南條範夫
山岡鉄舟(二)
目 次
大 政 奉 還
鳥羽・伏見の戦
敗 軍 の 将
朝敵罷り通る
江 戸 開 城
彰 義 隊
転  変
揺らぐ駿府
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大 政 奉 還
慶応二年十二月二十五日夜十時頃、京都松原に住む医師土肥春耕の表戸を、慌《あわただ》しく叩くものがあった。
書生の一人が起きて行って戸を開くと、ただならぬ顔色をした男が、至急、春耕に会いたいと言う。
男は閑院宮家からの使者で、
――直ちに、迎えの駕籠に乗って伺候するように、
と、宮家の命を伝えた。
春耕土肥一十郎は、長崎で蘭方の外科を学んだ医師である。医は春耕一代のものではなく古くから十七代に亘っての家業であり、主として堂上の公卿を患家としていた。春耕は閑院宮家の侍医を拝命していたが、勿論、閑院宮家のみを対象としたものではなく、公卿一般を対象としていた。
宮家から召命を聴くと、春耕は、何かの椿事《ちんじ》によって負傷者が生じたものと考え、所要の外科要具と薬材とを用意して、とり急ぎ迎えの駕籠に乗った。
ところが、意外にも駕籠の行く方向が、いつもと違っているようなので、小さな覗窓の垂れを上げて外を見ようとすると、外部からしっかりと閉めつけられている。駕籠際について小走りについてくる者に声をかけて、不審を質しても、何の返事もない。
毎日、血なまぐさい噂を聞く頃のことだ。
不安の念に駆られながらも自己の職業を考え、何びとかが秘密の手当を必要とする負傷を受け、宮家の名をかたったのであろうと判断した。
駕籠はやがてどこかの門内に入ると見え、地上に下ろされた。
外に出てみると、愕《おどろ》くべき壮大な玄関である。そこに待ち受けていたのが、患者として数回顔を合せたことのある公卿の一人であったので、春耕はほっとした。
しかしその公卿は春耕に一言の質問も許さず、手をとるようにして長い廊下を導いていった。
いくたびか廊下の角を曲るうち、それが間違いなく御所であることを知って愕然《がくぜん》とした時、春耕は広い座敷の奥の、やや狭い部屋に導き入れられた。
みると五寸ほど高くなっている座敷の上段の間に寝具が敷かれ、四十には若干足りないと思われる総髪の貴人が横臥《おうが》している。その囲りに五、六人のものが心も空に立ち騒いでおり、傍《かたわ》らに、顔見知りの宮廷侍医が二人、顔面蒼白となって控えていた。
医師としての職業的本能から、春耕は物を問う間もなく横臥する人の傍らににじり寄ってみると、白羽二重の寝衣や、敷布団はもとより、半ば撥《は》ねのけられた掛蒲団に至るまで、赤黒い血汐にべっとり染っている。
横臥している人は、脇腹を鋭い刃物の先で深く刺され、もはや手の下しようもないほど、甚しい出血に衰弱し切って、ただ最後の呻《うめ》きを力弱くつづけているに過ぎない。
春耕は仔細《しさい》に調べた上、自己の蘭方外科術をもっては、すでに如何ともなし難いことを確認すると、絶望の合図をした。
――今宵のこと、固く固く、他言無用、
と、何度か念を押された上、春耕は帰宅を許された。
自宅に戻ってからも、この夢の如き出来事に亢奮冷めやらぬ春耕は、直ちに筆をとって、その日の日記に、この意外な事実をつけ加えた。
その記事の中で、春耕ははっきりと、上記の貴人を「お上」と断定している。彼が連れてゆかれた処がまこと御所であるとすれば、それ以外ではあり得ないとみたのであろう。
また、かの傷は恐らく、鋭い槍先で、斜下方から突き上げられたものと断定している。と同時に、自ら疑問を提出して、当今、如何に乱世とは言え、天子が御所内においてそのような目に遭われることがあり得ようかと疑い、更に一転して、
――もしあり得べくんば、後架《こうか》に上られた後、縁側の雨戸を一枚開いて手を清めておらるる際、縁下にひそんでいた刺客が、短槍で、下から斜め上に突き刺し奉ったものであろうか、到底思議すべからざる椿事、畏《おそ》るべし、畏るべし。
と結んだ。
土肥春耕は、私の母方の祖父である。頑迷謹直の男であった。亡き母の記憶に残っている明治十年代においてさえ、町家の患者に対しては、何かの折に、
――きさまら素町人めが!
と怒号したと言う。若い頃長崎に留学し、蘭学を学んだと言うにしては、まことにふさわしからぬ旧弊|固陋《ころう》の人物である。
それだけに、この祖父が舞文曲筆《ぶぶんきよくひつ》して偽りを記すとは思われない。それにこのような事を捏造《ねつぞう》したとて何の利益もありはしない。
春耕の死後、その日記を読んだ母と、母を娶《めと》った父との二人から私はこの話を聞いた。
むろん、戦前のことであるから、
――決して他言してはならぬ、
と固く戒められた上である。
戦後、初めて私はこの事実を文字にして公表した。二つの全く別のルートから、この事実を裏書きする証言を得ている。
ただ、残念ながら春耕の日記は、関東大震災の折、灰燼《かいじん》に帰してしまったので、私は物的証拠を提出することができない。私の祖父は決して偽りを記す人物ではないと言う確信と、私の記憶とを頼りに、一つの史料としてここに提出する。
孝明帝暗殺の噂は、帝の崩御後、直ちに、極めて広く流布されたらしい。ただ、それはほとんどすべてが、毒殺説であり、私の前に刺殺説を述べた人はいない。
推測が許されるならば、毒を盛られて衰弱の極にあった帝が、後架に上られた後、侍女に扶《たす》けられて手を清められようとした際に、弑逆《しいぎやく》に遭われたものでもあろうか。
宮中にはむろん、侍医が常時待機していた筈である。だがそれは内科の医師であろう。宮中において外科医が必要となることは極めて稀であろうから。
そこで侍医の一人が、その名を知っていた土肥春耕を指名し、召寄せたのではないか。
通説となっている毒殺説についても、簡単に述べておく。
孝明帝は、十二月十一日、風邪気味の身をおして内侍所の神楽を見られたが、その翌日からひどい発熱で、医師は、十四日、痘瘡《とうそう》と診断した。
高熱と不眠とがつづいたが、十八日頃から順調に回復に向い、側近の者もほっと一息ついた。
ところが、二十四日夜から、病状が突然悪化し、翌二十五日には嘔気《はきけ》をもよおし、痰が多く、ひどい衰弱が見られた。そして、その夜十一時、崩御された。
御齢三十六歳。
これが公式の発表である。
これに対して毒殺説は、二十四日の容体急変は、何者かが毒をすすめた為であるとする。
その一は、悪瘡発生の毒を献じたと言うもの、
その二は、帝が筆の穂先をなめる癖があったので、穂先に鴆毒《ちんどく》を塗ったか、硯《すずり》の中に毒液を入れておいたとするもの、
その三は、宮女の一人が買収されて、砒素を薬湯と共にすすめたとするもの、
現在の医師の中には、当時の拝診日記を分析して、薬物中毒症状を認めている者もある。
将軍家茂が死んだ時も、一橋慶喜が手を回して毒殺したのだと言う噂が、かなり拡がっていた。貴人の急死に、毒殺説は珍しくない。
従って、これらの毒殺説、刺殺説をすべて、信ずるに足りない雑説、風説として却《しりぞ》けてしまうこともできる。戦前の歴史書はすべてその立場をとった。
だが、孝明帝の場合、暗殺説があまりに根強く、語りつがれている。そしてその暗殺を企てた首謀者としては、すべての人によって同じ名が挙げられている、曰《いわ》く、
――岩倉具視
明治維新の最大功労者の一人であるこの人物が、帝暗殺者の汚名を被せられているのは、一体どうした訳であろうか。
当時のイギリス公使館員アーネスト・サトウは、帝の毒殺説について、
――この帝《みかど》は外国人に対する如何なる譲歩にも真向から反対してきた。そのために、来るべき幕府の崩壊によって、いやが応でも朝廷が西洋諸国との関係に当面しなければならなくなるのを予見した一部の人々に殺されたのだと言う、
と記している。他の一説は、
――この帝は佐幕派であり、倒幕実現の為にはどうしても障害となるので、
暗殺されたのだと言う。
そしてそのいずれの場合にも、暗殺の黒幕は、岩倉具視と名指されているのだ。
一体この岩倉具視と言うのは、どんな人物だったのであろうか。
具視は堀河康親の次男に生れ、岩倉具慶の養嗣子となった。岩倉家は百五十石の貧乏公卿である。現代にしてみれば、せいぜい月給十四、五万円のサラリーマンの生活であろう。
多くの彼の同僚公卿たちは、無気力な貧しい暮らしを運命と諦《あきら》め切っていたが、岩倉を始め少数のものは、現状から何とかして脱け出したいと考えた。
その為には当然、朝廷の権力を拡張せねばならぬ。だが、その彼らにしても、初めから、幕府を打倒しようと狙《ねら》ったのではない。まだまだ、幕府の力は圧倒的なものに見えていた。
彼らは、従って、まず公武合体論を唱え、幕府と協力して国難に当ると言う形で、朝権を拡張しようと考えた。
岩倉が孝明帝の信頼を得たのは、帝が熱心な公武合体論者であったからだ。
文久二年、京が長州を旗頭とする急進的な尊皇攘夷論者によって制圧されると、岩倉は幕府と通謀する奸臣として生命の危険を感じ、職を辞し、頭を丸めて、洛外に蟄居《ちつきよ》した。
翌年八月のクーデターで長州の勢力が駆逐されると、岩倉は京へ出入し得るようになり、薩摩の大久保、小松、西郷らと膝を交えて国事を談ずるようになる。
この間、時勢の変動ははげしく、幕府の衰弱の実体が次々に露《あら》われてきている。岩倉は敏感にそれを嗅ぎとり、公武合体論を超えて、王政復古を考えるようになった。
慶喜が将軍襲職を拒むポーズをみせた時、岩倉は、
――今こそ政権を朝廷に回復すべき好機、
と、四方に秘密の檄文《げきぶん》を飛ばして猛運動を試みたが、ついに成功しなかった。根本の原因は孝明帝が依然として公武合体論であり、幕府を亡ぼすと言う意見を持っていなかったからである。
時代は、今や、孝明帝の意思を超えて滔々《とうとう》として流れようとしていた。帝はそれを阻む巨大な岩石であった。
そして、孝明帝の謎の急逝――巨岩は突如として取り去られた。
岩倉に忌《いま》わしい暗殺者の汚名が被せられたのは、帝の崩御によって、最も獲るところの多かった者が、この岩倉にほかならなかったからであろう。
帝の崩御に当って、岩倉は、
――仰天驚愕、実に言う所を知らず、臣の進退ここに極まり、血泣鳴号無量の極に至れり、臣の一身においては、吾事終れり、一世の果ここに止まり、片言といえども述《のぶ》るに所なし、
と言う恐ろしく大袈裟《おおげさ》な絶望的な手紙を書いているが、それから何日もたたぬ正月の始めには、薩摩の井上石見に対して、崩御後の時局について滔々たる大建言書を送っている。
――もう何もかも終りだ、何も言うことはない、
と、泣血悲歎した筈の男が、十日も経たぬ中に、堂々たる時局論を開陳し、すぐその直後、自分の赦免復官運動をやっている。
その後の岩倉は、雲を得た竜の如くだ。縦横の画策を行い、薩長の有志と連繋し、最も活溌に倒幕運動を展開した。そして維新回天の中心人物の一人となりおおせてしまった。
これはすべて、孝明帝が生存しておられたならば不可能なことであったろう。
ここに、疑惑が岩倉に集中する理由が存在する。
その上、岩倉と言う人物を知っている者が、誰しも、
――あの男なら、その位のことはやりかねないな、
と考えた。
長州の周布《すふ》政之助は、言っている。
――公卿などは何の能力もありはしない、衣冠束帯を剥《は》ぎとって街頭に放り出せば、明日にも飢死するだろう。だが、岩倉だけは違う。あの男は天秤棒をかついで豆腐を売って歩いても、ちゃんと生きてゆく男だ。
この逞しい意力と、天稟《てんびん》の俊敏さとは、彼に一度でも会ったことのある者に、直ちに強い印象を刻みつけた。あの男なら必要とあればどんなことでもやると言う評価が、岩倉に暗殺首謀者の疑惑を定着させたのである。
話を、もとに戻す。
孝明帝の後は、典侍中山慶子の生んだ祐宮《さちのみや》が嗣《つ》がれた。
慶応三年正月九日、践祚《せんそ》の儀式が行われたが、新帝はわずか十六歳なので、関白二条|斉敬《なりゆき》が摂政に任じられた。
幕府は、孝明帝の崩御を口実に、対長休戦から一歩を進めた解兵の沙汰書を、朝廷から出して貰うことにした。
将軍の死によって休戦を、帝の死によって解兵を獲得したのだ。もはや、幕府には実力を以て諸侯を制圧することが全く不可能であることを、天下に表明した訳である。
新将軍慶喜は、死力を尽して、この頽勢《たいせい》を挽回しようと努力した
老中の板倉・稲葉両人を両翼とし、原市之進を目付に任じ、永井尚志を若年寄に抜擢し、側近を固める。
フランス公使ロッシュのすすめに従って、軍事力の近代化を図ることとし、フランス士官シャノアン、ブリューネー以下十八名の教官を招き、横浜太田陣屋の伝習所で、歩兵、騎兵、砲兵の三兵の教育を開始した。
フランスとの提携を強めるため、弟の徳川昭武をパリに送り、親仏派の栗本|鋤雲《じようん》をも派遣した。
慶喜の次々に打つ手は、反幕派の人々を刺戟した。岩倉は、
――このところの慶喜の行動をみると、その志は小でない、軽視すべからざる強敵だ、
と言っている。
従五位下、伊勢守高橋精一はこの年、遊撃隊副頭を仰せつかった。義弟の鉄太郎は剣名のみ高く、依然として貧乏御家人だ。
その鉄太郎のところに、ひょっこり専蔵が現れた。
「しばらく姿を見せなかったな、商売の方は、うまくいっているのか」
「はい、とりあえず石炭屋をやって、外国船に石炭を売りつけております」
「商売をやるからには、うんと儲けろ、それも外国人の懐中からだぞ」
「そのつもりでおりますが、何せ、外国人って奴は、恐ろしくずるくて、いばりゃがって、ケチで、どうしようもありません」
当時、日本にやって来た外国商人の大部分は、本国で喰いつめた一旗組だ。柄の悪いのはやむを得ない。そいつらが東洋人を一段も二段も下の人間とみて、尊大を極めていたのである。
「ところで、先生。この頃、太田村の陣屋ができて、フランスから来たと言う士官たちが教師になって、お公儀の侍さんたちに、洋式訓練とか言うのをやっていますが、何とも珍妙なものでございますなあ」
幕府の兵士たちは、初めは裁着袴《たつつけばかま》で両刀を差していたが、これでは不便でとても敏速な行動はとれない。その中、フランスから軍服が送られてきた。練兵の時は両刀を脱して、これを着なければならない。
ところが、もともとフランス兵のからだに合せて作られた軍服だから、ズボンはどれも長過ぎたし、靴は大きくて重くて、うまく走れない。珍妙極まる姿だ。
「おかしくってみちゃいられませんよ。まあ一度、先生、見にいらして下さい」
専蔵は挨拶がてらやってきて、ほんの茶話にそう話したのだが、鉄太郎は、すぐに横浜に行ってみる気になった。
石坂周造に話すと、
――おれも行く、
と言う。
「同じことなら、しかるべき人に紹介して貰って、その三兵訓練と言うものを、充分に知りたいな」
と、高橋伊勢守に相談すると、
「うむ、それなら、歩兵差図役頭取として横浜に行っている大鳥圭介に手紙を書いてやろう。洋式訓練を見てくるのはいい事だ」
と、即座に賛成してくれた。
大鳥は町医者の伜だが、洋学を学んだ。その才能を買われ開成所教授に任じられて幕臣となった男である。現に横浜におけるフランス陸軍伝習の、日本側の責任者の一人になっている。
鉄太郎は石坂と共に、横浜に赴いて、大鳥に会って、手紙を渡すと、大鳥は、
「伊勢守殿は御健祥ですか、三兵教練をみたいと言うのですね。よろしい、明日、教練場に来られるがよい」
と、広い額の下の鋭い眼を笑わせた。
翌日、鉄太郎と石坂とは、教練場で歩兵と砲兵の訓練を参観した。騎兵の方は、まだ馬が揃わないので、実施されていない。
歩兵の服装はやや珍妙だったが、洋式の団体行動のきびきびした動きには、鉄太郎も感心した。
――荘重
と言うことを、武士的な動作の基本と考えている従来のやり方では、とてもこうはゆかないだろう。
――個人的武勇
と言うものに力点をおいた従来の日本的訓練もここでは役に立たない。
フランス皇帝ナポレオンから進物として贈られた二中隊分のゴジョ製鉄会社製の野砲、山砲には、二人とも目を剥《む》いた。
大鳥も、この大砲の偉力をしきりに吹聴する。
「山砲は三千メートル、野砲は四千五百メートルの射程距離を持っている。いいかな。一メートルは三尺三寸だ、千メートルは凡そ九町十間、大したものだろう。フランス皇帝から貰った分だけではとても足りないから、何とかしてこれを日本で作り出すことを考えている」
小銃は、前々から幕府がイギリスから輸入したエンピール銃を使っていた。これが当時としては最新鋭の武器だったのである。
「山岡さん、もう、剣で闘う時代ではない。どんな素晴らしい剣士でも、一里も向うから大砲でドカンとやられれば、おしまいだ」
大鳥は鉄太郎を横目でちらっと見て、そう言った。むろん、鉄太郎が名うての剣士であることを知っての上である。
石坂はむっとしたように大鳥を見返したが、鉄太郎は平然としていた。
――自分が剣を学んでいるのは、単に闘って人を斬る為ではない、己れ自身を鍛え上げるためだ。しかし、それをこの人に話してみてもむだだろう、
と思っているからだ。
「この横浜と言う土地は狭くて、大規模の練兵には向かない。近い中に、江戸に移りたいと思っている」
大鳥は、眼を輝かせている。洋式訓練を受けた歩騎砲三兵の厖大《ぼうだい》な軍隊の長官としての己れを夢みているのであろう。
「外国軍隊が、ずいぶん沢山、ここにはいるようですな」
鉄太郎が、聞いてみた。
「さよう、イギリス軍が一番多い。元治元年に英仏米蘭の四国連合艦隊が下関攻撃をやっただろう。あの時、イギリス公使オールコックが横浜に兵営を建設することを要求し、幕府はこれを承認した。初めは九千両ぐらいの予算で簡単な仮の兵舎をつくるつもりだったが、オールコックから色々な注文がつけられて、結局、敷地二万坪、総費用五万三千両もかけて、建坪四千六百坪、総督の官舎、火薬庫、病院をもつ堂々たる兵舎をつくらされてしまった」
「どの位の人数がいるのです」
「はっきり分らないが、海陸合せて千五百人ぐらい駐屯しているらしい」
「フランスは」
「フランスには文久三年に、海軍倉庫を貸したのが始まりで、敷地三千坪、建坪百二十坪の屯所を貸している。人数はイギリスよりもずっと少くて数百名程度だろう」
「いずれにしても、外国軍隊が二千名以上も、わが国土に大きな面をして居坐っているのですな」
「そうだ、軍隊ばかりではない。彼らは居留地と称して、最も便利な眺めのよい土地を占拠してしまっている。官吏、軍人、商人、医師たちが家族を呼びよせて、贅沢な暮らしをしているのだ。もともと借地なのだが、他人に譲渡することは自由、事実上、彼らの所有地と同じになっている」
居留地は十数万坪以上になっていた。
高台の眺望のよい処や、海岸の便利なところに、洋風の立派な建物を並べ、広い道路をつけ街灯をつけ下水道も整備している。教会、公園、競馬場、墓地、屠牛《とぎゆう》場までまたたく間に作り上げていった。
その周辺の日本人の家庭は、みじめなほどの対比をみせているボロ家で、それもひしめき合って密集している。
「折角、横浜まで来たのだから、横浜と言う土地をよく見てゆくがよい」
大鳥がそう言ってから、ふっと頭を上げ、鉄太郎の肩越しに兵舎の方を眺め、
「あそこに立っているのが、歩兵少佐のシャノアン、その右手にいる二人が砲兵大尉のブリューネーと騎兵大尉のヂュ・ブスケーだ。ほかに士官として騎兵大尉のデジャルムと、砲兵大尉のメスローがいる。みんな一所懸命に教えていてくれる。尤《もつと》も、給料はたまげるほど高い。シャノアンは年俸三万六千フラン、大尉連中は二万四千フラン、シャノアンの給料は月にならすと七百両以上だ」
「貧乏御家人には一生かかっても貰えぬ金ですな」
鉄太郎は笑った。
「そればかりじゃない。シャノアンには、日本橋の商家の娘でお倉と言うのが、妾として与えられている。小栗殿が直々に世話したものだそうな」
「恥知らずな」
石坂が、鋭くつぶやく。
「日本にゆっくり落着かせたい為だろう。公使のロセツにはお富、通訳のカシヨンにはお梶、横須賀製鉄所技師長のウェルニーにはお浅、通訳のブレキアンにはお浪と言う妾がいる」
町医の出身だけあって、大鳥は、ふつうの幕府役人なら恐らく言わないだろうことを、べらべらしゃべった。
鉄太郎も石坂も、妙に屈辱的な不快な気持になって、大鳥に別れを告げると、横浜の町を見て回った。
二人は弁天通北側の専蔵の店に行き、専蔵を案内者として、外人居留地内に入った。
居留地にはいるには鑑札を必要とする。専蔵のような、売買上たびたび出入しなければならない者はこれを所持し、出入毎に提示する。
鉄太郎と石坂とは、大鳥圭介を通じて許可証を貰っていた。
居留地は本来、海岸に近い、現在の山下町に当る一帯が当てられて商館兼社宅が並んでいたのだが、次第に山の手の景観の良い高地に居留地が拡大されて、異国人たちはここに居宅を構えるようになっていた。元町裏の丘陵一帯から北方根岸方面にかけてである。
こうした外人の住宅は、
――異人屋敷
と呼ばれた。
商館や異人屋敷の建物は、当時の日本人にとって、驚異の的であった。
「横浜奇談」には、
――屋敷の造り方は、壁は石を積み重ね、障子はギヤマン(ガラス)を張り、部屋の敷物は五畳敷十畳敷の一枚織で色々の模様があって、その美しいことは花を布《し》きならべた様だ。冬になると各部屋に堅炭やら石炭で火を起こすが、その煙は銅の筒で屋根や壁にあけた穴から外に出してしまうから、天井も壁も少しもくすぶらず、暖かいことは三、四月頃のようだ。部屋毎にギヤマン絵の額をかけつらねて、類《たぐい》なく美しい。夜になると灯台にギヤマンの上覆をかけ、明るいことは一本の毛筋でもよく見えるほどだ。屋敷の門の上にはギヤマンで作った行燈《あんどん》のようなものがあって、門の内外は白昼と同じくらい明るい、
とある。建築様式、敷物、暖炉の設備、ランプなどが珍しく、殊にギヤマンのふんだんな使用は、著しい贅沢と思われた。
商館の並ぶ町には洋銀|兌換《だかん》店、ラシャ販売店、金巾《カナキン》輸入店、洋酒店、薬品店などが立ち並び、異常な活気をただよわせている。
両耳に飾りをつけ、大きな帽子をかぶっている美しい外国女性は天女のように見えたし、真昼間だと言うのにその腕をとってぴったり胸に押しつけて歩いている男たちは、体躯が大きく足が長く堂々として見える。
その間を、日本人の商館番頭が、ズボンのような太目の股引を穿《は》いて、尻端折りと言う珍妙な姿で得意気に走り回っていた。
商館には番頭のほかにボーイ、別当、住宅にはコック、門番、アマ(子守)として、日本人が雇われていたし、独身外人の多くがラシャメン(洋妾)を置いていた。
士官に引率された十名ぐらいの外人士卒巡視隊が、午前と午後に、居留地の中を巡回している。
石坂は何度か居留地に足をふみ入れていたが、鉄太郎は全く初めてである。
驚きの眼を見張りながら、見て歩いた。
専蔵は、ひっきりなしに、しゃべりつづけていた。
「ねえ、先生、毛唐(外人)はどいつもこいつもからだがでかくて、大きな面《つら》してやがるので偉そうに見えるでしょう。私も初めは気圧《けお》されましたがね。なあに、少しつき合ってみりゃ、何てことはねえ、ケチな野郎、嘘つき野郎、狡《ずる》い野郎、助平野郎ばっかりだ。大したことはありませんね。ただ商売はうまい、勘定がはっきりしていて、ずい分理くつはこねるが、筋は通す。われわれ日本人仲間で言う義理とか人情とか腹芸なんてものは通用しませんね。商売ってものは、それが本当なのかも知れませんよ。あ、先生、あの建物をごらんなすって」
フランス波止場の前を、海に沿って右に曲った時、専蔵が谷戸橋の袂《たもと》、掘割に面した洋館を指した。
「あれがヘボン先生の邸です」
「ヘボン?」
「はい、毛唐にゃロクな奴はいないって言いましたがね。あの邸のヘボン先生だけは別ですよ。運上所のお役人も、有徳《うとく》の君子と言うのはヘボン先生のような人を言うんだろうと言っています。ヘボン先生のところには毎日五、六十人の日本人の患者が診て貰いに来ていますが、先生のお蔭でどれだけの人が助かったか知れませんよ。あ、そうだ、田之助がヘボン先生に手術して貰って片脚を切断したことは御存知でしょう」
「そうか、そんな話は噂に聞いたが、それがヘボンと言う人なのか」
この年三月、舞台で足を傷つけた三代目沢村田之助は、それがもとで脱疽《だつそ》をわずらい、江戸の松本良順について治療を受けたがその甲斐なく、横浜に赴いてヘボンの手術を受けて片脚を切断した。アメリカに注文した義足は明年四月でなければとどかない。それまでは、片脚でも舞台をつとめてみせると言って、田之助は猿若町の劇場に出演し、大評判になっていた。
あいにく、鉄太郎は、その方面の消息はくわしくない。貧乏生活で芝居見物どころではないのだ。
「毛唐はみんな日本人に対して、一段も二段も上の人間のような面をして、傲然と構えていやがりますがね。ヘボン先生だけは、自分の家で使っている日本人の傭人たちに対してさえ、鄭寧《ていねい》で親切で、優しいっていう話ですよ」
「外人には時々そう言うのがいる。殊に宣教師にはな」
石坂が、分ったような口を利《き》いた。
「ヘボン先生と言うのは、宣教師か」
「ええ、宣教師で、医者で、その上大した学者だそうです」
ヘボンの住宅は施療所でもあり、病院でもあり、学校でもあり、礼拝所でもあり、彼の研究室でもあった。
ヘボンはここで、和英辞典である「和英語林集成」を編纂し、「新約聖書」の翻訳をやり、日本語讃美歌集を作製した。
後の英国公使林|董《ただす》は、文久二年十三歳の頃、ヘボン塾に通ってヘボン夫妻に英語を習った。後の総理大臣高橋是清も元治元年十一歳の時、ヘボン塾に通ってヘボン夫人に英語の手ほどきをして貰っている。
ヘボン夫妻が初めて日本に来たのは、安政六年十月、四十四歳の時である。文久二年、居留地三九番地(谷戸橋畔)に住居を新築し、ヘボンは施療所を、夫人は英学塾を開いた。
以後、所用のため上海へ赴いたり、短期間、何度か米国へ帰ったこともあるが、明治二十五年まで三十三年間を、日本の為に捧げた。
居留地を出ると、専蔵が、
「先生、横浜にも江戸前の庖丁《ほうちよう》に味を見せる店があります、御案内しましょう」
と、二人を太田町三丁目の佐野屋と言う料理屋に連れていった。
――料理仕出し、金ぷら茶漬あり、
と、当時の横浜案内に記された店である。
二階から、遥かに富士が見えるので、文人墨客がよくやってきたと言う。
「どうだ、商売の方は?」
鉄太郎が、盃を専蔵にさした。
「はい、死物狂いでやっています。忙しくって、つい道場の方にも御無沙汰致しておりますが」
「なに、商売の場を、道場だと思えばいいさ」
「先生、同じ商売人と言っても、国によってずいぶん違いますな。イギリスの奴らは、まるで狼のように儲けを狙って噛みついてくる。眼つきからして、物凄く、黒坊や清国人を奴隷のようにこきつかっていますね。フランスの奴は、いつも陽気で元気がよくって、少しぐらい損をしても大して気にかけず、大きな一発勝負に賭ける。アメリカ人は割合に気さくで人当りがいいが、うまく機会を掴んでさっと儲ける。商売はうまいですな。オランダ人は、正直なところがあって、自分も儲けるかわりに対手方にも損をさせない。長くおつき合いをしようって言うやり方です。清国の商人は、腰が低くて愛想が良くて、大ていの苦労にはめげず、こつこつと金をためているようです」
「日本の商人は、どうなのだ」
「さあそれがどうもあんまり感服しません。ごまかしたり、安物を売りつけたり、約束を守らなかったり――よく日本ペケペケと言われますなあ」
「何だ、そのペケペケと言うのは」
「だめだって言うことなんでしょう。はは、全く、ペケペケでさあ」
半日の見学では、深いところは掴めたとは思われないが、外国人たちが日本の領土に自分たちの居留地を作って、桁《けた》違いの上等な生活をし、傲然として日本人を見下している様子には、鉄太郎はひどく不快を感じた。
――いかんな、こんな状態では、
酒の味もあんまり、うまくない。
突然、開け放した窓の下で、女の金切声が聞こえた。
「放して――いや、いやです」
男の鋭い声がつづいた。
「何を言ってやがる。今更、そんな言い分が通ると思うか、来いっ」
「いや、いやですったら……」
石坂が、窓から下の往来を見下ろした。
「昼日中、女を捕えて、妙なことをしてやがるよ、それをみんな知らん顔して見過ごしているようだ。事情は分らないが、放ってもおけない。ちょっと見てくる」
石坂は階段を下りていった。
間もなく、
「畜生、覚えてやがれっ」
と叫ぶ男の声が聞こえ、逃げてゆく様子。
石坂が二十五、六の女を従えて戻ってきた。
「さ、はいるがよい」
「はい」
「遠慮するなよ、一応事情を聞こう」
女が部屋にはいってきた。割合に贅沢な服装《なり》をしているが、一見して堅気でないことが見てとれる。
女が両手をついて挨拶し、頭を上げた時、正面に坐っていた鉄太郎と、ぴたり視線が合った。
――おや、
と言う風な、愕きの色が双方の瞳の中に走った。
「若様――」
女が半ば自信のない声を出した。
「おみよか」
「あ、やっぱり、陣屋の若様――」
「十何年ぶりかだな」
鉄太郎も、奇遇に驚いた。
高山にいた頃だ。宗猷寺《そうゆうじ》の前にいた一つ年下の娘、鉄太郎にとっては、初恋の女だと言ってよい。嫁に行ったと聞いた時は、茫然として、全身の筋肉が萎《な》えてしまったような虚脱感を覚えたものだ。
十六歳の時だから、もう十五年になる。
初めて胸をとどろかした娘の面影は忘れてはいなかった。
おみよは、若く見えるが、三十になっている筈だ。
「おみよ、どうして、こんなところにいるのだ。高山近在の酒屋に嫁に行ったと聞いたが」
「はい、嫁に行きましたが、間もなく主人に死に別れ、しるべを辿って江戸に出て参りました。しばらく奉公しておりましたが、店が潰《つぶ》れ、横浜に流れてきて――」
ちょっと口を濁したが、料亭に勤めている中、本町の半鐘の辰と言うやくざの親分から、よい働き口があると言われて、うっかりその話にのったところ、今日、勤め先の主人に会ってみるとイギリス商館の経営者で、何のことはない、その妾になれと言う。異国人なぞ、いやなことと、震え上って逃げ出した、と告白した。
「ずいぶん、苦労したらしいな」
鉄太郎は、暗然とした。
高山にいた頃のおみよは十五、六歳、風にも耐えぬようなおぼこ娘で、鉄太郎と相対しただけで頬を染め、声をふるわせていた。
器量好みで富裕な酒造家の若旦那に貰われていって、平和な仕合せな生活を送っているものとばかり思っていたのに――
「先生の、古いお知合いだったんですか、こりゃ愕いた」
専蔵は大袈裟に首をふったが、
「半鐘の辰が一枚加わっているとなると、少々うるさいかも知れませんね」
「知らぬ事ならとにかく、おみよと分っては放ってはおけぬ。私が話をつけてやろう」
「いや、先生、事を荒立てちゃ拙《まず》い。どうせ対手は金が目当。ここは金で話をつけた方がいいと思いますよ」
金――と言うことになると、鉄太郎は弱い。自分の暮らしが精一杯だ。
「先生、私にお委せ下さいませんか」
「うーむ、そうしてくれるか、済まん。専蔵、頼む。何としても、あの箱入娘のおみよが異国人の妾など――赦せぬことだ」
「早い方がいいでしょう。私が行って掛合ってきます。ここでお待ち下さい」
専蔵は、頼もし気に言い切ると、本町一丁目の半鐘の辰の家に出掛けていった。
辰は、
――仲に立ったおれの顔を潰す気か、一体どうしてくれる、
と凄んだが、専蔵も武芸で鍛えた腹のすわった男、大して愕きもしない。
――おみよは山岡と言う御家人に縁のある女、山岡の義兄は講武所師範で、遊撃隊副頭の高橋伊勢守だ、おだやかに話をつけた方が得だろう、
と、きめつける。
やくざには、公儀の役人は一番苦手。その上、講武所までひっかかりがあるとなると、あまり強い口を利けない。
――どうだね、色々費用もかかったことだから、それだけの償いはするが、
と持ちかけると、半鐘の辰、渡りに舟と飛びついた。
七両で手を打って、今後一切おみよには手を出さぬことを約束させて、佐野屋に戻る。
「先生、すっかり片付けてきました」
「世話をかけた。忝《かたじけ》ない、礼を言う」
「なあに、そんなにおっしゃられちゃ、こっちが困りますよ。それより先生、このおみよさんのこれからのことを考えてあげなきゃならないでしょう」
「そうだな――石坂、何とかならんか」
「おれは、そう言う事は苦手だ」
「差出がましい様ですが、私がお預りしてどこか堅気の勤め口を探しましょうか」
「頼む」
剣以外の事になると、とんと融通が利かない。一切、専蔵に頼み込んでしまった。
新将軍慶喜は、兵庫開港と長州処分と、二つの難問に直面していた。
第一の問題を解決しなければ、将軍の権威に対して疑念を深くしてきている外国使臣に対して面目を失う。
第二の問題を解決しなければ、国内における将軍の威信は全く失墜してしまう。
慶喜はこの問題を討議するため、慶応三年五月、薩摩の島津久光、土佐の山内容堂、宇和島の伊達|宗城《むねなり》、越前の松平|慶永《よしなが》の四人を集め、いわゆる「四侯会議」を開いたが、四人の意見が一致せず、空しく解散した。
慶喜は、五月二十三日、老中、所司代を従えて参内し、兵庫開港についての勅許を強要した。討議は一昼夜ぶっ通して行われたが、慶喜は強引に押し切って、開港の勅許を獲得してしまった。
この開港問題については、イギリス公使(パークス)が、先に、フランス、アメリカ、オランダの公使領事を説得して九隻の軍艦を兵庫に回航し、
――もし速やかに回答がなければ、直接、朝廷と交渉する、
と脅していたものである。この問題に関する限り、幕府びいきのフランス公使ロッシュもイギリスと同一歩調をとっていたので、慶喜としては、どうしても勅許を得る必要があったのだ。
慶喜の態度は、相当、高圧的であったらしい。伊達宗城は、
――将軍の本日の挙動は、実に朝廷を軽蔑すること甚し、
と言っている。
長州処分の方は、難航した。
朝廷からは、
――寛大な処置をとること、
を認められたのだが、肝心の長州が居直ってしまったのである。
慶喜は、先ず長州に謝罪の歎願書を提出させ、これによって寛大な処置を行うと言う形で、幕府の威信を保とうとしたのだが、長州は、もとより今更、そんな謝罪歎願などする気はない。
現実に、戦いには長州の方が勝っているのだ。
薩摩、越前、土佐、宇和島の四藩からも、
――幕府の長州再征は全く無名の師《いくさ》である、妄《みだ》りに兵威をもって圧倒しようとして効を奏せず、天下の騒乱を引出し人心離反を招いた、よろしく幕府が反省して毛利父子の官位その他を旧に復すべきである、
と言う建白書が出ている。
朝廷からは、一日も早く長州処分問題を解決せよとの沙汰が下る。
一方、長州藩はますます硬化していった。
――断乎幕府と闘う、
と言う決意は、戦勝に自信を得た防長二州の上下に充満し、着々と戦備を固めていた。
薩摩においても、幕軍の実力をみくびり、長州と手を携えて、
――討幕
に踏み切ろうとする議論が強くなっていた。
薩摩と長州との間に、頻繁に交渉が行われ、使者が往復し、ついに武力を以て幕府を打倒することについての意見の一致を見た。
薩長軍を以て大坂城を落とし京師《けいし》に突入する。江戸の薩兵が水戸浪士と図って甲府城を占領し、幕軍の上洛を阻む、事情によっては天子を奉じて山陰に移す、等々。
薩摩の軍兵は海路続々と大坂に到着して、京都の藩邸に入り、幕府側を威圧する。長州軍も三田尻に集結し、いつでも上洛できるように準備する。
かねてから長州に好意を寄せていた芸州(広島)藩も、この薩長同盟に加わり、討幕のために兵を出すことを約束した。
一方、土佐においては、坂本龍馬の意見によって後藤象二郎が、
――大政奉還
と言う新しい時局打開策を樹て、藩公を説得した。その骨子は、龍馬が上京の途中、船中に於て記したいわゆる「船中八策」に盛られている。
一、天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキコト、
一、上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ萬機ヲ参賛セシメ、萬機ヨロシク公議ニ決スベキコト、
一、有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備へ官爵ヲ賜ヒ、ヨロシク従来有名無実ノ官ヲ除クベキコト、
を主眼とする公議政体の提唱である。
象二郎はこれを薩摩の小松帯刀、西郷吉之助に諮《はか》った。薩摩はすでに武力討幕を長州と盟約している。大政奉還などと言う平和的手段で、徳川氏の覇権を完全に打倒できるとは思わない。
だが、討幕の為の準備完了に、今少しく時間が欲しかった。
――土佐がそう言うなら、やらせてみるがよい、われわれはその間に討幕の準備を完成しよう、
と言うことで、一応、土佐の提案を受諾した。長州にもこの旨を通じて諒解を得る。
政界の裏面でこうした虚々実々の駈引が行われている最中、奇妙な現象が起った。
八月中旬ごろから、熱狂的な、
――ええじゃないかおどり
が、東海道から京畿一帯にかけて、流行し出したのである。
尾張・三河・遠江《とおとうみ》あたりで、突然、天から伊勢大神の御祓《おはらい》の札が降ってきたのが始まりであったらしい。
伊勢神宮ばかりでなく諸国の神々の御札や御幣、銀貨・銅貨などまで降ってくる。
西は伊勢・京都・大坂・兵庫・淡路・阿波・讃岐、東は信州から江戸にまでこの現象がみられた。
御札が降ってきた家では、仕事を休み、酒樽や料理を用意して誰にでも饗応する。町中の者が鳴物をならし、踊り狂いながら練《ね》り歩き、飲み喰らって、騒ぎ回る。それも次第に猥雑になってきた。
――ええじゃないか、ええじゃないか、おそそに紙はれ、破れりゃ又はれ、ええじゃないか、ええじゃないか、
と言うような野卑な詞をはさんで、唄い且つ踊る。笛や太鼓や三味線を持ち出すものもいる。男が女装したり、女が男装したり、褌《ふんどし》一つ、腰巻一枚のものさえある。
このおどりが、打ちこわしに近い形をとったところもある。
――ええじゃないか、ええじゃないか、これを呉れても、ええじゃないか、
と叫びながら、米や、衣類や、道具類などを奪っていったのである。
この奇妙なおどりが盛んに行われている九月の初め、東海道府中(静岡)城下伝馬町の旅籠《はたご》に集った怪し気な男たちがいる。いずれも町人の姿をしていたが、益満休之助を首領とする南部弥八郎、中村勇吉、肥後七左衛門の四人組である。
「どうやら、大成功らしいな」
益満が、酒を茶椀になみなみとつぎながら言った。
「たあいないものだな、一般庶民と言うのは」
「こいつ、大きなことを言うな、掛川では蒼くなって逃げ出しおったくせに」
「はは、あいつは拙かった。酒問屋の土蔵の屋根に上って、お札を散らしている時、夜番がみつけやがって泥棒泥棒と騒ぎ立てやがったので、何十人と集ってきた。仕事がバレちゃ拙いからな、慌てたよ」
「おれのように鳩を使えばよかったのさ」
「それにしても、一番初めの時、おれが降ったぞと叫んで、いきなり踊り出した時は、少々照れくさかったのう」
「いや、あれでみんなが踊り出し、そいつがパッと流行になったのさ」
「まだまだ、拡がるらしいな」
「京でも、兵庫でも、やっている。伊牟田(尚平)あたりが、いい気になって踊りまくっているぞ」
「一体、国で誰が考え出したのだ。こんな策略は」
「西郷どんか大久保どんじゃろう」
「大久保どんの知恵じゃな」
「とにかくこれで、東海道の町々はめちゃくちゃだ。今朝も、西へ行く幕府の役人らしいのが宿役人にどなりつけていたが、人足が一人も集らんと言う。人足どもは踊り狂って、ただ酒を飲んでいる方が、いいに決っているからのう」
「京、大坂がこの調子で大乱痴気になれば、大久保どんや西郷どんの仕事はし易くなる」
「そろそろ、江戸に引揚げて、江戸でも一騒ぎひきおこしてやろうか」
人心を惑乱し、市井の秩序を混乱させ、幕府も手のほどこしようのない状態に陥れる。この擾乱《じようらん》にまぎれて、討幕運動を急速にすすめて行く。これが薩摩の考え出した謀略だったのである。
江戸の薩摩藩邸に戻ると、益満は侍姿に戻って、鷹匠町の鉄太郎の処に行った。
例によって松岡万がきていて、しきりに時世を憤慨しているところだ。
「益満君か、大分、姿をみせなかったな」
と、鉄太郎は言ったが、松岡はじろりと見上げただけである。
「ちょっと上方の方に行っていました」
「ずいぶん騒がしいらしいね、あっちは」
「ええ、もう大変――それに下ってくる途中で、妙なものに出会いました」
「妙なもの?」
「ええじゃないか踊りと言うやつですよ、どの宿駅もばか騒ぎ、人馬の輸送もめちゃくちゃですね」
素っとぼけたことをぬけぬけと言う。
「ええじゃないか踊りか、聞いている。三十年ぐらい前に流行《はや》ったおかげ参りみたいなものらしいね」
「いや、あれに似てはいるが違いますね。あの時は、みんな伊勢へお詣りしたと聞いている。今度は伊勢詣りをしているのは伊勢近辺だけで、あとはただ町中を踊り歩き、騒ぎ回っているだけです」
「妙なことが始まったものだな」
「なに、一般庶民も、この御時世に愛想をつかして、やけっぱちになって、うさを晴らしているんですね」
しゃあしゃあと言ってのけた益満が、急に形を改めた。
「山岡さん、今日はちょっと話があって来たのです」
「どうぞ――松岡君が同席していてもいいのですかな」
「こちらは構いません」
「では、承ろう」
「いつぞや、あなた方は私を薩摩の隠密ではないかと言った。その時私は、薩摩藩士である以上、薩摩藩に報らせた方がよいと思うことは報らせているが、特に隠密行動をとって、幕府の秘密を探索することはしていないと言った」
「そうだ」
