南里征典
田園調布真紅夫人
目 次
ヴィーナスの眼覚め
ヴィーナスの受難
ヴィーナスの微笑
ヴィーナスの失踪
ヴィーナスの誘惑
ヴィーナスの審判
終章 ヴィーナスの眠り
ヴィーナスの眼覚め
発端は、何でもよかった。
ある朝の戦慄。それ一つあればよかった。
鳴沢|聡子《さとこ》の家は、田園調布の高台にある。広い芝生の庭に、よく刈り込まれた貝塚伊吹の植え込みのある敷地は贅沢すぎるくらいに広く、洋館風の二階建ての本館は道から奥まったところにある。
その朝、聡子が居間の窓ガラスをあけ、レースのカーテンをあけると、白い霧が室内に流れこんできた。聡子は、革のサンダルをつっかけて玄関に立ち、ドアをあけた。前夜の雨がぬぐわれ、少し霧の出ている、爽やかな朝だった。
郵便受けは、門扉の傍にある。ゆうべ、遅く帰宅したので、郵便をとるのを忘れていた。金属製のその小さな郵便函は、前夜の雨でまだ雫《しずく》をしたたらせていたが、ダイレクトメールの陰に、一通の白い角封筒がはいっていた。
宛名は、鳴沢聡子様、となっている。裏返してみた。差出人の住所、氏名は記されていない。
奇妙な、気がした。封筒をあけてみる。
――ミロのヴィーナスだわ……。
聡子の、手が止まった。
写真が三枚。はいっていたのは、ただ、それだけである。
いずれもフランスのルーブル博物館の秘宝とされているミロのヴィーナス像を、接写した写真である。ギリシャ彫刻の粋とされるまっ白い大理石のヴィーナス像が、右手の窓からの薄明かりをうけ、顔を中心とする上半身のアップや全身像や、遠景をふくめて切れ味のいい焦点レンズで写されており、キャビネ型にトリミングされている。
その写真以外、白い角封筒のなかには手紙らしいものは一通も、はいってはいなかった。おまけに差出人不明。薄気味わるい。どういう意味かしら、と聡子はおさまりのつかない気分で、リビングに戻った。
「ねえ、あなた。妙な写真が送られてきたんだけど、憶えがある?」
金曜日の朝であった。夫の秀彦《ひでひこ》はおきぬけにリビングの椅子にすわって、コーヒーを飲みながら、スポーツ紙を広げていた。
洗面や食事よりもまず、宅配スポーツ紙に目を通して前夜のナイターの結果をみる。それが、取引先の接待や会社づきあいで毎晩、深夜に及んで帰宅する夫の、朝の習慣であった。
「ねえねえ、ほら。ミロのヴィーナスの写真だけど、あなたが誰かに頼んでいたの?」
「ヴィーナス?」
新聞を広げたまま、秀彦は顔だけむける。
「何のことだい?」
首をふった。興味もないし、心当たりもないといった顔であった。
当然かもしれない。秀彦は、美術などとはおよそ縁がない仕事をしている。東証二部上場企業、東北観光開発の東京本社総務部長兼秘書室長であった。近い将来、専務昇格の呼び声さえも高い。エリートコースを歩いているので、いずれ評判どおりに出世するだろう。
東北観光開発は、福島、宮城、岩手、青森など東北六県にバス路線や私鉄、長距離トラック便、タクシー会社などのネットワークをもつ東北交通を親会社として、不動産と観光開発部門を受けもち、東京に本社を据えている成長企業だ。
東北新幹線の開通以来、弾みがついている。値上がりしだした沿線一帯の不動産の売買や、観光開発、ホテル経営などにあたっており、東京に本社があるといっても、営業先はおもに東北なので、出張や旅行が多くて、めったに家にはいなかった。
「あなたが知らないとすると、変ねえ。この手紙――」
呟《つぶや》いて聡子は、写真をいじくりまわし、「ねえねえ。あなたにこんなすてきな愛人がいる、という誰かの密告じゃないかしら?」
「ばかをいえ。どこかの出版社が売りだすルーブル美術館全集とか何とかのダイレクトメールじゃないのかい」
「ダイレクトメールなら、封筒に企業名や、出版社名が麗々しく印刷されているはずよ。案内書や宣伝文も、はいっているはずでしょう。それなのに、これはただの角封筒。宣伝文も何もはいっていないわ。ねえ、変じゃない?」
聡子が反論した時、表に自動車の駐《と》まる音がした。
ほどなく、チャイムが鳴った。
聡子がドアをあけると、宅急便であった。
「お届け物です。ハンコを――」
三文判とひきかえに受けとった荷物は、さほど大きくはないが、ずっしりと持ち重みがした。包装紙に包まれた長方形の箱。こわれもの注意、という赤札が貼られている。お中元やお歳暮の季節ではない。表や裏をみたが、おかしなことにその宅急便にも、差出人は記されてはいなかった。
荷物をリビングのテーブルまで運んできた時、秀彦は浴室にはいってシャワーの音をたてていた。
二日酔いの朝は、必ずシャワーを浴びる。聡子は荷物を、ほどいた。紙包みと箱のなかから現われたのは、こんどもまたまっ白い石膏製のミロのヴィーナス像であった。
縮尺十三分の一程度の複製だ。新宿の彩美堂、という画材店の包装紙であるところをみると、画学生がデッサンをしたり、一般家庭の置きものにするために、市販されている石膏像である。
それにしても、今朝はどうしてこう裸のヴィーナス像ばかり、送られてくるのか。同じ朝、最初は写真が三枚。そしてこんどは、石膏像。いずれも、送り主の名前は不明である。
薄気味わるい、という顔をして聡子がその石膏のヴィーナス像を包もうとした時、応接間のほうで、電話が鳴りはじめた。夫の仕事先からかもしれない。秀彦はまだ浴室にはいっていたので、聡子はリビングを出て、階段の下の電話機のほうに走った。
受話器を把《と》る。
「はい。鳴沢でございますが」
「もしもし……奥さんですか?」
低い、へんに力のこもった男の声が、響いた。
「ヴィーナスは、届きましたか?」
ヴィーナスときいて、いまの今、意味不明の写真三枚と、石膏像までを配達されて薄気味わるい思いをしていたところなので、聡子は思わず、身構えた。
「どちらさまでしょう?」
「名前を申しあげても、ご存知ないでしょうから、差出人、とだけお答えしておきましょうか。あのヴィーナスの写真と石膏像、ご主人の部屋にでも飾っておいて下さい。今に、その意味がおいおいと、わかって参ります」
「どういうことかしら」
聡子は口調に、皮肉なものを含ませた。
「仕事と野球とゴルフしか縁がない主人には、ヴィーナスの石膏像なんて、光栄すぎるんじゃありませんか。どう考えても、妙な組み合わせですわね」
「そうでもないでしょう。男というやつはたいてい、ピチピチのヴィーナスというやつには、眼がないものでしてね」――ヘッヘッヘ……と、卑俗な含み笑いが、そのあとにつづいた。
「お名前を、おっしゃって下さい」
「その必要は、ありません。とにかく今夜、すべてがわかります。それまで、お楽しみに」
人をくったような返事をして、電話は切れた。ヴィーナスを裸の女性一般に形容した男の卑猥な言葉づかいが、腹にすえかねた。受話器を置いたが、気分のおさまりがつかない。
浴室からはまだ、シャワーの音がきこえる。電話の男に心当たりはないかと、夫にそれを確かめようとリビングまで戻った時、きゃあッ、と聡子の喉から、悲鳴がほとばしった。
リビングの卓上。すぐ、眼の前だ。さっき、紙包みを開いて裸にしていたミロのヴィーナスの、首がすぱっと斜めにたち切られて、床に転がっている。卓上に残された胴体の、刃物でもあてられたような首の切り口から、動脈血とも思えるまっ赤な、鮮血がどくどくと、ふきだしていた。
石膏像なので、少し落着いて考えれば、鮮血などがふきだすはずはない。気持ちを鎮め、こわごわと見つめなおすと、ヴィーナスの首の内部に、血管のように仕掛けられていたビニール・パイプ入りの赤い絵の具であることがわかった。だが、聡子の眼にはたしかに、一瞬、それは切断された首からふきだした鮮血のように思えたのである。
ビニール・パイプ。小細工。だが、それがわかったところで、事態は同じなのだ。悪意。誰かの悪意。ヴィーナスの首をすぱっと切断して、鮮血をふきださせるというのは、どういう意味か。
「どうしたんだ……?」
悲鳴に驚いて、秀彦が浴室から出て、背後に立っていた。
「見て。これを……。宅急便が配達してきたヴィーナスの首から血が……」
「おまえが壊したのか?」
「いえ。ここに置いていたのよ」
「ただの悪戯じゃないか。悲鳴をあげるなんて、大人気もない」
秀彦はさすがに男なので、驚いたふうでもなかった。
「――しかし、それにしても変だぞ。今、誰かがこの部屋にはいってきたのか?」
「金曜日の朝よ。誰もこないわ。あなたは、浴室。私はこのヴィーナスをここに置いたまま、電話に出ていたのよ。戻ってきたら――」
土曜、日曜には朝から植木屋がくることになっていたが、今日は週日《ウイークデー》なので、まだ訪問する人は誰もいなかったはずである。
「地震が起きたわけでもないのに、勝手にテーブルの上の置きものが壊れるはずはないじゃないか。誰かが、この家に侵入していたんだ。みろ、そこから」
指さされてみると、リビングの広いガラス戸は、ひらいたままだ。風で、カーテンがめくれこんでいる。そのガラス戸自体は、さっき、聡子がひらいたものである。
が、そこから誰か他人が侵入したと考えると、おぞましい思いがきた。あるいは、さっきの宅急便の男が、まだ家のまわりをうろついていたのかもしれない。いや、宅急便が朝の八時半にくるというのは、早すぎる。あれは、宅急便ではなかったのではないか。
「へんな朝ね。さっき、妙な電話がかかってきたのよ。ヴィーナスの写真と、石膏像をあなたの部屋に飾っておけって。今夜あたり、その意味がわかるって」
「今夜……?」秀彦は呟き、「どういうことだい。ばかにしてやがる。とにかく、ヴィーナスなんか、おれには興味も関心もない。誰かの悪戯に決まっている。こんなもの、ごみ箱にすててしまえ」
足許に転がっていたヴィーナスの首を蹴りとばし、秀彦は怒ったように、荒々しく自分の部屋にはいった。急いで着がえ、これから会社に出勤するのである。
結婚して、六年になる。二人に、子供はなかった。一人だけいた徹という男の子は、三年前、気管支喘息から肺炎を併発して、亡くしている。
それ以来、聡子にはどちらかというと、虚ろな日々がつづいていた。夫の秀彦は、仕事ばかりで家庭を省みない。愛人の一人や二人は、外に隠しているらしいことはわかっているが、聡子はそれ自体を、とりたてて詮索しようとも思わなかった。
その意味で、夫婦の間の熱は冷めきっているのである。それなのに、聡子が離婚だ、別居だと世間一般の女のように騒ぎたてないのは、諦めからというより、田園調布の一等地に住む現在の家庭生活の豊かさと平和と安定を一応、よしとする東北育ちらしい保守性からかもしれない。
それに現実問題、聡子の父、橋場文造《はしばぶんぞう》は東北観光の取締役社長であり、その橋場が、一人娘を秀彦と結婚させて豪邸を構えさせた裏には、いずれは彼を自分の後継者に据えようという魂胆があったわけであろうし、鳴沢秀彦はまた充分、その期待に応える働きをしているようでもある。いまここで聡子がつまらない女の意地をみせたり、謀反《むほん》を起こすことは、東北交通コンツェルンに余計な亀裂を入れ、企業を危くするだけのものだという、いささか現実的な打算と、醒めた理性が働くからである。
「じゃあ、行ってくる。東北新幹線の上野開業にともない、仙台界隈がまた第三次ホテル戦争というやつに見舞われている。うちの増設計画の根回しがあるので、今夜はちょっと、遅くなるかもしれんな。おまえもヴィーナスのことなんか、つまらないことを気にせずに、どこかで気晴らしでもしてこいよ。――おっと、そこの鞄をとってくれ」
秀彦はスーツを着終わって、玄関に立った。聡子がさしだすアタッシェケースを提げた姿が、総務部長とか秘書室長というよりは、まるで外国駐在のエリート商社マンのようにみえる。
今日も、上天気らしい。外には眼に痛いほどの明るい日射しがあふれている。青葉の匂いが濃かった。庭の樹々は、水で溶いたような薄緑から、いつのまにか濃い夏の色を滲《にじ》ませている。
夫を送りだしてしまうと、いつものことながら聡子には何もすることがなかった。気分をかえようと、床に壊れたヴィーナスの石膏を掃きよせ、家裏のポリバケツにすてた。ついでに、三枚の写真も破いた。塵埃くずと一緒にポリバケツにすてた。
寝室の掃除をし、居間の掃除を終え、聡子は浴室にはいった。
浴室の一方の壁一面に、鏡が嵌《は》めこんであった。秀彦の趣味である。聡子はあまり好きではなかったが、衣服をぬぐといやでもその鏡に、全身が映ってしまう。二十九歳の白い、健康な裸身。乳房は張り、腰はよく締まり、下腹部のしげみが朝の光のなかに艶々とひかっている。
聡子は、鏡の中にある自分の均斉のとれた裸身を眺めながら、ふっとまた、さっきのあのヴィーナス像のことを思いうかべた。
電話の男は、今夜、すべてのことがわかる、といったが、それはどういうことを意味するのだろう。ヴィーナスといえば、たしかに、日本の男性一般はよく、裸の女のことをそう形容する。ヴィーナスの紐、といえばビキニの水着の腰の紐のことだし、ストリッパーが秘所を隠す布きれのことだときいたことがある。
ヴィーナス競演、といえば、かつての国際劇場や日劇ダンシングチームのように、ヌード・ダンサーが舞台一杯に勢揃いして、長い脚をあげて踊ることでもある。
とすれば、女。秀彦がどこかに隠している愛人をめぐって、何かの暗闘でも起きている、ということではないか。いや、ヴィーナスの首が切断されていたのは、今にそれに似た殺人事件でも起きる、という予告ではないか?
殺人……? まさか。恐怖の思いが、ちらっと湧いた。
いや、むしろ、あれは自分にむかってなされた悪意ではないか。写真の宛名は、鳴沢聡子様、となっていた。夫は、外で男と密会している不倫妻の自分の行状を知っているのではあるまいか?
浴槽にはいって朝の湯を使いはじめた聡子の脳裡に、まったく思いがけなく、そんな猜疑《さいぎ》が芽ばえた。夫が、何くわぬ顔をしてヴィーナスの石膏像を送りつけ、聡子のいない隙に、その首をすぱっと切ってしまい、まっ赤な鮮血をふきださせておくことで、おまえもこうならないように気をつけろ、とでもいう脅迫の意味をこめたのではないか……?
わからない。夫が、まさか……? いや、いや。そんな馬鹿なことはないと、聡子は首をふった。あわてて、バスタオルで身体を拭き、急いで応接間の傍の電話台に走った。
秀彦は、どうせ今夜も遅くなるといっていた。息抜きするには、いいチャンスである。今朝のヴィーナス事件、あの人に相談してみよう。
鯉沼潤《こいぬまじゆん》なら、ヴィーナスの首が切断されていたという事柄の、心理学的解釈、とやらをちゃんとだしてくれるだろう。聡子の指は、眼をつぶってでも回せる数字の配列で、男のいる四谷のクリニックに、ダイヤルを回した。
鯉沼潤は、勤務先のクリニックにいた。そこはある有名女子医大系の大きな総合病院で、鯉沼潤は、その内部に設けられているメンタル・ヘルス・センターという精神科のカウンセラーをしている。
「やあ、奥さん。どうなさいました?」
鯉沼は、鷹揚《おうよう》な声をあげた。
「早いのね。もうお仕事?」
「いえ。ゆうべは、泊まりでした。そろそろ引きあげようかと、卓上を片づけていたところです」
「精神分析医にも、夜勤というものがあるのかしら? 救急患者が運びこまれるわけではないでしょうに」
「勤務は、外科医なみです。交代に、宿直があります。ちょうど、論文も執筆していましたし」
鯉沼潤は、アメリカのコロンビア大学精神科系の学部を卒業した優秀な若手精神科医だった。三年前、聡子が子供を亡くして軽い鬱病にかかっていた時、知人に紹介され、四谷のそのクリニックに通って鯉沼とはじめて知りあったのである。
その時の聡子の症状は、ノイローゼともいえない軽いふさぎ症だったので、すぐに治った。傾斜ベッドに横たわっての心理療法が効いたというより、むしろ、人あたりのいい鯉沼の近代青年らしいきびきびした男ぶりに接しているうち、その青年をふと、誘惑してやろうかという新鮮な欲望が、聡子のなかで芽ばえ、その意欲が短期間に彼女を快方にむかわせたのかもしれない。そしてその企みは結局のところ、二ヵ月目には成功し、鯉沼は、今では月に一、二回、ベッドをともにする聡子の愛人、という存在になっていた。
「今日、会えないかしら?」
聡子は受話器に、甘い声を送った。「もう、お帰りなんでしょう?」
「朝から、どうなさったのです? ご主人がまた長期出張で苛々《いらいら》なさっているのですか?」
「そういうことではないの。今朝、妙なことがあったのよ。ショッキングな出来事といっていい。相談もしたいし……、何となく気持ちが落着かなくて」
「夜ではいけませんか?」
「主婦の立場も、考えてちょうだい」
「わかりました」
と、鯉沼はやや間をおいてから簡潔に答えた。「二、三の用事をすませたら、病院を出ます。お昼頃には、新宿の、いつものところに着くと思います。そうですね、約束の時間は十二時、ということにしませんか?」
二人の約束は、そんなふうに決まった。
聡子は、早めに出て、ついでに買い物もしよう、と考えた。化粧は簡単にすませた。ワードローブの扉をあけ、掛け並べてある服を見渡した。ラベンダー色の地に花模様を散らした夏むきのワンピースをとりだし、着こんだ。
襟と袖口にフリルがついている。鏡の中の聡子は、ぐっと若くなった。二十四、五歳といっても、人は信用するだろう。少なくとも、人妻には見えない。聡子は何となく満足し、唇に微笑をうかべた。鯉沼と会えば心身ともに燃えるような濃厚なベッドにもつれ込み、今朝のいやなことは、昼すぎにはもう充分、忘れることができるだろう。
東北観光開発の本社は、市谷にある。濠端に面した十二階建てのビルであった。社長室は最上階の十二階にあり、従って、鳴沢秀彦が勤務する秘書室も、十二階にある。細長いエンピツビルだが、高層だけに窓ガラスから切れこむ朝の光線は、いやに眩しい。
「おはようございます」
女性秘書の白い手がのびて、花を活けている。
秀彦の卓上であった。
家田佳子《いえたよしこ》のふりむいた顔が、うつくしい。全体に骨細の感じだが、細面で髪が長い。瞳が切れ長で、くっきりしている分、派手な顔立ちからうける美人という印象を、いっそう強めている。
「トルコ桔梗か。季節にしては、変だな」
「そうですわね。でも、色が素適でしょう? このごろは、真冬に咲く花でも、真夏に出回ったりしますわ」
家田佳子はきびきびと花を活け終えて、自席に戻った。秘書室には、三人の女性秘書と二人の男性秘書がいる。それだけ東北観光の社長であり、東北交通の会長である橋場文造の活動が、広範囲に及んでおり、多忙である証拠である。
鳴沢秀彦自身、総務部長を兼務しておりながら、そちらは経営感覚のしっかりした経理課長にまかせた按配で、一日のうち半分を、この秘書室に身を置いて、会長スケジュールを回転させたり、同行したりする。橋場会長がまた、娘婿である鳴沢秀彦をいつも傍に置いておきたいことにも、それは一因している。
秀彦が一日のスケジュール表に目を通し、橋場に報告しに行こうとした時、卓上の電話が鳴った。九時半ジャストに鳴る卓上電話は、会長室からの呼び出しであることを、長年の習慣で、秀彦はわきまえている。
会長室と秘書室とは、隣接しており、オーク材のドア一枚。ノックすると、はいりたまえ、という野太い声がなかから応じた。
橋場文造は、今朝は恐ろしく不機嫌だった。秀彦が会長机の前に立って、スケジュール表を手にして説明しようとすると、橋場はそれを遮り、自ら立ちあがってソファのほうに歩いた。
「すわりたまえ」
と、目の前のソファを指さし、「スケジュール表はあとでよい。ちょっときみに、見せたいものがある」
大男ではないが、猪首で、眼が鋭い。六十三歳になる。濃い焦茶の背広を着ていた。東北財界の梟雄《きようゆう》といわれ、最近では日本の政財界のもう一人の黒幕とさえ、呼ばれるようになっていた。
その橋場が、内ポケットから一通の角封筒をとりだし、テーブルに置いた。自ら身を屈め、老眼鏡をかけて封筒から数枚の写真をぬきだす。
「見たまえ」
指先を、躍らせた。「この写真、どういう意味か、わかるかね?」
鞭のように打ち叩いた橋場の指の下にあるものをみて、秀彦は息を詰めた。
「この忙しいさなか、ひとを馬鹿にした投書が届いておる。差出人は、社長直々に鳴沢秀彦を呼びつけてこの写真を見せろ、と書いている。私には、意味がわからん。鳴沢君、説明したいことがあったら、説明したまえ」
その三枚の写真は、何の変哲もないミロのヴィーナスの写真である。今朝、家に届いていたものと同じであった。意味するものが、鳴沢秀彦自身にもわからない。
「これが、どうかしたんですか?」
鳴沢秀彦は、はじめてみる、という顔できいた。「よく撮れていますね。きれいな、ヴィーナスの写真じゃありませんか」
「意味を、きみにきいているんだ。何の変哲もない、ただのルーブルの写真。それが、どうしてわしのところに送られてくるんだね? わしはこんな他愛ない美術愛好家の趣味になど、つきあっているひまはないぞ」
ひまはない、と言いながらも、橋場文造が秀彦を呼びだしたのは、その投書の末尾に気になることが書いてあるからだ、といい、「読んでみたまえ」と差し出した。
手紙は肉筆ではなかった。ワープロで叩いたものである。数行だけ、電影文字が躍っている。「――これは、将来を嘱望されている御社の一秘書室長の秘密にとどまる問題ではありません。場合によったら、東北観光の経営の根幹、いや、東北交通コンツェルン全体の存亡にもかかわってくることをお忘れなく――」
読み終わったところにすかさず、橋場の声が響いた。
「ミロのヴィーナスといえば、いつかルーブルを出て上野で展示されたことがある。わしが知っているのは、それぐらいのことだ。それがどうして、わが社の経営の根幹にかかわってくるんだね? わけを説明してもらおうか」
説明しろ、といわれても、ますます見当がつかなくなった。自分の二、三の女出入りにともなう誰かのいやがらせではないか、と朝のうちは軽くそう思っていたが、会社の経営の根幹にかかわる、などという脅迫文を眼にすると、明らかにそれとは異質なものではないか、と思えてくる。
ある製菓会社の社長を誘拐し、金銭を要求した関西の脅喝者たちの事件を何とはなしに思いだした。会社ぐるみにいやがらせを仕掛けている、という点で手口が似ているともいえる。
「会長。これはもしかしたら……」
秀彦は思慮深げに答えた。「わが社の例のコンテスト。あれに関係していることじゃありませんか? ほら、赤坂のうちのホテルのプールで毎年夏、おこなっているミス・ヴィーナス・コンテストですが」
秀彦に思いあたることといったらせいぜい、それしかない。東北観光では毎年八月第一日曜日の夜、自社の宣伝ガールとするため、民放テレビ局とタイアップし、系列ホテルの赤坂メゾン・ド・ホテルのプールで、水着コンテストを行っている。一位から五位までを入賞者とし、グランプリ・ギャルには、ホテル、鉄道、観光バスの宣伝写真、東北各地の観光地のポスターなどに登場させ、各種催し物にも引っぱりまわす。
運がよければコマーシャルガールとしてテレビ局に拾われたり、そこそこスター気取りになれるので、応募者は結構多く、落選者からはよく、審査には極めて個人的な私情が加わっている、とする不服があいついだりしていた。
「ふむ。ヴィーナス・コンテストか。わしも一度はそれを思わんではなかった。しかし、それでは理由が薄弱すぎるな」橋場は切ってすてるように言った。「コンテストの賞に洩れた女どものうちの誰かが、逆恨みをして脅迫する。これはまあ、考えられんことではないが、しかし、どうしてそれがわが社の企業の根幹にかかわるんだね? え、それだけの理由を、たかが一般の応募者ギャルどもがもっているとは思えん」
そういわれてみると、返す言葉はない。ヴィーナス、という言葉から連想されるものとして、とっさに自社の季節行事を思いだしたわけだが、秀彦のその着想自体、根拠はなかった。橋場に反論されてみると、いかにもつまらない思いつきだったことに気づく。
「鳴沢君。いま、わが社は大変な時期にある。JRの赤字路線・宮森線の買い上げや、国有林の払い下げ、さらに仙台におけるホテル戦争で、世間からいささか、痛くもない腹をさぐられている。これがもし、そういったものに関わっているとするなら、見すごしにはできないことだぞ。――本当に、心当たりはないのか?」
世間からいささか、という形容の仕方をしたが、国会でも追及されている問題をたんに、世間からいささか、と言いすてた橋場の感覚に、泥臭いまでの戦いを演じてきたこの男の前半生のすべてが、凝縮されているようである。
この日本において戦後、政財界の黒幕とか、政商とか呼ばれる人間は、きわだって明確な、ある一つの特徴を有しているようだ。それは一口にいうと、終戦直後の混乱に乗じ、闇商売やそれに準ずる経済行為で巨利を得、いわば地方風雲児として身を起こして中央政界のダークサイド部分に結びつき、いつのまにか日本の安定期の経済分野のかなりの部分を巨翼のように覆って、担い、気がついてみると、保守政権のなかで根深い支配力をのばしている、というあたりだろうか。
総理の犯罪、といわれ、戦後最大の疑獄とされるあの航空機疑惑事件には、その手の政商たちが、ぞろぞろと顔をだしたが、この橋場文造は、あの事件には顔をだしてはいない。彼らより、やや辺境の存在であり、やや小粒だったことが幸いし、彼らとはまったく違った裏街道をあるいて、今では東北のF市に新聞社や放送局まで経営し、鉄道を根幹として東北一帯を支配しているのである。
福島県白河に生まれ、闇商売で儲け、白河の小炭鉱を経営したり、常磐炭鉱あたりから買った石炭を貨車積みして東京で捌く石炭商をした期間の、彼のダークサイド部分は、詐欺や有価証券偽造、同行使など、何度もの逮捕歴によって、ある程度、その凄みがうかがえるが、その全貌となると、側近である秀彦さえ、まだわからない薄暗さをもっている。
橋場文造は、とうに還暦をすぎているが、陽焼けした精悍《せいかん》な顔は、とうてい老人とは思えない。まだまだ、おれは若いと考えている。東北出の実業家では終わりたくないと思っている。彼が今抱いているのは、恐らく政界への野心であろう。
それへの影響を警戒するように、橋場はヴィーナスの写真をパチンと、指で弾いて秀彦のほうに押しやり、
「きれいな写真。きれいなヴィーナス。こういうやつに限って、棘《とげ》がある。これは誰かが、わが社の発展を妬《ねた》んで、ためにする策謀を秘めているとしか思えん。鳴沢君、たかがヴィーナスと、笑ってはすまされん、という予感がある。きみ、この写真と手紙の送り主を至急、突きとめてくれ」
どうやら、事はきみ自身に関わっていることのようだからな、と念を押すことを橋場は忘れなかった。それから、と橋場は顔をあげ、
「いま、思いついたことだが、きみに処置をまかせていた香坂《こうさか》君。――あの女は今、どうしている?」
香坂まり子。今年の春まで東北観光の中堅経理課員だった。美貌でもあった。銀行担当だった職責をよいことに、六百万円の小切手を着服した。困ったことに、香坂まり子は橋場文造がそれ以前に、手をつけていた女だった。事後処理を、秀彦がまかされた。
新聞社から放送局までをもつ東北コンツェルン、といえば一応、体裁を整えたコングロマリットのようにみえるが、東北交通とその関連企業の内実は、近代経営とはおよそかけはなれた橋場の独裁企業である。美貌の女子社員とみたら、閨《ねや》にはべらせるくらいだから、その内実は、推して知るべしだ。橋場文造自身の体質と、その歩いてきたけもの道そのものに、その企業体質は根ざしているわけであろう。
おかげで、秘書室長は苦労する。ベテラン経理課員だった香坂まり子に対して、秀彦は刑事責任を問わなかった。なまじ警察に告訴して、会社の不祥事を明るみにだすよりはと、意を受けた秀彦は、女が横領した六百万円は、橋場からの手切金という措置をとり、東北観光の本社からはずし、系列の赤坂メゾン・ド・ホテルのさしさわりのない部署に、配置転換をしたのである。
まり子自身、そういう措置を見こしていたようで、背任横領が露見しても、無邪気な笑いをみせ、
「あら、会長はこのごろ、ちっとも私のマンションにはこないのよ。ちょっとばかり、気をひいてやろうと思って、少し多めのお手当てをもらったつもり……」
その着服をあっけらかんと説明したものである。
「香坂君は、いま、赤坂メゾン・ド・ホテルのほうで、インフォメーション・クラークとして、溌剌と働いております。まさか、彼女が配置転換を不服として、つまらない厭がらせに出たとは、思えませんが……」
「そうか。それならいいが、ともかくあの女の線も至急、調べてみたまえ。彼女の背後にいかがわしい男がついていたのかもしれんじゃないか」
「承知しました。早速、調べてみます」
「それから、きみ自身だ」と、立ちあがりかけた橋場は最後に、ぎょろりとした視線を秀彦にむけた。「きみ、まさか、この私に隠しごとをしているんじゃあるまいね?」
「は? ――隠しごとといいますと?」
「この妙な、悪戯《いたずら》さ。秘書室長本人を呼びつけて確かめろ、と手紙にあるところをみると、どうもきみ自身に、原因があるように思える。わしはだ。わしが信じている人間が、わしに対してどんな些細ささいなことでも、隠しごとを持っていることが許せない人間であることは、知っていよう。その隠しごとのなかには、どんな秘密も、謀反心も、裏切り行為も、すべてふくまれる。わしは自分の支配力を、ずっと信じてきた人間であることを、忘れんでくれよ」
「承知しております。私に、秘密などはございません」
「それならいいが。わしはまた、もしかしたら、きみがわしに謀反気でもおこして、よからぬことを企んでいるのかと思ったよ。ま、いい。そいつは焼きすてたまえ」
はい、と返事をして写真を封筒に入れながら、秀彦は腋の下に冷や汗が流れているのに気づいた。橋場は、怖《こわ》い男だ。娘婿、という立場などいざとなったら、何ほどのガードにも役立ちはしまい。
秀彦が一礼して部屋を去ろうとすると、待ちたまえ、と呼びとめた。橋場が執務机に歩み、抽出しからもう一つの角封筒をとりだした。
「きみ、赤坂へは今日中に、ゆくんだろう?」
「はい。昼すぎには回りたいと」
「ちょうどいい。宝泉寺颯子《ほうせんじさつこ》君が、今日の午後あたり、テレビの仕事の合間に、ホテルのプールにいるはずだ。ついでに彼女に、これを渡しておいて欲しい。わしは今夜から出張なので、しばらく会えんと伝えといてくれ」
「承知いたしました」
一礼して、預かりものを受けとって部屋を出た時、秀彦はまだ、腋の下にぐっしょりと冷や汗が流れていることに気づいた。
鯉沼潤は、約束の十二時ちょうどにやってきた。
そこは新宿西口の、超高層ビル街の一角にある明るいホテル・ラウンジである。芝生と欅の若木と人工滝に面して大きな一枚ガラスの明るい窓があり、深々としたソファとテーブルが、幾つか配されている。
鳴沢聡子は、カンパリソーダを飲んでいた。通路を歩いてくる長身の鯉沼に気づき、手をあげて合図した。フランセスコ・スマルトのスーツを着た鯉沼は、精神科医というよりは、売れっ子のスポーツ選手のようである。
「やあ。遅くなってすみません。出がけに、患者がどやどやとやってきたものですから」
「いいのよ。ちょうど、お約束の時間じゃないの。何を飲む?」
「ルシアン・サワー」
ワイン・ハウスとよばれるこのラウンジにも、焼酎ブームが押し寄せている。もっとも、一番よく出るハイ・サワーが焼酎をベースにするのに対し、ルシアン・サワーはウオツカをベースにしている。鯉沼は、それを好んだ。
ウエイターにルシアン・サワーを言いつけ、聡子はむきなおった。
「論文は?」
「アメリカのアカデミーに提出する二本目のやつで、もうすぐあがります。――それより、どうしたんです? 顔色がすぐれない。ご相談というやつ、おうかがいしましょうか?」
額に垂れた長い髪を華奢な指先で掻きあげ、鯉沼は脚を組んだ。テニスでもやっているらしく、日焼けした逞しい顔に、淡彩ブルーのハイ・ネックのカラーシャツがよく似合う。
「今朝、いやなことがあったのよ。……もしかしたら、私たちのこと、主人に気づかれたんじゃないかしら?」
聡子は、声をひそめた。
「どうして?」
「ヴィーナスが壊れちゃって、まっ白い首から、まっ赤な血がふきだしたの」
いやに象徴的なことを言うじゃありませんか、と鯉沼は笑った。「まるで、ギリシャ悲劇だ」
聡子は、今朝の出来事をかいつまんで、説明した。もしかすると、夫のいやがらせかもしれない、と結んだ。
「しかし、それはおかしい。ご主人が、そんなことをするわけがありませんよ。だって、家でふさぎこんでばかりいないで、外で気晴らしでもしろ、といつもそうおっしゃってたんでしょう? 気晴らし、といえば今時の世相では、ボーイフレンドを作るくらい、わけなくその中にはいるんじゃありませんかね?」
大胆なことをいう。私はそれに協力してあげてるんですよ、といわんばかりの口調に、聡子は小憎らしいものを覚え、自分と同じ年だというその独身青年を、眼の端で睨んだ。
「ええ、それはそうですけどね――」
でも、と聡子はつづけた。「その言い草自体、罠があるのよ。妻に浮気でもさせて、自分の勝手なふるまいに対する免罪符にしようとしている。見えみえだわ。それに、そんな男に限って、妻がいざ浮気でもしたとなると、大変なんでしょう?」
「一般的にはね。しかし、ご主人の場合はちょっと、違うんじゃないかなあ」
鯉沼は、運ばれてきたルシアン・サワーに口をつけ、遠くを見る目つきをした。「だって、東北コンツェルンの社長ご令嬢でいらっしゃる、奥さんは。その娘婿でいる限り、ご主人は安泰。その企業における頂点までの出世も、約束されている。そのご夫婦仲を、ご主人がわざわざ、厭がらせまでして、壊すはずはないじゃありませんか。むしろ、多少の隙間風ぐらいはなんとか、だまし運転しながら、夫婦仲を永続させようとなさっている。だから、奥さんにもたまには、息抜きをしろ、とけしかけている――」
そうかしら、と聡子は思った。
聡子には、夫の正体が実のところ、よくわからない。父の忠実な番犬。であるようにもとれるし、そうでないような気もする。たとえ忠実な秘書であったとしても、あの男は何かを隠している。そんな気がする。
少なくとも、自分と結婚する前に、夫に恋人がいたことに気づかないほど、聡子は愚かではなかった。
花村ゆう子、という名前を憶えている。むかし、同じ秘書課にいた美人秘書らしい。その女と秀彦は、同棲同様の生活までしていたというではないか――。
聡子はそれを、結婚する前に知った。いくら父がすすめ、整えた結婚話とはいえ、福島県白河で高校を卒業後、上京して短大まで出た聡子は、自分が結婚する相手の男について、無知ではいられなかった。父には内緒だったが、知人に頼んで、秀彦のことをいろいろ興信所で調べてもらったのである。
調査報告は、予想していた通り、鳴沢秀彦には二年間、交際していた女性がいる、という内容だった。それも、将来を誓いあっていた仲だというではないか。
ただし、その女性とは聡子との婚約が発表される三ヵ月前、縁を切っており、花村ゆう子というその女性秘書は、東北観光の本社を退社して、縁故のある九州のほうで地方銀行に再就職した、とされていた。
「ま、奥さん。たかが石膏のヴィーナス像が壊れたくらい、そう心配することはありませんよ。そんなつまらない厭がらせを気にしていると、また鬱病が再発しますよ。せっかく見違えるように明るくなったんだから――」
鯉沼はたしなめるように言い、聡子の胸のあたりに、意味ありげな視線をおくった。聡子は見つめられて、胸の谷間に小さな、無数の、太陽のかけらが刺さってきたような熱い疼きを覚えた。
「そうね。つまらないことを気にするより……参りましょうか」
聡子は伝票を拾い、ハンドバッグをとりあげ、席から立ちあがった。
並んで、ラウンジを歩く。部屋は、聡子が先にきて二十階の一室を、キープしていた。一緒にエレベーターのなかにはいった時、鯉沼はその太い腕で、聡子の腰を抱いた。まわされた腕の感触に聡子は息が詰まりそうになり、脳裡に眩しく、二十階の部屋で展開されるだろう爛《ただ》れた情事の光景が、うずまいた。
二〇二四号室にはいった。
ドアを閉めてすぐ、鯉沼潤が静かに抱き寄せて、唇を近づけてくる。
聡子はこの瞬間が、好きだ。身体がふわっと浮きあがり、魂が金色の蝶になって漂いだし、現実のすべてを忘れることができる。
鯉沼の接吻は静かだが、濃密だった。唇を割り裂いて貪るような接吻がつづくうち、聡子の腰は抱きしめられて折れそうになり、その手からセリーヌのバッグが床に落ちた。
聡子はすっかり、成りゆきにまかせた。鯉沼の激しい動きに身を委せていると、彼と触れあっている身体の前面が音をたててざわめきたち、響きあい、その甘美な接触の中で、思わず声を洩らして、聡子は力一杯、鯉沼の頭を抱いて、胸に押しつけたりする。
「ね、ベッドにゆきましょう。わたし、おうちでシャワー浴びてきたけど、もう一度、洗ってきたほうがいい?」
「せっかくの肌の匂い、石鹸で洗い流すのは、もったいないですよ。奥さんはそのままでいい。ぼくはちょっと、バスを使ってきます」
「いやいや。あなたもそのままでいいわ」
寝室は、明るすぎた。鯉沼がカーテンを二重に引いた。その間に聡子は、水玉模様のブルーの服を脱ぎ、スリップもブラジャーもはずしてショーツ一枚になり、ベッドの掛布のなかに入った。
ほんの一瞬、眼を閉じる。超高層の空の高みで私たち、雌雄の鳥たちのように睦みあおうとしている。そんなイメージが、聡子の気持ちを軽く、夢見心地にさせる。
背信といっても聡子の場合、愛人をもつ夫へ仕返しをするための、ほんの軽い、プレイ気分の不倫愛欲なのである。
鯉沼はすぐに掛布の中に入ってきた。驚くべきことに、彼はもう素裸だった。テニスで鍛えた褐色の肌と筋肉と汗の匂い。掛布の中で静かに抱きあった時、聡子はあっ、と声をあげた。
青年医師の男性のしるしは、早くも猛って、それとわかる形状をとっていたからである。
「もうこんなになさって。あなたったら、いやなかた」
抱きあい、接吻から入り直す。
「ああん……潤……! わたしの、潤……!」
身体をぶつけるようにして、聡子はしがみつく。
「奥さんの身体こそ、ヴィーナスのようですよ。朝のヴィーナスのことなんか忘れて、さあ、ぼくたち、頭の中をまっ白くしなくっちゃ」
鯉沼は勢いのある恋の狩猟者となって、聡子の豊満な肉体を押し伏せると、くちづけを交わしながら、右手を動かしてゆく。その右手は、いつも初めての散歩道を探索してゆくような、新鮮な緊張感をたたえて、聡子の身体の上の小径を幾すじもたどった。
張りのある乳房、ウエストを這って腰のくびれの部分の感触をたしかめ、脂のりした下腹部へとたどり、そうして茂みのあたりで、ほんのちょっと立ち止まり、羽毛のように指をそよがせる。
ひとしきり、黒艶のある恥毛の上で渦巻いた指は、ふと悪戯心を起こした探険者のように、その下の峡谷へとむかう。湿潤な谷間の入りあいにある女の塔を発見するとまさぐり、フードをむいてきわだたせ、リズミカルに圧迫運動を加えたりする。すると、聡子はとたんに、あん、と甘美な声をもらし、そこから舞いあがってくる焔のゆらめきに、全身が包まれてしまうのを、まるで恐がるように、いやいや、と髪ごと頭を打ち振って、快楽を拒否しようとする。
けれども、青年医師の指先は的確だ。女の塔はたちまち露頭部をルビーのように光らせて、濡れ輝き、慄え戦く。その瞬間、自分の恥ずかしいところの真紅の唇が割れひらき、その幾層もの花層のあわいの、通路の奥から、どくっ、どくっと重湯のような蜜が湧きうるんできたのが、聡子にもわかる。
指はたちまち、その湿潤な花層をたがやしはじめ、クレバスの畝をくつろがせて、聡子の全身を火の色に束ねてしまうのだった。
「ああ、ああ……潤……私の潤! ……もういいのよ、いらっしゃい」
聡子は頤《おとがい》を反らせ、かすれた声をあげる。
あげるだけではなく、聡子は本当にもう、心を躍らせて早く迎えたいと思う。
けれども、鯉沼潤は、すぐには女の部分に自らをあてがおうとはしない。唇から旅立った顔は、今度は乳房を吸うために、胸に伏せられる。揉まれ、貪られる。ああン、と声はますます噴いて、苺色にとがり立ちはじめた乳首を吸われるたび、稲妻のようなものが、そこからつきあげてきて、聡子は思わず、両手でシーツの海を引きつかんで呻くのだった。
鯉沼はやがて、顔を乳房から下腹部へ移した。
「ああ……やめてやめて……いやっだってば……」
聡子は、顔から火の出るような羞恥を覚えた。いやいや、と身を捩った。けれども、鯉沼は容赦なく両手を田園調布夫人の内股にかけると、ぐいと左右に押し開き、恥ずかしいところを押し剥くようにして、顔を一気に女芯に近づけたのであった。
急襲される。花びらがくちづけにふるえて、粘液の光沢を帯びる。葡萄色のフリルがぬらついてゆく。花びらは何度も蹂躙され、貪られ、その上の谷あいの女の塔にもその蹂躙と征服は及んで、聡子はたちまち下半身がだるくなって、ああ……ああ……ああ……と声を洩らしてヒップぐるみ、腰を突きうごめかしたりしていた。
「ああ……潤! ……いやよ、いや。私に変な癖、つけさせないで……」
聡子は、夫からそういう愛戯をふるまわれたことは、一度もなかった。だから、病みつきになるのは、恐いのであった。
けれども、そうされながら、いとおしさが不意に嵩じた瞬間、聡子はがばっと、鯉沼の頭を両手で掻き抱いて、自分の恥骨にぐいぐいと押しあてながら、
「……ねえ、ねえってば。もう、いらっしゃい。早く潤の逞しいもので充たしてほしいわ」
頭部を自らの両手でのがさじと押しつけながら、はなはだ矛盾したことを訴えている。
やがて、鯉沼が聡子のいましめを解いて、位置を修正し、身体を上方に移すと、ゆっくりと押し入ってきた。
聡子はあっ、という、斬られるような声を噴いた。その部分に、火傷をしたようなたぎり立ちを覚える。甘美な衝撃が体奥に走ったのを覚える。濡れあふれた世界が押し広げられ、たちまち充たされ、どよめき、子宮の闇に緻密な衝撃が伝わる。
鯉沼は聡子をつらぬくと、みっしりと動きだした。けっして激しい動きではなかった。それは的確で、熱湯を押しつめてゆくような律動感であった。
一合、一合、切り結ぶたびに聡子は呻き、あえぎ、女の城を完全に搗捏《つきこ》ねられながら、ああ、ああ、と全身を花色に染めて、めくるめく快楽のるつぼに自分を浸しきってしまい、これでもう当分、朝のいやなことが忘れられそうだ、と思うのだった。
同じ頃、鳴沢秀彦は、社の車で赤坂にきた。
午後一時である。乃木坂上であった。東北観光が経営する赤坂メゾン・ド・ホテルであった。秀彦は地下駐車場に車をのりすてると、自動ドアをはいってまっすぐ、エレベーターにのった。
仕事部屋を一つ、三階に設けている。
部屋にはいってすぐ、秀彦は室内電話をとりあげ、フロントに電話をした。
「香坂君、きているかい?」
「はい。今、交代で食事に出ておりますが」
「戻ったらすぐ、私の部屋にくるように伝えてくれ」
秀彦は上着をワードローブに掛けてから、窓際に立った。部屋は、ふつうのホテル部屋であり、やや大き目の仕事机を一つ置いている。窓からプールサイドが見おろせる。グリーンの人工芝の上に寝そべっている一人の女を認め、微笑をうかべ、見事なプロポーションだ、と舌打ちをした。
東北観光が東京進出の拠点にしているこの赤坂メゾン・ド・ホテルは、会員制のプールなので、真夏になっても、東京周辺の海岸や一般のプールのような混雑はみられない。放送局が近いので若いタレントが、暇をみつけてよく泳ぎにくる。また最近は、外人が多いのも、このプールの特長だった。
標準サイズの五十メートルプールと、ひょうたん型の流れるプールの、二つがある。周囲にはグリーンの人工芝が敷きつめられ、丈の高い観葉植物が並べてある。
七月の半ば。太陽は露光度を増しはじめている。だが泳いでいるのは外人がたった二人で、プールサイドに寝そべっているのは、その女一人だけである。いま、その女は人工芝の上に虹色のビーチマットを敷き、起きあがってサンオイルを全身に塗りつけているところだった。小麦色の肌、ひきしまった腰。ビキニの乳房は、上をむいている。あとで、秀彦が橋場文造からの預かりものを渡さなければならない相手である。宝泉寺颯子といった。
宝泉寺颯子は、テレビのニュースキャスターからドラマ畑に進出するようになってから、時々、このプールサイドに姿を現わすようになった。
颯子は、もともとはシンガー・ソング・ライターである。大学時代から自分で作った歌をひっさげて演奏活動をしていたが、フォークブームにのって学生たちのアイドルになり、それに眼をつけたラジオ局がまず、深夜放送のディスクジョッキーにひっぱりこんだ。それで、若者たちの間で夜の女王、という異名をとり、爆発的な人気者になった。そうなると、テレビも映画も放ってはおかない。
颯子はいまではその甘いフェイスと、頭の切れのよさと、日本人離れしたグラマラスな姿態を武器に、テレビの世界でひっぱりだこの女である。
美人で、肢体も素晴らしくて、才能にも恵まれているとなると、神様もずい分、不平等なことをする。一部の女たちには激しい嫉妬も買っていた。が、その嫉妬は、二年前の彼女の醜聞によって、幾分かは慰められているともいえよう。
知性を鼻にかけている女性が陥りやすい誤ち。彼女も、とうとうそれをやらかしてしまったのだ。左翼くずれの見栄っぱりのフリーライター伊吹敏男《いぶきとしお》というならず者にころっとひっかかり、周囲の反対を押しきって結婚生活にまで踏みこんだが、結局はその男が恰好だけのどうしようもない屑だと気づき、家庭をとびだそうとした時、二人の間ではかなりの諍《いさか》いがあったらしい。
もともとこの結婚は、長続きしないだろうというのが、大方の見方だった。伊吹はたしかに、思想性のある硬派の評論は書くし、ニュージャーナリズムとよばれたルポルタージュは書くし、男前もいい。だが、生活力はないし、いろいろと派手な女性にくらいついて金をせしめているというダークサイドの噂もあったし、宝泉寺颯子のような女が、どうしてあんなダニのような男に惚れたのか、わからないというのが、大半の見方だった。
「家庭にはいって、女の幸福を感じました」――結婚後半年ぐらいは、思いだしたように訪れる女性週刊誌の記者に、そう語っていた颯子だが、結婚生活がうまくいっていないことは、誰の眼にも明らかだった。一年、二年とたつうちに、宝泉寺颯子の名前は、しだいに人々の記憶から薄れていった。
それが再び、週刊誌にのるようになったのは、彼女が伊吹敏男と別居したからである。別居は一応、週刊誌のスクープということになっているが、彼女のほうから、問題を表沙汰にするために、わざと、記者に離婚記事を流したともいわれている。
昔は離婚は、芸能人にとって致命的なマイナスと思われていたが、今は逆だ。とくに女性タレントにとっては、かえって勲章になる。だが宝泉寺颯子は現実に、伊吹敏男に五千万円もの慰謝料をむしりとられたという噂があり、芸能界復帰に際して、かなり金を使ったという噂とともに、背後に新しい男ができたのではないかとみられている。
その男について世間はまだ取沙汰の域を出てはいないが、秀彦はもうとっくに知っているわけである。東北交通の会長、橋場文造こそ、颯子が行きついた新しい隠れた金づるなのである。
戦後成金の常で、橋場文造は周辺に、やたらに有名人を飾りたがる。もう高齢なので、女癖の悪さも性欲からというより、多分に征服欲と、名誉欲からきていると思われる。
行きづまっていた宝泉寺颯子に接近し、彼女を橋場に橋渡しをしたのも、秀彦である。秘書室長とはいえ、娘婿の秀彦に、そんなことまで平気でやらせるところにも、橋場文造の厚顔無恥さがあるともいえた。
ともあれ、離婚によってかえって宝泉寺颯子の人気は高まったというから、世の中は皮肉だ。今、彼女は午後の奥様番組のアシスタントに週二回、夕方のニュースの女性キャスターとして週三回、単発ドラマやポルノ映画にまでひっぱりだこであり、一方では本職ともいえるニューミュージックのレコードも着々と、枚数をふやしている。
「また、プールサイドの、あの女に見とれている!」
香料の匂いが、鼻に散った。レースのカーテンが、風でめくれこんだ。いつのまにか傍に女が立ち、窓外に眼を落としていた。
「待っていたよ。きみに糺《ただ》したいことがあってね」
紺色の制服をきた香坂まり子は、なかなか魅力がある。本社経理部にくすぶっているより、こちらのほうが本当は、性に合っていたのかもしれない。二十八歳という年齢からくる落着きも、インフォメーション・クラークという職制に、一番ぴったりである。
そこに坐りたまえ、と秀彦がたしなめても、香坂まり子はいっとき、窓からプールサイドの女に、眼をむけていた。視線に、粘いものがこもっている。
「私に着服させた女、といえそうね、あの宝泉寺颯子。橋場会長があの女に入りびたるようになって、私、謀反気を起こしたのよ。大いに困らせてやろうと――」
わかっているさ、と秀彦は無言で、うなずく。あんたを警察につきだしたり、懲戒免職にさえしなかったのは、そのへんの痴情のもつれが表沙汰になることを惧《おそ》れたからさ。女というやつは、アンネリーゼの期間になると、憎い男の家に火つけさえする……。
そこに坐りたまえ、と秀彦はもう一度、たしなめるように言い、これはどういう意味だい、とテーブルの上に朝、橋場から受けとったばかりのヴィーナスの写真を並べた。
「わあ、きれいな写真。これが、どうかしたの?」
まり子は制服のポケットに両手を突っこんだまま、ソファには坐らずに、ベッドに腰をおろした。
「今朝、おれの家にこの写真とともに石膏のヴィーナス像が送られてきた。首がすぱっと切られて、血のような赤い液体が流れた。あんたがおれたちの仕打ちを恨んで、あの宝泉寺颯子を殺す、とでもいう脅迫かね?」
まり子は、まあ、と眼をまるくして、大仰な驚きの様子を示した。
「どうして私が、あの女を殺さなければならないの?」
「皮肉にも、こちらに配置転換されて、あんたはあの憎い女を、毎日、見なくてはならなくなった。おまけに、自分は制服をきて仕事をしているというのに、あの女ときたら、プールサイドでビキニ姿。――いい加減、頭にきて、そのヴィーナスをひと思いに――」
かなり苦しいこじつけであることは、秀彦にもわかっていた。だが秀彦には、今のところ、ヴィーナスの送り手である犯人は、香坂まり子としか、思いうかばないのである。
今朝、家に電話をかけてきたのは、男だという。だが、電話をかけさせる男ぐらい、誰かを抱きこめばいい。何しろ、この香坂まり子はおかしな女なのだ。しぶとい、といってもいい。秀彦は三十五歳であり、自分ではまだ若い世代に属すると思っているが、最近の二十代の、とくに女どもの考え方ときたら、ついてはゆけない。新宿界隈のセックス産業にたむろしている女子大生の生態は、まあ、一種の風俗だと割り切ることができても、ちゃんとした会社勤めの、真面目なOLであったはずの香坂まり子が、最初の時に示した反応には、いささか驚きを禁じえなかった。
三年前、彼女をレストラン・パブに呼びだし、橋場会長の意を伝えた時である。
「橋場さんが、きみと食事をしたいといっている。そのうち、時間をとれないだろうか?」
秀彦としては、精一杯、婉曲《えんきよく》に切りだしたつもりである。だが、彼女は、
「食事……? ふーん」
一度は興味なさそうに鼻先であしらい、それからふいに顔をあげ、眼の端にペルシャ猫のような光を溜めた。
「私を抱きたい、と言ってるんでしょう?」
「いや。……そういうわけではないんだが」
秀彦のほうがあわてぎみに、「ま、露骨にいえば、そういうことになるのかな?」
言ってしまった。
言わせてしまう妖精めいた素直さが、その時の香坂まり子の全身にはあった。
「隠さなくっていいのよ。秘書室長もつらい立場ね。――いいわ。あたし、あしたからアンネリーゼが終わるから、いつでもいいと、返事しといて」
けろっと、そういう具合に、承知した。そのくせ、今年の春、橋場文造との交渉が例の着服事件で切れる際、やはり後始末屋として秀彦が因果をふくませた時、
「ふーん。思った通りの反応ね。……いいわ。あのお金、手切金ということにしてもいい。でも、私を告訴したりすると、どういうことになるか、わかる?」
「どうなるんだろうな?」
「私、だてに経理を六年間も預かってはいなかったわ。会社の経理についていささか、外に洩らさざるを得ないことをいっぱい握っているのよ。ほら、政治献金という名の使途不明金や、JR宮森線の工作資金や……」
脅迫、とさえいえることをまり子はけろっとした顔で、言ってのけたのである。
JR宮森線の工作、というのは、福島市と宮城県槻木を結ぶ五十五キロの旧国鉄ローカル線工事を、赤字を理由に旧国鉄が放りだそうとした時、東北交通が名のりをあげ、「阿武隈急行」という名で開通させ、第三セクター方式で観光列車として営業しようと、かなりきわどい裏資金を使って、買収したことである。
また使途不明金、というのは、これに関連して橋場が地元の政治家や中央政界を動かすために上納した政治献金であり、これがきわめて不透明であるとして、一部ジャーナリストに指摘されている問題であった。
こいつ、と秀彦が睨んだ時、まり子はおかしそうに笑い、「ご安心なさい。密告したりは、しないから。そのかわり、くびになんかしたら、承知しないわよ。私、赤坂のホテル勤務あたりに移りたいんだけど。どうかしら?」
まり子の言い分を、承知せざるを得なかった。
考えてみたら、実におかしなことである。会社の金を横領し、それが発覚していながら、その横領犯を警察につきだすことも、懲戒免職にすることもできない。それどころか、
「ねえ、私。これで天下晴れて一人の女よ。あなたがいろいろ、そのお仕事を通じて橋場会長に謀反を企んでいることも、知っているわ。ねえ、私たち、仲良くしない?」
仲良くしないとそれを洩らす、といわんばかりの口ぶりだった。美貌、というよりは、かわいい顔をしているくせに、おれの何を知っているというのか。その時、秀彦はいささか、むっとしてまり子を睨んだことを覚えている。
「私は別に、あんたとなんか仲良くしなくても、困りはしないんだがね」
「そうかしら。一年前に、うちで開発した蔵王スキー場の秘密を、T観光に売ったのは、誰だったのかしら?」
「ひどい誤解だな」
首をすくめたが、どきりとしていた。
一年前の夏、橋場が仙台に出張した留守の時、何気なく会長室に入った秀彦は、机の上に決裁を受けるため、東北交通が新しく開発する蔵王スキー場とホテルの青写真と、レポートがのっているのをみつけた。これは、仙台本社が扱っていた分で、秀彦の担当ではない。自分の腹は痛まないので、それをひそかにコピーして、ライバルのT観光に情報を流し、しかるべき報酬をせしめたことは、秀彦以外、誰も知らないと思っていた――。
「ばかな」と、秀彦は吐きだした。「私が、そんなことを企むと思うかね。私は、おとなしくさえしていれば、専務にも副社長にもなれるんだぜ」
「会長の意欲、いまだ衰えず。交代は、いつになるかわからない。義父のどぎついまでのふるまいの尻ぬぐいも、ほとほと疲れ果てた。その上、聡子さんは浮気しているので、いつ家庭が崩壊するかわからない。で、あなたはその前に、たとえどんな情況が訪れてきても、自分の安泰を図《はか》れるだけの体制をつくっておこうと、いろいろと苦労しているんでしょ?」
すぐには、言葉がでなかった。秀彦は、ペルシャ猫のようによく光るまり子の眼をにらみつけた。
「だから、ねえ。私たち、仲良くしましょうよ」
軽くウインクして、その夜、カフェレストランを、まり子が先に立ちあがった。口封じ、という名目はすぐに立った。この危険な牝猫を、野に放しておくことはできない。乗ったふりをして身体で繋いでおくことは、自分のためにも、会社のためにも、役に立つことだ。
秀彦はその夜、まり子とラブホテルの玄関をくぐったことの理由を、そう自分に言いきかせたが、実際問題、まり子のその奇妙な、妖精めいた魅力が、いたく征服欲をかきたてたともいえる。
つまり、香坂まり子という女は、そんな女なのだ。何を考えているか、わかりはしない。今また、ヴィーナスの写真などという、見当もつかないものを送りつけて、何かよからぬことを企んでいるのではないか。
秀彦にはどうしても、そう思えた。だから、見当をつけて写真をみせ、問い糺しているのだが、まり子はテーブルの上の写真をみても、おかしそうにしているだけで、一言も答えない。
秀彦はいい加減、苛々し、ソファから立ちあがって、部屋を二、三度、ぐるぐるとまわり、妙に沈黙しているまり子にむかって、指をつきだした。
「どうして、黙ってる? どうして答えないんだ? こんなものを送りつけて、いったい、何を企んでるんだね?」
まり子は一層、眼に笑いを貯めた。妙につかみどころのない妖気をさえ露《あら》わにして秀彦をおかしそうに眺め、それから突然、明るい声で笑いだしたのである。
「何がおかしい! え!」
「だって……」
彼女は手をさし入れていた制服のポケットから、白い角封筒をとりだした。そのなかから、三枚の写真が現われた。それを、ベッドの上にトランプのカードのように投げた。やはり、ミロのヴィーナスの写真であった。
「それは――?」
「今朝、私のマンションのお部屋にも、同じものが送られてきたのよ。鳴沢秀彦にこれを見せろ、という手紙が、同封されていたわ」
秀彦は、言葉を失った。かなり、執っこい。この写真が香坂まり子のところにも到着していたとすれば、犯人はまり子ではなくなる。秀彦は息を吸い、吐いた。どういうことか。これが何かの脅迫だとするなら、得体がしれないし、手が込みすぎている。
秀彦もむろん、秘密の情事や、愛人との密会場面を隠しカメラでとって、その写真を送りつけたりする俗悪な脅迫話をきいたことがある。だが、この写真は、それにしてはきれいすぎる。何しろ、ミロのヴィーナスという美術写真なのである……。
屈託が、消えない。いや、これまで家や会社では一度も感じなかった妙にどす黒い不安が、じわじわと湧いてくる。それが不意に、身内を染めた。
その不安が、半ば怒りとまざって、まり子にむけられていた。秀彦はベッド際に歩き、まり子の腕をひき、制服のままのまり子をベッドに押し倒した。
グリーンの掛布の上に散らばっていたヴィーナスの写真が、まり子の尻の下に隠れた。印画紙は硬質なので、ねじれたところからきゅうんと、妙な音をたて、それがまり子のうれしそうな悲鳴と重なった。
秀彦が覆い被さると、舌がもつれ、跳ねあう。まり子は、応えた。吐息を洩らし、片手で男のネクタイをむしりとりはじめる。
秀彦は、まり子の制服のベルトをはずし、ボタンをとばし、肩からむしりとった。下着までむしりとった時、まり子の白い脚が閃いた。秀彦は自分も身につけていたものをむしりとり、のしかかる、といった按配で、まり子に身体を重ねていった。
激しく求めあう二匹の獣。そういう具合になった。橋場のおさがりに手をつけている、という意識は、はじめから秀彦にはなかった。まり子はそういう経過や屈折をいっさいはぎとったところで、妙に生々しく、輝いている女なのだ。
秀彦がまり子の乳房に手をやると、まり子は脚を絡めてきた。右手をのばし、秀彦のものをそっと握りしめ、うねるように腰をせりあげてくる。秀彦の太腿にまり子の柔らかいしげみが触れ、火照りをたたえたようなはざまが、熱く押しつけられてくる。
弾みを備えたまり子の乳房に唇を近づける。乳首を舌で転がし、椀のように形のいい乳房の裾野を掌で揉むと、まり子はああ、と声をもらし、あえぎをたかめた。身体を反そらせるたび、反り返ったまつげが、痙攣《けいれん》するように動く。
秀彦は、右手を下腹部にすべらせた。うるみのなかに指をおくった。そこはもう充分に、熱いものをたたえ、男の訪問を待ち焦がれる気配をみせている。
まり子の首すじが、白く輝いている。汗が、滲みはじめていた。かたちのいい顎が、のけぞっている。秀彦は少し窮屈なベッドにまり子を仰むけにさせ、両下肢を高々と上にかつぎあげ、秘密の部分を、正面に曝《さら》した。
全景が、露わになる。下腹部をおおったしげみは、濃い目だ。性器が暗い虹色に輝いている。秀彦はその女の生々しい秘景をみているうちに、妙に猛々しい衝動にかられ、物狂おしくそこに口唇愛をふるまいにゆく。
草むらの下の成熟した花弁を、舌でむさぼり吸うと、熱いしたたりが顎に伝わって、傍ら白い、むっちりした内股からシーツに流れる。
「やあん……秘書室長ったら、お下品だわ」
外見よりはるかに肉のついた豊満な太腿だった。その合流点の濃い茂みに飾られた舟形の肉のほころびが、咲きくずれた花のようになるまで舌見舞いをつづけたあと、秀彦は何かの意地悪でもするように指を動員した。葡萄色にびらつき打ち合わさった内陰唇の片側を指でひらくと、秘められた桃色の肉がぬっちゃりと露出し、秘粘液が臀部のほうへ、たらたらと、しずくの玉を作って流れるのが見えた。
まり子は潤沢に湧出する女である。
秀彦はそういう女が好きだ。
指を膣にあてがい、奥へ挿入すると、
「ううん……」
まり子の唸り声が聞こえて、おなかがへこんだ。
そうして指は少し入ったところで、柔らかい肉にきゅっと、包まれる。
包まれる、というよりは、掴まれる感じだ。秀彦は自分の指にひしめいてくる粒立ちの多い湾内の、その感触にすこぶる感興をもよおし、秘孔の下べりで楽しく指を抜き差ししながら、傍ら、上べりの女の塔にも舌をあてがい、そうしてそういうことをしながら、すっかりこの女を弄んでいる楽しい気分に陥った。
事実、香坂まり子は、秀彦にいいようにあしらわれるうち、のたうちまわる感じになりはじめていた。
谷間の真珠が吸われ、傍ら、指の抜き差しがつづくうち、まり子はもう何度も呻いて、腰をバウンドさせている。
「ああん……秘書室長ったら……えげつないことばかりしてるわ……わたしを生殺しにしないでっ……」
まり子はやがてはっきりと、行為を次の局面へすすめて欲しい、ということを、催促した。
待ってましたとばかり、秀彦は、身体を起こした。
衣服はすっかり脱ぎすてているとはいえ、魂はネクタイをしめた野蛮人である。
位置をとると、熱い流れの中に猛りたったグランスをあてがい、割れ口をくつろがせ、一気に圧迫を加えて埋め込んでゆく。
「ううっ……きついっ……!」
きつかろうとどうしようと、グランスはじきに、柔らかい花びらに呑み込まれ、奥まで達した。秀彦はその瞬間、微妙にわななきたって、分身を締めつけてくる環のようなものを、通路の出入口に感じた。
その緊縛感は、入口をすっかり紐でくくられ、袋の中に閉じ込められる感じに似ていた。熱い袋の中の海を泳ぐように動きだすにつれ、環は時折、収縮したり、わなないたり、また緩んだりして、まり子の賑わいたちを伝えてくる。
秀彦は白昼の、インフォメーション・クラークとの情事に溺れた。
「秘書室長のが、暴れているわ。私の中で」
「そうだろう、そうだろう。うれしがっているんだよ。まり子って好き虫だし、おれだってそうだしさ。悪党同士、そこもばかにフィットしているみたいじゃないか」
秀彦が動くにつれて、まり子が背中に両手をまわし、四肢をからみつけてくる。
秀彦はますます、励んだ。ゆるゆると動きながらも、旋回を加えた。
攻撃を多彩にした。すると、まり子の声や表情も多彩になった。ネクタイをしめた野蛮人と、制服の魔女っ子OLは、その時、全裸になり、白昼の魔魚となって、ますます肉体の宴の中にのめりこんでゆくところであった。
枕許の電話が鳴りはじめた。
秀彦は唸り、犬のように受話器を見つめた。
鳴りやみはしない。
手をのばし、つかんだ。
「もしもし……鳴沢だが」
フロントからかと思った。だが、フロントからでも、会社からでもなかった。
「鳴沢さんだね?」
変に低い、男の声が響いた。
「はい。そうですが」
「はじめて、あんたの声に接するかな。奥さんの声には、今朝、電話でおめもじする光栄に浴したがね」
「きみは――」
一瞬、息をのんだ。
ヴィーナスの男!
