうふつうの、さっぱりした人になろうとして、壁を見たり、窓辺の花を見たり、心にひっかかった塵《ちり》をフーッと吹いて消そうとした。
女主が水を運んできた。
「どうも」
できるだけ元気よく小林くんは言ってみた。女主は歯を見せず口角を上にあげ、グラスをテーブルに置く。
(ママはさっき……)
店を経営している女性のことを「ママ」と呼ぶのが、今日まで小林くんにはできなかった。ママ、という音がふにゃふにゃしていて恥ずかしいのである。彼の母親は山梨県で姉といっしょに暮らしていて、今ごろは近所の葡萄《ぶどう》畑のパートに行ってるはずだ。彼は母親のことを呼ぶのに、小さいときは「おかあちゃん」だったし、大きくなってからは「おかあさん」だったし、高校生になってからは人前では「おふくろ」である。実母のママと店経営者のママとは別のものとはわかりながらも、ママ、という音自体が恥ずかしいんである。ママ。なぜ、ママ? ママ。恥ずかしい。発音するだけでカーッと頬が赤くなる。ゴルフボールを置いた上にうすっぺらい座布団を敷いてすわったときの感触のようだ。
だが『ポプリ』の女主に対してはママと呼ぼうと小林くんは思った。みんながふつうに女主のことをママと呼ぶのなら、自分も「そういうものだ」とさらりと乗っかったほうが、さっきみたいにひっかかることがないのだ。自分はねっとりした性格だといやになることもない。
(ママはさっき、車の音が聞こえなかったんだ)
はじめに小林くんが「まだ、いいですか」と尋ねたとき、店の中にいたママには車の音は聞こえなかった。だからママにしてみれば、「いいですよ」って言ってるのになんで入ってこなかったんだろうって思った。あれは怪訝《けげん》な顔をしたんだ。そう小林くんは思い。
(なにもぼくをバカにして嗤ったんじゃないんだ。きっとそうさ。そうだよ。そんなこと、考え込むまでもなく、そうに決まってるじゃないか。まったくいやだなア、ぼくったら)
ぼくったら、などと心中でわざとかわいく言ってみせ、ひっかかりをフーッと吹き、水のグラスをかざした。
「なにかの実が入ってる。これ、なんだろう」
赤い小さな長細い楕円《だえん》形の実が二、三個入っている。食べるとほろ酸っぱく、ほのかに甘く、にがい。
「あ、これ、食べたことある。乾燥フルーツだ。なんの実っていったっけなあ、ときどき叔母《おば》さんが買ってくる」
二階堂さんは、えーと、えーと、と考えてから、
「そうだ、枸杞《くこ》の実だ。たしか目にいいんだよ。いや、糖尿予防だったかな。高血圧予防だったかも。なんだったかは忘れたけど、とにかく身体にいいやつだよ」
箸《はし》で枸杞の実をつまみ、食べた。
「おまたせしました」
そこへ、ママが料理を運んできた。レタスと貝割れ大根の上に茹《ゆ》でた豚肉。そこにごまをベースにしたたれをかけたもの。これがメインのおかずだった。これに、ほうれん草のひたし。ごはん。豆腐とワカメにきざみ海苔《のり》と、これまた貝割れ大根をちらせたサラダ。みそ汁。みそ汁はとろろ昆布入り。
「わー、身体にいいってメニューだね」
二階堂さんは、両手を胸の前で合わせた。彼女は食べる前に必ずそうする。そうして、いただきます、と言ってから箸を持つ。
「きれいな模様の小鉢」
「そうだね」
ほうれん草のひたしの器は六角形である。内側は白く、外側はストライプ。太さのふぞろいな、縦のストライプ。くすみをおびた芥子《からし》色の太線と、ほうれん草に似たみどりの細線。自由が丘に集まる乙女たちが買って家路につくような器。乙女たちの経済力でも買え、乙女たちが「ステキね」と思う器。ただのほうれん草のひたしだって、これに盛りつければ、ちょっといいでしょ。乙女たちはきっと、ママの気くばりを酌む。小林くんはほうれん草を噛《か》む。醤油《しようゆ》がじゅんと口内にひろがる。つるんと喉《のど》を通過する。
「あの花、カラーっていうんだよね」
窓のほうを向き、二階堂さんのほうへ顔の向きを戻す。頬を健康的に動かして咀嚼《そしやく》しながら、二階堂さんはうなずく。
小林くんは総合美容師を目指しているくらいだから、もちろんインテリア関連の本もよく見る。そういう本に紹介される部屋にはよくカラーが飾られている。太い茎。シンプルで大ぶりで硬そうなはなびら。
「ぼく、花屋の店先でカラーを売ってるのを見たとき、こんな花、どんなふうに飾るんだろうってよくわからなかった」
「あ、わたしも。だって茎がぶっとくて、茎の太さに比べるとはなびらはそっけなくて。それだけ見ると、こんな花、どうしようってもんよね。でも飾るとかっこいいんだよね」
『ポプリ』の窓辺で、カラーはぶあついガラスの花瓶に活《い》けられている。広辞苑《こうじえん》を縦にしたような大きさの花瓶。そこにカラーが二本だけ。
「なんとポストモダンに活けてあることだろう」
小林くんは豆腐とワカメのサラダを噛んだ。醤油がじゅんじゅんと口内にひろがった。二階堂さんが、電気グルーヴの新しいCDを買ったという話をはじめたので、小林くんは彼女の話にだけ気を向けようとした。豚肉とレタスをむしゃむしゃ噛んだ。ごま味噌《みそ》味がぎんぎんと口内にひろがった。
「ごはんのおかわりをするなら言ってくださいね」
ささやくようにママに言われ、ごはんもおかわりをし、みそ汁ものんだ。二階堂さんのピエール瀧《たき》の話があんまりおもしろかったので、小林くんの足の指は靴のなかでのびのびしていた。
『ポプリ』を出てからは二階堂さんと映画に行き、二人でコーラをたくさん飲んだ。映画のあと、はげしいセックスをし、その後はウーロン茶の1・5ペットボトルを飲み干した。
*
小林くんは中・高校生のころ、それでもけっこう悩んだりした。ひとつ下の弟は小児マヒですこし足を引き摺《ず》った。弟は勉強は小林くんなんかよりはるかによくできたからいじめられることもなく、中学に入るまでは足を引き摺りながらも草野球をしたりしていた。しかし思春期のイロコイ知り初めしとしごろになると、自分の足を呪いはじめ、家のなかでは暴力をふるうようになった。暴れる弟を、小林くんは姉ちゃんといっしょにはがいじめにしたり、言い聞かせたりした。そのたびに弟に、
「そりゃ、ふたりともナンパできるからいいよ。走れるだろ、踊れるだろ」
と言われ、どう返したらいいのかわからなかった。だから、
「いじけてたら、この先どうするんだ。おまえはこれからもずっと生活していかなければならないんだぞ。おやじはジジイになってくし、おふくろや姉ちゃんはババアになってくし、俺だっていつまでもおまえだけのそばにいてやれないんだぞ」
こんなふうなことを言って弟を叱るときも、でもそれを弟はよくわかっている気がしてならず、悩んでしまった。
それが高校三年のとき、悩まなくなった。弟に恋人ができたのである。その女の人は結婚していて、小さな町ではスキャンダルになった。人妻の不倫である上に、相手は男子高校生なのだから小さな町でなくてもスキャンダルになったかもしれない。慶子さんといって、大阪だか名古屋だかから嫁いで来てて、目が青かった。外人なわけではなく、外人のような顔をしているわけでもなかったが、なんだか青いように見える目をしていた。
「それはね、貧血だったからじゃないの?」
慶子さんの話をしたとき二階堂さんはそう分析したのだが、白目の部分ではなくて黒目が青いように見えたのだから貧血とはちがうと、小林くんは思っている。
慶子さんは二十歳だった。夫は二十五歳。市会議員の次男。市会議員さんの猛反対をおしきっての結婚だったのに弟とそんなことになってしまったのだから、ますますスキャンダルだった。
スキャンダルに両親は大慌てになり、スキャンダルの嵐は、弟の足のことや暴れたことは、ぷあーっとどっかへ吹き飛ばしてしまった。
「慶子さんは今の旦那《だんな》におしきられて結婚したんだ。ぼくと会ってはじめて恋をしたと言ってる。ぼくは奨学金で国立大に行って、卒業したら、ぼくにできるかぎりの努力をして就職して、慶子さんと結婚する。みんながどんなに悪口を言おうとそんなこといいじゃないか」
今度は、両親や姉ちゃんや小林くんが励まされ諫《いさ》められる番にまわった。
結局、弟は学生結婚して、卒業するまでは慶子さんがバーで働いて、今は弟の就職も内定して、ふたりは仲よくたのしそうなのだけれど、嵐のなかつきあっているころ、小林くんは慶子さんに会った。口数の少ない人で、「息をのむほどの美人」というのはこの人のためにあるのかと思った。息をのむほどに美しいんだが、常に口がぽーっと開いていて、阿呆《あほう》のようにも見えた。
「わたしは彼の足を引き摺るところが好きなの。セクシーだわ」
