TITLE : 変奏曲
変奏曲
姫野カオルコ
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角川e文庫
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目 次
桜の章
ライラックの章
柘《ざく》榴《ろ》の章
羊《し》歯《だ》の章
文庫本あとがき
季節のめぐりて
時すぎゆくとも
変はることなき永《と》遠《は》のしらべ
彼(かのと)は母
彼女(かのひと)は父
見よ
月失ひし太陽 虚ろに白日つくるを
太陽失ひし月 夜の闇に吠えるを
あまりの
輝きに
ふたつが共に空にあることを
禁じられしその日より
桜の章 花言葉=あなたに微《ほほ》笑《え》む
ひどく桜の降る日であった。
一九九二年、四月。
土曜。午後三時。
公園の、平らになったところには花見客が大勢いてにぎやかだが、洋子と勝彦が歩いているところは傾斜が急でひとがいない。
はじめて来る町のはじめて来る公園だった。桜が風に吹かれ、はらはらと額や唇に触れてくる。
「すごいな。桜吹雪だ。結婚式の予行演習みたいだね」
洋子と勝彦は婚約していた。仲人の家を訪ねた帰りに、ふと近所を散歩してみたのだ。
「そうね」
散ってゆく桜にはどことなく不吉さを感じていたが、洋子は勝彦のことばを否定しなかった。
「式ではやっぱり、例のキャンドルサービスなんてやつをやる?」
見合いしたのは三ヵ月前。見合いしてすぐに結婚が決まった。式は四ヵ月先である。
「勝彦さんの好きなほうで」
さっきから身体がだるい。さっき、公園に来る途中で不意に息苦しい感覚に襲われ全身が重くなっている。
「ぼくの好きなほう、って……。ぼくときみの結婚式なんだから」
勝彦の顔にいくぶんか訝《いぶか》しむものが現れた。洋子はごく軽く咳《せき》払いをし、
「式は私たちのことというより、親戚や世間に対しての儀式だから、勝彦さんのお家の方の趣味に合うのがいいと思ったの」
声のトーンを上げて言った。
洋子の声は女声としては低い。意識的にトーンを上げると、おだやかで明るい印象を聞く者に与える。
しごく単純で簡単な操作だ。
これだけのことで相手はおだやかで明るいという判断を下してくれるのだ。単純で簡単な判断を。
「儀式なんですもの。できるだけ問題がないようにするほうがいいと思ったの」
「ああ、そうだな。そうかもしれない」
勝彦の表情もおだやかなものにもどった。
「だけど、きみ、それでいいの?」
急な勾《こう》配《ばい》を下るために両手でバランスをとるふうにしてから、勝彦はつづける。
「結婚式には当然、希望がたくさんあっただろう?」
「希望って?」
「だって女性の晴れ舞台だろう? 結婚式って」
「晴れ舞台……」
結婚式。
勝彦との結婚式。
その日のことを想像してみた。
「そうね……」
洋子の語尾は窄《すぼ》んだ。なぜだろう。いかなる映像も頭に浮かばない。
「お義《か》母《あ》さまの趣味にまかせるのがいいと思います。私はそれに従います」
「へえ。わりと従順なんだな。お勤め柄、さぞかし注文をつけると思ってたのに。美術的観点からどうのこうの、とかさ」
洋子は大きな画材店に勤めていた。
「勤め柄なんて……。そりゃ、お店に来るお客さんにそういうひとは多いかもしれないけれども」
「ふうん。でも、女の子って、小さいころから憧れてるらしいじゃない、結婚式に。ウエディングドレスのデザインがどうだとかブーケがどうだとか、教会はどこだとか」
勝彦に言われ、洋子は子供のころにぬりえを持っていたことを思い出した。いま思うと、それは日本製のものではなかった。頭の大きな眼のぱっちりした少女ではなく、八頭身の成熟した女性の絵のぬりえである。表紙には何か外国の文字が記されていた。
デパートから買い物をして帰るところの女性、オープンルーフの車を運転する女性、鏡の前で化粧する女性、タイプライターを打つ女性……。ページごとに八頭身の女性がいろいろなことをしている。どのページもかなり複雑な構図であり、洋子は彩色するのが楽しみだった。
それが、あるページだけをとばした。結婚式のページである。白色が大半をしめる絵に仕上げねばならぬのがひどく疲れる作業に思われた。
「きみの友だちはたくさん呼んでくれていいよ」
洋子が黙っていると勝彦は話をつづけた。
「新婦の友人というとたいてい着飾った女性がずらりとならぶだろう、華やかになっていいよ」
「でも、学校を卒業してすぐ、という結婚じゃないからそう多くは……」
洋子は二十七歳。勝彦は二十九。四年制大学卒業の新婦と新郎の組み合わせとしては平均的な年齢ではある。
「私の友人よりも勝彦さんのお家でつきあいのあるひとを多く呼んだほうがいいわ」
勝彦は会計士だった。勝彦の父親もそうである。伯父が医者。係累の多くはその総合病院となんらかのかたちで繋《つな》がる仕事に就《つ》いている。
洋子の家は親戚づきあいをほとんどしないが、勝彦の家はそうではない。親戚のほとんどが都内に住んでおり、ひとつの大きな家族のようにさかんに行き来がある。
「じゃ、リストアップはうちのほうにまかせてくれるかな」
「ええ」
「あのさわがしい従《い》姉《と》妹《こ》どもも来るんだろうな。女子大に行ってるあの三人組。着物をわざわざ作らせたとか言ってはしゃいでいた」
「華やかになっていいわ」
「華やかを通りこして、うるさいんだ、あいつらは」
乱暴なことばづかいに、親しみの情が感じられた。
「姉貴と、それから兄貴の嫁さん、これがあいつらに交じるともっとすごいんだぜ。くだらないことを大声で言っていっせいに笑う」
勝彦は自分のこともここまで気さくに他人に話してくれるのだろうか。
「女三人で姦《かしま》しいんだから五人もそろったらうるさいのなんのって。それにときどき、お袋まで交じることがあるからなあ」
計六人の女が集まったようすを、勝彦は歩きながら話した。
「よせばいいのに親父とか兄貴が、またちょっかい出すんだ」
眼の前に張り出している桜の枝から花をひとつだけ摘む。それで顎《あご》をくすぐるようにくるくるとまわした。
勝彦をまねて、洋子も桜の花を摘んでまわした。勝彦が家族の話をするのを聞いているのは好きである。そんなときの彼はきらきらするものを見せてくれているようだった。
「法事なんて、もう、祭りだよ。祭り」
「たのしそう」
そしてそのくせ、きらきらしたものを見せてもらった後、洋子はいつもわけのわからない焦りを感じた。
そんなわけのわからない気分を洋子はひとりでは処理しかねた。誰かに助けてもらいたくなる。だが、いったい誰の助けを借りればいいのかわからなかった。
結婚をよろこんでいる父母には話せない。むろん勝彦には話せない。
友人には話しかけたことがある。来《きた》る結婚生活に対して誰もが持つ不安だと言われた。そうなのだ、と洋子も思うようにしていた。
(きっと、さっきから身体がだるいのもそのせいなんだわ)
自分で自分に懸命に言い聞かせた。
「とにかくあいつらはうるさいよ。きみの家は三人だったから静かだったろうけど。それに何といってもお家柄もあるし」
「家柄なんて……」
洋子の家の血縁者の誰かが、かつて爵位を持っていた、らしい。
「父は平凡な会社員で母も平凡な主婦よ。小さなマンション暮らしのね。家柄なんてそんなもの……」
「そんなことないよ。挨拶に伺《うかが》ったとき見せてもらった、ほら、あのきれいな水晶細工の――」
勝彦との縁談が決まったとき、両親は〈家宝〉だと言って勝彦に水晶の古いペンダントを見せている。梟《ふくろう》のかたちをした小さなペンダントで、ルネ・ラリックのデザインによる、らしい。
「――あれ、アールヌーヴォーの時代のペンダントだって? さすがは郷《ごう》戸《ど》子爵家の末《まつ》裔《えい》だと感心したよ」
「らしい、っていうだけなのよ。ほんとうのところは誰も知らないことなのよ。ルネ・ラリックをまねた偽物かもしれないわ」
洋子は身体の向きを変え、通りのほうへと歩いていった。勝彦も横にならんだ。
洋子は梟のペンダントが嫌いだった。いや、嫌いというよりも、悲しい、という感情に近い。古びた金属。じっと自分を見ているような梟。その鳥の特性である、ほー、ほー、という鳴き声が内《ない》耳《じ》に響いてくるような気がし、そして鳴き声は泣き声のようである。
洋子はペンダントを見ないようにしていた。感傷的になる自分に苛《いら》立《だ》つために。
いやな梟だわ、と洋子は言った。
きれいじゃないか、と勝彦は言った。
それで、洋子は話すのをやめた。身体がだるくてしかたがなかった。白日なのに梟の声が遠くでするような息苦しさが全身を包んでいる。
(来る結婚生活に対する不安なのだ)
また懸命に洋子は自分に言い聞かせた。だが、梟の声が耳から離れない。
洋子は立ち止まった。
「どうしたの? きみ、さっき公園に来る前にもここで立ち止まったね」
立派な門がまえの家の前だったからよくおぼえている、と勝彦は言った。
「結婚生活をこんな家で送れたらなんて思ってるの?」
「いいえ」
勝彦のほうは見ずに洋子は答えた。視線は家のほうにだけ向いている。
(この家の前を通ってからだわ……。息苦しくなったのは……)
何か重要なことを思い出そうとするのに思い出せない。そんな息苦しさ。
「そんなにこの家が気に入った?」
勝彦も家を眺めた。
「この家、古い家ね」
時が黒ずみを与え、雨風が欠損をもたらしているものの、小規模ながらファサードはコリント式の石柱である。
「玄関だけはね。それ以外は建て直してあるよ。窓だってサッシだし、壁だって新しい建材じゃないのかな」
「でも……離れは古いまま残ってるわ」
「離れ? どうしてこの家に離れがあることなんかわかるの?」
「えっ」
洋子は肩をこわばらせた。
「……どうしてわかるの……?」
「いやだなあ。きみが言ったんじゃないか」
「……」
洋子は息苦しさが増すのを感じた。ほー、ほーと梟が耳の中で鳴いている。
「……離れはあっちだわ」
広い通りを逸《そ》れて細い通りへと曲がる。
「どこへ行くの」
勝彦が洋子を追い、洋子はどんどん歩いて行った。プレハブ住宅。プレハブ住宅。プレハブ住宅。プレハブ住宅。そして、小路は行き止まりになる。
行き止まりになったところは、古い塀が一部壊れ、手入れをしていない庭のある家であった。
「ほら、やっぱり離れがあったじゃない」
洋子は指さした。
「だって、ここは別の家だろう」
「ちがうわ。年月とともに切り売りされていって何軒かの家になってるけれど、昔は、ここ一帯が一軒の家だったのよ。そしてここがちょうど離れだったのよ」
「そりゃあね、戦後、大きな敷地の家が切り売りされていったってことは考えられるよ。けれどここが元の家の離れだったとまでは断言できないだろう?」
「八角形の家を母屋にする?」
「八角形?」
勝彦は塀の崩れたあたりで爪先立ちをして内部を覗《のぞ》いた。
「八角形じゃないよ。ここからじゃ全体のかたちはよく見えないけど……そんな突飛な設計の家じゃないよ」
勝彦は洋子の服の袖を引き、
「もう行こうよ。不審に思われるよ」
広い通りへとうながした。
「いったいどうしたっていうの? へんだよ」
袖を引きながらはやく歩く。
「ごめんなさい。自分でもよくわからないの……ドーム屋根の八角形の離れがあるような気がして……」
洋子はてのひらをぎゅっと閉じ、開いた。開いて、閉じた。水晶の梟をにぎりしめたときの感触をてのひらに思い出している。
勝彦は訝《いぶか》しそうに彼女を見ている。
「……どうしたのかしら。なんだか、前にそんな景色を見た気がしたの……」
「古い家だからさ、なんとなくノスタルジーをかきたてられたんだよ。それとも、どこかで似たような設計の家の写真でも見たんじゃないの?」
「そうね。きっとそうだわ。そうよね」
洋子は勝彦とならんで歩いた。息苦しいくせに、むしょうに水晶の梟をにぎりしめたかった。
*
こぢんまりとしたレストランである。
テラスのそばの、いい席だった。勝彦は洋子の向かいの席でメニュー表を繰っていた。
「歩いたから腹へったな。何にしようか」
洋子のほうはあまり空腹をおぼえない。あの家のことが頭から離れないのだ。
(現在は八角形ではないけれど、きっと最初に八角形の部屋があったはずだわ。その部屋の壁の何面かが、古くなって壊れたのか、それとも改装するために壊したのか、とにかく壊されて、部屋を継ぎ足して現在のかたちの家にしたのよ……)
(でも、どうして? どうして、私、あの家を知っているのかしら?)
(ずっと幼いころにあのあたりを通りかかったことがあるのかも……。いいえ、仮にそうだったとしても、なぜ、あの家と水晶の梟とが結びつくのかしら……)
表皮が硬くなって外界の音を遮断しているようだった。
と、洋子は勝彦に名前を呼ばれてはっと彼を見た。
「おい、しっかりしてくれよ。ほら、潤子さんだよ」
勝彦の横には潤子が立っていた。
「え、ええ」
「いやだわ、洋子ったら、ぼんやりしてどうしたの?」
潤子も偶然このレストランでひとと待ち合わせをしていたが先方から急に来られなくなったとの電話が入り、帰ろうとしたところに洋子と勝彦のすがたを見つけたのだと言った。
潤子は洋子の大学時代の友人である。勝彦も交えて何度か会ったこともある。そんな関係である。
「そうだよ。何度呼んでもぼうっとして」
言いながら、勝彦は潤子に椅《い》子《す》を勧めた。
「あら、でもせっかくのデートなのに悪いわ」
潤子のしなやかな首がしなやかに揺らいだ。
「いいのよ。どうぞ。いっしょにごはんを食べましょうよ」
洋子は声のトーンを上げて言った。潤子にいっしょにいてもらいたかった。
「ぜひ、いっしょに。そのほうが楽しいわ」
言ってからびくっとして勝彦の顔を伺った。自分の発言はあきらかに勝彦とふたりでいることを好まぬ心理から出たものである。彼が気を悪くしなかったか、顔色を伺った。
「そうですよ。どうぞ、どうぞ。ぼく、潤子さんのファンだから」
勝彦は気にとめていないようなので洋子は安《あん》堵《ど》した。
「じゃあ、ごいっしょさせていただくわ」
潤子が洋子の隣の席につく。潤子のぶんの食器がならべられ、三人ぶんの料理が運ばれてくる。
「ここ、落ちついたいい店よね。勝彦さんが潤子に教えてあげたの?」
「ええ、ぼくの気に入りなんですよ」
「音楽も静かでいいわ。このバイオリンの曲、わたし、とても好きなの」
「へえ、いまかかってる曲?」
「たしか『愛のかなしみ』という題だったと思うわ、クライスラーの」
潤子が勝彦に言ったとき、
「もうすぐ来日する」
洋子は低く断言した。
「来日? 誰が?」
「クライスラー」
洋子が言うと、ふたりは笑った。
「何言ってるのよ。クライスラーはもうとっくに死んでるわ」
「……そうだったわ……」
洋子は自分でもなぜ、そんなことを言ったのかわからない。
「潤子さん、このひと、夕方からなんだかへんなんですよ。仲人さんのところに行ったときはいつもの彼女だったんだけど、夕方から急にぼんやりして」
「ウエディング・ブルーよ、きっと。花嫁ってむしょうに不安になるのよ。わたしもそうだったわ」
「不安?」
潤子のことばを洋子は問い直した。数人の友人も言った似たようなことばを。
「そう、不安。結婚式が近づくといままで夢のようだった結婚が現実のものとして迫ってくるでしょう。結婚生活が鮮明に見えてきて不安になるのよ」
ちがう。洋子は思った。何も見えないのだ。これから勝彦とともにする生活のビジョンがまったく見えてこないのだ。
ビジョンどころか明度さえもわからない。暗さも明るさもない。
「いやあ、潤子さんのように繊細なタイプならそうだろうけど、このひとみたいなタイプでもそんなことがあるのかなあ」
〈しっかりしている〉
見合いのあとで、勝彦は洋子を評した。洋子が学生時代に弓道部だったことを、彼も彼の家族もことのほか気に入っていた。
〈洋子ちゃんならしっかりしたいい奥さんになれるわ〉
縁談を持ってきた仲人が言った。
〈愛だ恋だっていうけれどね、結婚なんてそんなもんじゃないのよ。結婚してからだんだんとなじんでゆくものなのよ〉
彼女はそうもつづけた。
〈もうわたしたちは年だから〉
両親が言った。
二十七歳。勧められるままに結婚を承諾した。
向かいの席で白身魚のムニエルを食べている男がこれから夫になる人間である。オレンジ色をしたソースが彼の唇を濡らしている。
ソースに濡れた唇が蠢《うごめ》く。咀《そ》嚼《しやく》されオレンジのソースと混じり合ったであろう白身魚が、彼の喉《のど》を通過してゆく。喉の突起がぐぐ、と上下した。
「潤子さんのご主人、そんなに出張ばっかりじゃ困ったもんだな」
彼の唇が洋子のほうを向いて開いた。
「ええ、出張ばっかりじゃね」
洋子は抑揚なく復唱した。
「こんな美人妻が寂しいことだ」
彼の唇がさらに大きく開いた。前歯の左中央、右二番、三番が差し歯である。
「ええ、寂しいこと」
洋子は復唱した。
彼の差し歯のまわりは歯茎がいくぶん紫色がかっている。
彼は白身魚をふたたび食べはじめた。フォークが大きな切り身を突き刺しており、それが彼の口の中に入り、唇の端からオレンジ色のソースがわずかに垂れた。
洋子は眼球を移動させ、潤子の手を見た。しなやかな可憐な手がナイフをにぎり、海老フライを切っている。
「ねえ、食べないの?」
潤子が言った。
「食べるわ」
洋子は牛肉を裂きはじめた。黒みがかった血色の汁が肉から白い皿へと流れた。
「Granatapfel《ざ く ろ》」
唐突にそのことばが洋子の口から発せられた。
「え、何?」
向かいの席の男と隣の女が洋子に訊《き》いた。洋子の両手がだらりとテーブルから離れ、ナイフとフォークが床に落ちた。
向かいの席の男が舌打ちをするのが聞こえた。給仕が近づいてくる靴の音が聞こえた。洋子は手をだらりとさせたままじっとしていた。
「どうしたの? 貧血?」
「まさか、そんな弱々しいひとじゃないだろう。弓道していたような気丈夫な女性が」
「食べずにワインばかりを飲んでいたからまわったんじゃないの?」
「手がすべったのを照れてる」
「なんだか、今日はへんよ、やっぱり」
「テラスで風に当たってきたら?」
向かいの席の男と隣の女の口がしきりに動く。ふたりは洋子の肩を揺すぶった。
「こちらへ」
給仕が洋子の身体を押すようにしてテラスへ導いた。
テラスの椅子にすわる。給仕がブランケットをかける。
洋子の周囲は薄暗い。硝《ガラ》子《ス》を何かの植物の葉が擦《こす》っている。硝子越しにクライスラーのバイオリンが聞こえてくる。
頭を椅子の肘《ひじ》かけに乗せ、洋子はゆっくりゆっくり呼吸していた。ブランケットをかけられゆっくり呼吸する自分のすがた。自分のすがたを自分で眺めているような心地がする。
〓“ der Granatapfel 〓”
正確なドイツ語の発音が鮮明に聞こえた。
〓“ die samtartig Nacht, der Granatapfel.(ビロードの夜、柘《ざく》榴《ろ》の実)〓”
〓“ Ein Granatapfel soll am 撹nlichsten schmecken wie das Menschenfleisch.(柘榴の実は人間の肉にもっとも近いということらしいのですよ)〓”
〓“ Tret mal nun den Hebel,YoKo ! (さあ、自転車を漕《こ》いで、ヨーコ)〓”
まぶしい。私は微笑んでいる。時計のある高い聖堂。幸せ。まぶしい。
洋子は幸福なまぶしさのために額に手をかざした。すると、自分が目《ま》蓋《ぶた》を閉じていることに気づいた。
目蓋を開ける。周囲は薄暗い。
(ほんとうに、どうかしてるわ、私。疲れたのかしら)
洋子は椅子から立ち上がり、ブランケットをたたんだ。テラスのわきにらせん階段があり、階段はレストランの中二階につづいているらしい。
ふと、らせん階段をのぼってみたくなった。中二階にオフィスがあるのならブランケットを返そうとも思った。
中二階。そこは、ちょうどオペラ劇場の桟敷のように一階の上部に張り出しており、手すりから下を見るとメインフロアで食事をしている客の頭がいくつも見える。
潤子と勝彦も見えた。
ふたりはたのしそうに食事をしていた。
(よかった……)
自分がぼんやりしていることで場の雰囲気をこわしてしまったのではないかと気がかりだったので、洋子は安堵した。
安堵はすぐにぎこちなさに変化した。
(ふたりがたのしそうにしているのを見て、なぜ私は寂しくないのだろう?)
