南里征典
武蔵野薔薇夫人
目 次
第一章 不運な蜜月
第二章 凶変
第三章 薔薇屋敷
第四章 悪魔の巨金
第五章 殺人銀河
第六章 孔雀の女
第七章 傷だらけの山河
第八章 乱蝶
第九章 21世紀開発構想
第十章 事件の構成
第十一章 不安な旋律
第十二章 血の闇
終章 やがて薔薇咲く
第一章 不運な蜜月
新婚旅行には、夢をふくらませていた。
そこで不幸な事件の発端が起きるとは、夏希は予想もしていなかった。
村山|夏希《なつき》と雅彦が選んだハネムーンの場所は、長崎であった。
長崎の空は晴れていた。グラバー邸は南山手の高台にある。その庭からは、長崎湾が一望できた。湾は三月の陽射しを浴びて輝き、波も立たず、どこまでもねっとりと、銅色に凪《な》いでいた。
夏希《なつき》は、眼下に見晴らしのいいそんな光景を見おろしつつ海風に髪をそよがせながら、その時はまだ自分の身のまわりに不吉な事件が迫っているなどとは予想もしていなかったので、
「わあ、きれい。お船が絵のように浮かんでるわ」
と、少女のように無邪気な感想をのべて、はしゃいだ。
事実、夏希にとっては、長崎は初めてである。いや、九州ははじめてである。武蔵野とよばれるだだっ広い関東平野のまん中で生まれ、育った夏希には、海というものは珍しいし、長崎湾のように入江が深く入りこんでそのまわりに市街がびっしりと貼りついて輝く細密画のような風景を、高い所から見おろすというのは、初めてなのであった。
「これで、ある晴れた日に……と歌いだすと、プッチーニの歌劇、蝶々夫人そのものだな」
テラスに並んで立って、雅彦《まさひこ》が言った。
「ええ、ほんと。ここがあの有名なオペラの舞台だったのかしら」
「ふつう、そう言われているがね。どうも事実は違うようだね。だってここはイギリス商人、トーマス・グラバーの邸だったわけで、蝶々夫人が住んでいたわけではない」
「でも、三浦環さんの銅像もこの邸の庭園にあるのよ。私、信じたいなあ。マダム・バタフライの物語はここで展開されたって考えたほうが、何となくロマンチックだわ!」
夏希は、夫に不平を鳴らすように絡んでみることに、初々しい歓びを感じる。そういう感情に出会ったのは、初めてである。もっとも、結婚式をあげてまだ三日目で、新婚旅行をしているさなかとあっては、夫婦といってもまだなりたてであり、感情の一つ一つが、新しい発見であり、新しい出会いなのかもしれなかった。
夏希は、その時までは、しあわせであった。
東京近郊の衛星都市、武蔵丘市で薔薇《ばら》作りをする村山夏希は、今年二十八歳になる。やや婚期が遅れたのは、短大園芸科を卒業後、市内でマンション建設や貸しビルなど手広く不動産事業をする父にかわって、薔薇専作の家の施設園芸を一人で切り盛りしていたからであり、夏希はいわば、若くして新婚ながらも薔薇園の女あるじなのであった。
「ねえ、屋内に入ってみましょうよ」
夏希は雅彦を促して、グラバー邸内に入った時、あら、と驚きの声をあげた。
花が咲いていた。
ただそれだけのことである。でも、意外なところで、意外なものを発見すると、人間は驚くものである。
「まあ、お花!」
夏希はグラバー邸の中で声をあげた。明治洋館風の母屋の中に、まるでガラス温室のような大きな花壇部屋があった。庭に独立した温室ではなく、本館内に組み込まれたガラス温室なので、幕末のイギリス人がこんな所で花を栽培していたのかと、夏希はそこに咲いているベゴニア、サフラン、胡蝶蘭《こちようらん》、薔薇などの鉢物に、思いを深くしたのである。
「貿易商と聞いていたけど、トーマス・グラバーという人、凄い人だったのね。この分だと、お花でも日本の先覚者だったのかもしれないわ」
「うん。生け花の様式美は日本の方がずっと進んでいたけど、花をふだんの市民生活の中に取り入れる、という伝統はヨーロッパのほうが進んでいたし、グラバーは日本に色々なヨーロッパの先進文明を伝えた人だからね」
雅彦が説明した。
このグラバー邸は、幕末日本の近代化に尽くしたイギリスの豪商、トーマス・グラバー氏の旧邸である。文久三年(一八六三年)の建築というから、現存する木造洋館ではわが国最古のものである。
屋根の形が美しい四ツ葉のクローバー型である。この邸を建てて住んだグラバー氏は、明治維新前夜の安政六年(一八五九年)、二十一歳で来日し、長崎の大浦海岸にグラバー商会を設立し、日本から生糸(絹)や茶、陶器などをヨーロッパに輸出する傍ら、欧州から兵器やもろもろの文明の利器を輸入する仕事に携わり、薩長土肥など西国諸藩を応援して、日本の明治維新を助けたといわれる。
日本女性を妻に迎え、多くの維新の志士を育てたが、明治四十四年(一九一一年)七十三歳の高齢で、日本で没している。
そんな一人の人間の歴史にまつわるエキゾチックなものを感じながら、夏希は胡蝶蘭に顔を近づけた。ぷーんと、いい匂いがした。と……その時庭のほうからガラス越しに、じいーッと、自分たちを見ている二人づれの男がいることに、夏希は気づいた。
旅行者といえば、旅行者と思える。一人は背広だが、一人はブルゾン。二人ともサングラスをかけていた。
夏希は薄気味わるくなり、
「ねえ、あなた。あの二人、見憶えがある?」
雅彦がそちらに眼をむけた時、しかし外のサングラスの二人の男たちは、さっと物陰に姿を隠したのである。
「なんだ、誰もいないじゃないか」
雅彦が怪訝《けげん》な顔をした。
「いたのよ、そこに。ガラス越しに、私たちのことをじいーッと、窺《うかが》っていたのよ。変な人たちだったわ」
「ばかだな。それはきみの思いすごしだろう」
雅彦は相手にしなかった。
「観光地だから、そりゃ人間は多いさ。ただの見物人を、変な人間だと思いこんだんじゃないかね」
「それなら、いいけど」
「そうさ。それに決まってるよ」
「とにかく、薄気味わるいわ。外に出ましょう」
二人はグラバー邸の外に出た。庭に三月の明るい陽射しがあふれていた。庭は広い。夏希と雅彦は高台をなす庭園を奥のほうにあるいた。
通称、グラバー邸とはいわれるが、今では南山手の丘の上全体が、明治洋館群を集めた史蹟公園となっている。約三万平方メートルの敷地に、グラバー邸、リンガー邸、オルト邸などクラシック洋館群が八棟も残っていて、長崎独特の異国情緒をかもしだしていた。
夏希は雅彦と歩きながら、気になってまわりに視線を走らせた。だが、先刻、ちらと見えたはずの二人の男たちの影らしいものは、もうどこにも見あたらなかった。
(そうかしら。気のせいだったのかしら)
でも夏希が、誰かに見られている、と感じたのは、今がはじめてではない。東京を発つ時から、それは感じていたのだ。式をあげた武蔵丘市のホテルを発つ時、羽田空港で飛行機にのる前……なんとはなしに、夏希はずっと、誰かに見つめられているような視線を感じてならなかったのである。
「そこで、休もうか」
雅彦に言われて、
「あ、いいわね」
二人は左手にある「自由亭」でコーヒーブレイクを取ることにした。これも明治時代の西洋料理店を生かしたもので、二階がアンティック・ムードの喫茶店になっていた。
夏希たちは窓際のテーブルに、席を取った。コーヒーを飲みながら、夏希は自分たちの結婚のことを考えた。
夏希は不思議な女である。
夏希の家は薔薇屋敷といわれる。多摩丘陵に近い郊外の大きな屋敷に、門と倉のある由緒ある旧家だが、父親の村山|虎三《とらぞう》は、都市化の波に押されて、もう薔薇作りの園芸農業をやめて、会社の社長をしている。武蔵丘市という東京近郊の新興都市で、マンション経営からガソリンスタンドや貸しビル経営などを手広くやる凄腕の「不動産屋」であり、「事業家」である。武蔵丘興産取締役社長、というのが、村山虎三の肩書であった。
でも、村山家の一人娘である夏希は、そんな企業活動などは見むきもせず、ひたすら美しい薔薇を作ろうと思い、薔薇作りに打ち込んでいる。夏希は、子供の時から花が好きであった。生命の開花にふれあって生きるのが、好きであった。高校時代、自分は「村山薔薇園」を継いで守ってゆこう、と決心し、短大も、そのため園芸科を選んだ。
卒業後、幾人かの雇い人や研修生を預かりながら、家の園芸部門は全部、自分で切りまわすようになった。
当然、結婚は少し遅れた。「おまえが薔薇農園などにこだわるから婿がこないんだ。花作りなんかやめて、家でおとなしく花嫁修業でもすれば、わしがいい婿を見つけてやる。やめろやめろ、手間ひまのかかる花作り園芸なんか――」
父は口癖にそう言うが、夏希は結婚を急ぐつもりはなかったので、相手にしなかった。
「夏ちゃん。いいひとよ」
叔母が電話をかけてきた時、夏希は会ってみようかと思った。
見合いの話である。昨年の九月のことであった。
それまでも何度か、父や親戚を通して見合いの話があった。でも父がつれてくる相手は自分の不動産事業の後継者にしたいタイプの男ばかりである。親戚がつれてくるのは、銀行員とか証券会社員とかのエリートばかりで、村山家の財産に対する関心が、すけすけに見えて、夏希はあまり馴染めなかった。
結果的に、夏希は見合いをしても何度も断わったことになる。ところが、その時の叔母の口ぶりはいやに熱心で、
「夏ちゃんが好きになりそうなタイプよ。一流大学の工学部を出た設計技師。仕事柄、庭作りや花木園芸にも造詣が深くてね。それに二男だそうだから養子入りするにも、困らないのよ。ねえ夏ちゃん、ほんとにいい相手よ。会ってみなさいよ」
断わりきれずに、会うことになった。翌週の日曜、指定された相模川の畔のレストランに行ってみて、驚いた。
「あーら」
相手も、驚いていた。
「やあ。あなたでしたか」
夏希はしばらく声が出なかった。
二人は顔見知りだったのである。もっとも、親しく話したことはない。おかしな出会いといえた。夏希は薔薇栽培の傍ら、週のうち二回、夜は市民会館で開かれているカルチャーセンターに通っていた。
そのカルチャーセンターには、手芸、編物、組紐、短歌など、色々なコースがあったが、その中で「花の文化史」という教養講座が目を惹《ひ》いた。何でも万葉集研究で有名な国文学者で、大学教授だったが、今は退官して武蔵丘市で悠々自適の生活をしている狩野富太郎という人物が講師を務めていた。
夏希は自分が花作りをしているせいもあって、そのコースに入った。金、土曜日の夜、二時間ずつ。そこでは日本の「万葉集」や、「源氏物語」や世阿弥の「花伝書」などに出てくる日本人と花の拘わり、ギリシャ、ローマ時代における薔薇の文化史、ルネッサンスにおいて果たした花の役割りから、中世イギリスやフランスにおける王朝時代の貴族間で大流行した薔薇作りの話題など、古今東西の「花に見る人間の歴史」が学識豊かに語られ、夏希は毎週、金曜日が待ち遠しいほどだった。
滝野雅彦とは、そこで顔をあわせたのである。
叔母のほうが驚いていた。
「まあ、それじゃあ、私が紹介するまでもないわね。この人、滝野雅彦さんといってね、大手建設会社の設計事務所に勤めるばりばりの設計技師さんよ。ふたりとも、気があうようだったら、おつきあいしてあげて」
世話好きの叔母の珠江《たまえ》は、どちらへともなくそう言い残して、席を立った。
滝野雅彦は、千駄ケ谷に本社のある大手建設会社Q組に籍を置き郊外の現場設計事務所に通っているそうである。私鉄駅を中心にした地域コミュニティ作りや、市街化計画をそっくり請け負ったり、大きなニュータウン作りなどをするので、ハード部門だけではなく、人間の生活にとって必要な花や緑や空間といったソフト部門にも興味をもち、仕事の余暇に、「花の文化史」というカルチャーセンターにも、顔をだしていたのだという。
「まあ、そうだったんですか。女ばかりの教室に、男がたった一人だけ、通っているんだもの。変な人だと思ってたわ」
夏希は大笑いした。
「参ったなあ。紅一点ならぬ黒一点でしたからね。よほど助平か、下心のあるやつに違いないと、思ってたんでしょ?」
滝野雅彦も苦笑した。
「そうね。てっきり、欲求不満の人妻を狙いにきたプレイボーイか、狼じゃないかと思ってたわ」
「参ったなあ。――しかし、言い訳はしませんよ。実際、あの教室では不倫願望の人妻から、ずい分、声をかけられたんだから」
「まあ!」
見合いの席で、ぬけぬけとそういうことを言う滝野雅彦に、でも夏希はあまり不潔感や嫌悪感というものを感じなかった。
それどころか、清潔で行動的で、たくましい印象を受けた。容貌や体躯《たいく》からも鋼のような強靱な線の強さが窺えて、この人なら頼りになる……と、ひどく好ましい印象が、夏希の中で結ばれた。
そんなことから、二人は交際をはじめた。夏希は自分の印象が間違ってはいなかったと感じた。父の虎三も、雅彦の性格や仕事が気に入ったふうで、
「わしの仕事にも満更、無関係ではなさそうだな。おまえさえよかったら、養子に迎えてもいいぞ」――ということになった。
九月に正式に見合いをして、今年の三月にゴールインしたのだから、交際期間もまずまず、妥当なところ。だから、夏希の結婚は、半分は見合いだが、半分は恋愛結婚であった。気持ちとしてはむしろ恋愛のほうが強く、夏希はこうして新婚旅行に来ていても、浮き浮きとして、倖せで、楽しいのであった。
午後は崇福寺をまわった。
長崎はヨーロッパの影響を受けているだけではない。中国文化の影響も色濃く残っている。崇福寺はその最たるもので、日本最古の中国様式の黄檗《おうばく》寺院であり、全山、国宝に指定されているという。
「わあ! 竜宮城みたい」
山門を前にして、夏希は嘆声をあげた。子供の時から絵本をみたり、話にきいていた竜宮城そのものの形だった。それが中国寺の山門だった。くぐって、長い石段を登り、風頭山のはるか高みにある開山堂や大雄宝殿などを夏希たちは見て回った。
それにしても、長崎は坂が多い。どこにゆくにも、坂や石段や傾斜地を登ったり降りたりしなければならない地形であった。
「疲れないかい?」
雅彦が腕を組みながら、心配そうにきいた。
「いいえ。ちっとも」
「意外に、タフだなあ」
「身体はしっかり鍛えておりますから」
「うん。それはゆうべ、しっかり認識させられたよ」
「まあ!」
夏希は雅彦の腕をつねった。「神聖なお寺で、あまり生々しいことを言うものではないわ」
「なあに、寺はどこも、生臭いものだよ。――ところで、銅座で買い物でもして、今日は早めにホテルに引きあげるとしないか」
雅彦は遠まわしに、夏希の身体をもとめるようなことを言った。
たしかに、新婚旅行というものは有名なところだけをつまみ喰いして、二人だけの時間を楽しめばいい。そうとわかっていても、歴史が好きな夏希は、史跡の多い市内見物にもつい夢中になるのだ。
それでも到着初日である。夕方、早めにホテルに戻ることになった。夏希たちの日程は、ゆうべ、博多で一夜を明かしたので、今日と明日、長崎で泊まり、それから雲仙を経て東京に戻るというコースであった。
ホテルは駅に近い筑後町の高台にあった。そこからも夕暮れの市街が一望できた。窓をあけて湾の上に沈む夕陽を眺めている時、雅彦が後ろに立って肩に手を回してきた。
「ちょっと、待って。その前に、電話を」
夏希は甘え声で言い、雅彦の腕をほどいた。旅行中、一日に一回は家に電話を入れる――それが父、虎三の厳命なのであった。
虎三はすぐに電話に出た。
「やあ、元気かい?」
野太い声であった。
「あたしたちのほう、順調よ。とても、元気。お父さん、安心して」
「雅彦さんの機嫌はどうだ?」
「とってもいいみたい」
「じゃ、夏希もいよいよ女になったか。何のほうもうまくいっているんだな?」
「やーね。お父さんったら!」
父は一人娘の新婚旅行の経過に、ひと安心して、ひどく上機嫌らしい。夏希は頬を染めて受話器を置いた。
もともと、これという用事があるわけではない。一日一回、電話を入れろというのも、旅先にいる娘の声さえきけば、安心できるからである。
母が亡くなって、五年になる。外で派手に事業をやっているようだが、父ももう六十歳を越し、案外、盲愛だけではなく、一人娘の夏希を頼りにしている部分もあるのかもしれなかった。
夏希が電話を離れてクロゼットからスーツケースを取りだし、着がえを選んでいると、浴室との仕切りのドアがひらいて、雅彦が顔をだした。
「お風呂、張ってるよ。よかったら、先に汗を流してきなさい」
「あら、あなたが先にはいれば?」
「ぼくはちょっと、フロントに用事がある。夏希、先にはいっておいで」
あとでゆくから……そういう響きも、ないではなかった。夏希はともかく、夕食前にひと汗、流しておきたい気持ちではあった。
「じゃ、ごめんなさい。お先に使わせていただくわね」
「うん。それがいい――」
夏希はスーツケースから着がえと洗面道具の入った化粧バッグだけを取りだし、浴室にむかった。
夏希は脱衣場で、旅行用のワンピースを脱いだ。一人なので悪びれもせず、スリップとショーツまで勢いよく取って、浴室の鏡に、自分の裸身を映してみた。
夏希の身体は若々しくて、引締まっている。健康で、長身で弾むような肢体をもっていた。胸の隆起は野性の美をとどめて上をむいて弾んでいるし、腰骨はほどよく張っているが、ウエストはくびれている。黒い茂みは、そこにあるがままの姿で、下腹部に濃く詰まった感じで繁茂して、艶やかに輝いていた。
そこに今夜も雅彦の生命が触れると思うと、夏希は急に胸が息苦しく躍って、あわててタオルで前を隠し、ガラスの仕切りをあけた。
夏希は浴室に入った。
バスタブに湯が張ってあった。仕切りの中は湯気でもうもうとしていた。洗い桶で湯を汲みだして、肩からかけた。白い肌が、みるみる花色に染まってゆく。
浴槽につかって一息つき、夏希は自分の身体をいつくしむように、抱きしめた。
いとおしい、と思った。
ゆうべから、生命の秘めやかな営みを知り、これから一日ずつ、その深みに分け入ってゆく。それが仕事や生活の実質をともなう結婚というものであっても、この旅先にいる間は、村山の家や人生の重い現実を忘れて、異境をさまよっていたいという気がした。
夏希は船窓のように切られた、小さな窓をあけた。街の夕景がみえた。街は茜色《あかねいろ》に染まっていた。ホテル自体、高台に建っているし、その上、八階なので、飛行機の上から眼下の街を見るような光景だった。
夏希は抱きしめた自分の身体に眼を戻した。胸も腰も脚も、恥毛も……その隅々までが、ゆうべ、はじめて雅彦に触れられたのだった。自分がどんな姿態をとったかを思い返すと、夏希は羞恥にふるえて、のぼせそうだったので、早めにバスタブからあがった。
髪も洗っておきたかった。シャワーの下に立った。夏希はノズルを絞って、勢いよく熱めの湯をだしはじめた。
ひとしきり、浴びていた時、不意にシャワーが止まった。驚いてふりむくと、音もなくはいってきたらしい雅彦が、すぐ傍に立っていて、両腕で夏希を抱いた。
雅彦も裸身だった。
まあ、夏希は悲鳴をあげた。
「意地悪。ノックもしないで」
「夫婦の間に、ノックなど水くさいよ」
「だって……まだ……」
言いかけた唇は、雅彦の唇によってふさがれていた。甘美で、息苦しいほどの接吻だった。傍ら、背に回された雅彦の手が、上半身をみしみしと歩いてくる。肩、背中、腕、そして乳房へ来る。そこを掌に包まれて、震わされると、夏希は小さな声を洩らした。
夏希は湧きあがってくる熱い血の騒ぎに、呼吸をみだした。接吻さえも苦しくなって、顔をはなし、雅彦の肩におもてを伏せた。
「幸せで、恐いくらい」
「新婚旅行なんて、一生に一度のことだからね。しあわせで、あたりまえだよ」
「でも……あとで何か、悪いことでも起きるんじゃないかって……そんな気がして、恐い」
夏希はすがりつくように、雅彦を抱きしめた。雅彦の肩から、青銅の匂いのような体臭がたち昇ってきて、夏希はめまいを覚えた。
夏希は、目を閉じた。
身体の中に、複雑にもつれあっていた毛糸のようなものがあって、それがしだいに溶けはじめてゆく。瞼の裏の熱い闇が、火色に染まり、雅彦の匂いとともに荒れ狂うものが皮膚の内側で、音をたてて肉をひしめかせる。
そんな感じであった。夏希は雅彦の頭を抱いた。いつのまにかベッドに運ばれていた。
「待って、係の人が夕食を運んでくるわ」
「大丈夫さ。夕食は七時半と言いつけておいたよ。まだ六時にもなっていない」
雅彦はのしかかってきた。
勢いは、もはや止められそうもなかった。夕暮れのひととき、二人は蜜月の一室で、若い獣たちの時間になだれこみはじめていた。
夏希は結婚するまで、処女というわけではなかった。短大時代の夏休み、中津川渓谷でキャンプを張った時、ボーイフレンドの一人にそういうものはあげていた。でも、初体験の時は、鈍い痛覚と、むやみに息苦しかったことを覚えているだけで、歓びというものには程遠かったような気がする。
その後も一、二度、そのボーイフレンドとは続いたが、夢中になるほどの歓びというものには到らなかった。世の中の男や女は、なんでこんなものに大騒ぎするのだろうと、不思議に思ったくらいだった。
(それなのに、私ったら)
ゆうべの初夜は、まるで違っていたのだ。
時間というものは恐ろしい。受け身の女性は、男と違ってまだ若くて経験が浅い間、さほど性に積極的になることも、敏感になることもないといわれる。でも婚期を遅らせはじめると、女性にも何となく鬱積するものが生理の中に溜まってくるのだろうか。
夏希は最初のボーイフレンドと別れたあと、家の薔薇作りに打ち込む間、男を寄せつけなかったが、短大の同級生や女友達が次々に結婚してゆき、何度もその結婚式に出席しているうちに、気持ちがおだやかでなくなったことは事実である。
それが生理にも反映するらしく、新婚旅行に旅立つカップルを見送った夜など、家に帰って一人寝のベッドでなかなか寝つけずに、自分の身体を呪ったことを、再三おぼえている。
自慰も、そんな時に施した。身体の歓びという点では、自分で発見して、与えたようなものだ。そのせいだったのだろうか。それとも、結婚という約束された制度の中で、女の本能がはじめて堰《せき》を切ったのだろうか。
ともかく夏希は、ゆうべ、はじめて男から与えられる女の歓びというものの一端を、かなり激しく窺き見ることができたのである。
(今夜も……)
その予感が慄《ふる》えていた。
寝室の灯は、絞ってあった。
夏希は息をはずませていた。雅彦は柔らかく唇を重ね、乳房のふくらみを手でなぞってゆく。夏希の舌が甘やぐようにそよぎ、それに応えて、蜜のような声を洩らしつづけた。
雅彦は若いくせに、経験を積んでいるように感じられた。夫の背後によぎった女のことを、夏希は考えないことにした。
それよりもこういう場合、安心して身を委せられる、ということのほうが、女にとっては頼りがいがあるような気がした。
「気分を楽にして……」
雅彦は耳許で囁いた。まだ二夜目なので、いたわってくれているらしい。
夏希はだから、すっかり身を委せて、眼を閉じていた。豊かな乳房の盛りあがりを、彼は麓から押しあげるようにして揉む。そのたびに隆起がうねり、夏希は声を洩らした。
雅彦のおもてが、その乳房に伏せられてきた。乳頭をふくまれ、舌であやされると、まばゆい矢のようなものがつきあげてきて、夏希はあっと、驚きの声をあげた。
「ああ。なんだか……」
雅彦はそうやりながら、右手をあいているほうの乳房に滞在させ、腹部のほうへとおろしてゆく。夏希の、若さの盛りにある白い、すべすべした肌をなつかしむように腰のあたりをさまよっていた右手が、茂みの上に届く。
蝶が、さわさわと茂みを鳴らして花に止まる。そんな感じ。艶のある夏希の密毛が、かすかな音をたてた。そこから出発した手が、太腿の内側のきわどいところを旅してゆくにつれ、夏希は震えるような歓びをおぼえて、声を噛みしめ、熱い喘ぎだけを洩らしつづけた。
雅彦の指先がとうとう、夏希の花芯を訪問した。
「あッ……いやッ……」
夏希は身をよじった。そこはもうあふれている感じで、とても恥ずかしかったのである。
泉のほとりを散歩されるだけで、鋭い快感がわきあがってきた。甘酸っぱい果皮が、一枚ずつむかれて、なかから熟れた果肉が空気にふれてくる。感覚にはそんな、趣きがあった。初めて空気にふれたその果肉は、でも、もう充分爛熟していて、甘美な果汁で生命を押し包もうとして待ち受けるのだった。
「ああ。とても……」
夏希が口走ると、雅彦はうつわに、しあわせの中味を満たす姿勢をとった。夏希は身体だけではなく、心の器のほうにもいつまでも幸せを満たしてほしい、という思いを伝えようと思ったのだが、しかしやがて、雅彦の生命がみっしりと充たされてきた時、夏希はもうそれを口にだして言うどころではなくなっていた。
翌日もいい天気だった。
長崎は日盛りの中にあった。滞在二日目である。午前中、夏希は雅彦に甘えて腕を組み、史跡と坂の多い街を、まだ隅々まで貪欲に見てまわった。
そうしていると、初日にグラバー邸で感じた薄気味わるい男たちの視線を忘れることができた。あれは、やはり自分の気のせいだと思うようになった。
雅彦も機嫌がよかった。東山手のオランダ坂の石畳をのぼりながら、
「新婚旅行、外国にゆく時間がとれなくて、ごめんね」
思いだしたように謝まった。
「ううん。そんなことないわ」
長崎は、夏希が選んだコースである。外国旅行ぐらい、今はいつでもできる。肝心の国内旅行のほうこそ、若い人は案外、おろそかにしているのではないか、と思うのである。
「ほらほら、そのあたりで写真を撮りましょうよ」
オランダ坂一帯は、一番長崎らしい風情がある。ロティ坂の石畳からは、どこに立ち止まっても、市街の家々やビル越しに、長崎湾の青い色彩を見おろすことができた。
このあたり、もともとは外人居留地跡であった。フランス公使館跡など、今でもその頃の面影が残っており、とくにロティ坂は、明治十八年(一八八五年)フランス海軍士官で作家だったピエール・ロティとおかねさんという乙女のロマンスがあり、ひと夏を愛しあい、活水学院の上の家に住んだ。その思い出をつづった「お菊さん」は、今も名著として、内外各国の人たちに読みつがれている。
雅彦はそんなことを説明してくれた。
そのロティ坂で写真を撮っている途中、クラクションが鳴って後ろから車が通りかかったので、夏希はあわててふりむいた。
「あら……」
その瞬間であった。声をあげたのは、車に驚いたからではない。振りむいた夏希の視線を逃れるように、坂下の建物の陰に急いで消えた二人組の男の影が、何とはなしにグラバー邸でみた男たちに似ていたような気がしたのである。
顔はわからなかった。サングラスをかけていた。薄気味わるい印象だった。
――もう間違いないわ。
夏希は、そう感じた。
(私たちはあの男たちにつけ狙われている)
なぜなのか。理由はわからない。でも夏希にはなぜか、そんな気がして、急に不安が高まったのである。
「ねえ、お昼、早く済ませましょうよ」
できるだけ賑やかな所に、早く行きたくなった。夏希は雅彦には、無躾《ぶしつけ》な視線のことは、もう話すまいと思った。
話しても、どうせ相手にはしてくれないだろう。女の本能にだけわかる部分というのは、男にはなかなか説明できないものである。
午前中の観光は早めに切りあげて、昼食にゆくことになった。雅彦には目あてがあるらしかった。オランダ坂下でタクシーをつかまえ、四海楼、とすぐに行先を告げた。
南山手の四海楼は、大きな中国料理店だった。個室に通されたので、夏希は周囲の視線を気にすることもなくなった。
夏希は長崎チャンポンを注文した。最近はチャンポンも、九州ラーメンとともに、東京のほうでも有名になり、店もふえつつあるが、やはり本場のものはどこか違う。
太めの麺をゆで、イカ、エビ、ちくわなどに季節の野菜を加えて炒める。スープをたっぷり入れ、麺とともにさっと炒めあげる庶民の味だ。雅彦によると、東京のものは刻み目を入れたイカがはいっていない場合が多いので、本物ではないという。
「ごちそうさま。ゆうべの卓袱《しつぽく》料理より美味《おい》しかったわ」
午後は浦上天主堂、平和公園、諏訪神社などを見て回ったが、四時ごろ、雅彦は、
「あ、遅れる」
と腕時計をみて言った。「ぼく、ちょっと、会社の長崎支店に用事がある。一時間ぐらいで戻るから、夏希は先にホテルに帰っといてくれないかな」
思案橋の電停で降りた時、雅彦はそう言った。会社というのは、雅彦が勤務している大手建設会社Q組の長崎支店のことである。
「一人になるのは淋しいわ。どうしても行かなくっちゃならないの?」
「うん。眼鏡橋の青図をね、支店の人に頼んでるんだ。今日中に受け取っておかないと、あすはもう雲仙だろう」
雅彦は、そう説明した。
長崎の眼鏡橋は有名である。
眼鏡橋に限らず、市内を貫通する中島川には、阿弥陀橋、編笠橋、長久橋など、十以上もの個性的な石橋がある。いずれも十七世紀に造られた由緒ある石橋だが、数年前の水害で大きな被害を受けた。眼鏡橋はまっ先に修復されたが、まだ修復中の橋も多く、それらの護岸工事と橋の工事の幾つかを、雅彦が勤めるQ組長崎支店が請負っているのだという。
雅彦は土木設計家として、十七世紀に作られたヨーロッパ様式の橋の設計図や図面を、現場担当者から受け取りがてら、レクチャーを受ける用事があるのだというのだ。
そうなると、夏希は一人で見知らぬ街に放りだされるようで、急に心細くなった。
「私が一緒に行ってはいけないの?」
「会社に女房をつれてゆく甘ちゃんは、笑われるよ。とくに九州は男っぽい気風だから、新婚旅行の風をそのまま支店に持ち込んだりすると、公私混同だと叱られるさ」
会社とは、そういうものかもしれない。夏希は諦め、
「いいわ。じゃ、先にホテルに戻っているから、早く帰ってきてね」
思案橋の電停の前で別れて、夏希はタクシーに乗った。長崎にはまだ市電がある。風情があるが、道路混雑の原因にもなっている。タクシーはその混雑を縫って、約十五分で筑後町のホテルに着いた。
夏希はフロントでキイを受けとり、エレベーターに乗って、八階の部屋に戻った。
窓際に行ってカーテンをあけかけた時、ぎくっとして振りかえった。背後に人間の気配がした。いつのまにか見知らぬ男が三人も、部屋の中にはいっていたのであった。
「あなたたちは!」
夏希はうしろに退った。一人がドアを閉めた。一人が窓のカーテンを閉め、もう一人が夏希の正面に立った。
夏希は悲鳴をあげて、電話のほうに走ろうとした。その電話は男の手によって奪われた。
「だめだね。電話なんかどこにもできっこないんだよ」
この様子だと、三人組は夏希が戻ってくる前に、部屋に入っていたようである。
「あなたたちは、何者です!」
「はい、山田太郎です、とでも名のればいいのかね」
「私に一体、何の用事です」
無言で、正面の男が腕をのばして夏希の肩に手をかけようとした。
「何をするのッ」
夏希が振り返った時、反対側に立っていた男がにやりと笑って、その身体を後ろから抱きすくめた。
片手で口許をふさいだ。汗くさい匂いが襲ってきた。
「やッ……やめてッ!」
夏希は激しく身体を揺すって、男から逃れようとした。ハンドバッグが床に叩きつけられ、化粧道具やペンや手帳が飛び散った。
「無体なッ。何ということをなさるんですッ」
夏希の叫び声はしかし、三人組の男には通じなかった。男たちは獲物をキープした禿鷹のように、いまや決してあわてず騒がず、楽しむように、仲間の一人に抱きつかれた夏希の表情を見て楽しんだりしながら、部屋の中で何かを探すふうだった。
「おい、徳留。あまり無茶をやるなよ。この女は黄金の女だからな。二百億円という黄金の女なんだぜ」
(二百億円……? 何ということを言ってるのだろう)
夏希には意味がわからなかった。この場の情況もよくわからなかった。見つめられている、と感じていたこの数日間の視線は、やはりこの男たちのものだったのだ、ということだけが、痛いほどわかった。
「いったい、何が欲しいんです。おっしゃって下さい。お金ならその金庫の貴重品袋に、少しは入っています。どうかそれで――」
強盗に襲われた時は、なまじ抵抗をしないほうがいいときいている。身に危害を受けるよりは、所持金ぐらいはあげてもいい――。
すると徳留が、「見損うな。おれたちはそんなはした金を狙ってるんじゃない。村山虎三、あんたのおやじにちょっと、思い知らせたいことがあってね。それであんたに話をつけるために、この部屋に待たせてもらってたんだぜ」
叫ぼうにも声が出なかった。
夏希はうしろから侵入者の一人に抱きつかれていた。抗おうとすると、前に立った男が服の内ポケットからナイフを抜きだして、夏希の顎《あご》の下に直角に立てた。
ひっと夏希は息を飲んだ。
「そう。おとなしくするがいい。暴れたり叫んだりしなければ、怪我をしなくても済む」
「あなたたちはいったい、何者です。父に思い知らせてやりたいことって、何なんです」
「黒狼谷《こくろうだに》のことさ。黒狼谷のことを忘れるな、と帰ったら虎三に、そう伝えておくんだな」
「黒狼谷といわれても、私にはわかりません。黒狼谷とは、どこのことです?」
「まあ、いい。おやじにそう伝えれば、やつにはわかる。忘れるなよ――それが第一の用件というやつでね」
「まだ、あるんですか!」
「そうさ。まだあるんだよ。これから先は、あんたの出方しだいだがね」
ナイフをかざした男が、夏希の自由を封じている徳留という男に訊いた。
「どうだ、抱き具合は?」
「すげえ。むっちりと、たまんないぜ」
「だろうな。見るからに、具合がよさそうだぜ。なあ、奥さん」
男は楽しむように笑った。「場合によったら、あんたのこの身体を三人で賞味してやってもいいんだぜ。ほら、新婚旅行先で花嫁が凌辱されるという話は、世の中によくあるだろう。ハワイやグアムあたりに行った新婚なんか、そのために帰ってきて生まれたハネムーン・ベビーが、黒人だったってことも、よくあるぜ」
「やめて! それだけは!」
夏希は、夢中で叫んだ。
「そうだろう。あんたの気持ち、よくわかるよ。ほかの男に可愛がってもらってるところを、新郎のやつに見せたら、ぶったまげるだろうぜ。即座にこの結婚は、ぶちこわしだよな」
「なにが……何が欲しいんです!」
「ちょっと、あんたにサインをお願いしたい。ただ、それだけでいいんだがね」
「私は、サインをするような芸能人ではありません」
「おっとっと……そういうサインじゃないんだよ。まっ白けの紙に、ちょっと署名・捺印してもらうだけでいい。なあ、お安いご用だろう?」
男の一人が、テーブルの上に一枚の紙を広げた。夏希はナイフをあてがわれたまま、そのテーブルの前の椅子に坐らされた。
「さ、そこに署名するんだよ」
スタンドがつけられ、ボールペンがさしだされ、それを差し出した男が言った。
「左記の件につき、一任します――と一行書く。そしてあんたの住所・氏名を左隅に書いて、判を捺《お》す。それだけでいいんだ。おとなしくそれだけのことをやってくれれば、あんたはこの部屋で凌辱されないで済むかもしれねえな」
夏希は震える手でボールペンを握った。署名・捺印する意味はわからなかったが、凌辱されるよりは、まだそのほうがいいと思った。
夏希は言われるままのことを書いて、署名を終えた。
「これは、何なんです?」
ペンを置いてからきく。
「知りたいかい」
「教えて下さい」
「見ての通り、白紙委任状というやつさ」
「何のための白紙委任状なんです?」
「なあに、たいしたことではない。おたくの庭のタケノコが一本、おれんちの庭にはえてきたので、いかようにも処分をお委せします、とでも考えておいてもらおうか」
(もしかしたら、不動産のこと……?)
夏希はそう気づいた。薔薇作りに打ち込む夏希には、土地や不動産のことなど、あまり興味も関心もない。でも去年あたりから東京の地価狂騰のあおりを受けて、夏希が住む武蔵丘市も基準価格で坪百万円とか百五十万円と、法外な値上がりとなって、さまざまな波紋を呼んでいることを夏希は思いだした。
(それに父は不動産事業をやっている。と、すると、父、虎三が所有したり取引したりする土地をめぐる争い……?)
ただの署名・捺印しただけの紙きれが、その世界ではあとでとんでもない結果を招くことがあることに夏希は気づき、「いやですッ。こんな白紙委任状は渡せません!」
眼の前の紙を破ろうとした瞬間、しかし背後の男が、
「おっとっと……。そんなことをしていいのかな」
かざしていたナイフをワンピースの衿元にあてた。刃が布地をしゅっと裂いた。胸の肌が白くあらわれ、乳房があふれそうになって、夏希は悲鳴をあげてそこをかばった。
「奥さん。まだわからないのかよ。そんなに凌辱された花嫁になりたいんなら、おれたち、喜んでお手伝いしてあげるよ」
叫ぼうとしたが、声にはならなかった。うしろから抱きすくめられ、ベッドに押し倒された。いやっと叫んで夏希は両手で顔をおおい、ベッドに突っ伏した。その上に男が覆い被さってきた。夏希はもがいたが、男の両手が乳房を掴んでくる。仰むけにされたら危ない、いやいやっ、と夏希は必死で抗ってベッドにしがみついた。雅彦、雅彦、早く助けて……と、心で念じた。それでも夏希がいよいよ仰向けにひっくり返されて、何やら叫んだ時、「おい徳留、もういい。印鑑はあったぞ」という声がして、床に散ったバッグから印鑑を探しだした男が、判を捺し、他の二人を促して勝ち誇ったように引揚げてゆく足音を、夏希は遠くの出来事のようにきいていた。
第二章 凶変
電話が鳴りだした。
村山虎三は受話器を取りあげた。机に坐ったままだった。そこは武蔵丘駅前の、彼の会社の社長執務室だった。
「はい、武蔵丘興産」
「あ、お父さん?」
「なんだ、夏希か」
電話は、旅行先の娘からの定期便だった。
「どうだ。変わりはないか」
「ええ、変わりはないわ」
と言ったあと、夏希がすぐに「お父さんのほうこそ、何か変なこと起きなかった?」
「わしに? わしに何の変わりがあろう。いたって元気だぞ。取引がふえて、ますます仕事が忙しくなって、かなわんよ」
「それならいいけど」
娘の様子が少し変であることにはじめて気づき、虎三は少し気になった。
「夏希、どうかしたのか」
娘の声は一瞬、沈黙し、
「ううん。なんでもないわ」
「なんでもない、じゃわからん。変だぞ、おまえ。雅彦くんと喧嘩《けんか》でもしたのか?」
夏希は、それには答えず、
「お父さん、黒狼谷って何のこと?」
突然、そう訊いてきた。
「うん?」
虎三は、一瞬驚き、質問の意味を解しかねたように言葉につまり、「おまえ、どうしてそんなことを聞く?」
叱りつけるように言った。
「ちょっと、気になることを耳にしたのよ。黒狼谷って、何のことだか、教えてほしいんだけど」
「ばかだな。おまえは今、新婚旅行に出ているところだぞ。そんな倖せな旅行先で、よけいなことを心配することはない!」
「怒っているところをみると、なにか……訳ありかな?」
「ばか、父親にむかって、何という言葉だ。わしには何のことやら、さっぱりわからん。夏希、よけいなことに気を回さずに、雅彦くんと仲よく楽しい旅の思い出を作ってこい!」
虎三はそう言い残して、急いで受話器を置いた。
宙を睨んだ。新婚旅行に九州に出かけている娘から、そんなことを訊かれるとは思いもしなかった。夏希の身の上に、何か異変でも起きたのではないか?
ちらと、黒い雲が胸をよぎった。だが虎三はそれをすぐに振り払った。窓外は暮れきって、六時半になろうとしていた。いつもより遅い娘の定期便にやきもきしながら、虎三は今までたった一人で会社に居残っていたのだった。
虎三は、机を離れた。
ともかく、娘夫婦は元気で新婚旅行をしているようだ。何よりである。虎三は娘夏希の声をきいてひと安心したように、帰り支度をしてから黒い鞄《かばん》をさげた。
スモークガラスで仕切られた社長室を出た。廊下は無人であった。駅前の繁華街に建てているこの八階建てビルの確かさを、靴裏にしっかりと確かめるように、虎三は廊下をゆっくりと歩いた。
一メートル七十八センチと、そこそこの偉丈夫である。六十二歳になる。猪首だが胸も胴も厚い。怒り肩で、押しだしもあって、眼も鋭いとあっては、したたかな人柄という印象を与える。
根は武蔵野の郷士の流れを汲《く》む豪農の倅《せがれ》だが、東京オリンピックのあとに激しく変転した首都近郊で、二十年間に及んで不動産取引の世界にどっぷり漬ってきたどぶ水が、虎三をもはや一癖も二癖もある狷介《けんかい》な、したたかな人柄にしているようである。
もともと、武蔵丘市周辺は町田、八王子、三多摩地方にかけて、近藤勇や土方歳三ら新選組の結成者たちを生んだ風土であり、三多摩郷士という呼び名があるくらい、気が荒い。
幕末から明治以降、横浜開港とともに日本の生糸《シルク》が世界中に奔流のごとく輸出されはじめた時、その最大の集散地となった八王子を中心に、生糸投機に狂奔し、巨財をなしたのは八王子鑓水を中心とする「農間商人」である。日本のシルク・ロードといわれる横浜街道沿いの豪農たちは、かつて何らかの形で生糸投機や売買に精を出し、生糸御殿が建ったり、反対に一夜にして没落したりの激しい変転を繰り返した歴史をもつ。
だから、農民がその生産をやめ、土地取引に狂奔するということに、虎三自身は少しも矛盾を感じてはいないようである。それが大局的には、都市化による農業の崩壊、乱開発の一因となり、先兵となっていることに時折は気づいて、胸を疼《うず》かせたり、複雑な思いの唾液を吐いたりすることがあるものの、しかしそれは虎三の事業欲そのものには、いささかも影響を与えない。
(どうせ、ほっといたら大手資本や、東京の地上げ屋どもに、農家はいいように喰いものにされっちまうんだ。それを防いで、少しでも農民の土地を有利に売ってやることが、どこがわるい。おれは地域の開発と活性化のために、もろ肌ぬいでるんだぞ)
臆面もなく、そして明快に、虎三はそう思い込んで、胸を張る男なのである。
虎三は、駐車場に降りた。
垂直に降りるエレベーターの中でも、虎三は一人だった。社長ともなれば、秘書の一人くらいは従えてもいいのかもしれないが、虎三は鞄持ちというのが大嫌いである。重要書類のはいった黒い皮鞄は他人には渡さず、絶対に自分で持ち歩くことにしている。
ビル裏の駐車場にとめてあった黒いメルセデス・ベンツが彼の愛車である。運転手などという無駄なものは、抱えていない。
三栄ビルの駐車場を出たベンツは、駅前の繁華街を走った。虎三の自宅は山手のほうだが、彼はそちらには向かわず、市内栃窪平のマンションにむかった。
そこに、女を住まわせている。娘は新婚旅行に出ていて、家に帰っても留守であり、妻にも先立たれている身とあっては、虎三が磨きぬいた黒塗りのベンツを、女のところにまわすのも、無理からぬ話かもしれない。
街にはもう灯が入っていた。銀行、デパート、ビジネスホテル、オフィスビルなどがひしめき、ひと昔前までは殺風景だった田舎の駅前が、今では堂々とした都市に変貌しつつある。
武蔵丘市は東京から私鉄急行で約三十分の、典型的な首都圏衛星都市である。人口も三十五万人と膨れあがり、東京のベッドタウンであるばかりではなく、近年は東京の地価狂騰とともに、また新たにビルラッシュやマンション建設ブームに見舞われ、オフィス都市、商業都市にも急変貌しようとしている。
その大通りを通って郊外にむかう虎三の眼は、いつしか自分の持ちビルを眺める。武蔵丘興産は、市内の目抜きの場所に二つの貸しビルを持ち、周辺に三つのマンションを経営し、系列会社として砂利採取会社や不動産会社をもつ地方企業体である。
その社長を務める肩書きや活動からは、もはや虎三を武蔵野の農民と呼ぶにはふさわしくなく、自らは都市化の激流に敢然と立ちむかって成功しつつある地方風雲児と考えているふしがみられる。
やがて栃窪平サンルートマンションに着いた。新しい八階建ての立派な建物である。
これも武蔵丘興産の持ち物であった。虎三は駐車場にベンツを乗り捨てると、フロントを入り、エレベーターで六階にあがった。
蓮見康子《はすみやすこ》の部屋は、六〇一号室である。
ブザーを押すと、ドアが開き、
「お帰りなさい」
康子の白い顔が迎えた。
「仲よく旅行してるそうだ、娘夫婦は」
「そうですか。それは何よりですわね。肩の荷がおりたでしょ、あなたも」
鞄を受けとって虎三のあとに従う康子は、愛人というよりは、もう妻のようであった。
虎三はこたつにはいった。
もう三月中旬だが、ここ相武台は昔から冷えこむ地方で、余寒が残る。こたつの上にはみかんを山盛りした器にかわって、すぐにビールとつまみが用意された。
「あなた、今夜はゆっくりできるの?」
ビールの栓を抜きながら康子が聞いた。
「うむ。そうするつもりだ」
「うれしいわ」
白いセーターの胸許が揺れた。
「喉を潤したら、風呂にでもはいるか」
「ええ、そうなさって。お風呂に入ってらっしゃる間に、もう少しましな手料理でも支度しておきますわ」
やがて虎三は風呂に入った。首までバスタブにつかり、喉を鳴らした。この部屋にくると、虎三は気持ちが寛《くつろ》ぐ。愛人の部屋だから、という意味ではなく、自分の巣に帰ってきた鷲《わし》のような気がするのである。
実際、気持ちの落着く女であった。虎三は蓮見康子とのことを思い返していた。
もう六年になる。虎三の妻、直子が病を得、リューマチと悪性|腫瘍《しゆよう》で寝たきりになった時、虎三は困惑した。娘の夏希はまだ短大だったので、四六時中、直子の身の回りをみて看病する人が欲しかった。
その時、知りあいの人材派遣会社を通して紹介されたのが、この蓮見康子だった。ホームヘルパーや家政婦というのは、普通は苦労ばかり多い地味な仕事なので、年配の婦人が多い。だが蓮見康子はまだ三十歳を過ぎたばかりの若さで、未亡人であった。
口数の少ない、よく身体を動かす女だった。康子は派出看護婦として、村山家に二年半、住みこんで虎三の亡妻の世話をした。注射、点滴、投薬、食事、枕許の面倒から下の世話まで、康子は付添介護人として、実によく隅々まで気を配って世話をやいてくれた。
康子がいやな顔ひとつせず、それだけ病人の面倒をみられたのは、人並み以上の苦労をなめている未亡人だったからであろう。
さほど美人ではないし、十人並みの器量だが、どことなく男の目を惹く色香があった。バーやクラブの女にはない初々しさがあった。その素人の肉体が、看護婦の白衣の下でどのように弾んでいるかに、虎三は目がくらんだのであろう。
妻が亡くなる半年ばかり前に、虎三が無理強いするような形で身体の関係ができた。康子は未亡人で子供もなかったので、まわりに波風も立たず、いつのまにか派出看護婦をやめ、虎三の世話を受ける女になっていた。
康子とは肌があった。
いい女にめぐりあったものだ、と虎三はそう思っている。康子は控え目な女で、六年の間、妻の座を求めるようなことは一言もいわず、日陰の身に甘んじている。そこが虎三には好もしく思えるし、安心もできて康子とすごす時間は、いい気持ちの安らぎ場所となっていた。
虎三は身辺に気をつける男である。いやな言葉だが、土地成金、という呼び方をされる近郊農家の主人で、大金が転がりこんだ後、狂ったように酒場の女やクラブのママなどにうつつを抜かす男が多いこともまた、事実である。
(うつけ者どもが!)
虎三は、そういうことをしなかった。先祖からの預かりものである土地と引きかえに得た金の重みを知っていた。事業の拡大にはどしどし生かすが、名目の立たない女遊びには使わなかった。
唯一の例外は、この蓮見康子だけである。
虎三には今、他にきまった女はいない。彼は六年間に及ぶ康子との仲を、娘の夏希にはひた隠しにしてきたが、夏希が雅彦と結婚したのを機会に、そろそろ康子との間も、娘に打ちあけて、何らかの形をつけてもいいと考えはじめている。
「どうだ。そろそろ――」
風呂からあがってくつろぎ、本格的に飲みはじめた時、だから虎三はその夜も、薄化粧をしていっそう目を惹く女になってきた康子の顔を惚れ惚れと眺めながら、久しぶりにその話題を切りだした。
「おまえさえよかったら、娘にもちゃんと話して、けじめをつけてもいいんだぞ」
けじめというのは、入籍のことである。生活の場は娘夫婦とは別でもいいし、本人が望むなら、本家に迎え入れてもいい。虎三がそう説明すると、
「うれしいわ。あたしのことを、そこまで考えてくださって」
「どうした? あまり気が進まないのか?」
「いいえ。とんでもない」
康子は面を伏せて呼吸を鎮め、「本当をいえば、倖せすぎて信じられないくらい。でも入籍とか結婚とかになると、あなたの周囲から猛反対が起きて、大騒ぎになり、結局は私たちの仲まで壊れてしまいそう。あなたさえよければ、私、このままでいいのよ」
康子の、そういうところが、虎三にはたまらなくうれしいのであった。自分の、女を見る眼に狂いはなかった、という自信もまた、湧いてくるのであった。
虎三は康子がふとんをのべた奥の部屋へ、気持ちが動きだしていた。
寝室の灯かりは絞ってあった。
康子は湯からあがって、すぐに寝室に入ってきた。そこは奥の六畳の和室であった。
紅《あか》い絹地の縁のついたなまめかしい夜具がのべられている。
虎三はふとんの中に入って、軽く酔いのまわった頭で、仕事のことを考えていた。彼が腹這って無心に煙草を吸っている間、康子は決して虎三の邪魔をしなかった。
枕許に雪洞《ぼんぼり》型のスタンドがつけられている。康子はその傍に横坐りになって、洗い髪を梳《す》きはじめていた。
康子の、華奢《きやしや》な首すじが妖しいまでに白く、頬に二すじ、三すじかかったほつれ毛が、滴るばかりの艶《なま》めかしさを湧きたたせている。
片膝立ちのために大きく開いたふとももの奥に、しげみが艶やかに光っていた。康子は燃えるような緋の襦袢を、肩から素肌にかけていた。雪洞型のスタンドのあかりが、素肌の上に薄衣だけをかけて、洗髪を肩にまとめて流そうとしている女のなまめかしい姿を、浮世絵のように浮かびあがらせていた。
「寒くはないのか」
「いいえ。部屋を温めておりますから」
「灰皿を取ってくれ」
「あらあら、灰がこぼれそう」
スタンドの横の遠くにあった灰皿を、虎三の近くに移そうとしてよじれた康子のふともものあわせ目に、虎三の手が無造作に伸びていた。むっちりとした肉を掴み、たのしむように揉み、しげみの奥を撫でた。
それから虎三の手は、素肌にかけられた襦袢をはねて乳房にのび、たわわな実りを大きくて武骨な掌につつんで、いつくしんだ。
「戯ればっかり」
「風邪をひく。そろそろふとんにはいんなさい」
手を引かれ、康子が夜具のなかに身体をすべり込ませてきた。虎三は眼を細めてその身体を受けとめ、自分の若さを取り戻してくれる至宝のごとく、女体を扱う。
「少し痩せたんじゃないのか」
「いいえ。最近、太ってきて困ってるのよ」
「それはいい。女はぎすぎすより、ふっくらとした身体のほうがええに決まっておるわ」
康子の声になまめかしい喘ぎが混りはじめた頃、玄関のほうでブザーが鳴った。
「誰だ? 今ごろ」
「ほんと。誰かしら」
「行ってきなさい」
康子は、ふとんの温もりと男の肌に未練を残すようにのろのろと起きあがり、素肌の上に寝巻きだけを羽織って、寝室を出た。
不意の訪問者――。
そんな印象であった。時間はまだ夜九時だから、深夜というわけではなかったが、せっかく女の閨房《ねや》で熱い時間になだれこもうとしていた矢先だっただけに、虎三はいたって不興で、不粋な訪問者だと腹をたてた。
不粋なだけならいいが、一瞬、ちらと怪訝《けげん》な思いが、虎三の胸を掠《かす》めたのは、応対にでた康子の悲鳴らしいものが、玄関のほうできこえたからである。
悲鳴は、不安を運んだ。
それから一拍おいて、
「待って下さい! 勝手にうちにあがらないで下さい! あなたはどなたです!」
絶叫するような康子の叫び声をきいた時、虎三は掛布をはねて、身を起こした。
「どうした?」
声をかけたが、康子の返事はなかった。
急いで浴衣を手にとってふとんから出ようとした時、寝室の襖《ふすま》がパーンッ、と開いた。
そこに、康子の蒼ざめた顔が現われ、その康子を後から羽交い締めにしたままの、見知らぬ男の姿が現われた。
サングラスとマスクで顔を隠した男が、康子の自由を封じ、右手にかざした柳刃包丁が康子のはだけられた脇腹に当てられていた。
「き……きみは誰だッ!」
虎三は怒鳴り返した。
もともと、気性の荒い虎三は不動産売買で多少は危ない橋を何度も渡ってきているので、こういう局面でも臆するよりは、むらむらと闘争心をかきたてる男である。
だが、肩にかけようとした浴衣はそのままであり、身体を隠すことを忘れていた。
「無礼だぞ! きみ!」
「あんたが、村山虎三さんかい?」
「それを承知で押し入ったのなら、用事を言え、用事を」
「言えと言われて言えるような用事なら、こんな押し入り方はしないだろうよ」
「ふざけた真似《まね》をする。きさま、金が欲しいのか?」
男は答えなかった。康子の肩から寝巻きをむしった。康子は鋭い悲鳴をあげた。声をだすな、と柳刃が裸の乳房に伸びて、あてがわれた。
「女を放せ。弱いものをいじめるしか能がないのか!」
「恰好いいこと、言ってくれるよ。てめえは何をしてきたというんだ!」
「何の言いがかりか見当もつかん。女を放せ。金なら、出すぞ」――虎三が怒鳴った時、男の声が響いた。
「あんたによう、黒狼谷のことを思い出させに来たんだよう!」
男は妙な言いがかりをつけた。虎三は、康子を人質にとって放さない男を睨みつけ、
「何のことだか、わしにはわからん。とにかく、康子を放せ。言いたいことがあったら、そのあとで聞こうじゃないか……」
虎三は怒り心頭に発して、殴りかかりたい気持ちを烈しくしたが、康子を楯にとられ、刃物まで所持している相手なので、無茶なこともできないのであった。
男は、図にのってきた。平然とした顔で、康子にふとんの上まで歩け、と命じ、寝室に入りこんできた。部屋の模様をぐるっと見回し、紅絹《もみ》の掛けぶとんを足でぱっとめくった。
「なるほど、成仏の場所としてはもってこいだ」
「成仏だと……おい、貴様」
「いいふとんだな。あんたにはここで死んでもらうんだよ。この女も一緒にな。そうしたら、世間様には、痴情のもつれからくる無理心中ということになる」
「勝手なことをぬかすな」
「勝手か。ほう、そうか。――籍も入れないで日陰者暮らしを強いている愛人の寝室で、不動産屋が素っ裸で刺されて死ねば、世間は物笑いの種にする。女が恨んで刺したということになる。女も刺身包丁で首を刺して、その上に重ねておくよ。どう見たってこりゃあ、色と金と欲の絡んだ無理心中だぜ。なあ、そうだろう?」
虎三は男の言葉を、最後までは聞いてはいなかった。彼は決断する時は、決断をする。
いや、身を守るための動物的な本能だったかもしれない。彼は浴衣がはだけるのもかまわず、男が康子をふとんの上に突き飛ばそうとした瞬間、同時に飛びこんで腕を繰りだし、男の手から柳刃を叩き落そうとしたのだ。
刃物は危なく康子を傷つけそうになったが、空を切った。康子はふとんの上に倒れて逃れた。男はしかし、柳刃を取り落としてはいなかった。突っかけてきた虎三にむかって、うぬ、と形相も鋭く睨み、
「殺してやる!」
「やめろ!」
虎三が叫んだ時、しかし男が手にしていた柳刃は、虎三の腹に刺さった。虎三は低い唸り声をあげて、男の手を掴んだ。
「誰か……誰か助けて!」
悲鳴をあげて康子が転がりだすように、部屋の外に飛びだした。男は康子の逃亡に驚き、くそっ、あのあま、と吼えて玄関に逃げた。
柳刃は虎三の腹に刺さっていた。彼はそれを引き抜き、「こんなことで死んでたまるか。康子、もういい! 医者を呼べ!」
夏希は、失意の中にいた。
九州三日目の夜であった。新婚旅行先だというのに、心が弾まず、楽しくなかった。夕方、部屋に戻った時、三人組の男に不意に襲われて以来、夏希のまわりの景色はバラ色から急に灰色に変わり、不安が増して夫の雅彦の存在さえもが、頼りないものに思えてきた。
「ごめんごめん。すっかり遅くなっちゃって」
雅彦はその夜、九時頃、ホテルに戻ってきた。その言い訳というのが、ふるっていた。
「支店の人から、銅座に誘われちゃってね。接待をどうしても、断わりきれなかったんだ。これでもスナックを二軒目で、切りあげてきたんだよ」
銅座というのは、東京の銀座に見合う長崎の繁華街であり、飲み屋街である。
雅彦はそんな街の匂いを身体に深く染みこませていた。かなり酔ってもいた。新婚旅行先で花嫁を放りだして、夫が会社の人間と飲んで歩くなど、常識的にいえば、どうかしているといえよう。
でも、日本はまだ会社中心に動いているので、そういうこともあるのかもしれない。夏希はOLをしたことがないので、わからない。それに、夏希としたら、三人組に襲われたあとの心の整理をつける時間が必要だったので、雅彦が遅く帰ったのは、それ自体は、助かったというべきである。
しかし、自分が危険な目に会っていた時、この人は銅座で飲んでいたんだ、と思うと、夏希には釈然としないものが残ったし、微《かす》かに腹立たしい思いもするのである。
「おい、どうしたんだ? ばかに鬱《ふさ》いでるじゃないか」
「いいえ、どうもしないわ。あなた、バスを使ってらっしゃい」
「食事は済んだのか」
「ええ。済みました」
実は、食事などしていない。脅迫されて書かされて、奪われた白紙委任状というものがいったい何に使われるのか。心配で食事をするどころではなかったのである。
夏希が薄いネグリジェに着がえて、先にベッドに入って気持ちを鎮めている時、雅彦が入ってきた。彼は背中をむけた夏希の肩に手をかけ、
「ごめん。まだ怒ってるんだろう? 償いはするよ」
熱い息をかけてきた。償いをする、というのが肉体的な意味あいであることがわかって、夏希はなんとはなしに、男のずるさを感じたような気がした。
夏希は身を固くしていた。
枕許のスタンドの灯かりは小さく絞ってあった。雅彦はベッドの中で夏希の身体に手をかけ、自分のほうにむかせようとした。
「な、謝まってるだろう。帰りが遅れたこと、そりゃ、悪かったさ。だから、謝まってるじゃないか。そうむくれるなよ」
「いいえ、怒ってるんじゃないのよ。少し疲れが出たので、今夜はそっとしておいてほしいの」
夏希の中で結ばれた固い殻《から》は、すぐには壊れなかった。ふつうなら新婚旅行の途中なのだから、何もかも忘れて夫に身をまかせ、抱かれることで、女としての倖せな夢をみるべきである。
だが、夏希が何かに対して怒っているとすれば、それは雅彦の帰りが遅かったことではなく、この部屋に侵入者たちが土足で踏み込んでいた、ということに対してなのである。
事件、ともいえる侵入者のことは、しかし雅彦には報告できないことであった。女の部屋に男たちが押し込んだのである。三人がかりで自分の自由を奪ってベッドに突き転がした――などと話すと、雅彦は悪いように解釈するだろう。
いや、雅彦でなくても、他人がきけば誰だって、そう思うだろう。
さいわい、夏希は最後の一線で、凌辱されはしなかった。しかしそれと同じような、あるいはそれ以上の屈辱の思いが、夏希の全身をかけめぐっているのだ。
雅彦はやがて、無言で後から夏希を抱きしめてきた。熱い手が乳房にまわり、ネグリジェの上から揉まれながら、首すじに接吻を受けはじめると、夏希の身体にも漣《さざなみ》が湧きたってきた。
「ああ……やめて」
お願い、と訴えた。
だが雅彦はその声を無視して、熱心である。ブリーフ一枚なので、雄渾なものが夏希の身体にじかに触れた。体験しはじめて間もない果実なので、感触は生々しい。夏希はああ、という熱い声を洩らし、
「意地悪。……そっとしてほしいと言っているのに……」
夏希はやがて観念して、くるりとむきなおり、身体を合わせにいった。その時、枕許のナイトテーブルの上で電話が鳴りはじめた。
夏希は、どきん、とした。
結ばれようとしていた男女の姿勢をほどいて、雅彦が手をのばしかけた。その手を遮って、夏希がナイトテーブルの上の受話器を急いで取ったのは、悪い予感が掠めたからだ。
「はい。村山ですが」
警戒しながら応えると、心配していた三人組ではないらしかった。ホテルの交換嬢が、東京から電話だと告げた。
(東京……?)
家かしら、と夏希が怪訝に思った時、
「あ、お嬢さま……」
受話器に響いたのは、以前、母の面倒をみて村山家の住込み看護婦をしていた蓮見康子の声ではないか。
夏希はそれで驚き、
「まあ、康子さん。どうしたの?」
「お嬢さん、大変なんです。お父様が……」
蓮見康子の声は、うろたえていた。
「父が、どうかしたの?」
「強盗に襲われなさって……応急手当てをしたあと、救急車を呼んだんですが……病院でいま輸血を受けていらっしゃいます」
夏希は一瞬、康子の言う意味がわからなかった。
「強盗に?」
「ええ。なんとか、お命は取り止められるというお話ですが、かなりの重傷で」
「ありがとう。病院の名前と電話番号を教えて下さい」
そこまでは平静に言えた。が、蓮見康子がなぜ、父の傷害事件に立ちあっていて、長崎まで電話してきたのかということを少しも疑問に思わなかったのは、やはり、夏希の気持ちが動転していた証拠である。
夏希は康子からきいた病院名と電話番号をメモし、すぐにそちらに電話を入れた。
ちょうど、治療にあたった宿直の若い医師がいた。
「刺創は鋭い刃物でかなり深い。しかし縫合し、出血も止まりました。今、輸血しており、小康状態を保っています。今夜からあすにかけてが峠ですね。腹膜炎さえ併発しなければ、一命を落とすほどの大事には至らないと思いますが」
医師の声をきき、夏希はひとまずは安心した。
「お父さんが……?」
雅彦はびっくりしていた。武蔵丘市の病院にダイヤルした夏希の電話のやりとりで、雅彦にもおおよその察しがついたようだが、それにしても信じられない、という顔をした。
「刺されたって……いったい、どうして?」
「それが……私にもよくわからないのよ」
「容態は……」
「なんとか生命だけは取り止めそうだけど、まだ楽観はできないみたい」
「それじゃ、夏希、ぼくたち、急いで帰らなくっちゃ」
言われてみて、夏希もやっと、それに気づいた。ああ、そうなんだ……のんびり新婚旅行などしている場合じゃないんだわ……!
(それにしても何かが、村山の家をめぐって、動きはじめているようだわ。夕方の三人組といい、父が刺されたことといい……父は誰かに、恨まれでもしていたのかしら?)
雅彦はさすがに、男である。てきぱきと、鞄をあけて携帯時刻表を取りだし、
「飛行機も、新幹線も最終便は終わっている。JRの夜行で帰るくらいなら、明朝一番の飛行機のほうが早いな。よし――」
雅彦は受話器を取りあげ、航空会社の予約センターに電話を入れ、明後日の分をキャンセルし、明朝の一便を二人分、手配していた。
それから、明日行くことにしていた雲仙のホテルをキャンセルしたり、申し込んでいたレンタカーのキャンセルと……間髪を入れず、てきぱきと指示している雅彦をみているうち、夏希はわけもなく、涙がにじんでくるのを覚えた。
(ああ、夫はやはり、頼もしいんだわ)
そう思うはなから、その夫との晴れやかであるべき新婚旅行が、なんとなく予期せぬ出来事によって、中断させられつつある現実に、夏希は呆然としながらも、雅彦に申し訳ない、という思いを抱いたのである。
「ごめんなさい。あなた」
やがて雅彦の胸に顔を埋めた時、なぜか感情が激してきて、夏希は涙があふれそうになってきた。こう異常なことがつづくと、さっき、雅彦に対して怒っていたことも忘れて、急に心細くなってきたのである。
「せっかくの新婚旅行なのに、なんだか台なしになったみたい。あなたに申し訳ないわ」
「いいや。きみの責任じゃない。不可抗力だよ。夏希がめそめそするなんて、おかしいぞ」
「ねえ、抱いて……私をしっかり抱いて」
その夜、夏希は激しく燃えた。胸のずっと奥のほうを、黒い炎が焦がしていた。
翌朝、長崎をあとにした。
あわただしい出発、という印象をぬぐえなかった。午前十時四十分発のTDA378便のジェット旅客機が、海に浮かぶ長崎空港を離陸した時、夏希は前途に、故しれない不安を感じた。
機内はそこそこの混みようだった。夏希と雅彦は、シートに落着いてからも、あまり話をしなかった。
ゆうべ、激しく燃えた疲れもあったし、口をひらいても、父の受傷が暗い影を落としていて、当面の話題は何もなかったのである。
夏希はこの新婚旅行の間に、本当なら自分のこれからの人生について色々、語るつもりだった。外に勤めをもつ夫を支えながら、自分は村山薔薇園の花作りをしてゆかねばならない。高校時代に夢みたように、オランダやフランスやアメリカの薔薇作りには負けない、立派な薔薇を咲かせてゆきたい。
でも兼業主婦の立場は難しい。夫の理解も必要である。妻としては時には気遣いが足りないところや、手が回らないところもあるかもしれない。自分の夢を語るとともに、そういうことへの理解も、雅彦からしっかり取りつけておかねばならなかった。
だが、そういう前途の夢や計画を語るには、今はもうふさわしくはなかった。夏希は機窓に湧く白い雲を見ながら、ゆうべ、一睡もできなかったことを思いだした。
――羽田には正午すぎの十二時二十分に着いた。
「どうする? 昼食」
「病院に直行しましょ」
二人は空港の表で、タクシーに乗った。
タクシーは走りだした。
東京は快晴であった。羽田から首都高速に乗り、都心部のビル街を抜けて渋谷に出て、東名高速に乗った。
タクシーの中で夏希は突然、それを思い出して、素っ頓狂な声をあげた。
「あら、九州でお土産を買ってくるの、忘れていたわ!」
「しかし、そんな場合じゃないだろう。お父さんに、もし万一のことがあったら、晴れがましいお土産なんて、かえって変だよ」
雅彦がたしなめた。
「そういえば、そうね」
タクシーはやがて郊外に出た。厚木インターで東名を降りて、一般道路に乗り、武蔵丘市にむかった。
武蔵丘市は人口三十五万人の地方都市として、平野のどまん中で、今日も何事もなかったように春の陽射しにガラス質のビル街を輝かせて、夏希たちを迎えた。
聞いていた須藤病院は、市役所の近くの大きな私立病院だった。父は個室に入院していた。心配していた程ではなく、意外に元気そうだった。夏希と雅彦が何の前ぶれもなく病室に現われたのが、よほどの驚きだったらしく、ベッドから身を起こそうとして、
「動いては駄目です」
と、看護婦に叱られていた。
夏希はでも、輸血用チューブや点滴のチューブが通された父の姿が、急に老《ふ》けこんだようで、痛々しい思いがした。ところが、虎三は夏希たちにむかっていかにも元気だぞと言わんばかりに、
「いったい誰が新婚旅行を中止して帰って来い、と言った。これぐらいの怪我で、わしはくたばりはせんぞ!」
点滴のチューブの下で、そう怒鳴る父をみて、夏希はひとまず安心した。
(この分なら、大事には至らないようだわ)
「いったい、誰だ。旅先までわしのこんな不名誉な怪我を知らせたのは!」
虎三に問いつめられて、
「蓮見さんよ。たいへん心配なさってたわ。ありがたいことじゃないの」
「そうか。康子の仕業か。しょうがないやつだな!」
そういう声の響きに、夏希はふっと、父と蓮見康子は他人ではないのではないか、と感じた。
「私だって知らせてもらって、うれしかったわ。何も知らずに、のうのうと新婚旅行をつづけていて、万一、父親の死に目に会えなかったら、どうするのよ」
(おい、夏希)――と、雅彦がたしなめるように腕を引いたが、
「いいのよ、それぐらい言ったほうが。せっかく心配して駆けつけた娘夫婦に、怒鳴ったりする元気があるのだから」
夏希が少しむきになって言った時、ノックもなしにドアが開いた。
蓮見康子が、花を活《い》けた花瓶を抱えて入ってきた。康子は、夏希と雅彦の姿をみて、あわてて眼を伏せ、控え目に会釈を送った。
水をかえてきたばかりのところらしい花瓶を、虎三の枕許のサイドテーブルに置いた。
その康子の仕草や態度が、いかにもその場にきっちりと填《は》まりこんでいたので、夏希はますます、これはただ事ではないな、と思った。
「まあ、康子さん。このたびはいろいろ気を使っていただいて、済みません」
挨拶は、通り一遍のものにした。亡くなった母への介護ぶりは見事なもので、父娘とも、この蓮見康子には深く感謝したものである。
だから、強盗に刺されて入院して困った父が、再び、派出看護婦としての康子を付添人に呼んだのだろう、と解釈してあげたほうが当面は、無難かもしれない。
微妙な空気が流れた。
女同士の間にである。
夏希は、花を差しおえて虎三の枕許を整えおわって、病室の片隅に引退がる蓮見康子に、気軽に声をかけた。
「蓮見さんなら、安心だわ。こういう看病、慣れてらっしゃるから」
「いいえ、何もできなくて……その上、お嬢さんにはせっかくの新婚旅行だったのに、ご心配をおかけしまして、申し訳ないと思っております」
何気なく聞き流せば、どうということはない。いかにも康子らしい思いやりと、礼儀正しさのこもった言葉である。
でも、ご心配をおかけしました、というのは、主客が転倒しているのではあるまいか。父にかわって、詫《わ》びている、というふうにも取れるではないか。
(やはり、私の勘は正しいんだわ。康子は父の愛人だったのかもしれない)
夏希は父・虎三をみた。
虎三が困惑した顔をした。康子はおもてを伏せたまま、見舞い客にだす椅子を、夏希と雅彦のためにととのえていた。
虎三が眼を閉じた。天井をむいたまま、唸るように言った。
「夏希、この際だ。いつかは話そうと思っていたことを、いま話しておこう。康子は見てのとおり、ずっと前からわしの面倒を見てくれていた女だ」
虎三は、自分の愛人とか、世話していた女という表現をしなかった。むしろ、自分の面倒をみてくれていた女、というふうに、思い入れのこもった言い方をした。
病室に短い沈黙が訪れた。
夏希は不思議に、驚きも怒りも覚えなかった。不潔感も感じなかった。むしろ、男やもめの父のために、ほっとしたような、不思議に優しい感情に出会った。
ふつうなら、こうはゆかないだろう。康子が父の愛人だとすれば、内縁関係だけでもすでに遺産問題などに響いてくる。まして入籍ともなれば、財産の運営上、親戚中が大騒ぎするような土地柄である。
なにしろ、東京近郊。地価は狂騰している。村山家の農地や山林やマンションや持ちビルなどは、それを総合すると夏希など見当もつかない評価額になってしまうだろう。
それなのに、夏希はそれらにあまり関心がなかった。土地は万人の共有物であり、村山家にとっては花作りのための生産手段と考えたい夏希は、ただの「財産」とは思いたくはなかった。だから康子に対しても、何一つ敵意を感じなかったのかもしれない。
「そう。そうだったの」
と、夏希は明るい声で言った。
「へええ。それで父はいつまでも若々しかったというわけね。少しびっくりしたけど、でも夏希、うれしいわ。康子さん、これからも父のこと、よろしくね」
半ばは社交辞令ではあっても、夏希は何の警戒もなく、そう言うことができた。
「いいえ、こちらこそ」
蓮見康子はもう一度、深々と頭を下げ、申し訳なさそうに片隅に身を置いた。
その間、虎三は顔をゆがめて、どうにもさまにならない表情をしていた。
「早く話そうと思っていたが、遅れて悪かったな。いずれ、おまえが結婚して、一人前の女になったら、相談しようと思っていた。今日はとりあえず、紹介だけだ。夏希が怒ったりしなかったので、わしも安心したよ」
「怒るなんて。お父さんだって、まだ若いんだから、これからもばりばり青春やらなくっちゃ――。私、安心したくらいよ。ねえ、雅彦」
夫、雅彦のほうを振りかえった時、雅彦が気難しい顔をしているのに出会って、夏希はひどく、びっくりした。
その時、若い医師がはいってきた。
医師は虎三に身体の具合をききながら、患部を診たりした。
「元気そうで、何よりです。しかし、精密検査をしたら、肝臓も機能障害気味ですし、血圧も高すぎる。おまけに糖尿病ときている。外傷の治療だけではありませんね。この際、しばらく気長に入院して、徹底的に療養する必要がありますね」
虎三は医師の前では、借りてきた猫のように、小さくなっていた。じゃ、お大事に、と言い残して、若い医師は出ていった。
夏希はあわてて廊下まで追いかけ、娘だといって礼をのべ、父はどの程度の期間、入院しなければならないのかを尋ねた。
医師は二ヵ月ぐらい、と言った。夏希は、長すぎるような気もしたし、短かすぎるような気もした。詳しくはあとで医局を訪ねてきいてみようと思った。
それより今は、父が刺されたという犯罪のほうが気にかかった。犯人はつかまったのかどうか。どういう情況と理由で、父が強盗などに襲われたのか。
病室に戻ると、夏希はそういうことをきくために康子を誘って、外に出た。
休憩室は混んでいた。
人の耳もあった。夏希は蓮見康子を誘って、病院の外に出、道をへだてたところにある喫茶店に入った。
向かいあって坐った。
「なに飲む?」
康子はコーヒーと言った。
夏希は二人分注文し、
「父のことだけど、どうして強盗に刺されたのか。康子さん、ご存知でしょ?」
「はい」
と小さな声で返事をし、「実は、私の部屋にお見えになっている時に、お父さんは襲われなさったのです。申し訳ありません」
康子はかいつまんでその時の情況を説明した。「なにしろ、ドアをあけたとたん、その男が押し入ってきたので、私も何が何だか、さっぱり分からなかったのですが……とても恐ろしゅうございました」
夏希は窓外に眼をむけた。ガラス越しのうららかな春の陽射しの中に突然、黒い炎がしゅっと燃えたって、舞った。
「で、強盗は警察につかまったの?」
静かに訊いた。
「それが……」
「父を刺した犯人。警察に届けたのでしょ?」
「それが……」
康子は口ごもった。
――虎三が、警察に届けるのを禁じたのだという。病院でも、喧嘩による負傷ということにして、主治医に金を握らせてまで、警察沙汰にすることを禁じたのだという。
「変ね。父はどうして警察に告げなかったのかしら。そんなにまでして隠すなんて」
「さあ、私にはわかりませんが、お父さんには何か都合が悪いことでもあったのかもしれません」
「都合が悪いことって……康子さん、何か気づいたことでもあるの?」
「そんなわけではありませんが、ちょっとだけ、小耳にはさんだことがあります」
「どういうこと?」
「押し入った男は、黒狼谷の仕返しにきた、と言ってました。むろん、そのことも外部には口止めされております。でも、お嬢さんの耳にだけは……」
黒狼谷……! 夏希は驚き、康子の言葉をあまり聞いてはいなかった。再び、出てきた言葉。長崎で私を待ち伏せしていた連中と、父を刺した犯人はつながっているのだ。
(黒狼谷とはいったい、何なんだろう?)
