麻布憂愁夫人
南里征典 著
目次
第一章 密会追跡旅行
第二章 白昼の凶報
第三章 佐渡情死考
第四章 複合する疑惑
第五章 侵入者
第六章 背後の影
第七章 陥とし穴
第八章 逆転劇場
第一章 密会追跡旅行
1
男は、一日中、海を見ていた。
海を見る以外、男にはすることがなかった。
そのリゾート・マンションのテラスの下は、すぐ相模湾だった。テラスにデッキチェアを持ちだして腰をかけると、眼下にきらめきわたる群青色《ぐんじよういろ》の海を見ることができた。
そこは、熱海《あたみ》の北部、伊豆山《いずさん》にある真新しいリゾート・マンションである。崖上の壮麗な八階建ての建物だが、場所が熱海の歓楽街より大きくずれているので、緑は多いし、崖は急だし、相模湾の海の色が濁ってなくて美しい。
それにしても毎日、海を見ていれば飽《あ》きてくる。飽きても、退屈しても、男にはゆくところがない。男は大手建設会社・大鵬《たいほう》建設の入札《にゆうさつ》課長、鶴田幸佑《つるたこうすけ》であった。
鶴田幸佑はある事情があって、二週間前、九州に出張にゆく、と言って東京から姿をくらまし、伊豆方面を隠密《おんみつ》旅行したのち、この一週間はずっと、この海の見える部屋にこもって暮らしながら、東京本社役員室からの、ある指令を待っていた。
いわば、潜伏《せんぷく》生活である。
企業上層部から、その部屋に潜伏しておれ、と命じられていると、企業戦士としては、ていよく軟禁されているのと同じであった。
軟禁が監禁と違うのは、目立たない範囲なら、このリゾート・マンションの周囲を少しは自由に歩けることと、見張りがいないことと、そしてもう一つは、女をあてがわれていることである。
それも、飛び切り上等の女であった。
大鵬建設役員室の美人秘書である。
社内でも評判のナンバーワン美人が、なぜかこの二週間、鶴田幸佑とずっと、行動をともにしてくれているのであった。
「浮かない顔をして、何、考えてるの?」
今もその船越加寿美《ふなこしかすみ》が、背後からしなだれかかってくる。
船越加寿美は、潜伏中の鶴田を慰めたり、見張ったり、連絡をとる役で、誰かの指示で自分にあてがわれているのに違いない、ということを鶴田は内心ではわきまえていた。
大鵬建設の役員室秘書という知的な職業でありながら、どこやら並以上に、男を歓《よろこ》ばせる術《すべ》に長《た》けているあたりも、油断ならない女、という気がした。
「ね、白状なさい。そろそろ、奥さんのことが気になってきたんじゃないの?」
加寿美は前にまわって、チェアにもたれている鶴田の膝の上に腰をおろし、甘えるように両手を首にまわして、顔色を窺《うかが》う。
もう少しで、唇と唇がふれあう角度だった。
「ふん、ばかなことを――」
と、鶴田は笑う。「談合マンのおれに、家庭を気遣《きづか》うような殊勝《しゆしよう》な心があると思うかい。女房には九州に出張にゆく、といって家を出てきてるんだ。万事に控え目で、淑《しと》やかで、素直《すなお》で、おれを疑うような女房じゃないよ」
「でも、私とこういう愛人旅行をしていると知ったら、どう思うかしらね。心|穏《おだ》やかでないわよ、きっと」
「おれはきみと、愛人旅行をしているつもりはない。社長と専務の言いつけを守って、ちょっとばかり潜伏しているだけのことじゃないか」
「でも、外から見たら、私たち、立派な密会愛人旅行だわ。伊豆の温泉場を転々としたうえ、今は熱海ですもの。それに、やっていることといったら、こういうことばっかり……」
右手をそっと、鶴田の股間《こかん》に這《は》わせる。
唇と唇は、そのあとで触れあうのだった。
キスをしながらも、加寿美の右手が蛇のようにしなやかに動くにつれ、鶴田の男性は猛々《たけだけ》しい意欲を象《かたど》ってくる。
鶴田はそのまま、加寿美のよく撓《しな》う細身の身体を抱きあげると、室内に入り、寝室に入って荒々しくベッドの上に抱《かか》え降ろす。
二人はたちまち、衣類を脱いだ。
実際、二人にはとりあえず、そういうことしかやることがないのであった。
それも回数を重ねるにつれ、何かしら狂おしい、脳が灼《や》けただれるような濃密なものになりかけていた。
裸になって押し伏せると、鶴田は唇を合わせながら、加寿美の乳房をこねる。掌《てのひら》にずっしりとくる肉球の感触を楽しみながら、
「きみのほうこそ、男とこんな不倫旅行をしていて、大丈夫なのかい。結婚している、という噂《うわさ》を聞いたこともあるが」
鶴田も、噂でしかそれは知らない。あの切れる美人秘書には、どこかに隠し夫がいて、流行《はや》らない設計事務所みたいなことをやっているその男を、むしろ加寿美が養っている……といったような噂であった。
「私のことは心配しないで。花のマドンナには、シークレット・ハズもいるかもしれないし、お偉《えら》いパトロンもいるかもしれないわよ。それにあなたが当面の愛人だとすれば、男は何と三人にもなっちゃう!」
半《なか》ば、軽口まじりに言う加寿美に合わせて、
「へええッ、そいつは凄《すげ》え。銀座でもてもての談合屋の、おれ以上じゃないか」
言いながら、鶴田は加寿美の尻を撫《な》でた。
(ま、他人のことなど、どうでもいいけどな……)
鶴田にとっては、それが本音《ほんね》である。
今、この瞬間はこの美人秘書の、すてきに知的で、感じやすくて、豊満な肢体を自由にするだけでいい……。
鶴田の手はいつしか加寿美の輝くように白い肌の下腹部へとすべり、そこに渦巻いている秘毛のあたりを、渦巻くように愛撫する。
かたわら、加寿美の耳許《みみもと》に熱い息を吹きかけて耳朶を唇に含んだりして、フレンチキスを見舞ううち、濃い繁みに這う指はいつしか深い秘毛をどけて、蛇のようにうごめきながら秘洞のほとりを散歩し、それから中へとくぐりこんでゆく。
「ああン……」
ぴくん、と女体が跳《は》ねた。
加寿美の女の熱帯は、もう潤《うる》みはじめていた。
割れて、熱い花液でぬめる肉の秘洞を、鶴田の魔法のような指が泳ぎ、蠢《うごめ》く。
「ああ……課長……」
加寿美は、鶴田の頭を抱いた。
「あたしを……あたしを……しっかり抱いて」
加寿美にとって、あとはもう言葉はいらない。
「ねえ、ねえ、ねえ」
せがむように加寿美が腰をうごめかせると、鶴田はそのなまめかしい両下肢を大きく分けて、位置を取る。
腰を沈めると、屹立《きつりつ》したものは白い指に握られ、あふれ返る秘孔のほうへ導かれた。
肉の祭壇は、牡《おす》と牝《めす》の祭壇となった。
鶴田のものが白い指に導かれて、秘窟を分け、濡れた世界へ没入してゆくにつれ、
「ああッ……課長……凄いわ……」
加寿美の声は上ずり、途切れてしまう。
鶴田はそれから、みっしりと、快楽を女の肉の中に打ち込むマシーンのように、的確に動きはじめ、突き入れる。
加寿美は、よく泣く女であった。
美しい唇をあえがせて、きれぎれに、糸のように長く伸びる泣き声をあげる。
そんな時、胸から首すじへ、まっ白い裸身がすっかり紅潮する。眼を閉じ、眉根を寄せて、自慢の大きくて形のよい胸の隆起をいっそう高く突き出し、滑《なめ》らかな腹部を大きく波打たせている。
そうして、細く長い指先に塗ったパール・ピンクのマニキュアを光らせ、その爪をどうかすると鶴田幸佑の背中に立てて掻《か》きむしったり、シーツを掴《つか》んでよじったりしながら、さまざまな声をだすのであった。
きれぎれに、今まさに息が絶えんばかりの絶叫をあげたかと思うと、低くむせぶようなすすり泣きに変わって、声がぷっつんと途切れたりもする。
そんな時は、顔を斜《なな》めによじって枕に押し伏せているのであった。そんなたまゆらの凄絶《せいぜつ》な顔のまま、「いやよいやよ」とか、「いいわいいわ」とか、短い言葉を口走る。
「お願い。もうゆるして」
と、哀願したり、
「もっともっと……して」
と、せがんだりする。
さすがに、大建設会社の社長か専務が、自分のお手つきの秘書を、自信をもって差しむけただけのことはあった。
鶴田は加寿美のなかに入ったまま、右手を乳房のほうにのばして、量感のあるたわみを揉《も》んだ。突きたてたまま、揉みつづけると、加寿美は腰をしならせて、高い声をあげた。
先刻から、二つの肉体が繋《つな》がれている部分から、蜜液が噴出するように、あふれている。
体毛と体毛がこすれあう時、それはあやしい蜜音をたてた。
鶴田のあいているほうの手が、加寿美の股間の茂みに回わされた時、あッ、と女体が反《そ》った。つながったまま、茂みの下の肉の芽をつまみ、押すと、加寿美は背を丸め、裸身を縮めてきれぎれの声をあげた。
爆発点が近づいたようである。
鶴田は、律動を速めた。
鶴田は本身とは別に、指先で肉の芽をいたぶりつづけた。肉と肉がぶつかりあうような恰好となり、加寿美は短い間に、たてつづけに三度、絶頂にのぼりつめた。
そのたびに、鶴田は何かが吸いつくようにまとわりついてくる肉の感触に、ぎゅうっと締めつけられる感覚に、くるまれていた。
鶴田も急速に高まった。
(ようし、打ち込んでやる!)
何かにむかって、何のための怒りをむけてゆこうとしているのかはわからなかったが、なんとはなしに鶴田は、今の自分の立場を呪うように、肉の律動の中に怒りを刻《きざ》んでゆく。
「加寿美っ、ゆくぞ」
「きて……きて……」
二人、同時にはじけあっていた。
2
寝室に、うっすらと汗の匂いがたった。
肌を寄せあったまま、鶴田と加寿美はいつのまにか、ひと眠りしたようである。
次に眼を覚ました時には、窓外の海はもう暮れかけていて、西の空にはまだ夕陽が赤かったが、眼下の海はすっかり暗くなりかけていた。
腕時計をみると、もう夕方の六時である。
「――それにしても、社長からの指示、ばかに遅いな。今週中には電話がはいることになっているんだろう?」
「ええ、そう聞いてたわ。でもまだ、客観情勢が予断を許さないんじゃないかしら。焦《あせ》っても仕方がないわよ。ねえ、ひと風呂あびたら、街に買い物と夕食にでも出ましょうよ。私、シャワーを浴びてくるわ」
そう言って、加寿美はベッドから降りると、バスタオルで裸身を隠し、浴室に歩いていった。
鶴田は枕許に手をのばし、キャビン・マイルドを一本とりだして、口にくわえ、火をつけた。薄闇に滲《にじ》んだ煙草の火のなかに、ふっと郷愁のように、留守にしている東京の家のことを思いだした。
(どうしているか、翔子《しようこ》……)
まだ子供のいない二十九歳の若妻、翔子が麻布の家で一人で暮らしている姿を想像すると、ちらと不憫《ふびん》に思えなくもない。
この潜伏逃亡中、何度か電話をかけたいと思いながら、何度もその心を打ち消してきた鶴田である。
それというのも、会社では鶴田幸佑は公金を握ったまま失踪したことになっていて、家に連絡してはならないのであった。
(もう少しの、辛抱《しんぼう》だ。もう少しの……)
鶴田は、そう自分に言いきかせた。
鶴田はこの半年間、大手建設会社大鵬建設の入札課長として、会社が社運を賭けて取り組もうとしているウオーター・フロント関係のある公共事業を請負《うけお》うため、かなり危ない橋を何度か渡り、同業他社や政官界に強引《ごういん》な工作をつづけて、ついにその工事を請負うことに成功したのである。
しかし、入札決定後、鶴田が仕組んだ談合が何者かによって密告されたため、東京地検がひそかに内偵をはじめたという情報が入り、その矛先《ほこさき》を躱《かわ》すために、社の上層部の命令によって、急いで東京を離れなければならなかったのであった。
「なあに、ほとぼりが冷《さ》めるまでの、ちょいの間さ。きみ、少し辛抱してくれ。何もかも解決したら、すぐに呼び戻して、今度はそんな危ない仕事をしなくても済むよう、取締役営業部長のポストをあけて、歓待するから」
――東京から追い払う時、社長も専務も、猫なで声でそういうふうに、因果をふくめやがったくせに、いつまでこのおれをこんなところで待たせるつもりなんだ、畜生《ちくしよう》ッ。
鶴田がにがい味しかしない煙草を、荒々しく灰皿に揉み消した時、枕許の電話が鳴った。
フロントからかと思って、何気なく取りあげ、
「もしもし……」
寝そべったまま、応対していた鶴田が、
「あッ、社長――」
あわてて起きあがってスリッパを探したのは、電話が東京本社からで、しかも社長の鷲尾竜太郎《わしおりゆうたろう》直々《じきじき》のコールだからであった。
「どうだい。少しは生命《いのち》の洗濯ができたかい」
鷲尾は、ふだんと変わらない磊落《らいらく》な声であった。
「はあ。おかげさまで、だいぶ疲れが癒《いや》されました」
「それは、何よりじゃないか。やはり、わしの気遣《きづか》いが効《き》いたと見えるな。加寿美はなかなかのものじゃろう? うん? あれほど天性の女そのものというのは、そうめったにいるものじゃないぞ」
「はあ……ごもっともで……」
鶴田は眉間《みけん》に皺《しわ》をよせると、一番気がかりなことを言いにくそうに、「……それより、地検の動きはいかがでしょうか?」
「うむ。内偵はまだつづいておる。しかし、思ったよりも表面化しそうにないので、ほっとしている。これもひとえに、薬王院先生のご尽力のたまものだ。しかしまだ、油断はできん。そこで、きみにはこれから、ある仕事を頼みたい」
「はい。例のごとく、談合金の分配と各社へのお礼参りでしょうか」
「まあ、それに似たことだが、東京でやるのではない。今のうちに火を揉み消しておくために、ある場所で、幾人かの重要な人物と会ってもらいたいんじゃ」
「はあ。その場所は? その人物というのは?」
「うむ。電話では、何だな――」
鷲尾が一拍おいて、やや大仰《おおぎよう》な咳払《せきばら》いをひとつやらかし、
「うン、そうだ。これから一時間以内に、そのマンションの表に、私の車をまわす。運転手の梨本《なしもと》に、きみの行先と用件、それからきみが会う人物のことを何もかも教えておこう。きみはその梨本の指示に従いたまえ。わかったな?」
「はい。――で、船越君はいかがいたしましょう?」
「一緒にその車に乗りたまえ。彼女はまだ、きみにとっても、それから先方の人物にとっても、必要な女性のはずだ。また何かあったら、おいおい自動車電話で指示をだすから、きみたちはすぐに用意したまえ」
「はい。かしこまりました」
鶴田はその指令が、その次か、次に待っているであろう完全自由への指示への第一ステップであると踏んで、いささか張りきった返事をした。
電話の声は、まだつづいていた。
「念を押しておくが、そのマンションはもう誰かに嗅《か》ぎつかれているようだから、今夜の用事が済んだあとも、そこには戻らずに、移動したほうがいい。フロントには熱海の蓬莱閣《ほうらいかく》ホテルに移る、と言って荷物をすべて持参して、引き払いたまえ」
――それからきっちり一時間後、二人が潜伏していた伊豆山マリン・ビュー・アヴィタシオンのフロントの前に、黒塗りの大型乗用車メルセデス・ベンツが横づけされ、旅行着に着がえてスーツケースをもった鶴田幸佑と船越加寿美が乗りこんだ。
二人をのせた黒いベンツは、発車すると急な坂道をゆるゆると降り、すでに暗くなった表の海岸道路に出ると、崖下に打ちつける怒濤《どとう》の音と松風に煽《あお》られるように、いずこへともなく闇の中へ赤いテイルランプを消していった。
3
夫が帰らなくなって、二週間がたつ。
鶴田翔子はその朝も眼を覚ました時、まっ先に横をむいた。
傍に、夫の幸佑は寝てはいない。
今朝もまだ、帰ってはいなかった。
広いベッドの空白が、こんなにも残酷なものだとは、翔子は思わなかった。
一日や二日なら、出張だからと諦《あきら》めもつくし、たとえ浮気の外泊でさえも、東京にいて電話さえ貰えば、安心するのだが、幸佑から音信がなくなって、もう二週間以上もたつと、不安は高まるばかりである。
その朝、翔子は八時に目を覚まし、ベッドから降りると、レースのカーテンをあけた。頭が重いのと、寝すごしたのは、ゆうべ寝れなくて飲んだアルザスのワインが、度を越えたのかもしれない。
窓ガラスに、雨のしずくが垂れていた。春先の生温《なまあたた》かい銀色の雨なのに、翔子には冬の冷たい黒い雨のように思えた。
窓外はその雨に煙ってみえる。近くのスイス大使館の建物も、庭も、鉄の柵も、ポールの旗も、そのむこうの有栖川宮《ありすがわのみや》記念公園の森も、何もかもが霧にけぶっているように見えた。
少し気が滅入《めい》ったので、翔子は起きぬけにシャワーを浴び、それから三面鏡の前に坐って、勢いよく髪にブラシをあてはじめた。
翔子は今年、二十九歳である。まだ若いが、どちらかといえば、控え目な性格で、快活だが保守的な性質をもち、貞淑な人妻である。
それは、生まれ育った家庭環境によるのかもしれない。翔子の家は、二代つづきの役人の家であった。祖父は戦前から戦時中まで、大蔵省に勤めていて、主計課長から主計局長にまで昇進して、将来を嘱望《しよくぼう》されていた。
世が世なら、事務次官、それから政界への野心もあったかもしれないが、終戦と、それにつづく混乱が何もかもを毀《こわ》し、戦後は退官して南麻布五丁目のこの自宅で悠々自適の生活を送ったそうである。
その息子、つまり翔子の父、信三郎は祖父とは違って、東大を出たあと建設省に入り、住宅課長、道路課長、建設課長などと主要ポストを歴任した後、最後は関東地方建設局長で肩叩きの年齢を迎え、民間の大手建設会社、大鵬建設に取締役特別顧問として天下りした経歴をもっている。
従って、麻布の翔子の家は、典型的な中産階級の家庭である。翔子も何不自由なく育ち、名門短大を出、花嫁修業をして、二十四歳で結婚して……と、ごく普通の、陽のあたる恵まれた道を歩んでこれたのである。
ただし、母の碧《みどり》がやや病弱な体質だったため、出産が遅く、翔子は父が三十五歳をすぎてからの、一人娘であった。
翔子はだから、結婚適齢期を迎えたころは、父の信三郎がもう峠をこえて民間に天下りしたころであり、また一人娘なので、見合いをして親の決めた入り婿を迎える必要があった、というあたりが、ハンデといえばハンデだったかもしれない。
その上、翔子は大事にされて育って、短大卒業後も花嫁修業で、OL経験がないので、自分で自由に外の社会に飛びだして男を選んで掴まえてくる、ということはできなかったわけである。
しかし、そういうことを翔子は、少しもハンデと思ったり、負《お》い目に思ったことはない。結婚も父が顧問をする建設会社で、なぜか気骨がある青年だといって、父自身が気に入ったらしい萩倉《はぎくら》幸佑というエリート社員と見合いさせられ、特別、好き嫌いの感情も湧《わ》かなかったかわりに、反発する理由も見あたらなかったので、翌日にはすぐ承諾する旨《むね》返事をし、何もかも父に任せて今の夫、幸佑と六年前に結婚したのである。
幸佑はいわば、鶴田家の入り婿となった。
それから六年、家庭は順調で、争いひとつ、波風ひとつ、立たなかった。
翔子が結婚して三年目に、父が亡くなったかわりに、幸佑はまだ三十歳をすぎたばかりなのに、入札課長に昇進するといった具合に、まずまずは順調な二人の人生であった。
不満――というか、やや淋しい点といえば、翔子にはなぜか子供が生まれないことと、入札課長になったとたんに、幸佑の生活が派手になり、夜の帰りが遅くなったり、外泊したり、深夜に帰ってくると必ず身体に、夜の巷《ちまた》の女の匂いが沁《し》みついていたりすることであった。
しかし、それでも翔子は取りたてて、文句を言ったり、騒いだりはしなかった。
「接待は疲れる。役人はばかに警戒するからね。絶対に買収、饗応ととれないやり方で上手《じようず》にもてなすのは、大変なんだ」
遅く帰ってきた夜に限って、幸佑は女の匂いをぷんぷんさせながらも、不機嫌そうにぶつくさ言うのである。
「ええ、そうでしょうね。お疲れさま」
翔子はそう言って、聞き流した。
だから今度の音信不通についても、はじめはただ出張が長びいているのだろうと思ったくらいで、翔子は最初から、不安に思ったり、おかしいと思ったわけではないのである。
数年前、結婚したての頃は、ダムや港湾、道路など、地方建設局関係の入札に応じるため、出張が多く、長い時は半月も一ヵ月も帰ってこないことが、度々《たびたび》あったからである。
今度についていえば、九州と聞いていたので、上椎葉《かみしいば》か球磨川《くまがわ》上流のダム工事に関する入札の仕事かと思っていた。たまたま五日前、車検の更新手続きのことで、確かめなければならないことがあったので、見当をつけて九州地方を統括する福岡支社に電話をかけたところ、意外にも幸佑は訪れてはいないという返事であった。
それなら、宮崎か熊本の支社かと思って、それぞれ電話をかけてみたが、そのいずれにも幸佑は訪れてはいないということであった。
「変ね。たしか、九州出張と言って出かけたはずだけど……」
翔子は出張先を確認するため、青山の本社に電話を入れた。
すると、営業部ではとんでもない問題が持ちあがっている最中だったらしく、実に奇妙な応対であった。
「はい。課長はたしかに九州への出張|伺《うかが》いをだして、社を出てらっしゃるのですが……」
若い入札課員が歯切れの悪い応対をしているうちに、斎藤という営業部長がかわって、電話口に出た。
「やあ、奥さん。しばらくです」
「あのう……主人は、九州ではないんでしょうか?」
「それがですな。実は、困ったことが発覚してまして……ご主人は二週間前、たしかに九州への出張伺いを提出して、社をお出になったのですが、その後、連絡がつかず、しかも、まさかとは思いますが、ご主人が管理なさっていた公金がすっかりなくなっているものですから、営業部は今、ちょっとしたパニックに陥っています……」
「えッ?」
翔子は一瞬、電話のむこうの男が言っていることの意味を、解しかねたくらいであった。
「主人が……まさか、公金|横領《おうりよう》などを……?」
「いえいえ、そんなことを申しているわけではございません。私どもも、まさかとは思っております。いずれにしろ、そんなわけで、……今のところ社でも行方《ゆくえ》がつかめず、八方手を尽くして探しているところです。ご主人から連絡が入りしだい、奥さんのほうへも電話するようお伝えいたします」
「はあ……よろしくお願いします」
電話は、そんなおかしな具合に切られた。
それ以来、会社からは何の連絡もない。
ただ出張が長びいている、というだけなら、放置しておいてもいいが、消息不明とか、公金横領とかになると、翔子としてはいても立ってもいられない気分であった。
(一人でくよくよするより、誰かに……)
相談しようと思っても、父の友人たちには、めったなことも言えない。学生時代の友人や親戚にも、こういう場合に頼りになる人は、思いあたらなかった。
思いあまって翔子は、父の建設省時代の先輩の息子で、学生時代に四年間、北陸から上京してきて麻布の翔子の家に下宿していたことのある中央日報の経済部記者、谷津省平《やづしようへい》にそれとなく打ち明け、夫のことを相談したのである。
「鶴田さんが……? ほう」
谷津省平は幸佑のことも知っているので、びっくりした声をだした。
「しかし、鶴田さんが、会社の金を拐帯《かいたい》して失踪するなんて、そんなことは考えられませんよ。それは何かの間違いに決まってます」
「でも、会社にも私のところにも、電話ひとつ入らないのよ。何かがあったとしか、考えられないわ。誰か、女の人と蒸発でもしたんじゃないかしら」
「まさか、ねえ。そりゃ、仕事柄、女性関係も皆無《かいむ》ではなかったかもしれない。しかし、翔子さんのような美人妻をすてて蒸発するほどの女が、ほかにいるはずはない」
「警察に届けたほうがいいかしら?」
「いや。会社の金が絡《から》んでいるとすると、もう少し用心したほうがいい。――わかりました。ぼくのほうでもそれとなく、会社や業界の人にあたって、気をつけておきましょう」
谷津省平は、そう言って引き受けてくれた。
しかし、その谷津からも、今のところ何も言ってこない。
(今日あたり、一度、会社に行ってみようかしら……)
(それともいっそ、警察に家出人捜索願いというものをだしておいたほうがいいのかしら……?)
翔子はその午前中、家の掃除や洗濯をしながらも、頭の中ではそんなことばかり考えて、堂々めぐりをしていた。
翔子の家は祖父の時代に建ったもので、いかにも麻布らしい蕭洒《しようしや》な洋館ふうの家ではあるが、一階と二階あわせて、洋間や和室が全部で十二室もあって、一人で暮らしていると幽霊屋敷のようで心細くなるくらい、広いのであった。
谷津から電話がはいったのは、午後一時である。
居間で鳴りつづける電話を取りあげ、
「もしもし……」
鶴田です、という前に、
「谷津です。ご主人からその後何か連絡がありましたか?」
翔子は何とはなしに、ほっとしながら、
「それが……まだなのよ」
「会社からも何か、連絡はありませんか?」
「どうしたんでしょうねえ。何にも……。それで今日あたり、会社に行ってみようかと思ってるんですけど」
「そうですか。変ですね。鶴田さん、いったい、どこに行っちまったんだろう」
谷津はいっとき、頼りない口調で呟《つぶや》いた。
「谷津さんのほうにも、何かわかったこと、ありませんか?」
翔子が催促すると、
「大鵬建設にも行って、それとなく様子を探ってみました。しかしみんな、口が固い。ただ救われたのは、公金横領のほうはあまり心配しなくていいんじゃないかなっていう、感触を得たことです。そういう疑いがあるのなら、ふつうなら会社として大々的にその人間の行方を追及したり、警察に届けて、刑事告訴をするはずですが、大鵬にはまるで、そういう空気がありません。翔子さん、公金横領なんて、うそですよ。気をおおらかに持ってください」
「そうでしょうか、それならいいけど――」
「しかし、ちょっと別のことで心配があるんですがね?」
「何でしょう?」
「鶴田さんは失踪前、東京湾ベイ・シティ・ルネッサンスの入札のことで、何か話したり、洩らしたりしていませんでしたか?」
「は?」
翔子がその耳なれない言葉に戸|惑《まど》うと、
「――あ、聞いてらっしゃらないのなら結構です。とにかく、まだ二週間でしょう。鶴田さんは会社としては公《おおや》けにできない内命みたいなものを帯びて、どこかに隠密出張しているのかもしれない。もう少し、様子をみて下さい。来週あたりまで、どこからも音沙汰がなければ、ぼくも本格的に動いてみます」
谷津は慰めるともなくそう言って、電話を切った。
翔子は受話器を置いたあと、
(東京湾ベイ・シティ・ルネッサンス計画の入札……)
ときいた言葉が、何とはなしに気になった。
しかし、幸佑からは、そういう難しい仕事の話は聞いたことがない。それより、公金横領の疑いが薄《うす》らいだという話のほうにほっとし、警察に家出人捜索願いをだすのはもう少し待ってみよう、と思った。
翔子はそれから広尾二丁目のスーパーに買い物にゆくため、外出支度をした。玄関でサンダルシューズを突っかけて出ようとした時、表でチャイムが鳴る音を聴いた。
4
(誰かしら……?)
チャイムは鳴りつづけた。
翔子はドアチェーンをあけるよりも、台所に戻って、インターフォンを取った。
一日のうち、一人でいる時間が一番長い翔子にとっての、習慣的な自衛策であった。
「どちらさま?」
「ご主人のことで、ちょっと」
初めてきく男の声であった。
「主人のこと……?」
いささかびっくりしながら、「どちらさまでしょう?」
「船越と申します。ちょっと奥様に、折り入ってお耳に入れたいことと、ご相談があります」
「はあ。どのようなことでしょう?」
「ここでは、ちょっと」
それは、そうである。
翔子が玄関に行きドアをあけると、門扉の外にネイビーブルーのスーツを着た三十歳くらいの、わりと端正なマスクの、長身の男が立っていた。
「門扉は手で開きます。どうぞ」
声をかけると、男は門扉をあけて、煉瓦《れんが》色の化粧タイルの張られた通路を歩いて、玄関にやってきた。
黒いアタッシェケースを傍に置くなり、名刺を取りだそうとしている。
「ぼく、加寿美《かすみ》の夫の船越と申します」
いきなり、そう言うのである。
「は?」
「月島建設コンサルタント事務所の社員で、怪しい者ではありません」
翔子は、別に怪しい人だと思ったわけではないが、顔色に不審な色が浮かんでいたのかもしれない。
船越と名のった男は、名刺を差しだした。
その名刺には、男が名のった通りの会社名と、設計技師・船越周太郎という名前が印刷されていた。
しかし、加寿美の夫、とこの男は名のったのである。
加寿美は、香澄、または霞かもしれない。
ともかく、ぴんとこないので、翔子は、
「で、私に何か?」
「奥さん、ご主人はこのところ二週間ぐらい、お戻りになってはいないでしょ?」
「はあ。――九州に出張で出かけていますが」
とりあえず、表むきのことを言った。
「奥さんはそれを信じているのですか?」
「は?」
「ご主人は、九州への出張なんかじゃありませんよ。ぼくの女房を連れだして、不倫旅行をなさってるんです!」
船越周太郎と名のった男は、そういうことをかなり激しい言葉遣いでまくしたてたのであった。
その言葉遣いにはたしかに腹立たしい、というか、憤《いきど》おろしい雰囲気さえ、こもっているようであった。
しかし、訪問していきなり妙なことを言う男も男だが、それを聞いた翔子のほうの驚きがもっと大きかった。
「うちの主人が、あなたの奥さんと……?」
鸚鵡返《おうむがえ》しに、そう聞いた。
「ええ。そうです。尻尾《しつぽ》をつかまえました。熱海のほうで、密会旅行をなさってるんです」
「ほんとうですか?」
まあ、と言ったきり、翔子には次の言葉が見つからない。
男は、ふつうのサラリーマンの身装《みなり》をしていた。顔も、真面目《まじめ》そうである。とても、人を担《かつ》いだり嘘《うそ》をついたりしているようには、見えなかった。
翔子は、詳しく話を聞きたいと思った。
「あのう……お話、伺わせて下さい。どうぞ、お入りになって」
翔子がドアの内側に招じ入れようとすると、男は腕時計を見ながら、あわててそれを固辞した。
「奥さん、そんな場合ではない。今すぐ、用意して下さい。これから、話をつけるために、ぼくと一緒に熱海に行ってほしいんです」
「熱海に……?」
何から何まで、唐突にいう人間というものが、この世の中にはいるものだ、と翔子は呆気《あつけ》にとられていた。
「これから、すぐですか?」
「ええ。すぐ行かないと、間に合いません。加寿美とご主人は今、熱海のリゾート・マンションにいるんです。その潜伏場所をやっと昨日、突きとめました。ぼく一人で行くより、奥さんと一緒に押しかけたほうが、決定的な場面を押さえることになるし、話し合うには都合がいい。ねえ、同行して下さい」
男は熱っぽい眼をむけてそう言い、翔子に旅支度を急がせるのであった。
「詳しい話は電車の中でいたしましょう。とにかく、旅行の用意をして下さい」
5
――十六時四十八分発の新幹線「こだま455号」がプラットホームをすべりだした時、鶴田翔子は、まだ自分がその座席に坐っていることが、本当のところは半ば、信じられない思いであった。
しかし、翔子の気持ちとは別に、新幹線の白い車体は、ぐんぐん加速する。
丸の内から有楽町|界隈《かいわい》のビル街の景色が、たちまち後方に疾《はし》りすぎた。
翔子は春らしいラベンダー色のワンピースに、アイボリー・ホワイトのハイヒールをはいていた。手荷物とて、洗面道具や化粧道具、身の回り品をあたふたと詰めこんだ小さなスーツケースと、ルイ・ヴィトンのショルダーバッグひとつという軽装であった。
熱海まで行って、何をどうするということはまだ、見当もつかない。しかし、消息がわからなくなってからのこの五日間、あれほど心配していた幸佑の行方と滞在先らしいものがわかっただけでも、朗報といえば朗報であり、収穫であり、前進である。
船越周太郎という男が、どういう意図と意気込みをもって、二人の密会現場に押しかけようとしているのかはわからないが、翔子としても、ともかく幸佑に会って、なぜ消息不明を決めこんでいるのかを糺《ただ》すのは、絶好の機会であり、妻として当然の勤めだと思った。
(首に縄をつけて、連れて帰るかどうかは、それから先のことだわ)
(熱海滞在が、女とのただの愛情旅行ならいいけど、もっと別の事情もあるかもしれないし……)
「申し訳ありませんね。何だか、ぼくがあわただしく追いたててきたようで」
船越周太郎は、そこでやっと一息入れたように、ポケットから煙草をとりだした。
「今さら、何おっしゃるのよ。掠《さら》い魔だわ、まったく」
翔子は横のシートにかしこまって坐っている船越に、
「まだ、詳しいお話は聞いてませんわよ。あなたの奥さんという人はいったい、どういう人なの?」
(そうだ。加寿美とかいうこの男の妻のことを聞かなくちゃ、いけないわ)
――翔子は少し、身構えるように思った。
船越周太郎は、火をつけないままの煙草を口にくわえたまま、背広の内ポケットから、一通の角封筒をとりだし、その中から数枚の写真を取りだして、翔子に渡した。
「見てください。これ、おたくのご主人でしょ? そして、こちらが加寿美です」
写真はいずれも、昼間のもので、ありふれたスナップであった。
しかし、盗撮写真のようではある。
リゾート・ホテルともマンションともつかない南欧風のすてきな建物のテラスで、デッキチェアにもたれて海を見ている男と、その男にもたれかかっている女。そういう構図もあれば、近くの海岸道路を腕を組んで散歩していたり、スーパーやレストランから出てくる男女の姿が、上手に盗撮されていた。
そのいずれも、およそ翔子がこれまで、知らなかった夫の顔であった。愛人をつれて、ばかににやけている雰囲気もあるが、しかし必ずしもそうとばかりも言えない、苦渋《くじゆう》を刻《きざ》んだような眉間《みけん》の皺《しわ》が気になる写真もあった。
翔子は、隣の女のほうに視線をむけた。
はっとするほど、輝度の高い女であった。
旅先であることの甘やぎや華《はな》やぎは差し引いても、お嬢さんタイプの美人といわれる自分とは違った、成熟して、社会的にも進出し、仕事もキビキビこなしているような行動的な美女であった。
「これが、あなたの奥さんなの?」
――何となく、そぐわない、という感じもする。
「そうです。腹が立つくらい、仲睦《なかむつま》じいでしょ、この二人」
「奥さん、どういう方なの?」
「大鵬建設の役員室秘書をしています」
「あ、主人と同じ会社なの?」
「ええ。部署はちがいますが」
「じゃ、あなたたちは共稼ぎ夫婦というわけね」
「共稼ぎといっても……何てのかな、ふつうの夫婦とはまったく違うんですよ、ぼくたち」
「どう違うの? わかるように話してちょうだい」
船越周太郎は話しはじめた。
新幹線は西にむかって、疾走していた。
――船越周太郎は八年前、名門私立大学の建築科を卒業したあと、有名建築家である月島準人が主宰する建設コンサルタント「月島設計事務所」に就職し、若手建築家として幸先《さいさき》のよいスタートを切った男だそうである。
ところが、就職して三年目に肺を病んで療養のため一時、職場をリタイアした。よくあることだが、学生時代、毎年、隅田川の早慶レガッタ戦で活躍していたくらい、ボートの名選手であった彼が、社会人になってからぱったりスポーツをやめたために、気胸症状を起こし、肺結核を患《わずら》ったのであった。
肺病は今はもう、過去の病気だといわれるが、それは治療法が確立したために、死病として惧《おそ》れられなくなっただけのことで、現代でもなお、患者は多い。
船越は三年間、八ケ岳の国立高原療養所で療養生活を送った。その間、毎月一回、花をもって見舞いにきて励ましてくれたのが、大学時代からの恋人であった萩尾加寿美である。
加寿美は当時はもう、大鵬建設に就職していた。
その高原サナトリウムで、船越は加寿美に結婚を申し込んだ。加寿美は最初は考えさせてくれ、と言って帰京したが、二回目に八ケ岳を訪れた時には承諾し、そのかわり、といって条件をだした。
「あなた一人くらい、この私が養ってあげる。あなたは安心して療養に精をだし、将来は建築家として大成してほしい。そのかわり、結婚しても私は仕事をつづけるし、私のやり方には干渉しないでいただきたい。お互い、独立した男と女として、契約結婚した夫婦、というぐあいにやってゆきたいと思いますが、それでよろしいでしょうか?」
加寿美は、そう聞いたそうである。
「あなたに、この約束、守れるかしら?」
とさえも、言った。
ずい分、女上位というか、変わった条件をだしたものだが、療養中の身の船越にとっては、加寿美は縋《すが》りつきたい存在であったし、異存があろうはずもなく、結婚を承諾してくれた加寿美がまるで女神のように思えたそうである。
二人はやがて結婚した。
療養所と東京のマンション――生活の場所がまるで違う別居結婚であった。
三年後、船越は退院した。
療養中はずっと、加寿美が支えてくれた。
精神的にも、経済的にも、肉体的にも、さまざまな意味で支えてくれたのであった。
その頃、加寿美はすでに大鵬建設の秘書室でゆるぎないキャリアウーマンになっていたので、胸を張ってそういうことがやれたのであろう。
三年後、東京に戻ってしばらくして、船越は、もとの月島建設コンサルタントに復帰した。それと同時に、三鷹に新しいマンションをかまえて、加寿美との共同生活が始まったが、その生活は、加寿美が最初に宣言したとおりのもので、船越としてはいささか、あわてふためくことばかりであった。
「ぼくだって多少のことは我慢しますよ。高原サナトリウムの誓いがありますからね。でも、あんまり会社中心主義、仕事中心主義、相互独立主義というのも味気ないもので、ぼくは時々、カーッとして茶碗を投げつけたり、ぶん殴ったりしたんです。加寿美という女が、信じられなくなってきたんです」
「奥さん、そんなに平気であなたの気持ちを踏みにじったの?」
「というか……社長との接待ゴルフで土、日曜は家をあけるし、月に一、二回は社用の外泊もあるし、出張だといって三日間くらい、旅行したりで……あんまりぼくをないがしろにした生活態度で、秘密が多すぎるんです」
船越は車窓を見ながら、そういうことを語った。
翔子は溜息を洩らした。
ずい分、変わった夫婦もいるものである。
翔子には、その二人のありようはよくわからなかったが、船越周太郎の男性としての、やり場のない不安や憤懣《ふんまん》、立つ瀬のなさというものは、わかるような気がする。
自分が療養中は、わらにも縋《すが》る思いで、加寿美という女を女神のように思って頼りにしたのだろうが、社会の第一線に復帰してみると、キャリアを鼻にかけたその妻のわがままには、やり切れない思いがする。
大方、そんなところであろう。
(それにしても、幸佑だわ、問題は。どうしてそんな女と深入りしてしまったのだろう……?)
新幹線は、いつのまにか小田原をすぎていた。
「で、先刻《さつき》の写真だけど……」
翔子は膝の上の写真に眼を戻し、
「この二人が熱海にいることを、どうして突きとめたの?」
「今、話したように、妻はいつも身勝手なんですが、今度ばかりはちょっと様子が違ってたんです。もしかしたら二週間くらい、九州に出張するかもしれないというんで、変だなと思って、人を雇って尾行させたんです。といっても、本職の興信所などではなく、写真学校の学生アルバイトですがね」
「へええ……それで、そのカメラマンがこのリゾート・マンションを突きとめたのね?」
「ええ。そのマンションのオーナーズルームというのが三部屋、大鵬建設の社長の持ち物らしい。私が雇ったアルバイターは昨日まで、そこを見張ってて、この写真を撮ることに成功し、ぼくに報告してきたんです。九州への出張なんて、まったくの出たら目なんだ。今日こそ、きっちりと加寿美に話をつけてやります」
そう息まく船越が、どういう話のつけ方をするのか、翔子には見当もつかなかった。多分、離婚でも宣言するのだろうか。
それより翔子にとっては、幸佑のほうが気にかかるのである。
左手の車窓には、海が広がってきた。
――新幹線は驀走《ばくそう》していた。
湯河原をすぎると、また長いトンネルに入った。
もうすぐ、熱海に着くだろう。
(よーし、私だって、二人の現場を取っちめてやるわ!)
