|茂丸《もちまる》|実也子《みやこ》の母は猫を恐れなかった。
彼女は無神経な人だった。きっと、ものごころついたときから、無神経だったのだろうと、実也子は思っていた。
無神経。このことばから一般に人は、実也子が言う無神経とはちがうようすを頭に浮かべる。
たとえば、早口で、なんでもぽんぽんと言いたいことを言い、大きな声で笑う人。たとえば、|箸《はし》の使い方が汚く、がつがつと|咀嚼《そしゃく》して、咀嚼しながらしゃべり、|噛《か》んだものを口からとばしたりする人。いつもせわしなく身体を動かしていて、歩き方もはやく仕事もはやいが、仕上がりは|粗《あら》い人、など。こんなふうなようすを、無神経ということばから、人は思い浮かべる傾向にある。
多弁であったり、がさつであったり、せっかちであったりする人の同意語、あるいは陽気な人の短所として、無神経という語はとらえられがちである。
実也子の母は、快活な人間ではない。声も低く、大きな口をあけて笑うこともない。無口で、人の|噂話《うわさばなし》がきらいである。大勢が集まる場でも、壁ぎわで、場の主役や準主役の立場にあるような人をそっと見ているだけだ。
「あなたのお母さまは、ほんとうにひかえめな、おやさしい方ね」
茂丸家を訪れる客人は帰るさいにたいていそう言って、見送る実也子の頭をなでた。
「ごきげんよう」
なでられた頭を下げ、実也子は教えられたとおりに、ただそう言った。
客人が来たとき、帰るとき、そう言って頭を下げろと教えたのはだれであったか忘れた。マッケイン先生だったか、|美細津《みさいづ》さんだったか。|吉川《よしかわ》シスターだったかもしれない。母ではない。|挨《あい》|拶《さつ》の仕方や食事作法などは、三年通った幼稚園で身につけた。母からではない。
母が実也子に教えたのは、猫を見た話である。
迎えの車が来て、スキー板をかついだ父が数人の知人といっしょに高原へ行ったすぐあとのことだった。
「猫は向こうのほうへ歩いていった」
母は言い、小学校五年生の実也子は、門や門柱のほうを見る。猫などいない。
父と父の知人たちは、車を発車させる前にひとしきり挨拶をくりかえした。玄関で、玄関ポーチで、門で。車のドアを閉める前にも。
自家用車というものも、自家用車の運転されてゆくさまもめずらしいから、実也子は父の出発をずっと見ている。母も実也子の横に立っている。
「ほんとうにおせわになります」
「自家用車などでお迎えくださって、どうしましょう。ありがとうございます」
父の知人に軽口のひとつもたたかず、同じことを、玄関でも、ポーチでも、門でも、母はくりかえす。口をすこし開け、|頬《ほお》の筋肉を収縮させ、「やあぅ」と発音しながら。
「やあぅ」という発音に、意味はない。おあぅ、と聞こえるような気もするし、あうぁと聞こえるような気もする。
父を訪れた客人に茶を運んだときなどに「やあぅ」と言うのである。社交的な客人が、母にもソファを勧める。母は応接室のすみのピアノ|椅子《いす》にしかたなくすわる。まったく社交的ではない母は、何度会っても客人の名前をおぼえない。社交的な客人は父を笑わせ、自分も笑う。そんなとき母は「やあぅ」と発音する。客人にも話題にもなんの興味もないが、口をすこし開け、頬の肉を収縮させ「やあぅ」と発音すると、いっしょに笑っているように、一応、見える。それが母の|世《せ》|辞《じ》だった。
話し好きなスキー愛好家は、ポーチで、エンジンをかけるまで、母に「やあぅ」と言わせつづけていた。実也子が、その笑い方の心のこもらなさをつくづく感じたのだから、ずいぶんのあいだ玄関あたりに立っていたはずである。猫など見なかった。
「猫は向こうのほうへ歩いていった」
母は、そう言い、室内に入った。いつものように顔が変わっていた。
客人が帰ると、すぐに彼女の頬は収縮をやめ、口が閉じられ、口角がかくんと下がる。まるでちがう顔になる。
「猫なんか、いた? 気がつかなかった」
実也子は小さい声で言った。「やあぅ」と笑わなくてもよい状況になった母に、なにかものを|訊《き》くのは、いつもすこしためらわれる。答えをはなから期待せず、ただなんとなく落ちつきが悪かったので、ひとりごちるように言っただけだった。