洋子はもう一度、潤子と勝彦を見下ろした。
勝彦が潤子にワインを注いでいる。潤子の可憐な手がワイングラスに添えられている。ふたりは自分の向こう側にあるきれいな世界に住んでいるようだと、洋子は感じた。
(もし、潤子がまだ結婚していなくて、そして、お見合いした相手が彼女だったら、勝彦さんは、いまよりももっとよろこんで結婚を承諾しただろうに)
そう思った。寂しさなど微塵もなくそう思った。寂しくないことが忌まわしい。
手すりから離れ、洋子は中二階にひとつだけあるドアの前に立った。オフィスであるという表示はない。
「何かご用ですか?」
背後からタキシードを着た店員が声をかけてきた。
「あの、さきほど……すこし気分が悪くなったものですからブランケットを貸していただいて、それをお返ししようと思って」
「ああ、じゃ、わたしが受け取っておきますよ」
店員はドアを開けながら、
「ご気分はもうよろしいんですか? なんでしたらこの部屋で」
洋子を部屋に通した。
蛍光灯がぱっと明るく洋子の顔を照らす。
「いいえ、もう大丈夫です。どうもありがとうございました」
そこはオフィス兼応接室といった部屋で、洋子はブランケットをソファに置いて辞儀をした。
「あれ」
店員はブランケットには気をとめず、洋子の顔を見つめた。
「お客さん、お連れの方は……」
「連れ? まだ下にいますけれど」
洋子は念のため部屋を出ると、手すりから勝彦と潤子のすがたを確認した。店員も洋子を追って、
「そうですよね、たしか、あのテラス側の、あのおふたりがお連れさまですよね」
と言い、また、洋子の顔を見つめた。
「うちの店長のとこにさっき来た、あの男のひととはお知り合いじゃないですよね」
「男のひと? なんのことでしょう?」
「あ、いや……。うちの店長の知り合いがさっきいらしててね、いましがたまでこの部屋にいらしたんですよ、そのひとが、お客さんにとても顔がよく似てて……」
「顔が似てる?」
「え、ええ。この廊下は薄暗いから最初は気づかなかったんですけど、明るいとこで見たら似てるんで驚いたんです」
「そうですか。店長さんのお知り合いというと年配の方ですか?」
「いやあ、お客さんと同じくらいですよ。だから似てるんですよ」
店員の眼が洋子に向き、それから、くるりと手すりの方向を向いた。
「あ、ほら。あのひと、あのひとですよ」
店員は店の入り口あたりを指さした。
「あそこで、ほら、店長と話しているひと」
店員の指が示すところには、たしかに男性がふたり立っている。ひとりはタキシード。ひとりは白いシャツにジーンズ。タキシードのほうが店長だろう。
店長の背丈からすると「彼」は長身のようだが洋子の位置からは顔まではよく見えない。
店長が客席のほうへ行く。「彼」はドアのノブに手をかける。
いったん開けたドアを彼は閉めた。
振り返る。
こちらを見上げた。
洋子の横にいる店員を見たのだろうか。わからない。
彼は微笑した。
「ほら、そっくりでしょう」
店員が洋子に言ったときには、彼はもう店から出ていた。
「そう、かな……。一瞬だったから……」
「まあ、似てる、って言われたって、あんまり自分の顔のことはね」
「何をしている方なんです?」
「さあ。店長の伯父さんか誰かの古い知り合いの息子さんだとかって……わたしはよく知らないんですよ。もっとも店長もよく知らないみたいですよ」
店員は時計を見やり、
「どうも、つまらないことでお引き止めしてしまって。じゃ」
階段を下りて行った。
店員とすれちがい、潤子がのぼってくる。
「洋子、大丈夫? テラスにいるものだと思ったのに」
「平気よ。べつに具合が悪いというわけではなかったの、なんだか……」
「いいのよ。それより、勝彦さんがべつな店に行こうか、って」
「あら、いいんじゃない? 行ってらっしゃいよ。私なら大丈夫だからひとりで帰るわ」
「ちょっと……」
潤子は奇妙な顔をした。
「なぜ、わたしが勝彦さんといっしょに行かなくてはならないの?」
「どうして? せっかくだから行けばいいのに」
「ごめんなさい。わたしが悪かったわね」
潤子はあやまった。あやまる潤子に洋子はとまどった。
「やっぱり同席するんじゃなかったわ。思慮が足りなかった」
「そんなことないわ。私、潤子にいてほしかったの。ほんとうにいっしょにいてほしかったの。だって、私、あの人と話すことが何もないの」
そう、何もないのだ。
話すことも、将来の計画も、希望も、そして親愛も。何もないために、勝彦との結婚生活の映像が何も見えてこないのだ。
「この結婚、きっとミスキャストだわ」
この結婚はまちがいだ、と、洋子ははっきりと思った。
「そんな……。ごめんなさい。わたしのせいだわ。洋子にそんな寂しい思いをさせてしまったなんて」
「すこしも寂しくないの。だからまちがってるのよ」
おだやかに、洋子は言った。
「……洋子」
潤子は心配そうに顔を覗《のぞ》きこんでくる。
「あなたのせいじゃないのよ。私がまちがってたの」
洋子は潤子の手をとった。しなやかな可愛らしい手である。
「あなたはとても可憐な人だわ」
洋子は心から言った。
*
「今日のきみ、どうかしてたよ」
帰りの車の中で、勝彦は言った。
「潤子さん、きみのこと心配してたよ。あわてて帰ってしまったけど」
「心配させてしまって悪かったわ。あとでよくあやまっておきます」
「そうしておいたほうがいいよ。ナイーブで傷つきやすそうなひとだから」
勝彦はすこし道路の具合を見ると、車をわきに逸らせた。もう、洋子の自宅が近い場所である。
「ぼくも悪かったね。きみを放っておいて潤子さんと話し込んでしまったから」
勝彦は車を止め、洋子の手をにぎった。洋子はさっと手を引いた。
勝彦とは肉体的な接触が何もない。手をにぎられたのははじめてである。すべては結婚してからだと、お互いにとりきめていたようなふしがあった。
「勝彦さん、私、今日、考えたの」
「何を?」
「あなたとセックスできるかしら」
「……そういうこと、女が口にすることじゃないだろ」
勝彦は露骨に不愉快さを示した。
「結婚は社会的なものだ。だから訊《き》かないでおくつもりだったけれど、きみが、今日、エキセントリックになっているのはあの男のせいじゃないのか?」
「あの男?」
「食事した店で、きみと見つめ合っていた男だよ、背の高い」
勝彦の息には煙草の脂《やに》の匂いが混じっている。
「あの男があの店に来ることを、きみは知っていたんじゃないのか? だから、夕方から落ちつかなかった。ちがう?」
「あのひとは――」
洋子は、いったん語尾を窄《すぼ》ませてから、
「――知らないひとよ」
と、ただひとこと言った。
「ふうん。知らないひとね。知らない男にきみはあんなふうに視線を投げかけたわけか」
「それは――」
説明しかけて、洋子はやめた。説明しても無駄だ。無駄だということを自分はとうに気づいていたはずだ。洋子は薬指から指輪を抜き、勝彦に渡した。勝彦は舌を打った。
「まったく……。なんでこういうことになるの? 短絡的だと思わないか」
「いいえ。この結婚、まちがってるわ。いまならまだ間に合うわ。案内状だってまだ出していないし」
勝彦はため息をついてから、指輪をポケットにしまった。
「とりあえずこれは預かっておくよ。今日はもう話すのはやめよう」
「明日もあさっても、きっと私たち、話なんてできないと思うわ」
洋子は車から出た。
勝彦は車窓を開けて訊いた。
「きみは、あの男のほうが好きなのか?」
「勝彦さん、あのひとはね……」
洋子は勝彦に静かに微笑んだ。
「知らないひとよ」
ライラックの章 花言葉=若き日の思い出
病んだときの口内のように部屋の中が重い。
一九二三年、六月。
「あの花のせいだ」
振り返り、高志は棚の上の花瓶を見た。
花《か》樹《じゆ》の枝を切ったものが、花瓶からあふれるくらいたくさん生けてある。
葉の茂る枝の先に紫色の小さな花が咲いている。花のひとつひとつは極《ご》く小さい。先が四片に割れた筒状で、それらがぎっしりと枝の先に群がって香りを放っているのである。きれいな香り、と、たしかに表現できたが、明るいのびのびとした香りではない。悪事をそそのかしにくるような重い濃密な香りだ。
多くを生けすぎたせいでもあるだろうが、花の形状と同様に、香りまでが部屋中にぎっしりと充満している気になる。
頼みもしないのに勝手に花を生けた女中に対し少々腹立たしさをおぼえながら、高志は窓を開けた。
部屋は二階である。
窓の下で、車がゆっくり動きはじめ、門番係の男があわてて門のほうへ走ってゆくのが見えた。
窓ぎわにじっと立ったまま、高志は、つぎに自分の視界に現れるであろうものを待ち構える。
はたして、くすんだ風景の中にぱっと白い光が射す。それは、玄関から飛び出してきた洋子の服の色であった。
洋子と高志は双子の姉弟である。
足元にまとわりついてじゃれてくる甲《か》斐《い》犬《けん》を諭しながら、洋子は車へと向かう。
やあ、どこへ行くの、姉さん。と、洋子に声をかけるべきかどうか、高志は迷った。迷ったまま、洋子のすがたを眼で追う。
短く断髪にした頭が高志の下で動いていた。多少ユーモラスにちょこちょことよく動く。
パラソルが開き、閉じ、また開き、閉じる。
それを持っていくべきかどうか、たぶん洋子は運転手か誰かに訊《き》いているのだろう。若い女性がそういったことで真剣に迷うものだということを、高志は洋子が、この郷戸の屋敷にもどってから学んだ。
パラソルだけではない。靴、ハンカチーフ、馬で遠乗りをする際の帽子なども洋子を迷わせる品である。それに、劇場で出会った同い年の娘がどんなハンドバッグを、扇を持っていたかも、洋子には真剣な興味らしい。
事情あって、高志と洋子は長いあいだ別々に暮らしていた。
屋敷にもどってからの洋子は、高志にとって、血が繋《つな》がっているにもかかわらず、見知らぬ生物だった。
パラソルは持っていかないことにしたようである。女中に渡している。
運転手が車のドアを開けた。
高志の顔が硬くなった。
洋子が急に上を見上げたのである。
「勝彦さんと活動を見にゆくのよ。『ドクトル・マブゼ』。高志も来ればいいのに」
大きな声で洋子が言った。
勝彦、とは洋子のフィアンセである。式の日取りも確定したフィアンセの存在が、ほかの娘たちより自由な遊び時間を洋子に与えていた。
「で、でも、ぼくは読まなくてはいけない本があって……」
なぜ硬い顔をするのだろう。自分で自分にとまどって、高志は小さく口ごもった。
「え? なあに? 聞こえないわ」
洋子が耳に手をあてる。
「勉強してるところだから」
大きな声で言い返すと、洋子はけたたましいくらいに笑った。あまり笑いつづけているので、運転手が何か言いながら、彼女を押すようにして車に入らせる。
高志にはなぜ笑われるのかわからなかったが、車窓から顔を出して洋子が投げたことばでなんとなく理由を知った。
「しっかりお勉強していい子になるのよ、高志」
洋子を乗せた車が消えたあとも、高志はそのまま窓ぎわに立っていた。アルトに属する声をいつまでも内耳にして。
「姉さん……」
姉。それは、しみじみと実感があって、そのくせ実感がまったくないようなことばである。姉弟でありながら、十歳から十九歳になるまで、ふたりは別々に暮らしていた。
その理由は、ふたりが双子であることに因《よ》る。
――郷戸家には古い言い伝えがあった。
『当家は過去よりときに双子が生まれる家系である。同性の双子の場合問題はないが、男女の双子の場合は必ず災いがもたらされる』
よって、嫡男である高志のほうを残して、洋子のほうは、十歳になるのを待って里子に出すことになった。
といっても、ふたりの父親である郷戸子爵にも、このような言い伝えは迷信だという思いがあり、里子に出した先は、郷戸夫人、すなわちふたりの母親の実家である。
それは四谷にあり、高輪の郷戸家からひどく遠い場所ではなかった。また、夫人の姉、すなわち洋子の養母となる伯母は、下田歌子女史に師事した謹厳な教育家であったので、華族令嬢としての作法をしつけるのに役立つという考えもあった。
母娘が別居させられたにはちがいなかったが、郷戸夫人は高輪と四谷を頻繁に行き来できた。洋子も、子供特有の環境になじむ能力のためか、彼女生来の能力なのか、すぐに伯母の家での生活に慣れた。
学習院の中等部に上がるまでは、高志も母といっしょにときどき洋子に会いに行ったものだ。寂しがってはおらずとも、洋子も高志の訪問をよろこんでくれた。
が、そのうちには、高志は学業やらスポーツやら同級生とのつきあいやらに熱心になり、洋子のほうでもそれは同様で、ふたりは疎遠になった。
女子学習院高等科在学中に洋子の縁談が決定。同時にドイツへ留学することにもなった。
かつて岩《いわ》倉《くら》具《とも》視《み》一行に従って外遊したことのある子爵のもとにきた留学の話は、最初は高志へのものであった。しかし、そのとき、高志は東京帝国大学の入学試験を控えており、子爵は代わりに洋子をドイツへやったのである。
洋子はずっとバイオリンを習っていたので、子爵としてはそれに箔《はく》をつけさせたい気があった。長くそばにおいてやれなかった娘へ豪華な花嫁道具を買ってやったのだという気も。
留学を終えてから洋子はようやく郷戸の屋敷にもどった。
嫁ぐ身なれば挙式までのあいだはせめて実家でいっしょにすごしたいという母親の願いだった。そしてまた、挙式も彼女の願いでずいぶんと延期されていた――。
「九月、十月、……六月」
高志は洋子がドイツから帰ってからの月日を数えた。
「いっしょに住んで十ヵ月あまりか」
最初、高志は洋子と暮らすことがどことなく不安だった。が、弟が不安がるまでもなく、姉との生活は順調にいった。
四谷の屋敷にもすぐなじみ、あの、謹厳なことで親族中に有名な伯母にもすぐにうちとけ、異国へも臆《おく》することなく行った洋子は、表情豊かな快活な姉であった。
「はやいな……」
ひとりごちて高志は両側に開いた窓を片方だけ閉じた。
読みかけていた法律学の本にふたたび向かったがすぐにやめ、部屋を出て階段を下りた。
階段の踊り場。
ここの壁には直径五十センチばかりの円形の鏡がかけてある。
天窓から入ってくる鈍い光の下、高志は鏡に自分を映した。白い開襟シャツを着た胸像が鏡の中にいた。
中等科のころより槍《やり》投げと水泳をよくした。毎夏、避暑地には行かず同級生と海に行っていた。そのせいか、梅雨前なのに、胸像の首や頬は黒く、眼の白い部分が鈍い光でへんなふうに目立つ。耳も黒く焼けているが、ほんのすこし髪に隠れている。
〈おい、郷戸、おまえはハイカラな髪形をしているな〉
同級生の佐々木暎二にからかわれたことのあるその刈り方は、洋子が床屋に指示したものである。それまではごく平凡な刈り方をしていた。
〈その髪形、やぼったいわ〉
洋子は言い、紙に高志の絵をクロッキーで描《か》き、
〈いい? 今度、髪を切るときはこういうふうにしてもらいなさい〉
と、教えてきた。
ドイツから戻ってきて、洋子はバイオリンよりも絵を習いはじめ、紙に描かれた自分はひじょうな美男子に見えた。
〈へえ、姉さん、絵、うまいんだね〉
〈バイオリンよりはずっと向いていると思うわ〉
洋子は自分も床屋にいっしょについていってやるから、つぎに髪を切るときにはこうしろと熱心に勧めた。姉の命令はきくものだ、とまで言った。
〈そんなに言うならこういうふうにしてもらうよ〉
弟は姉の命令に従った。
男の高志は、髪形のことなどそう考えたことがなく、絵に描かれた髪形はそれまでの刈り方とたいして変わりがないようにしか想像がつかなかった。事実、長さとしてはさしたる変わりはなかった。
せいぜい襟《えり》足《あし》の上あたりが、それまでバリカンで刈り上げてあったものを鋏《はさみ》で細かく刈り込んだくらいである。ただ、鬢《びん》の部分が決定的にちがった。ふつうなら耳を囲むように刈るところを、耳の上部三分の一あたりでそろえてすぱっとはすかいに刈る。それだけのことなのにずいぶんシャープな印象になった。
〈洋行帰りの姉さんがいると弟までモダーンになるな、え?〉
肩を叩《たた》いて眼くばせした佐々木を思い出し、高志は自分も片眼をつぶってみる。それから、口を曲げてみたり、斜めを向いてみたりした。
父母のどちらにも似ていないと、よく言われる。
「じゃ、姉さんも似ていないということか、双子なんだから……」
父母には似ておらずとも姉弟はそっくりなはずだ。だが、高志は自分の顔に洋子を重ね合わせることがうまくできない。
「双子といっても男と女だから……」
自分の顔を、女のようだ、と評されたことはない。目鼻立ちのはっきりした造りの大きい顔だちである。どちらかといえば、洋子のほうが Junge《ユンゲ》(少年)の顔といえる。
前髪を撫《な》でつけ、できるだけ額でそろえてみた。断髪スタイルの洋子の前髪は眉《まゆ》の上できちんとそろっていた。
洋子と同じになっただろうか。
鏡にうんと近寄る。長身の高志はそうすると、額から上が鏡に入らなくなった。
額を引き、眼を見開いて一点を見てみる。洋子はときどきこういう表情をした。真剣なまなざし、という表情ではない。どことなくぼんやりとして見える表情だった。
鏡の中の自分の顔を彼女に似せることはできなかった。
「日に焼けていない」
洋子の肌の色を思い起こした。白いというよりいくぶん陰湿な色みの肌で、それは快活で華やかな彼女の雰囲気に不釣り合いな質感である。
眼の下に睫《まつ》毛《げ》が影を作ることがあって、洋子と日《ひ》向《なた》で話していると、睫毛の影がより濃くできるのを高志は何度か見ていた。顎《あご》を引いたつかの間に睫毛が眼の下に影を作るのだ。
洋子のほうは、むろんそんなことには気づかず話しつづける。いつもは同い年でありながら洋子のほうが自分よりもずっと大人びて思われる高志だったが、明晰な口調と眼下の影を同時にするとき、彼は彼女を幼く感じた。なぜ幼く感じるのかわからなかった。子供ががんばっているように、なぜか見えた。
伯母のとりしきる家の中で、学校で、異国の地で、バイオリン教師の前で、友人の前で、洋子はつねに快活に、朗らかに、不敵に、自己を演出していたのではないかと疑ってしまう。その疑いは、同じ日に同じ腹から生まれた双子の、動物的な勘だったが。
高志は鏡を凝視した。
「双子……」
奇妙な心地でつぶやくと、鏡は息でくもった。くもった個所を指で擦ると、きゅう、と鏡は鳴った。
「高志さん、どうかしました?」
母が階段の下から声をかけた。
「ううん、べつに」
「洋子さんといっしょに活動を見に行ったものだとばかり思っていましたのに」
「読まなくてはいけない本があったので。それに邪魔しては悪いから、ふたりの」
「そんなことはありませんわ。洋子さんはあなたがいっしょのほうがよかったんじゃないかしら、だって……」
踊り場まで階段をのぼってきた母は、言いかけてやめた。
「何か気になることでも?」
「い、いいえ」
母の横顔が鏡に映った。母が頻繁に見せる顔だ。あきらめきったような、いっさいのことを放棄したような、能面のような顔。
「姉さんのことで何か心配なことでもあるのなら、ぼくのほうからそれとなく訊《き》くこともできますが」
高志が言うと、母の能面は剥《は》がれおちた。
「……よかったわ。あなたと洋子さん、とても仲良くなって。わたくし、ほんとうに心配していました。だって、長いことはなればなれに暮らしていたから」
「また言ってる。母さんは一息つくとすぐそれだ。あたりまえでしょう。小さいころはいっしょに寝てたんだから」
高志が軽くいなすと母の柔らかげな頬に片えくぼができた。高志にも洋子にもえくぼはできない。
「やはり双子ね、絆《きずな》が強いんだわ」
「また大げさなことを言う」
「洋子さんは、その、勝彦さんのことをあなたに何か言うことはありますか?」
「え?」
母に訊き返しながらも高志はなんとなく思いあたるふしがあった。
「何か、この縁談のことで……。その、あまり急なお話だったでしょ……」
「それは……」
高志は一度だけ聞いたことがある。洋子が勝彦との縁談のことを〈取引〉と呼んだのを。感情的な言い方ではなかった。妙に割り切った口調だった。
だが、高志はむろんそのことを母には伏せた。
「それはありません。姉さんは勝彦さんに嫁ぐことを当然としているのでしょう」
「なら、よろしいけど……わたくしさえ知らないあいだに話が決まっていたから……」
縁談は父と勝彦の父とで決定された。
「この家の子なのに四谷で育って、ドイツに行って、挙式がすんだら嫁ぎ先に行く……女三界に家無し、とはよく言ったものね」
母のふくよかな頬が左右不対称になった。下唇をわずかに曲げて、やがてまた、あの能面の顔になる。
母のその顔を、高志はずいぶん幼いころからいく度も見てきた。自分の子の前でだけ母はその顔をした。
母がその顔になるとき、背後には何らかのかたちで父が関連している。母は父が好きではなく、父は母が好きではないこともまた、幼いころから高志は気づいていた。
しかし、気づかぬふりをしてきた。
女である母は、不満を口にできぬ代わりに能面をかぶることで口にする以上に高志に訴えてくる。父が嫌いだと。父のほうは高志とふたりきりになると遠回しに口にした。母が嫌いだと。
しかし、高志はどちらにも気づかぬふりをした。
心の通じ合わない夫婦にとって唯一の支えは「郷戸家」という目的であり、高志は嫡男である。
ひとたび母に触角を向ければ、母は全身でその触角の一本にしがみついてきて離れず、もう一本には父がしがみついてくるような恐怖心があった。
「勝彦さんは立派な実業家だから、姉さんきっと幸せな花嫁さんになりますよ」
踊り場のすみにじっと立ったままの母に言った。
「そうね……幸せな花嫁さんになるわね」
能面をはずし、えくぼをつくって、母は復唱した。
「式が終わったら洋子さんもそうそう自由に遊びまわれないから、高志さん、いまのうちよ、お姉さんに甘えられるのは」
母はほのかに笑った。
高志はさっと片足を退《ひ》いた。
「じゃ、部屋にもどります」
自分を出し抜いたようにいきなり頬が赤くなったのを感じて、あわてて階段をかけのぼった。
お姉さんに甘える、という語がひどくなまめいて聞こえたのだ。陰湿な色の皮膚の温度がつたわってきそうに聞こえた。
天候の話をするのと同じくらいの気持ちで母は言ったに決まっているのに、なぜ赤くならなければならないのだろう。
高志は自室の扉を閉めるなり、自分の滑《こつ》稽《けい》さを笑った。
「馬鹿だな、どうかしてる」
意味もなく咳払いし、机の上の本の表紙を撫で、文鎮とノートの位置を変え、それから蓄音器にレコードを乗せると、寝台に横になった。
レコードは素朴な民謡風のドイツ・リートである。洋子の土産だった。
じい、じい、と針の音がした後、ピアノだけの伴奏からやがて詩が歌われだす。
詩は、石造りの長い長い回廊を流れてゆくように静かに響いた。
硬く冷たい石の柱と石の床を、高志は肌身に感じた。ドイツ語はその石に似て、硬く冷たく、だが、それが詩を奏でるとき、不意に脆《もろ》い甘味をほとばしらせる。
たおやかなものが示す弱々しさではない。
堅固な石の回廊を一瞬ふしぎな影が走る。一瞬の、ただ一瞬の翳《かげ》り。
硬質なものがひとすじだけ流す涙のような脆さを、高志はいとおしく思う。
〓“ Das ist meine Schwester.(お姉さんだよ)〓”
詩の中の平易なくだりが高志にも聞き取れた。
「ダス イスト マイネ シュヴェスター」
発音してみた。自分の耳にだけ聞こえる小さな声は、片頬をあてている枕をわずかに湿らせた気がした。
「ダス イスト……」
繰り返し、高志は息の湿りを愉《たの》しんだ。
*
夕方になって空は明るみを帯びてきた。
四時ごろ、洋子がもどった。
「お勉強は進んだ?」
机の上の本を背後から覗《のぞ》きこむ具合に訊く。白い洋服の衣ずれの音が高志の耳《じ》朶《だ》を擦った。
「はやかったんだね。もっと遅いかと思っていたのに」
椅子の背に一回もたれてから、ゆっくりと高志は立ち上がった。できるだけ自然にその動作をしたつもりだったが、洋子の眼にはぎこちなく映ったのではないかと気になった。
「だって、話すことがなくなってつまらなかったの」
洋子は窓の桟《さん》に両手をかけて外を見ている。
「『ドクトル・マブゼ』?」
「ううん、勝彦さんとのお話」
「だって勝彦さん、話し上手じゃない。うちで会食するときだって、よくひとを笑わせているもの」
「あんなお話、面白い? ミルクホールででも石炭事業の話ばかりよ。アイスクリームまで石炭の匂いがしそうよ」
洋子がずけずけ言うのがおかしくて高志は苦笑した。
「今年は高志もいっしょに来るの? 軽井沢」
洋子が振り返る。
「夏休みのことでしょう。まだ全然考えてないけど」
毎年、夏休みには軽井沢へ行くのが習慣になっているが、高志はもうずいぶんのあいだ、その行事には参加していない。
「夏になるたびいっしょに玉突きをしようとたのしみにしていたのに、いつも来なかったわね、高志ったら」
「夏は水泳、って決めてたから……」
「今年はいっしょに自転車に乗りましょうよ」
「自転車? 姉さん、自転車に乗れるの?」
「じつはね」
「へえ」
「ドイツでうまくなったのはバイオリンじゃなくて自転車よ。カイゼル聖堂のある通りを自転車で走ったのよ。高志は乗れる?」
「佐々木が、あ、ときどき家に来る……」
「眼鏡をかけた方?」
「そうそう。あいつが自転車を買ったというんでふたりで相乗りをしたら、あいつよろけて」
「転んだの?」
「うん」
「怪《け》我《が》しなかった?」
「怪我はしなかったけど、佐々木が詰め襟のポケットに卵を入れてたものだから、それが割れて大変だった」
「卵? 生卵?」
「うん」
「どうしてそんなものをポケットに入れていたの?」
「下宿のおかみさんがおやつに食べなさいよ、ってくれたんだって。ゆで卵とまちがえて」
「まあ」
洋子は笑った。
洋子の笑い方には独特のものがある。甲《かん》高《だか》くはないのだが、ひじょうに愉快そうに笑う。笑うと顔の印象が極端に変わった。
「ねえ、その方も軽井沢に誘えば? きっとたのしいんじゃないかしら」
「佐々木を? そうだな」
それもいいかもしれない、と高志は思った。
「そうそう。高志、絵を見ない? アトリエで」
庭の奥に離れがある。ビザンチン様式の建築に憧れた父親が造らせた八角形の建物だが、茶室にもならず、狭くて客間にもならず、庭の無用の長物になっていたのを洋子がアトリエにした。そこで絵を習っている。
「うん、見たいな」
庭先に出ると犬がふたりの足元に寄ってきた。
「仁《じん》、仁」
白い服を着ているのに洋子が犬の名を呼びながら何度も撫でてやるので、犬はよろこんで彼女の膝に飛びついた。
「この子は熊の子みたいね」
甲斐犬は黒い。そして仁は太りぎみなので洋子の言うとおりだった。
「ほんとだ」
「今度お客さまがいらしたら、熊を飼っておりますの、って言ったらどうかしら」