翔子はようやく、心を武装しはじめた。
6
翔子と船越が乗った「こだま455号」が熱海に着いたのは、夕方の五時四十分であった。
二人は駅前からタクシーに乗り、伊豆山にむかった。あたりはもうだいぶ、暗くなりかけていた。
めざすリゾート・マンションは、岬をいくつか回った先にある崖上の、とてつもない高台に位置していた。
フロントに入るには、三十五度くらいの急勾配の登り坂をタクシーは最大トルクで、登らなければならなかった。
フロントで確かめると、翔子がここにくるまでの間、微《かす》かに予感しないでもなかったことが、現実に起きていることがわかった。
夫、幸佑と加寿美は、ゆうべ、そこをもう出発したあとだというのである。
「どこに行ったか、わかりませんか?」
意気込んでいただけに、拍子はずれした船越が血相をかえて、フロントの人に粘っていた。
「たしか、熱海の蓬莱閣ホテルに移る、ということでしたが」
「蓬莱閣……? どこです、それは」
「駅裏の高台にあります。タクシーにお乗りになれば、すぐわかると思いますが」
さいわい、翔子たちが乗ってきたタクシーはまだ、そのリゾート・マンションの前で、客待ちをしていた。
二人は再び、タクシーにのり、二番目の目的地をめざした。
熱海はやたらに、坂や山路が多い。二十分後、やっとたどりついたそこは、駅裏の高台にある大きな日本旅館であった。
しかし、そこにも二人はいなかった。
それどころか、船越はそのフロントで、中年の番頭ふうの男から大目玉をくらっていた。
「鶴田幸佑、妻加寿美――という名前で昨日から三日間、私どもでは予約をうけたまわっております。それなのに、ご両人ともまだ、お見えになりません。この忙しい時期に部屋を遊ばされて大迷惑です。――おたくたち、鶴田さんのお知りあいですか?」
商売人ふうの番頭は、キャンセル代でもふんだくりたそうな言葉遣いであった。
それより、それを聞いて船越がにわかに喜色を現わし、
「その予約、三日間になっているのですか?」
「そうです。今日もまだお見えになりません」
「いやいや……もしかすると、今夜あたり、来るかもしれない! 番頭さん、部屋、空いてますか?」
「予約分は、キープしておりますが」
「いえ。その隣か……どこでもいい。他の部屋は空いてませんか?」
「あなたがたがお泊りになるんですか?」
「はい」
番頭はほっとしながらも、もったいぶって部屋帳をめくっていたが、
「あなたがた、ついていますな。今日は平日なので、まだ空部屋があります」
「じゃ、一部屋、お願いします」
「いえ、二部屋、お願いします!」
――突然、後ろからそう声をかけたのは、翔子の方であった。
翔子もここまでくれば、もう引き退ることはできないと思ったのである。
状況からいって、待ち伏せしよう――と、船越が考えていることがわかったので、基本的には翔子も、それには賛成であった。
(でも……同じ部屋というのは困るわ)
「おたえさん、この方たちを二階へ」
番頭が妙な顔をしながらも、二人に二階の一室ずつをあてがい、係の女性に案内させた。
「楓《かえで》」と「桔梗《ききよう》」であった。
部屋は別々にしたが、食事まで別々にとるのは、あまりにも不自然だったので、一時間後、風呂からあがって翔子は、船越の部屋で一緒に遅い食事をとった。
不思議な顔合わせの、不思議に重苦しい夕食であった。
密会旅行をしているらしい夫と妻を追いかけて、裏切られた側の、夫と妻が熱海までやってきて、今、日本旅館の一室でさし向かいで夕食をとっているなんて、こんな男女の組み合わせが世の中に他にあるだろうか。
新幹線の中でぽつりぽつり、お互いのことを話したり聞いたりしてきたので、翔子と船越には食事中、もうあまり話すことはなかった。
「来るだろうか?」
「さあ、どうかしら」
「今夜こそ、絶対にとっちめてやる」
「そうね。そうなると、よろしいけど」
翔子はこのところ、寝酒をたしなまないと眠れない習慣がついているので、ビールを二本、傾けた。
船越はウイスキーのボトルを取り、水割りを飲んでいた。グラスが重なるにつれ、翔子を見る船越の眼がしだいに粘っこくなったのに気づいて、翔子は身を固くした。
翔子はあわてて、浴衣《ゆかた》の襟《えり》を合わせ直した。
浴衣の打ち合わせからのぞく翔子の白い胸の谷間や、乳房のあたりを、船越がしだいに無口になりながら、物狂おしい眼で見つめているのに気づいたからである。
部屋の空気が、何となく密度を増した。
「二人がきたら、番頭さんが知らせてくれることになっているのね?」
「うん。チップをはずんでいるからね。寝ていても、心配ないと思うよ」
「そう。じゃ、安心して眠れるわ。――私、疲れているから、先に休みます」
翔子は急いで座を立って、隣の部屋に移った。
いつまでも同じ部屋にいると、船越が妙な気分を起こして襲いかかってきそうだったので、翔子はあわてて自分の部屋に戻ったのであった。
7
翔子の部屋は、床の間つきの八畳間だった。
廊下側が障子であった。隣の船越の部屋とは、襖《ふすま》一枚で遮《さえぎ》られていた。どちらも、鍵というものはなかったので、翔子は突っかい棒か何かを探したが、そういうものも見あたらなかったので、諦《あきら》めて布団に入った。
(そこまで疑うのは、浅ましすぎるというものかもしれない……)
夜の九時半頃であった。浴衣を着たまま、帯をきつく締めて布団に入ったのである。
寝酒が効いたせいか、いつのまにか眠っていた。
どことなし、息苦しい雰囲気で眼を覚ました。
生あたたかいもので唇をふさがれているような感じだった。翔子はぼんやりした意識の中で、前夜、ビールを二本も飲んだことを思いだした。頭の芯に鈍痛が残っている。それが毛糸のようにほぐれかけて、意識がしだいにはっきりしてきた。
目をあけた。男の顔が真上にあった。息苦しかったのは、唇を吸われているからだとわかった。
唇だけではなかった。いつのまにか浴衣の胸許がおし広げられ、ふくらみに手が添えられている。船越が翔子の乳房を揉《も》みながら、熱い息を吹きかけて唇を吸っていたのだった。
「いやッ!」
翔子は本能的に、突き飛ばそうとした。
「何をなさるの! 船越さん!」
しかし、胸を突き飛ばそうとした手は反対に握られ、船越は意外に強い力で、翔子の右手を布団の上に、捻《ね》じ伏せてしまった。
「ねえ、奥さん。何もそうむきになることはない。ぼくたち、被害者同士なんですよ」
船越は哀れみのこもった声で言った。
翔子はそういう言い方をされるほど、船越を仲間と思ったり、同志と思ったりしたことはない。いや、それどころか、そういう言い方をされてにじり寄られるなんて一番、いやなことであった。
「船越さん、はなして!」
翔子はなおも抗った。
「眠っているところを襲うなんて、卑怯《ひきよう》よ。どうしたの、主人とあなたの奥さん、まだ現われないの?」
翔子は何とか船越を、冷静にさせようと思った。
しかし、船越にはそれがかえって藪蛇《やぶへび》だったようである。
「畜生。まだ現われません。あの二人、今夜もどこかで楽しんでるに違いないんだ。ねえ、奥さん、おれたちだって……」
船越はそう言いながら、のしかかろうとする。酒の匂いも、かなり強く残っていた。
しかし、酒の勢いをかりて翔子に挑《いど》んでいるというよりは、これまで加寿美にされた身勝手な仕打ちに対する復讐とでもよびたい感情を、今、翔子にむけて爆発させようというふうにさえ、翔子には感じられた。
それだけに、危険であった。驚いたことに船越はもう、上半身は裸なのである。下半身も白いブリーフ一枚しかつけていなかった。
「だめよ、だめよ、はなして!」
翔子は激しく突きとばして、空いている左手であわてて襟元をかき合わせながら、起きあがって後退《あとずさ》った。
「これ以上、こないで!」
「だって、奥さん……」
「これ以上、こないで。来たら、番頭さんを呼ぶわ」
起きあがってきた船越の眼の中で、物狂おしい炎が揺れた。
被害者同士だから、という船越の言い分は、わからないではない。
しかし翔子は、彼のいう被害者同士だからといって、自分たちまで結ばれなければならない理由は、どこにもないと思うのである。
むしろ、そういう行きがかりを口実に、なしくずしに男を受け容《い》れる、というのは、翔子にはどうしてもいやだった。
翔子は特別、潔癖《けつぺき》な女というわけではない。
結婚前は、女子大一年の時に、ディスコ仲間の学生相手にさばさばと処女をすてていたし、それ以来、数人のボーイフレンドと肉体関係はあったし、結婚してからも、夫に隠している不倫の一つや二つはある。
いわば、貞淑そうで保守的で、おとなしそうな人妻なのであるが、翔子はしかし、多感な女ではある。
でもでも、セックスは好きな男と交《か》わしたい。なしくずしに相宿となって、愛撫されたから反応して……というのは、何としても浅ましいし、いやである。
「どうしてですか、奥さん。あなたが操《みさお》を守る理由は、いったい、どこにあるんですか。どこにもないじゃありませんか。ご主人は浮気ばかりしているし、ぼくの女房をさんざん、嬲《なぶ》りものにしてるんですよ」
船越の言い分には、しだいに脅迫めいた匂いも混りはじめた。おれの女房はおまえの亭主にやられてるんだから、おれだっておまえと寝る権利がある――。
そう言わんばかりであった。
船越のほうとしたら、そう言いたい気持ちもわからないでもないので、始末におえないのであった。
「だって、私たちまだ今日、知りあったばかりじゃありませんか。そんなことをする仲じゃないわ」
「こういうことに、時間は必要ない。加寿美が今も鶴田幸佑に抱かれていると思うと、ぼくの胸は張り裂けそうです」
その部分は、翔子とて同じである。
幸佑が加寿美という女を抱いていると思うと、翔子の胸は張り裂けそうであった。
船越は起きあがると、にじり寄ってきた。
掴まれた右手は、まだ放されてはいなかった。逃げようとしながらも翔子は、胸の動悸が激しく、熱く空回りする心臓の鼓動が、顳《こめかみ》や指先にまで伝わってくるのを感じた。
(何とか、この手を振り離さなければならないわ)
しかし、動いたはずみに、船越の下腹部がブリーフを突き上げてピラミッドのようにそそり立っているのが見えた。その中にある勁《つよ》いものを想像すると、翔子の脳髄は熱い目まいに見舞われた。
ブリーフの打ち合わせから躍《おど》りだそうとしている屹立《きつりつ》したものは、久しく夫からも、男からも遠ざかっている翔子には、目が灼《や》けるほど眩《まぶ》しかった。
身体の奥深いところに、いっそ目茶苦茶になってみようか、という甘美さのともなう轟《とどろ》きのようなものが、微《かす》かに起こりつつあった。それは、痛みにも似た痺《しび》れと疼《うず》きをともなっていた。成りゆきに身を任せれば、どんなことになるのか、考えるまでもないし、いっそ、その方が、どんなに気が楽だろう、という気持ちも、一方ではする。
配偶者に裏切られた者同士が、二人の密会を突きとめに行った旅先で、物狂おしく結ばれる、とすればそれはそれなりに、納得《なつとく》のゆく解決策ではあるし、復讐の暗い愉悦に酔うことだってできるかもしれない。
頭では幾分、それがわかりかけてはいる。しかし、その奔流のほうに押し流されたくないとする理性の一片が、まだ強いのである。
(いけない……いけない……)
「いやいや」
抗いながらも、船越に掴まれている腕のほうは、ほどけなかった。
船越は再び、ボートで鍛えたその体重を預けてきた。
翔子は船越に組み敷かれてしまった。
帯を解かれると、浴衣は揉みあううちに、はだけられてしまう。船越の舌が、執拗に翔子の腋《わき》の下をなぞりはじめたのであった。感じた。そこは背中とともに翔子のもっとも感じるところであった。
結婚する前、ディスコで知りあった商社勤めの妻子持ちの男に、腋を丹念に舐《な》めあげられた時、翔子はあまりのくすぐったさと、その奥から湧きあがる快感に、全身に鳥肌をたてて震えたことがある。その男とは半年ほどで別れたが、腋を舐められるのは、それ以来のことであった。
「いや、いや……やめてッ……」
翔子は身を守るように、うつぶせになった。
船越はその背中に、唇を押しつけてきた。
浴衣はもう片側に、はねられていた。
呻《うめ》き声が出た。
感じたからである。
翔子の反応に気づいた船越は、首すじから背中のまん中に沿って、ゆっくりと舌で刷《は》きはじめた。穂先がそよぐにつれ、翔子は腰が抜けそうになった。枕をつかんだ。めくるめくような快感が身体の芯からうねってきたからである。
(あたしを……あたしを……ばかにしないで……)
頭の中で、翔子はまだ必死で抗っていた。自尊心の一片は、まだ溶けてはいないのである。
しかし、冷静にみて事態の局面は、今や完全に主導権が船越に移っていた。
秘所を覆《おお》っていた最後の布きれも、いつ脱がされたのかわからなかった。
裏返しにされた。翔子の身体がだるくなっていた。抵抗と、短い争いの連続という長い時間をかけた接触と愛撫で、翔子の全身から神経を束《たば》ねる糸が切れはじめ、力が脱落してしまったかのようであった。
ただ人妻の本能として、いやいやと、抗うように、頼りなく手足を動かしているにすぎなかった。
今や薄衣一枚かけてはいない。白くて眩《まぶ》しい人妻の裸身が、無意識に身体をよじったり、いやいやと秘所を隠そうとしたり、夢のように手足を動かしているさまほど、征服する男にとっては、かえって刺激的な眺めはないかもしれなかった。
やや長身で、のびやかな翔子の肢体は、成熟した女の魅力に充ち溢れていた。ウエストはくびれ、乳房は完熟して捏《こ》ねる掌を待つようにお椀型に固く盛りあがり、下腹部から臀部《でんぶ》にかけてのカーブは、なだらかで、ふくよかで、豊満である。
乳房は充血して、内側からみずみずしく張りつめているのがわかる。乳首が痛いほど尖《とが》っていた。そこに船越の唇が舞い降り、吸ったり、苺《いちご》をそよがせたり、薙《な》ぎ伏せたりする。
「あっ……あっ……」
甘美な声が洩れそうになった。
喉《のど》を鳴らしてその声を嚥下《えんか》する。
船越の舌は、女全般に仕返しをするかのように粘っこく、乳首をなぶり、乳房の麓《ふもと》に舞い降り、腋に攻めあがってくる。しかも、眼を閉じているので、どういう姿勢なのか、翔子にはわからないが、彼のどちらかの手が、翔子の腿の奥の秘められたイブの谷間を時おり捉《とら》え、そこを魔法使いの指のように彷徨《さまよ》っているのだった。
すでに恥ずかしい股間の裂け目は、奥からにじみはじめた銀色の蜜液で、ぐっしょり溢れはじめているのが、翔子にもわかる。
悶《もだ》えた。足の親指を反《そ》り返らせて快感を一点で受け止めようとした。
船越の指はしかし、無遠慮に秘孔の中にはいってきたりはしない。恥丘をおおう深い繁みをどけて、埋もれている真珠を掘りおこしたり、幾重にも折り重なって濡れ光る花弁を押し分けたり、時折、水音をたてて侵入したりした。
「いやいや……そんな音、たてないで」
翔子は潤沢《じゆんたく》な体質である。
それが恥ずかしくてたまらない。
「ねえ、よして。もう、お願い……もういじめないで」
拒絶とは違う、もはや甘え声に近い声であった。船越はしたたかだった。翔子をじらして、いじめて、焦《こ》がすばかりで、すぐにはいってはこなかった。
「すてきだよ、奥さん。女遊びばかりしている入札課長には、もったいないくらいの身体ですよ」
船越は、言葉遣いまで余裕を持ちはじめていた。
そんなことは、もうどうでもよかった。翔子は今やもう、熱く濡れた肉襞《にくひだ》を早くたくましいもので、刺し貫《つらぬ》いてもらいたい情況になりかけていた。
「お願い……いじめないで……来て」
船越がやっと身を起こし、翔子の体内を充たしてきた瞬間、翔子の腰は布団から離れ、鳥が叫ぶような声をあげて、ブリッジの形になっていた。
船越がみっしりと動きだした時、そのブリッジは、いったんは崩れた。しかし、それ以上に深い歓びがあふれてきて、翔子の両手は糊のきいたシーツを皺だらけにして掻きむしりはじめていた。
「あッ……あッ……ああ」
みっしりと動きながら、耳朶を噛まれた。
乳房を含まれて吸われたりした。
翔子は押さえようもなく、取り乱した声をあげた。
ただの牡《おす》と牝《めす》となっていたのである。
何度も何度も、熱い波に押しあげられた。
翻弄《ほんろう》された、といっていい。爆《はじ》けて、やがて、その嵐の時が去った。
翔子は、身体を放恣《ほうし》に横たえたまま、霧の奥に放りだされたように、けだるい自己嫌悪と甘美感のはざまで漂っていた。漂いながら、夫はどこに行ったのか、これからどうなってゆくのか。熱い闇の中に自分が深々と押し包まれ、いずこかへ運び去られてゆくような不安を覚えた。
――その夜、結局、夫と加寿美は、その日本旅館には現われはしなかった。
翔子と船越は、翌日まで熱海に待ち伏せてみたが、翌日も幸佑と加寿美は現われず、待ち伏せは結局、空振りに終わったのであった。
そうなるとますます、おかしな密会追跡旅行ということになった。
翔子は二日目の晩、また船越に身体の隅々まで粘っこく愛撫され、ぐったりして翌朝、東京に戻った。
麻布の家は、しんとしていた。広い屋敷にたどりついた時、玄関ホールの吹き抜けの真下に佇《たたず》み、翔子は自分がわけもわからない熱い闇の中に、存在それ自体が裸にされて、佇まされているような戦《おのの》きを感じた。
第二章 白昼の凶報
1
「ねえ、まだ起きないの?」
横で女が言った。
寝起きの声である。
谷津省平《やづしようへい》は、その声で目を覚ました。返事はしなかった。かわりに、ごそごそと掛布をまた頭から被って、背中をむけた。
「意外と寝坊なのね。もう陽が高いのよ。私、今日は午後から用事があるんだけどなあ……」
ぶつくさ言いながら女が枕許で煙草を探して、火をつけ、額《ひたい》にかかった長い髪を、マニキュアを塗った右手の指先にからめ、物憂《ものう》そうにさっと片側に撥《は》ねあげている仕草がわかった。
それが癖《くせ》の、女だった。
見なくてもわかる。
(女房でもないのに、そう早く叩き起こすなよ。それに、今日は日曜日じゃないか……)
横で女が、キャビン・マイルドをひとくちだけ吸って、節煙を気づかうようにあわてて灰皿に捻《ね》じ消し、大きな欠伸《あくび》をするのがわかった。
それから女は、掛布をあけてベッドを降り、
「私、シャワーを浴びてくるわね」
スリッパの音をたてて歩いてゆく。
窓のカーテンを引く気配がした。
「ああら、すてき。みてみて、東京湾がキラキラ、春の日にきらめいてるわ!」
(ええッ? 東京湾……?)
谷津省平のすまいである吉祥寺のむさくるしいシャワー付きワンルームマンションから、東京湾など見えるわけがない……と、一瞬、思ったあと、谷津はようやく、自分が今朝、とてつもなく立派なホテルのキングサイズのベッドの中で眼を覚ましたことを思いだした。
正直なもので、寝坊を決め込むにはもったいない黄金の時間であることを思い出すと、ぱっと勢いよく掛布をあけ、谷津はあくびをしながらベッドの上に、起きあがった。
なるほど、ゆうべはかなり深酒をして展望ラウンジからこの部屋にもつれこんだので、あまり詳しくあらためなかったが、部屋はツインの、なかなかのものであった。
ベイ・シティに聳《そび》えたつインペリアル・ホテル。女が南面の窓のカーテンをあけたので、八階のその部屋からも、見事に東京湾がキラキラと、一望できる。
「おはよう。やっと眼が覚めたみたいね。私、お風呂にはいってくるから、よかったらいらっしゃい」
女はそう言ってにっこりと笑い、見事に均斉《きんせい》のとれた裸身のまま、長い髪を尻まで振りなびかせて、堂々とヒップをゆすりながら浴室へ消えた。
女の名前は、高木|美伽《みか》といった。
本名かどうかは知らない。
大鵬建設の上層部が接待でよく使っている銀座のクラブ「舞姫」の、コンパニオンだった。それも、あまり目立つほうではなかったので、谷津の軍資金でも何とか、食事に誘いだすことに成功したのである。
ちょうど、若い女の子たちが、今、一度は行きたがっているベイ・シティのホテルを、谷津はキープしていた。
といっても、それは一ヵ月も前から予約していたもので、美伽のためではない。谷津の郷里・金沢の短大に在籍している姪《めい》っ子が、春休みに友達とディズニーランドと東京見物に来る際、どうしても泊まりたいからとベイ・シティを頼まれ、谷津は電話で予約しておいたのだが、その姪《めい》っ子が病気になって、東京行きは急に中止。ホテルをキャンセルしてくれ、という電話をもらって、まてよ、何かに使おう、とさもしい計算が働いて、キャンセルしないままにしておいたのが、役に立ったのである。
「ベイ・シティで食事と豪華ショーとベッドイン? 誘うにしても省平さん、いいセン行ってるわよ。美伽、乗っちゃう」
――そんな具合になったのが、昨日だ。
土曜日だったので、美伽は店が休みだった。
けっこう、楽しい一日になった。しかし今のところ、美伽からはまだ、これという話は聞きだしてはいない。
谷津省平はこのところ、麻布の翔子から頼まれた鶴田幸佑失踪事件の背後を調べるために、動きはじめているのである。
谷津は、だらしない寝起きの身体にガウンだけを羽織り、スリッパを突っかけて冷蔵庫のほうに歩いた。ドアをあけて缶ビールを一本とりだし、リップをむしりながら、窓際に立った。
眼下に、東京湾が鈍《にぶ》い春の陽射しを浴びて、一面、きらめいている。風の道に沿って、風紋のような小波《さざなみ》がキラキラと舞い起こって、鰯《いわし》の大群のように沖にむかって移動してゆく。
昼間みる東京湾は、こうして高いところからでも見ない限り、正直いって美しいものではない。ひところよりは澄んだとはいえ、水はまだ油膜を浮かべて黒ずんでいるし、湾のまわりには、灰色の無秩序な倉庫やビルや、石油タンクやコンクリートの堰堤《えんてい》が殺風景《さつぷうけい》な光景をみせている。
その岸辺には、元の原形を想像するのさえ難しくなったゴミや汚物や廃棄物が流れつき、打ち寄せられていて、とてもじゃないが、ロマンチックなウオーター・フロント時代の幕明け、とは、およそ言いかねるのである。
しかし、ここが、この湾のまわりが、今、二十一世紀へむけて確実に大きく変貌しようとしているブーム・ゾーンであることは、たしかである。
すでに、東京ディズニーランド、ベイ・シティ、幕張メッセ、横浜のみなと未来、ベイ・ブリッジと姿を現わしはじめた変化を見ることができるが、やがて完成する東京湾横断架橋を筆頭に、これからこそ東京テレポート、十三号埋立地開発、豊洲《とよす》地区再開発、各種コンベンション施設作りへと、いずれ眼下には、ニューヨークのマンハッタンかと見まごうばかりの、二十一世紀型の超高層化したハーバー・シティ作りが進められてゆくだろう。
もっとも、ここがそうなるまでには、これからどれだけ巨額の投資と、それに見合う利権誘導と、欲と金の絡《から》んだ醜い争いが捲き起こるか知れたものではないが……。
(いや。もうそれはすでに、起きているのかもしれない)
消息を断ったまま連絡がない、という翔子の夫、鶴田幸佑の背後に、谷津はふっと、暗い口をあけている策謀の陥穽《かんせい》を感じたりもする。
谷津が、翳《かげ》りかけてきた眼下の東京湾をみながら、そんなことを考えていると、
「いいお湯だわよう。来ないのう?」
甘えるように鼻にかかった高木美伽の声が、浴室のほうから響いてきた。
「よーし、行くぞう」
ばかに張り切って、谷津は浴室へ歩いた。
浴室には湯気がこもっていた。鏡の前でガウンと下着を脱いで、狭いアコーディオン式のガラス戸をあけて、まっ白い湯気の中にはいった。
美伽はシャワーを浴び終えて、バスタブに身を沈めるところだった。バスタブは狭かったが、二人いっしょにはいれないほどではない。谷津は洗うのもそこそこに、美伽の身体をかたわらにどけて、一緒に風呂に入った。
「やっぱり、並ぶのは無理だな。差し向かいになろう」
位置を修正しながら、湯の中で美伽の乳房にさわると、美伽はまるで足の裏をくすぐられたように、きゃっと身を揉んで大きな笑い声をたてた。笑う女は感じやすい、とはいうが、こうあけすけに笑われては、男の気分は台なしになる。
美伽の中心に谷津の手がいった時も、そうだった。
「あたし、敏感なのよ、ひっどく」
(鈍感だとは、言ってませんけどね)
女芯からうるみが湧きだす気配は感じられたが、朝の光の中でくすくす笑われつづけられては、気分もいまいち盛りあがりを欠き、谷津は先に風呂からあがろうと思った。
立ちあがったはずみに、雄渾《ゆうこん》なものが目に飛びこんだらしい。
「あ、元気じゃない。待って。いいこと、してあげる」
言ったかと思うと、美伽はバスタブの栓を抜いた。湯が流れ落ち、かなり湯量が少なくなったところで、栓をした。
「これなら、溺《おぼ》れなくてすむわね。さ、仰向けに寝て」
谷津は言われたとおりに、身体を低くした。
湯の表を突き割る感じで、朝の勢いをみせたものに、美伽が指を添えてきた。
握って、吃水線《きつすいせん》よりはるか上に聳《そび》えた宝冠部に湯をかけられ、擦《こす》られると、どうということはないが、快い気分で、そこはますます猛烈な意欲をみせている。
「ゆうべ、怠《なま》けた分、元気いいわね。ベッドに入ったとたん、バタンキュー。何度起こしても、起きないんだもん。何のために私をこんなホテルに、誘ったのかしらね」
「そうだったかな。酔っ払っておれ、美伽ちゃんをずい分、苛《いじ》めたつもりだけど」
「うそばっかり。夢でも見たんじゃないの」
「夢の体位にしちゃ、すてきだったな」
「何のために私を口説《くど》いたのかしら」
「ゆうべのショーを見せるためさ」
「ショーは、自分たちでやるものじゃないの」
「おれ、朝型なんだ。ほらほら、ますます元気になっただろう」
「あたしは二十四時間、戦うほうよ」
「へええ、女のためのコマーシャルだったのか、あれ」
谷津の軽口を聞き流して、美伽は掌で宝冠部をすっぽりと上から包み込み、掌と指を微妙に動かして刺激した。あいているほうの手が湯の中に沈んでいる宝玉殿を下から柔らかくもみこんだりした。
まるでその道の、プロのようであった。
(最近の銀座の女は、ずい分変わってきたらしい)
美伽の指は、楽しそうにそのあたり一帯を散歩しつくすと、際立たせたものの根元を握り、顔を伏せてきた。
唇がすっぽりと宝冠部を飲み込み、舌をそよがされた時、谷津は呻《うめ》いた。
(もしこの美伽から、いい情報がとれなくても、これだけでもう元はとったようなものだな)
美伽が変幻自在な口唇愛を見舞うにつれ、谷津はいつのまにかバスタブのふちを掴んでいる手に、力が入っているのに気づいた。
何度か、ライオンのように唸《うな》ったのである。
「おい、だめだ。弾《はじ》けそうだよ。花祭りは、むこうでやろうよ」
「そう。じゃ、先にあがってて。私、髪を拭いてくるから」
谷津は先に浴室から出ると、今度は裸のまま、冷蔵庫の上から飲み残しの缶ビールをとりあげ、ベッドに腰かけた。
谷津省平は今年、三十二歳の独身である。
中央日報の経済部でも、もう古手の部類にはいり、年齢からいうと、そろそろデスクや編集委員の声がかかるころだが、谷津に限っていえば、いっこうにその気配がない。
役人の息子なのに、どういうわけか不羈奔放《ふきほんぽう》なところがありすぎる。万事が組織戦時代に入った新聞社の機構の中でも、いつも危なっかしくはみだしかけている猪突猛進型である。
よくいえばマイペース、悪くいえば、個人プレイに徹するほうである。
日曜日とはいえ、谷津には家庭がないから、気楽なものだ。翔子の夫の失踪の背後には、何やらウオーター・フロント開発をめぐる政官財界ぐるみの汚職の匂いがする、と勘づいた時から、谷津は密林の豹のような跳躍の姿勢をみせはじめているのである。
2
「お待ちどおさん」
美伽が浴室から出てきた。裸のまま堂々と、ベッドのほうへ歩いてくる。乳房が固そうに揺れ、歩くたびに濃くびっしり繁茂したヘアが、盛りあがったり狭くなったりした。
「……何、考えてたの? 今まで」
谷津の裸の肩にしなだれかかる。
「ううん。何にも」
「うそばっかり。何か一生懸命考えごとしてたくせに、難しい顔して」
「美伽のあそこ、どんな締まり具合をするのかなあ、って考えてたんだぞ」
「確かめなくっちゃ、朝型でしょ」
「残念、おれは二十四時間、戦う型さ」
谷津は美伽の身体に手をのばした。
やっと眼がしゃっきり覚めて、自分の体内に精気が戻り、本調子になってゆくのが感じられた。
谷津は女が嫌いではない。どちらかというと、好きなほうである。いい女の蜜液を吸いとることで、やる気と馬力と行動力を倍加させてゆくタイプである。
軽く接吻しながら、美伽をベッドに押し伏せた。
接吻しながら、胸の円球を撫で、乳房を揉む。掌にずっしりと重みのする充実ぶりであった。こねるように揉みあげると、美伽が唇をはなして、ああん、と唸《うな》るような声をあげた。谷津は美伽の乳房に唇を移し、乳頭を含んだり、吸ったりしながら、下腹部に右手をおくった。
繁みの下は、充分に潤っていた。
風呂で感じたよりも、ずっと濃くなっている。
谷津が乳房に舌を這わせながら、女芯に指を往復させると、美伽はすすり泣くような声をあげはじめた。
そそられ、谷津は姿勢を変えた。洗ってきたばかりの美伽の女芯に、くちづけにいったのである。
「ああん……明るいのに……恥ずかしいわあ」
美伽は少しも恥ずかしがってなんかいない声をあげた。
女体は大きく、朝の光の中に開く。
鋭く尖《とが》らせた舌を送ると、上質のサーモンの切り身が吸いついてくるような秘唇の感触がいい。一条の白い透明液が洩れるあわいを舌でもみほぐしながら、割り開くと、
「あッ……やん」
美伽が、甲高い声で呻《うめ》いた。
秘唇が、需《もと》めるように、うごめいている感じだった。
美伽の肉の芽は、桜色に勃起《ぼつき》していた。表面の粘膜は、ローズピンクに濡れ光っていた。
谷津の舌が、その突起を襲撃した。
舌先で赤い苺《いちご》を根元から掘りおこし、つつき、押し、突然、薙《な》ぎ伏せたりするうち、
「あッ、あーッ」
美伽の身体が、微《かす》かに震え、ぴくんぴくんと、迎え撃つように上下した。
クリットは刺激が強すぎて、腰を退く女性は多いが、迎え撃つようにせりあげて、腰を使う女は少ない。
「だめよ。やめて。いきそう」
谷津はこの一週間の英気をこの際、しっかり養っておこうと、ますます図にのって、割れ目を深く刷《は》いたり、クリットを薙ぎ払いつづけた。
美伽の両手が、しきりにシーツをむしっている。
両脚がどうかすると、突っ張るぐらいに力が入り、爪先が内側に反っているのは、女芯を見舞う感覚を一滴でも逃すまいと、そこに全神経を集中しているからのようである。
美伽の声が、かすれた。
谷津の頭を、美伽の両手が掴んだ。
「だめよ……あっ……いっちゃう」
だめよ、と言いながら、美伽の両手は、谷津の頭を押しのけようとしているのではなくて、反対に、腰を持ちあげ、自分の秘所にぐんぐん押しつけようとしているのであった。
谷津は窒息しそうになったので、身を起こした。
そのままの勢いで、みなぎったものを挿入した。
谷津の男性は、どちらかというと豪根だ。
美伽の秘孔は、やや狭くて、窮屈だった。
谷津はその中を割り開いてゆくような感じで、突き進んだ。
谷津は半ばまで埋没させたところで、美伽の顔を両手ではさみ、くちづけをした。
「ううッ……」
と、唇が喘《あえ》いで、悶えた拍子《ひようし》に、谷津の豪根は、愛液の中をすべるように奥まで到着した。
「省平さんって、見かけによらないわね」
美伽が奈辺の意味をこめたかを、谷津は解した。
容積の比率のことかもしれない。
谷津は正常位で、ゆっくりと動きはじめた。
蜜液はあふれているのに、軋《きし》むくらいに深く掴《つか》まる狭隘部《きようあいぶ》の環の中を、何度も往復してゆかないうちに、美伽はもう登りはじめていた。
谷津は変化をつけた。美伽の両脚を大きく担《かつ》ぎあげた。臀部とそのはざまの女芯が、正面に猥《みだ》らに剥《む》きだしになる感じであった。
膝立ちになった谷津の分身が、下から抉《えぐ》るように突きたてられている。
身を折られ、すべりこまされ、美伽の白い腹部がはげしく波を打った。乳房が重たく揺れている。
谷津の動きが激しくなるにつれ、美伽はもう意味不明の声をもらしつづけ、ゆくゆく、と叫びながら、クライマックスへ翔《か》けあがりはじめていた。
二十分後、谷津は汗ばんだ美伽から身を離し、ベッドの上で横むきになった。
逞《たくま》しい胸に汗の粒が、うっすらと光っている。サイドテーブルの水差しをとって、口に傾ける。喉仏がごくごくと、独立した生きもののように動く。
谷津は煙草を引きぬいて、彫ったような唇にくわえた。
美伽がやっと眼を開き、身をもたせかけながら、ライターをすった。
人間というやつは妙なものだ。下半身を通したことで、美伽は今はじめて、谷津省平という男を、本当の意味で身近に感じたようであった。
「――すてきだったわ」
ばかに真面目な口調である。
(思いがけない拾い物だったわ)
そう言ったほうが、銀座の女としては、自分を高く売りつけることができるだろうに。
谷津は、美伽の髪を撫でた。
この女、見た目よりは案外、すれてないのかもしれない。年もまだ二十二、三歳と、若そうだし。
そんなことを、谷津は思った。
「美伽。……鶴田さん、このごろ店に来るかい」
そろそろ、世間話をはじめた。
「鶴田さん? 大鵬建設の?」
「うん。このところ、会社のほうで見かけないから変な気がしてるんだけど」
「そういえば、このごろあまり、うちにも来ないわね」
「失踪している、という噂を聞いたこともあるけど、美伽は何か聞いてないかい?」
「さあ、私はまだ耳にしてないわ。沙織《さおり》にきけば、何かわかるかもしれないけど」
沙織というのは、美伽の店の売れっ子である。
「ああ、沙織ちゃんか。担当なのか、鶴田さんの」
「ええ、ママのお気に入りの子だからね。大事なお客さんの席には、たいてい沙織をつけるわ」
「と、いうと、鶴田さんだけではなく、大鵬建設の他の重役たちのところにも、沙織さんがつくのかい?」
「社長と専務は、ママの受け持ちよ。鶴田さん以下の接待には、たいてい、沙織ってところね」
「社長というと、鷲尾さんか。あの人、高齢ながら相当のやり手だよね。まだ銀座の巷《ちまた》を徘徊《はいかい》しているの?」
「時々、よ。来ても美食と酒は医者に禁じられていて人生もう終わりだな、といって代議士先生たちと大笑いしているわ。なら、女でゆこう、って」
「へええ、まだ現役なのか、あっちのほう。凄いな」
「現役も現役。だって、まだ六十五、六でしょ。ママなんか、あくる日は、げっそりやつれて、腰をふらつかせて出てくるわ」
「へえ、ママ、薬王院先生のお手つきって噂を聞いたことあるけど、鷲尾竜太郎の女だったのか」
「あ、いけない。省平さん、お願い、ここだけの話よ」
「ああ、もちろん、洩らしたりはしないよ。すると、薬王院豪造の女って、舞姫にはいないの?」
「そりゃあ、ね。ママだって適当にご忠勤に励んでるみたい。でも、薬王院先生、移り気で若い娘趣味だから、いつもニューフェイスを見つくろって、補給しなければならないって、ママ、こぼしているわ」
薬王院豪造というのは、与党の代議士で、建設族である。その中でも建設省や大蔵省の幹部に顔の利く大物議員であった。とくに大鵬建設とは、何かと関係の深い間柄のようである。
失踪したらしい鶴田幸佑は、入札課長として役人や代議士のところによく出入りしていたから、彼らと一緒に銀座の「舞姫」あたりに出入りしていても、不思議ではない。そのへんから、鶴田幸佑の失踪前後の様子を探りだそうとしている谷津であった。
「ね、美伽。すぐでなくってもいいからさ。沙織ちゃんと仲良くして、鶴田さんの最近の消息を聞いといてほしいんだけど」
「よほど何か気になるみたいね。沙織とは何かにつけてライバルだから、私、あんまり仲良くしてないのよ。でもいいわ、省平さんの頼みじゃ、そのうち、何か聞いておくわ」
「よし、決まった。今週の末あたり、また会おうよ。おれ、店にゆく金がなくなったら、外から電話して呼びだすからさあ、断わったりしないでくれよ」
「大丈夫よ。私、一度できた男の人は大切にすることにしてるの。お金のあるなしじゃないもんね、こればっかりは」
美伽の手が、谷津自身のほうにのびてきた時、谷津はまた、元気になりかけていた。
3
庭にお昼前の白い光が射していた。
レースのカーテンに額を押しつけて、鶴田翔子は窓の外に眼を投げていた。
麻布の家は、翔子一人が留守を守って暮らすには広すぎるようで、このところ庭もあまり手入れしてはいなかった。
芝生。つるバラ。椋鳥《むくどり》。まだ芽吹かないまま枝を差しかわしている冬枯れの欅《けやき》。
翔子の眼には、そういう庭の景色が映《うつ》っているはずだが、その実、何も映像を結んではいなかった。
頭の芯で糸を巻くように、何かを一生懸命、考え事をしている時というのは、視覚も、聴覚も、案外、おろそかになっているものらしい。
階下の居間のほうで鳴りつづけている電話の音に気づいたのは、だから、だいぶたってからであった。
(あら、電話だわ……?)
翔子はやっとわれに返って、窓辺を離れた。
そこは二階の幸佑の書斎であった。掃除をしかけていたクリーナーを置いたまま、翔子は階段を急いで降りた。
しかし、一階に降りつかないうちに、電話は一度、ぷっつんと切れた。
(もしかしたら……幸佑から……?)
途中で切れた電話だけに、かえって、気になった。
――その日は、熱海から戻った二日目の日曜日である。
船越周太郎に追いたてられて赴《おもむ》いた感もある熱海行きは、結局、何にも得ることなく終わり、夫の行方はまだわからなかった。
翔子は、船越と結ばれたことは、心の中でもう幾分、整理がつきはじめ、あまり重きを置いてはいない。あれは交通事故のようなものであったし、行きずりの遊びと割り切って、割り切れないことはないのである。
今はそれより、夫の幸佑の消息を早く掴まなければならないと思った。
(そうだわ。あすは月曜日だから、必ず会社に行ってみよう。夫が公金横領をしたにしろ、しないにしろ、責任ある人にちゃんと会って、失踪前後の情況をしっかり確かめねばならない)
翔子がそう思った時、もう一度、居間のほうで電話が鳴りはじめた。
今度は間にあった。
翔子が受話器を取りあげると、
「もしもし……」
受話器から、相手の声が小さく洩れてくる。
どこか渋い、中年男の声であった。
「鶴田さんのお宅ですか?」
「はい……」
翔子は少し警戒しながら、応じた。
時が時だし、もし船越だったらどうしようかという迷いが、ちらと揺れたのである。
すると、相手の声は、大きくなった。
「失礼ですが、ご家族の……鶴田幸佑さんのご家族の方ですね?」
「家内ですが、主人に何か?」
「あ、奥さんですか」
「そうです。おたくは?」
「私、新潟県警の佐渡《さど》・相川《あいかわ》署の森山という者ですが」
「佐渡? 警察の方?」
翔子はびっくりして、聞き直した。
思わず、受話器を強く握り直したかもしれない。
何といっても、ふつうの家庭の主婦の感じでは、警察というだけでも、驚くのに、それも遠方からなので、二重に、びっくりしたのであった。
しかも、夫が失踪している時が時であった。夫の幸佑と佐渡の相川警察署が、いったい、どういう関係にあるというのだろう。
「主人が、どうかしたんですか?」
「それがですねえ」
森山と名のった男は、急にためらいがちになった。
「――奥さんに大至急、確認に来ていただきたいのですが、ご主人らしい人が、交通事故で亡くなられたのです」
「え? な、なんですって?」
「私どもの佐渡に、金北山《きんぽくさん》という山をこえる大佐渡スカイラインという観光ドライブウエイがありましてね。ご主人らしい人が乗った車が、急傾斜の七曲りでハンドルを誤まって、ガードレールに激突し、まことにお気の毒ですが、崖下に墜落なさって、死亡されたわけなんです」
一瞬、翔子は沈黙した。
相手の言うことが、すぐには信じられなかった。
しかし、そのくせ、何となく身体の芯から震えがきて、心臓が高鳴り、受話器をもつ手が震えはじめていた。
「……聞いてますか、奥さん」
電話のむこうで、相手が説明している。
「現場は、何しろ急カーブの多い崖道なんです。事故をおこした車は、スピードをだしすぎてカーブを曲りきれずにガードレールに激突し、崖下に転落したんです。そのショックで、車は爆発炎上し、運転していた女性も、助手席のご主人も、焼死体となって……」
翔子は受話器を握ったまま、それから小さな悲鳴をあげたかもしれない。
爆発炎上……焼死体……という言葉もショッキングだったし、それ以上に、女性が運転していた、ということにもっと大きなショックを、受けたのであった。
「あの……それで……運転は……」
舌がもつれて、やっと翔子は訊《き》いた。
「主人が運転していたのでは、なかった、というのですか?」
「はい。ご主人は、助手席でした」
「その女性は、どういう方だったのでしょう?」
船越周太郎の妻、加寿美だったのではないか……という思いがすばやく頭の隅をかすめたが、翔子は念を押して聞いてみた。
「さあ。何しろ損傷が激しくて、まだ身元を確認いたしてはおりません。男性のほうは、きつくシートベルトを締められていて、その圧迫された部分の背広の内ポケットから、焼け残った鰐皮《わにがわ》の財布と運転免許証などが出てきて、住所・氏名が判明し、それが、ご主人の名前だったものですから」
係官は麻布の翔子の家に電話をかけてきたいきさつを話し、騒がせていることの謝《あや》まりでも言うような口調で、そう説明した。
翔子はやっと、姿勢をたて直した。
「でも、主人は会社の仕事で九州に出張しているはずで、佐渡なんかに行ってるはずはありませんが」
(違う、違う。幸佑はたしかに熱海にいたのだ。熱海から、どこかに消えてしまっていたのだ……!)
心の中でもう一つの声が、警鐘でも鳴らすように、そう叫んでいた。
「はあ。そんなご予定があったのですか。でも、財布には名刺と免許証がちゃんと入っていて、ご主人の名前や住所や電話番号が判明したものですから。……ともかく、遺留品とご遺体の確認に来ていただきたいのですが」
警察としては、家族に連絡するときの主たる用件は、そこにある。
身内に確認してもらいたい、そしてもし本人だとしたら、事情をききたいし、引きとってもらいたいのである。
翔子本人のショックや、気分は二の次であろう。
「はい。……参ります」
と、やっと、絞《しぼ》りだすように小さな声で、翔子はそう言った。
「佐渡の……どこにゆけばよろしいのでしょうか?」
「相川署の森山を訪ねてきて下さい」
係官は無愛想にそう言って、電話を切ろうとしたが、
「あ……奥さん、佐渡は初めてですか?」
翔子にとっては、佐渡も初めてなら、新潟県に行くのも初めてである。
返事をきいて、森山係官は一瞬、うーんと思案していたようだが、
「初めてなら、道も不案内でしょう。わかりました。こうしましょう。私が新潟からフェリーの着く両津《りようつ》港まで迎えにあがります。奥さんは新潟にお着きになったら、何時のフェリーに乗るかを連絡して下さい。必ず私が出札口に迎えにあがります」
森山はそれから、新潟港から佐渡に渡る船便は、大型カーフェリーと、それより速度の早い、便数も多いジェットフォイルというものの二種類があり、もし万一、両方とも予約で満杯で券がとれなければ、新潟県警の用事で佐渡に赴く鶴田だ、と係員に申し出てくれれば、手配しておく、ということまで親切に説明してくれた。
「そうですか。色々、お手配、申し訳ありません」
翔子は、いつ電話を置いたのか、わからなかった。
背中が、汗びっしょりだった。
そのくせ、変に寒くて震えがくる。
悪夢の最中にでもいるような気分であった。
翔子は息苦しくなって、リビングを突っ切って窓をあけた。庭木が暗い森のように揺れていて、日蝕のように暗かった。
いや、まっ昼間の春の陽は燦々《さんさん》と射していて、庭は光一杯で、明るいのであった。
それなのに翔子の視界だけが突然、暗転して陰画となり、光という光が一切《いつさい》、消えてなくなっていたのであった。
薄気味わるい白昼の闇であった。
翔子はそれから、急いで旅行の支度をした。
4
上越新幹線「あさひ317号」は、上野発十三時八分であった。
これでゆくと、新潟には十五時四分に着く。
翔子は手荷物を棚にあげると、シートに坐って、写真週刊誌をひろげた。あまり頭が混乱していて、過熱しているので、自分とは関係のない世相写真でも眺めて頭を冷やそうと思ったが、眼は写真の上を虚《うつ》ろにさまよっているだけで、少しも映像を結ばなかった。
車内は比較的、空《す》いていた。
列車は間もなく、発車した。
上野から発車する新幹線は、東北も上越もいずれも長い地下トンネルを走ってゆく。
車窓にはすぐには何も見えないので、昔のように、東京を離れる、という感傷は湧かないし、どこやら息苦しい、という気もする。
今日もまた、あわただしい旅立ちであった。地味なモスグリーンのスーツに、黒いエナメルの靴。持参してきたものといえば、ありあわせの身の回り品だけで、熱海行きの時と、まったく同じであった。
ただ違うのは、横に船越周太郎という男がいないだけのことである。
列車はトンネルの中をしだいに加速していった。
眩《まぶ》しい外界に出た瞬間、翔子は、自分が幾つかのことで忘れものをしてきたような気がした。
たとえば、夫の会社である大鵬建設に、連絡しなくてもよかったのだろうか、という後悔である。
何しろ、佐渡の警察からは急な報《し》らせだったし、日曜日だったしで、会社に電話をしても誰もいないだろうという先入観が先に立って、連絡をしないまま家を出てきたのだが、それでよかったのかどうか。
日曜日であっても、落着いて考えれば、社員名簿をめくって、幸佑の上司や、総務部の責任者の自宅に電話をかける方法があったことに、今になって気づくのである。
しかし、それをしなかったのは、本当のところ、警察が知らせてくれた事故当事者が、まだ幸佑であるかどうかがわからないし、信じたくはない、という心理が働いたからに違いなかった。
それともう一つは、仮に幸佑であったならなおのこと、会社の仕事で佐渡に行っているはずはない。しかも女づれだとすると、やはり不倫旅行の延長のような気がして、会社に報告するのがためらわれ、翔子は会社の人には告げずに、急いで出発してきたのかもしれなかった。
それにしても、佐渡まで一人でゆくのは心細かった。夫の遺体に対面すると、自分が激しく取り乱すような気がして、不安であった。
出がけに思いつき、翔子は吉祥寺の谷津省平に電話をしたのだが、谷津は留守らしく電話には誰も出なかった。
(日曜日なので、もしかしたら、寝坊でもしていたのかもしれない。新潟に着いたら、もう一回、電話をしてみよう)
それにしても、先日は熱海、今日は佐渡へと、何というあわただしい日々だろう。翔子は何だか自分が夫の不始末によってふり回され、抗えない運命の糸によって、人形のように操《あやつ》られているような気さえした。
とくに佐渡という島については、流人《るにん》の島とか、むかし金山のあった島というイメージがあるだけで、正確な位置も、所要時間さえも、ほとんど見当がつかないのであった。
電車が大宮をすぎた頃、傍の通路を車掌が通りかかったので、
「あのう……すみません」
翔子はあわてて、車掌を呼びとめた。
「これから新潟に着くと夕方に近いのですが、佐渡にゆく連絡便は、まだあるでしょうか?」
率直にいって、午後三時すぎに新潟について、それから日本海の果てに浮かぶ孤島までゆく船があるのかどうかさえ、見当がつかなかったのである。
通路で立ち止まって、佐渡汽船の時刻表を見てくれていた車掌が、
「お客さん、大丈夫ですよ。だいたい、一時間に一本は便がありますから、四時台から夜までにまだ、七、八本は船が出ています」
そんなに便利なのかと、翔子はほっとした。
「駅から港までは、遠いんでしょうか?」
「タクシーに乗れば、ほんの十分で着きます」
「ありがとうございました」
「これから佐渡へ?」
「はい」
「そうしますと、十六時ジャスト発のジェットフォイルがありますから、新潟にお着きになっても、そうあわてることはありません」
「そうですか。色々、どうも――」
白い地図の中に迷い込むような、予備知識も何もない旅行なので、翔子にとっては心細い限りなのだが、いったい夫、幸佑はどうしてそんな佐渡なんかに行ったんだろう。
考えはまた、そこへ戻ってゆく。運転していた女というのは、船越加寿美なのかどうか。
(きっと、そうであったに違いないわ……)
考えごとをしている間に、新幹線はいつのまにか高崎、渋川周辺をすぎ、大清水トンネルに突入していた。これをぬけると、もう越後湯沢であり、新潟県だと聞いている。
「あさひ317号」は、矢のように上越の山々を縫《ぬ》い、越後平野に出て、信濃川沿いに日本海のほうに走っていた。
第三章 佐渡情死考
1
新潟には、午後三時四分に着いた。
翔子《しようこ》は改札口を出ると、タクシーに乗る前に、手近かの公衆電話のほうに歩いた。
吉祥寺の谷津《やづ》省平の部屋に電話を入れると、信号音が二、三回鳴って、
「もしもし、谷津ですが」
受話器が持ちあげられた。
「あの……翔子よ」
翔子はやっと電話が通じて、安心した。
弾《はず》んだ声になった。
谷津は出先から今、帰ってきたばかりのところだ、と言った。
翔子が、佐渡で幸佑《こうすけ》らしい人物が交通事故で死亡したということを告げると、
「ええーッ! 鶴田さんが……?」
谷津はずい分、びっくりしたらしい。
「ええ、それで私いま、佐渡にむかっているところ。一人では何だか、不安なのよ。今、新潟なんだけど……谷津さん、来てくれないかしら」
甘えるような声になった。谷津はそれより、
「鶴田さん、いったいどうして佐渡なんかに」
「私にもわからないのよ。女づれだったらしいの。しかも運転していたのは、その女のほうらしいのよ」
「女づれ……? へええ」
「とにかく情況は、何もかもわからないのよ。これからなの。ねえ、あすでいいから、お仕事の都合《つごう》をつけて来て下さらないかしら」
あすは月曜日である。週のはじめ早々に、新聞社のほうでそう勝手な行動ができるかどうかわからなかったが、翔子は甘えてみた。
谷津は身のこなしの早い職業であり、人間である。
「わかりました。何とか考えてみましょう。佐渡でのホテルは?」
「それはまだ、決めてないのよ」
「よーし。じゃ、ぼくはまっすぐ、その相川署というところに行きますよ。翔子さんの宿も、そこでわかるようにしておいて下さい」
谷津はてきぱきと言って、電話を切った。
翔子はほんの少し、心強い味方ができたような気がした。
新潟駅前から、タクシーに乗った。
「佐渡にゆく船の発着所へ、やって下さい」
港、という言い方でわかるかどうか不安だったので、翔子は運転手にそう言った。
タクシーは走りだした。
新潟は駅前に新しいビルがぞっくりとふえはじめ、新幹線とともに、近代的な大都市に変貌しつつある印象であった。
港は駅から比較的、近いところにあった。
車掌から聴いていた十六時ジャスト発のジェットフォイルの乗船券を求めたが、予約客で満杯だった。
「あのう……すみません。私、新潟県警の用事でゆく鶴田と申しますが」
改札口でそう言うと、
「あ、ちょっと、お待ち下さい」
改札の女性職員が上司を呼んできた。
やはり、警察から連絡が取られていたらしい。佐渡汽船の乗客責任者が現われて、
「席はあいにく、いっぱいですが、乗務員用の椅子でよろしかったら、便宜《べんぎ》を計《はか》りますが」
「申し訳ありません。私のほうは、何でもかまいませんが」
「じゃ、乗船券をお買い求めの上、乗船カードにお名前とご住所をご記入下さい」
翔子は、その船に乗ることができた。
ジェットフォイルというのは、水中翼船とは少し違うが、それと同じように波の上を突っ走る超高速艇なのだそうである。
すぐに出航した。通常のカーフェリーが佐渡まで約二時間二十分の所要時間なのに対し、これだとわずか一時間で着くそうである。
日本海は、空がどんよりと曇っていた。
波が荒かった。窓ガラスにはうっすらと、霧とも飛沫《しぶき》ともつかないものがかかってきた。
船がスピードをだすにつれ、飛沫が空高く舞いあがって、それが窓ガラスに降りかかっているのかもしれない。
翔子は前方の視野を窺《うかが》ったが、鉛色《なまりいろ》の雲と海があるだけで、島というものはすぐには見えなかった。
左手にようやく佐渡の島影が見えはじめたのは、だいぶ沖に出てからである。
雲にすっぽり隠れていたからかもしれない。
見えはじめると、ずい分大きな陸影だと思った。
それにしても、今の翔子にとっては、見知らぬ土地に夫の不幸を確かめにゆく、という心細さと悲劇性に包まれていて、灰色の雲をたなびかせたその陸地の影が、遥《はる》かに遠いところまで来た、という悲愁のようなイメージを抱かせるのであった。
高速艇は、日本海の波の上を突っ走って、夕方五時に両津港に着いた。
2
両津港に、相川署の森山係官が待っていてくれた。
「やあ、お疲れさまです」
五十年配の、地味な背広を着た男で、温厚な印象であった。渡された名刺をみると、警部補という肩書がついていた。
もう夕方だが、日が暮れるには間があった。
「車を待たせております。どうぞ」
港の表に、県警の車が待たされていた。
「これから相川に参りますが、そのついでに、現場をごらんになりますか?」
「通りすがりなのでしょうか?」
「少し寄り道にはなりますが、回れないことはありません」
翔子は少し恐い気がしたが、一度は現場を見ておいたほうが肚《はら》も坐るし、気持ちの整理がつくかもしれない、と思った。
「ご迷惑でなければ、そこを通って下さい」
「わかりました」
翔子がリアシートに乗ると、車はスタートした。
森山警部補が自《みずか》ら運転して、道案内した。
両津の町は、佐渡の表玄関だそうだが、商店街を抜けると、すぐに湖畔の道に出て、あまり大きい町という感じではなかった。
どこやら、宿場町のような感じであった。
見えてきた湖は、加茂湖というのだそうだ。車はその横を通る県道を走って、国中《くになか》平野にむかった。
「あのう……遺体とはどうしても対面しなければならないのでしょうか」
翔子はここにくる間、ずっと気にかかっていたことを、率直に質問した。
森山警部補の電話の話によると、車は爆発炎上し、乗っていた人間には損傷が激しい、ということだから、どのような状態になっているかは、想像がつく。
ほとんど全身、黒焦げ状態になっているであろう夫の遺体と対面すれば、自分の意識が正常さを保ち得ないばかりか、卒倒してしまうであろうことを、翔子は恐れているのであった。
「はい。その件ですが、率直に申しあげまして、ご遺体と対面なさっても、外見では見分けがつきません。警察では万一の用心に、二人の遺体を司法解剖に回しております。とくに女性の身許を推定する遺留品が何もありませんから、いずれにしろ歯列、身体的特徴、その他の所見を掴むために、二人を司法解剖に回すしかないわけです。……で、奥様には、それによって判明した身体的特徴や、遺留品などを確認していただければ、それでよろしいかと思います」
返事をきいて、翔子は少し救われた。
今、男女の遺体は警察指定病院に回されており、遺留品などは相川署に保管している。事故現場は両津から相川にゆく途中の、大佐渡スカイラインという山道だが、これは通常の交通ルートではなく、観光のためのドライブウエイである、などということを森山警部補は説明してくれた。
「ご主人はやはり、観光旅行だったんでしょうかね」
「さあ、私には何にも言いおいてはいませんので」
「あ、そうでしたね。電話での話によりますと、ご主人は九州への出張だったそうですが、どういうことでしょうね」
翔子は観念して、幸佑がこの二週間、消息不明だったことをありのまま、話した。
「ふーん。数日前、熱海にいらっしゃったんですか。とすると……」
「え?」
「いえ。――で、その女性というのは?」
翔子は、会社の秘書をしていた船越|加寿美《かすみ》について、ありのままのことを話した。
「むろん、熱海で一緒にいたからといって、夫が佐渡旅行をしていた相手の女性が、その人であるかどうかは、私にはわかりません」
「はい。私どもも、そのへんについては慎重に考慮いたします」
車はいつのまにか、国中平野に入っていた。
見渡す限りの広い田園や、高い山々を見ていると、翔子はこれが島なのだろうか、と疑問に思った。
なるほど、佐渡は北海道、九州、四国につぐ大きな島なのである。北海道のどまん中にいて、そこが島だという実感が湧かないのと同じであった。
「あのう、事故はいったい、いつ、何時頃、起きたのでしょうか」
翔子は聞き忘れていた一番、肝心《かんじん》のことを聞いた。
「はい。今朝の九時半頃らしいですね。そのスカイラインを通りかかったドライバーの知らせで、警察と消防車とレッカー車がすぐに出動して消火にあたったんですが……」
すべては手遅れだったようである。
九時半に佐渡で発生した事故の知らせが、十一時半には東京にもたらされたのだから、警察の調べは迅速《じんそく》だったといえるであろう。
「なお司法解剖の所見が出るのは、あすになります。ご主人の失踪前後のことなども詳しくお伺いしたいので、二、三日、ご逗留《とうりゆう》いただけますでしょうか?」
「はい」
と、翔子は返事をした。
いずれにしろ、もしそれが夫だとすれば、遺体引取りや、火葬手続きなどのため、それぐらいは島にとどまる必要があるようであった。
「私どもでは今、ご主人たちが前夜、泊まった宿の割りだしや、レンタカー営業所などをあたっておりますので、明日になれば、事故前日の模様がすべて、わかると思います」
森山がそう話していた。
翔子はだが、軽い放心状態にいたので、森山の話を熱心に聞いているわけではなかった。
「ここからがスカイラインです。かなりきつくなりますから、吊り皮におつかまり下さい」
新保という町の辻で右折すると、大佐渡スカイラインのコースに入った。しばらく冬枯れの田園がつづき、それが切れると道は雑木林に入り、やがて山の傾斜にさしかかる。
前方の金北山《きんぽくさん》は、遥かに高い山であった。
聞くと、標高約千二百メートルだそうだ。
堂々たる一千メートル級の山岳であった。
大佐渡スカイラインは、その山の尾根を南北に縦走する全長十四・五キロの山なみハイウエイである。
日暮れの時間になって、山の陰はもう暗くなっていた。森山はヘッドライトをつけたくらいである。
道は急な坂道にさしかかった。自衛隊の駐屯《ちゆうとん》基地をすぎると、ますます登り勾配となり、やがて尾根づたいのドライブウエイとなった。
ほとんど山頂地帯を走ってゆく。
西の空に、夕陽が残っている。
眼下に昏《く》れなずむ国中平野、真野湾、加茂湖、両津港などが一望できて、眺望がすばらしかった。
前方に待つ用件が用件でなければ、旅人として翔子もうっとりと溜息が出そうな夕日の色であった。
なるほど、佐渡を訪れた以上、レンタカーか観光バスで、このドライブウエイを走らなければ、一人前とはいわれない、という意味はわかる。
(幸佑はいったい、どんな気持ちでここを走ったのだろう)
標高八百四十メートルの白雲台山荘をすぎると、左右が絶壁状に切り立って落ちこむ地獄谷というところにさしかかった。
右手の、外海府のほうから、激しい気流のような濃霧《ガス》がもくもくと湧きあがってきて、尾根の縦走路をこえて、左手の絶壁のほうへ流れてゆくが、視界はたちまちまっ白い渦に巻きこまれて、身のすくむような光景である。
「現場は、もう少し先です」
大平台の展望台をすぎると、道はやや下り坂になった。そのかわり、急カーブの多い急な七曲りコースとなって、ガードレールの真下は絶壁……また絶壁の、連続となる。
「このあたりからですな。事故多発地帯なんです。スピードをだしすぎてると、まがりきれません」
フロントガラスの前面に、不意にガードレールが現われてブレーキが軋《きし》み、覗《のぞ》くと眼下は急な崖になっていて、翔子は身がすくむ思いがした。
やがて車は、その絶壁の真上に止まった。
「そこです。降りて、ごらんになりますか」
事故現場は金山跡である道遊《どうゆう》の割戸《わりと》のほうに下ってゆく途中で、まだガードレールが突き破られたまま、事故の惨状をとどめていた。
崖下は車の中からは、見えなかった。
森山がドアをあけて、外に降りた。
翔子も降りたが、足に力がはいらなかった。路肩まできて、眼下をみた時、貧血を起こしたように、軽いめまいを覚えた。はるか下方に、あたりの木々まで焦《こ》がして炎上したまま、放置されている黒焦げの車の残骸が、見えたからである。
「あの場所じゃ、レッカー車を投入するのも、ちょっとことでしてね。ドアを焼き切って遺体を運びだすのが、精一杯でした」
森山の説明する声が、遠くにきこえた。
翔子はうずくまって、ガードレールに掴まり、めまいと倒れそうになる身体を、やっと支えていた。
「あのう……すみません。どこか宿に連れていっていただけないでしょうか。今日はもう、とても遺留品の確認など、できそうにありません」
「あ、そうですか。これは、気がつかずに、すみませんでした」
森山があわてて、翔子の身体に手を貸した。
翔子は、けんめいに嘔吐《おうと》感を怺《こら》えながら、
「ご迷惑ばかりおかけして、すみません」
車のほうによろよろと、歩きだした。
3
ホテルは、海の近くにあった。
相川の町はずれで、尖閣湾に近いところの崖の上なので、一晩中、波の音がきこえて、翔子はよく寝つけなかった。
翌日、翔子は相川署を訪れた。
「や、昨日は失礼いたしました。遺留品は、こちらに保管しております。どうぞ」
森山警部補が一室に案内した。
遺留品は、焼け残った着衣、ベルト、靴、身の回り品。それと鰐皮の財布、免許証、財布の中に入っていたお札、名刺類、小銭、キイホルダーなどであった。
いずれも、翔子には見憶えのあるものばかりで、幸佑のものに間違いなかった。とくにベルトのバックルは、翔子が買ってやったものだし、モカシンの靴も、その踵《かかと》の減り具合も、キイホルダーも、鰐皮の財布も、ひとつひとつに記憶のある、それだけに切ないものばかりであった。
「いかがです?」
「間違いなく、夫のものだと思います」
「じゃ、ご確認いただいたと考えて、よろしいですね」
「はい」
「念のため、身体的特徴を述べますと――」
森山警部補はそれから、報告書を見ながら、推定身長、体重、体型、推定顔相までを説明したが、いちいち、夫の幸佑に間違いないと思われる事柄ばかりであった。
「それじゃ、歯列まで確かめることもありませんな」
パタン、と報告書を閉じた。
「は?」
「歯列は取っておりますが、ご遺体には歯の治療痕が窺《うかが》えないんです。ということは、歯列モデルをもっていっても、東京の歯医者にそれを比較検討するものがないように思えまして」
「はあ」
そういえば、幸佑が歯医者に通った記憶は翔子にもなかった。
「わかりました。それじゃ、男性は鶴田幸佑さん、三十五歳……と。残るは、女性のほうだな。奥さん、昨日お話なさっていた船越加寿美さんのことを、もう少し詳しく話してくれませんか」
翔子は取調室のような部屋に案内され、色々な事情聴取を受けた。話はおもに、船越加寿美の印象、着衣、連絡先などから、最後はまた夫の幸佑の話に戻って、会社での仕事や、失踪前後のことにまで及んだ。
事情聴取は、一時間半にも及んだであろうか。交通事故の死亡者の確認にしては、ずい分、ご念の入ったことだ、と翔子は不審に思った。
やっと終わりがけの頃、森山警部補は調書を閉じ、
「で、どうなさいます? ご遺体は」
机の上で両手を組んで、じっと見つめた。
翔子はそこまでは考えていなかったので、虚をつかれて思案顔をすると、
「島内でよくこういうケースがありますが、たいていは、こちらで火葬まですませて、ご遺骨だけをお持ち帰りになって、東京で本葬されるケースが多いようですね。何なら、そうなさってもかまいませんが」
翔子もそのほうが助かる、と思ったが、会社にも知らせたほうがいいかもしれないし、谷津省平も午後になったら来てくれるかもしれない、と思い、
「相談する人もいますので、もう少し警察指定病院でお預かりしていただけないでしょうか」
「はい。それはいっこうにかまいません」
「私、今夜まで当地に滞在するつもりですので、あすになったら、もう一度、ご相談にあがると思います。その節は、よろしくお願いします」
「はい。遠いところ、お疲れさまでした」
4
中央日報の谷津省平が佐渡に着いたのは、その日の午後二時である。
翔子はその時、海のみえるホテルで休んでいた。
フロントから電話がはいったので、翔子がロビーに降りてゆくと、谷津はコートを脱いでソファに坐っていた。
「大変でしたね。お疲れでしょう」
立ちあがって、いたわるように見た。
「谷津さんのほうこそ、お忙しいのに、ごめんなさい」
谷津は濃紺のスーツにトレンチコートを手にしていて、肩にカメラまでかけていた。
荷物はまるでない。いつもの流儀なのだろうか。
「で、いかがでしたか?」
「はい。やはり、夫に間違いないようなの。ショックだったわ」
「やっぱり、そうですか。今日、来る時に会社で確かめてきたんですが、大鵬建設は佐渡では何も請負《うけお》ってはいませんよね。つまり、鶴田さんは仕事できたのではない。女づれにしても、どうして佐渡なんかに来たのかな」
翔子は交通事故の情況をかいつまんで話した。
「崖道で転落ねえ。何となく出来すぎているような気がしますけどね」
「できすぎてる?」
どういう意味、と翔子は聞いた。
「ほら、鶴田さん、失踪したでしょ。公金|拐帯《かいたい》の噂もあったでしょう。この交通事故、ただの交通事故ではなく、何だか裏があるような気がして、仕方がないんですけどね」
「裏って……犯罪の匂いがするっていう意味?」
「それはまだ、ぼくにもわからないけど」
谷津は言いかけ、「で、会社には?」
「まだ知らせてはいません。谷津さんが来て相談しようと思ったものですから」
「そりゃ、まずい。警察から先に問い合わせが入ったら、会社では大騒ぎになりますよ。総務の人に一刻も早く知らせたほうがいいと思いますね。鶴田さんは入札《にゆうさつ》課長だったんだから、会社の人間が誰かあわてて素っ飛んでくるでしょう。こういう場合、雑用はみんな会社の総務の連中あたりにやらせるべきです。今からでも遅くない。すぐ上司に知らせるべきです」
「はい。そうします」
翔子が叱られて立ちあがろうとした時、ちょうど、フロントから係員がやってくるところだった。
「あの……鶴田さんですね?」
「はい」
「警察の方から、電話がかかっています。お部屋のほうにはいらっしゃらなかったものですから」
「そう。ありがとう」
翔子はフロントで、その電話をとった。
電話は、午前中に署で別れたばかりの森山警部補からであった。
「や、たびたび、すみません。実はですな。たった今、報告が入ったんですが、両津のほうで事故前夜、ご主人と女性が宿泊なさっていたホテルが判明し、そこでも遺留品が見つかったという話なんです。それと、司法解剖の結果も、出たものですから、奥さんにもう一度、ご足労願えないかと」
「両津のホテルの遺留品って、何なんでしょう?」
「ええ……それが……あまり大きな声では言えないんですが、キープされていた部屋の金庫から、大層な現金が現われたそうなんです。手つかずの新札で、千二百万円くらい……奥さんのほうで何か、憶えがありますか?」
たとえば、銀行口座から引落とされていたというふうな形跡はないか、と森山は聞いたのであった。
「いいえ。そんな――」
翔子はほとんど、絶句していた。
そんな大金を幸佑が持って旅行していたなんてこと、翔子には信じられない。
幸佑が会社の公金に手をつけて失踪した、という噂を思いだし、にわかに不安が高まった。
「奥さん、聞いてらっしゃいますか。その遺留品の出所についてお伺いしたいのと、司法解剖の結果でも、ちょっと微妙な問題が発見されてましてね。いかがでしょう。もう一度、ご足労願えませんか?」
「遺留品といっても、現金の類《たぐ》いなら、私にはまったく憶えがありませんから、見ても役に立たないと思います。それに、友人の新聞記者の方に、いろいろ相談相手になってもらうため、今、ここに来てもらっています。司法解剖の結果というのも、その方に説明していただけないでしょうか」
翔子は何とはなしに、頭痛がしてきて気分がすぐれなかったのである。
事故前夜、幸佑たちが泊まった旅館なりホテルなりにゆくと、いやでも夫が女と一夜をともにした痕跡と、正面きってむきあわなければならないかもしれない。
翔子としたら、それは耐えられないことであった。
それよりも翔子は今、急いで会社に電話をしなければならない。宿の金庫の中に遺留されていた千二百万円もの現金のことは、まだ知らなかったことにして電話をしたほうが、幸佑の上司である斎藤営業部長には、話がしやすいのであった。
翔子は、警察には身内同様の代理人として谷津省平に行ってもらうことにした。
森山警部補は、それを承諾してくれた。
「ね、お願い。私のかわりに行ってくださらないかしら」
「いいですよ。早速《さつそく》、ぼくでお役に立つことなら」
――谷津省平は気軽に引き受けてくれた。
谷津はその夜、翔子と同じ「尖閣湾ホテル」に泊まることにして、チェックインをすませ、それから森山警部補に会いに行った。
5
「え? 睡眠薬の痕跡?」
「はい。微量ながら、バルビツール系睡眠薬の痕跡が、女性の胃内から発見されております」
「……ということは、女性は睡眠薬を飲んで、車を運転していた、ということになるんですか?」
「いえいえ。そうは断定してはおりません。前夜、服用した薬の残りが発見された、ということかもしれませんが」
森山警部補は、何となく口を濁した。
(そうだろうか……?)
