姫野カオルコ
バカさゆえ…。
目 次
[1]奥様はマジよ
カルトガイド(奥様は魔女)
[2]りかちゃんのお引っ越し
カルトガイド(少女文化のヰタ・セクスアリス)
[3]かんちがいしがちな偉人伝
[4]美徳の不幸
カルトガイド(アタックbP)
[5]困ったじょー
〈パッション篇〉
〈メランコリック篇〉
カルトガイド(あしたのジョー)
[6]タクシー・ドライバー
カルトガイド(魔法使いサリー)
[6]ケンちゃん雲に乗る
一 自慰式篇
二 セックス・アピール篇
三 誘惑篇
四 構造篇
五 解脱篇
[1]奥様はマジよ
モーガンの店で二杯めのマティーニに口をつけたラリー・テイトは、いささかめんどうくさそうに背広の内ポケットをさぐった。
くしゃくしゃになっているだろうが、たしかまだラッキー・ストライクが残っていたはずだ。もっとも、さっき降られた雨でしょぼくれていなければの話だが。
先っぽがへしゃげてしまったラッキー・ストライクに、ラリーは火をつける。モーガンの店の埃《ほこり》と煙草の煙を喉《のど》の奥深くまで吸い込んだ。
「やっぱりだいぶしけってやがる」
カウンターに肘《ひじ》をつき、ラリーは煙草を吸って吐き、吐いては吸って、そのたびに入り口のドアに視線をなげた。
モーガンの店も、もうところどころガタがきていて、客がドアを開けるとキッという妙な音がする。オウムかインコが短く鳴いたようなその音がすると、ラリーは視線を入り口に向けなければならなかった。
キッ。ドアが鳴り、ポマードでべったりかためた髪の男が入ってくる。ラリーは煙草を吸う。
キッ。ドアが鳴り、いちゃいちゃした男女が入ってくる。ラリーは煙草を吐いた。
またドアが鳴り、今度入ってきたのは、なかなかいい女だ。目元と唇が適度にだらしなく、
「そのくせ気の強そうな顔をしてやがる」
と、ラリーは思う。
女はラリーの横を通りすぎ、奥の席へと歩いていった。おおげさに腰をゆすって歩く。尻《しり》にぴちぴちにはりついたタイトスカートがたまらない。
「あれで髪が赤毛じゃなかったらな」
ラリー・テイトの好みはだんぜんブロンドである。
ブロンドに青い目。ちょこんとつまんだような鼻。彼が待っているのは、そんな女だった。
待ち合わせた時刻からもう三十分が過ぎている。
さっきは賭《か》けビリヤードで五十ドルもすってしまった。今日はついてないのかもしれない。
「もし、来なかったら、あの赤毛を誘おうか……」
不埒《ふらち》なことも考える。広告代理店経営という彼の肩書は街で女を誘うにはかなりの威力を持っていた。四十三歳。結婚して十三年。子供は二人。妻のことは愛している。
「だが、しかし――」
その愛はすでに父や母や妹や兄に対する愛とほとんどみわけがつかない種類のものだ。
ラリー・テイトは煙草をもみ消し、マティーニを飲む。オリーブからしみでた塩辛さとベース・アルコールの濃厚な衝撃。胸にひろがるその熱さは、彼の今の気持ちに似ていた。
「――しかし、彼女には恋をしている」
ブロンドの青い目の女を思い、ラリーは彼女に焦がれた。早く来てほしい。そればかりを願う。もし来なかったら、と、怖くもなる。怖くて赤毛の女を誘おうかと思うのだ。彼女と会えなかったことの落胆がどれほどのものか、想像するのはたやすい。ドアが鳴って彼女ではない客が入ってくるだけですでに、こんなにも落胆しているではないか。
三杯めのマティーニを注文しようかどうしようかまよったとき、キッ、とまたドアが鳴った。ラリーは視線を、グラスに残ったオリーブにとどめた。落胆したくない。
「ラリー、ごめんなさい」
背後からの声。ラリーは背中が、オブンに入れたときのピザ用のチーズのようになるのを感じ、必死でそれを隠した。
「やあ、サム」
ラリーはきわめて陽気な調子で女のほうを向いた。会社の人間が、学生時代の友人が、近所に住む住人が、彼のことをこんなふうな男だと信じているところのキャラクターに似つかわしく。
恋のせつなさは隠さなくてはならない。女を焦がれる切実さは秘めなくてはならない。もうハイスクールに通う年齢ではないのだ。もう人前でキスをすることを許される立場にはいないのだ。自分も、そして彼女も。
サム。サマンサ・スティーブンスは、人妻だった。
「こんなに遅れてしまってほんとうにごめんなさい。出かける理由を見つけるのに時間がかかってしまったの」
マスカット・グリーンのシンプルなワンピースはサマンサのブロンドをひきたてている。
「あの人だけならなんとでも方法はあるのだけれど、ママがエスメラルダを見張りによこしたものだから」
遅れた理由をすまなそうにいいわけするサマンサのちょこんと丸い鼻の先がかわいい。
「エスメラルダ? 彼女は家政婦紹介所から来てるんじゃなかったのかい?」
栗《くり》色の髪の、170ポンドほどのかた太りのメイドには、ラリーもいくどか会ったことがある。
「ちがうの。あれはママがあたしの見張りをするように家に来させるだけなのよ」
「きみを見張るってったって……。見張らせるすじあいかい? 狂気の沙汰《さた》なのはあちらさんだろ」
サマンサの母親と、サマンサの夫。彼らは特殊な関係を持っている。犯してはならない関係だ。けものみち。世間ではそう呼ばれるだろう。
ちょうど一年前になるだろうか。サマンサが会社のロビーで自分を呼びだしたとき、ラリーはごく気軽な気持ちで彼女とランチをとった。
ラム・チョップとポテト・サラダ、それにコーヒーといった平凡な料理を前にしながら聞かされたサマンサからの話は、非凡だった。
「ダーリンのことなんだけれど……」
ダーリン・スティーブンスは言うまでもなくサマンサの夫である。有能なコピーライターであり、そしてなによりも、ラリーの直属の部下である。
「ダーリンはママを愛しているの」
サマンサはハンカチを顔に当てた。
「そりゃあ、いいことじゃないか」
ラリーはサマンサの言う意味が最初はよくわからなかった。
「妻の母を愛してくれる夫。こんなにいいことはない」
「そうじゃないの……。そうじゃないのよ」
ダーリン・スティーブンスは義母であるエンドラを、サマンサと結婚する前からずっと愛していたというのだ。
サマンサの告白はラリーに返すべきことばを喪失させた。
そして、自分の母親と自分の夫とのただならぬ関係に悩んだ彼女から相談を受けたことが、皮肉なことに、ラリーとサマンサが恋におちるそもそものはじまりだった。
さいしょは震えるサマンサの肩がはかなげで、手をかけた。すぐにときめきに変わった。ときめきは、すぐに情熱に変わった。
どんなに自分を抑制したことだろう。どんなに、いけないと言い聞かせたことだろう。だが、いけない、いけないと、思えば思うほど、ときめきは増し、情熱は加速度をつけた。今も昔も、海の東も西も、およそ恋というものが、おしなべてそうであるように、禁忌はその炎を燃やすことにのみ協力する。二人はあえなく恋におちた。
モーガンはレコードをコルトレーンに変えた。攻撃的とさえいえるコルトレーンのサックスはラリー・テイトの体内から家庭を抜き取ってしまう。
「そうとも。狂気の沙汰はダーリンとエンドラのほうなんだ。サム、きみが悩む必要がどこにあるというんだ? 神に罰せられるべきはダーリンとエンドラのほうなんだよ。二人はそれがわかっていない」
「やめて……狂っていることがわからないから狂気なのよ……」
サマンサの青い瞳《ひとみ》に大粒の涙が浮かぶ。ラリーは思わず彼女の肩を抱きしめた。ブロンドの髪が彼の胸のなかでひろがる。
「サム」
ラリーはもう、ここが騒がしい店のなかであることを忘れ、サマンサの唇をふさいだ。ずっとかかっていたコルトレーンのサックスが音量を増したようだ。
「そして……今ではあたしも狂っていると思うわ、たぶん……」
「ぼくだって狂っている。きみが狂っているというならば」
いっそう強くサマンサの唇をラリーは吸いコルトレーンのサックスはいっそう大きくなる。
「いつものホテルへ行こう、サム」
「ええ……」
関係ができて一年たっても、サマンサは情事の誘いに処女のようなはじらいを見せる。それがラリーにはいとおしい。
「きみも雨に降られたんだね。身体がこんなに冷えている」
いつもの604号室でマスカット・グリーンのワンピースのファスナーをおろしきると、ラリーはサマンサの肌をてのひらに感じる。
関係ができて一年たっても、服を脱がせるときにサマンサは初々しいはじらいを見せる。それがラリーにはいとおしい。
「会いたかったわ、ラリー。すごく会いたかったわ」
サマンサは身を床にかがめると、ラリーの股間《こかん》ですでに45口径マグナムのように堅くなったものを啜《すす》った。
関係ができて一年たつ前から、事がスタートするとサマンサは大胆な行動をする。それがラリーには気持ちいい。
「Mmm……この、この、このやろめ」
この、この、このやろめ。これはラリーの口癖である。部下が、つまり、サマンサの夫ダーリン・スティーブンスがクライアント好みのコピーを作案したときにもこう言ってしまう。俺《おれ》はミスターとミズの両スティーブンスに、この、この、このやろめ、と言っているんだな、と、思うとラリーは人生の苦みをふと感じた。
(人生、そのまちがいの最大なるものは、恋をしているということだ)
さしずめイギリス人はこんなときにはシェークスピアのセリフを持ち出すのだろう。
『お気に召すまま』三幕二場か。
ラリーが自分の髪の色と同じ色の液体を、45口径マグナムからサマンサの顔に発射した、そのすぐあとだった。
がた、という音がクロゼットのなかから聞こえた。
「なに?」
「なんの音?」
忍び会う不倫の恋人たちは、ひとりは股間を、ひとりは口を、それぞれにぬぐいながらクロゼットのほうを見る。
「だ、だれかいるわ」
「まさか」
「だれか隠れているわ、そのクロゼットに」
「馬鹿な。いったいだれがそんな……」
ラリーはサマンサをなだめたものの、なにかがクロゼットに潜んでいる気配を、彼自身否めない。
クロゼットに近づき、一瞬ためらったのちに、ぱっとドアを開けた。
「ぶびーっ!」
なかから出てきたのは豚である。
「きゃあっ」
「わあっ」
摩天楼を湿らせる雨のようにひめやかな恋人たちは、飛びだした豚に驚いた。わなわなと震えベッドにへたりこむ。
しかも、許されぬ恋に身を焦がす恋人たちをさらに驚かせたのは、
「サムとラリーじゃないか」
と、豚がしゃべったことである。
「ぶーたがしゃべる、そーんな馬鹿な」
「ラリー、番組がちがうわ。それはミスター・エドでしょう」
「そうだった。それにエドは馬だ」
ひしめきあう雑踏のなかでめぐりあってしまった運命的な恋人たちは、ミスを正しあうことで落ちつこうとする。
「やっぱりな。きみらはデキてたんだな」
ぶひぶひと鼻を鳴らして豚はラリーとサマンサの足元に寄った。
「前からあやしいと思ってたんだ。へええ、たいしたもんだよ、サム。ぼくの上司と密会するのはどんな気分だい?」
ぶひんと鼻息をいっそう荒くする豚。
「ぽくの上司?」
ラリーとサマンサは同時に口を開けた。
「じゃあ、あなたは――」
「じゃあ、きみは――」
ラリーとサマンサは同時に叫んだ。
「ダーリンなのか!?」
二人は豚をまじまじと見つめる。
「そうともさ。ぼくはダーリン・スティーブンス。サム、きみの夫だよ。ラリー、きみの忠実な部下だ」
豚も二人をまじまじと見つめる。
「ええ? いい面の皮じゃないか。妻が自分の上司と不倫。コスモポリタン誌がとびつきそうなゴシップだ」
「よ、よく言うわ……。自分こそなによ、ペントハウス誌がとびつきそうな変態のくせに。あたしは知っているのよ、あなたとママの関係を」
「そうだよ、ダーリン。きみのほうこそ、サムにどんなに辛《つら》いしうちをしてきたか、それがわかってるのか」
「そうよ、あたしがどんなに悩んだと思っているの? あなたとママが地下室でしていること……地下室でしていること……あれは、あれは……」
サマンサは泣きはじめた。
「ふん、女はいいな。泣けばすむんだから。おい、このビッチ、答えろよ。ぼくがいったい地下室でなにをしたというんだ!」
「ひ、ひどいわ、ひどいわ。自分の変態プレイを棚にあげて人のことを、ビ、ビ、ビッチですって? 豚に犬呼ばわりされるなんてえええっ」
サマンサはいよいよ本格的に泣き声をあげる。
「ダーリン、きみがそんな男だとは思わなかったよ。いくらなんでも言い過ぎだ。サムにあやまらないか」
「あやまらないね。不義密通してる女をビッチと呼んでどこが悪い。だいいち、なんだい、ラリー、きみにぼくのことを咎《とが》める資格があるっていうのか。不義密通の相手は当の自分だろ。いつもいつも要領よく変わり身しやがって、このカメレオン野郎」
「なんだと、この豚。豚のくせに人をカメレオン呼ばわりしやがって。豚のマザー・ファッカーのくせに」
ラリーは豚の尻《しり》を蹴《け》った。
「やったな、ぶひー」
豚はラリーの脛《すね》に頭突きを食らわした。
「ひどいわ、ひどいわ」
サマンサはシーツを引き裂いて泣きわめいた。
孤独な都会人の心にしみいるようなマンハッタンの蒼《あお》い月が雨上がりの夜空に輝く夜に、からみあう情熱に翻弄《ほんろう》された男と女は、ホテルの一室で理性を忘れた。
そのときである。
ガラガラガラッ、ドッシーン!
暖炉からすさまじい埃《ほこり》とともにすさまじい音をたてて、ひとりの老婦人が落ちてきたではないか。
黒いネット付きのクラシカルな帽子に、同じく黒いレースのクラシカルなブラウスとロング・スカート。胸には黒バラのブローチを飾ったその老婦人は、
「あいたた……また出てくる場所をちょっとまちがえちゃったわ」
貴族然としたおっとり口調で、腰をさすっている。
「クララおばさま!」
サマンサは、クララというらしい老婦人を助けおこした。
「ありがと、サマンサ。年はとりたくないものだね。ちょっとの呪文《じゆもん》のちがいがこのしまつだよ。あいたたた……」
「だいじょうぶですの? とにかくそちらのソファにおかけになって、クララおばさま」
「ありがと、そうさせてもらおうかね」
クララ婦人は、よちよちとした足どりでソファにこしかけると、
「さて、と。話はどこまですすみましたかねえ」
クラシカルなバッグから煙管《キセル》たばこを取り出して火をつける。
「さて、と……、じゃないよ。なに優雅になってるんですか、クララおばさん。あんたはいつでもトラブル・メーカーだ、ぶひぶひ」
「ダーリン、クララおばさまのことまで悪く言うのはやめて」
豚とサマンサのあいだに、ラリーは割り込んだ。
「ちょっと、その前に教えてくれないか。この老婦人はいったいだれなんだ?」
賭《か》けビリヤードで五十ドルもすっちまった日なんだ。まったくついてない日だぜ。とんでもない日だ。ラリーは心中で思っている。
「紹介するわ、ラリー。親戚《しんせき》のクララおばさまよ。クララおばさま、こちらはラリー・テイト」
「ごきげんよう、ラリー。私立探偵のミス・クララです」
「私立探偵だって? この人が?」
「正確には元・私立探偵。今は推理小説作家ですの。代表作には『タイル殺人事件』『オリエンタル・カレー殺人事件』など。名警察犬アポロ十一号シリーズよ、ご存じない?」
「聞いたこともないね」
煙管から吹きだされる煙を手でよけながらラリーは撫然《ぶぜん》とした。
「で、クララおばさま探偵とやら、あんたはいったいなにをしにやって来たんです?」
「あら、もちろん、事件を解決しによ。あたしも久しぶりに腕がなるわ。『スティーブンス家の豚』とでも仮題をつけておきましょうかねえ」
「ははん、『バスカービル家の犬』をもじりたいのなら『スティーブンス家の牝犬《めすいぬ》』だろ、それとも『カメレオン稼業』かね、ぶひぶひ」
「まあっ、なんですってええええ」
サマンサはまたもや泣きわめきだし、
「なんだと、クソ豚」
ラリーは豚を蹴飛ばした。
「まあまあ、三人とも、おやめなさいましよ。このままののしりあいをつづけていても埒《らち》があかない。謎《なぞ》の糸は一本ずつほぐしていかなくっちゃ」
ただの痴話喧嘩《ちわげんか》を、なんとしてでも「事件」にし、「解決」して「名探偵」になろうとするクララ。
「どっこいしょ、と」
彼女は大きなルーペをバッグから取り出しサマンサの顔に当てた。
「まず、サマンサ。あんたからだよ。あんたは地下室でダーリンとエンドラのしていること≠ニやらを知っていると言っていたけどいったいなにを知っているというの?」
「ぜんぶよ。あたしはある夜、ダーリンが寝室を抜け出してそっと地下室に行くのに気がついて、不審に思ってあとをつけたの。そしてドア越しにぜんぶを聞いてしまったのよ」
「ほほう。ぜんぶをね。いったい何のぜんぶを聞いたのかしら?」
クララの問いにサマンサの頬《ほお》はいちごジャムのように真っ赤になった。
「その、そんなこと……」
うつむいたサマンサは、大きく息を吸ってから吐き、決心したように話した。
「お願いです、ぼくを鞭《むち》で罰してください≠ニかどうか女王様の聖水を顔にかけてください≠ニかあわれな奴隷に蝋燭《ろうそく》をたらしてください≠ニかはいつくばってあえぎたい≠ニかぼくを亀甲縛《きつこうしば》りにして、顔の上に皮のTバック・パンティに包まれただけのむっちりとむっちりとしたお尻をのせて人間|椅子《いす》にして、つばを喉《のど》にかけて、ペニスはクリップでつまんで、でもペニスの先端はぶるんぶるんと波打つ乳房でくすぐって、陰毛はジレット・スーパーで剃《そ》って、アヌスにはジョンソン・ベビーオイルを塗ったのちにコンドームをかぶせたハイヒールのかかとを挿入してぐりぐり回して、真紅のルージュに染めた唇を大きく開けて、おほほほほ、とあざ笑って、最後はグリセリン注入でエネマ浣腸《かんちよう》をしてください≠ニかって言ってるのをぜんぶ聞きました」
サマンサがあまりに臨場感あふれる供述をしたために正直なラリー・テイトの下腹部は胡瓜《きゆうり》のピクルスからコルト・ウッズマンへと変身をとげた。
「な、なるほど……サ、サム、そ、そんなことを聞いてしまったきみが、な、悩んでしまうのは当然のことだ……」
ラリーはぎこちないしぐさで、しかし、平静をなるたけ心がけ、ベッドの縁にすわった頭のなかで数をかぞえる。
「そして……」
サマンサがつづきを話そうとする。
「そして?」
ラリーは思わず身を乗り出す。
「そこまでは比較的、くぐもって小さな声だったけれど、そしてあたしははっきりと大きな声を聞いてしまったの。エンドラ、お願いだ∞ほほほ、ダグウッド、この下等動物≠ニいうダーリンとママの声を……」
サマンサの青い目から涙がつたった。
「ちがうんだ。ちがうんだよ、サム。それはちがうんだ、ぶひぶひ」
豚はサマンサに飛びつく。
「さわらないでっ。汚らわしいわ」
彼女は豚を叩《たた》いた。
「まあまあ、お待ちよ、サマンサ。豚は、いえ、ダーリンはちがうって言ってるんだからダーリンの言い分も聞かなくっちゃ」
クララは次に豚の顔にルーペを当てた。
「さあて。ちがう、と今、おまえさんは言った。どこがどうちがうんだい?」
「みんなちがうよ。あの夜、ぼくはたしかに地下室に行った。サムに隠れてね。ボストンバッグを持って行った」
「ほほう。ボストンバッグを持って地下室へ? いったいなんのために?」
「ビデオさ。ビデオと10インチの小型テレビをバッグにつめて。ぼくは地下室でビデオを見ていたんだ。たんなるポルノビデオじゃない。それだったらサムに隠れて見なくてもよかったんだ。でも、M男ものだ。こんな恥ずかしい趣味、サムには言えなかった。とてもじゃないけどね。最初は用心してヘッドホーンで聞いていたんだけど、そのうち興奮してきて、ヘッドホーンをはずし、音量も大きくした。そこへエンドラが、例によって例のごとくドロンと現れたんだ。こんな趣味があったのかい、ってさんざんに笑われたよ。以後、それをネタに笑うんだ。今日だって、今日だって……」
豚は泣きはじめた。
「エンドラにいくら笑われてもしかたないんだよ。ぼくの趣味は変えられないんだ。だからエンドラに見つからないように、今日だって、今日だってこのホテルでひとりでこっそり見ていたんだ。女王様にひれふした裸の男がああ、ぼくは哀れな牡豚《おすぶた》です≠ニいうシーンがすごく過激で興奮して、つい、セリフを反復してしまった。そしたら、そこへエンドラがやってきてそんなに豚がいいなら、豚にしてやるよ≠チて、だからだから……」
豚の告白を聞いてサマンサの顔がバラ色になった。
「まあ、ダーリンそうだったの!?」
サマンサは中空をきょろきょろとみまわし、
「んもう、ママったら」
エンドラを呼んだ。
「出てきて。出てきてさっさとダーリンをもとのすがたにもどしなさい」
天井や壁や窓に向かって言うが、エンドラは出てこない。
ラリーは腑《ふ》に落ちない点を多々抱えながらサマンサの不審な挙動を見守っていた。
サマンサがダーリンとェンドラの仲を誤解していたことまでは理解できるが、だからといってなぜ、エンドラがダーリンを豚に変えられるのか、彼にはそれがわからない。しかし、
(そんなことよりも、ダーリンとエンドラの仲が潔白であったということは、これから俺《おれ》とサムの仲はどうなるんだ?)
どんな状況下でもどんな場合でも、自分の立場だけを考慮するに徹すること、これがラリー・テイトという男の哲学だ。
神経は太くなければ生きていけない。神経が易しく(easy)なければ生きていく資格はない。
「さてさて。だいぶ謎の糸はほぐれたようだね。テイトさんとやら、こんどはおまえさんの番だが……」
クララは最後はラリーにルーペを当てた。
「このルーペはね、よく見えるんだよ。ちいさなホクロまで」
「そりゃ、すごい」
ラリーはとりあえず陽気に答えた。会社の人間が、学生時代の友人が、近所に住む住人が、彼のことをこんなふうな男だと信じているところのキャラクターに似つかわしく。
「すごい、すごい。な、そうじゃないか、サム、きみだってそう思うだろ。さすがはきみの親戚《しんせき》の名探偵だ」
クララの肩をラリーはばんばんと叩《たた》いた。
「やめとくれ。ねえ、おまえさん。あたしゃサマンサのことは赤ん坊のころからよおく知ってるんだ。小さなホクロの位置だってシワだって、なにもかも……」
クララは煙管にいまいちど火をつけ、おっとりと煙を吸い込んだ。
「わかったよ、この事件の犯人が」
さいしょから事件などなにもないのだが、やはりあくまでも「事件」を「私立探偵」に「解決」させてミステリー仕立てにしたいクララと筆者である。
「えっ、犯人がわかった? だれです? だれが犯人なんですか?」
ラリーはクララの次なることばを待ち望んだ。
「犯人は……」
クララはおっとりと立ち上がり、
「犯人はおまえだよ、セリーナ!」
サマンサをしっかと指さした。
「なに?」
「なに?」
ラリーと豚は同時にサマンサを見る。
「……ふふふ、さすがはクララおばさまね。年の功には勝てないわ」
サマンサはにやりと笑ったかと思うと、たちまちにして、ブロンドの髪を本来の栗《くり》色に戻した。
「ごめんなさいね、ラリー。あなたがサマンサだと思って抱いていたのは、サマンサとそっくりのイトコ、あたし、セリーナだったのよ」
妖艶《ようえん》なほほえみを浮かべ、半開きにした唇を自分の舌でなめる悪女セリーナ。
「許されてン」
ダーリンを脅してからかい、豚に変えたのもエンドラになりすました彼女のしわざだったのだ。
ダーリンはようようのことで人間のすがたに戻れ、ホテルの部屋をあとにした。クララは、登場したときと同じように騒々しい音をたてながら暖炉から外へ出ていった。
マンハッタンの月の輝きはバーボンのなかで溶ける氷の輝きにも似てなやましく、そして都会はいつもさびしい。604号室の窓ガラスはうつろなネオンライトを映し出す。
「悪い女だとわかっていても、愛さずにはいられない。きらいになれるものなら、昨日のうちにきらいになっている。人生の最大のまちがい、それは恋だ」
ラリーはセリーナを強く抱きしめ、
「あらためて名前を呼びなおそう、セリーナ、さっきのつづきをしてくれるね?」
ベッドに押し倒すとズボンのファスナーを下げた。
ラリー・テイト、四十三歳、身長6フィート、体重180ポンドは、ごくふつうの仕事をし、ごくふつうの恋をしました。ただひとつちがっていたのはラリーの部下の奥様は魔女だったのです。
カルトガイド(奥様は魔女)
おじいさんは、冷蔵庫に氷が入っていないのを見てショックを受けた。冷蔵庫とは木の扉がついていて、なかに大きな氷を入れて他の物を冷やす道具だったから。
孫(男児)は、冷蔵庫はだいじょうぶだったが、冷蔵庫のなかにものすごく大きな牛乳瓶が二本くらい並んで入っているのを見てショックを受けた。牛乳瓶といえばちいさなサイズのものしか見たことがなかったから。
おかあさんは、女の人が掃除機を肩からかけて掃除しているのを見てショックを受けたが、便利そうだこと、とも思った。
孫(女児)は、肩かけ掃除機よりもアイロン台にショックを受けた。立ってアイロンを使っている。アイロン台といえば画板のような物しか見たことがなかったから。
おとうさんは、男の人が寝るときに寸たらずのネグリジェのようなものを着てソックスをはいているのを見てショックを受けた。ベッドにまくらがいくつもあるのもふしぎだと思った。
おかあさんは、寝るときの被服よりも、夫と妻とが同じベッドに入るのを見てショックを受けた。ベッドの近くにある鏡台の鏡の大きさと林立する化粧品瓶の多さにも。
おじいさんは、夫が妻の荷物を持ってやり、ドアを開けてやるのを見てショックを受けた。ドアを開けて先に入るのは夫のほうからだと思っていたから。
おかあさんは、夫が人前で妻にキスするのを見てショックを受けた。そういうことは人前でしてはならないものだったから。
そして、おじいさんもおばあさんもおとうさんもおかあさんも孫も、ショックを受けながら、TVのなかにうつるアメリカの家庭の、その電化製品、車、カラフルな洋服、大きな窓、レース、クッション、ソファ、芝のある庭、スプリンクラー等々に、
「ほほう!」
と思った。アメリカを見本にしようとした。アメリカが目標だった。
でも、おじいさんやおばあさんはもちろんのこと、おとうさん、おかあさん、孫、全員が最後までよくわからなかったこと、それは、
「この人の職業はなんなのだろう?」
である。
「ダーリンの会社はなんの会社なの?」
である。
コピーライター、および広告代理店というものの概念が、日本人の一般社会にはまったくなかったから。
だから『奥様は魔女』を、私は、小学校のときと、中学のときと、高校のときと、大学のときと、社会人になってからと、くりかえしくりかえし見ているけれども、そのたびに新しいおもしろさを感じる。
「旦那様の名前はダーリン、奥様の名前はサマンサ。ふたりはごくふつうの恋をし、ごくふつうの結婚をしました。でもひとつだけちがっていたのは、奥様は、魔女だったのです」
矢島正明のこのナレーションではじまる『奥様は魔女』。まさしく不朽の名作。これを超えるTVドラマは現在も生まれていない。「見てないよ」と言う人も、じつは見ている。このドラマののち、現在にいたるまでの西側諸国のすべてのTVドラマは『奥様は魔女』のバリエーションなのだから。
さいしょはモノクロだった。それからカラーになった。さいしょのダーリン役は放映中に交通事故で死んだ。なんとか顔の似た俳優を見つけてきてニュー・ダーリンにおさめた。変わったばかりのころはなじめなかったけれど、そのうち慣れた。ダーリンという名前のヘンさに慣れたように。
ダーリン。ヘンな名前だ。恋人を呼ぶときに、
「ねえ、私のダーリン」
と言うではないか。それなのにこれが名前なのか。ダーリン・スティーブンス。ヘンだ。だけど、これはそういうもんなんだ。と、なんだかむりやり慣れさせた。
ダーリンの敵といえばエンドラ。サマンサのママである。いつもすごいアイラインをひいている。エンドラの日本語の声をしていた人がとちゅうで死んだ。なんとか声のよく似た人を見つけてきてニュー・エンドラ・ボイスにおさめた。変わったばかりのころはなじめなかったけれど、そのうち慣れた。慣れることにやすらぎをみいだすように。
まいどおなじみの。毎回おきまりの。いつものお約束。例によって例のごとく。
いつもおなじ展開なんだけど、それがいいのだという心理。それはきっと、やすらぎとか安心感とかいったものなのだろう。
この「まいどおなじみ」をさらに堅固にしてくれる、やすらぐためのキャラクターが、グラディスさんとクララおばさまである。
グラディスさん夫妻は、ダーリンとサマンサの家のお隣に住んでいる。グラディス妻はしじゅう、お隣のおうちをのぞきみしている。スキャンダルが好きなおしゃべり。そんな妻の性格を、グラディス夫はちょっぴりバカにしている。
いつものようにグラディス妻が二階の窓から隣のスティーブンス家の一階をのぞいていると、ダーリンとエンドラの喧嘩《けんか》がはじまる。
「おやダグッド、趣味の悪いネクタイだね」
「おほめいただいて、ほんとにありがとうございます」
「下等動物もネクタイをするなんて大笑いだねえ」
などとやる。喧嘩の果てにエンドラはダーリンをアヒルに変えたりする。そこでグラディス妻はいつものように叫ぶ。
「あーた!」
妻が叫んでもグラディス夫はロッキングチェアでパイプをふかしながら新聞を読んでいる。グラディス妻はさらに叫ぶ。あーた! あーた! と。
「なんだい」
しかたなくグラディス夫が返事をする。新聞から目をはなさずに。
「あーた! ダーリンがアヒルになっちゃったんだってば」
妻の答えに夫は、やれやれと言う。グラディス夫はほとんど毎回、『奥様は魔女』が放映されたあいだじゅうずっと、やれやれと言っていたといってもよい。作家の村上春樹はきっとこのグラディス夫のファンだったのだと、私は思う。
「やれやれ、またそんなバカなことを。おまえ、疲れているんじゃないのかい」
「ほんとなんだってば」
グラディス夫妻が、やれやれ――ほんとだってば をくりかえしているあいだに、サマンサが、
「んもう、ママったら」
と怒って、ダーリンはもとの人間の姿にもどる。と、そのときにようやくグラディス夫が窓から隣を見る。
「ダーリンはたのしそうにサムと話しているじゃないか」
「えー?」
そんなはずが、という顔をしてもういちど隣を見るグラディス妻。
「ほんとなんだってば。あたいが見たときにはダーリンはたしかにアヒルだったんだってば」
なおも訴えるグラディス妻。かくしてふたたびグラディス夫は、やれやれと思う。
そしてクララおばさまはサマンサのおばさん。もうだいぶもうろくしている。暖炉を爆発させて登場したり、天井から落ちてきたりする。
サマンサとダーリンがなにかしていると、よその部屋で大きな音がしてなにごとかと驚いてふたりがかけつけると、
「あいたたた、また呪文《じゆもん》を失敗しちゃったわ」
と、クララおばさまが腰をさすっていたりするのである。
このクララおばさまの女優もとちゅうで死んだのだろうか。とちゅうから出てこなくなった。かわりにエスメラルダという中年の魔女が出てくる。タバサちゃんの子守を頼まれることが多いが、いつも呪文をまちがえて失敗をしでかす。
