姫野カオルコ
ドールハウス
ドールハウス/目次
プロローグ
一章 休日、それは空からおりてくる飛行機
二章 その翼の影の下を町が通り過ぎる
三章 なんと地上は低いのだろう
四章 きみはわからない、きみの年齢では
五章 空に住む
六章 あれほどの空、あれほどの雲
七章 飛行機の影が海をとらえる
八章 なんと海は……
九章 忘れないで美しいきみ
文庫版あとがき
プロローグ
ふつうの人。
ふつう。
ふつうのつきあい。
ふつう。
朝日新聞より千葉県市川市の女性(二十九歳)の投稿。
結婚五年目だというのに、いまだにアイロンが苦手である。いやなことは後回し、と乾いたままのシャツやハンカチをためこんでしまう。そうは言っても、夫にシワハンカチを持たせることはできず、ぞろぞろアイロンをひきずり出した。母はアイロンがけが好きだったのだろうか。
中学高校の六年間、私は私立の学校に通わせてもらい、その間、母はずっと制服のブラウスにアイロンをかけ続けてくれた。朝起きれば熱いコーヒーが、学校から帰ればきちんと整とんされた部屋が、洗濯機に入れておけば丁寧にたたんである下着類が、夏になれば扇風機が、冬になればストーブが……。その何もかもがあたりまえだった。夜遅く帰宅する父にはいつも感謝していたが、母に対してはありがたいと思うどころか、反発ばかりしていた。
けれども結婚して、いざ自分でその「あたりまえ」の数々をこなそうとして、やっと母の大変さが少しずつ分かってきた。そして二年前にうまれた子供に振り回され、一喜一憂しながら、母の私に対するいろいろな思いも感じることができるようになってきた。本当ならもっと早く気づくべきことだったと思うが、どういうわけか素直になれなくて、ごめんなさい。
そんなわけで、結婚前はいさかいばかりの母と私だったので、最近とても穏やかな母娘関係になれたのがうれしい。なんたって習い始めた母のフルートとピアノの共演(?)までしちゃう仲なのだ。その私たちをずっと見守ってくれている父と、両親の大切さを教えてくれた夫にも、感謝しなくてはいけないな。
そしてこれからも両親には元気で前向きにがんばってほしい。それは母と同じ路を歩きはじめた私の大切なお手本なのだから。
同じく朝日新聞より大阪市の男性(六十五歳)の投稿。
親友の母親が先日、百歳を超え亡くなった。彼は夫婦二人で家内工業に携わっており、母親が病気一つしないのが有り難いと言っていた。しかし、九十をすぎてからは軽い痴ほう症が表れ、夜中に起きては食事の催促をしたり、またトイレを汚すことも度々あった。
彼は自分が気がつけば、すぐ後始末をすませ、奥さんにさすこともなかった。私が「よくやるな」と感心すると「自分の親ではないか、自分も赤ん坊の時には親にしてもらった。するのが当たり前ではないか」との返事が返ってきた。
九ヵ月前に、がんであることがわかったが、畳の上で往生させたいと入院させず、かかりつけの医者に毎日往診してもらい、いそがしい仕事の合間を見ては夫婦二人で看病した。
母親がみつけてきた娘さんと見合い結婚であったが、気の強い母親はことごとくに嫁につらく当たり、一年間別居生活をしたこともある。普通であれば、奥さんが、「私はとても見きれない。入院させる」と言って当たり前である。しかし、奥さんは私がいたらなかったからと、親身になって看病する姿に、私は十歳で母を亡くしたが、果して自分にできるだろうか、とただ頭の下がるばかりであった。
彼と私は同年であり、戦争体験や宗教観が一致し、心を許しあって話せる友である。老人介護のことが社会問題になっているが、死語となった「親孝行」が生きていることを、皆様に知っていただきたくペンをとった。
ふつう。
ふつうの人。
ふつうの街での会話。
「うそー、飛行機に乗ったことがないの?」
「若い人っていったら、ふつう乗り慣れてるんじゃないの?」
「へえ、変わってるのね。海外旅行をしたことがないなんて」
ふつう……。
ふつうということ。
「スキーに行かないの? 珍しい人ね」
「カルティエなのに欲しくないの?」
「シャネルなのにどうして?」
「変わってるのね、筆で手紙を書くなんて」
「子供は純粋だから天使が見えるのよ」
「ふるさとはあたたくてやさしいわ」
「変わってるわね、洋服が破れたら繕ってまた着るなんて」
「そんなものをいつまでも使うつもり?」
「白然体のやさしさをたいせつにしたい」
ふつう。
ふつうという巨大。
一章 休日、それは空からおりてくる飛行機
一九八八年十月四日。
「おいしい」
理加子はベッドで味噌汁《みそしる》を飲んで思わず声に出した。
「あらあ、うれしいなあ。おいしい、って言ってくれる患者さん、なかなかいないのよ」
看護婦の藤村さんが、丸顔のまんなかにある眼を糸のように細くして言った。藤村さんの眼はふだんはくりくりとしていて、笑うととたんに糸のように細くなる。糸のように細くなって弧を描く。眼尻《めじり》の細かい皺《しわ》も眼と同じようなカーブを描く。それらが丸顔とあいまって、心からほほえんでいる顔になった。
「おいしいです」
プラスチック製の味噌汁の椀《わん》を片手に持ったまま、理加子はもう一度、藤村さんに言った。
油揚げとわかめの味噌汁はすっかり冷めていたが、舌の上をたしかにわかめのぬめりが滑ったし、油揚げはたしかにざらついてジュッと味噌の風味を絞り出した。
久しぶりの普通食であった。
虫垂炎の手術をし、何日か前から入院していた。手術後は粥《かゆ》がつづき、やっと噛《か》みごたえのあるものを口にしたのだ。
「そりゃ、よかった。ごはんがおいしいならけっこうなこった」
藤村さんの眼がまた糸のようになる。
理加子は藤村さんのような顔で笑えるといいと思い、できるだけ眼を細めて笑って見せ、
「今日は、わたしの誕生日なんですよ」
と言った。
「あら、そうなの。いくつになったの?」
「オバキュー」
「なあに、それ。オバケのQ太郎?」
「オバサンの二十九歳、っていう略」
はっは、はっは、と藤村さんは息だけで笑った。
「なるほどねえ、オバキューか。でも大屋敷さんならオバキューでも彼氏がいっぱいいそうじゃない」
藤村さんは理加子が独身であることを知っていた。
「誕生日なら、今日あたり、本命の彼氏がお見舞いに来るのかな」
来るのかナァー、と藤村さんがわざと囃《はや》すような口調を作ってみせたので、理加子は少し考えたのちに、
「来てくれるといいけどねえ。バラの花束でもかかえてねえ」
口調を合わせた。
カレシ、という語は理加子にとって現実味のまったくないふしぎなことばに聞こえたが、こんなふうな場ではこんなふうに口調を合わせておくものだろうと考える。
「バラの花束なんかより指輪がいいんじゃないの?」
藤村さんがひじで理加子を突くまねをした。
「指輪? 指輪のほうが早く回復するっていういわれでもあるんですか?」
理加子が、先と同じように弾んだ口調を作って訊《き》くと、藤村さんの眼が糸のようではなくなった。少しへんな顔をした。
「指輪っていったら、そりゃ、結婚指輪のことよ」
藤村さんは病室を出ていった。
(ああ、そういう意味か……)
理加子はいったん味噌汁の椀を盆に置いた。カレシという語が現実味をもって響かない理加子には、ユビワというのが結婚指輪のことだとは少しも発想できなかったのである。
残りの病院食を、理加子は食べた。
病室は変形した四角形の三人部屋である。理加子のベッドは窓ぎわで、隣が出っ張った壁になっている。前のベッドには昨日まで患者がいたが退院した。斜め前のベッドは高校生である。高校生の留美ちゃん。
「もうすぐ退院でしょ、いいなあ」
留美ちゃんが理加子に言った。
「あたしも早く動きたいなあ」
留美ちゃんは脚をギプスで巻いていた。
「早く退院したい。いいなあ、大屋敷さん、一週間しか入院しなくていいんだもん」
「うん。そうだね」
理加子は留美ちゃんに言い、自分の語調が頼りなげなことに気づいた。
入院してあらためて人は健康であることが何よりも幸せだと感じていたのだが、しかし、心のどこかでこの入院を喜んでいた。
喜んでいる、というよりほっとしている、といったほうがいいかもしれない。
入院中は首を締められる夢をみないからだった。
(退院したら、また夢をみるのだろうか)
手術した当夜は痛かったが、翌夜からはよく眠れる。久しぶりによく眠れる心地になっている。
夜中にうなされて起きる、ということが、もう長いあいだ理加子には日常になっていた。
両親の夢をみてうなされて起きるのである。父親の夢であったり、母親の夢であったりする。
ふたりはそろっては夢には出てこず、必ずひとりで出てきた。
夢の内容はよくわからない。ただ、いつもうなされていた。
それが、はっきりと「首を締められる夢」になったのは、夏あたりからである。
夏から父親の身体の具合が悪かった。
夏から母親の身体の具合も悪かった。
夏になってから、父親は東京都P市の東にある病院に、母親はP市の西にある病院に、入院していた。
両親はともにP市市役所に勤務していた。地方公務員の厚生ケアは恵まれているために両親の入院費用については問題はなかったが、理加子はほとんど毎日、勤めのあとに東と西それぞれの病院に行くことになった。理加子自身もまた、東京都一般職員U類という労働時間が正確な地方公務員であった。
最初は、病院に行けなかった日に「首を締められる夢」をみた。
そのうち、病院に行った日も「首を締められる夢」をみるようになった。
夢の中で理加子の首を締めようとするのは、ある夜は父親であり、ある夜は母親であった。
〈こんなに苦しんでいるのに、おまえだけがのうのうと寝ていて……〉
父親は夢の中でそう言って理加子の首を締めようとする。それで、理加子は汗びっしょりになって起きる。
〈わたしが眠れないのにおまえだけが寝ているなんて……〉
母親は夢の中でそう言って理加子の首を締めようとする。それで、理加子は汗びっしょりになって起きる。
しかし、理加子自身が入院してからは一度も「首を締められる夢」をみない。
なぜなのか、理加子には見当がついていた。大義名分を与えられたからである。
病気になって、自らも腹をメスで切った、という大義名分を与えられてはじめて、理加子は「許可」を手に入れたのだ。父の病院へ行くことを休み、母の病院へ行くことも休んで、
「のうのうと寝ていられる」
許可を。
(だから、きっと、わたしはこの入院にどことなく安堵《あんど》感をおぼえているのだろう……)
味噌汁といんげんのごまあえと薄い味の鮭《さけ》の切り身四分の一の昼食を、理加子はごはんつぶ一つ残さず食べた。
おいしい昼食だった。
「もういらなーい」
高校生の留美ちゃんは見舞いに来た母親に言っていた。
「えー、もったいないよ」
弟であろう、詰めえりを着た高校生が言う。
「あんた食べたらいいでしょ」
留美ちゃんは弟にぞんざいに食膳《しよくぜん》を押しつけた。
理加子は留美ちゃんと弟のやりとりを眺めてほほえんだ。理加子の眼は本人の知らぬところで、藤村さんの眼と同じようになっていた。
弟が「ちぇっ」などと言い、食べないものだと理加子は予想していたが、しかし彼は、椅子《いす》をサイドテーブルに寄せると、陽に焼けた頬《ほお》をふくらませながら姉の残した病院食を勢いよく食べはじめた。
理加子の眼はみるみる大きく見開き、やがて一すじの液体が口まで垂れた。
理加子は自分の家庭での食卓を思い出したのだ。
――ごはんとおかずが黒い漆《うるし》の盆にのっている。盆は食卓の上に三つある。父親と母親と理加子がテーブルにつき、食事がはじまる。誰もそれぞれの盆に手を伸ばしてはこない。
ごく幼いころ、理加子が父親の盆に手を伸ばした。父親の盆は母親と理加子の盆より品数が多かった。彼は晩酌をするので酒の肴《さかな》がのっていた。あれは塩辛だったのかからすみだったのか、理加子が初めて見る食べ物で、好奇心がつい反射的に理加子の手を父親の盆の上の皿へと伸ばさせた。
〈汚いっ〉
父親は低く短く言い、理加子の手を打った。そして、
〈これを捨てて新しく盛りつけてくれ〉
と、母親に命じた。
母親は、いつものように、黙ったまま父親の命令に従った。
新しく盛りつけられた皿が父親の盆の上にのる。
〈すみませんでした〉
理加子は父親に謝り、また、三人は黙って食事をする。食事中に話してはならなかった。ときおり、塩、だとか、醤油《しようゆ》、だとか、事務連絡のような語句を発する以外は――。
「よく食べるわねえ、あんたは。お昼食べてきたって言ったくせに」
「足りなかったんだよ」
姉と弟はしゃべっている。弟は食べ物をほおばりながらしゃべり、母親は、二人を放っておいて棚のタオルなどを調べている。
「あ、りんごは残しといて。あたし食べるからね」
「わかった」
姉のカップで茶を飲み、弟は明瞭《めいりよう》な声で言う。
(仲のよい姉弟)
見開いたままの理加子の眼から液体がまた一すじ、また一すじ、口へと伝った。
横に血のつながったものの強い結束を、理加子は持たなかった。
箸《はし》とカップをかたづけるふりをして彼女は濡《ぬ》れた眼や頬や口を拭《ふ》き、食膳を廊下に出しにいった。
廊下のタイルは歩くたびにねちゃねちゃとスリッパに吸いついた。配膳室のほうからプラスチックの食器がぶつかる音が廊下に響いていた。
病室に戻ってきたとき、留美ちゃんの母親と弟の姿はなかった。
「もう、お帰りになられたの?」
「うん。早く帰れって言ったから。ごめんね、あいつが来るとうるさいでしょ」
「いいえ。ちっとも。すごくかわいい弟さんね」
「かわいい? どっこがー。にくたらしいよ」
にくたらしい、と弟を評する姉が理加子にはまた神秘的に見えた。
にくたらしいと他人に言いながら同じ食膳のものを食べ合える感覚というのはいったいどんなものなんだろう。
(どんなものなんだろう? いったい、どんな、どんなものなんだろう? どんな気分がするものなんだろう? あたたかいものなんだろうか? はしゃいだものなんだろうか? いったい、どんな、どんな、どんなものなんだろう?)
飛行機に乗ったことのない人間には飛行機に乗ったときのことがよくわからないように、理加子には、会話したり同じ皿のものを食べたりあいつが来るとうるさい≠ニ他人に言えたりできる肉親がいるということが想像できなかった。
「ねえ、弟さんといっしょにボートに乗ったりする?」
「ボート? ボートって、公園の池なんかにあるあのボート?」
「うん」
「いやだ」
留美ちゃんはずいぶん長いあいだ笑っていた。
「いやだ、どうしてあいつなんかとボートに乗らなきゃなんないの」
また笑った。
「そりゃ、小学生くらいのときは乗ったかもしんないよ、みんなでね」
「みんな、って? 小学生ばかりで?」
「いやだ」
また留美ちゃんは笑った。
「家族でで決まってるじゃない」
「え、家族でボートに乗ったの?」
「乗ったよ。乗ったでしょう、大屋敷さんだって」
「へえ」
「へえ、って他人ごとみたいに……」
「え、だって……」
理加子は家族でボートに乗ったことがなかった。
「だからあ、ずっと小さいころならいっしょに乗ったよ。でも、今ごろなんで弟とふたりでボートに乗るのよ。どうしてそんなこと訊《き》くの?」
「いえ、ちょっと……その、じゃあ、いっしょに映画に行ったりするの?」
「いやだー、大屋敷さんたら、もう」
どうしてそんなこと訊くの、と留美ちゃんは笑い、どうしてそんなこと訊くの、の部分はあまり笑うために声がかすれがすれになっている。
「そんなにおかしなこと、言ってる?」
「言ってる」
その声はまだ笑いでかすれている。
「だって、いっしょに映画に行ったりボートに乗ったりって、それは……そういうことは、恋人同士がすることじゃない」
「ふうん」
「ふうん、って、また他人ごとみたいに、いやだー、もう、大屋敷さんたら。まじめな顔して冗談ばっかり言うんだもん、おかしい」
留美ちゃんは両手で顔を覆って笑った。
「大屋敷さんっておもしろいのね。ねえ、今度はあたしが訊いていい? 大屋敷さんのカレっていくつくらいの人?」
藤村さんとのやりとりを聞いていたのか、女子高校生らしい好奇心に満ちた表情を理加子に向けた。
「カレ、って、恋人のこと?」
「そう。オトコのこと」
「いないわ」
藤村さんに答えたようなその場しのぎの応対ではなく、正直に答えた。自分が高校生だったころを思い出すと、その青く残酷で鋭敏で幼い精神は事態をほどほどに見過ごすことを嫌っていた。
(男とつきあうことを許されない環境にいたのよ。そんな贅沢《ぜいたく》な余暇はなかった)
と、つづけようとしてやめた。
青く残酷で鋭敏で幼い精神は、事態をほどほどに見過ごすことを嫌っているくせに、自分の理解の域を越えたことに言及されると気分を害したものだった。
「あ、そっか。今ちょうどフリーなんだ」
「そうね。長いフリーね」
「それは大屋敷さんが好みがウルサイからよ。あたし、そんな気がするなあ。大屋敷さん好みウルサソウだもん」
「そうね。ウルサイんだわ、たぶん」
「ね、ね、じゃ、どんなタイプの男の人が好み?」
「……そうねえ」
「痩《や》せてて知的な人」
「痩せてなくてもいいわ、べつに」
「じゃあ、太っててバカッぽい人」
「太ってるのとバカっぽいのは必ずしもいっしょだとはかぎらないんじゃない?」
「じゃあ、太ってて知的な人」
「そんなに知的じゃなくていいわ」
「じゃ、太っててふつうの人」
「それでいいわ」
「太ってるのがいいの? 変わってるね」
「太っててもいい、っていうことよ。太ってても痩せてても、病的な範囲に入ってなければどちらでもいいわ」
「あたし、いや。太ってる男っていや」
「そりゃ、かっこうがいいにこしたことはないけれど」
「バカな男もいや。いらいらする」
「知的、っていうタイプの人ってのもけっこういらいらするわよ。ふつうがいいって」
「寛大な条件」
「ふつう、って難しいのよ」
「どうして?」
「どうしてって……。ふつうがいいから。ふつうが一番いいから」
理加子はくりかえした。
「でも、何がふつうかって、それぞれの人によってちがうのね。他人のふつうと自分のふつうがあることを理解できないとふつうでいられないわ」
「わー、難しいこと言う」
「だから、ふつう、って一番、難しいんだわ、たぶん」
「ふつうねえ」
留美ちゃんはベッドにもぐりこんだ。
ふつうねえ。ふつうねえ。
自分で発したにもかかわらず理加子の耳には、留美ちゃんの声が何かのお題目のように残った。
二章 その翼の影の下を町が通り過ぎる
一九八九年一月下旬。
ワゴンを押しながら書棚から書棚へと、理加子は本を、あるべき場所に並べていった。
退院してからまた、区立図書館の司書としての毎日が続行されていた。勤務しはじめて七年、彼女の生活はほとんど変化がない。それどころか大学生のころから、理加子は地方公務員になるための準備をしていたといっていい。
「両親のめんどうを見なければいけない」という義務があった。母親は昔から病弱であったし、父親も、理加子が大学生になったころから急激に健康をそこねはじめた。他に頼るきょうだいはいない。勤務時間が正確で転勤がなく安定した職業につかなくてはならないという義務があった。
自宅近くにある女子大に通っていたが、大学の専門課程に入った段階で、もう地方公務員試験用の問題集を買いそろえ、通信講座も受けていた。そのために教養課程の段階で単位を落とさないようにする必要があったし、司書の資格もとっておいたほうがよかろうと思い、そのための時間をさく必要もあった。
だから、理加子の大学生生活はひじょうに物静かなものであった。物静かな大学生生活がそのまま物静かな区立図書館司書生活につづいてきたようなものである。
同僚は、勤務時間の規則正しいこの仕事を生かして、買い物や海外旅行、観劇、コンサートなどを楽しんでいるふうだったが、理加子は勤めが終わるとすぐに帰宅して、父の病院と母の病院に行かなくてはならなかった。
つきあいの悪いことを、ときどきからかわれた。
「やっぱりひとりっ子だから、お父さんとお母さんのそばが、一番いいのねえ」
と。
理加子はそういうとき、ただ曖昧《あいまい》な顔をしていた。
お父さんとお母さんのそばにいるとき。それは理加子にとって昔から額に汗をかくほど緊張し疲弊することであったのだが、それを人には説明できなかった。自分の両親のそばにいるときに緊張し疲弊するという真実は社会では罪悪である。そうした真実は存在してはならないことになっている。
理加子はワゴン内の本をみな元の場所に戻すと、書庫ヘワゴンを返しに行った。
「あ、理加子、ちょっと」
書庫に入るなり、美枝が手招きするしぐさをして呼んだ。
美枝とは同期で仲がいい。
「明日、休みだけど、何か予定ある? やっぱりお父さんとお母さんのとこ?」
「……うん」
「そうか。ちょっとゆっくり話したいことがあったんだけどな」
理加子もたまには美枝とゆっくりいっしょに食事などをしたかった。
「夜は? 夜なら平気だけど」
「そうね、あたし、理加子の家の近くまで車で行くわ」
「ううん。わたしが出かける」
「だって、たいへんじゃない?」
「いいの。たまにはにぎやかなお店に行ってみたいから」
理加子は休日の夜に美枝と会う約束をした。
翌日。
西の病院の庭で理加子は母親とベンチにすわっていた。
「夜中に左眼が覚めるから左眼が見えづらくなってるのよ、この一週間ほど」
母親は理加子に言った。
「そう。でも、起きてもまた眠るようにしないと。わたしもそうしてるわ」
こう自分が励ましている相手が夢の中で自分の首を締めにくるのはいったいどういうわけだろう。
庭の中央では何人かがビーチボールのような柔らかい毬《まり》を突き合っている。
「だめなの。夜中にね、看護婦が私のことを調査に来るのよ。病室の、天井裏《てんじよううら》に入ってね。そこからじっと夜じゅう私を監視してるから、それが気になって左眼が開いてしまうの」
「そう。じゃあ、わたしから婦長さんによく言っておきますね」
「頼むわね。小柄な人よ、監視にくるのは。あの人ね、前から知ってるのよ、私のこと。家の、私の部屋があるでしょう。六畳の和室、あそこの押入れに勝手にモーターを引いてミシンかけをしていた人なのよ。その人が看護婦になってこの病院に勤めだしたの」
「そう」
よく晴れた日であった。冬の雲は高く、葉をすべて落とした梢《こずえ》の上を流れている。
ベンチに塗ったクリーム色のペンキが粉くさいようななつかしいにおいをただよわせるのを、理加子はまだ冷たい風とともに鼻孔に含んだ。
冬のよく晴れた空は、悲しみの色合いがなくていい。これから春になる空である。夏の空のように、その煌《きらめ》きの消失を心配せずにすむ。
「そもそも私がココに入院することになったのだって、あの小柄な人が、押入れで毎晩ミシンをかけたからなのよ。ミシンをかけるのは、私だってべつに怒りゃしない。ただ、モーターの振動がね、振動が背中に響くもんだから、身体の具合が悪くなっちゃって」
母親はずっと小柄な人≠フ話をした。
小柄な人は病室の天井裏でもミシンをかけるかもしれないから、どうしようか困っていると言った。
「わかったわ。院長さんにわたしから話してみるわ。そしたらその小柄な人に注意してくれるからだいじょうぶよ」
誰かが毬を受けそこねた。
毬はぽろぽろと表面の白を陽光に反射させながら芝生を転がってゆく。
「そうね。頼んでおいてね。よく頼んでおいてね」
「ええ、よく頼んでおくわ」
「その小柄な人ね、もしかしたら……これは私のカンなんだけど、ドイツ人じゃないかと思うの。日本のことを調査してる。日本の製品は優秀でしょう。たぶん、あの、……」
母親はきょろきょろと周囲を見渡し、理加子の耳に口を近づけるようにして、声をひそめて、ナチスの残党、という語を発した。
「そう」
白い毬を理加子は眼で追う。
「信じないんでしょう」
母親は大きな声になった。
「あなたはいつもわたしの言うことを信じない。妄想だと思ってるんでしょう。でも、本当なのよ。あなたは昔から冷たい子供だった。子供のころからかわいげがなくて、髪にリボンを飾りたがって、子供らしい無邪気さがなくて、それに、わたしにはちっとも似てなくてお父さんそっくり。お父さんの身体の調子はどう?」
「まあまあよ」
「ふうん。あなたも関節炎になるわよ。あなたもお父さんみたいに汚い脚になる。高校生のころは脚がきれいなことを自慢していたようだったけどね」
冬の雲が梢の上を流れている。毬《まり》がぽろぽろと転がっている。
「高校生のころは夏になるとショートパンツをはいて、冬でも短いスカートをはいて、脚がきれいが自慢だったでしょう。わたしはあなたが脚を自慢に思ってることを知ってたの。母親の眼は節穴じゃないからわかるの。でもね、あなたが思うほどあなたの脚はちっともきれいじゃないのよ。最近はそれがわかったからいつもズボンをはくようになったのね。ズボンをはいているほうがいいわ。危険がないわよ。ズボンのほうが安全。気をつけてね。気をつけてね」
「ありがとう。気をつけるわ」
晴れた冬の空を飛行機が飛んでゆく。ずん、ずん、ずん、と飛行機の翼の影が地上を通過してゆくような錯覚が、ふと、理加子には、した。
「わたし、そろそろ帰らなくちゃ。お父さんのところに行くから」
ベンチから立ち上がって理加子は母親にりんごの入った袋を渡した。
「これ、部屋に置いてくるの忘れてしまったの。持ったまま庭に来てしまったわ。よかったら食べてね。りんごは消化にいいから」
「ありがとう」
母親は、理加子を見ずにりんごの袋を受け取った。
「じゃ」
庭を抜け、門を出て、歩いて次の病院へと向かう。
母親の病名は胃潰瘍《いかいよう》である。神経科ではなく内科に入院している。
小柄な人≠ェミシンを踏む、という話だけはつい最近になって言いはじめたことであるが、ほかは、昔から変化がない。
理加子がものごころついたころから、母親の話しぶりは同じである。今、病院の庭でかわされたような会話が、母親にとっても理加子にとっても「とても日常的なこと」なのである。
理加子は速く歩いた。
運く歩くために有酸素運動の効果が高まり、運動靴をはいたつまさきがあたたかくなってきた。
(つまさきがあたたかくなるのは、いいなあ)
理加子はさらに足どりを速くして、父親の病院へ向かった。
「痛い」
理加子が病室に入るなり、父親は言った。二人部屋だが隣のベッドは「空き」である。
「痛い。痛い。痛い。痛い」
何度も言い、水差しの水を理加子にかけた。理加子は黙ってタオルで顔や腕や胸にかかった水を拭《ふ》いた。
どこ、このへんでいいの、さあさあ、だいじょうぶよ、こうしてさすったらちょっとはましになるでしょ……そう言いながら父親をさする行動をとらなくてはいけない、と、理加子はすぐに思った。痛い、と言われてすぐに思った。思ったが、できなかった。
水を拭いたタオルをサイドテーブルに置いてから、
「あの……、さすりましょうか」
と、言った。
です、ます体でしか父親と口をきいたことがない。こうした状況にふさわしい「ふつう」の行動のとりかたが見当ついても、です、ます体でしか口をきいたことのない生活は理加子に父親からの指示を待たせた。
「さすってくれなくていい。看護婦を代えてくれるように頼んできてくれ」
「看護婦を代えるって?」
「どの看護婦もどの看護婦も品がなくてたまらない。顔つきがいやだ」
父親は肝臓疾患で入院している。関節痛もあり、頻繁に身体のあちこちが痛む。
「看護婦さんを代えるなんて無理でしょう。みなさん、お仕事がたいへんなのに……」
「とにかく態度がいやだ。品がない。どういう家に育ったのかと疑わしくなる。しつけというものを受けているのか疑わしい」
(家。どういう家。そんなことを他人に言える家でもないでしょう、うちだって)
理加子は喉《のど》まででことばを押さえる。
「お仕事がたいへんだから、つい厳しい顔つきにもなるのでしょう……あの、身体を拭きましょう」
各室に配布された蒸しタオルで理加子は父親の身体を拭いた。六十五歳になる父親の皮膚にはしみがたくさん出ている。それが年をとったものだ、という悲哀感として理加子には映らない。彼が入院するまで彼の皮膚を間近で見ることがまれだったので変化がわからないのだ。
〈あの人を拭いてるでしょ、あなたは。ああ汚い。よく手を洗っておいてよ〉
さっき、西の病院の病室で母親は言った。
〈あの人は命令病なのよ。人を奴隷のように思って命令ばかりしてるから関節がなまって痛くなったのよ〉