谷津省平は、耳のうしろを掻いた。
彼が考え事をする時の、くせであった。
「たとえば、こうは考えられませんか。ある何者かが、運転を誤まらせて二人を崖から墜落させるため、ドライブにゆく前、あるいはドライブ中に、その女性運転者が飲むコーヒーか何かの飲みものに、あらかじめ睡眠薬を溶かし込んだ、というふうにですが」
「すると、事故は故意に仕組まれたもの。つまり、他殺だ、とおっしゃるのですか」
森山警部補が少し気色《けしき》ばんだ。
「少なくとも、その疑いがあるのではないでしょうか」
「なるほど、新聞記者らしい深読みですな」
森山警部補は、それから微笑を浮かべた。
腹はいいが、人が悪い男である。
「実は……私たちもそういう見地《けんち》をもふくめて、事故を再検討し、一応捜査をいたしております」
森山はぶっきらぼうに、そう言った。
「しかしそれよりも、正直に言いますと、不倫密会旅行の末に、運転していた女性のほうが無理心中を仕掛けたのではないか、という疑いのほうが、強いようですな」
「ほう、無理心中ですか。佐渡には情死の墓というのがあるそうですが、これも情死ではないかとおっしゃるのですか?」
「ええ。そうです」
森山は煙草に火をつけた。
二人は、佐渡金山跡につながる裏山がすぐ窓の外に見える取調室めいた応接室で、机をはさんで話していた。
「もろもろの情況を総合しますと、なんとなく、そんな気がしてなりません。まず第一に、男女とも配偶者がいました。まさに不倫です。この先、密会を重ねても、どうしようもない。第二に、男のほうは公金を横領して愛人と逃避行をしていた形跡があります。そうして流人《るにん》の島・佐渡まできて、もう旅路の果てだという終末観をもって、宿泊を重ねていた。そんな時、女のほうはえてして感情に走りやすく、山越えのドライブに出発する前、発作的《ほつさてき》に睡眠薬を飲んで、難所で居眠り運転をしながら、男を巻き添えにして安らかにあの世へ行こう――と、そう考えたとしても、いっこうに不思議ではありませんな」
なるほど、それも立派な見方である。
谷津は窓から青い空を見あげた。
「その公金横領ということについては、何か証拠でもあがったのですか?」
谷津は聞き返した。
「はい。これは奥さんにも報告したことですが、事故前夜、二人が投宿していたホテルの金庫の中に、手つかずの千二百万円の現金がはいっておりました。鶴田幸佑の勤務先の話によりますと、鶴田は公金を横領して出奔《しゆつぽん》し、二週間以上、消息不明だったという話じゃありませんか」
警察はもう会社に、電話を入れているようである。
それはともあれ、森山の話によると、事故前夜、二人が泊まったホテルは、両津市の加茂湖畔にある「加茂ホテル」というのだそうである。
ホテル側の話によると、二人はそこで二泊していることになっている。二人が乗っていた車はレンタカーで、両津港の近くの営業所から三日間の契約で借り出されていた。
なお、そのホテルの部屋には、現金のほかに女性の所持品とみられるスーツケースや衣類が残されていた。スーツケースには「船越加寿美」とネームカードがつけられていたので、鶴田翔子から聞いた船越加寿美と同一人物に間違いないと推定して、警察では今、その夫にも連絡をとっており、明日になると船越周太郎という夫が確認にくるはずだという。
もっとも、宿帳には変名が使われていて、鶴田幸佑、船越加寿美という記入ではなかった。内藤貞男、妻はつえ、となっており、東京の住所、電話番号も、警視庁に確認したところ、その住所は出たらめであることが、わかった。
森山警部補は、そういうことを説明した。
「ねえ、刑事さん。これを殺人事件とみて、二人が事故の前、この佐渡で誰か第三者に会っていた形跡があるかないか。島内での足どりはどうだったのか。当日朝の大佐渡スカイラインの車の走行状況や目撃者探しなど、もう一度、しっかり捜査していただけませんか」
「事故の背後に、何か、よほど気にかかることでもあるんですか?」
「ええ、ちょっと――」
「それは、どういうことでしょうね?」
「まだ、確信があるわけではないので、勘弁して下さい。しかし、何か仕事がらみで事情があるような気がして、ならないのです。捜査の進み具合によっては、私のほうも情報を提供いたしますよ」
といっても、谷津のほうに今すぐ、提供するような情報を掴んでいるわけでも、なんでもなかった。
いずれにしろ、事故か? 他殺か? 情死か……?
谷津は、翔子の夫の死に、単純な事故ではないものを感じていた。
しかし、警察としては、捜査をしてみて、犯罪の裏付けが得られなければ、事故か心中として処理し、永遠に捜査は行われなくなるわけであった。
谷津はこの森山警部補に、できるだけけしかけておこう、と思った。
「少なくとも、運転していた女性に、睡眠薬の薬理痕跡が発見された、というのは、普通じゃありませんよねえ、刑事さん。佐渡に上陸してからの彼らの足どりを徹底的に、捜査してみて下さい」
森山は煙草を灰皿に捻《ね》じ消しながら、
「はいはい、わかりました。私も多少、気にならんでもない。もう少し、捜査してみましょう」
森山警部補は、そう約束して立ちあがった。
「お願いします」
谷津はその日、相川署を出ると、自分でレンタカーを借り、大佐渡スカイラインを通り、事故現場を検《あらた》めてみた。
そうして両津市のホテルも確認してきた。
しかし、その両方とも、警察できいた以上のことは、わからなかった。
谷津が相川の「尖閣湾ホテル」に戻って、部屋に落着いたのは、その日の夜遅く、もう夕食さえ片付けられていた九時頃であった。
6
はじめは、気づかなかった。
谷津は、シャワーを浴びていたからである。
激しい水音の合い間に、ドアチャイムが鳴る音をきいたような気がして、ノズルを絞《しぼ》って湯を止め、谷津は浴室から出た。
もう一度、ドアチャイムが鳴った。
バスタオルで頭をごしごし拭きながら、
「どなた?」
ドアチェーンをはずした。
表からは、すぐには返事がなかった。
「どうぞ」
谷津は把手《とつて》を握って、ドアをあけた。
ホテルの従業員かと思っていると、そこに見知らぬ美しい女が立っていた。
見知らぬ女、と見えたのは、髪をアップにするでもなく、肩から胸へ梳《す》き流して、白っぽい夜化粧をして浴衣《ゆかた》をきた翔子が幽霊のように、立っていたからである。
幽霊のように、というのは少しオーバーだが、事実、翔子はどこやら魂を抜かれでもしたような、足許の定まらない立ち方をしていたのであった。
「なんだ、翔子さんじゃないか。どうしました?」
谷津は、自分がシャワーを浴びていた途中であったことに気づいて、あわてて身体を隠しながら、ドアをあけた。
「ごめんなさい。私、食事終えたんだけど、一人でお酒のんでいると、無性《むしよう》に淋しくなって、眠れそうになかったのよ」
「まだ、寝る時間でもない。報告もあります。どうぞ、はいって下さい」
谷津は翔子を窓際の椅子にかけさせておき、自分も急いでホテルの浴衣に袖を通して、冷蔵庫をあけた。
「飲みますか?」
「ええ、いただくわ」
「つまみはこんなものしかありませんよ」
谷津は冷蔵庫からウイスキーのミニボトルを取りだして水割りを作り、適当なつまみをとりだしてきて、翔子のむかいに坐った。
翔子は窓ガラスから放心したように、暗い海を見ていた。
ホテルの真下は、荒海である。尖閣湾にも近いので、波の音が荒く、どどーんと巌壁に打ちつけている。
眼下は見渡す限り、日本海なのであった。
暗い沖合いに、漁火《いさりび》が燃えていた。
翔子がやっと眼を戻し、
「警察では、何か新しいことでも?」
谷津は、報告しておこうと思った。
「ええ。ちょっと、意外な事実が判明してました」
谷津は、司法解剖によって女性の体内から若干の睡眠薬が発見され、事故ではなく情死か他殺の疑いもある、ということを話した。
「まあ、情死……?」
「とすれば、女のほうから持ちかけた無理心中。ご主人の胃内からは、睡眠薬は発見されていません」
「ひどい女だわ」
「いえ、情死と決まったわけではない。他殺かもしれません」
「まあ、他殺、……恐いわ」
そう言ったきり、翔子は絶句した。
谷津は水割りに口をつけ、翔子にもすすめた。
「ところで、船越加寿美とか言いましたか。ご主人の連れの女性。その女性について、何か思いあたることはありませんか」
翔子は少し、うつむいた。
「そういえば、谷津さんには話していませんでしたわね」
翔子は先週、加寿美の夫だという男の訪問を受け、熱海まで追跡旅行をしたことを話した。
翔子は詳しくは語らなかったが、船越周太郎というその男と、熱海で一夜を明かすうち、明らかに男女の拘《かか》わりが発生したことまで、言外に匂わせた。
谷津は少し、意外な気がした。その時、自分がその船越周太郎という男に、激しい嫉妬と憎しみを覚えたからである。
(おれさえまだ、触《さわ》ったことのない翔子を……)
そう思うと、胸がかっとして、喉《のど》が乾くのを覚えた。
谷津は水割りよりもあわててビールの栓を抜いて、グラスに傾けて飲んだ。
「すると、鶴田さんと加寿美という女が熱海に行ったことは、確かなんですね」
「確かだと思うわ。写真まであったから」
「長いんでしょうかね、その二人のつきあい」
「さあ、どうでしょう?」
翔子は、海に眼を投げた。
水割りのグラスをかなり早いピッチで重ねた。
「でも、変だわ」
翔子が不意に、ぶっちぎるように呟《つぶや》いた。
「何が……?」
「加寿美という女のことだけど……あの女は、男と心中するような弱い女じゃないような気がするのよ」
「何か確証でもあるんですか?」
「確証というより、印象だけど、彼女の夫から聞いた話では、相当な女という気がするわ。学生時代の恋人を療養所に入れて、自分で働いて養ったり、その仕事先で社長や重役の間にはいって、ばりばり働いていたような男まさりのキャリアウーマンが、どうしてなよなよと、男にもたれかかって、心中などをしようと考えるかしら?」
この佐渡には、江戸時代、流人《るにん》となって金山に売られてきた水替人夫と、相川の遊女の哀話が多い。結ばれなかったために情死の道を選んだ男女の話も、墓もある。
そういうものとはおよそ似つかわしくない、その対極に位置する女、とでも翔子は加寿美のことを、言いたいようである。
「そういえば、加寿美という女は、役員室秘書でしたね。つまり、企業の、かなりトップシークレットにも拘《かか》わっていたわけだ。その女と、入札課長が死んだ――うーん、誰かによって謀殺されたとすれば、これもまた見事に絵になる組み合わせだな」
言って、谷津は、翔子を眼の前において不謹慎なことを言っているぞ、とあわてて自分を叱った。
しかし、翔子にはあまり、きこえなかったようであった。翔子は宙の一点を見るように、窓ガラスから、暗い沖の漁火を見ていた。
谷津は水割りを作り直した。
「気つけ薬までに、もう少し、飲みなさいよ」
谷津は翔子を勇気づけたいと思った。しかし、さしあたりこれという言葉が思い浮かばない。
二十九歳の若さで、夫の急死に見舞われたばかりの翔子の現実を前にすると、通りいっぺんの励ましなど、絵空事になりそうであった。
「さて、会社がどう出るかだな」
谷津はだから逆に、劇でも見るように言った。
「え?」
「鶴田さんを出張中の出来事と認めて、仕事上の労災扱いにするか。それともプライベートな観光旅行だとして、切ってすてるか。興味深いですね」
「後者であるに決まっているわ」
「そうとも限らない。鶴田さんの死に、もし会社としては洩らしたくない何かの秘密があるとすれば、かえって丁重《ていちよう》に出張扱いにして、社葬でもだすかもしれませんよ」
「それどころか、公金横領犯として刑事告訴でもされるんじゃないかしら」
「さて、どうでしょうかね」
谷津は、自分が鶴田幸佑の死の推移を面白そうに、あるいは興味深そうに見ているような口調を取っていることを、片方ではひどくなじって、愧《は》じていた。
本当はそういうことではなく、鶴田幸佑の死を会社がどう取り扱うかにも、これからの謎を解く重要なポイントがある、と冷静に判断しているだけのことなのである。
「むなしすぎるわね」
それからしばらくたって、ポツン、と呟いた翔子の言葉に、谷津はえ、と顔をあげた。
「ああ、むなしすぎるといえば、むなしすぎますね。入札課長として、いわば会社を背負っていたエリート企業戦士が、何の魔がさしたのか、愛人と逃避旅行をした佐渡で、交通事故死するなんて、たしかにあっけないし、むなしすぎますよ」
(その上、その企業戦士が謀殺でもされたとしたら、もっとむなしすぎる……)
と、谷津が思った時、翔子の濡れた眸《ひとみ》がキラッと光って、
「ううん。主人のことじゃなく、私のことよ」
そう、さりげなく言った。「二十九歳で未亡人だなんて、あんまりだと思わない?」
見つめられて、谷津は少し、どぎまぎした。
翔子よりも年上のはずなのに、谷津はどちらかというと、そういう話は苦手《にがて》なのである。
「鶴田さんのことは突然、降って湧いたようなことなので、翔子さんの人生にとっては、文字どおり、交通事故みたいなものですよ。翔子さんはまだ若い。未亡人だなんて、そぐわないな。これからじゃありませんか。気をしっかり持たなくっちゃ」
「気はしっかり持ってるわよ。でも、なんだかむなしいのよ。波の音をきいていると、ふっと、吸い込まれてゆくような気がするわ」
「危ない、危ない」
「だって、私たちの結婚とか家庭とかって何だったんだろうと考えると、むなしくて、辛《つら》いんだもの」
翔子はそれから、先刻、一人で旅路の果ての波の音をきいていると、無性に淋しくて、やりきれなくて、物狂おしい気分をどうすることもできなかったんだ、と説明した。
「だって、そうでしょ。私、まだ三十にもなってないのに、未亡人になったのよ。それもただの未亡人ではない。公金横領犯の妻、という汚名《おめい》まで着せられそうなのよ。あたし、どうすればいいの!」
翔子は、かなり激しい口調でそう言った。
谷津は慰めようを、知らなかった。言葉は何を言っても、無力なような気がした。
谷津は、立ちあがった。翔子の後ろにまわって、肩に手を置いた。髪を撫でた。顔を谷津のほうに向かせ、無言で唇を寄せた。
翔子は唇を固く結んだまま、されるがままになっていた。
逃げはしなかった。それでも、震えているようであった。塩っぱい味がした。みると、翔子はしきりに涙を流していたのであった。
涙を流しながら、翔子は激しく接吻に応《こた》えてきた。二匹の鯉《こい》のように唇を求めあって重なり、その奥で鯉の尾びれのように閃《ひらめ》くものが二枚、つよく撥《は》ねあい、絡《から》みあい、生命の音をたてた。
ひとしきり、接吻を交わしあったあと、谷津は顔をはなし、髪を撫でながら言った。
「さ、もう少し飲んだら、寝ることです。何もかも忘れて寝れば、また元気がでてくるでしょう。翔子さん、これからは鶴田さんの分まで、しっかりしなくっちゃ」
「いやいや。私、まだ寝ないわ。ここにいさせて」
「ぼくはもう寝ますよ」
「寝てもいい。勝手になさい。私、もう少しここで飲みながら、波の音を聴いてるわ」
「じゃ、勝手になさい」
どれぐらい、眠っただろうか。
ベッドに入って、谷津はいつのまにか浅い眠りの中をさまよっていたようだ。
頬に触れた髪の気配で、眼をさました。寝る前に、枕許のスタンドは小さくしていたので、室内はほんのりと薄暗かった。
「だれ?」
と、きいて、ばかだな、とすぐに思いだした。
浴衣を着たまま翔子が傍に身体を横たえてきたのだとわかった。
「お願い。明かりはつけないで!」
さっきまで翔子が坐っていた窓際の三点セットの上の電気は消されていて、暗くなっていた。
「眠れなかったんですか?」
「ええ、隣に帰るのは、恐いのよ。お願い、ここにいさせて」
するり、と翔子の身体が毛布の中にすべりこんできた。ひんやりとした腕が、谷津の体に触れた。浴衣に包まれていないところは、足も手も、ひどく冷えていた。
谷津を一瞬、ためらいが見舞った。
本当はこういう時に未亡人となったばかりの翔子を抱いたりするのは、よくない。絶対に、よくない。
それぐらいの分別はある。翔子とはずっと、一線を越えないまま、相談相手になり、陰ながら助けていったりするほうが美しい人生の物語になるはずである。
そういう認識も、もっている。
そういう愛情もあっていい。
しかし、そういう躊《ため》らいや遠慮が、この場合の翔子にとって、いったい何になろうかという気持ちも、片方にはあった。
日本海の波の音が、底深く響くこういう夜は、荒々しく翔子を掠《さら》って、一緒に地獄に墜《お》ちたほうがいいのではないか。
いや、地獄に墜ちるのではない。いっそ肉体の業火《ごうか》で翔子の不安や淋しさを埋めてやり、救ってやったほうがいいのではないか。
谷津はしだいに、そう考えるようになった。
いや、谷津の中で激しい欲望が渦巻き、起こったのである。熱海で船越という男に翔子の身体が貪《むさぼ》られた、という話を思いだした時、谷津はかっとして、自分の両手で翔子を抱きしめなくてはいられなくなっていたのかもしれない。
谷津はその身体を抱いて、重なった。
唇を合わせにゆく。あえぎながら、翔子はこたえてきた。谷津は浴衣の襟の打ちあわせから、手をすべりこませ、胸の膨《ふく》らみをたしかめながら、そこを掴んだ。
お椀型の、ほどよい固締まりの乳房が手の中ではずんだ。肌は湿っている。揉《も》むと、翔子の口から高い声が洩れた。
「谷津さん、私を目茶苦茶にして」
谷津は翔子の胸の襟《えり》をくつろがせた。白い肌が現われた。翔子の胸は、姿よく隆起していて、仰臥《ぎようが》していても、裾《すそ》崩れをみせてはいなかった。雪のように白い乳房のまん中に、赤い実が色づいて慄《ふる》えており、谷津はそれをそっと口にふくみ、かたわら乳房をみっしりと揉みあげ、裾野から押しあげた。
「ああ……」
翔子があえやかな声を洩らした。
谷津は自分のあたまの中を、何かしら酔いに似た暗いものが占領していて、その暗い酔いに押し流されてゆくような勢いをつけて、翔子の帯を解き、抱きしめにいった。
谷津は乳房を吸いながら、手を下にのばした。さぐると、シルク地の薄もの一枚のハイレグ・ショーツの端から、やわらかな恥毛の穂先が指先にまつわりついてきた。
布きれの端をたぐり寄せて、谷間に指を入れた。指はじき、熱く湿っている部分に届いた。
うるみが湧きつづける。
「谷津さん……苦しいわ……脱がして」
谷津は浴衣の裾を一枚ずつ、左右にひらいた。白い脚がのびやかに現われた。薄明かりの下にもウエストから豊かな下腹部へのカーブと、そこにけむったように翳《かげ》っている恥丘が盛りあがっていて、そそる眺めだった。
谷津は、不意にいとおしさにかられて唇をあわせ、傍若無人に指をもう一度、派遣した。女の熱帯はうるみを増して、熱い蜜の花のようにあふれる感じになっていた。
「ああ……私ったら、どうかしてるわ」
鮎《あゆ》のように翔子の肢体が悶《もだ》えている。
肩は細かく震えているくらいだった。
「幸佑が……幸佑が……亡くなったばかりだというのに……!」
谷津は、浴衣を肩から脱がしてゆく。
腰骨のあたりにひっかかって、最後まで下半身をわずかに覆《おお》っていた浴衣の裾を、はらりと落としてしまうと、翔子の全景が現われ、そこはこみあげる禁悦への誘いと背徳の罪の意識と、恥じらいに顫《ふる》えているようであった。
谷津はもう、何も考えなかった。
みなぎった生命の赴《おもむ》きに委《まか》せた。
重なり、蜜の中に埋没していった時、翔子が鳥のように高い声をだしたのを聞いた。
緻密《ちみつ》に肉のつまった翔子の径《みち》は狭くて、窮屈なくらいであった。谷津自身がそこを押し分けながら、蹂躙《じゆうりん》してゆくにつれ、翔子は狭隘《きようあい》部をひくっひくっと締めつけ、両下肢をゆっくりと谷津の腰に、絡《から》めつけてくる。
女の宇宙に、力をこめる姿勢であった。
女の宇宙を、一人で生きてゆこうという姿勢であった。
谷津は、みっしりと動きはじめた。
「あ、あーっ」
翔子は小さな顎《あご》を上へ反《そ》らした。
本能の中で、何もかもを忘れてしまいたい、淋しさとむなしさをすべて叩きこんでしまいたい、という感じではあった。
それにしても谷津は、今夜、身体を投げかけてきた翔子の気持ちの仄暗い奥は、本当のところ、よくわからなかった。
翔子は公金横領犯の妻という汚名に耐えきれなくって、思いっきり、自分の身体を誰かにぶっつけ、汚してみたかったのかもしれない。
あるいは、ただ不安だったのかもしれない。
いずれにしろ、谷津にとっては、佐渡の果てにきて翔子と結ばれたことは、思いがけないことであった。
谷津はこれから、この翔子を全身で受けとめ、彼女を破滅させようとするものがいるとすれば、その得体のしれないものの力と戦ってゆかなければならない、と思った。
翔子は確実に、のぼりはじめていた。
窓外の怒濤《どとう》の音が、暗い夜空にとどろいていた。
第四章 複合する疑惑
1
大鵬建設の本社は、青山三丁目にある。
表通りに面して建っている八階建ての総ガラス張り、ハーフミラーのその本社ビルは、デザインの斬新《ざんしん》さと近代性、そして目を惹《ひ》く威容《いよう》において、大鵬建設が景気がよくて着実な業績をあげている企業であるばかりではなく、常に進取の気性《きしよう》に富んだ成長企業であることを物語っているようだ。
その朝、翔子が正面フロントを通って受付を訪れると、
「あ、鶴田課長の奥様ですね。斎藤営業部長がお待ちかねです。どうぞ、八階の応接間におあがり下さい」
受付嬢はエレベーターを指さした。
翔子が来社することを、斎藤部長は受付にまで通しているらしい。
翔子はエレベーターに乗って、八階のボタンを押した。
佐渡から東京に戻って、一週間が経つ。
佐渡ではあのあと、斎藤営業部長をはじめ、若手総務部員二人が駆けつけ、現地での火葬の手配から遺骨の引取り、東京での本葬まで、すべてを会社の人がやってくれた。
とくに葬儀は、大鵬建設の社長の鷲尾竜太郎|直々《じきじき》のお声がかりで、青山斎場で「社葬」ということになり、翔子は何もしないうちに、会社の人々によって幸佑は盛大に葬《ほうむ》ってもらったのであった。
翔子は今日は、そのお礼に来たところである。
応接室にはいると、斎藤部長が待っていた。
「やあ、奥さん。色々、大変でしたね」
慇懃《いんぎん》に、ねぎらいを言う。
「いえ、こちらこそ。会社の方に何もかもやっていただきまして、本当にありがとうございました」
深々と、頭を下げた。
「いや、形式的なことは抜きにしましょう。今日、来ていただいたのは、若干《じやつかん》の事務的手続きが残っているものですから」
そこにお坐り下さい、と翔子にソファを指さしてから、テーブルの端にのせていたものを、正面に差しだした。
のし紙のついた白い角封筒であった。
「これは、ほんのしるしですが」
斎藤部長は、紙包みを差しだしながら言う。
「何でございましょうか?」
「会社からの弔慰金《ちよういきん》、と考えて下さい。そう大袈裟《おおげさ》に考えるほどの、額ではありません。どうぞ受け取って下さい」
「でも、こういうものをいただくわけには参りません。主人は会社にもご迷惑をおかけしておりますのに、社葬までだしていただき、それだけでもう充分、喜んでいると思います」
「はい。それはそうですが――」
斎藤が少し、言いにくそうにした。
会社にご迷惑をおかけしましたのに、という翔子の言葉に少し、面映《おもはゆ》いものを感じて、当惑したのかもしれない。というのも、翔子は通り一遍の意味で「迷惑をかけた」といったのではなく、特別の思いと意味をこめて言ったつもりである。
両津の加茂ホテルに残されていた現金千二百万円は、鶴田幸佑が会社から持ちだしていた額とほぼ一致しており、鶴田幸佑は結局、公金横領犯だったのではないかという見方が定着し、その上、会社の美人秘書と駆け落ちした不名誉な入札課長、ということで、社内の見方は一致したのである。
しかし、会社はその公金横領の件を刑事告訴はしていないし、のみならず、社葬までだしてくれたので、翔子としてはそれ以上、お礼の言いようがないのであった。
「正直に申しまして……」
斎藤は眼鏡の端に手をかけてずりあげたあと、両手を前で揉みあわせて神妙な顔をした。
「ご主人に対する社内の空気は、まっ二つです。公金横領犯でありながら、丁重に社葬をだす。おかしいじゃないか、という空気も、ないではありません。しかし、この措置《そち》は一見、矛盾《むじゆん》しているようですが、私たちの考えでは、少しも矛盾はしておりません。公金に手をつけたといっても、ほんの出来心だったのでしょうし、現実に金は戻ってきた。まあ、大目にみてやろうじゃないか。それより、鶴田君のこれまでの、会社への功績やお父上の功績を考えれば、不幸にして事故死したことは、痛ましすぎる。ひとつ、みんなで葬ってご冥福《めいふく》を祈ろうじゃないか。――と、まあ、こういうわけなんです。従って、これもほんのおしるしですが」
そうまでして差しだされるものを、固辞するわけにはゆかない。
「そうですか。ありがとうございます」
翔子は恭々《うやうや》しく受けとることにした。
「それから、労災保険の手続きに必要な書類と、退職金のお支払いに必要な書類に、署名・ご捺印《なついん》をお願いしたいのですが」
斎藤部長は傍《かたわ》らから幾通かの書類をだした。
それは、まったくの事務的な手続きであった。
翔子が署名・捺印して書類をさしだし、最後に自動振込みのための麻布の銀行口座を教えると、それですべての事務手続きが完了したのであった。
「や、わざわざ、ありがとうございました。これからも何かご相談がありましたら、遠慮なく、この斎藤にお申しつけ下さい。会社としても、何なりとお力添えになりたいと思います」
斎藤は応接室の外まで、送りだした。
「何から何まで、ありがとうございました」
翔子はエレベーターが閉まってしまうまで、頭を下げつづけるしかない心境であった。
エレベーターが一階につき、翔子は外に歩きだした。
外に出て、ふっと立ち止まった。
会社ビルをふり仰いでみた。
いささかの感慨もあった。建設省を天下りして父が入社して以来、夫の幸佑まで十数年間という、少なからぬ縁があったはずの大鵬建設の会社ビルは、今、正午の陽に輝かしく聳《そび》えたっていて、翔子や通行人を冷たく見おろしている。
会社ビルというものは、定年退職した人の眼でみると、どこもそう見えるらしいが、そこもやはり男たちの人生と、血と汗を、無限に吸いとって肥え太ってゆく魔物のように見えた。
その日、翔子は銀座に出て、行きつけのデパートとブティックで幾つかの買い物をして、気分転換をした。しばらく行っていない並木通りの喫茶店でぼんやりとお茶を飲み、本屋をのぞき、午後三時ごろ、麻布に戻る地下鉄に乗った。
そうしてそういう午後の怠惰《たいだ》で移ろいやすい時間の流れの中に、ぼんやりと身を委《ゆだ》ねていると、熱海から佐渡につづいた衝撃の日々の記憶と、夫を喪《うしな》ったばかりという傷心が少しは癒《い》えかけ、でもそのために、かえって私は一人になったんだわ、という改めて自分を取り巻く孤独さと心細さを覚《おぼ》えて、やるせない思いがするのであった。
翔子は広尾駅で地下鉄を降り、地上に出た。
翔子の家は、そこから有栖川宮《ありすがわのみや》記念公園のほうに歩き、左手の坂をのぼった高台にある。翔子はその途中、公園の中に入って、遊歩道を高台のほうに歩いた。
有栖川宮記念公園には、春の光が溢《あふ》れていた。欅《けやき》、櫟《くぬぎ》はまだ芽吹いてはいないが、雑木《ぞうき》林の常緑樹は青々として葉裏をひるがえし、崖上から下の池にむかって、小川や滝の水が清冽《せいれつ》な音をたてている。
高台まできて翔子は、ベンチに腰をおろした。
これから一人で生きてゆかなければならないのだと思うと、さすがに淋しさがつのった。
でもそれは、谷津省平の顔を思いだすことで、少しは勇気づけられ、忘れることができた。
窓外に怒濤が打ちつける佐渡のホテルで、あの暗い夜、谷津に身を投げだしたことは、今考えても不思議な衝動だったが、でも、あれはあれで仕方がなかった、と思う。
あれしかあの夜の気分は、救いようがなかったのである。
翔子はひと休みしたところで、立ちあがり、ベンチをあとにして、公園の出口のほうへ歩きかけた。
ふっと、どこからか自分を見つめている視線を翔子は感じた。ふりかえった。
公園の木々の梢《こずえ》から木洩れ日が洩れ、広場で子供たちがボール蹴りをしながら歓声をあげており、どこにも、自分を見つめているらしい人影は見あたらなかった。
しかし、視線を戻して歩きかけると、やはり、どこからともなく自分を見つめているような視線を感じて、仕方がなかった。
(気のせいかしら。いやいや、そんなことはない。どこかから、誰かが、私を見ているわ……)
翔子は足早やに、家のほうに歩いた。
2
「ほう。谷津さんのご子息……?」
「はあ。建設省時代に父が色々、お世話になったそうで」
「お世話になったのは、こっちのほうさ。谷津さんは大先輩だったからね。しかし、きみもずい分、変わり者だねえ。政治家の息子が、早稲田大学の雄弁会あたりを出て新聞記者になって、その後また政界入りする、というのは珍しくないが、役人の息子が新聞記者になるなんて、あまり聞いたことがないなあ」
「はあ、デキがわるくてすみません」
「いやいや、そんな意味ではない。その仕事の性質上、官界と言論界じゃ、攻守ところをかえるわけで……」
谷津省平はその日、霞ケ関の一画にある建設省の一室にいた。彼の眼の前の大きな机に坐っている徳岡亀男は、火をつけたキャメル・マイルドを両手でもてあそびながら、
「ぼくもデキの悪いほうの役人かな。なかなか煙草がやめられなくてね。禁煙会議の折なんか、困ってるよ」
苦笑《にがわら》いした。
建設省建設局長としては、官僚臭のない男である。ざっくばらんな印象は、本省よりも地方建設局長あたりになったほうが恐《こわ》もてしそうで、最近の役人タイプには珍しい。
「ところで、東京湾横断道路はもう着々と進んでいるんでしょうね?」
谷津は取材というわけではないので、手帳はポケットに入れたまま、世間話をするように足を組んだ。
「うん。あれはきみ、本省ではなく、第三セクターで作った公団のほうの仕事だからね。ぼくは直接はタッチしとらんよ」
「しかし、ウオーター・フロント計画といわれる東京湾岸開発の、最大の目玉となるわけでしょうから、局長としても無関心ではいられないでしょう」
「もちろん、無関心ではないさ。全体を監督しなければならないし、各工区ごとの報告もきているし、許認可の権限もある。しかし、何ですな、日本人ってやつは、お祭りが好きですな。ここんところ、ディズニーランドからはじまって、みなと未来博、ベイ・ブリッジ、幕張メッセと、ウオーター・フロント祭りってやつが続いているようじゃないかね」
徳岡は世相を皮肉たっぷりに言った。
たしかにそうだと、谷津は同感しながら、苦笑する。
日本人は、プロジェクト人間なのかもしれない。そうして日本の経済体質も、プロジェクト経済体質というものをもっているようである。
東京オリンピック、万博、列島改造、リゾート開発、そうして今、首都圏を中心に経済関係者のすべての人が異口同音に唱《とな》えるのが、内需拡大の超目玉としてのウオーター・フロント計画である。
――佐渡で交通事故死した鶴田幸佑の事件の謎は、まだ解けてはいない。もし万一、あれが他殺だったら、という見方に立って現地の警察はまだひきつづき、捜査しているようだが、今のところ森山警部補からは、何の連絡もないし、谷津のほうにも、これという手掛かりがあるわけではなかった。
谷津は東京に戻ってこのところ、鶴田幸佑が失踪前に拘《かか》わったとみられるそのウオーター・フロント関係の入札と事業内容のことを、それとなく調べはじめているところであった。
東京湾コスモポリス構想は、総称してウオーター・フロント計画とよばれるが、総投資額五十五兆円もの巨大プロジェクトである。
首都・東京が高層ビルと車のラッシュと地価高騰でどうにもならなくなった時、眼をつけられたのが、まだ手つかずで残っていた東京湾である。海域面積約十二万ヘクタールもの広大な海洋スペースを、そのままにしておく手はないと、今、二十一世紀をめざしたさまざまなビッグプロジェクトが計画され、着工されつつあるのであった。
横浜ベイ・ブリッジ、マリーン・ユートピア計画、ディズニーランド近くのベイ・シティ、すでにオープンした幕張メッセ、などなど、数えあげたらきりがないほど、たくさんの企画が百花繚乱している。
なかでも、東京湾横断道路は、総工費一兆千五百億円。世界でもトップクラスの海洋工事であり、約八年の歳月をかけ、京浜《けいひん》、京葉両工業地帯を直結する世紀の夢の架け橋′v画である。
いわば、東京湾征服計画といってよいであろう。
そんなものを作っても、青函トンネルのように、あまり役に立たず、マンモスのような巨大な残骸をさらすだけになるのではないか。川崎と木更津を結んでも、一日の交通量とてたかが知れており、総投資額を回収することさえ難しいのではないか。東京湾の生態系を狂わせるのではないか……などなど、様々な批判がありながら、一昨年、あっという間に閣議決定され、実行に移されたのは、その計画が内需拡大、建設業界の需要喚起、産業界全般の活性化に、計りしれない効果をもたらすものであり、さらには、東京湾開発のシンボリック・プロジェクトとなって、つまりは、超目玉になりうるからであろう。
当然、建設各社が、その受注を狙っている。たくさんの工区が組まれ、たくさんの会社が請負《うけお》うだろう。鶴田幸佑が所属していた大鵬建設もまた、それを狙っていたことに論をまたない。
ところが、鶴田幸佑が拘《かか》わっていたのは、その東京湾横断道路そのものではなく、それを請負うための第一ステップとなるもう一つの、湾岸ビッグプロジェクトのほうであった。
それは、東京湾ベイ・シティ・ルネッサンス計画である。これは、隅田川が東京湾に注ぐ河口一帯の再開発計画である。
もともと、大川端とよばれていた下町だ。倉庫や工場街でもあった。そこを占有していた堀河島張摩跡地九ヘクタールや、永代橋周辺の旧財閥系企業三社の倉庫跡地など、隅田川デルタ最先端地帯から佃島《つくだじま》河口の東京湾岸一帯三百三十ヘクタールに、一兆円以上の事業費をかけて、二十一世紀をめざす商業文化施設を設《もう》け、高さ百二十メートルの超高層マンションを林立させようというものであった。
このうちの目玉工事の一つ、「セントラル・ルネッサンス・タワービル」と称される巨大な円型インテリジェント・タワービルの入札が昨年秋、おこなわれ、発注官庁である日本都市開発公団が、幾つかの工事に分けて、中堅建設会社十社を指名して入札を行ない、発注した。
この時、大鵬建設もその指名業者の指定をうけ、激しい受注合戦のすえ、その基幹部分を二百三十億円で落札し、請負うことに成功したのである。
ところが、この入札が「関東|翠明《すいめい》会」という談合機関を使っての「談合」ではなかったかという疑いがもたれ、噂によると、地検がひそかに内偵したのではないかというのである。
しかし、噂だけである。
確証はなかった。
谷津が地検特捜部にそれとなく聞いてみても、「へえッ、そんな噂があるのかね。どういう疑いがあったのか、教えてくれないかね」
と、煙に巻かれて、逆に質問される始末であった。
(これは、簡単には尻尾《しつぽ》をつかめそうにないぞ)
覚悟を決め直して、長期戦を覚悟で、谷津はいま外濠から攻めてゆこうと思っているところであった。
この徳岡建設局長に会っているのも、その追跡方法のひとつである。
監督する立場にある局長みずからが、そういう談合の有無《うむ》について語るはずもないが、雑談のはしばしに感じる表情というのは、あとになって役に立つ時もあるのであった。
谷津は徳岡の仲間入りをすることにして、煙草に一本、火をつけ、
「ところで、ベイ・シティ・ルネッサンスの受注合戦では、談合があったんじゃないかという噂をききましたが、何か聞いてらっしゃいませんか?」
「談合? ふーん、おだやかじゃないねえ。ぼくはきいていないが」
「各社の入札担当者の間で、かなり紛糾《ふんきゆう》して、最後は相当の談合金までが配《くば》られたそうですが」
「きみも意地が悪い。ぼくにそんな質問をしても、答えようもないだろ。あれはきみ、公明正大な入札の結果、大鵬建設が受注したんだよ。それはこの私が、保証する」
「結果的に公明正大な入札が行われたとしても、それは形式だけであって、それ以前に談合が行われていて、はじめからどこがどういう数字で請負うかが、決まっていたんじゃありませんか?」
「そんなことはないでしょう。私は各社の良識を信じてるよ」
徳岡は、表情ひとつ変えはしなかった。
「ところで、大鵬建設の入札課長が亡くなられたこと、ご存知ですか?」
「ああ、交通事故で亡くなられたそうですね。耳にしました。本省にもよく出入りの方だっただけに、痛ましいし、残念に思います」
徳岡はばかに丁寧《ていねい》な言葉遣いをした。
「今度のシティ・ルネッサンスのセンタービルの入札についても、人一倍、熱心だったそうですが、局長は個人的な面識はおありだったんですか?」
「面識という意味では、一、二度顔ぐらいあわせたことがあります。しかし、それ以上、個人的に親しかった、というほどではありませんな」
「大鵬はかなり無理したんじゃありませんかね。東京湾横断道路で目立つところを受注するために、どうしても実績を残したかった。そのために、どうしてもまずあのセンタービルで実績を残したかった。欲しかった。そういうことじゃないでしょうかね」
谷津は別の角度から、探りを入れた。
「そういうことは、業界の人に聞いて下さい。私どもとしては、その会社の実績、信用度、技術、熱意など総合的に判断して、事業を委《まか》せ得るに足ると判断してご一任するわけです。それはむろん、一般論ですがね。ぼくはあの公団の直接の責任者ではないですから、これ以上は何ともいえません」
「しかし、あの入札には、大鵬よりも大手のゼネコンがずらっと、顔をだしていました。大鵬は大手ではあるが、ゼネコン六社には及びません。つまり、その次のグループのトップクラスといったあたりで、かなり背伸びをしていたんじゃありませんか」
「そんなことはないでしょう。あの大鵬という会社は、すでに幾つもの公共事業を請負って、堂々たる実績を収めています。信用するに足る評価を、私どもでは持っておりますが」
「そうですか。しかし――」
谷津が言いかけた時、徳岡の卓上の電話が鳴りはじめた。
「失礼――」
徳岡は、その受話器を取りあげた。
何やら応答していたが、すぐに、
「はい。ただ今、資料を揃えてあがります」
受話器を置くと、谷津のほうに首を回し、
「や、失敬。国会会期中というのは、何かと忙しいもんでね。せっかくだが、次官に呼ばれているので、ぼくは失礼するよ」
3
――居酒屋は混んでいた。
「えッ? 雲の上の人……?」
谷津はビールを相手のグラスに注いだ。
「そんなに偉かったの、鶴田さんって?」
「いえ、そういう意味じゃなくって」
若い男がビールのグラスをぐっと飲み干した。
「ただ、そう呼ばれていた部屋があって、鶴田さんはそこに出入りしていた、という意味なんです」
大鵬建設の若手社員、香川武彦はそう言う。
雲の上というのは、青山の大鵬建設ビルの最上階に、社長室や役員室と並んで、秘密会議室があって、その会議室はふだんは使われていないが、大鵬建設が大きな公共事業やプロジェクトに取り組み、その入札にどうしても勝とうとする時、特別秘密プロジェクトチームが組まれ、その会議室が本部室となり、幾重にも秘書課員がガードして、一般社員は近づけない。
そういう部屋があった。
その会議室に出入りする人々のことを、大鵬建設の一般社員は「雲の上の人」と呼んでいるらしい。むろん、社長や専務、常務を中心としているから、それはそのまま、地位を形容する場合もあるが、しかし、なかには廊下トンビや資料集めなどをやる若手入札課員も出入りするから、必ずしも肩書きの上下のことではなく、「最上階組」といった意味あいである。
谷津に、そういうことを説明してくれる香川武彦は、大鵬建設の営業部員であった。
翔子の父、鶴田信三郎が建設省から天下りして大鵬建設にいたころの部下だったそうで、以前は麻布の翔子の家にもよく出入りしていたというので、谷津は翔子に紹介してもらい、今日の夕方、表参道の喫茶店で香川と落ちあい、居酒屋に誘ったのであった。
名目は、二人だけの鶴田さんを偲《しの》ぶ会=B故人を知るもの同士、軽く一杯飲みながら、鶴田幸佑の生前の社内での仕事ぶりや位置、どういう任務を受けもっていたかなどを、谷津はそれとなく聞きだしたいのである。
大鵬建設の社員である香川が、会社の内情を第三者にそうぺらぺらと喋《しやべ》るはずはない。しかし、佐渡で亡くなった鶴田幸佑とも少なからぬ縁があったそうだし、その死には疑問も感じているらしく、谷津が知りたいくらいのことは、酒が入るにつれて質問に応じてくれている。
「じゃ、今度も鶴田さんはその部屋で、秘密プロジェクトに取り組んでいたわけですか? 失踪する、ちょっと前まで」
「ええ、秘密というほどのものではありませんよ。シティ・ルネッサンスのセンタービル受注を皮切りに、ウオーター・フロント関連の目ぼしいところを、会社としてはどんどん請負いたいわけですからね」
「ウオーター・フロントといえば、どの工事についても、各社とも競争は熾烈《しれつ》だったわけでしょう?」
「ええ、そりゃ、そうですよ。目ぼしいところは、これからですからね。もっと厳《きび》しくなるでしょう」
「その中でも大鵬は、一番張り切っていたんじゃありませんか」
「ええ。うちあたりはすれすれの、一番しんどい会社ですからね」
「すれすれ、というのは?」
「一流ではあるが、超一流ではない。そのすれすれっていうあたりなので、このへんで何か派手な仕事をして、どうしても上のクラスにもぐりこみたい。そういう野望と焦《あせ》りをいつも持っていますからね」
香川が言う通り、建設会社といっても、大小さまざまであり、大鵬建設はその中で大手の一流ではあるが、超一流ではない。
何しろ、日本全国で五十二万社も会社がある膨大な業界が、建設業界である。これはダムや道路や橋やビルや団地やマンションなど、建設したり、建築したりする対象が多種多様で需要が旺盛な上、元請け、下請けの関係が他の産業とちがって、三次、四次へと重層的になっており、工事の種類によって、外注、下請け、電気空調などの設備工事下請け、技能工の労務下請けなどに分割されて、下請けからさらに孫請けへと系列化し、それぞれに中小建設会社が存在しているからである。
その中で、大手建設企業といわれるのが、一社でこうした下請けから孫請けを系列化した巨大な裾野《すその》をもつゼネラル・コントラクター、いわゆるゼネコンである。
よく知られるように、年間一兆円以上の工事高を常に誇る日本のトップゼネコンは、鹿川建設、大勢建設、熊山組、武中工務店、善松建設、それに大森組の六社しかない。なかでも鹿川、大勢、熊山の三社は、世界の建築業ランキングでも常にベストテンの上位に食い込み、日本全国の建設業山脈の王座に君臨しつづけている。
鷲尾竜太郎が取締役社長をする大鵬建設は、そのうち、大手ゼネコンになる手前の、中小建設の中では最大手ではあるが、しかしまだ超一流にはなれないというきわどい存在の建設会社である。
しかし、超一流会社がたいてい、戦前からその母体をもっていたのに対し、戦後の廃墟の中から、いわば零《ゼロ》から出発して、この日本の政治や企業構造のピラミッドの頂上部分にまでのしあがってきたという活力と自信と、そしてまだ既成ゼネコンにはまけないぞ、それに追いつき、追いこしてやるぞという野望と野心に燃えた会社である。
事実、大鵬建設は、その傘下《さんか》に十六もの子会社を擁している。鷲尾竜太郎はその総帥《そうすい》である。