いつも同じだ。いつものことだ。でも、いつもの人が出ないとさびしい。日常ということ。平凡であるということ。魔女などという非凡な登場人物でありながら、こうしたもののありがたさを感じる、火曜日の九時半、フジサワ薬品提供(関西地区)なのだった。
ちなみにフジサワ薬品は火曜日の七時からの『風のフジ丸』も提供していて、主題歌に提供企業名が入る。
♪時は戦国、嵐《あらし》の時代、でっかい心で生きようぜ……(中略)……風のフジ丸、少年忍者、フジサワ、フジサワ、フジサワや〜く〜ひ〜ん♪
と。当時はこの手法がずいぶんあった。グリコはその代表格だが、『ジャングル大帝』のサンヨー電機もそうだった。
♪立て、レオ、パンジャの子、ジャングル大帝、サンヨー、サンヨー、サンヨー電機♪
実家からそう遠くはない地域にサンヨーの工場があり、電車からその大きな看板が見えた。サンヨー電機。その文字を見ると子供はレオを思い出してたいへんうれしかった。
この心理作戦は現在はなおのこと活用されているが、当時から『忍者部隊月光』の田辺製薬、『エイトマン』の丸美屋(エイトマンふりかけ)、『ワンダースリー』のロッテ、『狼少年ケン』の森永(狼少年ケンココア)など、みゃくみゃくと受け継がれている。
思えば、こういうことを考えて商品をいかに売るかを請け負うのがダーリンとラリーの会社であり、彼らの仕事だったわけである。たしか社名が「テイト・アンド・スティーブンス」だったと思う。シルバー色の髪の毛のあのラリー・テイトは、ダーリンの上司ではなくて、正確には共同経営者なのだろう。ダーリンがコピーを考え、ラリーが経理・経営を受け持ち、物語には出てこない会社設立までの経緯からすると、雰囲気としてはラリーのほうがちょっとエライといったところと推測される。
『奥様は魔女』はなんども再放送されるので長きにわたって見ている人はとても多い。見ているうちに、このラリーがおもしろいと感じたら、それがその人の「大人になった証」である。子供にだって、あのラリーの「調子のいいやつ」ぶりはわかるが、彼が骨の髄から調子のいいやつであることが、骨の髄からわかるのはやはり年|長《た》けてからであろう。
「んっとに、調子いいんだからー」
と、やや苦々しく思う時期を経て、
「この変わり身のはやさ。この調子のよさ」
と、声を出して笑うようになったら、大人になったということだ。
クライアントの社長さんが形相を変えて会社に来る。大声で言う。
「バカにつける薬はある≠セって? こんなふざけたコピー、聞いたことがないっ」
ラリーはあわてて、ダーリンを叱《しか》る。
「そうだよ、ダーリン、ふざけてる。こんなコピーじゃなくて、べつなのを用意するつもりなんだよな」
社長さんはラリーを無視して、ぱっとにこやかに笑う。
「いやあ。ふざけていて、じつにすばらしい。これほど印象に残る宣伝はないよ。傑作だ、スティーブンスくん」
と、とたんにラリーはさっきの態度をさっさと変えて、そりゃもうみごとにひるがえし、
「ええ、ダーリンはすごいでしょう。いつのまにこんなすばらしいアイデアを考えていたんだ? え? このこの、このやろめ」
と、ぽかぽかダーリンの肩をたたく。ほんとに、あのあの、あのやろめ、である。
ダーリンにはサマンサと会う前につきあっていた美女がいた。シーラという。大きな会社の社長令嬢。彼女をふってダーリンはサマンサを選んだ。ダーリンのこうした選択が一生涯理解できない人間がラリーであり、ラリーとはちがう選択をする誠実な人としてダーリンは設定されていたのだけれども、私は小学生のころからシーラに同情していた。かわいそうでならなかったのだ。
サマンサのことはそりゃ好きであった。でもシーラが出てくると心臓がおしつぶされるようなかんじがして居心地が悪かった。
だって、かわいそうじゃない? あまりにも。
美人でお金持ちでゴージャスで、それなのにダーリンにふられるという設定。もうダーリンにふられているのに、結婚後も彼をあきらめきれず、ことあるたびにサマンサにいじわるをする。そういうふうにしか愛情を表現できないわがままな人という、このキャラクター設定の非情。かわいそうだ。
「シーラにもどうかすてきな人があらわれますように」
と、私はお祈りをしていたものである。本当に教会で真剣に神様にお祈りをしていた。お祈りのしかたがたりなかったのかな。ほかの女のことも考えていたから。
それはセリーナのことである。『奥様は魔女』の登場人物中、いちばん好きな人、それがサマンサのいとこのセリーナだった。
「セリーナなんていたっけ?」
『奥様は魔女』が好きだったという人は多いが、セリーナのことをおぼえている人は少ない。
大好きだったので、いっしょうけんめい彼女について話しはじめるのだが、人は自分がおぼえていない人物のことを聞こうとしない。顔がもう「聞き流している」という顔にチェンジする。大好きだったので、ハラがたってくる。
「いたんだってば!」
私はグラディス妻になってしまう。
セリーナの役はサマンサと同じエリザベス・モンゴメリがやっていた。サマンサそっくりのいとこという設定で、ただし、髪が黒い。たしか頬《ほお》だか口もとだかにホクロがあったような気がする。
セリーナはエピキュリアンで、彼女が登場するとBGMに官能的なメロディが流れたりする。いつもサマンサに化けて、ダーリンに遊びに行こうともちかける。
ダーリンが机に向かって仕事をしているのに、
「ねえェン、ダーリン、こんなたいくつなことやめて、映画にでも行きましょうよン」
と、猫なで声を出す。それも、ダーリンの机の上にべたっと片ひじついて寝っころがるようなポーズで。
「ど、どうしたんだい、サム。今日はなんだかおしゃれしてるね」
ダーリンがどぎまぎするのも当然な、なんだかこう女っぽーい洋服を着て。
あわや二人が映画にでかけそうになるところで、
「んもう、セリーナ!」
と、本物のサマンサが現れて、結局、デートできないのは「まいどおなじみ」の顛末《てんまつ》なんだが、セリーナが出てくると私はうれしくてうれしくてしかたがなかった。
かすかにただよう性的な気配を、子供の敏感さが嗅《か》ぎつけうれしかったのではない。セリーナの誘惑は、
「誘惑」
という文字から人々が感じるような感触や湿った匂《にお》いがまったくなかった。乾いていてストレートで、それでいてセクシーで、そこが好きだった。セリーナを見てるとスカッとした。
たぶんセリーナのような態度を、アメリカ人は「女らしい」「色気がある」と感じるのだろうが、日本人にはまったく効き目がないんだと思う。むしろ日本の男性はセリーナのような態度をされると拒否反応を示すことが多いのではないか。
「でも、私は好きだったんだってば!」
いまいちどグラディス妻になって叫ぼう。私はセリーナが大好きだった。この嗜好《しこう》はのちに峰不二子、キム・ベイジンガへとつながる。ぴこぴこぴっと、サマンサに鼻を動かしてもらって魔法である日、こんなふうな女になれたら、どんなにいいだろうかとよく願っていたが、サマンサ役のエリザベス・モンゴメリももう死んでしまった。
この人はサマンサ以外にも『嵐の夜の惨劇』というサスペンスに出ていた。嵐の夜に惨劇が起こる話。惨劇が起こっても、
「魔法を使って逃げればいいのに」
と、つい見る者に思わせてしまうところが女優としては足枷《あしかせ》だったかも。
不二家カントリー・マアム・ビスケットのCMに出たときも鼻を動かしてたっけなあ。
『奥様は魔女』、不朽の名作である。
[2]りかちゃんのお引っ越し
しもつきはじめのある夜、風が吹いておりました。しのびよる病魔さながらにかたちなく、ただ庭の竹の葉をぞわぞわとふるわせるのです。
ぞわぞわとした夜ふけ、遠くで吠《ほ》える犬の声は、かつて詩人がうたったとおり、のおあある、とおあある、やわあ、と夜陰の道路に長くのび、蒼《あお》ざめて窄《しぼ》んでゆくのであります。
群馬県|安中《あんなか》市たらちね町三番二十八号の古い広い家屋の十畳間で、ぬば たま子さんは、布団から首だけをにょっきり出しておりました。にょっきり出した首を、左に反転させ、十畳間の明かりを消して部屋を出て行こうとしている人に尋ねました。
「犬は病んでいるの? おかあさん」
ほとんど聞きとれるか聞きとれないかの声でしたが、尋ねられた人は暗闇《くらやみ》で金色に眼を光らせて答えました。
「いいえ子供、犬は飢ゑているのですよ」
「そうですか。では、おやすみなさいませ」
たま子さんは目蓋《まぶた》を閉じ、
「あれは真実の答えなのでしょう」
と、思いました。
そして、泥のような眠りにおちてゆきました。
かたり。
音がいたしました。
たま子さんが箱の中に入れずに、十畳間に出しっぱなしにしておいたハウスで、です。
ハウスはプラスチック、塩化ビニール、ゴアテックス等でロココ美術をとりいれつつ、高度成長期後期美術の意匠でした。
かたり、かたかた。かたかたかたり。
ハウスで、いずみちゃんがむっくりとベッドから起き上がりました。
亜麻色の髪を束ねたいずみちゃんのベッドはボール紙でできていて、ヘッドボードは水彩絵の具で色づけされて、ハウスのすみっこにありました。
ふらんねるのパジャマを着たいずみちゃんは、そのやさしい眼に険しさをたたえて、ハウスの中央にかかったレースのカーテンのあたりをじいっと見つめました。
レースのカーテンの内には、貝殻をかたどった白いベッドがあり、ふかふかの毛布がかかっております。
白い貝殻のかたちのベッドは、きらきらと光るなにかがちりばめてあってとてもすてきなのです。
いずみちゃんは、自分も一度でいいから白い貝殻のベッドで寝てみたいと思っていました。
でも、きれいで豪華なそのベッドで眠ることが許されるのは、いずみちゃんではなく、りかちゃんなのです。
りかちゃんは王女さまで、いずみちゃんは侍女なのでした。
りかちゃんはいつもいずみちゃんに対して、
「あなたはりかの親友よ」
と言い、ずいぶんよくしてくれるのですけれど、それでも、りかちゃんが王女さまでいずみちゃんが侍女であることはぜったいに変わらないのでした。
「…………」
いずみちゃんは、ベッドから抜け出し、レースのカーテンにぴったりと顔をよせると、りかちゃんを見下ろしました。
栗《くり》色のつやつやとした巻き毛が羽の枕に扇のようにひろがっております。
ふかふか毛布があたたかすぎるのか、りかちゃんは胸元あたりまで肌を出して寝入っていました。
白い肌に長い睫毛《まつげ》、くちびるはルビーのように艶《つや》めいて、そこからすうすうと寝息が洩《も》れています。
精緻《せいち》なコットン・レースをあしらったアプリコット色のネグリジェの胸ぐりは大きく開き、ぷっくりと形のよい乳房がすけています。
「りかちゃんはきれいだわ。けれども……」
いずみちゃんは、りかちゃんのベッドをはなれて、ハウスの壁に取り付けられた鏡の前に立ちました。
「けれども、わたしだって、わたしだってきれいだわ。きっとそうだわ。そう思うことにするわ」
鏡に自分を映して、言いました。
いずみちゃんはきれいな娘です。ネーブル色したくちびるもチャーミングだし、ほっそりとした身体つきはしなやかです。
ですが、ずうっと大事に大事にされて暮らしてきたりかちゃんには、グレースフルな華やかさがあって、それはいずみちゃんがどうしても所有できない雰囲気なのです。
りかちゃんの肉体は、キズひとつ、シミひとつなく、およそ贅沢《ぜいたく》というものを吸いつくして作り上げられているのです。
「わたしだって、きれいだわ……きっとどこかできれいだわ……」
弱々しく、くりかえし、いずみちゃんは鏡に映る自分の顔にキスしました。
「渡くん……」
渡くんとキスしているつもりでした。
渡くんというのは、以前はいずみちゃんの恋人だった青年です。
一昨年、たらちね町商店街にある『ツクダ玩具《がんぐ》店』から、いずみちゃんはたま子さんの家にやってきました。いずみちゃんがやってきた次の日、あまさかる町商店街の『おもちゃのトノベ』から渡くんが来ました。あまさかる商店街はひなびたところだったので、渡くんはちょっとはずかしそうにしていて、それをいずみちゃんが親切にしてくれたので、彼はいずみちゃんにさわやかな好意を抱き、それから二人はしだいになかよくなりました。
よくいっしょに遊びました。ピンポン玉でバレーボールをしたり、そろばんの橇《そり》に乗ったりして、とてもなかよしでした。
渡くんのお嫁さんになるのだと、いずみちゃんはかたく決めていました。
それが一年後のある日、二人でオルゴールを聞きに応接室へ遊びに行ったときのこと。応接間のピアノの上にいずみちゃんと渡くんが並んで腰かけていますと、そこへガラスの灰皿の馬車に乗ってりかちゃんが来たのです。
りかちゃんは、たま子さんの家にやってきて一週間。いずみちゃんとは面識がありましたが、渡くんとは初対面でした。
りかちゃんは銀座の『博品館』の出だったので、さいしょのころはたま子さんの部屋ではなく、お座敷に置かれていたのです。
「あら、いずみちゃん。あなたもオルゴールを聞きにいらしたの?」
かろやかに声をかけてくるりかちゃん。
「え、ええ」
いずみちゃんは渡くんといっしょのところを見られてばつが悪そうに答えました。
「お連れの方はどなた? 紹介してくださらないこと?」
りかちゃんの髪にはまだセロファンが巻かれているほど、彼女はぴかぴかに新しいのでした。
「あ、あの……ボーイフレンドの渡くんです。渡くん、こちらはりかちゃんよ」
いずみちゃんの紹介を受けると、りかちゃんはさっと渡くんに近づき、右手を出してこぼれんばかりの新品の笑顔を示しました。
「ごきげんよう。博品館からまいりましたりかです。いずみちゃんにあなたのようなステキなボーイフレンドがいたなんて」
「いやあ……いい友達ですよ、そんな大袈裟《おおげさ》な仲じゃなくて」
髪をかきながら照れる渡くん。
「今日はたま子さんが『ララのテーマ』のオルゴールを買ってもらったとか。お座敷のほてい様にうかがいましたの。じゃあごいっしょしませんか、ってお誘いしましたのに、ほてい様ったらもうお年で出かけるのは難儀だなんておっしゃるものだからわたし、しかたなく一人でまいりましたの」
「そうですか、じゃあ、ぜひ、ぼくらといっしょにここで聞きましょうよ」
渡くんが言いました。
「いいえ、とんでもないわ。せっかくのデートを邪魔しては。そんな野暮《やぼ》なことはいたしませんことよ」
「デートだなんて。ぼくたちはただの友達なんだから」
「あらあ、よろしいの? そんなことをおっしゃって。でも、お座敷にはほてい様と阿弥陀《あみだ》様しかいらっしゃらないからさびしくて……。じゃ、また」
ひらりとフレアー・スカートをひるがえし、りかちゃんはいずみちゃんたちのそばをはなれました。
りかちゃんの後ろすがたを見送りながら、渡くんはぽーっとした眼をしています。
「なんてきれいな人なんだ」
りかちゃんを賛美する渡くんの横で、いずみちゃんは、
「そうね」
と、ただひとことかなしそうに言いました。
ハウスがたま子さんの部屋に届けられ、りかちゃんがお引っ越ししてくると、いずみちゃんは不吉な予感を抱きました。
そして不吉な予感はすぐに的中してしまいました。
いずみちゃんは見たのです。縁側に並べられたゼラニウムの鉢の陰で、渡くんとりかちゃんが抱き合ってキスしているのを。
りかちゃんの水玉模様のリボンのついたつばの広い帽子が、渡くんの足元に無邪気に落ちておりました。
リボンの水玉模様を、目蓋《まぶた》の奥にゆらめかせながら、いずみちゃんは鏡にきびすをかえし、ハウスの窓を用心深く開けました。
「ジョー、ジョー。上がってきて」
何枚かのハンカチを結びあわせたロープを窓から下に送ります。
ひゅう。口笛の音がしてロープをひっぱる手応《てごた》えがありました。まもなく窓の桟《さん》に骨太の手がかかり、ブロンドの髪をした青い眼のジョーがハウスに入り込んで来ました。
「こんばんは、ジョー。ついにお待ちかねの日よ」
無表情にいずみちゃんは言います。
「へへへ……」
彫りの深い顔に野卑《やひ》な笑いを浮かべるジョー。
「りかちゃん、今、まだ眠ってるわ」
レースのカーテンに囲まれた白いベッドのほうを顎《あご》で示すいずみちゃん。
「そうか。そりゃ、都合がいい」
ジョーは背負っていたリュックサックを下ろすとファスナーを開け、中身を床に全部出しました。いろんな物がありました。
「これだけそろえるのはたいへんだったんだぜ。なにしろ、この広い家の部屋から部屋をさがしてかき集めたんだからな」
「そんな苦労も報われるわよ、今日は」
「ああ、そうさせてもらうともさ」
ひそひそといずみちゃんとジョーは話します。
GIジョーといずみちゃんは、たま子さんの家ではさほど話はしませんでしたが、実は古いつきあいなのです。ふたりとも『ツクダ玩具店』の出身なのでした。
いずみちゃんとジョーは『ツクダ玩具店』の店内で三回だけセックスをした仲でした。いずみちゃんはジョーが好きではなかったので冷たいセックスでした。それで、ジョーのほうもシラけてしまい、長いあいだシラけきって店内で二人は並んでいました。
そのうちに、たま子さんの弟がジョーを買い、いずみちゃんはせいせいしていたのに、たま子さんに買われて、あろうことか再会したというわけです。
シラけた再会でした。できることなら会いたくなかったいずみちゃんでしたが、ジョーのほうは昔のことなどすっかり忘れていて、それより、王女さまのようなりかちゃんに眼をつけて嬉々《きき》としていました。もちろん、いやらしい意味で、です。
それをいずみちゃんはよく見抜いていましたので、いつかハウスに入ってこられるようにしてあげると約束していたのでした。
「さ、はやくはじめたら? 私とあなたと、それにりかちゃんだけがおもちゃ箱から出ている状態の日がやっと来たのよ」
「そうだな、よし」
ジョーはりかちゃんに近寄りました。
「ふうん。間近で見るとなおのこと美人だな。この子供の手垢《てあか》のついていないおっぱいのライン。やっぱり大事に取り扱われてきた女はちがうぜ」
ジョーは悪魔的な笑いを浮かべ、りかちゃんの手首を輪ゴムで縛りあげました。
「う、うーん……」
りかちゃんの眼が開き、
「なっ、なにっ?」
ハッと全身がこわばりました。
「わたしよ、りかちゃん」
「い、いずみちゃん。なに? なんなの? この人はだれ? あっ、痛い。痛いわ、はなして」
眠りからさめたばかりで状況判断のつきかねるりかちゃんは、怖がるというよりも、ただやみくもにバタバタしましたが、すでにジョーに手首を縛られているので逃げることはできません。ジョーに軽々と抱き抱えられ、たま子さんのTOSHIBAの学習スタンドに逆さ吊《づ》りにされてしまいました。逆さ吊りにするために、ジョーは大型クリップ二個を用いました。
「いやあーっ、助けてーっ、渡くんー」
「渡くんは来ないわ。押入れの中ですもの。だれも助けてはくれないわ」
「いずみちゃん、どうして? どうしてりかにこんなひどいことをするの? あなたはわたしの親友でしょう。あなたには博品館のお洋服もたくさんあげたのに」
「でも、あなたはわたしから渡くんをとったもの」
「そんな……。渡くんが勝手にわたしを好きになっただけだわ。とったりしてないわ。渡くんがわたしに夢中になったのよ。わたしはなにも知らないわ。さあ、このへんな人に頼んで。クリップをはずしてって」
「頼まないわ。ジョーも勝手にりかちゃんに夢中になったの。りかちゃんのことを勝手に大好きになったらしいの。ジョーにもりかちゃんのきれいな身体をさわらせてあげてね」
「いやいや。そんな下品な人にわたしのぴかぴかの身体をさわらせるなんてとんでもないわ」
プライドの高いりかちゃんは逆さ吊りにされてもやっぱりプライドが高いのでした。
「言ってくれるじゃないの、お嬢さん」
下品な人と呼ばれてジョーはぴしゃっとりかちゃんの逆さまのおしりを叩《たた》きました。
「ア、イタイ」
「下品でもあんたの身体なら上品にさわってやるから安心しな」
ジョーはりかちゃんのネグリジェをびりびりとやぶりました。
「イヤダ、イヤダ、イヤイヤ」
りかちゃんの全身が紅しょうがのように赤くなりました。とジョーは笑いました。
「もっと叫べ。俺《おれ》はきゃあきゃあと女が叫ぶとうれしくてならないんだ」
ジョーは、わはははは、わはははははは、わはははは、わはははははは、わはははははは、と短歌で笑いながらネグリジェを裂き、りかちゃんの身体からそれを剥《は》ぎ取ってゆきます。
ふとももが、ウエストが、腕が、肩が次第にむきだしにされ、ぷるるんと乳房までがジョーの前に露出しました。
「アーン」
ジョーの前でパンティ一枚のかっこうにされたりかちゃんは、顔をそむけてがくがくと膝《ひざ》を震わせます。
「ふふん。ぎらきらのドレス姿もいいが、パンティ一枚の姿はもっといいぜ、りかちゃん」
ジョーはぱちぱちとりかちゃんの乳房をさわり、かちかちと掴《つか》み、きこきこと揉《も》みました。
「イヤダ、イヤダ、イヤイヤ。さわらないで、さわらないで。けがらわしいわ、汚いわ、下品だわ、あなたみたいな人の手でさわられたくありません」
真っ赤になってお尻《しり》をふるりかちゃん。
「なに言ってるのよ。親友の恋人を平気で横取りするような淫乱《いんらん》な人には渡くん一人ではたりないと思ってジョーを紹介してあげるのよ。むしろお礼を言ってほしいくらいだわ」
いずみちゃんは鳩居堂《きゆうきよどう》の筆でそよそよとりかちゃんの身体をくすぐりました。
「ア、ア、アーン、アーン」
やわらかくぐにゃくにゃとしてしまうりかちゃん。
「ほら、ごらんなさい。ジョー、この人の見かけにごまかされてはならないわ。この人は淫乱女なの。あなたにだってさわってもらいたくてしかたがないのよ。さあ、丸裸にしてたっぷりとお望みをかなえてあげるといい」
いずみちゃんはジョーにJTBツアー付録の携帯用裁縫セットの鋏《はさみ》を差し出しました。
「ほら、これでパンティを切ってさしあげたら? いやらしい部分も下品なあなたに見せたくてうずうずしてるにちがいないでしょうから」
「ぐふふふふ、ぐふふふふふふ、ぐふふふふ」
ジョーは俳句で笑い、いずみちゃんから鋏を受け取り、りかちゃんのシルクのパンティのゴムを引っ張りました。
「いやいや。パンティを切ってはいや」
りかちゃんはお尻をクネクネとゆすって拒否しますが、そのしぐさがよけいに男心をひくことをどこかで知っているのか、知らないのか。
たちまちにして一糸まとわぬ姿にされたりかちゃんの肌は恥ずかしさのために、燃えさかるようです。そして、一糸まとわぬ姿になったジョーの肌も興奮のために、燃えさかるようです。
りかちゃんはジョーにべとべとになるほどさわりまくられ、びちゃびちゃになるほどなでまくられ、ぐちょぐちょになるほど舐《な》めまくられ、ぬるぬるになるほど揉みまくられました。
栗色の巻き毛をはらはらみだれさせ、お尻をゆらゆらさせ、
「イヤイヤ」
「イヤイヤ」
同じことばをくりかえすりかちゃん。ですが敏感な体質は不潔なジョーの手とわかっていても、熱く燃えて痺《しび》れる感覚に悦楽してしまうのでした。
ジョーは自分の裸の肌をりかちゃんの裸の肌に思うぞんぶんこすりつけ、ぜえぜえとはげしい息を鼻と口から吐きました。
「うひひひひ、うひひひひひひ、うひひひひひひ、ウヒウヒヒ、ヒヒヒヒヒヒヒ、ヘヘヘヘヘヘヘ。最高の肌ざわりだぜ。吸いついてくるようだ。やっぱり『博品館』出は肌の作りがちがう」
旋頭歌《せどうか》で笑いながらジョーはりかちゃんの股《また》のあいだに顔をうずめます。
「アッハーン」
全身でのたうち悦楽の反応を示すりかちゃん。
「感度バツグンだ。いずみもこれくらいにさわり甲斐《がい》のある身体をしてりゃあ、俺とももっと長くたのしめたのによォ」
ちら、とジョーがいずみちゃんをふりかえりました。
「ふん。わたしは好きな人にしか感じないのよ。相手にみさかいのない淫乱女とはちがうわ」
自分の身体をりかちゃんと比べられたものでいずみちゃんは不愉快でした。
「りかちゃん、あなたってほんとに淫乱なのね。日本中の女の子があなたに憧《あこが》れているというのにとんでもないわ」
どいてジョー、と、いずみちゃんは満足しきったジョーをつきとばし、自分がりかちゃんの前に立ちました。
「あなたのような裏切り者は制裁を受けなくてはならないわ」
いずみちゃんはシャープペンシルの剣をりかちゃんのお尻に突き刺しました。
「きぇーっ」
痛みに歪《ゆが》むりかちゃんの美しい顔。
「りかちゃんみたいな人は、淫《みだ》らな人間の女と同じ身体になるのよ。人間の女と同じようにいやらしい穴をこさえるのよ」
シャープペンシルをぎりぎりと深く突き刺してゆきます。
「ギャーッ、イタイ、イタイ」
いくらりかちゃんが泣こうがわめこうが、いずみちゃんはまったく意に介さず、シャープペンシルの剣を刺しつづけます。
剣を抜くとりかちゃんのお尻に穴があきました。
「ほら、これがアヌスよ、それからこれもこさえなきゃ」
つづけてシャープペンシルの剣をりかちゃんの股間《こかん》に突き刺しました。突き刺してぎりぎりぎりぎりとねじります。
ジョーですら、おろおろとしてハウスのすみっこでへたりこんでしまいました。
「ユルシテ、ユルシテ、いずみちゃん」
「ほほほ。いまごろあやまったって遅いわ」
「アーン、アーン」
洪水のように涙を流すりかちゃん。
「さあ、ヴァギナができた」
レモンスカッシュのようにすずしげにほほえみながらいずみちゃんが剣を抜くと、りかちゃんの股間に二つの穴があきました。
「最後はおしっこの穴」
プッスンとまち針を、いずみちゃんはりかちゃんの股間に突き刺して、夜はしらじらと明けました。
翌日。
十畳間で眼をさましたたま子さんは、りかちゃんの姿が見えないことに気づきました。
「おわあ、おわあ、おわあ。あたしん家のりかちゃんは行方不明です。りかちゃんをさがさなくては」
いったんは背負ったランドセルをたま子さんが置くと、十畳間に入ってきた人が、
「いいえ、子供。学校のほうが大事です」
と、言い、たま子さんの頬《ほお》をぶちましたので、しかたなくたま子さんは、またランドセルを背負って家を出ました。
学校の二時間目の算数の時間、庭の竹の陰から小さな小さな女の人がさあっとどこかへ駆けて行ったことを、だからたま子さんは知る由もありません。
小さな小さな女の人は生きていて、しなやかな肌と淫蕩《いんとう》な穴を所有しておりましたので「これからどこかでさびしい人格の男の人を誘惑すれば、贅沢《ぜいたく》な暮らしがすぐにまたできるわ」と計画しておりました。彼女《かのひと》は無傷でした。彼女《かのひと》に不安はいっさいありません。なぜならしなやかな肌と淫蕩な穴は、息づくことなき冷感の肌と不感の穴に対し、いつも必ず勝利するのだから。おお、遠い空でぴすとるが鳴る。
カルトガイド(少女文化のヰタ・セクスアリス)
彼女の名はスカーレット。
「Tommrow is another day」(明日は明日の風が吹くわ)
と言って、タラの土地に沈む夕日を見つめていた人物とはちがう、べつのスカーレット。彼女はアメリカ南部タラ出身ではなく、日本の野村トーイ出身。
『風と共に去りぬ』に主題歌があったように、野村スカーレットにも主題歌があった。
♪スカーレット、 スカーレット、
わたしのかわいいお人形。
スカーレット、スカーレット、
わたしのだいじなお人形。
おしゃれが好き、好き、好き、
今日のドレス、どれにしましょ。
スカーレット、スカーレット、
わたしのスカーレットちゃん。♪
彼女はタミーの対抗商品として発売された。タミーはどこの会社だったのか、記憶がない。この私にこういうことで記憶がないというのは、おそらくさいしょから知らなかったのだと思う。
スカーレットの野村トーイは月曜の七時から『魔法使いサリー』を提供していた。新発売のころ、スカーレットを買うとソノシートがついてきた。直径10センチメートルほどの赤いやつ。それで主題歌をおぼえた。スカーレットの出現により、タミーは座を奪われたという気配を子供心にもかんじた。
そもそも現在のタイプの着せかえ人形(紙でできたものではなくて、体長20センチくらいの、家族、友人がいる、ハウスもある)の戦後初はバービー(アメリカ・マテル社)だったのだと思われる。
バービーはもろ白人の外見をしていたので、まだ経済大国になる前の日本の女の子にはあまりなじめず、それでタミーが発売され、そのタミーに対抗してスカーレットが、
「おーほっほっほ、わたしの勝ちね」
などといい気になっていられたのもつかのま、ごぞんじ香山リカが登場したのである。
しかし、香山リカの名を出すなら、細川千栄子の名前も出さないと気がおさまらない。どうしてもおさまらない。
「細川千栄子? そんな人形あったっけ?」
と首をかしげてもむだだ。細川千栄子は人形ではない。漫画家である。
どういう漫画家だったかというと、細野みちことならんで『少女フレンド』で人気のあった漫画家である。
「細野みちこと細川千栄子? なんてまぎらわしい」
と思うだろうが、ほんとに絵も似ていた。ふたりとも、
「薄幸の美少女≠ニいう題で絵を描いてごらんなさい」
と言われたらこう描くというような絵であった。話の内容もすごい。コリー犬に目をひっかかれて目が見えなくなった少女が、そのコリー犬の子犬エルザを盲導犬として本当のおかあさんに会いに行く話(細野みちこ『おはようエルザ』)や、両親をなくして貧乏のどんぞこで暮らす少女が某国の王子にみそめられ身分ちがいの障害をのりこえて結婚にまでこぎつける話(細川千栄子『東京シンデレラ』)など、1996年の今、あらすじを記述すると、
「ううむ……」
とうなってしまうのはぜったいひとりだけではない。
『東京シンデレラ』は、学齢に達する前に読んでいたのだが、某国の王子にみそめられる貧乏な少女、って、これ、
「シンデレラのまんまやんけ」
という、題名からしてまんまな、こういう典型的な、
「いつか王子さまが」
が、細川千栄子の漫画で、その点、あくまでも血縁(実母)にこだわる細野みちこと一線を画している。
ということは、細野みちこより細川千栄子のほうが色恋度が高かったわけで、当時の少女漫画の基本理念(=血縁重視)からするとススンでいた漫画家だった。
この細川千栄子の漫画に、つぎのような話があった。ただ、二作品が混乱して記憶されている危険があるのでこの点だけはお断りしておく。
王子さま(に相当する男)の名は「渡くん」である。彼は人気絶頂の歌手だ。貧しい少女の名前は「香山リカ」という。デザイナーをめざしている。「ママがデザイナー」でお店を開いていたが、腹黒いやつに乗っ取られたんだかなんだかして、とにかくリカは目下は貧乏である。貧乏なリカは洋服屋さんで働いている。社長のお嬢様が「いずみちゃん」といい、髪の毛が黒い。リカは黒くない。「パパがピエールというフランス人で指揮者」だったからである。
「はて、この話、どこかで聞いたような……」
首をかしげるまでもなく、これ、人形のリカちゃんのコンセプトだよね?