今朝、電話をかけてきた男だ――。
「私に、どういう用事があるんだ?」
「テレビのお昼のニュース、見ましたか?」
「ニュース……? いや。忙しくて、見てはいない」
「女と寝ることも、忙しいうちか。なるほど、秘書室長ともなると、大変ですな。ご同情申しあげるよ」
「用事は、なんだ!」
いささか、乱暴な声を叩きつけた。
「ニュースが、どうかしたのか!」
「お昼のニュースを見ていないんじゃ、話になりませんね。夕刊にはのるかどうかわかりませんが、七時のニュースでは、また流されると思います。あなたとは、それを見てから、お話しましょう。――いいですか。七時です。またそのころ、お電話しますよ」
声は、だんだんばかていねいになり、そしてそれっきりで、電話は切れた。
秀彦はしばらく切られた受話器を見つめ、それから唸り声をあげ、フックに叩きつけた。
「どうしたの?」
猫のような声がしたが、もうまり子ともつれあう気分ではない。
煙草に火をつけ、それをすぐに灰皿にねじ消し、ベッドを降りた。
「会社から急用だという呼びだしがかかった。急いで、戻らなければならない」
「あら、あたしを半殺しのまま?」
行為は、まだ完了してはいなかった。
「埋めあわせは、そのうちするさ。それまでお腹の火を消さないでおくんだな」
「いやよ。そんなの」まり子が、ふくれた。
「まるで拷問。熱いトタン屋根の上に置きざりにするなんて、野蛮な拷問よ」
秀彦は急いで洋服をきて、部屋を出た。
会社に戻れば、宣伝部の片隅にテレビがあるので、誰か昼のニュースを見ているやつがいるだろう。どんなことなのか、見当もつかないが、急いで確かめておかねばならなかった。
エレベーターで駐車場まで降りて、プールサイドの宝泉寺颯子に橋場からの手当てを渡すのを、忘れていたことに気づいた。ひらきかけていたギャランUのドアを乱暴に閉め、屋内駐車場の端から、庭に出た。
プールサイドには、光が跳ねていた。水を流しているはずの人工芝から、熱気がたちのぼりはじめている。裸の太陽がぎらぎらしている。秀彦はたたずみ、サングラスをかけた。
プールサイドを回りこむと、宝泉寺颯子はビーチマットから、立ちあがったところだった。秀彦は、横の植木にかけられていたバスタオルをとってやった。サンオイルを塗った肌が、まぶしすぎた。バスタオルのなかに、さりげなく白い角封筒をかくし、一緒に渡した。
「上京した会長からの、渡しものです」
「ありがとう。電話は受けてたんだけど、いつまで待ってもあなたがこないので、そろそろ引きあげるところだったのよ」
「すみませんでした。ちょっと、仕事で」
「間にあって、よかった。で、あの悪人は、どこにいるの?」
宝泉寺颯子は、サングラスをかけた。
「悪人――? 誰のことで?」
「会長。今の世の中で、お金をたくさん儲ける人って、みんな悪人じゃないかしら」
宝泉寺颯子が、サングラスの奥の眼に、どんな笑いをにじませたかは見えはしない。
秀彦も、笑い返した。頭のいい女だぜ、この女。きっとお見通しかもしれない――。
「あら、大変。時間ぎりぎりだわ。急いで局に戻らなくっちゃあ」
「お送りしましょうか? 私も今、会社に戻るところですが」
プールサイドを歩きだした時、秀彦はふと、自分がどこからか見つめられているような気がした。まり子の眼ではない、もっと別の眼で――。
その午後から夕方にかけ、鳴沢秀彦はかなり苛々とした時間をすごした。
社に帰って宣伝部に問いあわせたところ、いつもは昼の時間、テレビの前に陣どっているはずのポスター作りのカメラマンやイラストレーターはあいにく、今日に限ってみんな、出払っていて、誰もテレビを見てはいないという。テレビ局に問い合わせることも考えたが、それは大袈裟なので、やめにした。
だが、気になる。ヴィーナスの写真とか、テレビのニュースとかいうのは、いったい、どういう意味なのか。およそ見当もつかないが、何やら不穏な気配が、周囲に立ちこめはじめているような気がした。
午後六時半。神楽坂に設営していた仙台のホテル増設にともなう建設会社重役の接待を営業部員にまかせ、秀彦が麻布の杉本可奈子《すぎもとかなこ》という愛人のマンションに馳けこんだのは、落ちついて七時のニュースを見たかったからである。いや、それ以上に、傷ついた動物が自分の一番、居心地のいい穴ぐらに逃げこむ、という具合だったかもしれない。
「どうしたのよお。いったい――」
銀座勤めの女である。
迎えた可奈子が、怪訝《けげん》な顔をした。
「いや、どうもしないよ。一週間ぶりなんで、きみがむくれてはいないかと、タクシーをとばしてやってきたんだ」
部屋にはいってすぐ、秀彦はネクタイを解き、上衣を脱ぎかけた。可奈子がその上衣をうしろから、取ってやり、ハンガーにかける。二年前から、秀彦が面倒を見ている女である。
「だって、変だわ。急にお店を休めと電話はしてくるし、こんな早い時間に、あわただしくドアを叩くなんて」
「ビール。それから、テレビをつけてくれ」
腕時計はちょうど、七時になっていた。
秀彦はこぢんまりした女の部屋で、カーペットの上にあぐらをかき、テレビの前に陣取った。野球中継ではあるまいし、なにかばかなことをしている、根も葉もないことに怯《おび》えている、という気がしないではなかったが、ニュースは一応、確かめるしかなかった。
可奈子が、テレビのスイッチを押した。
さしだされたビールとタンブラーを、盆にのせたまま受けとり、あぐらの前で栓をぬいた。タンブラーにビールを注ぎながら、顔だけブラウン管のほうにむける。
野球か、ゴルフ中継。テレビはそれ以外、めったに見ない。映像がちかちかと眼を射た。アメリカの大統領選の中間情勢、延長国会の馳け引き。この秋に予定されている与党の総裁公選など、たいして眼もひかない政治・経済関係の退屈なニュースがつづいた。昼間の、電話の男が言ったことが、いったい、どのニュースに関係するのか、秀彦には見当もつかない。
もしや、いま取沙汰されている東北交通の会長、橋場文造の個人的なスキャンダルに関することかと思っていたが、橋場のハの字も出はしなかった。秀彦は、しだいに退屈してきた。それをやや防いでくれたのは、民放のその硬派番組で、女性キャスターをしている宝泉寺颯子が、ブラウン管に登場して、にこやかな笑顔でニュースを流していることである。
昼間、プールサイドで見たときの、あの眩《まぶ》しい肢体を思いだした。校内暴力や教育問題に関するニュースを喋《しやべ》っている時、およそ虫も殺さない顔をしているあの女が、橋場のような男と寝室でもつれあっている時、いったいどんな恰好をしているのか。
その想像は、秀彦の胸をほんの少し、熱くさせた。軽くタンブラーを支えていた手が、やがて硬くなった。思わず、握りしめる。ニュースの終わりのほうになった時、画面に流れたテロップ文字が、鮮かに秀彦の眼を惹いたのである。
「……さて、次の話題は、岩手県|下閉伊郡《しもへいぐん》の洞窟で発見されました世にも珍しい白亜のヴィーナスの話題です……」――ブラウン管で、宝泉寺颯子が、白い歯をみせて思いいれたっぷりに話しはじめている。
「昨日午後二時頃、東京のQ大ケービングクラブの学生八人が、学術調査のため岩手県下閉伊郡岩泉町で新しく発見された碧龍洞にアタックしましたところ、入口から約三百六十メートルはいった第三キャンプ地、通称、乙女の滝とよばれる地下水浸潤地のあたりで、まっ白い大理石と見まがう白亜の女性像を発見しました。この女性像は身長一メートル七十五センチ、重さ七十六キロぐらい。均斉のとれた見事な八頭身の美人の塑像で、顔には静かな微笑を浮かべており、両腕が欠落しているところなど、どうみてもあのルーブル博物館にあるミロのヴィーナスにそっくりの女人像だとして、いま、地元で大評判になっております」
ニュースキャスター宝泉寺颯子の声にだぶって、ブラウン管に洞窟内の情景が、映しだされた。秀彦は息を詰めて、その洞窟内の光景に眼を注いだ。
光量不足で、映像は鮮明ではない。洞窟内に照明器具をもちこんでの撮影だろうから、コードの長さに限度がある。入口からせいぜい百五、六十メートル。その先は、そこからさしむけられたライトだけを頼りに、カメラは望遠で洞窟のさらに奥を狙おうとしている。が、それがかえって効果的で、ライトの穂先にゆらゆら揺れる薄暗い洞内が、なぜかひどく薄気味わるく映っている。
「この洞窟は、全長二千数百メートルもあると推定される日本有数の鍾乳洞で、洞窟学会ではまだ正式の学術調査隊をさしむけてはいない、いわば未発見≠フ洞窟です。奥には幾つもの支洞あり、滝あり、段丘ありで、窺《うかが》い知れないほど、深いとされております。
ケービングクラブというのは、こうした洞窟を探検する大学の自主クラブですが、Q大ケービングクラブの一行は、この夏、約一週間の予定で、この洞窟を調査するためにキャンプを張っている最中、話題のヴィーナスを発見したのです。ヴィーナスがあったのは、乙女の滝の真下で、地下水に浸食された段丘状の河の傍です。ただ今、取材班が洞窟内に移動カメラをもちこんでおりますので、まもなく映像がセットできるものと思います。この模様は追って、九時の金曜ニュースデスクでお伝えします。さて、次の話題は……」
ニュースは、どこかの夏祭りの話題に変わった。
だが、秀彦は、茫然とした眼を、そのブラウン管に放ったままだった。手にしたタンブラーから、ビールがこぼれていることに気づかない。
何かが、脳裡をざわめかせている。ざわっと、それは脳髄の茂みをおしわけて、一頭の獣がひそやかに近づいてくる足音に、似ていた。
「へええ。おもしろいこともあるものね。日本でヴィーナスが発見されるなんて」
可奈子が言った時、キッチンのほうで電話が鳴りはじめた。秀彦は、ぎくっとしたように、ふりむいた。
可奈子が立ちあがり、電話のほうに走った。
「あら、あなた。おビールこぼしてるわよ」
立ちあがったはずみに眼についたらしく、可奈子が走りながら、口早やに秀彦の手許を注意した。
「はい。杉本ですが」
二、三のやりとりのあと、
「電話。――あなたにって」
可奈子が、受話器をさしだす。
誰から? と、聞くまでもなかった。
秀彦は無言で、受話器を受けとった。
「どうして、ここがわかった?」
「ミロのヴィーナス、とはあのニュースキャスターもしゃれたことを言いますね。でも鳴沢さん、考えてもみて下さい。ミロのヴィーナスは、ギリシャのミロ島の洞窟内で発見されたからミロのヴィーナス。日本の、しかも東北の山奥の洞窟からミロのヴィーナスが発見されるなんて、おかしいじゃありませんか。こりゃあ、何かの間違いですよ、きっと」
「きみは……きみは一体、何を言いたいんだね?」
「まあまあ、鳴沢さん。そう、あわてないで下さい。一つだけ、あなたにご助言しておこうと思いましてね。よろしいですか。これは洞窟学、いや地質学の専門家ならわかっていることですが、鍾乳洞の内部ではね、とくに地下水などが石灰分や銅成分などを濃厚に含んでいる場合、そこに倒れた人間や動物の死体は、数年もすれば銅化や石灰質化をおこす。その結果、そう、石灰質化が強まれば、大理石像のようになるし、銅化が進めば、銅像のようになる場合があるんです。つまり、腐敗して溶けてしまうのではなく、反対に美しく結晶する。そう……ミロのヴィーナスのようになる場合がね……」
男の声は、まだつづいていた。だが秀彦は、その声を半ばからもう聞いてはいなかった。息をつめ、吐いた。受話器を耳からゆっくりとはなし、それから一気に、それをフックに叩きつけた。
「どうしたのよお! 電話、壊れちゃうじゃない」
可奈子が咎《とが》め、叩きつけられた受話器をあわてて取りあげ、怪我をした可愛いペットの身体でも検《あらた》めるように、受話器やフックの具合を確かめている。
鼻先に、香水が匂った。白い首すじが、眼の前にある。可奈子は夏むきの白のコットンの部屋着をきていた。頭からすっぽりかぶる貫頭衣のようなやつで、身体の線が透けてみえる。下に弾む肉体が、不意に秀彦の衝動を誘った。
「あら、あなた。額に汗をかいている。クーラー、弱いのかしら」
怪訝そうにふりかえった可奈子の手を、秀彦は眼に油をうかべて、にわかにつかんだ。電話の男の声をふり払うように、秀彦はこい、と可奈子を抱きあげ、ベッドに運んだ。
ショックが、大きすぎる。洞窟の中で揺れたテレビライトが、頭の中で散った。おぞましい。今は何も、考えたくはない。頭をからっぽにしたい。ベッドに投げだされて、可奈子が悲鳴をあげた。一枚布の白いコットンの裾をめくると、むき身の太腿がなまめかしくはずみをつけて、跳ねた。
どうしたのよお、と鼻声を鳴らす可奈子の、コットンを乱暴にぬがせた。白い肌が露わになる。肉のりが厚い。何かしら得体のしれない不安が、秀彦の身内を、煽《あお》りはじめていた。昼間、まり子のなかには放ち終わってはいない。秀彦はそれやこれやの焔をないまぜにした冥《くら》い欲望の鋒先を、気のおけない愛人、可奈子の芯にむけた。
可奈子は秀彦の衝動に、はじめは当惑し、それからうれしそうに応え、やがて両手を秀彦の首にまわし、唇を押しつけてきた。だが秀彦はそれ以上に、猛っている。接吻はお義理程度ですませ、可奈子の右腕を頭の上にあげさせた。そうすると、可奈子の腋窩《えきか》が大きくひらくことになる。
可奈子は腋の下のくぼみを飾る毛を、剃ってはいない。秀彦が、剃らせないのだ。かすかに腋臭《わきが》の匂うその体毛のなかに鼻と唇を押しつけ、歯をあて、吸ったりしながら、右手を可奈子の下腹部のほうにすべらせて、下のしげみにのばす。
女体の窪みを飾るにふさわしい、房々とした豊かな体毛に、秀彦はそそられるのだ。下のしげみをわけ、指先をクレバスに浅く埋めると、可奈子が腰をうねらせてきた。そこはすっかり潤みをたたえ、可奈子の腰の動きに誘われるように、指が少しずつ深く沈み、そして声が高まる。ああ、ああ、と吐息をもらし、可奈子はやがて、むっくりと身体を起こし、
「あなたは今夜、少し変よ。疲れているようね。気持ちは猛っているけど、苛ついて落着かないっていうのは、サラリーマンの疲労症候群の典型的な一つだというわ。ね、そこに仰むけになって、私が愛してあげる」
そう言って胸を左手で押しつける可奈子の瞳には、悪戯っぽい光がたたえられている。これから自分がいやらしいことを一杯するんだという思いと、その行為にひどく刺激を覚えている眸のきらめきであった。
(それもいいだろう。今夜は可奈子に奉仕してもらおうか――)
秀彦はそこで初めて、心の武装を解いて、ベッドに仰むけになった。
可奈子は全裸の身を折って、かしずいてくる。
秀彦は頭の中では、まだ電話の男のことを畜生、と罵りながらも、下半身はすでにその怒りを集約させたように、見事な猛りたちを見せていた。
可奈子は顔を寄せ、秀彦の分身を押しいただくようにして、唇に含んでくる。
深く含んだり、浅く含んだりする。吸う。宝冠部を舐める。深く含んで、不意に、上手に顔を上下させたりする。そのたびに、可奈子の艶やかなワンレングスの長い髪がわさっと艶光りして、肩のほうに垂れて、顔をおおったりする。
男の中心部を両手に捧げもって、口唇愛をふるまう女性のたおやかな背中からヒップへの肉の線というものは、バイオリンの共鳴胴のような優しい曲線に充ち、なぜか男の気持ちを慰め、安らかにするものである。
女性のこのような官能的奉仕に、男は弱い。
結婚した妻を相手には、秀彦はとても望めない体位だった。
社長令嬢、会長令嬢の聡子は、一度たりとも、そういう優しい素振りを見せてくれたことがない。
もっともそれは秀彦も同じで、聡子に対して彼は女性のしかるべきところを接吻するなどという、赤裸々な体位を一度もとったことがなかった。
結婚や夫婦生活というものは、そういうラブプレイの領域とは、およそ異質の重い生活の実質そのものであり、制度そのものなのである。
女は、外で愉しめばいいのだ。秀彦は、そういう考え方の持主である。
可奈子の口唇愛を受けるにつれ、秀彦の苛ついていた気持ちはやっと収まり、幾分、しあわせな気分になっていた。
「さあ、おいで。もう、いいから――」
秀彦が半身を起こして、手を引こうとすると、
「いやっ。このまま、わたしが上に乗るわ」
可奈子は奉仕するうちに、自ら昂揚したらしく、野放図な気持ちになりたいようだった。
秀彦は、委せることにした。
可奈子は、またがってきた。
双脚の間に一瞬、赤いはざまが赤裸々にきらめいた。
可奈子は照準を定め、手で秀彦のものを掴んで導き、ゆっくりと腰を沈めてくる。
「ああっ」
のけぞるように、大きく身体を開いたまま、ほころんだ性器が、せがむように蠢いて、分身を根元まで呑み込んでゆくのがみえた。
そそる眺めだった。秀彦は奥に到着したのをたしかめてから、両手を可奈子の腰にあてがい、下からずんと、突きあげる。
お返しをする、という気分だった。
「わあっ」
薄く開いた女の唇の中で、赤い舌が忙しく閃く。
可奈子はその舌で、自らの唇を舐めながら、秀彦の胸の上に両手を置いて、ゆるゆると上下に腰をはずませてくる。
そのたびに、わ、わっと賑わう。秀彦が協力するつもりで、下から突きあげると、
「わっ……だめっ……あなたは、じっとしてて」
可奈子の口から、激しい声が放たれた。
蜜を噴きだす口が、男を求めて痙攣する。
秀彦は両手をのばして、可奈子のうねりたつ乳房をむぎゅっと掴み、こねくりながら下から、腰を打ちつけた。
そうするうちに、秀彦の下腹部の茂みのあたりが、女の茂みと入りまじって、粘液でぐっしょりと濡れてゆく。
可奈子はしだいに、奔放になった。男を呑みこんだ腰が、われを忘れて円を描いた。熱い粘膜で包みこんだものは、しかしまだ衰えをみせず、大きく膣の中でのたうった。
秀彦は、眼を閉じた。胸の裡で、何かが唸っている。そうだ、畜生、あんな得体のしれない電話の男の脅迫なんかに、負けはしないぞ、と秀彦は心の中で吼えていた。
田園調布の高台に、深い夜の帷《とばり》が降りていた。
鳴沢聡子は、家にいた。いつものことだが、夫の帰りは遅かった。ふだんはそれを、腹立たしいことだと思う聡子だが、自分自身、外で秘やかな男との時間をもって、不倫をはたらいてきた日だけは、夫の帰宅の遅さをむしろ、ありがたいと思う。その間に、少しずつ自分を本来の日常の主婦の殻の中に、収めなおすことができるからである。
その夜、夫の鳴沢秀彦は十一時頃、帰宅した。
秀彦もまた、家庭では、風呂、めし、寝る、の三語族である。
しかし、その夜は珍しく、秀彦は浴衣に着がえると、茶の間のテーブルにどっかりと坐った。
「夕刊をとってくれないか」
聡子は夕刊を取ってやり、茶を淹れはじめた。
「岩手県で、ヴィーナスが発見されたそうね」
聡子は、茶を淹いれながら訊いた。
「ニュースを、見たのか?」
秀彦は、夕刊をひろげていた。
「ええ。おもしろいニュースだったわ」
「硬い番組など、めったに見ないきみがか?」
「朝の男から、電話がかかってきたのよ。宝泉寺颯子がキャスターをしているT局の、七時のニュースを見なさいって」
聡子は白い手をのばして、茶碗をさしだした。秀彦は、ゆっくりとその茶を啜った。
秀彦はあのあと、少し落着きをとり戻していた。
T局の夜九時のワイドニュースというものも可奈子の部屋でみたが、話題のヴィーナスはその番組でも、画面には鮮明には映らなかった。アナウンサーによると、洞窟で発見されたヴィーナスは、第一報のあと、岩手県教育委員会が任意の若者たちによる勝手な洞外搬出に待ったをかけ、いま、東京の国立大学に依頼し、地質学者や洞窟学者をまじえた正式の調査隊を編成しているところだという。
従って、マスコミの殺到を禁じたとされる。なるほど、洞内ではよく、石筍や石柱が動物の形そっくりに発達し、猿の滝のぼりとか、馬の速馳けとかよばれるものの形をとるが、話題のヴィーナスがもし、人間の形をした自然の岩石組成物なら、専門家の調査が必要とされるわけだ。アウト・ドア・アドベンチャーを気取っているケービングクラブの若者たちが、みだりに持ちだすべきではない。
その上、地球発展史の井戸、といわれているくらいに、洞窟内には生きた化石とされる古生代のコウモリや、ホシグロヒメグモ、メクラゲンゴロウなどの微生物が棲息し、それらは環境の激変を極端に嫌うので、テレビライトなどを奥までもちこんだりするのを、禁じたのであろう。とすると、ヴィーナスはまだ、洞内にとどまっているわけだ。幸い、死体変異説というのは、まだ公式にはどこからも登場してはいないらしく、警察が介入したというコメントはつかなかった。
それなら、時間が稼げる。学者の投入、となるとやたらに時間がかかるのが、役所仕事の常である。それまでに、実情をつかんで、対応策をとらねばならない。それに第一、そのヴィーナスとよばれるものは、ただの岩石かもしれない。仮に、女性の死体が石灰質化して結晶変異を起こしたものだとしても、その身許が割れるまでには、もっともっと、長い時間がかかるだろう。
「お茶は、もういい」
秀彦は乱暴に、夕刊を折りたたんだ。
「コーヒーをくれないか」
夕刊には、その件に関しては何も載ってはいない。
「お食事は?」
「もう済んだよ。ちょっと、飲みすぎてね」
「おふろもわいてるわよ」
「朝にしよう」
秀彦がコーヒーを言いつけて立ちあがった時、聡子がよびとめた。
「ねえ。……岩手県のそのヴィーナスのことだけど。朝、うちに届いていた写真や石膏像に、何か関わりがあるんじゃないかしら?」
聡子は、伏し目がちにきいた。
伏し目がちなのは、昼間、鯉沼潤と会ったことをさとられはしまいかと、聡子は聡子で、さすがに気がひけるのである。
「どうして、そういうことをきく?」
「ちょっと、気になったので」
「ばかなことを考えるな」
コーヒーはもういい、と言いすて、秀彦は足音を荒々しくして階段を上がり、二階の寝室にはいった。
ベッドは、二つある。このところ、聡子とは別々に寝ていた。ガウンを着たまま、窓際のベッドに横になったが、眠れなかった。
腹這って煙草に火をつけ、眼をつむった。
秀彦、落着け。考えなければならないことが、いっぱいある。
まず、おれが岩手県でヴィーナスが発見された、ということを知ったのは、宝泉寺颯子がニュースキャスターを勤める東京放映の七時のニュースを見てからである。それなのに、あの電話の男は、今朝のうちに、つまり、一般にニュースが流れる前に、おれのうちにヴィーナスの写真や石膏像を送りつけたり、橋場文造や香坂まり子のところにまで、写真を送りつけている。
ということは、脅迫者は、Q大ケービングクラブによって碧龍洞でヴィーナス像が発見されることをあらかじめ、知っていたことになる。ルーブル博物館で撮った本物のヴィーナスの写真といい、新宿の画材屋で仕入れた石膏像といい、あれを田園調布のおれの家に送りつけるためには、かなり前から準備が必要だったはずである。
秀彦は、そう考えた。もっとも、と呟いた。ルーブルの写真だからといって、そのためにわざわざ、パリまで飛んだと考えるのは、笑止の沙汰である。ルーブル博物館の内部は、原則的には写真撮影は禁じられているが、ストロボやフラッシュを焚かない範囲、観覧者が衛士に見つからない範囲で、写真をとることは自由にできる。
あの写真も、脅迫者自身が所持していたか、あるいは知りあいの人間が観光旅行の折にでもとってきたものを、借りるかして引伸ばしたと考えれば、たいした時間は必要ではない。
それにしても、あの脅迫者は何者なのか? 秀彦は、それを考えながら、煙草を吸いつづけた。灯を消した寝室に、煙草の火だけが滲んだ。
香坂まり子に対する疑いを、秀彦はまだすててはいない。三枚の写真をみせ、私にも送られてきたのよ、とあの女は言ったが、自分で焼き増ししたものを、秀彦の家と会長宛に送りつけ、残った三枚を秀彦にみせて、外から送られてきた、と説明することは、簡単である。
男を雇うことも、簡単である。いや、その方法でいうと、橋場文造さえも疑わしい。橋場自身で、意図あって写真を作成し、送ったのかもしれない。手紙のワープロぐらい、誰かに打たせたのではないか。
もっとも、橋場会長の線は、きわめて薄い。彼はそんなことをしなくても、秀彦を脅迫したり、追いつめたりするぐらい、面とむかって叱責すればいいわけだ。馘首《くび》にすることも、失脚させることも、放逐することも、指示ひとつで可能である。
第一、自分にも関わりのあることを、あの橋場文造が、わざわざほじくり返すはずはない――。
くそ、と秀彦は、低く呻いた。誰なのか? ブラウン管でにこやかに世にも奇妙な話題、というやつをアナウンスしていた宝泉寺颯子の顔が、なんとはなしに浮かんだ。脅迫者は、七時のニュースを見ろ、と指示した。おれがニュースを知ったのは、宝泉寺颯子の番組によってである。あの女には、別れた男がいたが、伊吹敏男というその前夫は、ダニのような情報屋であった――。
そう考えると、一応、図式は成立する。だが、伊吹などという男は、話にきいているだけで、秀彦は会ったことも見たこともない。その伊吹がどうしてあのことを嗅ぎつけ、おれを脅迫したりするのか――。
秀彦は、灰皿に煙草を捻じ消した。寝よう、と思った。いずれにしろ、あの洞窟からミロのヴィーナスとかいう石像が発見され、それが七年前に死んだ女性の石灰性化合物であることがたとえ、突きとめられたにしても、その死体がすぐ、あの時の花村ゆう子のものであると確定される可能性は、極めて少ない。
少なくとも、身につけているものは、何もないのだ。ある程度、身許が判明するとすれば、それは容姿、顔の表情などからであろう。
顔は、くっきりしているのだろうか。もし、目鼻立ちに何の破損もなく、ヴィーナスのようにくっきりとしているとすれば、たしかに、公開捜査される段階で、家族や関係者が名のり出る惧れがある。何しろ、家族からはあの当時、たしか、家出人捜索願がだされていたはずだ――。
秀彦は、頭を抱えこんで、どす黒く湧きはじめた不安な思いを抱きながらも、うとうとした。が、眠りはすぐに、階下で鳴りはじめた電話の音で、破られた。予感、というには大袈裟だが、それに似た感情が、秀彦のなかに走った。腕時計をみると、一時をまわっている。
「あなた。階下《した》で電話が鳴っているわ」
いつのまにか、聡子も隣のベッドに寝ていた。眠ってはいなかったらしい。聡子が寝返りを打ちながら、声をかけた。
放っておくつもりだったが、電話は鳴りやまない。
「しようがないな。また会長からの呼びだしかもしれん」
東京本社秘書室長、という肩書きは、たしかに便利である。社長秘書という肩書きと、秘書室長とは根本的に違う。社長秘書なら、夜なかでも早朝でも、社長の都合で不意に呼びだされたりするが、いくら側近とはいえ、秘書室長には、そういうことはない。役員室のスケジュールや傘下各企業間の会議などの連絡調整にあたる管理職なので、勤務時間帯は、むしろ、ふつうのサラリーマンと同じである。
だが、聡子にはそれは教えてはいない。むかしのように、社長秘書だと思っている。朝帰りをしても、夫が昔と同じように、社長のおつきあいをして遅くなった、と思いこんでいるので、秀彦はいつも、そういう言い訳を使うことにしていた。
階下におりて、受話器をとった。
電話はだが、会長からでも、可奈子からでもなかった。
「ヴィーナスの写真、買いませんか」
と、低い、あの男の声だった。
「きみは……きみは……!」
言葉が、つづかない。「安眠妨害も、いい加減にしてくれないか」
「夜、お電話するのは、はじめてじゃありませんか。どうです。岩手県の洞窟の奥で発見されたヴィーナス。そいつの顔や全身像を撮った写真、私は持っていますよ。そいつを、買いませんか?」
「そんなもの、興味はないね。どうして私なんかに売りつけようとするんだ!」
「もしかしたら、あなたには早急に、それが必要ではないかと推測しましてね。つまり、あのヴィーナス騒動に警察が介入する前に、ヴィーナスの顔を確かめないことには、あなたには何ひとつ、危機打開の道はない――」
「警察? どうしてミロのヴィーナスに、警察が介入するんだ?」
おや、と男は喉の奥で、低く笑った。「鳴沢さん、あなたはまだ本当にあれがミロのヴィーナスの類いだと、信じていらっしゃるんですか?」
「ニュースでは、そう言っていたじゃないか。むろん、ミロのヴィーナスはミロ島で発見されたから、その名前がある。岩手県の洞窟でそれに似た大理石か石灰化合物の彫刻様のものが出たのなら、東北のヴィーナスとか、洞窟のヴィーナスとかいわれるだろう」
くッくッく、と男は喉の奥で笑った。鳩の啼くような、湿った声だった。
「洞窟のヴィーナスか。そいつはよかった。――死体ですよ。女の死体に決まってるじゃありませんか。鍾乳洞では、よくそういうことが起きる。地下水に強度の酸石灰分が混入していたので、白いヴィーナス。もしあれが銅酸化物が多い鉱山の洞窟だったら、女の銅像《ブロンズ》ができあがったかもしれませんがね」
同じことを繰り返すな、と秀彦は、実際のところ、怒鳴りつけたかった。いや、はじめからそういう専門的なことを知っていたなら、あの夏、ゆう子を洞窟のなかに誘いこんだりはしなかった。その原理らしいものを直感したのは、テレビのニュースを見てからである。
秀彦は、動悸を鎮めようとした。黒い予感が胸の蓋をこじあけて、ますます噴《ふ》きだそうとしている。
「しかし、おかしいじゃないか。あの洞窟は、あのあと立入り禁止になったそうじゃないか。それなのに、どうしてきみは、そんな写真なんかを持っている?」
「簡単なことですよ。Q大ケービングクラブの連中が発見する以前に、私はあの洞窟にはいって、ヴィーナスの写真をしっかりと撮影しておいたわけです。いや、もっと正直に申しあげますと、Q大ケービングクラブを焚きつけて、あの洞窟にもぐらせ、派手な発見劇を引き起こさせたのも、宝泉寺颯子を焚きつけて、T局のニュース番組に取りあげさせたのも、この私ですよ。あなたなら、そのヴィーナスの顔の接写をみると、もしかしたら、そのヴィーナスに心当たりがあるかもしれない。――どうです? 買いませんか?」
秀彦は沈黙し、頭を振った。
やはり、という思いがきた。
宝泉寺颯子を焚きつけた、と男は言った。
とすると……ダニのような情報屋だといわれる彼女の前夫、伊吹敏男あたりではないか。
だがどうして、この男があんな辺境の洞窟のヴィーナスなどを見つけたのか?
沈黙したままの秀彦の思考回路に、答えを求める電流が流れた。
「私も、美術品には眼がない。洞窟のヴィーナス、とのちに有名になるようなしろものなら、その写真、一見の価値がありそうだね。いったい、幾らで売ろうというのだ?」
「値段は、相対取引といきましょう。まず、現物を見ないことには、あなたもお金をだす気にはなれんでしょう。私だって、品物も見せずに高い値段を吹っかけるつもりはありませんよ」
「いやに紳士的だな。信用しよう。どこにゆけば、見せてくれる?」
相手は、落ちあい場所と時間を言った。中野区哲学堂下のサニー・ハイツ・マンションの三〇六号室。そこで、あすの夜九時、落ちあおうではないか、と――。
「わかった。あす、哲学堂下にゆくよ」
「約束の時間に、お待ちしております」
相手は、いやに慇懃《いんぎん》に言って、電話を切った。
受話器を置いて、秀彦は応接間にはいった。
もう眠るどころではない。すべては、眼前に曝されようとしている。洞窟のヴィーナスの写真をみせる、と電話している以上、あの脅迫者は、おれの尻尾をつかんでいるとみていい。だが、まさか、と秀彦は、何度も、頭をふった。まさか、あんな人里離れた洞窟の奥に隠しておいたはずの秘密が、七年もたってこんなに急に、あばかれるような事態が訪れようとは――。
信じられない。そんなことはあり得ない。否定するはなから、やはり……という思いが、足許から霧のように湧いてくる。脅迫者はごていねいに、ミロのヴィーナスの写真や石膏像を送りつけたことに始まり、テレビのニュースを仕組み、そして精密写真を売りつけるという交渉まで、すべておれを標的に絞って、工作している。ということは、そのヴィーナスはやはり、花村ゆう子の……変わり果てた姿……と考えるしかないのではないか。
夜の闇が重く貼りついた窓ガラスに、一人の女の顔が花のように湧く。
ヴィーナスの受難
そんなことが、できるだろうか。
自分の手で、人を殺す。
しかも、恋人を――。
鳴沢秀彦の心は、打ち慄《ふる》えていた。七年前の、やはり夏だ。思いだすだけでも、ぞっとする。相手が、気立てのいい恋人だっただけに、なおさらであった。
恋人、というよりは、実際はもう婚約者であった。二人だけで、結婚の約束までしていたのだ。花村ゆう子といった。同じ会社の秘書仲間であり、秀彦より四歳年下であった。当時、秀彦は二十七歳だったので、ゆう子は二十三歳だったことになる。
化粧は控え目で、服装も地味で派手がましさはなかった。だがよく見ると、ゆう子は整いすぎた顔立ちの持主で、美貌といってよかった。まだ男性経験は浅いらしく、身体の線に硬さは残るものの、胸も豊かで、すらっと伸びきった肢体をしていた。言いよる男が四、五人いても不思議ではない美貌なのだが、悪くいえば陰気。よくいえば高慢な美人。そのくせ、自分の存在をいつも押し隠しているといった印象が、異性の接近を固く拒むような防禦の雰囲気ととれて、若手社員は、どちらかといえば、敬遠していた。
だが、その防禦の姿勢が、自分のなかの激しい男好きの情熱といったものを隠すための構えだったことがわかったのは、秀彦がはじめて、新宿のラブホテルで一夜を明かしてからである。ゆう子の性感はもう充分、開発されつくしていて、男の隅々を知っていた。それどころか、ベッドインしたあとは、繋《つな》がれた部分を中心にゆう子は激しい乱れ方を示し、秀彦は翻弄《ほんろう》されっぱなしだったように記憶している。
雪国育ちらしく、色が白い。瞳が大きかった。性的に成熟している。となれば、魅力的でなかろうはずはない。その上、仕事もよくでき、聡明である。それが、第二の魅力だった。ゆう子がまさか、あの香坂まり子と同じような、意外にしぶとい裏面をもっているとも知らず、秀彦はその頃すでに、この女となら結婚してもまちがいはあるまい、と秘かに決心を固めつつあったのである。
秀彦と肉体関係ができて以来、ゆう子は週に二回ぐらいの割で、身を隠すように、ひっそりと秀彦の部屋を訪れるようになった。秀彦は独身だったので、女性を大っぴらに部屋に入れても別段、困るわけでもなかったのに、ゆう子のほうがなぜか、いつもあたりを憚って、身を隠すようにひっそりとやってくる。
秀彦のマンションは当時、目黒区平町にあった。東横線都立大学まで、緑道公園とよばれる桜の並木通りをあるいて、七分である。梅雨時期、日曜ごとに雨の降る午後、白いレインコートをきてピンク色の傘をさし、雨の中をひっそりと訪ねてきたゆう子の姿を、秀彦は今でも印象的におぼえている。
福島県白河生まれだった。東北観光はその成立の背景から、社員には東北出身者が多い。なかでも社長の橋場文造の縁故の人間が多かったが、花村ゆう子も最初から秘書室にすえられていたので、やはり一種の縁故入社だったと思える。
その年の六月、秀彦は結婚を決意し、ゆう子にそれを打ちあけた。ゆう子はうなずき、うれしいわ、と控え目にこたえた。もともと喜怒哀楽の表情をはっきりと、現わさないほうだった。そして二人が結婚の日取りまで打ちあわせはじめた頃、あの指令がきたのだ。あの社長命令が――。
七月半ばの、暑い日だった。社長代行として秀彦が仙台に出張し、帰京した日の退社間際、卓上電話が鳴って社長室に呼ばれた。何かしら、重苦しい予感がした。
「でも、社長がどういうかしら……」と前夜、出張先から電話をかけた時、二人の結婚話にためらいをみせはじめたゆう子の口から、そんな奇妙な言葉を、きいた矢先であった。
ドアをノックすると、はいりたまえ、となかから橋場の声が応じた。秀彦は一瞬、姿勢を正し、それからドアを押し開いた。社長秘書として常時、その部屋に出入りしながら、それでいて重苦しい予感といったものを感じたのは、出張先の仙台から急に、呼び戻しておきながら、橋場はその日の退社時間まで、仕事の報告さえきこうとはしなかったからである。
橋場文造は珍しく執務机からはなれ、後ろ手を組んで社長室のなかを、何事か思案するように、歩きまわっていた。入室した秀彦を認めても、しばらくは無言で窓際のあたりに佇み、外の景色に視線をやっていた。
「仙台のほうは、順調に進んでいるかね?」
「はい。市内の新設ホテルと一ノ関のゴルフ場、新幹線の開通にあわせてオープンできるよう、土地の手当てと設計事務所への根回しを、進めております。業者を督促して得た私の感じでは――」
東北新幹線の開通を二年後に控えたその頃、仙台をはじめとする東北諸都市では、第一次ホテル戦争、というものが起きていた。中央のホテル資本が大挙して仙台あたりに進出しようとしており、それに対抗して仙台に新設するホテルの件で、秀彦は社長の意を受け、発注した地元の主要業者や設計事務所の尻を叩きに赴いていたわけである。
報告をひととおり聞き終わった橋場は、
「わかった。ご苦労さん」とねぎらい、「その線で、どしどし進めてくれたまえ。ところで、鳴沢君。……きみは幾つだったかな?」
橋場は妙なことをきいた。この男が個人的な側面から絡んでくる時は、なみなみならぬ用件があるとみていい。使い走りや鞄持ち同様に扱うにしろ、側近の一人には違いなかった秀彦に、橋場がそんな個人的なことをきくことは、めったになかったことである。
「二十七歳ですが」
秀彦は、ためらいながらこたえた。
「いい年だな。そろそろ、結婚のことを考えんといかんじゃないか」
「はあ。――実は、その件ですが……」
「どうだ。いまの仕事は、面白い盛りだろう」
秀彦が切りだそうとした声を封じ、野太い声が押し包んだ。
「はあ。それは……」
「きみには将来性がある。わしがみるところ、きみは機敏で、堅実で、物事の処理能力は抜群だ。だから、わしはきみを信頼している。わしに従っている限り、きみの将来と人生には、栄達が約束されていると思っていい。――鳴沢君、どうだい。今の仕事、失いたくはないだろう?」
「はい。もちろん」
「きみには、ほかの一流企業にはゆけない前歴がある。だが、わしはきみを拾い、信頼し、優遇した。こんどの極秘計画の実質的責任者にきみを据えたのは、それだけわしがきみを信頼しているからだ。わかっているね?」
「はい。恩を感じています」
どうやら、想像以上の難事を命令されるようである。秀彦は、そう感じた。橋場のいつもの権謀術数とはいえ、秀彦がこんなふうにじっとりと個人的に絡まれてきたことは、初めての経験であった。
ほかの一流企業にはゆけない前歴というのは、たいしたことではない。新左翼運動などはもうとっくに下火にはなっていたが、秀彦は学生時代、自治会の役員をし、教授会と対立したことがある。そんなことまでもちだし、橋場はまず、会社を逐《お》われたくないだろう、と前置きをしている。その次に、秀彦を拾ったことの恩を売っている。この二つは、まあ単なる脅しにすぎない。だがそれ以上に重要なのは、東北交通の秘密工作を明からさまに持ちだしてきたことである。つまり、自分に忠誠を誓えということであろう。
たしかに当時、橋場が政官界に打ちこみをすすめていた国有林払い下げと、新幹線沿線の土地買い占め工作が思い通りにすすめば、会社は莫大な利益を得ることになっていた。そのために、橋場も秀彦も奔走していたわけだ。それは秀彦の人生にも当然、物質的に大きくはね返ってくるものである。
だが逆に、秀彦が何がしかの理由で会社を逐われれば、秀彦がその秘密をどこかに売り込むかもしれない。そういう可能性というよりは、危険を防ぐために、改めて忠誠を誓えということだろうか。
それなら、大人気ない、という気もした。サラリーマンは所詮、釘をさされなくても、企業トップの意志には、おおむね忠実に従うものである。橋場は今さら、何を言いだそうとしているのか。
秀彦は窓外に、眼をむけた。七月の碧い空が、窓を仕切っている。眼下の内濠の水面が、鱗のように光っている。林立しはじめたばかりの対岸の高層ビルが、鮮烈な夕陽に映えていた。
「それで……」と、秀彦はきいた。「私に何をしろとおっしゃるのでしょう?」
一種の圧迫感に耐えきれなくなった声でもあった。
橋場は窓際からソファに歩き、どっかりと坐って、卓上の葉巻きをとりあげた。
「きみ、花村ゆう子君とは、どこまで進んでいる?」
一瞬、さぐるような眼が秀彦を通りすぎた。
「そのことを実は、ご報告しようと思っていたのですが」
秀彦が狼狽したのは、花村ゆう子のことを橋場のほうから持ちだされるとは、夢にも思わなかったからだ。
「何をそう、あわてている。――誤解しないでほしい。きみと花村君の仲を咎めているのではない。深い仲、とようやく噂もたちはじめているようだが、実際は、どの程度なんだ?」
「はい」言いよどみ、「結婚を約束しています」
「そうか。そこまでいっているのか。話は、そこなんだが、実は、困ったことがおきた」
え、と秀彦は橋場の顔をみた。橋場がそれからゆう子に関して洩らした事実が、すぐには信じられなかったからだ。つまり、ゆう子は会社の、かなりの機密を握って、橋場を脅迫しているのだという。
東北新幹線計画が発表されたのは、昭和四十四年である。線引き、いわゆる路線決定がなされ、停車駅を国鉄が発表したのは四十六年の十月十二日である。その二週間前、東北交通は傘下の東北観光、東北興産、福島商事など、すべての企業を動員して沿線開発のため、新駅開設予定の土地、金目になりそうな山林や土地購入に狂奔している。
橋場はつまり、発表以前に新幹線のルートを知っていたわけだ。これにも、かなりの疑惑があるとされているが、その当時のことは、だいぶ以前のことなので、秀彦自身は、直接にはタッチしていない。秀彦がタッチしたのは、那須の国有林三百七十万平方メートルを、岩手県下にある東北交通の社有地四百二十万平方メートルと、等価交換して入手するための、その数年間の秘密工作であった。
等価交換、といっても那須の国有林と、辺境の岩手県の山林とが、等価――であるはずはなかった。一応、面積は百万平方メートルぐらい、岩手県のほうは上のせして、国庫に入れているわけだが、那須のほうはいずれ、東北新幹線の開通にともない、別荘地として暴騰《ぼうとう》することは、目に見えていた。
この等価交換、いわゆる国有地払い下げが、成功したのは、橋場や秀彦の根回しがきいたからでもあるが、作戦も巧妙だったからでもある。国有地の払い下げは、観光などの利用価値がある場合、通常相場より高く評価して民間に払い下げるよう定められているが、橋場は巧妙に、日本の自然を守るための山林利用として申請し、贈収賄として摘発されないすれすれの見返りを、政官界の要路の人々に約束し、文字通り「買収」してしまったのである。
従って、内情が発覚すると、利権がらみの政治家の暗躍、裏取引があったとして、必ず社会的指弾をうけることは目に見えていた。地検の捜査や逮捕者をだすのは当然、社長の退陣、ひいては東北交通としては、未曽有の危機に見舞われることになろう。
「それをだ。那須の権利証の移動や、坪あたり八千四百円という破格の値段で国有地を買った時の契約文書などのコピーを、花村ゆう子というあの女は手にしているそうだ。工作に関わった人間の顔ぶれもほとんどつかんでいるとほのめかしているし、新幹線白河駅前のことまで調べているという」
「しかし、花村君はいったい――」
秀彦は二の句がつげなかった。「いったい、それをどうしようというのです?」
「場合によっては、地検に密告すると――」
「密告する! どうしてです!」
驚いて、思わず高い声をあげた。
「うむ。そのことだが……」
橋場はこの時だけは、むしろ逆に冷静な態度を鎧《よろ》い、妙に真面目な態度を示して、沈痛な面持ちをみせた。
「鳴沢君、笑わんでくれよ。わしが終戦直後、闇師まがいのかなりあくどいことをしてきたことは、きみも知っていよう。その頃、白河で造り酒屋をしていたある山林地主を欺《だま》して、大枚の資金をださせ、炭鉱を経営したことがある。白河のそこは、ま、たいした埋蔵量ではなかったので二年でつぶれてしまい、わしは逐電同様に、東京に夜逃げしてしまった。おかげで資金をだした造り酒屋のおやじは倒産し、家屋敷まで人手にわたってしまい、それがもとで花村克三《はなむらかつぞう》というそのおやじは、数年後、病気で死んだそうだ――」
花村ゆう子は、そいつの娘だった、と橋場は吐きすてるように言った。花村家の破滅をあとで知って、せめて罪ほろぼしにと、橋場は事業に成功したのち、ゆう子を東北観光に入社させて、下にもおかないもてなしで秘書室に据えた。だが、ゆう子のほうは、はじめから復讐の炎をもやして、橋場の暗部を探っていたとしか、考えられない。
橋場は、そういうことを説明した。
「あの女については、そういうわけだ。飼い犬に、いや、飼い猫にだ、手を咬《か》まれたことになろう。それもこれも、私の不徳の致すところではあるが――」
「しかし、彼女はまたどうしてそんな機密まで、知ったのでしょう? たかが一人の女性秘書が、機密資料をコピーするなど――」
「そこさ、鳴沢君。おかしいだろう。――きみたちは、結婚する約束をした。それなのに、きみが何も知らない裏で、花村ゆう子は、わしを秘かに脅迫している。これは、会社に対する重大な裏切りといっていい。いや、話を人間的な側面に戻してもだ。結婚まで約束している二人なら、二人の間に秘密があってよいはずはない。鳴沢君、きみはもしかしたら、彼女に誑《たぶら》かされているんじゃないのかね? きみの線からその機密が洩れた、ということは考えられないのかね?」
そういわれれば、寝物語に多少は、仕事の話もする。二人とも、同じ会社に勤めているのだから、それは当然であろう。だが秀彦は、こと会社の機密に関する部分は、どんな小さなことでも、洩らしていないつもりだった。
もっとも、秘書室員だから、その気になれば、花村ゆう子が金庫の鍵を手にしたり、あけたりする機会は、なかったとはいえない。秀彦はそれよりも、自分に何の相談もなく、橋場を脅迫していたらしい事実に、ゆう子の背後にある見知らぬ闇をみるようで、慄然《りつぜん》としたのである。
これはとにかく、ゆう子を問いつめて、確かめてみなくてはならない。もし橋場が言うことが事実なら、密告を中止するよう懐柔するのは、秀彦の義務かもしれない。何しろ秀彦は、そこの忠実な社員なのだ。社長の信任も厚い。いや、それを命ずるために、橋場はいま、自分を呼びつけているわけだ――。
「わかりました」
と、秀彦はその時、重々しく、うなずいた。「近日中に花村君に事実関係を確かめて、できるだけの努力をしてみます」
「努力、ではたりん。一筋縄でゆく女ではないよ、あの女は。腹をすえて、かかってくれたまえ」
「はい」
「方法は、まかせる。きみの才覚なら、あの女を懐柔することも、口を封じることも、できるだろう。針をな、あの女の針をぬいてやるんだ。すでにもう、きみの婚約者のつもりでいるそうじゃないか」
懐柔して針をぬけ、といった。そして橋場は、それ以上のことを言ったわけではない。終戦直後のどさくさの中では、常磐炭鉱あたりで人殺しさえしたという噂のある橋場であった。
秀彦がもし、ゆう子の懐柔工作に失敗したら、秀彦自身の身分さえ保証しないぞ、という脅迫的な響きが隠されていることを、理解しないわけにはゆかなかった。
「今の仕事を失いたくはないだろう?」――と冒頭に言ったのは、なるほど、そういう意味が含まれていたのかと、秀彦はようやく気づいて、頬を固くした。
一礼し、ドアをあけて部屋を出ようとすると、橋場がもう一度、呼びとめた。
秀彦は、ふりかえった。橋場が葉巻きを手にし、こんどはばかに柔和な顔で、笑いかけた。
「おっと、忘れるところだったよ。きみ、さっきの結婚話のことだが――」
「いえ。それは、この問題の始末をつけてからに」
「うむ。そうさな。何もかも、始末をつけてからにしないと、痛い目にあうかもしれんな。第一なあ、婚約者のきみにさえ隠して、こそこそと会社の機密を探る。そんな女が、はたしてきみの配偶者として適切かどうか。そのへんのところも、もう一度、根本的に考えたほうが賢明じゃないかね。何しろ私はこれからもきみを側近にしようと思っている」
「はあ」
「そこでだ、鳴沢君。聡子のことを、どう思う?」
は、と秀彦はとまどいをみせた。
「聡子さん、といいますと?」
「うちの娘だ。ほら、社員旅行やテニス大会でも、きみたちと一緒だったじゃないか」
「ああ、お嬢さんですか。それはもう、明るくて、すてきなお嬢さんだと、遠目ながらも眩しく拝見しておりますが」
「眩しいほどの娘ではないさ。だがあいつも、もう短大を出て三年になる。花嫁修業がてら、知人が理事長をしているある信用金庫に勤めさせておるが、だいぶ、生意気になりおった。親馬鹿ぶりを発揮させてもらえばだ、聡子は素直な、いい娘だぞ。このあいだ、きみのことをそれとなくほのめかせておいたら、あいつの反応も、満ざらではなかった。きみさえよければ――」
秀彦はその時、何かしら途方もない幸運に巻きこまれそうな予感がして、そのことにむしろあわて、その先をきかずに、厳粛な表情で一礼して、ドアを閉めた。
翌日は土曜日で、休みだった。
朝から、雨が降っていた。窓外の桜公園道に、白いレインコートが揺れ、ピンクの傘が花のように動いてきたのは、午前九時ごろだった。
花村ゆう子は、思ったより明るい表情をしていた。社の機密を探って橋場を刺そうとしている女、というふうには、およそ思えなかった。
ゆう子はドアをあけたところで、ボトルをさしだし、笑った。濡れた髪に、水滴が玉を結んで、キラキラと光っていた。
「はい、あなたの好きなボージョレーのワインよ。カニ缶とアンチョビーと野菜も買ってきたわ。今、サラダを作るわね」
レインコートを脱ぎ、壁にかける。Tシャツにジーンズ。キッチンに立って手料理を作りはじめたゆう子に背をむけ、秀彦はリビングのソファに坐って、週刊誌をめくった。ゆう子を問いつめるにしろ、何から、どうやって切りだそうかと考えながら――。
ゆう子がすぐにキッチンで野菜サラダをつくり、ワインをぬいてグラスを持って来た。
「きのう、何かあったの?」
注ぎながら、きく。
「どうして?」
「社長に呼ばれたんでしょう?」
「うん。まあね」
「何を言われたの?」
「いや、別に……」
「嘘つかないで。わたし、あなたが社長に何を言われたか、知っているわ」
「それなら、きくがね。どうして社長を陰険に脅迫したりする。きのう、私は思いがけないことを告白されたぞ」
そう、とゆう子は微笑した。
思いがけない微笑だった。
唇のはしに、あるかなきかの微笑。モナリザにも、ミロのヴィーナスにも、これがある。アルカイック・スマイルというのだそうだ。その微笑は、ギリシャ、エジプトをへて、遠く奈良の天平の仏像にまで伝わっている。
ゆう子は、カーペットの上にあぐらをかき、ボージョレーのグラスをゆらゆらさせながら、ステレオコンポーネントから叩きだされるニュー・ビートにあわせて、軽くそのあるかなきかの優しげな微笑を浮かべたまま、リズムをとっていた。秀彦は前にまわり、ゆう子からボージョレーのグラスをとりあげ、不意に頬をぺたぺたと叩いた。
「飲んでる場合じゃ、ないだろう。え、私の話に真面目に耳をかしてくれないか」
「ステレオを消してくださらないかしら」
秀彦は立ちあがって、ステレオの音量を絞った。
「きみねえ、隠しごとはよくないよ。きみがなぜ、そんなことをするかの、理由もきのう、社長からきいた。きみの気持ちは、わかる。しかし、そんなことをすると、会社はとんでもないことになる」
「会社は、この際、どうでもいいじゃありませんか。私、あそこで一生を捧げようなんて、ちっとも思っていないんだから」
ゆう子は、そういうことをけろっと言ってのけた。
「私が会社の機密を探った理由を知っているのなら、もう説明するまでもないでしょう。白河の大きな造り酒屋だった私の家は、橋場のために、破産したのよ。病死といっても、父の最後は自殺同然だったわ。――あんなけだものみたいな男、社会的指弾を受けるべきよ。ねえ、あなたなら、手伝ってくれるでしょう?」
どうやら、この女は初めから、企業に対する報復をおれに手伝わせるために、肉体関係を結んだのではないか。そう思えた。そういう意味が、ゆう子の表情からにわかに、伝わってきた。
教授会とやりあっていたころの秀彦なら、文句なしに、ゆう子の立場にまわったかもしれない。だがもう、秀彦は学生ではなかった。五年間、一つの企業に勤めて苦労してみると、社会というものがどのようなものであるかも、わかってくる。
「わたし、橋場に完膚ないまでの打撃をあたえたいのよ。復讐、といっていい。ねえ、あなたは側近だから、一番、やりやすい立場にいる。手伝って――」
「そりゃあさ、きみの気持ち、私にもわかる。だがもう、お父さんのことといっても、済んだことじゃないか。私の立場も考えてくれ。――いいかい。私はきみを、愛してるんだ。だから、結婚しようとまで言っている。だが、きみがいま企んでいるようなことをすると、橋場は破滅するし、会社は破滅するし、私たちも破滅する」
「そうかしら。あなたはちっとも、破滅しないわ。側近、といってもたかが五年間、勤めただけの秘書じゃないの。――会社がつぶれたらつぶれたで、私たちにはまた新しい出発があるわ」
いつも控え目で、ひっそりしていたはずのゆう子が、こんなふうに腰のすわった、恐ろしい女だとは思わなかった。根が深い。これは、なまなかなことでは懐柔できそうにはないぞ、と秀彦は腹に力をいれた。
いや、こんな女と一緒にいると、ずるずると、自分までがとんでもない破滅の淵に身を晒《さら》すことになるのではないか。
怯えが、湧いた。ゆう子への不憫さもあった。だが、この手の執念深い話をきいてみると、ゆう子がもう、これまで通りの女とは、とても思えなくなっていた。これまで魅力と思っていた控え目さや、芯の強さや、微笑までが、なぜか急に陰気っぽいものに思えてきて、身の毛のよだつ恐怖の思いすら、じわじわと秀彦を押しつつんできた。
秀彦は、口を噤《つぐ》んだ。ワインを飲んだ。社長には懐柔しろといわれている。それができなければ、社を追われることは眼にみえている。それに成功さえすれば、出世が約束されている。いや、それどころか聡子というあの社長令嬢とも、結婚できる……。
結論は、一つしか残されていないのかもしれんぞ、という思いに秀彦が到達するのに、だから、それほどの時間がかかったわけではなかった。東北観光は、これからますます大きくなってゆく会社だ。それを捨てるか、ゆう子をすてるか。そのどちらかである。
雨傘のピンクの色彩と、レインコートの白の対比が頭の中で交錯した時、ぎくりとした。濡れたピンク。その赤い色彩が、不意に不吉な予感をともなった。殺すことは怖くはない、と自分に念を押した。発覚しないようにやることが、一番、大事なことだ。
それには、東京ではそういうことを実行しないことだった。死体を発見されないことが、第一条件である。
他人の眼にふれない場所を、慎重に選ばなければならなかった。それには、どういう口実を設けて、そうした場所へゆう子を連れだすかであった。殺害方法もまたむずかしかった。
騒がれたり、抵抗されたりする方法は、何としても避けるべきだ。いきなり突き落とすといっても、簡単そうでむずかしい。マンションの屋上や、どこかの崖上からでは、死体が発見される。歩道橋……? 同じだ。列車の陸橋? 同じだ。海や谷底へ突き落としても、だめだ。見つからない場所は、どこか?