社長の鷲尾は今年、六十八歳になる。しかしまだ、青年のような活力をみなぎらしている。彼の人生はそのまま、戦後の焼け跡から世界的な最尖端マンモス都市に発展した不死鳥のような東京および日本と、そこで成長した建設業界の歴史そのものを物語る、といっても過言ではない。
鷲尾は、九州の炭鉱地帯に生まれ、そこから一時間はかかる県庁所在地にあった旧制工業学校を出ると、まだ二十歳にもならない若さで地元の町で鷲尾建設という個人請負業の土建屋をはじめた。
建設会社の社長というのは、煎《せん》じつめると、「請負師」のことである。とくに企業の初発や、中小会社の頃は、その請負師としての才能が、会社の業種の九割方を決定する。
どこから、どういう仕事を取ってくるか。役場や県の公共土木工事をどう早く察知して根回しして、請負うか。そういう請負師としての彼の才能は、二十歳前の独立とともに発揮され、郷里時代にすでに町長や町会議員など、町のボスに取り入って、予算工事のあらかたを請負うまでにのしあがっていた。
しかし、戦争で召集され、終戦前、南方へ派遣された。復員後、日本の大都市がすべて空襲で焼けて壊滅状態であることを目撃し、これからの建設業は田舎《いなか》でくすぶっている時代ではない。廃墟の東京こそ、最高の戦場であり、最高の請負い場だ≠ニ見抜き、二十三、四歳の若さで、郷里の会社を整理した資金を懐《ふところ》に入れて、単身、上京し、建築と建設への彼のロマンと野心の舞台を、廃墟の東京に求めたのであった。
鷲尾の見込みと、野心はあたった。
荒川区内に鷲尾工務店を、次に鷲尾建設を旗揚げしてから、昭和四十八年のオイルショックの頃までの首都は、まさに戦後の復興期の弱肉強食の世界であった。請負師としての鷲尾の天性はそこでこそ水を得たように発揮され、資材の買占め、横流し、区のボスと組んでの公共工事の請負い、建設省など中央官庁への食い込み、違法手段を使ってのライバル業者の蹴落とし、どれもが彼の得意とするところであり、その当時、無法者たちとの出入りや暴力沙汰で負った刀傷や喧嘩傷が、肩や背中に幾つもあるといった具合で、よくも悪くも、日本の古いタイプの建設業界の帝王の見本といってよかった。
やがて首都に、そして日本に秩序が戻り、経済が安定期に入るにつれ、建設業界も近代経営がうたわれるようになった頃には、鷲尾建設は押しも押されもせぬ大手企業となっていて、大鵬建設と社名を改め、超一流とはいかぬが、そこそこ立派なゼネラル・コントラクターとして、業界の中核に地歩《ちほ》を占めるようになってきた。
「社長は、そういう人ですからね。いってみれば、田中角栄や小佐野《おさの》賢治の建設業界版みたいな人でしょ。それでいてまだ、現役の企業トップ。そりゃ、自分の生きている間に、東京湾に百二十階ビルでも建てて、押しも押されもせぬトップゼネコンにのしあがりたいんじゃありませんかね」
香川は、そんなふうに説明した。
ビールはいつのまにか、「雲海」のお湯割りになっていた。
表参道にしては珍しく、大衆的な居酒屋であった。もっとも造りはカフェバーふうで、若い男女で満杯であった。
肉や魚を焼く匂い、煙草の煙、アルコールの匂いと賑《にぎ》わいの中で、谷津はふっと、一人の巨人のごとき建設業界の風雲児の顔を思い描き、英雄伝説のドラマを見たような気分になった。
「そういう鷲尾社長に気に入られて、雲の上の人になっていたとするなら、鶴田幸佑さんは相当なエリートだったんだろうね」
「社長の腹心であり、企業の中枢にいたという意味では、エリートということだったんでしょうか。でも、鶴田さんの場合はちょっと、そのエリートという意味が違ってたと思うなあ。たとえば、汚れ役までやる人を、エリートというのでしょうかね?」
「汚れ役……? ほう」
「はっきり言って、談合屋とよばれる人たちがこの業界にはいるんですよ。各社に数人ずつ。社長直属、役員室直属。しかし、やっている仕事がやばい。鶴田さんもそういう人だったんですよね」
「なるほど、談合屋ねえ。談合そのものは、法律違反で、悪いことである。しかし、どう社会的批判を浴びようと、建設業界にとっては、共倒れを防ぎ、各社が健全に伸び、いい仕事をして社会に恩返しするために、談合は必要なものである、という意見が大勢を占めていることくらいは、ぼくにもわかるよ。しかし、そういう部署の、専門の人がいるとは、知らなかったなあ」
谷津は「雲海」のお湯割りを重ねた。
串焼きから刺身、ルイベ、シーフードサラダまで、何でも揃う居酒屋チェーンの流儀にならって、谷津と香川は若い者に劣らず、せっせと胃袋を充《み》たしながら、焼酎《しようちゆう》のお湯割りを重ねていた。
「ねえ、教えてくれないかな。談合屋って、どういうことをするの?」
「それは、勘弁して下さいよ。ぼくたちにはわからないことだし」
「でも一般的に、どういうことをするかぐらい、わかるでしょ」
「受注する工事担当者の接待、情報収集、各社との懇親や交流、根まわし、入札の準備、工事見積書の作成……もろもろですね」
「なるほど、もろもろあるわけか。そういえば、入札課というセクションをもっている会社は、少ないよね」
「少ないというより、うちだけで、ほかにはどこにもないと思いますよ」
これは谷津にとっては、意外な返事であった。建設会社で、入札課というものを設置している会社は、大鵬をのぞいて、まずどこにもないというのである。
建設会社というものはだいたい、官公庁からの公共事業の受注と、民間からの工事受注とを、二本柱にしている。
その比重は会社の歴史や営業方針によって違うが、たとえ六四、七三の割合で公共事業に大きく依存している会社であっても、入札や官公庁への根回しや営業は、すべて営業部、または営業課がやるのであって、入札課という独立した部署は、ないというのである。
それは、官公庁の側でも同じであって、各種工事の民間への発注は、すべて指名入札であり、その業務や手続きが煩雑だからといっても、「入札課」というものが特別にあるわけではなく、建設局や道路局や住宅局の、それぞれの部署の担当係官が、入札業務をやるわけであって、「入札課」という専門のセクションがないのと、同じであるという。
ほう、と谷津は思った。そのくせ、企業側には、談合マンと秘かに呼ばれる入札専門の社員や専門要員がいて、その部署らしいものが秘かに存在したりするという。
それなら、入札課があってもおかしくはない。それなのに、どこにもないというあたりに、かえって建設業界の伏魔殿《ふくまでん》ぶりをみるような思いがする。
その点、大鵬建設は堂々としているといえた。それだけ、官公庁が発注する公共事業への依存度が高いことと、またそれを次々に受注して、トップゼネコンにのしあがろうとする野心を内外に誇示《こじ》している、ともいえるわけであった。
「ほかにはない入札課に、入札課長か。すると、鶴田さんは大変、珍しい存在だったわけだ。――ところで、役員室秘書の船越加寿美さんっていう人も、相当な女性だったらしいね。鶴田さんと佐渡旅行をしていたなんて、社内では相当なゴシップになってるんじゃないの」
「そりゃ、大変ですよ。寄ると、その話ばっかり。でも、やっぱりそうだったのか、という空気のほうが強いですね。二人とも、雲の上の人だったし、目立つ存在だったから、不倫の組み合わせとしたら、まったくピッタシ、という感じがするんですよ」
「しかし、公金横領というのは、どうかな。鶴田さんって、そういうことをする人じゃなかったんでしょう?! また、そういうことをしなくても、金に困らなかったはずだけど」
「でも……人は見かけによらない、というのが社内の空気ですね。鶴田さんは社用族で、色々な金を動かしていましたから、それが習《なら》い性《せい》となって、ついそのうちの一部の金を、懐《ふところ》に入れて不倫旅行に出かけたんだろうっていう声が、大勢ですよ」
「しかしそれにしては、額が多すぎる。あなたは、どう思ってるんですか?」
「ぼくは、まさか、という気がします。信じられません。奥さんが可哀想すぎるし……」
香川は翔子の父、鶴田信三郎が建設省から天下りして役員室特別顧問という肩書きの下に、若干のスタッフをもって官庁対策などをやっていた頃の部下であり、鶴田幸佑の後輩でもあるので、翔子の立場に立って、考えてくれているようである。
もしかしたら、翔子に気があったのかもしれない。
「ところで、その鶴田さんと船越加寿美さんの密会旅行だけどね。何となく、ウオーター・フロント工事の入札の事後処理に関係があるような気がするんだけど、どうだろうか?」
「事後処理……?」
「ほら、談合金の分配とか、秘密の漏洩《ろうえい》を防ぐための工作とか」
「知りません。ぼくは」
香川は不意に、強い調子で否定した。
「しかし、シティ・ルネッサンスのセンタービル。かなりきわどい談合やったんじゃないかという噂があるけど、社内ではどう言ってるんだろう?」
「そりゃ、勘弁して下さいよ。そういうことがあったかどうかは、ぼくたちは知りませんよ。ぼくは今、別のダム工事の仕事をしてますから」
「ただの秘密談合なら、地検は動かないはずだけど、地検が内偵したという噂もある。とすると、どこかの社が密告したとか、大掛りな政治献金が行われたとか……そんな具合じゃなかったのかな?」
谷津は自分の推理を、ずかずかと言ってみた。香川があわててテーブルに身をのりだし、谷津にむかって牽制球を投げた。
「やめて下さいよ、そんな話。ここは居酒屋ですよ。だいいち、ぼくは知りませんし、社内でもそんな話は、出たことがありません」
「ガード、固いんだねえ」
「あたり前でしょ。ぼくだって、大鵬建設の模範社員ですから」
香川は少し苛立《いらだ》ち、憤然としたようであった。
それから間もなく、香川は腕時計をのぞき、
「あ、ぼく、これから六本木で大学時代の友達と待ち合わせてるんです。そろそろ、失礼していいでしょうか」
帰りがけに、鶴田さんの奥様にくれぐれもよろしくお伝え下さい、と言ったところを見ると、香川は翔子と、その父親への義理で、ほんの二時間ばかり、ていよく、谷津省平の話し相手になってくれたもようであった。
4
「ねえ、どうしたの?」
女は白い身体をくねらせるように、谷津にからみついてきた。
「なに考え事しているの? 今日は本当に、ヘン。先刻《さつき》から少しも元気がないじゃない」
「うん……何でもないけどね」
谷津は、ベッドに仰むけに寝ていた。
道玄坂の、ラブホテルの一室である。
女がその腰のあたりにかしずいて、熱心に愛撫してくれている。
ところがいまいち、谷津の尊厳は勇猛果敢さを、示しはしないのであった。
「ねえったら……どうしたのよう」
女は遠慮|会釈《えしやく》なしに、おなかを叩いた。
高木|美伽《みか》であった。美伽はお風呂からあがって、彼をふるいたたせようとして、テクニックを駆使しているのだが、はかばかしい成果があがらないので、幾分、じれったがって、身体を熱くして、苛立っているのであった。
「いったい、何考えてるの? 先刻から、何を訊《き》いても、うん、すん、ばかり。久しぶりの夜だというのに、つまんないわ」
ゆすりたてられて、ようやく谷津は腕を回して、
「あ、ごめん」
美伽を肩から抱いて、ベッドに押し伏せにかかった。
美伽が甘え声をあげて、仰むけになる。
谷津は美伽の上に覆いかぶさり、乳房を愛撫する。細身の身体の割に、その部分はずっしりした質量感があり、掌に粘りつくような感触が、彼の欲情を少しずつ呼び戻した。
「先刻は、ごめん。ちょっとおれ、考えごとをしていたもんでね」
「……考えごとって、なあに?」
「うん、鶴田さんのことさ」
「ああ、聞いたわ。佐渡で交通事故にあわれて亡くなられたんですってね。美伽たちも、びっくりしちゃったわ」
たちも、というのは、銀座のクラブ「舞姫」のホステスや従業員たちのことであろう。
「うん。それで、色々と気になって、調べてるんだけどね」
「どうして省平さんが、鶴田さんのことをそんなに気にするの?」
「学生時代、四年間も麻布の鶴田さんの家に下宿してたんだ。父同士が親友でね、身内同様にしてもらってたからね。そりゃ、気になるよ」
「でも、鶴田さんって、お婿《むこ》さんでしょ。そう恩義を感じることもないでしょうに」
「そういうわけには、ゆかないさ。鶴田さんちは、鶴田さんちだからね」
「あ、わかった。省平さん、もしかしたら、奥さんにホの字なのかな」
「そんなことはないよ」
谷津は一緒に並んで寝ている美伽の下腹部にいそいで手をまわし、ヘアをかき分けて、秘唇に指を這いこませた。
急いで手当てしたはずなのに、驚くべきことに、美伽のラビアは、ぬらぬらだった。秘毛が水辺に薙《な》ぎ倒されたように、へばりつく。
その性器のありようは、美伽が男と肌を合わせて一つベッドに寝そべってさえいれば、話をしていても、ひとりでに破廉恥《はれんち》に興奮する体質であることを、隠しようもなく現わしているようであった。
「ああ……いじらないで……そんなとこ」
美伽は身体を捩《ねじ》りながらも、秘洞の中の指をうごめかされると、くうと咽喉《のど》を鳴らし、恥骨をせりあげる。
若い身体は、刺激を受けるとすぐに反応して、じらされることに弱い体質なのかもしれない。
「ねえ、こんな生殺《なまごろ》し、いやよ。ちゃんと……」
「ちゃんと、どうするの?」
「指よりも、ねえ」
「うん。もうちょっと、美伽とお話したいんだ」
谷津は用心深く、ぬかるみから指を引きあげて、美伽の髪を触った。
「あのあと、鶴田さんのこと、担当の沙織《さおり》さんに聞いておいてくれた?」
美伽には先日、失踪した鶴田幸佑の行方について聞いておいてくれるよう頼んでおいたが、鶴田幸佑が佐渡であのような結果になった以上、その質問点は自《おの》ずと変わってくる。失踪前後の状況、というふうになるはずであった。
「それが、沙織ったら、変なのよ。あれ以来、お店を休んでて、掴まらないのよ」
沙織というのは、鶴田幸佑が接待で店を使う時、そのテーブルについていろいろと面倒をみていた売れっ子ホステスである。
「お店、休んでる? いつごろから」
「このあいだ、省平さんとベイ・シティ・ホテルに行ったでしょ。あの数日前から見なかったんだけど、それ以来、ずっと来ないのよ」
「へええ。じゃあもう、一週間以上になるじゃないか」
「ええ、そうなの。ママも心配してるみたい」
「変だな。どうしてなんだろう」
「さあ、知らないわ。ママに聞いたら、病気らしいと言うのよ。マンションにもいないから、田舎にでも帰ったのかな、ですって」
谷津は腹這って、煙草に火をつけた。
それから天井をむいて、考える。
沙織というホステスの失踪は、鶴田幸佑の失踪や死亡とどこかで、拘《かか》わっているのではあるまいか。
しかし、そうはいっても、確証はないし、まったく無関係かもしれなかった。
「あら、こんどは元気のまんまよ」
「まんま、とはどういうことだい?」
「みてみて、先刻《さつき》、私にエッチしたあたりから、凄《すご》くなってる。考えごとしてても、いっこうに変わらないわ」
美伽が再び、そこに顔を伏せてきた。
マニキュアをした指を雄渾《ゆうこん》な部分に添え、みなぎりきった頂点を唇にふくむ。含んで、吸ったり、舐《な》めたり、かなり奥まで呑《の》みこんだりする。
呑みこんで、頬張って、顔を上下にスライドさせた。
谷津はその環のような感覚に、呻《うめ》いた。
「上手《じようず》だね。どこで仕込まれたんだい?」
「あら、自己啓発よ。学習よ。これでも色々、ビデオみて勉強してるんだから」
「ソープでも通用するんじゃないのかな」
「失礼なこと、言わないで!」
もうしてやんない――と顔を離した拍子《ひようし》に、美伽は一瞬、妙な顔をした。あ、思いだしたわ、と言ったのである。
「何を思いだしたの?」
「沙織のことよ。先刻、言い忘れていたけど」
「うん? 何か?」
「あのね。私、省平さんに頼まれていたでしょ。だから沙織がいなかったので、他のホステスに鶴田さんのことや、沙織のことを聞いたのよ。そうしたら沙織ったら、失踪する前、妙なことを言ってたんですって。鶴田さんのおかげで、大迷惑してるわ。変な男たちに尾行されて、鶴田さんから預かったものをだせって脅迫されてるのよ=\―たしか、そんなことをぼやいていたそうなのよ」
鶴田幸佑から預かったもの?
それを狙って見知らぬ男たちが尾行したり、だせと脅《おど》したりしていた……?
これは少し聞きずてにならんぞ、と谷津はすぐに頭の中にインプットしておいた。
「ね……お話、これぐらいにしましょ」
美伽の瞳がきらめいた。
「もう考えごとをやめて」
美伽は首をねじ曲げて、谷津の顔を見あげた。精一杯、媚《こ》びを含んだその眼。汗ばみはじめた背中のねっとりした肌。乱れて肩にまとわりつく髪……。
どこを取っても、美伽はセクシーだった。
谷津はその気になってきた。
美伽を仰むけにする。
その拍子に、谷津は先刻、自分がいっこうに猛《たけ》らなかったことの理由を思いだした。
(そう、そう、そうだよ。鬱屈《うつくつ》としていた理由は決まってるじゃないか)
翔子の面影が、ちらつくのである。邪魔するのである。翔子へのこだわりが消えないのである。
しかしもう、それは考えないことにした。
男は多段階愛情動物であり、他段階目的動物である。
自信をもって、そう思うことにした。
翔子を愛しているにしても、その下の欲望構造部分で、いくらでも美伽を愛することができるし、もっと他の女でもいっぱい愛することができる。
それは人生を楽しくする思いつきのような気がした。
そのまま、美伽の白い両脚をひらかせた。谷津はその恥丘に顔を伏せた。草むらは濃《こ》く、一本一本の恥毛が、まん中の亀裂《きれつ》にむかって身を寄せあって、繁茂している。
その香ばしい匂いを嗅《か》ぎながら、恥毛を分けて、舌を浸《つ》けた。百合《ゆり》の芽《め》のあたりであった。芽を軽くそよがせたり、舌で薙《な》ぎ伏せたりするたびに、
「あっー」
美伽は鋭い声をあげた。
蜜の湧く谷間をすくい、愛液を百合の芽にペイントする。
切迫した声がつづいた。クレバスを分ける舌の往復がつづくうち、美伽は白いあごをみせて、髪をかきむしり、激しくのけぞりはじめていた。
「あたしを……狂わせないで……もう来て……お願い……」
食べたい時が、おいしい時である。
谷津はうねる下腹部をいじめぬくように賞味し終え、位置を直して、征服にむかった。
静かにあてがい、秘孔を訪問する。
美伽が眼をまわしたような表情をしながら、白い、しなやかな手をのばしてきて谷津の猛りの部分に指を添え、自らの生命の中に導き入れるのだった。
ふたつの生命同士が収まりあうと、美伽は声を洩らしながらも、走りだした。谷津はそれにこたえて励みながら、今夜中に美伽から聞いておくべき幾つかのことを、頭の中で整理していた。
5
――翌朝、眼を覚ましたのは、九時半である。
感心なことに、谷津はちゃんと吉祥寺のマンションに帰りついていた。
枕許《まくらもと》の電話が鳴りはじめたので、眼を覚ましたのである。
「はい、谷津ですが」
寝呆けたまなこで、受話器を取りあげると、
「相川の森山ですが」
――電話は何と、佐渡の森山警部補からであった。
「あッ……森山さん……その節は色々、お世話になりました。何か、情勢の変化でもあったのでしょうか?」
谷津はごそごそとベッドに起きあがった。
「変化というほどではありませんが、二、三、新しい事柄がわかりました。それをお知らせするかたがた、お願いしたいこともありまして、電話をした次第です」
森山とは帰京後も、相互に調査や捜査に進展があったら、連絡を取りあうことにしていたのである。
「はい、何か?」
「まず鶴田幸佑さんと船越加寿美さんの足跡についてですが、これまでのところ事故前夜、加茂ホテルに泊まったことまでが判明していましたが、それ以前のことが不明でした。やっと昨日になって、佐渡汽船の乗船者名簿を事故の前一週間分にさかのぼって洗い直した結果、あのおふたりは事故の前々日――つまり、四月六日の午後三時四十五分新潟発のカーフェリー〈大佐渡丸〉で、佐渡に来島されたことがわかりました」
森山がそういうことを報告した。
その洗い直しに時間がかかったのは、二人は島内でレンタカーを借りているので、警察ではてっきり車で来たのではなく、高速艇のジェットフォイルで渡航したとばかり思って、その分の乗船名簿の確認に重点をおいていたからであるらしい。
ところが、二人は車を持っていた。その車とともに佐渡に渡るため、大型カーフェリー〈大佐渡丸〉で来島したらしい、と森山は言うのであった。
「車を持っていたのに、佐渡ではまたレンタカーを借りている。変ですね。最初の車はどうしたのでしょう?」
谷津は疑問点を聞いた。
「ええ。そこですな、おかしいのは。カーフェリーに積んだ車は、種々の聞き込みの結果、メルセデス・ベンツと思われる黒の大型乗用車ということが判明しました。何しろ高級車なので記憶している乗務員がいたわけです。運転者は梨本《なしもと》忠義。これは乗船名簿に記入されています。鶴田幸佑と船越加寿美はどうやら、この梨本が運転する黒の乗用車で熱海なり東京方面から、新潟まできてそのまま、カーフェリーで佐渡に上陸したと思われます」
「すると、鶴田幸佑と船越加寿美は佐渡に上陸したあと、レンタカーを借りた。つまり、梨本という運転手とは、別行動を取ったわけですね」
「そう思われますな。ところが、この梨本という運転手の佐渡における足跡がわかりません。三人が乗ってきたカーフェリーは十八時五分、つまり夕方の六時すぎに両津に着いているのですが、梨本忠義の名前は、鶴田と加寿美が泊まった加茂ホテルにも、島内の目ぼしいホテルの宿泊者名簿にも、どこにも載《の》っていないんです」
「やはり、仮名を使ったわけじゃありませんか?」
「ええ、そうとしか考えられません。しかし、鶴田と加寿美は不倫密会旅行だったので、仮名を使う必要性もあったのでしょうが、この梨本にはそんなことをする必要があったのかどうか。あったとすれば、なぜそんなことをしたのか。そのへんが疑問ですな」
「だいたい、何者です? その梨本というのは」
「はい。そこです。こちらではさっぱり見当もつきません。で……何かついでのおりでいいのですが、鶴田幸佑や船越加寿美の周辺で、梨本忠義という人間がいるかどうか。それとなく、あたっておいていただけないでしょうか」
その梨本という男が、もし鶴田の会社の人間なら、森山は電話一本で確かめられるはずだが、肝心の不倫アベック交通事故死は、今のところまだ殺人事件として、正式に捜査しているわけではないので、森山としたら遠慮しているのかもしれない。
「わかりました」
谷津が返事をすると、
「あと一つ、お願いしたいのは、鶴田幸佑さんと船越加寿美さんの生前の写真。スナップでも何でも結構ですから、入手して送っていただけないでしょうか」
「写真を……?」
「ええ。島内での二人の立ちまわり先を洗っているんですが、なかなかはかどりません。やはり、写真か何かないと。本当なら、警視庁に照会して取り寄せるところですが、今のところ殺人事件というわけではないし、正式に依頼するのもどうかと思いましてね」
森山警部補は、通常の仕事もあるだろうに、ずい分、がんばっていることになる。
谷津はすぐにそれも引き受けた。
「すみませんね。あの奥さんに写真送れ、と頼むと、よけいな推測や不安を煽《あお》ることになると思い、谷津さん、あなたにお願いしているわけなんです」
「お安いご用です。警部補に頼りにされて、光栄です。ほかに何か進展、ありますか?」
「あ、そうそう。これは事故当事者たちと関係があるのかどうか知りませんが、鶴田幸佑さんらが泊まっていた加茂ホテルに同じ夜、単身旅行者で梅谷育子という名前の、東京の女性が宿泊してましてね。赤いコートなどを着て目立つ女だったようですが、この女性も事故当日以来、ぷっつり両津から消えていて、佐渡から新潟にむかう船の乗船名簿の、どこにも載っていないので、首をひねっているところです」
「最近は一人旅の女性というのも、そう珍しくないでしょう」
「ええ、たしかに。気ままな旅行者だと、両津《りようつ》からではなく、別に本土と佐渡とを結んでいる小木《おぎ》から直江津《なおえつ》か、赤泊《あかどまり》から寺泊《てらどまり》へ渡ったのかもしれませんな」
「きっと、そうに決まっていますよ」
「ええ……それはそうとしまして……ともかく、そんなわけでしてね。私のほうも折りをみながら、大型乗用車で来島したのに、鶴田と加寿美の二人はなぜ、別途、レンタカーを借りたのか。梨本なる運転者は何者で、その後、どこに消えたのか。鶴田と加寿美は事故にあう四月八日まで、島内のどこで、どうしていたのか。――今、そういう疑問点を洗っております」
「ご苦労さまです。じゃ、こちらも大至急、写真を入手がてら、梨本なる人間をあたってみます。わかりしだい、電話をします」
そう返事をして電話を置いた時、幾分、体内に残っていた二日酔いと女酔い気味の谷津の眠気は、完全に吹っとんでいた。
第五章 侵入者
1
その日の午後、鶴田|翔子《しようこ》は思いたって家を出た。
どこに行こうというあてはなかった。ひとりで家にいると、心が落着かなかった。気分を引きたてるため、春むきのラベンダー色のワンピースを着て、愛用の真紅のBMWを運転して、麻布から銀座にむかった。
もう四月中旬だというのに、桜が散ってしまったあとに花冷えと、薄曇りの日々がつづいて、今日も快晴というわけにはゆかない。
でも、街はきらきらと、眩《まぶ》しいくらいに光を返していた。その中で翔子の胸の中にだけ暗い闇が薄墨を塗ったようにわだかまっていて、翔子の心はいっこうに弾《はず》まない。
この一ヵ月の間、春の魔といっていいようなものが翔子を襲い、夫の失踪から、船越周太郎との熱海行き、そして佐渡からの凶報というぐあいに、暗転しつづけた出来事のすべてが、翔子には信じられないことばかりであった。
翔子には今でもまだ、何ひとつ分からない。結局、夫はなぜ佐渡なんかに行って、事故死したのか。加寿美《かすみ》という女となぜ、逃亡旅行などをしたのか。そのすべてが霧の中の出来事のように、翔子には真相がわからないのであった。
わかっていることは、何やら自分が突然、見えない手で四月の闇の中に引きずりこまれ、ふりまわされるうち、気がついたら夫を喪《うしな》って二十九歳で未亡人になっていた、ということだけであった。
今となってみると、亡くなった幸佑《こうすけ》までが、頼りない影のような存在だったように思える。六年間という結婚生活の年月があって、確かな夫だったと思っていた幸佑が、四月の闇に掠《さら》われてしまい、わけがわからない存在だったように思える。
結婚とは、そういうものなのだろうか。
信じていた実質というものは、こんなにもろくも崩れ去るものなのだろうか。
翔子は吐息をつき、首を振った。
信号は赤であった。
真紅のBMWは広尾から六本木のほうに走っていた。信号が青になって横断歩道を通りすぎながら、翔子は久しぶりに銀座の行きつけのブティックに寄ってみようと思った。
午後一時には、銀座に着いた。
デパート裏の駐車場ビルに車を乗り入れ、翔子はあるいてめざす店に行った。
みゆき通りの行きつけのブティックの女主人と、一時間ほどおしゃべりをした。夏の服を二着、オーダーした。
「このところ、イタリアン・ファッションが主流なんですよ。日本人もやっと本物の豊かさに気づくようになったんでしょうかねえ」
女主人が幾つかのマヌカンを指さした。イタリー製の贅沢《ぜいたく》で明るくて大胆なデザインと色調の服だけが、ばかに目についた。
「あのルチアーノ・ソプラーニなんか、いかがでしょう。ミラノ・コレクションでも一番、日本人むきのする落着いた色調ですが」
「まあ、すてき。でも、高そうね。私なんか手が出ないわ」
「あら、何をおっしゃいますか。鶴田さんの奥様が」
母の碧《みどり》の代から知っている女主人が、明るい調子で言ったあと、何かを思いだしたように、はっとした表情をみせた。
「あ、聞きました。そういえば奥様のほう、何か大変なご不幸があったそうですわね」
「ええ。ちょっと――」
第三者に改めて言われると、自分がまだ喪《も》に服して黒い服を着ていなければならない立場であることに気づき、翔子は居心地のわるい思いがした。
「ご主人が旅行先で交通事故に遭《あ》われたそうなんですってね。さぞ大変だったでしょう。お気持ち、お察しいたしますわ」
「ありがとう。そんなわけで……本当ならこんな時に、ふらふら服選びなんかに来ていてはいけないんでしょうけどねえ」
「いいえ。喪は心でするもの。こういう時こそ、かえって気晴らしをなさらなくっちゃあ」
「そう言っていただくと、助かるわ」
「さっきはルチアーノ・ソプラーニをお奨《すす》めしましたけど、今の奥様のお気持ちならいっそ、色彩の天才といわれるエンリコ・マッセイあたりの斬新《ざんしん》なもののほうが、いいかもしれませんわね」
女主人は、上手《じようず》にまた商売のほうに話をもってゆき、カラーコーディネイトの巨匠といわれるマッセイの服を、わざわざマヌカンからはずして携《たずさ》えてきた。
「ね、ご試着なさってごらんなさいよ。気分が、ぱっと晴れますわよ。保険金もずい分、はいると聞いておりますし、お洋服のお値段なんか、たいしたことございませんわよ」
翔子はいっとき、見開いた瞳を女主人の顔にまじまじとあてていた。自分がこれまで思いだしも、気づきもしなかった忘れものを、手品のように取り出してくれた女主人の言葉に、驚いたような表情であった。
(保険金……? ああ、そういえば、夫には受取人私名義の保険金が六千万円くらい、かけてあったわ)
翔子はこのところの、環境の激変に気を奪われていて、それさえも忘れていたのであった。
思い出して、幾分、茫然《ぼうぜん》とした気持ちのまま、ブティックの女主人に押し切られ、翔子はとうとう三着目のマッセイの服まで買い込む羽目になってしまった。
「ありがとうございました」
ブティックを出た翔子は、落ちついた感じの店を選んで喫茶店に入った。コーヒーを頼んで、ぼんやりと窓の外に眼を投げた。
(保険金、来週あたり、会社に手続きを取らなくちゃならないわ)
とりとめもなく、そんなことを思った。
(六千万円なんて大金、何に使おうかしら)
そう思った時、翔子の中を黒い不安が掠《かす》めた。
(もしかしたら幸佑は、誰かを受取人として、やはりそれぐらいの生命保険にでもはいっていたのじゃないかしら……?)
なんとなく、どきっとする思いつきであった。
そういえば、夫の交通事故には他殺の疑いがある、というニュアンスのことを谷津から報告を受けたことがあるが、あの捜査はどうなっているのだろうか。他殺だとすれば、誰かが保険金をかけて、狙ったということは考えられないだろうか。
翔子は窓ガラスの外の鋪道を流れる午後の人波を眺めながら、ぼんやりとそんなことを考えつづけた。
翔子が薬局とデパートと花屋に寄り、幾つかの買い物をして車で麻布の家に戻ったのは、午後四時であった。
2
家のまわりには夕暮れ前の陽射しが落ちていた。
翔子は裏のガレージに車をしまい、柊《ひいらぎ》と薔薇《ばら》の垣根の傍を通って、玄関のほうに歩いた。
キイをまわしてドアをあけた時、家の中で何かがカタン、と倒れる音がして、翔子は心臓がどきんとした。
「誰……? 誰かいるの?」
声をかけたが、家の中はしんとしていた。
家を出る時、戸締まりはしたはずなので、誰もはいっているはずはなかった。翔子はそれでもしばらく玄関のところに佇《たたず》み、様子を窺《うかが》い、家には誰もいないことに安心して、やっとショッピングバッグや買い物をしてきた荷物を、リビングまで運んだ。
荷物のうちの冷蔵庫に入れる必要のあるものだけを取りだして、キッチンのほうに歩こうとした時、それに気づいた。
いつのまにか見知らぬ男が三人も、部屋の中に立っていたのだ。
翔子はぎょっとして、後退《あとずさ》った。
「あなたたちは?」
翔子は退《さが》りつづけた。
三人は無言で、翔子ににじり寄った。
「鍵をかけていたはずなのに、どうしてはいったんです!」
「庭に面したサンルームのガラスに穴をあけて手を入れ、鍵をあけるぐらい、わけはないんでね」
まん中の若い男が、無表情にそう言った時、翔子は背中に冷たいものが、すべり落ちるのを感じた。
それでも、胸にかっと燃えあがった怒りの感情は、どうすることもできず、
「あなたたち、失礼よ! 勝手に人の家に入り込んでたむろするとは、どういうことですか!」
「おれたち、奥さんにちょっと聞きたいことがあってね」
右側に立っていた紺スーツの男が、窓のほうに歩きながらそう言い、しゅっとカーテンを引いた。
「聞きたいことって、何なんです」
「奥さん、ご主人から何か、預かっているもの、ありませんかね?」
その男の言葉つきは、物静かだったが、それだけにかえって不気味な雰囲気をもっていた。
「主人から……?」
「そうです。佐渡で亡くなられたご主人からです」
翔子は、あまり男たちを刺激しないほうがいいかもしれないと思い直し、
「どういうことでしょうね。ここは鶴田幸佑の家です。主人がもし何か大事なものを持っていたとしても、私に預けるとは限らないでしょ。自分でこの家のどこかに隠しておいたほうが早いでしょうに」
「違いない。おれたちもそう思って、家捜しをしたんだけどね。ないんだよ、どこにも」
「いったい、何がない、とおっしゃるんですか」
「それは、ま、言わないことにしよう。黒皮の書類ケースにセットされたある資料、ということ以外、おれたちも詳しいことは知らない。ルイ・カトーズの皮革ケースらしいけどね、知りませんか?」
ルイ・カトーズの黒皮の旅行鞄や書類ケースなどは、幸佑が好んで用いていたものである。しかし、言われるような、資料の入ったブリーフケースなど、翔子には思いだせない。
「そんなもの、私には記憶がありません。帰って下さい! 帰らなければ、警察を呼びますよ!」
「おっとどっこい。そういうわけにはゆかないんだよな。柳瀬、ドアの鍵、締めたか?」
一番後ろにいた男が、言った。
柳瀬とよばれた窓辺の男が、玄関のほうへドアの鍵を締めにいった。
翔子は不吉な予感がして、電話のほうに走った。
翔子の手が受話器を取りあげるよりも早く、紺色の背広の男の手が受話器を取りあげ、左手で翔子の腰を掴んだ。
「おとなしくしたほうがいいようだな、奥さん」
「これは、何の真似です。大声をあげますよ」
翔子は逆上して、叫んだ。
しかし、翔子の顎の下すれすれに、静かにナイフが垂直にきらめいていた。
「今も言っただろう。おれたちは奥さんに確かめたいことがあるんだ。静かにおれたちの言うことを聞くかい?」
「無体です。答える必要がありますか」
「答えなければ、もっとひどいことになるよ。奥さんの、この身体に聞くしかあるまいからね」
紺色の服の男は、しだいに牙を現わしてくる。男は後ろにまわって、翔子の乳房に手をまわし、こねあげようとした。
翔子はかっとして、やめて、と叫んだ。
首すじにナイフがあてられていた。
翔子の全身に、黒い戦慄が走った。
「やめて。警察を呼ぶわよ!」
「呼びたければ、呼べばいい。大方、もう手遅れだろうな。ここには奥さんと、おれたちしかいない。――さ、ご主人から預かったものは、どこにあるんだ? それをおとなしくだせば、あんたはいやなことをされなくてもすむんだぜ」
「知らないったら、知らないと言ってるでしょ。主人からは何も預かってはいません!」
「そんなことはないだろ。鶴田さんが九州に出張する、という名目で家を出る時、ちゃんと奥さんにルイ・カトーズの皮革ケースを預けていったはずだ。え、それをだしてもらおうじゃないか!」
「何と言われようと、知りません!」
「ほう。そうかい」
男の腕に力がはいった。
「ふん、尋常なことでは白状しないと見えるな。韮崎《にらさき》、おれがあそこに運ぶから、おまえ、やれ」
「へへッ、松村さん、うれしいね」
「あまり下品な顔をするな」
松村さん、と呼ばれた男が、そんなことを言いながら、翔子の身体に手をまわしたまま、奥の寝室にひきずってゆこうとした。
「やめて! 何をするの!」
翔子は暴《あば》れたが、男は二人掛かりになった。
韮崎までが腰に手をまわしてきたのである。
「へへッ。たまんねえ身体をしてるぜ」
韮崎が笑った。
翔子たちの夫婦の寝室は二階だが、一階にも父たちが使っていた寝室があった。今は使われてはいないが、それはそのままになっていた。
翔子はそのベッドに押し倒された。
ワンピースの裾《すそ》がひるがえった。
あまりのなりゆきに、翔子は悲鳴をあげた。
「止《や》めてください。人を呼びますよ!」
身を防ぐように、うつ伏せになった瞬間、背中のファスナーの止め口が、ナイフでしゅっと裂かれ、ファスナーが臀部《でんぶ》の近くまでおろされた。身をよじった。そのはずみに服が裂ける音が響いて、ワンピースの布きれはむしられていた。
翔子は、なすすべがない。
二人がかりである。
「ひどい! なんてことするの!」
枕許にまわった男が、翔子の髪を掴んだ。指先でくるくる巻かれた部分が、ナイフで切りとられた。それが翔子の乳房の上に無造作に、落とされた。
恐怖が翔子の全身を貫いてはしった。
「そうだよ。おとなしくしたほうがいい。髪を剃られるぐらいならいいが、もっと別の場所を剃ってやろうか。いや、ぶっこんだあとに剃ったほうが、楽しみがふえるかな。韮崎、やれ」
露骨なことを言いつのる男たちの傍若無人《ぼうじやくぶじん》なふるまいに、職業的な慣れを感じて、翔子は身を固くした。
(何者だろう? この男たち――)
胸に黒い炎が揺れて、呪《のろ》うように思った。
「さあ、今なら、まだ助かるよ、奥さん。どうだい、鶴田さんから預かったもの、どこにあるか、教えてくれないかね」
「知りません! 舌を噛むわよ」
「ふん、強情《ごうじよう》な女だな。やるっきゃないか」
楽しむように言う韮崎の手は、翔子の全身に這い、股間にものびてくる。
ワンピースの裾がめくれ、翔子の恥部が空気にさらされるのを感じた。
男の手は遠慮なく、パンティの下に伸びていた。いやっ、と身をひねったはずみにパンティが丸められて、足の先まで引きずりおろされていた。
「誰か……誰か、助けてえ!」
叫んだ。だが、一瞬後にはその口にパンティが丸めて押しこまれていた。うぐっと、翔子は首を振って、吐きだした。
吐きだしはしたが、翔子の頭の中は、熱を帯びた赤い靄《もや》がたちこめたような状態になっていた。
翔子には今、自分の身に起きていることのすべてが、現実のものだとは思えなかった。現実だとすれば、あまりにもひどいし、不条理すぎると思った。
(幸佑! ……幸佑……! いったいあなたは、どこに何を隠しているというのよ!)
翔子の頭の中で、赤い靄が渦を巻いていた。
男の指が遠慮なく恥毛のあたりを這いまわり、秘唇にくぐりこんでくる。
女芯をいたぶられた時、ひッと声が洩れた。
「お願い! もうやめて!」
最後の力で、身をよじった。太腿をぱっと割られた。韮崎がむりやり両下肢の間に、入ってこようとした。
「やめて。それだけは、お願い!」
翔子は全身、屈辱《くつじよく》の火に染めて暴れ、太腿を閉じた。男の唸《うな》り声がきこえて、頬を殴られた。拳骨だった。悲鳴があがった。
翔子は思いきり悲鳴をあげることで、今のこの状況の屈辱を吐きだそうとして、近所に聞こえても聞こえなくてもいい、助けを呼んだ。
3
谷津《やづ》省平は、ふっと足を止めた。
麻布の翔子の家の前である。
谷津は、佐渡・相川署の森山警部補から頼まれていた鶴田幸佑の生前のスナップ写真を借りるために、久々に麻布の家を訪問したところであった。
近所に響くほどではないが、何とはなしに、異様な気配《けはい》が伝わってくる。女の悲鳴とも、呻《うめ》きともつかないものを聞いた、と思ったのは、気のせいだろうか。
玄関のドアは、鍵がかかっていた。
ブザーを押した。しばらく、返事がなかった。
谷津は二度、三度、ブザーを押した。
屋内の気配がぴたっと、止まり、鳴りをひそめた、という秘めやかな感じが伝わってきた。
谷津は異常を感じ、足音をたてずに裏にまわった。勝手口のドアをあけて、庭にはいった。芝生と植込みのある庭を通って、サンルームふうの裏の縁側に取りつくと、レースのカーテンの引かれたガラス越しに、屋内の様子がちらと見えた。
翔子らしい女が、ガウンを肩から着せられて、二人の男に付き添われ、玄関のほうに歩いてゆく姿が、ちらと垣間見《かいまみ》えたのである。
翔子は病気で寝ていたようにも見えるし、何かしら、得体のしれない連中に監視されながら、客の応対に玄関まで、連行されている、というふうにもみえたのであった。
(ただ事ではないな……)
谷津はガラス戸に手をかけた。意外にもそこには鍵はかかっていなかった。すべるように開いた。まん中まで引かれたレースのカーテンを、そっとめくって室内に入り、廊下の陰に身をひそめた。
「何だ。誰もいやしないじゃねえか」
玄関のほうで、男たちの声が響いた。
「ちぇッ、驚かせやがる」
「電気の検針か何かだったんだろう。韮崎、ぐずぐずしてると危《やば》い、早いとこ、この女に、吐かしちまえ」
そんな会話がきこえて、翔子がまた引きたてられ、どやどやと足音が乱れて、奥の寝室のほうになだれこんでゆく。
「やめて……助けて!」
その間にも、翔子の悲鳴が混っていた。
(もう、間違いないようだな……)
正体はわからないが、侵入者のようである。
谷津はキッチンのあたりを物色し、手頃な武器になりそうなものを探した。日曜大工の道具入れの中に、やや長めのスパナがあったのでそれを掴み、谷津は足音を殺して寝室にむかった。
目撃した光景は、予想通りであった。
予想通りではあるが、胸が痛む光景であった。
翔子がベッドの上に押し倒され、男がのしかかろうとしている。
抗う手足が、白く閃《ひらめ》いていた。
谷津はその入口に立ち、
「何者だ! きみたちは!」
大きな怒声を放った。
振り返った男は、三人である。二人がベッドの傍らから、一人が翔子の身体の上から、いずれも驚愕した表情を貼りつかせ、やッ、と奇声を洩らし、
「て、てめえ、何だ!」
一人が翔子の肩から手をはなして、谷津の正面に来た。
「谷津さん! 助けて! この人たち、私を……私を……!」
「何者だ! きみたちは!」
眼前の男が白い光を閃めかせて谷津の身体に体当たりしてくるよりも早く、谷津は身を躱《かわ》しざま、男の側頭部にスパナを叩きつけていた。
男は呻《うめ》いて、よろめいた。
二人が飛びかかってきた。
その二人にも谷津は、スパナをふりあげ、一人の顔面に横からはたきつけ、もう一人の男の側頭部にも叩きつけた。
二人とも足をもつれさせて、吹っとんだ。ズボンをおろしかけるというぶざまな恰好をしていたからである。
「危《やば》い。退け、退け!」
最初の男が下知《げじ》して逃げだし、あとの二人がつづいた。
「きさまら、待て!」
追おうとした谷津に、
「いいのよ。ほっときなさい!」
翔子が見るのも穢《けが》らわしい、思いだすのもいやだ、というふうに怒りのこもった鋭い声をかけた。
三十分後、リビングに重い沈黙が落ちていた。
「あいつら、何者だったんです?」
谷津はコーヒー茶碗をスプーンで掻きまわしながら、聞いた。
着更えてきた翔子は、服こそ直しているが、髪を顔に乱れさせたまま、傷心のショックから立ち直ろうとして、恥ずかしそうにうつむいていた。
まだ心持ち、動悸が鎮《しず》まっていないようである。
「それが、私にもわからないのよ。買い物から帰ってきたら、あの連中が家の中に入っていて、突然、主人から預かっていたものをだせ、と言うんですもの……」
翔子はやっと、そう答えた。谷津が淹《い》れたインスタントコーヒーに、思いだしたように手をのばした。
「ご主人から預かっていたもの?」
「ええ。幸佑が私に何か預けていたはずだと、そういうのよ」
「何か、預かっていたんですか?」
「いいえ、思いださないわ」
ほう、と谷津はコーヒーカップを宙に止めた。
(鶴田幸佑が妻に預けていたものを探しにきた……?)