「じゃ、タカラは細川千栄子の漫画をもとにリカちゃんを作ったの? ねえ、ねえ、どうしておんなじなの?」
と、これはいつもリカちゃんを見るたび抱く私の疑問である。
で、細川千栄子の漫画では(たしかその題名は『あこがれ』)、社長令嬢の「いずみちゃん」はとてもいじわるで、卑怯《ひきよう》な手段で「リカちゃん」をいじめるキャラクターに描かれてあった。
少女漫画といえば、ヒロインをいじめる少女、が欠かせない。
「これがなくては夜も明けないよ」
ってくらい。美人でお金持ちでいじわる、この三拍子がそろって「由緒正しい少女漫画のいじわるなお嬢様」である。いずみちゃんは美人ではなかったので、つまらなかった。興味が湧かない。だからきっと私はこのデザイナー少女漫画をしっかりおぼえていないのだ。
「いじわるな美人って陰湿なことをするじゃないか。陰湿なの、イヤだよ」
というような反論には、
「バカモノ!」
である。
バカモノ! 「美人でいじわるなライバル」が出てこないものは「少女漫画」ではないっ。それは「漫画」である。「漫画」は日本が世界に誇る文化として、スポットを当てられ、評論されて時久しい。『ベルサイユのばら』も『日出る処の天子』も『バナナブレッドのプディング』も「少女漫画」ではなくて「漫画」である。
「少女漫画」というのは隠花植物。隠花植物は光のあたらぬところに咲いてこそ! だ。光あるところに陰がある。いくよ、あっての、くるよ、なのだ。アボットあってのコステロなのだ。
実の母をたずねる少女はメソメソしていて、バレリーナをめざす少女はジメジメしていて、女の嫉妬《しつと》がドロドロうずまく「大奥」のような空気こそ(「大奥」に実際にいたことはないが)、少女漫画の魅力なのだ。
1970年ぐらいまで、少女漫画は少女のアダルトビデオだった。アダルトビデオがジメジメ、ドロドロしなくなったら勃《た》たないではないか。な、な、そうだろ? 太陽がふりそそぐ草原で玄米おにぎりを食べると欲情するか?
戦前の探偵小説が「犯人を推理する」ということを隠れ蓑《みの》にした、大衆の性のはけ口としての用途を担っていたように、「実母をたずね」たり「バレエに励んだり」することを隠れ蓑にして、女の子供の性処理をしていたのが少女漫画だったんである。
男女問わず子供には子供の性の欲望がある。カエルを残酷な方法で殺したり、勉強のできない子にパンツをおろさせて性器を覗《のぞ》いたり、学校でウンコをした子をからかったり、子供はざらにこの手のことをする。
どれもみな、日常生活の、表面には出てこない部分に潜むパッションを、幼さゆえにその正体がわからず、ただそのパッションの弾《はじ》ける結果だけをたのしんでいる。
「少女漫画が少女のアダルトビデオだったなんて、考えすぎだわ」
などと言う人は、そんなに少女漫画を読む環境にいなかった人か、あるいは自己の内部を決して直視しない人だ。
少女漫画。あれはいやらしくてエロな世界だった。
ヒロインがとにかく苛《いじ》められる。しくしく泣く。ここにマゾヒスティックな興奮をおぼえた人を多数派とするなら、少数派はサディスティックな興奮をおぼえた。
私は少数派に属した。ただし、対象はヒロインではなく、ヒロインのライバルである。といっても『ガラスの仮面』の北島マヤに対する姫川亜弓のようなすがすがしい「好敵手」にではなくて「由緒ただしい少女漫画のライバル」にである。
少女雑誌掲載の漫画におけるヒロインのライバルを、さわやかなキャラクターにすることは、少女の陰湿さを形成するのをいちじるしく妨げるからやめてほしい。
『エースをねらえ!』にエロ度がたりないのは「お蝶《ちよう》夫人」と高校生のくせに夫人なんてニックネームをつけられているあの人が正々堂々として潔いからである。姫川にいたってはしょっぱなからマヤよりスカッとしているではないか。
「ライバルはあくまでも高慢ちきで妬《ねた》みぶかく、しかも美人」
これが隠花植物の命である。
こういうライバルが、やがて受けるであろうみじめなシーンを想像するのが、私の少女漫画における最大の興奮であった。
『りぼんの騎士』ならサファイアではなくビーナス。『サインはV』なら朝丘さんではなく麻里さん。『スマッシュを決めろ!』ならさおりではなく藤沢さん。細川千栄子と名前の似た細野みちこの『金メダルへのターン』なら鮎子ではなく姉の理恵。こういう面々が「勃つライバル」の在り方だ。
なかでも!
金井玲子とイサドラ・バーゲン。この二人が、そりゃもう垂涎《すいぜん》もののクィーンである。金井玲子(この名前! 名前からして由緒ただしいいじわるなお金持ちのお嬢様だ)が初恋の女なら、イサドラ・バーゲンは初体験の女といったところか。
金井玲子さんは『ガラスのバレエシューズ』(松尾美保子・なかよし)の主人公、香川純子ちゃんのライバル。
バレエのレッスンの休憩時にはキツネの頭付き毛皮のショールをまとうという、とんでもない小学五年生だ。
貧乏な純子ちゃんの願いごとをきいてやるのに、純子ちゃんを土下座させる。
〈オーケーよ。でも、いいこと? そのかわり新一さんとはこれからぜったい仲良くしないこと、わかったわね〉
などという。
レッスン着だけの肌にうっすらにじむ汗。汗のにじんだ肌にまといつくキツネの毛皮。
「くくう、たまらんぜ」な興奮が私の体内に湧く。だがそのとき小学校低学年なので、
「なんなんだろう? いったいなんなんだろう、この興奮は」
と、自分で自分の性的な興奮にとまどい、また自分が性的な興奮をするということも認めたくない。
なもので淡い初恋で終わってしまった。
それが『ガラスの城』(わたなべまさこ・週刊マーガレット)を読んだときは同じ小学生でも高学年になっていたので、イサドラをはっきりと性の対象だと認めた。
金髪を描かせたら右に出る者がいないわたなべまさこ。物語を読まずとも、その絵柄からして強力|淫靡《いんび》光線を放つわたなべまさこ作品! あまりに淫靡光線が強力すぎて、
「この人の絵、怖い……」
と、涙目になって心底、怖がっている同級生もいた。だれを描いてもどんなふうに描いてもすべてが、
「魔性の女」
になってしまう、ああ、わたなべまさこ、好きだった。
そのわたなべまさこ先生が、本格的にピカレスク・ロマンにとりくんで、本格的に「魔性の女」を描いたのが『ガラスの城』だったのだから、イサドラはもう、もう、夢枕|獏《ばく》の表現を借りれば、
「若い男なら見ただけで射精してしまうような」
女に描かれていた。
玲子さんのキツネの毛皮どころではない。まばゆく輝く金銀宝石、絹のボディコンなドレス、イギリス貴族の社交界、シャンデリア、宮殿……ありとあらゆる派手で豪華なものを身にまとい背景にし、美貌《びぼう》を見せつけてくれるイサドラ。
〈ああ、リヒテンシュタイン王国。この美しい国がもうすぐ私の物になるのだわ〉
薔薇《ばら》の浮く大理石の、プールのようなお風呂にはいりながらイサドラはうっとりする。望みの規模が「新一さんと仲良くなりたい」とか「バレエ学校の発表会で主役をやりたい」とかいった庶民規模ではないぞ。「リヒテンシュタインが自分の物になる」と、実在の国名を挙げる規模な上に、少女漫画史上、画期的な、
「裸身描写」
なのである。湯気でごまかしてあったが、このページは、まぎれもなく裸である。裸であるという事実が1970年には衝撃的なエロだった。
〈白くすきとおるようななめらかな肌……わたしは自分で見てもほればれするくらい美しいわ〉
イサドラときたら、自分でこう言いやがるようなやつなんである。自分でこんなことを言うようなやつは、あとで天罰がくだると、小学生が信じている「倫理道徳」では相場が決まっている。とすれば、どんなにひどい罰を受けるのだろうか。見たい。早く、罰を受けるところが見たい。そう思って興奮するのである。
ところが『ガラスの城』は超大作でなかなかイサドラに罰がくだらない。
「じらすのもイイが、あんまりやられるとヤル気をなくす」
というのはエロ心理の鉄則。
ちょうどそのころである。
私はバービーを入手した。すでにたくさんきせかえ人形は持っていたが、このバービーを入手した高学年になってからのほうが、私はきせかえ人形に夢中になったといえる。
なぜならバービーは、イサドラにそっくりだったのだ。
この人形さえあれば長編『ガラスの城』のラストを毎週毎週マーガレットで待たずしてイサドラを責めさいなむことができるではないか。私は嬉々《きき》としてバービーを苛《いじ》めた。どのように苛めたか詳細を記すと読者ならびに世間の人々から白い目で見られることは必定なくらい苛めた。
イサドラ=バービーを犯すとき、私はさぞや恍惚《こうこつ》とした表情をしていたことだろう。彼女を犯していた私は先天的にレスビアンなのか、それはいまだによくわからない。ただ、現在あきらかなことは、女の裸にしか(女体というべきか)性的な興奮をおぼえないということである(あっ、男の人も好きです。どっちも好きです。私はエロに強欲な人間です)。
少女漫画ときせかえ人形は陰湿でエロいものだった。まさしく隠花植物。私は隠花植物をこよなく愛した。
[3]かんちがいしがちな偉人伝
いつものように子供たちとかくれんぼをしていた良寛さまは、びょうぶの裏にじっとしゃがんでいました。
「ありゃま、良寛さま、こんなところでなにしてなさる」
お百姓さんが声をかけると、
「しーっ」
良寛さまは指を口にあてましたが、もう夕暮れ。
「子供たちはとっくに帰ってしまいましたよ」
お百姓さんから教えられ、良寛さまはかなしくて泣きました。涙が床におち、それはみごとな鼠《ねずみ》の絵注(1)になっています。
「やっぱりすごいなあ、良寛さまは。絵の天才だ」
お百姓さんは感心してそっくりかえりました。
「それではわたしも帰ろう」
良寛さまは背中に薪《たきぎ》をかつぎ、本を読みながら注(2)帰ってゆきました。帰るとちゅうに橋がありまして、
『このはしわたるべからず』
という立て札がしてあります。あるお金持ちが自分の物として橋を買ったのでした。ですが、本に夢中になっている良寛さまは指示を無視して橋をわたりました。
「こら、渡るなと立て札がしてあるだろう」
係の人がこわい顔で良寛さまの首ねっこをつかまえました。
「はい。ですから、はしをわたらずに真ん中をわたっています」
良寛さまは、得意のとんちを返して係の人をぎゃふんといわせました注(3)。
家に帰ると良寛さまのお母さんが、
「おかえり、てんぼう注(4)。でも、本を読みながら歩くようなだらしない子に、母はおまえを育てたつもりはありません」
と、たいへん叱《しか》りました。
良寛さまは反省して医術の勉学にはげみ、やがて貧しい人をただで診察してあげる小石川養生所注(5)をつくりました。
なんて偉い良寛さまでしょう。
かんちがいしがちな人への注釈
注(1)
涙で鼠の絵を書いたのは画僧の雪舟です。
注(2)
薪をかついで本を読みながら歩くのは二宮金次郎です。
注(3)
とんちで橋を渡ったのは一休さんです。
注(4)
厳しい母上を持ち、てんぼうと呼ばれていたのは野口英世です。
注(5)
小石川養生所にいたのは赤ひげ先生です。
ちなみに担当編集者はみごとに五項目、かんちがいしてました。とくに注(1)が危ない。
[4]美徳の不幸
紫陽花《あじさい》は雨に打たれている。
細い雨は、窓から眺めていると、まるでマリオネットを操る糸のようである。
六月は雨が降る。
雨ばかりの六月を、神様はすこし気の毒に思われて、だから紫陽花を贈ってくれたのかもしれない。
人が心ひかれずにはおれない、小さな花のかたち。その小さな花が集まって、今度は大きなこんもりとしたかたちの花となり、雨の中に咲く。
絵空事のようなパステル・カラーの花は、雨の風景の唯一の休息のように、人の目に映る。ブルーとピンクと紫の色がわり。
マリオネットの操り糸のような雨は、天空で天使が引っ張ったり伸ばしたりしているのかもしれない。
「そうやって、人生という舞台で、わたしたちは役割を演じさせられているのかも」
鮎原《あゆはら》こずえは、レースのカーテンに指を添えて言った。
「うん? なんですって?」
早川みどりは、ケーキの乗った盆を持つためのバランスをとるのに気をとられている。
「…………。なんでもないの」
こずえは言いなおそうとはしなかった。
「きれいなお庭ね、って言ったの」
ソファから立ち上がり、みどりの盆を持ってやる。
「あ、悪いわね。ありがとう」
みどりは盆をこずえに渡し、それから、
「庭なんて手入れを怠ってるから雑草だらけよ」
と、つづけた。
「そんなことないわよ。きれいなお庭だわ。こぢんまりとして」
「小さいだけよ。教師の月給なんて安いもん。お隣さんと屋根つづきのテラスハウスを買うのがやっと」
みどりはケーキの皿をテーブルに置く。
「まあ、おいしそうなケーキ」
こずえのポニーテールがゆれる。
「そうでしょ。ル・コントのチーズケーキよ。今日、鮎原さんが来ると思って用意したの。さあ、食べて食べて」
「ありがとう。遠慮なくいただくわ」
こずえがチーズケーキのフォークに手を添えたとき、
「ママ、台所にあるパン、食べちゃっていいんでしょ?」
ドアが乱暴にばんと開けられ、中学二年生くらいだろうか、頬《ほお》の赤い男の子が入ってきた。
「ママ、葉一ったらいけないんだよ。あたしの貸したCD、踏んで割っちゃったの。買いなおすのにお金ちょうだい」
男の子につづいて入ってきたのは、やはり頬の赤い中学三年生くらいの女の子である。
「あ、ごめんなさい……。お客さま……」
男の子と女の子は、こずえを見てばつの悪そうにドアぐちで突っ立った。
「これ。木乃実も葉一も、ごあいさつをなさい。お客さまでしょう」
みどりがたしなめると、二人の子供は、ぺこりとお辞儀をした。
「まあ、木乃実ちゃんと葉一ちゃん。大きくなったわねえ。わたしがおばさんになるはずだわ」
こずえは年月の流れを感じ、みどりの子供二人を見つめた。
「二人ともクラブ活動はバレーボールをしているの?」
「ううん。サッカー部」
葉一は答え、
「受験だからしてない」
木乃実は答え、そして二人は部屋を出ていった。
「ごめんなさいね。行儀が悪くて」
「いいのよ、みどり。ふたりともよく似てるわね、本郷先生に」
こずえとみどりは中学、高校と、バレーボール部に所属していた。本郷俊介は顧問教師であり厳しいコーチでもあった。
「そうお? 年子でしょう、もう、毎日、うるさくてうるさくて」
グチを言いつつも、みどりはしあわせそうである。
「ふふふ」
こずえは半分のチーズケーキを、また半分に割ってそっと口に運んだ。
「木乃実ちゃんと葉一ちゃんか。いい名前ね、本郷先生が一生懸命考えたんでしょうね」
「そうね、生まれたときは徹夜して考えてたっけな。わたしたちの最大の武器だった、あの変化球サーブ木の葉落とし≠ゥら名付けたのよ」
「本郷先生のようなきりっとしたパパなら子供たちも自慢でしょうね」
「まっさかあ。彼、ぜんぜん、きりっとしてないのよ。ここだけの話だけど、バレーボールをはなれると、人がかわったみたい。日曜なんか一日中TVの前でごろごろしてオナラしてさあ、もう、いやんなっちゃう」
夫、本郷のグチを言うみどりは、やはりしあわせそうである。
「ふふふ」
こずえは、紅茶を二回、スプーンでかきまぜ、しずかに笑う。
「本郷先生もきっとしあわせなんでしょうね。先生の選択は正しかったのよ」
こずえが言うと、そのときだけ、みどりは一瞬、硬い表情をみせた。
「……タイミングなんだと思うわ、結婚って」
みどりはケーキを食べる手をとめ、中学・高校時代から愛用しているカチューシャをはずし、長い髪を指で梳《す》いた。
「先生とはずっと交換ノートをしていたの。さいしょはクラブ活動日誌のようなもので、チームワークのことや稲妻攻撃の特訓のことを相談したりしていたのね。でも、そのうちに、もっといろんなことをノートでおはなしするようになったのよ」
富士見学園。そのキャンパスの思い出はこずえにとってバレーボール一色である。みどりにとってもそのはずだったが。
「読んだ本のこととか、見た映画のこととか。朝から晩までバレーばかりしている高校生活っていうのをたまらなくむなしく思うときがあってね。もちろん、ときたま、なんだけど……。そんな、ときたまの気持ち、を打ち明けてノートに書いていたの」
「そうだったの。わたし、全然、気づかなかったわ。先生とみどりが交換ノートをしていたなんて」
こずえは中学生のときも高校生のときも、バレーボールに明け暮れる生活がむなしいと思ったことなど一度もなかった。
〈わたしたちだって遊びざかりの女の子よ。男子生徒やなかのよいお友だちと夏休みを有意義に過ごしたいのよ。そこまでバレーに打ち込む必要があるかしら〉
そういえば、いつだったか部員がこんな弱音を吐いたことがあったのを思い出した。
「そりゃあ、鮎原さんはナンバーワン・プレイヤーだったもの。全日本チームにも選ばれたし、バレー一筋で充実していたと思うの」
「だって、みどりだって我が富士見バレー部のスター・プレイヤーだったじゃないの」
「うん。もちろん、バレーは大好きだったわよ。でも、やっぱり、あたしはあくまでも富士見高校のクラブ活動としてバレーが好きだったのであって、夢はずっとウエディング・ドレスだったわ」
「夢がかなってよかったじゃない。ドラマチックな結婚だったもの」
本郷は同僚の女性教諭と婚約していた。いつも試合の応援に来てくれた柏木《かしわぎ》敬子先生。しかし、みどりが富士見大学を卒業した年に突然、婚約を破棄し、みどりと結婚したのだ。
「あたしね、先生が婚約したときもお祝いしてたのよ。でも、なんでああいうことになっちゃったのかなあ。いけない、いけない、って思ったんだけど……」
みどりは目を逸《そ》らした。
「タイミングなんだよね。ほんと、タイミングでそんなことになっちゃって……タイミングで結婚しちゃったのよ」
すべてはタイミングなのだ、とみどりはつぶやく。
こずえは庭の紫陽花を見つめた。糸のような雨はまだ降りつづいている。
「タイミング……」
すべて人生はタイミングだろうか。あらかじめ与えられた役割を、人はタイミングなのだと解釈しているだけではないだろうか。
「わたしは自分の結婚がタイミングだったとは思えないわ」
こずえは紫陽花からみどりへと視線を移した。
「まあね。鮎原さんと一ノ瀬くんは幼なじみだったから、そう思えないのかもしれないけど……」
「わたしが結婚したのは努くんじゃないわ。お兄さんの竜二さんよ」
こずえのこめかみがぴくりと動く。幼なじみの一ノ瀬努は、こずえが十七歳の誕生日に事故で死んだ。鉄道自殺をはかろうとしている人間を助けようとして自分が死んだのだ。
「でも、ふたごのお兄さんだからそっくりでしょ」
努の死後、数年後にこずえは一ノ瀬竜二に出会った。養子に出されていた彼は、努の死後に一ノ瀬家に戻ったのである。
「鮎原さんは竜二さんに努くんを見ていたのだと思うけど」
「……それは否定しないわ……」
「わたし、それ、ちっとも悪いことじゃないと思うわ。みんなおんなじことをおおかれすくなかれしてるじゃないの。おとうさんに似たタイプを好きになるとか、お姉さんに似ているから好きになったとか。それとおなじことよ」
みどりはテーブルに散ったケーキのくずを何気なしに集める。
「竜二さんに努くんを見ていたとしても、でもそこから夫と妻への関係へ踏み切ったのは、やっぱりタイミングだったと思わない?」
「あまり思わないわ」
竜二との結婚は、こずえにとって定められていたもののように感じられた、はずだった。
「まあ、言ってくれるじゃないの。赤い糸で結ばれていたってわけか。しあわせそうなのは鮎原さんのほうよ」
「そうね。たしかにわたしはしあわせだわ。今月の下旬で四十二歳だけど、しあわせな四十二歳の誕生日を迎えられることを神様に感謝しているわ」
こずえは、来月から新築のマンションに越すことをみどりに伝えた。新しい家具もそろえ、車も買いなおしたことも。
「わあ、うらやましいわ。やっぱそれって子供のいない夫婦の強みよね。ディンクス貴族ってやつよ」
みどりは、マンションの間取りや、車の種類、インテリアのことを、こずえに訊《き》いては、たのしそうに祝ってくれた。
「稲妻攻撃だって、第一の魔球も第二の魔球も、綿密な計画と練習のもとに自分のものにしていった鮎原さんだもの。あたしとはちがって人生はタイミングではなく、自分で設計して切り開いて築いていくものなのね」
「ええ」
こずえはまさに肯定した。
「ぎゃくに言えば、わたしにはそういうやり方しかできないのよ。タイミングをぱっと掴《つか》んだり、流れにかろやかに身をまかせたり、そういうスマートなやり方ができないの」
富士見学園高校を卒業後、こずえは実業団チーム、ニチボウに入り、ミュンヘン・オリンピック、世界選手権試合に出場。ニチボウ退団後に東亜大学教育学部夜間部に入学。卒業後は同校の体育学科講師として勤務。今日に至るまでの経歴は、詳細はともかく、大筋はバレーボールを軸とした努力によって積み上げてきたといってよい。
「いいじゃない。だから鮎原さんはソ連との対戦でも最優秀選手賞に選ばれるのよ。華麗なる魔球の陰には鮎原さんのたゆまぬ努力と綿密な計画があったんだわ」
みどりの口調には何らの皮肉めいたものはなく、素直にこずえに敬意を払っている。
「…………」
こずえはだまってしずかにほほえんだ。
「みどり、今日は久しぶりに会えてほんとうにたのしかったわ。そろそろお夕飯のしたくにかからないといけないでしょう。わたし、おいとまするわね」
ソファから立ち上がる。
「あら、いっしょに夕食を食べていけばいいのに。うちの人だってよろこぶわ」
「ありがとう。でも、今日は早く帰らないといけないの」
「わあ、ご主人とデート? ディンクス貴族ねえ」
みどりははやしたてながら、こずえを門まで送った。
「ねえ、みどり。あの紫陽花、ほんとうにきれいね。心が洗われるようだわ」
「そんなに気に入ってくれてうれしいわ」
「だって、紫陽花ってバレーボールのような花じゃない?」
「バレーボール? そういや、そうね。こんもりと丸くってボールみたいだわね」
元気でね、と、みどりの声がこずえの背中にかぶさった。
ダンボール箱の上に白いシーツをかけ、鮭《さけ》のムニエルとセロリのサラダ、ロール・パンとカマンベール・チーズ、それに白ワインのハーフ・ボトルを置く。
竜二はもうすぐ帰ってくるだろう。こずえはたんすの一番上のひきだしを抜き取り、彼が帰るまでのあいだ、中のものを整理しようと思った。
ひきだしを畳の上に置く。竜二と住んで十年になるこのマンションには、あちこちにダンボール箱が散らばっていた。
竜二の物には青いテープが、こずえの物には赤いテープが目印に貼《は》ってある。
講師の仕事のあいまを縫っての荷造りのため、まだすべてのものは片づいてはいない。
単純な引っ越しの荷造りなら機械的に片づけることもできようが、竜二のものと自分のものとを分別するのがやっかいであった。
「赤いテープの箱と青いテープの箱は、来月には全然別々の場所に運ばれるのね……」
こずえは思った。
すでに離婚届は出してある。戸籍上はもう夫婦ではない。
「パッと魔法で一瞬に整理がすめばいいのにな……」
現実にはそうはゆかない。心の痛みをできるだけ抑えながら、表面には出さぬようにしながら、荷造りというなんともめんどうな作業をしなければならないのである。
「なんでこんなことになってしまったのかしら……」
竜二との結婚。それは決してタイミングではなかったと、こずえは思っている。
竜二の死んだふたごの弟、努。遠縁にあたる努とは幼いころから仲がよく、富士見学園時代も、バレーに励む自分をいつも応援してくれたのは努であった。その彼を失って悲しみにくれていたこずえの前に現れたのが竜二だった。顔はそっくりでも、高校時代は新聞部に属していたようなものしずかな努とはちがい、兄の竜二は快活なスポーツ青年。努以上に竜二はこずえのバレーボール活動を励ましてくれた。
ニチボウを退団後、東亜大学の夜間部に入学したのも竜二の勧めだったし、また、
「卒業するまで待ってるよ」
と言ってくれた彼のことばがあったからこそ、バレーボールから転じて運動生理学の勉強に没頭できたのだし、結果、優秀な成績をおさめることができ、講師になれたのだと思う。
「バレー馬鹿のわたしが結婚するのは竜二さん以外には考えられなかったわ」
決してタイミングなどではない。計画と努力と実行、そして反省。階段を一段ずつのぼるように着実に選択していった結果だと思っていた。
大手のスポーツ用品店勤務の夫と、大学で運動生理学の講師をしている妻。それは理想的な夫婦だったはずである。
こずえは自分が仕事をしているからといって家事に手を抜くようなことは決してしなかった。
竜二の好物であるおでんを作るときも大根は米のとぎ汁でアク抜きをし、下茹《したゆ》でをしてから煮たし、ごはんを炊《た》くときには炭を入れて味にまるみが出るようにした。もちろん、朝のみそ汁はにぼしの頭をひとつひとつ取り除いたものでダシをとり、みそは無添加の手作りのものを農家から入手し、マヨネーズさえも卵と酢と油で自分で作った。既成の電子レンジ専用食品など、結婚して十年のあいだ一度たりとも買ったことはない。
木の葉おとし、稲妻攻撃、そして、第一の魔球に第二の魔球、1972年のミュンヘン・オリンピックでは、バレーボール王国、ソ連にでさえコンピューター付き東洋の魔女ブルドーザー≠ニ呼ばせたほどのこずえであったが、しかし、
「女としての私生活はごくごく平凡なひとりにすぎなかったのに……」
という彼女のつぶやきは、今はダンボール箱の散らばるマンションに哀切にひびく。
たんすから抜いた引き出しの中に、古風な鏡があった。直径二十五センチほどの鏡で、木製の枠と柄、木製の蓋《ふた》がついている。
こずえは何気なしに鏡の蓋をとった。蛍光灯のうらさびしい光を受ける自分の顔が鏡に映る。
「四十女の顔だわ」
自嘲して言った。
化粧もせず、ポニーテールにしている。チェックのりぼんがかえってこずえを老けてみせた。若々しい装いをするのは限度がある。実際の年齢よりもあまりにも若い服や若いァクセサリーをつけると、かえって老けて見えるのである。
「チェックのりぼんはやめて、これからはシックなバレッタにしよう」
ポニーテールをほどき、髪をえりあしのあたりでまとめた。
〈おしゃれしたい盛りなのに、恋に恋するとしごろなのに、毎日毎日、体育館で回転レシーブ。そんな生活が、ふと、むなしくなったのよ〉
みどりが言ったことばを思い出す。
「バレーボールに明け暮れて、わたしもファッションのことなんか、まるで関心がなかったわ……」
そういえば、一度だけ、ヘアスタイルを変えたことがある。
「高校二年のときだったわ。ウェーブのついた髪を、耳の前で頬《ほお》に沿ってサイドで垂らし、流行のサイケなパッチン止めで止めたっけ」
こずえはヘアスタイルを変えた日のことをなつかしんだ。
〈鮎原さん、ヘアスタイル変えたの?〉
バレー部員に言われ、
〈ええ〉
と、はにかんだあの日。
たった一コマの、文字通り一コマの若き日の乙女らしい思い出。
しかし、バレーボールをするのにサイドの髪が邪魔になり、すぐにもとのポニーテールに戻してしまった。
「レシーブ、トス、スパイク。ワンツウ、ワンツウ、アタック。ほんとにわたしの人生ってバレーボール一色だったわね」
七〇年代に鍛えあげた根性が自分の長所だと励まし、何ひとつ家事を手伝ってはくれない夫に文句も言わず、主婦業をやってきたつもりだった。
〈負担なんだよ、きみのその完璧《かんぺき》主義が〉
夫、竜二は離婚の話し合いでこう言った。
〈バレーだけではない。東亜大学に通えば通ったで、夜間とはいえ首席の成績をおさめる。料理も完璧にこなす。部屋のなかには塵《ちり》ひとつ落ちていない。負担なんだ。無言の圧力を感じる〉
竜二が言うあいだにも、こずえは泣きそうだった。しかし、泣けば、また彼に負担を感じさせると思い、必死にこらえた。そして、必死にこらえてしまう自分がまた、彼にとって負担なのだと知り、届に判を押したのだった。
「わたしは決して完璧主義じゃないんだけどな……。ただできるかぎりのことはしよう≠ニ思うだけ」
そのできる限度≠ェ、たまたま平均より優れていることが、そんなにも罪悪なのだろうか。
平均的な女が、たとえば100あるうち70の力で掃除をするとする。こずえも70の力で掃除をしているにすぎない。
しかし、前者はリビングと寝室の床に掃除機をかけるのに半日かかってしまい、後者はリビングと寝室と玄関と台所の床に掃除機をかけて窓ガラス拭きまでできてしまう。そうだ。できてしまう。できてしまう、にすぎないのに、それが男にとって負担になるのか。それが竜二にとって、
〈きみといると息がつまるんだよ〉
と、言わせる罪悪なのだろうか。
こずえは自分の肩と胸がふるえるのを感じ、大きく深呼吸をしてひきだしの整理にとりかかりはじめた。
鏡やハンカチ、風呂敷、旅行用化粧ポーチといった小物類がはいっているひきだしで、もう使わぬであろうものは思い切ってゴミ箱へと投げていく。
と、ひきだしの奥が二重になっていることに気づいた。貴重品を隠す場所である。たんすには最上段がこうした設計になっているものが、よくある。
「ああ、これ、二重になってたんだったわね。すっかり忘れてたわ……」
竜二といっしょに家具屋に行って買ったたんすだった。二重になってはいたが、
〈べつにダイヤや純金を持ってるわけじゃないし、ぼくらにはあんまり必要ないよね〉
〈そのうち大きなダイヤの指輪でも買ってもらったらここにしまおうっと〉
ふたりで冗談を言って笑ったものだ。
「このたんすは彼に譲ろう。今度の家庭では彼も必要かもしれないわ」
竜二には新しい妻が待っている。彼女が、こずえと竜二の離婚の直接の原因だった。
「たのしい家庭を築いてくれますように」
こずえは心から竜二の新たなる幸福を祈った。彼を愛しているのだ。愛する彼が自分と別れることで息がつまらない≠謔、になるなら、そうしなければならない、そう思った。
二重になった部分を、一応、開けてみた。
「あれ?」
なにも入っていないはずだったが、小さな箱が入っている。
「なにかしら?」
包み紙を開けると、それは指輪のケースだった。
ぱちん。ケースには光沢のあるクッションに、ごく小粒の真珠をほどこした指輪がおさまっている。
こずえはほほえんだ。まだふたりが、うまくいっているころに、きっと竜二が買って自分を驚かせようとして隠しておいたにちがいない。真珠の大きさからしてさほど高価とも思われない。
「だから、きっとそのまま忘れてしまっていたのね、竜二さんのお馬鹿さん……」