その関節の痛みをやわらげる薬を、理加子は父親の肛門《こうもん》に挿入する。手を遠くまで伸ばしたり曲げたりすることは父親にはままならない。
です、ます体でしか口をきいたことがない隔たりは、理加子に座薬を、機械のネジを巻くように、父親の肛門に挿入させた。
「病院の食事はまずくてたまらない。なにかうまいものを持ってきたか」
「りんごを持ってきました」
洗面台から顔だけをふりむかせる。
「そこにある皿にのせてくれ」
「はい」
理加子はサイドテーブルの下から小さなアルミ皿を出そうとした。
「それじゃない。△△さんの結婚式の引き出物に出た皿だ。すすきの絵の入った皿だ」
「すみません」
理加子は父親の指定した皿をサイドテーブルに置いてからりんごをむきはじめた。
ナイフを持つ手が緊張する。父親は理加子がりんごの皮を厚くむきすぎないか見張っているのだ。
「昨日は役所の××さん夫妻が来て柿をむいていったが、あそこの奥さんは柿の皮もまんぞくにむけなかった。品のない育ちかたをしているのだ。口紅も塗っているし、もしかしたら陰でよくないことをしているのかもしれない」
理加子はりんごの皮を、途中で切れてしまわないようできるだけ長くむこうと決めてむいていた。そんな機械的な作業をしているとよけいなことを考えずにすむ。
「はい、むけました」
△△さんの結婚式の引き出物に出されたすすきの絵の入った皿にりんごをのせて父親に渡す。
「まずいっ」
父親はりんごを吐き出した。
理加子は床に散ったりんごをぞうきんで拭いた。
「なんというりんごだ、これは。ゴールデンデリシャスじゃないな。なんというりんごだ。なんというりんごなんだ」
「さあ、わかりません。もらいものなんです」
洗面台から顔だけをふりむかせた。
「もらった? 男性にもらったのか」
「男性、って……、敏之叔父さんです。お味噌《みそ》やお米などをよく送っていただいています」
「敏之? 敏之ならなぜ病院へ直接送ってこない? やっぱり男性にもらったんだろう。盛り場などをうろついているんじゃないだろうな、おまえは」
「病院へ宅急便が届くのはよくないと叔父さんは思われたんじゃないですか? だから自宅のほうへ送ってくださったのでしょう」
「電話して確かめる。おい、電話を敏之の家にかけろ」
廊下のつきあたりにある病室の、ドアを開けたところにピンク電話がある。台ごとずらせば部屋の中に入る距離で、さらに受話器だけを引っ張ると父親の手に届く。
理加子は売店で二千円を両替すると、他県に住む叔父の家のダイヤルを回した。呼び出し音が鳴っているあいだに父親に受話器を渡す。
【このたびはわざわざ、おいしいりんごを送っていただきましてありがとうに存じます】
【いいえ、とんでもございません。そんなことなどめっそうもない】
【そちらさまにはなにとぞお気をつけられますよう】
電話にはおそらく叔父の妻が出たのだろう。何をしゃべっているのかは理加子にはおおよそ見当がついた。
東京から新幹線で一時間ほどの地方都市、そこからさらに私鉄で二時間、さらに車で一時間ほどのところが、叔父の家であり、かつてはそこに父親も住んでいた。地域のほとんどは「大屋敷」という名字である。
親族と話すとき、父親も母親も馬鹿丁寧なことばづかいになる。それは別の表現をもってすれば慇懃《いんぎん》無礼だった。
「りんごのことは本当だったらしいな。だが、敏之が送ってきたりんごはおまえが食べて、かわりに男性からもらったりんごを持ってきたとも考えられるからな。敏之がこんな安物のりんごを送ってよこすのはなんだか妙だ。○○に貸している土地はりんご園じゃないか」
「あそこはたしか梨園でしょう。叔父さんはきっと八百屋まかせにりんごを送らせたから、ゴールデンデリシャスじゃないりんごが届いただけのことではないでしょうか」
理加子は父親の残したりんごを食べた。
「昼間は何を食べた?」
「昼間ですか? 食べませんでした」
「痩《や》せようとして食べなかったのだろう。不良のすることだ、そういうことは」
「時間がなかったからです。お母さんの病院へ行ってましたから」
「あれの病気は芝居なんだ。芝居をして人から気をつかってもらおうとしている。家事をするのがいやなものだから、昔から病気のふりをするんだ。行く必要はない」
「ええ、でも、支払いとか事務的な用事がありますから、たまには行かないと」
「支払いなど、振り込みでできるんじゃないのか。それをわざわざ病院まで出向こうとするのは、外出したついでに映画を見たりできるからだろう。午前中も、病院へは行かず、映画に行ったんじゃないのか?」
「いいえ。行きません」
「いや、映画に行ったにちがいない。映画を見るのは許さない。これからはもう映画に行ってはいけない。そんな暇があったら朝日新聞を読んで教養を身につけるんだ。わしの入院しているあいだに他の新聞をとってないだろうな、朝日新聞以外をとってはいけない」
「はい。朝日新聞をとっています」
窓側の、空いているベッドの上あたり、天井《てんじよう》に近い部分にしみができていた。
そのしみを理加子は眺めていた。
焦《こ》げ茶色の濃いしみである。
森と、小屋と、小屋の前に三角の帽子をかぶった小人がふたり立っているように、しみは見えた。
クロディーヌの森。
しみの森に名前をつけた。
外国の遠い国の谷間にあるクロディーヌの森。そこにはふたりの小人の妖精《ようせい》が住んでいる。ふたりは姉弟である。とても仲がよくて毎日を助け合って励まし合って幸せに暮らしましたとさ。
クロディーヌの森の小屋にはきっと干し草のベッドがあるだろう。そのベッドで鳥の声を聞きながら眠っていたい、と、理加子は願った。
夜中に夢でうなされて起きるため、いつも疲れているような気がした。
眼鏡をはずして眼頭を指先でもんだ。
「理加子、眼鏡をはずすんじゃないっ」
父親が怒鳴った。
理加子は金槌《かなづち》でたたかれた膝《ひざ》のようにぱっと眼鏡をかけた。
「眼鏡をはずすと眼つきがおかしい」
「ちょっと眼が疲れたのです」
「嘘《うそ》に決まっている。眼鏡をはずしたかったんだ」
理加子はまたクロディーヌの森のことを考えた。
小人の姉弟は手をつないで森にきのこをとりに出かける。きのこのシチューを作るために。きのこのシチューを姉が食べきれずに残すと弟が残りを食べる……。
「眼鏡をはずしたほうが男性によく思われると思ってはずすのかもしれないが、そんなことは不良のすることだ。不良の前兆だ」
二十九の娘に「不良になる」という父親のことばは滑稽《こつけい》である。
しかし、滑稽なことばも、それが長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長いあいだ言われつづけられると、とても日常的なことば、になるのである。
理加子がものごころついたころから、父親の話しぶりは同じである。今、病室でとりかわしたようなことは、父親にとっても理加子にとっても「とても日常的なこと」なのである。
「わたし、今日はそろそろ帰ります」
眼鏡の縁に手を添えて、理加子は言った。
病院を出た。
病院の門のきわにある薬局でビオフェルミンを買った。
『ぴょんちゃんシール』という兎《うさぎ》の絵の描かれたシールを釣り銭といっしょに受け取る。理加子はそれを大事そうに財布にしまい、また速く歩きはじめた。
つまさきがあたたかくなるように速く歩いた。
「つまさきがあたたかくなるのはいいなあ」
ひとりで口に出して言った。
肩より上、耳より下、うなじぎりぎりで切った癖毛が風に吹かれる。
前髪が後方に押しやられて額が出る。額からそのままつづくように、いったん凹むことがほとんどないように、鼻が出ているのが理加子の顔の特徴である。直線的な丸みのない鼻である。
理加子自身はその鼻を気に入ってはいなかった。海外の小説にときどき出てくる表現で「ちょこんと先をつまんだような愛くるしい鼻」というのがある。そんなふうな形を望んでいたが、しかし、理加子の清冽《せいれつ》な顔だちはその鼻の作用によるところが大きいといえる。
人がみなそうであるように、理加子もまた自分の顔がどんなふうに他人には見えているのかを知らない。
道の向こうから犬が歩いてくる。おじいさんに連れられていた。
やや毛足の長い、日本犬と洋犬の雑種といった中型の茶色の犬である。おじいさんが角を曲がろうとすると、すわった姿勢になり曲がるのを拒んだ。それでもおじいさんが曲がろうとするので、ずっ、ずっ、とすわった姿勢のまま鎖を引っ張られ、そののちに、おじいさんに従って曲がっていった。
くすくすと理加子は歩きながら笑った。犬の動作がかわいらしかった。
冬の雲が空を流れている。飛行機の音がする。
速足で歩いてつまさきがあたたかくなること、『ぴょんちゃんシール』を集めること、散歩させてもらっている犬を見ること、こんなふうなことが理加子の楽しみなのだった。それが理加子の毎日なのだった。
日没。
理加子は、アーガイル編みのセーターはそのままで、ジーンズだけを厚手のコーデュロイのズボンに替えて美枝との待ち合わせ場所に行った。
三章 なんと地上は低いのだろう
待ち合わせをした店は地下にあった。
にぎやかな街なら一軒はありそうな瀟洒《しようしや》なイタリア料理の店である。喫茶だけにも食事にも酒を飲むのにもいずれにも利用できるような。
この店のすぐ近くに美枝は住んでいる。
広くて安い郊外よりも、狭くて高くても便利な街に住むほうがいい。美枝はそう考えている。
「理加子、だいじょうぶかな」
隣にすわっている小林に言った。理加子と二人だけで会う予定だったのを、急に小林が電話をかけてきたために彼といっしょに理加子を待っていた。
「だいじょうぶ、って?」
「ほんとうに理加子、来られるかな、ってことよ」
美枝は多少心配だった。
「約束しててもいつもだめになるの」
「時間にルーズなの?」
「とんでもない。その正反対のような人だけど、お家がうるさいらしくて」
理加子と待ち合わせをしたことは何度かあったが、たいてい店に行けなくなったという電話が入った。来れたら来れたであわただしく帰ってしまう。
「じゃ、お嬢様なんだ」
「いや、そういうカンジとはちがうみたい」
美枝は理加子と同期である。初めて埋加子を見たとき、美枝は理加子にさわやかさを感じた。口数が少なく仕事をてきぱきとこなし、なによりも理加子には、若い女性にありがちな異性にもたれかかろうとするところがいっさいなかった。目上の者や図書館利用者には正確な敬語を使い、同僚にはいつも親切に応対する。
よく話すようになった。ともに勤めた年月を経た今は、美枝は理加子をときおり気の毒に思う。理加子は家庭内のくわしい事情を何も語らないが、彼女の吸っている空気の硬さが彼女の吐く息をも硬くし、美枝まで苦しくなることがある。他人を堅苦しくさせるようなものが理加子につきまとっていることは、それは、気の毒なことである。
それでも美枝は理加子が好きだった。理加子と話していると、ちりのない障子の桟や、黒い足踏みミシンや、それにほころびがきちんと糸でつくろわれた衣類を思い出す。そういったものは美枝には新鮮できれいだった。
「来るよ、そんなに心配しなくても」
小林は美枝の注文したコーラを、美枝のストローで一口飲んだ。
美枝はボルドー色のワンピースを着ていた。裾《すそ》がフレアーになっていて短めの丈である。耳に小さな真珠のイヤリングをして、まっすぐの長い髪をカチューシャで止めていた。
御影石《みかげいし》のテーブルに軽く片ひじをついて小林を見る。彼の光沢のある布地のシャツは店のほのぐらい照明に浮き立っていた。
髪の毛が整髪剤で逆立っている。鼇甲《べつこう》の眼鏡フレームの端もところどころ照明を受けて浮き立っている。システムノートの上で指がぱたぱたと動いている。
つきあって三年、小林のしぐさや風貌《ふうぼう》は美枝にとって日常的なものとなっていた。
「こんばんは」
後ろから声をかけられ、美枝は小林と同時にふりかえった。
「どうも」
小林のほうが先に会釈をし、理加子に椅子《いす》をすすめた。
8の字を崩したような流線型のテーブルの一隅に理加子は腰をかけた。
店員が注文をとりに来て理加子はトマトジュースを頼む。
「小林です。おぼえてますか?」
店員が立ち去ると小林が言った。
理加子は少しのあいだだけ彼の顔を眺め、
「ああ、結婚式でお会いした……」
理加子は彼を思い出したらしかった。
同僚の結婚式で美枝は理加子に小林を紹介したことがある。その後、小林の話をときどき理加子にしたことがあるはずだが、理加子には下世話な恋愛話ができない空気があって、最近はほとんど小林のことを話してはいなかった。
「そうです。遅ればせながらよろしく」
小林は名刺を理加子に渡した。
小林裕司。株式会社・東洋テレビ・第三制作部、とある。
「第三制作部……」
名刺の文字を理加子が読むと、
「ディレクターをしてるんです」
小林は自分の仕事を、
「ドラマ部門最大のホープと評判の高い若手ディレクターです」
と、冗談まじりに説明をした。
「すみませんね、ぼくまでいっしょに来るとは思ってなかったでしょう」
「あたしからもごめん。急に会うことになっちゃって。いっつもそうなの。無計画な奴なのよ。ごめんね」
はきはきとした口調が、自分と小林との関係の親しさを強調していることに美枝は気づかない。
「いいえ、三人のほうが楽しいから」
理加子が言うと小林が笑って、
「それが、四人、なんですよ」
美枝の上腕をひじで小突いた。
「裕司の高校のときの同級生が来るんだって。ぐうぜん会おうってことになってて、そんでなんだかんだ電話でしゃべってるうちに四人で会うことにしようってなったの。いけなかった?」
「かまわないわ、少しも」
「よかった。ね、その同級生って人も東テレの人だったっけ?」
東洋テレビのことを美枝は略して言い、それがまた美枝と小林の親しさを理加子に示した。
「ちがうよ。最初はテレビ関係の仕事もしてたんだけど、今現在はバイク急便をしてるんじゃなかったかなあ。よくわかんない。ようするにフリーターだよ」
「あたしも会ったことないの。裕司と同級なわけだから理加子より一つ下よね」
「え、きみ、理加子さんより下なの。上に見えるよ」
「ひどい。人を年寄り扱いして」
「そうじゃないよ、理加子さんってぼくより下かと思った。だって、なんだか学生さんみたいじゃない? お化粧っ気がなくて……」
「そうなのよ、言ってやって、言ってやって。もうちょっと身なりにかまったほうがいいわよねえ」
「身なりにかまってなくは見えないけど、ほっそりしてるから何着ても似合うんじゃないの? こういう服もいいけどさ、デーハーな服もいいよ、きっと」
「そうよ、理加子、たまの休日ぐらいはデーハーで決めてくればよかったのに」
派手、を、デーハー、とさかさまにする美枝をおっとりと理加子は眺めている。
「そんな学生みたいな眼鏡はやめてコンタクトにすれば? そんなにど近眼じゃないでしょう。健康診断のとき0.8って言ってたじゃない」
美枝は理加子の顔から眼鏡をとり、
「ほら、いいじゃない。今日は眼鏡ははずしときなさいよ」
眼鏡を折りたたみ、テーブルに置く。
「女性でもわたしが眼鏡をはずしていたらいいと思う?」
理加子は不意に妙なことを言った。
「え、なに。どういうこと?」
「ふつう……なら、眼鏡をはずすのは男女問わずよく思われる行為?」
「どういうこと? それ」
美枝は理加子の質問についてあまり深く考えようとせず、鞄《かばん》の中を探って口紅を取り出した。
「ねえ、口紅ぐらいつけたほうがいいわ。でないと顔色が暗い印象よ」
鞄から取り出した薄桃色の口紅を理加子のくちびるに塗ろうとする。理加子は顔を美枝の手から遠のける。
「そんなに濃い色じゃないの。鏡なしで適当に塗って平気よ」
「でも、これから食事をするのに……」
「試しによ、試しに塗ってみてよ。あんまり暗い顔してるんだもの」
「じゃあ」
理加子は口紅をくちびるの中央に塗り、くちびるを閉じて色をのばした。
「ほら、いいじゃない。ねえ、裕司」
「うん。眼鼻だちがはっきりしてるからそれだけでずいぶん華やぐよ」
美枝と小林がそろって顔を見ると、理加子はとまどったように微笑し、
「あの、もうひとりのかたと小林さんはクラブ活動かなにかがいっしょだったんですか?」
話題を変えた。
「いや、クラブの部室がいっしょだったんです。へんな言いかたになるけど。彼は剣道部で、ぼくがバスケで、剣道部とバスケは部室がなぜか共有だったんですよ。バスケはボールしか用具がいらないからって用具の多い剣道部といっしょにされて。まったく迷惑だったなあ」
「えーっ、剣道部。じゃ、ビシバシの硬派な人が来るの、もしかして?」
美枝は小林の腕をたたいた。
「いや、彼はなんだか休んでばっかな剣道部員でね。体育会系のノリを想像しないでください」
「どんな人? 森田健作みたいな人?」
美枝が言うと、
「森田健作は小林さんでしょう」
理加子が意外なことを言った。
「え、裕司ってそうお?」
「明るくて溌剌《はつらつ》としているところが……」
皮肉の気配はなかった。
「ふーん。そんな感じするかな」
すぐに美枝は考えることをやめた。空腹をおぼえ、その男が来たら何を注文しようかと思った。
理加子はこれからやってくる男のことを考えていた。
理加子は女子高校だったために、男子剣道部員のイメージはといえば、眼がぎょろりとしていて、無愛想で、知的であることよりも強い肉体であることを誇る、熱情烈火型の、肩幅の張った無骨な手をした、多汗症の人間を思い浮かべてしまう。
「あ、来た」
小林が手をふった。
理加子が想像したのと寸分たがわぬ男が店に入ってきたので、いくぶん理加子は驚いた。
「遅いよ、ずいぶん待ったから腹へっちゃったよ」
「先に食べてればいいだろ」
やって来た男は野太い声でぼそりと言うと椅子《いす》を引いた。がん、と大きな音がして店内の客が数人、音の方向を見た。
「江木洋さんです。江木、こちらは……」
小林が美枝と理加子を紹介しても江木洋は、ふたりを一瞥《いちべつ》しただけで、ああ、と野太く言うだけだった。
ああ、と、野太く答える江木の声は怒っているようだった。
目立つほど長身ではない。一八〇センチくらいだろう。肩幅が頑丈そうで、冬だというのにポロシャツの袖《そで》をまくりあげており、その腕がまた太くて毛深い。
「名刺ぐらいあげたら?」
「ないよ、名刺なんか」
がたん、とまた大きな音をたてて椅子を動かし、江木は身体を理加子に近づけた。頑丈な肩幅と毛深い太い腕が椅子の音とともにいきなり接近してきたので、思わず理加子は身を引いた。
「ああ喉《のど》がかわいた」
いきなりグラスの水を飲んだ。店員が彼の分の水を持ってくる前であった。それは理加子の水だった。
店員が水を持ってきた。
「ビールと、子牛のローストと、海の幸のサラダと、しめじのスパゲッティ」
江木はメニューを読み上げ、読み終えるとメニューを閉じ、テーブルの端に置いた。
「おい、ぼくたちは注文、まだしてないんだよ。ちょっとそれ貸してくれよ」
小林があわててメニューを取り、美枝と理加子に見えるように開ける。美枝と理加子もあわてて料理を選んだ。
「まったくしょうがないなあ。勝手に注文して勝手にメニューかたづけちまうんだもんなあ」
小林に言われてはじめて、江木は自分のしたことがどういうことであるかに気がついたらしかった。
「すまんかった」
野太い声で言った。
それがいきなりだったもので、他の三人は一瞬、ぱたりと黙った。それからすぐに美枝はけたたましく笑った。小林もあっけにとられて笑った。
理加子も笑ったが、江木の頬《ほお》一面にある面皰《にきび》のあとが汚いと思った。
(毛穴のあらい脂っこい肌の、怖そうな人だ)
それが第一印象だった。
料理がテーブルに運ばれてき、酒も入ると、美枝も小林もよくしゃべった。美枝と小林の仲のよい光景は理加子をもよくしゃべらせた。江木はほとんどしゃべらなかったが不機嫌そうでもなかった。
話題が「賞金一千万円」になった。小林が言う。
「一千万円ですよ、一千万。どう、やってみない?」
東洋テレビが主催して『ビッグ・ウエンズデイ・シナリオ大賞』の作品を公募しているというのだ。小林はつづける。
「入選すれば『水曜ドラマパック』で映像化。締め切りは十月四日」
十月四日。理加子の誕生日である。その日が来れば、三十歳だ。
「だから……えーと、あと十ヵ月ほどか」
十ヵ月。十ヵ月たったら三十歳である。
(あと十ヵ月。三百六十五日もないんだ)
今日は一月二十日である。
(あと……あと二百五十七日で三十なんだ……)
理加子はシナリオ大賞のことよりも、自分が三十歳を二百五十七日後に控えていることのほうに気をとられた。
「締め切りまで十ヵ月もあるんだ。美枝も書いてみたら?」
十ヵ月しかない。三十歳まであと二百五十七日しかないのだと理加子は思う。
「そんな、裕司が選考委員なわけじゃないんでしょ。入選しやしないわ」
「しかし、何事もやってみなけりゃわからないじゃないか。書いたら、そうだなあ、ぼくが直接、選考会のところまでじきじきに持っていくぐらいのことはしてやるぜ」
「そうは簡単に言うけどね。狭き門よ。誰にだってシナリオが書けるわけじゃないもの」
「ま、そりゃそうだ。きみはシナリオより先にダイエットしたほうがいい。最近、ウエストが太くなったんじゃないか。腕を回したとき、手が苦しくなった気がするぜ」
小林は美枝のウエストを手で包もうとする。
「いやだ、なんてこと言うのよ、失礼ね」
美枝は小林の腕をつねった。
小林がおおげさに痛がってみせた。
ふたりのはしゃぎを遮断するかのように、
「それの応募要項を小林さんは持っていらっしゃいます?」
理加子は訊《き》いた。
「えっ、理加子、応募するの?」
「いえ……ただなんとなく。締め切り日がわたしの誕生日だから……」
理加子はことば尻《じり》を濁した。
「へえ、十月四日が誕生日なんだ」
ずっと黙っていた江木が言った。
「俺《おれ》、九月四日なんだよ、一ヵ月ちがいだね」
江木が笑った。ぎょろりとした江木の眼は笑うと糸のようになった。藤村さんの笑ったときの眼を、理加子は思い出した。
食事のあと小林と江木は先に帰った。美枝は部屋に理加子を招いた。
都心の小さなワンルームマンションである。床に低いテーブルが一つ。クッションがいくつか。壁に抽象画を飾っている。
「いい部屋」
理加子は床に正座して部屋を見渡した。
「どこが。狭くて困ってるのに。都心だからしょうがないんだけどね。でも狭いよね」
「でも、物がなくていいじゃない」
「散らかってるじゃない。ベッドのまわりなんか洋服がばさばさと」
美枝は紅茶を運んできて、あごでベッドのまわりの方向を指した。
「洋服なんかべつに散らばっていたっていいじゃないの。家らしくなくていいって言ったの」
「うん。そうね。あたしも、そうなのよ。ウエットな空気が住居にただよってるのがすごく嫌いなの。だからできるだけ飾り物や置物は捨てるようにしてるのよ」
美枝には理加子のほめた意味がよくわかったが、
「でも、狭いわ」
そう言って笑った。
「狭いマンションにもうひとり人間が住むなんて息がつまりそうだわ、想像しただけで」
もうひとりの人間、それは小林のことだった。
「結婚するの?」
理加子は部屋に招かれた理由をわかってくれているようだった。
小林との結婚に美枝はいまひとつ煮え切らないものを感じている。
「……どうなのかなあ。今のままでいいなあって思うの。そのくせ、もっとこの先のこと、うんと年をとっておばあさんになったときのことを考えると今のままじゃだめだろうなあって思う」
スプーンで紅茶をかきまわした。
「でもでも、それでも、今のままがいいなあ、って思うの、今は」
「小林さんはなんて言ってる?」
「結婚したいみたい。男の人のほうが結婚したいのよね」
「そうなの?」
「そうよ。結婚してそのうえで奥さんじゃない人と恋愛する、っていうのが男の人の理想なのよ、たぶん。あたし、わりと男性的なところがあって、そういう男の人の心情がよくわかるの」
「ふうん」
「理加子はどう? 今つきあってる人とは」
「いないから」
「じゃ、前につきあってた人とは?」
「前につきあってた人……」
理加子はきょとんとしている。
「さあ……」
「さあ、って、何よ、それ。クリスマスイブを過ぎた女が照れることないでしょ」
美枝はスプーンをかちかちと鳴らし、理加子は自分がもうあと一年足らずで三十歳になることを考えた。
(図書館に勤めて七年。いったい自分は何をしてきたのだろう。七年間はあっという間だった。小学校の一年生から六年生まではあんなに長かったのに)
運動会ではいつも一番だった。走るのが速かった。しかし父親も母親も勤めていたために運動会には来なかった。
(もし、美枝に、わたしは運動会ではいつも一番だったのよ、といって、それを証明するものはあるのだろうか)
だが、他人に証明できなくとも理加子自身の内で運動会は小学生の理加子をかたちづけている。
だが、十代の理加子をなにがかたちづけるのか、小学生時代よりも希薄な手応えしかない。なぜなら理加子の自我は「家」の中でじっと息をひそめて、ひそめたまま、二十代を迎え、その年代はあと十ヵ月で終わろうとしているのだ。
(三十歳になったとき、わたしが二十代だったことを証明するものはいったい何なのだろう)
理加子は「賞金一千万円」のことを思い出した。
「ねえ、一千万円あったらケアつき高級老人ホームの頭金になるかしら」
「高級老人ホーム? やだ、理加子ったらまたお父さんとお母さんのこと考えてるの?」
「いえ、自分が入るための老人ホームよ」
「そんな、いくらあと十ヵ月で三十歳だからって、恋愛も結婚も飛び越していきなり老人ホームだなんて……。まあ、わからないでもないけどね、結局、家って同属の同族だからね」
美枝は中空に「同属」と「同族」という字を指で書いた。
「あたし、そう思うの。あたし、誰かといっしょに暮らすっていうのが耐えられないの。ほら、他の女の子は、まあ、子、っていう年じゃないのかもしれないけど他の子は、なんであんなに結婚したがるんだろうなあ、ってあたしはいまいちわからないな」
美枝はつづける。
「みんな結婚に対して過度な幻覚を抱いてるんじゃないかな、って思うの。あたし、抱けないの。いつもどこか冷めてしまうの。そりゃ、裕司のことは好きなのよ。だけど、いっしょに暮らすとなると考える。休みの日なんかさ、ずっといっしょにいることあるのよ、彼の部屋だったりあたしの部屋だったりするんだけどね、そうするとだんだんひとりになりたくなってたまらなくなるの」
「犬か猫を飼えばいいのに」
「話の腰を折らないで、まあ、聞いてよ」
「…………」
話の腰を折ったつもりは理加子にはまったくなかった。ひとりがいいなら裕司と会ったりしないでひとりで暮らせばいい。そこに犬でもいたらもう充足してしまうはずだ。本当にひとりが好きな人間なら。
「あたしは結婚や恋愛に対して冷めてるから幻覚を抱けないの。じっと考えてみることがある。自分を除外して、今、誰が死んだら一番悲しいだろうかって。理加子なら誰?」
美枝が死んだら悲しいと理加子は思った。なぜなら今、こうして美枝と話している時間はこのうえもなく安らかだから、美枝が急に死んだらこんな安らかな時間を誰と共有できるのか、理加子には他に思い当たる人間がいなかった。そして、今日の夕方、道で見かけたおじいさんが散歩させていた犬の姿がぽっと理加子の頭に浮かんだ。
理加子の答えを待たずに美枝は言った。
「あたし、その答え、裕司じゃないの。だから本当に裕司のことを愛してるんじゃないと思うわ」
「それは正しいと思うわ。人って他人を本当には愛せないと、わたしも思う」
「そうでしょう。あたしもそんなふうに冷めてるの。あたし、今、誰が死んだら一番悲しいかってよく考える……」
美枝は理加子の真正面を向き、言った。
「結局、両親なんだよね。べつにホームドラマに出てくるような家庭なわけじゃないのよ、でも、結局、同属の同族なのは両親しかないじゃない? 妹がいるけど妹だって私とは横並びだもの」
「あ……」
何かを言おうとして理加子は声を出せなかった。喉《のど》の奥で唾液《だえき》が蒸発してしまったように声は出なかった。
髪の毛が音もなく一本ずつ抜けていきそうに、おぼつかなさが全身をとらえた。
「だって、結局、同属のそばは一番ほっとするもん」
美枝の声は遠いところから聞こえているようだった。
(この人には家がほっとする場所なのだ!)