青い目で慶子さんにそう言われてから、小林くんは、武藤さんといちゃいちゃしながら同時に丸尾副部長ともいちゃいちゃすることに背徳を感じなくなった。待ち合わせた喫茶店に慶子さんは文庫の『源氏物語』を持って来ていたので、
「それは学校でぼくも習っています」
と、今から思えばとんちんかんなことを言って帰ったのだった。古典の教材だった『源氏物語』のことは今ではすっかり忘れたし、古典の授業中も文法がなんのことやらさっぱりわからなかったのだけれど、美容院の床に落ちた髪の毛を掃くたび、思い出す名前がひとつだけある。六条御息所《ろくじようのみやすんどころ》。
「ろくじょうの、ア、みやすんどころ、ア」
だから小林くんは、よく、そうリズムをとって床を掃いていた。五月だった。
「コバ、昼の休憩、とっていいよ」
店長に言われ、小林くんは自由が丘駅のほうまで出た。ふと、いつもとはちがう道を通って歩いて行った。三時近かった。それが『ポプリ』に入った二回目である。そのへんで弁当を買って遊歩道で食べるつもりだったのに、前に二階堂さんと来たときみたいに、駅まで歩いて行く途中、そこだけポッと開いていたのである。イーゼルにかけられたスケッチブックを今度はよく読んだ。
あいている時間 おひる〜4じ
ちょっと休んで5じ〜8じ
身体にやさしいめぐみです
そう書いてある。よくよく読み込まないとなんと書いてあるのか判読できない。とても変わった字である。白い紙に淡い茶色で書いてあるせいもある。が、なんといっても字のかたちが変わっている。
「し」「て」「す」がとくに変わっている。
「し」の下がほとんど曲がってないので「ー」に見えかねない。「て」もカーブさせるところにふくらみがないため「丁」のできそこないに見える。そのうえ、しゅーっと下にのびたまま頼りなく終わっている。「す」もそうだ。くるりとまわすところのふくらみがたりないので「十」のできそこないに見えて、下にやたらのびてしまっており、次の字にかぶさりかけている。なもので次の字はちょっと位置がずれている。だから、全体に字の列が乱れる。読みづらい。一字一字がてんでに、しゃれた字でしょ、と主張しているような字。
休憩時間は三十分しかなかったから、小林くんは『ポプリ』に入った。
「おまかせですけど、いいですか」
前回と同じようにママ。
「はい」
今回は、慣れて、小林くんは返す。席につく。ドキンとする。水を運んできたママが真正面から彼を見たのだ。平素の生活で、これほどたじろぐことなく真正面から相手の顔を見る人を、小林くんはほかに知らない。ママの眉間《みけん》には深い皺《しわ》があった。眉《まゆ》と眉のまんなかに一本。まるでクレジット・カードの磁気を読み取れそうなくらいくっきりと長く。
(そうか、だからちょっと気難しく見えるだけなのかもしれないな)
ママの年齢をふと小林くんは想像した。四十五歳から五十四歳のあいだ。身長は一五四センチくらい。小柄である。痩《や》せている。色は白くない。いやかなり黒い。化粧は濃くない。こげ茶のアイブロウ。ブラシではなくペンで描いている。ブラシを使えばいいのに。でないと眉が浮いたかんじになる。ファンデは塗ってない。そうだろうな、このママなら。「ナチュラル」が好きそうだ。口紅はダーク・ワイン。それを「ナチュラル」をこころがけてか、うすくのばしてしまっている。あれはよくない。くちもとがぼやけてしまって、浅黒い肌の色との対照で顔色が悪く見える。髪形はとてもいい。小柄で痩せぎすなシルエットに、トップを立たせたショートカットはよく似合う。レザーカットじゃないな。鋏《はさみ》でカットして立ちやすくしてある。でもちょっとツヤがないな。トリートメントしてもらうといいのに。小林くんは思った。
三坪ほどの店内。大きな窓。窓からは五月の光がさんさんと入ってくる。客は小林くんのほかに女性ふたりづれ。きらきらと彼女たちの白いブラウスが光をはねる。陽春の候……、なのに重苦しく息づまりなのはなぜか。ジャズを流しているからだ。このあいだもそうだった。陽の高いうちからジャズを流す店に入ると、小林くんは「前の夜に日本酒を四合飲んだ翌朝の起き抜けに、いきなりウイスキーをストレートで飲まされたような感触」が胃におこる。決してジャズが嫌いなわけではないが。
音楽から気をそらせようと壁を見る。『ポプリ』には三枚の絵がかかっている。ビニールクロスの壁に三つ、小さな額が。
ビュフェの版画に似ているがビュフェではない。デッサン力のない手でビュフェ調にしたような風景画。
(こじゃれた絵だ)
しゃれた、ではなく、こじゃれただとつい思ったのは、絵が表のスケッチブックに書かれた字と同じ感触を与えるものだったからである。
(あの字……)
二階堂さんはきれいな字を書く。流れるような達筆だが、なんという字が書いてあるのかがとてもよくわかる。
(きっとママは確信して、あの字を書いているんだろうな)
営業時間外に、ママが眉根を寄せて、深い皺をよりいっそう深くして、あの字を書いているすがたが小林くんの頭に浮かんだ。あの字を書き、書いたスケッチブックをたてかけるためにイーゼルを買い、絵を飾り、花を活《い》ける。花を活けるにはどの花瓶がいいか、気に入る花瓶を見つけるまでいろんな店を探し、カードがはさめるくらい深く眉根を寄せて歩く。
(そしてママはあらためて確信するんだろうな。お店に流す音楽はジャズがいいかしらと思うんじゃない。ジャズが──)
ふさわしい、と。
そう確信するのだろう。小林くんは、五里の道をわらじで歩いて来た果てに『ポプリ』の椅子にすわっているような気分になる。ちゅるるるるー、ぷぁぱぱぱー。現代ジャズの、本当の自分にふさわしいものを探し求めるママの、ママのためのふさわしさが、狭い店内に充填《じゆうてん》されている。
(ママは一所懸命、お店をきりもりしてるんだ。身体のためによい自然のやさしさをいつも考えている人なんだ。ただの水じゃなくて枸杞《くこ》の実を入れた水を出すくらい)
小林くんの胸は痛む。
(あの窓辺の花をごらんよ。きれいだ。チューリップはなんとバウハウスにしてユーゲントシュティールに活けられていることか。壁の絵をトウシロの絵と言ってはいけないよ。ブルタリズムな新ナチュラリズムと言わねばならない)
小林くんは学芸会のように心中で唱えた。だからといって嘘ではなかった。彼は本当にそう思った。それが『ポプリ』の事実であり、その事実に、ただ小林くんの足の指はまるまりつつあるだけだった。
「おまたせしました」
知的な声でママが料理を運んできた。
「どうもありがとうございます」
小林くんは、かしこまって礼を述べる。古伊万里《こいまり》の皿を模倣して価格を下げた皿。鶏肉を醤油《しようゆ》と味醂《みりん》と生姜《しようが》で煮たもの。ごはん。菜の花の芥子和《からしあ》え。とろろ昆布入りみそ汁。
(これはなんとけっこうな献立を。もったいのう、おそれいります)
言いそうになる。唾《つば》をのむ。箸《はし》をつけ、腕時計を見、休憩時間が残り少ないことに気づき、このけっこうな献立を、小林くんは急いで食べた。食べながら何度も何度も枸杞の実入りの水を飲み、食べ終わったあとも水が欲しかった。
(すみません、お水ください)
言おうとしてためらう。
(すみません、だけ言ってグラスを上げたほうがいいかな。それとも、お水をお願いできますでしょうか、と言うべきかな)
お水をもらうのにも、ママのセンスにかなう言い方はどんなだろうと客に熟慮させる店。客がナチュラルに熟慮してしまわざるをえないナチュラルな店『ポプリ』。小林くんはママのいるほうをそっとうかがう。カウンター奥でうつむいている。眉間にはカード磁気読み取り可能な深い感受性が。
(ウッヒョー、お水を持ってきてチョ、なんてかんじで言ったほうが、意外に好かれるかも……)
『ポプリ』の名刺をはさんで「こういう者です」と差し出せそうなママの眉間は、小林くんをびくびくさせる。幸い、他の客への料理も出し終え、彼女の手はあいているようだ。
「えー、えへん」
学芸会の順番がいよいよまわってきて舞台に出てゆくまぎわの心地で、
「えー、すみませんが、お水をお願いします」
小林くんは言った。
ママが小林くんを見た。さっきのように正面きって。ドキンと心臓が鳴ったのが聞こえそうになる。そして心臓は、次のママの声を聞くとさらにドキドキと鳴った。ママは厳しく言ったのだ。
「そこにありますでしょ!」
よどみなき声に小林くんの足の指はくるくるに硬くまるまる。
(そこにあります? そこ? そこってどこ?)
店内をみわたす。水。水はどこにある?
