自由ケ丘密会夫人
南里征典 著
目 次
第一章 箱根密会の宿
第二章 寝台のアリバイ
第三章 事件の構成
第四章 六本木不倫館
第五章 追跡
第六章 接点
第七章 赤い闇の殺人
第八章 欲望水脈
第九章 許されざる者
終 章 やがて夕映え
第一章 箱根密会の宿
1
到着早々に飲んだつめたいビール一本が、窓ぎわのソファに坐った伊集院明日香《いじゆういんあすか》をちょっとばかり、いい気分にさせていた。
日が暮れかけている。
窓の外に、深く切れ込んだ渓谷と対岸の木々の緑が広がって、夏のものうい風の中で揺れていた。
箱根・塔ノ沢温泉である。
「いい夕暮れね」
伊集院明日香は言った。
「思いきって、来てよかったわ。空気は澄んでいるし、谷川の音が凄《すご》いし、心が洗われるみたい」
「夕食前に散歩でもしませんか」
スーツケースから旅行雑誌を取りだしながら、稲垣啓四郎《いながきけいしろう》が言った。
「そうね、それもいいわね」
「タクシーで少し上に登ると、旧街道が残っているそうですよ。まだ陽が明るい時間ですから少しなら歩けるかもしれない」
「でも、こんなすてきな夕暮れ。ばたばたするより、こうしてのんびりくつろぐのもいいわ。あなた、会社に電話しなくていいの?」
「さっき、湯本で電話しましたから、用事はもう片付いています」
「そう。それじゃ、のんびりしていいのね」
明日香はソファから立ちあがって、渓谷を見おろす手すりにもたれた。
眼下の深い渓流を見ながら、くすん、と明日香は可愛い鼻翼のあたりに、小さな笑いをのせた。
「何がおかしいんです?」
稲垣が横に並んで手すりにもたれて、聞いた。
「週末の土曜日、男と箱根塔ノ沢に来ている、なんて、いかにもそれらしくて」
「それらしい、というのは不倫のこと?」
「ええ、そうよ。密会旅行をするにも、温泉場やリゾート地はほかにもいっぱいあるでしょうに、よりによって箱根だなんて、いかにもそれらしいわ」
「それらしくては、いけませんか」
稲垣がばかな切り返し方をする。
「いけないとは言ってないけど、なんだか、絵になりすぎてるもの」
「そこがいいんじゃないかな。東京から車やロマンスカーで一時間余りで着いて、日本一の山と温泉があるなんて、箱根はやはり今も昔もリゾート一等地ですよ。それに、そういう箱根のもつ古風で贅沢《ぜいたく》なところが、いかにもあなたにぴったりだ」
「そうかしら。私にぴったりかしら」
稲垣がどういうニュアンスをこめて言ったのかはわからないが、明日香は案外、あたってる部分もあるかもしれない、と思ったりする。
到着早々に、喉《のど》の渇きを癒《いや》すためにビールを一本、飲んだりして少し弾んでいるようだが、その実、明日香は、びくびくと不倫に怯《おび》えている古風な女なのだ。
とうとう来てしまったわ……と、今も明日香は身内に、熱い戦慄といっていいくらいのおののきと、不安が渦巻くのを感じていて、その不安を押し隠すように、ビールなどを飲んでいるのであった。
おののきの原因は、いわずと知れた夫への罪の意識。初めて自分が不倫とよばれる背徳の夜を迎えることへのおののきであった。旅先にきてまでそういう感情を整理できないなんて、伊集院明日香は今どき、珍しいくらいに古風で、保守的な面をもつ女なのである。
しかし、その不安の裏側には、甘美なときめきと期待があることもたしかだ。ときめきは当然、とうとう今夜、稲垣啓四郎と結ばれるのだという女としての熱い恥じらいと期待感であった。
「ああ、いい谷風……」
明日香は顔を少し上向け、谷川から吹きつける風に長い髪をなびかせた。喉にひんやりとするくらいの、つめたい風でもある。
そこは、塔ノ沢でも少し上流のところに出来た真新しいホテルである。望星館というホテルの別館「風の家」は、手すりの下がすぐ渓谷という構造になっていて、木々を渡ってくる風の音も、谷川の音も、すべて直下から吹きあげてくる感じで、涼しさ満点だが、気分によっては恐いくらいであった。
「夕食、何時から?」
少し身体の火照《ほて》りが治まったところで、明日香は窓を閉めながら聞いた。
「七時からでしたか。仲居さん、たしかそう言ってたけど、何なら早めましょうか」
「あら、いいわ。その前に、ゆっくりお風呂にも入りたいし……」
「そうですね。それがいい。たしかこの下に露天風呂があったはずですよ。いっしょに行きましょうか」
大手住宅販売会社「南急ナポレオン・ハウジング」の企画開発課長、稲垣啓四郎は三十六歳の、なかなかの切れ者である。
明日香よりもずっと社会経験も深いし、年齢も上なのに、彼女に対して稲垣が常に礼儀正しい言葉遣いをするのは、今まで、稲垣にとって明日香は大きな不動産をもつ客筋の若奥様であったことと、まだ二人が一線を越えてはいないことと、恐らくは稲垣自身の折り目正しい性格によるものかもしれない。
その礼儀正しさが、時に、まだるっこい思いを明日香に抱かせることもあったが、しかし、人妻の明日香としては、おおむね、安心してつきあえる好ましい印象である。
「露天風呂か……じゃ、水着持ってかなくっちゃ、いけないわね」
明日香は少し、はしゃぐように聞いた。
すると、
「いやだなあ、その最近の傾向。露天風呂に水着きてはいるなんて、邪道ですよ。あれは天真爛漫、ハダカではいるものですよ」
「だって、混浴だったら、困るもの。あなた、私がみんなに見られてもいいの?」
「いえ。それはちょっと……」
稲垣をちょっと困らせておいて、明日香はおかしそうに笑い、別室に退って、スーツケースをあけ、洗面具やボディブラシや化粧バッグなどを取りだした。
ひとまとめに持って立ちあがった時、
「あら……」
驚きの声をあげたのは、すぐ後ろに稲垣が立っていたからであった。
彼の眼が異常に燃えていた。そう思った瞬間、躱《かわ》すひまもなく、稲垣は不意に両腕の中に明日香を抱きしめて、物狂おしく唇を押しつけてくる。
「ああ……稲垣さん、待って」
控えの間で不意打ちに抱きしめられて、明日香は少し抗《あらが》った。しかし、稲垣は背が高い。筋肉も骨組みもがっしりしていて、上背はあってもすらっとして細身の伊集院明日香などは、抱きすくめられると、すっぽりとその腕の中にはいってしまう。
「ああ、稲垣さんったら、ひどいわ……奇襲するんだもの」
抗いながらも唇が重なってしまうと、甘美なひびきに見舞われて、明日香はしがみつくようにして、接吻に応える。
明日香の胸が、大きく波立ちはじめる。身体が熱くなりはじめて、腕に力がこもる。稲垣の手が、明日香の胸に置かれて、接吻しながら乳房の感触をたしかめにきた時、明日香はあッと驚いて顔を反らせ、腰をゆらめかせて、熱い吐息を洩らした。
眼を閉じる。何かを考えようとしても、今はもう、何も思い浮かばない。奇妙な安堵《あんど》感と幸福感。不倫へのおののきもそれにスパイスのように混っていて……明日香は今、身体から魂が金色の蝶のように漂いだして舞いあがるのがわかった。
そうよ……今夜は何もかも忘れて、この稲垣と燃えてしまえばいいんだわ……。
ひとしきり、激しい接吻が済んだあと、明日香はやっと顔をはなし、
「ね、どうしたの? お風呂にゆくんじゃなかった?」
「奥さん、ぼくはもう待てない。今、あなたが欲しい。ずっと待たされたんだ。もういいでしょう。……ねえ、奥さん!」
そう言うと、今度はさっきよりももっと激しい勢いで、明日香を抱きすくめ、頸すじ、耳許、胸へと、ところかまわずキスしてくる。
明日香の手から化粧バッグが落ち、洗面具入れが落ちた。
明日香は、稲垣の物狂おしさに抗うのをやめ、身体の前面と前面が響きあう感触に身を委せ、全身の力を抜いた。
思わず、稲垣の背中に手を回していた。
反対に、強く抱きしめられた。
すると、腰が今にも折れそうになる。
両手で稲垣の頭を抱いて、胸に押しつけた。
その手にも狂的な力がこもっていた。
「奥さん……風呂にゆく前に……ね、いいでしょ」
稲垣が何を求めようとしているかはわかる。明日香は全身を羞恥の色に染め、そうして自分が金色の蝶になるのを覚えながら、
「いいわ。そのかわり、ちゃんとベッドに運んで」
――とうとう、はしたないことを言ってしまった。
2
部屋は、贅沢な作りであった。
和洋折衷というのだろうか。八畳と六畳の立派な和室がありながら、それとは別に寝室として洋間があって、キングサイズのベッドが置かれてあった。
稲垣に抱きかかえられて、そのベッドの上へおろされた時、明日香はもう少しも抗ってはいなかった。
それよりも、稲垣の手によって小気味よくワンピースを脱がされてゆきながら、華やかに乱れてゆく自分のありように、放恣《ほうし》に身を委せて楽しみはじめた趣きさえもあった。
「ね、電気を消して――」
それでもやはりそう言ったのは、いくら何でも最初のときから明るい灯の下に裸身を晒《さら》すことが、恥ずかしかったからである。
稲垣は少しだけ薄暗くしてくれた。それでもまだ明るい。寝室を浸す夏の夕闇の中で、魔性の白い蛇になってゆく。
明日香は服を脱がされ、スリップも下着もむしられ、稲垣の眼にあらわに肌が晒されてゆくのを、半ばもう夢うつつの中で感じていた。
眼を閉じる。何も思いうかばない。相変わらず、魂が金色の蝶のように舞いたってゆくのを感じる。幾らもしないうち、稲垣もやはり一糸まとわぬ裸になって、ベッドにあがって寄りそい、ぐいと抱き寄せられる。
身体がむせぶように密着させられながら、唇が合わさってきたのを感じた。
「ああん……稲垣さん……!」
身体をぶつけるように、しがみつく。
肌の触れあった部分が、甘美に響きあう。
「奥さん、ぼくはあなたが好きだ」
キスをしながら、稲垣の手は、はじめての散歩道を探索し、見つけだしてゆくように、明日香の身体の上の小径を幾筋もたどった。張りのある乳房、ウエストを這って腰のくびれた部分、脂のりした下腹部へと遠慮がちに、しかし的確に掌や指がたどってゆく。
その掌や指の動きにつれ、そこから焔《ほのお》がゆらめきたつ。はじめての不倫へのおののきと稲垣の感触は、たちまち、ひとつの焔にないまぜになって、明日香の体内に漣《さざなみ》のような音を響かせあい、全身を火の色に束ねてしまうのであった。
茂みのあたりで、羽毛のような指がそよいだ。明日香は、甘い溜め息を洩らした。自分の恥ずかしい部分が濡れはじめているのがわかっていたので、そこに指を受け入れることに激しい羞恥を感じた時、稲垣の指は茂みから内股をすっと撫でただけで、彼は身体をずらした。
今度は乳房を吸いにきたのである。
それは、不意にふくまれたのである。
「ああン……」
豊満な乳房の頂点の乳首を口にふくまれ、その裾野を片手でみっしりと揉まれた時、稲妻のようなものがつきあげてきて、明日香は思わず、両手を泳がせた。そのはずみに、稲垣のみなぎったものが片手に触れ、あ……と、声をのんで、
「ひどい、ひどい」
怒ったように、身体をゆすった。
自分がなぜ、ひどいと言っているのか、まるで意味をなしてはいない。
稲垣の手の動きは、性急ではなく、丹念である。乳首を吸いながら、右手は下腹部から茂み、そして太腿の内側を撫でているが、まだ女の芯の部分を訪れてはいない。それでも、内腿のきわどいところをそっと、旅してくるたびに、めまいのような快美感がこみあげ、明日香はあやうい声をあげつづけるのだった。
指が、とうとうその部分を訪れた。
不意に訪れていた。
「あッ」
鯉《こい》のように跳《は》ねた。
濃い蜜が、もう花びらから湧きだしている。あふれるように湧いている。明日香にもそれがわかった。
ああ……ああ……と、恥ずかしそうに顔を稲垣の胸に押しつけていた。稲垣の指がその中を泳ぐ感じになり、明日香は自分の身体が、最初からあまりにもみだらに反応し、好色で、淫乱な血をたたえているような気がして、わけもなく熱い逆上感に捉えられてゆくのだった。
稲垣はやがて、顔を乳房から下腹部へと移した。
「あ……やめてやめて……それだけは」
明日香は、その動きを押しとどめようとした。
「まだ、お風呂にもはいってないのよ」
稲垣の舌は、もう茂みを分けていた。明日香の内股は温かく、かすかに汗で湿っていた。
いやいや、と明日香はそれでも、身を捩《よじ》った。いよいよ最も恥ずかしいところを襲撃されるのかと思うと、息がつまりそうだった。
稲垣の火の鞭《むち》が、花びらをそっと撫でた。それから、すくう。あッと、声をあげた時、ラビアから濃い蜜液が汲《く》まれて、亀裂の上部の真珠の粒にペイントされるのを感じた。二度三度、それがつづくうち、ああん、ああんと明日香は泣き声をあげながら、腰をゆらめかせていた。
稲垣はかたわら、内股から膝に手をやっていた。膝の裏を静かに撫でた。明日香は腰を小さくゆすった。稲垣の手は、白い足を引き寄せた。足の指をその手に握りこんだ。揉みほぐした。そっとくすぐった。そういう手の動きや愛しかたのすべてが、明日香にはもう耐えられないような気がして、
「いやいや……もう、じらさないで……仲居さんが来たら、困るわ」
明日香はもう、最後のものを求めた。
自分がはしたなく稲垣を求めているのを感じた。
早く来てほしい、と思った。
早く男性自身で充たしてほしい、と思った。
稲垣が位置を修正し、ゆっくりと押し入ってきた。
明日香はその部分に火傷《やけど》をしたような、たぎりたつ甘美な衝撃を感じた。
濡れあふれた世界が押し広げられ、緻密に、そして甘美に、充たされてゆく。明日香を充たしたものがゆっくりと動きだした時、その響きあう感覚に明日香はまた、魂が無数の金色の蝶のようになって、はばたいて身体から、漂いだすのを感じた。
「ああ……稲垣さん、とても……すてきよ」
稲垣は決して、乱暴に動きはしなかった。怒張したものをゆっくりと、的確に、熱湯を押しつめてゆくような動かし方をする。
そのたびに、明日香の身体を熱い容積が充たしていって快美感がはしった。蕩《とろ》けるような甘さだった。強烈な刺激とか、爛熟した性感とはちがう。落着いた、余裕のある幸福感が、めくるめく快楽のうねりの中からあふれてくるのだった。
風変わりな体位をとっているわけではない。ごくまともな正常位だった。それなのに、ひどく響く。これまでの夫との交渉では、一度も感じなかったような響き方だった。
それだけ、明日香の気持ちが燃えあがっていたのかもしれない。全身が性器のように鋭敏な感覚になっていたのかもしれない。鋭敏というよりは、甘美で淫蕩で、貪欲な食虫花の蜜壺のなかに、存在それ自体が陥しこまれているような按配だった。
つらぬかれるたびに、みずからの感覚が上昇するのを、明日香ははっきり、捉えることができた。稲垣が動くにつれ、一段ずつ、めまいのほうに、虹のほうに、押しあげられてゆく。蕩けるような感覚が、濃厚になる。繋《つな》がれた部分が、ぴっちりした緊張感とともに、甘い蜜になって全身に広がり、熱い鉄板の上のバターのように身体を溶かしてゆく。
「ああ……ああ……凄いわ……」
明日香は首を振った。
これまでの夫との営みでは、覚えたことのない歓びの密度であった。すっかり乱れた髪の毛が顔にかかる。稲垣が繋いだまま、両手で乳房を揉み、乳首に唇をおろしてきた時、そこからびくっと、新たな電流がはしった。
「ああ……ああ……変よ……あたし……変になりそう」
明日香はしだいに、自分がいったいどういう言葉を吐いているのかが、わからなくなった。
クライマックスが近づいていた。
明日香は、完全に恍惚の極みに達していた。
これは恐るべきことである。ふつうは、初めての男とは、そう一気に頂上感を極めるものではないといわれる。愛する男だったらなおさらのこと、緊張感が先走って、行為そのものも、肉体的な歓びよりも、精神的な歓びで深く満足するといわれる。
それなのに、今の明日香は到着早々、しかも稲垣とは初めてなのに、もう極めようとしている。
明日香は自分が恐ろしくなった。甘美感のなかで、明日香は何度もはしたない声で叫び、髪の毛が顔におおいかぶさったのさえ、覚えていなかった。
3
夕闇が濃くなっていた。
ひと休みして二人が浴衣に着がえ、手拭いをもって岩陰の露天風呂にゆくため、部屋を出た時、谷川はもうすっかり、暗くなりかけていた。
「夕食、七時でよろしいでしょうか」
出あいがしらに、仲居さんがわざわざ聞きに来たところを見ると、食卓を整えようとして部屋を訪れた時、明日香たちの振舞いに気づいて、入室を遠慮した雰囲気がありありと窺《うかが》えた。
「ええ、テーブルにだしといて下さい。これから風呂ですから、少し遅れるかもしれませんが、気になさらずに」
稲垣が平然とした口調で答えていたので、明日香は助かった。
明日香は、乱れきった自分の声を聞かれたかと思うと、恥ずかしくて、仲居さんの顔さえまともに見られなかったのである。
露天風呂は、地下一階の通路から外に出て谷川に面したところにあった。しかし、そこは団体客らしい男の大勢のグループ客に占められていたので、家族客のための岩風呂にゆくしかなかった。
岩風呂は、内湯だった。
だが、その入口まできて、
「やっぱり、ここも駄目ですね」
男湯と女湯に分かれていて、別々なので一緒にはいることができない、という意味である。
「いいわ。すぐまた部屋でいっしょになれるんだから」
稲垣と別れて、明日香は一人で女湯にはいった。
さいわい、女湯はひっそりとしていた。最近の若いアベックは、部屋付きのバスを使う。女だけの団体客というものは、まだきわめて少ないのである。
渓流にむかって大きくガラス窓が切られている。岩風呂にひとりではいって、首まで湯にひたし、明日香は手足をのばした。
(ああ……いいお湯。いい気分……)
それはそうだ。たった今、男と激しく交わって、身体も感覚もすみずみまで充たされたばかりである。
湯の中で、頭をからっぽにして、自分の裸身を抱きしめてみた。
今、新しい男を識ったばかりの身体が、とてもみずみずしいと思われて、いとおしくなる。
不思議に、家庭のことや夫のことは、何も思いださなかった。もっとも、夫は昨年から仙台に単身赴任していて、むこうで愛人を作っており、気分的にも距離的にも、はるか遠くにいる感じで、思いだしたくもない存在だった。
それより、明日香は稲垣と自分とのことを考えた。不思議な出会いだったような気もするし、当然のなりゆきだったような気もする。これから、どうなってゆくんだろう、と不倫の前途に不安なものを感じたりもした。
伊集院明日香は、二十九歳である。
いわば、三十歳の軒下に立っていた。
美しきトランタンになりたいと願う年頃である。
結婚して六年になる。夫の伊集院|京輔《きようすけ》は、大手電子機械メーカー「東京ワールド工業」の社員である。仙台に本社のあった「東北電工」の吸収合併にともない、仙台支社の次長として単身赴任していて、明日香は自由ケ丘の家で義母と子供と三人で暮らしていて、この一年半ばかり、いわば空閨《くうけい》を守って暮らしていた。
結婚以来、これまでに浮気ひとつしなかった明日香が、稲垣啓四郎とこうなったのは、妙なきっかけからである。
去年の夏、杉並区堀ノ内に住んでいた明日香の実父が亡くなった。妻に先立たれていたので、長く一人暮らしだった。それによって思わぬ遺産が明日香に転がり込んだ。遺産は三千万円相当の株と預金と、三百坪ばかりの家屋敷であった。
長年、公務員をして定年退職後、父が悠々自適していた家は、父が若い頃に建てた家なので、戦後のいわば文化住宅で老朽化していたので、整理するしかなかった。しかし、杉並区堀ノ内で三百坪という土地は、数年前の地価高騰いらい、時価十二億とも十三億ともいう莫大な額になり、相続税や何やで重大な問題が、明日香を直撃したのであった。
「ああ、困ったわ。どうしよう。家を壊して跡をどうするかの問題があるし、土地をただ処分するだけでは、父親に顔むけできないし……第一、相続税を払うお金を早く作らなくっちゃならないわ」
明日香は父の葬儀のあと、そのことでしばらく頭を悩ませた。
相続税だけでも二、三億円は作らなければならない。
そんな大金は、主婦ではできやしない。
夫の京輔は葬儀が終わると、会社の仕事が忙しいので仙台に戻るしかなかった。
堀ノ内の問題は、明日香一人の問題ではないはずだが、夫にはそれよりももっと莫大な伊集院家の遺産相続の問題があるので、妻が受け継ぐ堀ノ内のちっぽけな公務員住宅一軒のことなど眼中になく、ほとんど明日香一人に委された形になった。
それで明日香が頭を抱えている時、何かと相談に乗ってくれたのが、短大時代の親友である稲垣|見栄子《みえこ》だった。
見栄子は銀行勤めをしていて、ベテラン行員だった。何かと世間を知っているので相談したのだが、
「あら、それなら兄貴に相談してみたら。兄貴の会社は大きな私鉄系の不動産住宅会社で、相続税の相談や、土地診断や市場調査、土地活用法の経営セミナーなどを開いているので、何かと知恵を貸してくれるはずよ」
そう言ってくれた。
その兄貴というのが、稲垣啓四郎であった。
稲垣啓四郎は、信用のおける一流企業「南急ナポレオン・ハウジングKK」の企画開発課長をしていた。彼の勤める南急ナポレオン・ハウジングでは、マンション建設やデベロッパー作りをするかたわら、東京の一極集中と地価高騰に対応するため、都心部の遊休地活用を一般に呼びかけていて、眠っていたり、死蔵されている土地や区画に、再開発ビルを建てたり、「ナポレオン・シリーズ」、「エリザベス・シリーズ」などと銘うって、アパートやマンションを企画・立案、建設し、管理することまでを、請負っているそうである。
「それじゃ、私の場合もカウンセリングの対象になるかもしれないわね。会ってみようかしら。ねえ、紹介してちょうだい」
見栄子の兄だという気安さも手伝って、明日香は早速、稲垣啓四郎を紹介してもらい、会った。
初対面の時から、印象のいい男であった。ブルーのサマースーツを着ていて、ラグビー青年という通り、体格がよくて快活で、清潔な印象があった。三十六歳という艶《つや》のある若さも、人妻の眼には何となく眩しく感じられた。
最初、二人は青山のカフェレストランで会った。明日香は、自分が受け継ぐ堀ノ内の死蔵地のことや相続税のことなどを、ありのまま話した。
「昔なら猫の額のように狭い庭、といっていたほんの三百坪の土地なのに、今は何かと大変なのねえ。ばかみたい……」
「いえいえ。それは恵まれた人の言い分で、贅沢というものですよ。今の首都圏ではみんな家がなくて、土地がなくて困っている人が多いんですから。お嬢さん育ちの方は、これだから困る……」
稲垣は苦笑しながら、たしなめた。
「で、何かいい知恵ないかしら。見栄子に聞くと、南急ナポレオンに委せると、相続税も何もかも、一発で解決するはずよ、と話していたけど」
「そりゃ、見栄子のやつ、売り込みすぎですよ。相続税や遊休地活用法について、いろいろお手伝いはできますが、相続税まで私どもが払ってあげられるわけじゃない」
「そりゃ、わかってるわよ。こういう場合のナポレオンのシステムって、どうなってるの?」
「はい。うちはお客様の立場に立って、プロパティ・プランニングからスタートします。プロパティ、つまり資産管理ですね。まずご相談をお受けして、プランニングの段階で、現代社会においてその資産を生かす方途を探し、企画・立案するわけです。この企画・立案をもとに、具体的な事業を展開することになりますが、この部分で〈パーソナル・プロジェクト〉と、〈シティ・プロジェクト〉の二つの方法がありまして……」
パーソナル・プロジェクトというのは、都心部にある小規模の土地活用法である。この中にはマンションやアパートの賃貸事業方式、資産部分売却方式、ビルを建てるための土地信用供与方式、ナポレオンの総合企画請負方式という四つの事業方式がある、と稲垣は説明した。
もう一つのシティ・プロジェクトというのは、その土地を生かして事業を積極的に展開しようという人々のためのもので、それを担保に銀行から資金を借り入れての不動産投資、等価交換によるマンション建設方式、土地を丸ごと会社に貸し与える土地信託方式などがあり、いずれも税務・財務などのカウンセリング、プランニング、ファイナンスなどのサポートシステムをナポレオンできっちり組み立てている、という。
「そういうわけですから、やれとおっしゃれば、杉並区堀ノ内の件も、安心して委せていただけるシステムを考案します。ただ漠然とアパートを建てて入居者を募集する、というより、もっと積極的にそこを金の卵にして事業展開なさりたいというのなら、わが社のシティ・プロジェクト方式というものをおすすめしますが」
「それは要するに、株や不動産投資で財テクをやること?」
「はい。三百坪あれば、それを担保に銀行から十二億円くらい導入して、ビルを建てたり、株式投資や資金運用をなさったりできますが」
「いえいえ、私はそれをどうこうして儲けようというのではありません。父がせっかく苦労して手に入れて、公務員共済会のローンを長年払って守ってきたものなので、いい加減に叩き売りするよりは、なんとか自分で守りながら、世の中のお役に立てたいと思っているわけでして……」
「そうはおっしゃっても、まずは相続税をそこから作らなくっちゃいけないでしょ?」
「はい。それは――」
「じゃ、あまりあくせくせずに、土地を生かしてそこそこ稼いで、当面の税金問題を解決してゆきたいと……?」
「はい。そういうことになりましょうか」
「じゃ、安定しているのはやはり、アパート経営あたりでしょうね」
「素人で、そんなことができるでしょうか」
「南急ナポレオンでは、それも請負っていますから、ご安心ください。ともかく現地を見せていただいて、うちの総合企画請負方式で税務と財務の両面から、プランニングに取りかかってみましょうか」
稲垣啓四郎は引き受けてくれた。
翌週、稲垣は現地を見にやってきた。
山手通りから少し奥に入った住宅街の中にある、ブロック塀を回した何の変哲もない老朽家屋。庭も荒れ果てていて見る影もないのだが、
「なるほど、公道に面していて、立地がいい。地形も良好なので、これならいけますよ。ただのアパートよりいっそ、庭と花壇つきのヨーロッパふうのタウンハウス方式のアパートを作れば、人気が沸くかもしれませんね」
稲垣は現地を一目見ただけで、もう頭の中で設計図を作りかけているようであった。
「タウンハウスって……?」
「ほら、一戸建て感覚の集合住宅ですよ。今はもうワンルームマンションも、アパマンブームも過剰時代に入りかけていて、よほど個性的で、贅沢感、高級感のあるものでないと、満室にはなりません。都心部で一家族が立体的に住める二階建てのタウンハウスなんかが出現したら、凄い話題になりますよ。きっと」
「こんな狭いところで、そんなものができるんですか?」
「大丈夫です。これだけあれば、設計しだいで、どんなものでも出来ます」
「でも、資金とか、経営とかになると……」
「心配はいりません。手持ち資金などは、一銭もいりませんよ。今は万事、銀行を動かしてやるのが、事業というものでしょう。この土地を担保に、事業資金を受けるのに必要な手続きは、すべて私どもがやります。その借入金の中から、相続税も払えるようなパッケージ融資を受けますから、奥さんは何も心配することはないんです」
「はあ」
「それから――」
と、稲垣は説明した。
「私どもでは念のため、この周辺の市場調査や入居者動向調査も行い、その結果、高級感のある立体的なタウンハウスがいいかどうかの、判断も最終的に慎重にいたします。また建設後、私どもの総合企画請負方式に委せていただけるなら、満室スタート保証契約はもちろん、入居者との間の契約違反やクレーム、トラブルなどいっさい、心配ないよう、オーナーがノータッチの完全管理で、請負わせていただいても結構です」
稲垣は、そういうことを説明した。
そういうことを説明する時の稲垣は、あくまで南急ナポレオンの企画開発課長というビジネスマンであり、顧客になろうとしている一人の人妻、明日香を自社の事業に勧誘する熱心な営業マンの口調であった。
アパート経営といっても、素人がそんなに簡単にできるものかどうか心配していた明日香は、ナポレオン方式というものを聞いて、ひとまずは安心した。
稲垣啓四郎が企画開発課長をやる南急ナポレオンが、そこまで全部、面倒をみてくれるのなら、煩《わずら》わしいと思っていたアパート経営も、何も心配はないわけだし、税金問題も解決しそうである。
「それじゃ全部、おまかせいたしますわ」
――それが、去年の夏、八月のことであった。
4
事業は、すべりだした。
それからは契約書作り、タウンハウスのプランニングや設計図作成、銀行通い、税務や財務の打ちあわせなどで、明日香は始終、稲垣啓四郎と会うようになった。
稲垣のオフィスは、渋谷にあった。会うのがお昼前後になると、道玄坂の店で食事をすることもあった。
昼食が一、二回重なると、今度は夕方、レストランでワインを飲みながら、打ちあわせるということになり、明日香はそれも断わらなかった。
何となく明日香は、稲垣の誠実さに対して、頼もしさと好意を感じはじめていたからである。
そこはやはり、男と女なのかもしれなかった。
そんなふうになると、明日香は例外を作ってしまったことになる。
明日香は、夫が仙台に単身赴任している間は、外では絶対に異性と食事をしたり、デートをしたりはしない。つまり、一対一にはならない、ということを自分の規則として心に決めていたのである。
だが、堀ノ内のプロジェクトがはじまっていらい、その規則は破られた。稲垣とは始終、会わなければならなくなったのである。
むろん、それは事務的な打ちあわせや、手続きや、その相談事のためだったが、回数が重なるにつれて、食事の後、酒場に同行したりすることもあり、「事務的」では片づけられない気分や要素が、二人の間に漂いはじめた。いや、少なくとも明日香のほうには、それが自分でもはっきりとわかってきたのである。
そんなある晩、見栄子から電話がかかってきた。
「堀ノ内の件、うまく行ってる?」
そういえば見栄子には、稲垣を紹介してくれたことのお礼さえ、まだ言っていないことを明日香は思いだした。
「ああ、お兄さんを紹介してくれてありがとう。南急に相談してタウンハウスを建てることにしたのよ。何もかも順調にすべりだしているところよ」
「そう。それはよかったわね。兄貴もあれでなかなかモーレツ社員だから、会社の売り上げのためにも、がんばってるんでしょうね。あまり南急ナポレオンにむしられないように、気をつけなくっちゃだめよ」
「ええ、気をつけるわ。ところで見栄子――」
明日香は受話器を握ったまま、ふっと言葉を区切り、それから思いきって訊いてみた。
「稲垣さんの奥さんって、どんな人?」
「兄貴の奥さん?」
「ええ。そうよ、ちょっと聞いてみたかったんだけど」
「こらっ、明日香。兄貴のこと聞いて、どうするのよ」
「ただ何となくね。ほら、タウンハウスが完成した時の付届けの具合なんか、あるじゃない」
「危ないなあ。兄貴はあの年で、奥さんなんかいないのよ」
「ええーッ?」
明日香はびっくりし、
「うそうそ。私をかついでるんでしょ?」
「ところが、本当なの。おふくろが心配してるんだけどね」
「どうしてなの。もう三十六歳でしょ? どこか悪いところあるの?」
「人妻はすぐそんなことを考えるんだから。もちろん、彼女はいるみたいだから、男性機能は健全よ」
「へええ。それで、結婚しないなんて、変ねえ」
「むかし、婚約者がいたのよ。でもその人、アメリカに留学したまま帰国せずに、むこうで留学生同士、結婚しちゃったみたいなの。要するに、兄貴、ふられちゃって、落ちこんじゃって、女性不信っていうのかな。後遺症っていうのかな。そのままずるずる、結婚してないみたいなの」
「へえ。じゃ、きっと忘れられないのね、その人のこと」
「そうかも知れないわね。肉体的な怪我はすぐ癒るけど、心の怪我はなかなか癒らないというからね」
「どんな人だったの、その女《ひと》」
「そうねえ。学習院を出たいいところのお嬢さんで、日本的美人で……そうそう、そう言えば明日香、あなたみたいなタイプだったわ」
「からかわないでよ」
見栄子とはそんな話をしたが、電話を終えたあとも、明日香は何とはなしに、胸がドキドキしているのを感じた。
明日香が、夫の京輔の単身赴任の期間中は、外で異性と会わない、という規則を作っていたのは、それだけ彼女が今どき古風なほど保守的で、貞淑であったからというより、実は臆病で、自分が恐かったからである。
明日香は貞淑そうだが、多感な女であった。男嫌いであるよりは、本当は男好きな体質であることを、よく知っていたのである。
夫が単身赴任中に、もし誰かと間違いでも犯したら、自分がどうなるかわからない恐さがあったので、今どき珍しいくらいに古風なタブーを自らに課していたのである。
といってもすぐに、明日香の気持ちが稲垣のほうに傾いていったわけではない。明日香は少なくとも、隙あれば男と寝たいと思っているそこらの不倫願望の人妻ではないのである。
堀ノ内のプロジェクトのほうは、さらに順調にすすんだ。資金計画は軌道にのり、設計図が出来あがり、九月末にはもう工事に取りかかったのであった。
十月になった。明日香の心を揺さぶるような大きな事件が起きた。
それは、仙台に単身赴任している夫に、愛人がいることが発覚したのである。
発覚は、些細なことからだった。その月の半ば、仕事が忙しくて帰ってくることができないというので、衣類や身の回り品や好物を届けるために、明日香は東北新幹線に乗って仙台にむかった。
電話をせずに仙台行きを思いたったのは、夫をびっくりさせて、喜ばせてやろう、と思ったからである。
甘えたい気持ちもあったのかもしれない。
たまには抱いてもらいたいという気持ちもあったのかもしれない。
稲垣のほうに傾こうとしている今、夫によって荒々しく抱かれ、愛を確かめあうことは、明日香にとって切実に必要なことであった。肉体的な飢え、が夫によって充たされれば、当分はよその男に心を傾かせることもないだろう。
京輔は仙台でも、青葉城の裏手にあたる大塒《おおとや》というところに住んでいた。山の手の新興住宅街で、団地やマンションもふえていた。
その日は日曜日だったので、午後一時頃、駅に着いた明日香は、タクシーでまっすぐ京輔のマンションにむかった。
部屋のドアは閉まっていたが、鍵は持っていた。時々、留守中に洗濯物を届けにいったりしていたからである。
明日香はその鍵でドアをあけて、はいった。すると、寝室で真っ昼間から、京輔は見知らぬ女と、もつれあっているところであった。
明日香は、目撃した光景が、信じられなかった。
行為に熱中していた男女《ふたり》は、初めは気づかなかったようだが、寝室の入口に立っている明日香に女のほうが先に気づいて、
「キャーッ」
といって、飛びはなれた。
「あんた、……誰……?」
それで初めて、京輔もふり返った。
京輔はたいそう驚いたらしく、
「なんだ、明日香じゃないか。困るじゃないか。黙ってはいったりしては」
と、見当はずれの文句を言った。
「その女《ひと》は、誰なんです」
明日香は一歩も動かずに訊いた。
「来るなら来ると、駅からどうして電話してくれなかったんだ!」
「その女は、誰なんですか」
「まあ、落着いてくれよ。今、事情を話すよ。ちょっと、外に出ていてくれないか」
明日香は部屋の外に出た。
そうして、そのまま新幹線に乗って東京に戻った。
夫の釈明なんか、聞きたくもなかった。
聞いてもどうせ、行きつけの酒場の女か、支社のOLとの遊びにきまっていそうで、その釈明に意味があろうとは思えなかった。
もし、万一、遊びではなく、そこに情の通った愛人だったりしたら、もっと許せない……。
そう思った。そうして東京に戻っても、仙台で垣間みた夫と女との情事を思いだすたび、怒りがぶり返し、くらくらと目まいがし、その分、稲垣のほうにぐらっと、心が傾いたりするのであった。
(……そうよ、夫がやっているのなら、私だって……)
と、つい思いがちな、仕返しの気持ちであり、それによって心の平衡をとろうという甘い冒険心である。
そうこうしている間にも、工事は進んだ。
今の組立方式のタウンハウスの建築は早い。年があけて一月になると、骨格ができあがり、春には屋根も外壁もできあがって内装に取りかかり、五月にはもう見事にヨーロッパ様式の外観をもつタウンハウスが完成したのであった。
「いかがです? 明日香ナポレオン・ハウスとでも名づけたいですね」
稲垣がそう言いながら、完成したばかりの室内を案内してくれた日、明日香も心が浮き浮きしていた。だから、木の香りのする階段の傍で、不意に稲垣に抱かれて接吻されそうになった時、
「あ、待って……」
明日香は、稲垣の胸に両手を置いて激しく遮《さえぎ》りながらも、心が妖《あや》しく躍るのを覚えていた。
(とうとう、意思表示をしてくれたんだわ、この人……)
それでも、とっさに稲垣を押し返そうとしたのは、やはり今一歩、踏みきれない逡巡と、不安があったからであろう。
稲垣に抱かれたい、という欲望を人知れず胸に疼《うず》かせたまま、いやいや、と逃げようとする明日香に、
「どうしてですか、奥さん」
稲垣は、自分の心はもう何度も態度で表わしているはずだと、強引に明日香の頭を抱え込むと、唇を押しつけてきた。
一度は、それを手で遮った。唇と唇の間に、明日香の白い掌がはさまった。しかし、その白い指を口にふくまれて吸われた時、ずーんと甘い痺《しび》れが指先から脳天をつらぬいてきて、明日香はもう拒否しきれなかった。
唇をあずけると、熱烈な接吻となった。
木の香りのする真新しい家の中での夢のような接吻であった。完成したばかりのタウンハウスは無人だったから、稲垣はそのまま、畳の上に押し倒そうとしたが、明日香は最後のものだけは守った。
「ね……お願い……今日は待って……」
「待って……待って……と、いつまで待つんですか」
「私たち、もう若くはないのよ。こんなところで、野合するような真似だけはしたくない。ね、お願い、今度、箱根かどこかに私をつれだして。そうしたら、私、喜んであなたに抱かれるから」
――そういうところが、明日香はどうにも古風で、贅沢な女なのである。
5
(それなのに、私ったら、とうとう……)
明日香は箱根の谷川の見える窓を大きくあけ、岩風呂の中で手足をのばした。
湯の中で白い肌が透けてみえ、タオルをはずすと、股間のアンダーヘアが黒々とした藻のようにみえる。
(どこもかしこも……)
さっき、稲垣に愛撫されたと思うと、明日香の全身に、改めて目くるめくような歓びが噴きあげてくるのであった。
あまり長湯すると、のぼせそうだったので、明日香は頃あいをみてあがった。湿った髪を鏡の前でブローして整え、薄化粧もして部屋に戻ると、稲垣はもう先に戻っていて、食卓に坐って、首を長くして待っていた。
「ずい分、長風呂だったですね。あまり遅いので、迎えにゆこうかと思ったくらいですよ」
「ごめんなさい。久しぶりにリラックスして、あまり、いい気分だったものだから」
「さ、乾杯しましょう。今夜は明日香ナポレオン・ハウスの完成記念日ですよ」
「それに、私たちの愛情記念日――」
「あ、愛情記念日か。それもいいな」
稲垣はうれしそうな、そしてどこやら照れ臭そうな表情をみせ、それでもしだいにくだけた口調になってくる。
二人は、用意されていたビールで乾杯した。
「わあ、豪勢なご馳走……!」
テーブルには、懐石ふうの手の込んだ日本料理や、山菜や鮎の塩焼きや合鴨の串焼きなど、お狩場膳というものが載っていた。山菜天ぷらまでを入れると、相当なボリュームであった。
「これじゃ、ダイエットが台なしになりそう」
明日香はおいしそうに食べた。何といってもさっきの激闘が、二人の食欲をそそっていた。飲みものも、ビールから水割りのウイスキーに移った。
「ご主人のほうは、いかがです?」
稲垣が何気なく聞いた。
仙台の京輔に愛人がいることは、以前に稲垣にこぼしたことがあったので、その後のことを聞いているようである。
「相変わらずよ。はじめは東五番町あたりのクラブの女かと思っていたけど、支社のOLみたいなの。素人の娘さんに手をつけたんじゃ、簡単に別れられそうもないわね」
「そうですか。支社のOLですか。すると、ご主人にとっては、部下の女だ。そりゃ何かと大変だな」
稲垣が心配そうに呟いた。
「あなたこそ、どうなの? 結婚はまだしないの?」
「当分、見込みなしですね。どこかの人妻に夢中になって以来、とてもそんな気持ちにはなりませんよ」
「そんなこと言って。――でも、彼女いるみたい、と見栄子が話していたわ。ホントのところはガールフレンド、多いんでしょ?」
「冗談じゃない。そんなにたくさんいるんなら、あなたとこんなところには来ませんよ」
「でも、一人ぐらい、いるはずよ、きっと。こら、白状なさい」
「いましたよ、ごく最近までね。でも猛烈に明日香さんが欲しい、あなたを抱きたいと思いはじめた時から、その女とつきあっているのが何となくうとましくなって、きっぱり別れましたよ」
(別れたなんて、ほんとかしら……?)
半分は本当のようでもあったし、半分は無理な言い逃れをしているようでもあった。だが、夫持ちの明日香としては、それをとやかく詮索する権利はないわけである。
それより、稲垣が初めて奥さん、と呼ばずに、明日香さんと呼んでくれたことのほうが、明日香にはうれしかった。
「あしたはいい天気になりそうね。あなた、ゆっくりできるの?」
「もちろん、フルタイムあけていますよ。どうせここまで来たんだ。強羅からケーブルカーに乗って、早雲山とか、芦ノ湖まで行ってみましょうよ。そのあと、船に乗るのもいいし、旧街道を歩くのもいいし……」
「ああ、いいわね。私、近場なのに、箱根って学生時代いらい、来たことがないのよ。こんなふうだと、まるで新婚旅行みたいだわ」
「新婚旅行とはよかったな。それじゃ、もっとがんばらなくっちゃ」
「え?」
「さっきは出合い頭だったでしょ。今度は仕切り直しで、ホントの二人の初夜です」
明日香は恥ずかしくなって、
「まッ! ぶつわよ」
と、首許を耳のあたりまで、まっ赤に染めた。
事実、二人のその夜は豊饒な夜となった。
夕食後、ほろ酔い気分でテレビを見ているうちに、稲垣がまた、後ろから抱擁してきた。明日香はもうすっかり気分が昂揚していたところなので、うれしそうな声をあげ、腕を回した。
そのまま、ベッドに運ばれた。押し伏せられ、浴衣を脱がされている時、明日香は頭の中で、それまで固く巻かれていた毛糸がぐるぐるほどけてゆくのを感じた。
その毛糸は、自分を律していた人妻としてのモラルなのか、夫のことなのか、よくわからなかったが、もうその毛糸が半分以上、ほどけてしまって、自分がただただ、蛇のように淫らになってゆくのを感じた。
ベッドは化粧直しをされていた。シーツは糊がきいている。浴衣を脱がされて一糸まとわぬ姿になると、二人は獣のようにもつれあった。
稲垣はもう無言だった。唇を合わせ、太腿が明日香の両下肢を割ってきた。陰阜のあたりが稲垣の太腿に押され、じゅっとその下からジューシーな愛液があふれだすような震えがはしった。
「ああ……しあわせよ……いっぱい、抱いて」
明日香は稲垣の身体に蛇のようにからみつき、自ら陰阜をこすりつけるようにして身悶えした。
風呂の前に一度、繋がれているので、もう余分な前戯はいらないと思った。早く充たしてほしい、と思った。だが、稲垣の指はまたそのむずがゆい部分を訪れ、分け入ってゆく。
明日香は、ますますそこが濡れ色に輝き、あふれてくるのを感じた。
「ね、ね、ね」
明日香は手をのばし、稲垣の男性自身を握りにいった。
指はすぐその部分を探しあてた。みなぎっている。怒張したものが、明日香の指にからまれて、どぎつく脈打ち返してくる。
自分が下品なことをしているようで、少し恥ずかしかったが、
「すてき……」
明日香は、吐息をついた。
「テーク・オフ、お願い」
稲垣は応えて、獣の姿勢をとった。
明日香の身体を、二つに折る。両下肢を大きく割り、濡れあふれた女の宇宙にみなぎったものを荒々しくインサートしてきたのである。
稲垣の強い、猛々しいものが濡れ色の秘唇を深々と分けて、つらぬいてきた時、明日香はああっと叫び、首をのけぞらせ、体奥で眩しいストロボが何度も焚《た》かれたようなきらめきと、灼熱感を感じた。
稲垣は、ゆっくりと動きだした。
明日香は夢うつつになってゆく。
陶酔がはじまっていた。頭のほんの一部には、夫のことや家庭のことや、稲垣との不倫の先行きへの不安などが小さく塊りをつくっていたが、しかしそれも、すぐに熱湯によって溶けだし、間もなく消えてしまった。
甘美な感覚が理性を押し流し、夫の京輔からは得られなかった愛し方で抱かれながら、明日香は何度か峠に達し、それを越え、そして最後のクライマックスを終えたあと、汗びっしょりで、ぐったりと稲垣に抱かれたまま眠りについたのであった。
6
翌日もいい天気だった。
前夜は燃えすぎたため、二人は寝坊してしまった。
朝九時ごろ、起きだし、食事をしてタクシーを呼んでもらい、ホテルを出発した。
「運転手さん、強羅まで行ってくれないか。ケーブルの発着所まで」
稲垣は登山帽をかぶって、軽装である。
肩にカメラをかけていた。
「かしこまりました。今日は早雲山も、芦ノ湖もすっきりと晴れていて、気分がいいと思いますよ」
運転手は、車をスタートさせた。
「じゃ、富士山も見えるかしら」
明日香がきいた。
「見えるでしょうね。元箱根の高台からの逆さ富士は、冬しか映りませんけど」
「湖面に映ったものより、実物のほうがいいわ。いつも雲がかかっていて、滅多《めつた》に見られないと言うでしょう」
「今日の天気なら、大丈夫ですよ」
富士山を見ること自体に、それほど意味があるわけではないが、空にすっきりと秀峰が見えるような視界良好の天気なら、何かしら自分たちの前途に、幸福が約束されているような気がするのである。
タクシーは早川沿いの坂道をのぼって、強羅に着いた。
二人は強羅から、ケーブルカーに乗った。
このケーブルカーは、早雲山に登り、そこからロープウエイのゴンドラに乗りかえる。地獄谷から大涌谷、芦ノ湖の湖畔である桃源台まで続くスカイラインの一部である。
早雲山からゴンドラが動きだすと、本格的な展望コースとなった。
「わあ、凄い。今でも硫黄谷から煙が出ているのね」
高い空中で揺れる展望ゴンドラが、地獄谷の真上に出た時、約三千年前に神山が爆発した頃の爆裂口跡であるその凄絶な景観に、明日香は身をすくめ、稲垣にしがみついたりした。
稲垣は、そんな明日香を楽しそうに眺めながら、狭いガラスの箱の中で、写真を撮ったりした。
「困るわあ、写真なんか。私は密会旅行中の人妻なんだから、写真なんか持って帰ったりはしませんからね」
明日香は無邪気に、文句を言った。
「わかってますよ。でもぼくは独身だから、平気平気」
「うちの主人に、見せたりしないでよ」
ゴンドラの中は、二人だけである。
他人の耳を気にすることもなかった。
「もちろん、見せはしませんよ。ぼくのアルバムにだけ、こっそり大事に、貼っておくだけ」
稲垣は明日香を困らせて、どうやら、喜んでいるようであった。
地獄谷を越えて、姥子《うばこ》の広い樹海の上をすすみ、桃源台に出る少し前、富士山も前方の山なみの上に、はっきりと姿を現わしてきた。
明日香はそれで、稲垣との不倫の恋のゆくすえに、わくわくするような幸福が約束されている気がした。
芦ノ湖をすべって元箱根にむかう海賊船「ビクトリア号」に乗ったのが、十一時半である。
湖上は、さらに気持ちよかった。波は静かだし、湖上を渡ってくる風は快いし、周囲の山々は緑が美しかった。
「この芦ノ湖はね、南北約六・六キロで、幅は約一キロぐらいかな。でも水深は意外に深くて、最深部で四十三メートルもあるんですよ。箱根の神山が爆発した時に流れだした溶岩や土砂によって、せき止められてできた湖だといわれています。今でも滾々《こんこん》と湖底から水が湧いていて、透明度は最深十六メートルに達するという不思議な湖なんですよ」
稲垣がデッキの手すりにもたれて、そんなことを説明した。
そこでも、何枚か写真を撮った。二人並んだところを、居合わせた観光客に撮ってもらったりした。
でも稲垣は張り切りすぎて、少し疲れたようだった。
デッキに立っていることにもあきて、一等船室に入り、舷側の飾り窓の横に作られているシートに坐ると、まもなく稲垣は居眠りをしはじめたのである。
(ゆうべ、燃えすぎちゃったせいもあるのかしら。起こすの、可哀想……)
明日香としたら、窓から次々にみえる湖畔ホテルなどを眺めながら、そのうち、ああいうところにも連れてって、と甘えたかったし、これからの二人のことなどを語りあいたいと思っていたが、居眠りをしている稲垣を起こすのは、悪いと思った。
元箱根に着いたのは、お昼すぎである。
元箱根には、関所跡があった。
日曜日だったので、けっこう観光客で混んでいた。世に恐れられていた箱根の関所は、もっと深山幽谷の、狭い谷あいの狭間に竹矢来が設けられて、いかめしい様子をしているのかと思っていた明日香は、湖畔の、わりあい平坦地の、のどかでロマンチックな場所に、お白洲作りふうに出来ているのをみて、やはり実物は、来てみないとわからないものだ、と思った。
でもお仕置きの道具や、関所破りをした犯罪者に加えられる拷問や刑罰の話は、恐かった。歴史資料館の中でスピーカーから流れてくる説明の声に、ぶるっと身を慄わせ、
「ね、出ましょ。ますます混んでくるわ」
二人はそこを出て、湖畔の「山の上ホテル」に寄った。
食事をするためである。つつじの名所である広い庭園と湖に面したレストランで、稲垣はリブステーキのスペシャルランチを奮発してくれた。
午後遅く、「山の上ホテル」での食事を終え、タクシーを雇って幾つかの名所旧跡をまわり、明日香と稲垣が箱根湯本に戻ったのは、四時半である。
四時四十分発のロマンスカーで、新宿に戻った。
東京はもう夏の夕暮れであった。
「じゃあね」
たった一昼夜の密会旅行だったが、新宿のタクシー乗場で別れる時、思いがけなく切ないものが、明日香の胸をよぎった。
明日香の家は、自由ケ丘にある。
駅から徒歩五、六分の住宅街の中であった。
新宿からタクシーで、まっすぐ家に帰りついた頃は、もう夜にはいっていて、家には電気も灯《つ》いてなくて、暗かった。
「ただいま――」
夫は仙台であり、義母の泰子は孫の宏也をつれて、信州の高遠《たかとお》に里帰りをしていて、家には誰もいない。
それでも、ただいま、と言って玄関のキイをあけて、家にはいったのは、主婦としての癖であり、心のけじめなのかもしれなかった。
たった一人では、夕食の支度をする元気もない。それより、稲垣とすごした一夜の記憶で、胸がいっぱいだったし、現実問題、肉体の節々にその記憶が生々しく残っていて、疼いているようだったので、明日香はその熱い記憶を大切にしようと思い、二階の寝室のキングサイズのベッドに、身体を投げだすと、その夜、夢も見ずに、ぐっすりと眠った。
翌日、思いがけない知らせを受けたのは、お昼少し前である。
洗濯機から洗いものを取りだしている時、
――ピンポーン。
と、屋内でチャイムが鳴ったので、
「はーい」
と返事をして、明日香がタオルで手を拭きながら出ると、二人づれの男が表に立っていた。
「伊集院明日香さんのお宅ですね?」
そう言って、年配のほうの男が、黒い警察手帳をみせた。
どうやら、刑事たちのようであった。明日香はその意外な訪問者たちに驚き、
「警察の方が、何か……?」
不審そうに聞いた。年配のほうの男が、警部という肩書きの杉浦直道という名刺をさしだし、
「驚かせて、すみません。奥さんにちょっとお伺いしたいことが起きまして、寄らせていただきました」
落着いた声で、そう前置きした。そして、
「七月二十一日の夜、つまり、おとといの土曜日から昨日の日曜日にかけてですが、奥さんはどこにいらっしゃいましたか?」
質問されていることの意味に気づいて、身体を硬くした。
「それは何か、事件のアリバイとか何かに、関係することでしょうか……?」
幸い、家には夫も義母もいなかったので、救われた、と思った。自分は事件などにはいっさい、拘《かか》わりがないとはいえ、警察関係者の訪問を受けて、そういう話を玄関前でやる、ということ自体、ふつうの家庭では大変なことである。
「いえいえ、奥さんご自身のアリバイを聞いているのではありません。また奥さんに直接、かかわる事件ではありません。しかし、ある男性の証言を裏付けるため、私どもではどうしても、土曜日の夜から日曜日にかけての奥さんの行状を知りたいのです。ご迷惑でしょうが、本当のことをおっしゃっていただけませんか。もしそれがよそに洩れたらまずいことでしたら、私どもでは責任をもって秘密を守ります」
杉浦直道警部は温和で、紳士的な態度であった。
しかし、明日香の頭の中は混乱した。動揺が去らない。ある男性の証言……というのは、稲垣啓四郎のことだろうか。明日香は急に、動悸《どうき》が激しくなるのを覚えながら、
「おっしゃって下さい。何か、あったのでしょうか? どうして私にそういうことをお聞きになるのでしょうか?」
明日香は必死に、問いつめるような眼差しをむけた。
杉浦警部は、しぶしぶながら、ある事件のことを説明した。
「……土曜日の深夜、つまり、おとといの夜中のことですが、世田谷区等々力のあるマンションで、河野美紀《こうのみき》という二十五歳の美しいOLが亡くなりました。細い紐による絞殺、つまり殺人です。その死亡推定時刻が、七月二十一日の土曜日の深夜十一時から二十二日、日曜日の午前二時頃までの間、とみられます。なお、その女性の勤務先は南急ナポレオン・ハウジングKK企画開発課で、河野美紀さんはそこの企画開発課長、稲垣啓四郎さんという男性と長年、親密な関係にあったそうです。最近、何か事情があって二人の間で別れ話がこじれ、それでもって二人の間は険悪な状態になっていたそうです」
杉浦はのんびりとした口調で、そう説明した。
しかし、その言葉の一つひとつが、明日香の胸にナイフのように鋭く、グサッとつき刺さってきた。
(それで、稲垣さんが疑われているのかしら……? まさか。冗談でしょ。だって彼は土曜日の夜から日曜日いっぱい、ずっと私と一緒に箱根密会旅行をしていたんだもの。彼が疑われるなんて、筋違いよ)
明日香は激しく、そう思った。
すると杉浦警部が、
「奥さん、こう話しますと、もう私どもが訪ねてきた理由、お察しでしょう。私どもは当然、稲垣啓四郎さんにも事情を聞きました。すると、稲垣さんは事件当夜、ある人妻と箱根に密会旅行をしていて、東京にはいなかったと申されております。それが真実かどうか、私どもは確かめたい。奥さん、稲垣さんの話に間違いありませんか?」
杉浦は、鋭い眼でみつめた。
明日香は激しい動揺を覚えたが、事実、自分たちはその夜、箱根密会旅行をしていたんだから……と、昂然と胸を張り、
「はい、間違いありません。事件当夜、稲垣さんはずっと私と一緒に箱根におりました。その女性の死亡推定時刻とみられる時間、私たちは同じベッドに寝ていて、彼は私の腕の中で眠っておりましたから、稲垣さんがそんな事件に拘わっているはずはありません」
胸を張ってそう言いながら、明日香は、ああ、私はこんな恥ずかしいことを堂々と言えるほど、彼を深く愛しはじめているのかしら、と思った。そうして、それはうれしいことであったが、また反面、恐ろしいことの開幕を告げる不吉なベルであるような気もした。
第二章 寝台のアリバイ
1
リビングのほうで電話が鳴っていた。
明日香ははじめ、それに気がつかなかった。ラジカセのテープデッキにリチャード・クレイダーマンのピアノ曲をセットして、それを聴きながら、庭に面した部屋で衣類の整理をしていた。曲の切れ目に、遠くで電話が鳴り響いていることに初めて気づいて、あわててリビングのほうに走った。
受話器を取りあげる。
「……ぼく、稲垣ですが」
「あ、稲垣さん。……こないだは、どうも」
明日香は少し、上ずった声をあげた。
「こちらこそ、お世話になりました……とても楽しかったですよ」
「私のほうも」
と言ったきり、明日香が受話器を握ったまま一瞬、沈黙したのは、三日前、箱根のホテルで密会の一夜をむさぼりあった記憶が生々しく甦ってきて、それが赤い焔で胸を焙《あぶ》ったからである。
それに、刑事たちに訪問されたこともあった。
「奥さん、今いいですか?」
稲垣はいつもと少しも変わらず、礼儀正しく言った。
「あら。奥さんだなんて、いやだわ。もうそんな他人行儀なご挨拶、やめてほしいんだけど」
「でも、明日香さんなんて、まだ言えませんよ」
「そろそろ、そう言ってほしいわ」
「ご主人、まだ仙台ですか?」
「ええ、今年一杯は帰ってこないのよ」
「あ、そうだったですね。今、お一人ですか」
「ええ、そうなの。家には誰もいないわ。とっても淋しい。ねえ、お会いしたいんですけど」
「ぼくも会いたい。そう思って電話したところです」
稲垣はそこで初めて、甘えた声をだした。
「うれしいわ。何度か会社にお電話したんだけど、そのたびに外出中。癪《しやく》にさわってたところなのよ」
「それは、どうも。このところ営業での外出が増えてて……ところで、今夜あたり、いかがです。ぼくも奥さんに、大至急、会ってお話しておかなくっちゃならないことが起きてるんです」
「お話って……? 例のタウンハウスの件?」
「ええ、それもありますし、もうひとつ、お願いがあります」
(もうひとつの話というのは、もしかしたら、いつか訪れた刑事たちに関することだろうか?)