こずえの目は大きい。目のなかに星の模様が描けるくらいに大きい。とても大きな目に愛情をこめて、彼女は指輪を見つめた。はめようと台座クッションから指輪を抜こうとしてやめた。
「最後にあの人にはめてもらおう」
せめて、そう思った。それからケースをぱちんと閉じた。
ぱたん。
ケースを閉じるのと、玄関のドアが開くのとは同時だった。
「おかえりなさい」
最後の夕食ぐらいはなごやかにしたい。こずえはひぎだしにあった古風な手鏡に向かって一度、笑顔を映してみてから竜二を出迎える。
「ああ」
やや硬く、やや無理して笑ったような顔を竜二はみせる。
「鮭《さけ》のムニエルにしたの」
竜二の一番の好物である。
「うん」
あまりうれしそうでもないが、このような状況ではいたしかたない。こずえは気にしないようにした。
明後日、竜二のほうが先にこのマンションを出ていく。明日は引っ越し作業でいっしょに夕食は食べられないだろう。
「乾杯」
つとめて笑顔をたやさぬようにした。
「まあ、なにがあろうととにかく健康でありますように、ね」
つとめて軽く言った。
「そうだな。さいしょは保育器に入ってたからなあ。健康に育ってくれればね」
竜二が言った。
こずえは、ほほえもうとしたが、どうしてもうまくほほえむことができず、しかたなくグラスに水をくみに立った。
〈健康でありますように〉
こずえが乾杯にさいしてそう言ったのは、自分と竜二のことを指したつもりだった。だが、竜二は彼と彼の子供のことだと思っている。
竜二の新しい妻は、こずえと彼が離婚する前に妊娠し、一週間前に出産した。その子供も、離婚の直接の原因である。
流しに立ったまま水を一気に飲んだ。水は喉《のど》をかたまりのようになって通過し、こずえは口の中で必死で歌をうたった。
「青い、青い、空に、バン、ボ、ボ、ボン。はずむボールが夢を描く。明日の太陽、バン、ボ、ボ、ボン」
富士見学園バレー部の歌だった。陽気なメロディとはやいテンポの歌をうたい、笑顔をつくった。
「ムニエル、塩がたりなかったかな」
つとめて事務的な話題にしようとした。
「いいや。きみの料理は完璧だよ。あいつはフライパンもろくに持てないんだよ、よろけちゃってさ」
あいつ≠ェ、いっそのことものすごく若い女性であったらよかったのに。彼女のことを竜二から聞かされたとき、そう思ったこともある。
だが、あいつ≠ヘ、こずえよりは二、三、年下なだけである。フライパンを持つとよろけるあいつ=B
「重いんだって。よろけるんだよ。一度、ホットケーキを床にみごとに落としてくれたよ。身体が小さいからかなあ」
「う、うん……」
こずえはあいまいにうなずいた。
「高齢出産だったし本人も心配してたんだけど安産でなによりだった」
「う、うん……」
「今日、産院から退院できたんだ」
「そう」
竜二はよほど自分の子供ができたことがうれしいのだろう。
(よかったわね、自分の血が残せることが男の人ってうれしくってたまらないんですってね)
言おうとして、やめた。きっと、竜二は皮肉だと取るだろう。ヒステリックな発言に取るかもしれない。
最後の夕食なのだ。せめてなごやかに終えたい。
自分ができなかったことを竜二の新しい妻はなしとげたのだ。二人はそれでしあわせなのだし、自分はまたこれから前向きに生きていけば、きっといいことがあるだろう。
新生児の様子を無邪気にうれしそうにしゃべる竜二に、こずえは黙ってうなずいていた。
「ごめん。つい、子供の話ばかりを聞かせてしまったね。悪かったな。無神経だった」
竜二がワインをぐっ、ぐっ、と飲んだのでこずえもつられるように飲んだ。
「きみのことはずっと、出会ったときからずっと尊敬していた。きみはほんとうに立派な人だ。今だって尊敬している。その気持ちになんら変わるところはないよ」
「わたしも好きですよ、なんてね」
今でも愛しています、と言ってはいけない。また彼の負担になる。できるかぎり軽い口調でこずえは言って、笑った。
「憎みあって別れるんじゃないんだ。きみはぼくがいなくてもやっていける人だ。すばらしい人間だよ。きみはきっと、ぼくらなんかよりもっと大きな仕事をやりとげるんだろうな、応援しているよ」
こずえは、ありがとう、と、言おうとした。が、なぜか声はかすれ、くちびるがもごもごと動いただけである。
「ごちそうさま。ムニエル、おいしかったよ」
「うん……」
「明日くらいは雨が降らないといいのになあ。引っ越しで雨が降るとめんどうだからなあ」
「うん……」
こずえは食器をかたづけ、
(晴れますように)
純粋に願った。
「そうだわ。指輪をね、発見したの」
ひきだしから出てきた指輪のケースを持ち、竜二の前にすわる。
「あなた、この指輪、買って忘れていたんじゃない?」
大きな目をくりくりさせた。
「あ、それは」
竜二はぎこちなく姿勢を変えた。
「いつ買ったの? 小粒だけど本物の真珠でしょう」
最後の夕食のあと、最後のプレゼントにもらって、最後のおやすみなさいを、こずえは竜二に言うつもりだった。
ケースの蓋《ふた》を開け、指輪を竜二に渡す。
「はめてみて」
最後の妻の乞い≠フ、つもりだった。
「あ、ああ……。忘れてたよ……」
竜二はぎこちなく指輪を、こずえの、小指にはめようとした。
「え」
小指に触れられ、こずえはぎくりとする。指輪はこずえの小指のとちゅうまでしか入らなかった。
(わたしにじゃなく、あの人に買ったものだったんだ)
すぐに悟った。落胆と恥ずかしさで顔が赤くなる。
「七号だよ……まちがえたんだ。ぼく、指輪のサイズってよくわからなくて……」
竜二が嘘《うそ》をついてくれたことに、せめてものやさしさを感じた。それなのに、
「七号。細い指の女性なのね……」
嘘を信じるふりがどうしてもできなかった。
「わたしは十七号なの。すごいでしょ。バレーボールばかりしてきたから突き指で、指なんか十七号のごつごつの指」
最後の夕食なのだ。なごやかにしたかった。だが、こずえはもう、涙をこらえることができなかった。
涙があふれるように頬《ほお》をつたった。それなのに、
「ははは」
泣きながら、笑った。
「ははっ。十七号の指だから大きなフライパンでも持つのはへっちゃら。よろけたりしない。ソ連の選手も恐ろしさにふるえた稲妻攻撃を打ってみせた手ですもの」
「いや、それは……きみに……」
「いいの。七号の指輪は七号の人にあげて。わたしの手じゃ、小指にだって無理なんだから」
こずえは大きな声で笑った。涙がとまらない。
「おかしいね。おかしいね。七号の指輪をするようなきゃしゃな人が安産なのに、十七号の指のわたしが子供が産めないなんて……」
おかしいね。おかしいね。こずえは泣きながらマンションを飛びだした。
時よとまれ、きみは美しい。
ミュンヘン・オリンピックのコピーがこずえの内耳にこだまし、それはよけいに彼女を泣かせた。
鮎原こずえが罹病の後に卵巣摘出手術をして子供が産めない身体になった事実は、彼女の完璧主義の陰でつねに見落とされている。
こずえは、夜の雨のなかを泣きながらあてどなく歩いた。
「なんのためにあんなに苦しい練習をしてきたんだろう。なんのためにバレーボールをしてきたんだろう。女としての幸せは、そんな苦しい練習などしない人のほうが掴《つか》むのだ」
涙はとまらなかった。
「フライパンを持てずとも、子供が産める人のほうが選ばれるのだ。稲妻攻撃や木の葉おとしサーブや第一の魔球や第二の魔球なんかできたって、女としてはなんの魅力もないのだ」
何キロの夜道を歩いただろう。糸のような雨は降ってはやみ、やんではふった。
何キロも何キロもこずえは歩いた。洋服がぐっしょりと濡《ぬ》れ、とちゅう、終夜営業の喫茶店に三回入った。そこですこしはうとうとしたかもしれないが、夜どおし歩いても、バレーボールで鍛えた肉体は疲れたと言ってくれない。
午前五時。まだ歩いた。竜二はきっと、強い自分のことなど心配もせず、子供の夢でも見てすやすやと眠っていることだろう。
小さなラーメン屋に入った。
テレビでCNNニュースがはじまっていた。反エリツィンのロシアの政治家が街頭インタビューに答えている。
一人だけ、女性がいた。スラブ民族の特徴なのか、恰幅《かつぷく》よく太り、たくましい。その女性のすがたを、こずえはじっと見つめた。
「彼女は憂国の士として生涯を送ることで生きがいを感じているのかしら。それとも私生活では女性としてのしあわせを獲得しているのかしら」
注文したラーメンを食べることもせず、こずえは鉢に浮かぶなるとのピンクの渦巻き模様を、箸《はし》で模様のとおりに沿わせた。
それからもう一度、テレビを見る。たくましいロシア女性の、たくましい胸のあたりに彼女の名前がテロップで出た。
シュレーニナ・セルツイスキー。
「シュレーニナ!」
名前を教えられれば、太ったとはいえその面影を忘れるはずがない。永遠のライバル、ソ連バレーボール・チームのエースだったシュレーニナである。
「シュレーニナ!」
テレビの画面を凝視したが、すぐに彼女の顔は画面から消えてしまった。
こずえはラーメン代をテーブルに置き、店を出た。雨はやんでいる。
店の斜め前の家のフェンスから紫陽花《あじさい》がのぞいていた。
「ブルーとピンクと紫の色がわり。人生もこうして色を変えていくのね」
紫陽花に寄り、こずえは思った。
紫陽花はバレーボールのような花である。そのひとつひとつは小さいのに、チームワーク・プレーで集まって華麗な一輪となって雨の日の風景を彩ってくれる。
「国政不安定なロシアで、シュレーニナ、あなたはどんなふうに人生に色を塗っていったの?」
朝日を受け、紫陽花はただだまって咲いている。
「紫陽花の絵を描いてみようかしら」
ふと思った。
「一人暮らしをはじめたら、今度は本格的に絵を勉強しよう」
絵を描けば二科展に入るはずである。
「それとも、参議院選に出てシュレーニナのように政治を目指してみようかしら」
参議院選に出れば当選するはずである。
「それともロシア語に挑戦してみようかしら」
こずえの父はドイツ語の辞書をやぶっておぼえた人物。彼女もロシア語を学びはじめれば、一年間でも徹夜同然で単語をおぼえるはずである。
なぜなら、鮎原こずえは、不幸なことに、何でもできてしまうのだ。
「能力が優れていることは、男性からは何の魅力もないことだけれど、しかたがないわ。それがわたしの人生なんだから」
紫陽花の花を十七号の指でそっとなでた。朝日に雨の露が光る。
「苦しくったって、かなしくったって……。青空に遠く叫びたい。わたしの人生はアタックあるのみ」
朝日の道をこずえは、また歩きはじめた。紫陽花にふれた指で頬の涙を拭う。
「だけど、涙が出ちゃう。女の子なんだもの」
涙よとまれ、きみは美しい。
カルトガイド(アタックbP)
『アタックbP』をカラオケでうたう人が多い。
「多いかー? そんなやつ」
異論を唱える人も多いかもしれないが、
「多いんだってば!」
またグラディス妻になる。
カラオケといえばアニメの歌をうたうものだと思っている人種もいるのだ、世の中には。私もそのひとりだ。
ただ、あの明るい『アタックbP』の歌をうたいながら、あの漫画が暗い話だったことを知っている人がいったい何人いるのだろうか。
「おまえだけだよー、そんなの」
と言う人も多いかもしれないが、それは肯定しよう。表向きは明るかったから、その裏の陰の部分にばかり目を向けていた私の性格が暗かった。のかもしれないね。
しかし、じっさいのところ『アタックbP』には暗いファクターがたくさんあった。
通信カラオケではない店で(そんな店を探すのが今となっては困難になってしまったが)、レーザーの画面をよく見たまえ。
交通事故で頭を包帯で巻かれた男が担架《たんか》で運ばれていく横で鮎原こずえが絶叫しているシーンがちゃんと出てくるではないか。
あの血だらけの男の名を一ノ瀬努という。彼は自殺しようとしていた人を助けようとして(妨害しようとして?)、自分が重傷を負って、あげくに死んでしまったのである。それも鮎原こずえ十七歳の誕生日に。
ほかにもバレーボールにはげんでいるシーンがレーザー画面には映るのに、こんな事故のシーンにばかり目を向けている私はかつて「ゆーとぴあ」のネガティブ漫才の、眼鏡をかけていないほうにシンパシィを抱いていた。
一ノ瀬努と鮎原こずえは親戚である。明法学園から富士見学園に転校してきたこずえになにかと親切にしてやる新聞部に在籍する生徒、努。
転校してきたころ早川みどりは鮎原こずえをきらっており、いじわるをよくしたが、いつのまにか仲良くなった。高等部へ進学してから部長の大沼みゆきという新たないじわる役が登場し、共同標的打倒に向けて手を組んだ。
この大沼みゆきは、ひどい描かれ方だった。あれはひどい。ものすごいブスに描いてあるのだ。
そのうえ、かるたまでひどい。「アタックbPかるた」というのがあって、「あ」なら「あしたに向かって回転レシーブ」とか「い」なら「いつもげんきなこずえちゃん」とかいうかるたなんだが、その「へ」がひどい。ひどすぎて血管がきれそうなくらい笑う。
「へ」は「へんな先輩のいる高校バレー部」なんである。なんというひどい扱われようだ、大沼みゆき。気の毒に。
だいたい原作者の浦野千賀子という人の絵が地味なのだ。地味なのになぜか活発で明るい少女を主人公にする。『バンカラ太陽』という少女感化院に入っている正義感にあふれた少女(この設定、すごく無理があると思うんだが)を描いても、少女漫才師をめざす少女を描いても、ローラーゲームをめざす少女を描いても、なにもかもが地味なのだった。セクシーさというものがまるでない。なものだから、同級の女の子には人気があった。どうも女の子の平均はセクシーなものを嫌うようだ。
で、地味でセクシーさがいっさいないのに、主人公を活発な少女と設定されると、よけいに地味でセクシーさを欠いた絵に見える。鮎原こずえがヘアスタイルを変えたところなど地味を通り越してへんだった。「へ=へんなヘアスタイルのこずえちゃん」とかるたにできそうなくらい。浦野千賀子の絵のために私は『アタックbP』に暗い印象を抱いてしまったのかもしれない。
だが、いよいよ『アタックbP』暗さの決定的要因を記す。
鮎原こずえは子宮付属器官炎にみまわれるのである。これにみまわれたがために、彼女は、
「じゃあ……鮎原さんは一生、赤ちゃんの産めない体に……」
などと、部員から同情される。ポニーテールにリボンをつけて、きらきら目に描かれた、あの鮎原こずえにはこんなに暗い事情が潜んでいるのだ。そりゃ、
「だけど、涙が出ちゃう。女の子なんだもん」
と嘆きたくもなるというものだ。
スポ根漫画全盛時代、星飛雄馬は黄金の左腕が使えなくなる悲運にみまわれるが、鮎原こずえは子宮付属器官が使えなくなる悲運である。これは飛雄馬が花形にピッチャー・ゴロを股間《こかん》に直撃されて睾丸《こうがん》を切除せねばならぬ打撃を受けたのに相当するくらい女性小学生読者にはショックだった。
「でもさ、子宮付属器官炎? これってなに? ヴァギナのこと? 少女漫画誌だからヴァギナと記せなかったの?」
と言う人も、もとい心のなかでひそかに言う人も、多いだろうが、これはコミックス(単行本)にしたときに変えたのではないかと、私は思っている。
週刊『マーガレット』に連載中はたしか、
「卵巣摘出手術」
とあったような気がしてならない。「卵巣」という字の形がものすごく怖くて、それで、
「怖い。暗い」
と思った記憶があるのだが。
「卵巣でも子宮でも膣《ちつ》でも、とにかくそんなもんを手術しなけりゃならない展開が当時の少女漫画界で通ったわけがない」
と、私にはむかう人がいたので、その人を屈伏させるために早稲田にあるまんが図書館へ行き、コミックスで調べたところ、この子宮付属器官炎という謎《なぞ》めいた語になっていたわけである。
たしかに卵巣は子宮の付属器官だが、これでは、私にはむかった人を屈伏させるにはちと弱い。
「じゅうぶんまいりました。あなたのおたく度には降参しました」
と、その人は言ったが「卵巣」というところまで正確でないとおたくの女王の名がすたる。そこでである。
「そうだわ! こういうときこそ業界のコネを使うのよ!」
女王さまは集英社の知り合いに電話をかけた。ところが、
「うちね、昔の漫画、保管してないんですよ。みんなどっかいっちゃったの」
しおしおのぱー、な答えをされてしまった。集英社のバカ、バカ。
集英社。今でも私はこの会社に入るとき、心臓がドキドキする。
「ああ、ここ集英社だわ。私、私、集英社のなかにいるんだわ。すごいわ、集英社のなかにいるのよ、私。カメラを持ってくるんだったわ。記念写真を撮りたいわ」
と。それほど集英社の漫画をよく読んだのに、保管しておかないなんて。講談社はちゃんと保管してるわ。
講談社の昔の漫画の資料室に入らせてもらったときは、女王さまは気絶しそうだった。ふるーい『なかよし』や『少女フレンド』がずらーっと並んでいたから。
許可がないと入れないので社員といっしょに入ったんだが、昭和三十年代(学齢に達していないころ読んでいた)の『なかよし』を彼が開くと、私は目をつぶり、つぎつぎとセリフを暗唱してゆく。社員は感心してくれたものの、
「こいつひとりにしか披露できなかった……」
ことが残念だった。なんでそんなことを披露したいかというと、さあ、なんでなんだろう。
「そんなことおぼえてたってなんの役にもたたないだろうに」
と言うのは、他のだれでもない。自分自身だ。ほんとにこんなことおぼえてたってなんの役にもたたない。
浦野千賀子の、漫才師をめざす少女の漫画で、ヒロインが漫才コンクールで披露したギャグが、
「うち、将来は美容師になりたいねん」
「へー、かわった人やね」
「なんで?」
「そんなに若いのに病死したいなんて」
であり、小学生心にもちっともおかしくないのに「ドッ」とか「ワハハ」とかいう文字とともに客が笑っているコマがあったことを、こんなことをおぼえていたってなんの役にたつか。「よど号事件」の実録漫画をおぼえていたほうが、まだしも役にたつというものだ。
「きみたちにはわれわれの思想は理解できないだろう」
よど号ののっとり犯人は、そんなふうなことを「ふきだし」内で語っていた。彼らはその実録漫画では「とてもインテリな人」に描かれていた。描いた人は、浦野千賀子だ。
今となっては、『アタックbP』を描いていた人が「よど号のっとり事件の実録漫画」も描いていた、ということのほうが、インパクトがあるけれど……。
昔の付録も、いまだに持っている。牧美也子先生ロマンスケースとか松尾美保子先生メモ帳とか高橋真琴先生ハンカチとか西谷祥子先生ポーチとか。西谷先生ポーチはいまでも生理ナプキンを入れるのに使用している。
「そりゃよござんしたね」
で終わるもんであることはじゅうじゅう承知であるが、かけ軸を集めている人や蝶々《ちようちよう》を標本にしている人がよく見せたがるではないか、あれと同じ心理で、人にも見てもらいたいのである。いつか、昔の漫画や『科学と学習』の付録を順に撮影して説明してゆくビデオを限定販売でいいから出すのが夢である。
「女にコレクターはいない」
「女におたくはいない」
といわれるが、これはほんとうなのだろうか? 男と女でそんなにも感覚がちがうものだろうか? 女の子はほんとうに『ハレンチ学園』がきらいだっただろうか? ほんとうに週刊『プレイボーイ』のヌードグラビアがきらいだっただろうか? どちらも私は大好きだったが……。
[5]困ったじょー
〈パッション篇〉
「すわんな」
ドンと肩を突かれ、徹は椅子《いす》にすわらされた。
硬い椅子だ。硬い、大きな、肘《ひじ》かけがついた椅子だ。すわったとたん、徹の手首は肘かけに縛りつけられた。足首も椅子の脚に縛りつけられた。
何人かが部屋にいる、らしい。人の気配がある。
「このへんでもう、はずしてやっていいんじゃないか、目隠しは」
だれかが言った。
(この声は……)
聞きおぼえがあった。この声の持ち主が徹の背後から声をかけてきた。
二時間ほど前、ジムから出てきたとたんのことだ。ハンカチでいきなり口を塞《ふさ》がれた。
「力石《りきいし》、ちょい、顔かしてもらうぜ」
だれだ、と言う暇もなく、徹の意識は遠くなっていった。ハンカチにはクロロホルムが含んであった。
気がついたときには手足を縛られ、目隠しをされて、車のなかにいた。だれもなにもしゃべらない。
(ヤクザか……)
ボクサーという職業柄、その種の人間にもそれなりに縁がなくもない。かかわらなければならないこともある。
(しかたねえな……。しょっぴかれてく場所に着くまではおとなしくしてるか)
そう思い、ひとこともしゃべらず、身動きもせず、手を引っ張られるままにここまで来た。
だが。
(ちがうな。ヤクザじゃない)
目隠しをされているが、空気は皮膚で感じられる。その手の人種の部屋ではない。
しみいるような麝香《じやこう》。強くはない。長きにわたり焚《た》きしめられたものだろう。
縛られた手の指で椅子の肘かけをこする。そこにはなにか複雑な意匠がほどこされている。
(だれが? なんのためにこんなことをする?)
徹のこめかみがひくりと動いた。
「おい、はずすぜ、目隠し。はずさなきゃ、なんの意味もねえだろ」
聞きおぼえのある声がしゃべっている。やや上ずった、ややカン高いくせに、くぐもったような声。
徹はハッとある男の顔を思い出した。
「金串? 金串か?」
ウルフ金串。クラスはちがうがボクサーだ。矢吹に顎《あご》を折られてからは声がくぐもる。
「ほほう。落ちぶれちまった俺《おれ》のことなんかをよくおぼえていてくれたなあ。ありがてえよ」
目隠しがはずされた。
ウルフ金串が徹の前で淫靡《いんび》な笑みを浮かべていた。
どこなのだろう、ここは。地下室なのだろうか。窓がない。石造りの、昭和初期の西洋建築のような古めかしく丁寧な設計の、妙に贅沢《ぜいたく》な部屋である。
徹の前にはヴィロードのカーテンがおろされている。醸成した貴腐《きふ》の葡萄酒《ぶどうしゆ》のような色のヴィロードのカーテン。
「ごていねいにこんなに縛りつけて。いったいなんの用だ。話があるなら俺だってちゃんと会ったのに」
「話なんてねえよ、べつに」
「なら、なんのためにこんな面倒なことをする?」
「愉《たの》しむためさ」
「愉しむ?」
「お前さんが苦しむ姿を見るのが愉しいんだよ」
「俺が苦しむ?」
「そうさ。苦しむのさ」
金串はそれ以上答えなかった。ただ、徹の頭や首すじに鼻を近づけ、
「ふふん。石鹸《せつけん》のいい香りがするな。ジムで練習したあとに念入りにシャワーを浴びてきたのか?」
にやにやしながら言った。
「お嬢さまの前ではいつも身だしなみに気をつかわないといけねえからな。更生した青年は気苦労も絶えないってもんだ」
徹の顔を覗《のぞ》きこむ。
徹は視線を逸《そ》らす。
「なにせ、あちらは白木財閥の御令嬢なんだからな。自分には分不相応な相手に惚《ほ》れちまったってのは辛いよな」
金串はさらに徹の顔を覗きこんだ。
「それとも、なにかい? ひとつ屋根の下で寝泊まりできるだけで幸せでございます、ってやつかな。ハ、ハハハハ」
侮蔑《ぶべつ》しきったような笑い声を、金串は徹に浴びせた。
「そんなお前が可哀相でならなくってさ。今夜は恋しいお嬢さまをお連れしてやったんだよ」
冷水をかぶったように徹の顔は蒼《あお》ざめた。
「どういうことだ?」
低い声で問うた。
「恋しい恋しい白木葉子さまをお連れしてやった、ってことだよ」
ヴィロードのカーテンが開いた。葡萄酒のように紅い色のあとには、雪のように白いものがあった。
「!」
徹の瞳孔《どうこう》に亀裂が走る。
彼の目の前には葉子がいた。
雪のように白いもの、それは葉子の腕と脚であった。
葉子は黒い革のビスチェと黒いパンティだけのすがただった。
両腕は上に上げさせられ手首をロープで縛りつけられ、ロープは天井まで繋《つな》がり、天井には滑車が取りつけられ、ぎちぎち、と鈍い音がしている。
腋下《えきか》の茂みの処理のあとがうっすらとチャコール・グレーの翳《かげ》りを呈しているのが徹にわかるほど目前に、葉子は、彼に全身を斜めに見せるかたちで、いた。
足は八十センチほどに開かされ、それよりも閉じられぬよう金属の棒で左右の足首を縛りつけられている。ハイヒールをはいたまま縛りつけられた葉子の足首に毒蛇《どくじや》のごとくにぐちゃぐちゃとロープが巻きついている。
葉子と徹の視線が合った。
葉子は、見ないで、と、瞳《ひとみ》で徹に告げた。
一瞬、徹は目を閉じた。
「どうした。見ろよ、力石。恋しい葉子お嬢さまだぜ」
金串が徹の目蓋《まぶた》をむりやりに開かせたわけではない。徹はむしろ、金串のことばによって大義名分を授かったように、ふたたび目を開いた。
見ずにはおれない。
葉子のふともも。いつも清楚《せいそ》な白のワンピースで隠されていたふともも。足首は細いのに、そこは白い肉が充実している。
今度は葉子が目を閉じた。
冷たいまでの美貌《びぼう》。シャープな頬《ほお》。細い首すじ。首の下から胸の隆起がはじまる。革のビスチェがきつそうなほどの胸の隆起。いつもの清楚な白いワンピースでは想像だにできなかった胸の隆起と、それ以上に想像できなかったウエストのくびれ。男の両手ならまわりきれそうなくらいにくびれている。そして、そのくびれたウエストの下から腰の骨が広がり、臀部《でんぶ》の肉塊がなめらかな曲線を描いている。
臀部のその曲線だけは、いつものワンピースを着ていてもかろうじて徹に想像を与えていたものだ。
葉子がなにげなく腰をまげたとき、なにげなく遠くへと手をのばしたとき、ワンピースの布地がつれて布地越しに臀部の曲線が浮いた。そのたびに徹は自己の内部で葛藤《かつとう》せねばならなかった。
彼は葉子に対する思いを必死で抑制してきた。彼女と知りあってからずっと。彼女の躯《からだ》を想像することは彼にとって禁忌であった。
しかし、今、目前にある葉子の臀部は肉以外のなにものでもない。ごく小さな黒いパンティをぶちんと弾《はじ》き飛ばしてしまいそうな肉の豊饒《ほうじよう》である。猥褻《わいせつ》とさえいえた。それでも見ずにはおれない。
「もっとうれしそうな顔をしたらどうだ、力石。おまえの恋しい葉子お嬢さんが半裸になっててくださるんだぜ」
金串は視線だけを徹に送りながら、
「クク……。もっともお嬢さんの心は、力石、お前以外の男にあるようだがな。苦労して苦労してバンタム級までダイエットしたというのに恋心は報われなかったってことか。泣かせるよな」
と、葉子の髪を撫《な》でた。
ワンレングスのストレートのロングヘアが、金串の武骨な指のあいだをさらさらと流れる。
「……仕組んだのはだれだ?」
徹はやっと声をだした。葉子の心をとらえている別の男、それを徹は潜在的に悟っていた。男の名を金串の口から聞かされるよりも、無視して別のことを訊《き》こうとした。
「だれがこんなことを仕組んだ?」
「そりゃ決まってるだろう。ドクター・キニスキーさ」
ドクター・キニスキー。フリードリヒ二世の隠し胤《だね》の末裔《まつえい》と噂《うわさ》されるマッド・サイエンティスト。彼の考案したクロスカウンター養成ギブスで幾人の前途あるボクサーたちがパンチ・ドランカーになったことか。パンチ・ドランカーになった果ては性倒錯者として頽廃《たいはい》の生活しか受け付けなくなるのだ。
「ジョーの奴《やつ》に顎を割られちまってからは、俺はドクター・キニスキーのカシモドに成り下がってんだよ」
カシモド。その名前が金串の口から発音されたとき、閉じられた葉子の目蓋に悲しみの色が浮かんだ。
ああ、彼女はその昔、特等少年院で慰問劇を披露したときカシモドに尽くされるエスメラルダを演じたのではないか。
「俺はどうなってもいい。お嬢さんに手出しするのはやめてくれ。次の試合で負けろというなら負ける」
徹は金串に言った。
「そういうわけにゃいかない。俺はたんなるカシモド。脇役《わきやく》にすぎない。主役は別にいるんだから。今、呼んでやるよ」
金串が部屋の扉を開ける。
ドクター・キニスキーが不敵な笑みを浮かべて徹の横まで歩いてきた。
「ごきげんよう。力石くん。きみが甘い苦悩に悶絶《もんぜつ》する顔が見たい、それがわしの長年の夢じゃった。今夜は高みからゆっくりと美の宴《うたげ》を拝見させてもらうことにしたのじゃ」
うるう年の春の月蝕《げつしよく》の夜に宴を実行すると、大阪万博閉会式のときから決めていたのだと、ドクター・キニスキーは言い、徹の肩を慇懃《いんぎん》に撫でさすり、ぱちんと指を鳴らした。
「よう、久しぶりだな、力石」
杖《つえ》をつき、黒い眼帯をした男が入ってくる。丹下段平。泪橋《なみだばし》の下で小さなボクシング・ジムを経営している男だ。
「丹下さん、あんたまでドクターの手下になっちまったのか。見損なったぜ。矢吹が知ったらさぞかしがっかりすることだろうよ」
「うぬ。しかし、そのジョーこそ今夜の主役なんだよ」
段平が言い終わらぬうちに、扉の向こうから笑い声が響いた。水戸黄門にお供したスケさんの声にうりふたつなのが不気味である。
「へへっ、とっつあんよ、あんまり力石をからかっちゃあいけねえんじゃないか。力石はそう見えて純情なんだからよ」
バナナの房のような前髪の奥で、昨日はぐれた狼のような目がギラリと光る。
「ジョー!」
「力石。急にこんな仰々しいところへ呼び出したりして悪かったな」
矢吹は力石を一瞥《いちべつ》するとすぐに葉子の顎を掴み、むりやり自分のほうを向かせた。
「葉子。あいかわらず綺麗《きれい》な顔をしてるじゃねえか。真珠のイヤリングにストンとしたワンピースすがたも似合うが、こんな淫《みだ》らな恰好《かつこう》もよく似合ってるぜ」
つつーっと葉子の頬を撫でる。気丈な葉子はさっと顔を背《そむ》けた。
「なんだよ。俺の顔を見るのはいやか? いやじゃねえだろ」
いまいちど、矢吹は葉子の顎をきつく掴む。ビスチェでおしつぶされそうになった彼女の胸の隆起が妖しく上下し、葉子は矢吹を見据えた。
「好きなんだろう、俺が」
「だ、だれがあなたなんか――」
葉子の声はほとんど聞き取れなかった。矢吹が彼女の唇をむりやり塞《ふさ》いだのだ。
う、う、とつまった息が洩《も》れ、眉間《みけん》が悩ましく寄り、それでも、矢吹が彼女の肩を抱きよせ、背中に両手をまわしてきつく抱き、いったん、唇を離し、もういちどその唇を塞ぐと彼女の目蓋の色は徐々に桃色に変化してゆく。
金串がぬかりなく、矢吹に唇を吸われたままの葉子のビスチェの紐《ひも》を解く。
「ほら、力石、見ろよ」
葉子を背後からはがいじめにするかっこうで矢吹はさっと葉子の上半身からビスチェを剥《は》いだ。
ぶん、と音をたてて弾むように葉子の乳房がむきだしになって徹の前で揺れる。閃《ひらめ》くように白く、白い房の頂点に乳暈《にゆううん》と乳頭という名の果実が生《な》っていた。果実はやや大ぶりだがそのくせほとんど色素がなく、肌の色みににじんでゆくような、欧米人によく見受けられる乳房である。