「今いたわけじゃない。学校にいた猫」
意外にも、母は答えた。
「学校にいた猫?」
「寄宿舎にいるとき、見たのを、ふと思い出しただけ」
応接室に入ってゆく母を、実也子はうしろから見ていた。母が女学生のころ、寄宿舎にいたことは、実也子も知っている。
「さあ、朝ごはんを食べましょう。おなかがすいたじゃないの」
客人たちの使った湯のみ|茶碗《ぢゃわん》を盆にのせた母が、また応接室から出てきた。
「女学校に猫がいたの?」
実也子は訊いた。
「いくら自動車に乗せてってやるからって、こんなに朝早くに人の家に来るもんじゃない。食事どきがすんでから来るものだろうに」
だが母は、いつものように、客人を悪く言い、実也子の問いは聞いていなかった。世辞で笑いながら、客が家をひきあげたあとは必ず、客人や父を悪く言う。
「ぼんやりしているとあっという間にお昼になってしまうから、あなたも早くすませなさい」
「はい」
実也子は食卓をおおってあったふきんを取り払ってたたんだ。飯や目玉焼きはさめてしまっていたがしかたがない。ウスターソースをほんの数滴たらして、|箸《はし》を指にはさみ、いただきます、と言う。
と、母がどぼどぼとかけた。温めなおした|味《み》|噌《そ》|汁《しる》を。実也子の飯に。
「こうして温かい味噌汁をかけると、ごはんも温かくなる」
母は自分の飯碗にも、味噌汁をかけた。そして、その上に目玉焼きをのせた。手をのばし、実也子のぶんの目玉焼きも、実也子の飯碗にのせようとする。
「いい。いいよ」
実也子は碗をひく。
「ぬるい。ちょうどいい温かさになるのに」
母は、味噌汁をかけた飯と目玉焼きを箸でかきまぜて食べる。時計やカレンダーを見ながら。
「八時四十五分になったら家を出るから、あとかたづけはお願いね」
「うん」
日曜だった。母は薬剤師で、店は歩いて十五分ほどの商店街のなかにある。商店街の休みは月曜である。
「金曜まで旅行だなんて、困ること」
父も薬剤師だった。人を|厭《いと》う母は調剤室にいて、おもに父が接客をする。
「それじゃあ、いってらっしゃい」
実也子は母を見送った。
茂丸家は古い屋敷で、戦前、自宅と店はつながっていた。今の応接室がもとの薬局部分である。
住居部分との境にあたる壁が一面の棚になっており、そこには、戦後はもうめったに使われなくなった古い|天秤《てんびん》や、つやをすっかり失った|硝子《ガラス》|瓶《びん》や、虫食った古いドイツ語の本やかわいそうな王女様の版画の入った物語の本や、立派な装丁の辞書などが置かれていて、実也子はひとりで留守番をしているおり、それらをながめているのが好きである。
「魔法がつかえる呪文をみつけられるような気がする」
母にそう言ったことがある。たとえば、丘を散歩していてぐうぜん見つけたスノーフレークを、なんとはなしに古い本の上に置き、そのときちょっとつまずいて、古い硝子瓶が倒れ、瓶の底の底の底のほうに残って、水分も蒸発して粉になってしまったなにかの薬品が、本の上のスノーフレークにふりかかる。ぐうぜんにもそれはコブレンツの白魔女を呼び出す方法で、もくもくと煙がたったのちに、天秤の皿の上に体長10センチほどの魔女、モニクモニカがちょこんとすわっている。そんな気がすると、実也子は母に言った。
「ばかばかしい。そんなことあるわけない。スノーフレークなんていう花はこのへんに咲いていない。もっと北緯の植物だから」
|言《げん》|下《か》に母は言った。
「この棚にあるのはみんなエタノールの瓶です。エタノールは蒸発したら、粉になんかならない」
硝子瓶も天秤も、本も辞書も、母は捨てたいのだった。
「お父さんが大事にしていたから──」
実也子の父のことではない。母の父のことである。
「──価値があるのかと思って、一度、美術商さんに見てもらったら、なんのことはない、一文の値打ちもないのですって。瓶の色がきれいだからとか、|秤《はかり》の台に装飾された形が細かいからとかって、そんなことでお父さんは残しておいただけだったのよ。お姉さんはそれを──」