それは衝撃的な事実だった。
「あ、あの……」
理加子の声は吃った。必死に声を出そうとした。声が出ない。
電話が鳴った。
飛びのくほど理加子は驚いた。
「いやだ、電話ぐらいでそんなに驚いて。へんなの」
美枝は電話を取った。
【もしもし。ああ、あたしよ】
【うん。元気。あ、そうなの、さっきまでね、お友だちといっしょにごはん食べてたの】
【うん、小林さんもいっしょ。理加子のこと話したでしょ、今、理加子が来てんの】
【わかった。じゃね、バイバイ】
「噂《うわさ》をすれば、だわ。親からだった」
「い、い、いえ」
どうしても理加子の声は出なかった。
(美枝は家の人にバイバイと言って電話を切るんだ。小林さんのことも話してるんだ)
衝撃は理加子の喉をなぐったままだった。
「どうしたの? 気分悪いの?」
「い……」
紅茶を飲もうとするが、手がかじかんでカップがつかめなかった。
「寒いの? 暖房、強くしようか」
美枝は立ち上がって暖房器具のスイッチをいじった。
「日本酒があるから飲む? 一杯飲むとあたたかくなるよ」
美枝は電子レンジで日本酒を燗《かん》し、理加子の前に置いた。
「あたしも飲もうっと」
美枝は日本酒を飲んだ。
「どうしたの? 急に黙り込んでしまって。元気出してよ」
美枝は理加子の顔をのぞきこんだ。のぞきこんで、
「ほら、ほら、これでどう?」
自分の指で鼻を上向かせ、眼を下げた。
「重い話、しちゃったかなあ、ってこれでも責任感じてるんだから」
おどけた顔を作ってみせたまま美枝は理加子をのぞきこんだ。
美枝の気配りを理加子は心からありがたく思った。他人といっしょにいるのは、孤独ではないと思った。
「美枝」
理加子の声が出た。
「わたしの妹になってくれる?」
理加子が言うと美枝は転げ回って笑った。
「黙りこくってたかと思ったら、いきなり何を言い出すの。昔の少女漫画みたい」
美枝の笑い声は明るく、とても明るく、それだけで理加子は安らぎを感じた。
「今日は楽しかったわ」
玄関口で理加子は言った。
「どういたしまして。また遊びに来て」
「ありがとう」
「ねえ」
運動靴のひもを結びなおしている理加子に美枝は言った。
「また今日の四人で会おうよ」
「そうだね……」
次に繁華街で食事をする日はいつなのだろう、と思いながら、理加子は美枝の部屋を出た。
自宅に戻ってきて睡眠薬を飲んで寝たが、やはり夢をみた。
父親の夢だった。
父親は丁字帯だけの姿で手にしびんを持って理加子を追いかけてくる。理加子は走って逃げて、段ボール箱がたくさん積み上げられた倉庫のようなところに隠れている。箱がくずれ、その向こうに父親が立っている。父親には顔がない。ただ、認識でのみそれは父親なのだとわかっている。父親の手がゴムのように伸びて理加子の首を締める。苦しくて眼が覚めた。
ふたたび眠ることはできなかった。
理加子は風呂《ふろ》を沸かして寝汗を流した。そして、机に向かった。
『ビッグ・ウエンズデイ・シナリオ大賞』に応募しようと思ったのだ。
といって、すぐにはペンは文字を生み出さず、理加子は美枝のことを考えた。
(あの人には家がほっとする場所……それがあるから、さらに小林さんを強く欲することがないのだ……)
それから、戸棚を開けて、東の病院の門のきわにある薬局でもらった『ぴょんちゃんシール』を台紙に糊《のり》づけした。
台紙がたまったところで賞品カタログをもらいに行こう、と理加子は楽しみにした。
四章 きみはわからない、きみの年齢では
「夜中にね、具合が悪いときがあるから泊まっていきなさいよ」
図書館から戻って病院へ行くと母親が言う。母親は胆嚢《たんのう》疾患も併発していた。身体のあちこちに悪いところが出てくる年齢なのだった。
「ひとりで一軒家に寝ているのはよくないわ。誘拐魔が来るかもしれない。あなたは世間知らずだから危ないわ。いくらもう脚がきれいじゃなくなってても誘拐魔は無差別だから」
「火曜日は食べ物なんかの買い物に行かなくてはならないから、水曜、木曜は泊まるわ」
「そうよ、家族がはなればなれに寝てるなんてよくないわ」
「ええ」
母親の病室は四人部屋である。空いているベッドはないので、母親のベッドの斜め下の床に布団を敷いて寝ることになる。それでもここで寝たほうが首を締められる夢をみないですむだろう。
宿泊の準備をナースセンターに頼むと、理加子は父親の病院に行った。
「夜中に関節痛が出るから隣のベッドに泊まっていくといい。ひとりで家にいると、どうしてもよくない交遊関係になるからな」
父親は言った。
父親の関節痛はリューマチであるらしかった。長くかかるとの医師の報告だった。肝臓疾患のほうの具合もなかなかよくならなかった。老人と呼ばれる年齢なのだった。
「△△さんのところの上の男の子は離れた勉強部屋を作ってもらったところ、それが不良が入りびたるのにかっこうの場になって、あの子は不良少年になってしまった」
父親は長々と△△さんの家の話を理加子にした。
(このベッドはクロディーヌの森の近くにあるからきっと夢をみなくてすむんだわ)
理加子はそう思った。そうだろうと思うようにした。
「金曜と土曜とはここに泊まります」
「他の日はどうしてるんだ。盛り場に行くのか。盛り場に行くのは……」
「いいえ、お母さんの病院に泊まるのです。火曜は図書館から戻ってトキノヤ・スーパーに日常品を買い物に行ってごはんを食べてお風呂《ふろ》に入って洗濯をして家で寝ます。洗濯をしなければならないので友だちとは会えません。水曜日と木曜日は図書館から戻ってきて食事してお風呂に入ってお母さんの病院に行って泊まります。金曜と土曜は図書館から戻って食事してお風呂に入ってここに来て泊まります。日曜日は図書館から戻って食事をしてお風呂に入って洗濯をして家の中の掃除をして寝ます。洗濯と掃除をするので友だちには会えません」
理加子はドアを開け、ピンク電話の台をずらし受話器を父親に渡してダイヤルを回した。
「どこにかけるんだ?」
「お母さんの病院。わたしが本当に水曜と木曜に泊まることになったかどうかを確かめるんでしょう?」
理加子は疲れていた。
機械的に母親の病院の番号を回していた。
「電話はしなくていい。それより、月曜は図書館が休みだろう。その日はどうしてここに泊まらないのだ」
「月曜は、お父さんとお母さんの洗濯じゃなくて私のものを洗濯して、それから家計簿を整理します。手紙を書いたりもします」
理加子はピンク電話の台を元の位置まで戻した。
理加子は疲れていた。
「手紙? 男性への手紙を書くのは、はしたないことだ」
「敏之叔父さんや、大屋敷のほうや、保険会社や……」
父親に説明していると眼が痛いようになって液体がたまっているのがわかった。理加子は床のゴミを拾うふりをして父親から顔を隠した。
「いろいろな人へ連絡しなくてはならないことや、お礼状などもあるので……」
床にしゃがんで言った。指で眼を拭《ふ》いた。指の皮がささくれていた。今日、本の貸し出しをしていて見た利用者の指のマニキュアのかわいらしいピンク色が、理加子のまなうらでにじんで浮かんだ。
ささくれた指を交差させ、理加子はしゃがんだまま祈った。
(神様)
それは仏陀なのかキリストなのか。どういう神なのかよくわからなかった。漠然と神様だった。
(神様、どうか嘘《うそ》をついたことをお許しください。許してください)
月曜日には掃除と洗濯のほかにシナリオを書こうと思っていた。
(どうか許してください)
一心に祈った。
水曜日。図書館から戻って風呂に入って食事をし食器を洗っていると電話が鳴った。
【はい、大屋敷でございます】
【――――】
一呼吸おいてから相手は名乗った。
【江木と申します】
野太い声である。
【おぼえてますか、こないだ小林といっしょに会った……】
【ああ、はい、おぼえています。……あの、どうして番号がわかったんですか?】
【P市だって言ってたじゃないですか。104で、P市の大屋敷ならすぐわかるでしょう】
【――うちの番号、電話帳に載ってるんですね……】
【知らなかったんですか?】
【ええ、電話をかけることがほとんどなくて】
【今、電話、いいですか?】
【すみません、これからちょっと出かけなくてはならないのですが……】
【――ねえ、いつも出かけてませんか? 電話、全然、つながんなかったよ。いや、いいんだけど、そんなことは。じゃあ切るよ】
【えっ、でも……】
【用事はなかったんで……。そいじゃ】
電話は切れた。
理加子はしばらく、つーつー、と音のする受話器を見ていたが、やがて置いた。とても短い電話のあとでこうして受話器を見ていたことが以前にもあったと思い。
病院へ行った。
スウェットの体操服の上下に厚手のソックスをはき、体操服の上にセーターとズボンをはき、長めのダウンのジャケットを着て帽子をかぶり、マスクをして自転車で行った。道すがら、電話のことを思い出していた。
高校生のころ、学園祭で知り合った男子校の生徒から電話がかかってきた。母親が取り次ぎ、理加子が出た。母親は父親を呼びにいき、ふたりは理加子のすぐ後ろに立って理加子を見ている。理加子が相手に言えたことばは「はい」が二回と「わかりません」だけだった。電話はクラスメイトからも他校の男子生徒からもよくかかってきた。理加子はいつも「はい」と「わかりません」だけを言い、六十秒内で電話は終わってしまう。そのうちに理加子には電話はかかってこなくなった。大学生になったときには、理加子はごく限られた者を除いて、人に電話番号を教えなかった。「なぜ教えてくれないの」。その問いにうまく答えられなかった。
「なぜ教えてくれないの」。「家の人がいて、いろいろと訊かれるので」「なにを?」。なにを? その問いに理加子は答えられなかった。なにを? なにを両親は訊こうとするのか、彼女にもわからなかったのだから。「けものではない人であるならば、自分を育ててくれた両親には深く感謝し、篤く敬い、贅沢は慎んで暮らさなければならない。国のために尽くさなければならない」。これがふつうのことだと、現代に住まうふつうの人々に理加子は言えばよかったのだろうか。
あるいは、背後にぴったりと立った両親の前で電話の受話器をにぎるとき、「大学生にもなった娘の電話にいちいち驚かないのが戦後五十年近くたった現代である」と、過酷な戦争を体験してきた彼らに言えばよかったのだろうか。
(美枝なら……そんなところに立ってられたら話しづらいじゃないの、と言うのだろうか……)
理加子は自転車をこぎながら口に出してみた。
「ヤーダ パパ アッチ イッテテヨ ウンウン ソウナノ ジャアネ バイバーイ」
ペダルを踏むリズムに合わせて言ってみる。ヤーダ パパ。ヤーダ ママ。
「バイバーイ」
「バイバーイ」
色のない時間が流れてゆく。夜の風が理加子の癖毛を吹いた。
道には犬を散歩させている人が何人かいた。そのつど理加子は自転車をとめ、犬を眺めた。
髪の毛にカーラーを巻いたままの五十歳ぐらいのおばさんに連れられていた犬は真っ白な短毛種だったが、眼のまわりだけが、瞳《ひとみ》からわずかに離れた眼のまわりだけが、焦《こ》げ茶色になっていて眼鏡をかけたようだった。
犬は捨てられたパックをしきりに鼻で探っていた。おばさんはあくびをしていた。パックにはラップがからみついたままになっており、それをはがそうとするのか、犬はよれよれになったラップのどこかをくわえて頭を振った。眼鏡をかけて懸命に振っているようだった。
理加子の生活に変化はなかった。
月曜日に自室にこもってシナリオを書いた。シナリオの中の世界だけが極彩色の世界に展開していた。
クロディーヌの森はそれはそれは美しい森でした。太陽がきらめき、水晶のように澄んだ泉があります。
泉のほとりの小さな小屋に仲のよいきょうだいが住んでいました。
ふたりとも足首に傷あとがありました。クロディーヌの森の制覇を狙う悪魔に赤ん坊のときに刺された傷あとでした。
傷は雨の降る日に痛みます。きょうだいは傷をなめ合って暮らしておりました。
ところがある日、悪魔の使いがきょうだいのひとりを連れ去りました。遠い国へ連れ去りました。
残されたひとりはクロディーヌの森で石の身体になってしまいました。石の身体は重くて冷たくて森には他に話す相手もなく、黙っているうちに唖《おし》になってしまいました。
唖はきょうだいの片割れに会いたいと泣きました。泉がその涙でしだいしだいに水かさを増し、しだいしだいに大きな川になりました。
一匹の鮭《さけ》が川を上ってきて唖に告げました。片割れは海のそばの国にいるよ。この川をずっと下ってゆけば海に出る。
唖は片割れに会うために川を下り、海を求めて石の身体をひきずってゆきました。石の身体はのろのろとしか川を下れませんでしたが、失った片割れに会いたい一心で重い身体をひきずってゆきました……。
クロディーヌの森、という名詞はシナリオに登場しない。室町時代の末期、日本のあちこちで戦争があったころの日本のどこかの村、そこからシナリオははじまっている。
悪魔も登場しない。主人公は石の身体にもならない。ただ、理加子のシナリオの世界の空気はクロディーヌの森の物語であった。
この世界を月曜日の部屋の中で、理加子は少しずつ少しずつこしらえていった。月曜日の部屋から海を想像した。
江木が理加子の勤める図書館にやってきたのは、そんなころである。
「本を借りたいんだけど」
カウンターにいた理加子は野太い男の声に顔をあげた。
「江木さん」
「すっげえ顔。化け物でも見たような顔して」
「驚いたので……。どうしてこんなところに?」
「だから、本を借りたいんだけど、って言っただろ」
「あ、ああ」
理加子は江木の腕を見た。江木はやはりシャツの袖《そで》をまくりあげて毛深く太い腕を見せている。
「……ご自分の住所を証明するようなものをお持ちですか? 免許証とか、江木さんのところに来た郵便物でもいいんですけど」
「そんなのがいるの? 持ってない」
即座に江木は答えた。
「電車なんだ、今日」
「お持ちになってらっしゃらないと、今日はお貸しできないんです」
「へえ。じゃ、借りない」
「……そうですか」
あまり江木が即座に答えるので理加子は少し間がもたなくなった。
「あら、江木さんじゃないの」
美枝が江木に気づいた。
「本を借りにきた」
「なにもこんなとこまで来なくったって、近くにちゃんと図書館があるでしょうに」
「この図書館の近くまで来たから入ってみた」
「そう。今日はなんなの? お休みなの?」
「ああ。お茶飲もう」
「なにを言ってるのよ、勤務中よ、あたしたちは」
「じゃ、終わったら飲もう。何時? 終わるの」
「八時よ。まだ三時間もあるわ」
「待ってる」
「待ってる、ってどこで?」
「ここで。本読んで待ってる」
江木が即座に答えるので美枝は理加子のほうをうかがった。
「あたしはいいけど、理加子はどう」
木曜日である。母親の病院へ行く日だ。昨夜も行ったがずいぶん遅い時間に病院に着いたので、母親に今夜は早く来る約束をした。
「わたしは用事があるので……」
「じゃ、いい。いやなら飲まなくても。美枝ちゃん、お茶飲もう」
即座に江木は言った。
「いいわよ、待ってられるならね」
「待ってる」
江木の返事に美枝は肩をすくめ、書庫のほうへ行った。
「大屋敷さん、俺《おれ》、どの本読んだらいいの?」
「どの本、って、自分の好きな本を」
「大屋敷さんが最近読んだ本ってどれ?」
「……あの……」
「なに、それも答えられねえの? 利用者にいい本を紹介したり案内したりするのも司書の仕事だろ」
「……いいえ、その、もう少し小さい声でお話しになっていただけませんか。図書館では静かにというのが一応規則なので……」
理加子が小声で言うと、江木は笑った。ひときわ大きい声で。
「すまんかった」
いっそう大きな声で江木は言った。
「静かにするから、本の案内してください」
「はあ」
他の司書に黙礼をし、理加子は江木と書架室へ行った。
「どんなジャンルの本が好きですか?」
「大屋敷さんの家の電話、なんでいつもつながんないの?」
江木は理加子の質問にまったく答えていない。
「それとも俺が電話するときがタイミング悪いのかなあ。いつならかかりやすい?」
「ないわ」
今度は理加子が即座に答えた。
「……その言い方。すごいな」
「ごめんなさい」
はっと理加子は口を手で押さえた。
「ちょっと家の中で事情があって……。それで学生時代からわたしへの電話はひかえてもらってるの、友だちには」
「厳しい家なんだ」
「…………」
理加子は答えなかった。厳しい家。厳しい家、というものに自分の家が当てはまるのかどうか。
「じゃ、大屋敷さんに連絡したかったらどうしたらいいの? 手紙?」
目下は父親が入院しているが、退院したら手紙はすべて父親が封を切って中身を調べる。そういう「慣習」なのだ。
「俺、手紙書くのって苦手なんだよ、字が汚いし」
「手紙もだめです」
「だめです、か。俺、ずいぶん嫌われてるんだな」
「そうじゃなくて、その、事情があるんです」
「めちゃ厳しい家なんだなあ。大屋敷、なんて名前からして厳しそうだもんな。家、大きいの?」
「小さい。リカちゃんハウスぐらい小さい」
理加子が言うと江木はじっと理加子の顔を見た。江木が見るので、理加子も江木の顔を見た。脂性肌である。面皰《にきび》のあとがある。色が黒い。髭《ひげ》が濃い。
「おもしろいこと――」
そこで江木はことばを止め、深呼吸をするように息を吸い込み、
「――言うんだな」
と、息を吐き出した。
「本を選んでください」
「電話、いつならいい?」
江木はまた理加子の質問を無視し、最初に電話はひかえてくれと理加子が言ったことも無視した。
「月曜と火曜の午後九時ぐらいなら」
頭脳でではなく肉体で答えたようなものだ。命令に従うように理加子は長きにわたり家庭訓練をされていた。
「あ、この本にしよう」
江木は理加子の答えに対しては何も言わず、自分のちょうど眼の位置にあった一冊を抜いた。
『ハスキー犬の飼い方』
それが彼の抜いた本の題名だった。
「いいよ。もう仕事に戻って。じゃ」
江木は『ハスキー犬の飼い方』を持って閲覧室に入ってしまった。
「大屋敷さん、ちょっと書庫に行ってちょうだい」
一冊が抜けた書架の前に立っていた理加子に職員のひとりがカウンターのほうから言った。
「はい」
理加子は書庫に行った。しばらくすると美枝が来て、
「帰っちゃったわ、江木さん。やっぱり三時間も待てないって」
と、伝えた。
「へんな人ね。何しに来たんだって感じよね」
美枝は理加子のそばにうんと近づき、
「理加子がお茶飲めないってわかったから帰っちゃったのよ、きっと」
愛くるしい上眼づかいをした。
理加子は認めた。たしかに自分の心臓が一鼓動、強く打ったのを。
「裕司から聞いたんだけど、彼、あれで高校んときはけっこうモテたんだって。ラブレターなんか部室に持ってくる女の子が月一にはいたって言ってたよ」
「今でもモテそうじゃない」
強い一鼓動ののち、すぐに理加子の心臓は平常の鼓動に戻る。
「わあ、そんなこと宣言してしまっていいの?」
「宣言?」
「モテそうな人ね、なんて、江木さんってすてきな人ね、って宣言してるのと同じだよ」
「客観的事実と主観的事実はちがうんじゃないの?」
「またー、すぐ理加子はそういう理屈っぽいことを言う」
「そんなことないよ。理屈にはいらないわよ、こんなこと」
「だってモテそうって理加子は江木さんのことを言うけど、あの人、車持ってないんだよ。車持ってなくて高卒でフリーターで、顔は面皰面《にきびづら》だよ。見事なまでに三高障害じゃない?」
美枝の言いかたにはいやみなニュアンスはなかった。それこそ客観的事実としての現代の女性の嗜好《しこう》をとらえた視点でしゃべっているにすぎないことが、つまり、美枝がなにも男は三高でなくてはならないと思っているわけではないことが、すぐにわかった。
「その三高障害の人をモテそうな人っていうのは、手放しでほめてるようなもんだよ」
「モテそうな人だと思うからそう言っただけよ。無愛想で図々しいから。無愛想で図々しい男性は、西洋でも東洋でも昔からモテてきてるじゃないの」
「それ、ほめてるの?」
「ほめてるわ。ただ、臭いけど」
「臭い? なにがキザなこと言ったの?」
「ちがうわ。ほんとに臭いのよ。腋臭《わきが》だわ、あの人」
「いやだ、気がつかなかった」
「鼻が悪いんじゃないの? 風邪ひいた? 横に並ぶとツンとにおうわ」
「そんな、かわいそうな……。そんなこと言ってるくせにモテそうなんて」
「だから、客観的事実としてそうだって言っただけよ。自分が月を太陽だと言ったら女にも月を太陽だと認めさせようとする。自分は月は月だとわかってても、女が月を太陽だと認めるかどうかに賭《か》けるタイプはモテるのよ昔から」
理加子は、美枝に言うというより、書いている途中の応募シナリオのことを考えていた。
シナリオを書くにあたって何か戯曲を読むべきだと考え、正統的にシェークスピアを読んだ。
「『じゃじゃ馬ならし』のペトルーキオがこのタイプよ」
「理加子ったら……」
美枝がぶつぶつひとりごちている理加子の肩をゆすぶる。
「理加子ったら、そんなふうに達観していると疲れない?」
「達観? 達観なんかしてないわ、わたしは。シェークスピアがしていただけよ」
「自分じゃなくてシェークスピアが達観していただけだ、と分析するところがもう達観してるのよ」
「それなら……」
理加子は美枝に言った。
「分析しているわたしが達観していると分析する美枝も達観してるわ」
美枝はやさしい表情を理加子に向けたあと、小さくなってゆく理加子の背中を、書庫から見ていた。
彼女は理加子を気の毒に思った。
(でもなぜ気の毒だなんて感じるのかな。理加子は気立てもよくて頭もいいのに)
なぜだろうか、と考えはじめ、すぐに考えることをやめた。
明日、歯科医院の予約がとれるかどうかのほうが気になってきたのだ。
(きっと、理加子は歯科医院の予約を後回しにしても考えつづける人なんだわ)
美枝は思った。そしてあとは歯科医院のことだけを考えて予約電話をした。
五章 空に住む
小さな庭である。
階段状になった台に盆栽がいくつかのっている。
一つ一つの鉢に水をやっているとブロック塀の向こうを小学生がたくさん歩いていく。
小学生はみな、よそゆき、といった服装をしており、彼らを連れる親たちも同様の服装をしている。
近くの小学校で入学式があるらしい。そこは理加子も通った小学校である。
庭に立ち、理加子はしばらく小学生の列をぼんやりと見ていた。
(一年生から六年生になるまではあんなに長かったのに……)
三十歳まであと六ヵ月だ。
(一年が一ヵ月のようになってしまった)
子供の一年は大人の一ヵ月のようだ。
(早く書きあげてしまおう)
月曜日である。シナリオを書きあげなくてはならない。
(当選してもしなくても、どっちだっていいわ)
当選そのものよりも、二十代のアイデンティティを確かめるために何かを残そうとしている。
加えて、机に向かっているときは、理加子の部屋から、二階の六畳の和室から海が見える。大洋はおおらかに波をうねらせ、理加子の背中にかかる暗い血縁の重さを軽くした。
精神がすさみ
人生が息苦しく
めんどうになるとき
ちょうど囚われのプリンスのようだから
ぼくは身を軽くして
一グラム弱にして
空に飛んでゆく
視界がひらけて
軽い気分で空に住もう
もうお終いならば荷造りもしようが
まだ未練があって
よく知ってはいるのだが
危なっかしい足場の上で生きているのだ
ぼくは身を軽くして
一グラム弱にして
空へ飛んでゆく
そうすれば視界がひらけて
空に住める
ぼくの人生が檻《おり》の中にもどり
大した望みもないのだから
自分を囚われのプリンスだと
自分に言い聞かせて
体重を一グラム弱にして
空に住もう
机に向かっているときだけ、理加子は空に住んでいた。
(ほんとうに空に住みたい)
と、そう思いながら。
(二次元ではない三次元の空はどんなものだろうか)
と、そう思いながら。
(るしえーる え らめーる)
空と海。
きょうだいの片割れに会いに行く唖の物語を理加子は机の上につづけていった。
「足利幕府は壊滅し、都には疫病がはやり、各地には戦乱の炎があがるころ。鎧《よろい》を作る職人にふたりの子供がおりました」
ナレーションの部分を理加子は口に出して何度か読み、クロディーヌの森の物語が進んでゆく。
長くなった春の日がとっぷりと暮れるまで理加子は机に向かった。
時代考証がおぼつかなく、途中で何度も歴史の本を調べたりした。開けたままの窓からしのびよる夜風が湿っている。
東経139度、北緯35度のこの島国に吹く風は季節のたびに色を変え、においを変える。
湿った夜風は花咲き緑萌える季節がすぐそこに来ていることを如実に予告していた。
(三十歳になる前に自分に春もあったことをおぼえていたい)
石の身体のままで二十代が終わるのは未練があった。
(わたしはそんなに達観していないのよ、美枝)
中学校から大学まで女子ばかりの学校に通った。カトリックの規律厳しい校風の学園であった。
(学校と家とを往復するだけの生活、図書館と家と病院とを往復する生活、それだけの生活で、わたしがいったい何を達観できるというの)
窓を閉め、ペンを置く。
台所に残ったもので簡単な夕食をとった。
食器を洗い、朝日新聞を読み、風呂《ふろ》に入る。風呂から上がったとき、理加子は自分の裸の腹を見た。
虫垂炎の手術のあとがある。去年の十月にしたばかりなのでまだ糸のあとまで隆起したようになっている。
(メスのあとがないときの二十代の肉体を、このわたしも持っていたことを証明してくれる男性はいない)
理加子は身体を拭《ふ》いて思う。
(はたして見苦しくないのだろうか)
鏡に映った裸体を見てもわからない。自分の肉体が年月とともに変化しているのか、それすらも気にかける機会がなかった石の年月。
小林が美枝に言ったことばが思い起こされた。
〈ウエストが太くなったんじゃないのか。最近、手を回すときついぜ〉
イタリア料理店では聞き流した小林と美枝のはしゃいだやりとりが、なまなましさを帯びてくる。
なまなましさは、すぐに物悲しさに変貌《へんぼう》する。
小林の顔に別の男の顔が重なった。パジャマを着て洗面所を出ても男の顔は理加子の脳裏から消えない。
居間にも男の顔はついてきた。鮮明な顔ではなかった。眼も鼻もおぼろげである。喉《のど》のあざだけが鮮明だ。あごの下、喉の左側に一円玉ほどの青いあざのある男だった。
名前もおぼえていない。もしかしたら最初からおぼえていなかったような気もする。
仮にXとしておこう。Xを、理加子は大学生のときに知った。
――当時、バドミントン部に入っていた。顧問兼監督の女性がいた。肩書は某研究室助手であった。部員は彼女を「コーチ」と呼んでいた。コーチを訪ねてXはときどき大学の体育館へやってきた。コーチの恋人らしかった。コーチは三十三歳だったはずだから彼も同じくらいの年齢である。
顔を知っているだけで理加子はXとろくに話したことがなかった。それが、ある日、渋谷の道路で出会った。ごく事務的な用事で理加子はその「盛り場」へ「父親の許可のもと」出かけていた。あたりは暗くなっているときで、理加子はひとりだった。
〈理加ちゃん〉
Xは親しげに声をかけてきた。
〈何してるの、ディスコにでも行くところ?〉
〈いいえ……〉
理加子はXに渋谷にいる理由を手短に述べた。
Xは歩く理加子に並んだ。
理加子はXに今日はコーチといっしょではないのかと、時候の挨拶《あいさつ》の延長で、尋ねた。
〈これから会うよ〉
あるホテルの名前をXはあげた。
〈そこで待ち合わせているから〉
〈そうですか〉
〈駅に行くならこっちから行ったほうがいいよ〉
宮下公園を抜けて駅に出るコースをXは教えた。その公園の近くに彼がこれから向かうホテルもあった。
理加子はXと公園を歩いていった。
〈これから……と〉
Xはコーチの名前をあげ、
〈これからあいつとセックスするんだぜ。これからセックスしようとしている男と理加ちゃんは並んで歩いているんだ〉
〈そうですか〉
化粧することや着飾ることを「許可」されなかった理加子は大学生のときでも高校生にまちがわれる風貌をしていた。そういう自分をXはおそらく、記号のように純情な女子大学生、だと思いこんなことを言って聞かせるのだろう。
Xの、のどかと表現してもいい勘違いを、理加子は憎んだ。同時にのどかなXを体内に受け入れるコーチの健やかな肉体をうらやんだ。
〈そっけないんだな〉
〈なにがですか?〉
〈反応が。それとも冷静なふりをしてるのか〉
〈Xさんとコーチがセックスするからといってわたしが冷静でいなくなる必要はないのではありませんか〉