明日香はちらとそう思ったが、それだと難しい話になりそうだったので、電話では聞かないことにした。
「とにかく、お会いしましょうよ」
「ええ、何時頃?」
「私、いまから渋谷に買い物に出かけるところよ。夜とはいわずに、三時ごろいかが? 早いほうが私、助かるんですけど」
「結構です。ぼくも営業で外回りに出ますから、三時にいたしましょうか。とりあえずの落ち合い場所は、公園通りのカフェテラス〈スペイン坂〉あたり、いかがでしょう?」
「あ、いいわね。じゃ、スペイン坂で」
――電話を置いた時、明日香の胸に、何とはなしに甘いときめきのまじったドラマへの予感と、それともうひとつ、不思議な不安と戦慄が、風のように掠《かす》めて流れた。
甘いときめきの気持ちは、いうまでもない。心待ちにしていた男から、やっと電話がかかってきたという歓びと、今夜、またあの晩のように稲垣とめくるめく時間をもつことができるかもしれない、という無意識下の期待であった。
しかし、それと背中あわせになっているのが、刑事たちから聞いた殺人事件の暗い影と戦慄であった。
腕時計をみると、正午をすぎたところだ。
明日香はやりかけの衣類の整理を大急ぎで片づけると、バスルームに入ってシャワーを浴び、念入りに化粧に取りかかりながら、稲垣に会ってまず、等々力で発生したという美人OL殺人事件のことを聞かなければならない、と思った。
明日香は、午後二時に家を出た。
明日香の家のまわりは自由ケ丘の住宅街で、白い夏の陽が射していた。彼女はふだん、買い物にゆくには真紅のBMWを使うが、今日は稲垣と会って、二人だけの部屋に繰り込むことが目に見えていたので、足手まといになる車は使わずに、自由ケ丘から東横線の電車に乗った。
あの殺人事件というのは、いったいどういうことなのだろう。刑事の話によると、等々力のマンションで殺害されていた女性は、河野美紀といって、稲垣の会社南急ナポレオンの美人OLだった女性、というではないか。
しかも、稲垣とは以前、愛人関係だったそうで、別れ話がこじれていたという。それで、刑事たちは稲垣を疑ったようだが、何しろ稲垣と明日香は事件当夜、箱根で激しい一夜を明かしていたさなかだったから、稲垣を疑うなんて、刑事たちもどうかしていると思う。
(そうよ、稲垣が人を殺したりなんかするはずがない。警察は余計なことを考えすぎてるのよ……)
と、明日香は電車の中で考えた。
(でも、河野美紀という美人OLと稲垣との関係、確かめなくっちゃ、気がすまないわ。ようし、今日はしっかりと、あの人から油を絞ってやろう)
東横線の電車は午後二時半に、渋谷に着いた。
ターミナル駅のデパートで簡単な買い物をすませ、明日香は渋谷の街に出て、グランドスクランブルを渡って、公園通りにはいった。
公園通りには、今日も若者たちがあふれていた。
約束のカフェテラス「スペイン坂」は、パルコの一階の西側のコーナーにあった。スペイン坂に面しているので、そう呼ばれているが、ガラス窓が広くて気持ちのいい喫茶店であった。
約束の時間より少し前に着くと、稲垣はそれよりも先にきて待っていた。
「やあ、お呼びたてしてすみません」
彼は今日も身だしなみのいいスマートなスーツを着ていた。
「買い物は、もう済んだんですか?」
「ええ。ほんの身の回り品だったので」
明日香は窓際の席に坐ると、コーヒーフロートを貰った。
「早速ですが、堀ノ内のタウンハウスのほうは、系列不動産屋を通じて入居者募集をはじめています。今のところ、申し込みも順調にきてて、見通しは明るいようです」
稲垣はそう説明しながら、委任状に類する幾つかの書類に、明日香の署名捺印を求めた。
「満室になりしだい、締切りますが、入居者が決まったら、その氏名、職業、家族の状況などは、オーナーである奥さんにあとで詳しくお知らせいたします」
明日香ハウスと名づけようか、と最初は話していたが、それではいかにも個人のセカンドハウスのように響くので、最終的には杉並サニー・ハイツと名づけたそのタウンハウス形式のマンションの経営は、すべて南急ナポレオンに委託しているわけだが、これで私もマンションのオーナーになったんだわ、と思うと、明日香は何とはなしに、誇らしい気分になった。
「それから……」
と、稲垣は言葉を改めて、
「これは仕事の話ではありませんが、奥さんにお詫びしておかなければならないことが、発生しました」
明日香には、例の殺人事件のことだな、とすぐにピンときたが、
「急に改まって、なァに?」
さりげなく聞いてみた。
「それが……」
稲垣はさすがに、切りだしにくそうにしていた。
それで明日香は、
「私のところにもこの間、刑事さんたちが来たわ。お話って、等々力のマンションで発生した美人OL殺人事件のことでしょ?」
そう助け舟をだすと、稲垣はびっくりして、
「ええッ――? もう……? 奥さんのところにもう警察関係者が行ったんですか?」
眼を丸くしている。
眼を丸くするほどでもない。警察の処置としては当然であろう、と明日香は社会通念上の常識として、そう思った。
「そうよ。被害者は何でも河野美紀さんといって、あなたの会社のOLだったそうじゃないの。あなたと何か関係があったんじゃないの?」
「そこまで聞いてらっしゃるのなら、話がしやすい。――実はぼくが以前、交際していた社内情事の相手なんです。そして、ぼくのほうから別れ話をもちかけて、こじれていました。それも、事実です。その女性がこの間の土曜日の深夜、自分の部屋で不幸な目に遭った。当然、ぼくも疑われたわけで、困っているんです」
「でも、あの晩は、私と一緒に……」
(そう。この稲垣は私と一緒に箱根のホテルで、一夜を明かしていたのだ。稲垣には私という立派なアリバイがある。その稲垣が疑われるのは、どうかしている……)
明日香は心の中で、もう一度、そう思った。
「ええ、警察に聞かれた時、奥さんと箱根に行っていたことを正直に言いました。それで一応は疑いが晴れたようなんですが、まだ真犯人がつかまっていないようだし、警察もまだぼくへの嫌疑を完全には、すててはいないらしく、周囲からいつも、誰かに監視されているような気がするんです」
「つまり、あなたにはまだ殺人容疑がかけられている、というの?」
「ええ、マークされている以上、そう考えるしかないんです。これからも、警察は奥さんを訪ねてくるかもしれないし、ぼくの容疑を晴らすには、奥さんの証言が一番、大事になってくるような気がします」
明日香の意識を不思議な衝撃感が、駆けぬけていった。
箱根のホテルで一夜をともにした男が、同じ夜、遠く離れた東京都世田谷区等々力のマンションで、人を殺したりすることができるだろうか。
常識的には、明日香はできないと思う。
(朝まで、この人は私の腕の中にいたんだもの)
しかし、警察はまったく別の観点から、稲垣をまだ疑っているというのだろうか。それは、どういうことなのだろう。
明日香は考えてみたが、よくわからなかった。
たとえば、七月二十一日の土曜日、私と稲垣が箱根のホテルで一夜をあかしたというのは嘘であって、二人は共謀して架空のアリバイをでっちあげている、とでも警察は考えているのだろうか。
(……そんなことなら、箱根のホテルを調べてもらえばいい。稲垣啓四郎、妻明日香と、ホテルのフロントには、ちゃんとサインまでしているではないか)
明日香が窓ガラス越しに外のスペイン坂に流れる若い人波を眺めながら、そんなことを考えている時、
「あ、みんなぼくたちのこと、じろじろ見てますよ。奥さん、場所を移しましょうか?」
「不倫のカップル、とでも見られてるのかしら、私たち」
(そういえば、まったく絵にかいたみたい)
「気のせいかな。ぼくにはどうもそう思えて、居心地がわるい。ねえ、どこかに行きましょうよ」
「ええ、そうね。あなたがそんなに気にするんなら」
(やっとこれで、二人っきりになれるんだわ)
次の行先がホテルの密室であることは、明日香にとっても、うれしいことであった。
2
うしろで、ドアのノブの回る音がした。
鏡の中の明日香のうしろに、稲垣啓四郎がフレーム・インという感じで入ってきた。ホテルの化粧室の鏡の前である。
風呂上りの明日香は、振り返るかわりに、使っていたヘアブラシの手をちょっとだけ止めて彼の顔を睨み、そしてまた使いだした。
うなじに息がかかって、稲垣が背後に立った。求めるような、そのくせ照れたような笑みがよぎって、腋の下から稲垣の手が伸びてきて、羽交い締めにするように乳房を押さえられた。
「あン……」
明日香は、ヘアブラシを手から離した。タイルに落ちて、思いがけないほど大きな音をたてた。
「ああん……待って……今、顔を整えようと思ってるのに」
「明日香さんは化粧なんかしなくてもいいですよ。湯上がりの素肌美人、最高です」
腕に力が入って振りむかされ、唇が近づいていた。
明日香はそれ以上は抗わなかった。
激しい接吻となった。
稲垣も今、風呂から上がってきたばかりだった。首すじや胸のあたりから、石鹸の匂いがする。
そこは公園通りからちょっと奥に入ったところにあるシティホテルだった。あまり名のあるホテルではないだけに、一階駐車場のほうからはいると、まるでラブホテルに入ったような感じのする場所であった。
鏡の前で、明日香はいつのまにか丸椅子から立たされていた。バスタオルを腰に巻いているだけの稲垣がしっかりと明日香を抱いて、激しい接吻を浴びせかけていた。
稲垣に接吻されているうち、明日香の胸が大きく波打ちはじめる。身体の前面と前面が触れあうにつれて腰が甘くひびいて、腕に力がこもる。接吻しながら、稲垣の手が明日香の胸に置かれて、乳房の感触をたしかめにきた時、明日香はああンッと顔を反らせ、熱い吐息を洩らしていた。
眼を閉じる。何かを考えようとしても、何も思いうかばない。奇妙な安堵感と幸福感。不倫への戦《おのの》きと、伝えきく殺人事件への惧れがそれにちょっぴり混っていて、奇妙な緊張感をともない、愛情をたしかめあう行為への期待に、胸を熱くしていると、稲垣の手が明日香の下腹部にのびてくる。
明日香のそこは、潤っていた。
それが自分でもわかる。稲垣の指が訪問して、茂みを分け、真珠に触れ、ぬかるみの中に沈んできた時、
「ああン……!」
と、明日香は、首を反らせた。
接吻はもうそれで解けたわけだが、稲垣の唇は今度は首すじから耳朶《みみたぶ》へと這い、熱い息を吹きかけられていた。
「ぼくのこと、怒ってませんか?」
稲垣が耳許で囁いた。
「どうして?」
「ぼくが警察に、箱根密会旅行のことを喋ってしまって、迷惑がかかったんじゃないかなって、ずっと心配してたんです」
「あなたの立場としては、それは仕方がなかったと思うわ。誰だって、身に覚えのない犯罪の汚名なんか着たくないでしょうし」
「うれしいな、わかってくれて。ぼく、明日香さんが大好きです」
耳朶を舐められながら、耳の穴に不意に舌を差し込まれてくすぐられた瞬間、腰が抜けそうな快美感が明日香の中にこみあげた。
「いやいや。……こんなところではいや」
(ベッドに運んで……)
いつのまにか、甘え声になっている。
「こんなところでは、いやよ」
明日香の願いを入れて、稲垣が抱えあげ、移動を開始した。
ツインの部屋であった。ベッドはキングサイズだった。そこにおろされて、稲垣がおおいかぶさってきた時、
「ね、電気を消して――」
眼を閉じながら、明日香は言った。
彼女の全身が、小刻みに震えた。恐ろしいのではなかった。これまで味わったことのない異様な興奮が身内から湧いてきて、そうさせるのだった。
枕許の明かりが少し絞られた。
でもまだ、明るい。明日香は気にしないことにした。今日もまた、魂が金色の蝶のように漂いだすのがわかった。ふたたび、唇を合わせ、長いキスをしたあとで、稲垣の唇が明日香の首すじを這い、耳朶に触れ、熱い息を吹きかけながら、バスタオルの結び目をほどき、はらいのける。
明日香の裸身は今、空気に晒されたのであった。
一糸まとわぬ白い肌が恥じらいに戦き、明日香は稲垣の丹念な愛撫に、しだいにわれを忘れはじめていた。
稲垣の指先が、乳首をさっと刷《は》く。それだけで乳首がこりこりと固くなった。濃赤色に熟れた苺色の乳頭が、艶を増してツンと立つのがわかる。
それを口に含まれ、もう一方の乳房をわし掴みにされた。乳首を吸われながら、みっしりと揉まれると、明日香は、
「ああン……甘く響くわ」
身体を舟のように揺らすうちに、稲垣の右手が下腹部の恥毛を覆うように下りてきて、ゆっくりと揉みしだく。ヘアが捩《よじ》れて肌を刺激し、さわさわと音をたてるにつれ、明日香は思わず、閉じていた両下肢を開く。
それが合図であったかのように、稲垣の中指がヘアを分けて、ふたたび花弁に触れ、そしてその花弁を分けて、奥にくぐりこんでくる。
「あっ! あーン……」
先刻よりも、そこはもっと濃く溢れていた。
中指が秘孔に出入りしながらも、いちばん敏感な小さな突起に触れるにつれ、明日香の腰が反る。
するどく、響いてくるのであった。
「ああン……もっと、奥にも……」
明日香ははしたないことを言った。
蜜壺の口に差し込まれていた指がたちまち奥まで挿入されて、粒立ちの多い膣内の壁や畝《うね》や山脈をこねくりまわすにつれ、腰が浮きあがるような幸福感に包まれた。
「ああ……たまらないわ……稲垣さん、好きよ」
稲垣の指の動きに合わせて、腰が甘く反り返る。
指でさえもこうである。
蜜壺は甘くふるえて稲垣の指を締めつけ、溢れた蜜がてらてらと輝きながら流れ落ちる感じなのに、稲垣自身がはいってきたら、どんなに全身が鳴りだすだろう。
そう思った瞬間、腰に触れている稲垣の存在に気づいた。それは猛々しく怒張していた。眼をつむったまま、身体の中を伝わってくる官能の誘いにまかせて、明日香は恥ずかしいと思いながらも、手をさしのべて、それを握ってみた。
握って、形状をたしかめ、指を上下させる。
指の中に脈打つものが、どくどくとはっきりとわかる。
(ああ、これなんだわ。男の人って……)
そうして私が求めていたもの。明日香がはしたなくそう思っていると、
「ああ……明日香さん……ありがとう……」
稲垣が吼《ほ》えるように言って、獣のように身を起こしてくる。
いきなり明日香の身体を開くと、渇いた旅人が谷間に水を汲むように、激しい勢いで、顔を伏せてきたのであった。
「ああン……だめええ……」
明日香は身をよじったが、稲垣の唇は、もう明日香の泉にあてられ、舌が花びらを分けていた。
「うッ……」
肉の芽を嬲《なぶ》られた瞬間、腰がふるえた。
明日香の意識を赤い霧がなぐりつけてゆく。これ以上は恥ずかしいという気持ちと、思いっきり淫らな気分になってみようという気持ちとがせめぎあい、明日香は腰をもちあげ、秘部を押しつける。
「もっとよ……もっとメロンを食べて……」
稲垣は無言で口唇愛をふるまいつづけた。
自分の恥ずかしくてはしたないところが、ヘアの黒光りする秘部をあからさまに花開かせたまま、稲垣の顔に密着して、愛されていると思うと、明日香はもう死ぬほど恥ずかしいと思いながらも、夢見心地だった。
ふっと明日香の中で、自我が目ざめた。指の中に、先刻、握ったものの感触が疼いている。稲垣とは、もう二度目である。彼に奉仕させてばかりではいけないのじゃないかしら。
そんな意識が、何とはなしに頭をかすめたのであった。
「ね、ね、ね」
明日香は身を起こした。
「今度はあたし。仰むけになって」
驚く稲垣の顔を楽しそうに眺めて、仰臥させ、自分からすすんで男の股間を求めていった。
そんなことなど本当のところ、明日香は夫の京輔に対してさえも、したことがない。自分でもその行為に驚いている部分があった。
夫からいつか見せられたアダルト・ビデオの映像で学習した記憶が、まだ頭に残っている。
稲垣のものは、たくましくみなぎっている。みなぎりすぎて、静脈の筋をふしくれ立つほど浮きあがらせて、はじけそうであった。
指でふれると、指が熱くやけどしそうだった。でも、触れた。うれしいと思った。以前にビデオで見た記憶を頼りに、口にふくんだ。はじめは浅く、次には深く飲み込んでみた。
すると自分の身内にも、反応が現われてきて、射精寸前の男性自身のような緊張感と淫らがましさと、欲望が打ち返してくるのがわかった。それは、ほとんど感動といっていいものであった。
稲垣のファロスは姿がいい。熱心に含んで、顔を上下させているうち、明日香は自分がしだいに、世間のいっさいの束縛を断ちきった一個の肉体として、背徳の、ふしだらな淫乱女になってゆくような快感を覚えた。
しかし、あまり長つづきはしなかった。
「明日香さん、ありがとう」
稲垣がそう言ったのであった。
「驚きましたね。あなたが、こんなことをやれるなんて」
「やれるわよ、あたしだって。何かのビデオで見たのを、しっかり覚えてたのよ」
「それにしても、うまい。天使だ。いきそう。明日香さん、もう、ぼく……」
煽《あお》られたように、稲垣が吼えながら身を起こし、明日香のウエストに腕をまわして、挑んできたのであった。
ふしだらな貴婦人を犯す野獣のように、稲垣はそのまま、明日香の両下肢を大きく割る。
割って稲垣は、あてがってきた。
「うッ……!」
あてがわれたものの容積と熱さに、明日香は思わず、大きな声をあげていた。
迎える姿勢をとった。稲垣の熱い昂まりが花芯を訪れ、力強く一気に埋め込まれてきた時、明日香は声もなくのけぞった。
奥まで、つらぬかれてしまう。
力強い挿入感であった。
柔らかい女芯のすみずみまでが、ぴっちりと充たされた時、明日香はもうそれだけで、最初の軽いオーガスムに達してしまった。
「ああン……あたし、いっちゃったわ」
「まだですよ、まだ……」
それから本格的な抽送がはじまった。
明日香はたちまち、また昇りはじめる。
力強い男性自身の動きにつれて、径の襞々が鳴り、共鳴しあう。子宮がうなり、谺《こだま》する。
明日香はしだいにわれを忘れ、二度目の峠にむかって、まっしぐらに疾走しだしていた。
3
それから数日間、明日香の気持ちは充たされていた。
身も心も、稲垣との情事をしっかりと憶えていて、虚ろさがない。一人でいても、家事をしていても、テレビを見ていても、気持ちが瑞々《みずみず》しく弾んでいるのであった。
孫の宏也をつれて夏休みの初めの間、信州の高遠に里帰りしていた義母の泰子が戻ってきたのは、三日後だった。
宏也はまだ七歳で、小学校に入ったばかりだが、明日香の一人息子である。義母にとっては、ちょうどいい遊び相手らしく、十日間近くも涼しい信州の高遠でお守りをしてくれたのであった。
明日香が結婚した京輔の家、伊集院家はもともと九州の名家で、明治から戦前までは華族の一端につながる家柄だったらしい。戦後は没落して、京輔の父が会社も何もかも手放してしまったが、しかし、今でも九州のほうには広大な土地や山林があって、旧家意識が強い。自由ケ丘に二百坪の土地つきの屋敷が残っているのも、伊集院家の余栄といおうか、残照といおうか。
義母の泰子は、そんな伊集院家に戦時中、嫁いできた高遠の旧家の娘である。でも、東京の名門女学校を出たハイカラ女性なので、初老のお婆ちゃんになった今でも、あまりうじうじしたところがなく、からっとしていて、明日香は何かと助かっている。
「東京は暑かったでしょ。あなたも家にばかりこもっていないで、旅行でもしてきたらどうなの?」
気さくに、そう言ってくれる。
「京輔も京輔だね。仙台に女なんか作って、めったに東京に戻ってこないなんて、どういう神経でしょうね。明日香さんのようないいお嫁さんをもらっていながら」
ふつうは、不行跡をする夫であっても、姑は息子をかばうものだが、泰子にはそういうところが微塵《みじん》もなくて、さばさばと明日香の味方をしてくれる。
でも、その同情があまり親切すぎると、明日香としては、居心地がわるい。何といっても、彼女ももう夫を裏切って、不倫を働いているのである。
さいわい、義母はまだ稲垣との関係には気づいてはいないようだ。その点、明日香としては助かるのだが、そろそろ気をつけなければならない、と思った。
おかしな電話がかかってきたのは、それから一日置いた月曜日であった。リビングで鳴りつづける電話に、もしかしたらそろそろ稲垣かもしれない、と胸を高鳴らせて受話器をとると、
「伊集院さんのおたくですか?」
三十歳ぐらいの男の声であった。
「そうですが」
「奥さん、いらっしゃいますか」
「私、伊集院の家内ですが」
「ぼく、現代企画社の河野といいます。ちょっと奥さんにたしかめたいことがあるので、会っていただけませんか」
「現代企画社……? どういう会社なんでしょう?」
まるで見当がつかない電話だったので、明日香は警戒しながら、そう聞いた。
「事務所は編集プロダクションみたいなものですが、ぼくは、そこを足場に契約社員としてルポライターなどをやっています」
「ライターの方が、どうして私なんかに?」
「あ、申し遅れました。ぼく、河野美紀の兄で、河野|豪紀《ごうき》といいます。妹が殺された事件で、ちょっと奥さんにたしかめたいことがありまして」
河野と名のった男は、脅迫的な物言いでは、決してなかった。
むしろ、礼儀正しく、きわめて紳士的に名のったのである。
それでも、明日香は何とはなしに重い衝撃を受けて、ひるんだ。
殺害された河野美紀の兄……!
そんな人間が、いったい自分に何を確かめようと言うのだろう。
家の中には義母の泰子もいたので、
「ご用むきの筋が、わかりかねますが」
明日香は静かに聞いた。
「奥さんは、南急ハウジングの稲垣企画開発課長と交際なさっているでしょ。七月二十一日の夜、つまり妹が殺害された夜のことですが……箱根に密会旅行をなさっていたようですが、それについて、ちょっと詳しく、おうかがいしたいんです」
「そういうお話は電話では困ります」
「今、ぼく、自由ケ丘の駅前にいるんです。これからお宅にお伺いしたいと思うんですが、よろしいでしょうか」
「いけません。うちにくるのは待って下さい。家に来られては困ります。――あ、そうだわ。自由ケ丘駅前にモンブランという喫茶店があります。私、これからそこに参りますので、そこでお待ち下さい」
明日香はあわててそう指示して、電話を切った。
義母の泰子には聞こえなかったのかどうか。家の中はしんとしていた。
明日香が、急いで買い物にゆく用意をしてバッグを持ち、サンダルをはいて玄関を出ようとした時、
「おや、外出なのかい……?」
横あいの部屋から、泰子の顔がのぞいた。
「ええ、ちょっと買い物に行って参ります」
「気をつけて行っておいで。最近はこのあたりにも痴漢が多いそうだから、早目に帰ってくるんですよ」
そう言われてみれば、外はもう夕暮れになりかけていた。
車に乗る距離でもないので、明日香は近道を歩いた。
駅前喫茶店の二階に、河野豪紀は、待っていた。
「あ、ぼく、河野です」
むこうが先に見つけて、立ちあがって声をかけた。
ポロの白いスポーツシャツに、同じポロのまっ白いブルゾン。腕にはめているローレックスも上品なデザインで、意外に清潔そうで、きりっとした美男子。およそフリーターにありがちな崩れたところや、編集やくざといった感じがなくて、明日香は少し、ほっとした。
「……で、私に確かめたいことって、どういうことでしょう?」
河野の前に坐り、コーヒーを注文してすぐに、明日香はきいた。
河野は急に電話をして呼びだしたことの詫びを言ったあと、すぐに本題に入った。
「まず、確かめたいのです。七月二十一日に奥さんは本当に稲垣さんと、箱根に行ってたんですか?」
「あまり大きな声では言えませんが、断言します。行きました、本当です」
「日帰りではなくて、一泊したんですね?」
「ええ、当然でしょ。私たち、密会旅行だったんだもの。恥ずかしかったけど、警察の方にもちゃんと、そう申しあげたわ」
「……聞きました。それで稲垣さんのアリバイが成立したようなんですが、ぼくはどうにも納得できません」
「何がそう疑問なんですか」
「何がって……美紀が可哀想すぎます!」
河野は一言、強い口調でそう言ってから、少し声を落とした。
「妹のやつは、稲垣さんを愛していました。ただの社内情事ではなく、全身全霊を捧げていたんです。三年間もつきあっていて、結婚まで約束しているということを、ぼくは美紀から聞いていました。それなのに、稲垣さんはつい最近になって、美紀のやつに結婚をしない、と言って前言を翻《ひるがえ》したんです。それが、奥さんとの不倫に原因があって、稲垣さんは奥さんを愛したために美紀をすてたのか、あるいは他に事情があって美紀をすてたのか、ぼくにはわかりませんが、とにかくそれ以来、二人の間はもつれていたようなんです」
「妹さんのお立場には、ご同情するわ。でも、男と女って、色々なことがあるから、当人同士以外には、わからないことだってあると思うし……それを私のほうに持ち込まれても、困るんですけど」
「あ、ごめんなさい。ぼくは稲垣さんと奥さんの仲を、責めているんじゃない。稲垣さんと不倫の関係に陥っている奥さんを、非難しているわけではありません。……そりゃ、大人の男と女って、色々なことがありますからね……ぼくが言っているのは、そういうことではなく、いくら愛情が冷めて、別れ話がこじれたからといって、何も妹を殺さなくてもいいじゃないか……殺すなんて、卑怯で卑劣で、残酷だと……それを言いたいんです」
「ちょっと待って下さい。そういうおっしゃり方だと、まるで稲垣さんがあなたの妹さんを殺害したみたいに聞こえますわね。それは少し、言いすぎというものでしょう。断定しすぎというものですわ」
明日香があまり強い調子で稲垣をかばったものだから、河野豪紀は顔をまっ赤に染めて、しどろもどろとなり、
「あ、ごめんなさい。これも失言だ……ただ、ぼくとしては、どうしても稲垣さんへの疑いをすてきれないものですから。殺された美紀の立場にたとうとする肉親の身びいきかもしれませんが」
「あなたのお気持ちも、わかりますわ。でも、そう思う以上、稲垣さんが美紀さんを殺害したかもしれない、という証拠でもあるのですか?」
「いえ、証拠というほどのものではありませんが、とにかくあの当時、二人の間には別れ話がこじれていて、妹と稲垣さんは険悪な状況だったんです。逆にいえば、稲垣さんにとっては、妹は大変なお荷物になっていたんじゃないかと思えるんです。そういう場合、男というものはえてして卑怯なふるまいをする。……ぼくには絶対に、稲垣さんが犯人だとしか思えないんです!」
「そうおっしゃられても、稲垣さんは私と一緒に箱根におりました。この事実はどうにもならないんじゃございません?」
「そうでしょうか。ぼくにはそれは、稲垣さんのアリバイを証明する絶対的なものとは、思えないんです」
「え? どういう意味……」
明日香はびっくりして、河野を見つめた。
「たとえばですね」
河野豪紀は身をのりだしてきて、熱っぽい眼をむけた。
「奥さんは一晩中、一緒にいたとおっしゃいます。それに間違いなかったかもしれない。しかし、一晩中、起きてたのですか? 寝てはいませんでしたか?」
「眠りました。あたりまえでしょ。女って、ああいうことのあとって、ぐっすりと熟睡するものよ」
「そうでしょう。熟睡したあとのことまで、覚えていますか? 朝まで稲垣さんと一緒にいたということを、本当に証明できますか?」
「ご質問の意味、わかりかねますけど……」
明日香は少し、しどろもどろになった。
「だって……私たち……燃えあがったあと……抱きあったままぐっすり、朝まで熟睡していたのよ。朝、眼をさますと、稲垣さんもちゃんと私と同じベッドに寝ていました。これ以上に完璧なアリバイの証明って、ないんじゃないかしら?」
「そうでしょうかね。奥さんは熟睡していた、とおっしゃる。当然、そうでしょう。激しくセックスしたあとのことでしょうからね。でもそのあと、稲垣さんは寝なかったのかもしれない。奥さんが寝ている間に、途中で起きだして、こっそり部屋を出て、ホテルを出て、近くに駐めていた車にでも乗ったのかもしれない。深夜の道は空いているから東名高速を使えば、東京まではほんのひとっ飛びで、一時間で着くんですよ。往復だって東京と箱根ならものの二時間……いや、三時間も見ておけば、充分に車で往復できるんですよ」
あッ……と、明日香は何とはなしに眼の前の地平を、ひっくり返されたような気がした。
――つまり、この男は、当夜、稲垣がアリバイ工作のために自分を箱根のホテルに誘いだしておいて、深夜、車を使って河野美紀を等々力のマンションで絞殺し、また何くわぬ顔をして二人のベッドに戻ったのではないか、とそう言っているのである。
明日香は、すぐには返事ができなかった。ぐっとつまってしまって、反論もできない。
(そういえば自分は、ぐっすり熟睡していて、朝、眼が覚めるまでのことは、何ひとつはっきりとは憶えていないんだわ……)
4
「さらにいえば、奥さんは就寝前、あるいはセックスの前にビールかワインの中に、睡眠薬を溶かしこんだものを飲まされて、前後不覚になっていたのかもしれない」
河野豪紀は、たたみかけるようにそう言った。
「ねえ、奥さん。ぼくはそのあたりのことを、詳しくお聞きしたかったんです。就寝なさったのは何時頃で、どんな状況で、寝たあとのことを、憶えていらっしゃるかどうか」
河野は再び、熱っぽい眼をむけていた。
見つめられて明日香は、軽いめまいを覚えた。
(まあ、何とあつかましい男なんだろう……!)
最初は、そう思った。
明日香としたら、怒ることができる。
河野の質問は、何しろ自分と稲垣との、不倫妻と愛人との、そのベッドの中での赤裸々な交渉のすべてを語ってくれ、と言っているのも同然であった。
それは、プライバシーの最たるものである。
警察でさえもそこまでは、踏み込んではこなかったのである。
(それを、この男はぬけぬけと……)
レディにむかって、ホントに失礼な質問よ、と明日香としたら怒り狂うことができるはずなのであった。
それなのに、明日香が怒れなかったのは、あの箱根の一夜に関して、そう言われればどうにも気になると思えることの二、三点を、潜在意識の奥からその時、鮮やかに思いだしたからである。
その一つは、夜中のことであった。ぐっすり寝ていたので、何時頃だったかは忘れているが、寝返りを打った時、そういえばたしかに隣に寝ているはずの稲垣の身体が手に触れなかったので、おや、と微かに不審に思ったことを思いだした。
でもその時は、稲垣はトイレにでも行ってるのだろうと思って、また毛布を引きあげて眠ってしまったので、そのことはすぐに忘れてしまっていた。
二つめは朝方、眼が覚めた時である。その時はちゃんと毛布の中に彼は眠っていて、あたり前のことではあるが、明日香は安心したことを覚えている。
でもその時、稲垣はブリーフはもちろん、肌着もちゃんと身につけていたのであった。全裸のままの自分が少し恥ずかしかったのを、明日香は憶えている。
もう少し詳しくいえば、眠りにはいる前は、セックスのあとだったので、二人とも全裸のままであったはずである。当然、明日香は全裸のままだった。ところが朝、稲垣は、下着を身につけていた。少し、おかしい。
でも稲垣が朝、下着を身につけていたのは、たぶん夜中にトイレか風呂にでもはいった時につけたのだろう、と解釈して、明日香はその時は少しも、それを不自然だとは思わなかったのである。
でもでも……そのことに関しては、三つめの疑問がある。朝、眼がさめて化粧鏡のほうに行こうとして、明日香がベッドの下のスリッパを突っかけようとした時、その傍に稲垣が脱ぎすてたと思える男ものの靴下が一足、左右とも乱暴に丸められたまま、床に落ちていたのを発見したのである。
その時は、それさえもゆうべ脱ぎすてたままのものだろう、と思って深く考えもしなかった。もっとも、朝、顔を洗って化粧を整えはじめた時、頭がしゃっきりしてくるにつれ、
(でも変だわ。靴下は昨日、部屋にはいってすぐ、脱いだはずだわ。だって私たち、一緒に風呂にゆく前、全裸になって愛しあったんだもの……)
そう気づいて、稲垣が起きだしてきた時、明日香はこのように聞いたのを憶えている。
「あら、私が寝ている間にお散歩でもなさったの?」
すると稲垣は、
「ええ、二十四時間戦えますか、のコマーシャルじゃないけど、働き中毒は困っちゃうね。朝方、六時にはもう眼がさめたんですよ。それで、あなたはまだ眠ってるし、仕方なくぼくだけひと風呂あびて、ついでに朝の爽やかな空気の中を散歩してきたんですがね」
すらすらと、そう答えたのであった。
その時はそれで納得して、すぐに忘れてしまったが、でも考えてみれば、仮に散歩に出かけたにしても、浴衣がけなら、靴下や靴ははかない。温泉ホテルの下駄か突っかけでよかったはずであり、ベッドの下に落ちていた靴下の謎は、解けはしないのであった。
いやいや……まだある。四つめの疑惑は、朝食を終えて、ケーブルカーで早雲山から芦ノ湖へぬける箱根観光へ出かける時、彼にネクタイを結んでやろうとした時、ワイシャツの肩口の後ろのほうに、赤い口紅が横なぐりにこすったようについている跡を、見つけたのである。
その時は、(あら……昨日の……)と、稲垣に挑まれて情事にもつれこむ時の、自分の不始末だと思いこんで、稲垣に悪いことをしたな、と思ったくらいであった。
しかし、今、考えれば、稲垣に部屋でキスされたのは、正面から抱かれた時である。そのまま、唇をあわせたので、もし口紅がつくにしても、襟か胸か肩のあたり――いずれにしろ、正面のほうであって、ワイシャツの肩口のほうというのは、解せない。
それも、あの横なぐりのかすったようなルージュの痕跡は、何やら後ろから女に抱きつかれて、それを振り払おうとしたり、あるいは男女が争うはずみについた跡のようでさえあった。
改めて考えれば、明日香には、そう思える。
口紅のことまでを入れれば……何と四つもの疑惑を、潜在意識の奥から微かに明日香は思いだしたのである。
明日香は、河野豪紀の前に坐っていることも忘れて、コーヒーカップを握ったまま、しばらく宙を見つめ、思考停止状態に陥って、ぼんやりとしていた。
「奥さん、今、あなたは何か、思いだしたんじゃありませんか?」
正面から河野に声をかけられて、明日香はハッとした。
そうしてなぜか、あわてて言った。それは徹底的に、稲垣をかばう言葉であった。
「いいえ、一生懸命、あの晩のことを考えてたんだけど、何も思いださないのよ。とにかく私たち、土曜日の夕方、ホテルについて楽しい食事の時間をすごし、夜の十一時頃、ベッドインして、ご想像の通りの愛の時間をすごしたわ。そうして翌朝、九時ごろ、二人とも同じベッドの中で、爽やかな目覚めを迎えたのよ。――ただ、それだけ。私はそれだけしか、思いださないわ。ごめんなさい」
明日香はまくしたてるように、そう言った。
河野豪紀が信じてくれたかどうかはわからない。
明日香としたら、仮に四つの疑問点を思いだしたにしても、それはあくまで微かな疑問点であって、警察にも話してはいないことを、そう迂闊《うかつ》に他人に洩らしたりすることは、できなかった。
しかも相手は、被害者の肉親。その上、ルポライターなどという人種ではないか。迂闊なことを言えば、どう誤解され、曲解されるかしれない。
(そうよ。それにこれは警察には、もっと言ってはならないことかもしれない……)
明日香が迂闊にこのようなことを証言すれば、稲垣のアリバイはくずれて、彼はすぐにでも殺人犯に仕立てられるかもしれない。
それが真実なら、証言しなければならないが、もし明日香の思いちがいだとしたら、とんでもないことになってしまう。
(そうだわ。これは私が調べてみなければならない。一度、稲垣にあの晩のことを確かめてみよう……)
明日香がそう思った時、
「うそだ。奥さんは何かを、隠している。ねえ、今思いだしたことを、ぼくにも話して下さい。ねえ、伊集院さん……!」
河野は強い口調になって、迫ってきた。
明日香はそこで、かえって冷静になった。
「そんなことをおっしゃられても、困ります。思いださないことは、思いださないのよ……あら、もう、こんな時間」
大仰に腕時計をのぞいたりして、
「私、用事がありますから、これで失礼します」
明日香は堅気の人妻に戻って、立ちあがっていた。
いざとなったら、女のほうが度胸が据わるし、芝居も一枚、上手なのである。
河野は未練気にみていたが、引き止めはしなかった。
「そうですか、仕方がありませんね。でも、何か思いだしたら、ここに電話して下さい。お願いします!」
縋りつくような眼で、明日香に一枚の名刺を渡したのであった。
「こんなもの……いただいても……」
しかし、明日香は、押し返すのも悪いと思って、名刺だけを受けとって、あたふたとその喫茶店を飛びだしていた。
喫茶店を出ても、実のところ……胸の動悸が鎮まらなかった。
――稲垣啓四郎がもし、殺人犯だったら、どうしよう。
――私は殺人犯を愛してしまったのかしら?
――いや、それだけではない。私はアリバイ工作に利用されて、稲垣の完全犯罪に協力させられたんじゃないかしら……?
5
家の近くまで戻ってきて、明日香の足が止まった。
二階の書斎に電気がついている。
(夫が帰ってきてるんだわ……)
ふつうなら、少しも驚きはしないことだが、河野に会って動揺しているさなかだったので、明日香はびっくりしたのであった。
(連絡もなしに、どうして突然、帰ってきたのだろう……?)
もっとも、冷静に考えてみれば、今は夏休みのさなかであり、単身赴任の夫が、赴任先から東京の実家に帰ってくるのは、当然といえば当然であった。
「ただいま」
玄関にはいると、やはり見憶えのある夫の靴が眼についた。
義母の泰子が居間から顔をだして、
「お帰り。京輔がね、さっき帰ってきたんだよ。汗を流すといって風呂にはいってね、ビール飲んでさっさと二階の自分の部屋にあがっていったんだよ。愛想もこそもない。いったい、どういう神経でしょうね?」
「食事は……?」
「外ですませてきたんだって。明日香はどこに行ってるんだ、と言って、荒れてるんだよ。宏也と階下《した》はいいから、行っておやり」
明日香が階段をあがって夫の部屋に入ると、座卓の前であぐらをかいて夕刊を広げている京輔の後ろ姿がみえた。
「おかえりなさい」
部屋の入口に坐る。
京輔はテーブルにアイスペールまで用意して、水割りを作って飲んでいた。
「どこに行ってたんだ?」
「ちょっと、近所にお買い物よ」
「こんな時間まで、買い物か。よくご精がでるね」
「ケーキ屋さんに頼みものをしてきたのよ。あなたこそ、いつ、お帰りになったの」
「今日さ。日本橋の本社に寄って、雑用をすましているうちに、夕方になっちまった。せっかくの夏休みだというのにな」
「お帰りになるならなるって、電話でもしてくださればいいのに」
「電話したけど、誰も出なかったぞ」
「いつなの?」
「二、三日前だったかな。いや、その前も電話したことがある。三回ほど電話したが、一晩中、出ないことがあったぞ」
「そんなはずはないでしょう。電話番号でも間違えたんじゃないの」
「間違えるもんか。うちの電話だった――」
と言って、京輔は不意に振りむいた。
「飲まないのか?」
「これから何かご馳走をつくらなくっちゃ、と思っているのよ」
「ツマミはいい。堀ノ内のマンションはもう完成したらしいな」
「ええ、おかげさまで」
「入居者はもう決まったのか?」
「これからよ。南急の稲垣さんが募集してくれてるわ」
「その稲垣とかいう男、三十六歳で独身だそうじゃないか。おまえ、大丈夫なのか?」
「どういう意味かしら」
「近頃、不倫妻っていうのが、はやってると言うからな。亭主が単身赴任の場合は、なおさら危ない――」
「ばかおっしゃい。あなたのほうこそ、どうなさったの、あの女性、会社の方でしょ」
「話をはぐらかすな。あの女とは、もう別れたよ」
「うそおっしゃい。部下の女に手をつけるなんて、サイテイよ。社内情事なら、そう簡単に別れられるはずのものじゃないでしょ」
「あの女は、お嫁に行ったんだよ。仙台といっても、田舎のことだ。結婚年齢は早い。いい縁談があったそうだから、おれのほうで段どりをつけてやったよ。持参金もつけてな」
「そう。たまには粋なこともやるのね」
明日香の一部で、ほっとしたものがある。
今の話に関しては、嘘ではないような気がする。あの女が嫁いだので、京輔は淋しくなって、夏休みを東京ですごすために戻ってきたのかもしれなかった。
「まあな。だいぶ、上層部の後始末の目鼻がついてきたところだけどね。単身赴任は何かときついよ」
京輔の仕事で、上層部の後始末の目鼻、ということに関しては、明日香も薄々、耳にしていて知っていることがある。
京輔が勤める「東京ワールド工業」は、建設機械や各種大型機械に内蔵する駆動部分や、コンピュータ機器、音響機器まで幅広く製造する大手電子機械メーカーのひとつだが、この数年、本業のかたわら、役員室と総務部の一部を合併させて「戦略管理部門」というものが設けられ、土地の取得や株式投資など、いわば財テク部門に精をだすようになっていた。
ところが、昨年いらい、株が暴落して低迷状態に入り、抱えていた土地も値下がりして、帳簿上、大きな欠損をだした。放置しておくと、その損害はますます大きくなって資金繰りに響きそうになり、上層部はあわてて財テク投資を縮小し、これまでの損害を少しでも取り戻すために、各地に取得していた土地やマンションを処分するなど、軌道修正に乗りだしたそうである。
京輔も、いってみればその仕事に投入されているのだった。もともと、本社時代から戦略管理部門の株式係長を命じられていたが、ちょうど、仙台で「東北電工」という地元の会社を吸収合併する機運にあったので、その工作と合わせて仙台支社の次長といいながら、事実上は「戦略管理部長」として、赴任しているのだった。
従って、仙台の仕事も、本来のコンピュータ機器の販売や営業活動ではなく、東北方面で数多く手がけていた不動産部門の発展的解消や、吸収合併した「東北電工」の含み資産(土地)の売却などが、主な仕事であった。
「チッキショー、コンピュータ屋が、なんで株屋や不動産屋の真似事をしなければならないんだ。世の中、どうかしてるよ」
ここ数年は、酔うといつもそう吐きだすのが、口癖であった。
明日香にも、京輔のその鬱屈した気分は、わからないではない。
だが、自分だけが苦労しているといった顔で、大きな態度をされたら、癪にさわる。何といっても、仙台のマンションを訪れた時、ドアをあけていきなり目撃した日曜日の男女の赤裸々な光景は、明日香の心をズタズタに引き裂いていて、まだ癒えてはいないのである。
「たまに帰ってきたと思ったら、お酒を飲むしか、能がないんですか。たまには宏也の相手でもしてくれたら、どうなの」
明日香がそう言って、宏也を呼びにゆこうとすると、
「宏也はあしたでいい。あした、東京ドームにつれてゆくことにしたからな」
「それはいい心掛けよ。水割りは薄めにしますからね」
明日香はスコッチの水割りを作った。
「はい。――今、生ハムでも切ってくるわね」
グラスを差しだして階下に降りようとした瞬間、その手首を不意に掴まれた。
「ツマミはいいと言ってるだろう。酒飲む以外にも能があるところを、ちゃんと見せてやるよ」
そう言って、夫は、強い力で手首を引き、いきなり畳の上に明日香を捻じ伏せようとしたのだった。
「あッ……どうしてそんな乱暴をするの!」
「亭主が女房を転がして、どこが悪い」
「そんなに乱暴することないでしょう。……ね、あとにして」
「今日もどこかで浮気してきたんじゃないか。検査してやる」
京輔は力ずくで、ますますのしかかってくる。
この分では、仙台の女が結婚して、京輔とは別れてしまったというのは、ますます本当のことのように思えた。京輔はそのため、少し荒れていて、欲求不満のはけ口を明日香にむけようとしているのかもしれなかった。
暴れる明日香を尻目に、手がワンピースの裾から股間にのびていた。そうしていきなり、パンティをずりさげようとする。
「いやっ……いやったら……やめてったら……」
あまり力一杯、抗うものだから、
「どうしたんだ、おい……」
股間にのばした手首をはねかえされて、京輔の手はワンピースの上から、乳房を掴みにきた。上から掴んで揉みたてる。
痛いくらいの力であった。明日香の気持ちはまだ夫を迎える準備が出来てはいなかった。何の前触れもなかった京輔の帰京自体に驚いていたし、それに第一……さっき会ってきたばかりの河野との会話や、稲垣への疑惑や……何もかもがごっちゃになって明日香の頭の中に押し寄せてきてせめぎあっていて、明日香は夫の声さえも遠くに聞こえているのであった。
「おい、どうしたんだよう。おれが帰ってきたのに、ちっとも燃えないとは、どういうことだ」
京輔は荒々しく武者振りついて、明日香の背中のファスナーを引きおろした。そうされながら、明日香はあまり抵抗するのも考えものだと反省し、
「どうもしないわ。久しぶりにあなたに抱かれて、うれしくってたまらないのよ」
「そうかな。それならいいが、まるで気が乗らないみたいじゃないか」
「だって突然、帰ってくるんですもの。びっくりしたわ。仙台の女に逃げられて、その淋しさを私にぶつけてるんでしょ」
明日香が鋭く言いたてたものだから、京輔は少し、たじろいだようであった。しかし、勢いは少しも衰えてはいない。もはや明日香のことを検査するよりは、やみくもに押し伏せにかかって、ワンピースを脱がせるなり、パンティもずりさげ、横抱きにした。
接吻というものはなかった。
京輔は、スリップをたくしあげて、明日香の白い腰を露わにし、花芯に指を入れてきた。明日香はまだ拒否したい気持ちが揺れていたが、拒否するとよけい疑いを深めることになると思って、観念した。
力を抜くと同時に夫の指が女芯の奥へと直進してきて、中を掻きまわされる。潤みはまだ弱いが響いてくるものがあった。
ひとしきり、女芯への指戯が終わると、夫はそこに顔を埋めてきた。まるで検査でもするように、手指で花びらを押し広げ、唇でいじめるように攻めさいなむ。
明日香は自分が急速にうるおってくるのを感じた。京輔は、指の動きを連動させながら、花びらを含んで微妙にふるわせている。その強弱に呼応して、快い刺激がクリトリスにひびき、身体の芯が熱くなってくる。
(こんなことを、仙台の女にもしていたのだろうか)
そう思いながら、
「ああ……ああ……ああ……」
明日香はようやく、稲垣や河野のことを忘れて、熱中してゆく自分に気づいた。蜜液の潤沢な噴出に気をよくしたように、夫はいやらしく音をたてて花弁を吸い、舐めあげる。
「さあ、白状しろ。浮気してたんだろ。どんなやつと、やってたんだ。何回ぐらい、やってたんだ。ここに男を迎え入れたんなら、ちゃんと白状しろ!」
「ばかなことをおっしゃい。そんなことを言うなら、私、もう」
明日香が身体を閉じようとすると、反対に俯せにひっくり返された。
「腰をあげて、前に屈め……」
「え?」
「後背位をやりたい。その白いヒップをあげるんだ」
「まあ、あなたったら……こんなところで」
今まで京輔は、ふとんも敷かない畳の上で、しかもそんな体位など、一度も要求したことがない。
京輔は、かなり荒れているようだ。
でもすでに、背を押さえつけられて、テーブルの端に手をつく姿勢をとらされていた。四つん這いになった明日香の上に、背後から京輔がのしかかってきて有無を言わさず、猛りたつものでつらぬいてきた。
「うっ」
と、明日香は呻いた。
「痛いわ」
明日香は悲鳴をあげた。
それほど一気に、夫のものが肉襞を押し分けながら入ってきたのであった。そんなはずはなかったが、それはいつもより一回り大きく、固く感じられ、明日香は息をのみ、背を反らせたのであった。
久しぶりの夫のものだったせいかもしれない。
京輔は、激しく動いてきた。腰を掴まれ、何やらお仕置きでもするように、激しく打ち込むような抽送をつづける。蜜壺の天井を乱暴に強く突きあげたかと思うと、急にすれすれまで引き抜き、そしてまたズブリと根元まで深く押し込んでくる。
「あうッ……」
と、そのたびに明日香はのけぞった。
「あなた……もう……許して……」
「いやいや、許さん。これからだぞ、明日香。今夜は朝までいじめぬいてやるからな」
京輔は、そんなことを言って攻めたてる。
(もしかしたら、京輔は私と稲垣との関係を本能的に気づいているのではないか……?)