実也子の姉のことではない。母の姉のことである。
「──深みのある|翳《かげ》があるとか、時間的な|尊《とうと》さがあるとか言ってたから、なんだか悪くてそのまま残してあるけど、掃除がたいへんよ」
母と姉は四歳ちがいで、その人は、実也子の|伯《お》|母《ば》であり、実也子の父の前妻でもある。その人が|婿《むこ》養子をとるかたちで父と結婚し、父は召集され、やがて彼が戻るとまもなく、子に恵まれぬまま他界した。敗戦後まもないころで、父はそのあとも再婚せずにいたが、実也子の祖父が実也子の母を、めとらせたのである。姉のあとにその妹を妻にする男の例は、周囲にも少なくなかった。
あれはいきおくれた娘でと義父から言われましてね。応接室で父は客人にそう言っていた。父も客人も、小学生に意味などわかるまいとたかをくくっていた。
「それはそうだろう」
だが実也子は意味がわかっており、わかっていないふうを|装《よそお》いながら、心中で彼らに同意した。実也子の母は、縁談のまとまらぬことに|焦燥《しょうそう》をまるで感じないような人間だった。
コプレンツの呪文や魔女モニクモニカの空想も、母には|一文《いちもん》の得にもならぬ|世《よ》|迷《ま》い|言《ごと》でしかない。
「やめなさい」
と母は実也子の手から本を奪う。客人からもらって、何度も読み返していたバーネットやリンドグレーン、応接室の棚にあった挿絵入りの|吉《よし》|屋《や》|伸《のぶ》|子《こ》を。
「頭が痛くなったらどうするの。頭痛は万病のもと」
やあぅと笑うときとはちがい、母は心から実也子の健康を心配していた。女学校時代、母は、読み方と|綴《つづ》り片の時間になると頭痛がしたのである。母が|叱《しか》らない本は|吉《よし》|野《の》|源三郎《げんざぶろう》だけだった。
『君たちはどう生きるか』という題の、道徳の時間に先生が朗読するようなその本を、実也子は一度、なくしたことがある。級友が遊びに来た日、なくなっていたのだ。
「きっとあの子が盗んだのよ」
母は断言した。
「本を読む人というのは、どこか悪いことをする|性癖《せいへき》がある人だから」
母は断言した。
実也子は、どこかべつの場所に置き忘れたような気もしたが、級友が盗んだのであればそれもおもしろいような気がした。『君たちはどう生きるか』という道徳的な題の本を「盗む」という行為で入手する対照が、おもしろかった。
『君たちはどう生きるか』には、魔法使いも探偵も|謎《なぞ》の湖も出てこなかったので、その本がなくなっても実也子はさびしくなかった。ところが、母はあらたに『君たちはどう生きるか』を買ってきてわたした。
おなじ金を出すなら、なぜほかの本を買ってくれないのか。実也子は残念だった。
日曜の十時。
魔女モニクモニカが煙とともに現れてくれそうな本を、実也子は棚から探した。ぶあつくて、背表紙に金文字が入っているような本や、きれいに装飾された外国の文字がはいっている本を、今までは好んでいたが、今日は、ちょっとちがうやつを抜いてやろう。どれにしようか。
実也子が選びかけたのは、背表紙の題の部分がはがれ、|糊《のり》を塗ったガーゼのような布が見えてしまっている本だった。親指の第一関節くらいの厚さ。
抜きだしてみると、子供が大きな三角形にもたれている絵が描かれた表紙が現れた。絵のバックはからし色。三角形は黒。子供は帽子をかぶっている。黒い大学帽。そして、|鐫《のみ》で彫ったような文字で題名も黒く記してあった。
『三角のあたま』。
帽子をかぶった子供は、先生が持つような指示棒を持ち、三角形にもたれて題名を指していた。裏表紙もからし色。からし色のところに青く「二組 茂丸|緋《ひ》|左《さ》|子《こ》」と記されていた。母の名前である。
万年筆の青い文字は、もうかすれて灰色がかっている。二組。母も学校に通っていたころがあったのだと、実也子にたしかに実感させた。