夏希の前に、深い闇が立ちふさがった。
第三章 薔薇屋敷
薔薇屋敷は高台にある。
多摩丘陵の中腹であった。切妻造りの大きな屋敷の前に、ヨーロッパの薔薇園のような噴水と西洋花壇が丹精して作られ、四季折々の花を咲かせているが、しかし、市場出荷用の切花薔薇は、そこから少し離れた、防風林にかこまれたガラス温室の村山薔薇園で栽培されている。
欅《けやき》の芽立ちにはまだ間があった。
毎年、五月になるといっせいに芽吹いてみずみずしい若葉をつける欅の木立ちも、今はまだ春浅い風に裸の梢《こずえ》を唸らせている。でも、頭上から直射する日射しにはもう温みがあって、屋敷を出てガラス温室のほうへ、急ぐ間、夏希は汗ばむほどであった。
村山薔薇園は最新型ガラス温室による切花の通年出荷だから、季節による休みはない。女あるじが新婚旅行に出かけていても、当主の虎三が奇禍にあって入院している間も、花の生理は確実に花季《はなごよみ》を重ねて、咲くものは咲き、蕾《つぼみ》をふくらますものは膨らませて、一日の休みもないのである。
夏希が一号棟に近づくと、薔薇園管理をまかせている老園丁の鳥羽悟平《とばごへい》が集中ボイラー室から出てきて、
「やあ、お帰りなさい」
帽子をとって柔和に笑いかけ、ついでに手拭いでつるりと顔をぬぐった。
「随分、早かったですね」
「ええ。父があんな風で」
「ご心配ですね」
「いいのよ。ふだん血の気が多い人だから、たまには血抜きをしないと」
冗談にまぎらせて言いながら、夏希は薔薇園を見渡し、「悟平さん、ありがとう。温室のほう、異常はなかった?」
「はい、順調です。赤のガーネットと、カリナが適期ですから、昨日からぼつぼつ採花しています」
「そう。予想より早かったわね。悟平さんの丹精のおかげよ」
「いいえ、花は花自身で、ひらくものです。どうぞ、見てやって下さい」
夏希はその棟に入った。結婚式の数日前から、式の準備や衣装合わせ、挙式、新婚旅行とあわただしかったので、もう一週間以上、温室には入らなかったことになる。
「わあ、咲いてる」
閉め切られた温室の中は、むっと暑いくらいだ。なるほど、ガーネットとカリナがみずみずしく咲きはじめていた。姿よくネット支柱に仕立てられた花列から、花の精がゆらゆらと陽炎《かげろう》のように一面、色づいてたちのぼっているようであった。
新しい品種のソニア、キャラミア、フロリバンダ系のゾリナ、ノルディアなどに混って、匂いを生かす紫色がかった白の新しい品種、ジョルファルレイもけなげに蕾をつけている。
夏希は一輪の赤い薔薇を手にとって、頬を寄せてみた。優しい、ビロード地のような花弁がふっくらとひらいて、ふくよかな匂いがする。その薔薇の色彩と香りが、新婚旅行でのあのいやな思い出や、父の事件を忘れさせてくれそうであった。
「この花列も、そろそろ切りまえかしら」
夏希は開花具合をみながら言った。
「ええ。あしたあたりから、ぼちぼち採花してもいいかもしれませんね」
鳥羽悟平が合《あ》い槌《づち》を打つ。
花は八分咲きが見頃、とはいうが、営業用切花栽培の場合は、出荷後、消費者の手にわたってから全開となるよう、切りまえ(切花適期)の判断が難しい。品種や季節によっても異なり、また、薔薇は花の寿命が短く、収穫してから市場でせりにかかるまでの間に開花がすすむから、とくに注意が必要である。
夏希は幾つかの棟を見て回った。すべて順調だった。夏希は作業の進行状況を説明する鳥羽悟平に、
「留守の間、何か変わったことはなかった?」
「別にありません。秦野の友倉さんがやってきて、お嬢さんが観賞用にお作りになっているピースを一株、分けてくれといってましたが」
「ああ、あのクラシック薔薇ね。分けてあげた?」
「いいえ。お嬢さんがお帰りになるまで待ってくれ、と伝えてあります」
「芽継ぎ分くらい、分けてあげればよかったのに」
「株ごと買いたいと言っていましたので」
悟平はさしでがましいことは一切しない老園丁である。
今年、もう六十七歳になるが壮健である。老夫婦で近くに住み、薔薇の温室管理に精をだしてくれており、頭はもう銀髪。柔和な、品のある顔立ちや物腰は、薔薇一すじに生きてきただけに、どことなしフランスの宮廷薔薇園の老園丁といった雰囲気さえも持っているのであった。
村山薔薇園は、ガラス温室が主体である。三角屋根の連棟温室が十六棟も、山裾にずらっと並んで陽に輝く眺めは、さながら園芸団地といった眺めであった。
天窓自動開閉装置の組み込まれた軒高二・五メートルの高屋根による通風性のよさ、陽当たりのよさは、薔薇栽培環境に好適である。温室面積も約千三百坪と、日本の薔薇栽培ではほぼトップクラスであり、年間約六十万本の切花を生産、出荷している。
「悟平さん、ちょっと」
夏希はその日、久しぶりの温室管理や細霧システムによる防除などに精をだしながらも、父の事件のほうが気にかかり、仕事の合間をみて、悟平を物陰に呼んだ。
「何でございましょうか」
悟平は手拭いで首すじの汗をぬぐった。
「黒狼谷っていう地名、聞いたことある?」
唐突に、そう訊いてみた。
「黒狼谷ですか。さあ」
悟平は思案していたが、やがて首をひねり、
「聞いたこと、ありませんねえ。それが何か……?」
窺うように見た。本当に知らないようであった。
「いいえ、何でもないわ。悟平さんが知らなければ、それでいいのよ」
夏希は何でもない、という顔をしたが、村山家のことなら何でも知っているはずの悟平さえ知らないことだとすれば、いったい何なのだろう、とますます疑問が深くなった。
――その午後、夏希は三棟分、細霧操作を終えて、園地の端にある作業舎に入った。
出荷準備のための選花場ともいえる作業舎は、華やかであり、賑やかである。採花後の薔薇は、水切りをやるため、小型コンベアの横のコンクリート床には、たくさんのバケツが並べられ、品種や色彩ごとの薔薇が、作業舎を明るく染めて水の吸いあげをやっている。
保冷庫に入れる前のものだ。選花、結束、箱入れなどの作業のため、近所の主婦をパートで雇っており、今、その主婦たちが賑やかにお喋りをしながら、明朝出荷分の荷造りをしているのだった。
「お帰んなさい」
「お帰んなさい」
主婦たちは夏希を迎えるといっそう賑わいたち、
「お嬢さん、まあ。ころっと色っぽくなっちゃって」
「その様子だと、夜のほうもずい分、がんばったんでしょう」
「ねえねえ、ほら。ひと皮むけちゃって、ナントカやつれよ、きっと」
女同士も中年になると、ずい分露骨なことを言うものである。
「どうでした? 感想は」
ひょうきん者の民江が、一輪の薔薇をさっと取りあげて、夏希の口許に近づけたのは、マイク・インタビューのつもりだろうか。
「初夜のご印象を、まず」
民江がテレビの女性リポーターのように気どって質問しはじめたので、作業中の主婦たちがどっと笑った。
「困るわ。民江さんたら」
「いいじゃありませんか。卒直におきかせ下さい。ご主人は優しくしてくれましたか? 初夜には何回ぐらい、愛してくれましたか?」
「まあ、やめてったら!」
「あらあら……花嫁が顔をまっ赤にしたところをみると、当夜、恐らくは三回ぐらい、愛のデスマッチが行われた模様であります」
民江がますます調子にのって芸能リポーターぶりを発揮してきたので、作業場は寄席《よせ》のような笑い声に包まれた。
夏希はその屈託のない主婦たちの笑い声や花の匂いや、結束してゆく茎の手ざわりの確かさを懐かしい、と思った。ひどく安心できる華やかで確かな世界が、そこにはあった。
今日、わが国の薔薇栽培面積は、全国で約四百ヘクタールとみられ、世界ではアメリカに匹敵するまでになっている。この薔薇の普及に貢献したのは、昭和四十五年頃から爆発的に普及した中輪種、フロリバンダ種の開発と人気による。
従来、薔薇といえば豪華|絢爛《けんらん》とした花のイメージがあった。それはクリスチャン・ディオールやパパ・メイヤンなど、剣芯高弁の巨大輪に代表される、高貴な花形のものをさしていた。事実、バラ展や各種コンクールでは、そういう大輪の花をどう見事に咲かせるかが腕の競いどころだったのである。
だが、大輪種だと豪華だが、値段も高い。ふつうの家庭で毎日、食卓や電話台にさりげなく飾るには贅沢すぎる。大衆人気と消費拡大を狙うには、中輪種のほうが有利ではないかと、ヨーロッパの流行を現地視察でいち早く察知した愛知県西尾市の浅岡敬介さんらの努力で、昭和四十年代半ばから、日本でも本格的にフロリバンダ種を中心とする中輪種ブームが押し寄せ、今の大衆人気と量的拡大につながったのである。
これだと四季咲き、多花性、強健という特徴があり、花持ちのよさ、花色の多彩さも楽しめる。栽培面からもカーネのようにネット支柱が可能なため誘引労力がいらないという利点もある。村山薔薇園でも、主力品種は、フロリバンダ系の中輪種であった。
その中輪種の保冷庫作業が終わったころ、母屋の方から悟平がやってきて、夏希に電話だと告げた。
夏希は家に戻って、卓上の受話器を把《と》った。
「はい、村山ですが」
「夏希さん?」
女性の声であった。
「そうですが」
「新婚の気分はどう?」
いきなり、慣れ慣れしい声が響いた。友達や親戚の者ではない。夏希がはじめてきく声であった。
「どちらさまでしょう?」
警戒もまじった。
「ずい分、構えるのね。――外は三月の爽やかなお日和。桜前線はもうすぐ。すてきな気分でしょうね。レイプされた花嫁さん――」
「え?」
「町のほうでね、噂を聞いたわよ。あなた、新婚旅行先の長崎で、見知らぬ男たちに部屋に押しかけられ、凌辱されたそうね」
夏希は思わず、周囲を窺った。思いがけない中傷電話だが、それでも他人に聞かれたら困るのである。
夏希は、静かに訊いた。
「おたく、誰?」
「誰でもいいでしょ。さぞ、いい気持ちだったでしょうね。三人の男と、取っかえ引っかえやったそうじゃないの」
「やめて下さい!」
つい、夏希はそう叫んでしまった。「私はレイプなど、されていません!」
「そう。それならいいのよ。おめでとう。私は町でね、そんな噂が立っているってことを、ちょっとご忠告してあげようと思っただけよ。じゃ、お仕事に精をだして」
電話はそれだけで、切られた。
夏希は受話器を置き、呆然とした。
外に射す明るい春の陽射しに顔をむけた時、やっとそこに、底知れない悪意と闇を感じた。
翌日の午後、夏希は父を見舞いに病院に行った。
病室には虎三が一人で寝ていた。輸血はもう終わったらしく、点滴の瓶は一つ減っていた。ベッドに仰むけになって眼を閉じていたので、眠っているのかと思い、夏希は携えてきた切りたての薔薇と菊とフリージアを枕許の花瓶に活けた。
不意に唸り声がした。
虎三は眠ってはいなかった。
「夏希、おまえわしに何か隠し事をしてはいないか?」
虎三が天井をむいたまま、そう訊いた。
「隠し事って、なあに?」
びっくりしてふりむいた。
「新婚旅行を早く切りあげて帰ってきたのは、旅先で何かあったからじゃないのか」
探るような眼をむけた。
「いやあね、お父さん。何を言いだすのかと思ったら」
夏希はベッドに近づき、ずれている虎三の掛布を首許まで掛けてやりながら、「早く帰ってきたのは、お父さんの事故を聞いたからじゃないの。心配だったからよ」
「じゃ、これは何じゃ」
ややあって、虎三は枕の下に差し込まれていた郵便物を自分で抜きだし、中から数枚の写真を取りだしながら、言った。
夏希は何気なく受けとって眼を落とした時、あっ、と小さな声を洩らした。
それは、それほど、どぎつい写真というわけではない。しかし、それはどうにでも解釈できる危険な写真であった。
長崎のホテルの光景が映っていた。夏希が一人の男に後から羽交い締めにされ、その喉《のど》許にナイフがあてられ、ブラウスの胸許がしゅっと裂かれて、乳房が露わになっているところの写真であった。
(あの時、盗み撮りされたものだわ……)
そう気づいた。
「破るな!」
虎三の声が響いた。
「写真を破ったところで、おまえがその男どもに汚されたという事実は、消えはしない。どうしてわたしに打ちあけてくれなかった?」
虎三は誤解している。ひどい誤解だ。夏希は怒りと悲しみのため、写真をもつ手がぶるぶるとふるえた。
考えてみれば、無理もないのである。どうみてもその写真は、新婚旅行先の花嫁が、ホテルで暴漢に押し込まれて、犯されようとしている写真――というふうに見える。
「お父さん、誓っていいます。私は暴行なんか、受けていません」
「それなら、その男どもは何なのじゃ? どうしてわしのところに、こんなものが送られてくる?」
虎三は問いつめた。
夏希は長崎での出来事を話しながら、きのう、自宅にかかってきた電話のことを思いだしていた。あの見知らぬ女は、夏希が旅行先で凌辱されたという噂が町で流れている、ということをわざわざ告げるために、電話をよこしたのであった。
根は同じ連中に違いない。
(卑怯よ。人の心を傷つけるにも、程があるわ!)
夏希はむらむらと怒りを覚え、
「お父さん、これをどうしたの?」
写真と手紙の出所を反対に、虎三に問いつめた。
「今朝、速達便を看護婦が届けてきたんだ。どうやら、病院宛に送りつけられたものらしい。宛名はむろん、入院中のこのわしに、なっている」
「写真のほかに何か書かれていたことでもあるの?」
「うむ。それは――」
言いかけ、虎三はすぐに表情をかえて、
「それより、心配なのはおまえのほうだ。おまえ、本当に隠してるんじゃないだろうな」
「くどいわね。そんな事実はありません」
「しかし心配なのは、こんな噂が雅彦君の耳にはいることだぞ」
あッ、と夏希は思った。事実の有無よりも、そんな噂が広がったり、夫の耳に入ったりすることのほうが、夏希にはたしかに重大なことである。
「その旅先での出来事は、雅彦君には話したのか?」
「いいえ。話したら、誤解したり、邪推するに決まってるわ。だから、話してはいません」
「それは、まずい。ますます、まずいぞ。あとになっての言い訳は、事態を一層こじらせるばかりだ。わしのところにさえ、こんなものを送りつけるくらいだ。雅彦君のところに妙な写真が送りつけられたりすると、いったい、どう説明するんだ?」
そこまでは、夏希は考えてはいなかった。雅彦はたしかに、私を汚《けが》された女だと、疑うに違いない。
でも自分は潔白なのだから、事実を説明するしかない。
「それより手紙にはいったい、何が書かれていたの?」
「娘をこれ以上、傷ものにされたり殺されたりしたくなかったら、おれたちの言うことを聞け、って、言ってきやがった」
「言うことを聞け……それ、一体どういうことなの? 何を要求しているの?」
「それは、ま、おまえが心配することではない!」
虎三はそこまでくると、またあの頑固さを鎧《よろ》って、答えないのである。
父はなぜ沈黙するのだろう。夏希は窓辺に射す明るい光の中に、春の闇を感じた。
この手紙のことだけではない。強盗に襲われて刺されたことさえ、警察にも届けてはいないというではないか。
「ねえ、お父さん。心配しているのは私のほうなのよ。薄気味わるくって仕方がないわ。今にもっと悪いことが起きたら、どうするのよ。何か隠していることがあるのなら、正直に話して――」
その時、お話があります、と蓮見康子が眼顔で合図した。夏希は病室の外に出た。
「私、知りませんでした。お嬢さんのほうにも、あんな大変なことがあったなんて――」
廊下に出ると、康子はすぐに話しかけてきた。あんな大変なこと、というのは、写真のことや、旅行先で脅迫されたことであろうか。
二人は病院の前の「ソフィア」という喫茶店に入った。
「別に、私のほうはたいしたことではないんだから」あんまり心配しないで、と夏希は釘をさした。「話って、なあに?」
康子が言いにくそうにしたあと、「私、ずい分考えたんですけど、お嬢さんなり、私の立場から、事件のこと警察に届けておいたほうがいいんじゃないかと思うんですけど」
「つまり、父には内緒でそれとなく警察に?」
「ええ。お父さんに言うと、頭から反対なさるに違いありませんから」
夏希は、康子の思慮深い意見に、さすがに女の年輪というものを感じた。
「康子さんはどうして、そう思うの?」
「いつかも話しましたように、お父さんを襲って刺した男は、ただの強盗じゃなかったんじゃないかと思うんです」
「それは聞いたわ。で?」
「あの男が、もし初めからお父さんを殺す気だったとすれば、これからも襲うような気がするんです。あの場は、なんとか私が騒いで飛びだしたので、怪我ぐらいで済みましたが……この先、万一ってことがあると心配です」
なるほど、今後の危険防止のためにも、康子は警察に届けたほうがいいというのである。
それも、正しい判断である。しかし、あと一つ夏希に踏んぎれなかったのは、父が秘匿していることが、もし世間に知られたら困ることだったり、著しく父の名誉を傷つけるようなことであれば、そっとしておいたほうがいいような気がしたからである。
「ご忠告、ありがとう。でも、警察に届けるつもりなら、いつでも済むことだから、もう少し私に委せといて」
「はい、それはもう。――ただ、警察沙汰にすることがおいやでしたら、誰か信頼のおける人に調べて貰うこともありそうですが」
なるほど、と夏希は膝を打ちたい気持ちだった。誰か信頼のおける人か、興信所あたりに頼めば、こっそりと事件の背景を調べることができるわけである。
「ありがとう。康子さん」
夏希はコーヒーカップを取りあげ、「ごめんなさい。本当なら、お母さんとも呼ばなければいけないんでしょうけど、まだ私にはそこまで呼べなくて」
「いいえ。そんな」
「親身になって色々、心配してくださる気持ち、うれしいわ。でも、警察も興信所も、もうちょっと、待ってちょうだい。私にも、色々、考えがありますから」
それからの数日間、何事もなかった。夏希は朝の採花から、水切り、出荷調整、そして温室管理まで、午前中、忙しく薔薇園で働き、午後三時以降、父・虎三を見舞いに、病院に行くことを日課とした。
父は点滴のチューブが少しずつ減っていったので、経過は良好のようであった。もっとも、夏希があまり気を配らなくても、虎三の傍には蓮見康子が付き添っていたから、夏希の見舞いも、型通りの差し入れと顔を見にゆく程度のものであった。
雅彦は毎朝、マイカーで出勤した。彼も新婚生活にくつろぎ、工事現場の仕事のほうも順調のようで、夏希にも優しくしてくれた。
しかしそんな一見、のどかで、平和で、バラ色の夢に包まれた新婚生活の中にも、魔の影が確実に忍び寄っていたのは確かであった。
その日は金曜日で、ふつうなら雅彦の帰りは遅いのだが、意外に早く帰宅した。
雅彦は不機嫌であった。鞄を夏希に渡したまま、むっつりして応接間に入った。
夏希はちょうど、お風呂を整えたばかりのとこだったので、応接間に顔を出し、
「あなた、お風呂は?」
そう言った。すると、
「風呂なんかいいよ」
言って雅彦が、「夏希、ここにきてちょっと坐ってほしい。きみに聞いておきたいことがある」
恐ろしく気難しい顔を見せたのであった。
夏希はソファに坐った。
「これは何だね?」
雅彦は背広の内ポケットから封筒を取りだし、中から写真を三枚、抜きだした。
夏希はそれを見た。予想通りだった。それはしかし、予想通りではあったが、心が乱れるものであった。
またもやあのホテルの一室。暴漢たちに襲われる時のシーン。夫がそれをどう見たか。想像すると、心が乱れないわけにはいかない。
「これを、どうなさったのです?」
夏希は静かに訊いた。
「ぼくのほうが訊いている。これは長崎のホテルじゃないかね。長崎といえば、ぼくたちが新婚旅行に行ったところだ。ぼくたちの部屋で、こんなことがあったなんて、ぼくは露ほども知らなかった。まさか、きみ――」
雅彦の眼に疑惑の根が宿っているのをみて、
「違います。凌辱なんかされていません。それは――」
「釈明をきこうじゃないか」
夏希は当日の、ありのままを話した。
「本当に、ただそれだけのことだったのか?」
「それだけのことです」
「どうしてすぐ、ぼくに言ってくれなかったんだ?」
「だって、あなたは帰りが遅かったじゃありませんか」
「亭主が遅く帰ってきたら、浮気をしても隠し通せると思っているのかね?」
まるっきり、次元が違うことを言われて、夏希は眼の前でしゅっと白い炎が舞うのを見た。
「まあ、浮気だなんて」
雅彦は表情を変えなかった。怒っているというよりはむしろ、沈痛な表情であった。
「とにかく、きみがレイプされたという噂を、ぼくは町できいた。ショックを受けている時、こんな写真が会社のほうに送られてきたんだ。ぼくは考えこまざるを得ない」
「何を考えこむというのですか」
「色々、ね」
「はっきり、おっしゃったらいかがですか」
「たとえば、きみの純潔。いや、人妻だから貞淑度というのかな。あの男どもと結婚前から交際があったのではないか。あの部屋で何かが起きたのではないか」
「信じて下さらないのなら、仕方がありません。とにかく私は、潔白です」
売り言葉に買い言葉、という具合になったにしろ、夏希はそう言うしかなかった。
その夜、雅彦はとうとう心を閉ざしたままだった。事情を聞く、という名の話し合いは何の了解点にも到達せず、雅彦は黙々と風呂に入り、味気ない食事をし、さっさと奥の寝床に入ってしまった。
夏希も遅れてその寝床に入った。雅彦は背をむけたまま、冷めたい態度を貫き通した。この人は私をまるで信じていないんだわ、と夏希は突き放されたような思いがした。
悶々とする脳裡に、薔薇と夫婦生活にまつわるフランスのある古い伝説を思いだした。
――むかし、南フランスにアダという美しい人妻がいた。容貌もそうだが、心の美しい女だった。夫の留守にも世の人々のために沢山の善意の行為をつづけていた。
ある時、夫の留守に乞食《こじき》が彼女の家にたずねてきた。乞われるままに食物を与えた上、雪深い外の寒さを考え、乞食を彼女の家に泊める決心をした。しかし余分のベッドはない。彼女はやむをえず留守の夫のベッドに乞食を案内し、優しく寝かせてやった。
ところがその深夜、夫が突然、帰宅した。驚いたアダは、門の扉を開ける勇気さえなかった。夫は疑いの念を深め、扉を破って家に入り、自分の寝室に突き進んだ。
アダはもうこれまでと観念して目を開いたところ、夫の寝台に寝ていたはずの乞食は姿を見せず、そこには一輪の白いバラの花が置かれてあった。乞食は実は神様で、バラに姿を変えたのである。
――そういう話であった。
アダというフランスの人妻の伝説を思いだして、夏希は少し、心がやすらんだ。アダの寝台に置かれていた一輪のバラは、彼女の潔白の証明であったし、神様はちゃんと真実をわかってくれるのである。
夏希はうとうとしたが、すぐに眼が醒《さ》めた。屋根を叩く風の音のせいだった。関東特有の春の嵐かもしれなかった。
その風の音をきいていると、夏希は無性に淋しくなった。背中をむけたままの夫とは、そのままずっともう縒《より》が戻らないのではないかと考えると、淋しさはいっそう募って、背筋を恐怖の思いがすべった。
(私たち、新婚なのに)
なんという夜なんだろう。
「ねえ」
後ろから、そっと肩に手をかけてみた。
抱いてくれなくてもいいが、せめて背中をむけることだけはやめてほしい。肩に手を置いて、じっとしていると、ふっと、雅彦の寝息が熄《や》んだ。
雅彦も、あるいは眠ってはいなかったのかもしれない。彼の立場としては、新妻がもし旅行先で汚されていたという噂をきいたとするなら、心穏やかであろうはずはなかった。
辛いのは、雅彦も同じかもしれない。雅彦はしばらくして、ぎゅっと夏希の手を掴んだ。
それから不意に向き直り、荒々しく夏希を抱きしめてきた。
「あなた、ごめんなさい。ご心配かけて」
雅彦は無言だった。珍しく荒々しかった。
夏希の首すじから乳房に動いてくる愛撫の手は、何かしら汚されたものに対する復讐でもしているように、狂的な熱情のほとばしりを帯びていた。
「ああ。そんなに――」
夏希は鮎《あゆ》のように、身体を躍らせて応えた。
「きみが悪いんじゃない。あんなひどい中傷をするとは、誰かがぼくたちのことを妬《や》いているとしか思えん。ぼくたちの仲を裂こうとしているのかもしれん。夏希、ぼくは負けんぞ。やつらと、戦ってやる……!」
雅彦は自分に言いきかせるように、呻くように叫んだ。叫びながら、夏希の豊かで弾みのある胸の膨らみにひしと両手をあて、その双丘を両方から押し寄せて深い谷間をつくり、その谷間に呻くように顔を伏せてきた雅彦の仕草に、夏希はいささか驚きながらも、うれしいくらいの物狂おしさを感じて、ああ、とその頭を抱きしめ、信じてちょうだい、信じてちょうだい、と熱い声をはなっていた。
「うれしいわ。あなた」
夏希は雅彦の頭を抱えた。気がつくと、夏希の開いた眼に、涙が盛りあがっていた。
「ばかだなあ。何がそんなに悲しいんだ」
「悲しいんじゃないわ。うれしいのよ」
雅彦はのびあがって、それを唇で拭いた。あふれつづける涙を、吸いつづけてくれた。手が乳房にかかった。夏希は息をつめ、その手を握った。疑っているのなら、無理して愛情行為をやることはない。でも、信じてくれたのなら、私を目茶苦茶にして……そう叫びたい気持ちがあった。
雅彦はいとおしむように、手をいたる所に遊ばせてきた。乳房から腹、そして腿へ。夏希の内股は温かく、熱く火照《ほて》っている分、汗ばんでさえいて、かすかに湿っていた。
「信じてよ」
「信じてるよ」
そうしている間にも交わされるやりとりは、どこか護符に似ていた。願をかけ、そうありたいと願っている二人の護符かもしれなかった。
雅彦は夏希を抱いて接吻しながら、夏希の熱いはざまをまさぐっていた。そこは切りまえの薔薇の花弁のように温かくほころび、恥ずかしいほどのうるみをたたえていた。
夏希にはそれがわかった。恥ずかしくて身をよじった。そのはずみにうるみはますます濃くなり、甘美な感覚を打ち返してきて、夏希は思わず声を洩らした。
雅彦は信じてくれたらしい。それがうれしいのであった。信じてくれたと信じるだけで、身体が熱くなった。雅彦の指にたぐりよせられるように、また身体の奥のほうで幾重にももつれていた毛糸の玉が、そこから限りなくほどけてゆくようであった。
「噂なんか、忘れて……私をはなさないと言って……」
うわ言のように言葉が出た。雅彦はそれに応えてくれた。大丈夫だよ、きみをはなしはしないよ……そう言いながら、勢いを夏希にぶつけてきた。
雅彦はそのまま、夏希の身体をひらいて奥まで侵入してきた。夏希は確かな愛のしるしを受け入れ、熱い声を洩らしながら、だんだん深まっていく感覚に打ちふるえていた。
――その夜、雅彦との激しい嵐がすぎたあとも、夏希は闇の中に眼を見開いたまま、蓮見康子に忠告されていたことを考えつづけていた。康子は、警察に届けるのが無理なら、せめて興信所か信頼のおける人に頼んで、事件の背景を調べてもらったほうがいい、というものであった。
たしかに、そうである。長崎に現われたあの三人組の男を、突きとめればいいのだ。それが、黒狼谷のことを調べることにも、奪われた白紙委任状を取り返すことにも、父を刺した犯人を突きとめることにもなる……。
しかし突きとめるといっても、自分には薔薇園の仕事があるので、女探偵のように動きまわることはできない。でも……でも……自分の手足になって動いてくれる誠実な探偵のような人を雇えば、いいのだ。
(誰か……信頼のおける適当な人、いないかしら)
――そうだ……!
と閃《ひらめ》いた男性がいる。
仲根俊太郎《なかねしゆんたろう》という青年である。二十九歳の、新聞記者である。小学校から高校まで、ずっと同級生だった仲根|悠里《ゆり》の兄で、武蔵丘出身である。つまり、地元にも明るい。武相日報という地元紙の新聞記者からスタートし、今はたしか、東京・四谷の「現代舎」という編集プロダクションで、週刊誌や雑誌の硬派記事の取材活動をしているときいている。
あの青年なら、夏希を襲った連中や、父を刺した連中のことを、それとなく秘密裡に調べてもらうことができるかもしれない、と夏希は思った。
(そうだわ。近いうちに悠里に相談して、仲根さんに電話をしてみよう)
「仲根君、電話だよ」
呼ばれて仲根俊太郎は、振りかえった。ちょうど昼休みで、食事をとるために部屋を出ようとした時だった。
仲根俊太郎は席に戻って、立ったまま受話器を取りあげた。
「はい。仲根ですが」
「私、村山夏希ですが」
受話器から懐かしい女性の声が響いてきたので驚き、
「やあ、夏希さん――」
言って、仲根は席に坐った。「ご結婚なさったそうで、おめでとう。妹からきいてましたけど、仕事が忙しくってお祝いも届けられずに、ごめんなさい」
「いいえ。そんなこと」
夏希の声はあまり弾んでいるふうではなかった。少なくとも、新婚のさなかにいる若妻らしい華やかさというものが、あまり感じられなかった。
それに、結婚したばかりなのに、よその男に電話をかけてくるというのも、考えてみれば……これも、少し変であった。
恋人、というわけではなかったが、昔はそれに近い思いが相互にあったはずである。束の間、仲根の脳裡に甘い花のようなものが揺れて香りを放った。
仲根にとって夏希は、最初は妹、悠里の友達であった。高校時代は仲根と夏希は、先輩後輩の関係でもあった。悠里がいつも連れてきていたので、サーフィンやテニス仲間でもあったし、大学時代にはよく湘南の海に遊びに行ったり、陣馬高原や中津川渓谷でキャンプを張ったりした親しいガールフレンドという具合に、発展した。
妹の悠里は、夏希をお嫁さんに貰いなさいよ、とけしかけていたが、夏希は村山薔薇園の一人娘で後継ぎであった。仲根はジャーナリスト志望で、およそ堅気とはいえない世界で活躍したかったので、二人が交差しあい、結ばれる条件はどこにもなかったのである。
自然、二人の関係はその後、疎遠になっていった。仲根のほうで、意識的に遠ざかったような気もする。
特に職場が都心部に変わり、住まいも世田谷に移ってからは、たまに武蔵丘市の街で顔をあわすくらいだった。
その夏希が、結婚したという話は、仲根もきいていた。祝福したい気持ちであった。
「で、ぼくに何か……?」
「ええ、ちょっと」
夏希は言い淀み、「相談があるんです。お茶でもご一緒していただけないでしょうか」
「何か事情がありそうですね。結構ですよ。いつ?」
「いつでも……仲根さんのご都合に合わせますわ」
仲根の仕事は、現代の最先端をゆく編集プロダクション〈現代舎〉の取材スタッフだから、勤務時間はいわば、自由である。毎日、外を飛び歩いているので、夏希に合わせることができる。
しかし、新婚早々の人妻と、地元の武蔵丘あたりの喫茶店などで会うのは、人に誤解される惧れがあるのではないか。夏希のために用心したほうがいい、と仲根は思った。
すると、夏希はすぐに、
「私、毎週金曜日に、都内七ヵ所の有名花店に車で薔薇を納めにゆきます。あさって、日比谷花壇にも寄ります。日比谷公園の中にパレスという喫茶店がありますが、ご存知?」
「知ってます」
「どうでしょう。時間さえ決めれば、あそこなら、わかりやすいでしょ」
「いいですよ。じゃ、あさっての午後三時、ということに決めましょうか」
仲根が受話器を置いた時、
「人妻ラブフレンドからのお誘い?」
瞳の大きい個性的な顔が笑った。同僚の美人記者、紺野真弓《こんのまゆみ》であった。
「ばーか。そんなんじゃないんだよ」
「怪しいな。隅におけないぞォー」
その時、「仲根君、ちょっと」――デスクの滝山秀介が仲根を呼んだ。
「何でしょう?」
仲根は立ちあがって、大部屋の奥のスチールデスクに坐っている滝山秀介のほうに歩いた。
仲根の仕事場はひどいありさまだ。壁面を埋めたスチールの書棚には、本や雑誌やファイルが乱雑にあふれ、机の上も資料や雑誌や紙くずの山。その間にモニターテレビやファックスや、ワープロや電話が置かれ、雑然としていた。
そこは東京・四谷三丁目交差点の近くで、真新しいビルの三階の一室全体を、仲根の仕事場となる現代舎のオフィスが占めていた。
〈あなたのハートを熱くするお仕事、何でも引き受けます〉――編集工房「現代舎」。仲根はそこのサブ・ディレクターであった。活字社会でいえば、「副編集長」であった。
もっとも、二十五人いる取材記者全員が、「副編」という肩書きがついている。幾つかの夕刊紙や週刊誌を相手に、芸能界のゴシップからスターの離婚記事、政財界の内幕話、硬派のドキュメントまで、何でもこなす精鋭たち。その意味では、一昔前のトップ屋集団、ルポライター集団といってよかった。
ただ違うところは、媒体がすでに新聞や週刊誌などの活字メディアだけではないのである。〈現代舎〉の内部には、映像部門やビジュアル部門があって、企業に頼まれれば、映像スタッフがビデオソフトも作るし、ビジュアル雑誌も作るし、シンセサイザーも作るし、コンピュータ・ソフト関係の雑誌それ自体を、請け負って「創刊」したりすることもある。
その中で、仲根は古風なほうだった。いまだに新聞記者、トップ屋気質が抜けきれず、コツコツと歩いて事件や噂や世相や政財界の内幕を取材し、二十枚くらいの原稿にまとめ週刊誌に売り込むというフリーのジャーナリストのような分野を受け持っている。
「私に、何か?」
仲根がデスクの前に立つと、〈現代舎〉代表人、滝山秀介は一通のゲラ(仮刷り)の綴《と》じを、ぽんと、テーブルに叩きつけた。
「仲根君。これじゃ、だめだよ、これじゃ。週刊社会のデスクが組み版直前になって、つき返してきやがったんだ。こんな記事じゃ、商売にならんじゃないか、商売に!」
不機嫌そうに青筋をたてて怒鳴る滝山秀介の顔を、仲根は冷静に見つめ返した。
滝山秀介は週刊誌の編集長あがりの、切れ者である。現代を斬る自分の感性と考え方に、独特のあくの強さと自信をもっており、それだけに契約社員にも、記者にも、スタッフにもずけずけとものを言う。
「仲根君。きみはこんなものを書いて、マスコミの第一線で飯を食っているつもりかね」
仲根は無言で突きつけられた記事をみた。「資産家一家を襲った凶弾の嵐」「土地代金をめぐる長者番付一家の骨肉の争い……」などの派手な見出しが躍るその記事は、つい先週、神奈川県Q市の近郊農村で発生した土地代金をめぐる猟銃発砲殺人事件を取材した記事であった。
事件は、こうであった。半年前、マンション建設をするデベロッパー会社に田畑を売却したある農家に、土地代金約二億二千万円が転がりこみ、その配分をめぐって長男と二男が争い、高卒後、東京に出て会社勤めをしていた二男が、思うように代金を分けてくれない農業経営者の長男の家に押しかけ、口論となり、猟銃を発砲した。それも乱射。実兄を死にいたらしめ、その妻や家族三人に重傷を負わせるという肉親間の修羅場に発展したというものである。
仲根はその事件を、三日間にわたって克明に取材し、都市近郊農村でよく発生する肉親間の憎悪と惨劇という視点から分析したつもりであった。
「いったいこの記事のどこが悪いんです?」
「どこもここもない。何だ、この書き方は。ばかに土地持ち長者の立場に同情してるようじゃないか。もっと突き放して、億万長者一家の自業自得の惨劇――サラリーマンが一読して、ざまあみやがれ、とうれしがるように書かんと商売にならんじゃないか!」
「お言葉ですが」仲根は言い返した。
「事件が起きた家は、億万長者でも土地持ち長者でもありません。一・八ヘクタールのミカン園と農地を経営する、ごく普通の農家ですよ。真面目な生活者世帯だと思いますが」
「なにい?」
滝山が眼を光らせた。「事件が起きた家は億万長者ではなかったというのかい? 資産家ではなかったというのかい?」
「そうです。一・八ヘクタールの農業経営といえば、ごくふつうの農家じゃありませんか。年間所得だって、東京の一般サラリーマンより、うんと低いくらいです」
「冗談いうな。東京近郊で一町八反といえば、五千四百坪。サラリーマンは、十坪の土地さえ持てないんだぞ。巨億の財産家に決まっているじゃないか。その札束の家で起きた醜い争い――もっと突っこんで面白おかしく書かなくっちゃ、駅売りにならんじゃないか!」
そうだとも。突っこむ必要がある。だから仲根はその事件を普通より、深く突っ込んで取材し、書いたつもりである。
オレンジの自由化やミカンの斜陽から、二町弱のミカン園と田畑では生活できないから、主人が近くの工場に勤めに出たこと。それでも相続税を納めるため、農地を切り売りして、二億二千万の土地代金を取得したこと。しかしその土地代金は相続税とハウスミカンの施設償還費などに投入したため、サラリーマンをしている弟が「都会人」として考えていたほど、多くの配分をもらえなくて、ついに不満が爆発し、骨肉の争いになった背景をである。
それを、デスクの滝山は、「ばかに土地持ち長者の立場に同情してるじゃないか。もっと突き放して書かんかい!」
そう怒鳴る。
「しかし、農家の現実は――」
俊太郎が食いさがると、
「仲根君。きみはシティ派のマスコミ人だろ? 農家の現実を書くんじゃないんだよ。土地代金をめぐる人間の醜い欲望を書くんだよ、欲望を。現実に二億二千万円の土地代金をめぐって、一家が分裂し、猟銃がぶっ放され、四人もの殺傷事件に発展したんじゃないか」
「だから、なぜその悲劇が起きたかの背景。被害者、加害者双方の立場と心理を掘り下げて……」
「加害者も被害者もない。同じ穴のむじなさ。二億二千万円なんて金、そこらのサラリーマン家庭に転がり込むと思うかい。え?」
「いえ。それは――」
「その長男にも二男にも女がいたかもしれない。色と欲がらみの土地富豪の猟奇殺人事件――こう書かなくっちゃ、週刊誌の読者は満足してくれやしないんだよ。要するに読者は満員電車で苦しんでいる都会のサラリーマンなんだ。農家じゃないんだよ、農家じゃ。一読して土地持ちども、ざまあみやがれ、という気を起こさせてくれなくちゃ、週刊誌は成立しやしないじゃないか」
「わかりました。その記事、ボツにして下さい。ぼくの立場としては、それ以上書き直すつもりはありません」
「おい、きみ。ぼくは何もボツにするとは言ってはいない。ほんのちょっと、色をつけてくれればいいんだ、色を」
「三日分の取材費がもったいないとおっしゃるのなら、アンカーとしてデスクのほうで適当に脚色しといて下さい。データはすべて、そこにだしている通りです」
「おい、きみ」
滝山は呼びとめたが、仲根はもうデスクに背をむけ、さっさと自分の机に戻っていた。
いささか不機嫌である。なりゆきを心配そうに見ていたらしい紺野真弓が、
「仲根さん、食事は?」
「今、出るところだ」
「じゃ、奢《おご》ってもらおうかな」
「割勘《わりかん》なら、穴場につれてってやるぞ。インドカレーのうまい店だ」
仲根俊太郎は現代舎の大部屋を出た。
廊下を歩いてエレベーターに乗って、「開」ボタンを押したまま待っていると、美人記者の真弓が、鈴をお守りにつけたグッチの財布だけをもって、駆け込んできた。
「さっきはずいぶん簡単に引きさがったのね」
「仕方があるまい。喧嘩をしても、解決する場合と埒《らち》があかない場合があるからね。見解の相違、というやつはどうにもならんよ」
「でも、デスクはあとで勝手にあなたの記事を書き直すに違いないわよ」
「それもいいじゃないか。名アンカーだったし、こっちの知ったことじゃない」
「オレにはもっとほかに抱えているテーマが山ほどある、ってわけ。仲根さんって、いつもクールなんだから、憎たらしいわ」
真弓が大きな瞳をむけた時、エレベーターは一階に着いて、ドアがひらいた。
ふたりは外に出た。
ビル街に四月末の陽射しが射していた。もう初夏に近い。四谷三丁目の交差点を渡り、仲根は紺野真弓とビル街の路地に入った。
紺野真弓は、現代舎の紅一点である。白鴎女子大英文科卒の才媛だが、才媛ぶらないところがいい。
むしろ妖精。可愛い小悪魔。そんな印象の美人記者であった。行動力も取材力も抜群だし、男に伍して酒も飲む、といったパンチのきいた美女っ子ぶりが、同業者の間でも評判であった。
仲根はビル街の小路をまがって、一週間に一度は来るなじみのカレーハウス「印度華麗屋」のドアをあけた。
鼻をさすカレー粉の匂い。二人は片隅のテーブルに坐った。俊太郎は飛びっ切り辛口のインドカレーを注文したが、真弓はそこそこのミディアムを注文したあと、
「デスクが怒るのも、無理ないわよ」
ふいっと、眼をむけた。
「え?」
「あのゲラ、私も読ませてもらったけど、ふだんの仲根さんに似合わず、あまり面白くなかったな」
「どういうふうに?」
「だって、土地問題の解説になっているもの。解説じゃつまんないわ。土地代金をめぐる殺人事件なんだから、もっと欲や女や札束をめぐる〈楡《にれ》の木陰の欲望〉ふうに、面白おかしく書くのが本当でしょ。それなのに仲根さんったら、なんだか妙に真面目になって、土地持ちの農家の味方をしているみたい」
仲根は、痛いところを突かれたような気がした。
「ガン新薬戦争、エイズ、大学不正入学、東京湾横断架橋をめぐる陰謀――仲根さんの書くものって、いつもどれも凄いのよね。取材力も筆力も抜群だしさあ。あたし、尊敬しているんだよなあ」
「真弓に尊敬されたって、メシのタネにはならんな」
「黙ってきいて。――それなのにさあ、土地問題とか食糧とか農業がらみの問題となると、どうして急に筆先が鈍るの? 妙に民族派になって、農家の味方づらして、地べた主義で尊農攘夷《そんのうじようい》派で、冴えない記事になるのよね。どうしてなの?」
「冴えなくて悪かったな。おれにもそいつばかりは、よくわからんよ」
「どこか、むきになっているところがあるわよ。弱者、農民の味方、という感じで。今や土地持ちの農民こそ、弱者じゃなくて、新しい大貴族じゃないの?」
そうだろうか、と仲根は窓から見えるビル街に、ふっと遠い視線を投げた。
――東京の一極集中、色々な面で大変である。地価の高騰や住宅政策の不備が指摘され、そのたびに土地に居坐っている農家は悪《あく》。農民から土地を吐きださせろ、とする考え方が横行しているが、それだけでは皮相で、一面的すぎるのではないか、と仲根は思うのである。
首都圏の地価が異常高騰した一昨年から昨年前半にかけ、狂乱地価の原因は、首都圏の農民が土地を手放さないからだ、という声が一部学者やマスコミで、喧しかった。
しかし、仲根は別の考え方をもつ。地価高騰の原因は、人口と資本が東京に過度に集中したことと、ビル用地、オフィス用地不足というかけ声を捏造《ねつぞう》して、銀行や不動産屋が金余り現象を背景に、土地を投機の対象にして買いあさったり、転売して利ザヤを稼いだために起きたものである。
現に、そのあとに次々に暴露されたように、金融機関による企業、地上げ屋への土地購入資金の大幅融資にこそ、狂乱地価のそもそもの元凶があったわけであり、細々と土地を耕している農民に元凶があったのではない。もっとはっきりいえば、地価高騰によって企業の含み資産をふやし、担保力の増大をはかって銀行からの融資を受けやすくし、土地売却によって赤字減らしをして、各企業が円高構造の中の危機を切りぬけ、経済界全体の活性化、内需拡大をはかろうとした中曽根内閣の「民活」「金余り経済政策」によってこそ、東京を中心とするあの狂乱地価現象がもたらされたのである。
そういう本質をぬきにして、マスコミや一部の御用学者が、土地高騰の原因は、首都圏に農民が居坐っているからだといわんばかりの論調をはって、「土地と家を持ちたい」願望のサラリーマンの不満と怒りを土地持ち農民にむけるだけでは、現代の魔女狩りに似ているといえる。
もともと、そこに住んでいた人間は、武蔵野の農民である。首都圏の形成も、人口の爆発的集中も、あとから起きたことであり、一極集中や地価狂騰は農業者にとってはいい迷惑であり、ましてその高騰の元凶とされたり、一方的に追い出し合唱を受けるのでは、白人によるインディアン追いだし政策と同じであるとさえ、仲根は思うのである。
とはいえ、むろん、営農意欲もない人間が、土地の値上がりを待って居坐ってよいはずはない。首都圏、ひいてはこの狭い日本列島の土地問題をどう解決すればよいのか――仲根はそういう問題を提起するために、土地所有者側の「痛み」をもふまえて、記事にしたつもりである。
仲根がそんなことを考えながら黙々と、食事をとっていると、真弓の声が礫《つぶて》のように飛んできた。
「ねえったら!」
「うん?」
「考えごとばかりしていないで、私の提案に、ちゃんと返事をしてよ」
「ええっと、何だったっけ?」
「ンもう」真弓はスプーンをふりあげ、ぶつ真似《まね》をした。「天下の美女が誘ってるのよ。今夜、六本木あたりに繰りださないかって。女に恥をかかせないでよ」
金曜日は晴れていた。
日比谷公園の緑が、初夏の陽射しに鮮やかに波立ち、飛沫《しぶ》いている。村山夏希は日比谷花壇での用事がすむと、花車《はなぐるま》としている荷運び用のワゴン車を店の前に置かせてもらったまま、仲根俊太郎と約束している日比谷パレスへむかった。
夏希が都内にくるのは、毎週一回である。通常の薔薇の市場出荷は、鳥羽悟平の息子の敏明《としあき》が朝、大森、王子、世田谷区用賀などの各生花市場に出荷しているので、夏希が出むくまでもない。
しかしそれとは別に、特注というのがある。西麻布の「みずぐるま」、渋谷の「花季」、白金台の「サン・フローリスト」、自由が丘の「サミエル」、六本木の「花VILLA」、青山の「丸美花園」、日比谷の「日比谷花壇」など、特別に幾つかの有名フローリストから、村山薔薇園で栽培されている数少ない品種や色彩の薔薇を頼まれていて、夏希が直接、運ぶのを仕事としていた。
日比谷パレスは、銀杏並木の右手にある。松本楼とともに、古くからある公園内の喫茶店であった。
はいると、仲根は先にきて待っていた。
「やあ」
窓際の席から手をあげた。
屈託のない笑顔であった。
「ごめんなさい。お忙しいのに」
夏希はその前に坐り、ウエイトレスにコーヒーを注文した。
さて……と、久しぶりに会う元気そうな仲根の顔を見あげた時、何となく懐かしい気分がこみあげ、ひどく安心するような気持ちが、夏希の胸を浸した。
「ご結婚、おめでとう」
その仲根がいきなり言った。「これ、ほんのしるしで、恥ずかしいんだけど」
仲根はポケットから、包装紙に包まれてリボンのかけられた小さな箱を取りだし、テーブルの上にのせた。
「まあ、こんなことしていただいたら、悪いわ」
「なに、ハンカチのたった三枚です。女性へのプレゼントというと、見当もつかなくて」
「いいえ。ハンカチなら、とてもうれしいわ。遠慮なく、いただいておきます」
そう言いながらも、窓外の木立ちに眼をやった夏希の横顔に、どことなし憂いがこもっているのを察したらしく、
「で、相談というのは?」
仲根のほうから切りだしてきた。
促されて夏希は、新婚旅行先で起きた不愉快な脅迫事件や、父が同じ頃、武蔵丘市で凶漢に襲われていたこと。そして帰郷してしばらく経った最近、自分が旅先でレイプされたという悪意の噂が、街中に流されていたり、妙な女から電話がかかってきたりしたことなどを、包み隠さずに話した。
「ねえ。正直な感想を聞きたいんだけど……何だか私の身辺、不穏な気配がするでしょ?」
「ふーん。不穏といえば、不穏。ただのいやがらせではありませんね。その連中、相当、手が込んだことをやっている――」
仲根は眉を寄せて、腕組みをした。
「で、お父さんを刺した犯人というのは?」
「それが、まだわからないのよ。というより、父は刺傷事件自体を、警察に訴えてはいないんです」
「何か、都合の悪いことでもあるのかな?」
「それは、私にもわかりません。もし都合の悪いことがあるとしたら、それは何なのか。黒狼谷とは何のことなのか。私たち一家をもし狙っている者がいるとすれば、それはどういう人たちなのか――」
「そういうことすべてを、ぼくに調べてほしい、というわけですね?」
「はい」と夏希は顔をあげ、強い視線で仲根をみつめた。
「お願い、仲根さん。こんなこと、滅多な人には頼めないし、私一人で思案しても、手に余ることなの。もちろん、仲根さんもお忙しい方ですし、お願いする以上、一定期間、それだけに打ち込んでも生活できるよう、それ相当のお礼は考えさせていただきたいんですけど……」
「あ、いや」
と、仲根はあわてて手を振った。「ぼくは探偵じゃないから、お礼なんてものは、いりません。それに、こういうことは、それだけを専従に調査しても、対象が漠然としていて、うまくゆくとは限りません。ぼくの立場からそれとなく気をつけておいて、一連の事件の背後にある元凶なり、根っこなりを周囲からそれとなく探していったほうが、賢いように思いますね」
「じゃ、やっていただけるんですね?」
と、夏希は幾分、ほっとして念を押した。
仲根は笑い返した。「夏希さんも、ひとが悪いな。そういう話を打ち明けておいて、ぼくが断わるとでも、思っていたのですか?」
「仲根さん、ありがとう……」
言って、夏希はあわててうつむいた。言葉では言い表わせないような安堵《あんど》感が充ちてきて、不覚にも涙を落としそうになったのだ。
「で、その写真、今、そこにありますか?」
仲根は事務的に話をすすめた。
「え?」
「ほら、さっきの話の中に出てきたやつ。長崎のあなたの部屋に押し込んで脅迫した連中が写っている写真というやつですよ」
「ああ。持っています」
夏希はバッグから三枚の写真を取りだした。
仲根は写真を受取った。
「じゃ、折りを見ながらこの三人組の割りだしから、取っかかってみます。ぼくとの連絡方法は、毎週月曜日の正午、四谷の社のほうに電話を入れて下さい。ぼくのほうからおうちに電話を入れるのは、遠慮したほうがいいと思いますので」
「すみません。いろいろと気を使っていただいて」
夏希は肩身が狭い思いがして、そう言うのが精一杯だった。
(いずれ、何らかの形でお礼を考えればいいわ……)
用件が済むと二人は表に出た。
銀杏並木がようやくみずみずしく芽吹き、若葉を繁らせはじめていた。
「ね、何ぼんやりしているの?」
紺野真弓がのぞきこみ、パチン、と指で仲根俊太郎の額を弾いた。
「おい、痛いじゃないか」
仲根は文句を言った。
「だって、考えごとばかりしてるんだもの。私の話にはちっとも、耳をかしてないみたい」
「いや、そんなことはないよ。真弓の話、ちゃんときいているぞ」
「うそ。仲根さんは先刻から、ほかの女のことばかり考えてたわ。それもいつかの人妻のことよ。きっと」
見透かされたかな、と仲根はグラスを取りあげて、バーボンの水割りをひとくち飲んだ。
そこは六本木のカフェバー「ペイトンプレース」。木の香りを生かし、大きな馬車をテーブルやカウンターに生かし、ベンジャミンの観葉植物を配したアーリー・アメリカン(古きよき時代のアメリカ)を思わせるカフェバーである。
今、二人は仕事を終えて六本木にくりだし、馴染みのその店のカウンターに頬杖をついて、ケンタッキーバーボンで喉を潤しているところであった。
「ねえ、白状しなさい。村山夏希さんといったかしら、彼女のことばっかり、考えてたんでしょ?」
真弓が肘《ひじ》をつねった。せっかく仕事帰りに仲根とデートしているのに、仲根がむっつりしてあまり弾まないから、この美人記者、大いにむくれているようであった。
「違うよ。あの人とはきみが邪推するような仲でも何でもないんだ。ただの幼馴染みでね。ちょっと調べものを頼まれただけなんだ」
「そうかな。むきになって否定しているあたり、ますます怪しいぞお!」
仲根と真弓とは、仕事仲間であると同事に、毎週一、二回、新宿や六本木を飲み歩く気の合う酒仲間でもあった。だが今夜、仲根が弾まないのは、たしかに午後、日比谷公園で打ちあけられた村山夏希のことが少し気になって、心ここにあらず、という情況ではあった。
(もしかしたら)
と、仲根は思った。
――村山薔薇園の資産問題が根っこにあるのではないか……?
村山夏希の事件の背後にうごめいている黒い影の構造をそんなふうに考えてみると、一番納得のゆくような気がする。
何しろ夏希の父親は、不動産事業をやっている。人に恨まれることもあったかもしれない。そうでなくても、武蔵丘市自体、東京の衛星都市として、地価が暴騰し、地上げ屋が暗躍しはじめている。どこかに夏希の父と衝突する勢力があったり、彼を憎む人間や、罠《わな》に落とし入れて取引を有利に導こうとする勢力なりがあって、バラ園の広大な土地を狙っている、あるいはそれに近い暗闘の構造が背後に隠されているのではないか。
もしそうなら、仲根とも無関係ではない。この一、二年、ずっと仲根の頭の一角を占めているテーマが、東京への人口の一極集中と土地問題、あるいは、首都圏の巨大化と周辺の農地や農村問題、という構成図であって、それが仲根の脳裡に棲《す》みついて離れないのである。
東京都心部のビル用地争奪戦や、地上げ屋の暗躍に端を発した地価狂騰の波が首都圏全体、さらには地方へと波及しつつある。かと思うと北海道や東北をはじめ、遠隔地では反対に値下がりする地域が出るなど、アンバランスな現象が起きている。いずれにしろこの狭い日本列島、土地問題の解決なしには、膨張する一方の都市問題は片づかないのだし、農村もまた一方的にそこから攻めたてられ、スプロール化し、宅地並み課税を課され、破壊されてゆくだけでは救いようがないし、近い将来、日本列島全体が高密度都市国家になってゆくためのアーバンデザインを考える上に、土地問題は両者にとって避けては通れない基本問題のはずである。
先日、土地代金をめぐる猟銃発砲事件の記事についてデスクとやりあったのも、もとはといえばそこに起因している。仲根としては近郊農村で増えている兄弟間の遺産相続の争いや、土地代金をめぐる肉親間の争いにしても、それをただ興味本位に取りあげるのではなく、それさえも地価暴騰の延長線上にある人間ドラマとして事件を料理したかったのであり、しかしそんな理屈よりも、巨額土地代金をめぐる人間の欲望の確執という視点で書けといったデスクとの見解の相違が横たわっていたのである。
(さて、取っかかりはあの写真だな)
仲根は、夏希から頼まれた調査に取りかかるには、どのへんから、どうすればいいか。
それを考えていた。
あす、警視庁に行って、顔のきく刑事に頼み込み、犯歴者カードをめくってみよう。夏希を脅していた男たちは、案外、プロの脅喝屋たちかもしれないし、たとえ、ほんの暴力沙汰を起こした連中であっても、犯歴者カードに所載されてさえいれば、その所属や正体や素性を突きとめることができる。
「ねえ、俊さんッたら! 考えごとばっかりでは、つまんないわ。これ一杯あけたら、もう一軒、パーッとどこかに行きましょうよ」
紺野真弓がふくれっつらをして、グラスを寄せてきた。
「うむ。そうするか」
腕時計をみると、九時半。仲根にもたしかに、もう少し、飲み足りない気分が居坐っていた。
「あと一軒、行くか、まだ早いしな」
「ええ、そうよ。湿っぽく考えごとをするなんて、ふだんの俊さんらしくないわよう」
(そうだぜ。本当におまえはばかだぜ。他の男と結婚しちまった村山夏希のことをいつまでも考えるより、今夜は気のいいこの美人記者の真弓と、どーんと、楽しくやればいいじゃないか)
二十分後、二人は立ちあがって、カフェバー「ペイトンプレース」を出た。
そのカフェバーの入っているビルは、六本木の表通りにあった。七階である。店を出て二人は、エレベーターに乗った。
幸か不幸か、エレベーターには他に乗客はいなかった。真弓はさりげなく仲根の腕をとっていた。甘いコロンの匂いもする。仲根はその甘いコロンの香りに惹きつけられたように、真弓の顎に片手をあて、すくいあげるように持ちあげて、唇に軽くキスをした。
逃げるかと思っていると、唇は真弓のほうから激しく押しつけられてきた。真弓は息を弾ませ、しがみつくように仲根の背中に両手をまわし、強い力で応じてきたのであった。
引っ込みがつかなくなる――。
物事にはよくそんな時と場合がある。
はじめは軽い気持ちで手をだしたつもりなのに、むこうが本気になってのめりこんできたので、つい、ずるずると――。
俊太郎にとっては、その夜があるいは、そんな按配の夜だったのかもしれない。
はじめは軽い気持ちで、真弓の唇に軽く触れて、すぐ放すつもりだった。しかし真弓の唇が鯉のように喘いで、不意に強く押しつけられてきた時、引っ込みがつかなくなるのを俊太郎は感じた。
積極さの度合からいうと、真弓のほうが強かった。都会のエレベーターは、ドアが閉まると密室である。それがまず、いけなかった。眉間にしわを寄せ、真弓が身体ごとぶつけるようにして激しく応えてくるにつれ、仲根はいよいよ、いい加減には離せなくなった。
(凄いんだな、真弓って……)
いささか、うろたえながらも、仲根はむろん、それに応じた。なぜ、そうしたかはわからない。むくれている真弓を慰めるつもりだったような気もするし、しかしその奥には、代償行為というのではないが、村山夏希を意識することで逆作用する真弓への、酔いのようなのめり込み方にも似ていた。
(いっそ、この真弓と今夜、ゆくところまで行っちまえば、おれは楽になるかもしれないな。村山夏希のことは、あくまで他人事として、クールに、頼まれたことだけを引き受ければいい……)
仲根がそんなことを考えた時、さいわい、エレベーターはすぐに一階に着いた。二人は抱擁の輪を解いた。しかしエレベーターを降りて表の道に出ようとしたところで、真弓の足がだるそうにもつれていることに気づいた。
仲根は肩を貸してやった。真弓はいわゆる腰が抜けたような状態になっていたのであった。
「もう一軒……と思っていたけど、もう飲めそうにないわ。吉祥寺まで送ってくれる?」
「そう思っている。もう遅いから」
「それなら――」
真弓が言葉を切り、それから思い切ったように言った。「タクシー代を倹約しましょ」
「倹約する?」
「ンもう! 鈍いのね」
「ああ。そういうことか」
なにも吉祥寺までタクシーを飛ばさなくても、この近くで泊れる部屋はたくさんある、というわけである。
仲根と真弓は、ロアビルの横から鳥居坂を下った。真弓はほとんど、仲根に寄りかかって歩いていた。二人の間に、ラブホテルという言葉は出なかった。現に六本木には、いかにもそれらしいホテルというのは、あまり見あたらない。
むしろ、オフ六本木といわれる西麻布一丁目から四丁目あたりの、静かな住宅街の中に、何気ないマンションが建っていて、その中にモダンジャズの店がはいっていたり、絨毯《じゆうたん》バーがあったり、そのマンションの幾つかの部屋が、何気ないホテル的部屋であったりする。
そしてまた、そういうこの街の地理や特徴を、真弓はよく知っているようであった。
「ここよ。今夜あたり、空いていると思うけど」
真弓は仲根の腕をとって、さりげないマンションに入って、エレベーターに乗った。
着いたのは六階だった。通路から夜景が見えた。地面に宝石をばらまいたような美しい夜景だった。
真弓は端にある部屋に立ち、鍵をあけて入った。レンタルルームらしかった。
「鍵と会計は月極めで済ませればいいのよ」
最近、キャリアウーマンの女友達同士が、五、六人で都心部に一つの部屋を共同でキープする、というケースがふえているらしいが、ここがその種の部屋であるかどうかは仲根にはわからなかった。
入って、ドアを閉めるとすぐ、二人はまた、むきあった。仲根が肩を軽く抱くと、真弓はそよぐようにしなだれかかってきた。二度目のくちづけにいった。真弓は眼を閉じて応じてきた。かすかな香水の香りの奥に、湿った、あたたかいくちびるがあった。
仲根は軟くそこに捺《お》すように唇をあてた。真弓のそれはすぐにひらいて、喘ぎ声とともに、舌と舌が出会った。舞い、そよぎあうにつれて、二人の脚がふれあい、そこから甘いひびきがたち昇ってくるようであった。
「俊さんと二人っきりになれるなんて、うれしい。今夜は、朝まで放さないから!」
シャワーの音が聞こえる。
真弓が浴室に入っていた。
湯の音を聞きながら、
(今夜のおれは、どうかしているぞ……)
と、仲根俊太郎は思った。
ベッドに腹這って、煙草に火をつける。微かに苦くて、甘美な香り。なんとなく成りゆきだったが、真弓との間はもう引き返せないところまできているようである。
もともと、真弓が以前から好意以上の感情と眼差しをむけていたのは知っている。誘われたこともあった。だが今までは仲根には、今夜のように潔く飛びこむ、という気分になったことがない。
やはり村山夏希の面影が、反作用しているのであろうか。人妻となった夏希の顔が、大輪の花のように頭の片隅に位置を占め、雨にうたれる紫陽花《あじさい》のように憂いをふくんで揺れている分、仲根にはその面影に引きずられないためにも、逆に、相反する重力として真弓という女性の存在が必要なのかもしれない。
なんとなく、そんな気がする。煙草を一本も吸い終わらないうち、真弓が浴室から出て、ベッドにやってきた。
「お待ち遠さま」
(何という軽い響き!)
(そうだ、これでいい……)
胸にバスタオルを巻いた真弓が、ほんのりと桜色に染まった素肌から熱い若さをほとばしらせて、ベッドの中にすべりこんできた。
「寝煙草は、火事のもとよ。ほらほら――」
真弓が仲根から煙草をとりあげ、伸びあがって枕許の灰皿に捻じ消す。その拍子に、あけっぴろげになった腋窩。そこを飾っている艶々とした体毛に、真弓のけれん味のない若さと奔放さが匂っているようだった。
「初夜って、どんな場合も、感動的ね」
「愛人同士にも初夜ってのがあるのかな?」
「あるわよう。今夜の、私たちのように」
言って、なだれかかってくる、という按配の真弓の身体を受けとめた時、仲根の気持ちにも充ちたりた、よろこびといったものの感情が渦巻き、赤い糸を張った。
(そうだ。これでいいのかもしれない。今夜は何も考えずに、この熱い時間の中になだれこめばいい――)
明かりは絞ってあった。
それでも真弓の肌の白さや、身体の弾みははっきりと視野にはいった。バスタオルをはずすと、ふたつの乳房が鮮やかな盛りあがりをみせ、胸の深い谷間に、紅いスタンドの灯影が翳《かげ》りを作っていた。
仰むけに横たわっても、真弓の乳房は裾崩れをみせず、迫力のある標高を保っていた。仲根はその標高の高い部分を、いつくしむように手でなぞった。それから揉んだ。裾野から上にむけて押しあげる、というふうになった。
「ああ……俊さん……」
真弓が震える声をあげた。
「あたし、しあわせよ」
「ぼくもさ。今は何も考えていないよ。真弓とこんな時間をもてるなんて、倖せだよ」
仲根はその白い、ゆたかな乳房の山頂部分をくちびるに含んだ。真弓は声を洩らした。蕾がみるみる硬く尖ってくるのがわかった。
真弓がやがて、不意に起きあがってきて、仲根の首に両手をまわし、眼をあけて小さな声で言った。
「ね。私にも手伝わせて」
「え?」
何のことだい、という顔。
「村山夏希さんっていったかしら。東京近郊で大きな薔薇園をやってるそうじゃないの。私もバラが大好きよ。俊さんがこれから取り組み、追及しようとしているテーマ、私にもお手伝いさせてほしいの」
夏希から頼まれた仕事を、まさかこの真弓に手伝ってもらおうとは、今の今まで、およそ考えてもいなかったので、仲根は正直のところ、びっくりしていた。
「わかってるわよ。俊さんがどうやら、あの人妻に惚れているらしいってこと。それ、文句をいわない。大目に見てあげるかわりに、私にも手伝わせて」
真弓の言い分は、まるで矛盾している。筋が通らないようにみえて、しかしその実、全体としては、ちゃんと筋が通っているのだ。
要するに、「俊さんの力になりたい」――と、彼女はそう言うのである。
「ありがとう、真弓」
仲根は真弓の髪にキスをした。「しかしおれたち、今は、愛しあってるんだぞ。そんな話、あと回しにしようよ」
真弓は眼を閉じた。仲根は位置を楽にとって、真弓の腹部から股間への感触をいつくしんだ。かなり勢いよく繁茂したしげみの感触が手に触った。ひとしきり、その感触を楽しんだあと、仲根の手は真弓の花芯に進んだ。そこはもうあたたかい蜜液をあふれさせていた。
可愛い闇猫――。
真弓はそんな印象だった。
万事に感度がよくて、頭がよくて、気立ても身体もよくて、その上、セックスが大好き、となれば、男性一般としてはうれしい限りではある。
真弓の女性自身は、もう潤み尽くしていた。潤沢な女性を、仲根も好きである。
仲根は今夜、協力したいと言いだした真弓に、そうでなくてもいとおしさを感じていたので、真情に応えてやらねばならないと思った。
自然、仲根は焦らず、鷹揚《おうよう》にふるまう。乳房に接吻しながら、指先で真弓の潤いつづける蜜液のなかを愛し、その泉を汲んで、谷間の百合の芽を優しく掘りおこしたり、そこに蜜をまぶしたりする。
真弓は熱中してきたようだった。朱い唇があえやかにひらいて、よろこびの声を洩らしつづける。
「すてきよ……俊さん」
真弓は腰をふるわせた。
「そうやられていると、変になりそう」
耳たぶに接吻してやると、
「ああッ」
真弓は軽くのけぞった。
耳のうしろ、うなじ、耳たぶに愛を送りながら、茂みの下を充分に耕しほぐすうち真弓は声を噛みしめて、のたうちまわる、といった状態になった。
「ひどい……あたし……変になりそう」
それは実際、糸を抜かれた人形が、白いシーツの上に投げだされて、手や足を勝手にばらばらに動かせている、といった具合の眺めであった。
(思ったとおり、真弓はすべてにわたって、感度のいい女性のようだ)
「俊さん……お願い……私をこれ以上、苦しめないで……辱しめないで……もう来て、お願い」
真弓は喘ぐように訴える。
仲根は、なにも真弓を苦しめているつもりでも、辱しめているつもりでもないが、その言葉に、真弓の充分な準備段階の完了を感じて、本格的なふるまいに取りかかった。
あたたかく濡れた世界に、静かにすべりこんでいった時、真弓は斬られるような、するどい声をあげた。
するどいがしかし、艶めかしい声であった。のけぞった白い首すじの眺めも、いとおしかった。
仲根はそのいとおしいものを全身で抱き、励みだしながら、背後に何かしら得体のしれない、大きな車輪が回りながら近づいてくる音を、背中のあたりに聞いていたような気がする。
第四章 悪魔の巨金
村山夏希は足を停めた。
病院の廊下であった。
父、虎三を見舞うため、個室のほうへ歩いている途中、ある病室の前を通りすぎようとした時、中から洩れてくる声に異様な熱気と雰囲気が感じられて、一瞬、凍りついたように夏希の足が止まったのである。
「ほらほら。お父さん! しっかりして!」
女の声であった。「お父さん、ほら、はっきり言い遺《のこ》すことがあるでしょ。だめよ、呆《ぼ》けたままじゃあ!」
言い遺す、というのは、人間の臨終の場を物語るものではないだろうか。
あまりの切迫した声に、何気なく表札を見あげると、久保田忠助、というネームカードが、病室の入口に貼ってあった。
久保田忠助といえば、夏希の近所の農家の主人である。一週間前、農事組合の旅行先の湯河原温泉で、宴会のあと、入浴中に脳溢血で昏倒し、救急車で病院に運ばれたという話をきいている。その後、地元武蔵丘市の病院に移され、入院加療中であったが、病状は芳しくないという話をきいていた。
(まあ、お可哀想に。ますます具合が悪いのかしら……)
夏希が心を痛めながら歩きだそうとした時、その病室のドアがぱたーんと激しく開き、血相をかえて一人の女が飛びだしてきた。
久保田忠助の長女で、市内の銀行員に嫁いでいる栄子であった。一男二女の子持ちで、ふだんはエリートサラリーマンの奥様然とした栄子が、この時ばかりはかなり取り乱して、きょろきょろと廊下の左右を見回していたが、
「あ、夏希ちゃん!」
不意に夏希に視線を止めた。
「いいところで、出会ったわ。ちょっと、ちょっと、お願い!」
「えっ」
何をお願いされるのか、見当がつかなかったので、夏希がびっくりしていると、栄子はぐいぐいと腕を掴んで、病室に引っぱり込んだのである。
「あのね、お願い。今、お父ちゃんが危ないのよ。それで、ほんのちょっとだけでいいから、枕許に立っていてほしいの。夏希ちゃんにも証人になっていただこうと思って」
栄子は、耳許で囁くようにそう言った。
それにしても「証人」という言葉は重い。夏希には意味がわからなかった。が、なんとはなしに、異様な気配を感じた。
夏希がひっぱり込まれた病室には、数人の男女がいた。いずれも久保田忠助の家族や親戚の人たちだが、中にはまるっきり夏希の見知らぬ人々もいた。
久保田忠助は、どうやら、もう危ないらしい。医師が脈搏を取っており、若い看護婦が傍で何やら記録していた。
「あのね、夏希ちゃん。証人というのは、危急時遺書の証人なのよ。ちょうど、あと一人足りなかったので、引っぱりこんだんだけど、ごめんなさい。あなたはそこに立っているだけでいいわ」
久保田家の長女の栄子が、そう説明した。いかにも銀行員の妻らしく、父親の臨終の極みだというのに、驚くほど冷静で、しっかり者らしい物腰であった。
そういえば、栄子の夫の銀行員だという男が、臨終の床にある忠助の枕許に、半腰になって顔を寄せて盛んに話しかけて、何やら喋らせようとしているところであった。
危急時遺書というのは、民法第九七六条にある。土地や家屋敷、山林など財産をもつ人間が、事故や急病で倒れ、遺言状を作成していなかったり、遺産分配についての明確な意思表示をしていなかった場合、死ぬ間際に第三者の証人三人以上が立ちあって、本人から口授されたものを、証人の一人が代筆するもののことである。
「ほらほら、お父ちゃん、しっかりしてよ。これから私がお父ちゃんの意思を代弁して、第三者に口述筆記してもらいますからね。お父ちゃんはそれをよいとか悪いとか、意思表示をしてちょうだい。ね、ただ肯くだけでいいんですからね」
栄子が病人に顔を寄せた。
何という残酷な眺めだろう。
脳溢血でもう死にかけて、意識も混沌《こんとん》としていて、口をだらんとあけている久保田忠助の頭といわず、顔といわず、栄子がぺたぺたと叩いて、自分の思うとおりの危急時遺書というものを作成しようとしているのであった。
「ほらほら、お父ちゃん! しっかりしてよ。谷津田の四反は私たちが頂くわよ、いいわね。それから、本家の家屋敷と窪と河内の四反は跡取りの孝介に委せるけど、天王寺と一本松の桑畑のほうは、富子と義則にも分けてあげるけど、いいわね? え? 返事をして。お父ちゃん、うんと言って!」
栄子が、よだれをたらした忠助の頭髪を握って、がくがくと頭を揺すっている。「お父ちゃん、返事をしてよ! 肯けばいいのよ」
栄子がそんなふうに誘導訊問しているところへ、血相をかえて飛びこんできたのが、跡取りの長男の孝介であった。
「姉さん! 何という勝手なことをするんだ! たった四反しか貰えないんじゃ、おれは農業ができなくなるじゃないか!」
「あらあら、孝ちゃん。あなたは運送会社に勤めていて、農業などやってないじゃないの。遺産はみんな、均分相続よ!」
「姉さん、何を言うんだ! 全部、耕作したって百姓では食えないから、おれはトラックの運転手をしてるんだ。そのかわり、家の農業は嫁の菊江がちゃんと、がんばってるじゃないか。それをみんなでむしり取ってしまおうとは、どういう了見だ!」
「あらあら、菊江さんはよそからきたお嫁さんでしょ。黙ってればいいの。うちの財産をよそからきた嫁さんなんかに、渡しませんからね」
「おい、姉さん! 鬼みたいなことを言うな。一番苦労してきたのは、菊江なんだぞ」
「苦労させたのは、あなたに甲斐性がないからでしょ。とにかく、お父ちゃんは今、危ないのよ。そこ、どいて!」
言い争う二人に、夏希は思わず、顔をそむけたくなった。夏希はたまたま通りかかって引っぱり込まれただけだが、これが現実というものかもしれない。
――お互い助け合わなければならない肉親なのに、脳溢血で亡くなろうとしている人間が、東京のすぐ傍に農地を所有する農家の主人で、その農地が評価額三十億円とか五十億円とかするため、肉親兄弟が金に群らがる亡者のように、その臨終の枕元で争って自分に都合のよい「遺書」を作成しようとしているのだ。
夏希はいたたまれなかった。「証人」の役目が済んだかどうかはわからなかったが、そっと、その病室を出た。
父、虎三は元気だった。
笑顔をみて夏希はほっとした。症状の経過も順調のようである。傍に蓮見康子がいなかったせいか、虎三は自分でベッドに起きあがり、夏希にむかって軽口を叩いた。
「みろ。腹膜炎も併発せずに、なんとか峠を越えたようだぞ。医者はあと一ヵ月と言っているが、そんなに長くはかからん。わしはもうすぐ退院するつもりだぞ」
「あら、勝手なことを言うものではないわ。肝臓や血圧も相当、悪いんだから、この際、お父さんは気長に養生するべきよ」
ベッドに坐った虎三の肩に浴衣をかけてやりながら、日増しに元気になってゆく父に、夏希はひと安心した。
たった今、久保田忠助の部屋で、危急時遺書の作成という残酷な場面を見てきたばかりだったので、虎三にはあんなふうにはなってもらいたくはないと思った。
「おまえたちはうまくいっているか? 雅彦君は優しくしてくれるか?」
虎三が不意に訊いた。
「ええ、なんとか――」
夏希は曖昧に微笑した。「薔薇園のほうはいたって順調よ。悟平さん夫婦ががんばってくれているし、雅彦さんも優しくしてくれるし、家のことは何も心配しないで」
「そうか。ふむ」
それならいいが……という言葉を、そこに置きたかったのかもしれない。が、虎三は心配顔をすぐに笑顔にかえて、「うん、そうだ。わしが退院したら、二組で伊豆あたりに温泉旅行にでもゆくか? おまえたちもたしか、新婚旅行を途中で切りあげてきたという話だったじゃないか」
二組というのは、夏希夫婦と、虎三と康子のことらしかった。父はもうすっかり康子と夫婦にでもなるつもりのようであった。
「ええ、楽しそうな話ね。考えておくわ」
――病院から戻った家に、薔薇園でパートで働いてくれている近所の主婦の坂本智津子が待っていた。
「あら、どうしたの?」
夏希が声をかけると、
「すみません。ちょっと、ご相談がありまして」
「どうぞ。おはいんなさい」
夏希は智津子を応接間に通した。
先日、パート代三ヵ月分の前借りを申し込んだ主婦である。希望額を用意してやりながら、いったいどうしたのかしら、といつも心配になっていたが、智津子は詳しい事情は話さなかったのである。
「変ね。どうしたのよ。智津さん、いったい。泣いてばかりいないで、話してごらんなさい」
「はい」
智津子は頷いた。「たいしたことじゃないんです。本当に大したことではないんですが……夫が、帰ってこないんです。もう三週間も……」
「まあ」夏希は泣きはらした智津子の顔をみた。さほどの美人とはいえないまでも、いつもは端正な白い美しい顔なのに、面やつれしたその顔の後ろには一体、何があったのか。
智津子の夫、坂本兼造は三年前、義父が亡くなり、夫はその遺産相続で評価額四十億円もの巨額遺産を相続した。どうやら事件は、その遺産相続に絡んでいるらしかった。
智津子は話しはじめた。
――彼女の夫、坂本兼造の父親留吉が亡くなったのは、六十年十月だった。宅地、畑、平地林など約二万平方メートル近い土地を、兼造は相続することになった。当時の土地評価額にして、約四十億円であった。
東京都武蔵丘市郊外で、これだけの遺産を受け継ぐと、相続税が大変である。一度ではとても払い切れない。税理士に相談して見積もってもらうと、十五年間分納で、相続税が七億五千万円もかかることがわかった。
たとえ分納でも巨額であり、農家所得ではとても払えない。どうしたらいいかと思案投げ首の時、相続税コンサルタントと称する楡山貴司という男が近づいてきた。
この楡山貴司は、武蔵丘市に公認会計士事務所をもつ税理士であり、傍ら建材販売店など経営する顔役だった。以前から兼造とは知りあいだったらしく、兼造が巨額の遺産を相続すると知った時から、親切に近づき、
「相続税はやり方次第です。まるまる十億円近くも払うなんて、愚の骨頂。私なら上手な節税方法と、負担にならない納め方を知っている」と、もちかけてきた。
「でも脱税はいやだよ。あとで、マルサがうるさい。法律に触れないことなら――」
と、兼造はその話にのったのである。
楡山が授けた第一の方法は、「遺産を残した故人の債務は相続分から控除される」という相続税法上の規定を生かすことである。
つまり、亡くなった父、留吉には大きな借金があったように見せかけることだ。たとえば、二億円の借金があったことにすれば、この分は控除される。そのため、留吉は生前、株や先物取引に手をだしていたが、失敗して大穴をあけ、楡山が経営する建材店「美しが丘産業」から約二億円、借金していた形をとって、その借用証などを揃え、それで約五千万円の相続税を浮かしたという。
楡山が授けた第二の方法は、会社設立であった。土地を担保に銀行から金を借り、砂利会社を作れば、その利益だけで十五年間にわたって、相続税を分納してゆけるので、先祖代々の土地は一坪たりとも、切り売りする必要はない、というのである。
「砂利会社のノウハウは、私が教えます。砂利もまた、自分の建材店を通して、建設会社に販売してあげます。なんなら、銀行から資金導入する時の手続きも、会社設立の手続き一切も、委せてもらっていい。私は税理士だから、どこの金融機関にも顔がきく」
楡山はそう言って、胸を叩いた。たしかに楡山は税理士業を開業している顔役だから、心配はない、と兼造は信用し、導入預金や会社設立の際の必要な書類を作るために、印鑑や白紙委任状を預け、約半年後には市内の相模川の畔に、「昭和産業」という砂利会社が設立された。
代表取締役社長はむろん、坂本兼造であった。しかし、武士の商法ならぬ、農家の商法では、営業がうまくゆかない。実質的には専務に就任した楡山貴司が通常業務をおこない、その会社は運営されていたようである。
ところが、約一年ほどたって、兼造はおかしい、と思いはじめた。会社から、税金支払いにあてるはずだった利益がまわってこない。きても僅かの金である。
はて、と不審に思って、会社の内情や土地の登記簿などを確かめてみると、名義がなんと、「美しが丘産業」に変わっている土地があった。その会社は楡山の会社である。楡山を信用して渡していた印鑑や白紙委任状を、いいように使われていたわけであり、他にも調べてみると、たくさんの農地や山林が、楡山名義に変わって、勝手に処分されていることがわかったのである。
坂本兼造の被害額は結局、今年の春先までに判明しただけでも、総額にして約三十億円にも達していた。兼造は相続税コンサルタント楡山にまんまと乗せられ、約五千万円の節税はできたものの、その後、修正申告で十五億円をとられ、さらに相続した土地の大半を楡山貴司に奪われていて、勝手に転売された形となった。
――智津子の話をきいた夏希は励ましの声のかけようもなく、まあ、と息をのんでしまった。
「で、その楡山という男は、どうしたの?」
「土地転売や詐欺が発覚する前に、姿をくらましてるんです。駅前に税理士の看板をあげていましたが、もともとこの土地の人ではなく、土地代金というゴールドラッシュに沸く新興都市で荒稼ぎをするために流れこんできた知能犯ではないかといわれています」
「警察には?」
「夫が届けて手配してもらっているようですが、今のところ、行方がわかりません」
「それにしても――」
夏希は暗澹とした。
「でも変ね。ご主人、そんな男に、そんなにころっと欺されたなんて」
「ええ。私は何度も、信用するのはよしなさい、と注意しました。でも、夫は忠告をききませんでした。というのも、その楡山が夫に取り入ってきた手順というのが、実に巧妙で、うまかったんです」
参考までに、夏希は心に留めておくことにした。そのやり方は、こうであった。
坂本家の遺産引継ぎの境目に乗じて、一芝居を企んだぐらいだから、楡山は以前から計画的に兼造に接近していたふしが窺える。税理士のくせに、暇があると世間話をしながら畑仕事を手伝い、時には兼造を街の酒場にも誘った。支払いは全部、楡山が持った。駅前の縄のれんが、スナックになり、バーになり、酔いつぶれた兼造に女性をあてがうようになった。兼造はいつの頃からか、すっかりその酒場の女の虜《とりこ》になっていたというのである。
酒と女で陥落させる。
いつものパターンである。
またかというほど、世の中の男は酒色と饗応の接待に弱い。ひとつには、酒席の誘いを断わるのは悪いと思うし、一杯入るとエスカレートするし、魅惑的な女性と一夜をすごしてしまうと、つい夢中になる。それまで真面目だった人間ほど、ころっとその女の虜になってしまったりするケースが多い。
坂本兼造もまた、そうであったらしい。夏希など、女性の立場からみると、バカのように思えるが、でも傍ら、金持ちの独身OLや未亡人が誘惑されて男に入れあげたりするのも、男女ところをかえた同じ姿であり、人間は所詮、目先の欲望に流されやすい浅ましい存在なのかもしれない。
「ねえ、智津さん。ご主人が戻ってこない、とあなた、最初に言ったわね。もう三週間というと、重大なことよ。何か、思いあたることはないの?」
想像できないわけではない。相続税を浮かすための工作で、反対に三十億円にものぼる巨額の土地被害にあったのでは、人生にやる気をなくし、兼造は限りなく自堕落な心境になっているのではないか。
夏希がそう考えた時、智津子が悲しそうな声で、斬りすてるように言った。
「あの人は……ばかなんです。まだ懲《こ》りずに、女のところに入りびたっているんです」
「武蔵丘の酒場の……?」
「いえ。今はもう地元ではないみたい。去年あたりからせっせと、新宿の酒場に通っていたんです。土地被害にあって以来、家業に身が入らず、家中の金をかき集めては、東京に飲みに出かけ、外泊することが多くなったんですけど、それが……とうとう……」
帰ってこなくなった、というわけである。
智津子の話によると、兼造の行状はひどいありさまのようである。初めは土地被害を苦にして、それを忘れようと酒に走ったようだが、今では酒色それ自体に溺れ、家の農業も会社勤めにも意欲を失い、僅かに残っていた田畑も切り売りして、まとまった金ができると、地元の人に顔を見られないよう、わざわざ新宿まで出かけていって、キャバクラやソープランドに入りびたり、その種の女性のアパートにまで転がり込んでいるようであった。
夏希は溜め息をついた。
愚かしくも、痛ましい話である。
智津子の家は、もはや崩壊寸前家族といえるのかもしれない。同じ小規模の田畑でも、東北や九州なら、何のこともないだろうに、なまじ東京近郊だったために、四十億円もの巨額の土地遺産ということで、その土地を狙われ、ふりまわされ、兼造の家はいま地獄の業火にさらされているのではないだろうか。
「ね、しっかりするのよ、智津さん。今はあなた、一番大事な時なんだから。香保ちゃんや聡君たちのためにも、あなたがこの際、しっかり家を守んなきゃあ――」
その日、夏希は智津子を励まし、幾らかのパートの前借りを渡して、送りだした。
――病院での危急時遺書といい、坂本家を襲った土地ジャックといい、今日は何と財産絡みの事柄を見聞きしなければならなかったことか。やはりそれだけ、周囲に土地をめぐるトラブルが多発しだしたということである。
夏希の身辺に起こりつつあることが、もしそういう性質のものだとすれば、気をつけなければならない。そうだ、あす、仲根俊太郎に電話をかけて、それとなくその後の様子をきいてみよう、と夏希は思った。
智津子が帰ったあと、夏希はバラ温室を見回って気持ちを鎮め、家の後ろの夕暮れの丘に登った。夕靄の漂いはじめた眼下の平野が、夏希の眼にはなぜか、傷だらけで眠りにつく憂愁平野であるように思えた。
信号が青に変わった。
仲根俊太郎は大勢の人波とともに、横断歩道を渡りはじめた。
新宿の靖国通りであった。横断歩道の半ばまできた時、むこうからくる人波の中に、一つの顔をみつけ、おや、と足を停めた。ふり返って確かめると、背恰好もよく似ている。
若い男であった。堅気のサラリーマンではない。背が高く、怒り肩の、少し崩れた地回りふうの恰好と、サングラス。
(写真の男ではないか!)