ふっと、明日香はそう思った。そうしてそれへの戦《おのの》きだけではなく、稲垣がもし殺人犯だったらどうしよう……という惧れとも怯えともつかない戦きもまじって、明日香は今、夫に犯されながらも、心の中に赤い闇を抱いてもだえていた。
第三章 事件の構成
1
河野豪紀はその朝、外回りを終えて、午前十時半頃、新宿のオフィスに顔をだした。
彼が午前十時半に出社するのは、きわめて珍しい。ふつうは、もっと遅くなる。なぜなら彼の会社には、タイムカードというものはないし、契約社員の多くは午後になって顔をだすし、河野もふつうは午後一時をすぎて、顔をだすのである。
従って、夜は遅い。九時、十時はざらで、オフィスで徹夜することもあった。
現代企画社は、いわゆる会社ではない。職安通りに面した、新宿百人町三丁目の古ぼけたビルの三階の一室に、そのオフィスは存在する。
外の表通りからみると、現代企画社、と大きく社名の書かれた窓が朝日に光っていて、立派な会社のようだが、中の様子はひどいものだ。
一応、ワンフロアを陣取った二十坪くらいのスペースに、事務机やファクシミリや複写機やスチールの書類ロッカーが並んでいるが、事務机の上は電話とワープロと印刷物と週刊誌や新聞のゲラや紙屑の山である。
奥の隅に大きなソファセットが置いてある。そのソファの上に、三人ばかり、身体の大きな男たちが、眠りこけていた。
ゆうべ、週刊誌のトップ記事の追い込みのため、徹夜した取材記者やアンカーたちである。
その一人がようやく起きだし、あくびをしながら、
「なんだ、河野。朝帰りか」
のん気にそんなことを言っている。
「違いますよ。こっちはもうひと仕事終えて凱旋ですよ。今、何時だと思ってるんですか」
「まだ十時半だろ? たまに早く出勤したからといって、そう威張るなよ」
目黒北八という人をくったような名前の、その先輩記者が、のそのそとタオルを手にして、洗面所のほうに歩いてゆく。
(こういう風景も、もうあの先輩あたりが最後だろうな。若い連中はこんなむさくるしいところで、仮眠なんか取りゃしない。やれビジネスホテルだ、サウナだ、シャワーだ、ドライヤーだといって、近くの立派なホテルを予約しておかなければ、徹夜なんかやりゃあしないんだから……)
河野は、自分もまだ三十をすぎたばかりの若衆頭のくせに、それ以上に若い連中がどうにもやわに思えて、癪にさわって仕方がないので、そんなことを思いながら、卓上をがさごそ片付けて、愛機「隼《はやぶさ》号」――ワープロのスイッチを押した。
早速、キイの上を指が跳ねだす。
取材してきたネタは、そうたいしたことではない。「レジャー会員権で被害者続出……」。仮タイトルを打つ。業界内幕もの。「日本観光リゾートKKの詐欺的商法の手口をあばく」。
日本列島、いたるところリゾートブームで、ゴルフ場からコンドミニアムホテル、マンションや別荘などをセットにしたリゾート会員権システムの入会者がふえる中で、五百万円の会費は納めたが、連休には予約がとれない、盆正月は満杯、たまに行ったらサービスが悪い、ホテル代は一般なみで何のために五百万円を入れたかわからない……等々の苦情があいついでいるあるリゾート会社の不正勧誘の内幕を、機関銃のようにワープロに打ちはじめた時、
「豪さん、ばかに張り切ってるじゃないの?」
ポンと、肩を叩かれた。
シュトラス系の爽やかな香水の匂いに包まれて振りむくと、机を並べている仕事仲間の野津原多鶴《のづはらたづる》だった。
いわゆる、敏腕美人記者というやつ。
もっとも、年は河野よりもずっと若い。女子大を出てまだ二、三年だから、ちょうど脂が乗りはじめた二十四、五歳というあたりで、英仏語堪能の、おしとやかとはお世辞にもいえないひょうきん美女であった。
「やあ、早いな」
「早いのは、豪さんのほうでしょ。私はいつもこの時間よ。雨が降りそうだけど、どうしたの?」
「なあに、ちょっとね。ノルマだけは早く叩いといて、別件で飛びだそうという魂胆さ」
「あ、例の事件ね。妹さんの……」
「肉親の感情に溺れるなんて、女々しいと思うだろうけど、ちょっとあの事件、気になってるんだ」
「わかってるわ、豪さんの気持ち。まだ真犯人はあがってないんだものね。しゃかりきになるのは、あたりまえよ」
それに、と多鶴が微かに笑った。「気になるのは妹さんのことだけじゃなく、あの人妻のほうでしょ?」
「誰のことだい?」
「おとぼけ。自由ケ丘の伊集院明日香さんのことよ」
「ああ、あの人のことか。そりゃあ、少しは気になるよ。ノンちゃんより、ずっと美人の熟れ熟れ熟女だからな」
姓の野津原からとって、ノンちゃんと呼ぶこともあるし、場合によっては、おい、タヅル、タヅルである。
その多鶴がチクリと言ったように、河野の頭の中では先刻から、ゆうべ、自由ケ丘の「モンブラン」という喫茶店で会った伊集院明日香の顔が、花のように揺れていた。
(あの奥さんは、何かを思いだしていたな、あの時……)
確実に、そう思えるのである。
これは、河野の直感であった。
だから河野は、あの席ではあまり深追いはしなかったのである。
(いずれ、話してくれる時がくるに違いない。いや、話さずにはいられないような情況が訪れた時、柿の実はひとりでに落ちるものさ……)
河野はそんなことを思いながら、手許では別件の記事を叩いた。
「ね、お昼、たまには一緒に行かない?」
多鶴がそう言ったのは、一時間ぐらい経ってからであった。
「奢《おご》ってくれるのかい?」
「こないだは、豪さんが奢ったわね。じゃ、今日は私が奢るわ。その妹さんの事件でちょっと、お話があるのよ」
「それなら、少し落着いたところで飯をくおうか。もうちょっと打って、ひと区切りつけたら、立つよ。席、予約しといたほうがいいかもしれないね」
「予約……? どこにゆくつもり?」
「近くの百膳。あそこなら、落着けるよ」
「わッ、あんな高いところで?」
「多鶴の奢りだぜ。今、決まったろう。おれのキャッシュカードは、少しも痛まない」
「もう、しっかりしてるう!」
2
和風牛肉懐石「百膳」は、百人町でも少し奥に入った住宅街の中にある落着いた、料亭風の店である。
昼休みは、近くのサラリーマンたちでごった返すので、そう高い料亭というわけではない。もっとも、十二時から三時までのランチタイムは、ちゃっかり刺身定食や天ぷら定食や焼魚定食が主体なのだが、それでも麦とろ定食や、大和イモとユズ入りの冷製テールスープ、合鴨ロースの山椒風味焼きを備長炭《びんちようたん》で焼くあたりが、ちょっとそこらの昼食屋とは、差をつけている。
一時間半後、河野と多鶴は、その店の座敷の片隅に坐っていた。
「さて……と……」
昼間からちょっとリッチに、但馬牛の牛刺定食というのを頼んで、ビールも一本つけてから、
「わかったかい?」
河野はそう訊いた。
「ええ、わかったわ」
と、多鶴がこれまたオフィスでの二人の会話とはころっと違って、秘やかで秘密めかしく、親しそうな素振りで顔を寄せてくる。
「伊集院明日香と稲垣啓四郎の結びつきは、どうも昨日今日の間じゃないみたいよ。ほら、稲垣が勤める南急ナポレオンが、エリザベス・シリーズとか、ナポレオン・シリーズとか銘打ってプロジェクトをやりはじめた都心部の土地活用法。その仕事を通じて、二人は知りあったみたいね」
「ほう、そういうことか……」
河野豪紀に、それまでよくわからなかったのは、伊集院明日香と稲垣啓四郎との関係と、接点である。
ふつうに考えれば、自由ケ丘夫人として何不自由なく暮らしている人妻、明日香と、堅気のエリートサラリーマンである稲垣啓四郎の二人が、そう簡単に恋におちたりするはずはない。二人はいったいなぜ、箱根の宿で密会の一夜を明かすようになったのか、というその経過と、結びつきが河野には、どうしても想像がつかなかったのである。
人妻の不倫といえば、だいたい同窓会で再会した昔の同窓生同士とか、PTAで知りあった役員同士とか、パート先の上司とか、カルチャーセンターの先生とか、だいたいその人妻の生活パターンで、見当がつくのである。
かたや、カラオケスナックで知りあったばかりの見ず知らずの男とか、テレクラ遊びで知りあった若い男、というケースも最近ではふえているだろうが、しかし、伊集院明日香に限っていえば、そのいずれのタイプでもないのである。
(いったい、稲垣と明日香はどうして結びついたんだ?)
等々力のマンションで妹の美紀が殺害された夜、妹と濃密交際していたはずの、上司の稲垣啓四郎が、こともあろうに自由ケ丘に住む堅気の人妻、伊集院明日香という女と、箱根で密会していたという話を警察から聞いた時、あれれッと、河野は首をひねったのであった。
それで河野は、アリバイ成立濃厚で容疑線上からはずされた稲垣が、もし真犯人だとしたら、ほとんど完全犯罪とも思えるので、妹への痛ましさも手伝い、彼の身辺や事件について調べはじめる傍ら、相棒の野津原多鶴に、稲垣と明日香の、そもそもの結びつきなどを、それとなく探ってもらっていたところである。
それが、多鶴の今の報告であった。
「そうか。ナポレオン・シリーズか。……と、すると、明日香は都心部のどこかに土地を持っていて、それを稲垣が監督する南急のプロジェクトシステムのどれかに、委託していたわけか」
「ええ、そうなのよ。杉並区堀ノ内に父親から相続した土地が三百坪くらい、あったみたい。そこの土地を活用するために、タウンハウス様式のニューモデルのマンションの設計、建設、管理、運営まで、すべてを南急が請負うパーソナル・プロジェクトという総合企画請負方式で、事業を始めたというか、委託したようね」
「それだと、南急としたら、マンションの建設を請負えて、その代金が転がりこむし、土地信用供与方式で、自社で土地を探す苦労はないし、その後の管理で家賃のマージンも稼げるから、面倒なようでも実に用意周到に、儲けるようになっているわけだね」
「ええ、そうみたいね。頼むほうもそのほうが、楽にやれるでしょ。土地保有税や相続税対策で、これからはこういう方式のマンションやアパートが増えてくる、という話を業界の人に聞いたわ」
「なるほど、人妻の不倫といっても、明日香の場合は、そこらのテレクラ遊びとはわけが違うな。不動産と巨額の金が絡んだ結びつきなら、こりゃ、その二人、切っても切れない関係になるし、愛欲の度合も強いと思うな。明日香のほうで、業界のエキスパートである稲垣を頼りにして傾斜する気持ちは、わかるし、稲垣のほうでも、いい金づるで、いい熟女だから一生懸命、明日香に尽くそうとするだろうよ」
「その上、明日香の夫は単身赴任。仙台で愛人を作っていたらしいというから、すべての条件が揃ってるのよ」
「ああ、不倫の条件がすべて、ばっちりだ」
河野がそう言った時、牛刺定食が運ばれてきた。
ビールを飲みながら、箸をつける。
すぐ傍の窓には、垂簾《すだれ》がかかっていた。手で丸めてあげると、ビルとビルの間の住宅街の、そのまたせせこましい隣家との境に、竹林や玉砂利や筧《かけい》が一応、しつらえてあって、料亭風の演出とはいえ、何というせこさだろう、と舌を巻く。
(問題は……)
と、河野は宙に眼をおいて、考えた。
(箱根での密会の夜、何があったかだな……)
稲垣と明日香の結びつきは、今の多鶴の話で判明したので、河野の思考の焦点は、今度は早くも事件当夜のことに移っている。
妹の美紀が殺害された夜のことを思いだすのは、河野にとっては、実に辛いことだった。
しかし、そういう肉親の情に溺れているひまはなかった。
河野は七月二十一日、深夜のことに思考を集めた。
警察の調べによると、美紀の死因は絞殺。細いビニールロープ様のもので背後から首を絞められ、美紀はベッドの傍で倒れて、窒息死していた。
深夜だったが、薄化粧をして、パジャマを着ていた。着衣にさほどの乱れはなかった。絞殺前の情交の痕跡はない。
室内があまり乱れていないことや、美紀は室内で、後ろから襲われて首を絞められている点。深夜なのに、部外者(絞殺時の力の入れ具合から男と思える)を部屋に通している点などから、被害者と親しい者の犯行ではないかと見られて、数人の男が浮かび、その中に会社の上司である稲垣啓四郎が濃鑑者《のうかんしや》として浮かんだのであった。
河野も生前の妹が、会社の上司とオフィスラブに熱中していたことを知っていたので、稲垣が怪しいと睨んだ。
ところがその稲垣は、当夜、伊集院明日香と箱根で一夜をともにした、と知って目算がはずれ、ショックを受けた。
明日香が第三者だとしたら、崩しようもない完璧なアリバイである。
しかし、少し落着いて考えれば、何もおたおたひるむことはない、と河野は考えるようになった。
稲垣啓四郎が、その気になれば深夜、車で箱根と東京の間を往復することは、簡単にできる。等々力のマンションでの殺人行為を入れても、三時間もあれば充分に間にあうだろう。
ただ問題は、それを証明するものがない、という点であった。
当初、河野は稲垣犯人説に立って、それを徹底的に洗うつもりで、稲垣の完璧なアリバイを崩す方法として、次の幾つかを考えた。
まず一つは、稲垣が箱根と東京との間のどこかで、スピード違反で摘発されたり、交通事故を起こしたりしてはいないか。
限られた時間の中で、犯罪を成立させようという時は、気持ちが焦るので、えてしてスピードをだしすぎて、鼠とりに引っかかったり、交通事故を起こしたりするものである。
しかし、この観測はあたらなかった。
深夜の東名高速で、鼠とりというものはなかったし、どこにも稲垣の車が登場する事故は、発生してはいなかったのである。
二つめの視点として、等々力の美紀のマンション周辺で、稲垣らしい人物を見た者はいないかどうかの目撃者探しを考えた。あわせて、マンションの中で事件当時、悲鳴を聞いたり、争う物音を聞いたりした者がいないかどうかの洗いだしをやった。
しかし、事件後、数日間を要して、河野が一人で隈なくマンションの周辺や住人にあたった範囲では、そういう目撃者には出会わなかった。もっとも、これは地取り、聞き込みといって、警察がまず総力をあげてやることなので、警察でさえ判明させ得なかったことが、そう簡単に一介のルポライターの努力くらいで、できるはずもなかった。
そこで三つめに考えたのは、当夜、稲垣と明日香が一夜をすごした箱根塔ノ沢温泉のホテル「望星館」の周辺、またはホテル内に、視点を移すことであった。
事件当時といえば、深夜である。夜中の一時や二時に、稲垣らしい人間が出入りする姿を目撃したものはいないかどうか。とくに駐車場周辺で、目撃者はいないかどうか。
それをあたったのである。しかし、今のところ、これも手掛りがない。もっともたった一回、箱根に行ったくらいで、そう簡単にわかるはずのものでもないので、箱根にはまた足をのばさなければならないと考えている。
そうして第四点は、何より車である。もし真犯人が稲垣だとすれば、いずれにしろ彼は車を使っている。彼の自家用車はスカイラインGTだが、その車種、または不審な車を見かけたかどうかを、箱根のホテル及び美紀のマンション周辺双方で聞き込むことや、万一、レンタカーを使っているとしたら、そのレンタル会社をあたって、稲垣らしい人間の形跡を探しだすことであった。
そのあたりが今、河野がやっていることであり、また、これからも引続き、やることである。
一方、警察ではその後の捜査で、ちょっと違った見方をしはじめていた。
それというのも、稲垣のアリバイが今のところ、ほぼ完璧な形で証言されているので、捜査線上から彼の名は消えており、それにかわって、美紀自身の別の交友関係や、強盗や流しの犯行という見方がにわかに浮上しているのであった。
折から、世田谷区や目黒区一帯で、白いマンションに一人で住んでいる女子大生や、OLばかりが狙われる「白いマンション殺人事件」というものが、連続して発生しているのである。
美紀のマンションも、南欧風の白壁をもつマンションであり、彼女は一人暮らしであり、文字通り、「白いマンション一人暮らし女性連続殺人事件」の被害者のイメージに、相当するのである。
そういうところから、警察は、通り魔や強盗やこの「白いマンション魔」の線を重視するようになり、捜査陣のかなりの勢力が、そういう方面の洗い出しに振りむけられているようであった。
(結局……)
と、河野は思うのだ。彼の脳裡に再び、どこやら憂いをふくんだあの自由ケ丘の美貌の人妻、伊集院明日香の顔がクローズアップされてきた。
(あの奥さんが、すべての鍵を握っている。あの奥さんに密会の夜のことを、隅々まで思いだしてもらい、何かおかしな点があったら、それを証言してもらうことが、事件の謎を解く手っ取り早い糸口になるかもしれないな……)
たぶんに、伊集院明日香という人妻への思い入れもあったが、河野は、それを切実に望む気持ちになっていた。
3
――ビールを一本、追加注文した。
「ね、こうしたら、どうかしら?」
野津原多鶴が、いきなり言った。
白い割箸を手にしたまま、その箸の先を自分の形のいい鼻のあたりで、くるくる回しながら、何やら考え事をしながら、
「豪さん、部屋変わったら?」
突然、そう言った。
「えッ、どうして?」
「伊集院明日香が経営する杉並サニー・ハイツよ。あそこにはいれば、南急ナポレオンの事業内容や、あの人妻の行動や、うまくゆけば、明日香と稲垣の密会現場などを、押さえることができて、何か手掛かりがつかめるかもしれないわ」
なるほど、思いがけない提案であった。
南急ナポレオンが請負った杉並サニー・ハイツは、完成して間もないという。今、入居者を募集しているそうだから、案外すんなり、もぐりこめるかもしれない。
「家賃高いんじゃないかな」
「高いといっても、そう長期間、入居していることもないのよ。ほんの半年か一年、監視する場所として確保しておけばいいのよ。むこうとしては期間が短いほうが、回転が早くて喜ぶんだから」
「しかし、権利、敷となると……おれには妹のマンションの処分も残ってるんだよ。妹のやつは半年分、前払いしてるから、等々力のあの部屋だって、もったいないし」
「あ、そうか。それじゃ、杉並サニー・ハイツには私のほうが、はいろうかな」
「え、はいってくれるのか?」
「今の中野のアパート、手狭になってきたのよ。ボーイフレンドが来た日には、壁はガタピシ。あの声も、うんと隣に遠慮しなければならないし……」
河野は聞こえなかったふりをして、ぐっとビールを飲み干した。
「権利、敷入れて三十万円か。痛いなあ。そうそう、豪さん。私が貸してるお金、五十万円にはなってるわよ。この際、返してくれる?」
「ちえッ! 目的はそれだったんだろ。深謀遠慮の女、くえないぜ」
「人に貸したお金は、焦げつく前に回収しなくっちゃ」
「きみからの融資金を返したら、杉並サニー・ハイツに入居して、アンテナを張ってくれるかい?」
「張ってあげるわ。私が豪さんにかわって、入居したほうが、むこうには顔を知られていないから、油断するでしょ。それにだいいち、そのほうがずっと安心だわ」
「え、何が安心なんだ?」
「豪さんがあそこに入居すれば危ないんだよなあ。明日香というあの魅力的な人妻と接触する機会がふえるかもしれない。そうしたら、危ない、危ない……」
「勝手な憶測をたくましくするな!」
河野はいささか、胸中を見透かされたようで、あわててパチンと、多鶴のおでこを、指ではじいてやった。
たしかに、多鶴の提案はいいアイデアである。
難点は、五十万円の借金を多鶴に返さなければならないことであった。一年中、素寒貧《すかんぴん》の河野には、その余力はないが、ここはひとつ、亡くなった妹の美紀に協力してもらおうと思った。
美紀はけなげにも、四百六十万円もの貯金を残して、亡くなったのだ。恐らくは、稲垣との結婚を夢みて、ボーナスのすべてをせっせと、その資金にするために貯めていたのかもしれない。
葬式代を差しひいても、ずい分、残ったわけで、河野はそれをいずれおふくろに送金するつもりだが、その一部を美紀自身の事件解明にあてる分には、ホトケも文句を言わないだろう。
「さて、飯も食ったし……オフィスに戻るか」
昼食を終えて河野が立ちあがりかけた時、
「あ、待って――」
多鶴があわてて、制した。
「まだ何か、あるのかい」
「そうよ。あと一つ――」
「あと一つ――、何だい?」
「凄いアイデアが閃《ひらめ》いたのよ」
「今日はばかに閃くんだね」
「あとでおねだりしたいことがあるもの」
「いいから、いいから、言ってごらん」
「稲垣啓四郎のマイカーは、白のスカGだったでしょ。まあ日本の道路で一番、目立たないといえば、目立たない車ね。でも、場所と日時を限定すれば、記憶している人がいるかもしれない」
「もちろん、そうさ。だからおれは、しゃかりきになって、その目撃者というやつを探してるんじゃないか」
「違うわ。そんなやり方じゃないのよ」
「どう違うんだ?」
「私たちの媒体を使うのよ。お仕事している幾つかの週刊誌や雑誌やスポーツ紙の片隅にね、車種とナンバーを載せて、ついでに写真も載せて、この車を七月二十一日の深夜から翌日の朝にかけて、箱根塔ノ沢の〈望星館〉周辺および、世田谷区等々力の〈エクレーヌ駒沢〉というマンションの周辺で、見た人はいませんか、とやるのよ」
(あ、なるほど……)
河野は虚をつかれて、思わず坐り直した。
(うーん、そいつはいいぞ……!)
河野は膝を打ちたかった。
警察が誘拐事件など、捜査がゆき詰まった時に時々やる公開捜査という方法に似ている。
しかし、官憲の公開捜査ではなく、事柄が殺人事件に拘わっているとも断わらずに、週刊誌の「お尋ね」欄や、雑誌のコラム、新聞の尋ね人欄などに、こっそりとナンバー入りのスカGの写真を入れて、一般に呼びかけるほうが、何やら秘密めかしくて、興味を煽るかもしれない。
「たしかに、訴求力抜群だな。よーし、早速、その方法を考えてみよう」
「ね、いいアイデアでしょ?」
「うン、多鶴もたまにはいいことを言う」
「委せといて。私も協力するわ。Y誌とQ誌、今ジャンジャン書いてるところだから」
多鶴は幾つかの女性誌の名前をあげ、
「その代わり、今夜あたり、たまには誘ってよ」
深いまつ毛の、大きな二重瞼をびっくりするくらいに細目にあけて、それが流し目のつもりらしく、多鶴は話題を不意に、プライベートな次元に戻して、身をくねらせた。
中野のアパートにたまに来るボーイフレンド、と先刻、多鶴が言ったのは、河野のことだったのである。
「わかったよ。夕方、外から電話をする。時間と場所は、その時に打ちあわせしよう」
「OK。私のほう、今日は一日ンち、社で原稿書きしてるから」
4
社に戻って、やりかけの仕事をつづけた。
午後三時頃、最後の一行を打ち終えて、ワープロから顔をあげた時、傍らの電話が鳴りだした。
「はい。現代企画社――」
河野が受話器を耳にあてると、
「豪紀かい?」
何と岡山から上京中のおふくろだった。
「あ、母さんか。まだいたの?」
おととい、美紀の部屋で形ばかりの初七日の法事を終え、昨日あたり岡山に帰っていたと思っていたら、まだ美紀の部屋の後片づけなどをしていたようである。
「部屋はあらかた、片づきましたからね。形見《かたみ》分けできるものは、津山の従姉妹《い と こ》たちに分けるために、宅配便で家のほうに送ったわ。処分するしか仕方がないものは、便利屋さんに持っていってもらいましたからね。部屋の鍵、フロントの郵便受に入れておくけど、大丈夫かしら」
「あ、すみません。男のぼくではどうも役立たずで、母さんばかりにやらせて、ごめんよ。その部屋は当分、ぼくがセカンドハウスがわりに使うかもしれないから、あとは心配しなくていいよ」
「ああ、不動産屋さんとの交渉は、豪紀に委せるけどね。電話したのは、そのことじゃないんだよ」
「津山まで送ってくれというのかい?」
「いや、そうじゃなくって……部屋を掃除してる時にね、美紀の机の中から妙なものが出てきたんだよ。ノートなんだけど、日記というのでもないし、買物の帳面というわけでも、出納帳というのでもないんだけど、ともかく、その三つを一緒くたにしたようなノートでね。美紀がそこに、色んなことを書いているの。会社の仕事関係のことや、友人関係のことまで、色々ね。処分するには気になるものだし、私にはよくわからないから、豪紀に見てもらおうと思ってね」
「ええーッ? そんなのが出てきたのか。それ、捨てないでよ。今夜、その部屋に行くからさ。机の引出しに入れといてくれないかな」
「じゃあ、そうするよ。鍵は郵便受、ノートは机の引出し。いいね?」
「ああ、いいよ。気をつけてお帰り」
おふくろはまだ、おまえも身体に気をつけろとか、早く身を固めろとか、美紀が可哀想だったとか……ぐちゃぐちゃ電話口で話していたが、ちょうど、コインが切れたところだったらしく、
「じゃ、何かあったら、また電話するんだよ」
あわててそう言って、電話は切れた。
河野はその受話器を置いて、一瞬、宙を睨み、
(美紀のやつが、何やら詳しいノートをつけていたらしい……?)
それは、凄い朗報であった。
何か事件の鍵を解く手掛かりになるものが埋もれているかもしれない。
いずれにしろ夕方、河野は等々力の妹のマンションに寄るつもりだった。
「じゃ、出かけるか」
午後三時半になって河野が卓上を片づけて、外回りに出ようとした時、ちょうどドアがひらいて編集長の大貫剛平が戻ってきた。
週刊誌の編集長あがりの、なかなか鋭くて、骨っぽい男だった。
ところがその大貫が、河野を見るなり、
「あ、河野君か。ちょうどよかった。きみ、トランタン・クラブって、知っているかい?」
「銀座か新宿のクラブの名前ですか?」
「いや、六本木あたりにある人妻派遣クラブの名前らしいんだけどね」
いきなり、柔らかいことを言った。
「なんだ、夕暮族とか、ときめき族とかいう、例の愛人バンクの後発グループのことですか」
「うン、ま、その手のものかもしれないけどね、人妻専門。それも正真正銘、素人ばかり。今、ちょっとした評判らしいぞ。もぐってみないか」
トランタンといえば、フランス語で「30」か。
三十歳の美しい人妻たち、という意味だろうか。それとも、三十人の美しい人妻たち、という意味だろうか。
(華麗なる六本木トランタン・クラブ……か)
なるほど、ちょっとした閑《ひま》ダネにはなりそうだな、と河野は思った。
「いいですよ。そのうち、もぐってみましょう。じゃ、ぼく、外回りしてきますから」
「うむ。ついでに、このカード、きみに渡しておこう。トランタン・クラブの電話番号がのってるやつだ。折をみてでいいからな」
「はい。取材費は、そっちに回しますから」
河野は大貫から名刺型のカードを受けとると、ドアをあけて、外に出た。
5
――街にはもう、夕暮れが訪れていた。
幾つかの用事を片づけてきたので、河野が等々力三丁目の美紀のマンションに着いたのは、七時をまわっていた。「エクレーヌ駒沢」は、環状八号線から等々力の住宅街の中に少し入ったところにあった。
「おや……?」
フロントを入って、河野美紀というネームカードがまだ貼られたままの郵便受をあけて、そこに置かれてあるはずの部屋のキイを取ろうとして、河野は怪訝な顔をした。
郵便受にはなにも、ない。
キイはそこにはいっては、いないのである。
(おかしいな。おふくろのやつ、ここに入れておくと言ってたのに……)
もしかしたら、母の多紀子がまだ部屋にいるのかもしれない。そう思い直して、河野は郵便受の蓋を閉め、エレベーターに乗った。
美紀の部屋は、四〇二号室である。
四階で降りて、廊下を歩いて、その部屋の前に立った。
ノブを握る。意外なことに、ドアはすっと開いた。
(何だ、やっぱり誰かいるじゃないか)
「母さん、まだいるのかい?」
部屋にはいってみたが、空気はひんやり。電気はぽつんと灯いているが、返事もなければ、人の気配さえしなかった。
靴を脱いで入ったリビングで、河野はちょっと立ちどまった。部屋にはまだ、どこやら線香や菊の残り香が、沈んでいた。
正面に祭壇、リボンで囲んだ遺影と、線香立てとミカン数個は、そのままだった。線香の火はもう消えていて、ミカン箱を積みあげて白い布をかけただけの急拵えの祭壇は、いかにも地方から上京して、一人でOL暮らしをしていた女の最期をみるようで、寒々としていて、淋しかった。
「母さん、いないのかい?」
白木の位牌と骨壺だけ消えているところをみると、母がやはり、郷里の仏壇に安置するために、持って帰ったのだろう。
ふつうは初七日を終えると、祭壇は片付けるものだろうが、たかがミカン箱なので、母は置いたままにしているのだろうか。遺影と白布さえとれば、祭壇なんかあとかたもなくなる。
河野はその前に坐り、線香に火をつけ、瞑目合掌した。
河野の家は、岡山県の小京都といわれる山間部の小都市、津山市でそこそこの旅館業を営んでいた。だが、JRの前身、国鉄の職員をしていた父は、鉄道の事故で河野たちが子供の頃、亡くなり、母親が一人でその旅館を守っていた。
河野は山あいの小さな城下町で、一生を終えるつもりなんか、さらさらなく、長姉に母親を頼み、高卒とともに東京の大学に入ったのだった。アルバイトをしながら学費を稼いで卒業してしばらく経った頃、妹の美紀も高校を出て上京し、南急ナポレオンという大手の住宅会社に事務員として、就職したのである。
それ以来、東京での行き来はあったが、一緒に暮らすことはなかった。
就職して数年たつと、競馬や酒やパチンコや女で給料をすってしまう兄貴より、妹の美紀のほうがしっかり屋で、金回りがよくなった。女性の独身貴族とはよく言うが、給料は大学卒とあまり変わらない上、美紀は無駄遣いをせずに、月給やボーナスをしっかり貯金していたのだろう。
そこそこ美人だったので、男友達には不自由はしていないはずだった。何の因果で上司の稲垣などと、深い仲になったのか。
もっとも稲垣は独身だったから、二人の仲は不倫でも何でもなかったわけである。
「兄貴には悪いけど、私、もうすぐ結婚するからね。兄貴もボヤボヤしないで、早くいい人、見つけなさいよ」
去年ごろ、そんな大口を叩いていたから、稲垣との結婚を信じていたようである。
(それなのに……)
何の因果で、不幸なめぐりあわせになったのか。
誰に、殺されっちまったのか。
もし稲垣が、真犯人だとしたら、許せない。
河野は、そう思うのである。しかし河野は、だからといって、妹の仇を取ってやる、というていの復讐鬼になろうとしているのではなかった。
(いったい、なぜ、こんなことになったのか!)
人間の欲望と背信の葛藤。その犠牲になった妹の不幸への痛みを踏まえて、あるいはそれさえも含めて、その先にある現代の男と女のしがらみや生きざまや悲しさ、無明の闇といったものの正体を、河野はとことん探って、この犯罪の事実を突きとめたいのである。
結果的にそれが、妹の仇を討つことになるにちがいなかった。
美紀を思い、いっとき、瞑目合掌していた河野は、アコーディオンカーテン一枚隔てた隣室で、ことり、という物音をきいて、顔をあげた。
「母さんかい……?」
呼びかけたが、返事はない。
たしかに、ことり、という物音を聞いたような気がするのである。
(はて……?)
河野は不審に思って、立ちあがった。
「そこに誰かいるのか」
アコーディオンカーテンを、がらがらっと、あけた瞬間だった。
河野は暗いその部屋から突然、黒い突風のように突きあたってきた相手から、鳩尾《みぞおち》のあたりにもろに頭突きをくらい、たたらを踏んで、よろめいた。
「誰だッ……きさまッ!」
頭髪を握ろうとして、すべった。
襟を掴もうとして、つかめなかった。
顔は見なかったが、若い男のようだった。
よろめいた河野は股間に二、三発、膝蹴りを打ちこまれ、うっと呻いて前屈みになりながら、
「この野郎……ッ」
しがみついて相手の襟を今度は正面から掴もうとした。が、間にあわなかった。
敏捷《びんしよう》で、しかも体力のあるやつだった。黒い突風のような塊りはそのまま、河野を肩で押し倒して、祭壇のミカン箱をひっくり返してしまい、ひとしきり床で揉みあった一瞬後、部屋から逃げだしたのであった。
「この野郎、待て――」
起きあがって、足をひきずりながら追いかけたが、男はもう部屋をとびだして通路を走り、エレベーターに飛びのっていた。
河野に、さほどの怪我はない。鳩尾を強打されたので、まだ息苦しく、肩を喘がせており、足もどこか太腿のあたりを、強く打ったようであった。
(それにしても……)
誰が、何のために……?
侵入者はたぶん、郵便受に入っていたキイを使って、忍び込んだのだろう。誰もいない間に、家探ししていたとすれば、目的はただ一つだ。
美紀の遺品のうち、犯罪や犯人の痕跡に拘わるようなものが、何か部屋に残されていないかどうかを、確認または、探しにきていたのに違いなかった。
ふと、足許をみた。
ひっくり返った祭壇や遺影、線香立て、ミカンなどに混って、名刺やキャッシュカードのようなものが、ばらまいたように落ちていた。
拾いあげた、名刺には、
東京自動車販売KK 八幡山営業所
貝塚達郎
と、あった。
同じ名刺が三、四枚も散らばっているところをみると、倒れて揉みあった拍子に、男の胸ポケットから飛びだしたものと思われ、この貝塚というのが、侵入者と思われる。
キャッシュカードのように見えたのは、スナックやカラオケクラブのボトルカードであった。そのカードのいずれにも、貝塚達郎というネームが入っているところをみると、今の男、貝塚と判断して間違いないと思えた。
(それにしてもやつは、いったい、何を狙っていたのか……?)
不吉な予感がして、河野は弾かれたように、急いでアコーディオンカーテンの、奥の暗い部屋に飛びこんだ。
電気をつけた。整理されて、がらんとした六畳間。美紀の机は窓際にあった。おふくろの言葉を思いだし、その机の引出しをあけた。
からっぽだった。おふくろが電話で話していたようなノートの類いは、どこにもなかった。上段から下段へ、すべての引出しを片っ端にあけたが、どれもからっぽで、何ひとつ、残っていなかった。
(――チッキショー……やられたな……!)
6
「ねえ、まだくやしがってるの?」
キングサイズの円形ベッドに、誇らしげに全裸の若々しい身体を横たえた野津原多鶴がきいた。
河野は、その女体に取りついている。等々力のマンションでの一件から二時間後だった。多鶴と電話で示しあわせて落ちあったそこは、渋谷・道玄坂のファッションホテルだった。
多鶴は今、うつ伏せだ。艶やかな肌をしていた。ウエストが恰好よく締まり、ヒップが可愛く丸みを帯びていた。太腿も健康そうに張りつめた肌をしていて、足首が細い。
英仏語堪能で、打てば響くような才気をもち、取材などをする女性記者とは思えないくらい、ふるいつきたくなるような、セクシーな身体であった。
「ねえ、まだ事件のこと考えてるんでしょ?」
「いや、多鶴の水着の跡を見てるのさ」
河野はごまかしを言った。河野の今の心境で、事件のことを考えていないはずはない。しかし、彼はそれより、多鶴のボディラインの感触を味わうように、背中からヒップの高みへ、すっと手を這わせたり、時折、その背中に不意にキスを見舞ったりしながら、心をときめくもののほうへむけようとしていた。
だがまだ、それは生煮えである。
動きの中に、どこか虚ろさがあるのだろう。
「ねえ、もう侵入者のことは忘れて」
多鶴にはそれが、腹立たしいようである。
河野は多鶴と落ちあってすぐ、等々力のマンションでの一件を話した。忘れることはできないが、今のこの局面では、棚上げするのが、賢明というものかもしれない。
「だいたい、あなたがどじだったのよ」
「ほら、また、それを言う」
「豪さんが自分で思っていることを、言ってあげてるのよ」
「事件のことを忘れさせるんじゃなかったのかい」
「そうよ。今は……忘れて……」
「コンチキショー!」
誰にともなく呟き、「いい身体してやがる……!」
怒りを、そちらにむけようとした。
「背中、すごく陽焼けしてるでしょ」
多鶴はあっけらかんと、楽しそうに笑っている。
たしかに多鶴の背中は、腰骨のすぐ上まで、くっきりと水着の跡があった。肩紐のあたっていた部分が白く、肩先はトースターに入れすぎたパンのよう。河野はその水着の跡を指先でなぞりながら、多鶴の背中のまん中をヒップのほうにキスを這わせた。
「あン、くすぐったい。そこ、弱いのよ」
弱いのよ、というのは、感じるのよ、という意味だろう。
多鶴はしなやかな身体をくねらせる。
二十四歳の熟れた肌は、シャワーを浴びたくせに微かに汗っぽい、甘酸っぱい匂いがした。
河野はかまわずに、水着の跡のへりに沿って、どんどんキスを這わせてゆく。
河野はいま、きわめて呪わしい気分に陥っている。一足違いに、自分の迂闊《うかつ》さが原因で、美紀の部屋から事件の謎をとく手掛かりを秘めていたかもしれない大切なノート類を奪われたことに対する怒りと腹立ちは、あの侵入者に対してより、もっぱら自分にはねかえってくる。
その呪わしい気持ちを鎮めるには、今、眼の前にある多鶴の女体を、目茶苦茶に抱きたい。多鶴の女体に怒りを埋めつくしてしまいたい。そう思う傍ら、久しぶりに間近に接する多鶴の、こんがり日焼けしたグラマーな肉体は、あまりにも見事で、賞味しがいのあるものなので、そう無茶苦茶にのめりこむにはもったいない、もっとゆっくり味わいたい、という悩ましい気分でもある。
河野は指で、その肌を撫でる。
いきどおろしい気分が、少し治まってくる。
女体は男にとって、常に最高の、名医である。
怒りや落ち込みや呪いや淋しさを慰めてくれ、そうして時には失意さえも、引き立ててくれる。
河野は今、張りきって多鶴に取りつくことにした。
多鶴はもともと、小麦色の地肌をしているのだが、焼きこんだ背中の焦茶色が濃すぎるから、ヒップが生白く見えた。
そこだけ、むきたてのリンゴのように白い。
「日本最南端の島、よかったらしいな」
多鶴は七月上旬、早々と夏休みの休暇を沖縄で過ごしてきたのだった。沖縄の、石垣島よりもさらに船で南に下ったところにある黒島というところで、ゆっくり甲羅を干して、泳いだり、潜ったりしてきたらしい。
(もしかしたら、若い男友達と一緒だったかもしれない……)
ほんの少し、ジェラシーの気分にも見舞われて、
「あおむけになって」
くるっと、女体をひっくり返す。
「ああん……乱暴なんだから、もう」
言いながらも、意外に素直に寝返りを打った。しかし多鶴は、もろに身体の前面を晒すことに羞恥を覚えたように、両手で乳房をかき抱こうとした。そうして、その手はやがて下におろされ、パールピンクのマニキュアをした両手を陰阜の上で交差させて、秘所を隠してしまった。
隠しきれないヴィーナスの丘の手の端から、黒々としたヘアがはみだしている。それがとてもそそる眺めで、そこの楽しみをあとにのばし、河野は乳房のほうに顔を寄せた。
多鶴の乳房は、円錐形に盛りあがっていて、その豊満さは寝ていても、裾崩れをみせない。乳房の隆起の半分ぐらいのところを、斜めに横切るように水着の跡がついていた。
ぷりぷりした若い乳房の弾みを指で押して楽しみ、河野はあずき色をして尖りをみせはじめた乳首を、ちょっときつめに吸いこんだ。
「あン……きついわ……響くわ」
多鶴は、息をつめてのけぞった。乳首がとても感じる身体なのだ。
河野は、もう一方の乳首も吸った。
多鶴はまた、うっと息をつめ、可愛らしい顎を反らせる。
その瞬間、まるで操り人形の腕のように、ぴくんと反射的に多鶴の陰阜を隠していた両手から、力が抜けた。
河野は、その両手を払いのける。
今やヴィーナスの丘は、明かりの下に赤裸々。いや、贅肉のついていない、若々しい腹部は白裸々というべきか。恥骨がむうっと張りだしていて、黒艶のあるヘアが、そこに密生した芝のようにおおっている。
「また……ここの毛を剃《そ》ったな」
河野は剃り跡の、チクチクする地肌を指でなぞって、文句をいう。
「トリミングした、と言ってちょうだいよ。どうしてもハイレグの水着から、はみだしちゃうのよ」
河野は自然のままの繁茂のほうが好きだ。
ハイレグをはくためとはいえ、腋毛や秘所の、あまり極端に人工的な除毛や剃毛は、かえっていやらしい感じで、好まないのだ。
それを知っているので、多鶴は、今はそれが流行だから仕方がないのよう、と詫びるように言った。
河野はすっかり、楽しくなった。
茂みの中を探った指を、谷間のほうにおろし、クレバスの出合いにひそんでいる百合の芽のフードをむいた。
「ううっ……」
中指で蕾をかまいつづける。
多鶴の蕾は固く尖り、蜜液に濡れていた。その固く尖った蕾を中指でリズミカルに押しながら、多鶴の耳の穴の中に舌をさし入れ、耳朶を軽く噛んだ。
「ああ……響くわ」
多鶴は、キングサイズのベッドカバーをかきむしるようにして、うめいた。
河野は指をクレバスの奥にすすめた。柔らかい割れ目が温かく指を迎え、少しすすめると、その指の第二関節のあたりが、きゅっと環に掴まれる感触が訪れた。
鮹《たこ》の吸盤のようなものに、上から押しつけられもする。通路の、いわゆる狭隘部《きようあいぶ》である。
そこをゆるやかに出入りさせて、こすってみる。
「やん……やん……」
多鶴は、強く反った。女芯を揉まれ、耳を噛まれるたび、おこりがついたように下腹部に漣《さざなみ》のような震えがはしった。
多鶴の、そういう表情の変化や現象は、河野にとって、とてもうれしいことである。
河野がさしあたり、やらなければならないことは、いまやすっかり大股開きの恰好になっている多鶴を、今この瞬間、もっともっと幸福にすることである。
河野は身体のむきをかえて、多鶴の下腹部に顔を寄せた。
多鶴はそれを、いやがりはしなかった。河野はインテリ才女の多感で潤沢な割れ目をむいて、生温かい粘膜のはざまに舌の鞭をあてた。
多鶴の女芯は、幾重にも折りたたまれた花びらのようだった。そのラビアをなぞるように、下から上へ、割れ目の奥をすするように舌先を這わせる。
「ああん……そんないやらしいところ」
多鶴の身体が、ぴくん、ぴくんと引きつって、彼女は両手でシーツの海を掴んだ。その指先の印象が、とてもたまらなさそうで、そそる眺めだったので、河野は悪乗りして不意に……という感じで、多鶴のクリトリスのフードをむいて、吸いこんだ。
「あーッ」
頭に抜けるような声が噴いた。
その声につづいて、腰がゆっくりと持ちあげられた。
二十四歳のインテリ才女の、とてもよく発達したルビー色にぬらつく真珠を、上下の唇ではさんで、しごきたてた。
「あーん……あンあン」
多鶴は腰をふるわせて、呻いた。
天は二物を与えず、というが、ふつうは器量のいい子は性感が鈍かったり、頭のいい才女は、どちらかというと、冷めたい印象だったり、体質的にあまりセクシャルでなかったりする。
ところが、この野津原多鶴に限っていえば、天は二物も、三物も与えているようであった。
いざ、その気になったら、全身がとても敏感で、頭の中で愛する男を受け入れることを想像するだけで、電車のシートに坐っていても、濡れてくるというのである。
オフィスに着いて早々、トイレに飛びこんで、パンティをはきかえなければならないことも多々あるというのであった。
現に、潤沢である。潤沢すぎるくらい潤沢である。こういう体質の生身の女体を傍でみていると、神様はずい分、不平等なことをなさる、という気がする。
性的に、こんなに恵まれているのなら、なにも英仏語堪能の才色兼備の、美人でなくても倖せになれるというものである。
ところで、女性は軽くクリトリスを吸われたくらいで、いきなり恍惚感に襲われるわけではない。太腿をひらき、女の中心に男が顔を伏せている。そのありようの生々しさと、愛する男が自分の、一番きたないと思っているところへも奉仕しているという、そのパフォーマンスに酔う。
敏感なクリトリスを吸いたてられるのは、本当は軽く痛みを伴うものだろう。恥じらいの声をたて、身を揉み、身を揉みしだくことによって、自分からも女性は、昂揚させられてゆくようである。
多鶴のラビアが充血して、尖った感じになってきた。どうかするとそれは、ニワトリのトサカのよう。割れた粘膜を縁どるひらひらが、ワインレッドに濡れ光ってきて、固くなっている。
河野はそれを愛し、いつくしんだ。
唇で、舌で愛し、指でそれを押し開いたりした。
自分がとても、恥知らずの男になっていると思う。
河野は仕事にも熱中するし、人一倍、働くこともいやではないが、自分の腕の中でもだえる女性を抱きしめると、幸福になる男である。
多鶴の性器が、ちょっと生臭い匂いを発散してきた。
「豪さん……ねえ……お願い……」
のけぞって、先刻からそれを訴えている。
「私を半殺しにしないで」
局面を早くすすめてほしい、と訴えている。
「よーし、決めこんじゃうぞ」
河野は勢いよく起きあがり、けものの姿勢をとった。
男がもっとも倖せな瞬間である。
河野は自らの意欲のしるしが、いつになく猛々しいのに驚いた。その巨いなるものの先端を、たっぷりと濡れた、あたたかい世界に浸し、漬ける。
蜜口に浸して、捏ねただけで、
「ううッ……」
と、のけぞった多鶴の表情を楽しみながら、河野は次の瞬間、荒々しい気分で腰を密着させ、豪根を多鶴の胎内に深々と沈めた。
「ああッ……豪さん……きつい」
多鶴がのけぞって、ずりあがる。
自らが制御できる域から氾濫する感覚に、あわてふためいたように、多鶴が頭を左右に打ち振った。
「でも……いいわ……とても……」
多鶴の太腿のひらきが、思わず大きくなる。河野が奥へ突きたてる時、奥への到着感はもちろんだが、タフボーイの付け根の剛毛が、多鶴のわななき開いた粘膜をこすっている。
この刺激もいいらしい。河野はまだ一気に、ダッシュしたわけではない。充実しきった容積の角度を左右や斜めに変えながら、多鶴のワギナの隅々をたのしむように、こするようにした。
時には大きくストロークをとって、連打をうつように、抽送する。
ストレートに子宮底を直撃すると、
「わッ……」
と、声をあげて、ふっと、多鶴の意識がとぎれかかっている。
頭の中は、まっ白になっているようだ。
多鶴はもう何度も、軽い峠をこえていた。
でも、河野が動きをとめて、静止していると、多鶴の意識が戻ってきて、甘美な靄の中に漂っている。
多鶴の中に、埋めっぱなしにしておいてやる。放っといても、多鶴は粒立ちの多い膣内の周囲を沸き起こらせ、しめつけて、またイキたがるのだった。
ほとんど、小ざかしい体位の変化はいらない。埋めっぱなしにしているうち、河野も射精感が遠のき、また意欲が甦ってきて、持続時間が長持ちするのだった。
河野は不意に、多鶴がいとおしくなった。胎内深くに自分を預けたまま、荒々しく多鶴の上体を抱きしめて、接吻にゆく。
いとおしむような、貪りあうような、激しいキスを見舞う。
それが静かなくちづけに変わっても、
「うぐ……うぐ……」
多鶴は苦しそうに喘いだ。
と……多鶴の袋がまた、河野を激しく締めつけた。
オーガスムの波の反復。河野は、またダッシュをかけた。多鶴はけもののような吼え声をあげ、何度目かの激しい絶頂感を迎えていた。
「しかし、変だな」
腹這って、煙草に火をつけてから、河野は呟いた。
「あいつは、若い男だったぞ。稲垣なんかじゃ、なかったぞ」
部屋にうっすらと汗の匂いがたち、二人は嵐のあとの、まどろみの岸辺に舟を繋いでいた。
「あいつって、誰のこと?」
多鶴が身を寄せて言う。
「美紀の部屋に忍び込んでいたやつ」
「侵入者が稲垣ではなかったからといって、稲垣が美紀さん殺しの真犯人ではない、ということにはならないと思うわ」
多鶴はいつのまにか、理性的な女性に戻りかけている。官能のすてきな靄の世界と、醒《さ》めた理性の晴れあがった道路とを、自由奔放に出入りできる女のようである。
「それは、わかっているつもりだ。犯人が、のこのこ殺人現場に舞い戻ることほど、危険なことはないからな。空巣狙いに入らせておいて、遺品のノートを探したり、奪ったりするぐらい、本人でなくても、誰か若い男を雇えばいいからな」
「そうよ。稲垣ほど知恵の回る男なら、自分でのこのこ忍び込んだりはしないでしょう」
「そうさ。それは、ね。しかし同時に、稲垣ほど頭のいいやつなら、第三者を雇うなんてことをするだろうか。犯罪というものは、だいたい、共犯者がふえればふえるほど、ばれやすく、危険がふえるものだからね」
「それも、そうね。でも、空巣や家探しくらいは、殺人行為そのものではないんだから、他人を雇うことにさほどの躊躇はないと思うけど」
「そういうことかねえ」
河野は腹這いの姿勢から、くるっと仰向けになった。
ばかに豪華な模造クリスタルの、天井のシャンデリアにむかって、うすい煙草の煙が立ちのぼってゆく。
「それより、私が変だと思うのは、殺人の動機よ」
多鶴がこんどは反対に、腹這いになって、小指を噛みながら、思案顔をしている。
「変だというのは、どういう具合に……?」
「いいこと。もし仮に、稲垣啓四郎が美紀さんを殺害したとしてもよ、わからないのは、肝心のその殺人の動機よ」
「だから、何度も言ってるじゃないか。愛情のもつれ。別れ話がこじれて、稲垣は美紀が負担になっていたのかもしれない」
「ただそれだけで、思慮分別のある三十六歳の男が、わざわざ女性を殺すかしら?」
「殺すかもしれないよ。よく、不倫の愛の清算とかいうじゃないか」
「そうかなあ。私はどうも違うという気がするわ。いいこと、美紀さんと稲垣はもともと、不倫でも何でもなかったのよ。そりゃ、部下とのオフィスラブかもしれないけど、美紀さんも独身なら、稲垣だって上司とはいえ、天下晴れての独身だから、誰にも文句をいわれることはないのよ」
「たしかに、それはそうだった。しかしそこに、伊集院明日香が登場してくる。彼女の登場と参加によって、稲垣と美紀の関係はこじれはじめ、いわば三角関係に発展したのじゃないかな」
「ちょっと待って、それは違うわ。人妻の明日香さんが、稲垣に好意をもちはじめたのは、かなり以前からでしょうけど、本格的に男と女の仲になったのは、箱根の一夜からよ。それ以前は、ビジネスでのつきあいであって、恋仲ってわけじゃない。明日香さんは恐らく、美紀さんのことさえ、知らなかったと思うわ。つまり、美紀さんが殺された箱根の一夜にいたるまで、三人は三角関係でも何でもなかったのよ」
(あッ……そうか……)
と、河野は通りすぎてきた道に、落としものでもしてきて、それを届けられたような気がした。
どうやら、多鶴を満足させたことは、とてもいいほうに効いたようだ。彼女の頭は今、ひどくクリーンになっている。
「しかし、稲垣の気持ちとしては、伊集院明日香に傾いていた。これはもう、はっきり言えると思うよ。と、すれば、稲垣にとっては、美紀の存在が、そろそろ邪魔になってきた頃合だったと思うけど」
河野は多鶴の大脳皮質に刺激を与えるために、やんわりと反論してみた。
「ちょっと待って。それも違うわ。たとえ、長年のオフィスラブの相手で、鼻についたり、邪魔になったりしてきた相手かもしれないけど、殺すほどではないでしょう。そんなことでいちいち、殺人なんか起きたら、たまったものじゃないわ。だって、明日香さんは人妻よ。稲垣としては、所詮《しよせん》は愛欲の対象であって、結婚までは考えてはいなかった、とすれば、何も美紀さんは、絞め殺さなければならないような邪魔な存在ではなかったはずよ」
それはたしかに、そうである。
二人の間に、沈黙が訪れた。
「だから……」
ぽつん、と多鶴が言った。
「なぜ、稲垣は美紀さんを殺さなければならなかったのか。逆にいえば、美紀さんのほうで、稲垣にとっては都合のわるい秘密を握っていたのではないか。その社会的地位や、人生そのものを左右される重大な秘密を握られていた、とすれば、稲垣が美紀さんを殺す理由も、納得できるのよ」
野津原多鶴は、そう言った。
そうだ、たしかにそうだ、と河野も思った。
ひとつの新しい地平に立ったような気がした。
「とすれば……稲垣にとって都合の悪い秘密とは、何なのか。その秘密というのはもしかしたら、伊集院明日香にも拘わっていて、これから彼女にも災厄が及ぶかもしれない。早いとこ、そいつを見つけろ。そういうことになるね」
「ええ、そうよ。これはもしかしたら、南急ナポレオンの事業そのものにも拘わっているかもしれないわ。……というわけで、私は早速、杉並サニー・ハイツに申込んで入居してみるわ。豪さん、あなたは引続き、稲垣のアリバイ崩しに精出しながら、明日香さんのほうからも、眼を離さないで」
「OK。そうするよ」
河野がそう言って、勢いよく煙草を灰皿で揉み消した時、
「あ、大変。……洩れてきたわ」
多鶴が悩ましい声をあげて身をくねらせ、のびあがって枕許のティッシュの箱に手をのばした。
第四章 六本木不倫館
1
マンションの入口近くまできた時、
「あッ……!」
と思って、伊集院明日香は足を止めた。
思わず、横の電柱の陰に、身を隠したくらいである。
顔から血の気が引いている。だが視線は、一点に釘づけになっていた。まさか、と思いながら、明日香は五メートル先にあるマンションの入口を見つめたまま、棒立ちになっていたのである。
そこには今、一台のタクシーが停まったばかりだ。
運転手に金を払って、男が降り立ってくるところであった。男は身長一七五センチくらいで、長髪をきれいに後ろに撫でつけ、やや怒り肩のダークスーツ姿――横顔も服も、その全身も、明日香がよく知っている男である。
知っているどころではない。
夫の伊集院京輔であった。
昨日から単身赴任先の仙台に戻っているはずの夫の京輔が、どうして今、六本木のマンション「エグゼクティブ西麻布」などに入ろうとしているのか。
そこは六本木のテレビ朝日通りを少し入った西麻布三丁目である。表通りに面してギャラリー喫茶店やカフェバーや、凝った造りのレストランなどがあり、それらに混ってマンションや昔ながらの寺や、オフィスビルなどがたち並んでいる。
今の今、伊集院明日香は、その右手の「エグゼクティブ西麻布」に行くために、テレ朝通りを歩いてきたところである。
明日香こそ、そのマンションに用事があったのだ。
明日香が夫の姿を見かけて、心臓が止まるほどドキッとしたのは、そのマンションに愛人が住んでいて、金曜日の午後三時、その男と忍び逢いの時間をもつために、訪れたところだったからである。
男は、もちろん稲垣啓四郎であった。
その稲垣が住むマンションに、夫の京輔が入っていった。
(これは一体、どうなってるの……?)