「あらあら、陰気。雨のふる日って、いやあねえ。ほら、飲みなさいよ」
ゆう子がステレオコンポーネントのチューニングをひねり、ボリュウムを大きくした。ワインをなみなみと二つのグラスに注ぎ、
「一昨日、仙台からお電話をもらったとき、正直いって私、うれしかったわ。すぐ、来ないかだって。婚前旅行にでも誘いだすつもりだったの?」
木曜日、出張先の仙台から電話をしたとき、土曜、日曜日の休みを利用してどこか三陸のほうにでも旅をしないかと、秀彦はゆう子を誘ったのである。
その時はゆう子は尻込みをしていたが、どうやら風向きが変わってきたようだ。それは多分、自分の企みがわかってしまった以上、秀彦に対して覚悟をきめさせて、自分の企みのほうに遮二無二、たぐりこみ、引きずりこむためではないか。
「来週、また出張を命じられていてね」――秀彦は、ぼそっと言った。「どうせ、仙台方面に居すわるんなら、連休の間に三陸のすてきな海岸あたりを、案内しようと思ってたんだ」
「じゃ、婚前旅行をすませると、私に協力してくれる? 私が握っている資料や、あなたが知っている機密を、どこか適当な機関に訴えこむことだけど――」
ああ、と秀彦は力なくうなずいた。「きみがそれほど思いつめているのなら、機会をみて、協力するしかあるまいな」
いやいやながらも、ゆう子に協力する男。そういう恰好を演じよう。それが一番、目的にうまく接近する方法ではないか、と秀彦は考え、「しかし、私は橋場に恩義がある。少なくとも、私が橋場を刺したとは、思われたくはない」
最後の最後までふっきれない未練がましいサラリーマン。そういう姿勢を、演じつづけた。
「そうだ! おい!」
秀彦はそして、突然、さっきから湧きかけていた提案を、ゆう子にぶつけた。グラスを置いてゆう子の両肩をつかみ、おい、こういう手がある、と力説した。
「きみのやろうとしていることも、東京よりも仙台のほうがいいかもしれんぞ。那須や白河や岩手が絡んでいる。舞台は、東北だ。きみがコピーしてもっているらしい機密資料、仙台中央郵便局から差出人不明でいいから、仙台地検宛に投函するんだ。そうすると、私やきみがやったことにはならない。橋場に敵対する地元の利害関係者が密告した、という、そういう隠れみのができる。それだと、少なくとも私は橋場に対して申し訳がたつ――」
「どうせ、ばれることでしょうけどね」
「ばれても、いいさ。少なくとも、私自身に、言い訳がたつ。橋場にも、言い逃れはできる」
「男の人って、可哀想。いつも、会社とか、上司とか、建て前とか、面子《メンツ》ばかりを気にしているのね」
ふいっと眼をあげ、「で、来週の出張ってどこなの?」
「それがね、こんどはちょっとばかり荷が重い。東北新幹線の設置にともなう土地買収の下見、という意味ならいつものことだが、場所がね、場所がちょっと妙なんだ」
「どこなの?」
「岩手県。――盛岡周辺はもう何度も行ったが、陸中海岸のほうと、日本の秘境といわれる岩泉町周辺の山林と洞窟を見てこい、という妙な命令でね」
「洞窟……? まあ」
「うん。岩泉町の先に、龍泉洞というのがある。だがこいつはもう観光化されていて、手垢がついている。その奥の秘境に、安家《あつか》洞もあれば、内間木《うちまぎ》洞もある。だが、あと一つ、まだ世に知られていない底なしの巨大な洞窟がその先にあるんだ。それを、これからの観光資源にするため、検分してこいと」
――婚前旅行の計画は、そういうふうに決まった。
その日、正確には昭和五十二年七月二十一日、秀彦はゆう子をともなって、上野発十一時三十分の急行「津軽二号」にのって、盛岡にむかった。寝台車が盛岡に着いたのは、翌朝の七時三十分である。
仙台地検にだす郵便物は、ゆう子がハンドバッグの中に入れていた。それは、夜行寝台を選んだ列車の通過時間の都合で、帰りに仙台に立ち寄り、投函しようということに決めていた。ゆう子は秀彦のきびきびした物言いに、信頼を置いているようだった。
東北に、遅い夏がやってきていた。青く澄みわたった夏空にわくまっ白い雲が、ジュラルミンの切れ端のように、眩しい。駅前で朝食をとったあと、乗り換え時間までを市内ですごし、二人はその足で、盛岡発十一時三十分の宮古行の山田線にのりかえた。
この支線は盛岡から北上山地をこえて、太平洋岸の宮古港へぬけるコースである。高原列車の趣きがある。思いがけない旅情に、ゆう子のほうが先に、弾んだ。車窓には、深い緑の木立ちや斜面や峡谷が迫り、河や高原や牧場がつぎつぎに入れかわる。
「わあ、凄い。見て、見て。山の端にかかっている夏雲、まっ白いケーキみたい」
そう言ったかと思うと、眼をすぐ、黙殺して通りすぎる通過駅のホームに移し、「あら、ホームにコスモスがもう咲いていたわ。それにほら、あの斜面に鬼ユリがいっぱい。同じ東北でも、私が育った白河より、このへんの方がずっとずっと牧歌的ね……」
そんなに明るい表情をするゆう子を見るのは、はじめてだった。婚前旅行、ということに、一応、気持ちの弾みがのっているのだろうか。秀彦の心は沈んだ。おれはこの可憐な、何の疑いもしていない女をこれから、人里離れた山奥につれこんで、殺そうとしている……。
列車は午後一時少し前に、茂市《もいち》に着いた。山間の小駅である。目的地にはいるには、そこから更に、岩泉線にのりかえなければならない。
一時間ばかり、駅舎でひまをつぶし、午後二時に、ディーゼルカーを三輛、編成しただけの岩泉線で茂市を出発した。これはもう、秘境列車である。山はますます深くなり、トンネルにつぐトンネルの連続。ゆう子はディーゼルカーがトンネルにはいるたびに、あわてて帽子をおさえ、子供のように無邪気な歓声をあげた。
「ほらほら、またトンネル……。窓、閉めて!」
「こいつはディーゼルだぜ。むかしのようなSLではない。煤煙なんか、はいってはこないさ」
「でも、帽子がとぶわ。お弁当もお茶も、ひっくりかえってしまうじゃないの」
あわてて、立ちあがってゆう子が窓を閉める。
ゆう子はその時、ひさしの深い、白い帽子をかぶっていた。自分の服のなかでは一番、お気に入りだというセルッティの白いスーツを着ていた。その恰好は成熟した都会の女だが、秘境列車にのっている間、彼女はまるで、遠足にきた少女のように童心にかえって、はしゃいでいたのである。東京でもこれなら、何の心配もないのに、あんたが会社を裏切ろうとしているからだよ……。
終点の岩泉には、三時半についた。岩泉はこの地方で唯一、官庁の出先機関がおかれていた経済の要衝である。小さな街だが、山峡《やまかい》の都、という趣きがあった。森永の牛乳工場があったせいか、旅館では、牛乳風呂が有名である。だが秀彦は、この街に泊まるつもりはなかった。とにかくその日のうちに、彼がひそかに目的地としている山奥の安家《あつか》というところまで、足をのばすつもりだった。
一時間ほど待って、安家行の最終バスにのった。バスはうねうねと、山道をのぼった。途中、車窓の左手、渓流のむこうに有名な龍泉洞入口、というのがみえた。
何しろ、このあたりには鍾乳洞が多い。下閉伊郡岩泉町の龍泉洞、同じ岩泉のさらに奥にある安家洞、氷流洞、松ケ沢洞、すぐ近くの九戸郡山形村の内間木《うちまぎ》洞など、いわば、洞窟銀座である。いずれも、岩泉、安家、久慈にいたる北上山地一帯が、日本でも屈指の石灰岩地帯であることに起因しており、有名、無名をいれると、発見されているだけでも、洞穴は全部で、百五十をこすといわれている。
とくに通りすぎたばかりの龍泉洞は、日本三大鍾乳洞の一つといわれ、透明度の高い地底湖で有名だった。湖はコバルト色に澄みわたり、水深百二十メートル以上もあり、その底の妖しい燐光《りんこう》と虹のようにみえる水中のフローストーン(流れ石)の美しさは、世界の地底湖の中でも、指折りだとされている。
山を幾つか、こえた。ゆう子はしだいに、無口になった。顔を秀彦の肩にもたせ、居眠りをはじめた。疲れたのかもしれない。対向車がきてバスが路肩により、杉の枝がぱしっと窓を打ち叩いたりすると、びっくりしたように顔をあげ、
「まだなのお? 私たちの宿……」
と拗《す》ねたりした。
安家には、夕方六時半に着いた。
伽倶楽《かぐら》荘という一軒きりの宿にはいった。
温泉でもないし、観光旅館というほどでもない。その土地にむかしからある商人宿だった。渓流に面していた。秀彦は宿帳の名前を、原島登、という偽名を使い、ゆう子のことは、妻かおる、と書いた。
山が、深い。河が一筋、村のまん中を流れている。北側を日蔭村といい、南側を日向村という。製材所の電気鋸の音がきこえ、樹肉の香りが窓から流れこむ。木材の伐りだしと製材だけが、唯一の産業ですよ、と部屋に夕食を運んできたおかみさんが、土地のことをそんなふうに説明してくれた。
「へええ、日蔭村に日向村か。なんだか、不平等ね。横溝正史の世界にでもでてきそうな、妙にミステリーっぽい地名だこと」
ゆう子が一風呂あびてからは元気さをとりもどし、食事の間、たいそう楽しそうに箸を動かしていた。
「それで、病人なんかがでたら、どうするのかしら? 病院というのは、見あたらなかったけど」
「ええ。この先に数年前、診療所がやっとできました。それまでは、無医村だったんです。つい二十年前までは、無灯家地区といって、この先の集落には電気がなく、人々はみんなランプ生活だったんですよ」
つい眼と鼻の先にある安家洞が発見されてから、ようやく観光客がふえてきました、とおかみは説明しながら、膳をさげた。
「洞窟さまさまですわ」
おかみが説明した安家洞というのは、比較的新しく発見された洞窟である。昭和三十五年に京都大学の学術調査隊がはいって、はじめて世に紹介されている。奥行きは十キロ以上もあり、百十余の支洞があり、三層になった迷路型の洞窟で、まだまだ支洞は完全には探検されつくしてはいない。
二人は、早めに床に着いた。
夏ぶとんの中で秀彦は、ゆう子の身体を抱きよせ、
「婚前旅行だというのに、悪かったなあ。有名な観光地でもないこんな遠いところまで連れてきて」
「ううん。いいのよ、どこでも。私に協力してくれる、というあなたの気持ちだけでうれしいわ」
「そのことだけど――」
秀彦は、ゆう子の浴衣の胸をおしひろげながら、乳房を掌のなかに包んだ。
「わからないことが、一つだけある。きみが密告する、ということを社長はどうして知っていたのだろう? 私は先週、そのために仙台から急に呼び戻されたんだ。きみがわざわざ、社長にコピーのことまで、言ったのかい?」
ゆう子は顔を、秀彦の胸に押しつけてきた。
「そうよ。面とむかって」
「ばかだなあ。密告するのなら、黙って密告すればいい。そんなこと広言するなど、愚かなことだよ」
「理由はあなたとのこと。私、あなたの留守の間に、呼びつけられ、社内情事はご法度だということを知っているか、と譴責《けんせき》されたのよ。つまり、あなたとの交際をやめろって――」
「そんな私事にまで、口をだす男じゃないよ。あの橋場は――」
「眼はしのきくあなたを、ずっと側近として傍においておきたかったからじゃないの。つまり、社長の本心では、聡子さんとあなたとを結婚させたかったみたい」
「へええ! そんな、ばかな!」
今はじめてきく、という驚き声を秀彦はあげた。
「だって、そういうふうに考えられるわ。だから、つい、私もかっとして言ってやったのよ。――私をそんなふうに遇されるのなら、覚悟がありますって。那須の国有地不正入手問題のコピーを、私はもっております。どこに馳けこめばよいかも、承知しております、って……」
「それじゃあ、橋場は驚いただろうな。その顔、見たかったね」
「そうよ。それで、橋場はあわてて、あなたを仙台から呼び戻したのよ。叱責するために」
そういうことまで知っておりながら、ゆう子はこんどの旅に関しては、いっこうに疑念を抱いてはいない様子だった。不思議な女だった。自分を信じているらしいゆう子に、秀彦は二重の、罪の意識を感じた。
いとおしさにも、かられていた。二人は、唇をあわせた。ゆう子は自分から浴衣の紐をほどいて、激しく求めてきた。その身体を受けとめて押し伏せながら、秀彦は不思議な戦慄と感動、そうして切ないような昂まりに駆られていた。
よく心中を前にした男女は、一晩中でも濃厚なセックスに狂う、といわれるが、秀彦の場合も、それによく似ていた。ただし、秀彦の場合は、心中ではないのである。
相手の女だけを殺そうと、計画しているのである。その罪の意識と、あすの決行を前にする恐怖も渦巻いて、いっそう尋常ではない、狂的な心理状態に陥っていたのかもしれない。
ともかく、ゆう子の白い肉体がいとおしかった。今夜が最後の別れか、と思うと、やみくもの情熱にかられて、むしゃぶりついたのである。
ゆう子の内股は、白くなまめかしい。むしゃぶりつきながらも、大切なこわれやすい陶器でも扱うように、秀彦は彼女を抱き、身体の隅々を手指や唇や、全身であたってゆきたい、と思った。あす、殺されるということも知らずに、みずみずしく若さの盛りにあるゆう子の、火照る乳房に顔を伏せて吸いながら、掌いっぱいに包んで、いとおしむように揉みたてた。傍ら、秀彦が右手を下腹部から内股に巡ると、彼女の腿のつけ根の内側が、湯上がりの温気《うんき》でほてっている。
恥丘はその夜もふっくらと発達して、繁茂した秘毛が艶々と手に触る。赤い滝のような内陰唇は、貝の身をはみださせていて、みずみずしく濡れ輝いている。それは実際、そこに万感の思いをこめてくちづけしにゆかねばならないような、神々しい存在の根、そのものだった。
そうして秀彦は、そうした。ゆう子、許してくれ、というような思いをこめて、両腿をひしと抱きしめ、神々しい女芯にくちづけをした。
「ああっ……それって、恥ずかしい」
何もしらないゆう子は、ふだんの声をあげている。
若々しくも爛熟開花したフリルを、唇と舌が直撃した時、ゆう子は脳天を直撃されたように、大きくのけぞって、ずりあがった。
かまわず、口唇愛を見舞いつづける。蜜の流れは、とろりとしている。肉びらを少しこじあけて、むりやり舌先を中に捻じ込んだりする。
かと思うと、秀彦の唇は、フリルを啄《つい》ばんだり、女の塔に跳梁したりする。突起物の上に、蜂のように舞い戯れたりする。
「あっ……あっ……そんなこと、なさらないで。それよりも早く、いらっしゃって。いつまでも、いつまでも、秀彦、わたしを愛して」
ゆう子は全身の力を抜いて、放恣にのたうちまわっていた。
秀彦は、ゆう子の声を聞くのが切なくなった。身を起こすと、両下肢を割りひらいて位置をとり、繋ぎにいった。
隆々と硬起したものを蜜口にあてがい、ゆっくりと潤みの中に埋めてゆく。
「ああん」
ゆう子は喘ぎ声を発し、上体を反り返らせた。
ゆう子の内部は、ふだんより恐ろしく熱かった。
いや、熱く感じたのかもしれなかった。
周囲から彼を取り巻く狭隘な肉の通路のひしめきが、秀彦を昂揚させた。秀彦は胸に錐でも刺されるような鋭い痛みを覚えながら、かりそめのいとおしさにかられつづけ、ゆう子をひしと抱いて、頬と頬をぴったり合わせつつ、舟のように揺れつづけたのであった。
「ああ……ああ……とてもしあわせよ……いつまでも、こうして私を愛してちょうだいっ」
――あの夜の、山の一軒宿で切り結びながら放ったゆう子の声は、今でも秀彦の鼓膜の奥に残響を結んでいる。
翌朝、宿の車をかりて上流にむかった。
宿の人には、このへんの洞窟を調査している地質学者、というふれこみをしている。秀彦がめざしている碧龍洞は、そこからさらに二十キロも上流にあった。
道は、大平、坂本と、分教場のある集落を結ぶように、渓流ぞいにうねうねと登ってゆく。左手の渓流が深く、美しい。安家渓谷、とよばれていた。アッカ、というのはアイヌ語で、水が美しいところ、という意味だそうだ。今でこそ、十和田の奥入瀬渓谷とならんで、この安家渓谷は旅行雑誌などで有名になりつつあるが、秀彦がゆう子をともなってそこを訪れた当時はまだ、ほとんど無名の渓谷だった。
目的地には、昼少し前に着いた。
高い山と山が合わさるような谷間の奥に、切りたった断崖があり、渓流をへだてて、灌木と蔦におおわれてその洞窟の入口はあった。未発見、とはされていても、土地の人はずっと昔から知っており、正式の学術調査団や、観光資源とするための調査団がはいっていないだけの話である。
「盗まれないように、車をどこかに隠しておこう。何しろ、この洞窟ときたら、はいったら最後、調査をするにはかなりの時間がかかるからね」
「仕事がらみの婚前旅行とはいえ、へんなアタックだこと。二人そろって、未知の洞窟にもぐるなんて」
「そうでもないさ。雄の本能ってやつでね。洞窟といえば昔から、女性の性器を象徴する。そこに仲良くもぐる。蜜月に、うってつけじゃないか」
「ぶつわよ!」
ふりむいた瞳が、笑って、きらめいていた。
車を林のなかに隠した。まわりを、見回した。誰もいない。秀彦は荷物を、車のなかに置いて、ナップザックを肩にかけ、ハンディライトと、ピッケルだけを手にした。ゆう子にもハンドバッグは車のなかに残させ、軽装ではいるようにすすめた。
前夜、雨が疾《はし》ったらしい。入口をおおう蔦の葉が、光沢を得て、魚鱗のように光っていた。灌木の枝がおおい、通りすがりには、洞窟の入口はほとんど見えない。蔦の葉と岩肌につかまりながら、二人は洞内にはいった。
暗い。ハンディライトをつける。秀彦は一度、はいったことがあるので、勝手を知っている。
入口は狭いが、奥にゆくほど深く、広くなっている。途中には蟹の横ばい、とよばれる狭いところや、急に天井が高くなったりするところもある。
「ねえ」――五メートルぐらいはいったところで、ゆう子が怯えたように立ちすくんだ。
「薄気味わるい。あなた、どうしてこんな洞窟を知っているの?」
ふっと、窺うように見た。
怯えと猜疑がちらと、表情の上を掠《かす》めた。
「社長の命令、といったけど、会社の観光部の人が調べたのかしら?」
「ああ、そのことならね」
秀彦は答えた。
「新幹線開通に備えて、東北一帯の新しい、未知の観光資源を仙台の本社が、探索したらしい。この洞窟もその情報網の一つに引っかかったやつらしくて、都会人の眼でみて、魅力があるかどうかを確かめてこい、と地図を渡されているんだ」
本当は、そうではない。会社の人間が、こんな未発見の洞窟などを知っているはずはなかった。
秀彦が城南大学三年の時、日本の社会保障問題の一つの指標作りをするため、属していた社研部で、無医村や無灯家地区の実態調査をしようということになり、その一つの対象地区として当時、政治や文化の恩恵に浴さない秘境といわれていたこの安家地方に二週間にわたって泊まりこみ、フィールド・ワークをしたのである。秀彦はその時、土地の古老が知っていたこの洞窟に仲間たちと、わいわい騒ぎながらはいってみたことがあるのだ。
その時の印象では、実に奥が深かった。まさに秘境という感じだった。目黒区平町のマンションで、ゆう子の顔から眼をそらせて殺人計画を練った時、どういうわけか秀彦の脳裡にまっ先に、ここが思いうかんだのである。ここなら、誰もはいってきはしないし、奥で首をしめるか、洞内断崖から谷のように深い亀裂部分《キレツト》に突き落とすかすれば、死体は永遠にわかりはしないと――。
「さあ、ゆこう。ほら、滝の音がきこえるだろう。この奥に、幻のような滝があったり、碧色の地底湖があったりするらしいんだ。そこまでいって、きみの眼で、美しいかどうか判断してほしい。つまり、何というかな。アンノン族の眼でみてさ――」
ゆう子はやっと安心して、歩きだした。
足許は暗い。ハンディライトは一つだけである。二人は、手をとりあって、岩壁に背をあてながら少しずつ、奥に進んだ。
足許に、不意にまっ白い石筍が現われたり、岩角からつらら石がたれさがったり、パイプオルガンのような石柱が現われたりした。天井を照らしてみると、奥にゆくにつれてドームのように高くなる。ひやっと、首すじに水滴があたり、秀彦は悲鳴をあげそうになった。地下水の浸潤がふえるにつれ、左右にリムプールといわれる段丘湖が漣のようにつながって、広がってくる。
一つの岩角をまがった瞬間、きゃあッ! とゆう子が、悲鳴をあげてしがみついてきた。突然、コウモリが湿った羽音をたてて、ゆう子の頬をかすめて飛び去っていったのである。
「怖いわ。ねえ、引き返しましょうよ」
「そうだな。引き返すとするか」
秀彦は一応思案するふりをし、「でも、もうちょっとだけだと思うよ。会社のリポートにあった虹の滝とか、コバルト色の地底湖とかはさ。ここまできたんだ。それを確かめないと、帰れやしないよ」
怯えるゆう子を励まし励まし、奥に歩いた。
ところどころの横あいの壁に、支洞がほら穴のような口をあけている。高い天井から、鍾乳石が針のようにたれさがっていて、光をあてると、それらがいっせいに、無数のプリズムのようにきらめく。
「わあ、きれい!」
ようやく、その洞窟の美しさにひきこまれはじめたように、ゆう子が息をはずませ、「よし! 度胸がついたわ。さあ、もっと奥に行ってみましょうよ」
滝音が、しだいに大きくなってきた。幾つかの岩角をまがったところに、ライトのなかにそれが燦然《さんぜん》ときらめきだしてきた。見あげるほど高い天井から、地下水が滝をつくって流れおち、その下に地底の河ができ、コバルト色に透きとおった地底湖がある。
「わあ、凄い!」
ゆう子が、嘆声をあげた。
「地下宮殿みたいだわ。東京の人間でここまできたの、私たちがはじめてじゃないかしら。女性週刊誌に報告すると、売れるわよ、きっと」
ゆう子が地底湖を覗きこんだ。
足許に岩場がある。
渚をへだてて、深い渓谷も右手にある。
今だ! と秀彦は自分に命じた。
かついでいたナップザックを肩からはずした。その細い紐をのばして背後から不意に、ゆう子の首に巻きつけた。
跳ねた。驚愕の声があがる。声はだが、ぐぐっとすぐに、低くこもった。悲鳴には、ならなかった。ゆう子は、もがいた。秀彦は、無我夢中だった。
首をしめつづけた。足許の岩が、くずれた。ゆう子を抱きしめ、首を締めたまま、渚に転がった。それでも細い紐は、はなさなかった。
腕の中でもがいていたゆう子が、やがて重くなり、動かなくなり、ぐったりとした。どれだけの時間がたったか、わからない。紐をはずし、ハンディライトをあてた。水際に倒れた、ゆう子の髪が、流れにひたされている。
ゆう子のその白い顔をみた瞬間、はじめて恐怖が秀彦をつかんだ。よし、これで終わった! という達成感よりも、一刻も早くここを逃れたいとする、足がふらつくような恐怖の思いだった。
……それからの数十分。ひやっと、首すじにあたった冷めたい水滴。ぐったりとなった重い身体をその洞窟の奥に隠し、衣服をすべて剥ぎとり、逃げてきたときの足許の暗さ。岩角や石柱や石筍に身体をぶつけ、リムストーン・プールとよばれる水溜りや段丘湖や地下河に転んだりしながら、出口にむかって一散に走る。走りながらも、今にも女の白い手が、闇の奥からするするっと追いかけてきて、肩口をいきなりつかまれるのではないかと怯えながら、なおも走りに走ったあの出口……。
……その女の白い手が、今にも後ろから肩をつかみそうだ。
ひどく、息苦しい。もう少しで、海面上に脱出できるのだが、水深は意外に深くて、なかなか水面には到達しない。肺が破裂しそうに苦しく、心臓が空まわりし、思わず、助けてくれえッ! と叫び声をあげて、秀彦は自分のその声で、眼をさました。
「あなた、あなた。どうなさったの!」
白い手が、やはり肩をつかんでいた。
妻の、聡子だった。秀彦は応接間の肘掛椅子にもたれたまま、眠りこんでいたのだ。椅子の手すりに俯伏せになっていたので、心臓と肺が圧迫され、息苦しい夢をみていたのだろう。
背中が、ぐっしょりと汗に濡れていた。
「電話のあと、お戻りにならないと思ったら、こんなところで寝てらっしゃったの」
聡子の白い手が、まだ秀彦の肩におかれている。
「風邪をひくじゃないの。椅子に寝そべるなんて」
聡子が、ゆすっている。
「ほら、早く起きて。表に、刑事さんが待ってらっしゃるのよ」
刑事……?
どきんとした。
今の今、殺人現場を思いだしていたところだ。
もう、そのことで……?
まさか。……寝不足の、首をふった。
いや、岩手県の洞窟の奥で発見されたヴィーナスには、警察はまだ、介入してはいないという話だったではないか。秀彦は呼吸を鎮め、立ちあがってガウンの紐を締め直した。
「刑事が今ごろ。何の用だろう?」
聡子に促されて、玄関のドアをあけた。
庭一面に、白光がたちこめていた。
そういえば、ヴィーナスの贈り物をもらってから、二日目の朝になったことになる。ドアをあけたところに、二人の男が立っていた。
「碑文谷署の者です。早朝から、お邪魔して申し訳ありません」
背広をきた中年の刑事が手帳をみせた。
軽くお辞儀をする。
「実は、お隣りの宗田さんの家にゆうべ、強盗が押し入り、連絡をうけていま、現場検証を終えたところですが、お宅の門扉もひらいたままになっている。何か、被害品はないかと、念のためお立ち寄りしてみましたが」
秀彦の胸に、どっと安堵の思いがやってきた。
どうやら、ヴィーナスとは無関係だったらしい。
ゆうべは遅くまで起きていたので、家には別段、被害はありません、と秀彦は表情を殺して答えた。
「門扉が、ひらいたままになっておりますが」
言われて庭をのぞくと、カーポートに車がない。
通勤には使わないが、たまの遠出や買い物用に、新型ターボ車レパードを一台、門扉の内側に入れておいた。ゆうべもたしか、そこに置いていたはずだ。
「そういえば、車が……」
ないところをみると、盗まれた、と思える。
「ほう、車ですか。ナンバーをおっしゃって下さい」
年配の刑事が手帳に盗難車の番号を控え終わったところで、
「お隣りの強盗って、押し込みですか?」
秀彦はおそるおそる、訊いてみた。身辺で、妙なことばかりがつづく。少し、気になった。
「いえ。殺傷沙汰は起こしてはおりません。夜間、忍びこんで室内を物色し、指輪とか宝石とか、貯金通帳とか、金めのものを盗んでいったようですな。おまけに、こちらでは車ですか」
さっそく、手配してみます、と刑事はいい、
「あとで必ず、被害届をだして下さい」
念を押すように言い残して一礼し、二人の刑事はたち去った。そのあとに、雨上がりの白い霧が庭に渦巻いていた。
ヴィーナスの微笑
移動中継車はいらない。ほんの三十分ぐらい、美術評論家のインタビューをとるだけである。宝泉寺颯子はビデオ・カメラや照明道具を携えたカメラマン二人と、婦人番組の若手ディレクター一人を従え、欅のおい茂った田園調布の住宅街の奥まったところにある、その大きな門構えの家にはいった。
城南大学で社会学の教授を勤めるかたわら、美術評論や社会心理学の面で、マスコミでも活躍している狩野速人《かのうはやと》は、朝食後のコーヒーを庭のプールサイドに持ちだして、ゆっくりと楽しんでいた。朝方近く、東京近辺を疾り去った驟雨が、ちょうどシャワーのように庭を洗い、芝生がしっとりと露をふくみ、木立ちの緑がいっそう鮮やかである。
「先生。朝早くからお邪魔じゃなかったかしら……?」
颯子はにこやかに笑い、親しい口をきいた。
「いやいや。さあ、どうぞどうぞ」
狩野速人は気さくに立ちあがって、一行を迎え入れた。
「今日は休講日だし、ちょうどよいところにきてくれました。それにしても、岩手の洞窟で発見されたというヴィーナス、大変な話題じゃありませんか」
「ええ。それで、きのう、先生にお電話さしあげたんですのよ」
宝泉寺颯子がニュース・キャスターを務める番組で流したヴィーナスの話題は、岩手県の洞窟というローカル色の強い話題だったにも拘わらず、大きな反響を呼んだ。ミロのヴィーナスがまさか、東北で発見されるはずはないので、いずれ、それによく似た鍾乳石の組成物ではあろうが、それほど美しい人間の形をした白亜のヴィーナスなら、早く画面に映しだしてくれ、というのが、大方の視聴者からの声であった。
だが、碧龍洞はその直後、立入禁止措置がとられている。局としては宝泉寺颯子がアシスタントをする今日の午後の婦人番組で、話題のその後を伝えるとともに、美術散歩というコーナーで、ルーブルのヴィーナスが、ギリシャのミロ島の洞窟の中から発見された時の模様などを、美術評論家の狩野速人に語らせようという趣向を、拵《こしら》えたわけである。
幸い、狩野速人は宝泉寺颯子の大学時代の恩師であり、親戚でもあった。電話で交渉したところ、スタジオの薄っぺらなセットよりはうちに来なさい、と狩野は気さくに引受けた。
従って、颯子の仕事は、訪問インタビューという体裁をとることになった。
「さて、と。インタビューの場所はここでいいかな?」
「ええ。録画撮りにぴったりですわ。先生がそこに坐って、私がこちら――」
朝のプールサイド。北欧風の白い装飾テーブルとデッキチェア。芝生と樹々の緑。狩野速人は、さすがにマスコミ馴れしている。
カメラアイまで考え、おはようインタビューの場所を設営して、待ってくれていたらしい。スタッフがカメラやマイクをセットしている間、狩野は椅子にすわってダンヒルのパイプをくわえ、颯子をしげしげと見つめた。
五十歳を少しすぎた上品な紳士で、サマーセーターにスラックス、という恰好は、このまま芝生にだすと、美術評論家というよりは、プロゴルファーのようにみえる。
「颯ちゃんも、見違えるように元気になったね。妙な男につかまって、一時はどうなることかと思って、心配してたんだぞ」
「いやだわ、先生。まだビデオは回っていないのでいいけど、プライベートなお話は禁物」
颯子は、唇に指をあてた。颯子も今朝は、麻のジャケットをぬぐと、清潔なフォルミカの水色のセーターに、白いパンタロン。美術番組の案内役としてはうってつけの質素で、知的なドレスアップである。
狩野速人は、宝泉寺颯子の叔父にあたる。颯子の叔母である宝泉寺|碧《みどり》は、芸大出の美貌の女流画家だったが、この狩野速人と結婚してかれこれ、もう九年になる。だが、碧は結婚後数年で、パリに絵の勉強にゆくといって日本を出たまま、帰国してはいない。
事実上、狩野速人は独身といってよかった。颯子が、フリーのルポライター伊吹敏男に入れこんでいる間も、あんな男はよせ、とひっきりなしに電話をよこして、親身に心配してくれていたのである。
準備がととのい、女性ディレクターが、キューをだした。インタビュー番組の撮影、といっても録画である。ビデオ・フィルムは、あとで局の副調室で、ルーブルのヴィーナスの画像を入れながら、どうにでも編集できる。気軽に応じて下さい、と颯子は説明して、ミロのヴィーナスについてのレクチャー拝聴となった。
一問一答。颯子が前置きをのべて、切りだす。狩野は充分、資料を調べて、想定問答《リハーサル》をしていたらしく、椅子に足を組んですわり、流暢に答えた。
「ヴィーナスといえば、女性の美の極致といわれていますが、まずどのあたりに魅力があるのでしょうか?」
「……そうですね。ミロのヴィーナスは、女性の美の極致というよりは、まずギリシャ美術の極致というほうが、正解でしょう。なぜかといえば、それまでの女神《ヴイーナス》がいずれも、衣裳をまとって神格化されていたのに対し、ミロあたりから、女神は衣裳をぬぎはじめる。
専門的にいうと、紀元前三世紀ごろ、アレキサンダー大王が遠征を企て、大ギリシャを建設したヘレニズム期のものなわけです。それ以前の、いわゆるアフロディーテ、つまりヴィーナスという名の女神像と決定的に違うところは、ヘレニズム期を境として、ヴィーナスがいよいよ衣裳をかなぐりすて、その素晴らしい身体を外気にさらし、人間的な女神像に変わってゆくという点でございまして……」
「先生、ちょっと。衣裳をぬぐことが、人間的なこと、というわけですか?」
「いやだねえ、宝泉寺さん。――そうじゃ、ありませんか。人間はもともと、裸です。一切の宗教的束縛から解放されて、裸体をエーゲ海の太陽の下に輝かせる。これが人間的なことでなくて、何でしょう。宝泉寺さんだって、恋人とベッドインする時は――」
狩野はテレビでも、平気できわどいことをいう。そのへんに、婦人層にうける秘密が窺える。はいはい、よくわかりました、と颯子がみずみずしい微笑をうかべ、
「そうすると、ヴィーナスというのは、たくさんあるわけですね。私たち日本人は、ともすると、ヴィーナスといえば、すぐにミロのヴィーナスを思いうかべますが」
「ええ。それほど、ミロが有名だからでしょう。でも、ルネッサンス美術を思いだしていただければおわかりのように、ボッティチェルリの有名なヴィーナス誕生≠ニいう名画があるでしょう。ほら、裸の女神が貝にのって、海に現われる。あれも、ヴィーナスです。
いえ、ヨーロッパの美術や宗教画の中では、ヴィーナスというのは、実にたくさん登場する。……でも、このミロが、そう呼ばれるのは、一八二〇年に、エーゲ海の島の一つ、ミロ島の洞窟のなかから、土地のお百姓さんによって、発見されたからです。その洞窟の中には、実はヴィーナスだけではなく、現在、イギリスの大英博物館にはいっているジュピターの頭部や、ギリシャのアテネ美術館にはいっている巨大なポセイドン像などとともに、一緒に発掘されたわけです。
で、当時、このミロのヴィーナスをめぐって大変な騒ぎがおき、イギリス、フランス、地元ギリシャ三ヵ国が、戦争まがいの争奪戦を演じたものです。いま、ミロのヴィーナスがなぜルーブルにあるかと申しますと、時はナポレオン一世が失脚して、王制復古でルイ十八世の時代。フランスは世界中で、イギリスをむこうにまわして美術品獲得競争を演じていた時ですので、ルイ十八世はとうとう軍艦まで派遣してそれを奪おうと……」
インタビューはそんな具合にはじまり、ざっと三十分余もつづいた。狩野はつぎつぎに、博学なところをみせた。話が少し専門的になって視聴者が退屈するかな、と思える段になるとすかさず、
「ところで、宝泉寺さん。ミロのヴィーナスは、処女だったと思いますか? それとも非処女だったと思いますか?」
きわどい話題をなげかけて、飽きさせない。
「まあ、先生。そんなこと――」
颯子のほうが頬を染めてたじたじとなると、
「実はこれは、面白いテーマなんです。何世紀にもわたって、フランスの専門家どもが、論争しあっている。そして現在ではほぼ、明確な一つの結論がでております」
「わかるんですか? そんなことが?」
「ええ、わかります」
「胸のふくらみとか、体型とか、表情とかで?」
「いえ。成熟した女性か、そうでないかについては、いまおっしゃったような特徴。胸のふくらみとか、体型とか、表情とかも、一応の目やすにはなります。でも、それは解釈のしようで、どちらにでもとれるもので、曖昧《あいまい》です。ただ一ヵ所、ミロのヴィーナスには、処女か非処女かを見分ける、はっきりしたしるしがあります」
「しるし……? まあ」
おうかがいしましょうか、と身をのりだした颯子も、視聴者をそらさないきわどい好奇心をみせている。
「まさか、処女膜とかいう類いでは……?」
「いえいえ。彫刻にそんなものがあるはずはありませんよ」
「では、どんな……?」
「ここに、実物がないのが残念ですがね。ルーブルに行って、ミロのヴィーナスのうしろにまわって、その女体をよく観察すると、その女性が処女だったか、非処女だったかを見分ける個所が、ただ一ヵ所だけあることに、気づくんです。そこはね、お尻の少し上、つまり、|尾※[#「骨」+「砥」のつくり]骨《びていこつ》の少し上のほうに、菱形のくっきりした筋肉の盛りあがり部分が、明瞭に見分けられる。これは日本でも、腰えくぼといわれるもので、お尻の、そんなところに、筋肉の盛りあがりがあるというのは、よほど……何といいますか……お腰を充分に使いこんで……男性と豊富な性生活を営んだ女性であるという証拠で……つまり、ヴィーナスのモデルは、極めて魅力的な、成熟した女性だったというわけです。恐らくは――」
宝泉寺颯子さんと同じように、ギリシャの社交界でも、多くの浮名を流した人気女性だったに違いありませんね。というふうにくだけた盛りあがりをみせて、インタビューは終わった。
上々の首尾に、颯子はいたく満足した。
出されていた紅茶に手をつけて、
「ところで、先生。岩手のそのヴィーナスですけど、本当にミロ島の洞窟みたいなことが、起きたのかしら? つまり、そこに古い美術品がたくさん隠されていた、というような――」
「それは、ちょっと」
狩野は首をふった。「考えられませんね。そんな辺境の洞窟に、世界的な美術品が隠されていたなんて、まずありえないと思う。中国の古い壺か何かが隠されていた、ということなら、あのへんは藤原三代もあるし、古い貿易港もあるので、一応、考えられはするけど」
「でも、学生たちはヴィーナスといって騒いでいるんですよ。本物だとお思いになる?」
「黄金伝説か何かの話題としてなら面白いが、真偽のほうはどうもね。仮に自然のものだとしても、いくら鍾乳石というものが長い年月の間に、いろいろな形を作るといっても、それほど精巧な人間の形を刻んだというのは、本当のところ、信じがたい。もし、それが本当にヴィーナスの形をしているのなら、明らかに人間の手が加わっている、とみるしかないだろうね」
カメラはもう回ってはいないので、二人ともくだけた調子で話している。
「具体的には?」
「たとえば、どこかの画学生がさ、石膏でミロのヴィーナスに似せたものを作って、世間の耳目を集めようとして洞窟の奥に、運びこんでおいたとか。あるいは、その洞窟の中にもともとあったまっ白い鍾乳石を利用して、ミロのヴィーナスと同じものを彫刻したとか。いずれにしろ、そんなふうな作為が、感じられるね。
颯ちゃん、今の芸術はね、社会進出といって、アトリエにこもって制作するより、街なかや自然にあるオブジェを逆手につかって、大胆な社会訴求をしようとする、そういう一派がある。だから、その岩手の洞窟のヴィーナスもだな、そういう若い芸術家たちが何かを企んで、世間を相手に一芝居打った、とするなら、それはそれで、私は充分、面白いと思って、なりゆきを見つめてるんだけどね」
「先生。あと一つ、解釈があるんですのよ」
颯子はハンドバッグから煙草をとりだした。
番組の仕事はもう終わったので、気楽な姿勢をして煙草に火をつけ、それからテーブルに頬杖をついた。
「あと一つ? どういうことだい?」
一番、おもしろい解釈なんです、と颯子は笑った。
「死体変異説。これはまだ、オフレコですけど、一部ではすでに、そういう声もあがっています。だから地元では、あわてて現場への第三者の立入禁止措置をとったのではないか、と私たちは見ています。警察なら当然、そんな特殊な殺人現場をマスコミの人に、どやどやと荒されたくはないでしょうから」
「死体変異説か。ほう、すると、女性の全裸死体が、何かの加減で、ヴィーナスのように、白く結晶したというわけかな?」
神の怒りにふれて、人間が岩になったり、塩になったり、というのは聖書によくでてくるけど、白亜のヴィーナスになった、というのは面白いね、――狩野は、興味深げな顔をした。
「ええ。外国では現実にそういうケースが、あったんですって。おじさまなら、これ、どう思うかしら?」
先生、がいつのまにかおじさま、と変わって、颯子はそらさない眼を、狩野にむけていた。
「おいおい、颯ちゃん。私は、地質学者や考古学者じゃないよ。そういうことは、その道の専門家にインタビューしてもらわないと――」
「あらあら、ごめんなさい」
颯子は笑い、謝まった。それからインタビューの礼をのべ、ハンドバッグをとりあげて立ちあがった時、
「ところで、碧おばさまから、音信ある?」
「ないね。とんと」
「東北旅行に出かけたまま、失踪しちゃったんじゃなかったかしら」
「いや、そりゃあ、違うよ。あいつは、パリにいったまま、帰ってこないんだよ」
狩野が、何を勘違いしているんだ、という顔で颯子をたしなめた。
「パリに行ったまま帰ってこないなんて、おばさまも変ねえ。私にも、絵はがき一本こないなんて。むかしは、よくルーブルの絵はがきがきていたのに」
「あいつは、そんなやつなんだ。気紛れでね。今ごろは、スペインあたりに腰をすえてるんじゃないかな。そのうち、七年間分の絵はがきが束になって、どさっと配達されてくるんじゃないかな」
「それで、おじさまはとうとう、除籍処分を」
「ああ、そのほうがあいつのためにもいいだろうと思ってね。家裁に相談したところ、どちらか一方の配偶者が失踪したまま、七年間も音沙汰ない場合、抹籍してもいいって――」
颯子は、その美しい眉をひそめた。
「おかわいそう」
「碧がか?」
「いえ。どちらも」
「どうして?」
「だって、おばさまがもし、パリかスペインで、まだお元気で、絵をおかきになっているとしたら、一方的に離婚されることになるんでしょう?」
「どこかに愛人でもいるに違いないさ。何しろ、自由奔放な女だったからね」
「それなら、やはりおじさまのほうが可哀想だわ」
「どうしたんだ? 颯ちゃん。今朝はいやに、私のことに搦《から》むじゃないか。インタビューはもうすんだのかい?」
鳴沢秀彦にとっては、つらい出社になった。
土曜日。休みは隔週二日制なので、今週は出勤である。ヴィーナスの知らせを受けたゆうべまでは、かなり強気だった秀彦だが、花村ゆう子をともなってあの洞窟にむかった旅を克明に思いだしてしまった今は、衝撃が深い。
朝、社屋にはいってまずのったエレベーターは、花村ゆう子が昇り降りしていたエレベーターであり、顔をだす秘書室も、花村ゆう子が坐っていた部屋なのである。
血液が頭のてっぺんから腰の下へすうっと、すべりおちてゆくような不快感。十二階までノンストップ。風洞を猛スピードで上昇するエレベーターの中で、秀彦は額に、手をあてた。いつも血色のいい彼の顔も、今日は青黄色く褪《あ》せていた。ゆうべは、満足に寝てはいない。今朝は食事さえ、喉を通らなかった。そこそこ、悪党のつもりだったが、自分がこれほど小心なサラリーマンだったのかと、改めて、情けない思いがした。
あの洞窟の奥で、花村ゆう子がヴィーナスに変身して横たわっている、と思うと、嘔吐をもよおしそうである。秀彦は艶のない唇を、噛みしめた。
階を示す標識灯の赤ランプが、眼に痛い。つぎつぎに移る目盛りの赤色サインが、頭痛を見舞いそうだ。わずか十二階まで翔かけあがるエレベーターが、こんなにも長く遠く感じられたことはなかった。
廊下は小走りに往来する人で溢れていた。人間は、病気や逆境におかれてはじめて、ごくふつうの健康さやまともな日常というもののありがたさに、気づくのだ。
もし、発見された洞窟のヴィーナスが、花村ゆう子の死体だということが判明すれば、おれの将来は失われる。いや、今すでにおれの秘密を知っている人間が、この地上にいる。その人間が警察に告げれば、おれの生活も、平和も、人生も、何もかもが破壊されよう。
それを、腕をこまぬいてただ見ているだけでいいのか。脅迫され、その男に鼻づらをひきまわされるだけでいいのか。むろん、自分が犯した七年前の犯罪。こいつは重い。だがあの場合、企業の中にいるおれとしては、そうするよりほかに、なかったのではないか。
秘書室にはいると、すぐに卓上の電話が鳴りはじめていた。とりあげると橋場会長からの呼びだしであった。昨日、仙台に出張していたはずの橋場が、もう東京に舞い戻っている。
今朝、一番の新幹線で帰京したということか。
ただならぬものを、感じた。橋場も昨日のテレビニュースを見たのかもしれない。舞い込んでいたヴィーナスの写真を、あのニュースは容易に、想起させる。
「すぐ参ります」
受話器をおき、
「会長は、定時にきたのかい?」
家田佳子に訊いた。
「いえ。今さっきよ」
腕時計をみた。午前十時である。盗難車の被害届をだすために碑文谷署に寄ったので、一時間、秀彦のほうが遅刻している。
社長室にはいると、橋場の緊張した顔が睨んだ。
「ゆうべ、仙台でニュースを見たぞ。鳴沢君。岩手で発見されたヴィーナスというやつと、わしのところに舞い込んでいたヴィーナスの写真。何か、関係あるんじゃないかね?」
橋場には、七年前、ゆう子をどう懐柔したかについては、詳しく報告してはいない。事後報告を求められた時、彼女には因果をふくめ、手切金を渡し、親戚のある九州に去らせました、と報告しただけである。
橋場が、それを信じたかどうかは、疑わしい。あうんの呼吸である。いくら下知されたとはいえ、娘と結婚させようという男が、殺人の報告をするのを好む男というものがいるはずはなかった。
その後、二度と花村ゆう子のことが二人の間で話題になることは、なかった。秀彦の処置がすべて、完全だったからである。少なくとも、今日までは、だ――。
あの日、碧龍洞を出たのは、午後二時であった。ゆう子の着衣、指輪からアクセサリー、帽子など、身許がわかるようなものはすべて、むしりとってきた。たとえ、死体が発見されても、身許がわかるはずはなかった。林の中に隠していた車にのり、安家の旅館に戻る間、あたりを警戒したが、辺境の山道のこととて、誰一人、人間というものには、出会わなかった。
旅館のおかみには、同伴の女性はバス停で待たせているといい、かなり多額の謝礼を払って車を戻し、そこを辞したのだ。
おかみも別段、あやしみはしなかった。安家発午後三時半のバスにのり、岩泉に戻ると、あとはもう上りの列車にのるだけであった。
列車にのれば、ただの旅行者である。盛岡に戻る間も、東京に戻る間も、周囲には誰一人、秀彦に関心を払う者や、尾行者らしいものの姿はなかったはずである。
ゆう子が仙台地検に密告するために用意していた郵便物は、ハンドバッグに入れたまま車に置いていたので、これはむろん、秀彦が入手したことになる。着衣等の遺留品もあわせて、ボストンバッグに入れて、東京に持ち帰った。ゆう子が入手していたコピー等の資料は、自分の机の抽出しの奥に鍵をかけてしまい、ゆう子の遺留品はすべて、マンションの焼却炉で、焼きすててしまったのである。
それでもう完全に、東北の秘境に消えたゆう子の足跡は、この世から断ち切られたはずであった。むろん、帰京後数ヵ月は、ゆう子の身寄りからだされた家出人捜索願のゆくえと、あの洞窟から死体が発見されはしないかという懸念に、秀彦は怯えて暮らした。
が、その二つはまったくの杞憂に終わった。死体はいつまでも発見されはしなかったし、家出人捜索願のほうも、これという結果を得られず、何の心配もなくなったのである。
結局、翌年の春、この橋場の娘、聡子と東京で盛大な結婚式をあげた時には、秀彦は事実上、ゆう子のことなどもう完全に、念頭から消し去っていたといっていい。
「え。なぜ、黙っている? 岩手のヴィーナスの話題と、わしのところに届いていた脅迫写真。この二つは関係あるのかね? ないのかね?」
わしはそれを心配して、一番の新幹線ですっ飛んできたんだぞ、と橋場はテーブルを叩いた。
秀彦が沈黙していたのは、橋場に過去の事実を報告すべきかどうか。それを、迷ったからである。まさか今朝すぐに、呼びつけられるとは、思わなかった。心の整理が、まだついてはいないのである。
あの年、ゆう子を懐柔したということが、実は始末したのだということ。さらに今、騒がれているヴィーナスというのは、ゆう子の死体である公算が強いこと。いや、すでにその秘密を握って、何者かがゆうべから脅迫してきていること――。
それを全部、言うべきかどうか。
「鳴沢君。なぜ、黙っている。わしに、言えんことかね?」
橋場が苛々したように執務机から離れ、ソファにまわりこんできた。
「いえ」――秀彦は、重い口をひらいた。
「ヴィーナスの写真を送りつけたと思える男から、実は私も脅迫電話をうけております」
硬い口調で、そう切りだした。
「脅迫電話? どういうことだね?」
「会長、あのヴィーナスというやつは、実は……」
秀彦は、言うべきであると決心した。
今夜、電話の男と取引をすることになる。洞窟内で写したという女の写真を、相手が幾らで売りつけようとしているのかはわからない。百万や二百万なら、自分の能力で何とか打開できるが、一千万円以上の金額になると、もうお手あげである。しかも、その公算が強い。いずれ社長室交際費か、調整費の応援を得なければ、対応できるものではなかった。
いや、相手は、橋場宛のワープロの投書で、最初からそう脅迫していたではないか。これは一秘書室長の秘密にとどまることではなく、東北観光、ひいては東北交通コンツェルンの根幹に関わることだと――。
自分がゆう子を始末した事柄の本質も、今考えてみればたしかに、そこにあったではないか。企業防衛。まさに、それである。
とすれば、きのうから出没しはじめた脅迫者に対しては、当然、会社をあげて防衛措置をとるべきである。
会社というのは、橋場文造そのものであった。
「ヴィーナスが、どうしたんだね?」
「はい。そのヴィーナスというやつは――」
言い淀み、言い淀み、しかし秀彦はついに思いきって、事実を告げた。
「なんだとおー?」
橋場は途中から、腰を浮かせた。
秀彦に全部までは、言わせなかった。
「花村ゆう子を、殺しただと!」
「はい。会長に、そう命令されましたので」
頭を垂れて、秀彦は真実を告げた。
沈黙がきた。
長い沈黙だった。が、やがて、
「ばかな!」
野太い一喝がきた。
「何を、ばかなことをいう。私が命令しただと?」
「はい。あの時、私は会長の意を体《たい》しまして」
「待ちたまえ!」
と、橋場がするどく遮った。
「秘書がわしの意を体して動く。これは、当たり前だ。が、わしはあの時、何も花村ゆう子君を殺せ、などと命令した覚えはないぞ」
「しかし、会長は、口を封じろとおっしゃいました。ゆう子をうまく懐柔して、秘密が外に洩れないように針をぬけ、と命令されました」
社長の命令は、絶対である。あの場合、懐柔する、という語節より、秘密を外に洩れないようにしろ、という結語に、より比重が重くなるのは、当然ではないか。ましてゆう子をうまく懐柔できなかったあの場合、秘密を外に洩れさせないためには、手段は一つしかなかったではないか。それが、社長への、いや会社への忠誠というものではなかったか。
あの時、橋場はたしかに、ゆう子を殺せ、とか、始末しろ、とか具体的に、指示したわけではない。終戦直後の激動期、闇市をのし歩いていた頃の橋場なら、そういう修羅場を再三、かいくぐってきたのだから、具体的な言葉をのべたかもしれない。だが、七年前といえば、日本はもう豊かな安定期だ。市民生活は、秩序だっている。会社の最高責任者がまさか、一人の人間を殺せ、などと、そんな露骨なことを指示するわけはない。
裁量を、秀彦に任せたわけである。
人間一人ぐらい、虫けらのように踏みつぶしてのしあがってきた橋場のような男が、きみの力で解決したまえ、と指示したとなると、どういうことを意味するか。当時の秀彦のような立場にいる人間なら、当然、考えつく結論は一つであった。
その上、眼の前に、一人娘の聡子という餌が、ぶらさがっていたのだ。社長の娘と結婚する、ということがこの種のワンマン体制の企業のなかにいる人間なら、どういう結果をもたらすか、答えはわかっている。
そういう形にすることで、秀彦の恋人であるゆう子を社内から抹殺し、聡子と結婚させ、いわば運命共同体的な抱きこみをはかって、局面を打開しようとしたのではないか、この男は。
少なくとも、あの当時の秀彦は、そう考えていた。
そしてその線に沿って、勇気をふるい起こして、行動したのである。
それを今さら、橋場は――。
「ばかなことをする! 実際、ばかなことを!」
抑えようのない怒声が、まだつづいていた。
「考えてもみたまえ。自分の娘と結婚させようという男に、殺人の命令をする人間が、いったいどこの世界にいる? 鳴沢君! きみの常識はいったい、どうなっているんだね? きみの頭は一体、どうなっているんだ!」
秀彦は、絶句した。言葉がない。常識的にいえば、まさにその通りである。だが、この橋場文造はそういう常識というものが通用する男だったかどうか。
通用する男ではない、と当時は、そう考えたからこそ、決断したわけだが、それすら、自分の思いすごしだったとすれば、おれは取り返しのつかない誤ちをやったことになる。
「しかし、会長。私としましては、あの時……」
未練がましかったが、秀彦はもぞもぞと、当時の自分の心境を述べた。そんなふうに搦《から》むことでしか、自分の立場の言い訳はたたなかった。
「鳴沢君。わしはそんな女々しい言い訳をする人間とは思わなかったぞ、きみのことをだ。黙って頭をさげさえすれば、金はだす。ヴィーナスの写真を売ろうという、その卑怯な脅迫者対策とやらに、すぐ取りかかりたまえ」
語気するどく命じたあと、「――だが、きみのそのような態度をみていると、その脅迫者対策さえ、きみなんかにはまかせてはおけないという気がする」
「いえ。金さえ調達していただければ、私が責任をもって――」
「責任をもって……?」
じろっと、秀彦を睨んだ。
「責任をもって、どうするんだね?」
「いえ。それはまだ――」
ふむ、と橋場はじろりと見おろしながら、
「よかろう。まずその男から要求をきいてきたまえ。金ぐらいは、幾らでもだしてやろう。それから――」
橋場は言い淀み、「きみ、その男への対応は対応としてだ。今日からはもううちの社のまわりをうろつかないほうが、よくはないかな。いずれ、岩手の洞窟騒ぎが進捗《しんちよく》すると、わが社が巻きこまれる。きみは社長室にも、秘書室にも出入りしないほうがいい」
「出社に及ばず、と?」
「会社のためではない、きみのためにだ」
「は?」
「わからんかね、きみ。きみは今すぐにでも本当は、どこかに潜伏したほうがいいんじゃないかね?」
あ、と秀彦は驚きの声をあげるところだった。
まったく新しい地平が、そこに現われたのである。
さすがに、橋場は場数を踏んでいる。事態を、先へ先へと読んでいるようだ。
が、秀彦にはそのような刑事事件への対応というものは、はじめて遭遇したことであり、潜伏しろといわれても、具体的にはどういうことをすればよいのか、見当がつかなかった。
「潜伏……といいますと?」
「殺人の時効は、たしか十五年じゃなかったかね?」
「はい、そう記憶しております。でも、あれは七年前でしたから……まだ、八年もあります」
「だから、言っておる。もう半分はすんでいるじゃないか。きみは今すぐにでも、どこかに身を隠したまえ」
身を隠せといっても、どこに身を隠すのか。あの脅迫者はもう、自分のことを調べあげ、自分につきまとっている。もしかしたら、尾行までしているのではないか。自分が逃げた瞬間、相手は警察に密告し、その瞬間、自分は指名手配犯となる。
沈黙した秀彦を見おろし、橋場が口をひらいた。
「きみはたしか、四国の出身だったな」
「はあ」
「高知県|宿毛《すくも》だったか」
橋場の表情に、少しは最初の怒気が鎮まりかけている。これまで意をかけてきた側近の行末に、同情しはじめている、ともとれる。いや、自分に火の粉がかかってこない方策だけを、この男は考えているのかもしれない。
「宿毛ではなく、近くの中村市ですが」
「いずれにしろ、四国か。東北とは正反対だな。うん。それなら、東京を引払ってそこに帰るという手もある」
「しかし、会長。犯罪者が郷里にたち戻る。これは一番、危険な道だと思いますが」
「じゃ、更にその反対方向。北海道か東北か」
と言いかけ、言葉を宙に置き、「東北。おい、きみはもしかしたら、もう一度、そこに行ってみる必要がありはしないか」
「そこ、といいますと?」
「ばかもの! きまってるじゃないか。岩手県のその洞窟だ。きみは脅迫者に鼻づらつかまれて、すっかりそのヴィーナスを、花村ゆう子の死体だとばかり思いこんでいるようだが、まだそうだと、決まったわけではない。確かめてみる必要がある。発見されたそのヴィーナスが本当に女の死体なのかどうなのか。いや、花村ゆう子なのかどうなのか。そいつをだ」
それは、わかっている。だから今夜、哲学堂下で脅迫者と会って、ヴィーナスの写真を買い、それが花村ゆう子であるかどうかを、確かめてみるのではないか。
「ばかな。写真ぐらい、ニセモノをつくれる。きみの犯罪を嗅ぎつけたやつが、ゆう子に似せた石膏のヴィーナス像でもつくって、どこか薄暗いところで撮影した写真をみせる。そうすると、ますます、きみは信じる。脅迫者の思うつぼにはまってゆくばかりじゃないか」
しかし、と秀彦は言った。「あの洞窟にもぐるというのは、どうも……」
恐ろしいのではない。犯罪者が最初に犯す誤ちは、犯行現場に立ち戻るということだ。事の成否を確かめるために。そしてそこで、警察につかまる。そんな愚かなことだけはすまいと、秀彦はゆうべからずっと、そればかりを必死で、考えていたところである。
「犯罪者が、犯行現場に立ち戻るのではない」
「は?」
「名刺を使うんだよ。名刺を。きみは何のために、東北観光開発総務部長兼秘書室長という、大層な名刺をもっているんだね? ――わが社は、いま東北一帯の観光開発を行っている。岩泉周辺も、秘境のヴェールをぬいで、これからの観光メッカの一つになりつつある。そこでヴィーナス誕生の洞窟が、発見された。一報に接するや、その山を買うために山林地主を抱き込もうと、他社に先がけて現地を訪れた営業担当重役。それぐらいの手腕を発揮できなくて、どうするんだ!」
なるほどと、秀彦は唸った。橋場は、さすがにダーティなことにも、年期がはいっている。あの碧龍洞は、県や国が指定した文化財や、国立公園というわけではなかった。山は、個人の所有である。その地主に札束を積んで、話をつけさえすれば、夜間でもひそかに、洞窟にもぐれるかもしれない。
いや、洞窟を含むその山林全体を買い占める、ということもできる。東北観光は、いつもそういうことをやってきたのである。それさえできれば、その洞窟に対しても所有権を主張でき、立入禁止措置をとって、第三者の逆封じ込め作戦も展開でき、ゆう子の死体は始末できる――。
現に莫大な学術的宝庫とされる内間木洞窟や安家洞でさえもが、その山地主の個人的な所有物であり、現在、入洞する観光客から金をとって、「資源」として「経営」しているのは、そこの農家である。国や県の文化行政は何ひとつ、対応してはいない――。
「わかりました」
秀彦は、一礼した。
たしかに、それが一番良い方法である。
「すぐにでも、現地に飛んでみます」
飛んでみよう。
はいってみるしかない。
鳴沢秀彦はすぐに秘書室に戻り、JRの新幹線窓口に電話をつないだ。今日か、あすにでもすぐに出発しようと考えたが、東北新幹線はすべて、満席だった。
グリーン車でさえも、一枚もなかった。
一時間に一本しか運転していない東北新幹線は、ふだんでさえ早めに手当てしなければとれないが、いまはその上、夏休みにはいっていた。
在来線の夜行か、と秀彦が受話器をおいた時、橋場が珍しく秘書室にまで姿を現わし、切符は? と訊いた。
「三日先まで、満席だそうです。議員会館の友人に頼むか、在来線でゆくか。どっちかの手を考えます」
「ふむ。東北ブームか」
呟き、橋場が内ポケットに手を入れた。
「たしか、あすのやつだった。わしの分がある。それをきみに回そう」
財布をとりだし、橋場はその中から、東北新幹線盛岡までの特急券とグリーン券を一組ぬきだし、秀彦の卓上に置いた。
「十一時発だ。早くはない。わしがとんぼ帰りで仙台と盛岡に戻るつもりだったが、どうやら事態は、きみのほうが急を要するようだ。遠慮はいらん。使いたまえ」
「はい」
「それから」
立ち去りぎわ、橋場が言い残した。
「もし、これからのきみの行動に足手まといになるようだったら、聡子はいつでも引きとってやるぞ」
聡子を引きとる……?
どういう意味です? ときこうとした時、橋場の傲岸《ごうがん》な肩は、もう秘書室のドアのむこうに、消えていた。
鳴沢聡子の胸に、赤い疑念が炎のように噴きあがっていた。
もう間違いなかった。
夫は私に何かを隠している――。
それも今や、愛人なんかの問題ではない。
もっと得体の知れない、どす黒い秘密。私と結婚する前に仕でかしていた殺人事件の秘密を、夫、秀彦は隠しているのではないか。
聡子は、そう思いながら白い陽射しのなかを歩いていた。
アスファルトを、炎が焦がしている。七月の白い炎だった。横断歩道をわたって横丁にそれ、路地の角をまがった時、花屋が目についた。フローリスト、とペンキ文字が吹きつけられたその窓ガラスが涼しそうに見えた。若者たちでごったがえす雑踏と、舗道の照り返しに耐えかねたように飛びこむ、といった按配で、聡子は花屋のなかに身を寄せた。
六本木だった。花の種類が多い。思いっきり派手な洋ランを買った。安くはなかった。そういうものを買うつもりで花屋に入ったわけではなかった。色取りのいい切り花をほんの一束、買うだけでよかったのだが、ランに手をだしたのは、突然の衝動だった。
店員が棚からおろして水をやるのを見ながら、そうだ、この真紅の花なら、気分を紛らしてくれるかもしれない、と思った。
包装紙に包まれた花を手にして、表に出た。街はあいかわらず烈しい陽射しと、雑踏。ビルとビルが接した小路を瀬里奈のほうにあるいて、喫茶店にはいった。窓際の席にすわり、時間をかけてコーヒーを飲み、たばこを三本、吸った。
あの声が、去らない。昼前、田園調布の家に電話をかけてきたあの男の声だ。聡子が居間の掃除を終えた時、電話が鳴ったのである。
取りあげる前から、あの男ではないか、という予感があった。警戒しながら受話器を耳にあてると、案の定、昨日、ヴィーナスを送りつけてきた男の声だった。
いきなり言った。
「奥さん。花村ゆう子さんという女性、ご存知ですか?」
「知りません。電話、いい加減にして下さい。執っこいわね、本当に……」
「岩手のヴィーナス。その花村ゆう子さんに、そっくりだという噂がたっているんですがね」
「そんなこと、私には関係ありませんわ。いたずら電話なら、切りますよ」
「待ちなさい」と、男が鋭く釘をさし、「奥さんが知らないはずはない。今のご主人と結婚なさる前、奥さんはたしか、その女性について充分、調査なさったはずですよ。ほら――」
妙なことを言う。秀彦と結婚する前……?
あ、と聡子は呟いた。秀彦が以前、交際していたという秘書室の女性。たしか、花村ゆう子といった。九州の銀行に再就職したという話だったが、それが……?
「ねえ、おかしいでしょう。岩手で発見されたヴィーナス。その花村ゆう子さんという方に、そっくりだという噂がある。九州に行ったはずの女性が、どうして東北あたりでヴィーナスになるんでしょうかねえ」
「話は、それだけですか?」
「ええ、それだけで充分じゃありませんか。ねえこれ、調べてみる必要がありはしませんか?」
電話というものは、実に暴力的である。
一方的に、脅迫的言辞を弄する。市民には、防衛する手だてがない。こういういやがらせ電話を取り締まる方法、ないのかしら?
話を途中に、聡子は、受話器をおいた。やりかけていた掃除は、だがもう手につかなかった。クリーナーを道具入れにしまい、ソファに坐り、たばこに火をつけた。一瞬、酒が飲みたいと思った。サイドボードの上の花が、わずかに萎《しお》れはじめていた。
聡子はエプロンをはずし、寝室の鏡を覗《のぞ》いて、ちょっと髪に手をやり、化粧を直した。少し派手めの夏服をとりだして身につけ、財布をバッグに放りこみ、家を出た。
そういえば昨日から、秀彦の様子がおかしい。朝、ヴィーナスの写真や石膏が届けられた段階では、顔色ひとつ変えてはいなかったのに、夜、帰宅した時は、蒼ざめていた。冷や汗さえ、流していた。どうやらテレビのニュースが手ひどいショックを与えたと思える。聡子はあまり詮索はしなかったが、やはり洞窟のヴィーナスというのに、秀彦は直接、関わりがあったと思える。
としても、聡子にはなぜ関わりがあるのか、そのへんの詳しい道筋がわからなかった。脅迫者は、そのヴィーナスを花村ゆう子だと告げているのか。なぜ花村ゆう子が、ヴィーナスになっているのか。花村ゆう子は、殺されたというのか。聡子は渋谷に出、六本木にまわり、たいして急ぎもしない買い物をしながら、そんなことを考えつづけた。いけない、いけない。こんなことを考えすぎると、また鬱《ふさ》ぎ症がはじまる……。
気分をかえようと六本木の街角で花屋にとびこみ、洋ランを買い、時間をかけてゆっくりとコーヒーを飲んでいる。だが、気持ちは落着かない。結局、と聡子はスプーンを宙にかざして眺めながら、放心したように呟いた。
夫には、過去があった。それもただ愛人がいたとか、隠し子がいたなどというありふれたことではない。殺人の過去があった、というふうになるのではないのか。
花村ゆう子という女と、ヴィーナスというものの結びつきはわからないが、あの男の電話のニュアンスは、煎《せん》じつめると、そういうふうにとれる。
こういう場合、世間一般の妻はどうするのだろう。
現実は、あまりにも、重い。殺人犯の妻。世の中に対して怯えて暮らすか、肩身の狭い思いに耐えきれず、実家に逃げ帰ったりするのが、相場であろう。
それより少しましで、勇ましい女なら、声高らかに離婚を宣告する。欺されたことの慰謝料をぶんどることも、そこに加わろう。
だが、聡子は、自分がそのいずれにもあてはまらない女であることに、気づいていた。夫はどうやら、自分と結婚するために、その女を殺したらしい。夫を責めたところで、聡子としては、何にもならないわけであった。夫の破滅は、自分の破滅である。またそれをとりまく企業とか、父とか、一族とかの破滅につながるのではないか。脅迫してきた相手と、自分なりに戦う道はないのか。
聡子は立ちあがってレジの傍に歩き、受話器をとりあげた。四谷のクリニックにダイヤルを回したが、鯉沼潤は論文執筆のため、休みをとっているという。青山のマンションの電話番号も知っていたが、仕事を邪魔するのは、はばかられたので聡子は諦め、受話器をおいた。
レジで金を払った。
喫茶店を出た。
タクシーを拾い、碑文谷二丁目、と告げた。花村ゆう子が以前、寄寓していた家は知っている。秀彦と結婚する前、気になって調べておいたのだ。その時は、九州の銀行に再就職したときいていたが、その後、消息があるかどうか。それを確かめてみよう、と思った。
タクシーは、目黒のほうにむかって走った。車窓に、陽のかけらがひしめいていた。その明るい照り返しのなかに、ずっとむかし興信所の報告書のなかで垣間みた、あまり幸多かったとも思えない一人の若い女の顔を、置いてみた。
花村ゆう子の家は白河の造り酒屋だったが、父親が事業に失敗し、一家が離散したことは、聡子も同じ郷里なので、きいていた。ゆう子は弟の隆一郎と一緒に、東京の伯父夫婦にひきとられ、東京で短大を出ている。
聡子が秀彦と結婚する前、彼と別れ、九州に引き払ったというのは、彼女を引きとった伯父のつれあいが、熊本県出身で、熊銀という地方銀行にゆかりがあったかららしい。ゆう子はそれで、東北観光退社後は、九州に移ったというのが、当時、聡子がきいていたその女の身の上話だった。
それがもし本当なら、それ自体は、ありふれた話だ。多分、恋人に裏切られたので、東京には、もう住みたくなかったのだと思える。だとしても、彼女が東京時代に寄寓していた碑文谷の伯父夫婦というのは、まだその住所に住んでいるはずであった。
いや、そういえば弟がいた。彼女には隆一郎という弟がいた。あの当時、たいしてぱっとしない新興私大を卒業したという話だったので、もうとっくに社会人となり、どこかの会社にもぐりこんで、苦労をしているはずである。
年齢からいっても、三十歳前後。とすれば、あの脅迫電話の男と、符節があうのではないか。姉を裏切った男に、何らかの復讐をする。あわよくば、金銭でもせしめる……。
そういうことが、考えられるではないか。
いずれにしろ、その弟というのに、会ってみよう。
事態を、そうして事件を、これは追跡してみなければならない。聡子は今、そう思っていた。聡子は今、自分が燃えあがった真紅の炎に包まれているのを感じていた。
タクシーは目黒通りをそれて、碑文谷の住宅街にはいった。聡子はバッグから手帳をとりだし、ずっと昔からメモしておいた住所書きをたしかめた。こういうものをメモしておいたということは、やはり聡子の念頭から、その女のことがずっと離れなかったからかもしれない。自分でそう思う。二丁目の番地に近い角まできた時、聡子はタクシーをとめた。
「運転手さん、ここでいいわ」 降りた眼の前に、碑文谷二丁目の静かな住宅街が広がっていた。
サレジオ教会の尖塔《せんとう》が、道の奥まった正面にある。左右は、植え込みや生け垣のつづく家々だ。めざす家は、塀の内側に古い二階家をもつひっそりした家だった。建て物が古ぼけていて、庭に木がおい茂っているので、やや陰気くさい。
表札は、花村覚造となっている。
間違いない。まだゆう子の身よりが、ここに住んでいるわけだ。
聡子は、玄関に立ってインターフォンの釦《ボタン》を押した。
返事があり、ドアがひらいて老人が顔をだした。もうとっくに定年退職して余生を送っているといった感じの、白髪の落着いた老人だった。
はい。何か、と老人は柔和な顔で聡子をみた。
聡子は一瞬、言葉につまった。化粧品か家庭用品の訪問販売員のふりをして訪れ、さりげなく目的のことを聞いてみるべきだった。だが、そんな心の準備もせず、一直線にのりこんできたことを悔いながら、
「あの……花村ゆう子さんのおうちは、こちらでしょうか?」
庭で、大学生くらいの若者が、金属バットの素振りをしているのがみえた。その横で、もう一人の、これは三十歳前後と思える陽焼けした男性が、若者と気合いを競いながら、ゴルフ・クラブの素振りをしている。土曜日の、のどかな光景。男がふりあげたゴルフ・クラブの、銀色のアイアンがするどく陽に光った。
「いま、あなた、何とおっしゃいました?」
老人が、聡子の顔をのぞきこんでいた。
「花村ゆう子さん、いらっしゃいますでしょうか?」
老人は驚いて、不意に幽霊でもみるような眼差しで、まじまじと聡子の顔をみた。
「ゆう子の、お友達か何かですか?」
「ええ。白河で……ちょっと」
「ゆう子のことを、ご存知ない?」
「と、おっしゃいますと?」
「ゆう子はあなた、七年前、好きな男と婚前旅行にゆくといって家を出たまま、帰ってはいませんよ。たしか、東北だったと思います。行方不明です。警察に家出人捜索願、というものを出しておりましたが、その後、いっこうに――」
「まあ」
やはり、という思いがきたが、聡子は驚いたふりをして、「九州のほうで、銀行にお勤めだとおうかがいしておりましたので……。それで、ご住所をきこうと」
「九州……ばかな。誰がそんなデマを言ったんです。そりゃあね、家内のやつと一度、熊本に行ったおり、むこうで銀行勤めのいい就職話があったことは、たしかです。でもゆう子は、そんな話が具体化する前に、行方不明になっているんです。うちではもう、死んだものと諦めて、仏壇に位牌さえ飾っております。きっと男に、だまされたんです。ほら、失意の自殺、というのがよくあるでしょう。そんなケースに限って、死体さえ現われない……」
――あなた、お友達ということですが……ゆう子のことで何か、知ってらっしゃるんですか?