「びっくりするよ、きっと」
高志は気軽に言ったが、洋子は本気で〈熊を飼っておりますの〉と言うシーンを想像しているらしい。うつむいて考え込んでいる。
「ねえ、ねえ、こうよ」
想像に夢中になって、夢中になった想像を聞かせようと洋子は高志の腕をとった。腕を組むように。
「お客さまがいらっしゃるでしょう。うんと厳《いかめ》しいひと、誰がいいかしら」
「あのひとなんかは?」
洋子のドイツ留学に同行した父の知己の外交官の名を、高志は挙げた。
「そうね。あのひと、あのひとよ」
高志の腕と交差する洋子の腕の力が強まる。
「あのひとがいらっしゃるじゃない。ウホン、ごきげんよう、って。そしたら私が出ていってご挨拶したあと、最近、宅では熊を飼っておりますの、ご覧になりません? って仁を連れてくるのよ、仁の口のところを黒い紐《ひも》で縛って」
洋子は自分で言って自分で笑った。厳しい外交官が驚いているようすを想像して笑っているのだと思うと、それがおかしくて高志も追随して笑った。
「でも、どうして仁の口のところを黒い紐で縛るの?」
「あら、だってワンと吠えると犬だってわかってしまうじゃないの」
「ああ、そうか」
「黒い紐じゃないとだめよ。ほかの色だと縛ってあるのが目立ってばれてしまうわ」
いやがる仁の口を洋子が必死に縛っているようすを想像して、今度は高志が笑った。
「ね、ね、おかしいでしょ?」
高志の左腕を抱くようにして洋子は顔を覗きこんでくる。左腕が湿ってゆく気がした。
「あれ、これは……」
アトリエの廂《ひさし》にかかる花樹は紫色の花を咲かせている。高志の部屋に飾られていたものだ。
「はしどいよ、ライラック。え、と、鍵はこちらに入れたのだったかしら」
洋子は花よりもアトリエの鍵を取り出すためにポケットやポーチの中を気にしている。
「ああ、あったわ」
銀色の鍵を高志にかかげる。鍵は初夏の夕日に反射して洋子の切りそろえた前髪あたりで光った。
「今日一日閉めたままだったから暑いでしょうけれど」
アトリエの扉に鍵を差し込む洋子のスカートの裾に高志は発見した。仁の、犬の足の裏の跡がひとつだけ明《めい》瞭《りよう》についているのを。
ぽん、と犬にいたずらされたように、それは小さく茶色くスカートの裾を飾っていた。
「姉さん」
「え?」
「いや、何でもない」
犬の足の裏の跡のことを教えるのを高志はやめることにした。
アトリエの中は絵の具とテレピン油の匂いがこもっている。
八角形をなす壁のうち、扉を除いた七面にはそれぞれひとつずつ、引き上げ式の窓がある。中に入るなり、ふたりは窓をみな開けた。
風が蝋《ろう》びきの木床をすべってゆく。以前は毛《け》脚《あし》の長い絨《じゆう》毯《たん》が敷いてあったはずだが、それは取り払ったらしい。
ラタンの大ぶりのカウチがひとつ、小ぶりの椅子が三つ、画集や画材の入った、これもラタンの棚がならんで二つ。
立たせたイーゼルと折りたたんだイーゼル。床には画用紙や絵の具、筆、本、楽譜などがばらばらと散らばっている。
「今はあそこを描いているの」
北東に向いた場所を洋子は指さした。アーチ形の窓の下に椅子が置いてあり、窓の外にはさっきのはしどいが見えている。
「それがこれ」
イーゼルには新聞紙大の画布がかかっていた。物の線はすべて黒で太く、乱暴なまでに単純に描いてある。壁は実際には白いのに緑に塗られている。椅子も実際とはちがい、目がちかちかしそうなレモンの黄色、窓の外に景色はなく、一面藍色だ。
「池《いけ》井《い》先生のお手本よ」
池井武夫は洋子の油彩画の個人教師である。
「ふうん」
二、三度会ったことがある。黒いルバシカを着て、蛇に似た目、全体的にがっしりとした体格の男だった。
いかにも時代の先端をゆく絵を描きますといった感じの、これがあの画家の作品か。
「あまり良いお手本じゃないわね」
微笑み、洋子は言った。
「個性的な絵じゃないの?」
「いいのよ、高志が先生をかばわなくても。奇を衒《てら》っただけの絵よね。だって――」
洋子は絵の中の壁を指し、
「平和色」
椅子を指し、
「鬱《う》金《こん》色」
窓の外を指し、
「新勝色。流行の三色を塗りたくりたかったのよ、きっと」
生意気な口ぶりではなく、それこそ池井をかばうように苦笑した。
「池井先生って素直な性格なんだわ。だから先生と絵を描いているとたのしいの」
「ふうん……ぼくも習おうかな、たのしいんなら」
「あら、高志はバイオリンが向いていると思うわ。高志のほうがバイオリンの才能があると思うわ」
バイオリンがいやだったのは顎《あご》が痛くなるからだ、男のほうが顎の骨がしっかりしているからバイオリンは男に向くのだ、と洋子は言う。
「そうだわ、ちょっと弾いてみて」
ラタンの棚からバイオリンを取り出して洋子は高志に渡した。
「いやだよ、ベルリン仕込みのひとの前で弾くのなんか」
高志の場合、しばらく習ってはやめ、またしばらく習ってはやめ、といった具合に気ままにバイオリンをやっているにすぎない。
「やめて、ベルリン仕込みだなんて……。向こうではバイオリンなんてほとんど弾かなかったのよ、ないしょだけれど。片言のドイツ語でああだこうだとおしゃべりして、ダンスして、その合間に申しわけ程度に弾いただけ」
ドイツでの期間は何もかもが新鮮でたのしかったという。
「ただ、帰国後のことを考えるといやだったけれど」
淡白な口調だった。
高志は、すこし迷ったが、訊《き》いた。
「〈取引〉のこと? 勝彦さんとの」
と、低い声で。
「よくおぼえているわね。そうよ」
「嫌いなの? 勝彦さんのこと」
「いいえ。考えないわ。好きとか嫌いとか。勝彦さんだってそれは同じよ。日本では女は結婚するにあたってそういうことを考えてはならないでしょ」
「ほかに好きなひとがいるの?」
「いないわ」
洋子は言った。しかし、その答えが出る前に極く短い沈黙があった。
「いないわ。ひとって他人を愛せると思う? 愛している、なんて、それはそのひとが自分をいい気持ちにさせてくれるかどうかってことじゃないの? 自分への愛でしかないわ」
あ、と洋子は高志の顔を覗きこんだ。
「好きな女の子がいるんでしょう、高志」
「い、いないよ」
「どういうひと? 人妻?」
なぜ、すぐに人妻という発想をするのか高志にはわからなかった。ふしぎな気がした。
「ちがう」
「ちがった? 残念だわ。じゃ、自転車に乗って卵を割った同級生?」
「佐々木のこと?」
「そうそう、佐々木さんだったわね」
「だってあいつは男だよ」
「知ってるわ」
「やだなあ、へんなこと言わないでよ」
「じゃ、誰?」
「いない、って言ったじゃない」
「そうお? ひとに言えないだけじゃないの?」
「何を馬鹿なことを」
「あやしい。赤くなってる」
からかわれることを防ぐために、高志は顎にバイオリンを挟んだ。
「難しいのは弾けないよ」
「じゃあね……」
いたずらっぽい表情をして、洋子は床に置いてあった楽譜の一枚を取り上げる。
「向こうで採譜してもらったクライスラーの新しい曲。『愛のかなしみ』」
楽譜を池井の絵の上に乗せた。
「高志の心情でしょ?」
「やだなあ、姉さんは」
だが、高志は命令どおり弓を引いた。
センチメンタルな憂《ゆう》鬱《うつ》をたたえるウィンナワルツが高志と洋子のあいだを通ってゆく。ほんとうに道ならぬ恋をしている錯覚に高志は陥りそうになった。恋はもっとも美しい錯覚である、とかつて詩人は語ったという。
高志は久しぶりにバイオリンを真剣に弾いた。
洋子は彼をスケッチしていた。
はしどいの小さな花のつぶが風に散ってアトリエの床を駆けていった。
「見てもいい? 絵」
「クロッキーよ、ただの」
洋子はややためらってから、紙を渡した。ためらったときの洋子を高志は幼く感じる。
「こんなに格好がいいかなあ」
髪形を指示する際に描いてくれたときと同じく、紙の中の自分は実際以上に美化されているようだと高志は洋子に言った。
「だって汚く描くと私まで汚くなるでしょ、双子なんだから」
洋子と同時に高志も笑った。
「そりゃそうだけどね。でも、ぼく、姉さんとはあまり似てないと思うな」
「私もそう思うけど。けれど、それは私たちの思うことで、他人はやはりそっくりだと思っているのよ」
「でも、似てないよね。背格好なんか全然ちがうじゃない」
「それは男と女のちがいじゃない? 双子である以前の問題よ」
絵の中では真っ黄色に塗られた椅子に横向きに腰かけた。
「身長は高志にとられちゃったけど、私は男のような身体つきだわ。すこしも弱々しそうなところがないもの」
背もたれに肘をついて頬づえをつく。
自分の容姿はあまり好きではないが好きだと思うようにしなくてはならない、というような意味のことを洋子は言った。
「なんでそんな曲がりくねった考え方をするの?」
「高志は男だからわからないのよ、女にとって容姿というものがどれだけ大切なのかが。女としての価値のある容姿に恵まれなかった者は自分で自分を守らなければならないわ」
「そんな深刻になって、へんだよ。まるで姉さんがどうしようもない醜《しこ》女《め》みたいな言い方じゃないか、それじゃあ」
「そうお? 深刻になんかなってないわ」
「なってるよ」
「高志、女は守ってもらえるような外見をしているひとが幸せになるのよ。弱いひとは守ってもらえる。それは天からの規則なの」
「規則って……」
高志はすこし苛立った。
「そんな規則はないよ」
「あるわよ」
椅子から立ち上がり、洋子は声を荒立てた。
「姉さん、何かあったの?」
間を置いてから高志は洋子のそばへ寄った。
「いいえ、ついむきになって。いやだわ、どうしたのかしら」
洋子は高志のほうには向かずに楽譜の音符を、絵の具のついていない筆でなぞった。
「あなたが悪いのよ。ひとに心の奥を告白させるような顔をしているから」
「そうだね。ぼくが悪いね。でも、世間のひとは悪いぼくの顔と姉さんの顔は同じだと思っているんだよ」
高志が言うと洋子の肩が笑いに揺れた。
「ほんと。悪い私の顔ね」
洋子は高志のほうにおだやかな表情を見せた。そして、彼の眼の下を人さし指で撫でた。
「睫《まつ》毛《げ》が一本抜けてた」
示された指先を見ると、頓着のないふうに睫毛が洋子の指のはらに付着している。高志は彼女の指についた自分の睫毛をそっと吹いた。
「……姉さんの言いたかったこと、なんとなくわかるよ」
「双子だもの、って言おうと思ってる?」
「言ってほしいの?」
「いいえ」
「じゃ、言わないよ」
「言って」
「わかってるよ、双子だもの」
洋子はうつむき、高志の眼に洋子のつむじが映る。
「……仮に姉さんの言うような規則があるとしても、ぼくは知らない」
「ありがとう」
掠《かす》れるくらいの声で洋子は言った。洋子の息がシャツを湿らせていると高志は感じた。
「初等科のころは私のほうが背が高かったのよ、おぼえている?」
「うん。やっぱり姉さんなんだなあって思ってた」
陽はかなり山ぎわに近くなったのか、アトリエの中は薄暗くなってきている。姉と弟で向かい合って立っているのが、どこか別の世界のことのようだ。ずっと遠い過去から持ち込まれた小さな箱の中の世界。
「そのころ、まだここの家にいたでしょう。ある日、お母さまが絵の本を見せてくださったの」
「ぼくたちふたりに?」
「ううん。私だけだった。女中もいなかったはずだわ。テーブルに本を置いて、お母さまがページをめくってくださって」
「童話の絵本?」
「ちがうの。画集なの。外国の画集なの。これは天使がお祝いに来たところの絵よ、これは西洋の何とかという街よ、と私に教えてくださるなかで……」
男が傘をさして道を歩いている絵があった。柄《え》を肩にかけて黒い傘をさして歩いてくるところを正面から描いた絵で、子供の洋子も〈男のひとが傘をさしている絵〉だとすぐにわかったという。
「……なのにお母さまは、男のひとが洞窟から出てきたところの絵よ、っておっしゃったの。それが……」
それがね、それがね、と洋子は繰り返し、高志の腕をとった。
「それが、とても怖かったの、私」
言って、洋子はすぐに手を高志の腕から離した。そして、高志からも離れた。
「黒い傘が大きく描いてあったので、それをお母さまは洞窟に見まちがえたのね、きっと。実際、お母さまに言われてから絵を見直すとそう見えたわ。だからよけいに怖かったの」
「わかるよ。姉さんが怖かったの」
「勝彦さんにはわからないの」
勝彦に対する怒りはその口調にはまったくなかった。勝彦がわからなくても当然だと思っているかのように。
「もうもどりましょうよ」
「そうだね」
ふたりで窓を閉めにかかった。
〈夏休みにはいっしょに行くよ、軽井沢〉
アトリエを出る際に言おうとした。ほんとうにそう思っていたが、この簡単な語句が高志にはどうしても言えなかった。
六月九日。その日は作家、有島武郎が情死した日で、夜から雨が降りだした。
*
木々の葉ずれの音がする。
寝台の高志の耳に、それは新鮮に聞こえた。澄んだ空気が音をよく通すのだ。
カーテンの下から夏の朝がのぞいている。
「何時だろう?」
寝台のポールにひっかけてあった腕時計を見ると八時である。もっとはやい時刻だと思ったが、それも軽井沢の空気のせいらしい。
身体を横に向けた。
テーブルを挟んだ隣の寝台で、佐々木はまだ眠っているようである。
〈そりゃ、いい。ロマンスが生まれるかもしれない〉
いっしょに軽井沢に避暑に行かないか、との高志の誘いに佐々木は、いくぶんおどけて応じたのだった。
佐々木は一高から帝大に入ってきている。一高上がりの者はえてして学習院からきた者を敬遠しがちだが、佐々木にはそういうところがない。横浜の大きな商家の次男坊らしく開放的な性格である。
そして相当の読書家であり、弁がたつ。高志よりは背は低いが、骨自体がすんなりとしているぶん、高志よりも痩せて見える。痩せて、というよりソフトに見える、と言ったほうがいいか。
色は白いほうで眼鏡をはずすと歌舞伎役者のように美丈夫である。佐々木の下宿に高志はよく遊びに行くが、ときどき女学生が手紙を渡すために門のところで待っているのに出くわした。
〈ふふん、趣味じゃないな〉
部屋で手紙を読みながら佐々木がつぶやくのを聞いて、高志はそれなりに羨ましくも、また彼を頼もしくも思ったことがある。
「ロマンスか……」
高志が興味を持っていないわけではない。むしろ、関心が強いといえる。肉欲を含むそれにも。
しかし、両親を見ていると、男と女が愛し合うこと、共につれそうことというのは、いったい不変なのだろうか、という漠然とした疎ましさも心のすみにある。
〈白雪姫と王子さまはあれからどうやって暮らしたと思う?〉
雨の降りつづく日、洋子から訊《き》かれたことがあった。
〈答えを考えなくてもいいわよ〉
〈じゃ、なぜ、そんなことを訊くの?〉
〈手段よ〉
〈手段?〉
〈女性が男性の気をひく手段よ〉
〈そんなことで気をひける?〉
〈男性を追いつめる手段〉
寝台から抜けた。
階下で紅茶を入れている匂いがただよってくる。
高志が服を着替えはじめるのに佐々木が気づいたようだ。
「はやいなあ、もう起きるのか」
「はやくないよ、もう八時半だ」
「はやいよ、夏休みだってのに」
「あんなに遅くまでポーカーをしてるからだよ」
佐々木は昨夜、高志が先に寝てからも洋子とゲームをたのしんでいたはずである。
「ああ、きみの姉さんは強いな。悔しくてさ、何度もやり直して、それでも一回も勝てなかった」
「だから言ったろ、最初から。姉さんは手を抜かないんだって」
「そうだけど、あんなに強いとは思わなかった。洋行帰りの婦人はちがうな、やっぱり」
ふふ、と高志は含み笑いをした。
「なんだよ、自分の友人が負けたのがそんなに愉快なのか」
佐々木も起き上がり、寝台に入ったまま服を着替えだした。
「いや、そうじゃないんだ」
「じゃ、何だ?」
「きみは知らないんだよ」
「何をさ」
「姉さんに勝つ方法があるんだ」
「何? どんな方法だ?」
「言えないね。血は水よりも濃し、さ」
「ちぇっ」
「階《し》下《た》へ行こう。オレンジペコのいい匂いがしている」
食堂には父と母と侍女がいた。
「ごきげんよう。よく眠れて? 昨夜はトランプ遊びでずいぶんと夜更かしされたようですけれど」
母が佐々木の隣にすわった。
「いやあ、負けたのが悔しくてすっかり寝坊してしまいましたよ」
佐々木は母に、昨夜のゲームの話にはじまってひとを笑わせるような愉快な話をつづけた。
トーストと卵が皆の皿に配られる。
「洋子さんは?」
佐々木が誰にともなく尋ねた。と、高志は急に母に話しかけ、佐々木に答えなかった。
「お嬢さまは、朝食は失礼させてください、とのことで」
侍女が佐々木と母とのあいだで告げた。
「またかい。軽井沢に来てから一度も洋子さんとは朝に出会ったことがない」
「あのひとは家でもそうですのよ」
高志はふだんは好まぬマーマレードをパンに塗りたくった。なぜか居あわせた者全員が自分に注目している気がしたために。
「そして夜のポーカーに備えているんじゃないの」
佐々木が高志に言ったが高志は眼を逸らしてしまった。
最初のうちは朝の遅いことや、夜遊びの多いことをずいぶん注意されたようであったが、いまではもう洋子が朝食の卓につかないことは慣例のようになっていた。じきに嫁いでゆくのだから、というのが洋子の切り札だった。
「わかった」
佐々木が指を鳴らすしぐさをする。
「洋子さんに勝つ方法だよ。ポーカーを朝やればいいんだ」
佐々木はゲームに勝てなかったことがよほど悔しいらしい。
「散歩にでも行こうよ、丘のほうまで」
高志は佐々木の気をとりなすように誘った。
「丘って、ホテルの屋根が見えているところかい」
「ああ、森のようになっているところがあっただろう」
「そうだな」
朝食後、高志と佐々木は散歩に出た。
*
テニスコートの横を通る。球を弾《はじ》く爽《そう》快《かい》な音がする。
「郷戸、きみもやるのか? あれ」
佐々木はコートを指した。
「いや、やったことない」
「へえ、華族っていうのは皆テニスをやるんだと思ってたよ」
佐々木の口調に厭《いや》味《み》はない。
「ひとそれぞれだよ」
「洋子嬢はどうなんだい?」
「う……ん、どうなんだろう。するのかなあ」
蚊の鳴くような声になった。
「自分の姉さんだろう?」
「でも、ぼくらは長いこと……」
「そうか、そうだったね。ぼくのところと同じにしちゃいけないんだ」
「きみはたしか、妹さんが」
「うん。ひとつちがいのね」
「可愛いかい?」
「そうだな。ずっと仲がいいから……可愛いってことになるか」
「似てる? きみに」
「きみらほどは似てないよ、もちろん」
「そんなに似てるかなあ、ぼくら」
「どちらかというと、彼女がきみに似てる。洋子嬢は、その、なんて言ったらいいんだ、ほら、女学生に慕われそうな風貌だし……」
佐々木は婉《えん》曲《きよく》に洋子が男性的な顔だちであることを指摘した。
きみもそう思ったか、と、高志は言いかけてやめた。アトリエで洋子がむきになって話したことを思い出し。
テニスコートを過ぎ、木立の中に入り込んでゆくと若い娘がふたり、地面にかがんでいる。
ひとりは水色のちょうちん袖のワンピースすがたで、もうひとりはさくら色のブラウスに白い細身のスカートをはいていた。どちらも髪が長い。かがんだ肩や腕にさらさらと髪が流れる。
「ほんとにここだったの?」
「わからないわ。どこで落としたのかがわかればさがす必要ないもの」
何かを落としてさがしているらしかった。
「どうかしたの?」
前からの知り合いのように気軽に佐々木が声をかけたので高志は驚いてしまった。
「佐々木……」
袖を引いたが、彼は高志にかまわずふたりのほうへ近づいてゆく。
「髪飾りを落としてしまったんですの」
さくら色のブラウスのほうが答えた。
「どんな髪飾り? さがしてあげるよ、いっしょに」
佐々木はすたすたとふたりのほうへ歩いてゆく。
「貝殻のついた小さなヘアピンなんですけれど……」
さくら色のブラウスが説明しだすと、水色のワンピースが、
「菜穂美さん、もうよくってよ。ここじゃなかったかもしれないんだし」
と、佐々木がかがむのを制した。
「どうせたいしたお品じゃないんですもの。もうあきらめたわ」
「だって、潤子ちゃん……」
菜穂美というらしい娘はしばらく迷っていたが、
「そうお、じゃ、よしましょうか」
と、手を払った。
「どうもありがとう。もうさがすのはやめにしますわ」
菜穂美は佐々木に微笑み、潤子ちゃん、と彼女が呼んだ娘もつづいて彼に辞儀をした。それに対し、佐々木は何か気のきいたことを短く返したのだろう、菜穂美と潤子の鈴のような笑い声が森に突然響いた。
しばらく佐々木は彼女らと話をしていた。
「おい、郷戸」
三人からは離れて立っている高志を佐々木は呼ぶ。
「こんにちは」
菜穂美と潤子が高志に挨拶すると、佐々木が高志を紹介し、また高志に彼女らを紹介した。
「ホテルのロビーで何か冷たいものでも飲もう」
「いいわね」
四人で森を抜けた。木もれ陽の揺れる小径を歩きながら高志は、彼女らのような娘と極く自然に親しくなれる佐々木に驚いていた。
ロビーは避暑の客でにぎわっている。
「彼女たちはこのホテルに泊まっているんだって」
佐々木は明るい話題でほかの三人をすっかりなごませる能力を持っていた。
「潤子ちゃんと、それと、おじいさまとおばあさまと来たものだから、ほんとのこと言うとすこし退屈していたの、ね?」
「そう。テニスをしてみましょうよ、って誘うわけにもいかないでしょ」
菜穂美も潤子もうちとけた口調になっている。
「ご姉妹じゃなかったの?」
高志も口調を合わせた。
「従姉妹同士よ。ふたりとも男兄弟しかいないから小さいときから姉妹のように仲良しなのよ」
潤子は女子学習院高等科の二年、菜穂美のほうはもう卒業してフランス語学校に通っているという。
「将来は新聞社の婦人記者になるのが夢なの」
菜穂美はよく動く眼を輝かせた。都会的でおきゃんな感じの娘である。長い髪にウエーブをつけている。
「菜穂美さんにぴったりだと思うわ」
潤子は菜穂美ほどは多くをしゃべらない。顔の造作のひとつひとつが小さく、髪は真っ直ぐで色が白い。日本人形のような斑《まだら》のない白さで、皮膚の奥までどこまでもどこまでも白い肌をしている。
「わたしにはそんな大胆なことはとてもだめだけれど」
「やさしい雰囲気だからね、潤子ちゃんは。森で出会ったときは天使が天から舞い降りてきたのかと思ったよ」
佐々木がさらりと褒める。
「あら、なあに。それじゃあたしがやさしくない、はねっかえりみたいな言い方じゃないこと、佐々木さん」
ぷっと頬をふくらませ、菜穂美は拗《す》ねてみせた。
「あ、ちがうよ。そういう意味じゃなくて」
「じゃ、どういう意味?」
「菜穂美さんは利発な新婦人ってことだよ」
「あらあ、それじゃ、わたしがお馬鹿さんみたいだわ」
潤子が小首をかしげる。
「あ、いや、そんなことなくって……ああ、困ったな」
頭をかいてみせる佐々木にふたりはころころとよく笑う。
「だからね、それぞれに魅力的だってことだよ。どうだ、これならもう突っ込まれないぞ」
「ま、佐々木さんたら」
ふたりはまた笑う。
佐々木の会話のうまさに、高志は一種、敬服の念を抱いた。
「午後からの予定はあって?」
菜穂美が佐々木に訊いた。
「いや、決めてはいないけれど。どうしようか?」
佐々木は高志に訊いた。
「う……ん、そうだな」
「ねえ、水遊びでもどうかしら。ほら、川のすこし上流に泉のようになったところがあるじゃない?」
高志が黙っていると潤子が提案した。
「冷たくて泳げやしないよ」
と、佐々木。
「だから足をつけてみたりするだけ」
「町からはちょっと離れているんじゃなくて?」
菜穂美が言ったので高志はふと自転車に乗ることを思いついた。
「自転車に乗って行けばいいよ。貸してくれるところがあるから」
「まあ、自転車? わたし、乗ったことないわ」
「おふたりともひとを乗せられるの?」
菜穂美と潤子は自転車にことのほか興味を示し、佐々木が、例の卵を割った話をすると大よろこびだった。
「そうだ、もうひとりいっしょでいいかな?」
「えっ、もうひとりって誰?」
佐々木に訊いたのは、娘たちではなく高志である。
「洋子嬢だよ、誘おうよ。人数の多いほうがたのしいから」
「洋子さんって?」
「こいつの姉さんだよ、双子の」
「あら、郷戸さん、お姉さまがいらっしゃるって、双子でいらしたの?」
洋子が高志の姉とわかると菜穂美と潤子の顔に安心な表情が浮かんだ。
「そうさ、ドイツ帰りのモダーンな姉さんだからたのしいよ、きっと」
「すてき。お会いしたいわ」
「郷戸さん、ぜひ、お姉さまもお誘いしてらして」
世辞や義理とも思えなかったので、高志は、はっきりとはしない態度だったが、洋子を誘うことを承知した。
「じゃ、お昼ちょうどにまたホテルの門のところへ自転車で来るよ」
佐々木がふたりに手を振り、バンガローへもどる。
「佐々木、気をつかってくれたんじゃないのか?」
「え、何を?」
「姉さんを誘うことだよ。いや、姉さんだけじゃない、ぼくにも……。その、人数は少ないほうがよかったんじゃないの?」
「馬鹿だな、多いほうがいいに決まってるだろ」
佐々木は笑い、そしてつけ加えた。
「最初はね」
「え?」
「最初は多人数で行動しないと警戒するんだよ、女の子は」
「はあ、そういうものか」
「何を純情な顔してるんだ、郷戸、いい年して」
『ドクトル・マブゼ』を見に行った日、車の前で洋子がしたのと同じ笑い方を佐々木はした。
「警戒心が薄れたところで、的をしぼるんだよ」
「的、なんて、なんか騙《だま》しているようで気が咎《とが》めるじゃないか」
「馬鹿だなあ、的にされることが女はうれしいんだよ。やましいことはないよ、合意の上のことなんだ。男女の方程式さ。ほんとにもう、吉原へ行かないような男はこれだからな」
「だってさあ……」
「いいか。好意を持った女性がいるとする。いきなり、キスしませんか、と切りだして向こうが、はいいたします、と言えるか? たとえ向こうも好意を持っていてくれてたとしてもそうは言えないのが、女の立場ってもんなんだ。言えるようになるまでには手続きが必要なんだ」
にやにやして佐々木は、
「その手続きをロマンスと世間では呼ぶんじゃないか、馬鹿」
高志の額を小突いた。
「潤子さんと、その、キスをしたいのか?」
「潤子? ははん、郷戸、きみはあっちのほうが気に入ったんだな」
「何でそういうことになるんだよ。ぼくはきみが潤子さんをよく褒めていたから、彼女が気に入ったのかと」
「馬鹿だなあ。あれは菜穂美の気をひくためにしたんだよ」
「え、じゃ、きみ、菜穂美さんのほうを」
「ああ、最初見たときからね」
「潤子さんが天使に見えたと言ったじゃないか」
「天使のように清楚、ということであって、菜穂美にはそそられた」
菜穂美には男心をくすぐるコケットリーがある、と佐々木は言う。
「胸の線と尻の線が服に浮き出て、色気がただよってたじゃないか」
「ふうん」
「きみは潤子ちゃんを気にしていたから気づかなかったんだ」