胸に、そう呟《つぶや》いた時、谷津はゆうべ、美伽《みか》からきいた話を思いだしていた。それは、同僚の沙織が、
「鶴田さんとつきあったおかげで、いい迷惑をこうむってるわ。鶴田さんから預かったものはないか、といって変な男たちにつけまわされているのよ」
たしか、そう言っていた、と話していたではないか。
(預かったもの、あるいは預けられたもの、というのは、何だろう?)
谷津は、考えをめぐらした。すぐには、思いつかなかった。いずれにしろ、鶴田幸佑が、失踪する前、あるいは事故死する前、何か大事なものを、妻か誰かに預けていた、と考えて、間違いないようである。
そうしてそれは、人眼に晒《さら》されてはまずい、と考える立場の人々がいて、それを取り戻すために、さっきの無法者たちが使嗾《しそう》されている、とみてよいようである。
もしかしたら、鶴田幸佑はそういうものの存在と隠蔽《いんぺい》のためにこそ、交通事故を偽装されて、殺されたのではあるまいか……?
谷津は、そういうことを考えた。
「翔子さん。もしかしたら、鶴田さんは本当にこの家に何かを隠していたのかもしれない。気をつけて、探してみるといいですね」
「ええ。探してみるわ」
翔子は、自分の指先に視線を落として、力なく答えた。先刻の出来事でショックを受けて、まだ立ち直れないようであった。
「どうしたんです。元気をだしてくださいよ。さっきみたいなことは、たかが野良犬に吠えつかれた、と思えばいい」
谷津は翔子を励ましながら、そもそも自分が麻布を訪れてきた目的を思いだし、鶴田幸佑のスナップ写真を借りたい、と言った。
「写真……? 何に使うの?」
「実は、佐渡の森山警部補がね」
――谷津は、それをほしいと言っている森山の要請をありのまま、伝えた。
「やはり、殺人の疑いがある、とみて、捜査していらっしゃるのかしら?」
「まだ断定はできませんが、森山警部補はやる気のようですね」
「それだったら、主人のスナップ写真もおだししますが、それより、もっといい写真があるはずよ」
「ほう。どんな?」
翔子は、船越周太郎と熱海にゆく時、彼から見せられた幸佑と加寿美の幾枚かの密会場面の写真があったことを話した。
「ね、それのほうが二人、揃っているし、いかにも密会旅行という感じが出ていて、佐渡で目撃者探しをするにも、うってつけじゃないかしら」
谷津は、これまで事件の冒頭から翔子の話に出てきた船越周太郎という男とは、彼が加寿美の遺体確認のために訪れていた佐渡の警察で、すれちがったことがある。しかしまだゆっくり話したことはない。ちょうど、いい機会だからその写真を借りにゆくついでに、会っていろいろ話しあってみよう、と思った。
その日、谷津が翔子から幸佑の写真を借り、励ましを言って立ちあがろうとしたのは、夕方の七時頃である。
外はもう、昏《く》れかかっていた。玄関のドアをあけて、送りだそうとしていた翔子が、
「待って――」
思いつめたような顔をむけた。
「私、一人では、何だか怖い気がするの。先刻の連中、まだそのへんをうろついていて、また来るかもしれない。ねえ、今夜はうちに泊まっていってくださらないかしら?」
見つめた黒い瞳の奥に、縋《すが》るような光が宿っていた。
「しかし、そんなわけにはゆきませんよ。まだ鶴田さんが亡くなられて、間もないことだし……」
谷津は、尖閣湾の夜と波の音を思いだして、かえって、身を退《ひ》くように冷静になろうとしていた。あれは、旅先だったが、今は東京の日常性の中に戻ってきているのだ。
「ううん。変な意味じゃないのよ。谷津さんなら、下宿していたので、勝手は知っているし、お部屋はいっぱい空《あ》いているし、今夜だけでも、泊まっていただけると、心強いんだけど……」
たしかに、押し入った暴漢たちの存在は、無視できない。まだ近くをうろついていて、様子を窺《うかが》っているかもしれないし、翔子の心細さも、わからないではなかった。
「じゃ、大学時代の下宿生活を思いだして、今夜だけ用心棒として、泊まってみますか。吉祥寺のマンションに帰っても、どうせ、ぼくは一人暮らしなんだし……」
――その夜、谷津は結局、麻布の家に泊まることになった。あてがわれた部屋は、一階のゲストルームであった。食事がすむと、翔子は早々と二階の寝室にいって、傷心の身体を横たえたようであった。
さいわい、その夜は、何事もなかった。
谷津は朝まで、ぐっすりと眠った。
4
「行ってらっしゃい」
――谷津を新聞社に送りだすと、急に家の中が、がらんと広くなって、淋しいくらいだった。
翔子は、昨日のことがあったので、家にいる時は戸締まりに気をつけようと思った。でも、いくら気をつけても、心は安まらなかった。
ひどい顔――。
ドレッサーに映《うつ》った自分の顔を見つめて、翔子はひとり言を言った。谷津が泊まってくれたので、朝もそれ相当に顔は整《ととの》えたつもりだが、髪をあたって、肌にローションを塗っただけで、化粧らしい化粧はしてなかった。
昨日のことがあってから、心なし顔の膚《はだ》はかさかさに乾いたようだし、眼尻に小皺《こじわ》までが一本か二本、確実にふえたような気がする。
ひどすぎる――。
翔子はドレッサーの前の丸椅子に坐って、一本二万円を超えるフランス製のファウンデーションの、ケーキのような壜《びん》を取りあげた。
ふたを外《はず》し、化粧をしながら、
(何のための化粧?)
ふと、そんな声を胸の中に聞いたりしていた。夫が亡くなって、未亡人になったというのに、お化粧をして、どうしようというのだろう。
一生懸命、おめかしをして、きれいなお洋服を着て、いそいそと新しい男を待ち受けようというのだろうか。
翔子は、そんな自分が、いやらしく思えた。
不思議に、谷津への肌なつかしさが消えている。
谷津に対して今あるものは、身近かな親しさと、頼りになってほしい、という気持ちだけであった。
でもこの先、またどうなるかは自分でもわからない。
今夜、谷津がこの家に戻ってくるかどうかさえも、わからないのであった。
翔子は二階の窓辺へ行って、カーテンをあけた。
明るい陽光が部屋の中へ流れこんだ。
不審人物がいるかどうかを探すように、窓から家のまわりを観察した。あやしい人影というものは、今のところ見あたらなかった。
都の清掃車が塵埃《ごみ》集めにくる曜日のせいか、角地《かどち》の電柱の下で、黒いビニール袋を持ち寄った近所の主婦が三、四人かたまって、立話をしていた。
時折、翔子の家のほうを見あげている顔もあった。
きっと噂をしてるんだわ――。
翔子はあまりいい気持ちは、しなかった。幸佑の失踪と佐渡での急死は、ふだん、あまり人の噂話をしない中産階級の人々が住むこの界隈《かいわい》でも、相当な話題となったようである。
鶴田さんところのご主人、美人秘書をつれて熱海に蒸発してたそうよ。
そのあげくに、佐渡で交通事故ですって。
いえいえ、心中という噂もあるわ。
どうしたんでしょうねえ、いったい。
もしかしたら、誰かが殺したんじゃないの。ほらほら、奥さんか誰かが保険金をかけて殺すってことが、世の中によくあるでしょう。
そうかしらねえ。でも会社のほうの仕事で、何か大変だったみたいよ。お葬式も、だから、会社でやったそうじゃないの。
でも奥さん、可哀想にねえ。あの若い身空で……。
なに言ってるの。鶴田さんの奥さんなら、大丈夫よ。もうちゃんと愛人を引きこんで、淋しい思いをしないようにしてるんだから……。
翔子は窓から顔をはなして、カーテンを引いた。
気のせいか、そんな主婦たちの話し声ばかりが幻聴のように、耳の奥でこだましつづけた。
食欲はなかった。
翔子は掃除に取りかかった。そのついでに、昨日、侵入者たちが言っていたルイ・カトーズの黒皮書類ケースというものを捜してみよう、と思った。
幸佑の書斎は、見るも無残なありさまだった。本棚や机の上や抽出《ひきだ》しが引っかきまわされ、昨日の侵入者たちが家捜しした痕跡が、歴然と残っていた。
憤然としながら、その整理に取りかかった。
書斎には見当たるはずもなかった。二階から一階へと、翔子は幸佑が隠しものをしそうなところを探していった。
だが、どこからもルイ・カトーズのケースは見つからなかった。いい加減、疲れて溜息をついた時、リビングのほうで電話が鳴りだしていた。
「はい、鶴田ですが」
受話器を取りあげたが、すぐには相手は声を返してはこなかった。
無言の電話を不審に思い、
「もしもし……」
翔子が声をかけると、
「やあ、奥さんかい」
聞き憶えのある声であった。
「ルイ・カトーズは見つかったかい?」
昨日の侵入者の一人だ、と気づき、
「そんなものはないと言ってるでしょ。いい加減にしてちょうだい!」
喧嘩腰でいって、翔子が電話を切ろうとすると、
「あるはずなんだよな、おたくにな。しっかり探しておくんだ。またお邪魔する。そのときはルイ・カトーズと、昨日棚上げされたままのもの、一緒にいただくことにするから、ちゃんと身体を洗っておくんだ」
男は人を喰ったようなことを言った。
(失礼ねッ!)
翔子が、目の前にまっ赤に燃える怒りの火球《かきゆう》のようなものを感じて逆上した時、ぷっつん、と電話はむこうから切られた。
5
月島建設コンサルタント事務所は、四谷の東信ビルの六階にあった。ロビーで待つこと三十分、受付嬢に案内された船越周太郎が、ようやく谷津の前に現われた。
「船越ですが、私に何か……」
薄いタートルネックのセーターに、背広をひっかけたラフなスタイルで、長髪が額《ひたい》に乱れかかるのを、華奢《きやしや》な指先で掻きあげながら、ものを言う。
設計事務所で、仕事中だったようである。
谷津は、名刺を差しだした。
「佐渡ではすれちがいでしたが、一度、お顔だけは拝見しましたね」
「あ、そういえば、あなたもお見えになっていましたね。鶴田さんとは、どういうご関係で?」
「あの奥さんの後見人、というところでしょうかね」
「後見人?」
船越は不審げな顔をした。
「ええ、ちょっとしたご縁で。――ところで、あなたのほうも、奥さん、大変でしたね。それについて、お話があります。ちょっと、お時間、取っていただいてよろしいでしょうか」
船越は応接室に案内した。
むかいあうと、谷津は率直に用件を述べた。
船越が写真学校の学生アルバイトを雇って、鶴田と加寿美の密会場面を、熱海で撮影した写真を貸してくれないだろうか、という相談である。
「写真……? そんなものを何に使うんです?」
船越は明らかに、谷津が新聞記者なので、マスコミか何かに悪用されるのではないかと警戒したらしい。
谷津は佐渡の森山警部補からの要請について説明した。
「殺人の疑いがあるのですか?」
船越はいささか驚いたようであった。
「ええ、運転していた奥さんの体内から少量の睡眠薬の痕跡が検出されたこと、聞きませんでしたか?」
「ああ、現地で聞きました。それで加寿美は睡眠薬の常用者だったかどうか、という質問を受けたことを憶えています。常用というほどではないが、時々なら使っていた、と答えると、森山警部補は、その時はああ、そのせいかもしれませんね≠ニ答えていましたが」
「そのせいかもしれないし、そのせいではないかもしれません。船越さん、奥さんが無理心中をなさったと思いますか?」
「心中……? とんでもない。加寿美は、そんなことをするような女じゃない。たとえ男から持ちかけられたとしても、絶対に拒絶する。そんな冷たいというか、強い女でした」
これは翔子から聞いた話と、一致しているようである。
「心中ではないとすると、やはり、殺人の可能性もありますね。あなたのほうに、何か思いあたることはありませんか?」
「さあ、これといって……」
首をひねる船越周太郎を見ながら、谷津は今、自分がとてもおかしな質問をしていることに気づいた。
殺人の動機という意味では、この男が一番身近かなところにいるのである。どうやら、妻の加寿美を愛していたらしい船越は、加寿美が他の男と密会旅行をしているのを知って、動転し、取り乱し、熱海まで追跡をしていたくらいだから、本当ならその男、鶴田幸佑と加寿美を殺したいほど憎んでいたはずである。
「――そりゃ、私だって殺してやりたいほど、憎んでおりましたよ。勝手なふるまいをする加寿美と、彼女を誘惑したらしい男とをね。しかし私には、人を殺すような勇気はない。せいぜい密会現場に踏み込んで、怒鳴りこんで、三下り半を叩きつけてやりたい、とだけ思いつめていたのが関の山で……」
「聞きましたよ。熱海までお行きになったそうで」
「誓っていいます。私は、加寿美たちの事故には関係ありません。佐渡の刑事さんにも聞かれましたが、加寿美たちの事故当時、私は東京にいましたからね。立派なアリバイがあります」
どうやら船越は律義《りちぎ》で、気が弱く、物事をきっちりしなければ気がすまない性格なのかもしれない。聞いてもいないのに、そういうことまで言った。
「いや、あなたが犯人だと言っているわけではない。ところで、梨本忠義という男に記憶ありませんか」
谷津はそのことも確かめねばならなかった。
「さあ。家内の男友達ですか?」
「そうかもしれないし、そうでないかもしれない。奥さんが以前勤めていた会社の、社員かもしれませんが」
「家に帰れば、大鵬建設の社員名簿があります。あとで見ておきましょうか」
船越の返事を聞いて、
(あ、そうだ)
と、谷津は自分の迂闊《うかつ》さを口惜《くや》しがった。
(翔子の家にも大鵬建設の社員名簿があったはずだ。昨日、見ておけばよかったんだ!)
「じゃ、それは後回しにするとして、最初にお願いしました写真の件、いかがでしょうか」
「一、二枚でいいんですか?」
「ええ。二人一緒に写っている正面の写真があれば、一枚で結構ですが」
「ちょっと待ってください。少しは会社の抽出《ひきだ》しにも入っていると思います」
船越はそう言って、応接室を出ていった。
谷津はソファから立ちあがって、窓から外を見た。
六階からみる四谷の街は、新しいビルがぞっくりとふえて、活気に充ちていた。東信ビルは表通りに面しているので、眼下にゆき交う車の列がみえて、街の騒音が湧きおこってくるようであった。
(思ったより、一本気で素直な男だったな……)
――初対面の麻布の翔子の家に現われ、熱海までそれぞれの配偶者の不倫旅行を突きとめようと言ってけしかけ、翔子を連れだしたという話を聞いていたので、どんなに癖《くせ》のある強烈な個性の持主かと思っていたのである。
船越周太郎は、すぐに戻ってきた。
「これでよろしければ……」
谷津は、受けとって写真をみた。
熱海のリゾート・ホテルの近くの道を散歩する二人の姿が、海を背景に写っていた。
「助かりました。早速《さつそく》、佐渡の森山警部補に送ってやります」
谷津は礼を言って、胸ポケットに収《しま》った。
「ところで、船越さんがお勤めの月島建設コンサルタントは、官公庁が民間に発注するビルや公共工事の設計や見積もりをはじきだすお仕事を、担当なさっているという話でしたね?」
谷津は、もう一つの用件のほうを聞いた。
気になっていた点が一つある。それは鶴田幸佑が入札課長として拘《かか》わったベイ・シティ・ルネッサンスのタワービルの設計や総工費見積もりを、そもそもはどこの設計事務所がやったかである。
建設省や都庁や道路公団など、官公庁が民間に何らかの仕事を発注する場合、まず見積もりがいる。
発注官公庁側の見積もりを、予定価格という。
官公庁はその腹案をもった上で、公《おおや》けにはせず、指定業者を対象に入札を行うわけだ。
一番その予定価格に近くて、安く請負うことを応札した会社が、入札に勝つことになる。
ところが、この予定価格が時々、事前にもれたりすることが問題となったりする。
官公庁の契約担当官は、絶対に洩らしてはならないし、現に洩らしてはいないはずだが、なぜか入札前に洩れる場合がある。
なぜか。発注官公庁は、行政組織であって、専門の設計技術者が少ないので、基本設計は職員がやっても、実施設計は外部の設計事務所、いわゆる建設コンサルタント事務所というところにさせるケースが多い。
現在、この種の建設コンサルタント会社と名のつくものは、十数社ある。月島建設コンサルタントも、その一つである。ところが、この種のコンサルタント会社と、大手建設会社の所在地とが同一であるところが、六社もある。また大手建設会社の役員がコンサルタント会社の役員を兼務しているところが、十数社すべてに及んでいる。
言いかえれば、これらのコンサルタント会社は、独立した存在といいながら、大手建設会社と同一会社であって、仕事の性質と建前上、ただ名称をかえて「別会社」にしているのにすぎない、とよくいわれる。
こうしたコンサルタント会社に、建設省や発注官公庁は設計から工事費の見積価格まで、すべてを委託してはじき出させるのだから、予定価格が民間会社側に洩れないほうがおかしいのである。
谷津はしかし、その現状をとやかく言うために聞いたのではない。
「はい。うちも建設省や都の発注工事の実施設計や見積もりをうけたまわっております」
船越は胸を張って、誇らしそうに答えた。もちろん、そのことは一流設計事務所であることの証明でもある。
「例の、ウオーター・フロントですが……大鵬建設が請負ったシティ・ルネッサンスのタワービルも、おたくで担当されたのでしたか?」
「はい、そうですが。それが何か?」
「いえいえ、ちょっと興味があったものですから」
谷津はもう帰るところで、応接室のドアの把手に手をかけていた。
「その積算《せきさん》は、月島建設コンサルタントの中で、船越さんが担当なさったのですか?」
「チーフは、所長の月島準人です。ぼくもいささか、お手伝いをしましたが」
「ところで月島建設コンサルタントは、大鵬建設とは、何かご縁があるのでしょうか?」
谷津がそう聞いた時、船越は少し憤然とした顔をみせた。
「何かご縁がある、どころではありません。うちの筆頭株主は、大鵬建設の社長、鷲尾竜太郎さんですし、役員のうち三人までが、大鵬建設から出向されています。おかげで、会社はたいそう順調のようですがね」
「そうですか。どうも色々教えていただいて、ありがとうございました」
谷津は恭々《うやうや》しく一礼して、応接室を出た。
やっぱり、月島は大鵬とぐるなのだ。それを知っただけでも、収穫だと思った。
船越と別れて東信ビルのエレベーターに乗ったとたん、谷津のポケットベルが鳴った。緊急の連絡用に中央日報の取材記者は全員、持たされている。
谷津はエレベーターを降りて、そのビルのエントランスの植木の陰にある公衆電話へ行って、受話器をとりあげた。
一三九―短縮番号をプッシュすると、
「谷津君、記者クラブを離れて、どこをほっつき歩いてるんだ!」
デスクの怒鳴り声が、耳に飛びこんできた。
「はあ、すいません。ちょっと、三井と太陽神戸の合併話で、ニュースソースにもぐっていたものですから」
「日銀総裁の緊急記者会見の連絡がはいった。五時からだ。観測されていた公定歩合の引上げについてだろう。すぐシフトしてくれ」
「はい。すぐ戻ります」
谷津は通常、日銀記者クラブを担当している。ふつうなら、そこは比較的、暇な部署である。だから折をみて、コツコツと鶴田幸佑と加寿美の佐渡密会事故死事件の裏を、尋ねあるくことも出来るのであった。
6
――その夜、谷津省平は、麻布の翔子の家に戻った。
記者クラブに翔子から電話があり、脅迫者からいやがらせ電話を受けているので怖い、という話をきいたし、大鵬建設の社員名簿をみて、梨本忠義なる人間の存在を、早く確かめたかったからでもあった。
谷津が戻ったのは、夜九時だった。
翔子は今夜はきれいに化粧をして、夜会服めいたシルクのナイト・ドレスを着ていて、はなやかな装《よそお》いをしていたので、たぶん、落ちこんだ気分をしゃかりき、引きたてようとしていたのであろう。
食卓には、ブルーボトルのワインが冷やされていた。料理も刺身から帆立のワイン蒸し、ステーキの照焼ふう、といったものなど、翔子の心配りの手料理が並んでいた。
「ルイ・カトーズの黒皮ケース、見つかりましたか?」
谷津は、遠慮なくご馳走をいただくことにした。独身生活では、めったにありつけない豪華メニューである。
「それが……ずい分、探したんだけど、わからないのよ」
「おかしいな。鶴田さんはどこか別のところに隠しているのかな」
「本当に、あるのかしら。そんなもの」
「連中があんなにまでして、必死に探しているほどですから、どこかにあるに違いありませんよ。それもきっと、大事な機密書類がはいっているに違いない」
翔子は頬杖をついて、ワインを飲みながら、
「幸佑はもしかしたら、うちではなく、どこかよそに預けたり、隠したりしているのかもしれないわね」
そんなことを言った。
なるほど、谷津もそれを考えなかったわけではない。もしそれほど気配りしていたものなら、谷津としてもますます、その黒皮ケースというものを探しだして、手に入れたくなってくる。
(その中には一体、何が入っているのか……?)
「連中からの脅迫というのは?」
食事をしながら、谷津は聞いた。
「ええ。電話が二度もかかってきたわ。昨日話していたものをしっかり探しておけ、また押しかけるからな、という意味の電話だったのよ」
「呆《あき》れた連中だ。そんなことを予告するやつがどこにいますか。これからも、あまり露骨な態度を取るようなら、警察に訴えたほうがいいかもしれませんね」
「ええ、そうするわ」
翔子は沈んだ声で言った。
「ところで、大鵬建設の社員名簿というようなもの、鶴田さん、持っていらっしゃったはずですよね」
「ええ、あります。いつも、年賀状を書く時に使っていましたから」
「ちょっと、見せていただけませんか?」
「そんなものをどうして?」
「梨本忠義という人がいるかどうかを、確かめたいのです」
翔子は何か尋ねたそうな顔をしていたが、すぐに思い直したように、
「わかったわ。今、持ってきます」
翔子は奥に消えた。
谷津はワインを飲みながら、少しずつ、甘い酔いがまわってくるのを覚えた。
やがて、翔子が、社員名簿を持参した。
受けとった谷津は、ページをめくった。
やがて、その指先は総務部の一番端のところで止まり、じっとその部分を見つめた。
「総務部|付《つき》、梨本忠義」
付、となっているだけで、役職名は何もなかった。しかし、現実に、大鵬建設の中に梨本忠義という男の名前が確認されたのだから、これは大きな収穫であった。
付、というのは、運転手とか冠婚葬祭の時の使い走りとか、何か特殊な仕事をする意味だろうか。
(ともかく、今度のターゲットの本体だな。いっそ梨本という男に直接会って、なぜ佐渡に行ったかを尋ねてみようか?)
谷津が社員名簿から顔をあげた時、テーブルの向こうで翔子が一つの小さな鍵を手にして、不審そうに眼の前でひねくりまわしているのが見えた。
「どうしたんです、その鍵?」
「今、主人の書斎の抽出しをあけて、その名簿を引っぱりだした時、名簿の中にはさまっていたのよ、この鍵が。うちでは見憶えのない鍵なんだけど」
「ちょっと、見せて下さい」
谷津は手に取ってみた。何の変哲もない鍵で、どこかのコインロッカーか貸金庫の鍵、というふうにも見えた。
谷津の頭の中で、何かがスパークした。
侵入者たちが探していた黒皮の書類ケースというのは、この鍵であけるどこかのコインロッカーにでも隠されているのではあるまいか。
もし、そうだとしたら、用心したほうがいい。
「この鍵、当分、ぼくが預かっていましょうか。ここに置いていたら、何となく危ない気がしますが」
「ええ。私も今、それを考えていたところなの。お願い、預かってて」
そう言って見あげた翔子の瞳が、うっすらと潤《うる》んでいた。
食事と風呂を終え、谷津が与えられた一階のゲストルームに入ったのは、もう十一時をまわっていた。
ワインをボトル一本あけていたので、風呂あがりの身体はほてって、じんじんと内側から燃えるような酔い心地を覚えていた。
谷津がベッドに入って幾らもしないうち、ひそやかにドアがノックされた。
階段を降りる足音はしなかったが、翔子が寝つけずに、降りてきたのだろうか。
なんとなく、そんな気がしてドアをあけると、やはり廊下にナイティふうの、裾《すそ》の長いガウンを着た翔子が立っていた。
「ごめんなさい、寝てた?」
「いや、寝つけませんでした」
谷津は、正直に言った。
佐渡でもう一線を越えているのだから、二人の間には遠慮するものは、何ひとつないはずである。こういう段になってのためらいや、逡巡《しゆんじゆん》は、翔子によけいな罪悪感を抱かせることになるような気がする。
そっと手をひくと、翔子はもつれるような足どりで入ってきた。ドアを閉める間、掴んでいた翔子の手のひらが、ぐっしょり汗ばんでいるのを感じた。
心と身体が、何かに飢《かつ》えていたことを、その手のひらの汗が物語っていた。
翔子は昨日のことがあって以来、内面には修羅《しゆら》の嵐が吹き荒れていて、それを何かにぶつけることによって、癒《い》やしたいのかもしれなかった。
翔子は部屋にはいってきても、うつむいて壁のところに立っていた。谷津は不意に身内に湧いてきたいとおしいと思う気持ちの始末に困ったくらい、翔子を激しく抱きたいと思った。
翔子が立っている壁の頭上に、一枚の絵がかかっていた。複写絵だが、マリー・ローランサンである。翔子の好みだろうか。翔子はその絵と、壁に嵌《は》め込まれている鏡の間に立ち、絵の中のフランスの女が着ているラベンダー色の服と同じようなパステルカラーのガウンを着ていた。
谷津は近づいて、顎《あご》に指を添えて、キスをした。翔子は一瞬、身体を固くする気配をみせたが、すぐに眼を閉じ、身体をぐったりさせて、後頭部をコツンと後ろの壁にもたせかけた。
谷津は、細い腰を抱いた。
そのまま、唇をあわせた。
朱い唇が、おののくように喘《あえ》いで、震えた。
谷津が接吻をしながら、翔子の細い腰をつよく抱きしめると、ううっという呻《うめ》き声があがり、口はむこうからひらいて、翔子は激しい勢いで接吻に応《こた》えてきた。
それからほんの数分後、二人はベッドに入っていた。
裸にすると翔子は、今夜もとても形のいい胸をして、震えていた。大きくも小さくもない固締まりの乳房がお椀型に盛りあがり、その起伏が心臓の鼓動をつたえて激しく波打っていた。
谷津は、いつぞやは尖閣湾のホテルで、激情にかられたように薄暗がりの中でかなり激しく、直線的に結ばれたので、今夜はゆっくりと、明るい灯の下で、翔子の女体の隅々までを、いつくしむように賞味しようと思った。
谷津は、翔子の傍に横たわり、太腿に手を這わせた。太腿の肉もほどよく張りつめていて、白く若々しい艶《つや》がある。腹部もなめらかで、すべすべと脂《あぶら》のりしていて、白い光沢《こうたく》があり、吸いつきたいくらいであった。
中心のヘアは、濃く詰まった感じで、繁茂《はんも》している。腰のくびれがきわだっているので、デルタの豊かさや、固締まりの太腿のボリュームが、外目にはスリムなのに、こうしてみると、見事な量感と肉感をみせているのかもしれない。
谷津は、この女体が今日会ったばかりの月島建設コンサルタントの船越周太郎にも熱海で蹂躙《じゆうりん》されたのかと思うと、むらむらと嫉妬と競争心を覚えた。
谷津は掌で乳房を包んだ。弾《はず》みきった肌が、心地よく吸いついてくる。下から圧しあげるようにして揉《も》むと、
「ううッ」
翔子は、目まいを起こしたような声をあげた。
片手をもう一つの乳房に移し、あいたほうの乳房に唇を押しあてた。乳暈《にゆううん》は紅《あか》い色をしていて、乳首がみるみる苺《いちご》のように尖《とが》りかけてくる。
「お返しをしている、と思わないで」
喘ぎの合間に、翔子が小さな声で言った。
「え?」
「ゆうべも、今夜も省平さん、泊まってくれたわね。おかげで私、怕《こわ》がらなくてすんで助かってるのよ。でも……でも……そのお返しにこういうことをしてるって、考えてほしくないわ」
「そんなふうには考えてませんよ。ぼくだって、あなたが欲しかった」
「私だって、欲しかったの。幸佑が亡くなってまだ一ヵ月もたっていないのに……こんなことをしてるなんて、私たち、罰《ばち》があたるわね」
「一緒に罰があたればいい」
たしかに、これも不倫というのかもしれない。
いま、お互いに配偶者というものはいやしないが、しかしこれほど強烈な不倫はないような気がした。
翔子はでも、このところの環境の激変で、正体をなくして、芯糸を抜かれた抱かれ人形のようになっている部分もあるのかもしれない。
何であれ辛《つら》くなると、人間は何かで埋め合わせをしようとするものだ。翔子は肉体を花色の炎に染めて火の鳥になってしまわなければ、気がすまないのかもしれない。
谷津は乳房に接吻をしながら、翔子の、もっとも女性であるべき部分のほうに、手をのばした。
驚いたことに、翔子はそうされながらも、自分の恥丘のあたりから股間を、傍に脱ぎすてられていた薄ものの布きれを握りしめて、隙あらばそれで隠そう、隠そう、としていたのであった。
その手をのけようとすると、
「ああ、やっぱり見られるの……恥ずかしいわ」
「ばかだなあ。このあいだ、もう見てしまったんですよ」
「でも、あれは旅先だったのよ……はずみだったわ……それに、部屋は薄暗かったし……」
「暗くても明るくっても、同じじゃありませんか」
耳の穴に熱い息を吹きかけながら、谷津はかまわず、その薄衣をとってしまった。
その部分がすっかり灯かりの下にさらけだされた時、谷津は至近距離でみて、息をつめた。恥丘にも女性によって、さまざまな表情がある。
でも、これほど上品で、姿のいい恥丘を見たことはない。ふっくらと肉づきがよくて盛りあがり具合が実になやましくて、高く、恥毛はその中心にきっちりまとまって、縦長に茂っているのだった。
肥沃《ひよく》なるデルタであった。そうして羞恥《しゆうち》につつまれたヴィーナスの丘、そのものであった。
谷津に見つめられていることを知って、
「恥ずかしい……」
翔子が身をよじった。
そのはずみに、美しい恥毛がよじれて、盛りあがった。その下の薄紅色の亀裂《きれつ》もよじれて、そこから沁《し》みだす白い露のようなものが、キラッと一すじ、水晶のように光った。
谷津は翔子の、そのような身体を見ていると、女性を眼で食べる、手で食べる、匂いで食べるという楽しみ方が本当に、この世に存在するのかもしれない、ということを理解した。
こういう珠玉《しゆぎよく》の肉体は、荒々しく扱うべきではない。
そうは思いながらも、恥ずかしそうに腰をひいた翔子の身体をもとの仰臥《ぎようが》姿勢に戻すと、谷津は両下肢を割りひらこうとした。
「ああ……だめだめ」
翔子は割り開かれることに、抵抗した。
その女体をむりやり、大きく開かせた。
「恥ずかしい」
翔子は両手で顔を隠してしまった。
茂みの下の女芯が今やぱっくりと開いている。
谷津は頭の奥のほうで、酔ったような痺《しび》れを感じながら、そこへ顔を寄せていった。
蜜液で濡れたクレバスをすくった。
そうして次に、谷津の舌が真珠の上でそよいだ。
「ああ……」
と、翔子が首を反《そ》らした。
谷津は翔子の腰に両手をあてがい、しっかりと引き寄せるようにして、鋭く尖らせた舌先でクレバスを割りつづけ、蕾《つぼみ》への奉仕に専念した。
「ああん……そんな……」
翔子はゆっくりと腰をよじった。
舌に酸味のあるクリームの味がした。
その花蜜の味覚に、谷津は満足した。
谷津はとことん、翔子をいじめてみたくなった。
指を秘唇にすべりこませた。
ぴくん、と翔子が下半身を痙攣《けいれん》させた。
蜜液が女体の奥から、どっという感じで湧きだしてくる。
谷津は花色の秘境の沼のほとりを、舌で散歩しながら、かたわら、指を奥に入れてはたらかせつづけているので、翔子のおなかが激しく波打ちつづけた。
「ああ……そんなことされるの、はじめてよ」
谷津は指を抜いて、今度は掌全体で賞味するため、両手でヒップの曲線を丹念にたどった。
内股に両手を移して押し開くと、女芯が正面に見える。閉じあわさってうごめく二枚の花びらは、時折、鮮紅色の窓をあけたりして、きわどく熟《う》れていて、レッドクイーンという名の、信州で産される紅ぶどうに似た暗紅色に輝いていて、透明な露をにじませ、複雑なかたちに織りたたまれている。
その世界に没入してみたくなった。
翔子も、つらぬかれたいようであった。
「ああ……お願い……もう見ないで」
翔子はゆっくりと空腰を使った。
「省平さん、入れて」
メーン・ディッシュを催促しているようであった。
谷津はそのまま、正常位で重なっていった。
身体がひとつになると、翔子は白い顎《あご》を反《そ》らせ、
「あッ」
「ああ――ッ」
最初は短かく、そうして次には長い悲鳴を洩らした。
谷津は、ゆっくりと励みだした。谷津が往復しだすにつれ、翔子の喘《あえ》ぎはいっそう激しくなり、あッあッという短い破裂音をつないで、彼女は弓のように身体をしなわせるのであった。
乳房にうっすらと、汗の匂いがのぼりたつ。
そこはしだいに、光りだすほどになった。
谷津は静かに漕《こ》ぎながら、祈るような姿勢で翔子の乳房を吸い、吸いながら腰を抱いて、この女体を魔影から守るためには、どのような敵とも戦うぞ、と思った。
来週あたり、そろそろ事件の核心にむかって進撃を開始してみよう。
第六章 背後の影
1
――見晴らしのいい社長室であった。
窓から浜離宮の緑や池や運河が見え、右手の遠くに東京湾をも望見する浜松町のウオーター・フロントである。
三田村建設の本社は、運河に面した八階建てのビルである。その最上階にある社長室で、島田武史は飾り棚に置いてある李朝の壺を手にとって布で磨《みが》きながら、
「受注は多いよ、受注は。なにしろ四十ヵ月連続の好景気だからね。建設業界もこのところ近来にない活況を呈している。しかし、こう人手不足が深刻化してくると、ねえ。受注の割に儲《もう》けがなくて困ってるんだ」
どこの経営者も、人手不足を嘆く。
「今の若い者は、汚ない、きつい、恰好わるいという仕事にはつきたがりませんからね。建設現場も、大変でしょう」
谷津《やづ》省平は、調子よく相槌を打った。
「そうそう。今の若い連中はビル工事の鉄筋職にもなれやしないんだよ。たった一束の鉄筋を担《かつ》がせるだけで、重いといって腰をふらつかせ、三日目には逃げだして喫茶店のウエイターになる。そっちのほうが給料が高いし、軽労働だし、女の子と遊べて恰好いい、と言うんだからねえ、まったく……」
島田武史はそう言って、最近の若者の風潮を憤慨し、「だから、難民でも何でもいい、外国人労働者のほうが、はるかに根性があって頼りになるし、可能性がある。日本も早く門戸を開放しろ、と言ってるんだ」
島田の話があまり大所高所論になってしまわないうちに、谷津はあわてて話を元に戻した。
「ところで、現場の話ではありませんが、鶴田|幸佑《こうすけ》さんとは若い頃、競争相手だったようですが、どんなふうでしたか?」
三田村建設は大手ゼネコンには及ばないが、そのグループの中にもぐりこもうとしている中堅の建設会社である。
大鵬建設よりはやや下に位置すると見られているが、大鵬建設を押しのけて頭角を現わそうとする野心に燃えており、今度のシティ・ルネッサンスのセントラル・タワービルの入札《にゆうさつ》にも参加して、大鵬建設と激しくやりあったライバルの一つであった。
とくに社長の島田武史は、二代目の御曹司で若手社長であり、野望がつよい。十年ぐらい前までは、修業のため一営業部員として官庁まわりを担当し、大鵬建設の鶴田幸佑とともに公共工事を奪いあうための辛酸をなめているそうで、谷津は今日、鶴田幸佑の生前の仕事ぶりなどを聞く話の中から、失踪死の謎を探ろうと思って、島田に社長インタビュー≠ネるものを申し込んだのであった。
「そうそう。鶴田さん、佐渡くんだりで死んじゃったそうだねえ。ついこの間まで、おれんところの営業部員とずい分、張り合っていたのにな」
「社長ともずっと以前は、凄《すさ》まじいライバルだったと聞きましたが」
「そうさ。抜け目のないやつでね。あの野郎、若い頃、おれの名刺をそっくり盗みやがってね」
「え? 名刺入れか財布を……?」
「いや、そうじゃないよ。名刺だよ」
「名刺を盗んでどうするんですか?」
谷津は、びっくりしたふうを見せた。
他人の名刺を盗んで、不正使用する、ということは世の中によくあるが、大手建設会社のエリート社員である鶴田幸佑ともあろうものが、他社の営業部員の名刺を盗んで不正使用するとは、思われなかったからである。
「社長の名刺を、鶴田さんが妙なことに使ったんですか?」
「そうじゃねえよ。そっくり捨ててやがったんだ」
「え? 捨てた……」
島田の話は、ますます意味がわからない。
「あの野郎、おれの名刺を二、三十枚も束《たば》にして、どぶに捨てやがったんだ。廊下トンビをしていた若い時から、油断も隙《すき》もない策士だったんだよ、あいつは――」
ああ、なるほど。谷津にもようやく少しは意味がわかってきた。
建設会社の入札課員や営業マンの仕事は、官公庁への挨拶と名刺配りからはじまる。
官公庁が発注する公共工事を請負《うけお》うための、お百度参りのことである。発注官庁は、何も建設省ばかりとは限らない。
国道やダム、河川などの国家的な大規模な工事は、建設省が多いが、本省は統括するだけで、これを発注するのは、実際には全国八ヵ所にある地方建設局である。
しかし、国の工事は、建設省だけではなく、港湾や空港は運輸省、漁港や農林道は農水省、鉄道や駅舎建設は日本鉄建公団、道路は道路公団という具合に、公共工事の発注官庁や団体は、無数にある。
建設会社の営業マンや入札課員は、それらの国の官庁や都道府県の官庁、その中でも道路建設、道路維持、河川、砂防、下水道、都市計画、住宅など、各局各課ごとに毎日のようにこまめに回って、挨拶《あいさつ》したり、名刺を置いていったりする。
たとえば、課長が在席していても、いなくても、机の上に名刺を置いてゆく。一日、外に出ている課長の机の上は、トランプでも並べているような感じの日もある。
個室をもった局長や部長、次長ともなると、一々挨拶を受けていたらきりがないので、入口に名刺受けがあって、そこへ入れていったりする。
だから、営業マンや入札課員は、若い頃、名刺配りとか、廊下トンビとかいわれる。
ある時、島田武史が、都が管理するある官庁の仕事を長い間、もらえなかったので、役所に行って恐る恐る、「最近、入札の指名がぱったりとだえて、わが社には回ってきませんが、何か、ご不興でも買ったのでしょうか」
と、伺いをたてたところ、
「きみの会社は不熱心だ。ちっとも顔をださないじゃないか。そういう不誠実な態度なら、安心して工事もまかせられない」
と、言われた。島田はびっくりして、
「そんなことは、ございません。私は毎日、こうして顔をだしておりますが」
と、恐る恐る揉《も》み手をしたところ、
「来てないなあ、きみのところは。ほら、見てみたまえ、名刺が一枚もないもの」
役人はそういって、集計表をみせた。
その集計表というのは、課長が女子職員に命じて、どの業者の名刺が何枚集まったかを、月に一度の割合で集計し、ご愛嬌までに業者の誠意≠調べたものである。
すると、その集計表には、島田の会社は一枚も名刺がなかったことになっていた。
「そんな、ばかな――」
島田は毎日、顔をだしていたのである。
絶句したが、あとでその理由がわかった。
その工事を請負おうとしていたライバルの大鵬建設(当時、鷲尾建設といった)の廊下トンビ、鶴田幸佑が名刺受けから、競争相手の島田の名刺を全部抜きとって盗んでしまい、外のどぶに捨ててしまっていたからであった。
くやしがったが、あとの祭りであった。
その工事は結局、大鵬建設が請負った。
それぐらい、営業戦争、工事受注競争は、生き馬の眼を抜くのである。
「今でこそ悪口のように聞こえるかもしれんが、その件があって以来、おれは密かに鶴田さんを尊敬したね。請負マンの鬼だもの、カガミだったもの。重役、社長になってからは、うちの営業マンに大鵬の鶴田幸佑を手本にしろ、と言ってたぐらいだよ。そうそう、まだある――」
島田はソファに坐って足を組んだ。
「鶴田幸佑の列車接待と、事前登録というのは、有名だったね」
「何です? その……列車接待というのは?」
業者は一般に官庁の役人を接待したがる。
点数を稼《かせ》ぎ、印象をよくし、誠意を示し、入札の指名を受けたいからである。
ところが、公務員は当然だが、人目につく接待はいやがる。世間から買収饗応を受けた、と見られたくないからである。
そこで鶴田幸佑は、目をつけておいた各官庁の課長や部長が、いつ、どこに出張するかをあらかじめ知っておき、何くわぬ顔をしてその列車に乗り込むことを得意としていたそうだ。
やあやあ、と偶然、乗りあわせたように見せかけ、列車食堂に誘うと、旅の途中とあって気分が楽で、役人も気軽に応じて、ビールを飲みながらの世間話の中に、公共事業のスケジュールの情報などを取っていたそうだ。
「へええ、やるねえ! 新聞記者顔負けじゃありませんか。で、もう一つの事前登録というのは?」
「うん、これも彼の武勇伝だな」
島田は興に乗ってきたらしく、キャビネットからブランデーを取りだしてきて、グラスに二つ注いだ。
故人の噂話は一般に、その人の冥福《めいふく》を祈るものとして喜ばれているから、決して悪いことではない。
「事前登録って、何です?」
谷津も調子にのって、催促した。
「うん。これも接待戦術だがね」
業者と役人の癒着《ゆちやく》に批判の眼が強くなり、料亭やらクラブに役人を接待しようにも、最近では人眼がうるさいので役人のほうが敬遠する。
そこで、鶴田幸佑は銀座や赤坂のクラブの数軒に手をまわしておいて、「あの人の飲食代はうちに回すように」、根回ししておいて、豪遊させた。そうしておけば、役人は安心して出入りできるわけで、それを事前登録といい、鶴田はそういう方法で、懐柔するのが、実にうまかったそうだ。
「それで、鶴田さんはあっちこっちの役所で、信用されて、切れ者入札課長といわれていたんでしょうか?」
「いや、そればかりではない。彼はただ抜け目なかっただけではない。彼はね、ふだんから役所の事業に、色々と協力してたからね。たとえば、用地買収は役所にとって一番、大変なことだが、それなんかに対してもね、色々、情報を入れたりして協力してたんだよ」
いやはや、喰らいついたら離れない請負師ぶりといおうか。谷津はそんな話を聞いていると、今さらながら、佐渡で事故死した鶴田幸佑という入札課長の人間ぶりと、彼の属していた業界の凄《すさ》まじさと、内情に、じかに触れることができたような気がした。
しかし、競争相手の会社社長から、鶴田幸佑の辣腕《らつわん》ぶりばかりをいつまでも聞いていても、仕方がない。
「ところで、ウオーター・フロントの入札ですが、大鵬建設は誰かに密告されたのじゃないか、という噂がありますが、社長はどう思われます?」
「いやな質問だね。まるでおれんところが密告した、といわんばかりの質問じゃないか」
「いや、そんな意味ではなく」
「知っているさ。うちの誰かが刺したんじゃないか、という噂があることもね。そりゃ、大鵬さんは当面するうちのライバルだったし、うちとしたら大鵬さんを引きずりおろしてのしあがろうとしている、と見られることもやむを得ないことだからね」
島田は、ブランデーを舐《な》めながら、そう言った。
つづいて、こうも言った。
「しかし、断わっておくが、うちはそういうことをした覚えはないよ。だいたい、大鵬のやり方があまりにも、えげつないから、そんな噂が立つんだよ。言っちゃわるいが、あそこはきみ、憲民党のネオ・ニューリーダーといわれる建設畑のボスに政治献金はする、ゴルフには接待する、女は抱かせるで、ちょっとひどいよ。結局はその政治家の睨《にら》みと圧力で、入札も受注も自社に都合のいいように運営しているんだからな。ちょっと、露骨すぎるよ」
「はあ。憲民党の有力者というと、薬王院豪造先生あたりですね」
「ン……まあ。名前までは言えんがね」
「今度も政治献金が動いてるんでしょうか?」
「動いているに決まってるじゃないか」
「どれぐらい?」
「そういうことまで、私に言わせないでくれよ」
島田はそう言ったあと、
「それよりねえ、きみ。鶴田課長と一緒に死んだ秘書がいたね。あの女、何と言ったっけ」
「船越加寿美のことでしょうか?」
「ああ、そうそう。あの美人秘書のことさ。ぼくはずっと前から気になっていたんだがね。会合などで鷲尾社長が同伴してくるたび、その顔を見て、はて誰かに似ているなあ、誰だったっけ、と思って、気になっていたんだ」
「誰かに……といいますと?」
「うん。あとになって思いだしたんだが、昔、ぼくの姉さんの友達でミス千葉となった女性がいてね。その人はのちにある建設会社の青年社長と結婚したんだが、その会社は船橋に本社があって、今の大鵬建設の下請けの建設会社だったんだ。ところがある年、現場で事故を起こして補償問題などをめぐって、資金繰りがわるくなり、倒産して夫婦とも夜逃げ同然の末、服毒心中さ。美人|薄命《はくめい》とはいうが、何とも哀れな女性だったがね……。船越加寿美という秘書が、どうもそのミス千葉の若い頃にそっくりだったので、ぼくはかねがね、不思議なこともあるものだと思ってたんだ。だってねえ、そうだろ。下請けいじめで有名な大鵬建設の社長が、むかし、いじめていた子会社の社長夫人とそっくりの女をのちに、秘書としてつれて歩いている……ぼくの眼には何だか、幽霊をつれて歩いているように思えてね。そのうち、あの船越加寿美という秘書に、母親の名前を聞こうと思ってたんだが、それも果たさないうちに、あんなことになっちまって……」
美人薄命は、あの秘書の場合にも言えるかもしれないな、と島田はブランデーを飲みながら、しんみりとした口調で言った。
谷津はしかしその時、あまり島田の声を聞いてはいなかった。
船越加寿美という強烈な個性の持主だった一人の女の思いがけない内面と、生いたちと過去の悲愁を、思いがけないところで耳にした、ということでいささか、衝撃を受けていたのである。
加寿美が、島田社長のいうミス千葉の娘だったのではないか、という観測は、案外、正しかったのではないか。そしてもしかしたら、これは事件を根底から考え直す新しい視野になるかもしれないぞ、と思った。
もっとも、それは船越加寿美が、今、島田が説明したような薄幸のミス千葉の娘だったら、としてのことだが。
(これは一度、確かめておいてみる必要があるな)
谷津はそれを肚《はら》の中にしまいこんで、わざと明るい声で、
「やあ、社長。お忙しいところ、色々お話いただいて、ありがとうございました」
毎週月曜日の経済インタビューは、三田村建設の社長に限り、いつのまにか事件インタビューになっていたようである。
――谷津が立ちあがったのは、午後二時であった。
2
――谷津省平は、その足で青山三丁目にある大鵬建設の本社にむかった。
社員名簿に総務部付、となっていた梨本忠義に会うためであった。
付、というのは、恐らくは社長直属の運転手か何かだと思われるので、直接、面会を求めて、鶴田|幸佑《こうすけ》らと一緒に佐渡に行った理由などを確かめてみよう、と思ったのである。
梨本の佐渡行きに、もし何がしかの秘密があるとすれば、彼は喋らないかもしれない。だが、いきなり訪問して不躾《ぶしつけ》な質問を浴びせてみることによって、意外な効果が現われる場合だってある。
彼はあわてふためいて、何がしかの尻尾《しつぽ》をだすかもしれない。
青山三丁目には、午後三時に着いた。
大鵬建設の本社ビルは、表通りに面して燦然《さんぜん》としたハーフミラーの壁面を輝かせて、聳《そび》え立っていた。
谷津は一階のフロントを入ると、まっすぐ受付嬢のところに歩いた。名刺をだし、総務部付の梨本さんにお会いしたい、と用件を述べた。
受付嬢が受話器を取りあげて、総務部につないだ。
簡単な応答があったあと、
「梨本は休んでいるそうです」
谷津のほうをむいて言った。
「え? お休みですって?」
「はい。総務部に確かめてみましたところ、梨本は三週間前から無断欠勤がつづいていましたので、休職扱いになっております」
受付嬢は受話器を置いた。
「失礼ですが、梨本さんは社長室の運転手さんでしたよね?」
かまをかける要領で、確かめてみた。
「はい。主たる仕事は社長のお車を担当していたようです」
「じゃ、今はどなたが社長専用車の運転手をなさっているのですか?」
「剣持《けんもち》勇司という者で……あ、ちょうど今、表に駐《と》められた車に乗っているのが、その剣持です」
受付嬢が目線《めせん》をやった先、大鵬ビルの正面フロント前に、一台の黒い乗用車がすべりこんできたところであった。
三十歳くらいの運転手が坐っていた。
その車が社長専用車だとすると、間もなく社長の鷲尾竜太郎が執務室から現われて、あの車に乗り込むところだろうか。
谷津は、そう判断した。
「剣持に、何かご用でしょうか?」
「あ、いえ。もう、結構です。梨本さんに用事があったものですから」
谷津が受付嬢に礼を言って、出口のほうに歩きだそうとした時、ちょうど、エレベーターが開いて、一人の恰幅《かつぷく》のいい初老の男が、一人の長身の若い秘書ふうの男を従えて、ロビーに現われたところだった。
秘書は重そうな皮カバンを提《さ》げていた。
初老の男は、鷲尾竜太郎だと思えた。
谷津は鷲尾を傍で見るのは初めてだが、初老というにはまだ脂《あぶら》ぎっていて、獰猛《どうもう》な闘犬が少しばかり年をとって、肩のあたりに丸みが出てきた、といった雰囲気で、なかなか迫力のある顔つきと体躯《たいく》をしていた。
鷲尾竜太郎は谷津を一瞥《いちべつ》したきり、路傍の石のごとく無視し、腕時計をのぞきこみながらロビーをゆっくりと歩き、外に待たせている車に近づいていた。
谷津は一拍おいて、そのフロントを出てから、表でタクシーを探した。
さすがに青山通りである。
空車はたくさん流れていた。
谷津は大鵬ビルより少し歩いたところで、タクシーを拾い乗りこんでから言った。
「運転手さん。悪いけど、あそこに停まっているニッサン・プレジデントの後ろを走ってくれないか」
中年の運転手が迷惑そうな顔をした。
「尾行ですか」
「いや、そんな露骨なものじゃないさ。見失わないように、ほどほどに走ってくれればいいんだよ。どこに行くのか、その行先を突きとめようと思ってね」
「それが、尾行というものじゃないですか?」
「そういうもんかね」
「道が混むと厄介《やつかい》ですよ」
「ドライバー歴二十年の、運転手さんの腕を信じてるよ」
中年運転手は苦笑しながら、車をスタートさせた。
鷲尾竜太郎をのせたニッサン・プレジデントは大鵬ビルの前をすべりだすと、青山通りを渋谷方面にむかって、まっすぐ走ってゆく。
道路も信号二回待ちくらいで、そう混んでいるほうでもなかった。
それにしても、梨本が三週間前から無断欠勤していて、休職扱いになっている、ということは、どういうことだろうか。
谷津は梨本に会えなかったことでがっかりしたが、彼が休んでいるというのは、それ以上の手掛かりを得たことになるかもしれない。
三週間前というと、佐渡で鶴田幸佑たちの事故が発生する少し前からということになる。森山警部補の話によると、梨本の名前はカーフェリーの乗船名簿にあったというから、彼が佐渡に上陸していたのは、ほぼ確実と思える。
どうして、彼は行方をくらましたのだろうか。やはり、彼も鶴田たちの事故に、何らかの形で深く関係しているのではあるまいか。
車窓を見ながら、谷津がそんなことを考えているうち、先行車は直進して宮益坂にさしかかっていた。
(どこにゆくのかな、鷲尾社長は)
通常の取引相手との会合か、都内の現場回りかもしれない。
それでも鉢合わせしたのをさいわい、谷津は、鷲尾の行先を突きとめてみようと思っている。
先行車は宮益坂をくだり、渋谷駅の傍のJR線のガードをくぐり、グランド・スクランブルの大交差点を突っ切って、道玄坂《どうげんざか》のほうにのぼってゆく。
幸運にも、信号で引き離されることはなかった。
谷津をのせた運転手が、プレジデントとの間に二、三台、乗用車やタクシーをはさんだだけで、ほぼぴったりと後ろにつけてくれているからであった。
「運転手さん、うまいじゃないか」
「少し、離れましょう。あの車、路肩に寄りますよ」
「え?」
――運転手に言われて谷津が前方を窺《うかが》うと、プレジデントは道玄坂の途中で、左の路肩のほうにすべりこんでゆくところであった。
鷲尾が降りるのかと思って、谷津はあわててポケットから料金を取りだそうとしたが、その手が途中で止まった。
鷲尾は車から降りたのではなかった。反対に一軒の和風レストランの前に立っていた一人の濃紺の和服を着た女が、すっと近づいてきて黒塗りのプレジデントに乗り込み、車はまた音もなくすべりだしたのであった。
谷津の眼が、その女の後ろ姿に灼《や》きついた。
(どこかで見た女だぞ)
谷津はしきりに首をひねった。
そうして、思いだした。
(あ、そうだ!)