のぞきこまれた。聡子はあわてた。いえ、そういうわけではありません、と挨拶もそこそこに一礼して玄関口を辞そうとした時、眼の前に、さっきのゴルフ・クラブをふりまわしていた男が、立っていた。
遠慮のない眼で、聡子の顔をみている。Tシャツに、スラックス。ごくふつうの会社員。その男の顔に不意に何かがよぎり、聡子は肩口を、いきなり、つきとばされそうになった。
「おい! 今ごろ、何しにきた!」
「は――?」
「鳴沢秀彦の奥さんだろう? あんた」
いえ私は、といったが、聡子は嘘がへただ。
「その顔、忘れてはいないよ。だって、姉さんにあんたたちの結婚式の招待状がきていたじゃないか。赤坂の……Tホテルだったか。かわりに、おれが出席したんだ。そのあんたが、姉さんのことを今ごろ、どうして消息うかがいにきたり、嗅ぎまわったりしているんだ!」
秀彦との結婚式にはたしかに、社員一同を招待したことを憶えている。消息不明ではあったが、花村ゆう子はまだ現実に秘書室に籍があったので、この家にも形なりの案内状を送っておいたのだ。
弟であるこの男が、出席していたらしい。そういうことまでは、聡子は覚えてはいない。花村隆一郎がゴルフ・クラブをふりあげんばかりの剣幕で、
「鳴沢の命令かい。え! 自分がすてた女がいまごろどうしているかと。その消息を探ってこいと。え、エリート・コースの亭主にそう命令されたのかい!」
「いえ。そんなわけではありません。近くまできたので、思いだして寄ってみたんです。お姉さんからその後、音信がないかどうか――」
「音信だと……? ばかな! 裏切っておいて、よくもまあ、ぬけぬけと」
ゆう子を裏切ったのは自分ではなく、夫の秀彦である。だが、ゆう子の弟、隆一郎からみれば、二人とも同罪と映るのかもしれない。
聡子は突きもどされ、押しもどされる感じで、門扉を出た。ゴルフ・クラブを振りあげられなかった分だけ、まだましだったかもしれない。
そのかわりに、背後から罵声《ばせい》が、飛んだ。
「とっとと、帰んな。ここはあんたのような女が来るところじゃない。あんたのような、社長ご令嬢がさ――」
花村ゆう子の弟が、もしかしたら脅迫者ではないか、と疑っていたことは、どうやら、あの短気で、健康そうなサラリーマンの印象では、捨てなければならないようだ。うつむいて白い道に歩みだした聡子は、半ブロックも歩かないうちに、うしろから不意に、腕をつかまれていた。
「ちょっと、ちょっと」
トンボめがねをかけた女が、聡子の腕をつかみ、ぐいぐいと横丁の路地にひきずりこんだ。「だめねえ! あなたが、あんなところに押しかけては」
静かな住宅街である。不意に現われた女に、怪訝な眼をむけた。二十七、八歳か。眼鏡《サングラス》がばかに大きいが、シニアルにひっつめた髪や、広い額は聡明そうだし、肩にかけたショルダーバッグや、尻や太腿にぴっちりしたスラックスが、実に垢ぬけしている。
「あなたは?」
聡子は自分を見知っているらしい女を、不思議そうな顔でみつめた。
「私、まり子っていうの。あなたのお父さんとも親しかったし、ご主人とも満更、ご縁がないではないわ。でも今は、そういうことをぬきにして、大変な事件が起きてるのよ」
「まり子さん……って、東北観光経理部の?」
香坂まり子。秀彦から、名前だけはきいたことがある。もっとも、あまり芳しい話ではなかった。横領が発覚し、処置に困っている、という類いの話だった。
「そうよ。もっとも今は本社ではなく、赤坂のホテルのほうに配転されていますけどね。奥さんと、こんなところでお会いするとは、思わなかったわ」
「あなた、どうしてここへ?」
「同じよ。あなたと」
「わかりませんわ。理由が」
「花村ゆう子さんの消息。土曜の休みを利用して、せっかく訪ねてきたところ、あなたのほうが先回りして失敗。何もかもぶちこわしじゃないの」
「どうして、花村さんの消息を?」
「ヴィーナス。ほら、テレビのニュースの」
「それが?」
どうしたの、と聡子は態勢をたてなおそうとした。
「私のマンションにも、ヴィーナスの写真が放りこまれてきたのよ。調べる権利、あるでしょう。失踪したまま七年間、音信不通の花村ゆう子。いわば、私の先輩。その消息をね」
「まだ見つからないんですって」
「ええ。生け垣の傍で立ちぎきしたわ。亡くなったに決まってる」
香坂まり子があまりにも切って捨てるように言ったので、聡子は呆気にとられた。
「本当……? 本当にそうお思いになるの?」
「当たり前でしょ。家族が家出人捜索願をだして、もう七年。何の反応もないということは、亡くなったに決まってるでしょ。すでに七回忌すぎているのよ。それよりねえ、奥さん」
香坂まり子が、不意に顔を近づけた。耳打ちする。え、と聡子は見つめ返し、
「確かめに……?」
「ええ、そうよ。驚くことはないじゃないの。ねえ、二人でその東北のヴィーナス、この眼で真実を確かめにゆきましょうよ」
夜、九時が近づいていた。
めざすマンションは、哲学堂下にあった。
鳴沢秀彦は、停めた車の中にいた。森が、夜を孕《はら》んでいた。車道にゆきかう車は、少なかった。哲学堂下の石垣道に近い裏道である。すぐ先に、五階建てのサニー・ハイツ・マンションが見える。マンションのフロントだけが、にぶく灯りに照らされていた。
たいして大きいマンションではなかった。三〇六号室に待っている、とゆうべの男は、電話で約束した。だが約束の時間に、のこのこ訪問する愚を、秀彦は避けた。
事前に、できるだけ、様子を窺っておきたかった。一時間前から、目立たないところに車を停め、ライトを消して運転席に坐っている。マンションに出入りする人間。それを見張れば、あるいは知った顔に出会うかもしれない。何しろ相手は、正体不明なのだ。花村ゆう子のことや、秀彦の身辺のことを詳しく知っているらしい相手なので、もしかしたら、自分の過去のどこかで、交差する線をもつ人間ではないか。
それなら、顔はわかるし、取引の部屋にはいる前に、一応の、予備知識を得ることができる。
だが、これまでのところ、収穫は皆無だった。
街裏のマンションには、いろんな人種が住んでいるらしい。バー勤めの女。セールスマンふうの男。くたびれた老夫婦。学生。かと思うと、遊び人ふうの男。十人ではきかない男女が、出たりはいったりしているが、秀彦の記憶に結びつく人間は、誰一人としていなかった。
闇の中で、火がにじんだ。秀彦の煙草だ。刑事の張り込み、というわけではないので、煙草ぐらい吸ってもいいだろう。
吸いすぎていた。喉が、いがらっぽくなっている。今日は一日中、秀彦に静穏はなかった。ゆく場所さえなかった。橋場に身を隠せ、と指示された以上、会社にくすぶっているわけにもいかず、幸い土曜日だったので、十一時半には会社を出、秀彦専用のギャランUにのって街に出たが、何をするというあてもなかった。
エリートサラリーマンとして出世コースを一直線に歩いていた男が、ある日、突然、その梯子をはずされそうになった時のぶざまさ。醜さ。虚ろさ。パチンコ、テレビゲーム、歌舞伎町の映画館。街裏にくすぶっていると、すでに自分が逃亡者になったような気持ちにさえなった。
これではいかん、と身も心もひきしめ、女でも抱こうと、駐車場にのりすてていた車をまた拾って麻布にとばし、可奈子の部屋を訪れたが、今日に限って可奈子は、留守だった。それならと、赤坂のホテルに電話をしたが、香坂まり子までが休みで、連絡はとれなかった。
ついていない時は、何もかもがついていない。くそっ、と呟き、秀彦は腕時計をみた。九時に近づいている。煙草を、消した。見張りのむなしさだけが、やってきた。ともかく、あすの東北出発前に、約束の男に会って、写真を確かめてみる。方法は、それしかないようだ。
いや、写真を、ではない。男を確かめにゆく。比重はむしろそちらにある。危害を加えられそうな恐怖も湧いたので、そういう場合は、すぐに逃げられるようにと、車をいったん、Uターンさせて、車首を大通りのほうにむけて、キイをぬきとった。
マンションのフロントは、こぢんまりしていた。
秀彦はエレベーターの釦を押し、三階まで昇った。通路に出、三〇六号室を探すと、棟の端である。
外で見張っていた間、その部屋には人の出入りはなかったことを、確かめている。つまり、相手はずっと、その部屋に待っている、というわけだろう。
ドアをノックした。
返事がない。
ノブに手をかけてまわすと、すっとあいた。
なかは、薄暗かった。奥で人の動く気配がした。いや、気のせいかもしれない。隣室の音かもしれなかった。それほど、部屋は静かだった。
「鳴沢だが、約束のものを――」
二度目に声をかけた時、どうぞ、という声が応じた。
「どうぞ。おあがり下さい」
丁重だが、陰気な声だった。
秀彦は靴をぬぎ、玉のれんを押しわけ、なかに入った。だが、すぐに立ち止まった。まっ正面から舞台照明にでも使うような鋭い光線が秀彦の顔をとらえ、その眩しさに思わず、顔をおおった。
「遠慮しなくても、結構ですよ。どうぞ、おはいり下さい」
ばかにしている。拷問室にでも迎え入れるつもりか。部屋自体、奇妙だ。ヌードカメラマンか何かの、スタジオを思わせる。入ったところにたたきがあり、あとは八畳一間。ふつうならリビングルームとよばれる造りの部屋に、紫色のカーペットが敷かれ、壁にも紫色のクロスが張られている。家具調度類は見あたらず、中央に机が一つと椅子が二脚。
男は、むこう側の椅子に坐っていた。逆光で、顔は見えない。ライトが一条、入口から入った秀彦にむかって、照らされているだけで、あとはほとんど、暗闇といっていい。秀彦は部屋中央の、とっつきの椅子に坐るよう、命じられた。
「お待ちしておりました。時間ちょうどですね」
慇懃《いんぎん》にいう正面の男を見たが、闇の奥に鋳込《いこ》まれているので、その顔は正確には見えない。
老けているようでもあったし、若いようでもあった。ライトはその後ろから鋭く秀彦にあてられており、男はその全身を、すっぽりと闇の奥に埋めこんでいるふうで、卑怯な応対といえた。
「顔を見られたくない、というわけかね。凝った仕掛けをするもんだな」
「それより、ヴィーナスの写真、卓上にあります。ごらん下さい」
テーブルの上にゴムで締められた一束の、写真があった。手にとって見る。十二、三枚はある。手札型だ。ゴム輪をはずして、一枚ずつめくってみた。いずれも、ミロのヴィーナスそっくりの、自亜の女性像が映っている。だが、洞窟の奥で、充分なライティング効果も測らず、急いでストロボを焚いて撮ったものといった印象をぬぐえない。
顔は必ずしも、鮮明ではないのだ。濡れた岩肌とも砂地ともつかないところに、そのヴィーナス像は引きあげられており、下半身にさりげなく白布が掛けられている。
十二枚。全部めくったところで、もう一度、顔を映した数枚を手にした。息を鎮め、見つめ直す。閉じられた瞼、高い鼻すじ、唇に微かに微笑を浮かべている。その顔はたしかに、花村ゆう子そっくりである。
「いかがです?」
男が、訊いた。
「その美人。あなたにとって、忘れられない女性じゃ、ありませんか?」
「碧龍洞の奥で撮ったというのか?」
「そうです。今、話題のヴィーナスですよ。ま、素人写真なので、市販できるようなしろものではありませんがね」
「そこらの画学生に石膏像でも作らせたんじゃあるまいな。この被写体」
「ご冗談を。そんなものを作らせるなら、もっときちっとした写真に仕上がりますよ。いくらあの洞窟の地下水が強酸石灰物質を濃厚に含んでいるにしても、そこに倒れた女の死体。完全無欠なヴィーナスに仕上がるのは、むりですよね。ごらんのとおり、顔は幽霊のようにおぼろだし、腕や片脚の一部は、欠けている。ま、美しいヴィーナス騒ぎといっても、えてして現実は、醜いものでね。どうです。これは、女の死体です。かえって、本物の迫力があるでしょう」
秀彦は息を吸った。吐いた。頬を固くした。男の顔を、まっすぐ見つめた。
「で、これを幾らで売ろうというんだ?」
「たいして吹っかけはしません。実費だけで、結構ですよ」
「実費だけ?」
「そうです。だってあなたにとっては、こんな写真、何の意味もない。写真をみて、ひとまずお知りあいの女性かどうかを確かめ、そしてその上で、要は、碧龍洞の奥にまだ横たわっている実物のヴィーナスをどうするか。自分に災厄がふりかかってこないためには、どうするか。その肝心の仕事のほうこそ、大変なわけでしょう」
「それにしても、安すぎるじゃないか」
「実費といっても、二百万円。今は、旅費、宿泊費。諸経費、高くつきますからね」
「それだけで、口を噤《つぐ》むのか」
「交換条件は、金だけではありません」
「なに……!」
「私の目的は、ヴィーナスでも、その殺人事件でもない。いかがです? 東北観光、いえ、東北交通会長側近ナンバーワンの鳴沢秀彦さん。あなたなら、東北交通がいままでやってきた新幹線駅前用地取得や、JR宮森線買収などをめぐるもろもろの材料、お持ちのはずです。それを全部、渡していただきたい。渡していただければ、私たちはこの問題についてはいっさい、口を噤みます」
秀彦は、肚のなかで唸った。
読めた、と思った。相手の狙いが。
なるほど、相手の目的は金銭ではなかったわけか。
意外である、というよりは、当然だったかもしれない。おれを脅迫している連中がもし、経済界の裏でいま暗躍している総会屋崩れの恫喝師とか、脅喝屋とかいわれる連中だとしたら、その材料を手にするほうが、はるかに巨額の金になるわけである。東北交通という、一つの巨大企業を相手に恫喝が仕組めるし、情報をよそに流してもいい。
いや、もしかしたら、それほど大物の恫喝師というよりは、そこらのハイエナのような情報屋ではないのか?
宝泉寺颯子の前夫は、たしかにその手の恐《こわ》もて情報屋だったときいている。
秀彦は、表情の見えない相手に多少、苛立ちながら、その相手の正体を確かめるために、交渉をすすめた。
「金は、だそう。企業秘密の資料も、もしかしたら、相談にのらんでもない。だがその前に、きみは何者だ? 顔を見せてもらおうか。正体もわからない相手と、取引することなんか、できんね」
「その必要はありませんね。信用取引は、双方の信用があるだけでいい」
「顔をみせろ!」
「動くな!」
秀彦がたちあがろうとした時、鞭のような声が飛んだ。「鳴沢さん。取引は、静かに坐ってやりましょうよ。あなたがもし私たちの言い分をきいてくださったら、私たちも、あなたの苦境打開に協力するかもしれませんよ」
「協力だと――?」
どういうことだい、と秀彦はたしなめられて、尻をまた椅子におろした。
「あの洞窟から、ヴィーナスを盗みだす。二度と、人目につかないところに隠すか、壊してしまう。そうすれば、あなたはもう、死体を始末したわけで、証拠は失なわれ、永遠に殺人罪に怯えなくていい」
「そんなことが、できるのか?」
「できますとも。たとえ、警察が介入して、現場検証のため洞窟の入口を封鎖したところで、あの洞窟ならどこからでも、ヴィーナスを盗みだすことができる」
秀彦の脳裡に、すでに有名になっている龍泉洞のことが、閃いた。龍泉洞は、宇霊羅山のふもとに開口しているが、洞窟の奥は迷路になっていて、地下河や支洞が四通八達している。音床山というとんでもない山の頂上付近に、ぽっかり支洞の出口があったりするという。
なるほど、あの碧龍洞も探せばそれに似た支洞の出口があるかもしれない。地下水は、もっと別の迷路をとって、別の峡谷か、安家川に、通じているかもしれない。それを、この男は知っているらしい。よろしい。ヴィーナスを盗めるかもしれんぞ、と秀彦は脳にそのことをしっかりとインプットしておき、相手の話には乗らないことにした。
「とにかく、きみの正体をききたい。そうでなければ、交渉には応じられんね」
「顔をみせても、あなたはご存知ない」
「伊吹敏男か!」
「違いますね」
「顔をみせろ!」
立ちあがり、手をのばして正面の男の胸ぐらをつかもうとした。だがテーブルは広く、届かない。秀彦は荒い息を吐いて、テーブルをまわった。その拍子に、秀彦の椅子が激しく倒れた。大きな音がしたが、男は微動だにしない。その落着きぶりに秀彦はかっと逆上し、
「おい、きさまは誰だ! 顔をみせろ!」
椅子に坐った男に手をのばして、つかみかかった。
胸ぐらをつかんでゆすったが、反応がない。男の顔が、ぐらぐらと揺れた。光線のほうにその男の顔をねじむけようとした時、勢いあまって秀彦はその男とともに、床に倒れていた。いや、正確にいえばその男が坐っている椅子とともに、床に倒れたというべきであろう。
転んだのに、男は身動き一つしなかった。
胸ぐらをつかんでいる手が、ひやっとした。男の顔が、仰むけになっていた。かっと眼を剥いている。その瞳孔がまばたき一つしない。転んだ拍子に、頭でも打って気絶したのかと、秀彦はあわてて、男の頬をゆすり、一、二度、平手打ちをくわした。だが掌には、冷たい感触しかこなかった。
心臓が鳴った。
軋《きし》んだ。死んでいる……!
秀彦はあわてて男の手首を握り、心臓に耳をおしあてた。
搏動も、鼓動もとまっていた。
やはり、死んでいる……!
この冷たさでは、十分や二十分前に死んだものとは、思えない。するとおれは……はじめから死んでいた男を相手に、取引していたことになる。
秀彦は肺一杯に、空気を吸った。気持ちを落着かせ、ポケットからライターをとりだし、火をつけた。ライターの炎で倒れた男の顔を照らした。中年にはやや間があるが、三十前後の、いやにあくのつよい顔であった。
見憶えがない。この男がもし、宝泉寺颯子の前夫、伊吹敏男だとしても、秀彦はその顔を知ってはいなかった。血は一滴も流れてはいないし、外傷もない。すると、首でも締められて殺されたのではないか。よくみると、なるほど、派手めの赤と黒のストライプのネクタイが、きつく首にくいこんでいる。
おれはこれまで、この部屋で会話を交わし、交渉をした。死者が、声をだすはずはない。この部屋に、もう一人、男がひそんでいたことになる。それとも、部屋に仕掛けられていたマイクか録音機?
いや、録音機であるはずはない。今の今まで、相手は当意即妙に応答していたのだ。たとえマイクの類いを使っていたにしろ、この部屋の押入れか、テラスか、どこかにもう一人の男がひそんでいたことになる。
秀彦は血相をかえて、押入れをあけた。ふとんを引っぱりだしたが、誰もはいってはいない。キッチン、物入れ、洗面所……とかたっぱしにドアをあけたが、男の姿はなかった。
テラスかもしれない、と走ろうとした時、
「鳴沢さん。そんな見苦しい真似は、やめなさい。あなたは今、ドアや押入れや部屋じゅうに、ご自分の指紋をつけてまわっているのですよ。そんなことをしたら、あとで拭けなくなるじゃありませんか。あなたに、この男に対する殺人容疑がかかってもいいんですか? そうでなくても、すでに……ともかく、椅子に戻るんです」
秀彦は、椅子に坐った。また新たにここで殺人容疑者に嵌《は》めこまれたら、たまらない。いや、死んでいるこの男は、何者なのか? すでにおれは、新たな殺人容疑者にされるための罠に、はまっているのではないか?
「さて、取引のつづきに移りましょう。これから、今夜の取引の結論を申しあげます。実費二百万円と、あなたが所持している東北交通の不正工作の資料。もちろん、コピーではなく実物。それを、これから申しあげる場所に、あす、持参していただく」
「おれは、そんなものは持っていない」
「知っておりますよ。いつか、苦境に陥った時、橋場に仕返しでもしなければならない時のために、あなたはすべての資料を、着々とお集めになっている。謀反といっていい。いつぞやの、花村ゆう子の分もある。それを全部、あす――」
「待ってくれ。あすは、仕事で出張がある。時間をかしてくれ、時間を」
「なるほど。資料を揃える時間も、必要かもしれませんね。それじゃあ、あすを入れて三日間、猶予をさしあげましょう。来週の水曜日、これから指定する場所へ資料と現金を持参する。約束を守らなければ、私は東北のヴィーナスの秘密を全部、警察に報告します。よろしいですね?」
男が指示した場所は、ばかに高尚な場所だった。来週、西ドイツのシュツットガルト・シティ・バレエ団が来日公演をする。二十三日、水曜日といえば、ちょうど東京公演の日で、渋谷のNHKホール。その切符を送るから、約束のものを持参して、切符の指定席に坐っているように。
それが、指示であった。
「受取人は?」
「その時にわかります」
「時間ぐらい指示できないのかね?」
「公演は六時半から九時までです。開演に間に合うよう、指定席に坐っていさえすれば、ちゃんと受取人が現われます。心配ご無用……」
「わかった。来週は、シュツットガルト・シティ・バレエを楽しみにしているよ」
手もなくあしらわれた――。
そういう気がする。
秀彦は、中野哲学堂下から、田園調布の自宅に戻った。
午前零時に近くなっていた。門灯のあかりが目に滲んだ時、どっと疲れが押しよせてきた。涙ぐみそうになった。自分の家に戻った時、そういうありがたさを感じたのは、聡子と結婚してこの方、はじめてである。
あの部屋の指紋は、あらかた消してきたつもりである。どこかに潜んでいたらしい男は、ついにつきとめられなかった。ギャランUを会社に戻し、電車とタクシーをのりついできたので、帰宅はそんな時間になっていた。
聡子が、起きていた。
「お帰んなさい」
ドアをあけたところで、鞄を受けとった。
化粧もまだ落としていない。聡子の薄物のブルーの部屋着と、玄関ホールの花器にさされた真紅の洋ランが、いたく目を惹いた。
「お風呂、わいているわよ」
「朝にするよ」
「ガス代がもったいないわ」
「出かけたのか、街に」
「ええ。お買い物」
秀彦は、奥の部屋で服を脱いだ。
脱いだものは、つぎつぎに足許の床に落としてゆく。聡子がハンガーを取ってきて、床に散った夫の脱ぎものを拾いあげては、掛けてゆく。
「もう、お休みになる? コーヒーは?」
「もらおうか」
酒はいい。コーヒーでも飲んで、しゃっきりしよう。あの死体は、誰なのか。脅迫者は、誰なのか。少し、頭を整理しなければならない。
パジャマを着て、リビングに戻った。椅子に腰をおろした。ポットを傾けてインスタントコーヒーを淹《い》れ、聡子がさしだす。
「さっき、お電話があったわ」
「誰から?」
「花村ゆう子、と名乗る女性よ」
「何だって!」
秀彦は、顔をあげた。
「花村ゆう子から?」
氷塊を呑みこんだような気分になった。
秀彦は、シュガーポットからすくいかけていた砂糖をテーブルにこぼした。全身に走った驚愕が、コーヒーカップにのばしかけていた手の動きを、止めた。これ以上、カップまで落とすことになると、妻にさえも言い訳がたたない――。
「本当に……花村ゆう子、と名乗ったのか?」
「ええ。若い女性の方でした。用事があるらしい口ぶりでしたわ」
執っこい、脅迫者ども。さっき金銭と機密資料を要求し、来週の水曜日に落ちあう約束までさせておきながら、それでもまだ足りないというのか。こんどは若い女を使ってまで、おれを追い込んでゆこうとしている。
「はて、知らんな。花村ゆう子なんて」
感情を消した声で、秀彦は答えた。
「以前、秘書室にいらっしゃった方じゃないかしら。あなたのことを、室長いらっしゃいますか、と尋ねていましたから」
「それで、電話の用件は?」
「主人はまだ帰宅していないと答えると、それではあす、会社のほうに改めてお電話をします、ということでしたわ」
「あすはいないよ。出張なんだ」
「そう。私もあしたから、旅行するわ」
「どこへ?」
「ちょっと、九州。お友達とね。熟年旅行にはまだ間があるけど、気晴らしをしようと思って」
「それはいい。妙な写真を投げこまれたり、石膏のヴィーナスが届いたりしていたからな。気分転換でもするといいよ」
「あなたは、どちらへ?」
「盛岡。また土地転がしさ」
「そう。じゃ、このおうち、二人ともしばらく留守ね。留守番電話、しかけておかなくちゃ」
「おやじさんから、電話はないか?」
「ないわ。どうして?」
いや、と首を振った時、聡子はいつでも引き取るぞ、と言い残した橋場の声が甦った。秀彦はコーヒーを飲み終えて立ちあがり、おい、と聡子の手をひいた。
「何を、なさるの。ここは……」
寝室ではありません、と聡子は抗《あらが》った。
「いやな言いかたをするなよ。夫婦だろ」
聡子は、夫の唇から逃れるつもりで、頸《くび》を横に傾けた。その隙に、秀彦の手が動いて、部屋着の胸をはだけられ、乳房をつかまれていた。
「じゃ、ベッドにゆくかい。諍《あらそ》いはごめんだよ」
勝手だわ、いつも……。胸の中で精一杯、夫に毒づいてはみたものの、諍いをまき起こそうという気力は、聡子のほうにも湧いてこない。それより、二人の背後から何かしら恐ろしい闇が襲いかかってきているようだ。
聡子は昨日からずっと、それに対して怯えていた。
花村ゆう子、と名乗る女から電話がかかってきたのは、本当である。一時間ぐらい前だった。今日、碑文谷に行って確かめたように、その名前の女は、もう死んでいるはずである。それも、夫が殺した。誰かが、花村ゆう子の名前を騙《かた》っている。誰が? なぜ?
強い酒が欲しかった。夫が帰ってくる前に、飲んでおけばよかった、と思った。秀彦の手が動き、つかまれてリビングの隣の和室に押し倒された時、聡子は奇妙な興奮を覚えた。殺人者に掴まれた、という思いからではなかった。夫のなかに殺人者が棲んでいる、という思いは、奇妙に屈折した二重の戦慄を聡子のなかにもたらしていた。
聡子の部屋着は荒々しく脱がされ、下着も脱がされた。
「新婚時代みたいね。まるで」
せっかち。軽い口調のなかに、気分をごまかそうとした。聡子は手足をなげだし、ひらいたままの眼を宙にむけていた。何も頭に浮かばなかった。浮かばせまいとした。性器をまさぐりはじめた秀彦の指先には、まだ汲むべきものが湧いていないことがわかる。
だが、そこから体の芯にむかって、するどく漣のように走ってゆくものだけは、たしかにある。
熱い感覚。甘いむずがゆさ。腰全体にひろがろうとする気配。それだけの存在に、なりたかった。燃えるものだけの、存在になりたかった。淫《みだ》らなことを頭に浮かべたとき、聡子のなかでようやく、うるみが湧いてくる気配がした。
聡子は、眼を閉じた。従順な獣になった。
いや、従順で淫らな獣になりたい、と思った。
結婚して六年になるということは、それだけの年月の重みが出来たということだ。秀彦の過去の殺人の疑いが暴かれそうになっている今、だからといって、聡子はすぐに彼を冷たく突き放して、快哉を叫ぶ気にはなれないと思う部分を感じている。
ふだんは、仕事を口実に家庭を省みないし、外に女を作っている夫なんか、冷やかに背をむけていた聡子なのに、身辺に嵐が巻きおこった今、不思議なことにかえって、会社人間として忠誠を尽くそうとしていた秀彦の中に、不憫でならないものを感じ、運命共同体としての、ある種の、一体感さえ感じつつある聡子であった。
これは聡子としては、ずい分の変化である。
ふつうなら鞄持ちあがりの秀彦など、足下にひれ伏せさせていい。そして現に、これまでの日常生活では、それに近い態度を取ってきた。まして今は、秀彦は犯罪者なのだから、汚らわしい、近寄るな、といって足蹴にしてもいい――。
それなのに……それなのに……聡子は今夜、秀彦によって荒々しく抱かれたいと思っている。
荒々しく聡子を押し伏せた秀彦が、乳房に顔をなすりつけて乳首を吸い、揉み、女芯に指の嬲りを加えるにつれ、盛りあがってきた性感の水位に、聡子が身を委せようとしたのも、夫がこのように激しく求めてきたのは、久しぶりだったからである。
聡子は不意に、自分でも納得のゆかない声をあげた。
「ああ……あなた……もっと激しく抱いて! 不倫女の私を、しっかり抱いて、虐めて……虐めて……! お願い!」
聡子も、夫への疑惑の赤い霧の中で、異様な興奮に近い惑乱状態にあった。
けれども、次の瞬間、夫が要求した体位を指示する言葉には、さすがにあっ、と驚いた。
「いやよ、そんな――」
「どうしてなんだ。どうしていやなんだ。どうして礼拝堂スタイルがいやなんだ。さあ、後ろむきになって、神様にぬかずく恰好をとって、ヒップを上にあげるんだ!」
秀彦は凶暴な眼をむけて、聡子のヒップを惧れ気もなく、ペタペタと叩いた。
聡子はこれまで、一度もそういう仕打ちをされたことがない。ヒップを叩かれたこともないし、お犬さんスタイルを取ったことがない。けだもののように、ヒップを上に差しあげて、後ろから恥ずかしいところを夫の眼にもろに晒すなんて、金輪際、いやいや――。
聡子の中に残っているお嬢さん気質の部分が、未だ羞恥と怒りにふるえて拒否しようとしている。
けれども秀彦は、情容赦なく、平手で尻を叩いた。
「礼拝堂スタイルが、どうしていやなんだ。神様にお祈りを捧げる、敬虔なスタイルじゃないか。さあ、ぐずぐずせずに、両手で枕を抱えてヒップを高く差しあげるんだよう!」
秀彦は情容赦なく、ヒップを叩きつづけた。
そういうことも、今までの夫婦生活には一度もないことだった。乱暴に叩かれて、聡子は不思議な陶酔とその行為への誘惑を覚え、
「ああ……あなた、今、ぬかずくわ。礼拝堂のスタイルをとればいいのね」
聡子はそう言うと、漸くいそいそと、四つん這いになって、ヒップを高く差しあげた。
「こう、なの?」
「ああ、そうさ。もっと、膝を広げるんだ。そうして、このヒップをもっと高くあげて、あなた、して下さい、とお祈りするんだ!」
「ああ……秀彦……私にむかって……乱暴……何てことを……!」
けれども、そう言いながら、聡子は指示されるままの姿勢をとった。
秀彦が後ろにまわった。聡子の腰を片手でぐいと抱き寄せ、片手で秘部をまさぐる。指が毛に触られた。割れ目に跳梁した。出没した。水音が立った。ぬらついているじゃないか、と言い終わらないうち、秀彦は臀裂のはざまに、いきなり硬直を突きたててきた。
「あうっ」
聡子の顎があがり、背中が反った。
突んのめるように前傾して、衝撃に耐えた。
秀彦はぐぐっと、奥まで火の塊まりのような硬直を突き埋ずめこんできた。
聡子は臀裂が裂けそうな思いに耐え、胃袋まで突きあげられるような気がした。
安定すると、秀彦は両手でますます力一杯、ヒップを掴んだ。ぐいぐい灼熱の棒を抽送して、聡子を蹂躙しはじめた。
「ああ……ああ……何てことを……あなた……!」
何不自由ない深窓の社長令嬢に生まれて、誰にも後ろ指さされたことのない誇り高い田園調布夫人、鳴沢聡子は今、犬這いにされて後ろから殺人犯の夫に串刺しにされ、世にもみじめな姿を取らされていながら、でも……でも……初めて経験する、不思議な恍惚状態にのたうちはじめていた。
聡子はこの時も、自分の身体が熱い真紅の炎に包まれているのを感じていた。
ヴィーナスの失踪
翌日、鳴沢秀彦は東北に出発した。
田園調布の自宅を出て東北新幹線の始発駅にむかう間も、秀彦の胸に、悪性の宿酔に似た重苦しい気分が渦巻き、彼の眼には、車窓をよぎる風景から色彩というものが失われ、遠近感というものが失われていた。
追いつめられた感じ。それが、あった。東北で発見された洞窟のヴィーナスは、本当に女性の死体が変異したものなのかどうか。花村ゆう子の死体なのかどうか。それがもうすぐ自分の眼で確かめられる、ということは、同時に、七年前に自分が犯した重大な犯罪に、面とむかいあうことである。
とても、正常な気持ちをたて通せるはずはなかった。
始発駅にむかいながらもなお、逡巡《しゆんじゆん》と怯え、そしてためらいがあった。何度も、引き返そうかと思った。そのため、十一時発の東北新幹線に間にあうよう、余裕をもって家を出たにもかかわらず、ホームにあがった時はもう、発車ぎりぎりであった。
グリーン車。十六番B席。その車輛にはいった時、もう一つ、彼をひどく驚かせたことが待っていた。
窓際にあたる隣のA席に、見憶えのある女が坐っていたのだ。黒いつば広の帽子に、首すじにまっ白い真珠が、いやに印象的である。シャネルの白いスーツ。窓のほうを向いているので顔はよく見えなかったが、サングラスをかけたその横顔は、恐ろしく鏨《たがね》あとが深い。
「失礼します」
一礼して秀彦が坐ろうとした時、眼があった。
「あら!」
女のほうが先に気づき、驚きの声を発した。
「鳴沢さんじゃないの?」
「おや! 宝泉寺さん……!」
橋場文造もひとがわるい、と秀彦はとっさに思った。昨日、橋場はおれに切符をくれたが、その切符はそもそも、この颯子と二人で東北に忍び旅行にでもゆくために取っておいた切符ではなかったのか。
だが、秘書の鳴沢秀彦のほうに、思いがけない事態が出来《しゆつたい》したので、橋場はそれを一枚だけ、秀彦に譲った。もう一枚は颯子にすでに渡しておいたので、颯子はそうとも知らず、一人で先に乗りこんでいた……。
もしかすると、そういうことかもしれない。それならそうと、耳打ちさえしておいてくれれば、こんなに驚くこともなかったのに。
秀彦は、通路側のシートにすわった。
「どちらまで?」
皮肉な眼差しに、なったかもしれない。
「盛岡よ」
「おや、私と同じだ」
「へええ。鳴沢さんと隣りあわせるなんて、不思議なこともあるものね」
颯子はほとんど、化粧をしてはいなかった。口紅だけは薄く塗っているが、素顔に近い。その上、黒い帽子をかぶって、サングラス。この手の人種が旅をする時の常だが、すれちがう人ですら、ブラウン管でみる有名人とはほとんど気づかない。
「もしかしたら、邪魔をしたんじゃないかな。橋場会長とお忍びの予定だったんじゃないですか」
「いやないい方」颯子は笑い、「私は取材。誰があんなおじいちゃんと旅をしますか」
「でも、このシート。私は橋場会長の切符を譲り受けたんですよ」
「へええ。それなら一緒に手当てしていたのかもしれないわね。私、東北方面への旅行の時は、いつもあの人に切符を頼むの。だって、東北交通の親分でしょう。あの悪人」
秀彦は漸く気分が少しほぐれはじめ、微笑を洩らした。あるいは、そうだったかもしれない。橋場のほうが、勝手につなぎ番号をとっておいて、ひそかにこの女との旅を楽しむつもりだったのかもしれない。
「さっき取材って言ってたけど、スタッフはどうしたんですか? テレビ屋はたいがい、カメラとかディレクターとか、大袈裟な旅になるでしょう」
「一人よ。それこそ、私自身のお忍び取材」
いやな予感がした時、答えが返ってきた。
「ヴィーナス。私の番組、ごらんになった?」
秀彦は眉を、ひそめた。そっと、息を吐いた。ポケットから煙草をとりだし、指にはさんだまま、秀彦は事務的な声で答えた。
「ええ、見ましたよ。不思議なこともあるもんですね。洞窟でヴィーナスが発見されるなんて」
「文献を調べたら、不思議でも何でもないんですって。ここだけの話だけど、あれ、女性の全裸死体が変異したものに違いないと私は睨んでいるの。石灰化合物。つまり、殺人事件。それで……」
「調べに……?」
「ええ」
「一人で?」
秀彦は様子を探るように、そっと訊いた。
「やっと、スケジュールの都合がついたのよ。三日間。それで、一人でこっそり調べたいことがあってね」
宝泉寺颯子はいったい、何を調べようというのだろう。秀彦は訝《いぶか》った。もしかしたら、橋場が監視役としてこのおれにむかって、さしむけているのではあるまいか、という、そんな疑惑すらが頭を掠めた。
車窓に、七月の景色がよぎってゆく。大宮から古河にかけての工場と住宅街。煤《すす》けた屋根瓦。市街を出て、小山、宇都宮に近づくにつれ、少しは雑木林の切れっぱしや畑がふえて緑が濃くなる。
それにしても、解せないことがある。宝泉寺颯子ほどの女が、今でも橋場文造などから経済的援助を受けているのは、どういうことか。秀彦は、最初は自分でお膳立てしておきながら、それが、今となっては不思議な気がしてならない。
たしかに、秀彦が接近したあの当時は、颯子は前夫の伊吹と別居し、おまけに慰謝料までむしりとられて、マンションの部屋代も払えない苦境にあったことは事実だ。
橋場もそして秀彦も、そこにつけこんだわけだが、今では完全にカムバックして、売れっ子になっている。橋場からの手当ては、少ないとはいえないが、もはや頼りにする必要はないはずだ。彼女は彼女で、何か魂胆があって橋場とのつながりをつづけているのではあるまいか。
自分とは直接、かかわりのない、よけいなことに対してまで気になりはじめたというのは、疑心暗鬼というやつかもしれない。であったにしても、そういう、あらぬ疑いさえ出てきたのは、颯子と自分もまた、ヴィーナスで結ばれたからである。何しろ、あの事件をこの女が、テレビのニュースで流している――。
俯《うつむ》いて煙草に火をつけた秀彦に、
「鳴沢さんは、ご出張?」
颯子のほうがきいた。
「休暇旅行のように見えますか?」
「見えないわね」
「たまには一人旅の気楽な休みがとれれば良いと、思いますよ。いつも忙しい出張ばかりで」
「あら。贅沢《ぜいたく》。私なんか……」言いかけ、「観光会社って、いつもすてきなホテルに泊まれて、すてきな場所を旅行できる。いいご身分じゃないの」
「それは、旅行会社。観光屋というのは、そのホテルを建てたり、建てるための土地を手当てしたり、新しい観光地を開発したりする。ま、土木屋みたいなものですよ」
「こんどのお仕事も?」
「ええ。ヴィーナス誕生の洞窟。その山を全部、買いしめろって命令されてましてね」
一気に、偽悪的に言った。言ってしまうことで、じわじわとわいてくる重苦しい気分から、逃れようとした。
「買いしめるの? 山を」
「ええ。できればね」
「それじゃ私たち、盛岡はおろか、洞窟の中まで一緒じゃないの」
「だから、不思議だなあ、という気がする」
「もしかしたら、橋場が仕組んだんじゃないかしら」
え、と秀彦はふりむいた。
「何を……?」
「いえ。どうってことはないけど」
ただちょっと、と颯子は、首をふった。
颯子は何を言おうとしていたのか。秀彦は気になって、忖度《そんたく》したが、よくわからなかった。
新幹線は、さすがに速い。在来線だと、上野から小山、宇都宮といえば、かなり時間をくったものだが、すいすいとばす。朝食をぬいていたので、秀彦は颯子をビュッフェに誘った。
颯子は首をふった。ビュッフェにゆかなくても、ここでお弁当でも買いましょうよ、と言った。気どりがない。いや、人前にあまり顔を晒《さら》したくないのかもしれない。秀彦は車内販売の弁当をまつことにした。
「でも、おかしいな。さっきの話だけど、ヴィーナス死体説。あなたはどうしてそんな突拍子もないことに気づいたんです? 取材にゆくという以上、何かよほどの心当たりでも?」
「いえ。ちょっとね」
「弁当、早くこないかなあ」
「気になることがあってね」
「きいてみたいな、そんな話なら」
「人様に簡単に話せることではないわ」
「あ、きたきた」
寿司弁二つ、と秀彦は手をあげた。
ヴィーナスのことなど、本当はおれにはたいして興味はないんだが、という態度をとりつづけることにした。
金を払った。弁当とお茶。一つを自分の座席テーブルの上に置き、もう一つを颯子の上に置いた。
「ねえ、話して下さいよ。私はあの山を全部、買いしめる。協力せんでもない。一緒にもぐって、その、あなたが調べたいといっていることを、調査してみましょうよ」
「なんていうのかしら……疑惑。私ひとりの胸のなかにしまっている疑惑なの。他人に喋って……もしその人が無実だとしたら、傷がつく」
「疑惑か。ほう。おもしろいですね」
颯子の疑惑というものは、もしかしたらおれのことか? まさか。それを確かめておこうと思ったが、颯子はしかしその話には乗ってはこず、車窓に顔をさらした。
どうやら、この女も何かの屈託を胸に秘めているらしい。秀彦は深追いするのを諦め、自分のことを考えた。
秀彦のこんどの旅の目的は、もう決まっている。洞窟は今、封鎖されているかもしれないが、何とか地主に接近して、山を買う交渉をすすめる。手段は、列島改造以来、すでにこの国に定着している悪辣《あくらつ》な観光資本のやり方というものである。金を積む。糸目はつけない。札束の力で地主を説き伏せ、下見をするという口実で、何としてでも、公的機関に気づかれないような方法で、あの洞窟にもぐる手だてを考える。それがまず第一段階だ。
哲学堂下でみたゆうべの写真では、結局のところ、あれがゆう子であるかどうかの最終的なキメ手にはならなかった。問題のヴィーナスが、花村ゆう子であるかないか、実物をみて確かめる。もしゆう子の死体だとしたら、何とかしてそれを運びだし、永遠に甦らないように、どこかに埋めるか、壊せるものなら壊すか、海にすてるかする……。
それが、仕事のすべてだった。何しろ、これには自分の人生のすべてがかかっている。殺人犯になるか、どうか。重大である。多くの困難が待ちうけていよう。だがそれに成功すると、おれはまた橋場に信用されて……。
シートを倒して煙草に火をつけた時、気になることを、もう一つ、思いだした。そういえばあの脅迫電話の男、二回目の時に、妙なことを言った。岩手のヴィーナスの話題は、自分がQ大ケービングクラブを焚きつけてあの洞窟にもぐらせ、そしてその発見劇を宝泉寺颯子につかませて、ブラウン管に仕組んだのだ、というふうなことを吹聴していた。
それは本当か。本当なら、宝泉寺颯子こそ、その脅迫者につながっていることにもなる。
秀彦はお茶で喉をしめらせ、世間話のような口調できいた。
「ヒットでしたね、あのニュース。報道番組といえば、地方ネタなんか、山ほどあるわけでしょうが、取捨選択にはニュースキャスターが腕をふるうわけですか?」
「難しいわね、そのへんが。でも大方は、報道部のスタッフのほうで何を流し、何をすてるかを組みたてるのよ」
「外部から材料をもちこまれる、ということはありませんか?」
「たまにはあるわね。でもそういうネタは、局の報道部の人がちゃんと取材しなおすわ」
「ヴィーナス。誰か、外部の人から焚きつけられたんじゃありませんか?」
「焚きつけられた?」
「ええ。あなたがキャスターをしているT局で流すようにって。売りこみ、というのかな、タレ込み、というのもあるわけでしょう?」
「あれに関しては、そんなことはなかったわ。地元の岩手放送からあがってきたのよ。私はただ、面白い話題だと思ってニュースを流しただけ」
すると、あの男の言い分は、出まかせか。いや、脅迫をいっそう真実めかせるために拵えた、おれに対するはったりだったのかもしれない。だが、それならあの男は、事前にどうして、あんなにタイミングを測りすまして、ヴィーナスの写真をあっちこっちに送りつけることができたのだろう。
「伊吹敏男さんにこのごろ、会う?」
馴れなれしい言葉づかいで、訊いた。
「伊吹? 会うもんですか」
「どうしているのかな、彼」
「知りません」
私たち、もうきちっと別れているのよ……。
颯子は、むきになって否定した。
「やまびこ十九号」は、いつのまにか那須をすぎ、栃木県と福島県との境をすぎて、白河に近づいていた。人口四万二千。小さな城下町。その城跡とくすんだ街なみが左手にみえてきた時、秀彦はあわてて車窓から眼をそらし、怯えたように寿司弁当をひろげた。
寿司の味がしない。砂をかむようだ。花村ゆう子の里。聡子も、橋場もそうだった。駅前開発に秀彦も、何度もきたことがある。
白河の関でも知られるように、本当は県境の由緒あるすてきな町だが、今の秀彦にはただ、陰気っぽくて、背筋が寒く、重くなる思いを抱かせるだけである。
俯いて寿司弁当をくいながら、脳裡に花村ゆう子の顔が甦った時、おまえは殺人犯として、少しも反省のいろがない、という叱責の声が胸の中から、しきりにきこえてきた。本当は、反省がないどころではない。一昨日からずっと、秀彦はもう断崖のふちに立たされているのだ。追いつめられ、追いまくられ、今にもその足許がくずれそうなのだ……。
食事を終え、眼を閉じた。
だが眠りは、やってこなかった。
「ねえ」
颯子が、思いだしたように声をかけた。
秀彦は、眼をあけた。
あのねえ、ちょっと聞いてもらいたいんだけど、と颯子が前置きをし、前方をむいたまま、妙なことをきりだしてきた。
「ある一人の女性がいたとする。美貌の女流画家よ。その人は七年前、パリに行ったまま、行方不明になっているの。少なくともその女流画家の夫は、世間に対して、そう言いふらしているのよ。でも、彼女が行方不明になるほんの少し前、仙台や松島や三陸方面の絵はがきを、姪にあたる東京のある女子大生が、受けとったとする。これ、どこか矛盾しない?」
プールサイドで甲羅干しをしていたビキニ姿の颯子には、今の言葉はそぐわない。サンオイルに光る褐色の肌。男なら誰でもがとびつきたくなるような、見事な肢体。派手なふるまい。そして事実、宝泉寺颯子はいまブラウン管の世界という、一つの虚飾の世界にいる。それにしては今の言葉だけではなく、今日の颯子は、いやに陰気だ。
「いやにもってまわった言い方をしますね。――要するに、その女性というのは、パリで行方不明になったのではなく、日本の、東北地方で行方不明になったのではないか、とあなたは言いたいんですか?」
「ええ、そう。私には、そんな気がするの」
「しかし、一つの失踪でも、国内と国外では、まるっきり違う。出入国管理令というものが、日本にはちゃんとあるんですよ。ただ東北地方に行って失踪したのか、パリに行ったのかは、出入国管理簿を調べれば、すぐにわかることじゃありませんか」
命題そのものの設定のしかたが、きわめて幼稚である。何をばかな、と秀彦は毒づきたかった。颯子が話しはじめたことが、あまりにも突拍子もないことだったからである。
「調べたわ。碧《みどり》おばさまは……いえ……その人は、パリには始終行って、ルーブルに日参していた人ですけど、失踪したその月に限っていえば、一度も、外国には行ってないのよ。どこにも日本を出たという形跡が、つかめなかった。形跡は、東北旅行の絵はがきだけ」
「絵はがきねえ。そんなもの、どこからでもだせる。だいいち、その人が東北で失踪したとしても、どうしてこんどのヴィーナス騒ぎに結びつくんです?」
閃いたので、そうきいた。その失踪人をこの女は、今度、発見された洞窟のヴィーナスに比定して、それを自分の眼で調べにゆこうとしているのではないか。
「証拠があるの。その人、ヨーロッパでも、ルルドの泉とか、ブローニュの森のなかにあるパリの洞窟とか、そんな、妙なものばかりに興味をもっていたんだけど。その時の東北旅行でも、岩泉方面の洞窟にもぐるって言ってたのよ。出発前、本人からその姪が直接、聞いたことだけど」
「あのへんには、百三十もの洞窟がある」
「安家《あつか》。それは、まちがいないの。伽倶楽《かぐら》荘という宿。そこで書いた絵はがきが、私あての最後のものになっているのよ」
秀彦は指先を、みつめた。軽く、火傷をしていた。煙草に火をつけようと、ライターをこすって炎をあげたまま、颯子の言葉に度を失って、秀彦は火を消すのを忘れていたのだ。
呼吸を詰め、静かに吐いた。
安家。伽倶楽荘。一軒きりの宿。七年前、秀彦が花村ゆう子をともなって泊まった宿もまた、そこだった。
そこに、颯子のいうその碧おばさまというのも、泊まったというのか。
「……私ねえ、こんどのニュースを岩手放送の人から連絡うけたとき、心臓がとまりそうだったの。岩泉という地名。安家という地名。洞窟。ヴィーナス。なぜかとっさに、ルーブルでヴィーナスばかりを模写していたそのおばさんのことに、思いが走ったのよ」
「ある女性」が、いつのまにか「碧おばさま」になり、「おばさん」になった。絵はがきを受けとった「姪」にあたる「女子大生」が、いつのまにか、「私」となっている。
「むろん、これはほんの小さな疑惑かもしれないわ。私の思いすごしかもしれないけど、私、どうしてもその安家というところに行って、伽倶楽荘という宿に泊まってみたくなったの」
盛岡には、午後二時十七分に着いた。
駅前がすっかり変わっている。むかしはなかった流れる滝の噴水が駅前広場を飾り、駅舎も新幹線スタイルとなって、真新しい。仙台までならよく来るが、盛岡まで足をのばしたのは、秀彦も久しぶりだった。颯子が疲れている様子だったので、駅前で喫茶店にはいり、濃いコーヒーを二杯のんで、睡気をさました。
紺色の、ぬけるような空の色。あの年と同じだった。雲もショートケーキのようだ。だが秀彦は、あの年と同じ山田線で現地にむかう気持ちには、どうしてもなれなかった。
「支線の待ちあわせ、どれくらい?」
喫茶店を出て、颯子がきいた。
「バスでゆきましょうよ。国道をぶっとばす高速バスが走っています」
コースと時刻表はすべて、東京で調べておいた。一時間おきに発車する高速バスが、盛岡と宮古の間を結んでいる。
宝泉寺颯子は旅行の時、ふだんは付人かスタッフに持ち物をもたせているらしい。そんな素振りだった。たいした荷物ではないが、スーツケース一つ。秀彦はそれを持ってやって、駅前バス発着所にむかった。
待つことはなかった。宮古行の高速バスは、すでに乗り場に着いていた。これだと国道一〇六号線を二時間半、宮古まで突っ走る。北上山地を横断する、という意味では、七年前、花村ゆう子とのった山田線と同じコースを走るわけだが、列車とバスでは印象がちがう。風景も、多少はちがって救われるだろう。
高速バスは、ほぼ満員だった。夏休みにはいったばかりだが、さきごろ、開通した第三セクター方式の三陸鉄道が人気を呼び、学生や若い女性旅行者が、同じ方向に大挙して流れている。
車体後部のリクライニング・シートが幾つか、空いていた。二人分揃ってのセットでは、空いていない。先に乗った人が必ず、窓際を占めてゆくのだ。仕方なく、颯子とは別々にすわることにした。
それで、かえって、ほっと気分が楽になった。
秀彦が颯子の一つ後ろの席を確保して網棚に荷物をあげた時、一人の女が乗ってきた。その女が乗ってすぐにバスは発車したのだから、文字通り、その女は発車間際に乗ってきた女、といっていい。
秀彦は、目を剥いた。
白い帽子。セルッティの白いスーツ。瞳が深い。花村ゆう子! と心臓が肋骨の内側で跳ねた。
女は無表情に、秀彦の傍を通りすぎた。違っていた。ゆう子で、あるはずはなかった。年も、若すぎる。だが、身長といい、体型といい、顔立ちといい、ゆう子に生き写しであった。その上、ひさしの深いまっ白い帽子。セルッティのブランドスーツといえば、あの時のゆう子のスタイルである。
帽子。やたらに現われる。宝泉寺颯子は、黒である。今、通路を通りすぎた女は、白である。
偶然か。何かの符合? まさか。真夏だ。帽子ぐらい誰でもかぶる。その女は秀彦の傍を冷めたい表情で通りすぎて、ずっと後ろの座席に坐って、旅の雑誌を広げた。
秀彦の傍を通りすぎる時、一顧だにしなかったので、秀彦は救われた。たとえ他人であれ、からだ全体の雰囲気がひどくよく似た女から見つめられでもすると、心臓が二、三回、跳ねあがっただろう。
バスは市街地を走りぬけた。快適である。北上山地にはいってゆく。だが道路事情はいいので、揺れもしない。車窓に映る杉の斜面や、渓流や、家々はすべてあの年の、ゆう子の記憶に結びつくので、秀彦はできるだけ、車窓を見ないことにして、眼を閉じた。
新幹線で颯子が洩らした話が、甦った。恐るべき、もう一つの地平が現われたことになる。颯子も、近親者で一人、東北で失踪したと思われる女性がいるという。
仮に、これから調べにゆく洞窟のヴィーナスが、女性の死体と決まったとしても、もしかすると、そのヴィーナスは、必ずしも花村ゆう子とは限らないという一分の可能性が、そこに、でてきたことになる。
むろん、だからといって、それがすぐに秀彦の救いになるわけではなかった。現に自分は、あそこでゆう子を殺している。生き返ったはずはない。何分間も、細紐で締めていたのだ。
その上、脅迫者たちは、この自分にむかって標的を絞っている。脅迫している以上、彼らの手にはそれを、花村ゆう子だとする確証が握られている、と考えなければならない。
事態は、同じなわけであった。
が、そうであったにしろ、あのへんで失踪したもう一人の女性がいる、という話は、理屈にはあわないが、ほんの少しの安らぎと新しい発見を、秀彦にもたらしていた。
バスがJR茂市駅前に着いたのは、三時すぎである。
山の中である。あの年の夏も、ゆう子と、乗りかえた駅であった。バスが発車し、降りた客をみたが、白い帽子の女は、ついに降りてはこなかった。
何とはなしに、ほっとした。
ただの、偶然の空似だったと思える。
ここからは、トンネルがやたらに多い例の岩泉線にのりかえるしかない。新幹線と高速バスは予定通りの時間で運んでくれたので、出発前、東京で時刻表で調べておいたとおり、ざっと三十分ぐらいの待ち時間で、岩泉行の列車があった。
「遠いのねえ。安家って!」
バスで一眠りしたのか、颯子は駅前に立って、背伸びをし、あくびをした。少し、爽《さわ》やかな顔になっている。
「これでも、まだ早いほうですよ。七年前は……いや。むかしは上野から夜行列車で発たって、ここまでだって、二日掛りだったんですからね」
「この先、タクシーというものは、ないのかしら?」
「さあて、と。あるかもしれませんね」
もしあるとすれば、そちらのほうが助かる。トンネル列車で帽子がとぶ、と颯子に騒がれでもしたら、秀彦の心臓はまた縮みあがるだろう。
駅前広場に、陽射しがきつい。埃《ほこり》が舞いたっていた。片隅にタクシー乗場という標札がみえたが、車は一台もなかった。
出払ったのかな、と広場を見渡している時、一人の男がたばこ屋のほうから二人を認め、あわてて走りよってくるのがみえた。運転手ふうの中年男だった。
「失礼ですが……東京の鳴沢さんと宝泉寺さんじゃありませんか?」
帽子をとって、物腰低く声をかけた。
「はあ」
警戒しながら、曖昧にこたえた。
「お迎えにあがりました」
男は、柔和な笑顔をみせた。
「迎え? 頼んだおぼえはありませんが」
「東京本社の橋場会長から、連絡を受けていました。車を用意しています。安家まで、お二人をお送りするようにって」
秀彦は、怪訝な顔をした。橋場に、出迎えを頼んだ覚えはない。橋場が気をきかせて手をまわしたとしても、秀彦たちの現地到着時間がわかるのは、盛岡までだ。
新幹線を降りたあとは、山田線もあれば高速バスもある。あと一つ、葛巻、浅内《あさない》回りで直接、岩泉にはいる路線バスもある。
それなのに、男はこの茂市の駅に待っていた。終着駅の岩泉ならまだわかるが、ここは単なる中継地である。
何者だろう、という警戒の念がにわかに湧いた。
「あなたは?」
「へえ。岩泉で運送業をやっております。京栄運送岩泉支店の村越《むらこし》です。東北交通さんには、いつもお世話になってましてね。足場の不便なところなので、二人がそちらに着いたら、よろしく頼む、と橋場さんにゆうべ、電話をいただいておりまして」
京栄運送なら、きいたことがある。たしか、盛岡に本社があった。地元の小さな運送業者なので、なかば吸収合併されて、東北交通の傘下にはいっている。
「ほら、ね」
颯子が、勝ち誇ったような顔をした。
「やはりあの悪人が手をまわしていたのよ。私たちのために。案外、気がつくじゃない、あの悪人!」
さ、乗りましょ、と車のほうにゆく颯子を呼びとめ、
「待ちなさい。あなたは橋場に切符を頼んだ時、岩手県安家にゆく、とはっきり目的地を言ったのですか?」
「当然でしょ。調査目的はいわなかったけど、行く先ぐらいは伝えてるわ。だから気をきかせてくれたのよ。どうも、そんな予感がしていた。点数稼ぎよ、私への」
颯子は、いつもの驕慢《きようまん》な女に戻りかけている。
あまり疑っては、この気のよさそうなおやじに悪い。トンネル列車に乗って、帽子がとぶ、と颯子に騒がれるのも、気が重かった。
「じゃ、お願いしましょうか」
秀彦がスーツケースを二つ取りあげると、村越が気をきかせて颯子の分を持ってくれた。
広場の片隅に、なるほどぴかぴかのクライスラーが駐《と》められている。運送会社の重役専用車と思える。こういう車をのりまわしているところをみると、この村越という男は、支店長でもしているのかもしれなかった。
二人が乗るとすぐ、車はスタートした。
東北の夏の一日が、終わろうとしていた。
山の端に懸かった夕陽が、赤い。ゆるやかな登り斜面をクライスラーは快調に飛ばす。秀彦は、しだいに無口になった。自分の殺人現場に、刻々と近づいてゆくのだ。気が、重い。息苦しくなる。風景は、突然、フロントガラスを急襲し、たちまち過去へ消える。窓ガラスを叩く空気の擦過音は、遠い未来からやってきて、鞭のように過去へ走りすぎる。その未来に待っているものが、殺人犯という烙印をおされての破滅なのか。それとも、いちるの望みであるのか。
大げさではなく、秀彦は真実、そんな心境になりつつあった。ゆう子との旅で記憶のある風景が、一刻一刻、フロントガラスを急襲する。目的地に近づくにつれ、じわじわとそれは秀彦の胸を復讐の刃でさいなみ、息苦しさを深くしてきた。
気分をかえよう。
運転手に話しかけた。
「いつも、岩泉にいらっしゃるんですか?」
「ええ。支店を預かっています」
「ヴィーナス騒ぎ、大変だったでしょう?」
「いや、もう。無茶苦茶ですよ」
猪首の村越が、高らかな声をあげた。
「そんなに大騒ぎだったんですか?」
「騒ぎも騒ぎ。まだ、つづいていますよ。町長はのりだすし、県教育委員会文化課のお偉方はくるし、県警のおまわりはくるし……」
県警……!
あわてて、きいた。
「警察が? どうして?」
「いえ、それがね。あっしらにはどうもよくわからんのですが、洞窟のなかで、問題がすっかりこじれてしまっているようなんです」
「こじれている? 何が?」
「いつものことですよ。役人根性。町当局とか、県警とか県教育委員会とかが、三つ巴になって、やりあっているらしいんです」
「手柄にしようと?」
「いえ、そうじゃありません。責任の、奪いあいなんです」
「奪いあい? なすりつけあいじゃなくって?」
「ええ。何しろ、洞窟の奥で発見されたそのヴィーナスというやつが実に、くせものでしてね」
そらきた。やはり、死体……!