「いやあ、きみの話術の巧みなのに感心してふたりのほうには気がいかなかったんだ」
「何をとぼけてやがる」
佐々木はまた高志の額を小突き、バンガローに入るなり、洋子を誘いに行った。
「なあに、自転車に乗って出かけるんですって?」
洋子はテラスにいた。
「うん、今朝散歩に行ったらね……」
高志はいきさつを話した。
「ははん、私がいっしょに行けばふたりが安心すると計算したわけね」
洋子が佐々木と同じことを言うので高志は驚いた。
「さすがに話がはやい。ポーカーで負けるはずだ」
佐々木に悪びれるところはない。
「郷戸くんは可憐な女学生にお気をとめられたようでね」
「おい、勝手なことを……」
佐々木の袖を引く。
「そして、未来の婦人記者にひかれたのは佐々木さんということね」
「あ、こっちまで話がはやい」
調子にのっても佐々木にはひとから憎まれないところがある。
「いいわよ。助けてさしあげましょう。その泉のそばにね、おいしい料理を出すロッジがあるのよ。そこでみんなで食事をすればもっと発展するわ」
洋子は読んでいた本を閉じた。
*
潤子と菜穂美はそろってプリーツスカートのテニス着でホテルの門に立っていた。
「はじめまして。ごきげんよう」
自転車に乗ったまま、洋子は彼女らに挨拶をする。それがふたりを洋子にうちとけさせた。
洋子は麦《むぎ》藁《わら》帽子をかぶってニッカをはき、上は高志がよく着ている開襟シャツを借りて着ている。シャツをニッカの中に入れず、腰の低い位置で裾《すそ》結びにしていた。
たっぷりとしたシャツとニッカすがたで自転車に乗った洋子を彼女らは、ギャルソンヌ・スタイルだと囃《はや》した。
しばらく何ということもないおしゃべりをした後、
「じゃ、どうする? え、と」
誰が誰をうしろに乗せるかを、すでに決まっているくせに、佐々木が切りだす。
「高志は潤子ちゃんを乗せてあげるといいわ。佐々木さんは菜穂美さんを」
洋子が何げないふうに言い、彼女らがそれに従って高志と佐々木のうしろにまわると、すこしうつむいて笑うのを我慢しているようだった。
「さあ、行こうか」
佐々木は洋子に言いわけするように言った。
「ねえ、うしろに乗っているのって怖くなくって?」
佐々木の腰にすでに手をまわしている菜穂美が訊く。その訊き方はいやにたのしそうで、
「大丈夫だよ。しっかりつかまってれば」
と、彼が返すのを予想していたかのようだった。
そして、佐々木がそう言ったのを聞いて潤子も高志の腰に強く腕をまわした。潤子の華《きや》奢《しや》な腕と、テニス着をいくぶん盛り上げていた胸が自分の身体にはりつくのを意識して、高志は緊張する。
自転車を漕ぎだすと、洋子が高志の横にならんだ。
「高志、卵を割ると大変よ」
よけいに緊張した。
「卵って? 卵を割ったことがあるのは佐々木さんじゃなかったの?」
うしろから潤子が訊いたが、高志は答えなかった。
自転車に乗っているということ、それも異性を乗せているということで道行くひとが高志たちを振り返り、それも高志を緊張させた。
洋子が加わっていることが多少なりともグループから、不《ふ》埒《らち》な印象を軽減してくれた。佐々木が洋子を誘い、洋子が応じた意味をつくづく実感して高志は自転車を漕いだ。
泉では、ただ水に触れてみたりしただけでほどなくロッジに入った。
格式ばった店ではない。庭園に簡単な屋根をつけただけの建物で、魚や茸《きのこ》、野菜などを客のテーブルのそばで焼いてくれる。
「腹がへったよね」
「私もだわ」
「そりゃそうだろう。朝も食べてないんだから、洋子嬢は」
「どんどん食べよう」
佐々木と高志と洋子がしゃべっているのに反して、
「わたし、あまり食欲がありませんわ」
潤子が言い、菜穂美も同じ旨伝えた。
それで、おもに潤子と菜穂美を除いた三人が、次々と出される焼き物を酢醤油につけてたいらげていった。
大きな椎《しい》茸《たけ》がことのほか美味い。身が厚く、手で裂いて食べると口の中に香味がひろがる。
高志は見た。黒い背の裏に細かな襞《ひだ》のある椎茸の一切れが洋子の口に入ってゆくところを。
唇が開く。
きれいにならんだ歯がのぞき、厚みのある細長いその一切れが口の奥へ吸い込まれる。酢醤油の汁《つゆ》が唇を濡らし、舌の先が濡れた唇をゆっくりとぬぐう。舌でぬぐわれた唇は咀《そ》嚼《しやく》のためにぴったりと閉じ、閉じたまま蠕《ぜん》動《どう》する。
洋子の視線と高志の視線が合った。高志はうしろめたさに似た心地で首を曲げた。曲げたほうに潤子がいる。
潤子はレモネードを飲んでいた。ストローを離し、おちょぼ口を半開きにしたまま菜穂美の話を聞いている。
どこまでも白く、錐《きり》で掘ってもずっと白いままではないかと思われるくらい白く明るい潤子の肌。柔らかそうな頬と顎《あご》の中央で、おちょぼの口はなぜか大きな洞穴のようである。
〈男のひとが洞窟から出てきたところよ〉
母が幼少の洋子に言ったということばを思い出した。
「よく食べておかなくてはね。帰りもか弱いお姫さまをお乗せするのだから」
佐々木が冗談を言い、高志は視線を、潤子の口から佐々木へと移動させた。
「洋子嬢は太陽のように強いお方だからご自分で漕《こ》がれるけれど」
「そうね、太陽は女性名……」
「あ、それ『青鞜』でしょ。元始女性は太陽であった……わたし、ああいうのに憧れるの」
洋子の声は低かったので菜穂美の声のほうが勝《まさ》った。
「ああいうの、って何だい?」
「佐々木さんたら。そういう感じによ」
「ああいう、そういう感じって何だろう」
「意地悪ね、佐々木さん。強い意志を持った近代婦人のすがたに憧れるって、こういうことよ」
「驚いた。ああいう、そういう、こういうことなわけだね」
「もう、佐々木さんたら」
佐々木と菜穂美のやりとりに潤子も洋子も笑った。
「姉さん」
高志は談笑を切断するかに洋子を呼んだ。
「太陽は女性、それから何?」
言いかけたつづきを洋子に求めた。
「ああ、あれ。たいしたことじゃないのよ。Sonne《ゾンネ》(太陽)が女性名詞で Mond《モーント》(月)が男性名詞なのっておもしろいわね、って言おうとしただけ」
「あら、ドイツ語ではそうなの? おかしいわ」
潤子が英語の話をし、菜穂美がつづいてフランス語の話をした。
太陽が女性で月が男性。
高志は黙ってしまった。
佐々木と潤子と菜穂美が何かはしゃいでいる。
麦藁帽子の鍔《つば》が洋子の顔を隠し、彼女の口だけを高志に見せていた。
*
菜穂美とのことを佐々木から聞いたのは、軽井沢を発つ前日の夜である。
洋子と三人でワインを飲んでいた。
「今日は泣かれてしまった……」
と、佐々木は言った。
そして煙草に火をつけた。
「菜穂美さんに?」
洋子が訊く。
「ああ」
「もうサヨナラしなければなりませんのね、って?」
「……ちょっとちがう。……わたしたちの夏は終わりなのね、だった」
ふたりはかなり酔っていた。
「あんまり泣くからキスした」
「泣くのやめた?」
「やめたよ」
「泣いてるとキスできないものね」
「できないね」
まるで佐々木と洋子が姉弟のようだ。ふたりの歩調はおなじで自分だけが遅れているように高志には感じられた。
「これからどうするの?」
高志は佐々木に訊いた。
「どうする、って?」
「菜穂美さんとのつきあいだよ」
「わからないよ、そんなこと」
佐々木は煙草を深く吸い、長く煙を吐いた。
「ポーカーをしよう。今夜は勝てるな。洋子さん、だいぶまわってるはずだから」
「いいわよ」
札をきる洋子を高志は制した。
「今夜はもう寝たほうがいいよ、明日はやいんだから」
「ああ、そうね。それがあったんだわ」
洋子はきるのをやめた。
「じゃ、よそう。だけど、郷戸。おまえはとうとう、勝つ方法をぼくに教えてくれなかったな」
「勝つ方法って?」
高志は自分の言ったことを忘れていた。
「姉さんに勝つ方法がある、って前に言っただろう」
「あ、それは……」
口ごもった。
「でまかせよ。でまかせを言ったのよ、高志は」
「何だ。つまらない。つまらないことを言うなよ、郷戸」
「本気にした佐々木さんがいけないわ、それは」
洋子は笑って部屋を出ていった。ずいぶん酔っているようだから、と佐々木には言って高志は洋子を追った。
「姉さん、大丈夫?」
「何が?」
「飲みすぎたんじゃないかと」
「平気よ。気持ちがいいわ」
壁に背をもたれさせる。
「わたしたちの夏は終わり、か。今度池井先生にでも言ってみようかしら」
「池井先生にそんなことを言ってどうするの?」
「はかなげな弟子だと思ってくれる」
「池井先生にそう思われたいの?」
「……そう思ってくれるかもしれない男性だということよ」
「……そんなところにもたれてないで、ちゃんと休んだほうがいいよ」
「いや。高志こそもう寝なさい。私は大丈夫だったら」
洋子は、そして、私はしっかり者だから、とへんな言い方をした。
「部屋へ行こう」
高志は洋子の手首を引いた。それほど強い力を入れたつもりではなかったのに、洋子は平衡を失って高志の上腕を両手で掴《つか》んだ。
高志も洋子の胴に腕をまわした。
「あ」
衣服と胴のあいだに、高志のてのひらがまったく予想しない隙間があった。
洋子はいつも身体の線をすっかり隠してしまう直線的なチューブラー型の服を着ていた。今夜もそうである。
しかし、あたりまえのことだが、姉の胴は男のそれとはちがい、くびれているのだ。弟の信頼を裏切るように、くびれていた。
洋子の部屋の戸を開けるまでのほんの数秒のうちに高志のてのひらには汗がにじんだ。
「今日ね、じつは潤子さんに会ったのよ。これを預かったわ」
寝台に腰かけ、洋子はサイドテーブルの引き出しから、薄いが大判の本を取り出した。
「はしどいの押し花よ。あのロッジの庭に咲いていたんですって。高志さんに夏の記念に渡してください、とおっしゃったわ」
「潤子さんがこのバンガローに来たの?」
高志も洋子の隣に腰かけた。
「ええ。お昼すぎにね」
「いたよ、ぼく。そのころ」
「潤子さんがはかなげで憎らしかったから、私、高志はいまいませんって言ったの」
洋子は本を開いた。
本には押し花は挟まれていない。それは詩集で、洋子の開いたページには『若き日の思い出』と題された詩が記されている。はしどいの咲く丘の絵とともに。
とまどっている高志を見て、洋子は意地悪く笑った。
「来なかったわ、潤子さんは。作り話よ。がっかりした?」
「いや、最初から何だか妙だったもの」
「嘘。がっかりしてたわ」
洋子は高志の顔を覗《のぞ》きこみ、
「あなたはどう?」
彼の中指だけをにぎった。
「どうって……?」
「潤子さんとキスはした?」
「しないよ……したくないから……」
「そう」
洋子は高志の中指だけを甲に向けて反《そ》らせた。
「高志は嘘つきね」
さらに反らせ、もっと反らせた。
痛い。だが、高志は黙っていた。
*
東京。
指にはいつまでも痛みが残っているような気がした。腫《は》れて膿《う》んでいるような気がした。
法《ほう》師《し》蝉《ぜみ》が鳴いている。
高志は縁側にぼんやりとすわっていた。
簾《すだれ》が真昼間の陽をさえぎって、高志の顔に光と影の縞《しま》を映している。
軽井沢からもどって来てから、洋子とはあまり話をしていない。
婚礼の衣装が洋子の部屋にかけてあるのを高志は知っていた。
「仁……」
簾の下につながれて腹ばいになっている犬を呼んだ。くんくんと鼻を鳴らしながら仁は高志の足元に擦り寄って来、彼は頭を撫でてやる。
「お手」
高志が命ずると、犬は片方だけ前足を高志のてのひらに乗せた。丸く、黒い、あん餅《もち》のような犬の足。
「よしよし」
高志は仁の頭を撫でてやる。
「お手」
命ずると、あん餅がまた高志のてのひらに乗る。
「よしよし」
高志は何度もおなじことを繰り返した。
庭に出てみる。
芝生はすこしばかり前の通り雨に打たれてじくじく湿っていた。
「我が若き日の思い出に、か……」
押し花などなかったページに記されていた詩である。
我が若き日の思い出に/ライラックの香りたちこめ/我が心はうるわしきその香りにしのび泣く/誰にも告げはしまい
「誰にも告げはしまい……」
その先は忘れた。
「誰にも告げはしまい……誰にも……」
無表情に高志は唱えた。
湿った芝生を無目的に歩いているようでいて、足は確実にひとつの方向を選んでいる。
やがて、高志は八角形のアトリエを前にした。
「……いないのか」
窓はみな閉ざしてある。鎧《よろい》戸《ど》まで下ろしてあった。
ただ、一個所だけ極く細く開いているところがあり、そこからは、ひとの気配がにじみ出ている。
本能的に身を竦《すく》め、足音をたてぬよう建物の壁に身体をつけ、隙間から中を覗いた。全身が硬くなった。
気配からして予想していたではないか。隙間からは肉と汗の匂いがすでにたちこめていたではないか。だから身を竦めたのではないか。
なのに、高志の全身は蒼《あお》く凍ってゆく。
中には洋子がいた。
洋子だけではない。男がいた。それは勝彦ではない。画家の池井である。
ふたりは裸で抱き合っていた。睦まじいすがたではない。肉欲だけの生臭いものに見えた。
しかし、高志は唇を噛みながら覗くことをやめることはできない。
ラタンのカウチがきしんでいる。池井の頑丈そうな肉体が洋子を覆っていた。彼女の不規則な息は高志の耳を痛くした。
「先生、滅茶々々にして」
両手を池井の背中に絡め、洋子が掠れた声で言うと、池井の体毛の濃い腰から尻にかけてがびくんと大きく波打ち、彼は自分の下に敷いた教え子の乳房を掴んだ。
四十を越した池井の骨ばった手から洋子の乳房ははみ出し、いびつに撓《たわ》んでいる。
「洋子」
池井は汗びっしょりになった身体を洋子の腿《もも》のあいだに置いた。蝋《ろう》燭《そく》に照らし出される池井の影が、八角形の壁に忌まわしい獣のように大きく揺らめく。
高志はゆっくりと後《あと》退《じさ》りしアトリエを離れると、走って屋敷にもどった。
「あら、高志さん、さがしていたんですよ」
母は佐々木が来ていることを告げた。
「てっきりお部屋にいると思ってお通ししたらいないから……」
「書庫に……書庫にいたものですから」
「へんねえ。書庫ももちろん見ましたのに」
「調べものがあって……、それで、第二応接室の書棚なども見たりしていて……」
動《どう》悸《き》を母親に悟られまいと必死だった。
「そうでしたか。佐々木さん、お部屋のほうでお待ちよ」
「わかりました」
額の汗をぬぐい、高志は自室の扉を開いた。
「やあ。悪かったな、いきなりお邪魔して。たいしたことじゃないんだ。近くに用事があったんでさ」
「そう」
ソファにすわっている佐々木の前にはすわらず、高志は窓ぎわの机にもたれた。
「どうした? 熱でもあるのか? 熱っぽい顔つきだな」
「ないよ、熱なんて」
佐々木から眼を逸らせる。
「そうかい?」
「ないったら」
無意味に手を動かした。辞書や文具が床に落ちて散らばった。
「なんだ、おかしな奴だなあ」
佐々木は床に落ちたものを拾おうとする。
「いいよ。あとでやるから」
「……何かあったのか?」
「何も。蒸し暑いんで苛々していただけだ。悪かったよ、大きな声を出してしまって」
べつにかまわないさ、と佐々木は言い、よもやま話をはじめた。
適当に相《あい》槌《づち》を打ちながら、高志は身体中に、佐々木の言うとおり、熱がひろがってゆくのを感じていた。
「菜穂美さんとはどうだい? あの後」
身体の熱は高志に、その種のこと、を聞きたがらせた。
「もう会わないだろうな、きっと」
「喧嘩でもした?」
「喧嘩、っていうか……ちょっとね」
――おととい、佐々木が下宿に帰ると菜穂美が門で待っていた。部屋に来るか、と訊くと、行きます、と答えたのでしばらく佐々木の部屋で話をしていた。そのうち、菜穂美が流し眼をするので佐々木は彼女を抱きしめ、キスをし、ブラウスの下から手をしのばせて乳房を掴んだ。スカートの下にも手をもぐりこませようとしたら菜穂美は泣きだして怒って帰ってしまった――。
佐々木は自慢げな感じではなしに淡々と高志に告白した。高志に告白することで自分自身がすっきりするようだった。
「今までのメッチェンとはちがってけっこう本気だったんだけどな」
とも、佐々木は素直に告白した。
「キスが上手かったし」
とも。
佐々木は下卑た男ではない。わざと品悪く他人に言って聞かせてみることでひとつの自己調整をしているように見受けられた。
「男の片手にちょうどいっぱいの大きな乳房だったな、菜穂美は」
だが、佐々木がそう言ったとき、ふたたび高志はいやおうもなくアトリエでの洋子を思い出した。洋子の乳房、それは池井の片手からはみ出していた。
池井の手はいまも、アトリエで洋子の身体を触っているのだろうか。
そう想《おも》うと、熱砂で肌を焼かれるような痛みが高志の全身をとらえた。
「おい」
佐々木が肩を叩いた。
「やっぱり具合が悪いんじゃないのか?」
「すまない。なんだかぼんやりしてしまって……」
「恋わずらいじゃないのか、さては」
「恋?」
洋子は姉ではないか。血の繋《つな》がった双子ではないか。
「あれ? 図星だったかな」
「ば、馬鹿な」
しかし、池井に抱かれる洋子を想う身体の痛み、それはあきらかに嫉妬ではないか。
「あわてることがもう認めてるよ。相手は定めし潤子ちゃんだな」
「ちがう」
「はは……。まあ、いいよ。言いたくないんなら。そのうち言いたくなったら聞かせてくれ」
「……誰にも告げはしまい」
「え? 何?」
「いや……今日はすまなかった、と」
「いいよ、また来る。じゃ、ここで失敬するよ。見送らなくてけっこうだ」
佐々木は部屋を出ようとして、もう一度もどった。
「そうだ。遅ればせながらの恋わずらいのきみに良いものを貸してやるよ」
鞄を開けながら佐々木は言った。
「良いもの?」
「西洋春画さ」
ノート大の茶封筒を佐々木は高志に渡した。
「きみなんかとはちがって悪いのが一高仲間にはいてね。そいつから買わされたんだ」
べらぼうな値で売りつけられたからあとで返してもらうよ、と笑いながら佐々木は帰っていった。
残った茶封筒に、薩《さつ》摩《ま》切《きり》子《こ》の瑠《る》璃《り》色が反射していた。
ためらったが、高志は封筒を開けた。開けるとき、やはりうしろめたくなり、部屋に鍵をかけた。
それは、全部で八枚の印刷画だった。
フラゴナールをさらに享楽的で露骨にしたようなタッチで裸の女が描かれている。
どこか宮殿ふうの寝室で、広い寝台には天《てん》蓋《がい》がつき、ドレープをふんだんにとったビロードの幕がかかっている。その寝台の上に女がいる構図である。
女は栗色の巻き毛、碧《へき》眼《がん》。自らの乳房を持ち上げたり、尻を高く突き出したり、股をひろげたりしたポーズをとっていた。そして、乳頭、尻や股の奥が克明に描かれてある。
高志は六枚の絵には無機質な印象を受けた。陰部の克明な描写も、むしろ克明なことで無機質な感じがする。
だが、七枚目と八枚目の絵はちがった。
おなじ描き手による絵で、場所も巻き毛の女もおなじだったが、七枚目のものは、女が薄いヴェールを纏《まと》っている。寝台の前に立ち、立っている女の背後から男が、彼女の首すじに唇をあてている。金髪の男である。彼の手はうしろから前にのびて女の股間に触れている。女は喉《のど》を反らせ喘《あえ》いでいるように見える。ヴェールから薔《ば》薇《ら》色の乳頭と縦長の臍《へそ》が透けていた。
八枚目では、女は寝台に腰かけている。舞踏会に行くような豪華な衣装を着て、髪や首には宝石を飾り、孔雀の扇を持ち、紅で塗った唇を大きく開けて哄《こう》笑《しよう》している。女の足下には男がうずくまっている。鎧を着た男で、彼は女の爪先を口に含んでいた。
この二枚はほかのものに比べて女体描写が露骨ではないのにずっと猥《わい》褻《せつ》だった。
「……」
ぶちっ、と窓のすぐ近くで音がした。
蝉が飛んできたのだ。ぢっ、ぢっ、と短く鳴いた後、ベルのように大きく鳴く。
高志の首は汗で濡れていた。汗が喉仏から胸にかけて一直線につたった。
汗びっしょりになった池井の背中を思い出した。その背中に絡んだ洋子の腕も。
目蓋が痛くなり、痛みは屈曲した興奮を高志に与えた。下腹部が熱く疼《うず》く。
彼は布団にもぐり込み、手を下腹部にあてがって自らを慰めた。
*
夕闇が部屋にしのび寄るころになって、ようやく高志は身体を起こした。封筒に八枚の絵をしまう。それから、のろのろと床に散らばったものを拾う。
身をかがめた自分の格好に卑しさを感じた。絵の入った封筒はどこに隠せばいいのだろう。
封筒を持ったまま、辞書を、ノートを、文鎮を、机にもどしてゆく。ペンは棚のほうまでころがってしまっていた。
棚は、裏板のない、枠だけの簡単なものである。頻繁には必要のない大判の本だけをそこには入れていた。
「ここに隠すか」
ペンを拾ってから、高志は棚の一番下の本を二、三冊抜いた。壁と棚の隙間の具合を確かめようとして手を差し入れる。と、何かぱさぱさしたものがある。
「!」
高志が掴んだものは、枯れたはしどいであった。
雨が降りはじめた日、この部屋にむせかえるほど生けてあった花。一本が花瓶からあふれて棚の裏に落ちたにちがいない。
藁《わら》のようになった身で一途にそれは、棚の裏から盗み見ていたのだろうか。高志が自らを慰める姿を。
恥ずかしさに耳《じ》朶《だ》を真っ赤に染め、夕闇の中で高志はじっとうずくまっていた。
*
葡萄。バナナ。梨。ネーブル。細長い食卓の中央の鉢に果物が盛られている。
高志の席は食卓の端である。左に洋子。洋子の前に勝彦。勝彦の隣、三人抜かして母。母と九十度をなして父。
日曜の晩《ばん》餐《さん》会《かい》で高志はほとんど食欲がなかった。
中央の鉢に添えられた果物ナイフが天井の照明にきらきらと光るのがきれいだと思っている。
「勝彦くんのようなひとに洋子を嫁がせるのはうれしいよ。結婚は大事なセレモニーだからね、人生の」
父はすこぶる機嫌がいいらしい。何度も酒を給仕させる。
「華族としての誇りというものがある。結婚には」
父の眉間には黒子《 ほ く ろ》がある。高志にも洋子にも黒子はない。
「高志も良い縁談があれば、さっさと決めてしまっていいんだ。男子は大きな仕事に賭けねばならんからな」
父はよくしゃべった。
「政友会の前田氏には姪御さんがいて……」
父の話を高志は聞いていなかった。
「高志」
父に呼ばれてはっとする。
「おまえ、軽井沢で会ったんだってね」
「……」
誰に会ったことを言われているのだろう。何も答えず父のほうを見ていると父は介せず話をつづけた。
「前田氏の姪御さんだよ。潤子さん、といったかな。軽井沢で、洋子もいっしょに会ったそうじゃないか」
「ええ、たしかにお会いしましたわ」
代わりに洋子が答えた。彼女が自分のほうを見るのではないかと、高志は身構える。
「あの方、前田さまのご親戚でしたの」
洋子は高志を見はしなかった。
「そうなんだ。運が良かった。前田氏は松《まつ》方《かた》正《まさ》義《よし》老公と親しい人なんだ」
父は政治家に並々ならぬ関心がある。それ以上は何も言わなかったが、前田氏との繋《つな》がりをかためる政策を考えついたことはあきらかだった。
「会ったといってもべつに……。あの、ぼくはまだ学生で、将来のことなどは――」
自分は嫡男として当然、郷戸家のことは考えるけれども、いまはまだ学問に専念し帝国に尽くす道を学びたい、というような意味のことを、高志は父に告げた。
「それはそうだな。いや、何もおまえを急がせようというわけではないんだ……」
父はことばを濁す。
「ねえ、遠い先のことはおいておいて、今度の晩餐会に前田さまと、それに潤子さんもお招きすればよろしいわ」
洋子が言い、勝彦や居あわせた親戚の者もそれに同意したので、その場の話題はあたりさわりのないものに移った。
「よかったわね、高志」
高志にだけ聞こえる小声で洋子が言った。
「潤子さんと会えるわ」
「どうしてそういうことを言うの」
「……弟だから」
短くないあいだを経てから洋子は答え、皿の端にナイフを静かに置いた。
「洋子さん、最近、油絵のほうはどうなの?」
向かいの席から勝彦が洋子に話しかける。
「先生がね、腕が上がったってすごく褒めてくださるの。あまり褒めてくださるものだから私もついその気になってしまって」
「そりゃたのしみだね。どう? 先生と二人展みたいなものを小さな画廊ででも開けば?」
「まあ、すてきだわ。さっそく明日、先生に相談してみます」
明日、洋子は池井と会うのだ。明日もアトリエの鎧戸が下ろされるのだろうか。
勝彦と洋子はしゃべりつづける。父も親戚たちとしゃべっている。カルテットはやたら楽しげな曲を演奏する。
不意に高志は、よく光るナイフで洋子が自分の腿を刺す光景を脳裏に浮かべた。
会食の席、テーブルクロスの下から洋子の手が腿にのび、柔らかな指の感触の後に冷たい刃物の先が腿にあたる。刃はぎりぎりと肉の奥深くに潜り、洋子の白い手が血の色に染まってゆく。痛い。それでも洋子の手を振り払いはしない。手を染める血はふたりの身体を共通に流れるものなのだ。
「今夜はめずらしくよく飲むんだね、高志くんは」
勝彦に話しかけられ、高志は幻想をナイフの煌《きら》めきの中に封じ込んだ。
「注がれるもので」
なるほど高志はすでに何杯ものそれを飲みほしている。
「頼もしい弟ができてうれしいよ」
「弟。そうですね。結婚式が終わればあなたはぼくの兄になるんですね」
「そうとも。いまから兄さんと呼んでくれてけっこうだよ」
勝彦は自分のグラスを高志のグラスにあてる。
「兄弟の契りに乾杯」
勝彦は陽気だった。
高志の体内で酒は鉛のように沈んでいったが。
*
そして鉛は、遅い時刻に風呂に入ってからも、ねっとりと身体の内壁に被《かぶ》さっていてとれなかった。
髪を拭きながら階段をのぼってゆくと、踊り場で母とすれちがった。
「洋子さんのお部屋に行ってあげて。お色直しのときのドレスを着ているの。きれいよ。あなたも見てあげて」
胸に飾るものを決めあぐねているところだという。
「わたくしの手持ちのもので何か合うものがあるんじゃないかと思って、いま取りに行くところだったのですよ」
「でも、ぼく、わからないよ。飾りなんて」
「何をふさいでいるの。自分のお姉さんのことでしょう」
さあさあと、母は下りてきた階段を引き返し、高志を洋子の部屋に押し込むように入れた。
洋子は裾の長い服を着ていた。裾の長い赤い服。
「どうお、すてきでしょう? 極上のお品よ」
母は高志に同意を求めた。服は自分が選んだのだともつけ加えた。このたびの縁談で母が決定することのできたものは着物とこの服だけなのだった。
「華やかな色でしょう? でも、胸元がちょっと寂しいから……洋子さんはかまわないと言うんだけれど……どう思って、高志」
「さあ」
「お母さま、高志にはわからないわよ、そんなこと」
「だってねえ、何かちょっとあったほうがいいと思わないこと? 色が派手だから地味な、ちょっとしたものが」