「ここです。ここにありますでしょ!」
ママがカウンターから出てきた。そして小林くんの一、二歩先にある物をキッと指さす。それは冷蔵庫だった。よく業務用に使われる、周囲が全部ガラスになった冷蔵庫。ジュースと野菜と果物が入っている。
「水はそこにありますからお飲みください」
ママはまたカウンターにもどって、小林くんによどみなく言う。たしかに冷蔵庫のなかには、小さなピッチャーが入っている。しかし「そこにありますでしょ!」とよどみなく言われるほど「店内の冷蔵庫を勝手に開けてピッチャーを出して水を注ぐこと」は、平均的な人間にとってかんたんに察しがつくことだろうか。
「は、はい。すみません」
小林くんは謝った。店の冷蔵庫を勝手に開けてピッチャーから水を注ぐことがママに言われるまでわからなかった自分は、ひどく愚か者なのだという気分になったから。
センスのよい雑貨を特集した雑誌に紹介されていそうなピッチャーから、水を注いで飲んだ。ごくごくと二杯飲んだ。
「ご、ごちそうさまでした」
『ポプリ』を出たあと、美容院にもどるとすぐにまた水道水を飲んだ。前回も今回も、食べたあとで必ず多量の水分を摂取している。
(あそこ、味つけが濃いんだな……)
客の髪をシャンプーしながら、小林くんは思い、また水が飲みたくなったががまんしてリンスした。
*
小林くんには持って生まれた観察眼の鋭さがあって、それが性差に関係なく美しい人、美しいものをキャッチする力になっている。けれども彼は性格的には茫洋《ぼうよう》としているから、美しいものをキャッチする体内の篩《ふるい》が常時作動していることに、自分では気づかない。だから足の指がちぢこまってまるまる。彼は『ポプリ』には行かなくなった。
なのに今日。三月の、桜にはまだちょっと早い午後、三度目にここに入ってしまったのは、先輩と結婚式メイクの話に夢中になっていたからである。
「だいたい花嫁さんは、ウェディング・ベールっていうのをかぶるだろ、するとそれが額のどこらへんまでかぶるかで、眉《まゆ》のラインも……」
美容室のスタッフルームで、先輩は目と眉のメイクについての経験談をしてくれた。具体的に想像するために、小林くんはアイブロウ・ペンシルを中空で動かしながら熱心に聞き、そのまま商店街に出た。やわらかな太芯《ふとしん》のアイブロウ・ペンシルを持ったまま出てしまったほど、それほど話に夢中だった。だから、
「お、ここ開いてるじゃん。ここにしよ」
と、さっさと『ポプリ』に入ってしまった先輩の背中だけを見る塩梅《あんばい》で、彼につづいて入ってしまったのである。
ママが枸杞《くこ》の実の入った水をおごそかに運んで来、ママのナチュラルなこだわりに[#「ナチュラルなこだわりに」に傍点]全身を包まれ、
(ああ、なんだって。なんだってここに来てしまったんだろう)
先輩を前に、靴のなかで足の指をまるまらせた。
「こんな店があったんだな。俺、知らなかった。コバ、来たことあった?」
先輩は大きな声で訊《き》く。
「ちょっとは……」
小さな声で、なにがちょっとなのかよくわからない答え方をする三月の午後。
「あの花、うちの美容院にも飾ってあるよな。流行《はや》ってんのかな」
あいかわらず花がきれいに窓辺に飾られてある。あいかわらずジャズが、昼間なのに夜のように流れている。
(う、ううむ)
息がつまるような[#「息がつまるような」に傍点]、身体にやさしい自然な[#「身体にやさしい自然な」に傍点]店。足の指はますますちぢこまって、まるまる。
「コバはカットが巧《うま》いよなあ。すっげえよな。ロット巻くのだってはやいし。器用なんだな」
先輩はロット巻きが遅い。でもブローセットがうまい。漠然とした注文の仕方をする客に、具体的にどんなふうにしてほしいのかを聞き出すトーキングもものすごくうまい。この先輩からはずいぶん大切なことを教わった。
「どうぞ」
ママが料理をテーブルに置いた。けっこうな器に盛られた豆ごはん、サラダ、小鉢、みそ汁。
小林くんははじめにみそ汁をのむ。味噌《みそ》が口のなかにひろがるやいなや、とろろ昆布にからまった醤油《しようゆ》もひろがり、濃厚な塩分が喉《のど》をすべり落ちる。サラダに箸《はし》をのばし、身体にとてもよい豆腐とワカメを食べれば、豆腐もワカメも、和風ドレッシングのごま醤油の味と化して口じゅうにひろがる。舌を休めようとごはんを口に入れれば、豆ごはんだから塩味だ。メインの唐揚げはおいしくからっと揚がっているのだが、とっぷり漬かるほどにかけられた中華あんが喉を麻痺《まひ》させる。小林くんはごくごくと水を飲む。先輩はといえば、一口何かのおかずを食べては、膳《ぜん》のなかではかろうじて味の薄い豆ごはんを五口くらい食べている。
「ウッ」
小林くんは、とても身体にいい小松菜、のひたしを食べたとき、ついに唸《うな》った。小松菜というより醤油そのものというくらい味が濃かったのだ。
「こないだ、店長がカラオケでノッちゃってさあ」
先輩も、店長のカラオケ話をしていて気づいてはいないものの、水をごくごく飲んでいる。小林くんは、冷蔵庫からピッチャーを出して水を注ぎたした。
「何? 勝手に出していいの、それ?」
「そういうことになってるそうです」
「ふうん」
すこしふしぎそうな表情を先輩はしたが、すぐに話のつづきにもどった。と、そのとき、女性客が支払いをした。財布をしまいがてら、彼女はママに訊いた。
「ほかの日はどんなものがメニューにあるんですか?」
窓辺の花はきれいですね、くらいの調子で質問したように聞こえた。
和食を中心にしていて、メニューはそのつど考えるんですよ。へえ、そうなんですか、じゃ。そんなやりとりが、ママと女性客との間にはかわされるだろう。それくらいの質問に聞こえた。
ママは、しかし、こう答えた。
「季節によって、その日に御用意できるものを調製しております」
その言い方は、あきらかに女性客を「叱って」いた。慇懃《いんぎん》に冷たく叱っていた。調製しています。調製しています。調製しています。
(調製しています、ってどういうことなんだよ、おい)
足の指は石のようである。手の指までまるまりそうになった小林くんの前で、先輩は空になった器をママに差し向けた。
「すみません。ごはん、おかわりください」
そして先輩は、女性客につづいてママに叱責《しつせき》された。
バウハウスでユーゲントシュティールなガラスの花瓶にひびが入りそうな周波数の、よどみのない声で、ママは言った。
「ごはんはね、ないんです! いつもはその半分の量なんです。でも男の人ふたりだと思って特別に多くしたんです。ふつうはその半分なんですよ。おかわりはないんです!」
この世の「確信」を一身に背負った声だった。叱責された先輩は、
「そ、そうですか……」
空の器を引き、濃い味つけのおかずの残りをもくもくと食べた。彼は話すのをぴたりとやめ、ジャズが夜のように流れ、小林くんの足の指はがちがちになった。
ごはんがない、おかわりはない、というのはいったいどういう意味なのだろう。単純に、ジャーのごはんはもうなくなってしまった、という意味なのか。それとも、おまかせのセットメニューになっているから、だれかにごはんを多く出すと、セットとしてのごはんの量が足りなくなってしまうという意味なのか。どっちだっていいのだけれど、事情を簡単に客に説明すればいいではないか。はじめて『ポプリ』に来た客でもすみやかに「いつもの量の倍のごはんが出てきた」とわからなければ愚かだとでもいうのか。はじめての客でもすみやかに「はじめて来たが、いつもの倍の量のごはんが出た以上、おかわりは控えねばならぬ」と思わなければ愚かだとでもいうのか。
小林くんは足の指をがちがちにまるめ、にぎりこぶしに力をこめて、ガン、とテーブルを叩《たた》いた。
「とても身体にいい小松菜や、とても身体にいい豆腐やワカメを、こんなに濃い味つけにしたら、とても身体によくなる前に高血圧か脳卒中になってしまいますね。それがわからないのは、あなたの舌が鈍感だからだ! この濃い味に象徴されている。あなたはいちばん大事なことを見落としている!」
叩いて、そう言おうとし、スウと息を吸って、しかし言えなかった。言う前に小林くんはわかってしまったのだ。言ってもこのママはなにを怒っているのかがぜったいにわからない人なのだと。
「自然」で「やさしい」で「ナチュラル」で「調製」で「ジャズ」な店をきりもりするママ。あの「し」「て」「す」の不自然で気取った、ようはヘタな字が、他人にどんなに読みづらいか考えてみる時間は一秒とてないママ。彼女は自分の料理が客の舌を塩分にしびれさせていることにぜったいに気づかない。気づかないから濃いのだから。濃いと教える者は彼女にとって、「本当の自分」にはふさわしくない者なのだから。