「どうくせものなんです?」
恐怖が、ざわっと押しよせてきた。
「実際、呆れた騒ぎですよ。まだ公表されてはいませんがね、洩れ聞いたところによると、最初に発見されて、テレビやこちらの新聞で大騒ぎされたヴィーナス。あれ、一報後、すぐに県教育委員会文化課の人たちが大勢、洞窟にもぐって調べたところ、ひどいじゃありませんか。――というのもね、東京の美大生どもが、ニュー彫刻とか称して、石膏を使ってミロのヴィーナスをつくり、それを洞窟の奥に隠しておいたんですよ。何でも、襲撃芸術、とかいうやつらしいんですがね。誰かにそれを発見させて、世間をあっといわせる。芸術家の一種のアプローチ。社会参加《アンガージユ》とか何とか、こむずかしい理屈をその美大生どもはこねているようですがね」
弓をきりきりと引きしぼっていたような緊張の糸が、突然、秀彦の胸奥で悲鳴を放って、ぷつん、と切れた。
ふうっと、秀彦の肩から、大きな吐息がぬけた。
何という愚かな! おれはそんなニセモノ騒ぎに、ひっぱりまわされていたのか。
眼を閉じ、もう一度、ふかぶかと深呼吸をした時、村越の声がまだつづいていた。
「ところが、あなた、それからがいけません。その一件で大勢の人がどやどやとその未発見の洞窟にはいって調べているうち、なんとまあ、その石膏のヴィーナスのすぐ真裏の岩陰から、こんどはあなた、本物のヴィーナスが現われたんですよ。本物ですよ、あなた。女の全裸死体。石灰化合物になりかけているやつなんです。きゃあッ、と文化課の役人は腰をぬかしたらしくてね、すぐに県警の出動となった。それやこれやで、あの洞窟はいま、立入禁止。発表はさしとめましてね、警察がいま、極秘で第一発見者の学生とか、関係者の間をまわって、捜査を開始しているようなんです」
額に、べっとりと脂汗が滲みでてきた。ポケットからハンカチをとりだし、秀彦は拭いた。その手が慄えている。バックミラーで運転手に顔を見られないように、身体を横にずらした。
腰が、あたった。颯子も身体を硬くして、運転手の後ろ姿をみつめている。
それほど大騒ぎになっているものなら、のこのこ洞窟に近づいたりして、いいのか。運びだすことはおろか、近づくことさえも、できないのではないか。
秀彦は自分がいま、その殺人現場に刻一刻、近づきつつあると思うと、膝が小刻みにふるえはじめるのを覚えた。今すぐにでも、本当は東京に逃げ帰るべきではないか。逃げ帰りたい、と思った。その瞬間、悲鳴をあげそうになったのは、女の白い手がふいっと、秀彦の膝上の手を握りしめてきたからである。
宝泉寺颯子の白い手だった。颯子が秀彦の手を握りしめ、蒼い顔をしていた。石灰化合物になりかけている女の全裸死体というイメージが、颯子にも深い恐怖感を呼びおこしてきたらしい。
「どうしました? 恐いんですか?」
秀彦は、むしろ平静な声できいた。
落着こう。情報をまだ、この村越という男から集めなければならない。
「それで、ヴィーナスは二つともまだ、その洞窟のなかに、はいっているんですか?」
「ええ。警察は現場検証を一応、終わったので、運びだして司法解剖というんですか。下半身はまだ溶けもせず、なま乾きの石灰化したやつなので、それを解剖して精密検査して捜査の手掛りを得たいらしいんですが、こんどは教育委員会の連中がね、待った、をかけた。たとえそれが本物の死体だとしても、そこまで石灰の凝縮を結晶させたのは、日本でも珍しいケースなので、そいつを動かさずに、洞窟学の専門家を入れてもう少し、洞内周辺との関連性を調べたいと……」
「それで、責任の奪いあい?」
「ええ、ええ、そうなんです。考古学にとどまらず、洞窟壁画の発見とか、調査発掘物とかには、とかく世間の耳目が集まるご時勢ですからね。学術上の文献でも作りたいんですかね、ありゃあ……」
村越が、最後はそんな皮肉な口調になった。
秀彦は、口を閉ざした。肩で大きく息をすい、腕時計をみた。六時半。いつのまにか岩泉町をぬけ、安家への道にさしかかっている。
気づかなかったのは、道路がいつのまにか立派に舗装され、山の中腹を直線的に走っていたからである。
バイパスでもできたらしい。七年前とは、比べものにならない発展ぶりだ。もう、このあたりを秘境と呼ぶには、実感にそぐわない開発ぶりである。
高度差二百メートルを一気におりきって、霧の山道を抜けでる。安家の小さな盆地が前面に広がり、河をはさんで小さな集落が眠っている。日蔭村と、日向村だ。人影は、まったくない。車がその盆地にはいった瞬間、秀彦の心に、裂け目が走った。
その裂け目を通して、この風景の裏側に潜んでいるもう一つの恐怖劇が、透けて見えてきそうだった。いやな感じである。急いで、あの記憶に蓋をしようとした。だが、心はすでに、あの洞窟の中で殺して逃げてきた闇に、接触していた。
闇、だけではない。ヴィーナスの首がすぱっと切れてあふれでた鮮血。最初の朝、家に届けられていた石膏のヴィーナスの首が、急に恐ろしい思いをともなって、あたまのなかに甦ってきた。
目的地は、もう関係者で一杯だ。
警察も、張り込んでいる。
どうするか。引き返すか。この先、旅館はあの宿、一軒しかない。ゆう子と泊まった宿。だが、同行の宝泉寺颯子はそこに泊まりたいといっている。今さら、引き返すのはかえって、不自然である。
颯子にさえ、怪しまれるのはいよいよまずい。
秀彦は、気持ちを鎮めた。そうだった。おれは山を買いにきたのだった。平然として、東京から乗り込んできた厚顔無恥な不動産ブローカーか観光資本の重役として、堂々とふるまわなければならない……。
「ところで」
と、秀彦は、観光開発会社の重役の顔をとり戻した。
「発見された洞窟の山、所有者はわかりますか?」
「山を買いつけにきたという話でしたね」
「ご内聞にしていただきたいんですが、実はそうなんです。会長に、命令されましてね」
「さあて、と。あのあたり一帯はたしか、アッカテンノウの持ち山じゃなかったかな」
「アッカテンノウ?」
「ええ、安家天皇」
「国有林ですか?」
「いえ。天皇といってもあなた、このあたり一帯の山を全部、持っているので、そう呼ばれる変人奇人がいるんです。むかしは町長や県会議員をして、大層な羽振りだった人なんですがね」
「その人の家、わかりますか?」
「旅館できいたら、どうです? 私は、盛岡から岩泉にきて、まだ間がないもんですから」
村越が運転する黒塗りのクライスラーは、安家川の橋を渡って、この土地に一軒きりの古い旅館、伽倶楽荘の前にすべりこんでいた。
河のそば。
大きな榎《えのき》の樹が茂っている。
門灯が灯る旅館の前に立った時、秀彦はこれまでに感じたことのない不思議な感覚が、全身を押しつつんでくるのを覚えた。それは恐らく、劇的緊張感、といっていいものかもしれない。
おれはいま一番、踏みこんではいけないところに、踏みこもうとしている。してはいけないことを、しようとしている。殺人犯が現場付近にたち戻る。愚だ。それどころか、犯行時に泊まった同じ宿に、泊まろうとしている。
「ごめんください」
傍に宝泉寺颯子さえいなかったら、今すぐにでも、秀彦は悲鳴をあげて、逃げ戻っただろう。
「はーい」
奥で間のびした返事がきこえた。
旅館は七年前と、少しも変わってはいなかった。門灯も、薄暗くて陰気っぽい。二階建て。変えようにも、この古さでは変えられないのかもしれない。秀彦にとってまず第一の懸念は、宿のおかみに顔を憶えられているのではないか、という点だった。
サングラスを濃くしている。服も変えている。だが、それぐらいのことで、印象が変わるかどうか。しかし、落着いて考えれば、たとえ、顔を憶えられていても、それがあのヴィーナスに結びつくとは限らないわけだ。
度胸をきめることにした。
「どうも、どうも」
エプロンで手をふきながら、五十過ぎのおばさんが応対に現われた。どうやら、変化はむこうのほうに多く蓄積されていたようだ。はなやかなおかみ、という印象だった七年前にくらべ、今ではもうすっかり年をとってくたびれはじめた田舎のおばさん、といった感じである。
秀彦の懸念は、払拭された。おかみの関心は、秀彦などより、はじめから彼がつれだっている宝泉寺颯子のほうに、もっぱら集中しているのだ。
ぎょっとした表情をし、おかみは颯子をまじまじと見あげている。
無視されたことを、秀彦は神に感謝した。
「いらっしゃいませ。お泊まりで?」
おかみは、腰を低くした。
「そうです。あいてますね?」
サングラスをかけたまま、高飛車に訊いた。
「はい、あいております。でも――」
部屋がむさくるしくて、とおかみはしきりに宝泉寺颯子のほうを窺い、
「あの……もしかすると、あなたは?」
「私が、どうかしたの?」
颯子も、高飛車に言った。しげしげと見つめられて気をわるくした、という口調だ。サングラスをかけたままだし、黒い帽子をかぶって、素顔である。ふつうなら、テレビのニュースキャスターとは、わからないはずである。
「あら、人違いかしら。よく似た方だわ」
さあ、どうぞ、とおかみは二階へ案内する。
「部屋は、二つほしいんだけど」
階段をのぼりかけて、おかみの足がとまった。
「あら、困りましたわ」
「満員?」
「いえ、今夜はあいにく、部屋は一つしかあいてないんですけど」
「三陸鉄道の開通でこのへんも、満杯になってきたのかな」
「いえ。ヴィーナス騒ぎで関係者たちが大勢、お見えになって」
「関係者というと、教育委員会の?」
「いえ。県警の方たちも」
もともと部屋は一階、二階を入れても五つしかないのだという。そのうちの一番、小さな部屋しかあいてないそうだ。秀彦は、ちょうどいい理由ができたことを喜び、弱ったな、という顔を颯子にむけた。
「ねえ、出ましょうよ。同じ部屋じゃ、まずいですよ」
「なに、びびっているの。あたしは、いいわよ。――案内して下さい」
颯子が先に立って、歩きだす。
案内されたのは、六畳一間。テレビに、座卓が一つ。おかみは、すぐに引っ込んだ。通されたところで、颯子と二人きりでは、ますます落着けるものではない。
そうでなくても、不安が掠める。宝泉寺颯子のような女と同伴では、ただでさえ目立つ。秀彦は自分の落着きのなさをもっぱら、颯子への面映ゆい思い、というふうに装いながら、腕時計をみた。まだ、七時前だ。今夜じゅうにも安家天皇のところに、押しかけてみるか。そうすると、少しでもこの宿をぬけだすことができる。
「ちょっと、頼みがある」
鏡台の前に坐ったばかりの颯子に言った。
「おかみに、安家天皇の家と電話番号をきいてきてほしいんだけど」
「おかみと顔をあわせるのが、いやなの?」
「なんとなくね。人気女優の愛人、という顔でおれのこと、じろじろ見てるじゃありませんか」
「そんなことないわよ。気負わないで」
そのおかみがお茶を持ってきた。秀彦はあわててスーツケースをひらき、荷物を整理している素振りを見せながら、背中むきのまま訊いた。
「まあ、天皇のところへ? そりゃあ、近いですけど、いきなりでは怒鳴られますよ。ご用むきを電話でもなさっておかないと」
「そうか。じゃあ、電話をかりよう」
だが、この宿には県警の人間までが泊まっているという。帳場あたりでこそこそはしたくなかった。秀彦は結局、道順と電話番号をききだし、外に出ることにした。
「私はすぐ、交渉事に取りかかる。あなたは先にお風呂にでもはいって、食事でもすませといてくれませんか。もし遅くなるようだったら、先に寝といてもいいよ」
「いいわ。どうぞ、ごゆっくり」
秀彦は、宿を出た。
河から、宵闇が這いだしている。
製材所と森林組合事務所の傍に、たばこ屋と食堂があった。狭い部屋で颯子と膳にむかいあうのは、何とはなしに気詰まりだったので、先に腹拵えをしながら、電話をかりようと、赤提灯ふうのその食堂にはいった。
「いらっしゃい」
「電話かりるよ」
「どうぞ。ご注文を先におうかがいしましょうか」
頭のつるんと禿げあがったおやじが、片隅のテーブルで新聞を折りたたみながら、顔をあげた。
壁のはり紙をみて適当なものを頼み、手帳をとりだしながら、秀彦は受話器をとりあげた。安家天皇という人物は、したたかな老人らしい。身構えながらダイヤルをまわすと、若い女の声が、応対に出た。
秀彦は東京に本社のある東北観光の営業担当重役だとのべ、閑静で山紫水明の地であるこのあたりの山林を、ハイグレードな別荘地として開発したいので、そのご相談にのってはいただけまいか、という用件を伝えた。
「祖父はいま、入浴中です。すぐ、お見えになるの?」
若い女が、訊いた。
「夜分で大変、失礼であることは重々、心得ております。あと三十分ぐらいしたら、お伺いしたく存じますが」
「鳴沢秀彦さん、とおっしゃるのね。おじいちゃんに、伝えておくわ」
「よろしくお取りつぎ下さい」
丁重に言って受話器を耳からはなした時、どこかできいたような声だぞ、と思った。土地訛りはなく、いやにハキハキした都会的な声であり、応対だったような気がする。
が、秀彦にとっては今はそういうことよりも、その変人奇人だという大物を、どう攻略するかが、当面の課題だった。テーブルに戻り、ビールを一本のみながら、おやじからその人物について、ある程度の知識を得た。
なかなか手強そうだ。安家天皇は、硬骨漢らしい。この町での評判や行動勢力のほどを聞きこめばききこむほど、かつて安家天皇といわれた猛威ぶりが浮かびあがる。今までにいくつかの不動産会社の社員が交渉にいって、子ども扱いにされ、最後には怒鳴られ、誰も歯がたたなかったらしい。
その人物は、北上山地一帯に山林を所有し、その山林をきって製材し、東京方面の会社の役員まで兼ねていた。製材工場は三つも持っていた。もともと、戦時中、軍の要望で天皇はその所有林を積極的にきりだし、自分の工場で製材して軍部に収めていた。ところが、戦争が終わり、その需要がとだえると、戦後の住宅ブームで、民間需要のほうはますます大きくなったというのに、なぜかむっつりと街や都会に対して背をむけ、山林の伐採をぱったりとやめてしまった。
いま、草刈り十字軍とやらを主催している。毎年夏、東京から大勢の大学生を集め、植林や杉の肥培管理にあたらせている。自らは、地球の緑防衛軍の戦士を名乗っている……。
草刈り十字軍とか、地球の緑防衛軍とかの話は、さっぱりわからなかったが、とにかく行ってみることにした。ここまできた以上、たとえ泥縄であれ、山を買う交渉をして、洞窟にもぐる手だてを考えるしかない。
家は、すぐにわかった。一時期は町長や県会議員もつとめ、いろいろの事業にも手をだし、この地方きっての豪家であり、立志伝中の人物といわれるだけあって、土塀にとり囲まれた堂々たる邸宅であった。
きちんと掃除のゆきとどいた庭に面した十二畳の奥座敷に、通された。案内したのは、老妻だった。相手が、そこに坐っていた。床の間に詠岳、と銘のある山水画。青磁の花びんにいけられた松の枝ぶりは、雄渾ではなやかだった。華やかなのは、大きな松の根じめに使われている菊の花が、きわだっているせいだろう。
名刺を一瞥し、老人は軽く吐きすてた。
香坂栄太郎という人物だった。
「橋場の会社じゃな」
「ご存知ですか? 会長を」
「また山を荒らしにきなさったか」
「いえ。経済的後進性にあえいでいるこの地域の開発に少しでも、お役にたてればと……」
「ふむ」笑いがよぎった。「小賢しいごたくを並べおる。橋場には、もう欺されませんぞ。あの男は、むかし、このあたりでも二束三文で山を買いあさっていきおった。三陸鉄道がオープンするや、それを転売してまた懐を肥やしておる」
庭の築山のむこうには、庭木が林のように茂り、水銀灯に浮かんでいる。手前には自然石にかこまれた四坪あまりの池。尺以上の緋鯉。ゆうゆうと泳いでいる。築山の一隅には、七月だというのに山はもう冷えるのか、黄菊白菊が咲き乱れている。しーんとして、深い趣きがあった。
老人は八十歳とも見えぬ、骨格のたくましい、頑丈な体躯をもっていた。口もとをぐっと閉じて、赤銅色の顔をまともに秀彦にむけている。目が鋭い。どうかすると、射すくめられそうな気になる。
ただ、坐っているだけで、頑固一徹で八十数年の歳月を、こういう辺境で、たとえば鉄のように冷酷、濁流にも揉まれずに過ごしてきた、不敵の生涯の影が、その身辺に漂い、迫力に満ちていた。
かなわんな、と秀彦は思った。都会のたとえば、秀彦のようなサラリーマンとは、人間としての格がちがいすぎるのである。秀彦は言葉のつぎ穂を失い、圧倒され、身がちぢむ思いだった。
「碧龍洞あたりが、今度のあんたらの狙い目かの? 今、妙な騒ぎが起きておるが」
「はあ。正直に申しますと、そうなんです。あの洞窟をたとえば、フランスのルルドの泉のように有名なものにして、周辺に別荘地を作りたいと」
「お断わりするしか、ありませんな」
にべもなかった。「山は、売りません。わしはあんたが属している会社のような、都会資本というものが、大嫌いでな。今の資本家どもは、やたら若者どもの顔色ばかりうかがって、金儲けのためにスキー場だホテルだゴルフ場だと、この日本の自然を荒らしまわってばかりおる。おかげで毎年、あっちこっちで洪水だ、地すべりだ、河川決壊だと、大勢の生命が失なわれておる。いま、日本の森林が危機的状況におかれていること、ご存知かの?」
「はい。それはもう、充分――」
秀彦は、本当はそんなことは知りもしない。
「いや、日本だけではない。先年のローマクラブの警告やアメリカ合衆国政府特別報告、というものを覚えていますかな。この地球上から毎年、千八百万から二千万ヘクタールの森林が、工業化や経済開発のために、消えてなくなっているんですぞ。わしは戦時中の乱伐の愚を反省して戦後は、木は一本も伐ってはいない。全国の志ある若者たちに呼びかけ、このあたり一帯の植林をすすめ、日本の緑を、ひいては地球の緑を守ることに余生のすべてをかけておるんですぞ。そんな折も折、わしの持ち山であんな愚にもつかぬ騒ぎがもちあがって、大いに迷惑をこいておる……」
結局、歯牙にもかけられずに、追い払われることになった。それならそれでいい、と秀彦の中でかえって、ほっとした部分があった。内ポケットにつめこんできた分厚い手付金の札束はこのままにして、ともかく交渉は不調に終わったのだから、早々に、この土地から立ち去ろう。ヴィーナスの洞窟になどは、一歩たりとも近づかないほうがいい――。
約一時間に及んで、日本の森林資源の危機について説教をきかされ、秀彦は追いかえされることになった。最初に老妻がお茶を運んだきり、あとは静かな、老人との二人だけの時間だった。
庭先まで出た時、足音が追ってきた。
「鳴沢さん。ちょっと待って――」
聞き憶えのある声に、秀彦の耳がびっくりして、慄えた。
すぐには、ふりかえらなかった。本能が、その声を識別していた。いや、あの食堂で電話の声をきいた時、微かにはねた針が、その時は何ものにも触れはしなかったが、この家にきて時間がたつうち、香坂という名前とかさなって、あ、と気づいたのである。
「あしらわれたわね。おじいちゃんに」
香坂まり子が、笑っていた。ジーンズにブラウス。土塀ぞいの道を肩を並べて、宿のほうに歩く。
「驚いたな。きみは安家天皇の娘だったのか」
「娘じゃないわよ。孫娘よ」
あれほど厳格な香坂老人の孫娘が、都会では、かなり自由奔放な生き方をしている。わからんな、世の中は。それにしても、香坂老人と橋場とは何やらいわくありげだった。そうすると、まり子が東北観光に就職していたことも、一種の縁故だったのかもしれない。縁故だとしても、それは和気あいあいとしたものではなく、その逆で、この女も何やらしたたかな秘密を隠しているのではないか――。
「山を買いにきた、ときいたけど、それは便法。あなた、要するに、あの洞窟にもぐりたいんでしょ?」
まり子は歩きながら、顔をむけた。秀彦は返事をせずに、怒ったように肩をいからせて歩いた。
「なぜ、黙っているの?」
「お見通しじゃないか」
「どうしてもぐりたいの?」
「ヴィーナス誕生の洞窟。観光資源だぜ。調査する必要がある」
「うそ。――花村ゆう子さんのことを調べにきたんでしょ?」
秀彦は立ちどまり、遠くの山の端に目をむけた。
赤い。月がばかに赤い。うるんだ赤さをみせる月が、平安朝の蹴まりのように、大きくはずんで、山の端にいまにも転げおちそうになっている。
「おれのことを、どうしてそんなふうに見るんだ?」
訊いた眼が、険しくなっていた。
「私にもいささか、興味があるのよ。花村ゆう子さんといえば、課は違っていたけど、私の先輩。行方不明になっていると聞いてるわ。私と同じような宿命を背負っていたのよ、あの人。橋場に接近し、仕返しをしようとしていた。私もその人も、それをまだ果たしてはいない――」
「宿命だと。大げさな。きみは何を背負っているというんだ!」
「内緒。そのうち、話すわ」
「どうしてゆう子と、洞窟が結びつく?」
「ヴィーナスの写真に決まっているでしょう。うちに送りつけられた翌日、テレビのニュースが流れたわ。鳴沢秀彦は私とおねんねしている最中、外からかかってきた電話をうけた直後、すっかり怯えていたわ。その鳴沢秀彦は、花村ゆう子の以前の恋人だった。ゆう子は、失踪している……。と、まあ、こんなふうに考えてみると、いくらばかな私でも、少しは筋というものが読めてくるのよ」
そんなことではない。秀彦が一番、疑問に思ったのは、香坂まり子がこの町の出身であり、しかも、その祖父が地所をもっている山の洞窟からヴィーナスが発見された、という、この奇妙な符節の合い方である。偶然、というにはあまりにも、話ができすぎているのではないか、こいつは……。
七年前、秀彦がゆう子を伴ってこの土地を訪れた時、碧龍洞はまだ世に知られていない洞窟だったし、その山林所有者が何者かなどということは、およそ、考えもしなかった。たまたま、殺人の場所として任意に選んだにすぎない。
ところが、その所有者の孫娘が、その後、秀彦の会社、東北観光に入社している。橋場にも、秀彦にも、接近している。偶然か。意図があったのではないか。
意図があったとすれば、それは香坂まり子が東北観光に入社したという、そもそもの動機にさかのぼらねばなるまい。なぜなら、まり子が入社したのは、秀彦がすでにゆう子をその洞窟で殺害して、聡子と結婚したその翌年だったか。要するに、その――あとだからである。
山の端に転げそうになっている赤い月が、道ばたの雑木林を明るませている。静寂の中で落葉が、鳴った。野兎でも馳けていったらしい。渓流に渡された橋を渡り、製材所と森林組合と旅館がある街のほうに歩きながら、秀彦の頭はしかし、思考力というものを失いかけて、身体ごと妙に揺れるような感覚だけが支配していた。
「耳をかして」
まり子が袖をひいて、背伸びをした。
秀彦の耳に、何ごとか囁いた。
ほんとうか、というように秀彦は見つめ返した。
「ええ。表がどんなに見張られていても、私ならあの洞窟にはいる方法、知っているのよ。おじいちゃんは、ああは言ったけど、山の買いつけのことも、応援してあげるわ。ともかくあす一緒に、あそこにもぐりこみましょうよ。私だって一度ぐらい、そのヴィーナスというものをこの眼で、ちゃんと見ておきたいもの」
矛盾している。ひどく、矛盾している。秀彦はもう一刻も早く、この山峡の街から逃げ帰りたいのだ。現にたった今まで、明朝一番に東京に戻ろう、と決心していた矢先である。
それなのに、今は不意に、そういう秘密のルートがあるのなら、一度はもぐっておいてみたい、と熱望するものが、もう一方に湧いてきた。死体を確かめさえすれば、安心できるかもしれないではないか。ゆう子ならゆう子で、対策も講じられよう。おまえはそのために来たのではないか。
秀彦がそういう考えに傾いてきたのは、多分、まり子の出現そのものが、彼に一種のまわれ右をさせる一大起爆剤になったからかもしれない。
「じゃ、あす案内してもらうことにするか。しかし、これは警察には絶対に、内緒だぞ」
「もちろんよ。裏の風穴からはいるんですからね。じゃあ、明朝八時、お電話するわ。宿は、伽倶楽荘?」
「あそこ一軒しかないじゃないか」
「これから、私も押しかけてみようかな?」
「ここはラブホテルのある歌舞伎町じゃないぞ」
「あなたはまだ、やりかけの仕事を残しているのよ。いつぞや、赤坂のホテルで」
「江戸の仇を、岩手でか」
「でも、やめとこうっと。すてきな人が一緒かもしれないし、私も家に、大事な客を残しているから」
「客……?」
「ええ、一緒に東京からきているの。じゃあ、明朝八時。宿にお電話するわ」
不思議な眼ざしを残して、橋の手前で、まり子はまわれ右をした。
「もし。あなた」
野太い声で、呼びとめられた。
旅館の表まできて、門灯の下をくぐりぬけた時である。
土木作業員のような褐色の野外服をきて、ジープからおりたばかりの男が、秀彦を誰何《すいか》した。
「今ごろ、どこをうろついているんです?」
今、到着したところらしいジープの横腹に、岩手県警、という文字がみえた。温泉街ならパチンコ屋ものみ屋もヌードスタジオもあるので言い逃れができるが、山奥の一軒宿。ほかに遊び場はない。秀彦は山地主の香坂栄太郎の家に行った事情を説明した。
「名刺を見せなさい」
顎の張ったいかつい中年男だ。職務質問でもしているつもりか。
秀彦は、名刺をだした。挙動不審とあやしまれては、かえってまずい、と思った。名刺は、手掛りを残すことになる、と怯えたが、度胸をきめて名刺を渡した。
「ふむ。さっそく不動産屋の暗躍ですかな。お預かりしておきますよ」
名刺を野外服のポケットに入れ、「失礼しました。何しろ、妙な事件にかりだされていましてね」
一礼して、男はジープのほうに戻った。
駐車場のほうに車をまわすのだろう。
後味のわるいことばかり、つづく。秀彦はゆるく頭を振って宿に入り、足音をひそませて、二階にあがった。
部屋に戻ると、颯子がまだ起きていた。テレビをみている。電気は消し、テレビのボリュウムも、絞っていた。ブラウン管のあかりに顔をうかびあがらせ、
「交渉、どうだった?」
「不調。でも、脈がないわけではない。あすも、頑張ってみるよ」
「食事、そこにとってあるわ。おふろも今なら、空いているそうよ」
「飯は、いいよ。風呂にでもはいるか」
「一階東側。廊下の突きあたりよ」
「ああ、知っている」
秀彦は服をぬぎ、浴衣に着がえた。乱れ籠にはいっていたタオルを拾って出ようとした時、
「階下《した》、寝静まっていた?」
「県警の人が戻ってきたところだったがね。もう部屋にはいってるだろう。帳場のあたりはまっ暗だった」
「そう。じゃ、おかみに交渉してみよう」
颯子も浴衣のまま、立ちあがった。何を交渉するのかわからなかったが、興味は示さないことにした。秀彦は先に出て、階下の風呂に入った。
香坂まり子のことや、祖父栄太郎のことなどを考えようとしたが、頭は麻痺したように動かない。自分がたった今、県警の人間に名刺まで渡してしまったことを思うと、胸がざわつき、ますます息苦しくなった。――虎穴。自分がまさに虎穴のまっただ中にはいっている、という実感だけが、ひしひしと押し寄せてきた。
そして、そのくせ、風呂につかっていると、胸が妙にしいーんと鎮まり返ってきて、殺人犯である自分のことよりも、自分をとりまくもう一つ外側にある謎の真相を探りだすまでは、一歩も引き退れはしないぞ、とする度胸めいたものが、根を据えはじめていた。
風呂から上がって、二階の部屋に戻ろうとして、ぎょっとした。薄暗い帳場の隅で、浴衣がけの颯子が、あかりの下で髪を垂らして、熱心に宿帳をめくっている。
「そういえば、宿帳を書いてなかったな」
近づいて、声をかけた。シッ、とふりむいて颯子が、
「私たちの分は、適当に書いておいたわ。これを見て」
小声で言った。「今、おかみに交渉して、むかしの宿帳を借りてめくっているところ。このあたり、ちょうど七年前の夏の分よ」
しみだらけの和紙である。
分厚い綴じの、あるページを指さした。
秀彦はのぞきこんで、悲鳴をあげそうになった。
……杉並区祐天寺二丁目。
原島登。妻かおる。
と、そのページは読める。
「偽の住所、氏名よ。ほら」
颯子が秘密を指摘した。
「祐天寺なら、目黒区に決まってるでしょ。このふたり大嘘、書いてる。妻かおる、だって。――それに筆蹟までが、どこか似ている」
おれの筆蹟、颯子に見られたのだろうか。
高鳴る心臓をおさえ、「誰に……?」
「先生に……いえ、おばさんの夫のことだけど」
――違う。これは七年前のおれの筆蹟だ……。
妻かおる、というのは、花村ゆう子のことだ。
秀彦にはむろん、そういうことは言えない。素知らぬふりをするためにも、けしかけてみた。
「そのページ、破りとって筆蹟鑑定にでも、まわすかね」
「そんなことをしたら、警察に疑われるわ。宿帳はこのまま、そっとしておきましょうよ。心証がこれでまた一つ、ふえたことになる。いよいよ、私の予感が的中しそうで、だんだん恐くなってきたわ」
颯子は颯子で、失踪したおばさんの謎を追うことに夢中になっており、自分の疑いをますます、そちらのほうに絞りこみつつあるようだ。それは不幸中の幸いといえば、そういえた。秀彦は無言で颯子の傍を離れ、先に部屋に戻った。
部屋にはまだ、テレビがつけっ放しだった。
タオルを鏡台傍の衣桁《いこう》にかけ、スタンドをつけ、テレビを消そうとして、手を止めた。
ブラウン管の中に、宝泉寺颯子がばかに晴れやかな顔をして、映っている。オフィスガールに扮していた。都会の、ビルのなかの秘書室ふうの部屋で、叩いていたパーソナルコンピュータから顔をあげ、ドラマのなかの颯子が社長風の男と明るい笑顔で、仕事の話をしている。
なるほど、自分が出演していたテレビドラマを見ていたわけか。音量はしぼってあるので、隣室には迷惑にはなるまい。秀彦はテレビをそのままにして、ハンガーにかけていた服から煙草とライターをとりだし、灰皿の傍に投げた。
ふとんが、すでに敷いてある。
二つ。隙間なく接している。
なやましい寝具だった。あやしげな雰囲気が昇った。おかみも二人の間をはかりかね、一応、ふとんは二つ、別々に敷いたが、怒られないように縁だけ、接しておいたのだろう。
秀彦にはしかし今夜、颯子に挑みかかる、というふうな野心はない。
今は、それどころではないのである。そんな気がする。橋場の女を寝とったための、あとのわずらわしさもさることながら、華やかな芸能界の女と寝ることに熱をあげるより、今は、破滅を前にした自分のことで手一杯という気がする。
右側のふとんの端をもち、引いた。二つのふとんの間に、一メートルぐらいの隙間をあけた。これでよし、と右側のふとんの上にあぐらをかいて灰皿を引き寄せ、煙草を吸おうとしたところへ、颯子が戻ってきた。
「据え膳、たべないの?」
「そんな度胸、おれにはないよ」
「おばかさん。ビールも載ってるわよ。山菜、おいしかったのに」
なるほど、みると部屋の隅に、白布をかけた膳が一つだけ残されている。
ビールとコップも揃っていた。
「飲《や》るか」
「さっき、少しいただいたけど、私も飲みなおすわ」
秀彦は立ちあがって、ビールを二本とり、二つのふとんのまん中に置いた。栓をぬき、自分のコップにつぎ、もう一つを颯子にさしだして注いでやった。
一息に飲んだ。うまかった。グラス越しにテレビの画面に眼が走った時、おや、と息をのんだ。ふつうのテレビドラマかと思っていたら、いつのまにかラブホテルの一室に場面が変わっている。それもかなり濃厚なシーンだ。
「あんなものも、やるのかな」
「今は山奥の旅館でも、アダルト・ビデオを置かないと、はやらないんでしょ。でもあれ、変なフィルムじゃないのよ。にっかつロマン・ポルノ。監督も――」
言いかけた颯子がコップを置いて、秀彦のほうをふっと睨んだ。
「おかしいわね。あなた。今日はずっと、どこか様子がおかしいわ。東京での、いつもの取りすましたエリート・サラリーマンではないみたい」
「どうして? 山の買いつけが不調に終わった。それで、少し苛々している。それだけのことだよ」
「そういうことではない。あなた、この宿にむかし、泊まったことがあるんじゃないの?」
ばか、と怒鳴ろうとして秀彦は、あわてて煙草に火をつけた。気配をさとられまいとしたが、心臓がはねあがっていた。
「妙な言いがかりをつけるね」
「さっき、お風呂の場所は知っている、と言ったわ。なんだか、おかみに顔をみられまい、とばかりしているような気がするけど」
「そんなことはないよ」
「茂市駅ではこういったわ。七年前は東京からここまで夜行列車だった、って。あわてて、むかし、と言い直したけど」
「そりゃあね、一般論さ。新幹線がない時代は――」
「クライスラーの中では、ヴィーナスの話をきいて、蒼ざめていた。さっきの宿帳の時だって、平静な声をだしていたけど、私があのページを指でさした時、急に態度が邪険になったわ。もしかすると……原島登、妻かおるって、あなたたちのことじゃなかったの?」
秀彦は決して、怒鳴りつけたりはしなかった。
静かにビールを注ぎ、静かに言った。
「颯ちゃん、と呼ばしてもらおうかな、宝泉寺さん。あなたの頭は今、どうかしていますね。みどりおばさんとかの幻影に取り憑つかれているんじゃないかな。見るもの聞くものすべてを、洞窟の奥の殺人事件に結びつけようとしている」
「そうかしら」
颯子が言って、コップを置いた。沈んだ声。なぜかこの女も落ちこんでいる。
テレビでは華やかな颯子が、映っていた。エクセルのスーツをきて颯爽とした社長秘書が、成城学園の豪邸にはいっていくところだ。財界巨頭の家といった按配だった。ただいまあ、と画面の颯子が言ってるところをみると、驚くべきことに、その女の自宅らしい。お手伝いが出迎え、颯子はピアノのある部屋にはいってゆく。
「あのねえ」陰気な声をだした。現実の颯子のほうだ。「きいてほしいんだけど、私だって何だか恐ろしくなってきたのよ。――この宿にはいる時、おかみがまじまじと私の顔を見ていたでしょう。人違いかしら、ずい分似ている、と首をふりながら階段をのぼりかけたでしょう。あれ、タレントの宝泉寺颯子と気づいたのかと、私、少々気負ってたんだけど、実は、そうじゃなかったのよ」
「どう違ってたんです?」
「七年前に、ここに泊まった女性にすごく似ている、とおかみが私にそう言ったのよ。食事を運んできたとき。そういえば碧おばさんと私、身体も容貌も、すごく似ていたのよ。七年前といえば、おばさんはちょうど今の私と同じくらいの年齢ということになる」
「あなたに似ていたのなら、掛け値なしだっただろうな。美貌の女流画家、という形容詞。どこかの男が、生命がけで惚れこみそうだ」
「おじさんは、惚れこんでたわ。――それでね、そういうこともあるかもしれないと思って、私、今日はわざと化粧をせずに黒い帽子にサングラス、という恰好でここに来たのよ。今日の私の恰好、ほんというとね、碧おばさんがスケッチ旅行にゆく時のいつもの恰好なの。ランバンの白のスーツ。黒のエナメル靴。みんな、そうよ」
「で、おかみは玄関口に立った颯子さんをみて、ぎょっとした。大いに脈あり、だったわけか」
「ええ。それでさっき、宿帳をめくっていたんだけど――」
「あの筆蹟は、やはりご亭主の?」
「似ていた。ひどく似ていた。――碧おばさんはね、芸術家にありがちな奔放な女性だったの。一晩でも男なしには寝られないという、激しい性欲の持ち主だったの。おじさんが仕事で出張する時、いつも家に若い男の人たちを入れてパーティをしていたわ。そんなところが、おじさんには我慢ならなかったのかもしれない。現に、愛人もいたし……で、おじさんは碧を憎んだ。とみれば殺人の動機は成立するでしょう?」
「うむ」と秀彦は頷いた。
「成立するかもしれんな。男も結構、嫉妬深いから」
秀彦は二本目のビールに手をつけた。妙な夜だ。しいーんとしている。テレビの画面だけが、チラチラと蛍光色の蒼白い光を放っていた。このまま、何事もなければいいが……。
「ねえ。私は秘密を教えたわ。あなたの秘密のほうも教えてほしいんだけど」
颯子が背中を寄せていた。浴衣一枚をすかして、颯子の体温がほんのりとあたたかく、伝わってきた。「あなた、山を買いつけにきたといってるけど……でも、それは本当の目的ではない。本当は、あの洞窟にもぐって、発見された二つめのヴィーナスというのが、どういう女性なのか。それを確かめにきたんじゃないの?」
恐るべき、洞察力。この女も、得体がしれない。
秀彦には、答えようがなかった。また、断じて答えるべきではなかった。
だが、それぞれ一つの怯えと秘密を抱いて、その秘密を探りにきた男と女が、山奥のたった一軒きりの旅館に、同宿している。それも、ひとつ部屋。深夜、ひっそりとひとつ部屋で、背中を寄り添わせて、ビールを飲んでいる。そういう構図に、いたくそそられた。欲望にちかいものが、秀彦の身内で、少しずつ獣のように頭をもちあげはじめていた。
だが秀彦は、沈黙してビールを飲みつづけた。
「けち。秘密を教えてくれたら、私……」
「私……ん?」
秀彦はふりむいた。「私……それから?」
「ばか」
颯子が押すように体重を秀彦の肩にあずけてきた。
「碧おばさんと私、似ちゃったのかしら」
「身体つきも容貌も似ていた、とあなたは言ったはずだぜ」
「そのほかのところも似ていたのかもしれない」
「助平なところも?」
「女性に対してはもう少し、言葉を選ぶべきよ」
「一晩でも男なしではいられない」
かと思ったよ、という言葉は飲みこんだ。
「ねえ。だから、教えて」
取りすがる、という具合に肩にもたれかかってきた。
颯子の顔が、白い。甘い香水の匂いがした。颯子は顔をあげて、秀彦をみた。瞳が、濡れたようにきらめいていた。
だが、素顔である。皺が意外に、目立った。
その顔は、とても赤坂のホテルのプールサイドで甲羅干しをしていた驕慢な女や、ブラウン管でみる頭のいい知的タレントの輝かしい顔ではなかった。……考えてみれば、離婚歴のあるこの女も、もう三十歳の軒下にきている。本職の俳優でもないタレントなど、一皮むけば使いすての消耗品だし、浮沈が激しい。絶頂期、いくらもてはやされても、盛りをすぎれば、パブかピアノバーのママあたりが、落着く先だろう。とすれば、この頭のいい女が、世間には秘密に、橋場のような男につながっている気持ちもわからないではなかった。
一人の女。生身の。
そう考えれば、気分が幾分、楽になった。
今は、もう何も考えないほうが、いいのかもしれない。そのためには、眼の前のこのいささか年をとりはじめたきらめくような女は、いい獲物だ。秀彦は幾人もの愛人をもって不埒な行為に熱中していた東京でのエリート・サラリーマンとしての平衡感覚を、もう一度、取り戻すことにした。
唇をあわせた。花の匂いがした。舌が、跳ねた。颯子は上手に、秀彦の舌を誘いこんだ。手が肩にまわされている。秀彦は浴衣のあわせ目から手をさしこみ、二つの胸の豊かさを寄りあわせた。
ブラジャーも何もつけていない乳房が、弾みを押しかえしてくる。プールサイドでみたあの肢体がいま、両腕のなかにあると思うと、やはり秀彦のなかに軽い眩暈《めまい》がきた。
ふとんの上に倒れたのは、颯子の身体が自然に、傾いたからである。のしかかるという具合になって、浴衣の紐をほどいた。めくると颯子の小麦色の眩しい裸体が、あふれでた。エーゲ海のヴィーナスみたいだぜ、と秀彦は生つばをのみ、唇を胸のほうに移動させた。
量感のある乳房に唇を這わせ、舌で乳頭をそそりたたせはじめた一瞬、忘れることができた。脅迫者のことも、哲学堂下のマンションの死人も、洞窟のヴィーナスも。いや、ヴィーナスはこれだけでいい。乳房に唇をあずけたまま、右手をなめらかな腹部にすべらせてゆき、しげみにふれた時、颯子が甘やかな声をあげた。
颯子は手で秀彦の髪をつかんでいる。顔をのけぞらせていた。指先が谷間の奥にしずむと、颯子は白い喉をいっそうのけぞらせ、こぐらかるような声を発した。
指先に熱いうるみが、伝わってきた。すてきな感触だった。はざまに沿ってなんどか練りあげ、秀彦は大いに気を楽にして、熱中することにした。身体を反転させ、颯子の両下肢を思いっきり、抱えた。顔をそこに、近づけた。甘い香りが、そこからもたちのぼった。
宝泉寺颯子の女の部分は、至近距離でみると、ありていに言って、かなりいやらしいたたずまいを見せていた。ハイレグ水着にあわせて、両サイドを刈り込んでいても、なお黒毛を残す茂みに飾られた葡萄色の外陰唇の内側から、ぬたつく貝の身のような内陰唇が、ルビー色にたわみ光ってはみ出していた。
秀彦はそうすることで、脳を灼熱の炎でまっ白く灼いてしまおう、とでもいうように、表敬訪問した。ぬたつく貝の身に唇と舌が直撃してお詣りした時、颯子は、
「おおっ……」
と太腿を震わせ、驚いたような声をあげた。
秀彦はかまわず、表敬訪問をつづける。爛熟開花した微妙なフリルの味わいをみせる亀裂を、何度か舌で襲撃するうち、はみだした貝の身がますます濡れ光って、肉紐のように外側にはみだし、発達してくるのに気づいた。
秀彦は、その発見にもくらくらっと、目まいがしそうなほど酔い、いまや長く伸びきってきたその肉紐を口の中にとろりと入れて、貪り吸ううち、
「あっ……ああっ……何てことなさるの……! ああん、いやっ、感じちゃう……あたしを誰だと思っているの!」
とろりとした肉紐を吸われつづけて、花形キャスターは、身も世もない声をあげる。自分の誇りと慎しみをないがしろにされたことに狼狽し、怒り、あわてふためき、放恣にあばれつつ、両の太腿で秀彦の頭をきゅっと、恐ろしい力で挟みつけようとした。
秀彦はそうでなくても、このところ、洞窟に怨みがある。
その怨みを晴らすように秀彦は、はさまれようとする太腿を両手で強引に押し開き、吐蜜する颯子の洞窟にも、復讐の襲撃をつづけた。
肉びらの蜜の流れは、今や油を流したような河になっている。秀彦はその豊潤な愛液を、舌ですくいあげて、谷間の突起にもなすりつけた。
「あうんっ……やめて」
不意にバウンドした恥骨に、秀彦は痛いほど、顔面を直撃された。
「ねえ……ねえってば……いつまで私を遊んでいるの?」
催促されて秀彦は、頃合いだと思い、猛然と湧いてきた獣のような意欲にかられて、姿勢をとる。濡れうるむ世界に自分を収めていった。
「あうっ……あうん」
颯子が重い呻き声を発し、顔を反らせる。
宝泉寺颯子の内部は、柔らかいひしめきと、掴まれるような緊縛感に充ちていて、その奥のほうはどろどろの海のようであり、ひどく熱かった。
秀彦のかなり狂的な抜き差しに応えるように、颯子の女の通路がうねくり、細かく束縛感を伝える。
やがて颯子は、勝気な女性特有の、勝手放題な、甲高い声をあげはじめた。秀彦は驚いて、枕で彼女の唇を塞いだ。山奥の一軒宿では、その声は外まで筒抜けになってしまうのである。
そのまま、数合、抜き差しを繰り返すうち、颯子は顔の上の枕をはね飛ばしてしまった。嬌声が噴いた。失礼っ、秀彦はまたあわてて、また枕を顔の上に押しあてた。花形キャスターの乱れる素適な顔を拝まずに振舞うのは、勿体ない限りだったが、秀彦はまわりの部屋のことが気になって、生きた心地がしなかった。
こんな時、浸りきることのできる女は、本当に凄い。男は実に、だらしない。だらしないくせに、やめられない。秀彦は抽送しながら、そんなことを考えた。乳房を揉むうち、颯子はきれぎれに叫んだ。
「ちょうだい、ちょうだい。あなたのまっ白い……」
まっ白い夜明けは、まだまだ先のようであった。
「お客さん、お電話ですよ」
呼ばれたのは、朝八時である。
秀彦が帳場におりると、まり子からだった。
「急いで用意してちょうだい。大声ではいえないけど、今日、県警の人たちがヴィーナスを運びだすそうよ。搬出作業は午前十一時から。それまでにもぐらなければ、ヴィーナスには二度とお目にかかれなくなるわ」
捜査陣の情報まで、仕入れているらしい。約束の時間も、正確だった。だが一夜あけてみると、警察がそこまで動いている場所にもぐりこむということに、秀彦はやはり、また、気後れを感じはじめていた。危険だ、引き退がれという思いがくる。
「表に見張りがいても、本当にもぐれるのか?」
「まかせといて。誰にも見つからないように、案内するわ」
まり子はどうしてそんなにまでして、おれをヴィーナスの洞窟に案内しようとするのだろう。
「迎えにゆく?」
「いや。昨日、出迎えてくれた京栄運送の村越という男がもうすぐ、ここにくることになっている。山の下見を案内する、といってたからね」
「じゃ、現地集合九時。まちがいなくよ」
「こちらはコブつきだぞ。きみが一番、嫌いな女」
「宝泉寺颯子とお忍びでしょ。ゆうべ、宿のおかみにきいたわ。いいわ、一緒にいらっしゃい」
京栄運送の村越は、二十分も待たずにやってきた。昨日、別れぎわに本人のほうから申し出たのである。
「あす、買いつける山を下見にお行きになるのでしたら、ご案内いたしますよ。タクシーよりは、お役に立つでしょう」
颯子は今朝は、勇ましい恰好をして玄関に立った。登山帽にサングラス。ジーンズにテニスシューズ。二人は朝食もそこそこに宿を出、村越の車にのった。
クライスラーは、上流にむかった。
「目的地は、わかりますか?」
秀彦は、初めてゆくような顔をしてきいた。
「ヴィーナス洞。知っていますよ。あそこではまだ、学生たちがキャンプを張っているようですね」
川霧が安家渓谷から立ちのぼっている。霧の奥から、本立ちや山肌が現われてくるのを見ながら、颯子が弾んだ。
「ハイキングにきたみたい。秋川渓谷よりずっとすてきね。山は深いし、河がきれい」
ゆうべ、男の身体を二度にわたって貪ったので、颯子はすっかり心身が快適になったもようである。
目的地には、一時間弱で着いた。七年前の、あの場所である。山と山があわさった谷間の奥に、柱状節理の切りたった断崖があり、渓流をへだてて対面する、灌木と蔦におおわれた洞窟の入口は、今日も変わらない。だが、その手前の樹間に、新聞社や放送局の取材車がひしめいているのをみて、秀彦は肝をつぶし、度を失いそうになった。
今日、搬出作業が行われる、というニュースが走って、地元報道陣が朝から馳けつけているのだろう。これほどの騒ぎになる場所に、なぜのこのこやってきたのか。今すぐにでも引き返したいと怯気《おじけ》づいたが、颯子のほうには勢いがついていた。
「いよいよ。ヴィーナスが碧おばさんかどうか、確かめられるわ。それに、うまくゆけばこの連中の鼻をあかすことができるし……」
キャスターとしての職業意識も半分、手伝っているらしい。
香坂まり子の言葉に信を置くとしたら、警察がはいりこむ前に、この連中の眼にはとまらない場所からはいれる、ということなので、車はずっと手前の山陰に駐めた。
そのまり子は、まだ現われない。一番手前の谷川の河岸で、一群の若者たちが、キャンプを張っていた。二つのテントの間から、焚きだしの煙が立っている。Q大ケービングクラブの若者たち、と見当をつけた時、秀彦の脳裡に、ある重大な考えが閃いた。
脅迫者はいつぞや、Q大ケービングクラブの学生たちを焚きつけて、この洞窟にもぐらせたといっていた。真偽のほどを確かめるには直接、本人たちにきいてみるといい。幸い、学生たちのキャンプは、取材陣とはかなり離れていたので、秀彦は登山帽を深くし、サングラスをかけたまま、勇気をふるいおこして、学生たちのほうに近づいていった。
「やあ」
新聞記者のようなふりをする。「きみたち、まだ足どめをくっているのか?」
「困っちゃいますよ。探険のほうは計画の半分しかすすんでいないのに、立入禁止。そのくせ、警察の事情聴取とかで足止めをくらって、東京にも戻れないんですよ」
「大変だな。それじゃ、食糧も予算も底をついちゃうじゃないか」
「ええ。夏休みだから、まだいいですがね。食糧は、地元調達――」
腰にタオルをぶらさげた若者が、即席カマドに薪をくべながら、屈託なく応じてくれた。
「ところで、きみたちがあの洞窟にもぐるには、何かわけがあったの?」
Q大ケービングクラブの副部長と名のった久留米真助《くるめしんすけ》という若者は、奇妙なことを喋ってくれた。
「今年の春先、耳よりな話ってやつを、ある男から持ち込まれましてね」
「どういうこと?」
「黄金伝説ですよ。黄金伝説」
「ほう。洞窟に?」
「ええ。これは警察の人にも説明したんですけどね。――北上山地の安家の奥に、碧龍洞という未発見の洞窟がある。その洞窟の奥に、中国の古い陶磁器や、シルクロードから伝わってきた、ペルシャやギリシャあたりの彫刻とか、美術品とかが、いっぱい隠されている。おたくのケービングクラブでもぐってみて、その財宝を発見してみないかねって」
「妙な男だね。どういう男だった?」
「それが……電話だったものですから」
「そんな黄金伝説を、きみたちは信じたのか?」
「いえ。信じたわけではないけど、ちょうど次のアタックをどこにしようかと話しあっていた最中だったし、それにさあ。三陸の宮古あたり、古い時代は中国との貿易港だったでしょう。宮古とか、気仙沼とかいえば、北上山地のすぐ傍。近くには、藤原三代の平泉もある。現にマルコ・ポーロの東方見聞録には、黄金の国ジパングとして、平泉の金色堂のことなんかが書かれているし、盛岡の鎌倉寺には、西洋人の仏像がある。ペルシャやギリシャの美術品が、このへんに運びこまれて、洞窟の奥に隠されていたって、少しも不思議じゃないって、おれたちも考えたんです」
「で、欲にかられてもぐったわけ?」
「欲には、かられませんよ。どのみち、洞窟学というのは、金儲けには縁のない一種のアウト・ドア・アドベンチャーですからね。ものはついでと……」
久留米真助らは、その謎の男からの電話をきっかけに、もしかしたらあるかもしれない眩しいギリシャやペルシャの美術品を掘りだしてやろうと、計画をたてて現地入りした。
ザイルやピッケルを装備し、学術探険と称して、今月の十六日から二週間の予定で、この洞窟にもぐった。はいった途端、新種の洞内昆虫の発見など、洞窟学上の多大の成果も得られて有頂天になっている折、第三キャンプ地で、奇妙なものを発見した。たくさんの壊れた壺や、焼きものと一緒に、例のまっ白い彫刻様の女性像を目撃した瞬間、これこそ、ミロのヴィーナスに劣らないギリシャの古代彫刻に匹敵する一大発見だと信じこんで、麓の役場に素っ飛んでいった――。
発見劇の顛末は、ほぼ、そういう具合になるらしい。むろん、彼らが発見したヴィーナスは、ただの石膏像だったうえ、その奥から半ば石灰化した女性の全裸死体が発見され、奇妙な大騒ぎにまきこまれて、結局、久留米らは得るものを得るより、損することになって、正直のところ、当惑気味であるらしい。
が、見知らぬ男が大学のクラブ室に電話をしてきたという以上、脅迫電話の男の言い分は、あながち誇張ではないと思えた。秀彦に電話した男が、つまりその謎の男ということになるのではないだろうか。
立ち話しながら秀彦を記者と思って、気軽に喋ってくれた久留米真助に礼をいい、クライスラーのところに戻ると、営林署が使うような腰の高いジープが一台、その傍に到着していた。
香坂まり子が、ぷりぷりしていた。自分で運転してきたらしいジープの中で、ロープやザイルを点検しながら、
「そんなところで道草くっている場合じゃないわ。さあ、出発よ」
まり子によると、車で少し移動し、乗りものは林の中に隠したまま、別の沢からはいって、山を一つ迂回するのだという。
「今ならまだ、洞窟には誰もはいってはいないわ。裏口からはいるのよ。裏口から……」
せきたてられて、ジープに乗った。
まり子はジープを、もう一つの沢の方にまわした。
村越のクライスラーも、後からついてきた。二台ともその沢の入口の樹間に隠し、村越にはそこで待ってもらうことにした。
山にはいるのは三人。まり子、秀彦、颯子。登山服をきたまり子は、ロープやザイルやピッケル、懐中電灯の類いをそれぞれにもたせ、
「途中で、弱音をはかないでね」
先頭に立ってずんずん沢を登ってゆく。
この山地全体の標高は高いが、秀彦たちが登る雨龍山自体は、それほど高い山ではない。道からはざっと三百五十メートルぐらい。やや長めの丸い椀をすっぽりと伏せたような形をしている。頂上まで登るのは手頃なハイキングコースだが、まり子は沢の途中から左に折れ、獣道をわけて杉木立ちのなかを迂回し、ヴィーナス洞のある斜面の反対側にまわりこんでゆく。
三十分くらい登って汗ばんできたころ、樹相が変わった。山の裏側に出たらしい。その八合目くらいのところで、まり子が立ちどまり、眼の前を指さした。
「ここよ。支洞の出口」
杉や松が生い茂った崖の斜面に、ぽっかりと小さなほら穴があいている。赤土や雑草や蔦におおわれ、灌木が生い茂っているので、よく見なければふつうの人では気づかないような、小さな風穴《ふうけつ》だった。
「へええ。こんなところから、もぐるの?」
「そうよ。だから、ロープが必要なの」
ほら穴は、それほど大きくはない。まり子が傍の木にロープの端を結びつけている間、のぞきこむと冷めたい風が中から吹いてきた。風穴は斜めにえぐりこまれており、五メートルばかりはいったところに、一段落する踊り場があり、そこからは斜めに支洞をうねうねと下って、本洞につながっているのだという。
「大丈夫なのかなあ。こんなところから」
「蛇や蜥蜴《とかげ》なんか、出ないかしら?」
「何いってんの。怯気《おじけ》づくようなら、引き返すわよ」
及び腰ながら、三人ははいることになった。
まり子の指示で、二人ともロープを腰に結びつけた。秀彦も、多少の山岳経験ならある。まり子が先頭に立ち、颯子がまん中、秀彦が殿《しんがり》である。落葉が吹きこんでいて足許は柔らかい。一歩はいると、湿った匂いが鼻についた。表から外光が射しこんでいるのは、せいぜいロープをつたって最初に足をつけた踊り場までである。
「これからが本格的な風穴。足許と頭上に気をつけてね。ライトは一人ずつ持って」
まり子は、なかなか野性的である。「このへんはまだ、立って歩けるけど、もう少しゆくと大変よ。蟹の横穴とよばれて、腹ばいにならなければ進めないところもあるし、そこをすぎたら、地獄谷といわれるグランド・キャニオン……」
「いやに詳しいね。きみは何度もはいったのか?」
「ええ。おじいちゃんに案内されて、この風穴から一度はいったことがあるわ。おじいちゃんたちは青年時代、なんども探険したみたい。むかし何度かこの洞窟を村の観光名所にしようという動議がもちあがったみたいだけど、こんなふうに支洞が多いので危険。経営する資金もないし、いつもご破算になったみたい。こんどのヴィーナス騒ぎで、きっと有名になるわよ」
まり子は明るく言っているが、秀彦は生きた心地がしない。これからいよいよ、自分の殺人現場に近づくのである。
洞窟はやがて、低く細くなった。立って歩いていたのが、背を屈めるようになる。下からの起伏と、左右からの壁面がくびれ、身体を斜めにしてすすむうち、やがて腹這いにならなくてはならなかった。
蟹の横穴。颯子のお尻を拝みながら、這いすすむ。そのカニ穴をぬけると、下のほうから一段と冷たい風が吹いてくる。天井から石筍や石針がつららのようにたれさがった峡谷状のところに出た。
なるほど、小さくて薄暗いグランド・キャニオンか。道は、回廊状にそのほら穴の岩壁にそって下ってゆくが、右下はまさに断崖。地底まで切れこんでいるようなまっ暗な谷間が、口をあけている。
「きゃあッ!」
前の颯子が足許をよろめかせた。支えようとしてその身体を受けとめた秀彦の、足場の岩が崩れた。手を宙に舞わせたが、つかまるものはなく、秀彦の身体はずるずると、暗い谷間にすべってゆく。
「ばか! このあわて者。ほら、このロープにつかまって!」
まり子がロープを投げてくれたが、やっとつかまったのは、ごつごつした岩につきでている石筍群である。柱状になった鍾乳石につかまりながら、やっとロープを拾いあげ、足場をさがしはじめた時、汗がぐっしょりと秀彦の脇の下をぬらしていた。
下をみると、暗い奈落である。直下まで落ちていたら、頭を割って即死しただろう。
「危ないじゃないの、そんなところで。早くこれにつかまって這いあがりなさいってば!」
まり子の声がきた。今、おれを突きおとそうとしたのは、颯子ではなかったか。見あげた時、その顔がふっと、花村ゆう子の顔に重なったようで、背すじが寒くなった。
すべて、幻覚。奇妙な、洞窟のせいだ。這いあがって、まり子を先頭にまた先へ先へと進むと、やがて右側に幾つもの支洞が口をあけた広場にでた。
地下広場といっていい。足許は、ガレ場である。見あげるほど高い天井から、極端に細い鍾乳石が、針のようにさがっている。足許には鍾乳石や石筍の大きなものが、林立している。それらが懐中電灯の照明にあてられ、不気味にきらめく。いつかのあの場所に出たのかと思ったが、そうではない。リムストーンでせきとめられたプールはまだないし、滝の音ははるか下のほうからきこえてくる。
「わあ、凄い。ギリシャの神殿みたい」
颯子がライトをぐるぐると天井にまわして、嘆声をあげた。なるほど、洞窟という言葉のもつ狭く陰湿で、暗いイメージはない。広場の一番奥に、純白の石柱がパイプオルガンの管のように並んでいるあたりは、コリント様式のギリシャの列柱のようにみえる。こんな場所で石膏のヴィーナスを発見すると、誰だって、ミロのヴィーナスと錯覚するだろう。
「こんなところで驚くのは、まだ早いわ。下の滝のあたりがもっと素適よ。さ、急ぎましょう」
まり子が歩きかけた瞬間、
「おや」
秀彦が声をあげた。
「あら」
颯子が、声をあげた。
大広間のむこうの岩かどに、ちらっと消えたネッカチーフの女が、見えたような気がしたのである。しかもその女、妻の聡子のように思えた。
「変だな。おれの眼はどうかしている。友達と九州に旅行しているはずの家内が、こんなところにきているはずはないからな」
「なにをぶつぶつ言ってるの。こんなところに一週間、閉じこめられているとみんな精神がおかしくなる、というけど、本当かもしれないわね。――さて、これからは私語は禁止。ほら、滝の音がきこえるでしょう。その下で、ヴィーナスが発見されたらしいのよ。誰か、表から人がはいっていると発見されるので、静かに……」
腕時計をみた。十時すれすれ。だいぶ時間が経ったようだが、現実にはまだたいしたことではなかったらしい。それにしてもまっ暗闇。懐中電灯をかざして、それからは平坦な下り坂を、滝の音をめざして三人は進んだ。
一つの大きな岩かどをまがった瞬間、しっと、まり子がふりかえった。
「隠れて! 誰かがやってくる。こちらに」
足音がどやどやと近づいてきた。声高な話し声がする。暗黒の岩肌に、白い光線がゆれた。秀彦たちはあわてて、石柱の陰に隠れようとしたが、懐中電灯を消すのが遅かった。
「おい! そこに誰かいるのか!」
野太い声が、誰何した。
三人は岩肌にぴったり寄りそったが、すぐに人影がそのガレ場に現われていた。男が、四、五人。みんな野外服をきている。秀彦たちは眩しい光線を、顔にあてられた。
「きみたち、そこで何をしている!」
先頭の太った野外服の男がきいた。
もはや、逃げ隠れはできなかった。秀彦は登山帽を深くしながら、自分の心臓の鼓動をきく思いだった。
まり子が矢面に立ってくれた。
「私、この山の持ち主の孫娘、香坂まり子といいます。会社が、うちの山を買いつけることになって、秘書室長みずから下見にこられましたので、ご案内していたところです」
男たちは警察の人間らしい。懐中電灯を無遠慮に秀彦の顔に照らし、「ほう。あんたか。ゆうべ、伽倶楽荘の前で会いましたな。山を買いつけにきたという話だったが、買いつける山というのは、やはりここのことだったのかね?」
「はい」と、秀彦は観念して答えた。
うまく芝居をしなければならない。「そうです。ヴィーナスの森、とでも名づけて別荘地を開発しようともくろみましてね。この地主のお嬢さんに案内してもらって、裏の沢づたいに頂上にのぼり、雨龍山全体の地勢を観測していたところ――」
雨龍山の八合目で、大きな風穴のなかに先頭の一人が落ちて、事故にあった。助けようとして三人ともなかにはいった。出口を求めて、暗中模索しながら支洞をすすんでいるうち、とうとうここに出たんだ、と秀彦は説明した。
説明を、相手が信じたかどうかはあやしい。順序としては正しいことを伝えたわけである。だが、それよりも秀彦は突如、相手の顔が、険悪になったので、はっとした。
男は、血相をかえていた。
「風穴だと! それは、どこにある?」
「はい。私たちが通ってきた後ろのほう」
「そこに案内したまえ。今すぐだ」
様子があやしい。まり子がきいた。
「どうして?」
「ゆうべ、ヴィーナスが盗まれたんだ。ルートは、そちらかもしれん」
顎のいかつい男が、吼《ほ》えるように言った。
秀彦は、呆気にとられた。
「ヴィーナスが盗まれた?」
「そうだ。われわれが搬出にとりかかる前の晩、洞窟から消えてなくなったんだ! 畜生、犯人どもをふんじばってやる」
「しかし、警察が表を固めていたのでしょう? 入口さえ固めれば、どこからも消えるはずはないじゃありませんか。支洞や風穴を知っている者なんか、そうざらにいやしないでしょうし、私たちはただ、事故で……」
「つべこべいわずに、案内するんだ!」
「引き返すのですか? 私たちも」
「あたりまえだ! さあ、案内したまえ」
追いたてられ、追いまくられる感じで、三人は引き返すことになった。道を、今きたほうに歩きながら、秀彦は内心、ほっとする思いを噛みしめていた。
何しろ、死体が消えたのである。
ヴィーナスさえ永遠にこの地上からなくなれば、警察の眼には花村ゆう子とはもうわからない――。
現にそれを、秀彦自身がやろうとしていたことだ。先回りされたような気がする。
誰が、何のためにヴィーナスを盗んだのか。あの脱け道を知っていた人間といえば、限られているはずである。
地元の人間? だが、地元の人が死体などを盗みだしてどうしようというのか?
なるほど、まり子ならあのルートを知っていた。しかしまり子は、秀彦や颯子たちを、まだヴィーナスがあそこにあると信じて、案内している。はじめから盗みだしているくらいなら、わざわざ大芝居まで打って、案内したりはしないだろう。
死体を盗みだし、警察陣の、裏をかいて得するものは? と考えた瞬間、あっと秀彦は叫びそうになった。
あの脅迫者たちの仕業だ!