〈そうかな。自分に対していつも指図してくる立場にある人間がこれから自分の隣を歩いている男の身体の下であえぐのだと思うとおもしろくないか?〉
COCA−COLAの大きなネオンライトが白色から赤色へと変化した。端から順に、ちかちかちか、と白色から赤色へ変化する。
〈そうかもしれません〉
Xの顔が今までとはちがう色合いに感じられた。彼の顔が脂性の光を発散していた。
〈意外にXさんは――〉
〈意外に?〉
〈…………〉
しばらく表現を考えたのちに、
〈意外に男らしいんですね〉
と、理加子は言った。
Xは立ち止まり、理加子の手首をつかんだ。
〈キスしていいか〉
〈なぜですか?〉
〈自分のコーチがホテルの部屋で男を待っているときにその男とキスをするのはおもしろいと、きみは思うんじゃないかと思うからだよ〉
〈歯に食べ物のカスがたまっていなかったらおもしろいと思います〉
〈コーヒーしか飲んでないからたまってないよ、きみは?〉
食後には歯を磨くからたまっていない、と理加子が答えている途中にXは理加子のくちびるを塞《ふさ》ぎ、乳房を片方だけ強くつかんだ。
キスをしたことがなかったのでキスというものが体験できてよかったと理加子は思った。
Xは以後、体育館にも部室にもバドミントン部にかかわる場所には来なかった。だから理加子もそれっきりXには会わなかった――。
(Xに恋愛感情を抱けるとよかったのに)
パジャマの上にカーディガンをはおり、理加子は石の精神を忌《い》んだ。
(コーチの恋人を好きになってしまった、どうしたらいいのだろう、と悩めればよかったのに)
しかし、理加子が仮にXを「好き」になったところで、彼女は、自分がXにひかれるのはXがコーチの恋人だからであることに気づいてしまうだろう。気づかずにいられる精神でなくては恋愛感情を形成できない。
理加子が恋愛感情を形成するためには、理加子が理加子自身を欺《あざむ》く努力を要する。努力。まさしく努力が、要る。
電話が鳴った。
【大屋敷でございます】
【…………】
一呼吸おいてから、相手は名乗った。江木であった。
【月曜の午後九時だけど、電話、今ならいい?】
【……いいですけど……】
【相変わらず不機嫌そうなんだなあ。家の人がそばにいるの?】
【いいえ。ひとりです】
【ひとり? なら、さあ、もう少し明るい声を出したら? ひとりのときって電話がかかってくるとうれしいだろ】
【そういえば……】
【そういえば、って、なに、それ? そういえばうれしい、っていう意味?】
【ええ】
【じゃ、うれしい、って言えよ】
【うれしい】
鸚鵡《おうむ》返しに言う。
【うれしいわ電話くれて、って言ってみな】
【うれしいわ電話くださって】
【くださって、じゃないだろ。くれて、だよ】
【うれしいわ電話くれて】
【どう? 言ってみるとほんとにうれしい気になっただろ】
【そういえば……】
【また、そういえば?】
【なりました】
【なりました、じゃない。なった、でいいんだよ】
【なった】
【悪いけどさ、そうやってしゃべってくんないかな。丁寧な話し方されると話しづらいから。丁寧だとかえって俺《おれ》を避けてるみたいだぜ】
【そんなことはないんです。ただ……】
Xのことを考えていたところへの電話だったので、理加子には洋服を着替えているところを江木に見られたような感覚があった。
【一日じゅう、しゃべっていなかったので声がかすれただけです……かすれただけよ……】
【避けられてないわけね、俺は】
【ええ】
【避けられてなくて、いやがられてもい……】
江木の声が不明瞭《ふめいりよう》になるのが理加子を不意にいらいらさせた。
【好きです、わたしは江木さんのこと】
そんなあ、避けてないわよ。ほんと? ほんとよ。嫌われてない? 嫌ってないわ。
そうやって明るくこざっぱりとした口調を使って、会話を、色気めいた方向へ持ってゆく――そういう行為が理加子にはたまらなく薄汚く、ねっとりとした行為に思われる。
そんな行為をするくらいなら「わたしは江木さんのことが好きです」と言ってしまったほうがいいではないか。
【……それは、うれしい……。しかし、大屋敷さんは急に大きな声を出すんだな。ふだん小さい声なのに】
【江木さんの声がぼそぼそするから、いらいらしたのです……したのよ」
【これからお茶飲もう】
【これから? これからって……】
【今、P駅にいるんだよ。駅から遠いの?】
【…………】
【駅から遠いのかって訊いてるんだ。答えてよ】
【十二分ぐらいです……ぐらいよ」
【用意の時間こみで九時三十五分。改札で待ってるから。じゃ】
電話は切れた。
つーつーと切れた音のする受話器を、しばらく眺めたのちに、それを置いた。
「体重を一グラム弱にして」
言ってみた。
パジャマの上からコーデュロイのズボンをはき、カーディガンのボタンをすべてとめて、首に大判のバンダナをスカーフのように巻き入れて、理加子は自転車に乗った。
カーディガンの毛糸の編み目から湿った夜風がすうすう入った。
大きな庭のある家の塀から桜の木が枝を道路にまで伸ばしていた。桜が咲いていた。
ともにエプロンをかけた女ふたりが路地で立ち話をしている。
春が来ているのだった。
自転車をこぎながら理加子は江木の外見を頭に思い起こした。
長身の理加子でも見上げるように背が高く、肩幅が広く逆三角形を描いて腹が締まり、太い腕は毛深く情熱的で陽に焼けた精悍《せいかん》な皮膚と鋭敏そうなぎろりとした眼をもった顔。
(高校時代は剣道部……)
自転車をトキノヤ・スーパーの前にとめ、理加子は駅の構内に江木の姿を求めた。
彼は電話で言ったとおり改札口のわきに立っていた。
ジーンズにステンカラーの紺の木綿のコートを着ている。コートの袖《そで》はたくしあげていた。
「どうも」
江木は低く言った。コートは、彼の肩幅にはやや小さめで彼の顔を大きく見せた。ステンカラーはきつそうに彼の首を締め、彼の頬《ほお》を下ぶくれに見せた。紺色は焼けた彼の皮膚をくすんで見せた。
自転車をこいでいるときに思い起こした男は駅にはいなかった。
「……こんばんは」
理加子は、焼けた皮膚には鉄紺よりも藤紺のほうが合うだろうと思いながら江木に頭を下げた。
「早かったなあ。九時十五分だぜ。まさかこんなに早く来てくれるとは思わなかったよ。女の人ってちょっと出かけるのにもものすごく用意の時間かかるじゃない?」
「自転車で来たんです……来たの。用意はなにもしなかったから」
「すっぴんなの?」
江木は手のひらで理加子の頬をなでた。ひっ、と理加子はあとずさりした。江木は電車に乗って来たのではないのか。電車に乗ったときに吊《つ》り革《かわ》をつかんでいるのではないのか。吊り革をつかんだ手のひらが顔に触れたっ、と思った。
「そんなに驚くなよ、へんな奴だな」
「いえ……」
顔を洗いたくてたまらなくなる。ハンカチで顔を拭きたかった。しかしそんなことをしては、江木を不愉快にさせる。理加子はうつむいた。
「大屋敷さんて、まつ毛が長いんだな」
江木はほめていてくれるのだろう。それなのに、
(ハンカチで顔を拭くチャンスだ)
と理加子は思い、うつむいたまま拭いた。拭いてから江木に申しわけなく思った。
「俺はわからないから大屋敷さんにまかせるよ」
「なにをですか?」
「なにを、って、お茶飲む店をだよ」
「……わたし、知らないんです」
「知らない?」
「このあたりは自宅近辺なのでかえって喫茶店って利用したことがなくて」
「そうか……じゃ適当に歩いてみる?」
「あの、江木さん、帰りはどうやってお帰りになるんです……なるの?」
「俺? 俺は今日は電車で来たから――」
各線が連絡している駅まで出てそこで乗り換えて帰るという。
「じゃあ、もしよかったら電車に乗りませんか?」
K駅で降りないかと理加子は提案した。K駅はP駅より三つほどその連絡駅に近い。
「どうして?」
「あの、この駅だと、なんだか、家族の知り合いに出会うような気がして……」
知り合いがもし江木としゃべっている理加子を見かけ、父親か母親を見舞った際に何気なく、悪気など何もなく、何気なく伝えたとしたら、そのあと理加子を待ち受けるどんよりとした気体がたまらなかった。
(なぜ二十九にもなって女子中学生のような心配をしなくてはならないのだろう)
やりきれなかったが、やりきれなさよりもはるかに、どんよりとした気体のほうが恐ろしかった。
「いいよ、そうしよう」
江木はさっさと切符をふたり分買い、一枚を理加子に渡し、
「俺は、先に歩いていくから離れて乗ってくればいいよ」
と、改札を抜けていった。
『シェリー』。
K駅の喫茶店で江木と理加子は向かい合ってすわった。
「たいへんなんだな、喫茶店に入るぐらいでそんなに気をつかってるんじゃ」
気の毒そうに江木は理加子を見ている。
「すみません。ありがとう」
「ううん。いまどきの東京に大屋敷さんのような女の人もいるのかと感心してる」
「いいえ、ちがうんです。感心していただくようなことじゃなくて、わたしはただ自分の保身で……」
理加子は曖昧《あいまい》に言い、江木はただ、はは、と笑っていた。
「これを」
切符の代金を理加子が江木に渡そうとすると、
「いいよ。俺が勝手にお茶飲もうなんて呼び出したんだから」
江木は金を理加子に返した。
「でも、年下なのに」
理加子がまた金を渡そうとすると、
「年下なんて、そんなこと気にしてるの? 一つだろ? 同じだよ」
江木は眼を細くし、金は受け取らなかった。
「ありがとう」
理加子が礼を言うと、江木の眼はいっそう細くなった。藤村さんが笑ったときの眼に似た糸のように細い眼になっている。
「年下だって気にするわりに、年下に向かって敬語使うんじゃ、へんだぜ」
江木は運ばれてきたコーヒーに口をつける。理加子もクリームなしのココアを飲んだ。ココアがやわらかに胸にひろがり、こんなふうに男性とふたりだけで喫茶店に入るのは何年ぶりだろうかと考えた。そして、指を使ってでないとすぐには計算できないほど年月がたっていることを知る。
「月曜以外の日はどこへ出かけてるの? お花とかお茶とかのお稽古《けいこ》でも?」
「いいえ……」
病院へ行っている、と、理加子はどうしても言えなかった。春の夜、男性とココアを飲む時間。そんな時間を自分もかつて何度も過ごしてきたと思いたかった。病院を忘れていたく、重い血縁を忘れていたく、そして、その暗い話題を江木に聞かせて彼まで暗い気分にさせたくなかった。
「出かけているわけではないの。家の人が電話を使う時間が決まってて、それが十一時からなの」
「ふうん……。よっぽどお堅い家なんだなあ」
「お堅い家、というのとはちがうと思うけれど……」
「大屋敷さん、ひとり娘だろ。結婚しろ、結婚しろ、ってうるさくってしようがないんじゃない?」
「ん、そうね……」
理加子は江木に何と答えればいいのか迷った。
〈結婚するなど考えないように〉
父親から言われたことがある。
〈結婚について考えるなど、ふしだらな娘の想像だ。そんなことしか考えないから女は社会のやっかい者なのだ。判断力も知力もない者が結婚について考えてもしかたがないことなんだ〉
父親は理加子が成人したときから口癖のように言っている。
〈結婚なんかしないほうが幸せよ。結婚なんかしたら何もできなくなるわよ。結婚すると、ほら、いつもいつも人を憎んで暮らしていなくちゃならないでしょう。病気になるわよ〉
母親から言われたことがある。
〈結婚なんかしないで、一生、家にいたほうがいいでしょう、あなただって。結婚なんかしないで、あなたはあなたのお部屋で編み物なんかをしていたほうがいいわ〉
母親は理加子が高校生になったときから口癖のように言っている。
〈ひとりっ子なのだから、わしの世話をするのがおまえの義務なのだ〉
〈あなたを生んだことで私の髪は抜けて、歯が悪くなったの。あなたはきれいな歯をしていていいわね〉
〈地方公務員になりなさい。地方公務員なら男女の賃金格差がないし、福利厚生もしっかりしているし、年金だっていい、地方公務員になれば結婚しなくてすむ〉
〈地方公務員になったらいっしょに温泉に行きましょうね。あなたにはお友だちがいないに決まっているから私といっしょのほうが楽しいに決まっているわ〉
父親と母親は別々の部屋に住んで、それぞれの部屋に理加子を呼び出しては同じようなことを言ったものだ。
理加子が二十四、五歳のころ、P市役所で父母と顔見知りの気のいい知人が縁談を持ってきたことがある。
〈結婚などさせませんから、娘には〉
父親は玄関で大声で怒鳴り、以後、理加子に縁談はなかった。
理加子自身、幼いころから結婚を考えたことがなかった。結婚というものが少しも幸福なものには思われなかった。子供を生む想像もしたことがない。子供を生むこと、それは、重い血縁がまたその子にかぶる不吉な未来でしかなかった。
しかし、こんな家庭背景を他人にどう説明すればいいのだろう。
「親は結婚するな、って言うのよ。まあ、いろいろと事情があって……」
理加子はもう家の話をしたくなかった。
「へえ、きっと、おやじさんもおふくろさんも大屋敷さんがかわいくてしかたないんだろうな」
「……ねえ」
もう家の話をしたくなかった。
理加子は、
家の話を、
したくなかった。
「ねえ、江木さんは不規則な仕事でしょう? どういうときに休むの?」
「適当、だったけど――」
江木は理加子から目をそらせ、
「――これからは大屋敷さんに合わせて休むよ」
と、砂糖の瓶の蓋《ふた》を開け、閉めた。
「あら、それは光栄ですこと」
男に手慣れた女のように理加子の口は紋切り型の返答をした。「ことば」に理加子の意識がまったく向いていなかったために。
ひとえに、
話題が家からそれたことに、
ほっとしていた。
「もっと仲よくなりたいから」
「ありがとう」
ふしぎなほど理加子は落ちついてほほえんだ。
江木はおそらく今までに何人もの女性をあからさまにうれしがらせることばを言ってきたのだろうと思った。その健やかな神経を、理加子は風光明媚《ふうこうめいび》な土地でも眺める心地で見つめたのだ。
「小林のTV局が募集してるシナリオに応募するんだって?」
「ただ書いてみてるだけよ」
「書いてみられるだけですごいよ。俺、今はバイク急便のバイトなんてやってるけどさ、いつかは馬を買いたいんだよ。馬の牧場やって競馬馬と騎手を育てるの、それが夢なの。バイクも速いし馬も速いだろ、走るの。夢の夢なんだけどさ、夢みてる。人に話すと笑われるから秘密にしてたんだけど……」
きみだけには秘密を打ち明けるんだよ、きみだけには夢を語ろう、という態度を、これもまたおそらく江木は今までに何人もの女に見せてきたのだろう。技巧として見せるわけでなく、彼の内の健やかな性の神経は無意識に女に媚態《びたい》を示し得るのだ。
健やかな神経とは、結局、そういうことなのだ。
健やかな神経が、かなたにあるのどかな風景となって理加子の前にひろがっていた。
体重を一グラム弱にして
空に飛んでゆく
そうすれば視界がひらけて
視界がひらけて
空から視界がひらけて
ひらけて
六章 あれほどの空、あれほどの雲
病院に行かなくてはならないので、江木とはそんなに会うことはなかった。
電話はよくかかってきた。病院に行かない日や、病院に出かける少し前の時間。
病院に行かない日には一日に四回かかってきた。
電話機は居間と玄関の中間点にある。はめ殺しの窓がすぐそばにあり、忍冬《すいかずら》がガラスをつたっている。日ましに緑濃くなる葉の隙間《すきま》からこぼれてくる、日ましに強くなる光を浴びながら、月曜日の理加子は一日四回の電話を受けた。
電話で話すとき、理加子は黒い受話器の送話口の部分を手のひらで包み込むようにしていた。
理加子の家の電話機は黒いオーソドックスなものである。小さな丸い穴がたくさん開いた握りこぶし大の送話口の部分には「過去」が残っていたのだと思った。
〈ゆうべは徹夜でマフラーを編みあげたの。彼の誕生日に間に合わせようとがんばったのよ〉
〈彼から電話がかかってきたんだけど、運悪く出かけててね、あとでどこへ行ってたのかってうるさく訊《き》かれたわ〉
〈電話で三時間もしゃべってたからさすがに家の人からあきれられちゃった〉
思春期のころ、青春期のころ、周囲の友人たちが、教室や渡り廊下でかわす会話は、理加子にとっては見知らぬ異国の話のようであった。
【大屋敷さん、今、何着てるの?】
電話で江木が訊き、
【トレーナーの上下】
と理加子が答える。
【なんだ、つまらない】
【じゃあ、ドレス】
【どうせ嘘《うそ》言うならミニスカートのほうがいい】
【じゃあミニスカート】
何の意味も思想性もない会話。
そんな会話を電話で頻繁にかわす時期にそんな会話を一度もかわさずに理加子の時間は過ぎていた。「過去」が送話口の中に残っていたのだと、だから理加子は思った。
【カツ丼《どん》って食べたことがある?】
【あるよ、そりゃ。ないの?】
【ええ】
カツ丼を理加子は食べたことがなかった。学食にはカツ丼はなく、カツ丼のあるような店に大学の帰りに入ることが、理加子の生活には欠落していた。
【一度食べてみたいな】
理加子が言うと、
【ばかじゃないの、あんた】
江木はぶっきらぼうに言った。
【カツ丼くらい食べろよ】
命令形で言われると、理加子はごく素直に明日はカツ丼を食べてみようと思う。
【小林に頼まれてTVに出たことがあるんだぜ、二回】
エキストラとして『水曜ドラマパック』に出たことがあるのだと江木は言った。
【あいつと共演したんだ】
人気絶頂のアイドル・タレントの名前をあげた。『水曜ドラマパック』は、アイドルや若者に人気の女優がドラマ主演することで視聴率をとる傾向のある二時間枠の番組だ。
【あいつの部屋にガスの点検に行く役】
セリフはなかったが休憩時間にサインをもらっておき、後日、知人に二千円で売ったと冗談まじりに江木は言った。
【それからあいつとも共演した】
女性ファッション雑誌の表紙をよく飾る女優を車で連れ去る役もしたという。
【どっちも実物は汚いんだよ。スタイルはいいんだろうけどさ、しじゅうドーランを塗るせいなのかなんなのか、肌がガサガサで、整形してるのがありありなんだぜ。大屋敷さんいつも白粉《おしろい》もつけてないすっぴんだけど、すっぴんであんなにきれいなんだから、ふたりとも大屋敷さんを前にしたら顔を隠すよ】
乱暴な口をきいたあとに江木は言う。
理加子は自分が、彼が共演したというタレントや女優より優れた外貌をしていると信じはしなかったが、自分を喜ばせようとして言ってくれる江木の親切心をうれしく思い、そして、受話器の中に残っていた「過去」をうれしく思う。
だが、電話を切ったあと、病院へ出かける前には玄関で手を組み祈る。
(神様。どうか、わたしだけが電話で楽しい時間を過ごしたことをお許しください。父母に隠れて電話していることを、どうかお許しください)
いかなる負い目なのか、理加子自身、よくわからない。
雨垂れが一滴一滴一滴一滴一滴したたって石にくぼみを作るように、理加子の精神には、二十九年間にくぼみが作られていた。
神様に祈りながらも、そのくせ理加子は江木の電話によって「過去」を取り戻し、「過去」でやり残したことを行う満足感に包まれた。
『ぴょんちゃんシール』を台紙に貼《は》ることを休みがちになり、シールは箱の中にそのままたまっていった。江木と、電話でではなく会うときにはパジャマの上にズボンとカーディガンを着るのではなく、ちゃんと着替えてズボンをはき、シャツを着た。
『シェリー』はいつもピアノ曲をかける店だった。
白いグランドピアノが置かれているが生演奏ではない。自動演奏機が取り付けてあり、スタンダードのジャズを静かなピアノソロにアレンジした曲を流している。
喫茶のほかに家庭料理ふうな食事もできる落ちついた店だった。
「ぐうぜん入ったにしてはいいとこ見つけたよな、俺《おれ》ら」
「そうね」
江木と理加子は、ピアノと壁と窓に囲まれたあんばいになった前と同じ席にすわっていた。
「いつもこの席が空いてるのね」
「そうだな。四回ともここだな」
『シェリー』で会うよりも、電話で話すほうがずっと多かった。病院に行かなくてはならないことを江木には伏せたまま、時間が許すときだけ電車で三つ目のこの店に来ることができる。
江木はバイクで来た。理加子のほうが先に店に着いたとき、理加子は江木のことを考えて待っている。と、江木は見上げるように背が高く鋭い眼をして頬《ほお》がこけた精悍《せいかん》な顔をしている。そして、ドアから彼が実際に入ってくると、彼は目立つほど長身ではなく面皰《にきび》が顔一面にあり温和な眼をしていることを知る。理加子は彼の腕を見る。腕だけは待っているあいだに考えたとおりの腕である。
理加子は江木の腕を美しいと思っていた。手首から手の甲にかけて骨が浮きあがり、指に毛がはえている。男の腕、男の手である。
猥褻《わいせつ》な感覚での「男」ではなく、彫刻としてかたどれば一目瞭然に「男」であると判明するような男の腕であり男の手であった。
「江木さんは美しい腕と手をしている」
「は? なに、それ?」
「江木さんの手は美しいわ」
「こんなぶっとい腕が? 美しいってのは、ピアニストみたいな腕を言うんじゃないの? 白魚のような指をした手のことだよ」
「ピアニストの手って、白魚のような指じゃないのよ。大きくて骨ばっているんですって」
「そうなの?」
「ピアノは手が大きくなければ鍵盤《けんばん》をつかめないし、骨ばっているほどでなければ強い音を出せないもの」
「そうか、言われてみればそうだよな。大屋敷さんの手は?」
江木が理加子の手をとろうとしたので、理加子はさっと手を引いた。
「触らせてくれないのか、けち」
「指が短くて嫌いなの」
「見せろよ」
命令されて理加子はさっと手を出し、さっと背後に手を引っ込めた。
「小さい手でいいじゃない。ピアノは弾きにくいかもしれないけど」
「弾きにくかったわ。へただった」
「ピアノ、やってたの?」
「オルガン。小学校のころだけ。ヤマハのオルガン教室」
「あ、それ、俺の姉貴も通ってた」
「お姉様? お姉様っておいくつなの?」
「俺より二つ上」
「そう。ねえ、お姉様のこと、好き?」
「わかんないよ、そんなこと。へんなこと訊くんだな。家族なんて好きだとか嫌いだとか考えないもんだろ。忘れてるよ、ふだんは家族のことなんか」
江木も神奈川県の生まれで、実家は神奈川にある。
「おうちによく帰る?」
「いや。そういや、おととしから帰ってないな」
「帰ってこい、って言われない?」
「言われないよ。男だし」
「じゃあ、お姉様は?」
「もう結婚したよ。早かったな。短大出て一年くらい勤めてすぐ結婚した」
「お姉様と電話したりする?」
「電話? しないよ」
「全然、しないの?」
「そういや法事のことで電話があったかもしれない。それぐらいだよ」
「そのとき、電話があったとき、電話が終わって電話切るとき、なんて言って切った?」
「なんて言って切ったってどういうこと?」
「切りぎわに、何か言うでしょう」
「忘れたよ、そんなこと」
「思い出して。なんて言った?」
「ほんとにおぼえてない」
「バイバーイ、って言った?」
「ええ? なんだって?」
「バイバーイ、って言って電話切った?」
江木は奇妙な顔をして理加子を見、笑うのをこらえるようにしてコーヒーを飲みこんだ。
「なんだよ、それ?」
「だから、お姉様に、バイバーイ、って言って電話を切ったかって訊いてるの」
「言わないよ、そんなこと」
言わない。江木の答えを自分が明らかに喜んだことを理加子は認めた。
「仲よしじゃないの?」
「だから、仲よしだとか好きだとか、そういうことは考えないよ。へんな奴だな」
会話がとぎれた。
店員が盆にケーキをのせて運んでいる。
「ケーキでも食べたら?」
「ううん。いらない」
「ダイエットしてるの?」
「してる、というほどでもないけれど、あまりお菓子を食べないように、ってくらいはしてる」
「ダイエットなんかする必要ないのに。大屋敷さん、細いじゃない」
「ありがとう」
江木の親切なことばに理加子は礼を言った。
「どう、小林の言ってた、あれ、なんだっけ、『ビッグ・ウエンズデイ大賞』のシナリオ書きは進んでる?」
「ちょっとお休みしてしまってる」
『ぴょんちゃんシール』を台紙に貼《は》りつけるのを怠るようになり、シナリオのほうも停滞ぎみになっている。
「どんな話?」
「応仁の乱のころの話なんだけれど……ちょっと背伸びしすぎたのか難しくなってきちゃって最後をどうしたらいいのか……」
「おうにんのらん、って?」
江木は理加子に訊き、
「室町末期にあった戦争。でも応仁の乱そのものの物語じゃあないのよ」
理加子はごく単純に答えた。
江木は気まずそうな顔をした。
「俺、知らねえんだよ、そういうこと」
「え、なにを?」
「歴史のこととか……」
「ああ、べつにいいじゃない。知らなくったって。わたしもよくわからないんだもの。小道具にその時代を借りただけで……」
「大屋敷さんって歴史学部だったの?」
「いいえ、教育学部」
「教育学部なのにそんなに歴史のことをよく勉強したの?」
「だから、わたしもわからないわよ。だから困っちゃったなあ、と思ってるんじゃない」
「ムロマチジダイの物語にしよう、って思いつくだけで俺には無理だよ。俺も大学行っときゃよかったな。予備校には行ったのに」
「江木さん、予備校に行ったの?」
「うん。暑くなりはじめるころ、ちょうど今ごろの季節だなあ、そのころにもうギブアップしちまってさ」
「それで……」
一つの光景が一瞬、理加子の脳裏をよぎった。ほんの一瞬である。絵に描かれた光景。キリコの絵である。なんという題名なのかわからない。無人の街、晴天、石の建造物。路にひとりだけ誰かの影が見える。その絵が脳裏をよぎって、すぐに消えた。
なぜ唐突にその絵の光景がよぎったのかわからない。一瞬だった。理加子自身、脳裏にその絵が駆け抜けたことをすぐに忘れてしまうほど。
「……それで、予備校はやめたの?」
「いや、それが在籍だけしてさ、予備校に行くふりして映画館に行ったりしてた」
話題が江木が当時見たという映画のことに変わった。
「ビデオなんて便利なもんがあのころはなかっただろ。名画座によく行ったんだよ」
「うらやましいわ」
「なんで」
「映画館に行くのはいい顔されなくて……」
P市役所の近くに公民館があった。ときおりそこで映画が上映された。理加子が「許可」された唯一の映画鑑賞方法であった。
「黙って行っちゃえばよかったんだよ、そんなもんは」
「でも、学費や生活費は、みんな親が出してくれてるんだから文句を言う権利はないわ」
理加子が言うと、江木は理加子の爪《つめ》に指でそっと触れた。爪は皮膚ではないので触られた感覚があまりなく、理加子は手を引かなかった。
「……大屋敷さんみたいな人がいまどきいるんだな。頭が下がるよ」
「いいえ。わたしはただ、怖かったの。怖かったのよ」
理加子の「家」に対する恐怖の種類は、「家」が血縁の重みのかたまりである場所にもかかわらず、高利貸しから借りた金の返済期日が迫り、金を作るあてもなく契約不履行で訴えられるのではないかとおびえる貧乏人のそれに似て、血のぬめりをまったく感じ得ない種類のものだった。
「いいよ。まじめなんだよ、大屋敷さんが」
江木は眼を糸のように細くした。
「そんなまじめな大屋敷さんが時間を作って、こうして『シェリー』に来てくれるんだから俺はありがたいと思わなくっちゃな」
「わたしこそありがたいと思っています」
かつて何人かの男性が理加子に親切にしてくれた。電話をかけてきてもくれた。理加子が「はい」を二回、「わかりません」を一回言う応対で、皆それ以上、接近してはこなかったのに、江木はそれを意に介せず会う時間を作ってくれるのだ。
「わたし、本当にありがたいと思っているんです」
「いるんです、じゃなくて、いるわ、だよ。すぐまちがえる」
江木は上半身をテーブル越しに理加子に近づけた。腋臭《わきが》がにおった。江木に感謝の念や好意を抱いていても、彼の腋臭に気づかなくなることは理加子にはなかった。
「……いるわ」
理加子は言いなおし、腋臭という客観的事実と、江木に好意を抱くという主観的事実は別のものだと思う。
「映画の話に戻るけどさ」
多少、ぎこちなくなった場の雰囲気をほぐそうとする江木の気配りに理加子は感謝した。
「映画館に行かせてもらえなかったんじゃ、そんなに映画は見てないかな」
「TVでは見た。大学に入ってね、家庭教師のアルバイトしたの。それで21インチのTV買ったの。それを部屋につけて、それからは映画番組をよく見たの。すごくうれしくて、よく見たの」