「私は今迄、山岡さんとの友情にひびの入るような事はしていない。しかし、今や、御承知のように、幕府と薩摩藩とはむつかしい関係になってきている。今後私が薩摩藩士として、藩のために忠実に働こうとすれば、恐らく幕府に対して、隠密的行動、或は進んで真正面からの反幕的行動もとらねばならなくなると思う。それを隠して、幕臣たるあなたと表面上の友情を保ってゆくことは、私としてやりたくない。で、今日限り、絶交して頂きたいと思って、参上したのです」
「ふーむ、薩長が反幕行動にふみ切ったと言うのか」
「いや、藩の方針が正確にどうなっているか、むろん私のような下っ端は知らない。だが、この処、急激に幕府に対して従順でない様になってきていることは明白だ」
「おれは前からそう思っていたのだ。お主は、お公儀に手抗《てむか》おうと言うのだな、断じて許さんぞ」
松岡が、眼を怒らせた。
「待て、松岡、益満君の言うことを、よく聞け」
鉄太郎が抑える。
「今後、私が幕府の為にならぬ行動をしていると見たら、今迄の友情には関係なく、私を斬るなり捕えるなりして頂いて結構――むろん、私は全力をつくして抵抗するつもりだが」
益満は昂然として言い放った。
「くそっ、今後もくそもあるか、今、ここで叩き斬ってやる」
松岡が、大刀をひきよせた。
「松岡、よせ。益満君は、堂々と絶交を申入れに来たのだ。ここで刀を抜くのは非礼だぞ。松岡、今日は笑って別れろ。その代り、今後、益満君が不審な挙動をしているところを見つけたら、斬れ。益満君、君の言うことはよく分った。お互いに、薩摩藩士と幕臣と言う違いがあるのだ。それぞれの主家の為に尽すのは当然だろう。現在のような状勢がつづけば、相互に敵として争わねばならぬ時があるかも知れぬ。その時は、潔く闘おう」
「山岡さん、分ってくれましたか」
「いや、君の立派な態度には、敬服した。いつの日か、幕府と薩摩との紛争が解決して、平和な日が来たら、また、今迄のような友誼を回復したいものだ」
「私もそう願っています――もし、その日まで生きていられたらのことだが」
「別れの盃をくみ交わしたいところだが、生憎《あいにく》、酒が――」
と、鉄太郎が少々照れくさそうな苦笑いをした時、襖《ふすま》の彼方から、お英の声がした。
「あの、少々でしたら、私、都合して参ります」
お英は、隣の高橋家に向って小走りに走っていった。
別れの小宴は、やはり何となく白けたものになった。鉄太郎と休之助と二人だけであったら、もっと心暖かいものになったであろうが、松岡が恐ろしく不機嫌なつらをして、終始、益満に白い眼を向けていたからだ。
益満も、そこそこに切上げることにした。
「では、山岡さん、御大事に」
「君も――」
益満は、お英にも鄭重《ていちよう》に挨拶して去ってゆく。
「あの野郎、くそっ、ぶった斬ってやりたい」
松岡は吐き出すように言う。何かと言えば人を斬りたくって仕様ない頃なのだ。
「いや、松岡、あれは立派な男だ。幕臣の中にあんな男がざらにいるか」
「うーむ」
と呻《うな》ったが松岡が忌々し気に呟《つぶや》いた。
「あんまり――いないな」
大政奉還運動と討幕運動とは併行して進んでいた。
慶応三年十月三日、土佐藩の後藤象二郎は山内容堂の命を受けて二条城に、閣老板倉|勝静《かつきよ》を訪れ、幕府あての建白書を提出した。
大政奉還の趣旨を述べたものである。
その内容は、
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一、天下の大政を議定する全権は朝廷にある。すべての制度法則は必ず京都の議政所から出なければならない、
一、議政所は上下に分かち、議事官は、公卿・陪臣・庶民に至るまで、正明純良の士を選任すべきである。
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以下、外交の正常化、軍備の充実、朝廷制度の一新などを述べたもので、坂本龍馬の草案「船中八策」と基本に於て同一である。
むろん、正式にこの建白書を差出す前に、根まわしは充分に行われている。
将軍慶喜も、閣老板倉も腹心の永井尚志も、すでに大政奉還を決意していた。
ただ、この大政奉還によって、現実にどのような事態となるかの見透しについては、慶喜は土佐藩の考えている公議政体とは大いに異るものを予測していたのである。
慶喜は、自分の才智、弁舌、能力に絶大の自信をもっている。
――大政を奉還した上、列侯会議を召集する。自分はその会議において大多数の支持票を得て、会議の議長に選ばれるだろう。見渡したところ、各藩大名の中に、この自分と対等に論議し得るほどの人物はいない。列藩会議の議長はとりもなおさず行政権の首長である。政治の実権は完全にこの手に握れる、
慶喜はこのように考えた。
それなれば、大政奉還は望むところ、現在、朝幕に分れている政治指導権が、合法的に自分の手に回収できる。将軍と摂政とを兼任するようなものではないか。
十月十三日、慶喜は、在京各藩に対して召集を命じた。当日、二条城に集ってきたのは各藩の重役五十余名である。
慶喜が大広間上段に現れ、老中板倉が大政奉還の趣意を述べた。皆、頭を下げた。
「意見のある者は居残って貰いたい」
と言われて、後に残ったのは、薩摩の小松帯刀、土佐の後藤象二郎、福岡藤次、安芸の辻将曹、備前の牧野権六郎、宇和島の都築荘蔵の六人であった。
俗説によると、この時、後藤象二郎が滔々と一世一代の大政奉還論をぶったと言うことになっているが、慶喜が後に語ったところによると、実情は全く違う。
陪臣後藤は、将軍の眼前に出て、すっかり固くなって汗を滲《にじ》ませているばかり、ようやく小松帯刀が、
――未曾有《みぞう》の御英断、感服のほかありませぬ、有難き次第、
と言って平伏し、後藤たちもこれにならって平伏したと言うだけのことであったらしい。傑物後藤もまだ場馴れがしていない。
翌十四日、慶喜は、朝廷に大政奉還の上奏文を提出した。
十五日、朝廷はこれを承認したが、同時に、諸大名が参集して会議が開かれるまでは、これまで通り将軍の職務を行うことを命じ、その後、慶喜が願い出た将軍職辞退の件は聴き入れられなかった。
政治――と言うものの奇怪さを、まざまざと示しているのは、正しくこの時点である。
朝廷は慶喜の大政奉還を嘉納し、差当り従来通り職務を遂行せよと命じながら、その同じ時点で、薩長に対して討幕の密勅を与えているのである。
具体的に言えば、この十月十三日、正親町《おおぎまち》三条|実愛《さねなる》は、薩摩潘士大久保一蔵と、長州藩士広沢兵助に、討幕を命じたのだ。
この密勅の内容は、
――慶喜はその威力をたのみ、しばしば朝命に反し、万民を苦艱《くかん》に陥れ、皇国を傾けようとしている。この賊を討たなければ先帝の霊を慰め万民を安んずることができぬ。先帝の諒闇《りようあん》中ではあるが、賊臣慶喜を亡ぼして回天の勲をたてよ、これ朕の願なり、
と言うもの。
表面では慶喜の将軍辞退さえ認めない朝廷が、内密にこれを賊臣と呼び、これを誅滅せよと命じているのだ。
愕くべき陰謀と言わねばなるまい。自己の能力を過信し、大政奉還後も日本の実質的主権者の地位を保持し得るものと考えた慶喜は、うまうまと裏をかかれていた訳である。
この巧妙な陰謀の立役者は誰か。
衆目の一致するところ、岩倉具視である。
岩倉はまだ朝廷への復帰を認められていなかったが、すでに入京は許されており、政界の黒幕として大活躍をしていた。
大久保、広沢らと緊密に連絡し、討幕の計画を推進し、腹心の玉松|操《みさお》に命じて、この密勅を起草させ、天皇の詔書として、大久保と広沢に与えたのである。
むろん、摂政、大臣の連署もなく、天皇|御璽《ぎよじ》も捺《お》されていない。いわば、岩倉私製のにせの勅書である。
にも拘らず、これは薩長連合の討幕を神聖化するに充分の役割りをもった。
岩倉はこれと前後して、大久保と長州の品川弥二郎とに、錦旗の調製を命じている。大久保は京都で大和錦と紅白の緞子《どんす》を買い、品川がこれを山口に持ちかえって、玉松操が大江匡房の「皇旗考」によって考案したデザインに従って、錦旗二ながれを作成した。
翌年、東征軍が掲げて、
――宮さん宮さん、お馬の前にひらひらするのは何じゃいな、トコトンヤレトンヤレナ、あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ知らないか、トコトンヤレトンヤレナ
と、謳《うた》いつつ進んだ時の錦の御旗は、品川の作成したこの錦旗である。
ついでながら、このトコトンヤレ節も、品川の作ったものと言われている。
――将軍が大政奉還した。
と言うことは、十月十六日には江戸に報らされていたが、幕府が正式にこれを公表したのは、十九日である。
幕臣は、上下とも、茫然として声もない。
多くの者は、
――大政奉還とか、大政返上とか言うのは、どう言うことを意味するのか、
と、理解できなかった。
中には、ただ単純に、
――そうなると結局、自分たちの俸禄が減るのではなかろうか、
と、それだけを心配した者もいる。
幕臣でさえ、そうなのだ。一般庶民に至っては、何のことだかさっぱり分らぬと言うのが本意であったろう。
だが、京都からやや詳しい情報が到着すると、幕臣の間では喧々囂々《けんけんごうごう》の議論が交わされるようになった。
鉄太郎の家にも、入れ代り立ち代り、眉を逆立て、腕をまくった連中がやってきて、悲憤|慷慨《こうがい》する。
「上様(慶喜)のなされ方は解《げ》せぬ、薩長との武力衝突が怖ろしくて政権を返上したのだ、何と言う意気地のないことか」
「老中松平|乗謨《のりたか》殿は、上様に決死の覚悟で直諫《ちよくかん》すると言って、今日、上京されたぞ」
「慶喜殿はだめじゃ、むりにでも御隠居を願い、亀之助(家達《いえさと》)様を立てて陣容を改め、幕威の恢復を図った方がよいと言う説が、旗本の中で有力になってきている」
「こうなっては議論無用、兵力を増強し、薩長と決戦しろ」
「いや、待て、あの聡明な上様が、先の見透しなしに政権を返上される筈はない。上様が政権を返上しても、朝廷や各藩の力だけではどうにもならぬ。結局、上様に政治を御委任と言うことになる――上様もそれを御承知の上で、返上を申出られたのではないかな」
「ともあれ、京、大坂にもっと幕府の兵力をおかねば、薩長に対抗できぬ。若年寄の石川|総管《ふさかね》殿はそう言って、明日、歩騎砲三兵を率いて大坂に向われるそうな」
「山岡さん、一体どう思う」
そう問われても、鉄太郎にも、何とも答えようがなかった。
京の事情が、よく分らないのだ。何よりも肝心の慶喜の心境が分らないのだ。
「残念|乍《なが》ら、私にも名案はない。ただ、考えねばならぬことは、この擾乱を外国勢力に利用されぬようにすることだ。大政返上するもしないも我が国内の問題、これに外国がからんでくるのは危い」
「そんな危険があるのか」
「ないとは言えぬと思う。イギリスは薩摩を応援しているし、フランスは幕府を支持してきた。幕府や薩摩が、これら両国の助力を受けるようなことがあれば大変なことになる――と思うが」
鉄太郎にもそれ以上の事は分らなかった。
勘定奉行の小栗上野がフランス公使ロッシュと固く結んで、色々の点でその助言を得たり、資金の借入れを得ようとしていることは、益満から聞き、義兄の高橋伊勢守に伝えている。
高橋が何度か小栗に、その点で反対意見を具申したが聴き入れて貰えないらしい。
鉄太郎が外国の介入を心配しているのは、その点を踏まえてのことだが、より深い具体的な事実については何の知識もなかった。
石坂、松岡、関口らも、むろん、そんな上層部の動きについては何も知らぬ。
鉄太郎が急に外国関係について発言したことを不審に思う様子だ。彼らは未だに、清河流の尊皇攘夷論を信奉していた。だが、清河がその胸奥に、幕府打倒論を秘めていたとは知らないのである。彼らも将軍家を樹てながら、朝廷と力を合せて、国難を打開すべきだと考え、その協力を阻害するものとして、薩長の動きに憤慨し、その恫喝《どうかつ》の前に屈服したように見える慶喜に対して、大きな不満を持っていた。
「おれには、むつかしい事は分らないが、将軍家が京へ行ったきりと言うのが気に入らぬ。将軍家の本拠はこの江戸だ。御当代(慶喜)は将軍になられてから一度も江戸城に入っておられぬ。ともかく一応江戸へ戻られるべきだろう」
「そうだ、薩長と決戦するにしても、江戸に戻って、改めて天下に大号令を発する方がよい」
「しかし、政権を返上されてしまった以上、天下の諸侯に命令することはできないのではないか」
「いや、朝廷からは、当分このまま将軍職を執行するようにと言う御命令が出たと言う。それでなくても、徳川恩顧の諸大名は、徳川家の為に起つさ」
「さあ、どうかな、御親藩御一門でさえ、容易に言うことを聴かなくなっている状勢だ、いざとなるとどうなるか分らぬ、長州征伐が良い例だ」
長州征伐の失敗を改めて指摘されると、座が少し白けた。
たしかに醜態だ。
将軍が勅命を受けて戦いを挑みながら、事実上完敗の形なのだ。これでは天下の諸大名が、幕府を軽視するようになったのもやむを得ない。
「上様は一体、どうなさる気かな」
「京坂には旗本を始め、会津、桑名諸藩の二万の幕軍が集っている。薩長と雖《いえど》も、うかつなことはできない。上様は必ず、何かの方法で捲き返しを図られるさ」
「おれは一日も早く、上様が江戸へ戻られる方がよいと思う」
「おれも、そう思う」
幕臣としては、何よりも将軍が身近かにいることが、心強い。主君のいない江戸城は巨大な空洞のように思われるのだ。うすら寒い思いが、背筋を這《は》っていた。
[#改ページ]
鳥羽・伏見の戦
大坂、兵庫のあたりでは、依然として例の、
――ええじゃないか踊り
が盛んに行われていた。
十一月二十九日に、外国奉行|糟屋《かすや》筑後守に扈従《こじゆう》して兵庫に到着した幕臣福地源一郎は、「懐往事談」の中で、次のように記している。
――直ちに早かごで大坂に向ったが、西宮までくると、市中踊り狂っていて、一人の人足も傭えない。筑後守が憤然として宿役人を叱りつけたが、宿役人はただ、恐れ入った次第と平身低頭するだけで人足を集めることはできなかった。やむなくその夜は西宮に一泊して翌日大坂についた。(中略)大坂に着いた時も、御札降りとええじゃないか踊りの大流行の最中であった。この御札降りは、京都方の人々が人心を騒乱させるために施した策略だとも言う。果してそうかどうか知らないが、騒擾を極めたのには辟易《へきえき》した。
江戸では、御札降りもええじゃないか踊りも、極めて一部にしか見られず、一般的には拡がらなかった。
恐らく、将軍の不在、大政奉還に伴う将来への不安が、江戸の人たちの気力を削ぎ、騒ぎ回る気を起させなかったのであろう。
その限り、薩藩の命を受けた益満らの秘密工作は、失敗したものと言える。
だが、彼らは、それで使命を放棄したりはしなかった。
ええじゃないか踊りよりも更に悪質な騒擾が企まれた。
十一月の半ば頃から、江戸市内各地で、押込強盗、辻斬り、脅喝、喧嘩、暴行などが頻発するようになった。
初めは、世相の不安に乗じて、不良の徒が跋扈《ばつこ》しだしたのだと思われていたが、次第に、どうやら、世相不安を更に激化し、より混乱に陥れるための計画的行動であるように思われてきた。
当時、江戸では、連年の凶作のため米価が暴騰していた。南京米も大量に輸入したが、それでも追っつかない。市中の貧民たちは市中の各所に集って、富裕な商家に強談判《こわだんぱん》して米や金を貰い、広場にかまどを設け、釜をかけ粥を煮て無料で施与していた。
しかし、それだけのことで、別に乱暴するようなことはない。町奉行所ではこれが、
――打ちこわし運動
に発展することを怖れて解散を命じ、その代りに役所が主体になって施米をやることにして、どうやら平静を保っていたのだが、庶民の不満がこれで解消した訳ではない。
強盗団は直ちにこの事態を利用したのだ。
四国町の酒屋が襲われ、
――日頃から不浄の財をむさぼる不埒《ふらち》な商人、窮民救済のため献金せよ、
と脅されて二百五十両強奪された。
その酒屋の傭人の松吉と言うのが、数日後、その強盗団の一人が三田の薩摩屋敷の近所で、薩摩藩士と親し気に話し合っているのを目撃した。
早速、奉行所に通報したが、これだけではどうにも処置がとれない。
それから数日後には、金杉通りの呉服屋が五人組に襲われ、
――われわれは、攘夷のため義軍を起す、その軍用金を差し出せ、
と脅されて四百二十両奪われた。気丈な手代良助が、縛《いまし》めを解いて、強盗団の姿を見え隠れに尾《つ》けた。
五人組が、薩摩屋敷の裏門から中にはいってゆくのを見届け、町奉行に届出た。
対手は、幕府が最も苦手としている薩摩藩である。うっかりした事を言えば、
――何の証拠があってそのような事を言う、わが藩に盗賊の汚名を被せる気か、
と逆ねじを喰わされるだけであろう。
強盗や暴行の現行犯を捕えるよりほかはないと、躍起になったが、群をなして横行する連中を取り押えることは容易に出来ない。
それでも、次第に、
――強盗、脅喝、暴行の犯人たちは、薩摩屋敷を根拠《ねじろ》としている、
と言う噂は、江戸中に拡まっていった。
彼らはいずれも二本差しの浪人姿で、何人か、何十人かが組をつくって行動する。町奉行配下や、新徴組の見廻りが、それらしい者をみつけて追いかけたこともあったが、いずれも薩摩屋敷の近辺で散り散りになって、姿を消してしまうのである。
「先生、どうもあれは、益満が主役になってやっていることですね」
松岡が、鉄太郎に言った。
「そう考えられぬこともないが――」
鉄太郎は、信じたくなかった。
「益満の性格からみて、あまり不条理なことをするとは思われないな」
「いや、あの男、いざとなれば何でもやる。やっぱり、この間、叩き斬っておけばよかった」
「松岡、お主も以前はよく辻斬りをやったじゃないか。余り大きな口を利けぬぞ」
「や、どうも、そいつを言われると」
松岡は頭を掻いた。
この男、無欲な淡泊な性格だが、生来の乱暴者で、腕が立つだけに若い頃は、辻斬りなどしばしばやったらしい。
生涯一人を傷つけたこともなく、一人の命も奪ったことのない鉄太郎は、それをひどく嫌って、痛烈な忠告をして、止めさせたことがあるのだ。
「しかし、先生、強盗は辻斬りより悪いですよ」
「いや、どちらも悪い」
「そう言われちゃ、おしまいだ、えいくそ、益満の奴!」
益満が西郷や大久保から、江戸の治安攪乱の秘命を受けていたことは、確かに疑いのない事実である。
益満は生れながらの江戸っ子より、江戸をよく知っていた。
大久保と西郷とが、益満に江戸攪乱を命じたのは、その初め、これによって幕府兵力を江戸に釘付けにすること、幕府が治安維持能力を喪失していることを内外に示すことにあったが、今や、幕府を刺戟して薩摩討伐の兵を起させることになってきた。大政奉還によって討幕のきっかけを外された薩摩としては、幕府側から攻撃を開始して貰いたかったのだ。
益満の相棒となったのは、相楽《さがら》総三と伊牟田尚平である。
相楽は下総の地主小島家の生れ、平田流の国学を学び、尊攘運動に従っている中に、京で伊牟田と知り合い、薩摩藩と深い関係が生じた。この時二十九歳。
伊牟田は、薩摩に生れ、父は山伏であったが、尚平はその業を継ぐことを嫌い、薩摩藩士関山|糺《ただす》に従って上府、清河塾で益満と知り、互いに相許す仲となった。この時、三十六歳である。
益満が従来の仲間である南部弥八郎、中村勇吉、肥後七左衛門らを語らい、相楽は武蔵の地主落合直亮、医師権田直助、小川節斎、信州の商人斎藤謙助らを誘い入れた。
相楽は、市中に出て浪人やあぶれ者に喧嘩を売り、仲直りをすると酒を飲ませて、
――喰えなくなったら三田の薩摩屋敷に来い、
と言って多くの無頼の徒を集めた。中には、龍造寺浪右衛門のような名うての強盗で破獄の経験を持つ者もいた。
十一月末には、薩摩邸に集った浮浪の徒は五百人近くにもなったと言う。
五人、十人から三十人、五十人と集団で富豪の家に押し入って、時には何千両と言う大金も奪っている。
これらの連中の中には、益満の指令の範囲を逸脱して、単に人心を不安ならしめるだけではなく、非道惨忍な行為までやってしまう者も出てくる。
そうなると、薩摩とは全く関係のない無頼漢どもも、何人かが徒党を組んで富商の家を襲い、
――薩摩藩の者だ、軍用金を出せ、
と脅しとったり、暴行を加えたりするようになった。
そして、それらのすべてが、薩摩藩士のやったこととして、幕府にも江戸市民にも、憎悪されたのである。
益満は更に、一部の人数をさいて関東各地の騒乱も企てた。
その命を受けた竹内啓以下十数人は、下野《しもつけ》の栃木に至り、出流《いずる》山に立てこもって、
――討幕の先鋒
と称して同志を集めた。附近の窮民や浮浪の徒が集ってくると、附近一帯をあばれ廻って金品や米穀を強奪した。
幕府は数藩の兵を動員し、十二月十一日に至ってようやく討滅している。
幕府の無能力と、薩摩の反幕とは、もはや明白となっていた。
この間、京都では、混沌とした政情がつづいている。
慶喜は大政を奉還したが、朝廷では直ちに政権を担当するだけの体制は整っていない。殊に対外関係については全くの無経験である。さし当りは将軍の職務をとるようにと命じたのは、その為であった。
慶喜はまだ、満々たる野心を抱いていた。
――朝廷や、薩摩などに、実際の政治がやれるものならやってみるがいい、
と言う気さえある。
列藩会議の結果、議長に選ばれたら、再び天皇を政権の外にまつり上げてしまい、中央政権を名目として諸大名の持つ軍事力を中央に集結して、その実権を掌握してしまうことさえ考えていたらしい。
諸藩の中にも、慶喜支持者は多かった。
何と言っても、二百七十年に及ぶ徳川氏の覇権の余波はまだまだ根強く残っている。
朝廷が、列藩会議のために諸大名に京都への集合を命じたが、集ってきたのは薩摩、越前、尾張、芸州、彦根のほかは、京都付近の小藩主十数藩に過ぎなかった。
多くの大名はまだ依然として徳川家への臣従関係を是認し、幕命がなければ朝廷の召に応じないと言う態度をとっている。
紀州藩などは、
――われわれは徳川家の家臣である。徳川家の恩顧を忘れて朝廷の直臣となるよりは、陪臣として忠節を守りたい、
と言い出す始末である。
討幕派は、ひたすらに兵力の増強につとめた。
薩藩では、藩主茂久(忠義)が、十一月十三日、三千の兵を四隻の船にのせて鹿児島を出発、西宮に到着、二十三日には京に入った。
長州藩の諸隊一千二百も十一月二十五日、三田尻を出発、二十九日摂津打出浜に上陸、西宮に宿陣する。
芸州藩も、藩世子浅野茂勲が三百余の兵を率いて、十一月二十八日入京。
幕府に対して戦端を開く準備は、ほぼととのったと言ってよい。
ただ、大政奉還を自ら申し出た慶喜を討つ為には、そのきっかけとなる名分が欲しい。出来れば、慶喜が朝命に従わないと言う明らかな事実が新しく宣明されれば、最も好都合である。
岩倉が、大久保と密談した。
問題は、慶喜を始め、幕府方を憤激させ、そちらから戦端を開くようにしむけることにある。
――改めて王政復古を宣言し慶喜を除外して、新政府の首脳部を固めてしまうのだ。列藩会議によって新政権の首脳に推戴されることを期待している慶喜は、必ず憤然として、その決定に反抗し、武力に訴えようとするだろう。その時に、朝命違反をもって討伐する。
これが、岩倉の考えだ。
――慶喜に対して、大政奉還をした以上、従来将軍として受けていた官位と封土をも朝廷に返上すべきであると要求する。慶喜はむろんこれを拒むであろう。その時は、さきの大政奉還は名目のみで実を伴わぬ、朝廷をあざむくもの、として罪を鳴らし、彼が反抗の気勢を示せば直ちに討伐令を下す。
これが、大久保の意見である。
幕末から維新後にかけての最大の謀略家である岩倉と大久保とは、相互の案を尊重した。
――この両案を共に行ってみよう。まず岩倉案に従って、王政復古の大号令を出し、ついで第二案に移る、
意見は一致した。
クーデター決行の日は、十二月九日と決定された。
その前日、十二月八日、宮中で、
――毛利父子に関する処分
を議題として会議が催され、摂政二条|斉敬《なりゆき》以下の公卿及び在京諸大名が集った。慶喜も、松平容保も同定敬も病気と称して欠席している。毛利父子の宥免《ゆうめん》が決定することはほぼ明白である。これに反対である慶喜らは、出席を潔しとしなかったのだ。
会議は夜を徹して行われ、九日の午前八時に及んだ。その結果、毛利父子の官位を復旧し入京の自由を認めること、岩倉具視以下、幽居中の公卿の還俗《げんぞく》、再出仕を認めること、三条実美ら五卿の官位を復旧し、帰京を認めることなどが、決定した。
会議が終って摂政以下が宮中を退出すると、入れ違いに、岩倉具視が参内してきた。
たった今、赦免を受けたばかりである筈だが、ちゃんと定めの束帯に威儀を正し、まだ髪の伸び切らぬ坊主頭に冠をのせている。その上、小脇に、王政復古の大号令を記した案文を容れた細長い小箱まで抱えていた。
つづいて参内した同志中御門経之、昨夜から宮中に残っていた帝の外祖父中山|忠能《ただやす》と三人で、帝に拝謁し、
――王政復古の大策、本日断行、
と奏上した。
その頃には、西郷吉之助の率いる薩摩兵が続々つめかけて宮中と宮門の要所を占拠していた。
芸・尾・越の兵も協力する。
それまで、宮門を固めていた会津・桑名の兵は、愕いて抗議したが、
――勅命である、
と一喝された。兵力も格段に差がある。両藩とも、色蒼ざめて、早々に二条城に引揚げてしまった。
御所内外の交通は厳密に遮断され、特に指定された者以外の立入りは許されない。二条摂政でさえ再び参内しようとして、追い返された。
この日、参内を要求された五名は、土佐の山内容堂、越前の松平慶永、薩摩の島津茂久(忠義)、尾州の徳川慶勝、芸州の浅野茂勲である。それぞれ、腹心の家臣数名を伴って宮中に入った。
十六歳の少年天皇が学問所に臨み、王政復古の大号令が発せられた。先ず、
――王政を復古し、摂関・幕府を廃する、
ことを宣言した。慶喜の将軍職はこの時、正式に罷免された訳である。もはや、幕府は存在しない。
――新たに総裁・議定・参与を置く、
総裁には有栖川宮|熾仁《たるひと》親王、議定には、仁和寺宮、山階宮、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之及び徳川慶勝、松平慶永、浅野茂勲、山内豊信(容堂)、島津忠義、参与には大原重徳、万里小路《までのこうじ》博房、長谷信篤、橋本|実梁《さねやね》、岩倉具視の他、尾、越、芸、土、薩五藩からそれぞれ三人宛推薦せしめることとした。
ついで、言路洞開(自由に意見を具申させる)と人材登用を謳い、百事一新を宣言した。
夜六時頃から、小御所において、天皇親臨の許に、新しく任命された総裁・議定・参与が左右に居並ぶ。
尾張藩士田宮如雲、丹羽淳太郎、田中邦之助、越前藩士中根雪江、酒井十之丞、芸州藩士辻将曹、久保田平次、土佐藩士後藤象二郎、神山左多衛、薩摩藩士大久保一蔵、岩下佐次右衛門らが、特に陪席を許された。これらの藩士は、数日後に、正式に参与を命じられている。
中山忠能が開会を宣すると、山内容堂が真先に口を開いた。この男、
――鯨海酔侯
と称している。酒を好むこと甚しい。この日は、心中甚だ不満でしたたかにあおっていたと言う。
「王政復古の初会議に、徳川内府が召されていないのは何故か。甚だ公平を欠く措置と思う。直ちに召し出されたい」
容堂のこの提言に大原重徳が反駁した。
「内府は大政奉還はしたものの、その真意疑わしきものがある。まずその忠誠の実証を見てからのことにしたい」
「愕き入ったことと承る。内府は祖先よりうけついだ政権を返上し、将軍職辞任を申出られた。忠誠の真意一点の疑いもない。この大功ある内府を除外して新政を議するのは不当極まりない。そもそも本日のこと、軍兵を以て宮門を固め、二、三の公卿が幼冲《ようちゆう》の天子を擁して権力を専らにしようとするもの――」
岩倉具視の方を睨みながら、容堂がうっかり口を辷《すべ》らせた。
間髪を容れず、岩倉が大喝した。
「何たる不謹慎なことを言わるるか。幼い天子を擁してとは非礼千万、お上は不世出の英明の君、今日の王政復古はすべて御聖断に出でたるものでござるぞ」
――しまった、
と、さすがの容堂も、背中に汗を滲ませた。天子の御前で、
――あなたは幼くて何も知らないのだ、
と放言してしまったのである。それがたとえ事実であっても、断じて口に出してはならぬことだ。
容堂は、恐れ入って失言を詫びた。
一たび頭を下げてしまうと、もはやそれまでの勢いでまくしたてることは出来なくなる。
――やられた、自分としたことが、何と言う失策を、
と、容堂の気力がとみに消沈するのに反して、勢いに乗った岩倉が滔々として述べ出す。
「徳川家が最近勅命をないがしろにし、専断を以て欧米各国と条約を結び、憂国の公卿、諸大名、勤王の志士を殺した罪は大きい。更に無名の戦を起して長州に再征し、人民を苦しめて反省する処がない。内府が真に自責の念にかられて大政を奉還したものならば、進んで官位を辞し、土地人民を朝廷に献納して、その忠誠の実を示すべきである。朝議に参加せしめるか否かは、その後のことであろう」
大久保一蔵が進み出て、岩倉の説を支持し、敷衍《ふえん》し、
――徳川氏の辞官・納地
を、断乎《だんこ》として力説した。
松平慶永と後藤象二郎とが反論する。
論議は夜半にまで及んだが、容易に皆の納得する結論は出ない。
中山忠能は、休憩を宣した。
岩下佐次右衛門は、宮中戒厳に当っていた西郷吉之助を呼び、会議の模様を話し、
――どうなるか分らぬ、名案はないか、
と相談すると、吉之助はぎょろりと巨眼を光らせ、
――短刀一本あれば片附きもそ。
と言ったきり、消えていった。
岩下が、岩倉にこれを伝える。
岩倉は、懐中に短刀を収めた。
――容堂が反対派の首魁《しゆかい》だ、彼がこの上反対したならば一刺しにしてくれる、
と、覚悟を決めたのだ。
先ず浅野茂勲を呼んで、最後の決意を告げる。愕いた浅野は辻将曹に命じて後藤を説得する。後藤は大事の去ったことを知った。
――岩倉に主君を刺させるようなことは断じてさせない。万一の場合は自分が岩倉を斬る。だが、宮廷を囲んでいるのは薩摩兵だ、西郷の命令一下、主君も自分も惨殺されるだろう。主君を死なせてはならぬ。
後藤は、容堂に説いた。
――今日の処は一歩譲って、他日の挽回を図られるよう、われわれはいわば敵の重囲の中におります。
容堂も、それは認めざるを得ない。
やがて会議が再開され、岩倉が列席者の協力を要請すると、もはや反対する者もなく、
――慶喜に辞官・納地を命ずること、
を可決した。
午前二時を過ぎた頃である。
クーデターは成功した。
岩倉と大久保の、気力と弁口に拮抗《きつこう》し得る者がいなかったのだ。奇略縦横の坂本龍馬が生きていて後藤に知恵を貸していたならば、事ここに至る前に、土佐藩として何か手が打てたかも知れぬ。だがその龍馬は十一月十五日、凶漢に襲われて若い命を終えていた。
十二月十日夕刻、西宮に待機していた長州軍が家老毛利内匠に率いられて入京、堂々と市中を行進して、東山の東福寺に入った。
薩摩藩では兵粮の炊出しをやってこれをねぎらう。
長州びいきの多い京都市民は、愕きながらも悦ぶものが多かった。
この日の午前、松平慶永と徳川慶勝は前日の朝議の結果を伝えるため、二条城に慶喜を訪ねたが、城内には旗本及び会桑両藩の兵が充満し、
――王政復古の大号令は薩摩の陰謀だ、直ちに薩摩を討って君側の奸をのぞけ、
と、興奮し切っている。
慶永をみて、公然と、
――薩賊と通謀して徳川家を売った奴、
と罵声を放つ者さえある。
――将軍職は廃止された、徳川家領四百万石の中の二百万石を朝廷の入費として差出すよう、
と言う命令を伝達された慶喜は、
――徳川の直領は四百万石と言うが、実収は二百万石しかない。これを凡て献納しては、家士を養えぬ。老中ともよくよく相談してみるから、しばらく猶予を賜わりたい。
と回答した。
この伝達に対し、山内容堂を始め親幕派の十藩が連名で、
――政府の経費は徳川家のみが負担すべきではなく、各藩が応分負担すべきだ、
と建白。
幕臣や会桑両藩士は、激昂して、今にも二条城から討って出て薩長軍と闘おうとする気勢である。
慶喜は、
――今、京都で戦いの火蓋を切れば、朝敵の汚名を被ることになる、
と憂慮し、十二日夜、松平容保、松平定敬、板倉勝静らを従え、二条城の裏門から抜け出し、翌日午後大坂城に入った。
この段階でも彼は未だその夢を棄てていない。薩長を打倒して、実質的主権を回復したいと考えていた。
十四日、フランス公使ロッシュを大坂城に招いて密談した結果、その説を容れて、十六日、仏・英・米・伊・蘭及びプロシヤの六ケ国の公使らを引見した。慶喜は彼らに対して、
――九日のクーデターは一部の奸謀によるもの、わが国の外交権は依然として余の手中にある。諸国は日本の内政に干渉することなく、従来通り好誼をつづけられたい、
と言う意味の演説をやった。
十八日には、
――挙正退奸の上表
をつくり、天皇側近の奸臣を退け、公明正大の政治を行うことを要求しようとした。
岩倉はこれを握りつぶし、更に討議をつくした結果、領土返上の件は列藩会議の公論によって決定するものとし、事実上全国高割りを認めることとした。
朝廷側の譲歩により、問題が一応納まりそうに見えた十二月二十八日、江戸から愕くべき報らせが、大坂城に齎らされた。
――江戸における薩摩方の乱暴|狼籍《ろうぜき》はその極に達したので、二十五日早朝、薩摩藩邸を焼き討ちにした、
と言うのである。
城内の将兵はこぞって、憤激し、
――薩賊は江戸で公然と反幕行動をやっていたのだ。江戸ではわれわれが隠忍し過ぎているのに堪りかねて、薩摩討兵をやってのけたのではないか。もはや一刻も薩賊の跳梁《ちようりよう》を許すべきではない。闘えッ、
と、口々に怒号する。
同じ報知を得た西郷吉之助は、大久保一蔵の手を握って、
――やった、これでよか、
と、会心の笑を洩らした。彼らは一日も早く、討幕の兵を挙げるための機会を待っていたのだ。
――これで幕軍は、われわれに戦いを挑んでくるだろう、
勝利を確信しての笑みであった。
江戸の薩摩屋敷焼き討ちは、京における鳥羽・伏見役の導火線となった。
江戸では、もはや、そうするよりほかなくなっていたのである。
薩摩屋敷に屯《たむ》ろする集団は市中における強盗や殺傷を益々エスカレートしたばかりでなく、関東一帯にその手を伸ばし、各地で騒乱をかもしていた。
十二月十五日、上田修理の一隊は、甲府城乗取りを図って八王子に赴き、幕府の八王子警備隊に襲われて敗走。
同じ十五日、鯉淵四郎ら三十数名は相模の荻野山中の陣屋を焼いて武器・金穀を奪い、翌日、附近の豪家から、討幕の軍資金と称して献金させたが、小田原藩兵が出動したので、江戸に戻った。
この他、関東各地に、勤皇・討幕を口実に、放火・掠奪を行ったものが続出している。
十二月二十三日朝、江戸城二の丸が、女中部屋から火を発して全焼した。二の丸には薩摩から輿入《こしい》れした天璋院(先々代家定夫人)が住んでいる。
――天璋院の奥女中が薩摩藩士と通謀して火を放ったのだ、
――薩摩側では大風に乗じて火を市中に放ち、江戸城を襲って、天璋院と静寛院宮(先代家茂夫人、明治帝の叔母)を奪い去る計画を樹てている、
と言うような噂が、しきりに飛ぶ。
市民の中には、早くも疎開の準備をするものもある。
二十三日夜、薩摩側は三田の庄内巡邏兵の屯所に発砲して挑発した。
――もはや、放置し難い、
強硬派の勘定奉行小栗上野介を中心とする陸海の首脳は、断乎として薩摩屋敷の藩士・浪士・浮浪の徒を一網打尽にすることを決定した。
十二月二十五日|黎明《れいめい》、幕府(正式にはすでに幕府は廃止されていたが、旧幕臣たちの自意識においてはまだ幕府と考えていたし、江戸市民もそう考えていたであろうから、この語を使用しておく)は、庄内藩を始め松山・上ノ山・前橋・西尾・鯖江の諸藩に命じて、薩州藩邸及びその支藩である佐土原藩邸を包囲した。
薩摩藩邸と佐土原藩邸とは、三田一丁目の通りを距てて、東西にあり、その間に松平隠岐守(伊予松山藩)の中屋敷と、松平兵庫助の中屋敷があるが、極めて近い。
この時、幕軍側には、フランス士官ブリューネーが顧問として加わり、大砲を以て攻撃すべきことを建言し、その具体策を述べている。射撃を行うべき個所、砲種による照尺及び薬量、弾薬輸送方法を含めた詳細なものである。
両藩邸を囲んだ幕軍は、総勢二千余。
邸内の浪士引渡しを要求したが、薩藩側は当然、拒絶した。
庄内藩の砲門が轟音を発した。
両藩邸はたちまち焔に包まれる。
幕兵は、四方から乱入する。
邸内にあったのは、約百五十名。十倍に余る敵を対手に、或は土塀により或は築山にかくれて応戦したが、所詮衆寡敵する筈はない。薩摩の江戸留守居篠崎彦十郎が斃《たお》れると、薩摩方の抵抗はくずれ、思い思いに脱出を図った。
戦闘の間に、薩摩方は五十人近くが討死していたが、伊牟田・相楽・落合ら三十名ほどは、辛うじて藩邸近くの沖合に待機していた藩の汽船翔鳳丸で、大坂に向って逃走する。幕府の軍艦三隻が追跡して砲撃を加えたが、ついに脱走に成功した。
残余約七十名は、一方の囲みを破って逃れ出たが、その多くが幕府方に捕えられた。
攪乱事件の黒幕の一人である益満は、水戸の浪士中村勇吉と共に闘いつづけていたが、もはや支え難いと見ると、
「中村君、生きられるものなら生きた方がいい、逃げようぜ」
と、走り出した。
藩邸近辺は、鼠の通る路までよく知っている益満だ。幕軍の間を縫って、うまうまと赤羽橋の辺まで脱れ出た。
中村とはいつの間にか分れ分れになってしまっている。さすがに疲労し尽していた。
遠く藩邸の燃える焔が見える。
――西郷から委嘱された任務は、これでどうやら果した訳だが、どうやってこれから大坂へ行くかな、
と考えながら、橋を渡った途端、棒立ちになった。
馬上の武士が三人の部下を従えて、じっと見下ろしていたのだ。
――しまった、
と下唇を噛んだが、もうおそい。
疲れ切ったからだで四人を対手に、この上闘えそうにもない。
ざんばらの髪、血と泥に汚れた衣服――言いくるめて遁《のが》れることもできない。
益満はどっかり坐り込むと、衣服をくつろげた。
「待て」
馬上の、小柄ながら颯爽とした武士が、声を掛けた。
「薩州藩か」
「さよう」
「姓名は」
「益満休之助」
「あ、益満か――聞いておる、悪名を」
「その悪名によって斬首されるよりは、切腹を選びます。武士の情、お見遁しいただきたい」
「いや――死に急ぐことはあるまい」
「しかし――」
「斬首などにはさせぬ。お主の身はわしが預かろう」
「失礼ながら貴方は」
「勝安房守義邦」
――あ、これが有名な勝先生か、
と、益満は馬上の人物の顔をふり仰いだ。
勝については、前に西郷から何度も聞いている。
――幕府方第一の知恵者、
だと言う。
――おれの命を預かると言うのは、むろん、何か考えてのことだろうが、かまわぬ。この話に乗ってみよう。死ぬのはいつでも死ねる、
覚悟は決った。
「勝先生、お言葉に従います」
「よし、ついてくるがよい」
捕虜の扱いではない、両刀を帯びたまま、ついてゆく。
勝もその従士も、一向に警戒している様子はなかった。逃げようと思えば逃げられる、と思う瞬間もあったが、益満は見えない糸にひかれるように、勝の後についていった。
氷川町の勝の邸にゆくと、新しい衣服を与えられ、食事を給された。
その後、勝の前に呼び出された。
「大分、暴れたな、お主が首領か」
勝は眼を細めて笑った。憎しみも怒りもない、爽やかな表情である。
「いや、私など、物の数ではありません」
謙遜のつもりで言ったのだが、勝の応答は鋭かった。
「それは本当の主役ではないだろう、主役――いや黒幕は、西郷吉之助――違うか」
今度は、益満の方が、微笑した。
――御明察の通りです、
と言う意味だ。
「当分、わしの処でごろごろしていてくれ、心配いらん」
「どうなされるお積りなのです」
「分らん、その中、使い途を考えておく。わしはケチン坊じゃ、ただ飯は喰わさん、そのつもりでいてくれ」
江戸における薩摩藩邸焼き討ち事件が、大目付滝川|具知《ともさと》から大坂城に報ぜられたのは、十二月二十八日である。
――やったぞ、
大坂城内は沸《わ》きに沸いた。
――われわれがあまりに隠忍しているのに耐え切れなくなって、江戸ではついに奸賊薩摩を討伐したのだ、もはや一刻も猶予することはならぬ、直ちに大挙上洛して薩賊を討って、京から放逐せよ、
慶喜の京都退去以来、その軟弱な態度に業《ごう》を煮やしていた旗本連中や、会津・桑名の士は、声を大にして叫び、罵《ののし》る。
折から慶喜上京の話があり、慶喜が入洛すれば、在京の土州藩が内応し、薩賊を一掃することは易々たるのみ――と、まことしやかに噂が流れた。
城内士卒の意気は、とみに挙がった。
福地源一郎の「懐往事談」によれば、
――憎き薩摩の者共をば、長州その他の藩賊と共に一撃の下にみなごろしにして朝廷の奸徒を平げ申すべしと叫び罵る声は、御座敷にも御廊下にも憚《はばか》りなく聴こえて、御上京とは仮の名義にて、誠は京都に御打入りと言ふこと顕然と知れ渡りたり、当時の情況を顧みれば、何がさていはゆる御祭騒ぎにて、或は銃槍を御殿の中坪にて掃除をするもあれば、或は御多門に納められたる槍を取出し御廊下にて振り試みるもありて、いづれも逸《はや》り立ちて止まるべくも見えざりけり、
と言う状況であった。
だが、実際には慶喜上京のことは、全く違った次元で、話が進んでいたのである。
松平春嶽、山内容堂らは、岩倉具視と折衝して、
――慶喜は入洛、直ちに参内して辞官納地を奏上し、勅命に従う形をとる。その代り、朝廷は、慶喜を議定に任じて国政に参加せしめ、納地のことも各藩その割合に応じて仰出《おおせいだ》されることとする、
と言う諒解をとりつけていたのである。
岩倉はこの時点で、京坂に集っている二万五千の旧幕勢力と、三千の薩長軍とを考慮し、直ちに両者の武力衝突を招くことは不利と判断していたのであろう。むろん、薩の西郷や大久保は、岩倉の妥協的態度に反撥したが、岩倉は譲らなかった。