矢吹は背後から閃くように白くたわわな房をわし掴みにした。
「い、いや……」
葉子は徹から目を逸《そ》らせた。矢吹の骨ばった手から彼女の乳房はぶにゅぶにゅとはみだし、またたくうちに矢吹の指の痕《あと》がついてゆく。
「いや、許して」
葉子の声はかすれていた。長い睫毛《まつげ》に涙がにじんでいる。
「嘘をつくな」
矢吹は葉子の耳朶《じだ》を噛む。
「お前は俺にこうされることを望んでいたくせに」
矢吹の指が葉子の、色素のうすい果実を摘《つま》んだ。
短い叫びが、葉子の口から発せられた。短いが、ありありと官能の匂《にお》いをおびた息である。
矢吹の舌が葉子のうなじを這《は》い、彼の手が彼女の乳房をもぎとらんばかりに掴み、彼の指が揶揄《やゆ》するように乳頭を摘む。
葉子の唇が半開きになり、もはや短くはない息が発せられる。細くくびれたウエストがよじれ、猥褻《わいせつ》なまでに豊饒《ほうじよう》な臀部《でんぶ》がゆらゆらと矢吹の股間《こかん》へとすりよせられてゆく。
「やめろ」
徹はうつむいて乞うた。
「やめてくれ」
くりかえす。
「うつむくなよ。見るんだ」
金串が徹の頭を正面に向けさせる。徹はきつく目を閉じた。
「見るんだよ、力石」
段平が怒鳴る。同時に破裂音が部屋にこだまする。
「あうっ」
葉子の悲鳴。段平が杖で葉子の臀部を打ったのだ。
「見ろ。見るんだ、力石」
また破裂音。また葉子の悲鳴。
「見ないとお嬢さんの綺麗な躯《からだ》にどんどん傷がつくぜ」
また破裂音。また悲鳴。
徹は泣き出したかった。目を開けた。葉子が矢吹に躯中をまさぐられている。葉子の、あきらかに官能に上気した頬と目元、はげしくよじれるウエスト、桃色になった臀部は、さらに徹を泣きたくさせる。
「ゆ、許して、許して……矢吹くん……」
「嘘をつくな、と言ってるだろう。お前は俺にこういうふうにされたかったんだ」
矢吹の手が葉子のパンティへと忍びよる。
「あっ、だめ……だめだめ……」
そう言いながらも矢吹を煽情《せんじよう》しているとしか見えない葉子のゆらめく臀《しり》。
矢吹の手がパンティのなかに入った。葉子は唇を噛んだ。
「上流階級ってのはやっぱり嘘つきだな……」
葉子の耳朶を噛む矢吹。
「力石が見てる前で俺にこんなことをされてお前の××××はこんなに濡《ぬ》れちまってるじゃないか」
矢吹の手がパンティの中で蠢《うごめ》く。葉子の頬が朱色に染まる。
「きっと力石は身を切られる思いでいるぜ。自分がやりてえことを俺にされちまってよ」
ほら、と矢吹は徹の前に指をつきつけた。葉子のパンティのなかをまさぐった指を。
「取り澄ました顔をしているくせに、こんなに××××を濡らすのがお前の恋した白木葉子なんだよ」
許して、と、葉子の瞳が徹に告げた。
「舐《な》めろ」
矢吹の指は徹の口先までのびる。いやおうもなく彼女の体臭が徹の鼻孔に流れ込む。
「舐めたいだろ。葉子の蜜《みつ》の味だぜ。舐めろよ」
「…………」
「ありがたく舐めさせてもらえよ」
金串が徹の口を開けさせ、矢吹の指が徹の口のなかに入った。じっとりとした粘りが舌の上に乗る。
悲しく切ない蜜の味を、徹は呑みこまざるをえなかった。げらげらと金串と段平が哄笑《こうしよう》する。
屈辱《くつじよく》のなかで、だが、なぜか徹の下腹部は熱くなってゆく。
「勃《た》て、勃て、勃つんだ力石。崩れてゆく葉子を見て勃て」
段平が叫ぶ。
「犯《や》れ、犯れ、犯るんだジョー。明日のために葉子を犯るんだジョー」
段平が葉子のパンティを剥《は》ぎ取った。
葉子は無言だった。
ふるふると震える目蓋と唇が無言で羞恥《しゆうち》を叫んでいた。漆黒《しつこく》の叢《くさむら》も、臀部の菊の蕾《つぼみ》までをも徹の前に晒《さら》されてしまった羞恥。
見ないで。見ないで。葉子の瞳が徹に告げれば告げるほど彼は、眩暈《めまい》をふくむ悲しい興奮を下腹部におぼえる。
矢吹の指が葉子の下腹部をもっと乱暴にまさぐればいいとさえ願ってしまう。いったい、この見知らぬ感情はなんなのか。徹自身にも判断できなかった。
だが、果して矢吹の指は葉子のそこを、徹の願いどおりに乱暴に狡猾《こうかつ》にまさぐり、葉子の乳頭を吸い、転がし、噛み、葉子はとめどなく吐息を洩《も》らした。
「アヌスまで濡れてきちまってるぜ」
「ちがうわ、ちがうわ……」
意味不明なことばを葉子はくりかえした。矢吹のペニスの先が葉子の臀部の肉をくすぐる。葉子の躯はもはや深海の生物のように猥褻にゆらめき、矢吹の皮膚を求めていた。
「なにがちがう? お前が一番望んでいたことなんだ、これが」
「…………」
「俺にどうして欲しい?」
矢吹は彼女の顔をねじるように後ろへと向けさせ、唇をまた塞いだ。きつく合わさったふたりの唇の端から唾液《だえき》がしたたる。
「ああ、もう……お願い……」
「どうして欲しい? 言えよ」
矢吹の指が葉子の体内に侵入する。彼女の頬に涙がつたう。
「言え」
「……お、お願い……」
かすれた声で、語句をとぎれさせ、葉子は言った。
「お願い……」
背後に立つ矢吹の肩に片頬をうずめ、つづける。
「犯して」
弱い女でしかなかった。白木葉子は弱い、矢吹を恋する女でしかなかった。
矢吹の両手がくびれた葉子のウエストにからみ、彼は彼女の臀を突き出させると、背後から彼女の体内へ一気にペニスを挿入した。葉子の喘《あえ》ぎが徹の耳を苦悩させ、さらに矢吹のことばが徹の額を殴った。
「好きだ」
矢吹もまた心の奥を葉子に吐露したのだ。
「これでいいんじゃ。これで。わしはあの作品にラブシーンがないのが不満で不満でたまらなかったのじゃ」
ドクター・キニスキーのつぶやきがまっしろな灰のように部屋に降るのだった――。
天国のK・I先生、T・S先生、現世のC・T先生。ごめんなさい。ごめんなさい。
〈メランコリック篇〉
りー、りーと一匹だけ虫が鳴いている。枕元《まくらもと》のスタンドだけの明かりの部屋にその声はものがなしく響いた。
ここは三階である。どこから迷い込んだのだろう。
「あなた、どうしたの? そんなところにじっと座って」
紀子が襖《ふすま》のわきで訊《き》いた。
「うん? 鈴虫が鳴いとるねん」
「そう」
紀子は関心も示さず、鏡の前でコットンに化粧水を含ませている。
「お風呂場のシャワーね、出が悪いわ。髪を洗うとき不便よ。三階って水圧が弱くなるのかしら」
ドライヤーの音で虫の声は消された。
「はじめさん、明日にでも様子を見てくれない?」
「……なあ、その呼び方な……」
「え、なあに」
ドライヤーを紀子は切った。
「その呼び方な……はじめさん、ちゅう呼び方、わて好きやないね」
「……だって」
紀子はまたドライヤーをつけた。
「だって、ほかになんて呼べばいいのかわからないんだもの。マンモス、なんて自分の夫を呼ぶのもへんでしょう」
「ほら、せやけど」
はじめはかつてミドル級ボクサーだった。八回戦ボーイ。リング名がマンモス西である。
「わたし、ボクシングは嫌いよ。おとうさんもおかあさんも、それに近所のみんなも、はじめさんのこと、マンモス、って呼ぶけど、わたしはいや。ボクサーと結婚したつもりはないもの」
「そら、ようわかってる。わいもさっさとボクシングには見切りつけたんやさけ」
地味ながらこつこつと勝ち試合をつづけていたこともあった。だが、こぶしを骨折してから強いパンチは不可能になり、あっさりとボクシングはやめた。
いや、あっさりと、というのは嘘《うそ》かもしれない。
やめるとき、はじめの胸にはあきらかにかなしみがあった。よどんだ重いかなしみがあった。
だが、はじめはそれを決して表には出さなかった。
百八十を超える長身、百キロ近い体重、そのくせ勝てない試合。丸い赤ら鼻、しょぼしょぼした目。こんな自分に「かなしみ」ということばがどうして似合おう。ピエロに「憂鬱《ゆううつ》」ということばがどうして似合おう。
ピエロのような外見と腕力ならば、せめてみんなをあたたかい気分にさせる幸せなピエロでいなくては。いつもたのしいピエロでいなくては。
でなければ、あまりにも自分はかなしい。
(かなしい、と口にすればもっとかなしい自分になることを、知ってるんや)
はじめは思い、そして、あっさりとボクシングを捨てた。
「さっきTV見てたらトーク番組に大高会長が出て得意そうにしゃべってたわ」
前髪にカーラーを巻きながら、紀子は、ややしらけた口調で言った。大高会長とはボクシング界のドンである。かつては、はじめもずいぶんと気をつかったものだ。
「そうかいな。あん人はまた新しい選手を育ててはるさかいな」
「まったく、そんなにボクシングって魅力的なものなのかしら」
「そら……それしかない者んには、な」
はじめとて、それしかなかった。貧しい母子家庭に育ち、中学までの不良の果てが東光特等少年院送り。極悪不良のつもりでいたがそこはさらなる極悪不良の集合。毎日を怯《おび》えながら暮らし、やっと退院したものの、少年院上がりの者を笑って迎えてくれる組織がどこにあるか。
(ボクシングしかなかった)
ある片方の目の不自由な男に誘われ、この町の外れの橋の下にある彼の小さなジムに入った。ボクシングははじめを変えた。輝かしいボクサーには変えはしなかったが、つつましい人間に変えた。
〈西どんが紀子の婿《むこ》になってくれたらどんなにかいいか。気だてはいいし働き者だし〉
紀子の母にそう評させる人間に変えた、林屋食料品店。
紀子の父母の経営する小さなこの店に、はじめはさいしょバイトとして手伝いをしていた。ボクシングをやめてからは正社員になり彼は懸命に働いた。
万博も、ゲバルトも、はじめには無縁だった。ただ働いた。やすらかに働いた。
徐々に店は大きくなり、紀子と結婚し、時代は変わり、店も建て替えられ、食料品店ではなくコンビニエンスストアになった。二階には紀子の両親が、そしてこの三階には紀子とはじめが住んでいる。
「タクアンさんに、今日もまた言われちゃったわ」
タクアンさん。林屋食料品店がまだほんの小さな店だったころから毎日タクアンを買いにくるので、いつのまにか近所ではそう呼ばれている。
〈うちの子、好き嫌いがはげしくて毎日のお献立考えるだけでもたいへんよ〉
それが口癖で、買うのは決まってタクアンなのだった。
「どうして赤ちゃんつくらないのよ、って。よけいなお世話よね。いくら自分ん家《ち》が子だくさんだからって」
紀子とのあいだには子供はいない。
「わいは欲しいで。病院で検査したやないか。紀子かてわいかて、どっこも悪いとこあらへんのやし」
鏡の前の紀子を、はじめは背後から抱きしめた。
「コウノトリが運んで来てくれるわけやない。赤ん坊作るのは夫婦や」
石鹸《せつけん》の匂《にお》いのする紀子のうなじに唇を当てる。
「やめて、カーラーが巻けないじゃない」
紀子は肘《ひじ》ではじめの腹を突いた。
「なんだか今日は疲れちゃって。ほらチョコレートの立ち食い騒ぎ。あれでクタクタ」
「あ、ああ。せやったな」
「チョコレート盗《と》ったあの外国人ね、元ボクサーですって?」
「うん。そうや。ハリマオちゅうたんや」
「すごい人ねえ。手当たりしだいにチョコレート食べる泥棒なんてはじめてだわ」
「現役時代からせやったで。ガルルルちゅうて相手に飛びかかってきよる恐ろしい選手やったんやけどな、チョコレート浸《づ》けで今はコンビニあらしになっとるとはなあ……。ほんまに人の人生ちゅうのはわからんもんや」
「ほんとねえ……」
自分の腕の中にいる紀子の心がふっと抜けた気がした。
(またや)
はじめは思う。
結婚して二十年、紀子を抱いているときにこの感覚はたびたび彼に生じた。
自分の腕の中にいるのに、自分の身体の下にいるのに、たしかに紀子を抱いているはずなのに、そこにいるのは紀子の外部だけで紀子の内部は抜け出てしまっているような感覚である。
そうなるともういけない。
はじめの全身をかなしみがとらえ、彼自身の内部も虚《うつ》ろになってしまう。
「紀子、今、しあわせか?」
はじめは紀子の背中に額を当てた。
「いやあねえ。何よ、あらたまって」
「訊いとんのや、おまえ、しあわせか?」
「…………」
やや間をおいてから、
「しあわせだと思うわ。大会社の社長さんから見たらちっぽけかもしれないけれど、お店も立派になって、生活も安定してて」
紀子は言った。
「ねえ、わたしが高校生のころはリヤカーで配達してたのよね」
はじめのほうを向く。
「ああ、自転車で引っ張ってな」
「ふふ。毎日があわただしかったわね、あのころは。新聞紙を糊で貼《は》って袋こさえてたのよね」
「せやな……」
「あのころに比べたら今はラクチン、ラクチン。しあわせだわ」
はじめの顔をのぞきこんだ。
はじめは紀子の顔を両手ではさみ、唇をふさいだ。う、と小さく紀子は呻《うめ》き、はじめの舌が紀子の唇をこじあける。紀子の舌が遠慮がちにはじめの舌にぶつかってからんだ。
はじめは紀子を抱きしめた。鏡に紀子のうしろ姿が映る。
巨体の彼に抱きしめられた彼女ははかなげで、可憐《かれん》な女子高校生のようである。襟《えり》にフリルのついたピンクのパジャマがいっそう彼女をあどけなく見せた。
「紀子」
はじめは紀子を布団の上に押し倒した。彼の太く渦巻く体毛に覆われた不器用な指がもどかしそうにボタンをはずし、ズボンをおろした。
ほっそりとした全裸が仰臥《ぎようが》してはじめの眼下に現れた。
パジャマと同様に可愛らしいピンクの色をした乳頭を持つ乳房は、仰臥した今は肉が流れて平らになっている。平らな胸部は紀子を少女のように見せる。
ぴったりと閉じ合わせたふとももと硬い膝《ひざ》がしら。ふとももの上部は黒い繁みである。繁みの面積は広く、その無防備な繁りがまたかえって少女めいて見せる。
もともとが骨盤の張らぬ柳腰のほっそりした体型である。子供も産んだことがなく、結婚後も太ることなく、紀子ははじめと知り合ったころのままほとんど変わっていない。
「呼んでんか、わいのこと、呼んでんか」
紀子を抱くときにいつも乞うように、はじめは乞うた。
紀子はほとんど聞き取れぬほどの小声で応じる。
「西くん……」
西くん。はじめは紀子からそう呼ばれるのが好きだった。とても好きだった。
甘く熱いものが下腹部にこみあげ、はじめは紀子におおいかぶさる。
石鹸の香りのする首すじに唇を這《は》わせ、いつくしみ深く乳房を揉《も》む。繁りある丘をそっとてのひら全体で撫《な》で、教えきかせるようにふとももを開かせる。
はじめのペニスが勃起《ぼつき》し、彼はそれを紀子に握らせた。
「呼んでんか、なあ」
自分の耳を紀子の唇に押し当てる。
「……西くん」
あえかな息のような声がはじめの耳に流れ、彼の指は紀子の繁みの奥をさぐりはじめる。なまあたたかい襞《ひだ》はなまあたたかく湿っていた。
はじめの指がちろちろと襞をくすぐると、紀子のウエストがよじれた。
「う……ん」
明瞭《めいりよう》に吐息が洩《も》れた。
はじめは紀子の体内にペニスを挿入し、巨体をゆすぶって彼女の体内を擦る。
「う……ん」
紀子の目蓋《まぶた》が閉じた。眉間《みけん》に皺《しわ》がよるほどにしっかりと閉じられている。
(あかん、行ったらあかん)
はじめは紀子をきつく抱く。ふっ、と紀子の内部が抜けてゆく感覚がまたしても生じたのだ。
(ここに。わいの腕の中におってえな、紀子)
いっそうきつく紀子を抱く。しかし、紀子ははじめからどんどん逃げてゆく。
(どこへ行くのや、行ったらあかん)
紀子の唇を吸おうとするが、しかし、はじめの下腹部は急速に萎《な》えてしまう。
「かんにん」
はじめはうなだれて紀子から離れた。
「ううん……」
紀子はベランダのほうに寝返り、はじめに背を向けた。
「もう休みましょう。明日も忙しいわ」
「……せやな」
はじめは紀子と逆の方を向き、布団をかぶった。
りー、りーと、虫の声が聞こえた。
明け方。台所のテーブルにはじめは頬《ほお》づえをついていた。
「四時か」
時計を見た。
布団をかぶってからも寝つけないため、しかたなく台所でTVや雑誌を見ていたのだ。台所といっても、ささやかながらダイニングテーブルが置かれた居間兼用の六畳である。
「わいは紀子を抱きたいのに……。子供も欲しいのに……」
やるせなかった。
空はまだ暗い。
はじめはガスコンロの火をつけ、うどんをゆでた。ざるにうどんをあげ、水をかけてやや冷やす。水気を切りポリエチレンの袋にいれ、口を縛る。それを大事そうに持って椅子《いす》にすわる。目をとじ、自転車のうしろに紀子を乗せたときのことを思い出す。紀子はまだ高校生だった。三つ編みのおさげ髪がセーラー服によく似合っていた。はじめの腰にからんだ白い腕。ときおりはじめの背にぶつかる胸のふくらみ。
〈西くん、ほら見て〉
〈西くん、やさしいのね〉
西くん。西くん。紀子の呼ぶ声がはじめの耳の奥をくすぐり、彼はポリエチレンの袋を一ヶ所、破る。そして、猛々《たけだけ》しく勃起したペニスをその穴に刺した。ぐじゅぐじゅとしたなまあたたかいうどんが彼のペニスを包み、締めつけ、からんでくる。
「紀子、紀子」
はじめは、うどんの入ったポリエチレン袋をあてがった下腹部をはげしく運動させて射精した。
と、そのとき。
「なんてことしてるの」
紀子が襖《ふすま》を開けた。
「ち、ちがうんや……これは、あのな……」
椅子から立ちあがろうとするはじめ。
「なんて、なさけないことを」
紀子ははじめの肩を叩《たた》き、そのはずみで彼は床にころんだ。ころんだはずみでポリエチレンの袋がおしつぶされ、うどんが床一面にこぼれた。
「なさけないことを……」
うどんの海にうつ伏すはじめの背中に、紀子は顔を押し当てて泣く。
「うぷっ、うぷっ」
はじめはむせた。
「ち、ちがうんや、紀子。き、聞いてえな、あんな、これはな」
ようように上体を起こし、紀子をふりかえったはじめの鼻からはうどんがひとすじ垂れている。
「きらいっ、その顔。うどんを鼻から垂らさないで」
紀子ははじめの顎《あご》を押して、彼の顔を自分から遠ざけた。
「おまんが押すさかいにやないかいな」
はじめはむっとして鼻のうどんを拭《ぬぐ》う。
「……なあ、紀子。わいがなんでうどんに挑戦するかわかるか? うどんにはなあ、わいのいっちゃんなさけない思い出が隠されたるさかいにや」
ボクサーのころ、ヘビー級からミドル級への減量のつらさに耐えきれず、夜中、こっそりと屋台のうどんを食べた。
「男としていっちゃんなさけない思い出や。せやから、わいはうどんを克服しようと思うてこないなことをしてしまうんや。なさけない部分を克服しよう思う気持ちなんや」
はじめはすっくと立ち上がり、カーテンを開けた。太陽がのぼりはじめている。
「うどんはな、いわば男の挑戦や!」
朝日を背後から受け、はじめは紀子の目を正視した。
「女にとやかく言われるすじあいはない」
きっぱりと言った。
結婚して二十年。紀子に手をあげるどころか声高に怒鳴ったこともない。二十年目にして紀子を泣かすことになった、とはじめは心中思ったが、
「西くん……」
意外にも紀子の頬《ほお》はバラ色に上気し、うっとりとはじめを見つめる。
「男らしいわ……」
もろ手をさしのべる。
さしのべたはずみで紀子の手がラジオのスイッチに触れた。朝日が二人をつつみ、ラジオからはサラサーテの「チゴイネルワイゼン」が。
はじめは体内に自信と熱情がみなぎるのを感じた。
「紀子、わいが一番やで。わいが一番、おまんのことを好いとんのや」
彼も紀子にもろ手をさしのべ、
「さあ来い、抱いてやる」
彼女を抱き上げ、寝室に運ぶ。
布団に彼女を投げおろし、ばりばりと破らんばかりに荒々しくパジャマを剥《は》ぎとった。
お椀《わん》を伏せた形の可憐な乳房を荒々しくわし掴《づか》みにし、うどん粉をこねるように荒々しく揉む。
「おまんを幸せにできるのは、わいだけなんや。わい一人なんや」
ギュッ、ギュッと揉む。アッ、アッと紀子が喘《あえ》いだ。
「こんなふうに乱暴にされるのんがよかったんやな」
黒い繁みを遠慮なく撫でまわした。しどけなく紀子がまた喘いだ。
「どうしてもらいたいんか、ちゃんと言うてみ、紀子」
はじめは紀子の耳たぶを噛《か》んだ。
紀子はいやいやをするように首をふり、唇を半開きにして、半開きにした唇を舌で舐《な》めずる。
「黙ってたらわからへん。ちゃんと口に出して言うんや」
「ああん、そ、そんなこと……は、恥ずかしい……」
あえかな息のような声がはじめの頬をよぎり、彼の下腹部は煮えたぎるように固くなる。
「さあ行くで。やったるで」
紀子の体内に入った。スウェイ・バックするように彼女の身体がのけぞり、甘いかすれ声を長く洩らした。
ずしずしと敷布団が鳴り、みしみしと畳がきしむ。ごろごろと二人は絡《から》みあった。
「ああ、すごい、すごいわ」
はじめの上に乗るかっこうとなった紀子は喉《のど》を反らせて髪を乱す。前髪のカーラーは外れている。
騎上位は夫婦にとってはじめてのことであった。
はじめは自分の腹の上で喘ぐ紀子を新鮮な面持ちで眺めた。激しく腰をゆらす彼女の可憐《かれん》な乳房はぷるぷると弾んでいる。
「ええわ。ごっつう、ええわ」
はじめは紀子の、ぷるぷる弾む珊瑚色《さんごいろ》の乳首をつまんだ。ふるふると紀子の腰が揺れた。
「きれいや、きれいやで、紀子」
はじめもぐりぐりと腰を揺らした。沸騰《ふつとう》した樹液がもうあふれそうである。
「あ、ああ、もう。もうだめ……」
紀子はさらに激しく腰を揺らし、
「たまらないぃ」
もっと激しく腰を揺らし、
「好き、好きよ」
いっそう激しく腰を揺らし、
「矢吹くんっっっ」
なおのこと激しく腰を揺らしたのと、はじめが射精するのとは同時であった。
矢吹くん。矢吹くん。と、合計三回、紀子は叫んだ。
矢吹丈。それははじめと同じボクシング・ジムにいた男の名だ。天才ボクサーだった。今はゆくえがしれない。
ぐったりとしたはじめの瞳《ひとみ》に涙がにじんだ。
(ジョーの名前、聞きとうなかった。聞きとうなかったで……)
たぶん自分はよく知っていたのだと、はじめは思う。紀子が自分と肌をかさね合わせるとき、そのとき、彼女は閉じた目蓋の奥でいつも矢吹のことを想《おも》っていることを、自分は心のどこかでよく知っていたのだと。
(それに気づきとうのうて、いつも途中でやめてもたんや……)
はじめはベランダのほうに身体の向きを変え、紀子に背を向けた。
「ごめんなさい、はじめさん」
紀子の額が背中に当たる。
「ええんや。おまんがジョーのことを好きなんは、昔からようわかっとった」
「許して……。わたし、はじめさんのこと、とっても愛してるのよ、ほんとよ」
「ええて、わかってるて。ただ、一つだけ頼みがある」
「頼み?」
「せや、一つだけ。きいてくれるか?」
紀子に背中を向けたまま、彼はさびしそうに言った。彼の目は、二十年前の結婚式でウエディング・ベールをかぶった紀子がしていたのとまったく同じ目だった。
「はじめさん、って、わいのこと呼ぶのやめてほしいんや」
「でも……」
「頬むわ。やめてえな。西《にし》 一《はじめ》、は『いなかっぺ大将』の登場人物やないかいな。わいはさいごまでマンモス西なんや」
「………わかったわ、西くん」
紀子はそっと寝室を出ていった。
ラジオはチャイコフスキーの「悲愴」に変わっている。晩秋の朝。
カルトガイド(あしたのジョー)
よど号という飛行機がハイジャックされた事件が、かつて1970年代初頭にあった。(「よど号事件」がどういう事件であったのか、「知らないわ。だって若いんだもん」と自慢気に言う人は、自力で『昭和の歴史辞典』の類で調べてください。若いんだからそれくらいの労力はなんでもないでしょうが)。なんでまた飛行機を乗っ取るのか? なんでまた朝鮮民主主義人民共和国へ行きたがるのか? だいたい全学連と全共闘と革マル派と反日共系とはどこがどうちがうのか? そういうことは、当時、小学生だった私にはまったくわからなかった(今も)。わからなかったけれども、彼らが出した、
「我々は『あしたのジョー』である」
という声明文の一部はわかった。『あしたのジョー』を読んでいたから。
当時は大人から子供まで『あしたのジョー』を読んだのだ。登場人物のひとりである力石徹が死んだときには葬式まで行われた(葬儀委員長は寺山修司)。
『あしたのジョー』はそういう時代の漫画だった。そしてそういう漫画は、その後は生まれなかった。
絵を描いた人は、ちばてつや(敬称略)で、スジを考えた人は、梶原一騎(敬称略)である。
梶原一騎……。
この人は「そういう時代」の寵児《ちようじ》だった。『巨人の星』の原作者である。ほかにも、『タイガー・マスク』『空手バカ一代』『柔道一直線』等々を原作した。当時は、みんな夢中になって読んだはずである。それなのに現代(1996)にあっては、梶原一騎の漫画を読むと、みんな、
「あーはっはっはっは」
「わはははは」
「ひーっひっひっひ」
と笑う。
笑ってしまうのである。
バカにしているのでは、決してない。ぜったいに、ない。笑ってしまうほど、それほど、「そういう時代」そのもの、だからである。梶原一騎の漫画は。
そして、「そういう時代」に私は初潮を未だ迎えていなかった。初潮を迎える前の女であれば、多くの男は、
「まだ子供だ」
と思いがちである。
それはちがう。
初潮を迎える一、二年前から、迎えたあとの一、二年後の女というのが、女の人生のなかで「もっとも女である時期」なのである。もっとも、異性=男=牡《おす》=♂、の目を意識した、もっとも媚《こ》びた、もっとも色気づいた時期なのである。少女が聖なるものであるなどと、これは断言するが、まったく錯覚と誤解だ。
あれほど女そのものであった時期を、あれほど不潔な、あれほどあざとい、あれほどいやらしい、あれほどセクシャルな、あれほど鋭い、あれほど艶《つや》めいた時期を、私はほかに知らない。
ふたたび断言する。少女は不潔だ。不潔ゆえに男を魅了する。男を魅了する正体、それは不潔さなのだ。
初潮を迎えぬ不潔な時期に、私は矢吹丈に会った。
彼が白木葉子を愛していること、白木葉子が彼を愛していることは、第一話から火を見るよりあきらかだった。そんな一目|瞭然《りようぜん》な「真実」に気づかない男子同級生を、不潔な少女はバカにした。バカにしたていどの表現ではすまぬ、軽蔑《けいべつ》した。
愛とははぐくまれるものなどではない。さいしょから決定されるものだ。
矢吹丈に会うなり、私は彼を愛した。しかし、彼には白木葉子がいる。彼らは愛し合っている。
不潔な少女は、そこで自分が傷つかぬ方法を即座に見いだした。
「わたしはサチ。いつもジョー兄いのそばにいるサチ」
年齢もサチに近い。感情移入はたやすかった。「真実」を曲解するのも、不潔な少女は得意だった。真実は、「いつもジョー兄いのそばにいるサチ」ではなく「いつもジョー兄いのそばにいられるサチ」であるのに。女である立場を放棄した代わりに得られる、いつもそばにいられるという「許可」。
サチになることで傷つかずにすむ。サチになることで矢吹くんからは女とは見られない。男と女にならないことで二人の関係は永遠に続く。
卑怯《ひきよう》な手段をためらいなく選ぶ不潔な少女だった。
なぜあのとき、乾物屋の紀子になることを選ばなかったのか、今でも悔やまれる。あのとき、せめて紀子を選んでおけば、私の人生はもっと現実的な性の快楽をつつましやかに得られただろうに。
サチを選んだがために、私は男にとっての恋人にもなれず、妻にもなれず、永遠に友人として生きるしかなくなった。
友情は美しいか?
否。
「美しかねえよ、そんなもん。糞《くそ》くらえだ」
これが答えだ。
友情というかんばしき名の下で醗酵《はつこう》する、ねたみとそねみと、永遠に報われはせぬ性欲の、息もつまりそうになるほどの重圧下、私は願った。
「矢吹丈よ、白木葉子を犯せ!」
「西よ、紀子を犯せ!」
自ら選択したにもかかわらず、自分は女の不具である。その股《また》に穴のない、無性の、永遠の「友人」で存在するしかない存在。
ならば、せめて男よ、女を犯してくれ。せめて女よ、男を誘惑してくれ。そして、男よ、女よ、心の底から相手に絶望しろ。どんなに男が弱いか、どんなに女が詐欺師《さぎし》か、思い知って絶望しろ、ケーッケッケッケ。
そう願った。友情は美しくはないが、ただし、強く、公正だ。
しかし、梶原一騎はロマンチストだった。ジュラルミンなみのロマンチスト。これが「友人」を選択した者の最大の障害になった。こいつ(梶原)ときたら、いつまでたっても矢吹くんと葉子をヤらせない。こっちはもう学校の保健の先生に呼び出されて「初潮を迎えるために」の授業まで受けてんのに、まだ二人は「じーっと見つめあうだけ」をつづけてやがる。
「いつまでやってんだよ、いーかげんにしてくれ」
しびれをきらす。
「さっさとヤらんか! このグズ!」
罵《ののし》りはじめる。
それでもジョーは葉子をヤらない。
「ね、ね、矢吹くん。あなた葉子さんのこと好きなんでしょ? ね、ね、葉子さん、あなたもそうよね。じゃ、問題ないじゃない。おヤりになったら? そうでしょ?」
なだめすかしても二人はヤらん。
結局、ヤらないままジョーは「まっしろな灰に燃えつき」ちまいやがった。バカヤロー。
よど号の犯人よ、後年、「日本に帰りたい」などと言うなら、にせ札作ってセコいことするなら、あのとき、
「平壌へ行け」
なんていう要求なんかせずに、なんでなんで、
「矢吹に白木葉子をヤらせろ」
という要求をしてくれなかったのだ。
「我々はあしたのジョーである」
なんて声明しときながら、なんでその声明にフィットした要求をしてくれなかったのだ。
だから私は働いた。お金を貯めて、それで梶原一騎に要求しようと思った。それなのに金が貯まる前に梶原一騎本人が死んでしまったではないか。
こうなったからには、自力で矢吹に葉子をヤらせてやる。
「あんたにもらってほしいんだ」
って、ラストシーンでグローブを葉子に渡すジョー。なによ、なによ、グローブなんかもらったって。グローブなんかじゃオナニーもできないじゃないのさ。フィストファックでも夢想しろっての? じょーだんじゃないわよね。なによ、なによ、なに考えてんのよ、矢吹丈という男。んーっ、あーっ、もーっ、っんとに全共闘的頭でっかちの役たたず。わかる? こう両手を出して、葉子の肩を掴《つか》むでしょ。そしたら次はマウスピースをペッと出して、口を葉子の口につける。そして舌を入れる。そいでもって服を脱がす。それからペニスをヴァギナに挿入する。往復運動する。ディテールはまかせるから、大筋はこのとおりの行為をすればいーのよ、トリプルクロスカウンターより簡単でしょ、わかんないの、こんなことが!? のろま! サノバビッチ! マザーファッカー! インポ! へたくそ! 早い! ホーケー! 短小!