明日香はまだ、自分の眼で見た男の姿が、夫の京輔であったかどうか、半信半疑だった。
しかし、八割がた夫であった公算が大きい。いや、タクシーから降りたったばかりの横顔から後ろ姿とはいえ、あれほど至近距離でみたのだから、ほぼ、夫の京輔であると思って間違いなかった。
(どうして……? どうして……?)
明日香の頭は混乱した。
約束は午後三時だったとはいえ、このまま稲垣のマンションに入ってゆくのはためらわれたので、明日香はあわてて、近くの喫茶店に飛びこんだ。
窓際の椅子に坐る。
「コーヒーフロート、お願い」
と頼むのもそこそこ、外をのぞいた。
その喫茶店は、マンションの斜めむかいにあった。「ピットイン」という喫茶店だった。明日香はコーヒーフロートが来る間、一心にマンションの入口のほうを見ながら、
(まさか、四〇六号室に行ったのでは……?)
と、京輔の行先が気になった。
四〇六号室というのは、稲垣の部屋である。そのマンションは、稲垣が勤務する南急ナポレオン・ハウジングが建設したもので、稲垣はマンションのオーナー会社の社員であり、独身ながら企画開発課長をしているので、三年前からその分譲マンションに住んでいるのであった。
そこに夫が入っていったということは、明日香の不倫が夫の京輔に知られ、それで京輔が稲垣のところに直談判《じかだんぱん》するために、乗りこんでいった、とでも解釈すればいいのだろうか。
普通に解釈すれば、そう思える。
明日香にはそれ以外、思いつかなかった。そしてそれは、かなりエキセントリックな、危険な展開を予想させた。
(どうしよう。まさか、稲垣と京輔が怒鳴りあって、掴みあって、刃傷沙汰にでも発展するなんてことは、ないでしょうね……)
コーヒーフロートが運ばれてきて、ストローを取りあげても、明日香の心は上の空である。視線はつい、窓ガラス越しに、斜め前のマンションの四階のあたりを、さまよっているのだ。
今にも、その四階の窓ガラスが割れて、男のどちらかが、突き落とされでもしてくるのではないか、と心配しながら、視線を宙にさまよわせているのだった。
(それにしても、夫はどうして私の不倫を知ったのだろう。妻の不倫に気づいたのなら、直接、先方に乗り込むより、その前にどうして私を叱責するなり、問い詰めるなり、しなかったのかしら……?)
明日香は、思案にくれてとうとう二十分間も、その喫茶店に坐っていた。マンションの表を見つめながら、今か……今か……と血相を変えて飛びだしてくるはずの夫を待っていたが、京輔はいつまでたっても、出てこなかった。
(……話が、こじれているのだろうか)
「そうだわ。稲垣の部屋にそれとなく、電話を入れてみればいいんだわ」
声を出してみて、やっとそれに気づいて、明日香は立ちあがった。
先方の受話器は、少なくとも稲垣が取るのだから、夫には明日香から電話がかかってきたことは、わからないはずである。
明日香は、レジの傍の電話のところにゆき、ドキドキする胸をおさえながら、稲垣の部屋の電話番号をプッシュした。
信号音が三回も鳴らないうちに、
「はい、稲垣ですが」
すぐに受話器は把《と》られた。
どこにも屈託のないふだん通りの稲垣の明るい声であった。
それでも明日香は用心して、
「……もしもし、私よ」
小さな声で言った。
「あ、奥さんですか。どうしたんです? 遅いから心配してるんですよ」
(奥さんなんて言っちゃ、駄目じゃないの!)
「そこに主人、いるでしょ?」
「え?」
「うちの主人よ。おたくに、押しかけてない?」
稲垣啓四郎は、びっくりしたように、
「ご主人が……? どうしてうちに……?」
呆気《あつけ》に取られたような声である。
(じゃ、夫じゃなかったのだろうか)
明日香は手短かに、事情を話した。
すると、稲垣は小さな声で笑いだし、
「そりゃ、きっと奥さんの見間違いでしょう。そうでなければ、ご主人はぼくの部屋じゃなく、同じマンションでもどこかよその部屋にお行きになったのかもしれない」
こともなげに、そう言った。
名状しがたい安堵感が、明日香を襲った。
でもすぐに、
(……よその部屋って……?)
別の疑問が湧いてきた。
明日香は動転していたので、そこまでの知恵は回らなかったが、稲垣は案外、
(女の部屋……)
とでも、言おうとしていたのかもしれない。
それなら、夫も人眼を忍んであのマンションに密会しにきたことになる。
(何だか、変だわ。そんなことって、あるかしら……?)
いくらこの大都会の人間の錯綜の中で、さまざまな偶然が重なりあっているとしても、それは出来すぎだという気がして、なかなか納得ができない。
明日香がそんな気分で怪訝な思いに包まれていると、
「ねえ、奥さん。今、どこなんです」
稲垣がやっと正気に返してくれた。
「斜め前のピットイン」
「あ、なあんだ、そんな近くにいるんですか。なら、ぐずぐずしてないで、早くぼくの部屋にはいったほうがいい。そのほうがご主人に見つかりませんよ。ドアのキイをあけておきますから、すぐ来て下さい」
稲垣は、有無を言わせぬ声でそう言った。
2
明日香は、行くことにした。
万一の鉢あわせが恐かったので、喫茶店を出て、あたりを警戒しながら、マンションに飛びこんだが、エレベーターに乗るまで、夫の姿はおろか、他の誰にも出会わなかった。
エントランスはひっそりしていたし、左手のメールボックスをちらっと見た印象では、ネームカードのない函が多かったりして、ばかにしんとしたマンションだわ、と思った。
エレベーターに乗った。
四階の表示ボタンを押し、四階で降りる。
通路には人っ子一人いない。四〇六号室のドアを押すまで、誰にも会いはしなかった。
中から稲垣がドアをすっとあけてくれた。
「待ってたんですよ。さ、おはいり」
明日香は急いで中に飛び込み、ドアが閉められると同時に、ホーッと肩で安堵の息をついた。
ドアに鍵をかけた稲垣がふりむき、すぐ明日香を抱き寄せ、キスを見舞う。
「ああーん……」
軽く受けはしたが、明日香はまだ動悸が激しくて、それどころではない。
「変ですねえ。表でみたという人、本当にご主人だったのですか?」
稲垣がリビングに誘いながら、訊いた。
「ええ、間違いなかったと思うの」
「ふーん。会社の用事じゃなかったんですか」
「主人はセールスマンや営業マンじゃないわ。こういうところに来る理由が、見あたりません」
「じゃ、やはり愛人通いか。レンタルルームのお客さんだったのかな」
稲垣が冷蔵庫からワインをとり出しながら、何気なく言った。
「レンタル……って、それ、何?」
明日香はリビングのソファに坐って、聞き返した。
「ああ、このマンションはね、ちょっと変わってるんですよ。入った時、何だか変だと思いませんでしたか?」
「そういえば、メールボックスを見たら、三分の一くらいネームカードがなかったわね。分譲の部屋がまだ、売れ残っているの?」
「いいえ、完売。発売後、すぐ売り切れたんです。しかし、おかしなことに三分の一くらい、今でも居住者がいない部屋があります。いわば、ゴーストルームというやつがね」
「あ、わかったわ。リゾートマンションみたいに、お金持ちが投資のために買って、所有者はいるけど居住者はいない、というわけね?」
「そうそう。休みの時に遊びにゆくリゾート物件とはちょっと違うけど、要するに、医者や弁護士、事業経営者などが、税金対策のために事務所と称してマンションを買っておき、値上がりを待ってるんですよ。そういう空き部屋が二十室以上ありますからね。逆にいえば、そういう部屋は、どうにでも使えるわけで、ここ、六本木愛人マンションといわれてるんです」
「へええ、愛人マンション……? 医者や社長族たちが彼女を住まわせているわけ?」
「そういうケースもあるし、部屋をレンタルしている場合もあります。一週間や一ヵ月単位のリース部屋にする人もいれば、キイを管理する人がいて、その人が空き部屋を幾つかまとめて管理しながら、一晩いくらのラブホテルのように運用しているケースもあるんです」
「へええッ……六本木愛人マンションって、そういうところから呼ばれてるの。京輔も……」
「そうそう。ご主人も女性と待ちあわせていたのかもしれない。一、二階にはすてきなクラブやパブなんかのお店があるでしょ。飲んで食べて、そのままエレベーターで部屋にゆけるので、ラブホテルにはいる時の、あのいかにも、という抵抗感がない。熟年ペアには喜ばれているようですね」
なるほど、と明日香は思った。
とくに女性の側からすれば、ラブホテルにはいるのはいつも抵抗があるが、カフェバーからそのままエレベーターで行ける、フツー感覚のマンションの一室が利用できるのなら、一番抵抗がなくて助かる、と思われた。
(じゃあ、京輔もそういう客の一人なのだろうか。それとも、どこかの部屋に、私の見知らぬ愛人が住んでいるのだろうか)
明日香が差しだされたワインを飲みながら、一瞬、ぼんやりとした時、稲垣が同じソファの傍らに坐って、腕をまわしてきた。
「明日香さん、会いたかったよ。ご主人のことなんか、もう忘れてさあ」
熱い息とともに囁かれて、明日香の身体の芯に甘美な響きがはしった。
稲垣は性急に唇を求めてきた。
二つの世界があわさり、鮎が躍る。
接吻しながら、稲垣はブラウスの上から、乳房を掴んで、揉みしだいてきた。
そのまま、ソファに押し倒されそうだったので、
「あ……待って……」
明日香は稲垣の胸を押し戻した。
「ちょっと待って……バス使わせて」
「いや、このままでいいですよ」
「ね、ちょっとだけ。さっきのごたごたで、冷や汗ぐっしょりなのよ。腋の下、気持ちわるいから」
人間は、ほんとうに感情が昂ぶったり、どひゃーッとすると、全身に冷や汗が出るものである。
汗で気持ちわるい、というのは明日香の本音であった。
「じゃ、ベッドで待ってますからね」
明日香はバスルームに入り、シャワーを浴びた。肩から胸、下腹部へと熱い湯をかけているうち、やっと気持ちのこわばりと緊張感が解けてゆき、心ゆくまで稲垣との情事にのめり込めそうな気がしてきた。
バスタオルで拭き、下着はつけずに脱いだブラウスやスカートなどを一緒にして、それで身体の前面を隠しながら、浴室のドアをあけて出た時、
「あッ」
いきなり稲垣に抱きしめられて、驚きの声をあげた。稲垣はどうやら、待ち受けていたようだ。
ベッドの中では待ちきれずに、明日香を驚かすために、迎えに来ていたようであった。
しかも彼は、ブリーフ一枚でほとんど裸であった。
「ああん……お洋服が、皺になるわ」
明日香は軽く抗い、声をあげた。
両手に、脱いだ衣類を手にしていた。
しかしもう、稲垣の手は止まらない。首すじから耳の後ろへ、物狂おしくキスをしながら、片手は湯でほてっている明日香の乳房を揉み、それから下腹部へと移ってゆく。
下腹部の茂みは、ふつうは剛いほうだが、今は湯で湿って柔らかくなっている。
そこをいたぶり、指が下に沈んでゆく。明日香の茂みの下は、もう潤んでいた。
指が訪れ、ぬかるみをかきまわされるにつれ、甘美な響きが舞いあがってきて、明日香は腰をゆらし、衣類を落として稲垣にしがみついた。
「ああん……だめよう……こんなところで」
ひとしきり、愛撫を加えて明日香の身体がもう充分、自分を待ちわびていることを確かめると、安心したように稲垣は明日香を抱きかかえると、寝室のほうに運んでゆく。
枕許の明かりは、絞られていた。
まだ午後の明るいうちだが、カーテンが閉められているので、ほんのりと薄暗く、密室のよう。そこのベッドに明日香を押し伏せると、稲垣はもう無言で挑んできた。
豊かな乳房の盛りあがりを、稲垣は麓から押しあげるようにして、揉む。そのたびに、隆起がうねり、明日香は熱い息を洩らした。
「今日はいつもより、うんと張ってるよ。何だか嫉妬《やきもち》で身体じゅうが、熱くなってるみたいだね」
そうだろうか。夫が、同じこのマンションで今、どこかの女と抱きあっていることを想像すると、たしかに身体はかっかする。でもそれを嫉妬するほど、本当に私は夫を愛しているのだろうか。
それほど深く、愛してはいない気がする。
京輔にはもう、痛い思いをさせられているのだ。
仙台で、京輔に愛人がいることがわかって以来、明日香の心が揺れはじめ、ショックを受け、その仕返しに稲垣との不倫がはじまったのである。
今さら、妬くような私ではない……断じて妬いたりなんかしないわ……と思いながらも、やはり、今この瞬間、もしかしたら壁一つへだてた隣で、京輔がよその女と抱きあっているかもしれない、と思うと、明日香の気持ちは異常なまでに昂ぶってきた。
「ああ……ああ……」
乳首を口に含まれた瞬間、ずーんと矢のようなものがつきあげてきて、明日香は思わず、声を洩らして身体を弾ませた。
そのはずみに、腰に稲垣のみなぎったものが触れ、明日香は思わず、全身がぴくん、とするのを覚えた。
稲垣はいつの間に、ブリーフを脱いだのだろうか。稲垣の手の動きは、いつも明日香が歓ぶ散歩道を心得ていて、性急ではなく、丹念に、右手は下腹部から茂み、そして太腿の内側を撫でながら、ゆっくりと女芯に訪れる。
明日香の腰が、ひとりでにうねりだすほど、それは待ち遠しいものであった。
「あッ……!」
指が突然、クレバスに沈められた。
粘稠性のある蜜液で、そこはもう外まであふれていることを、明日香は感じた。ああ……ああ……と、顔を恥ずかしそうに枕に伏せた。
たしかに、いつもとは違う。ひどく敏感だった。やはり、出合いがしらに、夫の姿を見たからだろうか。現実問題、欺《だま》しっこしているわけである。嫉妬だけではなく、そこには明らかに背徳の歓び、といったものも混っているのかもしれなかった。
稲垣の人差指が、肉芽を押し、こねあげながら、同時に中指と薬指が、ラビアのほうをいたぶっている。膣口で賑わいたつ指たちはもう泳ぐ感じになっていて、水音さえも立った。
そのたびに響いて跳ねる自分の身体が、明日香にはあまりにもみだらで、好色で淫乱な血をたたえているようで、わけもなく恥ずかしい逆上感に捉えられてゆく。
秘孔に指をずっぷりと押し込まれたまま、稲垣が乳房から顔をあげて、不意に首すじに舌を這わせ、耳の後ろにキスし、耳朶を噛んだ。
軽く噛みながら、熱い息とともに耳の孔の中に舌がねじ込まれてきた瞬間、
「わッ!」
と、小さく叫んで、悲鳴をあげた。
明日香は、下の穴と耳の穴を両方一緒にやられると、電流が身体の奥を直撃して、一番弱いのである。
「ああん……ああん……いじめないで……」
明日香は、もうこういう状態より、早く一つになったほうが気持ちがやすまるし、落着くと思った。
「ねえ……ねえ」
囁く声はまるでねだるよう。
「ねえ、早く……ほしい」
稲垣も相当に駆られていたようだった。今日に限っては、クンニなどの迂回路を経ずに、一気に攻め込むような姿勢をとった。
明日香は、赤裸々に身体を広げた。
というのも、稲垣が明日香の両の太腿を両手で掴んで大きく広げ、肩に抱えあげるようにして、覗き込んできたからだ。
そうして片手でみなぎったものを、遠慮会釈なく女芯にあてがい、濡れた花芯をグランスでいたぶるようにくつろがせると、一気に攻めこんできたのであった。
明日香の体の芯を、熱く逞しいものがつらぬいてゆく。
「ああッ……」
熱い容積で充たされきった瞬間、明日香はもう、最初のその一突きだけで小さく爆《はじ》けて、軽く達してしまった。
だが、稲垣はそれからゆっくりと、取りかかった。両手でぐいぐい両下肢を押しあげて、明日香にますます赤裸々な恰好をとらせ、なおもぐいぐい灼熱した男性自身を押し込み、打ち込み、抽送してくる。
その姿勢は、仏壇返しといわれる体位である。
いわゆる、赤ちゃんのおむつを取りかえるときのような恰好を、明日香はとらされているのであった。
その姿勢だと恐らくは、稲垣の眼には、明日香の性毛の下の赤い割れ目に出没する自分の男性自身が、はっきりと見えているはずであった。
それを想像すると、明日香は恥ずかしくなった。
頭がカーッと、灼けるような衝撃を覚えた。
でもその分、明日香も興奮してしまって、
「あッ……あッ……すごい……今日の稲垣さんって、とても大きくて奥まで届くわ」
はしたない言葉を連発しながら、熱い波に押しあげられてゆく。翻弄された、といっていい。
そうして稲垣は、最後は明日香の身体を二つ折りにするほど、両下肢を頭のほうに押しつけ、ヒップだけ突きださせた恰好で、ダッシュをかけ、何度も何度も、出没させながら明日香をクライマックスに追い込んでいったのであった。
3
やがて、その嵐の時が去った。
明日香は、霧の奥に放りだされたように、甘美感のなかで漂っていた。
陶酔の絶頂感が長かったので、疲れ果てた、という感じだった。でもでも……その霧の奥から、明日香は今日はただ、稲垣に抱かれるために来たのではない、大事な用事があって来たんだわ、ということを思いだしていた。
(そうだ。箱根の夜のことをこの際、はっきりと問《と》い糺《ただ》さなければならない……)
――稲垣と明日香が、箱根塔ノ沢温泉で密会旅行を楽しんだ夜、東京都世田谷区等々力のマンションで、河野美紀という稲垣の会社のOLが殺害されていた事件のことだ……あれに対して、稲垣は本当に無関係だったのか、どうか。
明日香にとっては、ずっとそれが気にかかっていた。
現代企画社の河野豪紀という若者が現われて、問いつめられてからは、なおさら、稲垣には何やら隠し事があるのではないか、という不安の塊りが生じはじめていた。
「ねえ、稲垣さん……」
うつ伏せのまま、明日香は言った。
「ちょっと聞いて、いいかしら?」
腹ばって、煙草に火をつけていた稲垣が、
「え? 何を?」
「ほら、箱根の夜のことよ」
「ああ、箱根ですか。楽しかったですね」
稲垣はベッドの上に伏せられた白磁のように白くて豊満な明日香の背中から、ヒップにかけての線を指でさすりながら、そう言った。
「あの晩、あなた夜中にベッドを抜けだして、どこかに行ったんじゃなかったかしら?」
明日香がそう言った時、稲垣の手が、びくっと止まった。
「どうして、そんなことを聞くんです?」
「だって私、夜中に眼をさました時、あなたが傍にいなかったから、淋しい思いをしたのよ」
「ああ……二時か三時頃のことでしょ。ぼく、トイレに立ちましたからね」
「ああ、そうだったの。ずい分、長かったような気がするけど」
「そんなことはない。それは気のせいでしょう。ほんの五、六分間のことだったはずですよ」
稲垣の声にはどこにも、不自然さはない。
「トイレにゆくのに、靴下はいてゆくの?」
「え……?」
「朝方、ベッドの下に靴下が両方、バラバラに落ちていたのを憶えているわ」
明日香は、かなり思いきったことを言ったのである。
しかし、稲垣は、
「へええ、そんなことあったのかな。それはきっと、あなたと初めて結ばれた夜だから、すっかり興奮しちまって、ベッドインする時、靴下を脱ぎちらかしてしまったのかもしれませんね」
平然と、そういうことを言った。
(そうだろうか。いくら興奮していたとはいえ、稲垣は前日、和室の衣桁の前で浴衣に着がえて、風呂に入っているのだから、翌朝、靴下が寝室のベッドの下に落ちていたというのは、どう考えても肯けないわ)
明日香は、そう思った。
勘ぐってみるとこうも考えられる。
つまり……あの晩、激しく愛情交渉をして、明日香を疲れさせてぐっすり眠らせておいたあと、夜中にそっと起きだして三時間ばかり、ホテルを抜けだし、車でどこかに行ったのではないか。
その行先は、東京。そして世田谷の河野美紀の部屋で……。すべてが片づいたあと、稲垣は急いでまた車を飛ばして、箱根塔ノ沢に戻った。ホテルに入り、物音をたてないように、こっそりと部屋に入り、何くわぬ顔をして、明日香とのベッドに入った。
その際、あわてて着がえをしてベッドに入ったため、靴下を脱ぎ忘れていた。そこで掛布に入ったあと、片方ずつ掛布の中で脱いで、ベッドの下に落としておいた……というふうにである。
その場合、この男は殺人者だということになる。
明日香は、アリバイ作りのために利用されたことになる。
(でも……でも……)
そんなことは、信じたくはない。
いや、そんなことがあってよいはずもない。
やはり、それは自分の、考えすぎというものであり、邪推というものだ。稲垣が否定する通り、彼はまさしく事件には無関係だったのかもしれない。
(そうよ。現に警察もそれ以来、聞きにこないではないか。稲垣がそんなことをするはずはない)
明日香は自分に、そう言い聞かせた。
「明日香さん。いったい、何考えてるんです? ぼくのふるまいに関して、そのほかにもおかしなことがあったんですか?」
稲垣が明日香の背中を撫でながら、訊いた。明日香はあと一点、気になっていたことを思いだして、魚の小骨を皿の上に取りだすようにして訊いた。
「あの朝、あなたのワイシャツの肩口に、口紅がついてたわ」
「口紅……? それは明日香さんのものでしょう。ぼくには憶えがない。そんなことで、いちいち、妙なふうに気をまわさないで下さい」
稲垣はかなり強い口調で、ピシャリと戸を閉めるように、そう言った。
強く、断定的に言われて、明日香はかえって、ほっとした。
(そうよ、そうなのよ。何もよけいなことを考えることはないんだわ……)
明日香は小さく身震いして、激しく首を打ち振った。その時、
「明日香さん、ぼくのほうのことより、ご主人のほう、大丈夫なんですか?」
稲垣がばかに穏やかな声で聞いてきた。
「大丈夫ですかって、どういう意味?」
「ご主人、六本木愛人マンションといわれるこのマンションに出入りなさっている。とすると、これはてっきり、女ですよ、女がいますね」
「そうね。仙台で浮気してたのは知ってたけど、まさか東京にも愛人がいるとは知らなかったわ。それも、あなたと同じマンションにいるなんて、どういうことかしら……」
そう。これもまったく分からないところである。何もかも、闇だらけ、謎だらけだわ、と明日香が宙を見つめて心細い思いをしていると稲垣が手をのばして覆いかぶさってきた。
再び軽く、キスをする。
そうして抱きしめて、
「ねえ、もう一回……」
明日香は、急に身を硬くした。
「ダメ。今日はもうだめよ……あんなにたくさん、いただいたんだもの……私、今日は早く帰んなくっちゃいけないの」
――そうよ。もしかしたら、京輔は仙台に戻ったのではなく、東京本社にいるのであって、このマンションでの用事をすませて家に戻ってくるかもしれない。
それなら、彼が戻る前に自由ケ丘に帰っておかなくっちゃいけないわ……。
明日香は不意に、主婦に戻ったりする。
自分が、とてつもない魔女になって、主婦と娼婦とを交互に、使い分けしているような気がしたりした。
「ね、今日はもういいことにして。私、そろそろお化粧するわ」
明日香が真剣な眼差しで言ったので、稲垣はそれ以上、求めはしなかった。
明日香はひと休みする間もなく、ベッドから起きあがり、バスルームに入って帰り支度をはじめた。
化粧を直している時、ふっと思いつき、バッグをあけて探してみた。
思いだしたものが一枚、奥から出てきた。
「お願い。うちの主人って、こういう顔なんだけど、もし見かけたら、このマンションのどの部屋を訪ねたか、それとなく調べておいてくれないかしら」
写真を差しだした。
それは新婚当時、京輔と一緒に近くの公園で撮ったスナップであった。
四隅がもう傷んで、セピア色になりかけた、古ぼけた写真だった。
「ほほう、お似合いの夫婦じゃありませんか」
稲垣は痛烈な皮肉を言った。
「いいですよ。それとなく気をつけておきましょう。もしわかったら、ついでに相手の女性のことも調べておきますよ」
そう言って、送りだしてくれた。
4
夕方七時には、自由ケ丘の家に帰り着いた。
さいわい、京輔はまだ帰ってはいなかった。そのかわり、三十分もしないうちに電話がはいり、
「ああ、おれだ。今、日本橋の本社で残業している。昨日のうちに仙台に戻って残務整理をするつもりだったが、本社のほうの用事が忙しくって、予定を変更しちゃったよ。あと一時間ぐらいしたら、家に帰るから、風呂と晩飯を頼むよ」
一方的に、そんなことを告げた。
京輔は二年間の予定だった仙台支社勤務が予定より半年くりあがって、九月から本社勤務に変わることになり、今、その引き継ぎや何やで、仙台と東京の間を行き来することが、多くなっているという話であった。
「そうですか。じゃ、お風呂とお食事、用意しておきますから、お早くお帰りください」
明日香はきわめて貞淑な主婦の声で答えた。
一時間もしないうちに、京輔は帰ってきた。紺錆色のダークスーツに、ストライプのネクタイ――昼間、六本木のマンション前でみたのとまったく同じスタイルなので、改めて、間違いではなかったことを確認したくらいである。
「お帰りなさい。仙台は結局、行かなくてもよくなったの?」
「いや、二、三日したらまた出直すよ。ここんところ、会社の財テク戦略が変更になって、不動産部門の整理など、本社のほうが何かとごたついててね。――風呂、沸いてるかい?」
「ええ、用意してます。どうぞ」
京輔は服を脱ぐと、風呂に入った。
あがるとテーブルにつき、明日香が見つくろった手料理で、美味そうにビールを飲みはじめた。
その姿はどこからみても、普通の家庭の主人であり、そばで給仕をしながら、ビールの相手をする明日香もまた、どこからみても非の打ちどころのない、立派な家庭の主婦であった。
昼間……六本木の愛人マンションとよばれる都市空間の一室でどのような秘密をもったかは、お互いがまったく……少しも知らないのであった。
本当はそのまま、お互いがそれに触れなければ、それで済むことなのかもしれない。
しかし明日香は、聞かずにはいられなかった。
「ねえ、あなた……」
ビールが一本、片づくころ、つい聞いてしまった。
「ん?」
「今日、六本木のほうに行かなかった?」
え、というようにテレビから顔を戻し、
「いいや、行ってないよ。どうしてそんなこと聞くんだい?」
「西麻布に住むお友達にね、あなたを見たっていう人がいるのよ。長電話をしている時、そんな話が出てきちゃって」
「ほう。六本木界隈に友達がいるのか?」
「え? ……ええ……一人……短大時代の同窓生よ」
とっさに、そう言いつくろっているうち、稲垣見栄子の名前を思いだしてしまった。
明日香が卒業した白鴎女子短大時代の仲よしで、いまは住吉銀行青山支店に勤めている。
というより、稲垣啓四郎の妹である。明日香はもともと、杉並区堀ノ内の遊休土地活用法を見栄子に相談した時、南急ナポレオンに勤める兄の啓四郎を紹介されたのであった。
(そうだわ……そういえば……見栄子はたしか、本当に六本木界隈に住んでいたんだわ。住所、どこだったかしら。見栄子ももしかしたら、兄の啓四郎と同じマンションじゃなかったかしら……?)
何とはなし、明日香がそんなことを思い出していると、
「ぼくのことよりねえ、きみこそ、どうなんだい。近頃、外を出歩くことが多くなったと、こないだもおふくろがこぼしてたぞ」
「出歩くのは用事があるからで、仕方がないでしょう。堀ノ内のタウンハウスが完成したのよ。ボチボチ入居者も入りはじめたし、何といっても私はオーナーですからね」
「そうかい。それはいいけど、河野豪紀って、誰のことだい?」
いきなり、京輔にそうきかれて、
「え?」
明日香は聞き返した。
「二階の廊下に名刺が落ちてたぞ。現代企画社、河野豪紀なんていう名刺がさ。車かミシンか、何かのセールスマンと、浮気でもしてるんじゃないのか」
「あ、それって、杉並サニー・ハイツの入居申込者の一人よ。何でも編集プロダクションに勤めているんだそうだけど、礼金・敷金を分割払いにしてくれないかって、相談を受けたのよ」
明日香はあわてて言いつくろう理由を設けた。
河野豪紀というのは、いつぞや突然の訪問を受けたことのあるフリーライターの若者である。世田谷区等々力で殺された河野美紀の兄で、取材記者だと名乗られ、すっかり動転してしまっていた明日香は、別れ際に渡された名刺を、洋服のポケットのどこかに入れたままにしていたのだが、家に帰って廊下に落としてしまったらしい。
「そうかい。それならいいけどね。おれはまた、きみの情夫《おとこ》じゃないかと思って、名前まで憶えてたんだぞ」
「情夫だなんて、ばかおっしゃい。たった一度、お会いしただけよ。敷金・礼金をローンで払うなんて、聞いたこともないので、サニー・ハイツへの入居はお断わりしたわ」
「それなら、明日香の不倫の相手はいったい、誰だろうな」
「そんな人、いるはずないでしょ」
「そうかな。どうもこの頃、明日香は肌や顔に艶が出てきて、いい女になってきたからな。ぼくの単身赴任中に、てっきり情夫でも作ったんじゃないかと、思ってるんだがね」
京輔はまたビールを傾けて、何やら熱っぽい眼をむけた。
「何をおっしゃるの? あなたとは違うわ」
「ほう、そうかい。ま、いいや――」
京輔は最後は面倒臭そうに言って、飲み残しのビールをぐいっと飲むと、疲れたように立ちあがった。
「ぼくは寝るよ。きみは?」
「キッチンを片づけて、あとで参ります」
「じゃ、先に行ってるからね」
世の中の亭主族はたいがい、最後は、ふろ、めし、寝る≠フ三語族に戻ってしまうようである。
5
その夜、明日香が二階の寝室にはいったのは、もう十一時をすぎていたが、驚くべきことに京輔は、まだ起きていた。
「どうしたんだ? おい……」
挑まれ、浴衣の胸をゆるめ、乳房をさぐりはじめた夫の声が、明日香には遠いものに聞こえた。
身体も少し、硬ばっていた。
原因はわかっている。昼間、六本木のマンションで稲垣と燃えてきたことが、明日香の頭の芯にくすぶっていて、夫にそれを発見されるのが恐い、という意識があるからである。
「ね、どうしたんだよ?」
京輔に再びきかれた。
明日香は何とかして、京輔の手から逃れたかった。
「どうもしやしないわ。どうして?」
「何だか、気が乗らないみたいだからさ」
「だって、このごろのあなたって、おかしいんですもの。急に仙台から帰ってきたり、また行くといって家を出たくせに、予定が変わって戻ってきたり、……何だか変よ」
責任を京輔のほうに、なすりつけようとした。
「仕事の都合さ。会社のことをつべこべ言うな」
京輔は乱暴に下腹部の茂みを掻き分け、女芯に指を入れてくる。中を掻き回しはじめた。
「痛いわ……」
文句を言った。
現に、まだ充分には、濡れてはいない。
自分ではそんな感じがするが、でも昼間の名残りが、奥のほうに残っているかもしれない。
指で、それを発見されると、いやだわ……と、明日香が身体を硬くした瞬間、京輔によって両下肢をパッと割られた。
「あッ……何をなさるの」
京輔の頭が、股間に入って、不意に荒々しく両下肢を開かれて、唇で攻めたてられようとしている。
「いやいや……そんな」
明日香は悲鳴に近い声をあげた。
稲垣との行為のあと、拭いて始末したし、家に戻っても風呂にはいったので、奥にまだ男の体液が溜まっていて、洩れたりするなんてことはないと思える。
そういうことによって、夫に不倫の痕跡がわかるということは、万が一にも、ないと思える。
(でも……でも……あれって、数時間も出ない時もあるというし……)
明日香はそれを心配したのだが、京輔はもう脇腹や腰のあたりに唇を押しつけており、その唇が茂みから、その下にくだってくる。
いやいや……と明日香は暴れた。
腰を両手で掴まれていて、動きを制されていた。舌先が不意に熱い割れ目をとらえた。微妙に強弱をつけて愛されはじめた時、明日香は、あ……と、自分が微妙な漣《さざなみ》を感じて、それから急速にうるおってくるのを感じた。
「ああ……ああ……いやよ」
明日香はまだかぼそいが、はっきりと甘い喘ぎ声を洩らしはじめた。舌の動きが活発になるにつれ、それは次第に大きくなった。
「ああ……あなたったら……無茶ばっかり……」
なまめいてきた声にあおられたのか、京輔が不意に水音がたつほど派手に花弁を吸い、次にクリットのあたりを、露骨な音をたてて強く吸いこみ、軽く噛んだ。
「ああん、痛いわッ」
腰をよじったとたんに唇は離れ、代わりに指が激しく躍った。蜜壺の天井を乱暴と思えるほど強く突きあげたかと思うと、急に引き抜き、すぐにまたズブリと指の根元まで深く押し込んでくる。
「ああ……待って……何てことをするの!」
明日香は怒ったように言った。
怒りながらも、自分が感じていることが、情けなかった。
京輔はたしかに、明日香の女体に、何かの異変を感じ、復讐でもしているようである。
でも困ったことに、そうされながら、稲垣とのことがばれるのではないかという心配が、しだいに遠のき、夫の攻めどころと、そこでの反応だけが火のように、熱く意識されるようになっている。
声の乱れように加えて、うるおいの度合から、京輔は彼女が挿入可能な状態になっているのに気づいたようである。唇と指での攻撃を中断し、いきなりブリーフを脱ぎすてると、全裸になって獣のように挑んできたのであった。
明日香は男にしろ女にしろ、セックスというものが、一日にいったい何回、おこなえるものか考えたこともない。でも少なくとも昼間、稲垣とあれほど激しく愛しあってきたので、夫から挑まれても自分はもう決して、感じないだろうし、拷問のような責め苦だけであるに違いない、と思っていた。
ところが、そうではないのである。明日香は、夫のものが蜜にうるんだ肉襞を柔らかく押し分けて入ってきた時、それとはまったく予想もしなかった反応に、驚いたのであった。
拷問のような責め苦どころではなかった。
昼間よりも、もっと濃密に、甘美に響くのである。
ふだんの夫との交情では感じられなかったくらい、濃厚な感覚と深い刺激に包まれ、
「あッ……あッ……あなた」
明日香は思わず、甲高い声をあげていた。
そんなはずはなかったが、それはいつもより一回り大きく、固く感じられ、明日香は息をのみ、うろたえながら上体をそり返らせた。
袋の中を充たされきってしまうと、舌での攻めとは、比べものにならない快感が突きあげてきて、声がそれまでになく大きく洩れそうになった。
京輔の動きも早くなっていた。無言で刻むように荒々しく、猛々しく打ち込んでくる。
明日香はそれ以上の声をだすまいとして、ふとんの端を掴んで、口をふさいだ。
「もうだめだ。明日香……いっちまう」
京輔が珍しく変な声をあげて、フィニッシュにかかっていた。
「ああ……私もよ……いいわよ。いって、私もいきそうよ」
――数秒後、明日香はまたも爆発して、熱波が体奥に勢いよく注ぎかかるのを意識しながら、果てしない肉の闇というものを感じて身を震わせていた。
(それにしても、河野美紀の殺人事件のほうは、いったいどうなってるのかしら……?)
闇はそちらにもあった。
第五章 追跡
1
待つほどもなかった。
河野が席についてアイスコーヒーを注文し、スポーツ紙を読み終わらないうちに、ハイヒールの音が響いて、野津原多鶴がやってきた。
「どうだった?」
新聞を折り畳みながら、河野は訊いた。
「OKよ。権利と敷、かなり高かったけど、今日からでも入居していいんだって。キイはほら、この通り貰ってきちゃったわ」
多鶴は、部屋のキイを振り回した。
そこは、渋谷・宮益坂の喫茶店だった。
南急ナポレオンのオフィスのすぐ傍である。多鶴はさっき、杉並サニー・ハイツへの入居申込みをする傍ら、それとなく南急のオフィスの内情などを偵察してきたのであった。
「稲垣は、オフィスにいたかね?」
「社内にはいたんでしょうけど、部署が違うので見えなかったわ。物件が完成すると、企画開発部の手を離れて管理部というところに権限が委譲され、そこでナポレオン関係のアパートやマンションは一括して、管理するみたいね」
「それじゃ、杉並サニー・ハイツに多鶴が入居してアミを張っていても、あまり意味がないんじゃないかね。稲垣や明日香が現われるという保証は、どこにもない」
「保証はなくても、何とかなるわよ。何しろ、オーナーは明日香さんよ。自分の部屋を一つぐらい、その中にキープしているかもしれないし、稲垣とそこで密会するかもしれないわ」
「ま、期待しましょう」
河野は氷が溶けかけたアイスコーヒーを飲んだ。
「さて、これからどうする?」
河野は喫茶店などにぐうたら長居するのが、あまり好きではない。
「やーね。昼間から物欲しそうな眼……」
多鶴が、運ばれてきたアイスコーヒーのタンブラーを握って、ストローで掻きまわしながら、ちょっときらめきのある眸《ひとみ》で睨《にら》んだ。
「物欲しそうな眼をしちゃ、いけないのかね」
先手を打たれて、出ばなをくじかれたので、
(いつもは、喜ぶくせに……)
心の中で、悪態をついた。
「私はそんな暇はないわ。仕事も抱えてるし、今日じゅうに引っ越しの段取りをつけなくっちゃならないのよ」
「あ、そうか。じゃ、近いうちに、新装なった杉並サニー・ハイツで新居祝いをやることにしようか。今日はおれも、これからちょっと――」
忙しいふりをして、伝票を握った。
「ちょっと、どこにゆくのよ」
「パチンコ――」
「いい気なものね。私に何もかもやらせて」
五分後、二人はその喫茶店の前で別れた。
河野はパチンコ屋になど、寄っているひまはない。これから一人の男を見つけなければならなかった。
渋谷から井の頭線に乗った。明大前に出て、京王線に乗りかえ、八幡山で降りた。
地図で見当をつけていたので、東京自動車販売という会社の八幡山営業所は、すぐにわかった。駅から五分ぐらい歩いたところで、甲州街道に面しており、道沿いに広いガラス窓を張った自動車ショー・ルームが設けられている営業所であった。
ショー・ルームに入って、客を装い、並べられている何台もの輸入ものの新車を興味深そうに眺めて歩きながら、片隅に立っていた係員にきいた。
「貝塚さん、いませんか?」
貝塚というのは、等々力の美紀の部屋を訪れた夜、奥から飛びだしてきて、河野を突きとばして逃げだしていった男と思えるやつの名前である。
河野は、電話もせずに、いきなり訪問してみることで、名刺の男が本当にあの男だったかどうか。あの男だったとしたら、なぜ、誰に頼まれて侵入していたのか。ぶっつけで当たってみたほうが効果が高い、と判断して、押しかけてみたのである。
(何にしても、美紀のノートは、奪い返さなければならない)
すると、係員は、
「貝塚はこのところ、会社を休んでますよ」
がっかりするようなことを言った。
「いつから休んでらっしゃるんですか?」
「さあ、ここ二、三日前からかな」
「困ったな。自宅、わかりませんか?」
「おたく、どちらさん?」
係員が初めて、まじまじと河野をみた。
「新宿の現代企画社の河野っていうんですけどね。貝塚さんからユーノスの新車一台斡旋してもらうことになってたんですよ。カタログを送って貰ったきり、連絡がない。困っちゃってるんです。どうしようかと迷ってるんですけどね」
係員は河野を上客と判断したらしく、
「あ、ちょっとお待ち下さい。今、貝塚君の住所を調べてきます」
男は車のショー・ルームから奥のオフィスに入った。
しばらくして、貝塚の住所を控えたメモ用紙を持参して現われ、男は自分の名刺ともども差しだしながら、
「彼の住所、電話番号はこちらです。もし、連絡がつかないようでしたら、私のほうにご一報ください。外車なら、ユーノスをはじめ、いろいろ車種を取り揃えて、お待ちしております」
ばかていねいに、送りだしてくれた。
駅のほうに戻りながら、渡されたメモを見ると、中野区上高田二丁目××番地、落合メゾン二〇六号と書かれてあった。
電話番号も載っていたが、河野は電話はせずに、今度もぶっつけで行ってみようと思った。
八幡山の駅から、新宿に戻った。
午後三時だったので、オフィスにちょっと顔をだし、地図で調べるとめざす住所は、地下鉄東西線の落合駅が一番、近いことがわかった。
しかし、新宿に東西線は乗り入れていない。中央線で東中野から歩く手もあったが、それも中途半端に遠そうだったので、いつもオフィスの地下駐車場に突っこんでいる車でゆくことにした。
2
夕方のラッシュにはまだ、間があった。
道路は比較的、空いていた。新宿からは早稲田通りをほとんど一直線であった。落合の交差点をすぎると、右手に正見寺や源通寺など、幾つかの寺がかたまっている地域があり、それを少しすぎたあたりを右に曲がって、路地を入ると住宅街が広がっていた。
めざす落合メゾンは、二階建てのアメリカン・アパートであった。河野が表で車を駐めて近づくと、門の前で若い女が三輪車に乗った子供の背中を押して、遊ばせていた。
「貝塚さんの部屋、二階でしたよね?」
見当をつけて河野がきくと、
「貝塚さん……? ああ、国見さんとこの人かしら。二階の……一番端よ」
「ありがとう」
河野は外階段をあがり、二階の端の部屋まで歩いた。
二〇六号室の前まで来て、ちょっと首をひねった。表札は、貝塚ではなく女の名前であった。国見良子、とある。
チャイムを押した。二度目を押して、やっと返事がきこえ、ドアが中から開かれた。
「どなた?」
化粧をしたばかりと思える外出支度中の、三十くらいのわりとイカす女が顔をだした。
「貝塚さんのおたく、こちらでしょうか?」
「そうだけど……あの人はいないわよ」
「夜になれば、お帰りでしょうか」
「さあ、どうかしら。もう一週間、帰ってないからね。あてにならない男《ひと》なのよ、まったく」
女は亭主の不満を、他人にぶつけるように言った。
「失礼ですが、奥さん……で、いらっしゃいますか」
女はにこりともせず、
「亭主じゃないわよ」
腹立たしそうに、そう言った。
「でも、貝塚さんの住所は、ここになっていますが」
「転がりこんできたのよ。昔からのお店の馴染《なじみ》でね、前の職場を棒にふって、転がり込んできたから、二ヵ月前からいさせてやっているだけよ。居候《いそうろう》というの。宿六というの。ま、そんな具合の男で、私の亭主でも何でもないわ」
女のこの剣幕では、取りつくしまがない。河野が困ったな、という顔をしていると、
「ところであんた、誰?」
「はい。新宿の河野といいますが」
河野は、八幡山の営業所で述べたのと同じことを言った。
「へええ、あの人から外車買うところなの?」
河野を見る眼が、少し違ってきて、
「それにしても、あの人ったら、しょうがないわねえ、商売ほっぽりだして」
「連絡先、わかりませんか?」
「出たら最後、鉄砲玉だから」
「後生です。どこか、心当たりを思いだして下さいよ」
「そうねえ、もしかしたらっていうところ、ないでもないけど……でも……私には関係ないもんね。私今、忙しいのよ」
女は急に時間を思いだして、河野と立話をしているロスが腹立たしいというふうに、ドアを閉めようとした。
「じゃ、役に立たなくてごめんなさい」
「あ、ちょっと待って下さい。国見さんはこれから、ご出勤ですか?」
「ええ、そうよ。これから美容院に行って、食事をして、誰か同伴出勤の客を電話で見つくろって、呼びだしてっと……、色々、モーレツに忙しいのよ」
どうやら、どこかのクラブ勤めの女のようであった。
「もし、新宿方面でしたら、一緒に行きませんか。お送りしますよ」
「あんた、車で来てるの?」
女の態度がちょっと、改まった。
「ええ、外車ではありませんが……どこでもお送りしますよ」
「じゃ、送ってもらおうかな。このあたりって、ちょっと、不便なのよね」
その不便な地理が幸いした。
それに、女の勤務先が新宿であることも幸いした。
三十分後、河野はクラブに出勤する恰好をしてきた派手な身装りの、国見良子を助手席にのせて、早稲田通りを新宿にむかって、ハンドルを握っていた。
「ごめんなさい。香水の匂い、車内にこもりすぎるでしょ」
「いいえ、どういたしまして。ゲラン、ぼくの大好きな匂いですよ」
河野は車で送りがてら、食事にでも誘って、この国見良子という女から、貝塚達郎のことを色々、聞きだそうと考えている。
今さっきの立話の中だけでも、少なくとも三点ばかり、気になることが含まれていた。
一つは、貝塚のことを「前の職場を棒に振って、転がり込んできた」と話していたが、貝塚のその前の職場とは、どこなのか。なぜ棒に振らなければならなかったのか。そのへんに案外、事件とのつながりや、南急の稲垣啓四郎とのつながりなどが、潜んでいるような気がする。
二つめは、国見良子は彼のことを「昔からのお店の馴染み」と話していたが、良子はどんな店に勤めているのか。その店に貝塚が昔から足繁く通っていたとすれば、良子は貝塚のことをかなり深く知っているはずであった。
三つめは、現在の貝塚の立ち回り先について「心当たりがないでもない」と洩らしていたことである。その心当たりを、良子にはどうしても吐いてもらわなければならないのである。
車は少し混みはじめた道を、新宿にむかって順調に流れている。
「お店は新宿の、どちらですか」
「区役所通りよ」
「何というお店?」
「クラブ〈ペペ〉」
「そのうち、寄るかな」
「そのうちと言わずに、今夜あたり、寄りなさいよ」
「弱ったな。美人に誘われると、すぐ乗るほうでね」
「乗るのはいいことよ、何にだって」
「それじゃ、決めよう。今夜、寄るとするなら、いっそ、同伴出勤しちゃおうかな」
「あ、それって、助かるわ。お客さんつれてったら、点数、ぐーんとあがるのよ。ねえ、そうしてちょうだいよ」
国見良子は、河野の太腿を掴んで、かなりきわどいところを触ってきた。
「それならいっそ、美容院を後回しにして、食事を先にしませんか」
「どこかで、奢ってくれるの?」
「ぼくも腹ぺこ。トニー・ローマなんか、どうです?」
「あ、リブステーキね、だーい好き。ついでに、あんたも大好きになってきそう」
二人は新宿南口の近くのアメリカン・ステーキの専門店に、立ち寄った。
河野はこの際、情報料としてかなりの出費もいとわないつもりであった。
「ね、ワイン飲んでいい?」
国見良子は席につくとすぐに、大きな瞳をきらめかせてきた。
「ああ、いいですよ。お仕事に支障がなければ」
「仕事なんか、平っちゃら。もうあんたを掴まえたんだから、八時までにお店に出ればいいんだから」
「そりゃ光栄ですね。じゃ、ワインはアルザスの白に、ステーキはレアで……っと」
河野はウエイターを呼んで注文すると、話を本題に戻した。
「ところで、貝塚さんは前の職場を棒に振った、というお話でしたが、以前はどんなお仕事だったんでしょうか?」
「私も詳しいことは知らないけど、住宅関係の会社だったと思うわ。自動車販売会社に移ったのは、つい最近のことよ」
「住宅関連……というと、もしかしたら、南急ナポレオン・ハウジング株式会社じゃ、なかったでしょうかね」
「あ、そうそう。南急ナポレオンとか、エリザベスとかいう会社だったわね」
国見良子は煙草に火をつけながら、さりげなく言ったが、河野にとっては心臓がはねあがるくらいの、大収穫であった。
(それみろ、稲垣啓四郎との接点は、そこにちゃんとあったじゃないか……!)