また母は高志に同意を求めるので、
「そうだね、そのほうがきっといいよ」
母を安心させた。
「でしょう? 待ってて。やはりわたくしのお部屋から何か取ってきましょう」
母が出てゆき、高志は鏡の中の洋子を眺めた。薄い服はヴェールのようである。
「宮殿にいる女性みたいだよ」
佐々木から渡された絵の一枚を思い出す。
「宮殿? 大げさなこと言わないで。ねえ、ちょっとうしろのファスナーを下ろしてちょうだい」
「どうして? 母さん、飾りを取りに行ったじゃないか」
「いいのよ、もう面倒だわ。お風呂に入ろうとして、ふと着てみただけだったのにお母さまったら胸元がどうのこうのと言いはじめて……」
寝台の縁に、会食時に着ていた洋服と靴下が乱雑に脱ぎ置かれている。
「わざわざ試してみなくったって、もうお母さまのお好きな飾りにしておくわ」
洋子は高志に背を向けた。
「下ろしてちょうだい、ファスナー」
短く刈った襟足が高志の眼にすべり込む。
彼はファスナーの金属に指をかけた。
赤色が左右に割れる。V字に肌の色が露出してくる。金属をさらに引き下ろす。V字の面積がさらに大きくなり、見知らぬ細い紐が現れ、指がこわばった。
それは下着の肩紐である。素肌よりも、光沢のあるその細い紐のほうが高志を緊張させた。その類の布は男が決して身につけるものではない。姉は女なのだ。
指が震えるのを高志はつくろいようがなかった。
「高志、あなたいくつになった?」
鏡に映る洋子が、鏡に映る高志を見た。
「いくつになった、って。姉さんと同じに決まってるじゃないか」
「そうね。二十歳ね」
洋子はうつむき、つむじが鏡に映る。うつむいてしまった洋子が機嫌を悪くしたのかと、最初、思った。そうではない。くっくっと笑っているのだ。
「二十歳なのが、何かおかしい?」
「ええ」
洋子はうつむいて笑っているばかりである。
「どうして?」
「いままで女のひとの服を脱がせてあげたことはなかったのよね」
顔を上げた。
「……」
洋子が笑った意味を高志は悟った。彼は未だ女体を知らなかった。
「潤子さんは幸せなひとだわ」
鏡ではなく、実像の高志を洋子は見上げる。高志は洋子の視線を避けるために鏡を見た。
ヴェールのような長い服。肩がむき出しになり、胸元で押さえている。むき出しになった肩に細い紐。
うしろを見上げているために喉《のど》が反り、その背後から高志のすがたが映っている。
鏡に映る像は、あの絵の構図とそっくりだ。ちがうのは、絵の男は裸だったが高志はパジャマを着ている。
それに、手の位置、がちがう。絵の男の手の位置を思い出し、高志が唾液を呑《の》んだとき、母がもどった。
「あら、せっかく飾りを持ってきたのに着替えるの? ちょっとあてて見せてほしいわ」
「お母さまったら、だいたいわかったじゃありませんか」
「でも、ほら、どちらがいいかしら」
手にした飾りを交互に、母は洋子の胸元にあてる。
「そっち。左に持ってる、水晶のほうがいい。絶対いい」
高志は部屋を出た。
「もういいでしょう、お母さま。お風呂が冷めてしまいますわ」
「だってねえ、一生に一度のことだから」
洋子と母のやりとりが、高志の背後で聞こえた。
ふたりが階段を下りていく音を聞いてから、そっと高志はうしろを振り返った。洋子の部屋が開けっ放しになっている。明かりもついたままである。
扉を閉めようとして高志はノブに手をかけた。
かけたまま長いあいだ立っていた。
視線の先には寝台の縁。そこには淡くくすんだ絹のかけらが散らばっている。
眼を逸らせ、また、見る。洋子から離れたばかりの絹の群れが、手招きするように高志を誘った。
多量の酒が誘惑の手引きをしたのかもしれない。
盗むのではない、すこしだけ借りるにすぎない、と自分に言いわけしながら、高志はそれらを掴《つか》んだ。
だっ、と自室に駆け込む。
息を吸い、吐いた。
そして掴んでいたものを自分の寝台の上に置いた。
野《の》薔《ば》薇《ら》の刺《し》繍《しゆう》のあしらわれたタフタのブラジャー、亜麻色のサテンのコルセット、コルセットには靴下を吊《つ》るためのサスペンダーがついており、サスペンダーに重なるように靴下を置いた。
高志の汗を毎晩吸った布団の上に、虚ろな女体のシルエットができた。
薄絹と薄絹の空白に、高志は肉体を嵌《は》めこもうとする。あの絵の中の、巻き毛の女の、ことさら煽《せん》情《じよう》的《てき》に強調して描かれた波打つ乳房と蜂のようにくびれた胴と豊穣の尻が寝台で閃《ひらめ》く。下腹部が熱くなってゆく。
寝台に倒れ込み、薄絹を抱きしめた高志の口からは、だがしかし、禁忌の名が洩れた。
「姉さん」
自らのペニスを強くにぎりしめながら、彼は泣きそうになる。夜の風は彼の背中を何も知らずに吹き抜けていった。
*
「高志」
低く洋子に呼ばれたとき、高志の目《ま》蓋《ぶた》は氷のように冷たく蒼ざめた。
うつ伏した身体が動かない。ただ脈拍だけがはやくなる。すごくはやくなる。
鍵をかけたはずだった。時間はもっとゆるやかに進んでいるはずだった。
洋子の手によって鍵はいまこそかけられた。硬い金属が鍵穴でまわる音は、まるで手足を拘束する枷《かせ》具《ぐ》の締まる音のようだった。
洋子は寝台のわきに立っているのだろう。ハリケーンランプの橙《だいだい》の灯が影を壁に大きく作っているにちがいない。だが、高志の目蓋は開かなかった。
寝台が沈む。高志の肘に洋子の臀《でん》部《ぶ》が触れた。
「高志、こちらをお向きなさい」
手が高志の顎《あご》の下に入ってくる。湯をつかったばかりの匂いが鼻孔に流れる。
高志は身をかたくなにして洋子を見ようとはしなかった。
「自分のものを返してもらいにきたのよ」
抑揚のない声で洋子は言い、無理やりに高志の顔の向きを変えさせた。それでも高志は目蓋を開かなかった。
洋子は高志に顔を近寄せた。
「Onanie しようとしたのでしょう?」
そのドイツ語の単語は、吐息となって耳に注がれるだけで高志を辱めた。
「潤子さんのことを考えて」
突然、鋭い痛みが手の甲を突いた。
「う……」
眼を開いた。洋子は先刻、服に合わせていた水晶の飾りを持っている。痛みは飾りの金具の針であった。
「勝彦さんとの結婚式にはあなたの選んでくれたこの水晶をつけるわ」
「勝彦さんはとてもやさしいのよ」
「ダンスもうまいのよ」
黙っている高志に洋子はひとりで話した。声は小さく掠《かす》れていて吐息のようである。
「ポーカーで……」
高志はようやく洋子の顔を見た。
「ポーカーで姉さんに勝つ方法があると佐々木に言ったのはでまかせじゃない」
二、三度、高志は洋子とゲームをしたことがある。高志が勝ち、洋子が負けた。
「姉さんは、ぼくには負けてくれるんだ。そうでしょう?」
水晶が床に落ちた。
「高志」
洋子は問いには答えず、彼を呼ぶ。
「あなたは、たったひとりのおとうとよ」
脆《もろ》い翳《かげ》りが洋子の整った顔を覆い、姉は弟の額を静かに撫でた。
「結婚したら……」
高志は額に添えられた洋子の手の下で問うた。
「勝彦さんと結婚したら、池井先生にはもう会わないの?」
洋子の手が額から離れた。
「いいえ。会うと思うわ、たぶん」
「勝彦さんより先生のほうが好きだから?」
「わからないわ」
バスローヴの胸元が大きく上下する。
「滅茶々々にして、と勝彦さんには言わないの?」
「……わからないわ」
「わかってるくせに」
高志は洋子の手首を掴み、
「わかってるんだ、姉さんは。すべて」
彼女を押し倒した。
「ぼくが潤子のことを考えていなかったのもわかってるんだ」
手首を強く掴んで洋子を見下ろす。ローヴの襟が乱れる。
「ぼくを虐《いじ》めたかったんだろう」
洋子の唇を塞いだ。
妖しい蠕《ぜん》動《どう》が高志の唇につたわり、舌が絡み合う。唾液の糸がランプに光った。
「高志」
洋子の腕が背中で交差したときに、高志は震えはじめた。
「知っていたでしょう」
ローヴの紐を彼女は自ら解いた。
「あなたが」
高志の手を襟に運ぶ。
「好きよ」
強く高志を抱きしめる。
「姉さん」
高志はローヴを割った。震えはやまない。眼下に青みがかった白色の乳房が押し寄せ、彼はその隆起を夢中で強く掴んだ。
掴み、絞るように掴み、乳房を吸った。首すじに唇を這《は》わせ、耳朶を噛《か》んだ。あえかな息が高志の喉にかかる。
「滅茶々々にして」
そのひとことが高志の震えを止め、彼は裸体に挑んだ。他のどの男も真意を知らぬ、自分とだけ血を分かつ姉の裸体に。
「高志」
「姉さん」
愛している。愛している。愛している。高志は思った。
郷戸洋子 大正十二年(一九二三)九月一日、帝都大震災に依、没。
郷戸高志 同右。
柘《ざく》榴《ろ》の章 花言葉=馬鹿
新聞を売る少年のはく靴は彼の足よりもずっと大きくて、ずたずたと音がした。
一九五一年、雨あがり。
「号外」
「号外。マッカーサー解任」
口喧《やかま》しく小走りしてゆく少年。彼の靴は水たまりの泥を勢いよくはねた。
泥はすこし洋子のズボンの裾に散った。拭こうともせず、洋子は男のあとをただついていった。タツ、と呼ばれている男で、本名を洋子は知らない。
GHQの車があちこちに停まる繁華街を抜け、路地を抜け、さらに歩いてゆくと、焼け残った民家の一区画に出る。
その家と家との、壁と壁とのごくわずかな隙《すき》間《ま》を、タツは身を横にして抜ける。洋子も彼につづいて狭い隙間を抜けた。
と、そこはぽっかりと袋小路になっていて、木戸のある家にタツは入った。
「ここですよ」
洋子を振り返る。
洋子はその家に入った。
間口は狭いが奥に長くのびた造りの家である。廊下は暗く、きしんだ。
廊下の曲がり角の部屋をタツはノックした。
「姐《あね》さん、俺だよ」
「ああ」
嗄《しやが》れた声がして、五十半ばと思われる女がドアを開けた。痩せぎすで、薄い唇には朱色のルージュが塗られていた。
えび茶色に染めた髪と細く描いた眉。長い爪を持つ指には大ぶりのリングが二個はめられている。
彼女がこの家の女主人である。
「お連れしたよ」
タツは自分のうしろに立っている洋子を顎《あご》で指し、そしてまた女の耳元へ何かを囁《ささや》いた。
「ああ」
女主人は洋子をじっと見た。
「ヨウコです」
名字を名乗ることはない、とタツから言われている。ただ名前だけを告げた。
「こんにちは」
女主人が嗄れた声をすこし鼻にかけて言った。こんにちは、の「に」がほとんど消えて、こんちわぁ、と聞こえた。
「はじめまして」
女主人があまりじろじろと自分を見るので洋子は彼女の視線を避けるように下を向く。それでも彼女は洋子の顔や身体を凝視しつづけた。
「ちょっと」
タツに部屋の中に入るよう、女主人も顎で示した。
「ここですこし待っててくれますかね」
タツと女主人は洋子を残して部屋の中に入った。
椅子を動かしたり、茶碗と茶碗がぶつかりあったりする音が聞こえた後、
「なんだい。どんなに美人を連れて来てくれるかと思ってたのにさ」
「しかし、正真正銘、子爵令嬢だぜ」
女主人とタツがしゃべっているのがドア越しに聞こえてくる。
「あの女囚みたいに刈った髪の毛が気に入らないね、なんだいありゃ、きてれつな髪形だね」
耳がすっかり見えるほど短く刈った洋子の髪のことを女主人は言っている。
「華族のお嬢さまっていうからにゃ、長い髪を縦ロールにしてるんじゃないのかい」
「戦争中に舞踏会をするわけにゃいかなかっただろうよ、そりゃあ」
タツの仕事は「女を特殊な店に斡旋すること」である。それも「特殊な店の中でもとりわけ特殊な店」に。より高額の「斡旋料」を得るために、タツは洋子をかばいにかかった。
「やっと戦争も終わったと思ったら華族制度の廃止だ。華族ってったってピンからキリまであるからね、縦ロールなんて悠長なことやってられなくなったから、こうしてあんたの所へ来ることになったんじゃないか」
「まぁ、そうなんだろうけどさ。ほかとはケタちがいの額をいただくからには見るからに美人じゃないと」
「……そりゃま、いわゆる美人じゃないかもしれないけどさ。さすがに華族さまの品があるじゃないか」
「あたしの言ってる美人ってのはね、色気だよ、色気。ああいう娘《こ》はこの仕事は無理だよ」
「色気なんか……。元子爵家のご令嬢ってだけで男はよろこぶって」
「そのへんの店でならね。うちはそのへんのとはちがう所なんだから」
「やってることは変わりないじゃないの、あんたのとこも」
「ふん。やり方がちがうんだよ。なんのために客はほかのとこの倍以上の金を払っても秘密のつてを頼りにウチに来ると思う? ムードが大事なんだ。あの子は色気がない。ゴツゴツした感じでさ。男娼を紹介しに来たのかと思ったくらいだよ」
「ちっ、口が悪いな、相変わらず」
「うちだってね、商売なんだ。色気を売る女が欲しいんだよ。男の下半身をよろこばせてくれる女。客が大枚を惜しみなくはたいてくれるような」
「だったら……大丈夫だよ。じつはねぇ……」
タツの声が秘密めいたものに変わる。
「これ言うと、華族のご令嬢ってふれこみにはちと差し障りがあるかと思って伏せてたんだが……」
咳払いのあとタツはつづけた。
「いい身体してるって聞いてるぜ」
「ふふん、どうせまた金額をつり上げるこんたんだろ。あたしゃ、実際にいま、あの娘をこの眼で見てるんだよ。あれじゃ、商品にならない」
「でもあいつの紹介なんだぜ。ほら、あんたも知ってるだろ、あいつ……。あいつがさ……」
ふたりの声は聞こえなくなった。
そしてほどなく、ドアが開いてタツが出てきた。
「ちょっとふたりだけで話がしたいってさ」
タツと肩をすれちがえ、洋子は女主人の部屋に入った。
「なんだって、池井さんとイイ仲だったんだって?」
「……ええ」
躊《ちゆう》躇《ちよ》したが、洋子は女主人の言うことを肯定した。
池井とは、池井武夫。画商である。戦前、婚約者がありながら洋子は池井と肉体関係があった。
「そお。そうかい。池井さんとねえ。許されぬ恋だったんだ」
女主人は初めて笑顔を見せた。
「華族さまともなると恋もままならないんだねえ」
「……」
母に絵を売りつけるために池井は郷戸家に出入りしていた。彼は洋子に会うたび言った。
〈きれいだ〉
と。
〈かわいい〉
と言う日もあった。
当時、洋子は二十歳。池井は四十二。洋子の若さも池井はたたえた。
それが画商という、職業に必要な態度と知っていたが、洋子は彼の「ことば」が好きだった。自分のことを、世辞でも、彼のように言ってくれる人間を洋子は他に持っていなかった。洋子はつねに他人から強く気丈に見られていた。
ただ、池井の「ことば」を聞くためだけにセックスしたとはいえない。
しかし女主人にとって、池井と肉体関係があったことが好ましいのなら、彼女の想像するようにしておこうと洋子は思った。
「ねえ、ちょっと、あんた」
女主人は煙草に火をつけながら言った。
「そのぶかぶかしたシャツを脱いでくれない?」
黙って洋子はシャツを脱いだ。
「ズボンも。シュミーズも脱いで。うちの商売は特殊なんだ。商品は見定めておかないとね」
女主人はブラジャーとパンティだけになった洋子に立つ位置を顎で指示する。黙ったまま洋子は彼女に従った。
「ははァん」
女主人は洋子の身体を舐《な》めるように凝視した。
「なるほどね、このタイプか」
正確な意味はよくわからないことをつぶやく。
「ほら、あの十字軍の映画に出てた……」
現在、巷《ちまた》で流行しているハリウッド映画の女優にたとえて、洋子の胸や尻を無遠慮に撫《な》でた。
「なんでこんなへんてこな服を着てんの? こんな服着てられたんじゃ、身体の線がわかりゃしないよ」
洋子は黙っていた。理由を簡潔に話す方法がわからなかった。
「戦前のものがいくつかは残っているだろうに焼けちまったのかい?」
「いえ、戦前もこういう服を」
「はあん? 子爵さまのお嬢さまだったんだろ、舞踏会はなかったのかい」
女主人の頭には、ある決まりきった華族の構図しかないようだった。
「服を着ていいでしょうか?」
洋子は女主人に訊《き》いた。
「待ちな。これをちょっとはおってごらん」
黒い化繊のレースの、寝巻のようなものを、女主人は箪《たん》笥《す》から取り出し、洋子にはおらせた。
「ふうん、似合う。ここで働くからにはそういう色っぽいものを着てもらわないとね。あ、ちょっと……」
女主人はレースの寝巻をはおった洋子を椅子にすわらせると、自分の化粧ポーチを開けて白粉を洋子の顔にはたきはじめた。
「お化粧は濃いめにしてちょうだいよ。なんてったって色気を売るんだからね」
洋子の目《ま》蓋《ぶた》には毒々しいブルーのアイシャドーが塗られた。唇には血のようなルージュが。
「ははあ。いいよ。あんた化粧するととたんに色っぽくなる。これなら上玉も上玉。やっぱり池井さんとつきあってただけあるよ」
女主人は高笑いをした。
「……」
「借金があるんだって? 平気だよ。これならあんた、楽に返せるって」
最初洋子を見たときとはうって変わって機嫌がよくなっている。池井と関係があったことが、なぜこれほど女主人をよろこばせるのか洋子にはよくわからなかった。
「あの池井さんが気に入っていたっていうんだから、あんたの持ち物ってのも……」
女主人はにやにやしながら、池井がどれほど遊び人で、どれほど女にうるさいかということを話した。話は女性器の構造に関することに限られており、下世話な表現をしては女主人はひとりで大笑いした。
「そうそう。部屋を見てもらっとこうか」
女主人は洋子を部屋に案内した。
そこは洋子が娼婦として使う部屋である。
新聞を売っていた少年の靴同様、部屋の狭さに不釣り合いな大きなベッドがある。
ぶら下がった電球には赤いシェードがかかっているので、部屋全体がほの赤く見える。ベッドのわきには小さな鏡台と椅子。やはり小さな箪笥。
窓は坪庭に面している。磨り硝《ガラ》子《ス》の窓に灌《かん》木《ぼく》が、大きな黒いかたまりのように透けていた。
窓を開けてみた。それは柘《ざく》榴《ろ》の木であった。
「夕方からだけ働くってことだったよね」
「ええ」
「いいよ。月、火、水、ってことでかまわないね」
「わかりました」
「うちはね、高級だからね。相手する数だってぜんぜん少ないし、わけのわかんない奴は来ないから。そのへんは安心してちょうだい」
娼《しよう》窟《くつ》、といっても、表向きはまったくの民家である。女主人は確実に「大金」を支払ってくれる客だけを家に入れていた。
「おふくろさんとふたり暮らしだって? おふくろさんにはここで働くこと、何て言ってあるの?」
「クラブでバイオリンを弾く、と」
実際、しばらくはあるナイトクラブでバイオリンを弾いていた。が、それだけでは借金はとうてい返せるものではない。
「でもさ、あんた、二十六だろ。結婚はしなかったのかい。華族さまならはやくから許《いい》嫁《なずけ》ってのを決めるんじゃないのかい」
「婚約はしていました」
洋子は磨り硝子に透ける柘榴の影のほうを見て答えた。
*
敗戦前。
洋子のかつてのフィアンセは勝彦といった。昭和二十年五月。
勝彦と彼の両親が、時勢がら内輪だけで式を挙げるべきではないか、と郷戸家を訪れた。父母はそれに同意した。
彼らは三日間、郷戸の屋敷に居た。その間、洋子は悩みつづけた。勝彦に、勝彦の両親に、また自分の両親に、何と切りだせばいいのかを。
三日目の早朝、洋子はひとり逃げるように、屋敷を出た。
屋敷を出て、行った先は郊外にある伯母の家である。伯母は何も言わず洋子を迎えたが電話だけはするように彼女を諭した。
重い気分で電話すると、最初に母がでた。
「勝彦さんと結婚できません」
三日間、どうしても切りだせなかったひとことをつたえた。
「そんな、いまさら何を……」
母は、怒鳴ったり叫んだりすることすらできないほど驚いた。
「この取引はなかったことにしてください」
「取引? 取引ってなんのこと?」
勝彦との結婚を、洋子は取引だと考えていた。勝彦を愛してはいなかった。父が郷戸家を第一に考えて勝手に決めた縁談である。
勝彦と結婚することで郷戸家が得る利益と洋子の衣食住の保証、これらの代償に勝彦とセックスをして子を産む、そういう取引だと。
「勝彦さんとは結婚できません」
繰り返した。
「うちの家に泥を塗るつもりなのかね、洋子さんは」
勝彦の父は激怒していた。
「洋子さん、どういうことなのかな。どういうことなのかよく聞きたい。とにかく会って話したいんだが」
代わって勝彦。
「……ごめんなさい……でも、弟が日本に帰るまで……私……」
「日本に帰るまで、って……でも、弟さんは……」
「……」
洋子は泣くのを抑えるのにせいいっぱいで勝彦にそれ以上話すことはできなかった。無言のまま電話を切った――。
*
――洋子は女主人のほうを振り返り、言った。
「婚約はしてました。でも、破談になったんです」
「ふうん。まあ、いろいろあるわね、戦争中はね」
女主人は煙草を消し、そしてまたすぐに煙草に火をつける。
「あんたの名前だけど、源氏名ね、どうしようかね。マキとナナとエミはもういるから……」
同僚はどうやら三人らしい。
「あの……ジュン、っていうのは……」
「ジュン? ああ、いいじゃない。それがいいよ。ジュンね。ここではあんたはジュン」
「……はい」
「ことさら愛想よくする必要はないよ。そのほうが華族らしくていいだろうから」
ただ髪は伸ばすんだよ、と女主人は要求した。
こうして洋子はジュンという名で客をとることになった。
(勝彦さんとの結婚を断ってもけっきょくおなじになったわ)
取引の相手が不特定多数になっただけだと洋子は思い、声をたてずに笑った。
「あれ、あんた。あんた、笑ったほうがいいね」
女主人の眼が若干大きくなった。
「愛想よくする必要ないっつったけどさ、あんた、笑うとずっと女っぽくなるからね。そのほうがいいよ」
洋子の肩を叩く。
「がんばって稼いでちょうだいよ」
と、紙袋を洋子に渡した。
「これは自分で適当にしまっておいて」
紙袋の中にはタオルが二枚、洗面具、それにコンドームが入っていた。
「さっきのガウン、あんたに似合ったから貸しといてやるよ。でも、黒いシュミーズとかパンティやなんか色っぽい服や化粧品はちゃんと自分でそろえておくれね」
「わかりました」
女主人が部屋を出ていったあと、洋子は紙袋を開け、中身を箪笥にしまった。
それから自分の鞄《かばん》を開け、ブローチを取り出した。水晶のブローチである。かつて一世を風《ふう》靡《び》したルネ・ラリックのデザインは、梟《ふくろう》をかたどっていた。
止め金の部分に、もう色《いろ》褪《あ》せたリボンが通してあった。洋子はしばらく考えてからそれをベッドのポールに結わえつけた。
「日本に帰ってくるのを待っていたのよ」
ブローチに向かって言った。
ブローチは弟がくれたものである。
〈結婚式にはこれをつけるといいよ〉
リボンのかかった包みの中にブローチは入っていた。ポールとブローチを結わえるリボンはそのときのリボンである。
当時、リボンは鮮やかな赤色をしていた。弟との血の繋《つな》がりを示すような。洋子と弟は双子であった。
*
敗戦前。
事情あって洋子は長いあいだ郷戸の屋敷ではなく、伯母の元で育てられた。実家にもどったのは高等女学校生になってからである。
母は寝室にこもりっきり、父はほとんど不在、それなのに父の部屋には頻繁に女性が出入りしている、といった郷戸家の状況は、洋子がもどったところでまったく変わっていなかった。
「同じね、小学生のころと」
形骸化した夫婦のありようを洋子があえて嘆くことはなかった。それが洋子にとっての両親のすがたなのだった。
だが、弟と同じ屋根の下で暮らすことは、洋子の眼を新鮮な煌《きら》めきでまぶしくさせた。弟は知らぬ間に成長していた。
彼は姉を慕ってくれた。姉はそれをうれしいと思った。
うれしいと心から思った。
「勝彦さんとの結婚式が待ちどおしいわ」
うれしくてわざとそんなことを言った。
「きっと幸せな花嫁さんになるよ」
ブローチを渡しながら祝福してくれる弟が、一瞬だけ、眼を逸らせるように自分に横顔を見せる。それは、もっとうれしかった。
弟は精《せい》悍《かん》な顔をしていた。双子だから自分と似ているのだが、その顔は男にこそふさわしい。
眉の太いこと、鼻と口の大きいこと、唇の厚いこと、頬から顎《あご》にかけての線がはっきりと削られていることは、女にとってなんの利点でもない。男の顔がそうであるときに、精悍、と形容されるのだ。
背が高く、陽に焼けて、広い肩を持つ弟の横顔を姉は美しいと感じ、羨望の念さえ抱いた。
アトリエとして使っていた離れで、弟はバイオリンを弾いてくれたことがある。
硬い楽器を挟むために顎の肉がやや二重になり、それが精悍な顔立ちをいっそう際立たせた。
それなのに顎の下から流れる旋律はセンチメンタルで、その対比の美しさを「まるでギリシア彫刻のような」と、陳腐に過ぎて恥ずかしいくらいの思いで眺めていた。
ただし、彫刻はいくら美しく、いくら間近にあっても決して掴《つか》みきれるものではない、とも思った。毎日、日がな一日、そのそばにいても、彫刻は彫刻のまま変わりはしないと。
弟は名を、高志といった――。
*
――半年が過ぎた。坪庭の柘榴の木に実がつきはじめ、洋子の髪が長くなった。
*
「洋子さん、お茶の葉が手に入ったの」
母が湯呑み茶碗をテーブルに置いた。ささくれた畳には不似合いな、猫足にこまかな意匠をこらしたテーブル。それは前の屋敷から運び込んだ数少ない家具のひとつである。
「息がつまりそうね。ここは狭くて」
隣の家の塀がすぐ近くに迫っている。
「前のお家の寝室より狭い家にふたりで住むなんて」
母はため息をついた。
「あのひとはほとんど寝室なんか使うことがなかったから、わたくしひとりであの部屋を使っていたようなものだったから」
父がこしらえた借金の返済のために売り払った屋敷に、母は未練を持っていた。
「いまごろどうなっているのかしら、あのお家は」
「ホテルになったらしいですわ」
「ホテルに? おお、いやだ。どこの誰ともわからぬひとが好き勝手に泊まっているのね」
丸い頬を左右不対称にして母は肩をすくめる。
「あなたが勝彦さんと結婚してくれていたらどうにかなったのかしら……」
言ってから母は洋子から顔をそむけた。
「ごめんなさい。そんなことを考えてもしようがないわね」
「いいんです」
「いいえ、つい……。わたくしもほんとうはあの縁談にはもともと反対だったんです。あの方のお家はあまり良い家柄とは申し上げられなかったし」
賭《と》博《ばく》屋《や》、と株を取り扱う勝彦の家業のことを母がののしったのを耳にしたことがある。
「わたくしにはひとことも知らせずに勝手にあのひとが決めた縁談でしたもの」
母の頬がさらに左右いびつになる。下唇をわずかに曲げて、恨めしそうな表情が停止したまま動かない。能面のような顔だ。
「どこでどうしているのかしら、あのひと」
――華族制度の廃止で、父は小豆相場に手を出した。結果、莫大な借金をこしらえた。