遠目ながら、あの和服のサマになった着こなし方と品のある美貌ぶりは、銀座のクラブ「舞姫」のママ、峰尾千登勢ではなかっただろうか。
(うん。ほぼ、間違いないな)
すると、鷲尾とは白昼の密会……?
道玄坂の右手にある円山《まるやま》町の料亭街の地理を思い浮かべて、谷津は何とはなしに、あらぬ妄想をたくましくしたが、しかしその想像が間違いであることは、すぐにわかった。
峰尾千登勢をのせたプレジデントは、道玄坂をまっすぐ上りきり、大橋の交差点を左折すると、今度は南平台《なんぺいだい》の住宅街の中に入っていったのである。
このあたり、田園調布や成城よりも先に開けた高級住宅街だが、今は都心そのものなので、マンションがふえている。しかしまだ落着いた大谷石の塀をまわした古風で、豪壮な邸《やしき》も坂のところどころに、残っていた。
「運転手さん、スピードを落としてくれないか」
一ブロックぐらい距離を置きながら観察していると、黒塗りのプレジデントは、一軒の邸の門の中に、静かにすべりこんでいったのである。
「あ、運転手さん。ここでいいよ」
谷津はメーター料金にチップを上乗せした。
「これ、少ないけど」
「あ、悪いね。それにしても意外に近かったね。おれはまだもっと遠くまで走るのかと思っていたよ」
「稼《かせ》ぎにならなくて悪かったね」
谷津は、タクシーを降りて歩いた。
塀の傍を通って正門まで歩き、表札をみた。
薬王院、とあった。
ほぼ、それは予想していた通りの名前であった。憲民党の建設族議員の一番の大物であり、何かと大鵬建設の後ろ楯になっている人物、と見られている政治家であった。
その薬王院のところに鷲尾と、重そうな皮カバンを提げた秘書と、クラブのママ、峰尾千登勢までが一緒に入っていったということは、どういうことだろう。
これがたとえば夜、どこかの温泉旅館あたりなら、峰尾千登勢一人がひっそりと薬王院のところを訪れても、少しもおかしくはない。
しかしまだ白昼、鷲尾や秘書まで同行して、というのは、よほど何か、緊急な話し合いでもする必要があるのであろうか。
谷津は何となく、一度、門の前を通りすぎてからもう一度、引き返し、門の横のくぐり戸をくぐって、庭に身を入れてみた。
玄関のほうを窺《うかが》おうとした時、後ろに足音が響いた。
ぎょっとしてふりむいた。紺の制服を着て長身で引締まった身体つきをした男が、
「そこで、何をしている?」
冷ややかな眼をむけた。
「いや……別に……何もしてませんが」
「どうして家の中を覗《のぞ》き込んでいるんだ」
「失礼しました。通りすがりに薬王院、という表札を見かけたものですから、あの有名な政治家の私邸かと思って。つい、珍しいもので……」
「それだけか?」
「それだけです」
「用事がないのなら、さっさと外に出ろ!」
――制服を着たその男が、鷲尾をのせていたニッサン・プレジデントの運転手、剣持勇司であることを思いだしたのは、谷津がその家からつまみだされて表通りに歩きだして、だいぶ経《た》ってからである。
(運転手ではあるが、ただ者ではないな)
肩のあたりの冷えた線が、谷津にそれを感じさせた。
街にはそろそろ、夕暮れが訪れはじめていた。
3
(誰かが、私を見ている……)
鶴田翔子はその日も、その視線を感じた。
買い物にゆくために家を出て、有栖川宮記念公園のほうに歩き、木下坂をくだっている時、どこからともなく、自分を見つめている粘りつくような視線を感じた。
はじめは、気のせいかとも思った。
数日前の出来事があるので、自分が神経過敏になっているのではないか、と思った。
しかし視線は、確かにどこからか、自分に注《そそ》がれている。
公園の中なのか、街角、路地の物陰からなのか、よくわからなかったが、誰かが私を見つめている、という感じは、確かであった。
誰か、といっても女ではない。男である。
しかし、顔も、姿も確かめることができない。
考えてみれば、先日の三人組は、まだ翔子の家を狙っているのかもしれなかった。柳瀬《やなせ》、韮崎《にらさき》、松村といったあの三人組のうちの誰かが、ずっと私を見張っているのかもしれなかった。
翔子は、背すじに悪寒《おかん》を覚えた。
その分、翔子は胸をしゃんと張って歩いた。翔子は麻布|界隈《かいわい》を歩いている外人のアベックや、若いカップルに混って歩いても恥ずかしくないよう、春らしいセリーヌのワンピースにサンダルばきという軽装ながら、化粧も丹念にしているし、サングラスをかけ、長い脛《はぎ》をすっきりと生かした歩きかたをしている。
麻布界隈には、外国の大使館が多い。翔子の家の近くだけでも、スイス大使館、西ドイツ大使館、フランス大使館、中国大使館、マダガスカル大使館と、五指をくだらないのであった。
そんなこともあって、広尾、麻布周辺は昔から外人の多い町である。外人専門のスーパーマーケットがあるくらいであった。
有栖川宮記念公園の近くの「AZABU SUPER」も、そのひとつであった。外人相手とはいっても、むろん日本人が利用することもできる。アメリカやフランスやドイツの、珍しい食料品や日常雑貨がごく安く買えるので、翔子もよく利用するほうであった。
そのスーパーで、翔子は幾つかの買い物をした。店内にいる間は、どこからも視線を感じなかった。
翔子がスーパーで買い物を終えて外に出ると、街はすっかり昏《く》れかけていた。水色の、透明な照明に照らされた花屋に寄り、その傍のケーキ店に寄った。
ケーキ店の奥の茶房でコーヒーを飲みながら、自分に注がれている視線はどこからだろう、と用心深く周囲を見回した。
ガラス窓を透《す》かして、舗道の人波がみえる。
しかし、不思議なことに視線の正体は、どこにも発見できはしなかった。
まるで、いたちごっこだった。
そうよ、かくれんぼだわ……。
(そういう罪のないものなら、いいけど……)
翔子はコーヒーを飲み終えて、溜息をついた。
街はもう、すっかり暮れきり、ネオンの色彩がつよくなりはじめていた。
翔子はその夜、友人が開くスナックの開店記念パーティにゆかなければならなかった。
腕時計をみると、七時であった。翔子は買物袋を抱えて、立ちあがった。
茶房を出てすっかり暗くなった道を歩き、家の前まできた時、翔子の足がぎくっと止まった。
玄関の傍に、人影がみえたのである。
それも、男であった。
用心しながら近づくと、
「奥さん、ぼくですよ」
街灯のあかりに浮かびあがったのは、なんと船越周太郎の顔ではないか。
あッという驚きより、なあんだ、という気がしないでもなかった。
いつも私を見つめていた視線は、この船越だったのだろうか。そんな気もするし、そうではなかったような気もする。
「お留守のようでしたから、待たせてもらいました」
「何か、ご用でしょうか」
「何かご用でしょうかとは、冷たいな。佐渡以来じゃありませんか」
「もうあなたとは、ご縁が切れたはずですわ」
「ますます冷たいことを言う。そう他人行儀にならないで下さいよ。話があります。入ってよろしいでしょうか」
「困ります。何の話でしょうか」
「熱海では、そんなふうじゃなかったのに」
「あれは、なりゆきというものです」
「立ち話してて、かまわないのですか」
「ええ、結構よ。ご用件がおありなら、ここでおっしゃって下さい」
「谷津という男が昨日、ぼくのところに来ました。あの男は奥さんにとって、何者ですか」
「そんなこと、あなたに答える必要があるかしら」
「あります。あの男はぼくから、加寿美《かすみ》たちの写真も借りてゆきました。佐渡の警察に送るそうじゃありませんか。加寿美と鶴田幸佑は事故ではなく、殺害されたとでも言うのですか?」
船越周太郎の声はしだいに、大きくなっていった。
夜に入ったばかりの静かな住宅街である。そんな大きな声で立ち話されたらまずいし、困るわ、と翔子は気が気ではなかった。
しかし、家の中に入れる気にはならなかった。
人目につかない屋内に入ると、船越はまた熱海の夜のように、熱っぽい眼をして手首を掴み襲いかかってくるに違いなかった。
翔子は急いで思案をめぐらした。
「船越さん、そのことで私もお話があります。そこの木下坂をのぼった道をまっすぐゆくと、六本木のテレビ朝日通りに出ます。途中の、妙善寺というお寺の近くにアヴァンタイユという大きな喫茶店があります。私、荷物を置いてすぐに駈けつけますから、船越さん、先に行って待っていていただけないかしら」
その店なら高校時代の同窓生の女友達が経営しているフランス・ケーキの店で、気心が知れている。夜はスナックにもなるので、船越と話をするだけなら、危険がなくてちょうどいい場所だと、思ったのである。
すると、船越が意外なことを言った。
「それなら、車でゆきましょう。ぼくはそこの角に、車を置いています」
「でも、私、荷物が――」
「そんな荷物くらい、持ってゆけばいいですよ、車ですから」
船越は、翔子にていよく逃げられるのを惧《おそ》れて、車での同行を求めているのだろうか。
せっかく路肩に車を駐《と》めている、というのに、それを断わるのもどうかと思えた。
「いいわ。じゃ、一時間だけよ」
翔子は、車にのることに同意した。
住宅街の路肩を少し歩いて木下坂に出たところの、世界キリスト協会の大きな神殿とチャペルをとり囲んだ鉄柵の前に、グレイのラングラーが駐めてあった。
船越はキイを入れて助手席の、ドアをあけた。
「後ろより、こちらがいいでしょう。乗って下さい」
翔子は促《うなが》されて、荷物を抱えたまま、助手席に乗った。
船越は反対側からまわりこんで、運転席に坐った。
「この道を、まっすぐですね」
「そうです」
車はすぐにスタートした。
坂をのぼりつめると、マダガスカル大使館前である。道は左右にも分かれているが、車は直進する。
このあたり、右手は元麻布であり、左手は西麻布である。テレビ朝日通りと称される地域に着く少し前の左手に、「麻布レジェント」という白い大きなマンションがあり、その一階が「アヴァンタイユ」という店であった。
「そこのお店よ。横が駐車場だから、左にまわってください」
翔子がそう指示すると、船越はしかし、車を止めるどころか、反対に猛加速して、その店の前を走りすぎたのであった。
「どうしたのよ。約束が違うじゃないの!」
「今さら、お茶とケーキを前にして、時間を無為にすごすような仲じゃないでしょ。ゆっくり話す場所なら、もっとほかにもありますよ」
「止めて。私、降ります」
船越の左手がのびて、翔子の手首がぐいと掴《つか》まれていた。
「何をなさるんです。やめてったら!」
「翔子さん、暴れるなら、暴れてもいいよ。この車、対向車にぶつかるだけですからね」
船越は静かに、平然とした声で言った。
「あなたがどうしてもいやだというのなら、ぼくはわざとぶつけるかもしれない」
――船越周太郎という男、人間はそう悪くないのかもしれないが、どこやら日常レベルをすぐ逸脱するような、狂的《きようてき》なところがあった。いつぞや突然、訪れて熱海に密会追跡旅行に誘いだした時もそうだったわ。今日もどうやら、そのようであった。
むかし、社会人となって張り切っていた矢先に苦汁をなめた肺の療養生活や、加寿美という強烈な個性の女に虐《しいた》げられた生活の中で、屈折したものができたのかもしれない。
「ぼく、奥さんが好きになったんです。もう奥さんとは呼ばずに、翔子さんと呼びたい。翔子さんをいっぱい愛することで、加寿美のやつを見返してやりたい。ねえ、ドアをあけて飛び降りるなんて、そんな冷たいこと、言わないで下さいよ」
4
浴室の窓から、夜景が見えた。
夜景というには感傷がありすぎて、淋しすぎる。山手線の線路と駅とプラットホームが、すぐ眼下に蛍光灯に照らされて、白々と見おろせるのだった。
プラットホームの屋根の下に佇立《ちよりつ》する人々が、小さく見える。ホームに電車が出入りするにつれ、大勢の人々が吐きだされ、また乗りこみ、電車が動きだして、そこには確実な生活の匂いがあり、手触《てざわ》りがあった。
鴬谷《うぐいすだに》に林立するラブホテルの五階であった。
眼下には生活がみえるが、でもここには、生活のかけらさえもない、と翔子は思った。
翔子は浴室の洗い場に立ち、ほんのいっとき、自分が全裸であることも忘れて、見るともなしに、そんな外の風景を見ていた。
船越周太郎に車で拉致《らち》されてから、一時間後である。船越は、やみくもに車を飛ばし、麻布とは正反対の、下町の鴬谷まで翔子をつれてきたのである。まるで翔子に、何もかも忘れさせるために、翔子の知らない異世界にひっぱり込んできた、という趣《おもむ》きがあった。
いきさつには多分に、不可抗力的な部分があったとはいえ、今はもうすっかり諦《あきら》めて、今夜もまた自分は、船越と寝ようとしている。
翔子は自分がだんだん、自堕落な女になってゆくような気がした。ああ、私って、なんて淫乱《いんらん》な女だろう、と思ったりもする。
でも、幸佑を喪《うしな》い、生活を失った今の自分は、心の痛手と空洞を埋めるためにも、その流れに身を委《まか》せるしかないような気がした。
地獄の火にでもなんでも、思いっきり飛び込んで灼《や》かれてみるしかないような気がした。
ラブホテルの窓は狭い。曇りガラスが、ほんの少し斜《なな》めにあいているだけなので、そこから外を覗《のぞ》いていても、外からは翔子の姿は見えない仕組みになっている。
うしろの浴槽の中には、これも一糸まとわぬ全裸になった船越が首まで湯につかっていた。
「何か、見えるんですか?」
船越が声をかけた。いくらか不満そうな響きがしたのは、自分の存在が初めから終わりまで、無視されたような気がしたからかもしれない。
翔子は無言のまま、窓際から離れた。
そして、彼女はもうあまり窮屈な姿勢で、タオルで前を隠したりせず、わざとのように堂々と乳房を張り、股間の茂みをなびかせて、浴槽のふちまで歩き、肩から湯をかけて、湯の中に片足を踏み入れた。
船越の視線は、自然に近づいてくる翔子の下腹部のあたりに集中する。その茂みがそよいだり、歪《ゆが》んだり、時にはその黒艶のある光沢のきらめきの奥に見え隠れするルビー色のはざまを、熱い眼で見ているのかもしれない。
翔子は、思いっきり自堕落になって、一人の男をきりきり舞いさせる快楽に身を委せてみようかとさえ思った。
浴槽は、かなり広かった。岩風呂を売りものにしているラブホテルで、ぬめりのある光沢をもつ佐渡の蛇紋岩や、赤岩など、自然の岩石で、浴槽がかたちづくられていた。
翔子は白い裸身を湯にしずめた。
船越が傍に寄ってきて、肩を抱いた。
抱き寄せて、首すじにくちづけをする。
翔子はされるがままになっていた。
湯に沈んだ乳房に手がまわされ、首すじから耳のあたりに舌が絡《から》まり、なんとなくざわめきたつ甘美な痺《しび》れが、乳房のあたりから湧いてきたりする。
「くすぐったいわ。……やめて」
翔子が甘い声をあげると、船越は乳房を押し包んで、もてあそんでいた手を下に旅行させ、翔子の股間をまさぐってきた。
そこはまだ潤ってはいないが、微《かす》かなうるみと湿《しめ》りの気配が湧きはじめているはずである。
船越は指先に感じたもので自信を膨《ふく》らませ、また自《みずか》らのものを猛々《たけだけ》しくさせたらしく、いっそう裸の翔子に密着してくる。
「はなして……息苦しいわ」
船越ははなれはしない。白くぬめるように脂肪がのり、湯を弾《はじ》くようにして光る翔子の丸い肩を、片方の腕で抱きかかえるようにして、あらあらしく太腿の間を右手でひらこうとした。
「いやいや……」
翔子が抗って太腿を縮めると、股間の奥に手を強く差しこんで、ラビアをまさぐってくる。秘唇はますます潤み、愛液にぬめっているのが、耕される指の感触でわかった。
「私……こういうことされるの、いやなの。やめてください」
押しのけようとする翔子の手を払って、船越の指が動く。
「あン……」
翔子の顎《あご》が、かすかに反《そ》る。
腿が、思わずひらく。
船越がその間に割りこんでくる。
湯の中で、昂《たか》まりを強引に割れ目に押しつけようとした。
「いやと言ってるでしょ。こんなところでは、いやよ」
翔子は低く呻《うめ》くと、上半身をくねらせて、不意に男を振り払うようにして、立ちあがった。
はずみに、湯がザザーッと流れおちて船越の顔にかかった。船越が茫然と見あげる中を、翔子はバスタブから上がり、悠然と更衣室に入ってゆく。
それはもう、男を無言で寝室につき従える、といったようなものであった。
翔子が寝室に誘わなくても、船越はふらふらと風呂からあがって、大急ぎで寝室に追いかけてきたくなるような雰囲気があった。
枕許の灯かりが、ほんのり灯《とも》っている。
翔子はまっ白いシーツの上に、われとわが身を叩きつけるように、身体を投げだした。うつ伏せになったまま、顔をシーツに押しつけ、いやらしく火照《ほて》ってきた身体と呼吸を鎮《しず》めようとした。
眼を閉じたまま、谷津のことを考えた。
鴬谷でこんなことをしていては、もう谷津に合わせる顔がないと思った。
いつのまにか船越が風呂からあがってきて、傍に入ってきた。船越はうつ伏せになったままの翔子の、肩から背中のまん中をすっと、臀部《でんぶ》の割れ目のあたりまで、愛撫するように舌で刷《は》いてゆく。
羽毛のような舌づかいであった。
船越は加寿美にも、こういうことをしていたのだろうか。
(あるいは加寿美から、そういうことをしろ、と逆に仕込まれたのかもしれない……)
翔子はされるがままになっていた。気分を放埒《ほうらつ》にしてみると、舌がそよいでゆく道すじに沿って、魂が蝶のように漂《ただよ》いだすのがわかった。
船越は形よく盛りあがった翔子の臀部を、優しい愛犬のように舐《な》めてゆきながら、その内側へ占領の領域を広げようとしている。
臀裂《でんれつ》の深みの、湿った谷間や秘毛のあたりにまで、舌先や愛撫の手がすすむと、翔子のルビー色の沼はさざ波のように湧きたって輝きだし、彼女の全身が小刻みに震えてくるのがわかった。
船越は、熱海でたしかめた散歩道を思いだすように、翔子の身体の上の小径《こみち》を幾すじも、辿《たど》った。
腋《わき》の下を舐められて、あっと翔子が仰むけになると、今度は乳房、ウエストを這って腰のくびれ部分、脂《あぶら》のりした下腹部へと、船越の舌が躍り、翔子は呻《うめ》き、全身が火の色に染まっていくのを覚えた。
(なかなかの女殺しだったのね。加寿美の夫って……)
翔子は他愛ないことに気づいた。
(やはり加寿美というあのキョーレツな女が、夫を、このように仕込んでいたのに違いないわ)
いつのまにか、女体を割られていた。
船越が男性自身をぎらぎらさせて分け入ってきた時、翔子は意識を宙に放埒《ほうらつ》に投げだし、肢体もまた放埒にシーツの上に投げだしていた。
その中を船越は、漕《こ》ぐ。
漕がれるにつれて、翔子は感度が緻密《ちみつ》になってゆくのを感じて、しだいにわれを忘れていった。
みっしりと翔子の世界を充《み》たしたものが、みっしりと動きつづける。翔子は何度か、恥ずかしい声をあげはじめていた。
(ひどい……ひどい……車をぶつける、なんて言って連れ込み宿に引っぱり込むんだもの……)
つらぬかれるたびに、自らの感覚が上昇するのを、翔子ははっきりと、捉えることができた。それはもう相手が船越ではなくなっているような気さえした。自分を抱いている男が、谷津のようでもあったし、夫の幸佑であるような気さえして、その不思議な異性の力が魔物のように動くにつれ、一段ずつ、一段ずつ翔子は押しあげられてゆく。
蕩《とろ》けるような感覚が濃厚になり、翔子は自分が拉致されてきたことも忘れて、完全に恍惚《こうこつ》の極《きわ》みに達していた。
眼を閉じ、あえやかに唇をあけ、甘美感の中で翔子は何度か、はしたない声で叫び、髪の毛が顔におおいかぶさったのさえ覚えていなかった。
(このままでは、ひどすぎる……)
(私を何だと思っているの……)
終わったあと、翔子はぐったりして、船越に話しかける元気さえもなかった。
やっと話しかけたのは、三十分後、のろのろと起きあがって、バスを使って汗を流し、気分をすっきりと立て直してからである。
出席を予定していた友達のパーティには、もう行く時間がなくなったのに気づいた。
「ねえ」
翔子は冷蔵庫から清涼飲料水の缶をとりだし、傍らの椅子に坐った。
「起きてちょうだいよ」
「うン……?」
ベッドにうつ伏せになってひと眠りしていた船越が、やっと起きあがる。
「話って、何だったんでしょうか」
「え?」
船越はまだ寝呆《ねぼ》けまなこである。
「麻布の家の前に立っていた時、幸佑たちの事故のことで、何か話がある、とおっしゃってたじゃありませんか」
「ああ、そうでしたね。ぼくはあなたが欲しかったので、つい夢中になってしまって、肝心のことを忘れていたようだ」
「もう気が済んだでしょ。話して下さい」
「加寿美のことなんだけど……ぼくもあとで気がついたんだけど……もしあれが交通事故ではなく、誰かに殺されたんだとしたら、ご主人よりも加寿美のほうに原因があったんじゃないか、という気が最近、してきたんですよ」
「どういうことかしら」
翔子は思いがけないことを聞き、耳をそばだてた。
谷津の話によると、夫の幸佑が、ウオーター・フロントの入札に絡《から》んで、世間《せけん》に知られたくない秘密をもっていたため、殺されたのではないか、というニュアンスだったが。
「加寿美は女だてらに、会社のために男まさりの仕事をしていたが、内心では大鵬建設を憎んでいたんじゃないか。それで加寿美は大鵬建設に痛手となる何かを企《たくら》んで、それが発覚したために殺されたんじゃないか――という気がしてならないんです」
「どうして加寿美さんが、会社を憎まなければならないの?」
「会社、というか。上層部の鷲尾竜太郎社長とか、首脳部とかを本心ではとても憎んでいたんじゃないかという気がするんです」
「でも、おかしいわよ。あなたの話では、加寿美さんは、会社のために接待ゴルフや、土、日曜日の出張までして、男まさりの働きをしてたんでしょ。それも社長にひどく気に入られ、信頼されていたのなら、もしかしたら、大人の男女関係の匂いだって感じるわ。あなたには耐えられない話でしょうけど……ごめんなさい……私はそれを感じるわ……それほどまで上層部に深入りしていた加寿美さんが、どうして会社を憎んでたって、言えるの?」
「うん、そう言われれば、ぼくもうまく説明できなくて弱いんだが……。加寿美は会社を憎み、何やら復讐しようとしてたからこそ、あんなふうにぼくとの家庭生活も犠牲にして、鷲尾社長の秘書として、ぴったり密着して行動をともにしていたんじゃないかって……」
「つまり、何かの秘密を掴もうとして?」
「ええ……大袈裟《おおげさ》にいえば。ぼくにはそんな気がしてならないんですよ」
「あなたがそう言うだけの証拠があるの?」
「ある。……あとで気づいたんだが、二つばかり証拠のようなものがある」
船越周太郎は、短い二つの事実を述べた。
ひとつは、最近になって加寿美の遺品を整理していたら、日記が出てきた。その日記には、たいしたことが書かれているわけではないが、大鵬建設の上層部の日程や秘密会議の内容、鷲尾竜太郎と行動をともにしている間の自分が見聞したこと、社長がどういう政治家とつきあい、どういう入札の工作をしているかなどが、克明《こくめい》に記されていたというのである。
もう一つは、加寿美の出生と生い立ちである。
船越も詳しいことはよく知らないが、何でも加寿美は、千葉県船橋市のそこそこの建設会社の社長の家に生まれたそうだ。母親はミス千葉だったそうで、加寿美の美しさは、そういう母親ゆずりかもしれない。しかし、父親の会社は、加寿美が高校二年の時、現場事故を起こして倒産し、救いを求めた親会社の鷲尾建設からも相手にされず、のみならず母親は鷲尾建設の社長、鷲尾竜太郎から何らかの辱《はずか》しめを受け、八方ふさがりとなった両親は、心中するという悲惨な運命に見舞われたそうである。
「――詳しいことは知らないけど、ぼくはそういう話を聞いたことがある。これまでは、加寿美が大鵬建設の秘書課に就職したのは、そういう経緯があったので鷲尾竜太郎が恩情で加寿美を引きとったのではないかと思っていたけど、今になってみると、それはまったく逆だったんじゃないかという気がしだしたんです」
「逆……というと?」
「むしろ加寿美が親戚に引きとられて苦労して大学を出たあと、自らすすんで、大鵬建設の秘書課に就職したんじゃないかと……」
「どういう目的でかしら?」
「だから……その……何というか……復讐のために会社のトップシークレットを探るとかの目的で……」
船越は、そう言った。
「でも、加寿美さんは結局、私の夫と佐渡であんなふうになってしまって、ちっとも復讐なんか、なさってないじゃありませんか」
もし、船越の言うとおりだとすると、加寿美の末路は哀れすぎる、という気がした。
「ううーん。そういわれると、ぼくにもよくわからないんだが、ともかく加寿美の側にも、狙われる原因があったような気がしてならない。――加寿美とご主人は、それで殺されたのではないか。殺したやつはいったい誰なんだと……」
翔子は、ポカリスエットを一口飲み、宙に眼を投げた。
小窓を少しあける。相変わらず、眼下には鴬谷の駅のホームが見える。
(佗《わび》しい夜景だわ……)
白々とした蛍光灯に照らされた無人のホーム。
今ごろ、谷津省平が麻布の家に戻ってきて、鍵が閉まっているので、公園のあたりをうろうろしているのではあるまいか。
何とはなし、翔子は谷津にあわせる顔がないような気がした。
しかし翔子はその気持ちを振り切るように、すぐに強い口調で言った。
「ねえ、船越さん」
「うん?」
「その加寿美さんの日記、あなたの家に保管されているんでしょ。それ、私にも見せてくださらない?」
「どうして、あなたが?」
「どうしてって、私の主人と一緒に亡くなった女性の日記でしょ。尊い遺品ということになるわ。私にだって、見る権利があると思うけど」
翔子は、その日記を手に入れて、谷津省平に検討してもらおうか、と思いついたのである。彼なら、そこから何かの手掛りを掴むかもしれない……!
5
――谷津省平は、銀座に現われていた。
夜が深まり、ネオンが熟《う》れている。
透明な光が交錯《こうさく》しあう並木通りを六丁目の角まできて、幾つかのバービルをふり仰いだ。その喉元《のどもと》に、赤、黄、水色の光のしずくが降りこぼれてくるような、ネオン看板の列であった。
やっと「舞姫」の電飾文字を見つけて、大通りからそのソシアル・ビルというやつにはいる。
銀座族とか社用族とかいわれる連中、伝書鳩のようによくもまあ、間違えずにこのネオン・ジャングルの中を、馴染《なじ》みの店に通えるものだ、とほとほと感心する。
エレベーターに乗った。誰も乗ってはいないが、香水の香りだけがほのかに積載されていた。
谷津は夕方、南平台から築地の本社に戻って、月例経済観測のコラム記事を書き、九時になって退社してきたところであった。
エレベーターを四階で降りた。通路の奥に「舞姫」はある。渋いオーク材のドアをあけると、踵《かかと》が埋まりそうな絨毯《じゆうたん》と、柔らかい間接照明が谷津を包んだ。
でも、店はけっこう広くて、カウンターやボックス席があって、カラオケ自慢が立って歌えるステージまである開放的なクラブであった。
客は六分ぐらいの入りであった。
「いらっしゃいませ」
支配人が片隅のボックス席に案内した。
谷津はそういい客ではない。いかにも、たまに流れこむ客が案内されそうな柱の陰の窮屈な席であった。
「あら……電話をすればよかったのに」
美伽が目ざとく見つけて、やってきた。
「うン、通りすがりだったからね。急に美伽の顔を見たくなったんだ」
「社用族でもないくせに、無理することないわよ」
「独身貴族だから、月一くらいなら通える。それに、美伽ならディスカウントしてくれるからね」
谷津は美伽と話しながら、店内を見回した。
ママの峰尾千登勢の顔は見えなかった。二組ぐらい威勢のいい重役ふう、中年サラリーマンふうのグループがボックスを占領しているのが目立った。
「お待ちどおさま」
ウエイターが洋酒一式を運んできた。
「水割りでいい?」
美伽が、そう聞く。
「ああ、いいよ。きみの分も作れよ」
「ええ、いただくわ」
美伽からグラスをもらって飲みながら、
「沙織ちゃん、まだ来てないのか」
「あのまんまよ。どうしちゃったのかしらねえ」
「店には、何の連絡もないのかい?」
「ないんだって。一週間分の給料が未払いなのにって、ママ、心配してるんだけど。マンションに何度、電話をかけても、誰も出ないみたいなのよ」
「マンションはどこだっけ?」
「三軒茶屋。もう部屋も移って、どこかにデューダしちゃったのかもしれないけど」
(そうだろうか。それならいいが……)
と、谷津はその、あまりご縁もなかった売れっ子ホステスのことを心配した。一度、そのマンションというものを訪ねて、管理人に話して部屋を覗《のぞ》いてみる必要があるのではないだろうか。
谷津には何といっても、沙織という女性が、鶴田幸佑の係で、彼ととても親しかったらしいことや、沙織の音信不通が、鶴田の失踪の時期と重なっていることが、どうも気になって仕方がないのである。
「沙織さんのマンションと電話番号、ママから今夜中に聞いといてくれないだろうか」
「いいわ。ママは気をまわすから、会計担当のマネージャーに聞いておくわ」
「うん。そうしてくれ」
谷津は、明日にでもそのマンションに寄ってみよう、と思った。沙織がいるにしろ、いないにしろ、部屋にはいってみれば何かわかるかもしれない。
「ところで、ママは?」
「今、お客さんを送りにいってるところ」
峰尾千登勢は南平台から、もう店に戻っているようである。
谷津がそう思った時、入口のほうで賑《にぎ》やかな声があがった。濃紺の和服をきた女が、二、三人のホステスと、また新しい一組の客を従えて、戻ってきたところだった。
和服の方は、むろん、ママの峰尾千登勢である。昼間は、うしろ姿だったが、正面からみると、ますます男を惹《ひ》きつけそうな、眼鼻立ちに強い輝度のある個性的な容貌だった。
あ、と谷津が小さな声をあげたのは、千登勢の美貌ぶりに気を取られたからではない。その後ろから、いかつい肩をいからせて這入ってきたのが、何と昼間、尾行したばかりの大鵬建設の社長、鷲尾竜太郎だったからであり、その後ろに、秘書らしい若い、美しい女性と、プレジデントを運転していた剣持勇司という男までが尾いていたからであった。
(剣持勇司というのは、運転手兼鞄持ち兼用心棒ででもあるのだろうか。剣持が梨本のあとガマなら、失踪したままの梨本も、同じ役目をしていたのかもしれない)
鷲尾と女性と剣持は、ママに従えられて一番奥のほうのボックスに歩いていった。その席は、さっきから重役ふうの中年男たちが女性をはべらせて、威勢のいい談笑の声をあげていた席であった。
鷲尾と秘書の女性は、その席に坐った。
しかし剣持だけは、その隣のボックスに坐った。そこでもすでに別の三人の男が坐っていて、四人一組で合流したことになった。
「ちょっと、席を代わってくれないか」
谷津は耳打ちして、美伽と席を代わった。
剣持から顔を見られる角度だったので、見えないよう修正したのである。
すると今度は、以前からそこに坐っていた三人組のうちの一人の顔を、斜《なな》め正面からみる位置になった。
グレイの背広を着たその男の顔をみた瞬間、あッ、と谷津は声をあげそうになった。
いつぞや、麻布の翔子の家に侵入して探しものをし、あまつさえ、翔子を襲っていた男たちではないか。
グレイの背広の男は、二人を使嗾《しそう》していた男であった。翔子の話によると、たしか松村と呼ばれていた男のようである。すると、あとの二人も、柳瀬とか、韮崎という男であろうか。
さいわい、むこうはホステスたちと夢中でワイ談でもしているらしく、谷津には気づきはしなかった。
「ずい分、賑やかだね、むこう」
「鷲尾さんのいる席は、大鵬の重役や総務部長グループよ。来週の大安吉日の日に、赤坂のオリエンタル・ホテルで会社創立四十周年記念パーティを盛大にひらくそうで、それの前祝いとか、打ちあわせの流れだとか言ってたわ」
「ほう。会社創立四十周年記念式典ねえ」
大鵬建設は戦後、鷲尾竜太郎が単身、上京して個人工務店からスタートさせた会社だが、前身の「鷲尾建設」の設立時点である昭和二十五年を一応、会社の公式創立基点としているのであろうか。
「かなり、盛大にやるのだろうか」
「オリエンタル・ホテルで一番広い孔雀《くじやく》の間を借り切るというから、各界各層の名士を二千人くらい、集めるんじゃないかしら」
「ええッ、凄《す》ッげえなあ。大変なイベントじゃないか」
「ええ。私たちもみんな、コンパニオンとして狩りだされるそうよ」
「パーティ屋だけでは足りないのかもしれないね」
言いながら、谷津は、その創立記念パーティで社会的に権勢を誇ろうとしている鷲尾竜太郎の自己顕示欲の意気込みというものを感じた。
すると、今日、南平台の薬王院の私邸を訪れていたのも、その式典のための政界協力を依頼する用事だったのだろうか。それとも、もっと別の用事を兼ねていたのだろうか。
「お代わり、作る?」
「うん。きみの分も作りたまえ」
「まだ、ダブルでいいでしょ?」
「ああ、いいね。それにしてもきみは相変わらず、ここでは売れっ子じゃないんだね」
「どうして?」
「だって、あまり儲《もう》けにならないぼくの傍にずっと居てくれるもの」
「あら、省平さんの傍につきっきりでいるのは、犠牲的精神よ。今にママが変な眼でこちらを見るようになるから」
「それまでには退散するよ」
ところで、と谷津は聞いた。
「あの鷲尾社長の傍にいる女性は?」
「うちの子じゃないわよ」
「もちろん、わかってる。新しい秘書かな?」
「そうみたい。船越加寿美さんのあとガマに入れた秘書じゃないの。三浦歌穂さん、といったかしら。社長がよく夜まで引っぱり回しているところをみると、もうお手つきかもしれないわね」
(うーん、チッキショー! 男|冥利《みようり》だな)
谷津は、故《ゆえ》知れずに男の嫉妬を感じた。
それにしても、剣持勇司のほうのテーブルも気になる。かたや、大鵬の首脳部のいるテーブルの隣に、まさかならず者たちがいるとは思えないので、剣持や松村たちも、いっぱしのサラリーマンということになるのだろうか。
「あの剣持といったかな。鷲尾さんの鞄持ちの席に坐っている他の三人組、どういう人たちだか知っている?」
「ああ、松村さんと柳瀬さん、韮崎さんたちね」
「ずい分よく知ってるんだな」
「だって、あなたがくる前までは、私、あの席に坐ってたんだもの」
「あ、そうか。で、大鵬建設の社員……?」
「ううん。下請けの武相開発とかいう建設会社の社員だそうだけど、その正体は地上げ屋さんみたいね」
「どうして、それがわかるんだい?」
「話題から察しがついたのよ。東京湾横断道路をあてこんで、買い込んでいた木更津周辺の土地が、二十倍とか三十倍とかにはねあがって、大儲けしたとかいう話をしてたもの。大鵬建設って、資金運用に土地も動かしてるんでしょ?」
「さあ、それはよく知らないけど」
谷津はまだ調べてはいないが、あり得ることかもしれない、と思った。今はどこの会社も大手は、過剰流動資金を株や土地に運用しているから、大鵬だって、その例に洩れないかもしれないし、建設会社なら、不動産屋すれすれの下請け会社をたくさん抱えているので、土地を動かすのにうってつけかもしれなかった。
その地上げ屋ふうの三人組があの日は、翔子の家に押し入っていたのである。よほど緊急に、鶴田幸佑が残したはずの「ルイ・カトーズのブリーフケース」というものを手に入れたかったようである。
そのブリーフケースは、まだ見つかってはいない。
鶴田幸佑は、どこかのロッカーか、貸金庫にでも、それを隠しているようである。
その鍵だけは、谷津が預かっている。
谷津はこの鍵がどこのものなのか、ずい分、思案したり、尋ねてみたりしたのだが、まだ見当がつかないでいる。
あの三人組も今、引きつづき必死で、ブリーフケースや、それを入れたロッカーなり金庫の鍵を、探しているはずであった。
三人組は今夜、どこに戻るのだろうか。そもそも「武相開発」というものの正体は、何なんだろうか。剣持勇司があの三人組とも親しいとすれば、彼を運転手兼ボディガードとしているらしい鷲尾竜太郎は、言ってみれば、四人ひっくるめて、表沙汰にはできない仕事をやらせる場合の「親衛隊」、「実働部隊」として、手なずけているのかもしれない。
ふつうの経営者なら考えられないが、戦後、幾つもの鉄火場や修羅場を踏んできた鷲尾のようなタイプは、そう考えてもおかしくはない気がした。
(よし、見張ってみよう。連中が出てきた時に尾行すれば、どこやらの蝮《まむし》の巣にでもはいってゆくかもしれない。何かの収穫がつかめるかもしれない)
谷津はそう決心した。
それからしばらく飲んで、美伽にこっそり支配人から、消息不明の沙織の住所と電話番号を聞いてきてもらい、谷津は頃あいをみて、「舞姫」を出た。
エレベーターで降り、ソシアル・ビルの入口がみえる路地の角に立った。あたりに手頃な喫茶店など、ありはしなかった。
谷津は二十メートルと距離を区切って、ソシアル・ビルの入口が常にみえる範囲で、ゆっくりと何度も往復した。
四十分くらい待った時、見張るビルのエレベーターが開いて、賑やかにママやホステスに見送られて、鷲尾竜太郎と秘書の三浦歌穂が降りてきた。
表に黒い乗用車が駐《と》まっていた。
昼間のニッサン・プレジデントであった。銀座には違反承知で短時間を言いわけに、路上駐車をする高級車があとをたたない。
(社長専用車に乗って帰るつもりだな……)
すると、運転手の剣持は、店ではアルコールを飲まなかったのだろうか。
その剣持と、三人組が社長のあとからすぐつながって、エレベーターで降りてきた。
道には迎車と空車のタクシーが、並んでいた。
谷津は手頃なタクシーに乗りこみ、運転手にチップを渡しながら、
「ちょっと事情があってね。あの黒いプレジデントを尾行してくれないか」
フロントガラス越しに窺《うかが》っていると、鷲尾竜太郎と三浦歌穂が、プレジデントの後部シートに乗った。
剣持がその運転席に坐った。
意外だったのは、その黒い車のうしろに駐車していたクリーム色のシボレーも、連中の持ちものだったらしく、松村と柳瀬、韮崎がうしろのシボレーに乗った。
三人組のほうも、誰か一人はノン・アルコールの酒席だったらしい。
二台の車は、すぐに発車した。
谷津は乗っていたタクシーの運転手に告げた。
「一台かと思っていると、二台になっちまった。ともかく二台が別れるところまで、やって下さい。どちらをマークするかは、その時になって考えます」
運転手は何もいわずに、むっつりとメーターを倒した。
銀座の混雑を抜けると、二台はつながったまま、日比谷交差点から濠端《ほりばた》を桜田門、三宅坂のほうに走ってゆく。
(あの様子だと、一緒に走ってゆくようだな)
めざす車は、三宅坂から左折した。
三宅坂を少し入ったところで、今度は右折し、国立劇場のうしろを通って、隼町《はやぶさちよう》に入り、麹町《こうじまち》の途中でさらに左折して、高低差のある高台の平河町に入ってゆく。
平河町一丁目あたりであろうか。その通りの途中で徐行し、やがて一つのまっ白いビルの地下駐車場の中に二台ともすべりこんでゆくのが見えた。
「そのへんで、駐めてくれないか」
谷津はタクシーを降りた。
乗用車とシボレーが消えたビルまで用心して歩いた。
そのビルは八階建てのこざっぱりしたマンションふうの、テナントビルであった。上層階が超高級マンションになっているようだ。
もっともその前に、こんもりと樹々に包まれた料亭風の邸がある。門灯がポツンとついているだけのその邸のほうが、なんとはなしに鷲尾竜太郎が女をつれて憩《いこ》うのに、ぴったりの感じであった。
(ビルの地下駐車場は、案外、ただの契約駐車場かもしれないな……)
谷津がどちらに焦点を絞ってマークしようかと迷いながら、地下駐車場への入口に近づいた時、ふいっと背後に、二人の黒い人影が湧いていた。
黒い人影は左右から、谷津を囲んでいた。
薄明の闇に浮いた顔は、三人組のうちの二人であった。
「谷津さんよ、罠《わな》にはまったな」
「何だと?」
谷津は肚《はら》に力を入れて、睨《にら》み直した。
「あんたが尾行してくるのはわかってたんだぜ。昼間も、社長の車を尾《つ》けていたそうだな」
「そいつは人間違いだろう」
「それならいいが、今はもう言い逃れはできめえ。こっちへ来い」
谷津の両脇を固め、地下駐車場へのスロープの中につれこもうとした。
「待て。どうしてこんなことをするんだ」
「しれたことよ。他人の尻を追い回すのが大新聞社の記者のすることかい。それに鶴田の奥さんから預かっているものを、出してもらおうと思ってね」
「そんなものは知らない」
「ほざくな。あんたが麻布の鶴田の家に入りびたっているのは知ってる。黒いブリーフケースはあんたが預かっているはずだ。どこに隠しているかを知りたい。そのありかを言え」