「どういう事情でおやめになったか、わかりませんか」
「さあ、詳しいことは私も聞いてないわ。今と同じように、住宅関係のセールスマンをしていたというからね。大方、客からの預かり金をちょろまかして、それが発覚して咎《とが》められたりしたんじゃないの」
国見良子は偉大なる健啖家《けんたんか》であった。
眼の前にワインと、熱いレアステーキが運ばれてくると、貝塚のことなんか面倒だといわんばかりに話して、ワインを飲み、ぶ厚い肉と格闘しはじめていた。
この分では、あとのことはもう少し時間をかけて、聞きだしたほうがよさそうである。
河野もナイフとフォークを取りあげると、せっせとステーキを平らげはじめた。
ワインも飲みたかったが、車なので我慢した。その分、我慢できないほうの望みが、むくむくと頭をもたげてきたので、遠慮なく言ってみた。
「困っちゃったな。ぼく、肉を喰うと、下半身が熱くなって、無性に女が欲しくなるんですよ。困るんだよね。これが……」
「珍しい病気ね」
国見良子は片手でワインをもち、片手のフォークに突き刺したクレソンの葉を、大きな前歯でかじって、
「私もそうなの。男が欲しくなる病気って、ホント、厄介なのよね」
良子のディナーは凄まじかった。たちまちステーキを平らげ、ワインをボトル半分も平らげ、
「ああ、食べちゃったわ。眠くならないうちに、美容院に行かなくっちゃ」
だめかな、と思った。
でも世の中、一にも二にも、押しである。
「美容院はあと回しにしましょうよ。八時に出勤するまでに、まだ三時間もある。ダイエットと美容のためには、少しシェイプアップしたほうがいいと思いますけどね」
「あ、そうか。シェイプアップのために、髪が乱れちゃ、もったいないものね」
鏡の前に坐るのは、後回しになった。
二人は、ステーキハウスを出た。
駐めておいたスプリンターに戻ると、
「車のまま、すべりこめるところにやってちょうだい。道歩いてて、お店のコやお客さんに会っちゃうと、やばいじゃん」
「かしこまりました」
歌舞伎町の一角の、車ですべり込めるところに入った。
「あんた、運のつよい男ね。ずい分、タイミングがいいもの」
ホテルのベッドに入るとすぐ、良子は脚をからめてきて言った。
「さっきも言ったでしょ。男が欲しくなる病気って、厄介なのよね。あたしって、月に二、三回、ものすごく欲しくなる時があるの。そういう時って、外で適当なコとしっかりやってくると、お店のほうで大事な客に安売りしなくて済むでしょ」
よく考えなければわからないような、難しい哲学の持ち主だった。
「お互い、妙な病気を持ってますね。今日がそのものすごい時とは、幸運だったな」
「そんなふうに言われると、ずい分ものすごいみたいに聞こえるじゃない。やだわ」
国見良子は、自分が口ほどもなく、控え目な女なのだと言いたそうであった。
でも現実はやはり、相当に良子はものすごかった。
抱擁しあって唇がふれあい、舌が絡まりはじめる頃から、良子の眼はもう、ぼうーと霞んで、油を流したような状態になった。
その眼が閉じられた時はもう、喘ぎ声をたてて、身体じゅうで吸いつき、押しこくってくる感じ。乳房に手をやると、芯に根があるような重たい乳房が揺れ、ああ……と、ハスキーな声がますますハスキーになって、高く細く、かすれたりした。
河野はうれしくなって、乳房に顔をあてて乳首を吸いながら、片手で下腹部を撫で、茂みの下のぬかるみをさぐった。
女芯は、驚くほど濡れていた。
「ああ……ああ……」
良子はこぐらかるような声をたてた。
河野は唇を乳房から鳩尾、腹部へと移した。ふつうは鈍感なはずのお臍《へそ》のまわりも、良子はよく感じた。
「そこ、弱いの。一番子宮に近いでしょ。押されると直撃されるような感じで……ああン……だめ、だめ」
良子の恥毛はやや剛毛だった。その剛毛の森を眺めて、触って、河野はすぐ上に切りあげるつもりだった。
いくら何でも、おかしな成りゆきである。国見良子は、自分が追跡している貝塚達郎と暮らしていた女である。寝なかった、というわけはない。自分を殴りつけて妹のノートを奪っていったやつと懇《ねんご》ろなことをしていた女のあそこに、優しく口唇愛をふるまうほど、河野はお人好しではない。
だが、思いもよらない展開に、河野は掠《さら》われてしまった。河野が顔を近づけて、指で女芯を探っている時、良子は柔道の寝技みたいに、両の太腿でいきなり河野の首をはさんだ。
あ、という間に、温かく濡れたものが河野の顔面に密着していた。良子が下から押しつけてきた。やや硬いヘアがざらついてそこに触れ、それから顔じゅうに触れてきた。
押しつけられるだけでは男の沽券《こけん》にかかわるので、河野は舌をとがらせた。熱い谷間をすくった。頭の上で、良子の唸り声や喘ぎ声が高まった。
そうかと思うと、良子は太腿の締めつけを解くなり、反転して河野の下腹部のほうに顔を寄せてきた。鮎のような指に、猛りをつかまれた。良子は優しく愛撫した。それから河野はふくまれていた。
かしずいて、ふくんだまま、良子は楽しそうな声をあげた。
「危ない。おい、急がせちゃ、まずいよー」
河野は危なく爆《はじ》けそうになった。
ここで爆けたりしたら、面目が保てない。
「おい、加減してくれったら」
河野は起きあがり、ふくまれているものを本来の場所に移すことにした。
本来の場所は、濃く濡れあふれていた。
収めると、良子は奔馬のように走りはじめた。
おかげで、河野は面目を保つことができた。
「ねえ、煙草、ない?」
横で良子が言った。
河野は枕許の煙草をとって、渡した。
河野は腹這って、腕時計をみた。まだ六時だが、そろそろマドンナの美容院行きの時間かもしれない。
「お風呂、使う?」
「そうね。シャワーだけ使うわ」
「じゃ、ぼく、先に風呂に入ってくるからね」
そう言って起きあがりながら、河野はほんのついで、というふうに、良子に聞いた。
「ところで、貝塚さんの立ち寄り先、教えてほしいんだけど」
良子が、寝起きのような、もの憂い声をだした。
「あんたもずい分、物好きね。外車一台買うくらい、あんな新米の自動車セールスマンから買わなくても、良さそうなものなのに」
「一度、ご縁があった以上、ぼくはその仁義を重んじるほうなんですよ」
「それも変な病気。……ええっと、待ってね、前にいた会社のモデルハウスを一軒、自分で購入してほったらかしにしているのよ。少し遠い所だったので、私のアパートに転がりこんでいたんだけど、何か事情があって今はそっちに逃げこんでるのかもしれないわ」
「それ、どこでしょうか?」
「そうね。どこだったかしら」
良子が天井をみつめた。
「府中だったかしら、調布だったかしら。ともかくそっちの方向の町はずれときいてるわ。部屋に帰ったら、住所わかるから、どうしてもっていうのなら、あした電話してよ」
(なんだ、そんなことなら、あんなに奮闘するんじゃなかった)
と、思うべきではない。クレソンの葉をもりもりと平らげた国見良子は、ベッドの中だけでも充分、すてきな女神だったのだから。
3
あくる日の昼すぎだった。伊集院明日香は、自由ケ丘の家の近くまで来て、足を止めた。
二人の男が、門の傍に立っていた。セールスマンや押し売りではなかった。夏なのに、きちんとネクタイをしめて、白い上衣を手にもったりしている。
傍まで近づいて、年配のほうの男の顔に、見憶えがあることを思いだした。
「やあ、奥さん」
白い歯をみせて近づいてきたのは、捜査本部の杉浦警部だった。
「ごぶさたしてます。近くまで来たものですから、ちょっと寄らせてもらっています」
さいわい、宏也は学校のプールだし、義母の泰子は、地域の老人会の集まりに出ていて、留守だった。立ち話では近所の人の眼もあるので、
「どうぞ、おあがり下さい」
二人の男を、応接間に案内した。
「や、かたじけないですな」
杉浦警部と、もう一人の若い刑事が、奥のソファに坐った。
「警察の方がまた、どういうご用事でしょうか」
切り口上の聞き方になったかもしれない。
どういう用事かは、聞かなくてもわかっていたが、一度、訪問された時に稲垣啓四郎のアリバイについては証言しているので、警察関係者はもう二度と現われないだろう、と思っていたのである。
「奥さん、たびたびお邪魔してすみません。用件はいつぞやの、箱根旅行のことですがね。その後、何か変わったことでも思いだしませんか?」
杉浦警部は粘っこい眼で見つめながら、粘っこい聞き方をした。
「あれはもう解決したんじゃありませんか? 変わったことって、どういうことでしょう?」
明日香は杉浦の質問が、きわめて心外だ、という顔をした。
事実、そういう気持ちであった。
「奥さんは南急ナポレオンの稲垣さんと、箱根で一夜をあかされました。その土曜日の夜のこととか、翌日のことでもかまいませんが、あとで振り返ってみたら、おかしい、というような点です。そういうことを思いださなかったか、どうか」
杉浦はもって回った聞き方をしたが、明日香は平然と、
「いいえ、別に。変なところなんて、何にも思いだしません」
と答えた。
答えながら内心、警察はまだ、稲垣を疑いつづけているのだろうか、と考えた。
それとも、アリバイ成立でいったんは捜査線上から消去されてはいたが、他にはこれという容疑者が見あたらず、再び、原点にたち戻って、被害者と一番関係の深かった稲垣あたりから、洗い直しをはじめているのだろうか。
明日香は、何とはなしに後者であるような気がして、気分が落ちつかなかった。
「そうですか。不審な点は何も思いだされませんか」
杉浦が、少しもがっかりしないぞ、という顔で呟き、
「ところで、七月二十一日の土曜日、箱根にはお二人、東京から車でお行きになったんですよね」
そんなことを聞いた。
杉浦という男、くえない。電車で行ったことは、前に申し述べた記憶がある。
「車……? いいえ、電車で参りましたけど」
明日香が答えると、
「あ、そうでした、そうでした。ロマンスカーでしたね。ところで新宿発何時の電車だったか、憶えてらっしゃいますか」
「ええっと……あの日、午後三時に新宿の改札口で落ちあいましたから、三時二十分か、三十分頃の電車だったと思いますが」
杉浦警部は驚いたことに、手帳を見ながら、
「あ、そうでしたね。三時二十分のロマンスカーだったと、稲垣氏も証言なさっています」
眠そうな声で言った。しかしその態度は、一貫してどこやら、素っとぼけていて、人をかまにかけて、明日香が何やらボロをだすのをじっと待っている、といったふうにも窺えるのだった。
「そうすると、新宿発午後三時二十分のロマンスカーで箱根にゆき、翌日、夕方の六時十五分新宿着のロマンスカーで帰りつくまで、奥さんはずっと、稲垣氏と二人で腕を組んでいた、ということを重ねて断言なさるわけですね」
「腕を組んでいたなんて……そんな、冷やかしの言葉は、やめて下さい。そりゃ、道を歩いている時は腕を組んでいたかもしれませんが、お部屋でなんか、腕は組みません」
「そうそう……そのお部屋でのことなんですがね……楽しかるべき土曜日の一夜、奥さんにとって、何か不愉快なことでもありませんでしたか?」
「不愉快なことって、何でしょう?」
「たとえば、夜、稲垣氏が奥さんをないがしろにして、部屋を出ていったとか、夜中に帰ってこなかったとか……」
(やっぱり、そうだ。警察も男女がベッドを共にしたその夜の、寝台の中で仕組まれたアリバイの真贋を、つついてきている……)
明日香は身構えながら、
「いいえ。別にこれといって、気になることはありませんでした。稲垣さんは朝まで、ずっと私をしっかり抱いてくれていて、優しくしてくれました」
明日香がそう断言する限り、警察は一歩たりとも、そのアリバイを突き崩すことはできないのである。
明日香と稲垣は、共謀しているわけではないからであった。明日香は何も、稲垣の妻でも肉親でもないので、その証言は第三者の証言と同じように、客観的|信憑性《しんぴようせい》をもつのである。
従って、明日香がそう断言しつづける限り、稲垣のアリバイは完璧に証明され、彼は犯罪には関係ないことになる。
いわば、鉄壁の城壁に守られていることになるわけであった。
逆にいえば、稲垣の安全も、有罪か無罪かも、彼が殺人者になるかならないかも、すべては明日香が握っているわけであった。
(でも……でも……私はそうまでして稲垣をかばわなければならないのだろうか? もし稲垣が殺人犯だったら、あの数点の不審な記憶は、証言するべきなのだろうか? それとも、私はまだ稲垣を愛しているから、その秘密を守り通して、彼をかばい通すべきなのだろうか……?」
明日香がそんなことを考えて、一瞬、沈黙した時、
「ところで、これらの写真には、見憶えがありますね」
杉浦警部が数枚のスナップ写真を、ポケットから取りだしてテーブルに並べた。
稲垣との箱根旅行中のものであった。強羅から早雲山や地獄谷をこえてゆく時のケーブルカーやゴンドラの中の写真。桃源台の船着場での写真、海賊船ビクトリア号のデッキやサロンのものなど……明日香一人が写っているものもあれば、稲垣と仲良く並んで写っているものも、たくさんあった。
「これが、どうかしたのでしょうか?」
「ごらんの通り、とても仲睦まじい。私たち、艶話に縁のない者にとっては、羨ましくなるような写真ばかりですな。ご参考までに、稲垣氏がご提出なさったものを領置《りようち》させていただいております」
「ですから、これが、どうかしたんですか?」
「ええ、変ですね。ちょっと、変なんです」
「どう変なんでしょう?」
「この写真、日付も入っている通り、いずれも七月二十二日のものばかりですな。ところでお二人は、前日の二十一日に新宿で落ちあって、楽しく出発なさいました。それなのに、前日のものは一枚もなく、二日目の日曜日のものばかりです。ふつうなら、両日とも平等にあるはずだ。これは、どうなさったんでしょうね?」
「そんなこと聞かれても、私にはわかりませんわ。初日はまだ私たち、恥ずかしかったり、硬くなっていたりで、写真どころではなかったんだと思いますけど」
それは、本当である。厳密に言って、出発する時点では二人の間にはまだ、肉体関係は成立していなかったし、人眼を忍ぶ仲だったので、写真を撮るような気分ではなかったのである。
しかし、それは当事者だけにわかる微妙な恋の心理であって、無粋な第三者には、変だと思えるかもしれない。
現に杉浦は訊いた。
「どうもわかりませんな。会社の職場旅行や若い人たちのアベック旅行、新婚旅行などをみても、最初に電車にのる時から、楽しくビデオカメラを回したり、スナップ写真を撮ったりするものではありませんか?」
「警部は、不倫の恋をなさったことはありませんね」
「ええ、残念ながら」
「それじゃ、わかるはずありません。言っておきますけど、私たちは職場旅行や若い人のスキー旅行ではありませんでした。密会旅行だったんです。昔ふうにいえば、人眼を忍ぶ旅行です。写真どころではありませんでした」
「しかし……それなら、どうして翌日に限って、こんなに沢山、お撮りになったんでしょうかね。え? ご主人に見つかれば、まずいものを」
あっと、明日香は何となく足許をすくわれ、
「いったい、何が言いたいのですか」
「稲垣氏はほとんど故意に、自分と伊集院明日香という人妻が、箱根で密会旅行をしていたんだという客観的証拠を残すために、このようにたくさんの写真をお撮りになったんじゃないかと、われわれは考えましてね」
「それが、どうだとおっしゃるのですか」
「それがどうだ、という議論ではない。そういう計画的な写真の撮り方をなさった稲垣氏なのに、前日のものがない。これはどういうことかと申しますと、稲垣氏は前日は、心に非常な緊張とプレッシャーをもっていて、写真どころではなかった。その稲垣氏の緊張とプレッシャーは、奥さんに対する愛情のしからしむることだったかもしれないし、あるいは別のことのためだったかもしれない。つまり、稲垣氏はその夜、秘かに何かを企んでいたのかもしれないのです。それを証明するのは、奥さん、あなたしかいない。え、何でもいい。何か、思いだしたことがあったら、正直に教えていただけませんか?」
杉浦警部が、熱っぽい眼をむけて、検事のような口調で明日香に、密会当夜の秘密を思いだせ、と迫っている。
明日香はしかし、少しも顔色を変えなかった。
「そう言われましても、思いださないものは思いだしません。何しろ私は、すてきなセックスのあと、ぐっすり眠っておりましたから」
平然と、そこまで言って時計に視線をやり、
「あら、もう一時だわ。子供をプールに迎えにゆく時間になりました。すみません、このへんでお引きとり願えないでしょうか?」
第六章 接点
1
ニュースが終わった時、電話が鳴りだした。
タイミングがいい。河野豪紀は見終わったニュースショー番組のコマーシャルのところでスイッチを切り、コードレス電話の受話器をとった。
「はい、河野ですが」
「今晩は。トランタン・クラブのるり子よ」
「は?」
すぐにはわからず、河野は訊き返した。
「トランタン・クラブよ。おたく、六本木事務所にお電話なさったでしょ?」
「ああ、例の――」
河野はやっと思いだした。
トランタン・クラブというのは、編集長の大貫剛平に指示されて、取りかかりはじめていた人妻派遣組織の名前であった。
今日の午後、大きな仕事が一段落したので、大貫から預かっていたカードの電話番号のところに、冷やかし半分に電話を入れてみると、若い男の声が応対に出た。
今はスタッフが出払っているので、夜までにしかるべき女性からコンタクトをとらせるので、おたくの電話番号を教えてほしい、という返事であった。
乗りかかった船だ。河野は自分の部屋の電話番号を教えた。虎穴に入ることによって、取材対象の組織の内幕や輪郭が、はっきりしてくることもある。
虎穴というのはこの場合、組織の女性と接触することである。それに河野だって、女は嫌いなほうではなかった。
「お好きな女性のタイプをおっしゃって下さい」
電話の男はそうも言ったが、河野のほうにそれほど贅沢な好みや、特別のタイプの偏向癖があるわけではない。
「委せるよ。美しきトランタンなら、どんなタイプだっていいさ。じゃ、待ってるよ」
そう言って、電話を切った。
それが、今日の午後だった。それから幾つかの仕事を片づけ、珍しく夕方早めに、河野は成子坂《なるこざか》のワンルームマンションに戻り、久しぶりにわが家のバスルームに入ってシャワーを浴び、バーボンをちびちびやりながら、テレビのニュース番組などを見ていたのだった。
六本木に事務所があるというトランタン・クラブは、忘れずにテレフォンコールを手配してくれたらしい。
るり子という女が電話のむこうで、
「ねえ、おたくにお伺いしましょうか? それとも、どこか外で落ちあいましょうか?」
と、返事を迫っていた。
部屋に来られても、乱雑でむさ苦しいワンルームではいまひとつ、気分が乗らない気がしたので、
「そうだね。おれの部屋、散らかしてるから、外で会おうよ。いつもはどのあたりで仕事してるの?」
「やなおにいさん、仕事だなんて。私はほんの趣味程度に、月に一、二回、事務所から呼びだしを受けているだけなのよ」
「でも、どこか行きつけの店とか、ホテルとかがあるわけでしょう」
「ああ、それはね、あるわ。じゃ、とりあえず、六本木のアマンドあたりで落ちあいましょうか?」
そのあまりにもポピュラーな店の名前が出てきたので、河野はいささか、がっかりした。新機軸の人妻派遣クラブなら、もっと秘めやかで高級感漂う符牒《ふちよう》や、落ちあい方法があるのではないか、と期待していたからである。
もっとも、むこうはただ、客の懐を思って、高級な会員制クラブや料亭で待ち合わせるがごとき無駄な出費を、極力、節約させてくれただけなのかもしれなかった。
ともかく八時にアマンドで落ちあうことになって、河野は電話を切った。
さて……男の夜は、ラグジュアリータイム。化粧鏡にむかって、少しおめかしをし、ムスクを基調にしたロイヤル・コペンハーゲンのコロンで仕上げをし、ポール・スチュワートの白のサマースーツでドレスアップして、マンションを飛びだした。
外は夜がたけなわ。バーボンを一杯、ひっかけていたので、気分に委せてタクシーを駐め、六本木、と運転手に告げた。
車窓から、走りすぎる夏の夜のもの憂い街の灯を眺めながら、事件のことを考えた。
河野が国見良子と会って、二日経っている。
情況は少し、進展していた。相棒の野津原多鶴は、明日香が経営する杉並サニー・ハイツに入居したし、「週刊世界」「女性芸能」をはじめ、幾つかの週刊誌やスポーツ新聞の片隅に、稲垣啓四郎が使っているスカイラインGTのナンバー入り写真を載せて、七月二十一日の深夜または翌二十二日にかけて、箱根塔ノ沢温泉の「望星館」周辺の駐車場及び、等々力三丁目「エクレーヌ駒沢」の周辺で見た者ありやなしや、目撃した方は一報乞う、薄謝進呈、という手の不思議な公開手配書を掲載しはじめていた。
反応が現われるかどうか、楽しみである。
あてにはしないが、期待はもてる。
あと二、三日したら、結果がわかるだろう。
かたや、追跡中だった貝塚達郎に関しては、その後、国見良子から潜伏中の住所を聞きだし、マークしているところである。彼はおかしなことに、南急ナポレオンの社員だった頃に格安で購入していた処分モデルハウスを、府中市武蔵台の雑木林のはずれに据え、そこを仮の住まいにしているようであった。
一度、様子を見に行ったときは、電気が消えていて無人だった。近いうちにまた押しかけて、多少手荒らな方法ででも取り押さえ、ノートの行方や、稲垣啓四郎とのつながりなどを、吐かせるつもりだった。
今、野津原多鶴と手分けして、それとなく監視しているところである。
(今夜はその息抜き。六本木のアマンドに、どんな女が現われるか……?)
一夜のアバンチュール代は、経費で落とせるので、今夜はとても、気が楽だった。
約束の時間少し前に、六本木の交差点に着いた。アマンドに入って、窓際の席に坐って、ビールを飲んだ。
ハイネケンを半分も飲まないうちに、ドアがひらいて、白いサマースーツを着た三十歳くらいの、ソバージュの女が入ってきた。
河野は自分が今夜、ポール・スチュワートの白のスーツを着用してきたことを神に感謝した。白同士。女は、襟元のすっきりしたディナー・ホワイトの服に、トルコブルーのヒールをはいていた。
そこそこ、美しきトランタンと言っていい。
女は、ぐるっと狭い店内を見回したあと、まっすぐ河野のほうに歩いてきた。
「お待ちになった?」
確信のある言い方だった。
「いいや。この通り」
河野は半分だけ減った、ビールの三角グラスをあげてみせた。
「何か飲みませんか?」
「クリームソーダ貰おうかしら」
女は、むかいに坐った。
河野はウエイターに、注文品を言った。
「私、るり子よ。梅津るり子」
「ぼく、河野っていうんだ。よろしく」
「エルメスのネクタイがよくお似合いね」
「いつもはむさ苦しい恰好をしてるんだがね。恋人と会う時くらいは、エンジョイ派の男の夜を作ろうと思ってね」
「ありがとう。恋人と呼んでくれて」
女は、運ばれてきたクリームソーダの、クリームだけをスプーンで上手にすくって、ぺろっと舐め終え、
「出ましょうか」
そう言った。
「そうしましょう」
二人は外に出た。
首都高速道路の高い橋桁の横の舗道には、夜のおびただしい人波が、洪水のように流れている。
「ホテルは、この近く?」
人波の中を歩きながら、腕を組んだ。
「ホテルでもいいけど、もっとさりげない場所のほうが、私、好きなの」
「あ、それいいね。さりげない場所というと……」
「この近くに、すてきなマンションがあるのよ。そこ、私たちがよく利用するレンタルルームなんだけど」
「いつでも使えるの?」
「ええ。鍵も持ってるわ」
「じゃ、お委せするよ」
梅津るり子によると、そこは歩いても近いらしいが、ちょうど空車が通りかかったので、彼女は手をあげて、タクシーを駐めた。
正真正銘の恋人たちなら、夏の夜の六本木をぶらぶら歩くことも、それ自体に意味があるが、河野たちのような組み合わせにとっては、「距離」はただの退屈な「待機」でしかない。
タクシーの狭い空間に並んで坐ると、やっと一体感が生まれた。るり子が、静かに手を重ねてきたせいもある。
トランタン・クラブや梅津るり子という女に関して、何か聞こうかと思ったが、運転手の耳があるので、遠慮することにした。
タクシーはテレ朝通りで、左折した。
横に、静かに坐っている梅津るり子には、華やかな印象の中にもどこやら、暗く秘めた情熱といったものが感じられた。
こんな世界に片足を突っ込んでいる以上、いずれ何かの事情があるのだろうが、この美しきソバージュの女を生臭い官能のるつぼに引きずりこむと、どのような姿態をとるのか。河野はそれを考えると、激しい渇きと意欲を感じた。
(この、ばちあたりめ……!)
河野は少し、変な気がした。
自分はこのところ、殺害された妹美紀の復讐を果たすため、犯人を追跡しているはずであった。それなのに、行けども行けども全面これ女体の山、というありように、片方ではいささか当惑を覚え、片方ではしかし不敵な忍び笑いを洩らしていた。
ともあれ、これはありがたい状況といえよう。河野は秘かに自分をフェミニストだと考えているし、女性に飽くことがない。妹への鎮魂歌は、何も辛気《しんき》臭い顔をして坊主の説教を聞くばかりではないだろう。
「ここよ」
やがて、タクシーは妙心寺の近くの、テレ朝通りに面した一つのマンションの前に駐まった。
降りて、フロントの横の標識板に「エグゼクティブ西麻布」と金文字が打たれているのをみて、おや、と河野は不思議な気がした。
西麻布三丁目のテレ朝通りに面した「エグゼクティブ西麻布」といえば、どこかで、以前、記憶にあるぞ、と思ったのである。
やがてそれが、ほかでもない稲垣啓四郎のマンションであったことを思いだし、微かな胴震いとともに、おかしな偶然もあるものだ、と思わずにはいられなかった。
(まさか、ねえ?)
河野がそう呟いたのは、
(まさか、取材がてらの軽いプレイタイムが、本当に虎穴に入ることになるとは、想像もしなかったぞ……)
という思いからである。
「さ、参りましょう。腕を組んで、いいかしら?」
「うれしいね。お似合いのカップルの、ご帰館」
二人は、エントランスに入った。
るり子は河野の内心の動揺と緊張と、身構えとには、少しも気づいてはいないようである。
広くてきれいなエントランスを、エレベーターホールのほうに歩きながら、河野はさりげなくあたりを観察した。
エレベーターは、すぐにやってきた。
一緒にハコに乗ってから、
「豪華なマンションだね。いつもここで、趣味の腕を磨いてるの?」
仕事といったら、また怒られそうだったので、変なきき方になった。
「ええ、わりと多いのよ、ここ使うの。リース部屋とか、レンタルルームとかがいっぱいあって、家庭的な雰囲気が少ないから、出入りしやすいの」
「たしかに、マンションにしては、生活感が稀薄だね」
「でしょう。六本木不倫館って、呼ばれてるわ」
「へええ、それはトレンディ。いい仕事場見つけたね」
「私が見つけたわけではないわ。事務所のほうから指示されたのよ」
「あ、そういうわけか。ついでにキイも渡されたりするわけ?」
「ええ。でも、キイはいつも指示された部屋の、メールボックスの中に入ってて、私は一度も事務所の人というのを、見たことないのよ」
そんな話をしているうちに、エレベーターは六階に着いた。
「さ、降りましょう。六〇六号室よ」
二人はエレベーターを降りて、通路を歩いた。
稲垣の部屋はいったい、どの階の、何号室なんだろう、と思いながら、通りすぎてゆく部屋のネームカードを見あげていったが、不思議なことにネームカードの入っている部屋は少なかった。
「ずい分、空き部屋が多いね」
「空き部屋じゃないのよ。みんな所有者はちゃんといるらしいのよ」
「あ、そう。でも、いったいどこが管理してるの?」
「南急ナポレオンという住宅会社がこのマンションを建てて、管理してるらしいわ」
(ええーッ、南急ナポレオン……!)
ガーンと、河野は頭を殴られたような気がした。
(そうか。それで稲垣は社員割引か何かで、このような高級マンションの一室を手に入れて、住んでいるわけか)
それはわかったが、その曰《いわ》くありげな虎穴に自分が入ってきたことの偶然と必然が、いまひとつ、河野にはわからなかった。
「あら、何ぼんやりしてるのよ。ここよ」
たぶん、河野は、脳震盪《のうしんとう》を起こしたような顔をしていたのかもしれない。
六〇六号室の、ドアがあけられた。
内心の驚愕を隠すように、部屋に入ってすぐ、ドアを閉めながら、河野はるり子を抱き寄せた。
「ああん……」
るり子は、風のようにそよぎかかった。
二人は軽いキスをした。
その瞬間から、るり子はすてきな女になった。舌が巧妙にからんでくる。
「おふろは?」
接吻を解いてから、きいた。
「いっしょに入ってくれる?」
「あ、いいね。喜んでおともしますよ」
二人はもつれあって、部屋にあがった。
3LDKの豪華な部屋。アールデコのモノトーンで統一された家具、調度も整っている。これでリースなら、便利で安いものだ、という印象を抱かせる。
手前がリビングで、奥が寝室。河野は上衣を脱ぐと、リビングのソファの背に放りなげ、浴室に入ってバスに湯を張った。
脱衣場に戻ると、そこにるり子が入ってきて、河野は彼女の手で上手に服を脱がされ、ベルトをはずされ、スラックスを脱がされることになった。
るり子は、男の衣服を脱がせるのも、鮮やかな手つきだった。部屋に入った瞬間から、控え目そうだった人妻は、もう見事に、女そのものに変身しつつあるようである。
ブリーフを脱がせ終えると、いきり立っている河野のからだを、跪《ひざまず》いてるり子は握りしめ、
「すごいわ」
幾分かすれた声で、そう言った。
瞳にきらめきが湧き、頬を寄せた。
しかし、口はつけずに、よろめくように立った。
「さ、入ってて……すぐいきます」
「いや、ぼくもあなたを脱がせたい」
今度は河野が、るり子を裸にした。るり子は芯をぬかれた人形のように、脱がされるままになっていた。
さほど、迫力のある身体というわけではない。乳房も尻もぐんと張ったというタイプではなく、むしろ細目の、スレンダーな肉づきなのだが、それでいて、肌は粘りつくように白く光ってはずんでおり、どこもかしこも、敏感そうな身体つきだった。
ヘアも濃くはない。ほんのりと翳《かげ》っている。
お上品な人妻。でも、それでいてどこやら身内に勝手放題なことをしたがる獣を飼っていて、その美しき獣の始末をつけかねている――。
梅津るり子は、そんなふうな印象の女だった。ふたりは抱きあって、風呂に入った。風呂の中で、るり子は握ってきた。
「トランタン・クラブって、人妻派遣組織って聞いてるけど、あなたはふつうの人妻には見えないな。ディスコギャルが、そのまま完熟したみたい」
「これでも一応、結婚はしているのよ。亭主は広島。単身赴任中だけど」
「ああ、そうか。それなら話がわかる」
「クラブのコって、たいてい、そんな具合よ。でなきゃ、昼はともかく、夜は勝手に外出できやしないわ」
単身赴任といえば、伊集院明日香の夫もそうだったな、と河野は思いだした。近いうちにもう一度、あの奥さんには面会を求めてみよう。
(どうしても、箱根の一夜のことを思いだしてもらわなければ困る……)
(それにしても明日香の夫って、どんな男なんだろう。今まで一度もそちらのほうを考えたことはなかったけど、急に気になってきたな――)
河野は頭でそんなことを思いながら、
「会員は何人ぐらい、いるの?」
トランタン・クラブについての、探りを入れている。
「二十人か三十人ぐらいかしら。私にもよくわかんないけど」
「三十人とは凄い。事務所はこの六本木にあるの?」
「ええ、そう。どこにあるかは、私にもわかんないのよ。私たちは電話一本で指示されて動いてるだけだから」
「どうしてはいったの? そんな組織に」
「暇をもてあましていたし、お金になるもの。お友達に誘われたのよ」
「客はお金持ちの連中ばかりだろうね」
「そうみたいね。政治家、会社社長、重役、お医者さん、不動産持ち……いろいろよ」
二人は湯の中で軽くそよぎかかって、接吻をした。そうしながら、河野はるり子の秘部に手を這わせた。
「ああん……」
と、声を洩らして、るり子は唇を離してのけぞり、しがみついてきた。
指の先には明瞭に、濃いうるみが感じられる。濃いうるみは秘唇からあふれて、指に快かった。すぐ身内に炎がまわるたちの、かなり敏感な人妻のようである。
河野はやがて、肉の芽をさぐりあてた。
そこは、茂みの下でこりっと硬く充血し、突きだしはじめている。
「ふっくらとして……すばらしいね」
「そっとしてよ……それ、強すぎるわ」
るり子は、喘ぎはじめた。
でも河野は、風呂の中でそれ以上、事態を進展させるつもりはなかった。るり子も喘ぎが強くなりはじめ、
「ね、これぐらいにしましょ。私、お風呂の中では弱いの」
「そうしようか。本番に、期待してるよ」
河野は先にあがって、バスタオルで身体を拭きながら、寝室にむかった。
2
寝室の明かりは、程よく絞った。
河野は先にベッドに入って、煙草に火をつけながら待っていた。
やがて、るり子が浴室からあがってくる気配がした。彼女は親切にも、脱衣場で脱いでいた河野のスラックスやワイシャツや下着類まで、山のように両手に抱えて持ってきてくれたのだった。
寝室のハンガーを取って、スラックスを吊るしてくれた。それから上衣やワイシャツをハンガーにかけていたようだが、
「あ、ごめんなさーい」
声がしたので起きあがると、何かのはずみにワイシャツがすべって、胸ポケットから櫛や名刺や紙幣などが、床に落ちて散らばった。
(いつかの、貝塚達郎の失敗みたいだな……)
男の胸ポケットというものは、案外、頼りなくて、中のものがよく飛びだすのである。
それはいいのだが、床に散ったものを拾いあげていたるり子が、ふと、
「あら、稲垣さんじゃないの」
と、素頓狂な声をあげた。
その時、彼女の手には、一枚の写真が握られていた。それは、河野の名刺とともに床から拾いあげたものである。
たしかに、その写真は稲垣啓四郎の顔写真であった。河野が取材のおりをみては、等々力のマンション周辺や、箱根の望星館周辺で、聞き込みをした時に使っていた名刺型の写真である。
「こういう人を見かけませんでしたか?」
と、刑事たちが聞き込みをやる時の、あの要領で使っていたものであった。
「え、稲垣さん、知ってるの?」
河野のほうが、びっくりした。
「ええ、知ってるわ。だってあの人、このマンションに住んでるもの」
(ああ、それはね。それはそうだけどー)
「稲垣さんがこのマンションに住んでることは、ぼくも知ってるよ。でも、あなたと面識があったとは、予想外だったなあ」
河野は最初、この梅津るり子と稲垣啓四郎とは、トランタン・クラブの客と女、という関係で知っているのかと、安直に考えていた。
しかし、
「あの人、南急ナポレオンの課長さんでしょ。うちの主人がね、家のことで色々相談していた時、出入りがあったのよ。その上、このマンションでもぱったり顔をあわせたりして、何となく、くされ縁っていう感じ……」
「へええ、世間は狭いね。今、あの人、大変なんだろう。愛人が殺されて、彼にも疑いがかかっているとかで……」
「ああ、あのOL殺しね。私も新聞で読んだり聞いたりしたわ。でも、あの人は事件当時、箱根に行ってたから、関係ないんじゃないの」
(おやおや、この女は、どうしてそんなことまで知っているのだろうか?)
新聞で一部、報道されたかも知れないが、容疑者AとかBとかの仮名であって、稲垣の実名は出ていなかったはずだった。
「箱根のアリバイか。ぼくも実は、ちょっとあの事件を調べてるんだけどね。稲垣さんのアリバイって、あれ、本当なのかなあ」
「本当でしょう。だってあの頃、私も箱根であの人に会ったもの。彼は気づかなかったかもしれないけど」
(ええーッ!)
河野はベッドに起きあがり、思わずあぐらをかいた。
「それは、いつ?」
聞き返す声が、真剣になっている。
「ええーっと……先月の第三土曜日だったから、事件当日の七月二十一日だったと思うわ。私はボーイフレンドとゴルフがてら、強羅に出かけたんだけど、お昼頃、箱根湯本の駅であの人をちらっと、見かけたのよ。よほど声をかけようかと思ったけど、こちらには男の連れがいたし、稲垣さんも何やら、急いでいたようだしさあ」
るり子は、手にしていたワイシャツをハンガーにかけながら、そんなことを気軽に話している。
世間話のような調子である。
しかし河野はそれどころではない。
箱根の目撃者が、とうとう現われたのだ。
(面白い偶然が重なるものだな。おれとこのるり子とは、赤い糸で結ばれていたらしい)
河野はそう考えた。しかし、大脳の一点が、パトカーの屋根の回転警告灯のように、チカチカと明滅している。
(今の話、……しかし……どこか変だぞ)
と、そう思ったのである。
稲垣と明日香が箱根に行ったのは、たしかに二十一日の土曜日である。それは明日香からも確かめている。だが箱根に着いたのは、夕方だったのではあるまいか。お昼頃、彼を箱根で見かけたという、このるり子の話は、どういうことだろう?
「稲垣さんはその時、当然、女性同伴だったんでしょ? どんな女性だったか、憶えてる?」
「いいえ、違うわよ。私が見た限りでは、あの人、一人だったわ。私たちが乗ったロマンスカーが箱根湯本駅に着いて改札口を出た時、ちょうどあの人は反対に、外から一人で急ぎ足で改札口のほうに歩いてくるところだったのよ」
るり子はベッドにあがってきながら、そう言った。
るり子と稲垣の、箱根湯本駅での出会いとすれ違い、というのは、よくわかる。しかし、わからないのは、それが夕方ではなく、昼間のことであり、しかも稲垣一人だったということである。
それも新宿に戻るために、改札口に入っていったということだ。
何もかも、話があべこべのようである。
これは、どういうことだろう。
稲垣はその夕方、明日香と一緒にロマンスカーで、箱根に到着したはずである。
(とても変だ……とても……)
河野の大脳がざわつき、思考をあつめ、あぶら汗が出そうになった時、あッ、と彼は声をあげそうになった。
(そうか。そうだったんだ!)
思わず膝を、打ちたくなった。
脳裡に、ある仮定が閃いたのである。
(もしかしたら、彼は午前中に一度、ある目的があって、一人で箱根に行き、トンボ返りに東京に戻って、約束の時間に新宿で明日香と落ちあい、それから何くわぬ顔をして再び、ロマンスカーで明日香と仲良く箱根にむかったのではあるまいか?)
最初に一人で行ったある目的とは、何か?
それは、車である。
もし、美紀殺しの真犯人が稲垣で、彼は明日香と密会旅行をすることで箱根にしっかりしたアリバイ工作を施した上で、美紀を殺害したとするなら、どうしても車が必要である。
明日香とは、ロマンスカーで行ったのだから、それ以前に車を箱根に置いておく必要があった。その車をどうしたのか、というのが、これまでも河野にとっては疑問だった。
今のるり子の目撃談が本当だとすれば、その謎は解けるのである。
彼は朝のうちに、マイカーを運転して箱根に行き、ホテル「望星館」裏の駐車場かその周辺に車を置いておき、それから一旦、東京に帰ったのである。
その帰途、箱根湯本駅の改札口で、はからずも梅津るり子に目撃されたのではあるまいか。
河野は、そう考えた。
その解釈が一番、間違いないようである。
河野は、このすばらしい目撃談をプレゼントしてくれた梅津るり子が、天使のように思えてきた。
「るり子さん、ありがとう。ところで、今の話、誰かに話したの?」
「いいえ、誰にも話してないわ。だって今、写真をみて、たまたま思い出したことだもの」
「ああ、それはよかった。当分、誰にも話さないほうがいいよ」
「え? どうして?」
「理由は言えない。もうしばらく、口を噤《つぐ》んでいてくれないか。大事な時になったら、あなたに証言してもらうから」
「え……? 証言? すると、それって、何か殺人事件に拘わる大事なことなの……?」
るり子は急に恐ろしい、という顔をした。
「恐ろしいことは何もない。さあ、ぼくたち、楽しい仕上げをやろうよ」
ベッドの上であぐらをかいたまま、不意に抱きしめたものだから、るり子は苦しそうに抱き寄せられながら、
「ああん……乱暴なんだから、もう」
ちょっと、待って、と抗った。
「あなた、いったい、何者なの?」
「ン?」
「あの事件のことをずい分、気にしているようじゃないの」
「ああ……それはね、あとで白状するよ。あなたに、協力してもらいたいこともある。今はぼくたち、ほら、メイクラブの最中だろう」
「勝手なんだから、もう」
「いいから、いいから」
河野は激しいキスを見舞った。
そのまま、押し伏せたい衝動に襲われながら、一方ではなぜか、神々しく思えてきたるり子の女体に、何かもっと変わった方法でお返ししたい、という気持ちになって、河野はあぐらをかいたまま、拝むようにるり子の乳房に唇を移した。
背中を抱いていた手の片一方が、るり子の股間にまわる。茂みを撫でた。茂みの下が、潤んでいるのを確かめるうち、河野の尊厳はみるみる猛々しい意欲のしるしを見せてきた。
「そうだ。ね、ここに跨《またが》って」
河野は荒々しく、スレンダーなるり子を抱えあげ、あぐらをかいている自分の膝の上にのせた。
「まあ、お釈迦様スタイルをやろうというの」
「知ってるのなら、助かる。ね、そのまま、腰を少し浮かして、入れてみて」
河野の指導を受けて、るり子が腰を浮かし、焦点を結ぶように、位置を決めた。
対面坐位である。
「そっと、ぼくに抱きついてきて」
るり子の女が、河野の男にあたり、うごめき、収まりかけている。
ゆっくりと入っていった。抵抗がない。なめらかに進んで、安定した。
「ああ……やっと」
るり子が、熱い吐息を洩らした。
直後、あたたかく濡れた膣圧が、分身をしっかりと押しつつんできて、女体のどよめきが感じられてくる。
河野は、ゆっくりと動きだした。このスタイルだと、男のほうはあまり大きくは動けない。しかし、女体をあがめるように抱きしめて、乳房に接吻しながら、下から逞しいしあわせを送ることはできる。河野は深く送り込んで、かきまわした。ああッ……と、るり子は河野の首ったまにしがみついて、大きく反りながら、声をたてた。
河野は下から、ゆっくりと漕いだ。
しかしおおむね、るり子のほうが主導権をとって漕いでいる。そうやって結ばれあった二人の姿が、ベッド横の壁面の鏡に映っていた。そこに鏡が張られていることは、先刻から気づいていたが、その時、改めて、
(おや、壁に鏡があるなんて、ラブホテルみたいだぞ。リースマンションとはいうが、これは相当、凝ってるんだな)
少し、奇妙な気がした。
まさかその鏡が、マジックミラーになっていて、むこうの部屋から誰かに覗かれていることなど、河野はその時は、予想もしなかったのである。
それよりも今、眼の前に熟れた、すてきな女体があった。とくに対面坐位だと、眼を転じると、白く輝くような白磁の女体の下腹部を飾る房々とした黒い毛が、男の毛とこすれあっているさまが、よくみえる。
艶やかな剛毛と、少し柔らかい縮れめのヘア。一本、一本、草結びができるほど、入り混った奥の割れ目に、河野自身の尊厳が濡れてあつかましく、出入りしている。
河野が下から捏《こ》ねるたび、
「あふっ、あふっ」
と、るり子は波にがぶられる舟のよう。
河野は、分身の猛りが、今夜はばかに調子がよいことを感じた。やはり、このるり子から思いがけない収穫を得たからだろうか。
昂揚感があった。
そのままの勢いで攻め込みをつづけ、るり子がほとんど、ヒューズをとばしそうになった瞬間、河野は対面坐位を解いて、るり子を押し伏せると、いきなり両下肢を分けて、挿入しなおした。
「ああん……」
るり子は再び、身体をうねらせた。
通路の内側は、蜜液でいっぱいだった。
河野はフィニッシュにむかうように、かなりピッチをあげて、抽送をつづけた。
あ、あ、あ……と、るり子は絶え間なく、かすれた切迫音をほとばしらせながら、白い喉をみせて、大きく反った。
「気が遠くなりそう」
るり子はもうほとんど、到達寸前だった。
河野はフィニッシュにむかった。激しいストロークに、小刻みなパンチを加えた。るり子が、シーツの端を掴んでヒューズを飛ばしそうになった時、河野ももうほとんど、爆発寸前だった。
「ああ……なんだか……目まいがしそう」
――それからほんの一瞬後、駆けあがっていたるり子の峠で、河野も激しく自分の縛《いまし》めを解いていた。
3
電車が駅のホームにすべりこんだ時、ポケットベルが鳴りだした。地下鉄丸ノ内線の新宿三丁目駅だった。
降車客といっしょに押しだされるようにして、河野はホームに降りて、階段をあがった。
改札口を出たところに、電話があった。
オフィスに電話をかけると、
「ノンちゃんから電話が入ったよ。大至急、次のところに電話をしてくれってさ」
ヤマちゃん、と呼んでいる山下重勝というスタッフの一人が、電話の受けつぎをしてくれた。
「いいかい、メモしてよ」
河野がその電話番号をメモすると、
「ここんところ、二人でこそこそ、何やってるんだい。ノンちゃんと豪さん、眼の色かえて飛びまわってるじゃないか」
「正直いうとね、妹の事件さ。そのうち、ヤマちゃんにも手伝ってもらうことになるかもしれんので、よろしくな」
「あ、美紀さんの件か。大方、そうじゃないかと見当つけてたんだ。水臭いぞ、おれに打ちあけないとは」
「ごめんよ。お忙しいヤマちゃんを巻き込むまでもないと思ってたんだ。近く何か頼むかもしれない。その時は協力してよ」
電話を切ってすぐ、受話器を取り直した。
告げられた電話番号をプッシュすると、
「はい、カーネギーですが」
若い女性の声。たぶん、喫茶店か何かだな、とピンときたので、
「すみません。そこに野津原という人、いると思いますが、呼んでいただけませんか」
「はい。少々、お待ち下さい」
呼び出しのアナウンスさえも聞こえないうちに、多鶴が受話器に出てきたところをみると、彼女はすぐ傍の席にでも待機していたらしい。
「あ、私よ。早かったわね」
「ヤマちゃんが知らせてくれたよ。多鶴は今、どこなんだい?」
「府中よ。例の――」
あ、と河野は思い、
「ありがとう。何かつかめたか?」
「三度目の正直って、このことね。三回目にしてやっと大当たりだったわ。帰ってきたのよ、あの男が」
あの男、というのはむろん、捜していた貝塚達郎のことである。
「それは、ありがたい。それで今、やつは家に?」
「いるわ。お昼すぎにぶらっと戻ってきたので、何やってるのかわかんない男ね。大至急、こっちに来てよ。今日とり逃がすと、またいつ会えるかわかんないわよ」
「よし、車、素っ飛ばしてゆくよ。それまで、見張っててくれないか」
「OK。じゃ、大至急ね」
電話を切って地下鉄の階段をあがり、伊勢丹の角から外に出た。
外は夏の薄曇り。午後四時である。百人町のオフィスのほうに急ぎ足で歩きながら、でかしたぞ多鶴、と河野は唸りだし、叫びだしそうになっている心を抑えかねていた。
六本木でトランタン・クラブの梅津るり子と会った翌日である。府中郊外の貝塚の隠れ家に張りつかせていた多鶴からの、シグナルであった。河野は勇躍、オフィスに寄って車をひっぱりだし、多鶴が待ち構えているという府中郊外にむかった。
木曜日午後の甲州街道の下り車線は、明大前あたりで多少、渋滞していたくらいで、あとは比較的、すいすい飛ばせた。
途中、烏山でガソリンスタンドに寄って、満タンにした。
四十分で府中市に着いた。調布の小島町で右折し、府中刑務所と東芝工場の横を通って、国分寺のほうにかなり走った左手が、武蔵台とよばれる地域である。
大きな病院や住宅や、住宅予定地の草ぼうぼうのところや、雑木林がこんもり残っているところなどがあった。
目印のたばこ屋の角を曲がった時、横あいから多鶴が飛びだしてきて、手を振った。
(おっと、こんなところにいたのか)
急ブレーキを踏んでスプリンターを駐めると、助手席に多鶴が乗り込んでくる。
貝塚の家は、まだ二百メートルぐらい、先のはずであった。
「どうしたんだ? こんなところで」
「いま、貝塚はこの近くの食堂に入ってるのよ。Tシャツにサンダルばきだったので、すぐ家に戻るつもりだと思うけど」
「食堂……? どこ……?」
「もう走りすぎてるわ。食堂といっても、ラーメン屋みたいなところだけど」
「よし。それじゃ、家の近くに先回りしていようか?」
「あ、そのほうが、いいみたいよ」
偵察員の多鶴も目立たないよう、今日はこざっぱりした白のシャツブラウスに、ジーンズという恰好だった。
河野は車を徐行させて、こんもりした崖下の雑木林を背にした貝塚の家の横に、車を駐めた。
家といっても、出来あいのモデルハウスを組みたて直したものである。それでも一応、大谷石の塀や門柱や門扉までがあった。
(はてな、土地も、やつのものなのだろうか……?)