そもそも矢吹丈は童貞だったのだろうか。これは『あしたのジョー』にいれこんだ者すべてが抱きつつも、あまり口にしない禁忌の疑問である。
「童貞でした。ストイックだったからセックスなんかしようとは思いません。最終回までオナニーですませていたんです。それが彼のストイシズムなんです」
ある『あしたのジョー』研究者は真顔でこう言った。
「いいえ、オナニーもしなかったんです。だってオナニーするからには、そのとき葉子の裸身を積極的に想像しなくてはならないではないですか。そんなはしたないこと、ジョーはしませんよ。夢精してただけです。これがストイシズムです」
もうひとりの研究者はこう言った。
そこで私は次の結論を出した。
「矢吹丈の童貞喪失推定年齢は十四歳」
であると。
彼は十五歳で〈どこからともなくあらわれドヤ街に住みつ〉いたわけであるから、段平の住むドヤ街に来る前に捨ててきたにちがいない。
「喪失推定場所は一泊二百五十円の旅館、もしくは被喪失者の住居内」
第一巻の4ページ目から5ページ目にかけて彼は簡易旅館の並ぶ道を歩いている。簡易旅館「よしの」が風呂有りで一泊百五十円。「千野」「明風荘」と来て、「寺田家」が一泊百二十円である。これらの旅館を見て、彼はつぶやく。
〈やれやれ……どうにもこうにもしけたところらしいな……〉
と。一泊百二十円から百五十円の旅館を〈しけたところ〉と感じるのだから、こうした旅館よりはしけていない建物内で寝たがる感覚が体内にある。だが彼の身なりからして大金を所持しているとも思われぬ。ということは、青カンではなくて、一泊百二十円から百五十円ていどの建物内でもなくて、もうすこし上の建物内でヤッた。とすると、約1・5倍の料金の宿泊施設内、もしくは相手の女の住居内。女の住居内であった場合、女は、一泊二百五十円の宿泊施設よりは上の状態をキープした建物に住んでいられる経済力が必要になってくる。女が収入を得る方法はいくつもあるので、彼とセックスした女の職業までは見当がつかない。
「まあ、第一巻冒頭の雰囲気からすると、この雰囲気の前に描かれていてもあまり違和感のない部屋でのセックスが妥当でしょう。とすると、相手はリーズナブルな料金の酒場に勤める気のいい姐《ねえ》さん、というところでしょうか」
これは研究者Aの推測である。
「酒場に勤務しているとなると十八歳よりは上でしょう。しかし十四歳の男から見ると四十以上では勃起《ぼつき》しないだろうから、ま、三十歳くらいでしょうかね。大衆酒場に勤務する気のいい三十歳の女性」
これは研究者Bの推測である。よって、
「キャバレー『天国』に勤める、丸顔で小柄でぽっちゃりしていて、見かけは二十六くらいに見える、アケミさん」
これが矢吹丈の童貞をいただいちゃった人物である。
親族縁者いっさいゆくえ不明の矢吹丈は、しかし国籍は日本人であるから、法律により、十五歳までは義務教育期間中だ。第二巻によると養護施設で育ったとあるから、養護施設から中学へ通ったと思われる。では、卒業後、ドヤ街にやって来たのだ。そのときの彼の服装や背景の木々の状態(落ち葉などが散っている)から判断して秋から冬である。十一月とみた。では、十一月に十五歳であり、かつ中学は卒業しているとなると中学卒業の三月の時点でまだ十四歳でないとならない。これで、
「矢吹丈は早生まれである」
ということがわかる。
中学の卒業式はだいたい三月十五日ごろだから、誕生日は三月十五日より後ということになる。
おそらくアケミさんは、ある夜、店でいつもより大量の酒を飲み、いい気分で酔っぱらって、
「そう。中学卒業したの。これで大人だね」
と、矢吹くんにもビールの小瓶(当時は缶ビールがさほど普及していなかっただろうから)を勧め、
「さ、元服だよ」
などと言いつつ、ケラケラと明るく笑い、笑っているうちに姿勢がだらしなくなって衣服が乱れ、矢吹くんは矢吹くんでもらったビールを飲んで、
「うまかねえな、こんなもん」
と思いつつも、慣れないアルコールのためほんの少量でフラーッとなって、ちょっと残したあたりで、アケミさんの衣服の乱れにふと目をやる。そこをアケミさんはすかさず、
「大人の男になんなくっちゃね」
と、しなだれかかりセックスにいたったと思われる。卒業祝いの童貞喪失だ。矢吹丈、十四歳、もうすぐ十五歳の春。
事後の会話として女が投げかけるもっとも一般的とされるテーマは、
「ねえ、あんた。あんたは何座?」
などである。ハイライト(当時の最大消費銘柄)を吸いながら尋ねるアケミさん。
ここで矢吹くんの星座である。誕生日が三月十五日から四月一日までのどこかである。魚座か牡羊《おひつじ》座があてはまる。
そこで星座の本を調べた。
魚座=困っている人や苦しんでいる人を見ると放っておくことができず、惜しみなく愛情を尽くすおひとよしです。
牡羊座=ハードルが高ければ高いほど闘志を燃やします。負けん気が強い直情攻撃型。短気。
『あしたのジョー』全巻を読んで、矢吹くんが「おひとよし」か「短気」かどちらであるか。そりゃ後者であろう。
〈ふふふ、おもしろい……。ゆめだ不可能だといわれりゃおれって男はなおのこと燃えてくるんだぜ〉
という発言も作中にある。牡羊座のサンプルだ。牡羊座でも、四月二日からはもうひとつ下の学年になってしまうから、牡羊座の第一デーク。『少年マガジン』に『あしたのジョー』が連載されたのが1968年であるから、1968−15=1953年生まれの巳《み》年。これで矢吹丈の童貞問題と生年と星座が解けた。アケミさんとのセックスのあと、彼はボクシングにめざめ、セックスはせずにストイックに生きたのである。
ストイックに生きてくれたもんだから、白木葉子の不幸の根源となったわけだが、ところで私はかねてより、白木葉子の学歴が疑問だった。
この方は白木財閥のお嬢様である。財閥のお嬢様だから、そのへんのえせお嬢とはちがう。お嬢様中のお嬢様である。
「そんなお嬢様がなんで中卒なの?」
長いあいだの疑問であった。もちろん学歴なんかで人の値打ちや品格は決まらない。決まらないが、なんというか「相場」っちゅうもんが事実としてあるではないか。
矢吹くんは第二巻で東光特等少年院に送られることになる。それを決定する家庭裁判所へ、この葉子さんは見学に来ている。十五歳で裁判所に見学に来る……高校はどうしたのだ? さぼったのか? 財閥のお嬢様がそんな不良のような行為を? 裁判所は夜はやってないだろう。夜間高校に財閥のお嬢様が通っているとは「相場」からしてヘンだ。学校をさぼったのでもなく夜間高校生でもないとすれば、この人は中卒で「家事てつだい」の身ということになるではないか。
「ちがいますよ。葉子さんとジョーを同い年だと思い込んでいるのがあなたの大きなまちがいなんです」
研究者Aに指摘され、
「エッ!!」
てのひらを表にして口もとに当て、驚く。驚く私に研究者Aの曰く。
「葉子さんはジョーより四つ年上の女なんです」
彼女が特等少年院を慰問に訪れるシーンが第二巻にある。劇をする。だしものは『ノートルダムのせむし男』。主役のエスメラルダ(主役って、せむし男のほう?)を演じる。
「ふきだし内のネームを精読してませんね、あなたは。ちゃんと〈白木葉子さんは非行少年問題にご理解がふかく学生劇団を組織して日曜日ごとにあちこちの少年院を慰問してまわっておられるのだ〉と書いてあるでしょう。学生劇団なんですよ、学生。葉子さんは1968年の時点で、すでに大学生なんです」
研究者Aの指摘を受け、私はがーんとなった。『あしたのジョー』を愛読したことでは人後におちる者なしと我を確信していたが、こんな基本的なミスをしでかしていたとは。
「でもマンモス西が……」
ハンカチのはじっこを噛《か》みながら私はマンモス西のふきだしのネームで反論する。
「西がジョーに学生劇団の説明をするとき、〈女団長なんていうときこえがわるいがうわさによれば十六、七のごっつい美少女でな……ここにおるれんじゅうの大半はその少女を見にきとるようなものなんや ひひひ〉って言ってるよ。十六、七なら大学生じゃないじゃないの」
「それは正確には十六、七、八歳くらいの年齢の≠ニいう意味ですよ。くらいの≠ニいう意味です。ふきだし内の文字数はそんなに長くできないから、たんに十六、七の≠ニしたんでしょう。ジョーが十五歳のときに葉子さんは大学生なんです」
なるほど、大学生なら講義のあいまに家庭裁判所に見学にも行ける。だが、大学一年のときは一般教養課程科目で講義日程もつまっているだろうし、キャンパスにもまだ慣れていないし、劇団を組織するにも一年生がそんなにいばれないだろうし、お嬢様なら礼儀作法からあまりさしでがましい態度はつつしみましょう≠ニしつけられているだろうし、エスメラルダを演じた一年後(=矢吹くんが少年院から出られたころ)、段平がトラブルをおこしたさいに「身元引受人」になっている。身元引受人が未成年であるはずはないので一年後に成人している年齢となると、
「では葉子さんは大学三年ですね。大学三年はふつう二十歳だけど、この人も早生まれで十九歳の大学三年生」
であることが判明した。たしかにジョーより四歳年上だ。何座だろう? ふたたび星座の本で調べる。早生まれは、先述の、おひとよしの魚座、短気の牡羊座と、あと水瓶《みずがめ》座がある。
水瓶座=「私は選ばれた人間よ」という意識が強い。クールでものごとを理屈で割り切ろうとする。仕事への意欲は人一倍。チャレンジ精神が旺盛《おうせい》でやりがいのある仕事を求めます。
これだ。長年の疑問が解けた。白木葉子は大卒で1949年生まれの水瓶座、丑《うし》年。
力石はウェルター級六回戦のプロボクサーであったが客の口汚いヤジに立腹して喧嘩《けんか》したことから少年院入りしている。少年院入りする未成年のボクサーというと、
「では力石は十八歳ジャストくらいでしょうかね」
ということになる。1950年生まれだ。
「つまり葉子さんは力石にとっても年上の女だったんですね」
彼らに対する、あの落ちつきぶり。
〈力石くん、おまちなさい〉
などという口のききかた。力石くんである。じつにじつに。葉子さんが彼らより年上ならすべてなっとくできる。
では、彼女は処女であったかどうかについて。
「白木葉子の処女喪失時期は力石徹の死後。それまではまったくの処女であった」
〈卑怯《ひきよう》者!〉と矢吹の頬《ほお》をぶったり、力石の過酷なダイエットを目のあたりにして心配しつつも結局はダイエットさせとおした、この潔癖さと融通のきかなさ、これは処女のなせるわざ。
「だれとヤったと言うんです? 力石とはしてなかったんですか?」
研究者Bは問う。答えよう。
「ヤッてません」
力石は葉子さんとヤりたかったであろう。そりゃあヤりたかったであろう。しかし力石はインポだった。葉子さんには。
「あまりに崇《あが》め奉《たてまつ》る女を前にすると勃起しないのは男の常識。力、地位が自分より上の女を前にするとヤる気が失せる本能のバリエーションよ」
そのうえ力石は熟知していた。憧《あこが》れの葉子さんの心をとらえているのは矢吹くんただひとりであることを。
「辛《つら》いですね」
「そう。辛いの。その辛いのが気持ちイイってタイプだと思うわ、力石って人は」
マゾヒストというよりは、おのれのストイシズムに陶酔するタイプ。早生まれではないし、蠍《さそり》座だな。
蠍座=物静かですが内に秘めた情熱は激しく燃えています。不言実行の典型。一度決めたことは必ずやり通します。ほれたらその女ひとすじ。ですがプライドが高い彼にとってフラれるなんて許せないこと。自分を愛してくれる女にしか手を出しません。
「うーん、ぴったりだ。これだ、きっと。力石徹は蠍座よ」
手を打つ私。
「星座占いなんて当たるんですかね。どうも疑わしいが」
首をかしげる研究者B。
「いいじゃないの。女は星座がわかってないと落ちつかないのよ」
蠍座の力石の死後、葉子さんの心をひゅうと風が吹き抜けていった。矢吹くんだけを愛しているが、潜在意識下のことなので、力石の死はたとえようもないさびしさを彼女に与えた。
そこに現れたのが南国の太陽のように明るいカーロス・リベラである。
〈オオ、ミスヨウコ、アナタ ベリベリビューティフルヨ。ビューティフルダケド ヒジョーニコワ〜イ〉
などと言う〈黒いプレイボーイ〉〈漆黒のダイヤモンド〉カーロスの能天気な態度に、「ったく、しようがない人ね」
と思いつつも、さびしさを癒《いや》される葉子。
〈オコラナイデ……〉
と言うやいなやキスをする速攻に、全共闘時代の令嬢が頬そめ、ドキドキしてしまうのはむりもない。このときのカーロスの唇の感触が葉子の性をめざめさせた。
「では、白木葉子さんの処女をいただいちゃったのはカーロス・リベラなんですね」
「キスしたらあまり日にちをあけずセックスにもちこむのが女慣れした男の常識」
あまりあけるとかえって防衛心が育ってしまう。
「意外にハッピーな初体験だったのではないでしょうか。相手がカーロスなら」
そいでもってそのカーロスに、力石の死でダメになっている矢吹くんを打たせるのだから葉子さんという人はサディストでもある。しかし、打たれる矢吹くんを見て、
「ああ、矢吹くん……」
とハラハラするのだからマゾヒストでもある。こういうムヅカシイ女はいくら美人でも、たいていの男がイヤがる。
「だって、どうしてもらいたいんだかわかんないんだもん」
研究者Bの弁。
「わかんない、っていう要素はミステリアスな魅力でもありますが、度を超すともうイヤだよ、俺《おれ》、こんな難しい女≠ノなって疎《うと》まれますからね」
そのとおり。
「そりゃ、紀子ちゃんに走るよね」
おはなしの世界では紀子はわき役になるが、現実の世界で幸せを掴《つか》むのは彼女である。もし「幸せ」を「男に幸せにしてもらう」と定義づけるならば。
現実の男が選ぶのは紀子なのである。「女は現実的で男は夢を追う」というのは昔のことで、これは徐々に逆転していった。1973年から80年にかけて、少女漫画から「美しいヒロイン」は消え、「ごく平凡な女の子」がその座についていく。彼女たちは王子さまに「きみのそそっかしいところが好きだよ」などというふうな理由をもって愛される。1980年以降ともなると、男は女よりも現実的で安定を望む生物となった。よって女たちのヒロインは強くなって自立した。
「紀子ちゃんはいいですよ。清楚《せいそ》で明るくて思いやりがある」
そして1990年代後半の現在、男たちは彼らの女らしい小さな夢のなかで、つまり家庭という夢のなかで主人公になることを願う。その主人公を、主人公でいさせてくれる存在こそ紀子のような人物である。
主人公が主人公であるために、紀子は主人公より自我を切り開いてはならない。主人公の自我が弱いなら、それよりさらに弱くなければならない。もう、自我なんか水鳥の羽一枚くらいでないとつりあいがとれない。自立や個性などもってのほか。「パソコンを買ったはいいがちっとも上達しないの、クスン」というくらいの個性にとどめておかねば、かんじんの主人公が弱いんだからたちまち重量オーバーだ。
そういう意味では紀子は『あしたのジョー』中、もっとも90年代をさきどりしていた女性である。
彼女は1953年生まれ。少年院を出たのちの矢吹くんが彼女の乾物屋で働いていたときにセーラー服指定の高校に通っていたのだから彼と同級であろう。
「星座は蟹《かに》座ですか。蟹座=家庭的で順応性があります。自分からアタックするようなことはまったくなく、相手からのアプローチをじっと待っている。そのため情にほだされて……≠ニいう恋が多いのです、と書いてありますよ」
研究者Bは星座の本を読み上げる。星座なんか当たるのだろうか。えんえんと気にしているわりにあまり信じられないのだが、そう言われてみればそのような気がする。紀子がマンモス西と結婚したのはまさしくこの蟹座の記述そのものである。
「ところでマンモス西の本名は西 一じゃないんですよね。みんなよくまちがえるけど」
マンモス西の名前はと訊《き》かれ「西 一」とつい答えてしまうのは素人が陥りやすいミスである。西 一は別作品の登場人物だ。そいつも大阪の男なのでミスしやすい。マンモス西の本名は西 寛一である。研究者Bはジョーと西が特等少年院に到着した場面を指さした。
「でも、西との結婚式での、紀子ちゃんの、あの徹底的にあきらめた目=Aあれ、悲痛なシーンだったなあ」
あれが、ちばてつやの画力である。梶原一騎とちばてつやの、おそらく本人同士は各々の資質からすると反目していたのではないかと想像するが、結果としてはみごとな融合になった。
『あしたのジョー』、あの時代の美学だった。あの時代、今よりずっと燃えていたぜ、ソーロング、ビューティ……と、ここは言っておこう。身体だけマンモス西のように成長してしまったサチとしては。くそー、愛妻家のホセ・メンドゥーサと不倫してやる。だけど、るるるるー、1996年にはホセはジジイになってるからプラトニック不倫になる。るるるるるるるるるー、サチのあしたはどっちだ。
〈追記〉
ジョーの声をやったあおい輝彦はいまや水戸黄門のスケさんをやっている。『マッハ・ゴーゴーゴー』の主題歌をうたった人は、お団子の好きなうっかりはちべえだ。現在、白木葉子、四十七歳。林 紀子、四十三歳。時は過ぎゆく。
〈参考文献〉
南雲堂・ジュピター・Y著『恋愛成功占星術』
[6]タクシー・ドライバー
アセチレンランプのような暑さだった。
「そうとも。まったくアセチレンランプさ」
彼は自分のハンドルを握る手が、午後八時をまわった今でもねちゃねちゃしているのを知っていた。
首すじもねちゃねちゃしている。クーラーをつけていても皮膚から吹き出た汗は、一旦《いつたん》、吹き出てしまえばいつまでも皮膚にまとわりつく。
八月二十九日。
遠い日、彼がまだ少年だったころの夏にしじゅう馴染《なじ》んだ夏の夜店のアセチレンランプ。猥雑《わいざつ》な夜店を照らすそのランプと晩夏の暑さとは、彼の感覚でしっかりとむすびついていたものだった。
胡散臭《うさんくさ》く、毛穴に汗が詰まりきっているような、自分には未知ななにかがぎらぎらとエネルギーを放出しているような、夜店。アセチレンランプ。晩夏。
「俺《おれ》が眠れないのはアセチレンランプのせいだね」
キラー通りから逸《そ》れ、住宅地の細い路地に車をとめる。
〈回送〉
フロントグラスに札を立てた。ドライバー・シートをたおした。
出窓のあるヨーロッパ建築を猿真似した住宅の二階の窓が彼の視界に入った。カーテン越しに光が洩《も》れていた。
「エセくさい幸福……」
彼は思った。
洩れる光の黄色さを、うわっつらだけの家庭の幸福を象徴するような光だと思った。
彼の職業はタクシー・ドライバー。四十二歳。
今夜は客が少なかった。
「幸福な家庭……か」
彼はシートにぐったりと身体を横たえる。ここのところ、この半年ほど、よく眠れないでいた。
肉体は疲れている。途方もなく疲れている。それなのに夜になると頭の芯《しん》がずぎずきと痛むように冴《さ》えて眠れないのだった。
「三十分でいい。ぐっすりと眠りたい」
彼は切望し、まぶたを閉じた。
と、とたんに頭の奥がずきずきと痛みはじめる。手足から体温が抜けてゆき、彼の知らないうちにまぶたがカッと開いてしまう。
「牛のしょんべん!」
彼はひとりで悪態をつき、シートから身体を起こし、シートの位置を正した。
そのとき、である。
「あの、いいですか?」
若い女がおぼつかなげに車窓に顔を近寄せてきた。
「…………」
ああ、と答えたつもりだった。が、声にはならない。ただ無愛想にドアを開けるだけの結果となった。
開扉と同時にルームランプがつく。四角く狭い空間に、まず、女の頭が入ってきた。髪を染めている。いや、脱色しているのか。いずれにせよ女の髪はモンブラン・ケーキのような色である。
(はん、不良少女かね)
いささか敵愾心《てきがいしん》のあることばを選択することで、彼は瞬時に抱いた彼女への親しみの情を自分で認めた。
モンブラン・ケーキのような髪の色をしていても、彼女には清楚《せいそ》さがただよっていたのだ。
車に乗り込むときの動作にしなやかなものがまるでなかった。
しなやかな女は尻からシートにすわり、車内に入ってくる。そしてウエストを回転させ、ゆったりとこしかける。
この女はただ単純に車に乗り込んできたし膝《ひざ》をそろえてちょこんとシートにこしかけている。
(しなやかな媚態《びたい》を示すやり方を学んでいない女だ。この先も学ぶことがないだろう)
そういう女が、彼にとって清楚な女だった。
「渋谷まで」
蚊《か》の鳴くような声で女は言った。
「渋谷? 渋谷駅かい」
女は声を出さず、うなずいた。
住宅街から幹線道路へ出る。渋滞していた。信号のたびにブレーキを踏まねばならなかった。
ふと彼は、フロント・ミラーに映る客を見た。
ミラーの中には彼女の顎《あご》と首と胸から胴にかけてが在った。
(妙な洋服を着てやがる)
二色づかいのワンピースだ。白と薄茶色。白い部分はタートル・ネックで、タートル・ネックがそのままサロペットのように胸部を覆う塩梅《あんばい》につづいている。それから途中で薄茶色の生地へと切り替わって、薄茶色の生地がウエストからスカート部へとつづいている。半袖《はんそで》の部分も薄茶色。袖の折り返しの部分は白。サロペットのようになった部分に左右ひとつずつのボタン。ボタンは薄茶色でベルトは黒である。
(見たこともないデザインだ。あつらえ物だろうか)
彼は以前、洋服を取り扱う会社に勤めていた。
若いころのことだ。とても若いころのことだ。若さのきらめきは振り向いたときには残酷だ。振り向いたときにまざまざと自分がどれだけ若い時間を浪費したかを知らされる。
(もっとも、浪費するのが若さなんだがね)
信号待ち。彼はまたミラーの中の客を見やった。
(こんなふうに髪を染めて浪費するもんさ、若さは)
彼が思ったとき、客が片足を少しシートに上げるのがミラーに映った。ずれた靴下を上げなおしている。
(なんだ)
なにか丸みのある明るさがぽっと心の中に灯《とも》るのを、彼は感じた。客のはいている靴下。白い靴下。白いハイソックスなのだ。
(なんだ、まだ子供じゃないか。ほんの子供だ)
若いなどというものではない。客は、幼い少女にすぎないのだ。彼の娘と同じ年くらいではないだろうか。彼の娘もまた、ハイソックスが好きだった。
「お客さん、年はいくつです?」
「十一歳」
消え入りそうな声で少女は答えた。
「十一? すると小学校五年生?」
「はい」
声はもう消え入ってしまっている。ただうなずくのだけがミラーに映った。
(夜中に小学校五年の子供が一人でタクシーに乗るとは、どうしたもんだろう)
話しかけようとして、彼はしばらくことばを選んでいた。と、少女は突然、泣きはじめた。声をあげて泣きじゃくりはじめたのだ。
驚いたが、いかんせん、運転中だ。彼は黙ってハンドルをきった。まったくこんなときにかぎって信号は青、青。おまけに急な割り込みをしてきやがる車がいる。
渋谷駅に着いた。着いても少女は泣いている。
「どうしたの?」
やっと彼は少女のほうを振り向いて訊《き》いた。だが、客は泣くばかりである。彼は黙っていた。何か言ったほうがいいとは思うのだが適切なことばが何も浮かんでこない。それほど可憐《かれん》な泣き声だった。
「ごめんなさい」
少女はうつむいたまま言い、車を出してくれと言った。
「でも、渋谷駅だよ」
「変えます……最初は渋谷に行かなくてはならなかったの……渋谷に行けと言われていたから……」
泣きながら話すために要領をえない。
「田園調布に……」
とにかく行き先が田園調布になったようだ。
「田園調布ね」
彼はアクセルを踏み田園調布へと車を向けた。
「駅でいいの?」
「いいえ。田園調布のはずれの……」
住宅街からはずれた、やや辺鄙《へんぴ》な場所を、少女は泣きながら説明した。
「そこがわたしの家。家についたらお金を持ってきますから……それでいいでしょう?」
「ああ、いいよ」
きっと金を持っていないことに気づいて泣いていたんだろう、まだ子供なのだ、と、彼は思い、何も話しかけずただ運転した。
田園調布につくまでのあいだも少女はずっと泣いていた。
目を見張るような豪邸だった。
高級住宅街として名高い田園調布だが、ここまでの豪邸はそうお目にかかれるもんじゃない。三角屋根と重厚な柱。猿真似ではない本格的なチューダー様式の建築だ。
「こりゃすごいね」
思わず彼は口に出した。
「こんな家に三日でいいから住んでみたいもんだ」
ようように泣きやんだ少女にほほえむと、
「寄ってお茶、飲んでいってください」
と、彼女は言った。その言い方には独特のものがあった。まるで愛想がない。せっぱつまって、彼に家に立ち寄ることを懇願しているような言い方だった。
「どうか寄っていってください」
「…………」
「どうか」
「両親に言い訳しなくてはならないヘマでもしでかしたのかい?」
親しい口ぶりを作ってみた。財布を落としたとか、そんなふうなことだろうと彼は思い、それならちょいとついて行ってやったほうがいいかな、と、少女といっしょに豪邸に入った。
「どうぞ、おかけになってください」
ふかふかのソファをすすめられ、彼はとにかく腰かけた。
「外観もすごいが内部はもっとすごいね、こりゃ」
マホガニー製の家具やペルシア絨毯《じゆうたん》を敷いた床を見渡してから、彼は少女の顔を見た。
「あれ」
シャンデリアに灯《ひ》がともされた今、はじめて彼は彼女の片方の頬《ほお》が腫《は》れていることに気づいた。
「どうしたんだい、そのほっぺた」
「……い、いえ、なんでも……たいしたことはないんです」
「早く親御さんに見せたほうがいい」
「両親はいないの」
「え?」
「両親は遠い所にいるんです。この家にはいないの。だから気にしなくてもいいのよ」
「海外赴任ってやつか。かわいそうにさびしいだろうな、こんな広い家に一人暮らしじゃ」
「義理の弟といっしょよ。もう寝てるわ。気にしなくてもいいの」
「ふうん」
「まだ五歳だし、ほんとに気にしなくてもいいの」
「ふうん」
「メイドさんや住み込みの家庭教師もいないの。気にしなくていいのよ」
彼女はしきりに「気にしなくてもいい」「気にしなくてもいい」と繰り返した。
「ビールにします? それともウイスキー?」
応接間の隅っこに設けられたホーム・バーで酒の準備をしようとする。
「おいおい、俺はタクシー・ドライバーなんだぜ。アルコールはご法度だ」
「あら、いいじゃないの。酔いが覚めてからお帰りになればいいわ。どうぞ、ゆっくりなさっていって。なんなら泊まってってくださってもいいのよ」
「泊まる?」
どうも話が妙だ、と彼は思った。夜にタクシーに乗り、こんな豪邸に五歳のガキと二人だけで住んでいる小学五年生。この子はいったいどういう子なのだろう。
「気にしなくてもいいの。わたし、そんなに高くないのよ。親方《ボス》みたいな高い料金は言わないから……」
「高い料金?」
彼は煙草をとりだした。
「なるほど、ね」
これでわかった。この子は少女売春をしているのだ。いや、させられているのか。
「なるほど……」
彼はぼんやりとくりかえし、煙草を吸った。
「ほっぺたは親方がなぐったんだね」
「今夜は渋谷駅に行くように、って親方から言われていたの。駅で男の人を待たせてあるからって。けれど、今夜はお休みしたかったの。だってピリオドだったから……」
月一回のピリオドだと少女は言った。ハイソックスをはいたあどけない小学生にも容赦なく女であることの負担は訪れるのだ。
「お休みしたい、って言ったらいきなりなぐられたの。このお家にタダで住まわせてやってる恩を忘れたのか、って」
親方は青山と田園調布に家を持つ実業家だという。少女のおぼつかなげな小間切れの話から推察するところ、戦後、闇《やみ》金融で儲《もう》けた金を元手に実態不明の会社を経営している奴《やつ》らしい。
「しかたなく渋谷へ向かったのだけれど、渋谷で待っている男の人がわたしは嫌いだった」
客のことをあらかじめ知っているところをみると、少女の親方は会員制をうたい文句に売春業を営んでいるのだろう。
「あんな人の相手をするのはいや。おじさんならやさしそうだから」
泣きだした彼女に「どうしたの?」と尋ねた声がやさしそうだったのだと言った。
「ピリオドだから本番はできないけれど、わたし、一生懸命サービスします。だから泊まっていってください」
今夜の金を親方に渡せば殴られないはずだから、と少女はビールをグラスに注いだ。
「泊まっていくよ」
しばらく考えたのちに、彼はビールを飲んだ。
「名前を聞いてなかったね」
「わたし? サリー」
おそらく本名だろう。彼女のモンブラン・ケーキ色の髪の毛。染めたわけではないのだ。そういう色の髪の毛の持ち主が大勢いる国の少女なのだ。
「サリーちゃんか……。いい名前だね。むかしのっぽのサリー≠チて歌があった」
彼がそう言うと、はじめてサリーはほほえんだ。
「わたしはぜんぜんのっぽじゃないです」
「まだまだ伸びるさ。十一歳じゃ」
「ううん。わたしの国の女の子、だいたい小柄です」
そんな小柄な少女たちが貧しさゆえにいったいどれだけ日本の男に春を売っているだろう。かつては日本の少女たちが外国の男に春を売っていた。YENはいつのまにか武器となった。
「お風呂に入りますか? ベッドルームは二階です。お風呂は一階です」
「いいよ」
「それじゃ、すぐにはじめますか」
サリーは服を脱ごうとした。
「いいよ、脱がなくても」
「脱がずにするのが好きですか?」
サリーの手が彼のズボンのファスナーに触れかかった。
「いいよ、何もしなくても」
「……でも」
「いいんだよ。泊まっていくだけさ。ちゃんと金は払うよ。サリーは二階で休んでればいい。明け方になったら帰るから」
「……でも」
サリーは申しわけなさそうな顔をした。
「それでは、二階でいっしょに寝ましょうか」
「いや。いい。眠れないんだ、俺は」
「……じゃあ、お話をしましょうか」
サリーがあまり申しわけなさそうな顔をするので彼は、
「じゃあ、俺はこのソファに横になるから、あっちの――」
テーブルをへだてて平行に並ぶもうひとつのソファを指し、
「あっちのソファにサリーは横になるといいよ」
と、さきに自分がソファに横になった。
「おじさんはやさしい人です。奥さんは幸せね」
サリーはクッションを、ぬいぐるみを抱き抱えるように抱いて、言った。
「カミさんはもういないよ。五年前に死んだんだ。女の子一人と男の子三人を残してね。下の男の子が難産でね。産後の肥だちが悪かったのか……」
「ごめんなさい。悲しいことを訊《き》いてしまいました」
「そんなことを謝らなくていいんだよ。サリーから訊かれなくったって、俺はよくカミさんのことを思い出すんだ。なにせ子供がカミさんそっくりだからね。里芋《さといも》ってわかるかい?」
「煮っころがしにするサトイモ?」
「そうそ。頭のかたちがさ、里芋に似てて、目が大きくて愛嬌《あいきよう》があった。いいカカアだったよ」
「あら、それじゃ、おじさんと亡くなった奥さんも似てたのね」
「ああ、そういや、恋人時代はよく言われたな。似た者カップルだって」
彼の胸に若かったきらめきの時間がなつかしくよみがえる。
「洋服をデザインしたり縫ったりする会社に勤めてたんだよ、そのころ。デザイナーを目指してたんだ、これでも。カミさんは同じ会社の事務をしてた」
「そのときおじさんは何歳?」
「俺? 俺は二十一。カミさんは二十歳だ。明るい気取らない娘だった」
昼休みにはよく屋上でバレーボールをしたものだ。彼の耳を若い歓声がよぎる。
ヨッチ。
ほら、いくわよ。
ヨッチ、受けて。
ヨッチ。
ヨッチ。
「みんなから、ヨッチ、って呼ばれてたんだ。良江、っていう名前だったからね」
絹のようにつややかな、まっすぐな黒髪が良江の性格を表していた。いつもはきりりと三つ編みにして、なよなよと媚《こび》を売るところのない清楚《せいそ》な、そう、実に清楚な娘だった。
「車に乗るときはいつも頭から先に乗ったよ」
「え? どういうこと?」
「なんでもないさ、さあ、サリーはもう眠るといい」
「おじさんは寝ないの?」
「言ったろ、俺は眠れないんだよ。こうして横になってれば体は休まるから、俺のことは気にしないでいいさ」
「……じゃあ」
サリーは手を組み、お祈りをした。お祈りのことばが彼の耳に聞こえた。彼女の国のことばなのだろう。なんと言っているのか彼にはわからない。たぶん、天にまします我等の父よ、今日も無事一日を過ごせたことを感謝いたします。そんなところか。
彼は少し笑って、目蓋《まぶた》を閉じた。閉じた目蓋の裏は暗くはない。あのころの日差しがさんさんと照っていた。
「1970年の日差しだ……」
日本中が煮えていた。高度経済成長の花が開ききったとき。高い塔が大阪の空に建った。塔のてっぺんには顔があった。
はしゃいだ声が、また彼の耳にこだましはじめた。アナウンサーの声だ。
さあ、今日のお祭り広場は。