仲根は直感したのだ。
サングラスをはずせば、夏希のホテルの部屋に押し入ったという三人組の、一人の顔のような気がした。
駅のほうにむかっていた仲根は、すぐに踵《きびす》を返し、顔を確かめるために男の後を追った。横断歩道の信号が黄色に変わり、大勢の人波があわただしく、掃きたてられてゆく。
男は区役所通りに入った。
仲根はふつうの通行人を装って、見つからないよう、その後を追った。男は通りを一ブロック歩き、風林会館の前まで来て、そのビルの一階にある喫茶店に入った。
仲根はためらわず、その喫茶店に入った。
仲根とその男を結ぶ線は、今のところ何もないので、たとえむこうから顔を見られても、どうということはない。それでも一応、用心して二つ隣の観葉植物の陰の席に、仲根は顔を隠すようにして坐った。
男はまだサングラスをはずしてはいない。その素顔を確かめると同時に、喫茶店でどういう人間と会うのかも、見届けよう、と仲根は思った。
「いらっしゃいませ」
ウエイトレスが水とおしぼりを運んできた。
「アイスコーヒー」
頼んで、おしぼりで顔を拭いた時、幸運だったな、と俊太郎は呟いた。
しかし、ただの偶然ではない。一千万人以上もの人間が密集するこの東京で、そう簡単にめざす人間と、横断歩道の途中でばったり行きあうなんて僥倖《ぎようこう》は、あるものではない。たった今、仲根はある手蔓から調べた場所に赴き、その不動産屋の戸が閉まっていて誰もいなかったので、諦めて駅のほうに引き返そうとしていたところであった。
(やはり、ここまで追跡したのは、間違いではなかった。あいつらは、このあたりを根城にする地上げ屋か、地回りかもしれんぞ)
仲根はそう思った。それならあの男がどんな人間と会い、どこにゆくのかを徹底的に突きとめてやろう、と仲根は思った。
静かな音楽が流れていた。
目抜き通りの喫茶店なので、店内には結構、入れかわり立ちかわり、男や女が出入りしているが、めざす男はスポーツ紙を広げて悠然と足を組み、煙草をくゆらしてコーヒーを飲んでいる。
すぐには、待ち人らしき者は現われなかった。サングラスをはずすふうでもない。こうなると我慢比べだな、と仲根は思った。
仲根俊太郎は、日比谷公園で夏希と別れた翌日、警視庁を訪ね、懇意にしている刑事をくどいて、管内での犯歴者カードを見せてもらった。が、紺野真弓と交代で、まる二日がかりで膨大なファイルをめくったが、村山虎三のところに送られてきた写真に写っている男は三人とも、ファイルにはなかったのである。
つまり、前科はないのだ。それで、少しはほっとしたが、見当違いとあれば、作戦を変更せざるを得なかった。
現代舎に戻って、不動産や土地取引関係のトラブルや事件を扱った新聞や雑誌のファイルをめくっているうち、今度は運よく、一人だけ資料の中に顔写真が出てきたのだ。
新宿や赤坂一帯での地上げ紛争をめぐる記事の中に、その男の顔があった。記事によると、四谷にある藤城組という建設会社の下で働いている地上げ屋の団体「暁興業」に所属する暴力団員まがいの男で、河野又造《こうのまたぞう》という名前であるらしかった。
その「暁興業」は通常、不動産業を営んでおり、新宿区役所通りの古ぼけたビルの中に「幸福住宅社」という、これまた古めかしい名前の事務所をもっていた。事務所といっても、表のガラス戸に、ところ狭しとマンションやアパートの物件案内の貼り紙が貼られているあの手の、ふつうの不動産屋である。
それで仲根は今日、物件相談者を装って訪ねてみたのである。しかしあいにくガラス戸は閉まっていて、無人だったのである。
仕方なく引き返そうとした時、先刻、横断歩道で出会ったのだ。男はオフィスを閉めて、外に用足しにでも出て、喫茶店で誰かと待ちあわせている、という感じであった。
「お待ちどおさま」
やがて声がしたので、仲根が新聞から顔をあげてそちらをみると、河野の前に一人のすらっとした女が現われ、むかいの席に坐ったところであった。
仲根は張り込み中の刑事のように、そのふたりから注意を怠らなかった。
――はじめて標的に近づき得た、という予感が胸の中で跳ねた。
河野の前に坐った女は、薄化粧だが、垢《あか》ぬけしていて、いわゆる水商売ふう。ただの愛人との待ちあわせだったのか、と仲根は少し落胆したが、まてよ、とも考えてみた。
あの女はもしかしたら、夏希にいやがらせ電話を入れた女ではないのか。そうなると、三人組の共犯者か仲間ということになる。
いずれにしろ、正体を突きとめてやるまではここを動かないぞ、と仲根は思った。
二人は顔を寄せて話しているので、仲根のほうにまで話し声はきこえない。困ったな、と仲根は思った。
そこは喫茶店なので、いずれ二人は席をたつはずだ。河野の行先も突きとめておきたいし、女のほうの正体もこの際、掴んでおきたい。店の前で別れたりすると、俊太郎一人では両方をマークすることはできなくなるのだ。
取材ではふつう、尾行まではやらない。国会担当や芸能記者が、時と情況に応じて、マークする大物政治家や大物女優をつけ回すこともあるが、それは「〇〇番」といって、いわば「密着取材」「激写同行取材」であって、「尾行」ではない。
尾行という言葉には、どこやら、戦時中の特高や現代の刑事、あるいは興信所の社員のような、何となく暗いイメージがつきまとう。
(しかし、やってみるか。この機会を逃すと、あの写真の男とめぐりあう機会など、めったにないかもしれない……)
仲根は思いたつとすぐ、席から立ちあがって電話口のほうに歩いた。現代舎に電話すると、都合よく紺野真弓が席にいた。
「や、紺野君。今、手はあくかい?」
小声で話しかけた。
「あかないわけではないけど……どうして?」
「うむ。ちょっと新宿までタクシーを飛ばしてきてくれないか。例の件で、手懸りの人間に接触したんだ。その男は今、女と会っている。場合によったら、これから尾行ということになるかもしれん。助っ人を頼みたい」
「私も今、締切りを抱えて忙しいんだけど……他ならぬ俊さんの頼みではね。いいわ、すぐタクシーを飛ばしてゆきます。それで、場所は、どこ?」
仲根が現在地の喫茶店の場所を教えながら、なんとはなしに監視対象のほうに視線を走らせた時、あっと、仲根は驚いてしまった。
二人の男女が、席から立ちあがったところだったのである。
仲根は握った受話器に、「紺野君、もういいよ。間にあいそうにない」
そう言い、あわてて受話器を置いた。席に戻って、伝票を握って出口にむかおうとした時、二度目の驚きに見舞われていた。
レジでは女のほうが金を払っている。男はもう外に出ていって、どこにも姿が見えなかったのである。
(うまく逃げられたな……)
という思いがした。しかしまだ、女のほうが残っている。女を追ってやろう。
仲根はすぐに方針を切りかえた。
仲根が金を払って表に出ると、横断歩道の信号の前に女が一人、立っていた。男はやはり、どこかに消えたようだ。信号が青に変わり、車道を横ぎって区役所通りをまっすぐ、女は歩いてゆく。
しかし、幾らも歩かないうち、右に曲がって小路に入った。その小路たるや、細い道の両側にぎっしりと酒場、小料理屋、うどん屋などが詰まっている典型的な飲み屋街だった。
柳など一本も植わっていないのに、柳小路。そのあたりの一画は、終戦直後にできた焼跡闇市ふうの飲み屋街のまま、今まで繁栄していた幾筋かの小路なのだが、さすがに近年、地上げ屋に買占められて、もう半分くらい、解体屋が入って建物が取り毀されはじめて、ブルドーザーで整地されつつあった。
だがあと二筋だけ、小路が残っている。女はその小路のなかに歩み入ったのである。
仲根は表通りの煙草屋の角に佇んで、視線だけで女の姿を追った。女は小路の中程の、「真知子」と看板のある右手の小さな小料理屋に入っていった。
昼間だから、店は開店しているわけではない。女はその店の、若ママあたりだろうか。地上げ屋に買占められつつある一画で、まだ営業しているらしいその店のありようが、何とはなしに気になった。
しかし、昼間なので客を装って入ることはできない。どうするか、と考えているうち、そうだ、と仲根は思った。
小路に入った。店は、半分は廃業して人気がなかった。「真知子」のむかいの店のドアに手をかけてみた。意外にもドアは、すっとひらいた。
中は無人。廃家、いや廃店だ。仲根はその二階にのぼった。窓をあけた。あっと、顔をひっこめた。小路は狭いので、向かいの「真知子」の二階の部屋がすぐ傍に見えたからだ。
「真知子」の二階の窓も開いていた。そこは女の部屋のようだった。この手の飲み屋街の常で、一階が店で、二階は経営者の居住区。どうかすると、戦後しばらくは、その部屋がそのまま客に肉体を売る場所となっている特飲街というものも多かった。
そんな構造のせいか、女の部屋には何となし、官能的な匂いがあった。片隅に鏡が置かれ、その鏡にむかって今、女がしどけなく坐って化粧を直しているところだった。
男が一人、その後ろに寝そべっていた。腹這って、所在なげに煙草を吸っている。でもその男は、仲根が探している「写真の男」ではないのである。
「ねえ。あんた、さあ」
女の声が聞えた。仲根のいる場所とは小路一筋しか離れていないので、声はきこえるし、表情も手にとるようにわかるのだ。
「ねえ、あんたったら」
女は鏡に向かって口紅を塗り直しながら、男に声をかけている。「いつまでもぐうたらしていないで、たまには稼ぎに行ったらどうなの? 私の部屋でいつもごろごろされていると、くさくさするわ」
文句を言われている男は、不思議な印象をもっていた。
材木店か米屋の若旦那が女に惚れこんで、入れあげて自堕落に転がりこんでいる、という印象であった。
「何とか返事をしたら、どうなの。ごろごろしてばかりいないでさあ」
「そんなことを言っても、おめえ」
男がはじめて、口をきいた。「稼ぎに行けといってもおめえ、おれに何ができるんだ。畑仕事の合い間に、運送会社でトラックの運転手をしたり、スーパーのガードマンをしていたくらいが関の山だぞ。そんなけちな仕事をしないでもいいように、金はちゃんと、持ってきてるじゃないか。文句を言うな、文句を」
その様子だと、どこやらの土地成金ではないか、と思われた。
その男がむっくりと起きあがり、鏡台の前の女を睨みつける。
「金は渡してるじゃないか。一ヵ月や二ヵ月くらい、働かなくてもすむように三百万円も渡してるじゃないか。おい、真知子。あの金はどうした」
「ふん。お金なんて、いつまでもあると思っているの? この入り用の多いご時勢、現金なんかあっという間になくなるわよ」
「誰かよその男に渡しているんじゃあるめえな」
「渡しはしません。店の維持費や借金の穴埋めや新規開店の準備に、必要なのよ。情夫《いろおとこ》ぶって居坐るんなら、あんたも少しは働いたら、どうなの」
鏡にむかった女は、なかなか手厳しい。ふりむきもせず、男に言葉をポンポン、投げつけていた。
「働けといっても、四六時中、酒なしではいられない男にトラックの運転手など、できるかい。守衛だって、ガードマンだって、酒飲みながらできる仕事じゃあるめえ」
「それがわかってるのなら、お酒なんか、もうやめればいいでしょッ」
「なんだとお!」
男が女の肩を掴んでにじり寄った。「おれにとことん、酒を飲ませてアル中にさせたのは、どこのどいつだ。おれをそんなぐうたらにしたのは、どこのどいつだッ。おれを誘惑して、腑抜けにしたのはどこのどいつだッ」
女は男の手を振り払った。「ふん、何さ。よくも自分で腑抜けだなんて、言えるわね。とにかく、お金を持ってきてちょうだい。武蔵丘の家に帰って、残っている田んぼの一反も売ればいいじゃないの。私だって、早くここを立ち退いて、新しい店をださなきゃならないのよ。いつまでも色男ぶるのなら、一億円ぐらい、耳を揃えて持ってくればどうなのよ!」
「おい、真知子ッ。おれをこれ以上、地獄にでも突き落とすつもりかッ」
「それがいやなら、出て行ってちょうだい」
「おい! 真知子ッ」
男はにわかに立ちあがって、女の髪を掴み、肩を掴んで畳の上に押し倒そうとした。女の悲鳴があがり、二人はもつれあって畳に倒れた。
――そこまで見てとって、仲根は窓を閉めた。それ以上、見る必要はなかった。痴話喧嘩から始まって、今に二人は情事にのめりこむだろう。
それにしても、武蔵丘という地名や、土地代金という言葉が、いやに気になった。
――夜、仲根はその小料理屋「真知子」の暖簾《のれん》をくぐって、ドアをあけた。
カウンターがあるだけの、小さな店であった。三人、先客がいる。俊太郎はその一番奥の空席に坐った。
「いらっしゃいませ」
昼間、見た顔が笑顔をむけた。でも、むこうは仲根の顔を知らないはずである。
「はじめての方ね」
「ああ。ビール貰おうか」
「はいはい。ドライ?」
「うん、何でもいいよ」
若ママの真知子が差しだしたタンブラーにビールを一杯受け、仲根は一気に飲み干す。
「この界隈、あと僅からしいね。名残り惜しくなって、覗いてみたよ」
「最近は、そういうお客さんが多いのよ。柳小路の灯も、あと半年で消えてしまうわ。今、営業しているのは、うちを入れてたったの六軒だけですもの」
「ママは古いのかな」
「そうでもないわ。八年くらい前、ここの権利を買って商売をはじめたんだけど、今はもう地上げ屋さんに追いたてをくって、あわてているところ」
真知子は明るく笑った。
傍でみると、掃き溜めに鶴、といっていいくらい、良い女である。なるほどどこかの土地成金が、この色香に溺れるのも無理はない。
ビールが焼酎に変わり、それも三杯目。飲みながら仲根は、土地をめぐる悶着や事件となると、すぐに思いだす自分自身の、ある辛い記憶を思い返していた。
仲根俊太郎は、昭和三十四年、武蔵丘市郊外の生まれである。戦時中のことは知らない。父は南方から戦病を得て引きあげ、家の農業を母親に委せて、市役所に勤務していたようだが、仲根が四歳の時、病没している。
それ以後、仲根の母親は、いわば長い間、後家のがんばりで農地を守っていたわけである。そんなある日、軒下に見知らぬ男が立っていて、
「東京から来た者ですが、仲根君とは戦友でした。近くにきて、彼が亡くなったことを知って、びっくりしました。せめて、ご冥福を祈らせて下さい」
――線香をあげたい、と申し出たのである。
母親は涙を流して喜んだ。それから山崎というその男は、たびたび仲根の家に現われ、線香をあげがてら、農作業を手伝ったりして、すっかり仲根の母、宏子の信頼を得てしまったのだった。
母の宏子はその頃、四十代の半ばだった。夫の戦友だというその山崎という男に、何かと相談に乗ってもらっているうち、二人が男女の仲に進むのは、あるいは時間の問題だったかもしれない。
仲根宏子は当時、自宅隣の平地林約八百五十平方メートルの境界確定をめぐり、高橋という隣家と紛《も》めていたが、山崎は、物事ははっきりさせたほうがいいと言って民事訴訟を起こさせ、それを手伝って勝って以来ますます信用を得て、宏子は山崎を新しい夫のように頼りにしていたのだから、そのうち印鑑や土地関係の証書類くらい、山崎なら造作もなく、持ち出せるようになったわけである。
ある年、庭に黄色い連翹《れんぎよう》の花が、狂い咲きに咲き乱れた春以来、その山崎がぷっつりと家に姿を現わさなくなった。その頃、母の宏子が苛々としてヒステリーを起こしていたのを、仲根は子供心にもよく憶えている。
結局、宏子が気づいた時、田畑のあらかたを自分名義にかえて、それを担保に市内の銀行から当時の金で約一億五千万円も借りだして、山崎は姿をくらましてしまったのである。
いやなことを思い出したな、と俊太郎は焼酎のお湯割りを重ねた。その事件以来、仲根の母は結局、残りの農地を全部、処分して銀行の支払いにあて、僅かの残金で村の辻に煙草屋をだして、それからの人生と育児を細々と支えたのである。
その意味では、仲根の一家は〈土地被害者〉といえるかもしれない。母の宏子を欺した男は、むろん、杳《よう》として行方が知れない。もうとっくに時効である。
その男を憎みこそすれ、未亡人としてがんばっていた母が、たとえ男に狂ったとしても、それは切ない情況であって、今なら母の気持ちもわかるし、母を憎む気持ちは、少しも起きない。
それにしても、原体験。家産が傾く、とはよく言うが、傾くどころか俊太郎の家はその時、破滅したのである。仲根自身にもそういう経験があるから、今度も村山夏希から相談を受けた時、何となく土地絡みのキナ臭いものを感じて、ばかに親身になっているのかもしれなかった。
――仲根がそんなことを考えている時、カウンターのすぐ傍で、電話が鳴りはじめた。
「はい。真知子ですが」
若ママが電話をとった。
「あら、河野さん――」
言って、真知子は急に後ろむきになり、受話器にむかって、小声で話すようになった。
電話のすぐ傍。仲根は最初からそういう情況を想定して、その場所に坐ったのである。
河野さん、というのが、暁興業の河野又造。つまりあの「写真の男」であることは、仲根にはすぐにわかった。
しかし、肝心の真知子の話し声は明瞭にはきこえない。「いいわ」とか、「すぐそちらにむかわせます」とか、「そんな女の子に委せておいて大丈夫なの?」――などという言葉が、とぎれとぎれに、聞きとれたぐらいだ。
しかし最後に、真知子は明瞭な声で、
「承知しました。あと一時間以内に、坂本をそちらにむかわせます。仙川の近くの……粕谷二丁目ね。暁荘アパート……わかったわ。タクシーでむかわせます」
そう言って電話を切った。
――動きがあるな、と仲根は思った。
真知子が電話口で話していた坂本というのは、二階に転がりこんでいる土地成金のことではないか。その男の身柄をこれからどこやらへ移す、という指示だったようである。
仲根は、それなら坂本の乗るタクシーを追おう、と決心した。坂本がどこやらへ移される先に、事件の糸をほどく鍵が隠されているような気がしたのである。
仲根は立ちあがる潮時をはかった。
常連客の三人が立ちあがって、表に出た時、それを送りだして戻ってきた真知子は、カウンターには入らずに、二階への階段をトントンとあがってゆき、二階で誰かと話を交わしはじめた。
真知子はすぐに降りてきた。
「まあまあ、ごめんなさい。バタバタしちゃって……焼酎、おかわりする?」
途端に愛想笑いをいっぱいに浮かべて、仲根の傍に坐り、ボトルを傾けてきた。
「おれもそろそろ、限界だな。これ一杯で切りあげるから、お勘定、頼むよ」
「まあ、そんな冷めたいこと言わないで、ゆっくりしてらっしゃいよ。やっと二人きりになれたところじゃないの……」
その時、横あいの階段に足音が響いて、上から一人の男が降りてきた。やはり、昼間みたあの男であった。
男は真知子にむかって、不機嫌そうに、
「じゃ、先に行って待ってるからな」
そう言って、出ていった。
「住所、間違わないでよ。その紙切れに書いてある通りですからね。タクシーでゆきなさいよ」
真知子が、まるで親戚のおのぼりさんにでも言うように言って、男を表まで送りだした。
仲根は会計をすませる時間がなかったので、多少多めに千円札を五枚、カウンターにのせて、急いで立ちあがった。
さいわい、小路を出た先の表通りで、坂本はまだうろうろしていた。タクシーがすぐに掴まらなかったようである。
仲根は少し離れたところに駐めていた濃紺のスプリンターのドアを叩いて、助手席にすべり込んだ。
「よし。あの男が乗ったタクシーを尾《つ》けろ」
「OK。やはり動いてきたわね」
運転席でにっこり笑って、Vサインをだしたのは、相棒の美人記者紺野真弓であった。
――仲根はあらかじめ、こういうこともあろうかと読んで、自分が「真知子」に張り込む前に、真弓に車を用意させて、外に待機させていたのである。
タクシーは走りだした。
新宿は灯が盛んであった。
坂本が乗ったタクシーは西口を大回りして甲州街道に出て、世田谷方面にむかった。
「行先、わかっているの?」
前車をマークしながら、スプリンターを運転する紺野真弓が、俊太郎にきいた。
「うむ。世田谷の……粕谷のあたりらしい。はっきりしたことはわからんが」
「粕谷といえば、仙川の近くね。もう調布市との隣接地帯だわ」
真弓が呟いた。彼女の美しい顔が今、運転席の明かりに白く浮かんでいる。美人記者は今、獲物にむかって跳躍する女豹のような引き締まった美しさをみせていた。
車は順調に流れた。
烏山まで三十分もかからなかった。前をゆく坂本のタクシーは、烏山をすぎて給田三丁目の信号のところで左折した。
「おい、曲がったぞ、あの先には踏切りがある。ゆっくり運転しろ」
「OK。まかせなさい」
真弓は着実に運転した。
ゆるやかな傾斜をなす住宅街を下って、京王線の踏切りを渡ると、新しいマンションやアパートや住宅の間に、森や畑もみえてきた。いわゆる、都内のスプロール地帯である。
むかしの世田谷の農村に、あっという間に大都市が押し寄せ、住宅やマンションやアパートがたてこんで都市化したが、まだ間には昔のままの鎮守の森や畑や川や橋が残っている、といった趣きであった。
タクシーはそんな中の小路を走って、一つの大きなアパートの前に止まった。
「気づかれないよう、徐行しろ」
真弓は上手にスプリンターを徐行させながら、一軒の住宅の塀の傍に駐めた。そこからだと、タクシーや、降りて歩きだす坂本の姿が、はっきりとみえる位置だった。
暁荘というアパートは、時代の最先端をゆく瀟洒《しようしや》な、ばかでかいアメリカンハウスだった。いわゆるツーバイフォー工法による組み立て方式で、アメリカの東部ボストンあたりの大きな富豪邸宅、といった洋館の建物が、あっという間に完成し、その中の各部屋が仕切られて、それぞれ賃貸アパートになっているという建物であった。
タクシーを降りた坂本は、その外階段をあがった。二階の通路を歩き、二〇三号室に消えたのを、俊太郎はしっかりと確認した。
「どうする?」という真弓に、
「うむ。ここまで来たんだ。保険の外交員でも装って、部屋に押しかけてみるか」
仲根はめざすアパートの階段をあがった。
居住者がすでに入居した部屋もあったが、まだほとんどが空室のようだった。建物は建ったばかりで、入居者募集中、といった趣きであった。
坂本が入った部屋は、二〇三号室だった。その部屋の前に立って、俊太郎はドアをノックした。
保険のセールスマンでも装って、とにかく坂本と接触して、それとなく中の様子を探っておこう、と思ったのである。
(もしかしたら写真の男が、そこにいて、そいつと直談判できるかもしれない……)
二回目のノックで、
「ハーイ」
女の返事があって、ドアはすぐに開けられた。若い女が顔をだし、「どなた?」
「太陽生命の者ですが、新婚さんご夫妻でいらっしゃいますね?」
この手のアメリカンハウスのアパートには、新婚夫婦がおもに入居する。
「そうよ、何の用?」
「生涯保障の新しい生命保険システムについて、ご説明にあがりました」
「保険は間にあってるわ」
「はあ。そこを何とか――」
屋内を覗いたが、坂本の姿は見えなかった。
「しつこいわねえ。誰かの紹介なの?」
「はい。新宿の幸福住宅の方に、坂本さんがこちらだとお伺いしましたので」
「なーんだ。坂本さんに用事があるの?」
「ええ。ちょっと――」
女がじろじろと、仲根の全身を見回し、
「じゃ、あがんなさい。奥の部屋にいるわ」
仲根はあがった。スリッパをはいて通路を歩いた。部屋は三間ぐらいありそうだったが、まだ家具調度もなく、がらんとしていて、全体に冷え冷えとしていた。
応対の女以外、ほかに人の気配は感じられなかった。しかし、坂本がこの部屋に入ったのは確かだし、坂本をここに呼んだ河野又造もどこかにいるはずであった。
「そこの右手よ。ドアはあくわ」
仲根は教えられた部屋のドアをあけた。
入ろうとした瞬間、ぐわああん、と後ろから後頭部に棒のようなものをくらい、眼の前がまっ暗になった。鈍器様のものは肩にも襲ってきて、仲根は反撃しようとしたがかなわず、壁に手をつこうとしてそれも果せず、突んのめるようにして前に倒れた。まっ赤なカーペットが傾いて、せりあがってくるのを見たきり、意識が闇の中に堕ちてゆくのを憶えた。
薔薇は花盛りだった。
温室の中は赤い色彩で、燃えたっている。特に赤バラ系統の花は、咲き初めると温室の空気までが、赤く染まってゆくようである。
それに初夏。もう暑い。日中は天窓や側窓をあけて気温を調節しなければならない。その日も、夏希が採花時の薔薇を見まわって二号棟を出た時、家のほうで電話だと鳥羽悟平が知らせにきた。
夏希は急いで、居間に入って電話をとったが、受話器に声が響いてこない。
「もしもし……」
呼びかけても返事がなかったので、いたずら電話ではないかと思い、切ろうとした時、
「村山夏希さん?」
女の声がした。
あっと思った。
いつぞやの女の声である。
「はい。村山ですが――」
「私、雅彦の愛人で、銀子といいます。この間は名のりませんでしたが、二回目の電話だから、もう隠すこともないわね」
しゃあしゃあという女の声に一瞬、目の前で大きな火の玉が炸裂したような驚きを覚え、夏希はすぐには言葉がでてこなかった。
「私に何か……いやがらせでもなさりたいのですか」
「いやがらせではないわ。あなたにお礼を言っておきたいのよ。ピースといったかしら。あのクリーム色のすてきな黄薔薇、私の部屋で美しく咲いているわ」
夏希は二度目の驚きに見舞われた。それは実際、ぴしっと鞭《むち》で素肌をひっぱたかれたような衝撃であった。
というのも、夫の雅彦がこのところ、殊勝にも会社の机の上に飾るのだといって、毎週一回、薔薇の切り花を持参して出勤しているのである。
それも出荷用の温室バラではない。夏希が以前から庭の花壇に、暇をみては丹精こめて作っている花壇用バラのうち、ピースという名のクラシック品種の、多花性の豪華な大輪をひどく気に入って、持参していたのだった。
(その黄薔薇のことを……)
「あなた、会社の方ですか」――そう聴いてみた。
「いいえ、違うわ。私はただのOLなんかじゃないわよ。昔から雅彦の面倒をみている女ですからね」
(何と厚かましいことを! では毎週、雅彦は、あの黄薔薇をこの女のところに持っていっているというのだろうか……?)
夏希は受話器を握ったまま、軽い目まいを覚えた。
「私に何か、用事があるというのですか」
「あらあら、ずい分の喧嘩腰ね」
「あたり前でしょ。あなたは新婚の人妻にひどい言いがかりをつけているのよ」
「言いがかりではないわ。お礼の電話と言ってるでしょ。これからもどんどん、すてきな薔薇を作ってちょうだい。私の大切な雅彦も、あなたにお預けしておきますから、よろしくお願いしますわね」
「勝手なこと、言わないで。雅彦は私の夫です。ほかに用事がないのなら、切ります」
「ええ、どうぞ。私はミモザ館の銀子。覚えといてね。ホッホッホッホ……」
いやな笑い声を残す電話を、夏希は思いきり、ひきちぎるようにして切った。
切って、庭に射す白い陽射しをみつめた。
(私よりあの女のほうが、まるで古女房のような口をきいたわ)
そう思うと、猛烈に腹が立った。女の態度にも雅彦への疑惑にも腹が立ったが、それ以上に、一時的にせよ取り乱してしまった自分にも腹が立って、夏希は気持ちのもっていきようがなかった。
いやに落着いていたあの女の様子では、雅彦との仲は、昨日今日、はじまったことではないような気がした。自分が雅彦と結婚する以前からつきあっていた女ではないのか。夏希には、そうとしか思えなかった。
夏希は幾分、足許の定まらない思いで、リビングから庭に出た。庭の芝生の横に、露地薔薇の花壇を作っており、アーチ形に誘引したつる薔薇や西洋花壇のように仕立てた各種の夏薔薇が、今を盛りに咲き誇っている。
その色が、今の夏希には眼に痛かった。それにしてもピース。何という皮肉だろう、と夏希は、目前に咲き乱れているクリーム色がかったピースという名の黄薔薇をみつめた。
皮肉と思ったのは、ピースというのは、ほかでもない。文字通り、「平和」という意味だが、このところの夏希の身辺は、にわかにそれとは正反対の趣きを呈し、まるで、「戦争」という様相をさえ、呈してきたからであった。
ピースといえば、ふつうは日本の煙草の銘柄を思いだす。しかし、少しでも薔薇に興味のある人なら、「ああ、あのフランシス・メイヤンが創出した戦後第一号の、世界的な名花のことだな」と、ピンとくるだろう。
特に日本の薔薇ファンにとっては、忘れられない。サンフランシスコ講和条約の席上に飾られた花が、「ピース」である。そして昭和二十四年(一九四九年)、横浜で開かれた貿易博覧会の片隅で、新日本バラ会のローズショーが開かれた際、アメリカのサンフランシスコ・バラ会会長カーマン氏から空輸されてきた三十輪の切り花が陳列されたが、それがピースであった。
戦時中は、花は贅沢品だと敵視され、花壇や薔薇農園の温室がすべて野菜畑に変えられ、心ある薔薇栽培農家や愛好家が、軍には内緒でこっそりと古い品種の薔薇の種だけを守り抜いて戦後、やっと貧しい薔薇栽培を再開したばかりの日本人にとっては、そのカリフォルニア産の巨大輪バラとの出会いは、感動的なほどの美しさだったという。
このピース。フランスの有名なバラ育種家一世メイヤン晩年の作品で、原名は「マダム・A・メイヤン」。しかし、この薔薇を買いとるためにフランスを訪れたアメリカのバラ業者パイルは、名前が気に入らず、パリのセーヌ河近くのホテルにこもって色々と思案し、ノートに数十種類の名前を書き散らしている時、部屋のラジオが突然、第二次大戦のベルリン陥落の臨時ニュースを放送しはじめた。パイルはそれをきいて、
「平和がきた! 平和がきた……!」
と叫んで、その瞬間、この薔薇をピースにした、という有名な“伝説”がある。
いわば、戦争の中から生まれた薔薇。夏希がそんな知識を得たのも、カルチャーセンターに通って、「花の文化史」を勉強したからである。その教室で、夫の雅彦とも知りあったことを思い返すと、雅彦をめぐる今の疑惑が夏希にはいっそう切なく思える。
心配は、まだあった。
仲根俊太郎のことである。
その午後、夏希は彼に頼んでおいた調査の情況も聞きたいと思って、四谷の現代舎に電話をすると、仲根は前日から会社を休んでいるという返事であった。
理由を尋ねると、何でも編集プロダクションのほうでもその理由がわからず、世田谷のアパートにもいないので連絡もつかず、オフィスでも困っているということだった。
「ま、どこかで飲みすぎて、沈没しちゃってるんでしょうけどね。あすあたり、ひょっこり出てくるかもしれません。伝言しておきますが、おたく、どちらさま?」
そうきく男性社員に、親戚の者です、といって夏希はあわてて電話を切った。
仲根が会社を無断欠勤して、アパートにもいないというのは、自分が依頼した調査で、何か危険なことでも起きたのではないか、と夏希はひどく心配になってきた。
だが、心配したところで、夏希がアパートまで押しかけてゆくわけにもゆかない。また押しかけたところで、アパートにもいないとなれば、埒《らち》があくとも思えなかった。
夏希は心がきりきり縛られるような幾つかの心配を抱えて、でもそれらのすべてを振り切るように午後から夕方にかけて、鳥羽悟平夫婦と一緒に、薔薇園の管理にせっせと精をだした。花とむきあっている間だけ、余計なことを忘れることができた。
(そういえば、あの女の声、カルチャーセンターにきていた富沢美智子の声に似ていたわ……)
と、夏希は夕方になって思いだした。
(そうだ。今夜、雅彦に直接、確かめてみよう)
「あなた――」
夕食のあと、夏希は話しかけた。
「銀子さんっていう女性、知ってる?」
夏希は思いきって、雅彦にきいた。
「銀子……? 誰のことだい」
雅彦は夕刊を拡げたまま、声だけで応じた。
「お友達に、そういう名前の人、いらっしゃるんじゃないの」
「いいや。いないよ」
「変ね、ミモザ館の銀子って、名のってたけど」
「どういうことだい。藪から棒に」
雅彦はようやく夕刊を傍らに置いて、顔をむけてきた。
その顔にはどこにも、あわてたところや、秘密を隠しているようなところが窺えない。
夏希は昼間、かかってきた電話のことを話した。すると雅彦は、まったくそういう女には心当たりがない、と言下に否定したのであった。
「でも、あなたが持ってゆく薔薇のことを、思わせぶりに話していたわ。自分の部屋に飾っているとかいって……」
「それは、出まかせのいやがらせさ。いい加減な言いがかりに惑わされて、どうする」
「でも、黄薔薇のこと、どうして知ってたのかしら。あなたが、ピースの切り花を会社に持ってゆくってことをよ」
「会社には、いろんな人間が出入りする。会社の女の子なら、みんな知っていることだよ。小耳にはさんだことでも、利用しようと思えば、どうにでもいやがらせに利用できることじゃないか」
雅彦はそう言いすてて立ちあがり、風呂は沸いてるか、ときいた。
「沸いてます。――でもその女、ピースの名前まで知っているなんて、変よ」
「とにかくね、夏希。おれたち今、大切な時なんだろう。新婚旅行では妙なことがあったというし、お父さんはあんな具合だ。おまけにパートの坂本智津子さんの家も、土地を欺し取られて、ご主人、まだ戻ってないというじゃないか。誰かが、村山家にも悪意をもって悪いことを仕掛けているような気配もある。こういう時こそ、妙ないやがらせ電話なんかにびくびくせず、おれたち夫婦が一心同体にならなきゃ、だめじゃないか。な、そうだろう?」
雅彦に叱りつけるように、そう言われると、まさにその通りだと思った。むろん、それでもって疑惑が解けたわけではないが、その夜は、夏希はそれ以上、雅彦を問いつめることができなかった。
神は残酷である。
夏希はそう思うのだ。
それとも、夫の雅彦が残酷なのだろうか。男性一般が残酷なのだろうか。夏希としては、今、夫に故しれぬ疑いの芽を結びはじめていて、とても素直に、雅彦の腕に抱かれたりする気持ちにはなれない。
ところがその夜、雅彦は積極的に挑んできたのである。自分が抱かれたいと思っている時は、このところ、背をむけて寝る夜が多くなっていたのに、その夜に限って、雅彦のほうから熱い誘いをかけてきたのである。
夏希は露骨にならない範囲で、その手から逃げようとした。身体を硬くして、素直に応じようとしない夏希に、
「どうしたんだ、おい」
雅彦はのしかかってきた。
「だって、女の声が今でも頭に残っているのよ。雅彦の愛人です、とあの女は言ってたのよ。そんな声が耳に残っている時に、素直に抱かれたりできますか」
「ばかだなあ、夏希。まだそんなことを言ってる」
身体をはねのけようとする手を掴まれ、一瞬、決闘でもするような軽い争いが巻き起こった。
が、結局、掴まれた手を素直に委せたのも、いやむしろ、自分のほうからすがるように掴んでいったのも、何かしら信じられるものを見つけだしたかったのかもしれない。
雅彦の手は初夏なのに冷んやりと冷めたかったが、その冷めたさの中にも結婚を約束して以来、自分が信じ続けてきた男を、必死で見つけ出そうとしていたのかもしれない。
気持ちが信じられなくなった分、雅彦の身体から信じられるものを探しだしたかった。
接吻には、しまいにはいつもより激しく応えながら、それが自分の演技ではなく、昔通りに夫の熱い心と身体が火の濁流となって、自分の身体を押し流してくれるのを願っている気持ちがあることを、夏希は知っていた。
嵐のような行為が進み、汗が肌を濡らしてゆくのを感じながら、いくら気持ちを偽っても、この汗だけはごまかせないと思った。
夏希は何度ものぼりつめた。何しろ夏希は健康で野育ちで、若々しい肉体をもっているので、性的な欲求も強いのである。
それが、残酷だと思えた。
疑っている夫に身を委せて燃えあがる自分の身体が、残酷だと思えた。
夏希の肌から噴き出して流れる汗は、でも、このところの雅彦への黒い疑惑の渦が、黒ずんで夏希の肌から体内から噴きだし、流れだしているような気がした。
数日間、何事もなかった。
夫の雅彦は毎日、車で家を出る。武蔵丘駅までマイカーを使い、駅から都心部まで電車で通勤するのである。
現場事務所が武蔵丘にあった時は近かったが、千駄ケ谷の本社まで出勤するのはなかなかの骨だよ、と雅彦はいつもこぼしていた。
自然、夜の帰りは不規則である。早くても七時半か八時であり、遅い時は深夜、時には帰ってこない夜もあった。
そんな時は必ず、電話がかかってくる。「ごめん。今、会社の人たちと新宿で飲んでいるんだけど、終電、逃しちゃったよ。タクシーで帰ると高くつくから、ビジネスホテルに泊まろうと思っているんだけど、いいかい?」
たしかに、新宿からタクシーを使えば一万四千円以上になる。でも、カプセルホテルかビジネスホテルなら、その半額ですむ。言い分に、嘘はないのだった。
それに、夏希とて、翌朝の採花があるから、深夜遅く帰ってくる夫を、そういつまでも待ってはいられないのであった。
「どうぞ――」
と言うしかなかった。
夏希は昼間、仕事をしながら、一方では仲根俊太郎のことが気になっていた。四谷の現代舎に電話をすると、まだ無断欠勤がつづいていて、出社していないという返事であった。
(どうしたのかしら……?)
今度の金曜日、都内の花屋にゆく時にでも世田谷のアパートに寄ってみよう、と思った。
木曜日、雅彦は会社から珍しく早く帰宅した。前夜は都心部のビジネスホテルに泊まったのだ。夕方七時といえば、まだ明るかった。
雅彦は車をガレージに入れて玄関に入るなり、「暑い、暑い」と言って、ハンカチで首すじを拭いながら、鞄を夏希に渡した。
「あらあら、シャツの襟《えり》が汗びっしょりじゃありませんか。早くお脱ぎになって」
水洗いするために、ワイシャツを風呂場の洗濯機の傍にもっていって、放りこもうとして、あら、と夏希の手が止まった。
眼が布地の一点に止まった。
(口紅だわ……!)
ワイシャツの背の、右肩の少し下に、どぎつい真紅の色が付着している。本物の唇を切りとってそこに貼りつけたように、それは、くっきりと肉片のような生々しさを残していた。
女性はふつう、こういうことには気をつける。会社の上司や、妻子持ちの男との不倫の場合は、なおさら、気をつける。口紅の痕、香水やコロンの匂いはもちろん、石鹸の匂いさえもつけて帰らせたら発覚するといって、風呂では男に石鹸を使わせない女もいると話にきいたくらいである。
それなのに、くっきり。これは悪意だと思えた。戯れに雅彦の背によりかかって、偶然についたのではない。女がわざと雅彦には気がつかれないように、そっと狙って唇をそこに捺《お》しつけて、夏希に挑戦状を叩きつけているのだと考えて、間違いなかった。
前夜、雅彦は終電を逃したといって、新宿のビジネスホテルに泊ってきたのである。
(同僚とのつきあい、というのも、ビジネスホテルも言い訳だわ。夫には女がいる……!)
それも、いつかの電話の女ではあるまいか。
夏希は夫を疑わなければならない立場にたたされた自分の境遇が、非常に残酷に思えた。でも声を荒立てて言い争うのは醜い。眼くじらをたてて問いつめるのは、村山薔薇園の女主人としてのプライドが、許さなかった。
(そうだわ。当分は気づかなかったふりをしておくのが、勝ちかもしれない)
夏希はワイシャツをひきちぎるような勢いで、洗濯機に放りこんだ。スイッチを入れるとたちまち、渦の中に巻きこまれてもみくちゃになるワイシャツを見ながら、復讐しているような気分を味わった。
夕食後、夏希はさりげなく訊いてみた。
「ゆうべは接待だったんですか?」
「うん。疲れたよ。下請業者に招待されてね、設計施工課の同僚三人と、料亭からスナック、クラブへとハシゴさ」
「さぞ賑やかだったんでしょうね」
「まあな。最後は店を借りきって、カラオケ大会とチークのバカ騒ぎさ。ああいうのはあまり好きじゃない。女たちがべたべたしすぎる」
(口紅が偶然ついたように、ごまかしてるんだわ)
夏希はそれ以上は、問いつめはしなかった。
それで気をよくしたのか、雅彦はその夜も恥知らずだった。いやがる夏希に、臆面もなく挑んできたのである。
「かんにんして……」
夏希はそう言った。
「私、疲れてるんです」
本当ならもっと強い言葉を投げつけたかった。ゆうべ、よその女と寝てきたくせに、どうして私を抱こうとなさるんです……!
それぐらい、言っていいはずである。でも夏希がそれを言わなかったのは、話をこじらせて、決定的な局面になることを惧れる気持ちがあったからかもしれない。
何といっても、結婚してまだ数ヵ月である。新婚といっていい。そういう時期に、雅彦との間に破局を迎えるなど、世間体も悪いし、夏希のプライドも許さない。また同時に、夏希の心の中には、雅彦を愛して包みこもうとする部分があり、小さな浮気の一つや二つなら、大目にみても、円満にやってゆきたいという願望が、大きく心を占めているのだ。
それでも、許せないものは許せない。気持ちは修羅だった。夫がどこかで流してきたはずの汗に重なって、これから自分が流すかもしれない汗が見えてくる。布団に入ってから、雅彦がやはり、おもねるように伸ばしてきた手を、今夜も結局は、拒みきれないだろう、と夏希は思ったりするのである。
雅彦の手に、たとえ弁解と詫びと、自分のやった罪へのなしくずしの償いの意味があったにしろ、夏希は不潔ですッ、とその手を厳しく拒ねのけるタイプの女性ではないのだ。
むしろ、進んでその愛を受け入れて一体となることによって、雅彦をしっかりと独占しているのだという確信を得たかったし、嵐のような激しい洪水で、疑いや不審の念を、洗い流してしまいたかったのかもしれない。
結局、その夜もそうなった。雅彦は恥しらずにも激しかった。ゆうべの外泊を疑われていないと思っているのか、ワイシャツの口紅に気づいていないと思っているのか。それとも雅彦は、ワイシャツの口紅などまるで気づいていないのか。ともかくふだん通り雅彦は夏希を愛し、女としての夏希を有頂天にさせたのである。
――翌朝、五時だった。まだ誰も起きてこず、家の中は静かだった。ガラス戸をあけ、浴室に溢れている朝の光の中で夏希は佇んだ。朝風呂にはいることなど、夏希のこれまでの習慣にはない。だが頭から熱いシャワーでも浴びなければ気がすまないものが、その朝にはあった。
シャワーを浴びながら、なしくずしだったゆうべの自分のふるまいへの怒りも洗い流して、夏希はさあ薔薇園に急ごう、と朝の採花に気持ちを切りかえるのであった。
ばかに暗い――。
人の気配さえもない。
ここはどこだろう、と仲根俊太郎はあたりを窺うように、首を回した。埃《ほこ》り臭いカーペットの上に、自分がじかに転がされているのがわかった。身体を動かそうとしたはずみに、手足が自由にならないことに気づいた。どうしたんだろうと、無理に動かそうとした時、何やら太いロープのようなもので、手足がしっかり縛られていることに気づいた。
ひどいありさまである。
何やら理不尽な気がした。
(これは、どういうことだ)
怒りくるおうとした時、もっとも、この情況が昨日、今日はじまったことではないこともあわせて思いだした。時々、記憶のゆり戻しがきた時がある。うつら、うつら、夢の中のように眼を醒ました時もあるのだ。その時もだいたい、こういう情況だった。
仲根の意識は、藻の中を泳ぐ魚のようにもがいて、記憶の糸口を探していた。ほんの短い、灰色の死霊区間を経て、やがて仲根は自分がなぜここにいて、どういう情況に置かれているかをおぼろげながらも認識するようになった。
――そうだ。あの妙に小綺麗なアメリカンハウスの空室の中ではないか、と気づいた。
あれから、どれぐらい経つのか。ひどい空腹である。喉も乾いていた。水が欲しい。くそっと、寝返りをうった時、ドアの外で物音がきこえ、仲根はぎくっとした。
(誰かが鍵をあけようとしている……!)
この情況からいって、当然、自分をこのような情況に陥し入れた犯人グループということになる。いよいよ、自分に危害を加えようということか。仲根は何とか防禦の手だてを講じようと考えたが、しかし現実問題、どうすることもできないことに気づいた。
腹に、力がはいらない。時間の感覚がない。空腹感だけは、ひどいものだ。そこからくる脱力感は、全身に及んでいる。この飢餓感と衰弱感からすると、縛られて転がされていたのは、一日や二日ではないのかもしれなかった。
(ちきしょうッ。一体、おれをどうする気だ)
寝返りを打ちながら、部屋の片隅に動こうとした時、はて、と耳を澄ませた。ドアに鍵が差し込まれる音。それ以外、足音もきこえず、訪問者はばかに物静かなのである。
やがて、ぎいとドアが開く音がした。
仲根はそちらのほうに眼を凝らした。
開かれたドアの、背後の薄明かりの中に、黒々と女のシルエットが浮かんでいた。
手に、光るナイフを握っている。握ったまま、女が近づいてきた。はじめはシルエットだけが見えて、顔は窺うことができなかった。
女は無言で仲根に歩み寄り、後ろに跼《かが》んで、ナイフでロープを切りはじめたのである。
その息遣いと、コロンの匂いで、仲根にもやっとその女が誰であるかが、分かった。
「真弓……真弓じゃないか!」
驚きながらも、小さな声で訊いた。
「しっ。声をたてないで」
現代舎の紺野真弓であった。
(そういえば、おれはあの晩、真弓を外のスプリンターの中に待機させていたのだった。戻ってこないおれを心配して、真弓は外から様子を窺っていてくれたのかもしれない……)
「歩ける……?」
真弓がきいた。縛《いまし》めが完全にほどかれ、俊太郎は立ちあがったところである。
「うむ。何とか」
「肩を貸してあげるわ。足許に気をつけて。声はださないで」
真弓の肩に掴まって歩きはじめた。
「今、何時なんだ?」
「夜の……午前零時半よ。今ならここには誰もいない。表に車を隠しているわ――さあ、階段よ。足許に気をつけて」
二人がドアを出て階段を降りはじめた時、ちょうど一人の女が下から階段を駆けあがってくるところにぶつかった。女は二人を発見した瞬間、悲鳴をあげて外にむかって大声をあげた。「逃げるわ! 河野さーん!」
危機一髪であった。
女が大声をあげて外に助けを求めた瞬間、仲根は女の鳩尾《みぞおち》に拳を打ちこんで気絶させ、すぐ階段の下の物陰にひきずりおろして、隠したのである。
河野は幸い、まだタクシーの中にいて、勘定を払っているところだった。女の叫び声はきこえなかったらしい。
タクシーを降りた河野が、口笛を吹きながら階段をあがっていった隙に、仲根と真弓は急いで物陰から出て、隠していたスプリンターに飛び乗ったのである。
運転は、真弓であった。
仲根は後部シートに倒れこむようにして、極度の衰弱と、めまいと疲労をやりすごした。
「もう少し、我慢してちょうだい。転げそうだったら、シートベルトに掴まってて」
車はすぐに発車した。
夜の道をひたすら走った。
さいわい、河野又造が追跡してくるふうではなかった。たとえ、屋内を検分して、仲根の逃亡に気づいたとしても、もはや、手遅れだったであろう。
――それでも約一時間、用心のため迂回して、二人は井の頭公園の近くにある吉祥寺の真弓のアパートに、午前一時半頃転がり込んだ。世田谷の仲根のアパートでは、何となく追手がくるような感じがして、真弓のアパートを避難先にしたのである。
それにしても、仲根は疲れ切っていた。何もかも飽食の現代、空腹というものを一度も体験したことがない仲根は、飢餓感というものがこんなにも凄まじいものかと、改めて、その異様な苦痛の質に慄然とした。
めまいがする。足腰に、力が入らない。ふらふらするだけではなく、胃部が引き絞られるように苦しい。真弓の部屋に担ぎこまれた途端、仲根は畳の上に、ぶっ倒れてしまった。
「今、何か見つくろうわ。それまで、ここで休んでいて」
真弓はてきぱきと押入れから布団をだし、仲根を寝かせて、夏物の薄布をかけてやって台所にむかった。
「お待ちどおさま」
真弓が盆にポタージュスープと、庄内のササニシキの玄米|粥《がゆ》を持参した。
「はい。これを食べると少しは身体があったまるわ。元気も出てくるでしょ」
仲根は布団に起きあがって、椀を受けとり、少しずつ口に入れた。熱いポタージュスープと、庄内米を鳥海山麓の湧水で炊いた玄米粥は、腹にしみて、おいしかった。
「ありがとう。きみのおかげで、なんとか助かったというものだな。あのとき、きみはずっとあのアパートを見張ってたのかい?」
「ええ、敵陣の二階に押しかけたまま、いつまでたっても俊さん、出てこないんだもの。こりゃあ、てっきり何かあったんだと思うわ。それで、しっかりあのアパートを見張ることにしたのよ」
真弓によると、仲根があの謎のアメリカンハウスで殴られて気絶してから、丸三日も経っているというのだ。あのアパートは、まだ建築されたばかりで入居者も少なく、ほとんど倉庫のような建物だったらしい。
応対に出た女は、暁興業の河野又造の愛人で、赤垣幸子という女であった。夜は新宿のクラブに勤めていて「真知子」のママ、丸岡真知子とも、友人同士である。
そんなことから、地上げ屋グループは武蔵丘の土地成金、坂本兼造をそのアパートに連れ込むところだったらしい。つまり、あのアメリカンハウスは、地上げ屋「暁興業」の所有になるもので、入居者の大半が入るまで彼らが仕事のアジトに使っていたらしいのである。
真弓は、そんなことを説明した。仲根が出てこない間、事故があったと気づき、真弓はあのアパートを見張る傍ら、そんなことまで調べあげ、仲根が監禁されていた部屋の鍵まで、女の留守に盗みだし、合鍵を作っていたというから、相当な女探偵である。
――いずれにしろ、真弓の機転と敏速な対応のおかげで、仲根は助かったのである。
「ところで、やつら、おれを監禁して一体、どうしようと思ってたんだろう?」
「実際のところ、処置に困ってたんじゃないの。自分たちの所業を調べはじめていた男が、ジャーナリストだと知って、殺したりすると、あとがうるさいし、かといって街に放逐すると、これからもっと面倒なことになる。さて、こいつをどう処置しようかと、本当のところは頭を抱えていたに違いないわ」
もう少しで殺されて、どこかの雑木林に埋められそうだった――と思うと、俊太郎の背中に、粘い冷や汗が流れた。
仲根は首を回した。今は平和な、女の部屋。井の頭公園に面したその二DKは、真弓の部屋であった。テレビにステレオコンポーネントに、ベージュ色のカーテン。化粧箪笥。その上の縫いぐるみ、ドレッサーと、いかにも女らしい部屋であると同時に、片隅の本棚には社会科学の本や法律書。アメリカのミステリーの翻訳本などがぎっしりとつまっていて、なんとはなしに知的な匂いもそこはかとなく漂っていた。
仲根がこの部屋に来たのは、初めてである。真弓とは六本木の夜以来、もはや他人ではなくなっているが、それでもこうして介抱されたりしていると、何とも面映ゆい。
「会社のほうには?」
「私は三日間、私用で休むと電話しておいたけど、あなたは無断欠勤になっているわ」
「怒ってるだろうな」
「あのデスクのことよ、きっと怒ってるわ。でもたまには心配させたほうがいい薬になるかもよ」
真弓はそう言って、けたけたと笑った。
「ところで真弓、あのアメリカンハウスに入っていたはずの坂本という男はその後、どうなったか知っているかい?」
真弓はそのことも確認していた。
「あの人は翌日、女と一緒にあのアメリカンハウスから出ていったわ。現実問題、連れ出されていった、といったほうが正しいでしょうけれど」
「どこへ?」
「そこまでは――」
「ふーん。やつら、坂本の身柄を押さえ、ひっぱり回していったいどうしようというんだろう?」
仲根は宙に眼を置いた。
「ま、いい。それで、河野又造と赤垣幸子という女、あのアメリカンハウスに住んでいるのか?」
これからの追跡点のほうに話題を絞った。
「あそこは家の管理などで時々、立ち寄るだけで、女の住まいは別にあるようね」
「すると、あそこを見張ってても二人を取っつかまえることはできないわけか」
「逆襲したいの?」
「もちろん」
「もっと危険な目に会うかもしれないわよ」
「それも承知している。しかし、やるしかない。あいつらはおれにとって、せっかくの手懸りなんだぞ」
今のところ、仲根にとっての唯一の手懸りは、あいつらだけである。河野又造と赤垣幸子。そして「真知子」のママ、丸岡真知子を結ぶ線、とことん追いかけてやる――。
仲根がそう思った時、頭の上で真弓の悪戯《いたずら》っぽい笑い声が響いた。
「懲《こ》りない人ねえ。まったく」
真弓がひとつ嘆息し、「ご安心なさい。女の住所と勤め先のクラブは突きとめているわ。河野もきっと、そこにアミを張ってれば、必ずひっかかるはずよ」
本当に無茶なんだから、もう……というふうに真弓が額を一つ叩いて、掛布を直してくれた時、真弓……! と言って、仲根は感謝の思いから、物狂おしくその手を掴んでいた。
仲根はそのまま、できれば引き倒したかったが、真弓はその手を上手にいなし、
「駄目よう、今は……」
たしなめた。「あなたは今、衰弱してるのよ。そんなことをしてはいけないわ。ほらほら、顔を拭いてあげますから」
真弓は、仲根の頭を自分の膝の上にのせ、タオルで髭《ひげ》だらけの顔を拭きはじめた。
(いいもんだな……)
仲根はそう思った。
頭の下に、真弓の太腿がある。むっちりして弾んでいる。片手を添えて、揉んでみた。気持ちのいい肉の詰まり方と弾み方を返してきた。
「悪戯はよして」
真弓は仲根の顔を拭いてくれている。仲根は生きた心地を取り戻した。人間は、本来、淋しい生き物なのだ。こうやって人間の生活の匂いのする、そして異性の匂いのする部屋に来て、暖かい肌に触れていると、やっと人心地がついて、遥かなる荒野から舞い戻ってきたような気がする。
(たかが、どこやらのアパートで三日間、転がされていただけなのに……)
だらしのないことだ、とも思う。思いながら仲根の手は真弓の太腿に置かれ、進み、そろそろとその奥へ動いたりする。
「うふん。だめよ……そんな悪戯をしては」
真弓が身をよじった。「生命拾いをして帰還したばかりなのに……性懲りもない人!」
その生命拾いした直後だけに、気分のおさまりがつかないのだ。仲根の手は真弓の太腿の間を割って進み、奥の熱く湿った女の熱帯に到着していた。
ああ……と、微かな声が洩れ、
「だめよ、こんな時――」
真弓の声は乱れはじめていた。
「欲しい。真弓――」
卒直に言った。事実、その意欲が獣のような様子をまといはじめていたのである。
真弓にもそれがわかったらしく、「聞き分けのない人ねえ。いいわ、あなたはじっとしてて」
真弓は俊太郎の服を脱がせて傍らに片づけると、枕許の灯かりを小さく絞って、自分もスリップ一枚になり、布団の中に入ってきた。
ふたりは接吻をした。
真弓の手がのびてきた。
そこはすでに雄壮な状態だった。真弓は驚いたように触れ、さらにきわだたせてゆく。
「いいこと。あなたは、動いてはだめよ」
それから真弓は驚くべきことに、大胆にも騎《の》ってきたのである。
仲根は下から真弓の大胆さを励ました。真弓は上手に収めると、悩ましい声をあげた。
身体の衰弱と疲労とは別に、仲根の中で今、猛るものがある。そいつは首輪を解かれた一頭の猛獣のように、唸りながら仲根の身内を歩くことをやめない。それは、もう少しで殺されそうだったことへの怒りと、ようやく姿を現わしてきた地上げ屋どもへの猛々しい闘争心というものかもしれなかった。
探しあてたアパートは、電車の踏切りの近くであった。豪徳寺とはいうが、そこはもう小田急線よりも世田谷線の宮の坂の近くであって、踏切りの傍の大きな銭湯の裏に、欅《けやき》の生い茂った一画があり、そこにマンションふうのアパートが建っていた。
豪徳寺マンションという名前だが、何のことはない木造モルタルの古めかしい大きなアパートである。そこの二階の六号室が、仲根俊太郎の部屋であった。
村山夏希は、二階への外階段をあがった。
夏希が仲根の部屋を訪問するのは初めてだが、何度電話しても連絡がつかなかったので、新宿に買い物にでる途中、思いきって今日、立ち寄ってみたのであった。
二〇六号室ときいている。一番、端の部屋であった。ノックしたが、返事がない。三回までノックしたが、返事がないところをみると、仲根は留守かもしれなかった。
(でも、今日は日曜日。お昼前だから、もしかしたら、まだ寝ているのかもしれないわ)
そう思い、四回目のノックをした時、隣の部屋のドアがあき、主婦らしい女が顔をだして、うるさいわねえ、という表情をむけた。
「お隣りはこのところ、ずっとお留守よ。今日もいないんじゃないの」
「そうですか。あのう……それで……いつ頃から留守なんでしょうか」
夏希はきいてみた。
「さあ。三、四日かしら。私もよく知らないけど、多分、そんなところね」
「留守の間の連絡先か何か、ご存知ないでしょうか」
「私は仲根さんとそう親しくしているわけじゃないわ。大家さんがそこの銭湯のおやじさんだから、そっちに聞いてみたら」
「あ、そうですか。ありがとうございました」
礼を言って、夏希は仲根の部屋の前を離れ、通路をあるいて外階段を降りた。
裏の銭湯のほうに歩きだした時、アパートの表に、一台の車がすべり込むのが見えた。見憶えのある濃紺のスプリンターであった。
一度、仲根俊太郎と日比谷公園の喫茶店で落ちあった時、彼がたしか乗っていた車と同車種であることを思いだした。
(仲根さんが帰ってきたんだわ!)
あまりのタイミングのよさに、夏希は何とはなしに胸を弾ませて、車のほうに歩きかけた。しかし、その瞬間、夏希の足はびっくりしたようにためらい、立ち止まってしまった。
車の運転席のドアが開き、颯爽《さつそう》と降りたってきたのは、若々しい女であった。仲根などどこにもいない。
キュートな感じの、切れ味のいい女であった。家つき娘の夏希とはちがい、外で職業をもっている女性特有の、てきぱきとした感じが、その全身からも匂っていた。
垢ぬけした白のコットンのジャケットに、ジーンズ。ショルダーバッグを肩にかけて、サングラスをかけた恰好は、いかにも活動的な都会女性で、どうかするとテレビのニュースキャスターや、女性記者に共通する雰囲気をもっていた。
見るともなく見ていると、女はさっさと階段をあがり、二階の通路を歩いて、仲根の部屋の前に立った。バッグから鍵を取りだしてあけ、すっとドアをあけて室内に入ってゆくではないか。
(すると、仲根の愛人?)
それも相当深い仲。同棲でもしているのだろうか。
たとえ、そうであったとしても、夏希としたら驚いたり衝撃を受けたりすることは、少しもないはずである。仲根も三十近いのだから当然、愛人くらいいてもいい。仲根が独身だったので、つい迂闊にも甘えていたが、私に夫があるように、彼に女性がいても、少しも不思議ではないのである。
それなのに、取り乱した自分の心の裡《うち》に、夏希は打ち消したいような、恥ずかしい焔をみた思いがした。
自分を叱りつけながら、ともかくあの女性なら仲根の消息を知っているに違いないので、確かめてみようと思った。
躊うものを励まし、勇気をだして夏希は物陰から出て、階段の下まで歩きかけた時、さっきの女性が仲根の部屋から幾つかの荷物を紙バッグに入れて現われ、小走りに階段をかけ降りてくるところだった。
階段下で、二人は鉢あわせをした。女はハッとしたように立ち止まり、藤色のワンピース姿の夏希の全身をまじまじとみた。
夏希は軽く会釈を返し、
「失礼ですが、仲根さんのお知りあいの方?」
訊いてみた。すると、女は笑顔をむけて、
「もしかしたらあなた、村山夏希さん?」
反対に聞かれて、夏希のほうが驚いた。
「はい。そうですが」
夏希が返事をすると、
「やっぱりね。私、紺野真弓っていうのよ。さっき、俊さんの部屋を訪ねたというのは、あなたでしょ?」
隣の主婦から、夏希が訪問したことを、聞いたにちがいない。夏希はそうだ、と答え、
「仲根さんは今、どちらに?」
「ちょっと事情があって、遠くにいるわ。私、俊さんの部屋に荷物を取りにきたところなの。――あ、こんなところで立話でも何だわ。変な人が私たちを見ていると困る。早く車に乗りましょう」
紺野真弓に急《せ》かされて、夏希が車に乗ると、真弓はすぐに車をスタートさせた。どこにゆくという目的地もいわず、
「ごめんなさい。私たち、悪質な地上げ屋グループに追われているの。俊さんのアパートの周りにも、変な人たちがいたから、あわてて逃げてるところ。事情はあとで話すわね」
それだけを言って、バックミラーに気を使ったりしていた。
車は、赤堤から甲州街道を経て、水道通りに入り、吉祥寺のほうにむかってゆく。
「ところで、あなた、お時間は?」
真弓は、不意に訊いた。
「夕方までなら、何とか都合がつきます」
「そう。お時間があるのなら、助かったわ。これから、俊さんがいるところにご案内するわね」
真弓はそれだけを言って、車のスピードをあげた。
――その時、仲根俊太郎は吉祥寺にいた。
吉祥寺という街は、むかしは東京のはずれで、武蔵野の玄関口だったが、今では大手デパートが集結し、ジョージ、シモキタといわれるくらい、ヤングタウンとして華やかに発展して、東京そのものの一画をなしている。
南口駅前は雑多な繁華街だ。「ルノアール」という喫茶店は、パチンコ屋の二階にあった。
仲根はその落着いた談話室ふうの広い喫茶店の奥まったところに待っていたが、真弓のうしろから現われた村山夏希に、ひどく驚いたようで、
「やあ、どうして……?」びっくりした顔をみせた。
真弓が簡単に説明すると、
「あ、そうか。連絡しなくて、ごめんなさい。こっちにも色々、取り込みがあったもんだから」
仲根は夏希に詫び、ウエイトレスにアイスコーヒーを二つ注文してから、「ところで、夏希さんのほうに、何か変わったことは、ありませんでしたか?」
心配そうに尋ねた。
「変なことといえば、銀子、と名のる女性から時々、いやがらせの電話がかかってくるんです。そのほかには、これといって……」
「どんないやがらせの電話だろう?」
「そうね。雅彦は自分の男だったとか、今に奪い返してやるとか……そんな、世間によくある他愛ないいやがらせなんだけど」
「なるほど、それだけですか」
仲根は、その話を夫婦の浮気喧嘩の類いの次元に置いたらしく、一安心した様子を見せた。
で、夏希はすかさず、
「それより、仲根さんのほうこそ、何かあったの? この数日、連絡がつかなかったけど」
仲根は写真の男を追跡してきた過程での、これまでの出来事をかいつまんで説明した。とくに話が粕谷二丁目の新築アパートで後ろから襲われて殴られ、人事不省に陥ったことに及ぶと、
「まあ!」と、夏希の唇から小さな悲鳴が洩れた。「知らなかったわ。そんな危険なことが起きてたなんて。ごめんなさい。私って、世間知らずなのね」
考えてみれば、相手が無法な人間たちであれば、当然、それぐらいは予想されることである。いや現に夏希の父は、刃物で刺されて、もう少しで殺害されるところだったのである。
それを思うと、夏希は急に、恐ろしくなった。軽はずみに、お嬢さん探偵ぶって、仲根の協力を得て事件を調べてみようと考えたのは、甘すぎたのではないか。夏希はこれからでも遅くないと、心を引締め、
「仲根さん、もう探偵ごっこはやめにしましょう。私、父のことも含めて、改めて警察に訴えます。ですから、調査のほうはもう――」
みんなまで言わせず、「手を引けと言っても、それは駄目ですよ。あなたの気持ちとか一存に拘わらず、事件はもう動きだしてるんだ。ぼくたちだって、降りるわけにはゆかない。それに言い忘れていたが、この調査の途中、土地代金を握って新宿の酒場の二階に転がりこんでいた妙な土地成金のおやじさんを発見したんですよ。その人、坂本という武蔵丘の人らしいんだけど、夏希さんのほうに、心当たりはないかな」
心当たりがないどころではない。
夏希はその話に、びっくりした。坂本という名前をきかなくても、その情況なら智津子の夫だわ、とすぐに気づく。
「うちの近所の人です。奥さんが智津子さんといって、うちの薔薇園にパートで来ているんですが、三週間前から夫が帰宅しなくなったといって……相談を受けていました」
夏希はそれから、坂本兼造の家で起きた相続税対策がらみの土地ジャック事件を説明した。坂本兼造が楡山貴司という税理士にのせられ、相続税を浮かすために架空債務の契約書を作ったり、砂利会社を設立したりする過程で、実印や委任状を委せているうち、田畑の大半以上、総額にして三十億円に近い土地の名義変更がなされて、結局は欺し取られてしまったことに話が及ぶと、
「ふーん。そりゃあ相当、深刻だ……それであの男、自暴自棄になって、酒場女のところに入りびたっていたのか」
この二つの事件、大変な〈接点〉だ、と仲根は腕を組んだ。
その土地ジャックグループとしたら、坂本が正気にかえって裁判に訴えたりするのを防ぐためにも、当分はあの真知子を使って手なずけているのかもしれない。あるいは、坂本が所有している残りの土地が狙いかもしれぬ。
「で、その悪徳税理士は、どうしました? 警察につかまったのですか?」
夏希にむかってきいた。
「いいえ、楡山は逃亡しました。武蔵丘から東京に逃げこんでいるんです」
「なるほど、どうやら無縁じゃなさそうだ。その悪徳税理士の企みと今、ぼくたちが追跡しているグループは、どこかでかかわっているような気がする。武蔵丘という同じ地域でのことだ。どこかの企業なり機関、団体が、あのあたり一帯を大掛りに買収でもしようと狙っているのかもしれないな」
仲根は、そう呟いた。
たとえば楡山貴司という男は、いわばその先兵で、取得した土地をどこやらに転売してしまう。その土地がまわり回って最終的に、大規模な買収元に吸収されてゆく――といった構図なら、よくあることであった。
いずれにしろこれは容易ならんぞ、という言葉が仲根の顔には書いてあった。
夏希は夏希で、意外なところで正体を現わしてきた智津子の夫、兼造と、自分を脅迫して白紙委任状を書かした犯人グループとの「接点」に驚き、得体の知れない恐怖を覚えた。
坂本から巨額土地を欺し取った悪徳税理士と、「写真の男」たちが、仮にどこかで「接点」を持つにしても、しかし父が刺された理由や「黒狼谷の秘密」というものは、まだ少しも分かってはいないのであった。
そうなると、仲根が秘かに潜行調査を続ける必要がある、と主張するのも頷ける。夏希としては、仲根たちの身の上が心配だったが、もう少し委せてみて、それに期待するしかないような気がした。
「よし。それなら当面の標的はやはり、あのアメリカンハウスにいた男女だな。男は河野といったか。あいつらを追おう、な、紺野君」
仲根が傍らをふりむくと、「ええ」と、紺野真弓が爽やかな返事を返していた。
(この二人、一体どうなってるんだろう。愛人同士でもあるし、仕事仲間のようでもあるし、ただの友達のようでもあるし……)
夏希は自分の知らない世界だと思った。
その日、夏希は午後二時まで、吉祥寺の喫茶店にいたことになる。今ふうにいえば、情報交換というのだろうか。仲根と相互に、お互いの情況を報告しあい、今後の方針を確認しあったことは夏希の今後に、大きな勇気をもたらしてくれたような気がする。
夏希は仲根たちと別れたあと、JR中央線で新宿に出て、デパートで買い物をした。買い物は父や夫の夏の下着やワイシャツなどであったが、品物を選ぶ間も心ここにあらずで、武蔵丘周辺で暗躍しだしてきたらしい地上げ屋グループの生々しい魔影に、気持ちが追いたてられるような気がした。
エスカレーターで婦人服売り場のほうに移動しかけた時、何気なく夏希の眼が、紳士服売り場のフロアのコーナーにとまった。
「あら」と思った。「……蓮見康子さんだったような気がするけど……」
よく見ようとしたが、エスカレーターはその間に、どんどん階上にあがっていって、下のフロアの風景はもう見えなくなった。
夏希がどきんとしたのは、蓮見康子によく似た女が、若い男と連れだって、ネクタイ売り場でネクタイを物色していたからであった。
(そんなばかな! 私の眼の錯覚に違いないわ。康子は父が信じて後妻に入れようと考えているくらいの女だもの。ほかに男がいるなんてことは考えられない!)
夏希は自分に、そう言いきかせた。
デパートでは最後に、地下一階の食料品売り場で夕食の惣菜を見つくろい、夏希が電車で武蔵丘の家に帰りついたのは、もう夕方であった。
家には灯が入ってなかった。夫は、まだ帰ってはいないらしい。閉めきったままだった家に入ると、夏の熱いよどんだ闇の中に、夏希はふっと立ち尽くし、深い孤独と疲れを感じた。
第五章 殺人銀河
衝動が背を圧していた。
夏希は夫の書斎にはいって、入口のところで立ち止まった。部屋の右手のほうに事務机の大きいのが置いてあり、そのむこうは窓。その窓から庭の一部がのぞいており、夏希の眼にはその時、窓の正面に見える花壇の薔薇のまっ赤に燃えるような美しさだけが、映っていた。
部屋に入ってから、その真紅の美しさに射すくめられるように立ち止まったのか、立ち止まってから、その薔薇のほうに眼をやったのか、その点ははっきりとは分からなかったが、ともかく、ひどく厳粛で、しいんとした一瞬であった。
夏の日盛りの万物が息をつめて、その薔薇の精に吸いこまれてしまったような妙に静かな瞬間であった。夏希は呆然とした面持ちで、その異様としか言いようのない静けさの中に立ちつくしていた。
少なくともその時、夏希は自分が何のために、何をしようと思って、夫の部屋へやって来たのか、わからなかった。部屋にはいって来たからには、何か目的を持ってやってきたはずだが、それを不意に忘れてしまいたいと思う気持ちが一方では強くて、短い自失状態が訪れたのかもしれなかった。
――夫の秘密を探る……。
考えてみれば、卑劣なことだ。恥ずかしいことである。
本当は、そんなことはしたくない、と思う気持ちが一方で強く働いているから、夏希の足が止まったのかもしれない。でも、このところの身辺の多端さや、女からの電話、それに仲根たちからきいた事件の広がりから、夏希は急にまわりのものすべてに、身構えるようになったのである。
夫の雅彦を疑っているわけではない。でも、女がいるのではないかという疑いは、急速に濃厚になっていた。雅彦は書斎にはふだん、絶対に夏希を入れないので、何かを隠しているのではないか、とさえ思ったのである。
家捜しする、というほど大袈裟なものではない。でも夏希は夫の書斎の中を手あたりしだいに、ひっかきまわしたくなったのだ。
机の抽出し、本棚、ゴルフ道具のまわりなどを掃除するように見せかけて、クリーナーを使いながら、
(夫には女がいる……!)
そう呟いて、自分が夫を疑わなければならないという立場に、空恐ろしいものを感じた。結婚してまだ、数ヵ月である。新婚家庭といっていい。それなのに、早くも身辺に起きつつあることの疑惑の一点が、夫の女性関係にもつながっていると考えなければならないことは、夏希にとっては辛い気持ちであった。
(……いる。雅彦にはきっと、女がいるんだわ……)
昨日の晩、会社から帰ってきた夫の雅彦の襟は白かった。だから、かすかな汗がしみているのがはっきりとわかった。駅から家までは車だから、冷房がきいていて、そう汗をかくはずはない。
やはり別の場所で流した汗なのだ。いつもは帰宅する頃はもうゆるんでいるネクタイなのに、ゆうべは妙にきちんと締め直されていたのも疑わしい。別の場所でネクタイやワイシャツを脱いだ夫の身体が流した汗の量や獣の姿勢を想像すると、夏希は切なかった。
雅彦から優しく愛撫されたり、愛の言葉を囁かれたりすると、その時だけは夏希の心の中の容器は、何ものかで溢れるような気持ちになる。でも、そうでない時、雅彦の帰りが遅い夜、あらぬ疑いを抱いている時、夏希の心の中の容器は、少しも充たされてはおらず、潮が退いたように、乾いた砂地を晒《さら》しているのであった。
夏希は今、猛烈に不倖せであった。夏希は本当なら余計なことを考えずに、薔薇作りだけに打ち込みたい。それなのに、それを邪魔する何かがある。何かがあるとすれば、その正体を探らねばならなかった。
雅彦の書斎は乱雑だった。ニュータウン開発計画のコピーや、マンションやビル、タウンハウスの設計図などが机にも、床にも散らばっている。その一角の本や書類を動かしていた夏希は、あらっと、手をとめた。
公園開発計画ハンドブック、と記された実用書の間から、ぱらっと一枚の茶色の書類封筒が落ちてきたのである。
何気なく封筒を傾けると、名刺型の写真と電話番号をメモした紙きれが落ちこぼれてきた。写真を手にとって、あっと驚いた。どこかの公園の噴水とバラの花壇を背にした二十四、五歳の、若くて美しい女性の顔が華やかに写っているではないか。
(……やっぱり富沢美智子じゃないの!)