そんなもの、戦前はなかったのよ……。戦前は、そういうことを、みんな知らなかったから……。戦前だったから、まだお父さんも元気で……。無口な母であるが、たまに実也子の父と話していることがある。そういうときはよく「戦前は」とか「あのころは」といったことばが出る。
戦前というのが、太平洋戦争の前のことだというのは実也子にもわかる。しかし、戦前を実也子は実際には知らない。戦前に母が、じょししはん、という学校に通っていたことは聞いている。母もむかしは子供で、それから女学生になって、結婚して今の年齢になったのである。それはわかっているが、実感できなかった。母は、実也子が生まれてまもないころ、祖父が亡くなったあとに、戦前の写真をみな捨ててしまった。
「うっかり捨てるほうにまじってしまったらしく、大工さんが持っていった」
もとの薬局を応接室に改装するさい、ずいぶん物を処分した。温かくなるからと、さめた飯に味噌汁をかけ、その上にさめた目玉焼きをのせても意に介さぬ茂丸緋左子は、改装業者に細かな指示も注文もしなかった。
|経《けい》|緯《い》を聞いたとき、実也子は、自分の写真ではないのに、なにか美しい価値あるものが消滅したような気がして胸が痛んだ。うつむく実也子を、母はふしぎそうに見た。そして、こう言った。
「戦前はそんなに写真を撮る機会なんかなかったから、たいした数ではない。アルバムもやくざなうすっぺらなものだった」
それが実也子の母の、実也子に対するなぐさめだった。
だから実也子は、二組、という文字に、母がかつては女学生だったこと、万年筆の青の|褪色《たいしょく》に、戦前というむかし、を実感した。
そして、しかたなく祖父や伯母の蔵書を捨てないでいる、本を読む人はどこか性格に悪いものを持つと言う母が、『三角のあたま』を保管していたのが意外だった。
「どんな物語なのだろう。いたずら小僧の話かも」
木登りをしたりかけっこをしたりしては転んで頭にこぶを作る少年。いたずらをして叱られては頭を|叩《はた》かれるような少年。そんな小僧の物語を、実也子は想像し、ページを繰って裏切られた。
ページには数式とグラフが満ちていた。英語もまじっている。sin、cos、tan。「解法のてびき」という大きな文字もある。赤いアンダーラインがひいてある。練習問題の番号にはばってんがいくつもついている。関数の参考書であった。
「数学と博物」
好きだった科目はなにかと実也子が尋ねたとき、たしかに母は答えている。実也子は『三角のあたま』が、いたずら小僧の物語でなかったことにすこしがっかりしたが、それでも、自分が小学校で習う算数の時間には見たことのないような長い式や、ふしぎな放物線を描くグラフを見ていると、戦前を|覗《のぞ》き見したような気分になった。
ページを繰る。
「あれ?」
ページがくっついているところがあった。古くなってくっついたページはほかにもあったが、そっとていねいに指を入れると、ぺり、と離れた。
だがそのページは、故意に開かなくなるように、くっつけたようになっている。
「ページのぐるりを|鋏《はさみ》で切れば……」
そうすれば開くかもしれない。実也子は鋏を持ってきて、ページの|縁《へり》にあてた。あてて、やめた。母であれ、母でない者であれ、自分以外のだれかが、ページを封印したのは、なにか理由あってのことだろう。そう思うと切ることはできなかった。
『三角のあたま』を、実也子は本棚にもどした。玄関のチャイムがなった。
「はい」
人を家に招くのが好きな父の客人にちがいない。あいにくですが、父は今週、えんぽうにでかけていてふざいです。訪問者に言うべき挨拶を、実也子はあらかじめ口の中で練習してから、ドアを開けた。
「まあ、こんにちは。緋左子さんのお嬢さんかしら」
和服を着た訪問者は、実也子にほほえんだ。
「わたし、お母さんのおともだちよ。師範でいっしょだった|寺《てら》|井《い》です」
二組と記された『三角のあたま』を見ていたところだったので、実也子はちょっとびっくりした。
「急にきて申しわけありません。いらっしゃる?」
「あいにくですが、母は、薬局に出ていてふざいです」
練習文を、一部変形させて実也子は答える。
「薬局……。前はこちらがお店だったでしょう」