「行こ……」
先輩は、にぎりこぶしをふるわせてつっ立ったままの小林くんの背中を押した。背中に、トン、と短く伝わった先輩のてのひらの感触は、塩辛いものを食べたあとにしみわたる、ぬるめの緑茶のように、小林くんを癒《いや》した。「おかわりはね、ないんです!」と理不尽な叱責を受けたのは先輩だったのに……。
「ぼく、おごりますよ。お勘定してください」
小林くんは、結局、それしか口に出せなかった。ふたりが出るなり、ドアの内側にはロール・スクリーンがおろされた。
「ポプリというのか、この店は」
先輩は看板を見つめた。白地にクレヨンで書いたようなロゴ。
小林くんはポケットから太芯《ふとしん》のアイブロウ・ペンシルを取り出して、一文字だけをロゴにつけると、梶井基次郎《かじいもとじろう》のようにぱっと店をあとにした。おポプリ。みずみずしい透明感あふれる店名である。おビールも出すとよい。
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魚のスープ
たとえば……。
シャンパンをグラスに注いで、ひかりのほうにかざす。わずかにきいろみがかったかがやきが、グラスのなかにある。
あの色。
アーランダ空港からぼくたちをストックホルムまで乗せたタクシーの、ドライバーの髪の毛は、あの色をしていた。
金髪というには微弱すぎる色素が、いっぽんいっぽんの毛根から遠慮がちに発光しているような髪。
これが、つかのましか太陽が照らないスカンジナビア半島で暮らす人間の髪なのだろうか。
ドライバーの髪を見ているぼくのとなりで、桜子《さくらこ》は車窓の外を見ていた。
「林がつづくんだね」
桜子が言う。
「そうだね」
ぼくが言う。
ずっと林がつづく。
針葉樹が多い。そう見えるだけか。動いているタクシーの車窓からでは種類まではよくわからない。
降りて見たって、どうせよくわからない。ぼくはそんなに植物にくわしいわけではない。っていうか、疎い。
ただ、はじめて来たスウェーデンという国の道路を走るタクシーの車窓から見える木々が、そんなに日本の木々と変わらないことが、ちょっと拍子抜けな気がした。
「曇ってるね、空」
「でも雨は降らないんじゃないかな」
「うん、雨にはならなさそうだね」
「着いたときから雨だといやだよな」
「そうね。めんどくさいものね」
「傘、持ってきた?」
「いちおう。折り畳みを」
「そう。準備がいいんだね」
「旅行に傘は持ってくるものなのよ」
「そういうものか」
ぼくは二歳下の妻のほうに顔を向けた。笑った。
「そういうものよ」
桜子もぼくのほうに顔を向けた。笑った。
飛行機のなかででも、ぼくたちはこうだった。
問題はなにもない。
問題はおこらない。
ぼくは桜子が好きだし、桜子はぼくが好き。
だから結婚して、三年たって、ぼくらのあいだにはこどもがいないといけなくなった。こどもがいないとすわりが悪いような気がするというのは、こどもがいないといけなくなったということだ。父と母とこども。家庭というものはそういうものだから。構成要素だから。
こどもをつくるためには、こどもができるような行為をしなくてはならない。
でも、ぼくも桜子も、そういう行為をするためにスウェーデンへ行きましょうとは言わなかった。
そんなことは言わない。
そんなことを言うと、たとえそれがほんとうのことでも、ほんとうのことだけがさびしく身ぐるみはがされて、ぼくたちの前に立ってしまう。
まるで、ほんとうのことじゃないように見えてしまう。
だから、ぼくたち夫婦はふとしたことでスウェーデンに旅行に来た。だから、そういうことにする。すると、それでいい。
空港からストックホルム市内までの道路はがらんとしていた。
「がらんとしてるね」
ぼくは言う。
「人口が少ないんですって。日本の7%くらいってガイドブックに書いてあった」
桜子は言う。
「面積は日本の1・2倍」
ほら、ここに。桜子がガイドブックの記述を指さす。
車がゆるいカーヴを曲がる。
桜子の、ガイドブックを示す指の先がぶれる。
微弱な色素の髪をしたドライバーがラジオをつけた。
スウェーデン語はわからない。でも、声の音調からするとニュースなのだろう。整然となにかがつたえられている。いま走っている道路のように、よく整備されて。
スウェーデン語。その発音は硬い。だが音調はうたうようだ。ドイツ語ほどごつごつとしておらず、フランス語ほど鼻にかからず。
「静寂なトーンの言語だと思わ……」
桜子に言いかける。
やめる。
そんなことに、桜子は関心がない。
二十八歳で結婚して三年。いっしょに三年暮らしていれば、彼女がなにに関心があってなにに関心がないか、ほとんど見当がつく。
そもそもこの旅行自体に、彼女はさほど乗り気ではなかった。
スカンジナビア方面への旅行は一般に値がはる。学校の授業時間割のようなタイムスケジュールに従ってせわしなくあちこちをサイトシーイングさせられるタイプのツアーだと三十万円台でもあるのだが、スウェーデンはホテル代が高いから、ストックホルムだけに滞在するコースだと飛行機代と合わせてひとりぶんが五十万円ほどかかるのが相場。
この、一都市滞在フリーデイ型のものは、日本人に抜群の人気の街以外、格安ツアーがめったにない。今回、ぼくたちが参加した『ストックホルム六日間フリーデイ』も相場どおりの値段がついていたのだが、それが半額になるというので、ぼくは旅行を桜子に提案した。
デンマークとノルウェーとフィンランドの観光名所をつぶさにまわるツアー便に、文字どおり便乗するかたちのおこぼれ的なコースで、機内にこのコース参加者はいなかった。ツアーと名はつけど、実質、個人旅行である。
ひとつきほど前に、このツアー・チケットを半額にする引き換えチケットが、いきなり会社の住所宛てでぼくに送られてきたのだ。
送ってきたのはカズ。結婚してから彼女とはずっと会っていなかったのに。
本城 和。大学時代の同級生。会ってしゃべるときにはkazu[#「kazu」に傍点]と名前のとおりに呼ばれ、仲間うちで回覧するようなメモやおしらせのようなものには「カズ」と片仮名で書かれて呼ばれていた。
カズが引き換えチケットを送ってきたとは、ぼくは桜子に言わなかった。仕事関係での知人が行く予定だったのが行けなくなり、代わりにどうかと訊《き》かれたと言った。
〈スウェーデンだけ? デンマークは乗り換えだけ? 人魚の像が見られないツアーなんて……、フィヨルド見学もないの?〉
入手経路に桜子は関心を示さず、ツアー内容に多少の不満をみせた。
〈でも、パリやローマや西海岸とちがってストックホルムなんて、こんな機会でもなければ行かないんじゃないかな。せっかく半額になるんだし、どうかな〉
ぼくは、ストックホルムにも行ってみたかったけれど、なによりカズに久しぶりに会ってみたかった。
でも、カズとぼくの関係を桜子にどう説明すればいいのかわからない。ぼくたちは「うまくいっている夫婦」なのに、わざわざ問題をおこすのはいやだった。
ことわっておくけれど、カズとぼくのあいだに過去になにかあったわけではない。ないから、あったかのように桜子に誤解されるのはいやだった。
ぼくは大手住宅会社キド・ホームの広報部にいて、問題なく今日まで勤務してきた。すごく高給とは言えないが、福利厚生の面を考えれば恵まれていると思う。
桜子は平日の十二時から四時まで紅茶の葉を売っている。そこは桜子の実家で、以前は陶器店だったのを、桜子の姉夫婦がハーブも含めた紅茶の葉やポットを売る店に変えた。
紅茶屋はぼくらの住んでいるマンションから電車ですぐのところ。ぼくの実家も、マンションからそんなに遠くない。
|リーズナブルな(納得のいく)結婚。ぼくたちは、そんな夫婦だと思う。
そんな夫婦には、こどもがいたほうがいい。
神経質に避妊していたわけでもないが熱心に計画もしなかったので、いままではいなかった。これからはいるほうがいい。こう思うのもリーズナブルなことじゃないか。
〈そろそろ赤ちゃんつくってもいいかな〉
天気のよい休日の朝などに、実家から持ってきたダージリンにお湯をそそぎながら桜子は言い、
〈そうだなあ〉
ぼくは、おふくろが勝手に手づくりしてほとんど強制的にぼくに持ち帰らせた無花果《いちじく》のジャムをテーブルに置いて答え、そして、ふたりとも夜になると、朝にこんな会話をかわしたことを忘れる。
そんなふうに、毎日が過ぎていた夫婦。
問題はない。
ちいさな疑問符だけがある。
なにに対する疑問符なんだろう。
なにに対する疑問なのかさえわからないほどの「?」。小さな符号。小さな「?」が、ふたりが暮らしているところにただよっている。
いつから?