哲学堂下のマンションで交渉した男は、搬出に協力してもいいとさえ、言っていた。彼らなら、脱け道を知っているわけだ。そして彼らなら、警察の解明を邪魔し、死体をどこかに移しておくことによって、鳴沢秀彦や東北観光を相手に、腰をすえてじっくりと、企業脅喝なり何なりの仕事に取りかかることができる。
その日、発覚した雨龍山からのヴィーナス盗難事件は、捜査陣に大恐慌をもたらしたようである。貴重な学術的資料盗まる、と県教育委員会にも大きな驚きをあたえ、合同で大捜査陣がくりだされたが、洞内の隅々や周辺の山林を調べても、ヴィーナスはついにどこからも発見されはしなかったのである。
警察の話によると、昨日の夕刻六時までは確実に洞内に二つのヴィーナスがあったとされる。今朝八時以降は、表にまた張り番がついていたので、盗難は事実上、ゆうべのうちになされたことになる。
従って、表でキャンプをしていた学生たちをはじめ、関係者の一人一人に聞き込みが進められたが、犯人は見つからない。昨日の夕刻六時から八時までの間のアリバイを秀彦たちは徹底的にきかれた。だが、秀彦と颯子は幸い、伽倶楽荘にいたことが証明されている。香坂まり子は自宅にいたらしいが、家族の証言を警察は信用しなかった。
おまけに、まり子だけは、当面の関係者の中でただ一人、後ろからはいる風穴を知っていた。そのせいで、まり子だけは警察に足どめをくらい、秀彦と颯子は、午後二時ごろ、沢の入口に設けられていた警察用仮設テントからやっと、釈放された。
山肌を驟雨がぬらし、走りすぎていた。警察の仮設テントから出て背のびすると、山の樹々が美しい。さんざん絞られはしたが、秀彦のなかにはかえって、一種の踏んぎりと、安堵感が戻っていた。
ヴィーナスさえこの地上から消えてしまえば、警察の追及は恐ろしくはない。あとは、脅迫者たちとの対決があるのみだ。そんな、ふてぶてしい自信が戻ってきた。魔界、ともいえる底しれない洞窟から外の明るい世界に出た瞬間の、あの安堵感に似たものが胸に充ちてきた。
颯子も、憑きものが落ちたような顔をしていた。テントの中での思わぬ取り調べで、疲れ果てたのかもしれない。
「どうする? 私、あしたからは仕事がぎっしり。もうこんなところに長居している場合ではないような気がするわね」
「うむ、そうだな」と、秀彦も相槌を打った。「おれも東京に戻るとするか。今からなら、今夜じゅうに東京に着くかもしれない」
村越がおとなしく、沢の入口に駐めた車のなかで、昼寝をしていた。運送会社の支店長ともなると忙しいはずなのに、よほど橋場の薬がきいているらしい。昨日の午後からずっと、面倒をみてくれていることになる。
「村越さん、お待たせしました。急いで宿に、戻って下さい」
「山の下見は終わったんですか?」
村越はのんびりした声をあげた。なるほど、警察テントのある沢とは別の場所にいたので、まだヴィーナス盗難事件のことを知らないらしい。
「帰京なさるのでしたら、この車で茂市までまっすぐ、お送りしましょうか?」
「そう願えれば、ありがたいですね。もっとも宿に荷物も置いていますし……」
とりあえず、伽倶楽荘に戻ることになった。伽倶楽荘は、からっぽだった。部屋にはいり、服を着がえ、そこを出たのは三時である。
宿泊代を精算し、荷物をもって表に出た時、おかみが追いかけてきて、宝泉寺颯子にサインを求めた。
「やっぱり……! 宝泉寺さんでしたのね。お忍び旅行みたいだったので、わるいと思って遠慮してたんですけど……洞窟のヴィーナスの取材だったんですか?」
おかみはすっかり、宝泉寺颯子に眼を奪われている。秀彦のほうには、とうとう最後まで、たいした関心を払わなかった。この分では、七年前の顔はもう、覚えてはいないようだ。これも、一つの収穫だった。
こと現場に関する限り、あまりびくびくする理由は、なくなったようである。
それにしても、誰がヴィーナスを盗んだのか? クライスラーに乗って岩泉に戻る車中、秀彦の念頭からそれが、去らなかった。一番、濃厚な容疑者と思えるのは、姿の見えない脅迫者たちである。そもそも、あの脅迫者たちは一体、何者なのか? 問題はその原点に舞い戻ってくることになる。
あるいは、おれたちは香坂まり子に一杯、くわされたのではあるまいか、という思いも消えない。地元のまり子なら、誰か力の強い男と結託しさえすれば、ヴィーナスを前夜のうちに、あの支洞から運びだすことができる。
もしそうなら、今朝になって、まり子はなぜおれたちをわざわざ、洞窟に案内したのか? すでにそこには、ヴィーナスなど跡形もないというのに――。
秀彦はそこまで考えた時、あの洞内の大きな地下宮殿のようなところで、岩陰でちらっとみた人影を、思いだした。
颯子に、きいてみた。二人ともあの時、期せずして同じ驚きの声を発したのである。
「ねえ、宝泉寺さん。地下宮殿であなたはあらッ、といいましたね。人影をみたような反応だったけど、誰だったの?」
「ああ、あれねえ……」
颯子は疲れたような顔を、ふりむけた。
「はっきりとはわからなかったけど、登山服をきた男。それが、狩野速人という大学教授に似ていたような気がしたの。その人がつまり、失踪した碧おばさんの夫だけど」
でも、気のせいに違いないわ、と言いたした。
「だって、あんな変な場所だったし」
「そうか。男か。おれは反対の岩陰だったけど、女の姿をチラッと見たような気がしたんだけどなあ」
「女性……? じゃ、私が見た人とは違うわ。どんな人だったの?」
「それが、実にばかげている。女房の聡子に似ていたような気がしたんだ。しかし、聡子は友達と九州に行くと言って、家を出ている。あんなところにいるはずはない――」
だいいち、聡子には送られてきたヴィーナスの秘密も、自分が脅迫されていた事実もまだ話してはいない。手づるも縁故もないこんな土地に、妻の聡子が現われるはずはない、と、秀彦はゆるく頭をふり、腕組みをした。
クライスラーは山腹のバイパスを快適に走り、岩泉町をぬけて、いつのまにか茂市にむかう険しい山あいの道を走っていた。自動車道にも、トンネルが多い。短いトンネルをぬけると、突然、深い谷底が前面に口をあけたり、渓流が白い飛沫をとばしていたり、JR岩泉線と、平行して走ったりする。
秀彦は、眼を閉じた。このコースだけは、苦手だ。あッ、帽子がとぶ、とトンネルのたびに声をあげた無邪気なゆう子の顔が、去らない。眼を閉じているうち、しだいに眠くなってきた。今日は、かなり運動したことになる。
東京近郊の、陣馬山や丹沢への一日がかりのハイキング以上の、運動量だったともいえる。その疲れが、身体の深部から出てきたのだろう。颯子も無口になり、秀彦にもたれてうとうとしはじめている。二人とも、いつのまにか深い眠りのなかにはいっていた。
眠りの底で、おかしなことだが、クロロホルムに似た匂いを嗅いでいるような気もした。車内は密閉されていて、空調がきいている。現に、それははっきりと知覚で捉えたものではなく、夢うつつに妙な匂いだな、と感じていただけのことである。手足がだるくなり、頭のなかにもやがかかってきて、ずるずると深い眠りのなかに引きずりこまれてゆく。それも、疲れすぎたときの眠りと、ほとんど変わりはしなかった。
突然、車体が揺れた。ガードレールにぶつかってクライスラーが大きく宙にバウンドする激しい衝撃で、秀彦は眼をさました。
深い峡谷の傍だった。閃光が、はじけた。肩口にあたったショックが、眼から火花を散らしたのだ。微細幻火症、と眼科用語でいうらしい。頭を殴られた時、眼から火花が出る、あの現象だ。シートの横枠に激しく頭をぶつけたと思った時、颯子の悲鳴が湧いた。身体が、一回転した。颯子が悲鳴をあげながら、しがみついていた。前部シートに、運転手がいない!
車のフロントガラスに、みるみる暗い谷底が迫ってきて、クライスラーは灌木の枝をへし折りながら、深い断崖直下に墜落してゆく。
枝にあたってフロントガラスが激しく砕け散った。音響は、さらに湧いた。崖の急斜面をクライスラーが転がり落ちてゆく音が、割れた窓ガラスから、車内にあふれこんだ。何やら叫び声をあげたが、運転手がいないのでは、どうにもならない。木がはじけ、熊笹が鳴り、車体が岩かどにあたってバウンドしながら、転落する間、秀彦は颯子の頭をしっかりと抱えて、シートの下にもぐりこんだ。颯子の喉からほとばしる悲鳴が、ヴィーナスの叫びのように思えたことを、憶えている。意識は、そしてそれっきり、颯子の叫びを貼りつかせたまま、闇のなかにとだえた。
ヴィーナスの誘惑
窓が、半分だけあけられていた。
レースのカーテンが、めくれこんでいる。
黄薔薇が、風に揺れていた。牛乳瓶にさされている。サイドボードには魔法瓶やインスタントコーヒーや、服用薬の紙袋もみえた。秀彦が眼をさました時、部屋にはそういう光景が見えただけで、人間は誰もいなかった。
眼をあけてすぐ、病室だと気づいた。壁が、白かった。窓に切りとられた空だけが、濃紺のクレパスを塗りつぶしたように、眼に沁みるような北国の空だった。
ここはどこだろうと、ベッドに身をおこしてあたりを窺《うかが》いかけた時、ドアがひらいた。
白衣をきた若い看護婦が現われ、笑いかけた。
「お眼覚めですか?」
看護婦の後ろから、見憶えのある男がのっそりと現われた。今日は野外服ではなく、背広を着ている。男はベッドに近づくと軽く一礼し、内ポケットから警察手帳をとりだし、それにはさんでいた一枚の名刺を秀彦にさしだした。
「岩手県警の花畔《ばんなぐろ》、と申します。安家ではたびたびお会いしながら、名刺をさしあげるのが遅くなって、申し訳ありません」
ばかに丁寧である。受けとった名刺には、岩手県警察本部捜査一課警部、花畔|友則《とものり》、と読める。
秀彦は、怪訝な顔をした。
「災難でしたね。気分はいかがです?」
「花畔、と書いてばんなぐろ、と読むんですか」
「そうです。さかのぼると、はんなぐろという東北弁が、訛ったわけでしょう」
「ここは、どこです?」
間がぬけた質問となった。
「盛岡。救急指定の市立病院です」
「私は?」
「ええ。頭部強打によるつよい脳震盪《のうしんとう》と、左肩胛骨打撲および、左脇腹打撲。まあ、あれだけの大事故なのに、大事にならなくてよかったですね。大型クライスラーが谷底へ転落する……。ふつうなら、即死しているところでしたよ」
花畔警部は傍の椅子をひきよせ、腰をおろした。看護婦が秀彦の腋の下にあてがっていた体温計をとりだし、記録しながら訊いた。
「体温も脈搏も正常ですが、頭痛や吐き気はしませんか?」
「少し気分がむかついているようですが、苦しいほどではありません」
「よかったわ。じゃ、お大事に」
看護婦が去ると、花畔警部が口をひらいた。
「事情をお伺いしましょうか」
「事情といったって……今、おっしゃった通りじゃありませんか。運転手のやつが、ハンドルを誤って谷底へ」
「その運転手が、現場から姿をくらましているのです。事情を伺いにきたのは、そのためです」
「いない? そんな――」
と言いかけて、あ、と秀彦は思いだした。クライスラーが断崖からとびだした瞬間、そういえばたしかに、前部シートには運転手の姿が見えなかった。フロントガラスには崖の樹々しか映っていなかった――。
交通事故を起こしたドライバーが現場から逃走するという話は、よくある。だが、事故をまだ起こす前から、あの運転手は車から逃げだしているのだ。それに、村越というあの男は盛岡に本社のある運送会社の岩泉支店長、といっていたのだから、逃走してもすぐに足がつくはずであった。考えてみればいろいろ、不審な点が眼に余る。
「おかしいな。見つからないんですか?」
「ええ、手配をしていますが、まだ発見されません。いったい、その運転手は何者だったんです?」
「盛岡に本社のある京栄運送の岩泉支店長です。たしか、村越とか言ってました」
「京栄運送? 岩泉にはそんな運送会社の支店などは、ありませんよ。それにあの車は、盗難車でした」
「盗難車……?」
秀彦は、また頭が朦朧としてくるような気分に見舞われた。
「そうです。三日前から盛岡で盗難届がでておりました。あなたがたは、その盗難車を二日間にわたって乗りまわしておられた。尋常ではありません。どういう事情だったんですかねえ? これは」
「冗談じゃない。私は何も知りませんよ。あの男の出迎えを受けただけですから。盗難車についてはあの男にきいて下さい」
秀彦は、茂市で男の出迎えを受けて以来、山の下見をする間、案内してくれた男について、事実関係をかいつまんで話した。
「出迎えねえ、妙ですな。出迎えを受ける、となると、もともと、あなたがたとお知りあいだったわけでしょう? まさか、東北観光秘書室長のあなたが、自動車泥棒の一味だったとは思えませんが」
秀彦は、絶句した。ベッドのサイドボードにもたれ、宙に眼を投げた。警察にきかれるまでもない。二日間、よく尽くしてくれると感謝していたのに、村越と名のったあの男は、そもそも何者だったのか。知りたいのは、秀彦のほうである。
「鳴沢さん、思いだして下さい。その男について記憶していることを全部。現場の情況を総合すると、あなたがたは、どうも殺人未遂の被害者なんですよ」
「殺人未遂ですって……? 私たちが……」
驚きのあまり、声がとがった。
「あたりまえじゃありませんか。目撃者の話によると、あの車が崖からとびだした時、すでに運転手は乗ってはいなかったらしい。その男はあらかじめ、崖際に自動車を駐め、自分は降りてエンジンをかけ、始動させておいて身をひき、クライスラーを崖から突き落とした。――ま、情況はそうなる。あなたがたは熟睡中に、殺されそうになったんですぞ。え? 背後に妙なものが匂う。実に妙なものが匂う。何か思いだしませんか?」
「そういえば、岩泉から戻る途中、車内に微かに、クロロホルムの匂いがしたような気がします。でも、私たちは疲れきっていたので、すぐに眠りこんでしまいました。それが本当にクロロホルムだったかどうかは――」
「クロロホルムの匂いねえ?」
ふむ、と花畔が顎をひきしめた。
「あるいは、そうだったかもしれませんな。実はね、クライスラーの運転席に、妙なことに、スキューバ道具が一式、残されていたんです。レギュレーターやマウスピースが、ハンドルにひっかかっておりました。おわかりですか?」
すぐには理解できかねた。花畔が、説明した。「これから考えられるのは、村越というその男は、空調を利用してクロロホルムをあなたがたに嗅がせ、眠らせる間、自分はその空気を吸わないために足許においたスキューバのマウスピースを咥《くわ》えて運転していた。長時間なら奇異な光景ですが、ほんの数分間のことだったと思われます。疲れてうとうとしはじめていたあなたがたはそれを吸って、数分間で眠りこんでしまう。そうやっておいて、今述べたように車を断崖から突きおとし、自分は運転席から脱出した――」
秀彦は、頬を固くした。心臓がはねあがっていた。
すると、おれたちは初めから、あの男に生命を狙われていたことになる。茂市駅前で警戒心が湧いたのは、あれは本能的な危惧の念からだったのではないか。あの男は初めから、おれたちをどこかで谷底に突き落として殺してしまうために、安家《あつか》に案内する、と近づいてきて二日間、チャンスを捉えるためにつきまとっていたのだ。
「え、なぜ、黙っているんです? あなたは、あのへんの山を買うために岩手県に来た、といいましたね。京栄運送の村越と名のる男とは、個人的に取引か何かが、あったのですか? たとえ二日間とはいえ、お抱え運転手とした以上、事情があったわけでしょう?」
「私どもの東京本社の……橋場会長に確かめてくれませんか。橋場会長に頼まれた、とあの男は言っていました。茂市駅前に、出迎えた時です」
「会長ねえ。――実は、事故の一報を入れるついでに、橋場さんとはもう電話で話をしております。何しろ、東北観光の総務部長兼秘書室長の殺人未遂事件ですからね。一応、最高責任者につないでおこうと思いまして……。でも、その時の様子では、どうもそんなふうではなかったようですな」
「そんなふうとは?」
「つまり、社員をのせて谷底へ転落した盗難車の心当たりはない、ということです。そんな運転手とは面識もないし、派遣したおぼえもない。鳴沢秀彦君が出張先の地元で調達したのかもしれないが、自分は東京にいたのでいっさい、関知してはいない、という話でしたよ」
嘘をついている。どちらかが――。
村越と名のった男が、秀彦たちを信用させるために橋場から頼まれた、という口実を設けたとするなら、橋場は関係ないかもしれない。村越は、別の誰かに雇われていたわけだ。
だが逆に、村越の言い分が正しいとするなら、橋場がその男を雇って、おれを殺そうとしたのではないか。動機は……たとえば、こんなふうに考えられる。ヴィーナスの発見をきっかけに、花村ゆう子を殺害した秀彦の犯罪が万一、明るみに出ることにでもなれば、秀彦の妻の聡子にも累《るい》が及び、愛娘だけではなく、火の粉は橋場自身にも及んで、彼の立場もはなはだ、あやしくなる。
殺人|教唆《きようさ》罪、というものに該当するかどうかはさておいても、秀彦の口から背後にある東北観光や東北交通の諸々の疑惑、国有林払い下げや新幹線用地の取得をめぐる背景が明るみにだされる惧《おそ》れがあるからである。
しかし、わからない。それぐらいのことで橋場はおれの生命までを、狙うか。闇がにわかに、どぎつい色彩をまとってきた気配がする。
秀彦の立場としては、今まではヴィーナスを送りつけられ、死体が発見され、それを名目に脅迫されていた、そういう殺人犯の追いつめられた立場であった。密告され、逮捕されるのではあるまいかと怯えていたのは、事実である。しかし自分の生命そのものをまで狙われるような局面にたち至ろうとは、秀彦はおよそこれまで、全く考えたことはなかった。
もし、その殺人未遂事件の転落車を、あの脅迫者たちが仕組んだとすれば、矛盾する。彼らは秀彦を殺してしまえば、肝心の、ゆすろうとしていた金銭や、会社の機密を奪えなくなる――。
とすると、やはり橋場あたりか……? 黒い雲が、にわかに秀彦の胸一杯にひろがりはじめていた。
「ま、何ですな。意識をとり戻したばかりの、被害者にあまり長時間、事情聴取するのも、酷というものでしょう」
花畔警部が、立ちあがっていた。「ですが鳴沢さん。匂う。何かが匂いますな、あなたの身辺から。このヴィーナス騒ぎのさなか、岩泉にはくる。洞窟にはもぐる。ヴィーナスは、紛失する。いろいろなところに、あなたの影がちらついている。――もし、何か語り残していることがあったら、ぜひきかせて下さい。あなたの生命は、どうも危険にさらされている。今日はこのへんで失礼しますが、また、改めて参ります」
一礼して立ち去りかけた花畔警部を呼びとめ、
「連れの……宝泉寺さんの容態は?」
「あ、忘れておりました」
花畔がふりむき、
「そのことでしたら、どうかご安心下さい。幸い、墜落時にあなたがあの方の頭を抱いてかばってくれたせいか、あの人は奇跡的にかすり傷一つ、負われませんでした。ショックで気絶されていましたが、すっかり立ち直られた今朝、お仕事があるとかで急遽、東京にお発ちになりました。あなたにくれぐれもよろしく、という伝言です」
「私たちを救助したのは、警察ですか?」
「いえ、違います。たまたま、トンネルをぬけたところだったので後続車が事故を目撃しており、岩泉署に一報を入れてくれたんです。爆発炎上する寸前、あなたがた二人を、あの車から外に運びだしてくれたのも、その農家の若夫婦でした」
「農家の若夫婦……?」
「ええ、通りすがりの、土地の人でした」
「ほう。生命の恩人ですね」
「住所、氏名は控えております。何かお礼の言葉でも伝えたいようでしたら、いつでもお教えします」
じゃ、といって花畔は部屋を出た。
それにしてもおれは一晩じゅう、意識不明で眠りこんでいたらしい。花畔警部が部屋を出たあと、秀彦はベッドに坐ったまま、腕組みをし、しばらく、茫然としていた。
無性に、煙草を吸いたかった。枕許を探したが、煙草がない。看護婦を呼ぶためのコールボタンが壁際についているのがみえた。押そうと思って手をのばしたが、緊急でもない用事で押すのは、躊《ためら》われる。
喉が、乾いた。煙草が吸いたかった。落着いて考えようとしたが、考えがまとまらない。窓に切りとられた空だけが、やけに青い。その青をみながら、いつまでここにいなければならないのかと、急にそのこともあわせて、不安になった。
だいたい、こんどの旅自体、おかしかった。いくら山を買いつける、という名目をたてたにしろ、冷静に考えれば殺人犯が殺人現場に舞い戻る。しかもその洞窟のなかにのこのこはいる、というのは、平静な心理だったら、恐らく、そんな無茶なことはしなかったと思える。
が、潜伏しろ、とさえ命じた直後のうろたえ、怯えきった秀彦にいちるの希望を与えるかのように、山の買いつけ工作を命じ、ヴィーナスが花村ゆう子の死体であるかどうかを確認させる。あの時の橋場の指示のしかたは、どう考えても説得力があったし、おれはその一種の催眠術にのせられて、のこのこ東北まできて、あの洞窟にもぐろうと、夢中になっていたのではないか。
そう考えれば、橋場への疑いが、ますます濃くなってくる。秀彦を東北の辺地に追いやってしまえば、これを秘かに殺害する機会は、東京でよりもはるかに大きくなる。橋場はその上、新幹線の切符まで渡したのだから、秀彦の行動スケジュールは、掌のなかに握っていたも同然ではないか……。
腕時計をみた。セイコーデジタルが、午前十一時を示している。そうすると、今日は二十四日、火曜日か。
岩手にくる前、哲学堂下のマンションで、脅迫者と約束していたことを、ふいに遺失物のように思いだした。
脅迫者との機密資料の受け渡し。あれはたしか二十五日、水曜日。といえば、あすだ。
重態ではないにしろ、運びこまれた入院患者が医師の許可なしに、今すぐ病院を出られるとは思えない。
どうするか。病院を脱走してまで、守らなければならない約束とは、今は、思えなくなりかけていた。ヴィーナスは何しろ、目下のところ行方不明である。
それなら、急ぐことはない、と肚をきめることにした。秀彦はポットから白湯を茶碗に注ぎ、喉を湿らせた。三十分ほどして昼食が届き、たべおえ、看護婦が巡回にきたあと、秀彦はもう何も考えずにひと眠りした。
午後遅く、東北観光の仙台支社から若い社員が二人、見舞いに現われた。橋場からの花束と果物を携えてきたが、橋場本人は現われはしなかった。
社員もとんだ災難でしたね、と見舞いの言葉をのべたが、儀礼的なものでしかないような気がした。気のせいか、これまでは次期実力者ということで、秀彦に対してあったはずの羨望と追従の眼差しが、急に薄らいで冷めたくなっていたような気さえした。
その晩は、よく眠った。電話もかからない。病院にはいっているということは、秀彦にとっては、隔離であるより、保護とさえもいえた。あの執拗だった脅迫者の電話が一度も鳴らないという真空状態が、秀彦をほんのいっとき安心させ、よく眠らせたのかもしれない。
明けがた眼をさまし、急に妻の聡子のことを思いだした。看護婦の話では、警察が事故の知らせを入れた時、東京・田園調布の自宅では誰も電話に出なかったという。朝食前、秀彦は思いたって自宅に電話をしてみた。が、録音した留守番電話がでるだけであった。
夫が九死に一生を得て入院しているのだから、知らせを受ければすぐにでも馳けつけるのが妻というもののはずなのに、来ないところをみると、まだ九州旅行から戻っていないということだろうか。
それとも……と、不意に疑念が掠めたのは、橋場がすでに聡子を、田園調布の家から引き払わせたのではあるまいか、という思いだった。
それなら、橋場に確かめればわかる。そうでなくても、橋場には事故の報告やヴィーナスの顛末を報告する義務が残っていたが、もし聡子を引きとっているとすると、腹にすえかねる思いがつよい。癪にもさわった。結局、橋場には電話一本、する気にはなれなかった。
朝食後、巡回にきた医師に、いつ退院できるか、ときいた。医師はひと通り、秀彦の具合を確かめたあと、心電図や脳波には異常がないことを告げ、頬をゆるめた。
「ま、あすか、あさってまで我慢して下さい。打ち身は少し長びくかもしれませんが、あとは東京に帰られて静養すれば、元気になります。いま、後遺症を調べていますから、もうしばらくの、辛抱です」
花畔警部は、その日も昼少し前にやってきた。だが、秀彦は前に話したこと以外、村越という男については何も知らない。そう答え、その男に対する捜査はすすんではいないのかと、逆にきくことで、防衛線を張った。
「手がかりがありません。茂市駅前でも、岩泉でも、安家でも、聞きこみましたが、そのような男は見かけなかった、という返事ばかりです。その男、だいたいこちらの方言を喋っていたのですか?」
「そういえば、標準語に近かったですね。でも今は、全国どこにいっても、たいていテレビの影響で……」
秀彦は、村越捜査のことより、本当はヴィーナス捜査のほうが、気になるところであった。が、そちらの問題にあまり関心をもっている素振りをみせてはいけない。花畔が今日も通ってきたところをみると、肝心のヴィーナスのほうも、あまり進展がないともみえる。さいわい、秀彦がきかなくても、帰りがけに花畔が、いまいましげに言い残した言葉で、ある程度、推測がついた。
「くそいまいましい限りですな。あれほど世間を騒がせたヴィーナスはまだ見つからないというのに、それを見学――にきた東京のエリートサラリーマンが、今度は殺人未遂事件に巻きこまれている。どういうことですかな、これは。おまけにその見学人を殺そうとした肝心の、男の正体が、さらにわからんときている。暑い夏になりますよ。今年は――」
たしかに、暑い夏になりそうだった。岩手県でさえ、四年連続の冷害の予想をくつがえして、窓外に猛暑が近づいていた。その天候が幸いしたかどうかはわからないが、秀彦の経過は順調で、翌日の朝、退院許可がおりた。
打ち身や捻挫は、東京に戻っても、もう少し尾をひくだろうが、後遺症の心配はない。空きベッド待ちの患者がひしめいている市民病院としては、これ以上、飛び入りの交通事故患者に厚遇をあたえる余地はなかったらしく、秀彦はその日の昼すぎ、盛岡市民病院からお払い箱となったのである。
午後、秀彦は病院をでてから県警本部に出頭を命じられ、殺人未遂事件の調書作成にたちあった。警察は、そうでなくても敬遠したいところだったが、被害者の立場なので、花畔警部に協力せざるを得なかった。
解放されたのは、夕方、五時である。
盛岡発六時三十分の「やまびこ三四号」に、ようやく間にあった。東北新幹線が大宮についたのは、夜九時五十分であった。
そこからJRの電車とタクシーをのりついで、まだ多少痛む足をひきずりながら、田園調布の自宅に戻ったのは、もう十一時半をまわっていた。
門扉の前でタクシーを降りると、門灯がついていない。家の中も、まっ暗だった。聡子はまだ戻っていないらしい。門扉をあけてはいろうとして、郵便受をみた。おきまりのダイレクトメールや何通かの郵便。束にしてつかんで玄関をはいり、リビングの電気をつけた。
照明にその部屋が明るく照らしだされたその瞬間、秀彦は棒立ちになった。きちんと片づけられたリビングのテーブルの上に、またも石膏製のヴィーナスが一基、でんと飾られている。
最初の朝、宅急便で配達されてきたものと、まったく同じ大きさだった。画材屋の包装紙まで床に散らかっている。
怯えより、腹立たしい思いが爆発した。靴をぬいでリビングにあがりざま、傍に立てかけておいたゴルフクラブをつかんでふりあげ、秀彦は思いっきり、ヴィーナスを叩き割った。
粉々にこわれたヴィーナスの破片がとび、まっ二つに折れた首から、鮮血様の真紅の液体がどぼっと飛び散り、家具や床をおぞましい色で濡らした。
「聡子! おい、聡子!」
荒々しく呼んだが、返事がない。
鍵はかけておいたので留守の間に、ヴィーナスが配達されているとは、おかしい。秀彦はゴルフクラブを投げすて、郵便物をテーブルの上に叩きつけて、階段をかけのぼった。だが、聡子は二階にもどこにもいなかった。
闇が、冷えていた。外はむし暑いのに、肌をしめつけてくる闇だけが、寒々しい。誰かが、応接室の窓の鍵をこじあけて入室し、ヴィーナスを据えたのにちがいない。それにしては寝室も書斎も、居間も、きちんと片づけられたままで、荒らされた形跡は、どこにもなかった。
壊れた石膏ヴィーナスの破片を一ヵ所に集め、裏の生ごみ用のポリバケツにすてた。包装紙も、木箱も、その中にすてた。リビングに戻ってガス台にケットルをのせ、火をつけた。冷蔵庫からビールをとりだし、タンブラーを持って来てリビングの椅子に坐った。
疲れた、という思いが深い。ビールをタンブラーになみなみと注ぎ、一気に喉に流しこんだ。うまかった。片手で留守番電話のスイッチを押し、再生装置の声をきいた。
秀彦のゴルフ仲間からの誘い。麻布の杉本可奈子の甘え声。近所の酒屋やすし屋の月末精算の料金の通知などがつづき、最後のほうに、底響きのする男の声がはいっていた。
「鳴沢君。わしはきみを見損ったぞ。きみというやつは、どこまで性根が腐ったやつなんだ。いったい、聡子をどこに隠した? ――帰着したら、すぐにわしのところに電話をしたまえ!」
橋場文造の声だった。東北出張の労《ねぎら》いも、半死半生の目に遭った交通事故のいたわりもすっとばして、橋場はいきなり怒鳴り声を、留守番電話に叩きこんでいる。
初耳であった。聡子のゆくえは、橋場さえも知らないらしい。だから、誤解しているのだ。引き取ってもよい、と言明した橋場からの干渉を逃れるために、秀彦があわてて聡子をどこかに連れ去ったとでも、思っているのか?
電話をかけろ、という指示だが、今すぐ電話する気になど、なれなかった。橋場への、諸々の思いが交錯する。そういえばおれは、この数年、橋場文造のどぎついまでの支配力や権謀術数にいささか疲れはじめ、その支配力から逃れて、独立とまではいわなくても、謀反を起こそうとしていたのではないか。いつか、香坂まり子からも言われたように、蔵王の観光開発の資料を他企業に横流しして資金を作ったり、赤坂のホテルを牛耳ることなどで、少しずつ自分なりの地歩を築こうとしていたはずである。
いつまでも従順な番犬である必要があるかどうか。あくのつよい橋場の身勝手さへの怒りが、少しずつ、出口を探そうとしている。そのようなおれの態度はまた、橋場のほうでも、敏感に感じていたことであったかもしれない。
だからこそ、橋場も、いまになって急に、愛娘の聡子の身の上を案じているのかもしれなかった。だが、妻の聡子をおれが隠したなど、とんでもない誤解である。怒鳴りつけてやろうかと思ったが、聡子のことで義父と言いあうほど、見苦しいことはなかった。
電話などは、放っておくか。そう考えているうち、その眼前でけたたましく電話が鳴りはじめていた。くそ、橋場か! と、秀彦は受話器をとりあげた。
「はい。私ですが」
橋場からだと思いこんでいたので、のっけからそう返事をしたのだが、相手の声はちがっていた。耳にひんやりと粘りついてくるような、湿ったあの脅迫者の声であった。
「お帰んなさい」
秀彦は眉をひそめ、片手でビールを注いだ。
「今夜、シュツットガルト・シティ・バレエ団の公演には、とうとう、お見えになりませんでしたね。ジゼル。ドイツのプリマドンナがすばらしい踊りを披露してくれましたよ。残念なことをなさいましたね」
「きみは――」
「会社のほうで聞きましたよ。出張先の東北で交通事故に遭われたとか。そういうことなら、やむをえない仕儀ですので、次の取引の場所をお教えしようと思いまして、電話をしました。指定券、ごらんになりましたか?」
「見てはいない。見たところで当日券で、今夜限りだろう。もう幕は降りたはずだ」
「いえ。あわてないで下さい。NHKホールの指定券ではありません。場所を、かえます。明後日《あさつて》の午前十時十分、新宿発の小田原行小田急ロマンスカーの乗車券と指定券を一組、おたくの郵便函に入れておきました。七号車七二八席というシートに、約束のものを持参して、坐っていただきたい」
秀彦は無言で、煙草をくわえた。しばらく鳴りをひそめていた脅迫者は、またも追いうちをかけてきやがる――。
しかし、頭のわるい男どもだ。ヴィーナスはもうあの洞窟から消えてなくなっている。写真と引き換えにゆするなど、もう効力を失っていることに気づかないのか。秀彦は受話器を握ったまま、脅迫者に隙をみせまいと、心を鎧ってタンブラーにビールを注ぎながら、そのことを告げた。
「私は、今帰ってきたばかりで、疲れている。きみたちとの取引も、いい加減で降りることにするよ。ばかばかしい。ヴィーナスなど、もうどこにもありやしないんだ。私は脅迫される筋合もない。電話、切らせてもらうよ」
「鳴沢さん。そりゃあ、早のみこみというものです。事態は少しも変わってはおりませんね。あなたも現地でお聞きのとおり、あの洞窟からたしかに、ヴィーナスは運びだされました。しかし、今どこに隠されているかを、私たちは知っています」
「知っているだと……? おい、きみたち――」
「あたりまえでしょう。私たちがあの夜、雨龍山の八合目にある裏の風穴づたいに、二体のヴィーナスを運びだしたんですから。今、その二体はメソポタミアの発掘品のように厳重に梱包して、三陸海岸のある秘密の場所に、保管しておりますよ」
「気味がいいな。警察がいま、躍起になって探しているぞ。死体遺棄。いや重要文化財窃盗罪でつかまるのは、きみたちだ」
「大丈夫。絶対に見つからないところに、隠しております。あなたが約束さえ守っていただければ、近日中に実物をお見せしてもいいし、それを最終的には、あなたご自身の手で太平洋にすてても結構ですよ。そうすると、あなたはもう殺人罪に怯えなくてすみます」
「言っておくがね。私は東北まで足をのばして、無駄足を踏んだ。きみたちは、なぜあれを盗みだしたりしたんだ? そんなことをしなくても、私への脅迫ぐらい、つづけられたはずじゃないかね」
「ただつづけるだけならね。できました。しかし、脅迫や誘拐というものは、常に局面を展開してゆかなければ、相手に対して心理的ダメージが与えられない。こちらが切札を握っているぞって、ね。むろん、警察の手であのヴィーナスの死体が何者であるか突きとめられれば、私たちもあなたへの切札を失って困る。それが、盗みだした最大の理由でしたがね」
「きみたちはいったい――」
むかつく思いをおさえ、「私をどうしようというんだ!」
「前回示した実費は二百万円でしたが、こんどの東北工作でまた実費がぐーんとはねあがりました。現金二千万円。今夜、すっぽかした重加算税と思って下さい。それに、お約束の会社の機密資料一式。いいですね。――あさって午前十時十分発のロマンスカーです。こんどお約束をお破りになれば、私たちはもう、岩手県警にヴィーナスの所在と、あなたのことを洗いざらい、報告するしかありません」
秀彦は受話器を、叩きつけた。
ビールを呷《あお》った。浴室で湯を張り、リビングで服を脱ぎちらして風呂にはいった。盛岡で入院していた四日分の垢を洗い落としたつもりだが、脅迫者どもへの怒りと薄気味わるさと、それ以上に憤然と湧いてくる腹立たしい思いの、やり場がない。
シャワーで、髪を洗った。ごしごしと髪を拭き、下着一枚にバスタオルを肩にかけ、リビングに戻って、こんどはウイスキーをとりだした。腹立ちのあとには、以前よりも一層深い、怯えがやってきた。強いやつを二、三杯、ひっかけないことには、眠れそうにない。病みあがりの長旅で、身体は綿のように疲れきっているくせに、意識だけが、きりきりと金属のように、冴えている。
テーブルの上にのせている郵便物の山に、眼を戻した。なかに一通、宛名のない白い角封筒があった。抽出しから果物ナイフをとりだし、封をはがしてひらいてみた。予想どおりの代物。ヴィーナスの写真が二枚。破ろうとして、目を惹かれた。新宿から小田原までの小田急線ロマンスカーの乗車券と指定券が一組、二枚の写真の間に、ちゃんともうはさまれていた。
――さっき、電話の男が指示したやつだ……。
奇妙なことだった。戦場を思った。一つの休戦協定が成立する。その間は、砲撃も攻撃もない。だが一夜あけると、敵の陣地からまた激しい迫撃砲の音が響き、奇襲攻撃がしかけられてくる。そんな連想がふっと湧いたのも、局面が東北旅行によって一段落したのではなく、その実、本質的にはそれ以前よりも、いっそう苛烈さを増してきたことに気づいたからである。
脅迫者のことだけではなかった。橋場との葛藤が、そこに加わっている。橋場はどうやら、おれを見捨てにかかっているようだ。となると、こんどは文字通り、孤立無援で、掛値なしであった。聡子は、行方不明である。脅迫者の言い分は、図にのってきている。二千万円。一方では、生命を狙われている。秀彦は唇をかみしめ、前と後ろから襲ってきている二つの闇にたいして、獣のようにおののき、身構える自分のなかの小さな虫のような魂を見た。
五杯目のグラスを干して、ともかく寝ようと立ちあがった時、表で急ブレーキの音が軋んだ。
腕時計をみた。午前一時。今ごろ、誰だろう。ちらと外の闇に警戒心が働き、立ちあがって窓からみると、黒いニッサン・プレジデントが一台、家の前に駐まったところである。
安堵した。
車種は、見慣れている。
橋場文造の専用車であった。
いよいよ、押しかけてきたらしい。聡子のことが気になって、南平台への帰宅途中、わざわざ遠まわりをしてきたとみえる。どうせ、赤坂の宴会か、銀座からの帰り道だろう。
チャイムが鳴った。放っておいた。秀彦はリビングのテーブルにまた坐り直し、どのような顔をして迎えるかを考えた。
考えは、まとまらなかった。あんたがおれを殺そうとしたんだろう、というには証拠がなさすぎる。
手だけが果物ナイフをとりあげ、テーブルに飛び散ったままの、さっきの絵の具にひたして、殺意を秘めたもののように動いている。
ドアが、ノックされた。
「あいておりますよ」
橋場文造の巨体が、廊下に現われた。
額が、酒のせいか脂ぎって、赤く光っている。
「電気がついていたので、寄ってみた。東北では、大変だったな」
「おかげさまで、生命拾いをしました」
「聡子は?」
「いません。あなたが引き取ったのじゃありませんか?」
「ばかなことをいうな。きみが東北に出発した日から、聡子は東京にはいなかったぞ。きみが連れだして、どこかに隠しているんじゃないかね?」
「知りませんよ」
「本当に、知らんのか?」
「彼女は友達と九州にゆく、と言ってましたよ。九州からまだ帰ってはいないんでしょう」
「しかし、四、五日とは長い――」
言ってリビングにはいろうとして、橋場文造は敷居のところで、ぎょっとしたように立ちどまった。
眼が、光を吸いこんでいる。居間をみていた。リビングの家具調度は、すべてアール・デコの白一色で統一している。床も、アール・デコ様式だ。白と灰色のモザイク模様。つまりは、部屋じゅうがちょっと気のきいたモノトーンの白一色で構成されたなかのあっちこっちに、毒々しい鮮血がとび散っていることになる。さっきの、ヴィーナスの首からあふれたやつだ――。
「どうしました?」
秀彦は果物ナイフを握りしめていた。
その先端が、赤い液体に濡れて光っている。
橋場が蒼白になった理由をさとって、秀彦は肩を小刻みにふるわし、突然、湧きあがりそうになった笑いを怺《こら》えるのに苦労したほどである。
それは実際、哄笑といっていいほどの痛快さだった。
「きみは……きみは……まさか……!」
「まさかの坂をこえたようですな。私は東北でクライスラーに乗ったまま、崖下に転落させられました。もう少しで、生命を失うところでした。村越という男を雇って、殺人を指示したのは、もしかしたら、会長。あなたではありませんか?」
「何を、たわけたことを。わしは、事故のことなど関知してはおらん。見舞いに馳けつけねば、と思っていたが、忙しくて行けなかった。――それを……それを、きみは何かね。勘違いしてその逆恨みをまさか、聡子にむけたんじゃあるまいな?」
「むけては、いけませんか?」
秀彦は眼に、蒼白い光をこめた。さっきの脅迫電話以来、また怯えはじめていた魂の色だ。
「私は、断崖直下。それにくらべ聡子にむかって、果物ナイフを一閃するぐらい、どうってことはない」
「一閃だと……! おい、きみ!」
「そうあわてなくても、結構ですよ。ヴィーナスの首からびゅっと血は吹きあがりましたがね。即死なんてもんじゃない。今、救急車で病院に運びこんでおりますよ」
「病院は、どこだ? 教えろ!」
「さあて、と……」
秀彦は血塗れたナイフをいじりながら、適当な病院名を言った。
「大岡山病院だったかな」
蒼白な顔のまま、とびだそうとして一瞬、ふりかえって睨みつけ、橋場は怒鳴りつけた。
「それにしてもきみは、妻を刺しておきながら、こんなところで酒なんか飲んでいる。よくもぬけぬけと――」
おかげで、今夜はよく眠れそうだ。
痛快な思いだった。今ごろ、大岡山病院に馳けつけて、重傷を負ったと思われる娘の危急にうろたえているだろう橋場の姿を想像すると、ベッドのなかで笑いを怺えかねた。いくら探したって、聡子なんかどこにも担ぎこまれてはいないさ――。
朝八時に、眼がさめた。気分のいい眼ざめだった。顔を洗い、髭を剃り、ていねいにシェービングローションを塗り、服を着がえた。
今日は出社するつもりだった。橋場からは出社に及ばず、と釘をさされていたが、意図がみえた今は、堂々と顔をだしてやる。すべてを整然と、もとの軌道に戻そう。脅迫者に対しては、怯える必要はない。あす、指示通り、ロマンスカーに乗って、相手の正体を突きとめ、決着をつけてやる――。
寄り道があるので久しぶりに車を使おうと、カーポートに立った時、自分の迂闊さに舌打ちした。そういえば、車は、盗まれていたわけだ。盗難届をだしていたが、地元署のやつ、何とも言ってこない。
仕方なく秀彦は、東横線田園調布の駅まで歩いた。電車にのり、渋谷まで出て、東急文化会館の裏にある銀行に寄った。
一千万円。定期をこわすのは痛い気がしたが、それしか方法がなかった。脅迫者から吹っかけられた金をまるまる、会社に負担させるほど、秀彦は、破廉恥でも、厚顔無恥でも、なくなりかけている。
事態を企業防衛という側面から考えるだけでなく、自分自身の問題、というふうな受けとめかたが、秀彦の中に芽ばえ、根づきはじめているからだ。花村ゆう子を殺したのは、むろん会社のためであった。だが、今のこの脅迫自体は、おれ自身にむかって、なされているのだ。その上、別口からかもしれないが、おれ自身、生命を狙われ、殺されかけている――。
秀彦が脅迫者との交渉において負担できるのは、一千万円がぎりぎりの限度であった。相手は二千万円と、図にのっている。あとの半分は、社長調整費で捻出するしかない。企業防衛の観点との、折半。そういう肚だった。
定期を解約し、現金をアタッシェケースにつめて市ケ谷の社についたのは、十時半であった。
内堀に、夏の陽がきらめいている。エレベーターで二、三人の社員と顔をあわせた時、みんな一様に、凍りついたような、驚愕の目を秀彦にむけた。
「もう、ご出勤ですか?」
「大丈夫ですか?」
「大変でしたね」
心配そうに、口を揃える。
「ああ、東北からきのう戻ったところだ。参ったよ。とんだ交通事故に遭っちゃってね」
「室長が乗った車が崖から飛びだしたときいて、みんな肝を冷やしていましたよ。よくもまあ、ご無事で」
表むき、ふだんと少しも変わらない。社員たちは揉み手をしながら、追従をのべている。だが、最初にみせた驚愕の表情のなかに、どのような要素が入りまじっていたのか。秀彦はそれを、もう忖度《そんたく》しようとは思わなかった。
神経が、異様に研ぎすまされはじめている。会社での評判や、社員の表情なんかは、もうあまり、気にしなくても良いような心境になりかけていた。この企業体の中における自分の位置さえもが、これまでのように、一番重大なものだとは、思えなくなりはじめている。
一般社員が、秀彦をめぐる脅迫事件や、その背後にある殺人事件までを知っていると考えるのは、思いすごしだ。彼らは、その何もかもを、知っているはずはない。だが、橋場との関係があやしくなりつつある、ということだけは敏感に、わかりかけているとみていい。が、そんな周囲のことさえもが、これから自分を待っているだろう運命の鏡に照らせば、すべて雑多な塵のように思えてくる。
秘書室にはいった。誰もいなかった。現金を入れたアタッシェケースをロッカーにしまい、秘書室長のデスクに坐った時、ドアがひらいて家田佳子が顔をだした。
「あら、おはようございます」
両手に花瓶をもっている。
また、トルコ桔梗だった。
「よくよく、好きなんだね。そいつが」
「ええ。今、水をかえてきたところです」言って佳子が、「室長。もう大丈夫なんですか?」
「ああ、たいしたことはなかった。ほかの連中は?」
「朝、会長のご自宅に招集を受けております。何でも、病院を探すのだとかで、最後に山崎さんが電話帳をコピーして、とびだしてゆきましたが」
児戯にも等しいことをした、と朝になってゆうべのことを少し後悔したが、事態はどうやら、一笑に付せないことになっているようだ。ばかばかしいことだが、飛散した鮮血様の液体を、聡子の失踪と考えあわせ、橋場はどうやら、秀彦の冗談を真に受け、最悪の事態をさえ想像しているらしい。
なるほど橋場は、それがたとえ真実であっても、警察には届けられない弱味をもっているわけだ。傷害犯人を夫、秀彦とすると、橋場にとってもやぶ蛇である。警察の手によって秀彦を追いつめると、秀彦が洗いざらい会社の秘密を洩らす惧れがある。
気味がいい。秀彦は片頬に笑いを浮かべ、片頬をひやっと凍りつかせた。秘書を招集し、手分けして病院を探させているらしい橋場の中に、娘を心配する父親としての真情がこもっているとすると、おれは罪深いものを武器にしたことになる。
だが、もう遅い。どうせ、すぐにわかる児戯に等しい冗談なのだ。これは、仕返しなんかじゃない。もし、橋場が岩手で自分の生命を狙い、これからも狙おうとするなら、本当の復讐はこんなことでは済まされはしないぞ、という怒りと予感が、秀彦のなかでしだいに根をおろし、おののきはじめている。
「家田君。ここは私が留守番するから、ちょっと新宿まで行ってくれないか」
「はい」
「菱友銀行新宿支店。社長調整費の口座から一千万円、現金でおろしてきてほしい。むろん社の車を使ってだ」
「はい。――でも、会長はお留守ですが……」
「そんなことは、わかっている。私が命令しているのだ。赤坂の宇野甚《うのじん》。三年間分のつけが溜まっているらしく、この間から催促されていてね」
「でも、決裁を受けてからでないと」
秀彦は家田佳子のほうに鈍い眼をむけた。
「きみは今まで、そんな聞き方をしたかい?」
「かしこまりました」
家田佳子は顔を伏せ、「申し訳ございませんでした」
一礼して出ようとした佳子を呼びとめ、
「それから、帰りに西口に寄って、小田急ロマンスカーの切符を一枚、買ってきてほしい。あすの午前十時十分発の小田原ゆき」
「席は、どこでも?」
「そうだな、七号車。七号車なら、どこでもいい」
秘書室は一人になった。こんなに具合よく、無人になることまでを計画して、救急病院に聡子運びこまれる、の陰謀を仕組んだわけではない。だが、絶好の機会には違いなかった。
秀彦は立ちあがって、会長室にはいった。内側から鍵をかけた。がらんとしている。帝王のいない部屋。濃紺のカーペット。磨きぬかれたマホガニーの机の上で、こまかく光に躍っている小さな薄い埃。
執務机の抽出しをあけて、会長室ロッカーの鍵をとりだそうとしたが、抽出しにはすべて、鍵がかかっている。それなら、ロッカーはいい。どうせ、ろくな資料ははいってはいない。秀彦は部屋の隅にあるき、そこに据えられているどっしりした古風な、大型耐火金庫の前に跼《かが》んだ。
ダイヤルの番号は、知っている。橋場と秘書室長しか、それは知らない。ダイヤルを、あわせた。カチッという音がして鍵がひらき、重々しい鉄扉《アイアン・ドア》を、手前にあける。
三段。重要書類が、ぎっしり詰まっている。てきぱきと選んだ。秀彦も自宅に多少は機密書類めいたものの写しはもっているが、ここにあるものに比べれば、周辺資料ばかりだ。かつて七年前、花村ゆう子が手に入れていたコピーも、これに比べれば、ごく一部のものだ。いずれ、これを武器にして身を守るときがくるかもしれない、という予感めいたものにおののきながら、秀彦は識別作業をすすめた。
選んだのは、次の三冊だ。「那須国有林払い下げに伴う等価交換資料。付、岩手の山林売買交渉明細」「東北新幹線白河駅前開発に関する地元地権者との買上げ交渉の経過」「JR宮森線払い下げに伴う第三セクター方式による自社開発計画。付、JR上層部との交渉録」
急がねばならなかった。ぶ厚い書類を部屋の隅に運び、ゼロックスで片端からコピーをとりはじめた。ざっと、一時間。途中、秘書室のほうで鳴っている電話の音が何度かきこえたが、ほうっておいた。額に汗がにじみはじめ、何度かそれを手の甲でぬぐったころ、最後の一冊の最後のページを、コピーしおえた。
会長室から戻って、コピーしおえた資料を急いでアタッシェケースのなかにつめ、椅子の傍に置いた時、ドアがひらいた。
測ったように正確だ。
家田佳子が戻ってきた。
「ご苦労さん」
「恐《こわ》かったわ。この現金」
「社の車をつけたじゃないか」
「でも、現金車さえ、よく襲われるでしょ」
「それほどの額ではないよ。切符のほうは?」
「はい。手にはいりました」
受けとった。橋場も秘書の連中も、まだ帰ってはこない。腕時計をみると、十二時に近づこうとしている。
さしあたって秘書室で他にやる仕事もなかったので、赤坂にゆく、と家田佳子に告げて、秀彦は二つのアタッシェケースを提げた。
「重そうですね」
佳子が、気づかわしげにみた。派手めの顔立ちのなかで、瞳が澄んでいる。「駐車場まで、お運びしましょうか?」
「うむ。ま、いいだろう。何とか、一人で運べそうだ。――会長が戻ってきたら、私がここにきたこと、内緒にしといて欲しいな。何しろまだ静養中のはずなので、あまり働きすぎると、義父《ちち》が心配するからね」
「承知いたしました」
「それから、さっきの社長調整費についても、私のほうから報告しておくから、きみは報告しなくてもいいよ」
「でも……そればっかりは……」
「きみには迷惑はかけない。私が責任をもつ。赤坂の宇野甚、ちょっとばかり私が芸者遊びした分がはいっていてね。義父には内輪で、報告しておきたいんだよ」
街は、ごったがえしていた。
木曜日の正午。信号が点滅し、四谷駅前で四回待たされ、迎賓館の傍を通ってギャランUで赤坂に辿りつくのに、四十分もかかった。
だが、秀彦の心境は、澄みわたりはじめていた。不思議な心理状態だった。剃刀のような気持ちになりかけている。牧歌的とさえいえる東北旅行を境に、とくに車が崖から転落したことを境に、こんどの脅迫劇の裏にあるものが、序々に透けてみえはじめてきたのだ。
むろん、脅迫者そのものの正体は、まだつかめてはいない。それは一番、重大なことだ。が、それに付随するもろもろのことが、外縁部からじわじわと、溶けはじめており、そこから、中心部に辿りつけるかもしれない。
乃木坂上のメゾン・ド・ホテルは昼すぎで、フロントはひっそりしていた。車を地下駐車場にまわし、現金とコピー入りのアタッシェケースを二つ提げ、エレベーターでまっすぐ三階の自分の部屋にはいった。
窓をあける。プールと人工芝生とビーチチェア。植え込みの傍のプールサイドに、今日は宝泉寺颯子は寝そべってはいない。かわりにジャリタレたちが、ひょうたん型の流れるプールのほうで、水をかけあってはしゃぎまわっている。
上着をぬぎ、受話器をとりあげた。
フロントに、支配人がいた。
「香坂君、きているかい?」
「申し訳ございません。香坂は休んでおりますが」
「休み? まだか」
岩泉では、彼女の出現に驚かされたが、その後、ヴィーナスの洞窟に案内してもらうなど、結構、厄介にもなったし、最後は、警察に参考人として拘置されていたが、彼女はもう帰京していると思った。
「休暇届は、いつまでになっている?」
「はい。それが、実は……出されてはおりません。先週土曜日の休み前、同僚には年休をまとめてとるのだと、申しておりましたようで」
「怠慢だな。年休といってもきみ、彼女はまだ、こちらは一年も勤めていないのに」
秀彦はこのホテルの代表者でも、支配人でもない。が、会長直属の秘書室長として事務所までもち、いわば、資本元のゼネラル・マネージャーとして陰に陽に、支配力を滲透させているわけだ。
「従業員の教育、しっかりしてくれたまえ」
食事をとるために、一階におりた。
ブティックや花屋やクリニック、レストランなどが一階片隅に並んでいる。レストランの窓際に坐り、ビールとサーロイン・ステーキを頼み、煙草に火をつけた。
おかしい。香坂まり子が、参考人としてまだ岩手県警に勾留されている、とは考えられない。いくら風穴を知っていたとはいえ、彼女は地主の孫娘なのだから、知っているのはむしろ、当然である。秀彦を伴って洞内にもぐりこんだのも、山の下見。不動産屋なら当然、目玉にするためにもぐるだろうヴィーナス洞窟に、東京の人間を案内していたことにも必然性があるし、ヴィーナス紛失容疑については、もうあの場でけりがついていたはずであった。
香坂まり子は、油断ならない女だ。二重丸のマーク。まだあのあたりで何かを画策している、とみたほうがいい。それにしても聡子。彼女の失踪ばかりは、見当もつかない。洞内のあの大広間のような岩陰で、チラッとみたような気がしたが、どう考えてもあれは幻影だったとしか思えない。
友達と九州に旅行する、と言っていたので、そちらのほうに信を置いたほうが、たしかだと思える。友達というのは、もしかしたら男友達ではないか?
三十分後、食事を終えた。考えごとをしながらの食事だったので、ビールもステーキも最後のデザートも、まるで味がなかった。
部屋に戻ろうとして花屋の前まできた時、隣りのクリニックの看板がみえた。ホテル内の旅行者やこの界隈のオフィスマンを相手にした内科診療所だ。腰の打撲部が、まだ疼《うず》くのを覚え、医者に見せようかと思って立ちどまった時、何かが脳裡を走りぬけた。
診療所にははいらず、エレベーターにのって秀彦は急いで部屋に戻った。電話帳をテーブルの上にのせ、四谷にある女子医大系の総合病院の電話番号を調べた。聡子が友達と旅をする、といっていた相手はもしかしたら、あの男ではないか。
いつか聡子が子供を失って鬱病にかかっていた時、通っていたクリニックの若手精神科医。鯉沼潤とかいった。それなりの仲になっていたことを知らない秀彦ではない。
総合病院の電話番号は、すぐにわかった。
「精神科の鯉沼先生、お願いします」
交換手はメンタル・クリニックにつないでくれた。助手らしい女性が電話口に出て、鯉沼は非番で休みだと答えた。
「このところ、ずっとお休みですか?」
「いえ。今日とあすだけですが」
「きのうまでは?」
「勤務でした」
「じゃ、改めてご相談します」
鯉沼潤が聡子と旅行しているのなら、先週の土曜日からずっと、休みをとっているはずだ。きのうまで勤務だったとすると、まるで見当はずれだったことになる。
聡子のことは当分、念頭から追い払うことにした。いずれ土産物でももって、賑やかに笑いながら帰ってくるだろう。秀彦はあすの脅迫者との取引の準備にとりかかった。二つのアタッシェケースをテーブルの上にのせ、ひらく。現金は二千万円、と要求されているが、まるまる所持するのも考えてみれば、正直すぎる。
半分の一千万円だけ、交渉金として、詰めこむことにした。東北交通および東北観光が関わった国有林払い下げや、JR宮森線の買収工作に関する資料も、橋場の部屋でコピーしたものをそっくり、持参するつもりは毛頭、ない。資料を一枚一枚点検し、吟味し、こちらは不利にならないが、相手が喜びそうな部分だけ、適当に五分の一くらいを抜きだし、それぞれ独立した三つの資料綴じを作り、パンチでとじた。
その資料と一千万円。相手との馳け引きに使う分を一つのアタッシェケースに詰め、ロッカーに入れた。もう一つのアタッシェケースに、残りの現金一千万円と資料を詰めた。
これは秀彦にとってはもっとも重大なものなので、あとでホテルのセーフティボックスにでも入れておくことにして、机の下に置いた。
宝泉寺颯子の顔が、何気なく脳裡に浮かんだ。二人で奇妙な旅をしたことになる。一夜、燃えた颯子の身体が、忘れられない。特にあのローストビーフのように濡れ光って垂れていた肉紐。東京に戻ってまでそれを深追いするほど、秀彦は野暮ではないが、帰京ご挨拶ぐらいはしておくか。
何しろ、二人はいわば、断崖から転落するという死線をさえ、ともにした仲ではないか。
受話器をとりあげた。局かプロダクションにでも詰めていれば諦めることにし、試みに青山のマンションのほうに電話をしてみた。
伊吹と別れたあと、彼女は表参道のマンションに移って、贅沢な部屋をかまえている。発信音が二、三度鳴った時、幸運にも電話はもちあげられた。
「もしもし……」
奇妙なことに、相手は沈黙している。
「もしもし……宝泉寺さん?」
秀彦が声をかけると、
「きみは、誰だ?」
中年男の声が響いた。しまった、と思ったが、あわてて切るのもみっともない。愛人か、何かだろうから、居直ることにして、
「東北旅行でお世話になった鳴沢と申します。宝泉寺さん、いらっしゃいますか?」
「鳴沢……? 鳴沢、何というんです。あなたの住所、氏名をおっしゃって下さい」
おかしな、おかしな気がした。男の声は、決して威圧的ではないが、職業的でありすぎる。たとえば警官が職務質問の時に使う口調に似た硬さが、感じられた。秀彦は粘るよりは早く電話を置きたい一心だったので、あわてて本名を言い、急いで電話を置いた。
受話器を置く寸前、あわただしい室内の気配といったものが、耳を掠った。それも殺気だった、男の話し声。相手は宝泉寺颯子がいる、とも、いないとも最後まで返事をしなかった。まさか……と、胸に黒い不安がめばえたが、気のせいだ、と打ち消した。
その時、突然、置いたばかりの電話が鳴りだした。秀彦の眼前でだ。心臓が、びくん、とはねあがった。おかしいな、鳴沢秀彦とは名のったが、居場所などは告げはしなかったぞ、と警戒しながら、おそるおそる受話器をとった。
「もしもし……ゆう子よ。わたし、花村ゆう子ですけど」
受話器に、ハスキーな声がきこえた。
背筋がぞっと凍りつくような声であった。
「どうしたの……? 秀彦さんでしょう?」
秀彦が声をのんで返事を忘れていると、女はまとわりつくような、優しい声になった。
「ねえ、黙ってちゃ、わからないわ。秀彦さん、お返事をして……」
「きみは……きみは……誰だ!」
「誰だとは、ひどい。七年ぶりかしら。お元気?」
偽物の花村ゆう子! いつぞや田園調布の家に電話をかけてきたと聡子が話していたが、秀彦の帰京を待ちかねたように、脅迫者どもはまた裏からも、表からも手をまわしはじめている。
見えすいている。こちらの心理を攪乱しようとしているのだ。秀彦は電話のむこうにいる女の正体を探るように、沈黙した。
夜の墓場から電線が地面をこすりつけながら、伝わってきた電話であるような気がした。
「早く連絡しようと思いながら、遅くなってごめんなさい。私、一週間前、日本に帰ってきたところよ。先日、箱崎のシティ・ターミナルでお電話したところ、室長は残業とかで、お留守で残念だったわ」
「花村ゆう子なんて、私は知らないね。きみはいったい、誰だ?」
「もう忘れたの? 私、秘書室をやめたあと、フランスに行って、ルーブルで働いていたのよ。ミロの写真、届いた?」
花村ゆう子はむかし、たしかに趣味に絵をつづけたいと言っていた。会社の宣伝ポスターの原案を描いたこともある。パリにゆきたい、とも話していた――。
「ミロの写真って、何のことだい?」
相手の正体を探るために、ここは少し話に乗ってやるか、と秀彦は考え、コードを長くして、椅子の背に深くもたれた。
「あら、悲しいことをおっしゃる。私が自分でニコン・スチールカメラでヴィーナスを撮った手製絵はがき。封筒にお入れして、送ったはずですけど」
「それならもちろん、いただいたよ。宛名なしの角封筒が、どうしてエア・メールでフランスから運ばれるんだね? あの霧の朝、ポストにはいっていたやつが、きみが送ったものだとするなら、どうやらきみは脅迫者の一味らしいな」
「脅迫? 何のことか、私にはわかりませんけど……ねえ、お会いしたいわ」
受話器のむこうで、女の声が甘やいだ。
声は、聡子でも、まり子でも、宝泉寺颯子でもない。むろん、むかしのゆう子の声でもなかった。はじめてきく声であった。
秀彦は煙草をくわえた。ライターに火をつけ、受話器を耳にあてたまま、煙草にその焔を移した時、先週、盛岡駅前で高速バスに乗りこんできた白い帽子に白いスーツの女が、甦った。
あっと思った。何者か。あの時は、ただ偶然、同じ服装をしている旅行中の女、と思ったが、花村ゆう子と名のって電話をしてきているところをみると、この女が、あの時の女だった公算がつよい。
これはぜひ、確かめてみる必要があるぞ。秀彦は思った。いや、脅迫者の一味にほぼ、間違いはないので、この女に接近するか、たぐりよせれば、あるいは……。
「ねえ、秀彦さん。お会いしたい」
「あなたはいま、どこです?」
きみ、をあなたに変え、優しい言葉遣いにした。
「六本木。ちょっとお買い物をしているところ。あす、福島に一度帰るつもりですが、その前に秀彦さんにどうしても、お会いしたいの。ねえ、ご都合つきませんか?」
「都合ねえ。ちょっと、忙しいんですが」
「そんな冷めたいこと、おっしゃらずに」
「会うとしたら、どこで?」
「決まってるじゃないの。ほら、目黒区平町。私がいつも押しかけていたあのお部屋よ」
「あそこはもう、引き払っていますよ」
「知っているわ。でも今、私、あのマンションの同じ部屋に住んでいるのよ。帰国して目黒の不動産屋にあたったところ、ちょうど、あの部屋が空室になっていたので、すぐにとびついちゃったわ」
本当だろうか。賃貸マンションだから、当然、入居者の変更はめまぐるしい。一味は、おれのことを調べあげたついでに、その部屋まで脅迫の道具だてに借りている、というのか。
ともかく行ってみようか、と秀彦は決心した。
「時間は?」
「秀彦さんのご都合にあわせるわ」
「うん。――じゃ、今夜、九時あたりにしようか」
「うれしいわ。……もうすぐ、秀彦さんに会えるのね。私、昔のことをすっかり忘れているのよ。なんだか、記憶の奥のほうで、深い地底からやっと這いあがってこれたような感じがするの。楽しみにしているわ」
(深い地底から……?)