夏希が通っているカルチャーセンターの女であった。
髪が長い。フェミニン・シャンプーのコマーシャルのように、その髪は風に躍りながら、左肩のほうに束になって、さらさらと流れている感じであった。
夏希は目まいを覚えた。
カルチャーセンターで机を並べている富沢美智子に間違いなかった。
夏希が通っているカルチャーセンターには、暇をもてあまして、講義や学習や習い事よりも、雑談をしにきたのではないかと思えるような主婦や、OLや、熟女が多い。
この写真に写っている富沢美智子は、貿易会社のファッション部に勤務するOLである。外国ブランドを扱っていた。写真のようにいつも若造りをしているが、本当はもう二十七、八歳で、ハイミスだと聞いたこともある。
(そうだわ。雅彦はきっと、私と結婚する以前から、この女とつきあっていたのじゃないかしら。それが、結婚しても切れなくて、あるいは何かの拍子に縒《よ》りが戻って、今また深入りしているんじゃないかしら……)
夏希は、その事実関係を確かめねばならないと思った。
さいわい、夏希は市民センターで毎週、金、土に開講されているそのカルチャーセンターには、結婚後もまだ籍をおいている。仕事が忙しい季節は、サボる日も多かったが、このところはまたボチボチ、一週おきくらいに顔をだしていた。
(そういえば、今日は金曜日。よし、今夜、教室に行って、富沢美智子に直接、たしかめてみよう)
カルチャーセンターにゆく夜は、帰りはたいてい九時半か、十時になる。もし雅彦が早く帰宅すると困るので、会社に電話をして、夫には一応、外出することを告げておこうと思った。
千駄ケ谷の本社に電話をかけると、さいわい、雅彦は会社にいた。夏希が用件を述べると、
「ほう、そうかい。勉強にも精がでるね。教室友だちとゆっくりしてくればいい」
雅彦の返事は、それだけだった。いや味のようにもきこえたが、毒はなかった。
夏希は夕方、仕事を早く切りあげると、精一杯顔も髪も整え、夏物の一番いい服を着て、車で家を出た。富沢美智子などに負けてなるものかと思った。
教壇の机の上に花瓶が置かれ、その中に一束の薔薇が飾られていた。黄色の大輪で、眼にしみるように、鮮やかな色であった。
「おや……」
教室に入ってきたばかりの老講師の狩野富太郎が、目を輝かせた。
「ピースじゃありませんか、これは。ねえ、村山さん」
同意を求めるような視線を、教室の中ほどに坐っている村山夏希のほうにむけた。
「はい。うちの花壇に今を盛りと咲いていましたので、剪《き》ってきました」
夏希はその夜、わざと、その黄薔薇を持参したのだ。富沢美智子の反応を見るためだった。
「そうですか。村山さんは薔薇の専門家だから、丹精もさすがですね。教室じゅうに、馥郁《ふくいく》として匂うようだ」
万葉集の研究で有名な国文学者である講師の狩野富太郎は、銀髪の老紳士だが、優雅な手つきで花弁にさわって、近々と鼻を近づけたりしていた。
夏希の三つ横に、富沢美智子が坐っている。横顔が冷めたいほど整った女で、今夜もおしゃれをしているが、黄薔薇に対しては、何の反応も示してはいない。
(おかしいわ。もし富沢美智子が雅彦と関係があるのなら、何らかの反応を示すはず。いつかの電話でも、雅彦からもらった黄薔薇を自分の部屋に飾っている、としゃあしゃあと、言っていたではないか)
――それなのに、能面のように無表情。夏希のほうに顔をむけようともしない。
(よし、それなら今夜、講義が終わったあと、お茶でも誘って、直談判してみよう。私には、写真という証拠があるんだわ)
夏希は、そう思った。
それから、喫茶店に呼びだしてから、富沢美智子に対してどう切りだせばよいのかを考えていると、狩野富太郎の講義はあまり耳にはいらず、広げていたノートにも、これというメモはとっていなかった。
講義は、だいたい三時間である。間に、三十分の休憩がある。その休憩時間も、教室の中や廊下に幾つかのグループができて、女たちはお喋りに夢中だが、貿易会社のファッション部に勤めている富沢美智子は、いつも一番大きなグループの中心であった。
「富沢さん、ちょっと――」
二時間目の講義がはじまる直前、夏希は廊下で美智子を呼びとめた。「あなたにちょっとお聞きしたいことがあるんだけど、今夜、三十分ばかり時間がとれるかしら……?」
富沢美智子は、服飾に関する相談かと思ったらしく、気軽に承諾の返事をした。
スナック「樫の木」は、市役所通りに面していた。
「いつも忙しいといって、まっ先に帰る夏希さんが、私を呼び出すなんて、珍しいわね。話って、なあに?」
微笑を浮かべながら、しかしどことなし、その言葉には挑むような響きがあった。
夏希は卒直に切りだした。
「あなたにお聞きしたいというのは、雅彦のことよ。あなたたち、私に隠れて以前からつきあっているという噂を聞いたけど、それ本当?」
「どうして私が、あなたのご主人とつきあわなければならないの?」
「どうしてかは、私にはわからないわ。それは、私のほうでお聞きしたいのよ。あなたたち、今ふうにいえば、不倫の関係なんでしょ?」
夏希が強い言葉を投げつけると、美智子の微笑を結んだ唇の端から、笑いが消えた。
美智子は激しくではないが、でもかなり憤然として、こう言った。
「誤解だわ、それは」
美智子が返してきた声に、夏希はアイスコーヒーの氷をかきまぜていた手をとめて、顔をあげた。怒りを石にして投げつけてきたような強い声に驚いたのだが、夏希に見つめられ、美智子はまた唇の端に、微笑を結んだ。
「ファッションに関するご相談なら、なんでも相談にのって、お力になってあげようと思ってたけど、そんなお話なら、お断わりするわ。言いがかりも、いいところよ」
ただ耳でとらえた声の冷ややかさと、目でとらえた微笑との格差にとまどい、一瞬だが、夏希は自分が顔をあげるまでは、この女、鬼のような顔をしていたのかもしれない、と思った。
「そうかしら。言いがかりかしら」
「そうよ。ひどい言いがかりよ」
「いつぞや、銀子と名のっていやがらせの電話をしてきたのも、あなたじゃないの?」
「銀子? 何のことよ?」
「ミモザ館の銀子って名のったわ。ミモザ館というのは、あなたが勤めている会社の系列ブティックの名前でしょ。電話の声も、あなたにそっくりだったわ」
夏希も負けてはいなかった。こういう時は、万事、ひるんではおれないし、ひるんだほうが負けだし、真実を聞きだすこともできない。
すると美智子が、やや気色ばんで語気をつよめ、「ずい分、勝手なことを言うのね。私には全部、何のことやらわからないわ。私がいつも教室の花形で、講師たちにももてるからって、変な言いがかりをつけないで」
「じゃあ、これは何なの?」
夏希はハンドバッグから写真を取りだして、テーブルの上にのせた。花壇と噴水の傍で写っている女は、富沢美智子である。
のぞきこんだ美智子の顔色が、さすがに少しは変わった。やや緊張し、息をのみ、でも次の瞬間、あげられた顔は、きっとなっていた。
「これが、どうしたというの?」
「雅彦の書斎から出てきたのよ。彼は大事に保管してたわ。あなたと雅彦は、何らかの関係がある証拠じゃないの」
「そうね。何事もなかったといえば、嘘になるわ。でもそれは、あなたたちが結婚するよりも、ずっと前のことよ」
はっきりと、そう断定した。
美智子によると、この写真はむかし雅彦と交際していた頃、月に一度ぐらい、遠出した時の写真である。彼は公園土木設計の参考にするためという理由で、西武園や向ケ丘遊園、谷津遊園など、色々な公園を見にゆきたいといい、従ってデートの場所もそういうところに落着いていたのだそうである。
「そういうわけよ。公園でデートするくらいだから、その中身も知れてるでしょ」
「本当? それだけのことなの?」――夏希は重ねてきいた。
「そうよ。それだけのことだと言ってるでしょ。それより、この際だからあなたに言っておきたいことがあるわ」
――美智子はきっとなって、白い顔をむけた。
「なあに?」
夏希は受け身になった。
「ほかでもないわ、その雅彦さんのことよ。これは私も小耳に入れたことだから、大きなことは言えないけど、彼は結婚以来、いつも外でこぼしているそうよ」
「どういうことかしら」
夏希は胸を反らせた。
「ほらほら、そういう態度よ。――大きな薔薇園という財産持ちの家つき娘だからといって、あまり大きな顔、しないでよ。それに私は妻です、なんてこと、あなたに言えた義理かしら。亭主が夜遅く帰ってきても、不貞寝はしている、着がえも手伝わない、朝食もろくすっぽ作らない。そんな女がよくも雅彦の妻です、なんて言えるわね」
「それは誤解よ。私は不貞寝なんかしていないわ。そりゃ、私には朝早い仕事がありますから、深夜一時や二時に帰られると、先に休ませてもらっている時もあるでしょうし、出荷や薔薇温室の作業をするため、朝食にはつきっきりで世話もできないかもしれないけど……」
夏希は弁解するように言った。でも一番、痛いところを突かれた思いは、たしかにある。
それはでも、仕事をもつ兼業主婦として、仕方がないことではないか。夏希は雅彦の妻であると同時に、村山薔薇園の女あるじなのだ。
夏希がやっと、そういう自分の立場を説明すると、
「それはあなたのほうの、言い分でしょ。男というものはそういうわけにはゆかないわ。亭主になるとその妻に対し、子供のように甘えたい側面と、殿様のように威張りたい側面との、二つをもっているんだから、妻から何もかまってもらえないと、無視されたと腹をたてるに決まっているわ。その腹立ちを癒すために外で多少の遊びをしてきたとしても、それを一々言いたてる権利が、あなたにあるのかしらね」
毒の針。美智子はずけずけと言った。それだけではない。美智子は最後に、こうも言って席を立ったのである。
「それから、言っておきますけどね。私は他人の亭主に収まった男を深追いするほど、暇でもないし、男に不自由していないわ。ともかく、そんなわけだから、雅彦さんのことで、いい加減な難くせをつけないで……」
夏希は遠ざかるハイヒールの音を、茫然ときいていた。
――まわりだした歯車はもう止まらない。
夏希が夫に疑惑を抱きはじめた頃、仲根は、地上げ屋グループを追っていた。吉祥寺の三日後、世田谷区馬事公苑にむかってスプリンターを飛ばしているのも、そのための行動の一つであった。
夕暮れの道は混んでいた。三軒茶屋から世田谷通りに入った。スプリンターの助手席に、今日は真弓はおらず、仲根一人であった。
馬事公苑の近くの「グリーン・ビレッジ」というマンションに、いつぞやの女が住んでいるそうである。いつぞやの、というのは、仲根が殴られて監禁された粕谷二丁目のアメリカンハウスで、仲根を応対した女、赤垣幸子である。
幸子の住まいを調べて突きとめた紺野真弓によると、彼女は「暁興業」の河野又造の愛人だという。それなら、その部屋に河野は潜んでいるかもしれない。
そのマンションは、すぐにわかった。馬事公苑近くの、桜新道とよばれる通りに面して建っている大きなマンションであった。
フロントに入り、メールボックスで調べると、赤垣幸子は五〇一号室ということがわかった。もっとも、その部屋の郵便受には、渡辺晴美という名前も一緒に貼られているので、あるいは女性が二人で、共同生活をしているのかもしれない。
仲根はエレベーターで五階に昇った。五〇一号室は端の部屋であった。めざす部屋の前に立ち、チャイムを押そうとした時、ひょっこり、そのドアが内側からあけられたので、仲根はびっくりして、退いた。
女が出てきた。化粧をしてスーツを着て外出しようとする若い女は、幸子ではなかった。
「渡辺さんですね?」
見当をつけて聞くと、
「そうよ」
と女は返事をした。
「幸子さん、いらっしゃいますか?」
「幸子……? いるもんですか。ここんところ、ずっと部屋には戻っていないわ」
仲根は落胆したが、幸子不在、ときき、かえって彼女の行動の奥行きの深さを感じた。それならこの同居人の女を掴まえて、根掘り葉掘り聞いてやろう、と方針を切りかえることにした。
「幸子さんはどちらへ?」
「私にもわかんないわ。大方、柿生《かきお》の彼氏のところじゃないかしら」
「柿生といいますと、河野又造さんのおうちですか?」
刑事がよくやる誘導尋問である。そうであるに違いない、と思って仲根が聞くと、女はようやく不審そうな眼をむけ、
「ところで、あんた誰?」
反対に、そう訊かれた。
「幸子さんの郷里の同窓生ですがね。ちょっとお母さんから預かり物をしているんですよ」
「へええ、新潟の……?」
「はい。急ぎの伝言も頼まれてまして、どうしても幸子さんの行先を知りたいのですが」
「そういわれても困るわ。私、これから出勤するのよ。今夜にでも連絡とっておくから、あしたまた、出直してきなさいよ」
これから出勤する、という言葉から察して、同居人の渡辺晴美も、どうやらバーかクラブ勤めの女らしい。それなら、と仲根は作戦を思いついて、調子よく、
「あ、そうそう。ぼくもこれから新宿に戻るところですがね。何なら送りましょうか」
「へえ。車で来てるの?」
少し、風むきが変わってきた。
「はい。よろしかったら、お乗りになりませんか。銀座でも新宿でもお送りしますよ」
「そうね。じゃ、甘えようかな。私も同じ新宿のほうだから」
渡辺晴美は、助手席に乗ることになった。
「ただで運んでもらうのは悪いわね。新宿までゆく途中、もしお役に立つのなら、幸子のこと、少し話してあげるわ」
仲根は晴美を助手席にのせて、夏の夕暮れの街を、新宿にむけて走りだした。仲根はどうしても、河野又造の家を知りたかった。
「ねえ。柿生の家を教えて下さいよ」
「行ったことがないから、地図は書けないわよ」
「でも、電話番号とか、住所とかはわかるんでしょ」
仲根の粘り勝ちであった。その日、仲根は新宿に着くまでに、晴美から、柿生の家の住所や幸子の日常について、かなり詳しいことを聞きだすことができた。
もっとも、仲根はクラブの同伴出勤というシステムの客になって、少し飲まなければならなくなった。
晴美が勤める新宿・歌舞伎町のその店は、クラブといっても、かなり特殊なクラブであった。入ったところのサロンは、ふつうのクラブかキャバクラふう。ワンセット七千円でビールを飲んでいるうち、渡辺晴美が、個室マッサージという部屋に誘ったのだ。
「まだ宵の口で客が少なくて、困っているのよ。ねえ、せっかくお店までつきあってくれたんだから、もう少し張り込んでよ。あたしがサービスするからさあ」
「ぼくはマッサージを受けるほど、疲れてはいないよ」
「おとぼけばっかり! マッサージといっても、そんなんじゃないわよ。詳しいことまで、説明させないでよ」
仲根の膝の上に、晴美の手が置かれていた。その手は、男心をそよぎたたせるように、内股のほうへ動いてゆく。
仲根は素知らぬふりをしてビールを飲みながら、「赤垣幸子も、こういうお店に勤めているのかい?」
「そうよ。以前はこの店で一緒だったのよ。もっとも、地上げ屋の河野さんといい仲になってからは、お店やめちゃったけど」
「今は柿生の河野と同棲しているのかな」
「さあ、どうでしょう。何かの仕事のお手伝いをしている、と言ってたけど」
晴美はそれ以上は、話さなかった。仲根はもう少し進んでみるか、と考えた。
「ねえ、今なら安いわ。ただで運んでくれたお礼をさせて」
「うむ。じゃ、ちょっとだけ、つきあうか」
「わあ。うれしい」
仲根は晴美に誘われて、奥に入った。仲根も週刊誌のトップ屋まがいのことをしているから、歌舞伎町のもろもろの風俗産業というものを知らないわけではない。しかし案内されたその部屋の、何という狭さだろう。
船窓のような丸窓があるサウナのような小さな個室だった。ベッドがあって、男女が入れば、それでもう一杯。上衣がぬがされ、ネクタイをはずされ、気楽に横になって、と晴美はマッサージ師のように、てきぱきとした口調であった。
「苦労しているんだね」
仲根は身体を預けて、声をかけた。
「お金のためよ。がんばらなくっちゃ。あたし三十歳までに五千万円、貯めるつもりなんだから」
晴美はてきぱきと仕事をすすめながら、凄いことを平気で言った。
「貯めて、どうするんだい?」
「そうしたら、ブティックかスナックが開けるでしょ。女オーナーになれるわ。田舎から出てきた小娘には、そういうことしか出世の道、ないんだもン」
なるほど、晴美は凄い恰好だ。上半身は健康美まるだしの裸。乳房が揺れる。下半身は黒い太網の入ったストッキングに、ハイレグだけ。腰に何やら羽根飾りめいたものをつけて、バニーガールふうのスタイルで、まず俯せにした仲根の背中を、軽くマッサージしはじめた。そのマッサージは、男性の身体の、あらゆる部分に及ぶのである。
「きみの友達の幸子も、そういう考え方で水商売をやっているのかな」
質問を、標的のほうにむけた。
「そうね。私は四国から出てきたけど、彼女は新潟。出身地は違っても、似たようなものね。もっとも彼女は、河野さんに入れあげはじめてから、貯金が減りだしたと嘆いていたけど」
「きみも気をつけなくっちゃ。男に貢いだりしたら、あっという間に貯えがなくなるよ」
「私は大丈夫よ。男に惚れない主義だから。これでも私、しっかりしているのよ」
「その河野の所属する暁興業のことだけど、どんな仕事をしているんだろう?」
仲根が聞きだしたい一番肝心の点は、そこなのである。
「さあ。そんなことまでは、私は知らないわよ」
「そうかな。知ってるくせに。教えてよ」
「もう少し聞こうというのなら、私たち、もう少し親しくならなくっちゃ」
こういう風俗営業では、サービスの段階に応じて、料金の段階がある。これ以上進むと、もちろん、料金は高くなるのである。
でも、情報料だと思えば、安いものである。
仲根は承諾の意味を表わすように、晴美の右腿を撫でた。ハイレグの布切れはきわどい。指はすぐに沈みこんだ。固い毛だった。音がした。
晴美は笑って、股を閉じた。しげみの下に、うるみがたたえられていた。熱かった。
柔らかいはざまを撫でると、晴美は高い声をあげて、喉をふるわせた。
仲根が最後までつきあうという意思表示をしたので、渡辺晴美の働きぶりはいっそう活況を呈し、見事な銭牝《ぜにめす》ぶりを見せてきた。
そしてまた、自分の仕事を少しも恥ずかしがってはいない。天真爛漫だった。晴美の肉体は、若鮎のようだった。ボディー・タッチというものらしい。両の乳房で仲根の背中をさすったり、男性の微妙なところに手をやってきわだたせたり、軽いキスを見舞ったりして、焔がゆらめくように全身にまとわりつき、たわむれるのだった。
「ねえ、晴美。教えてくれよ。暁興業はいったい、何をやろうとしてるんだろう?」
機をみて、仲根は晴美の身体にお返しをしたりしながら、さりげなく聞いた。
「そうねえ。幸子から聞いたんだけど……あの地上げ屋、新宿でも色々な区画の酒場などを立ち退かせて、更地にして大手企業にその土地を転売し、ぼろ儲けしているようだわ。上は銀行や大手建設会社とつながっていて、下は暴力団ともつながっているらしいわね」
「今、何か大きな事業を企んでいる、といったね。それは、どんな事業なんだろう?」
「幸子も詳しいことは知らないみたい。でも、どこやらの銀行とデベロッパーに頼まれて、都内ではない、どこか田舎のほうの土地を大々的に、買占めに入ってるみたいよ」
「田舎っていうのは?」
「さあ、どこでしょう。東京の近くであるには、違いないと思うけど――」
(やはり、首都圏五十キロ圏。多分、武蔵丘あたりで、何やら大きな土地絡みの巨大プロジェクトが、進んでいるようだ……)
仲根が宙を睨んでそういうことを考えているとき、晴美が耳許で、そっと囁いてきた。
「あのね……個室マッサージではふつうは、ここまでよ。本番まではやらないわ。でも、あなたとはフィーリングが合うみたい。ここも、元気だしさあ。車で送ってくれたお礼に、私の好きなことさせて」
晴美は勇敢にも、腰に残っている最後の布切れまで脱いでしまった。濃い繁茂の具合を堂々とさらし、またがってきて、収めた。
そよぐように動く。やがて、晴美の息遣いが荒くなった。仲根はその声を聞きながら、自らもまたその欲望のふるまいの渦に飲みこまれながら、底知れぬ都会の闇というものを感じた。
(幸子も、こんなことをしていたのだろうか。根は純情でお人良し。でも、やることは凄い……という、そんな女だとするなら、河野又造はきっと、幸子を何かに利用しようとしているのではないか)
仲根はその夜、歌舞伎町に、そして事件の裏に、咲き乱れる原色の華のような、欲望の渦を感じた。
翌日は暑い日だった。
仲根は現代舎の朝の仕事を終えると、午後は取材にかこつけて、四谷から車を郊外の柿生にむけた。
柿生はもう多摩川を渡った百合ケ丘の先なので、神奈川県である。でも、武蔵丘に近い。
探しあてた住所は、かなり奥まっていた。それも小高い丘。深い竹林や雑木林の中を登る道をうねうねと上ると、新しく拓かれた住宅街の一画があった。スーパーや煙草屋までがある。そのはずれにはまた竹林や雑木林があり、道の突きあたりに妙に堅牢な白い鉄筋コンクリートの二階家が見えてきた。
それが、河野又造の家であった。もっとも、家庭というものではない。近くにある藤城組の不動産会社百合ケ丘支店に通うため、藤城組が作った新築二階建ての豪邸を、ここでもまた、売れるまで当座のねぐらとして使っているらしかった。
仲根はその家に近づく前に、角の煙草屋と雑貨屋で、そういうことを聞きだしたのだ。煙草屋のおばさんは、またこうも言った。
「何しろこのあたり一帯の宅地造成は、藤城組がやったんですからね。藤城組といえば、このへんでは殿様ですよ。でもそれにしては、あの家にはいつも妙な男や女が出入りしていて、近所では薄気味悪い、と話してるんですよ」
仲根は車を雑木林の中に隠し、運転席から双眼鏡を取り出し、バードウオッチングにきた都会の物好きのようなふりをしながら、竹林の傾斜を少しよじのぼって、白い二階家が見える位置を探した。
ちょうど、家の真裏にあたる角度だった。傾斜地に腰をすえて、双眼鏡を顔にあてた。
ノズルを絞ると、白い家が視野に入った。一階にも二階にも、幾つかの部屋があった。夏なので、窓があいていた。白いレースのカーテンがひるがえっている部屋が多かった。
仲根はゆっくりと、その一つ一つの窓を確かめていった。倍率の高い双眼鏡なので、人間の所在さえわかれば、顔もはっきり映る。それも複数の人間がいれば、その家でどのようなことが行われているかがわかるはずであった。
一階の端のある窓に焦点を絞った時である。あッ、と仲根は顔を引こうとした。凄い光景が映っていた。男と女が、昼間からベッドの上で絡みあっていたのであった。
(赤垣幸子と、河野又造だろうか?)
仲根はそれを確かめるように、もう一度、双眼鏡を顔にあてた。よく見ると女の顔は間違いなく、赤垣幸子であった。
しかし男は、河野又造ではなかった。
別人であった。これは意外な気がした。しかしその男の顔にも、どうやら微かに見憶えがあった。
(そうだ。村山夏希を長崎のホテルで襲ったという三人組のうちの、一人ではないか。たしか写真でみた若い男の顔に、そっくりである――)
断定はできないが、そんな気がした。それなら、この柿生の家こそ、河野又造をはじめ、夏希を脅迫していた一味、さらには武蔵丘で何やら画策しているらしい連中の本拠地ということになるのかもしれない。
(どうするか……)
それを考えながら、仲根は双眼鏡を構えたまま、なおも他の部屋を観察した。
四角い二階家なので、部屋数は多い。二階にも幾つかあった。人影がちらと見えた。こちらは男が一人だった。ぼんやりと膝を抱えてテレビを見ていた。照準を合わせると、顔がはっきりと見えてきた。
驚くべきことに……というべきか。予想していたというべきか。その男は武蔵丘で土地被害にあった例の坂本兼造であった。
かつては働き者であったはずの武蔵野の農民なのに、奇妙に逸楽の匂いのする酒場や他人の家を転々として、昼間っから、ごろごろしている。いったいどういう心境なのだろうか。
(それにしてもあの男、救いださなければならないな。それに、幸子ともつれている男が、夏希を襲った三人組の一人に間違いないかどうかも、確認しよう。そのためには、夏希に、首実検をしてもらうことが一番だ……)
仲根は、そう考えた。
結論をだすと、行動は早かった。仲根は、双眼鏡をケースに納うと、藪の中に隠し、立ちあがって、夏希に連絡をとるために、電話のあった煙草屋のほうに走りだした。
幸い、村山夏希は家にいた。
「もしもし、夏希さん?」
「はい。村山ですが」
「ぼくです。仲根です」
仲根俊太郎は、かなり急《せ》きこむような口調であった。受話器のむこうで、夏希がはっとして息をのむ気配がした。
「まあ、仲根さん。……はじめてなので、びっくりしたわ」
仲根は用件を述べた。自分が今、地上げ屋グループを追っていて、柿生の新興宅造地帯にきており、長崎で夏希を襲ったとみられる写真の男を発見したので、間違いないかどうか、首実検をしてほしい、というふうにである。
夏希はいささか、驚いていた。しかし自分がその男の顔をみれば、事態ははっきりするだろうということは理解したらしく、
「今すぐがいいの?」
薔薇園の仕事があって、手順を迷っているふうであった。
「できれば、今すぐがいい。あいつらが外出して戻ってこなければ、事態はまた、ふりだし。闇の中です」
「わかりました。すぐ参ります」
「それから――確認してもらうことのあと一つは、例の坂本兼造らしい男も、その家の中で見かけたんです」
「まあ、坂本さんも?」
「たぶん、その男じゃないかと思います。それもあわせて夏希さんに確かめてもらって、救出しようと思っています」
「じゃ急いで参ります。そちらの落ちあい場所を教えて下さい」
夏希に、危害が及んではならない。仲根は用心して、小田急線柿生駅を落ちあい場所に指定し、ついでに何かの手伝いになるはずだと思い、会社から紺野真弓を呼び寄せることにした。
真弓も会社にいた。事情説明を途中で遮って、
「了解。すぐ電車でゆきます」
仲根は受話器を置いてから、煙草に一本、火をつけた。さて、二人を迎えるまで、どこかに潜んでおこうと、白い家のほうに戻りかけた時、あっと仲根は、物陰に身を隠した。
前方から一台の車が走ってきた。車は赤垣幸子が運転していた。後部座席に坂本兼造と河野ともう一人の男が乗っていたのである。
――同じ頃、夏希は、外出支度をした。
仲根俊太郎からの電話を受けて、すぐであった。腕時計を見ると、午後四時であった。今から車で家を出ると、四十分くらいで柿生には着きそうである。
夏希は仕事用のワゴン車ではなく、買い物の時などに使う私用のBMWを、ガレージから出した。乗って庭先を出ようとした時、薔薇園のほうから鳥羽悟平が戻ってくる姿を見つけた。
「悟平さん、ちょっと出かけます。温室のほう、お願いね」
家のことを鳥羽悟平に頼んだ。
「はい。行ってらっしゃい」
「少し遅くなるかもしれないけど、買い物だから、心配しないで」
平日の夕方前なので、道は空いていた。駅前まで静かな田舎道をはしり、それから東京に直結する幹線道路に入った。
柿生の少し手前で、道路工事のため車が長蛇の列となって渋滞し、約束した場所に着いたのは、予定よりはるかに遅れて、午後六時をまわっていた。
駅前に着いて、運転席の窓をあけた。まわりを眺めて、仲根を探した。駅前の喫茶店に待機していたらしい仲根が、すぐに夏希に気づいたらしく、飛びだしてきた。
「やあ、遅かったですね。この車、使っていいですか?」
「ええ。目的の場所は遠いんですか」
「ちょっとあります。歩くより車のほうが早い。このまま行きましょう」
仲根は乗り込んできた。夏希が運転して、二人は不審人物たちの潜伏場所に出発した。
仲根が道順を指示した。
夏希が運転する車は、山中のほうに道をとった。ようやく、丘陵部に夕暮れが近づこうとしている。夕陽はまだ西の空にあるが、東側の翳った山裾には、暮色が漂いはじめていた。
「新興住宅街の中って聞いていたけど、こっちでは農道に入ってゆくみたいじゃないの」
「うん。あの電話の時とはちょっと情況が変わっちまった。もう少し先に行ったところに、古い老朽家屋があります。廃家といっていい。なんの用事なのか、やつらはそこに入っていったんです」
今、仲根が案内している道は、双眼鏡でのぞいていた最初の白い二階家へつづく道ではない。夏希への電話を終えたあと、白い家のほうに戻ろうとした途中で、河野らが車で外出するところに出くわしたのだ。あわてて雑木林の中に隠していた車で追いかけると、赤垣幸子を含む男女四人は、長淵という集落の先にある一軒の廃家の中に入っていったのであった。
隠れ家を移した、という印象であった。それも多分、坂本兼造を押し込んでおくための隠れ家、というふうに見えた。で、今、仲根はそこにむかっているのである。
集落を幾つかすぎると、やがてその家が見えてきた。山裾の古いわらぶき農家。聞いてみると、そこの居住者は近くに新しい文化住宅を建てて移り住んだため、解体されずに放置されている廃家であるらしかった。
仲根は、その少し手前で車を駐めさせた。雑木林の中に車を入れ終わって、夏希は驚いた。林の中から紺野真弓が飛びだしてきたからである。
「変化はないか?」
仲根がきいた。
「ないわ。河野と幸子はさっき、車で出ていったけど、今、あの家には二人の男が居残っているわ。一人は坂本兼造。もう一人はたぶん、坂本を見張る役らしいけど……その男が例の写真の男のような気がするのよ」
「よし。行ってみよう」
と、仲根はいい、夏希に指示した。
「いいですか。ぼくと二人で保険のセールスマンを装って訪問する。もし、応対に出た男が、長崎であなたを襲った男だったら、ぼくの脇をつねって合図して下さい。もし人違いだったら、ぼくの足を踏んづける。どちらにせよ、保険のセールスマンといっても、すぐに追い返されるに違いないので、確認さえすれば、一旦は退却します。あとはぼくに考えがあるので委せて下さい。いいですね」
はい、と夏希は返事をした。でも何だか前途に、大きな危険が待っているような予感がしないでもなかった。
仲根は、廃家のほうに歩いた。
夏希はその後ろに従っていた。廃家は夕闇の中に静まっていた。玄関に門灯がぽつんと点いているだけだった。隠れ潜むにはいい場所かもしれないが、居住者がいないだけに、何となく薄気味わるい印象であった。
仲根は玄関に立って、
「ごめん下さーい」
と、大きな声をあげた。
居間に人の気配が現われて、土間の電気がついた。
「ごめん下さーい」
二度目に声をかけると、
「誰だい」
のっそりと男が現われた。
三十歳くらいの眼の鋭い印象。仲根がみた限り、双眼鏡に映っていたのは、この男であり、写真の男にそっくりなのである。
でも薄暗いので、夏希が確認するまで時間稼ぎをしようと、
「太陽生命の者ですが、奥様いらっしゃいますでしょうか」
「家内なんかいねえよ。それに保険なんか、用事はねえなあ。ここはセールスマンの来るうちじゃねえんだ。帰った帰った」
夏希はまだ反応を示さない。彼女は同伴セールスマンを装い、夏帽子を眼深かにかぶって、相手からはできるだけ顔を見られないようにしていた。
「まあ、そうおっしゃらずに。ひとつ、私どもの貯蓄性のある生命保険システムについてご説明させて下さいよ――」
仲根がそう言いかけた時、
「ねえ、ご迷惑よ。帰りましょうよ」
というふうに、夏希がさりげなく、しかし強く脇腹をつねった。それとほとんど同時に、眼深かにかぶった帽子で顔を隠していても、夏希の顔に気づいたらしく、
「や……お、おめえは……」
男がびっくりした顔で、夏希の顔をのぞきこもうとした。「おめえは、武蔵丘の村山薔薇園の娘じゃねえのか。何でこんなところにきた!」
仲根はもう、遠慮はいらないと思った。
男に気づかれた以上、局面をさらに進めるしかない。仲根は無言で一歩、屋内に押し入りながら、
「夏希さん、表に逃げなさい。真弓君と家のうしろにまわって、坂本さんを救出しなさい」
そう指示し、男のほうに向き直った。男の顔にはじめて驚愕と狼狽がひろがり、二、三歩、後ろに退り、仲根の殺気に気圧されて、男はそれからぱっと奥へ逃げようとした。
広い土間であった。男はサンダルを脱ぐのももどかしく、上がり框《かまち》から居間にあがろうとした。その襟首を後ろから掴んで、ひき倒した。
男は上がり框の角にむこう脛をぶつけ、身体のバランスを失って、土間にひっくりかえった。仲根はその脇腹に二、三発、拳を打ち込んだ。
暴力は、仲根の快しとするところではない。しかし、時と場合による。いつぞや、後頭部を鈍器で殴られて殺人未遂同様の目にあった時の怒りも渦巻く。仲根とて、大学時代は空手とボクシングとラグビーをやっていたので、腕力には自信があるのだ。
「な……なんだよう!」
男は脇腹を殴られて悶絶しそうになり、それでも床に転がって苦しい息の下から、精一杯の虚勢を張った。
「て……てめえ、こんなことをしていて、ただですむと思うのか」
「済むか済まないかは、そっちに聞きたいね。きみたちはなぜ、村山虎三を襲い、その娘、夏希さんまで脅迫してるんだ?」
仲根は襟首をつかんで、きいた。
「知らねえよ」
男は、そっぽをむいた。
「そうか。知らないか」
仲根は男の肩を掴んで引き起こした。立たせるとみせて、小内刈りにずどーんと床に投げとばし、蟹《かに》のようにひっくり返った男の顎に、また一撃、拳を見舞った。
男は、低い呻き声をあげた。
「さあ、話したまえ。きみたちはなぜ、村山夏希さんを脅迫してたんだ!」
「知らねえよ」
「知らないとは言わせない。きみたちは長崎のホテルで、夏希さんに何かの白紙委任状を書かせた。その時の写真もある。きみたち自身で撮った写真じゃないか。証拠は握ってるんだ。いったい、脅迫して、委任状をとって、何を画策してるんだ。言いたまえ!」
仲根はその襟首を掴みあげた。男はしかし、吐かなかった。仲根は、男を車につれ込み、どこかに運び去ろうかと考えた。ゆっくり時間をかけて、聞きだす手もある――。
しかし、その瞬間、廃家の奥で女の悲鳴があがったのを聞いた。悲鳴は、どうやら夏希と真弓の声のようであった。
仲根は奥へ走った。
廃家はけっこう広い。夏希と真弓が、坂本兼造を救いだそうとして裏から屋内に入り、そこで何やら予想外のことが発生したと考えられる。
「どうしたッ! 真弓」
仲根は声を上げて、障子や襖を片っ端からあけて奥に進んだ。最後の一枚の板戸をがらっとあけた時、その部屋に近いあたりで、真弓と夏希がまっ蒼になって、立ちすくんでいる姿を発見した。
「どうしたんだ、いったい」
「これを……これを見て」
真弓が恐る恐る、足許の畳を指さした。
ほの暗い電気がついている。その電灯の下に、一人の男がうつ伏せになって倒れていた。背中にナイフが突き刺さっており、そこから流れだした血液が畳をぐっしょりと、どす黒く濡らしていた。
(しまった……遅かったか)
坂本兼造ではないか、と見当がついた。生死を確かめるため、仲根は跼もうとした。が、その動作は途中で、止まってしまった。情況からみる限り、もう死んでいることが窺えた。
「夏希さん。……恐ろしいでしょうが、顔をよく見て下さい。ご近所の坂本兼造に違いありませんか」
仲根が促すと、夏希は恐る恐る倒れている男の顔をのぞいた。はい、というかすれるような声が洩れた。
「可哀想に……あいつらめ」
仲根は声もなく佇んだ。
犯人グループは、引っぱりまわしているうちに邪魔になって、坂本を始末したのか。それとも、坂本に何か都合の悪いことでも握られていたため、殺害するためにこの廃家に引きずりこんだのだろうか。
(よし。あいつを警察に突きだそう。そうすれば、何もかも判明する)
仲根は、土間に叩きのめしていた男のことを思った。それから、「ともかく、この場はこれ以上、触れないほうがいい。真弓君、きみは車で電話のある所まで行って、警察に知らせてくれ。ぼくはあいつを――」
土間に叩きのめしていた男のほうに歩きかけた時、あ、と声をあげた。男の姿は、もうどこにも見あたらなかったからだ。
あけられたままの玄関から、外の闇がのぞいていた。獣の逃亡の痕跡であった。
その闇のむこうに、今度の事件の根深い相貌と風の視線が、のぞいているような気がした。
空が絞りおとしたような薄墨色が、東の空にだんだん広がってゆくと、平野にも暮色が広がってゆく。
西の空はまだ夕焼けを残して明るいが、丘陵部の雑木林や平地林や、その上の空はすっかり暮れきり、しかしその暮れきった東の空の遠くに、ガラスの破片を針の束のように束ねて立てたような、東京の超高層ビル街の頂上付近が、ぼうっと光彩に包まれて、光りだすのが、丘の頂上にたつと見える。
(あそこは悪魔が棲んでるところだわ)
村山夏希は、そう呟いた。
呟かずには、いられなかった。
東京への一極集中。そこからあふれ出る都市化という波が怒濤のように武蔵丘にも押し寄せてきて以来、このあたりの人々はだんだん、狂ってゆく。
土地代金という魔物。それは人間を幸福にするよりは、おおむね、不幸にするケースのほうが多い。早い話、坂本兼造などは、それに土地をだましとられたことまで重なって、不幸を絵にかいたようなものである。
(可哀想に、智津子さん。……涙も涸《か》れ果ててしまった、という感じだったわ)
夏希は今、坂本智津子の家で行われた葬儀から、帰ってきたばかりである。
身も心も打ち沈んで、気持ちの解きほぐしようがなく、喪服のまま、家裏の丘上に立って、暮れてゆく夏空を眺めているところだった。
それにしても、痛ましい。時価数十億円もの土地をだまし取られた上、女色にうつつをぬかすように仕組まれ、引っ張り回されたあげくに、邪魔になって廃屋に死体となって捨てられていた坂本兼造。妻の智津子の悲痛な怒りと悲しみを知っているだけに、夏希も言いようのない怒りを覚える。
あの事件はあのあと、地元の警察が廃屋に到着するとともに、仲根俊太郎と夏希と真弓は、現場で事情説明を求められ、三人とも柿生の警察署まで同行を求められた。さいわい、現場の模様や凶器、死亡推定時刻などから、
「自分たちは犯人ではない。犯人は他にいる」
という三人の言い分は認められて、殺害した犯人グループの逃亡も発覚し、警察はそのゆくえを追っているところである。
(それにしても、事件の謎はいっそう深まった感じ。得体のしれない魔物が、私たちを取り巻こうとしているのではないかしら)
夏希が、ふっとそう思った時、麓から鳥羽悟平の老妻たまえがあがってきて、
「あらあら、こんなところにいらっしゃったんですか。お嬢さん、お客さんですよ」
――来客であった。
夏希が家に戻ると、表に一台のタクシーが停まっていた。玄関の門灯のあかりの下に運転手が立っていて、庭の薔薇を眺めている。
家までタクシーで乗りつける客とは誰だろう、と思って近づいてみると、その運転手が帽子を取り、
「やあ、夏希さん。しばらく」
そう挨拶したのである。
よく見ると、見憶えのある顔であった。
「まあ、善さんじゃないの!」
近所の青年、菊地善則であった。もっとも、今は近所にはいない。東京に出て、タクシーの運転手をしているという話であった。
「まあ、お久しぶりね。立ち話でも何だわ。さあ、あがって」
「じゃあ、ちょっと失礼するかな」
菊地善則はその大きな身体をタクシー会社の制服に包んで、のっそり応接間にあがってきた。
「お元気そうね。その後、景気はどう?」
言いながら、夏希は部屋のクーラーを調節している時、自分がまだ喪服のままであることに気づいて、
「あらあら、喪服でごめんなさい。今、着がえてくるから」
「いいよ、そのままで。坂本さんのこと聞いて、ぼくもびっくりして、焼香にたち寄ったんだ。どこもかしこも大変なんだなあ」
菊地善則は坂本家の不幸を聞いて知っているらしく、感慨深そうな顔をした。
「で、うちに何かご用?」
「うん。きみのお父さんのことも聞いたよ。暴漢に刺されたんだってね。で……お父さんはまだ病院かい?」
「ええ。怪我に加えて、肝臓と血圧。このさい、しっかり癒しておこうということで、入院がちょっと長びいてたんだけど、あさって、退院ということになってるわ」
「そうか。じゃあ、出直そうかな」
腰をあげようとするのに、
「それも、大変でしょう。何なら、私が承っておきますけど」
「夏希さんじゃ、わかんないよ。お父さんの不動産事業に関することなんだから」
「また、何かあったの?」
夏希は菊地善則の顔をのぞきこんだ。
菊地善則は、夏希の高校時代の同級生である。二十八歳になる。農家の後継者だったのに、事情があって、四年前に家をとびだして、東京でタクシーの運転手をしていた。
その事情というのが、凄まじかった。やはり都市近郊農家の土地代金をめぐる凄まじい内紛であった。
彼は高卒後、農業に打ち込み、一・二ヘクタールの田畑に養豚経営を導入して、隣町から敏子という気立てのいい嫁をもらい、農業経営も完全に軌道に乗っていたかにみえた。
ところが四年前、都市計画による道路拡張工事と、公共施設の建設により、田畑の半分が買収にあい、巨額の土地代金が転がり込むことになった。
すると、それまで家の農業など見向きもせず、東京のサラリーマンと結婚していた長姉や、商社やデパートに就職していた弟や妹たちが、寄ってたかって自分にも権利があると言いだし、これに親戚までが加わって、三十億円という巨額の土地代金をめぐって、凄まじい奪いあいが起きたのである。
その時、矢表に立たされたのが、家を守っていた長男の善則と、特に嫁の敏子だった。
「あんたなんか、よそからきた嫁なんだから、財産を受けとる権利はない」「あんたがそそのかすから、善則が強気に出て、長男の権利をふりまわすのよ」「この泥棒猫、出ていけッ」「あんたなんか、死んじまえッ!」
可哀想に、毎日、豚舎で汗まみれで働いて、善則を助けていた嫁の敏子は、とうとう泥棒猫よばわりされ、妹からはナイフで切りつけられたりして、ノイローゼになってしまった。
「私はお金なんか、いりません。みんな、他の人にあげてちょうだいッ」――敏子はその頃、ふとんの中で善則にしがみついて、呪うように、泣きつづけたそうである。
農地が一度、ダイヤモンドに変わった瞬間、どういうわけか跡取りの長男の嫁が憎まれ、のけものにされ、いじめられる場合が多いが、この時もそうだったらしい。敏子としたら、善則と平和に農業で生活できたら倖せで、善則以上に養豚に愛情を注いで、豚舎の仕事をせっせとやっていたのに、泥棒猫とか、善則をたぶらかす牝狐とかよばれると、その怒りと悲しみを夫の裸の胸にしがみついて泣き叫ぶことで、癒すしかなかったのかもしれない。
しかし、いよいよ土地代金が支払われるようになり、周囲の情況がもっと厳しくなった時、敏子はとうとう、骨肉の争いから噴きだすいじめに耐えきれず、農薬を飲んで、裏の井戸に飛びこんで自殺してしまったのである。
ショックを受けたのは、善則である。善則は毎日、汗まみれで豚舎で働いてくれていた敏子を、心から愛していたのである。
敏子をかばいきれなかった自分にも腹が立った。敏子や自分たちをそこまで追いこんだ肉親兄弟にも怒りをもやした。そしてそれ以上に、自分たちをそういう醜い争いに巻きこんだ土地代金そのものに、猛烈に怒りをもやし、善則はいよいよ土地代金が支払われるその日、まわりがびっくり仰天するようなことをやってのけたのである。
ふつうは、土地代金が入ると農協や銀行に貯金する。あるいは口座に振り込まれる。だが、善則はそうはせず、全額現金でもらう手続きをとり、柳行李《やなぎこうり》に札束を詰めこみ、その行李をトラックで自分の田んぼに運ぶと、その上に菜の花の殻や藁《わら》を積みあげ、ガソリンをかけて、数十億円という札束をいっぺんで、火をつけて燃やしてしまったそうである。
きわめて異様な菜殻《ながら》焼きである。
周囲があわてふためき、恐慌状態をきたしたのは、当然である。
「気がふれたか、善則ッ」
途中で気づいて、駆けつけた肉親縁者が血相をかえて消そうとしたが、手遅れであり、
「おれは正気だ。おまえたちのほうこそ、気がふれてるんだ。そんなに土地代金がほしいのなら、あの火の中から取って来ーい!」
怒り狂う肉親たちをあざ笑うように、善則は高笑いして、そのまま出奔した。
家を出たのが、昭和五十九年だから、四年前になる。東京ではスーパーの夜警、倉庫番、デパートのガードマン、タクシーの運転手と、転々としていたらしい。
二年前からタクシーの運転手になって、落着いたという話を、夏希も耳にしていた。
それにしても豪快というか、切羽詰まった過剰反応というか。横浜の二億円竹藪事件や、一億七千万円金庫遺棄事件はあるが、数十億円の札束を燃やした男など、およそ世の中に他にはいないと思うが、夏希にはその時の善則の怒りがわからぬでもない。
で……今みると、善則はただのタクシーの運転手。どこにそんな破天荒なことをやってのける気性の激しさが潜んでいるのかわからないくらい平凡な男である。
もっとも時が経って、気持ちが落着いたので、平凡にみえるのかもしれない。
夏希は善則をもてなした。
菊地善則にとっても、久しぶりの武蔵丘である。土地代金菜殻焼き以来、親戚、肉親、縁者すべてから怒りをかってつまはじきされ、善則はこの四年間、郷里には帰っていなかったのである。
「でも、東京のほうで落着いたようで、安心したわ」
夏希は冷めたい飲み物をすすめながら、善則をねぎらいたい気持ちであった。
「それで、家庭はどうしているの?」
「まだ一人暮らしだよ」
善則は、夏希がだしたスイカをスプーンですくって、おいしそうに食べていた。
「不幸な死に方をした敏子さんのことが、忘れられないのね」
「うん、それもある。……今、おれが再婚すると、農薬飲んだ敏子が井戸の底から出てきそうな気がして、なかなか踏ん切れなくてね」
「あら、そんなことないわ。敏子さんへのあなたの愛情は、数十億円もの札束を焼く焔で、赤々と天地に証明したんじゃないの。見事な仇討ちだったと思うわ」
「そうだろうか。もう再婚しても、敏子は恨まないだろうか」
「恨みませんよ、ゼッタイに。早くお嫁さんをもらって再出発したほうが、敏子さんは草葉の陰で喜ぶでしょうよ」
「うん。それで……実は、きみのお父さんに相談があって寄ってみたんだよ」
「どういうこと? 私が伝えておくわ」
善則は用件を述べた。彼によると、四年前の公共用地買収の時、半分の田畑は手許に残った。それを四人の兄弟で分けたあと、自分の取り分は農協の請負耕作にだし、彼は東京に出たが、その分を村山虎三が社長をする不動産会社「武蔵丘興産」を通じて、売りにだしてほしい、というのであった。
「……おれも、いつまでもタクシーの運転手をやってるわけにもゆかんし、今度、東京で再婚してもいいという女性も現われたし、スナックでも開いて何もかもやり直そうと思ってね。少しまとまった金が入用なんだよ」
「そう。それはおめでとう。父に話しておくわ」
「菱沼の二反、といえばわかるよ」
「わかったわ。何とかお力になれればいいわね」
夏希がそう言った時、表に車の停まる音がして、夫の雅彦が帰ってきた。
「ただいま――」
お客さんかい、ときいて、雅彦はそこにいた菊地善則の顔をみた瞬間、ぎょっとした表情になった。
菊地も驚いた顔になり、それから決まり悪そうに、下をむいて頭を下げた。
「やあ、きみだったのか。こりゃ驚いたな」
「――お邪魔しています」
「ゆっくりして下さい。ぼくは失礼する」
雅彦は何やら、ひどくあわてたようすで、奥の居間のほうに消えた。
(変だわ……)
と夏希が思っているうち、
「あのう……おれもこのへんで失礼するよ。先刻の菱沼の二反のこと、お父さんによろしく伝えといてほしい」
菊地もそそくさと立ちあがって、帰り支度をしている。
「あら、まだいいじゃないの。もう少しゆっくりしてらっしゃいよ」
菊地はもう土間で、靴をはいていた。
「そう。じゃ、先刻の用件、父に話しておくわ。話が進めばまた家に遊びにいらっしゃいね」
夏希は表まで、菊地を送りだした。
外に、夏の闇があった。頭上に、研《と》いだように澄んだ夏銀河が懸かっていた。
駐めていた営業車にのりこむ前、菊地は顔を寄せてきて、小さな声で言った。
「驚いたなあ。あの人がきみのお婿さんだったのか」
「主人を知ってたの?」
「うん。ちょっとね。――うちのタクシー会社、大手建設Q組の無線利用会社の一つなんだ。それで、あの人も二、三度、銀座や新宿あたりから、深夜に乗せたことがあるんだ。ただ、それだけだから、気にしないでほしい」
善則はそれ以上は言わなかった。しかし。
(ただ、それだけだから……)と、念を押したところをみると、かえって何かがあったように思われる。
もしかしたら、雅彦の都合のわるい素行の一端をでも、タクシーの運転手という立場で、菊地善則は東京の方で目撃したことでもあるのではないだろうか。
菊地をのせたタクシーは走り去った。夏希はほんのしばらく、闇の中に佇んでいた。
夏希が居間に戻ると、雅彦が夏服をぬいでネクタイもはずし、壁のクーラーの前で胸許をはだけて、冷やしていた。
「あの男、どういう用事できたんだ?」
雅彦のほうから訊いた。
夏希は、郷里に残している農地二反を、父の不動産会社「武蔵丘興産」で処分してもらうよう、その相談にきたらしい、と菊地善則の用件を説明した。
「それだけだったのかい?」
「そうですよ。ちょうど、坂本さんのお葬式に出るため、彼、田舎に立ち寄ったみたい」
「ぼくのこと、何か言っていなかったか?」
「いいえ、どうして?」
夏希は、反対にきいてみた。
「いや、別に――」
素っ気なく言って、「それならいい。腹が減った。素麺か冷や麦、残ってないかな」
「今、用意します」
夏希はキッチンに戻った。
播州竜野産の「揖保《いぼ》の糸」をゆで、紫蘇と茗荷の薬味をそえて、大きなガラスの器に氷とともに入れた素麺を、テーブルに持参した。
「菊地善則さんを知ってたの?」
夏希はそれを確めたかった。何しろ夫は、菊地の顔をみた瞬間、ぎょっとしたのである。
「ああ、うちの会社が利用している帝都無線のタクシー運転手だったな、たしか。一度無礼なふるまいがあったから、怒鳴りつけてやったことがある」
「どういう無礼が?」
「なあに、たいしたことじゃない。道順のことで行先に着くまで、喧嘩したことがある。その上、おりかけにチップを弾んでやったら、受けとらねえ。おれは三十億円を燃やして灰にした男だ、そんなはした金もらって、ペコペコできるかい、と大きなツラしやがった」
「ただそれだけのことで、先刻はあんなにびっくりなさったの?」
「そりゃ、ぎょっとするよ。あとで、地元でも話を聞いた。あの男だろ、三十億円を燃やして、灰にしたって。――どう考えても、頭がおかしいやつか、馬鹿に決まっているじゃないか。薄気味わるいよ」
言いすてて、雅彦は素麺をすすり続けた。
(なるほど、それなら雅彦が家で鉢合わせをして驚いた気持ちも、わからぬではない。でも、菊地のほうだってびっくりしてたじゃないか。ただの……客とタクシー運転手の口論が、原因ではなかったような気がする)
夏希の不審は解けなかった。そうだ、今度菊地善則と会った時、もっと詳しい事情をきいてみよう、と夏希は考えた。
夕食の終わりがけ、
「ぼくのことよりねえ」
雅彦が箸を置いた。「きみのほうこそ、大丈夫なのかい?」
眼のすみに批判的な色が刷かれていた。
「何がでしょう?」
夏希は、跡片づけに立ちあがりかけていた腰を中途に、椅子にまた坐りなおした。
「何がって、色々さ。殺人事件とつきあったり、ごろつき記者とつきあったりして、さぞ忙しいことだと思うよ。せいぜい、村山薔薇園の女主人としての節度だけは、失わないでほしいね」
いや味たっぷりな皮肉であった。それというのも、坂本兼造の死体発見の現場に居合わせたという「事件」は、村山家にも思わぬ波紋を広げていたのである。
退院間近の父の虎三には内緒にしているが、夫の雅彦は妻が殺人事件の参考人になったと知って、ただそれだけでも、はなはだしい困惑の色を隠さなかったのであった。
たしかに、堅気のサラリーマンとしては、妻が警察沙汰に拘わりあい、事情聴取を受けるのは、迷惑以外の、何ものでもないかもしれない。
「困るよ。会社にそんなことが聞こえたら、ぼくの立つ瀬がなくなるじゃないか」
「ご迷惑をかけて、すみません。でも、私としたら、土地被害に会った坂本さんたちを放ってはおけなかったのよ。薔薇園にパートできている智津子さんから、色々、相談も受けていたし……」
「そりゃ、わかるさ。きみの立場もわかるよ。しかし、そんなことは警察にまかせておけばいいんだ。だいいち、あの仲根とかいうジャーナリストとつきあうなんて、いったい、どういうことだ。まともな新聞社にいるわけでもない、あんなごろつき記者と組んで、妙な探偵ごっこをやるのはもういい加減に、やめてもらいたいね」
雅彦が思いがけない厳しい口調を取ったので、夏希としたら、その時は、
「はい。わかりました。気をつけます」
というよりほか、なかった。
言うだけのことを言うと、雅彦は椅子から立ちあがった。廊下を風呂のほうに歩きながら、
「それにしても、どうなっているんだ、この町は。何十億という札束を焼く馬鹿もいるかと思えば、何十億という土地代金を欺《だま》し取られる馬鹿もいる。みんなが、金、金、金……たかが、土地代金なのに、金の亡者になっていやがる……ひどい世の中になったものだ!」
(ホント、どうなってるんだろう)
夏希も、その点だけはまったく、雅彦と同感であった。
(ああ……いやだ……)
と、夏希は思う。どこをむいても、金、金、金……それも二十億、三十億という巨額の土地代金に、みんなが狂いはじめている。
いつからなのだろう。祖父によると、昔はこんなではなかったという。このあたりが土地代金に狂いはじめたのは、昭和三十五、六年ごろからだという。
武蔵丘市は約三十年前の、昭和三十三年に一町三村が合併して市制を敷いた新興都市である。その時の人口はわずか六万人ほどで、まだ東京の衛星都市というほどではなく、私鉄沿線の静かな、純農村地帯であった。
その後、昭和三十六年以降の高度経済成長とともに、東京のベッドタウンとなって急膨張しはじめ、今では人口約三十五万人と、立派な「都市」となってしまった。
日本の、まさに縮図とはいえ、あまりにも急激な変化であった。たとえば、土地の値段をみてみよう。終戦直後、農地改革で反あたり、(十アール=約千平方メートル)四百円前後で小作人に解放された農地は、いまや基準価格で坪百万円近くもして、わずか三十年の間に、数十万倍にもはねあがったのである。
急激な都市化の襲来と地価の高騰は、そこに生きとし生きていた農民に、さまざまな悲喜劇を呼ぶことになる。
目にはっきり見える社会現象としては、最初は、ベッドタウンとしての、いわゆる団地ブームであった。
公団や公社の住宅団地が建ちはじめた頃、土地は坪千円前後だったが、それでも地元の人々は最初は、びっくりしたものである。
多摩丘陵の山の中。バスがのろのろと、一日に数回しか往復しない。いくら東京に近いとはいえ、いわば山間僻地といってもいい純農村地帯なのに、いつのまにか「武相不動産」とか「東京商事」といった看板のあがったプレハブの事務所が目につきはじめ、そういう名刺を持った人間がうろつくようになった。
「一反、二十万円で買おう」
「いやなら、三十万円で買おう」
「いやいや、うちなら五十万円はだすよ」
そういうブームの中で、ある農家は近代化資金というローンを返すことができたし、ある農家は町に出て商店をひらいたし、ある農家のおやじたちは伊豆の温泉に繰り込み、芸者を何人抱いたかを自慢しあう風潮さえ現われてきた。
でもそれは、今から考えると、まだ最初のささやかな変化だったのだ。なぜ、自分たちの土地がそんなに高く買われるのか。実際のところは、見当もつかなかったのである。
はじめ、一反二十万、三十万円ときいて喜んで土地を売って、地元の人々がまだ気づかないでいた背後で、ある大きな計画が進められていた。
世界一の人工都市「多摩ニュータウン」造成計画である。これが発表されたのは、昭和三十九年の暮れである。計画地域内には、約千戸の農家があった。面積は約三千ヘクタールであったから、これはもう三里塚闘争で揉めに揉めた「成田空港」の約三倍であり、多摩の山間僻地に突如、月世界のような人口四十万人の大都市が出現することになったのである。
買収価格は、坪五千円と発表された。そこではじめて、農家の人々は「欺された!」「タダ同然で買い叩かれた」と気づいて、憤然となったが、しかし、その時はもうあとの祭りであった。
このような、後背地の多摩ニュータウン計画とあわせて、駅周辺もその後、急ピッチで都市化がすすんできたが、この一、二年はその速度にさらに拍車がかかっている。
東京のビルラッシュにともなう地価狂騰が、そのままどっと押し寄せてきたのである。
すでに、地上げ屋が暗躍しはじめていた。前年の暮れには坪あたり五十万円で取引されていた農地が、六ヵ月後の翌年六月には二百五十万円とか三百万円とかいう例も出ている。
都心から流れこんできた悪質不動産屋に、暴力的に農地を奪われるケースも増えている。それほどではなくても、地上げ屋や不動産業者、土地ブローカーはなにも「東京人」ばかりではない。夏希の父もそうなっているように、昔は農民運動の闘士だった人が不動産屋になった例もあるし、青年団や四Hクラブで活躍した篤農青年たちも、土地ブローカーになったり、ある日突然、街角に「山川不動産」という看板をかかげたりする。
それにともない、地域はもはや、平和な農業地帯ではなくなっていた。「土」というものが土地そのものでも、生命の母でもなくなり、農業の生産手段であるよりも、ビルやホテルやマンションを建設するための「底地」として見られ、投機対象とみられ、かつ売買の代償として巨額の金が動くようになると、それを所有する農民も、もはや従来の「農民」ではあり得なくなるのは、仕方がないことであろうか。
それにしても、と夏希は暗澹とする。このままでは、自分の一生を賭けようと思っていた薔薇園さえも、周囲にビルやマンションが押し寄せてくると、立ちゆかなくなる。現実に夏希の土地も、何者かに狙われているような気がするのであった。
――重い荷を背負ったような気分で、夏希は遅い風呂に入った。
窓から月が見えた。
半弦の、朧《おぼ》ろげにうるんだ形をしていた。うるんでいるのは、湯気のせいだ。開け放った窓から、湯殿の湯気が勢いよく外に流れ出ている。
夏希は目を閉じた。疲れがほぐれたところで、風呂からあがった。洗い場で、もう石鹸は使っていた。最後にすすぎ水のつもりで、冷たい水を肩から掛けると、全身の毛穴が引きしまったようで、気持ちよかった。
浴室からあがったところに、鏡がある。裸身が映った。ゆたかな乳房の実りも、腰も、臀部の豊かさも、いつもながらに自信のある張り方をみせていた。でもその身体が心もち、ほてっているように感じられるのは、このところ夫との交渉も、間遠になっているからだろうか。
夏希はバスタオルで拭いて、浴衣を着た。家の戸締まりをして、奥の寝室に入った。もう十一時をすぎていたので、夫は寝ているだろうと思っていると、意外にも雅彦はふとんに入ったまま、枕許の電気スタンドをつけて本を読んでいた。
「あさって、お父さん、退院するんだって?」
腹ばったまま訊いた。
「ええ。長かったけど」
「それはおめでとう。で、お父さんはどちらで生活するの?」
「どちらでって……家に戻ってくるに決まってるじゃない。奥の座敷、それで今日は大掃除したのよ」
「そうか。ぼくはまた蓮見康子さんのほうにゆくのかと思っていたよ」
それは夏希も考えないではなかった。入院中は、康子も夏希と同様、見舞いには行っていたが、毎日、父と一緒に暮らしていたわけではない。退院ともなれば、康子は康子で自分のところに迎えたいのかもしれなかった。
「そのへんのことは、父の気持ちに委せようと思ってるのよ。でも、とりあえずは家に迎えると父も落着く、と思ってるけど」
「うん、そのほうがいいかもしれんな」
と言って、雅彦が「――おや、まだ寝ないのか?」
なんとなく、枕許で横ずわりしていた夏希の膝のほうに、手をのばしてきた。
夏希は薄い掛布のへりをめくり、静かに身体を夏ぶとんの中に入れた。浴衣は脱がないまま、帯は閨結《ねやむす》びに前に結んでいた。そこに夫の手がかかってほどけるのもいいし、手がかからずに結ばれたまま寝るのも、考えてみればこの数日のいきさつからいって、当然のような気もする。
雅彦は寝煙草を吸っていたが、のびあがって灰皿にその煙草を消した。消したついでというふうに、
「この間、富沢美智子くんを呼びだして、何やら難くせをつけたらしいな」
さりげなく、そう訊いてきた。その話をもちだすために、あるいは雅彦は寝ないでいたのかもしれない。
「聞いたのですか、富沢さんに」
「うむ。ちょっとね」
雅彦は答えた。「なあに、会社のほうに電話がかかってきたんだがね」
「難くせをつけたのではありません。カルチャーセンターの帰りに、ちょっと、コーヒーを飲んだだけよ」
「しかし、ぼくと彼女のことを色々、詮索したらしいじゃないか」
「少しは尋ねました。だって、あのいやがらせ電話、彼女の声にそっくりだったもの」
「断っておくが、富沢くんとぼくとは、今はもう何の関係もない。あまりみっともない真似はしないでほしいな」
(じゃ以前は、深い関係があったとでもいうのかしら)
夏希が言い返したい言葉を噛み殺した時、雅彦の手がすっとのびてきた。
浴衣の胸部がはだけられた。みっしりと掌は乳房におかれ、ためすように、掴むように、まさぐるように、手は静かに動いた。
兆しかけたものが身内にふるえ、夏希は眼を閉じた。ああ、と小さな声を洩らし、閨結びのままだった帯に、夏希が自ら手をかけようとした時、
「ここ、尖ってきたぞ。ばかに発達してるじゃないか。きみのほうこそ、大丈夫なのか?」
意味がわからず、え、と眼をあけると、雅彦はいっそう強く乳房をもみたてながら、
「あのジャーナリストのことさ。だいぶん、呼吸があってるみたいじゃないか。きみは……あの男と寝たんじゃないのか」
閨結びの帯にかかっていた手が、はじかれたように止まって、雅彦の手首を掴んだ。
「やめて。そんなこと言うなら。――私たち、そんな関係じゃありません」
「そうかな。今はなくても、昔はあの男と寝たことがあるんじゃないのか」
そう聞かれると、ないとはいえないし、今でも気持ちの上で、僅かでも傾斜がないとはいえないが、しかしそれは、雅彦が揚げ足をとっているような性質のものではない。
夏希は、仲根への気持ちが汚されたような気がして情なくなり、返事をしなかった。すると突然、雅彦は夏希の浴衣の裾をはねて、荒々しくのしかかってきたのであった。
あっと思い、夏希は身を硬くして、唇を噛んだ。突きとばすのは夫婦の絆を裏切ることになるし、そこまではできない。夏希が身を硬くして顔をそむけているうち、雅彦が凌辱するような勢いで、入ってくるのを知った。
やさしい訪れかたではなかった。夏希は息をつめた。眼をきつく閉じた。夫の態度の急変はどう考えても妬《や》いているとしか思えなかった。あるいは、富沢美智子との関係を棚にあげて、うやむやにするために、男の常套手段でやり返してきたとも思えた。
夏希は小さな声を洩らした。どこかが、ひきつれていた。痛みはその部分だけではなく、心にもひろがった。
これは愛の交渉などではない。夫は私を辱しめているんだわ、と夏希は思った。
「やめて……そういうことなら」
「ぼくたち、夫婦じゃないか。どうしていけないんだ」
「あなたは私を辱しめようとしているのよ」
「そんなことはない。ぼくはきみを、愛してるんだ。な、ぼくたち喧嘩しちゃまずいよ。仲良くして、あさって退院してくるお父さんを、安心させなくっちゃ」
雅彦の唇が静かに舞い降りてきた。ふれて、夏希は舌をやさしく吸われた。夏希をつらぬいたまま、しかし雅彦は身体全体を優しく撓《たわ》ませ、いつくしむように抱きしめてきた。
(私だって……私だって……本当は、夫婦喧嘩なんかはしたくはない……!)
夏希は腕を夫の頸にまわしてむしゃぶりついた。夫を憎まずに済みそうになったと思うと、愛しさが胸をふさいできた。
全身がほぐれた。最初にほぐれた部分から、甘い歓びが全身に伝わってゆく。歓びは勢いを増し、雅彦を押し包んでいる身体の中心に、一気にうるみがあふれてくるのが、わかった。
「ごめんよ、夏希。ここんとこ、色々――」
そう言われると、何もかも許したくなった。夏希は深い満足感にうち顫えながら、熱くてしっかりと自分の世界を満たしているものが、このうえなく愛しい存在感として感じられた。
雅彦は優しく動きはじめていた。夏希はいのちの一点から、熱いきらめくような渦を感じ、その渦が頭上いっぱいで夏の夜空の銀河のようにはじけるのを感じた。
第六章 孔雀の女
虎三の退院の日がきた。
その日、夏希は車で午前十時に須藤病院に行った。退院する日は、病室の都合や会計事務処理の都合で、午前中に手続きを済ませてほしい、と言われていたからである。
病院に着くと、
「退院、おめでとう」
「退院、おめでとう」
すれちがう看護婦たちに、口々にそう言われる。自分のことではなく、父のことではあったが、夏希はわがことのように嬉しかった。
(でも、それが本当におめでたいことになるのかどうか。父は今まで、病院という別世界に隔離されていたので、波風が立たなかったが、父を刺した犯人さえ、まだつかまってはいないのだから、外に出るとかえって、狙われることになるのではないかしら?)
あらぬ心配が頭をもたげたりする。
でも、病室に入ると、父は元気だった。すでに蓮見康子が来ていて、部屋の後片づけなどをしていたが、
「やあ、すっかり長びいたな。五ヵ月もはいっていると、この部屋が自分の家のように思えてきて、かえって出にくくなったよ」
虎三はそう言って、苦笑した。
外傷はむろん癒え、肝臓も血圧もよくなって、本人は「完全本復」のつもりのようだが、夏希の眼からみると、長い入院生活で運動も足りなかったし、実社会の風にもあたっていないしで、以前よりいっそう年をとって、弱くなったように見えた。
その時、ドアにノックの音が響いて、看護婦が顔をだし、
「退院祝いですって」
花束をさしだした。
「あら、誰から?」
「さあ。――男の方でしたが、お名前はおっしゃいませんでした。病室に届けてくれ、ということでしたので」
「そう。ありがとう」
入院見舞いなら花束もわかるが、退院の当日、花束を届けるというのは変だ。それに夏希の家は花屋同然で、花には困っていない。ちらと、怪訝な思いを抱きながら受けとって手許をみると、カードが貼られていた。
「退院おめでとう。しかし、喜ぶのはまだ早い。黒狼谷を忘れるな」
太字サインペンの墨痕も鮮やかに、そう記されているのをみて、あっと夏希は声をのんだ。
(そうだわ。やはりあの悪夢はまだ、終わってはいないんだわ。黒狼谷というものが、まだ赤い糸のようについてまわっている……)
夏希は再び、頭上に凶々しい暗雲がのしかかってきたような気がした。
「花束、誰からじゃ?」
「え……ああ、私のお友達よ。学校時代からいつも頓馬な子だったけど、今頃、花束を届けるなんて、変わっているわねえ」
夏希は急いでとり繕いながら、差出人カードをさりげなくはずして、花束だけ虎三のベッドの上にのせた。
「退院する日だからといって、ありがたいことじゃないか。花を粗末にするものじゃない。康子。水につけておきなさい」
虎三が康子に言いつけていた。
「まあ、すごい鬼百合《おにゆり》とトルコ桔梗《ききよう》。きれいな花だわ」
康子が屈託のない明るい声をあげて、その花束を抱えて、水場のほうに運んでいった。
――夏希には、セロテープからはがし取った差出人カードのほうが気にかかった。裏にも何やら、書かれていたような気がしたからである。
部屋の後片付けが一段落ついた時、夏希は会計をすませてくるわ、と言って病室を出た。
ロビーの長椅子に坐って、バッグに入れて隠しておいたカードを取り出した。
「退院おめでとう。しかし、……黒狼谷を忘れるな」と書かれたカードの裏にも、やはり走り書きの数行が書かれていた。
「虎三のことで話がある。午後三時に、しろがね通りの交差点に来い。来なかったら、虎三の安全は保障しない。鬼面党」
この文面は明らかに、虎三本人にむかってではなく、夏希にむかって書かれている。
(……おかしいわ。誰かしら? 私を呼びつけようというのは)
鬼面党、と人をくったような差出人名も、何となく凶々しい。夏希が宙に眼を投げた時、廊下の端を先刻、花束を届けてくれた看護婦が通りすぎるのをみつけた。
「あのう。すみません」
夏希は急いで立ちあがって追いかけ、花束を届けた男の印象を質問してみた。
「そうねえ。三十ぐらいの……ジャンパーを着た男の方でしたわ。たしか、オートバイにのって、病院の表にお見えになったような気がしますが」
看護婦の印象は、それだけであった。
昼すぎに虎三は退院した。
八月末の日盛りであった。久しぶりにネクタイをしめて麻の白い夏服を着た虎三は、真夏の太陽がいかにも眩しいという顔で病院の外に出、待たせておいた会社の車に乗った。
その車には蓮見康子がつき添うように同乗した。夏希だけ自分の車を運転し、一行はとりあえず、鳴木沢の夏希の家に帰ることになった。
「おうちは広いお屋敷ですが、防犯のほう、大丈夫でしょうか。場合によったらマンションのほうが、何かと防犯対策がゆきとどくと思うんですが」
数日前、蓮見康子がそう言ったのを憶えている。どういう事情があるかはわからないが、鬼面党と名のる者たちに父が狙われているとすれば、たしかにマンションのほうが万事に、手堅い防犯対策はとれる。
しかし村山虎三は旧家の当主である。いくら愛人の康子思いでも、家にも戻らずマンション住まいというのは、いかにも世間的に見栄えのいいものではない。夏希にしても、許せることではなかった。
「心配するな。わしのことはわしが考える。これまでは秘書嫌いだったが、これからは身の回りに頼りになる秘書を置こう。車の運転もさせて、身辺にも充分、気をつけるよ」
虎三の一声で、とにもかくにも、家で生活することになった。といって、康子と切れるわけではなく、仕事の合い間をみて、栃窪平の康子のマンションに、通うことになるのだろう。
それでも、入りびたるよりはと、夏希はなんとなく安心した。康子は親切だし、父のために骨身を惜しまず動いてくれるし、献身的な女だが、何といってもいつかデパートで垣間みた姿が、脳裡を去らないのだ。
若い男にネクタイを買ってやっていた女が、夏希の見間違いで康子でなかったのなら、いい。だが、もし万一、康子だったとすれば、これからは少し、慎重になったほうがいい。警戒心も、必要なのではなかろうか。
父にも、それとなく言うつもりだった。夏希の家は丘を背にしていて、やや高台にある。
着いて、車から降りたった虎三は、ステッキをついて庭の端に立ち、長い間、遥か遠くまで夏の陽炎《かげろう》が燃えたって霞む平野を見おろしていた。
虎三は家に着くと、さすがにうれしそうだった。開け放った座敷の縁側にどっかりと坐り、庭を眺めながら夏希を呼びつけた。
「庭が荒れてるじゃないか。草もはえてるし、庭木に鋏《はさみ》も入っておらん。植木屋はどうした。呼ばなかったのか。やはり、わしがいないと、どこもかしこも隙だらけだな」
その夜は赤飯を炊いて、身内でささやかな退院祝いをやることになっていた。雅彦も早く帰宅することになっているし、近所の叔父や叔母たちもくることになっていた。
それで、夏希は寿司屋への仕出しの手配や、料理の準備に忙しくなった。さいわい、康子が台所の方を手伝ってくれたので、料理の準備は意外に早く進んだ。
そうしている間も、夏希は時間が気になった。午後三時に、しろがね通りの交差点に来い――という脅迫者からの呼びだし。夏希はとにかく、行ってみようと思ったのである。
料理作りの手順が一段落した頃、
「康子さん。私、ちょっと用事があるので街に出てくるわ。先刻、メモしておいた分だけ、料理を作っておいてくださる?」
「はい。承知しました」
「それが済んだら、縁側で父の相手をしてやって。ただし、お酒はあまり、飲ませないでね。禁酒明けは効くそうだから、ビールはほどほどにしといて」
「はい。それはもう――」
夏希は午後二時半になって、家を出た。
脅迫者から指示されているしろがね通りの交差点、というのは、駅前通りと交差するもう一本の繁華街の通りである。
夏希は、その近くまで車で行って、車を銀行の顧客駐車場に置いて、交差点までは歩いて行った。
指示された時間よりも早く着いた。
しろがね通りの交差点には人通りが多かった。信号が変わるたび、大勢の人々がスクランブル交差点を横切り、アーケードの商店街に流れこんでゆく。
夏の暑い陽射しは、商店街のアーケードに遮られてはいる。でもこの交差点の、いったいどこに立って待っていればいいのか。
喫茶店、ブティック、パチンコ屋、靴屋、紳士服店などがむかいの商店街に並んでいる。通りをはさんだこちらも、同じようなものだった。どこにも、目印になる物も、人間も、目につかなかった。
(ばかにしているわ。この忙しい日に……)
夏希は呟いて、信号を五回まで数えた。はじめは、信号待ちをしている歩行者、という顔で立ち止まっていればよかったが、その信号が六回になり、七回も変わるにつれて、人波が何度も行き来しているのに、夏希だけ一人、閉じた白いパラソルを手にして、アーケードの片隅の柱の陰に立っているというのは、どうにもさまにならない変な気持ちである。
(ひどいじゃないの。欺されたのかしら。もう指示された三時だわ……)
呟いて、夏希が腕時計から顔をあげた時、あっと、その視線は、ある地点で釘づけになった。
車道のむこう側。まっ正面にある喫茶店のドアがあき、一組のアベックが現われたのだ。
男はなんと、夫の雅彦ではないか。仲睦まじそうに腕を組んでいる女も、夏希の知っている女であった。
叔母の珠江だった。そう、最初に夏希に雅彦を紹介し、見合いまでさせて結婚の段取りをつけたのが、叔母の橋本珠江なのであった。
珠江は四十三歳の未亡人である。隣の相模原市で美容院やブティックを経営する孔雀のように美しい女であった。
夏希はしばらくの間、信じられない思いにうたれていた。
(叔母の珠江が、どうして雅彦と……?)
「るんるん」という喫茶店から出てきた二人は、通りを少し歩いて、横断歩道の手前で立ち止まっていた。
信号待ちのようでもあったし、タクシーでも待っているのかもしれなかった。
橋本珠江が派手な装いをして、目立つ熟女のせいもあるが、二人の様子は、どうみても他人のようには見えなかった。
夏希の胸は騒いだ。哀しみと屈辱の思いで、顔がゆがんだ。
どうしようか、と考えるよりも、頭の中はまっ白い荒野のようになっていて、思考が定まらなかった。二人の関係を確かめるために、尾《つ》けてみよう、という明確な意志があったわけではないが、ともかく何かに背中を圧《お》されるように歩きかけた時、
――キキーッ。
と、すぐ傍で、急ブレーキの音が軋んで、一台の乗用車が急停車していた。
「危ないッ!」
運転手の怒鳴り声が響いて、びっくりして後退ると、窓があき、色の浅黒い青年が運転席から顔をだした。
「なんだ。夏ちゃんじゃないか。もう少しで轢《ひ》くところだったぞ。何してるんだ? こんなところで?」
知りあいの神田卓郎《かんだたくろう》という青年であった。中学時代の同窓生だが、都市化で農業が営めなくなったため、東北のどこやらの過疎地を買収して、集団移住した数家族のうちの一人だったはずである。
「まあ、卓ちゃん。帰ってきたの?」
「うん。今、武蔵丘でスーパーのガードマンやってるんだけどね。ちょっと、田舎に用事があって戻ってきたんだ。――それより、夏ちゃん、きみこそ何やってるんだ? こんなところで」
(そうそう! 立ち話なんかしている場合じゃないんだわ!)
夏希が眼を戻すと、ちょうど、車道のむこうの二人が、手をあげてタクシーを停めたところだった。それを目撃した瞬間、
「ねえ。ちょっと、卓ちゃん。そこまで乗せて。あのタクシーを追いかけてほしいの」
「あのタクシーを、追跡すればいいんだな」
「ええ。お願い」
神田卓郎は自分の車らしい白のスカイラインGTを、すぐに発車させた。幸い、信号の加減でスカGはすぐに右折して、タクシーが走ってゆく車線に合流することができた。
こうなるともはや、鬼面党と名のっていた脅迫者と会い、その正体を割りだすどころではなくなった。いや、もしかしたら、あの花束を届けた脅迫者は、雅彦と珠江が一緒に喫茶店から出てくるところを夏希に目撃させるために、あのように交差点で待て、と指示をしていたのかもしれない。
「どうしたんだ? いったい。蒼ざめて、慄《ふる》えてるじゃないか」
卓郎が聞いた。
「何でもないわ。夏風邪をこじらせて、ここんところ、体調がすぐれないのよ」
「そりゃ、よくないな、早くなおさないと。しかしあのタクシーのアベック、どうして追跡しているんだ?」
神田卓郎は幸い、夏希の夫の顔を知らないらしい。その点は幾分、救われたというものである。
いくら何でも、自分の夫を尾行しなければならない妻の立場など、あまり人に知られたくはないことである。
「あの女性、私の叔母さんなの。未亡人なので悪い男でもついてるんじゃないかと、心配なの。それで、あの二人がどんな仲なのか確かめてみようと思って」
「へええッ、未亡人か。そそるな。昼下がりの情事かもしれないぜ、あの二人……」
面白そうにいう卓郎の声が、夏希の耳にひどく残酷な言葉のように響いてきた。
もし、孔雀のような女、珠江と雅彦が何らかの形でつながっているとすれば、恐ろしいことになる。叔母と姪《めい》という骨肉の女同士が一人の男をめぐって対立する、というだけではない。そもそもは叔母が夏希に雅彦を紹介して、ふたりを結婚させたのである。
その叔母が雅彦と最初から親しかったとすれば、とかく財産争いなどが起きがちな環境からみて、何かの魂胆があって結婚させたのではないかとさえ、考えたくなる。
それは実際、恐ろしい想像であった。
夏希は叔母の珠江のことを考えた。珠江は、万事に派手で華やかな未亡人であった。
父・虎三は三人兄弟の長男だが、珠江はその末っ子である。それも遅く生まれたので、まだ若かった。少女時代は、可愛がられ、甘やかされて育ったらしい。美人でもあった。
高校を卒業した二年後、勤め先の会社のセールスマンと恋に陥り、その男が会社の金を使い込むなどして評判のよくない男だったので、家では結婚に猛反対したのに、本人たちは駆け落ち同然で、東京で世帯をもった。
しかし、その同棲生活は長続きせず、男がよその女と浮気したことが原因で、二人は大喧嘩をやらかし、別れたらしい。その後、珠江は美容学校に入って美容師になり、東京で自活していたが、二十六歳の時に建設会社の社員と結婚。この時も虎三の気に入らない男だったらしく、兄弟で大喧嘩をし、家からは金銭的な援助を一銭も受けてはいなかった。
その男とは、近くの相模原市で生活していたが、珠江は男運がないらしく、橋本猛というその夫は建設現場の事故で即死し、三十四歳で未亡人となった。それ以来、実家の土地を少し分けてもらった金で、美容院やブティックを開いたのが大当たりし、今ではマンションやゴルフ練習場まで経営し、真紅の婦人用ベンツを乗りまわして優雅な独身生活を楽しんでいるようであった。
だが、珠江は今でも実家や実兄の虎三に、反感をもっているという。確かに、結婚する時も家の援助は受けてはいない。夫の死後、独立資金として分けてもらった土地も僅かなもので、およそ「均分相続」などといえるものではない――というのが、珠江の言い分らしく、今では一皮めくれば、虎三との間は根深い不信と反目のかたまりに発展している、という話を聞いたことがある。
その珠江が夏希たちの結婚のお膳立てをした。勘ぐって考えれば、珠江は長年の長兄との不仲や、財産分与の不平等、その不満や恨みから、虎三に敵意をもち、実家の財産に対する支配権を握るため、自分の愛人だった若い男、雅彦を夏希と見合いさせ、結婚させたということさえ、考えられるではないか。
籍が入ってしまえば、村山家の財産の主たる裁量権は、いずれ雅彦が握ることになり、虎三もいずれ死亡してしまえば、珠江が雅彦を操って、本家・村山家の上に女王のように君臨することができる――。
まさか、とも思うが、極端にいえば、そういうことだって考えられる状況であった。
そこまで考えて、夏希は激しく頭を振った。
(まさか、そんな恐ろしい陰謀を珠江がめぐらせているはずはない……!)
打ち消したい思いの、夏希の疑問と衝撃をのせて、追跡車は走った。
――先行するタクシーは、やがて街を出はずれて、相模川の橋を渡った。
「まだ、追うのかい?」
運転する神田卓郎はやや迷惑そうな顔をしていたが、
「もうちょっと、お願い」夏希は粘って卓郎に運転をつづけてもらった。ここまでくれば、もう最後までつきとめるしかないと思った。
タクシーは右折して、河岸道路を走ってゆく。そのあたりはボート遊びや、釣りの名所であった。堤防下の通りに面して、鮎料理の店や休憩所やモーテルなどが、何軒か並んでいて、ちょっとした郊外リゾート地帯といった趣きがあった。
「やっぱりな、見ろよ」
卓郎が車のスピードを落としながら、前方を指さした。
雅彦と珠江が乗っているタクシーはその時、堤防の下の道を走って、一軒のモーテルの中にすべりこんでゆくところであった。
そこまで見届けた夏希の顔は、もはや、引きつって泣きださんばかりであり、胸は張り裂けそうであった。
「ともかく、これでいいのかな」
卓郎がスカGのスピードをあげて、そのモーテルの傍を通過させてゆく。
「ひどい顔をしているぜ、叔母さんの浮気が、そんなにショックなのかい」
「ええ……そ、そうなの」
「気晴らしに夏っちゃんもやってみたらどうだい。モーテルならその先にもまだあるよ」
「ばかおっしゃい。――ありがとう。もう街に戻って」
「ちぇッ、冷めたいな。今、同窓生不倫というのが流行《はや》ってるんだってよ。おれたちも久しぶりに会った仲じゃないか」
「なに言っているのよ。あたしは貞淑な人妻ですからね」
胸を張って言いながら、しかし、胸を張って言うべき値打ちが、いったい自分たちの夫婦生活にはあるのだろうか、と夏希は急に恐ろしくなり、哀しくなった。
夫の雅彦が、たった今、よその女とモーテルに入っていったのを目撃したばかりである。その女も、夏希がよく知っている叔母であった。夏希はそれにしても、と考えた。叔母と雅彦はなぜ結びついているのだろう?
「街に戻ってどうする?」
卓郎がきいていた。
「適当なところでおろしてちょうだい」
「コーヒーでも飲んでゆこうか?」
そういえば、このまま家に戻っても、気持ちの収拾がつかない、と夏希は思い、「じゃ、どこか静かな喫茶店の前でおろして」
神田卓郎は喫茶店ではなく、街裏の一杯飲み屋のような店の前で車をとめた。
「ここでどう?」
何でも同窓生が経営している郷土料理の店で、時間的にまだ営業はしていないので、お茶ぐらいだしてくれるだろう、と卓郎は言った。
「本陣」という店だった。卓郎が古風な引戸を引いて先に入り、夏希もあとから入った。
奥から板前らしい男が現われ、
「まだ仕込み中ですが」
「うん、休憩場所をちょっと借りるよ。お茶ぐらいだしてくれないか」
卓郎は常連らしかった。
板前が引っ込むと、二人は適当なテーブルに坐り、卓郎が言った。
「何だか、思い詰めているね。おばさんの素行が、そんなにショックだったのかい」
「ええ。あたし、びっくりしたんだもの」
「思い詰めた時の夏ちゃんの顔、きれいだよ。ふだんはそうでない人でも、驚いた時や思い詰めた時って、全身の細胞が、急に生き生きしてきて、きれいに見えるのかな」
「男の人って、変な感じ方するのね」
夏希は、それどころではない。運ばれてきたお茶をすすりながらも、半ば、ぼんやりしていた。思考力というものがなかった。
気持ちを鎮めるため、ビールぐらいは飲みたいと思った。が、父・虎三の退院祝いのため、早く家に戻って献立てを整えなければならない、という主婦としての気持ちにも追われていて、それがかろうじて、夏希の自制心を支えていた。
その時、表にオートバイの音が響いて、駐まった。がらっと勢いよく引戸があいて、黒い皮ジャンパー、黒いヘルメットを小脇に抱えた背の高い大男が現われた。
その顔を何気なくみた瞬間、夏希は背筋のあたりがキーンと鳴ったような気がした。どこかで見たような気がしたが、思いだせない。
「おい、瀬高。いま戻ってきたのか」
「なんだ、卓郎か。美人づれじゃないか」
「紹介しよう。この人が例の薔薇園の――」
夏希はひやっとする眼で見つめられた。その時、夏希はなぜか、自分の全身が不意に裸にされて見つめられているような気がした。
(失礼だわ、この男たち。まるで魔窟じゃないの。こんなところに長居は無用だわ)
夏希は、薄気味わるくなった。
「ねえ、帰りましょ。私、用事があるのよ」
そうだ。こんなところで油を売ってる場合じゃない。早く家に帰らないと……と、ようやく気持ちが落着いて、夏希は「本陣」のテーブルから、腰をあげた。
「そうかい。せっかく会ったんだ。じゃ、家まで送ろうか」
卓郎も立ちあがった。
「いえ、寿町の銀行の駐車場に車を置いてるのよ。そこまででいいわ」
卓郎は寿町まで、夏希を助手席にのせて、スカイラインGTで送ってくれた。小島町の交差点を渡っている時、卓郎がふっと小声で、妙なことを言った。
「ところで夏ちゃん。しろがね通りの交差点に鬼面党のやつは、現われたかい?」
「え?」――夏希はびっくりして、膝の上のハンドバッグを握りしめて聞いた。「どうしてそんなことを聞くの?」
「だって夏ちゃんは、やつらに呼び出されて、午後三時にしろがね通りの交差点に行ったんだろう?」
「卓ちゃんが、どうしてそんなことを知っているの?」
「うん。実はね、鬼百合とトルコ桔梗の花束を病院に届けたのは、このおれなんだぜ。――もっとも、花屋でさっきの瀬高に頼まれて届ける用事を引き受けただけだがね。カードぐらい、読ませてもらったよ」
そうだろうか。卓郎はただ、花束を届けただけだろうか。そういえば、午後三時ちょうどに卓郎があの交差点にさしかかって、夏希を車にのせてくれたのも、考えてみればずい分、うまくできすぎているのではないか。
それに……神田卓郎の家族は、多摩ニュータウンが開発された時、そこを追われて東北のどこやらの過疎地に集団移住したということを聞いている。黒狼谷というのは、もしかしたら、そういう遠い所のことではないのか?