従ってこの時、慶喜が少数の侍臣のみを従えて入洛したならば、事態は全く別の形をとって彼に有利に展開したに違いない。
だが、激昂し切った大坂城内では、
――慶喜、大軍を率いて上洛、奸賊を討滅す、
と言う気勢を動かし難いものにしてしまっていた。
慶喜は才智は優れているが、確たる信念を貫く気魄を欠く人物である。旗本や会津・桑名の士たちに、はげしい言葉で迫られると、それを一喝して却ける力はなく、ずるずると引きずられてしまった。
――自分には全く戦う意思はなかった。朝廷に対してはただ恭順の意のみであった。ただ時の勢いでどうしようもなく、あんな事になってしまったのだ。
慶喜は後になって、そう弁解しているが、卑怯な遁辞《とんじ》と言うべきであろう。亢奮《こうふん》した城内の空気に引きずられ、大挙入洛を決心した時には、
――うまくゆけば薩長勢力を打倒して、再び政権を手にし得るだろう、
と考えていたことは明白である。
激動と混乱の中に年が明けて、慶応四年一月を迎えた。
慶喜は上京を一月三日と触れ出すと共に、その目的は、
――君側の奸を除くにあり、
と宣言し、諸藩の重臣を城中に召出して「討薩の表」を示した。
その内容は次の如きものである。
――臣慶喜、謹んで去月九日(王政復古のクーデターを指す)以来の事態を考えてみますと、決して朝廷の御真意ではなく、全く薩摩藩の奸臣らの陰謀によるものであることは天下周知の所であります。殊に江戸を始め野州・相州において乱妨を行い、焼き討ち、劫盗《ごうとう》行為をなしたのは薩摩藩士の唱道によって東西呼応して皇国を乱す所業。これらの奸臣どもを差出すよう御沙汰賜わりたく、万一、お聴入れ下さらぬならば、やむを得ず実力を以て誅伐致します。この段、謹んで奏上致します。
正月二日、早くも、慶喜の部下は行動を起し、京に向って進んでいる。彼らは、
――慶喜入京の前駆
と称した。
この動きが京に伝わると、さすがに岩倉も、武力衝突を覚悟せざるを得なくなり、西郷吉之助・大久保一蔵・広沢兵助らと額を合せて、戦略を議した。
彼らとしても必勝の公算があった訳ではない。敗れた場合について、詳細に計画を立てている。
――鳥羽・伏見の兵がもし敗れたならば、薩長二藩の兵は主上を奉じて、ひそかに内裏を出て、山陰道から芸備の辺に遷《うつ》って適当な地に行宮《あんぐう》を定め、討賊の詔を四方に下して西南諸藩を動員する。一方、岩倉らは有栖川宮を奉じて京都に止まって防戦をつづけ、力及ばなくなった時は、尾越二藩の兵が宮を奉じて叡山に逃れ、主上叡山へ遷幸と言う形にする。賊軍は主力を尽して叡山に攻め寄せるだろう。我軍は山瞼によって防戦しつつ、仁和寺宮・知恩院宮を東北に下向させて勤皇の兵を募り、江戸城を衝く。
と言う全国的ゲリラ戦略を樹てた。
ただはやりにはやって、京に向って猪突しようとしていた旧幕軍に比べれば、遥かに周到な方策であったと言ってよい。
こうした状況の下で、両軍の最初の接触は、二日午後八時頃、伏見奉行所付近で行われた。
水路をとった会津兵を中心とする旧幕軍は二日夕刻、伏見奉行所西隣の本願寺御堂に入った。奉行所には以前から旧幕歩兵や新選組が駐留している。
これに対して、薩長土芸四藩の兵は、三方から伏見奉行所を包囲する形で陣を布いていた。
旧幕側の主将、陸軍奉行竹中丹後守重固は、薩軍の隊長島津式部に対し、書面を以て通路を開くことを要求したが、島津式部は、
――朝廷の御意向を伺ってから回答する、
と称して交渉を引きのばし、兵力の増強を待った。
ここでの睨み合いは、翌日午後まで、まる一日近くつづいている。
実際に戦端が開かれたのは、鳥羽街道口である。
陸路をとった旧幕軍の主力は、老中格大河内正質、若年寄並塚原昌義が正副総督として統率し、二日夜は淀まで北上して宿営。
三日朝、薩摩の五番隊は、旧幕軍の先発隊である見廻組佐々木只三郎の一隊と、上鳥羽中央で遭遇した。
両隊談判の末、見廻隊が一応後退した。
薩軍は銃を構えて戦闘隊形をとっていたのに対し、見廻組は剣客揃いで銃を持っていなかったので、やむを得なかったのだ。
薩軍はすかさず前進し、戦略的に有利な地点を占拠すると、要所に大砲を配置し、一隊を竹藪の中に潜伏させた。
一旦後退した見廻組は、大目付滝川具知と共に再び北上してきた。この時は人数も四百名に上っていたが、依然として鎖帷子《くさりかたびら》に刀槍と言う姿で、銃は持っていない。
滝川は、赤池北端で下馬し、薩軍の代表椎原、山口両監軍を呼び出して交渉したが、ここでも薩軍側は、
――朝廷にお伺い中、そのお許しがなければ通行は許さぬ、
と称して、時を稼ぐ。
午後五時近く、しびれをきらせた滝川が、
――この上、遷延は認められぬ、入京を強行する、
と宣言し、前進を開始した。
これをみた薩軍の合図のラッパと共に、砲列が轟然《ごうぜん》と火蓋を切った。
旧幕側は、見廻組四百名のほか、二条城警備隊、鳥羽街道前進部隊を合せて、薩軍の五倍に近い兵数であったが、戦闘隊形は全くとっていなかったらしい。
薩軍の第一弾は、旧幕軍の大砲三門の中の一門を破壊し、その隊列を乱した。薩軍はこれにすき間もなく銃火を浴びせる。
佐々木の率いる見廻組は、白兵戦を望んで突撃しようとしたが、はげしい銃丸に圧倒され、薩軍に近づくことができない。その上、藪の中に潜んでいた薩兵に側面から射撃された。
その中に旧幕軍の銃隊もようやく隊形を整えて応戦し始めたが、既にあたりは暗い。
薩軍の砲弾が民家に命中した。
燃え上る焔が、旧幕軍の行動を、はっきりと映し出すのに対して、薩軍の動きは闇にかくれて分明しない。
旧幕軍は、徐々に後退して下鳥羽にさがって行く。
薩軍は、小枝付近の陣地に戻り、火を禁じて夜営した。
一方、伏見では敵味方|対峙《たいじ》したまま三日夕刻まで過ごしたが、午後五時頃、遥か鳥羽方面に猛烈な鉄砲の音が聞こえたので、薩軍は直ちに九門の大砲を奉行所に向って射ち込んだ。
奉行所内にいた新選組の剣士たちは、正門を押し開いて飛び出したが、両側は町家の並ぶ狭い路である。その路上に薩兵が四列射方――前二列が膝射ち、後二列が立射ち――の構えで銃口を向けているので、容易に飛び込んでゆけない。
本願寺御堂にいた会津の猛将佐川官兵衛の率いる一隊も、長州兵の烈しい銃火に圧倒されて、敵に肉薄できず、死傷者がふえる一方である。
たまりかねた会津兵と新選組とが、一体になって、奉行所東南隅から決死の大集団となって突出していったが、薩軍は西へ、長軍が南にと十文字に六ポンド砲を浴びせかけ、片端から斃《たお》してゆく。
夜半、旧幕軍側は、南方の中書島《ちゆうしよじま》やその西方の橋を渡って退却していった。
長州兵と薩摩兵とは相次いで奉行所に突入してこれを占拠した。
一月四日、戦闘第二日目。
下鳥羽に後退していた旧幕軍は、菊亭家の米蔵を拠点とし、米俵を胸壁とした陣地を築いて、早朝から頑強に防戦した。
さすがの薩軍も攻めあぐんでいる時、新たに後援軍二隊が到着したので、正午頃、左右から包囲態勢を取って猛撃を加える。
旧幕軍は、午後二時頃、退却を開始した。
薩軍は、長軍の第三中隊の応援を得て更に急追をつづけ、旧幕軍は淀に退く。ただその一部は富ノ森の陣地を奪回して死守した。
伏見方面では、退却した旧幕軍は全く混乱状態に陥り、主将竹中重固は総司令官大河内正質と協議するため淀に行ってしまった為、一応防禦地点として確保していた堀川右岸地区も、間もなく抛棄《ほうき》し、逃亡兵続出すると言う状態となる。
薩長兵は、しいて追撃しようとはせず、伏見に止まった。入り乱れた各藩兵を整理し、補給を待ち、負傷兵を収容する病院を開設する為である。
この日、仁和寺宮が征討大将軍に任命され、錦旗節刀を賜わって出陣。
錦旗は朝廷のシンボルである。これに向って闘うものは、朝敵である。
――奸賊を討つ、
と言う慶喜側の言い分はもはや通用しない。これは旧幕側の心理に強大な影響を与えた。
一月五日、戦闘第三日目。
前日夕刻、富ノ森の陣地を奪回した一部の旧幕兵が、思いがけぬ頑強な抵抗ぶりを見せた。
薩軍の篠原|国幹《くにもと》の三番隊と、大山弥介(巌)の二番砲隊とが、午前七時頃から攻撃を加えたが、容易に制圧できない。
その中、会津軍の槍隊が勇敢に斬り込んできて、砲隊になぐり込みをかける。
薩軍砲兵隊はついに砲弾を使いつくしてしまった。隊長大山は、抜刀して、
「砲を棄てて銃をとれ、突撃!」
と怒号した。折から飛来した一丸に右耳を射ち貫かれたが手拭で頬冠《ほおかむ》りしたまま敵陣に突入する。これは、
――弥介どんの頬冠り斬込み、
と言って、後々まで語り草となった。
砲撃隊の突入を見た篠原国幹が黙ってみている筈はない。
――おれにつづけ、
と、敵中に躍り込む。
旧幕側はその凄じい勢に押されて敗退。
折から仁和寺宮が馬上、錦旗を翻《ひるがえ》して、敵弾の飛来するあたりまで進出したので、官軍の士気はとみに昂揚した。
この日、伏見方面では、長州兵が先鋒となり、新たに参戦した因州藩が砲二門を以て加わり、薩兵がこれにつづいた。
左側が宇治川、右側は横大路沼を中心とした湿地帯で兵力を散開することができぬ狭い進路である。
前面には敵の銃兵がいて射撃し、蘆荻《ろてき》の間にひそんだ会津の槍隊が不意打をかけてくる。頼みにしていた因州の大砲は故障のため使えなくなる。
長州兵の損害は極めて大きかったが、その打撃をも顧みず猛進をつづけ、正午頃、淀を占領した。
旧幕軍は、淀小橋・大橋を焼いて、八幡・橋本に向って撤退していった。
旧幕軍は淀城によって防戦しようとしたのであるが、淀藩ではこれを拒み、堅く門を閉じて入れない。
淀城主稲葉正邦は老中であり、この時江戸にいたのだが、淀城残留の老臣たちが協議の上、旧幕軍の入城を拒否したのである。
これは、思いもかけぬ出来事であった。
幕府譜代の藩であり、その当主が現閣僚の一員である淀藩の家中でさえ、幕府を完全に見放してしまったのだ。旧幕軍を追って官軍がやってくると、淀藩は城門を開いてこれを迎えている。
午後二時、官軍の鳥羽街道部隊と、伏見街道部隊とは、淀で合流した。
一月六日、戦闘第四日目。
旧幕軍は八幡・橋本に陣地を構築した。
ここは京都平野と大坂平野を両分している隘路《あいろ》である。天正十年、明智光秀が秀吉を迎撃したのもこの地点であり、天王山は橋本西方を流れる淀川の対岸にある。
旧幕側としては、官軍を迎え撃つ絶好の地点である。官軍が木津川を渡ってくるところを狙い撃てば、効果は絶大であろう。
だが、惜しむらくは、数日の敗退つづきに旧幕側の戦意は著しく低下していた。命令をきかずに勝手に大坂へ退いてゆく者さえ少くない。
これに反して官軍は、鳥羽・伏見両軍合同して総勢二千五百、連戦連勝に意気頗る挙がっている。
木津川を渡って、同川の左岸に展開したが、敵側から殆どみるべき反撃を受けなかった。午前八時頃には全軍渡河完了、直ちに攻撃に移る。
ここではさすがに旧幕兵も銃火をもって応戦したが、意外な椿事が突発した。
午前十一時頃、天王山の麓、淀川右岸の山崎関門を守っていた津藩の兵千余名が、突然、鉄砲を揃えて、側面から川を隔てて旧幕軍を射撃し始めたのである。
津藩の藤堂家は、徳川氏とは特別に関係の深い股肱《ここう》の家柄である。その津藩が裏切ったのは、前日、勅使として四条|隆平《たかとし》がひそかにやってきて、津藩の重臣藤堂|采女《うねめ》に御沙汰書を読み聞かせて帰順をせまった為であった。
淀藩に背かれ、更に津藩に裏切られた旧幕軍の受けた心理的打撃は絶大であった。
旧幕軍は、全く戦意を喪失し、橋本から八キロの枚方《ひらかた》に退いたが、もう闘う意力はない。枚方もすてて、滔々として大坂城に向って遁走し始めた。
鳥羽・伏見戦は、事実上、ここで終了したとみてよい。
少くも五倍|乃至《ないし》七倍の兵力を持ちながら、どうして旧幕側が、こんなにもだらしなく敗退をつづけたのか。
薩長側が大砲と鉄砲とを充分に活用したのに対して、旧幕側の指揮官が充分にその利用を知らず、密集部隊を以て旧式の白兵突撃を試みて失敗していることはその大きな原因の一つであろう。
坂本柳佐は、後に史談会席上に於て、
――伏見の戦でどうやら戦闘に堪え得たのは、仏式訓練を経た伝習所だけだ。幕兵の敗北は銃器の不足と、北風の烈しかった為だと言ってよい、
と回顧している。
旗本や各藩士が永い泰平に柔弱になり切っていたことも、敗因の一つである。剛強さを保持していた会津兵や、新選組などは、剣に頼ることを知って、火器の怖るべきことを理解していなかった。
更により根本的なことは、慶喜に果敢な戦闘意志のなかったことである。
初代将軍家康であったならば、恐らく、上洛を決意したなら、自ら馬に跨がって軍兵と共に北上したであろう。戦いとなれば、馬の鞍を拳で叩いて諸兵を激励したに違いない。十五代将軍はこの戦闘の間、終始、大坂城内で蒼ざめた顔をして思い患っていた。
一月二日、慶喜入洛の先駆と称して軍兵が大坂城を発した以上、慶喜本人も当然これにつづいて京へ向うべきものと予想されたにも拘らず、彼は一歩も大坂城を出なかった。
先鋒軍が入京してその安全が保証されてから出発しようとしていたとしか思われない。これはおよそ武将として恥ずべき怯懦《きようだ》な態度と言うべきであろう。
――自分には恭順の意思しかなかったからである、
と言う後年の弁解は、到底信じられない。
四日夕刻から五日午前にかけて、
――わが軍不利、敗退又敗退
と言う報らせが、前線から相次いで齎《もた》らされた。
城内に残っていた奥詰銃隊や撒兵隊その他の旧幕兵、諸藩の兵たちは、いきり立って、
――上様、御出陣あってしかるべし、
と奮起を促す。
慶喜は、松平容保、同定敬以下の側近を召し寄せて、
「こうなった以上、たとえ千騎が戦死して一騎となっても退いてはならぬ。一同奮起して死力を尽せ、若しこの地で敗れても江戸があり、江戸が敗れても水戸がある。断じて挫けはせぬ」
と、力強く言い放った。
慶喜のすっきりしない態度に苛々《いらいら》していた松平兄弟らは顔を見合せて悦び、感憤の情を示した。
慶喜は更に、麾下《きか》諸藩の士を集めて、
「今や不幸にして前軍敗れ、危殆《きたい》の状に陥ったが、われわれの願いが君側の奸臣を除くに在ることは天も照覧あるところ、たとえこの城が焦土となるとも、死守しよう、自分がここで死んだならば、関東忠義の士が、必ずその志を継いでくれよう」
と、演述したので、並居る諸士は涙を流して感激し、決死の覚悟をもって、敵に当ることを誓った。
この同じ慶喜が、翌六日夜には、卒然として、全城士を置き去りにして、大坂城から逃げ出してしまったのである。
わずか一日の間に、どうしてこのように甚しい変貌を見せたのであろうか。畢竟《ひつきよう》、慶喜と言う人物が、確固不動の信念を持たず、常に動揺しており、才あって勇なく、衝動的に極端から極端に流れる性格であった為と言うほかはない。
先に長州再征に当っても、自分が出馬する以上千騎が一騎になっても山口城下に攻め入ると豪語しながら、この舌の根の渇かぬ中に、小倉方面の敗戦を知ると直ちに戦争継続意思を喪失してしまったのも、その一例である。
これは武将として最大の欠陥であると言ってよい。まして将の将たるべき人としては、哀しむべき性格である。
自分の部下が前線で血を流して闘っている間、慶喜は一体、何を考えつづけていたのか。
将士が出陣した後、
――予は終始大坂城を出でず、戎衣《じゆうい》を着せず、ただ嘆息し居るのみなりき、
と、慶喜自ら言っている。
そして、上洛決定に先立って些か興味ある問答が、老中板倉伊賀守との間に交わされたことも述べている。(昔夢会筆記)
慶喜が寝床に入って、孫子を読んでいると板倉伊賀守がやってきた。
「城中の者が激昂甚しく、このままでは納まりませぬ。所詮、上様が兵を率いて御上洛なされねばなりますまい」
と言う。
慶喜は、読みかけの孫子を示して、
「彼を知り己れを知れば百戦危からずと言う。試みにそちに質ねてみよう。今、幕府側に西郷吉之助に匹敵する人物がおるか」
と問うた。
伊賀守はしばらく考えて答えた。
「残念ながら、ございませぬ」
「では、大久保一蔵ほどの者がおるか」
「残念ながら――ございませぬ」
「せめて、吉井幸輔に対抗できるものがおるか」
「残念ながら、心当りがありませぬ」
伊賀守の頭は、ますます下がり、声がますます小さくなる。
――老中伊賀守よ、お前も薩摩の陪臣にさえ劣る人物なのだぞ、
と言われているようなものなのだ。
慶喜は、したり顔に言った。
「こんな有様で戦っても、勝目はないではないか、決してこちらから戦いを挑んではならぬ」
「しかし、上様」
伊賀守が、思い切って反論した。
「上様がどうしても兵を率いて進発遊ばされぬとあれば、彼らは、畏れながら上様を刺し奉って、脱走するかも知れませぬ」
「まさか――そのような」
慶喜は、内心ドキリとしたに違いない。
挙兵上洛を、ついに承諾したと言う。
この問答に見られるように、慶喜は、自分の周囲に優れた謀臣のいないことを不満に思っていたらしい。彼の最も頼みとしていた原市之進は刺客依田勇太郎に暗殺された。現に側近にいるものは、愚劣凡庸の者ばかりだ。だから自分一人が苦労しなければならないのだと言う不満がありありと見てとれる。
だが、家臣の側から言わせれば、主君としての慶喜に対して多くの不満があったに違いない。
――いたずらに弁口のみ達者で、策謀を愛し、それを得意としているが、人を心から信頼することなく、人の忠言に充分耳を傾けず、常に決心を翻して恥ずることなく、天下の大勢を動かす勇断に欠けている。まことに仕えにくい主君、
と、思っていたに違いない。君臣の間に真の信頼感はなかった。
慶喜が大坂城を脱出しようと決意したのが正確に何日の何時頃であるかは不明であるが、少くも六日の午後には、心を決めていたであろう。
麾下の反対を防止するために、巧みな工作をしている。
先ず、板倉伊賀守、永井玄蕃頭を呼んで、
「ここで防戦するよりは江戸に戻って再起を図った方がよいと思う。一同に報らせると動揺するから、内密にその手筈をせよ」
と命じ、更に抗戦論者である松平容保、定敬兄弟を、その部下から切り離して側に引き寄せ、
――自分と共に江戸へ戻るよう、
と命じた。
二人は愕いて反対したが、慶喜は、
――命令だ、違反は許さぬ、
と高圧的に承諾させてしまう。
その上で、大広間に集っている将士の前に姿を現して、
「明早朝、余自ら出馬する。みなみな準備せよ」
と命じた。一同、勇躍して、各々持場に退いてゆく。
その隙に、慶喜は松平兄弟、老中板倉及び酒井、その他数名の側臣だけを従えて、大坂城の裏門から脱出した。
六日、午後十時近くのことである。
一行は八軒屋に出て、船に乗り川を下って天保山に出た。
天保山沖には、徳川家の軍艦四隻が碇泊している。慶喜はその中の開陽艦に乗る予定にしていたが、折から闇夜で、どれが開陽であるか分明しない。
ともかくも最寄りの軍艦に漕ぎよせていくと、それはアメリカ砲艦イロクオース号であった。艦長は一行を鄭重にもてなしてくれた。
夜が明けて、開陽艦の所在が分ったので、これに移乗した。
この時、開陽の艦長榎本和泉守武揚は上陸して不在であったが、副長の沢太郎左衛門は事の意外さに愕きながらも、艦長室以下士官室を空けて、慶喜一行を収容した。
近くに碇泊していたイギリス軍艦の艦上から、慶喜らの移乗を望遠鏡で見ていたが、急に活発に動き出して、実戦操練をはじめ、
――開戦を促すものの如くに見えた、
と言うが、これは思い過ごしであろう。イギリスが薩摩と特に親密な関係にあったので、疑心暗鬼でそう思われたに過ぎぬ。
それでも、慶喜はひどく神経質になり、部屋の中にひそみ、沢副長に対して、
――大丈夫か、イギリス艦が発砲するようなことはないか、
と、度々質ね、沢が、
――国際法上、そのような事は断じてありませぬ、
と断言しても容易に不安の色が解消しない。
――速かに、江戸へ向い出航せよ、
慶喜は、沢にそう命じた。
沢は艦長榎本が帰艦するまで待って頂きたいと懇願したが、慶喜は聴き入れない。
沢に対して、
――江戸への航海中、艦長代理を申しつける。直ちに出航せよ、
と命じたので、沢はやむを得ず、大坂湾を退去した。
慶喜の脱出は、その夜の中に、城内に知れ渡ってしまっている。
誰もが、
――唖然
として、しばらくは言葉も出ない思いであった。
つい昨日、城を死守しようと宣言した総大将が、真先に逃亡してしまったのだ。
一瞬の虚脱状態につづいて、猛然たる怒りが、将士の心を把えた。
――天魔にみいられたものか、何と言う御卑怯な所業ぞ、
――前軍破れたとは言え、大坂城は天下の堅城、城内には未だ戦わざる新手の兵もあり、兵粮、兵器、弾薬もことごとく備っている。籠城すれば容易に落ちはせぬ。その中に関東勢が進発してくるならば、起死回生は手の中にあるものを、
――寡婦淀君でさえ、大坂城に、天下の兵を引受けて抗戦、月余をもちこたえて、一たびは講和に持ち込んだではないか、
慶喜の逃走を、口々に罵る。
中には、
――この大坂城で徳川氏は亡びるのだ、これは豊臣家ののろいかも知れぬ、
などと捨鉢のことを言うものもいた。
慶喜から残務を託された大河内豊前守正質は、
一、大坂城を尾張、越前両藩に託すること、
一、旗本以下の徳川家家臣は江戸に引揚げること
一、その他諸藩の各隊は解散すること
を命じた。
憤激していた将士も、こうなってはどうしようもなく、大砲などは毀したり濠に投げ込んだり、文書などは焼捨てたりして、それぞれに落ちてゆく。
踏み止まって籠城しようなどと言うものは一人もいない。
旗本以下の徳川家将士は、概《おおむ》ね紀州に退却し、海岸から幕府の軍艦や汽船に乗ったり、大形帆船で三河付近に上陸したりして、江戸に戻った。
各藩の隊士も、大小様々の団体となって、奈良から伊勢湾の方に出て、東海道に出たり、近江の信楽《しがらき》を迂回して亀山城下に出たりしている。
いずれにしても、七日、八日の両日の中に、大坂城内はからっぽになった。首領を喪《うしな》った敗軍の兵としては見事な撤退ぶりといってよい。
九日、長州兵の一隊は大坂城に入り、残留していた目付妻木多宮から城を受取った。
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敗 軍 の 将
慶応四年(明治元年)の江戸の正月は、例年になく淋しかった。
将軍は大坂に滞在中。前年暮には薩摩屋敷の焼き討ちがあって大騒ぎ、その上、大坂ではいつ戦争がおっ始まるか分らないと言う噂だ。幕閣の重臣連中や旗本の多くが大坂にいって、家族たちは不安な気持で留守宅を守っている。
不景気の中の物価高、門松でさえ例年より小さめだと言う。
面白くもない初春を、鉄太郎は相変らず、酒の中で暮らした。
三日には品川に行って、おさとと会っている。
六日の夕刻も、また出掛けた。
金で買った女を対手にしているのとは全く違ったしみじみとした情愛が感じられるので、ついほだされてしまうらしい。
――妙なものだ、女と言うやつは、
例によって、もう何万遍くりかえしたか分らぬ言葉を胸の中で呟いてみる。
おさとが顔を少しかしげて、お銚子の酒を盃につぐ。その頬のあたりに何とも言いようのない哀切な翳《かげ》が漂う。それをみていると、つい引寄せて抱きしめたくなる。
――おれはよっぽど好色漢なのだろうか、
とも思う。
だが、
――そんな筈はない、
とも思う。
自分で心を決めて、三ケ月の間、全く女に手を触れなかったことがあった。その間、剣道一本に打ち込んでみた。
特に苦痛も感じなかったし、甚しい欲望に悩まされることもなかった。
――その気になれば、女のからだなど必要はない、
と言う自信をもった。
にも拘らず、通常の状態である時は、女が欲しかった。男にはない何かが女にはあるのだ。そいつを絶えず求めている自分を否定できない。
からだの違いだけではない。何か男と全く違うもの、女の優しさ――と、一応は誰でも考えるのだろうが、必ずしもそうでもない。
現に鉄太郎がひと頃、ひどく惚れ込んでいたおきちと言う茶屋の女は、恐ろしく気持のはげしい、男勝りの女で、およそ優しさなどと言うものは全く感じられなかった。
性的にも極めて淡泊で、そんなことをむしろわずらわしいと思っているような処があった。それでも鉄太郎はおきちに強く惹かれた。おきちも鉄太郎に、乱暴な口を利きながら、惚れているようだった。
――どんな女にでも惚れることができると言うのは、やっぱり、おれが稀代のすきものと言うことになるのかな。
鉄太郎は、おきちのことを想い出して、思わず、くすりと笑った。
おさとが、顔をあげて、ちらっと睨んだ。
「いやな方、想い出し笑いなどなさって」
「なに、女ってものは――」
「不思議なものだなあ、でしょう」
おさとは鉄太郎の口癖を、真似した。
「そうなのだ」
「ちっとも不思議じゃありませんよ。女ってものは、みた通りのもの、むつかしく考えることはありゃしません。みんな男の方からみれば、ばかに見えるでしょうねえ」
「女がみんなばかなら、それに惚れる男は、みんな、もっとばかと言うことになる」
「じゃ、どちらもばかと言うことにしておきましょうよ」
「そうだな」
いつでも、二人の間の女論議はこんなことで終ってしまうのだ。おさとの方は、次の瞬間には、もうそんな事をすっかり忘れてしまうのだが、鉄太郎の疑問はいつまでたっても解消しない。
「それより、鉄太郎さま、上方はどうなのでございます?」
「何か、聞いたか」
おさとは、お座敷で耳に入ったニュースをいつも鉄太郎に伝えていた。
「いえ、別にこれと言って――でも、江戸から続々、お旗本衆が大坂へ上って、薩摩と長州をやっつけてしまえと、騒いでいるとか。上様も薩摩にそそのかされた禁裡様が、あんまりむりをおっしゃるので、大層お怒りになっていらっしゃるとか聞きましたが」
「うむ、辞官納地――ちょっと、きびしすぎるなあ」
「上様に、御領地をすべて禁裡様にお返ししろっておっしゃるんでしょう」
「そうさ、そうなりゃ、さしずめおれたちは禄無しの浪人、喰えなくなる。おれなんざ、どうせ大したもの貰ってる訳じゃないし、どうにでもなるが、困る人は多いだろう」
「だから、禁裡様の蔭にいて、お公卿さんたちを動かしている薩摩をやっつけようと言うのでしょう」
「それが、容易に出来そうもない」
「お公儀も、ずいぶん弱くなったものですのねえ」
「全くだ」
「それも分らないことはありません。お客様としていらっしゃるお武家様をみても、失礼ながらお旗本衆は、身なりばかり洒落た恰好をなさっていても、肝心の武芸の方はまるでだめ、小唄や踊りの方がお得意と言う方が多い。薩摩や長州の方、脱藩の浪人の方の方がよっぽど、凜々《りり》しくて、本当のお侍らしい――あら、鉄太郎さまのような方は、別ですよ」
「さあ、どうだかな。正月早々、家を空けて、惚れた女の許に通って鼻毛を伸ばしているおれのような奴がいるから、お公儀のご威光も落ちるのかも知れねえよ」
鉄太郎は自嘲した。今日は泊らずに帰ろうと、ぼんやり考えていた。
「あら、お怒りになったんですか、鉄太郎さま」
「ばかな、何も怒ることはありゃしねえじゃないか」
「でも、お帰りになりたそうなお顔をなさったから」
――こいつ、どうして、そんなにおれの気持が分るのか、妙な奴だ。
結局、その夜も、泊ってしまった。
翌七日、松の内も今日でおしまいだ。一応、家に戻ってみなければと、昼過ぎになって、やっと鷹匠町に帰ってゆくと、横浜の専蔵が来ていた。
「お帰りなさいまし、ふふふ」
専蔵が、家の者のような挨拶をした。
「妙な笑い方をするな」
「だって先生、新年早々、朝帰り、それももう二度目だって言うじゃありませんか。相かわらず、ご盛んなことで」
「ばかやろう」
少しは照れくさくて、笑いながら座につくと、専蔵が形を改めた。
「あけましてお目出度うございます。もっと早くに御挨拶に伺う筈でございましたが、色々とりまぎれて遅くなり、申訳ございませぬ。本年も何卒《なにとぞ》よろしゅう」
「新年早々、忙しいのかい」
「へえ、毛唐人対手の商売ですからね。毛唐ってやつは、年の暮に、クリスマスとやら言うお祝いを盛大にやりますがね、新年のお祝いなんてものは大してやりませんね。三日位からもう、商売の話を持ち込んできやがります、がめつい野郎たちで」
「お前も負けずに、がめつくやれ」
「はい、そのつもりでおります」
と笑った専蔵が、
「あ、こいつはいけねえ。うっかり忘れていました。先生、遊撃隊の副長になられたとか、先刻、奥方様から伺いました。お祝い申し上げます」
前年の暮、どう言う訳か、急に、鉄太郎は遊撃隊の副長に任命されていた。隊長は中条金之助である。
薩摩屋敷の焼き討ち以来、江戸の治安維持のため遊撃隊の強化が図られ、剣名の高い鉄太郎が抜擢されたものらしい。恐らく義兄の高橋伊勢守の推挽《すいばん》もあったことだろう。
「なあに、大した仕事はありゃしない。例の焼き討ち以来、不逞の浪士たちも鳴りをひそめているしね」
「だって先生、上方であんな事がおっ始まったんじゃ、江戸も大騒ぎになりますよ」
「あんなこと? 上方で何かあったのか」
「ええッ――先生、御存知ないんですか」
専蔵が、呆れたように、眼を大きくした。
「戦いでも始まったのか」
「いやだな、先生、本当に御存知ないんですかい。戦いが始まったどころじゃない。お公儀の軍が、薩長の兵にさんざんやっつけられたって話ですよ」
さすがに横浜の商人だ、情報をキャッチすることは早い。専蔵はもう鳥羽・伏見の戦いの三日夜までの状況を知っていた。恐らく、幕府の老中よりも早く、情報を耳に入れていたに違いない。
――薩長軍が、幕軍を破って、伏見奉行所を占領、幕軍は後退をつづけている、
専蔵は、そう言う。
「まだ、合戦が始まったばかりで、何とも言えませんが、どうやら、薩長の兵は、大砲も鉄砲も、お公儀のよりずっと良いやつを持っているんで、剣士揃いの新選組までさんざんにやられて、ずいぶん沢山の死人が出たってことですよ」
「そうか、ふーむ」
「まさか、このままずるずると、敗けつづけて大坂まで退くとは思われませんがね」
――分らんぞ、それは。
鉄太郎は、不安になった。
「かりに大坂まで退いたとしたって、大坂城は天下の名城だ。あそこにたてこもりゃ、いくら薩長軍でも、どうしようもねえとは思いますが――とに角、大戦争になりそうだ、江戸も落着いちゃいられなくなるでしょう」
幕軍の敗北は、今度が初めてではない。
長州再征の折、どの方面でも幕府方の諸軍はことごとく敗れている。
長州一藩でも、あれだけの戦闘力を示したのだ。それに薩摩が加われば、いや、こうなれば薩長に味方する藩も出てくるだろう。
――一体どうなるか。
鉄太郎には適確な判断を下すことができない。専蔵が暇《いとま》を告げて去ってゆくと、早速、隣の高橋邸にかけ込んだ。
「義兄《あに》上は?」
「今朝方、登城されたまま、まだお戻りになりません」
お澪《みお》が、鉄太郎のきびしい表情に少し愕きながら言った。
「何か言っておられましたか、上方の戦況について」
「いいえ、ただ上方で戦いが始まったらしい、容易ならぬことになるぞとは言っておられましたが」
詳しい敗報は、城中で聞かされていることだろう。
鉄太郎はじっとしていられなくなって、関口隆吉のところに行った。
「あ、先生、今、お宅に伺おうと思っていたところだ、大変なことになりましたね」
「うむ、君のところで、どの位分っているのだ、闘いの模様は」
「いや、それがよく分らないんで。どうも形勢がよくないとか聞きましたが」
「よくないどころではない。三日に戦端が開かれて、その日の中に伏見奉行所を占拠され、幕軍総退却だと言う。その後が分らないのだ」
「何て言うだらしのないことを、畜生……」
関口は、歯ぎしりした。
一月十二日払暁。
前夜かなりはげしく吹いた風は収まったが、ひどい冷えで、大地は凍りついたようだった。
赤坂氷川町の自邸に寝ていた勝安房守(麟太郎)は、邸外にひびく馬の蹄《ひづめ》の音に、ふっと眼を醒ました。
蹄の音が止まり、表門を叩く音がする。
勝は起き上って、寝衣の上に羽織をひっかけた。
取次の男が小走りにやってくる。
「誰だ、やってきたのは」
勝が、部屋の中から、先に声をかけた。
「は、伴様でございます。火急の御用と申しておられますが」
伴鉄太郎、海軍所の部下だ。勝はすぐ部屋を出た。
伴は上にあがりもせず玄関に立っていた。
「何事か」
まだ七ッ半(午前五時)だ、こんな時刻にやってくるのは、尋常なことではない。
伴は緊張し切った面持で、ぐっと唾をのみ込んでから、一息に言った。
「上様が、開陽艦に御搭乗、品川沖にお戻りになりました。今頃は浜御殿にお入りのことと存じます。松平肥後守様、同じく越中守様、板倉伊賀守様、小笠原壱岐守様も御同船でございます」
寝耳に水――とは、正しくこの事だ。
上方での開戦、幕軍の敗退は、もう充分に知っていた。だが少くも将軍以下、差し当りは大坂城にこもって善後策を講じるものと信じていた。
勝ばかりではない。すべての江戸在住幕臣はそう信じていたのだ。
慶喜のみならず、松平兄弟、両老中まで一斉に引揚げてくるとは一体どうしたことか。
「よし、直ちにゆく」
行って、慶喜一行に会って直接に聞いてみるよりほかはない。
勝は直ちに支度をととのえて、馬をはしらせた。
まだ町は暗い。
人っ子一人通っていない。
馬上の勝は、何も考えなかった。
考えようがないのだ。このような常識外れの出来事については。
品川の海が、ほの白く見えてきた。
浜御殿の門前で馬を降りると、中から出てきた小杉|唯之進《ただのしん》に会った。勝の弟子で、開陽艦の機関方として乗込んでいる男だ。
「あ、先生!」
「小杉、上様は?」
「海岸の方におられます」
勝は走った。
ぼんやりと白く明けそめてきた海辺に、小さな焚火を囲んで、十人ばかりの人がいた。
真中の床几《しようぎ》に腰を下ろしている人物を、
――上様だ、
と、勝は、直ちに認めた。
浜御殿はこのところ久しく使用されていない。雨戸もしめきったままだった。
慶喜一行をすぐに殿舎の中に収容する用意ができていない。
少し前に、開陽艦から短艇で海上に上陸した慶喜は、とりあえず焚火の前に据えられた床几に導かれていたのである。
慶喜は、裏金の陣笠、錦の筒袖に小袴、金梨地鞘に金紋ごしらえの太刀をはいていた。身装《みなり》は前将軍らしく美々しいものであったが、その相貌はまるで死人のようだった。
焚火の火に向けたその細面の顔には、ただ憔悴と悲愁の色しかない。
――敗軍の将。
正しくそう言った感じである。
勝は、そのみじめな相貌に、一瞬、
――お気の毒な、
と感じた。
慶喜と勝の間はよくない。相互不信がずっとつみ重なってきている。
――言行不一致の、決断力のない、頼りない主君だ、
と、勝は思っている。
だが、この瞬間、本当に、
――可哀想に、
と言う同情の心が、胸一杯に溢《あふ》れてきていた。
勝の来たのをみて、人々が間を開いた。
「上様」
勝は、砂の上に膝をついて、慶喜を見上げた。
何も言えなかった。
――何故、大坂城を棄てたのか、何故、あくまで戦わなかったのか、何故、部下何万の兵を見捨てて逃げてきたのか、
言いたいことはいくらもあったが、言葉にならなかった。
「安房守」
慶喜が、苦し気な声を出した。
「頼むぞ」
勝は、胸の底で、何かがすっと消え失せてゆくのを感じた。恐らくそれは内心に深く潜在していた主君慶喜に対する反感と言ったものであろう。それが、慶喜の、
――頼むぞ、
と言う一言で、奇麗に消滅してしまったのだ。慶喜としては、家臣に対して、頼むぞなどとは言い難いことである。しかも従来ずっと冷遇し、何となくそりの合わないものを感じていた成上りの勝に対しては、特に言いづらいことだったに違いない。
それを、慶喜はあえて、口に出した。
自分の側近に、本当に頼りになる家臣が、一人もいないことを感じていたからに違いない。この才気の鋭い主君にとって、側近の臣はすべて、無能なものに見えた。その中で、勝だけが才気において自分に劣らぬものと思われたのであろう。勝に対する反感は、多分その点にこそあったのかも知れぬ。今や、その反感は捨てるほかない事態になっていた。
――頼むぞ、
と言われても、何をどうせよと言われていない。又、慶喜にしても、どのようにせよとも言えなかったのだ。
ただ、事態はどうにもならぬ難局に落ち込んでいることは明らかだ。何らかの方法でここから脱け出さねばならぬ。それを、
――頼むぞ、
という言葉で表現したのであろう。
誰も、
――何とかせねばならぬ、
と思う。だが、それには、慶喜がどのような意向を持っているのか、何故大坂から脱出してきたのか、大坂ではどのような事態になっているかを知らなければならない。
「上様」
勝は、慶喜を見上げて、言った。
「何故、大坂城をお見棄てになりました。御心のほどを承りとう存じます」
慶喜は、ちらっと傍《かたわ》らの松平容保の顔をみたが、すぐに視線を伏せた。
そのまま沈黙している。
勝は、容保に向って言った。
「肥後守様、大坂ではどのような事態になっておるのでございます」
容保は、日頃から病身で神経質らしい顔付をしていたが、この時は、全く蒼白になっていて、ただ眼瞼をぴくぴく動かすだけで、何の答えもない。
「越中守様」
勝は松平定敬の方に顔を向けて、返答を促したが、定敬も兄容保と視線を合せただけで、一言も発しない。
勝が、少しいら立って、再び慶喜に向って何か言おうとした時、御殿の方から一人の侍が走ってきて、板倉伊賀守に何か耳うちした。
「上様、まず御殿の方へ――御座所の御用意がととのいました様子、ひとまずあちらで御休息下さいますよう」
勝の追及から脱れ得るので、ホッとしたような様子で、慶喜と松平兄弟とは、御殿の方へ歩き出した。
小笠原、板倉両老中がこれにつづく。
勝は、板倉の袖をとらえた。
「しばらく」
「うむ」
板倉は足をとめて、ふり向いた。
「上様から頼むぞと仰せを受けましたが、事ここに至った事情、上様の御存念のほどが分らねば何とも致しようがありません。一応お聞かせ戴きたいと思いますが」
板倉はうなずいた。
「まず、あれへ」
御殿の一部屋に、板倉と勝とが坐った。
「いやどうも、何とも話し様がないことばかりだ」
板倉は、そう言って首を振ったが、ぼつぼつと、慶喜の二城城退去から、幕軍の一月三日の進発、鳥羽・伏見の闘い、その敗北について話し出した。
「何とも、だらしなく敗けたものですな」
勝が、呆れたように呻った。
「全く、だらしがない。数の上で五、六倍の味方が何故、敗退をつづけたのか分らぬ。武器の劣弱、藤堂藩の裏切りなど、いくつかの理由はあげられるが、それにしても、よもやあれほどの惨敗を喫しようとは思わなんだ」
――何を言っているのだ、この男は。その惨敗の責任は、あなた方にあるのではないか。全く自分の責任を自覚せず、天変地異による不可抗力の敗北のような顔をしている。この無責任さこそ真の敗因ではないのか。
勝は、聞いている中に、腹が立ってきた。
「たとえ、伏見、鳥羽両街道で敗れても、何故大坂城にたてこもって、闘おうとなさらなかったのです」
「それが、――どうも分らぬ、みんな闘うつもりでいたのだが、上様が急に江戸へ戻ると言い出されたのだ」
「誰も、それをお止めしなかったのでございますか」
「いや、肥後守殿も越中守殿も、私も、お止めした。だが上様はどうしても江戸へ戻る、江戸に戻って再挙を図った方がよいと仰せられたのだ」
「すると、上様は、江戸で再起を図られる御心なのですな。上様からの私に頼むぞと仰せられたのは、再挙のことなのですな」
「いや、それが、必ずしも、そうではない」
「どう言うことなのです。一向に分りませんが」
「そうがみがみ言うな。つまりその、上様の御真意がよく分らんのだ」
七日、大坂の天保山沖から江戸に向った開陽艦は紀州沖で大暴風雨に遭い、八丈島近くまで流されたが、辛うじて危険を脱し、十日夕刻浦賀に入り、十一日夜、品川沖についた。その間、慶喜は艦長室に閉じこもっていたが、十一日夜になってから、松平容保以下扈従の者を集めて、
「江戸に戻ったならば、恭順謹慎の意を表して、朝廷のお裁きを待った方がよいように思うが」
と言い出した。
松平容保が、蒼白い頬にさっと血をのぼせた。
「思いもよらぬ仰せ。東帰の上再挙を図ると仰せられたから、われわれもお伴して参ったのです。さもなくば大坂城に家臣共を残して、おめおめ脱出などは致しませぬ」
定敬も即座に反対した。
「朝廷に恭順の意を表すとの仰せなれど、それは畢竟、薩長に降伏することではございませぬか。そのような恥辱は断じて我慢がなりませぬ。幕臣も会津・桑名の兵も、たとえ上様の仰せとあっても、今更恭順論などには承服致しますまい」
「そうか」
慶喜は、眉を哀し気にひそめた。再びその心が大きく動揺しているのだ。
「ともかくも江戸へ帰着の上、幕閣旗本、諸藩の意向を確かめてみることが肝要、御決意はその上のことになされては」
板倉が、間をとりなした。
「そう――するか」
慶喜の声には全く力も自信もなかった。
松平兄弟は、心中の憤懣《ふんまん》を辛うじて堪えている様子だ。
それから後は、はかばがしい会話も交わされていない。
「――と言う訳で、上様の御意向もまだ、はっきりは決っておられぬと思う」
板倉は、語り終えて、そう結んだ。
「それでは、私もなしようがありませぬ」
勝は、憮然《ぶぜん》とした面持である。
「こうなっては、身分の上下を問わず、志ある者にその志を述べさせ、その上で最後の決意を固めるよりほかはあるまいな」
「分りました。闘うか、恭順するか、どちらかに決るまで、私はじっと見ておりましょう。どちらかに決ったならば、私として出来得る限りのことを致します」
「頼む――上様も、その意味で、頼むぞと仰せになったのであろう」
二人が話し合っている間に、慶喜たちは、ようやく朝食を供されていた。
御殿内にはその用意がなかったので、木村兵庫頭が自分の邸からとり寄せて差上げたのである。
――城へ、戻ろう、
食事をとり、気力も多少回復した一同は、一様にそう考えた。
勝は直ちに、馬の手配をした。