「ほんと。じゃ、『陽のあたる場所』って見た? 俺、あの映画が好きなんだ」
「見たわ。エリザベス・テーラーのでしょう」
「うん。テーラーじゃなくってさ、モンゴメリー・クリフトに殺される最初の恋人をおぼえてる?」
「おぼえてる。なんとかウインタース」
「そう。シェリー・ウインタース。じゃ『明日なき十代』は?」
「それは見てない」
「じゃ、『ポセイドン・アドベンチャー』は?」
「それは見た。潜水する役やってた」
「うん。あのころはもう年とってたけどさ、俺、シェリー・ウインタースが好きなんだよ。道歩いててこの店に入ろうって思ったのも、ここが『シェリー』って名前だったからなんだぜ」
「そうなの」
「日本では名前知ってる奴がそんなにはいなくてさ、あんまり人には言わないんだけど、俺あの人、いい女だと思うんだよな」
「いいわよ。『いつか見た青い空』なんかすごくよかったじゃない」
「あ、それは見てないな」
「よかったわ」
気分が弾んでゆくのを理加子は感じた。
「江木さんはセンスのよい人だと思います」
シェリー・ウインタースのファンだったわけではない。シェリー・ウインタースそのものに、もはや理加子の気は向いていなかった。シェリー・ウインタースがいい女優だと思うような江木の感覚を好ましく思った。
「わたしは江木さんが好きです」
なかなかいいセンスね。好きだな、そういうの。
こう言うべきだったのかもしれない。「好き」の目的語を「シェリー・ウインタース」に見せかけて実は「江木」であるようににおわせる会話にもっていくほうが「正解」なのだろう。だが、見せかけて、さりげなくにおわせる行為にたまらない不潔さを、理加子は感じた。
「とても好きです」
はは、はは、と江木は笑った。
「ハンガリアン・シチュー、だって。大屋敷さん腹へってない? これ、ごちそうするよ。お礼に」
江木はメニューを指《さ》し、指してすぐに店員を呼んだ。
クレヨンで書いたような文字で「ハンガリアン・シチュー――ハンガリーの田舎風の煮込みです」と、たしかにメニューにはあった。
江木と待ち合わせた時刻は七時半である。理加子も夕食を食べていなかった。ハンガリアン・シチューを理加子も注文した。
自動ピアノが演奏をはじめる。聴いたことのある曲だった。『いつか王子さまが』。
(どことなく投げやりなメロディーなのに、なぜ、こんな題名がついているのだろう)
ぽこぽこと勝手に動くピアノの鍵盤《けんばん》を理加子は見ていた。
シチューが運ばれてくる。よく煮込んだ肉とじゃがいも。パセリが香辛料としてふんだんに使われている。大きく切ったセロリがさくさくと口当たりよく油っこさを消していた。
「おいしいわ。前からこれを注文してみればよかったわね」
「なら、よかったけどさ」
江木は一口、シチューを食べただけでスプーンを置いている。
「しまったなあ。俺、パセリとセロリがダメなんだよな」
「…………」
キリコの絵の光景がまた浮かんだ。
「じゃ、セロリだけもらってあげる」
すぐに光景は消え、理加子は自分が一瞬何を思い浮かべたのか記憶がなく、江木のほうへ自分の皿を近寄せた。
「ほんと。じゃ、おことばに甘えて」
江木は器用にセロリだけをフォークで選別し、それを理加子の皿に入れた。パセリのかたまりも入れた。
「かわりにじゃがいもをあげるわ。いやじゃない?」
「じゃがいもはだいじょうぶ」
「そうじゃなくて、わたしがもう食べはじめたのに……」
「いやじゃないに決まってるじゃない。そんなのいやがる奴、いるの?」
家の人。
言いそうになって理加子はことばを呑《の》んだ。
「いやじゃないならいいの。留美ちゃんの弟さんみたいね」
「誰、ルミチャンって?」
留美ちゃんと留美ちゃんの弟が病院食を食べ合っていたことを理加子は江木に話した。
「仲がよさそうでうらやましかったの」
「その、ルミチャンとかいう高校生とその弟にうらやましがられるくらい俺たちも仲よくすりゃいいじゃないか」
むしゃむしゃと江木はシチューを食べた。豪快に食べる姿は気持ちがよかった。
「もっと仲よくなったらそいつらに会いに行こうな。そしたら大屋敷さん、メロンを食べるんだぜ。メロンを食べかけて半分残す。そしてそれを俺が食う」
「ええ、ええ、そうね」
理加子の口角がやわらかに上がった。根底に性の意識を敷いたときめきではなかった。江木の言う光景を想像すると理加子は安らかになった。健全な空気が胸いっぱいにひろがってゆくような安らかさ。
「そして、公園でボートに乗るの」
「ボート、いいねえ。ボートね。よし、ボートにも乗ろう。ジェットコースターにも乗ろう」
「うん。過去を取り戻すの」
「過去?」
「うん。みんなが記入している過去の欄がわたしは空欄のままだからこれから急いで記入するの。シナリオも書く」
「一千万円だったっけ。当たるといいな」
「当たらなくてもいいの。書くだけで」
「だめだめ。当たるんだよ」
「当たる」
「じゃあ、まず、今日、メロンを食おう」
江木は席を立った。
「これからメロンを買いに行こう。コンビニに売ってるだろ」
「ええ。じゃあ、メロンはわたしがおごるわ」
『シェリー』を出た。
コンビニエンスストアがどこにあるのか、ふたりともわからなかった。
江木は400tのバイクを押しながら理加子に並んで歩いた。
「大屋敷さん、メット持ってないからなあ。ケツに乗っけてやれないんだよ。持ってきたらよかったのに。服装はいつもバイク向きなのにな」
「もともとヘルメットは持ってないわ。バイクに乗らないもの」
夜でももう暖かい季節だった。これから夏になるという季節を、夏が終わることを心配して迎えるのはもうやめようと理加子は念じた。
「八時五十分か」
江木は時計を見、
「もう一回、『シェリー』に戻ってくれる? 俺、来るときにバイク・ショップを見たんだ。近くだよ。そこがまだ開いてたらメットを買ってきてやる」
「いいけど、開いてるものなの? こんな時間に」
「開けてる店もあるんだよ。開いてなかったら今度、メロン食おう」
「わかった。ヘルメットってこれで足りる?」
いくらかを理加子は出した。
「いいよ」
「よくないわ。そのかわりメロンおごってください」
「うん、わかった。じゃ」
バイクはすぐに小さくなり、理加子は『シェリー』に戻った。
店員に紙をもらい、江木を待っているあいだにシナリオのつづきを考え、メモした。
重い身体をひきずりながら唖は歩いてゆきました。ようやく海に出ました。
広い海は感動を与えました。
吸い込まれるように海に入りました。大波が石の身体を包み込み、唖はもとの生身の身体に戻りました。
「ああ」
声を上げました。その声は戦場にいるきょうだいの片割れのもとに届き、きょうだいは海に駆けつけ、ふたりは海の中で抱き合いました。空が青く波に映り、ふたりは再会を喜ぶのでした。そして……。
『シェリー』のメモ用紙に文字が並んでゆく。空という字も海という字もない。メルヒェンじみた文字はどこにもなかったが、それは室町末期の戦乱の煙を背景にしたメルヒェンなのだった。
(そして……)
ラストを理加子が考えていると、江木が戻ってきた。
ヘルメットは買えた。
理加子は江木のバイクにまたがった。
江木の背中が理加子の胸を押しつぶし、腋臭《わきが》と排気ガスのにおいが混合する。Xと宮下公園を歩いたとき以来の、男の体温だった。
(29・28・27……21)
Xと会った日から何年たっているのかをバイクの後ろで数える。八年たっていた。
コンビニエンスストアが真っ昼間の輝きを発している。
バイクをとめてそこに入った。
「マスクメロンはないよ。アンデスメロンってのしかない」
「メロンはメロンよ。それでいいじゃない。小さいからふたり分向きだし」
一個680円のアンデスメロンを江木は買い、くだものナイフを理加子は買った。
これから夏を迎えようとする風が、理加子のシャツの木綿繊維の隙間《すきま》から吹いた。
バイクで走っていると高速道路を屋根に利用した小さな公園があった。そこで江木と理加子はメロンを食べることにした。
「ちょうど水飲み台があるわ。ここで切りましょう」
薄暗い中で手を洗い、ポリエチレンの袋を裂き、理加子はメロンを切った。
「はい」
種の部分をナイフですくい取り、立ったまま、メロンを食べた。ごうごうと上を走る車の音が鳴った。
「手がベタベタになった」
江木は手を洗い、つづいて理加子も洗った。ふたりの周囲にはまだメロンの香りがただよったままで、口の中にもメロンが残っていた。
理加子は腰を折り、噴水のような水飲みで口をすすいだ。すすいでいる理加子の頭にぶつかるように江木も口をすすぎにきた。
理加子は口をすすぐのをやめ、上体を起こした。
「大屋敷さん、一番最近キスしたの、いつ?」
理加子の考えるスピードよりずっと早く江木は質問し、
「八年前」
理加子が答えると、
「八年前!」
江木は大きな声を出し、
「そりゃまたずいぶん昔だな」
暗い中にほんとうに驚いている眼があった。
「江木さんは?」
「……三ヵ月くらい、前かな……。ディスコで」
「そう。みんな空欄じゃないのね」
「大屋敷さんは、近寄り難いんだよ」
「なんて月並みなこと言うの。それで納得できたら世話はいらない、ってものじゃない?」
「でも実際、近寄り難かったぜ。最初会ったときなんか。背筋まっすぐでさあ」
「わたしは怖そうな人だと思ったわ」
「俺が?」
「ええ」
「それは俺が大屋敷さんを、一目、いや三目ぐらいか。会って三目見たときから好きだったからだよ」
江木は理加子にキスをした。
それ以外のことは何もしなかった。
透明な水枕《みずまくら》のような尿集積パックがいっぱいになり、理加子は看護婦に連絡をして取り替えを頼んだ。
金曜日から父親の容体がかんばしくなかった。手足のこわばりがひどく、嘔吐《おうと》がつづいた。手足のこわばりのために用をたすことができず、尿路に細い管をさしこんだままベッドの横の集積パックにためるのだ。
「あ、臭いわ。大便もしてるわね。拭《ふ》かなくては」
もうひとり看護婦を呼んだ。ふたりがかりでないと父親の足を持ち上げることはできない。看護婦に協力してもらい、手術用の手袋をはめた理加子が拭くのである。
ふたりが足を上げさせようとすると父親は大声を出した。
「痛いっ、痛い、痛い、痛い」
叫んでいるというより、演説しているような声を出した。
「でも、がまんしてよ。そうしないと娘さん、うんこが拭けないじゃないの」
年配のベテランらしい看護婦は父親の足をさらに曲げさせようとすると、
「そういう問題ではない。どういう家庭教育を受けたんだ。そのことばづかいがいやでたまらないんだ」
彼女に唾《つば》を吐いた。
失礼しました。お父さん、なんてことを言うの。看護婦さんがせっかく足を持ってくださってるのに。
そう言い、彼女に謝ろうと、理加子はすぐに思った。だが、理加子は全身が硬くなり立ちすくんだ。父親を「批判」することは遠い遠い過去から「許可」されていなかった。
「すんませんねえ、下賤《げせん》な出なんですよ」
彼女は袖で顔にかかった父親の唾を拭《ぬぐ》い、もうひとりの看護婦にてきぱきと指示をして父親の足を曲げさせた。
「早く、拭いてください」
「はい」
理加子はタオルで父親の下腹部を拭いた。ゆるい便は一枚のタオルからはみ出し、何枚もタオルを使ってようやく拭き終えた。
床に便がこぼれ、それを始末し、タオルを洗いにゆく。紙おむつを使いたかったが父親は自分の許可したタオルしか腰に巻こうとせず、あまりに汚れたタオルを捨てると、理加子を怒鳴りつけた。タオルの一枚一枚をすべておぼえているのだった。
タオルには便が付着しているので、手術用の手袋をしたままそれをつかみ、こすり、トイレの便器に捨てる。そうしてから、洗濯場に行き洗濯をする。すすぎがすむとエタノール消毒液をスプレーし、手袋を捨て、タオルを屋上に干す。
四、五人の看護婦が煙草を吸いながら談笑していた。
理加子は彼女らに頭が下がる思いがする。医師もたいへんな労働だが、それ以上に看護婦は重労働だと思う。
(どうして医師の給料と看護婦さんの給料は同じではないのだろう)
屋上から戻り、ナースセンターへ先刻の看護婦に謝りにいった。
「べつにいいけど。病人はわがままだからね、慣れてるわよ。そんなことより、おたく、義理の娘さん?」
「いいえ」
「じゃ、長いこと別々に暮らしてたの?」
「いいえ」
「……そう。なんだかヘンね。おたくのところ」
看護婦は自分の肩をぽん、とたたいた。
「ああ、べつにおたくが冷たい、っていう意味じゃないのよ。でも、おたくみたいな父娘って初めて見たわ。私なんか、この仕事、長いでしょ。実家に帰ったときなんか、まあ、私の年だからさ、もう父も母も七十で、そりゃそれなりにこっちもいたわっててあげるけどさ、なんていうのかなあ、グチこぼしたりさ、バカなこと言ったりさ、もう羽のばしてるわけよ。おたくはかわいそうなぐらい緊張してるじゃない。最初はずっと、会社の上司かなんかかと思ってたくらいよ」
理加子が黙っていると、
「まあ、なにかいろいろと事情があるんだろうね、事情のある家ってほんとにそれぞれ違った事情があるみたいね。患者さんと家族を見てると思うわ。一口では言えないよね、家庭内のことはさ」
ない家はみんな似たりよったりだけどさ、と、彼女はあははと笑った。
尊敬と感謝の気持ちで理加子は胸がつまり、泣きそうになるのをこらえた。
「おたく、独身なんでしょ。きっとすぐいい人が見つかるよ。かわい子ちゃんだもの、おたく」
彼女は理加子の尻を強くたたいた。かわい子ちゃんという古めかしい言い回しが彼女のおおらかな人柄をにじませていた。
土曜になると父親の具合はずいぶんよくなった。自分で排便皿を腰の下に当てて排便できるようになったし、半ば寝転んだ状態ではあったが食事もできるようになった。
「病院食はまずい。うどんを作ってくるように」
「ええ」
「わかりました、と言わないか。教養のない家の子供のような返事をするでない」
いったい大屋敷家のどこが「教養のある」家なのだろうか。たかが市役所勤めの父親のプライドは不可思議でならない。
「わかりました」
理加子は食堂でコンロを借り、薄い味のうどんを作った。病室に戻り、父親が「指定する」陶器の丼に入れたうどんを盆にのせてサイドテーブルに置く。
父親は寝転んだかっこうのままうどんを食べた。
「食べさせましょうか」
「それぐらいはできる」
「はい」
うどんを食べては、休み、休んではうどんを食べる。休んでは、理加子に言った。
「華美な洋服を着ることは許さんからな。いつか白いブラウスを着ていただろう。あんな芸能人のような洋服を着て歩いたら近所が悪い噂《うわさ》をする」
白いブラウス。それは平凡な白いブラウスだった。ただ、木綿ではなくジョーゼット地で袖《そで》の部分にタックがとってあり、いくぶんふんわりとしている。それだけで、父親にとっては芸能人のような華美な洋服なのだった。
父親はうどんを一本、口から垂らして、ずるずると時間をかけて口内に入れる。つゆが口のまわりについていた。
病室の窓からはアイビーが緑を誇り、ときおり欅《けやき》がさわさわと音をたてた。
女になりたい。
理加子は思った。
薄い味のうどんを作ったり、洗濯をしたり、尿の集積パックを点検したり、排便皿を始末したり、りんごの皮をむいたり、そして、父親と母親の根拠不明な叱責《しつせき》をうなずいて聞く義務を忘れて、すねたりむくれたりウインドーに飾られた赤いハイヒールが欲しいと言ったりしてみたかった。頭脳ではなく肉体で考えるひとときが欲しかった。
ひとときでいい。石の身体から離脱して芯《しん》から女になりたいと理加子は思った。
七章 飛行機の影が海をとらえる
苦しい夢をみた。
母親の夢である。
母親には手足が十三本ずつある。それを理加子だけが知っている。隣人が回覧板を持ってくる。理加子は回覧板に印鑑を押すふりをして隣人に助けを求めようとする。隣人は気づいてくれない。何度も理加子に訊《き》きかえす。理加子は話せないので紙に書こうとする。鉛筆を取りに部屋に戻ると母親が笑っている。おほほほほ、と笑っている。家じゅうの鉛筆はみんな食べてしまったわ、と笑っている。理加子は玄関に戻り、回覧板にはさまれた何かを知らせる用紙を破る。HとEとLとPを紙で作ろうとする。それができない。手が震えて紙がうまく細工できないのだ。隣人は用紙を破った理加子の頭がおかしくなったと思い、帰ってしまう。母親が玄関に来る。洋服がひきちぎられており、母親は十三本の手足で理加子の首を締める。よくも助けてと隣人に訴えたね、という声が不明瞭《ふめいりよう》にこだまし、理加子は首を締められ気が遠くなり、「おまえだけがメロンを食べた。私は鉛筆を食べているのに」という明瞭な声を聞く。「おまえも鉛筆を食べなさい」と母親は言い、眼球に黒目はなく白目だけで、理加子の喉《のど》を鉛筆で突き刺す。苦しくて汗びっしょりになり、理加子は夜中に眼を覚ました。
(夢なのに、痛みがあった……)
理加子は鏡を見た。喉に首を締められたあとがあるのではないかと思ったのだ。それほど首が痛かった。
あとはなかった。髪の毛が汗で濡《ぬ》れて額に蛭《ひる》のようにへばりついている。青い顔をしていた。
時計を見ると二時四十分である。
汗びっしょりになったパジャマを脱ぎ、風呂《ふろ》に入った。
風呂の中で水道の蛇口から手のひらに水を受け、飲んだ。
ぬるい湯船につかり眼を閉じる。深夜の居間で振り子時計が三つ鳴るのが聞こえた。ずっと居間にある時計。
(いつからあの時計はあそこにあるのだろう)
木製の重厚な意匠の時計ではない。合成素材のつるつるした表面。時刻盤の周囲をやぼったい花柄が囲んでいる。時刻盤の数字はゴチック体で、ネジ式ではなく電池で振り子が動く。高度成長期の電器屋にあふれていたような振り子時計。
時計は理加子が気がついたときから家の柱にかかっている。
理加子は頭を湯船のへりにのせ、眼を閉じた。そのうちにふっと眠ってしまった。
おそらく三分にも満たないあいだしか眠っていなかったはずである。理加子は叫んで、自分の叫び声で眼を覚まし、湯船を飛び出した。
「おまえだけを幸せにしてなるものか」
湯が真っ黒に変わり、風呂場に誰かがいるようにはっきりとした声が理加子の耳元に聞こえ、それで理加子は叫んだのだ。
洗面所にうずくまり、肩で息をしていた。身体から雫《しずく》が垂れ、リノリウムの床にこぼれる。
HEL――
雫で三文字まで書き、やめた。
パジャマを着、居間の振り子時計の下で手を組んだ。
「許してください、許してください、許してください、許してください、許してください、許してください、許してください、許してください、許してください」
祈り、詫《わ》びた。
「神様、どうか、許してください」
私立の中学と高校と大学の学費を両親は支払ってくれた。一戸建ての家を買ったのは両親だ。理加子ではない。両親の金で買った家に理加子は住まわせてもらっているに過ぎない。たとえ月々いくらかの金を両親に渡していようとも、その金額は都内で賃貸の一戸建て住宅に住む者が支払わねばならない額よりもはるかに安い。両親には膨大な借金をしている。膨大な恩恵を受けている。その両親が入院しているのに自分だけが江木とメロンを食べたことを理加子は詫びた。
「神様、どうか許してください。許してください。許してください」
必死に詫びた。
ぎい、と音がして、振り子時計の長針が12を指す。四つ、音が鳴った。
病院に泊まる日にさえ、理加子は夜中に首を締められる夢をみるようになった。
はっとして起き上がると、ベッドで病人はよく眠っている。
今夜の病人は母親である。
理加子は病室を抜けてひそかに一階の待合室でシナリオを清書した。シナリオの中の二次元の世界は幸せにあふれて力強く明るく、健やかな精神だけで展《ひら》かれている。
江木と公園でメロンを食べた日に迷っていたラストの部分も決定していた。
そしてふたりはいつまでもいつまでも幸せに暮らしました。もう、なにびともふたりを裂くことはできませんでした。
他人とつきあうこと、他人とかかわること、それはたやすいことではなく「闘い」である。闘いを放棄して、違う人間ふたりが結びつくことはありえない。だからこそ他人と他人が結びつくことは、メルヒェンのように、ありえないくらいの世界なのだ。
(逆に言えば、メルヒェンが現実には存在しないと思っている者、メルヒェンを信じていない者がメルヒェンを法螺《ほら》吹くことができる)
理加子はシナリオ用紙をクリップで止め、鞄《かばん》にしまった。
夏を迎えようとする空は早くに白み、病室に戻る途中の廊下でも何室かのドアが開き、何人かがベッドの上に起き上がっていた。
「おはようございます。お早いんですね」
すれちがう宿直医に声をかけられた。
ドアを開けると母親は起きていた。
「どこへ行ってたの」
「眼が覚めてしまったので……その、なんとなくそのへんを歩いていたの」
「水をとってもらおうとしたのにいなかった。用事があるときにいないなんて泊まり役になっていないじゃないの。役立たずね。どうせ洗面所で髪の毛をカールさせようとしていたのでしょう。自然のままでいるほうがきれいなのよ。そんなことをするのはやめなさい。親からもらった髪の毛に人工的にパーマをかけてる娘さんは不道徳だから嫌われるわ」
「わたしの髪は癖毛なのよ。お母さんも知ってるでしょう」
「いいえ。小さいころはもっとまっすぐに近かった」
「刈り上げていたからでしょう。刈り上げないと癖が目立つのよ」
「いいえ。秘密でパーマをかけたはずだわ。わかるわ。どうやったらきれいな顔に見えるか、洗面所の鏡の前で何時間も工夫していたんでしょう。でも、あなたはお父さんにそっくりだから、そんなことをしたって、そのうち関節が痛くなって動けなくなるのに。動けなくなったら誘拐魔にだってふりむいてもらえないのよ、それでもいい?」
いーい、と、のばして母親は言う。
「お父さんの病気は遺伝するのよ。あなたはそのうちお父さんみたいに汚くなるわ。お父さんの皮膚を見た? 汚い斑点がいっぱい出てたでしょう。あれは、人をあごでこき使った罰なのよ。あなたはお父さんにそっくりだから、そのうちあなたの身体にも汚い斑点が出てくるわ。結婚なんかしないで私のそばで、水を飲んだり編み物をしたりしているほうがあなたのためなのよ。ね、そうでしょ」
「…………」
理加子は母親には答えず、頭の中で懸命に九九を唱えた。
「帰って仕事に行かなくちゃ、じゃあ」
布団をベッドの下にしまった。
病院を出るとき、さっき廊下ですれちがった宿直医にまた会った。彼女も病院から帰るところらしかった。
「大屋敷さんは子供さんがおたくひとりなんですって?」
「はい」
「そうお。それで、よくお泊まりにいらっしゃるのね。やっぱりお母さんのそばだと安心するでしょ。床に寝ててもね。大事の大事のひとりっ子さんだからお母さんもそばに置いときたいのよ」
理加子より四、五歳ほど年長の女医は小鳥がさえずるようにさわやかな声をしていた。
「そうなんでしょうか……」
こんな会話のときにはいつも曖昧《あいまい》に笑っているだけの理加子だったが、なぜか、口をついてことばが出た。
女医は奇妙な顔になり、そののちに明らかに気分を害した顔になった。
「そうなんでしょうか、って、それ、なんだかおかしな言い方だな。なんだか、お母さんの愛情をバカにしてるみたいよ」
理加子はこの女医と話をはじめてしまったことをどう処理しようかあぐねた。
「親ってね、本当に無償の愛情を子供にそそぐものなの。ひとりっ子だったらなおさらよ。ご両親の愛情を一身に受けて育ったんじゃないの。感謝しなくっちゃ」
「感謝してます。だから毎日神様に許しを乞うのです……」
睡眠不足が理加子の頭を朦朧《もうろう》とさせていた。息のような声で理加子はひとりごとのように言った。いや、ひとりごとでしかなかった。
「なに? よく聞こえないわ。もっとはきはきしたほうがいいよ。暗いわよ、大屋敷さん、まだ若いんだからもっと明るくならなくっちゃ。独身だったわね? 早く結婚して親ごさんを安心させてあげなくっちゃいけないわ」
理加子は女医に殺意をおぼえた。
そして息を吸い込み、世間から殺意をおぼえられるのは、むしろ自分のほうなのだと思いなおす。
世間からみれば女医の言うことが正しいのだ。健やかな場所からみれば彼女が正しいのだ。
「勤めに出かける時間が迫っていますから失礼します」
礼をして女医から離れた。
図書館。
本の整理をしながら、理加子は今朝がた清書し終えたシナリオの、ラストの部分について迷っていた。ラストについては迷ってばかりいる。書きなおしては清書しなおしてばかりいる。
「理加子、お客さまよ」
はしごに上っていた理加子を美枝が下から呼んだ。
「お客さん?」
「彼よ」
美枝は江木という名前を、はしごから下りて来た理加子の耳にそそぎ込む。
カレ。江木は理加子の「彼」なのだろうか。
「江木さんが理加子に気があるな、とはわかってたけど、つきあってるとは思わなかったわ」
つきあう。江木と自分がしていることがつきあっていることだとは、理加子には思われない。まだ雲の上をただよっているだけである。心地よい部分しか互いを知らない。
「つきあってる、までいかないんじゃない?」
「だって、あたし、こないだ、裕司から頼まれたのよ、理加子の写真くれ、って。なんで、って訊いたら、裕司は江木さんから頼まれたんだって言うじゃない。江木さんたらあんないごっそうな顔してて自分で理加子に頼めないなんて、ほほえましい話だわ」
白い壁。石の街路。晴天。影。
キリコの絵が瞬時によぎる。それはあまりに速くてサブリミナル手法のようで、理加子自身、自分がその絵を思い出したことに気づかない。
「なにこわばった顔してるの。ここは素直に照れなくっちゃ。やっぱり、乙女は」
「いえ……今、何かを思い出したような気がして。前にもこんな感覚になったのだけど、何だったのかな」
「いやだ。おかしなこと言わないでよ。それとも、江木さんとつきあってるのを隠そうとしてとぼけてるの?」
「隠すもなにも、まだつきあってないわ」
「へんなの。つきあってるじゃない。江木さん、ああして来てるのに。うれしくないの」
「とてもうれしい」
「今度はいやにストレートに言うのね。とにかく、早く行ってあげなさいよ。ここは代わるから」
「ありがとう」
江木が待っているという玄関までの距離を歩くあいだ、理加子は江木の姿を正確に思い出してみようとした。
(背は一八〇センチだからそんなに高くはない)
人の身長というのは奇妙なものである。実際の数値よりも印象が先立つ。図書館に試験勉強をしに来る男子高校生はのきなみ一九〇近く身長がある。それを見慣れてしまった。
(実際よりも大きく見えるのは肩のせいだろう)
理加子は身長一七〇センチであるが、たいてい一六〇ちょっとに受け取られている。肩や肋骨《ろつこつ》や骨盤が全体に狭いので小さく見える。
(顔一面に面皰《にきび》のあとがあって脂性《あぶらしょう》肌で眼が大きい。笑うととても細くなる。鼻は高い。眉《まゆ》が濃い。けれど、鼻が低くて肌がくすんで頬《ほお》が下ぶくれに見えてしまう洋服をよく着ている)
階段を下りてゆくと江木が立っているのが理加子の視界に入った。理加子の思い起こしたとおりの姿で江木は立っていた。江木を見て、理加子はうれしく思った。そのままの江木の姿も図書館に来てくれたことも理加子は好きなのだった。
江木は外のほうを見ている。一歩、一歩、理加子は進んで彼に近づいていく。足が図書館の硬い床を踏む。運動靴なので足の裏全体が床の感触を感じ取る。
「江木さん」
理加子が呼ぶと江木はふりむいた。
「仕事でついそこまでバイクで来たんだ。そしたら会いたくなったので来た」
「わたしも会いたかったからよかったわ」
落ちついて、素直に、理加子は言った。
「シナリオ、書けた?」
「書けた。でも、最後の行を迷ってばかりいて」
「持ってるからだよ。さっさと出してしまえばいいんだ」
「そうね」
「今、それ、持ってないの?」
「持ってる。もう封筒に入れて応募用紙にも記入してあるのに、まだ迷っているのよ」
「ほら、考えてるから迷うんだ。俺、これからそれ、届けに行ってやるよ。小林に直接渡したほうがいいんじゃないの? 郵便で送るより。小林から直接、選考委員会だかに持っていかせたほうが、まあ、一千万円が当たる確率が少しはアップするよ」
江木は理加子の背中を押して職員室へと促した。
「持ってこいよ。届けに行くから。東洋TVってバイクだとすぐだぜ。届けて戻ってきたら閉館時間になる。ちょうどいい」
理加子は言われるままに江木にシナリオの入った茶封筒を渡した。