何とはなしに本能の部分で、夏希がそういうことを感じた時、卓郎の声が耳に響いた。
「ほらほら、寿町だぜ。駐車場はどこなんだい?」
夏希は駐車場の傍で卓郎の車を降りた。別れ際、
「夏ちゃん、気をつけろよ。あんたの身体は、狙われてるんだよ。今日も本当はおれたち、村山薔薇園の女主人を交差点に呼びだして、どこかにつれこむプロジェクトをたててたんだけど、都合があって、延期したんだ。幸運を感謝して、早く帰んなよ」
夏希が何か言おうとした時、卓郎のスカイラインGTは、もう走りだしていた。
その夜、夏希の家で開かれた虎三の退院祝いの席は、なかなかの見ものであった。夏希は自分の家のことでなかったら、すごい人間関係のドラマだと、冷静に観察することができたであろうが、なにしろ雅彦と叔母の秘密を知った直後であり、自分の実家の巨額資産をめぐる鞘当《さやあ》てなので他人事ではなく、始終、どきどきして料理の味さえわからなかった。
雅彦と珠江は、さすがに一緒には現われなかった。会社を早退して駅からタクシーで戻ってきたよ、と言いながら、雅彦は時間ちょうどの七時に戻ったが、珠江はそれより三十分遅れて、真紅の婦人用ベンツに乗って庭に現われ、のっけからボルテージの高いところをみせた。
「兄さん。まあ、退院したんですってねえ」
おめでとう、ともいわずに座敷のテーブルのまん中に華やかに坐ると、
「あたしはまた、まっすぐ墓場にゆくんだとばかり思って、香典を用意してたのに……ホント、散財せずに助かったわ」
「珠江。なんてこと言うの!」
長姉の富子がたしなめると、
「いいじゃないの、それぐらい言っても。まったく、みっともないったら、ありゃしない。でれでれと女の部屋に入り込んで、乳くりあっているうちに、間男に刺されるなんて、どういうことでしょうね、いったい。村山家の恥さらしだわ」
「おい、珠江!」
虎三が睨みつけ、「口を慎しめ。ここには兄弟以外の親戚も、見えてるんだぞ」
「あらあら、本当のこと言っちゃいけなかった? 死に損いにしてはずい分、元気になったじゃないの。自分だけ不動産屋づらして土地を切り売りし、均分相続をする甲斐性もないくせに、大きな顔しないでよ」
「それとこれとは、話が違う。せっかく祝いに駆けつけてくれたんなら、ギャーギャーいわずに、おとなしく飲め」
虎三がビールを差しだしているのに、コップを反対にしてテーブルに伏せ、
「あたしは車ですから、お酒は飲めません」
そう言って、涼しそうに箸をのばして、料理をつつきはじめた。その態度は、どうかすると野卑でヒステリックな女ともとれかねないのだが、しかし四十三歳の若さで、美容院やブティックやゴルフ練習場などを経営する美貌の女実業家とあっては、どこやら一種の厚味と切れ味と貫禄のようなものがあった。
その言い分も、勝気な女の小気味いい啖呵《たんか》ともとれて、虎三のほうがかえって、押されて、もてあましているくらいであった。
そんな折、蓮見康子が吸い物の椀を運んできた。それまでずっと、台所にいたのだが、夏希も手一杯だったので、康子に運んでもらったところ、どうしたはずみか、珠江の傍で腕がぶつかって、汁が少しこぼれた。
「あらあら」
珠江は大仰な声をあげてハンカチを取りだし、「ちょっとちょっと、お手伝いさん。駄目じゃないのう、こぼしたりしちゃ」
康子は反対に腕をぶつけられたほうなのだが、小さくなって、粗相を謝まった。
「……すみません」
すると、珠江は、
「この家はお手伝いさんのしつけもなっていないのね。なんですか、その運び方は」
珠江があまりお手伝いさん、という言葉を連発するので、夏希は見かねて、
「おばさん、この方、お手伝いさんじゃないのよ」
そう言ってたしなめようとした。すると、
「え? 女中じゃないの?」
「そんなこと言ったら、失礼よ。この方が蓮見康子さん。ほら、お父さんの――」
「ああ。この女が兄さんをたぶらかしてる牝狐なの。へええ、間男をあやつって、兄さんを刺し殺そうとしたくせに、よくもまあ厚かましく、村山家に出入りできるわね」
と、しんらつである。虎三は、今にも殴りつけんばかりに、苦虫をかみつぶした顔をしていて、さすがに座が白けかかった。その時、
「まあまあ、おばさん。そんな言い方をすると、蓮見さんが可哀想だ。ねえ、蓮見さん」
助け舟をだしたのは、なんと雅彦であった。
「蓮見さんは義父さんのために、骨身を惜しまない女性です。どうか、おばさん、あまり悪く取らないで下さい」
「まあ、そうかしら。色仕掛けで兄さんをたぶらかしているんじゃないの」
「それはあまり、言いすぎという気がしますがね」
「ばかにかばうのね。あなたは婿入りした身なんだから、お黙んなさい。私には、きっちりと言う権利があるのよ。こんな財産狙いの牝狐に欺される兄さんの不行跡、絶対に許せないわ」
この二人、掛け合い漫才をやってるんだわ、と夏希は思った。雅彦は康子をかばうふりをして、結局は二人して蓮見康子を愚弄して、追いだそうとしているんだわ……。
それぞれ肉親でありながら、利害が反目しあう人々が、うわべだけ賑やかに集まって祝った虎三の退院祝いは、九時頃までつづけられ、九時半におひらきとなった。
大勢の親戚の人々が去ってしまうと、広い屋敷の中は急にがらんとして淋しいくらいになった。虎三は自分の退院祝いだったのに、きわめて不機嫌に自分の部屋に戻っていったし、雅彦もあすの会社の準備がある、といって自分の書斎に戻った。
その夜、結果的に傷つけられ、侮辱された形の蓮見康子は、台所の片隅で泣いていたが、虎三は体面上、何もしてやることができない。おばさんはああいう人だから、気にしないでね、と夏希は慰めたが、珠江のあのようなふるまいを予測できなかった分、康子を家に呼んだのは間違いだったかもしれない、と後悔したりした。
康子は悲しみをこらえて後片付けを終えると、タクシーを呼び、
「お嬢さん、本当にお騒がせしてすみませんでした。私、こういうことには慣れていますから、ちっとも気になさらなくていいのよ」
と、淋しそうに笑って栃窪平に戻っていった。
(可哀想……ああいう姿をみていると、康子は案外、悪い女ではないのかもしれない。財産狙いの女、と疑いはじめていた私は、やはり誤解していたのだろうか……?)
それにしても、今日は思いがけない一日だった。退院祝いに贈られてきた花束に始まって、叔母珠江と雅彦の結びつき。そして黒狼谷と鬼面党……という具合にそれぞれ、性格の違った二つの恐ろしい悪魔の貌《かお》が背後にたち現われてきたようで、夏希はなんという一日だったんだろう、と思った。
その夜、夏希は雅彦と同じふとんに這入って休む気にはなれなかった。その夜を境に雅彦との間がどのような冷戦状態になろうと、叔母とのことを知ってしまった以上、同じふとんに入ることなどできはしないと思った。
夏希が後片付けを終え、父を休ませ、しまい湯に入ってあがると、もう十一時を回っていた。それでも神経が冴えて眠れそうになかったので、夏希は裏の丘にのぼった。
月のない暗い夜空に夏銀河だけがかかっていた。その銀河を眺めながら、これからどうなるんだろうと、夏希は自分の前途や村山家の周りに、どよもすような不安を覚えた。
第七章 傷だらけの山河
浴室からシャワーの音が響いてくる。仲根俊太郎は、先にベッドに入っていた。
窓から白いレースのカーテン越しに、明るい光が射し込んでいる。日曜日の午後。そこは吉祥寺の紺野真弓の部屋であった。
九月の初めだが、カーテンをそよがせて入ってくる風には、どことなし初秋の匂いがあった。真弓の部屋のまわりは、井の頭公園に近くて、樹々が多いのでなおさら、そういう気配が忍び寄るのかもしれない。
やがてシャワーの音がやみ、真弓が濡れた髪をタオルで拭きながら、バスルームから出てきた。身体にはバスタオルを巻いていた。
そのままの恰好で、部屋のコーナーに据えてあるテレビのスイッチを入れた。ボリュームを調節し、洋画にチャンネルをあわせると、画像がブラウン管に映った。
音消し。つまり、隣室に気配が洩れるのを防ぐため、異性を部屋に入れている時の真弓の習慣だった。
テレビをつけ終えると、真弓は冷蔵庫から冷えたバドワイザーを二つ取りだし、一つを仲根にさしだし、一つを自分で持ち、窓辺に立った。プシュッとリップをむしってひとくち飲み、
「ねえ。夏希さん、どうしてるのかしら?」
外を眺めながら言う。「柿生のあの一件以来、音沙汰がないわね」
「うん。そういえばどうしているのかな」
仲根は腹這ってマガジンを広げたまま、缶ビールを飲んだ。「あんな事件に遭遇したんだ。しばらく家の中で謹慎させられているんじゃないかな」
「でも、片づいたわけではないでしょ。夏希さんを取りまく、いろいろなごたごた」
「片づくはずはないよ。事件の背後にある恐ろしい全貌は、すべてこれから現われる、という気がするけどね」
「で……心配なんでしょ」
真弓がバスタオルを胸に巻いて、バドワイザーを飲みながら、ベッドの端に腰をおろした。
「うん。連絡がとだえたので、かえって心配しているんだけどね」
「惚れた弱味ね」
「え……?」
「わかってるわよ。今でもあなた、夏希さんのことが好きみたい。私なんかのことより、むこうのほうが、ずっとずっと忘れられないみたい」
「おいおい。それとこれとは、話が違うよ。ぼくは彼女個人のことより、それをとり巻く情況というか、土地をめぐる紛争に不穏なものを感じて、ほっとけないんだ――」
「なーんとか、言っちゃって」
真弓が唇を寄せてきた。
仲根は、軽くそれを受けた。
彼女はベッドの端に、腰をおろしたままだった。自然、身体をねじる、といった恰好になり、片手には二人ともバドワイザーを手にもっていて、こぼれそうなので、ほんの軽い、そよぐような接吻となった。
仲根はそうやりながらも、今、話題にしていたばかりの、夏希をめぐる事件のことを考えていた。
仲根がみるところ、事件の真因は、村山薔薇園の家や親戚をふくめての、肉親間にも一つ潜んでいるような気もするが、しかしそれだけではない。もう一つ外側で、大きな社会的な背景があるような気がする。
夏希を脅迫していた三人組や、地上げ屋など一度、石塊の間からちらっと見えていた蛇の尻尾は、しかし坂本兼造の殺人事件でぴたっと姿を隠し、ひとたびは遠ざかったようである。もっとも、そのおかげで夏希の身辺に、今のところ、その連中からの直接の危害や被害が及んでいないことは、よしとすべきか。
むこうも、刑事事件になった上、仲根や真弓らが動き出しているので、迂闊《うかつ》なことができないのかもしれない。たとえば、奪われた白紙委任状だって、悪用しようとすれば、すぐにでもできたはずなのに、やつらは用心してそれをまだ使ってはいない――。
「ねえ。夏希さんのことを考えるのは、もうよして」
軽くそよぐように接吻を交わしていた真弓が、バドワイザーの缶をかたわらに置き、腕をまわして本格的に、もたれかかってきた。
「うん。もう考えないよ」
「ずっと、忘れてほしい」
(いや。それは困る……)
仲根は真弓の身体をベッドに横たえると、バスタオルに手をかけ、結び目をほどいた。
小麦色に焼けた胸の素肌が現われた。真弓の湯上がりの肌はうっすらと汗ばみ、膨らみのある乳房が実って、ふるえた。
ふつう、身体を横たえると、乳房の標高は低くなる。だが、真弓の盛りあがった乳房のふくらみは仰向けにされても、充分、裾崩れをみせずにうねっていた。
仲根はそこに顔を伏せた。
舌でいなされると、乳首はじきに尖ってきて、真弓は声を洩らして反った。
「ああん……響くわ」
初秋の日曜日。二人がこういう時間になだれこむのも久しぶりだ。仲根は、むずかるように胸をせりだす真弓の乳房に、生命の匂いと官能のさそいと情熱といったものを感じて、顔を伏せて舌であやしながら、右手を股間にのばした。
「明るすぎるわ」
真弓が眩しそうに眉を寄せた。
「カーテンを閉めましょうよ」
恥ずかしそうにそう言った。
「閉めてるじゃないか」
「レースのカーテンではだめよ。もう一枚、ドレープのほうを閉めると、暗くなるんだけど」
「まっ暗にすると、真弓の表情が見えなくなる」
仲根が言うと、真弓はその脇腹をつねって、甘やいだ声をあげた。
「俊さんったら、恥ずかしいことばっかり、やるんだもン」
再び、接吻しながら指をのばすと、真弓の秘密の花園はもう充ちあふれる感じになっていた。
仲根はそこを丹念に指で耕しながら、上半身への奉仕も怠りはしない。仲根の舌が、今度は時折、乳首に絡まるたびに、真弓はあえやかな声をあげつづけた。
仲根は久々の真弓の肌の匂いに、安らぎを覚えていた。むせかえるような感動を覚えて、早くも体内に充実するものを感じた。
「そろそろ、ほしいんだけど」
あからさまに聞いてみると、
「いいわ。来て」
真弓もあからさまに答えた。そう言って、仲根の首すじに両手を回し、甘えるように顔を近づけ、
「ね、久しぶりなの。乱暴にしないでね」
「分かってる。心配しないで」
仲根は真弓の両下肢を開かせようとした。しかし、真弓はどういうわけか、すぐにその足を閉じようとする。
「だめだよ。もっと広げないと」
「だって……明るいんだもの。恥ずかしいわあ」
しかし、そうは言いながらも、仲根が位置を取りはじめると、真弓は眼をまわしたような顔になって、大きく身体をひらいて迎える姿勢をとった。訪れた瞬間も、ひッと、真弓は声をあげて反りながらも、しかし、白いしなやかな手をのばして、仲根の猛りの部分にじょうずに指を添え、自らの生命の中に導き入れる。
二つの生命同士が収まりあうと、真弓は、もう明るいことも忘れてしまったようである。顔をシーツのほうにねじむけ、声をこらえながら、怺《こら》えきれないものの奔流にもてあそばれるように、走りはじめた。
仲根は、それにこたえて励みながら、時折、レースのカーテンからまぎれこんでくる風の中に、どこやらで咲きはじめるコスモスの匂いや、公園の湿った落葉の匂いを感じていた。
しばらくは動かずにいた。
動くことを忘れていた。二人とも汗びっしょりだった。終えて、仲根は真弓に手枕をしてやったまま、充実した時間のあとの気だるい疲労感の中で、息をととのえながら、まどろんでいた。
電話のベルが鳴りだしたのは、それからしばらくしてからだった。
電話は、枕許のサイドボードの上にある。真弓が手をのばして、一言二言、相手と話を交わしていた。
やがて、受話器をさしだし、
「俊さんにって」
仲根をゆり起こした。
「誰から?」
「村山さんからよ」
「え」
と、仲根は跳ね起きた。
村山というから、てっきり、夏希からかと思ったのである。今、真弓と生命の交わりをしたばかりの生臭いところに、夏希から電話がかかってきたのでは、何かと狼狽する心理も働く。
すると、そういう仲根を悪戯っぽく睨んで、くすんと笑い、真弓が受話器を両手でふさいだまま、小声で言った。
「村山さんといっても、夏希さんからじゃないわ。その……お父さんからですって」
村山虎三から……?
それなら、もっと驚く。
どうして虎三がおれに……?
仲根は警戒しながら、受話器を把った。
「はい、仲根ですが」
「村山です。突然、お電話をさしあげる非礼をお許し願いたい。娘がいろいろ、お世話になっているそうで、あわせてお礼をいいます」
「はあ、こちらこそ」
と言って、仲根は「――私に何か?」
「うむ。ちょっと、あなたに折り入って相談したいことがあるんです。私はおかげで退院しまして、今、毎日、会社の事務所に出ております。何かの折にでも、武蔵丘まで来てくださらんかな」
「はい。それはもう、いつでもうかがいますが、さし迫った用事なんでしょうか」
「できれば、早いほうがいい。あなたもお聞き及びのことと思いますが、私が暴漢に襲われたことや、夏希が脅迫されたりしている事件と、関係することです」
「わかりました。あすにでも事務所におうかがいしましょう。場所を教えて下さい」
あす夕方六時。武蔵丘の駅前ビルの中にある村山虎三のオフィス――という具合に約束が交わされ、仲根はその電話を切った。
村山虎三が代表取締役をする「武蔵丘興産」は駅前ビルの四階にあった。
仲根がそのオフィスを訪れたのは、翌日の夕方であった。駅前には夕暮れの人並みがあり、そのビル横の路地は飲み屋街となっていて、焼鳥の匂いなどが漂っていた。
仲根はエレベーターで四階にあがった。テナントの会社も、武蔵丘興産も、退社時間はもうすぎていてビルの中は残業組が、ちらほら見えるくらいで、ひっそりとしていた。
そうした夜の社長室で、村山虎三は待っていた。仲根が入ると、執務机から顔をあげ、
「やあ、いらっしゃい」
立ちあがってきた。
「はじめまして。私が村山です」
入院生活が長かったせいか、本来、陽に焼けた野人であるはずの村山は、幾分、蒼白い、むくんだ顔立をしているが、不動産屋らしい如才のなさと、粘っこい物腰をもっていた。
はじめまして、といわれて初めて気づいたのだが、仲根とは初対面である。しかし、娘の夏希から何度も話にきいていたので、初対面のような気がしなかった。
「お忙しいところ、お呼びたてして申し訳ありません。さ、どうぞお坐り下さい」
仲根はソファに導かれた。
「お身体は、もうよろしいのですか?」
「娘に聞かれたとおりです。この年になって女の部屋で刺されるなど、恥じ入るばかりです。しかし、なんとか持ち直しました。もう心配はありません」
半分は強がりのようであったが、身体が回復したのは、事実のようである。
「話は、聞いております。娘の夏希が、私の刺傷沙汰を心配して、犯人の探索など、あなたに内々にご相談していたようですな。改めて、お礼を申しあげます」
「いえ。何のお力にもなれなくて……その上、途中で、妙な殺人事件に巻きこまれたりして、かえって迷惑をかけています」
「いや。それも聞きました。あなたはあの殺人事件の事情聴取を受けた時、警察には、私が刺された事件のことは一言も触れられなかったそうですな。秘密を守る、という夏希との約束のせいかどうかは知りませんが、感心しました。おかげで、私は助かったというものです」
村山虎三は背広の内ポケットから扇子を取りだし、それを顔の前でぱたぱたとあおぎはじめた。
用件というのはいったい何だろうと、仲根は少し、じりじりしてきた。
「で、私に何か?」
仲根が相談の核心をきいた時、村山虎三は身をのりだしながら、顔の前でせかせかと扇子を使った。
その様子はどこやら、日本列島改造論などを言いだしたある時期の、この国の宰相を思わせる物腰であった。
「うん。あなたを信用のおける新聞記者として頼みたいことがあります。仲根さん、あなた一ヵ月ばかり、この私に時間を貸してはくださらんか」
「は?」
「丸々とはいわん。時々でいい。この私のために、ちょっと調べものなどをして、骨を折ってほしいんじゃが」
「どういうことでしょうね。藪から棒に」
「まず、山形県西村山郡のある過疎地に行ってもらいたい。そこは左沢《あてらざわ》から朝日連峰のほうに入った山奥ですが、道知畑という集落の先に、黒狼谷という集落がまだ残っているかどうか。残っているとすれば、何戸ぐらいで、どういう生き方をしているのか。残っていないとすれば、そこの住民たちは今、どこへ行ったのか。それを調べてもらいたい」
意外なところから突然、黒狼谷という地名がでてきて、仲根は息をのみ、いささか緊張した。
「私はジャーナリストとして、旅行や取材には慣れています。頼まれれば、北海道でも九州でも気軽に、参ります。しかし、どういうわけだか、その事情をお聞かせ下さい」
「うむ、話しましょう。しかし、このことはまだ、娘の夏希にも誰にも、話してはいないことです。ひとつ、聞き終わってもあなたの胸にしまって、ご内聞にお願いしたい」
「承知しました。納得のゆくことでしたら、秘密は守ります」
「さっき、私は東北のある過疎地に飛んでくれ、と言いましたが、話はいきなり東北からはじまるのではありません。黒狼谷という地名は、日本の各地にありますが、私が言うのはまず、この多摩丘陵の山あいの中にあった小さな迫《さこ》であり、そこにへばりついていた小さな集落の名前です。しかし、その黒狼谷は、狂える怒濤のごとく押し寄せてきた都市化という巨大な獅子の咆哮の前に、吹きとんでしまいました。つまり、多摩ニュータウンに飲みこまれてしまったわけです」
――村山虎三の話は、そんなふうにはじまった。
――黒狼谷というのは、そもそもは多摩丘陵の山あいにあった小さな集落の名前である。そこを含め、府中市、町田市、武蔵丘市などに隣接する地域に世界一の人工都市計画、多摩ニュータウン計画が発表されたのは、昭和三十九年の暮れである。
先にも触れたように、総面積約三千ヘクタール、関係する農家約千戸という大規模な開発構想であった。成田空港の約三倍の広さにまたがる土地収用計画だから、本当なら農民の側から、三里塚闘争のような抵抗がうまれても不思議ではなかったのに、なぜかここではほとんど、そういう反対運動は起きなかった。
用地内のかなりの部分が山林であったことと、土地の評価額が高かったこと、公団の根回しの良さと、三里塚のような満州引揚者たちの再入植地だった、というような特殊事情がなかったせいもあるかもしれない。
しかし紛争が、皆無だったわけではない。黒狼谷という谷津田の、その古い集落の十三戸の農家は、当初、絶対にそこを立ち退こうとはしなかった。
なぜなら、そこは武蔵七党とよばれる関東の由緒ある在郷武士集団の末裔であり、三多摩郷士の本流にかかわる「黒井家」の館があり、黒井一族が住んでいるところであった。
反対した農家というのは、すべて黒井家の人々であり、黒井一族十三戸は断固としてそこを立ち退こうとはしなかったのである。
「われらは関東平野の守護神ぞ。武蔵七党の本流の誉れをもつ黒井家の居館を移し、追いたてようとは、いかなる考えじゃ。役人が札束をどのように積もうとも、われら黒井家一党はここを断固として、立ち退きはせん」。
当時の黒井家の当主、黒井猪三郎は公団や公社の幹部がきても、都や建設省の役人がきても、門前払いをくわして、多摩ニュータウン計画に激しい反発をみせた。その時、説得役にあてられたのが、地元での顔を生かして大掛りな不動産事業をはじめていた村山虎三であった。
「都の役人でも公団の職員でもない私が、なぜ頼まれて説得役に出むいたか、それには深いわけがありましてな。仲根さん、あんた武蔵七党というものは知っていなさるかな?」
村山虎三は話の途中、アクセントをつけるように、そう訊いてきた。
仲根はそんな古い歴史のことは、詳しくは知らなかったので、いえ、知りません、と答えた。すると村山は、なぜ自分が隠密裡に黒井家説得役にあたったかの理由を、武蔵七党というものにからめて、説明しはじめた。
中世以来の武蔵野の開発を語る場合、忘れてならないのが、関東平野の開墾者であり、戦闘武装集団であった武蔵七党の存在である。
武蔵七党というのは、源平争乱の以前、地方長官として派遣された国守が、それぞれの土地に土着し、一族を分け、それぞれの土地を開墾し、荘園を作りながら、兵力を蓄えていったころの、いわば「武士階級」の勃興そのものを物語る代表的ケースであり、関東に七大勢力を作った「惣領制同族団」である。
武蔵七党は源平争乱の時には、強大な勢力となり、鎌倉幕府擁立の主たる戦力となった。のち、その功によって全国各地の守護、地頭となった。出身母体の関東では、八王子の横山党、西多摩郡の村山党、埼玉県児玉郡にまたがる児玉党、猪股党、日野市付近の西党など、関東平野の中心地、相模から上野《こうずけ》の国にまで広がり、七党三百余家といわれた。戦国期以降は、郷士、地侍という名で各地の村落に入り、名主階級を形成しながら、村おこしをやり、ふだんは農業に従事しながら一朝有事に備える、という生活を送っていた。近藤勇や土方歳三など、のちに幕末京都で活躍した新撰組の多くは、これら三多摩郷士の中から生まれている。
ともあれ、そのうちの一大勢力横山党はむかし、小野篁《おののたかむら》の七代が武蔵国守となり、八王子市元横山町二丁目に館を構えたところからそう呼ばれるようになったが、五十七家の同族集団を率いていた。
「吾妻鏡」には、和田合戦(建保元年=一二一三年)の時、一族三十一人が散ったと記録されるほど勇猛だったが、その横山党の本流の一派が「黒井家」であり、ちょうど、多摩ニュータウン開発計画の中心地、黒狼谷に住んでいたのである。
一方、その説得役に起用された村山虎三は、これまた武蔵七党の名門の一つ、「村山党」の直系である。村山党は西多摩郡瑞穂町殿ケ谷、村山館をその本拠地として、東村山市、所沢市山口、武蔵村山市から武蔵丘市にかけてその一族が栄え、村山虎三の家はまさにその本流であった。
もともと、武蔵七党同士は仲がいい。骨肉相食んだ戦国時代でさえ、お互い同族的な結合をもち、戦争をしたことがない。その伝統は連綿とつづいている。そこで村山虎三なら、黒井家の当主、黒井猪三郎を説得できるだろうと、地元選出議員に根回しされ、全権委任を取りつけて使者に立ったのである。
「で、いかがでした?」
仲根俊太郎が聞くと、
「それがなかなか」
村山虎三は、太い眉をうねらせた。
村山虎三は、使者に立った。
だが、交渉は難航した。黒井猪三郎はどうしても立ち退くことを承知しない。当時、多摩ニュータウン造成のために公団が提示した買収価格は、三・三平方メートル(坪)あたり五千円であった。それは当時としては決して、安いものではなく、比較的良心的なものであった。
公共用地の買収には、「公共用地の取得に伴う損失補償基準要綱」というものが昭和三十七年六月二十九日の閣議で決定されている。
その要綱は、その用地が正当な取引価格で買収されることを明記しているが、正当な取引価格というのは近傍類地の実勢価格を参考にして、その土地の地目や用途や地味や水利、立地条件、収益性などを総合判断して決められることになっている。
ところで、ニュータウン用地の多くは、山林であった。収益性のさほどない山林に対しても坪五千円では、正直のところ、周囲がびっくりするほどの高さだったのである。
「なあ、猪三郎さんや。そう欲をかくでねえ。バスが一日に数本しか通わねえこんな山ん中の土地が、坪五千円で売れるなんざ、夢みてえな話じゃねえか」
虎三は、かねて顔見知りでもある黒井猪三郎に、土地|訛《なま》りの言葉で話しかけ、説得しかかった。しかし黒井猪三郎は、
「ばかこくでねえ。金が問題じゃない、金が。村山さん、あんたならわかるだろう、わしはこの武蔵七党にゆかりのある由緒深い土地をブルドーザーで切り刻まれ、鉄筋コンクリートの墓場にはしたくはない。それに、ここで計画しているわしらの畜産団地構想も軌道にのりはじめてきたばかりじゃ。その武蔵七党のわしらを追いだして、ここをブルドーザーで押しつぶしてしまい、東京のサラリーマンのためのマンション街にしてしまうことに、あんたは加担するのか」
黒井猪三郎は睨んだ。彼は当時、一族十三戸を結束させて、黒狼谷で独自の畜産団地に取り組みはじめていた。水田が少ない谷地だから集約性の高いものでゆこうと、酪農や養豚を有機的に組みあわせ、谷津田に沿って大規模な牛舎や鶏舎や豚舎をずらっと揃え、黒狼谷全体を「乳と蜜の流るる里」にしようと、一族でがんばっていたのである。
それだけに、黒井は突然のニュータウン計画の発表に腹を立て、虎三に対しても、「村山さん、あんた、百姓のくせに、百姓を土地から追いだすためのお先棒を担ぐつもりか。わしらはこの土地を離れん。絶対に離れんぞ。わしら黒井党はここに生産性の高い立派な畜産団地を作ってみせるんじゃ」
黒井はがんとして、そう言い放ったのである。
黒狼谷は、揉めた。
由緒ある血脈の歴史をもつ土地に愛着する黒井たちの気持ちはわかる。しかし黒井たちが本当に農業を愛し、大型畜産団地を作りたいのなら、なまじ都市近郊で、しかもこんな狭い谷戸地にしがみつくより、もっと広大な場所に移ったほうがいいのではないか。
現に、この周辺にはいずれ、多摩ニュータウンというものが完成し、まわりをコンクリートで包囲され、大勢の「都市住民」に包囲されてしまうのだ。
そんなところで、旧約聖書にいう「乳と蜜の流るる里」を作ろうとするより、広々とした処女地で、思いきった畜産団地作りに取り組めばいいではないかと、交渉役の村山虎三は、黒井たちに代替地を提案した。
その代替地は、丹沢山麓や秦野市郊外など、幾つかの土地が用意されていたが、いずれも狭かったり、遠かったり、農業には不向きだったりして、黒井一族はがんとして、首をたてに振ろうとしなかった。
黒井猪三郎があまり強硬だったので、公団はやがてその十三戸の地所だけを残して、すでに買収を終えたところの山林からブルを投入して、山や崖を切り崩し、ニュータウン作りの工事に着手した。
かたや、隠密裡の交渉役に委嘱した村山虎三に対しては、黒井との交渉がやりやすいよう、代替地探しを急がせながら、粘り強く、札束をちらつかせて交渉にあたらせた。
進展しかけたものが、ストップしたり、また動きだしたりという紆余曲折を経るうち、五年が経った。その頃になると、都市近郊の共通の悩みとなる畜産公害も起きていて、まわりから苦情が持ち込まれ、黒井たちの畜産団地構想は、ぐらつきだしていた。
かたや周辺では、ブルで山や崖が切り崩されて工事が進行しているといった有様で、黒井たちは事実上、「包囲」されて「いびりだされる」寸前だったのかもしれない。
そんな時、村山虎三はその足許をみながら最後の仕上げにかかった。彼が提案した最終的な代替地は、あっと驚くような斬新な着想に充ちていた。
どうせ谷戸地を出て、新天地で思いきった畜産団地を作ろうというのなら、一村、ことごとくが挙家離村して無人となった東北の過疎地に這入らないか――。
「なあ猪三郎さんや。この日本列島は狭い。代替地といっても、そう都合のよいものがあるわけではない。ところが、広い盆地が丸ごと空き地になっている挙家離村跡の土地なら、農業に適しているし、周囲の公害の声も気にせず、大型団地ができるではないか――」
村山虎三は、そう説得しはじめたのだ。
村山虎三が提案したのは、山形県西村山郡Q町の後背地にある朝日連峰に面した山あいの「挙家離村」の「跡地」であった。
そこは左沢線の終点、左沢から奥に入る。地名が、奇しくも黒狼谷といった。もっともこの地名は昔、日本狼が多く棲息していた頃の名残りで、各地にある。ともかくそこは、一村全員が挙家離村したあとなので、ススキの生い茂る原野になりかけており、思いきった畜産団地を作るには最適ではないか。
住民が離村したのは、冬季の積雪、出かせぎ。水田しか収入がなかったこと。またその水田が狭かったこと――等であり、今新たな視野に立って、武蔵七党のような結束の固い十三戸の一族が、多摩ニュータウンに収用された土地代金をもとに、資本投下して大きな養豚、養鶏、肥育牛の畜産団地を形成するには、絶好の場所であり、人里離れているという条件は、かえって打ってつけではないか。
「なあ、猪三郎さんや。ここだ」――村山虎三は、地図を広げてその場所を指しながら熱っぽく提案した。「夏は清流。秋は紅葉。冬は少し寒いかもしれんが、乳と蜜の流るる里を作るには、いい所だぞ。どうや、乾坤一てき、思いきって決心してみんか」
地図に見入る黒井猪三郎の眼が、心なし妖しく輝きはじめていた。気持ちが動いている証拠であった。
現実問題、彼の周囲の状況では、工事の始まったニュータウンの計画地域内では、いつまでも農業はやってはおれない。それなら、公共団地の買収に伴う土地代金をもらって、思い切った新天地に雄飛するのも悪くはない、と考えはじめたのである。
そこまでくれば、もうしめたもの。村山虎三は、黒井をつれて現地を案内した。黒井は熱心に現地を歩きまわりながら、移住した場合のプランを練った。
なるほど先住者たちが離村していった理由は、山奥で不便なことと、山あいの棚田なので水田農業では、収益性がなかったからである。しかし黒井たちは、集約装置型の畜産経営を考えているので、水田が狭いことや不便なことは、ためらう理由にはならない。
問題は交通の便と出荷だが、肉牛肥育や養鶏は、花や野菜のように鮮度を競うものではない。鶏卵の出荷は、大型トラックを購入して、麓の農協までピストン輸送すればいいし、冬期は雪で道が途絶しないよう、ブルでの雪かきは町当局が励行してくれるというので、冬の出荷にも困らない。
何よりの魅力は、畜産公害に対してまわりから文句をいわれない「独立王国」が、ここなら築ける、と思ったからである。
「よし。ここに決めよう」――か黒井一族は、半年後、東北の黒狼谷に本拠地を移した。
独立王国をめざそうと、黒井猪三郎ら十三家族は、多摩ニュータウンの用地から追いたてられて、山形県西村山郡Q町の過疎地に入った。だが、独立王国をめざす、ということは、裏返せばそれだけ孤立王国に陥りやすい危険性がある、ということでもあった。
移住する時、村山虎三が色々な面倒をみた。十三家族の人間はもとより、家財道具、身の回り品、食糧、農機具やトラクターなど、すべてトラックやコンテナ車に積み込み、さらには牛、豚、鶏など家畜を積んだトラックをつらねての数回にわたる移動は、まさに民族大移動のような壮大な古代史的光景といえるほどの、現代の〈実験〉であった。
「まあ、生活資金はたっぷりある。焦ることはない。気長に、畜産団地を整備しながら、武蔵七党の新たなる独立王国を築けや」
虎三はそんなふうに言って励ました。自分も追いたてた側の一人なので、黒井たちが成功してくれればよい、成功してもらいたい、と願う気持ちは人一倍であった。
しかし、東京の人間が、気候風土の異なる東北の、それも人里離れた過疎地に入ったのである。現地の自然条件や再建への道は、予想以上に厳しかった。それでも家を建て、畜舎や鶏舎を整備し、飼育頭数をふやし、羽数をふやして、黒井たちは新しい天地で着々と独立王国作りにいそしんでいたのである。
数年間はよかった。しかし四年ともたず、そこを直撃したのが、未曽有の豪雪禍であり、道の途絶であり、家畜の伝染病にともなう全滅と、収入の途絶であった――。
そんな苦闘する情況は、刻々と村山虎三のところにも、情報として入ってきた。というのも、「金おくれ」。一括して支払っていた土地代金の半分以上を、黒井たちは万一の保険にと、山形の銀行や農協に入れていたが、最後には、武蔵丘に残していた土地を処分して、「金を作って送ってほしい」という電話が再三、虎三のところに入るようになったのである。
虎三も黙視はできず、黒井の最後の土地を処分して数千万円というまとまった金を作り、それを現金トランクにつめこんで、急遽、奥羽本線の夜行列車で山形にむかった。
悲劇は、そしてまさに、その翌晩、猟銃強盗の襲撃という形で、黒狼谷で発生したのである。
村山虎三がその過疎村に着いたのは、翌日の昼頃であった。その夜は、黒井たちの苦労話などを聞きながら酒を飲み、夜十時半ごろ、黒井猪三郎の家の二階で眠りについた。
虎三はあまりぐっすり寝ていたので、覆面をした三人組の強盗が猟銃を携えて押し入ったことなど、初めは気づきもしなかった。銃声と怒声で気づいてはね起き、階段を馳けおりた時、三人組が猟銃を乱射して家族を負傷させ、黒井猪三郎を即死させ、虎三が運んできた現金トランクを引っ掴んで、外に飛びだそうとしているところであった。
「おい、貴様ら、待て!」
と叫んで、虎三が戸のところで立ちふさがろうとした時、散弾銃の銃口がむけられ、発砲された。
虎三は右肩のあたりに、激しい焼けつくような痛みを覚えながら、ショックで吹っとび、戸口で頭をぶつけて気を失い、ずるずると土間に沈んでしまったのであった。
憶えているのは、賊が三人組だったことと、主人の黒井が撃たれ、家族も数人、撃たれたらしいということだけである。
眼が覚めると、翌日になっていた。しかも奇妙なところに自分が転がされていることに虎三は気づいた。はるか十数キロも離れた寒河江《さがえ》市駅前の車の中であった。
その車は、盗難車で、放置されていた。虎三は頭を打ったまま、まる一日、座席に転がされていたのだ。さいわい、肩の傷は散弾がかすめただけだったので浅く、病院にゆくほどではなかった。
虎三は何が何だかわからず、狐につままれたような気分で、左沢のほうに戻ろうと思った。しかし黒狼谷に戻るまでに、空腹を覚えて入った寒河江の食堂で、何気なくテレビをみているうち、黒狼谷の黒井猪三郎の家にゆうべ、賊が押し入り、猟銃を発砲して三人を殺傷した上、家に放火して逃亡した、という事件のニュースを見たのであった。
その時の虎三の驚きと当惑は、筆舌に尽くしがたい。自分も黒井の家にいて、傷ついたまま発見されるか、救出されたのならいいが、遠く離れた町で眼を覚ましたのである。しかも黒井の家はゆうべのうちに放火されて、全焼してしまったという。
そういう情況では、今から、虎三がのこのこバスを乗りついで黒狼谷の現場に戻っても、いたずらに怪しまれるだけで、言い訳がたたないような気がした。
なぜなら、三人組の猟銃強盗は、明らかに虎三が運んだ六千万円という土地代金を狙って、その夜、黒井の家に侵入したということになる。かなり、計画的な匂いがあった。
裏返せば、現金を運んだ張本人の虎三自身が人を雇って、その猟銃強盗を仕組んだのではないか、とも見える情況なのであった。
しかし、虎三は事実を述べなければならないと思い、タクシーをとばして現場に戻った。心配していた通り、警察に拘留され、まる一週間、黒井猪三郎との関係や盗まれた土地代金のことや犯人の印象など、根掘り葉掘り聞かれた。
警察の一部では、虎三の「狂言強盗ではないか」と疑って捜査していた部分もあるようだが、しかしその証拠はといえば、何もない。
それやこれやで一週間後に、村山虎三は現地の警察から釈放されたのであった。
――黒狼谷を見舞った悲劇に関する村山虎三の長い話は終わった。
「そういうわけじゃ。その後も、何度か現地の警察がわしの家を訪れ、事情聴取を受けたが、いつのまにか山形の刑事たちも来なくなり、わしとその事件との直接の関係はそこで終止符を打った。あの強盗放火殺人事件がその後、解決したかどうかも、わしは聞いてはいない。もうかれこれ、十四、五年も昔のことになるがのう。黒狼谷、という言葉を聞くまで、わしはあの事件のことさえ、もう忘れてしまっていたくらいじゃ」
虎三は腕を組んで、そういうのであった。
仲根俊太郎は深い吐息をついた。もう十五年近くも昔になるその山形の過疎村の強盗殺人放火事件が尾を曳いて、今の脅迫事件の背後にたち現われてきたのかと思うと、その時間の推移と輪廻の重さに、深い吐息が洩れたのであった。
仲根は念を押すように、「つまり、村山さんがマンションで刺されたことや、夏希さんが脅迫されている今回の一連の事件の背後には、その、山形の黒狼谷の惨劇が横たわっているのではないか、とおっしゃるのですね?」
「うむ。わしにも断言はできん。しかし、わしを凶器で襲った男は、はっきりと“黒狼谷を忘れるな”と言ったのだ。黒狼谷といえば、わしにはあのことしか思いださん」
虎三はつづけた。「考えてみれば、黒井の残党たちからわしは恨まれていたと思う。多摩ニュータウンの代替地と称して、東北に追いやる手だてを作ったのは、このわしだし、その上、あの強盗殺人事件だ。警察の調べでは、わしはシロとなったかもしれんが、彼らの眼からすれば、強盗を手引きしたのはあいつだということになっているかもしれん。態《てい》よく肩にかすり傷を負ったことまでが、いかにも狂言強盗臭い。その恨みから、あの連中が今、わしの命やわしの財産を狙っているとすれば、放置してはおけんことなんだ」
虎三はそう言うが、しかし、黒狼谷の惨劇の恨みから、黒井家の残党が仕返しをしているとだけみるのはどうか。十四年という時間は、ちょっと長すぎるような気がする。仕返しをするのなら、もっと早くしたはずである。
仲根俊太郎はそう思った。しかし、さりとて、その多摩ニュータウンを追いたてられた恨みや、黒狼谷の惨劇が、まったく無関係とも思えないのだった。
「で、私にその山形の過疎地がその後、どうなっているかを、調べてほしいとおっしゃるんですね」
「そうじゃ。黒狼谷が今、どうなっているのか。黒井の残党たちが、あのあと、どうしているのか。そういうことを調べてほしい」
「わかりました。来週あたり山形に行ってみます」
仲根が答えると、
「ああ、頼む。これに関する費用は一切、私のほうに請求して下さい。謝礼のほうも、何なら前渡ししておきましょうか?」
「あ、その必要はありません。足りなくなったら、あとで請求いたします」
その夜、仲根が村山虎三のオフィスを出たのは、八時である。駅のほうに歩こうとして、路地裏から漂ってくる焼鳥の匂いに誘われ、軽く一杯ひっかけて帰りたくなったのは、酒飲みの悪い癖であろう。
焼鳥屋は満員だった。勤め帰りのサラリーマンが多かった。仲根は屋台に毛がはえたようなカウンターの丸椅子に坐り、コップ酒とモツ焼を注文した。
コップ酒でも一杯、ひっかけなければ鎮まらないようなものが、胸に静かな炎のように燃えている。何という見事な図式だろうか、と仲根は思った。
多摩ニュータウンの開発、といえば都市化現象の最たるものである。かたや日本列島の脊梁山脈に沿う山間部や日本海側の過疎化現象は、太平洋ベルト地帯への人口の大移動や東京への一極集中の、まさに裏返しである。
多摩ニュータウンを追われた農民が、東北の挙家離村あとに入るという光景に、仲根は昭和四十年代から五十年代にかけてのこの日本の、象徴的で皮肉な原光景を見たのだ。
なぜなら、日本の経済発展にともない、東京の地下鉄やビル工事に、大勢の、全国の農山村の人々が「出稼ぎ」という形で狩り出されて、建設に従事した。その整備された都市に人口が集まったのが一極集中。これを解決するためのベッドタウン作りの最たるものが、多摩ニュータウンであった。
そこからはじきだされた農民が、「空家」になった東北の過疎地に入る。それ自体は、いい着想だったかもしれない。しかしそこに横たわっている現代史のよじれの中で、今度の村山虎三を取り巻く一連の事件が起きたのではないか――仲根はそう思うのだった。
翌週の初め、仲根俊太郎は、山形に出発した。
朝、八時四十四分発の東北新幹線「やまびこ二十一号」で福島までゆき、それから奥羽本線に乗りかえるというコースであった。福島には十時十分に着いたが、ちょうど三十分ぐらい待っただけで、十時四十八分の「つばさ七号」という特急に連絡していたので、それに乗って、山形市まで直行した。
山形到着はお昼すぎの、十二時十二分であった。
駅前で軽い食事をとった。食事をしながら、時刻表をめくると、左沢《あてらざわ》線が、まだ健在だった。十三時四十分のに乗ると、十四時三十四分に終点の左沢に着くことになっていた。
それだと、あと一時間強で発車する。
(ちょうどいい。それでゆこう……)
遅い昼食をとり、コーヒーを飲んでから、仲根は支線の左沢線に乗った。むかしは通勤や通学、また旅行者もふくめて、貴重な支線だったのだろうが、今やマイカー時代で、ディーゼルカーはがらあきで、そのことがかえって鄙《ひな》びた感じを与えてくれる。
寒河江、左沢に近づくにつれ、沿線の車窓風景にはリンゴ畑などがふえてきて、山形の県中央部はリンゴ、モモ、サクランボ、ブドウなど、果実の産地なんだな、と思いだした。
終点、左沢に着くと、陽が翳ってきた。時刻はまだ三時前であり、夕刻というわけではなかった。どことなく東北には秋の気配が強まっている。
(まだ日没には間がある。このまま、目的地まで行ってみようか)
駅前にタクシーがあった。一台の車に近づくと、ドアがあき、
「へい。どちらへ?」
「黒狼谷というところに行ってくれませんか」
え、と運転手がびっくりして振り返った。
「黒狼谷……? あそこはもう、集落も何もありゃしませんよ」
「住民はもう一人もいないんですか?」
「ええ。とっくにみんな山を降りて、山形市や東京方面に散ったという話ですよ」
「ともかく、行って下さい。現地をちょっと、見ておきたいんです。チップは弾みますから」
運転手は、しぶしぶといった態《てい》で応じ、タクシーはかなり賑やかで細長い、町なみを抜けて平野に出ると、まっすぐの道を山のほうにむかって走ってゆく。
「黒狼谷の住民はもう本当に、一人もいないんですか?」
「いませんね。とっくに。もう十七、八年も前になるでしょうか。ちょうど、過疎問題、集団離村などが騒がれ始めた頃ですよ」
「それは最初の住民たちでしょ? そうではなく、そのあとに東京からの移住者が、十数家族、そこに入って養鶏や畜産で村おこしをしようとしたはずですが」
「ああ、あれね」
運転手は思いだす顔になった。「そういえばやっていましたね。しかし、あの新規参入者たちも四、五年後、強盗放火殺人事件が発生しましてね。たしか、リーダーの方やその家族が亡くなって、数年後にはみんな、家を畳んで山を降りたようですがね」
「その事件は、解決したんですか?」
「さあ。私らも詳しいことは知ンねえけど、犯人がつかまったという話は聞がねえな」
(帰りに町の警察か山形市の県警本部に寄って、事件のことも調べてみよう)
仲根はそう思った。
ともかく運転手の話によると、黒狼谷は、黒井猪三郎を失ったあと、数年間は十二家族でがんばっていたらしいが、それも結果的にはみんな離村して、散逸したようである。
「どだい、あんなところに再入植するというのが間違ってたんですよ。なにしろあの当時は古寺、道知畑、七軒地区、大井沢など、幾つもの集落が挙家離村して、学校も何もかも統廃合されてましたからね。幾ら東京での土地代金があって、開拓生活資金があるといっても、十三戸だけでがんばったところで、冬の猛威には勝てっこない。それに、孤立した辺地では生活基盤を維持するための行政サービス、追いついてはゆけませんよ」
運転手は辛辣なことを言った。タクシーはもう幾つかの集落をすぎ、かなりの勾配のある道にさしかかっていた。
「ところでお客さん、黒狼谷の縁者の方ですか?」
「いや、そうではないんですが」
「だってあんな所にわざわざゆくのは、関係者でしょ。さっきもね、若い女の人が一人、黒狼谷に行ってくれって、タクシーに乗ろうとしたので、びっくりしたんですよ」
自分よりも先に、若い女性が一人で黒狼谷を訪れてきたという運転手の話を聞いて、仲根はいささかびっくりした。
「へえ。妙な人もいるもんですね」
「お客さんだって、妙ですよ」
「その女性、どうしました?」
「ええ。こざっぱりした恰好をしたきれいな娘でしたがね。なにしろ女の一人旅。山奥の、黒狼谷に行ってくれという。私は薄気味わるくなり、断わりました。そうしたら、たしか、森林伐採トラックに手をあげていたようですがね」
タクシーはさらに幾つかの集落をすぎた。山道にさしかかると、山峡にはもう秋風が立っていて、落葉樹林はところどころ、色づきはじめていた。朝日連峰に近いこのあたりは、紅葉が来るのも早いはずであった。
タクシーの運転手は、柳沢というバスの終点地区からもかなりがんばってくれて、山道をうねうねと登ってくれた。七曲りの沢ぞいを走ったり、幾つかの峠を越えたりして三十分も走ったが、突如、眼下に広がってきたのは、白いススキの穂が一面、夕陽にそよぐ谷あいの小さな盆地であった。
「これが黒狼谷です。どうです、何もありゃしないでしょ。安達原の鬼婆ァでも、出てきそうなところだ」
運転手は剽軽《ひようきん》に、そんなことを言った。
たしかに、何もない。仲根はタクシーを降りて、その廃村跡に歩み入った。
谷、とはいうが、黒狼谷は周囲を高い山々に遮られた沢あいの、意外にのどかな盆地である。しかし、耕作放棄田はもはや原野に戻っており、集落の跡というものをとどめてはいなかった。家々は朽《く》ち果て、わずかに牛舎や豚舎の鉄骨部分やサイロの残骸、礎石部分が草に埋もれて残っており、合掌家屋の残骸も少し残っていて、ここで畜産基地を築こうとしていたらしい人々の形骸をとどめているのが、かえって生々しく、一種の哀れを誘う光景であった。
惨劇のあった黒井猪三郎の家はどのあたりだったんだろうと、視線を動かしているうち、おや、と仲根の眼は、ある地点で釘づけになった。一軒の廃屋の前。崩れ落ちた合掌家屋の骨組みが、傾いて地に朽ちようとしている。
その前に、赤やピンクのコスモスが乱れ咲いていた。そのコスモスの群落の前に、若い女が一人で、佇《たたず》んでいたのだった。
都会風のワンピースを着て、肩にショルダーバッグをかけている。風立ち騒ぐススキとコスモスの原野に、その女の姿は、どこかひどく似合いすぎ、そして淋しそうに見えた。
こんな廃村をわざわざ訪れた女というのは、何者なんだろう。
仲根が声でもかけようかと思って、そちらに歩きかけた時、女はくるりと廃家に背をむけ、道のほうに戻りかけていた。一度、ちらっと仲根のほうをみて、軽く会釈をしたようだったが、お互いに声をかけあうような距離ではなかった。
女は、林の陰にレンタカーを駐めていたらしい。それも営林署員が乗るようなジープだった。女は運転席に坐ると、すぐにジープを発車させて、黒狼谷の跡地を走り去った。
「ほらほら、あの女だったんですよ。どういうつもりで、こんなところまで来たんでしょうかね。安達原の鬼婆の化身じゃないですかねえ」
「そうかもしれませんね」
仲根は笑いながら答えて、しかし本当に安達原の鬼婆の化身かもしれんぞ、と思ったりした。何しろ、まわりはススキの原野で、廃村ときているから、一種、鬼気迫る眺めなのであった。
「どうするんです。まだ、ここにいるんですか?」
運転手は早く帰りたそうであった。
仲根はせっかく遠くまで来たんだからと、それから二十分くらい、廃家の跡を一軒一軒見てまわり、その結果、ここで得るものは何もないという結論に達し、
「じゃ、戻りましょうか。町にやって下さい」
やっとタクシーに乗った。
その夜、仲根は駅前の玉川旅館というところに泊ることにした。あと一日、この土地で調べものをするのだから、山形市まで戻って大きなビジネスホテルに泊ることもないのである。
左沢《あてらざわ》の町は、最上川の最上流に位置する。町のすぐ近くに、大きな淀や淵があり、昔はそこに渡しがかかっていて、結婚式なども河舟に乗って花嫁が嫁入りしたという話があるくらい、風情のある土地柄であった。
仲根が二階の部屋に落着いて、風呂に入るために手拭いをさげて階下に降りようとした時、下からのぼってくる女性を認めて、
(おや……)
と、思った。
女性は若い。宿の浴衣の上に、羽織をはおっていた。階段の途中ですれ違いざま、眼があい、むこうも驚いたように、
「あら……」
と、声が洩れた。
「あなたもここだったんですか?」
「ええ」
言葉を交わしたのはただそれだけだったが、どちらからともなく会釈して、すれ違った。
仲根は一階の風呂に入っても、怪訝な思いを隠せなかった。さっきの女性は、今日、山奥の黒狼谷で出会った女性なのである。
(ま、何かの偶然だろう)
仲根は風呂からあがると、早めに夕食をとることにした。
仲根は、酒が好きである。とくに地酒に目がない。山形は酒どころである。「東光」や「初孫」は東京ではめったに飲めないうまい地酒だし、高畠町の「米鶴」や天童の「出羽錦」などの吟醸酒は、絶品といっていい。
旅館には、その幾つかが置いてあった。地酒を飲みながら、テレビをみている時、廊下に足音が響き、障子が叩かれた。
「はい。――どうぞ」
宿の人かと思っていると、
「ごめんなさい」
やがて遠慮がちな声がして、障子が開き、若い女性の顔が浮いた。
「やあ。お隣りですか……」
「ええ、そうなの。お邪魔してよろしいかしら」
「どうぞ」
女は部屋にはいってきた。
女性は、二十四、五歳の独身OLふうの感じだった。梨田花緒《なしだはなお》と名のった。仲根と同じように、今日、東京から新幹線でこの土地に来たのだという。
「へええ。ハイキングにしては、妙なところにゆくもんですね」
「あなただって、東京からみたい。どうしてあんなところに行ってらっしゃったの?」
梨田花緒もどうやら、黒狼谷で出会った仲根の存在が不思議でたまらないようだった。
「ぼくはちょっとした調べものです。ある雑誌に頼まれましてね。日本の民族移動の傷跡、というタイトルで、ひところ激増した挙家離村の痕跡と、その後というものを調べ歩いているんです」
仲根は個別の事件のことを隠し、あたりさわりのない返事をした。
「そう。ジャーナリストなの。道理で……ふつうの人が、あんな過疎地を訪ねてくるはずはないと思ったわ」
梨田花緒は、廃村に乱れ咲くコスモスの前でみた最初の印象では、淋しそうに見えたが、こうして傍で話していると、案外、活発なシティ派ガールのようである。
仲根が酒をすすめると、拒みはしなかった。ビールからはじまって、地酒まで、相手をしてくれる。もっとも、彼女も食事時だったらしく、一人では淋しかったので、合流したという趣きもあった。
「で、あなたはどういう用事できたんですか?」
「私……? 感傷旅行よ」
「へえ、いい身分だ。連休でもない日に、のんびり、廃村に感傷旅行ができるなんて」
「そうかしら。あたしはつらいのよ」
「どうして?」
「だって、子供の時の記憶って、強烈でしょ。ほんの数年しか住まなかった土地でも、それが十歳前後の物心つく頃だったら、強烈に記憶に残っているものよ」
なるほど予感は狂わなかったな、と仲根は思った。もしかしたらこの女性は、黒狼谷出身者ではないか、という予感が最初からずっと胸の中で跳ねていたのである。
「するとあなたは、黒井猪三郎さんら十三家族の縁者か、お身内ですか?」
「ええ、そんなところよ」
梨田花緒は地酒を飲みながら、素直にそう返事をした。
「だから、感傷旅行。それに十四年前、あそこで恐ろしい強盗殺人放火事件が起きたの。私、その事件を調べているの」
「ほう。これはこれは……穏やかではない」
梨田花緒が、十四年前の事件を調べているのだとすれば、黒井猪三郎の遺された家族ではないか、と仲根は思った。しかしそれにしては、姓が違う。それにあの事件の夜、黒井家の家族は不幸にも、全滅したという話だったではないか。
仲根はそういう疑問を感じ、卒直に聞いてみた。
「あなたは不幸な死を遂げた黒井猪三郎さんの、娘さんですか?」
花緒は素直に頷いた。
あっけないくらいの、素直な頷き方だった。
「そうです。末娘でした」
「しかし、姓が違う。それに、黒井家は全滅したんじゃありませんか?」
「いいえ。私一人だけ、不幸を免れることができたんです。なぜなら、あの夜、私は従兄妹《いとこ》がいる叔父の梨田善助さんの家に遊びにいっていて、泊まっていたので、猟銃の被害にも、放火された煙に巻かれることもなく、助かったのです。姓が変わったのは、その後、その叔父の梨田家に養女として引き取られたからです」
明晰な返事であった。
花緒の話が事実だとすれば、運の強い星の下に生まれた少女かもしれない。たまたま、旅行などで家をあけていたために、地震や火事や人災の被害から家族の中でただ一人、免れる、というケースは世の中によくあることである。
二人の席に短い沈黙が降りた。
花緒はさらに説明を続けた。
花緒が引き取られた梨田家は、黒狼谷に最後まで残っていた一家だが、三年後、東京に戻ったのだという。養父は離農してスーパーの夜警になり、花緒は東京都世田谷区の中学に編入され、それ以後はずっと東京で育ち、短大卒業後は会社に就職してOL暮らしをはじめたので、山形とはそれ以来、縁がなかったのだという。
「それで今度、急に十四年前の事件を調べよう、という気になった理由は、何なんだろう?」
仲根にはそこがよくわからない。露骨に切り込むような質問になったかもしれない。
「理由なんか、必要でしょうか。自分の生い立ちに関する両親の死亡事件です。ある日、ふっと十四年前の、その少女時代の事件を思いだす。そういえば、あの事件は解決していない。父や母は無念のまま闇をさまよっている。犯人は、まだ野放し。事実はいったい、どうなっているんだろう。調べ直してみよう――と、都会暮らしの独身OLが、ミステリーの文庫本などを読むうち、ふっと自分のことを思う。思ったら矢も楯もたまらず、新幹線に飛びのって現地を訪れてみる……こういうことって、人間にはよくあることではないでしょうか」
梨田花緒は、黒狼谷の惨劇のことを調べるようになった心境を語ったあと、突然、顔をあげてこういうことを訊いた。
「事件関係者の一人で、村山虎三という男を知っていらっしゃいますか?」
「知っています。噂で」
仲根は村山家と親しいことは隠した。
「あの男には、裏があるのよ。私、村山虎三が犯人であるに違いないと、睨んでいるんだけど」
その語調の勢いに、仲根は気圧されるようなものを覚えながら、
「どうしてですか?」
花緒は自分の見解を説明した。その見方は、想像された通りである。事件の夜、六千万円もの土地代金を、営農生活補給金として運んだのは、村山虎三である。その夜、強盗が押し入ったのであり、虎三は難を免れている。
極端にいえば、村山虎三が“真犯人”かもしれないし、百歩ゆずっても虎三が手引きしたに違いない、と花緒は主張するのである。
「それには、何か根拠でもあるのですか?」
「あります。私、村山虎三という人の昔のことを調べてみたんです。そうしたら、あの男は事件のあった年、すでに不動産屋をはじめていましたが、ある土地取引に失敗し、三億円もの被害をだして、会社経営が危うくなっていたのです」
――その苦境を切りぬけるために、彼は狂言強盗を仕組んで、六千万円という大金を奪ったのではないか、と花緒は主張するのである。
その主張の当否はともかく、仲根にもその話は、ひどく気になった。村山虎三が事件当時、三億円も借金をしていたことなど、初めて聞くことである。
そういうことがあったのなら、虎三が仕組んだのではないかという疑惑も、成立しないではない。第一、現金を裸で持ち運んだ、という点も、疑わしいといえば、疑わしい。ずい分、無警戒というか太っ腹。逆にいえば、狂言強盗を仕組んだのではないかと疑える重大な点である。
それに、村山虎三は今度の事件が起きた時以来、一貫して「秘密厳守」に気を使っていた。暴漢に刺された時さえ、警察に告げるな、とまわりに厳命したというではないか。
仲根がそんなことを思いだしていた時、
「あらあら私たち、陰気な話ばかりしているわね」
花緒が銚子をとりあげた。「さ、もっと飲みましょうよ」
花緒は酒が強かった。
いかにも現代のOLである。しかし宿の一室にこもったきりで仲根と対等に飲んでいたのだから、時間とともにさすがに効いてくる。
九時半をすぎた頃、
「ごめんなさい。あたし少し、酔ったのかしら。頭がくらくらしてきたわ」
花緒の眼がとろんとしていた。
横坐りである。頬杖をついている。どうかすると、上半身が揺れ、襟の合わせ目から、白い胸の谷間が見えたりしていた。
仲根も酔っていた。脳の一部にどこか、霧に包まれたような部分がある。
梨田花緒という女が突然、この部屋に入ってきたことや、事件のことを話し、村山虎三を真犯人だと焚《た》きつけていることなどを含めて、どこか一ヵ所、釈然としないわだかまりが残っているのである。
しかし、その結氷点を押し包んだまま、濁流のような酔いが仲根を押し流そうとしていた。その濁流は当然、一組の男女が旅館の一室にいるということであり、それがもたらす結果を、女のほうが少しも避けようとはしていないという事実である。
だから、仲根が肩に手をかけたのは、自然の流れだったかもしれない。いきなり、というわけではなく、仲根はおずおずというふうに、左肩に手をまわし、花緒を抱き寄せたのである。
「あら……どうしたのかしら。目まいがするわ」
花緒は一瞬、身体を強ばらせたが、やがてすぐに身体の重みをあずけ、誘うように眼を閉じて、唇をあえがせていた。
仲根は、そこに唇をあわせた。かたわら、仲根は浴衣の合わせ目から手をさし入れ、彼女の乳房をたわませた。
湯あがりの浴衣姿だったので、ブラジャーはしていなかった。そこはまるくて、若々しい張りがあった。
その手ざわりのよさに、仲根は一瞬、なぜこの女が身をもたせかけてきたかを考えるのを、忘れてしまっていた。
いや、忘れたのではない。自分が黒狼谷を訪れた日、少し先回りして、あの廃村のコスモスの前に立っていた女の行動自体、偶然というには、あまりにも出来すぎている。つまり、花緒の計画的な企みと考えたほうが、自然な気がするのである。
しかし仮に、そうであってもかまわないではないかという衝動のほうが、仲根を熱い時間のほうに押し流してゆく。
仲根は愛撫の手をすすめた。花緒の声があえやかな喘ぎ声に変わっていた。
熱い時間が始まっていた。
仲根の腕の中に、すっかり体重をあずけた花緒の顔は、しだいに上気してゆく。
眼を閉じている。仲根は胸許をさらに広げ、固くなった乳首に顔を伏せた。重い酔いにまかせて蕾を吸うと、花緒はああ……と、あえやかな声を洩らして、のけぞってゆく。
仲根の手は、横坐りになった女の太腿の間にも、割ってはいった。花緒は太腿に侵入した手を一度、拒絶するように強く挟みつけたが、やがて耐えられないような声を洩らして、ゆるませてゆく。
指は傍若無人に、奥に届いていた。女の熱帯はうるみを増して、熱い蜜の花のようにあふれる感じになっていた。
「だめよ。だめ……」
花緒の手はそれでも仲根の胸を押し戻そうとしている。
「私、こんなつもりではなかったのに……私たちったら、どうかしているわ……」
花緒はそう言いながらも顔を仲根の胸に押しつけて、全身で悶えはじめていた。
そのたびに、裾が割れてひろがった。
部屋の片隅には、すでに夜具が敷かれていた。
仲根の勢いは、もうとめようがなかった。浴衣を着たままの花緒を抱いて、夜具のほうに運んだ。
意外に花緒は、重みがあった。瘠《や》せ型にみえるのに、太腿や臀部の肉はしっかり弾んでいる。掛ぶとんの上にのせた時、みごとな重みだと思った。その肉を包む布きれを肩から抜かせてゆくと、白くて恥じらいに震える肌があらわれ、花緒はしなやかに両手をのばして、抱きついてきた。
腰骨のあたりにひっかかって、最後まで下半身を僅かにおおっていた浴衣の裾がはらりと落ちると、下腹部の白い肌や、広い面積に繁茂した茂みが現われ、悩ましい動きをみせている。
そうなると、仲根はもう何も考えない。この女が何者であれ、切り結ぶところにゆくしかないと思った。それもかなり白熱した思いを抱いて、仲根はその裸身に寄り添い、指をしかるべき所で働かせたり、くちづけを交わしながら、男と女の出会いの不思議さと、黒狼谷の風に揺れていたコスモスを思い出していた。
いつ、二人の身体が重なっていたかは、憶えていない。花緒はなめらかに仲根を迎え入れたところをみると、処女ではなかったし、男性経験もかなり積んでいるようであった。
その夜は、だから、仲根のほうが案外、その女の蜜の企みに翻弄されたのかもしれない。
――重なったまま、東北の秋の夜が更けていた。
第八章 乱蝶
朝、目を覚ます。
傍に、夫がいない。
広いベッドの空白がこんなにも残酷なものだとは、夏希は思いもしなかった。これまでは雅彦が遅い時も、外泊した時でさえも、軽い嫉妬や腹立ちの気分に見舞われこそすれ、こういう孤独感に襲われたことはなかった。
窓ガラスに、雨のしずくが垂れていた。銀色の雨なのに、黒い雨のように思えた。秋の雨だった。冷めたそうで、どことなく悲劇の幕あきに似た哀しさを漂わせている。
夏希は起きぬけにのぞいた窓外の雨に気が滅入ったので、レースのカーテンを引き、三面鏡の前に坐って、勢いよく髪にブラシをあてはじめた。
その部屋は雅彦との寝室ではない。夏希が結婚する前、使っていた二階の一人部屋であった。
夫の雅彦が、珠江と関係があることを知った日以来、夏希は夫を拒否しているのだ。ただの浮気や、不倫の匂いがある、という疑惑段階なら、妻は夫を拒むことはできない。それよりも、夫との夜も燃焼することによって、夫の愛を取り戻そうとする。
それが、ふつうの人妻である。夫の不倫を、できれば信じたくないし、多少のことなら大目に見ても、夫婦関係をこわさず、家庭生活を守ってゆきたいのである。
しかし夏希の場合は、その段階をもう通りすぎているようである。雅彦と珠江が、河畔のモーテルに入ってゆく姿を目撃して以来、夏希は雅彦をどうしても、許せないのであった。
そうだ、と夏希は思った。
(……近いうちに、珠江叔母さんと会って真意を尋ね、ハッキリと手をひいてもらおう)
夏希がそこまで考えた時、階下で電話のベルが鳴りはじめていた。
日曜日の家の中は、しんとしている。夏希は三面鏡の前から立ちあがり、ネグリジェの上からガウンをかけただけで急いで部屋を出て、階下への廊下を走った。
電話は居間に置いている。
夏希が受話器をとると、
「村山薔薇園ですか?」
若い女性の声が響いた。
「はい。そうですが」
「おたく、花束を作っていただけますか?」
「はあ。ご注文いただければ、いかようにもお作りいたしますが」
村山薔薇園は本来、薔薇の切り花を営利栽培する園芸農園であり、花の小売店、いわゆる「花屋さん」ではない。しかし親戚や知りあいや友人に頼まれ、誕生日のお祝いや結婚式やリサイタル用の花束を作って、届けたりもする。
また最近では、宅配便制度が発達しているので、愛知県西尾市の浅岡敬介さんの提唱を見習って、「父の日にバラを贈ろう」など、各種の用途に応じて、夏希のところでも頼まれれば、全国に花束宅急便として発送もしている。
「で、どのような花束を用意しましょうか」
夏希が尋ねると、
「お友達の結婚祝いのパーティーを開くんです。会場に飾る盛り花と、新婚カップルにプレゼントするブーケふうの花束。とくに盛り花のほうは、会場の中央に置くので、わりと豪華なものを作ってほしいのですが」
「かしこまりました。色どりも出来るだけ華やかなものを選んでおきましょう。――で、ご予算やお届け先を教えて下さい」
夏希はそれから、注文主の住所、氏名、届け先などを聞いた。電話によると、そのパーティーは今日の夕方六時からだが、会場の準備の都合があるので、午後二時までに市内栄町の「宝栄ビル」の二階貸ホールに届けてほしい、という注文であった。
「承知いたしました。午後二時までに、宝栄ビルにお届けいたします」
受話器を置いて台所に戻ろうとした時、一階の六畳間に寝ている夫の姿がみえた。日曜日はだいたい、朝が遅い。それでも八時半には起こしてくれ、と頼まれていたので、夏希は何気なく枕許に立った。
夏希は雅彦の寝顔を覗いてから、枕の横に伏せられている本を見た。ゴルフの本だった。ゆうべ床に入ってから読んでいた本に違いなく、眠くなると、片付ける余裕すらなく眠りに落ち込んでしまったのであろう。
伏せられたページから、しおりのようなものが覗いている。何気なく本をとってみて、不審な思いがした。しおりと思っていたのは紙マッチを広げたものであり、それは市内の高級クラブのマッチであった。
雅彦も夏希の拒否を受けて満たされず、こういうところに入りびたって、憂《う》さを晴らしているのであろうか。
夏希は枕許に坐った。掛布に姿が浮きでている大きな図体を眺め回すと、ふてぶてしく、眠っているようにみえた。長身で、筋骨たくましい雅彦を、たのもしく頼りにできる男性と信じて結婚したはずの自分が、今や同じ夫のことを、「大きな図体」とか、「ふてぶてしく眠っている」という眼で眺めていることに気づいて、ハッとした。
淋しくもあったし、悲しくもあった。でも何より憎たらしい。夏希は不意に右手に握り拳《こぶし》を作り、その拳を額の上の宙に置く。
思いっきりゴツンとやったら、どんなに気が晴れよう。いやそれより、ナイフでも振り下したら、どんなにせいせいするだろう。
「あなた!」
声だけは、鋭く言った。
「起きなさい。九時よ」
「えー?」
眼を覚ました雅彦が、「九時だって?」
びっくりして、勢いよく起きあがろうとしたはずみに、額のまん中に夏希の握りしめた拳骨が、ごつんとあたった。
(気味がいいわ)
そう思った瞬間、雅彦の手がのびて夏希は掴まれ、ふとんの中に引きずりこまれそうになった。
「あっ」
と、夏希は小さく叫んだ。
「何をするの!」
どうやら雅彦は、夏希が枕許に坐ってじっと自分の寝顔を見おろしていたことを、タヌキ寝入りで知っていたらしい。すぐ隣で電話のベルが鳴ったのだから、それは当然だった。
「やめて、無茶は」
夏希は、雅彦の手を振りほどこうとして、抗った。
「いやです。乱暴はしないで」
「どうしてだい。今日は二人っきりじゃないか」
「そんなことじゃありません。放して!」
「どうしてなんだ。どうしてきみはこのところ、ぼくと一緒に寝ようとしないんだ。わけを聞こうか、わけを」
「わけはあなたの胸にきいて下さい」
「どういうことだかぼくには分からん」
「浮気をしてるじゃありませんか。不潔です。許せません。放して下さい」
「亭主の浮気ぐらいでいちいち、カリカリするなよ。多少の女遊びぐらい、男の甲斐性というじゃないか」
そう言いながら、雅彦の手が胸許にのびていた。勢いよくその手を逃れようとしたので、胸許のボタンがちぎれて、飛んだ。
「やめてったら」
「どうしてなんだ」
雅彦の眼が暗く燃えて、夏希の白い胸の谷間に注がれ、焼けつくように這った。
「無茶をすると、訴えます!」
「何だと?」
「夫婦の間にもレイプ罪が成立する裁判があったこと、知ってるでしょ?」
「なにィ……ぼくがきみを抱くと、レイプしたことになるというのか」
「そうです。私は絶対にいやです」
「夏希……どうしてそんなに頑《かたくな》なんだ。たかが浮気ぐらいで、怒るなんて……」
「勝手なことを言わないで。ただの浮気じゃないじゃないの!」
「何が、どう違うと言うんだ!」
「それを私に言わせるの。私の叔母の珠江さんとできてるなんて、ひどいわ。ひどすぎます。叔母は父とも抗争状態にあることを、知っているんですか!」
――夏希は、言ってしまった。
珠江の名前をだした時、さすがに驚いたらしく、雅彦の手が止まり、ぎょっとしたようであった。
その隙に、夏希は強い勢いで身をはなし、廊下に走り出て台所に逃れた。
台所に逃れても、夏希の動悸はおさまらなかった。いや、むしろ、激しくなったといえる。珠江の名前をだし、あのように強く拒絶した以上、雅彦との間は今までどおり、平穏無事では収まらないような気がした。
朝食後、電話で注文を受けていた結婚パーティ用の、盛り花と花束に供するバラを採花するために薔薇園に入っても、夏希の気持ちはおさまらなかった。ブライダル・ピンク、ゾリナ、ハッピネスなど、色どり豊かなバラの花を選び、茎に鋏《はさみ》をあてていると、その色彩と匂いがふくよかで優しい分、夏希の悲しみはいっそう深くなった。
今朝は雅彦の気持ちを、あのように拒絶したが、あれでよかったのだろうか。雅彦はあのあと、朝食もとらずにゴルフバッグを車にのせ、ぷいっと家を出て行ってしまったが、本当に怒り狂っているのではあるまいか。
それとも、珠江との関係がばれたことをよいことに、いっそ珠江を呼びだし、二人で伊豆か箱根のゴルフ場にでも、出かけたのだろうか。
雅彦のことを考えていると、夏希は胸がつぶれそうだった。心が修羅の世界に叩きこまれて、腸がよじれるようであった。
(でも、夫の不実くらいで、くよくよ悲嘆にくれてもいられないわ。私はこれだけの、薔薇園を守ってゆかねばならないんだから。今に雅彦も反省してくれて、私の腕の中に戻ってきてくれるかもしれない……)
夏希は剪《き》りとったばかりのジョルファルレイの白紅色の花弁に鼻を近づけ、深々と息を吸った。そうすると、その匂いの中で少し、気分が落着いてくるような気がした。
美しい花には棘《とげ》がある、というが、人間のほうがもっと醜い棘や毒をもっている。夏希はバラの花に埋もれ、丹精こめた花々を一本ずつ採花していると、いつもそうだが、少しずつ気持ちが落着き、夫に裏切られた心の傷を忘れることができるような気がした。
それにしても、夫との確執や、夫と珠江との醜い関係だけではない。父・虎三の事件のほうは、どうなっているのだろうか。
いずれも押し寄せる都市化の荒波の中で、生起した生臭い相克だと思うと、その中で花作りをしている自分も、薔薇園も、薔薇の花そのものも、嵐の前にそよぐ葦《あし》のように、例えようもなく悲痛な宿命をもっているような気がした。
――日本のバラ切花栽培は、東京周辺からはじまっている。戦前、有名だったのは東京・玉川の温室村や、神奈川県川崎市の温室バラ産地である。とくに昭和二十年代までの、日本のバラ栽培の歴史は、東京や横浜という大都市にはさまれた多摩川流域の川崎周辺のバラ栽培の歴史そのものであった。
熱心な多くの先覚者によって、その栽培は隆盛をきわめ、第二次大戦前に栽培面積は、一万平方メートル(約三千坪)にも達したという。切花本数一日当たり千本を生産していたというから、戦前でさえも大消費地・東京ではバラはどんどん売れていたのである。
しかし、その直後に襲ったのが、戦争による壊滅的な打撃であった。バラ栽培まかりならん、という暗黒時代を迎え、一時は全滅した。
しかし戦後、いち早く立ち直ったのもそのあたりからであり、再び川崎の温室バラの名は、東京、横浜市場でもてはやされた。
ところが、昭和三十年代に入ると、地価の値上がりや宅地化や工場進出が進み、バラ温室は追いつめられて、昭和三十七年頃には約五千平方メートルまで減り、その後も急速に減って、現在、川崎も玉川も、すでに隆盛の面影はなく、主産地は他の多くの地域に移っている。
これでみると、バラ切花は鮮度を急ぐため、基本的には大消費地の近くに発達したといえよう。いわば、大都市の近場で生産され、美と安らぎを供給しているわけだ。しかし大都市の魔性は膨張する。地価の値上がりや宅地化に追いたてられ、常に危うげにマンモス都市の周辺に花ひらく宿命を、バラ栽培はその初発からもっていたといえるのではないか。
現在、国内での温室バラ栽培は、神奈川県に最も多く、これについで静岡、滋賀、千葉、兵庫、愛知、山梨など、各地に素晴しい産地がふえている。夏希の近くでも、神奈川県の平塚、秦野、伊勢原などにはバラ栽培農家が多いが、夏希の住む東京都内では、もはやごく僅かしかいないという寂しさである。
それだけに、かえって夏希は、東京のバラ作りの灯を消さぬよう、がんばらねば、と思うのだ。しかし裏返すと、それだけ諸々の情況が、花作りをやるには難しい事態に追い込まれているといえるし、バラ作りに賭けようという自分の人生も、夏希の薔薇園もまた、川崎や玉川と同じような、崖っぷちに立たされているような気がするのであった。
(あらあら、難しいバラの歴史なんか思いだして深刻に考えてる暇はないんだわ)
夏希は採花した注文品を胸いっぱいに抱えて温室を出た。
午後、夏希は注文を受けていた薔薇の花束と、パーティ用の盛り花に供する分を包装紙に包んで準備すると、ワゴン車に乗って家を出た。それを市内の宝栄ビルに届けたあと、父、虎三の事務所に寄り、東京まで足をのばす予定であった。
探しあてた栄町の宝栄ビルは、繁華街のどまん中にあり、あたりでも異彩を放つ、豪華な新装ビルであった。
一、二階にはブティックや画廊や喫茶店が入っていて、三階以上が貸オフィスになっているようであった。指定された二階の貸ホールというのは、美容院の隣りにあって、いかにも結婚祝いのパーティや同窓会や各種の催しものに使えそうな、小綺麗で落着いた、広いホールだった。
なかに入ると、会場ではパーティの準備が行われていたが、受付の近くにいた女性が、
「あら、村山薔薇園の?」
夏希を認めて近づき、
「わあ、予想以上に豪華なバラだわ!」
中山良子、というのが、電話で聞いたその注文主の名前であった。会の、恐らくは幹事役の女性かと思っていると、
「限られた予算にしては、豪勢なバラだわ。私、こういう者です。これからも時々、注文すると思いますから、よろしくね」
名刺をさしだされた。
「ミモザ館・パーティディレクター、中山良子」と、その名刺にはあった。要するに、その貸ホールの女支配人のようであった。
それはいいのだが、「ミモザ館……」と何気なく呟いた時、どこかで聞いたことがある名前だわ……と、夏希は思った。そうしてそれが四ヵ月前、嫌がらせの電話が入っていた頃、電話の女が「ミモザ館の銀子」と、名乗っていたことを思いだし、あッと、夏希は声をあげそうになって、眼の前の女をみつめ直した。
「おたく、銀子さんじゃありません?」
「いいえ。私は中山良子ですが」
女が花束を受けとりながら、怪訝そうな顔をした。
「ミモザ館というのは、このホールの名前ですか?」
「ええ、そうよ。そうして、それだけではないわ。ほら、お隣の美容院をみて――」
指さされてみると、ホールの隣の美容院の名前も「ミモザ館」であった。貸ホールの支配人中山良子の話によると、「ミモザ館」という美容院チェーンの女社長が、この新装ビルの貸ホールの権利をも借り、テナントとなって経営しているそうである。
なるほど、ブライダル産業。美容院と貸衣装と結婚式場とパーティ会場をドッキングさせれば、結婚式から披露宴まで行える立派なブライダル施設となるわけであった。
そこまで考えた時、夏希は何となく叔母の珠江のことを思いだした。橋本珠江は相模原市で大々的に、ゴルフ練習場や美容院のチェーン店を経営しているという話であった。
もしかしたらそのチェーン店は、「ミモザ館」といい、武蔵丘市にまで営業範囲を拡大してきたのではあるまいか。
「女社長という方、どなたか教えてくださる?」
夏希が聞くと、中山良子は少し怪訝な顔をしたが、すぐに教えてくれた。
「お隣の相模原市で、たくさんの美容院やゴルフ練習場などを経営なさっている橋本珠江という女実業家よ。こちらもすてきなホールとお店でしょ」
――やっぱり……! と夏希は思った。
孔雀の女、珠江がこの町にも進出してきたんだわ……!