十時《よつつ》、一行は御浜御殿を出発して、千代田城に向う。
先頭が肥後守容保、次が慶喜、つづいて越中守定敬、その後に板倉伊賀守、小笠原壱岐守以下数人がつづく。
寒さがきびしく、大地も凍っているかと思われる江戸の町を、この一隊は風の如く走り抜けていった。
町を往く人々は、突然、馬の蹄の音高く走り去る一団の、きらびやかな服装をみて、
――公儀のお偉方だろうが、どうしてお供の衆もなく、あんなに大勢の方が、
と、怪訝《けげん》そうに、立止って見送ったが、誰一人として、それが前将軍慶喜の一行だとは夢にも思わなかった。
――公方さま、
と言うものは、何百人もの供を従えて、庶民の土下座する中を、悠々と練り歩くものと思い込んでいたのである。
城内ではすでに報らせを受けて、慶喜を待ち受けていた。
この不運な人物は、将軍職についてから一度も江戸城にはいっていない。最初の入城が、この敗軍の前将軍としての入城となった訳である。
城中はもうこの時、鼎《かなえ》の沸くような大騒ぎになっていた。
その夜、亥《い》の刻(午後十時)、城中で大評定が行われた。
幕閣の主だった役人、旗本、在府の諸大名らが悉《ことごと》く集る。
板倉が、大坂での敗軍と、慶喜東帰の事情を簡単に述べて、意見を徴した。
たちまち、吼《ほ》えるように叫んだのは、勘定奉行の小栗上野介忠順である。
「とかくの議論の余地はない。錦旗を擁して私意をほしいままにする薩長の奸賊どもと闘ってこれを粉砕するのみ、一勝一敗は兵家の常、伏見・鳥羽の敗北の如きはあえて意に介するに足らぬ」
あばたの多い精悍な顔が、亢奮に張り裂けそうに見えた。
「然り、闘え」
「断じて薩賊などに屈服はせぬ」
「直ちに戦備をととのえて、上方に向って進発するのだ」
「いや、箱根、碓氷の瞼《けん》を扼《やく》して闘う方が有利だ」
抗戦論が、圧倒的である。
――兵を箱根、笛吹の辺りに出して、東下してくる官軍を迎撃せよ、
――軍艦を以て、大坂を衝け、
――関八州を固め、軍隊を新組織し、持久戦の体制を固めよ、
――上野寛永寺の輪王寺宮を奉じて、錦旗に対抗せよ、
――慶喜公《うえさま》自ら兵を率いて上京せられよ、
等々、強気の意見のみで、恭順論は殆ど全く聞かれない。
夜を徹しての議論の末、とりあえず一般に対する布告としては、
――上様御事、御軍艦に召され、西丸へ御着遊ばされた。今後の動静により、速かに御上坂遊ばされる思召《おぼしめ》しであるから、そのつもりでいるよう、
と言うものが公表された。
次第によっては直ちに、大坂に向って進撃する、と言うのだ。
慶喜が、開陽艦上で洩らした意見とは全く正反対のものである。抗戦論、主戦論が江戸城内の圧倒的意見だった。
慶喜は呆然たる様子で、論議の成行を見守っているばかりである。
自分では、積極的に意見を発表しない。
例によって、迷いに迷っているらしい。
十五日、パークスに対して、
――日本の外交権は飽迄も慶喜が握っている。慶喜以外のものと外交交渉をなすことがあれば、条約違反である、
と通達しているのを見れば、少くとも十五日まで、江戸城内の一般的空気では、恭順論は問題でなかったと思われる。
だが、慶喜の心は、次第に消極化していた。昂然として抗戦を叫ぶ家臣たちの声が、上すべりしていて、空をとぶ雲のように頼りなく思われるのである。大坂城を脱出した時の弱気が、再び強く彼をとらえていた。
――みんな上べだけは元気のよい事を言っている。大坂でもそうだった。自分《わし》を刺してでも薩長と闘うと叫びおった。その結果はどうだ。はるか寡勢の薩長軍に、さんざんに破られてだらしなく大坂へ逃げ帰ってきたではないか。強豪を誇っていた容保の部下でさえ手もなく敗走したではないか。みんな自分のことを、弱気だと言う。闘志が足らぬと言う。だが、こんな弱兵を部下に持っていて、どうして強気になれるか、ばかな、
慶喜の心中には怒りがこみ上げてくる。
――戦っても勝目はない。長州征伐、伏見・鳥羽の戦いが、それを証明している。今は、恭順の意を示して、徳川家の温存を図った方がよいのではないか。毛利も島津も、関ヶ原役に敗れた時、徳川家に降って、その家を保った。あの時、意地を張ってあく迄戦っていたら、毛利も島津も亡んでいただろう。一時の恥を忍んでも、徳川の家を残しておけば、必ず再起の日もある。今の自分は、その途を選ぶべきではないか。
冷静に考えれば考えるほど恭順降伏の気が、段々に強くなってくる。
しかし、その一方、感情的には、何としても無念さが消えない。薩長に対する憎しみが燃えつづけている。
――朝廷に降伏するのはやむを得ぬ。大義名分もたつ。だが、今の朝廷は事実上、薩長の傀儡《かいらい》だ。降伏は薩長に降伏することだ。叛逆した家臣に降伏するとは――徳川家の面目にかけても忍び難い。
慶喜の心が、理性的判断と感情的憤激との間にゆれ動いている間に、江戸城内での論議はますます混迷をつづけていった。
議論が激化するにつれて、上下の秩序が乱れてくる。これが、戦闘体制の整備にとって最も有害なのだが、誰も彼も亢奮し切っていて、それに気がつかない。
福沢諭吉は、その自伝の中で、当時の江戸城内の様子をいきいきと描いている。
――さて慶喜さんが、京都から江戸に帰ってきたと言うその時には、サア大変、朝野共に物論沸騰して、武家は勿論、長袖の学者も医師も坊主も、皆政治論に忙しく、酔えるが如く、狂するが如く、人が人の顔を見れば、唯その話ばかりで、幕府の城内に規律もなければ、礼儀もない。平生なれば大広間、溜の間、雁の間、柳の間なんて、大小名の居る処で、中々|喧《やかま》しいのが、丸で無住のお寺を見たようになって、ゴロゴロあぐらをかいて、怒鳴る者もあれば、ソッと袂から小さいビンを出して、ブランデーを飲んでる者もあると言うような乱脈になり果てた。
福沢自身は、
――戦争になったら即刻逃げ出すつもり、
でいたと言う。
正直に、戦ってもむだだと公言する者もいたし、口では強硬論を唱えながら、内密に逃支度をしていたものもいる。
心の底からの強硬論者も、むろん、いた。
その強硬派の筆頭小栗上野介忠順が、一月十五日夜、大きな失敗をした。
慶喜の前で、多勢の者と論議していた時、小栗が、膝を乗り出して、憤然として叫んだ。からだは小さく、色が黒く、外見は一向に見栄えのしない男だが、満身これ才智の塊だと言われている。弁口も達者だ。勘定奉行として幕府の窮迫した財政をやりくりしながら、三兵訓練、横須賀造船所の設置、対仏借款の交渉など八面六臂《はちめんろつぴ》の勇を揮って、老中以上の実力を示してきた人物だ。
「もはや論議は無用、断乎闘うあるのみ。徳川武士の名にかけて、薩賊に頭を垂れて降を乞うなど、断じて出来ぬ。反対を唱える者は前に出るがよい。この小栗が刺し殺す」
凄壮の気配が、さっと流れ、一座の者すべてが思わず息を呑んだ。
ややあって思いがけなく反対論を口にしたのは、他ならぬ慶喜その人である。
「闘いを主張するのはよい。だが、勝算はあるのか」
「ございます」
「征長の役にも、伏見・鳥羽の役にも、老臣どもはみな、余に向って、勝算ありと申した。だが、その結果はどうだったか」
この最も痛い詰問に対しても、小栗は胸を張って、昂然として答えた。
「征長の役に敗れたのは、幕軍烏合の兵で統制なく戦意乏しかったからでございます。今は、旗本一同を始め、会津桑名以下諸藩の兵、戦意すこぶる旺盛、比べものになりませぬ。伏見・鳥羽で敗れましたのは、畏れながら上様の御意志が強固ならざりし上、武器において劣っていたからでございます。この江戸にはフランス士官|直伝《じきでん》の伝習隊あり、優秀な兵器あり、海軍軍艦に至っては国内無比の精鋭が揃っております。上様の御決意さえ強固ならば、断じて敗れはしませぬ」
「すると、敗北のすべての責任は、余の決意が弱いと言うことにあるのか」
さすがに慶喜も、憤然として小栗を睨みつけた。自分の一番の弱点を衝かれたことに対する屈辱の念と、惨めな闘いぶりを見せたことに何の反省ももっていない家臣たちへの憤りとが、慶喜の顔をきびしく歪めていた。
――言い過ぎた、
小栗はその瞬間、ちょっと反省したが、もはや騎虎の勢、とめるわけにはゆかない。
「畏れ多きことながら、そう申上げるよりほかございませぬ。私のみならず、多くの者が上様のお弱気をお恨みしております」
「それで、余を廃除したり刺し殺したりしようと企んだりするのだな」
慶喜の不決断に飽き足らず、これを徳川宗家の主君の地位から廃除しようとする者、更にこれを刺殺しようとする者までいたことは、確かである。
「人心の離反こそ最も怖るべきところ、上様、御決意下さりませ」
小栗が、絶叫するように言う。
「主を責め、主を廃し、主を殺さんとまで謀りながら、己れたちの不甲斐なさを何ら反省することなき家臣を率いて、どうして闘えると言うのか。それでも闘えると言うのなら、お前たちだけで見事闘ってみるがよい。意気地のない主は不要であろう」
慶喜はヒステリックにそう叫ぶと、さっと座を立った。
小栗が、進み寄って、慶喜の袴の裾をとらえた。
「上様、しばらく――」
「放せ」
「放しませぬ」
「放せ、無礼であろうぞ」
――小栗、無礼だぞ、
老中の板倉伊賀と小笠原壱岐とが、膝を立てようとした時、慶喜が決然として言い放った。
「小栗、その方の役儀、罷免するぞ」
――あ、
小栗は、慶喜の袴をつかんでいた手を放した。
勘定奉行兼陸軍奉行並と言う役をとり上げられたのだ。もはや、慶喜に面謁する資格はない。幕府の重要な役人が罷免される場合、将軍から老中に命令が下り、老中から通達があるのが常例だが、これは慶喜から直接に罷免を申し渡されたのだ。
――異例な御直《おじき》申し渡し、
当然、直ちに退出して、謹慎すべきであろう。
小栗は唇を噛み、愴然《そうぜん》たる面持で、殿中から去っていった。
小栗の罷免は、抗戦派に大打撃を与えたのみならず、慶喜自身の心境にも、一つの区切りをつけたらしい。
この翌日、慶喜は、勝安房を呼び出した。
「安房、もはや恭順のほかはあるまいと思うが、その方はどう思う」
勝はむろん、恭順論だ。闘っても勝てるとは思っていない。だが、この怜悧《れいり》な男は、慶喜の心中に、まだ一脈の未練が残っていること、それにもまして薩長に対する無念さが残っていることを見抜いていた。
――主君の自尊心を傷つけぬようにして、恭順を決意させねばならぬ。
勝は慎重に、口を開いた。
「和戦は一に上様の御胸中によります。もし、もう一度闘えとの仰せならば、必ずしもその策がないではありませぬ。私が軍艦を率いて駿河湾に向い、兵を上陸させて官軍をふせぐと共に、軍艦を進めて横から砲撃すれば、敵を破ることができましょう。その上更に軍艦を率いて大坂湾に突入し、摂津の海を扼して、西国との海路を断てば、薩長は窮迫致しましょう。但し――この場合、薩長がイギリスの助けをかりて反撃に出ることは覚悟せねばなりませぬ。そうなった暁、わが日本がどのような混乱に陥るかは、何とも推測致しかねまする」
――戦っても必ずしも敗れはしない。だがその結果、外国勢力の国内介入を齎《もた》らす。
勝は、そう威脅《おど》した。
「この際、国内を分裂させても薩長に恨みを報いるか、明鏡止水、大局的に考えて、堪え難きを忍んで、皇国の保全を図るか、これひとえに上様の御心次第でございます」
――恭順は薩長への降伏ではなく、皇国保全の大局的結論だ。
勝はそう言うのだ。全日本の為に、徳川の屈辱は忍べと言うのだ。
日本の為に一身を犠牲にする悲壮感は、傷ついた慶喜の自負心を、薄い皮膜で覆ってくれた。
「分った。安房、恭順に決しよう。そのつもりで働いてくれ」
「御決意にお変りはございませぬか」
慶喜の度々の変心にこりている勝が、念を押した。
「変りはない、約束する」
慶喜はその日から、着々として抗戦派の人々を抑える為の諭告と命令とを発した。
――祖宗以来今日まで、各々忠勤をはげんでくれたのは感謝に堪えぬが、自分の不徳のため今日の状勢になった。近畿・関西の諸大名は各々領地に戻って朝廷の御沙汰を待つがよい。又、旗本・御家人は鳴物を停止し、月代《さかやき》を剃るのをやめて恭順の意を表せ、
――松平肥後(容保)同越中(定敬)以下、朝廷のお咎《とが》めを受けた二十四名の者は、役職を罷免し、登城を禁止する、
――余は今や一大名に過ぎぬ。旧幕府の職制はこれを改める。老中の制は廃し、若年寄に浅野|美作《みまさか》守、川勝備後守、平山|図書頭《ずしよのかみ》の三名を任じ、海軍総裁に矢田堀讃岐守、陸軍総裁に勝安房守、会計総裁に大久保一翁を任命する。
家門によらない人材登用を行ったのだ。
抗戦派の連中は、悲憤慷慨したが、もはや慶喜の意図は明白である。
松平容保は悄然として会津へ去っていった。定敬は、領国桑名がすでに官軍に降伏しているので、越後の分領地に下ってゆく。
恭順降伏を肯《がえ》んじない幕臣たちは、相ついで江戸を脱走していった。
こうした中で、慶喜は、恭順派の中心となっている勝と大久保とに相談して、朝廷に対する恭順工作を展開し始めた。
朝廷との連絡に最も有力なパイプとなるべきものは、前代将軍家茂の後室静寛院宮和子である。
宮は孝明帝の皇妹であり、明治帝の叔母に当るのだ。
慶喜が江戸に戻った時、静寛院宮は、
――前内府(慶喜)がもし朝敵の名を受けるような行為をしたのなら、自分は慶喜と会いたくない、
と、面会を拒絶した。天璋院夫人(将軍家定の室)が、間をとりなして、慶喜と対面したのは十五日夕である。
この時は、ただ鳥羽・伏見の衝突が全く偶発的なものであり、自分に開戦の意図はなかったと弁解しただけであったが、十七日に再度対面した時は、慶喜は、
――朝廷へ恭順歎願について、御力を貸して頂きたい、
と、懇願した。
一月二十一日、上臈《じようろう》の土御門藤子は、静寛院宮の橋本大納言に宛てた歎願書と慶喜の歎願書とを持って、京へ向った。
静寛院宮の歎願書は悲痛なものである。
――去る三日、召により慶喜上洛の処、不慮の戦争となり、朝敵の汚名を蒙《こうむ》りましたので、ひと先ず帰府致しましたところ、御征伐の為、官軍を差向けられる由、徳川家の浮沈この時なりと心痛致しております。この度の一件は、ともかくも重々不行届の事故、慶喜一身はどのような罪科にも仰せつけられてもやむを得ませぬが、徳川の家名は立ち行くよう幾重にも願い上げます。後世まで当家が朝敵の汚名を残します事は、私の身にとって実に残念、私への御|憐愍《れんびん》思召され、汚名を雪《そそ》ぎ家名相たつよう私の身命にかえて願い上げます。是非とも官軍差向けられ、徳川家御取潰しに相成るのであれば、私も当家の滅亡を見つつ永らえているのも残念故、きっと覚悟を致す所存でございます。私の一命は惜しみませぬが、朝敵と共に身命を捨てるのは、朝廷に対して恐れ入る次第で、心痛致しております。心中御憐察の上、願いの通り家名を立てさせて下さるならば、私はもとより一門家僕の者どもも深く朝廷の御恩を感じることと存じます云々。
藤子は桑名で、東下中の橋本大納言に会ってこの歎願書を提出し、大納言の親書を得て、京に赴き、朝廷に歎願した上、二月|晦日《みそか》に江戸に帰還した。
慶喜は、その一方、正月二十一日、黒川嘉兵衛を使いとして、尾張・越前・土佐の諸藩主に対し、救解運動をしてくれるよう依嘱した。
――鳥羽・伏見の事は、全く一時の供先の争闘に過ぎぬのに、朝敵の悪名を受けるに至ったことは実に意外恐歎の至り、大坂城を棄てて赤心を表明したが、すべて事志と違い、その上病に冒されて事務も取扱えぬ状態なので、後嗣を選んで退隠するつもりである。何とぞこれまでの厚誼に免じ、朝廷に説いて汚名を雪ぐよう努められたく、千万拝嘱する。
と言うこの依頼状を携えた黒川は、二十四日京に入り、尾越諸侯に面謁して、周旋を懇願した。
だが、慶喜討伐の官軍は、二月十五日、京を出発した。
東征大総督は有栖川宮|熾仁《たるひと》親王、参謀は西郷吉之助、林玖十郎(宇和島藩士)、正親《おおぎ》町公董《まちきんただ》、西四辻公業。
東海・東山・北陸の三道から東下する。総数約五万、主力は勿論、薩長土三藩の兵である。
――宮さん宮さん、お馬の前にひらひらするのは何じゃいな、
という都風流ぶしが、高らかに響き渡った。
これより先、一月十九日フランス公使ロッシュは慶喜に面会を求め、容易ならぬ進言を行っている。
「このまま、手をつかねて敵の制裁を待つのでは、御先祖に対しても申訳ない事ではございませんか。わがフランスは奮って一臂《いつぴ》の力をお貸ししますから、是非とも再挙をお図りになるのがよいでしょう」
ロッシュはそう言って、具体的な対策を提案した。
――駿府城近くに防禦線を布いて東海道を遮断し、江戸湾の入口に大砲・軍艦を配備して敵の侵入を防ぐ、
――フランス政府の軍籍を脱したフランス士官の指揮する別働隊を組織し、近代的戦闘を行わせる、
――軍事費の不足は、フランスから借りることとする、
等々である。
極めて魅力的な提案であったが、すでに恭順を決意していた慶喜は、これを拒絶した。
勝から、
――外国の介入
を、極度に戒められていた為でもある。
ロッシュはすぐに諦めることなく、更に二十六日、二十七日と三回に亘って、慶喜に面接して、抗戦をすすめた。
フランス士官シャノアンも、陸軍総裁になった勝の許を訪れて、熱心に抗戦を勧めた。
「西国諸州は徳川家に叛いたとは言え、東国諸州は未だ京の命令に服していない、国の半ばは貴下の手中にある。一たび決戦して敵を却け、東国を固守し、機に臨んで海上から大坂を脅かせば、敵はついに和を求めざるを得なくなるだろう。貴下がフランス伝習隊を率いて起てば、必ずや、敵を一蹴できる。我輩も指揮に加わって全力を尽そう」
と言う。
勝は、むろん、これを謝絶した。
ロッシュもシャノアンも、大いに失望したに違いない。本国では二流外交官であるレオン・ロッシュはイギリス公使パークスと対抗して、日本におけるフランスの勢力を増大し、一挙に外交界の大立者になろうと言う野心を持っていたし、シャノアンは遥々東洋の涯までやってきて、乾坤一擲《けんこんいつてき》、軍人としての生涯に一転機を図ろうとしていた。
シャノアンは恐らく、清国の太平天国の乱におけるイギリスのゴルドン将軍の声名を憧れていたのであろう。
ロッシュは、シャノアンと顔を合せた時、苦々し気に言い放った。
「凡《およ》そ生あるものは死が迫ってくれば必ず抵抗する。小さな昆虫でも、己れの上にうち下ろされる百貫目の鉄槌に対しては、足を突っ張って抵抗するさまを示すものだ。しかるに二百七十年の歴史をもつ徳川幕府が、二、三強藩の兵力におびえて、全く敵対する気力なく、唯ひたすらに和を乞い、憐みを願っている。古今世界に例をみない愚劣さだな」
江戸の町中は、大騒ぎになっていた。
官軍が今にも江戸にやってきて、江戸は戦場になるような恐怖心に駆られて、早くも妻子や家財を近郊に疎開させようとするものがある。
武家屋敷町でも、主人が慶喜の恭順説に反対で、妻子を知行所に送って江戸を出奔してしまったものがある。徳川家の行末に見切りをつけて、さっさと田舎に逃げ出してしまった者もいる。
空屋になった武家屋敷に、浮浪の徒が押入って掠奪をやる。幕府にはもう治安を維持してゆく能力はない。強盗、追いはぎは勿論、ひる間から乱暴狼藉をして廻る不良の徒が横行する。血の気の多い町の若者たちが、実力でこれに対抗しようとする。
半ば無警察状態になっていた。
鉄太郎は、精鋭隊の勤務があるので、毎日城に上ったが、上司の連中がただおろおろと、役にも立たぬ議論をしているばかりなので、これと言った仕事もなく、時刻がくると黙って帰ってゆく。
その次にはいつもの定連《じようれん》である石坂周造、関口隆吉、松岡万、村上政忠あたりがやってきて、悲憤慷慨する。
最も血の気の多いのが松岡万。
「おれはどうしても上様のお気持が分らん。まるで始めから薩長には敵わねえと決めてしまっているようじゃないか。大戦争ともなれば最後の結着がつくまでには、勝ったり負けたりするのは 珍しくない筈。鳥羽・伏見で負けたからって、江戸で戦って勝ちゃいいじゃないか、東照公だって三方《みかた》ケ原じゃ惨敗している。あの時武田に頭を下げていたら、徳川の天下などありゃしねえ。おれは小栗上野殿の議論の方が正しいと思うよ」
と、多くの主戦派の主張をくり返す。
石坂が一応うなずいて、
「大きにその通りだ。だが、少し違う」
「どこが違うのだ、石坂さん」
「薩長がただの薩長として攻めてくるって言うのなら、上様だっておめおめ頭を下げやしまい。だが奴ら錦旗を奉じている。いまいましいが、奴らは大切な玉(天皇)を手の中に握っていやがる。だから、官軍と言うことになる。官軍と戦えば、理由の如何を問わず朝敵と言うことになる。いいか、松岡、ここだ。上様は水戸様のお生れ、幼い時から水戸学を叩き込まれておられる。水戸学の根本は皇室尊崇だ。これは光圀公以来一貫して変らない。万一の場合には、宗家に背いても天子には叛《そむ》くなと教えていると言う。この水戸家の御出身の上様としては、いくら口惜しくても、錦の御旗には刃向えない――と言う訳さ」
「そりゃ、おかしい」
松岡が猛然として反撥した。
「石坂さん、あんたの言い分によると、玉と言うんですかい、その天皇さまを手に握ってさえいれば、どんな悪い奴でも大威張りで、対手を朝敵呼ばわり出来ることになる」
「残念ながら、その通りなのだ」
「それなら、一時、朝敵と呼ばれたって気に病むことはない。闘って勝てばよいのだ。勝って京へ乗り込んで、玉をこっちの手に奪い返せば、今度はこっちが官軍、薩長を朝敵として征伐できるじゃありませんかね」
「そりゃまあ、理窟はそうだが――差当りでも、朝敵の名を受けることは、上様として忍び難いのだろう」
「ますますおかしい。長州はどうでしたかね。禁門の変に、御所に向って発砲し、朝敵として追討を受けている。その同じ長州が、今は官軍になって、東征軍なるものの中核にいるじゃないか。時の勢で、一時朝敵の汚名を受けることがあっても、一向に構わない。最後に勝つものが、天子を擁して官軍になれるのだ。上様はそれほど朝敵の名がおいやなら、何故闘って最後の勝利を得て、官軍になろうとされないのだ」
これは一応の理窟だ。石坂もちょっと反論の言葉に詰った。
村上が口を容れた。
「おれの考えじゃ、上様はも少し広い処から見ておられると思う」
「それはどう言うことだ」
「今、薩長と闘うには、金が要る。武器もいる。鳥羽・伏見で薩長の新式の鉄砲の前には、会津の剛兵も新選組の腕っぷしも役に立たなかったことは、諸君も知っている通りだ。新しい武器を外国から手に入れるほかはない。ところがフランスが小栗殿に、金も武器も貸すと言ってきている。例のロセツ(ロッシュ)も上様にそう申上げたらしい。そこでだ、上様がもしその援助を受け入れたらどうなる。フランスは幕府方に協力するだろう。そうなればイギリスが黙っていない。奴ら今迄でも薩長に肩を入れているのだ。今度は表面に出てきてフランスとせり合うだろう。東日本がフランスに支えられ、西日本がイギリスに支えられて、大戦争になる。どっちが勝っても、新しい政権は、自分を支援してくれた外国に頭が上らないことになる。土地を譲れと言われても断れないだろう。上様は、そこを考えて、フランスの助力を拒まれた。金も武器も、どこからもはいってこないとなれば、戦って勝つ見込みはない。どうだ、松岡」
村上は勝安房の義弟に当る。不身持な為、勝の処には余り出入りしていないが、この混乱時になると、さすがに心細くなって、時々は勝の邸に顔を出しているらしい。そこで、こんな考えを仕入れてきたに違いない。この男の頭で考えつくことではないし、この男がこんな機微に亙《わた》る事情を、他から聞き込む筈もない。
松岡はちょっと感心したような顔をしたが、すぐに、首をふった。
「いや、外国の援助がなければ勝てぬなどと言う考え方がおかしい。幕府亡びたりとは言え、徳川家の威望は未だ全く失《う》せてはおらん。充分に戦うだけの余力はある」
「これは、水掛論だな」
関口が、遠慮勝ちに、言った。
「山岡先生は、どう思われるのです」
腕組みをして、みんなの議論を聞いていた鉄太郎が、口を開いた。
「むつかしい。おれにもよく分らん。だが、怒るな、松岡、おれは今戦っても勝目がないような気がする」
「先生が、そんな弱音を吐くとは意外だ。どうして勝てないと分る」
松岡が、喰いつくように言う。
「ま、聞け、おれはあまり書物を読まんからむつかしい理窟は分らんが、この頃つくづく、時の勢いと言うことを考える。時の勢いに乗れば、勝てぬ筈の対手にも勝てる。時の勢いに逆らえば、負けぬ筈の戦にも負ける。鳥羽・伏見の戦いに、寡兵の薩長が、幕府の大軍を破ったのは、武器の差もあろうが、それよりも時の勢いに乗ったからだ。幕軍は数の上からは大軍に違いなかったが、その内実はどうだ。現に幕府老中をつとめていた稲葉殿の淀藩でさえ、官軍に寝返った。東照公の時代から幕府と特別の間柄にあった藤堂藩も、敵方に寝返った。これが時の勢いなのだ。その後の様子をみるがいい、御三家の一である尾州様は、今や全く朝廷方、御一門の越前公もしかり、幕閣第一の譜代井伊家でさえ敵方に馳せ参じている。これが、時の勢いだ。この時の勢いに逆らっては戦えぬ。慶長・元和《げんな》の昔、豊太閤の旧臣はこぞって東照公に従って、大坂城を攻めた。いやそれより先、武田の一門老臣らことごとく主に反いて織田方に内通して、武田を亡ぼした。時の勢いと言うものは、一家一門、譜代の臣といえども、敵側に回してしまうものなのだ。今の処、関東以北、奥羽一帯は徳川家を支持している。だが、それがいつまでつづくか。時の勢いは、必ず近い将来に形勢を一変させ、徳川家を死守しようとするものは、ますます減ってくると思われる。この大勢は如何ともなし難い。上様はこの時の勢いをお見透しになって、恭順を決意されたのではないか。おれはそう考えている」
漠然たる感じの、
――時の勢い
などと言うことを言い出されるのは、松岡には苦手だ。何とか言い返そうとして、口をもぐもぐさせていると、鉄太郎は独り言のように呟いた。
「時の勢いと言うことは、日本国内だけについて考えることではない。全世界について考えるべきことではないのかな。イギリス、フランス、ロシア、アメリカと諸外国がすべて、清国と日本とを狙って爪を磨いている。今、村上君が言ったような外国勢力の介入がいつ行われるか分らん。もう、旧幕だ、薩長だと争っている時ではない。日本をいや応なしに世界の中に引き入れようとしているのだ。その大勢を、世界における時の勢いを、頭に入れてどうすればよいかを考えなければならん、徳川家よりも、日本――が大切な時だ」
村上が、ちらっと鉄太郎の顔を眺め、
――おやッ
と言うような表情をした。
――勝の義兄貴《あにき》が言っていたようなことを言う、
と、感じたのだ。みんなが、多少とも意外そうな表情になっている。鉄太郎がこんなことを言い出すとは思っていなかったのであろう。
鉄太郎は、勝と違って洋書は読めない。外国の最新事情も知らない。だが、些《いささ》か古いと思われる環境の中に育ち、生きていながら、彼の頭脳には極めて柔軟な、幅の広い感受性があったらしい。
それが純乎たる幕臣でありながら、彼を清河八郎に近づけた。たった一度会っただけの吉田寅次郎の言葉を、いつまでも頭の底に残し、その意義を何度も考えさせた。
この頃になって、心の奥底で、
――幕府が亡びるのはやむを得ぬ、
と感じ、漠然とした形ながら、
――世界の中の日本
と言う思考をするようになってきているのである。
本来、彼の育った環境、彼の性格からみて、主戦論を唱えて江戸を脱走しても不思議はないのだが、そうしたことを全く考えてもいないらしい。
松岡はそのような鉄太郎に少からず不満だったが、鉄太郎と離れて自分だけ脱走組に走る決心はつかなかった。
脱走した旗本はすでに千人を超えていた。
「毎日のように、脱走者が殖えています」
鉄太郎は、この翌日、隣の家に行って、義兄の伊勢守に言った。
「そうだ、ばか気たことだ。江戸で城を守って決戦しても勝目のないものを、千や二千で、地方に脱れて闘っても、どうなるものでもない、それが分らないのだ」
「しかし、脱走組がふえれば、それだけ、江戸には恭順論の者だけが残ることになり、上様の御意志が行われ易くなるのじゃありませんか」
「それならよいのだが、江戸に残って、抗戦を主張している頑固者も多いから困る。その無責任な言動が、上方に伝達されて、折角の上様の恭順御決意が、容易に信じて頂けないのだ」
慶喜はもはや、一切の抵抗意思を喪って、完全な恭順決意を固めている。
可能な限りの手をつかって、その意向を東征軍や、京の朝廷に訴えているのだが、反応は冷たかった。
――恭順、恭順と口では唱えているが、一向にその実をみせていないではないか。部下の多くが抗戦を唱えているのを抑えることもできず、江戸城に居坐っている。これは、時を稼いで戦備をととのえているものとみて差し支えないではないか、
官軍側では、そう見ているのだ。
慶喜は、
――何とかして、東征軍が箱根を越えぬうちに、赦免の御沙汰を得たい。東征軍が関東にはいるとなれば、旧幕将士も半ば自棄の気持になって闘うかも知れぬ。自分にはとてもそれを押える力はない、
と感じていた。
――自分には、もう、戦う意思はないのだ。この恭順の意思が分って貰えれば、東征軍もむりに箱根を越えなくてもいい筈だ。すべて平和裡に、話合いがつくのではないのか、
そう考えているのだ。
京の事情が、充分に分っていない。
尾張慶勝や松平春嶽に、あらゆる手をつくして連絡し、その意向を朝廷に伝えて貰おうとしていた。
――この度御追討の軍を差向けられたことまことに驚き入り、畏れ入るところ、これは全く慶喜一身の不束《ふつつか》から生じて、朝廷のお怒りを受けたこと故、一言の申上げようもなき次第、どのような御沙汰があろうとも、聊《いささ》かもお恨みには存じません。たとえ官軍が東下されても不敬のことが些《いささか》もないように、下々の者にも充分申し諭してありますが、何分にも江戸は四方から無数の人が集っているところ、多人数の中には万一にも、心得違いの者がないとは限りませぬ。不慮のことがあっては申訳もない次第。その上、戦場ともなって、百万の庶民が塗炭の苦しみを受けるような事があっては忍び難きこと、何とも官軍の進向はしばらく御猶予下さるよう、よろしく御深察あって、朝廷へ御奏聞下されたい。
慶喜としては、これ以上はできぬほど身を屈し、恥を忍んだつもりの救解依頼書を、慶勝と春嶽とに送った。
だが、慶勝や、春嶽にしてみれば、
――慶喜は、口では恭順、恭順と言っているが、その実を見せていないではないか。依然として天下最大の江戸城に在り、その部下は抗戦を高唱している。こんな状態では朝廷に、何と斡旋《あつせん》してよいか分らぬ。鳥羽・伏見の戦いを起したことについても充分の反省がなく、ただ供先のものの手違いなどと言訳している。これではどうにもならぬ、
と話し合い、慶喜に対して、
――恭順を、事実を以て証明されるよう、
と、促してくる。
京の状勢は、慶喜が考えているより、遥かにきびしい。
――錦旗に刃向った叛逆者徳川慶喜の首を刎《は》ねよ、
と言うのが、西郷吉之助、大久保一蔵の強硬な意見なのである。
――朝敵誅伐の為、天子親征、
と言う議論が強く、二月三日には、天皇は二条城の太政官政庁に親臨して、
――親征
を宣言された。
この事実が江戸に伝わると、慶喜は愕然として、色を喪った。
――天皇が京を出駕《しゆつが》されては一大事、
慶喜は、ついに決心した。
――江戸城を去ろう、
二月十一日、諸将士に総登城を命じる。
大広間に溢れるばかりに居並んだ将士を見て、慶喜は、
――こうした集りも、これが最後になる、
と、背筋が冷たくなるような脱落感を覚えたが、気力を振りおこして、口を開いた。
「危急の秋《とき》に当り、皆の者が終始忠誠を尽してくれたことを嬉しく思う。この度の官軍東下、このままでは余の恭順の意思も空しくなり、江戸百万市民の生命も覚束ない。よって余はこの際、城を出て上野東叡山に退き、ひたすら謹慎の意を示して、朝譴《ちようけん》をなだめようと思う。皆の者は色々と不満もあろうが、余の意を体し、心得違いのないよう、恭順の意を失わぬようにして貰いたい」
慶喜の話している途中から、そこここに鼻をすする音が聞こえたが、慶喜が最後に、
「皆の者、頼むぞ」
と沈痛な声で言った時、堪りかねた泣き声が、小波のように広間のすみからすみまで拡がっていった。
慶喜自身の両頬にも涙が跡を引いている。
――とうとう、完全降伏か、
――官軍とは言い条、薩長の芋侍めに、
すべての者が、そうした無念の思いに、痛烈な怒りを全身に燃やしていた。
それでももう、
――已《や》むを得ぬ、
と、覚悟はしていたのであろう。この席上で、慶喜に対して反対の声をあげる者は一人もおらず、静かに去ってゆく慶喜の後姿に向って、一同が平伏した。
そのまま、長い間、からだを起さなかった者もいた。
だが、この、
――慶喜退城
の報らせが、城内一般に知れ渡ると、大きな動揺が起った。
まるで、巨大な千代田城が、ひびきを立てて揺れ動くような激動である。
――誰が、薩賊どもに降伏などするものか。最後の一兵まで闘え、
――慶喜公はだめだ。徳川の名を汚す卑怯な方だ。よし、君君たらずとも臣臣たり、おれたちは徳川三百年の恩顧に酬い、徳川武士の面目をみせてやるぞ、
百人、二百人、三百人――と、集団をなして、江戸を脱走してゆくものが相次ぐ。
或るものは、地方に散って、ゲリラ戦法で官軍と闘うつもりだった。
或るものは、会津に走って、徹底抗戦をやるつもりだった。
或るものは、甲府城を占領してたてこもるつもりだった。
或るものは、しっかりした計画もないままに、薩長軍のやってくるであろう江戸にいたくないだけで、江戸を捨てた。
鉄太郎は、慶喜の前に出られる身分ではないので、その退城宣言を、西の丸の精鋭隊士部屋で、人から伝えられた。
――上様も、ようやく御決心がつかれたのか、よかった、
と思う。
――戦うべきでない、戦っても勝てぬ、
鉄太郎は、そう信じている。
――無念
と思う点では人後に落ちないのだが、
――錦旗に向って刃向うべきではない、
と考え、
――現在の旗本の気力では、とても勝利は覚束ない、
と、見ているのだ。
夕刻、家に戻ると、すぐに隣家の高橋伊勢守から呼ばれた。
「鉄太郎、聞いただろう」
「聞きました」
「上様は明朝、六ツ(午前六時)お城を出られる」
「明朝?」
「そうだ。私は先に上野に行ってお待ちするが、お主は精鋭隊の若い連中を率いて、蔭ながらお道筋を警固してくれ」
「御行列は、組まれないのですか」
「すべて、お忍びの態《てい》。お伴も極めてわずか、それも平服だ。お道筋の窓蓋《まどふた》も人払いも無用との仰せだ」
――窓蓋、人払い
と言うのは、将軍他出の際、道筋の屋敷の窓を閉ざし、町家の二階は家人払いを命じる慣例を言う。
それをすべて止めさせたのは、将軍他出の形式を罷《や》め、慎しみの意を表するためであろう。
「分りました」
鉄太郎は、頭を下げた。
「不穏の動きがある。充分、気をつけて貰いたい」
「と言うと」
「上様を、お道筋で奪いとって、叛乱軍の首領に奉じようと言うばか者がいるらしい」
「どうしようもない連中ですな」
「そうだ、しかし、万々が一にも、そのような事になっては、取返しがつかぬ。第一、そのような場合には、上様は生きてはおられまい。御自らお命をちぢめられる」
「御安心下さい。鉄太郎は必ず、上様を御無事に上野まで守護致します」
「頼む」
十二日朝六時、まだ骨に浸み渡るような余寒の中を、慶喜は大広間御駕籠台から、駕籠に乗って、上野に向った。
先供は若年寄平岡丹波守、御側衆服部筑前守、後尾が若年寄浅野美作守、御側衆赤松|左衛門尉《さえもんのじよう》、寺社奉行配下の与力・同心が二十人ほど、駕籠の周りを警護しただけである。
通常ならば、一万石の小大名でも、これ以上の供廻りをつれて出たであろう。
鉄太郎はその朝、精鋭隊士三十名を連れて慶喜出城の一時間前に、道筋を点検して廻った。他に、中条金之助、関口隆吉も、それぞれ一隊を率いて、巡邏《じゆんら》している。
旅籠町の角まで来た時、隊士の一人が、
「隊長!」
と、緊張した声を出して、前方を指した。
前方に、数名の人影が見える。
まだ暗いので、しかとは分らないが、武士に違いないと見えた。
あちらでも、こっちの人数に気がついたらしい。ばらばらと軒先から人影が現れて、一団となった。
十数人はいるらしい。
さっと身構える一同を制しておいて、鉄太郎は、単身、その方に向って進んでいった。
先方の一団からも、首領らしいのが、こちらに向ってくる。
――しっかりした足取りだ、相当な奴らしいな、
鉄太郎は、ゆっくりと近付いてゆく。
路のまんまん中で、双方が足をとめた。
二人の間隔は、二間余(四メートル)ぐらいであろう。
お互いに、対手がいつでも闘える状態にあることを確認した。
「何者か」
鉄太郎が、ずしりと腹の底にひびくような声を出した。
「お主こそ、何者か」
「精鋭隊頭、山岡鉄太郎」
鉄太郎がそう名乗った瞬間、対手の男が、つかつかと、三、四歩近づいた。
「山岡さんか、近藤です」
「おーこれは――久しぶりだな」
近藤勇の、やや魁偉《かいい》な相貌が、目の前の薄闇の中にあった。
清河八郎らと共に京に赴き、近藤らが京に残ることになって別れて以来、五年ぶりの再会である。
その間に、近藤は新選組を組織し、京で泣く児もだまるほどの威名を獲得していた。
以前とは比較にならない貫禄がついているようだった。
「鳥羽・伏見の戦いでは、負傷されたと聞いたが」
鉄太郎が、質ねた。
「いや、戦いの前に、狙撃されて重傷、戦いはすべて土方歳三に任せました。尤も、私が闘ってもどうにもならなかったでしょう。お聞きの通りの惨敗ぶりだ」
「今朝は?」
この男なら、慶喜奪取の暴挙ぐらいはやりかねない。次第によっては、この男と闘わねばなるまいな。
鉄太郎は、そう思ったが、別に何の動揺も感じなかった。
近藤の素晴らしい剣名は伝わっていたが、
――一撃で叩き斬れる、
鉄太郎は、そう見切っている。
近藤の口から、意外な答が返ってきた。
「上様御警固のためですよ」
「ほう」
「山岡さんは?」
「私も、上様御警固のためだ」
「こりゃ、いい」
近藤が、愉快そうに笑った。
「私は精鋭隊だから上様御警固は当然だが、君は」
「私は新選組、江戸市中取締りが任務、これも当然でしょう」
「しかし、近藤さん、新選組は上様の恭順に大反対だと聞いている」
「むろん、大反対です。だが、それとこれとは違う。上様御一身の安全を守るのは、私の任務ですよ」
よくそう割切ってくれたと、鉄太郎は少し感心した。
「近藤さん、私はあんたを見た時、上様を奪取する為に待伏せているのかと思った」
「そんな畏れ多いことはしませんよ、いくら私が無法者でもね」
「と、あんたも、恭順論になったのかな」
「いや、ちがう」
近藤は急に、声を鋭くした。
「私は、意地でも薩長などには頭は下げない、あくまで戦います」
「上様の御意向に反しても」
「さよう」
「江戸で――か」
「いや、上様は江戸を戦禍にまき込むことを心配されて、上野へ退隠される。その御心を無にする訳にはゆかない。私は江戸を離れて闘う。今日、上様を御無事に上野にお見送りしてから、江戸を離れるつもりだ」
筋道は立っている。これに反対しても、むだだろう。
「分った、あんたの思うようにされるがよい。が、上様御警固の点では、私と協力して頂く」
「むろん、そのつもりですよ」
一旦、道筋を全部点検し終えたならば、その要所要所に、手勢を伏せておく。慶喜の一行が進むにつれて、その後からとり巻くようにして、上野まで送る。
二人の間で、そう話が決った。
鉄太郎は、部下の群に戻り、二人を伝令として、中条隊、関口隊にこの旨を報らせた。
慶喜の一行が、無事に上野東叡山寛永寺の塔頭《たつちゆう》大慈院に到着したのは、午前八時近くである。
四畳半の、狭い、何の飾りもない部屋に落着いた。
月代《さかやき》も剃らぬきびしい謹慎生活に入る。
静寛院宮(和宮)は、上野の輪王寺宮公現法親王に親書を寄せて、慶喜の一身を依頼した。
「まずは、御無事に上野に移られてよかった。だが、今後のこともある。引続き、蔭ながら御警固のこと、頼むよ、私は上様のお側に勤めることになる」
高橋伊勢守は、鉄太郎に言った。
この同じ十二日の夜、雑司ケ谷の料亭|茗荷《みようが》屋に会合した十七名の武士たちがいた。
慶喜の一橋時代からの家臣団である陸軍調役並伴門五郎、同本多敏三郎、同勤方青木平九郎、須永於菟之輔らであった。
――上野に謹慎している主君の為に、一致協力して、朝廷に哀訴し、その冤罪を雪《そそ》ぐ、
と言うことを決定し、広く同志に訴えることにした。
その第二回の会合は、十七日、四谷鮫ケ橋に近い円応寺で開かれたが、この時は、陸軍諸隊にいた一橋系の士六十七名が集り、血盟を交わした。
第三回の会同は二十三日、浅草本願寺に集った時は百名を超えた。
――彰義隊
と名づけ、投票によって、渋沢成一郎を頭取に、天野八郎を副頭取に選んだ。
渋沢成一郎は武州大里軍八基村の豪農の伜である。従弟の渋沢篤太夫と共に、一橋慶喜の家人となった。
篤太夫は慶応三年、慶喜の弟徳川昭武が、将軍代理としてパリの万国博覧会に赴いた際、それに随行し、このときパリに在った。後年、栄一と改名し、日本資本主義のパイオニアと称せられたのは、この篤太夫である。
成一郎のほうは、慶喜に抜擢されて奥右筆御政事内務掛となったが、慶喜の東帰後も、その側近として活躍した。
篤太夫が柔軟な頭脳の持主であったのに対し、成一郎はやや一途な、熱情的な人物であったらしい。薩長に対し、強い敵意を持ち、抗戦を唱えていた。
天野八郎は上野国《こうづけのくに》甘楽《かんら》郡磐戸村の郷士である。早くから江戸に出て文武の道に励んだが、攘夷を唱えて諸国を遊歴した。幕臣と行を共にするようになった経過は不明だが、その剣技と弁舌を以て、同志に推されていたらしい。
彰義隊は、結成早々から、仲間の議論が分裂した。