最近のような気もするし、結婚してまもないころからのような気もするし、あるいは結婚する前からのような気もする。
疑問符の正体を考えていこうとすると、会社に行く時間がやってきて、風呂にはいる時間がやってきて、寝る時間がやってくる。
毎日っていうのは、時間がありそうでなくて、ぽこぽこぽこと紅茶のためのお湯が、ちょっとよそみしているあいだに沸いてしまうように過ぎてしまう。
いまだって過ぎている。
タクシーはとまってるわけじゃない。
だから、こどもをつくる行為をするために遠い外国にでも旅行しようと、ぼくも桜子も、きっと、どこかでそう思い、ガタゴトとスーツケースを引っ張って成田まで行ったのだろう。
だから、こうしてタクシーに乗っているんだろう。
そんなところだ。
いまは、異国に旅することが特別なことだった時代ではない。
みんなも、ぼくたちていどのきっかけで外国旅行を思い立ち、パスポートを用意するんじゃないのかな。
──カズはどうしてストックホルムなんかに住むことになったんだろう……。
十時間以上のフライト中に、ぼくはカズのことばかり考えていた。
不義をはたらいているわけでもないのにチケットの入手経路について妻に嘘をつき、妻といっしょに針葉樹の林を見ている自分がすこし疎ましい。
「スウェーデンってガラス工芸品が有名なんですってね。わたし、ペーパーウェイトのいいのがあったら……」
桜子はとちゅうまで言ったが、ぷつっとしゃべるのをやめてしまった。
ぼくが目をつぶっていたからだろう。
目を開き、彼女に話のつづきを促さなきゃ……。
目が開かない。
ねむい。
スウェーデン語のニュース……。
*
ふたたび目を開いたときはもうセルゲル広場に着いていた。ツアー指定のホテルはこの広場のほど近く。
空港で換金したばかりのユーロ紙幣をドライバーに支払い、タクシーから降りると、空港近辺の匂いとはまたちがう、街中の匂いがした。はじめての街の匂い。
──これがストックホルムの匂いか。
冷たく、鼻の奥がキンと乾いているときのような匂い。
ぼくたちはホテル正面ポーチまで、荷物をひいた。
建つ場所のとおりの名のセルゲルプラザホテル。
フロント・ロビーをくるりとつつむ高い吹き抜け式の天井窓。
窓からぼくらを見下ろす空は微弱に発光するみずいろだ。
「もう九時なのに」
スウェーデン時間に合わせた自分の腕時計と空を見比べて桜子は驚く。
「ほんとだ。さすが白夜だ」
九時でも空が、この季節の日本なら六時くらいの明るさであることに、ぼくも驚く。
「すごいね」
桜子は笑い、ぼくも笑った。
ぼくたちはこうして、問題なくストックホルムに着いた。
118号室。
それがぼくたちが案内された部屋。
空港内のスタンドで軽食をとり、夕食はとらないことに決めてあったから、
「飛行機で疲れたから、まずはお風呂に入るわ」
スーツケースから手をはなすなり、桜子はバスルームに入った。
ドドドと水圧の強そうな音を聞きながらぼくはベッドにこしかけた。
ぱさぱさと桜子が服を脱ぐ音が背後でして、キュッと湯を止める音がして、ぱたんとドアが閉まる音がしたあと、ぼくは、かりそめにひとりになった。
『セルゲルプラザホテルは、もとは国会議員宿舎であった建物を改装したホテルです』と、ガイドブックには書いてある。繊細な意匠性はない。天井も、窓枠も、ベッドサイド・テーブルも、レター・テーブルも、ドアノブも、みな簡潔に丈夫に機能的に作られている。
──いいな。
ぼくは気に入った。
部屋と同様、VOLVOのように丈夫で清潔で機能的な、ただの円筒形のグラスに水を注いで飲んだ。
「大きなバスタブ。わたし、寝ころんだらお湯にもぐっちゃって、あやうくぶくぶく顔まで沈むところだったわ」
桜子は、さして気に入ったようではなかった。
よく知っている。猫脚のバスタブ、複雑なカットの花瓶、楕円《だえん》の鏡と鏡をふちどる波形《なみがた》の金属枠。そんなインテリアを、いつも旅先のホテルに彼女が求めることを。現実の煩瑣《はんさ》さえなければ、現実の生活空間にも求めたであろうことを。
「じゃ、ぼくも入るよ」
バスタブはほんとうに大きかった。身長178センチのぼくでさえ、足をのばして余った。ゲルマン民族は大和民族よりはるかに大きいのだと実感する。
シャワーのノズルがバスタブの縁にかけたままになっていた。フックまで、桜子の背ではとどかなかったのだろう。縁にのぼってノズルをとってシャワーを使い、そのまま縁にかけておいたらしい。
「ノルウェー、スウェーデン、オランダの順ですって」
ヨーロッパ各国の主都部での平均身長順を記した箇所を、ガイドブックから桜子が見つけた。
「へえ。太陽が照らないと骨が弱くなって背が低くなりそうなものなのに」
「そういえばそうね」
「タクシーのドライバーも、ホテルのドアマンもみんなデカかったよなあ」
背が高いのはかっこいいけど、ああも高いと、かっこいいとか悪いとか、おれの負けだ勝ちだって範疇《はんちゆう》じゃなくなり、ただもう異人種というかんじがする。
「ああ疲れた。とにかく寝たいわ」
「ぼくも、疲れたよ」
十時半。やっと空は暗くなった。
ぼくたちは、並列しているベッドのうえで、それぞれ身を横たえた。ベッドも大きい。
「ねえ、明日は……、なんて言ったっけ、カミジョウさんだっけ、トウジョウさんだっけ……」
「本城さん」
カズの名字をぼくは桜子に教える。
「ああ、本城さん、その人が案内をしてくれるの?」
「九時にロビーに迎えに来てくれるって」
ぼくはカズに、あらかじめ国際電話で頼んでいた。仕事関係の知人夫妻がスウェーデンに行きたいと言ったので、きみのことを思い出してメールを出したら、格安のチケットを手配してくれたが、当の夫妻が行けなくなったので自分がチケットを買うことにした、ということにしてくれと。
まあ、そう言うならそうしとくけど[#「まあ、そう言うならそうしとくけど」に傍点]
カズは了承した。
むかしのことを、うちのには詳しく話してなくて、ただ大学の同級生だったって言ってあるだけだから……[#「むかしのことを、うちのには詳しく話してなくて、ただ大学の同級生だったって言ってあるだけだから……」に傍点]
そのとおりなんじゃないの? 詳しく話すもなにも[#「そのとおりなんじゃないの? 詳しく話すもなにも」に傍点]
それはそうなんだけど……、きみからの久しぶりの手紙にチケットが同封されていたっていうのはなんか、やっぱりその、へんな気がして……[#「それはそうなんだけど……、きみからの久しぶりの手紙にチケットが同封されていたっていうのはなんか、やっぱりその、へんな気がして……」に傍点]
親が来る予定だったのよ。でもつごうが悪くなったの。それで江藤くんのこと思い出して送ったの。先にメールすればよかったんだけど、キド・ホームだったらネット検索ですぐに住所がわかったから、さっさと送っちゃったのよ[#「親が来る予定だったのよ。でもつごうが悪くなったの。それで江藤くんのこと思い出して送ったの。先にメールすればよかったんだけど、キド・ホームだったらネット検索ですぐに住所がわかったから、さっさと送っちゃったのよ」に傍点]
国際電話料金のことを気にしてあわただしくカズは話した。
むりに旅行しなくていいのよ。使う人が見つけられなかったらだれかがお金を損するってわけじゃないし。うちの親も、キャンセル手数料をまだとられないですむ期間だから[#「むりに旅行しなくていいのよ。使う人が見つけられなかったらだれかがお金を損するってわけじゃないし。うちの親も、キャンセル手数料をまだとられないですむ期間だから」に傍点]
いや、行くよ[#「いや、行くよ」に傍点]
久しぶりにきみに会いたいから、とぼくがさいごに言ったことばを、カズは聞いたのか聞かなかったのか、海を越えた電話はあっさり切れた。
「圭一《けいいち》、わたしもうねむくて……」
桜子は自分のベッドサイド・ランプを消した。
「そっちの明かりも消してくれる?」
「うん」
部屋は空のように暗くなった。
*
ぼくもねむりたかった。
疲れていた。
だが、疲れすぎたのか、時差のせいなのか、なかなか寝つけない。
なぜ、カズはぼくにチケットを送ってきたりなんかしたのだろう。
気になる。
ぼくとカズは、ビリヤードのサークルに入っていた。
ふたりともさして熱心な部員ではなかった。
部室に遅れて行くと、ほかの部員はすでに練習場へ行ってしまっている。そこへ、ぼくよりさらに遅れてカズが来る。ふたりでしゃべり、そのまま部室を出てどこかへ行く。そんなふうなことが多かった。
卒業後もときどきは会っていたが、徐々に頻度はへり、そのうちに会わなくなった。
チケットの入った封筒には、カズからの短い手紙もついていた。
『お久しぶりですがお元気ですか。ストックホルムに住んで一年になります。スクーゲン家具の仕事をしています。旅行会社に親しい人がいて格安のツアーを紹介してくれました。だれかといっしょにどうですか』
あとは、代金にはなにが含まれるか、手続き締め切り日はいつか、旅行代理店の住所と電話番号、等々の事務的なことが書いてあるだけ。
電話では、来るはずだった両親のつごうが悪くなったと言っていたが、本当にそれだけの理由からぼくに旅行をすすめてきたのだろうか? なぜぼくのことを思い出したのだろう。
──カズは……。
ぼくに会いたかったんじゃないのかな。
自分以外の人間がだれも聞いてはいない、暗い部屋のベッドのなかでなら、甘めの推測ができる。ひるまの、人がいるところでなら「そんなことはない」と打ち消してしまうだろうけれど。
(もちろん、切実に思いつめて会いたいというんじゃない。もっとあやふやな気分……)
学生時代のカズは、いつもペインター・パンツとざっくりしたトレーナーを着ていた。もちろんほかの洋服も着てたけど、このかっこうだけ思い出す。
よくいっしょに映画を観に行った。映画のあとは、終電に乗り遅れたわけでもないのに、何駅も何駅も歩いて帰ったものだ。ぼくたちはおなじ沿線に住んでいた。彼女のアパートからさらに二十分歩いたところにぼくの家があった。