しかし、それがそうであっても、いったいどういうことを意味するのか。これから自分たちの生活にどう拘わってくるのか。夏希には今のところ、見当もつかなかった。
「あらあら、お花のお代、まだだったわね。うちはこのとおり、色々なパーティをやる場所なの。これからも時々、お花を注文させていただくと思いますから、よろしくね」
宝栄ビルを出た夏希は、車を運転して父が待っている駅前ビルの武蔵丘興産にむかった。
駅前ビルは日曜日なので、三階以上のオフィス部分はどこも無人で、ひっそりしていた。
事務所には、虎三が一人で机に坐って、仕事をしていた。
「日曜日なのに、ご精がでるわね」
夏希が入ると、
「ああ。入院中の遅れを少しは取り戻さないとな」
そう言って、虎三は抽出しから一通の書類封筒を取りだし、夏希に差しだした。
「東京に行ってもらう用事というのは、これさ。帝都無線タクシーの菊地善則君に届けておいてほしいんだ」
「いつか頼まれていた菱沼の土地売却の書類ね」
「うむ。結局はわしの会社で買いあげておくことにした。寝かせておくと、いずれ値上がりするだろう」
言ってから虎三は、深く椅子の背にもたれ、夏希の顔をしげしげと眺めた。
「家のほうに変わりはないか」
「別にないけど」
「脅迫者からその後、電話なんかかかってきてはいないか」
「私のほうにはないけど、お父さんのほうには?」
「別に、ない。しかしどうしたのかな、あいつら」
虎三はやはり、気になるようだった。しかし虎三はそれよりも夏希の顔に面やつれを見たらしく、「どうしたんだ? 雅彦とは、うまくいってないのか?」
「お天気と同じよ。晴れたり曇ったり。今は少し冷戦状態をつづけているけど」
「だいぶ、やつれているぞ。何か深い仔細でもあるんじゃないのか」
「何もないわよ。そのうち、どちらかが折りあって、うまくゆくようになるでしょうけど」
「それならいいが、わしと康子のことが原因かと思って、心配してたんだ。いっそのこと、あの古い家はおまえたち夫婦に委せて、わしは新居を建てるかマンションに引っ越そうかと思ったりしてな」
「そんなことまで、お父さんが心配することないわよ。私達のことは私達で解決するから、お父さんは余計なことを心配しないで」
夏希はそう言って、安心させようとしたが、雅彦の浮気がただの浮気ではなく、叔母の珠江と深い関係にあり、そうしてその珠江と父とは、莫大な財産をめぐって、肉親の相克をつづけていると思うと、今にたいへんな悲劇が起こりそうな、宿命的な対立を感じた。
東京には、四時に着いた。
帝都無線タクシーの本社は新橋にあるが、菊地善則が勤務する営業所は、杉並区永福町にあった。
虎三から連絡が入っていたらしく、菊地は営業所に待っていた。電話を入れると、日曜日の夜勤あけで、菊地は営業所の近くのスナックで会おうと言い、「プチモンド」という店を指示した。
ステーションワゴンでそちらにむかいながら、夏希は菊地に尋ねようと思っていたことを聞くのにちょうどいい機会だと、懸案のことを思い出した。
時間どおりに夏希は、永福町の「プチモンド」に着くことができた。
菊地は、先に来て店で待っていた。
「やあ、その節は――」
「おめでとう。郷里に残していた土地が処分できて、まとまったお金ができるみたいね。これで好きな人と、再出発できるじゃないの」
夏希は虎三から頼まれていた書類を渡した。いずれも契約書や登記申請書などで、菊地の署名・捺印が必要なものであった。
事務的な用件が済んだあと、夏希は懸案のことを尋ねてみた。
「菊地さんはいつぞや、うちにきた時、帰宅した主人をみて、びっくりした顔をしていたわね。どうしてかしら?」
「千駄ケ谷に本社をもつ大手建設会社のQ組は、うちの無線車のお顧客さんです。あの人もお客さんとして、乗せていたので、顔を知っていただけですよ」
「そのことは、主人からも聞いたわ。でも。それだけではないみたい。ねえ、どんなことがあったのか、聞かせてちょうだい」
菊地は話しにくそうにしていたが、やがて夏希に押し切られて、話しはじめた。
――去年のちょうど今ごろの季節、菊地は配車センターから無線で呼ばれて銀座のデパートの前に、客を迎えにいった。
その時、乗ってきたのが、大手建設会社Q組の企画設計課の若手エリートといわれていた滝野雅彦だった。
雅彦は当時、まだ村山ではなく旧姓滝野の時だった。彼には連れがいた。年上の女であった。そのふたりはデパートで買い物を終えたところらしく、仲よく乗り込んできて、相模原市まで、と行先を告げた。
車内でも、ふたりは仲睦じそうだった。女のほうが、買ったばかりの荷物の中からネクタイを数本、取りだし、男の胸にあてがって品定めをするなど、どうやら年上の女実業家が、若い愛人を可愛がっている、という眺めであった。
菊地が驚いたのは、その女が武蔵丘出身の橋本珠江という女であることを知っていたからだ。珠江はその頃は、隣の相模原市に住み、美容院やゴルフ練習場などを経営していたが、自分の同級生の夏希とも叔母・姪の関係であることぐらい、狭い地域内のことなので当然、菊地も知っていた。
しかしその時は、雅彦がまさかのちに夏希の夫になる男だとは知りもしなかったので、ただ何とはなし、女実業家と若いツバメ、といった組み合わせに奇妙に生臭いものを感じたくらいで、さほど深く考えはしなかった。
東京から相模原市にゆくまでの道順について、車内で雅彦と口論したりして、菊地は何となくいやなやつだ、という不愉快な記憶を抱いたくらいである。
ところが、雅彦とはその後も、無線タクシーの運転手と客として、何度か出会った。一番ショックを受けたのは、武蔵丘の菱沼で出会った時である。
菊地には武蔵丘に残した二反歩の土地があった。今年の春さき、近くを通りかかったので、何気なく菱沼のその土地を見回りに立ち寄ったところ、カーキ色の土木作業班の制服をきた男たちが数人、その土地に入り、杭を打って測量をしていた。他人の地所に入ってわがもの顔に測量するとは何事だとくってかかると、現われたのが現場責任者らしいQ組の制服をきた男で、それが雅彦だったのだ。
「なんだ、あなたですか。しかし他人の土地に入って測量するとは、何事ですか」
「驚かせてすみません。私たちは市当局に依頼され、市街化計画の青写真を作るためにこのあたり一帯の航空写真を撮ったり、実測図を作成したりしているんです。他意はありませんので、ご心配なさらないで下さい」
雅彦はそう言って、釈明したそうである。
「そういうわけで、きみの夫の雅彦さんとは、何度かゆきがかりがあったんだよ。それで今年の夏、おたくであの人に出会い、あの男がきみの亭主に収まった男だと知って、びっくりしたんだ。正直のところ、珠江さんとあの男とのことを思いだしたからね」
菊地善則はそう話し、「でも、気にしないでくれ。それはずっと前の話だからね。きみと結婚した以上、もう珠江さんとはとっくに切れていると思うよ」
夏希は無言で、コーヒー茶碗をスプーンでかき回した。
その話のとおりだとすると、珠江と雅彦の結びつきは、かなり以前からということになる。少なくとも、夏希が雅彦とお見合いをし、結婚する前から、すでに二人は結びついていたわけであり、叔母は自分の若い愛人を、夏希と見合させて、結婚させたのである。
裏返すと、自分に雅彦を紹介した珠江は、遠大なる魂胆があったのではないか。その魂胆というのは、いつか夏希が想像したように、村山家の資産に対する珠江の支配権の確立。あるいは、夏希と雅彦の仲をいずれは裂いて、離婚させる際、慰謝料という形で莫大なものを奪おうとでもしているのではあるまいか。
それを想像すると、夏希は背すじが寒くなって、ぶるっと身慄いをした。
「で、その測量の話は、どうなったの?」
話題を少し変えた。
「心配してたんだけど、そっちのほうは別にどうってことはなかったので、安心したんだ。ほら、他人の留守の土地を舞台に詐欺をもくろんだり、無断転売したりする犯罪が多いからね。しかし、おれンちの場合はその後、何のトラブルもないところをみると、やはりあれは、ただの市街化計画の測量の一環だったのかもしれない」
菊地は、そう言った。
そうだろうか、と夏希は思った。それならいいが、その測量というのも、今となっては夏希にはちらっと、気になるものを覚える。
というのも、今、Q組の連中が無断測量をしていたという菱沼の土地は、結局は父・虎三が所有することになったわけであり、その周辺に、夏希の薔薇園や平地林や実家が集まっているのである。
もし、大手建設会社Q組あたりが一口噛んだ大規模な開発構想などがあって、そのための予備測量だったとすれば、事は単純でない。現に坂本兼造が巧妙に欺し取られ、殺人事件にまで発展した例の土地ジャック事件は、まさにそれに隣接した地域で発生しているのである。
「菊地さん、ありがとう。色々教えてくれて」
夏希は永福町のスナックで菊地善則と別れたあと、駐車場に戻りながら、ふと仲根俊太郎に電話をしてみようか、と思った。
腕時計をみると、夕方五時半である。日曜日なので、部屋にいるかもしれない。仲根とは柿生《かきお》の廃屋で発生した坂本兼造の殺人事件以来、何となく連絡が疎遠になっていた。
東京にきたついでに、どこかで落ちあい、夕食でもしながら、その後の情況を聞いたり、自分のほうの幾つかの変化について、相談したいとも思った。
夏希が歩く街路樹の舗道の傍に、電話ボックスがあった。夏希はボックスに入って、仲根のマンションのダイヤルをまわした。
しかし仲根は不在らしく、信号音だけが鳴っているが、誰も取りあげない。十回まで数えて、夏希は諦めて受話器を置いた。
置いた受話器の陰に、ちらと紺野真弓の顔が浮かんで、揺れた。仲根は日曜日なので、今日も真弓の部屋に行って、男女の時間をすごしているのかもしれない。
そう思うと、胸に鋭く疼くものを感じた。夏希はあわてて首をふって、その透明なガラスの電話ボックスを出た。
(私、変ね)
そう思った。
(人妻の私が、独身の仲根さんの女出入りをいちいち気にするなんて、どうかしてる……)
仲根が留守であったことも、考えてみればかえってよかったのかもしれない。雅彦との不仲の最中、こういう不安定な気持ちのまま、仲根と会って夜の時間を過ごしたりしていたら、自分の気持ちがどのように転がってゆくか分からない惧《おそ》れも、あるのであった。
(夏希、危ない危ない。さあ、まっすぐ家に帰らなくっちゃあ!)
家に着いたのは、もう夜であった。
屋内に電気がついているのを見て、驚いた。雅彦は箱根にゴルフに行ったので、外泊してくると思っていたのである。
ところが、車庫から母屋に入ると、家に珠江がきていて、何かと雅彦の面倒を見ていたのであった。
(まあ、何と厚かましい女だろう……!)
いくら叔母でも、ひどすぎる。夏希は一瞬、呆気に取られたくらいであったが、
「あら、おかえんなさい」
珠江のほうは爽やかな笑顔をむけて、夏希を迎えたのであった。
「久しぶりに兄さんに用事があって来てみると、家はまっ暗。不用心なのでお留守番をしてあげようと思っていると、ちょうど雅彦さんがお帰りになったのよ。ご主人を放ったらかして、遊び回っていては駄目じゃないの」
珠江は高飛車に姪を叱りつけるように言うことで、自分がその場にいることの不自然さを、これも高飛車に、覆い隠そうとした。
たしかに、夏希と雅彦を見合させ、結婚の段取りをつけたのは、珠江だった。いわば珠江は、監督者の態度を演出しようと思えば、いくらでも演出できるのである。
この巧妙さに、夏希が反撃もできずに、度を失っていると、
「夏ちゃん、こんな時間まで、どこかで若い男と不倫でもしていたの?」
そんなことを、平気な顔をして聞く。
「違います。私を、叔母さんと一緒にしないで!」
つい険しい声で直すと、
「あらあら、私は亭主に仕える世帯持ちではないわよ。天下晴れてのシングルですからね。女盛りの私がどこで何をしようと、勝手でしょ」
「それは勝手です。でも、人に迷惑をかけないで下さい」
「へええ。夏ちゃんも一丁前のことを言うようになったのね」
笑って見返した珠江の顔には、美しく化粧された仮面の裡にも、ぎらっと一すじ、敵意むきだしでぎらつくものがあった。
「夏ちゃん、ちょっとあんた、そこにお坐んなさいよ」
どちらがこの家の主婦かわからないような堂々たる落着きぶりで、珠江はリビングの椅子に坐って、夏希を顎で動かすのであった。
「雅彦さんには今、お風呂に入ってもらっています。下着も新しいのを届けているから、手はいらないわ。――それより夏希、あんた雅彦さんに妙なこと言ったそうね」
「妙なことって、何ですか」
「私と雅彦さんが出来ている、となじったそうじゃないの。――私、大迷惑よ。いい加減なことは、言ってほしくないわね」
叔母の珠江と雅彦のことは、いずれ本人たちに確かめねばならないと考えていた事柄なので、夏希は切り口上の珠江の言い分を、まっ正面から受けとめることにした。
「雅彦からそういうことを聞いたんですか」
「ええ、そうよ。夏希のやつ、自分と珠江さんのことを疑って、寝室も別々にして、妻としての務めも満足に果たさない、とこぼしていたわ」
「本当だから仕方がないじゃありませんか」
「何が本当だと言うの」
「叔母さんと雅彦のことよ。不潔だわ。許せません。私、ちゃんと目撃したんですからね」
「へええッ、何を目撃したというの? 何か証拠でもあるというの?」
「ええ、あります。私、見ました。いつぞや、父の退院祝いの日の午後三時頃のことよ。叔母さんと雅彦は街から一緒にタクシーにのって、相模川の河畔のモーテルに乗りつけたじゃないの」
「あら、あのモーテルは私の女友達が経営しているのよ。税金や建て増しのことで相談がある、と電話がかかってきたから、設計家の雅彦さんと一緒に、訪れていたのよ」
「言い逃れはよして下さい。あれはとてもそんな雰囲気じゃありませんでした」
「あら、ずい分、いやらしい眼で見るのね。それじゃ夏ちゃんのほうが、まるでさかりのついた牝犬のようだわ」
盗っ人たけだけしいとは、こういうのを言うのだろうか。それとも、珠江は高飛車に喧嘩を吹っかけたり、つんと涼しい顔で取り澄ますことで、夏希をきりきり舞いさせ、そのあげくに心理的焦燥感を誘って、抜きさしならない桎梏《しつこく》の果てに追いつめようとでもしているのであろうか。
夏希は、胸に白い炎を燃えたたせながら、落着かねばならない、としきりに自分に言いきかせた。その時、奥の浴室のほうで、ガラス戸があき、雅彦が風呂からあがって更衣室のほうに入ってくる気配がした。
驚いたのは、次の一瞬である。夏希よりも先に、珠江がわきまえた主婦のように、すっと椅子から立ちあがり、
「あ、そうだわ。浴衣やパジャマではもう寒い季節になってるわね。丹前と帯、届けてこなくっちゃ」
傍にまるめて畳んでおいたらしい雅彦の丹前と兵児帯《へこおび》を取りあげて、澄ました顔で風呂場のほうに行こうとした。
まるで、どちらが妻なのか、わからないありさまであった。
夏希は、眼から火が噴き出す思いであった。
(雅彦は私の夫なのよ。その私を無視して、自分の態度を何だと思っているの。私の家を、まるでラブホテルと間違えているわ)
叔母の珠江に対して、猛烈な怒りが湧き、夏希は椅子が倒れるほどの勢いで立ちあがると、珠江から丹前を取りあげようとした。
「叔母さん、よこして。私がやります」
「へええ? 夏ちゃんが」
珠江はばかに余裕のある態度で笑っているのであった。
「珍しいこともあるのね。今まで夏ちゃんは夫の身の回りのことなど、一度だってかまってくれたことがないそうじゃないの。聞いてるわよ。――今夜だけ、そう無理することもないからさあ。そこにお嬢さんのように坐ってなさいよ」
夏希はたてつづけのパンチを浴びたような気がして、棒立ちになった。
夏希が唇を噛んで呆然としている間に、珠江は浴室に行って雅彦の着替えの手伝いをしているようであった。当然、雅彦は裸であろうし、その下着の着更えまで手伝うというのは、夫婦以上の関係をあからさまに想像させる。
夏希は嫉妬を通りこして、立っていると、くらくらとめまいがしそうであった。
数分後、浴室から戻ってきた珠江に対して、しかし夏希は平静な声で、
「叔母さん、帰って下さい」
あるいは、硬い表情をしていたかもしれない。事実上の、宣戦布告であった。
「ここは、私の家です。雅彦は私の夫です」
「あら、私は兄に用事があって待たせてもらっているのよ。どうしたの? 兄さんは、まだ帰ってこないみたいね」
父の虎三が、愛人の蓮見康子のマンションに泊まっている、ということは、夏希の立場からは言えはしない。
「父は会社の用事で、外出しているのよ。会議が長びいて、今夜は帰ってこないかもしれない。待っていただいても遅くなるだけよ」
「いいわ。私はいっこうにかまわないわよ。この家は私が生まれ、育った家ですもの。里帰りしたと思えば、五日でも一週間でも、ゆっくり泊まらせていただいても文句はないでしょう」
珠江は虎三の帰りを待つと言って、居坐り宣言をした。そうなると、リビングは珠江と雅彦のものになって、夏希はそこから弾きとばされたように、二階の自分の部屋にあがることになった。
というのも、叔母の挑発にのって、神経をカリカリさせていると、自分の負けになる、と判断したからである。「じゃ、ご勝手になさい」という態度でもあった。
しかし、二階にあがっても、それからが夏希の地獄であった。階下の二人の様子が気になって、なかなか寝つけはしないのである。
二人は仲よく、リビングでビールなどを飲んで騒いでいる様子であった。
(まあ……雅彦も雅彦だわ。いったい、どういう神経をしているのだろう)
しかし、神経を逆撫でされて、興奮すればするほど、むこうの思う壺にはまる、と気づき、夏希は心を鎧《よろ》って、耳をふさぎ、階下の二人を無視することにした。
ところが、それから小一時間ばかりして、急に階下が静かになると、今度はかえって気になって神経が冴えてくる。話し声や笑い声がやみ、時折、テレビの声だけがきこえてきて、あとはシーンとなると、いやでも男女の気配を敏感に悟って、夏希は眼が冴えるのであった。
(まさか……うちで……!?)
想像したことが、あまりにも露骨だったので、夏希は一人寝の毛布の中で、悲鳴をあげそうになり、思わずベッドからはね起きた。
そっと廊下に出て、階段を降りる。
下のあかりは、薄暗くなっていた。
リビングにテレビだけはついているが、無人だった。その奥の、通常、雅彦が寝室にしている部屋に、雅彦だけではなく、珠江が入っていて、二人は明らかに同衾《どうきん》しているようである。
秘めやかな珠江の喘ぎ声や呻き声。……それを聞くと、夏希はカーッとなった。
襖を、引きあけたい衝動に駆られた。やにわに台所に走って、出刃包丁でも掴んで、その部屋に押し込みたい衝動に駆られた。
(落着なさい。夏希。それが、むこうの思う壺よ。私がもし刺傷沙汰でも起こしたら、それこそ警察に突きだされ、精神に異常ありと、二人がこの家を乗っ取ってしまうわ)
夏希は必死で自制したが、いたたまれず、玄関から外に飛びだした。門灯のあかりの下に、二匹の秋の蝶がもつれあっていた。夜の蝶は交尾していた。夏希は二匹の乱蝶を、右手で叩き落とし、地面でばた狂うところを踏みつぶした。金粉と青汁が流れでた。夏希の気持ちは今、修羅であった。
第九章 21世紀開発構想
昼食から戻ってきた時、仲根のデスクの上で、電話が鳴っていた。
「はい。現代舎――」
仲根が取りあげると、
「仲根さん、いらっしゃいますか」
女性の声が響いた。
「ぼく、仲根ですが」
「あたし、梨田花緒です」
――あッ、と仲根は思った。
山形で出会った女である。
旅先の左沢《あてらざわ》では、なりゆきから一夜をともにしてしまったが、その後、東京に戻っても音信を果たさなかったので、気になってはいたのである。
「いつぞやは、どうも」
仲根はやや他人行儀な挨拶をした。
「こちらこそ、思いがけない場所で、思いがけない人に出会って、びっくりしましたわ。それに、あの夜はとっても楽しかった――」
「はあ」
会社で仕事中に、女性から電話がかかってくるだけでも、周りを気遣うのに、閨《ねや》の熱い空気をそのまま電話にもちこまれては、男としては、はなはだ困るのである。
「お変わりありませんか」
仲根がそれで、取ってつけたような態度に終始していると、
「あたし……あのあと、東京に戻ってちょっと風邪をひいたのよ。だって、あの晩ったら、おふとんをはねのけてしまったでしょ。汗も拭かなかったし……、風邪ひくの、当たり前だわよねえ」
「はあ」
(そんなことを電話で、ぬけぬけと喋られると、ますます困る!)
「お風邪は、まだひどいんですか?」
「昨日あたり、やっと治ったみたい。――それで、少し元気になったので、仲根さんにお会いしたいと思って」
梨田花緒はどうやら、デートに誘う電話をよこしてきたようだった。仲根はむげに断わるのは悪いと思ったが、心の一部では警戒するものもあり、気乗り薄だったので、
「今夜はちょっと――」
「冷めたいのね。あのままっていうのは、いやよ」
「すみません。今夜は本当に取材の約束があって、ふさがってるんです」
「じゃ、あすの晩は?」
「明晩ですか。ちょっとお待ち下さい」
仲根はスケジュール表をめくるふりをしながら、ちょっと思案した。しかし、どう思案したところで、逃げるわけにはゆかないようである。
「明晩なら、結構です」
「うれしいわ。あすの晩なら会えるのね。……で、お約束の場所はどこにする?」
花緒は電話口で、甘い声をだしていた。
「おたくの会社、どこでしたっけ?」
仲根はきいた。
「赤坂ですが」
「じゃ、ぼくのほうで、赤坂に参りましょうか。ぼくの会社も四谷で、すぐ近くですから」
――夕方六時、赤坂の一ツ木通りの中ほどにある喫茶店「ルフラン」で……。
約束は、そういう具合になった。
「じゃ、楽しみにしてるわ」
「よろしく」
仲根俊太郎が受話器を置いた時、すぐ傍に人の気配があった。
「仲根さん!」
紺野真弓が腕組みをして睨んでいた。
「新しい恋人を開発したの?」
「違うよ。そんなんじゃないんだよう!」
仲根が冷や汗たらたらで、むきになって否定すると、
「どうかしら。怪しいぞ」
真弓はますます面白そうに、でも半分は嫉妬まじりに、「どうも今の話しぶりでは、薔薇園の村山夏希さんじゃないみたいね」
「うん、違うよ。彼女とはこのところ、ずっと会ってもいないし、電話もしてないんだ」
「それはよくないわね。夏希さん、あのあと、一人で悩んでるんじゃないかしら」
「きみがそういうことで説教する立場ではないと思うがね」
「女性同士ですもの。たとえ恋仇であっても、あたしは夏希さんが好きよ。彼女の立場いろいろ大変みたいだから、心配もしてあげたくなるわ」
「じゃあ、電話をしろというのか」
「少なくとも、私や夏希さん以外の女に、うつつをぬかす暇があるんなら、電話をして、その後の情況を聞くなりして、味方になってあげることね」
そういえば、仲根は山形の黒狼谷のことについて、村山虎三にまだ正式に報告してはいないのであった。それやこれやで、近いうちに武蔵丘市に行ってみよう、とは、思っていた。
その時、真弓が顔を寄せ、秘密めかしい小声で言った。
「それにね、ある筋から凄い情報をキャッチしたの。武蔵丘の夏希さんの家や薔薇園のある丘陵地域一帯を中心に、21世紀ネオポリス建設計画という、超弩級の新しいニュータウン開発構想が進んでいる、という情報があるのよ」
えッ、と仲根は真弓のほうをむいた。
「おい。そいつは本当か」
「本当よ。詳しいことはあとで教えるわ」
武蔵丘市に21世紀型のネオポリス建設計画が進んでいる――紺野真弓は、思いがけない重大情報を、どこかで掴んできたらしかった。
その日の退社時間、
「今夜、どう?」
真弓が眼くばせしたのは、その話を詳しく伝えよう、という意味であるらしかった。
「いいね。近くで一杯|飲《や》ろうか」
仲根はそう返事をした。
さっき、梨田花緒に対しては、今夜は取材の約束がある、と言って断わったが、それは口実であった。仲根にその夜、別の用事があったわけではない。花緒の呼びだしには、何とはなしに、すぐに応じることをためらう気持ちが働いたのである。
夕方六時に、現代舎の編集部を出て、仲根と真弓はエレベーターに乗って外に出た。
四谷の街にはもう秋の暮れの気配が濃かった。ガス灯の形をした街路灯が明るさを増し、通りにはネオンがきらめきだしているが、ビル街を吹き抜ける風には、木枯らしの音が混っていて、舗道の足許にはプラタナスの落葉が舞い散ったりしている。
「どこにする?」
真弓は仲根の腕を組んで歩いた。
「今日はサイフが淋しいから、安い居酒屋あたりで、我慢してもらおうかな」
「いいわね。ホッケ一尾で熱燗キュッ!」
「そうそう、その線。――白玉の歯にしみとおる秋の夜の、酒は静かに飲むべかりけれ」
「俊さんったら、お酒のこととなったら、すぐ調子にのっちゃうんだから」
真弓は楽しそうに腕を組んだまま、仲根の脇腹を軽くつついた。
そういえば、仕事を離れて真弓とデートするのは、久しぶりである。そういう弾みが、真弓の声にも仕草にも、うれしそうに現われていた。
二人は表通りから少し小路に入ったところにある「磯忠」という居酒屋にはいった。
ヤングやサラリーマンでそろそろ混みあう時間だが、片隅にちょうど、二人だけでむきあって坐れる小さなテーブルが空いていた。
ふたりは、そこに坐った。
熱燗と、ホッケの塩焼きと寄せ鍋をとり、ふたりは周囲の喧噪をよそに、二人だけの密室空間を作って、飲みはじめた。
「で、ネオポリスの件、話をきこうか」
「あ、そうだったわね」
真弓は、仲根とのデートの雰囲気に甘くひたりたいという気分もあったようだが、女情報屋としての本分を忘れるような、やわではないのである。
「これをまず、読んで」
真弓がさりげなく、ハンドバッグから封筒を取りだし、一通の書類をさしだした。ワープロで打った長たらしい文書と、何かの設計図や青写真がはいっていた。
「計画書か?」
「ええ。〈財団法人武蔵丘ネオポリス建設促進期成協会〉というものの設立趣意書と、そのプランの概略よ。財団法人はまだ発足してはいないけど、政、財、官界の要路の人々を巻き込んで、銀行、建設会社、不動産会社の代表で構成する〈ニュー・シティ・システム協議会〉というものが、その下部機構にあり、その協議会で今、武蔵丘ネオポリスの具体的プランと準備が進められているみたい」
「ほう」
と、仲根はその書類を受け取った。
ぱらぱらとめくってみる。設立趣意書には、東京の一極集中にともなう人口膨張と住宅難、ビル用地不足の現状から、これを解決するためには、首都圏五十キロ以内の衛星都市に、新しい視野に立っての、二十一世紀をめざす大胆、大規模なニュータウンを建設する必要がある、と提唱している。
武蔵丘こそ、都心部から四十キロ圏内にあり、東京駅まで通勤一時間以内。地域内には丘陵部や平地林や農地など、まだ未開発の土地が多いので、多摩ニュータウン以上の規模で、ネオポリス建設のプランニングの網をかぶせ、マンハッタンのような超高層高級マンションを集中的、計画的に配置し、域内交通システム、CATV(地域有線テレビ)、地域コミュニケーションシステムを作り、多層インテリジェンスビル(高層情報機能ビル)、ショッピング街、公園や遊園地、文化施設などを総合的に計画すれば、二十一世紀の地平をひらく新しい都市機能とライフスタイルに見合う超高層美麗デベロッパー群の出現が期待できる――とする趣旨が、さまざまなデータを揃えて、縷々《るる》述べられていた。
そしてそのための総事業費、土地面積、参加業界や団体、事業の概要などが、詳しく説明されている。
それによると、大手電鉄資本北急デベロッパーが事業の実施主体であり、背後には大手相互銀行・三星銀行が銀行団の中心として控えており、他に建設業界はじめ、たくさんの関係機関や団体の後援がある。
しかし北急も、三星銀行も、今のところ表に出ているのではない。実際に武蔵丘で土地買い占めや、設計施工計画にあたっているのは、大手建設会社Q組と、「関東ドエリング企画」という民間のマンション会社であり、また、それに付随する東京の地上げ屋「暁興業」や、地元の不動産会社などであった。
ほうッ――と、仲根は腕を組んで、宙を睨んだ。
一市が丸ごと計画区域内に入るような、これほどの壮大な計画なら、本当はもう世間に報道されて、賛否両論、大きな物議をかもしているはずである。
それなのに、まだどこの新聞にも、テレビにも報道されていないところをみると、完全に極秘裡にその計画が立案され、進められ、煮つめられているふしがある。
だいたい、この手の壮大な二十一世紀型のプランは、東京湾横断架橋、東京湾海上都市計画、環状八号線巨大地下壕建設計画など、ほかにもたくさんあるし、それぞれ、その必要性と意義はわかるものの、つねづね一抹、ある種の「夢物語」的な非現実性がつきまとっていたものだが、しかし、東京湾横断架橋建設計画は、すでに閣議で決定され、巨額の予算もつき、動きだしているのである。
東京ディズニーランドも、多摩ニュータウンも、大阪の千里ニュータウンも、初めは漠然とした夢物語のような計画だったが、しかしすでに現実に、あっという間に実現されて、機能し年月が経っている。
そういう観点で考えると、武蔵丘の「21世紀ネオポリス計画」も、多少の夢物語的なところもあるが、それが、東京の住宅難を解消するための切実な現実性と、必然性をもっているだけに、ただのプランとして、笑って見すごすことはできないと思える。
「それにしても……」
仲根は計画書から顔をあげ、真弓をみた。
「これを、どこで手に入れてきたんだ?」
「某財界筋よ」
「それだけじゃわからん。もっと具体的に教えてくれないか」
「それはダメよ。先方にはこっそり教えてもらって、計画書のコピーをやっと今日、手に入れてきたばかりなんだから」
「どうしてもダメか」
「ええ、ダメ。ニュースソースの秘密を守るのは、報道人の第一の義務だ――そう教えてくれたのは、仲根先輩じゃなかったかしら」
「こいつ……おれにまで隠すのか」
仲根は真弓の額を指で弾こうとしたが、真弓は笑ってそれをかわし、
「とにかく、もうちょっと待ってほしいの。あと一週間ぐらいしたら、もう少し詳しいことがわかりそうなのよ。そうしたら、うちのスクープとして週刊誌のトップ記事にしてもいいわ」
真弓は真弓なりに、事情があるらしい。じゃ一週間待つから、それまでにもう少し詳しいことを調べといてほしい、と仲根は頼んだ。
居酒屋は混んできた。
それでも仲根と真弓の席は、二人席だからまわりに邪魔されることはない。酒を飲みながらも、仲根には「21世紀武蔵丘ネオポリス計画」のことが、頭から去らない。
「ちょっと……おい」
仲根がかなり驚きの声をあげたのは、二度目に計画書を読み返していた時である。
「大手建設会社、Q組もこの計画の実施主体者の中にはいっているじゃないか」
「ええ、当然よ。工事そのものは、いずれ入札でしょうけど、プランニングの段階では、これまでの実績と信用のあるQ組の企画設計課あたりに、全体のアーバンデザインと設計、つまりは青写真作りを依頼しているようね。あそこ、戦後の民間デベロッパー開発では、いつも中核となってきたところだから」
「うん、なるほど。それはそうだが、Q組の企画設計課というと……」
仲根の胸を、先刻から黒い鳥影のようなものがよぎっているのである。顔をあげ、宙を睨んだ。胸をよぎったものは、何なんだろう。
「どうしたの?」
「うん、そうだ!」
仲根はやっと思いだした。あまりにも身近なことだったので、つい見すごしてしまうところだったのである。「村山夏希の夫、雅彦氏もたしか、大手建設会社に勤めていたよな」
「そうだったわね。私は詳しいことは知らないけど」
「それも企画設計課という部署だったような気がする。たしか、Q組の企画設計課だったのではないか?」
――もしそうなら、夏希の夫自身、若手設計家としてこのプランに最初から、かなり深々と、かかわっていることになる。
それなのに、妻の夏希も、義父の虎三も、どうやらこの計画については、まだ何一つ、知らないようである。
(よし、あすにでも夏希に電話をして、夫の雅彦の勤務先を確かめてみよう)
いずれにしろ、こうして武蔵丘ネオポリス計画の構想が現われてきた時点でふり返ってみると、武蔵丘における地上げ屋の暗躍や、楡山貴司という悪徳税理士による土地ジャック、村山虎三をめぐる刺傷事件、夏希の脅迫事件、坂本兼造の殺人事件などを、もう一度、系統的に考え直さねばならないような気がした。
一連の事件のすべてが、その巨大開発構想の動きを背景に置いてこそ、発生したように、考えられるのである。
翌日の午後、仲根は夏希に電話をした。
夏希は家庭をもつ人妻だから、仲根のほうから電話を入れるのは、控えようというのが約束だったので、ためらう手がやっと受話器を把って、プッシュを押すと、
「もしもし……」
さいわい、夏希本人が電話に出た。
「ぼく、仲根です」
「あら……」
夏希が一瞬、呼吸を飲むような気配が感じられ、
「どうしたんでしょう。私のほうも今、そちらに電話をしようと思っていたところよ」
「へえッ。テレパシーかな。――ごぶさたしています。お元気ですか?」
「ええ。元気は元気ですけど、気分はブルー。色々、身近に問題がふえてきちゃって」
夏希の声は確かにどこやら沈んでいた。
「――ちょっと、つかぬことをお伺いしますが、ご主人の雅彦さんの勤務先は、Q組の企画設計課でしたね?」
「はい。そうですが」
(やはり、そうか)
仲根は、昨日から胸にわだかまっていた疑惑が、たちまち黒い墨《すみ》を流すように、暗雲を胸に拡げてきたような気がした。
「何か――?」
夏希が不審そうに聞いている。
「ご主人、近頃、変わったことはありませんか?」
仲根がそう追い打ちをかけると、夏希はすぐには言葉を返してこなかった。その重苦しい沈黙の中に、やはり何かあったんだな、と仲根が思っていると、
「おっしゃって下さい。主人に何かあったのですか?」
「いえ。ご主人の個人的なことじゃないんです。勤務先のQ組の事業について、ちょっと村山薔薇園の存立そのものと交錯する事態が発生していることを、外から小耳に入れたものですから」
「どういうことでしょうか?」
「電話では詳しい話はできません。近いうちにお会いしませんか」
「ええ。私も、その主人のことや身辺のことで、相談したいことがいっぱい持ちあがっているんです。早くお会いしたい!」
「近々、東京に来ることは?」
仲根が聞くと、
「今週の金曜日に、東京の花屋を数軒まわります。その時、日比谷花壇にも寄りますから、いつかのところで、お会いしませんか?」
「あ、いいですね」
午後三時、日比谷公園の中のパレス――と日時と場所を示しあわせて、仲根はその電話を切った。
考えてみれば、おかしなことであった。夏希と会うくらいなら、順序としては本当は、父の虎三と会わなければならない。「黒狼谷」の調査を頼まれて山形まで行ったのに、まだその報告さえもしていない。それというのも、黒狼谷の強盗殺人事件に関し、虎三自身への疑惑が払拭《ふつしよく》できないので、何らかの手掛かりを掴むまでは、何とはなしに虎三と会う気がしないのである。
父は父、娘は娘と割り切るしかないようだな――そう考え、仲根は受話器を置いてから立ちあがった。
そこは四谷の現代舎の会議室である。大部屋の編集部では人間が多いので、別室に入って室内電話を使っていたのであった。
仲根は歩きだしながら、腕時計をみた。もう夕方に近い。その日は締切りがない日だったので、いったん大部屋に戻って、壁の黒板の「仲根」欄に、「取材」と書き、外に出た。
六時に、赤坂で梨田花緒と待ち合わせをしている。だがその前に、仲根には考えなければならないことが、いっぱいあるような気がした。
地下鉄に乗る前、コーヒースタンドに入って、立ち飲みのコーヒーを頼んだ。仲根は煙草に火をつけ、昨日、真弓から報告をきいた「武蔵丘ネオポリス計画」と、これまでの夏希の身辺の事件との照合点などを、頭の中で整理してみた。
――坂本兼造の土地がだまし取られたことや、村山虎三の刺傷事件も何らかの形で、「ネオポリス計画」にともなう土地買収計画に関係しているとすれば、それは具体的には、どういう人間関係と構図から成り立っているのであろう。
現実に、ネオポリス計画書の中には、「暁興業」という名前も出ていたが、暁興業といえば、新宿の「藤城組」の下部団体である。暁興業には河野又造ら、坂本兼造の事件で暗躍した数人の男たちが所属していたし、仲根自身も粕谷のアメリカンハウスで殴られたり、追跡したりして、接触しているのである。
その彼らは、考えてみると、新婚旅行中の夏希を長崎のホテルで脅迫した一味と重なっているようである。そうすると、坂本兼造から節税対策という名目で、約三十億円もの土地をだましとって、どこやらの会社に転売した楡山貴司という土地ブローカーまがいの悪徳税理士も、もしかしたらこの「暁興業」か「藤城組」に関係する人間だったのではあるまいか。
いずれにしろ、これらを系統的に総合してみると、要するに、近い将来、武蔵丘で建設される巨大なネオポリス計画を実施するために必要な土地を、予め買収したり、入手したりするための準備や嫌がらせや、住民追いだしのための事前の陽動作戦なるものが、着々と進められているような気がしてならない。
ただ分からないのは、「黒狼谷」との関係である。村山虎三があの十四年前の強盗殺人事件の怨みから、襲われて刺された、とするなら、その解釈も一応は成り立つが、しかしそんなに単純なことだろうか。虎三をこの際、その怨恨を理由に亡きものにすることによって、村山家及び村山薔薇園の広大な地所を誰かが狙っている、と考えたほうが、納得がゆくのではあるまいか。
ともかく、引き続き黒狼谷の真相を洗い、復讐者らしいものの正体を追うことが先決だな、と仲根は考えた。さらには中断している「坂本兼造の殺人事件」の犯人、そして夏希への脅迫者たちの正体を追うことが、いずれは村山薔薇園の将来を見守り、また、ネオポリス計画にもし付随している「悪」があるとしたら、その「悪」をあばきだすことにつながるだろう、と仲根は考えるのだった。
(……どうやら、事態は風雲急を告げてきたようだぜ)
――仲根はそう呟き、残りのコーヒーを飲み干した。店を出ると、四谷三丁目駅から地下鉄にのり、約束していた梨田花緒と会うために、赤坂の一ツ木通りにむかった。
梨田花緒は待っていた。
一ツ木通りの喫茶店「ルフラン」。そこはテレビ局TBSの近くで、若いアベックやテレビ局員や、タレントふうの男女などが出入りする明るい感じの喫茶店だが、花緒が坐っている一画だけ、なぜか花一輪の冷んやりとした哀愁がある。
「ごめんなさい。無理強いしちゃって」
電話でデートに誘いだしたことを言っているのであろうか。
「そんなことありませんよ」
仲根はむかいに坐ってレモンティを取った。
山形での一夜が一夜だっただけに、さしむかいに坐っていると、仲根は気恥ずかしい。それは花緒もそうらしく、まるで初めてお見合いする相手を前にしたように、花緒はいつぞやよりぐっと、しおらしい風情であった。
「会社は、赤坂のどのあたりですか?」
「この近くよ。山王下から溜池のほうにゆく明和ビルの中なんです」
そういえば、おれたちお互いの仕事を、まだ何も知らなかったな、と仲根は思った。それで、花緒の会社名を聞こうかとも思ったが、あまり詮索がましい気がしたので、仲根は運ばれてきたレモンティの中にレモンスライスを浮かべながら、別のことをきいた。
「ところで、ほかの方たちは、どうしてらっしゃいますか?」
「ほかの方たちというのは?」
「……ほら、黒狼谷の話ですよ。梨田さんはたしか、猟銃強盗の犠牲になった黒井猪三郎さんの遺児。つまり、黒狼谷の生き残りということになる。その時、あそこには十三家族がいたわけで、その方たちはその後、どこに移って、どうしてらっしゃるのか?」
「さあ、私も詳しいことは知りませんが、たいてい東京のほうにお戻りになっているそうで……義父に聞くとわかると思います」
義父というのは、花緒を引きとって育てた梨田善助のことである。たしか、東京に戻ってスーパーの夜警をしていたという話である。
「お義父さんはお元気ですか」
「ええ、元気です。……そういえば、父たちは何でもまだ十三家族の横の繋がりをもっていて、武蔵丘にも数人、黒狼谷の引き揚げ者たちがいると聞いたことがあります」
――武蔵丘に……?
ほう、と仲根は思った。
「武蔵丘にお戻りになっているのは、どういう方たちでしょうか?」
「さあ、私も詳しいことは知りませんが、駅前のスーパーのガードマンをしている神田卓郎さんとか、デパートの裏の〈本陣〉という居酒屋をおひらきになった瀬高六郎さんとか……」
――神田卓郎に瀬高六郎。
仲根にとっては初めて聞く名前ばかりだが、「本陣」というその居酒屋の名前とともに、これはしっかり憶えておいて損はないぞ、と仲根は思った。
「あらあら、喫茶店で固いお話ばかりしていてはつまんないわ。このコーヒーを飲んだら、どこか外に河岸《かし》を移しません?」
「いいですね。花緒さんもたしか、お酒は強いほうでしたね」
左沢の宿のことを思いだしていると、
「まあ、いやなかた。恥ずかしいことばっかり覚えてらっしゃるのね」
花緒は睨んだ。
「この近くに、ボトルを置いている店があります。もしよかったら、ご案内しますが」
仲根は赤坂には馴染みの店がない。地元派である花緒の言葉に甘えることにした。
二人は喫茶店を出て、少し歩いた。乃木坂の途中から右に入ると、マンションやシティホテルなどがあるやや高台の、結構、静かな一画があった。花緒はその一画の、カフェバー「ハートランド」という店に入った。
まっ白な外観のドアを開ければ、気分はニューヨーク。店内は白とピンクで統一され、天井はガラス張りで、夜空を見ながらお酒が楽しめる、という趣向がナウい。
花緒がこういう店を知っているとは、意外だった。ふたりは、カウンターに坐った。むかいあっているより、こうして並んで坐って話したほうが、やはり気分は落着く。
「水割りでいい?」
「いいですね。ジーンビームか、バーボンなら、何でもいい」
仲根は、カウンターにだされた花緒のネーム入りのボトルが、バーボンだったのでおやおや、と思った。ケンタッキーバーボンは、干し草の匂いが強くてその個性が男には好まれるが、女性にはあまり好まれないようだ。
ともかく、いっぷう変わった女である。職業や会社を、まだ聞いてはいなかった。いつぞやの旅行先の宿では、黒狼谷の犯罪と村山虎三のことばかりを話していたので、仲根も花緒も、お互いの会社や、私生活については、ほとんど話題にはしていなかったような気がする。
もっとも、現代舎に電話をかけてきたくらいだから、仲根は口をすべらせたのかもしれない。
ジーンビームの水割りがさしだされ、乾杯した時、仲根はそのことを聞いた。
「ええ、社名を聞いていたので、電話番号を調べたのよ」
今さら、少しヘンだったが、仲根は自分の名刺を取りだして花緒に差しだしながら、
「おたくの会社のこと、聞いていいかな」
「あらあら、そうだったわね。私も名刺を差しあげなくっちゃ」
花緒は傍らのハンドバッグから名刺を取りだし、仲根に差しだした。
仲根はその名刺をみて、ほう、と思った。
〈関東ドエリング企画株式会社・事業本部用地推進課・梨田花緒〉
――どこかで聞いたことのある社名だぞ、と宙を睨んだ時、あッと思いだした。
そうだ。関東ドエリング企画、といえば、大手建設会社Q組の傘下にあるマンション建設、分譲会社ではないか。そしてただそれだけではなく、武蔵丘ネオポリス建設団体の中にも、その会社が入っていたような気がする。
それを思いだしたとたん、仲根はどきんとしていた。一連の事件の中で、無関係ではない会社のOLが、旅行先の過疎村のコスモスの花の中に立っていて、今、自分に近づいてきたとは、どういうことだろう。
質問したのは数呼吸、置いた後だった。
「用地推進課というと、マンションを建設する際の用地取得にあたる部署ですか?」
「部署としては、そういう具合になるわね。でも私は、用地取得対策のために男子社員が外を飛びまわっている間、社内で留守番をして、電話やファックスのお守りをしているだけよ」
「でも、忙しそうだ。この、事業本部というのは、どういう意味です?」
「社内に幾つもの事業本部ができていますが、いわば企業内プロジェクトチームです。一つのマンションを企画したら、そのマンションごとの事業本部が作られて、用地取得、建設推進、完成後の分譲、賃貸事業まで、それぞれの事業本部ごとに独立採算で運営しているんです」
「なるほど、厳しいですね。企業内における競争原理の確立と、効率的な収益性の追求ですか。で、あなたはどこの事業本部に?」
仲根があまり一方的に質問するので、花緒はちょっと肩をすくめ、
「仲根さんったら、私のことより、会社のことに興味があるみたいね」
「とんでもない。せっかくすてきなガールフレンドになってもらっているので、ついでに会社のことも知っておきたいだけですよ」
「私の部署、言ってもわからないと思うわ。企業内では各事業本部ごとに、暗号で呼んでいるのよ。私の所属しているところは、サンシャイン・プランニング・チーム」
「サン・プラか。太陽が輝く計画――もしかしたらそれ、武蔵丘の21世紀ネオポリス計画チームのことじゃありませんか?」
ほとんど直感的に、仲根は思いきった質問をした。しかし花緒は少しも驚きを、示しはしなかった。いや、それどころか、くすんとおかしそうに笑ったようである。
「私たち、何かのゲームをしているみたい。それが何かの探しっこなのか、だましっこなのかは、よくわからないけど」
やや挑発するような花緒のもの言いに、仲根は少し反発して言った。
「どういう意味かな」
「仲根さん、要するに私の正体を知りたいんでしょ?」
花緒がバーライトに顔を半分、翳《かげ》らせながら仲根のほうをむいた時、ズバリその通り、と仲根は言いたかったのである。
仲根は攻めこまれるようなものを感じ、
「そう聞かれれば、そうです、というしかないな。もっとも、あなたの正体については、もう幾つかのことを知っている。今、貰った名刺にある関東ドエリング企画という会社の社員であるだけではなく、黒井猪三郎の遺児であり、未解決の強盗殺人事件の犯人探しをしようとしている女。その犯人探しの鉾先はどうやら、村山虎三あたりに向けられている――そんなところをね、知っているわけだ」
仲根がそう答えると、花緒はなおも静かな微笑を返した。
「おおよそは、正解ね。そうしてあなたは、村山虎三に雇われて、黒狼谷の生き残りの消息を探ろうとしている探偵さんでしょ?」
「隠してもはじまらないね。その通りだ。しかしぼくは村山虎三より、娘の夏希君とのほうが親しい。彼女の古い友人でね。自然、村山薔薇園の立場になって動く」
「それも知っているわ。夏希さんって、薔薇園のすてきな女主人ね。私のライバルかもしれない。一つは、黒狼谷をめぐる敵対関係。二つ目は、あなたをめぐるライバル。そして三つ目は、21世紀ネオポリス計画を推進する会社の立場としても、ね。……となると、三つも対立しあう要素が重なっていて、不倶戴天《ふぐたいてん》の仇って、こういう場合を言うのかもしれないわね」
花緒は笑った。おやおや、大変な仇もあったものだ、と仲根は思った。が、花緒はそれを深刻そうに言っているのではなく、むしろ楽しむように言っているのであった。
いずれにしろ、この女の立場をあまり深刻にほじくることもないわけだ、と仲根は考えることにした。おれを何らかの意味でマークするために近づいているとしても、素知らぬふりをしていればいい。おれだって、この女と交際していると、いい情報源になってくれて、損はしないわけだ――。
仲根がそんなことを考えながら三杯目のバーボンの水割りをあけようという頃、
「そろそろ参りましょうか」――花緒が誘うような微笑をむけてきた。
「早いな。どちらへ?」
「あなた、私の正体を知りたいんでしょ。私のお部屋にくれば、もう少し詳しくわかるんじゃないかしら」
仲根は今夜は何やら、自分が先手先手と、鼻環をつかまえられて引きずりまわされている雄の闘牛であるような気がした。
二人は二十分後、ハートランドを出て、赤坂の街でタクシーに乗った。
夜はきらめいていた。
仲根と花緒をのせたタクシーは、赤坂の街を走りだした。花緒は中目黒二丁目のマンションに住んでいるのだという。
仲根は花緒の手を握った。花緒は握り返してきた。花緒の膝の上に置いて、じっとしていると、彼女の掌《てのひら》がじっとりと汗ばんでくるのが感じられた。
(それにしてもおれは、この女のことをどのくらい知っているんだろう)
梨田花緒にはどこやら、暗く秘めた情熱、といったものがある。といって、性格が湿っぽくて暗いわけではない。女としての線が、強すぎるくらいに強いうちにも、一抹、ぬぐえない哀愁がある。その哀愁はしかも、女の生臭い官能的な情熱を内に秘めているので、どうかすると情の深い、危険な女のようにも感じられる。
車内で二人は、ほとんど話らしいものをしなかった。女性によっては、異性と身体を触れあっていたりすると、もうそれだけで、身体がだるくなって、眼がとろんとしてくる人がいる。花緒もそうらしく、手を握られているだけで、彼女は眼を閉じ、仲根のほうに身体を預けていて、すっかり思考停止といった状態になっていた。
タクシーはやがて、中目黒二丁目の花緒のマンションに着いた。
「大丈夫?」
タクシーから降り立つと、花緒は少し腰をふらつかせていた。
「少し、酔ってしまったみたい」
仲根は花緒の腰を抱き、フロントを入って、エレベーターに乗った。
「四〇三号室なの。鍵、あけてくださる?」
花緒は、エレベーターの中で、バッグからとりだした部屋のキイを、仲根のほうにさしだした。
日光の華厳の滝の土産札のついたキイホルダーが、微かな音をたてた。そんなものをさしだす姿は、すっかり甘えているようでもあったし、鍵を渡すんだから覚悟してちょうだい、という迫り方をしているようでもあった。
エレベーターがひらき、二人は通路を歩いて、四〇三号室の前に立った。
仲根は、ドアをあけた。
花緒が先に入って、
「どうぞ――」
と、仲根を導き入れる。
入ったところのたたきで、花緒はドアを閉めざま、電気もつけずに、よろけかかるようにして、仲根に身体を預けてきた。
受けざるをえない。軽く抱くと、唇もむこうから近づいてきた。こうした親密な関係も二回めともなると、女性のほうももうためらいや羞恥心は薄れているので、かなり積極的になるようである。
花緒との接吻には、東北の旅の匂いがした。
ひとしきり、接吻がすむと、それでやっと訪問儀式が終わったように、二人は部屋にあがった。
花緒の部屋は二DKだった。あまり広くはないが、きちんと片づいた女らしい部屋であった。
早くも、こたつが作られていた。仲根はこたつに入り、お茶をふるまわれた。
部屋には鏡台、化粧だんす、ワードローブ……と、吟味された小ぎれいな家具が並んでおり、観察した範囲ではどこにも、男の匂いというものは、感じられなかった。
そうすると、花緒の部屋にまで招待された仲根は、光栄なのかもしれない。やがて、花緒が、風呂を張ってきたらしく、
「お風呂にはいる?」
促すように、きいた。
「ぼくは、よすよ。招待された女性の部屋で、風呂にまでつかっていると、気分がゆるんで、バチがあたりそうだ」
「そう。じゃ、そこでゆっくり休んでて。私、お風呂に入ってくるから」
寝巻きを用意しながら、花緒が「――今夜は、帰らなくていいんでしょ?」
「そういうわけにもゆくまい。家には妻子が待っているんだ」
「なに気取っているのよ。独身の、ハイミスターのくせに!」
花緒はそう言って笑い、「何なら奥のベッドに入って休んでてもいいわよ。寝巻きはそこにある私のバスローブを使って」
仲根は甘えることにした。奥の部屋のベッドは、キングサイズなので、ゆったりしていた。仲根が毛布にもぐってひと休みしていると、間もなく花緒が浴室からあがってきた。
シャワーだけ浴びてきたらしい。バスタオルを胸に巻いているだけだった。
花緒はバスタオルをはずした。輝くような裸体が現われて、仲根は息をのんだ。
(――この女は、自分の魅力に自信をもっている。どんな男でも、蜜の罠を設ければ、すぐにひっかかると思っている。いい気なもんだ。ふん、おれはそれを利用してやるぞ)
仲根はそよぎかかってきた花緒の裸身をベッドに押し伏せた。
「いい匂いがする。花香性のコロンかな」
「ランバンのアルページュ。ジャスミンと柑橘の花を基調にした匂いよ」
その甘い香りに包まれながら、軽い接吻から入った。ふたりの舌が、何かしら触れあう二枚の運命のようにもつれあい、舞った。
花緒はかすかな喘ぎをもらし、恥骨を押しつけてきた。花緒のそこは、小気味よく盛りあがっていて高いので、感触をくすぐられる。
仲根は、左手で花緒の右の乳房をまさぐりながら、唇を左の乳房に伏せた。固くしまった乳首だった。噛むと、ころころして、しかも弾力に富んでいる。
乳頭の色のあかるい清潔な乳房である。あまり、男性経験の旅路があるとは思えない。そこを攻めつづけると、花緒はため息をついて、反りかえった。
仲根はやがて、右手を下腹部へとすべらせ、女の熱帯への探険にむかわせた。
くさむらの感触がふれた。その下の神秘の沼には、あたたかいものが湧きはじめていた。ぬかるみを指でかきまわすと、
「ああン……」
あえぎながら花緒は、身体を震わせていた。時折、人魚のように大きく跳ねたりした。
仲根は頃合いをみて、決め込みにいった。花緒との情事がこの先、何をどうもたらすか、見当もつかなかったが、今夜は男性として、とことん奉仕しておくに限る、と思った。
一体となると、花緒の身体はますます、魚のように跳ねた。女の身体の量感とぬくもりが、仲根の身体の前面に密着したり、不意に躍って離れたりした。
花緒の肌は湿っていた。さわやかなフローラル系の香水の香りが、そうしている間も立ちのぼり、それは彼女の汗と体臭とまじって、つよい動物的な匂いに変わりつつあった。
「仲根さん……倖せよ……今夜はもう、帰らないで……」
「うん、泊まってゆくよ。帰るとは言わない。だから、安心して、さあ……」
仲根は励みだしながら、念頭にあるものを追い払おうと思った。だが、武蔵丘のことや村山夏希のことが、念頭を去らなかった。何かしら、どこかで、事態の機軸が、大きく動きだしているような気がした。
「ご苦労さま」
「またお願いします」
その日の午後、店の人に送りだされて夏希は、日比谷花壇を出た。ステーションワゴンを花屋の後ろに駐車させたまま、公園の中に歩み入った。
日比谷花壇は、日比谷公園の一角にある。表通りは帝国ホテルや日生劇場に面しているが、うしろはすぐ公園であり、噴水や音楽堂や広場などがあった。
公園の銀杏並木が、すっかり色づいていた。足許で黄金色の落葉が舞い、晩秋の気配が深まっていた。仲根と待ち合わせしている喫茶店のほうに歩きながら、夏希は久しぶりに、晩秋の感傷にひたることができた。
約束は午後三時だった。時間に少し遅れてゆくと、仲根は先にきて待っていて、
「やあ。すっかりごぶさたしちゃって」
仲根は人なつっこい笑顔をむけはしたが、しかしその表情は少し遠慮っぽくて、衝立一枚をへだてたような雰囲気であった。
――女の匂い……
(彼は今、私なんか眼中にないんだわ……)
そう直感して、激しい思いを隠しながら、
「ごめんなさい、お呼びたてしちゃって」
「いえ。こちらこそ」
「で、武蔵丘で計画されている大きな事業って、どういうことでしょう?」
夏希は情緒ぬきに話しかけることにした。夫の会社が武蔵丘で、何を計画しているのかを、早く知りたい気持ちも強かった。
仲根は夏希のコーヒーを取った。それから、未確認情報だが、と前置きしながらも、武蔵丘における21世紀ネオポリス計画がすすめられていることを話した。しかもその構想の企画立案の主体者となっているのが、夫の会社であり、企画設計課という部署であると聞いて、夏希は少なからず驚き、深い衝撃を受けた。
「その計画、武蔵丘の私の地域がすっぽりと入るのですか?」
「そうです。村山薔薇園も、家も、周辺の農地も……あの丘陵全体が、すっぽりとそのどまん中に入るような設計のようです」
「まあ……」
夏希は絶句した。
「ご主人から、何も聞いてませんか?」
「はい。聞いてません」
「変ですね、どうも変だ。村山家に拘わる、それほど重大なことを――」
仲根に見つめられて、夏希は全身から熱い汗がどっと噴きだし、穴があったら入りたいような羞恥心と、屈辱を覚えた。
(雅彦はそんな重大なことを、どうして私に話してくれなかったのだろう)
日本の夫は、一般に会社のことを家庭で話したりはしない。特にその会社や企業にとって重大なこと、秘密にかかわることはなおさら、家庭でも仲間うちでも、洩らしたりはしないのが、会社人間としてのルールとなっている。
それぐらい、夏希にもわかる。しかしこの場合、その一般論とはまるで違うのではないか。少なくとも、自分の家や薔薇園や敷地や農地が、すべて拘わってくる所で、そのような壮大な都市計画が進められていて、自分がその設計の任にあたっているのなら、妻にも一言、話してしかるべきではないか。
いや、雅彦自身、今や村山家の当主なのである。薔薇園経営当事者でなくても、場合によったら、その家や地域の、死活問題にもつながることぐらい、わかるはずだ。
それなのに、隠している雅彦の秘密主義の陰に、あるいは企業の秘密主義の陰に、夏希は何やらいかがわしい巨影の暗部を感じるのである。
「ま、とにかく、ぼくもその話、つい二日前に聞いたばかりで、確実な裏付けを取っているわけではありません。これから取材してみようと思っているところですので、あまり、気にかけないで下さい」
仲根はあわててそう言ったが、しかしその時、夏希は突然、別なことを思いだしていた。
菊地善則の話によると、今年の春先、まだ結婚しない前の雅彦が、カーキ色の作業服をきて会社の人たちと一緒に、菱沼地区の菊地の畑のあたり一帯を、無断で測量していたという。
(あれは、雅彦の会社ですでにそのプランに取りかかっていたからこそ、予備測量などを実施していたということではなかろうか)
夏希はそれに気づいて、仲根に話してみた。仲根はますます驚き、
「ふーん。じゃ、その頃からQ組の現場では準備が進められていたのかもしれませんね。それにしても、その設計遂行者が偶然とはいえ、計画実施地域に大きな根をおろす旧家、村山家のご令嬢と結婚して、婿に入る。これは、どういうことでしょうね?」
仲根もその恐ろしい符節の合い方に、信じられないほどよくできた偶然だ、と唸りながら、頭を振った。
そうだろうか。偶然だろうか。夏希は疑問に思った。もしかしたら偶然などではなく、潜在的に進行しつつあった21世紀ネオポリス計画さえも知っていて、叔母の珠江は雅彦と見合いさせ、結婚させたのではないか?
この場合は、いずれ始まる村山家の用地買収や立ち退きの過程で、珠江としたらしっかりと楔《くさび》を打ち込んで、権利主張と資産分与の工作がしやすいわけであった。
そういえば、長崎での新婚旅行の時だって、今思えばおかしかった。二日目の午後、市内見物の途中で、会社の長崎支社に用事があるといって、雅彦は思案橋の電停で別れ、夏希だけホテルに戻ったのだが、そのホテルに、あの三人組の脅迫者が待ち伏せていたというのも、構造的にうまくできすぎているのではないか。
新婚旅行先で花婿が、花嫁を放ったらかしにして自分の会社の現地支社などに立ち寄ったりするだろうか?
そこまで考えた時、夏希はあッ! と思った。
(そういえば、あの白紙委任状……!)
――あの日、三人組に奪われた白紙委任状はその21世紀ネオポリス計画が実施に移された際、用地買収に際して村山家がごねたりしないために、あらかじめ取られていたのではあるまいか?
夏希が茫然自失したように蒼ざめた時、仲根がその表情に気づいて、心配そうに尋ねてきた。
「どうしたんです?」
「いえ、ちょっと。新婚旅行先のいやなことを思いだしたものだから」
「そういえば……」
「ええ、三人組に襲われた時のことよ」
夏希は以前、仲根には新婚旅行先での不愉快な出来事も話したように記憶しているが、どこまで話したかは忘れていたので、部屋に押し入ってきた三人組に、得体の知れない白紙委任状を書かされたことを説明した。
「ああ、聞きましたね。あの委任状、今のところ、何かに使われた形跡はないんですか?」
「ありません。……私もそれが気になって、いったい何に使うのか、ずっと薄気味わるかったんです」
「なるほど、その三人組が藤城組傘下の暁興業の地上げ屋たちだったのなら、この21世紀ネオポリス計画に何らかの形で、関係しているのかもしれませんね。つまり、いずれ用地買収で村山家がごねるようだったら、こちらは白紙委任状があるんだぞって、ね」
仲根はそういう観測をのべた。「しかし白紙委任状なんて、一定の役割りはあるものの、不動産の移動において決定的な効果はもちはしませんから、それほど気にすることもないですよ。それより、ご主人はそのネオポリス計画に対して、いったいどう対応なさろうとしているのか。そこが心配です。一度、それとなく聞いてみたら、いかがです?」
「ええ。確かめてみます」
「いずれにしろ、まだ現実に完成したわけでも、公式発表されたわけでもない。ぼくのほうも紺野君と協力して、もう少し探りを入れてみますから、あなたのほうも、ご主人の様子をそれとなくみて、真相をたしかめ、冷静に対処したほうがよいと思いますね」
その日、夏希が武蔵丘に戻ったのは、夕方六時であった。
夕食時、
「ねえ、あなた」
「うん?」
「武蔵丘で大きなニュータウン計画が進んでいるという噂をきいたんだけど、知ってる?」
雅彦は、新聞から眼をはなさないまま、
「ニュータウン?」
あまり関心なさそうな声をあげた。
「ええ。21世紀ネオポリス計画というものがすすめられているそうだけど」
夕刊を読む手が少し動いたような気もしたが、雅彦はしかし、たいして動じたふうもなく、
「知らんな。それがどうかしたのか?」
見事にすっとぼけた表情であった。夏希がもし、仲根から情報を聞いていなければ、見事に信じこんでしまったかもしれない。
「噂によると、そのニュータウン、うちの家や薔薇園がすっぽりとはいるというのよ。ねえ、大変だと思わない?」
「へええ。そんな無茶な計画がすすめられているのかい」
「そうらしいわ。そんな無茶なことを計画する会社って、どこでしょうね」
「さあ、どこだろうな」
「気のない返事ね。あなた、その話、本当に耳に入れてないの?」
「うん、聞いてないよ。もし本当だとしたら、大変なことじゃないか」
「他人事みたいに言うのね。あなたは建設会社に勤めているんでしょ。そんな話を聞いたことがないなんて、嘘よ」
「知らんものは知らんよ。それに、噂なんてものは、いい加減なものと決まっている。いったいどこでそんな話、聞いたんだ?」
夏希は反対に、ニュースソースを問いつめられて、一瞬、狼狽した。
「噂と言ってるでしょ。町のほうでちょっと、そんな話を耳にはさんだのよ」
「そんな噂を気にするやつがあるかい。もし本当なら、いずれ発表されるだろうから、その時になって考えればよい。つまらない噂にふりまわされるのは、時間と神経の無駄使いだ。気にするな、気にするな」
雅彦はそう言って相手にせず、自分でビールを注いで美味しそうに飲んでいる。
(まあ、タヌキを決め込むにも、程があるわ。何という鉄面皮な、厚かましさだろう)
「ところで叔母さんとは、もう会ってはいないのでしょうね」
別な角度から、攻撃をしかけてみた。夏希も自分でビールをグラスに注いだ。近頃は、夏希も少しは酒をたしなむようになったのである。
いや、人並みに酒ぐらいたしなまなければいられないような気持ちのありようが続いている、と言い直したほうが正しいかもしれない。
「珠江さんとは会ってはいないよ。今夜も、こうして早く帰ってきてるじゃないか」
「はっきり切れた、と約束できるの?」
「約束するよ。もともと、ぼくは誘惑されただけで、本気じゃなかったんだ。夏希のほうが、ずっと素晴らしい女だよ」
(――調子のいいことを!)
夏希はまだ、気を許してはいなかったが、この数日、珠江の姿が現われないのは事実だし、会っている形跡がないのも事実なので、少しは安心することにした。
その夜、風呂からあがって雅彦が寝間に入ったのは十時半ごろである。毎晩、夏希はふとんだけは敷いてから、自分は二階の自室にたてこもるのだが、そのふとんを敷いている時、思いもかけず雅彦が不意討ちに、やってきた。
それも、厚い敷ぶとんを敷いて、その上に掛ぶとんをかけようとしている時、いきなり後ろからやってきて、抱きかかえられたのである。
(あッ!)――夏希は驚いた。だがみっともない争いはしたくない。
「はなして下さい」
夏希は言葉だけは静かに、でも強く言った。
夫婦だから、「襲われた」というのは、正確ではないが、裏切った夫を許せず、拒否している夏希の心境としては、そう表現するしかなかった。
「いや。――やめて」
「おれたち、夫婦じゃないか。いつまでむくれてるんだ。おい、夏希……」
雅彦はいっそう強く抱きしめ、ふとんの上に夏希を押し倒そうとしている。
「勝手なこと言わないで。いつかの態度は何ですか。この家で私をないがしろにして、叔母さんと寝るなんて、ひどすぎます。人間のやることじゃない。破廉恥です。私は絶対に、許していません」
「だからさ、言ってるじゃないか。あの女とは切れたと。なあ、機嫌を直してくれよ」
「信じません。切れたという証拠をもってらっしゃい。私はまだあなたを――」
信じていません、と言いかけた時、あ、と夏希は声をあげた。瞬間、軽々と雅彦に抱きかかえられて、いったん宙に浮いた身体が、今度は斜めにされて、手もなくふとんの上に横たえられたのである。
「やめてったら。軍鶏《しやも》の蹴合いのような真似はしたくありません」
「だからさあ、夏希。きみがおとなしくすればいいじゃないか。なあ、夏希」
雅彦はもう、夏希の上におおいかぶさっていた。唇を避けると、いつのまにか、乳房に手をまわされていた。身をもがいたはずみに肩を押さえられ、そして今度は右手が夏希の股間のほうに伸びていた。
スカートの下から侵入した手が、女性の恥ずかしいところに届いた時、夏希は軽いめまいを覚えた。しばらく遠ざかっていたものを求めるような気配が、そこに熱く渦巻いていた。
(ああ……いけない。このままでは、またずるずると行ってしまう)
夏希は響いてくる歓びに苦しみながら、でも意志はまだ陥《お》ちることを拒否し、そのはざまで意識だけが激しく悶えている。
(そうだわ。珠江とのことだけではない。夫は私には内緒で、会社ではネオポリス計画に携っているんだ。その非情さは、まるで見知らぬ他人!)
「とにかく、いやです。はなして下さい!」
夏希は最後に強い勢いではねとばし、離れた。
廊下にとびだした時、息が弾んでいた。裂けた胸許をかばいながら風呂場に飛びこんだ時、深い悲しみの感情がどっと夏希を襲った。
次の日、雅彦は朝食もとらずに出勤した。
「今夜は何時ごろ、お帰りになるの?」
夏希が下手に出て尋ねても、
「何時だっていいだろう。きみはもうぼくを、必要としていないようだ。ぼくが帰らないほうが、せいせいするんじゃないかね」
そういう厭味《いやみ》を言った。それに対して夏希は言葉では何も言い返せはしなかったが、心の中では、
「そんなことはありません。私だって、本当は仲直りもしたいし、和解して早く暖かい家庭を作りたいと願っているのよ」
しかし、そういうことを言いだす前に、雅彦の車は排気音をたてて門を出て、山麓の道を駅のほうに走り去ってしまっていた。
夏希の気持ちは落ち込んだ。それと同時に、都市化がすすむ周辺の空気に、以前よりもいっそう不穏な、不安なものを感じた。
それは武蔵丘ニュータウン作りの話をきいたからこそ、そう思うようになったのかもしれないが、現実にこの数ヵ月、地域の中をゆききする見知らぬ車が、多くなったような気がするのである。
午後、夏希は家を出て、スクーターにまたがり、近所の善右衛門の家に行った。迫田善右衛門は同じ地域の兼業農家だが、息子夫婦が勤めに出ていて、今年六十三歳になる善右衛門が一人でぼちぼちと田畑を守っており、それもだいぶこたえてきたとみえて、
「わしももう、疲れたよ。耕作は半分くらいに縮小したい。といって、マンションやアパートを経営する気はしねえしな。半分くらい、夏希ちゃんのところで、手伝ってはくれめえか」
という相談を受け、薔薇園に隣接する農地約五十アールを借り受け、いわば請負耕作という形で、鳥羽悟平夫婦に作らせ、残りはバラ苗の圃場などにしていたのである。
その請負耕作に対して一週間ぐらい前から、話があるので暇な時にでも立ち寄ってくれないか、と善右衛門に頼まれていたので、夏希は今日、出むくところである。
山裾の道をまわって集落のはずれにある迫田善右衛門の家の前まで来た時、おや、と夏希はスクーターのノズルを絞り、スピードを落とした。
すぐ傍を黒塗りの凄い乗用車が、排気音もなしに走り去った。
(地上げ屋かしら……?)