――上京して朝廷に慶喜の冤《えん》を訴えよう、
と言うもの、
――今更、哀訴してもむだなこと、官軍東下を迎撃しよう、
と、唱えるもの、
――差当り、謹慎中の慶喜の意を帯して、江戸市中の鎮静、治安維持に協力すべきだ、
と言うもの。
強硬論者の渋沢は、江戸で官軍と闘うのは不利だ。日光に退いて防戦しようと主張したが、天野八郎は江戸を退くことに反対し、激論をかわした末、渋沢は怒って彰義隊を脱退し、同志と共に江戸を去っていった。
天野は、三千二百石の旗本本多邦之輔を頭取に奉戴し、自ら実権を掌握した。
――主公を守衛する、
と称して、上野の山に立てこもる。
これと前後して、近藤勇らの新選組は江戸を出ていっている。
近藤は土方らと相談した結果、
――甲府城にこもって義軍を募ろう、
と言うことになり、その資金を出して貰いたいと、大久保一翁の処に願い出た。
「どうしたものかね、勝さん」
大久保は、勝に相談する。
「あの男は、純情なところと、狭いところとが妙に入りまじっています。薩長に飽くまで楯突こうとするところは、愚昧《ぐまい》だが純情と言っていいでしょう。だがその一方、このごたごたにまぎれて一働きし、幕府再興の暁には一城の主にでもなろうと言う計算もしている。これもまあ、愚昧と言えるでしょうがね」
「上様が上野へ退隠された日、蔭ながら御警固に当ったらしい。そんなところは感心だが、何しろ乱暴者の集り、まだ京都時代の我儘が通ると思っているらしい。江戸においては面倒だ。甲州へ行きたいと言うのなら、ちょうどいい。江戸から追払ってしまってはどうかな」
「いいでしょう、金も武器も、少しぐらいくれてやったらいいでしょう」
「いや、彼らは、何かの役職名の方が欲しいらしい」
「それなら、何でも欲しいものをやることですね。そう、若年寄格ぐらいどうです」
「えっ、若年寄格?」
大久保が目を丸くした。若年寄は、今、徳川家の最高の役職だ。それに準ずる地位を与えようと言う勝の提言に、さすがの大久保も賛成をためらった。
「いいじゃありませんか。どうせ、もうそんな役職は名ばかりのもの、その中、消えてなくなりますよ」
「それはそうかも知れないが」
「大久保さん、徳川家そのものが、つぶれるかどうかの瀬戸際に追いつめられている。若年寄だろうと、若年寄格だろうと、浮いている雲のようなものだ。何かの役に立つならどんどん使ったらいいでしょう」
いつもながら、放胆な論旨だ。
大久保は苦笑した。
「勝さんにあっちゃ、敵わないね。よし、そうしよう」
大久保は近藤を若年寄格に任じ、金五千両の軍資金と大砲二門、小銃二百挺を与えた。
――甲陽鎮撫隊
と言う名称も与えた。
近藤は、天へも昇る心地である。一介の土民の伜が剣一本で、旧幕重臣の地位を与えられたのだ。
――成功すれば、おれは十万石、土方君、君は五万石ぐらいの大名だぞ、
残念乍ら新選組の生残りは五十名位しかいない。撒兵隊、伝習隊に呼びかけたが、
――あの百姓上りの部下になど、誰が、
と、そっぽを向かれた。それでも、市中の壮士、遊び人、下層民などを駆り集め、意気揚々と出発したのは三月一日である。
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朝敵罷り通る
「山岡さん、御在宅か」
とおとなう声を聞いて、鉄太郎が、玄関に飛んで出た。声の主が中条金之助だとすぐに気がついたからである。
中条が、鉄太郎の家に訪れてきたのは初めてのことだ。
「これは珍しい、あなたが」
と言った鉄太郎は、中条のうしろに関口隆吉がいるのを認めた。
「君が案内してきたのか、ま、中条さん、上って下さい。この通りのボロ家だが」
部屋に通った中条に挨拶したお英が、急いで台所に立ってゆこうとする。中条がそれを押えるようにして、
「御内儀、お心づかいなく。すぐにお暇する。実は、山岡さん、今日この関口君と共に大久保さんの処に行ってきたのだが、怪しからんことを聞いた」
慶喜と、田安慶頼とから、輪王寺宮に対して、朝廷への歎願に助力を願ったところ、宮は素気なく拒絶した、と言うのである。
「大久保さんの言われるには、恐らくこの拒絶は宮の御意志ではなく、側近の坊主共のとり計らったことだろうと言うのだが、上様の御心痛に対して余りに非情、非礼だ」
「押しかけていって、坊主共叩き斬ってやろうかと思っています」
関口は、憤慨にたえぬと言う口調だ。
「乱暴なことをしちゃいかん」
鉄太郎は関口をたしなめた。
「中条さん、どうです。明日、上野に行って、その坊主たちに会って、よく事情を確かめてみようじゃありませんか」
翌日朝。
鉄太郎は、中条、関口、それに松岡万、相原安次郎、小島銀之丞らと共に、上野に赴き、覚成院の覚全に会った。小島の知っている住持だ。
「どうして、宮がお断りなされるのか」
と言う質問に対する返答は、
――慶喜公が将軍になられてからは、東叡山に対する礼儀法式など、前将軍家時代と違って、極めて簡略になっている。大体、慶喜公は外国とばかり親しみを厚くされ、寺院を閑却されたのは何故か。そもそも、慶喜分の御実父水戸斉昭殿は、廃仏を唱え、水戸領内で数十数百の寺院を廃された方だ。慶喜公もその意図をつがれるつもりらしい。当山の僧侶《そうりよ》一同深く憤っている、
と言う思いがけないものであった。
中条が、慎重に反駁した。
「上様に廃仏の御意思など全くないことは、上様が御退隠に当って、当山の大慈院を選ばれたことでも明らかでしょう。又、前代よりも粗略に扱っていると言うのも思いすごしです。御存じの通り、上様はずっと京に在って動乱の中に内外の政務をとっておられたため、手の廻らなかった点があったに過ぎぬ。その辺は、少しく考えて頂けば、御諒解相成ることと思いますが」
覚全は、黙したままである。
鉄太郎が口を添えた。
「最近のことについては、こちらにも至らぬ点があり、宮が御不快に思召されたかも知れませぬ。それは深くお詫びします。しかし、当山の建立は、東照宮の御遺志によるもの、三代将軍の御世、当山の伽藍《がらん》完成以来二百数十年、代々尊敬の念厚かりしことは、よく御存じの筈。今に及んで二、三御不満の点を強調して、徳川家に対する信義を棄てられることは、宮様の御真意とは思われませぬ――願わくは、われわれを宮に拝謁できるよう図らって頂きたい。赤誠を披瀝《ひれき》して、宮の御誤解を釈《と》き奉りましょう」
一語一語、対手の腸《はらわた》に噛みついてゆくような重みを持っている。
覚全が、口を開いた。
「拙僧の一存では何とも申し兼ねる、一同で相談致してみる故、暫時、お待ち頂きたい」
覚全は山内の主だった僧十数人を呼び集めて相談した結果、東叡山の執当職である覚王院義観に、鉄太郎たちを引き合せようとした。
義観は弁口才略ともに抜群、年若い輪王寺宮公現法親王に代って、寺務一切を統轄している。煮ても焼いても喰えない坊主である。
覚全の申出を聞くと、義観は、にべもなく、
――会う必要はない、さようのことは、宮様にお願いする訳にはゆかぬ、
と、一蹴する。この回答を与えられると、関口が、躍り上って呶号《どごう》した。
「もはや頼まぬ。これより宮様の御許に直接参上して歎願する。お聞届けなき場合は、一同、宮様の御前で腹かっさばいて死ぬまでのこと」
松岡が、更に大きな声でわめいた。
「ただでは死なぬ。物の道理を弁《わきま》えぬ坊主共、死出の道づれにしてくれる」
言いすてて内玄関から外に出ようとすると、麻|上下《かみしも》を着た武士が一人、走り出てきた。
「しばらく」
と、一行をとどめ、
「貴殿方の決死の御意向、物蔭にてしかと承った。私から、義観殿によく話してみる。御短慮の所為はあってはなりませぬぞ」
と言う。
「貴公は」
と、中条が怪しんだ。
「細川越中守家中、志方司馬助――貴殿らと同じ目的を以て、義観殿にお願いに上っていたところです。重ねてお願いする。しばらくお待ち下さい」
志方は奥へ引込んでいったが、やがて戻ってきた。
「義観殿が宮様にお話下さる由、ついては書面を以て、懇願の筋を提出されたいとのことです」
「これは、御力添え、忝《かたじけ》ない」
寺僧から筆硯を借りた関口が、一気|呵成《かせい》に歎願文を書き上げた。
中条がそれを読み下して、
「名文だ。だが、少々、文字が乱暴だな」
「それなら山岡先生に清書して貰いましょう。山岡先生の書なら天下一品だ」
鉄太郎は、即座に浄書した。
――慶喜には朝廷に対し叛意毛頭これなく、ひたすら恭順の意を表していること、宮が、徳川家と東叡山との深い交誼に鑑《かんが》み、大慈大悲の御心を以て、官軍の東下中止、徳川家存続について御援助給わりたきこと、
などと、縷々《るる》として述べたものである。
寺僧はこれを携えて奥に消えた。
ずいぶん長い間、待たされた。
現れた覚全が、前とはうって変った口調で、
「御一同の忠誠の程、相分り申した。宮様にはとくと申上げる。尚、念の為に、御連枝御譜代の諸大名からも、宮様に歎願書を差出されるがよろしかろう」
――ついに成功
一同は雀躍《こおど》りして礼を述べ、直ちに引返して大久保に報告する。
大久保から諸大名に連絡したので、歎願書が相次いで、輪王寺宮の許に届いた。
――輪王寺宮、御みずから上洛して、慶喜御赦免につき、歎願遊ばされる、御発駕は来る二十日、
と言う通達に、鉄太郎らは、大きな希望を抱いた。
二十日、法親王は、覚王院義観、龍王院堯忍、自証院亮栄らを従えて、上野を発する。中条金之助は、精鋭隊士川井玖太郎外一名をこれに付随せしめた。
法親王は、多くの障害に会いながらも、辛うじて、駿府に到着し、有栖川大総督宮に面謁して、
――慶喜恭順につき、官軍の江戸進入は中止ありたし、
と、懇願した。
これに対して、有栖川宮は、
――慶喜が、真に恭順の心あらば、直ちに総督の軍門に来って罪を待つべきである。同時に、江戸城及び軍艦・兵器すべてを官軍に引渡すべきである、
と言うきびしい回答を与えた。
そして、
――上洛して闕下《けつか》に歎願致したい、
と言う法親王の希望を却下し、直ちに江戸へ送り帰してしまった。
総督府ではこの時すでに、
――どんな歎願があっても、そんなものには頓着《とんじやく》なく、江戸城を完全に占領すべき事、
と言う大方針が決定していたのである。
慶喜の最後の希望は断たれた。
静寛院宮和子は、その後も引続き、執拗な歎願運動をつづけていたが、それも効果はなく、官軍の重圧は、ひしひしと江戸を押しつつんでくる。
江戸の春は、暗澹《あんたん》としていた。
深く茂った木立の中に、多くの塔頭《たつちゆう》の灯りが、寺域には似合わない、どこか悩まし気な光りをちらつかせている。
月の光は淡い。
――春|朧々《ろうろう》、
と言った感じであったが、その塔頭の一つ、大慈院の一間に端座する慶喜の心は、およそ春の宵にふさわしくない凄愴《せいそう》なものであった。
すべての歎願は、却けられた。
官軍はなだれを打って、江戸に攻め込んでくるだろう。
城下は、戦火の渦に包まれる。
勝目は万に一つもない。
そして、徳川の家は亡びるだろう。
自分は死罪――いや、その屈辱を免れる為に切腹することになるだろう。それも、賊名を負ってだ。
幼い頃から俊敏聡明を謳われ、徳川一門の期待を一身に担っていた。
将軍の職を、家茂と争って一たびは敗れたが、結局は自分の手に落ちてくるものと信じていた。
そしてその通りになった。
だが、それは、わずか一年余しか続かなかった。
自分の罪ではない。
時代の激変のせいだ。
先手を打って大政奉還と言う思い切った手段をとり、列藩会議の議長として実権を握ろうとした。
それを覆《くつがえ》したのは、薩摩の奴ら大久保や西郷だ。そして岩倉と言うしたたかな公卿だ。
二条城から大坂に移ったのが拙かったのか、いや、あの時は、あれよりほかはなかったのだ。
そして、鳥羽・伏見の戦。
何故あんなにだらしなく敗れたのか、何故あの時、自分はあんなに気怯《きおく》れしたのか。
あの時、もう一ふんばりして、大坂城を死守していたら、形勢は逆転していたかも知れないではないか。
大久保や西郷らを、逆賊として、斬罪にできたかも知れないのだ。
死生の関頭に立った瞬間、ぐらっと崩れる己れの意志の弱さは一体どうしたことか。
自分は、だめな男だ。
こうなるのも当然かも知れぬ。
だが、このまま賊名を受けて、むざむざ死ぬのは、いかにも無念だ。
何とか方法はないものか。
朝廷にも、必ず、自分に好意を持っている者もいる筈だ。成上り者の西郷や大久保とは違った考えをもっている者がいる筈だ。
何故その連中が、救いの手をさしのべないのだ。
もう自分には反抗の意欲も力もない。こんな自分を殺して何になるのだ。
この今の自分の気持が、どうして分ってくれないのか。
静寛院宮の歎願も、輪王寺宮の訴願も受けつけられなかったとすれば、どうしたらよいのか。
自分が直接、総督府に赴いてみるか。
いや、そうすれば、直ちにその場で捕えられるだけだろう。
田安(慶頼)を自分の代りに行かせるか。
だめだ、田安では心許ない。あれも引受けはすまい。
誰も、他にないのか。
勝は、どうだろう。
そうだ、あの男の才気は抜群だ。あれなら何とか、総督宮を説得してくれるかも知れない。そうだ、やってみよう。
慶喜は、手を鳴らした。
縁に両手をついた小姓に言った。
「伊勢は、おるか」
「はい、いつものように、宿直《とのい》の間に」
「呼んでくれ」
高橋伊勢守は、遊撃隊・精鋭隊両隊の総督であると同時に、奥勤を命じられていた。奥勤は、旧幕時代の御側用取次に当る。
「御呼びでございまするか」
伊勢守が、両手をついた。
「これへ」
高橋は、膝行《しつこう》して、慶喜と三尺とは距たらぬところまで進んだ。
「伊勢」
「はい」
「どの筋を通しても、歎願は届かぬ。最後の手段として、勝安房を駿府の総督府に遣わしてみようと思うが、どうかな」
「安房守を?」
高橋は、唇を結んだ。
「勝は、西郷と旧知の仲だと聞く。西郷も総督宮に会わさぬとは言うまい」
「恐れながら――安房守は、只今、江戸を離れる訳には参りませぬ。江戸が辛うじて暴動混乱から免れておりますのは、勝が必死に抑えているからでございます」
「それは、分っておる。しかし、数日のことならば――」
「駿府に参れば、先方の御命令次第、いつ迄、とめられるか分りませぬ。もしかしたら、そのまま抑留されて、戻れぬかも知れませぬ」
――そうだ、その恐れはある。そして、勝がいなくなってしまったら、江戸はどうなる。
慶喜は、今更のように、この時点での勝の存在の大きさに気がついた。
「だめか」
慶喜の声は、暗く灯影に落ちた。
「上様」
高橋が、きっと頭を上げた。
「お願い申上げます。この私めを、おつかわし下されませ。私は愚鈍の性、とても安房守の十分の一の働きもできますまいが、ただ誠心誠意、上様の御心境を、総督宮にお訴え致します」
じっと慶喜の瞳の中を見入った。
「そちが、行ってくれるか」
「はい――私ならば、たとえ何日抑留されようとも、又、あちらでどのような事になろうとも、さしたる事はありませぬ」
――この男が、今、自分の側近からいなくなっても、さしたる事はないと言えるか、
慶喜は、びくりと肩をふるわせた。
――いかん、この男は手放せぬ。今この大慈院にこうして安全に生きていられるのは、この伊勢が死を賭して自分を護っていてくれるからだ。
慶喜奪取の企てから、慶喜殺害の企てに至るまで、無数の危い計画があるらしい。
「ならぬ、そちは、余の側を離れてはならぬ」
「お言葉ではございまするが、上様、私めがおりませんでも――」
「いや、そちがおらねば困る。いかん、そちは、一日も手放せぬ」
まるで、幼い児が、母親の側を離れたがらないような口調だ。
伊勢守は、ふっと、眼のふちが熱くなったのを感じた。
――上様、この私を、こんなにまで頼りにしていて下さる。勿体《もつたい》ないことだ。
純朴な武人である。心の底から、主君に対する惻隠《そくいん》の情が湧いてきた。
――何とかして差上げたい、
と言う想いが、胸一杯に溢れてくる。
その、熱い泉の中に、ぴかりと光ったものがあった。
巨きな、黒い、澄んだ、二つの瞳である。
義弟山岡鉄太郎のそれであった。
――そうだ、鉄太郎ならば、
高橋は、眼をあげて、慶喜をみた。
慶喜は腕を組んで、頭を落としていた。
謹慎の意を表して、月代を剃っていないので、ぼうぼうと髪が生えている。
――敗残の主、
と言う印象が、まともにきた。
「上様」
半ば泣いているような声になっていた。
――うむ
と、頭を上げた慶喜に、高橋が言った。
「一人――心当りがございます」
「なに」
「安房守に代って、いえ、私に代って、総督宮に歎願に参るべき者、ただ一人ございます」
「何者か、それは」
「精鋭隊の山岡鉄太郎――不肖高橋の義弟にございます」
「そちの義弟か」
「はい、無学の乱暴者ではございまするが、至誠の志においては何びとにも劣りませぬ。その上、胆の太きことも、私の如き足許にも及びませぬ。もとより生を惜しむ心は更になき漢《おとこ》――この者ならば、どのような障害ものり超えて、上様の御意志を、総督宮にお伝えする事だけは必ずやってのけましょう」
慶喜が、大きくうなずいた。
「そちがそれほどまでに申す人物なら、たしかであろう。その山岡を遣わすとしよう」
「はあ、御下命、忝《かたじけ》なき次第、私から申し伝えまする」
「いや、明朝、ここに呼んでくれ、直々《じきじき》に会うて話したい」
「上様が、お直々に?」
「そうだ、大切な使いだ。余から直接に頼みたい」
「畏れ入りまする」
正式に目通りできる身分ではない。その山岡を呼んで、自分から、
――頼む
と言うのだ。
高橋は又、感激を新たにした。
御前を退くと、直ちに使を、鉄太郎の家に走らせる。
主《あるじ》が連日大慈院に泊り込みなので、高橋邸の道場では、鉄太郎が主のような顔をして、勤務の前と後に、若い連中を対手に稽古をつけていた。
その夜も、一汗かいてから自宅に戻り、膳の前に坐った時、高橋の使者がやってきた。
受けとった書面に眼を走らせると、傍らにいたお英に、言った。
「一体、何だい、こりゃ、義兄貴《あにき》から明朝、早々に上野大慈院に来い――とある。それは別にどうってことはないが、これをみろ。上様直々にお話あり、服装に失礼なきよう――冗談じゃない、この下っ端の貧乏御家人に、上様が何をお話なさろうってのかな」
お英にも、むろん、見当はつかなかった。
「何しろ色んなことがある時代だ。近藤勇が若年寄格を仰付けられるって世の中だから、このおれも老中ぐらいにして頂けるのかも知れないな」
そんな冗談さえ出たほど、思い掛けないことだったのだ。
「服装に気をつけろと言われたって、おれは着た切り雀だ。どうしようもないさ」
「だって、まさか、いつものお身装《みなり》で上様の御前に出る訳にはゆきませんでしょう」
「構うものか、徳川家の家臣が、どんなに貧乏か、上様に見て頂く」
「いけませぬ、高橋の兄が恥をかきます。御衣装は、義姉《あね》に申して、兄の分を借りて参ります」
「そいつぁ、だめだ。義兄貴の衣装じゃ、まるでおれのからだに合わないさ」
中肉中背の高橋に比べると、六尺を超す大兵の鉄太郎だ、つんつるてんになるだろう。
「私が、明日までに、何とかお直しします。少々変でしょうけれど、それは我慢して頂きましょう」
お英は、夜を徹して針を運んだ。
翌日、鉄太郎はまだ少々寸詰りの衣服をまとい、袴をずっと下の方に締めて、どうやら恰好をごま化して、暖かい春の陽の射す上野大慈院に向った。
「義兄上《あにうえ》、一体、何の用件なのです。上様が直々のお話なんて、てんで見当がつきませんが」
鉄太郎は、高橋に会うと、いきなりそう言った。
「まず、聞け」
高橋は鉄太郎を凄じい眼付で睨みつけた。
――あ、
鉄太郎も、表情を固くした。
高橋がそんな眼付をした時は、痛烈な叱責を与えるか、極めて重要な情報を伝えるか、どちらかなのだ。
「鉄太郎、上様の為に、お前の一身を捧げる気持に変りはあるまいな」
「もとより。今更、改まって――」
「よし、上様から直々にお話のある前に、私から一応、話しておく。性根を据えて、よく聞け」
高橋は、前夜の慶喜との対話の大略を鉄太郎に話した。
「どうだ、私はお前を信じて、お前を推薦した。だが、もしお前に、上様の使命を果せると言う自信がないのなら、断ってくれ。私から上様に申上げて不明をお詫びする」
「義兄上」
高橋が話している間、一言も発せずに耳を傾けていた鉄太郎が、いつもの通りの声で答えた。
「義兄上が私を、それほど買っていて下さったことにお礼を申します。そして、上様が即座にそれを御聞き入れになって、私如きものに直々にお言葉を賜わると言うことは――何と申上げてよいか分りません。ただ、身命を賭して御信頼にお応え致すのみです」
「おお、引受けてくれるか」
「はあ」
「官軍はもう江戸間近まで進出している。その間をくぐり抜けて駿府までゆき、総督宮に歎願するのだ。出来ると言う自信はあるのか」
「やって出来ぬことはないと信じます」
「うむ、お前なら、必ずやりとげると、私は信じている。よし、鉄太郎、上様の御前に参上しよう」
高橋は先に立った。
廊下の中途で、ふり向いて、
――あそこだ。
と、突当りの部屋を、目顔で指した。
高橋は、ひざまずいて襖《ふすま》を開き、
「お召により、山岡鉄太郎を召連れましてございます」
と、言上した。
「はいるがよい」
と言う慶喜の声が、余りに近くに聞こえたので、鉄太郎はちょっと驚いて、頭をあげたが、もっと大きな驚きが待っていた。
薄暗い、狭い部屋に、見るからにやつれた慶喜が坐っている。それが、つい目と鼻の先なのだ。次の間も、上段の間もない。自分の家の茶の間ぐらいの狭さだった。
鉄太郎は、頭を上げて、その人を見た。
今迄にも、遠くから見たことは何度もある。だが、こんなに間近に、その人を見るのは始めてであった。
黒の木綿の袷《あわせ》に羽織、小倉の袴、憔悴し切った顔容――これを知らぬ者がみたら、前将軍とは誰一人考えもしないだろう。
最高の主権者の地位から、ほとんど囚虜《しゆうりよ》にも等しい境遇に転落した不運の人物の、みじめな姿がそこにあった。
――お痛わしい、
鉄太郎は、何よりも、全身的に、そう感じて、全身を熱くした。
慶喜が、平伏した鉄太郎を見た瞬間の印象は、
――巨きな男だな、
と言うものであったが、鉄太郎が頭を上げ、両者の視線がぴたりと合った時、
――これは、伊勢の言う通り、信頼できそうな男だな、
と、直感した。
これは慶喜には珍しいことである。
この才気のあり過ぎる人物は、誰に会っても、極めて冷静に、やや苛烈に、批判的な眼を注ぎ、容易に信頼することはなかった。
勝安房守の如きは、数年に亘って、その冷たい批判の下にさらされていたのではなかったか。
これは、鉄太郎のもっている生来の純朴さと、誰かを信じるほかなくなっていた慶喜の切羽《せつぱ》つまった心境とが、ぴったり吻合《ふんごう》したからに違いない。
「山岡」
慶喜が、呼びかけた。
「事情は、伊勢から聞いたであろう」
「はい」
鉄太郎は、頭を低く下げた。
その頭の上に、慶喜の低い声が落ちた。
「余は朝廷に対して毫《ごう》も叛意はない。勤皇は余の生家である水戸家の伝統であることは、そちも存じておろう。鳥羽・伏見の暴発は全く余の意に反するところ、ひたすら恐縮して恭順の意を表しているのだが、朝廷は余の赤心を認めて下さらぬ。何とでもして、余の真意を大総督宮に伝えて欲しいのだ。そして、江戸を戦火から救い――同時に徳川宗家の家名を残したい」
鉄太郎は、頭を下げたまま、答えない。
「どうじゃ、駿府の大総督府まで、行ってくれるか」
慶喜が、促した。
鉄太郎は頭を上げた。
「上意とあれば、もとより、駿府にでも京にでも参りまする」
「静寛院宮の歎願も、結局はお聞き捨てになった。輪王寺宮も、空しくお戻りになったらしい。そちが駿府へ赴いても、総督宮は対顔を許されぬかも知れぬ。いや、恐らく、参謀の西郷が阻止するであろう。そちに、何かよい思案があるか」
「何も――ございませぬ」
鉄太郎は、きっぱり答えた。
――何の考えもないのか、
慶喜は、意外な答えに、失望の色を、はっきり現した。
「私めは、才なく学なく、智もなく弁も立ちませぬ。私のなし得るところは、ただ誠心誠意、事に当ることだけでございます。赤誠山をも動かすとか、西郷は必ず動かしてみせまする。そして総督の宮様も、必ず」
ほかの者が同じことを言ったとしたら、己れの無策をかばう空疎な強がりとしか響かなかったかも知れぬ。だが鉄太郎の言葉には、一語一語、彼の魂が、血が、その全人格が、こもっていた。
誰よりも先に、慶喜が、その誠実な気魄にうたれた。
「そうか、赤心――それ以外にはあるまいの、頼むぞ、山岡」
「勿体なき仰せ」
と頭を下げた鉄太郎が、再び頭を立てると、きっと慶喜の眸《め》を見詰めて言い出した。
「畏れながら、上様」
「うむ」
「私めが駿府へ参りまするのは、上様の御心を朝廷にお伝えするためでございます。何よりも大切なのは上様の朝廷に対する御誠意。これなくしては、いかに私めが赤心を以て言上してもむだでございましょう。重ねてお伺い申上げまするが、上様御恭順のこと、まことに御赤心よりのことでございまするか」
「何を申す、今更――」
「お怒りを怖れず申上げます。諸大名、旗本らに戦意なく、戦って勝つ見込なきため、已むなく御恭順遊ばされるのでございますか、それとも、朝命に反する仕儀に相成ったことを悔い給うて、誠心御謹慎遊ばされているのでございまするか」
痛い質問であった。
慶喜の胸の底にちらりと動揺があった。
が、すぐに、自らその動揺を打ち消し、殊更力強く答えた。
「もとより、後者だ。余は、朝敵の汚名を何よりも怖れる。それを雪《そそ》がねば、父祖に対して申訳が立たぬ」
鉄太郎は、素直に、この言葉を信じ、受け入れた。
「上様に対して、御無礼なことを申上げました段、偏《ひと》えに御詫び申上げます。上様において、朝廷尊崇の御心より誠心御恭順の御心なること、とくと相解りました。私めも亦、赤心を以て、上様の御赤誠を、総督宮にお伝え致します」
「山岡、頼む」
――頼む
と、二度まで言われたのだ。雲の上の存在であった上様から。
鉄太郎は、巨きな眼をしばたたいた。涙があふれそうになっていた。
頭を低く下げ、後退していった。
廊下を玄関の方に下ってくると、後から高橋伊勢守が追いかけてきた。
「鉄太郎、上様に対してずい分、失礼なことを申上げたな」
「上様の赤誠が本物であると言う確信が持てなければ、私も身命を抛《なげう》っての御奉公はなりません」
「それはそうだが、よくもあそこまで申したものだ」
「義兄上に御迷惑をおかけしたのならお詫びします」
「いや、私は、はっとしたが、上様は別にお怒りの御様子もない。すっかりお気が弱くなっていらっしゃる」
玄関の敷石に立った鉄太郎が言った。
「義兄上、馬を貸して下さい」
「よかろう、すぐに申しつける。今日にも発《た》てるか」
「むろん、一刻も早く。これから家に戻って旅支度をして――氷川町にちょっと立寄ってから、出発します」
「氷川町に?」
「勝安房守の屋敷に参ります」
「安房守を知っているのか」
「いや、一度も会ったことはありません。が、安房守は西郷と旧知の仲と聞いております。安房守の書面を持ってゆけば、西郷に会い易いでしょう」
「うむ、そうだな」
「西郷に会いさえすれば、総督宮に上様の御真意をお伝えする機会は得られると思います」
――無策と言ったがちゃんと考えている、
高橋は、感心したが、
「勝が素直に会うかな。お前が乱暴者だと言う噂はかなり高いから、用心するだろう。私が、手紙を添えてやろうか」
「いや、敵地にのり込み、敵将に会おうとしているのです。味方の陣営の勝安房に会うぐらい大したことではありません」
「なるほど、それも理窟だ。では、行け、必ず上様の御信頼に応えるのだぞ」
「御心配なく、鉄太郎生きておる限り、必ず使命を果たして参ります」
鉄太郎は、馬を走らせて自宅に戻った。
「君命によって駿河にゆく、すぐに支度してくれ」
お英を急がせて、旅姿になった。
「では――」
もしかしたら、二度と帰れぬことになるかも知れぬ。だが、その事については特別の感慨はなかった。常住坐臥《じようじゆうざが》、死と直面しているのが武士なのだ。少くも真の武人はその心掛けを持っていなければならない。鉄太郎はそう観念している。
馬を馳せて、氷川下に行く。
勝の屋敷は、すぐに分った。
馬を降りて、玄関に立った。
「頼もう」
大音声《だいおんじよう》で、呶鳴った。
現れたのは、十七、八の美しい女中である。
ちゃんとした武家邸では、取次の侍がいる筈だ。勝の邸にも、むろん、いた。
だが、この頃、勝は、初めての訪客があると、若く美しい女中に応対させていた。
訪ねてくる奴の大部分は、むやみに意気込んだ旗本や御家人、それから怪しげな浪人である。勝を、
――卑怯者、
と罵り、
――徳川家を売る者、
と叫ぶ。
中には、
――叩き斬る、
と、眼を怒らす者もいる。
そんな連中の応対は女の方がいい。
若い美女が対手では、どんな男でも、無茶なことはできなかった。女中は、
「主人は他出中でございます」
と、優しく言う。
――待つ、
と言えば、いくらでも待たせた。
その間に勝は、裏口から出て、近くの氷川神社の境内をのうのうと散歩していた。
待ちくたびれた頃、家士が裏口から出て玄関に回り、女中を呼んで、
――勝からの伝言、今日は帰らぬ、
と伝える。
訪客は、諦めて帰って行く。
――おれにはしなきゃならねえ仕事がある。気違いと争って傷ついたり、死んだりするのは御免だよ。
勝はいつも、そう言って笑っていた。
玄関に現れた女中に、鉄太郎が言った。
「精鋭隊の山岡鉄太郎、火急の用件で、勝先生にお目にかかりたい」
「主人は只今、お城に上っております」
女はいつものせりふを言った。
「初めての訪客に対しては、いつもお留守の由、村上俊五郎(政忠)から聞いております。その御不在は私には通用しない。お取次頂きたい」
村上は勝の義弟だ。そんな内輪話を、酒の席でふっとしゃべってしまったのだろう。
「あ、村上様のお知り合いで――」
女中はちょっと躊躇《ちゆうちよ》したが、奥にはいっていった。
机に向っていた勝がふり向いた。
「村上の知り合いらしいな」
鉄太郎の声が大きいので、勝の居間まで筒抜けだった。
「どんな男だ」
「大きな恐ろしい方でございます」
「山岡――とか言ったな」
「山岡鉄太郎――とか」
「山岡鉄太郎、聞いたことがある。ボロ鉄とか鬼鉄とか言われた剣術つかいだっけ。どうせ、おれを斬るとか突くとかわめくのだろう。うるさそうだ。散歩でもしてくるか」
「あの、旅姿をしておられますが」
「ほう、旅姿か。すると、江戸を離れて義軍に加わる、路銀をよこせ、と言う口かな」
勝が、呑気なことを言った時、玄関の方から、鉄太郎の声が、がんがん響いてきた。
「お取次、お急ぎ願いたい。上野大慈院において大事の御内命を受けたもの、勝先生、私事ではござらぬぞ」
勝が、はっと表情を改めた。
――上様の内命を受けた者、
とあれば、会わぬ訳にゆかぬ。
「客間に、お通ししておけ」
書きかけていた机の上のものを、ちらっと見たが、手を鳴らして夫人を呼び、袴を持ってこさせた。
袴をつけてから、客間に入った。
鉄太郎は、先に部屋に坐っていた。
勝は、黙って部屋に入り、鉄太郎と向き合って坐る。
二人の視線が合った。
――これは、出来る、生なかの修業じゃない。
二人とも、同時に、同じようなことを感じた。愕きは、勝の方が大きかったらしい。
――この男が、斬る気になったら、おれは斬られてしまう、鬼鉄などと言うのは、ただの虚名と思っていたが、こいつは、本物だ。
「ずいぶん、巨きいんだな」
勝が、にこりと笑った。
「存外、小柄であられる」
鉄太郎も、にこりと笑った。そして、改めて名乗った。
「山岡鉄太郎です。突然のぶしつけなる参上、お許し下さい」
「勝安房。上様の御内命と承ったが、まことか」
「不肖山岡、偽りを述べたことはありません」
――こいつは、かたぶつらしい。おれなんぞ、しょっちゅう嘘をついている。
勝は、苦笑した。
「疑って済まぬ。実はあんたの異名鬼鉄と言うのを知っている。名代の剣士、わしを殺しに来たのかと思ったよ」
「そのつもりなら、勝先生、もう今頃は死んでいます」
「その通りだ。大抵の奴には、めったに殺されぬが、あんたなら、おれを見た瞬間、斬っているだろう。本気に殺す気になればなあ」
勝はそんなことを話しながら、鋭い目で鉄太郎を観察しているのだ。
鉄太郎の方は、無心に、問題の核心に突入していった。
「不肖山岡、今日はからずも上様のお召しを受け、駿河の総督府への使者を仰せつけられました」
訥々《とつとつ》とした語調で、鉄太郎は、大慈院での経過を話す。
胸が迫り、言葉が時々、杜切《とぎ》れた。
勝は終始冷静に、耳をすませていた。
「という訳で、私はこれから駿府へ直行します。ついては先生に、官軍参謀西郷氏に対する手紙を書いて頂きたい。総督府の実権は西郷にあると聞いています。西郷氏に会えば、上様の御誠心を、総督宮に伝達できると思います」
「うーむ、そうかも知れん。しかし、駿府まで、どうやってゆくか、東海道はもう、六郷川岸まで官兵が来ているらしい。無事に通してくれるかな」
「捕えられるかも知れません。捕えられても総督府に送られれば、いいでしょう」
「斬られるかも知れんよ」
「そうなれば已むを得ないでしょう。天命と思いますよ。しかし、如何に薩長兵が乱暴でも、総督府への使者と名乗るものを、そう無茶に斬りもしないでしょう」
「追い返すかも知れんよ」
「その場合は、断じて引き下りません」
「どうする」
「どうするか、その時次第。ただ、何としてでも、命のある限り、必ず総督府までゆくつもりです」
「それで、西郷に会って、何と言う」
「私の使命は、上様の御心を伝えるだけ、格別の美辞麗句は、いらないでしょう」
「上様のお心とは」
「朝廷に二心なきこと、江戸を戦火から救いたきこと、徳川宗家の家名を残したきこと――これだけです」
「どれも、素直に聞いて貰えることではない。官軍は、特に薩摩は、上様を叛逆者と決めつけ、江戸城を粉砕して、上様に詰腹切らすつもりでいる。西郷も、むろん、そのつもりだろうよ」
「そこらのところは、私には分りません。私は無策無略、ただ上様の御誠意を官軍に伝えるだけのこと、今迄、それを度々試みられたが、先方は耳をふさいでいる。私はその耳をこじあけて、大声で耳の底まで、こっちの言い分を叩き込む。それだけしか、私にはできません」
「それができれば、大したものだ」
勝は、鉄太郎の巨きなからだを、上から下まで、じっと眺めた。
「あんたなら、出来そうだ。あんたのように純一無雑な人は珍しい。西郷なら、あんたと言う人物を分ってくれると思う」
「お手紙を、頂けますか」
「書く、しばらく待って貰いたい」
勝は、居間に戻った。
机の上を見た。
――奇妙な吻合《ふんごう》だ、
と、首を振った。
鉄太郎がきた時、勝が机に向って書いていたのは、総督府に対する書簡であった。
それを差出すあてがあって書いていたのではない。総督府に向って言いたいことを言ってみたら、こんなことだろうと思って、筆を辷《すべ》らせていたのだ。
――無偏無党、王道|蕩々《とうとう》たり
で始まる有名な書簡だ。
要旨を分り易く記す。
――今官軍が江戸に迫っているが、徳川の君臣は恭順の道を守っている。徳川の士民も皇国の民であり、今や外国に対して一致して国を守らねばならぬ時だからである。ただ諸士民の中には慶喜の心を解せず乱暴な所為に出ようとする者があり、極力鎮撫しているが、明日はどうなるか分らぬ有様、私も万策尽きて空しく死を覚悟している。
――然しながら不測の変に乗じて無頼の徒が城内に乱入するに至れば、静寛院宮様の御身辺も危い。官軍参謀諸君は、この点をよく考えて頂きたい。条理のあるところは、百年の後、天下に明らかになると思う。
――哀しい哉《かな》、官軍との間、隔絶し、皇国の存亡に関して訴える途もない。徳川氏に対する処置については何ら申すことはない。官軍の処置が正しければ、皇国の大幸、もし正しくなければ皇国動乱、徳川の賊名は永久に消えぬこととなる。
書いたのは、ここまでである。
官軍に訴える書としては、些かも敗者の卑屈さはなく、むしろ皇国動乱の責任を官軍側の処置如何に負わせた堂々たるものである。
勝は、もう一度、読み直してみた。
そして、書き加えた。
――私が参上して事情を訴えようにも、士民沸騰して半日も江戸を去ることができぬ。ひたすら鎮撫に奔走しているが効果は少い。私の志が官軍に達しないのも、天命と言うべきであろうか。
誠恐謹言と結び、宛名を参謀軍門下とした。署名は勝安房。
書き終ると、さらさらと巻いて、客間に戻って、
「山岡君、これでどうだ」
と、見せる。鉄太郎は、その余りに速いのに、唖然《あぜん》とした。
「先生、もう――」
「うむ」
勝は、すまし込んで答えた。大部分は書いてあったのだ、正直に言う男ではない。
人を煙《けむ》に巻き、人を愕かすのを、何よりも愉しみにし、得意にしている。
鉄太郎は、勝の書簡を読んだ。
具体的なことは、何一つ書いてない。
どうしてくれとも言ってないのだ。もともと勝が、胸中の鬱憤を晴らす為に書いたものだから当然である。
だが、鉄太郎は、満足した。言うべきことは自分が言う。勝の書面は、西郷に会う手段となりさえすればよい。
――名文だ。よくあんなに短時間にこれだけのものが書けたものだ。さすがは名にし負う才物。おれにはとてもできぬ事だ。尤も、字は、おれの方が少し本ものになっているかも知れん。
鉄太郎は、手紙を巻き戻した。
「有難うございました。勝先生、これを戴いて参ります。では、これにて」
鉄太郎は、暇をつげようとした。
「ちょいとお待ち」
勝が、とめた。
「通訳をつけてあげよう」
「通訳?」
「そう、東海道にはもう、薩長の軍兵が充満している。連中と話をつけねばならぬこともあろう。長州弁はまだ分るが、薩摩弁ときたら、さっぱり分らぬ。オランダ語よりむつかしいくらいだ。通訳がいるよ」
「そのようなものは――」
却って邪魔になる、と言いかけた鉄太郎を軽く押えて、勝は女中を呼んだ。
「離れの居候どのに、来て貰ってくれ」
と言ってから、
「山岡君、役に立つ男だ。連れていった方がいい」
と、面白そうに声を立てて笑った。
「お呼びですか」
と、はいってきた「離れの居候どの」の顔をみて、鉄太郎が、吃驚《びつくり》して、
「お、益満君、生きていたのか」
と、叫んだ。
「何だ、山岡さんか」
益満も、意外そうな、しかし、いかにも嬉しそうな顔をした。
「二人とも、知り合いだったのか」
勝は勝で、ちょっと意外そうだった。
「飲み仲間でした」
「女遊びの仲間でもありましたよ」
「こりゃいい、二人のイキが合っている。実はな、益満君、こう言う訳だ」
勝が、事情を話した。
「山岡君には、薩摩弁の通訳をつけると言ったのだが、君なら西郷氏とも熟知の仲、山岡君を西郷氏に引き合せてくれるだろう。むろん、私からも、参謀宛に手紙は書いて山岡君に渡したが」
「すると私はどうやら、ようやく無罪放免ですか」
益満は、空っとぼけた。
「逃げるつもりなら、いつでも逃げられた筈だ。今日、駿府への途中で逃げてもいい」
「今日まで逃げなかったのは、ただで飯をくって寝ている暮らしが楽だったからです。一生居候をしていてもいいと思っていましたよ」
「むりするな。勝は貧乏、ロクなものは喰わしておらん。が、とに角、一宿一飯の仁義、私の頼みをきいて、山岡君を案内してくれぬか」
「一宿一飯どころじゃない。勝先生には命を助けられたのだ。何でもしますよ。まして旧友山岡さんの重大使命のお手伝いができるのなら、悦んでお伴します」
「益満君、頼む」
鉄太郎も、この愉快な人物の同行は、嬉しかった。
益満も、勝から馬を借りた。
――乗り棄てにして来てもよい、
と言う。
二人は、馬を走らせた。
官軍に遭遇したら、馬上の通行は許されないだろうが、それまででも、馬に乗ろう、一刻も早く駿府へつきたい。
鈴ケ森までくると、たそがれが近づいてきた。
六郷川の東岸につく。
対岸をみると、勝の言っていた通り、もう官軍の先鋒が、やってきているらしい。
「馬はここまでだな」
二人は、馬を民家に預け、渡し舟で対岸に渡った。
河原の右手にある川役所の前に、十数名の兵がいた。
みんな、鉄砲をもっている。
二人の姿を見たが、怪しむ様子はない。
川崎の宿《しゆく》にはいると、右手に、
――ふぢや
と言う旅籠があった。
これが官軍先鋒隊の本陣になっているらしい。兵たちが、警備している。
その附近には、百人近くの兵が、あちこちに固まって、夕食の握り飯を頬張っていた。
本陣の入口際にいた兵の一人が、鉄太郎と益満の姿をみて、二、三歩、近づいてきた。
鉄太郎は、それを認めると、何と思ったか急に、その方につかつかと進んでゆき、その兵を無視して、入口から中を覗く。
益満は、愕きながらも、その後に従った。
広い土間があった。
左手に階段の見える広い板敷の正面に、隊長らしい男が、あぐらをかいて、夕食を喰っていた。
その周囲にも、土間にも、兵たちが充満している。
鉄太郎は入口の敷居から、土間に足を一歩踏み入れると、正面の男に向って、大声で呶鳴った。
「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎、大総督府に罷り通る」
言い放った瞬間、くるりと背を向けて、戸外《おもて》に出ると、町中を西に向って風のように去ってゆく。
益満が、慌てて後を追った。
官軍の首領は、薩藩の猛将篠原国幹であった。突然、闖入《ちんにゆう》してきた巨大漢が、何か大声で呶鳴ったので、びっくりして頭を上げ、手にした箸《はし》をとめた。
咄嗟《とつさ》の間には、言われた言葉の意味が、はっきり呑み込めなかったらしい。
よもや、旧幕臣が自ら朝敵と名乗って、通行を宣言してゆくなどとは、全く夢想もできぬことだったからだ。
鉄太郎の姿が、さっと消え失せた時、篠原は、半ば無意識に、口の中で、
――朝敵徳川慶喜、徳川慶喜、
と、今聞いた許《ばか》りの言葉をくり返した。
――しまった、きゃつ!