ぼくたちはいつも歩きながら話をした。いっしょに酒を飲んだこともよくあったのに、ならんでえんえんと歩き話したときの、光景というより、感触ばかりよくおぼえている。 いつもぺたんこの運動靴だったが、カズの身長はぼくとそんなにかわらなかった。とにかくよく話した。観念的で哲学的な話になることもあったし、たわいない話もあった。
〈映画研究会とかには入りたくなかったの。ただ映画を観て、あの映画好きだなとか嫌いだな、とか言ってるのがいいから〉
〈ぼくはポール・ニューマンの古い映画を観てこのビリヤードってやつができるといいなと思って入った〉
そんなふうなことから、話がはじまり、その日によって、いろんな方向へ話がひろがってゆく。
カズと話しているのはたのしかった。飽きることがなかった。だからぼくはカズの気持ちに、気づかないふりをしていた。彼女の密《ひそ》かな気持ちに。
ぼくが気づかないほうが彼女を傷つけないですむ。そのほうがだいじなものをこわさないですむ。そう思った。性の介在しない男女間の友情を、ぼくはとても貴重なものだと思ったから。
カズは手の大きな女子学生だった。腕も長かった。
ビリヤード競技中、ほかの女子部員がキューの長さをいくぶん扱いづらそうに持っている横で、カズはやすやすと長いキューを扱った。
ずっとつづくように、なぜかかんちがいしていた学生時代というモラトリアム期間。それは、ずっとはつづかないのだと卒業前に気づいて、終わった。
おなじように、ずっと友だちでいるように、なぜかかんちがいしていたぼくとカズは、いつのまにか会わなくなった。
そして、ひとつき前に不意にカズは手紙をよこした。
同封されていたチケット。遠い北の国へいらっしゃいというチケット。
──この旅は……。
この旅は、ぼくの旅ではなく、カズの旅なのではないか。ぼくは思った。
まだいっぱい時間があると思っていたあのころ。もしかしたらなにかのはずみで結ばれてしまうかもしれない繊細なバランスによって成立していたぼくらの関係。でもまだいっぱい時間があると思っていたあのころ。
無邪気だった過去への感傷を、カズは同封したチケットに託したのではないか。飛行機に乗るのはぼくでも、旅をするのはカズのほうではないのか。
センチメンタル・ジャーニー。
古すぎて逆に新鮮な響きさえ感じさせる決まり文句を、毛布にこすられているくちびるに乗せたとき、ぼくは、ねむりに落ちた。
*
ストックホルム市庁舎は、メーラレン湖に静かにのぞんでいる。
太陽を待ち焦がれるこの国の人々の、長きにわたるその焦がれの気持ちを燃やす暖炉のような色の壁。
「ここはノーベル賞の授賞式がおこなわれる建物なの」
カズは、ぼくと桜子の前に立ってホールに入っていった。
学生時代とかわらず、運動靴にペインター・パンツ。厚手のトレーナー。
「授賞式後の晩餐《ばんさん》会とそっくりそのまま同じコースを食べられるって店があるけど、滞在中に食べる? 食べるなら予約がいる」
ぼくと桜子をふりかえる。
「どうする?」
ぼくは桜子に訊《き》く。
「いいけど……」
桜子は、いつものように答える。いいけど。YESでもNOでもない、いつもの彼女の答え方。
「予約するなら、今、私が直接行ってしてくる。電話でするとスウェーデン語で応対されるかもしれないから。どっち?」
学生時代とかわらず、カズはYESとNOをはっきりさせたがる。
「それって、フレンチなの?」
桜子はぼくに顔を向ける。
「フレンチ?」
ぼくはカズに顔を向ける。
「知らない。食べたことない」
カズは答えた。
不意に梅の味が口のなかでした。
むかしの味。
歌が聞こえた。
むかしの歌。
学生時代によく行った居酒屋。ぼくとカズは酒を飲むときは、必ず、梅たたきを注文した。その店の有線放送は日本の歌謡曲だった。知らない。食べたことない。行く。聞く。いつもカズはこんなしゃべり方をした。
「ひでえな。食べたことないくせに、ぼくらにはすすめるの?」
むかしのようなしゃべり方に、ぼくもなった。
「失礼なやつだよな。な?」
むかしのぼくのしゃべり方に、桜子が笑った。桜子が笑うと、カズは安心したような顔をした。
「予約しなければならない店はめんどうで行かないから」
カズはペインター・パンツのポケットからメモ用紙を出し、桜子にわたす。
「日本人観光客に人気の店だって聞いたから電話番号をメモしてきたの。行きたい気分になったらここに電話してね」
「どうもすみません。調べてもらっちゃって。市庁舎内にあるここのことですよね?」
桜子はガイドブックを開いてカズに見せる。
「あ、そうそう。なんだ、ここのこと、ガイドブックに出てるのか」
「きみ、ストックホルムに来る前、ガイドブック見なかったの?」
「見なかった」
日本で勤めていたインテリアの会社と提携しているスクーゲン家具に短期採用してもらう手続きでめいっぱいだったそうだ。
「急にストックホルムへ行こうって決めたから、あわただしくてさ……」
カズは二、三歩あるいて、ぼくと桜子に階段を指さした。
「あの階段がこの建物の白眉《はくび》。ちょっとのぼってみて」
「なにかしかけがあるの?」
桜子は、ようやくカズに直接訊いてくれた。
「のぼってみればわかる」
ぼくたちはカズのあとについて階段をのぼった。
大理石が靴の底に吸いついてくるように足元が安定し、膝《ひざ》が動く。
「おりてみて」
のぼるとすぐにカズはUターンする。ぼくらもUターンする。ホールをみわたしながら悠然とつまさきが一段、一段をとらえる。
やさしい。そんな形容詞を階段につけていいものかどうか迷うところだけれど、それはやさしい階段だった。
「すごくのぼりおりがしやすい階段でしょ。設計者がもっとも苦心したのがこの階段なんですって。人間の足の動きにもっともラクにフィットするように細心の注意を払って角度や幅を設計したんですってよ。もっともゲルマン人の足の動きになんだろうけど」
「へえ」
ぼくは階段をしげしげと眺めた。華美な装飾はなにもほどこされていない。立派といえば立派だが、もっと豪華な階段がヨーロッパにはいくつもある。市庁舎の階段は、ただの石の階段と言ってもいい。が、のぼって、おりて、はじめてその優れた機能性がわかる。 ぼくはなんどか階段をのぼりおりした。
桜子もぼくのあとについて、のぼりおりしたあと、
「ねえ、本城さん、わたし、お洋服を買いたいんですけど……」
カズに訊いた。
「夏でもこの国は寒いのね。わたし、半袖《はんそで》しか持ってこなかったから、なにかお洋服を買おうと思って……」
旅行では買い物が桜子の大きなたのしみでもある。
「じゃあ、グレタ・ガルボが売り子をしていてスカウトされたデパートにでも行く?」
「あっ、それもガイドブックに出てた。行きたい」
*
神聖ガルボ帝国の女王が立っていたという帽子売り場が入ってすぐに設けられているデパートで、桜子は洋服を求めて歩き、ぼくとカズは彼女についてまわった。
「これなんかどうかしら。でも、ちょっと色がかわいくないよね」
半袖では寒いと言ってトレーナーの類《たぐい》を買いに来たはずなのに、桜子はブラウスを見ている。
ぼくは買い物をしている桜子にはなにも言わない。ひたすら終わるのを待つ。買い物が好きなのが女の子や女の人や女性という生物なのだと、ぼくはいつのまにか学んだ。
旅行をしても旅先につねに日本を求める、日本の大都市を。それが女性の習性なのだということも結婚生活で学んだ。
ぼくは桜子のうしろでカズと話しはじめた。
「よくスクーゲンに採用されたね。きみ、中国語学科だったろ?」
ぼくは経済学部で、カズは外国語学部だったが、ふたりとも、サークル同様、熱心な学徒とは言えなかった。
「スクーゲン家具店でいらっしゃいませ≠やってるわけじゃないのよ。スウェーデン語なんかこんにちは≠ニありがとう≠ュらいしかおぼえてないわ。職場はみんな英語だし。交換留学生ならぬ、交換社員システムとでもいえばいいかな、日本の社員寮住まいの社員をスクーゲンに、スクーゲンの社員寮住まいの社員を日本にスイッチするシステム。その社内試験を受けたら受かったの。図面を扱うのなら語学力はそんなに関係ないから──」
大学卒業後に入社した会社で企画部に配属されたが、そこは美大や建築学科卒の人間ばかりで、カズは使い走りよろしく、ひたすら図面のトレースをさせられた。実地訓練の成果か、ほどなく家具のデザイン図や組立図について詳しくなった。
「──だから、会社が私をスクーゲンに送ることにしたのは、優秀だったからじゃなくて、もっと勉強してこいって思ったんじゃないかなあ」
郷に入れば郷の従いに、自分流に応じられるカズ。ぼくにとっては驚きではない。映画館で席がなければ週刊誌を床に敷いて通路にすわる。髪を整える櫛《くし》がなければ指で代用してすませる。終電に乗り遅れれば歩く。そういう学生だった。
そういうカズと話しているのは、だから、あのころたのしかった。話しているとたのしい彼女は、だから、あのころ恋愛の対象には映らなかった。
男子学生のようなことばづかいをするわけでもなく、顔やからだつきが男子学生のようなわけでもなく、動作が乱暴なわけでもなかったが、女の子として映らなかった。
「いやだあ、みんな大きなサイズばかり……。どうしよう、圭一」
桜子がぼくをふりかえる。自分の身体に服を当てて。ぼくはさしてよく見もせず、ほほえんでみせる。
「スウェーデンで服を買うのはわたしにはたいへんなことだってわかったわ。みんなすごく大きいんだもの」
困った顔をしながらも誇りをたたえて桜子は言う。結婚していっしょに暮らして、身体が小さいことは女の子にとって誇りであることに気づき、そのうち慣れてしまった。
「小さいサイズがないか店員さんに訊《き》いてみようか?」
カズが言ったが桜子は首をふった。
「ううん。いいです。きっとないもの。これにするからいいです」