退館後、門に立つ理加子の前にとまったバイクの後部には花束が結わえつけてあった。赤いバラの花束。かすみ草はない。
「ちょっとぐしゃぐしゃになったけど」
江木は理加子に花束を渡した。
「シナリオ完成記念」
額に汗がしたたり、面皰のあとのくぼみを伝っている。
「お花なんて……。童話に出てくるお姫さまになったようです」
花束に顔をうずめた。
「シナリオ書いてて芝居がかってきたんじゃないの? そんな花束、三千円だぜ。店閉めるとこだったからオバチャンに値切ったんだ」
「いいえ。架空の世界のことではなくて現実に起こっていることだから感動したの。本当にありがとう。わが生涯最良の贈り物だわ」
「おおげさな」
「これ、図書館に飾っていい? そしたら仕事中も見られるから」
「ああ、そんな粗末な花でよければ」
「待ってて。飾ってくる」
理加子は急いで館内にバラを活《い》け、四十秒ほどバラを見、また江木が待っている場所まで戻った。
「乗れよ」
江木は野太い声で言い、ヘルメットを渡した。
「うん」
バイクにまたがろうとして、理加子はオイルタンクに何かがテープで貼《は》りつけてあるのに気づいた。
「あ」
「これね。美枝ちゃんから入手したんだ」
理加子の写真がそこには貼ってあった。
「美枝ちゃんには悪いけど、美枝ちゃんと他の人は切り取った。そしたら小さくなったけど、ま、いいよな」
エンジンをふかす。
「めし食おう。一千万円の前祝いに」
「応募しただけよ。まず当たらないわ」
「わかんねえよ、そんなこと」
KAWASAKI−ZXR400が振動した。
「ピザでいいか」
風に江木の声が吹かれてくる。
「ええ」
「いいの?」
「ええ」
大きな声で答えなおした。
バイクがカーブし、江木とともに理加子も身体が斜めになる。薄暮のビル街は混雑している。灰色のビルとビル。灰色の道路。排気ガス。無計画なネオンライト。
「ちぇ、混んでるな、この時間は」
信号待ちに江木は言った。
「でも好きだから」
「なにが」
「雑踏」
「へえ、静かなとこが好きかと思ってた。意外だったな」
発車。
「どこへ行くの?」
「え、なに?」
「どこらへんのピザ屋さん?」
「うん、ピザ」
大きな声で理加子は訊《き》いたが、車や風が人の音で届かないようだった。
道路標識を見ると環状8号線を走っているらしい。8号線から細い道路にそれ、より細い道路にそれてきた。小さなスーパーの前を通過し、商店街を抜け、やがて住宅街に入った。ベランダに洗濯物が干したままの家があり、乳母車を押す女性が戸口に立つ家があり、じゃーっという何かを炒《いた》める音を出す窓がある。
〈あなたもお父さんと同じになるのよ〉
〈もうあなたの脚はきれいじゃないわ〉
〈痛い。痛い。痛い。痛い〉
〈結婚などするものではない。不幸になる〉
〈ひとりっ子の義務でしょう〉
住宅の風景は理加子を落ちつかなくさせた。必要以上に強く江木にしがみつき、懸命に病院のことを思い出すまいとした。
「どうした?」
停車。
「思い出したくないことを思い出しただけ。どこ? ピザ屋さん」
「ここ」
江木は『コーポみさき』という札を指した。
「俺の部屋でピザ取って食うの」
コーポみさきは一階に四つ、二階に四つドアのある建物で、江木の部屋は一階の、道路から一番奥の部屋だった。
ドアを開けたところが四畳半の台所。台所を通って六畳間。パイプベッドとテレビとチェスト。チェストの横にビデオテープが積み上げられ、その横に段ボール箱が二個積まれてある。
「美枝の部屋と似てる。最近の部屋は床なのね」
「あいつの部屋はほんとにフローリングなんじゃないの、行ったことないけど。これは――」
江木はとん、と床を足で踏み、
「ただのウッドカーペット。掃除、ラクでいい」
受話器を取って言った。ピザとビールとサラダをてきとうに電話で注文する。
「もっといいものをごちそうしたかったんだけどさ、大屋敷さんと部屋でビデオ見たかったから」
「うん。わたしも見たい」
「何がいい?」
「江木さんの好きな映画」
「じゃ、あれだ。エリザベス・テーラーの」
「『陽のあたる場所』?」
「いや。『じゃじゃ馬ならし』」
「え、ほんと?」
「なに? へん?」
「ううん。それを室町時代に設定したような話がさっき小林さんに届けてもらったシナリオなの」
「へえ。そう。偶然だな、そりゃ。俺、若いときよりこの映画のころのエリザベス・テーラーのほうが好きでさ」
カテリーナに扮するテーラーが窓ガラスを割ったところでピザ屋が来たため、ビデオを停止した。
「ビデオ見てるとふしぎとこういう食い物がうまいんだよな。大屋敷さん、食って食って」
「うん。その前に手洗う。できれば顔も洗いたい」
「暑かったもんなあ、今日は」
江木は押入れに上半身を突っ込み、タオルを探している。
「なんか、今年すっげえ暑い日がつづかない? バイク乗ってると汗とホコリでべちゃべちゃになるよな」
「なった。できれば足も洗いたいくらい」
「きれい好きだもんな、大屋敷さん。そ、か、風呂《ふろ》入ったら?」
押入れからふりかえる。
「ピザが冷めてしまうし着替えがないからいい」
理加子はタオルを受け取った。
「洗面所は風呂場といっしょなんだよ。ユニットだから狭くて困る」
風呂場の明かりをつける。
理加子はバスタブに立って足を水で洗った。それから顔を洗った。
「化粧品がないのにそんなに洗っていいのか?」
背後から江木が訊く。
「化粧品て?」
上半身を曲げたまま、理加子は訊きかえす。
「女の人って顔洗ったあとになんだかんだといろいろつけるんじゃないの?」
「ああ」
タオルで顔を拭《ふ》きながら風呂場を見渡すとベビーローションが置いてある。
「これでいい。ジョンソンの。こんなの江木さん使うの?」
「髭《ひげ》そるときに。そんなんで間に合うわけ?」
「間に合う。よけいなものをつけるほうがかぶれる」
「簡単でいいんだな」
ビデオを見ながらピザを食べ、食べ終わると理加子は洗面所で口をすすいだ。
「顔も足も口も、なんでもよく洗うんだな」
「さっぱりするじゃない」
手で口を拭い、理加子は言った。
「いつも食後に口すすいでるな、そういや」
「ペアなの」
「ペアね……」
江木は理加子の顔を見た。わずかの沈黙ができ、それが理加子には耐えられなかった。江木がキスをしようかどうしようか迷っている、と思ってしまった自分が許せなかった。
「江木さんもすすいで。そしてキスしようよ」
耐えられなく、自分を許せなく、理加子はそう言った。
「じゃ、俺もすすぐ」
キスをした。
「今日は泊まっていかない?」
ビデオが停止した青いブラウン管の光が江木の顔と首と胸も青くしている。
「トマッテ ユク?」
江木の肩にあごをのせて理加子は復唱した。
「安全日じゃないの?」
「アンゼンビ?」
復唱して、江木から離れた。
「たいへん傲慢《ごうまん》な言いかたかとは思うけど、それはセックスしてもいい日か、という質問?」
相手が自分とセックスしたいとは考えていないかもしれないのに、したいと考えているという前提に話はできない。それは傲慢なことだ。
「……すごいストレートな物の言いかただなあ」
「なにが?」
理加子はできるだけ失礼のないように考えたつもりだった。
「セックスしてもいい日か、だなんて」
「どこがすごいの?」
わからなかった。
「……まあ、そういうことだよ。そういう意味の質問だよ」
「ありがとう」
「なんで礼を言われるの?」
「うれしいから」
自分が江木のセックスの対象として認められたことが理加子には幸福だった。
「でも、安全日、というものはないと思うわ。そんなもの、ないのよ」
静かに言った。
「そんなものはないと思うわ、江木さん」
「ない、ってどういうこと?」
「安全日、などという日は女性の身体にはないわ。常に妊娠の可能性があるわ」
「……そりゃ、そうだけどさ。まあ、いわゆるそういう日もあるじゃない」
「いわゆる、ってどういうこと?」
「いわゆる、だよ」
「答えになってないわ」
「はああ」
江木は深く息を吸い込み、
「からまれても困るよ」
「からんでなんかいないわ。安全日、という日は女性にはないから避妊方法としては適さない、と言っているだけよ」
「じゃあ、コンドーム買ってこい、って言うの? いやだよ、そんなの、俺。コンドーム買っておくなんてさ、なんだか準備しておくみたいでムードないじゃない」
「ムードと女性が中絶手術するのとどっちが大きな問題だと思う?」
「そりゃあ、そんなこと言われたら……」
「コンドーム買っておいたからセックスしよう、って言われたら、わたし、すごく喜んでしたと思うわ」
「でもさ、ものごとってなりゆきだから……なりゆきを楽しむのがいいんじゃないの? できちゃったらできちゃったでいいじゃん、みたいな」
「もしね、中絶手術が、男性のペニスに金属の器具を挿入して行う手術だとしたら、そうして楽しんでいられる?」
「大屋敷さんの口からそんなズバリなことばが出るとは思わなかったな」
「わたし、なにも大胆なこと言っているとは思わないけれど」
理加子はとても静かに落ちついて話した。
「なりゆきを楽しんで、もっと楽しくなるようにしていきたいの。わたしは江木さんのことをまだまだよく知らないわ。江木さんもそうでしょう。もっと接してもっとよく知るためにベストとはいかなくてもベターな方法をとりたかったから、避妊についてはお話しし合ったほうがいいと思ったの」
「そんな遠回しに言ってくれなくていいよ、今日はそんな気分じゃないの、って一言ささやいてくれればよかったのに。それを安全日などというものは女性にはない、とか怒ったりするから話が難しくなるんだ」
「怒ってないわ。それにそんな話とはちがうわ。だってわたし、江木さんとセックスしたいもの。拒否するために避妊の話をしたんじゃないのに……」
理加子はなんとか江木に真意を伝えたかった。
「ただ、いきなり今日はそんな気分じゃないの≠ニ言うのは、それは江木さんがわたしとセックスしたいと思っていることを疑わない傲慢な前提をしてしまっている人でないと言えないんじゃない?」
「傲慢じゃないよ。女のコはよく言うぜ。大屋敷さん、どうしてそんなに俺が大屋敷さんとセックスしたいと思っていないかもしれないって考えるの?」
「……それは、いままでそんなふうに望まれたことがなかったから……」
「前に言ったろ。近寄り難かったんだよ、みんな。塀だか囲いだかがあるみたいで」
「……塀……。わたしの家の塀はブロック塀です」
理加子はふと家の周囲にめぐらされたブロックの塀を思い浮かべた。
花柄の振り子時計が今も居間で動いてい、父親の座椅子《ざいす》が机の前にあり、母親の湯飲みが机の上にあるだろう。
「そんな、ほんとの塀のことじゃないよ、おかしな奴だな、まったく」
ぱっと太陽が射したように江木の声が理加子の耳元に聞こえた。
「江木さん、好きです」
「ええ?」
「今日はバラの花をありがとう」
「ああ、当選するといいな」
江木は台所を抜け、玄関で靴をはいた。
「送っていくよ、『シェリー』のある駅まで。夜だとすぐだ。やっぱり帰ったほうがいい」
ドアが開き、夜の外が六畳間から見える。
「……ええ」
帰ったほうがいいと江木が指示するならそうしよう、と理加子は思った。
バイクに乗った。
江木の背中で、映画や小説の中の男女はどうやって避妊しているのだろうかと理加子はふしぎだった。
K駅。
「じゃあ、また」
「今日はほんとにありがとう」
理加子は心から礼を言い、駅の階段を上った。足の裏に階段を一歩一歩感じる。
足取りは軽かった。いささか口論めいたやりとりになってしまったが、彼女はやっと江木と「つきあっている」という実感が持てた。江木と自分の、心地よく「合う」部分だけでなく「合わない」部分も知りたい。そして、そのままの江木を受け入れてゆく……。
(それで初めてつきあってる、って言えるんじゃないかなあ)
容易なことではない。男女がつきあうということは容易なことではない。だから息吹《いぶき》を感じる。
八章 なんと海は……
江木の部屋に行った翌日の夜、病院へ行こうとしている理加子は彼からの電話を受けた。
【江木と申しますが】
【はい。もう今日はお仕事、終わったの?】
理加子が言うと受話器の向こう側で江木がほうっと息をつくのが聞こえた。
【よかった。俺、電話するなりガチャンって切られるかと思ってた】
【なんでそんなことしなくちゃならないの?】
【だって、大屋敷さん、怒ってただろ、昨夜】
【怒ってなんかいないのに。昨夜からそう言ってたのに】
【だってさあ……】
【おかしな人ねえ】
【これから会おう。今、『シェリー』にいるから】
【それは、ちょっとだめなの】
【じゃ、P駅でいい。十分でいいんだ。会いたいんだ。P駅のそばの暗いところなら顔がわからないだろう、近所の人に】
時間を指定し、江木は電話を切ってしまった。
駅のそばにあるトキノヤ・スーパーの倉庫の陰で理加子は江木に会った。
「大屋敷さん、あのさ、俺、明後日《あさつて》から八月末まで北海道へ行くんだよ」
バイク急便の仕事で知り合った大学の教授と阿寒湖へ行くことになったという。教授は小林の担当しているクイズ番組の回答者としてよく出演していた。
「あの番組の特番を撮るんだって。小林も来るんだ」
「あれって撮るのに三週間もかかるの?」
「いや、撮りも兼ねて、ってことだよ。だから小林たちはすぐ帰るって言ってるんだけど、俺はその先生の研究グループの雑用係で残るの。けっこう給料いいし、北海道で暑さしのぎもできるし一石二鳥だと思って引き受けた。大屋敷さんもいっしょに来られたらいいんだけど。ぜったい楽しいよ。ねえ、遅れてからでいいからさ、来ない?」
「行きたいけど……だめだわ」
「公務員はお勤めがあるもんな。夏休みとれないの?」
「とれるけれど、だめなの。事情があって」
病院に行かなくてはならない。
「大屋敷さんの家庭の事情ってさ、どんな事情?」
「…………」
なんと話せばいいのだろう。父親が酒を飲んで暴れるのでいろいろとあるのです。母親は実は妾《めかけ》でわたしは私生児なのでいろいろとあるのです。そのような、長くを説明せずとも他人に通じる的確な一言が理加子はどうしてもわからなかった。両親ともに市役所に勤めております。離婚話などありません。両親はひとりっ子であるわたしのことをものすごくものすごく愛してくれています。自分の家のどこに「事情」があるというのだ。
「あの……あの……」
両親が入院しているので。頬の肉をこわばらせるようにして、理加子は言った。
「え、そうなのか。なら、いろいろとたいへんだろうな」
江木は肩をたたいた。いろいろとたいへんだろうな。そのひとことだけで、何千何億ものなぐさめを得る。
(北海道から帰ってきてから……これからつきあっていくなかでゆっくりと話そう……江木さんには話そう……)
これまでの自分の時間のなかでは話さずにいたこと、話すのを避けてきたこと、それらを江木には話そう。そして、これまでの江木の時間のなかで彼が話さずにいたこと、これからの時間のなかで彼が話したことを聞こう。理加子は思った。
「帰ってくるのを待ってる。待ってる。指折り数えてカレンダーに印つけて待ってる」
理加子は江木の腕を握った。
「駅の改札で待ってるあいだ缶紅茶で口すすいどいた。大屋敷さんも家でる前に口すすいできたに決まってるよな」
ええ、ええ。言おうとして幸福な液体が胸と喉に詰まり理加子は返事もできず、首を振り、その首は江木がかかえ、理加子はキスをした。
「電話する。毎日、北海道から電話するよ」
「無理しないで。電話代がばかにならないから」
「もしもし、だけで終わるようにする。一分以内にする。帰ってきたらさ、すぐ九月四日になるから俺と大屋敷さんと同い年だよ」
「そうか。そうね」
あと何日、自分の二十代が残っているか数えようとして理加子はやめた。
「シナリオの完成記念にあんなに素晴らしいものをもらったからお礼になにかプレゼントをするわ」
もう病院へ行かなくてはならない。理加子は自転車に足をかけ、江木はバイクにまたがった。
「江木さんのお誕生日祝い、ピザじゃなくてスパゲッティにしようか。プレゼント、何がいい?」
江木は理加子に背を向けて言った。
「大屋敷さん」
エンジンの音がする。
「九月四日は月曜なんだ。月曜から火曜にかけて横浜行こう。海の見えるホテルとっとくから」
おとぎ話のようなことを江木は言い残した。
そして、おとぎ話のように電話は北海道から毎日、あった。毎日、あった。毎日。
【大屋敷さん、来なくて正解だったぜ】
お盆を過ぎたころ、江木は言った。
【どうして?】
【もう、最悪。あの先生さあ、人使いが荒くて荒くて。バカンスなんてとんでもないよ。助手もみんなくたくたになってる】
長距離電話では、どんなふうに「最悪」な状態かはよくわからなかったが、江木は疲れているようだった。
【一種のヒステリーなんだよな。それで周りの者がみんな精神的にまいってしまう】
【帰ってくれば?】
【そういうわけにいかないんだ、それが。三十日にしか金が出ないんだと。それがなかったらとっとと帰ってるよ】
江木は教授の別荘にずっと泊まっているとのことだった。
【別荘、っていうからどんなにかっこいいところだと思うだろ、それがちがうんだよ。ただの合宿所。何かの研修やるような。風呂もトイレも共同の。それも夜なんか風呂場にトカゲみたいなのがいるんだぜ】
水道管の具合が悪く風呂の湯が出る日と出ない日があり、トイレは水洗ではないという。
【俺、ぜったい横浜の海の見えるホテルに泊まるからな。腹いせもあるからぜったい九月四日は空けといてくれ】
理加子は電話が終わるたび、つーつーと鳴る過去の入った受話器を見つめた。
首を締められる夢がひどくなった。
〈あなただけが幸せになってはいけないのよ〉
〈自分だけが幸せになっていいと思ってるのか〉
夢の中で家は理加子の首を締め、理加子の眼は睡眠不足で頻繁に三重になった。
三重の眼で、理加子は江木からの最後の電話を受けた。
【大屋敷さんて、指輪のサイズ、いくつ?】
【さあ、指輪をしないからわからないけれど】
【S・M・LでいえばSでいいよね。小さくて細い指だったよね。俺、北海道から帰ったら指輪、渡す】
長距離電話のために、江木はあわただしくつづけた。
【おっかない先生だけどね、いいところもあって……】
【TVで見てるとやさしそうだものね】
【そうなんだって? あの先生って有名教授なんだってな】
【学術書だけでなくて一般書も出してるじゃない。私、一、二冊、エッセイを読んだことがあるもの】
【そう。そりゃ、よかった。先生が仲人してくれるってさ。仲人したことないから俺らが第一号になるって】
【あの……】
【大屋敷さん、なかなか時間ない人だけどさ、来年のお正月は神奈川県にいなくっちゃいけないかもしれないんだから覚悟しとけよな】
理加子があとのことばを返す暇なく電話は切れた。おとぎ話のような電話は終わった。八月二十七日、日曜。台風だった。
二十八日。
月曜日。理加子はずっと電話のそばにいた。だが電話はなかった。合宿所、と江木が称した教授の別荘の電話番号を知ってはいたが、こちらからかけるのはためらわれた。
(電話であんなふうに言ってた状態のところへはできない)
自分の家のことを考えると、直接相手が出ない電話というものには警戒する。
ずいぶん夜更けに電話が鳴った。布団から抜け、階段を駆け降り、理加子は受話器を取った。
【遅くにすみません】
江木ではなかった。小林だった。
【大屋敷さんの電話番号がわからなくて、美枝をつかまえるのに時間がかかって、それでこんなに遅くになってしまったんだけど】
【どうしたんですか?】
江木からの伝言ではないかと理加子はびくびくした。他人に伝言を頼むのはきっとよくない知らせだと思い。
【シナリオのことなんです】
【ああ】
ほっとした。
【あのシナリオね、落選しました】
【そうですか】
【冷静な返事ですね】
【だって、当選どうの、ということは最初からあんまり考えてなかったから、ピンとこなくて】
【まだ締め切り前なんですよ。へんに思わないの?】
【締め切り日はよくおぼえています。わたしの誕生日でしょう。十月四日】
【そうですよ。まだ……えーと、まだ三十七日もあるんですよ】
三十歳までもう三十七日しかない。
【小林さんは局内の人だから特別に内部事情がわかるんだろうと思ったので】
【それはそうなんですけどね、大屋敷さんのは、特別落選です】
【特別落選?】
理加子が訊き返すと小林は弾んだ声になった。
【間宮克彦って知ってます?】
理加子は小林から出された固有名詞をしばらく反芻《はんすう》した。
その名前は電車内の吊《つ》り広告で眼にしたことがある。週刊誌の広告で、有名な女優との恋愛の噂《うわさ》であった。
【○○さんと……】
女優の名前を理加子は口にした。彼女は江木がかつて「共演したことがある」と話してくれた女優だった。江木に会いたいと、理加子ははっきりと願い、はっきりと願っている自分にたじろいだ。
【そうそう。あれは、まあ、噂でしょ。名うてのプロデューサーだからアプローチする女優やタレントが多いんですよ】
小林は間宮克彦が過去に打ち出した数々のヒット番組を理加子に教えた。
【ぼく、江木からあのシナリオを受け取って、直接、選考係のとこに持っていったんですよ、そしたら、そのとき、たまたま間宮克彦が来てて……】
それはまったくの偶然であったと、小林は説明した。まったくの偶然に、間宮は、大屋敷なんて変わった名字だな、と理加子のシナリオをぱらぱらと見たのだそうだ。
【間宮さん、興味を示してましたよ、大屋敷さんのシナリオに】
【それがどうして特別落選なんですか?】
【間宮さんは、これは水曜パックには向かない、って言ってたから、まず落選でしょう】
『水曜ドラマパック』という番組枠はアイドルに主演をさせることで視聴率をとるから、アイドルが主演して似合いそうな内容でないといけないのだと、小林は説明した。
【でも、間宮さんが興味を示したということがすごいんですよ。それをお伝えしたくて電話したんです】
小林は意気込んでいるらしかったが、TV業界に身を置かない理加子には彼がなぜそんなに喜んでいるのかがいまひとつわからない。
【間宮さんから、もしかしたら連絡が行くかもしれないから、間宮さんに大屋敷さんの電話番号を教えてもいいですね?】
まさか断る者はあるまい、といった口調だった。
【いえ、自宅は困ります。今のところわたしが直接電話に出られますけれど、出られないときもあるから】
【は?】
小林はいぶかしがる声を出した。
理加子は急速に暗い気分になった。彼がいぶかしがるのは当然のことだ。自宅に電話がありながら、なぜ、理加子本人が必ず直接出る必要があるだろう。家族が電話を取り次がぬ事情を短く説明できることばが理加子にはない。
【いいえ、その、留守が多くて……。図書館のほうへお願いできますか】
【ああ、わかりました。でも、よかったなあ。ラッキーガールですよ、大屋敷さん】
小林は簡単な挨拶《あいさつ》をして電話を切った。
(ラッキーガール)
理加子はとぼとぼと自室への階段を上った。
(落選はほぼまちがいないのに、どこがラッキーガールなんだろう。間宮克彦から連絡が来るかもしれないというだけでおおげさな表現をするものだ……)
ラッキーガール。そのにぎやかな言葉は理加子を沈ませた。江木からの電話はなかった。
同日。深夜。
美枝は腹を拭っていた。
「あ、なくなっちゃった。新しいの、そこのチェストの下にあるから取って」
むむ、と小林が不明瞭な発音で答え、布団から出て美枝の指示した場所から指示したものを取り、封を切らずに美枝に放り投げる。
scottie。楕円形の点線の中のロゴを美枝はほとんど見ずに、彼女はその箱の封を切って自分の腹の上の湿りを拭った。
「コーヒー飲みたいな」
小林が隣で言った。
「ごめん、今朝、なくなったの」
「ちょっと遠かったんだよな、コンビニ」
「うん」
「インスタントもない?」
「ない」
「お茶は?」
「ない」
「なんでないんだよ、お茶ぐらい」
「だってあたし、お茶、飲まないもん」
「ないと思うとよけいに飲みたい」
「買ってくる? コーヒー?」
「そうしようかなあ」
小林の手が美枝の肩とウエストに伸びた。
「やっぱり太ったよ、ちょっと」
「いやになった?」
「いや。これぐらいのほうがいい、かなってみたいな」
小林の手は美枝の胸にも触れた。
彼の顔が接近し、美枝は彼の耳たぶをかんだ。彼の顔が遠のいた。
「痛いなあ」
美枝は毛布の中で笑い、くぐもった音が狭いワンルームに沈殿する。
「なんか音楽かけてくれる?」
「FMでいい?」
「うん」
ジャズピアノが流れた。
小林は半裸で冷蔵庫の中を見ている。
「ほんとに何にもないんだな。缶コーヒーでいいから飲みたい」
「そんなに言うなら買ってきたら? ぐずぐずしてる間にコンビニに行けるよ」
「そうだな」
「あたしもコーヒー飲みたいから、お願いするわ。キリマンジャロがいい」
「わかった」
適当に衣服を身につけ、小林は部屋を出ていった。
ピアノが流れている。
美枝はそのピアノ曲を聴いたことがあった。『いつか王子さまが』。
床に散らかった衣類の中からトレーナーをすくい取り、地肌にまとう。布団の中で足を泳がせ、爪先《つまさき》でパンティを見つけるとそれをはいた。
ピアノ曲は軽い疲労感を美枝におぼえさせた。
きれいないいメロディーである。だが、だるくなる。
(いつか王子さまが、か)
サンタクロースがクリスマスにやってくるのを信じるのと同じ気分で、いつか王子さまが来るのを信じていたころもあった。
(いつのまに王子さまなんかいないことを学んだんだろう。よく考えるとふしぎよね)
いつか王子さまがやってくることを信じていたころのことを思い出そうとして、美枝は疲れた。
(過ぎた日のことを考えるのは疲れる)
毛布をまくりあげ、窓を開け、ユニットバスの便座に腰をおろした。
ピアノは聞こえてこない。
便座からシャワーを見つめ、便座を立つと勢いよくシャワーを出し、パンティだけを脱いで股間《こかん》を洗った。
「はい、よしよし」
ひとりごちてパンティをはき、ユニットバスのドアを開けたときには、もう『いつか王子さまが』は終わって、別の曲が流れていた。その曲も聴いたことがあったが題名は知らない。
メロディーに合わせてハミングしていると小林が戻ってきた。
「キリマンジャロは品切れてた」
「ふーん。いいよ、別のでも」
それならそれでよかった。
「この暑いのに熱いコーヒー飲むの?」
「そのほうが涼しくなるんだよ」
「そうだね」
小林がキチンで湯を沸かしている。彼が好きなようにするにまかせていた。
「ねえ、おなかすかない?」
「すいたよ。だから、チーズトースト作ってんの」
「あたしの分も?」
「そう」
「よかった」
「ああ、よかっただろうね」
小林が言い、美枝も一、二秒、笑ったがすぐに、彼女は旅行会社のパンフレットに見入った。
遅れた夏休みをどこか外国で過ごそうと思っている。
(バリ島はもう行ったし、グアムもハワイも行ったし、どこがいいかなあ)
考えているとめんどうになった。
「裕司はどこがいい? 裕司が行きたいとこでいいよ、あたしは」
「神奈川県は?」
「神奈川県? 温泉か何か?」
「いや、そうじゃなくて……」
小林がコーヒーカップを美枝の前に置く。
「神奈川県に来てみない?」
「そうだね」
美枝は意味なくカップを回した。
神奈川県には小林の実家がある。
(いずれいつかは行かなくっちゃならないんだろうな)
異なる族の群れに挨拶《あいさつ》に行かなくてはならない。おっくうだった。なぜ、このままこうしてずっと、のんびりとつきあっていられないのだろう。
小林のことは好きである。理加子に話したとおりだ。小林とのセックスも楽しい。以前のような新鮮な好奇心に満ちたときめきはすっかりないが、肌が合っている。
それに、小林といると安心する。おそらく、小林だって自分といるとそうなのだろう。テレビ局勤務という、いくらでも女性と知り合う機会のある仕事をしていて自分とつきあいがつづいているのはこの理由からだと、美枝は思う。
「暑いときじゃないほうがいいんじゃない、そういうことって。寒い季節のほうがなんかいいよ、そういうのは」
「そんなこと関係ないだろ」
「印象が大事だと思うわ。暑いときに行くとなんだか一夏のラブアフェアーみたいな軽々しい印象を持たれるわよ、きっと。年配の人ってそうよ、きっと」
「気が乗らないんなら、べつにいいよ」
小林はコーヒーを飲んだ。
美枝も飲んだ。
「気が乗らなくないのよ、べつに。今のままの気楽な感じが、あたしはとても好きなだけ」