言葉の意味が、突然、銃丸のように篠原の胸を貫いた。
「畜生、あいつ、追えッ。追ってひっ捕えろ、叩き斬っても構わん」
部下に向って呶号し、
「朝敵徳川慶喜の家来だと――おのれ、人を愚弄しおって」
真赤になって、躍り上っていた。
何人かの兵が、外に走り出ていった。
が、やがて、戻ってきた。
――恐ろしく足の早い奴、宿外れまで追ったが、もう影も形も見えぬ、
と言う報告をした。
鉄太郎の快足は、仲間うちでも有名だった。別に走っているのではないが、益満は、殆《ほとん》ど小走りで、やっと後についてゆけた。
あたりがもうすっかり暗くなっていたのも、二人にとって幸運だった。
追って来た兵が諦めて帰っていった頃、益満が、喘《あえ》ぐように言った。
「山岡さん、待ってくれ、そうむやみに早く歩かれちゃ、息がつづかん」
「あ、これは失敬した」
鉄太郎が、足をゆるめた。
「別に追っては来ないようだな」
「いや、追ってきたって、これじゃ追い付ける筈がない。それにしても、山岡さん、何だってあんな無茶なことしたんです」
「本陣の番兵が、われわれを咎めそうに見えたから、機先を制したのですよ」
「乱暴な話だ」
「そうかな、敵地にはいるのだから、一応挨拶しておいた方がいいんじゃないかな」
――何と言う男だ、
益満は、呆れ返ったように鉄太郎の横顔を見上げたが、本人は平然としている。
一時間余りも行くと、神奈川の宿。
宿の入口に、数名の兵がいる。笠印で、長州兵と分った。
「何者か」
と誰何《すいか》する。益満が、
「薩摩藩の益満休之助、大総督府の西郷参謀に急用で、罷《まか》り通り申す」
と、わざと薩摩|訛《なま》りを丸出しにして、言った。
「御苦労です、どうぞ」
長州兵はすぐに道を開いた。
官軍の主力は、言うまでもなく薩摩と長州の兵だ。この両者の緊密な協力は、絶対に必要である。両軍の首脳部は、それぞれ部下に対して、
――薩摩と事を起してはならぬ、
――長州とは特に仲良くせよ、
と、懇々と命令していた。
いくたびかの誰何も、薩摩藩士益満休之助の名を名乗ると、極めて友好的に応対された。うしろに悠然と突立っている鉄太郎は、名前さえ聞かれない。重要使命を持っている益満の上役とでも思われたのであろう。
鉄太郎はそれが当然なことででもあるかのように、肩をそびやかし、堂々と大股に歩きつづけている。
――長州兵との応対は、益満に任せておけばいい、おれは真直ぐ駿府に急ぐ、
そう思っているらしい。
四辺ことごとく敵の真只中を歩いているのだと言う警戒心など、全く見られない様子である。
程ケ谷・戸塚・藤沢の各宿駅は、いずれも、町の入口にかがり火を焚《た》いて、兵たちが警戒していたが、どこも同じような調子で、無事に通り抜けた。
平塚に近づいた頃、夜が明けた。
鉄太郎は、夜を通しての強行軍も、自分のおかれた危険な地位も、全く感じていないようにみえる。
――図太い男だ、
益満は、今更のように呆れた。
同時に、ちょっと意地悪をしてみたくなった、と言うより、この男の持前である、
――いたずら
が、してみたくなった。
益満はわざと、少しく鉄太郎より遅れた。
――おれが側についていなくても、あの傲然たる態度で、やってゆけるかな、
そう思ったのである。
むろん、何か起りそうだったらすぐに飛んでゆくつもりである。
鉄太郎の幅の広い肩の動きも、その颯爽たる歩みぶりにも、何の変化も見られない。
益満がすぐ後についてきていないのに気がついて後をふりむいたが、益満が手をふって、先にゆけ、と言う仕草をすると、そのまま歩きつづけてゆく。
前方平塚宿の入口に、長州兵たちの一団が屯ろしているのが見えた。
――どうするかな、
益満は、瞳をこらした。
鉄太郎は、長州兵たちに目もくれず、さっさと歩きつづける。
長州兵たちは、人並優れた巨大漢が、堂々と木戸を通過してゆくのを見た。
そのあまりに泰然たる歩きぶりに、威圧されてしまったらしい。味方の然るべき身分の者が、重大使命を帯びて駿府へ急ぐのであろうと考えたものか、誰一人、通過を咎めるものはなかった。
中には、少しく小腰をかがめるようにして、道を開くような仕草をみせたものさえあった。
鉄太郎がさっさと町中に姿を消してゆくのをみて、益満は小走りになって後を追った。
木戸の処で、長州兵の一人が声を掛けた。
「失礼ながら、貴殿は?」
「薩摩藩士益満休之助、大事の用件にて駿府の総督府へ参る」
「先程の方は?」
長州兵は、前方をゆく鉄太郎の後姿を眼顔で指した。
「やはり、貴藩の方ですか」
「左様」
「御苦労様です」
益満は、町にはいった。
少々、がっかりしていた。
鉄太郎のよどみのない歩きぶりからみて、彼が長州兵から何の遮《さえぎ》りも受けなかったことは明らかである。
――だのに、おれには声をかけて、誰何しおった。やっぱり人間の違いかな、いまいましい、
まだ表を開いていない家の多い平塚の宿の真中頃で、益満は鉄太郎に追いついた。
「山岡さん」
と呼びかけた。
「疲れたのか、少し休もうか」
「いや、いい」
と答えた益満が、
「山岡さん、この宿の入口で、長州兵が何か言わなかったか」
「いや、別に」
「もし、誰何されたら、どうするつもりだったのです」
「君がいなけりゃ、仕方がない。朝敵徳川慶喜家来山岡鉄太郎、駿府の大総督府へ罷り通ると言うさ」
――こいつは、負けた。
益満は兜《かぶと》を脱いだ。
同時に自分のいたずらを、心から恥かしく思った。
「益満君」
鉄太郎の声は明るい。
「本当に疲れていないのか」
「うむ」
「少し遅れたようだったが」
「なに、わらじの紐がゆるんだので、締め直していただけですよ」
「次の大磯宿まで行けば、もう店を開けているだろう。朝飯にしよう。少々腹が空《へ》ったね、江戸から十五、六里歩いただろう」
並の者なら、倍以上の時間がかかっているだろう。いや、途中で一泊している筈だ。
「ずっと歩きつづけるのですか」
「いや、小田原でかごをやとう、箱根八里を、かごの中で眠る。大事な談判を控えて、睡りが足りなくてはいかんからね」
大磯に来ると、薩摩兵に代っていた。
店を開いたばかりの茶屋にはいって、ありあわせのもので、朝食をすませた。
十時過ぎには、小田原城下にはいった。
「私が、駕籠を都合してくる」
益満は鉄太郎を、休息所に待たせておいて出ていった。
「酒を」
鉄太郎は、亭主に注文した。
傍らで、旅商人らしい二人の男が、話している。
「とにかくだらしがねえね、御旗本衆は、戦いが始まる前に、半分以上逃げ出してしまっていたってえんだから」
「本当に江戸の旗本衆なのかね、何だかやくざのような連中が多かったと言うよ」
「だってお前さん、旗本衆の方は、若年寄並の大久保大和守様とかに率いられていたって言うからにゃ、ちゃんとしたお武家衆だろう」
鉄太郎が二人の方に向き直った。
「どこかで、戦いがあったのか」
「へえ」
一人が、びくっと肩をすくめたが、鉄太郎の微笑をみると、安心したように、
「へえ、何でも甲州の勝沼あたりで、官軍と、江戸からやってきた旗本衆とが闘って、旗本衆がさんざんに打ち破られたとか、甲府じゃ、大変な騒ぎでございました」
「お前たち、甲府から来たのか」
「へえ」
――若年寄並大久保大和
そんな名は聞いたことがない。
――そうだ、近藤勇のことだな。若年寄並などに任じられたので、恰好をつけるために尤もらしい名を名乗っているのだろう。
鉄太郎はそう推量したが、この推量は当っていた。
近藤勇は大久保大和、土方歳三は内藤隼之助と名乗り、甲府城を乗取ればそれぞれ十万石、五万石を賜わると言う夢を抱いて、意気昂然として甲府へ乗り込んでいったのだ。
――甲陽鎮撫隊
と言う大層な名をつけていたが、その傘下に集ったのは、旧新選組隊員や浪士たち若干のほかは、浅草の団左衛門が駆り集めた二百数十名に過ぎない。
三月四日、雪を踏んで笹子峠を越え、駒飼に達した時、甲府城がすでに官軍に占領されてしまっていることを知った。
占領したのは、東山道官軍参謀、板垣退助直属の土州兵及び因州兵である。
近藤はやむなく、勝沼の東二キロの柏尾に陣を布いた。
官軍の甲府城占領に怯《おび》えた隊員は、その間に相次いで脱走し、六日朝、官軍が来襲した時には、わずか百二十一名に減っていた。
官軍は土佐の猛将谷守部(干城)が率いる土因両藩兵二百である。これは三隊に分れて攻撃をかけてきた。
土州兵は山砲三門、臼砲四門を以て正確な射撃をつづけたが、近藤側には砲門を操る熟練者がおらず、全くむだ弾ばかりである。
官軍の砲撃に手も足もでない近藤隊に対して、土州藩の谷神兵衛の一隊が背面に迂回して銃撃を加えたので、近藤方はたちまち潰乱《かいらん》状態に陥った。
――逃げろ
みんなが、その一心にとらえられて走り出す。
近藤も土方も、その渦に巻き込まれ、どうすることも出来ず、駒飼から笹子峠を越えて、一気に八王子まで脱れ走った。
十万石、五万石の夢は、一挙に消えた。
鉄太郎はむろん、そんな事情は知らないが、近藤たちの動きが結局何の役にも立たぬ悪あがきに終るだろうとは見究めていたので、その敗走を聞いても、格別愕きもしない。
「駕籠がみつかった」
と、益満が戻ってきた時にも、そのことについては何も触れず、
「よし、益満君、駕籠の中で、充分に眠ってくれ。少しがたつくが、ゆうべ一睡もしておらんのだから、眠れるだろう」
「どうですかな」
三枚橋を渡ると、もう上り坂になる。
山気は、まだ冷々としている。
駕籠かきの息が次第に荒らくなる。
ゆれははげしくなる。
だが、鉄太郎は、駕籠が動き出すと同時に大きないびきをかいていた。
益満も、やがて、眠ってしまったが、これは、時々、眼を醒ました。
箱根の関所前についた時も、益満は目を開いていた。
「山岡さん、関所だ」
駕籠を降りて、ゆり起す。
「ほう、ついたか、益満君、頼むよ」
けろっとした顔つきである。
益満は、関所の門内に入った。
武装した兵士が、充満している。
さすがに戦略上の大関門、守備は固い。
幸いに、守備しているのは薩摩兵だ。
――これなら大丈夫、
益満は、名乗った。
が、訊問はきびしかった。
――何用で、どこまで、
と、鋭い声が、はね返ってきた。
「駿府大総督府へ、火急の用件で」
「通行手形は」
「そのようなものは持合さぬ」
「ならば、それに代る身分証明書は」
「そんなものはなか」
「それでは貴殿が、まっこと薩摩藩士と言う証拠はないちゅうことか」
「ばかな、薩摩の益満を知らんか」
「名は聞いている。じゃが、おはんがその益満と、どうして証明できっか」
これは理窟だ。
「くそッ、誰かこの中に、益満を知っとる者はおらんのかッ」
益満が大声で呶鳴った時、役所の中から飛び出してきた男がいる。
「益満――本当に益満か!」
そう叫びながら、真赤になって呶鳴っている益満の前にやってくると、
「こりゃどげんしたこつか、益満、おはん生きとったか」
と、眼を丸くして、嬉しそうに笑った。
「おお、鈴木!」
「益満!」
薩摩屋敷が焼き討ちされる前、一緒になって江戸の町々を荒らし廻っていた仲間である。どちらも、対手は死んだものと思っていた。
「どうしても西郷先生に会わねばならん緊急要件がある。通してくれ」
「うむ、だが――」
「通行手形など、おれが持ってる筈がないだろう」
――秘命を受けて隠密工作をやっていた仲間じゃないか、
と言われれば、その通りなのだ。鈴木武五郎は、うなずいた。
「よか、おいが隊長に話し申そ」
「頼む」
「で、あのいかつい男は」
「長州藩士、姓名は勘弁してくれ、極秘の重大使命で、西郷先生に会わせなけりゃならんのだ」
「よか」
隠密工作に従事していた仲間だけに、そうした話は、分り易い。
鈴木が守備隊長に保証してくれた。
西郷への極秘命令を受けている者と言う以上、隊長も通過を認めるほかない。
二人は、関所の通過を許された。
駕籠は又、上り坂にかかる。
そして、相州と豆州の境を越えて、降り坂、三島へ向って急ぐ。
「よかったな、関所に君の仲間がおって」
鉄太郎は、駕籠が走り出して、しばらくした時、前をゆく駕籠に声をかけたが、返事はなかった。
益満は、今度は安心して、ぐっすり眠り込んでいたのである。
夜に入って三島の宿についた。
ここで駕籠を棄てると、又、夜を通して歩く。
翌日の昼近くに、目的の駿府についた。
「すぐ、総督府にゆきますか」
と益満は質ねたが、さすがに疲労し尽した顔色である。
「いや、一休みしよう」
案に相違して、鉄太郎は、そう答えた。
万屋と言う旅篭に入り、からだを清め、ゆっくりと食事をすませた。
――二|刻《とき》(四時間)ほど、眠ろう、
と、鉄太郎は言い、ごろりと横になると、すぐにいびきをかき出した。
益満は、
――あんなに急いでいたのに、どう言うつもりかな、
と、少しいぶかしく思ったが、何しろねむたい。横になると、これも眠ってしまった。
「益満君、そろそろ出かけよう」
鉄太郎が、益満を起した。
夕刻に近い。
「この時刻なら、西郷先生も少しは手がすいておられるだろう」
――あ、そうか
益満は、身なりを調えた。
西郷の宿営所は、伝馬町の脇本陣、合羽屋松崎源兵衛の家である。
益満が先に立って、その入口に進んだ。
門の両側に立っていた歩哨《ほしよう》が、左右から寄ってきて、その前をふさぐ。
「薩藩の益満休之助だ。西郷先生にお目にかかりたい」
「しばらく」
一人が門内に声をかけた。出てきた男が、益満の名を聞くとうなずいて奥に消えていったが、間もなく現れた。
「どうぞ――」
態度は柔かくなっていた。
玄関脇の控えの間で、
「山岡さん、しばらくここで待っていて下さい。私が話をつけてきます」
「お頼み申す」
益満は取次の者について、薄暗い廊下を通っていった。
「ここです」
と指された部屋の前で、足を止め、声を掛けようとした時、障子が内側から開かれた。
西郷の巨大なからだが、そこにあった。
「益満!」
「先生!」
「よう生きとったのう」
「はい、この通り」
「捕えられていたのか」
「いや、勝先生の処に居候をしておりました」
「勝先生の居候? そりゃまた、どげんことじゃ、さっぱり分らん――いや、ま、入って坐れ」
西郷と対座すると、益満は懐かしいおやじに再会したような気がした。西郷と言う男は大抵の若い対手に、そんな感じを持たせるらしい。
薩摩邸が焼き討ちされた日からのことを、ざっと話した。
うむうむと、大きくうなずいていた西郷が、
「御苦労じゃった。おはんたちの力で、万事計画通りすすんだのじゃよ、ところで、誰か伴《つ》れがあるとか取次が言っとったが」
「はあ、実は勝先生に頼まれて、その人物を先生におひき合せする為に駿府へやってきたのです」
「誰じゃな、その人物と言うのは」
「朝敵徳川慶喜家来山岡鉄太郎と言うものです」
「勝先生とどう言う関係の人物かの」
「今度が初対面でしょう。しかし、その一度の会見で、勝先生はすっかり惚れ込んでしまったようです」
「うむ、それで、勝先生の代理として、この私に話をしにこられたのかな」
「いや、勝先生の代理ではありません。徳川慶喜の代理としてです」
「歎願の為か」
「はあ」
「静寛院宮様の使者も公現法親王様も、歎願のために来られたが、ただ寛大の処置と言うだけで一向に要領を得ぬ。肝腎の慶喜の本心かどうなのか、納得がゆかぬよ」
「山岡は、その慶喜の本心を伝えに参ったのです」
「何故、慶喜が直接にやってきて、総督宮にお訴えしないのか」
「今、慶喜が江戸を離れるとなれば、旧幕臣共は暴発して、収拾し難い混乱状態に陥ります」
「そのような江戸の状況こそ、最も知りたいと思っていたところじゃ、山岡と言う御仁《ごじん》に会い申そ」
益満は、躍り上るようにして座を立ち、鉄太郎を案内してきた。
鉄太郎は、敷居の手前、廊下に手をついて鄭重に礼をした。こちらは朝敵徳川家の微臣、対手は官軍の参謀なのだ。
「さ、こちらへ、どうぞ」
西郷は、巨体に似合わない優しい声で、鉄太郎を促した。
二人の視線が、ぴたりと合った時、西郷が、にこりと頬をくずした。
「私はこの通りの大男ですが、あんたも、ずい分、巨きい方ですのう」
意想外の言葉に虚を衝かれて、鉄太郎が苦笑した時、西郷が重ねて言った。
「勝先生、御健勝ですかな」
「はあ、心労の為か、いささか憔悴は致しておるように見受けましたが」
と受けた鉄太郎が、懐中から勝の書翰をとり出して、差し出した。
「勝から西郷先生への書状です」
「や、これは」
西郷は気軽に受けとり、軽く頭を下げてから、封を開いた。
静かに読了した。
その悲痛な、格調の高い文章には、敗者の立場にある者の、ぎりぎりの抵抗が、その苦悩が、些かの卑屈さもなく堂々と、展《の》べられている。
――あの人物が、
西郷は、元治元年九月に、勝に会っている。三年半前だ。
勝に世界の大勢を説かれ、豁然《かつぜん》として眼から|うろこ《ヽヽヽ》の落ちる思いをした。
――幕府専制の政治ではとても各国列強には対抗してゆけない、これから賢良の列侯による合議制をとるべきだろう、
幕臣勝安房守から、そうした言葉を聞いて、愕然とした。
――幕府にも、こんな偉い男がいたのか、
と、頭の下がる思いがした。
その愕きを、そのまま大久保一蔵に、手紙で報らせてやったものだった。
それからの目まぐるしい変転。
今の西郷には、もはや、勝の識見はそれほど新鮮なものではない。時代は勝の考え以上に急激に進んでしまっているのだ。
だが、それにしても、
――あの勝が、崩壊しつつある徳川家を背負って、江戸にいる、
と言うことは、いつも西郷の頭にあった。
かつては、
――稀有《けう》の識見を持った人物、
と驚嘆した対手だが、今は、
――あの人物、この瀬戸際で、どうでるか、対手にとって不足はない、
と考えるようになっている。その勝からの書面は、一字一句が血涙に滲んでいるようであった。
「勝先生の御心境は、よく分り申した」
西郷は書状を巻き戻してから言った。
「が、山岡先生、あんたは勝先生の代理としてではなく、慶喜殿の代理として来られたのでしょう」
「そうです、主人慶喜の代理として、総督宮様に拝謁を願い、慶喜の衷情《ちゆうじよう》を、とくとお訴え致したく――」
「それは、だめでしょうな」
西郷が、急に、素気なく言った。
「と、仰せられると――」
鉄太郎は、西郷を睨むように見返す。
「今や慶喜殿は前将軍家ではない。朝敵の名を受けている一罪人です。かりに慶喜殿自身が当地に来られたとしても、総督宮は拝謁をお許しになりますまい。まして朝敵慶喜家臣と名乗る山岡さん、あんたに拝謁をお許しになる筈はありませぬよ」
――そうだ、
鉄太郎は、唇を噛みしめた。
江戸で、自分が簡単に前将軍慶喜と膝を交えるようにして話し合った為か、駿府へ行きつけさえすれば、総督宮に面謁できると思い込んでしまっていた。自分ばかりではない。慶喜も、勝も、勝利者である官軍の側には、儼《げん》として存在している身分の差と言うものをすっかり忘れてしまっていたらしい。
否、何よりも、
――朝敵
と言う首かせを、ぴっちりはめられてしまっていると言う事に対する認識が甘かった。
鉄太郎は、さっと頭をあげた。
「身分も弁《わきま》えず畏れ多いことを申上げて申訳ありません。宮様へのお目通りお許しなき事は当然のことと存じます。が、たとえ、一間を隔て、襖の蔭からなりと、主人慶喜の偽りなき心情、この山岡から直《じ》きにお訴え致したく、偏《ひと》えにお願い申上げます」
「山岡先生」
鉄太郎が次第に激してくるのに反して、西郷は益々冷静に、泰然たる顔容である。
「それはだめですよ。そのようなことをしようとすれば、総督府の兵たちは、あんたを縛り上げて牢に放り込むでしょう。いや、今でも、あんたが朝敵徳川家臣と知れば、早速捕縛するでしょう」
「捕縛されようと、投獄されようと構いませんが、その前に、宮様に――」
「むりを言うものではありませぬ。官軍には官軍の秩序と言うものがあります。こうしてあんたとお話をしているのも、実は少々その秩序に反している事になりますのじゃ」
朝敵徳川慶喜家来と自ら名乗って、官軍の陣営を突破してきた男である。引っ捕えられ、縛り上げられて、白洲《しらす》に引据えられて訊問されるのが当然なのであろう。座敷に通して、官軍参謀ともあろう西郷が、対等に話してくれていることは、破格の扱いと言うべきであるかも知れぬ。
「野人礼にならわず、申訳ない次第です。私はどのような御処分を受けても構いませぬ。ただ、主人慶喜の衷情を総督宮にお聞きとり頂きたいのです。西郷先生からそれを総督宮様に言上して頂けますまいか」
「よろしかろう」
西郷はうなずいた。
「山岡さん、あなたの言われることが、まこと慶喜殿の本心をそのまま伝えるものならば、私から宮様に、しかとお取次ぎしましょう」
「私は主人慶喜から、直接にその偽らざる真情をしかと聞きました」
「では、あなたを慶喜殿の代理と認めてよいのですな」
「はい」
「では承りましょう。今迄、公現法親王様を始め、多くの歎願使なるものが総督府に来られたが、いずれも慶喜は恭順の態、よろしく寛容の御処置を頼むと言うだけのこと、慶喜殿自身がどのように思っておるのか、その恭順の態なるものがまことのものか、そこの処が一向に分りません。あんたが慶喜殿の真情を慶喜殿に代って申述べると言うのであれば、是非承りたい」
「慶喜は朝廷に対し奉って、一点も逆心はありませぬ。ただ赤心を以て恭順の意を表し、謹慎致しております。すでに朝命により征討軍の下られた上は、たとえ命を召されても已むなきものと覚悟致しております。さりながら、その真意が天朝に達せず、朝敵逆賊の汚名をきて果てるのみならず、徳川の宗家も滅亡するのかと思えば、返すがえすも無念。どのように致せば慶喜の胸底、天朝に通じ奉るものなりや、ただひたすらに天朝の思召しをお待ち致しているのみでございます」
「果してそれが本心ですかな」
「何故あって、それをお疑いになるのでしょうか」
「あんたの言われる慶喜殿の本心なるものと、江戸の実情とは全く相反している。慶喜殿はひたすら恭順と言うが、江戸城にはなお幾千の旗本が籠もっており、兵器軍艦もその手に握られている。その他の旧幕臣らの地方に脱れて官軍に抵抗の気配を示している者も少くない。現に甲州では官軍と戦火を交えたものもあると言う報らせが参っている。慶喜殿がまこと恭順の赤心ならば、このようなことはあり得ぬ筈ではありませんかな」
西郷の声はさして大きくはなかったが、深い重みをもって、押しかぶさってくる。
鉄太郎は、首を強く横にふり、力強く反駁した。
「西郷先生、先生は勝者の立場にあって、敗者の惨めさを御存知ない。敗軍の将は惨めなものです。部下といえども主君の言を聴き入れぬ状態なのです。慶喜はたびたび家臣たちに厳命を下して、朝命に反することは許さぬ、余の心を帯して恭順の意を示せと訓《さと》しておりますが、数多い家臣の中にはそれを全く耳に入れず、慶喜を放逐しても抗戦しようと叫ぶ愚昧の者も少くはありませぬ。今や徳川家の統制力は失われて、彼らを制御することができませぬ。江戸の治安を守ることが精一杯。勝安房、大久保一翁らが必死の働きで辛うじて江戸は擾乱に捲き込まれずにいるのです。地方で叛乱を起している連中の如きは、もはや慶喜を主と思わず、徳川家と縁を絶っている鼠賊《そぞく》ども、彼らの思慮なき行動までも慶喜の責任なりと仰せあるのはあまりにも苛酷なお咎めかと存じます」
「なるほど。江戸がそのような状況にあり、慶喜殿が苦しい立場にあることは分り申した。今迄、誰もそこ迄は話してくれなかったのでな」
「官軍はこのような江戸に対して、攻撃をかけられるのでしょうか」
「近く総攻撃の予定でごわす」
「万一そのような事があれば、今、慶喜の命に服している恭順派の旗本まで、恐らく身を挺して闘うようになりましょう。そうなれば双方に無駄な血が流れ、罪なき庶民までが或は死傷し、或は家を焼かれる。西郷先生、そんな闘いが必要でしょうか。王師――と言うものは、そんな無惨な闘いをするものでしょうか」
「官軍はもとよりただ闘いを好むものではない。慶喜殿がその真情通りに行動し、恭順を言葉でなく、事実を以て示すならば、あえて進撃の必要は認めません」
「恭順を、事実を以て示せと仰せあるのは、どのようなことです」
「江戸城を進んで官軍に差出すことが第一でしょうな。家臣たちが反対するかも知れぬと言うことは言訳にはなりません。もし反対する家臣を抑えられぬと言うのであれば、官軍が実力を以て、その連中を征討するよりほかないでしょう」
「分りました。城の明渡しが第一、それから――」
「お待ちなさい。細かい事になると、私一人で勝手に決める訳にはいきません。総督宮に言上し、主だった人々と相談もせねばならぬ。しばらくここで御休息願おう。私は総督府に往ってきます」
西郷は立ち上って、部屋を出て行った。
その巨体が動くたびに、床がみしみしと鳴った。
「山岡さん、どうやら話が通じそうですなあ」
鉄太郎の背後に坐って、西郷と鉄太郎のやりとりを、黙って聞いていた益満が、初めて口を利いた。
「まだ分らん。どのような難題が出るか。どのような事でも承諾するよりほかはないと思ってはいるが――しかし――」
「しかし?」
「武士の意地と言うものがある。その最後の一線は、死んでも貫かねばならぬからな」
「西郷先生はそんな無茶なことを言う人ではありませんよ」
「それは私にも分る。先生は立派な、大きな条理の分る方だ。だが総督府には、必ずしも先生のような方ばかりではないでしょう」
かなり長い間、待たされた。
廊下をゆるがすような大きな足音がして、西郷が戻ってきた。
「お待たせ申した」
座につくと、そう言ってから、
「総督宮から、五ケ条の御命令が出ました。この五ケ条の実効が見られれば、江戸城攻撃はむろん取り止め、徳川家に対しても、御寛典の御処置がございましょう」
と、書面を手渡す。
鉄太郎は、それを押戴いて受けとり、少しく座を退いてから、徐《おもむ》ろに披《ひら》いてみた。
[#ここから1字下げ]
一、江戸城を明け渡すこと、
一、城中の人数を向島に移すこと、
一、兵器一切を引渡すこと、
一、軍艦すべて引渡すこと、
一、慶喜を備前藩にお預けとすること、
[#ここで字下げ終わり]
この五ケ条が明記されている。
一ケ条ずつ噛みしめるように読んでいった鉄太郎の眼が、最後の方にくると、きらりと異様な光りをみせた。
西郷を睨みつけるようにして、鉄太郎が、きっぱり言い切った。
「江戸城開城並びにこれに伴う諸件についての総督宮の御命令は謹んでお受け致します。ただし、最後の一条、慶喜を備前池田藩へお預けのことだけは、お請《う》け出来ませぬ」
「しかし、それが、朝命でござる」
「たとえ朝命でも、これはお受けできませぬ。余りに理不尽」
「山岡さん、言葉が過ぎよう。朝命じゃ」
「朝命でも承服できぬと申上げているのです。西郷先生、慶喜は刀折れ矢尽きた形で、頭を垂れて一身を官軍に委ねようとしております。その慶喜を一個の囚人として、慶喜の旧家臣たる池田家に監禁するとは、余りにも慶喜の面目を踏みにじられた御処分、万一そのようなことが公けになれば、徳川恩顧の者、すべて死を以て抗戦するでしょう。仮りに先生がわれわれの立場に立ったとして下さい。島津公が朝敵となり、慶喜のような立場になった時、島津公を旧臣の下に虜囚としてお預けになると命じられたとしたら――先生は、それをお受けになりますか。武士には武士としての最後の面目、最後の意地が――」
鉄太郎の言葉が、ぷつりと切れた。
巨きな双の瞳の中が熱く濡れてくるのを、必死になってこらえているのだ。
西郷はじっとその鉄太郎を見詰めている。
沈黙がつづいた。
部屋の中も、部屋の外も静かだった。
わずかに、庭の梢《こずえ》で、何かの鳥がちちっと鳴いただけである。
ややあって、西郷が口を開いた。
「山岡さん、あんたの言われることはよく分りました。まことに御尤《ごもつと》もじゃと思います。慶喜殿の御身の上については、この私がお引受けしましょう。必ず、御面目の立つよう計らいます。お任せ下され」
西郷はそう言ったが、総督宮や他の連中が何と言うか分らない。
しかし、鉄太郎は、確信した。
――この西郷と言う人は決して約束は破らないだろう、信じてよい人物だ。
そう思わせるような暖かいものが、この巨大な人の全身を包んでいるのだ。
「西郷先生、よろしく、お願い致します」
鉄太郎は、頭を下げると、手早く眼もとの滴《しずく》をさっと拭った。
西郷は手を鳴らした。
酒を命じた。
「山岡さん、固い話は終りました。一つ献じましょう」
「いや、私は今のところ、朝敵の家臣、縛られて然るべき身です。御酒など――」
「いやいや、山岡さんは強そうじゃ。益満の話では無双の剣士じゃそうな。酒で殺してしまわねば、とても縛られそうもありませんのでな」
西郷が珍しく、そんな冗談を言った。
「では、遠慮なく頂戴します」
冷やのまま三、四杯、ひっかけた。
「ところで、山岡さん」
「はあ」
「江戸から、どうやって来られました」
「歩いてきました」
「なるほど。途中に官軍の兵があった筈ですが」
「はい、多勢おりました。なかなか立派な武器をもって、見事でした」
そう答えて、けろりとして冷酒をあおる鉄太郎を見て、西郷がくっくっと笑い出した。
「先生、何か――」
「いや、別に」
西郷は、何だか少しく嬉しくなったのである。こせこせした奴や、悧巧《りこう》ぶった奴や、ずるい奴や、卑屈な奴ばかり見慣れている時に、こうした大らかな、怖いもの知らずの、いわば、
――大ばか者、
にぶつかったので、どこかほのぼのとした感じがしたのであろう。
鉄太郎が、急に杯を伏せた。
「御馳走になりました。西郷先生、これにて失礼致します」
「そんなにお急ぎか」
「はい、寸時も早く江戸へ戻りたいと思います。主人慶喜も、勝も、私の帰りを待ち焦がれているでしょう」
「そうでしたな、ではお引止めはせぬ。総督府の通行切手は差上げるが――」
西郷は、益満の方に向って言った。
「益満、おはん、山岡さんを江戸までお送りしてたもるか」
「はあ、そのつもりでおりました」
通行切手のお蔭で、帰途は大したこともなく、途中から馬にのって品川まで戻ってきた。
品川宿で、官軍の歩哨の一人が、鉄太郎の乗っていた馬に向って発砲したが、幸いにも弾丸が不発に終ったので無事。
「山岡さん、もう大丈夫だ。ここでお別れしよう」
三田薩摩屋敷近くまで来た時、益満が馬を止めて言った。
「あ、色々と――お礼は言葉では言いつくせぬ」
「何を、山岡さん、改まって――又、近々に、ゆっくりお目にかかりましょう」
「では」
鉄太郎は桜田門から城内に入った。
――山岡が帰った、
と聞いて、御用屋敷にいた勝と大久保一翁とが、思わず膝を立てかけた。
「すぐ、ここへ呼べ」
鉄太郎は、袴の裾に道中のほこりをつけたままの姿で、のしのしとやってきた。髪もやや乱れ、さすがに疲労の色を隠せない。
「大総督府に行って参りました」
鉄太郎は、座につくなりそう言った。
その鉄太郎と眼を合せた勝が、
――あ、うまくいったな、
と、微笑を浮べた。
「御苦労でした」
「使命のほどは果し得たと思います」
西郷から手渡された五ケ条の書きものを勝に差出し、談判の次第を簡単に説明した。
「第五条、よく頑張って下さった。山岡さん、有難い」
「西郷先生が引受けると言われたのですから大丈夫と思います」
「うむ、あの仁《ひと》なら、安心して任せてよいと思いますよ」
「私はこれから、上野へ参上しようと思いますが」
「私も同道しよう」
鉄太郎の報告を聞いた慶喜が、どれほど安堵《あんど》し、どれほど悦んだかは、改めて記すまでもないであろう。
――早速この旨、江戸市民に報らせよ、
と言う慶喜の命令によって、江戸の町々に布告が掲げられた。
――このたび大総督府参謀西郷吉之助殿との応接相済み、恭順謹慎の実効相立ち候上は、寛典の御処置相成候につき、市中一同動揺致さず、家業に励むべきこと。
今にも官軍が攻め込んでくるかと浮足立っていた市民たちは、ホッとして、
「おい、もう戦さはねえんだとさ」
と、悦び合った。
[#改ページ]
江 戸 開 城
江戸城内の御用部屋。
上下二間に分れ、上の間には老中、下の間には若年寄が詰めて政務を決した処である。
その御用部屋の上の間に、若年寄大久保一翁と陸軍総裁勝安房守とが、ただ二人でぽつんと坐っていた。
幕府が廃され老中のなくなった現在、徳川家家臣団の指導的地位にあるのはこの二人である。
広い御苑の樹々の梢は、ようやく活々とした濃い緑の色をみせていたが、殿舎の内の空気は重く沈んで全く生気がない。
城はもはや、天下の覇権を握るところではなく、列侯の怖る怖る伺候するところでもない。明日をも図り難い一徳川家の居城に過ぎない。しかも当主は城を脱れて上野に蟄居《ちつきよ》し、旗本以下の家臣は心も空に、いたずらに狼狽《ろうばい》しているばかりなのだ。
征討軍はもはや、東海道は品川宿まで、東山道軍は内藤新宿までやってきている。いつ、江戸城総攻撃が始まるか分らない。
本来なら、城内に士卒満ちあふれ、各門の固めは充分になされていなければならぬところだ。
が、現実には殆ど何の戦闘準備もなされていなかった。大久保も勝もそれを命令しなかったし、旧幕臣の誰も、二人に迫って応戦準備をせよと言うものはいない。
ただ声を大にして、
――薩長奸賊におめおめ屈服できるか、
――最後の一兵まで闘え、
などと、埒《らち》もない強がりを言うだけなのである。
「西郷、どう出てきますかな」
大久保が、ぽつりと言った。
「さあ――山岡の報告によれば、話は分ってくれた様子――少くも、急に総進撃を命じるような事はないでしょう」
「私も、西郷は大丈夫と思っていますが、総督宮の周囲には随分分らず屋がいるようですからな」
「それを私も、案じています」
「となると、この城、殆ど全く無防備のままでよいのかな」
「防備の根本は、守る兵たちが飽く迄、守り抜くと言う気構えをもつことでしょう。今の旗本連中にそんな気構えはありませんよ、ごく一部の者を除いてはね」
「万一の用意に、そのごく一部の連中だけでも集めておいたらどうですかな」
「それもいいでしょう。しかし、総攻撃を受けたら、三日も持たないでしょう」
「まあ、そんなところだな」
「お互いにつまらない時に、この城の責任者になりましたね」
「全く――同じことなら、敵軍を引受けて、挙城一致、天下分目の戦をする――と言うような時に、指揮をとりたかったですよ」
「ところが今は、何とか戦いをしないで済むようにと願うばかりだ」
「こうなっては戦いは全く無意味ですよ、我々にとっても、官軍にとってもね、ただ無益の意地っぱりから血を流すだけだ――」
「そこは西郷もよく分っている筈、どんな反対があっても抑えつけてくれる――と思いますが――勝利者の立場に立つと、どう気が変るかも知れぬし――」
同じ人間でも、立場が変ると全く思いがけない事を言ったり、したりすることを、経験によっていやと言うほど思い知らされていた勝が、懐疑的な言葉を吐いた時、廊下を慌しくやってくる者がある。
敷居の外に膝をつくと、
「只今、官軍参謀西郷吉之助殿使者が、安房守様宛の書面を届けて参りました」
「西郷の書面?」
勝が、ぱっと顔を輝かせて、受取った書面に眼を走らせたが、
「大久保さん、これは――驚いた。西郷はもう池上本門寺に来ています」
「えっ、西郷は駿府で山岡に会った許りではないか」
「その西郷が、只今当地に到着、明日にも私に会いたいと言ってきているのです――恐らく山岡が辞去した直後、西郷は駿府を発《た》ったのでしょう」
西郷は超肥大のため馬に乗れない。駕籠を利用したので鉄太郎らより一日半、江戸着が遅れたのだろう。
――それにしても、何と言う素早い、思い切った決断であろうか。山岡の話を聞いただけで、無血開城を確信し、自ら敵地に乗り込んでくるとは。
勝も大久保も、思わず呻《うな》った。
「信を敵の腹中に置く――と言うのかな。やはり大した男ですよ、西郷と言うのは。大久保さん、もう大丈夫。戦争はありません」
「勝さん、よかったな――で、すぐに返書を」
「さよう、明日――どこがよいか――そう、薩摩中屋敷でお目にかかるとしましょう」
勝は、すぐさま返書を認《したた》めて、西郷の使者に持たせてやった。
「明日は、独りで行かれるか」
大久保が質《たず》ねた。
「はあ、西郷が私を名指して来たのです、一人でゆきます――ただし、山岡は連れていきましょう。事をここまで運んでくれたのは、あの男ですから」
「あ、それは、その方が良い」
翌《あ》けて、三月十三日。
勝は、山岡を伴って、高輪《たかなわ》南町の薩藩中屋敷に向った。
空は妙に曇って、今にも降り出しそうな気配であったが、馬上の勝も鉄太郎も、ひどく明るい表情であった。
西郷が、山岡の口から慶喜《よしのぶ》の真情をとくと聞きとり、その謹慎恭順を確認するや否や、ただちに江戸にやってきたのは、こちらの言分を完全に信頼してくれた証拠だとみてよい。
――談判は、十中九まで成功したようなもの、
勝は、そう考えている。
――総督府内部には強硬な征討論者がいて強く反対したに違いない。それを一瞬の中に押し伏せて、和平実現の為に自ら出馬してきたとすれば、東征軍中における西郷の威権は完璧《かんぺき》とみてよい。その西郷を対手に交渉をまとめさえすればよいのだ。
前途も明るくなった感じである。
鉄太郎は、政局全体についての責任を負っている身ではない。ただ西郷と言う人間の珍しさに改めて愕いていた。
西郷は、たった一度会っただけの、全く無名の男の言ったことを完全に信じ切って何の疑いも持たず、即座に駿府を発って、和平実現交渉にはいろうとしているのだ。
駿府で会った西郷の、巨体と巨顔とを思い浮べると、同時に、温かい滋味――と言ったような雰囲気が、じんわりと全身に覆いかぶさってくるような気がする。
――負けた。あのおやじには、
鉄太郎は、腹の中で、敵将に頭を下げた。
勝は、羽織袴に細身の大小、贅沢な身装《みなり》ではないが、垢抜けのした江戸育ちらしい姿。鉄太郎は駿府へ赴いた時のままの、あまり冴えない衣装で、薩摩屋敷に入った。
二人の通った部屋は、庭を距てて海に面している。強い、磯の匂いが漂っていた。
「や、お待たせ致しました」
姿より先に、大きな声がして、庭伝いに西郷が現れた。
――戎服《だんぶくろ》
と言われた詰襟のだぶだぶの洋服に、兵児《へこ》帯を巻きつけていたが、その帯には刀を差していなかった。
たった一人である。
勝の正面に、きっちりと膝を揃えて坐った。いかにも窮屈そうに見えるが、西郷は平然たる顔付きで、先に挨拶した。
「勝先生、しばらくでございました」
勝利者の傲《おご》りはどこにも見えない。旧知の大先輩に対する鄭重な態度である。
「西郷先生、ずいぶんお早い江戸入りでしたなあ」
勝が応じた。
西郷は、鉄太郎に向って一礼し、
「こちらの山岡さんから色々お話を伺いましてな。山岡さんが私の出した条件をみな呑んで下さったので、早速、お話をまとめに参りました」
「西郷先生、この山岡に対する御信頼、心からお礼申上げます」
「いや、いや、山岡さん、あんたの誠意には私も打たれ申した。この仁《ひと》の言われることなら間違いないと、あんたの出ていかれた後、すぐに支度して駿府を出ましたよ」
にこにこと巨きな頬を崩して言った西郷が、急に表情を改めた。
勝の方を向いて、言う。
「勝先生、官軍を迎え撃つ準備は、整えておられたのでしょうな」
痛い処を、ぐさりと衝いたように見える。
「はあ、和平望みなしと決まれば、最後の一戦はやむを得ませんからな」
勝は、しゃあしゃあとして答えた。
「が、その必要は、もうありませぬよ」
西郷は、さらりと言ってのけた。
「総攻撃は、中止ですか」
「さよう」
「いつの御予定でしたか」
「明後十五日」
――十五日
そんなに切迫していたのかと、勝も山岡も、内心、ひやっとした。
「では官軍、全員張切っていたでしょう。攻撃中止命令は、いつ出されたのです」
「只今、これから」
西郷は、隣室に声をかけた。誰もいないと思った隣室から二人の男が姿を現した。
二人とも見るからに精悍な薩摩|隼人《はやと》だ。
勝も鉄太郎もこの二人を知らなかったが、薩軍では誰一人知らぬ者はない猛者《もさ》、中村半次郎(桐野利秋)と村田新八である。
西郷が、二人に言った。
「おはんら、全軍に伝えてくれぬか、明後日の江戸城総攻撃はひとまず中止するとな」
二人とも、ぎくっとした様子で、西郷の顔を見返したが、ぎょろっと巨眼で睨まれると、
「はあ」
と、揃って頭を下げ、退出していった。
勝は思わず鉄太郎と顔を見合せた。
――これは、敵わん、
二人とも、そう思ったのだ。
明後日に控えた総攻撃の中止と言う重大決定を、西郷はいとも簡単に申渡し、部下は諾々として退いていった。
これで、ぴたりと総攻撃は中止されるだろう。
――幕軍の場合だったらどうだろうか。喧々囂々《けんけんごうごう》として異議百出し、三日かかっても結論は得られないのではないか。伏見・鳥羽で幕軍が敗れたのは当然だ。
暗然たる思いの勝に、西郷が再び呼びかけた。
「ところで、勝先生」
「はあ」
「あの節、山岡先生に御承諾戴いた件、陸軍総裁としての勝先生、いや、徳川家代表としての勝先生にも御異存ないのでしょうな」
「山岡は、慶喜の代理として駿府に参ったのです。その山岡が承諾致した件につき、何の異存もある筈はありません。但し――」
「但し――何ですかな」
「兵器軍艦引渡し、城内兵士向島へ移転の件など、早急に要求されても実行不可能。暫時の御猶予を戴きたい」
「それは、当然のことでしょうな。その間、官兵は市内に入れません。その代り、その期間、江戸城下の治安維持については、勝先生の方で責任をとって戴きますよ」
――これは参った、
と、勝は内心、大いに弱った。
江戸の治安は極度に悪い。今まででもぎりぎりの線で何とか抑えてきているのだが、総攻撃延期となれば、又、暴論を述べ出す奴が出てくる。この際とばかり鼠賊・暴民らも跳梁する。全く手に負えぬ小うるさい奴らなのだ。だが、そんな泣きごとを、西郷に向って言う訳にはゆかない。
「承知致しました」
「勝先生に御引受け頂ければもう安心」
西郷が笑った時、鉄太郎が膝を乗出した。
「西郷先生」
「はい」
「大事な件について、お話がございませんでしたが」
「何のことでごわす」
「主人慶喜に対する御処置、どのように決まりましたでしょうか」
「慶喜殿御一身については、私がお引受けすると申した筈ですが」
「はあ。しかし、本日、その点について何の御示達もありませんが」
「それはまだ朝議が決定していないからです」
「では、慶喜処分の件は全く未決定なのでしょうか」
「あの時、山岡さん、あなたは、慶喜殿が旧家臣たる備前家へお預けとなるのは断じて承服し難いと抗議された。私はそれを御尤もと思い、そのようなことはせぬ、慶喜殿の面目の立つようにするとお約束した」
「そうです」
「その約束は、この西郷の目の黒い中は必ず守ります。ただ、その結果、慶喜殿がどのような処分を受けられるかは、私一人で決定できる問題ではない。私は和平開城の議を確認した上、直ちに京へ上って、慶喜殿の件につき出来るだけ寛大な処置のあるよう歎願するつもり――山岡さん、私を信じて頂きたい。今の私にはこれ以上の事は確言できません」
慶喜のために、西郷は自ら京に戻って宥免工作をしようと言っているのだ。これ以上のことをどうして要求できようか。
「西郷先生、差出たことを申しました。お許し下さい」
「いやいや、主君を思えばこそのこと」
一時やや緊張したかに見えた西郷の表情は、また、いつもの温顔に戻っていた。
「私は、明日、駿府に戻って総督宮に御報告申上げ、その足ですぐ京に向います。この通り肥っているので、道中は難儀致しますがな」
西郷が屈託のない笑い声を立てた
庭の方で、騒ぎ立てる声がしたのは、その時である。
鉄太郎が立っていって、廊下に出た。
庭に立って、四、五人の者が、海上を指さしていた。
曇った空の下で、海は鉛色のうねりをみせている。
水際から少し離れた海上に、船が二|艘《そう》見えた。その上に七、八人の武士が乗っていた。
陸上の屋敷の方を指して、何か話し合っているその男たちの形相はひどく亢奮して、険悪な色が光っている。
「奴ら、銃を持っている」
庭に立っていた男たちの一人が叫んだ。
「賊どもが、西郷先生を狙っているのだ」
他の一人がつづいて言った。
鉄太郎は、水際の低い石垣の処まで出ていって、大声で呼びかけた。
「何者か、お主らは」
「うぬこそ、何者だ」
と言う返事がかえってきた。
「精鋭隊の山岡鉄太郎」
――山岡?