一枚のフード付きのハーフ・ジャケットを桜子は買い、その場ではおった。
「よかった。これで昼ごはんにありつける。腹がへってたまらなかったんだ」
ぼくは、桜子とカズに昼食をどうするか訊いた。
「このデパートを出た、ほらあそこ」
カズが斜め方向を指さす。
「あそこの地下が食糧市場なの。おいしい魚のスープを出す店があるの。それはもうおいしいの。日本にはない味なの」
「じゃあ、そこにしよう」
ぼくと桜子は、カズのうしろについて地下へおりた。店を見たとたん、桜子がいやがった。
「ねえ、ここじゃないところにしない? なんだか落ちつかないわ」
そっとぼくに耳打ちする。食糧市場の一隅にテーブルを設けただけの場所であるのが桜子を拒ませた。ぼくはカズに婉曲《えんきよく》に場所変えを頼む。
「魚じゃないほうがいいな」
ぼくはてきとうに理由をつくった。
「じゃ、そこの肉屋で胡椒《こしよう》ハムを買って、一階のパン屋でパンを買って、それを出たとこの、コンサートホールの軒下で食べるのは?」
「ホールの軒下?」
「ミレスの彫刻がある。ミレスの彫刻の下のひらたい階段で足を投げ出して、即席サンドイッチを食べる、こんな贅沢《ぜいたく》なことはない──」
それはカズの価値観である。税金がべらぼうに高いスウェーデンでは、ちょっとした店に入れば昼食に一人四十ユーロ(約五千三百円)ほどもかかってしまう。
「──しかも一人四ユーロ(五百三十円)で!」
カズは自分の提案が桜子に違和感をおぼえさせるとはついぞ思わないようだった。
「ひらたくったって軒下の階段にすわって食べるのは無理だよ」
桜子がぼくにしたように、こんどはぼくがカズにそっと耳打ちした。桜子の服装を目で示す。
中ヒールのパンプス。膝丈《ひざたけ》のキュロット。靴はともかく、キュロットはオフホワイト。これでは屋外の階段にすわって足をのばしてパンと胡椒ハムを頬張ることはできない。
いつもきちんとした身なりをすることが桜子の価値観で、そしてそれが、女の子らしいことなのだと、ぼくは思い、桜子を妻に選んだのである。
「ねえ、圭一、せっかく観光旅行に来たんですもの。グランド・ホテルのレストランで食べましょうよ」
せっかく外国に来たのだから日本では味わえないスープを食べるのがいい。それがカズの価値観なら、せっかく旅行に来たのだからガイドブックにある★印が多いホテルのレストランで食べるのがいい。それが桜子の価値観。
「本城さんには案内の御礼にごちそうしますから、グランド・ホテルに行きません?」
桜子が提案したが、ぼくは無理強いにならないようにしたかった。
「それとも、昼食は別っていうのはどう?」
一時間後にグランド・ホテルで待ち合わせるのはどうかと。
「うん、そうする」
カズはほっとした顔をして、地上への階段をのぼるぼくたちに手をふった。
*
ヨットハーバーが見えるグランド・ホテルのクラシカルなレストランで、桜子はサーモンのムニエルにナイフとフォークをあてる。
「本城さんはやっぱりお金に困ってらっしゃるのね。ひとりで外国で働いてるなんてすごいなあ、ってさいしょは軽く思ってただけだったけど、たいへんなことよね、あらためて感心するわ」
カズをほめる桜子の、そのすなおさこそ、ぼくが彼女を愛した最たる理由である。
「本城さんは、あの汚い店で魚のスープを食べてお昼ごはんにしてるのね」
ぼくの給料では高価に過ぎる衣服や鞄《かばん》や靴があれば、桜子は実家の両親に買ってもらう。それは桜子の、なんの澱《よど》みもないすなおさである。
「いいんだよ。彼女は魚のスープが食べたかったんだろう。遠慮したわけじゃないんだよ。そういうやつなんだ」
学生時代からカズの身なりは質素だった。高価な衣類や装飾品をなにも身につけていなかった。当時はぼくも苦学生なのだと思っていたが、カズが財界に名立たるさる一族の係累であることを知ったのは、卒業してからである。係累の重みを毛嫌いする令嬢は、大学などという暢気《のんき》な場所では苦学生と酷似しているのである。
カズは自分の実家のことを隠し、家よりも自分を語りたがった。
桜子は自分の実家のことをいつも語り、自分はひとりでここまで生きてきたわけではないことに感謝しようとする。
「あいつは学生時代から、変わってたよ」
「変わってるなんて……。本城さん、すてきな人じゃない。そんな言い方したらだめだよ」
毒というものが桜子にはない。
だから桜子といるとやすらぐ。
ぼくはシルバーを皿に置き、桜子の手の上に自分の手を乗せる。
「え、どうしたの?」
ふしぎそうに桜子はほほえむ。清純な目もと。
「ううん。べつに」
「本城さん、安いチケットを手配してくれたんだし、案内してくれるんだし、当然、ここ、おごったのにね」
おごる。それは桜子の経済力ではなく、ぼくや彼女の両親の経済力であることに彼女は気づかない。可簾《かれん》さとは、そういうことでもある。
「お金のことより、ちょっとひとりになりたかったんだと思うよ、彼女は」
「どうして? わたし、なにかいけないことをした?」
「いいや、ちっとも」
「なら、どうして彼女がひとりになりたかったのだなんて思うの?」
「だって、朝の九時からずっと三人でいっしょで、このあともいっしょになるじゃないか」
ぼくと桜子は夫婦である。しかしカズはぼくとは久しぶりに会った上に、桜子とは初対面である。それも、かつては密《ひそ》かな感情を胸に抱いていた相手の妻。途中、ひとりになって休憩を欲するのは、彼女のような人間には当然のことだと、ぼくは思った。
気をつかわせないように気をつかう、それがカズの強情さ。
気をつかっていることがわかるようにことばを選ぶのが桜子のやさしさ。自分が気をつかわれているのだと知ってはじめて人はありがたいと思うのだから。
──庶民はそういうものなんだよ。
ぼくは心のなかでつぶやく。
年月がたっているからつぶやけるのだろう。
外国だからつぶやけるのだろう。
──気をつかっていてくれることはわかってたよ、むかしも……。
カズ流のやりかたで、彼女がぼくに繊細な気づかいをしてくれているのは知っていた。でも、気をつかっているときは気をつかっているのよと示してほしかった。だから敬遠するしかなかった。だって、ぼくからどう応対すればいいのか、カズのやりかたではわからないじゃないか。
──そうだろ……?
市場で魚のスープを食べているであろうカズに言ってみる。
「わたし、ショッピング・アーケードのほうを見てくる。本城さん、ここに来るんでしょ。待っててね」
「いいよ。ホテルからは出ないようにね」
「ええ」
桜子の後ろ姿を目の端にして、ぼくは想像してみる。
──いまの記憶を持ったまま、年齢と時間だけが、桜子にはじめてあったときにもどれたら、ぼくはそれでも……。
会社の仲間を中心にした飲み会。二期後輩が高校の同級生を連れてきた。オナコーというやつ。それが桜子だった。そのときに時間がもどっても、ぼくは彼女と結婚するだろうか?
〈ほそっこい女の子〉
はじめて桜子を見た、いちばんさいしょの印象。ほそっこい≠ニいうのは、痩《や》せているというより、容積が少ないような、主張が強くないような、そんなかんじ。
ぼくはコーヒーカップを皿に置いて、頬づえをついた。
プルンプルンと、ヨットハーバーのほうからエンジンをふかす音が聞こえる。
白い舟で、男がひとり、もやい綱を巻いている。うすぐもったヨットハーバー。
明るい光景は、ストックホルムにはいっさいない。晴れていても空はどこかくすんだ青色。いつ雨がふりだすかわからない。
「どうしたのよ、ぼんやりしちゃって」
カズが立っていた。
カズのとなりにボーイも立っていた。カズをぼくの席まで案内してくれたのだろう。カズとの差からしてたぶん身長は190センチ。この街ではごく平均的な体躯《たいく》である。彼の横にいればカズも桜子のように、ほそっこい女の子に見える。
ボーイはカズのために手慣れた動作で椅子をひいた。
「|Tack《タツク》 |sa[#aの上に゜]《ソ》 |mycket《ミユツケ》」
スウェーデン語のありがとう≠ヘ、カズが小声で言ったにもかかわらず、ぼくによく聞こえた。それほど、この国はすべて静かである。
「会ったときから思ってたんだけど、江藤くん、なんだか元気がないよね。時差ボケ? それとも昨夜、セルゲルでよく眠れなかった?」
「そんなことないよ。セルゲルはいいホテルだよ」
「アクアビット(じゃがいも焼酎《しようちゆう》)を飲み過ぎた?」
「そんなんじゃない。ちょっと考えてたんだよ」
ぼくは頬づえをついたまま、カズを見た。
「ぼくたちはこれでよかったのかなあって」
ぼくたちというのが、ぼくと桜子のことなのか、ぼくとカズのことなのか、暈《ぼか》した。自分でもわからなかったから。
「よかったのよ」
質問の意味がわかっているのかいないのか、ともかく、カズははっきりと発声した。
「晴れているのに不安な空でしょ、ここの国の空って。旅行に来た人は、みんな江藤くんみたいなこと言う。みんなにわかにストリンドベルイになっちゃうのよ」
人を考えこませてしまう空は、冬場には強迫する空になるという。
「冬場はね、自殺者がすごく出るの。スウェーデン人の友人がみんなそう言ってた」
「カズも自殺したくなった?」
「ぶじ越冬した。はじめての冬は、仕事場で慣れないことばかりで、あわただしかったのが幸いしたんだと思う。慣れたらそんな気分になるかもね」
「ムンクの『叫び』みたいな気分に?」
「スカンジナビアの冬を体験したら、あの絵がおおげさじゃないってわかるよ。ほんっとに連日、真っ暗なのよ」
「電灯があるじゃん」
「電灯なんか。太陽とはちがう。ぜんぜんちがう。太陽が出るのは午前十時すぎから午後二時くらいまでほんのちょっと。それも晴れ≠ネんて日はほとんどなくて、どよんと曇ってるだけ。そして三時ともなればもう真っ暗。真っ暗ななかで役所の人も郵便局の人も仕事してるの。それでもストックホルムは日照時間が長いほうで、もっと北のほうなら一時間しか太陽が出ない。一時間も出ないとこだってある。真っ暗なの。電車に乗っても窓の外は黒なの。夜じゃないの。黒なの」