もしそうだとしたら、たいした財産持ちである。しかし、何やら事情があって八幡山の自動車セールスマンもドロンして、ぶらぶらしているらしい貝塚の所有する土地、という気はしなかった。
(ま、他人の懐具合は、どうでもいいさ)
どうでもよくないのは、その貝塚に奪われた美紀のノートが今、どこにあるかであり、そこに何が書かれていて、貝塚と稲垣との関係、または貝塚が美紀の殺人事件にどう関与しているかであった。
「友人の別荘、うまくいったかい?」
車を目立たないところに駐めて、煙草に火をつけてから、多鶴に聞いた。
「使っていいって。キイも預かってるわ。今日中に貝塚に吐かせる段取りまで持ち込んだほうが、いいかもしれないわね」
「箱根のどこだったっけ?」
「姥子《うばこ》の山荘。いってみれば、芦ノ湖のほとりの森の中よ」
「ああ、あのあたりなら、あまり人眼にもつかないな。うまくいったら、今日中にそういう段取りまで、持ち込むか」
「うまくいったら、の話だけど」
「ああ、うまくいったらの話だけどね」
煙草を一本、吸うまでもなかった。
「あ、来たわ」
多鶴がバックミラーを見て言った。
「ほら、あいつよ」
黒いTシャツに、ジーパン。サンダルばき。両手をジーンズのポケットに突っこんで、ひょいひょい、と、前屈みに拍子を取るような歩き方で近づいてくる若者である。
若者といっても、パンチパーマの二十六、七歳だ。人相では、はっきりとは判別がつかなかったが、あの夜、妹のマンションの暗い隣室から体当たりしてきたやつに違いなかった。
「よし、ぼくに委せろ」
いつぞや頭突きをくらったり、鳩尾にパンチを打ち込まれた怒りもある。河野もいざとなったら、やわじゃないのである。
貝塚は車の傍を通りすぎて、門扉のほうに歩いていく。
河野はその傍まで、車をすべりこませた。
ドアを少しあけて、
「貝塚さんだね?」
「なんだよう、おまえ」
眼がとがって、むけられた。
むこうも、すぐには美紀の兄、河野豪紀であるとは思いださなかったようである。
「ちょっと、話があるんですがね」
河野は勢いよく、ドアを押しあけた。
貝塚はドアではじかれて、低い大谷石の塀と門柱のあたりに、身体を打ちつけて、よろけた。
「てめえ――」
怒りだす前に、河野は飛びだして、肩をつかんで引きおこした。そのまま石の門柱に、貝塚の頭を打ちつけた。あまり強くやると、門柱が壊れそうで、もったいないので手加減した。それでも脳震盪《のうしんとう》を起こしたように、貝塚は眼をまわし、気絶し、ぐったりとなった。
腕を捻じあげて、車の中に押し込んだ。河野もリアシートに乗り込んだ。
人狩りは一分あまりで終わった。あたりのどこにも人影はないし、騒ぎだす人間もいなかった。
「多鶴、いいよ。走ってくれ」
多鶴が無言で、車を発車させた。
4
多鶴が友人から借りた別荘は、芦ノ湖の湖畔にあった。
姥子の森の中である。丸木を組んで建てた、いかにも山小屋といった感じの建物で、あまり大きくはない。
河野と多鶴がそこに着いたのは、雑木林がもう夜の闇に包まれようとする時刻であった。多鶴が運転するスプリンターが別荘の表に着くと、河野は、両手をビニールロープで縛りつけた貝塚を、車から引きずりおろし、別荘の中に押し込んだ。
電気をつけると、一階は吹抜けのリビング。二階が寝室やゲストルームという構造であることがわかったが、とりあえず一階のリビングの中に貝塚達郎を引きずり込み、そこのソファに、突きとばした。
貝塚はソファに叩きつけられて、
「て……てめえら、なんでこんなことをするんだよう」
箱根の山に差しかかるところあたりから、彼は車中で意識を取り戻していたのである。
河野はその傍に坐って、襟首を掴みあげた。
「言葉つきがあまりよくないな。あんた、その筋の者かい」
「ふざけるな。おれはまじめサラリーマンだぞ。今はちょっと、事情があってデューダ先を探しているところだけどな」
「八幡山の東京自動車にはもう戻らないのかい」
「戻ろうと戻るまいと、おれの勝手だろ。てめえら、いったい、何の権利があって、こんなこと、しやがるんだよう!」
「それだけの元気があれば、心配ないな。門柱に頭をぶつけたので、内心、ひやっとしてたんだぜ」
「人の頭を怪我させておいて、ただですむと思うのか。覚えてろよ!」
「おれはとっくに、覚えてるぜ。ところであんた、おれの顔を覚えていないのか? え?」
「知らねえよ。てめえ、どこの者《もん》だ」
「空巣に入っていた等々力のマンションで、おれに体当たりしてきたのは、あんただったぞ」
微かに、あ、という間のびした驚きの表情が貝塚の顔にはしった。
「ついでにいえば、おれはあんたらに殺された河野美紀の兄、豪紀という者だ」
貝塚は一瞬、口をあぐあぐとさせたが、
「殺しただと……? おれが……? 冗談じゃねえ。おれは美紀なんかを、殺してはいないぜ……!」
叫ぶように言った。
あわてて激しい口調をとったところを見ると、半分は本当のようである。
「だが、あの日、美紀の部屋に忍び込んでいたのは、あんただ。これは間違いない。美紀の部屋で盗んだノートは、どこにやったんだ!」
河野は襟首をしめあげ、ソファの背に貝塚の頭を押しつけた。
「ノート。知らねえよ、そんなもの」
のけぞりながら、貝塚が抗弁した。
「とぼけやがる。机の引出しにはいっていたものを盗みだしたのは、おまえじゃないか。なぜ、盗みだしたんだ――」
「おれは何にも、盗みだしちゃいないぞ。忍び込んだ覚えもない」
河野は少しかっとして、往復ビンタをくらわした。
「おれに頭突きをくらわしたのは、おまえだ。蹴りつけて逃げだしたのも、おまえだ。蹴られたり、頭突きをくらったりした被害者のおれが、証言しているんだから、これ以上、たしかなことはあるまい。さあ、本当のところを、吐け」
往復ビンタをくらっても、首を絞めあげられても、貝塚はぎらぎらする眼で睨みつけただけで、唇をぎゅっと結び、口を割らなかった。
「じゃ、質問をかえよう。稲垣とおまえは、どういう関係なんだ」
「稲垣なんて人間は、知らねえよう」
「この野郎、おれたちをばかにするのか。おまえが、元南急ナポレオンの住宅セールスマンであったことは、もうネタが割れてるんだ。元社員なら、稲垣はおまえの上司だったんじゃないのか。えッ!」
「それが、どうしたというんだ?」
「南急では、稲垣の部下だったんだろう? 美紀ともそこで一緒に働いてたんじゃないのか?」
「働いていたら、どうしたというんだよう」
「そのおまえは、ある事情で南急をくびになった。それは、どういう事情だったんだ?」
「そんなことをあんたに説明する理由は、ないだろう」
「言っとくがな、美紀はおれの妹だ。妹を殺したやつは、許せない。おれには、どいつなのか聞きだす権利はあるんだ。え、美紀を殺したのは、おまえか?」
「し……知らねえよ」
「じゃ稲垣か? 稲垣が何かの都合で、邪魔になって、美紀を殺したのか? え? 正直に吐いたら、どうなんだ!」
河野は少し、熱くなりかけていた。
いや、相当に熱くなっていたのかもしれない。
もう少しで、貝塚の襟首を絞めあげすぎて、落としてしまうところだった。
「豪さん」
多鶴が後ろから、肩を叩いた。
「だめだめ。それ以上やっても、むだよ。その男、しばらくこの別荘に閉じこめといて、恐い思いをさせなければ、収穫はないと思うわ」
「そういうことか」
(たしかに、おれの性分だと、へたをして、殺しちまうかもしれないな)
「そうよ。そんな暴力ふるって、万一のことがあったら、あぶはち取らずになるわ。ね、そうしましょう」
多鶴に囁かれて、少しは血が正常な循環に戻りはじめていた。
「よし、そうしよう。多鶴、洗濯物を干すビニールロープか何かないかな」
貝塚は半ば気絶しかけていて、もうぐったりとなっていた。
両手は縛っている。あとは、両足である。ロープがなければ、ベッドのシーツを裂いて即席ロープを作るつもりだった。
だが、多鶴が風呂場から黒いビニールロープを引っ張りだしてきた。それで、貝塚の両足首も、きつく縛った。
そうして二人がかりで、貝塚を一階の風呂場の中に押しこんだ。窓の戸締まりをきつくやり、ドアをしめ、リビングに戻ったところで、二人とも顔を見合わせて、ハアハアと荒い息を吐いた。
「腹が減ったな。飯はないのか?」
「さっき、冷蔵庫をあけてみたけど、何もはいってなかったわ」
「じゃ、出ようか。このあたり、夜は早いから、早めに脱出しないとやばいよ」
「そうね。元箱根か堂ケ島、湯本あたりまでゆかないと、食事にありつけないわよ」
「よし、そうしよう。別荘に鍵をかけて、あいつはしばらく闇の中で恐怖を味わわせておくか」
第七章 赤い闇の殺人
1
伊集院明日香の身の回りでは、数日間、これという変化はなかった。
夫の京輔はいつのまにか仙台支社に戻り、東京転任にともなう取引先への挨拶まわりや、帰京準備にとりかかっているようであった。
明日香は頭の中に、解けきれない幾つかの疑問の塊りをもちながら、日常の家事、つきあい、子供の学習の面倒見などに、精をだした。
稲垣から電話もこないある日、明日香は、なんとなく思いだして気にかかっていたことを確かめるために、自分の部屋に入り、化粧|箪笥《だんす》の奥から、短大時代の卒業生名簿をひっぱりだした。
明日香の頭の中では、何といっても先週の金曜日、稲垣啓四郎に会うために訪れたテレビ朝日通りの「エグゼクティブ西麻布」で、ひょっこり夫の京輔を目撃したことが、今でもショックとなって、尾を引いている。
箱根で密会の一夜を明かした稲垣に殺人の疑いがかかっているらしいことへの心配と不安に加え、夫、京輔の挙動不審もまた気掛かりであった。
今は仙台に戻っているようだが、もしかしたら、先日のようにひょっこり東京に来ていて、あの「六本木不倫館」とよばれるマンションに出入りしているのかもしれなかった。
(京輔はいったい、何を考えてるんだろう……)
今、短大時代の同級生、稲垣見栄子の住所を調べているのも、京輔のことが気になり、あのマンションの正体が気になるからであった。
(たしか、見栄子のすまいも西麻布のマンションとか言ってたわ……)
ぱらぱらとめくっていた指がふと止まり、眼はそこに釘付けになった。
予想どおりと言おうか、思いがけないことにと言おうか。稲垣見栄子の住所は、港区西麻布三丁目××番地、エグゼクティブ西麻布八〇八となっていた。
明日香の驚きは去らない。
(見栄子も、やはり、あの愛人マンションに住んでるんだわ……)
夫の京輔があの愛人マンションに通っていたことと、見栄子がそこに住んでいることとは、まったくの偶然だろうか。
それとも、何か意味があることだろうか。
夫は、見栄子のところに通っていたのだろうか。
そんなばかなことはない。
ふつうに考えれば、この二つのことは、偶然であると思える。
見栄子は、稲垣啓四郎の妹だから、稲垣の会社南急ナポレオンが建てたマンションに住んでいるとしても、それ自体はさほどおかしくはない。分譲であれ、賃貸であれ、社員割引の便宜を受けて、少しは安くしてもらっているのかもしれない。
だいいち、夫の京輔と見栄子の接点というものが、考えられるだろうか?
明日香は宙に眼をむけた。すると、胸がドキドキしてきた。まったく、接点が「ない」わけではないのである。妻の親友というのは、案外、夫とも日常的に、何かとつながりができるものである。
三年前の同窓会の帰りに、数人の仲よしグループを自由ケ丘の家に呼んだ時、京輔も紹介して、一緒にホームパーティを開いたことがある。
「銀行員らしくない、すてきなお嬢さんだね」
と、当時、京輔が見栄子のことを噂していたのを憶えている。
それ以来、見栄子が勤める銀行には、おつきあいのために口座を開いた。通帳の名義人は京輔であった。
京輔が銀行の窓口に通ったりしているうち、親しくなって外で食事でもするようになる、これは、考えられる。そうして、やがて二人が親密になる、というようなケースは考えられないか……?
よくある男女の出会いと不倫として、充分、それも考えられる組み合わせのような気がした。
何といっても見栄子は、二十九歳の独身で兄の啓四郎とも部屋を別々にして、シングル生活を楽しんでいるのである。
(でもでも……まさか、ねえ……)
明日香は、稲垣に電話をしてみようと思った。見栄子本人に確かめるより、稲垣にそれとなく見栄子のことを聞いてみよう、と思ったのである。
しかし、その午前中、稲垣は会社にはいなかった。
午後になって、もう一度、電話をかけた。どうしても稲垣の声を聞きたかったし、見栄子のことを口実に、会いたくもあったのだ。
しかし、都内の現場回りをしているらしく、午後二時になっても、稲垣は掴まらなかった。
(ふン、自分が都合のいい時ばかり、調子よく電話してくるんだわ……)
明日香はいささかむくれて、スーパーに買い物に出かけるついでに、杉並区堀ノ内まで車をとばして、完成し、入居者が入りはじめている杉並サニー・ハイツを見ておこうと思った。
明日香は鏡台の前に坐って、手早く化粧を終えると、ワードローブの扉をあけ、掛け並べてある服を見渡した。濃青色の地に鮮やかなオレンジとピンクの花模様の浮いたレオナールのワンピースを取りだし、身につけると少し気分がしゃっきりとした。
バッグと車のキイを持ち、部屋を出た。
ガレージは、庭の片隅に切っている。
真紅のBMWに乗って、勢いよく外に出た。
街は夏の午後のもの憂い空気の中に、浸されていた。道はあまり混んでいるほどではない。明日香はスーパーは後回しにして、サニー・ハイツに先に行こうと思い、自由ケ丘から目黒通りに出、碑文谷から環状七号線に入って、堀ノ内にむかった。
南急ナポレオンに委託して建てた明日香のマンションは、もうちゃんと、そこに完成していた。完成しているだけではなく、輝いてみえた。新機軸のタウンハウスは、庭に花壇があり、石段をのぼったところに玄関。一、二階を含めて一つの「家」という立体的なマンションとなっていて、都心部では珍しかった。
敷地の三分の一が、まるまる余力を残して庭園となっているのも予想外の設計だった。二棟ある。全棟で十八戸あり、ほかに独身者用のワンルームが四部屋あった。その中で明日香は一部屋は、自分用にキープしている。
入居者は八割方決定していて、ちょうど、続々と引っ越しがはじまっているところだった。
明日香の部屋は、二階の棟端である。
部屋に入って、ひと息ついた。まだ女の城というほどではない。鏡台やベッドなど、一応の家具は入れているが、真新しい部屋は馴染みも生活感も薄く、どこかよそよそしく、がらんとしている。
窓辺のレースのカーテンを少しあけ、煙草に火をつけた。ほっと一息つきたい時、これからはここに来ればいいんだわ、と安心して、呟いた。
マンションの管理はすべて南急ナポレオン・ハウジングに委せているので、明日香がやることは、何もなかった。ここで、住民たちに対してオーナー気取りもできないかわりに、反対に、大家としての苦情処理の苦労も免れるわけであった。
一服して明日香が部屋を出ようとした時、片隅のテーブルの上の電話が鳴りだした。
(あら……?)
と、明日香はたち止まって、怪訝《けげん》に思った。
ここに電話があることを知っているのは、まだ今のところ、ごく少数の人間のはずだった。
(稲垣が電話してきたのだろうか?)
(そうよ、きっと。テレパシーだわ!)
明日香は微かな心の弾みを覚え、受話器をとった。
「もしもし……伊集院ですが」
しかし、電話は稲垣からではなかった。
「奥さんかい?」
はじめて聞く、ばかに馴れ馴れしい男の声が、受話器に響いた。
「そうですが」
「家に電話をしたら、そちらだというので、かけ直しました。ご主人は今、東京に戻ってらっしゃいますが、その行先、知りたくありませんか」
唐突に、妙なことを言う。
「え?」
「今日もご主人、六本木不倫館に行っていますよ。あのマンションのどの部屋に行っているのか、お教えしましょうか?」
男は感情のこもらないニュースアナウンサーのような言葉遣いで喋った。
それにしても、まったく思いがけない、お節介なことを知らせる電話だと思った。
「六本木不倫館って……?」
「これは、おとぼけ。奥さんがいつか行ったあの西麻布のマンションのことですよ」
稲垣が住む「エグゼクティブ西麻布」のことだわ、と、やっと納得した。
「主人は仙台に行ってるはずよ。今日もあのマンションに行ってるなんて、嘘でしょ」
「ところが、嘘じゃない。本当なんですよ。ご主人は今日の正午、上野着の新幹線で仙台からお戻りになって、六本木に直行ですよ。今夜も多分、お帰りにはならないでしょう。――あのマンションの部屋番号、知りたくはありませんか」
男はどうして、そういう情報を入れるのだろう。
考えようによっては、お節介にも程がある。
(京輔のことなんか、放っといてほしいわ!)
そう思う反面、気にならないといえば、うそになる。
「あなたは、誰です?」
「奥さんの味方、強きをくじくピーヒャラ小僧です」
「ふざけないでちょうだい!」
「私が誰だかを詮索するより、ご主人があのマンションの、どの部屋に行って、誰と会って、何をしているのかを突きとめることのほうが、先決だと思いますがね」
「おっしゃいよ。何号室なんです!?」
「じゃ、言いましょう。六〇六号室。間違いなく今、ご主人はそこに行っています」
「どうして、何の用事でそんな部屋に行ってるというんですか?」
「さあてね」
「誰と会ってるんです? そこは、いったい誰が住んでるんです!」
明日香は喧嘩腰で聞いたが、
「それは、ご自分でお確かめになることです。あと二時間以内に行かなければ、二人は外に出るかもしれませんよ。じゃ――」
「あ、ちょっと、待って!」
しかし、電話はもうむこうから、一方的に切られていた。
明日香は一瞬、ぼんやりした。
今の電話を信じていいのかどうか、見当もつかない。
でも、男はいやに自信たっぷりに話していた。京輔の動向にばかに詳しく通じていて、そうして何より今、明日香が一番知りたいことの核心をズバリ、教えてくれたのである。
いかないわけには、いかないと思った。
明日香は灰皿にくすぶっていた煙草を捻じ消し、急いでサニー・ハイツの部屋を飛びだした。
表に停めていた真紅のBMWに、また飛び乗った。
平日の午後四時で、道は少し混みはじめていた。
運転しながら、六〇六号室という部屋番号を、頭の中で反芻《はんすう》していた。それは、稲垣啓四郎の部屋でも、見栄子の部屋番号でもなかったので、何となくほっとした部分がある。
六本木という最先端の盛り場に近い、都心部のマンションである。しかも投資のために買われていて、居住者のいない部屋も多く、愛人マンションとか不倫館とか呼ばれているとすれば、外見は静かでも一皮むくと、そこにはさまざまな人間が、とぐろを巻くように絡まりあって、出入りしているのかもしれない……そんな気がした。
六本木には、十五分で着いた。
めざすマンションの近くには駐車場がなかったので、妙心寺という寺の傍に、車を乗りすてることにした。
「エグゼクティブ西麻布」は、通りに面して静かに聳えたっていた。エントランスに入り、メールボックスをみたが、六〇六号室の函は、ネームカードはついていない。
エレベーターに乗った時、四階の稲垣の部屋に寄ってみようかな、と思った。でもこの時間、まだ会社から帰ってきているはずもなかったので、六階に直行した。
六〇六号室は、通路のはずれだった。
その部屋の前に立って、チャイムを押そうとした時、中から微かに男女の言い争う声がきこえた。
「……そんなばかなことを……どうしてあいつに喋ったんだ…………!」
はっきりとは聞きとれなかったが、そう言っているような怒号がきこえて、また何か音がした。
女の悲鳴がまじった。何かが砕け散る音が続いた。
「わあ!」
――最後に、悲鳴と、絶叫が響き、そしてそれっきりとなった。
室内の異変を感じさせるような情況に、立ちすくんでいた明日香は、その一瞬後、内側からパーンとあけられたドアに叩きつけられ、キャーッ! と悲鳴をあげて、通路によろめいてしまった。
危なく転倒するところをやっと踏みとどまったが、おでこを強打されて、めまいがして、壁に頭をあずけてしばらく安静にしていた。
息のできない痛さに、眼を閉じて立ちくらみをやりすごした一瞬後、中から飛びだしてきた男は、もうエレベーターに乗って、見えなくなっていた。
(いったい、どういう人なの!)
怒りながらも、明日香が少しほっとしたのは、その部屋から飛びだしてきた男が、電話で予告されていたように夫、京輔ではなかったからである。ほんの一瞬のことでも、声の印象で、それはわかる。
それにしても、室内のことが気になった。明日香は恐る恐る、あけられたままのドアから、内部にはいった。
ハイヒールを脱いであがろうとした時、そこに落ちているナイフらしいものを危なく踏みつけるところで、ハッとして足をよけた。
「危ないわねえ、こんなところに」
無意識にそれを拾いあげ、奥へ歩いた。
奥の寝室らしいところまできた瞬間、
「あッ……!」
と、明日香は、棒立ちになった。
カーテンの閉められた奥のベッドの上で、全裸の女性が、仰むけに寝ていた。その左胸部から、真紅の花が咲きほころんだように、血が滲みだしていた。肌が白いだけに、その傷ははっきりとみえた。心臓をナイフのようなもので鋭く一突き、刺し貫かれていたのであった。
明日香は、呆然とした。その女の顔に、見憶えはなかった。瞳孔がカッと見開かれているが、そうでなければとても美人と思える三十歳前後の、洗練された女性――という印象であった。
明日香は二、三歩、後退りした。
その時になってはじめて、自分が手にナイフを握りしめていることに気づいた。先刻、部屋の入口で拾ったものであった。
(このナイフで、女は刺されたのだろうか……?)
そういえば切先に少し、ぬらつく血のようなものがついている、と顔を近づけてみた時、パッと室内で閃いた光に驚いた。閃光はストロボのようであった。二、三回、たてつづけにシャッターの切られる音がした。
誰……? とふりむいた時、部屋の入口からカメラをもった男がさっと、立ち去るのが見えたような気がした。
(あ……)
と、間抜けな声が、喉をついて出た。
(私ったら……写真を撮られたんだわ……)
明日香が動転したのは、迂闊《うかつ》にも、死体の傍で血のついたナイフを握っているところを、写真に撮られたことに気づいたからである。
考えてみれば、これは大変なことであった。
明日香は弾かれたようにナイフを投げすて、踵《きびす》を返して、ハイヒールをはくのもあわただしく、部屋を飛びだした。
幸い、廊下では誰にも見られなかった。エレベーターで一階に降りる間も、誰にも見られはしなかった。近くに駐めていたBMWに乗り、六本木不倫館をあとにしながら、名状しがたい不安の念が、黒い霧のように明日香に襲いかかってきた。
(殺されたあの女は、誰なんだろう? 誰が殺したんだろう? ……いやいや、そんなことよりも、私自身が、大変なことになったわ。私はあの場でナイフを握っているところを写真に撮られたんだわ……見ようによっては、その写真は第三者には、私があの女を殺したように見えるんじゃないかしら?)
いやいや絶対にそうだ。絶対にそう見えるに違いない、と確信した時、明日香は、自分が何だか、途方もない罠にはめられ、突き陥されたような戦きを覚えた。
2
「豪さん、電話……」
ヤマちゃんが差しだした受話器を受け取るまで、河野豪紀は、それがそれほど重要なことを知らせてくれる電話だとは思わなかった。
「はい。河野ですが……」
何気なく受話器を耳にあてた直後、
「なんですって? もう一度おっしゃって下さい」
河野は思わず、受話器を強く握り直していた。
「私、週刊世界のお尋ね欄をみた者なんですけど……」
若い女性の声が、そう言っている。
「七月二十二日の朝、箱根塔ノ沢温泉の望星館裏の駐車場で、あの写真の車を見かけたんです。どういうことのためのお尋ねなのか、よくわかりませんが、見たのは事実なので、ちょっと気になっちゃって、お知らせしたんですが……」
ありがたい読者というのは、やはり広い世の中には、存在するのだ。
河野たちが幾つかの新聞や週刊誌に手を打って、万一を期待した稲垣の車に関するお尋ね記事に対する反応が、ちゃんと現われたのである。
河野はいささか緊張して、
「箱根で、あの車を見かけた、とおっしゃるんですね?」
もう一度、そう尋ねた。
「はい」
「七月二十二日の朝に、間違いありませんか」
「ありません。会社の夏休みを取った期間の最初の日曜日だったので、よく憶えています」
「失礼ですが、お名前、何とおっしゃいますでしょうか?」
女は、前田美穂子と名のった。大手町の商社に勤めるOLだそうである。
「その話、もう少し詳しくお伺いしたいのですが、会っていただけないでしょうか」
「はい、結構ですわ」
「会社のほうにお伺いして、よろしいでしょうか?」
「それは構わないけど、今日はもう、退社時間です。あすのお昼休みなら、少し時間とれると思いますけど」
あすでは遅すぎる、と河野は思った。
(知りたいのは、今だ。今すぐだ!)
「失礼ですが、お住まいはどちらでしょうか」
「高円寺ですけど」
「じゃ、大手町からなら、電車で新宿をお通りになりますね?」
「ええ、中央線ですけど……あの車に関する事情聴取というの、そんなにお急ぎですか?」
「できれば、そう願いたいんです。今日、お帰りの途中、どこか新宿あたりの喫茶店で、お目にかかれないでしょうか?」
「それじゃ、高円寺まで来て下さい。そのほうが、わかりやすいと思います。駅前にルノアールという喫茶店がありますから、私、そこに六時半に参りますが」
ありがたい。河野としては願ってもないことで、異論があろうはずはなかった。
「わかりました。六時半にルノアールに参ります。ぼく、週刊世界を片手に持っています」
約束は、そんなふうにして交わされた。
そうしてその時間に、河野は高円寺の喫茶店に行った。そこはどこにでもあるチェーン店のひとつで、駅前広場を見おろす二階にあった。
前田美穂子は先にきて、待っていた。
二十四、五歳の、おとなしそうなOLだった。
「お待たせしました。現代企画社の河野です」
河野は前に坐って、礼を言った。
「助かりました。前田さんはあのお尋ね記事を見て、すぐ見たことのある車だ、とピンときたんですか?」
「すぐってわけではないけど、記事の中の七月二十一日の夜か二十二日にかけて箱根塔ノ沢で見かけた人はいないか、というくだりで、それで思いだしたのよ」
美穂子は、そんなふうに話してくれた。
「箱根には、温泉旅行か何かだったんですか」
「ええ。ちょっと、ボーイフレンドと」
美穂子はいたずらっぽく笑って、肩をすくめた。
美穂子はそこで、小さなエピソードを話した。
会社の夏休み最初の二日間を、箱根ですごそうとボーイフレンドと車で繰り込み、二十一日土曜日の夜、塔ノ沢のホテル「望星館」に一泊し、翌朝早く、車で芦ノ湖にむかおうと思った。
その朝、駐車場でのちょっとした記憶が残っている。ボーイフレンドが、自分のチェイサーをだそうとしたところ、その手前に、すれすれに突っこまれたような形で駐めてあるスカイラインGTがひどく邪魔になり、彼はこの野郎、と口汚なくののしって、その車を蹴っとばしたりしたそうである。
「だめよ、壊しちゃ。弁償しなくちゃならないじゃないの」
美穂子がそう言って、押しとどめると、
「だって、こいつが悪いんじゃないか。もう少し、間隔をあけとけっていうんだよう」
ドライバーのマナーも知らないやつだ、とボーイフレンドは、なおもぶつくさ言っていたが、なんとかチェイサーをだすことができた。それで、その白いスカGのことは、ナンバーも含めて、よく覚えているのだという。
その上、出発前に、その駐車場で写真を撮った。チェイサーのすぐ横に駐めてあったスカGは、自分のスナップ写真に写っているので、忘れるはずはない――。
前田美穂子は、そう話したのである。
写真さえもある、と聞いて、河野は小躍りした。
「もしかしたら、その写真、日付入りのやつですか?」
「ええ、そうよ。インスタント・カメラだけど」
(インスタント・カメラでも何でもいい。これはもう、絶対の証拠になる!)
「で、今、その写真、お持ちですか?」
「部屋にあるわ。まさか、そんな写真に用事ができるとは思わなかったので、持ってきてはいません」
それは無理もない。美穂子が「週刊世界」のお尋ね欄を目にとめたのは、今日の昼休み、会社の更衣室で何気なく、週刊誌をめくっていた時だということである。
「ご無理いって申し訳ありませんが、その写真、拝見するとか、お借りするとか、できませんでしょうか?」
河野が追いうちをかけると、
「あら、ちっともご無理じゃないわ。ネガがあるから、欲しかったら何枚でも焼増しするわ」
「助かります。焼増しはともあれ、実物を一枚、大至急、拝見できないでしょうか」
「そんなにお急ぎなら、部屋にくる?」
「そう願えれば」
「じゃ、一緒に帰りましょう。私のマンションすぐ近くだから」
そう言って、美穂子はあまりいやな顔もせず、立ちあがった。
その時になって、河野ははじめて、このあまり美人でもない前田美穂子という女が、色白で、ぽってりしていて、愛想がよく、どうかすると、吸いつくような餅肌の、色気をもっている女であることに、気がついた。
二人は肩を並べて、階段を降りた。
街はもう、夜にはいっていた。
夏の宵の口というのは、むし暑いが街の灯がとても賑やかにさんざめいていて、どことなく郷愁のような、人恋しさを感じさせる時刻であった。
肩を並べて仲よく歩いていると、二人はどうかすると、共通の家路につく兄妹か恋人か夫婦のような気分になった。
「ずい分、熱心に調べているんですね。いったい、あの車にどんな意味があるんですか?」
美穂子が歩きながら、訊いた。河野はちょっと困惑したが、すぐに、
「実は……大変なミステリーなんです。今、あの車は行方不明になっていましてね。盗難に遭ったらしい。所有者が中に大切なものを積んでいたので、ぜひ探してくれと、警察に盗難届をだす傍ら、うちの編集部はじめ、マスコミ各社に駆け込んで来たんです」
「へええ、宝石でも積んでたのかしら?」
「ええ、それ以上のものかもしれませんね」
「解決したら、お礼もらえるかしら?」
「もしかしたら」
「でも、箱根のホテルの裏で、ただ目撃して写真を撮っていた、というだけのことが、役に立つかしら?」
「それが、とても役に立つんです。何しろ、犯人の逃走経路がわかりますからね」
河野はいい加減な返事をしながら、美穂子の話が真実で、写真さえも明瞭なものが存在しているとするなら、稲垣啓四郎のアリバイ工作を突き崩す、とりあえず取っかかりの、証拠になるに違いない、と考えていた。
これに、数日前、西麻布のマンションで聞いたトランタン・クラブの梅津るり子の目撃証言を組み合わせれば、事件当日から翌日にかけての稲垣の行動が、ほぼ推定できる。
(やつはやはり、二十一日の午前中に、箱根に車を運んでおき、何くわぬ顔をして伊集院明日香を迎えに新宿に戻ったのだ。そうして明日香とともに箱根を訪れ、一夜をともにした夜、そのスカGで箱根と東京を往復して、等々力で殺人を実行。夜中に塔ノ沢に戻りつき、ホテルの裏の駐車場に車を戻したのに違いない。その時、あわてていたので、かなり乱暴に突っこんだのかもしれない――)
いずれにしろ、これでアリバイ崩しの証拠は、着々と揃いつつあった。あとはゆうべ箱根の別荘に監禁した貝塚達郎から、彼が盗んだ美紀のノートには、何が書かれていたか。稲垣との共犯関係や、そもそもの稲垣の殺人の動機などを、吐かせればいい……。
河野は、そんなことを考えながら歩いた。
いつのまにか美穂子が、腕をとっていることには、気づかなかった。
美穂子のマンションは、駅から七分ぐらい歩いたところにあった。
ワンルームではない。核家族が住めそうなくらいに広い3DKだが、マンション自体が古いので、親の代からでも住んでいたのかもしれない。
河野は入ったところのリビングに通され、
「ちょっと、待っててね。今、写真を探しますから」
美穂子はテレビをつけ、バッグや郵便物をテーブルの上に置くと、奥の部屋に消えていった。
「ごめんなさい。お茶をだすのを忘れちゃって。飲みもの、冷蔵庫の中に何かはいってるから、何でも飲んでていいわ」
仕切りの奥から、美穂子の声がきこえた。
河野は、何気なくテレビをみた。
七時のニュースをやっていた。
その終わりのほうで、河野の眼が異様な光を帯びはじめ、耳がキーンと鳴りだした。
「……夜の繁華街、六本木に近い西麻布のマンションで、殺害されたとみられる女性の全裸刺殺死体が発見されました。現場は、エグゼクティブ西麻布六〇六号室で、女性は侵入者と争って鋭利な刃物で刺されたとみられ、警察では今、この女性の身元確認を急いでいます」
アナウンサーが、そんなふうに喋っていた。
そしてそれだけの、短いニュースであった。画面には、テロップが流れただけで、マンションの写真も、被害者の女の写真というのも、出てきはしなかった。
しかし、河野は心臓が濡れた手で、ぎゅっと掴みあげられたような気がしていた。エグゼクティブ西麻布……といえば、間違いなくあのマンションである。六〇六号室、というのは、河野自身に記憶がある。
まさか、と河野は首を振った。
しかし、もしかしたら……という予感が去らなかった。
(もしかしたら、殺害された女性というのは、二日前に寝たばかりの梅津るり子のことではあるまいか……?)
そんな悪い予感がした。
梅津るり子は、稲垣のアリバイを崩すための、大事な証言者になってもらわなければならない女性だっただけに、なおさら、河野には悪い予感がしたのかもしれなかった。
3
美穂子は、なかなか出て来なかった。
「どこにいったのかしら……」
写真を探しているらしく、奥の部屋からごそごそと、ものを掻き回す音がした。
「あッ……あんなところに落ちてる」
しばらくして、河野を呼ぶ声がした。
「お願い、ちょっと来てちょうだい。ベッドのむこうに写真が落っこちちゃってて、手が届かないの」
事情がよくのみこめなかったが、河野はそのドアをあけた。
寝室だった。シングルのベッドがあり、化粧道具や装身具や香水類の並んだ鏡台があり、女の匂いがむんむんするような寝室だった。
「ちょっとちょっと、あそこなの。どこにいっちゃったのかと、探してたら……」
ベッドは壁際にあった。壁とベッドの間に、わずかの隙間があった。どういう事情だかわからないが、そこに写真が封筒ごと、落ちているというのである。
「あなた、手が長いでしょ。届かないかしら」
「どのへん?」
「そのあたりよ。床までずっと、手をのばしてほしいの」
手をのばすには、ベッドにあがらなければならない。ところで美穂子の姿にその時はじめて眼をやると、彼女は驚くべきことに、素裸の上にガウンを羽織っているだけであった。
そこに手をのばして、と場所を指示するうちに、二人の身体は触れあい、河野は悩ましい気分になった。
なるほど、指示された場所に手をのばすと、DPE屋からもらった写真の封筒らしいものが、手に触った。拾いあげようとしたが、狭くて、指がうまく動かない。
もう少しだな、もう少し……と言ってるうちに、美穂子が応援するように、上からおおいかぶさり、いつのまにか奇声をあげて一緒にベッドに倒れ込む、といった按配《あんばい》になった。
「駄目だよ、邪魔しちゃあ」
「探すの、あとにしましょうか」
「冗談じゃない。取るには、ベッドを動かした方が、早いようだね。さあ、動かそうよ」
「いやよ、ベッドを動かすなんて」
美穂子の眼が何かを訴えていたので、
「ぼくは、そんなつもりで来たんじゃない」
「つもりはどうでもいいのよ。ね、私、あなたが欲しくなっちゃった」
(よく欲しくなる病気もちの女がいるものだ……)
これが大手町の商社に勤める真面目なOLのせりふだろうか。箱根で一緒に泊まったはずのボーイフレンドはいったい、どうなっちゃってるの、と河野は聞きたかった。
ベッドを動かそう、いや、動かさない、と言いあっているうちに、美穂子が突然、激しく抱きついて唇をあわせてきた。
何だか魂胆《こんたん》、みえみえ、という気がしないでもない。でも、そんな魂胆を発揮していったい、美穂子に何の得があるんだろう。
しかし、大事な証拠写真を預かるまでは、あまり意に添わないことをして、怒らしてはまずいのであった。当分は成りゆきに委せてみよう、と美穂子をまとわりつかせたまま、軽くキスに応えていると、
「ね、写真取るの、あとまわしにしましょ」
「だって、ぼくはそんなつもりじゃない」
「あとでベッドを動かしてあげるわ」
「じゃ今、動かそうよ」
「だめ、私を抱いてくれなくっちゃ」
接吻をしながら、美穂子は河野のネクタイをはずした。
しかし、河野はなおも成りゆきに一抹の不審と、警戒心を抱きつづけており、いくら可愛いOLの据え膳だからといって、盲目的にのめり込むほど、ばかではない。
そこそこのところで、切りあげるつもりで応えていると、女には男の心理は敏感にわかるらしい。
「ね、私に恥をかかせるつもり……?」
そうなると、もう河野とてびびって、臆病風を吹かせている場合ではないようなのであった。
(このところ、よくよく欲しがる女が、おれの身辺に現われるものだな)
いつぞやの国見良子いらいの僥倖つづきに、このさいは素直に喜ぶことにするか。そう思い、河野は流れに身を委せてしまった。
美穂子は最初から、ガウンの下は全裸である。世話はない。ネクタイを取り、スラックスを取って、ほとんど一直線に二人は、斬り結ぶようなぐあいに、結合に進んだ、というわけである。
美穂子はおとなしそうだが、なかなかのものだった。河野を収めると高い鳥のような声をあげた。河野が腰を躍らせるたびに、その声も、乱れようもひどくなり、女の部分の火照りとうるみがますます濃くなった。
河野はのけぞる美穂子の腰を抱いた。深部をふかく穿ちながら、目の前で揺れる透きとおるように白い餅肌の乳房に唇をつけた。吸う、はねる。上体がますます、反った。上下をともに攻められると、美穂子はますます高い喘ぎ声をあげ、両足をしっかりと河野の太い腿に巻きつけてくる……。
それから、ほんの数分後、
「お楽しみのところ、悪いな」
河野は不意に頭上に声が響いて、後頭部を何かで叩かれた。
気がつくと、傍に二人の男が立っていた。若い男の手にナイフが握られていた。そのナイフの峰の部分で頭を叩かれたのだとわかった。
「なんだ、きみたち」
(しまらねえな!)
河野は、自分自身に毒づいた。
「なんだとは、よく言うよ。人の女と寝ていて、それがご挨拶か」
「箱根のボーイフレンドというのは、あんたたちのことだったのか」
「ばかだよ、こいつ。美穂子の誘い話を、まだ信じてやがる」
河野は肚《はら》の底で、微かに呻いた。
(そこまでは、考えが及ばなかった)
やはり、アリバイ崩しの証拠ほしさに、少し焦っていたのかもしれない。
「服を着な」
ポケットに両手を突っこんでいる男が、言った。別にすごんで見せているふうではない。
「言われるまでもないさ。服は着るが、いったいどういうことだい?」
のろのろと起きあがって、下着に手をのばした。
「どういうことだか、一緒に来ればわかるよ」
ナイフの男が、うすら笑いを浮かべていった。河野は手に取ったズボンで、ナイフを叩き落とせるな、と計算した。
しかし、そうしたところで、若い男と取っ組みあいをするのが関の山だろう。もう一人の背広の男のポケットに、何か隠されているかもしれないし、部屋の中では逃げ場がなかった。
だまって服を着た。
美穂子は、視線をあわさないよう、顔をそむけた。
まだ裸のままで半身を起こして、両手で乳房をかばっているその肌が、鳥肌だって慄えているのが見えた。
(今さら、悲しんでくれたって、ありがたくないよ)
河野は部屋から、連れだされた。
三人の同窓生が仲よく歩いているように見えた。
エレベーターの中でも、フロントでも、表でも、きっとそう見えたに、ちがいなかった。
マンションの門の近くに、小型の乗用車がとめてあった。ナイフを隠し持った男が、運転席のドアをあけた。ツードアの車だった。河野は追い込まれるようにして、リアシートに乗った。
つづいて背広の男が乗ってきて、横に坐った。ナイフはその男の手に移っていた。
「やってくれ」
背広の男は運転席の男に言った。
4
河野は気絶していた。
どのくらい、どういう状態に置かれていたかは、記憶にない。車でどこかに運ばれる間に、ハンカチに染みこませたクロロホルム様の、ある種の薬理作用によって、失神させられたようである。
何かで頭がゆさぶられた気がした。
それが何時間後なのか、わからない。河野は自分が水の中にいるのだ、と思った。冷めたい水が身体を濡らしていた。
その冷めたさで、河野は意識を取り戻したようだった。服がずぶ濡れだった。髪の毛から水滴が流れおち、頬を這っているのがわかった。
河野はうつ伏せになっていた。床の上に、カーペットが敷かれていて、カーペットは濡れていた。全身に冷水を浴びせられたのだ、とわかった。
水を浴びせたのは、意識を取り戻させるためだろう。そういう察しがついた。河野は動かずにいた。失神しているふりをつづけて、様子を探るという、とっさの知恵が働いた。
「死んじまったんじゃねえだろうな」
声がした。声は、壁や天井にかすかに反響していた。
「ハンカチで薬を吸わせたあと、ゴムホースでぶん殴ったからな」
「動きやがらねえ」
別の声だった。
「やばいぞ、このままだと」
「平松さん。殺しちゃまずいよ。そんなことしたら、金づるの男が、ガタ震っちまうよ。約束の金を貰えなくなっちゃうぜ」
「そうだな。少し、やりすぎたかな」
そんなやりとりが聞こえた。一人が立ちあがって、河野の腹を蹴った。こたえた。二発目の蹴りを入れた。唸った。
「なんだ、死んじゃいねえぞ。もう少し痛い目に遭わせてやるか」
痛い目に遭うのはごめんだったので、河野は唸りながら、薄目をあけた。
「気がついたか」
河野を覗きこんだ男がきいた。
「ここは、どこだ?」
河野は起きあがろうとした。しかし、身体が濡れた床の上でひっくり返っただけで、手足がきつく縛られていることがわかった。
「痛いか?」
「痛いな。なんでこんなことをする」
「おまえが、仲間にしたのと、同じことをしてやってるのさ」
「仲間……誰のことだ」
「とぼけやがる」
さっき、平松とよばれていた男が、顔の前に跼《かが》んだ。
「府中市武蔵台から、一人の男が消えた。その男の蒸発に、ここにいる誰かが関与している。つまり、おまえが、だ。――貝塚達郎をどこにやった?」
「知らんよ。そんな男は」
「ふざけるんじゃない。おまえがあいつのあとをつけ回していたのは、報告がはいってるんだ。どこに隠したか、言え」
「あいつを奪われると、まずいことでもあるのかね?」
「聞いているのは、こっちだ。ふざけていい場合と、よくない場合があるぞ」
唾をとばされた。よけるひまはなかった。顔にかかった。河野は屈辱でかっと身体中が、熱くなった。
「どこに隠してるんだ。言わねえと、おまえは死んじまうことになるぞ」
男の手が動いたのが、わかった。何かを握ったようだった。風を切る音がした。びゅう、と鳴って、そいつは河野の腹をへこませた。
太いゴムホースを、手頃に切ったやつだとわかった。致命傷がどこだかわからず、じわじわと殺す時に砂袋やゴムホースが、よく使われる。
三回も、それを叩き込まれた。
骨折も出血もしないが、腸捻転を起こしそうだった。河野は身体を海老のように曲げて、耐えた。
出血は外には出ないが、内にこもる。そいつが、よくない。内臓が破裂でもしたら、ことだった。
「やめろ」
河野は叫んだ。
「言うか」
「何を言えばいいんだ」
「貝塚の居場所を吐け」
「無理難題を、吹っかけるな。そんなことは知らん。ぶっ叩いても、知らんものは知らんとしか、言えんだろう」
「ふん。強情なやつだ」
男が怒ったように、だが静かな声で言った。「じゃ、質問をかえよう。貝塚を拉致しておまえはいったい、何を聞きだそうとしてたんだ?」
「それは、そっちのほうが知ってるだろう」
「わからないから、聞いてるんだ。貝塚なんかを拉致して、いったい何を聞きだそうとしているのか。世の中にはばかなやつがいる。酔狂なやつがいる。だが、いっぱしのジャーナリスト稼業をしているおまえまでが、そんなばかだとは思わなかったぞ」
「河野美紀が殺害された秘密を探ろうとしていた、と答えれば、喜ぶかい?」
「ほう」
男の顔に笑いがよぎった。
「で、その仕事はどこまで進んでるんだ?」
「それ見ろ、知ってるじゃないか。興味があるようじゃないか」
「美人が殺されりゃ、誰にだって興味が湧く」
「こっちはまだ何も掴んじゃいないから、安心しろ。これから調査は佳境っていう時に、あんたらに捕まっちゃったんじゃないか」
「本当にまだ知らないのか?」
「ごらんのとおりだ。五里霧中、想像だけしている犯人のアリバイ崩しとやらに四苦八苦しているうちに、このありさまだ」
「よし、それじゃ、貝塚の居場所を吐け。そうしたら、助けてやる」
「吐かなかったら?」
「同じことを何度も言わせるな。ここでおまえを殺して、ドラム缶のコンクリート詰めにして、海に沈めてやる」
「面白いな、殺せばいいじゃないか。そうしたら、あいつの隠し場所は永遠にわからないことになる。そうしたら、あいつも間もなく死んじまうってことさ。おあいこならいいが、あんたらのほうが損するんじゃないかね」
ふっと、河野には勘が働いたのである。
貝塚はたしかに、何かの秘密を握っている。
それは彼らにとって、河野らに喋られてはまずい秘密である。
だが、それを守るためにだけ、こいつらはこんなことまでするだろうか。貝塚はもっと、こいつらにとって、大事なものを握っているのではないか?