「知らないと言ったら、知らない」
「ふん。痛い目にあわないと吐かないと見えるな。いつぞやの仕返しもまだしてないしな」
片腕を掴んだ男の頬に、酷薄な笑いが浮かんだ。
谷津の脳裡に、暴力記者、という週刊誌の見出しが躍った。乱闘のすえ二人に傷害を与えた暴力記者――。
だが、むざむざ半殺しの目にあうことはない。いや、もしかしたらこいつらは、本当におれを殺すかもしれない。
「おとなしく、こっちへ来い」
二人は腕をとって、暗い駐車場へ連れこもうとした。
少しはおとなしく歩いたが、危ないな、と谷津は途中から直感して、全身の骨を撓《た》わめた。
谷津とて高校時代から大学にかけて、柔道と合気道の心得ぐらいは、身につけている。社会部時代は、暴力団抗争の取材で何度か危ない目にもあっているのである。
コンクリートの壁が深くなった。スロープのカーブをまわった瞬間、横あいの闇がうねった。
右側の男が離れざま、前面にまわり、胸から銀色の光をとりだしたのである。白い光が鈍《にぶ》い灯かりをはじいた。刃物だと気づいた。太腿を狙っていた。第一撃は脇腹の寸前で躱《かわ》した。
無言だった。谷津の身体に手痛い損傷をあたえて、気力を奪った上で、何もかも吐かそうとしているのであろうか。
二人目が気合を発して、二撃目を入れてきた時、谷津は手刀で相手の手首を打って刃物を払い、股間に膝蹴りを入れた。
男がのけぞった。その顎《あご》を蹴りあげた。ほとんど、本能的な動きであった。計算もなにもない。
顎に膝があたったらしく、男は呻《うめ》き声を発して、うしろに反《そ》り、反った拍子《ひようし》にコンクリート壁に頭をぶつけて、ずるずると通路に沈んだ。
「この野郎――」
その隙《すき》に、最初の男が突っこんできた。仲間が倒されて、怒り狂っている。
谷津は躱して、横っ飛びに身体を開いた。泳ぐ男の後頭部に手刀を叩きこみながら、足払いをかけた。背がうねるところに、まわし蹴りを入れた。
顎に決まった。男は倒れた。胸に撓わんでいた暗いものが、噴出するようなバネの作動だった。
それで二人を倒したと思っていたら、もう一人が現われていた。谷津が体勢をたて直すよりも早く突っこんできた三人目のナイフも一瞬、躱したつもりだったが、刃先から血がこぼれた。
駐車場の薄暗い蛍光灯に、それは鈍く光った。谷津は太腿に疼痛《とうつう》を覚えた。光の下に冥《くら》い顔があった。笑っている。淀んだような笑みであった。一人だけ残ったその男は、間髪を入れずに、二撃目を入れてきた。
(この野郎――)
今度は谷津が唸《うな》り、身を躱してその攻撃を避けた。全身の毛穴が収縮した。
何度か危機を避けることができたが、いつまでもうまくゆくとは限らない。
三人目の男の後ろから、剣持というあの薄気味わるい男が出てくるかもしれない。
谷津は、後退《あとずさ》った。後退りながら距離をはかり、ぱっと背中をむけて、傾斜路を外にむかって逃げだした。
「待て――」
男が追ってくる。
スロープの外に出た。
コンクリート壁の陰に隠れた。
胸がふいごのように、波打っていた。
男が谷津を見失って、探していた。その背後に近づき、肩を叩いておいてから、ふりむいた瞬間の男の急所を、膝で力一杯、蹴りあげた。
決まって、男は身を折った。その髪を掴み、引きあげて、気合を発してコンクリートの壁に、身体ごと後頭部を叩きつけてやった。
男の身体が沈んだ。
引き起こして、鶴田幸佑の事件の真相を糺《ただ》そうかとも思ったが、駐車場から剣持の足音が響いてきたので、谷津は急いで立ちあがり、街灯のない小路のほうへむかって、いっさんに現場を後にした。
都心部なのに、夜間人口の極端に少ない高台のマンション街の空に、星は見えない。
もうすぐ、雨が降りだすのかもしれなかった。
第七章 陥《お》とし穴
1
二日後の夜、谷津省平《やづしようへい》が仕事先から戻ると、吉祥寺《きちじようじ》の谷津の部屋で電話が鳴り響いていた。
鍵穴にキイを差し込んでドアをあけているうちに、電話はいったん鳴り熄《や》んだ。
(――だいぶ前から、鳴っていたのかな)
谷津が靴をぬいで、コンビニエンスストアから買い込んできた飲み物やインスタント食品の類《たぐ》いを冷蔵庫に入れている時、電話がまた鳴りはじめた。
「はい。谷津ですが」
受話器を取りあげると、耳慣れない女性の声がきこえた。
「今晩は……私、沙織《さおり》よ」
えッ、と谷津は面喰らった。
「沙織さんって、あの……?」
店を無断欠勤して、音信不通だった「舞姫」の沙織だろうか。
谷津の気持ちを読んだように、
「ええ。銀座の『舞姫』の沙織よ。――美伽《みか》から聞いたんだけど、谷津さん、私のこと探してたんですって?」
「ええ。鶴田さんのことで色々、お伺いしたいことがありましたからね」
谷津は先日の晩、美伽から三軒茶屋の沙織のマンションの住所を聞きだしたので、翌日にでも尋ねてみようと思っていたところである。
しかし、あのあと、平河町であんなことがあったので、何となく警戒する気分が働き、まだ訪ねてはいなかったのである。
「あなたはどうして、お店を無断欠勤していたんですか? マンションにも長い間、いなかったという話じゃありませんか」
「ちょっと事情があって、九州の実家に帰ってたの。みんな心配してたみたいで、びっくりしちゃったわ」
「勤務先にも知らせずに旅行するとは、ひどい人だ。ちょうど鶴田さんに、ああいう事故が起きたばかりの時期だったので、みんなが心配するのは、あたりまえでしょ」
「そうね。鶴田さん、大変だったみたいで、沙織もショックを受けたわ」
「ところで、ぼくに何か用事ですか」
「ええ。その鶴田さんのことで、お願いがあるのよ」
「何でしょう?」
「谷津さん、鶴田さんから何か預かっていない?」
「いいえ。鶴田さんとはこの二年間、一度も会っていません」
「あ、そうか。じゃ、奥さんからかな。ねえねえ、鶴田さんの奥さんから事故のあと、革《かわ》の資料ケースとか、コインロッカーの鍵とかを、預かってない?」
沙織は、どうしてそれを知っているのだろう。
谷津は少し面喰らったが、用心深く、
「もし、預かってるとしたら、どうだというんです?」
探りを入れてみた。
「ちょっと、見せてほしいの。私、困ってるのよう」
沙織という女は、ずい分、慣れ慣れしい言葉遣いをする。
谷津はまだ会ったことはないのである。美伽から何かと話は聞いていたが、銀座の店でも一、二を争う女性など、谷津とは直接には、何の縁もなかったのである。
もっとも商売柄、沙織は誰にも親しい言葉遣いをするのかもしれない。
「どうして困るんです?」
谷津は聞き直してみた。
「鶴田さんから私も、コインロッカーの鍵を預かってたのよ。おれにもし何か起きたら、このコインロッカーのものを警察に届けてくれ、と頼まれてたんだけど、その鍵を私、失《な》くしちゃったのよ。九州旅行とか、いろいろやってるうちに」
谷津は胸がどきん、として、
「それ、どこのコインロッカー?」
思わず息をつめて、窺《うかが》う声になった。
「渋谷ターミナル駅のものらしいわ。ロッカーの置かれた場所を示す書きつけはもらってるんだけど、肝心の鍵を失くしちゃってて、どうすることもできないのよ」
「ぼくに救いを求められても、どうなるものでもないでしょう。ぼくが預かっているキイは、まったく別の場所のコインロッカーの鍵かもしれないし……」
「同じコインロッカーの鍵かもしれないわよ。ねえね、ほら、チューインガムで鋳型を取って、合鍵を作っておくって方法があるでしょ。鶴田さんって、用心深かったから、奥さんと私の双方に預けてたのかもしれないわ」
あ、なるほど、そういう考え方もできるな、と谷津は驚いた。
もし同じコインロッカーの鍵だとしたら、沙織は今、谷津が翔子《しようこ》から預かっている鍵を借りて、鶴田|幸佑《こうすけ》から頼まれていたことを果たそうとしているのかもしれない。
「ねえ。その鍵、貸してほしいの。何だったら、一緒に行っていいわ。今夜私、仕事を休んで部屋にいるから」
支障がなかったら今すぐにでも来てくださらないかしら、というのが沙織の用件であった。
谷津は、受話器をもったまま、一瞬思案した。
しかし、思案するまでもなかった。
もし同じ鍵だとしたら、思いがけない収穫である。コインロッカーの所在もわかる。その中の秘密資料も手に入る。そうでなくても、沙織からは鶴田幸佑のことで色々、話をきくことができる。
腕時計をみると、夜の九時であった。
一時間もあれば、三軒茶屋には着く。しかし、念のために谷津は、
「沙織さんのマンションの所在地と電話番号を、詳しく教えてほしいな」
谷津がそう訊《き》いたのは、この電話の女が、もし万一、野方沙織ではないかもしれないので、テストをしてみたのである。
すると女は、三軒茶屋二丁目××番地、タイガーズマンション四〇六号室、とすらすらと沙織の住所を言い、電話番号も教えてくれた。
その住所、電話番号は、おととい美伽が支配人から聞きだしてくれたのと一致していた。
「わかりました。じゃ、これからすぐにでも伺《うかが》います」
「待ってるわ。ワイン、冷やしておくから、鍵も忘れずに持ってきてちょうだいね」
ワインと鍵がどう結びつくのか、さっぱりわからなかったが、何となく、そそられる感じであった。女性というものはだいたい、飛躍したもののいい方をするものだ。
谷津がスーツを脱ぎ、ブルゾンに着がえ、翔子から預かっていた鍵をサイフに入れて外出しようとしている時、リビングのほうでもう一度電話が鳴りはじめた。
急いで、リビングに戻って受話器を取りあげると、今度は何と、佐渡の森山警部補からであった。
「や、これは――」
谷津は幻の美女からの電話にでれっとしていた気分を、しゃっきりとたて直した。
「その後、いかがですか」
「夜分、恐縮です。先日は写真を送っていただき、ありがとうございました。おかげで、鶴田幸佑と船越|加寿美《かすみ》と思われる男女をみたという目撃者さがしが、かなり捗《はかど》りましてね」
地方警察官の特徴かどうかわからないが、森山警部補はずい分、律義《りちぎ》な男である。
まず報告した。
事故発生の前日、鶴田幸佑と船越加寿美の二人は、レンタカーではなくベンツを使って、けっこう島内観光をしていたらしい。宿泊していた両津市内の加茂ホテル周辺はもとより、新穂《にいぼ》村の本間家の能舞台や、日蓮配流の地とされる根本寺や、朱鷺《とき》の郷《さと》や、真野湾近くの妙宣寺、大佐渡スカイラインの山頂コースにある大平台展望スカイレストランあたりで、確かにこの二人の男女を見たという目撃者を見つけだすことができたそうである。
「それはまあ、事件を解く直接の手掛りにはなりませんでしたがね。それとあわせて、妙なことが発見されました。東京・品川ナンバーのベンツが一台、妙宣寺という有名な寺の近くの、杉林の中に放置されているのが、昨日になって、やっと発見されたんです。ナンバーを照合してみると、これが、梨本忠義名義で新潟港から乗船してカーフェリーに積まれていた例のベンツです。気になったのは、そのベンツは山林の中の杉の木に衝突して止まった形跡がうかがわれたので、フェンダーをあけて色々、検査してみたところ、何とブレーキ・パイプが途中で壊《こわ》されていました。つまり、ブレーキが利《き》かなくなっていたのです」
谷津は、濡れたゴム手袋で、ぎゅっと心臓を掴まれたような気分を味わった。
「ブレーキが利かない状態……?」
「ええ。おわかりでしょう。気づかずにその車に乗って走りだしたら最後、もう止まらないので、運転手は危機にさらされる。つまり、殺人犯がよく使うトリックですな」
「……じゃ、やはり?」
「ええ。そうとしか思えません。事故というより殺人の疑いが濃厚になってきました」
「しかし、事故発生からもう二週間経ちます。ただでさえ目立つ高級車のベンツが、今頃になってやっと発見されたというのは、どういうことです?」
「ああ、それはですな。放置されていた現場が、道路からかなり奥に入った杉林の中で、ふつうでは見つかりにくいところなんです。たまたま椎茸《しいたけ》のホダ木を見まわりにきた地元農家の人が見つけて、警察に届けたわけです」
「その車の中には、鶴田幸佑と船越加寿美が確実にそこで死亡した、あるいは殺されたという形跡が、発見されましたか?」
「激しいショックの跡は残っていましたが、血痕や毛髪片などの遺留品や、死亡したとみる明確な証拠は、車内には残っていませんでした」
「変ですね。仮に二人がそのベンツで衝突のショックで死んだにしても、二人の遺体は妙宣寺近くの杉林の中ではなく、大佐渡スカイラインの崖下で、爆発炎上した車体の中で発見されている。これは、どういうことでしょうね?」
「ええ、ですから……そこですな、問題は。偽装事故、あるいは偽装心中を装《よそお》われた、とみれば一番、妥当《だとう》な答えになりますね」
「しかし、それなら犯人は、どうしてベンツを林の中に隠したままにしていたのでしょう。ブレーキ系統に手を加えたしろものなら、のちに手掛かりになるので早く始末するか、あるいは修理して自分で運転して、さっさと現場から持ち去るはずですよね」
「ええ。そこも疑問ですな。林の奥なので当分、見つかることもあるまいと、油断したのかもしれませんが……」
森山警部補は一息入れ、
「それと、もう一つは、レンタカーの営業所で、思いがけないことがわかりました」
「ほう、どんな?」
「大佐渡スカイラインで爆発炎上した車は、レンタカーでしたが、事故の火災とショックで車のナンバーも、営業所がつけた車体番号も、識別不能状態でしたが、塗装のはげたナンバープレートをよく確認した結果、これは前日に鶴田幸佑が営業所から借りたものだと確認できました。ところが、同じその両津港近くのレンタカー営業所で、その前日、梨本忠義という名前で、もう一台のレンタカーが借り出されていることがわかったんです」
「梨本がですか。ほほう……」
谷津は答えた。
「梨本はもしかしたら、鶴田さんたち二人を偽装事故、または偽装心中に見せかけて崖から落とすために必要だったから、そのレンタカーを借りたのかもしれませんね。そしてもし、そうだとすれば、梨本こそ、真犯人ということになりますね」
「ええ。ほぼそれに間違いない、と睨んでいます。しかし、その梨本忠義という男、よほどうまく逃げたらしく、いつ島から出ていったのか、その足跡がわからなくて弱っています」
「なるほど、佐渡という島は、一つの密室なのですね。入りがあれば、出があるはずで、それを突きとめないことには、島内外の捜査方針もたてられない、というわけですか」
「ええ、そうなんです。谷津さんの先日の電話で、梨本が大鵬建設の社員だとわかりましたので、会社に電話しましたところ、休職中だというじゃありませんか。ますます、あやしい。この梨本について、谷津さんのほうで何か新しいこと、わかりましたか?」
「いえ、まだです。彼が休職中ということは、ぼくも一昨日、知ったばかりで……」
「ま、島内のことは、私のほうで調べてみますよ。その男が真犯人という確信が掴めたら、警視庁とも連絡をとって、本格的に指名手配します。それとあわせて、こちらでは殺人の動機がわかりません。鶴田幸佑と船越加寿美はなぜ、偽装心中を仕掛けられて殺害されなければならなかったのか。谷津さん、そのへんのところ、何かわかりましたら、教えて下さい」
「ええ。私のほうも目下、その背景を解明中です」
「いい知らせを期待しています。私たちは東京のことは、お手あげですからな」
「はい、何とかご期待にそうよう……。色々、教えていただき、ありがとうございました」
電話を置いて、谷津は深呼吸をした。
(だんだん、佐渡での殺人地図が、白紙の状態から黒い線となって、浮かびあがってきたぞ……)
と、いう気がした。
あとは、森山が言うように、動機である。
その動機というやつの、ジグソーパズルの最後の何枚かを求めて、谷津は今、沙織という女に会いにゆくところである。
2
――野方沙織のマンションは、三軒茶屋の交差点から世田谷通りに入ったところの、左手に面して建っていた。
北欧風のレンガタイルの高級そうな建物であった。
谷津は、十時すぎにそのフロントを入り、エレベーターに乗った。四〇六号室ときいていたので、まっすぐその部屋に向かったのである。ドアチャイムを押すと、すぐに返事があった。
「谷津さん?」
「そうですが」
「どうぞ」
ロックをはずす音がきこえ、
「いらっしゃい」
ドアが開いて、うつくしい女が迎え入れた。
身体の線が透《す》けて見えるような、白いシルクのドレスに身を包んだ沙織は、なるほど銀座のクラブで一、二番という存在であると納得《なつとく》させる輝度をもっていた。
だが困ったことに、正面から顔をみるのは、谷津は初めてである。
二、三回、店を訪ねたくらいでは、係でもなかった売れっ子ホステスなど、谷津には遠目にしか縁がなかったので、憶《おぼ》えてはいない。
「どうしたの? そこにお坐りになって」
谷津は部屋に入っても、まじまじと沙織の顔を見つめていたのかもしれない。
谷津はソファに通された。
沙織が冷えたワインを運んできた。
「沙織さんも鶴田さんと一緒に、佐渡に行ってたのかと思っていたけど、違ってたのかな」
「どうして私が一緒に行ったりするのよ。鶴田課長には加寿美さんといういい人が、ついていたんじゃないの?」
「ま、それはそうですがね。加寿美さんとは別のコースで、何となく沙織さんも佐渡に行ってたような気がしたもんでね」
谷津の頭の中には、森山警部補の話が揺れている。加茂ホテルに事故前夜、赤いコートを着た女が出没していたというが、その女を何となく消息不明だった野方沙織にあてはめて考えていたのである。
(しかしそれは、おれの早とちりだったのかもしれない。勘違いだったのかもしれない……)
沙織がワインの栓を抜いた。
二つのグラスに、なみなみと注がれた。
沙織は、ガラスの外が結露するほどよく冷えたワイングラスを、谷津にさしだした。
何となく面映《おもはゆ》い思いがしたが、断わる理由もなかったので、谷津はその好意を受けとった。
受けとる時、ステムを握った沙織の美しい指が軽く谷津の指に触れ、絡《から》まりあい、沙織は微笑した。
「ね、乾杯しましょう」
「ありがとう。ワインには目がないからね」
谷津はグラスを合わせた。
「でも、何のためだろうね」
「美伽には悪いけど、二人の楽しい夜のために。そうしてコインロッカーの鍵を運んでいただいたお礼のために」
(本当は、鶴田さんのご冥福《めいふく》を祈って……じゃないのかい)
谷津はワインを飲み干しながら、至近距離で沙織という女をみて、改めてドキッとした。
いるところには、いるものだ、と思った。
美しい女が、である。
この女とも鶴田幸佑はデキていたのかと思うと、加寿美との密会旅行といい、鶴田幸佑は案外、倖せな半面をもつ男だったのかもしれない。
そんな気がした。
(翔子こそ、可哀想に……)
それを思うと、谷津は翔子を不幸にさせたもろもろのものに、故《ゆえ》しれぬ怒りを覚えた。
「鶴田さんと最後に会ったのは、いつ頃?」
「さあ、もう一ヵ月近くになるかしら。なにしろ、九州に出張する、と言ってた頃だから」
「沙織さんに預けていったものって、何だろうね」
「何かの資料のような気がするわ。自分に万一のことがあったら、警察に届けてくれ、と言ってたくらいだから、よほど大事なものだったんじゃないかしら」
沙織は谷津の傍に坐って、長い脚を組んで鶴田のことを悲しむような顔をして、飲んでいた。
「じゃ、そろそろ、その荷物を取りにゆこうよ。鍵は持ってきているから」
「あら、まだいいじゃないの。渋谷なんて、その気になれば、ここからタクシーで近いんだし……場合によったら、あしたでもいいでしょ」
「いや。ぼくはそんな悠長な気分にはなれない。気になってるんだ。鍵があうかどうかを、まず試《ため》してみたいんだよ」
「合うかどうかですって……? 試す鍵はまだほかにもあるって言ってるみたいで、エッチ」
沙織が笑いながら、まぜっ返した。
「いや、ぼくはそんな意味で言ったんじゃない」
「いいから、いいから」
沙織はタイミングよく、空《から》になったワイングラスに、すぐボトルを傾けてくれる。
ワインはドイツワインの、ブルーボトルだったが、やや辛口だった。それがまた、実に癖《くせ》のある飲みくちになっている。
「あなたは鶴田さんの、何だったんですか?」
谷津はだいぶ、酔いがまわってきたようだ。
「さあ、何だったんでしょうね」
沙織は微笑しながら、優雅にワインを飲む。
「お店での係だったというのは、愛人だったとみていい気もするけどね」
「そうとも限らないわ。色々、鶴田さんがつれてくるお客様の接待がうまかった、というだけで頼りにされていたと考えてほしいわ」
「うん、そう考えることにするよ。でも、そんな大事なものを預けられていたなんて――」
谷津が言いかけた時、アコーディオンカーテンのむこうで、電話が鳴りだしていた。
沙織はグラスを傍《かたわ》らに置きながら、
「ごめんなさい。ちょっと――」
断わって、立ちあがってゆく。
シャネルの香水の匂いが残った。
アコーディオンカーテンのむこうで、受話器を取りあげて、誰かと話しはじめていた。
谷津は立ちあがって、さりげなくテーブルの片隅にあったバッグを手にとって、開いた。化粧道具にまじって、運転免許証や定期券などが出てきた。
二つとも、名前が記されていた。
その名前は、野方沙織ではなかった。
柴田多恵子、となっている。
二十七歳、会社員となっている。
住所も三軒茶屋ではなく、川崎市小杉御殿町となっていた。
免許証に貼付されている顔写真は、紛《まぎ》れもなく沙織と名のって今、この部屋で谷津と応対している女のものであった。
谷津は、急いで定期券と免許証をバッグに戻し、音のしないよう蓋《ふた》を閉じ、何くわぬ顔をしてもとの位置に戻した。
谷津はソファに戻って飲み直しながら、とんでもない女狐《めぎつね》だな、この女、と肚《はら》の中で毒づいた。
この分だと、渋谷駅のコインロッカーというのは、はじめから作り話であるに決まっている。おれをここに引き込むための出まかせだったのかもしれない。
女が、どこから、なぜ、誰に頼まれて、おれをここにおびきだし、どのようにしようとしているのかを、とことん突きとめてやるか。
谷津は、そう考えた。
谷津の気持ちは、荒れ狂っていた。
ワインボトルを傾けるピッチが早くなった。
「ごめんなさい。中座しちゃって――」
沙織と名のる女が、何くわぬ顔をして、涼しげに戻ってきた。
「恋人からのラブコールだったのかね」
「ううん、お店からよ。ママったら、休んだことをとても叱りつけるの」
「そりゃ、あなたが超美人で、集客能力が秀《すぐ》れているからでしょう」
「ほめてくれてるの?」
「うん、ものすごーくほめてる。ベタぼめ」
「じゃ、ついでにその超美人をしあわせにしてくれる?」
そよぐふうに、しなだれかかりながら、キラッと眸《ひとみ》が光る。
すぐ傍でみる張りのある大きな瞳と、肩に流れるような黒い髪が妖しげに揺れて、ざわっと谷津の心が騒いだ。
「私、なんだかいい気分で、酔っ払ってきたわ。……ねえ、……谷津さん……酔っ払い女って、きらい?」
そう言って、唇が近づいてくる。
見え見えのお誘い、と思うと、谷津の気持ちはしだいに軽くなってきた。
(じゃ、悪のりしてゆくか。欺《だま》されたふりをして、この女の仮面をはいでやるか)
谷津は身慄《みぶる》いするような気分で、その濡れた唇を受けた。白い、しなやかな指が動いて、谷津の手からワイングラスを取りあげ、傍らに置く。
二人はいつしか、抱擁しあっていた。
ソファにもたれあって、ワインの酔いにまかせ、むさぼるような接吻を交わした。
この女がニセの沙織であると知って抱くのは、とても面白い冒険になるぞ、と谷津は思った。ニセ沙織ならなおのこと、欺されたふりをして女の味を盗んで、抱いて抱いて、抱きまくってやれ。正体を探るのはそのあとでいい……と野放図《のほうず》な気分が、谷津を熱くしはじめていた。
「ね、奥に運んでくれる?」
谷津は女を抱きかかえて、奥の寝室に運んだ。
寝室にはキングサイズのベッドがあった。
谷津はベッドの上に女を寝かせ、ドレスを脱がせながら、さりげなくあたりを観察した。
寝室には、第三者が隠れ潜《ひそ》むような場所はない。
女は脱がされたドレスの下は、驚くべきことに、クリーム色の肌もなまめかしい素裸であった。
「恥ずかしいわ……灯かり、少し暗くして……」
谷津はほんの少しだけ、灯かりを加減した。
それでも、明るくみえる。女の白い下腹部の恥丘に、悩ましい秘毛が濃《こ》くつまった感じで密生していて、女が身をくねらせたはずみに、ヘアの群れはよじれて、黒艷を放った。
谷津は、すぐにもフォールに持ち込みたい気分に駆られたが、ブルゾンを脱ぎながら、待て待て、と自分を制した。
「ちょっと、用意をしてくるからね」
実に曖昧《あいまい》なことを言って、トイレにゆくふりをして、バス、トイレ、キッチンのほうをさりげなく覗《のぞ》いて、無人であることを確かめた。
(男がひそんでいたら、ことだからな)
谷津は安心して戻ると、裸になってベッドに入った。
女はさすがに、掛布をかけていた。
それをめくると、女の乳房は、円やかな肉球を結んで、胸に弾《はず》んで躍りだしていた。
谷津はそこを苛《いじ》めるようにして掴み、こねくりまわし、頬を寄せて、蕾《つぼみ》を吸いにいった。
肉球をこねくられ、乳首を吸われるにつれ、
「ああ……谷津さん……すてきよ」
女は両手で谷津の頭を抱き寄せた。
あまり強く抱かれて、谷津は息苦しくなった。
谷津は並んで横になると、唇をあわせた。キスをしながら、右手を下腹部にのばした。
「あ、いや……そこ、恥ずかしい」
女が身体をくねらせて、谷津の手を避けようとした。
「触《さわ》られるの、いやなのかい?」
「凄《すご》くみっともないことになっているもの」
谷津の指先はやがて、女が言うみっともない状態、というのを確かめることができた。
花唇にそわせてラビアのあたりを探ると、クレバスは充分すぎるほど潤っていて、あふれる蜜液でぬかるみがひどくなっていたのである。
(おれを陥《おと》しいれようとしているわりには、本気で感じてるじゃないか。好きな体質《た ち》なら、ますますうれしいね……)
谷津は、どんな深刻な情況においても、深刻にならないタイプである。
「ね、みっともないでしょ。男の人とするの、久しぶりなのよ」
谷津は女が潤沢な体質であることにひどく満足し、ぬかるむ女芯の中に指をさまよいこませると、勝手放題に活躍させ、探険させた。
「ああ――」
女の白い顎《あご》が反《そ》って、呻《うめ》く。
寝室の空気が、淫《みだ》らな色に染まった。
谷津は仕返しついでに、女の花園に顔を伏せて思いきり舌を泳がせてみたいと願い、位置を取ろうとした。
だが、その瞬間、強い力で拒まれ、
「あッ……いや……それだけは」
女は、花唇への直接接吻を激しく拒否したのであった。
何かのこだわりをもっているとすれば、この女、根っからの悪女ではないのかもしれない。好きな男でもいるのだろうか。
この女を焚《た》きつけているのは、どこの、どいつだ。
谷津は手数が一つ省《はぶ》けて、ほっとしていた。
「ね……それより……谷津さん」
女の白い手が動いて、谷津の猛《たけ》りを握ってくる。
「頼もしいわ。私のあそこ、欲しがってるみたい」
耳に口を寄せて、甘い声で囁《ささや》く。
ついでに耳朶を、ぺろりと舐《な》められた。
ぞくっとする感触が走った。
そこまでされなくても、谷津はもう待ちきれなくなっていた。
「沙織さん……じゃ、ゆくよ」
谷津は位置をとると、男性の尊厳を自分自身でしっかりと握りしめ、この謎の超美人を思いっきりいかしたれ、という野卑《やひ》な欲望にかられて、くずれ咲いた女の秘唇に、遠慮なくインサートした。
ひしめき抵抗する肉の洞窟をすすむにつれ、
「ああっ――」
女はのけぞり、顔を反《そ》らせて、かぼそい声をあげた。
声がかぼそかったのは、悲鳴に似た声が一瞬、洩れ、そのあとその声が途中で途切れたからであった。
谷津が動きだすにつれ、声はさらにかすれたものになった。女の濡れた唇から、愉悦のあえぎが、たえまなく噴きはじめる。なにかに耐えるようにひそめた眉が、女特有の官能の極《きわ》みの表情に変わってゆく。
谷津は女性の、その種の顔を見るのが好きである。
谷津はいつしか夢中になっていて、いじめぬくように、女を高い感覚領域に押しあげるのに、必死になっていた。
二回、女がオルガスムスの声をはなったのは、憶《おぼ》えている。だがしかし、最後に自分が発射したのかどうかも確認しないうちに、行為の途中から、頭の中にガーンッと吹きつけてきた嵐のような睡魔と酩酊《めいてい》感に叩きのめされ、谷津はそのまま、不覚にも女の上にくずれ落ちたのであった。
――あのブルーボトルのワインの中に、何か盛られていたな、と微《かす》かにそう考えたことだけが、意識の底に妙にありありと残っていた。
――眼が覚めたのは、翌朝であった。
それも爽《さわ》やかな眼覚めなどではない。二日酔いのような重い頭の中に、ズキズキと頭痛のような痛みが走り、深い海底から身体がふわっと浮かびあがってくるような浮揚感とともに、朧《おぼ》ろげに意識が戻ってきた時、薄暗い部屋の中で、窓のカーテンの隙間から光が洩れていたので、ああ、朝になったんだな、と気づいただけのことである。
部屋には細い一すじの光しかなく、閉め切られている感じで、恐ろしく薄暗かった。
床のカーペットの上であった。
谷津は、手足をのばそうとした。
手足はぴくりとも、動かない。
谷津は黄金繭のように、身体をぐるぐるとビニールロープで巻かれ、床に転がされていたことに気づいた。
背中にまわされた両手首と、揃えて縛《しば》った足首のあたりが、とくにきついようである。
部屋は、ゆうべの寝室のようであった。ベッドの脚がすぐ傍に見える。
しかし、むろんそのベッドの上に沙織と名のっていた女が、今も安らかに寝ているような雰囲気ではない。
閉め切られたクロス張りの板戸のむこうから、ひそひそと話し声がきこえた。男の声であった。時にはばか笑いが混った。
安土桃山時代の屏風絵をデザインした襖《ふすま》のようにみえるクロス貼りのその板戸のむこうは、リビングである。
声は、見張りをしている男たちのようだ。
カップラーメンでもすすっているらしい音の合間に、
「……ざまァなかったな、あの野郎。多恵子の上でよ、重たくなって伸びてやがった」
そんな話し声がきこえる。
「そうとも知らず、多恵子のやつ、まだしがみついて、腰をつかってやがったぜ」
「好きだからな、あいつも」
「そういうおめえ、あの女をずい分、抱きたかったみたいじゃないか――」
「多恵子を往生させねえと、可哀想だと思ったんだよ」
「ああ、実際、惜しいことをしたな。あんなに早く追っ払わなくても、よかったと、おれも今ごろになって後悔してるよ」
「剣持さんが冷めてえんだよ。用事がすみしだい、退場してもらう。それが美人囮《キヤツチ》の役目だって、剣もほろろだもンな」
二人は他人の耳などおかまいなしに、そんな話をしていた。
板戸一枚でがんがん耳に響く谷津は、腸捻転でも起こしそうな気分であった。
畜生ッ、と谷津は寝返りを打った。
(嵌《は》められたな。完全に……)
完全も完全……ものの見事に罠《わな》に足をとられて、ぶざまこの上ないありさまになって、谷津は自分の軽挙妄動、猪突猛進、勇猛果敢な好きもの根性を二重、三重に呪いたくなった。
谷津は、ごろごろと転がってみた。
身体が、壁際にあるクロゼットのアコーディオンカーテンにぶつかって、きい、という音をたてた。
「今、何か音がしなかったか?」
会話が熄《や》んで、椅子から立ちあがる音が響き、板戸ががらっとあけられた。
逆光線の中に男のシルエットが浮いていた。
ジャンパーを着ている。近づいてきた。見憶えのある男であった。柳瀬《やなせ》といったか、韮崎《にらさき》といったか。そのどちらかに違いない。
「お眼覚めのようだな」
「おれを、どうする気だ」
「どうしてもらいたい?」
「ロープをほどいて、外にだしてもらいたいね」
「おれもそうしてやりたいのは山々だよ。けどな、それは出来ない相談というやつだよ」
男がジャンパーのポケットに両手を突っこんだまま、見おろしながら、うそぶくように言った。
「第一よ、こないだのお礼もしなくちゃならねえ。平河町では、もう少しでど頭《たま》と急所が潰《つぶ》れるところだったぜ。そのお返しに、こういうのはどうだ」
男がくるっと一回転して止まった時、谷津は脇腹に足の甲を蹴りこまれて、呻《うめ》いた。
足の甲の使い方は、ラグビーボールをキックする要領だった。脇腹の次には急所にきた。身体を海老《えび》のように折って、谷津は転がった。
皮靴の先でなかっただけ、まだ救われた。
「やめろ。縛った人間を痛めるなんて、卑怯《ひきよう》だぞ」
「立派な口を叩くよ。縛った人間なら、可愛がって頭のてっぺんから爪先まで舐めろ、とでもいうのかい」
もう一撃きそうだったので、谷津はうつ伏せになった。すると、その頭を踏みつけにされた。
「どうして、こんなことをするんだ?」
「おめえが色々、親会社のことや鶴田幸佑の事故のことなど、ほじくったりするからさ」
「調べられたら、都合《つごう》の悪いことでもあるのか」
「ない。何にもありゃしないさ。あると思っているのは、おまえの思い込みってものさ。でもね、狂犬が吠えかかってきたら、木刀で叩きのめすしかないってことは、昔からお釈迦《しやか》さまが教えてることでね」
頭を踏みにじられた次には、男の踵《かかと》が首にかかった。体重をのせてきたので、頸骨《けいこつ》が折れそうな痛みを覚えて、谷津は牛のように唸《うな》った。
「おれを……おれを……殺す気か?」
「今ごろ、やっとわかったか。あたりまえじゃないか。どうせ、おめえは殺されっちまうんだぜ」
男は冷えた笑いを浮かべ、ますます陰湿な加虐の快感を味わうように、飛び回し蹴りを入れてきた。
ズン、と脇腹に響いて、谷津は呻《うめ》いた。
「柳瀬、もうよせ。今、死んでしまったら、困るよ」
隣室から入ってきたもう一人の男が、谷津を痛めつける男を引き止めた。
「かまったことじゃねえ。どうせこいつは、コンクリート詰めにして、日本海の沖に沈めるんだからよ」
「そうであっても、もう少し待て。財布に入っていた鍵は取りあげたが、どこのコインロッカーなのか、まだわかっちゃあいねえ。これから麻布の未亡人にも用事がある。私怨はあとまわしにしろ、あとまわしに――」
韮崎が言って、柳瀬を谷津から引き離そうとしている。
「もう十時半だぜ。事務所で剣持さんが待ってる。こいつを可愛がるのは、あとまわしだ。さ、出よう」
「どうするんだ、こいつ。見張らなくて、いいのか」
「これだけ縛ってりゃあ、大丈夫だろう。口を封じとけば、声も出せやしねえよ。部屋には鍵をしとくしな」
――それから二十分後、二人は谷津にタオルでさるぐつわをかませ、ロープの端をベッドの脚に縛りつけて、部屋に鍵をかけて出ていった。
財布に入れて内ポケットに収《しま》っていたコインロッカーの鍵は、もう敵に奪われたようである。
用事がなくなった谷津を、いずれ日本海に沈める、というのは、嘘ではないようであった。
恐ろしくリアリティのある話である。
谷津は背すじが、冷えた。
それにしても、麻布の未亡人にも用事がある、というのは、どういうことだろう。
谷津は翔子の身の上を案じたが、今はどうなるものでもなかった。
3
――五回目の電話も、通じなかった。
(省平さん、どうしたのかしら……?)
翔子《しようこ》は頭を振って、受話器を戻した。
ゆうべから吉祥寺のマンションに二度、電話をしたが通じなかった。今朝も部屋に電話をしたが通じなかったので、十一時頃、新聞社と記者クラブに電話をすると、両方ともまだ出勤していないという。
(こんな時だというのに、いったいどこで飲んだくれているのかしら。麻布にも戻らずに……)
翔子は呟《つぶや》いて、窓の外に眼を投げた。
外には雨が降っていた。春の雨だ。でも庭木を濡らす黒い雨は、今日も冬の雨のように冷たい。
窓ガラスにしずくを作ってしたたる雨を眺めながら、翔子は家の中の静けさが異様に感じられた。受話器を置いた左手の指には、煙草がはさまれ、白い煙をあげているが、翔子はそれを喫うために、火をつけているわけでもない。
翔子にはこのところ、軽い放心状態が訪れる時があった。
船越周太郎と鴬谷《うぐいすだに》で寝てしまったことが、気持ちの上で尾を曳《ひ》いている。
あれは、不可抗力ではすまされなかった。最後のところで折れあって、なじんだ身体が隅々まで重なったのである。
ああ、いやだ、いやだ、と翔子は自分の肉体が呪わしかった。
谷津もなぜか、あの夜以来、三日間、麻布には戻ってこない。翔子の家への脅迫者たちの影が薄らいだので、来ないようになったのかもしれないが、翔子にはなぜか、自分が船越と寝てしまったことが、原因であるような気がしてならない。
でも……でも……船越から加寿美の日記は、受けとってこなければならない。あれさえ手に入れば、谷津には事件の背景がわかるはずだ……。
翔子は思いだしたように、外出支度にとりかかった。
午後二時に、四谷の月島建設コンサルタントの近くの喫茶店で、翔子は船越周太郎と会って、加寿美の日記を受けとることになっていた。
船越は、夕方以降の待ちあわせをしたかったらしいが、夜だとまた、なしくずしに求められそうだったので、翔子はどうしても今日は、昼間の仕事中に受けとることにしたのであった。
谷津と連絡さえつけば、その足で加寿美の日記を渡すつもりであった。翔子の中の女が、なぜかしきりに谷津を求めて、彼女は何度も不在の谷津を探して、電話をかけまくっていたのであった。
外出先で、また電話をしてみよう。
夕方までには、つかまるかもしれない。
翔子は気分を引きたてるように、化粧も念入りにしたし、服も選んだ。外の雨にあわせ、Vネックの襟《えり》が白で、袖に白いフリルのついたブルーの水玉模様のワンピースにした。
そうやって立った鏡の中の翔子は、ぐっと若返っていて、とても未亡人とは思えなかった。
バッグとキイホルダーと傘を手にとって、玄関を出た。
裏のガレージに入って、真紅のBMWに乗り込んだ。
路面がうっすらと濡れている。車は道路へ出た。フロントガラスを濡らす雨は、でもワイパーの速度を早める必要があるほど、激しくはなかった。
四谷にゆく前に、銀行と生命保険会社の六本木支店に寄る用事があった。翔子の取引銀行は広尾にあった。
木下坂をくだって、広尾の大通りに出た。
六本木のほうに向かって少し走った左手に、その銀行はあった。駐車場に車を入れて、翔子は預金口座から、当座の生活に必要なまとまった現金をおろした。
用事が済んで、銀行を出ようとした時であった。
ドア越しに外の舗道を通りすぎた赤いレインコートの女をみて、あらっと翔子は自分の眼を疑った。
(似ている……! 誰かに……!)
急いで出ようとして、自動ドアに額《ひたい》をぶつけた。気持ちが焦《あせ》るほど、自動ドアは早く開いてはくれないのである。
やっと外に出て、通りすぎた女のほうをむいた。
雨傘が流れている。赤、青、黄。背の高い外人のアベックなども混っている傘の群れを分けて、赤いレインコートの女のほうに駆けていったが、女はもう横断歩道橋の階段を、青い傘をさして、登ってゆくところであった。
不躾《ぶしつけ》に声をかけるような相手ではない。かといって、まったくの他人ではない。いや、それどころか幸佑の事故死にもっとも拘《かか》わりのある女……。数歩、追いかけているうち、その名前を思いだし、あっと声をあげそうになって、翔子は傘の群れの中に立ちすくんだ。
(まさか……まさか……雨の中の幽霊……?)
そっくり、似ていたのである。
船越加寿美に。
写真でみたあの女に、そっくりだったのだ。
茫然《ぼうぜん》として翔子はもう一度、歩道橋の上を見あげた。青い傘をさして、赤いレインコートを着て歩いてゆく船越加寿美に似た女の、肩から上だけが、四月のこまかい雨の降りつづく歩道橋の上で幽霊のように見え隠れし、揺れながら、やがて視界から消えていった。
(私ったら、変ね。……いよいよ幻覚までみるようになったんだわ……。あれは白昼の幽霊だったのよ……きっと……)
翔子はそう自分に言いきかせて、追いかけるのを諦《あきら》め、BMWのほうに戻った。
車に乗りこもうとして、動きが止まった。
ドアをあけたまま、今、自分の視線が捉《とら》えた不審なもののほうに、もう一度、翔子の顔があげられ、むけられた。
二十メートルばかり先の、高級家具店のショールームを、舗道に佇《たたず》んでガラス越しに覗《のぞ》き込んでいる長身のレインコートの男が、ぎくっと翔子の心を掴んだ。
背恰好《せかつこう》と、横顔が似ているような気がした。
(でも……でも……まさか……!)
――亡くなった幸佑が今頃、広尾|界隈《かいわい》を散歩していて、ショールームの前に佇《たたず》んでいるはずはなかった。
(気のせいよ、翔子!)