屋敷を売れば少しは新しい生活をはじめるための資金が残ると洋子も母も思っていたが、ちがった。屋敷はすでに前々から負債の抵当になっていた。
〈いったいわたくしたちはどうしたらよろしいんですの?〉
母ははじめて父にきつく問うた。
翌日、父は妾《めかけ》のひとりと姿を消していた。
父が彼女に借りてやっている借家を、洋子が訪ねると、そこはもう雨戸が閉ざされていた。それでも何度か入り口を叩いていると隣人が洋子につたえに来た。
〈あのう、ここの家の人なら温泉へ行かれたんじゃないかしら〉
九州にある温泉地の名を挙げた。
〈なんでもそこが郷里だそうで、小さな宿屋をやってるんだ、って聞いてましたけど〉
洋子がどういう人間で、元の住人とどういう関係なのかに興味が並ならぬことを隠せぬ顔つきであった。
〈叔父さんだ、ってひとがよくみえてらして〉
父のことだろうと推測された。
〈それで今度里に帰って、叔父さんも交えて宿屋をするんだ、って。ええ、うれしそうでしたよ〉
〈そうですか〉
洋子は一礼をしてその場を立ち去ったのだった――。
母の入れてくれた茶を飲みながら、洋子は思う。もともと父を愛していなかったのだから、母は彼と別れてよかったのだと。父も、もし、温泉町で気の合う女と暮らしているのであればそれでいいだろうとも。
「お母さま、私、これから池井さんの所へまいります」
屋敷内にあった美術、骨《こつ》董《とう》品《ひん》の処分を池井にまかせた。月に一度、金になったぶんを彼は持ってきてくれたが、今月は画廊まで受け取りにゆくのである。
「晩餐会のときにつかっていた果物ナイフがあったでしょう? あれが高値で売れたそうですから、お母さま、たまには銀座あたりに出かけられたらよろしいわ」
「出かけるとよけい気がめいるわ」
「またそんなことをおっしゃって。狭いこのお家にいるのは息がつまるんじゃありませんでしたの」
すこし笑って見せてから、洋子はバイオリンのケースを持った。
「気をつけてね。ほんとうに洋子さんにはいやな思いばかりさせてしまって」
母は眼頭を押さえる。
「お母さまったら……いまはいまでいいじゃありませんか。健康に生きていられさえすれば幸せだと私は思っています」
率直な気持ちだった。
だが、洋子のことばは母に失くしたものを思い出させ、母の涙をよけいあふれさせた。そして母の涙は洋子に失くしたものの大きさを痛感させた。
「行ってまいります」
足ばやに洋子は玄関を出た。
遠くで藁《わら》を焼いている匂いに似た秋の空気が、長くなった洋子の髪のすみずみに入り込んできた。
池井武夫の画廊は焼け残ったのを修復したビルディングの一階にある。
壁に順序よく絵をならべた、街路からふらりと入れるような雰囲気ではなく、確実に品物を売ることを主としていた。
将校クラスらしいアメリカ人が三人、掛け軸の箱をわきに挟んで池井と話している。彼らが出ていくのを待ってから、池井は洋子を画廊内に通した。
「じゃ、これを」
池井はナイフの代金の入った封筒を洋子に渡した。
「どうぞ、かけて」
ソファを手で示す。
「一応、確かめてくれるかな。お茶でも入れよう」
洋子が封筒を鞄《かばん》にしまうと、池井は茶をテーブルに置いた。
「たしかに。お手数かけました」
「いや、ぼくにできるのはこんなことくらいで。きみにはすまないと思っているよ」
これは池井の口癖だった。
かつて郷戸の広い庭の離れでセックスしたあと、必ず、池井は言った。
「すまないと思う。きみをつらい気持ちにさせて。どうしても妻とは別れられないんだ」
馬鹿。心の中で洋子は密かに思っていた。
洋子は、フィアンセを愛していないように池井のこともまたすこしも愛してはいなかった。池井が離婚しないことをつらいと思ったことなど一度たりともない。
しかし、馬鹿、と心中つぶやくのは「池井に愛されるばかりで自分からは愛を与えていない」と、彼を低く見ていたからではない。
池井が自分を愛していないことも、洋子は知っていた。つまり、彼との関係は火遊びなのだ。どちらにとっても火遊びなのだ。
だが池井は、洋子が火遊びをしていないと思っている。彼の愛を信じていると思っている。池井にそう思われるのがいやだった。それをいくら話しても池井はわからない。
「きみにはすまない」
繰り返されると、憎悪さえおぼえた。
それなのに、池井との肉体関係をつづけたのは、二つの理由に因る。
洋子は自分の容姿が嫌いだった。顔も身体も。強そうでおよそ「はかない」という表現からかけはなれている。
がっしりした池井の体《たい》躯《く》を密着させると、その嫌悪する自分の強い容姿がわずかに弱くなったような錯覚を与えられた。
肌がきれいだ、耳のかたちがいい……あらゆる女にあてはまる無難な褒めことばを池井はためらうことなく口に出せる人間だった。うたかたの賛辞は洋子をうたかたに癒《いや》した。これがひとつめの理由。二つめは――。
*
――やはり敗戦前。
アトリエの中は暗かった。窓を閉めきり、鎧《よろい》戸《ど》まで池井が全部下ろした。
「これで存分に愉しめる」
池井は洋子を抱き寄せ、耳に唇を押しあてた。
「暗すぎるわ。それに風が入ってこなくて気持ち悪い」
カウチが置かれている場所にもっとも近い窓を、洋子は三センチほど開けた。光の帯が空気中の塵《ちり》を扇形にきらきらと反射させる。
「まだ暗いわ。暗くて池井さんの顔がよく見えないわ」
窓のすぐ下に電球ライトを、カウチに向けて置いた。
ライトはカウチを照らし、そのまぶしさは池井の視界と外部とを遮断する力があった。
池井は裸だった。洋子も服を脱いだ。
「よく見えるようにしたいの」
窓の外を気にしながら、洋子は池井の手をにぎった。
「洋子」
池井は洋子の唇に自分のそれを重ね合わせた。頑丈な体躯のわりに小さく薄い池井の唇を、洋子はいまいましく感じながら、ぴったりとくっついた彼の顔を見た。
池井は眼を閉じていた。閉じたまま、首をゆっくりと左右に振っている。
洋子は眼を開けたまま、かっ、と開けたままなのに池井が眼を閉じたまま、首を振るように唇を吸うのがいやでならなかった。
庭の土と草を踏む音が聞こえた。
音は窓の外で止まった。
光る眼が自分と池井を凝視していることを洋子は確信した。
「池井さん」
池井の背中に両手を絡ませる。視線は窓のほうに向けたままである。
池井は眼を閉じたまま、洋子の上腕をきつく挟み、それから尻の肉をてのひらいっぱいに掴《つか》んだ。
肉が開き、尻の奥が窓の向こうから覗いている人間の眼に晒《さら》されているかもしれない。すると、それまで池井とのセックスの際に感じたことのない熱い感触が下腹部からこみ上げてくる。
池井は洋子をカウチに押し倒した。
彼の体重が全身にかかってくる。
洋子は池井の身体をよけるべく身体の位置をずらせた。
カウチの背もたれに触れている左脚は池井の身体を乗せたままだが、右脚は自由である。一息ついた後、右脚を大きくひろげた。三センチの隙間から洩れる陽が、腿《もも》の付け根をくっきりと照らし出すように。
池井の唇が喉《のど》を這《は》った。喉から耳、耳からうなじを這い、鎖骨のくぼみに指が触れる。
ああ、と洋子は言ってみた。窓の外に向けて言ってみた。
脚を動かす。池井の腿の外側と洋子の腿の内側が接触し、さらに脚を動かすと、濃い体毛が洋子の腿をこすった。
腿の内側で相手の脚の形を確かめる。男の脚だと思う。
てのひらを胴にあてる。くびれていない。男の胴だと思う。
窓の外にいる人間も男だ。彼も男の身体を持っている。
はじめて眼を閉じた。
男の身体にきつく抱きつき、窓の外を想った。
「滅茶々々にして」
声を高く、細くして、よく聞こえるように言った。
池井の身体が腿のあいだに置かれても、洋子は眼を開けなかった。カウチがきしみ、男の額の汗がかかる。
窓のそばには通り雨を受けた樹木がある。水滴が風に散って、覗いている彼の額も濡《ぬ》れているだろうと、想う。汗をかいたように濡れているだろうと。
情事のあと、洋子は窓を開けた。
庭の木と木の中を駆けてゆく人影があった。
「誰か、覗《のぞ》いていたわ」
「え?」
「私たち、覗かれていたわ」
「誰? 口止めしなくては」
「いいわ、そんなこと」
「だめだよ。念には念をいれておかないと。勝彦氏との婚約が破談になるって危険性もある」
覗いていたのは女中か、と池井は訊《き》いた。女中なら金をつかませておかないといけないと言う。
「そうしておくわ」
庭を見たまま、洋子は言った。知らないうちに涙があふれた。
「どうした? 泣いているの?」
池井はハンカチーフで洋子の涙をぬぐった。
「なぜ泣くの? 覗かれたから?」
「いいえ」
池井から離れた。
「結ばれることを夢みても、けっしてかなわないひとだから」
拭いても拭いても、涙はあふれる。洋子は自分の扱いに自分でとまどっていた。
「すまない」
池井が言う。
「ぼくは離婚するわけにはいかない。きみだってきみの立場があるだろう」
あなたと結ばれることを夢みたりはしないわ、と言おうとしたが涙が喉につかえて言えない。
「代わりなの……」
それだけをやっと言った。代用品。それが池井と関係をつづける最たる理由だった。
「何? 聞こえないよ。何だって?」
池井は二度ばかり訊き返したが、洋子は泣くばかりであった――。
*
――画廊の入り口を一《いち》瞥《べつ》してから池井は言った。
「きみのこと、いまでもずっと好きだよ」
「……ありがとう。池井さんは親切な方ね」
「そういう意味じゃない。金のことなんか」
相変わらず女心をよろこばせることばを口にすることを忘れない池井を親切であると洋子は言ったのだが、彼は美術品の売りさばきのことを言ったと思ったらしい。
「あの絵ね」
壁の一隅を池井は指さした。
「バイオリンを弾く自画像、って題をつけたんだ。ただし誰にも売らないけどね」
池井の指さした方向には、簡素な額縁に木炭画が収められている。
それは洋子が描いた。が、自画像ではない。弟を描いたものだ。
「あれは……」
そのまま洋子は口を噤《つぐ》んだ。池井に、絵が弟であることを教えたくなかった。
「一日一度は思い出すよ、きみの顔。あれを見て」
向かいのソファから位置を変え、池井は洋子の隣にすわる。
「身体も」
ゆっくりとつづけた。洋子が身を離そうとすると、
「どう? 仕事、つらくない?」
池井はもっと近づいてきた。
「それは考えないようにしています」
「そう」
池井の眼が澱《よど》み、彼は洋子の耳に口を寄せる。
「じゃあ、何を考えてる? 客に抱かれているとき」
池井の手が洋子の手を掴んだ。
洋子は池井の眼を正視した。脂が浮いたようにぎらぎら澱んでいる。
彼の手をふりほどき、洋子はソファから立ち上がった。
「抱かれているときに考えていること? 昔のことが多いですわ。あの絵を描いたころのことなどを」
「つれない仕事ぶりだな」
立った洋子の肩を背後から池井は抱き寄せる。
「ぼくが客で行っても、そうか?」
「ええ、仕事ですもの」
洋子は池井からそっと離れた。
「じゃあ、失礼します」
画廊を出た。
*
「この部屋か?」
脂臭い濁《だみ》声《ごえ》がドア越しに聞こえた。
洋子は下げていた頭を上げ、ドアのほうを向いた。
女主人の含み笑いがして、濁声も笑った。
ドアが開く。
「こんばんは」
濃い口紅で染めた唇をあまり開けることなく洋子は言った。
「ほほっ、こりゃ上玉や」
濁声の客は上から下まで洋子を見て、だぶついた頬を照り光らせる。
四十二、三歳の男である。洋子よりも背は低いが、いかにも健康そうで病気知らずといった体格をしている。
「そりゃあそうですよ、何てったって」
口元を袂《たもと》で覆い視線を流した女主人のことばを受けて、
「元は華族のオジョウサマ……」
客は長く、ひっひっ、と笑った。
「ジュンっていうんですよ。さすがに上品な娘でしょ」
「ごもっともごもっとも……こりゃ期待以上やった」
ひっひっ、と、また笑う。
「じゃ、ジュンちゃん、こちらの方、もう充分にしていただきましたからね、よろしくするのよ」
女主人は出ていった。いやに愛想がいい。この客はよほどの金額を彼女に渡したとみえる。
「へ、へ、へ」
朝鮮動乱の勃《ぼつ》発《ぱつ》で金まわりがよくなりはじめたらしいこの客は、ふたりきりになるとすぐに洋子の手をにぎった。
「し、子爵さまのご令嬢だったって?」
「ええ」
女主人はタツから、また、タツを通して池井からも、洋子の家庭の事情をよく聞いているはずである。が、話の途中はすべてとばして「元子爵令嬢」という肩書きを盾に、それでなくても他の娼《しよう》窟《くつ》よりも高い金額をよりいっそう高くして、客から取っていた。
「いくつや?」
「二十歳」
二十六だが、女主人から二十歳と言うように言われている。
嫌いでしかたのなかった中性的な顔は、いまはかえって彼女を若く見せるはたらきをしていた。その顔に女主人の指図どおりの化粧をすると、多くの客が望んでいるような「若い色気のある娘」の顔になるのだった。
「若《わ》こうて美人で元華族さまか。今度ばっかりは運がよかった。いや、こないだもな、あ、ちがう店なんやけど、元公爵令嬢やゆうんで高い前金払わされてなあ」
好色を隠さないそぶりで洋子の手を、客はにぎりつづける。
「それが部屋に入ってみたらとんでもない。鼠みたいな女がいよる。話したら、またとんでもないがな。とてもとても公爵令嬢やなんて……」
ふぉ、ふぉ、ふぉ、と客はへんな具合に息を吐く。
「あんたはちがう。品もあるし、何ちゅうたかて、インテリゼンスっちゅう感じがある」
挨拶程度しかしゃべっていないのに、客は洋子をそう評した。
「はじめないんですか?」
ブラウスとスカートを脱ぐ。
「いいんや。まだ、いい」
「でも、時間が」
「女将《 お か み》にはロングで金払《は》ろたるんや。あんたみたいな上玉と最初からあわただしゅうやりとないわ」
黒い、娼婦らしいスリップのままベッドに腰かけている洋子の肩に客は手をかけ、
「話、聞かしてんか」
顔を覗《のぞ》きこむ。
「話って?」
「身の上話や」
「そんなの……、べつにたいした話、ありません」
「ないことないやろ? 華族さまのご令嬢が身を売るはめになったんやさかい」
客は華族の没落に妙に興味を持っているらしい。
「……戦争でお屋敷が焼けてしまって、父ともはぐれて、どうしていいのかわからないところを悪い人に騙されて……」
ありがちな筋を短く曖《あい》昧《まい》にしゃべった。一部始終を話したところで、どうせ他人には五十歩百歩の事情である。
「そうかそうか」
客は、スリップからはみ出した洋子の肩と上腕をさすった。
「ジュンちゃん、やて? 女将がつけてくれたんか?」
「いいえ……本名から」
嘘をついた。洋子は客に「潤」という字を教えた。潤、それは潤子という名からとった――。
*
敗戦前。
日独伊三国同盟が締結され、日本はただひとつの方向に向かいはじめていた。
奢《しや》侈《し》を咎《とが》める立て看板が都内のあちこちに立つ中、父はパーティを開くと言いだした。
「ぜいたくこそ報国。紀《き》元《げん》節《せつ》祝いは終わってやしないんだ」
父は泥酔していた。
サロンはもちろん、テラスにも庭にもモールやら花やらが飾られ、玄関には楽隊まで到着している。
「いったい何事でしょうか」
大あわてでパーティの準備をしている使用人たちの、こぜわしく動きまわる中で母はおびえたように洋子に訊いた。
「お母さま、何もお聞きになっていらっしゃいませんでした?」
父と母のあいだで会話が成り立っていないことはすこしもめずらしいことではない。
「だってあのひとはこの一週間、ずっと帰っていらしてなかったし」
母の頬が左右いびつになった。
「今朝はやくに帰ってらしたとたん、電話をかけまくってらっしゃるだけ……。乾《けん》坤《こん》一《いつ》擲《てき》のお仕事ぶりですからね、どうせまた失敗をなすったんでしょ。政治家にいいように道具にされて……」
父の事業が芳《かんば》しくないことは洋子にもおおよその見当がついていたが、そうしたことには触れず、ただ、パーティであること、誰と誰が来るかということなどを母に話した。
「要するに気まぐれですわね、パーティを開くのでしたらわたくしのほうでもお呼びしなくてはならない方がいらっしゃるのに……」
「いまからでも間に合いますわ。お母さまもお友だちにお電話なさって」
「いいえ。よろしいんですの。すべてはあのひとが勝手にたのしめば……わたくしが手出ししてやっかいなことになるのは疲れますもの」
母は、二、三歩進んでテラスに出た。
とてもよく晴れた日だった。庭の金モールがぴかぴかと揺れ、テラスの白い手すりが光の反射でその縁をぼやけさせている。
やはり白いサロンペットとキャップを光らせて、女中たちは忙しそうにも嬉々として庭にテーブルと椅子を運んでいる。元気なかけ声と同時にふたりがテーブルクロスを中空にひろげた。
ばん、と布は張り、光る風をつくりながらテーブルの上に下ろされてゆく。まぶしい外の風景から、洋子は母を振り返った。
真っ暗な部屋に母の、表情の停止した顔がまるで幽霊のように浮かんでいた。
「私も電話して、菜穂美さんなど騒ぐのが好きなお友だちを誘ってみますわ」
テラスから真っ暗な部屋を通り抜ける。
「そうなさって。高志さんにもお友だちを誘わせるといいわ。あなたたちだけでもたのしくなすって……」
うしろから母の声が追ってきた。
廊下を進むうち、次第に眼が屋内の暗さに慣れてくる。
廊下のつきあたり。階段を下りようとして曲がったとき、のぼってきた高志がいた。
眼は庭の光を忘れていた。高志の胸の輪郭は明瞭である。幽霊ではなく、息をし、ぬくもりのある人間の胸である。
その胸をやさしいと感じた。長身の弟の胸はちょうど洋子の眼の位置にあった。
「ああ、姉さん。お父さんがおまえたちも誰か招くように、って」
胸が近づく。弟の、自分とは異なる性のかすかな体臭が空気に混じる。
「そう。いま、私もお母さまとそんな話をしていたところよ」
高志の顔を見るのを避けた。手を見た。花瓶を持っていた。
「何なの、これ」
「これ? 部屋に生けてあった花なんだけどあんまり強い香りだから」
花瓶は空である。
「捨てたの?」
「うん。だって、あんまりたくさん生けてあるから頭が痛くなって」
「そう……」
花は、洋子が生けた。女中ではなく自分が生けたことを知らせるために、故意に無造作に生けた。
「捨てたことが何か?」
やさしい胸は静かに上下している。無垢の残酷は洋子を苛立たせる。
「いいわ。お母さまにはよく言っておく。気を悪くされるといけないから」
花を生けたのが自分かどうかを訊《き》かれる前に洋子は、母が花を生けたことにした。
パーティには父が招いた大政翼賛会の前田という政治家が来ており、部屋の中央で、庭のテーブルで、父と盛んに談笑している。
洋子と洋子の遊び友だちの菜穂美、高志と高志の同級生の佐々木が四人で話していると、そこへ、父はやって来た。
「高志、前田潤子さんだ」
四人にではなく、高志、とわざわざ名を呼んで父は潤子を紹介する。
「はじめまして。ごきげんよう」
ひとをなごませるような明度のある細い声であった。くすみのない白地の顔が人いきれでほんのりと上気している。
「はじめまして。郷戸高志です」
高志の頬もわずかに上気した。
「やあ、これはどうも」
佐々木が品の良い冗談を交えた自己紹介をすると、潤子は可憐に小さな口に手を添えて笑う。
その手も小さく、こわれそうにはかない。手だけではなく、華奢な撫で肩、華奢な腰、全身がはかなかった。
「今、雑誌の『令女界』なんかのお話をしておりましたの」
菜穂美が無難な話題を切りだすと、潤子は微笑みながらうなずく。
「ああいう雑誌に載っている叙情画のお話をね。あたしは……」
竹久夢二が好きだと告げてから菜穂美は潤子に訊いた。
「潤子さんは誰かお好きな挿絵画家なんかいらして?」
「わたし、中原淳一が大好きですわ」
「ああ、似てるじゃない。潤子さん、中原の描く女の子に」
佐々木が言った。
「ほんと。似てらっしゃるわ。着物を着たらぴったりじゃない?」
洋子は佐々木に同意しながら、ふと、壁にかかった大きな鏡を見た。
佐々木の隣に潤子。潤子の隣に洋子。洋子の顔は鏡を見ているが、佐々木と潤子は鏡のほうは向かずに話をしている。
小柄な潤子は佐々木を見上げ、佐々木は潤子を見下ろしている。鏡の中のふたりの構図は、たおやかで繊細な潤子が佐々木に庇護されているかのようである。
繊細な潤子の隣に立つ自分の肩は佐々木の肩と同じ高さにあり、いかめしく、いかにも鈍感に映っている。
洋子はそっと潤子から離れ、そばの椅子にかけておいたショールをはおった。
「最近は雑誌が少なくなってしまったわね。ひとがパーマをかけようがかけまいがよけいなお世話」
わざとおどけた蓮《はす》っ葉《ぱ》な表情をつくって洋子は言う。わざとらしい表情を自分で感じた。上唇が乾いて歯に付着してしまったような感触がある。
「国民服だなんて馬鹿みたい」
「姉さん、大きな声で言わないほうがいいよ、そういうこと」
高志が洋子を諫《いさ》めた。
「新しい挿絵が見られなくなって寂しい、って意味でおっしゃったのですわ」
潤子は厭味なく、場をとりつくろい、
「もう子供でもあるまいに、とお母さまなどに叱られながら、わたしも中原淳一の挿絵を切り抜いておりますの」
と、ちょうどいいくらいの幼さを告白した。
嫉妬ではなく、
憧れ、
を、洋子は潤子に抱いた。嫉妬を抱くには、潤子は自分よりもあまりに女らしく、それが悲しかった――。
*
――客は洋子の首すじに唇を押しあてた。
「潤ちゃんは、薄いきれいな肌してんなあ」
「あ、全部、脱ぎます」
「いいんや。いいんや。脱がせたいんや」
客は洋子の頤《おとがい》の下でくぐもった声を出した。
「華族さまを抱けるやなんて男冥利につきる」
洋子の耳《じ》朶《だ》を唇で挟む。肩や鎖骨にも唇をあてる。
客の身体は熱い。平常の体温が低い洋子には、彼がよけいに熱く感じられた。
シーツの上で脚をすべらせ、洋子は冷たい場所を探った。動く洋子の脚に客は自分の脚を絡ませる。
「冷んやりして気持ちがええ」
黒いスリップの紐《ひも》を、客は洋子の肩から抜いた。ふむ。と息をつく。
ブラジャーはつけていない。静脈が透けた乳房を客は見た。
「こりゃ、肉体美や」
客は洋子の肢体を手放しで褒めた。
いいひと、なのだろうと洋子は客のことを思った。池井に似ているとも。すこし似ていて、この客のほうが池井よりもずっといいひとだと。
自分の外見は多くの男性には魅力がないはずだ。客が洋子の身体をきれいに思うのは「悲しい運命に巻き込まれた元華族を金で買った」という意識の作用なのだ。彼はそれを自覚しはしないが。
「女そのものっちゅう身体や」
女らしいということなのだろうか。洋子はふしぎな気がした――。
*
――パーティでは挿絵の話がつづいた。
「挿絵にたとえるのでしたら、菜穂美さんは加藤まさを、ね。あの絵の雰囲気でいらしてよ」
潤子が菜穂美を評した。潤子のものの言い方は、ごく控えめである。
彼女が話しだすと、洋子は「しっかり聞いてあげなくてはならない」という気分になった。そうしないと彼女は泣いてしまう感じがした。
「佐々木さんはあのひとに似ているわ」
菜穂美が二枚目で売る映画俳優の名を挙げた。
「ええ、そうかなあ。やっぱり?」
佐々木の話術の巧みさは天性のものである。
「洋子さんは……ええっと……」
潤子の清純な細い首がわずかに傾く。
「伊藤幾久造」
潤子が絵描きの名を出す前に、佐々木が言った。
「いやだわ、そのひとって少年画で活躍している絵描きさんじゃないの」
菜穂美の腰がよじれ、肘《ひじ》が軽くしなって佐々木の腕を叩いた。
「剣士のようにいさましい、と褒めたんですよ。ご時勢柄」
洋子は何か気のきいたことを言って皆を笑わせなくてはならないと思った。そうしないと自分の体内に翳《かげ》りが走ったことを高志に気づかれてしまう。それは洋子にとって悔しいことだった。
「佐々木さんは相変わらず口が上手ね」
しかし、これくらいしか、洋子は思いつかなかった。それでも、佐々木と菜穂美と潤子は笑った。
「高志さんは……そういえば、あなた、お父さまにもお母さまにも似てないわね」
菜穂美がしげしげと高志を見る。
「姉さんに似てるよ」
高志は言った。
「そりゃそうだ」
佐々木と菜穂美と潤子に交じって洋子も笑った。笑いながら一瞬だけ高志の上腕に肩をあてた。
弟の腕をやさしく感じた――。
*
――冒険少年の物語の挿絵に似ていると言われたのに、現在は「女」を売っている。そんな自分が奇妙だ。
「へへ、そそるおっぱいや」
客が洋子の乳房を掴んだ。
「どや? 華族のご令嬢でもこんなふうにされると感じんのんか?」
両の乳房を掴んで、揉む。
「ええ」
抑揚なく洋子は答える。他の娼妓のことはわからないが、乳房は性愛の部分であるから、客をとる身であっても触れられれば性的な感触をそのつど感じる。
しかし、それは客をとる身なりに感じるという意味であって、いま、この客が尋ねている意味とは異なる。
「こんなのはどや?」
客は洋子の乳頭を、親指と人さし指で摘《つま》み、ねじった。指のはらで押したり、口に含み吸い上げたりもした。
「感じるか? 尖っとるで」
「ええ」
いいえ、とは言えない。また、いいえ、とも思わない。
触れてくるものが人間ではなく、たとえ単純な物体であっても、乳首は痼《しこ》る。温度や気圧の変化でも痼る。
快感で痼るのではない。皮膚の反応だ。
「ええ、感じるわ」
客への礼儀として、洋子は彼の背中をてのひらで摩《さす》った。
「きれいや。潤ちゃんはすべすべしてきれいな匂いがする」
客は洋子の腹にも唇を押しあてながらパンティを脱がせる。股間に顔を埋めた。性器を舐《な》めている。客のなまあたたかい舌が襞《ひだ》を擦った。
「どや。子爵令嬢やったのにこんな恥ずかしいとこをわしに舐められるのはどんな気分や? 恥ずかしいか?」
股間からすこし顔を上げ、客は洋子に問うてみる。
「恥ずかしい……?」
「せやろ、恥ずかしいやろ。こんなとこ舐められて恥ずかしいやろ」
洋子は「恥ずかしい?」と、語尾を上げたつもりだったが、客は聞きちがえたらしい。
「……」
不思議だ。売り物になった性器を舐めてくれるこの客に、洋子は一種の感謝めいたものをおぼえたのだが、彼は洋子を辱めていると思っている。
「いひひ。令嬢や。令嬢の×××や」
股間で唾液を啜《すす》る音がする。ゆったりとした心で洋子はそこを舐められていた。それこそ「令嬢」であったころ、女中がよく髪を梳《す》いてくれた。そのときの気分に似ている。
客は噎《む》せるような息づかいをして、唇を性器から太腿の内側へ、腰へ、腋下へと移動し、ふたたび乳房を強く吸い上げた。性器には指をあてた。
客が性器を指で擦る。洋子は性器がすぐ湿りはじめるのが自分でわかった。
悦《よろこ》ばしいからではない。膝頭を叩かれれば自然に脚が跳ねるのと同じ反応である。脆《ぜい》弱《じやく》な皮膚でかたちづくられたそこは傷つくことを防ぐために潤む。
「へへえ、濡れてきた。華族さまが濡れてきよった」