お祭り広場は。
ドイツの。
ドイツの民族舞踊です。
「お祭り広場、か。そんなのがあったな。大阪万博のイベントが毎晩、八時からNHKで中継されてた。万博を開催するということは日本人にとって重大な意味があったんだ、あのころは」
人ばっかりだ。どこもすごい行列だ。これじゃあ、月の石なんて見られやしない。
「ねえ、並ばなくてもいいパビリオンにしましょうよ」
良江の声がすぐ耳もとで聞こえた。女声にしては低く太く、ややかすれて、それでいて愛くるしい声。
「ヨッチ! どうしてここにいるんだ?」
彼は驚いて良江の顔をまじまじと見つめた。
「いやあねえ、何言ってるの。いっしょに大阪に来たんだからあたりまえじゃないの」
良江は意に介しもせず、首にかけたタオルで額を拭《ふ》いた。
「アメリカ館は無理よ。この行列じゃあ。月の石は『スタジオ102』できっとニュースにしてくれるわよ。それでじゅうぶん。ここで見たってどうせガラス越しでしょう。ブラウン管越しでも同じこと」
良江に袖を引かれ、彼は列を離れた。
「さっきの住友童話館でもう疲れてしまったわね。人ばっかりでなにを見せてくれたんだかちっともわからなかったわ」
三つ編みにした黒髪が太陽を受けてきらきらと光っている。化粧っ気のないぷりぷりとした若い頬《ほお》。彼は自分の頬を両手ではさんでみた。
「どうしたの?」
「い、いや、べつに……。俺の顔、どうなってる?」
「どうなってるって、いつもと同じよ。汗をかいてるけれど」
「…………」
彼は周辺を見渡した。人の並んでいない小さなパビリオンがある。ガボン館。
「あそこに入ろう」
歩きはじめた。
「ガボン館? どこにある国?」
「さあ。アフリカじゃないかな」
鏡を見てみたい。小さなパビリオンだからきっと鏡を使って広く見せる工夫をしているはずだ。
彼は良江とガボン館に入った。
「やっぱりアフリカの国だわ」
ディスプレイされた地図を指さして良江が言った。
「ああ」
「こんな国もあるのね。さぞ暑いんでしょうね。赤道のすぐそばよ」
椰子《やし》の木でこしらえた民家を模倣《もほう》したパビリオンにはこぢんまりとつつましく民芸品が飾ってある。
民族衣装を着た係員は男性である。入場者の少ないパビリオンにあってもの静かに二人の後方に佇《たたず》んでいた。
「ねえ、あの人、きっとガボンの超エリートなんだわ。サインしてもらいましょうよ」
良江はバッグからペンと手帳を出し、
「サイン、プリーズ」
無邪気に頼んだ。
係員はもの静かにほほえみ、良江の手帳にサインをするとパビリオンのスタンプを押した。
「サンキュー、サンキュー」
良江は何度も言った。
「よかったわ。ガボンってたぶん一生行く機会なんてないと思うもの。このサイン、大切にするわ」
「そうだね」
彼は良江を愛《いとお》しく思った。手帳のサインに見入る彼女のうなじ。揺れる三つ編み。後れ毛が汗でうなじにへばりついている。若い、無造作なうなじ。
「いつか外国旅行に行きたいわね。『アップダウンクイズ』に出てみようかしら。そしたらハワイに行けるかしら。でも、だめね。十問正解なんてできないわ。あがってしまうわね」
まだ海外旅行がおいそれとはできないころなのだ。彼は鏡を探していたことを思い出した。
パビリオンに鏡はなかった。彼はガラスに映った自分の姿を見ようとした。だが、よくわからない。
「ねえ、俺はいくつに見える?」
彼が訊《き》くと良江はころころと笑った。
「いやだわ。どういう意味? 四十歳にでも見えてほしいの? それとも十歳に見えてほしいの?」
「…………」
「二十一歳のピエール・カルダンに見えるわ」
「二十一。俺は二十一なのか」
彼は顔を手でなで、その肌のはりの感触をたしかめた。
「なにをあたりまえなことを言ってるの。ねえ、そろそろ別のパビリオンに行ってみましょうよ」
「あ、ああ……」
ガボン館を出た。
「何もなかったけど、なんだか楽しかったわ」
「そうだね。サインももらえてよかったね」
「次はどこにしましょう」
「あそこは何かな?」
前方に五重の塔のようなものが見える。
「あれはね、えーと」
良江はガイドマップでパビリオンを調べた。
「あれはね、古川パビリオンですって。きれいな建物ね」
「あっちの建物も大きな宝石みたいできれいだよ」
「ああ、あれね。あれは、えーっと……みどり館っていうやつじゃないかしら。なにかしら、みどり館って」
「さあ。まるで見当つかないけど」
「わからないからかえっておもしろいわ。みどり館にしない?」
「いいよ。ヨッチの好きなとこが俺の好きなとこだから」
みどり館なるパビリオンは巨大なスクリーン数面で構成されていた。数面が見る者をかこみ立体感のある映像が迫ってくる。
SL機関車が向こうからやってくる。臨場感がもりあがり、まるで線路に立っているようだ。
「きゃあ、轢《ひ》かれそう」
すごい、すごい、と良江ははしゃいだ。はしゃいで彼の腕に抱きついた。彼は良江の手を握った。
「おもしろかったわあ。入ってよかったわね、みどり館」
「うん」
「次はどこにしましょうか」
「そうだなあ」
もう夕暮れである。良江の髪がオレンジ色に反射している。
「ちょっと休まないか?」
彼はベンチを指さした。
「そうね。座って考えましょう」
風変わりなかたちをした椅子《いす》にこしかけた。1970年に「未来の椅子」と考えられたようなかたちをしていた。
「ヨッチ、鏡を持ってないかい?」
彼は自分の顔を見ようとした。
「鏡? どうして」
「ちょっと目にゴミがはいったようなんだ」
「鏡は持ってないわ。どっちの目? 右? 左?」
良江が顔をのぞきこむ。溌剌《はつらつ》とした香りが彼の鼻孔に充満し、それが若さの香りなのかそれとも1970年という燃える時代の匂《にお》いなのか、彼はしばし迷う。
「あ、ああ、もう平気だよ。気のせいだったみたい」
「よかった」
心から安心した表情を良江は見せた。やさしい表情だった。
「ヨッチ、結婚しようよ」
「えっ」
良江の大きな目がさらに大きく見開いた。
「結婚しよう。ヨッチのこと好きだったし、結婚したらもっと好きになる。ずっとずっと愛していく」
見開いた瞳《ひとみ》から涙がひとすじ流れた。それから顔をくしゃくしゃにして良江は泣き笑いした。第三者から見たら滑稽《こつけい》な顔だったかもしれない。しかし、彼にとって最高に愛しく美しい表情だった。
「結婚しよう。高い指輪は買ってあげられないけど」
彼はもう一度言い、良江はうなずいた。
「指輪なんかいらない。指輪なんか……。二人でずっとつつましく暮らしていけたら、それが最高の指輪。月の石よ」
良江は鼻をぐずつかせ、ハンカチで洟《はな》をかんだ。しなやかな媚態《びたい》を示し得ない彼女のそんなところを嘲《あざわら》う同僚もいたが、彼は彼女のそんなところこそを愛していた。その清楚さを、その清新な精神を愛していた。
「わたしがおばさんになっても、おばあさんになっても、あなたはずっと王子様」
良江はまた洟をかんだ。彼は笑って彼女にティッシュを渡した。幸せだった。
今日の。
今日のお祭り広場は。
今日のお祭り広場は。
「ガボンの踊りだといいね」
良江に言った自分の声が彼の目蓋《まぶた》を開かせた。
朝が来ていた。
「夢だったのか」
鮮やかな夢だったにもかかわらず、全身の筋肉がやわらかく安らいでいるのを感じた。
「よく寝た」
こんなにぐっすりと眠ったのは何日ぶりだろう。
「ほんとによく寝た」
彼は上体を起こし、気持ちのいい伸びをした。
サリーはまだ眠っていた。口をやや開け、頭の横に上げた、てのひらが丸まっている。
しばらく彼はサリーの寝顔を見ていたが、やがてソファを立った。ホーム・バーの冷蔵庫から勝手にオレンジジュースを取り出して飲む。
サリーが目をさました。
「やあ、起こしちまったね。ごめん」
「いいの……。わたしにもジュースを取って」
「ああ」
サリーにジュースを渡し、窓のカーテンを開ける。朝日が応接室をプラチナ色に照らした。
朝日の中で見る応接室は、たしかに昨夜のままに豪華ではあったが、手入れされぬままに古びているのが目立った。
サリーには言わなかったが、彼は心の中で、彼の小さな借家の茶の間のほうがはるかにきれいだと思った。
(よく掃除してくれるからな)
彼の娘は良江に似て働き者な質《たち》だった。まだ小学生だが家のなかのことをよく手伝ってくれる。
「夢を見たよ」
彼はサリーをふりかえって言った。
「どんな夢? いい夢?」
「ああ、いい夢だった。死んだカミさんの夢さ。俺《おれ》が万博の会場でカミさんにプロポーズする夢だった」
「バンパク?」
「昔、そんなのがあったんだよ」
「バンパクで奥さんにプロポーズしたの?」
「いいや。実際には会社の屋上だった。新婚旅行は大阪にしようかって話をしててね。結局、新婚旅行には行かなかったんだけどさ」
「どうしてです?」
「会社が急に傾いちまってね。結婚式のちょい前に倒産しちまったんだよ」
「それでタクシー・ドライバーになったの?」
「ま、そうだ。車用のアクセサリーやなんかを作る会社に転職してね、そうこうするうち自分の運転で歩合を上げるのも張り合いがあっていいなあ、って思ってさ」
彼はサリーの向かいにすわった。
「カミさんはいつも俺を励ましてくれたしね。しょっちゅうケンカしたけど、必ず仲直りした」
「じゃあ、ほんとに相性が合ったんですね」
「そうともさ。結婚するならそれが一番だよ。サリー」
三高なんて結婚の何のたしにもならない。そりゃあ、あるていどの金は必要だろう。金はあるにこしたこたない。だが、相性が悪けりゃ、金だって無駄に使うしか道はないのだ。空虚な浪費しかないのだ。
「それなのに、奥さん、死んじゃって、おじさん、悲しいね。夢がもっとつづけばよかったのにね」
「とんでもない。夢は夢さ。夢でカミさんと会えて楽しかった。夢からさめたら、ああ、あいつと結婚してほんとによかったなあ、って、またうれしかった。なぜって……」
「なぜって?」
「なぜって、カミさんと作ったつつましい我が家の良さがあらためてわかるし、これからもそれを基地にして、また今日からの人生を送っていけばいいんだな、って明るい気持ちになるから」
ジュースの残りを、彼は飲み干した。
「サリー、きみのパパとママはどこにいるんだい? フィリピン?」
「遠い国。空の上」
「そうか。空の上じゃあなあ……」
「義理の弟と二人で親方に日本に連れて来られました。親方、さいしょは日本の学校に入れてやる、って言ったの」
サリーの顔がくもった。
(この子もはやく王子様にめぐり会えるといいが)
自分がサリーの王子様になることはできない。
(みんなの王子様になれるのは、やっぱり夢の話なんだ)
しかし、男の数だけプリンセスがいるように女の数だけプリンスもいるんだぜ、サリー、と、彼はそう言いたかったが、現在のサリーに言えたのは、
「サリー、今日は親方のところには行かず、警察に行きな。警察に行って、それから大使館に行くんだ」
そんなことぐらいだった。
「警察? わたし、捕まります」
「サリーは十一だ。捕まらないよ。俺がついていってやるから。俺にできることはそれくらいしかないから」
大統領を狙撃《そげき》しそこねて親方を撃ってやるような王子様は、撃ってからが息切れしてしまってつづかないからな、と彼は思った。
「まず、警察と大使館に行ってからだ。それから先のことはまたそれから考えればいい。できることからやってくんだよ」
行こう、と、彼はサリーの腕をとった。
「弟さんを連れておいで。いっしょにタクシーに乗って警察へ行こう」
朝日にあふれる車内で彼は後部シートに話しかけた。
「カミさんとは仲が良すぎたせいなのかな、結婚して十年は子供ができなかったんだよ」
十年目にしてやっと長女が生まれた。
「カミさんの良江からとって良子って名前をつけた。サリーと同じ年なんだよ」
大喜びしたものだ。そして五年目に長男が。
「一度に三人さ。三つ子だったんだ。敦吉《とんきち》、鎮平《ちんぺい》、寛太《かんた》っていうんだよ」
彼が言うとサリーが笑うのがミラーの中に見えた。
「おじさん、親切にしてくれてありがとう」
「礼を言うのはこっちだよ。ずっと眠れなかったのに、あんなによく眠れたんだから」
「あれはね、わたしの国のおまじないをしたの。眠れないときに、よくママがしてくれた」
「そうかい。そのおまじないを教えてもらっとこうかな。また眠れないときに使うから」
「いいわよ。おぼえてね。マハリク・マハリタ・ヤンバラヤンヤンヤン、って三回唱えるの」
そうすれば愛と希望が飛び出すわ、とサリー・ドリームフィールド、十一歳は言った。
カルト・ガイド(魔法使いサリー)
『魔法使いサリー』は、さいしょ『魔法使いサニー』であった。車の会社からクレームが来て、サリーに変更したという。今ならタイアップで売るところだろうが、当時はなんらかの事情があったのだろう。
原作は横山光輝。現在は『水滸伝』『三国志』といった中国史漫画でヒットをとばし、かつては『鉄人28号』や『遊星少年パピイ』もヒットさせた横山光輝は『りぼん』に少女漫画も連載していたのである。
アニメ化にあたり絵柄がよりファンシーに変わり、いわゆるみんなが知っているサリーちゃんの顔になった。「かるた」ではないが「魔法使いサリーはながみ」というのが文房具店に売ってあった。ティッシュではない、あくまでも「はながみ」なそれは、自動的にシャツシャツと抜けない。細長いビニール袋に入って、白地にピンクのすかしもようで、サリーとカブが描かれたもの。いまだに私はこれを持っているが(ああ、このテのグッズのビデオを作りたい!)、絵柄はアニメの絵とはややことなる。
『魔法使いサリー』は、少女漫画にしては超めずらしくといっていいだろう。いじわるな女の子がひとりも出てこない。お金持ちのすみれちゃんもやさしくて可憐《かれん》だし、もちろんヨッちゃんもいい子である。
ぜんたいに、ほんとうに清純なかわいい漫画で、エロに強欲《ごうよく》な私が『魔法使いサリー』を見るときは、心洗われる気持ちでいたものだ。
ところで、私は兄弟姉妹を持たない。ひとりっこでも、親とずっといっしょにいた人は、
「べつに兄弟姉妹なんかほしくなかった」
と言うのだが、あずけられっ子→鍵っ子、と成長した私は、それはもう兄弟姉妹がほしかった。兄も姉も妹もほしかったが、とりわけ弟がほしかった。渇望《かつぼう》したといっていいくらいほしかった。今だってほしい。腹ちがいの弟が、どこかからか現れないか、本気で願っている。
よく女の子は、好きな男の子に告白するとき、
「お兄さんになってください」
というテを使うが、私は、
「弟になってください」
と、これは「テ」ではなくて、文字どおり心の底から願って言ってきた。言われた相手はたいてい笑って、
「ははは、いいよ」
と言うが、決して本当の弟にはなってくれない。弟を家来のようにこきつかう。これが私の、ゼイゼイ息が出るくらい渇望してやまぬ夢なのに(もちろん、ちゃんとかわいがりもする)。
だから、サリーちゃんがうらやましかった。魔法がいっぱい使えるうえに、カブという「理想的な弟ぶん」を所有しているではないか。カブはサリーの弟ではない。人間界に行くとき、魔王のパパが、
「こいつもいっしょに連れていきなさい」
と、おともさせたのである。実の弟ではなく、かつ、弟以外のなにものでもない存在。
「ああ、これなら私だって獲得できるのでは……!」
という、いちまつの現実味をおびた夢を、カブは私に見させた。
カブはかわいかった。
♪さびしがりやで、生意気で、憎らしいけど、好きなの♪
キャンディーズの歌をうたうとき、いつも私はカブを想う。「小悪魔」ということばがあって、一般にはコケティッシュな女の人の形容に使われるのだけれども、どうも、私は「小悪魔的魅力」というと、カブを思い出すのである。
悪魔ではないがお化けで、ドロンパというのもいた(『オバケのQ太郎』に出てくるアメリカのオバケ)。彼のことも、幼少よりたいへん好きであった。
♪いつでも喧嘩をしかける いじわるだけど 好きなの♪
キャンディーズの歌をうたうとき、彼のことも想う。カブのような弟を持ち、ドロンパのような恋人を持つ。これぞ、私の夢である。過去形ではなく、続行中。
[7]ケンちゃん雲に乗る
一 自慰式篇
ケンちゃん。
ケンちゃんの、姓は大月、名は賢治。だから、ケンちゃん。
さて、ケンちゃんは、美少年なのですが、自意識が強いのでした。
自意識とは何ぞや、と申しますと、長々説明するひとが、この世には多いのですけれど、短くしようと努力すればできることであって、かつまた、強引に短くしてしまったほうが、ものごとの真理を突ける場合が、えてして多いのが人生だったりします。
な、もので、自意識とは何ぞや、と申しますと「恥を知っている」ということですね。
「恥を知っている=自意識が強い」
これは、少し不幸なんです。渡世に不便、という点で。ただ、
「少し不幸」
って、なかなか快感でもあるので、自意識の強いひとは、おおむね「少し不幸」などといった恥知らずな表現をせずに、
「ちょっぴりブルーな、ワ・タ・シ」
という表現をして、自嘲《じちよう》の高笑いをして渡世してゆきます。「ちょっぴり」「ブルー」などということばが、まったく自分の容姿に似合っていないことをよく知っているからであって、すなわち、これが自意識が強いということです。
しかし、自意識の強い美少年の場合、とても不幸です。
本人は「ちょっぴり」とか「ブルー」とか「レモンのような涙」とか「白いささやき」「ガラスをつたう雨だれ」とかいった、ペンションの落書きノート語群的ことばは似合っていないと思っているのに、周囲は、
「きっとほんとうのあなたは、そんなふうにやさしいひとのはずよ」
と、うっとりするからです。
本人は「青い月夜」とか「狂ったイチヂク」とか「病んだ猫」とか「知っている? 桜の木の下には死体が埋まっているんだよ!」「ぶーん、ぶーん、ぶーん。ほら、虫が今宵《こよい》もあなたを犯す」とかいった、もう耳にタコができるほど聞き飽きた小劇場的セリフが似合っていないと思っているのに、周囲は、
「よく似合うわあ」
と、うっとりするからです。
本人は、尋常小学校の制服や、ギムナジウムの制服や、アテナイの市民の服やなんかについては、
「げーっ、陳腐〜。ぜったい着たくねえ」
と、思っているのに、周囲は着せたがるのです。
薩摩切子《さつまきりこ》のランプや、真鍮《しんちゆう》のベッドや、満月の夜空を走る汽車、エリック・サティの音楽について、本人は、
「げーっ、かったるい。ぜったいそばに寄りたくねえ」
と、思っているのに、周囲は、彼の背景にこうした小物を配置したがるのです。
そして、真っ黒な服でキメたおかっぱ女、顔を白塗りにしたセーラー服女、籐《とう》のトランクにチェックのフレアースカアト女、長い髪をふるわせて咳《せき》をするサナトリウム女、こうした女について、
「げーっ、俺、ぜったいダメなタイプ」
と、本人は思っているのに、周囲は、彼にはこの四タイプから一人選んで恋におちてもらいたいものだと願うのです。
ケンちゃんは、そういうわけで、少し不幸に暮らしておりました。
「俺としてはァ、007に出てくるボンド・ガールみたいなァ、ボインでチョーハツ的で、でも、性格はかわいい女の子とォ、激しい恋をしてェ、ナニをアレしてソコへナニしてアレしてみたいんだけどなァ」
ある晴れた日曜日。白い雲に向かってケンちゃんはつぶやきました。
本当は、彼のこの願望は、さして強いものでもないのですが、
「いっそスノッブをきわめ、通俗で大衆であること」
を、潔しとしているところの、ひじょうに自意識の強い美少年でしたので、こんなふうにつぶやいてみたのでした。
ケンちゃんは中野区に住んでいて、今、雲を見ている部屋は二階の六畳間です。窓を開けているせいでしょう、一階の茶の間からは父母が見ているTVの音がよく聞こえてきます。
NHKの『のど自慢』。日曜日の正午なのでした。
ケンちゃんは両手を口に当て、それから深呼吸をし、それから窓を乱暴に閉めました。彼は『のど自慢』のオープニング曲が大嫌いなのです。吐き気がするのでした。
部屋の襖《ふすま》にバットでつっかえをし、バットをはずし、レポート用紙に文字を書きなぐって部屋の前に置き、いまいちど、バットを襖のつっかえにしました。
「昼めしはいらないから」
レポート用紙に書いたことはこれです。ケンちゃんは、『のど自慢』を見ながら家族と昼食をとる、という行為を恐れています。父のことを嫌いではありませんでした。母のことを嫌いではありませんでした。たぶん、決して嫌ってはいないのだと思います。父と母は自分のことをこよなく愛していてくれることを感謝していました。
けれども、家族はケンちゃんにとって、なにか××××なものなのでした。××××の部分に、いかなる形容詞が入るべきなのか、ケンちゃん自身にもわかりません。
とにかく、家族、家族との食事、家庭の匂《にお》い、日曜日の昼食のパンとハムとキュウリとトマトとネスカフェのコーヒーの味、そしてNHK『のど自慢』は、
結果として、
彼に、吐き気をもよおさせるもの、
なのです。
「おいおいおいと泣ければいいな。おいおいおいと泣ければいいのに」
ケンちゃんは、押入れの中で体育座りをして、思いました。涙を流すことの快感を求めました。けれども、彼の目からはすこしも涙は出てくれず、尻《しり》から屁《へ》が出ました。その滑稽な自分の姿に、彼は、わずかではありましたが、自虐的な涙をほんの一滴、まぶたににじませることができました。つまり、自意識が強いとは、こういう不幸であり、自意識の強い美少年は不幸を割増して背負わなくてはならないわけです。
「俺はボンド・ガールが好きなのだ。アン・マーグレットが好きなのだ」
ケンちゃんは体育座りをしたまま、必死で唱えます。アメリカの雑誌にアン・マーグレットについての記事があって、
『戦場の兵士たちに送られたピンナップはアン・マーグレットだった。なぜなら、オードリー・ヘプバーンでは兵士たちの闘争心は決してかきたてられはしないのである』
こう書かれており、それはケンちゃんに、ものすごく哲学的ななにかを啓示したのでした。記事の横に載っていたアン・マーグレットのビキニ姿の写真とともに。
「俺はボンド・ガールとヤりたい。アン・マーグレットのような女をヤってやりたい」
ケンちゃんは唱えます。もはや念仏の域の気配で。
型より入り、後から内容が追ってくる≠ニいうことは、わりに可能なことであって、念仏を唱えているうちに、彼は本当にアン・マーグレットとヤりたくなりました。
アン・マーグレットは昔の女優さんなのでケンちゃんは彼女の映画を見たことがありません。輸入雑誌の記事の横に載っていた彼女の数枚の写真でのみ認識しているだけです。007映画には出たことはないけど、007映画に出ているかんじのする、スウェーデン産ハリウッド製造のこの女優は、白い肌に白いビキニがよく似合うひとで、マックスファクターで濃いアイメイクをして目をキツくさせているものの、よく見ると、おきゃんな目元。それでいて、あくまでも唇は肉感的。
「俺の好みにぴったりだ」
ケンちゃんは信じるのでした。下腹部に手をあてがうのでした。擦《こす》るのでした。ときどき締《し》めるのでした。指のはらで亀裂をくすぐるのでした。擦るのでした。擦るスピードを徐々にアップさせるのでした。さいごはティッシュで拭《ぬぐ》うのでした。
「恥ずかしい……」
自意識が強いので、ケンちゃんは頬《ほお》を染めました。
押入れの中でオナニーするというセコさとしみったれさが、彼を恥ずかしくさせました。そのくせ、今、押入れをガラっと開けられてアン・マーグレットが、もとい、アン・マーグレットを日本人にしたような女が、自分を見つめ、
「ふふふ、なにしてたの?」
と、意地悪そうに、愉《たの》しそうに、でも妖しく質問してくれる光景が頭に浮かび、ふたたび下腹部に手をあてがいたくなりましたが、
「いや、今日はもうやめておこう」
ちゃんと律するケンちゃんです。
押入れから出て、彼は白い雲につぶやきました。
「ぼくはきわめてフツーの人間である」
彼が雲に敬礼するのを、雲のすきまからタイミングよくご覧になった方がありました。雷神、つまりカミナリさまです。お天気がよいのでカミナリさまは本日休業、雲の中で昼寝をしていたのですが、寝返った際に、たまたま、ケンちゃんが折り目正しく敬礼するのが目に入ったのです。
「いまどき感心な若者。彼には素敵な旅を与えてやろうぞ」
カミナリさまは、ご自分のできる範囲での贈り物を思いつかれまして、かくしてケンちゃんは日曜日、押入れの中でオナニーしたのが運のつき、素敵な冒険旅行に出かけるハメになってしまうわけです。人生ってえてしてこんなものなのですね。
ちなみに、海の神はポセイドン、愛の神はアフロディーテ、酒の神はバッカスといい、雷神はタカギブーといいます。
二 セックス・アピール篇
さて、ケンちゃんは旅に出ることになりました。
旅に必要なもの。ハブラシ、タオル、石鹸《せつけん》、着替え、常備薬。傘《かさ》に寝袋、コンドーム、根岸の里の侘住《わびず》まい。
あまりにうまく七、五調で支度《したく》できたものですから、つい、最後に「根岸の里の侘住まい」と付け足したくなりました。
「旅に出るって、おまえ……」
出発の朝、ケンちゃんのおかあさんは玄関で眉間《みけん》に皺《しわ》をよせます。
「いきなり旅に出るなんて、困るじゃないの」
ケンちゃんのTシャツの袖《そで》をひっぱるおかあさん。おとうさんは、聞いているのかいないのか、新聞をひろげているその背中が玄関から見えます。
「いつだって、旅だちはいきなり≠ネものなんだよ。燕《つばめ》もつぐみも、ある日、急に飛べるようになる。でも、ほんとはいきなり≠ネんじゃない。飛べるようになっておくれと親鳥はエサを運んでいたはずなのに、運んでいるうちに何のために運んでいたのか忘れてしまうんでいきなり≠セと思うだけなんだよ。巣を飛び立つということは結局そういうことなんだ、わかるだろ」
ケンちゃんは、故意に棒読みのように言いました。こんな恥ずかしいセリフ、棒読みにしなくては言えませんのでした。ケンちゃんはおかあさんがすかさず「そんなこといったっておまえ……」とおろおろするものと予想しておりましたが、
「わかる」
おかあさんは即答したので、ちょっと拍子抜けしました。
「道中の金はどうするんだ? わしは、ビタ一文出さんぞ」
新聞を広げ背を向けたまま、おとうさん。
「セールスマンをしますから」
往友《おうとも》生命の満期日利息分配金付保険パヤパヤ≠フ勧誘員をしつつ旅をすることになっておりました。
これにはけっこう迷いました。
「何をセールスすべきか?」
まず、考えたのは、もちろん「片方だけの靴のセールス」、おお、耽美《たんび》。それから「そこにはいない小人」、おお、耽美。それから「福耳の子供」、おお、耽美。それから「ぼうふら」、おお、耽美。それからそれから「詩を食べる猫」に「血を吸う便箋《びんせん》」「夜の鉄道時刻表」、おお、おお耽美ですことお耽美ですこと、恥ずかしいですこと。
自意識の強いケンちゃんは思いついてしまった自分に真っ赤になり、その反動で「しびれフグ」「南極Z号」「東京ソープ街マップ」などをセールスすることを、思いついてもみましたが、それとて、裏を返せば恥を隠す手段。
ここはいっちょう平常心、フツーの心で保険勧誘員を選んでこそ、恥を知った自意識の高い美少年の生き方であると思ったわけです。ふつう。これに勝る強さがあるでしょうか。
こうして、ケンちゃんは、そのへんにあった鞄《かばん》ひとつに旅のものを詰め込んで、雲に乗って旅に出かけました。
雲はそんなに大きくはありません。ざぶとんほどもありません。雷神タカギブーが贈ってくれた、その切れ端は、足のかたちをしていて厚さが2・5センチ。ちょうど、ドクター・ショールの靴の中敷きの塩梅《あんばい》に靴の中に入れておけば、すいすいすいすい、すいすいと、あらあら不思議、あら不思議、日本全国どこへでも、疲れ知らずの魚の目知らず、あたかも車でドライブするように旅できるシロモノ。これさえあれば、ケンちゃんだって、来年の二十四時間テレビで大阪――東京をマラソンすることも楽勝なグッズなのでした。ケンちゃんは走りました。妹の結婚式があったわけでもないのに(注・『走れメロス』参照)、旅立ちのうれしさにただただ走り、走って着いた先は、東京都大田区田園調布。
ピンポーン。
蔦《つた》のからまる白亜の洋館。インタフォンの前で緊張するケンちゃん。
「どちらさまでしょうか」
やや、舌たらずな、ややかすれたソプラノのこの声はメイドさんにちがいない。
「あ、あの……お宅でしょ。お宅の門の、門柱にですね、一万円札がひっかかってるんですけどねえ……」
生命保険勧誘員の初歩講座。家の前に金が落ちていると声をかけてまずは家人と顔をあわせるべし。
「えっ、本当? 待ってて、今、行きます」
あわてるメイドの声。成功、成功、どきどきするケンちゃん。
ほどなく開くドア。
ドアから出てきたのは白い胸当て付きエプロンをしたメイドさん。年のころは、二十一か二か。目はぱっちりと鼻丸く、口はおちょぼに胸デカい。
「すみません、どこでしょう?」
女の子は門のところに立っているケンちゃんの前で問いました。
「は?」
「ですから、一万円札はどこでしょう?」
「あ、ああ……ほら、そこですよ」
ケンちゃんは、あらかじめ唾《つば》で門柱にくっつけておいた万札を指さしました。
「あらまあ、ほんとだわ。どうしてこんなところに一万円札が……」
メイドさんが門を開けましたので、すかさず、
「しかしまあ、これもなにかの御縁。ちょっとお話があるのですが」
と、ケンちゃんは彼女よりもはやく一万円札を掌中に。すみやかに、門内に。
「ここのドア、開けっ放しですとアブだの蜂《はち》だの虫が入りますよ」
と、あざやかに玄関内に。
「あの、あの、ちょっと……」
ケンちゃんを追いかけてメイドさんも玄関内に。
「いえ、お気づかいなく。ぼくはこういう者です」
往友生命の名刺を、ケンちゃんはメイドさんに渡しました。
「んまあ。こういうことだったのね。ひどい方。うちは生命保険はまにあってます。おひきとりください。でないと、あたしが奥様に叱《しか》られちゃう」
メイドさんは丸顔のほっぺをいっそう丸くしてふくれました。
「まあまあ、そうおっしゃらずに。ちょっとだけ。決して時間はとらせません。ウルトラマンが地球で闘える時間だけ、すなわちカップラーメンのできるまでの三分間、ぼくに時間をくださいよ」
上目づかいにメイドさんを見つめるケンちゃん。ケンちゃんの左目には、ある威力がありまして、いわゆるセックス・アピールというやつです。
「じゃ……じゃあ……三分間だけ……」
メイドさんは、ごくシンプルな神経構造の方でしたので、あっけなく彼の左目の威力にまいってしまいました。ま、こおゆうシンプルさこそが、彼が愛してやまないものなのではありますが。
「我が往友生命の新型保険パヤパヤ≠ヘ、どこが新型なのかと言いますと……」
ケンちゃんは、クライアントからの受け売り、マニュアルどおりの説明をメイドさんにいたしました。
いたしつつ、左目でじっと彼女を見つめつづけます。
ケンちゃんは知っていました。自分の左目にセックス・アピールがあることを。
いえ、セックス・アピールとは、ある日、不意に自分のどこかに存在していると気づくものではありません。
それは、作為的にこしらえ得るものなのです。
セックス・アピールとは何ぞや、と申しますと、長々説明するひとが、この世には多いのですけれども、短くしようと努力すればできることであって、かつまた、強引に短くしてしまったほうが、ものごとの真理を突ける場合が、えてして多いのが人生だったりします。
な、もので、セックス・アピールとは何ぞや、と申しますと「犯されたい」と相手に思わせることですね。
ではどうすれば、相手に「犯されたい」と思ってもらえるか。それは、
「犯したい」
という一念で、見つめればいいだけのことであります。ここでは自意識の高さは無用。それはいっさい忘れること。いいでしょうか。「犯したい」、この一念に尽きます。
「このパヤパヤ≠フもっともなる利点はですね、一年ごとに分配金を……」
ケンちゃんは説明しながら、眼前のメイドさんの腰つきがなよなよとおぼつかなくなっていくのを確認しておりました。
「きみ。名前はなんていうの?」
説明するのをストップして問うたとき、
「ふ・み・え」
彼女はかすれた声で答えました。
三 誘惑篇
「そう。ふみえ、ですか。可愛らしい名前ですね」
「あ、ありがとう……」
ふみえちゃんの声はますますかすれて、玄関マットにぺたんとお尻《しり》をおろしてしまいます。紺色のメイド服は、ミニのタイト・スカートになっておりまして、こおゆうふうにぺたんとお尻をおろしますと、むらりとフトモモが露《あらわ》になるデザイン。
(うわ!)