一瞬後には、その男は高級家具店のショールームの中に消えていった。
(ほら、ごらんなさい。まったくの別人だったのよ)
翔子は運転席に坐り、勢いよく車をスタートさせた。
車を、六本木にむけた。
六本木で用事をすませて四谷にむかうあたりから、雨はだいぶ小やみになった。翔子はふと、自分の車が誰かによって尾行されているような、気がしてならなかった。
バックミラーを何度も、覗《のぞ》いた。
尾行しているらしい車というものは、見あたらなかったし、見当もつかなかった。
(ますます、変。どうかしているのよ、私)
珈琲舎という四谷の喫茶店で、船越周太郎と会った。形どおりにお茶をのみ、加寿美の日記を受けとる間も、翔子はどこやら、ぼんやりしていた。
「ねえ。加寿美さんが生きてるってこと、ないかしら?」
コーヒーカップを置いて、いきなりそう聞いてみた。
「え?」
船越はびっくりして、顔をあげた。
「翔子さん、何を言うんです。ぼくは現地まで行ってきたんですよ。遺体を引きとって、火葬までだして、もう墓に入っている加寿美が今頃、生きてるなんて、ありえませんよ」
船越は不審そうに、翔子を見つめた。
「そうね。ありえないわよね」
翔子は何度も、小さく首を振った。
「おいおい、翔子さん。どうしたんです?」
まだ不審そうな顔をしている船越を残して、翔子は立ちあがって、その喫茶店を出た。
預かった日記は、肩のショルダーバッグに入れた。
車を駐めている駐車場は、その喫茶店の近くのビルの地階にあった。
翔子はそこまで歩いて、壁際に公衆電話があるのを見つけて取りあげ、谷津に電話をした。
しかし、谷津はつかまらなかった。ふだん詰めているはずの記者クラブにもいなかったし、吉祥寺のマンションにもいなかった。
諦《あきら》めて翔子は、BMWのほうに歩いた。
午後の地下駐車場はわりと空《す》いていて、人影というものはほとんどなく、冷え冷えとした感じだった。
翔子の車は、片隅に止めてあった。翔子は自分の車のドアを開けて、運転席にすべりこんだ。
発車しようとした時、翔子は小さく鋭い悲鳴をあげた。
何気なく見たルームミラーに、男の顔が映《うつ》っていたのであった。
しかも二人である。後部座席に潜《ひそ》んでいたようである。見憶えがあると思ったら、いつか家に押し入ってきた柳瀬と韮崎だった。
「何よ、あんたたち!」
翔子の声も、身体も硬ばっていた。
「半ドアだったからね。入らせてもらっているよ」
「失礼だわ。降りてちょうだい!」
尾行者らしい影、というのは、この男たちだったのだろうか。
「降りないと、人を呼ぶわよ!」
叫ぼうとした時、韮崎が後ろから手をまわして、翔子の口に白いハンカチ様の布地をあてがった。ハンカチには異臭がした。
翔子の顔はたちまちその布地で押しつつまれた。強い刺激性をもった匂いが、翔子の鼻腔を刺し、意識を遠のかせていった。
翔子はそれでも、暴れた。しかし、同時に翔子は強いめまいを覚えた。頭の中で熱い溶岩が焼けただれて流れだすような感覚が訪れ、身体が地の底にでも吸い込まれていくような気分が翔子をとらえた。
「柳瀬、早くしろ。駐車場には誰もいないから、病人を背負う恰好をして、おれたちの車のリアシートに移すんだ。おれはこの車を運転してゆくから、おまえは、むこうのブルーバードを運転しろ」
4
二度あることは三度ある、と諺《ことわざ》にいうが、この日の翔子にとっての「驚き」というものが、まさにそうであった。
四谷の地下駐車場でクロロホルムを嗅《か》がされて失神したまま、車でどこやらに運ばれたらしい翔子が、次に意識をとり戻したのは、どこかの大きなマンションのエレベーターの中であった。
「柳瀬、もういいだろう。立たせてみろよ」
どうやら、担《かつ》がれていたらしい。そんな声とともに、降ろされてハイヒールが床につく感触で、翔子は薄ぼんやりと意識が戻ったのであった。
しかし、直立はまだ出来ないようである。
「だめだな、こりゃあ。せっかく管理人にも見つからなかったんだ。もう少し、担いでゆけよ」
韮崎と柳瀬がそんなことを言い交わしているのを、翔子はまだ、どこか遠くのことのように聞いていた。
そうしてしだいに意識が醒《さ》めてきて、頭の中の霧がはっきりと晴れたのは、女の部屋だと思えるマンションの一室におろされ、乱暴に床に突き転がされた時であった。
「着やせするというのは、こういう女のことかね。背負うと、けっこう重かったぜ」
柳瀬の声をきいて、故《ゆえ》しれずかっとした翔子は、
「ここは、どこです!」
床に起きあがって、叫んでいた。
「私を、どうしようというの! 帰してちょうだい!」
「まあまあ、そう荒れなさんな」
韮崎の顔がすぐ傍に近づいた。
「帰してちょうだい。警察に訴えるわよ」
「大事な奥さんを帰すわけには、ゆかないんだよ。あんたの大好きな男もここで、おとなしくお寝んねしてるからな。ほら、喜ぶがいい」
顎《あご》をしゃくられた足許に眼を投げた時、翔子は文字通り、その日、三度めの驚きを覚えたのである。
谷津が縛られてさるぐつわをかけられ、すぐ横のカーペットの上に転がされているのを発見したからであった。
「まあ……」
すぐには、言葉が出なかった。
「まあ、どうしたの、谷津さん……!」
谷津は、さるぐつわをかけられているので翔子のほうを見て、ううッと唸《うな》るばかりであった。
翔子にも、おおよその見当がついた。谷津は幸佑と加寿美が偽装心中で殺害された事件の裏を追っているうち、真犯人グループの手に陥ちたのだと思えた。
「それにしてもひどいわ。こんな恰好をさせるなんて」
這い寄って谷津の身体に取りつこうとした翔子は、反対に引き離された。
「あんたも平等に縛られたら、気が安まるだろうな」
韮崎が傍に転がっていたビニールロープを取りあげ、谷津と同じようにたちまち翔子も縛りあげて、床に転がしてしまった。
「好きな男の眼の前で、犯されないだけでも倖せだと思え。今に二人にはしっかり聞くことがあるからな。そこで仲よく心中前夜でも明かすんだな」
言い残して、二人は出ていった。
翔子と谷津は、背中をあわせて、長い長い、辛い時間を耐え忍んだ。
谷津はさるぐつわをかけられているので、会話にはならないのであった。
その夜、剣持勇司が韮崎、柳瀬の二人を従えて、その部屋にやってきた。
谷津と翔子は、改めて鶴田幸佑から預かっているはずの、ルイ・カトーズのブリーフケースを入れた金庫、またはコインロッカーの所在を聞かれた。それについては、キイはもう奪われた通りであり、それがどこの鍵なのか一切《いつさい》、知らないと、谷津も翔子も答えるしかなかった。
「ふん、知らないか。鶴田幸佑の取引銀行はどこだ?」
聞かれた翔子が、
「どうして、そんなこと聞くんです?」
「銀行の貸金庫かもしれないじゃないか」
「うちの取引銀行は三幸銀行広尾支店です。幸佑がほかに隠し口座をもっていたかどうかは、一切、知りません」
「やつは通勤は、マイカーだったのか?」
「電車とマイカーと、半々です」
「電車だったら、地下鉄か?」
「どうしてそんなこと聞くの?」
「通勤途中の駅のコインロッカーを片っ端から洗ってみる」
「ふン、勝手になさい。広尾が最寄《もよ》り駅なら、そこから青山三丁目までどういうコースをとればいいか、子供でもわかるでしょ」
「よろしい。韮崎、あす、その鍵をもって三幸銀行の広尾支店と今きいた途中駅、すべてあたってみろ」
剣持が輩下に言い、それから一冊のルーズリーフ式の日記をとりだした。
「これは、柳瀬らが車の中で奥さんから預かったものだ。あんたは中味を読んだか?」
「読むどころじゃなかったでしょ。薬で気絶させられて、運ばれてきたんですから」
「そうか。それならいい――」
剣持はなぜか安心したように肯《うなず》く。
察するに、彼らは偽装心中事件の犯跡や、その背景を隠滅させるために、翔子と谷津を拉致《らち》したようである。
剣持は次に、谷津のほうにむかい、恩着せがましくさるぐつわをほどき、
「ところで、谷津さんよ。あんたはこそこそと、佐渡の警察と連絡をとりあっているようだが、どうしてなんだい?」
(どうして知っているのだろうか。部屋に盗聴器でも取りつけていたのだろうか)
「言ってやろうか。鶴田幸佑と船越加寿美の事故は、ただの交通事故じゃない。偽装心中を装った殺人事件さ。現地の警察もそうみて、捜査を開始してるんだぜ」
「それは本当だな?」
「うそをついてどうなる」
「警察は、どこまで知ってる?」
「そんなこと、言えるか」
谷津は、ごろんとむこうをむいた。
「ふん、懲《こ》りないと見えるな。もう少しそこで頭を冷やしていろ」
剣持は冷ややかに言いすてて立ちあがり、二人を従えて部屋を出ていった。
――そのまま、夜が深まり、朝がきて、また昼がすぎ、夜がすぎた。
時間の経過は部屋の窓にかけてあるカーテンの隙間から洩れるわずかな光の去来によって、判断できるだけである。
二昼夜がたち、三昼夜がすぎた。
空腹と喉の乾きは極限に達し、思考力というものがしだいに薄れかけていた。
手足の痺《しび》れなどは、もうとっくに通りこして、石のように無感覚になっていた。
「谷津さん……起きてるの?」
「ああ、何とか……。でも眠くて、仕方がない」
「このまま私たち、死んでしまうのかしら」
「そうかもしれないね。口惜《くや》しいけど。やつらは本気だ。殺すにちがいない」
谷津は昨年、発生した横浜の弁護士一家失踪事件のことを思いだした。ああいう事件が、いとも日常的に現実に起きる時代であった。
人間を二人、人知れず餓死させて、コンクリートに詰めて海に沈めてしまい、跡形もなくこの世の中から消してしまうことくらい、いとも簡単にできることなのである。
それを思うと、怒りよりも、恐怖が来た。
恐怖はだんだん、深まってくる。
「谷津さん……ごめんなさい……」
その夜明けがた、翔子がぽつん、と言った。
「どうして謝《あや》まるんですか?」
「私のために、あなたまでこんな目に会わせてしまって……」
「そんなことはない。ぼくはぼく自身の判断で、勝手に事件にたちむかっていただけですよ。あなたのせいじゃない」
「でも、私が電話で相談したり、佐渡まで来てくれなんて頼まなければ、こんなことにはならなかったでしょうに……」
「悪いのは、翔子さんじゃない。鶴田さんと加寿美さんを佐渡までおびきだして殺してしまったやつらですよ。……そうして、鶴田さんをそんな目に巻きこんだ現代の仕組みというやつですよ」
谷津は自分がまだ明瞭な意識をもっていることに、驚いていた。
「私には事件の背景は、よくわからないけど、そう言っていただくと、うれしいわ」
翔子は無言でいると、闇の中に掠《さら》われそうで、それが不安で不安でたまらないといわんばかりに、次から次に言葉を紡《つむ》いだ。
「谷津さん、お願いがあるんですけど」
「何でしょうか」
「正直な気持ちを聞かせてほしいの。私、いけない女だったけど、私のこと、好き?」
「もちろん、好きですよ。好きでなくっちゃ、こんなことできません」
「愛している?」
「愛しています」
「本当?」
「本当です」
「うれしいわ」
翔子は涙ぐんだ声をだした。
「今の言葉を聞いて、私、安心したわ。私、このまま死んでもいい。谷津さんと一緒なら、倖せだわ」
「死ぬなんて……何を言うんですか……。ぼくはまだまだ、最後の最後まで、望みをすてませんよ」
谷津は、そう言った。しかしそれが慰めでしかないことは、二人にはよくわかっていた。
夜気が冷えてきた。それからしばらく経ってから、
「今、何か物音がしませんでした?」
翔子はまだ、寝てはいなかった。
「そういえば、したような気がしますね」
玄関でチャイムが鳴る音がして、インターフォンを通して、見張りの男が応答する声が、微《かす》かに聞こえた。
そうして、ドアがあく気配《けはい》。
聞きとれないくらいの会話。
その会話には、女の声も混じっていた。
そうして一瞬後、短い呻き声と、何かが倒れる音が混じって、パターンとドアがきつく閉められ、ロックされる音が響いた。
――あとはまた、重い静寂。
(なんだ……。見張りの交代だったのか……)
谷津と翔子は、そういう音さえもう幻聴のように聞いて、また眠りに落ちこみはじめていた。
「ねえ、谷津さん」
翔子が背中をぶつけてきたのは、それからしばらく経ってからである。
というより、ほんの数分後だったかもしれないが、谷津の意識が消えかけていたのである。
「ねえ、谷津さん。起きて」
翔子の声は慄《ふる》えていて、ただならぬ気配を孕《はら》んでいた。
「私、幽霊を見ているのかしら」
谷津は身体を動かして、そちらのほうを見た。
ドアの隙間から一条、光が射し込んでいる。
その光の中に、何となく白っぽいものが、ぼうーッと立っていたのである。
よく見ると、白い服を着た女のようだった。
逆光線で顔はよく見えなかった。
しかし、その輪郭《りんかく》がだんだんハッキリしだした時、谷津は自分の眼を疑い、それから頭を疑い、それからさらに自分の意識が確実に変になりかけているのだ、と思った。
(おれは幽霊を見ている……幽霊を……)
ナイフを手にして、近づいてくる女は、どう見ても、写真でみたあの船越加寿美である。
白い服を着て、長い髪がざんばらに顔にかかっていて、ナイフを構えて無言で谷津のほうに近づいてくる女は、どうみても加寿美であった。
しかも、驚きはそれだけにはとどまらなかった。女の背後から、葬儀屋のような黒い服を着た男が現われ、これも内ポケットからナイフをとりだして、翔子のほうに近づいている。
(共同幻想。おれたち、幽霊を見てるんだ……)
その男は、どう見ても鶴田幸佑、その人であった。
幽鬼のように現われた男と女の手に握られたナイフが一閃し、谷津と翔子の身体を縛《いま》しめていたロープが、次々に切られていった。
それを、ほとんど茫然とした眼でみている谷津と翔子には、声がなかった。
やっとロープが切れて起きあがろうとした翔子は、めまいを覚え、壁にもたれかかった。
その部屋の正面にある鏡に映っている深夜の訪問者の顔と、姿を、翔子はまだ幻か幽霊でもみるような眼で見ていた。
「あなたは……あなたは……」
どうして生きてたんですか、という言葉が出ないのである。
それは、谷津も同じようであった。
「翔子、驚かせてすまん。おれだよ。おれと加寿美だよ。幽霊ではないから、安心するがいい」
(じゃ、先日、雨の広尾でみた幻は、本当の二人だったのだろうか)
「でも……でも……私にはまだ信じられません。あなたたちは佐渡で……」
「うん。死んだことになっている。いや、もっとはっきり言えば、殺されたことになっている。しかし、幸か不幸か、おれたちはその罠をかいくぐってきたんだ。おれと加寿美は、死んではいない。こうして元気に生きてるじゃないか!」
「説明してくれませんか。私たちにもわかるように」
谷津が、やっとそう言った。
「谷津君、翔子のことを色々、助けてくれてありがとう。しかし今、説明している暇はない。――さっき、見張りを倒してきたところだ。下に車を待たせている。気づかれないうちに、早くここを出よう」
「しかし……しかし……少しはわかるように」
「それはあとで、説明する。週末の大鵬建設の四十周年記念パーティまで、待ってくれないだろうか。わけはすべて、そこで明らかにするつもりだ。その節は、谷津君にも、証言者となり、記録者となってもらいたいからね」
第八章 逆転劇場
1
大鵬建設創立四十周年記念パーティは、四月二十六日木曜日、午後六時半から赤坂のオリエンタル・ホテル「孔雀《くじやく》の間」で開かれた。
華《はな》やかなパーティであった。
千五百人収容のホテルの宴会場が、つめかけた参加者で身動きができないほどだったのも、大鵬建設の勢威を示すものであった。
その日、谷津省平《やづしようへい》は、招待されていた論説委員の代理という名目で、さりげなくパーティの人波に紛《まぎ》れこんでいた。
さいわい、剣持や松村、韮崎《にらさき》、柳瀬グループは裏方にまわっているので、会場では谷津の顔を発見して、騒ぎ出す人間はいなかった。
谷津はコンパニオンからグラスを受けとり、しばらく壁際に立って、潮のように流れる大勢の人波を見ていた。
「大鵬建設創立四十周年記念祝賀会」――と、白地に金文字で大書された横断幕が、正面の壁にいちだんとルックスの高い照明を浴びて、輝いていた。
やがて、定刻六時半となり、祝典序曲のBGMとともに、ファンファーレの音が高鳴った。
司会の開会の辞とともに、中央ステージのマイクの前に、艶《つや》のある黒の略礼装《タキシード》を着た大兵肥満の大鵬建設社長、鷲尾竜太郎が立って、スピーチをはじめた。
「――今夕の大鵬建設四十周年記念パーティにお越しのみなさまに、主催者を代表いたしまして、厚くお礼申しあげます。
顧《かえり》みますと、私どもの大鵬建設は、戦後の混乱期に不肖、私が焼け跡同様の東京に第一歩をしるして以来、孤軍奮闘、数多くの艱難辛苦《かんなんしんく》を重ねまして、昭和二十五年に正式に鷲尾建設として発足。それ以来、東京の再興と発展、オリンピック、高度経済成長とともに、この日本を建設するんだという社会的使命に燃えまして、ひたすら日本の繁栄のために尽くしてまいり、その名も大鵬建設と改めて、今日、やっとこのような隆盛の安定を見るにいたったのであります。
そのお返しとしては、まことにささやかで、恐縮ではございますが、今夕は粗餐《そさん》をご用意いたし、各種イベントやオークションなどの楽しい趣向も用意しておりますれば、どうか春の夕べのひととき、ごゆっくりパーティをおたのしみください」
会場から激しい拍手が起きた。
すぐに乾杯の発声に入った。
乾杯の音頭役は、日本建設工業会の会長である田辺篤徳という白髪高齢の顔役であった。
田辺は東京湾に昇る太陽、という表現を使って、ウオーター・フロント開発の偉大なる夜明けとその担《にな》い手のひとつである大鵬建設の使命をもちあげる的《まと》を射た祝辞を述べたあと、
「さて、みなさん。お手許《てもと》のグラスをお取りあげ下さい」
会場には、くまなくグラスが配《くば》られていた。
「それでは、乾杯いたします!」
「乾杯!」
「カンパーイ!」
会場は嵐のように、どよめきたった。
来賓《らいひん》の祝辞に入る前に、もう一つの行事が待っていた。
特製の巨大な薦被《こもかぶ》りのカガミ開きであった。
「それでは皆さん。乾杯も終わったところでもう一つ、錦上花を添えまして、関東|翠明《すいめい》会より贈られました旭菊の薦被りのカガミ開きをしまして、大鵬建設の大いなる前途を祝福したいと思います」
樽《たる》は二つ、並んでいた。
いずれもふつうの薦被りの三倍はあろうかという大きくて深い樽であった。
一つの樽には鷲尾社長と、関東翠明会の野村会長が木槌を持ってかまえ、もう一つの樽には高松副社長と、建設省建設局長の徳岡亀男が木槌をもってかまえた。
「よろしいですか、参りますよ」
――司会が大きな声をかける。
「セーノッ!」
「セーノッ!」
――パーンッ。
――パパーンッ。
と木槌によって、二つの巨大な薦被りが割られた瞬間であった。
そのまわりから、キャーッ、という悲鳴が湧きあがった。
それもそのはず、樽の中からは清酒ではなく、血のような赤い液体が跳ね飛び、その中から佐渡で死んだはずの、入札課長の鶴田幸佑がタキシードを着て、まっ白いライトを浴びて、起きあがってきたからである。
もう一つの樽からは、これも何と、佐渡で死んだはずの役員室秘書、船越加寿美がまっ白いイブニングドレスを着て、微笑を浮かべながら、立ちあがってきたからであった。
「こ……これはいったい、どうしたんだ!」
鷲尾竜太郎は驚愕して、木槌を取り落とし後退《あとずさ》りながら、わめいた。
「き……きみたちは、交通事故で佐渡で死んだはずじゃなかったのかね。どうして生きてたんだ!」
「そうさ。あんたの指令で、おれたち二人は、佐渡で危なく殺されるところだったんだよ」
「な、……なにをいう」
突然の異常事態に鷲尾は、なすすべがなく、
「わしの指令で、殺されるところだったと……何を言う! たわけたことを!」
会場は騒然となった。
異様な事態に人波がぱっと樽のまわりから散ったのもつかの間、今度は外側から押されて、大勢の人波が樽のまわりに輪を作りはじめた。
しかしやがて、樽のすぐ傍にいた人々が、意外なことを言いだしはじめた。
「なんだなんだ、人間じゃないぞ」「バネ仕掛けのびっくり人形じゃないか」「ひどいいたずらをしやがる。マネキンみたいなびっくり人形だぜ、こいつ」
会場係員が駆けつけてきて、樽の中のものが人間ではなく、蓋があいた瞬間にはねあがる等身大の自動仕掛けのマネキンのいたずらだとわかり、鷲尾と応答した男の声もマイクによるものか、あるいはテープに仕込まれたものであることがわかった。
「皆さん、ご静粛に……! ご静粛に……」
司会役に雇われていた人気キャスターの遠野哲也がすかさず、会場をなだめにかかり、
「ただ今、何者かによるきわめて悪質ないたずらが発見されましたが、これはパーティの盛りあげに花を添えるびっくりイベントと申せましょう。さてさて、皆さん、お手許の杯《さかずき》をぐんぐん干していただくことにいたしまして、祝賀会を進行させていただきます」
パーティは、ひとまず続行されることになった。
鶴田幸佑も、船越加寿美も知らない異業種の人々や多くの招待客にとっては、初めから騒ぎの意味さえもわからないのである。
しかし、二人の事故死を知る建設業界の人々にとっては、びっくり人形は恐るべき恐怖感と、大きな波紋を呼び、強烈な印象を後に残すことになった。
「社長。……どうなさいました。あまり、ご無理なさいませんよう、取りあえず別室へ」
何者かのいたずらに怒り心頭に発して、蒼《あお》ざめて額《ひたい》にべったり脂汗《あぶらあせ》を浮かべていた鷲尾の醜態を人々の眼から隠すように、進行責任者の斎藤営業部長が、あわただしく別室に連れてゆく。
「パーティのほうはどうぞ、ご安心下さい。社長はひとまず、控室でお休みになったほうがよろしいかと思います」
鷲尾はいつも医者から、高血圧に気をつけるよう、口やかましく言われているのである。
社長専用の控室は、来賓控室よりも一番奥まったところにあった。
斎藤営業部長は、そこまで鷲尾を送りとどけると、恭々《うやうや》しくドアをあけておいて、
「あとはわれわれに、お委《まか》せください。会場のほうには副社長も専務もおりますから、当面、社長代行ということにしまして……」
ドアを閉めて、あたふたと立ち去った。
湧きあがる怒りと興奮から、まだ額に粘りついた汗をぬぐうため、慄《ふる》える手でポケットからハンカチを取りだしながら、鷲尾竜太郎が、ソファに坐ろうとした時、彼はぎょっとして立ち止まった。
ソファの陰から、二人の男女がゆっくりと立ちあがり、鷲尾の前に現われたのであった。
その控室にこそ、本物の鶴田幸佑と船越加寿美がひそみ、待機していたのである。
「社長、お久しぶりです」
「社長、おなつかしゅうございます」
――タキシードとイブニングドレスを着て、きちんと一礼する二人に、鷲尾は幽霊でもみるように蒼ざめ、言葉を失っていた。
「き……き……きみたちは……!」
今度はもう、びっくり人形ではないことがわかる。
「社長、そう興奮なさると、お身体にわるい。まあ、静かにお話し合いしましょう。谷津君、そこのドアに鍵をかけてくれないか。それから、森山警部補はおらくにそこにお坐り下さい」
いつのまにか谷津省平と、佐渡からわざわざ呼ばれていた相川署の森山警部補が、その部屋に待っていた。
谷津は内側からドアをロックし、ポケットのテープレコーダーにスイッチを入れた。
森山警部補が、やれやれという顔をして、ソファの片隅に坐って、油断なく眼を光らせていた。
鶴田幸佑は終始、落着いて静かな微笑さえ浮かべていた。その表情にはどこにも、これから弾劾《だんがい》裁判をやるのだという硬さや気負いはみじんもなかった。
百戦練磨の場数を踏んだはずの鷲尾竜太郎のほうが硬くなって、口もきけないでいる。
「ところで社長、さっきあなたは、なぜきみたちは生きていたんだ、とおっしゃっていましたね。その事情をこれからゆっくりとお話します。しかし、その前にまず、なぜ私と加寿美が狙われたかをお話しなければなりませんね」
2
二十一世紀をめざす超大型プロジェクトであるウオーター・フロント開発において、東京湾横断架橋および主要部分を受持って、大手ゼネコンの中核にのしあがりたい大鵬建設は、まず東京湾ベイ・シティ・ルネッサンスの花形工事であるタワービルをどうしても落札したかった。
「鶴田君、是が非でも獲得したまえ」――鷲尾社長の内命を受けた談合マン、鶴田幸佑は張り切ることになった。
通常の入札では、官庁が十社を指名し、競争入札となる。ウオーター・フロント関係の工事とあれば、どこでも受注したいので、入札は熾烈《しれつ》をきわめる。総立ちの、叩きあい、となったら、どこに転がるかわからないので、鶴田幸佑は事前に各社の談合マンに根回しをし、競争九社あてに、大鵬が請負《うけお》った場合、入札決定後、巨額の談合金を払う約束をし、入札では自分が知らせる数字を書き込むよう、工作してまわった。
一方、社長の鷲尾竜太郎は、建設業界の経営者団体である関東|翠明《すいめい》会の根回しをし、そこを談合機関として、各社に裏から手を回して、大鵬有利に事を運ぶとともに、官庁に睨《にら》みのきく建設畑の有力政治家をも動かした。
この時、大鵬|傘下《さんか》の月島建設コンサルタントから官庁側の予定価格は情報収集していたので、各社の応札予定価格をはじきだして知らせてまわったのも、入札課長の鶴田の仕事であった。
入札に際し、本当にその工事を請負うというのなら、必死で自社の入札価格をはじきだすが、そのためには、コストの積算は数週間の調査を要する。だが、談合でどうせ大鵬がとる入札なら、各社は真剣にその調査をする分だけ、労力の無駄となる。
そこで、応札価格が秘密裡に大鵬から指示される。いずれも大鵬よりほんの僅かに高い価格、つまり入札で、負ける♂ソ格である。その数字表を作成し、各社の営業担当を抱き込んで因果をふくめてまわったのも、すべて鶴田の仕事であった。
このような鶴田と鷲尾の工作が効を奏して、各社の暗黙の了解のうちに、「東京湾ベイ・シティ・ルネッサンス」の「タワービル」は、大鵬が請負う代わりに、次回の「シティセンター・ビル」はB社、その次の超高層マンションA棟はC社、B棟はD社、という具合に談合≠ェ成立し、今回は各社入札で負けるという裏約束をとって、ついにその工事を二百三十億円で大鵬は落札することに成功したのであった。
「鶴田君、よくやった! よくやった!」
鷲尾社長をはじめ、大鵬幹部は大喜びだった。
それが、昨年の十一月のことであった。
ところが、今年の二月になって、何者かがその談合の内幕を東京地検に密告したという噂が流れた。
現実に大鵬建設の鷲尾社長と大迫専務らは、地検に呼ばれて、事情聴取を受けた。その時は二人とも強く否定したが、地検は本腰を入れて内偵を開始したという情報を得るにつれ、鷲尾ら大鵬建設の幹部はふるえあがった。
なぜなら、国の予決令(予算決算および会計令)では、「法律に違反した企業に対し公共事業の入札参加を停止させる事ができる」と規定されており、建設省の「工事請負契約に係る指名停止等の措置要領」では、不正または不誠実な行為をし、工事の請負契約の相手方として不適当な場合「一〜九ヵ月間の指名入札資格のはく奪」が、明示されている。
また、刑法上の談合罪のよりどころは、刑法第九十六条の三(競売入札妨害・談合行為)である。同条は、第五章「公務の執行を妨害する罪」にあって、第九十五条(公務執行妨害・職務強要)、第九十六条の一(封印破棄)同条の二(強制執行の不正免脱)とともに、談合も「入札公務」を妨《さまた》げたとする意味で、公務執行妨害の一つとみなされて、それに応じた量刑が定められていた。
いずれにしろ、談合が摘発されれば、独占禁止法によって、公正取引委員会が、「入札指名停止処分」を勧告する。
国の予決令の第七十一条にはまた、「その事実があった後二年間、一般競争に参加させない」という項目もある。
それやこれやで、もし万一、大鵬建設に「談合の事実があった」と司法当局で決めつけられると、最低でも二、三年間、国や都や道路公団の公共工事を請負うことができなくなるのである。
今まさに、ウオーター・フロント開発の夜明けにあたって、これからどんどん指名入札がはじまる折、その「指名入札権をはく奪」されることは、大鵬建設の将来への野心を奪うだけではなく、企業の存亡そのものにもかかわる重大なことであった。
「何としてでも、発覚を防がねばならない」
鷲尾竜太郎は、そう決心したのである。
談合の内幕をすべて知っているのは、入札課長の鶴田幸佑であった。鶴田が逮捕され、収監されれば、すべてがばれる。
逆に、鶴田さえ逃亡して、司直の手にかからなければ、幹部や関係者は知らぬ存ぜぬで、押し通すことができるのである。
そこで鷲尾は、鶴田に潜伏指令をだした。
どうせ逃亡し、潜伏させるなら、公金を懐《ふところ》に入れて女と逃亡している、とすれば、ますますリアリティが出てきて、会社幹部は責任がなくなるし、万事に都合がいい。
そう考えた鷲尾は、鶴田幸佑に懇々と因果を含めて、愛人の船越加寿美をつけてまでして、鶴田を東京から伊豆方面へ逃がしたのである。
「そうでしたよね、鷲尾さん」
――鶴田幸佑はそこまで話して、わざわざ鷲尾竜太郎のほうをむいて、同意を求めるように聞いた。
突然、鉾先《ほこさき》をむけられたので、鷲尾はあわてて、太い猪首をふった。
「ば、ばかな」
鷲尾は当然、否定する。「おい、きみ。何を言うんだ。約束が違うじゃないか、約束が」
鷲尾は、わめいた。
「約束というのは、身を隠すにあたって一切《いつさい》、秘密を口外しない、という私との約束でしたね。でもそれは、お互いが守秘義務を守ったらのことであって、社長は一方的に、それをお破りになった」
「おい、きみ、わしが破っただと……? わしがどういう約束を破ったというんだ」
「ほとぼりがさめたら東京に呼び戻して、営業部長にするという約束です、社長はその私との約束を、一方的に破ったんだ。破るも破る。社長は逃亡させるだけでは安心できず、最初から私を殺そうと計画してたんだ」
「何を言うんだ。おい、きみ!」
「いいから、いいから。静かに聞いて下さい。話をつづけます」
3
――伊東と熱海を転々として二週間。地検の内偵が身辺に及んでいるから場所を移す、という鷲尾の極秘電話での指示によって、鶴田幸佑と加寿美が、梨本忠義の運転する黒いベンツで熱海・伊豆山リゾート・マンションを後にしたのは、四月四日水曜日の、もう夜にはいってからであった。
二人を乗せた黒いベンツは、東名高速を走って東京に戻り、ビジネスホテルに一泊。翌日、関越自動車道に乗って、新潟をめざした。目的地は佐渡であり、鶴田と加寿美は佐渡のある場所で、三田村建設など三社の談合マンと落ちあい、いわゆる談合金なるものを手渡す「手打ち式」のために赴《おもむ》く、と運転手の梨本からは、そう説明を受けていた。
一千万円以上の現金も、そのためにスーツケースに入れて運んでいたのである。
途中、梨本が疲れたというので新潟でもう一泊し、翌日、新潟港からカーフェリー「大佐渡丸」に乗船して佐渡の両津に着いたのは、四月六日金曜日の夕方のことである。
その夜は両津の加茂ホテルに泊まった。鶴田と加寿美は、談合マン同士の秘密会談の痕跡を残したくなかったため、内藤貞男、妻はつえと、偽名で投宿し、梨本も偽名で泊まった。
梨本の話によると、予定では翌日、両津の一流ホテル「湖畔ダイヤモンドホテル」で、三社の談合マンと落ちあうことになっていた。
しかし当日行ってみると、相手は来てはいない。鶴田が自分たちの佐渡旅行を変だな、と不審に思いはじめたのは、そのあたりからである。
「ま、先方には都合があって、予定の変更があったのでしょう。ベンツをお貸ししますから、今日あたりはのんびり、佐渡観光でもなさいませんか」
運転手の梨本忠義は、そんな暢気《のんき》なことを言った。
「それもそうだな」
他にやることもない鶴田と加寿美はその午後、梨本のベンツを借りて、本間家の能舞台、日蓮|配流《はいる》の地・根本寺、真野御陵、朱鷺《とき》の郷《さと》、妙宣寺などを観光ドライブした。
ところが、午後三時頃、その妙宣寺を出てしばらく走っている時だった。鶴田は異様なことを発見した。突然、ベンツのブレーキが効かなくなっているのである。
「どうしたんだッ! 危ないッ!」
鶴田は必死で、ハンドルを操《あやつ》った。
幸か不幸か、その道は、それほどの下り勾配ではなかったので、加速したまま止まらないベンツを必死で運転して、杉の巨木の生い茂っている樹林の中に乗り入れ、藪《やぶ》を勢いよく突っ切りながら二十メートルも走って、衝突感を柔らげながら杉の木にあてて、車を止めた。
降りてフェンダーをあけて検査してみると、制御機能を伝達するブレーキ・パイプが途中で折られ、はずされていることを発見した。
「見たまえ。ブレーキが効かなくなってるよ」
蒼《あお》ざめて立っている加寿美に説明すると、それを覗きこんだ加寿美の顔が、ますます蒼ざめてきた。
「おい、どうしたんだ?」
「もしかしたら私たち、殺されそうになっていたのよ」
そう言う加寿美の顔がこわばっている。
「思いあたることでも、あるのか?」
それまでは鶴田は、現実が信じられなかったのである。
「しっかりしてよ、鶴田さん。だってあなたは今度の談合の一部始終を知っているでしょ。そのために潜伏行を命じられているくらいよ。そういう現場課長というのは、証拠隠滅のためにえてして――」
たしかに鶴田幸佑さえ消してしまえば、談合の証拠は、どこにも残らないのであった。
「なるほど……しかし、お目付役のきみまで巻き添えにするなんて、ひどいじゃないか」
「いいえ。あなたよりも本当は、私のほうこそ殺される理由があるのよ。そうよ、それで社長は私たち二人をペアにして旅行にださせ、一緒に殺す機会を狙っていたんだわ!」
加寿美は最後は、叫ぶように言った。
「おいおい、どういうことなんだい」
「怒らないで、聞いてちょうだい」
加寿美は何かを打ちあけようとした。
「二人とももう少しで殺されるところだったんだぜ。これ以上、びっくりすることもないし、怒ることもないだろう」
「私、密告したのよ」
「え?」
さすがに、鶴田幸佑はびっくりした。
「何を密告したというんだ?」
「ウオーター・フロントの談合よ。あなたたちが仕組んだ今度の談合の一部始終を、ワープロで打って、東京地検に密告したのは、この私よ。鷲尾竜太郎に復讐するために、この私が密告したのよ」
天を摩す杉林の中で、その声は魔女のように響いた。
呆気《あつけ》にとられている鶴田を尻目に、加寿美はそこで、自分の生い立ちの背後にある辛い記憶を説明した。
加寿美の両親は、千葉県船橋市で鷲尾建設の下請けの地元建設会社を経営していたが、彼女が高校二年の時、鷲尾建設に恨みをのんで死んだそうだ。
建設業界の下請け、孫請け構造はよく知られるところだが、加寿美の父が経営していた「房総建設」はある年、現場事故から事業が左前になって、補償金支払いのため巨額の借入金を作ったが、その事故というのも親会社からおろされてきた設計ミスによるものだったため、局面を救ってもらおうと思って、父の萩尾信広は鷲尾竜太郎に泣きついたのである。
しかし鷲尾は、工期が遅れていることを責めるばかりで、援助の手を差しのべようとはしなかった。
何度目かの懇願の時は、父ではなく母親のゆかりが会いにいった。鷲尾はゆかりの美しさに眼を奪われ、言うことを聞けば苦境を救ってやろうと言って、ゆかりを手ごめ同然に犯《おか》したのだという。
それによって、雀の涙ほどの援助は受けた。しかし、ゆかりが愛人になるのを拒否したため、借金返済はできず、萩尾信広夫婦は事業失敗の責任もあって、加寿美が高二の時、服毒心中をしたのだというのであった。
十七歳の一番感受性の強い時、加寿美はその両親の悲劇に出あい、成長をしてその内実を知るにつれ、娘心にも鷲尾建設の社長に復讐してやろうと思ったそうである。
「――それ以来よ、私、心を鬼にして女を磨《みが》いたわ。勉強もしたわ。大学を出て、大鵬建設の秘書課に就職したのよ。社長は私の素姓を知ってはじめは警戒したらしいけど、私が復讐心の素振りを微塵《みじん》も見せなかったので、信用し、信頼し、盲目的に可愛がるようになったわ。私としたら、それを待っていたわけで、社長からトップシークレットの何もかもを聞きだし、また自分でもスケジュールを動かしていたので、今度のタワービルの談合の全貌を掴み、それを東京地検に密告したのよ」
はなはだ、奇妙な情況である。
その話を聞いて、鶴田幸佑は複雑な心境を抱いて、杉木立の上空を見あげた。
自分が会社のために一生懸命に働き、談合マンとしての機能をフルに発揮したことを、この女はすべて調べて、地検に密告したというのである。
会社にとっても、自分にとっても、いわば許すことのできない裏切り者であった。その裏切り者と、伊豆、熱海、佐渡へと長い愛欲旅行をしていたのである。
しかも今、その裏切り者と一緒に、自分は佐渡の果てで殺されようとしているのである。
こうなると、加寿美に腹をたてるどころではなくなる。むしろ、二人の気持ちは、急速に接近した。
二人は初めて、身体だけではなく心も結ばれ、自分たちを亡き者にしようとしている力に対して、結束することになった。
「梨本だな」
ブレーキの壊《こわ》れたベンツの傍で、鶴田は言った。
「あいつ、今日もそこの妙宣寺まで、見え隠れしながら、おれたちのあとをつけてたな」
「そういえば、私もちらっと見たわ」
「畜生。あいつが、駐車しているベンツに近づき、ブレーキ・パイプに、手を加えやがったんだ!」
「そういえば……梨本だけじゃないわ。私、ゆうべのホテルで、見憶えのある女をチラッと見かけたんだけど……」
「女……? どんな……?」
「服装も髪型もまるっきり印象を変えていたので、よくはわからないけど、銀座の〈舞姫〉の沙織さんだったような気がするの。ほら、あなたの係で、可愛がっていた娘がいたでしょ。あの娘もこの佐渡に来ているような気がするのよ」
「沙織が……どうして?」
「さあ、よくはわからないけど……梨本だけでは首尾を果たせないかもしれない。そこでもう一人、女をつけよう。鶴田とも親しい女が、偶然の一人旅を装《よそお》って、佐渡でパッタリ、というふうを装って現われる分には、鶴田たちも安心するだろうから、梨本がもし失敗したら、二波、三波と、二人組んで殺人計画をつづけよう……と」
「そ……そんな、鬼みたいなこと……」
「考えられなくもないわよ」
「うーん。なるほど、考えられないこともないな」
「どうすればいい? 私たち」
「そうだ。ここはひとつ、素知らぬふりをしよう」
鶴田は加寿美に言った。
「なあ、船越君。力をあわせよう。結束しておれたちを殺そうとしている梨本の尻尾《しつぽ》をつかもうじゃないか。そのためには、今日のことを怒ってはならない。当面、素知らぬふりをして宿に戻って、梨本をあざむこう」
その日、二人はベンツを林の中に放置したまま、近くの商店で電話を借りてタクシーを呼び、何くわぬ顔をして、両津のホテルに戻った。
二人が無事に戻ったので、梨本はたいそう、驚いたようだ。しかし、その内心の驚きを隠しながら、
「ベンツは?」
と聞いた。
「途中で故障しちまってね。寺の駐車場に置いたまんまさ」
「そりゃ、不便ですね。あすは大佐渡スカイラインに登らなくっちゃならないので、今日中にレンタカーでも手配しなくっちゃ」
「大佐渡スカイライン? 何だい、それ」
「さっき、三田村建設の若井さんから電話が入りましてね。明朝九時に、大平台展望レストランで会おう、というんですが」
「山上の展望レストランか。そんな朝早くからやっているのかね」
「何でも知りあいがいて、今夜からそこに三人ともお泊まりだそうです。正月のご来迎《らいごう》ではありませんが、そこから見る朝日の出が素晴らしいそうで……」
梨本は、すらすらと、そういうことを説明した。
恐らくは、計画していた通りのことだろうから、すらすらと言えもしたのであろう。
「じゃ、レンタカーを借りてくるよ。きみの分は?」
「私は昨日のうちに、借りておきました。ベンツはお二人にずっと使っていただこうと思っておりましたから」
夕方、鶴田と加寿美が港の近くのレンタカー営業所で、ブルーバードを一台、借りてホテルに戻ると、ロビーに赤いコートを着た女が立っていた。
「まあ、鶴田課長……」
ぱっと、明るい笑顔をむけて近づいてくる。
加寿美が言っていたとおり、「舞姫」の野方沙織であった。
「これは、珍しい。どうしたんだい、こんなところで?」
「私、お店を休んで一人旅で来てるの。佐渡は私の憧れの土地だったのよ。でも、一人旅ってやはり淋しいわ。ねえ、課長たちと今夜の夕食、ご一緒していい?」
野方沙織はしっかりと買収されているらしく、これもすらすらと見事な演技ぶりで、そう言った。
そんなわけで、夕食は四人、同じテーブルについた。
あす、大佐渡スカイラインに登るという話になった時、沙織はぜひ、つれてってくれ、と、これも無邪気に懇願したのであった。
「ねえ、私だって、運転できるからさあ」
――結局、同行することになった。
翌朝、八時すぎに出発した。
前のレンタカーに鶴田と加寿美が乗り、その日は加寿美が運転していた。後ろのレンタカーには、梨本と沙織が乗った。
梨本たちの車も、沙織が運転していた。どうしても自分のハンドル捌《さば》きで大佐渡スカイラインなるものを越えてみたい、と言って沙織は譲らなかったらしかった。
大佐渡スカイラインは、濃い霧に包まれていた。
九時少し前に、大平台の展望レストランに着いた。梨本が手をまわしていたらしく、営業時間の前だったはずなのに、部屋がちゃんと用意されていた。
しかし、そこで落ちあう予定になっていたはずの、三田村建設の若井など三社談合マンは、もちろん、来ているはずもなかった。
「おかしいなあ。どうしたんだろう」
いかにも変だ、変だ、という顔の梨本の演技をみていると、鶴田はしだいに抑制心がなくなり、この野郎、と猛烈に腹が立ってくるのをどうにも抑えようがなかった。
(人を殺そうとしているくせに……!)
コーヒーを飲みながら十五分くらい経った時、梨本に電話がかかってきた。彼はレジ傍の電話に出ていたが、すぐに小走りに戻り、
「ちぇッ、手間を取らせやがる。三人とも下の相川の金山記念館で待っている、と言うんですよ。仕方がありませんね。一休みしたら、降りましょうか」
いかにもぬけぬけと言いつくろう梨本をみているうち、ついに抑えがきかなくなり、むかむかと腹が立ってきた鶴田は、
「梨本さん、ちょっと聞きたいことがある」
と言って、店の裏に彼を誘いだした。
人眼がないのを見届け、鶴田は梨本の襟首をいきなり掴みあげ、壁に頭を強く押しつけた。
「おい、梨本さん。人を欺《だま》すにもほどがある。あんたはおれたちを殺そうとしてるんだろう? 正直に吐いたら、どうなんだ!」
眼が凄んでいたかもしれない。その時の鶴田は、もうどうにも我慢がならなかったのである。
梨本はあわてて、
「な……なんという言いがかりを」
否定する。
「じゃ、昨日のブレーキ故障は何なんだ」
「知りませんよ。そんなこと」
「今日だって、こんな高いところまで連れ出してきて、どうするつもりだッ!」
「し……知りません。放して下さい!」
ぬけぬけという梨本に憎悪を感じた。
「この人殺しめ。吐けッ」
鶴田は気持ちが収まらないから、荒っぽくなった。
「正直に言え。あんたはおれたちを殺すために派遣された殺し屋だろう。え、どうなんだ!」
力ずくの言い争いとなった。
梨本とて鶴田とほとんど同じような背恰好である。腕力がある。運転手の前は、手荒いことをやっていた請負師である。
「放せ。言いがかりをつけるな!」
「正直に言え。おれたちを殺せと命令したのは、社長か?」
「は……放せったら。おれは何も命令されてはいない!」
激しく揉《も》み合っているうち、乱闘気味となった。鶴田は前日のブレーキの故障にみる梨本の殺意を思い出すと、逆上気味になり、襟を掴んで壁に頭をぶつけるようにして追及しているうち、気がつくと梨本の側頭部が壁に激しくぶちあたった拍子に失神したらしく、急に全身から力が抜けてしまった。
ずるずると、地面に沈んでしまう。あわてて心臓に手をあてると、死んでいるわけではなかった。
「おい、梨本……!」
頬っぺたを叩いて正気に返らそうとしているうち、不思議な気持ちが、鶴田の中に芽ばえてきた。
それは、ほとんど殺意といってもいいものだった。しかし、厳密に言うと、それは殺意ではない。なぜなら彼はその時、自分たちの車に、昨日と同じようにブレーキ・パイプの工作が施《ほどこ》されているかどうかをまだ確かめたわけではないし、テーブルで飲んでいたコーヒーに、睡眠薬が施されていたかどうかを、はっきりと確かめたわけではないからである。
しかし、そういうことが行われているかもしれない、という予感はしていた。
それはちょうど、同じ時間に片や、レストランにいた船越加寿美を見舞った心理と、同じであったようである。
加寿美は、傍で何かを話しかけている野方沙織が、自分のコーヒー茶碗にさりげなく、睡眠薬を入れるところを見たわけではないが、手洗いから戻ってきた時、何とはなしに挙動不審の沙織をみているうち、とっさにそういうことを想像して、疑心暗鬼になり、自分のコーヒー茶碗には手をつけなかった。
いや、それどころか、沙織の眼を盗んで、二人のコーヒー茶碗をそっと、入れかえたくらいである。
ただし、それが殺意であるかどうかは、厳密にいうとわからない。コーヒー茶碗に睡眠薬がはいっているかどうかを確認したわけではないし、もし睡眠薬が入っているとしたら、ご自分で飲みなさいよ、といった程度の軽い仕返しの気分だったそうである。
さて、鶴田のほうだ。彼も同じように、もし自分たちの車に梨本が先刻、外出した際にブレーキ系統の操作を加えているとするなら、その結果は自分で試《ため》してみろ、という激しい仕返しの気持に駆られて、気絶したままの梨本を引きずっていって自分たちの車に乗せようとした。
その時、あわてて建物の陰で上着、ズボン、ベルト、靴などを自分のとそっくり取り換えてしまったのは、これはもうなりゆきというか、悪魔の実験といった心理でしか説明がつかない。
もし万一、その車が自業自得で事故を起こすようだったら、それは天罰てきめんというものであり、またその結果、世間的に自分と加寿美が死亡したように見られるのだったら、それはまさに、利用する価値のある状況である。なぜなら、自分たちが死んだことになったら、東京にいる殺人指示者たちは安心するだろうし、その時にこそ、悪魔の計画をあばいて、復讐することができる――。
鶴田は、一瞬のうちに、そういう考えが脳裡を走ったことを憶えている。
梨本はさいわい、ほとんど鶴田と背恰好は同じであった。服やズボンはぴったりだった。内ポケットの財布や名刺入れや免許証も、そのままにしておいた。動かない人間に着せかえるのは、かなり骨だったが、しかし強引《ごういん》にやれば、短時間にできないことではなかった。
それよりも、来る時と同じように助手席に坐らせ、シートベルトをきつく締めて動かないようにしたあと、さてその情況を野方沙織にどう納得《なつとく》させるか、ということのほうが心配であった。
だが、当たって砕けろ、と鶴田は思った。
「時間のようだね、行こうか。――梨本君は先刻のビールで、ゆうべの酔いがぶり返したらしく、ダーバンのぼくの服を着せろといって絡《から》んだ揚句《あげく》、助手席にふんぞり返って寝ているよ」
店に戻って、沙織にそう説明すると、
「おかしな人たちね。男の人もお洋服を取りかえっこしたりするの?」
妙な顔をしていたが、さほど疑いはしなかった。
その時、野方沙織はすでに眼が幾分、とろんとして、足許も少しふらつき気味だったので、もしかしたら自分で入れた睡眠薬入りのコーヒーを飲んで、そのくすりが効きはじめていたのかもしれない、と後日、加寿美は鶴田にそう説明した。
ともかく外に出て、相川にむかって出発することになった。
「沙織さんたちの車は、そっちだよ。今度はぼくたちが後ろを走るからね」
レンタカーは似たような車だから、野方沙織は何の疑いもせずに、先に配置してあった車に乗り、エンジンをかけた。
鶴田と加寿美はうしろの車にのり、二台はやがて、その中継点をスタートしたのである。
大平台から七曲がりの事故現場までは、比較的、至近距離である。
そうして道は、大平台展望レストランを出ると、ほとんど下り坂であった。
鶴田は助手席に坐って、加寿美に運転してもらいながら、前の車を複雑な心境で、注意深くみていた。
予想通りというべきか。それとも……やはり思いがけなくというべきか、沙織が運転する先行車が、しだいに加速しはじめ、七曲りにさしかかってダッチロール運転をしはじめたのを見た時、鶴田は言いようのない緊張を覚え、心臓の鼓動が激しくなって息苦しくなり、今すぐにでも助けにゆかなければならない、と焦《あせ》って叫びだしたいような心境であった。
しかし、運命はすでに決まっていたのである。
すべては手遅れであった。
四つめのカーブでとうとう曲がりきれずに、沙織が運転する車がガードレールを突っ切って、崖下に転落してゆくのを目撃した時、鶴田と加寿美は、だから、悲鳴をあげて、内心の驚愕に耐えながらも、思わず瞑目合掌する気持ちだった。
「でも……でも……これも、運命だわ。これこそ天罰てきめんというものよ。残酷だけど、仕方ないじゃないの……!」
加寿美が声を出して、自分にそう言いきかせている声を聞きながら、鶴田はなおも自分の胴震いと膝頭が慄《ふる》えるのを禁じ得なかった。
二人は相川に出た。取っつきの金山記念館の売店に飛びこみ、通りすがりの目撃者として、警察にその事故を報告した。
鶴田には今もって、野方沙織が運転する車の転落事故の原因が、ブレーキ系統の操作によって故意に作られた故障によるものか、後日、佐渡の地元紙に報道されていたような睡眠薬による居眠り運転によるものか、わからない。
あるいは、その両方だったのかもしれない。
4
――室内が異様な静寂に包まれた。
佐渡での一部始終を語り終えた鶴田幸佑が咳払いをする声が、薄気味わるく響いたほど、祝賀会の裏の控室は、人知れず、しーんとなっていた。
鷲尾竜太郎にも、谷津省平にも、森山警部補にも、すぐには声がなかった。
みんな、鶴田の話の迫真性と、運命の奇異さに息を呑《の》まれていたのかもしれない。
谷津も、そうである。
谷津は、鶴田と加寿美が紙一重の差で、生と死を入れかわったことが、いまだに信じられない思いである。
谷津は、何か言わなければならないと思った。
「それで……鶴田さんたちはそのまま、佐渡から姿を消したんですか?」
当面、質問する事柄は、そんなことしか思い浮かばなかった。
「ええ。私たち、そのレンタカーを戻したあと、三日間くらい小木《おぎ》港の旅館に潜伏して事故の様子をさぐっていたのよ。それから四日目、小木港発のフェリーに乗って、佐渡を脱出してきたわ」
鶴田の横あいから、静かな声でそう答えたのは船越加寿美であった。
「小木から直江津《なおえつ》に着いたからといっても、すぐには東京には戻らなかったわ。すぐに戻ると、私たちが生きていることが、ばれそうだったから。何といっても、会社に復讐するためには、私たち、当分は死んだままになっていたほうがいいと思いましたからね」
澄んだ声でいう加寿美の視線が、鷲尾竜太郎のほうにむいていた。
谷津は、鷲尾のほうを注視した。
その時、鷲尾は実に不思議な表情をしていた。鷲尾は本来なら、二人にむかって烈火のごとく怒りだすべきはずなのに、血圧の数値が百九十から二百まであがっていたようで、顔面をまっ赤にして喘《あえ》ぐように肩で息をし、口をぱくぱくさせて、声もだせないありさまだったのである。
(危ないな。医者を呼ばなければ……)
谷津はそう思った。
鶴田が言い残していたことがあったらしく、つづけた。
「鷲尾さん。おれはね、自分が殺されそうだった情況にはむろん、激しい怒りを感じる。それで談合のことはなにもかも公表しようと思っている。念のために自分のやったことの資料をブリーフケースに入れて、銀行の貸金庫に入れていたくらいだ。もっとも、その鍵は今、あなたの手の中にあるようですがね。しかし、今になってみると、むしろ、亡くなった梨本忠義や野方沙織のほうこそ、可哀想でならない。結果的には自分で仕掛けておいて可哀想だというのは卑怯《ひきよう》かもしれないが、おれたちはいわば、被害者同士だったんだ。おれたちをそのように仕むけたのは、鷲尾さん、あんたじゃありませんか?」
鷲尾にとってそれ以上、矢を放つのはもう、酷である。
谷津は立ちあがって、部屋隅の受話器を取りあげ、ホテルの契約医を手配した。
「わ……わしは……そんなことを命令した覚えはないぞ!」
やっと鷲尾が、吐きだすように怒鳴った。
「あなた以外、誰が命令するんです?」
「し……知らん!」
鷲尾はそれでも吼《ほ》えた。「いったい、きみたちの話を裏付ける証拠がどこにあるんだ」
「証拠ぐらい、たくさんある。妙宣寺の近くの杉林の中に放置されている社長専用車。わざと両津に残したままにしていた現金千二百万円入りの船越加寿美名のスーツケース。用事もないのに熱海から佐渡まで社長専用車でおれたち二人を運んだ梨本忠義の行動。そのすべてが、大鵬の最高責任者、鷲尾竜太郎の指令によって動いたとしか言いようがないじゃありませんか」
「そんなものは、すべて情況証拠ばかりじゃないか。梨本が勝手にやったまでで、わしは殺人などは命令してはいない」
「見苦しいですよ、鷲尾さん」
鶴田が手厳しく言った。「死人に口なしで、証人が亡くなってしまえば、あなたはこれ幸いと、逃げを打とうとしている。しかし今度の談合に関しては、言いのがれはできませんからね。私が、生きている。あれはすべてあなたが私に命令したことだ。え、違いますか?」
「それは、否定はせん。しかし、仕方がなかったんだ。わが社のためだけではない。あれは……あれは……」
「業界全体のためだというんですか?」
「そうだ。談合は必要なんだ。総立ちになって、叩きあいになったら、業界はどうなる。え? 競《きそ》って値を引き下げて苦しい入札をし、そのあげくにどこが請負っても、採算のとれない工事を背負いこみ、欠陥工事をやることになる。そうなると、国民は損をするし、日本の建設業界は破滅する。――な、そうだろう。談合は、消費者である国民と、官庁と、建設業界のために、絶対に必要なことなんだぜ」
「違いますね。それは業界の言い逃れというものだ。私も今まではそれを信じてきたが、談合の内幕は汚ない。その揚句に、やった人間を殺そうとまでする。公正な競争の中でこそ、信頼のおける工事がなされて、またそれをやる。それが、これからの建設業界というものでしょう」
「ま、ま、ご両所」
――それまで無言で話をきいていた森山警部補が片隅から立ちあがって、分けて入った。
「鷲尾さんは今、話せるような状態ではない。とりあえず、医者に委《まか》せましょう。鶴田さんの言い分はすべて、これから谷津さんが新聞に報道して、地検も動いて社会的制裁を受けることになるでしょう。私もむろん、殺人|教唆《きようさ》罪について、これから厳しく追及します」
森山警部補はそこまで一気に言って、それから頭を掻いた。
「ま、……それにしても、何ですな。佐渡では私もずい分、見落としをしていたこともあったようだ。鶴田、船越のご両名にはもう一度、佐渡に来てもらって、ゆっくり現場検証をしましょう。実に厄介《やつかい》なことですが、お二人の行為が殺人罪に該当《がいとう》するかどうかも、上層部としっかり相談しなくちゃなりません」
ホテル医が来たらしく、ドアの外にノックの音が響いた時、戦後建設業界を代表する一人の紛うかたなき野性的な巨人は、眼をまわしてソファにひっくり返って、苦しそうに腹を波立たせていた。
5
有栖川宮《ありすがわのみや》記念公園には、その日も四月末の、午後の柔らかい陽が射していた。
鶴田翔子が指示された場所に行ってみると、不思議なことに誰も来ていなかった。
ようやく芽吹きはじめた欅《けやき》の木立ちの間にも、広場にも、アベックの姿も、子供たちの姿もなく、午後の風が小さな砂埃《すなぼこ》りと紙屑を渦巻かせていた。
翔子は指定されたベンチに坐った。
坐って間もなく、背後に足音が響いた。
ふりむくと、少し疲れた茶色の背広を着た幸佑《こうすけ》が木立ちの間から現われて、やや俯《うつ》むきかげんに黙々と歩いてくる。
「どうして家にいらっしゃらないのですか」
翔子は立ちあがって、糺《ただ》すような眼をむけた。
「広尾までいらっしゃったのなら、私をこんなところに呼びださなくてもよろしいじゃありませんか」
「だってきみ、あの家はぼくが戻ってゆく家じゃないよ。何度か家の近くまで行ったんだけどね。ぼくにはチャイムを押す勇気がなかったんだ。ここなら、すぐ傍《そば》だからね――」
「もう、家にはお戻りにならないんですか」
「仕方がないだろう。ぼくときみとはもう、夫婦ではないからね。あかの他人といったほうがいいかもしれない」
「他人だなんて」
翔子は、呟《つぶや》くように言った。
「正式に離婚する、とおっしゃるのですか」
「離婚……? おいおい翔子。おれたち、もう離婚どころか、死別してしまってるんだよ。いったんはね。籍だってその時にもう抹籍されてると同じなんだから、今さら、離婚というのはおかしい」
たしかに、それはそうである。
翔子だって、現実問題、もう未亡人の気持ちになっていた時期がかなり長かったわけである。
「復籍すれば、もとに戻ります」
「きみは、それを望むのかね?」
「…………」
見つめられて、翔子は無言で、うつむいた。
それから、空を見あげた。
「え、それを望むのかね?」
(――わからないわ)
翔子の気持ちは正直のところ、そう言うしかなかった。
幸佑と復籍したとしても、二人が倖せになる保証はどこにもない。いやむしろ、その可能性はもはや、少ないといえよう。
「ぼくは今度の一件で、あの船越加寿美という女性と、いわば運命共同体といっていい時間を過ごしてきた。はじめはただの見張り役の女と、見張られる男として、ベッドをともにしていただけだったかもしれないがね。しかし佐渡で一緒に殺されそうになり、何度か危険な状況をかいくぐるうち、お互いに信頼というか、愛情というか、そういうものが湧いてきたんだ……」
翔子は無言で聞いていた。
加寿美に対する幸佑の気持ちや、その説明はわからないではない、と思った。
「この先、ぼくと加寿美は警察に出頭して、色々な手続きがある。その結果、正当防衛として無罪になるか、それとも過剰防衛、あるいは未必の故意として殺人罪に問われるか。司直の判断は、ぼくたちにはわからない。たとえ、どんな情況が訪れるにしろ、たぶん……ぼくと加寿美は力を合わせて耐えてゆくだろうし、耐えていこうと、そう誓いあってるんだ。――わかってくれるかい?」
翔子は、無言でうなずいた。
「それは、わかります」
「きみには、谷津君がいる。この二週間、ぼくたちはそれとなく、きみたちのことを見ていたさ。谷津君となら、きみはしあわせになれるよ。ぜひ、そうなってほしい」
それは、幸佑の本心かもしれなかった。
翔子はまだ、そんなにすんなりと気持ちが一本に整理できるものではなかった。
春の突風のように、四月の魔のように、自分を猛烈に見舞った今度の事件は、あまりにも大きすぎて、翔子はまだ、その大きな拡がりの輪郭を見定めることはおろか、自分の足許さえも見定まらないのである。
「見たまえ」
翔子は、幸佑の視線のほうをみた。
林を透《す》かして、斜面の下にある池の傍の石段状の遊歩道を、思いがけないことに、ちょうど、谷津省平がゆっくりと歩いてくるのが見えた。
翔子の姿を見つけると、谷津は手を振った。
でも翔子は、彼がこの時間にちょうど、なぜここに来合わせるのか、怪訝《けげん》な気がした。
「ごめん。ぼくが電話で呼んでおいたんだ。きみたち二人に、言い残しておきたいことがあったからね」
「言い残しておきたいことって、何でしょう」
「いや……もう何もない」
「変ね。おっしゃれば」
翔子ははじめて、少し笑った。
「うん。どうってことはないがね。おれと加寿美はあす、佐渡にゆく。任意出頭ということで、色々な調査の結果、事故死に関して何らかの裁きを受けるかもしれない。いずれにしろ、おれと加寿美は、もう東京には戻らないつもりだ。――それで、谷津君にきみのことをよろしく頼もうと思ってたんだけどね。よけいなお世話だったと気づいたんだ。ぼくはもうお先に、失礼するよ。じゃ……」
翔子の返事を待たずに、幸佑はそう言い残して、公園の木立ちの中をゆっくりと歩き去っていった。
◇この作品はフィクションであり、登場する人物、団体等は架空のものであることをお断わりします。(作者)
本書は一九九〇年四月、小社より講談社ノベルスとして刊行され、一九九三年六月、講談社文庫に収録されたものです。