河野は何となく、そんなことを考えてみたのだった。
「ふん……」
男がうすら笑った。
「二匹の蝮《まむし》がお互いに相手の尻尾を咬《か》んでるって、わけか。面白いじゃないか。あんたが口を噤《つぐ》んだまま、ここで死んじまえば、こっちの思う壺だぜ。なぜって、そうしたら、貝塚は人知れず、どこかで餓死するってことになるようだし、その殺人罪は河野豪紀ってばかなやつがかぶるってことになる。おまけにその河野豪紀が死んじまえば、河野美紀殺しの謎を探るやつがいなくなって、その秘密も真犯人も、永久に闇から闇ってことだ。おれたちにとっては、それは願ってもないことでね。ふっふっふ……お望みどおりにしてやろうか」
平松の薄気味わるい笑い声が、天井に響いた。
(こいつら、その気になったら、本当にそうするかもしれないな……)
河野は、まだ幾分、朦朧《もうろう》とした頭で考えた。
ここがどこだか、見当もつかない。恐らくはどこかの倉庫かガレージか、地下室みたいなところに違いない。もしこのまま、おれがここに閉じこめられたまま放置されたら、どうなるか?
河野は、それを考えてみた。
おれからの連絡が途絶えたまま、何日かが過ぎれば、野津原多鶴はおれの身に何かが起きたと察するだろう。ヤマちゃんあたりに相談して、何らかの動きをはじめるだろう。多鶴は肚のすわった賢い女だ。おれの身に何かが起きた時、黙りこんでしまうような女じゃない。
(しかし……しかし……二人にここがわかるか?)
そんなことを思っているうちに、平松は立ちあがったようだった。
「相沢、こいつはしばらくここに放っておくことにしよう。すぐ吐くようなタマじゃなさそうだ。先方さんと相談して、貝塚の居場所を探したほうがよさそうだぞ」
「そうしますか」
平松と相沢という男は立ち去る気配だった。
「待ってくれ」
河野はだらしなく、叫んだ。
「一つだけ、聞きたい。週刊誌をみて電話してくれたあの前田美穂子というOLは、あんたらの囮《おとり》だったのか?」
「そんなこと、聞くまでもあるまい。あのお尋ね記事をみて、一番神経に障るご仁《じん》が、どこかにいるってことだろうよ。そうしてそのご仁が、あんな小細工を弄して事件をほじくりだそうとしているやつを、おびきだすために、逆にあの記事を利用したってことさ」
それだけ言い残して、足音が遠ざかった。
チッキショー……と、河野は寝返りをうった。
(自分で仕掛けた罠に、自分でまんまと嵌《は》まるとは、このことだな。見られたざまじゃない……!)
河野は闇の中で、自分をののしり、嘲った。
しかし、その「週刊世界」の記事をみて、本当に憶えのある目撃者がその時、河野を探していることを、河野はまだ知らなかった。
第八章 欲望水脈
1
寝室の明かりは絞ってあった。
稲垣啓四郎が浴室から戻ってくる気配がした。
伊集院明日香は、ベッドに腹這い、湯上がりの火照った身体を冷ますように、掛布を半分までずりおろした。
顔はシーツに伏せている。何かの思いを殺すように、静かに伏せられている。
肩から背中にかけて、明日香の白く輝くような肌が現われた。肩に散った長い髪と、細い腰と、豊かな臀部の盛りあがり具合がなまめかしく、照明に浮かびあがって男を誘うようにうねっている。
鏡に映ったその姿態を、明日香は自分でもひどく放逸で生々しく、日常離れしていて、淫蕩だと思った。
腰にバスタオルを巻いただけの稲垣の姿が、鏡の端に現われた。彼は缶ビールを手にしている。それを右手にもったまま、ベッドの傍まできて、端に腰かけた。
「いつ見てもそそるなあ、奥さん」
稲垣がかなりぞんざいな口調で言って左手をのばし、明日香のヒップをさわる。
「ああん……くすぐったいわ」
(聞きだすまでは……本当のことを聞きだすまでは……じっとしてるのよ)
自分にそう言い聞かせながら、その実、明日香はヒップに置かれた稲垣の手を熱く感じている。
ヒップをうごめかせても、揺らしても、稲垣の手は離れない。二つの円やかな肉丘を軽く揉んだり、臀裂のはざまから深く切れ込む秘唇のほうを指で触ったりして、稲垣はビールを飲みながら、その感触を楽しんでいた。
「ね、稲垣さん……」
明日香は枕を抱くようにして腹這ったまま、訊いた。
「犯人、わかった?」
「え?」
と稲垣が聞いた。
「六〇六号室の殺人事件のことよ」
「ああ、六本木のうちのマンションのことですか」
口調に、安堵したようなものが混ったところをみると、稲垣は案外、自分の愛人だった河野美紀が殺害された等々力のほうのことを考えていたのかもしれない。
「六本木不倫館の事件、最初はちょっと新聞に出ただけで、あとはプッツン。部外者にはその後、どうなっているのか、ちっともわかんないんだけど」
「興味あるんですか?」
「ええ、ちょっとね。だって、あの事件って、あなたが住んでるマンションで起きた事件でしょ。主人も出入りしてたわ。そりゃ、少しは気になるわよ」
いや、それだけではない。本当は、あの部屋にまではいって、死体を発見した明日香としては、あの被害者の女性が誰であったのか。犯人は誰なのか、一番気になるところなのである。
六本木不倫館で死体を発見した日から、三日が経っていた。第一報だけはテレビや新聞で報じられたが、その後の捜査の進展はないのか、マスコミには報じられないので、明日香には情況が、さっぱりわからなかった。
稲垣は手にしていた缶ビールを、半分まで飲み干し、
「そう聞かれましても、ぼくたち住民にもよくわからないんですよ。マンション内の噂では、犯人はまだつかまってないようだし、警察は秘密主義だし」
「被害者は、人妻だったんですってね」
「新聞によると、どうもそうだったようですね。うちのマンションの住民というわけではなく、キイをもってあの部屋に出入りしていたよその人妻だったみたいですよ」
「じゃ、あの部屋は、住人のいないリース部屋だったの?」
「ええ、いつかも話したように、あのマンションにたくさんあるゴーストルームの一つみたいですね」
「でも、変ね。誰かの愛人ならともかく、人妻がどうしてそんな部屋に出入りしていたのかしら」
「密会用の部屋だったかもしれないし、愛人バンクみたいな人妻派遣クラブの人たちが使っていた部屋だったかもしれませんね」
「愛人バンク……? へええ」
(そういえば、夫の京輔もあのマンションに出入りしていたんだわ)
と、何とはなしに明日香は思いだした。
それと同時に、ベッドの上で、全裸で胸を刺されていた女性の姿が、脳裡をよぎって、明日香はぶるっと、身体をひとゆすりした。
「ねえ、教えて欲しいんだけど。南急ナポレオンが建てたあのマンションには、何か秘密があるんじゃないの?」
明日香は起きあがって、訊く。
そうすると素裸なので、掛布が肩から落ち、乳房や股間の茂みのようすまでが、はっきりとわかるのだった。
「さあて、どういうもんでしょうかね。あのマンション、医者や弁護士や社長たちが、税金対策のために購入しているゴーストルームがいっぱいあるってことは、この前、話しましたね。それだって秘密だし、そんな部屋にそれぞれ愛人なんかが住んでると、そりゃ、相当、入り組んだ人間の秘密の館ってことになると思いますよ」
稲垣は、そういうふうに抽象的に答えた。
それだけだろうか、と明日香は考えた。
あの殺人事件は、そういう個人的な愛憎のもつれから発生しているのだろうか。それとも、あのマンションに内在している、あるいはあのマンションを舞台に行われているもっと大掛りな悪の構図というものがあって、それを根っこにして発生した殺人事件なのではないだろうか。
いま聞いた人妻派遣クラブというのも、何とも聞きずてならない気がするし……。
明日香が何とはなしに、そんなことを考えている時、稲垣の手がのびて抱き寄せられ、唇が近づいてきた。
「奥さん、いつまでそんなこと、考えてるんですか。さあ」
唇が合わさり、誘われながら、ベッドに押し伏せられる。
2
明日香の中で閉じられている固い殻は、すぐには壊れなかった。
しかし、稲垣はもう覆いかぶさり、無言で熱烈な愛撫を加えてくる。熱い手が乳房にまわり、接吻を受けながら揉まれはじめると、明日香の身体にも漣《さざなみ》が沸きたってくる。
明日香はゆっくりと、眼を閉じた。
身体の中に、複雑にもつれあっていた糸のようなものが、しだいに解けはじめてゆく。瞼の裏の熱い闇が、炎色に染まりはじめ、稲垣の手の動きや体臭とともに、荒れ狂うものが皮膚の内側で、音をたててひしめいてくる。
「ああ、稲垣さん……私を無茶苦茶にして」
明日香はいつのまにか、稲垣の頭を両手でしっかりと抱きしめていた。ひとしきり、激しい接吻が終わると、彼の顔が、尖りたつ乳房に伏せられてきた。乳房を口に含まれ、乳頭を舌であやされると、明日香は、ああ、ああ、と甘やいだ声をあげて、のけぞってゆく。
「すてきよ……稲垣さん……」
稲垣はそうしながら、右手をあいているほうの乳房に滞在させて、みっしりと揉みたてる。その乳房も火照るように熱くさせると、今度は腰のほうへとおろしてゆく。
明日香の、熟れきった絖《ぬめ》りのある肌を、なつかしむように、脇腹のあたりをさまよっていた彼の右手が、下腹部の茂みのほうにおりてきて、着地すると草むらの中で渦巻いた。
「ああん……感じちゃう」
恥丘を渦巻く指先でさえも、敏感に感じるようになっている。腰をうねらせるたびに、明日香は自分の秘所がじっとり潤んでくるのがわかった。
稲垣はやがて、手だけではなく、顔を明日香の乳首から腹部、そうして茂みのほうへ降ろしてきた。
「あ……いやいや……」
何度、同じ径《みち》を通られても、稲垣の顔を全面的に女の芯で受けとめる行為には、抵抗と羞じらいがある。
「あ……やめて……やめて」
しかし、稲垣はついに明日香の両下肢を大きく割って、その中に位置をとっていた。
秘密の場所に、くちづけてゆく。茂みの下はすでに潤い、あふれているのがわかった。
稲垣は明日香の太腿をたのしむように掴み、あたたかく濡れた果肉を舌で、ぐいと割った。ぬかるみを、稲垣は狂ったように舌でかきまわした。
「ああん……」
腰が反って、おどろいたような声をあげて、明日香はのけぞった。
稲垣の舌は、蝶が花に止まった感じ。時折、それはクレバスを割いてうるみを汲みあげるだけではなく、谷間の上部のクリットをさまよったり、茂みの上をさわさわと旋回したりする。
やがて再び、谷間の芽をつつき、掘り起こしたり、深々とクレバスに戻ってきたりして、変幻自在な動きをする。それにつれ、明日香はふるえるようなよろこびを覚えて、熱い喘ぎを洩らしつづけていた。
「あッ……あッ……いやいや……そんなの」
稲垣が不意に、指を使ってきた。
挿入されたのが、はっきりとわかる。
口唇愛をふるまいながらの、指使いであった。
クレバスに挿入された指は、ざらつきの多い周囲の肉をいたぶりながら、秘洞の中を自由奔放にこねまわした。
そのたびに、
「あッ……あッ」
と、明日香の腰は、くねった。
やがてその指は、いったん秘洞からさまよい出て、クリットを襲撃してくる。
谷間の甘酸っぱい果肉が、一枚ずつむかれて、なかから熟れた果肉が空気に触れてくる。クリットのカバーを指で後退させられる手つきは、そんな感じだった。恥ずかしくて空気にふるえるその果肉は、もう充分に爛熟していて、不意に口に含まれて、きゅっきゅっと吸われると、
「ああ……とても……」
と、明日香は果汁をしたたらせる。
乱れきる明日香の片足をもちあげ、彼女の身体を斜めにして、果肉の谷間にさらに深く、舌をすべりこませる。
ふだんは絶対に人眼にみせない秘密の花園が、思いきり斜めに剥きだしにされるような恰好をとらされて、稲垣にいいように口唇愛をふるまわれるにつれ、明日香は息づかいを荒げ、その時間だけはそれに浸りきって、大きな声をあげるのだった。
「ああン……もう……許して」
明日香が口走ると、稲垣は無言で起きあがった。女の器にしあわせの中味を満たす姿勢をとった。
熱くて逞《たくま》しいものが、押し入ってきた時、
「ああッ……」
明日香は弾けて、たちまち自分を忘我の境地に追いこんでゆく。
「奥さん、今日はとてもいいよ。白い小蛇がいっぱい」
稲垣が漕《こ》ぎながら、囁く。
「明日香さんの内部《なか》で、うねうねしている感じ」
「そう。きっと燃えてるからよ」
稲垣は、ゆっくりと、時に激しく、その小蛇を突き潰す勢いで動きはじめている。
甘美な快感が、熱い男性自身を送りこまれるたびに身体に走り抜け、波のうねりがしだいに深まってゆく。
明日香はいつか膝を立て、腰を浮かせた。
次に彼女は稲垣の腰を強く掴んだ。
強く、打ちつけるように、引き寄せた。
そうやって結ばれている点を中心に、力感を入れて抱きしめるうち、きらめきが深くなって、明日香はすすり泣くような声をあげた。
そうして、両脚を不意に、稲垣の太腿に巻きつける。
全身で一点を絞りあげる、という感じになった。それはもう最後の、大きな波のうねりが近づき、沸きたち、身体ごとエクスタシーの中に放りこまれる寸前だった。
「ああッ……届いちゃう」
稲垣の手がのびて、不意に片方の乳房を掴み、乱暴に揉みたてた。
それが吃水線からあふれそうになっていた水を不意に、一気に溢水させる引金となった。
「ああッ……あたし……もうだめッ」
けもののような声をあげて明日香が絶頂に達した時、稲垣も一緒に爆発の瞬間を迎えていた。
3
三十分後、身づくろいを終えると、二人は部屋を出た。フロントで稲垣啓四郎が料金を払っているうちに、明日香は一人だけ先に、外に出た。
そこは渋谷・道玄坂のホテルであった。ラブホテルというわけではないが、ホテルと名のつくものは、不倫のカップルにとって二人一緒に出たり入ったりする時に、どうしても抵抗がある。
その点、一人だとわりと平気で、澄ました顔で玄関をくぐりぬけることができるので、不思議であった。
しかし、その日は少し違っていた。明日香が一人で外に出た時、路地の右手の電柱の陰に、ちらっと隠れた人影を発見したのである。
(あッ、誰かこっちを見てたわ)
明日香はどきんとして、あわてて後ろむきになった。そうして稲垣を待たずに、電柱の陰に隠れた人影とは反対方向に、ひとりでに歩きだしていた。
秘密を知られたくない人妻の本能的な、行動であった。
本当は路地に出たところで、稲垣がさりげなく追いついてきて肩を並べる予定だったが、明日香は急ぎ足になっているので、あとで出た稲垣はもうとても、追いついてこれそうにない距離になった。
(いいわ、今日の密会はもう済んだんだし……外に出てまで、でれでれすることもないし)
お互いをむさぼりあい、身体の中で鬱積していたものが晴れると男も女も案外、冷淡に、そして身勝手になるものである。
もうお互い、顔さえも見たくない、という時がある。
その日の明日香は、まさかそこまでではなかったが、誰かに尾行されているような気がしたので、後ろをふり返らなかった。
明日香は道玄坂の表通りに出ると、ターミナル駅のほうにむかって、ずんずん歩いた。
大勢の人波の中に入って、途中で一度、さりげなく振り返ると、広い坂道を月曜日の午後の群集が流れているだけで、尾行者の姿も見えなかったかわりに、稲垣の姿もどこにも見えはしなかった。
(仕方がないわ。また今度、電話する時にお詫びを言おう。それからまだ、聞きたいことがいっぱいあったんだわ。箱根の夜のことだって、私はまだ安心していない。今度こそ……今度こそ、しっかり確かめなくては……)
明日香はその日もとうとう、積み残した荷物をいっぱい背負って、東横線に乗った。
腕時計をみると、午後三時である。自由ケ丘の駅前で買物をして、まっすぐ家に帰ろう、と思った。
電車のシートに坐って、明日香は眼を閉じた。身体の底に甘いざわめきが澱《おり》のように残っていて、それはしあわせな余韻を誘っているが、それと背中あわせに、黒い不安の影も射しこんでくるのである。
何といっても、六本木不倫館の殺人事件。明日香があの日、「エグゼクティブ西麻布」の六〇六号室で目撃した殺人事件が、この三日間というもの、常に明日香の生活に影を落としていたのである。
まず、いつもどこからか自分を見つめていると思える視線や、尾行を感じさせる男の影があった。
それから妙な電話。それもはっきりと脅迫されている、と感じさせるものではなく、ベルが鳴るので受話器を取りあげると、プッツンと切れたり、ある時はまた無言電話だったりして、不気味な気配が漂うのであった。
一昨日もそうだった。明日香が、洗濯物を届けにきたクリーニング屋の応対をしている時、リビングのほうで電話が鳴りはじめた。
「はい、伊集院ですが」
明日香が受話器を取ると、しばらく無言の状態がつづいたあと、
「……消してもらいたいかね?」
男はいきなり、妙なことを言った。
「は?」
「奥さんを消そうというんじゃないよ。あんたの頭の中の記憶をね、消しゴムで消してやろうかと言ってるんだが」
「どうして私の記憶を消そうとおっしゃるんですか?」
「余計なものを見すぎたんじゃないかと思ってね」
「余計なもの、というのは、何なんでしょうか」
「殺人者の顔さ。あんたはあの日、六本木のマンションで殺人者の顔を見ただろう。憶えているだろう。……え?」
「…………」
明日香は受話器を握ったまま、息がつまって、声が出なかった。
「え、どうなんだい? はっきり答えたら、どうなんだい?」
男の声はしだいに、本性をむきだしにしてきた。
明日香が声をのんだまま、すぐには答えられなかったのは、もしや、という恐怖の思いが、よぎったからである。
(もしや、電話のむこうにいるこの男こそ、殺人犯ではあるまいか?)
あの時、ドアが激しく開いて、一瞬すれちがっただけで、顔ははっきりとは覚えていない。明日香はドアにおでこをぶつけて、軽い目まいを覚えたくらいで、相手を見るどころではなかった。
だが、犯人のほうは、顔を憶えられているのではないかと、気になって、それを確かめるために、明日香にずっとつきまとい、電話をしているのではないか。
明日香には、そんなふうに思えた。
それで息を殺して、
「答えなければならないんですか?」
そう訊くと、
「ああ、そうだよ。答えてもらおうじゃないか。それをハッキリ答えてもらおうじゃないか」
「見なかった、といえば、あなたは安心するのですか?」
「本当に見なかったのかね? 憶えていない、と断言できるのかね?」
「断言しろ、とおっしゃられると、困るわ。今はぼんやりとしか憶えてないけど、よく考えると、そのうち思い出すかもしれないわ」
男は一瞬、沈黙し、それから低いだみ声で言った。
「よーし、わかった。どうやら、あんたの頭の中の記憶を、やっぱり消しゴムで抹殺するしかなさそうだな。今に楽にしてやるから、待っていな」
男は、そんな薄気味わるいことを言い残して、プッツンと電話を切ったのである。
それからまた、別の電話が鳴った。その男はもっと若い声で、先の電話とは別人だった。
「写真を持っているぞ」
いきなり、そう言うのである。
「奥さん、あんたの顔がな、ハッキリ写ってる写真だけど、見たくはないかね」
「何の写真だとおっしゃるんですか」
「ほッ、これはおとぼけ。あの六〇六号室の女の死体の傍にナイフを持って立っている写真だよ。あれをね、しっかり持っている、ということをあんたにな、忘れないように知らせようと思ってね」
明日香は、ハッとした。
衝撃は、こちらの電話のほうが深かった。
(そうだ。あの日、私はあの部屋の入口に落ちていた凶器を何気なく拾いあげ、それを握りしめたまま、ふりむいたところを写真に撮られたんだったわ……!)
(でも、それが何だというのよ。私はあの殺人事件には、まったく関係ないわ!)
明日香は少しむきになって、
「その写真が、どうだとおっしゃるんですか」
「わかっているだろう。警察に渡せば、どうみても、あんたが真犯人だということになる。どうだい、警察に渡されたいかね?」
「あ、待って下さい。あなたは誰なんです?」
「誰でもいいさ。写真が欲しかったら、三千万円、用意するんだね。それぐらいの金なら、財閥夫人のあんたになら、どうにでもできるだろう。用意したら、渡してやるよ」
「そんな大金、ありません。無茶を言わないで下さいッ」
「じゃ、諦めるんだね。あれは近日中に警察に届けるからね。そうしたら、あんたは重要参考人として取り調べられるだろう。覚悟するんだね」
男はそう言って、電話を切ろうとした。
「あ、待って!」
明日香は思わず、叫んでしまった。
「ほう。じゃ、金を用意するかい?」
「用意します。でも……でも……今すぐには用意できません。考えますから、もう少し待って下さい!」
「いいだろう。いつまで?」
「それは……それは……」
「じゃ、期限を切ろう。あと一週間、待ってやる。それまでに三千万円をしっかり用意しておくんだ。また、電話するからな」
脅かすような、底ごもった声を残して、電話は切れた。
それが、昨日の午後だった。それ以来、ずっとその脅迫電話のことが明日香の頭にこびりついている。
今日も本当は、その金策のことや、死体を発見したことを稲垣に相談しようと思って会ったのだが、結局は、言いだせはしなかった。
(殺人現場に私が立っていたあの写真を、警察に届けられれば、私は破滅だわ。私はむろん、無実だから、最終的には真犯人として逮捕されることはないにしても、重要参考人として取調べられるだけでも、不倫の事実をはじめ、もろもろの都合の悪いことがばれちゃって、世間的には私は破滅するしかないわ……)
明日香は眼を閉じて電車の揺れに身を委せながら、そんなことを考えていた。
(あの写真を警察に届けさせないためには、三千万円を何とかしなければならない……)
という気持ちと、
(いやいや、それよりもいっそ、脅迫者が何者なのか、それを突きとめるのが先決だわ。突きとめて、ネガを奪い返す方法、何かないかしら……?)
それやこれやで、明日香の気持ちは揺れるのであった。
気がつくと、東横線の電車はもう、自由ケ丘の駅のホームにすべりこんでいた。
4
河野豪紀は、ばかに暗い、と思った。
彼はまだ、手足を縛られて不自由な姿勢のまま、湿った地下室のようなところに閉じこめられていた。
長い間、人の気配さえもなかった。
ここはどこだろう、と河野豪紀はあたりを窺うように、首を回した。撒かれた水が乾いて、埃《ほこり》臭いカーペットの上に、自分がじかに転がされているのがわかるだけだった。身体を動かそうとしても、手足が自由にならず、繭《まゆ》のように転がることしかできなかった。
平松と相沢という男が去って、どれくらいの時間が経つのだろう。あれから、またひと眠りしたことに気づいた。ビニールロープで縛られた手と足は、とうに痺れの極限を通りこして、ほとんど無感覚になりかけている。
その感覚のなさは、脳にも及んで、ほとんど危機意識さえもなくなりかけていた。
ひどいありさまだ。
すべては自分の迂闊さと、油断から出たことなので、怒り狂おうにも自分を責めるしかない。
美紀を殺害した男、またはそのグループは、疑われない良家の人妻をアリバイ証言者に仕立てて完全犯罪を成立させ、枕を高くしていたところに、河野たちが事件を調べはじめていることに気づき、しかもそれがかなり核心に近づいてきたことに気づいて、放置できないと悟って反撃に出てきたのに違いなかった。
こういう仕打ちをするところをみると、むこうも相当に焦ってきたようである。これはすでに、日常的な市民レベルの感覚になじまない暴力である。河野たちが貝塚に対してそうしたように、むこうも河野に対してそれをやらかしてきたとすれば、相沢と平松という男は、誰かに雇われたその筋のプロと思える人間に違いなかった。
それにしても、あれからどれぐらい経つのか。ひどい空腹である。喉も渇いていた。水が欲しい。くそっと、寝返りをうった時、ドアの外で微かな物音がきこえた。
河野はぎくっとして、身動きを止めた。
(誰かが、鍵をあけようとしている……!)
さっきの平松と相沢たちが戻ってきたのだろうか。
この様子からいって当然、自分をこのような情況に陥れた犯人グループということになる。先刻の締めあげでは自分が、貝塚の居場所を吐かなかったので、いよいよ、本格的に拷問にでもかけて吐かせるか、危害を加えようということだろうか。
河野は、何とか防禦の手だてを講じようと考えたが、しかし現実問題、どうすることもできないことに気づいた。
空腹感と、縛られた手足の不自由さ。たったこれだけのことが、人間の尊厳をほとんどゼロの次元に落してしまい、活動をその極限まで封じこめてしまうということが、ほとんど信じられなかった。河野は今さらながら、人間というものが口で言うほど立派なものではなく、実は他愛ない存在であり、日常性と非日常性が、ほんの紙一重で存在しあっていることに気づいた。
(くそっ、おれをいよいよ、コンクリート詰めにして、海にすてるつもりかッ)
寝返りを打ちながら、部屋の片隅に動こうとした時、はて、と河野は今度は異様なことに気づいて、耳を澄ませた。
平松と相沢ではないらしい。ドアに鍵が差し込まれる音が微かに聞こえただけで、それ以外、足音も聞こえず、訪問者はばかに物静かなのである。
いや、むしろ、その訪問者は自分の挙動があたりに聞こえることをひどく警戒して、物音をたてまいとしているかのようである。
やがて、ぎいと微かにドアが開く音がした。
河野はそちらのほうに、眼を凝らした。
開かれたドアの、背後の薄明かりの中に、黒々とした人影が立っていた。人影はしかも男ではなく、どうやら女のようである。
手に、光るナイフを握っている。握ったまま、女が近づいてきた。はじめはシルエットだけが見えて、顔は窺うことができなかった。
女は無言で河野が転がっているところまで歩み寄り、後ろに跼《かが》んで、ナイフで手足のロープを切りはじめたのである。
その息遣いとコロンの匂いで、河野にもやっと、その女が誰であるかが分かった。
「多鶴……! 多鶴……!」
小さな驚きで、その声は慄えそうになった。
「どうしてここが、分かったんだ?」
「しッ。声をたてないで」
こっそり忍びこんできたのは、現代企画社の行動派紅一点、野津原多鶴であった。
「事情はあとで説明するわ。……立てる?」
ビニールロープはもう切られたところらしい。
河野はしばらく手足を揉み、肩を貸してもらって、何とか立った。
よろめくように、ドアの外に出る。
「大丈夫か?」
出たところに、驚くべきことにヤマちゃんが立っていた。
山下重勝は、どうやら見張り役で通路に立っていたようである。
「歩けるか?」
「うむ。何とか」
多鶴にかわって、ヤマちゃんが肩を貸してくれた。多鶴は通路を先に走っていった。
「表に、車を用意している。もう少しだ」
通路は長かったが、何やらビルの地下通路のようであった。だいぶ歩いたところに階段があり、ヤマちゃんに担がれて外に出た。
外に出て、建物の構造がみえて状況が判明した。どうやら、河野が連れこまれていたのは、完成して間もないマンションの地下室だったようである。
いつも頬に触れていた毛足の深いグリーンのカーペットのように思えたものは、ゴルフ練習用の人工芝の一部だったことに気づいた。恐らくはゴルフ好きの住民がティーショットの稽古《けいこ》でもできるように作られた遊戯室のような地下室だったのだろう。
「さ、車に乗るぞ。ノンちゃんが運転する」
なるほど、階段をあがったところに、スプリンターが横づけにされていた。外はまだまっ暗だが、夜明けに近い時間であることは見当がついた。
河野は後部座席に担ぎこまれた。
「さ、走るぞ。リアシートに楽にしていてくれ」
ヤマちゃんが助手席に乗るとともに、多鶴が車をスタートさせた。河野は外の景色をみる元気もなく、シートにうずくまったまま、
「ここは、どこなんだ?」
呻くように、そう聞いた。
「練馬のはずれさ。関町ってとこかな。南急ナポレオン系の建設会社が建てたマンションさ。まだ出来たばかりで無人マンションだったからな。やつらはいいように利用できたんだろう」
「どうして、おれがそこに連れこまれていたことが、わかったんだ?」
「おととい、きみは週刊世界の記事をみたという女と電話で打ちあわせて、喜び勇んでオフィスを飛びだしたよな。その時、読者の反響にしてはあまりにも早いし、できすぎているし、何となく危ないんじゃないか、という気がして、おれ、三十分ぐらい後に高円寺のルノアールまで行ったんだぜ。女との落ちあい場所は、きみから聞いていたしさあ。すると、ルノアールにはいるまでもなく、でれでれとまるで恋人同士のように、仲よく階段を降りてきたきみを見つけ、どうもあの女、調子よすぎるな、と感じたんだ。それでマンションまでそれとなく尾行してみたってわけさ。表で見ていると、案の定、三十分もしないうちに、二人のおっかない男にはさまれてよ……」
「そうよ。ヤマちゃんが勘を働かせてくれなかったら、豪さんなんかもう、あの世行きよ。ヤマちゃんがタクシーで、豪さんをのせた乗用車を追跡して、今の関町の無人マンションを突きとめてくれたから、助かったのよ」
(わかったよ。ざまあない……)
河野は釈明する元気も、顔色《がんしよく》もなかった。
「すまんな。おれは、ものを言う元気もねえよ。しかし、あの地下室の鍵はどうしたんだ?」
「それは簡単なことだよ。だって、あのマンション、まだ誰も入居してないんだ。鍵なんかあってなきが如し。管理人室が、出入りの内装職人たちの休憩室になってたけどね、鍵なんかみんなその壁にぶらさがっているんだ。別に、どの部屋も盗られるものはないから、一個だけ残っていたあの地下室のスペアキイをノンちゃんが、ちょっと拝借してきたってわけだ」
(ま、救出する二人にとって、事はうまく運んだというわけだろう。そうしておれはこうして、何とか小康を保てたってわけか)
河野はやっと安堵《あんど》の思いを噛みしめながら、そう思った。これからおれをどこに連れて行くんだ、と聞こうと思ったが、それを口にだす気力もなく、リアシートにもたれたまま、また深い疲れの底にひきずりこまれて、泥のように眠った。
5
浴室からシャワーの音が、響いてくる。
多鶴がシャワーを浴びているようであった。若い肌に威勢よく弾ける湯の音をききながら、河野はまだ筋肉のふしぶしに、痛みの残る身体をベッドに横たえて、腹這《はらば》っていた。
窓から、カーテン越しの明るい光が射し込んでいる。救出された日の昼前、そこは杉並区堀ノ内の杉並サニー・ハイツ二〇八号室、つまりは多鶴が引越したばかりの部屋だった。
「成子坂のマンションや百人町のオフィスでは危ない。まだ知られていないはずの、多鶴の部屋がいいだろう」――ということになって、そこに担ぎこまれたようであった。
やがて、シャワーの音がやみ、多鶴が濡れた髪をタオルで拭きながら、バスルームから出てきた。身体にはバスタオルを巻いていた。
そのままの恰好で、部屋のコーナーに据えてあるテレビのスイッチを入れた。軽くボリュームを調節し、洋画にチャンネルを合わせると、画像がブラウン管に映った。
最近のアパートやマンションは仕切り壁が薄いので、部屋に異性を入れている時は、必ずラジオかテレビをつけるというのが、女子大生やOLの常識である。
テレビをつけると、多鶴が冷蔵庫から冷えたバドワイザーを二つ、取りだして一つを河野に差しだし、もう一つは自分でもってベッドの端に来た。
「やっと一息ついた?」
「ああ、何とか……おかげでね」
「じゃ、ビールくらいちょっとだけ、許すわ」
「ありがたいね。死に水にならなくて、よかったよ」
河野はこの部屋に担ぎこまれて以来、ポタージュスープや玄米|粥《がゆ》をふるまわれ、やっと少しずつ、ふだんの元気を回復してきたところであった。
缶ビールを手にして、多鶴はそれから鏡台の引出しをあけると、中から何かを取りだし、戻ってきた。
「はい。美紀さんからの|贈り物《プレゼント》よ」
「えッ……? 美紀から……?」
(死者からのプレゼントなんて、縁起でもない)
河野がゆるゆると身を起こすと、多鶴は何やらカセットテープのようなものを差しだしている。
手にとってみると、それは美紀が愛用していたワープロのフロッピーディスクであった。
「これが、どうしたの?」
「だから、美紀さんからのダイイング・メッセージと言ってるでしょ。いえ、ダイイング・メッセージというより、それ自体が最大の証拠品と言っていいかもしれない」
「美紀が……? こんなものを……? どこにあったんだ?」
「お部屋で見つけたのよ。美紀さんの部屋で。犯人は犯行後、手掛かりとなるものをすべて持ち去り、後日、共犯者が残されていた机の中のノートまでは持ち去ったようだけど、このフロッピーにだけは、気づかなかったようね」
多鶴の話によると、彼女は、美紀が自宅でワープロを使っていたことを知っていた。それは河野が「妹のやつ、おれより性能のいいワープロを買いやがった」と以前、話していたことや、河野のところにきていた葉書がワープロ打ちだったことを、記憶にとどめていたからである。
河野と連絡がとれなかった昨日、そのことを突然、思いだした。ワープロは、プリンターにかけられて印刷された文章なら眼につくが、フロッピーだと判読もできないし、何がそこに打たれているのかもわからないし、だいいち、フロッピー自体、ふだんは眼につかないところに設置されている。
殺害された河野美紀は、もしかしたら、稲垣との私信や、殺人事件に関係する手掛かりをワープロで打っていて、そのフロッピーをどこかに隠しているのではないか。その上、犯人が部屋を物色する時も、あわてていて、つい見落としているケースは考えられないか……?
多鶴はそれに気づいて、昨日の午後、急いで等々力の「エクレーヌ駒沢」に行ったそうである。部屋の鍵は、名刺をだして管理人に開けてもらうつもりだったが、フロントの郵便受けに、なんと部屋の鍵が戻っていたそうである。
その鍵で美紀の部屋に入り、片隅に、段ボールが幾つか積んであるのが目についた。その中に、音楽のカセットなどが入った箱があった。美紀の母親が、捨てていいものかどうか迷って、河野に処分を委せていたものの部類だろう。
そのカセット類をひっかき回しているうち、音楽のカセットと同じような形をしているワープロのフロッピーディスクを一つ、見つけたのだという。
「それが、これなのよ」
「で、このフロッピーには、何が打たれているんだ?」
「それはお楽しみ。オフィスに戻って、同型機でプリンターにかけてみるといいわ。絶対の証拠品になるものが出てくるから」
多鶴は気をもたせるように、言った。河野にも妹が遺してくれたこの思いがけないフロッピーが、第一級品の証拠になるような重い予感がした。
「それから――」
多鶴が、バッグの中から一枚のスナップ写真を取りだして、差しだした。
「まだあるのか?」
どうやら、河野が敵の手に落ちていたわずか一日半の間に、思いもよらない事態の急進展があったようである。
この部屋は、その戦利品の陳列室になってきたようだった。
(――事件は、上げ潮だな)
多鶴に渡されたものを手に取ってみると、それはどこやらの駐車場で撮った中年夫婦のスナップ写真であった。驚いたことに、そこに駐められている車の一台が、見憶えのあるスカGであり、ナンバーはばっちり、稲垣啓四郎の所有車の番号であった。
「七月二十二日、と撮影日付も入ってるでしょ。この写真、箱根塔ノ沢温泉の近くの駐車場で写されたものよ」
「お……おい……まさか、高円寺の前田美穂子と名のっていた女、本当のことを言ったんじゃあるまいな」
「いいえ、あなたが会った女は、にせ者よ。でも、そのにせ者が話していたと思えるのと、そっくり同じような情況が、ちょうど、箱根を訪れていた初老の夫婦によって、証明されたのよ。あなたが飛びだしたあと、この写真に写っている男の人、栃原さんという方だけど……週刊誌を見たといって、オフィスに電話をかけてきたので、私が代わりにお会いしたのよ。そうしたら、七月二十二日の朝、ホテルを出発する際に撮った写真の中に、お尋ねの車がはいっていたといって、この写真をいただいちゃったの……」
世の中には、不思議なこともあるものである。
河野をひっかけるために平松や相沢たちが差しむけた前田美穂子が話していたのとそっくり同じような出来事が、現実に別の初老の夫婦の身辺で、起きていたというわけである。
文句なしに、その写真はありがたいものであった。
(よーし、事件は上げ潮。証拠品は着々と集まっているぞ……)
と、呟いた時、河野は箱根の別荘に閉じこめている証拠人、貝塚達郎のことを思いだし、
「おい、ところで、別荘に監禁しているあいつは、どうしている?」
「どうしてるって、あのままよ。大丈夫よ。ヤマちゃんが行って、食料と水ぐらいは与えているわ。もう今日あたり、だいぶへばって、本当のことを吐くかもしれないんですって」
(よーし、こうしてはおれないぞ)
と、河野が全身に意欲をみなぎらせた時、
「あら、正直……」
多鶴が不埒《ふらち》な声をあげた。
その時、多鶴はこれまでのすてきなアガサ・クリスティであることをやめて、一転、ピンク・パンサーのようなすてきな挑発者に豹変、とても不埒なふるまいに及んでいたのであった。
毛布に包まれていた河野の尊厳のほうに手をのばし、そこが明らかなしるしを見せていることを確かめると、楽しそうに笑って、顔を寄せてくる。
「安心したわ。昔のまんまで」
上から顔をかぶせるようにして、キスを見舞った。
河野はそれを、受けた。
河野はまだ体力回復途上の身体を仰むけにして、寝そべっているので、自然、多鶴が主導権を取ることになった。
「私をしばらく放っといた罰よ。痛い目にあったなんて、いい気味」
言いながら、多鶴はかしずいて両手で男性自身をさらに際立たせ、唇を被せてくる。
口に含み、巧みな口唇愛をふるまうのだった。
この知的で行動的で、パンチのある女のどこに、このような娼婦のごときすてきな魔性が秘められているのだろう、といつも驚く巧みさだった。
口腔いっぱいが柔らかい性器になったよう。熱い世界に奉仕され、危なく爆けそうになって、河野はタイム、タイムと叫び、不意に身を起こすと、反対に多鶴を押し伏せにかかった。
「ああん……だめよう……あなたは寝ていなくっちゃ」
言いながらも、多鶴は河野に抱かれて、接吻に応える。膨満感のある乳房が、二つの身体の間にはさまれて、窮屈そうに揺れた。
河野はそこに顔を伏せた。
舌でいなされると、多鶴の乳首はじきに尖ってきて色づき、多鶴は反った。
「久しぶりだから……とても響くわ」
たしかに、多鶴とは久しぶりである。
河野は乳房をあやしながら、傍ら、右手を股間にのばした。風呂あがりの茂みは、柔らかくなっていた。指がその茂みの下に分け入ると、秘唇はすでに濡れあふれているのがわかった。
ぬかるみのなかに指をすすめて、かきまわすと、多鶴はもの狂おしい声をあげた。
いい、とか、ああ、ではない。どちらかというと、ああん、という鼻に抜けるような甲高い声なのだが、それが完熟した果肉からほとばしる飛沫《しぶき》のようなオクターブの高さをみせ、さらに指がぬかるみの隅々を丁寧に探険して、出没するにつれ、腰を震わせ、多鶴はううっとのけぞるのだった。
「指も、私のことを忘れてなかったみたいね」
多鶴はやがて、大胆不敵なことを言った。
「ねえ、あなたは病人だから休んでいなさい。私に、騎《の》らせて……」
宣言すると、多鶴は跨ってきた。
猛りを熱いぬかるみの中に取り入れ、腰を沈める。
喘ぎとともに、ゆっくりと腰をおろしてきた。河野の豪根が、深々と収まってゆくにつれ、
「ああッ……」
多鶴が、頭蓋を貫かれるような声をあげて、のけぞった。
根元まで没入させると、河野はその腰を両手で掴んだ。
多鶴が、ゆっくりと動きだした。
河野は、下から突きあげてやった。
「ああン……あん……あん」
河野は貫いたまま、膝立ちして腰を捏《こ》ねる多鶴の双つの胸の肉珠を下から掴んだ。掴んで揉みながら、打ち込む。多鶴の背中が弓のように反り、河野の手に支えられて、腰のあたりが完全に宙に浮いた。
河野は、ゆっくりと捏ねつづけた。鋭い突きに抉るような動きがまぜられた。多鶴の白いなめらかな腹部がうっすらと汗に光って波打ち、多鶴は何度も喉につまったような声をあげて、悶えた。
夥しく湧きだした粘液は、河野の下腹部を濡らし、シーツを沼と化した。
男を呑みこんだ腰が、われを忘れて円を描いている。熱い粘膜に包みこまれたものは、まだ衰えをみせず、大きく膣の中でのたうった。
恐らくは、もうすぐ近づくであろう邪悪な者たちとの決戦を前にした男と女の欲情が、爆発しているようだった。
6
翌日の午後、オフィスを飛びだそうとして、
「おや」
河野は、顔をあげた。
エレベーターを降りたところである。
眼の前に、一人の男が立っていた。
もう一人の男が、後ろにまわってくる。
「河野さんですね?」
そう聞いた正面の中年男の顔に、微かに見憶えがあった。
オフィスビルのフロントに待ち伏せしていた二人の男は、平松と相沢ではなかった。あの手の種類の人間ではない。どこか役人くさい、しかしどこか横柄で、体奥にしたたかなバネを撓《た》めていて、こわもてするタイプの人間であった。
「河野ですが」
と、答えた時に、やっと思いだした。
(そうだ。美紀の殺人事件の捜査本部の杉浦という警部だったな)
「今、お帰りですか?」
「いえ。まだ退社というわけじゃありません。これから外回りです」
「ご記憶かどうか、捜査本部の杉浦です」
中年男が念のため、警察手帳をみせた。
「河野さんとは事件発生の折、被害者のお兄さんとして、ちょっとお会いしましたね。それ以来、ご無沙汰で、たまには会いたいと思っていました。ここんところ連絡がとれなくて、心配してましたが、どうやら、無事だったようですね」
どうやら無事だったようですね。……という言葉には、皮肉が感じられた。
「どういうご用件でしょうか?」
「ちょっとあなたにお伺いしたいことがあります。立ち話では何ですから、喫茶店でもつきあっていただけませんか?」
「じゃ、こちらへどうぞ」
河野は階段をのぼって、そのビルの二階の端にある小さな会議室に通した。
そこは毎週一回、スタッフ会議を開くために、現代企画社も家賃を払っている共同会議室である。
殺風景な長机の端に、三人の男は坐った。
「ところで」
杉浦警部は、すぐに身をのりだしてきた。
「梅津るり子という女性を、ご存知ですね?」
刑事たちが長く待っていたところをみると、何らかの確証を得て来ているはずで、しらを切っても隠し通せるものではなかった。
「はい、知っています」
「五日前、西麻布のマンションで亡くなったこともご存知ですね?」
「……やはり、そうですか」
「やはり、というのは?」
「詳しいことは知りません。テレビのニュースをみた時、何となくそんな気がしたんです」
「お察しの通り、殺害されておりました。ナイフで心臓をひと突き、致命傷でした。河野さん、犯人に何か心当たりはありませんか?」
「心当たりといっても、別に」
「彼女にとっては、あなたとプライベートな関係になって間もなくの悲運でしたね。どうも、あなたが不幸を運んだような気がしてならない」
「ちょっと待って下さい。縁起でもないことを。どうして、そういうことをおっしゃるんです?」
「あなたの名刺が出てきました。被害者のハンドバッグから。それには会った日付も書かれていました。つまり、八月九日の夜、あなたは彼女とアマンドで落ちあって、あのマンションにお入りになったようですが、それは彼女が殺害される前々日というわけです」
(なるほど)
と、河野は思った。
(渡していた名刺で、るり子とおれの関係が判明したわけか)
河野はあの日、別れ際にるり子に名刺を渡していたのである。いざとなったら彼女には、稲垣を箱根湯本駅でお昼ごろ、目撃した大事な証人になってもらわなければならない、と判断したからである。
「私が、梅津るり子を殺害したとでもおっしゃるのですか?」
河野はやや、むきになって言い返した。
「いいえ、とんでもない。そうは言ってはいませんよ。あなたが、梅津るり子を殺害するはずはない。彼女の死亡推定時刻に、あなたがこの現代企画社のオフィスにいたことは証明されていますし、だいいち、あなたが、大事な証人を殺すはずはないじゃありませんか」
(証人だと……?)
河野は、沈黙した。
なかなか、鋭いことを言うじゃないか。
(しかし、どうして警察は知り得たのだろう)
「ねえ、河野さん。あなたは何かを隠してらっしゃる。正直に教えてくれませんか?」
「何を教えろ、とおっしゃるのです?」
「たとえば、トランタン・クラブの梅津るり子が、あなたの妹、河野美紀さんが殺害された事件で、何を知り、どのような関係にあったのか。またそれを、あなたがどうして知り得て、何を、どこまで梅津るり子から聞き得ていたのか」
「はて」
河野は宙を睨んだ。
「難しいことをおっしゃる。梅津るり子が人妻派遣組織のメンバーだったということをご存知だったら、ぼくはもう何も言うことはありません。ぼくと彼女は、組織を通じてのただのプレイ関係でした。とても具合がよかったので、また会いたいと思った。そのために、名刺を渡しておりました。それだけのことです」
河野はそこまで一気に言った。
そちらのほうで引っぱられるかもしれないが、「自由恋愛」だったと言い逃れる手はある。
「そうでしょうかな」
杉浦警部は、憮然《ぶぜん》とした表情で、じろっと睨んだ。
梅津るり子のことを詳しく尋ねているところをみると、杉浦警部はまだ彼女が目撃者であったことは知らないようである。
「ところで、幾つかの週刊誌や新聞で、ある人物の所有車に拘わる面白いお尋ね記事を拝見しました。何か、成果はありましたか?」
(あったとも……あったぜ……凄い成果があったんだぜ……)
河野は本当なら、今すぐにでも、警察に協力したい。あの駐車場の写真も、美紀のワープロのフロッピーも渡して、杉浦警部たちに一刻も早く真犯人を逮捕してもらいたい。
しかし、まだ証拠や確認は、不充分である。今の段階では素直にそうはしたくないという気持ちのほうが、深く根を張っている。それは、妹を殺したやつは自分の手でつかまえたい、という気持ちでもあるし、警察には頼りたくない気持ちでもあるし。せっかくここまで追いつめているところなので、官憲の力を借りずにとことんやってみたい、という野心でもあった。
(それに何といっても、貝塚を箱根の別荘に不法監禁したりしていて、おれたちはもう一線を踏みこえている……)
警察にはもうしばらく、近づかないほうが無難であった。
河野が沈黙すると、杉浦警部は不機嫌そうに睨んだ。
その面上には微かに、怒りすら感じられた。
「ところで、どうなさったんです。その顔は」
杉浦が、はじめて河野の顔に残っている生傷に気づいた、という表情をした。
「私の顔がどうかしましたか」
「生傷じゃありませんか。打撲傷の痕もある」
「ちょっとね、転んだんです。こないだの夜、猫を踏んづけちゃいましてね。そうしたら、びっくりしたんです。いえ、猫がじゃなく、ぼくのほうがですよ」
やれやれ、という顔をして、杉浦警部は立ちあがった。
「どうにも、素直にはなっていただけないようですな。そりゃ、あなたの気持ちもわかります。あなたは殺害された美紀さんの実兄だ。犯人への怒りも恨みもわかる。しかし、暴走されては困る。今のようなことをしていると、あなたご自身、妹さんより、もっと深刻で悲劇的な危険に見舞われるかもしれませんよ――」
「大丈夫ですよ。商売柄、暴力団の連中の気性は知っています。あの連中のもっと奥の院に入って、取材したこともある」
「素直に聞いて下さい。これは取材ではない。あなたは、私憤、私怨に駆られている。それじゃ、困る。――ねえ、今、どこまで、何を掴んでるんです? それを話して、あとは私たちに委せてくれませんか?」
河野も、立ちあがった。
彼もこれ以上、議論をする気持ちはなかった。
河野は素直に、頭を下げた。
「申し訳ありません。杉浦さん、もう少し、勝手なことをさせていただけませんか。もうちょっとで、核心を掴むところにきてるんです。それを掴んだら、杉浦さん、あなたにご一報します。これはお約束します……。それに、警察は警察で、おやりになったらいいじゃありませんか。ぼくたちの安全を心配していただいているのでしたら、それはご無用ですから、もう少し、自由にさせて下さい」
無言で睨みつけている杉浦に、じゃ、と一礼し、河野はすたこら、その会議室をあとにした。
通路を歩いて階段を降りながら、おや、とその時、河野の頭にチカッと閃いたものがあった。
(もし、梅津るり子がおれに箱根湯本で稲垣を目撃したことを喋ったことが原因で殺害されたとするなら、犯人は、どうしてるり子がおれに喋ったことを知り得たのだろうか? おれとるり子とは、あとにも先にもたった一回、あの夜、六本木で会い、あのマンションの部屋で話をし、抱きあっただけである……)
(……とすると、あのマンションの部屋自体に、何かの仕掛けがあるのではないだろうか?)
第九章 許されざる者
1
――街を夕暮れの光が洗っていた。
買物を終えて、六時には家に着いた。
(あら……)
伊集院明日香は門扉を入ろうとして、郵便受に眼を止めた。
週刊誌大の封筒が突っ込まれていた。ボックスが小さいため、その大きめの郵便物は、いまにも外に飛びだしそうな恰好になっている。
大きな郵便物は、だいたい、ダイレクトメールだった。とくに昨年、杉並の父が亡くなって、堀ノ内の土地遺産を受けついで以来、ゴルフ場会員権とか金相場とか分譲リゾートマンションなど、各種のダイレクトメールがやたらに舞い込むようになった。
その大きな封筒とともに、数通の手紙を抜きとり、家にはいった。
義母の泰子は宏也を迎えにプールにでも行ったのか、留守であった。明日香は荷物をキッチンのテーブルの上に置いて、郵便物の封をあけはじめた。
週刊誌大の大きなものは、お決まりのダイレクトメール。その下にちょこんとくっつくようにして出てきた白い角封筒に、首をひねった。住所と宛名は、明日香の名前が、裏はまるでまっ白で、差出人の名前はない。
その白い封筒をあけてみた。二枚の写真が出てきた。その写真を手にした瞬間、明日香の顔からサーッと、血の気がひいた。
ベッドの上で左胸部から血を噴きだして死んでいる女、その傍にナイフを握って立っている明日香の顔が、はっきりと写っているではないか。
一枚は遠景で、もう一枚はアップ……。
脅迫電話の男が告げていたのは、その写真のことだったのである。
折も折、リビングで電話が鳴りだした。
(……夫かしら……?)