ケンちゃんはむらむらしました。むらむらするので、左目がよけいに、
(犯したい!)
という目つきになり、すると、ふみえちゃんのほうもよけいに、
「ああ、なんだかあたし……」
という態度になって下半身がなよなよするので、よけいにスカートがまくれあがって、よけいによけいにフトモモが露になってしまいます。
まあ、ふみえちゃんのほうも、むらりとフトモモを出してみせようとしてこのすわりかたをしたわけではないんです。
凡《およ》そ艶《つや》めいたハプニングというものは「無計画なところから生じる」という基礎的な法則の実証例にすぎません。
つまり、もしあなたが男の気をひきたいのなら、まずなすべきことは、
考えることをやめること、
です。
無計画、無防備、無思慮。この三無主義こそが異性をひきつけるフェロモンの素。フェロモンの出どころ。
よって、まず「男の子に好かれたいなあ」と考えることをやめることからスタートしなくてはなりません。
『ぼくたちの好きな髪型、嫌いな髪型』を特集したCanCamを読んだり、『男の子に好感を持たれるメイク』を特集したVIVIをあまり熱心に読まないようにしましょう。
『ぼくが彼女を本命だと思った理由』をアンケートしたMiLや『彼に他の女の影をかんじるとき』の悩み相談をしたSAYはいっさい読まないように。
男好きする女というのは、男に好かれようと思ってなどいないのです。なにも考えないのです。無計画、無防備、無思慮。これがあなたに神秘のヴェールを与えます。
神秘のヴェールに包まれた女を前にすると男は、
「この子はいったいなにを考えているのだろう。わかんないよ」
と、ふしぎに思います。ああでもない、こうでもないとふしぎがり、謎《なぞ》を解こうとします。謎は解けません。なぜなら、
なにも考えていない、
からです。
0×0=0。0×100=0。永遠の神秘の正体はコレなのです。いいですか、いいですね、何も考えないこと、これが、あなたを幸せなラブ・アフェアへと導きます。
ふみえちゃんは、ケンちゃんの左目のセックス・アピールにただ素直に感応しているだけでして、
「お玄関ではなんですから、どうぞ応接室へお上がりになって」
と、ケンちゃんの腕をとります。
「奥さまは、今、お留守なのです。さ、さ、どうぞ、お上がりになって」
お上がりになって≠フなって≠フ部分はもはやなってェン≠ニ鼻にかかってしまっております。
「そうですか、それではまいらせていただくといたしましょう」
雲の中敷きの入った靴を脱ぎ、ケンちゃんはふみえちゃんの後について応接室へ。
「お待ちになっててね。お飲み物を用意してきますわ」
「どうぞ、おかまいなく」
丸みを帯びた白く美しい前歯を見せたケンちゃんの笑顔。
昼さがりの陽光がさんさんと窓からふりそそぐ応接間でありまして、ソファはふかふか。もたれると沈んでしまいそうです。
「カルア・ミルクにいたしましたわ」
ドアをあけ、カクテルをワゴンに乗せてやってきたふみえちゃん。
「どひゃー!」
ケンちゃんはびっくりしました。
「あら、昼間っからカクテルだなんて、不謹慎だったかしら」
「い、いえ、カクテルはいいんですよ、カクテルは。ただ、そ、そのかっこうが……」
ふみえちゃんのかっこう。それは全裸に白い胸あて付きエプロンのみ。
「だって、今日はなんだかムシムシしません? 汗ばんできちゃって。お気になさらないで」
とお気になさらないで≠フ、なさらないで≠フ部分が、またまたなさらないでェン≠ニ、鼻にかかる。
「なさらないでェンったって、お気になさいますよ、そんな」
ソファでのけぞりそうになりながらも、視線は外そうとしないケンちゃん。
「どうぞ」
カルア・ミルクのグラスをケンちゃんの前に差し出すふみえちゃん。グラスをテーブルにさしだすということは、当然、お辞儀するような姿勢になるのですから、当然、胸の谷間がケンちゃんの視線の先に来る。
「ごくごくごく」
一気にカルア・ミルクを飲み干しました。
「まあ、イケるくちなのね。おいしいでしょあたしの作ったカルア・ミルク」
「おいしい。特盛りもう一杯おかわり」
「待っててェン」
ふみえちゃん、ピアノのわきにとめたワゴンまで歩くのですが、これがまたすごい。なにせ全裸にエプロンのみなわけですから後ろ姿がどのようなものか。
「パヤパヤ!」、
ケンちゃんは叫びました。
「あン、いやだ。往友生命新型保険パヤパヤ≠フお話はもうわかったわ。それよりもっとちがうお話をしましょ」
カルア・ミルクの特盛りを持ってケンちゃんの横にすわるふみえちゃん。
「あたしたち、もっとちがうお話をしなくちゃいけないと思わないン?」
ぐい、ぐい、ぐい、とムネをケンちゃんの腕にすりよせていく。
こんな挑発的なかっこうでそばに来られたのですから、ケンちゃんはもちろん劣情をもよおしました。ですが、
(これは――)
ケンちゃんは、
考えてしまったのです!
(――これは、誘っているのか、それともぼくがおろおろするのを見てからかっているのか。どっちなんだ)
ダメです。ここが彼のダメ人間なところです。冒頭で述べたでしょう。考えたら幸せなLOVEはやってこない。ダメ、ダメ、ダメ。考えたらダメなの。
そもそも、ケンちゃん、あなたは自分のほうからふみえちゃんを、犯したいと思ったはずだ。左目のセックス・アピールにものを言わせて、彼女を見たはずだ。それが、彼女が積極的になったとたん、自意識をむくむくと肥大させて考えてしまう。ダメ。ダメです。考えてはいけない。
「い、息がつまりそうと言いますと、で、では、ちがう話をしましょうか。ね。ふ、ふみえさん、ふみえさんのご両親はごきげんいかがですか」
バカモノ!
バカ、バカ。こおゆうときにぜったいもち出してはならない話題、それは家族と宗教と政治。
「元気よ。でも、おかあさんが先々週、脚を折って……。もう退院するんだけどね……」
グラスを置くふみえちゃんの表情が一気にシリアス。ほらね。こういうことになるでしょ。
「たいしたことなくて良かったですね」
「ええ。でも、これからだって、いつなんどき、病気や怪我《けが》にみまわれるかわからないのよね」
ふみえちゃんは、はっとして、ケンちゃんのわきに置かれた往友生命のパンフレットを取りました。
「ちょっと待ってて」
もう、待っててェン、ではありません。鼻にかかった声ではありません。
「入るわ、生命保険。もっとくわしく説明してくれない? 月々の掛け金はおいくら? あたしでも払える?」
紺色の服を着て応接室に戻ってきたふみえちゃんの手には印鑑《いんかん》が。
ほらね。こういうことになるでしょ。
男と女は、考えはじめたときから、不幸がはじまるんです。考えないこと。それが幸せなLOVEへのパスポート。
四 構造篇
「ふみえちゃん、どこ? どこにいて?」
玄関から声がいたしました。
「きゃあ、どうしましょ。奥さまだわ」
当館の御令室、泰子夫人の御帰宅なのです。
「勝手に生命保険のセールスマンを応接間に通したなんて知られたら、あたし、叱《しか》られてしまう」
どうしましょ、どうしましょ、と、おろおろするメイドのふみえちゃん。
「ど、どうしましょね。ど、どうしましょね」
ふみえちゃんといっしょになって、おろおろするケンちゃん。
「どこなのー? ふみえちゃーん。お二階?」
泰子夫人の声はハスキーでありながら甘ったるい。大人の落ちつきをたたえつつ、どこか少女っぽい。
「お玄関の鍵《かぎ》は開いているのに、へんねえ。返事して? どこなの」
どんどん応接間へと近づいてくる泰子夫人の声。きょろきょろするふみえちゃんとケンちゃん。
「隠れて。どこかへ隠れてちょうだい」
「隠れるったって、この部屋はクローゼットもないし、どこに隠れたら……」
「ここ。ここしかないわ」
ふみえちゃんはソファを指さしました。長いソファのほうではなくて、肘《ひじ》かけのついた小さいほうのソファです。
「ここに入って」
ソファのスプリング部分を取り外し、取り外したスプリングは長いソファの下へ。
「ここに入って。うずくまれば入れるでしょ」
ケンちゃんの腕をひっぱって、強制的なふみえちゃんです。
「わかりました」
ケンちゃんは言われたとおりにソファの、スプリングを取り去った空洞部分へうずくまろうとしましたが、
「ちょ、ちょっと待って。背広を着ていてはキツくて、うずくまるのは……」
「んもお、グズい人ねっ。さっさと脱いでよっ」
ふみえちゃんに、
「このグズ!」
と罵《ののし》られ、ケンちゃんはスゴスゴと背広を脱ぎ、
「この優柔不断男!」
と、罵られ、ネクタイを外し、
「さっさとお脱ぎ!」
と、罵られると、なぜか興奮してワイシャツまで脱いで、
「役たたず!」
と、罵られたあかつきには、パンツも脱いで靴下だけになってソファにうずくまりました。
ケンちゃんがうずくまった上にふみえちゃんはヴィロードのテーブル・クロスをふわっとかけ、クッションを置いて誤魔化《ごまか》します。彼女が背広とネクタイとワイシャツとパンツをくちゃくちゃにして、長いほうのソファの下へ足でけとばして突っ込んだとき、
「なんだ、ここだったの」
泰子夫人が応接間のドアを開けました。
「さっきからあんなに呼んでいるのに……。いたんだったらお返事して」
「すみません。お掃除していたらちょっと考えごとをしてしまって」
「まあ、考えごと。もの思う春ですものねー。春先のほこりっぽい季節、洗顔にはリバイタル・フレッシュ・ソープよ」
返事をしなかったメイドを何ら咎《とが》めるでもなく、彼女の言いわけをスナオに信じてしまう泰子夫人。なかなかかわいい。
(どんな人なんだろうな)
ソファの中でうずくまっているケンちゃんは興味が湧《わ》きました。そうっと頭を上げてヴィロードの布の隙間《すきま》から覗《のぞ》きます。
ぴったりとしたニットのミニのワンピース姿の泰子夫人は、アン・マーグレットにそっくり、にケンちゃんには見えた。
「もの思う春は、ものもらいが目にできやすいのよねー。そんなあなたには、目にやさしいインウイの微粒子アイシャドー」
アン・マーグレットに似ているうえに、ちょっと頭のネジがゆるいっぽいところもある。
(あらま)
ケンちゃんの心臓はどっきんと鳴りました。
(Just my type)
そう思い、また心臓がばっきんと鳴りました。つづいてすぐに、ずっきんと鳴りました。計三回の心臓の鐘。
(何だこりゃ!?)
『太陽に吠《ほ》えろ』の松田優作の殉死《じゆんし》のセリフがケンちゃんの口から出る。
どっきん。ばっきん。ずっきん。何だこりゃ!?
このワンセットが人間の行動に現れるとき、脳からは大量のドーパミンが出て、冷静な判断力を鈍らせ、膝《ひざ》の関節や手などに軽い痙攣《けいれん》に似た症状がおこっています。口内に渇きをおぼえ、胃が収縮し、頬《ほお》の皮膚が赤みを帯び、額に微熱があるような感覚がおこっています。
と、長々説明してゆくと正確をきすかもしれませんが、わけがわからなくなるので短くしましょう。強引に短くしてしまったほうがものごとの真理を突ける場合は多々あるのが人生というものなのです。
どっきん+ばっきん+ずっきん+何だこりゃ!?
行動心理学でいうこのワンセットは何か。一語で換言できます。
です。
恋は、あるとき突如として当人に認識されるのですけれども、実は恋には要因があるのです。この要因を当人はほとんど忘れているので、
♪恋は突然、やってくる♪
と、島倉千代子の歌の歌詞にもりこまれたりするのですが、実際には、突然ではない。要因の結果が恋である。ケンちゃんの場合ですと、要因はふみえちゃんです。全裸にエプロンだけといういでたちの彼女とケンちゃんは、先刻までかなりなところまで進んでいた。つまりウォーミングアップがほどこされていた。
自意識が低い人の場合、ウォーミングアップがほどこされると精神と肉体がほぼ歩調をあわせて「デキる」わけです。ところが、ケンちゃんは自意識の高い美少年ですから、歩調をあわせる前に、
考えてしまった、
でしょ? だから機を逸してしまった。そこへ登場したのが泰子夫人。泰子夫人が、ケンちゃんの好みからほど遠ければそんなことにはならないのですが、たまたま彼の趣味に合致していた。つまり、ふみえちゃんという触媒により泰子夫人と恋におちると。
ついでですから、ここでもう一つ、定理を導き出しますと、
「恋愛、これすべて、タイミング」
です。理論上、どこにもミスはなくとも、タイミングなる非論理が作用しなくば、恋は決して生まれません。たとえ結婚は生まれても。
で、ケンちゃんは、どきどきしながら泰子夫人をソファから覗いておりました。
「ねえ、どうしてワゴンにカクテルの用意がしてあるの? 誰《だれ》かいらしたの?」
「そ、それはその……、奥様が、出がけに今日は出かけたくないな、こんな日はゆっくり家にいたいな≠ニおっしゃっていたのでもしかしたらお帰りになったとき、ゆっくりカクテルでもお召しあがりになるのではないかと思いまして」
ふみえちゃんの苦しい弁解。
「あら、そう。わたくし、そんなこと言ったかしら……。そういえば言ったわね。それで気をきかせてくれたのね」
泰子夫人のスナオな解釈。
「どうもありがとう」
とてもスナオ。
「どうぞ。カルア・ミルクです」
本当はケンちゃんに用意したカルア・ミルクの特盛りを、ふみえちゃんは泰子夫人に差し出しました。
泰子夫人はカクテル・グラスを持ってソファへお尻《しり》をおろしかけました。
「あっ、そこは」
「え、なに?」
「い、いえ……。あたし、お夕飯のしたくをしてきます」
三十六計、逃げるに如《し》かず。そそくさとふみえちゃんは応接間を出ていってしまいました。泰子夫人はCDをかけたらしい。ソニー・ロリンズだ。さあ、あせったのはケンちゃん。
(う、うひゃあ)
ケンちゃんの頸椎《けいつい》から背中にかけで、ずしん、と泰子夫人のヒップの重みが。だが、動いては隠れていることがバレる。ケンちゃんは必死で身体を硬くして、息もままならず。
サキソフォーンのせつないメロディにあわせてリズムをとる泰子夫人は、いっこうに気づかぬ様子。
(いや、もしかしたら、もしかしたら、本当はなにもかも知っているのかもしれない。知っていて、あえて、気づかぬふりして尻をゆすっているのかも)
だいたい、靴が玄関に脱ぎっぱなしではないか。靴だけですべてを察知した彼女は、わざと何にも知らないふりをしているのでは? ケンちゃんは思いました。
(どっちなんだろう)
どっちかわからない、その瀬戸際のすれすれの、
(このギリギリと精神を追いつめられる緊張感がたまらん)
背骨にのしかかる泰子夫人の肉の量感。蠢《うごめ》く肉の毬《まり》。布ごしにつたわる彼女の体温。
ケンちゃんはがけっぷちに立たされている心地でうずくまっております。
(う、うむむむむ……)
全裸に靴下だけというマヌケな恰好《かつこう》でソファの下にじっとちいさくなって人間椅子でいることを余儀なくされている自分。
(なんて情けないんだ、つらいんだ、みじめなんだ、許して、許して、なんとかして、ああもう、なんとか、あはっ)
これがマゾヒズムの快感ですね。苦痛でありながら快感。
人間はサカナ生活から進化して、種族増殖のための性の本能が退化しました。そんなもの、中世にはすでに風前のともしび。ベル・エポックを経て近代、第二次世界大戦後は性の愉快犯になりました。性のための性。
知能が進化している人ほどマゾヒズム度が高いと言われるのはこのためです。その人の欲望のうちマゾヒズム欲の占める割合はエンゲル係数では表しません。念のため。
五 解脱篇
で。
人間椅子になったケンちゃんは泰子夫人の熟《う》れた肉体や動きを背中に感じて、気持ちいいことは気持ちよかったのだが、さすがに姿勢が辛《つら》くなってきた。
(ええい、ままよ)
ソファの内部で咳《せき》をしました。
「うー、ごほんごほん」
「んっ」
泰子夫人のお尻が硬くなりました。
「ごほんごほん」
男はもういちど咳をしました。お尻がまた硬くなりました。
「わたくしの下に、だれがいらっしゃるの?」
うつむいて泰子夫人は言いました。
「わたくしの下にいらっしゃるのはだれ?」
「ぼくです」
「ぼくってだれ?」
泰子夫人が立ち上がると、ケンちゃんは童謡『おもちゃのチャチャチャ』のふりつけのように、両手を上げてソファから出ました。
「あなたはどなた?」
唇のはしっこに人差し指をちょこんとあてて夫人は質問する。
「ぼくですか。ぼくの姓は大月、名は賢治。だからケンちゃん」
ケンちゃんが名乗ると、
「はじめまして」
泰子夫人はお辞儀をしました。
「あなたはハダカに紳士用靴下だけの、まぬけなかっこうでいらっしゃるのね」
「おっと」
指摘されて灰皿で股間《こかん》を隠す。
「恋する者はいつもまぬけなものですから」
股間を隠せば、このセンのもの言いもできるというもの。ケンちゃんのつづけて言う。
「愛してる」
愛してる=Bこれは「アブラカタブラ」よりも「テクマクマヤコン」よりも「スーパーカリフラマジェスティックエキストラリドーシャス」よりも強力な呪文《じゆもん》。
「根岸の里の侘住《わびず》まい」よりも「それにつけても金のほしさよ」よりも、なによりも万能なことば。
愛してる=Bこれさえあれば必然性はいらない。必然性なんかクソくらえ。必然性までへの長ったらしい手続きは不要。愛してる=Aこれがそのまま必然性。なぜ自分が裸で人間|椅子《いす》になっていたか、なぜここにいるか、そんな説明は愛してる≠ニいう必然性の前に屈伏するのだ。
さいしょの出会いが人間椅子であろうと、さいしょの出会いが友達につきあって行ったスキーであろうと、さいしょの出会いがお城を抜け出してローマの噴水のほとりで眠りこんでいたところを起こされたのであろうと、さいしょの出会いがキャピュレット家の仮面舞踏会であろうと、さいしょの出会いがOMMGであろうと、
いったいそんなことになんの意味があるでしょうか?
そんなことにいったいなんの理由づけが必要でしょうか?
なぜ愛してる≠ニ思うのか? それは、そう思ったからです。
だったら、それだけを伝えればよいから、
「愛してる」
とケンちゃんは言ったのだ。
すると、たちどころに泰子夫人の頬《ほお》はより輝きを増し、瞳《ひとみ》はより潤《うる》み、よりより色香が増しました。
「きれいだ」
ケンちゃんのつづける。
たちどころに泰子夫人の心臓は早鐘を打ち、気分はやさしくなり、寛容になり、よりよりよりより美しさが増しました。
愛してる
好きだ
きれいだ
それが真実か否か、そんなことは何の問題でもない。真実か否か。そんなことはどうでもよい。真実か否かなど、神がお決めになる。愚かな民が決めようとするな。
愛してる∞好きだ∞きれいだ=Bかかる発言は呪文でありマナーである。マナーは行われたときに真実となる。愛してる≠ニ発言されれば、それは愛していることになるのだ。
げんに、愛している=Aきれいだ≠ニいう発言を受けた泰子夫人は、きれいになってうっとりしているではないか。見よ。
「愛してるわ」
泰子夫人も応じたではないか。
ケンちゃんに愛していると言われ、なるほど確かに自分は愛されている≠ニ彼女が納得したか否か、そんなことは何の問題でもない。納得するか否か。そんなことはどうでもよい。彼女はケンちゃんの騎士としてのマナーと覇気に感動したのだ。
「愛してる。いやらしいことしよう」
「ええ」
そこで、二人は性愛の喜びを深める行為をすることになりました。
性愛の喜びを深めるには、両者の、性愛における流派が一致していなくてはならない。
「ぼくはですね。人間椅子になって気持ちヨカったような流派ですから、能動的にいやらしいことをフロンティアしていくのには不向きです」
ケンちゃんは言いました。
「なるほど。あなたはサディストですね」
「え?」
「だってマゾヒストというのは、ただじーっとして気持ちヨイことをしてもらうだけで、サディストというのは、そのマゾヒストにご奉仕する存在です。Mはじーっとしてればいいかもしんないけど、Sの労働はたいへんです。ということは、サディストが実はマゾヒストで、マゾヒストが実はサディストなんだわ」
数学でいう虚数と実数です。
「わたくしはあなたより年長なのだから、わたくしが辛い役を分担してさしあげましょう」
泰子夫人の愛(=i)は複素数だった。二乗するとマイナス1になる。
「なんと、おやさしい。愛してる」
ふたりは性愛の流派も一致したので、充実したひとときを過ごすことができました。
「もう日が暮れる……」
事後、ケンちゃんは窓辺に立ちました。
「さよならを言うのはつらいけれど、ぼくらはいっしょにいることは許されない」
べつに別れる必要はないし、いっしょにいたってどこからも文句は出ないのですが、
「あなたに会えてよかった」
泰子夫人も涙を流します。そうしたほうがお互い「禁忌の愛をむさぼった」という陶酔感にひたれるからです。複素数ですから。
「この、胸がきゅーんとなるさびしさがたまりません」
「ぼくもこの、まぶたがじぃーんとなるせつなさがたまりません」
ふたりは見つめあい、ひしと抱き合い、
「ああ、いつまでもいつまでもこうしていたい」
「ぼくだって」
陶酔しました。
「忘れないわ、あなたの声、やさしいしぐさ手のぬくもり」
「忘れないよ、忘れないよ、そうさ、あなたの名前」
グッバイ・マイ・ラブ、とふたりは同時に言い、そしてケンちゃんは雲に乗って駆けてゆきました。
田園調布の坂をあがり、坂をくだり、公園を抜けると東横線が行く手を遮ったので、ケンちゃんは空にのぼりました。
沈む夕日に空赤く、赤い山ぎわ烏《からす》群れ、どこへ帰ろかセールスマン、重い鞄《かばん》に嘘《うそ》の夢、夢と知りせば罪軽く、雲、雲、雲の天上は、雷様の住むという。ごろごろごろの、ごろろろろ、マーラー聴いたかこの音を、やがてやがて雨がふる。
「ふうじんらいじんずびょうぶ」
風神雷神図屏風。つぶやくうちに、ケンちゃんはふわふわの雲の上でいつのまにやら眠ってしまいました。
「これこれ、若者」
「う、うーん」
「起きなさい。もう三ヶ月もたってしもうたぞよ」
ケンちゃんをゆすぶったのは雷神タカギブー。
「三ヶ月? 俺、そんなに寝てました?」
「そんなに? 三ヶ月などたった≠カゃとわしは思うがの。三ヶ月など月日の流れのうちにゃ入らんて。だが、地上の現代人はそうではないらしいの。ほら見なさい」
雲の隙間《すきま》を雷神は指さす。
ケンちゃんは腹|這《ば》いになってそこから地上を見ました。
あのお屋敷で、ふみえちゃんが自然食品の店の配達員と抱き合っている。
「あたし、はじめてあなたを見たときはイヤな人だな、って思ったの」
「俺《おれ》もそう思った。なんだよツンケンしやがってってね」
そう言いながらキスをするふたり。
「でも、イヤな人だけどなんか気になって」
「俺も、ツンケンしてるけど、なんか前に好きだった子に似てるな、とか思ってた」
そう言いながら服を脱ぎあうふたり。
「……あ」
「……ん……」
それから、
「なんか、こんなのはじめて。あたし、あなたのことなんかキライだったのに」
「泣くなよ、でもかわいいよ」
これくらいの会話しかなく服を着あうふたり。そしてふたりはつきあう≠ニいうのをおこなっている。
泰子夫人もいる。
泰子夫人は車に乗っている。車は横浜へと向いている。車は税理事務所の助手が運転してる。
「先生には今日のドライブのことなんて言ってきたの?」
「えー、うーんと、ちょっと友達といっしょにって。それだったら嘘ではないから」
「そうね」
「なんかへんですよね。こんなふうにしてるの」
「そうかな。そうかも」
ほほえみあう泰子夫人と税理事務所の助手。
「あ、あの三角の屋根の建物、おもしろいですね」
「どこ? あ、ほんとだ」
これくらいの会話が一時間つづいて、ふたりはホテルに入る。
「海が見えるんですね」
「横浜だから」
これくらいの会話しかしないふたりは、そうして抱き合い、つきあう≠ニいうのをおこなっている。
ケンちゃんが六年前に好きだった女の子もいる。
女の子は渋谷にいた。渋谷の輸入雑貨の店で、
「あー、この透明なリュック、かわいいと思わない?」
と笑っていた。ケンちゃんから数えて十六人目のつきあっている¢且閧ノ。
「…………」
ケンちゃんはしゃかしゃかと雲をかきあつめ、雲の隙間をふさぎました。
「カップルがあっちにも、こっちにも、あそこにもここにも……なんでみんなそんなにさっさと好きな人≠ェできるんだろう」
ケンちゃんは雷神の肩にぼんやりと手をかける。
「泰子夫人のこと、ぽく、六年ぶりに好きになったんですよ。そんなに好きな人になんて出会うもんじゃないじゃないですか。それなのにみんなどうしてあんなにさっさとつきあう≠チてのがやれるんだろう?」
「ふほほ、若者、その理由は簡単じゃよ」
太鼓をなでる雷神さま。
「会話することなくただ喋《しやべ》り、病気予防のためにある一定期間、ある一定人物とセックスをする、これをつきあう≠ニ呼ぶなら、いくらでもつきあう≠ヘ可能じゃないか」
「そんな、ぼくは燃えるような恋をしたい。たとえ恋など幻想であろうとも。燃えるという思いなくしてつきあえない」
「そんなもんを求めているとやっかいだろうが。やっかいの森をどうくぐっていくか、そういうことを戦後日本は習わないように教育制度したのだからしかたあるまいに」
「しかたあるまいに……」
ケンちゃんは鸚鵡返《おうむがえ》しをし、いまいちどしゃかしゃかと雲をかいて雲の隙間から地上を見ました。
「ああ、大地はカップルでいっぱいだ」
そして目をほそめました。
「トム・リプレイという若者は、ああ太陽がいっぱいだ、と言ったものだぞ」
「でも、捕まるんですよ」
「そう警察にな」
雲の隙間からケンちゃんの家も見えました。おとうさんとおかあさんのいる茶の間。日曜日。TVはNHKののど自慢でした。
「そろそろ雷を鳴らさんとな」
よっこいしょと立ち上がる雷神。やがてやがて雨がふる。雨にうたえよ、恋人たちよ、すぐにきみらは別れ、すぐにまたきみらはくっつく。恋など知らぬ恋人たちよ。知らねば知らぬなにごとも。知らねば恋を求めることもなし。
ケンちゃんは雲の糸をつつつと降りて、中野区へ帰りました。
「恋をしてやる!」
と、怒りながら。
「いまどき感心な若者。彼には素敵な旅を与えてやろうぞ」
雷神さまは思うのでした。
「ただいま」
ケンちゃんが帰ると、
「おかえり」
おとうさんとおかあさんは言いました。
角川文庫『バカさゆえ…。』平成8年7月25日初版発行
平成9年11月30日再版発行