客は満足そうに笑っている。
洋子は身をよじるようなしぐさを作ってベッドのポールにかけたブローチに触れた。
それから、客にコンドームを装着する。
「挿《い》れて」
できるだけ遠慮がちに言うのは媚《こび》を売るためだ。媚を売るのは男を騙すためだ。男を騙すのは男を嘲笑するためだ。そして嘲笑するのは傷つけるためだ。弱い男を。
「もう、挿れてよ……」
声をひそめて腰をよじる。
「そうか、欲しいのか」
けけ、と客の喉が鳴った。ペニスが差し込まれる。ベッドがきしみ、洋子は喉を大きく反らせてブローチを見ていた。
「ははあ。最高やったで、潤ちゃんの……」
お道具、と下世話な呼称を客は用いた。
「貴婦人をコマしてもうたるのはたまらんな」
「私は貴婦人じゃなくて娼《しよう》婦《ふ》です」
「こらええわ。貴婦人娼婦に堕ちる、か」
いいえ昔からそうよ、ということばが出そうになったが洋子は制した。
「貴婦人堕ちる、か」
客は繰り返した後、黙ってしまう。
沈黙がつづいた。
「どうしたの?」
洋子が訊くと、客は大きく息を吸ってから、
「なあ、わしはあんたを買《こ》うたんや」
と、持ってきた鞄を膝に乗せ、ファスナーを開けた。
「高い金払《は》ろてロングで買《こ》うた。せやからなあ、こういうことさせてくれへんか」
鞄から一冊、雑誌を取り出した。
『犯罪読物』。
表紙に色つきの絵が描いてある。縛られた金髪女性のわきからピストルを持った黒い手の影が見えている絵である。
金髪女性はイブニングドレスのような裾の長い洋服を着ている。縛られているために片方の乳房がドレスからこぼれそうになり、ドレープの多いスカート部は太《ふと》股《もも》まで引き裂かれている。足下にはハイヒールが片方と球状の宝石を連ねたネックレスがころがっている。泣きだしそうな顔をした女性の後方に風に揺れているふうのカーテンがあり、ピストルを持った手はくろぐろと銃口を彼女に向けているのだ。
りべらる雑誌、あるいはカストリ雑誌と呼ばれる類の雑誌だった。
「この表紙の女みたいな貴婦人をこないするのが夢やったんや。女将に渡したんとは別にこづかいを出すさけ、頼む」
額の前で片手を上げ、洋子を拝んでみせる。
「私をピストルで撃ちたいの?」
表紙の絵の中でもっとも洋子の目を引いたものは、ピストルを持った黒い手だった。殺人行為の気分を客が味わってみたいのかと思った。
戦争は洋子に、限りなく生命の価値を知らしめたが、戦争によって失ったものは、彼女の意識をどこかでつねに死に結びつけがちだった。
「ピストルで撃つ? 阿呆な。そんなこと誰もしとないわ。縛られてもらいたいんや」
雑誌のあるページを開き、客は示す。
「これや、これ。これがわし、ごっつう好きなんや」
『W公爵夫人』。
示された絵物語の題である。
「ちょっと読んでえな。頼むわ」
客が言うので、洋子は毛布を身体に巻いて活字を追った。
『W公爵夫人は美しく貞淑な女性だったが、かねてより夫人によこしまな恋心を抱いていた下男に巧妙に騙され別荘へ出向く。別荘には誰もおらず、待ちかまえていた下男が夫人にとびかかる。下男は夫人の四肢をベッドの柱に縛りつけ、衣服を引き裂き裸にして犯す。「許して」と目に涙する夫人の肉体は、しかし、下男の愛撫ではからずもエクスタシーを感じる』。
そういう筋書きだった。
(なんだ……)
雑誌を閉じ、洋子は微笑んだ。
「な、女が読んだかてムラーッとするやろ」
客は洋子が笑ったことを勘ちがいしている。
「どうぞ。好きなようにしてください。でも、この公爵夫人が着ているような服はありませんが」
「この黒いシュミーズでええがな。ひらひらしてドレスみたいや」
ベッドの下に落ちているスリップを拾って客は洋子に着せた。
「ヒロポン打つんならいまのうちやで」
「いいえ。私はやりません。お客さんは?」
客の顔や身体にはヒロポン常習者の徴候は見受けられない。
「いや。ええんや。わしはやらんけど、あんたがもしやるんやったら打ったほうがええ思て……でないと……やりにくいやろ、その、こんなこと……」
客の頬に羞恥の色が浮かんだ。洋子に背を向け鞄の中身を取り出した。麻の縄だった。
「こんなふうな趣味は……ことさら異様な趣味ではないのでは……」
「……」
麻縄をさばくのに懸命で、客はろくに聞いていない。
「最初からこうしたいと、なぜ言わなかったんです?」
「そんなこと……」
洋子の手首にロープを巻きつけ、ベッドポールに括《くく》り終えると、客は小声で言った。
「そんなこと切りだせるかいな、はじめから。縛らせてくれ、なんて言うたら変態やと思われるのがオチや」
「そうかしら……」
男が女を縛ること。その行為は正と負が逆転してしまった性ではない。性のベクトルは健全な方向を向いている。
「せやけど、しょがない。しょがないんや。好きなんや」
洋子の胸のまわりにロープが巻きつく。乳房が絞り上げられる。
「ごっつう猟奇的や」
女体に縄が巻きついている光景が、要するにこの男の欲情をそそるだけのことである。
「リョウキテキ……」
リョウキテキ、リョウキテキ、と二回、洋子は口内で唱えた。そのことばは彼女にとって硬く冷たく響いてくる。
「ひひっ、あんた、こうすると表紙の外人女そっくりや」
客は短くないあいだじっと洋子を見下ろしていた。洋子も彼を見上げた。
「見るんやないっ」
客が言い、洋子は顔を横に向けた。鞄を探る気配がし、すぐに鋏の刃が肌に触れた。
じょきじょきと大仰な音をたてて鋏が動き黒い布が裂かれてゆく。裂けた布から乳房が露出し、それを客はわし掴《づか》みにした。
先刻よりもずっと強い力である。強さに加え粘りがある。乳房を掴みながら、徐々に鋏を下方へと進めてゆく。尻がむき出しになりその肉を客は掴んだ。
「ええ肉づきや。ひねりまわしたる」
客の五本の指の力が肉に食い込んでくる。痛手を受けなさそうな健全な神経線がぎっしりと詰まった強《きよう》靭《じん》な指。明るい指。
「何《な》んか言《ゆ》え」
「ああ……」
技巧的な喘ぎを、洋子は出してみせた。
「痛いか」
「痛いわ……」
痛いわ、の後に、許して、とつづけた。男が望む女の演技をしてみせたとたん、洋子の身体の奥から勝利感が湧《わ》いた。
「ああ、許して」
技巧的に繰り返すほどに勝利感は全身にひろがり、いっそげらげらと笑いたくなる。
客が交接の形をとった。ぐちゃぐちゃと音がした。ペニスを咀《そ》嚼《しやく》する音のようであった。
「おおきに。たのしませてもろたわ」
客は洋子に金をにぎらせ、煙草に火をつけた。
「明日の朝、早《は》ように東京を出て帰るんや。今晩は雨になりそうやな」
煙草を一本吸い終わるあいだに彼はそれだけを話した。
「潤ちゃんは、きょうだいは?」
「……弟がいたけど死にました」
「戦死か?」
弟はレイテ島で死んだ。
「そうか、可哀相になあ」
客はそれっきり話をやめて、立ち上がった。部屋を出る際、洋子を振り返って言う。
「あんたとは相性がええんやわ、きっと」
「また来てください」
客は最後まで勘ちがいしていた。
ぱたん。手を触れないのにドアが閉まった。
ベッドに腰かけ、ブローチの水晶の部分を洋子は閉じた。それはロケットになっていて、水晶部分は蓋《ふた》なのである。
客の相手をするときはいつも、洋子は水晶の蓋を開けておく。客が帰ると閉じる。
小さなその内部には弟の写真が入っていた。写真を入れたのは洋子である。弟はべつのものを入れてブローチを姉に贈った――。
*
敗戦前。
空は斑《まだら》の鉛色で北風が吹く秋の日である。
洋子はずっと離れにこもって絵を描いていた。若い女の胸像を描いていた。
葉を煉《れん》瓦《が》の色に染めた樹木が窓を擦っている。樹木はきしきしと窓を鳴らした。
窓が鳴るたび、膝小僧や肘の脂分が失われて粉のようなものが噴き出してくる感じがする。美しい木の葉の色を見せるのもつかの間に、秋はすぐに疲れ果てて冬がまた来る。
冬が来るのは憂鬱だった。
勝彦との婚約を決められ、その正式な結納を冬に行うことになっている。
洋子はカーディガンの前を開いた。カーディガンで隠すように内側にブローチをつけている。
梟《ふくろう》の意匠をほどこした水晶のブローチである。精緻なカットをつけた水晶の隆起は、今日のように曇った日でも光っている。こなごなに水晶を砕《くだ》きたくなった。無垢な光を壊してやりたくなる。
指のはらできつく押すと、不意に水晶の部分が浮いた。
「あ」
ブローチがロケットになっていることに、洋子はそのとき気づいた。
小さく折った紙が中に入っていた。
〓“(結婚おめでとう)〓”
紙にはそう書かれていた。
「……」
洋子は紙を灰皿で燃やした。いやな文字が燃えてゆく。洋子の心はかすかに慰められた。
画布の女を洋子は眺めた。
ずいぶん前に買った『少女の友』をイーゼルの横において中原淳一の挿絵をまねて描いた女である。
うまく描けていない。中原の絵にはあまり似ていなかった。しなやかな首と肩の線を描こうとしてそうはならなかった。はかない口元を描こうとしてそうはならなかった。たおやかな腕を描こうとしてそうはならなかった。
洋子は決心したように筆に赤い絵の具をつけた。女の眼の下にその色をにじませ、頬をつたわらせる。男性の庇護を求めて弱々しく泣いていることにしようとした。
だが、赤い涙はやはり血を流しているようにしか見えないのだった。
筆をぞんざいに床に置き、洋子は母屋へもどった。全身がだるく、のろのろと階段をのぼった。
自室のドアを開けようとするとひとの気配がする。鍵はかかっていない。そっとノブをまわすとドアは開いた。
部屋には高志がいた。高志はベッドにうつ伏していた。
肩がぴくっとこわばり、腰のところにあった手がゆっくりと上に上がって肩と平行になる。そのまま硬直したように彼は動かなかった。
箪《たん》笥《す》の引き出しが開いたままになっていて、ベッドの上、高志の下にはブラジャーとパンティがある。ストッキングとガーターベルトも。
洋子は高志のうつ伏している傍《かたわ》らに腰かけた。骨盤に彼のわき腹の体温がつたわってくる。
「潤子さんのことを想像していたの?」
否定してほしくて訊く。だが、高志は答えない。
「……」
「潤子さんのどんな姿を想像していたの?」
高志の耳に口をよせた。
「こんな制服着たまま」
襟を引く。そこには銀杏の校章がついていた。
「私の下着、役にたった? オナニーの」
オナニー、の部分だけを湿らせて発音し、高志の耳に流し込む。高志の頬から耳までが赤く染まってゆく。
カーディガンで隠したブローチを、洋子ははずした。
「勝彦さんとの結婚式にはあなたのくれたこの飾りをつけるわ」
「……」
「あなたと潤子さんの結婚式には、私が潤子さんに何かを選んであげる」
選ばなくてもいいと否定されたくて言うが、高志は黙っている。
「なぜ黙っているの?」
こう訊けばますますひとを黙らせてしまうことを知って洋子は訊いた。高志が否定しないよりも沈黙のほうが救われる。
洋子は高志の右手をにぎった。洋子が入って来たときに、下腹部からゆっくりと移動したほうの手。
甲にブローチの針を刺した。
息づいている皮を、ぶつっ、と突き破った手応えが、針の先にたしかにあった。うつ伏した高志の顔は見えない。
「痛くないの?」
針を刺す力を強める。高志は何も言わない。血が出てきた。
「こちらをお向きなさい」
ブローチを離し、手を高志の顎《あご》の下に入れて振り向かせる。彼の目《ま》蓋《ぶた》は閉じられていた。
「あなたの目蓋、お菓子みたい」
摘んで口に入れれば舌の先で甘く溶けてゆきそうだと思う。
洋子は、しかし、目蓋ではなく高志の手の甲に唇をあてた。酸味と金属臭のある血の味が舌の上に乗った。
「ごめんなさい……」
ようやく高志は口を開き、勝手に部屋にしのび込んだこと、下着を取り出したことをあやまったのだった――。
*
――雨の音がする。
洋子は窓を開けた。
〈今夜は雨になりそうやな〉
客の言ったとおり、小《こ》糠《ぬか》雨が柘《ざく》榴《ろ》を濡らしている。
郷戸の屋敷の玄関にも柘榴があった。
「高志」
誰もいない庭に向かって洋子は呼んだ。
さらに過去がよみがえる。もっとも鮮明な過去の日が――。
*
――昭和十九年、秋。
玄関の柘榴は葉をすべて落としている。その柘榴のわきで郵便夫は高志に敬礼した。
赤紙が高志に渡される。高志、二十歳。帝国大学文科在学中であった。
「手に入れるのがたいへんで……これだけしか作れなかったのですけれど……」
家を発つ前日、母は食卓に高志の椀を置いた。
「お赤飯を炊きました」
母は泣いていた。父の生半可な政治家とのつきあいは金のトラブルを生み最悪の事態へ転んでいた。
「まずそうな赤飯だが、食ってゆけ」
彼は慣例のように母に悪態をついた。
「お国のために立派につとめを果たすように。敵を撃つには体力がないとな」
無意味に父は大きな声を出し、高志に赤飯を勧める。
「はい」
洗ったばかりのまだ湿る髪が下を向いた。
赤飯に箸をつける高志の手の甲を洋子は見た。小さな赤い点がついている。洋子が刺した針の傷は痕《あと》になって消えなかった。
指の長い、骨の硬そうな、少年の過敏な神経を感じさせるような手に赤い点がついている。
唐突に洋子は言った。
「高志、童貞でしょ」
一瞬、高志の手が止まった。手首の骨が明瞭に浮かび上がって清冽な緊張を見せている。
洋子は父に頬を打たれた。
「口をつつしめ!」
「こんなときに何てことを言うの! それも女のひとが」
母も洋子の膝を叩いた。
「はしたないこと言ったつもり、ありません」
父母のほうは見ず、高志だけを見て洋子は言った。
「心配してくれて、ありがとう」
高志は微笑んだ。
その日、空は真っ赤な夕焼けであった。座敷の畳も沸くように赤くなっている。
「結婚式に何かを選んでくれる、って姉さん、言ったね」
「結婚式? 洋子の結婚式のこと?」
母が高志に訊《き》いた。
「それ、今日、もらえないかな」
母には答えず、高志はつづける。
「彼女に選ぶ必要はないから」
バイオリンのE線が欲しい、と高志は言った。
「彼女? 誰のことだ? 彼女に選ぶ必要ないとはどういうことなんだ?」
父が洋子に訊いた。
「いいわ。あげる」
父には答えず洋子は高志に答えた。
「あの離れにあるから、あとで取りに」
「うん」
高志はすこしうつむいた。彼がなぜうつむくのかは、むろん、父母にはわからない。
「いったい何のことだ? 餞《せん》別《べつ》か? 餞別ならバイオリンの弦なんかやめてもっと別のものにするべきだろう」
「そうよ。一弦をはずして渡すなんていったいなんの意味があるというの」
父母は言った。
「いえ、いいんです。E線で」
「しかし、この時勢に絵だのバイオリンだのやってるだけでも非常識なのに……」
「いいんです。最後の願いになるかもしれないから、どうかそうさせてください」
父を制して高志がそう言うと、父も母も黙ってしまった。
洋子と高志は離れに行った。
「すごい夕焼けね」
「絵がみんな赤い」
「ほんと……」
「ちがう絵みたいだ」
「……覗《のぞ》いたときと?」
「……うん」
洋子は棚のバイオリンを床に下ろしE線をはずした。
「これに包みましょうね」
小さく輪にしてハンカチーフにくるむ。そして部屋の中央で、長いあいだずっと立ちつづけていた。
高志は洋子の膝の位置にあるカウチにすわっている。窓が夕陽の赤さに割れてゆきそうだ。
「……」
洋子は高志を見下ろした。弟は姉を見上げる。
「高志、あなたはたったひとりのおとうとよ」
彼の顎に指を添えた。体温が指をつたう。指を移動させ、唇に触れた。唇のかたちを確かめるように指のはらでそこをなぞる。
中指と人さし指を二本、ゆっくりと彼の口の中に挿《い》れた。頬の裏側を掻《か》き、舌を掻き、歯を掻く。
彼は従順だった。洋子を見上げ、指を舐《な》めた。
「私にはたったひとりしか……」
声を出したつもりだが、掠《かす》れてしまう。
「たったひとりしか……」
掠れてしまう。高志の傍らにすわった。高志を見、そして彼から顔をそむけ、また、彼を正視した。
「生きて帰ってきて」
大きく胸が上下する。
「待ってるわ。ずっと待ってるから」
高志の唇を塞《ふさ》いだ。彼の唇は震えている。おそらく彼にとっては最初のキスだろう。
しかし、洋子の唇もまた震えていた。これが最後のキスになるかもしれないと思い。
「帰ってくる。きっと帰ってくるよ」
高志の唇の動きが洋子の頬にあたる。
「こんなに。こんなに好きだから」
高志の腕が洋子の背中で絡んだ。
裸になった。肌と肌とを密着させて互いの唇をいま一度吸うとき、今度は禁忌を犯すことにふたりの唇は震えた。震える唇から吐き出される息はやがて乱れ、せつない和音のように部屋に響く。洋子は高志の手を自分の性器へ導いた。
「好きよ。高志」
高志のペニスを性器が呑《の》んだ。そこは子宮という海への深い逆流口だ。
他のどの男も洋子の肉体の真意を知らない。自分と双子の高志だけが知っている。
洋子は目《ま》蓋《ぶた》を閉じて、高志を抱きしめた。きつく、さらにきつく――。
*
――娼婦の部屋。
小糠雨に濡れた柘榴の実を、洋子は手をのばしてもぎとった。割り、細かく詰まった赤い粒に歯をたてる。
酸味とかすかな渋みが口いっぱいにひろがった。
柘榴は人間の肉にもっとも近い味がするのだと、以前聞いたことがある。南島に砕け散った弟の肉片を洋子は想った。
「姉さん、姉さん……」
自分を呼ぶ声が聞こえる。
「高志、高志」
誰もいない庭に向かって呼びつづける。
愛している。愛している。愛している。愛している。洋子は思った。
羊《し》歯《だ》の章 花言葉=永遠の契り
十二月三十一日。
夜。
睡眠剤の真新しいシートを、高志は開いた。以前から常用していた薬がもう効かなくなり、佐々木に相談した。佐々木は高志とは学生時代からの友人で、大きな病院の薬局に勤めている。
「新薬だ。これまでの睡眠剤類とはまったくちがうから、これなら効くだろう」
彼は内々に渡してくれた。
「しかしきみ、顔色がよくないな」
「ずっと眠れないからさ。トラブルが多かったからね」
「うむ、まあ、そりゃそうだろうな」
彼は高志に同情するようすを示した。
「ただし、この薬がこれまでのものとちがうっていうのはね、身体を凍らせてゆくのと同じ作用があるってことなんだ。だから、くれぐれも気をつけてくれ」
「わかってるよ。とにかく眠る癖をつけたいんだ。夜になって起きていると、ほら、どうしても思い出すだろ、いやなことを」
「そうだな。夜ってのはそういうところがある」
「満月がとくにたまらない」
「満月ね。ありゃ、いやなものだ。たしかに」
「だからさ、無理やりにでも寝て、朝、起きて疲れ果てるまで仕事をする。そしたらそのうち薬なしでも夜になったら眠れるだろう」
「夜を避けたいということか」
「ああ。薬に頼るつもりはない。明るい新年を迎えたいだけさ」
「いいことだな。それがいいよ」
佐々木は高志の肩を叩《たた》いた。
「すまないがもうひとつ頼みがある」
「なんだい?」
「年末から正月は病院も休むだろう。年が明けてからだって、いちいち足を運ぶのは何かと面倒だから……」
ある程度まとめて薬をもらいたい、と高志は頼んだ。佐々木はしかたなさそうに一シートごと薬をくれたのだった。
ウオトカをグラスに注ぐと、高志は薬を一錠、喉《のど》に流し込んだ。
満月である。
窓ぎわの壁に飾った羊歯の葉が光っている。羊歯は植物レンタル会社が新年用に持ってきた。金粉がスプレーされてあり、室内灯を消しているいま、きらきらとよく光っている。
ここは高層の住宅《 ド ー ム》で、ブラインドを上げるとあちこちの家庭の灯が見えた。それらはなぜか皆はるか遠くにあるように見える。
高志は細く窓を開けた。十二月末とも思えぬなまぬるい気温である。
微熱の体感じみた風がときに吹いてきて、羊歯の葉を揺らした。金粉が散る。宇宙を泳ぐ魚の鱗《うろこ》のように変則的に空を舞う。
月明かりだけの部屋の中で、高志はウオトカを二杯飲んだ。ウオトカが身体を徐々に熱くする。
床に腹ばいになり、羊歯の飾ってあるちょうど真下へ手をのばした。四センチほどの立方体の器がそこにはあった。香を焚《た》く容器である。
小さな重い蓋《ふた》には、最初は何も装飾がなかった。今は梟《ふくろう》の飾りが接着されている。もともとは衣類につける飾り物であったのを、金具の部分を壊して高志が接着させた。
蓋を開け、のろい動作で火をつけた。
何という名前の香なのかは知らない。ライラックの匂いに似ている。罪悪感をおこさせるような重圧感のある匂いで、はじめは嫌いだった。
一昨年《 お と と し》までいっしょに暮らしていた姉が、高志が嫌うのもかまわずこの香を頻繁に焚いたので、そのうち慣れてしまった。慣れた、というよりは、認めた、というべきかもしれない。はじめからこの匂いが好きだったような気もする。
姉は一昨年結婚して、いまはこの部屋にはいない。
「ずっといっしょに暮らすものだとばかり思っていたが……」
高志と、姉の洋子は双子である。
そっくりな顔をしているが、それでも洋子は女で高志は男だ。子供のころから姉と向かい合うたび奇妙な感じになったものである。ちょうど羊歯の下からライラックの香がたちのぼってくるように。
鼻孔にけだるい香が充ちてゆく。ウオトカが薬の吸収をはやめ、床に投げ出した長身はぐんにゃりと夢を見る。いや、夢ではない。現《うつつ》の幻と言えばいいか。まったく新しい睡眠剤だと佐々木は言ったが、確かにそうらしい。
香のけむりが、極く極くかすかにその流れを月光に映した。
高志は手の甲を爪で押さえた。高志の甲には小さな傷痕があった。
傷痕を眺め、高志はすこし笑った。
「頭が痛くなる」
と、高志が香を台所のディスポーザーに捨てたとき、姉がひどく怒ったことがあった。
感情の起伏の激しい姉だったが、そのときは声をあらだてるでもなく、ただひとこと、低く言った。
〈勝彦さんと会ったから、焚いたのよ〉
そのひとことが姉の怒りを確実につたえていた。どういう意味が含まれているのか、高志にはすぐにわかった。
勝彦、というのは姉と結婚した男、つまり、高志の義兄の名である。
勝彦の体臭を消すために香を焚いた、という意味なのだ。勝彦とセックスしたことをつたえてくることで高志は姉の怒りを知った。
他の双子がどうであるかはわからない。ただ、自分たちの場合にかぎっては、強い血縁意識があった。双子という特殊かつ強力な繋《つな》がりに対する信頼、そういう意識である。
勝彦との肉体交渉を姉がはっきりと高志に告げることは、その信頼関係を脅《おびや》かすものだ。
香を捨てたことを高志は悔いた。
ディスポーザーを空転させたまま立っている高志の肩に洋子が額をあてた。
〓“床に手をついて〓”
ことばはいっさいないが、自分たち双子は子供のころから、肉体のどこかが意識的に触れ合えばことばなくして会話ができた。
高志は姉の命令に従った。身体を折り床にうずくまると、洋子は彼の手を踏んだ。
「……」
傷痕のある手を月光にかざし、高志は過去を振り返る。
*
十一歳の冬の夜。やはりなまぬるい気温だった。
そのころは、住宅《 ド ー ム》の同じ階に両親とともに住んでいた。父と母はそれぞれ別々の部屋を使っていたが、姉弟は同室であった。
「高志」
真っ暗な中、洋子が高志を呼んだ。眠っているときだった。
「……どうしたの?」
「上の段にいるの、いやなの」
二段ベッドの上にいるのがいやだと洋子は言った。
「どうして? 代わったげようか?」
「ううん」
上段から下段へ洋子が下りてきた。闇の中で髪を洗った匂いが鮮やかである。
「高志といっしょに寝る」
「……こわい夢、見たの? ぼく、見てないよ」
印象の強い夢は、姉弟同時に同じものを見ることが多かった。
「ううん。私、寝てないもの」
「どうして? 眠れないの?」
夜の闇。遠い空で人工衛星が火星を巡る。耳鳴りがしそうな闇。洗い髪の匂い。そしてまた闇。
「いっしょに寝るの、いや?」
「いいよ」
高志は身体をずらした。いつも体温の低い洋子の身体がすべり込んできた。
「姉さん、また冷たいね」
洋子の手を摩る。
「毛布、うんととっていいよ」
毛布を洋子のほうへ押しやろうとすると、彼女は高志に抱きついてきた。
「高志、私、生理になったの」
「え?」
女体の成長の知識は学校の授業で知っていた。
「……いつから?」
「さっき。寝るころ」
「それで眠れないの?」
「……」
「よかったじゃない。昔はお祝いしたようなことなんでしょう?」
「うれしくないの」
洋子はいっそう強く高志に抱きついてきた。
「どうして?」
「高志と離れてしまう」
「離れないよ。双子だもの」
「でも、私は生理が始まったんだからいつか結婚する」
「双子で結婚すればいいじゃないか」
姉弟が結婚できないことを知らぬほど無邪気では、決してなかった。他の子供より早熟な小学生だったといえる。
が、このときは無邪気を装った。姉に対してではない。自分に対してでもない。
血の絆《きずな》を阻《はば》む漠然とした敵に対して、装わねばならないと本能的に悟った。
星の上に人がいる。国がある。極東の島。一律に並び建つ住宅《 ド ー ム》。闇が住宅《 ド ー ム》を覆い、それぞれの小さな部屋にそれぞれの人生がある。姉と自分、それは人生の最初で最小の、横繋がりの単位だ。
ふたりの絆を阻む漠然とした敵に対して、高志は装った。
「高志も生理になればいいのに」
「苦しいの?」
身を寄せ合っているため、洋子の少女の心情がひしひしとつたわってくる。出産という行為が遠い十一歳の少女は、生理の出血をたとえようもなく理不尽なものに思っている。
〓“なぜ私だけが血を流さなくてはならないの〓”
高志の皮膚に洋子の、音のないことば、があたった。
〓“たくさん流れてる?〓”
〓“わからない〓”
姉が幼く思われた。双子の姉は、これまでずっと高志にとって大人びた存在だった。初潮を迎え、成熟の証を得たいまだというのに、このとき高志には姉が幼く思われた。
高志は身体の向きを変え、洋子の顔を見た。部屋が暗いので眼だけが光っている。
彼女の眼にも自分の眼はこんなふうに映っているのだろうか。
〓“血、吸ってあげようか〓”
野生の母動物が子の傷を舐《な》めてやる感情で高志は洋子を癒そうとした。
〓“……うん〓”
洋子は布団の中でパジャマと下着を脱いだ。高志は布団にもぐり込み、そっと姉の腿《もも》に手を置く。
腿は手が置かれるとすぐに開かれた。高志はそのあいだに顔を埋めた。性の突起の無い亀裂は傷口に思われた。
傷口に舌をあてれば、かすかに金属の味がする。潮と鉄が混じり合った味。経血の量は多くない。舌先に金属の雫《しずく》が乗ってくるだけである。
〓“吸ってあげるからね〓”
亀裂にぴったりと唇をあて吸った。鋭利な流血が舌の上を走っていった。
確認するように喉《のど》を上下させ、血を吸い込む。血液は口内に走ってこなかった。また吸ったがこない。つぎも、そのつぎも。そのつぎのつぎ、血液はきた。白い歯の隙間が赤く染まったような気がするくらい多量の経血だった。呑み込むとすぐ、その血は自分の細胞の数を増やしてくれそうに、高志は思った。