メルセデス・ベンツだからといって、いやな印象を持つことはない。が、そのベンツがぴかぴか光る屋根の滑面を陽射しに光らせて走り去った場所が、迫田善右衛門の家の前だったから、夏希は妙な胸騒ぎを覚えたのだ。
(善右衛門の相談というのは、もしかしたら土地を売りたいので、請負耕作の契約を解消したいということではないだろうか)
――夏希もうすうす、そういう予感を抱きながら、やってきたところなのである。
黒い乗用車が走り去った門の中は、しんとしていた。夏希はその庭にスクーターを止め、玄関に立った。
「ごめん下さい」
返事がない。
善右衛門はやや耳が遠い。
それで夏希は土間に入った。応接間のほうを覗くと、善右衛門がやっと夏希に気づき、あわてて卓上のものに、大きな風呂敷をかぶせる仕草をみせた。
風呂敷によって隠蔽《いんぺい》されたものの残像が、夏希の視野に灼きついた。札束だった。それもうず高い。善右衛門はどうやら、その札束を手にとって、一枚一枚、数えていたところのようである。
「あら、凄いお金……」
夏希が冷やかし加減に上り框《かまち》に腰をおろすと、
「いや……いらねえというのに……東京の不動産屋が無理矢理、手付金といって置いてゆきやがったもんでな……うん……まったく……始末に困っているよ」
善右衛門は、手拭いで首筋の冷や汗をぬぐいながら、
「夏希ちゃんがおれンちに来るのは珍しい。まあ、あがれや」
応接間に導いた。
応接間といっても、田の字型間取りの居間の畳の上に、座卓ふうの応接台が置かれただけだが、善右衛門はふだん、そこで人と応対しているようであった。
「窪原の畑、とうとう売ることにしたの?」夏希は風呂敷包みで隠された札束の山をできるだけ見ないようにし、善右衛門にきいた。
「うん。せっかく請負耕作をしてもらっていたんだが、うちも何かと入り用があってな。それで、あそこの請負耕作契約をこの際、解消してもらおうと思って――」
善右衛門の話は、夏希が予想していたとおりであった。
「息子のやつが東京のほうで事業を興すと言ってるんだ。勤めていた薬品販売会社から独立して、子会社を作るという話で、相当まとまった金が入りようなもんでのう」
善右衛門は、夏希に申し訳なさそうに、土地を売る理由をそう言い訳した。
夏希が善右衛門と交わした契約年限は、まだ三年間ある。しかし請負耕作というものは、どだい、お互いの善意の上で成り立っているものであり、土地の売買契約のように、厳しい拘束力をもつものではない。
一方的な通告は困る、当分はまだやりたい、と文句を言えばいえるのだが、それでは近所との融和を欠く。夏希のほうも、バラの苗木圃場などに使っているその土地を失うのは確かに痛かったが、しかし薔薇園の本体というわけではないし、今すぐ困る問題でもないので、承諾するしかなかった。
「いいわ。その件は承知しました。そのかわり、教えてちょうだい」
夏希は、善右衛門に聞いた。
「善さんとこの土地を買いにきた不動産会社というのは、どこなの?」
「東京の会社なんだ。この近所じゃあねえよ。息子のほうの紹介だと言ってな」
「東京の……何という会社かわかる?」
「そうだな、暁興業とか……暁興産とかいったな」
善右衛門はそこに置かれていた名刺を確認しながら、「そうそう。暁興業の営業部長、橋本忠明という人間が、さっき、手付金をもって挨拶に来たとこだよ」
(やっぱり……)
と、夏希は思った。
暁興業といえば、建設会社「藤城組」の下部団体の地上げ屋である。藤城組の上には、大手建設会社や大手銀行が控えているという。やはり、21世紀ネオポリス計画の魔手が、早くも着々と、この地域にのびてきているのであろうか。
迫田善右衛門の家を出たあと、夏希はスクーターに乗り、櫟沢の佐藤嘉助の家に回った。
佐藤嘉助は、隣の櫟沢地区の農家である。夏希の家のある丘陵の西側の傾斜地から平野部にかけて、農地を所有していた。
数年前、大雨でゴルフ場の土砂が流されて、一連の田畑が埋まってしまった。復旧の補償金は、ゴルフ場からもらっていたが、人手不足で復旧もできず、嘉助ももう年であったので、その農地での営農意欲を失い、土砂に埋もれたままの田畑に、無届で杉や松の苗を植えて、放置するところとなっていた。
いわば、耕作放棄田である。登記簿上の地目は「農地」であるが、現実には「山林」「原野」である。これをうるさ屋の農業委員徳丸留五郎にとがめられ、
「勝手に農地をつぶしたり、変更したりすると、農地法違反で逮捕されるぞ。農地を農地以外の土地、つまり宅地や山林等に変更する時は、都道府県知事の許可がいる。おめえみたいなことして、無断転用しようなどとしたら、三年以下の懲役または罰金だぞ。早くもとに戻さないと、訴えてやるから」
そうおどされた。
徳丸も地域の顔だし、農業委員だから、佐藤嘉助のルーズな土地管理を見てみぬふりは出来なかったのである。
もともと、仲のわるい顔役の農業委員、徳丸留五郎に一発くらって蒼くなった嘉助は、夏希の父、村山虎三のところに善後策を相談しに駆けこんできた。
「のう、虎さんや。ゴルフ場の土砂崩れのあった場所を放置しておいて、原野になったものをそのまま転売すると、ホントに警察につかまるのかい?」
今は事実上、山林原野にかえっている土地でも登記簿上の地目が「農地」なら、転売する時は当然、地目変更の手続きや、農業委員会の許可がいる。
虎三はそういうことを説明しながら、しかし嘉助の場合は、意図的に農地をつぶしたわけではなく、ゴルフ場の地すべりという非人為的な事由で農地がつぶれ、耕作の用に供されなくなったのだから、それ自体では、農地法第四条に違反するとは決めつけられない。特に、その田畑は市街区域にあるので、もし転用するなら、転用の届出だけで済むという特典もある。
しかし、今のまま「耕作放棄」をつづけ、そして数年後、農地であったことを頬かむりして、「山林原野」としたまま、ビル用地や住宅用地に売却したりすると、徳丸留五郎が言うとおり、農地法違反になると説明し、今後のことを考えると、今のうちに転用の届出をしておくほうがいいだろう、と諭した。
それが、二年前の十一月であった。すると嘉助は、彼もまた高齢であり、息子夫婦は東京に勤めに出ていて耕作していないので、困った困ったを連発し、
「ブルを投入して復旧する意欲は、おれにはもうねえよ。といって地目変更の役所通いも、なんだか文句をいわれそうで億劫《おつくう》だなあ。できればあのまま、放置しておきたいのだが、それが駄目なら、いっそ虎さんのほうであの潰れた田畑、復旧して請負耕作でもしてくれめえか」
ということになった。虎三が早速、ブルを投入して復旧する計画をすすめている翌年春、二度目に嘉助がやってきて、
「ちょっとおれんちで、金が必要になった。虎さんや、どうだろう。いっそ、土砂に埋もれた二十アール分、虎さんところで買ってはくれないだろうか」
という話となり、夏希も虎三の相談を受け、ちょうど、薔薇園を拡大するためにも土地はほしい時だったので、購入することになったのである。
もちろん、その二十アールに関しては、農地法の所有権移転許可申請の手続きも済ませ、ブルも投入して復旧工事に取りかかったのが、今年の春三月である。
ところが、代金だけは三分割のうち、二回分を支払い、所有権移転登記とともに最後のお金を支払おうという段になって、売り主の佐藤嘉助が突然、病気で亡くなったのである。
その葬儀や何やらで、売買手続きは中断、所有権移転登記もされないままの時期がつづき、落着いた頃、夏希が売り主の嘉助の相続人でもある長男の佐藤繁久に、登記を急ぐよう頼みに行ったところ、
「ええッ? おやじがそんな売買契約をしていたなんて、おれは知らねえよ」
と、繁久はびっくりした。
それどころか、「それは死んだおやじと村山家との約束だろう。もう代が変わったんだ。おれは知らねえ、おれには関係ねえよ」
――つまりは、白紙に戻したい、となったのである。
夏希としては、薔薇園を拡大するために、その土地はどうしてもほしかったので、何度も掛け合いにゆき、この通り、契約書もあれば領収書もある、といっさいの書類を見せると、
「参ったなあ。おれはそんな金、受け取ってはいないよ。おやじのやつ、一体、どこに持っていったんだろう。第一、おやじとの契約は、書類の通りなのかもしれねえが、それはおやじの代の話だろう。おれはあの土地、村山虎三に売る気はないよ。白紙だ、白紙だ」
繁久は、白紙撤回を要求して引かない。
――そんな交渉がもつれたまま棚上げにされ、数ヵ月が過ぎていたので、今日も、夏希は急にその後の情況が心配になって、繁久の家にもまわってみる気になったのである。
佐藤繁久の家は、県道沿いにこんもりと繁った鎮守の森のような木立ちの中にあった。東京のビル管理会社に勤める繁久は、実質的には夜間警備員の仕事らしく、土曜日が定休日であり、その日は家の庭先で車を洗ったり、ゴルフクラブの素振りなどをしていた。
「こんにちは」
夏希が声をかけると、
「やあ」
繁久は表むきは親しそうに迎えながらも、
「夏ちゃんよう。またあの話でやってきたのかい。もう勘弁してくれよ。金はもうあんたんちの銀行口座に振り込んでるだろう」
冒頭から、そう言うのであった。金は口座に振り込んでいる、という意味は、契約解除にともなう支払金の払い戻しである。
つまり、夏希のほうで二回分、佐藤嘉助に支払った土地代金を、のし紙つけて払い戻すから、土地売買の話は白紙に戻してくれ、という意味であった。
しかし夏希としては、そうはゆかない。契約書もあるし、嘉助がたとえ亡くなっても、彼が交わした契約は、相続人の繁久が引きつぐのが、法的にも社会通念上も常識である。
それなのに、なぜ繁久がそんなに頑なに契約撤回しようとしているのかの理由を聞くと、繁久は夏希を居間にあげたあと、
「実は……」と、言いにくそうに切りだした。「あの土地はもう、よその不動産会社に売っちまったんだよ」
やっと絞りだすような声で言った。
まあ! と、夏希は息をのみ、
「よそって、どこに?」
「東京の……暁興業という不動産会社だけンどよう。あるコネを使ってな、以前から何度も接触されてたんだ。それに、おやじがあんたンちに売ったことも知らなかったし……おれンちも金が入り用だったし……それで、その不動産会社に売っちまったんだけどよう……暁興業のほうではもう、登記も済ませているっていうぞ……そんなわけだ……勘弁してくれよ」
この問題、法律的には、売り主の嘉助が亡くなっても、村山家の契約は、その相続人の繁久に引きつがれる。夏希としては、長男の繁久に、所有権移転登記手続きを要求することができる。
しかし、繁久が二重譲渡した側の暁興業が、いち早く登記まで完了させているとすれば、裁判でいくら争っても、勝ち目はない。こうした場合の権利関係は、とにもかくにも、先に登記を済ませた側が、圧倒的に有利になってしまうのである。
迫田善右衛門といい、この佐藤繁久といい、ますます伸びてきた暁興業の魔手に、夏希が薄気味わるいものを感じて一瞬、沈黙した時、繁久が言いつのっていた。
「だいたい、おやじもひどい。女に入れあげる金を作るために、おれに相談もなくあの土地を、二束三文であんたンちに売りつけようとしていたんだよ。こう言っちゃ何だが、値段もケタ違いさ。暁興業はね、あんたンとことの契約価格より、三倍も四倍も高いんだぜ。こりゃ、どっちに売るかは、もう目に見えてるだろう。夏ちゃんだって薔薇園を拡大するために、あの土地がほしかったのかもしれねえけど、興業だって何かを建てる目論見《もくろみ》で、必要としていたみたいだ。ま、どっちもどっちとなると、最後は売り値の高いところに売ることになる。それだけのことさ。ま、勘弁してくれよ」
――まさに、それだけのことである。実弾でも負けたのである。夏希はすごすごと引きさがるしかなかった。
第十章 事件の構成
仲根俊太郎がその部屋に入ると、村山虎三は先にきて待っていた。武蔵丘市の駅裏の小さな料亭の奥座敷である。
「やあ、待ってましたよ」
「遅くなって済みません」
「どうだった? 山形の……黒狼谷のほうは」
仲根が今、遅くなって済みません、と言ったのは、約束の時間に遅れたこともあるが、それよりも、黒狼谷の報告が遅れたことを、詫びたつもりだった。
仲居がきて酒肴を整えるのももどかしそうに、虎三が報告を催促するので、仲根はありのままを報告した。
「なるほど、もう集落の形跡はないのか」
「ええ。完全にありません。ススキの原野に、挙家離村跡があるだけです」
「じゃ、みんな――」
「ええ、麓に降りて散逸。おおかたは東京のほうに戻っていると思われますね」
「東京だけだろうか?」
「というのは?」
「この武蔵丘にも残党の幾人かが、戻ってはいないかね」
――そういえば、梨田花緒が話していたことを思いだした。駅前のスーパーのガードマンをしている神田卓郎と、デパート裏の〈本陣〉という居酒屋の瀬高六郎の二人は、黒狼谷の生き残りだという。
仲根はそれも話した。
もっとも、黒狼谷の帰還者といっても、十四年前の事件当時は二人ともまだ少年だったはずだから、どの程度、事件のことを憶えていたり、今度のことに拘わっているのか、仲根には見当もつかない。
「ふーん。それにしても残党がこの近くに潜伏しているというのか。道理で、いやがらせにも手が込んでいると思っていた」
村山虎三は、一連の刺傷事件や脅迫はその連中の仕業かと思いこんでいるようである。
仲根はそれよりも、事件の根はそもそも、武蔵丘をすっぽりと覆う21世紀ネオポリス構想にあると睨んでいるが、黒狼谷の遺恨も、あるいはそれに何らかの形で絡んでいるのかもしれなかった。
「さあ、飲みたまえ」
村山虎三は終始、渋面を作っていたが、仲根に酒をすすめながら、
「その本陣とかいう店にたむろする青二才たち、どんな人間だか調べといてくれませんか。できれば、背後関係も」
むろん仲根は、そうするつもりであった。虎三の退院の日、夏希をしろがね通りの交差点に呼びだす工作をしたのは、どうやら、その連中の仕業のようである。
「承知しました。そのかわり――」
仲根は膝をすすめた。
「――卒直にいって、黒狼谷については村山虎三犯人説というものが、関係者の間で根強いようです。それほどあなたは、恨まれている。十四年前、あなたが三億円の借金を抱えていたという話を聞きましたが、それは本当ですか?」
「誰がそんなことを言った?」
虎三は盃をもつ手を止め、眼をぎょろっとさせた。
「私は真偽のほどを聞いておりますが」
「ふむ」
いったんそっぽをむいた虎三が、「あの頃は不動産屋をはじめて間もない頃で、一つの取引に失敗し、借金していたことは事実だ。それも、きみが言うよりももっと大きい。三億円以上の借金をしていた。しかしそれは、資産をかなり思い切って整理して、片づいた。たかが自分の借金を返すために、東北で苦労している友人たちを襲ったりする狂言強盗などを仕組むか。たわけたことを!」
虎三は怒鳴りつけるように言った。その口調の強さは、噂を強く否定しているわけだが、こういう場合、本人が強く否定するのは当たり前であり、それでもって完全に疑いが晴れたということにはならない。
(依然、真相は藪の中だな)
「ところで、この武蔵丘市に21世紀ネオポリス計画というものがすすめられていること、ご存知ですか?」
仲根は唐突にきいた。
虎三の反応は鈍い。彼はまるでどこかよその土地の開発プランでも聞いたような顔で、
「ネオポリス……? 知らんな。何のことだ」
地元の顔役であり、不動産の仕事をやっている村山虎三ほどの人間が知らないというのは、どういうことだろう。大きな計画というものは、だいたい当事者たちがどんなに隠しても、どこからか必ず、洩れてくるものである。
それを知らないというのは、よほど包囲されて、狙い撃ちされたのであろうか。ふつう、周囲から包囲されて、狙い撃たれるというのは、周囲からの攻撃のことをさすが、村山虎三とその一家は、逆に完全な「情報シャットアウト」の厚いカーテンに包まれたのではあるまいか。
考えてみれば、彼が刺されて半年間も入院していたことは、それ自体、結果的には完璧な情報シャットアウトである。
「言いだした以上、説明したまえ。武蔵丘を舞台にしたその開発プランというものは、どういうことじゃ」
虎三が噛みつかんばかりの剣幕で聞いた。
仲根は概略を説明した。
「なにィ」
と、村山虎三は血相をかえた。「けしからん。どこのやつらじゃ、地元のこのわしに相談もなしに!」
村山虎三が怒ったところで、構想自体はもっと上の段階で仕組まれ、進められ、舞い降りてきているのである。ありていにいって虎三は不動産会社の社長ではあるが、市議会議員でもないし、政治的顔役でもない。
それでも、地域の名門で人望も厚かった「旧家村山家」の農業当事者なら、地元対策に重視されていたかもしれないが、自分からそれをすてて、「不動産業界」に進出し、「地方実業家」の顔をしている以上、ひとたび、彼以上のスケールの大きな「資本」の進出に会うと、それこそひとたまりもなくはじきとばされたり、無視されたり、踏みつぶされたりするのである。
それにしても、虎三の怒りは凄まじい。それも帰するところ、
(――無視され、自分の顔に泥を塗られた)
という怒りであった。
この分では、夏希の夫、雅彦がそのプラン当事者の一人だ、などと話をすると、どのような流血の惨事を引き起こすかわからない。
それを用心して、仲根はそのネオポリス計画に雅彦のQ組が拘わっていることは、伏せることにした。夏希もまた、それを心配して、今のところはまだ、虎三にネオポリス計画のことは話していないのかもしれない。
「いずれにしろ、こういう問題に関しては、ただやみくもに怒っても仕方がないことです。それより、まだ構想段階ですから、今のうちに冷静に推移を見守り、核心を掴んで、もしその計画にまっ向から反対なら、どこにどう楔《くさび》を打ち込めば撤退させることができるかを考えるほうが、賢明というものでしょう。私のほうも、一連の脅迫事件との拘わりを含めて、もう少し調べてみますから、次の報告をお待ち下さい」
仲根はその夜は、そう言って、会見を終えることにした。虎三は最後に、謝礼金の入った封筒をさしだし、「いろいろ世話になるが、今後ともよろしく頼みます。これは些少だが、東北旅行やもろもろの実費と思って、収めておいていただきたい」
仲根は、その費用を遠慮なくもらうことにした。
仲根が立ちあがった後も、虎三はまだ坐って、何やら荒れくるう気持ちを鎮めるように、広い座敷でひとりぽつんと、飲みつづけていた。
仲根は玄関で靴をはいた。
仲居に見送られて料亭を出ると、黒い板塀の外に車が横づけられていて、ライトが点滅した。
仲根が近づくと、助手席のドアがひらいた。
「ありがとう」
紺野真弓が、愛車のフェアレディで迎えにきてくれていたのであった。
「調査費が入ったぞ。懐はあったかい。さあ、やってくれ。次に回ろう」
「――現金な男」
真弓が笑って、車をスタートさせた。
「行先はわかっているな」
「地図で調べといたわ」
仲根はその夜、その足で陣馬通りの「本陣」という居酒屋に寄ってみるつもりであった。
黒狼谷の残党と思われる瀬高六郎という男が経営しているらしく、そこにスーパーのガードマンの神田卓郎という男も出入りしているというから、もしかしたら、何かが掴めるかもしれないし、掴めなくても今後のために、見ておくのも、損はないと思った。
車は夜の街を走った。
「ところで、村山虎三さんは武蔵丘ネオポリス計画について、何か知っていたの?」
運転しながら、真弓が聞いた。
「知らなかったな。それで随分、怒っていたぞ」
「でしょうね。今に市役所にでも怒鳴り込んでゆくんじゃないの」
「市役所はまだいっさい、表に出ていない。これは行政に拘わりなく、民間デベロッパーの開発計画だからね」
「黒狼谷のほうは?」
「依然として断固否定」
「真相は藪の中――」
「まあ、そういうわけだ。ともかく、〈本陣〉に期待しよう。そこが魔窟であるかどうかは、入ってみるとわかるだろう」
車は幾つかの街角を通り抜けて、陣馬通りにやってきた。表通りと平行して走っている裏通りである。めざす「本陣」は、その中でもデパートの裏手に位置していた。
今、ヤングにはやっている居酒屋チェーンふうの店で、格子戸に縄のれんという和風の造りにはそこそこ、郷土料理の店という渋い風格もあった。
横には駐車場もある。そこに車を置いて、仲根が真弓をつれて入ると、
「いらっしゃいませ」
板前の威勢のいい声が響いた。
店内はカウンターと、テーブル席が四つあるだけだったが、ほぼふさがっている。
「奥へどうぞ」
意外にも、奥に座敷席があるようであった。
仲根たちは奥へ入った。
のれんをくぐった奥には、衝立で仕切られた畳のテーブル席が、左右に四つずつ並んでいる。本陣は奥のほうが広いようである。
「このへんでいいかな」
仲根は真弓を促して、手頃な席に陣取った。
その後ろには「予約席」というリザーブ札が立てられていて、無人テーブルである。
「なににする?」
「寄せ鍋」
「それもいいが、ここには猪《しし》鍋もあるぞ」
仲根は献立書きを見ながら、都心部ではお目にかからない鍋ものに注意を惹かれた。東京もここまでくると、丹沢山塊に近いので、ひなびた猪鍋がある。
といっても、今は猟果としての野生の猪であるより、イノブタである場合が多い。
仲根はその猪鍋と酒を注文した。
「私……車だけど」
「酒を飲んだら、車は置いてゆくさ。この町にもモーテルやラブホテルはある」
「お久しぶりのお誘いかしら」
仲根は聞こえなかったふりをして、「それより、話を聞こう。真弓は今日も、三星銀行筋の令夫人から21世紀ネオポリス計画について話を聞いてきたんだろう」
「ええ。だいぶ、全貌がわかってきたわ」
「教えてくれないか」
――本陣というこの店の経営者、瀬高六郎という人間がどの男なのか、今のところは見当もつかない。おいおい、店内の観察をすすめることにして、まずは真弓から報告を聞くことにした。
真弓の話によると、「やはり、21世紀ネオポリス計画の表だった実施主体者は、北急デベロッパーと大手建設会社Q組あたりのようね。そもそもは、ウオーターフロント計画と、全国リゾート開発計画に対置される、もう一つの内陸衛星都市構想ですって」
ウオーターフロント計画というのは、東京湾や隅田川など、水際都市再開発のことであり、全国リゾート開発計画というのは、一昨年六月に国会で成立した「総合保養地域整備法」を受け、今、内需拡大と地域開発の核として、全国百六十一ヵ所で進められている会員制別荘やリゾートマンションやホテルなど、余暇施設整備事業のことである。
そうしたものと対置されているだけに、21世紀ネオポリス計画は、従来の団地やニュータウン作りと違って、超贅沢な近郊マンション作りであった。売り出し価格たるや、都心部でもないのに最多価格帯で二億円とか三億円とかになるというから、文字通り、二十一世紀にむけての夢のデベロッパー作りであった。
真弓はこのところ、友人のつてをたどって、旧財閥系の金融資本、三星銀行の頭取夫人に接近して、そこから21世紀ネオポリス計画のアーバンデザインを聞きだしていた。
三星銀行というのは、北急デベロッパーや大手建設会社Q組のメインバンクであり、つまりは武蔵丘の「21世紀ネオポリス計画」の実質的な資金源となるメインバンクである。
真弓の女子大時代の同窓生が今、その銀行筋の女帝といわれる三星亜矢子という財閥夫人の秘書をしており、真弓はそこに出入りしているうち、そもそもはこの話を聞きだしてきたのであった。
それだけに、細部の細かいディテールはわからなくても、構造的には核心をついた部分を掴んでいる。銀行筋からみる限り、21世紀ネオポリス計画は、「東京の過密解消」とか「サラリーマンに安い住宅を」などというお題目とは拘わりなく、あくまで「金儲け」のための超豪華な「仕掛け」なのである。
早い話、一つの超高層マンションの見晴らしのいい二十一階の部屋が、六LDKというイランの王様が住むような贅沢な部屋になっていて、霞たつ関東平野から富士山も丹沢も一望できる「眺望権」を入れて、分譲価格二億円とか三億円とかの話は、およそサラリーマンが購入できるような話ではない。
その名も「近郊リゾート型マンション」。つまり大会社の社長のセカンドハウスか、財テクで余生をおくる高額貯蓄者や、高額年金生活者の別荘マンションといった趣きのものである。
日本が豊かな経済大国から長寿大国、余暇時間大国になるにつれ、いずれそういうものも出現するだろうと考えられてはいたが、いまだ木造モルタルアパートに住む独身ハイミスター、仲根俊太郎のありようからいったら、溜め息が出そうな話である。
仲根の感覚からすると、地上げか財テクで稼いだ連中か、脱税社長か脱税医師くらいしか住めないと思えるのだが、案外、ほかにも金持ちがふえているのかもしれない。
「しかし、解せんな。それほどの計画が、まだ正式に発表されてはいないなんて」
「客集めの宣伝の都合もあるでしょうし、もうすぐ発表するみたい。計画地域内の土地買占めが安心するところまで進むまでは、こういう計画はめったに発表しないものよ」
真弓はそう言った。本陣はそろそろ、座敷にも客が混んできた。だがまだ、マスターの瀬高という男は現われない。
「すると、これからのターゲットはやはり、三星亜矢子あたりになるのかな……?」
「そうみたいね」
「よし。腕によりをかけて頭取夫人に接近するか」
三星亜矢子という女性は、もともとは民放テレビ局の花形ニュースキャスターとして名を売った女性であった。
その才色兼備ぶりと、華やかさを三星銀行の本店頭取の御曹子、秀憲に見染められ、放送界を引退して結婚した時、「玉の輿にのった」とか、「世紀のロマンス」など週刊誌で騒がれたものだが、三星財閥の中に入ってからは、良妻賢母といわれるくらい、おとなしく暮らしていた。
ところが、夫の秀憲がジュニア頭取として財閥全体を指揮しはじめて間もない二年前の真夏、軽井沢のゴルフ場で突然、過労とストレスが原因で倒れ、急性心不全であっけなく世を去ってしまったのである。
それ以来、亜矢子は秀憲の未亡人暮らしをしている。もっとも、女子大卒の頭のきれる女だから、財閥内で夫の遺志を継ぐという形で、はやくも実権を握りつつあり、実質的には女帝になりつつあるともいわれる。
もともと、「武蔵丘ネオポリス計画」は、銀行屋としては珍しく、大学の建築科を出た三星秀憲の秘策プランだったらしく、彼が亡くなったあと、その構想に参加していた建設会社Q組と北急デベロッパーあたりが主導権を握り、かなり強引に事業を進め始めているらしい。
「で、三星亜矢子はこれについて、どう思っているんだろう?」
猪鍋をつつきながら、仲根は真弓に尋ねた。
「どうって……。現在の進行状況の具体的なことは案外、知らされていないのかもしれない。北急やQ組の動きを、私に聞いたくらいだから。彼女としては、夫の遺志なら、それを実現したいのは山々でしょうけど、実際にはネオポリス計画は三星家の手をはなれて、勝手に動きだしているみたいね」
「じゃ、脈はあるな?」
「どういう脈?」
「もう少し事情をみてだな、21世紀ネオポリス計画がもし何らかの黒い部分をもっていて、どうしても阻止したいようだったら、その三星亜矢子あたりをターゲットにすると、阻止できるかもしれんじゃないか。メインバンクのご意向となると、北急もQ組も、そう勝手に動くことができなくなる」
仲根がそう説明している時、一組の男女が入ってきた。その男の顔をみて、仲根はあっと声をあげそうになった。
男のほうは暁興業の地上げ屋、河野又造なのである。新宿歌舞伎町で顔を憶えて以来、世田谷区粕谷のアパートでもみたし、柿生《かきお》の住宅街の中の白い家でもみたし、そのあくの強い顔を忘れるはずはなかった。
さいわい、河野のほうは仲根に気づかないようである。通りすぎる時、仲根はうしろむきになったので、気づかなかったのかもしれない。
仲根は真弓に顔を寄せ、
「ちょっと、席をかわってくれないか。危《やば》いやつがはいってきたよ」
真弓は顔をあげずにさりげなく観察し、あ、と小さな声を洩らした。
「河野じゃないの」
「そう。きみも顔を知られているのか?」
「いえ、私は知ってるけど、むこうは私のことを知らないはずよ」
「それなら都合がいい。かわろう」
仲根は真弓と席をかわって、顔が見えない角度に坐り直した。
「本陣。やはり曰くある店だったのね。意外な兎がかかったじゃないの」
「シッ、声が高い。素知らぬふりをしていろ。あいつ、警察に手配されてるはずなんだが、どういう神経なんだろう」
仲根が頭の中で整理するまでもなく、河野又造といえば、長崎で村山夏希を襲った三人組の一人であった。いったんはどこかに高飛びしていたが、ほとぼりが冷めたと思って、また舞い戻ってきているのであろうか。
もっとも、八月のあの廃屋での坂本兼造の事件に関しては、河野が真犯人とは思えない。だが、あの時の三人組の首魁なので、隠れた主犯だったかもしれないし、殺人教唆罪が成立するかどうかは別にして、共犯または重要参考人であることは間違いないのであった。
(どうするか……?)
仲根は盃をぐっとあけながら、すばやく頭をめぐらした。この機会を逃せば、またどこかに潜伏してしまうかもしれない。折をみて柿生署に通報するのが、一番賢いやり方かもしれない。柿生署から担当刑事がくるまで、こちらで見張っていればいい。
(うん。それが一番いい方法かもしれないぞ……)
仲根がそう考え、立ちあがる機会を探していると、その河野らの席に新しい女客が現われて加わり、急に座が賑わいたちはじめた。
河野又造たちの席に新しく加わった女は、厚味のある華やかな女であった。和服を着て、髪をアップにしているが、水商売というようではなく、四十代の盛りの孔雀のような印象で、まわりからは社長、社長と呼ばれているところをみると、この地方の女実業家なのかもしれなかった。
白衣姿の前掛けをはずしながら、最後にカウンターから出てきてその席に合流した男が、どうやら、この本陣のマスター、瀬高六郎という男のようである。こうしてみると、大テーブルの予約席は、予めそこで数人が落ちあうことになっていた密談の場所のようであった。
(――本陣は予想通り、魔物たちの棲み家だったようだ。みんなが帰らないうちに、通報を急いだほうがいいな……)
仲根はそう決心し、
「おれはちょっと、柿生署に電話してくる。きみはあの連中の話の中身をそれとなく聞いといてくれないか」
真弓の耳許で囁いた。
「俊さんは電話をして、また戻るの?」
「さて、どうしよう。河野は今のところおれの顔を思いだしてはいないようだが、あまりうろうろしていると、目立って憶いだすかもしれない。電話をかけたら、おれは外の車の中に待っているから、真弓も折をみて、店を出たほうがいいかもしれんな」
「わかったわ。そうする。で、ここのお勘定は?」
「あっ、そうだったな。しっかりしてやがる」
仲根は一万円札を二枚、真弓に握らせ、かわりに真弓から車のキイを受けとって、そっと席を立った。
見回すと店の片隅に電話はあったが、警察への電話なので、まずい。そのまま、用事があるふりをして外に出た。
店から少し歩いた街角に、電話ボックスが見えた。仲根は急いでそこまで走り、ボックスに飛び込むなり、カードを差し込み、手帳を見ながら柿生署にプッシュをした。
柿生署では何度か絞られたので、担当刑事の顔と名は憶えている。夜間なので、顔見知りの刑事はいなかったが、かわりに中堂という古参刑事が居残っていた。
仲根が用件を話すと、
「ほう! 河野が」
「はい。今、本陣という店で飲んでいます」
中堂は一時間以内に相棒をつれて、パトカーで駆けつけるという話であった。
「店の横に、駐車場があります。私は車内灯を消してフェアレディの運転席に坐って、それとなく見張っておきます」
車のナンバーと店の名前と所在地を教え、仲根は電話を切った。
駐車場に闇が深かった。
仲根は警察に通報をしおえると、真弓の車に戻った。柿生署の中堂警部補は一時間以内にくると言っていたが、パトカーなら、三、四十分で着くかもしれない。
(それまで、河野らが出なければいいが……)
車内灯を消したまま、運転席に坐って待機した。煙草に火をつけ、気持ちを鎮めるように軽く吸いながらも、仲根はフロントガラスから、本陣の表に警戒の眼を怠らなかった。
そこからだと、出入りする人間がよく見えた。また、河野らのグループは四人もいたので、誰かこの駐車場に車を乗り入れているに違いなかった。
四十分ほど待った時、黒い覆面パトカーが一台、音もなく駐車場にすべりこんできた。
仲根はライトを点滅した。パトカーから降りたった四人の男のうち、一人が仲根の車に近づいてきた。
窓ガラスが叩かれ、
「仲根さんですね」
中堂警部補であった。
「河野はまだいますか?」
「います。あの店の一番奥のほうの席です。ご案内しますか?」
「いや、あなたはここで待っていて下さい」
中堂は二人の刑事に眼くばせし、てきぱきと動き出した。
二人の刑事を店の表に待たせ、中堂と宗田という見憶えのある若い刑事が店内に踏み込んでいった。
河野又造がただの参考人程度なら、逮捕ではなく任意同行を求める、ということになるだろう。しかし河野が反撃に出たり、逃亡の挙に出るようだと、いきなり手荒い場面も想像される。
しかし、店内からは騒ぎらしいようすは何も起きない。怒鳴り声も悲鳴もきこえず、奇妙な静寂――。
やがて、その店の中から飛びだしてきたのは宗田刑事で、仲根をみつけると、
「ちょっと、なかへ来て下さい」
その様子が変だったので、
「どうしたんです?」
「河野又造なんか、どこにもいやしないじゃありませんか。あなたのおっしゃる席はからっぽで、誰も居やしませんよ!」
「そんなはずはありません。ぼくはずっと、表を見張ってたんですよ。あなたがたが来る間、連中は誰一人、店からは出ていません」
「ともかく来て下さい。あなたの連れの女性という方も、どこにもいません」
「ええッ?」
真弓までがいない――。
どういうことだろう。
仲根は宗田にせき立てられて、店の中に入った。手前のエリアではなく、のれんをくぐった奥の座敷には、かなり客が減っていた。
「どこなんだね。河野らがいたのは――」
待っていた中堂警部補が苛立たしそうに、仲根に問い糺した。
「そこですよ」
指さした仲根は、愕然となった。さっきまで飲みながら何やら密談していたはずの河野又造らの席はなるほど、からっぽである。
誰もいないだけではなく、テーブルもきれいに片づけられている。その上、隣のテーブルに残っていたはずの紺野真弓の姿もなく、仲根たちが飲んでいたテーブルも、きれいさっぱりと片づけられていた。
――これは、人消しだ……。
「おい、真弓、真弓ッ」
声をあげて仲根は奥のドアをあけて、手洗いに通ずる通路を探した。が、トイレまで全部、探したが、真弓の姿も見えなければ、河野又造やあの中年女たちは、どこにも誰一人、いやしない。
(うーん。裏口から逃げたのかな。しかし真弓まで消えているとなると、彼女は何やら重大な話を聞いたため、口封じに誘拐でもされたことになるのではないか)
仲根は微かな戦慄に襲われた。カウンターのほうを見回したが、マスターの瀬高六郎らしい男は、どこにもいなかった。
仲根は中堂警部補に、詳しく説明し、
「やつらはどこかに隠れているか、裏口から出たに違いありません。ぼくの連れの婦人記者まで消えてるんですから、重大なことですよ!」
仲根の剣幕に、中堂もその言い分を信じたようで、店員をつかまえては警察手帳をみせて、逃亡者たちの聞き込みをはじめていた。
――と、仲根はあることを思いついた。表からみた店の構造では、雑居ビルの一階なので、店内のどこかに二階、三階に通じる階段があって、連中は警察に通報されたことを知って、二階以上の階に逃れて隠れひそんでいるのではないか。
「ちょっと――」
仲根は店内で聞き込みをつづけている中堂警部補に耳打ちした。
「連中は二階に逃げたのかもしれません。表には出なかったのですから、どこかに階段があるはずです」
「うむ。そうだな」
中堂警部補はすぐに応じて、部下を指揮して、奥のトイレへ通じる通路の横にあった階段を見つけだし、二階へ駆けあがった。
仲根もそのあとからのぼった。二階には幾つかの部屋があった。店の主人や店員たちの居住区となっているようであった。刑事たちは片端から部屋をあけていったが、
「いないな。畜生、どこに逃げやがったんだ」
芦屋という若い刑事がののしり声をあげた。
仲根はさらに三階にのぼった。小さなビルだが、雑居ビルであった。エレベーターもあるが、階段もあった。三階の通路はまっ暗だった。そこから五階までは、テナントの貸オフィスになっているようであった。
廊下の電気をつけて、各部屋をあたってみた。鍵のかかっている部屋が多かった。その部屋ごとが、独立した会社のはずなので、鍵を持ってはいない河野又造らが逃げこんでいるとは思えず、捜索を除外することにした。
端の部屋にきた時だった。中でことりという物音がした。仲根はそのドアをあけ、様子を窺った。闇の中に微かに人の気配がする。
「誰かいるのか」
返事はない。
壁を手でさぐって部屋の電気をつけようとした時、不意に黒い突風のようなものに体当たりされた。
「――キショー! 誰だっ」
体当たりしてきたのは、大男だった。壁に突きとばされそうになって、相手の襟首を掴んだ。そのまま、押してゆきながら足払いをかけて力まかせにとり押さえようとした瞬間、反対に相手から股間を蹴りあげられていた。
強い膝蹴りだった。うっと仲根がうめいて前にくずれかかった時、ぐわわあん、と後頭部を激しく鈍器のようなもので殴られた。彼の意識はそのまま闇の中に吸いこまれ、どこか深い奈落の底に落ちてゆくような気がした。
「おい、大丈夫かっ」
耳の傍で呼びかける大声を何度も耳にし、仲根が軽い吐き気とともに意識をとり戻すと、そこは先刻の部屋で、仲根は床に寝かされており、中堂警部補が覗き込んでいた。
「やつらは?」
「一人だけつかまえた。あんたを殴ったこの店のマスターの瀬高だ。だが、河野又造は車で逃げやがったよ」
仲根が意識を失っている間に、そこそこの捕り物があったらしい。だが、暴行現行犯でつかまったのは、「本陣」のマスター、瀬高六郎だけで、肝心の河野又造はそれよりも一足先に、車で逃げてしまったらしい。
「すると、おれは殴られ損か」
仲根がいまいましそうに呟くと、
「そうでもない。あんたが踏み込んだ部屋に、つれの婦人記者がつれこまれてたんだ。われわれがビル全体を調べなければ、紺野真弓さんは危なく誘拐されるところだったぞ」
中堂に促されて仲根が視線をまわすと、真弓がそのうしろに青ざめて立っていた。短い時間だったが、本当に恐い思いをしたらしく、柄にもなく慄えている。
「俊さんったら、ひどい。私を一人で置き去りにするから、危ない目にあったのよ」
――真弓によると、仲根が警察に通報しに行っている間に、河野又造らはそれに気づき、四人とも裏口からこっそり出て、道路に駐めていた車にのって逃走しようとしたらしい。その時、衝立一枚へだてて見張っていた真弓の存在も河野又造に気づかれ、一緒に表に出ろと脅迫されて、裏口から外に連れだされたらしかった。
「私も、もう少しでその車に連れ込まれるところだったのよ。私があまり暴れるから、手に負えなくなって、河野たちは先に車をだし、瀬高という男が私を裏口からビルに連れ込んで、三階までエレベーターで引っぱりこんだのよ。――ひどい連中だったわ!」
大手建設会社Q組の本社は、東京・千駄ケ谷駅近くの大きなビルの中にあった。
仲根はその日、名刺一枚で村山雅彦に不意打ちしてみようと、退社時刻ぎりぎりを狙って、本社ビルを訪れてみた。
受付で村山雅彦の名を告げると、
「少々、お待ち下さい」
フロアで待たされた。
受付嬢は、内線電話で雅彦と連絡をとっているようであった。
その間もエレベーターからは、次々に退社する男女社員が吐きだされていた。この分だと、雅彦も退社する支度をして現われるかもしれない、と思った。
なりゆきによっては、新宿あたりの酒場に誘ってもよい、という目論見をもって、退社時間ぎりぎりを狙ってやってきたのである。
「今、参るそうです。もうしばらくお待ち下さい」
仲根は現代舎の名刺ではなく、契約記事を書いている有名週刊誌の記者という名刺をさしだしていたので、受付嬢はばかに丁重であった。
しばらくして、エレベーターが開いた。大勢の男女の中で、ひときわ身だしなみがよく、長身の美青年が、若いOLの肩を叩いて高笑いしているのが、開いた瞬間のドアから見えた。
社員たちは、そのまま吐きだされた。一人だけ、受付のカウンターのほうに歩いてゆく男がいた。それが、さっき、OLたちとふざけながら高笑いをしていた村山雅彦であることがわかった。
彼は、仲根のほうをふり返った。
「あの方です」
受付嬢が指さしていた。
彼はまっすぐ歩いてきた。
「村山ですが、何か?」
仲根は椅子から立ちあがってむかいあい、改めて、名刺をさしだした。
「お忙しいところ、申し訳ありません。武蔵丘市で計画されている21世紀ネオポリス建設構想のマスタープランについて、担当設計技師でいらっしゃいます村山さんに、ちょっと、お話をおうかがいしたいと思いまして」
雅彦はぎょっとした顔で、
「それについては来週、正式発表することになっていて、まだコメントすることができません。――あなた、広報を通したんですか?」
広報というのは、大会社がたいてい、本社機能の一部に設けているもので、新聞記者やマスコミを相手にする窓口であり、また、自社の事業や商品をPRしたりする窓口であった。
「いえ。広報にはまだ通してはいません。村山さん、私はあなたに直接、お会いしたかったものですから」
「困るな。ぼくには、お話することはない。会社の機密を、現場の人間がマスコミの方にペラペラと喋ったりするとお思いですか?」
「思いません。でも、あなたは武蔵丘の居住者です。地元武蔵丘市民としては、そのネオポリス計画、たいそう関心がつよい事柄ですから、あなたはそれに対して説明する義務があります」
仲根がやや強く言うと、雅彦はいやな奴だというふうに、名刺をじろじろと眺め、
「おたく、週刊世相の記者となっていますが、現代舎の仲根俊太郎さんじゃありませんか?」
「ほう。名前を存じていただいているとは、光栄ですな」
「家内に聞いております。しかし現代舎なんていう妙な情報屋さんが、どうして21世紀ネオポリス計画などを嗅ぎまわってるんです?」
「地元で大変関心が高い。ですから、スクープしたい。当然でしょう」
「そりゃ、おかしい。この計画はまだ発表してはいません。地元では知らない人が多いはずですよ」
「それなら、なおのこと取材する義務がある。本当の姿を、紹介したいのです」
雅彦との応対はしだいに、口論に近い雲行きとなってきた。しかし、雅彦はやがて、
「ともかく、あなたは失礼です。|アポイント《予約》も入れずに、面会を求めるとは、何事です。万事、広報を通して下さい。ぼくには断じて、お話することは何もない」
その時、エレベーターが開いて、重役ふうの男が秘書を従えてフロアに現われ、仲根と立ち話をしている雅彦のほうへちらっと視線を走らせ、
「村山君。どうしたんだ? 車は来てるんだろう?」
「は、はい。ただ今――」
雅彦が緊張して答え、
「ぼくには用事があるんだ。失敬する」
くるりと仲根に背をむけて、あわてて出口のほうに走り去った。その去り方は、いかにも仲根から逃げだすような具合だったし、これからゆく用事に重大な意味があるようにも見受けられた。
表に二台、黒いハイヤーが横づけにされていた。
前の車に重役ふうの男が秘書を従えて乗り込み、うしろのハイヤーに村山雅彦ともう一人、部課長クラスの人間がのりこむ姿が、ちらっと見えた。
(接待の宴会か、関連他社との密談だな)
仲根はそう判断した。そしてそこまでやるつもりでQ組の本社に押しかけたのではなかったが、村山雅彦の応対がいかにも仲根から逃げだす、という具合だったので、やらざるを得ないようだと判断した。
つまり、村山雅彦らのハイヤーがどこにゆくかを、突きとめてみることである。
さいわい、本社ビルの表に出ると、タクシーは何台も流れていた。それに、道も混んでいて、すべりだしたばかりの二台のハイヤーは、すぐ先の信号で渋滞していた。
仲根はタクシーに乗った。
「信号待ちしているあの帝都ハイヤーのうしろにつけてくれないか。鞄持ちのぼくだけ取り残されているんだ。平《ひら》はつらいよ」
運転手は苦笑しながら、
「どちらまで?」
「たぶん、赤坂だと思うけど、よその料亭かもしれない。ぼくはいつも黙って尾《つ》いてゆくほうでね」
ハイヤーは流れだした。タクシーは着実にそのうしろにつけてくれた。すっかり夜の粧いに入った街を眺めながら、村山雅彦たちはどこにゆくのだろうと考えた。
「あれッ。赤坂じゃないみたいだな」
ハイヤーは青山から六本木方向へ走り、さらに芝公園方向にむかっているのであった。
「お客さん、尾行じゃないですか」
運転手が二度目の苦笑を浮かべた。
「見破られたかな」
「服装からして違うもの」
「ということは、人種も違うという訳か」
「マスコミの人だとすぐわかりますよ」
「仕方がない。そういうやくざ商売さ。しっかり尾けてくれないか」
運転手はかえって張りきって走ってくれた。
――結局、二台のハイヤーは芝公園から三田二丁目の慶応大学の傍を通って、綱町の高台の静かな一画にはいってゆく。
このあたり、旧財閥の三星家の広大な敷地がある一帯である。案の定、ハイヤーは長い塀の傍を通って、「綱町三星倶楽部」とよばれる鹿鳴館のような明治洋館のある緑の敷地の中にすべりこんでいった。
「どうします?」
「はいってみよう。車寄せまでやってくれ」
綱町三星倶楽部――。
戦前まで、日本に冠たる金融財閥であった三星家は、北家、南家、綱町家、紀尾井家、麹町家など一族七家から成立していて、銀行から鉄鋼、造船、海運、不動産、生命保険など、日本のあらゆる経済界に巨鳥のような羽根をひろげていたが、そのまとめ役にあたっていた宗家が、この綱町家であった。
財閥が解体された戦後も、三星家はいろいろな形で全産業界にまたがって広い傘を広げているが、その結束を確かめあうために盆暮や、先代の命日などになると、一族七家の代表が集まって各種の行事をとりおこなう。そうした際の集会所となり、サロンとなるのが、この「綱町三星倶楽部」であった。
建物は古色蒼然。森の中の銅屋根に三階建ての煉瓦建築。なかには鹿鳴館もどきの大ホール、小ホール、宴会場、食堂などがあり、この二階と三階の数室に、今でも会長未亡人の亜矢子が秘書を従えて住んでいる、という話を、仲根は真弓から聞いていた。
その敷地の中に、先行する二台のハイヤーはすべり込んで行ったのである。
三星銀行は、21世紀ネオポリス計画でもメインバンクなので、建設主体者となるQ組の幹部が、会長夫人のところにご機嫌伺いに伺候するのも当然だが、ただのご機嫌伺いではなく、何らかの会合でも開かれるのかもしれない。
仲根は二台のハイヤーが車寄せに横づけされて、重役や村山雅彦らが玄関に入ってゆくのを見届けてから、タクシーを車寄せにつけた。
降りようとすると、制服の執事が近づいてきてドアをあけ、
「いらっしゃいませ」
恭しく言いながら、
「失礼ですが、どちらさまでしょう?」
眼は厳しく光らせている。
「津島さん、いますか?」
ここの女主人、亜矢子の秘書の名前が津島怜子といい、真弓の友人であることは以前から、話に聞いている。仲根はそれを思いだしたので、図々しく押し入ってきたのである。
「はい。いらっしゃいます。ご予約でしょうか?」
「そうです。ちょっと呼んでいただけないでしょうか。ぼく、こういう者です」
仲根が名刺をさしだすと、玄関脇の守衛室に入ってどこやらに電話をかけていた執事が、また戻ってきて今度は恭しく、
「どうぞ、こちらでお待ち下さい」
執事は、仲根を案内して、玄関をはいったところの広いロビーの片隅にある控え室に通した。
その控え室の小部屋でさえ、ドーム型の円天井にはフレスコ画が描かれ、周囲の壁には重厚な油絵が懸かっているといった具合で、壊されないまま残っている明治欧風建築の遺風といったものが偲ばれた。
十分ぐらい待たされた時、ドアがひらいて、きりっとしたスーツを着た会長夫人秘書の若い女性が現われ、
「お待たせいたしました。津島ですが」
「初めまして。ぼく、真弓の友人の仲根です」
「あら、あなたが仲根さんですか。真弓から聞いています。真弓のボスですってね。その仲根さんが――今夜は何か?」
「ええ、ちょっと通りかかったものですから津島さんにご挨拶かたがた、もしご都合がつくなら、夫人にお会いしたいと思いまして」
「あいにく、会長夫人は今夜は来客がありまして、都合がつきかねると思いますが」
「来客というのは、Q組の方々ですね?」
「あら、知ってらっしゃったの?」
「実は、さっきのハイヤーを千駄ケ谷のQ組本社から尾けてきたら、この綱町倶楽部の敷地内に迷い込んできたんです。今夜は何か会合があるのですか?」
「会合というほどではありませんが、武蔵丘の21世紀ネオポリス計画の進行具合について、会長夫人じきじきにQ組の方たちから報告を受けよう、ということで、夕食会を用意しております」
(なるほど、それで重役だけではなく、現場設計担当者として村山雅彦も呼ばれたわけか。どこかにもぐり込む手はないかな)
――仲根は一応、そう考えたが、しかしそこまでするのはいくら何でも浅ましすぎる、とも思い直して、
「津島さん。あなたを真弓の友人だと信頼してお願いするのですが、その夕食会の話の中身、しっかり聞いておいてはいただけないでしょうか。あとで、真弓がお伺いすると思うんですが」
「三星銀行および会長夫人に、さしさわりのない範囲のことなら、真弓に伝えましょう。――それより、せっかくですから、ゆっくりしていらっしゃいませんか。会長夫人も夕食会のあとなら、お会いすると思いますが」
「いえ、それまで待つ時間もありません。また改めて、出直して参ります」
今夜はこれぐらいで引退がったほうが賢明だと判断した。少なくともQ組の重役や村山雅彦が、三星銀行会長夫人と会うところまで、事態が進行していることを確認したのだ。
仲根は、外に出た。うっそうとした森が静まる高台は、深い闇に包まれていた。
(あら……?)
夏希はキイを抜きとろうとした時、フロントガラスに眼を凝らした。
ちょうど、駐車場に入ってきた一台の車の中に、見憶えのある顔を見たのだ。
(蓮見康子だわ)
父の愛人、康子が車を運転することも知らなかったが、その助手席に若い男が乗っているのも意外であった。
夏希が見ているうちに、康子は車を駐車場の端に駐めて、運転席から出てきた。若い男が後ろに従っていた。その男は、いつぞや新宿のデパートで夏希が垣間みた男であった。あの時はたしか、康子はその男にネクタイを買ってやっていたように記憶している。
康子たちが傍を通りかかった時、夏希は、ついはっとして反射的に運転席に身を縮め、顔を隠したくらいであった。何とはなしに、見てはならないものを見てしまったような気がしたのである。
さいわい、二人には気づかれなかったようだ。二人は宝栄ビルの裏口から、ビルの中に入って姿が見えなくなった。
あるいは、深く考えることもないのかもしれない。康子たちも「ブティック・ブネ」の開店パーティに行くためにやってきたのかもしれない。宝栄ビルには開店ブティックだけではなく、喫茶店やレストランなど、たくさんの店舗が入っているので、あの二人は何かの知りあいで、たまたま喫茶店にでも立ち寄ったのかもしれない。
夏希はそう思うことにして、BMWから降りた。キイをバッグにしまい、花束を抱えて駐車場からビルの表にまわった。
その日、カルチャーセンターで席を並べていた富沢美智子が武蔵丘市内にブティックを開いたので、午前十一時から行われる開店パーティの案内を、数日前から受けていたのである。
富沢美智子とは以前、雅彦との仲を問い糺すために喫茶店に呼びだすなど、険悪な間柄ではあったが、その後、それが夏希の思い違いであることがわかって仲直りをしていた。ファッション関係に勤めていたが、その会社の出店の一つを委せられて、この武蔵丘市にオープンするのであれば、心から祝ってやらねばならなかった。
なるほどその店は、寿通りの宝栄ビルの一階の右スペースに華々しくオープンしていた。
夏希が思いだすまでもなく、その新しい雑居ビルの二階には、橋本珠江のビューティーサロンや貸ホールも入っており、いつぞやは二階のそのパーティ会場に注文の花束を届けたこともあるビルだった。
都市ビルの機能は複合化し、たくさんの資本が集積しつつあるので、ひとつのビルの中に幾つかの偶然が構築されても、それ自体は少しも不思議ではないのだった。
そう思いながらも、珠江が関係している宝栄ビルの中に、富沢美智子がブティックを開いたり、今また、父の愛人の蓮見康子が出入りしたりするのをみると、何とはなしに気になって、夏希は心穏やかではなかった。
(ばかねえ。さあ)
夏希はひるみそうになる気持ちをふるい起こして、ブティックの表に立った。
店内がそのまま、オープニング・パーティの会場になっていて、関係者がたくさん詰めかけていた。夏希が花束を抱えて入ってゆくと、奥で客の相手をしていた美智子が、にこやかな笑顔で近づいてきた。
「素敵なお店ができたじゃないの。おめでとう」
夏希は携えてきた花束を差しだした。
「もっと早く連絡してくれれば、もっと豪華な盛り花を飾ってあげられたのに……」
「ありがとう。狭いお店だから、そんな豪華な盛り花ではもったいないわ」
美智子は狭い店などと謙遜しているが、なかなかのものである。
夏希は店内を見まわした。若い女性むきのDCブランドやワンピースなどの着付けをしたマヌカンの間に、シンプルな棚や陳列ケースが並び、さまざまな服の色彩自体が見事な室内装飾になっている。狭いがその狭さが逆に高級店らしい雰囲気をかもしだしている。
「みんな、高そうね。私なんか利用するところではないみたい」
「そんなことないわ。派手な飾りつけをしているけど、よく見るとどれも安いのよ。だって、地方都市なんだから、夢を売るにもそれ相応の水準を守った生活感をださなくっちゃ――」
言いかけていた美智子が、ところで、というふうに、顔を近づけてきた。
「雅彦さんとは、うまくいってるの?」
「ええ、何とか――」
「そう。それなら、いいけど」
美智子の口調に気になるものを感じ、「奥歯にもののはさまったような言い方ね。何かあったの?」
「ええ、ちょっと――」
「おっしゃいよ」
「でも、ここでは……」
「そうね。せっかくの開店パーティなのに」
夏希が遠慮して引きさがろうとすると、美智子が急に、その腕を掴み、
「奥にオフィスがあるわ。今、そこには誰もいないはずよ。私、あと二、三人のお客様にご挨拶をすませたらすぐに行くから、あなた、オフィスで待っててよ。――ちょっと気になることを教えておきたいの」
囁くように言った。
夏希は高級プレタポルテの数々を、しばらく眼で楽しんでから、奥のオフィスに入った。
事務机と電話があるだけの、狭い部屋だった。夏希はでも、そこの椅子に坐って、ただボケーッと待つのも時間が惜しかったので、手頃な花瓶を見つけだしてきては、水を汲んできて、携えてきたバラの花束を、花瓶に活けて部屋に飾った。
「まあ、きれい」
二十分ぐらいして戻ってきた美智子が、その花瓶をみて、嘆声をあげた。
「ありがとう。夏ちゃんって、いつも働き者なのね」
「こちらこそ忙しいのに、時間を割かせてわるいわ。あなたは今日の主役なんだから、本当はこんな事務所に引っ込んだりしちゃ、いけないんでしょ?」
「少しぐらい、平気平気。もうすぐお昼だし、私だって休憩をとりたいわ」
「で……お話って、なに?」
「あまり、気にしないで聞いてね。――最近、このビルの中で彼の姿を、ちょくちょく見かけるのよ」
彼というのは当然、雅彦のことである。美智子は以前、カルチャーセンターに通っていた頃、結婚前の雅彦とつきあっていた時期があるので、つい、そういう言葉づかいになるのだろう。
「へえ。雅彦はどうしてこのビルに出入りしているんでしょう?」
夏希は素知らぬふりをして聞いてみた。
「女がいるのよ。凄い女が……」
「え?」
「このビルの実質的なオーナーといっていいくらいの凄い女実業家でね、橋本珠江という女が、最上階の八階に住んでいるのよ。彼、時々、そこに出入りしているみたい。私がこの店のオープンの準備に取りかかったこの三週間だけでも、何回も連れだってエレベーターで、あがってゆくのを見かけたわ」
(やはり、予想通りだわ)
夏希は深々とおなかを銛《もり》でえぐられるような衝撃を受けた。
珠江はこのビルの中に、美容院と着付教室や貸しホールを経営するだけでなく、自分も最上階の一室に住み、雅彦を呼びこんだり、武蔵丘市への進出の拠点にしているのであろうか。
(すると、ゆうべも雅彦は、ここに泊まったのかしら……?)
夏希がそれを聞いてみると、
「そうよ。ゆうべも遅くこのビルに入ってくるのを見かけたわ。それに今日は土曜日でしょ、もしかしたら、まだその女の部屋にいるかもしれないわ」
聞かなければよかったが、聞いた以上、夏希の心は抑さえようがなかった。むらむらと、嫉妬と怒りの感情が湧きあがってくる。
場合によったら、今日にでも押しかけていって、不倫の現場を押さえ、いっそのこと、雅彦に対して「離婚します」という強い姿勢を打ちだしたほうが、事態はすっきりするのではないか。
「美智子さん、ありがとう。私、その女の部屋に押しかけてみるわ」
――言葉だけは、平静にいって、夏希は机の上のバッグを取りあげた。
「押しかけるの? へええ、凄い。度胸あるのね」
「度胸なんてものじゃないわよ。想像つくでしょ。これまでもたびたび、あの女と戦争やってるんだから。――今日、ここにきたのも、天の配剤かもしれないわ」
夏希が礼を言って事務室を出ようとすると、
「夏希。押しかけるのもいいけど……あまり無茶してはだめよ」
「無茶……?」
「そうよ。ほら、出刃包丁を振りあげるとかさあ」
「まっさかあ――」
夏希は明るく笑ってみせ、「私、それこそそんな度胸ないわよ。現場に踏み込んで、今日こそ徹底的に、厭味の石礫でも投げつけないことには、気がすまないのよ」
「そう。それならいいけどさあ……。気をつけてよ」
美智子は心配そうに、送りだした。
(私の顔には、出刃包丁でも振りあげるような形相でも、現われていたのであろうか?)
あるいは、そうかもしれない、と苦笑しながら、夏希はブティックの裏口からビル内の通路に出て、エレベーターの前に立った。
階段もエスカレーターもあったが、珠江と雅彦が密会している部屋は八階ときいているので、エレベーターが一番、早いようであった。
ボタンを押してしばらく待つと、搬機が降りてきた。無人だった。
八階まで昇ると、さすがに通路から地方都市の全景が見える。なるほど、七、八階はマンションふうの居住区になっていた。聞いていた八〇三号室の前に立ち、ブザーを押した。
(夫が女といる現場に押し込む。今日こそ、もうあなたなんかとは別れます、とはっきり啖呵のひとつも、切ってやろう)
夏希の気持ちは今、真昼の修羅であった。
ところが、何度ブザーを押しても、中から返事はないし、ドアもあかない。
(あのふたり、白昼から抱きあってでもいるのかしら)
――夏希は柄にもなく、いやらしいことをいっぱい想像した。
するとますます、胸に嫉妬の炎が燃えた。思わずドアの把手に手をかけてみると、意外にも、鍵がかかっておらず、ドアはさっと開いたのである。
なかに入った。通路灯は灯っているのに、奥はひっそりしている。(まだ二人は不貞寝でもしているのかしら?)
毛布をひっぺがえしてやろう。押しかけてきた勢いというものであった。夏希は奥へ歩いた。リビング、ダイニングルームとなかなか広いが、電気はついていない。奥の寝室と思える部屋にだけ、ほんのりとワインカラーの間接照明がついていた。
夏希はその部屋に入った。見えた光景に、ドキンとして足が凍りついた。
毛布はひっぺがすまでもなく、はねられていたのである。裸の女がたった一人、そのベッドの上に寝ていたのであった。
ただ寝ていたのではない。ベッドの上に仰むけになって寝ている女の胸に、ナイフが深々と突きたてられており、そこから血が、真紅の薔薇のようにあふれていたのであった。
夏希の心臓は凍りついた。
(……死んでいる……!)
女の横顔が見えた。間違いなく、橋本珠江だった。
――珠江が殺されている。
起こってはいけないことが起こった。そんな混乱が夏希の身体の中で渦巻いた。一瞬のうちに瞼に映じた幾つかの顔が脳裡でせめぎあい、その混乱をいっそう大きくした。その幾つかの顔は、夫の雅彦であったり、父の虎三であったり、蓮見康子や、近所の口うるさいおばさんたちのものであったりした。
自分が疑われるのではないか、という気持ちがまっ先に襲ってきたのである。思わず後退ったのは、夏希とて今の今まで、叔母の仕打ちを憎み、殺してやりたいほど怨んで、修羅の炎《ほむら》をもやして、この部屋に駆けつけてきたからである。
その叔母の珠江が、一足先に死んでいた。全裸の胸に深々とナイフを突きたてられて――。
その最期のありようは、それ自体はいかにも烈しい生き方をしてきた強欲な女、この珠江らしい姿といって、言えなくもなかった。
傍に近づいただけで、珠江の身体はもう完全に冷めたくなっているのがわかった。
思わず後退ったのは、誰にも知られず、一刻も早く、この場を立ち去らねばならないという意識が、鳴りつづいていたからである。
夏希はそっと寝室から出て通路を歩き、土間で靴をはいて外に出た。誰もいないのを確かめ、夏希は急いでドアを閉め、エレベーターのほうに小走りに走った。ところが、エレベーターは今、下から昇ってくる途中であり、誰か人間が乗っている公算が大きかった。
(鉢合わせしたら困るわ。疑われそう……!)
夏希はとっさに横の階段に走り、ここでも誰もいないのを見すえて、一段ずつ降りた。
階段を利用したのは、結果的にはよかったのかもしれない。一階まで誰にも見られずに、降りることができた。夏希は一階の通路で、
(美智子に助けを求めようか。珠江が殺されていたことを知らせて、どうするか相談したほうがいいのではないだろうか)
と一瞬、迷った。市民として今、なすべきことは、警察に事件を通報することであり、第一発見者としての義務を果たすことである。
それはわかっていたが、警察に疑われそうな惧《おそ》れが強く、恐かった。恐いから、美智子に相談してみようか、と思ったのである。
しかし、富沢美智子は今、華やかなブティックのオープニング・パーティのさなかだった。そのおめでたい席を邪魔するのは悪い気がした。
夏希はとりあえず、この場はこっそり消えようと決心し、いつのまにかビルの裏口から出て、駐車場に歩み入っていた。駐めていた車にのり、発車するまでほとんど、夢遊病者のような具合だったが、どこやらその姿は、あわてて現場から遠くへ逃げだす、という感じがないではなかった。
第十一章 不安な旋律
――都心部は夜だった。
窓のカーテンをあけると、六本木から飯倉界隈の夜景が見おろせた。闇の中に光の密度が高く、夜はまださんざめいていた。
「ワイン、冷えてるわよ」
真弓が窓辺に歩いてきて、ワイングラスをさしだした。仲根は受けとって、眼の高さまで上げ、
「誕生日、おめでとう」
「ありがとう」
今夜は真弓の誕生日だそうである。それで真弓は、気分のいい、ちょっと贅沢な夜をすごそうと、飯倉の高台にあるこの高級ホテルの一室をキープしたらしかった。
「乾杯」
「乾杯」
手が切れるようによく冷えたワインだった。部屋がエアコンで暖かい分、喉をしみ通ってゆくワインは美味しかった。
しかし、真弓はいつまでもワインの味などに堪能しているのではなく、窓から遠くに見えるある地点の建物を指さし、
「あそこが、旧財閥系銀行資本、三星家の旧宅。今は系列会社二十六社のクラブハウスになってるけど、三星亜矢子は週のうち半分を、あそこの二階の特別室で過ごしているみたいね」
森の中の綱町三星倶楽部のことを、そう意味ありげに説明した。
「知っているよ。いつぞや、村山雅彦氏を本社から尾《つ》けていったら、あの綱町倶楽部にはいっていったんだ。きみの友人、津島怜子さんともそこで会ったしね」
「そうそう。その夜の21世紀ネオポリス計画をめぐる系列会社幹部との夕食会の模様、怜子から聞きだしたわ」
「どうだった?」
真弓は報告した。
「私は印象としては、亜矢子夫人はその問題に関して思ったより冷静ね。武蔵丘21世紀ネオポリス計画に積極的なのは、地上げ屋と建設会社と、デベロッパー会社ばかりで、メインバンク筋は今は案外、半身に構えているように見えるけど」
「なるほど、東京の地価は沈静化して、値崩れしはじめているし、マンションも供給過剰。それに、この二年間の土地の値上がりの元凶が銀行だと叩かれて、少し融資を自粛しようという気運が出ているからな」
「ええ。それに現実問題、地方のリゾートマンションはやたらに増えてるけど、東京都心部のマンションは高すぎて売れ残っているのよ。その上、いくら未来先取り型とはいっても、二億や三億の郊外マンションを購入できる階層がそうざらにいるとは思えないわ」
「すると、メインバンクである三星の最高意志決定機関を押さえさえすれば、武蔵丘ネオポリス計画はこのまま、凍結させるとか、ストップさせることができるのかな」
仲根俊太郎は聞いた。
「さあ、そこまで断定するのはどうかしら」
真弓は窓際に立って小首をかしげ、ワイングラスを手にしたまま、話しつづけた。
「完全に白紙に戻す――ということはできなくても、実施時期の延期とか、規模の縮小、段階的撤退というものはできるかもしれないわね。何しろ、融資先の銀行が金を出さなければ、いくら大手建設会社だって、デベロッパーだって、どだい自己資金でやれるわけはないんだから」
それはまったくその通りである。だがしかし、銀行の意志決定機関を制する、ということもまた、大変むずかしい相談である。
情報を得てきた真弓によると、武蔵丘市の丘陵地帯はもうかなり、地上げ屋によって買い占められているという。先日の系列会社幹部夕食会の席では、大手建設会社Q組の社長が、
「土地集約の手当てはもう、七、八割方、すすんでおりますので、ご安心下さい」
と、三星亜矢子に報告していたという。
すると、武蔵丘では村山虎三と夏希親娘は、ますます包囲され、危機に陥っているのかもしれない。地方実業家でしかない村山虎三を潰すくらい、東京の大企業にとっては、わけはないことである。
やがて、真弓がその身体に寄り添い、
「ねえ。私たちロマンチックな窓辺に立っているというのに、さっきから真面目なお話ばかりしているわね。つまんない」
「ああ、ごめん。そういえば今夜はきみの誕生日だったね」
「そうよ。優しくして」
バラ色の口紅を塗った冴え冴えとした真弓の唇が近づいてきた。
二人は互いのワイングラスを取りあげて、傍らのテーブルに置いた。そうして窓辺でそよぎあうように抱きあい、接吻をした。
もし、外からその窓を見ていた者がいたとしたら、ふたつのシルエットが見事に一つに重なりあった影がはっきりと見えたはずだが、さいわい、高台の高層ホテルなので、どこからも見えはしないのである。
その上、部屋の灯かりも少し、暗くした。そのほうが遠くの街灯かりがほんのり射しこんで、かえってなまめかしかった。
真弓は風呂あがりだったので、素裸の上からホテルのガウンを身につけていた。仲根はやがてベッドに真弓の上体を押し伏せ、ガウンの紐を解き、上半身の白い肌をむきだしにさせて、肩、胸、首すじへとくちづけにいった。
真弓の乳房は相変わらず豊かだ。肌も白い。湿った、仄あたたかい肌のうえを舌がゆっくりと散歩すると、真弓は甘い声を洩らして、大きな呼吸をくりかえした。
仲根に乳房を口にふくまれると、急に大きく身悶えをはじめた。男にはよくわからない感覚だが、首すじや乳房や乳首への刺激が、女性のある部分の神経の集約点に、微妙に到達してゆくことをはっきりあらわすような声であり、身悶えの仕方だった。
仲根はそういう時、余裕のある医者のような気分で、この知的ですてきなパートナーの女体を賞味する。賞味しながら、投げだされた両下肢の間へ右手をすべりこませた。
下腹部のくさむらは柔らかく、野生の部分を豊かに飾っている。果肉はあたたかく濡れていて、ぬかるみ状を呈していた。そこを指が訪れるたび、真弓はむずかるような声をあげて、
「今夜は少し、変よ。感じすぎるわ」
「バースデー・ケーキというものがあるからね。バースデー・セックスというものも、あるのかもしれない」
「甘いのはそのせいかな」
少しふざけあいながら、真弓はいつしか仲根の尊厳のほうに手をのばして、プレゼントのお返しをしていた。押し包む指の動きに、悪びれはない。そういう時、真弓は頭のきれる美人記者ではなく、成熟し、爛熟した大人の女になるのである。
しかしどんな姿態をとらされている時でも、取っている時でも、真弓のたおやかなふくらみと上品さのようなものは、そこなわれはしない。真弓はいつも奔放で、大胆なようでいて、処女のような可愛気というものがあるのだった。
仲根の愛撫の手が移動するたびに、その全身でなまめかしい反応をみせ、
「俊さん、……もう来て」
訴えたりもする。
仲根がその生命の開花の中に押し入っていった時、喉をふるわして鳥のような、あけすけな声をたてた。顔もいっしゅん、上気して眼をまわしたような顔になった。
若さだけの、初めての恋人同士ではない。仲根と真弓の場合は、律動も、さほど激しく叩きこむ必要はない。充たしたものと、充たされたものとの調和がもたらす感動は、動かなくても心のほうを充たし、少しばかり多淫で、奔放になった真弓の全身の表情が、仲根にはいつもそのたびに、新鮮に思われるのだった。
真弓は両下肢をからめつけてきて、上手に間合と密着感をつくった。時に不意に反ったり、背中でブリッジを作ったりする真弓の動きのたびに、あッあッ、という短い破裂音や、ああーッという長い、尾を引くような声が、いつまでも熱い闇を充たした。
たしかに、その夜の真弓は少しばかり、欲張りだったようだ。情熱過多だったようだ。体位とよばれるものの組みかえも幾段階かあって、あくない求め方をしてきたのだから、久しぶりの女の闘争に熱中したのかもしれない。
やがて最後に、仲根が一気に山を駆け上がって、熱い秘洞の奥に自らを解き放った時、真弓はもう声も涸れたといった感じで、汗びっしょりで、撃たれた牝鹿のようにぐったりと、ベッドに果てたのであった。
重なりあって、しばらくうとうとしていた。どれぐらい、そのままの状態だったのだろう。ふっと、仲根の耳が何かの声を捉えた。
ベッドの傍のサイドボードに、音楽装置のマッチングとともにテレビが載っていた。そのブラウン管が、夜のニュースショーの番組をやっていた。女性キャスターが、ある殺人事件の放送をしているのだが、その中で、
「武蔵丘市で……」
という声が、ちらっと聞こえたような気がしたのである。
仲根は急いで半身を起こし、テレビのボリュームを大きくした。すぐにその事態は明白になった。「……殺害された女性は、相模原市や武蔵丘市で美容院チェーンやゴルフ練習場、結婚式場などを手広く経営していた女実業家で、橋本珠江、四十三歳、独身の美貌の女性でした」――キャスターは、「独身の美貌の中年女」というところに、週刊誌的好奇心を駆りたてるように喋っていた。
ブラウン管には、つづいて殺人現場だという武蔵丘市の八階建ての白い、きれいなビルが映り、被害者の顔写真が映しだされた。
「あッ」
と、その顔をみた瞬間、仲根は声を呑んだ。
「あッ――あの女だわ」
期せずして、真弓も声をあげた。二人ともその瞬間、先日、武蔵丘市の陣馬通りの「本陣」で、その女が地上げ屋の河野又造らといっしょに予約席に坐って、会食をしていた光景を思いだしたのである。
思いだしはしたが、その時は仲根はまだ、その不幸な目にあった橋本珠江という女が、夏希の叔母で、雅彦とも関係があり、また財産をめぐって村山虎三とも確執関係にある女だということまでは、知りはしなかった。しかし「本陣」での光景を見ているので、何とはなしに気になったのである。
ニュースキャスターの話によると、今日の昼すぎ、武蔵丘市寿通りの宝栄ビル八階で、女性実業家の橋本珠江さんが胸を鋭い刃物で刺されて死亡しているところを、同女性が経営する貸ホール従業員の中山良子さんが発見、警察に届けたとなっている。
犯人は逮捕されてはいないが、警察では事業取引のもつれか、金銭上のトラブル。あるいは男女関係の怨恨ではないかとみて、捜査を急いでいる、とキャスターは話しているが、本来、地方都市のニュースなので、ふつうはキー局では全国ネットに流さないが、「美人富豪の全裸殺人」という、ニュースショー番組にはもってこいのスキャンダラス性の見地から、取りあげたようであった。
それにしても気になるな、と仲根は煙草に火をつけた。まだベッドにはいったままである。右手がのびて、仲根はすぐに受話器を取りあげ、武蔵丘市の村山夏希に電話をかけた。
すると電話は、話し中であった。
何度、電話をしても、同じであった。
不吉な予感が去らない。
つながらなかったままの受話器をフックに戻した時、仲根は胸のうちにふっと、不安な旋律を聴いた。
翌日の午後、村山夏希が薔薇園から戻ると、家の前に二人の男が立っていた。
何とはなしに、夏希は胸騒ぎを覚え、柿の木の陰で足を止めた。二人の男は遠目にも、明らかにふつうのセールスマンや押売りではないような気がしたのである。
夏希が近づくと、
「村山夏希さんですね」
年配の男が近づいてきて黒い手帳をみせ、
「ちょっとお伺いしたいことがありまして、待たせてもらいました」
(やはり、刑事だわ……!)