「それは、よくわかるよ。ぼくもそんな気はする。でも、ものごとってどこかで領収書のやりとりをしなくちゃならないと思うんだよ、それだけは思う」
「うん。あたしも、そう思う」
「ま、もうちょっと涼しくなるまで待とうか」
「そうね」
「熱いコーヒーが心底うまいなあと思うようになるころまではだらだらしてよう」
「そうだね」
美枝は小林とコーヒーをすすった。彼女は彼とだらしないかっこうでコーヒーをすする時間がもっとも好きだった。
「さっき局から大屋敷さんの電話番号|訊《き》いただろ。あれ、大屋敷さんに間宮克彦のことを伝えたんだよ」
「ああ、あのシナリオのことで」
「間宮さん、めったにほめない人なのに、ほんとに珍しいことだったからね、ひとこと伝えておきたくて」
「そんなによくできてるシナリオだったの?」
「いいや。とてもあのままTVドラマ化は無理だね。シナリオの基礎はなってないし、設定はあやふやだし、ストーリー展開もわかりにくいし。トウシロのシナリオでしかない」
小林はぱさぱさとチーズトーストの破片を床にこぼした。美枝は足でそれらを寄せ集めた。
「でもね、なんか、雰囲気がいいんだよ。切実なメルヒェンなの。まるっきり絵空事でありながらまるっきり冷たく突き放してるの」
「当選するとよかったのにね。残念だわ」
美枝はティッシュで床を掃除しながら言った。
「うん。でも、ぜったい落選なの。どうしたってへたなシナリオだから。それに水ドラにも向かないし」
「いいのによくないのね」
「まさにそのとおり。いいのによくないの」
「理加子らしいわ」
美枝は頬《ほお》づえをついた。
小林はチーズトーストの残りを食べた。
「大屋敷さんっていえばさ、ぼくは彼女は江木とつきあってるんだと思ってた」
「少しは仲いいんじゃないの? あたしはよく知らない。彼女はあまり言わないから」
「少しよりもっと仲がいいんだと思ってた」
「そうはならないんじゃない?」
「どうして? 大屋敷さんってチャラチャラしてなくてさあ、ああいう子が江木みたいなのの好みなんだよ」
「江木さんじゃ無理よ。そんな気がする」
「なに言ってんだよ、江木ってあれで女の子にウケるんだよ」
「そんなことじゃないの。体力がつづかないわ。腕力が要るわよ、理加子とつきあうには。江木さんじゃあ理加子を支えられっぽくないもん」
「えー、大屋敷さんってほっそりしてるじゃないか」
「それは外見のことでしょ。理加子はね、脳味噌《のうみそ》をダイエットしないかぎり、どんな男の人ともダメだと思う」
小林に言ってから美枝は、なぜ自分が理加子を気の毒に思うのかその理由を悟った。
「重いのよ」
美枝は理加子を思った。
「あの人は重いのよ。あの人のせいなのか、しかたなくそうなってるのか、なんだかよくわかんないけど重いものをしょいこんじゃったのね、きっと。それは男の人にとってはたまらなくイヤなことよ。だって安らげないんだもん。疲れるのよ、理加子といっしょにいると。理加子の言うことやすることに何もまちがったことはないのに、息がつまるの」
「そこまで言うのは気の毒だよ」
小林は美枝の表現に対して言ったのだろうが、美枝はトーストの粉を寄せ集めてくりかえした。
「ええ、気の毒なの。ダイエットしなくても太らない人もいるのに」
いいのに悪いのよ、と美枝は小林に言った。
八月三十一日。北海道から江木が帰ってくる日、電話は鳴らなかった。
病院へ出かける前に、理加子は受話器を取って小さな穴がたくさん開いた握りこぶし大のそれを見つめた。
(貯金の残高がゼロになった)
黒いかたまりの中に貯金してあった過去がなくなったと思う。
(銀行員の手ちがいだったらいいのに)
たとえば北海道の教授の別荘の電話機が故障して使えなくなった。たとえば人使いの荒い教授が急に予定を変更して現在地よりもさらに人里離れた山奥に研究スタッフを連れていった。たとえば十円玉がなくなった。たとえてみれば、そんな理由で電話がかかってこないのであればいいのに、と願った。
(でも、銀行員のミスではないわ……たぶん)
不安とは得体の知れない影におびえることである。何かの本で読んだことがある。影はさほど得体が知れなくなかった。むしろ、得体を知ってしまうほうが不安だった。
電話機はぷあーっという警告音を発した。
病院へ行った。
「この四日間はとても具合がいいの。暑い日がつづくのに。とても具合がいいの。消灯時間を過ぎてからしばらく音楽を聴いているせいかしら」
ラジオを指して母親は言った。
「もうすぐ退院できそうよ。退院したらいっしょに編み物をしましょうね。あなたはお友だちとどこかへ出かけるより私と編み物をするのが好きな人だから、小さいときからそうなんだから」
編み物が好きだったおぼえは理加子にはない。母親は理加子が編み物が好きだと信じる宗教に入っていた。
「そうね……。お母さん、わたし、今日はもうやすむわ」
床に布団を敷いた。
今夜はきっと眠れる。夢の中で首を締められることはないだろう。
(夢の中で首を締められるのと、現実で不安の正体を知るのと、どちらが苦痛が少ないだろうか)
夢の中で首を締められても、不安の正体を知らぬほうがいいと、理加子は選択した。石のように身体が重く、夏だというのに寒くて毛布を三枚もかけて、理加子はまぶたを閉じた。
九月一日。午後十時半。電話は鳴らない。理加子は震える手で江木に電話をかけた。
【もしもし】
江木は元気そうな明るい声で出てきた。理加子は血がひいてゆくのを感じた。手がかじかみ、震えがとまらなくなった。
(やっぱり銀行員のミスではなかった)
【もしもし、江木ですけど】
なにかを食べているらしかった。
【大屋敷ですが】
【ああ、大屋敷さん】
晴天の真昼間、雲が移動して光あふれるまま光が灰色がかるときがある。江木の声はそれに似たように変化した。
【あわただしくしててね、なかなか連絡できなくてさ。もう疲れちゃってくたくただったよ】
【そう。でも、よかったわ、事故やなんかにあわなくて】
理加子は変化に気づかないようにした。
【あのさ、ちょっと待っててね】
かちっと音がして、つるるるっつー、つるるるっつー、という音がつづいた。キャッチホンである。
【ごめん。お待たせしました】
【ごめんなさい、わたしこそ。電話中だったのね】
【ううん。もうすんだ】
短く切らせたことがより理加子の手を震わせた。すぐにまたかけなおすとの旨を伝えたから早く切れるのだ。あとですぐにかけ直せるような間柄の相手だったから、早く切れるのだ。
【お金はちゃんともらえた?】
【ああ、あの先生、金払いはきちんとしてるみたいだよ】
【そう。よかったね。じゃ、疲れているだろうから。また】
受話器は落ちるように本体の上に置かれた。
理加子は水を飲もうとした。
柱時計を見たとたん、針が動き、ぎっ、と音をたてた。
足がすくみそうになった。
なまぬるい水道水を理加子は飲んだ。
(ほかに好きな人ができた)
影の正体を、影の顔を、理加子は半分見てしまった。
長い長い長い長い長いあいだ、「家」から自分の行動を監視され、「家」の空気の振動に注意ばかりしてきた。そのあいだに、理加子は、他人の声帯のわずかな隙間《すきま》にもすぐさまその人間の背後を推察できてしまうほど不健全になっていた。
(気がつかないでいたかった)
気がつかないでいるほうが、江木を失わずにすむ。
(気がつかないでいられたら、どんなによかっただろう)
一九八九年、それはとても暑い年で、九月になっても熱帯夜がつづいた。
理加子は自転車に乗って病院へ行った。
「この四日間は気分がすごくいいんだ。夜もぐっすり眠れるし、関節も痛くならない」
父親は消灯時刻を過ぎていてもまだ起きていて、理加子に言った。
「葛菓子《くずがし》を持ってきてくれたか」
「はい」
「六角形のガラスの皿に、うす紫のほうに、入れなさい」
「はい」
理加子は父親に指示されたとおりの容器に葛を盛った。
「退院したら」
父親は葛を食べながら言う。
「温泉に行こうと思っている。理加子も来るといい。知っているだろう、××さんの家は伊豆にあるんだ。理加子も××さんに会いたいだろう」
××さんを理加子はおぼえていなかった。温泉に父親とともに行きたくはなかった。
「そうですね」
だが、理加子は答えた。親には恩がある。親と温泉に行きたくないことは不道徳なことだ。友人たちとだけスキーに行くのは不道徳なことだ。友人たちとだけディスコに行くのは不道徳なことだ。親が面識のない人間と電話で話すのは不道徳なことだ。家庭はあたたかく安らぐ場所であると思えないことは不道徳なことだ。頗《すこぶ》る滑稽な規範である。滑稽な規範に縛《しば》られるしかない理加子は、三十歳を目前にして、そしておそろしく未熟である。「爆弾が飛んで来ることのない所でのうのうと水と食物を得られる平和しか知らないくせに」という父母の楯に投げる石を、どうしても見つけられなかった理加子は、未熟である。戦後に育った同世代の人間は、どうやって石を見つけてきたのか、理加子にはわからない。
「退院してもしばらくはいろいろと世話がいりそうだから必ず来るように」
「はい」
空いたベッドに理加子はもぐりこんだ。
今夜は夢を見ないだろう。首をそらせ、天井《てんじよう》に近い壁のしみを見た。
クロディーヌの森のしみは、枕元《まくらもと》のランプだけの明るさではよく見えない。
(シナリオは落選したけれど、書いてよかった)
あと三十四日。シナリオが二十代の思い出になるだろう。
そしてふたりはいつまでもいつまでも幸せに暮らしましたとさ。
シナリオの中では幸せは永遠につづいている。理加子の未熟を江木は知らず、江木の浅薄を理加子は知らない。知り合う前にふたりの交信はいきなり切れた。
(わたしだけが幸せになっては父と母に申しわけがたたない)
父親の鼾《いびき》で理加子は自分のまぶたの内側の液体を隠した。
九月二日。理加子は江木に電話をかけた。江木はいなかった。留守番電話に理加子は伝言を残した。
【すぐにすみますので、明日、電話をください】
影の顔は半分だけでなく、もうすっぽりと首から上を理加子の前に出していた。
電話はこなかった。
九月三日。理加子は江木に電話をした。彼はいた。明るい声で出てき、理加子が名乗ると明るい光はためらった。
【昨日はちょっと忙しくて……】
【いいの。ちょっと会えないかな。時間は合わせるから】
声を高くして明るくなるように理加子は言った。
【それが、ちょっとここのところ忙しくて】
【ええ。あのね、きっと江木さんはわたしに伝えづらいことがあってそれをどうしようかと思って困ってるんだろうけれど、それはやっぱり一度は会って伝えてもらわないと……うんとね、わたしも困ってしまうから】
江木はしばらく黙っていたが、
【大屋敷さんには伝えにくいことかもしれない】
理加子が予想したとおりの気配を無邪気に如実に見せた。
理加子は一呼吸おいて、冷静になることに努めた。
【しかたがないわ。けんかをするつもりはないから、一度会っておきたいんです】
会って楽しい話ができるとは思われなかったが、会ってきちんと領収書をもらっておいたほうがいいと理加子は思った。だが江木は電話をつづけたがった。最後の電話なのだなと理加子は覚悟した。
【あのさ、北海道に行ったときね。あの仕事、電話でも言ったけど、すごくハードだったんだ、実は。先生は学者だから研究に没頭してしまうタイプでさ。六人ほど助手や学生がいっしょだったんだけど、みんなくたくたになってて……。助手の中に、先生の秘書みたいなことしてる人がいて、その人がものすごくよく気のつく人でね、やさしい人で……】
【ええ。その人を好きになってしまったということね】
覚悟をしていたつもりだったが、理加子は、悲しかった。
一九八九年の夏はとても暑くて夏らしくて、夏らしい夏は理加子の喜びであった。夏は突然終わってしまった。江木と話すことも会うことも、もうないと理加子は思った。
(夏、終わった)
いろいろなことを話すつもりだった。いろいろなことを聞くつもりだった。自分への結婚指輪のサイズを尋ねた江木。面皰《にきび》のある顔と体臭。大きい声。江木という人間にかかわり、つきあってゆきたかった。だが、それはできない。
他の女性を好きになったことを、裏切りだとは理加子は決して思わない。思えない。
(江木さんの性格にもっと合う人がいたのなら、そういうこともある)
理加子は悲しかった。だが、江木を責める理由などどこにもない。
ただ、礼儀として、できることなら「新たなる人」の話はせずに、江木と理加子にかぎっての話にとどめてほしかった。
(大屋敷さんとはやっぱり性格が合わないように感じたので……とか……)
悲しみながらも、理加子は江木との最後の電話が、せめて今後の自分のスタートになるように願う。
しかたがないわね、こういうことは。短いあいだだったけれど、どうも今日までありがとう。理加子は言おうとした。理加子が言う。向こうも似たようなことを言う。それで夏は終わり。そう思った。
しかし、江木は夏を終わらせはしなかった。江木は理加子に言った。
【その人だって疲れてるはずなのにさ、それなのに、にこにこしてみんなに飴《あめ》くばったりするんだよ。どうしてこんなにやさしいんだろうって、俺、考えてみたの。ああ、悲しみというものを知ってるからこの人はこんなにやさしい人なんだって思った】
江木のことばは理加子を殴った。
よほどのことがないかぎり、このようなことを理加子の立場にある人間に伝えはしまい。それを伝えてくるのは、よほどのことなのだ。
【あの……江木さん、電話ではよくわかりませんから一度会ってください。これからでもいいですから。わたし、車拾って近くまで行きますから】
【それは……。それはちょっと】
【じゃ、いつがいいですか? 日にちと時間は合わせますから】
【なら、これからのほうがいいかな。俺が行くよ、そっちまで】
P駅の近くで会うことになった。
トキノヤ・スーパーの倉庫の陰の、江木とキスをした所で、江木から誕生日のプレゼントに欲しいものは「大屋敷さんだ」と言われた所で、理加子は彼に会った。
うす暗い場所なのではっきりとは見えなかったが、江木のバイクのオイルタンクには女性の写真が貼《は》ってあった。
理加子は気に病んだ。失恋のショックという以前の感情だった。これから理加子と会うことがわかっていたのだから、ただ無神経でできることではないだろう。
(なにかよほどひどい仕打ちを、わたしは江木さんに対してしたのだろうか)
――ならば、恋愛うんぬんという問題ではなく、社会生活を送る人間として気に病んだ。
(それとも、写真を見せることではっきりと「つきまとうな」と示そうとしているのだろうか。それならば、そのつもりはないことをちゃんと言っておかなくてはならない)
理加子は気に病んでしばらく口がきけなかった。
「急に呼び出してごめんなさい」
「いや、いいよ」
江木はバイクを離れ、積んであった何かに腰かけた。
「いつまでも暑いわね」
「電器屋は今年はクーラーがよく売れただろうなあ」
「そうね」
「家電メーカーの株を買っとけばよかったな。そしたら今ごろ儲《もう》かってスキューバの免許とる金があったのに」
「スキューバ?」
「そう。俺、今度スキューバをやろうと思ってんの。すごく楽しいんだって、あれ」
くい、と顔をバイクの写真のほうに向けた。
「毎年、海外にまで出かけて海にもぐるほどのスキューバ狂なんだ、彼女は」
「…………」
理加子はまたことばをなくした。
なぜ「その人」のことを自分に伝えてくるのかわからなかった。
理加子は悲しくて無表情になった。
「よかったわ。顔が見られて」
やっとのことで言った、無表情なトーンの声になった。無表情にしていないと取り乱して江木に迷惑をかけてしまいそうだった。
しかし、江木は言った。
「なんで、そんな話しかたなんだろうな。なんでそう冷たいんだろうな。きっと大屋敷さんて悲しい思いをしたことがないんだよ」
江木は転がっていた空き缶をぐらぐらと足でゆすぶりながらつづけた。
「俺より三つ上なんだけどさ、しっかりしてる面と頼りない面と両方持ち合わせたような人なんだ。やさしい人でね、大屋敷さんのことまで気をつかってくれてる」
江木は、その人を思い出しているのであろう顔でほほえんでいた。
「江木さん、わたしね、その人の話じゃなくて、わたしたちのことを、まだ知り合って間もないから、たち≠ネんて呼ぶのはへんかもしれないけど、わたしたちのことを話しておかないと……」
うまく言えない。うまくまとめられない、うまくまとめられないが、ゆっくりと一つずつ江木に自分の気持ちを話してみようと理加子が思い、口を開いたとき、
「ごめん。もう、俺、行かなくっちゃなんないんだよ」
江木はバイクにまたがってしまった。
理加子は思わずバイクに寄った。
「あの……」
「約束があるんだ。時間がなくて」
会う、というのはこういうことではないと思った。オイルタンクに貼った写真が街灯に浮かび上がる。その人を理加子は見た。理加子はバイクにかけた手をさっと放した。
「じゃ、もう少し時間があるときにもう一度、会ってくれないかな。これじゃなんだか意味がわからないから」
「わかった。また電話するよ」
エンジンの煙がアスファルトと平行に噴く。
「必ず電話するよ。約束する」
「そんなに長い時間でなくてもいいの。ただ、わたし、しゃべるのが遅いから……」
つきまとう気持ちはまったくなかった。あとがつかえていないときに江木と話をしておきたかった。領収書が欲しかった。領収書があれば、江木の幸せを祈り、自分も次の段階のことを考えられる。
「わかった。来週、電話する」
「じゃあ、電話してください」
バイクは音をたてて向こうに行ってしまった。
バイクが見えなくなってしまってから、理加子は泣いた。
九章 忘れないで美しいきみ
ずっと泣いている。
九月三日からずっと泣いている。涙が瞳《ひとみ》から途切れることが一秒もない。理加子はずっと泣いている。
まぶたの皮膚がただれて、腫《は》れて、もう物がよく見えない。眼のまわりがかゆく、涙の塩分がただれた皮膚にしみて痛い。
ティッシュペーパーで眼を拭《ふ》くと、淡くやわらかく、淡くやわらかな世界に憧《あこが》れるような桃色をしたティッシュペーパーの湿った紙にごっそりと抜けたまつ毛がついている。
理加子は泣いていた。
九月三日、駅の近くのトキノヤ・スーパーの陰で江木に出会った。
九月三日の午後十一時から九月四日の午後十一時半の現在まで、ずっと泣いている。
泣いている。ただ泣いている。
なにもしなかった。ただ泣いていた。
今日は江木の誕生日である。
〈お誕生日、なにか欲しいものある?〉
〈大屋敷さん〉
身体じゅうの節々が痛かった。
〈あなたはお父さんにそっくりだから、いまにお父さんのようになるのよ。脚が腫れて醜くなるわ。家族はそばにいましょうね〉
脚が腫れないうちに、二十代のうちに女になりたかった。
敷布団の上に仰臥《ぎようが》している。手だけを伸ばしてラジオをつけてみた。
拍手がする。ピアノが鳴る。マリリン・モンローが歌いはじめた。ハッピー・バースデー。
理加子は早く柱時計が十二時を告げてはくれぬかと願った。
(誕生日が早く終わりますように)
仰臥したままお祈りの形に手を組んだ。
早く終わって欲しいという祈りは、江木の誕生日に対するものなのか、理加子の誕生日なのか不明である。
(わたしは不道徳だから罰を受けるのだろうか)
罰を受けるのが怖くてならない。眼が痛い。口の中が渇いている。
(悲しみというものを知らないのにどうして泣くのだろう)
理加子はずっと泣いていた。
九月二十一日。理加子はスープを飲んだ。
「よかったわ。スープが飲めるようになって」
藤村さんが理加子に言った。
病院である。虫垂炎の手術をしたところと同じところだ。
藤村さんは六つあるベッドのそれぞれをまわっていた。
「点滴よりずっといいでしょう。食べ物は口から食べるほうが」
理加子は図書館内で倒れ、この病院に運ばれたのだ。
九月四日から理加子は何も食べられず、水かミルクだけを飲んでいた。一度サンドイッチを食べたが全部吐いてしまった。眠れなかった。一時間寝ると、夢をみて叫んで起きた。幸せな夢だった。バスに乗って遠くへ出かける。どんどん家が遠くなり、理加子は何かふわふわしたものをいっぱい鞄《かばん》に詰めて膝《ひざ》の上に抱えている。バスに乗って北海道へ行く夢だった。夢はいつも同じで、いつも次第に覚醒してき、これは夢なのだ、と理加子は知らされる。そして熱帯夜の湿気が理加子の肌にまといつき、なにも解決していない現実を思い知らされ、泣きながら眼を開く。起きるとまた眠れなくなり、やっと眠ると同じ夢をみて一時間で眼を開いてしまう。父親の命ずるものをトキノヤ・スーパーで買い、母親の命ずるものをトキノヤ・スーパーで買い、父親の衣類を洗濯し、母親の衣類を洗濯し、父親に葛菓子《くずがし》を作り、父親の命ずる皿に盛り、父親の命ずる掃除をし、母親にナチスのスパイはいなくなったと言い、母親から汚い肌をしているのは父親の病気がうつったのだと言われ、父親からふしだらなまねは許さないから結婚も許さないと言われ、図書館に出勤し、水だけを飲んでいた。ひとりになると泣いてばかりいた。そして、九月十八日、図書館の書庫で倒れた。眼を開けると藤村さんが理加子を見ていた。倒れてから藤村さんを見るまでの記憶はない。過労、ということでそのまま入院することになった。
虫垂炎のときとは部屋がちがったが、やっと平常に眠ることができた九月二十一日の朝である。
向かいのベッドは布団がまくりあげられたまま人は抜けていた。布団はこんもりと山をつくり、朝日が射して、ベッドには光と影が明瞭にできている。
壁にカレンダーがかかっていた。9という数字が大きく印刷されている。
眼鏡をかけた。カレンダーにはとんぼの絵が水彩で小さく描かれていた。20までの数字にはみな斜線が引かれてある。23と24は赤い数字である。
なぜ連休になるのか理加子はしばらく考え、秋分の日であることを思い出す。
「いつまでも暑いわねえ、今年は。いったいどうしちゃったのかしら。こんなに暑いなんて異常気象よね」
藤村さんが理加子の横に来た。隣のベッドとの仕切りカーテンを半分閉め、
「救急車で運ばれてきた日はわたしは非番だったんだけどね」
声を小さくして言った。
「カルテ見てびっくりしたわ。大屋敷なんて名前、そんなにある名前じゃないでしょう。まさか、と思ったんだけど」
「藤村さんのいる病院で安心です……」
理加子もかすれた声で言った。
「出血のほうはどう? まだつづいてる?」
「とまりました……」
江木とスーパーの倉庫の陰で出会って家に戻るとすぐに生理がはじまった。以前から生理不順だったが、江木と知り合ってから一日も狂うことなく正確になっていた。それが急に生理がはじまった。自分の子宮にも自分を拒まれたと思った。二日間で生理は終わり、十日たつとまたはじまり、二日間で終わり、四日たってまたはじまって、出血がとまらなかったのだ。倒れた十八日は特に出血がひどかった。
「疲れたのよ。ゆっくり休めば元気になるわ」
「ええ。わたし、悲しみというものを知らないから、すぐに元気になります。せっかく両親に健康に生んでもらったのに元気がないのは不道徳なことだから」
「……。ここに運ばれたときもそう言ってたって別のナースから聞いたわ」
「おぼえてないわ」
「それに、わたしだけが幸せになってはいけない、って言ってた」
藤村さんは理加子のベッドの横に腰かけた。
「おぼえてないわ」
「それは私が聞いたの。夜中、私が見に来たとき、そう言ってた」
「おぼえてないわ」
理加子はスプーンをテーブルに置いた。
江木と話をしたかった。
「その人」のことを江木が好きになったことに対して理加子は何も怒りをおぼえなかった。
「もちろんうれしいことではないの。少しもうれしいことなんかじゃないの。でも、人を好きになる感情は機械じかけではないもの、しかたないわ。それにはわたしも文句言う筋合いはない」
江木ともう一度やりなおしたいと理加子は思わなかった。やりなおすような段階にすら上ってはいないつきあいなのだ。
「わたしが泣いたのは、きっと……。きっと、ただ情けなかったから」
眼をそらすような、尻《しり》をまくって逃げるような江木の無礼な後ろ姿が理加子を情けなくさせた。そして、「その人」の話を自ら理加子に伝えてくることに怒りをおぼえた。
「なぜ、その人のことを私に言うの。その人と江木さんの間に私は入れないわ。なぜ私と江木さんの間のことを言わないの。たとえ結果的に二十分で終わっても、あとがつかえていないときに話をする時間を作ってほしい。ピザの配達頼むんじゃないんだから。そりゃ、わたしだって憂鬱《ゆううつ》だわ、話すのは。決まってるじゃない。こんな話、憂鬱じゃない人なんかいないわ」
理加子の声はかすれたまま大きくなり、藤村さんのほうを見ずにしゃべっていた。
「大屋敷さん」
藤村さんが理加子の肩をゆすった。
「ごめんなさい。藤村さんに言ったんじゃないの」
「わかってるわ」
藤村さんは理加子の手元にティッシュの箱を近寄せた。
「留美ちゃんは?」
「退院したわ」
「そうよね。一年くらい前でしかないのに、なんだかずいぶん昔のことみたい」
「若い証拠よ。若いと一年が長いから」
藤村さんは糸のような眼をして笑った。
理加子もその眼をまねようとした。まねができているのかできていないのか、自分ではわからない。理加子が黙っていると藤村さんが言った。
「幸せになっていけなくはないわ、大屋敷さん」
そのとき、藤村さんは理加子の顔を真正面から見て、言った。
「あ……と……う」
ありがとう、と言おうとする理加子の喉《のど》はつまった。
それはずっと理加子が待っていたことばのようだった。ずっと誰かから、もしかしたら神様から、「許可」をもらいたいと待っていたことばのようだった。
どうやって礼をしたらいいのか。理加子はとっさに思いついたことを喉をつまらせたまま言った。
「『ぴょんちゃんシール』の賞品は」
なにかが胸にこみあげてきて、
「『ぴょんちゃんシール』は」
「シールは」
何度も言いなおした。
「台紙がもう三十八枚たまったから」
賞品に換えたら藤村さんにあげるね、と言おうとして理加子は泣いた。
「カタログを見て、シールのまだ貼《は》ってないやつも合わせて、『ぴょんちゃんシール』はよくためてたから」
「よくためてたから」
『ぴょんちゃんシール』の兎《うさぎ》の絵が頭に浮かんで理加子は泣いた。
九月二十六日。理加子は退院した。
肉体は回復していた。病院を出るとその足で図書館に行った。
「理加子」
美枝は事務室に現れた理加子を見ると席を立った。
「寝てなくていいの? 今日が退院だったんでしょう」
「休暇届を出しにきたの。もうしばらく休もうと思って」
「そうよ。理加子は他の人の休みもよく代わってあげてたし、連続休暇なんかちっともとらなかったし、それくらい休まないとだめよ。OK出たでしょ?」
「ええ。よかったわ。それから、ちょっと……」
理加子は美枝を事務室の外に呼んだ。
「倒れたときはいろいろとお世話になってしまって……」
「ううん。びっくりしちゃったわ。最近顔色が悪いなあ、とは思ってたけど、いきなり倒れてしまうんだもの。救急車の担架からベッドに移すときも担架に血がついてて、ほんとにびっくりした。呼んでも呼んでも返事しないし、うわごとみたいなことしか言わないし、あたしまでパニックだった」
「心配かけてしまって……。ごめんなさい」
「ううん。とにかくよかったわ、悪い病気じゃなくて。ゆっくり休んでね」
「……ええ」
「あ、そうそう。裕司がしきりに連絡取りたがってたわ。ここに電話してくれって」
美枝はポケットからメモ用紙を出すと理加子に渡した。
理加子は美枝に礼を言い、図書館を出てからメモ用紙の電話番号を見つめた。
小林が理加子に連絡しようとしたのは江木からの伝言ではないのか。ねちねちとした澱《よど》みが理加子を不愉快にさせる。情けなくてたまらなかった。
午後三時。制服を着た中学生のグループがアイスクリームをなめながら通り過ぎる。
電話ボックスから理加子は電話をかけた。
【大屋敷さん、びっくりしたよ。倒れたんだって。もういいの?】
もういいのかとの問いに理加子は曖昧《あいまい》な返事をした。いったいいつ「もういい」状態になるのだろう。
【あとはしばらく自主療養をすることにしました】
手短に状態を説明する。
【じゃ、図書館はしばらく休むってこと?】
【ええ。今、公衆電話ボックスからです】
【そう……あのさ……】
小林の声にためらいの色を感じ、理加子は身構えた。情けなさがつのるような伝言が切り出されると思い。