「はい。今は変わりました」
実也子は寺井さんに、商店街へ行く道順と店のことを教えた。
「そう。改装なさったのね。そうね。あれからだいぶたちますものね。そうよね……」
寺井さんは門のほうをふりかえる。
「道をあっちから歩いてきて、お玄関のポーチがそのままだったから……。前は、このお玄関からも、お店からも、おうちのなかに入れたのよ。入ってすぐに出窓のあるお部屋があったわ。廊下があって、階段の手前の両開きのドアを開けると……」
寺井さんは、矢継ぎ早に、かつての茂丸家の間取りを実也子に教えた。
「出窓のあるお部屋にはカナリアがいた。金の|籠《かご》に入ってた」
「つくりものの鳥のこと?」
応接室の古い棚に、本や天秤と並んでいる、あの飾りのことだろうか。
「そう。よくできてるでしょう。まだ、あるの?」
寺井さんはよろこんだ。よろこんで、実也子に名前を訊いた。それから祖父や伯母のことも訊いた。
「たかいいたしました」
「えっ、そう。ごめんなさいね。そう……。戦前のことですものね、わたしが遊びに来たのは……。じゃあ、商店街のほうへ行くわね」
寺井さんはそう言いながらも、なにかものおもいにふけったふうに、玄関からすぐには出ていかない。
「師範のころ休暇になると、おばさん、よくこちらに寄せてもらったの。おじいちゃま、おやさしい方でね、外国の、きれいな|御《ご》|本《ほん》をたくさん見せてくだすったの。お姉さまは押し花や|栞《しおり》を作るのがおじょうずで、わたしと実也子ちゃんのお母さんとに、ふたりおそろいの栞をくだすったのよ」
寺井さんはバッグから、さらに小さなバッグを出し、そのなかから|畳紙《たとうがみ》に包んだ栞を出して、実也子に見せた。とてもうれしそうだ。
「へえ」
実也子は、栞を手にとって見る。短冊の形ではない。洋梨のような、|楕《だ》|円形《えんけい》をした栞。赤い花が押し花にされ、上から|透紙《すきがみ》が貼られている。
「|椿《つばき》の花よ。いただいたときはもっともっと鮮やかな赤だったのだけれど……。お庭に椿が咲いてない? お姉さま……実也子ちゃんの伯母さまは、押し花をそれはじょうずにこしらえたのよ。お姉さまが作った押し花は長いこと色がもつの」
寺井さんに、栞を、実也子は返した。そして『三角のあたま』の、くっついたページは母が押し花を作ろうとしたのだと思った。伯母をまねて、母も押し花をつくろうとし、伯母のようにはうまく作れず、そのまま放っておいた、それがきっとあのページだと。
「商店街のお店に行ったら、緋左子さん、わたしに会ってくれるかしらね」
栞は畳紙に包まれ、それは小さなバッグにしまわれ、小さなバッグは大きなバッグにしまわれる。
「もうずいぶんになるんですもの。もういいわよね」
寺井さんは、実也子に訊いているのではなかった。だれに訊いているのでもない。どうかしたのですか、と言わなくてはならない気分に実也子はなった。
「いえね、師範のとき、おばさんね、緋左子さんと|喧《けん》|嘩《か》したの。たいした喧嘩じゃないのよ──」
それまで母と寺井さんはたいそう気があっていた。外国の小説を貸し借りして、感想を言い合ったり、いっしょに活動写真を見に行ったりした。『嵐が丘』がとくに母は好きだった。それがある日を境に、不意に母の態度が変わったのだという。なにが変わったというわけではない。寺井さんに意地悪をするようになったわけでも、ほかの生徒と仲良くなったわけでもない。だが、なにか、人当たりが変わった。
「──緋左子さん、なんだかかんじがすっかり変わったわね、って、わたしが言ったの。そしたら、その日から緋左子さんはわたしと口をきかなくなったの。とてもかなしくてね、仲直りしようと思っていたのだけれど──」
そのころ寺井さんの縁談がまとまり、彼女は師範を中途退学して、九州へ移った。先週、寺井さんのお父さんが亡くなり、それでしばらく実家に滞在していたが、明日は九州に帰るという今日、思い切って茂丸家を訪ねたのだという。過去の記憶や人のつてを頼りに、駅からここまでの道を来たと。
実也子に話すというより、寺井さんはひとりで自分の気持ちを整理しているようだった。