でも夏希は平静な顔で、
「私に何か?」
「ええ。ちょっとお時間をいただいて、よろしいでしょうかね」
そう言いながらも中年刑事は、先にあるいて縁側にどっかりと坐った。もう一人の若いほうの刑事は、夏希のうしろに立ったままである。
「今、お茶を淹《い》れてまいります」
「いえいえ、それには及びません。どうぞお構いなく、そこにお掛け下さい」
鷲尾《わしお》という名刺をさしだしながら、その中年刑事は夏希をむかいに坐らせ、
「私たちの訪問の目的、わかりますね?」
「さあ。私には……わかりかねますが」
「奥さん。そう硬くならないで下さい。宝栄ビルで昨日、殺害されていた橋本珠江さんの話題、いま世間では派手に取沙汰していますから、その件で私たちが訪ねた、ということぐらい、見当がつくでしょう」
「はあ」
夏希は返事を濁した。
「卒直に聞きます。昨日、つまり事件当日のことですが、あなたは宝栄ビルにお行きになりましたね?」
「ええ、参りました。お友達のブティックの開店祝いだったものですから」
「ブティックはあのビルの一階のブネという店でしたね。店長の富沢さんから、そのことはお伺いしました。ところで、そのあとあなたはエレベーターで八階にお昇りにはなりませんでしたか?」
(美智子が喋ったのかしら)
胸に影が射し、
「富沢さんにお聞きになったのですか?」
「私たちの質問に答えて下さい」
「私は上には昇ってはおりませんが」
「ところが八階で、あなたを見たという方がいらっしゃるんです」
「きっと、人違いではないでしょうか」
すらすらと否定している自分が、夏希には別人のような気がした。女はいつでも、必要に応じて仮面を被ることができるものらしい。
鷲尾刑事は縁側に坐って足を組み、庭の柿の木に残っている赤い実をのどかに眺めながら、世間話をするように質問をつづけた。
「可哀想でしたね。残酷というべきか。胸をナイフで一突きするなんて。……あの被害者の橋本珠江さんとは、奥さんは親戚関係にあったわけでしょ?」
「はい。――私の叔母にあたります」
「それだけではない。奥さんとは犬猿の仲だった。つまり、ご主人をめぐって、かなり険悪な間柄だったそうですね?」
刑事は当然、それぐらいどこやらから聞きだしてきているに違いなかった。否定してもはじまらなかったので、夏希は、
「はあ。少し、入り組んだ事情がございまして」
卒直にそう答えた。
「ほう、その上、奥さんとは財産をめぐっても争ってらっしゃったとか?」
「財産に関する紛争は、私には関係ございません。父と叔母の間で、遺産相続の権利なり、その割合なりをめぐって、まだ和解がついていないことは確かです」
「しかし、奥さんにとっても、他人ごとではない。つまり奥さんは、その欲張りな叔母さんから、自分が受け継ぐべき財産をむしり取られたくはなかったのではないんでしょうか」
その聞き方が、あまりにもねっちりと意地悪な聞き方だったので、夏希はつい感情を害して、
「私がそのため、叔母を殺したとでもおっしゃるのですか?」
「いえいえ、そうは申しません」
鷲尾はまた柿の実のほうに眼を戻し、「――被害者の胸に刺さっていたナイフは、若い男性がキャンプやアウトドア・スポーツなどによく使う、サバイバルナイフでした。それをあのように突きたてるのには、かなりの力がいります。それに被害者の体内には、情交の痕跡もありました。こういう見地から、犯人はたぶん男性だと推測されます。私たちは、あなたを丸々、疑っているのではない。それより、あなたがあの事件当時、あのお部屋におはいりになった時、何か記憶に残ることをご覧になっているのではないか。そう思いまして、それを聞きたいのです」
容疑者として見られているのではないとわかって、夏希は少し肩の荷が降りた。しかし、夏希はあの日、八階には行っていないと言った以上、あの部屋の光景で記憶に残ることを話せ、といわれても、すぐには話せないのである。
鷲尾刑事はなるほど、老練であった。そつがないし、巧妙であった。夏希が殺人現場である珠江の部屋の情況について、話しにくそうにしているのを見てとると、
「部屋のドアは、あいていましたか? その部屋には、誰かほかに人がいましたか?」
――という具合に、夏希がすらすらと話さざるをえないように、上手に誘導尋問をした。
「奥さんと入れちがいに、誰かその部屋から逃げだしたような人間は、いませんでしたか?」
「さあ。誰とも会わなかったような気がするんですが」
「ドアは、あいていたんですね?」
「あいていました」
「思いだして下さい。その時、奥の部屋や、窓の具合はどうでしたか?」
「ああ、そういえばテラスの窓が半分ぐらいあいていて、テラスの手すりに赤いビニールロープが巻きつけられていたような気がします」
「ほう。ロープがねえ、なるほど――」
手帳に記入する鷲尾にとって、かなりの収穫だったとすれば、現場検証の時はそういうロープの類いは、もうなかったのであろうか。
「ほかには?」
「これといって――」
夏希が沈黙すると、
「ところで、ご主人はあの日、何時頃、お戻りになりましたか?」
いきなり聞かれた時、夏希はハッとした。刑事の狙いは、案外、こちらだったのではないか。雅彦のことを聞くために訪れたのではないだろうか。
そういえば雅彦はあの日、午後も……夜になっても帰ってきはしなかった。
どこにいってたんだろう。だいたい、もしあれが痴情のもつれだとするなら、一番疑われやすいのは、雅彦なのである。
「答えて下さい。昨日、ご主人は何時頃、お戻りになりましたか?」
再度きかれた時、
「会社の仕事が忙しかったようで、金曜日から日曜日まで、主人は家には戻って参りませんでした」
正直に答えるしかなかった。
「そうですか。その後、様子は?」
「さあ。これといって」
鷲尾刑事は、しばらく柿の実を眺めていたが、突然、パタンと手帳を閉じ、
「や、いろいろありがとうございました。また何かあったら、お尋ねしに参ります」
案外にさっぱりと立ちあがったので、夏希はほっとして見送った。
その夜、雅彦が帰宅したのは十一時半を回っていた。いつもは私鉄駅までマイカーで通っているのだが、タクシーで帰ってきたところをみると、酒を飲んでいるらしかった。
それもかなりの酒量のようである。彼は上衣と鞄をリビングの椅子の上に乱暴に投げすてると、足許も定まらないという具合でそのまま寝室に入って、ネクタイもほどかずに、ふとんに身体を投げだしたのだった。
「そのままでは身体に毒よ。ほら、お冷やを飲んでネクタイぐらい、はずさなくっちゃ」
ゆり動かされて、雅彦は半身を起こし、にわかにコップを掴むと、美味しそうに喉を鳴らして飲んだ。
「もう夜なかじゃないの。今まで、どこにいらっしゃったの?」
「どこでもいいじゃないか。会社の仕事がばかに忙しいんだ」
「ゆうべもお帰りにならなかったわね。いったい、夜なかまで社員に働かせる会社なんて、あるのかしら」
「いや味を言うのはやめたまえ。これでも色々、ストレスがたまってるんだ。たまには浴びるほど酒を飲みたくなる時もあるんだぞ。男の世界とは、そういうものだ」
そう威張ることでもないことを、雅彦は威張るように言いながら、ネクタイをむしりとった。上衣を脱いだ拍子に「本陣」のマッチが床に落ちた。夏希はその上衣をハンガーにかけてやりながら、
「今日、刑事さんがみえたわよ。あなたのことを色々、聞いてたわ」
さりげなく言うと、
「なにィ……」
といって、雅彦はふとんの上に起きあがって、胡座《あぐら》をかいた。
「おれのことを何と言ってたんだ」
「そう恐い顔をすることもないじゃないの。事件当日、何時頃戻ったか、などと聞かれたわ」
「それで、きみは何と答えたんだ?」
「金曜日から、主人は家には帰ってはいません、と答えました」
「随分、芸のない答え方だな。もう少し何とか上手な答え方はなかったのか」
「だって、その通りじゃないの。私にアリバイ工作をしろとでもおっしゃるんですか」
夏希が何気なく言うと、雅彦の声が荒立ち、
「その眼は何だ。おれがあの女を殺したとでも思っているのか」
声だけではない。眼も青光りして、夏希を強く睨みつけるようにした。
「そうは思ってはいないわ。あなたには、そんな度胸などあろうはずはないし……でも……」
「でも……何だ」
「あなたは何かを隠してるんじゃないの」
そうだ、雅彦が珠江を殺害したなどということは、夏希にも考えられない。雅彦ほど冷静で、沈着で、計算高いエリート社員が、一時の逆上から身の破滅をもたらすようなことをするはずがないと思える。
だが、雅彦は何かを隠している。武蔵丘21世紀ネオポリス計画のこともまだ聞いてはいないし、珠江とのこともただの愛欲ではなく、その奥にもっと窺いしれない利害関係があったのではないか――。
夏希がそんなことを考えていると、
「言ってみたまえ。おれがいったい、何を隠しているというんだ」
「あなたは今夜は酔ってらっしゃるわ。武蔵丘を舞台にしたニュータウン構想のことも、しっかり聞き糺したいけど、今夜は無理のようね。――私はもう夫婦喧嘩はしたくないわ。今夜はとにかく、お休みなさい」
そう言って立ちあがろうとした時、あっと夏希は声をあげて、宙を泳いだ。
雅彦の手が不意に伸びていて、足首を掴まれ、引き倒されていたのであった。
「やめて」
ふとんの上に倒れて、抗う夏希を強引に実力支配下におき、雅彦は、
「夫婦喧嘩はまっ平だと……? 夫婦の生活さえも拒否していて、夫婦喧嘩などとよく言えるな。おれが酔っているだと……? 酔っていない証拠をちゃんと見せてやろうじゃないか」
雅彦はかなり物狂おしい勢いで、夏希の身体に手をのばし、引きすえて恥ずかしい股間を割ろうとしているのであった。
「やめてください。――これ以上、私を辱しめたら、離婚します」
「ほう。そんなに簡単にできるのかね」
「出ていって下さい。離婚ができなければ、別居でもかまいません」
「別居なんかするもんか。おれはこの家の新しい当主だからね。籍はもうはいっているんだ。出てゆきたければ、きみが出てゆけばいいだろう」
そう言い放った雅彦の声を聞いた時、夏希はやっと、悲しくて恐るべきことだが、雅彦の本音を垣間みた気がした。
雅彦は、首都圏に薔薇園をもつ村山家の財産――つまりは莫大な土地資産を狙って夏希に巧妙に近づき、見合結婚という形で婿入りして、その内部から乗っ取ろうとしているのではないか――。
結婚という手段が略奪の罠になる――と知った時、夏希の胸に奇妙な悲しみと空しさの入り混った怒りの思いが渦巻き、夏希はほんのしばらく、その感情の制禦のしようがなかった。
裏切られた、という単純な怒りでも淋しさでもない。恋人や夫婦や男や女というものに、いつも訪れては波のように退いてゆく愛と憎しみと別れの悲喜劇のもつありきたりな悲しみと空しさに加えて、そこには巨億の資産への欲望が燃えさかっているだけに、雅彦の企みや夏希をめぐる情況は一層、醜いほどのどす黒い炎の色を濃くしているのだ。
やがて、雅彦に押し伏せられた夏希の背中が、ヒクヒクッと波打ち、奇妙な忍び笑いが洩れていることに、雅彦は気づいたらしい。
「村山家の当主づらをするなんて、いい気なものね。籍も入っていないのに、村山薔薇園の大将はおれだなんて、顔しないでよ」
「なにィ……?」
ぎょっとしたように、雅彦の顔に血の気が射し、「どういうことだ。おれたち、結婚してもう半年以上になるんだぞ。入籍手続きはきみのほうで、ちゃんと取ってくれたはずじゃないか」
「おあいにくさま。見る通りのごたごた続きで、私はまだ結婚届はだしていません」
「そんな、ばかなッ。長崎の新婚旅行から帰ってすぐ、きみは何もかもやってくれると言ってたじゃないか」
「ええ、そのつもりでしたけど、新婚旅行の途中で、父が刺されてあんなふうだったでしょ。帰ったら入院や介護や薔薇園の仕事や脅迫電話騒動やらで、それどころじゃなかったわ。そうしたらそのうち――」
そのうち、雅彦の愛人だと名のる女からの電話がひんぴんと入るようになった。それで夏希は本能的に、警戒したのかもしれない。もしかしたら、意識下のところで、雅彦を足入れ婚の対象と考えるような部分を、もっていたのかもしれない。
昔の日本には、足入れ婚という制度があったそうである。一定期間、嫁入りなり婿入りなりをして、籍は入れずに相手の家庭の中に溶け込む試験期間というものが設けられていたのである。もともと、万葉集の頃まで、日本が母系社会であった頃は、男は「通い夫《づま》」であって、女性の家に夜、せっせっと「足入れ婚」をしていたわけである。
(……ちょうど雅彦みたい。威張ってるけど)
――そんな思いがちらと夏希の脳裡をよぎった時夏希は意味もなく、クックッと笑ったのである。裏切られ、傷つけられ、どたん場まで追いつめられた女の、逆転の忍び笑いだったのかもしれなかった。
画竜点睛をかく、とはよく言うが、雅彦の場合は、まさにそんな気持ちだったのではないだろうか。
夏希と結婚式をあげ、入り婿となって、もう半年以上がすぎ、すっかり村山家のあるじに収まっているつもりだった雅彦は、そうしてまたその自信から、財産をあてに勝手なこともしていたのだが、夏希の本能的な深謀遠慮で籍が入っていなかったことを知らされた時、彼は畳をめくられたように蒼ざめ、怒り狂ってしまった。
「すると、何かい。おれはこの家の主のつもりだが、きみがいやだといったら、いつでも三下り半かい」
「そういうことになりますかしら。いやならどうぞ、出ていって下さい」
「畜生、おまえという女は――」
夏希は、いきなり雅彦に髪を掴まれ、引き倒されて、のしかかられた。
雅彦の全身に、暗い酔いと怒りが煽っていた。身体ごとのしかかられて、夏希は身動きができなくなり、乳房があらわにされた。雅彦はそこに荒々しく顔をすりつけた。片手でいたぶるようにそこを掴みながら、片膝でこじあけるように夏希の両下肢を割り、夏希を征服してしまおうとしていた。
夏希は不思議に、気持ちが落着いていた。眼も口も閉ざしていた。何をされようと、もうおしまいだ、他人になるのだ、とそればかりを呪文のように唱えていた。
雅彦はいきなり、夏希の両の太腿を自由にした。そして布きれを引き裂き、自分の前に引き寄せた。抗って、膝をきつく閉めつけても、すぐに押し割られた。女性の花芯にも、荒々しく押し分けられる力を感じた。
やがてそこから、背すじを甘く突きぬけて走るものを感じた時、いま、手の届くところに凶器があれば、と夏希は考えた。こんなにも残酷に私を裏切り、ふみにじる雅彦なんか、殺してやるのに、と思った。ついでに、その雅彦に押し込まれ、いたぶられて感覚で応えている恥知らずな自分の肉体も葬ってやるのに、と熱い逆上感の中で夏希は思った。
(でも、いい。もう少しの辛抱だ。もう少しでこの男とは別れてしまうのだ)
夏希は眼を閉じて、そう思った。眼を閉じていると、ふっと、仲根の顔が浮かんだ。
仲根と今、そうやって結ばれているような気がした。すると、突然、身体の芯の熱気は、たちまちめくるめくものとなった。傍ら、涙を流している自分を知った。夏希はその涙を愧《は》じた。雅彦に身体を汚され、甘いしびれを覚えながら、仲根のことを思って泣く自分を、いい気なものだと思った。
もっとも、その仲根だって夏希の知らないところで何をやっているかわからない。人間はみんな、いい気なものだ。それを醜怪というのか、生き物としての身勝手さ、哀しさというのか、今の夏希にはわかりようもなかった。
切りとったばかりのバラの花束に顔を寄せて、胸いっぱいに呼吸を吸いこむ。おぞましい事件や情況を一瞬、忘れさせてくれる優しい感触と色彩と匂いであった。
夏希は温室の中で、花にむかって、二度も大きく息を吸い込んだ。汚れのない花の香りで胸を充たしたいと思った。バラの花はこのように美しく咲き誇ることができるのに、人間の営みはどうしてこの数ヵ月の事件のように、限りなく醜いのだろう。
それを思うと哀しいくらいであった。でもそれが人間というものなら、その中で精一杯、仕事をして生き抜いて、勝ち抜いてゆくしかないし、落ち込んでもいられないのであった。
ただ夏希は、その場合でも心の奥のほうには、このバラの花のような、泥の中に咲く睡蓮の花のような、決して他から汚されない気高い誇りと、張りつめた美しい気持ちだけは持ってゆきたいと思うのであった。
夏希が一棟分、採花を終えて作業舎に入ると、そこではパートで採花や出荷調整の仕事をしてくれている近所の主婦たちが、賑やかに作業をすすめている。
ただ一人、うつむき加減に物静かなのは、相変らず坂本智津子で、
「智津子さん、疲れているんじゃないの?」
慰めるように声をかけると、
「お嬢さん。ちょっと、相談があるんですけど」
「なあに」
「すみません。ちょっと」
智津子は仲間たちの耳を気にしたように、すっと立ちあがって、作業舎の外の、木陰のほうに歩いた。
「昨日、町でいつかの男を見かけたんです」
「いつかの男って?」
「ほら、主人を欺した悪徳税理士の楡山貴司です。あの男が、昨日、武蔵丘の街を歩いていたのを私、ちらっと見かけたんです」
「え? 楡山が……」
楡山貴司というのは、智津子の夫、坂本兼造をだまして三十億円もの土地を転売して逃亡していた税理士であり、相続税コンサルタントであることを夏希は思いだした。
「どこで見たの?」
「陣馬通りです」
「陣馬通りといえば、武蔵デパートの裏通りね。楡山は何か買い物にでも現われたのかしら?」
智津子によると、昨日、彼女がデパートで買い物をおえて、裏出口から駐車場のほうに出た時、ちょうど、すぐ目の前にある〈本陣〉という居酒屋の入っているビルの中から出て、近くの喫茶店に入ってゆく楡山貴司にそっくりの男を見かけたのだという。
あまり似ていたので、気になって隠れて見ていると、楡山は十分もしないうちに喫茶店から出てきて、また本陣ビルの中に入り、四階にある東京経済研究社という会社の中に消えていったのだという。
「あの様子ですと、楡山はたまたまあの日、あのビルを訪れたというより、どちらかというと、その東京経済研究社という事務所に、定期的に出入りしているような感じでした」
智津子は、そう報告した。
「私、憎いんです。あの男を掴まえて、夫の霊前に引きすえて、八つ裂きにしてやりたいほど、憎いんです。ねえ、お嬢さん、何かいい知恵、ないでしょうか」
智津子は、自分一人ででもその事務所に乗りこんでいって、楡山に掴みかかりたい心境のようであった。
夏希もその気持ちは、痛いほどわかる。しかし、主婦が一人で乗りこんでいったところで、かなうような男ではないだろう。
「智津さん、あなたのお気持ちもよくわかるけど、短気を起こして、早まってはいけないわ。へたに乗りこんだりすると、かえって危険な目にあうでしょうし、ここはひとつ、じっくりと作戦を練らなくっちゃ」
夏希は、智津子を母屋のほうに誘った。
(どうすればいいか)
こういう場合、警察に駆け込むのが一番いいのかもしれないが、詐欺漢楡山に似ている、というだけでは心もとない。まして坂本兼造殺しと本当に関連があるのかどうか。そのあたりの確証を掴むまでは、駆けこみ訴えをするにも、不安である。
(そうだわ。あの人に相談してみよう)
と、夏希が思ったのは、仲根俊太郎のことである。
いずれにしろ仲根には、大至急会って、今、自分が困っている珠江殺しのことや、夫、雅彦との間もいよいよ、険悪なムードになっていることなどの実情も、卒直に話しておきたい気がする。
「智津さん、いいこと。楡山のことは私に委せて下さい。というのも、楡山貴司がやっていた脱税コンサルタントの所業というのは、どうも智津さんの家だけではなく、私の叔母の事件にもいろいろ拘わっているような気がするの。私だってしっかり、それを糺明するチャンスを掴みたいわ」
「はい。……で、お嬢さんは、どうなさるのでしょう?」
「私にも今すぐには名案が浮かばないけど、相談したい人がいるのよ。その人、新聞記者みたいな人だけど、何とかしてくれると思うの。その楡山、最終的には警察に突きだすにしても、逮捕してもらうにしても、傍証固めというものが必要でしょ」
「でも、ぐずぐずしていると、楡山はまた、逃げる恐れがあります」
「おっしゃる通りよ。急がなくっちゃいけないわね。ちょっと、待ってて」
夏希は立ちあがって、居間の受話器をとりあげた。四谷の現代舎にプッシュを押すと、さいわい、仲根は編集部にいた。
「ぼくもテレビのニュースをみて、心配していたところです。電話をもらって、ちょうどよかった」
仲根は都心部にいても、武蔵丘で起きた橋本珠江の殺人事件のことを心配していたようであった。夏希は手短かに、坂本兼造を欺した楡山貴司が現われたことを告げた。
「楡山といえば、例の詐欺漢ですか?」
「そうです。奥さんの智津子さんが町で見かけて、どうすればいいかと、相談を受けてるんですけど」
「警察に駆け込めばいい」
「でも、相手がひげをはやしていて、変装しているので、よく似てはいるけど智津さんもあと一つ、確信がもてないんですって」
「どこで見かけたとおっしゃってるんです?」
「本陣というビルで」
「え、本陣ですって!」
仲根が驚いたような声を上げ、受話器を握り直す気配がした。
「それなら、詳しく話を聞きたいですね。今日じゅうに武蔵丘にゆきますから、坂本さんの家を教えて下さい」
「じゃ、うちにいらっして下さい」
「しかし、夏希さんの家にゆくには、ちょっと――」
仲根はためらったようであった。
「主人のことなら、かまいません。これは、そんな次元の話じゃないでしょ。坂本智津子さんも、うちで待っています。ぜひ、うちに来て下さい」
ぜひうちに来て下さい、というところに思いがけなく力がはいったような気がした。
そんなわけでその日、仲根は午後四時頃、夏希の家にやってきた。電話をかけたのが午前中だったが、彼としてはともかく、多忙な時間をやりくりして、急いでやってきたようである。
パートの時間を終えて、いったん家に戻っていた坂本智津子も呼んで、夏希は昨日、智津子が町で目撃した楡山のことを話した。
「驚きました。本陣のビルにねえ……」
「ええ。私も本陣というあの店には入ったことがあるけど、あなたも何か思いあたることがあるの?」
「ありますよ。あの一階の居酒屋、瀬高六郎というのが店長で、いわくありげな店です。なにしろ今度、宝栄ビルの部屋で殺害されたという女実業家の橋本珠江という女性も、地上げ屋の河野又造らと一緒に、あの本陣で酒席を共にしていたんですよ」
「まあ……そうだったの」
夏希は、初めて聞くことである。
仲根はいつぞやの本陣での出来事を話し、
「そこにもってきて、楡山もあのビルに出入りしているのなら、やはりみんな、ぐるのような気がしますね。そういえば、坂本兼造さんが柿生で殺害された事件の犯人も、まだ逮捕されてはいませんでしたね。もしかしたら、楡山貴司あたりが一枚も二枚も、噛んでいるのかもしれない。――よし、ここは一丁、その楡山という男に接近してみましょう」
仲根はそう言って、煙草に火をつけ、ソファに坐って腕組みしながら、宙を睨んだ。
「接近するといっても、どうするか」
「いつぞや、そういうことがあったのなら、あなたが本陣ビルに直接、押しかけるのは危険なようですね」
「ええ。それに、あの時は警察に知らせたりしているうち、河野又造をとり逃がしてしまったんだ。今度はもう絶対に、あんなへまはやりたくない」
仲根はしばらく考えていたが、
「あッ、そうだ。いい方法がある!」
パチン、と指を鳴らした。
「やつを呼びだそう」
「でも、どうやって?」
「楡山貴司は相続税コンサルタントと称して、巨額相続税に悩む土地持ちや農家の長男などを相手に、いろいろな脱税方法を教え、甘い汁を吸っている税理士でしょ? ですから、ぼくが土地持ち農家の長男で、四十億円くらいの遺産を相続するにあたって、物すごい税金をとられるので頭を抱えており、その打開策についてコンサルティングを受けたい、と電話をすれば、やつは喜んで、ぼくのところに素っ飛んでくるに違いありませんよ」
仲根は、そう断言するように言った。
(うまい方法だわ……)
夏希は、感心した。
「しかし、村山家のことは知っているだろうから、ここに呼びだすわけにはゆきませんね。夏希さん、どこか近郊農村でやつを呼びこむのに適当な家、知りませんか」
「農家のほうがいいわね」
「できれば」
「そうだわ……武蔵丘市の郊外ですけど、寺泊というところにうちの親戚で、留守の家が一軒、あります。主人夫婦が豪州を旅行中。息子さんは東京なので、家には今、誰もいないんです」
「よし。その家を借りることにしましょう。住所を教えて下さい」
夏希がメモしている間、仲根は智津子のほうをむいて、
「楡山が出入りしている東京経済研究社という事務所の電話番号、知りませんか」
「さあ、そこまでは」
「よし、調べてみよう」
仲根はすぐNTTの市内局番案内にプッシュを押し、楡山の事務所の電話番号を調べた。判明すると、間髪をおかず、そちらに電話をプッシュしている。
「あ、東京経済さん?」
「そうです」
と、相手が答えると、
「おたくに楡山貴司という税務コンサルタントの方、いらっしゃいますか」
「はい。顧問の楡山のことでしょうか」
そんなやりとりとなって、とうとう楡山本人が電話口に出たらしい。
「――私、武蔵丘市の郊外に住む村山敬七郎という農家の長男ですが、巨額の相続税のことで悩んでおります。先生のことは以前、どこかで耳にしたことがあったので、節税のコンサルティングを受けたいと思っておりますが」
仲根は電話口で、大まじめな顔でそんなことを訴えていた。やがて、先方はその話にのってきたらしく、相続する土地の面積や遺産総額などについて詳しく聞いているようだ。仲根もそれについて五十億円くらいの遺産だと吹っかけ、相手の好奇心を焚きつけているようであった。
そして七、八分もしないうちに、驚くべきことに、
「じゃ、よろしくお願いします」
と、丁重に言って、受話器をおき、仲根は夏希らにむかって、Vサインをだした。
「今夜七時、寺泊のその家にやつは車で来るそうです。ぼくは先回りして張り込みますから、坂本さん、首実検をお願いします」
第十二章 血の闇
楡山貴司はやってきた。
その夜七時ごろ、ヘッドライトを照らして黒塗りのクラウンが門を入ってきた時、仲根俊太郎は坂本智津子とともに、その罠の家に待ちかまえていた。
大きな家であった。夏希が親戚の息子夫婦に話をつけていたので、その留守家の一室を自由に使うことができた。
やがてクラウンの運転席から黒い人影が降りたち、鞄をさげて村山家の玄関に立った。
さいわい、一人である。
これなら対応がしやすい。
仲根は彼が、東京経済研究社の仲間をつれて複数でくると、楡山の絞りあげ方が大変だな、と心配していたところである。
「ごめんください」
ブザーが鳴って案内を乞う声がした時、仲根は落着いて、その家の後継者のような顔をして、応対に出た。
「ほう。この大きな家をお継ぎになるのが、あなたですか?」
楡山は如才ない物腰で仲根のほうを親しそうに、また羨ましそうに眺めた。
「はい。それで相続税に困っております。どうぞ、おあがりください」
楡山貴司は応接間にあがった。
見たところ五十年配。如才ないだけではなく、でっぷり肥えて表情もおだやかで、人に安心感を与えさせる不思議な魅力をもっている。
(なるほど……こいつが坂本兼造を破滅させた男か。今に見ておれ)
仲根は、肚に力を入れた。
応接間のソファに坐った楡山貴司は、背広のポケットから名刺入れを取りだし、仲根にその一枚をさしだした。それには東京経済研究社特別顧問、という肩書きが入っているが、オフィスは武蔵丘市ではなく、東京都豊島区池袋三丁目、となっていた。
「ほう。先生はふだんはこちらではなく、東京のほうにいらっしゃるんですか」
仲根は訊いた。
「はい。税理士としての私の仕事場はもっぱら東京都内ですが、時折、こちらの支社のほうから招かれて、臨時指導員として参ることになっております」
(道理で……)
と仲根は思った。
坂本兼造を欺して、あれほどの土地詐欺を働いたのだから、普通ならいつまでも武蔵丘界隈に出没するはずはない。いったん、東京に逃げこんで、姿をくらましていたのに、今度、よほど重大な用事があって、やむをえず武蔵丘に再び姿を現わしたところなのかもしれない。
いい時期に、智津子が目撃してくれて、ひっぱり込むことができたといえよう。
楡山はそういう仲根の心理も露知らず、鞄からワープロ打ちの「丸秘・税務必携」とか「こうすれば儲かる」「相続税の対策はこの手で」などとタイトルを打った虎の巻をいろいろ取りだし、
「さて、村山さんは相続税対策に苦慮していらっしゃるとお伺いしました。今、われわれの研究会では、このようにもろもろの税務相談に応じておりますが、これをざっとご覧になって、ご自分がどういう方法で、脱税……いえいえ……節税ですな……節税して、貴重な先祖からの預かりものを減らさないようにするか、ざっくばらんに、ご相談にのりましょう」
「卒直にいって私の場合、約二ヘクタールの土地を相続するんですが、私自身は会社勤めをしていますから、営農意欲はありません。この土地を有効利用しながら、かつ、税金対策ができれば、と考えているわけですが」
「はい。それなら、マンションかアパート経営を計画しなさい。そのために、土地を担保に銀行か農協から、大口融資を受けるんです。何億でも何十億円でも、借金は大きいほうがいい。そうすれば、その債務は、相続税から差し引かれますから、相続税はずっと安くなります」
(そろそろ、出てきたぞ)
と仲根は思った。
「マンションやアパート経営もよろしいのでしょうが、会社を設立する、という方法はいかがでしょうか。そのために、土地を担保に資金融資を受ける。その金を、相続税から控除してもらう。そういう方法も、あるんじゃありませんか?」
仲根は、さりげなく楡山に水をむけた。
「そうそう。よくご存知だ。その方法ならもっとベターです。都市近郊なら今時、会社ぐらいどういうものでも設立できますからね」
楡山はわが意を得たりとばかり、相好をくずして乗ってきた。
「会社を設立するとしたら、どのようなものがあるんでしょう?」
「そうですな。ご自分の土地を生かして、倉庫会社とか建材工場とか砂利採取会社などを設立して、株式会社の組織にする。そうすれば、農協や銀行からはもっと大口の融資も受けられるし、あなたは天下晴れて社長になる。そうすれば、土地資産も法人の含み資産ということになって、もろもろの税金も、個人の相続税や固定資産税より格段に安くなります」
(砂利会社……? いよいよ出てきたぞ。坂本が引っかけられたのは、たしかこの方法だったな)
仲根は、そういう思いを肚の中にしまって、
「砂利会社といっても、設立や経営方法はなかなか難しいんじゃありませんか?」
「そんなことはありません。今は空前の建設ラッシュです。ビルやマンション需要は高まる一方で、生コンや砂利は作る端から売れてゆきます。何なら、砂利から生コン一貫生産体系の会社組織にすれば、もっと儲かるでしょう。そのための会社設立事務や大口融資の事務はすべて、当東京経済研究社が責任をもって、お手伝い致しますよ」
「なるほど……」
仲根は微笑した。
「坂本兼造さんも、その手で欺されたんですかな」
「え?」
「坂本さんですよ、武蔵丘の」
「どなたのことでしょう」
「しらばっくれるな、と言いたい。亡くなった坂本さんに、あんたは今と同じように相続税対策のための砂利会社設立話をもちかけ、事務を一手に引き受けて、そのどさくさに、彼の土地をあらかた、だましとったんじゃなかったですかな」
「な……何を言う!」
楡山は血相をかえて、語気を強めた。
「勝手な言いがかりをつけてもらっては、困る。この家の後継者という話だったが、どうも違うようだな。あんたはいったい、何者だッ!」
仲根はそれには答えず、ちょうど、盆に茶を用意して持参した智津子にむかって、
「坂本さん、この男の顔をよく見て下さい。ご主人を欺した楡山に間違いありませんか?」
智津子が無言でうなずいた。
楡山は智津子の顔をみた途端、それが坂本兼造の妻であることを思い出したらしく、
「き……きみたちは!」
やっと、事態を悟ったようである。
彼は血相をかえて、立ちあがった。
「おれを罠にかけようとして、ここに呼んだのかッ!」
彼は、そう叫んだ言葉が、自分の罪を暴露していることには、気づかなかったのかもしれない。勢いあまって、智津子が持参した盆が楡山の身体に触れてはね飛び、茶碗が床に落ちて割れる音が響いた。
智津子の悲鳴があがるとともに、楡山は鞄を掴みざま、それをふりまわして応接間から飛びだそうとした。
仲根は、その前に立ちはだかった。
「どうやら、逃げるところをみると、尻尾をだしたと見えるな。あんたのあわてふためきようが、身に憶えのある証拠だ。これから一緒に、警察にゆこうじゃないか」
「何をほざく、この青二才。そこをどけッ」
楡山は鞄を振りまわして、体当たりしてきた。それを躱《か》わすと、畜生ッと怒鳴って掴みかかってきた。そうなるともう、遠慮はいらない。
長身と、若さと、運動神経では、仲根のほうに分がある。仲根は楡山の襟を掴み、ぐいぐい壁のほうにむかって押してゆき、彼が壁に追いつめられまいと力を込めて突っ張り返した瞬間、ぐいと手許に引いて、足払いをかけた。
力学的な反動を見事に利用されて、楡山の巨体はずでんどう、と床に引っくり返った。腰を打って、起きあがれないでいる楡山の襟首をつかみ、
「さ、警察にゆこうか。おとなしくしたほうが身のためのようだな」
「くそッ。おれをこけにしやがって。今に仲間がここにくるんだぞ。憶えておれッ」
「仲間がここに来るとは、どういうことだ」
「事務所の者にきまってるだろ。おれを甘く見るな。早く解放しろ。そうでないと、今に吼えづらかくことになるぞ」
(よし。それなら、奥の手をだそう。こいつをどこかに連れこんで、そこでしっかりと聞きだしてやろう)
仲根は、そう判断した。
「智津子さん、あなたはもうよろしい。この男は悪いようにはしませんから、あなたは安心して家に帰ったほうがいい。かわりに、表にいる紺野君を呼んで下さい」
はい、と緊張した顔で智津子が出てゆくと、
「悪いようにしないとは、どういうことだッ。おれをどうする気だッ」
楡山が吼えた。
「あんたにはしばらくおとなしくしてもらおうってことだ。これから静かな別荘に案内するよ」
「勝手なことをぬかすな」
「黙れっていうんだ」
殴りつけて、表に引きずりだした。
ちょうどそこに、紺野真弓がスプリンターを乗り入れて、玄関先に横付けにしたところだった。
「やるのね?」
と真弓が眼顔できいている。うむ、と返事をし、
「リアシートのドアをあけてくれ。それから、こいつが乗ってきたクラウンをどこか眼立たないところに隠しておいてくれ」
真弓に頼むと、開いた後部席のドアの中に、楡山の図体を押し込んだ。
「おれを粗末に扱うと、あとで吼えづらかくぞ。憶えておれ」
「文句をいわずに乗ればいい」
――今、仲根の胸には暗い嵐が吹き荒れているのだ。廃屋で冷めたくなっていた坂本兼造の死体が、脳裡を去らない。事件の真相を掴むまで、多少の荒療治はやむをえない。
車は、夜の道を走りだした。
仲根はスプリンターを相模川沿いの道にのせ、丹沢山塊のほうにむけた。中津川渓谷の上流に、開発中の別荘地帯があり、真弓の知りあいの別荘が一軒あるので、楡山をそこに連れこもうとしているのであった。
「別荘の鍵、預かっているのかい?」
運転しながら、仲根は真弓にきいた。
「ええ、持ってるわ。夏以外なら、いつでも使っていいと友達に言われてるのよ」
「そこなら、しっかり悪党を絞りあげることができそうだな」
「ええ。いい環境――」
おやおや、真弓もすっかり、物に動じない女になりつつあるようだ。
後部座席では、楡山貴司が獣のような唸り声をあげていた。本人は怒鳴っているつもりだろうが、ガムテープで口をふさがれ、両手と両足をビニールロープで縛られているので、口も身体も、自由に動かすことができないのである。
はじめは、そこまでするつもりはなかったが、走行中、後部座席から何度もドアをあけて逃げようとした。車外に転がり出て、後続の車に轢《ひ》かれでもしたらことだから、仲根は途中で、ガムテープとビニールロープを後ろのトランクから取りだし、手荒い処置をほどこしたのである。
三十分も走ると、道は完全に山あいに入った。幾つかの町や村を過ぎ、山あいを縫って走ると、中津川渓谷とよばれる一帯に出た。
中津川渓谷は、このあたりでは有名なハイキングコースであり、キャンプ地である。
鮎料理の店などが、道に並んでいた。
新しい別荘分譲地は、その少し上流にあった。シーズンオフなので、あたりにはまったく人影はない。
月光が白々と雑木林を照らし、点在する別荘を墨絵のように浮きあがらせていた。
「そこを、右にまがったところ」
なるほど、建ててまだ二年ぐらいにしかならない丸太作りの白い、大きな別荘がみえてきた。仲根はその表に車をつけた。
真弓が先に降りて、別荘の鍵をあけて中に入った。
「降りろ!」
仲根は楡山を掴みだした。
楡山は猛烈に怒り狂い、抵抗したが、口に厚いガムテープを貼られているので、言葉にもならない。仲根はその楡山を奥の間に突き飛ばし、さて、どのように口を割らせようかと考えた。別荘の外の雑木林に、ごうと風が渡っていく。
電話のベルが鳴ったとき、夏希は台所で、食事の後の洗いものをしていた。
夏希がタオルで手を拭きながらリビングに走って、受話器を把ると、
「村山薔薇園ですか?」
「そうですが」
「宝栄ビルの貸ホールの中山です。いつも急なお願いで悪いんだけど、今日の午後、パーティ用の盛り花のバラを三つ分くらい、用意できないかしら?」
引受けることになった。
日曜日の朝である。
日曜日なのに、雅彦の姿は、今日もない。このところ、夏希とは顔をあわせても口をきかないし、時折、じろおっと蛇のような眼で夏希の一挙手一投足を遠くから眺めたりして、何を考えているのかわからないところがあった。
「ゴルフ――」
今朝もそう言って、出かけたばかりである。
雅彦は何やら微かに、殺気だってさえいるようである。彼も夏希に離婚を宣告されて、それを逆転させる手がかりもなく、追いつめられて、打開策が見あたらないのかもしれなかった。
それは夏希も同じである。早くけじめをつけたいと思いながら、父にはまだ離婚のことを切りだしかねていた。
(でももう少しの辛抱よ。私の決心は変わらないのだから。春までには片づくはずだわ)
夏希は薔薇園に入ると、日曜日なのに陽当たりのいいところで温室管理に精をだしていた悟平を見つけ、
「悟平さん。盛花用の花を三つぐらい用意するんだけど、どのへんがいいかしら?」
「そうですね。三号棟あたりが切り前でしょうか」
――午後、夏希は、町にむかった。
注文されたバラをケースに入れて後部シートに積み、BMWを運転して宝栄ビルにむかいながら、夏希はふと仲根たちのことを思った。
(そういえば、昨夜以来、連絡がないわ)
心配でもあった。
仲根と智津子は、ゆうべ、東京経済研究社の楡山貴司を村山敬七郎の家に呼びだし、楡山の首実検をしたはずだが、その後、どうしたのだろうか。智津子によると、仲根たちは楡山を車にのせて、どこやらに運び去ったという。楡山は事件の背後関係を吐いたのだろうか。仲根たちは手荒なことをしすぎてはいないだろうか。
夏希がそんなことを考えながら運転していると、車はもう郊外から武蔵丘の町に入っていた。
日曜日なので、道はあまり混んではいず、寿通りの宝栄ビルには、指定された午後一時より、少し早目に着いた。
この宝栄ビルというのは、なぜかこのところ、夏希と悪い因縁ばかり続いていて、本当はあまり近づきたくはないところであった。
一階には美智子のブティックが燦然と開店していたが、今日は美智子の姿は、見あたらなかった。
夏希は薔薇のケースを抱えて、エスカレーターで二階にあがった。このビルの上層階で、珠江の事件があったことを思いだすと、夏希は胸苦しい思いがした。
二階でエスカレーターを降り、催し場にあるいた。不思議なことに貸ホールでは、今日はパーティーの準備などは行われていず、絵の展覧会がひらかれていた。
だが時間的な按配かどうか、ギャラリーに人は少なかった。受付には中山良子はいず、別の見知らぬOLふうの女がいて、
「あら、お花ね。ありがとう。奥のオフィスに運んでくださらない?」
夏希は奥の事務所に案内された。事務所は白い壁に囲まれた狭い部屋であった。
「支配人の中山さんは?」
「今日は公休日よ。私、頼まれて受付をやっている梨田花緒っていうの。よろしくね」
「今朝の電話はじゃあ、あなたでしたの?」
「そうよ。中山さんの名前を使って、ごめんなさい。とにかく、もう少しここで待っててね。今、受付が一段落したら、お花の代など、事務処理をしますから」
そう言い残して梨田花緒は出てゆき、ドアが閉まった。夏希は何だか、変な予感がした。
梨田花緒と名のった女が自分をみる眼に、妙な敵意がこもっていたようだし、持参した薔薇を、いそいそと受けとるという空気がどこにも窺えなかったからである。
(本当に、変な人……)
呟いて、夏希はソファに坐った。会計が済むまで帰れはしないので、夏希は肚《はら》を決めて待つことにして、眼の前のテーブルの上に置かれていたファッション雑誌を手にとって、ぱらぱらとめくった。
眺めているうちに、夏希は無性に眠くなった。
(どうしたのかしら……?)
夏希はふだん働き者で、怠惰ではない。真昼間から眠くなるなんてことは、ほとんどなかった。だが、開いている雑誌の、モデルの写真に焦点をあわせようとしても、眼がいつしかぼやけはじめてしまう。
部屋は狭くて、エアコンがはいっている。匂いというものはなかったが、ふと不吉な予感がした。頭上から吹きだしてくるあのエアコンの温風の中に、もしかしたら眠くなるための薬のようなものが、仕込まれているのではないだろうか。
ほとんど突飛な思いつきだったが、それ以外、考えられない。夏希が身体をよじって、頭上のエアコン装置をふり仰ごうとした時、ノックもなしに背後のドアがひらいた。
一人の男が入ってきた。
背が高くて皮ジャンパーを着た暗い眼つきのその男の顔をみた時、
「あッ」
と、夏希は思った。
一度、見たことがある。
得体の知れない「本陣」のマスター、瀬高六郎という男ではなかったか。先日、逮捕されたはずだが、もう釈放されたのであろうか。
夏希がその名前を思いだした時、男は暗い眼をして、無言でずかずかと近づいてきて、立ちあがりかけていた夏希をいきなり、背後から羽交い締めにして、口に白いハンカチを押しあてようとしたのであった。
「何をなさるんですッ」
夏希は暴れた。
だが、もう身体が重くなりかかっていて、自由には動けなかった。
口に押しあてられたハンカチには、強い酸性の匂いがして、うぐうぐとそれを吸うたび、夏希は気が遠くなっていってしまったのであった。
夏希は深い闇の中にいた。
その深い闇は、まっ暗というわけではない。どこやら蒼っぽい色があって、水の底に押し込められているような息苦しさが、夏希をずっと襲いつづけていた。
夏希は少女時代、一度、海で溺れかかったことがある。飛び込み台の上に立っていた時、友達から不意に突き落とされ、海面に落ちたショックで水をのみ、潜る呼吸も整っていなかったので数メートル、勢いで水の中に沈んでいった時、這いあがろうとしてばた狂い、なかなか水面まで這いあがれなくて気が遠くなってしまい、失神してしまったのである。
突き落とした友達は遊び半分だったので、水面にあがってこない夏希に驚いて監視員を呼び、海底でほとんど気を失っていた夏希を助けだして、人工呼吸を与えて、蘇生させたらしいのである。
息苦しさは、その時のものに似ていた。深い闇の中を一生懸命、這いあがろうとしているが、水面にはなかなか這いあがることができない。そのくせ、高いところの水面には太陽光線が燦々ときらめきあたっているのだ……。
「苦しいよう。助けてええ……」
その光にむかって、無意識に、叫び声をあげようとした時、夏希は微かな嘔吐感をともなった気持ちの悪さとともに、やっと意識を取り戻したのであった。
気がつくと、何やら硬い木椅子のようなものに坐らされている。眩しいくらいの光線が、正面から押しあてられていた。
「――ここは……?」
ここはどこなの、と呟いて動こうとした時、夏希は自分の身体が木椅子に縛りつけられていて、身動きできないことに気づいた。
「眼がさめたようだね」
初めて聞く男の声が、聞こえてきた。
そちらに顔をむけた時、光線の輪の外側に幾人かの男や女の顔があることに気づいた。
そのうちの一人の男が光の中から現われ、
「おれの顔を覚えているかね?」
のぞきこまれた時、あっと夏希は声をあげそうになった。
宝栄ビルに花束を届けた時、奥のオフィスに待っている時に現われたのが、この男だったのである。夏希はうしろから抱かれてハンカチを口におしあてられ、クロロホルムの匂いの中で、気絶してしまったのである。
それを思いだした。
(……すると、あの部屋から私はどこかに運ばれたのだろうか……?)
背が高くて頬の削《そ》げた、どこやら冷酷な感じのする瀬高がのぞきこみ、
「税理士の楡山が帰ってこない。どこにつれ去られたのか、知らないか」
「知りません」
夏希はそう答えた。「楡山などという人には、会ったこともありません。どうして、私にそんなことを聞くんですか」
「おまえたちが楡山を呼びだした、とおおよそは見当がついている。仲根俊太郎とかいうジャーナリストが、首謀者だろう? え、楡山をどこに隠した?」
「私は存じません」
「仲根とぐるじゃないのか。隠しても、ネタはあがってんだぞ」
「あなたたちこそ、あの悪徳税理士とぐるだったんですか」
「ぐるという言い方はよくない。私は失踪した人間の行方を心配しているだけだ。きみの友達のマスコミやくざが、どこかに引っぱりこんだらしい。心あたりのところを、教えたまえ」
(やはり、この連中はぐるだったんだわ)
と、夏希は思った。坂本智津子の夫、兼造から相続税コンサルタントを装って巨額の土地を欺しとったり、武蔵丘市の農地や山林を買い占めたり、私の薔薇園を乗っ取ろうとして、色々な脅迫事件などを仕組んでいたのは、すべてこの連中の仕業だったに違いない。
そうして今、この連中は首謀者の一人の悪徳税理士、楡山貴司を仲根らにとり押えられて、悪事の露見にあわてだし、私を人質にとって、楡山の所在を探りだそうとしているんだわ……。
「え、なぜ黙っている! 楡山の行方を教えないと、あんたの身体がどうなるのか、知っているのかッ」
「どう聞かれても、私には答えようがないわ。知らないものは知らない。私から何かを聞きだそうとしても、時間の無駄よ」
「なにい――」
激昂した瀬高が手を振りあげ、夏希の頬に平手打ちをくわせようとした時、
「おやめなさい」
暗闇から、鋭い女の声が響いた。
夏希が何気なく、そちらに眼をむけると、瀬高の後ろから、長身のすらっとした白い服の女が、軽く腕組みしながら現われた。
その顔をみて、あっと、夏希は驚いた。貸ホールの受付にいたOLふうの女で、たしか梨田花緒とか名のった初対面の女であった。
「ふん。いっぱしの口をきくじゃないの。あんたが仲根さんと意を通じあっているくらい、私たちはとっくにわかっているのよ。楡山さんの行先を教えたほうが、あんたの身のためだと、私からもご忠告するわ」
梨田花緒は夏希を救うために、阻止したのではなかった。女に対しては暴力をふるうより、もっと効果的な尋問の仕方があるはずでしょ――と、言っているとしたら、タチの悪い相手かもしれなかった。
夏希は心持ち、肩を喘がせながら睨みつけ、
「誰……? あなたはいったい、誰なの……?」
問いつめる口調になった。
「――私? 梨田花緒って、名のったでしょ。あんたのお父さんが導き入れた狂言猟銃強盗団によって殺害された黒狼谷の、黒井猪三郎の一人娘よ」
「そ……そんな! 父はそんなことをしたはずはないわ」
「誰だって、自分の父親を疑いたくはないわ。それに人間というものは、経済的に順調で、裕福な時は一点、非の打ちどころのない人格者になるものよ。でも、逆境にいる時、大きな借金を抱えている時、事業に失敗しかかった時というものは、時々、切羽詰まって、焦ったり、狂ったりするものよ。……村山虎三はあの時、事業に失敗していたわ。だから、お金が欲しかったのよ。だから、誰かにそそのかされるか、誰かをそそのかすかして、あの狂言強盗を仕組んだに違いないわ」
「うそよ、うそよ。そんなこと……」
夏希は、叫ぶように言った。
「あら、そうかしら。義兄《にい》さん、そろそろ出てきて、説明してあげなさいよ。この女、ずい分、頭が固いらしく、物わかりの悪い女ったらありゃしない」
梨田花緒がそう言った時、闇の中から、もう一人、のっそりと現われた男がいた。その顔をみて、夏希は一瞬、心臓が停まるかと思った。
花緒の前に現われたのは、なんと夏希の夫、雅彦だったのである。
「ま……雅彦! どうしてなの? どうしてあなたがこんなところにいるの?」
「今、花緒が話した通りさ」
雅彦は、平然と言った。
平然としすぎているくらいで、彼が最近、家庭内で見せている苛つきや焦りもないし、これという怒りや憎しみの感情さえ、その顔には現われていなかった。
「そんな返事では、私にはわかりません。どうしてなの? 説明してちょうだい!」
雅彦は平然と説明した。
それによると、雅彦は多摩ニュータウンで多摩丘陵を追われ、東北の黒狼谷に入植した黒井猪三郎のグループの一人、梨田善助の息子であり、いわば花緒とは、義理の兄妹になるそうである。
一家が亡くなった黒井猪三郎の遺児、花緒は、黒狼谷の同士だった梨田善助の家に預けられたが、そこの長男が雅彦だったわけである。
もっとも、その梨田家も黒狼谷のあと東京に出て離散同然。苦労して大学を出た雅彦は、数年前、会社勤めの傍ら、カルチャーセンターに入って夏希に接近し、見合いをする前後、前身が発覚しないよう、梨田姓を名のってはいない。すべては叔母橋本珠江のはからいで、橋本の縁戚筋の滝野姓を名のっていたのである。
「そういうわけさ。村山虎三はつまり、おれたちにとっては許せない人間なんだ。それに会社の事業もある。21世紀ネオポリス計画さ。地価が上がる。それならいっそ、婿入りして薔薇園ぐるみ、乗っ取ったうえで、村山虎三に復讐しよう、という壮大なプロジェクトを立てたんだ。おれたちはな」
プロジェクト……と言った時の雅彦の言葉には、誇らしそうな響きさえもあった。夏希はあまりのことに、眼の前がまっ暗になった。
「それで……それで、私を薬物で失神させて、拉致《らち》したの?」
「そういうわけさ」
「まあ、卑劣な! あなたという人は二重仮面をかぶった悪魔のような人よ。見損ったわ」
「何とでも言うがいい。それよりも答えたまえ。楡山貴司はどこへ連れ去ったんだ?」
「知らないものは、知らないわ」
「ふん。――きみは少しも懲りないばかりか、自分の置かれている状況というものに対する認識が、まったく甘いようだ。しばらく暗い中で、頭を冷やすがいいかもしれないな」
雅彦が言い残すと、電気が消え、三人の男女の足音が消え、ドアが閉まった。
夏希は縛られて、闇の中に取り残された。
――闇は、丹沢の別荘地にも深かった。
ごお、と雑木林を鳴らして夜の風が吹いている。悪徳税理士、楡山貴司を連れ込んでの訊問は二日目にはいっていた。
否認するばかりの楡山に業を煮やし、仲根と真弓は彼をその別荘に監禁して、翌日は会社で日曜特出をしにゆき、夜はまたそこに戻ってきた。
「あんたがいつまでも吐かなければ、事態は一歩も、進展しやしないんだよ。坂本兼造をだました手口はどうだったんだ? あの巨額の土地代金はどこにやったんだ? あんたたちはあのあくどいことをやって得た金を、どこかの上部団体に上納しているんじゃないのかね」
仲根は聞きつづける。
楡山は、ビニールロープに縛られて、床に転がされている。かなり乱暴なやり方だが、局面はもうそこまで、来ているのである。
楡山もしぶといもので、「知らぬ存ぜぬ、おれを殺せ」という態度であった。
相当の大物であった。
しかし、仲根も焦らない。
仲根がじっくり腰をすえて、事件の背景を色々、聞きだしたいのは、ひとつには被害者の坂本兼造の妻、智津子に、少しでも被害金を取り戻してやりたいからであり、もう一つは、背後関係を知ることで、村山虎三や夏希をめぐる脅迫事件の全貌を掴みたいからであった。
村山虎三と夏希には、黒狼谷事件が背景にあるようだが、ただそれだけではないような気がする。黒狼谷の遺恨と、21世紀ネオポリス計画の構造がどう絡んでいるのか。
そして現実問題、坂本兼造の殺人事件。これはいったい、誰が真犯人なのか。また橋本珠江殺し。これにも関係があったのではないか。そういうことのすべてを、この男、楡山貴司は知っている、と仲根は睨んでいるのであった。
むろん、警察でもない民間人の仲根が、人をだました悪徳税理士とはいえ、一市民を監禁したり、暴力的手段で自白させようとすることは、法の認めるところではない。しかし仲根は、殺人事件まで絡んだ悪質な連中をむこうに回しているので、多少の行きすぎを覚悟しないことには、見るべき成果は得られないと、肚を決めているのであった。
「どうなんだい、楡山さんよ。あと二、三日、水も飯もやらずに、このまま放置しておこうかね。そうすると、あんたは飢死する。おれたち、あした山を降りると、もう二週間ぐらい、戻ってこないからな。次に来た日には、あんたは死体となって、ミイラ化しているってわけだ。おれたち、裏山を深く深ーく掘って埋めてやるよ。誰も、知りゃしない。え、それでもいいのかい?」
鍔競《つばぜ》りあいがつづいていた。
「水を……水をくれ……」
楡山が陥ちたのは、三日目だった。その夜、別荘の電気をすべて消し、仲根と真弓が二人とも東京に戻ると宣言し、ドアを閉めて鍵をかけようとした時、ついに助けを求める動物のような吼え声をあげたのであった。
「た……助けてくれッ……おれを……こんなところに、置き去りにしないでくれッ」
仲根と真弓は眼くばせしあい、ドアをあけてリビングに戻った。しかし電気はつけずに懐中電灯だけをつけて、楡山の顔を照らし、
「本当に助かりたいのかい?」
「頼む。助けてくれ。おれをこんな山奥に捨てないでくれッ」
「じゃ、あんたらの内幕をすべて吐くかい」
「言う……言うから、帰らないでくれ」
「まだ信用できんな。帰る、帰らないは、あんたの話を全部、聞いてからさ。まず、坂本兼造さんに近づいて巨額の土地をだまし取った全貌を吐いてもらおうか」
「その前に水……水をくれッ」
――あたえてやるかい?
仲根が合図をすると、
「そうね」
真弓が立ちあがって、コップに水を持参した。それを一口飲むと、やっと生気を取り戻したらしく、楡山はぼそぼそと語りだした。
真弓が隠し持っていた小型高性能録音機をまわし、それをすべて録音した。
楡山の話は、すでに仲根たちが知り得た部分もあったし、まだ知らない部分もあった。架空の債務契約書などを作成したり、砂利採取会社を設立させたりする過程で、印鑑や権利証や住民票を自由に使い、結局、坂本の土地のすべてを詐取して転売し、東京方面に逃亡していたという内幕は、ほぼわかっていたこととはいえ、本人の証言記録を取る取らないでは、ずい分、違う。
テープに意味があった。
「よかろう。やっと教えてくれたな。では次に、あんたらの背後関係を聞こうか。あんた一人でやったことかね? それとも、大掛りな組織が背後にあるのかね?」
楡山は、これについては、あまり多くのことを語らなかったが、自分の所属しているグループについて、かなりのことを語った。
楡山が所属する「東京経済研究社」は、通称・楡山グループといわれる脱税コンサルタントである。
つまり、楡山がボスなのであった。楡山グループは、東京の一極集中にともなう数年前からの過激な土地の値上がりに眼をつけ、首都圏周辺で巨額の遺産相続をする相続人をリストアップし、それらの人々や地主に計画的に近づき、今、話したようなやり方で脱税を指導していた。
謝礼はその指導によって儲けた地主の儲け額の三分の一程度である。たとえば、Aさんが楡山らに相続税の減免方法を依頼し、本来なら、三億円の相続税を納める必要があったところ、偽の金銭消費貸借契約書などを作成して、相続税から債務分を引かせて、仮に一億円で済んだとしたら、二億円をAさんは儲けたことになり、そのうち三分の一、約六千六百万円を楡山グループが受けとるのだ。
楡山グループは、このような方法で首都圏を中心に、この三年間で約四十件のコンサルティングをこなし、総額約二百三十億円もの“脱税指導”をしていたという。
そして脱税指導という名のコンサルティングの“謝礼”を受けとるだけにとどまっている間は、まだ“裏街道商法”ぐらいで済んでいたのに、何しろ脱税工作をする過程で実印から土地の権利証まで預かるため、つい、坂本の場合は、まとまった土地に眼がくらみ、だまし取る挙に出てしまったのだろう。
「――そういうわけだ。いつも土地を欺しとっているわけではない。それに、武蔵丘市がちょうど東京から三十分の衛星都市で、土地値上がりラッシュとなり、21世紀ネオポリス計画が進められるようになった。それで、知りあいのある筋から、できるだけ土地をまとめて買収してほしい、こちらでまとめて買いあげるから、という指令が出たので、おれたちも一発勝負しようということになったんだ――」
楡山は核心に近いことを喋りはじめた。
「幾らでも買いあげる、とけしかけた上部団体というのは、どこのことだ?」
仲根は追い打ちをかけた。
楡山はもうすべてを観念し、衰弱もしていたので、仲根の質問に素直に従うようになっていた。
「上部団体というほどのものではない。東京のある不動産会社とデベロッパー会社だ」
「その名前を言え」
「それは勘弁してほしい……」
「じゃ、こちらから言おうか。ひとつは地上げ屋暁興業と、藤城組という建設会社。そしてあと一つのグループは関東ドエリング企画と、大手建設会社Q組あたりかね」
仲根がずかずかと名前をあげていったので、楡山はぎょっとして、そっぽをむいた。
「知っているなら、聞かなくてもいいじゃないか」
「よかろう。それで、坂本さんを酒と女漬けにして上手に土地を欺し取ったが、あとで坂本さんに戻してくれと喰いさがられ、邪魔になって、ああいうひどいことをした。――それが坂本さん殺しの真相か?」
「ち……違う……!」
楡山は突然、激しく否定した。
「おれは、そんなひどいことまではしていないぞ」
「うそをつけ。坂本さんにつきまとわれて、面倒になったため、女をあてがっておびきだし、柿生《かきお》の廃屋で殺したのはおまえだろう」
「ち……違う……おれじゃない。おれはその頃、東京方面に潜伏していたから、手は下してはいないぞ」
「じゃ、手を下したのは、誰だ。はっきり名を言わないと、おまえを警察に突きだす」
「河野だ。地上げ屋の河野がやったと聞いている。絶対に間違いない。これで勘弁してくれッ」
――なるほど、河野か。よし、予想通りだ、告発してやる、と仲根は思った。
「ついでにもう一つのほうも聞いておこう。数日前の橋本珠江さん殺しのほうは、どうなんだ。これもおまえたちの仕業だろう」
仲根が厳しく問いつめた時、楡山は不意に慄えだして、黙り込んだ。これも身近に心あたりがあるからだろうし、事件が、まだ生々しすぎるせいかもしれない。
――あまり、何もかも一気に畳みかけるのはマイナスだな、と仲根は判断した。
少し手荒だったが、事件のキーマン、楡山貴司を丹沢の別荘につれこんで締めあげたのは、多大な成果をもたらしたことになる。
少なくとも坂本兼造の土地ジャックをめぐる楡山グループの陰謀の証拠は掴んだし、坂本兼造の殺人事件の真犯人が、河野又造であることも、掌握できたわけである。
あとは、もう少し時間をかけて聞きだしてやろう、と仲根は判断し、その夜は楡山に食事と水と、安息を与え、仲根たちは翌朝、いったん山を降りた。
すると、武蔵丘市でとんでもない話が待っていたのであった。仲根が市内に着いたのは午前十時であり、仲根は駅前で車を止めると、電話ボックスに入り、東京の現代舎に仕事上の電話を入れ、ついでに村山夏希の家に電話を入れた。その電話によって、夏希が一昨日の昼から帰宅してはいないことを知ったのである。
(もしや、失踪……?)
という心配が湧いた。
「ともかく、おれは村山家に寄って事情をたしかめてくるよ。きみは東京に戻って、会社のほうによろしく伝えといて欲しい」
仲根は電話ボックスを出て、真弓にそう言った。
「夏希さん、何事もなければいいけど……」
心配顔の真弓を改札口まで送り、仲根は駅前のスプリンターにとって返し、車を郊外の村山家にむけた。
町を走りながら、仲根の胸にも、もしや、という懸念が揺れつづけている。
(やつらが夏希さんを誘拐したのではあるまいか?)
仲根はほどなく、丘の中腹にある村山夏希の家に着いた。
車の音で気づいたらしく、薔薇園のほうから、鳥羽悟平が帽子をとりながら、出迎えに現われた。
「やあ、ご心配おかけして申しわけありません」
「いえ。こちらこそ」
仲根は車から降りた。
「どうぞ、なかにお這入りください」
「いえ。夏希さんの様子だけ、聞きにきたんです。失踪した日、夏希さんはどこに行ったのか、心当たりはありませんか?」
「へい。お嬢さんはあの日、宝栄ビルの貸ホールから花束を頼まれなすって、お昼頃、その花を荷造りなさって、車でお届けにあがられたはずなんですが」
鳥羽悟平はその日の模様を、そう語った。
「ほかに何か、気づいたことは?」
「さあ、別に」
「夏希さんが帰らない、ということを、お父さんには知らせていますか?」
「ええ、それはもう。大将も大変心配なさいまして今日あたりも、事務所の人を使って、心あたりを探してらっしゃるはずですが」
「わかりました。ぼくもこれから、宝栄ビルに行ってみます。何か連絡があったら、電話をしますからよろしく」
仲根は夏希の家を出て、雑木林の丘道をくだりながら、しきりにいやな予感がした。
もしかしたら、やつらが楡山貴司を仲根らに取り押さえられたので、その対抗措置として、夏希を拉致したのではあるまいか、という疑念が、黒い霧のように渦巻いていた。
仲根が宝栄ビルに入るのは初めてであった。
仲根はエスカレーターであがった正面の貸ホールに入った。今日はパーティではなく、池坊の華道展が催されていた。
受付に若い女性がいた。仲根が取材の要領で名刺をだすと、先方も名刺をだしてくれて、中山良子という女支配人であることがわかった。
「ああ、村山夏希さんですか。うちでもよくバラの花束をお願いしております。あの方がどうかなさったのですか?」
中山良子は、素直そうな顔をむけた。
「一昨日、おたくから花束を注文されて、こちらに届けに行ったまま、家に戻られてはいないそうなんです。まだ電話一本はいらないので、ご家族の方が心配なさっていて……おたくに何か、心あたりはないかとおうかがいしに来たわけですが」
仲根がそう言うと、
「一昨日ですって?」
中山良子はびっくりした顔をみせた。
「はい。一昨日です」
「うちにバラを届けにお見えになった、というんですか?」
「そうです」
「変よ。その話。うちはおとといはバラなんか、注文してはおりませんけど」
「しかし、薔薇園では採花して夏希さんがおたくに届けた、と断言していますが」
「変ねえ。だって、一昨日は定休日で、うちはシャッターをおろして閉めていましたし、私ももちろん、出てはおりませんが」
「定休日……?」
仲根は不審な気がした。
じゃ、誰かが定休日のこの貸ホールを占拠して、夏希にバラの花束を届けさせるための芝居でも仕組んだのであろうか。
「変ねえ」
首をひねっていた中山良子が、「そういえば、変なことはもっとあるわ。昨日、画材屋さんから電話がはいりましてね。ミレーの複製画を返してくれという電話なんです」
「複製画を……?」
「ええ、何でも一昨日、うちの貸ホールで展覧会が開かれたそうで、その画材屋がミレーの〈晩鐘〉や〈落ち穂拾い〉の複製画を主催者に貸したが、まだ戻ってこない、という文句だったんです」
「でも、おたくでは開いてなかったんでしょ? そんな展覧会なんか」
「もちろん、定休日だったんですから、シャッターを閉めてたつもりよ」
(ふーん。考えられなくもないぞ)
と、仲根は思った。この手の貸ホールは、多目的ホールで、パーティ、華道展、絵画展、ミニコンサート、ファッションショーまで何でも開けそうである。
頭のいいどこかの誰かが、定休日のホールを占拠して、展覧会らしいものの飾りつけをし、夏希に花束を届けさせて、そのまま夏希を世間から隠してしまう装置としては、いい場所であり、いいアイデアである。その上、やつらなら、このホールの経営者、橋本珠江ともつながっていたので、ホールの合鍵ぐらい、以前から手当てし、所持していたのかもしれない。
仲根は、そう考えた。
ともかくその画材屋に行ってみよう、と思った。
「や、お騒がせしてすみませんでした。その画材屋に行ってみます。場所を教えて下さい」
教えられた画材屋は、銀嶺堂といって、市内の栄通りの大橋ぎわにあるということで、おおよその見当はついた。
仲根は駐車場に戻って車に乗り、栄通りの銀嶺堂にむかった。
銀嶺堂はすぐにわかった。
栄通りというアーケードの商店街がそのまま橋にかかる袂《たもと》にあって、地方都市にしては、立派な画材屋であった。
主人の徳田松平は、仲根の質問に答えながら、烈火のごとく怒っていた。
「まったく、礼儀知らずの連中でしたよ。うちに這入ってきて、壁にかかっているミレーやコローの絵をみて、一点一万円で、一日だけ貸してくれ、という。買うのではなく、貸してくれというのが妙だったので、理由をきいたら、市内の宝栄ビルで会社の油絵同好会のグループ展をやるのだが、三人分の搬入が遅れていて、壁に余白があくのでさまにならない。素人の模写絵として懸けておきたい、と妙ちきりんなことを言うんですよ」
「それでお貸しになったのですか?」
「一点一万円で五点なら、五万円です。損にはならない。どうせなら買上げてもらいたかったんですが、夕方には戻すというから、気軽に貸してやったんです」
「そうしたら、戻ってこないんですか?」
「いや、昨日までは戻ってこなかったから、貸ホールに電話したんですが、今朝になって気づくと、裏の駐車場の片隅に戻されていましたよ。夜間に置いていったのかどうか。何の挨拶もないし、額装には傷がついているといった按配で――」
「お金は?」
「先に取っておきましたがね」
「いったい、どんな連中なんです?」
「二人で来ました。変にドスのきいた中年男と、若い女がつれだっていました」
「若い女ですって?」
「ええ。OLふうの。――そうそう、会社のグループ展というから、どこの会社だときいたら、たしかその女が名刺を差しだしたな」
画材屋の主人は、やっとそれを思いだしたらしく、レジのほうに行って、抽出しをあれこれあたっていた。
「あ、ありました。これです」
仲根はそれをとって一瞥し、あッ、と驚きの声をあげた。
――関東ドエリング企画株式会社事業本部 用地推進課 梨田花緒
と、あるではないか。
(花緒だ……梨田花緒じゃないか!)
夏希の失踪の背後に、地上げ屋グループだけではなく、意外にも黒狼谷で出会った梨田花緒の名前までが浮かんできたので、仲根は大変な驚きと困惑をもてあましていた。
(彼女がいったい、夏希とどんな関係があるというのか?)
仲根は気持ちを整理するように画材屋を出て、近くの喫茶店に入った。
(とにかく、会ってたしかめてみよう。直談判すれば、彼女を含むグループが夏希をどこに連れ込んだかが、わかるはずだ)
仲根はコーヒーを一杯飲んだところで立ちあがり、レジの傍にある電話を取りあげた。
梨田花緒の名刺にある赤坂の関東ドエリング企画に、プッシュを押した。しかし、
「梨田は一昨日から、会社を休んでいるそうです」
そういう返事であった。
(よし、それなら――)
目黒区にある梨田花緒のマンションには一夜、案内されたことがある。今夜あたり、その表に張り込んで取っつかまえてみよう。
席に戻って仲根は、そういう作戦を考えた。そしてもう一つの標的は、武蔵デパート裏の本陣ビルである。一階の居酒屋〈本陣〉と、上の階にあるときいていた〈東京経済研究社〉というものも、張り込んでみる必要があるな、と考えた。
伝票を握って立ちあがろうとして、仲根はあと一つ忘れていた大事な切り口があることに気づいた。そういえば、夏希の夫、雅彦はいったいどうしているのだろう。
思いだしてあわてて村山家に電話を入れると、留守番の鳥羽悟平が電話に出た。ご主人はこの数日、お帰りになってはおりません、という返事であった。
(そうか。もしかしたら、雅彦あたりも夏希失踪に、一枚噛んでいるのではないか?)
それにしても、貸ホールで展覧会の恰好までつけて、夏希にバラの花束を届けさせて拉致したとすると、やつらはかなり本腰を入れて、取り組んでいる印象である。
(夏希の身に、万一のことがなければいいが……)
仲根には、何よりそれが心配であった。
「まだ、わからんか」
村山虎三は苛々と、事務所の中を歩きまわっていた。彼の右手の指の間には葉巻がはさまれているが、火がついてはいない。灰皿に捻じ消したものを手にしたまま、火をつけるのを忘れているのであった。
「いったい、どこに行ったんだ、夏希は。同窓生たちの間でも消息はわからんのか?」
「はい。八方、手を尽くしておりますが」
秘書の間宮が頭を垂れた。
「しょうがないやつだな。男と旅行にでも出かけるような娘じゃないはずだが」
「はあ」
「うちの悟平に事情をきいて、もう少し立回りそうなところをあたってみたまえ」
「かしこまりました」
――夏希とてもう子供ではないから、数日間の留守ぐらい、それほど神経質に騒ぐことはないのかもしれない、と村山虎三が思っている時、卓上の電話が鳴りはじめた。
虎三が取りあげると、
「――虎三さんかい?」
妙に底ごもりする男の声が響いた。
「そうですが」
「娘さんを預かっている」
とっさには、意味不明のことばを聞いたように虎三は一呼吸置いて、
「何だと?」
「夏希といったかな、あんたの娘。あの薔薇園の女主人を預かってる、と言ってるんだ」
「夏希を……誘拐した、というのか?」
「ありていにいえば、そういうことになる。もっとも、子供じゃないからあまり手間もかからんがね」
男は電話口で、少し笑ったようだった。
村山虎三は一瞬、眼の前ではじける火の塊りを見たような怒りに駆られ、
「おい、君。――冗談じゃない。何の恨みがあって、そういうことをやるんだ。いったい、何が欲しいんだ!」
そう叫んでいた。
「あすの夜までに、三億円ぐらい、用意してもらおうか」
「三億円だと……? そんな、無茶な」
「無茶ではない。あんたが昔、黒狼谷でやったことを思えば、軽いものさ。それに、今のあんたにとっては、不動産の物件をほんの一つ二つ手放せば、すむことじゃないかね」
男の声はつづいていた。村山虎三は軽い眼まいに襲われ、沈黙すると、
「いいか、警察には告げるな。へたに騒いだりすると、娘の生命がない。それにあんたの過去も明るみに出て、これからだって、あんたは刑務所入りだぜ」
村山虎三は受話器を握ったまま、しばらく沈黙していたが、当分は男の言い分に応ずるしかない、と判断した。
「わかった。どこに持ってゆけばいいんだね?」
「明晩九時、宝栄ビルの屋上に持ってこい。そうすれば、娘は返してやる」
「現金はかさばる。それに重い。小切手でいいんだな?」
「そんなアシのつくものは駄目だ。現金で持ってこい」
「しかし、三億円といえば大型金属ケースで二個分だぞ。そんな大金、持参して歩けはせん。有価証券か、小切手で勘弁してくれないか」
虎三は、なんとか犯人が手掛かりを残すよう仕向けようと考えて、そう粘ったが、もとより、通用するような相手ではない。
「おまえ自身にも、用事がある。小切手とか手形とか振込みとか言わずに、おまえ自身で現金を持参して、宝栄ビルの屋上に来い。――いいな、明晩、九時だぞ」
いつ、電話が切られたかわからない。受話器を置いたまま、虎三はしばらく沈黙していた。
眼の前の壁がぐらりと揺れるのに気づいて、あわてて抽出しをあけ、薬袋を取りだした。
降圧剤と、強心剤。もともと、刺傷事件と入院以来、血圧は正常ではなく、乱高下の状態にあり、心臓も動悸が異常高進したり、不整脈が出たりする。
血圧がぐーんとあがった時の耳鳴りと、気分のわるい眼まいを覚えながら、虎三は急いで二、三種類の錠剤を口に放り込み、ガムのように噛み砕いて飲み下した。
(畜生ッー)
と、呻く。(やつら、やはり黒狼谷の残党どもか)
椅子をまわして、窓のほうを見る。さいわい、事務所は人払いをして一人になっていた。
眼を閉じる。
いやな記憶がよぎる。
二度と思いだしたくない過去であった。
ほかでもない、黒狼谷。十四年前の東北のあの黒狼谷の猟銃強盗殺人事件に関する秘密である。
(――やむを得なかったんだ、あの時は……)
そう呟く虎三が、しかし、狂言強盗を仕組んだ主犯だったというわけではない。また、彼自身で猟銃を発射して黒井猪三郎らの大金を奪って逃走したというわけでもない。
しかし、まったく無関係かといえば、そうではなかったのである。
「大至急、金送れ」――十四年前の夏、黒狼谷に入植して苦闘していた黒井猪三郎から頼まれた時、村山虎三は預かっていた東京近郊の土地を処分し、六千万円ほどの現金を作って、夜行列車で山形県西村山郡Q町の過疎地の黒狼谷まで運んだのである。
その時、銀行振込みにはせず、大きなトランクに入れて現金を持参したこと自体、まず第一に虎三自身で、犯罪を誘発する素地を作っていたと思われる。
というのも、虎三はその頃、事業に失敗して巨額の借金を抱えていた上、その取引のもつれから、神山滝太郎という不動産ブローカーに、早く借金を清算しろと脅されつづけていた時であり、虎三の動きや身辺のことはすべて債権者のその不動産ブローカーに掴まれていたのである。
だから当然、東北の黒狼谷に送るための土地処分をしていることも、神山に見つかり、その委任取引の仔細を尋ねられ、どこに送るんだときかれると、多摩ニュータウンを追われて、黒狼谷に入植した黒井猪三郎らのことを説明せざるを得なかったのである。
「そういうわけだ。おれの金ではない。見逃してくれ」
虎三が懇願すると、神山はじろっと睨み、
「ふん、義援金か。それじゃ、友達は首を長くして待っているだろうぜ。銀行や農協への振込みではなく、現金でおめえ自身で運んでやれよ。そのほうが、現地の友達も喜ぶだろうよ」
指示するように言った。
その時、神山らが何を考えていたかを、勘づかなかったほど、虎三も鈍感だったわけではない。が、まさか自分を追跡してきて、深夜、猟銃強盗に扮して山奥の黒井の家を襲い、その罪を自分に被せる挙に出ようとまでは、虎三は読めなかったのである。
しかし、結果的にいえば、神山というその男に現金を運ぶ日時から行先まで教えてしまった以上、「共犯」、または「手引きした」と疑われても、致し方ない原因を作っていたのである。
それも、これも、神山に対して虎三が多大な借財を抱えていて、「頭があがらない」状態だったからである。
その神山滝太郎は、応召した時の軍隊での虎三の上官であった。戦後は、不動産ブローカーをしていたが、黒狼谷の事件のあと、しばらく武蔵丘や東京で羽振りがよかったが、今は顔も見たくはないし、消息もきかない。
あれから、十四年たつ。
虎三が今になって思えば、事件当時、もう少し適切な処置の方法があったと思える。自分が疑われ、参考人として任意出頭まで求められたわけだから、神山滝太郎のことを疑わしい人物だとして、警察にはっきりと進言したり、告発するなりしていればよかったのである。
しかし、虎三とて、神山滝太郎を真犯人と断定する自信はなかった。覆面をしていたし、自分も負傷して気を失っていたのだから、犯人の顔を見てはいないのである。
それに何といっても、神山は軍隊の上官であった。ただでさえ、何かと遠慮があった上、一億数千万円の負債をその男から背負っていた虎三としては、余計な讒言《ざんげん》をして、取引において自分を窮地に追いつめるようなことは、やりたくはなかったのである。
それやこれやで、虎三は貝になった。犯罪の原因は自分で作ったのだから、友人を裏切ったことになる。そして、黒狼谷のことは心に残りながらも、少なくとも自分でやったことではないので、そこに一分の光明を見いだし、虎三は無理に平静を装い、以来十四年間、忘れよう忘れようとして来たのであった。
――蓋をしていたつもりの、その遠い過去の傷口が今、ぱっくりと開いて、起きあがってきたのかもしれない。黒狼谷の残党たちは、自分のことを「共犯」「手引人」として、深く恨んでいるようである。
今度の脅迫事件や、娘の誘拐事件が、あの黒狼谷の残党の仕事なら、自分が恨まれるのも無理はないし、身からでた錆である。
身代金の三億円は、身代が傾くほど痛いが、娘の生命には代えられないから、何とか調達して、やつらに与え、夏希を無事、取り戻すしかあるまい、と虎三は考えるのであった。
さて……と。
虎三は長い瞑想から覚めると、椅子をくるりと机のほうに回し、受話器を取りあげた。
気持ちを整理すると、血圧も少しさがったようだし、動悸も幾分、落着いたようだ。
虎三はそれから幾つかのところに電話をかけ、寝かせている幾つかの物件を処分して、三億円を調達するための工作に取りかかった。
同じ日――仲根俊太郎は東京・四谷の現代舎にいた。鳴りだした電話を取りあげた時、はて、と相手の声をいぶかしんだ。
「武蔵丘の蓮見と申します」
「は?」
「村山虎三の内縁の者で――」
「ああ、聞いておりました。蓮見康子さんでしたね。私に何か?」
「失踪なさっているお嬢さんのことで、お知らせしたいことがあります。大至急、武蔵丘に来ていただけないでしょうか」
蓮見康子の声は、切迫していた。
同じ日の夜――。
村山夏希は、猛烈に不幸な気分の状態に置かれていた。気分的にもそうだし、実際的にも、そうなのである。
監禁されて、もう三日がたつ。暦さえも、はっきりしない。それも外国駐在の商社員が、現地のゲリラや凶悪犯罪団に拉致されて監禁されるのよりもっと不幸なのは、その主謀者がはっきりしていて、かつては夫と呼んでいた雅彦や、その背後にいる黒狼谷の残党、地上げ屋グループが一団となって、牙をむいて襲いかかっているということである。
(何という不幸。私は何も悪いことをしてはいないのに、こんな不幸なことがあるだろうか。武蔵丘という東京近郊で、ただひたすらバラ作りをしていた女が受ける仕打ちにしては、これはあまりにも理不尽すぎるし、酷すぎるのではあるまいか)
そう思うかたわら、夏希は、自分に襲いかかった牙が、理不尽なものだからこそ、救いようがなく、いい加減なものではなく、死をさえも、殺意をさえも予感させる狂気から発生していることを、感じはじめていた。
衰弱がはじまっている。食料も、水も、ろくに与えてくれない。水には、薬がはいっているようだ。ここはどこなのだろう、と見あげると、窓や天井が、焦点がぼやけてさだかには見えないくらい、夏希の心身の衰弱は加速されていた。
「こんなことをして……私をいったい、どうしようというの」
時折、姿をみせる男にきくと、
「あんたには死んでもらう」
「まさか。そんなこと、本気で言ってるんじゃないでしょうね」
「信じないとすれば、あんたはまだ事態を甘く見ているぞ。おれたちは本気なんだ。あんたは遺書を残して自殺するんだ。“叔母の橋本珠江は私が殺しました。罪のつぐないをします”という遺書を残して、深夜、このビルの八階から飛び降りることになるんだよ」
「やめてよ、そんな冗談」
「冗談ではない。あと一日か二日だな。もろもろの情況から、あんたはもう少し、生かされているということを感謝するんだな」
「いったい……いったい……誰なの! そんなひどいことを仕組もうというのは」
「わかってるくせに」
「わかりません。はっきりおっしゃい」
「あんたを最終的には始末しようと言いだしたのは、あんたの亭主、雅彦さ」
(……悪魔……!)
夏希は、暗い部屋で呻き声をあげた。
――雅彦がその部屋に入ってきたのは、同じ日の夜になってからであった。
彼は無言で入ってきて、夏希を冷ややかに見おろしていた。腕組みをしたその顔が悪魔のように思えて、
「どうして、こんなことをするの」
夏希はきいた。
「きみがおれを裏切ったからだ。この数ヵ月、きみはおれに誠意のかけらも見せなかった」
「裏切ったのは、あなたのほうじゃないの」
「言い合いは、もうたくさんだ。とにかく、おれたちは黒狼谷の決着をつけたい。そのために、おれはきみを手段にして村山家にもぐりこみ、薔薇園を乗っ取り、村山虎三に復讐しようと考えたんだ。もうすぐ、おれたちのその野心が実現する――」
そう言って肩を聳《そび》やかす雅彦は、まったくの別人になっていた。現代にもし鬼というものがいたとしたら、これはそういうものかもしれないとさえ、夏希は思った。
「それは言いがかりというものよ。父はそんな恐ろしいこと、やっているはずありません。恐ろしいことを企んでいるのは、あなたたちのほうじゃありませんか」
「どうにでも言うがいい。プロジェクトがもうここまできた以上、引き返しはできないんだ。事実上、おれはきみから離婚されると、すべてを失う。計算していた村山家の財産も、橋本珠江の資産も、サラリーマンとしての人生も、何もかも失う。それならいっそ、きみを偽装自殺にみせかけて亡きものにし、村山家のあるじに収まって、村山薔薇園のすべてを手に入れる。――それが、すべてさ。おれはもう、そこまで覚悟しているんだからね」
よくも平気でそんなことが言えるものだ。
(鬼……鬼……鬼……!)
夏希は、心の中で罵《ののし》った。
察するところ、雅彦は橋本珠江の殺人事件が発生して以来、こと志と違って、八方塞がりの窮地に追いつめられて、焦っているようである。会社でも妙な噂が立って、微妙な立場に立っているらしい。解雇されるようなことではなくても、左遷され、窓際族になるのは、エリートのつもりの雅彦にとっては、たまらない屈辱だろう。
そうした何もかもが、黒い怒濤のように雅彦を押し包み、その原因を自分で作ったにもかかわらず、局面を一挙に解決するためには、もうこれしかないという非常手段に訴えようとしている。
だからこそ、危険なのであった。もはや雅彦の気持ちの半分以上は、市民としての正常な判断力を失い、妄執と我欲の狂気に駆られているのかもしれなかった。
――一条の光線が射した。
夏希は机の前に坐らされていた。光線はその机の上に射していた。紙とボールペンがある。
雅彦が夏希の手にボールペンを握らせ、
「助かりたかったら、これからおれの言う通りにするんだ」
脅すように言った。「その便箋に、これから言う通りのことを書きたまえ」
「何を書けばいいの?」
「“珠江おばさんは、私が殺しました。申し訳ありませんから、死んでお詫びします”――と、そう書くんだ」
「まるで遺書じゃありませんか」
「そうさ。遺書というやつかもしれんな」
「私を殺したんじゃ、何にもならないわよ」
「ほう。そうかね」
「そうよ。籍ははいってませんからね」
「籍がなくても、事実上の結婚生活は誰でもが認めるところさ。おれはもうあの家のあるじだよ。あんたが自殺してしまえば、もっと何でもできる」
「まあ、鬼みたいな人ね!」
こういう男が世の中にいるだろうか、と夏希は信じられない。資産家の娘と結婚して、巨億の資産を掴み取ることを企む人間が世の中にいることは、耳にしなかったわけではない。財閥や銀行経営者の世界で、その令嬢に近づき、籠絡《ろうらく》し、結婚に漕ぎつける話はよく耳にしていたが、まさか自分のような都市近郊の薔薇園の娘までが狙われるとは、夢にも思わなかった。
しかし、考えてみれば、一番、狙いやすいのかもしれない。企業内人間と違って、農園の娘なら社会的にあまり揉まれてはいないし、近年の土地の値上がりを背景に考えると、持っている資産たるや、なまじな中小企業の社長や、大企業の雇われ社長どころではないのである。
「いやです。見損ったわ。殺されても、そんなものは書きませんからね」
「ほう。ばかに強気じゃないか。それなら、それでいいさ。きみが書かなくても、今ではコンピュータ分析できみと同じ筆蹟を作って、きみの遺書となるものを第三者が作成することができるんだ。それでいいのかい」
「勝手にすればいいでしょ。今に天罰がくだるわ」
「天罰か。ふん、あたってみたいもんだな。おれにはもう、怖いものは何もないんだ」
言いながら、雅彦が夏希の後ろに回った。
そして、いきなり襟を掴んで窓のほうに引きずられた。夏希は衰弱していたし、薬で心身損耗状態にされていたので、半ば朦朧とした意識のまま、身体が浮いて、引きずられたのである。
夏希は口をふさがれたまま、なんとか叫び声をあげようとした。声は殺されて、重苦しい呻きに変わった。
抱えられた腰が何度も浮いて、足が床を離れた。夏希の体は肩から先に、窓の縁を越えそうになった。
「何をするの。やめてッ」
足が宙を蹴ってもがいた。カーテンがなびいて視界をふさいだ。眼下には、時おり夜の道路が見えた。
はるか下である。
夏希は地獄をのぞく思いだった。
ビルの八階から突き落とされたら、人間がどうなるかは、眼に見えている。
それはもう、眼に見えていた。
雅彦たちはそれで遺書を作って、夏希が自殺したように見せかけようとしているらしい。
(――鬼……! 悪魔……!)
夏希は必死で抗った。
雅彦はそれでも容赦なく、無言のまま作業をやめようとはしない。どこまでこの男は狂っているのだろう。
「やめてッ!」
夏希がその手に噛みついた時、ドアにノックの音が響いた。
「誰だッ」
というふうに振りむいた時、一人の男が馳け込んできて、雅彦に何やら耳打ちしている。
「ここではまずい。誰かがこのビルの周りをうろついている。やはり、海岸に運ぼう」
夏希には、そうきこえた。
聞こえた瞬間、夏希は突然、その男によって、鳩尾《みぞおち》に拳を打ち込まれていた。
くう、と悲鳴があがって、夏希は眼の前がまっ暗になり、気を失った。
二人の男が夏希を担ぎ、部屋を出てエレベーターに乗り、地下駐車場に駐めてあったコンテナ車の中に乗せた。
コンテナ車は、すぐにすべりだした。
夜のもう十一時である。
街は寝静まりかけていた。
コンテナ車は武蔵丘市の街を出て、平野を横断するように西のほうに走り、厚木インターから東名高速道路に乗った。
どうやら、東名で小田原に出て、どこやらの海岸にむかうつもりのようである。
そのあとから、一台の車がぴったりと尾行しているのに、コンテナ車の男たちは気づかなかった。
尾行しているのは、濃紺のスプリンターであった。
運転しているのは、仲根俊太郎であった。助手席に一人の女が乗っている。
その中年女性は、意外にも村山虎三の愛人、蓮見康子であった。
「連中はどこまでゆくか、知ってますか」
仲根が聞くと、
「真鶴か伊豆あたりではないでしょうか。何でも高い崖から海に突き落とすのだとか……そんな恐ろしいことを話しておりましたから」
答えている蓮見康子は、今日の午後、仲根に電話をかけて、夏希の危機と、監禁されている場所を教えてくれたのである。
事情はこうだ。
――蓮見康子の父親も以前、多摩ニュータウンに追われて東北の黒狼谷に入植した一党であった。その悲惨な失敗をいたく恨み、その原因を作った村山虎三に仕返しをしろ、と父は言い残して、数年前、他界したそうである。
それで康子は、看護婦をやめてホームヘルパーになって虎三に近づき、無理強いされたような恰好で身体の関係を結び、内縁関係に入った。いずれ、黒狼谷の残党と内通しながら、復讐するためであった。
しかし、年月が経つにつれ、康子は虎三を愛するようになり、復讐する気がなくなった。表むきは瀬高六郎らと連絡を取りあっていたが、橋本珠江の殺人事件や、夏希が誘拐されたりするのを見るにつけ、いよいよ河野又造や瀬高六郎、雅彦らのやり方が残酷すぎて許せないと思い、仲間から手を切ろうと考えた。
(――早く、お嬢さんを助けなくちゃ……)
という一念から、一味の企みを仲根に知らせ、夏希が連れ込まれていた宝栄ビルに張りつかせて、一緒に救出するためのチャンスを窺っていたのである。
「それにしても、ひどいことをする連中ですね」
「すみません。もっと早くお知らせして、企みを未然に防げばよかったのですが」
「いや。あなたが謝まることはない。よく教えてくれたと、感謝しています。今からでも遅くはない。夏希さんは絶対にぼくが助けだしてやります」
仲根は決然と言い放った。
先行する白いコンテナ車は、大井松田から高速道路を降りて、小田原に入り、海岸線を走る真鶴道路にはいった。
海鳴りがきこえた。
崖下に、怒濤が砕けているようである。
真鶴道路は海岸線を走ってゆく。それも、カーブする部分は幾つかの突端を形成して、断崖がすぐ真下の海に切れ込んでいる部分があった。
その崖陰の一つで、白いコンテナ車は駐まっていた。午前零時に近くなり、さすがにあたりに車は少ない。
仲根はすぐ近くの松林の中に車を駐め、ライトを消して様子を窺った。夏希を絶対に救出してやる、という気持ちには一点の曇りもなかった。
たとえ、どんな危険が及んでも、それだけの覚悟はある。不運な新婚旅行以来、村山夏希の置かれた不幸な立場を薄々感じながらも、放置しておいた自分の怠慢さは、たとえ夏希が心の中で愛していた女性だからこそ、わざと一定の距離を置いて、見て見ぬふりをしていたとはいえ、許されはしないという思いが、今、仲根の胸の中に渦巻いている。
愛しているのなら、たとえ、相手が結婚した立場であろうとも、もっと早くから親身になって相談に乗り、不埒な夫から、実力ででも奪い返すべきだったのである。
(だが……まだ、遅くはない……)
仲根はそう思うのである。
仲根は、ここに来るまでに、紺野真弓らに協力を求め、柿生署の刑事たちにも連絡させているのだ。真弓とは、車内電話で連絡を取りあい、白いコンテナ車の走行方向を教えているので、もうすぐ刑事たちがこの方面にやってくるはずであった。
程なく、白いコンテナ車の後ろの開閉ドアがあけられた。ストッキングで覆面をした二人が乗り込んでゆくのが見える。
仲根はすぐその近くまで走った。
やがて、話し声がきこえ、
「降ろすぞ」
という声とともに、気絶したままの女性を抱えた男がコンテナ車の後ろから現われ、下で待っている男に、受渡しするのが見えた。
(夏希だ。……畜生、やつらは投身自殺したように見せかけるつもりらしい。許せないな……)
むらむらと怒りを覚えた仲根は、右手に携えた木刀を握り直し、音もなく崖の上を走って、白いコンテナ車のほうに近づいた。
潮の匂いが鼻につく。星だけが冴えていた。
海から叩きつける風に軋む松籟と、断崖直下でうずまく怒濤の音以外、物音もなく、あたりに人影はない。
「きさまら、卑劣な真似はやめろ!」
阻止する言葉を投げた時、男たちがぎょっとして振りむいた。
「なんだ、てめえ」
河野又造の怒鳴り声が響いた。
「何だ、もない。そこの村山夏希さんを放せ」
「きさま、仲根か」
「そうだ。勝手な真似はさせないぞ」
「生意気いいやがる。怪我したくなければ、引っ込んでいろッ」
河野が胸に手を入れて刃物を取りだす前に仲根は一歩踏み込み、問答無用と木刀を打ちおろした。ぎゃあっ、と呻き声が湧き、よろめく河野の傍から、
「野郎ッ。邪魔だてするのかッ」
瀬高六郎がナイフを抜いて、仲根に突っかけてきた。
その手首にむかって、仲根は木刀を打ちおろした。ふたたび、悲鳴がわき、手首をおさえて、瀬高がつんのめった。
仲根は飛び込んで、その背に木刀を打ち込み、前のめりに倒れるところを、顎に膝蹴りを打ち込み、松林の中に倒した。
容赦はしない。これには夏希の生命が懸かっているのだ。その夏希は、気絶したまま、先頭をゆく男に抱かれて、崖の突端のほうに運ばれようとしていた。
「おい、待て」
仲根は追いかけ、雅彦らしい男の背中にむかって、木刀を振りおろした。夏希を抱いたままの男が、肩口を叩かれてよろめくところに一歩踏み込み、双つのむこう脛をねらって、したたかに木刀を横に薙ぎ払った。
「ぎゃあっ」
男は悲鳴をあげて、つんのめった。
その拍子に、抱いていた夏希を取り落とし、夏希の身体は地面に放りだされて、危うく崖際に転がるところであった。
「危い!」
仲根はその裾を掴み、崖下に転落するのを防いでから、
「夏希さん、大丈夫かッ」
抱き起こすと、夏希は髪をゆすって顔をあげ、
「……仲根さん……」
ひしと抱きついてきた。
仲根は無言で夏希の身体を抱きしめ、断崖直下の怒濤の音を聞いていた。
遠くからパトカーのサイレンの音が近づいてくる。
終章 やがて薔薇咲く
――秋の陽射しが柔らかい。
薔薇園には今日も色とりどりの薔薇が咲き誇っていた。温室の中に入り、夏希はしばらく眼を閉じて佇み、花々の匂いと息づきを胸一杯に吸い込みながら、この一瞬の倖せを噛みしめていた。
薔薇の魔性が、悪魔を呼んだ――。
そうとしか思えないようなこの数ヵ月間の、めまぐるしい暗転と苦痛の日々、そして欲望むきだしの醜い事件だったが、ようやくそれも決着がついたようである。
真鶴道路の崖の夜から一週間が経つ。事件はあらかた、終息を迎えていた。
あの日、夏希に危害を加えようとしていた河野又造、瀬高六郎、雅彦ら三人組は、仲根俊太郎の働きによって、崖の上で木刀で叩きのめされ、駆けつけた刑事たちによって殺人未遂の現行犯で逮捕されていた。
あわせて、そのどさくさの間に河野と瀬高は夏希を誘拐したとして、村山虎三に脅迫電話を入れて、三億円の身代金を巻きあげようとしていたが、それも受け渡しの日より一日早く逮捕されたので、未遂に終わったことになる。
夏希が聞いた警察の話では、父をゆすって身代金をせしめようとした企みの中に、雅彦は這入ってはいなかったそうである。
裏返すと、この手のグループによくありがちな仲間割れ。地上げ屋の河野又造と、黒狼谷の残党の瀬高六郎らは、珠江と雅彦をかついで一儲けしようと企んでいたようだが、事態がもつれたので村山雅彦を見限り、二人だけでこの際、夏希の父、虎三から三億円を脅し取って、夏希も処分し、高飛びしようと仕組んでいたことのようである。
ともあれ、事件のあくどい輪郭のほうはそういうわけで、一段落ついたわけだ。楡山貴司の線から、坂本兼造殺しは河野又造、橋本珠江殺しは「本陣」のマスター瀬高六郎が犯人と判明し、証拠もあがっているので、いずれ警察の追及によって、その詳しい動機や情況が判明するだろう。
夏希としては、本当はそういうことはもうどうでもよいのである。それよりも一刻も早く、事件を忘れて、全身全霊を、自分の好きな薔薇作りに打ち込みたいのである。
その薔薇作りというと、心配されていた武蔵丘市に建設予定の21世紀ネオポリス計画は、今のところ計画が大幅に縮小され、それも三年間凍結後の再検討、ということになって、事実上、見送られる公算が大きい。
ひとつには、日本列島にリゾート開発ブームが起きて、なまじな近郊型超高級マンション街より、リゾート地での永住型デベロッパー作りに時代の視点が移ってきた背景がある。
それともう一つは、株が暴落して土地高騰も鎮静化しつつある中で、世の中全体が財テクに狂奔したバブルの宴が終えんしつつあるのを予感して、早目に「巨大開発」からは撤退した方が得策である――と判断する変わり身の早い企業家心理が、働いたのかもしれない。
が、何より、仲根俊太郎らの働きかけで、プロジェクトのメインバンクである三星銀行筋のトップ、つまりは会長代行の三星亜矢子が総合的な見地から、武蔵丘からの撤退の意志決定をしたからである。
「殺人事件まで惹き起こし、土地買占めにとかくの問題のあった武蔵丘市で、これ以上、強引に事を進めるのは、大三星のイメージを損なう」という考え方によるものであった。
ともあれそうなると、夏希の薔薇園は曲がりなりにも、当面は安泰となったわけだし、村山家も安泰となったわけである。
「お嬢さん、仲根さんがお見えですよ」
夏希が温室に入って幾らも薔薇の手入れをしないうち、鳥羽悟平が呼びにきた。
夏希が温室を出ると、庭に駐めた車から降りた仲根が、歩いてくるところであった。
――そういえば、今日は日曜日である。
「やあ、ご精が出ますね」
「ええ。その節はどうも……」
「いやいや――」
仲根は手を振って笑い、
「ぼくにも薔薇作りのこと、少し、教えてくれませんか」
「え……?」
「ぼくは見るとおり、いたって野暮な人間で、薔薇の品種名さえも知りません。もしこれから、夏希さんに本格的にアタックでもしようとしたら、バラ作りの初歩ぐらい知ってないと、断わられそうですからね」
まるで天気の話でもするように、さりげなくそう言ってガラス温室の中に入ってゆく仲根の背中を、夏希は一瞬、息がつまりそうになって見送った。
胸が激しく高鳴っている。
(仲根は遠まわしにプロポーズでもしてくれているのだろうか。雅彦に裏切られ、今度の事件によって傷だらけ、泥だらけになった私の心に、救いの手を差しのべようとしてくれているのだろうか……?)
夏希には分からない。今すぐに、という話ではないことだけは、確実だろう。
仲根にしても、紺野真弓というガールフレンドや、梨田花緒との経緯があったように、夏希には雅彦との夫婦生活もあったし、生々しい事件もあった。それが終わったばかりの現在、今すぐに二人の生活をどうこうするということにはならないにしても、夏希は一筋、未来に光明を見出したような思いがして、深い歓びを感じた。
「あらあら、駄目ねえ。そんなふうに茎を握られたら、薔薇が折れちゃうわよう!」
夏希は仲根に寄り添い、薔薇の接し方を教えた。
温室には今、真紅色のカーディナル、淡い白紅色のジョルファルレイ、鮮やかな黄色のフリスコなどのバラが、秋の陽を浴びて生々と、これから美しく咲き誇ろうとしていた。
「日本農業新聞」に、'88年3月1日から'89年3月31日まで連載の「花燃える」を改題、加筆訂正
'89年10月、小社より講談社ノベルスとして、'92年7月、講談社文庫として刊行