秀彦は、切られた受話器を見つめたまま、肩を硬くして息を詰めた。
街は夜にはいっていた。
あしたの準備は、すべて終えている。
秀彦はギャランUを運転して、花村ゆう子と名のった女がいるという目黒区平町のマンションにむかった。秀彦はむろん、花村ゆう子からの電話を、額面どおり受け取っているのではない。あのあと、ホテルの部屋で、何度も考えた。もしかしたら、ゆう子は蘇生したのではないかと。だが、決してそんなことはあり得ない。ゆう子はもう、自分の手で殺したのだ。幽霊が電話をしてくるはずはない。誰かが、彼女の名前を使って、電話をしてきたのに違いない――。
それを確かめたいとする気持ちが、アクセルを踏みこませていた。
それとも……と、運転しているうちに、視野に夕暮れの景色が歪んで揺れた。洞窟の奥で、花村ゆう子の首を締めた時の光景が、ハンドルの前面に映しだされており、それを何度も確かめるように考えた。
「のぞいてごらん。コバルト色の地下水が澄んでるだろう。ここが、乙女の滝というんだ。深度四十メートルも透けてみえるので、透明度は、世界一になるかもしれん。ほら」
ゆう子が岩につかまってこわごわと地底湖を覗いた時、秀彦は片手に隠していたナップザックの紐を、ゆう子の白く細い首に巻きつけたのである。
ゆう子は、抗《あらが》った。悲鳴をあげた。足許が崩れて二人とも地底湖に落ちそうになり、その手前で倒れた。紐の両端をにぎった手に力をこめ、ぐいぐいと、岩のほうにひっぱった。
やがてゆう子の手足が痙攣《けいれん》し、重くなり、動かなくなり、ぐったりとなった。息は、もう完全に止まっていた。秀彦は足許に気をつけながら、重くなったそのゆう子の身体を担ぎ、洞窟のさらに奥に隠したのだ。
人間が窒息死するのに必要な時間が一体、どのくらい必要なのか、秀彦は医学的に、正確には知らない。だが、あの時、ゆう子の首に巻きつけた紐を、渾身の力をこめて何度も強くひいたことを、はっきり記憶している。蘇生することを警戒する思いすら、確実に脳裡をよぎったのを憶えている。
だが……だが……何しろ暗くて薄気味わるい洞窟の奥だった。懐中電灯を投げすててやった行為なので、あわてていたことは、事実である。加害者である自分のほうが錯乱し、度を失っていた部分もあった。自分ではずい分長い間、首を締めていたつもりだが、実はほんの短い瞬間だったとも、あるいは今になったら、そう思えてきたりする。
仮死状態。よくあることらしい。ゆう子ももしかしたら、それだったのではないか。あとで誰かに発見されて、助けだされる。地下水の冷めたさで蘇生し、自分であの洞窟を脱出してきた、ということも考えられる。
が、それにしたら、ずい分、おかしなことになる。七年間という時間の経過は、どう考えても、長すぎる。もしゆう子が生き返って、あの洞窟を脱出してきたのなら、すぐにでも復讐にとりかかったはずだ。それをせずに、七年間も放置したまま、今になって急に思いだしたようにヴィーナスの写真を投げこんだり、電話をかけてくるというのは、どうにも現実味がない。やはり彼女は洞窟の奥で、七年前に死んでいるはずであった。
それに、もしゆう子が生きていたとするなら、そもそもヴィーナスが発見された、という根本のところで、矛盾する。ゆう子の死体があの洞窟の奥でヴィーナス化しはじめていたからこそ、一連のこんどの脅迫事件が起きたのではないか。誰かがそれを発見し、加害者、鳴沢秀彦をつきとめたからこそ、こうして執拗に脅迫しはじめているのだ……。
考えは、堂々めぐりをした。目黒区平町のあの部屋で、電話のあの女にあえば何もかもわかる、と秀彦は自分にいいきかせ、目黒通りを注意深く、運転した。
九時少し前に、目黒区平町に着いた。
車を緑道公園の傍に駐め、桜の並木をあるいてマンションにむかった。この道を七年前、ゆう子が白いレインコートを着て、ピンクのビニール傘をさして雨のなかを歩いてきた姿を思いだした。
マンションはあの頃より、さらに古ぼけていた。二〇六号室の部屋にはいる前に、一階の入口にある管理人室のブザーを押した。
確かめてみるつもりだった、二〇六号室の住人を。もし管理人が七年前と同じ人間だったら、顔を覚えている。だがその場合は、近くを通りかかったので懐かしくて寄ってみました、とでも言いわけをすればいい。
三度目にブザーを押した時、間のびした返事がきこえ、七十すぎの老人が奥から顔をだした。初対面だった。管理人さえも、代替わりしている。
「ちょっと、おたずねしますが、二〇六号室に、花村ゆう子さんという方、お住まいですか?」
「おたく、鳴沢さん?」
いきなり老人が、顔をつきだした。
「え?」
驚き、「はい。鳴沢ですが」
「花村さんから、伝言をあずかっています。ちょっと酒屋で買い物をしてくるから、部屋にはいって待っていて下さい、ということです。鍵は私から渡すように、とのことで」
老人が、無愛想に鍵をさしだした。
「花村さんは、いつからお住まいですか?」
「つい最近ですよ。何でも、フランスから帰ってきたばかりとか」
そう言えばさっきも……と老人は、右手で自分の額をさかんに叩いた。
「なんてったかな。なんとかワイン。……あ、そうだ、ボージョ……ボージョ……何とかいうやつを買って帰るので、楽しみにしておくように、ということも、ことづかっておりますな」
ボージョレーのワイン! ついでにカニとアンチョビーのサラダまで、その下につくのではないか。どうしてその偽物は、そんな細かいことまでを知っているのか。
薄気味わるい思いをしながら、秀彦は二階にあがり、廊下をあるいた。
部屋の前に立ち、息を詰めた。はいってみよう。約束の時間より早くきたのは、予備知識を仕入れるためだ。留守なら、部屋にはいって調べるのに、かえって好都合である。
鍵をあけ、用心深くドアをあけて玄関ホールにはいった途端、秀彦は目撃したものに、悲鳴をあげ、後退《あとずさ》った。
女ものの白いビニールのレインコートが、壁に吊るされている。ぐっしょりと濡れて、裾から雫をしたたらせていた。その傍に、ピンクの雨傘。これも濡れていて、土間にたまり水がひろがっていた。
頭をふった。外に、雨なんかは降ってはいない。どうしてあのニセの女は、こんな細かなことまで、知っているのか。もしかすると、電話の女はいよいよ本当に、花村ゆう子本人なのではないか?
また新たな恐怖が、足許をすくいはじめた。
気をとりなおし、靴をぬいで、リビングにあがった。部屋は、昔のままだった。紫色の壁のクロス。茶色のカーペット。ソファーやステレオ・コンポーネントまで、秀彦がかつて愛用していたものとそっくり、同じ形式のものを揃えている。
ますます、薄気味わるい。やはり、花村ゆう子は生き返ったのではないか。そうでなければ、こんな生活の細部まで、他人が道具立てできるものではない。頭をふり、そこまで考えた瞬間、ある解答がフラッシュのように、脳裡に閃いた。
そうだ、と彼は思った。
日記だ! と、彼は叫んだ。
花村ゆう子はあの頃、文学少女のようにくそまじめに克明な日記をつけていた。当然、鳴沢秀彦の部屋で愛しあったことや、部屋の情景や、自分の服装。いや、あの夏、婚前旅行にゆく目的地の洞窟のことまで、その日記に克明に記していたのではないか。
すると……考えは、突っ走った。
読めた、と思った。
脅迫者は、弟だ!
花村ゆう子の日記や遺品を所持している人間となると、花村隆一郎というあの弟か、身内以外に考えられない。隆一郎が誰かを抱きこんで、姉を裏切った男の犯罪を突きとめ、脅迫しはじめているのではないか。
秀彦の唇に、今度はかえって静かに、薄い笑いが浮かんだ。相手の正体がわかりさえすれば、対応しやすい。逆襲しよう。よし今夜にでも、碑文谷二丁目の花村覚造という叔父の家に押しかけてみよう。
そこできくと、あのできのよくなかった隆一郎の所在が、わかるはずだ。
が、今はここにおれを呼んだ女がくる。いずれ、一味が抱きこんだ女だろう。この部屋でつかまえ、犯してでも正体をはかせてやる。
秀彦は窓際にあるき、窓をあけた。
ヒマラヤ杉が茂っているので、じめじめしている。針葉樹特有のお化けのような枝が、深い闇を蓄えていた。あのころも、このヒマラヤ杉のおかげで、部屋に陽がささなかったが、今はもっと日陰になっている。
約束の九時になっても、女は帰ってこなかった。冷蔵庫をあけてビールでも飲むかと部屋を歩いた時、鏡台が目を惹いた。かつて独身男の部屋にはなかった新しい調度といえば、これだけだ。鏡台の上に、白い紙片がのっていることに気づき、何気なく手にした。
女文字。ゆう子の書体に似ている。
「鳴沢秀彦様。おなつかしゅうございます。気をつけて下さい。橋場文造が、あなたの生命を狙っています。岩手でクライスラーが崖から転落したことも、橋場の仕業です。くれぐれも、殺されないように。ゆう子」
そんなことはわかっている、と秀彦は勢いよく紙片をにぎりつぶした。親切ごかしに忠告するあんたたちも、どぎつくおれを脅迫しているじゃないか。
部屋の外に、ハイヒールの音が響いた。九時二十分。靴はドアの外までやってきて、止まった。女がきたらしい。秀彦は急いで、足音を殺して、ドアの内側に立った。
靴音は、ドアの前に止まったまま、動かない。微かなためらいを見せるように、女が呼吸を鎮めている気配がする。
警戒している、ともとれる。
憚《はばか》っている、ともとれる。
秀彦も警戒し、身構えている。外の気配に神経を集めた。女は約束より二十分も遅れて現われたが、勢いよくドアをあけて、ボージョレーのボトルをさしだすわけではなかった。
ゆう子本人なら、必ず、そうするはずだ。
騙《かた》っているとすれば、どのような女か。
チャイムが鳴った。
秀彦は息を詰めた。そして吐いた。
ドアに近づき、マジック・ミラーに顔をよせ、ドアの外の様子を窺った。だが通路の薄暗い闇がみえるだけで、女は死角の位置に立っているのか、マジック・ミラーには映ってはいない。
二度目の、チャイムが鳴った。自分の家に帰ってきたのなら、チャイムなど鳴らす必要はあるまい。秀彦は決心して、細目にドアをあけた。
視野に白いものが入った。細目にあけたドアの、すぐ傍である。だが、その白いものは、声もださないし、動こうともしない。
「きみは誰だ……!」
返事は、ない。
思いきって、ドアをあけた。
瞬間、秀彦はあっと驚きの声をあげた。
眼の前に、白いウェディング・ドレスを着た女が立っていたのだ。女は頭に白いヴェールをかぶり、うつむきかげんにひっそりと立っているので、顔はみえない。だが、輪郭が花村ゆう子にひどく似ていた。白い手袋をした両手にブーケをもち、その花束を胸のあたりに捧げ、怨えんずるように秀彦の前にうつむいて立っている。
「おい! はいりたまえ!」
つかんで部屋にひきいれようと、手をのばしかけた時、あっと、叫んだのは、ウェディング・ドレスの女の首に、白い細い紐が巻きつけられているのを発見したからだ。
はじめはネックレスかと思ったが、そうではなかった。彼が洞窟の奥でゆう子の首を締めた時に使ったのと、同じ白い細紐であった。
「おい、何の真似だ! これは。きみ!」
興奮してつかみかかろうとした秀彦の腕は、ウェディング・ドレスを着て、ものを言わない女を、突きとばす恰好になった。女は意外にあっけなく後ろむきに倒れ、頭を床に打ったらしく、鈍い音を廊下に響かせた。
乾いた音だった。陶器か、石膏でも壊れるような音だった。足許を見た。女の顔に、亀裂がはしっていた。目の玉が、床に転げている。首がちぎれていた。その首からどぼっと、鮮血があふれ出て、まっ白いウェディング・ドレスを染めてゆく。
婚礼衣装用のマネキン人形だということに気づいたあとも、秀彦の足許には赤い絵の具か、赤インクが、じわじわと血のように床に流れだし、靴をひたしはじめていた。悲鳴は、だから、そのことに対してよりも、誰かが明らかに二の矢、三の矢をつがえて攻撃しはじめてきたらしいそのおぞましい脅迫の悪意に対して、ほとばしったのである。
桜並木の傍の車に駆けこんで、秀彦は、呼吸を鎮めた。
煙草を三本、たてつづけに吸った。ダッシュ・ボードの灰皿に灰をおとす時、手許が狂って足許のカーペットに撒き散らした。
夜が深まっている。九時半をすぎたばかりなのに、深夜のような静けさだ。秀彦は四本目の煙草を途中で捻じ消し、息をつめ、一気にアクセルを踏みこんだ。
碑文谷二丁目の住宅街の奥にある花村覚造の家は、すぐにわかった。むかし、ゆう子を家の傍まで車でよく送って行った。幸い、叔父の花村覚造とは直接には、顔をあわせたことがない。
サレジオ教会の尖塔《せんとう》が、道の奥まった正面に、白い照明をあびていた。車を駐め、塀の内側にひっそりしている古い二階家の門をはいった。
玄関に立って、インターフォンの釦《ボタン》を押した。チェーンをつけたままドアを細めにあけて、応対に現われたのは、用心深そうな白髪の落着いた老人だった。
「夜分にすみません。花村隆一郎君、いますか?」
「隆一郎は出張で富山に行っておりますが」
「出張? ほう、いつから?」
「今週は、ずっと。来週も帰ってくるかどうか」
「出張が多いようですね。会社はいま、どちらに?」
あなたは? と老人がきいた。
「やあ、すみません。大学時代の先輩で、一緒にボートをやっておりました。この近くを通りかかったので、彼、いまどうしているかなと思って」
「薬品会社の営業マンをしておりますよ。本社が富山なので、どの程度の会社かは、おわかりでしょう。いつも、富山を足場に、出張にあけくれてますな」
「私、高木と申します。隆一郎君が帰ってきたら、よろしくお伝え下さい」
適当な名前をのべ、秀彦はその家を辞した。
富山出張を口実にどこかに潜伏し、おれに攻撃をしかけているのだ。そうにちがいない、と秀彦は思った。やはりあす、ロマンスカーにのって脅迫者どもが現われるのを待って、その首根っこを押さえるしかないようだ。
秀彦は、車を田園調布にまわした。
田園調布の自宅には、十時すぎについた。
家の前まできて車を駐め、降りようとして眼を瞠《みは》った。
赤い屋上灯の警察車が二台、家の角に駐まっている。
不吉な予感が働いた。だが、ヴィーナス殺人事件の犯人が割れたはずはない。思いなおして、秀彦はネクタイの歪みを直し、姿勢を硬くして門扉をはいった。
カーポートに、ニッサン・レパードが戻っている。一週間前、盗まれていたやつだ。安堵した。警察は、盗難車を見つけたので、それを被害者に確認させ、返すために訪れているのではないか。
屋内はまだ、まっ暗闇だ。聡子は今夜も帰ってはいないらしい。朝、つけっ放しにしていた門灯だけが玄関の前を照らしているが、その下まできた時、待機していたらしい三人の男が壁から身をおこし、秀彦に近づいてきた。
「お待ちしておりました。所轄署《しよかつしよ》の原田です」
秀彦はその節はどうも、と軽く会釈した。
いつぞや、早朝に玄関を叩いたあの二人づれの刑事であった。あと一人、新顔がまじっている。一番年輩の男が原田だと名のり、
「鳴沢さん。盗難届がでていた車が、発見されました。おたくの車かどうか、まずご確認下さい」
カーポートのほうを指さす。
「もう見ましたよ。うちの車です」
「ナンバーも、年式も、間違いありませんね?」
「間違いありません」
困りましたな、と原田と名のった太い猪首の刑事が難しい顔をした。
「少し、お話があります。はいって、いいでしょうね?」
秀彦がドアの鍵をあけると、三人の刑事が秀彦を取り囲むようにして押し込み、応接間にあがりこんだ。
「本当は、今すぐにでも署にきていただきたいのですが、私どもも事を荒立てるばかりが能ではないので、ここで、少し事情をお伺いしたいことがあります」
秀彦の頬が、固くなった。立ったまま、訊いた。
「盗難車が、どうかしたんですか?」
「ええ」原田は言い淀み、「難しい問題が、発生しております」
「はっきりおっしゃって下さい」
「その前に、鳴沢さん。あなたは先週の金曜日の夜、中野区哲学堂下のサニー・ハイツ・マンション三〇六号室を、訪問なさいましたね?」
「は?」
「そこにお住まいの伊吹敏男さんを」
一瞬、色を失った。質問の意味がわからない。いや、質問それ自体は明瞭だが、なぜ自動車泥棒を担当した原田刑事が、哲学堂下のあのマンションのことなどを切りだしてきたのか。その脈絡がわからず、狼狽《うろた》えたのだ。
「それをまず、お答え下さい」
「はあ。先週の金曜日というと」
ちょっと待って下さい……と、思いだすふりをして手帳をとりだし、めくりながら秀彦は時間を稼いだ。今、原田はサニー・ハイツ・マンションに住んでいた男を、伊吹敏男といった。伊吹といえば、宝泉寺颯子の元の夫だ。情報屋だった。すると、やはりあそこで死んでいた男は――?
「はい。行きました」
「どういう用件で行かれたのです?」
「刑事さん。これは何かの訊問ですか? 私は車を盗まれた被害者のつもりですが。あなたがたは盗難車を発見して、届けにいらっしゃったんじゃありませんか?」
「そうです。でも、あの車は、まだお返しするわけにはゆきません。今朝、多摩川の堤防下に放置されていたあの車の中から、伊吹さんの死体が発見されたのです。あなたがどういう情況に立っているか、おわかりですね?」
原田は、物憂そうな口調で説明した。
首に赤と黒のストライプのネクタイをきくつ締められた男の死体が発見されたのは、七月二十七日の早朝である。神奈川県川崎市登戸。ふだんは鮎釣りやボートで賑わう多摩川の堤防下の草っぱらの中に、その車は放置されていた。朝、ジョギングをしていた近所のサラリーマンが、早朝から放置されている車を不審に思って覗いたところ、リアシートに絞殺された男の死体が転がっていた。
車は新車。ニッサン・レパード。ナンバーから、一週間前に大田区内の地元警察に盗難届がだされていた大田区田園調布四丁目、鳴沢秀彦のものと判明した。
絞殺された男の死体は、夏なのでかなり痛みが進んでいた。所持品から、東京都中野区松ケ丘三丁目、通称、哲学堂下とよばれる地域のサニー・ハイツ・マンション三〇六号室に住む伊吹敏男、三十九歳であることがわかった。死後約一週間とみられる。
被害者の評判は、芳しくない。一時期、硬派の評論を書いたり、有名なタレント宝泉寺颯子と結婚したりして話題をまいたが、「財界ウイークリー」という薄っぺらな広告雑誌を主宰する総会屋まがいの情報屋であった。部屋を検《あらた》めたところ、机の後ろで争った形跡があり、毛髪や着衣の釦など、遺留品が残されており、その室内で絞殺されたとみられる。
卓上のカレンダー式メモ帳の七月二十日夜の項に、東北観光秘書室長・鳴沢秀彦氏来訪予定、というメモがある。七月二十日夜、といえば死亡推定日時と、ほぼ一致する。
死亡推定時間と、盗難車のことが判明したのは、今日の夕方になってであった。川崎署と中野署の合同捜査官は、首をひねった。一方は殺人。一方は盗難車。田園調布と哲学堂下。両方の犯行現場に、鳴沢秀彦の名前が浮かびあがってきたことになる。
しかも被害者の部屋から検出された指紋のうちの幾つかは、車に残されている鳴沢秀彦のものと思える指紋と一致した。盗難車の被害者が、即、伊吹敏男殺しの犯人とは断定できないが、この濃厚な相関に田園調布署の原田たちも担ぎだされ、鳴沢秀彦から事情聴取をすることになった。
「ま、そういうわけです。答えて下さい。あなたはどうしてその晩、伊吹敏男さんの部屋にお行きになったのでしょう?」
ヴィーナスをめぐる脅迫劇のことは、徹底的に隠し通さなければならない。経過報告をきいている間に、秀彦は少しずつ落着きを取り戻していた。
三人の男が、応接間に坐ったことになる。
お茶でもいれましょうか? と秀彦はきいた。
「いや、いりません。説明して下さい」
はい、と秀彦は答えた。「ご存知のとおり、私どもの会社はこの一年、JR宮森線の問題や新幹線用地問題等で、一部ジャーナリストの間で、取沙汰されております。フリーライターの伊吹さんもその問題で、橋場会長にインタビューを申し込まれておりましたが、会長がお忙しいので、秘書室長の私が、かわりにそのインタビューに応じようということになっていたのです」
秀彦は釈明しながら、哲学堂下のマンションで椅子に坐ったまま死んでいた男のことを思いだし、重苦しい気分になった。が、自分が手を下したわけではない。あの被害者が伊吹敏男だったとすると、いずれ警察が事情聴取にくるかもしれない、という漠然とした不安を抱いていたので、聞かれたらそう答えようと思っていたことを、すらすらと述べた。
「インタビューなら、記者やライターがあなたの会社を訪問する。あるいは、共同記者会見が行われる。それが、普通でしょう。それなのにどうして、秘書室長であるあなたが、そのフリーライターの部屋を訪問するんです?」
「私たちはいま、その問題で多少、神経質になっております。要するに、新聞記者やジャーナリストの方々に、あまり社の周辺をうろうろしてほしくない。で、あの方の場合も私が訪問して、インタビューに応じようと」
「なるほど。被害者はジャーナリストといっても、いささか黒い噂もありましたからな。なおさら、用心されたわけですか?」
「はい。そうです」
「で、どうなさいました。彼は部屋にいましたか」
「いました。私が九時頃、訪問すると、彼は妙に薄暗い部屋の奥で、机に坐っておりました。私は三十分ぐらい、その前の椅子に坐って、少し変則的なインタビューに応じたわけです」
「それだけですか? 口論になったりはしませんでしたか?」
「しません。私は冷静なほうです」
「部屋の妙なところに、あなたの指紋がたくさん、残されていました。これは、どういうことです?」
あの晩、指紋はほとんど拭き消したつもりだったが、やはり動顛していたので、消し忘れた部分があったのだろう。もともと秀彦は素人なので、そういう事柄には通じていない。
「はい。あの男がかなり執っこく、私の会社の内情に探りを入れてきた時、冷静なつもりの私ですら、多少は苛《いら》ついて、部屋のなかをぐるぐる歩きまわったことを憶えています。その時、思わず、壁を叩いたりしたのかもしれませんね」
「ところで、この写真について、何か憶えはありませんか?」
原田がポケットから、数枚の写真をとりだした。ルーブルの、本物のヴィーナスの写真であった。「被害者の部屋に、散乱していたものですが」
秀彦は息をつめ、のぞきこんだ。
首を振った。
「いえ、知りません。ヴィーナスが、どうかしたんですか?」
「被害者はなかなかの美術マニアだったらしいですな。ともかく七月二十日夜、伊吹敏男の部屋を訪問された前後の時間的関係を、詳しくのべて下さい」
「アリバイですか? おかしいですね。私の車は、盗まれたのですよ。犯人が、わざわざ足がつくように、自分の車に死体をのせたまま、逃亡するなどということは、お笑い草じゃありませんか。いい加減にして下さいよ」
「ごもっともです。私はあの朝、おたくを訪問して、あなたから盗難車のことを聴いておりますからね。あなたを伊吹殺しの真犯人と決めつけているわけではありません。誰か、あなたの車を盗んだやつが、殺したのかもしれないし……」
「そうだ! 原田さん。あの夜、お隣りに強盗がはいったといってましたね。その強盗がついでに私の車を盗んでいった。とすると、伊吹敏男殺しとその連中、何か関連があるんじゃないですか? そっちは、どうなっているんです?」
ふむ、と原田が煙草に火をつけた。鳴沢秀彦をしょっぴけと激昂する中野署と川崎署の合同捜査本部をなだめて、原田が今夜、やんわりと鳴沢秀彦の自宅を訪問し、事情聴取をしているのは、その件があったからである。
彼は説明した。あの晩、つまり七月十九日深夜、鳴沢秀彦の隣家、宗田康男《むねたやすお》の家にはいった強盗の被害は、たいしたものではなかった。指輪、宝石といっても雑品同様の装身具類であり、金にして五十万円にも満たない。預金通帳はすぐ銀行に盗難届がだされているので、第三者が引き出すことはできなかった。
こうみてみると、ついでに盗んでいったらしい隣家、鳴沢秀彦の車のほうが、三百万円近い新車だったので、そちらのほうこそ実質的には、損害は大きかったことになる。しかも、その車に翌週、死体が載っていたのだ――。
「そこが腑におちないんです。強盗はまだ見つかりませんが、どうも、何ですな。その死体の伊吹敏男と、鳴沢さん、車を盗まれたあなたとの関係を、ことさら警察に印象づけるために、その連中は事前にあなたの車を盗んだ。その車に、死体をのせた。と、まあ、私個人の見解としましてはそんな気がしましてねえ」
「そんなことをいわれましても、私としましては、何ともはや。何ひとつ思いあたりませんよ。ご質問が、それだけでしたら、どうかお茶でも一杯のんで、お引き取り願いたいものですな」
「いえ。お茶はいりません」
原田が言って、立ちあがった。
「そろそろ引きあげたいんですが、あと一つ」
「まだ、何かあるんですか?」
秀彦はキッチンから、ふりかえった。
「こちらに、きていただけませんか」
「いま、お茶をだします」
「聞くところによると、あなたは先週の土曜日。つまり、伊吹が殺害された翌日、大宮発十一時の新幹線『やまびこ一九号』で、宝泉寺颯子さんと仲睦まじく東北旅行にご出発なさったそうですね?」
「しましたよ。それが何か?」
とんでもない方向から攻撃がきた、と秀彦は内心、身構えた。
「そうすると、あなたと宝泉寺さんとは、かなり以前から、個人的に親しかった、ということになるんですか?」
「まあ。それほどではありませんが」
「ところで、問題の被害者である伊吹敏男は、宝泉寺颯子の前夫でした。これは、下司の勘ぐりですが、それやこれやで、宝泉寺さんにつきまとっていた伊吹敏男とは、かなり以前から、あなたは険悪な仲だったのではありませんか?」
「冗談じゃありませんよ。私は伊吹などという男とは、そのインタビューに応じるまでは、一面識もなかった。それぐらいのこと、宝泉寺さんにきいて下さいよ。そうすりゃあ、わかります」
立ちあがったまま、原田があらぬ眼を秀彦にむけた。憐憫に近いものすら、その眼に宿っていた。意味を悟りかねたとき、
「夕刊はごらんになりませんでしたか?」
「まだ見てはいません。忙しかったものですから」
「残念ながら、宝泉寺さんは、もうこの世にはいらっしゃいません。ゆうべ、何者かに果物ナイフで首を刺されて、表参道のマンションで死体となっているところを、今日、プロダクションの人に発見されたのです」
ガスの青白い炎が一瞬、眼の前で散った。
湯が沸きはじめていた。声がでなかった。ガスを消すのを忘れて、秀彦はキッチンの壁をみつめた。
「あなたは今日の午後、宝泉寺さんの部屋に電話をなさったそうですね。わざわざ、死体が発見されたかどうかを確かめるつもりの電話だったんですかね。ありゃあ」
ますます、原田の言い分がわからない。どういう意味だ、と問い返した時、声が返ってきた。
「今日、あなたの義父にあたる東北交通会長の橋場文造さんから、奇妙な届け出がなされました。嫁にやった娘の聡子が、数日前から家にいない。ゆうべ、田園調布の家に立ち寄ったところ、夫の鳴沢秀彦が東北出張から戻ってきており、夫婦喧嘩をして聡子を刺したと述べた。運びこまれたはずの病院に行ったが、そんな救急患者はいないという返事だった。が、部屋には現実に、争ったあとがあり、血痕が部屋じゅうに飛散していた。どうも娘婿の秀彦の様子がおかしいので、調べてほしいという届け出でしたよ」
橋場が……?
橋場がそんなことを警察に告げたのか!
あのばか者が!
他愛ない嘘を真に受けて。
秀彦は黙って、ケットルをガス台からおろした。急須に茶を入れ、熱湯を注いだ。湯が一瞬、じゅっと泡だち、藪北茶《やぶきたちや》の濃い匂いが立った。
「で、今日、あなたには無断でしたが、家宅捜索の令状をとり、橋場さん同行のもと、この家に一足先にはいらせていただきました。なるほど、居間は目もあてられない惨状。飛散していた血痕様液体からルミノール反応を検出しました。あれだけ大量の人血をまき散らされた以上、ただごとではありませんね」
人血だと……! 冗談じゃない。ゴルフクラブで叩き割ったヴィーナスの首から散ったのは、いつもの小細工さ。赤インクか絵の具の類いじゃないか。それをこのばかものどもは――。
秀彦は、不意におかしくなった。画材屋で市販されているヴィーナスをゴルフクラブで叩き割った。ただ、それだけのことだ。部屋に飛び散った液体を、このばかものどもは人血だとぬかしやがる。
「冗談にしても、よくできてますね」
秀彦は低い笑い声を咽の奥でひくひくとたて、三つの茶碗に藪北茶を注いだ。
「正直に申しあげますと、あれはただ、石膏製のヴィーナスを叩き割っただけですよ」
「ヴィーナス? 何のことです?」
「裏のポリバケツを、調べて下さい。石膏製ヴィーナスの破片が、いっぱいはいっているはずですよ。誰かが、ビニールパイプに血液様の液体を仕込んで、いたずらをしていたんです。先週だって、それと同じ奇妙なヴィーナスが送られてきましてね」
「ほう。ヴィーナスねえ」
原田が、爺むさい声をだした。
「あなたは先ほど、ヴィーナスなどは何も知らない、と強硬な口調でおっしゃったばかりじゃありませんか?」
秀彦は、言葉につまった。
じわじわと罠が締まりはじめている。
何の罠だかは、今のところ見当もつかない。だが、じわじわと確実に、おれの首が締まりはじめている。その感触は、たしかだ。
誰かが、おれを計画的に、だんだんどこかに追い詰めてゆこうとしている。
秀彦は、最後に自分の茶を入れた。熱かった。飲もうとして、唇をやけどしそうになった。
「いずれにしろ、われわれが調べたところ、このおうちのリビングから激しいルミノール反応が現われたんですよ。血液型は、A型。宝泉寺颯子さんのものと、同じです。――もっとも、宝泉寺さんは、表参道のマンションの浴室で全裸刺殺体となって発見されておりまして、ここで殺害されたかどうかは、わかりません。でも、現実に奥さんの聡子さんは、行方不明だという。いろいろ、妙ですねえ」
三人の刑事が、立ちあがった。いきなり逮捕するわけではないが、署にしょっぴいてゆく構えがあると、秀彦は睨んだ。
「おわかりですね。伊吹敏男殺しと、宝泉寺颯子殺しの容疑が、あなたにはかかっております。でも、私には、必ずしもそうは思えない。あなたが旅行したという岩手県では、例のヴィーナス騒ぎが起きている。気になって県警に問いあわせたところ、あなたはむこうで、車もろとも崖下に転落させられたそうじゃありませんか。え、殺人未遂。容疑者が殺されそうになっている。これは驚くべきことです」
原田の息が、頬にかかった。手錠を打つわけではないが、それに似た接近のしかたが、秀彦の腕をつかんだ物腰に現われていた。
「あなたはいつも、被害者です。東京では、車を盗まれた。岩手では、崖から転落させられた。その被害者のくせに、どうもあなたの影が、あっちこっちの事件の陰に、容疑者として見え隠れしている。これはどういうわけでしょうかね。いよいよどうも、署にきていただいて、ゆっくりお話をお伺いしなければ」
待って下さい、と秀彦は言った。
「着がえて参ります。署にゆくとどうせ、一日や二日では片づかないでしょう?」
「それは、ま、どういうことになりますか。あなた次第ですが」
「それなら、下着をちょっと」
秀彦はリビングから奥の部屋にあるいた。
音のしないよう、その部屋の、庭に面したガラス戸をあけた。テラスに、ゴルフクラブを素振りする時に使うシューズを置いている。履いた時、逃げる、という意志が明確にあったわけではない。
だが、芝生におりた時、決心は固まっていた。庭はさして広くはない。生け垣をこえて道に出た時、意志は鋭くなっていた。
おれは伊吹敏男も、宝泉寺颯子も殺害なんかしていない。だが、重要参考人で拘引されれば、たとえ無実でも一日や二日では片づかない。また供述過程で、岩手のヴィーナスにはどうしても突きあたる。とすると、追いつめられ、過去の殺人が明らかにされよう。
一方では、あす、ロマンスカーに乗らなければ、脅迫者どもは約束不履行で怒るか、計画の失敗に気づいて自棄に陥った末、ヴィーナスの真相を警察に告げ、いよいよ本当におれは殺人罪で手錠を打たれることになるだろう。
どうしてもあすは、ロマンスカーに乗らなければならない。路地をまがって大通りに出た時、背後で叫び声がしたような気がした。タクシーは、見あたらなかった。大通りを少し走って、また身を隠すように、住宅街の路地にまわりこんだ。路地から路地を走って、どこか目立たないところでタクシーを拾おう。
パトカーのサイレンが、遠くで鳴りはじめていた。逃亡された、と気づいて、原田たちが警察車にとびのり、追跡に移っただろう獣のような身ごなしが、頭を灼《や》いた。非常線が張られる前に、この界隈から逃げおおせることができるかどうか。そうだ、田園調布の住宅街の後背地にある多摩川台公園に逃げこもう。あそこには丘陵全体を覆う広大な森林があるし、崖下はもう多摩川の河川敷なので、どうにでも逃げられる……!
ヴィーナスの審判
ロマンスカーは、一番線ホームに入っていた。
鳴沢秀彦は柱の陰に身をよせ、用心深くあたりの様子を窺っていた。十時八分。発車まで、あとわずかしかない。だが、今のところ、指定された七号車に乗り込む人間で、秀彦の注意を惹くような者は、一人も現われなかった。
駅構内は混んでいた。箱根、小田原方面へのロマンスカーが発着する小田急のホームは、一階にある。左手のガラスウォールから、明るい陽ざし。中央ホームに、売店とベンチと階段。私服刑事や警察官らしい人間の姿も、どこにも見えないことを確認し、安堵し、秀彦はアタッシェケースを提げて、七号車のほうへ歩いた。
スーツではない。ジャーナリストかヒッピーのような、すり切れたサファリジャケットの一式。派手目のサングラスをかけ、もみあげから顎にかけてぞっくりと、髭をはやしている。ある種の芸術家かジャズメンといったふう。完全な変装とよべるかどうかはわからないが、つけ髭は今朝、その種の店から購入し、精一杯化けたつもりである。
警察と脅迫者。その双方への用心である。ポケットの中に、脅迫者から送られた指定席の切符がはいっていた。七号車七二八席。だが秀彦は、むこうの思うつぼにはまりたくはなかったので、はじめからその席に坐るつもりはなかった。
昨日、家田佳子を新宿に走らせて七号車の指定席券を買わせたのは、変装して違うシートに坐っておき、むこうが指定した場所に、受取人として現われる人間を見張ろう、と考えたからである。
「お客さん。乗るんなら、急いで下さい」
入口に立っていた係員が、急がせた。
秀彦が乗車するとともに、ドアは閉まった。
通路を歩きかけた時、家田佳子のことを思いだして、はっとした。
ゆうべ、重要参考人として出頭を求めてきた三人の刑事の前から、逃亡している。追われている、とみたほうが賢明である。家田佳子がもし、橋場か警察にロマンスカーの切符を買ったことを告げたとすれば、このロマンスカーに刑事たちが張りこんでいるかもしれない。
警戒した。乗客を観察した。座席は、七分通り埋まっている。金曜日ともなると、箱根あたりにくりだす客が多いらしい。アベックや家族づれ。刑事らしいと思える人間はどこにも見えない。もっとも、らしいというのがどういう人間なのかは、この数日、対面した数人の実物や、テレビドラマの印象を基準にしているわけで、はなはだ心もとない。
だが、時間の按配からいって佳子はまだ出勤してまもなくであり、ゆうべの秀彦逃亡を知っているはずはない、と考えられた。告げてはいないことに、賭けてみた。どのみち、もう発車しているので、降りることはできないわけだ。
七三四席。坐った。幸い、通路側の席だった。
ここからなら、指定された七二八席が、前方によく見える。意外だったのは、そこにはまだ、誰も坐ってはいなかったことだ。
左右とも、シートカバーが、白い。電車は南新宿を通過していた。いずれ、そこに誰か、受取人がくるに違いない、と踏んで見張ることにした。
秀彦は片手で、頬を撫でた。一晩で頬が、げっそり削《そ》げている。ゆうべ、田園調布からなんとか非常線をふりきって多摩川台公園に逃げこみ、それから隙をみてタクシーにのりこみ、赤坂のメゾン・ド・ホテルに乗りつけたのである。
ロッカーに入れていたアタッシェケースをもちだし、もう一つの現金鞄もセーフティ・ボックスからとりだし、またタクシーで新宿に出た。二つの荷物を西口のコインロッカーに入れたあと、新大久保のホテル街にもぐりこみ、薄汚い宿で一夜を明かしたのである。
電車は下北沢、成城学園と、かなり大きな駅も通過し、スピードをあげている。見張っている席には、まだ誰も現われなかった。
向ケ丘遊園にすべりこんだ。
降客はほとんどないが、乗客がちらほら乗ってきた。
前方から乗ってきた客の三番目の女に、目をむいた。白い帽子に、シャネルの白いスーツ。盛岡でみた女だ。
セリーヌのショルダーバッグを肩にかけ、車内を一瞥《いちべつ》するでもなく、涼しげな表情で、その女は七二七席に坐った。
つまり、秀彦が坐るべきだった席の隣席である。
やはり、あの女は一味の女だ。受取り役でこの電車に現われたのだ。
心臓が、きゅうんと引き締まった。昨日、花村ゆう子の名前で電話をよこしたのも、多分、あの女だったに違いない。秀彦がはじめから七二八席に坐っていたら、あの女はどのような声をかけて、隣りに坐ったのだろうか。
観察した。女は落着いていた。網棚から荷物をおろすふりをして立ちあがって眺めると、女は静かに文庫本を読みはじめている。
それなら、こちらも落着こう。秀彦はアタッシェケースを足許に置き、携えてきた新聞を広げた。宝泉寺颯子が殺害された事件は、ゆうべ新大久保の宿でみた夕刊では、派手な扱いだったが、けさの朝刊では地味になっている。二段の続報。彼女は昨日の昼前、浴室で刺殺体となっていたところを発見されたわけだが、司法解剖の結果、死亡推定時刻は、その前夜の午前一時から二時の間、とされている。
噂の多い女だった。警察では痴情のもつれによる殺人、という見方を強めて、芸能界内外での交友関係を洗っているらしい。秀彦も当然、それにはいっているわけだ。が、今のところ、手掛りはないとされている。
東北の山の一軒宿で迫ってきた時の、颯子の顔と肢体が、今さらのように烈しい火をまとう。知的で、烈しい女だった。だが内実は、淋しい女だったのではないか。それにしても、颯子を殺害したのは、誰なのか?
ゆうべからずっと、それを考えていた。彼女には別れた夫がいたが、一番疑われるはずのそのブラック・ジャーナリスト、伊吹敏男はもう生存してはいない。あとは橋場文造? まさか。橋場ほどの人間が、たかが愛人に狂って果物ナイフをふりまわすとは思えない。
颯子にはまだ隠れた男関係がたくさんあったと思えるが、秀彦に思いつくのは、その二人だけである。むしろ、痴情のもつれとするよりは、秀彦と同じようにあのヴィーナスに関する殺人、とみたほうが正しいのではないか。
「碧おばさんはね。安家のその宿から絵はがきを私にくれて以来、失踪しているのよ」
颯子はそれを探っていた。彼女の叔母の女流画家、碧。その女は失踪する前、現実にあの宿に泊まったらしい。颯子は伽倶楽荘でそれを、確認したのだ。洞窟のヴィーナスは碧おばさんではないか、と彼女は信じこみ、帰京後、碧を殺害したと思える犯人を、追跡しはじめたのではないか。
だから、その人間によって反対に、口を封じられた。
――狩野速人……!
城南大学の教授。颯子はその名前を、秀彦に告げている。
秀彦も一、二度、テレビで見たことがある。プロゴルファーのような、捌《さば》けた男だった。社会科学、心理学、美術までこなすとなると、今ふうの学際派タレントというわけだ。
――これは、見すててはおけないぞ……。
電車は町田の駅にすべりこもうとしていた。
秀彦は前の女に、観察の眼を戻した。
電車が町田を通過しても、女は静かに文庫本を読みつづけていた。動く気配がまったくない。約束の人間を探すために、きょろきょろと車内を眺めまわすふうでもなかった。
隣席は、空いたままだ。いずれ、約束の人間、秀彦がそこに現われて、坐ると安心しているのか。押しかけて、坐ってみようかという誘惑が、烈しくなった。今、取り押さえて問いつめれば、女は走る電車の中から、どこにも逃げられはしない。
だが、警乗員が乗っているかもしれなかった。無茶なことをして騒ぎたてられると、反対に墓穴をほる。終点まで待つか。接触は、むこうから行われるかもしれない。考えあぐねて煙草を一本、取りだし、吸いはじめるうち、電車は本厚木の駅にすべりこんでいた。
乗降口のドアがひらき、数人の客が乗り降りしている時、秀彦の鼻孔に不意に香水が匂った。顔をあげた。横の通路に一人の女が後ろから現われ、じっと立って秀彦を見おろしていることに気づいた。
文庫本の女ではない。これから丹沢にでも登山しにゆくような恰好。デニムのジーンズに花模様のブラウス。登山帽を目深にかぶったその女の顔が、香坂まり子だと気づいた瞬間、秀彦は思わず声をあげそうになった。
「お……お……おい! 香坂君!」
「こんにちは!」
「き……きみは……どうして!」
「変装までして、小田原にご出張?」
「きみこそ、岩手では、どうしたんだ!」
秀彦が身体をずらし、空席にまり子を坐らせようとした時、
「お約束のもの、これね?」
すっと手をのばして足許のアタッシェケースを拾いあげた。
「預かってゆくわね」
「お……おい、待て!」
秀彦があわてて立ちあがった時、まり子はもうアタッシェケースを携えて、通路のずっと先を歩いていた。まり子の鮮かな出現ぶりへの驚愕。ぴっちりしたジーンズに包まれたひどくセクシュアルな尻の動きに驚愕し、動顛している場合ではなかった。
ホームに、発車のベルが鳴っていた。まり子はもうデッキと通路を仕切るドアをあけていた。おい、待て、と秀彦が走ってまり子をつかもうとした時、その足許に大きなゴルフバッグが倒れかかった。
秀彦はよろめいた。自動ドアは閉まった。横のシートに坐っていた男が、あ、失礼、と倒れたばかりのゴルフバッグを抱えおこそうとしている。
男を睨みつけてデッキにとびだした時、まり子の姿はもうどこにもなかった。ドアが閉まった。電車が動きだし、閉められた自動ドアのガラス窓の外に、ホームで手をふって笑いかけている香坂まり子の姿が掠めた。
秀彦は、茫然とした。
なすすべが、なかった。交渉事に使うつもりだった現金一千万円と、会社の機密資料は、まんまと香坂まり子に持ち去られたことになる。もともとそれは相手に渡すつもりのものだったので、まり子が脅迫者の一味だとすれば、さほど痛いことではない。が、このままでは、警察に密告しないという確約も、ひきかえに聞きだすつもりだったヴィーナスの所在も、ききだしてはいない。だいいち、黒幕として必ず存在しているはずの男の正体さえも、つかんではいなかった。
男……!
と呟いた時、秀彦は形相をかえて、通路にとって返した。
さっき、ゴルフバッグが足許に倒れかかったのは、偶然ではなかったのではないか。横のシートの男が故意に倒して、追跡を妨害したのではないか。
秀彦は殺気だつ胸を鎮めながら、立ちどまり、その男を睨んだ。男は足を組んで、悠然と週刊誌を読んでいた。川奈国際カントリークラブというカードに、川口伸夫《かわぐちのぶお》という名札。その大きなゴルフバッグは、またもとの位置にたてかけられている。
男が、顔をあげた。
「私に……何か?」
「あなたねえ、迷惑ですな。その荷物」
「失礼しました。売り子のお嬢さんがくる時は、席のほうに入れるんですが」
瞳が澄んでいて、歯が皓《しろ》い。黄色いスポーツシャツに、茶の上着。三十歳くらいの日焼けした健康そうな青年だ。とても、黒い影をひきずった脅迫者とは思えない。ゴルフの腕前は一級品という大学教授、狩野速人をなぜかとっさに連想したが、狩野はもう五十歳をすぎているので、この男ではない。
秀彦は席に戻った。七二七番の席に、白い帽子の女がまだ一人、静かに文庫本を読みふけっていたので、ひと安心したのだ。
秀彦の標的は、切りかえられた。あの女を尾行することで、敵の正体にたどりつく道を選んだ。
ロマンスカーは、小田原に着いた。
女が、立ちあがった。秀彦も急いで立ちあがった。
女は、乗客に紛れてホームに吐きだされた。
階段を降り、小田急の改札口を出、左手のJR連絡通路のほうに歩く。地下通路であった。秀彦は少し間隔をあけて、追った。女はショルダーバッグを軽くおさえた左手に、あわせて文庫本をもち、JRのホームへの階段をあがった。
JRに乗りかえる様子だ。秀彦もその階段をあがった。切符は買っていないが、車内で買うことにした。東海道線の上りなら東京に戻るし、下りなら熱海以西にむかうことになる。
女は、下りのホームに立った。どこか頼りない風情である。とても尾行者を警戒しているような様子は、どこにもみられなかった。
ホームの売店の傍に、電話があった。市外にも使える。秀彦は女のみえる角度に立ち、ポケットから百円コインを二、三個とりだし、手帳を片手に受話器をとりあげた。
田園調布署はすぐに出た。車の盗難届をだした時、控えておいた番号だ。原田というあの刑事が留守なら、伝言だけ伝えておこうと思ったが、幸い、本人が在署していた。
他人へのお節介などよりは、今は自分のほうが大変なのだが、さっき、見すててはおけないと閃いたことを報告することは、手配されているらしい自分への、自衛策でもあった。
「青山の宝泉寺殺しについて、ちょっと。城南大学の狩野速人というタレント教授を、少し探ってください」
ホームのアナウンスや雑音がむこうにさとられないように、受話器を手でかこんで告げた。
「あなたは?」
「狩野教授の奥さんが、七年前に東北で失踪しています。その件について、宝泉寺颯子さんは、いろいろ調べていたようですから」
「おい!」原田が怒鳴った。「きみは鳴沢秀彦じゃないか!」
待て、という声をふりきって、受話器を置いた。
特急「踊り子七号」が、下りホームにすべりこんだ。殺人犯が、たとえ別の事件とはいえ、他人のことを密告するとはあざとい。気が咎めたが、自衛だ。目ざとく文庫本の女が今、着いたばかりの列車にのりこむのをみつけ、列の後ろから同じ車内にのりこんだ。
「踊り子七号」は、東京と伊東を結ぶ特急である。たぶんに伊豆行の観光列車という趣きがあった。
熱海で、かなりの客が降りた。女は多分、それを見込んでいたようだ。はじめはデッキに立っていたが、七号車のなかにはいった。秀彦もしばらくしてその車輛にはいり、後ろのほうの空席にすわった。網代で車掌がまわってきた。女がどこで降りるかわからなかったので、終点、伊東までの乗車券と特急券を買った。
網代、宇佐美と左手に、海が見えかくれする。車窓に、夏の匂いが濃くなってきた。伊豆気分にひたる間もなく、列車が伊東駅にすべりこんだ時、前方の女が立ちあがった。
前の出口から降りるのを見届け、秀彦も急いで、後ろの出口から降りた。
改札口は、混雑していた。切符を渡して出た時、一瞬、女を見失ったが、落着いてまわりを観察した時、横断歩道をまっすぐ海のほうに渡ってゆく白い帽子がみえた。
女は駅前の正面右手にあるレストランにはいった。秀彦は信号を五回ほど待ち、時間をずらして横断歩道をわたり、そのレストランにはいった。
まっすぐ一番奥の席まで歩いた。すわってコーヒーを注文し、店内を見回すと、白い帽子の女は、窓際に坐っている。腕時計をちらとのぞき、誰かと待ちあわせているらしい素振りだった。
「お待たせしました」
コーヒーがきた。半分ほどのんだ時、ドアがあき、ゴルフバッグを肩にさげた男がはいってきた。あ、と秀彦は唸った。やはり、そうだ。
さっき、ロマンスカーで足許にゴルフバッグを倒した男だ。三人とも、ぐるなのだ。それなら、あの女にも秀彦が尾行していたことが当然、気づかれているのではないか。それなのに、窓際の二人は、そうした素振りを少しも見せなかった。
二人は、食事を注文し、長々と話しながら、ゆっくり昼食をとりはじめている。
秀彦も腹をすえることにし、食事を注文した。
ざっと一時間。なぜ、こんなところで、時間をつぶしているのか。あの二人はただの恋人か、夫婦者なのか。あるいはここで誰かと落ちあうつもりではないか。
まり子か? まり子なら、本厚木で降りたが、後続の急行電車で来れば、東海道線の「踊り子号」に、すぐ乗ることができる。「踊り子号」は、ほとんど一時間おきに走っているので、まり子は程なく伊東に到着するはずである。
秀彦がそう思いはじめた時、二人は不意に、席を立った。あわてて秀彦も伝票をつかんだ。時間をずらしてレジで金を払って表に出ると、
「じゃあね。ゴルフ、がんばって」
「夜は、別荘のほうにゆけるよ」
男がタクシーにのり、女が見送っている。
二人は、避暑にきた恋人同士のように見えた。
男のタクシーが走り去り、女はやがて横断歩道を渡って駅前まで歩き、そこで駅待ちタクシーをつかまえた。秀彦は躊躇なく女を尾行することに決めていたので、後続の車にのりこんだ。
女がのったタクシーは、市内を右手にむかって突っ切り、温泉旅館街を抜けて、一碧湖に通じる山のほうにむかった。
松川沿いに走って伊豆急線のガードをくぐり、急な山道をカーブしながら、登ってゆく。やがて、山の中腹にひらけている分譲別荘地帯にはいった。先行車は管理事務所や幾つかの別荘を通りこし、北斜面に出た。
山の端に、海への眺望が拓《ひら》けた。その手前の深い木立ちのなかにある山小屋ふうの白い別荘があった。女はその前で、タクシーを降りた。
秀彦は雑木林の陰で、タクシーに一時停車を命じ、女が別荘にはいってゆくのを確かめた。そして発車を命じ、通りすがりに、タクシーの車窓からその別荘を観察した。
山の中腹。海にむかって建てられている。深い緑の木立ちのなかに白い手すりが鮮やかで、テラスの外に芝生と、花壇が設けられている。
黒褐色の溶岩の塊りを利用した門柱に、雨露に打たれた表札が、嵌《は》めこまれていた。「香坂物産伊東寮」。何かが、胸で跳ねた。秀彦はタクシーをそのまま素通りさせ、道路を迂回して分譲地の中心部にある管理事務所の前まで、タクシーをまわした。
香坂物産、と表札のある別荘の電話番号は、すぐにわかった。教えてくれた管理人に礼をのべ、その裏のプールとテニスコートの傍の水色の電話ボックスにはいった。
相手の電話は、すぐに取りあげられた。
「はい。伊東寮ですが」
まり子の声ではなかった。
ハスキーな、若い女の声だった。
見当をつけ、秀彦は狼のように言った。
「花村ゆう子さんは、あなたですか?」
相手が一瞬、息をのみ、
「いえ。違います!」
電話は、あわてて切られた。
それだけきけば、充分だった。器械を通した声は、正直である。昨日、赤坂のホテルに花村ゆう子と名のり、電話をよこしてきたあの女の声であった。秀彦は受話器を置き、待たせていたタクシーに金を払い、あとは徒歩でさっきの白い別荘にむかうことにした。
正面の門柱は通らずに、横の雑木林の中から、テラスづたいに玄関に立った。
ブザーを押したが、すぐには返事がなかった。
三度目を押した時、返事がきこえ、足音が響いた。
ドアチェーンがかけられていることを考え、ドアが開く前に裏にまわった。裏のテラスに面したガラス窓は、あけられたままだった。靴をぬいであがり、リビングを突っきり、玄関にまわった。
女が、ちょうど、ブザーを鳴らした客の応対に出ようとしていたところで、ドアの内側でふりむいた。花村ゆう子に似た白い顔が、歪んで叫びだしそうな表情をした。
「叫ぶな」
右手をつかみ、登山ナイフの切先を喉に押しあて、低い声できいた。
「この別荘には、他に誰かいるのか?」
女の眼が、見ひらかれ、首をふった。
「あんた一人か? 本当だな?」
女が怯えたように後退った。その手を引きよせ、登山ナイフを押しあてたまま、リビングにつれ戻した。
外観はペンキを塗りかえたようで新しいようだったが、内部は古びている。
一階はリビングとキッチン。バス、トイレ。二階に洋間と和室が二間あるだけで、潜んでいるらしい人間は他にはいなかった。
女をリビングのソファに突き倒した。
「手荒なことは、したくない。質問にこたえていただけますね?」
女は、身を縮めた。秀彦は、本当に、乱暴なことなどはしたくはなかった。
「あなたは今日、ロマンスカーに乗っていた。座席番号、七二七席。なぜ、そこに坐っていた?」
「まり子に頼まれたのよ。私、今日、東京からこの別荘にくることになっていたんだけど、どうせならロマンスカーに乗んなさいよ、とまり子に頼まれて」
「香坂まり子の友達?」
「ええ」と女はうなずいた。
「短大時代からの仲良し」
「この別荘は?」
「まり子のお父さんがむかし、建てたものだそうだけど、今はめったに使われないみたい。まり子が時々、手入れがてら私たちのような友達を呼んでいるわ」
二十代も後半。それなのに、女の表情にはどこか透明なあどけなさと、素直さがあった。それは花村ゆう子の面差しにあったものと似ている、と気づいて秀彦はいささか、逆上気分に見舞われ、心を引き締めた。
「ただの友達が、どうして盛岡から高速バスにのったり、セルッティの服をきて白い帽子をかぶってロマンスカーにのったりするんだ? きのうは私に、花村ゆう子と名のって、長々と電話をしたじゃないか!」
「電話も、服装も、高速バスも、みんなまり子に頼まれたのよ。意味なんか全然、私はきかされてはいないわ」
秀彦は、女性を暴力的に屈服させるサディストではない。殺人や手荒なことは、一度で懲りている。だが、今は事情が違っていた。
登山ナイフが閃いて、セルッティの白い夏服の胸許が裂けた。女が悲鳴をあげた時、ブラジャーも裂かれて、乳房があふれた。ナイフはそのまま下へ走って、太腿のあたりまでスーツを切り裂いていた。
「おれは、このままあんたを犯すこともできる。だが本当は、そんなことはしたくはない。正直に答えるんだ! ――意味も知らずに、友達に頼まれただけで、妙な扮装をして、のこのこと盛岡までゆく人間がどこにいるんだ!」
女が唇をかんで、横をむいた。
憎しみが、その横顔に刷《は》かれていた。
「執っこいわね。知らないといったら、本当になにも知らないわ! そりゃあ、まり子にお金をもらった。でも意味なんか、何も知りはしない。全部、まり子にきいてちょうだい」
肌色のパンティストッキングが、その下の花柄のパンティとともに切り裂かれた時、皮膚に赤い筋が走った。にじみだした血液が、みるみる恥毛を染めた。表情をかえずに下着をむしりとり、秀彦は女を裸にして床に転がした。
「あんたの、名前をきこうか」
「どうでもいいじゃないの。そんなこと」
「さっきの男は、あんたの恋人か!」
「答える必要はないわ!」
「言え」
「あなたに、何の権利があるの!」
「あんたはおれを脅迫しつづけた。おれはその実相をあばく。あたりまえじゃないか!」
「警察に訴えてやる。あなたは今、無断家宅侵入と婦女暴行の現行犯よ」
ののしられた時、不意に身内で炎が舞った。秀彦は女の髪を引き、起きあがろうとしていた女を押し倒した。白い脚がひらめき、大きな悲鳴が湧いた。それに煽られるように、秀彦は女の股を大きく押しひろげ、その間に割ってはいった。
「助けてえ……!」
女が喉をふるわせて叫び声をあげた瞬間、背後のドアが勢いよくひらいた。バタン、と鳴った扉と、椅子が倒れる音に、さっきの男かとふりむいた。
「ばかねえ、鳴沢さん。おやめなさい!」
香坂まり子の叱声が、鞭をつくった。
秀彦は驚愕し、きさま、と睨んだ。
「間にあって、よかったわ。とにかく、その人を放しなさい。玲奈ちゃんは、本当に何も知らないんだから」
「知らない女が、なぜおれをゆする?」
「あなた、なに勘違いしているの。玲奈は私のただのお友達よ。時々、あなたのおうちに電話をかけさせたり、赤坂のホテルに電話をさせたり、盛岡でバスに乗ってもらったりしたけどね。そう、ニセの花村ゆう子。――あなた、そんなに女を犯したかったら、私を犯したら、いかが?」
――まだあなたはやりかけの仕事を、残しているのよ。
くそ、と秀彦はまり子を睨んだ。
肩で喘《あえ》ぎながら、
「きみは……きみは花村ゆう子のことを、どうしてそんなに詳しく、知っているんだ!」
そうだ。目黒区平町にマンションを借りたり、ウェディングドレスを着せたマネキンを立たせたりしたのも、香坂まり子だと思える。まり子はどうして、花村ゆう子が白いレインコートにピンクの傘をさして現われたり、東北旅行では、白い帽子にセルッティのスーツだったことなどを、知っている?
「――言わなければ、この女を犯してやる。さっき、ロマンスカーでみた男は、花村隆一郎だったんじゃないのか? ゆう子の弟の――」
「違うわよ」
まり子は平然と笑った。「私が調べたんでもないし、花村隆一郎をつかまえてききだしたのでもないわ。みんな、橋場文造から吹きこまれたのよ。こんどのことだって、はじめからみんな橋場が黒幕となって、あなたを追い込もうとしているのよ」
え? と秀彦は目を剥《む》き、「橋場……? 橋場がどうしてきみにそんなことを洩らすんだ!」
「しっかりしなさいよ、鳴沢さん!」
まり子の、鞭のような声がまた頬を打った。
「花村ゆう子はあなたと親しくなる前、もともとは橋場文造の女だったのよ。私みたいに。だから橋場は、あなたとゆう子の交際の細部を知っていた。――そしてあの悪人は、今、あなたの生命を狙っているのよ」
橋場がおれに危害を加えようとしているということ自体は、薄々気づいてはいた。少なくとも、岩手でのクライスラー転落事故は、橋場の仕業ではないかと睨んでいた。しかし、その橋場がどうして、ゆう子殺しのことまで、そんなに詳しく香坂まり子などに焚きつける?
「いいこと。――いつぞや赤坂のホテルであなたに皮肉をいったように、あなたはいま、橋場に謀反気をおこそうとしている。蔵王の別荘地の青写真を競争他社に流したり、こっそりと会社の機密資料を集めたり、あわよくば赤坂のメゾン・ド・ホテルを自分名義に書きかえようとしている。あの支配欲のつよい男が、そんなことを許すと思う? 腹心の謀反を、許すと思うの?」
「事実を知ったら許さんだろうな。たぶん――」
秀彦は重々しく呟いた。「しかし、それがどうしてこんどのヴィーナス脅迫劇につながるんだ? 彼なら、私一人を処分するぐらい、命令一つでできる。会社をくびにすれば、それですむことじゃないか」
「ばかねえ。今話してあげるから、とにかくその玲奈ちゃんを放しなさい」
秀彦が手をはなしたとたん、玲奈は裸身をかばうようにして、別室に逃げこんだ。
「鳴沢さん。あなたがくびになれば、あなたは会社の機密をどこかに密告するにちがいないわ。いえ、その前に橋場を外から脅迫にとりかかるかもしれない。そうさせないためには、七年前にあなたがやった殺人劇をあばきたて、あなたを破滅させるしかないでしょう。そのために橋場は学生たちにヴィーナスを発見させ、宝泉寺颯子にニュースを流させ、あなたの過去を明るみにだした。あわてて東北に飛んでいったあなたを、帰途、クライスラーで計画的に殺そうとしたのよ」
「しかし、花村ゆう子を殺したのは、彼の命令によってだ。警察の手で明るみに出されれば、彼にも累が及ぶ」
「そんなことはないわ。殺人教唆罪、とあなたはいいたいんでしょうけど、彼はただその時、娘の聡子との結婚をあなたに持ちかけただけ。鳴沢秀彦は社長の娘と結婚したいがために、勝手に、自分一人の判断で、それまでの恋人を裏切った。どこにでもある卑劣なエリートサラリーマンの犯罪となるわ」
「しかしおれは、花村ゆう子を東北のあの場所で処分したことまでは、当時、橋場に報告してはいなかったぞ」
「報告しなくても、彼があなたにゆう子を懐柔しろ、と命令した以上、あなたがどう決着つけるかを、ちゃんと監視していたと思うわ。碧龍洞の秘密くらい、あなたに気づかれないように、上手な尾行者を仕立てて、ちゃんと突きとめていたと思うわ」
そうだろうか。本筋のところは、そうかもしれん。いかにも橋場がやりそうなことだ。が、疑問も多い。たとえば、クライスラーを転落するように仕組んだのは、橋場の仕業だとしても、なぜ宝泉寺颯子と一緒に崖から転落させなければならなかったのか。少し、無茶すぎはしないか。さらに宝泉寺颯子は帰京後、いずれにしろ現実に、誰かの手で殺害されている。それも橋場だとするには、あまりにも飛躍がありすぎるのではないか。
哲学堂下のマンションで死んでいた伊吹敏男は、なぜ殺されていたのか。誰に殺されたのか。黒い噂のある男だったからというだけでは、説明がつかない。やはり、ヴィーナスの秘密をめぐる暗闘が、彼の背後にあったのではないか。
それに、このまり子だ。彼女は橋場の手の中にいたというが、橋場を憎んでいたはずの彼女が、なぜ橋場の手先になるのか。
「それを、ききたいね。きみは橋場に復讐したいと言ってたじゃないか。それなのに、橋場の手先となって、おれを脅迫する一味に加わるなんて、理屈にあわんな」
「そんなことはないわ。私は今でも、橋場に復讐したい。いえ、するつもりよ。そのためにこそ、その懐の中にとびこんでいったのよ。東北観光経理部から、ホテル部門のほうに移されたあとだって、橋場とはずっとつながっていたのよ――」
「きみが、復讐する理由というのは、何だ?」
「花村ゆう子と同じ運命、といつか言ったでしょう。私の父も橋場の強引な会社乗っとり劇に遭遇して、破滅しているのよ」
「この別荘、香坂物産とあるが」
「香坂物産なんて、もう消えてなくなった幽霊会社よ。私に残されたこの別荘でわかるように、祖父の山林地主としての資産をバックに、父は東京でガソリンスタンドなどの事業をしていたわ。でも、そのガソリンスタンドや木材業は、橋場が使嗾《しそう》した手形パクリ屋にあって不渡りをだし、十三年も前に倒産したわ。父は、あの頑固一徹の祖父にも見放され、最後はこの別荘の庭の木に首を吊って死んでいたのよ」
ほら、あそこの木よ、とまり子が指さした。
芝生と花壇のむこうに、大きな松の木がある。枝ぶりがいい。首をくくってぶらさがっている男の白い死体が、夏の陽射しをあびてぶらぶらと揺れているような気がした。
なるほど、それを言いたいために、まり子はおれをこの別荘にまで引きずりこんできたというわけか。
東北交通の系列会社の一つである東北興産は、東京に本社がある。前身はガソリンスタンドや木材や薪炭を商っていた東京のある小さな商事会社だったということを、今、秀彦はおぼろげに思いだした。つまり、それが香坂物産であり、橋場はその香坂物産を乗っとったあと、東北興産という社名にしたわけであろう。
白い気分が、秀彦の胸に戻ってきた。落着いて、澄んでいる。だがその奥で、青白い炎がじわじわと燃えはじめている。やるしかないのではないか。衝動が、そちらへ秀彦を追い込んでゆく。
「どう? これで、わかった? 私はあなたが七年前の事件に怯えて、あの卑劣な橋場によって追いつめられ、自滅してゆくのを、黙って見てはおれなかった。それを全部、話そうと思って、ここに来ていただいたのよ。今なら、まだ間にあうわ。反撃する気、ないの? あなた、男でしょ? もしその気があれば、私、いくらでもお手伝いするわ」
香坂まり子が、おれに手伝うだと? どういうことだ? 秀彦は狼のような眼をむけて、きいた。
「橋場は今、東北のある場所に行っているわ。陸中海岸でも一番有名な、鵜《う》の巣断崖よ。そこを買いしめてホテルを建てようという計画、あなたならもうとっくに知っているでしょう? それで、今、彼は――」
「買収交渉でそこに行っている、というのか?」
「そうよ。今日から宮古に行っているわ。あす、地元役場の観光課の人に案内させて、鵜の巣断崖にたつはずよ。私とも、そこで落ちあうことになっているの。私が、あなたをいい場所へ手引きすることができるわ」
秀彦は、まり子から眼をそむけ、芝生の庭のほうに眼をやった。夏の白い陽がそこに、烈しい。海から微風がきて、爽やかだ。芝生の緑。花壇のサルビアがその中で赤い。サルビアは一本一本、みずからの細い茎を夏空にむかってそそりたたせ、赤い! と叫んでいる。
なるほど、おれが狙われるのは、わかる。国有林払い下げや、新幹線用地問題をめぐる東北交通の不正工作が世間からあばかれそうになっている今、それに深く関わった鳴沢秀彦という子飼いの人間は、かえって邪魔な存在になってきた。そういうことが、いえる。
むろん、おとなしい腹心でありつづける限りは、消す必要はなかった。そのために娘を、嫁にまでやっている。だが、その聡子をないがしろにして愛人をかこい、橋場に謀反を企て、不正工作の資料を集めたり、情報を横流しして私腹をこやしはじめた鳴沢秀彦は、もはや獅子身中の虫である。
虫は今のうちにつまみ殺しておくに限る。今なら、娘の聡子には子供がいないし、二十九歳の若さでは、まだ身のふり方はこれから、どうにでもできる……。
と、橋場はそう考えたのではないか。いかにも彼らしい生臭さと狡猾《こうかつ》さだ。それにしても、聡子は……聡子は……おれの妻、聡子はいったい、どこに行ったんだ……!