「──ずいぶんたったけど、心のどこかでずっと気になっていたの」
それは気になるだろう。実也子は思った。なぜなら、寺井さんと喧嘩する前の母は、小説や映画が好きだったのである。想像できない。
「あ、もしかしたら」
実也子に聞かせるともなくひとりで話す寺井さんの言うことを聞いているうちに、実也子のほうは寺井さんとの距離を縮めていた。はじめての訪問者にではなく、吉川シスターや担任の先生などに接するのに似た|ものいい《・・・・》で、実也子は言った。
「猫を見てからじゃないですか?」
「猫?」
「寄宿舎に猫がいたのだそうです」
|今《け》|朝《さ》の唐突な母の|吐《と》|露《ろ》が、実也子は実也子でずっと気になっていた。
「寄宿舎の猫? |呪《のろ》いの青猫のこと?」
空想物語じみたことを、寺井さんは言いはじめた。
「呪いの青猫?」
実也子の問い返しに、寺井さんは大人の顔になって、笑った。
「よくある学校の怪談よ。本当の話じゃないのよ──」
戦前。昭和十三年。女子師範の寄宿舎に、青い猫が廊下を歩くという噂があった。消灯は十一時。自習室のみ一時まで電灯がついているが、それも消えたあとの二時から三時のあいだに、青い猫は食べ物を探しに歩いてまわるのだという。虎ほどに大きな|牝《めす》の猫で、人のたましいを食べる。呪いの青猫。
「──どこの学校にも、こんなお化け話はあるでしょう。でもね、戦前だったから……。あのころは今のように合理主義の時代じゃないから、生徒はみんな怖がって、二時から三時は、おトイレに行きたくてもぜったいに部屋から出なかったものよ」
青い猫がまっくらな寄宿舎の廊下を、人のたましいを求めて歩くさまを想像すると、実也子も怖かった。戦前。大人たちがいつも特別扱いで発するそのことばが、そのことばが指す自分のあずかり知らぬ過去の時間が、ひごうりな空気に包まれていたという形容の重々しさが、怖かった。
「猫を見たのだと、今朝、母は言いました」
ならば母はたましいを食べられたのかと思い、さらに怖かった。
「見たのじゃなくて、そういうお化け話があったなと思い出して、そのことを言われたのよ」
よかった、と寺井さんはほほえんだ。
「今朝、そんなことを実也子ちゃんに言ったんなら、わたしが訪ねてくる虫の知らせだったのかもしれないわ。女学生時代のことを思い出してらしたのかも。よかったわ、わたし、これからお店のほうへ行ってきます。どうもありがとね、実也子ちゃん」
寺井さんは、バッグとはべつに持った|風《ふ》|呂《ろ》|敷《しき》の結び目を解き、なかの箱を実也子にわたした。
「あとでお母さんといっしょに食べてね。お母さん、これ大好きよ。一度でいいからごはんのかわりにいっぱい食べたいねって、あのころ、いつもふたりで言ってはいっしょに食べてたから」
寺井さんは商店街のほうへ歩いていった。
夕方になった。母が帰ってきた。
「寺井さんがいらした」
実也子は、ドアを開けるなり母に言った。
「そうだってね。夕飯、さわらの味噌漬け焼きでいい?」
母は、すぐに|献立《こんだて》について実也子に訊いた。実也子は寺井さんのくれた箱を、食堂に持ってきた。
「ごはんのかわりに、これをいっぱい食べてみたい、ってお母さんがよく言ってたって、寺井さんがくれたよ」
開けていいかと言いながらすでに、実也子は包装紙をはがしにかかる。|羊羹《ようかん》だった。
「…………」
実也子は三本もならんだ羊羹を見下ろしたまま、母になんと言えばいいだろうかと考える。羊羹が、母は嫌いだった。客人や父に出しても、実也子に切って与えても、自分は食べない。
「これ……」
しかたなく、ただ箱を、実也子は母がすわっている前に置いた。
「羊羹が好きだったのは寺井さんよ。かんちがいしたんだね」
二本は近所におすそわけし、一本は父がスキーから帰ってきたら開けようと、母は羊羹の箱に|蓋《ふた》した。そうなんだろうか。寺井さんはかんちがいするような人ではなかった。どんな人なのか、よくわからない。昼間、玄関先で会っただけのことしか実也子は知らない。しかし少なくとも、母も好きだとかんちがいして羊羹を持ってきたかんじはしなかった。