船上の者は囁《ささや》き合っている。
「おい、聞け」
鉄太郎が大声で言った。
「何をしておる。そこで」
「そこに西郷がいるだろう」
「いかにも」
「お主が精鋭隊の者なら、西郷を斬れ、お主が殺《や》れんのなら、退《の》け。おれたちが西郷を射ち殺す」
「ばか者! 西郷参謀は、上野におわす上様の御身柄の御安泰を図るために必死の努力をしておられる。今もその為の相談をしているところなのだ。それが分らんか。大ばか者!」
怖ろしく大きな声が、波のうねりの上を響き渡っていった。
船上に、動揺の色が見える。
鉄太郎は重ねて、怒号した。
「どうしてもやると言うなら、ここに上って来い、飛道具など卑怯だぞ、武士らしく闘え。このおれが対手になる」
船上の者は、何やら話合っていたが、やがて一人がいまいまし気に叫んだ。
「上様の御安泰を図っていると言ったな、その言葉を忘れるな。万一、偽りと分ったら、山岡、うぬから先に片附けるぞ」
「この山岡、生れてからこの方、偽りを言ったことはない。さっさと消え失せろ」
二艘の船は、沖に向って後退し、進路を変えて、佃島《つくだじま》の方に遠ざかっていった。
庭と船の上とで、こうしたやりとりの行われている間、座敷に対座している勝と西郷とは、平然と話合っていた。
「西郷先生、あの通りのばか者が多くて困っております。失礼の段、お許し戴きたい」
「いやいや、この私が殺されれば、官軍の兵の戦意がふるい立ちますよ。結構ではありませんか」
「これは、御挨拶――その通りかも知れませんな」
どちらも、すっ呆けた言い分である。
西郷が庭にいる鉄太郎を目顔で指した。
「あの御仁は、始末におえん人ですな」
「山岡が、始末におえん……?」
「はあ、無茶苦茶な人じゃ。官軍の本営まで、しゃあしゃあとして這入《はい》り込んできて、言いたい放題のことを言っておった。命もいらん、名もいらん、金もいらんと言う人でなければ出来ぬことじゃ。全くああ言う人にかかると、どうにも始末におえませぬよ」
「なるほど」
「しかし、あのような始末におえぬ人でなければ、天下の大事は語れませぬ。慶喜殿は、よい御家臣をお持ちですな」
鉄太郎が、けろっとした面持で、座に戻ってきた。
「お騒がせしました。ばか者どもは帰ってゆきました」
「山岡君、よく、鉄砲で射たれなかったな」
勝はにやにやしながら言う。
「そうでしたな。奴ら、どうして私を射たなかったんでしょうかな」
西郷と勝とが、顔を見合せ、声を立てて笑い出した。
「何かおかしいのですか、西郷先生」
「いや、なに、私も命が助かったのを悦んでいるのですよ」
勝と鉄太郎は、暇を告げた。
薩摩屋敷を出て、芝四丁目の川村宗丹の邸の前にさしかかった時、背後から呼びとめられた。
「山岡氏、ちょっと待って頂きたい」
遠くから、そう言う者がある。
「何か用があるらしい、ちょっと行ってきます。どうぞお構いなく、お先へ」
鉄太郎は、勝にそう挨拶しておいて、馬を返していった。
薩摩屋敷の門のところに、二人の男が立っていた。西郷の総攻撃中止命令を伝えに去った二人である。
――何か、このおれに文句をつけるつもりだな。
鉄太郎は、そう覚悟しながら、馬を降りて二人の前に立った。
「何か御用ですかな」
二人が、名乗った。
「中村半次郎」
「村田新八」
「で、御用件は」
村田新八が、よくみると案外|愛嬌《あいきよう》のある顔に、苦笑のようなものを浮べながら、言った。
「貴公はこの間、官軍の陣営を、勝手に通り抜けて、駿府へ行かれただろう」
「その通り」
「われわれは小田原におった。先鋒隊からその旨通知があったので、貴公を追いかけて切り棄てようとしたのだが、貴公むやみに足が早いらしく、到頭、追いつけなかった。どうにもいまいましく思っていたから、ちょっと、その事を言いたくて呼びとめたのだ。他に用件はない」
「はあ、さようか、それは当然だな。私は江戸っ子で敏捷、足も早い。貴公らは田舎ものでノロマだ。私に追いつけなかったのは当り前だろう」
「くそ、言いたいことを言いおる」
「いや、新八、この人の言う通りじゃ、たしかに江戸っ子は素ばしっこいわ」
「これからも、そのつもりでいて頂きたいな」
三人が、声を合せて、笑い出した。
「では、失礼する」
「今度は、逃がさぬぞ」
鉄太郎が本芝一丁目までくると、橋の袂に勝が待っていた。
「これは、恐縮です」
「用件は」
「いや、たわいないことでした」
鉄太郎が事情を話すと、勝も笑い出した。
「薩摩っぽ、存外、人の良いさっぱりしたところがありますな」
「山岡君、私はすぐに城に戻って、江戸城攻撃命令が正式に延期されたことを皆に報らせる。あんたも来てくれ」
「はあ」
二人は馬を列《つら》ねて、虎之門から大名邸の間を、桜田門の方に向っていった。
右手が潮見坂。
そこでちょっと、道が、鉤《かぎ》の手型に、左に曲っている。
二人の馬が左折した。
鋭い銃声が、二人の耳許をかすめた。
四人の従者は、素早く両側の屋敷の塀の方に走り、それから、銃丸の飛んできた方に向って、身構えた。
馬上の二人は、ちらっとその方を眺めた。
坂の上を裏《うら》霞ケ関の方に向って逃げてゆく二人の男の姿が見えた。
二人は、何も言わずに馬を進めてゆく。
従士たちが、慌てて寄ってきた。
「殿さま、お怪我は?」
自分たちの狼狽ぶりが、気恥かしかったのだろう、照れくさそうな顔をしていた。
「大丈夫、別条ない」
勝はそう答えてから、鉄太郎の横顔をみて、半ば冗談のように言った。
「山岡君、あんな時は、馬上に身を伏せるものじゃないかな」
「そうでしょうな」
「何故、伏せなかった」
「私はこの通り大きなからだをしています。からだを立てていたって、伏せてみたって同じこと、どっちみち当る時は当りますよ」
「なるほど」
「勝先生は、何故、伏せなかったのです」
「私はこの通りからだが小さい。からだを立てていても伏せていても同じこと、めったに当らぬと思いましてな」
「なるほど」
二人が声を合せて笑うのを、従士たちは、呆気にとられて見上げていた。
翌十四日朝の二度目の会談が行われた時、西郷は提案した。
「慶喜殿の御一身のことだが、備前藩お預けは取りやめ、隠居して御生家のある水戸に謹慎すると言うことではどうですかな」
当然命令してよい立場の西郷が、相談するような口ぶりである。
「忝《かたじけ》ない。そのようにお図らい下さるならば、慶喜の面目も立ちます」
「西郷先生、有難うございました」
勝も鉄太郎も、心から感謝した。
「むろんこれは私の考え、これから大総督府、更に京のお偉方を説伏せねばなりません。が、ま、お任せ下さい」
西郷はこの会見を済ますと、直ちに駿府に向って出発した。
十六日夕刻、駿府到着。
総督宮に説いたが、
――そのような重大な決定は自分の考えのみでは決定できぬ。朝議を経なければ、
と言う。
西郷は驚くべき活動ぶりをみせた。
その夜、駿府を発して京に向い、二十日午後には京に到着、休む暇もなく岩倉、大久保、木戸らに働きかけ、翌二十一日朝、早くも、
――徳川家並びに江戸城処分案、
についての会議開催を決定させた。
二十一日巳の刻(午前十時)、当時仮りに太政官政庁のおかれていた二条城において、会議が開かれた。
集ったのは総裁三条実美、副総裁岩倉具視、参与大久保一蔵、広沢兵助(真臣《さねおみ》)、木戸準一郎(孝允)及び西郷吉之助。
江戸城の無血開城については誰もこれを歓迎し、異論はなかったが、慶喜の処分問題になると、議論が沸騰した。
最もはげしい硬論を唱えたのは長州の広沢である。
「徳川十五代、朝廷をないがしろにし不忠の限りを尽している。まして嘉永・安政以後はしばしば違勅の罪を犯したのみならず、鳥羽・伏見の一戦においては正しく錦旗に向って発砲している。到底許すべからざる逆賊、慶喜は当然斬首すべきであるにも拘らず、天恩博大、一命を助けて備前藩にお預けとしたのは、彼の分に過ぎたる寛典の御処置、それをも不服とは何事か。改めて極刑に処するがよろしかろう」
長州は関ケ原以来、徳川氏に対する怨恨を蓄積して来ている。禁門の変、これにつづく征長役によってその怨みは更に倍加していた。激情家の広沢が、極論を唱えたのは当然であったろう。
岩倉も亦、西郷の提案には不満の表情をみせて、
「水戸は慶喜の生家、そこに隠居せしめると言うのでは、事実上処罰にならぬ、朝廷の威光を示すためにも、処罰の実を示すような措置を講ずべきではないか」
と反対した。
こうした反論は、西郷も充分覚悟していたことだ。
――慶喜の大罪はすでに誰の目にも明らかだ。しかし、慶喜はひたすらその罪を悔い、恭順の意を表している。私は勝や山岡からその実情を聞いたが、決して表面だけのものではなく心底、謹慎の意を示しているようだ。江戸城も素直に明け渡すと言ってきている。いわば頭を垂れて降を乞うてきているのだ。それを更に辱かしめるような処分をしたならば、未だ向背の定まらぬ東北各地の諸大名は、意地になって捨身の戦をやる気になるかもしれぬ。そうなっては無益の戦がつづくだろう。この際慶喜に寛大な処置を講ずることが、朝恩の有難さを知らしめ、諸大名を恭順させるのに有利なのではないか。
西郷は、諄々《じゆんじゆん》として説いた。
だが、広沢は、容易に屈しない。
騎虎の勢い――と言うものか、水戸退隠論など無視して、慶喜斬罪を改めて主張する始末である。
どうやら岩倉も、これに引込まれてゆく様子が見えた。
延々として四時間に亘る討議がつづいたが、いつ果つべしとも思われぬ状況だった。
突然、西郷の顔色が、さっと変った。
三条がそれに気づき、思わずどきりとして息を詰めた時、西郷が憤然たる語気で言い切った。
「よか、そいじゃ、あんた方のよかようになさるがよい。私は一切手を引き申そ、これにて御免蒙る」
巨体をゆすって、立ち上った。
「ま、まず、待ちなされ、短気を起してはならぬ、ま、坐って、坐って」
三条が慌てて、西郷の袖をつかんだ。
三条には定見はない。西郷が諄々と説くと尤もだと思うし、広沢が怒号すると、それもそうだと考える。
が、何よりも怖いのは西郷の怒り出すことだった。彼は西郷を最も頼りに思っている。
――朝廷
と言うものの実力、殊にその軍事力は零に近い。それは殆ど全く薩長の軍事力に依存しているのだ。なかんずく――三条の考えによれば――薩州に依存している。
かつて長州に全面的に依存したため、都落ちをしなければならなかった苦い経験から、長州よりも薩摩に依存する気持の方が強い。
そしてその薩摩の軍事力を一身に体現していると思われるのが西郷なのだ。
――西郷が去ると言うことは、薩摩が去ると言う事だ。それは朝廷の軍事力の崩壊に他ならない、
そう思っているのだ。
――今、西郷を怒らしてしまうと、どんな事になるか分らぬ、新政府はがたがたになってしまう、
三条は恐怖の念に、身の内が震えた。
「西郷参謀、もう少し話し合おう」
三条の恐怖は、岩倉にも伝染した。
この男は三条に比べれば遥かに図太いものを持っていたが、畢竟は公卿である。王政復古以来の剛胆ともみえる態度も、背後に大久保と西郷とが控えていればこそとれたのだ。
新政府が漸《ようや》く出発しようとしている現在、西郷に見捨てられたならばどうなるかと考えると慄然《りつぜん》とせざるを得ない。
「西郷参謀の言うことも一理あるようだ、もう一度よく討議し直してみよう。大久保参与はどのような意見か、先刻からずっと沈黙をつづけているようだが」
岩倉が、初めて妥協的発言をした。
大久保は大きな見地からみて西郷の議論が正しいと考えていながら、あえて発言しないでいた。
――自分が初めから西郷説に賛同すれば、割合に早く議論は終結するだろう。それより最後まで西郷と広沢とを対立させ、最後に自分が発言することによって、西郷説を通すことにした方がよい、
と、計算していたらしい。
「私は吉之助の説に賛成致します。今迄、差控えておったのは、吉之助と私とは御承知の如く全く一心同体の間柄、私が吉之助と同じ発言を致すよりも、異なる議論を出して頂いて論議を尽した方がよかろうと存じたからのこと。意見を申せとならば、慶喜寛典然るべし、今日の急務は一日も早く全国を朝廷の下に統合すること、一慶喜の生死栄辱などはとるに足らぬことと存じますよ、木戸君も同じ考え方と思われるが」
木戸は広沢と同じ長州藩なので、広沢と真向《まつこう》から対立するのは避けたが、暗に西郷説を支持するような言葉を洩らしていた。
木戸にとっては、もはや慶喜などどうでもよいのである。降服する者は宥《ゆる》してやるがよい、愚図愚図している時ではない。なによりも諸外国の見守る中で、国内の紛争を続ける愚劣さ、危険さを、より深く反省すべきだ。
――全国統一
こそ、最大の問題ではないか。
この男にとって、もはや、藩と言うものはそれほど大きな意味をもっていない。長州藩の幕府に対する怨恨などと言うものは、その脳中から消えてしまっている。この段階において木戸は、西郷は勿論、大久保よりも、高い次元で、日本全国を単位とする大きな動きの将来を心配していた。
「広沢君の言う処も分るが、この際、過去のことには目をつむって、将来を考えるべきでしょうな。国内統一が一日遅れれば、一日わが国の損、慶喜宥免が国内統一に少しでも有利なら、当然その措置をとった方がよい」
広沢は、凄い眸《め》で木戸を睨みつけたが、それっきり口をつぐんでしまった。
こうなると、結論は当然、西郷案に落ちつくほかはない。
西郷も、腰を落ちつけて、討議をつづけた。決定した事項は次の如くである。
[#ここから1字下げ]
一、江戸城は開城して、差当り、これを田安慶頼が預かること、
一、軍艦、軍器は朝廷に奉ること、
一、城内住居の家臣は城外に移って謹慎すること、
一、徳川の家名を立つることは許すが、慶喜は水戸に退隠して謹慎すること、
一、慶喜の妄挙を助けし者も、特に寛典に処すること、但し、万石以上の者は、朝裁を待つこと、
[#ここで字下げ終わり]
これは叛乱軍に対する処置としては、未曾有の寛大な措置と言ってよい。
ただ一人の死刑者もなく、謹慎を命じただけである。万石以上の者すなわち旧幕方諸大名に対しては追って沙汰があると言うのだ。
西郷は、目的を達した。
会議が終ると、その日の中に京を出て、二十五日に駿府に還り、総督宮に報告した。
肥満した西郷にとっては、ずいぶん苦しい東奔西走であったろう。
勝には、この決定は、すぐに内報されたが、正式に徳川方に伝達されたのは、四月四日である。
この日、官軍の使節橋本実梁・柳原前光は、西郷を従えて江戸城に赴く。
田安慶頼は、旧幕府重臣連を従えて西の丸にこれを迎え、謹んで朝旨を承った。
――開城の期日は来る四月十一日、
と、申渡された。
慶喜はその前日、江戸を退去する予定であったが、一日遅れ、開城当日の朝未明に江戸を去っていった。
これは、開城と慶喜の退隠に不満な旧幕士たちが、檄《げき》を飛ばして、
――上様を途中で奪って城にたてこもろう、
と図ったからである。
勝と高橋伊勢守とは、ひそかに相談して、
――上様、御病気の為、十日の御発程は延期する、
と公表した。
そして不穏計画の方も一応延期になったことを見届けた上、十一日朝四時、急遽《きゆうきよ》、慶喜を江戸から出発せしめたのである。
慶喜の江戸退去については、孤影|悄然《しようぜん》として、わずか数十人の家臣を伴って、喪家《そうか》の狗《いぬ》の如く去っていったかのように記すものが多く、
――将軍江戸を去る、
悼《いた》ましい悲劇が伝えられているが、正史によれば、この日、慶喜に従った者は、
――銃卒数百人、銃剣隊千二百人(明治天皇紀第一巻)
となっている。不逞の士の来襲に備えての事であろうが、堂々たる隊伍をととのえての退去であった。高橋伊勢守・山岡鉄太郎・中条金之助らは、むろん扈従《こじゆう》した。
十五日、水戸に到着、弘道館に入る。
総督府の内示により、近侍の士二十名を除き、大部分の者は江戸に戻り、残余は水戸城外に謹慎した。
慶喜が江戸を離れてから数時間後に、東海道先鋒総督橋本実梁、参謀海江田武次、同木梨精一郎らは、尾張・薩摩・長州・肥後・備前・大村・佐土原の諸藩兵を率いて、江戸城大手下にやってきた。
旧幕府若年寄川勝備後守広運、大目付堀錠之助以下三十数名が礼装してこれを迎え、城内に嚮導《きようどう》する。
城引渡し完了。
城内は尾州藩兵が守備すること、兵器類は肥後藩が管理することとなった。
ただし、肥後藩が受取った兵器は、銃七百二十余挺、大砲数門に過ぎず、多くの兵器は脱走兵に運び去られていた。
城内の旧幕兵士も二、三百名に過ぎず、その他はすべて脱走隊に加わってしまっていた。
旧幕府旗本以下の脱走隊は、総数五千以上に上ったと言う。その中核となったのは、秋月登之助の伝習第一大隊と、大鳥圭介の伝習第二大隊で、このほか有志の者が結成した回天隊、貫義隊、草風隊、純義隊、誠忠隊などである。
それぞれまだ官軍の進駐していない地帯に向おうとして、期せずして市川で会同した。
とりあえず集ってきた全軍の総督として大鳥圭介を選び、参謀として土方歳三が推された。
――日光東照宮に謁して、冤罪《えんざい》を訴えた上、徳川家再興を謀る、
と言うことになり、二手に分れて宇都宮に向う。
この状勢の下で、
――日光の神廟《しんびよう》に謁し、
と言う発想をみても、彼らが、滔々として変りつつある時代の姿を全く認識していなかったことは明らかであろう。
それにしても江戸開城は一応無事に終了するかと思われたが、予期しない事件が勃発した。
開城に伴って、兵器及び軍艦の引渡しが決定しており、兵器は形式的にもせよ、城内に残っていた分はすべて引渡されたのであるが、軍艦の方が、そうはゆかなかった。
海軍副総裁榎本釜次郎(武揚)は、幕府の軍艦七隻を率いて品川から脱走し、館山に逃げてしまったのである。
幕府側の代表者田安慶頼は愕いて、早速、総督府に陳情書を差出した。
――軍艦脱走、恐入り奉ります。直ちに呼戻して御引渡申上げたいと存じますが、何分海上の事故、日限を決め難く、暫時御猶予下さいますよう。
官軍側は条約違反だと憤ってみても、自ら追跡して脱走軍艦を捕獲する海軍兵力などありはしない。
――勅諚に反する仕儀、怪しからぬ次第、この上は其許《そこもと》自身、船を飛ばして追いかけ引渡すべし、さもなくば徳川の家名にかかわることとなる、
と、再び威嚇《いかく》戦術に出た。
田安慶頼は困り果てて、大久保と勝とを呼びよせ、
――何とか軍艦を呼び戻してくれ、
と命ずる。
「こういう事は私は苦手だ。勝さん、頼む、あんたは榎本とは親しい仲だし」
大久保一翁は、万事、勝に押しつけた。
勝も西郷と約束した開城条件の一つだから、引受けざるを得ない。
――釜次郎、面倒な事をしてくれたな、
とぼやきながら、船に乗って館山に直行、軍艦開陽に乗込んでいた榎本和泉守に面会した。
「困るじゃないか、こんな事をしてくれちゃ。私の身にもなってくれ」
江戸っ子同士、遠慮のないつき合いをしている仲なので、勝がいきなりそう言う。
榎本は負けていない。
「勝さん、私は御承知のように江戸開城には大反対だった。松平太郎と結んで城を奪って官軍と闘うつもりだった」
榎本は陸軍奉行松平太郎、七聯隊の米田桂次郎、桑名藩の立見鑑三郎らと図って、開城に先立って江戸城乗取りを計画したが、白戸石助がひそかにこれを慶喜に密告した。慶喜は大いに怒って松平の陸軍奉行を解任し、計画を画餅に帰せしめた。これは、勝も知っている。
「上様の御叱責によって、それは諦めたが、このまま軍艦を官軍に引渡す訳にはゆかぬ」
「何故だ、軍艦引渡しは、上様も御諒承のことだ」
「上様は官軍の要求は何でも聴き入れられるだろう。だがわれわれは違う。官軍の出方次第では、大人しく引込んではおらん」
「どう言うことだ、それは」
「朝廷では、徳川家お取立と言っているが、一体誰に徳川宗家を嗣がすつもりか。徳川家の新封土を、どこで何十万石賜わるのか、何も言っておられぬ」
「それはいずれ、発表されるだろう」
「上様も水戸に退隠されたが、今後どうなるのか分らぬ」
「上様の御一身は西郷が保証してくれた」
「そんな事があてになるか。私は、徳川家の将来と上様の御身の上が明確になるまで、軍艦は手放さぬ。万一不当な決定が下されれば、飽迄闘う」
「榎本さん、そりゃ、考え違いだな」
「何故だ」
「西郷は今度、上様の御身の上について真剣に考慮してくれた。備前藩お預けから御生家での御隠居に変更してくれたのも、西郷の力だと言ってよい。徳川家の将来についても西郷は、必死になって努力している。しかるに今、貴公が開城条約に違反して軍艦を引渡さぬと言うことになると、西郷は窮地に陥る。強硬派はそれみよとばかり、上様に対する寛典を取り消し、徳川家再興を阻止しようとするだろう」
勝は榎本を睨みつけて、声を荒らくした。
「君の無謀な行動によって徳川家が廃絶となり、上様の御命に拘るようなことになるかも知れないのだぞ」
榎本は下唇を噛んだ。そこまでつきつめて考えなかったのだ。
「軍艦を返せば、大丈夫と言う保証はあるのか」
「返さなければ、駄目だと言う事は確実だよ」
榎本はしばらく黙っていたが、苦し気な声を出した。
「この艦隊に乗っている連中は、何よりも船を愛し、船を誇りとし、船を最後のより処としている。今その船をすべて官軍に引渡して陸に上れと言っても、とても聴き入れないだろう。たとえ私が命令しても聴くまい。寧《むし》ろ船を自爆して船と共に沈む方を選ぶだろう」
勝は、うなずいた。
「その気持はよく分る。ではこうしたらどうだ、軍艦の中四隻を官軍に引渡し、三隻だけは君たちの手許に残す」
「それで官軍が承諾するか」
「私が説き伏せる。君の言うように、軍艦乗組員は今、艦を棄てれば帰るに家なく、自棄になるかも知れぬ。しばらく艦を彼らに貸して頂きたい――とでも言ってな」
榎本は、荒井郁之助、甲賀源吾、沢太郎左衛門らと相談し、勝の提案を受入れた。
十七日、榎本は艦隊を率いて品川沖に帰航した。
しかし、開城後の江戸城下の治安状態は、すこぶる良くない。
官軍が強引にこれを鎮圧すれば、反抗は益々拡大するかも知れぬ。
大総督府は西郷の進言を容れ、江戸の鎮撫を、勝と大久保とに命じた。
――江戸城を取上げておきながら、江戸の治安を押しつけるとは、随分ひどいことになったものだ、
と、勝も大久保も呆れたが、占領軍の命令であるから従うほかはない。
――山岡にも一役買わせよう、
と言うことになり、閏《うるう》四月十五日、鉄太郎に対して、
――家禄百俵五人|扶持《ぶち》、歩兵頭格
の辞令が出たが、その同じ日に、
――徒士頭格に任ず
――作事奉行格に任ず
――大目付に任ず
と四通の辞令が相ついで渡された。
大目付は旧幕時代には三千石を給された重職である。落目の徳川家とは言え、一日の中に四階級特進と言う異例の措置で、大目付となった鉄太郎は、呆気《あつけ》にとられた。
「貧乏御家人のおれが大目付とは妙なものだが、明日は浪人になってしまうかも知れぬ状況だ、江戸の人たちの役に立つことなら、出来るだけやってみるさ」
鉄太郎は愕いているお英にそう言った。
鉄太郎は久しぶりで、おさとに会った。
三月の始めから四月の半ば過ぎまで、忙しさに取り紛れて、おさとの許を訪れる暇がなかったのだ。
「あ、鉄太郎さま」
おさとは男の顔をみると、飛びついて、その分厚い胸板に顔を埋めた。
「どうした、おさと」
と、女の顎《あご》に手をかけて上を向かせた鉄太郎が、
「ばか、泣く奴があるか」
「だって、余り永い間、お目にかかれなかったんですもの」
三十の半ばを過ぎた女の、思いがけない子供っぽさに少々愕きながら、鉄太郎はその腰に手を廻し、軽々と抱き上げて、座敷に入り、そのまま坐った。
そうなると女の方は急に恥かしくなったものか、もぎ放すように男の腕を押しのけて、
「今、お茶を――」
と紅くなって、身を退ける。
「お茶など、どうでもいい」
鉄太郎は再び、女をとらえて抱きよせた。
二人のからだが離れたのは小半刻も経ってからだ。
おさとは急いで次の間に走ってゆき、身なりを整えた。
からだ中が、少しけだるく、あたたかい血が快い音を立てて全身を流れめぐっているのが分るような気がする。このところ、妙にもやもやしていた頭の中が、すかっと晴れ渡ったようだった。
「あの――御酒に致しますか」
男に声をかけた。
「そうだな」
充分満足したような男の声だった。
酒肴《しゆこう》をととのえて、男の前に運び、上眼づかいにちらっと男を見上げて、視線が合うと眼許に羞らいを見せた。
「顔を御覧になっては、いや」
この齢で、こんな羞らいの情を示す女は尠《すくな》い。男はそれを可愛く思う。
女は、男の正面にではなく、左横に少し膝をくずして坐り、盃に酒をついだ。
「どうにも、忙しくってな」
男は、この時になって、やっと弁解した。
「それは分っています、でも――」
と言いかけた不満は、呑み込んで、
「あ、おめでとうございました。大目付になられました由」
「明日をも知れぬ徳川《とくせん》家だ。めでたいかどうか分りはせん」
「でも、鉄太郎さまの評判は大したものです」
「ほう、何かやったのか」
「おとぼけなさってもだめ、益満様からみんな聞きました」
「おう、益満に会ったのか」
「ええ、二度ばかり。一度は官軍のだんぶくろ姿でした」
「ほう、あのしゃれ者がだんぶくろ姿とは愕いたな」
「余りお似合ではありません。あの方はやっぱり粋《いき》なきものの方がふさわしい」
「うむ、あいつは、生れつきの江戸っ子みたいな奴だ。尤も江戸っ子にも、おれのような無骨者もいるが」
「あなたは無骨者ではありませぬ。凜々しいのです」
「これは買被り、忝《かたじけ》ない――ところで、益満、何をしているようだったか」
「一度は官軍の戎服《だんぶくろ》、もう一度は町人姿でした」
「町人姿? あいつ、また何か隠密の仕事でもやっているのかな」
「お連れは、二度とも薩州の方々」
「例の土蔵相模の別荘の方にか」
「はい、この頃は、古くからのお馴染とか言う長州の方も、よくお見えになります。益満様は、二度とも、鉄太郎様のお働きを、まるで御自分のことのように誇らかに話しておられました。私に聞かせてやろうと言う御気持もあったと思います。私、本当に嬉しゅうございました」
「益満がおれに花を持たせて、大げさに言ったのだろう」
「いいえ、駿府へいらっしゃった時の道中の事、詳しく承りました。あの男は胆っ玉が刀を差して歩いているような人物だと、呆れた様に繰返し言っておられました」
「どうも、ひいきのひき倒しと言うやつだな」
「西郷先生とやらのお話の内容については、何を聞かれても、おれは知らん、西郷先生と山岡さんとが二人で話合ったことだからな、ととぼけておられました」
むろん、それは他言すべき性質のものではなかったろう。
だが、江戸城がすでに開城になった現在では、その内容の概略はもう、人々に知れ渡っていた。
従って鉄太郎に対する評価も、人々の間で大いに変ってきている。
単なる、
――鬼鉄
から、徳川家の幹部役の一人として見られるようになっているのだ。鉄太郎が大目付に抜擢されたと聞いても、さして愕く者がいなかったのは、その為であろう。
酒がかなりはいった頃、鉄太郎が言った。
「おれは忙しい」
「あ――もう、お帰りに」
おさとが、顔色を変えた。
「おれは忙しい。だが、今夜は帰らん、泊ってもよいか」
「ま、憎らしい。帰ろうとおっしゃっても、お帰ししません」
おさとが上眼づかいに睨む。
二人とも、亦、からだ中の血が騒ぎ出しているのを感じていた。
大目付の役宅に、専蔵が訪ねてきたのは、閏四月の朔日《ついたち》である。
「先生、御無沙汰致しました。お役所に私なんぞが参上しちゃいけねえかとも思いましたが、何しろ今日中に横浜《はま》に戻らなきゃなりませんので」
「何、一向構わん。ここには借金取りも来る。尤も、そいつはお英がわざと廻してよこすらしいがね」
「先生、この度は大変なお働きで――」
と言いかける専蔵の言葉におっかぶせるように、
「専蔵、商売の方は、どうだ」
「はい、何とかやっています。尤も、この処一、二ケ月は、御承知の通りの騒ぎで、とんとだめでした。何しろ官軍の江戸攻めが始まれば、横浜にもどんなトバチリがくるかも知れないってんで、誰もかれも上の空、異人たちも自衛隊をつくるとか何とかで、商売どころじゃありませんでしたが、先生のお蔭で江戸開城、もう戦争もあるまいってんで、ようやく落ちついてきました」
「官軍の江戸攻めはもうないが、まだ江戸には、分らずやの旗本や浪人共がうろうろしている。小ぜり合いぐらいはあるだろう。だがもう、横浜まではひびかないだろうよ」
「へえ、そう願っております」
と答えた専蔵が、何やら言い出しかねているような様子である。
「専蔵」
「はい」
「忙しい中をわざわざやって来たのだろう、用件を言え」
「いや、どうも――先生、実は、おみよさんのことなんですが」
去年、石坂と共に横浜に行った際、おみよに再会し、その身のふり方を専蔵に托した。
専蔵からは、三河屋と言う大きな織物問屋の奥向きに勤めさせるようにしたからと言う報らせがあったので、安心していたのである。
「おみよがどうかしたのか」
「はい、三河屋の主人から引きとってくれと申して参りました。何でもおみよさんが、三河屋の跡とり息子で十七歳になる圭之介と言うのと妙な間柄になってしまったとか」
「その伜が、おみよに手を出したのか」
「と、私も思いましたが、おみよさんの方が手を出したらしいんで、三河屋の主人もかんかんなのです。おみよさんに問い質してみたら、あの子が余り可愛いものだから、つい出来心で――って言うんで、どうも少々愕きました」
鉄太郎も少からず驚いた。
鉄太郎の頭には、依然として十六、七歳の可憐なおみよの姿の方が、より強烈に残っている。十七歳の少年に淫らなことを仕掛けるような女とは、どうしても考えられない。
――だが、
鉄太郎は、ふっと、おさとの事を考えて、照れくさそうな表情になった。
おさとは十七歳の鉄太郎を口説き、自分のものにしたではないか、そのおさとは、決して淫らな女ではない。現在も最も忠実に、鉄太郎一人を愛しつづけている。
そう思うと、おみよについても、
――淫らな、仕様のない女、
として非難する気にはなれない。案外、純粋な気持でその少年を愛しているのかも知れない。
「それで、お前が引きとってくれたのか」
「はい」
「世話をかけて済まぬ」
「いえ、そんなことは構いませぬが、これからの事でございます」
「どこか、他の堅気の家に――と言う訳にはゆかないか」
「私もそれを考えたのですが、少し気になる噂を聞きましたので、おみよさんのことを少々調べてみました。お気を悪くなさらないで下さい、先生」
「いや、責任を持ってどこかに推薦する以上、身許を調べるのは当然だ」
「調べてみて、驚きました。こう申しちゃなんですが、おみよさんは先生が考えていらっしゃるような女とは、大分違いますよ」
専蔵の話によると、おみよが、
――富裕な酒造家の若旦那に器量好みで貰われていった、のは事実だが、
――良人に死別し、しるべを辿って江戸に出て奉公している中に店が潰れ、横浜に流れてきて料亭に勤めていた、
と言うのは、かなり事実と違うらしい。
高山から江戸に出て来たのは、良人に死別したからではなく、店の若い男を誘惑しようとしたことが発覚して離縁され、高山にも居づらくなって逃げてきたのだと言う。
江戸でさる旗本の邸に奉公したが、そこの主とただならぬ関係に陥ったので、嫉妬深い家附きの妻女が死ぬの殺すのと騒ぎ立て、本家の隠居が乗り出して、手切金と共に放り出された。
横浜に流れてきて、料亭づとめをしたが、朋輩と客のとり合いで始終いざこざを起すので、女将もいい顔をしない。
少々居づらくなっていた時、半鐘の辰からよい勤先を世話してやると言われ、二つ返事でその話に乗ってみたら、イギリス商人の妾の口だった。
――異国人は怖い、
と思い込んでいたから、逃げ出そうとして追われている時、石坂に助けられ、鉄太郎に再会したのである。
どうも、今までのところ、余り身持ちのよい女とは言い難い。
聞いている中に、鉄太郎は少からず憂鬱になった。少し大袈裟に言えば、初恋の対手と言ってもよい女なのだ。淫らな女とは思いたくなかった。
だが、事実は事実として認める他ない。
「そうだったのか、高山にいた頃は、そんな女には見えなかったが」
「そこで先生、おみよさんを、どこか他に世話をしてもよいのですが、横浜は狭い処、噂が飛んでどうも少々拙い。江戸で探してみようと思います」
鉄太郎は、頭をふった。
「いや、お前に何もかも任せ切りでいたのが悪かった。私の眼の届く処においておけばよかったのだ。おみよは私が引取る」
「引取るって、先生、まさか、鷹匠町のお宅に置く訳にゃいかないでしょう」
「引取ると言うのは、私が江戸でしかるべき勤め口を探すと言うことだ」
「失礼ですが先生、何かあてがおありなんですか」
「うむ、ないこともない」
鉄太郎が柄にないことを言った。
おさとのことを考えたからだ。
――おさとに頼めば、何とかしてくれるだろう、
と、次の日、おさとの許に出掛けた。
「まあ、鉄太郎さま」
一日置いただけの事なので、おさとは大悦びで迎えたが、鉄太郎はいつになく少々ぎごちない口調で、
「おさと、頼みたい事がある」
「何でございます、そんなに改まって」
「実はな」
と、おみよの事を一切、隠さずに打ちあけて、勤め口の斡旋を頼んだ。
「宗猷寺《そうゆうじ》の前にいた娘さんなら、私も噂は聞いていました。大金持の酒造家の若旦那に器量好みで貰われていって仕合せになっていると言うことでしたのに、そうだったのですか。そのおみよさんにも、色々事情があってそんな風なことになったのでしょう。よろしゅうございます、私がお引受けしましょう」
「勤め口を世話してくれるか」
「はい、一両日待って下さいまし」
おさとは土蔵相模の主人に頼み込み、おみよを、自分と同じ様に別荘で使って貰うことに話をとりきめた。
「あそこなら鉄太郎様も、いつでも遊びにお出でになれるし、私も差出がましい事ながら何かと気をつけて上げられるでしょう」
と、おさとは、鉄太郎に報告した。
「忝《かたじけ》ない。迷惑をかけた。いや、本当に迷惑をかけるのは、これからかも知れぬが」
「他ならぬあなたの初恋のひと――」
「ばか、何を言う、少年《こども》の頃の夢のような話だ」
「分ってますよ、妹と思ってお世話をします」
「頼む」
「でも、この家には置きません。お店の方に住込み――と言うことにして貰いました。ここにおいちゃ、危い」
「ばかな」
「と言うより、|あの時《ヽヽヽ》、邪魔になります」
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彰 義 隊
毎日、陰鬱な天気が続いた。
どんよりと曇った空から、思い出したように雨が落ちてきて、いつ止むとも見えない。
ようやく降り止んだと思うと、鉛色の雲が低く垂れこめたまま動かなかった。
そのじめじめした空の下で、江戸の町々は不安と混乱とにうごめき、毎日どこかで悲鳴があがり、血しぶきが飛んだ。
治安を維持するための中枢機構がなくなってしまっているのだ。
江戸は、この期間、全く奇妙な、政治の空隙地帯になっていた。
勝や大久保が府内の鎮撫を命じられていたし、南北両奉行所は形式的には存続していたが、その権威は全く地に墜ちていた。
官軍の兵士たちがのさばり歩いて、不当な行為を行っても、奉行所の役人は手を束ねて見ているよりほかない。
うっかりした事を言おうものなら、
「黙れ、うぬら朝敵の手下どもが、何を吐《ぬ》かす」
と呶鳴りつけられる。
旧幕臣たちが、半ば自棄になって暴れても、咎め立ては出来なかった。
「おのれら徳川家臣の身でありながら、薩長の鼻息を窺う変節漢め、恥を知れッ」
と、一喝されるのがおちだ。
官軍は、勝利者として進駐してきている。
だが、旧幕臣たちは、必ずしも完敗したものとは思っていない。
――親だま(慶喜)がだらしなく逃出し、奸臣(勝・大久保)どもが卑怯にも江戸城を開け渡してしまったが、徳川恩顧の武士はまだ、上州でも房総でも闘っている。越後でも闘っている。奥羽列藩は連盟して官賊と闘うつもりでいる。みておれ、今に奴ら(薩長)を江戸から叩き出してくれる、
と思っている者が少くないのだ。
そうした連中は、続々と上野に集ってきていた。
総数二千と言い、三千と言う。
一括して彰義隊と呼ばれていたが、天野八郎、伴門五郎、春日左衛門らが結成した本来の彰義隊のほかに、各藩の脱走者を主体とする純忠隊、神木隊、猶興隊、松石隊、浩気隊、万字隊、臥竜隊、水心隊、高勝隊などをも含んでいた。
中核となる本来の彰義隊は二千二百石の旗本本多邦之輔を名目上の統目とし、全軍を一組二十五名の十八番隊に分け、本営を上野山内の寒松院においた。
――徳川の興廃は自分たちの双肩に在り、
と自負している。
裾のつぼんだ義経袴に、水色がかったぶっちゃきの羽織を着て、朱鞘の刀を差しているものが多く、足駄をはいて市中を闊歩《かつぽ》した。
夜は吉原に通って、派手に遊ぶ。
廓の女たちは勿論、徳川びいきが多く、泥臭い官軍兵士より、金放れの良い江戸子武士をちやほやした。
――情夫《いろ》に持つなら彰義隊、
などと言われて、いい気になっていた隊員も少くない。
官兵の方は肩に錦の布をつけているので、
――錦《きん》ぎれ、
と呼ばれて毛嫌いされたが、この錦ぎれを奪いとることが流行した。
彰義隊の岡十兵衛は、剣道無双の早業で、官兵に会えば必ず肩の錦切れを奪いとり、一枚絵になったほどである。
両国の巾着切りで、官兵から五十枚の錦ぎれを掠《かす》めとった奴もいた。
彰義隊と官兵との小集団闘争も、毎日のように行われた。
彰義隊十八番隊の関規矩守及び十七番隊士数名が、谷中三崎町で、酔っぱらった官兵四人とすれ違った。
官兵の一人が、関をふりむいて、
――ばかめ!