〓“もう眠れるよ〓”
〓“うん〓”
高志の額を洋子はそっと撫でた。指は冷たかった。
*
額の冷たい指は夜風であることに、高志は気づいた。
目《ま》蓋《ぶた》を開けると、先刻とおなじく、光る羊歯が見えた。月が見えた。
高志はドレッサーに手をかけてぼんやりと立ち上がった。
姉は自分の持ち物をほとんど置いたまま嫁いでいった。このドレッサーも彼女が使っていたものである。
最上段の引き出しを開けてみた。リボンがたくさん入っている。ベルベットの素材は月光を吸収し、うじゃうじゃと蛇がいるように見えた。蛇の中にひとつだけ月光を跳ねるものがあった。金属の何かである。
掴《つか》んだ。小さく細長い円筒形の感触。口紅だ。
高志は口紅を顔に近づけ、底を回してみた。何色なのかはよくわからない。濃い灰色に見える。
口紅で唇をなぞってみた。はみ出さぬよう唇の内側をなぞり、噛《か》み合わせてのばす。
鏡を見た。室内が薄暗いので鏡面の中の自分の顔に男の体臭は感じられない。
だぶだぶした綿のシャツのボタンを二つ、はずした。シャツは姉弟兼用で使っていたものである。
鏡にうんと近づいた。
「姉さん……」
鏡面の唇に唇を重ねる。冷たい鏡が高志の唇を支えた。
引き出しをすべて抜き、乱暴に中身を床に放り投げる。セーター、リボン、櫛、キャミソール。洋子が身につけていたものが皆、床にひろがる。
〓“姉さん〓”
床を見つめ、高志は無言で懸命に呼んだ。
〓“姉さん、姉さん〓”
意識的に触れ合えば会話が、呼び合うだけなら離れた場所にいても可能な双子だった。
〓“姉さん!〓”
耳の奥に力をこめるといつも返事があったのに、結婚以来、この方法が不可能になってしまった。
しかし、今夜なら洋子は気づくかもしれない。高志は懸命に呼んだ。
答えはなかった。
「……」
呼ぶのをやめた。代わりにビデオのスイッチを入れた。
洋子のビデオである。
ホテルでの情交を撮ったものだ。
「いいもの見せてあげる」
勝彦との待ち合わせに出かける直前、洋子がビデオを渡してきた。
「ビデオ? 何でビデオなんか。画面が悪いのに」
「ビデオじゃないと撮れなかったのよ、古いホテルだったから」
そう言って洋子が勝彦に会いに出ていった、そのビデオである。
画面に映像が現れた。
男の後ろ姿。バスタオルを腰に巻き、ベッドの端にすわっている。
ベッドのある部屋はけばけばしい壁紙が貼られ、シャンデリアに似せた古臭い電灯が吊ってある。
一見してセックスするためだけの建物の中だということがわかる。
「ねえ、ちょっと」
画面の外で洋子の声がした。
「うん?」
洋子を振り向いた男の顔は、勝彦ではなかった。若い男ではない。四十二、三か。
顎ががっしりとした男性的な顔だが精《せい》悍《かん》な感じはしない。好色そうな中年男である。
男を高志は知っていた。勝彦の上司だ。
勝彦との結婚が決まり、
「こちらが仲人をしてくださるのよ」
と、洋子から紹介されている。四人で食事をしたこともある。
このビデオを高志は、これまでに二回見ているが、ビデオに現れたのが勝彦ではなく、勝彦の上司であることに最初から驚きはしなかった。
むしろ、会食のときに驚いた。テーブルを越えて絡み合う洋子と上司の視線が肉欲の色あいを帯びていることが、高志には明《めい》瞭《りよう》にわかった。
「カメラ、この位置ならうまく撮れるわよね」
洋子の後頭部が画面に映る。短く刈った髪は湯を使ったらしく水滴がしたたっていた。
「そう冷静に言うものじゃない」
「しっかり撮りたいのだもの」
壁紙同様けばけばしいバスローヴを着た洋子が男の肩にもたれる。
「撮って、そのあとはどうするんだ?」
「もう一度見るの」
「そしてどうする」
男が、洋子の身体を引き寄せようとするが、
「そして、って……」
洋子は思いつめた顔になっている。
「そして持って帰るわ」
洋子のウエストにまわした男の手が硬く止まった。
「持って帰る? 何のために?」
「ずっと持っているのよ」
この答えが高志を意識していることが、高志にはわかった。
「馬鹿なことを。勝彦にもし見つけられでもしたらどうするんだ」
この男にはとうていわかるまい。この男も勝彦も他人だ。
ふつうの姉弟とはちがう。自分たちは特殊な絆《きずな》で繋がった双子なのだ、と高志は思う。
「ずっと持ってて、あなたのことを思い出すのよ」
洋子は男に、煽情的な口元をつくってみせた。
「ひどいことを考えたものだな」
男は洋子の真意を知らぬまま、勝ち誇った表情で彼女に覆いかぶさる。いい気味だ、と高志は男を嘲《わ》笑《ら》った。
「洋子……」
口を吸い合うふたりをカメラセンサーがとらえ、画面に映し出す。
頬を窄《すぼ》め、眼を閉じて、男は洋子の唾液を啜《すす》り舌を絡ませている。洋子は眼を開いていた。
男はきつく、洋子の身体がゆがみそうなくらいきつく彼女を抱きしめる。けばけばしい紫色のローヴがしわくちゃになる。
長いキスだった。
男の毛深く厚い胸板を押し退《の》けるように洋子は位置を変えた。その背後から男が洋子をふたたび抱きすくめる。
バスローヴの襟に両手をかけ、左右にひろげて腰までずり下ろす。青みがかった洋子の乳房が飛び出した。
画面の正面で肉の毬《まり》が二個、跳ねた。三度目のビデオ再生でも、高志にはその肉の毬はまぶしい。
洋子の首のうしろで男の眼が脂ぎる。彼は乳房をわし掴みにする。一房は片手に入りきらない。
うっすらと甲に毛のはえた、肉食を感じさせる男の手。その手の隙《すき》間《ま》から洋子の乳房の肉はぶにゅぶにゅとはみ出している。
「勝彦とは、まだなんだろう?」
男の眼がいっそう脂ぎる。
「……ええ」
洋子の唇が半分開く。
「騙すんだな、彼を」
男は洋子の乳房をゆっくりと揉みはじめた。青く静脈の透けた過敏そうな乳房の肉の手触りを確かめるべく愉しむべく、揉む。
「あなたも共犯者よ」
洋子の乳頭が尖った。勝彦だけではなく勝彦の上司をも騙す快感に反応している。
「ふふ……」
画面に映る上司と同時に、高志も笑った。
「そうだ、騙してやろう。俺の癖をたっぷりつけておいてやる」
男は洋子の乳頭を挟み、ひねった。洋子の眉間が揺らいだ。
「きみはここがことのほか弱いんだ」
メラニン色素が薄くほとんど肌の色と同じ色みの乳頭は、男の指のあいだでつぶされ、撫でられ、ころがされる。
洋子の眉間がさらに揺らぎ、ビデオから悩ましく高志を誘う。
「ここにすこし触れただけで、いつもきみの身体はしなる」
男は両の乳頭をそれぞれ人さし指と親指で摘み、上に引き上げた。乳房全体も引きずり上げられ、いかにも猥《わい》褻《せつ》な形状を呈する。
「こんなふうにされたら、たちまち濡らしてしまうんだ」
揶《や》揄《ゆ》する手つきで男は洋子の乳頭をひねり、乳房を揺すぶって波打たせた。彼女が鼻にかかった声を洩らし、この声は高志の乳頭を疼《うず》かせる。
「それに、ここ」
男は唇を洋子の首すじから、洋子の手に移した。指と指のあいだをひろげ、ひろげた指の付け根を舌先で舐《な》める。洋子の腰が如実によじれた。
「結婚しても勝彦の奴、気づくかな」
目尻をゆるませながら、男は洋子の指のあいだを舐める。高志の指が痺《しび》れた。
「この身体を勝彦のものにしてしまうのは惜しいな」
甘ったるい台詞《 せ り ふ》ではない。粘ったいやらしい声音だった。
バスローヴの裾が割られ、肉の充実した太腿が、つぎに男に狙われる。
膝頭を撫でまわし、ローヴを洋子の身体からすべて剥《は》ぎとり、男は太腿のあいだに手をすべり込ませた。
「蜂蜜を流したみたいになってるよ」
男は洋子を膝の上に抱きかかえるように乗せ、彼女の脚をいっぱいに開かせた。五十インチのモニター画面に洋子の局部が大映しになる。
「可愛いよ、こんなに濡れて俺を待っている」
洋子の耳に男は囁《ささや》く。
「ほうら、指を突っ込んでやろう」
男の指が二本、鴇《とき》色の口の中に消えた。食虫植物が犠牲者を獲《とら》えたように見えた。
「洋子」
体毛の濃い尻と、くびれたウエストが交差して画面を横切る。トラッキングが入ってから画面正面にうつ伏した洋子の頭が映り、頭のうしろに高く上げた尻が映り、尻の背後に男の腰が映った。
ベッドがきしんでいる。センサーが画面をロングにした。
男の額に汗がにじんでいる。洋子はシーツに顔をうずめていたが、やがて顔を上げた。そして、声を発せずに唇だけを動かした。TA・KA・SHI。
「勝彦なんかにはやらない……きみは、きみは……」
男は激しく腰を運動させる。
「ぼくだけのものだ」
それは、だが、高志の声であった。ビデオの最後で彼はいつもそう叫んでしまうのだった。
*
テープが終わるとビデオは自動的に止まった。部屋はまた薄暗くなった。電話が鳴る。
もしかしたら洋子かもしれない。
「郷戸です」
「高志さん?」
細く澄んだ声を聞いて高志の頬は翳《かげ》った。
「前田さん」
前田潤子。高志の会社で受付をしている娘である。
「いやだわ。他人行儀な呼び方をして。いつも潤ちゃんって呼んでくださるじゃないの」
明るく潤子はしゃべりかけてくる。
「潤ちゃん」
阿呆のように高志は潤子を呼び直した。
「え? いやあねえ、何よわざわざ言い直して。ね、テレビのほうのスイッチを入れて。顔が見たいわ」
「悪いけど、いま、ひとに顔を見せたくない気分なんだ」
「へんなひとね。何してたの?」
「……眠れないんで、ビデオ見てた」
「眠れない? まだ九時なのにもう寝るの? それにビデオって? そんな古い……」
潤子が言い終わらぬうちに、
「姉さんのビデオなんだ」
高志は低く短く、彼女を制した。
「あ、ごめんなさい」
「いや。あやまることないよ、べつに」
「でも……明日の昼休みにでも会社で話すわ」
電話は切れた。
潤子にいやな思いをさせたかもしれない。これまでにも彼女にずいぶんひどいことをした気がする。彼女の知らないところで彼女を道具にしていた。
*
「私と前田さんとどっちが好き?」
ある夜、洋子は訊《き》いた。
梟《ふくろう》のブローチを持って訊いてくるのである。梟のブローチは古いものだったが、昼間、部屋に遊びにきた潤子がそれを気に入って「わたしが妹になったらくださいね」と言っていたものである。
高志は潤子と結婚しようと考えていた。洋子が勝彦と結婚し、自分は潤子と結婚する、それが賢明な選択だと諭していた。自分にも洋子にも。
「どっちが好き?」
洋子は笑いながら高志の顔を覗きこむ。
「潤ちゃん」
と答えると、洋子はブローチの針で高志の手を突く。
「ほんとはどっち?」
笑って、また訊く。
「潤ちゃん」
するとまた針で小さく突く。
「私と前田さんと、どっちが好き?」
毎朝、鏡で見る自分の顔と同じ顔が瞳を大きくする。高志も洋子を見つめる。
「潤ちゃん」
高志の手の甲に、洋子は針を刺した。鋭い痛みが走り、奥歯を噛む。目《ま》蓋《ぶた》を閉じた。
「あなたの目蓋、お菓子みたい」
やさしい声で、なお、針を刺すことを洋子はやめない。針は皮膚の奥深くまで刺し込まれてくる。
「私と前田さんとどっちが好き?」
ようやく針を抜き、また訊いた。血のついた針の先を唇で拭《ぬぐ》う。
「潤ちゃん」
高志は手の傷口を啜《すす》り、答えた。
「じゃ、潤ちゃんを好きだという証拠を見せられる?」
洋子の表情が不意に虚ろになった。
「見せられるよ」
高志は洋子の唇に自分の唇をかぶせた。それは初めての姉弟のキスだった。眠りの中では高志はもう何度も洋子とキスをしていたが。
高志は洋子の腰に手をまわし、強く抱いた。抱くと、
〓“痛い〓”
と、洋子の身体が言っているのが高志の指に聞こえた。
〓“痛い? ここが痛いの?〓”
ここ、とは高志の手がまわっている部分である。
〓“ええ〓”
〓“ここが痛いって、生理なの?〓”
〓“ええ〓”
潤子とのことを笑いながら問うそぶりからは洋子が生理であることに気づけなかった。それが高志を落胆させた。
〓“しかたないわ。高志は男だもの〓”
〓“でも……気づいてあげたかった……すごく痛い?〓”
洋子は月経痛がひどい体質だった。初潮のころから年を経るにつれ、どんどんひどくなるらしかった。
〓“腰の裏から針を刺して子宮を割ってしまいたいくらいになることがある〓”
洋子の腕が高志の腕に言った。
臓器の色をした風船がぱーんと割れる光景が高志の頭に浮かぶ。割れた風船の中から血液が噴き出す。
〓“そうなったら楽になるかしら〓”
高志の頭の光景は同時に洋子につたわっている。高志の硬い胸に洋子の軟らかい胸があたる。
〓“……吸ってあげようか〓”
〓“……はじめて生理になった夜のように?〓”
〓“……うん〓”
ふたりは唇を離した。透明な唾液が糸を引いた。
姉弟はバスルームに共に入った。共に身体を洗った。湯気がたちこめ、身体の石《せつ》鹸《けん》が、湯に流されてゆく。流線模様の石床の上を流されてゆく。
血が落ちた。排水口に向かって流れてゆく。原《ア》生《メ》動《ー》物《バ》のようだ。湯をはじく洋子の肌は陰湿なまでに蒼白なのに、血は鮮やかに赤い。洋子の体内の生気を奪いとって脱出していくように、それは思われた。子宮を腫れさせ洋子を痛め、洋子を幼く見せる赤い原生動物。
だが、それと繋《つな》がるもので自分の肉体も形成されているのだ。
高志は洋子を強く抱いた。洋子の身体がはりついてくる。頭から間断なく湯が注がれてくる。
密着した皮膚と皮膚とのあいだをさらに強力に密着させようとするかに、熱すぎるほどの湯はいきおいよくふたりの上から降った。
〓“生理になるたび高志が憎かったわ〓”
洋子は素直に告白した。冬の日の、その青空のようにどこか悲しく懐かしい思いで高志は彼女を抱きしめる。
〓“血、吸ったげるよ〓”
〓“……うん〓”
洋子は石床に仰《ぎよう》臥《が》した。腹部に湯の雨が降りそそぐ。高志は上から彼女に微笑んだ。彼女は手で顔を隠した。そして大きく脚を開いた。
股間に嵌《は》めこまれた食虫植物は弱って震えている。高志は舌をのばし、襞の内を掬《すく》った。血の味が口を抜けてゆく。
月経の痛みに震えている無数の襞の突起のひとつひとつを丹念に慰めてやる。舐《な》めても舐めても血は止まらない。
〓“全部、吸って〓”
洋子はひどいときは立ち上がれぬほど生理に苦しむ。同じ日に受精し、同じ子宮から、同じ日に生まれた双子なのに、女であるというだけで、高志は苦痛を背負わずに生きていける。
電動 鋸《のこぎり》で胴から下を切断する夢を、高志はたびたび見ている。夢を見るのは洋子の月経時である。それは彼女の見る夢なのだ。
双子のふしぎな絆は姉弟同時の夢を見させるが、だが、そういう夢を見たところで、高志の腹は痛まない。高志には生理はないのである。
〓“全部は吸えない〓”
だから、高志は答えた。
〓“いいの。嘘でいい。嘘をついて〓”
〓“……全部、吸ってあげる〓”
高志は洋子の性器を強く吸った。湯とともに血が口内に飛び込んできた。血の塊である。小さな赤い牡《か》蠣《き》だ。鉄の味の牡蠣だ。
高志はせつない思いで血の牡蠣を呑《の》み込んだ。
*
喉《のど》を上下させ、高志は唾液を呑んだ。電話はもう鳴らない。
きらきらと羊《し》歯《だ》が光っている。耳の奥に力をこめ、もう一度姉を呼んだ。
「高志」
扉の向こうで声がした。
「高志、開けて」
「姉さん」
駆けていって扉を開ける。開けるなり洋子はぐったりと高志にもたれかかってきた。
「待ってたんだ。呼んでも全然、姉さんの声が聞こえないし……」
高志は洋子をソファにすわらせた。
「あの方法は、もう、私には無理よ」
「どうして?」
「私にはつかえないの。勝彦さんがいるし……」
「そうか、そうだったね……。勝彦さん、元気?」
「ええ」
高志は洋子の隣にすわって彼女に問うた。
「勝彦さんとぼくと、どっちが好き?」
「高志」
洋子は高志の額を撫でながら答えた。高志は手をのばし、洋子の唇に指を添えた。
唇の形をなぞる。
洋子は唇を半分開いた。
指を口の中に入れる。指で洋子の舌を掻《か》いた。頬の裏を掻き、歯を掻く。
「待ってたんだ」
洋子の口内を掻いた自分の指を自分で舐めた。
「私のものが床に全部、出ているのね」
女の匂いが発散しそうな声と口調である。
「私のこと、思い出していたの?」
姉はこんな声をしていただろうか。
「……そうだよ」
しかし、いまはもう声のことなどかまうまい。
「ぼくはいつも姉さんのことばかり考えている」
高志は洋子の手を引き、ソファに押し倒す。
「だめ」
洋子の口調がさらに甘くなった。高志はあえて介せず、彼女の両方の手首をにぎって押さえつけた。
「だめ」
「なぜ? 姉さんだってこうされることを望んでここに来たくせに」
「でも……こんなこと、もう許されないわ」
「嘘だ」
洋子の顎《あご》を掴《つか》み、無理やり唇を塞《ふさ》いだ。
「う……」
ブラウスを脱がせようとする。ボタンがいくつかはじけて飛んだ。
「やめて」
ブラウスは破れて乱れ、絹のブラジャーをした乳房が高志の眼前にせり出す。かたちに狂いのない、大きな、煽《せん》情《じよう》を目的にだけそこにあるような乳房。
「だめ、高志、だめよ……」
洋子は抗《あらが》った。
抗い方も甘い。
「姉さんの嘘つき」
ブラジャーを乱暴に押し上げる。乳房が露《あらわ》になった。白い。
「だ、だめ」
甘美な拒否を洋子はつづける。乳房が誇らしげに突き出される。
ブラジャーが上部を締めつけているため、乳房は実際以上にふくらみ、高志を誘ってくる。彼は乳房をもぎとらんばかりにきつく掴んだ。
「嘘だ」
爪の痕がつくほど乳房を搾《しぼ》り上げ、揉《も》む。
「こうされたくて来たくせに」
乳頭を口に含んだ。
すべての男が願望するような鼻にかかった喘《あえ》ぎが洋子の口から洩《も》れる。
ウエストがくねり、高志の口の中で乳頭が尖《とが》った。味の無いその突起を高志は舌でころがし、官能を昂《たか》める範囲で噛《か》んだ。
「ああ……だ、だめ、高志……」
喉が反る。
「こ、こんなこと、もう、だめよ。お願い、許して……」
高志の胸に手をあて、彼をどけようとする。だが、力は弱く、かたちばかりの抵抗に思われる。男への媚《び》態《たい》に思われる。
高志はさらに乳頭を噛み、くすぐるように吸った。乳頭は唾液でぴちゃぴちゃに光り、いっそう洋子を淫《みだ》らに見せた。
「姉さんはぼくのものだ」
スカートを引き裂き、パンティをはいただけの尻に触れると、
「い、いや……そ、そこは……もう許されないわ」
「どうして。以前はぼくに血を吸わせまでしたくせに」
「そ、そんなこと……し、知らない」
両手で回りきるほどにくびれたウエストがなよやかにくねる。
「嘘つきだな、姉さんは」
尻を撫でまわし、
「認めるんだ」
洋子の耳に口を寄せて言った。
「認めるんだ」
耳《じ》朶《だ》を唇が擦るように息を吹きかけて言う。
「ぼくたち姉弟は愛し合っているんだ」
パンティのわきから指を入れ、尻の肉を掴む。
「ずっと昔から愛し合っていたんだ」
パンティをひきちぎろうとする。
「ああ、高志……い、いや……」
豊《ほう》穰《じよう》な尻がなまめかしく躍る。規則正しく左右に。
「や、やめて」
「ちがう。ほんとうはぼくにこんなことをされるのがうれしいくせに」
脆《もろ》いパンティの布はすぐに破れた。
「こうされたかったんだ、姉さんは」
男の強い力で高志は、洋子を荒々しくうつ伏せた。汗ばんだ手でウエストを挟み、尻を突き上げさせる。
「いや……」
「嘘だ。あのビデオでも、姉さんは男に尻を突き出しながらぼくの名前を呼んでいたじゃないか」
「知らない。知らないわ」
「欲しいんだ。姉さんはぼくの……弟のものが欲しいんだ」
高志は硬直したペニスを洋子の性器に挿《い》れた。
「あうっ」
洋子の全身がうねる。
「あ、ああ。……た、高志……」
洋子は少年のように短い髪を振る。
「い、いい……。か、感じるわ。すてきよ……た、たまらない、高志」
激しく喘ぐ洋子の体内に、高志は射精した。
「……」
ソファに身体を横たえる洋子から彼は離れる。
「恥ずかしいわ。私ったらあんなに感じてしまって」
動かない眼で見つめる洋子に背を向けた。
「〓“感じるわ、たまらない、高志〓”か。姉さん、決してそんなことを言わないはずだったが」
もっとはやくにこんなことばを姉に言わせてみたかった、と高志は思った。
「これ、おぼえてる?」
手の傷を示した。
「姉さんがつけたんだよ」
洋子は黙っている。
「姉さんに虐められるとき、いつも幸せだった」
高志は床に散らばったものの中から革のベルトを選ぶと、洋子に渡した。
「これでぼくを打つことならできるだろう?」
「不毛なことが好きなのね、高志は」
「不毛なこと? 不毛じゃないよ」
微笑んでみせた。
「そうね、あなたにとっては、そうだったわね」
「打てるだろう?」
「ええ」
裸のまま高志は洋子の足元にうずくまる。ベルトが背中に振り下ろされる。
「もっと」
「ええ……」
洋子は高志の背中を連打した。
「もっと」
血の牡《か》蠣《き》を口内に想い、哀願する。ベルトが一打されるごと、牡蠣は喉の奥で鉄の味を炸《さく》裂《れつ》させた。
「もっと強く」
洋子と繋《つな》がる血の匂いを嗅ぎたかった。
「できないわ」
が、洋子はベルトを持つ手をだらりとさげたまま、もはや打とうとはしない。
「もう打てない」
「なぜ?」
「傷口が裂けて血が出てしまうもの。私にはそこまでできない」
高志は絶望した。
「結婚しなければよかったんだ」
勝彦との結婚は姉をただ不幸にしただけである。
「ぼくらは離れるべきではなかったんだ」
高志はこの夜、最後にもう一度だけ過去を振り返った。
*
一昨年の、ちょうど今日である。
夜更け、高志は警察から呼び出された。
勝彦が刑事の傍らで、泣いたような笑ったような顔をして手錠をかけられている。例の上司もいた。
上司は手錠をかけられてはいない。だが、真っ青な顔をしている。この男と洋子の関係を知った勝彦は逆上してしまったのだと、刑事は高志に低い声で事情を説明しはじめた。洋子は勝彦に絞殺されたのだった。
*
「きみは……」
高志は立ち上がり、洋子からベルトを取った。
「きみは、どうしたって姉さんじゃない」
ベルトの金具で彼女の頬を切った。姉そっくりに作らせた人形は血を流しはしない。人形を売った会社があらかじめ仕組んだ単純なセリフと動作を稚拙に繰り返すことができるだけだ。買い手の想像力が加味されなければ高価な玩具にすぎない。
「姉さんはぼくには征服されはしなかった。ぼくが征服されていた」
人形の髪を撫でてやり、頭髪に隠されたオフ・ボルトを回すと、彼女は眼を閉じ静止した。高志はそれをクロゼットの扉の向こうへ、もどした。
香が部屋中にたちこめている。
「姉さん……」
二〇二〇年、十二月末日。
月が羊《し》歯《だ》の金箔をきらきらと光らせていた。
「まるで桜が散ってるみたいだね」
もういない洋子に言う。
シートに残った薬を、高志はすべて呑《の》んだ。
文庫本あとがき(このふたりの経緯)
大学生のころ、親族の者がなにげなく話したことがひじょうに私の気をひきました。話した者は七十歳で、彼女が女学生だったころのことですから戦前の話です。当時、彼女が住んでいたのは、恐ろしく田舎の村のそのまた奥にあるさいはての田舎の村。
『風の又三郎』が通っていそうな木造の学校に双子がいたというのです。
「男女の双子でふたりとも背が高く、ずば抜けて成績がよかった。お金持ちの家の子だったと思う。まわりの子とはちがうハイカラの服を着ていたから。でもふたりとも無口で、さびしそうだったねえ。転校してしまったからいまどうしているかはわからないけれど」
と、ただそれだけの話だったのですが、以来、私はふたりのことが気になってしかたありませんでした。なんだかとても神秘的に思われたのです。なんというか、すごく世俗ばなれした「作り話」みたいに思われて。
で、そのころ、私はすでに小説を書く仕事をしておりましたので、さっそくふたりをイメージした物語を書きました。ただ、出来はよくなくて不満足でした。一年後にもう一度ふたりをイメージして新たに作品を書き、また数年後に手を加えました。さらに数年後にまた手を加え、また……というぐあいに、ふたりは長きにわたり、私に物語を発案させてくれました。
長いつきあいとはいえ、実際には私はふたりを知らないわけですから、ふたりをイメージしたところでそれは私のイメージになります。ですが、女主人公についてはある実在の人物をはっきりと想定してきました。彼女は世界的に有名なスポーツ選手(名前を明かすと読者の「物語にひたるたのしみ」を奪う気がするのでやめておきます)で、私は彼女に恋していたといっても過言ではないでしょう。ただレズビアンという表現を用いて適当かどうかは迷うところです。なんというか、私の目には彼女は痛々しくもいとしく映ったのです。男主人公については、女主人公が明確ですから必然的に同時に作り出せました。
この文庫は一九九二年に単行本として発行されたものですが、そのときに『With』という雑誌でこの作品について著者インタビューを受けております。
「女の人ならいくつになっても夢みる完全なる〓“おはなし〓”の世界を一度、綴ってみたかった。男の人が読んでもちっともおもしろくないやつを一度、やってみたかった」
と、記事のなかで私は答えています。これを文庫のあとがきとして添えたいと思います。技術的には数年にわたって推敲しているものの、実質上は二十四歳のときの作品です。その年齢のころならではの物語で、文庫化にあたり原稿を読み返すと、作者本人は恥ずかしくもあり、なつかしくもあり、いいわけしたい気持ちでいっぱいになってしまうのですが、でも読んでくださる方には、
「この物語をひとり読んでいるあいだだけは、恥ずかしがらないでセンチメンタルにどきどきしてください。現実の世界には恋愛なんかめったにないのだから」
と伝えたい。この文庫を買ってくださって本当にありがとう。
また角川書店の宍戸健司さん、このたびもどうもおせわになりました。でも体のために天麩羅とフライはもう少し控えてね。
一九九五年一月
姫野カオルコ 本書は一九九二年十一月、マガジンハウスより単行本として刊行されたものを文庫化したものです。 変《へん》奏《そう》曲《きよく》
姫《ひめ》野《の》カオルコ
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平成14年9月13日 発行
発行者 福田峰夫
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C) Kaoruko HIMENO 2002
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『変奏曲』平成 7 年 1 月25日初版発行
平成13年10月10日10版発行