実也子は、母に猫のことを訊こうとしてびくびくする。今まで心やからだで味わったことのない、びくびくした感触だった。それまで、あたりまえに立っていた足場が、実はあたりまえではなかったような不安。
「お母さん、猫を見たと今朝言ったのは何のこと?」
びくびくしながら、実也子は訊く。
「ああ、あれ。あれはね、師範の寄宿舎で見た猫のことよ。戦前の話」
「寄宿舎に猫がいたの?」
「そう。自習室も消灯になってからだから、真夜中だった。青い猫というのがいるとみんなが言うから、どんなものだろうと見てみたくね──」
茂丸緋左子は深夜に二階の廊下を歩いたのである。舎は三階建てで、一階が食堂や自習室や風呂場など共同の設備、それに職員の部屋、二階が上級生の部屋、三階が下級生の部屋。学年の変わり目で、上級生たちは卒業して二階は空いていた。
トイレに行く生徒のために、階段には電灯がついている。三階から階段を降り、右に向きを変えれば、そこからはまっすぐ西に向かって照明のない廊下がつづいている。だれもいない二階の廊下を、緋左子はひとりで西へと歩いた。階段からの光は西に向かうほど弱くなる。まっくらといってよい廊下のつきあたりまで来てしまったので、今度はまた東へ歩いた。廊下の、ちょうどまんなかあたりで、彼女は気づいた。
「──向こうから猫が来たの。青黒い、大きな猫だった。あんな大きな猫、見たことがない」
こともなげに、茂丸緋左子は言うのである。
「なんて大きな猫だろうと思って、そのまま歩いていくと、猫もこっちに向かって歩いてきて、すれちがった。やっぱりすごく大きな猫だった」
こともなげに言う。
すれちがってから、もう一度猫をふりかえると、猫はじっと緋左子を見ていた。なんて大きな猫だろう。本当に猫なんだろうか。彼女は思った。猫はやがて、西の|暗闇《くらやみ》へと歩いていった。
「それだけ。寺井さんは喧嘩をしたのが気になっていたと言うけれど、なんのことかよくわからなかった。進級するから試験勉強で頭がいっぱいだったのを、かんじがかわったようにかんちがいしたんだね」
さあ、羊羹をお隣とお向かいに持っていってくるよ、と母は風呂敷にそれらを包み、出ていった。
実也子は応接室に行った。びくびくしながら、しかし『三角のあたま』のくっついたページに鋏を入れずにはおれなかった。封印されたそこには、実也子が予想していた押し花はなく、綿のようなものが入っていた。青みがかった毛のような、ほこりのようなものが。
「これはきっと……」
実也子が顔をページに寄せたとき。
「なにを見ているの?」
母の声がすぐ耳もとでした。実也子の身体はちぢこまった。
ふりかえれない。
「なんの本を見つけた?」
母は訊いた。
実也子は答えなかった。答えるかわりに訊いた。ページに顔を向けたまま。
「お母さんは『嵐が丘』が好きだったって、寺井さんが言ってた。好きだったの?」
「いいえ。かんちがいよ、それも」
いつもの無神経な、ひかえめな低い声だった。味噌汁を飯にかけそうな声だった。
「『嵐が丘』は寺井さんが大好きだったのよ。空想好きなところがあったから、空想と現実を混同してるのね。ときどきいるわね、そういう人」
「そうね。寺井さんのかんちがいね」
実也子は『三角のあたま』を閉じて、ふりかえった。
母はもういなかった。
「空想好きな女学生だったんだ、寺井さん」
だれもいない応接室で、久しぶりにこの家を訪れた寺井さんはかんしょうてきになっていたのだと、実也子は考えを変えた。茶の間に行った。
母は台所でさわらを焼いている。いつものようにぞんざいな料理の手つきだった。
「食器をテーブルにならべるね」
「ありがと。そうして」
母は実也子に背をむけたまま言った。そして実也子に問うた。
「ねえ、廊下で猫とすれちがって、わたしがふりかえったのはなぜだと思う?」
「猫が太って大きかったからおかしかったんでしょう?」
「ちがうわ──」
母は理由を教えた。ふりかえったのは──、
「おい、とたしかに声がしたからよ」
母はそのとき、実也子に顔を向けた。