秀彦が今更ながら深い未練と愛着を抱いて失跡中の聡子の面影を追っている時、香坂まり子の声が鞭のように響いた。
「ねえ鳴沢さん、しっかりしてちょうだい。あなたは今、重要参考人として警察に追われているのよ。早くゆかないと、橋場には会えなくなるわよ。橋場は今日、あなたが一千万円の社長調整費を無断で持ちだし、着服したとして、特別背任罪で警察に告訴したわ。あさってまで、彼は陸中海岸に出張だけど、月末には香港とシンガポールへの旅が予定されている。そんなこと、秘書室長のあなたが一番よく知っていることじゃないの。――ねえ、彼を問いつめて決着をつけるのは今のうちよ。しっかりしてちょうだい! ゆきましょう。北へ」
「ミロのヴィーナス発見で有名なエーゲ海は、海洋民族だったギリシャ人の活躍の中心地です。ギリシャ人は、シチリア島、北アフリカ、イタリア、フランス、小アジアなど、地中海一帯に広範な文化を及ぼし、各地にその数多い神殿を建ててゆきましたが、いずれもその後、地震などで崩れ、今は幻となっておりまして……」
キャンパスは夏休みで、人影がなかった。研究室の窓際に立ち、狩野速人は来週、出発する「エーゲ海、歴史と美術とバカンス二週間」というパック旅行の、旅先でレクチャーをしなければならない講演の準備に余念がなかった。
時々、旅行会社にひっぱりだされる。「狩野速人先生を囲む歴史と美術の旅」。フランスやローマ。悪くはない。ワインもうまいし、料理もうまい。何より、若い女性がたくさん集まる。わくわくするような若い、美しい娘を仕止めることもたびたびだ。とくに今回は、自分が得意とするギリシャ美術。楽しみなエーゲ海コースであった。
「……ヴィーナスはミロ島の洞窟から発見された時、完全な姿ではなく、両腕と左脚の爪先を失くしておりました。なぜ、欠けていたのか。学者たちは、欠けた腕がもともとは、どんな姿をしていたかで、大議論をしました。イギリス一派は、ヴィーナスが愛していた軍神アレスの楯を、彼女は捧げ持っていたといい、ドイツ派は彼女が海にはいろうとして股間の大事なところの着衣をおさえているのだと主張しました。また、オランダ派は、彼女が裸になって水浴していたところ、それをのぞきにきた男どもがいたので、手を振って怒っていたところだろうと主張します。一方、フランスの学者たちも譲りません。フランス派はいかにもそれらしく、彼女はひとりでいるのではなく、愛する男アレスの肩に優美に手を掛けていたのだろうと主張しました。しかし、さて、どれが一番正しいのか。いまもって歴史の謎でございまして……」
メモを見ながらリハーサルをしていた狩野速人は、キャンパスを二人づれの男が研究室のほうに近づいてくるのをみて、メモを閉じた。
午後三時。城南大学の一角。銀杏の影が長くなりはじめている。いやな予感がしたのは、その二人づれが、どうも普通の人間ではなく、刑事のように見えたからである。
机のほうに戻ろうとした時、窓外で声がした。狩野速人は、背をのばしてあけたままの窓の下をみた。午後の、きつい光が目を射た。さっき、二人づれだったはずなのに、今はそこに、小柄な一人の男が立っている。
「これはこれは、先生、お励みですね」
年配の男は、精一杯の愛想を言った。
「夏休みもご出勤ですか?」
「休みあけのゼミの準備ですよ。旅行もありますし、身体がもちませんな」
「売れっ子教授で、いらっしゃるから」
「とんでもない。ところで、あなたは?」
男はポケットから黒っぽいものをさしだし、狩野にみせた。狩野が本物の警察手帳をみたのは、はじめてだった。ぴくり、と慄えるものが命じて、研究室のドアのほうをふりかえった時、そのドアをあけてもう一人の男が入口に立ったばかりだった。
「私も、恥はかきたくありませんよ。何かお尋ねのことがあるようでしたら、そこいらでちょっと、お茶でも飲みましょうか?」
エーゲ海の旅が、あと一週間早かったらよかったのに、と狩野速人は悔いた。
午後四時の回診が終わって、ナースセンターの傍を通りかかると、窓をあけて看護婦がよびとめた。
「鯉沼先生、川口先生からお電話がございました」
「ありがとう。川口君の用事は?」
「あす、コンペがあるので、もし使わないようだったら、ゴルフ道具、戻していただけないかって」
そうだったな、と鯉沼はうなずき、「だれか、私の部屋にきていただけませんか。川口君に、そいつを戻していただきたいんですが」
鯉沼潤は、メンタル・ヘルス・センターに戻ると、壁にたてかけていたゴルフバッグをちらと見やった。川奈国際カントリークラブ、と名札のあるそのバッグを、小走りにやってきた太った中年の看護婦に渡した。
「あ、それから、香坂さんという方から、お電話がございました」
「用事は?」
「上野発午後十一時の夜行寝台。そうお伝え下さい、ということです」
「ありがとう。――おっと、そいつは重いから気をつけなさい」
鯉沼潤は白衣を脱いだ。壁にかける。白衣の下は、黄色いスポーツシャツに、茶の上衣であった。
机に坐り、受話器をとった。この総合病院は、精神科も付設しているので、回診もあれば、夜勤もある。今夜は、夜勤だった。夜勤にはいる前に、彼は三つの用事をすませた。
まず岩手県下閉伊郡岩泉町安家の市外局番をまわし、安家天皇とよばれる人物の屋敷につなぐと、都合よく鳴沢聡子本人が、受話器に出てきた。
「やあ。山の空気は、いかがです?」
「とっても涼しくていい気分。でも、私だけ高みの見物で別荘暮らし同然の生活をしていて、秀彦が何だか可哀想に思えるわ。彼、過去の犯罪に追いたてられて、熱い焼鉄板《やけてつぱん》の上を、裸足で走りまわっているわけでしょう。私、出番のない役者みたいに幕の後ろに引っ込んでばかりいて、これでいいのかなあって、とても辛いんですけど」
「あなたがそれを、気になさることはありません。あなたにはいっさい、責任がないことです。田園調布夫人にこの際、しっかり、シェイクスピアのような、人間ドラマをお見せしているわけですからね。それに、東京にいらっしゃると、渦中に巻き込まれて、思わぬ災厄が降りかからないとも限りません。主治医の私としては、あなたの鬱病がぶり返さないよう、転地療養をとり計らっているわけです」
「ご好意は身に沁みてますわ。おかげで私も久しぶりにワイルドな自然の中で、気分転換ができました。――でも、でも、秀彦、その後、どうしてるんでしょうか? わたくし、まだこのお屋敷に隠れ潜んでいる必要があるのでしょうか?」
「そのことで、ご報告があります。あす、私はそのお近くのある患者のところに行きますが、宮古あたりで、落ちあいませんか?」
「宮古……? あら、都落ちの忍び逢い、というわけね。語呂合わせも抜群」
「そこまで考えたわけじゃありませんよ。宮古から船がでています。陸中海岸めぐりのすてきな観光船です。私はその船にのって、黒崎灯台の近くまで北上しますから、たまには船上クルージング・デートとゆきませんか」
二十八日午後三時。宮古湾浄土ケ浜の船着場。日時を示しあわせて、鯉沼はその電話を置いた。
煙草に一本、火をつける。回転椅子をまわしてカレンダーを確かめ、それから伊東駅前で別れた香坂まり子に、電話をつないだ。
まり子は今、奥沢のマンションに帰りついたところだった。
「電話、ありがとう。十一時ちょうどの夜行寝台とは、警察をのがれての変装者の旅にはうってつけだね。なんとなく」
まり子は受話器のむこうで含み笑いをし、
「『はくつる三号』。ちょうど、切符を取っていたので、彼はそれにもぐりこませることにしたわ」
「あなたは?」
「女づれでは目立ちますから、彼一人。私はあすの一番の新幹線でゆくつもりよ」
「殺人者と一緒では、うそ寒い?」
「そんないい方、よしましょうよ。彼、可哀想よ。まだ殺人者ではないんだから」
「大宮発七時ジャストでしたね。もしかしたら、私もそいつにするかもしれない。――ところで、一つだけ、確認しておきたい。ヴィーナス、警察に戻していますか?」
「ええ。警察ではないけど、いずれ警察がそこに運びこむ予定だった仙台の東北大学医学部に運びこんでいるわ」
「あなたたちが盗んだことは?」
「もちろん、秘密。手掛りは、どこにもないわ。東北大学には、木材運搬トラックの運転手が、拾得物として、もう届けているはずよ。白木の柩。その上に、医学部教授の宛名を書いておきました。運転手はびっくりして、きっと、正直に大学まで届けたと思うわ」
「白木の柩。エジプトのミイラですね。まるで」
電話を、置いた。
鯉沼潤は最後に、もう一回、受話器をとりあげ、岩手県に電話をした。だがこれは、岩泉ではない。そこから山脈が太平洋にむかって大きくうねり、なだれおちる陸中海岸の、黒崎灯台の傍にある一軒きりの、白い崖上ホテルへだった。
相手は、すぐに出た。静かな、多少憂いを帯びた気品のある女性の声が応じた。
「先生。あら、どうなさいました?」
もしもし、鯉沼ですが、と言ったまま一瞬、沈黙をはさんだ鯉沼に、相手は怪訝そうに、そうききかえしたのである。
「いや。――何でもありません」
「おかしいですわ。今日に限って」
「順調ですか。その後」
「はい。おかげでホテルのほうも、私の気持ちも、すっかり軌道にのっております」
「あす、久しぶりに回診におうかがいします。もう、あなたには必要はないのかもしれませんがね。あと一回だけ、診ることにしたいんですが」
「うれしいですわ。先生にきていただけるなんて。私の人生にとっての、最大の恩人。灯台下のヒラメやアイナメがちょうど、一番おいしい季節ですから、それを用意してお待ちしています」
電話が静かに切れた時、ふっと、百合の香りをその電話のむこうに嗅いだようで、鯉沼はいっとき、懐かしむように受話器を握りしめていた。
鯉沼は微笑した。昼間、伊東駅前のタクシー運転手に言われたことを唐突に、思いだしたのだ。川奈国際ゴルフ場へ、といって乗りこんでおきながら、町はずれまで走らせただけであわてて呼びとめ、予約日を間違えたので東京に引き返す、と鯉沼が言ったら、運転手は大声をだして笑いだしたものである。
「ずい分、そそっかしい方ですねえ。お客さん、健忘症かな。精神科のお医者さんに一度、お見せになったらいかがです?」
夜行列車は、眠れなかった。
遠くで踏切の警報機が鳴っている。窓のすぐ傍を、チンタン、チンタンと鳴るその警鐘が通過してゆく。
下段からごそごそと頭をだした鳴沢秀彦は、ブラインドの隙間から射しこむ青い灯をみた。窓枠に置いていたウイスキーの小瓶に手をのばし、ひとくち飲んで、それを抱えこんだまま、またごそごそと寝台車の毛布にもぐった。
彼は毛布の上で反転し、天井を見あげた。すれちがいの長い貨車の列が、悲しい笛のような汽笛の音をだして近づいてきた。窓外でほんのしばらく、雷鳴のように烈しい音をたててすれちがったあと、また長い長い、悲しい音をひきずりながら貨物列車は遠去かってゆく。
東北新幹線は目立つので、在来線の夜行寝台特急に乗りこんだのだが、眠れそうになかった。この切符の手配をしてくれた香坂まり子とは、現地で落ちあうことになっていた。東北交通が買収交渉をしているらしい陸中海岸の鵜の巣断崖の上で、落ちあう。三人。まり子と、そして橋場文造とも――。
この段に及んで、自分が橋場と面とむかった時、何をいうかはまだ決めてはいない。どういう態度をとるか、もだ。が、白黒をつけてやる。きちんと、白黒をつけてやる、という覚悟だけは動かなかった。
ウイスキーをごくりと飲んだ時、太い吐息をついた。彼は鬼火をみた。暗闇のなかに光る青白い燐光を――。
深夜の大学構内は、薄気味わるかった。
訪れる場所が医学部なので、なおさらかもしれない。
狩野速人は、死体置場などがある医学部の一画が、どうにも好きになれなかった。成城の自分の学校でもそうなのに、ここは、自分の大学ではなかった。仙台。宮城野の一角。青葉山おろしの夏の夜気が、ひんやりと漂っている。
銀杏《いちよう》並木も芝生も、本館も職員棟も、キャンパスは寝静まっていた。狩野速人は、大学職員と二人の男に付添われ、医学部通用門からはいり、特別研究棟に近づいていた。
棟端の裏口から、廊下にはいった。懐中電灯が、まっ暗な廊下を照らす。この棟の地下一階には、フォルマリン漬けの死体がたくさん収容されているときいている。ヴィーナスはだが、その部屋ではなく、一階の奥まった標本室だという。
先に立って歩く男は、その部屋の鍵をがちゃつかせていた。
部屋にはいった。ガラスの森であった。標本陳列ケースのガラスが、携帯照明のあかりに鈍くきらめく。部屋は、冷えていた。男は無言でその部屋の奥まで歩き、横たえられた一つの陳列ケースの前に立った。
「ヴィーナスは、こいつですよ。ガラス蓋はあけられませんが、上からでも充分、確認できると思います」
男が、顎をしゃくった。二人の刑事に押され、狩野速人は近づいた。膝頭の関節が、がくがくする。息を吸い、腹に力を入れ、狩野はそのガラスケースの前に立った。
覗いた。王家の谷から出土したエジプトの女王の棺でものぞきこむような、奇妙な戦慄と薄気味わるさが、背にまとわりつく。
跼《かが》んだ。なるほど、一見したところ、大理石のヴィーナス像のようである。美人の化石は破損しないよう、綿やビニール繊維のクッションに包まれ、箱のなかで上むきに置かれていた。豊かな乳房。腰、尻へと、古典的な手法で鑿《のみ》をふるった彫刻家の手になる作品のように、まっ白い、見事な塑像《そぞう》となっている。
岩手県警の花畔警部が、懐中電灯でその顔を照らした。狩野は眼をつぶり、呼吸を鎮め、眼をあけた。光の穂先に、美人、といっていい女性の顔が浮かんでいる。強度の炭酸性石灰溶液に浸されていると、なるほどこのように見事に原形に近い状態で化石化してゆくのか。驚愕するより、不勉強だったと悔いながら、狩野速人はうっすらと眼を閉じたその女性の目鼻立ちに視線をあてた。彼の喉の奥から、呻くような鋭い、悲鳴が洩れた。
「いかがです?」
ばんなぐろ、と読むらしい。名刺を渡す時、警部はそう説明した。
その花畔警部が、きいている。
「奥さんですか?」
「――はい」
と、狩野速人は力なく、答えた。
「碧です」
「重ねましたね、罪を」
狩野はうなだれ、沈黙した。
「岩手と、東京。ヴィーナス殺人。花形ニュースキャスターの宝泉寺颯子さんまで、口封じに殺しちゃうなんて……。あなたは奥さんに復讐されたのじゃありませんかな?」
申し訳ありませんでした、とは狩野速人は言わなかった。彼は、それから昂然《こうぜん》と肩をいからし、微笑を浮かべた。
「あたりましたね、予言が。|美人殺し《マダム・キラー》、とどうもむかしから私はそう言われておりましてね。最後はヴィーナスに復讐されたわけですか」
「参りましょうか」
花畔警部が、静かに肩に手をおいた。
早朝六時。「はくつる三号」は盛岡に着いた。
秀彦はサファリジャケットの衿を深くし、白々と朝の霧が流れる駅頭に降りたった。
北国の夜明けのおずおずとした空気。爽やかな昼への予感。盛岡はいい街だ。ほんとうに。賢治や啄木の匂いもある。秀彦は少年時代からずっと、岩手という土地が一番好きだった。それなのに、おぞましいいやな旅が、これで三度目である。
駅前で、食堂にはいった。逃亡者のような味気ない食事をした。高速バスは、一時間ほど待って動きだした。車内は、まだがら空きだった。一番後ろのシートにうずくまり、秀彦は高速バスが盛岡を出て北上山地を横断し、太平洋側の宮古につくまで、サファリジャケットの衿に首を深くうずめたまま、獣のように呻いたり、薄目をあけたり、また眠りこんだりした。
宮古には、十時半に着いた。海の香りがした。ここで、三陸鉄道にのりかえて北上する。だが、鵜の巣断崖に橋場たちが訪れるのは、午後三時だという。浄土ケ浜の白い岩陰に身をよせ、秀彦はそこで二時間ばかり、浅いまどろみをむさぼった。
三鉄《さんてつ》、と呼ぶのだそうだ。開通してあまり年月の経たない三陸鉄道北リアス線である。午後一時、それに乗った。JRが工事を途中で放りだした路線を、地元団体が資金をだしあって買い求め、真新しい電車をのせて走らせるという第三セクター方式の先陣を切った。秀彦たちが準備していた福島の宮森線も、これを踏襲する予定だった。秀彦はだが、そのオープンが待てるかどうか。賑やかに乗りこんできた東京のアンノン族たちの片隅にまじってシートにうずくまり、彼は頬に薄い笑いをのせた。
いずれにしろ、最後の切札を、あいつが握っているわけだ、と秀彦は考えた。七年前のヴィーナス洞窟の秘密。それを突きとめているとするなら、殺人犯としてのおれを生かすも殺すも、あいつの意志一つである。あいつが警察に密告すれば、おれの人生は終わる。企業秘密とか、謀反や金のことは、もうどうでもよい。それ一つだけでも、あいつを倒さなければならない。おれを長年、顎でこきつかってきた獣のようなあいつを……。
妄執、に近づいていた。夜行列車の旅は、そういう妄執をふくらませる。秀彦のその妄執と殺意をのせて、三陸鉄道北リアス線は、山や断崖やトンネルを走りぬけた。
逃亡者をのせるには、あまりにもきれいすぎる。辺境、といっていい地域を走るにしては、この列車はまるで、外国の電車のようなスマートな車体だった。銀色と鳩羽色が、眩しいほどきらめいている。田老駅のホームにすべりこんだ。久慈まで走る。秀彦はだが、途中の島の越という駅で降りる。北リアス線は、その銀色の車体を、三陸の山野に輝かせながら、刻々と鵜の巣断崖へと近づいていた。
午後二時三十分。宮古湾を出港した陸中海岸めぐりの観光船「久慈丸」は、浄土ケ浜を左手にみて岬をまわり、港外に出た。波が荒く、風が強い。鵜の巣断崖、熊の鼻、龍甲岩、北山崎など、高さ百メートルを越す海蝕断崖がそびえ続くリアス式海岸に沿って、北上する海上コースであった。
鯉沼潤は、握りしめていたデッキの手すりからはなれ、船室にはいった。乗客はほとんど、甲板に出て外の光景に眼を奪われ、群れ集まるカモメにパン屑を投げ与えることに夢中になっているので、船室はがらんとしていた。
鯉沼はシートに坐り、鞄から一冊のノートをとりだし、静かに膝の上にひろげた。
ボールペンをとりだし、ノートの余白部分に書きすすめた。
「……彼女にとっては、痛みは最後まで尾を引いていた。私が計画を打ちあけると、そんなことはすべきではない、と激しく首をふった。鳴沢秀彦や橋場文造に復讐したところで、私の気持ちが爽やかになるわけではない。私はもう、そんな醜い人間の争いは、卒業しました、どうか、そういう酷いことは、おやめ下さい、と……。
だが、香坂まり子は元気だった。ひるむ相手を励ました。そんな弱気じゃだめじゃないの。私は必ず、あの二人に裁きをあたえてやる、と……。
私としたところで、香坂まり子を引きとめる理由はなかった。鳴沢秀彦がじわじわと追いつめられて、橋場文造を襲撃する。裁きは、そういう結果でしか、もたらされないのではないか。その仕組まれた復讐劇が完成することでしか、彼女が支払った精神的、肉体的苦痛の代償は得られはしないのではないか。
だが、可哀想な女が、一人いる。その女は、何も知らずに、父親の勧めで、鳴沢秀彦という男と結婚したわけである。聡子の眼の前で、仕組まれたそのヴィーナス復讐劇を遂行してはならない。幸い、聡子は今、まり子が上手に東京から岩手のほうに避難させてはいるが、彼女もそろそろ、最終的なドラマの結末を気づきはじめているのではあるまいか……」
鯉沼は、ペンを止めた。船のローリングとピッチングが激しい。字がかなり乱れていた。それ以上、書きすすめるのを諦め、眼をデッキのほうにむけた。
船窓を、女の姿がよぎった。女は円窓を叩き、甲板に出てらっしゃいよ、と笑いかけている。宮古湾の船着場で落ちあったばかりの鳴沢聡子であった。
鯉沼は、甲板に出た。聡子は手すりにつかまって、ひさしの深い帽子からあふれる髪を、海風になぶらせていた。青と赤の花模様を散らしたエミリオ・プッチのワンピースを着ている。
鯉沼は彼女を、船尾のほうへ誘った。
「きれいだな、海は」
「湘南あたりとちがって、凄い色をしているのね。不気味な、蒼黒い緑。いったん時化《しけ》でもくると、凄いでしょうね、このあたり」
「もうすぐその時化がくるかもしれない」
「秀彦のこと?」
聡子がふりかえった。「私を呼びだしたの、彼のことでしょう?」
「何もかも、知ってらっしゃいましたね?」
「大方は想像がついていました。だって、ヴィーナスが送られてきて以来、彼は落着かなかったし、脅迫電話が始終、かかってきてたし……それで、調べようと思って私、碑文谷の花村ゆう子さんの家に行ったりしたのよ」
「聡子さん。あなたは夫がもし殺人犯だったとしても、許すつもりだったのではありませんか?」
「それは――」と絶句し、「でも、人間にはいろいろな情況があるでしょう。殺人といっても、逆上や誤ちや、裏切りへの復讐や、社会的にやむにやまれぬ事情があったとか。すべてを、いちがいにはいえないと思うの」
「それは、言い逃れというやつでしょう。帰するところ、殺人は、殺人です。でも……わかっていますよ、あなたの気持ちや立場。あなたは、夫が殺人犯だったのではないかと気づいたあとも、それに眼をつぶろうとした。家庭の平和、父の事業、会社の安泰、秀彦の将来。そしてそれを守ろうとして、あなたは花村ゆう子の家に押しかけ、真相をつかんで、むしろ夫の側に立とうとなさっていた。あなたはその時、愛し、信じていた秀彦によって東北旅行に誘いだされ、洞窟の奥で細紐で首を絞められた女性の痛みと心理的苦痛。それを考えたことがありますか?」
聡子は、舷側すれすれにせまる屹《き》り立った断崖に、虚ろな眼をむけた。そこまでは、考えたことはない、と聡子は思った。すでに死んでしまった女などに同情して、どうなろう。
そう、はじめはそう、思っていたのである。心を、真紅の炎で鎧っていたのである。だが、それは同時に、卑怯なふるまいであることも知っていた。その時の気持ちを思い返そうとした時、鯉沼の言葉が耳を搏《う》った。
「ご安心なさい」
「え?」
「鳴沢秀彦は殺人犯ではありませんでした」
聡子は、きっとふりむいた。「どういうこと?」
「花村ゆう子は、生きております。ヴィーナスは洞窟の奥で、生き返ったのです」
「じゃ、いつか家に電話をしてきた――」
「いえ。それはニセモノの花村ゆう子です。本人は一度も、こんどの脅迫事件には、顔をだしてはおりません。いえ、本人は、それどころか秀彦も、彼に自分を殺せと命じた橋場文造をさえ、許すと言っているのです」
きこえなかった、というふうに聡子は、眼を海にむけた。
「あなたなら、どうなさったでしょうね?」
聡子は、首をふった。わからない。何もかも、わからない。それならどうしてヴィーナスが送られてきたり、秀彦があんなに怯えつづけていたのか。
「ほら、そろそろ、鵜の巣断崖が見えてきましたね。今、あなたの夫、秀彦はあの上に現われたところです。彼はこれまで、未遂者ではありましたが、今日はいよいよ、既遂者になるかもしれません。つまり、本物の殺人犯に」
不吉な予感が、聡子の脳裡で閃いた。意味をさとって、聡子は短い叫びをあげた。まあ、と叫び、そんなひどいことを、と今まで信じていた鯉沼潤を、張りさけそうな眼で睨んだ。
北上する観光船の上で、醜怪な人間の話が進行しているのも知らぬげに、海と岩石が織りなす荒々しい自然の造形が視界を埋めていた。右手には、洞窟や岩礁がたくさんある峨々とした陸中の断崖がつづいている。
やがて左手に、そそりたつような鵜の巣断崖がみえてきた。陸中海岸は、異様だ。鬼気せまる思いがする。今なら、と鯉沼はさりげなく言った。
「まだ、間にあうかもしれません。もし、この船があそこへ着くとしたら、あなたは止めに走りますか?」
残酷な知らせ。残酷な提案。聡子は、沈黙した。のびあがった。飛んでゆきたかった。もし、羽根があるなら。だが、それは不可能だ。ぽつんと言った。
「でも、この船、あそこに着けようもないじゃありませんか。もし、着けたところで、あの断崖では、よじのぼることはできやしない……」
力なく言った。誰を、恨みようもないのかもしれない。肉親。二人とも。だがそれは、自業自得としかいえない要素をはらんでの運命的な対決であるのかもしれない……。
船は海風に白い飛沫を巻きたてて、鵜の巣断崖の下を通過してゆく。
――壊れちゃったのね、私たち。あのヴィーナスの首のように……。
聡子は、海にむかって力なく呟いた。最初の朝、ヴィーナスが床に落ちて壊れ、その首から鮮血様の液体がしぶいたのは、やはりあれは、不吉な前兆だったんだわ……。
断崖を見あげた時、突風がさかまき、自分の白い帽子が飛んだことに、聡子は気づかなかった。
鳴沢秀彦は鵜の巣断崖に到着していた。
駐車場には人影がなかった。橋場文造は役場の人間に案内されて、黒塗りの大型高級車で乗りつけ、すでに展望台のほうに歩いていた。秀彦は島の越駅前で借りてきたレンタカーを駐車場の端にのり入れ、降りてから松林のなかにはいった。
午後三時。太陽がきつい。橋場たちのほかに二組、若い男女が断崖をのぞきこんでいる。
鵜の巣断崖は、陸中海岸で一番切りたった、めくるめく断崖である。自殺の名所であった。毎年、十人以上の自殺者がここから飛びおりる。町当局は、専任の見回り人まで置いていた。
秀彦は断崖にはすぐ出ずに、右手の松林のほうから迂回して一行に近づいた。断崖に出ると、風がつよい。手すりは低く、ひざまでしかなかった。下をのぞきこむと、めまいがした。屹《き》りたった断崖直下の濃緑色の海を、白い観光船が一隻、北へ走っていた。
橋場が断崖中央の展望台のところで、役場の人間から説明を受けていた。秀彦は、松の木に背をあてた。やがて、香坂まり子が役場の人間に何か耳打ちし、橋場ひとりをつれて、秀彦のいるほうに歩いてくるのが見えた。
秀彦はさらに西へ歩いた。案内人たちの視野にはいらない岬の一角にきた。変装しているので橋場は、すぐ近くにきても秀彦とはわからなかった。
「わしに用事があるというのは、あんたかな?」
老いじみの浮かびはじめたなかにも、まだ獣のような野心とバイタリティと残忍さを残す顔に、土地の青年から陳情でも受けようという余裕が窺えた。この東北財界の梟雄といわれる男を、自分の手にかけて殺す、といった場面が、一瞬のフラッシュのように、秀彦の脳裡をかすめて過ぎた。秀彦の気持ちは、その幻影のようなシーンに、束の間はげしくおののいた。
「この天然の美景を、ホテルなどを建てて壊してもらいたくありませんね。私は土地の自然保護団体の代表ですが」
と、そう言って、橋場の脇に接近した。足許で、草が鳴った。登山ナイフの切先が、橋場の脇腹に押しつけられていた。
「叫び声をだすと、この場で殺す」
橋場は一瞬、塑像のように立ちすくんだ。
「きみは、鳴沢君か!」
声で、わかったらしい。
顔をねじむけて、怒鳴った。
「どうして、こういうことをする!」
「岩泉でクライスラーを雇って崖から墜落させ、私を殺そうとしたのは、あんただ!」
「ばかも、ほどほどに言え。わしがどうしてそんなことをやるんだ?」
「あんたは、村越という男を雇った」
「そんな男は知らん」
「執っこい脅迫劇を仕組み、私を追いつめ、機密資料を奪いかえすとは陰険だね。あんたらしくもない」
「脅迫? 私が? 冗談じゃない。その後、その件についてのきみの報告をきいてはいないぞ。あの件は一体、どうなっている?」
「きいているのは、こっちだ。なぜこんなことをした?」
「わしがそんなことをするか!」
「あんたは、おれの謀反を許すことができなかった」
「謀反? きみがか? ほう」
橋場ははじめてきいた、という顔をした。
とぼけていやがる、と秀彦はむらむらと怒りを覚えた。
「謀反とは、どういうことだ?」
「私を、特別背任罪で訴えた」
「どういうことだか、わしにはわからん」
「聡子まで奪って、私の家庭を破壊した」
「わしがそんなことをするか。聡子は、わしだっていまでも探しておる」
「香坂まり子に手をまわして、聡子を東北につれださせたのはあんただ。何もかも、こっちがきいているんだぞ!」
「香坂まり子? おい、きみはもしかしたら、あの女にたぶらかされているんじゃないのか? きみのいうことのすべてが、わしには納得がゆかん」
反省の色がない。情理をつくして釈明するか、許しを乞うかすれば許す余地もあったが、橋場はますます傲慢無礼に、責任を他人に押しつけようとしている。
突きつけた登山ナイフに力をこめた。切先が服を通して、橋場の肌に喰いこんだのが感触でわかった。
「やめろ。きみは、精神に異常をきたしたのか!」
橋場は身体をのけぞらせた。その橋場の襟首を秀彦はつかんでいた。役場の人間数人は、五、六十メートルも離れた遠くにいる。二組のアベックは岬の反対のほうに歩きかけていた。烈風がさかまき、諍《いさか》いの声は他人には聞こえない。
「私はあんたの命令一つで、人生を誤った。人殺しまでしたことを、今は深く後悔している。あんたのような傲慢無礼で、不遜な人間は、ここで死んでいただくしかない」
力にまかせてはねのけようとする橋場を、秀彦はひきずって、屹り立った断崖の果てに立たせた。リアス式海岸の荒磯に砕ける波が、はるか眼下に仄白く輝き、その深い奈落の底から烈風が吹きあげてきた。
「待て! おい。きさま!」
揉みあった。争いとなった。橋場に突きとばされれば、秀彦のほうが断崖にふっとぶ。それ以外に、とる方法はなかった。登山ナイフの切先を橋場の腹に突き通した。眼が、白くむかれた。叫び声よりも、橋場は奇妙に湿った、ぐぐっという声を喉にこもらせた。つかんだ手をはなさない。突き放そうとした時、二人の足許がくずれた。
草がちぎれ、岩が崩れた。橋場の巨体を抱えたままでは、踏みこたえられなかった。二人の身体はもつれあったまま、絶叫をあげながら、断崖直下の深い奈落へ呑みこまれる寸前になった。
「みなさーん、助けて下さーい。早く助けてえ! 橋場会長が、誰かと断崖の上で争っていまーす!」
香坂まり子が役場の人間のほうに、叫びながら馳けだしていった。
終章 ヴィーナスの眠り
女は、遠くの海を見ていた。
水平線のあたりが、落日のために真紅に輝いていた。
断崖の上だった。黒い岩である。鵜の巣断崖ではなく、それよりずっと北に位置する黒崎灯台の傍であった。
波は、金粉にまぶされて遠くから押し寄せてしだいにふくれあがり、女の足下で切りたった断崖にあたって砕け、霧をつくった。霧は、はじけちる怒濤に押しあげられて風にのり、女の肩や頬を濡らした。瞬きもしない。彫りの深い、透きとおった横顔が、昏《く》れはじめた紫色の空にくっきりと鋳込まれていた。
眼を閉じる。旅路がみえる。漂泊に似た遠い蘇生の道のりだった。あの時、香坂まり子という地元の女性に発見されなかったら、私はたぶん、あの碧龍洞の闇の奥で、あのまま仮死状態から、凍死状態に移っていただろう。香坂まり子は多少蓮っぱだが、気だてのいい娘だった。あの夏、短大生仲間と自分の持ち山である雨龍山の沢口で、キャンプを張ったらしい。たまたま仲間たちと女だけの肝試し大会をやろうと、二人一組であの洞窟にもぐったのだ。地下湖のあたりで全裸で倒れていたゆう子が発見され、大騒ぎとなって、ジープで麓の香坂栄太郎の家に運びこまれ、三日後、長い眠りからさめた時、ゆう子には、過去のいっさいの記憶というものが、失われていた。
頭部打撲による記憶喪失。医者は、そう言った。だがのちに、治療にあたってくれた鯉沼潤によると、頭を打ったことよりも、自分自身で過去を思いだすまいとする心理機構が作動して、いわゆる心因性記憶陥没。そういう症状であったらしかった。
ともかく、名前も住所も会社も、自分が何者であったかさえも、何一つ憶えてはいなかった。半年間、香坂家に起居して静養につとめた。幾分回復して元気を取り戻した時、働きに出たい、とゆう子はまり子に申し出た。
まり子は、まだ無理をするな、と諫めたが、ゆう子の熱意に負け、それならと自分の高校時代の同窓生が若ママをしている岩手県内の、一ノ関の市内にあるスナックを紹介することにした。
スナックの接客仕事なら、軽労働である。人と接触して気分も晴れよう。信用のおけるスナックでもあった。だが、それでもまり子は、ゆう子が一人前の社会生活ができるのかどうか不安だったので、試しに宛名書きだけをもたせ、安家の山奥から一人でバスにのせて、出発させた。
岩泉、茂市、盛岡、一ノ関へと、バスや汽車をのりついでなんとか辿《たど》りつくことは辿りついたが、やはり街の喧噪や外界のめまぐるしさに神経はついてゆけず、ゆう子はその夜、スナックの表に行路病者のようにまた倒れてしまったのである。
スナックのマスターが朝がた、まり子の電話をうけて気づき、助けてくれた。ともかく、その店で働くことになった。はじめはウエイトレス。それからカウンター。そしてレジ。二年目の夏、一人の妙な青年とそこで知りあった。東京の精神科医。鯉沼潤はたまたま、一夏、帰郷したとき、友人が経営するそのスナックに、コーヒーを飲みに現われたのだ。そこで働いているひっそりとした色の白い女が、記憶喪失症であることをマスターにきき、いたく興味を覚え、東京にきて治療を受けてみないか、と誘った。
だが、ゆう子は尻込みした。東京は遠い。金もない。が、香坂まり子はそのことを聞きつけ、金なら祖父の応援を得ていくらでもだす、とけしかけ、東京・四谷の総合病院に入院することになったのである。
鯉沼が三年間にわたってどのような治療を施したのか。ゆう子自身はもとより、覚えてはいない。気がつくと、自分は白い病室にいて、深夜、闇が恐いと大声で叫んで病室の窓ガラスを椅子で叩き割り、病院を脱走しようと図ったらしい。その瞬間がつまり、洞窟の奥で愛する男から殺されそうになった時の恐怖や、そこにいたるすべてのことを思いだした瞬間だったそうだ。しかし、自分が記憶を取り戻したことが、本当に自分にとって倖せだったかどうか。ゆう子には今でも、それがわからない。
わからない、わからない。時々、身を震わすような恐怖に襲われる。ゆう子は今でも、闇が恐い。まっ暗ななかに一人でいると、冷たい水音が闇の奥からきこえ、白い手が現われ、ぎゅっと首を締めつけられそうで、大きな悲鳴をあげたりする。
眼下の海に、その一番嫌いな夜が近づいていた。水平線におちる真紅の太陽に名残りおしそうに背をむけ、花村ゆう子がホテルのほうに戻りかけた時、
「マネージャー。お客さんですよ」
若いフロントマンが、手をふっていた。
左手に、灯台がある。黒崎灯台といった。ホテルは、すぐその横にあった。鵜の巣断崖や北山崎断崖など、名所にはこと欠かない陸中の景勝地の一つに、豪壮なその白亜のホテルは聳《そび》えていた。
フロントに戻ると、香坂まり子と鯉沼潤がふたりそろって、ロビーに立っていた。二人の表情は、やあ、と笑いかけようとしながらも、頬が硬ばり、醜くひきつってみえた。ゆう子は、その表情で何が行われ、どう完了したかをとっさにさとり、息苦しい思いに耐えた。頬を固くし、無言で展望レストランのほうへ二人を案内した。
展望レストランは、洋食、和食、お狩場焼きの本陣の、三つからなっている。団体客をのせた観光バスが昼間からひっきりなしに押しかけるので、忙しい。
この黒崎灯台ホテルは、香坂栄太郎が資本をだし、地元の観光業者に経営させているものだ。まり子のはからいで、女マネージャーとして花村ゆう子がフロント入りして以来、表の広い駐車場に乗りこんでくる観光バスの台数がふえたと、香坂栄太郎は喜んでいた。
「マネージャー。あちらの県会議員の方たちが、早く顔をだせ、とうるさいんですが」
男子従業員が、馳けよってきて小耳に告げた。
「申し訳ないけど、お断わりして。今夜は私、用事があるのよ」
「はやっているのねえ、ここ。もう安心だわ」
まり子はうれしそうにしていたが、鯉沼潤は表情を固くして、ゆう子のあとに従った。
ゆう子は記憶が回復して完全に社会復帰ができるようになった二年前から、鳴沢秀彦や橋場文造のことは思いだしたくないと、東京を逃れ、この黒崎灯台ホテルに勤めるようになった。美貌を意識の表にださない控え目で、聡明な女性として評判がよかった。
だが、彼女の前歴を従業員の誰一人、知らなかった。フランスでの絵の留学から帰って、東京で一度結婚に失敗し、父の郷里に戻ってひっそりと三陸海岸で生きているのだという、ふれこみを知って、信じているだけであった。
「灯台下のヒラメとアイナメ。朝のうちに釣っておきました。東京では味わえないほど、味がひきしまっていると思います」
さ、どうぞ、とゆう子は二人の訪問者を本陣に案内した。本陣は三陸の海のものをくわせる炉ばた焼きと、お狩場焼きの店であった。白川郷から運ばせた合掌造りの骨組みを、建物内に移築している。柱や梁は黒光りし、それが重油仕込みの松明に照らされ、屋内の幾つもの小部屋や廊下や障子や、そこに忙しそうに行き交う紅襷《べにだすき》の娘たちを、浮かびあがらせている。
「いかが? ここなら落着くでしょう」
海のみえる窓際。炉ばた焼きふうの白木のカウンター。まり子と鯉沼がやや重苦しそうに並んで坐った。女店員がおしぼりをもってきた。
「お願いしていたもの、だしてね」
女店員に言いつけて顔を戻した時、
「ゆう子、終わったわ。何もかも」
まり子が遠くの海のほうに顔をむけたまま、言った。
ゆう子は、沈黙した。
「あれほど、引きとめたのに」
あなたたちったら……あとは、声にならなかった。
記憶が回復した時、ゆう子を襲った気持ちは、裏切った鳴沢秀彦への復讐心でも、生きようとする気力でもなかった。深い虚脱感と長い長い睡りから醒め、遠い道のりを歩いてきたような白々とした漂泊感。今さら、あの男の前に現われて復讐することが、何になろう。自分を殺そうとしたあの二人の男を許す、というよりは無視することで、自分の生涯をたて通さなければならない。あのおぞましい記憶は、それによってしか忘れることができないと思った。
「でも、まだ夜明けがたうなされる症状、治らないのでしょう?」
鯉沼が医師の顔に戻って、きいた。三年間、全力投球をしてやっと患者を社会復帰させることができたが、まだ自分では快癒させ得ない部分があることへの、苦しみがのぞいていた。
「それを取り除いてやろうと思ってなさったことでしたら、悲しい誤解ですわ。そういう報告をきいても、私のあの恐怖症は、治るとは思えません」
「しかし、少なくとも忘れることはできる。もうあの二人は地上にいない。それが、心の疼《うず》きを完治させる最良の方法だと、私は信じましたが」
悲しい、とゆう子は思った。一人の女を助けるために、二人の男を殺す。こういうことではまるで果てしない循環。いえ、輪廻ではないか、憎しみの。
「まり子さん。あなたには碧龍洞で助けていただいて、言葉もないほど、感謝しているわ。その上、こんなお仕事までお世話いただいて、お礼の申しあげようもないくらい。でも……でも……私の過去に関する、そんな復讐までやってくださいと頼んだ憶えが一度だって、あるかしら」
「まだ、そんなことを言ってる! ゆう子」まり子がようやく、本来の威勢のよさをみせて叱りつけた。「あなたは本当に、殺されていたのよ。私たちがあの時、洞窟にもぐって発見しなかったら、あなたはあのまま、地下水で凍死していたはずよ。あの二人は天罰よ、天罰……」
そうかしら、と頬杖をついていたゆう子は、窓から遠くの海に眼を放った。海はもう昏《くれ》きっている。鵜の巣断崖の下で、遺体捜査の漁船が松明をあかあかと灯しあっているだろう光景が、するどく脳裡を裂いた。ヒラメとアイナメは、やはり朝のうちに釣っておいてよかったのかしら、とゆう子は呟き、精一杯、微笑を浮かべることにした。
参考人・鯉沢潤の供述書(抜粋)
……はい。花村ゆう子は、私の患者でした。
花村ゆう子の記憶喪失症の背後に、恐るべき殺人未遂事件が存在していたことに気づいたのは、三年前の九月ごろ、ようやく彼女が記憶を取り戻そうとしている寸前でした。傾斜ベッドに寝かせ、一問一答をくりかえす自由連想という心理療法のなかで、ある特定の言葉やイメージをなげかけると、彼女は極度に怯えをみせたり、興奮したり、時には叫び声をあげたりする烈しい反応を示しはじめたのです。
それは当然、洞窟とか、闇とか、冷めたい水とか、白い細い紐とか、彼女が殺されそうになった時の劇的情況に符節しあうものばかりでしたが、私は彼女を救ったという香坂まり子や、当時、彼女を診たという地元の開業医から、ゆう子が洞窟の奥からどのような情況で救出されたかを聞いておりましたから、首すじに残っていたらしい索溝様の痕、岩角で打ったらしい頭部打撲、そして全裸だったことなどから、ある程度、推測はついておりました。で、治療の終局段階に立った時は、かなり強引に、彼女を殺人未遂劇の恐怖のほうに追いつめ、その恐怖をバネに記憶を取り戻させようと、かなり荒っぽい心理療法で、最後の斧の一撃を加えようと努力したわけです。
そしてある雨の晩、彼女は突然、半狂乱になったように叫びはじめ、椅子をふりあげて病室の窓ガラスを叩き割り、脱走しようと図りました。看護婦を呼んで大勢で取り押さえようとした私たちの手を逃れ、凶暴性を発揮する精神異常者のように暴れまわって、とうとう二階の病室から飛びおりてしまいました。あわてて外にとびだしますと、彼女は窓外の芝生の上に、ぽつんと虚脱したように雨に打たれて、坐っているじゃありませんか。
その夜を境に、彼女は自由連想の中でも、少しずつ自分の過去を手さぐりしながら、告白をはじめました。つまり、記憶が徐々に、断片的に戻ってきたのです。私はそれを克明にノートに記録しつづけました。そのノートは恐らく、花村ゆう子が殺人未遂事件に遭遇するまでのかなり克明な犯罪記録となったはずです。
鳴沢秀彦という恋人のことも、橋場文造という東北交通コンツェルンの会長のことも、またその社会的悪業も、すべて彼女は長い時間をかけて話したわけです。しかし私は、それを記録にとったからといって、すぐに脅迫に使うとか、鳴沢秀彦を糺弾しようと、考えたわけではありません。
医師は、患者の秘密を守る。これは、モラルです。犯罪記録は、机の抽出しに鍵をかけてしまいこみ、いずれ治療経過だけは、特異なケースとしてアメリカのある医学雑誌に発表するつもりでおりました。しかし、それからの三ヵ月間、花村ゆう子は記憶を取り戻したために、いっそう本格的な苦しみに遭遇しはじめたのです。
一時は深夜、うなされ、あばれはじめ、精神科の隔離病棟に入れなければならないほどでしたし、またそこでも、鉄格子を握りしめて、鳴沢秀彦と橋場文造を殺してやる、とそれはもう恐ろしいほどの形相で狂ったように叫んだりしておりました。
様子をきいて、香坂まり子が病院に再三、馳けつけました。彼女に事態を打ちあけると、まり子は、その殺人未遂者たちを許せない、といきまきました。どうしても鳴沢秀彦と橋場文造に天誅を加えようと、言いはじめました。あとできくと、彼女には彼女なりの、別の件で東北交通や橋場文造に少なからぬ恨みがあった模様なので、なおさらだったわけでしょう。
花村ゆう子は発作がおさまると、ベッドに坐って、悄然としております。その弱々しい様子をみるうち、哀れに思い、私も香坂まり子の提案は、むべなるかな、と思うようになったのです。アメリカのコロンビア大学で最尖端の医学知識を修めてきた者としては、恨みを晴らすとか、天誅を加えるとかは、およそふさわしからざる古風な考え方ですが、やはり私も、本質的には不正を許せないとするただの日本人だったのでしょう。
私たちの計画は、こうでした。まず、芸大の知りあいに頼み、石膏で等身大のミロのヴィーナスをつくり、それを古いギリシャ美術品のようにみせかけて、自動車で運び、碧龍洞の奥に隠しました。それと前後してQ大ケービングクラブのほうに、岩手県の碧龍洞に関する黄金伝説を吹きこみました。それがまず第一段階であり、学生たちが実際に洞窟入りする寸前、こんどは鳴沢秀彦と橋場文造のところに、ヴィーナスの写真や石膏像を送りつけ、脅迫にとりかかったわけです。
金銭や会社の機密を得るのが、目的ではありませんでした。あくまで鳴沢秀彦に心理的圧迫を加え、橋場文造に対して殺意を抱くよう、追いこんでゆく。それが、目的でした。ところが、この段階にいたって、実に奇妙なことが周囲に、次々に起きはじめたのです。
私たちが石膏のヴィーナスを運びこんだ洞窟で、実際にもう一つの、本物の石灰化した女性の死体が見つかったり、鳴沢秀彦に対して、どうも私たちとは違った人間が、金銭や会社の機密を要求する脅迫電話を入れはじめていた模様なのです。
……はい。脅迫者の複合とでもいうのでしょうか。混乱しないように整理して申しますと、私たちが鳴沢秀彦に対してやった脅迫的行為は、次のとおりです。最初にヴィーナスの写真や石膏像を送ったこと。偽の花村ゆう子という女性を仕立て、彼の自宅やホテルに電話をかけさせたこと。目黒区平町の部屋を借り、そこに彼を呼びだし、ウェディングドレスを着せたマネキンを表に立たせたこと。そして盛岡から帰京した彼に、すかさず小田急ロマンスカーを指定し、伊東の別荘まで呼びだしたことです。
……はい。刑事さんたちがおっしゃるような、別の殺人者や脅迫者について、事件進行中、それが何者であったかなど、私たちは知るよしもありませんでした。ただ、鳴沢秀彦を徹底マークして、彼を尾行していた香坂まり子が、七月二十日の夜、鳴沢秀彦がはいっていった中野区哲学堂下のマンションの部屋の外に立ち、ドアを少しあけて、なかの会話を盗み聞きしたことは、事実です。
で、それによって多少、鳴沢秀彦に対する脅迫の中味を掌握したことも事実です。それなら私たちもそれを援用しようと、鳴沢秀彦が岩手から帰京した七月二十五日の夜、約束の場所、NHKホールを変更するとしてこんどは、最後のダメを押すため、小田急ロマンスカーに約束のものと金銭二千万円をもってこいという、電話を入れたわけです。
……え? 田園調布に送られた二度目のヴィーナスの石膏像から、本物の血液が飛散したという件ですか? はい。これはいささかやりすぎだったと深く反省しておりますが、私たちがやりました。病院の外科でビニール袋入りの輸血用の血液を一袋借りうけ、それをビニールパイプで石膏像の中に仕込んでおいたものです。
……ロマンスカーで奪ったお金ですか? はい。香坂まり子があの日の午後、鳴沢秀彦から奪いとったアタッシェケースをさげ、東北交通の秘書室を訪れ、家田佳子という女性に戻したと申しておりますから、家田佳子に確かめて下さい。そんなわけで、私たちは伊吹敏男殺しとか、宝泉寺颯子殺しとかについては、いささかも関知しておりませんし、金銭や会社の機密が目的ではありませんでした。
とはいえ、鳴沢秀彦に対して、ヴィーナスをめぐる脅迫的言辞を弄しましたことは事実です。私にとっては、それはあくまで花村ゆう子の完全快癒を願っての一つの心理実験、そして正義の戦いのつもりでおりましたが、招来した結果は、ごらんの通りです。
営利誘拐でも、金銭めあての脅迫でもない。一つの心理実験。でも、日本の法律にもし万一、このような心理劇をも裁く罪名罰条がおありのようでしたら、どうぞ適用なさって下さい。厳粛に、いかようにもお受けいたします。
はい。世間をお騒がせして、まことに申し訳ありませんでした。
被疑者・狩野速人の供述書(抜粋)
……はい。私をこんどの恐ろしいヴィーナス殺人事件へ馳りたてた発端は、アメリカのある学術雑誌でした。昨年夏、ニューヨークで発行されている医学雑誌「ヘルス・メンタル・フォーラム」九月号に、日本のある特異な記憶喪失症患者の治療および回復過程に関する英文の論文が目につきました。寄稿者は、鯉沼潤。内容は、日本のある山間部の洞窟の奥である事故≠ノ遭い、岩角で頭を打って仮死状態に陥った一人の女性が、その後、救出されはしたものの、記憶が戻らず、精神科医の窓口を叩く、というところからはじまっておりました。
その学術雑誌は刑事訴訟法や犯罪学関係の雑誌ではないので、ある事故≠ニ寄稿者は抽象的な断わりかたをしておりますが、想像力のたくましい読者なら、そこに一種の犯罪が行われたことが、明らかに読みとれる内容でした。つまり、殺人未遂。それも、その女性患者は愛する恋人に殺されそうになったのであり、その心理的ショックが、首をしめられて転倒したさいの頭部強打による記憶陥没とあわせて、彼女の深部で奇妙な形でないまざり、患者が記憶を回復するのを心理機構上、長期間、妨げたとする点が、ある愛の症例≠ニして、学術的にも新鮮な訴求力をもち、目を惹きました。論文のタイトルは裂けた愛の旅路≠ニ、銘打たれておりました。
幸い、アメリカの英文雑誌であったことと、もともと専門誌であったため、その殺人未遂事件自体は、世評を騒がせはしませんでした。でも、日本でたまたま、この雑誌を購読していた読者のうち、一人だけ、その記事にショックを受けた人間がおりました。
それが、ほかならぬ、この私です。城南大学で心理学と社会科学の教鞭をとる傍ら、美術評論までやる幅広い社会科学者、と呼ばれております私が、一読して、驚愕の念にとらわれたのは、自分が七年前、岩手県のある洞窟の奥で首をしめて殺したはずの妻、碧こそ、その記憶喪失の女ではないか、と思ったからです。
碧が仮死状態から蘇生した! 深い恐怖の念が私を捉えました。碧が記憶喪失の治療を鯉沼潤に受け、もし記憶を回復してしまったら、私の殺人未遂の犯罪が、露見してしまう! あわてふためいた私は、同じ学会にいる鯉沼潤にそれとなく接近し、その患者が何者だったかを、聞きだすことに成功しました。
結果は、碧ではありませんでした。私のまったく知らない若い女性。安心しました。それなら、もう心配はいらない。碧の死体はもう白骨化し、身許さえもわからなくなっているはずであると。
しかし、その喜びも束の間。今年の春、四月ごろからでしたか。岩手の碧龍洞に石灰化した女性の全裸死体がある。それはあんたが殺した碧だ、という脅迫電話が、ひんぴんと私の家や研究室にかかってくるようになったのです。
脅迫者の目的は、金銭。相手は、哲学堂下のマンションに住む伊吹敏男でした。そう、姪の宝泉寺颯子の別れた夫であることがわかりました。
彼は恐らく、颯子から叔母、碧が東北の岩泉で失踪したということを夫婦生活の間に、聞いていたのでしょう。それを、アメリカのあの学術雑誌を読んで思いだしたらしいのです。そして彼は、碧が失踪した洞窟を調べてみようと、実際にそこにもぐったところ、乙女の滝の奥のほうで、石灰化した女性の死体を発見したのです。みると写真でみていた碧の顔。これは脅迫に使えると、彼は写真まで撮り、それをもとに私にむかって、多額の金銭をゆすりとろうとしはじめたのです。
そうです。鳴沢秀彦という人に対してなされていたらしい脅迫的行為の数々は、実はそれ以前に、伊吹によって私のほうになされていたのです。
二度目に、一千万円単位の金銭をゆすりとられた時、私はついかっとして、怒鳴りつけてやりました。あそこで女を殺したのは私だけじゃない、私に対する脅迫はもういい加減にやめてくれ、と。その時、私は不注意にも、鯉沼潤からきいていた花村ゆう子という女性の名前をだしたことを覚えています。それで、伊吹はもう一つの殺人者(これは未遂ですが)の手掛りを得、記憶喪失から甦った女性、花村ゆう子を殺そうとしたのは、東北観光秘書室長、鳴沢秀彦であることを突きとめ、こんどはその人に対しても、ゆすりをはじめたのだと思います。
いい金づるをつかんだと、伊吹はそのことを私に誇らしく言いました。私は同じ立場の人間がもう一人いることを知り、一計を案じました。伊吹が三度目に、法外な金を要求してきた時、いっそ伊吹を殺して、それを鳴沢秀彦のせいにしてやろうと、考えたのです。
三度目の金受渡しの時、哲学堂下のマンションで伊吹を絞殺したのが、それです。その夜、私は伊吹が九時に鳴沢秀彦とその部屋で会う約束をしていたことを卓上メモで知っておりましたので、その前に決行しようと八時頃、金をもってきたといって部屋にはいり、不意を襲って、ネクタイで伊吹を絞殺しました。その伊吹を肘掛椅子に坐らせ、鳴沢秀彦が訪れた時、私はテラスの外にひそみ、部屋を暗くして、彼にむかってあたかも真の脅迫者であるかのごとく、企業秘密をよこせ、と恐喝まがいの言辞を弄しました。
そうしておくことで、鳴沢秀彦を私のように狂わせておき、一方であらかじめ盗んでおいた彼のニッサン・レパードに死体を詰めこみ、どこかに放置しておけば、彼はすでに哲学堂下のその部屋に指紋を残しておりましたので、伊吹殺しの真犯人という失態をしでかす、と考えたわけです。
……え? 岩手県でのクライスラー転落事故ですか? はい。あれも私が仕組んだことです。颯子までが、あのテレビニュースを流して以来、私におはようインタビュー≠ワで仕掛けて参りましたので、これはもう放置してはおけない、とそう思いはじめていた時、ちょうど彼女が、岩手県の岩泉にゆくという話をききこみました。
私はあらかじめ、村越という運転手を雇って、茂市に待機させ、私は私で、東北新幹線で尾行してみたところ、なんと宝泉寺颯子と鳴沢秀彦とが隣同士のシートに坐っているじゃありませんか。驚きました。これはまさにいい機会だと、二人一緒に殺害しようと、はかったのです。
なぜって、この機会に鳴沢秀彦を殺害してしまえば、彼にはもう否認する口がない。哲学堂下の伊吹殺しも自動的に、彼の犯罪となる、と私はみたからです。
……村越ですか? はい。その時、クライスラーを運転していた村越は、私が以前、運転手として雇っていた男で、盛岡に転居する時、かなりの経済的援助をしておりましたので、恩義を感じていたもようです。もともと、競輪や競馬に熱心で、金に困っており、こんども多額の金を約束しますと、私の申し出を快く引き受けてくれたわけです。
……クライスラーは、そんなわけでございました。……はい、最後に、青山の宝泉寺颯子殺しについて述べろとおっしゃるんですか?
はい。この時はもう、私は正常な心理状態ではありませんでした。東北の岩泉で仕かけたクライスラー転落事故では、二人とも死にはしませんでしたし、鳴沢の車にのせて多摩川に放置しておいた伊吹の死体は、こういう時に限ってなかなか発見されず、鳴沢への容疑はいっこうに動いている気配はない。おまけに、東北旅行から帰京した宝泉寺颯子は、証拠をつかんできた、といって私の家にのりこみ、碧おばさんを殺したのは先生でしょう、と面とむかって詰問しはじめるありさまです。
私は、殺人犯となり、社会的に破滅する。それを考えると、表づらは落着いていても、内心は、半狂乱状態です。そうなった時の犯罪者ほど、惨めなものはありません。幸い、東北のヴィーナスは紛失したと伝えられ、それなら颯子さえ殺してしまえば、もう碧について知っている人間はいないと、ますます視野狭窄症的にものごとを絞りこみ、七月二十六日の夜、私は青山の颯子のマンションにおしかけました。そうです。痴情のもつれにともなう殺人とみせかけるため、颯子が浴室にはいっているところを襲い、とうとう私は、あんな……ばかなことをやってしまったのです。
……はい。以上が、私の犯行のすべてです。え? 最後にあと一つ聞きたいとおっしゃるんですか? はい。精神科医の鯉沼潤や、香坂まり子さんたちが鳴沢秀彦に対して、側面からもう一つ脅迫的言辞を弄していたことを知っているかですって? いえ、私はそういうことは、何も知りませんでした。金銭めあての純然たる脅迫そのものは、恐らく伊吹一人がやっていたことであって、その方たちとは無関係だったと思われます。むろん、その方たちがこんどの一連の脅迫事件のなかで、どのようなことをなさったかなど、私にはもう想像の及ぶ範囲ではございません。
嵐が訪れ、嵐が去った。
一陣の竜巻きのような激しい嵐が、何もかも薙ぎ倒して走り去ったあとにたった一人、とり残されたのは鳴沢聡子であった。
実父の橋場文造と、夫の鳴沢秀彦を鵜の巣断崖で同時に失い、合同社葬や野辺送りもすべて済ませて、田園調布の家に戻った聡子には、愛する者たちに背信された者の果てしない疲れと虚しさだけが残っていた。
すべては、自分と拘わりのないところで仕組まれ、進み、動いて、恐ろしい結果を迎えた復讐劇だった。
しかし、結局のところ、身辺の何もかもを失って一番の当事者となり、被害者となったのは、鳴沢聡子であった。聡子にはだから、季節が九月にはいって、陽射しが秋らしくなってもしばらくは、心の平穏というものは訪れなかった。
鯉沼潤からその思いがけない電話が入ったのは、九月ももう下旬になって、庭の芝生のむこうに秋バラが咲き乱れる季節に入ってからであった。
一別以来、それぞれの情況の中で、あわただしい日々を送っていたので、聡子はかなり驚いた。
「お元気ですか?」
鯉沼潤は、いつもの清潔で折目正しい精神科医の声で訊いた。
「いかがです? 気持ちの整理はつかれましたか?」
聡子は受話器を握ったまま、庭の芝生に射す白い陽射しと、秋バラをぼんやりと見つめていた。
「気持ちの整理なんて……まだまだ、ついたとは言いかねますわね。毎日、庭の花壇の手入れをしているけど、心は虚ろよ」
「お察しします。ぼくは、お詫びしなければならないのかもしれない。あのあともずっと、あなたのことが気になって、電話したんです」
「あなたのほうこそ、大変だったんでしょう? 何度も警察に出頭して、事件のことを陳述したり、証言したりしなければならなかったようでしたけど、起訴されなかったの?」
「いえ、その件は何とか……」
鯉沼潤は、手短かに事実を報告した。
参考人・鯉沼潤および香坂まり子が鳴沢秀彦に対して企んだヴィーナスの罠は、本人たちの陳述があるだけで、客観的傍証は少なかった。なんといっても、当事者、鳴沢秀彦はすでに半ば錯乱状態に陥って、橋場文造を刺し、二人とも断崖直下に墜死しているので、本人への脅迫の度合や実態に関し、警察としては裏付けの取りようがなかったわけである。
脅迫罪は、被害者本人からの告訴がなければ成立しない。親告罪である。自責の念にかられての犯行、ととれば、鳴沢秀彦のふるまいは自業自得ともいえる。そんなわけで、鯉沼・香坂両名を脅迫、または威力妨害罪で起訴しても、公判を持ちこたえ得る証拠も、該当する罪名罰条もないとあって、結局、両名に対しては不起訴処分ときまり、岩手県警および、東京警視庁からの厳重な譴責と、戒告処分が行われ、二人は首《こうべ》をたれて、放免となったようである。
「そう。それはよかったわね」
聡子の言葉は、少し辛辣になったかもしれない。
「いえ、よかったかどうかはわかりませんよ。少なくとも、ぼくの気持ちとしては、法の名のもとに裁かれようと思ってたんです」
鯉沼潤は言った。そうして彼はすぐに急いで、「それより、電話をしたのは、あなたに大事な話があるからです。ぼくは今、近くの多摩川台公園に来ています。おたくにお伺いしようと思いましたが、やはり家には入りづらくて、門扉の傍を素通りしました。呼びだすようで恐縮ですが、ちょっと公園まで来ていただけませんか?」
聡子は、行くことにした。鯉沼が待っている場所は、家から歩いても二、三分のところだった。
道に夕暮れ前の白い陽射しが、射していた。真夏ほど照りつけるわけではないが、聡子には白い光のかけらが眩しかった。
聡子は家を出ると、その白い陽射しの中を、多摩川台公園にむかって歩いた。
多摩川台公園は、高台にあった。
田園調布の住宅街の後背地にあって、公園の後ろはすぐ崖になっていて、多摩川の流れや河川敷に落ち込んでゆく。
見晴らしのいい展望台に立つと、生い茂った桜や松の巨樹が差しのべる亭々たる梢越しに、眼下にゆったりと蛇行する多摩川の流れが俯瞰でき、とくに夕暮れ時、水面が夕陽に映えてキラキラと赤く輝く頃は、きわだって美しい眺めである。
鯉沼潤は、その展望所にいた。もうそろそろ夕陽の時間になりかけていた。彼は遠くの川面を眺めながら、立っていた。
「お話って、何でしょうか?」
聡子が静かに傍に寄り添って聞くと、鯉沼は遠くを見つめたまま、いきなりぶっきらぼうに、何かを言った。
「え……?」
聡子は聞き返した。「今、何かおっしゃった……?」
「ええ、言いました。返事は、今でなくていい。聡子さん、ぼくはあなたに責任がある。あなたを天涯孤独の未亡人のままにしておきたくはない。ぼくと結婚してくれませんか?」
一瞬、聡子は驚き、耳を疑っていた。すぐには、言葉が出てこなかった。まったく、予想もしていなかったことだからである。
「聡子さんをあんなに悲しませておいて、今さらずい分、虫がいい申し込みだと、お怒りかもしれません。怒られてもいい。身勝手だと責められてもいい。ぼくはあなたを、そのまま一人ぽっちにしておけないんです」
鯉沼潤は自分に怒ったように、そう言いつづけた。
しかし、聡子は返事をしなかった。意思表示をする以前の言葉さえも、何ひとつ、出てこなかった。
正直のところ、天誅とはいえ、自分の夫と父を鵜の巣断崖まで追いつめることに加担した鯉沼潤を、聡子はとても許せない気持ちでいる。それを忘れようとして、悶々としている。
もし、鯉沼潤の行為を純粋な正義感の発露だとして、許す決心がついたとしたら、あるいはその時、聡子は再出発の地平に立っているかもしれない。そうしてその時、自分は彼の求婚を受け入れることになるかもしれないと、聡子はちらと思ったりする。
しかし、今はまだ聡子はとてもそんな気持ちにはなれなかった。そういう意味では聡子はいま初めて、自分で選択する本当の人生というものに、直面しているのかもしれなかった。
遠くを見つめる聡子の顔の中で、塗り直したばかりのルージュが、折からの夕映えに染まって、鮮かに真紅に光っている。風が渡り、梢が騒ぎ、眼下に蛇行する多摩川の水面が、これも夕陽に染まって真紅の鏡のように、いちだんときらめきを増していた。
一九八五年四月に講談社ノベルスとして刊行された「鍾乳洞美女殺人事件」を加筆、改題し、一九九四年五月、講談社文庫として刊行