「そんな国にいつまでいる予定?」
「あと一年ということになってる」
交換社員期間中は、家賃や光熱費はスクーゲン社員とスイッチしているから会社が負担してくれるものの、給料は半額になり、ボーナスも出ないのだそうである。
「自殺しないでくれよ」
「しないよ。しょせん私は仮住まいをしてるだけだもの。うっとうしい空を見ても、うっとうしいなと思ってればすむ」
「カズは変わらないな。大学生のころと変わらない」
「江藤くんも変わらないよ。成人したら、人はそうそう変わらないよ」
カズはラムローサという名前のミネラルウォーターをグラスに注いだ。
「私ね、江藤くんとはじめて話したときに思ったこと、まだおぼえてる」
グラスがカズの口の前でかたむく。
「なに?」
ぼくが訊《き》くとカズはごっくんとラムローサを飲んだ。
「あ、この人、別学だ。そう思った」
「ベツガクって、中学や高校の、共学とか別学のこと?」
「そう、その別学。さすがにいまはもう鈍ったけど、大学に入って一、二年は、男子校から来た人や女子校から来た人は、ほんのすこし話しただけですぐにわかった。あ、この人、別学だ、って」
「そう? ぼくにはそういう経験はなかったな」
「そうでしょう。あ、この人、共学だ、とは、別学の人は思わないみたいだよ。共学の人特有の嗅覚《きゆうかく》じゃないかな」
たしかにぼくは中学も高校も男子校で、カズはずっと共学だった。中学から私立へ行けという家人の反対をおしきって公立の共学へ行った話を聞いた記憶がある。
「そういや、桜子も別学だったな。高校と大学と女子校だった」
「よかった」
「よかったって? 別学同士で結婚したからよかったって言うの?」
「うん」
「そんなこと関係あるかな」
「ある」
「そうかなあ」
「ある。だから、これでよかったんだよ」
「そうかなあ……そんなことですむ話かなあ」
「すむ」
「はいはい」
「江藤くん、学校で検尿したことおぼえてる?」
「検尿?」
「学校でしなかった?」
「したんだろうか。おぼえてない」
「おぼえてないでしょ? おぼえてないのは別学だったからだよ」
「私は検尿が恥ずかしかった。試験紙におしっこをかけて提出する方法だと、ずさんになりがちだからとかって、私の行った中学も高校も、むかしっからのやりかたで、透明な容器におしっこをとって、それを指定された場所に置くことになってたの。みんなトイレに入って、容器を持って、廊下を歩いて、指定された場所に置きに行くわけ──」
わかる? 想像してみて? カズはぼくをじっと見る。
「──十代の多感な少年少女が、自分のおしっこを入れた容器を持って、廊下を歩かなきゃなんないのよ。廊下で、みんなとすれ違うのよ。そのなかには好きな男の子もいるの。好きな女の子もいるの。みんなすっごく恥ずかしかったの」
検尿にかぎらず、十代のときに、恥ずかしくてかっこわるい部分を生活しているときに見せたか見たかで、後年、大きくちがう。そうカズは言った。
「ささいなことだよ。すごくささいなことなんだけど、でも、結婚って生活でしょう? 生活って、ささいなことの積み重ねじゃない? だから、江藤くんと桜子さんはよかったんだよ」
結婚って共学なんだよ。よかったね、新鮮で。ぽん。カズはぼくの肩をたたいた。
190センチのボーイがラムローサではなく、ただの水をぼくのグラスに注ぎにきた。
「Tack」
ヨットハーバーで、そろいの赤いシャツを着た男女がキスをしている。窓から見てもとても濃厚なキスをしているのは、抱き合いかたでわかる。
「あのさ……」
ぼくはカズに訊いた。
「きみ、なんでぼくにチケット送ってきたの?」
「だから、両親が来るはずだったのが……」
「それは聞いたよ。でも、なんでぼくに」
「だって、江藤くん、キド・ホームだもん──」
スクーゲン家具にはキド・ホームのモデルルームから注文がくることもある。取引先会社のひとつ。だからまっさきに江藤くんのことを思い出した──。
カズの明瞭《めいりよう》な答えはぼくを笑わせた。
けっこう自嘲《じちよう》の、クールな笑いのつもりだったのだけれど、ぼくの笑い声は静かなグランド・ホテルにふつりあいに響いた。
「なにがおかしいの?」
「いや……」
がっかりしたよ。あんまりがっかりしておかしい。
ぼくの目にカズが女の子として映らなかったのは、まずはカズの目にぼくが男として映っていなかったからなんだ。
なんでこんなかんたんなこと、いままで気づかなかったんだろう。
密《ひそ》かな気持ちを自分に抱いていると、ぼくはなんでそんないい気になっていられたんだろう。やっぱり別学だったからなのかな。
「おかしいね」
「私、そんなおかしなこと言った?」
「言ってないよ。キド・ホームに入社した甲斐《かい》があったなと思ってさ」
「ふうん」
きょとんとしてカズは首をわずかにまげていた。
*
駐車場へ|ガムラ・スタン(旧市街)を抜けていくことになった。
カズに安いチケットをわたしたという旅行会社の友人が、観光客にあまり知られていないガラス工芸品店まで車に乗せていってくれるらしい。
「ガムラ・スタンを見がてら、歩いて行こうよ」
先に歩くカズのあとを、ぼくと桜子はついていく。
ガムラ・スタンは中世のままに細い路地が入り組んでいる。
湿気のない夏の風が、石を敷いた路地を抜けていく。ドア・ノッカーだろうか、ちりんとどこかで小さな鐘の鳴音が聞こえた。
「このあたり、すてきね。レナが住んでることになってるところだわ」
「レナ?」
「うん。レナっていう主人公の名前が題になったスウェーデン映画。旅行に行く前は、その国の映画を観たり小説を読むほうが、ガイドブックを読むより、もっと肌身で雰囲気を教えてもらえるだろうと思って」
「意外」
「なにが?」
「きみがそんなふうに映画を観たり小説を読んだりすることが」
桜子はいつも、話題になっている映画をぼくといっしょに観たがった。
「だれかといっしょに観るときはそういうもののほうがいいから。ひとりで観る向きなのと、だれかといっしょに観る向きなのとはちがうじゃない?」
「そういう発想をするとは知らなかった」
「そうかな。わたし、高校生のころから旅行前は御当地ものをいつも読んだり観ることにしてたのよ──」
スウェーデン作家の童話や、児童が主人公の映画なら、新作がいくつか翻訳されたり輸入されたりしているが、大人が主人公の、ここ二、三年のうちに作られた映画や小説となると、ひとつしか桜子は見つけられなかったそうである。
「それが、『レナ』?」
「うん。ガムラ・スタンでスウェーデン編みのセーターを売ってる二十九歳の女の人が主人公なの」
やっとひとつみつけた映画の主人公が自分と同い年の設定だったから、わくわくしながらDVDのスイッチを入れたという。
「恋愛もの?」
「どうかなあ。離婚してて、今はフリーの状態で、彼女が編んだセーターが、ひょんなことからいろんな人の手にわたっていって、さいごに自分にもどってくるっていう、オムニバスっぽい形式のコメディふうの風刺劇だった。印象的なセリフがひとつあったわ」
「どんなの?」
「スウェーデン人は全員が離婚する=Bこのセリフのときのレナに悲愴《ひそう》感がぜんぜんなくて、おもしろかった」
「いっしょに観たかったよ。こんなDVD借りたよって教えてくれればよかったのに」
「だって圭一は、旅行のための日をつくってくれようとして、旅行前はぎちぎちのスケジュールだったじゃない」
言われてみればそのとおりで、朝は飛び起きて会社に行って、帰って来るなりバタンキューで二週間を過ごして、やっと成田に向かえたのだ。
「でも、いっしょにストックホルムに来られてよかった」
第一次世界大戦にも第二次世界大戦にも参加しなかったスウェーデンの古い街の石の壁に太陽が反射して、桜子の頬を明るくした。旅行に来てよかったなあとぼくも思う。
「このまま、まっすぐ行くからね。ついてきてね」
カズがふりかえる。OKとぼくたちは答える。
飾り蝋燭《ろうそく》を売る店の戸が開き、英語を話す数人の観光客がかたまって出てきた。カズとぼくたちのあいだを彼らがふさいだとき、ぼくは桜子にいった。
「|Jag《ヤー》 |a[#aの上に‥]lskar《エルスカル》 |dig《デイ》」
たしかこうだった。ちがったっけ。ガイドブックじゃなくて機内誌に載ってた。アイラブユーのスウェーデン語。
「ええ? どうしたの、急に?」
そのページを機内でいっしょになんどか発音してみた桜子はおどろいて、でも、とてもうれしそうだった。
うれしいときにうれしいと、そのまま顔に出せる彼女が、ぼくは好きだ。彼女のそんなところがぼくは好きだ。ぼくにはそれがうまくできないから好きだ。
「結婚って共学なんだよ」
グランド・ホテルでカズに言われたことを受け売りする。
ぼくと桜子は、カズに言わせれば、別学で自宅住まいで、生活している部分を知らずにつきあっていた。結婚して、生活の部分でたがいを見るってことに慣れてなかった。慣れてないんだもの、そりゃ、疑問符もただようさ。
「キョーガク? それはなんだったっけ? 発車ベルが鳴るとかいうときの、鳴るだったっけ?」
キョーガクというスウェーデン語だと桜子は思ったらしい。
「ホテルに帰ったら説明するよ」
ぼくは桜子を観光案内するわけじゃないんだ。
妻とならんで歩くよ。
ならんで歩こう。女性としての妻の話を、これから先、長くつづく生活のなかでずっと聞こう。ぼくも彼女に語ろう。こどもができたらその子とも。
「ええ。日本に帰ったら、『レナ』をもういっかい借りてきていっしょに観ようね」
「うん。観よう」
ぼくと桜子は手をつないだ。ぼくたちの前方で、シャンパン色の髪をした2メートルの大男がカズの頬にキスをして、こちらに手をふった。
〈本文中の歌詞〉
『花の首飾り』(作詞:菅原房子/補作詞:なかにし礼)
角川文庫『蕎麦屋の恋』平成16年9月25日初版発行