夫の京輔は最近は仙台からも時々、電話をかけてくるようになっていた。
急いで写真を封筒にしまいながら、明日香は受話器のところに走った。
「はい、伊集院ですが」
すると、一拍おいて、
「写真、みたかい?」
聞き憶えのある声であった。
明日香は、そのあまりのタイミングのよさに、はっとした。先日来の脅迫電話の男であった。
「それを見たら、写真があるという話、嘘ではないことが、わかっただろう。金は用意できたか?」
金、というのは、要求されている三千万円だ。それにしても、帰宅したとたんのこのタイミングのよさは、私が帰宅するところを、この近所で見張ってでもいたのだろうか。それとも、ずっと尾行でもしていたのだろうか。
「まだお金はできていません。一週間の期限をもらってるじゃありませんか」
「そうそう、一週間だったな。その期限は切れていないが、こういうことはねちねちと催促しなくちゃ、効き目はないからね。今日のところは、まず写真の件が嘘ではないことを、知らせただけさ。じゃ、また電話をする」
そう言って、男が切ろうとした時、
「あ、待って――」
明日香は、とっさに言ってしまった。
脅迫者の正体をさぐってみよう、と先日来、明日香はひそかに考えていたのである。
「明日になったら、お金の都合がつくわ。どこに持ってゆけば、あの写真のネガ、返してくれるの?」
会って、正体を確かめて、なぜ自分が嵌《は》められたのか、それを探らなければならない、と明日香は背中を押されるように考えた。
「お、うれしいね。本当に明日になったら、金はできるのかい?」
「大丈夫よ。お昼すぎなら」
「そうだね、財閥夫人にとったら、三千万円なんて、メじゃないわけだ。よし、それじゃ場所を決めよう。午後二時、渋谷の公園通りにドルミーっていう喫茶店がある。そこで、どうだ?」
「公園通りのドルミーといえば、山手教会の近くだったわね。わかったわ、写真のネガ、ちゃんと持ってきてよ」
「こちらは間違いない。そっちこそ、ちゃんと持ってくるんだぞ」
――約束は、そんな具合になった。
明日香は、箪笥預金を少しおろして、手付金ぐらいの金を持参し、それをちらつかせながら、相手の正体を探ってみよう、と決心したのである。
2
翌日は、よく晴れていた。
午後二時になろうとしている。
居間で、テレビがつけっぱなしになっていた。主婦向けの、午後のワイドショーの番組がつづいている。
さっきまで、明日香はそれを見ていた。眼は見ていても、心は虚ろだった。まだどうしようか、と迷っている部分があった。
(脅迫者と、あんな約束をしたけど、軽率だったのではあるまいか。行って、危険はないだろうか。行かないほうが、無難なのではないだろうか)
そんな躊躇《ためら》いが、堂々めぐりしていた。
しかし、時計が午後二時になった時、彼女は立ちあがった。やっぱり、行ってみよう、と思った。
相手を突きとめなければならない。写真を取り返さなければならない。幸い、夫は家にいないし、義母の泰子は宏也をつれてデパートに買物に行っている。
決心したら、もう手早かった。化粧も外出支度も終えていた。車ではなく、電車でゆこうと思った。
渋谷には、二時半に着いた。
(約束より三十分以上、遅れることになるけど、むこうが怒って席を立っているならいるでいい……)
そんな気分であった。
公園通りには、日曜日の若者たちがあふれていた。山手教会の先のドルミーという喫茶店は、すぐにわかった。
狭い階段をあがると、明日香はさほど広くない店内を見渡した。数組のカップルがいた。男が一人、窓際に坐っていた。
週刊誌を広げている。どこやら、遊び人ふうの男であった。
見当をつけて、その傍まで歩いた。
足音で男が眼をあげた。男の表情は少しも動かない。黙って明日香を見ていた。明日香は黙って男のむかいの席に坐った。
「何を飲む?」
男は言った。明日香は、返事をしなかった。男が手をあげて、ウエイトレスを呼んだ。
男はかすかな薄笑いを浮かべた顔で明日香をみた。
ウエイトレスが寄ってきた。明日香はコーヒーを頼んだ。
「昨日、道玄坂のホテルから尾行していたの、あなたでしょう?」
男はニヤッと笑っただけで、肯定も否定もせず、週刊誌を閉じて、傍らに置いた。
「ねえ、答えなさいよ。どうして私を尾行しているの? どうして私の写真などを撮ったりしたの?」
明日香は、たてつづけに言葉を浴びせた。
「その前に、金は持ってきたかい」
男は無造作に言った。ある種の馴れが感じられるのは、こういうゆすり、たかりの類いの行為を、いつも平気でやっている人種だからかもしれなかった。
「今日、もらえる予定だったお金が、だめになったのよ。三千万円なんて大金、そう簡単に動かせるものではないわ。それで、お詫びしようと思って、ここに来たのよ」
「なんだ、おれをばかにするのか」
男は少し、気色ばんだ。
「それじゃ、この交渉はおしまいだな。ネガも渡さないし、あの女の正体を教えてもやらないぜ」
「あの女って……?」
「殺されていた女さ。知りたくはないかい?」
「知りたいわ。知っているの?」
「ああ、知っている。しかし、金を用意してないんなら、駄目だな。今度にするよ」
「手付金だけは、用意してるわ」
「幾らだ?」
「三百万円。耳を揃えてるわ。それでいやなら、私も帰ります」
(あとは勝手になさい)
という具合に……効果まで計算していたわけではないが、その見せ金によって交渉は予想外に進展した。
「これでいやなら、打ち切りね」
明日香が、運ばれてきたコーヒーに手をつけもせずに、立ち上がりかけると、
「おい、待て」
と、男は言ったのである。
「その手付金を、貰おうじゃないか。それに見合う分を、教えてやる」
明日香は、坐り直した。
「ネガも、返してくれる?」
明日香は膝の上に抱えていたハンドバッグの止め金をはじいてあけた。
男はバッグの中にちらっと、一万円の札束がはいっているのを見届けてから、
「ああ、返すよ、一枚だけならね。それからあの女の正体も教えてあげよう。あとは残金を貰う時だな」
「そんなケチなことを言わずに、全部、教えなさいよ」
明日香にとって、三百万円もの大金は主婦として身をきられるように痛かったが、自分の人生の安全保障のためだと考えれば、仕方がないと諦め、札束を三つ、バッグから取りだして、男に渡した。
男が封筒に入れたネガを一枚、渡しながら、
「あの女の名前は、梅津るり子、二十七歳。トランタン・クラブの秘かなる売れっ子だったみたいだね」
「トランタン・クラブって、何なの?」
「六本木不倫館を舞台にする人妻売春組織さ。梅津るり子は人妻というふれこみだったが、実は一年前に離婚していてね、それでもマスクもプロポーションもよかったので、組織では売れっ子だったようだ」
「その女がどうして殺された、というの? 誰に殺されたというの?」
「さあてね。そこまでは、おれにもわからん。もしかしたら、あんたに関係する男の仕業かもしれないよ」
「私に関係があるって、どういうこと?」
「知りたいか?」
「小出しにはしないで。ちゃんと教えてくれたら、どうなの?」
明日香は自分が、驚くほど鉄火な女になりかけていることに気づいた。
男は飲まれたように、いっとき、じいーっと明日香を見ていたが、不意に伝票を握って立ちあがった。
「じゃ、教えてやろう。ついてくればいい」
「え? どこに? 何のために?」
「教えてくれ、というから教えてやろう、と言ってるんだ。黙ってついてくればいい」
先に立って歩く男の肩には、有無を言わせぬ力があった。
明日香はそのあとに従った。もうここまで来たからには、ミイラの穴にでもどこにでも、ついてゆくつもりだった。
男はデパートの裏の駐車場に車を駐めていた。
助手席に乗れ、と促した。
「どこに行くの?」
「悪いことはしない。黙ってついてくりゃあいいさ」
「あなた、名前、何ていうの?」
「相沢、と呼んでくれ。その下は面倒じゃないか」
明日香は、助手席に乗せられた。
相沢と名のった男は、運転席に坐ると、すぐに車をスタートさせた。
車は渋谷の街を出て宮益坂をのぼり、青山学院大学の傍から右折した。六本木のほうにゆく道である。
やがて、霞町から六本木への坂をのぼりはじめた時、もしや、という予感が明日香の中ではねた。
「まさか、あの事件のあったマンションじゃないでしょうね」
相沢は、無言で運転した。
車がテレ朝通りにはいった時、明日香は予感が適中した、と思った。
やがて、眼の前に見憶えのあるマンション「エグゼクティブ西麻布」が見えてきたのである。
「いやよ。あの部屋にはいるなんて」
「心配するな。殺人事件の起きた部屋にはいるんじゃない。このマンションが、なぜ六本木不倫館と呼ばれているかを、お見せしようと思ってね」
相沢は妙なことを言いながら、表で車を駐め、
「さ、ゆこう」
そのまま、明日香を従えてフロントに入ると、エレベーターに乗った。
明日香は、このマンションが何といっても、殺人事件の起きたマンションであり、稲垣啓四郎や妹の見栄子が住んでいるマンションだったので、息苦しい気分だったが、その反面、いったい相沢は何を見せるのだろうと、急に好奇心も湧いてきて尾いてゆくしかなかった。
相沢は四階で降りた。事件の起きた六〇六号室ではなさそうだったので、明日香は少し安心した。
相沢は四〇五号室という部屋のキイをあけた。その部屋も、ネームカードはなかった。
(この部屋もホテルがわりのリースマンションとして、使われているのだろうか)
相沢はドアをあけ、腕時計をみながら、
「さ、はいりたまえ。ちょうど、いい時間かもしれないぜ」
小声で、囁くように言った。
急に秘密っぽくなったような気がする。しかし、危険という雰囲気は、あまり感じられなかったので、明日香は入った。
照明は薄暗いが、やや華美なインテリアをもつ豪華マンション。とくに奥のほうの寝室は広くて、キングサイズのベッドが二つも並んでいる。
「こっちだよ。こっちに来て、見てごらん」
相沢が奥の寝室に導いた。ベッドの横が金箔塗りの襖になっていて、その襖を相沢はするするっと、あけたのである。
あッ、と明日香は息をのんだ。襖の奥がマジックミラーになっていて、そこから隣の部屋が見えたのである。
「まあ!」
話に聞いてはいたが、明日香が目にするのは、初めてであった。
明日香がどきんとしたのは、見えた隣の部屋もミラーのすぐ傍が寝室となっていて、ベッドの上で一組の男女が、裸でもつれあっていたからである。
はじめは、それが誰であるか、わからなかった。
男と女は、なまめかしい光に包まれて、二匹の人魚のように見えた。
人間の肌は、幻想的なオレンジ色の明かりに照らされていると、それほど汚いものではない。その二人の裸者は、すでに前戯が終わり、結合へと動いているようであった。
ちょうど、男が起きあがり、仰臥した女の両下肢をあけて、位置をとろうとしている。
その瞬間、顔が見えた。
「まあ、京輔じゃないの……!」
男は、紛れもなく、夫の京輔なのであった。
今はまだ、仙台のはずである。東京に帰任するのは、来月のはずであった。その夫が、明日香に嘘をついて今、こんなところにいたのであった。
そうして女の顔をみて、あっと思った。
(やはり、見栄子じゃないの……!)
うっすらと眼を閉じて喘いでいるが、女の顔は、明日香の短大時代の同級生。そうして稲垣啓四郎の妹の稲垣見栄子に間違いなかった。
(どうなってるの……? いったい!)
驚くうちにも、二人の行為は進んでいた。
京輔の分身が見栄子の女芯を貫いたらしく、ああっと、見栄子の顎がのけぞっている。京輔がヒップを躍らせるにつれ、見栄子が呻いて、京輔を抱きしめ、声を弾ませながら、もうたまらないといった佳境の表情を浮かべて……。
明日香は、両手にしっかり握りしめていたバッグを床に落としてしまった。
腰が抜けそうになっていた。
男女の交合というものを、こんなに間近に見たのは、初めてである。
いつのまにか、相沢が後ろに立っていた。
「どうだい。驚いたかい?」
明日香の腰に腕をまわしてくる。首すじに熱い唇が触れた瞬間、やっと我に返って、
「あ、やめて……何するのよッ」
激しく身を揉みしだいた。
はじかれた相沢の眼が、ニヤニヤと笑いながら、
「驚くのは、まだ早いよ。こっちの壁もマジックミラーになっていてね。たぶん、あんたが驚く男がいるだろう」
相沢が今度は、反対側の壁の黒いカーテンをめくった。
すると、その黒いカーテンの後ろも、マジックミラーになっていた。鏡のむこうのベッドの上で、やはりもつれあっている男女がいて、これは女上位の体位であった。
女の顔には、見憶えがない。AV女優でもやれそうな、若くて美しい女であった。
しかし、その女を乗せている男の顔には、見憶えがあった。見憶えがあるどころではない。何とその男は、稲垣啓四郎ではないか。
「みんな……みんな、ぐるじゃないの。いったい、どうなってるの、この人たち!」
明日香はおなかの底から、呻くように、絞りだすように言った。
どういう「ぐる」だかは、よくわからないが、何だかみんな「ぐる」になって、自分を陥れ、辱しめ、あざ笑っているように、明日香には思えた。
「だからさ、このマンションは、六本木不倫館というんだ。金持ちどもが投資のために購入して遊ばせている部屋が二十以上もあってね。リース・ルームとしてラブホテルのように貸しているから、それを束ねて利用しているのが、ここの管理人なんだ。部屋の管理をするついでに、人妻売春組織を作ってね、客を集めてるんだ。あんたの亭主は、そのトランタン・クラブめあてに通ってくるいい鴨みたいだな」
京輔は、ただの客かもしれない。しかし、稲垣と見栄子は、ここの住人なのだから、ただの客と言えるのだろうか……?
明日香が茫然としていると、
「亭主に裏切られて、相当、ショックだったようだな。そういう時は、やり返せば気持ちがすっきりするもんだぜ」
相沢がいつのまにか、明日香の腰を抱いていた。
後ろから抱きすくめられ、両手で乳房を包まれる。
「あ、やめて。……何をするの」
明日香は抗っているが、力がはいらない。この部屋の異様さと、知り得たことの異様さに、足が萎えて、そのまま床にくずれ落ちそうな脱力感に襲われていて、相沢によってかえって、支えられているような具合であった。
盛り場ならどこにでもいそうな、街の俗塵にまみれて生きているような小悪党の、チンピラの相沢ごときに身体を支えられているのが、腹立たしい。
その相沢が唇を首すじに這わせる。傍ら、乳房を揉まれていると、頭の中に赤い霧がかかってきて、明日香は思わず、眼を閉じてしまいそうになる。
「だめ! ……だめッたら、悪党! ……やめてちょうだい!」
力一杯、身を振りほどこうとした瞬間、幸か不幸か、寝室のドアが音もなく開いて、一人の男が飛びこんできた。
その男の顔を見て、明日香はあっと、驚きの声をあげた。
黒い革ジャンパーに、黒いサングラス、黒いツーリングブーツ。その男は半月前に一度、自由ケ丘の喫茶店で明日香が会ったことのある河野豪紀という男ではないか。
「あなたは……」
明日香が眼を見張っているうちに、勢いよく飛び込んできた河野は、相沢の襟首を掴んで明日香から引き離し、股間に膝蹴りを入れて床に叩き伏せ、たちまち捻じ伏せてしまった。
「て……てめえ……」
相沢が吼えたが、武器をとりだす暇はなかった。
(こないだは高円寺の女の部屋以来、ええ恰好してくれたな。関町のマンションの地下室でこっぴどくどつかれたことは、忘れていないぜ。今日は人妻をたぶらかして脅迫し、その上、その身体にまでありつこうというのか。ちょっと、虫がよすぎるというもんだ)
河野は有無を言わさず、ツーリングブーツの先をたてつづけに相沢の脇腹に打ち込んだ。
相沢は蛙《かえる》のように床にひっくり返って、そのまま、動かなくなった。
ようやく、河野は顔をあげ、
「奥さん、早くここから逃げなさい。ここは奥さんなんかが来る場所じゃない。こんなやつを相手にすることはない!」
はじかれたように、明日香は河野の顔をみて、ありがとう、と眼で感謝の気持ちを伝えて、よろめくような足どりで部屋を出ようとした。
その背中へ、河野の声が礫《つぶて》のように飛んだ。
「奥さん、早く眼を覚まして下さい。あなたは稲垣に欺《だま》されているんです。南急ナポレオンに委託して、杉並区堀ノ内に建てた杉並サニー・ハイツ関係の書類や権利書や登記簿などをもう一度、しっかり検《あらた》めて下さい。もしかしたら、とんでもないことになっているかもしれませんよ」
そういう声が聞こえた。
声の意味するものは、明日香にはすぐにはわからなかった。
明日香はただ、急場を救われてほっとしながら、背中を押されるような思いで、その部屋を後にした。部屋では、フルフェイスヘルメットをかぶり直して顔を隠した河野が、まだ相沢に対して何がしかの処置をつけているようであったが、ドアを閉めた明日香にはもう別の世界であった。
3
その夜、夫の京輔は九時頃、平気な顔をして自由ケ丘の家に帰ってきた。
「参ったよ。不動産の処分のたびに、東京と仙台を往復さ」
そんなことを言いながら、書類カバンを差しだす。昼間、秘密のエデンの園で愛人の女と交わしていた痴態を妻に見られたことを、いったい気づいてはいないのだろうか。気づいているのだろうか。
ともかく彼はぬけぬけと、平然とした顔をしていた。少し、酒が入っている。迎えに出た明日香に書類カバンを渡すと、いつものようにスリッパの音をたててリビングルームに歩いて、テーブルの前の椅子にどっかりと腰をおろす。
「めしはいい。お茶を貰おうか。風呂、沸いてるか?」
明日香は風呂からあがったばかりで、濡れた髪にタオルを巻いていた。夜化粧はしていない。乳液を塗りつけただけの、てかてか光るその顔は、素肌が少し蒼ざめているようでもあるし、どこやら、つるつるとしていて、三十女のなまめかしさとしたたかさとぎらつきと凄さを、皮膚一枚下に蓄えはじめているようでもある。
「よく平気な顔でいられますわね」
明日香は自分で水割りを作りながら京輔のむかいに坐った。
夫に求められた通りのお茶など、入れてやるつもりはない。
「六本木で遊んでいたことか」
(あら、知ってるじゃないの)
「仙台に戻ってるのかと思っていたら、何よ。あんなところで、商売女なんかを抱いちゃって」
「商売女じゃないぞ。おまえの同級生の稲垣見栄子だったぞ、相手は」
「あら、そう。あそこ、人妻派遣クラブの巣窟だと聞いてたけど」
「おまえこそ、どうしてあんなところに来てたんだ?」
河野が飛び込んできて以来の、相沢とのひと悶着などで、隣室の京輔たちにも、明日香があの部屋を訪れていたことは、知られたようである。
「私は杉並サニー・ハイツの用事で行ったのよ。南急ナポレオンの担当者があそこに住んでるから。――あなた、稲垣さんとは、どういうご関係?」
「見てのとおりだ」
「見栄子とのことじゃないわ。南急ナポレオンの企画開発課長、稲垣啓四郎のことよ」
明日香は、昼間みた光景から察して、何とはなしに二人はぐるではないかと思ったのである。
もっとも、どういう悪企みの「ぐる」なのかは、今になってもまだ見当もつかないが。
「見栄子の兄貴か。話には聞いているが、知らんな、そんな男」
「うそおっしゃい。あんなにしげしげとあのマンションに出入りしているところをみると、知らないはずはないわ。――おっしゃいよ、稲垣とはどんな関係なの?」
明日香は水割りを自分一人で、作って、飲んだ。
眼が据わりはじめている。
京輔はおれにもくれよ、とは言わなかった。
「おっしゃいよ」
明日香は水割りをたちまち、二杯カラにした。
問い詰められて京輔は、おかしなことを白状した。
夫の京輔がこのところ、東京と仙台を往復して、「正体の知れない」生活をしていたのは、たしかに仕事のためではある。
彼は今でも仙台支社次長である。九月には東京に戻る。仙台での仕事はひきつづき、戦略管理部門の整理の仕事である。
その内容は、本社がここ数年間、手がけていた財テク部門や不動産部門の東北における「発展的解消」、つまりは、不動産を処分して現金を作る仕事であることは以前に聞いていた。
これがややこしい。たとえば一つの企業が、賃貸など事業に使っていた不動産を売却した場合、その利益で再び事業用の不動産を購入すれば、ふつうなら巨額の譲渡所得税を払わなければならないところを、それが繰り延べされて、つまりは処分時点では、税金が免除される。
また、賃貸マンションの家賃からローン金利、減価償却費を差し引いた損失は、会社の本来の所得と合算(損益通算)できるため、本業における所得額を減額でき、いわゆる企業所得税の「節税」という名の、脱税が出来るシステムが現代の税制にはある。
そこでこの「合法的脱税」を狙って、東京の色々な企業が、財テクのために仙台や盛岡や福岡や熊本など、地方でマンションを建て、あるいは購入しまくっていたのが、この数年の現象であり、地方中核都市での地価上昇の原因ともなっていた。
京輔の会社も、ご多分にもれず、財テク部門でそれをやっていた。京輔はもともと、その担当であった。しかし会社は今、その手の事業から「撤収」にかかっており、仙台や盛岡に所有していたマンションを「売却」する仕事が、今の彼の仕事である。
ところが、この買い手は、仙台や盛岡にいるわけではない。東京の金持ちや企業が買うのである。だから、一件ずつ、交渉や契約や売り込みのために、京輔は実のところ、仙台と東京を毎週のように往復する生活をしていたようである。
その処分物件の一つである盛岡のマンション物件の買い手が、東京・世田谷の病院長であった。その病院長が、遊び人であった。トランタン・クラブの常連だったらしく、東京で何度か交渉するうち、飲酒、遊興の接待となり、二人仲よく「六本木不倫館」に繰り込むようになっていた。
それで、「エグゼクティブ西麻布」に出入りしている時、そこに住んでいた稲垣見栄子とぱったり再会した。それ以来、焼けぼっくいに火がついたそうである。
明日香が推測していたとおり、見栄子とは以前、夫は交渉があったようである。
「本当なんだ。そういうわけで、あそこに出入りしてたんだ。浮気していたことは、謝る。きみだって適当にやってるんだろう。許してくれよ」
そう言って、京輔はやっと水割りを自分で作りはじめた。
「ただ、それだけですか。トランタン・クラブの女を買うためや、見栄子と寝るために、出入りしていただけですか?」
「そうだよ。それ以外に、何があるというんだ?」
「見栄子の兄、稲垣とは本当に親しいわけではないのね? 何かを企んでいるわけではないのね?」
「おいおい、何を聞いてるんだ。見栄子の兄とはおまえが不倫やってるんだろう。そんなやつのことなんか、おれが知ってるわけないだろう!」
最後は怒りのこもった声だったので、京輔は本当のことを言っているに違いなかった。
「そう。それならいいわ」
明日香は、稲垣とのことを一言も、抗弁しなかった。
明日香の中にはもはや、何かが根づいていて、彼女は堂々と居直っているので、平気でぬけぬけとしていることができるのである。
(そうよ。もうどうなってもいいわ、こんな家庭なんか。それよりも許せないのは、私を裏切った稲垣啓四郎だわ……!)
明日香は、三杯目の水割りを飲みながら、今日の夕方のことを思いだしていた。
「エグゼクティブ西麻布」で、河野豪紀に救われ、彼に杉並サニー・ハイツに関する書類や登記簿を検《あらた》めろ、と言われたあと、明日香は激しい胸騒ぎに襲われて、その足で杉並区の登記所に行ったのである。
杉並区の登記所は五時ぎりぎりのせいか、人が混んでいた。
登記簿の閲覧人というのは、意外に多いらしい。自分の家や土地に拘わる人々よりも、不動産業者や銀行員や弁護士や公証人役場の人や、その他、得体の知れない人々が窓口にいっぱい並んでいるのに驚いた。
「伊集院明日香さん」
名前を呼ばれて、明日香はカウンターに行った。
「ご希望のところは、これですね」
係員が差しだしてくれた登記簿を眺めた。
めくっているうち、明日香の顔から血の気が引いていった。
「まあ、いつのまに――」
杉並区堀ノ内の土地三百坪のうち、東側五筆分約百坪の名義が、いつのまにか転売されて、伊集院明日香ではなく、天野権八郎という見知らぬ男の名義になっていた。
つまりは、全面委託方式で杉並サニー・ハイツを建築するために預けていた印鑑や書類で、甲と乙の売買契約書が作成され、当該土地はすっかり、伊集院明日香から、稲垣啓四郎の手によって、天野なる別の男に売られてしまったことになっており、しかも銀行の抵当権までがついていたのである。
切り売りされた土地は、杉並サニー・ハイツではちょうど、余裕分の庭園になっているところで、稲垣は天野という男に、その部分はいつでも利用していいよう、因果をふくめて転売したのに違いなかった。
稲垣はその土地転売によって、恐らくは、二、三億円以上の金を手に入れたのに違いなかった。
明日香は登記所を出ると、夏の夕陽がまぶしく、目まいがしそうであった。
裏切られた、という気持ちだけではない。自分が愛し、信じていた男が、不動産を奪うなどというもっとも醜悪で、欲深で痛烈な裏切り方をしたことに、明日香は救いようのない淋しさと、やるせなさを覚えたのである。
怒りは、そのあとから湧いてきた。
その上、箱根の密会の一夜がある。
あのみずみずしくときめいていた一夜が、もしかしたら稲垣によって殺人事件のアリバイ工作のためにだけ作られたとするなら、明日香への裏切りは二重のものであり、怒りの鎮めようがない。
(もう、断じて……許せないわ、あの男……!)
深夜、そっと寝床から脱けだした。
家はしんとしていた。明日香はサマーセーターにジーンズという恰好で、裏口から家を出た。どうってことはない。家ではかけられないある秘密の電話をするためであった。
水色の透きとおった公衆電話ボックスは、霧に洗われるように、すぐ近くの街角にあった。
明日香はその自由ケ丘の電話ボックスの中に入り、思いきって受話器を握った。
プッシュする。
さいわい、稲垣はいた。
夜中にベルの音で叩き起こされて、びっくりしたらしい。
「どうしたんです? こんな夜中に……」
「大至急、お会いしたいの。お話があります」
「何だか、声が変ですね」
稲垣はいつもと変わらない、ぬけぬけとした、落着いた声であった。
「あした、どこかでお会いできないかしら」
「あしたといわずに今、ぼくの部屋に来ませんか」
「今はだめよ。夫が帰ってきてるもの。それに、いやよ、あなたのマンション」
稲垣はちょっと考え、
「じゃ、こうしませんか。ぼくはあす、箱根芦ノ湖の南急ナポレオンの湖畔ホテルである契約の仕事があります。明日香さんの部屋も取っておきますから、午後三時頃、来ませんか?」
「芦ノ湖ホテルね。すてきだわ、行きます。……こないだはひどいところを見せられてショックだったけど、私、もう後戻りはできません。あなたを愛してるの。杉並サニー・ハイツくらい、全部あなたにあげてもいいわ。だから、あしたはぜひ会ってちょうだい」
4
にわか雨がやってきて、通り過ぎた。
朝が昼になって雨あがりの空から明るい陽が射しこんでいるというのに、河野は成子坂のマンションで、毛布をかぶって寝ていた。
枕許で電話が鳴りしきっている。
うるさいな、というふうに毛布の中で唸り声を発しているのは、二日酔いのせいである。昨日、垣間みた六本木不倫館の、趣味の悪いマジックミラーの仕掛けを思いだすたび、ゆうべは幾ら飲んでも酔えず、悪酔いしたのかもしれない。
鳴りつづける電話に、
「……ったく、もう!」
……るせえな、という具合に悪態をつきながら、ごそごそと毛布が揺れて、手をのばし、枕許の受話器をとった。
「……はい」
不機嫌に応答していた河野は、二言、三言相手の声を聞いているうち、
「なにい、吐いたか?」
受話器を握ったまま、ベッドにむっくりと起きあがった。
電話は、箱根の別荘にいる野津原多鶴からだった。貝塚達郎が監禁生活に参って、山下重勝の追及に音をあげ、稲垣との共犯関係の諸点について、ちょっぴり話しはじめたという。
「よーし、今すぐ行く。やつの話は全部、録音テープにとっといてくれないか」
このゲーム、犯人は最初から見当がついている。
稲垣啓四郎である。やつがなぜ、美紀を殺して、アリバイを作って身を守っているか。そのアリバイをどう突き崩して利用された人妻、明日香の気持ちがどう転んで、証言するまでほぐれるか。
事件の綾はそこである。そうしてその綾は、ヤマ場にさしかかろうとしている。そんな気がする。
受話器を置いた河野は、もう二日酔いも醒めた顔をして準備に取りかかっていた。急いで顔を洗い、外出支度をすると、駐車場に駐めていたスプリンターに乗って、飛びだしていた。
にわか雨のあとだが、超高層ビルに雨雲がかかっているので、また降りだしそうである。成子坂から西口の超高層ビル街の傍を通って、甲州街道に出、環八を走って東名高速に車をのせた。
今日、稲垣啓四郎は、箱根・芦ノ湖の自社系列ホテルに滞在する予定になっているそうだ。もしかしたら、明日香もゆくかもしれない。彼をマークしていた多鶴が昨日、そういう報告をしていた。
稲垣も箱根に行っているとすれば、風雲急を告げてきた、という予感がする。確実に、そんな予感がした。
平日の東名高速は比較的、空いていた。東京を出て一時間もたたないうちに、小田原から箱根にむかう国道一号線に入ることができた。午後三時には箱根湯本の街を抜けて、カーブの多い早川沿いの道を塔ノ沢、大平台へと登っていた。
宮ノ下からは左手の道を取った。峠の芦ノ湯をすぎたあたりから、案の定、天気がくずれはじめ、フロントガラスの前面に濃霧《デンスフオグ》が渦巻いてきた。
雨が降るほどではない。しかし湖のほうから湧いてくるガスは物凄く、たちまち視界はまっ白に閉ざされ、濃霧となった。
元箱根の手前から右折して、湖尻へむかう湖畔の林道へ入る。それが姥子への道なのだが、そのあたりから、ますます視界は白一色となり、ヘッドライトをつけても僅かしか視界は利かなかった。
「ちえッ。何かの舞台仕立てみたいだぜ」
(神様も、粋なことをやるよ。白い闇の迷路だってさ)
雑木林の中の文字通り、白い闇の中を、アスファルトの路は、蛇のようにくねりながら走っていた。その道を河野は確実で、無駄のないハンドル捌《さば》きで走ってゆく。
晴れた日なら、左手に見え隠れするはずの湖面も、今は見えはしない。白い霧が風を孕《はら》んで渦巻くように、道路前方をふさぎ、うねくり、粘っこく横流れしてゆく。
河野はいつしか、前方を窺うように前屈みになって、運転していた。
別荘のすぐ近くまで来た時、ヘッドライトが、前方の濃霧の中からよろめくように、躍りだしてきた人影を捉えた。
どうやら、女のようであった。
こういう舞台仕立ての時には、必ずそれに似合う劇が起きるものである。濃霧の中からよろめき出た女は、
「お願い。止めて!」
道路中央で、両手を広げた。
霧が濃く渦巻いているので、まだ顔は見えない。
「危ないじゃないか。どうしたんだ!」
河野は急ブレーキをかけながら、その女の顔が明瞭にみえだした瞬間、
「何だ、多鶴じゃないか!」
「豪さんなの……? ああ、よかった……助けて!」
多鶴は芝居っ気ではなく、本気で髪をふり乱して、ドアを叩いた。Tシャツの胸が裂けて、ブラジャーがはみだしそうになっていた。
やがて、その理由がわかった。多鶴の背後の霧の中から、二、三人の男がののしりながら現われ、駆け寄ってきたのである。
「いたぞ!」
「逃がすな!」
そういう声がした。
「あいつらは?」
助手席のドアをあけて、多鶴を急いで助けこみながら聞くと、
「別荘が襲われたのよ、先刻。私かヤマちゃんのどっちかが、尾行されてたみたい。貝塚は奪い返されたわ」
そう多鶴は早口で、まくしたてた。
「よーし」
河野は無意識のうちに、運転席のダッシュボードの中から、大ぶりの鋼鉄のスパナを掴みだしていた。ぼろ布に包んで右手にそれを握って、運転席を降りると、
「一人の女を三人がかりで追いかけるなんて、あまりカッコいい見ものじゃないな」
男たちにむかって、仁王立ちになった。
「てめえが、河野ってやつか」
「そうだったら、どうする」
「きのうは相沢を痛い目に遭わせてくれたそうだな。今日は礼をしてやる」
一人が河野の前に進み出て、彼の顔を嘲るように眺め、両の拳を前につきだしてぐるぐると、ファイティングポーズを作った。
その拳の回転運動が止まった直後、いきなり左手をだし、右を打ち込んできた。
危なく躱《かわ》した。やつも退った。体軸を斜めにした身のこなしも、フェイントのとり方も、コンビネーションも、かなりの年季ものだった。
ふつうはそれで、相手を一撃で倒していたのかもしれない。
だが、河野には通じなかったので、やつは怒り狂った。
「野郎ッ! ぶっ殺してやる」
たてつづけにワンツーをだし、躱されたので飛び回し蹴りを入れてきた。
河野はあわてなかった。三撃目を躱した瞬間、河野は踏み込んで膝を相手の股間に打ち込み、のけぞるところに肩にスパナを力一杯、叩きつけていた。
こんな手合を相手にする時は、牛の頭蓋をも砕きそうなスパナで充分だ。素手でやりあって、怪我したり、殺されたりしたら、元も子もない。
わッとわめいて、一人が地面にぶっ倒れたものだから、あとの二人が野郎ッ、と奇声を発して、左右に散って身構えた。
二人ともナイフを抜いた。一人はヤッパだが、一人は登山ナイフである。ヤッパの男には見憶えがあった。河野が高円寺から拉致された時、平松、と呼ばれていた男であった。
「おまえら、殺人犯に雇われて用心棒でもやってるのか」
二人とも、答えなかった。眼に怒りが燃えている。
「やめときな。おれは多鶴を取り戻したから、車でズラかるよ。おれは殺人犯をつかまえればいい。おまえらなんかには、用はないぜ」
そう言って、河野が車のほうに戻りかけようとした瞬間、
「ふざけるなッ!」
ひんやりした顔の、ヤッパの男が突っ込んできた。
河野は今度も、あわてなかった。身体さえ躱せば、そいつは勝手に車体にぶつかるのである。
だが、車を傷つけられるのも癪だったので、ひょい、と躱しながら足払いをかけ、よろめくところに、後頭部に力一杯、これもしたたかに鋼鉄のスパナを叩きつけた。
「うがーッ!」
男は奇妙な吼え声をあげて突んのめりながら、車体にぶつかり、ずるずると、アスファルトの路面に倒れこんだ。
(まさか、死にはすまいな?)
そっちのほうを心配しながら、
「来るか!」
もう一人の、登山ナイフの男のほうにむき直ってスパナを構えると、
「や、や……やめてくれ。おれはその平松さんに狩りだされただけだ」
ジャンパーを着て髪を染めたバンドマンふうの若者は、へっぴり腰で後退る。
「じゃ、仲間の二人の面倒を見るんだな。二度とこの界隈に現われるな」
河野はそう言い残して、車にとって返すとすぐに発車した。
「久しぶりだわ。豪さんの殺陣をみるの」
「おれだって、少年鑑別所まがいの体験があるんだぞ。けど、相手があまり強くなくて、助かったよ」
それは本音である。声をだして、ふざけて言ったものだから、助手席で蒼ざめていた多鶴の緊張が、ホーと、ゆるんだようであった。
「それで、ヤマちゃんは、どうしたんだ?」
「ヤマちゃんがいない間に、別荘が襲われたのよ。ヤマちゃんは二時頃、稲垣のいる南急芦ノ湖ホテルのほうに偵察に行ったわ。さっき、伊集院明日香さんが到着してロビーにはいっていった、という連絡が入ったところだけど」
「ほう……明日香さんが……」
やっぱり、という気がした。
「何だか思いつめた表情をして、エレベーターに乗ってったそうよ」
「気になるな。大事な証人だ。万一のことがあっては困る」
「そうね。このまま、ホテルのほうに急行したほうがいいんじゃない?」
「別荘のほうは、どうなってるんだ? 貝塚はもういないのか?」
「奪い返されたけど、テープを取ってるわ。美紀さんの部屋に押し入り、ノート類を持ち去ったのは、稲垣に雇われたからであり、稲垣とは、南急ナポレオン時代の上司と部下だったので、断われなかった、という意味のことを喋ってたわ」
「よーし、それだけの証拠がありゃあ、あとは警察で絞ってもらおう。――あ、霧が晴れてきたな。芦ノ湖ホテルへの道はどっちだ?」
河野は雑木林の中の鋪装路を一路、湖畔ホテルへ急行した。
5
……風が出ると、霧が晴れてきた。
霧はみるみるうちに湖面を流れていって、蒼黒く凪《な》いで澄みきった湖が現われ、対岸の山肌がくっきりと見えてくる。
やがて、富士山までが右手の山肌のかなた、午後の空にくっきりと現われてきた。
小高い湖畔の丘の上のホテルで、窓からそのような景色を見ていた伊集院明日香は、ひとつ大きく深呼吸をして、バスからあがってくる稲垣啓四郎のスリッパの音をきいた。
(そうよ。今なら、油断しているわ……!)
明日香は窓から離れて、化粧鏡のほうに歩き、そこのテーブルに置いていたハンドバッグに手をのばした。小型ナイフは、バッグの中にある。
明日香がそのナイフをデパートの金物売場で買ったのは、今日の午前中であった。本当にそのナイフで稲垣を刺そうと思ったのかどうかは、自分ではわからない。そんなことが自分に出来るかどうかも、わからない。しかし、何かをしなければ、気がすまなかった。
(……殺してやる。私の真心を踏みにじって、さんざんもてあそんだ上、自分の殺人アリバイにまで使おうとした稲垣なんか、殺してやるわ)
明日香の心の中で、明日香ではない女が、そういう声と呪詛の炎をあげて、そのナイフを購入させたのは、たしかである。
その声が、今も明日香の心の奥から、彼女を煽っていた。
(……ほら、今よ。今ならあいつは、油断しているわ。今のうちにそっと近づいて、やっちまいなさい……!)
明日香は、バッグを持ったまま近づいた。
風呂あがりの稲垣が、ちょうど明日香をベッドに誘おうとして、
「おや、どうしたんです? バッグなんか持って……」
どこまでも、ばかていねいな声である。
明日香は近づいて、パチッとバッグの蓋をあける。差し入れた手が震えている。
「あ、コンドームですか。ありがたいですね、ぼくは用意してなかったから」
稲垣が好色そうな笑みを浮かべて明日香を抱こうとした時、稲垣の顔が硬張った。
バッグに手を入れたまま、接近した。半ばまで取りだしたところで、眼に映ったのだろう。身構える間もなく、バッグごと掌で払われた。
しっかりと握っていたはずのナイフが、床に転がっている。
腰がわなわなと震えた。
稲垣が薄笑いを浮かべ、
「ヒステリーですかね、奥さん。よくないなあ」
明日香は反射的に、床のナイフに手をのばした。
稲垣のスリッパの先が、さっと動いた。ナイフは軽く払われていた。
屈辱が身体じゅうに、広がった。
それでも明日香は無言で追いかけて、ナイフを拾いあげた。
拾いあげたまま、今度は、身構えた。それでもまだ、ナイフはわなわなと震えている。
「どうしたんですか、明日香さん。そんなもの危ないから、捨てっちまいなさい」
「お黙りッ! さんざん、私を欺してたわね!」
「欺すの、欺さないの、奥さんらしくもない。ぼくたちしっかり愛しあって、楽しんだんじゃありませんか」
「楽しんだのは、あなたのほうだけよ。私の真心をもてあそんで、父の遺産を横どりして、その上、アリバイ作りにまで私を利用したりして、許せないわッ」
ナイフを握り直し、明日香は男に向かって、体当たりする姿勢をとった。足がもつれそうだったが、距離は僅かである。
「殺してやる! あんたみたいな男は、殺してやるわ!」
突進して、ナイフの先端が確実に稲垣の胸に刺さったと思った。だが、ほとんど同時に、身体を躱され、手首を掴まれて捻じあげられ、ナイフは宙に凍って震えた。
「ばかだな、奥さん。落着くんだ」
顔が近づき、唇が触れそうになった。
「放してッ。やめて」
――瞬間、頬を張られていた。稲妻が閃いたと思った。しっかり握っていたはずのナイフが、今度こそ遠くへ、放り投げられていた。
稲垣はそのまま、ベッドに押し倒そうとした。
「いや、放して!」
「そんな駄々、こねるんじゃないよ」
稲垣の手が腰にまわされ、唇が耳をすくう。
片手はもう、むんずと乳房を掴んでいた。
「ああ……やめてったら……やめて……」
「ね、楽しもうよ。いつもの通り、奥さんの身体、すてきだよ」
顔に手をかけられて、接吻されそうになった瞬間、明日香は力一杯、その手に噛みついた。骨が折れ、指が千切れるような音がした。
「このあまッ!」
いきなりの声と、頬にあたった激しい衝撃で、明日香はあッと、悲鳴をあげて、よろけそうになった。
稲垣の顔に怒気がみなぎっている。彼は不意に明日香の襟首を掴み、窓際に引きずっていった。
窓をあけ、四階から外のコンクリートに突き落とそうとした。
「キャーッ! 何をするのよ!」
明日香は悲鳴をあげ、もがいた。
その口を、ふさがれた。足を掴まれ、力一杯、持ちあげられた。
眼下の芝生と白い軒下のコンクリートが、斜めに傾いてせりあがってきた。
声が出ない。呻いて、あばれた。
「やめて……やめてったら……私をどうするのよッ!」
「見ればわかるでしょう。あなたにはここで、死んでいただく」
「じょ……冗談じゃない。殺してやりたいのは、あんたのほうよ」
「そうは参りませんね。明日香さんにはここで死んでいただく。そうしたら、あなたは六本木不倫館で自分がしでかした殺人事件を苦にして、飛び降り自殺をしたことになる。そうしたら私のアリバイをくつがえす証人はこの地上から、永遠にいなくなる。私が処分した梅津るり子への殺人容疑も、あなたが背負って死んでゆくことになる。万々歳というわけだ。うれしいね」
そう言いながらも、稲垣はぐいぐい力を入れた。明日香の身体はもう半分以上、窓から外にはみだして、突き落とされそうになっていた。
「ああッ……誰かあッ! ……助けてえ!」
明日香が叫んだ瞬間、稲垣が反対に奇妙な唸り声をあげた。
唸り声をあげたのは、後頭部に何かがあたったからであった。彼は後ろから、靴を投げつけられていたのだ。振りむいた稲垣の傍に、白いサマースーツを着て、サングラスをかけた男が飛びこんでいた。
「な……何だッ、きさまは」
怒鳴りつけた稲垣にむかって、部屋の侵入者である男は掴みかかり、ボディブローからアッパーへと、たてつづけに重いパンチを数発、浴びせていた。
そのショックで、明日香は稲垣の手をはなれ、床に転がった。頭を振って立ちあがろうとした明日香の眼に、壁に叩きつけられてずるずると床に沈む稲垣の巨体がみえた。
「大丈夫ですかッ、奥さんッ!」
明日香は手を引かれ、男の顔をみた。
男は昨日も現われた河野豪紀だった。
「ああ、あなただったの」
「ばかだな、奥さん。自分で仕返ししようなんて、無茶ですよ。それより、こいつと一緒に、警察に行って下さい。こいつの殺人未遂と、いつぞやの箱根の一夜の偽アリバイの真実を、警察に証言して下さい。そうしたら、妹も浮かばれるし、奥さんももうこんなやつの肉体に狂うこともなくなります」
叱りつけるように言うその声を聞きながら、明日香は、放心したような眼を、遠くの芦ノ湖の水面に向けていた。
終 章 やがて夕映え
それから一時間後――。
河野豪紀と伊集院明日香は、湖を見おろす湖畔のテラスでお茶を飲んでいた。
広い芝生。白いテーブルとチェア。湖面には夕靄が漂いはじめ、山の端には夕映えがまだ残っていて、家路につく釣りのボートや遊覧船が湖面に影を落としてすべり、何かの舞台装置のよう。
「でも……でも……あなたの妹の美紀さんって、どうして稲垣によってあやめられるような目にあったの?」
二人は事件の話をしていた。
河野は明日香に答えた。
「それはですね、妹が稲垣の秘密を知っていたからですよ」
「秘密って……何でしょう?」
「これを見て下さい」
河野はポケットから何かを取りだした。
それは、ワープロで打たれた短い文章であった。
「説明しましょう。これは妹の美紀が、殺害される寸前、稲垣にあててワープロでしたためた手紙の一部です。私の相棒の野津原君が、妹の部屋からフロッピーを見つけてくれました。まず読んで下さい」
河野は明日香に印刷されたものを、渡した。
明日香は、それに眼を通した。
「……課長、私、知っています。もう危ないことは、やめて下さい。今までだってずい分、ハウジングのお客様の預かり金を転がしてきたのに、それに加えて伊集院明日香さんから預かった権利書などを悪用して、一時的とはいえ、銀行からそんな大金を引きだしたりすると、とんでもないことになります。今のうちにやめないと、私、課長のこと、上司や警察や伊集院明日香さんに、何もかも打ち明けます」
ざっと、そういう文章であった。
明日香は、文面から顔をあげた。
「おおよそ、見当がつきましたか?」
「ええ。私、登記所にも行ってきました。これを読んだら、事情は少しは察しがつきます。美紀さんって、私をかばおうとしてらっしゃったのね。それで、稲垣に殺されたなんて……」
「いえいえ、かばおうなんて大それたことじゃない。惚れた男である稲垣に、それ以上の過ちを犯させて破滅させたくはなかったのでしょう」
「でも……でも……私、信じられません。稲垣は使い込みをするような男だとは、どうしても思えません。よほど何か、事情があったのでしょうか」
「そうですね。稲垣は、奥さんもご存知のように、南急ナポレオンにおいて、資産管理のためのアパートやマンション経営など、パーソナル・プロジェクトといわれるものを担当し、プランニングの段階から、すべての企画立案の責任者となって、客と接していました。いわば、エリートでした。しかし、客から多額の資金と資産を預かって、運用するというやり方に、陥し穴があったのかもしれません。その信用供与方式に目が眩んで、客から預かっていた金で財テク全盛時代の株に手をだし、例のブラックマンデーを初めとする二度の暴落で、彼は大きな穴をあけたようなんです」
明日香は息をつめた。客から大金を預かる証券会社員や銀行員や不動産セールスマンなどに、よくある話である。南急ナポレオンの企画開発課長という要職にある稲垣啓四郎までが、そうだったとは知らなかった――。
「それで、その穴を埋めるために彼は次々に客の資金や資産に手をつけて、発覚しないよう自転車操業をしていました。ぼくの妹の美紀は、彼の部下で恋愛関係にあったから稲垣の不正に気づき、初めは惚れた弱味で救おうとして一生懸命、自分の貯金まではたいて、穴埋めに協力していたようです。でも、それでも手におえなくなって、妹は正気にかえり稲垣に、そういう危ないことはやめて警察に自首して下さい、と諫《いさ》めはじめたようなんです」
「それで稲垣は、美紀さんがうっとうしくなり、密告されると危ないと思って殺したというの?」
「そうです。そうしてそのアリバイ作りに利用されたのが、奥さん、あなたなんですよ。不倫願望に身体を熱くしていた汚れない、世間知らずの美人妻である伊集院明日香、あなただったんです」
明日香は一瞬、眼を閉じた。心の中でしゅっと、燃えたった白い炎があった。
河野はそのやつれた美しい人妻の顔から眼をそらし、芦ノ湖の水面に眼をやった。
明日香もひどい目にあったものだが、考えてみれば、稲垣も可哀想である。
高騰する首都圏の地価に対処するために考案された、都心部の遊休土地活用と資産管理を目的とした南急ナポレオンの「全面委託請負方式」によるパーソナル・プロジェクトは、それを請負う企業側にとっても、委託する個人にとっても、両刃の剣だったといえよう。
地価が高くなって、土地を入手しづらくなった住宅会社にとっては、個人の土地を大金を投じて「購入」する必要もなく、そっくり預かって利用して、ビルやマンションや住宅を提供し、事業を行なえるというメリットがあり、個人にとっても、土地を手放さずに、大手住宅会社に「信託」したまま、相続税や事業費を捻出できて、そのアパート経営やマンション経営の利潤が転がりこみ、しかも自分では煩わしい事業を一切しなくていい、という双方にいいことずくめのシステムではあるが、そこにこそ、人間にとっての「盲点」があったわけである。
何しろ、資産を預かって動かす企業側の担当者には、誘惑とリスクが多い。時価五億とも十億ともいう物件を預かって、自分の才覚で動かすことができるのである。もちろん、双方で何通もの契約書をとり交わして、勝手にはできない仕組みや手枷《てかせ》足枷《あしかせ》はあるが、いざとなったら、実印も証書も委任状も預かり、役所や登記所に行って、その土地を右から左に動かす業務を「代行」することができるのである。
万一、その男にどうしても緊急に大金が必要な状況が生じ、かつ、短期間でそれを穴埋めする見通しがあって、委託者にはいっさい迷惑がかからない、という見込みさえあれば、その男は今、預かっている十数億円の資産のほんの一部を動かして、当面、必要な二億か三億の金を作ろう、という考えに傾くだろう。それは人間の当然の弱味と誘惑と帰結である。
稲垣啓四郎が、まさにそうであった。
彼は一種の、ブーム人間であったらしい。日本経済が活況を呈し、バブル景気で世の中が株だ、財テクだ、と浮かれている時、お決まりのNTTはじめ幾つかの株に手をだし、魔の月曜日の暴落で大穴をあけた。それを取り返そうとして客から預かっていたマンションの頭金や住宅の払込金などの現金を流用して株の「追い証」に使い、局面を支えているうちに、株価はもっと値下がりしていって、穴と欠損金は膨らむばかり。とうとう現金だけではなく、客から預かった実印や権利証書を悪用して土地を担保に、銀行から資金を借りたり、転売したりするまでになったようである。
いわば、溺れ谷。そこに落ちて、あがいた男と女。稲垣啓四郎もまさにそうだし、河野の妹の美紀もそうだし、伊集院明日香もまた、そうだったかもしれない。
「さて、終わりましたね。奥さん、これからどうなさいます?」
河野は明日香に聞いた。
「……やっと真相がわかったばかりで、私にはまだ、これからのことは何も考えが浮かびません」
「奥さんは、大丈夫ですよ。弱いようでも案外、強いところがある。ふてぶてしいところがある。一時は密会の夜のアリバイを主張なさって、あの稲垣を頑固に守り通そうとなさっていたくらいですから」
「恥ずかしいわ。そんなこと言われると」
「さいわい、経済的被害のほうは三分の一くらいで済んで、大事に至らなくてよかったというものです。また、奥さんは立派な、自由ケ丘夫人だ。こういうことにはくじけず、立ち直って下さい」
「はい。大丈夫だと思います。……私、まず美紀さんのお墓参りをして、警察に箱根の一夜に関する疑問点をありのまま供述して、それから家庭のことや夫とのことも含めて、今後のことをゆっくり考えたいと思います」
伊集院明日香は静かにそう言って、微笑んだ。
「それを聞いて、安心しました。じゃ、ぼくはこれで」
河野は白い椅子から立ちあがった。
夕暮れの湖。白い霧。白いテーブルとチェア。……ちぇッ、何かの舞台装置みたいだぜ。今度は多鶴と二人で、ここでワインをたらふく飲みてえよ、と河野豪紀は思った。
◇この作品はフィクションであり、登場する人物・団体等は架空のものです。
本書は一九九一年四月、小社より講談社ノベルスとして刊行され、一九九四年七月、講談社文庫に収録されたものです。