【あのさ、退院したばかりの人にこんなことを言うのは申しわけないんだけどさ、これから会えないかな】
これから東洋TV内で会おうと小林は言った。
【これから? これからすぐに?】
【無理ならしかたないんだけど……】
情けなくなるために東洋TVまで出向くのは疎ましい。
電話ボックスの中はうだるような暑さだ。
夏はもう終わっているのに暑さがつづいている。
【行きます】
同じ場所にいるのはいやだった。
【そう。じゃあね……】
小林はTV局内のどこで会うかを指示する。
【車で来てくれていいからさ。少しでもラクでしょう、車のほうが。タクシー代はこっちで出るから。あっ、領収書だけはちゃんともらっといてね】
【領収書】
理加子はくりかえした。
【そう。領収書がないとね】
【はい……」
理加子はゆっくりと受話器を金具におろした。
東洋TVで理加子は小林から間宮克彦を紹介された。
「シナリオを書いたのは初めてだね?」
理加子はうなずいた。広い、会議室のような部屋である。理加子と小林が並び、間宮は悠然と煙草を吸って理加子のシナリオを机の上に出した。
「シナリオとしては未熟だし、今回の賞にも不向きだったから落選なんだけどね」
間宮は煙草を消すと理加子の前に立った。
「でも、とてもいい話だったよ」
それだけを言って間宮は部屋を出ていった。
理加子はぼんやりと間宮が出ていったドアを見ていた。
それから要領を得ぬ気分で小林をふりかえった。
「間宮さんが来てたからさ、ぜひ、大屋敷さんに会わせたかったんだ」
急に理加子を呼び出したことを小林は詫《わ》びた。
「間宮さん、あれだけしか言わなかったけど、ぼくにはずいぶんほめてたんだよ。本格的にシナリオに取り組んで書きなおしてもらいたいくらいだって。ぼくは大屋敷さんがどういうつもりでシナリオを書いたのかわからなかったからね……つまり、その転職とかそういうことまで考えているのかとか……」
小林はつづけた。
「ぼくはTV局に勤める人間だから、大屋敷さん、ぜひ書きなおしてみなよ、って言いたいけど、本格的にシナリオを書くとなるとそう簡単にはいかないでしょう。大屋敷さん本人がどれだけシナリオを書く行為に興味を持ってるかどうかがわからない。どうなの?」
「予想外だったわ」
「予想外?」
「小林さんがわたしを局に呼んだのはもっと別の用件だと思っていたの」
「前に電話ででも言ったじゃない?」
「でも、別の用件しか頭に浮かばなかった。江木さんのことかと思った」
「ああ、きれいなマンションに引っ越したんでしょう?」
「そうなの?」
「知らなかったの?」
小林の表情が敏感に、微妙に変化した。
「ずいぶん楽しそうに新しいマンションのことを知らせてきたから、大屋敷さんならてっきりもう遊びに行ってると思ってたよ。だって……」
「だって?」
「いや……」
小林の口はすぼんだ。
「電話のそばに女性がいる感じだった、って言おうとした?」
「…………」
小林の沈黙が肯定していた。
「新しい住所、わかる?」
「わかるけど……」
小林の手がジーンズのポケツトに伸び、ポケツトには入らずに、また元の位置に戻る。
「教えてください」
理加子は小林の前に立った。
やや間をおいて、小林は江木の住所と電話番号を紙に書いた。
「安心してください」
紙を受け取り、理加子は小林に言った。
「小林さんが心配するほどわたしと江木さんは深いつきあいをしていないんです」
――ただ領収書を受け取れずに困っているんです。領収書をくれないということはそれは江木さんのほうが私につきまとっているのと同じことです――。つづけて言ってしまいそうになった。少しほほえんで見せ、理加子は喉でことばを押さえた。小林に言うことではない。
「じゃあ、もう帰ります。病院からそのままの足なので疲れてしまいました」
もういやだった。もうこれ以上、江木にひきずられるのはいやだった。
「わかった。そうだね」
小林は多くを語らず、理加子をタクシーまで送った。
タクシーのドアが閉まる前に彼は、
「TV関係者ってチャラチャラしてる印象しかないかもしれないけれど、間宮さんは全然そういう人ではないんだよ」
また間宮の話を持ち出した。
「熱心に大屋敷さんのシナリオを読んでたんだよ」
ドアが閉まった。
道路は渋滞していた。
まだ暑いが、明らかに夏が終わった証拠に日が暮れるのが早い。薄暮の都会の道路をタクシーはのろのろと進んだ。
理加子は座席にうずくまるようにすわっていた。
体内で精神が膿《う》んでいる。膿《うみ》の疱《ほう》が膨らんでいる。ぷしゅっと濁ったふかみどり色の液体を噴き出しそうに膨らんで、精神はじくじくと痛みに浸されていた。
注意力が散漫になっている。
三輪車が井戸に墜ちてゆく光景を想像し、台所の洗剤はまだあっただろうかと思い、タクラマカン砂漠、という語をつぶやく。タクラマカン砂漠の位置が世界地図のどこにあるか正確にわからず、英会話学校のチラシを前から全部抜き取った。
トーイン英会話学校。
チラシは運転手の席の裏側に透明なケースに入れてあった。「少人数主義のトーインで新鮮英会話」。キャッチフレーズがふきだしで囲まれ、講師であろう写真が印刷され、彼女がしゃべっているようにデザインされているチラシを膝《ひざ》の上に並べた。タクシーが停止しチラシが車床に散らばり、拾うものかと理加子は思う。チラシの英会話講師の顔がいくつも車床から理加子を見ている。講師は三十四、五歳のブルネットの女性である。丸い顔とふくよかな胸元。江木のバイクに貼《は》りつけてあった「その人」の写真を思い出させた。水銀灯に照らされた「その人」の像。
「あ」
理加子の口が小さく丸く開く。
ある感覚がさっと彼女の全身を横切っていった。
(前にも、前にも同じ気分になったことがある……)
白い壁。石の街路。晴天。唐突に描かれた影。キリコの絵が瞬時に脳裏を横切ったときと同じ感覚だった。絵はあまりに速く横切るので、理加子自身も自分の脳裏を横切った映像がわからない。
(前にも……江木さんといっしょにいるとき同じ気分になったことがある……)
江木のことを思い出すのは苦痛であった。だが、あえて理加子は正視した。
バイクに貼ってあった「その人」の写真を見たときが最後だった。恋を失った寂しさとはまったく別の感覚が横切っていったことをはっきりとおぼえている。
(その前にも何度か……いつだっただろう)
理加子は懸命に注意力を収斂《しゆうれん》させようとした。渋滞した道路のようにのろい速度で、一つ一つの糸をたぐり寄せる。糸をたぐるたび、苦痛になる。おとぎ話を、おとが話が終わってから確かめる行為は苦痛だ。だが、あえて理加子は正視した。
(あのとき……あのとき……たしかに同じ気分になった……)
予備校を途中でやめたと聞いたとき。セロリとパセリが食べられないと知ったとき。美枝が小林に理加子の写真を渡したと聞かされたとき。
(すっぱい葡萄《ぶどう》≠フ心理とはちがう。あのときすでに。あのときの時点で……わたしは気づいていたんだ)
理加子はいやだったのだ。
意思があって大学に行かなかったのではなく、なんとなく予備校に行って、なんとなくやめてしまう、そのことが。
アレルギーや体調によるものではなく、幼児の食生活のままにセロリとパセリを食べない、そのことが。
理加子の写真を理加子本人にではなく小林に頼んで入手する、そのことが。
いやだったのだ。
理加子はいやだったのだ。だが、自分がいやだと思ったことに眼をつぶったのだ。
〈ダイエットなんてしないほうがいいよ〉
江木は理加子に言った。
シェリー・ウインタースと『じゃじゃ馬ならし』以降のエリザベス・テーラーが好きな江木。バイクに貼られた「その人」の写真は、ウエストがくびれていない卵のように太った女性だった。お母さんのような体型を好む、そのことが理加子はいやだったのだ。
そしてなによりも、
〈なるようにしかなんないじゃん〉
江木の口癖だった。
江木の口からそれを聞くたび理加子は白い壁に走る影の絵を見た。
明るくさっぱりしたふうに一見、思われる口癖だが、江木の小心さを感じていた。最初から闘いを投げているめめしさの言いわけに感じた。
理加子はゆっくりと息を吐いた。
(いいところも悪いところも、そのままの江木さんを知ってゆこうとしていたつもりだったのに)
現実に眼を塞《ふさ》いでしまおうとしていたことを後悔した。理加子自身が理加子をごまかしていたことを後悔した。同時に膿の疱にぷちっと小さな穴があいたように思う。
(突破口になるかもしれない)
入院するほど衝撃を受けた自分の精神が意外なほどの明るさを秘めていたことに、理加子は多少面くらった。
江木に会いに行こう。そして次のステージに進もう。
「あの、すみませんが行き先を変えてください」
タクシーが停止したときに、理加子は小林からもらった紙を運転手に渡した。
運転手は無機的な返事をして、紙の住所を見、どういうコースで行くかをひとりごちた。
日は暮れた。
運転手が冷房を切った。やはりもう秋なのだ。
タクシーを降りる。
足の裏に地面を感じる。
しばらく紙に記された番地を探した。むろん不安だったし、重々しい気分は否めない。だが、重い霧はやがて晴れると理加子は信じた。
レオ・コーポ21。それは白い門と白い出窓のあるコーポラスだった。
(いなかったらまたそのときに考えよう)
理加子はベルを押した。
江木はいた。
野太い声がチャイムから応えた。
「開いてるから」
理加子はそれを聞いてドアを開けるのをやめた。江木の応えかたからすると、彼はドアの外に立っているのは「その人」だと思っている。ドアを開けないほうが彼にある程度は身構える機会を与えられる。
理加子は立っていた。
ドアが開く。江木が理加子の顔を見る。如実に迷惑そうな表情が浮かぶ。予想どおりの反応なので理加子のほうは落ちついていた。
「一度はゆっくり会っておきたいのでとトキノヤ・スーパーのところで言いましたよね」
「あの、ちょっと約束が……」
曖昧《あいまい》な笑みを江木は浮かべた。江木の脂肌と面皰《にきび》を醜いと思った。たぶん江木のほうも自分の顔を恐ろしい鬼のように思っていることだろう。
にもかかわらず、自分を取り巻く気体が軽くなりはじめるのを理加子は感じた。
「わたしも約束していましたから先の約束から守ってください」
強く大きな声で言った。取り巻いている気体が軽くなり、強く大きな声で言ったほうが効果があるだろうという落ちついた選択のもとに大きな声を出してみた。
江木は少し黙ってから、
「悲痛な声を出してどうしたの」
いっそう曖昧に笑った。逃げ腰を、笑うことでつくろっている江木の顔は本当に醜い顔に見えた。理加子は眼をそらさなかった。
「悲痛は感じません。わたしは悲しみというものを知らないから」
理加子が言うと江木はうろたえ、理加子を部屋に入れた。
「どうぞ、上がってくださいよ」
「ここでいいの。わたしは江木さんを責めにきたんじゃないの。ただ一度はふたりで会う時間をきちんと作って欲しかっただけなのよ」
理加子はしかたなくほほえんでみせた。すると江木は如実に安心した表情になった。
「じゃあ、ちょっと待ってて」
江木は奥の部屋に行った。電話をかけているようだった。
「ほんとにそんなところに立ったままでいいの?」
奥の部屋から出てきて言う。
「ええ。お話できればそれでいいの。部屋には上がらないほうがいいと思うわ。そのほうが江木さんもこれからよけいなことを思い出さずにすむと思うから」
「そう。じゃ、俺もここでいいけど」
江木はげた箱にもたれた。理加子はドアにもたれた。
「なにからどういうふうに話したらいいのかよくわからないけれど、わたしは江木さんの幸せを願うようにしたいと思っています」
静かに話した。そしてわたしも幸せになりたいと思うようになりました、と言おうとするのを江木が遮った。
「ちょっと待ってよ。俺、全然幸せなんかじゃないんだよ、今。彼女ね……正直に言うけどさ、彼女、精神的にたいへんな落ち込みのときだったのにもかかわらず北海道ではスタッフみんなに気をつかってたんだ、ほんとに。俺も知らなかったんだ。けど、ある晩、ふたりとも眠れなくてさ。彼女の部屋でたわいないことしゃべってて……。そしたら、彼女から打ち明けたんだけどさ、お父さんが死んだばっかりだっていうの。ショックだったよ。そんなに精神的にたいへんなときなのに休けい時間にはみんなに飴をくばるんだ。食事のときはみんなのぶんを先に小皿にとりわけたり、俺の料理からセロリとパセリを抜いてくれて、いつも人に気をつかう女性なんだよ。それで……その夜、そのまま彼女といっしょにいて……。そういうことになって……。大屋敷さんのことをだますとか、もてあそぼうとかそんなつもりは全然なかったんだよ」
理加子はことばを失った。あともう少しで三十歳になる二十九年間でもっとも唖然《あぜん》としたといっていい。
ほんとうに唖然とした。
「大屋敷さんのことは本当に好きだったし、結婚したかったし、でも、大屋敷さんが俺んとこに来たとき避妊がどうのこうのって、だんだん強制するようになってきて、あ、これはちょっと違うんじゃないかなあって……、それで……。そういうことに……。でも俺、彼女とは結婚しようとしてるんだよ。けどね、彼女、前に離婚の経験をしてて男性不信に陥ってるんだ。救ってあげたいんだけど痛々しいくらいの男性不信でね。だから、ちっとも大屋敷さんが想像するような幸せな状態じゃないんだよ。幸せっていうのを誤解してるんじゃないかな」
100秒ほど唖然として江木を見ていた。
そして、玄関にしゃがみこんだ。
笑った。
笑いがとまらなかった。たしかに自分は江木からすれば悲しみというものを知らない。
「ど、どうしたんだよ、急に」
おびえたように江木が訊く。
「シナリオをね、シナリオを書きなおしたら、って、小林さんに言われて……」
笑ったまま話すためにことばが切れぎれになった。途中で話すことはあきらめた。笑いつづけた。
理加子はシナリオのラストのナレーションを頭の中で変えたのだ。
ペトルーキオだと思っていたらピノキオでした。
ただの人形だった。そう思うとおかしくてならなかった。そのうえ、図書館の近くに『パンのピノキオ』というとてもまずいパン屋があったのを思い出して腹が痛いほど笑った。
「なんだよ、なにがおかしいの? そんなに俺、おかしなこと言った?」
笑っている理加子を見て、江木はにこにこした。理加子が泣かずに笑ったことが彼を安堵《あんど》させたらしかった。
理加子は立ち上がってからも、また笑った。ひとしきり笑ってから、訊いた。
「江木さん、じゃ、彼女からいろいろと打ち明け話を聞いた部屋でセックスしたということ?」
江木の顔のにこにこした表情がかたまったようになる。かたまった表情で江木はうなずいた。
「そのときコンドームした?」
「そのときは、しなかった」
「そう。よかったね。早く彼女の男性不信がなおるといいね。早く結婚できるといいね」
理加子が江木にほほえむと、江木はまたにこにこした。
「わたし、とても楽しかったわ。江木さんと会えて」
「俺も楽しかった」
理加子は言った。
「でも、わたしだったらお父さんが死んだばっかりだっていうのにとてもセックスできないわ」
江木の顔からにこにこした表情が剥《は》がれ飛び、彼の手が理加子を殴りかけた。
理加子はじっと江木を見ていた。
「さようなら、江木さん」
しゅる、しゅる、と弱々しく江木の手が下がり、彼は鸚鵡《おうむ》返しに言った。
「さようなら」
理加子は江木の部屋を出た。
アスファルトを踏む足の裏。
(どこかでタクシーをつかまえよう)
理加子は歩を速めた。
チェックのタクシーがとまる。
理加子はタクシーに乗った。道路は事故のためにまた渋滞していた。
「いやあ、今年の夏は暑かったけど、さすがに涼しくなってきたよね、夜なんか」
愛想のいい運転手だった。
「ええ、もう秋ですね」
「秋はものさびしいなんて言う人もいるけど、食べ物がおいしくていいやね」
運動会のころにいつも食べた緑いろのみかんの香りが理加子の鼻先を抜けた。
運転手がラジオをつけた。理加子は眼を閉じて頭を座席にもたれさせた。
ラジオから流れてきた曲を、理加子は知っていた。
マイルス・デイビスで『いつか王子さまが』でした
音楽が終わると物静かな語りがラジオから流れた。
「いつか王子さまが、か。いまどきの王子さまは白馬には乗ってないんだろうな」
運転手は理加子に話しかけるでもなく言った。
「きっとタクシーに乗ってるのよ」
理加子が言うと、運転手は、お客さんうまいね、と言い、そいつあいいや、と言った。
理加子はまた眼を閉じ、また頭を座席にもたれさせ、東京は交通渋滞がひどいから王子さまもたいへんだわ、と思った。
帰るなり風呂《ふろ》に入った。それから風呂の湯を洗濯機に入れ、病院で使ったものを洗って干した。
それから、居間に正座していた。
一週間ぶりに見る花模様の柱時計は相変わらず、ぎっ、ぎっ、と音をたてて針を動かす。
(この音がこの家の時を止めている)
九月二十六日。二十九年と十一ヵ月のあいだ、理加子の時間は流れなかった。花模様の文字盤を何度も何度も回転していただけである。
電話が鳴った。父親からだった。
【今日、退院したそうじゃないか。なぜこっちへ来ないんだ】
【行けません】
【なぜだ、なぜ来ないんだ】
なぜだ、なぜだ、なぜだ、なぜだ、と父親は訊いた。
【わたしも休みたいからです】
電話を切った。
母親からも電話があった。
【編み物をしながらここで寝たほうがいいわ】
【お母さん、わたしは編み物なんか嫌いなんです。どうして編み物が好きだと勘違いしているの?】
理加子が言うと母親は、あなたは不良になったと言い、電話を切った。
理加子も受話器を置いた。そして、自室の布団にもぐりこんで眠った。浅い眠りではあったが、確実に自分の精神から膿《うみ》が出ていっていることを感じていた。
朝。
理加子は布団の上にすわったまま、首を回して自室を見渡した。
物の少ない部屋である。
TVと本棚、机が一つずつ。衣類は最低限のものしか持っていない。押入れ整理ケースにすべて収まってしまう。だから部屋には箪笥《たんす》もなかった。
壁のフックに一つだけ大きな鞄《かばん》がかかっている。バドミントン部のころの大きな鞄。旅行に使えそうな鞄だが、旅行をすることを理加子は「許可」されなかった。
写真も、ほとんどない。写真は学校のアルバムに載ったものくらいである。写真を撮り合える空気は、この家にはなかった。
口紅も白粉もアイシャドーも持っていない。「許可」されなかった。顔も手も兼用の乳液が一つあるだけである。宝石は皆無である。指輪もネックレスもイヤリングも理加子はしたことがない。
机の引き出しに通帳が二冊。図書館に勤めはじめてからの普通預金と定期預金。印鑑は一本。
(もし火事になったら、わたしは何を持って逃げるだろう)
理加子は考えた。
答えはすぐに出た。
通帳。そして、机の上に置かれた封筒。その中にはシナリオのコピーが入っている。理加子が理加子であり得た唯一の時間はシナリオの中にある。
〈でも、とてもいい話だったよ〉
間宮は言った。
ようやく理加子は思った。うれしいと。
理加子はゆっくりと立ち上がる。顔を洗いシャツを着てズボンをはく。いつも通勤に使っている鞄に通帳と印鑑を入れた。大きな鞄にトレーナーの上下とジャケットを入れ、まだゆうにゆとりがあったので、通勤に使っている鞄も入れた。
洗濯物を取り込んでから、理加子は鞄を玄関に置いた。
電話が鳴った。
親戚の叔父、敏之からだった。
【今朝、電話があってね。退院したのに病院へ来ないってお父さんが嘆いてたよ。まあ、疲れてたんだろうが、だめじゃないか。親を心配させるようなことを言って。かわいそうだろう。親は大事にしないと。それが家族ってもんだろう】
【そうですね】
理加子は電話を切った。
敏之にかぎらない。これからも同じようなことを誰かからたびたび言われるだろう。
「だって、ふつうはそうだものね」
ふつう、という巨大な影。しかし影は決して実体ではないのである。いつも影だけを見ていた自分は江木と同じではないか。ピグマリオンではないか。
「一人で暮らすことからまず始めるわ」
理加子は鞄をさげて、家を出た。
休日
それは空からおりてくる飛行機
その翼の影の下を町が通りすぎる
なんと地上は低いのだろう
休日
教会やHLM
空に住む彼らが愛する神は何をしているのか
なんと地上は低いのだろう
休日
飛行機の影が海をとらえる
砂漠の前兆のような海
なんと海は低いのだろう
休日
休日
あれほどの空、あれほどの雲を
きみは、わからない、きみの年齢では
人生がきみを疲れさせる
なんと死は遠いのだろう
休日
それは、空に住む飛行機
忘れないで美しいきみ
飛行機は弱ってきている
地上は低い
文庫版あとがき(解説にかえて)
姫野カオルコ
本書が単行本として出版されたのは一九九二年六月である。よって私は一九九一年からこの作品を書きはじめていた。書きはじめたときから千余枚の長いものになる予定であった。
このページ(あとがき、解説)から読む読者も多いので、どこまで内情を明かしてしまってよいのか迷うが、『ドールハウス』は三部作の第一部なのである。第二部『喪失記』と第三部『不倫(レンタル)』をもって「処女三部作」となる。この長さを先に知らされると本書を買うのをやめてしまう人がいるのではないかと恐れる。だが「三巻」ではなくあくまでも「三部」であることを強調したい。
三部すべて、主人公は処女である。しかし主題は三部すべて、処女ではない。処女であるという環境を背負った女が三部すべての主人公になっているが、各部によって主題がことなり、それによって主人公の年齢も職業も時もことなる。その名前自体が、理加子、理津子、理気子と変化していくように、その背景も変化してゆく。それでいて三人とも同じ女と見ることもできる。また、別の女と見ることもできる。
端的に各部の主題を明かすなら、第一部『ドールハウス』が「家庭という何者か」、第二部『喪失記』が「友情という何者か」、第三部『不倫(レンタル)』が「美意識という何者か」である。
だから、三部をひとつの長編と考えて順に読むことも可能であるし、各部を独立して読むことも可能である。選択は読者の自由にした。
そこで本書『ドールハウス』に的をしぼって、この先は言及していこう。
主人公は理加子という。彼女は未熟である。二十九歳の処女だから未熟なのではなく、未熟だから処女であるといったほうがよい。処女という語が性的な事象ばかりを想起させがちなため語弊があるかもしれないので、いささか偽善的な語ではあるが、少女と換言したほうがこのページではわかりやすいかもしれない。
理加子は大屋敷家にあって、ただひとりの「子供」として存在している少女である。
「子供」というのはなにかというと、ある男とある女の一親等血族ということである。
一親等血族のなかから「家」を引き継ぐ者が選ばれ、後継者とされた者は「個」よりもはるかに「家」を優先してその後継に全力をかたむけねばならない。歴史上、日本の「家」はこうして存続されてき、だれもそうした状態に疑問を抱かず、近代になって「家」よりも「個」辺ほうが優先されてもいいのだという認識が流布し、第2次世界大戦後にそれが定着した――はずなのだが、ほんとうにそうだろうか?
すくなくとも理加子は「家」よりも『個』を優先させることができないでいる。時代が第2次世界大戦以前であれば、彼女の心情や境遇は奇異ではなかっただろう。
近代的自我の確立を主題とした文学作品(現在にあっては「名作」という名で「常識」や「ふつう」と化したところの文学作品、詩歌等)を教科書で見聞きしたために錯覚があるやもしれぬが、戦前においては、理加子のような「ひとりっ子」はたいへん「ふつう」の少女であったと思う。
「家」の後継者として、一親等血族の作成した「ルール」を厳守し、婚前であるのだから異性との接触は皆無。「家」の所有である金銭を使用して学問を学ばせてもらっている以上、ほかには贅沢をつつしむ。読書や映画、ダンスといった頽廃《たいはい》的なものになじむことは避け、健康維持のためにスポーツにはげむ。
戦前ならば、理加子は自己の現状についてあまり悩まなかったのかもしれない。周囲も理加子を奇異の目で見なかっただろう。
しかし、理加子は一九八九年に生きている。結婚前の女が処女であることが奇異な現在にあって、彼女は奇異なのである。
本書のプロローグに朝日新聞の投書欄からの抜粋がある。奇異な投書である。投書の内容が奇異なのではなく、あの投書が採用されたことが奇異である。なぜなら、あの投書が採用されたのは、あの投書のような考え方を、
「みなさん、いまいちど読んでください」
「いまいちど、注目してください」
という前提があったからで、現在、あの投書のような考え方が「めずらしくもなんともないこと」であるなら採用されなかった。それだけめずらしい(=奇異な)投書になるような時代が現在なのである。
奇異な理加子は、ある日、ひとりの男(江木)と出会う。本書の小説上の構築としては、理加子と江木との出会いから別離までが、物語展開の「道具」として用いられてある。この「道具」の部分だけを読む読み方(つまり恋愛小説として)も、もちろんあってよい。著者のおもわくは本が出版された時点で著者から離れるのだから。
しかし、単行本を出したのちの読者からの手紙から言うと、この「道具」のほうに焦点を当てて本書を読む者の数はひじょうに少ない。やはり、道具ではなく、道具が露わにした理加子の「家」に焦点を当てている。
「実は私も父が(母が)病気で、家内に病人がいるのに自分の世界を進んでいくことにやましさがあり、やましいから他人にはうちあけられず、本書を読んで自分以外にも自分のような人がいたことにほっとしました」
「ぼくは狭い町に長男として生まれたために、自分の希望を隠して現在の勤めをつづけていたが、自分の希望を隠してつづけていることにやましさを感じており、感じているから他人には言えないでいた」
というような主旨の手紙が圧倒的であった。そうした手紙を読むたびに、私もまた彼らに励まされた。
私には理加子を、決して奇異な、特別な少女として描いたつもりはない。おそらく現代にあっても、いや、現代であるからこそ、彼女のような「ふつう」の少女(少年)が大勢、現代という時代が表層的に作った「ふつう」の名の陰で沈黙しているのではないかと描いたのである。あまたのsilence cryを想った。
理加子はなにも二十九歳にかぎらない。
「長女」という名で「家」を負う理加子もいれば、「嫁」という名の理加子もいると想った。自我の確立を叫んだ近代から第2次世界大戦を経て、戦後五十年余、ほんとうに「個」は「家」に優先されているのだろうかと。
「個」を優先させるとは、決して「家」をないがしろにするということではない。「家」を優先させるということは、決して「個」を縛るということではない。両者は本質的に対立するものかもしれないが、「家」もまた「個」の集合であるのだから、他者と冷静に向き合える距離が必要となる。その冷静さを「いけないこと」であるとする傾向が今なお存在するのではないだろうか。
他者を受容するためには自己がまず確立されていなければならない。「個」を殺したまま存在を認めようとさえしなかった理加子は弱く、だから未熟である。
恋愛は「個」と「個」の格闘であるのだから、よって理加子は恋愛できるはずがない。処女であっても当然といえば当然である。めぐり合ってしまった(?)江木もまた(むしろ理加子以上に)未熟である。
世に「恋愛小説」は多く、幸運にも成熟をとげた者たちは、強い共感を抱きつつ、そうした作品群を堪能できるのかもしれぬ。それら作品群に描写される「痛み」や「嘆き」や「悦楽」に。
だが、恋愛それ自体に到達できぬ未熟な、さらにいえば未熟でいなければならぬことを余儀なくされる環境にある人間も生息はしているのである。
年齢的に「少年」「少女」であれば、「社会はわかってくれない」と幼い反抗に出られるのかもしれないが、己の年齢を熟知すれば幼いふるまいはできないし、年齢とはべつに性格的に慎みを身につけていれば、できない。その結果、未熟をひた隠しにし、ひたすら「個」を撲殺しつづける。これはネガティブである。破壊に向かうしかない不運である。このような層に、このような層に属していた者として、このような層を掬《すく》いたかった。それが『ドールハウス』を書いた動機といえるだろう。
なお、作中の詩はミッシェル・ポルナレフ『囚われのプリンス』『愛の休日』(青山祐子・訳)に依る。
一九九七・七月
角川文庫『ドールハウス』平成9年7月25日初版発行
平成11年1月10日3版発行