とやった。
関は直心影流榊原健吉の門弟で腕が立つ。
咄嗟《とつさ》に足駄を後ろへぬぎ飛ばして、刀を引きぬいた。
対手はさっと身を翻《ひるがえ》して逃げようとしたが、間髪を容れず、関の一刀が後から袈裟がけに斬り下ろされ、即死。
残りの官兵は慌てて逃げ出したが、関たちはこれを追跡して動坂の地蔵塚の前で一人を、更に千駄木町観音前で他の一人を切り斃した。
殺された官兵は三人とも薩摩藩士だったので大騒ぎになったが、関たちは上野へ逃込んでしまい、知らぬ存ぜぬの一点張り、官軍側もどうにもできない。
彰義隊附属の臥竜隊士が、因州藩から奥州へ運搬する弾薬数十荷を狙って、坂本で待伏せして掠奪し、警備兵十名と馬一頭を捕えたという事件もある。
山内の彰義隊士に対する手当ては充分に行われたらしい。
入山する者には手当金五両が支給されたと言うと、幹部級の天野八郎などは千五百石ぐらいの待遇であった。
この資金を調達したのは、上野輪王寺宮執当職の覚王院義観と竹林坊光映とである。従って彰義隊の主導権を握っていたのは、この両人であったと言ってよい。
彼らは、輪王寺宮公現法親王を切り札として手中に握っているので鼻息が荒く、
――大総督府の有栖川が宮家なら、輪王寺宮も宮家だ、攻められるものなら攻めてみるがよい、
と豪語した。
江戸のこのような不安な状況が京に報らされると、京では、大総督府の対徳川方針が余りに寛大であるとして、非難する声が強まってきた。
これは結局、西郷の対江戸方策に対する批判である。その急先鋒は、長州の大村益次郎と、肥前の江藤新平とであった。
西郷は、
――旧幕臣共の反抗を抑え、江戸の治安を回復するためには、速かに徳川家の後嗣を決定し、徳川氏に与うべき封土を決めるのが第一だ。そうすれば、将来の不安のために焦っている彼らも落着き、新徳川家の為にも妄動をつつしむようになるだろう、
と考え、且つ、それを主張している。
西郷と一体の大久保は、より具体的に対案を樹《た》て、
――徳川の家督は、改めて田安家の亀之助(後の家達)とすること、封土は七十万石程度とすること、
と提案していた。
これに対して大村や江藤は、
――何よりも先ず、現在の旧幕臣らの反官的抵抗を完全に打ち挫くことだ。徳川家の復興や、その石高決定はその後のこと、今のままで亀之助に七十万石与えて徳川氏を復興させるなどと言うのは、全く旧幕臣どもを甘やかし、彼らを図に乗らすだけである。ただちに武力を以て、江戸の反官勢力を一掃すべし、
と、主張する。
江戸の空気を、身を以て体験していない京の朝廷は、どうしても大村らの強硬論に賛同し易い。
折も折、東山道総督の大監察北島千太郎が、大村、江藤らと全く同じ強硬論を上申してきた。
――現在徳川旗本の者は、陽に恭順を唱えながら陰に叛逆を図りつつあるは明白であるに拘らず、官軍はこれを制圧する力なく、ひたすらその機嫌をうかがっている。そのため、江戸では児童走卒まで官軍をばかにし、冷罵している。今や、新手の兵を江戸に入れ、断乎叛乱分子を討つほかはない。
硬論が、ついに勝利を得た。
閏四月十日、三条実美は関東監察使として江戸に下ることとなり、大村益次郎は軍務局判事としてこれに従い、
――大総督府を補佐すべし、
と言う命令を受けた。
江戸に到着した大村は、彰義隊の予想以上の横行ぶりに呆れ、出来るだけ早くこれを討伐するよう総督宮に進言する。
総督宮はこれまで西郷の進言に従って動いてきているので、なかなか決心がつかない。
西郷は、勝に相談した。
――法親王のおられる上野を武力討伐するのはどうも拙い。勝先生、何とか説得して解散させて下さらんか。
勝は、覚王院義観と頗《すこぶ》る仲が悪い。義観の方で、勝を、
――徳川家を売った奸賊、
と信じているのだ。
――おれが話したとて無駄だろう、逆効果しかない。これは一つ山岡に頼んでみよう、
と、鉄太郎を呼びよせて頼み込んだ。
「覚王院に会うて彰義隊以下各隊を解散させるよう説得してくれぬか」
――厭な役目だな、
と思うが、この際、断る訳にもゆかない。
鉄太郎は供の者もつれず、単身上野の山に上っていった。
彰義隊を操っている者は、覚王院義観と竹林坊光映、なかんずく前者であることは充分承知している。
――覚王院と膝詰談判をしてやろう、
と、本営になっている寒松院にやってきて、義観に対面を申し入れる。
――大目付山岡鉄太郎、
と聞いて、義観は、対手にとって不足なしと思ったものか、直ちに面会を承諾した。
容貌魁偉、六尺豊かの大男である。頭も鋭く弁も立つ。慶応三年以来、輪王寺宮執当職として上野全山に威権を揮っている男だ。
彰義隊以下各隊の士を上野に集め、その所要費用を調達し、隠然として官軍の一敵国としての存在をみせているのは並々ならぬ策謀と行動力の所有者であろう。
だが、鉄太郎は、一見して、
――売僧《まいす》め、
と、腹の中で舌打ちした。
――これは本物の坊主ではない。自尊と野望とに満ちた、俗臭|紛々《ふんぷん》たるいかさま坊主だ。乱世に乗じて一仕事企んでいる手合の一人に過ぎぬ。
相対して座し、双方が眸をぴったり合せること数秒、鉄太郎は対手をそう評価した。
禅で鍛えあげた彼の心魂は、みせかけの異相や、倨傲《きよごう》な態度にはびくともしないのだ。
真剣勝負の時のようなその鋭い眸を、さすがの義観も、じっと受け止めかねたものか、先に視線を逸《そ》らせると、不機嫌な声で口を開いた。
「御用件を承りたい」
「公命でござる」
鉄太郎は、ぴしりと対手を抑えた。
「で?」
「御承知の如く、前将軍家は朝廷に対し恭順の意を表して水戸へ退隠された。しかるに、彰義隊以下の諸隊がこの山に屯集しているのは一体、何ものの命によるものか、その点を先ず明らかにして頂きたい」
義観は、下唇を反らせ、せせら笑うような表情を見せた。
「何人の命によるものでもない。志のある者が期せずして集り、徳川宗家の為に尽そうとしているのだ」
「前将軍はすでにここにおられぬ。何をしようと言うのか、速かに解散すべきである」
「上様は御退去になったが、当山は東照宮以下歴代の神霊が奉安してある。輪王寺宮もおわす、警備するのは当然でござろう。たやすく解散などは命じ難い」
「すでに、官軍との折衝が終り、城も兵器も悉く朝廷に献納した。徳川三百年の功業、最後の花を咲かすべき時だ。上様も深くそれを意図されている。勝手に私兵を組織して秩序を乱すごときは断じて許さぬ」
鉄太郎の高びしゃな言葉に、義観がさっと顔色を変え、憤然として叫んだ。
「ばかなっ、そんな痴言《たわごと》は聞く耳持たぬ」
「たわ言とは何ごとか」
「よく考えてみるがよい。今日の事、名目は朝廷の命となっているが、その実、薩長の策謀に過ぎぬ。貴殿は代々徳川家の恩沢に浴してきた家臣ではないか、それを一朝にして忘れられたのか」
「徳川家の御恩を忘れねばこそ、順逆の途を過らぬように願っているのだ。朝命の下った以上、徳川家といえども、これに従うのが、正しき途だ」
「その朝命が本物でない場合でもか。徳川家御先祖は、かかる場合もあろうかと、当山を経営し、皇族を以て法燈をつがせられたのだ。又、日光山に一幅の錦旗を蔵《おさ》めておかれたのもその為だ。万一、朝廷が奸臣どもに動かされて残暴の措置があるような時は、当宮(輪王寺宮)を以て易《か》え奉り、万民を安泰ならしめようとの御深慮だ。その道理が分らず、徳川の恩を知らぬ貴殿の如きは、徳川家にとって賊臣、腰ぬけ武士と言うべきであろう」
驚くべき乱暴な言葉で罵ったのは、この坊主の常套手段であろう。大抵の者なら、内心|畏怖《いふ》を感じたかも知れない。
鉄太郎は、冷然として一蹴した。
「上様の深いお心が分らぬらしいな、よくよく頑迷愚鈍な仁《ひと》と見える」
「頑迷愚鈍?」
「その通り、朝命にさからい、国体を乱し、順逆を悟らぬは頑迷と言うほかない。また、現在、国内のみならず対外問題困難を極めている時に当り、幕府だ薩長だと私情にかられ、一時の憤りに任せて、紛乱を招来することがあっては、国家の存在に関する事ともなろう。その道理が分らず、三百年に亙って万民を安んじてきた徳川氏の恥となるような事をあえてするとは、ただ愚鈍と言うほかはないではないか」
「ほほう」
義観は、皮肉な眼つきになった。
「対外問題とおいでなされたか。なるほど貴殿は大目付の役にあり、そのような巨きな眼んくり玉を持っておられるから、世界万国の事情に通じ、内外の形勢をよく見透しておるかも知れん。愚僧は、山中暦日なし、世界の大勢などはトンと存ぜぬ。又、知ろうとも思わぬ。愚僧はただ徳川家の御運のことしか考えぬのじゃ、ほかの事はどうでもよい。愚僧は生きている限り、徳川家御先祖の深慮に応《こた》える事しか考えぬ」
「僧侶は人を救い乱を治めるを以て慈悲の本願とする筈、上様も亦、庶民の苦しみを救い、一日も早く泰平を回復しようと苦慮されておられる。貴僧がいたずらに我意を張り、東照宮の深慮を口実に、前将軍家の御意志をふみにじろうとするのは、徳川家家臣の一人として到底承服できぬ。よくよく、上様の御心を考えて頂きたい」
――くどい、
というような表情を、義観はみせた。
巨大な鼻の穴を大きく拡げて、眼を天井にむけると、黒い太い鼻毛が二、三本、鼻腔の外につき出ているのが見える。
議論を一挙に終結してしまいたいと言う意思が強くつき上げてきたらしい。義観は決然と言い放った。
「私は当宮(法親王)の側近であり、前将軍(慶喜)の家臣ではない。私が念願とするのは当宮をお衛《まも》りすることであって、前将軍には何の関係もないことだ。彰義隊その他の諸隊も、前将軍の命令によって編成されたものでなく、当宮を守るために自ら結束を固めたものだ。前将軍を至上とする足下の議論は全く的を外れている」
鋭い最後の反撃をしたつもりだったが、これは決定的な失言である。鉄太郎はすかさず、そこに切り込もうとして、だめを押した。
「ほほう、さようか、なるほど、それで貴僧の意図ははっきりした。宮を守るのが目的で、徳川家には関係なしと言われるのだな、たしかに、前将軍家を守るためではないのだな」
「いかにも、その通り」
「よろしい、貴僧の言うことはよく分った。あえて止めようと思わぬ。好きなようにされるがよかろう。私は帰ってこの旨を大総督宮に申上げよう。彰義隊は徳川家の兵ではない、遠慮なく討伐されたい――とな」
――しまった、
と、義観は、下唇を噛んだが、
「待て、大総督、大総督と言われるが、大総督が宮家なら、当宮も宮家だ、その間に区別はない、何の権威を以て、宮が宮を討伐すると言うのか」
「そのような事を言うから、愚昧と言うのだ。同じ宮家であっても、大総督宮は朝廷の命を承けておられる。その大総督宮に反抗する法親王が討伐を受けるのは当然だ。現在までわれわれが討伐を抑えていたのは、彰義隊以下の者は前将軍の家臣とみなし、すでに前将軍が恭順を誓った以上、その家臣は討伐の要なしとみていたからだ。しかるに、かれらが徳川家に関係のないものなら何の顧慮もいらぬ、直ちに一戦を交えて全滅せしめよと進言する」
義観は、あわてた。
とり返しのつかぬ事を放言してしまった訳だ。まさか大総督府が法親王を討伐するとは思っていなかったので大言壮語していたのだが、今すぐに戦いを始められては、とても勝目はない。
膝を立てかけた鉄太郎を、義観は、おし止めた。明らかに当惑の色が現れている。
「待たれよ、しばらく、山岡殿。私もみだりに戦を好むものではない、大事相ついで至るため、つい、いらいらして、暴言を吐いてしまったようだ」
声の調子まで変って、鼻の頭に汗が滲んでいた。
鉄太郎は一旦立てかけた膝を下ろした。
「で――」
「朝廷や大総督宮に対して不敬に出たることを申上げたが、お許し戴きたい。このまま貴殿が帰って報告されれば、明日にも当山は戦火に見舞われることになろう」
「その通り――」
「貴殿の言われたことにも一理がある、もう少し話合ってみよう」
まるで調子が変ってきた。
鉄太郎は、容赦なく第二撃を加えた。
「先程までの大言とはうって変ったお言葉ではないか。今更何も話合うことはない。断然、戦うべきだ。私は上様の御心を帯して無益の殺生を避けようとしたのだが、その上様の御心に反して戦うと言うのなら、彰義隊以下全隊でも構わぬ、断乎、せん滅するべきであろう」
「山岡氏、待って頂きたい。私が乱暴なことを言ってしまったのも、徳川家|累代《るいだい》の鴻恩《こうおん》に報いたい一心からだ。そこをよく諒解して頂きたい。しかし、貴殿が私の言うことを諒解して下さらぬと言うのであれば止むを得ぬが、私は――」
言葉を切って鉄太郎をちらっと見て、思い切ったことを口にした。
「私は、彰義隊以下の諸隊を率い、日光山に退去して、謹慎しよう」
「よろしい。日光山に退去謹慎の件は諒承しよう。それが偽りでないならば、はっきりその旨、大総督府に具申されたい」
「偽りではないことをお誓いする。日光山に退去謹慎を具申しよう、ただ、その件についてお願い致したいことがある。何とかお助け頂けまいか」
「どうして欲しいのか、言って貰いたい」
「ほかでもないが、当山に屯集している者は数千人にのぼる。日光山に退去すると言ってもその費用がない。何とか二万両ばかり御下賜頂けまいか。貴殿の義侠心に訴えてお願いする」
「即答はできぬが、大総督府にその旨、歎願してみよう」
「何ともお礼の申上げようもない」
始めは脱兎の如く、終りは処女の如し。義観は最初の傲然たる態度とは、うって変ったしおらし気な様子で鉄太郎を送り出した。
表面上は、鉄太郎の勝利である。
鉄太郎自身も、どうやら使命を果したものと考えて、大総督府に赴いて、西郷に義観との会見の次第を報告した。
だが、一見惨敗したかに見えた義観の腹の中は、もっと複雑であった。
――今の官軍に、短時日の間に二万両の金を調達する能力はない筈だ、相当の時間がかかるだろう。その間に関東各地で闘っている旧幕方の諸軍が勢力を盛り返すかも知れぬ。その上、五月三日奥羽連盟が成立し、奥羽諸藩は一致して官軍と闘うと言う。今は何とか時を稼ぐのが第一だ。
義観は、そう図太く考えている。
――万一、大総督府が二万両を調達してきたら、悦んでそれを貰ってしまえばよい。そして日光退去の準備と称して、その金で防戦準備を固めればよいのだ。
こうした義観の見透しは、鉄太郎の素直な考え方よりも、より現実に適合していたらしい。
大総督府でも、この当時の軍資欠乏は著しく、到底二万両と言う大金は調達できそうにもなかった。その上、
――二万両与えても、神妙に日光に退去するかどうか分らぬ、
と言う疑念を抱く者も多い。
とかく議論をしている間にも、都下における彰義隊の暴行は一向に止まず、しばしば官兵が殺傷される。
――覚王院義観を呼び出せ。
西郷はそう命じた。
だが、義観はその召命を無視し、所定の日に姿を現さなかった。
さすがに、温情主義をとってきた西郷も、これには憤激したらしい。鉄太郎を呼んで、
――一体、義観はどう言うつもりなのか、
と詰問する。
その席に、大村藩の渡辺清左衛門がいた。これは始めから強硬な討伐論者だ。西郷の言葉におっかぶせるようにして、鉄太郎を難詰した。
「彰義隊の鎮撫は不可能だ。速かに処罰するほかはない。このままでは慶喜恭順の意図も失われることになる」
「彼らは慶喜の意思とは全く関係なく妄動しているのです。こうなってはもう、已むを得ないでしょう。一戦するほかありますまい。私を官軍の隊長に命じて下されば、地形も隊員もよく分っておりますから、半日もかからず潰滅してみせましょう」
鉄太郎も、些か憤然として答えた。彼にとっては、慶喜の真情を疑われることが、何より我慢がならなかったのだ。
鉄太郎の思い切った発言に、渡辺も少し愕いたらしい。しばらく黙っていたが、
「そう簡単にはゆかぬ。しばらく考えてみよう」
と言う。
西郷も、
「もう一度だけ、義観を説得してみよう」
と言い、再度召喚状を出したが、依然として応ずる様子がない。
五月十四日、ついに、
――明朝、上野東叡山に進撃、
の議が、決定した。
その日、輪王寺宮公現法親王に対して、
――上野を討伐するから、宮は至急上野から立退くように、
との通達を行い、又、徳川家に対しても、
――上野山内にある祖先の霊位・什器《じゆうき》などを引取っておくように、
と言う内示があった。
だが、法親王の上野脱出など、到底不可能であったことはいうまでもない。側近がこの一枚看板を離す筈はなかった。
徳川家からも、上野中堂には多少の什器が収めてあるが、今更惜しくもありませぬ、と言う答申がもたらされた。
鉄太郎がこの、
――上野討伐
を知ったのは、十四日ひる、西郷から直接にそれを申渡されたからである。
西郷は、いかにも気の毒そうに言った。
「山岡さん、あんたが朝廷を重んじ、主家に報いようとする誠忠の志は、誰よりもよく分っているつもり、こうした状況で上野討伐になったことはあんたとしては残念だろうが、やむを得ぬものと諒解して貰いたい」
鉄太郎は西郷の心づかいに謝意を述べて家に戻ったが、その夜はどうしても眠ることができない。
――あの頑迷な義観や、数名の隊長株の愚かさの為に、何千という人々の命が失われる、そんなばかな事があってよいものか、
そう思うのである。
大きな時勢の動きに暗いため、自分のやっていることが正しいと信じ切っている者も沢山いるだろう。そしてその中には鉄太郎のよく知っている友人たちもいた。
――大谷内龍五郎、今井八郎、斎藤亀吉、みんなあの山内にいる筈だ。連中は頭が固いが気のいい奴だ、あいつらを死なしてはならぬ。
夜半、鉄太郎はがばと床の上に立った。
「あなた、どうなさったのです」
床を並べていたお英が愕いて叫んだ。
「出掛ける」
「今頃、どちらへ?」
「上野だ」
「上野は、明朝――」
「官軍の攻撃を受ける。その前に何とか説得して、解散させなければならん」
鉄太郎は、深夜、雨は降りやんだが暗い空の下を馬を飛ばせ、上野に到った。山内到る処、騒然としている。
むろん、夜明けと共に始まるであろう闘いに備えてのことだ。
かがり火が、あちらこちらに焚かれている。濡れた青葉が、その焔の近くだけ光って見えた。
どの陣場でも、亢奮し切った人々が、叫び合っている。その多くは、
――何某がおらぬ、
――彼は、まだ戻らぬか、
と人を探す声だった。
官軍の襲撃が近いと知って、訣別《けつべつ》の為にわが家に戻っていった者がいる。最後の歓をつくすつもりで遊里に流連《いつづけ》している者もいる。
そうした連中は、明朝の攻撃を知らずに、のんびりと、雨もよいの夜を過ごしているのだろう。この夜、上野山内にいた者は、二千を割っていた。
鉄太郎は馬を下りて黒門口につき進んだ。
「彰義隊長池田大隅守に会いたい。どこにいる」
と大声で言った。対手は、同じ山内の隊員の誰かだと思ったらしい。口早に答えた。
「さあ、この騒ぎだ。どこにいるか分らないなあ」
横から口を出した者がある。
「大隅殿は、先刻、奥州に向って旅立ったとか聞いたぞ」
「ばかな、そんな筈はない。奥州へ連絡に行ったのは菅沼殿だ」
色々なデマが飛んでいるらしい。
「隊長がいなければ春日左衛門でも天野八郎でもいい、至急会いたい。重大要件だ」
「どこに誰がいるか分らぬ、自分で探してくれ」
鉄太郎は山内にはいっていった。
文殊《もんじゆ》楼の近くに神木隊と札を立てて屯ろしている一団があった。
「隊長は」
と問うと、言下に、
「私だ」
と答えて前に出てきた男がいる。
「私が隊長酒井良祐だが」
「自分は大目付山岡鉄太郎」
「あ、山岡殿ですか、何とてここへ」
「酒井さん、聞いてくれ。私は官軍の兵力も、武器もよく知っている。この山内の人数、この武器では、とても互角には闘えない。今の中に兵をつれて山を降りてくれ。君たちは徳川家のためにやっているつもりなのだろうが、それが却って上様を苦境に陥れているのだ。頼む、無益の闘いに若い人々を死なすのはやめてくれ」
鉄太郎は、全身の熱意をこめて、酒井を説いた。
酒井はその赤誠に打たれたらしい。
「分りました、山岡殿、だが、私一存ではどうにもなりません。他の隊長たちを説いてみましょう」
酒井は、すぐ近くに陣取っている浩気隊に行って隊長を説く。これは小浜藩の脱走兵たちの組織する一隊である。
浩気隊長の気持が少し動きかけた時、数人の者が黒門口の方から走ってきて、
「みんな、手を貸してくれ。黒門前に防柵をつくるのだ」
と大声でふれて廻った。
おーっとこれに応じて走り出すものが相次いだ。
愕いた鉄太郎が黒門口に戻ってくると、松明《たいまつ》をふりかざした者があちこちに立ち、多勢の者に声をかけ、町方から徴収してきたらしい畳を楯のように並べて、黒門前一帯に防壁をつくろうとしている。
「待て、みんな、待て」
鉄太郎は叫んでとめて廻ろうとした。
「誰だ、邪魔をする奴は」
「官軍の犬か」
松明のあかりで、鉄太郎の顔を認めたものの中に、彼を知っている者がいた。
「あれは、大目付の山岡鉄太郎だ」
「なに、山岡――勝の腰抜けと組んで、薩長に頭を下げている奴だ」
「大目付だろうと何だろうと構わん、ぶった斬れッ」
声の景気はよいが、きっと構えて立つ鉄太郎の巨躯を前にすると、異様な剣気に押されるものか、誰一人、現実に斬りつけてゆこうとする者はない。
「出てゆけ、山岡、邪魔をするな」
「薩摩の犬め、立ち去れッ」
人垣のうしろから叫ぶ者もいる。
――気違いの集りだ、もうこうなっては、どうしようもあるまい、
鉄太郎は、諦めた。
「已むを得ぬ、したいようにするがよい」
重苦しい声で、一言そう言いのこすと、鉄太郎は、築かれている畳楯《たたみだて》の間を抜けて、広小路に出た。
民家の軒につないでおいた馬に乗る。
――亀之助様は、
隠居した慶喜の後をついで徳川宗家の新しい当主となった田安亀之助のことが心配になった。万一にも不逞の浪士たちが、奪取を図るようなことがあっては一大事だ。
田安邸へ向って本郷壱岐殿坂までくると、官兵らしいのが、一小隊ほど、馬の前を遮った。
その一人が、馬上の鉄太郎を仰いで、
「山岡先生ではありませんか」
と言う。
尾張藩の士で早川太郎と言う。講武所で教えてやったことのある男だ。
「お、早川君か、通してくれ」
「どこへ行かれるのです」
「田安邸に行く」
「それはだめです。もうあの辺一帯、官軍が道をふさいで、通行を禁止しています」
「そうか」
官軍の手配りは、意外に早かった。
「亀之助様は」
「大丈夫、田安邸は充分に警固されています」
「それなら安心だ、早川君、有難う」
馬首をめぐらせて、小石川の家に戻った。
眠られるものではない。
机の前に坐って、眼を閉じていると、暁の色が訪れてきた。
上野の方角に、轟々たる砲声が聞こえてきたのは、それから間もなくのことである。
鉄太郎は躍り上った。
庭を走って、高橋邸にゆく。
二階の雨戸が一枚開いていた。
そこに、義兄高橋伊勢守の顔が見えた。
「義兄《あに》上、とうとうやっているらしい」
「うむ」
「私は全力を尽して、止めようとしたが」
鉄太郎は、重い声で、呻くように言った。
官軍側の全指揮をとったのは、長州の大村益次郎である。
本来なら当然、西郷吉之助が指揮すべきであったが、西郷はその徳川氏に対する温情論、寛大政策のために、総司令官の地位を外されたのだ。
――江戸では何をしているのだ。手ぬるいではないか、
と言う京の朝廷の意見を代表して東下してきた三条実美と、大村益次郎、江藤新平は、ついに上野の徹底的討伐論を貫徹した。
それまでには、大総督府内部でも、火の出るような激論が闘わされている。
総参謀の西郷が、山岡、勝との関係から、ひどく温和政策に傾いて、何とか江戸城下における戦火を避けたいと考えているばかりでなく、参謀連の中には、上野討伐には消極的なものが少くなかった。
海江田信義は、
――官軍は兵も少く、軍資金も乏しい。こんな状況で戦争するのは無謀だ。万一にも大総督宮のお身の上に何かあったら、どうするつもりか、
と、大村の積極論に反対した。
同じ参謀の一人林玖十郎は、
――関東を平定するには少くも二万の兵を必要とする。現有兵力ではとてもだめだ、
と言う。
大村は断乎として、戦闘を主張した。
「あんた方は、戦いと言うものを知らぬ。今、府内にいる官兵三千を以てすれば、上野の討伐ぐらい易々たるものだ」
三条が、この大村説を支持した。
岩倉具定も正親町公董も、西四辻公業もこれに賛成する。お公卿さんたちは、
――錦旗を奉ずる官軍は必ず勝つ、
と、自分で自分を説き伏せているのだ。
ついに、大村に上野討伐の全権が委ねられた。
大村は、西郷に比べれば遥かに後輩である。西郷は早くから勤皇派の大物であり、大政奉還前後からは、朝廷方の重鎮として尊重されている巨大な存在である。
大村は、その実際の戦績は、第二回長州征伐の時に、浜田口を受持って抜群の軍略ぶりを見せて以来のことに過ぎない。
本来なら勝負にならぬ筈だが、強硬論が勝利を占めると、西郷は自ら、総指揮の権を大村にゆずった。
鳥羽・伏見以来、ややもすれば薩摩が――と言うよりも、西郷と大久保とが、朝廷を動かしている感じであるのに対して、長州が不満の意を持っていることは明らかであった。
――まだ、先は長い。薩長の緊密な関係をここで破っては一大事になる。長州の顔は、充分に立ててやらねばならぬ。
西郷は、そう考え、遥か後輩に当る大村に譲ったのである。そんなことについては、全く小さな面目にこだわらない、駘蕩《たいとう》たる大きさを、この巨人は持っていた。
全権を委ねられた大村は、参謀連から進言された夜襲戦術を、言下に一蹴した。
「いやしくも錦旗を奉じて戦うのだ。そんなケチないくさをしてはならん。白昼、正々堂々とやろう」
夜襲を図れば、敵もゲリラ戦術に出て、市中の各地に潜入して火を放つかも知れぬ。そんなことになれば、江戸全体が大混乱に陥るだろう。
大村の戦略は、
一、戦闘はなるべく上野山内に限ること、
一、万一敵の兵力が山外に突出してくることがあっても神田川を境として、絶対にその西に至らしめぬこと、
一、江戸市民の生命財産には被害を与えぬようにすること、
を基本として、設定された。
上野を包囲して、四方から攻め立てる一方、万一形勢不利の場合、最後の防衛線を神田川一帯に布く。
攻撃軍の配置は、薩摩兵が湯島天神から黒門口正面に進んで、決戦を挑む。
同じく肥後兵は不忍池畔から、因州兵は切通坂から黒門口の敵に向う。
長州・肥前・筑後・大村・佐土原の兵は、根津・谷中方面から上野を側面攻撃する。
上野から東北に当る三河島方面は、わざと開いておいた。これは敵が逃走する口《くち》として残したのだ。逃走口がないと、死力を尽して闘うから損害が多い。
この攻撃計画を、西郷に見せた時の、有名な逸話が残っている。
西郷は、諸藩兵の配置図を、じっとみていたが、
「これでは、薩州兵をみなごろしにする方針のようですな」
と言った。黒門口が上野の大手であり、そこで最大の激戦が行われるであろうことは明白だ。そしてそこの攻撃が、ほとんど全く薩摩兵に負わされている。
西郷の言葉を聞いて、公卿たちが真っさおになった。
――西郷が憤れば、薩長は割れる、
と、皆が一様に感じたのである。
大村は、しばらく、扇子をパチパチ、開いたり閉じたりして、黙っていた。むやみに額の広い、火吹だるまのような珍妙な顔には、何の表情も浮んでいない。
やがて、静かな声で言った。
「そうです。薩摩兵がみな殺しになるばかりでなく、あなたも死んで貰うことになりましょうな」
――あの時は、あたりが急にまっ暗くなったような恐怖感で、どきりとして、西郷の顔が見られなかった。
その席にいた参謀の一人寺島秋介は、後にそう述懐している。
だが、西郷は一言も反駁しなかった。黙って、巨きな眼で大村の眼に見入り、ゆっくりと座を立って去っていった。
五月十五日未明、官軍各藩兵は、大|下馬下《げばした》(二重橋前)に集合し、所定の攻撃口に向って進発した。
折柄入梅の季節で、連日|霖雨《りんう》。この朝は雨は一応降り熄《や》んでいたが、道は泥濘《でいねい》で足も没するばかり、どの溝もどの池も水が溢れていた。風も少しある。
薩摩兵の主立った者は筒袖にびろーどをつけたのを着て、黒い毛のかぶりもの、長州兵は白い毛、土州兵は赤毛のかぶりものをつけていた。
黒門の前には、もう町家から徴発した畳の楯がずらっと並んで、その背後に、白鉢巻に白だすきの彰義隊や神木隊の兵が、頑張っている。
薩軍は主力を湯島に置き、その先鋒が黒門に向った。待ち受けていた山内から砲撃の火蓋を切る。
と言っても、この方面にある山内の大砲は、旧式の臼砲数門のみである。
官軍の方も、「雁鍋」及び「松源」と言う料亭の二階に大砲をあげて反撃した。二階に上げられる程度の大砲だから大した効果はなかったらしい。
最も効果があったのは、肥前の大砲隊が、本郷の加賀藩邸からぶっ放した二門のアームストロング砲である。
これは当時としては無比の新鋭兵器で、その殷々《いんいん》たる砲声は、それだけで山内の士気を著しく衰えさせたが、砲弾の数発が山内の堂閣を破壊したので、山内の動揺は急激に増大した。
薩軍は、すかさず主力を前進させて黒門に迫り、その防柵を突破して山内に突入した。
天野八郎は、この方面の戦闘について、次のように記している。
――黒門口が危いと言うので、自分は山王台の方へ走った。途中清水堂の脇で、純忠隊の旗本小川斜三郎以下四十余人に出会ったので、黒門口が危い、みんな来いと呼ぶと、一同応と答えた。よし、おれにつづけと真先に走り、山王台一番隊のところまで来て、うしろを振向いてみると、続く兵は一人もいなかった。徳川麾下の旗本の柔弱さはこんなものかと、ただ呆れるのみ。やむなく残っていた一番隊の兵を指揮して大砲を発射した。この時、味方は死傷者多く、とても防ぎ切れないと思われたので本営に戻ってみると、谷中口が危いと援兵を求めて来ている。下寺に三百の兵がいたので、その中百名を谷中に派し、百名を率いて山王台に戻ろうとしたが、中堂脇までくると、味方が百名ばかりなだれてきて、黒門口は破れたと言う。自分は大音声で、ここは主家累代の霊廟、ここを守って潔く死のうと叫ぶと、大久保紀伊守が東照宮の旗をかかげて真先に走り出した。自分も馬から降り、元込七発銃を携え、大久保に続いて走る。あとから百人位つづいた。その時、砲丸一発飛来、大久保の額を打ち抜く。大久保はざくろのような傷口を見せたまま仰向きに倒れた。
――大久保が倒れたのをみると、後に続いていた一百の兵はくもの子を散らす如く逃げ去って、後に残ったのは自分のほか二人。重ね重ね、徳川家士の惰弱ぶりに呆れ果てるのみ。まだ息のある大久保を三人でかつぎ、本坊の門番所にかつぎ込んだ。敵が近づいてくるが、守る兵は一人もいない。法親王さまのお身の上が心配なので玄関から奥に行ってみると、たった今、落ちのびられた様子。この上は、宮様をお守りするのが第一だと、御跡を慕って根岸に出て、質ねてみると三河島に向われたらしいとの事。三河島に赴くと、竹林坊光映が麻の黒衣を着し古草履をはいた若い僧をつれて落ちてゆく。自分が光映に声をかけると、その若い僧が、光映に向って何者かと問うた。光映が、天野八郎でございますと答えた様子で、さてはこれが輪王寺宮かと分った。どちらへ落ちられまするやと伺うと、会津との御返事、お供を願ったが、僧だけの微行の方が安全だからと言われ、涙を飲んでお別れした。云々。
ついでに記しておく。天野は道灌山を越えて音羽の護国寺に脱れた。ここに、上野を脱出した者が百人近くやってきている。しばらく休息の後、四方に散っていったが、天野は本所石原町の炭屋文次郎方に潜んだ。
二ケ月ほど経って七月十三日、隊士の大塚と言うのが訪ねてきて、二人で飯をくっている時、武装官兵に襲われた。天野は二階から屋根にのがれたところを、額に銃丸を一発うけて捕えられ、日比谷御門内の糺問《きゆうもん》所の牢に入れられた。十一月八日、牢中で病死している。
ところで、谷中、団子坂方面に向った長州、大村、佐土原、岡山等の連合兵は、初めの中は一向に戦線は前進しなかった。長州藩が購入したばかりのスナイドル銃の操法をよく知らぬため、故障が続出したのが主たる原因だったらしい。水田の間の道路が水びたしになっていて、進撃が極めて困難だった為でもある。
後方から有力な砲門が到着するのを待って、猛攻撃をかけ、水田中の隘路を突破して天王寺台地にとりついた。
台地の寺院や墓地の陰から狙撃してくる敵を排除して天王寺に攻め込んでみると、寺内の敵はすでに逃走していたので、同寺及びその附近に火を放った。
これは寛永寺の背面における戦闘である。
上野山内の掃蕩が完全に終ったのは、たそがれ時、官軍の死傷百二十余、敵兵の死傷六百余、これは火力の差によるものであろう。
この間、大村は江戸城富士見|櫓《やぐら》に上って、空を見ていたが、上野の方に焔々たる猛火が立ち上るのを見ると、
――これで始末がついた。焔が上っているのは、賊兵が火をかけて退却していったのに違いない、
と、けろりと言ってのけたと言う。
江戸市民の絶大な蔭の支援と期待とを受けていた彰義隊はあっけなく消えた。
この日の午後、鉄太郎は再び家を出て、上野に向った。
上野の方面には、雨もよいの空の下に、まだ黒い煙が重くたなびき、近づくにつれて、その間に白ちゃけた焔の色が見えた。
役所に寄ってみると、もう戦闘は終りに近いという。完全な官軍方の勝利らしい。
予想したことではあったが、
――上野がどうなっているか、
それを見たかった。
湯島の切通坂を広小路の方に下ってくると、何人かの官兵が、戸板に乗せた負傷者を、湯島天神へ運んでゆくのに会った。
黒門口を受持った薩摩兵は、
――湯島台に賊がひそんで、待受けているらしい、
と言う情報を得ていたので、先ずそこに向って進撃した。
情報はいつわりだった。敵兵らしい姿はないので、広小路に向って全軍が進んだ。
だが、戦闘開始と共に、死傷者がでてきたので、湯島天神の境内に、仮の戦時病舎を設定したのである。
「益満さんが、やられたそうじゃ」
官兵がそう言っているのを、鉄太郎は耳にした。
愕いて馬を止め、飛び降りると、その男に呼びかけた。
「益満と言ったな、薩州の益満休之助のことか」
対手は、そうだと、うなずいた。
「いつ、どこでだ」
「つい先刻ほど前、この切通坂で――」
それ以上詳しいことは知らないらしい。
「亡骸《なきがら》は?」
死者はすべてとりあえず、天神境内の病舎に安置してあると言う。
鉄太郎は、長い石の階段を、一息に駈け上った。
「益満の友人だ、亡骸に会わせて貰いたいが」
「あ、益満どんの――こちらです」
すでに二十何体かの亡骸が、本堂に安置されていた。
「山岡先生じゃありませんか」
本堂にいた薩兵の一人が、鉄太郎を見て大声をあげた。名は知らなかったが、勝と共に何度か薩摩屋敷を訪れた際に顔を合せたことがある。
「益満君が、やられたそうだね」
「はい、残念なことをしました。あそこです」
鉄太郎は遺体に近づき、面を覆った白い布を、そっとあげた。
益満は、平和な顔つきをしていた。
生きていた時と同じように、ややすっとぼけたような表情で、酒に酔った時よくそうしたように両眼を静かに閉じている。
――これでいいのだ。これで、
そう言った顔付きである。
――益満、つまらぬことをしたな、何もお主が、こんな闘いに首をつっ込むことはなかったのに。
奇妙な友情の憶い出が、一瞬の間に、走馬燈のように頭の中に旋回する。薩摩人としては破天荒な、すっきりとした感覚と洒脱《しやだつ》な性格とを持った、愉しい友であった。
――縁の下の力持ちのような、報いられぬ仕事を、何の不平も言わずに、いかにも愉快そうにやっていた男だ。ようやくその苦労が酬いられようとしている時に、
今更のように、この戦闘の愚劣さに、腹が立ってくる。
「益満君は、どの部隊に属しているのか」
鉄太郎は、傍らに立って、いたまし気に見下ろしている男に質ねた。
「西郷先生は益満さんを部隊から外していました。もう充分に働いたのだから、しばらく休めと言われて。でも、益満さんは、西郷先生が自ら従軍されると知って、じっとしていられなかったのでしょう。勝手に、部隊の後からついてきたらしいのです。そして切通坂で、流れ弾に胸の真中を射貫かれました」
切通坂の東側の榊原邸内に、敵の敗残兵でもひそんでいたらしい。味方との間にちょっとした射合いがあった。
敵はすぐ逃走した。
だが、味方の兵は、切通坂の上の方に、崖にもたれるようにして、じっと立っている益満の姿をみた。
笠を被っているので、その時は益満とは分らなかった。
――どうしたのだ、あれは、
――味方らしいが、様子が変だぞ、
二、三人が走りよってみると、益満は絶命していた。銃丸が胸を貫いている。敵の討った銃丸に当ったのか、味方の流れ弾に当ったのか分らない。
――こりゃ、益満どんだぞ、
慌てて戦時病舎にかつぎ込んだが、もうどうしようもなかった。
いかにも益満らしい素頓狂《すつとんきよう》な死に方だとも言えるが、全くばかげた犬死だとも言える。
「西郷先生は、御存じか」
「はあ、すぐにお報らせはしておきました」
「先生も、残念がられた事だろう――惜しいことをしたなあ」
鉄太郎は、遺体に向って両手を合せ、線香をあげた。
「上野山内に、もうはいれるかな」
「いや、まだだめでしょう。小規模な掃蕩戦があちこちで行われています」
「山内は焼けてしまったらしいね」
「はあ、殆んどの建物が」
「宮様は?」
「分りません、私たちにはまだ」
鉄太郎は礼を言って、天神の境内を出た。
大きな落胆が、足を重くしている。
そのまま、家に戻る気はしなかった。
足は品川の方に向いた。
足音でそれと分ったらしい。表戸を開けるより先に、おさとの走ってくる気配がした。
「まあ、鉄太郎さま」
と言うなり、男の広い胸に顔を押しつけてくる。右手をちょっと顔にあてたのは、滲み出てくる涙を抑えたのだろう。
「どうなさったのです。このところちっともお顔をみせて下さらないで」
鉄太郎は女の顎を右手で軽く上げた。
「憤るな、忙しかったのだ」
「それは分っていますけれど、あんまり、お顔をみせて下さらないので――」
「勘弁、勘弁、どうしようもなかったのだよ、宮仕えは辛いものさ」
「あ、こんなところで――どうぞ――」
おさともやっと少し落着きをとり戻し、いそいそと部屋に案内した。
「大目付と言う大役におつきになったのですから、お忙しいのは当然、我儘を申して済みませぬ」
「なに、今の大目付など、役目としちゃ大した事はないのだが、役目以外の仕事が、むやみに多くてなあ」
「彰義隊のことで色々とお骨折りになられましたとか――」
土蔵相模にやってくる薩州の客からでも、噂を聞いているのだろう。
「徳川《とくせん》家にとっちゃ仇敵の薩摩藩には、割に評判がいいらしいが、その代り、徳川家の方じゃひどいものさ。勝さんとおれとは、徳川家を薩長に売った逆臣と言うことになっているらしい。殺されないで生きているのが不思議なくらいだ」
「まあ、よして下さい。そんな縁起の悪いことは」
「いや、人の命ってやつは、いつどうなるか分らない、たった今、益満の死顔をみてきた」
「えっ、益満さまが亡くなられたのですか。一体、どうして」
「それが全く信じられないくらいばかげた死に方だ、あんないい男が――」
鉄太郎が、益満の死にざまを語ると、おさとは涙を流した。益満は男にも好かれたが、女にも好かれた。殊におさとは、鉄太郎と再会の機会を作ってくれた益満に感謝している。その死を歎く気持は、真情に溢れていた。
「線香の一本も立ててやってくれ」
「ええ、それはもう――御戒名が分りましたらお報らせ下さいまし、仏壇に御位牌を置いて、御供養させて頂きます」
と答えたおさとが、ふっと気がついて、
「あ、すっかりお話に夢中になって――今、すぐにお支度致します」
と、簡単に酒肴をととのえてきた。
「お店へ行く時刻だろう」
「今日は休みます」
上眼づかいにちらっと睨んで、
「今夜は、お帰ししませぬ」
「帰るつもりはないさ」
親しい人の死を知った時、男の欲望は妙に高ぶることがあるらしい。
――あの男も死んだ。今度はおれか、
と言うような予感が、現に今、自分の生きていることを確かめようとする本能となって発現するのだろう。
鉄太郎は、その夜、はげしくおさとを愛撫した。しばらく、女体から遠ざかっていたせいもある。
翌朝は、遅く眼を醒ました。
眼を開くと、鏡に向っているおさとの姿が見えた。
絽《ろ》の薄物を着ている。下にまとっているものの紅い色が、透いて見えるのが、ひどく色っぽい。
「おさと」
と、声をかけると、ふり向いた女が、ぽっと頬を染めた。男の瞳の色で、すぐに分ったらしい。
「いやか」
「まあ――お強い」
軽く睨んで女は、再び床にはいってきた。
しばらくして、鉄太郎は躰《からだ》を起した。
「昼までには、役所にゆかねばならぬ」
「済みませぬ、むりにお引きとめして」
「いや、おれの方で泊りたかったのだ」
女は、嬉しそうな顔をした。
――まるで若い娘のようなところがある。妙な奴だな、
男は、そんなことを考えながら、衣裳を身につけた。手伝っているおさとに、
「あれは――おみよは、どうしている」
横浜で拙いことのあったおみよを、このおさとの世話で土蔵相模に勤めさしてから、そのまま一度も会っていなかった。
「はい、あの――」
と、女は口を濁した。
「何か、また、やったのか」
「いいえ、そんな――元気でよく勤めているようですけれど」
どこやら奥歯に物の挟まっているような口調だった。
気にはなったが、それを詳しく問い詰める時間はなさそうだ。
「何かと面倒を起す女らしい。よろしく頼むよ」
「はい、私に出来ますことは」
おさとの家を出て、そのまま役所に向う。
役所では、出仕してきた連中が、あちこちに固まって、前日の上野戦争の噂話をしていた。
――誰か、もう上野に行ってみたのか、
と聞いてみると、誰もまだだと言う。官兵のうろうろしているに違いない上野に出掛けてゆく勇気のある奴はいないらしい。
――よし、おれが行ってくる、
鉄太郎は、単騎、上野に向った。
大目付が公務中の外出に、供の一人もつれないなどと言うことは、旧幕時代には夢想も出来ない事だが、今は却って気楽だ。
山内では、まだところどころに、焼け残りの火がちょろちょろ燃えていた。
足の踏み場もないほど、刀槍・鉢巻・布・鉄砲・下駄などが、泥まみれになって散乱している。
敵味方の死体が、ごろごろしていた。
彰義隊はじめ各隊の隊士たちの多くは、鉄砲傷で斃れていたが、官軍の方は刀傷でやられているのが多い。
官軍の中には、それが忌々《いまいま》しいのか、死んでいる彰義隊士に、わざわざ二刀三刀と斬りつけている残酷な奴もいた。
死体の取り片付けをやっているのは、むろん、官兵の分だけであった。
戦争の址《あと》を、こわごわ見物に来たらしい町の若い連中は、たちまち官兵にとっつかまって、戦死者の死骸はこびをやらされた。
逃げ出そうとする者が多いので、二人ずつ組ませ、それを腰縄でくくって、まるで囚人のようにして働かせている。
天王台に上ってみると、吉祥閣も焼け落ちていた。
吉祥閣には勅額が掲げられてあったので、山内では、
――いくら官軍でも、勅額には大砲を向けないだろう、
と安心していたのだが、アームストロング砲は容赦なくこれを砲撃し炎上させた。
――青い火柱が高く立って、和泉橋付近では眼を開いて見ていられないほど凄い炎の色だった、
と言う。
山を脱出した隊士たちが、続々捕えられていた。みんな町人や職人に姿を変えていたのだが、懐中に脇差をかくしている者が多かったので、不審訊問を受けると、すぐに正体が暴露したと言う。
鉄太郎は、凄惨な思いで、黒門内を一巡した。それ以上深く入ろうとすると、官兵に止められた。
官名を名乗ったが、許されない。
戦闘で気の立っている官兵と事を起しては拙い。
法親王が脱出されたことだけを確認すると、鉄太郎は山を降りた。
――官兵の死体は取り片付けているが、彰義隊士の死体はどうなるのか。
鉄太郎は馬を飛ばして、三輪《みのわ》の円通寺に赴き、かねて知合いの住職専念に相談した。
「死んでしまえば、敵も味方も、官軍も朝敵もない筈、何とかしてやらねば、この暑さと雨とで死体が腐り出すだろう」
「分りました。神田|旅籠《はたご》町の人足宿三幸の親方三河屋幸三郎と言う男がおります。任侠心の厚い男、あれに話してみましょう」
「何とか頼む、徳川家としては誠に不甲斐ない話だが、公けに朝敵となった者に手を出せないのだ」
三河屋幸三郎は、専念から話を聞くと即座に快諾し、人足一同を指揮して全山の屍《しかばね》を引きとって、円通寺に埋葬した。
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転  変
徳川宗家を嗣いだ田安家の亀之助に、新しく封土が決定されたのは、上野の戦争が終ってから十日目の五月二十四日である。
駿河国一円と、遠江及陸奥両国において、知行高七十万石を下賜され、駿府城(駿河国府中、現在の静岡)城主に仰せつけられた。
亀之助は、家達と名を改めたが、依然として亀之助の名の方がふさわしい、わずか数え年、六歳の幼主である。
松平確堂が後見役を命じられた。
永らく未定であった封土が決定されたのは、旧幕臣らに安心を与える為であったに違いないが、少くともその当座は逆作用の方が大きかった。
勝者と敗者との、心理的な受けとめ方がまるで違っていたのである。
朝廷側では、
――廃絶家にも及ぶべきところを、七十万石の大国を賜わったのだ。有難く思うべきだ、
と考えたのに対し、旧幕臣らは、
――これでは加賀百万石は勿論、島津の七十七万石にさえ劣る。何と言うことだ、これで旧幕臣らすべてを収容せよと言うのか、
と、憤慨した。
――旗本八万騎、
と言うのは、むろん誇張された数である。実数は旗本御家人合せて二万五千戸、士数にして三万人以下であった。
それにしても幕府の天領四百万石と旗本の知行地二百六十万石、合計六百六十万石をもって賄《まかな》っていたものが、その約十分の一の七十万石でやってゆけるものではない。
朝廷側でもそれは分っていた。だから、家達の後見人松平確堂を通じて、旧幕臣らに対して、次のような示達が行われた。
一、朝廷に仕えようとする者は、しかるべき邸地禄高を与える。
一、旧幕府の中、農工商に従おうと思う者は、自由にその業に従うがよい。
一、家達に従って駿府へ移住したい者は新領土に、無禄で移住するがよい。それらの者の中、改めて勤仕を命ずる者には、扶持を与える。
つまり、旧敵薩長の牛耳《ぎゆうじ》る新政府に頭を垂れて仕えるか、侍の身分をすてて百姓、町人、職人になるか、駿府へ無禄移住するか、と言うことになる。
駿府へ移住する者の中、いくらかは新しい駿府藩に召抱えられる可能性があるが、圧倒的部分ば無禄、すなわち何の生活保証もない訳である。
――無禄移住などする者は少いだろう、朝臣として使ってくれと泣きついてくるか、諦めて百姓町人になるかが多いだろう、
朝廷側ではそう見当をつけていたらしいが、この無禄移住希望者が存外多かった。
むろん、悦んでそうしたのではない。町人百姓に身を落とすのは厭だ、さりとて今更、薩長の奴らに頭を下げられるか、と言う最後の見栄が彼らを支えていたのだ。
尤も、内心、
――駿河へ行きさえすれば何とかなる、まさか徳川家がわれわれをみすみす飢死させることもあるまい、
と、甘く考えていた者も少くない。
いずれにしても、この直後、旧旗本御家人の家では、この三つの中のどれを取るべきかについて、多くの論議が交わされたことは疑いない。
そして、自分では朝臣となりたい、或は町人か百姓になろうかと考えた者も、友人や親類の批判を怖れて、駿府移住を決意し、
――徳川家に対する最後の節操を保つ、
と言うポーズを示さなければならなくなった者も少くなかったろう。
この三つの方途のどれをも採らなかった者も沢山いる。
彼らの或る者は、奥州へ向って走った。
ある者は江戸に潜伏して、叛乱の機会を狙った。
上野の叛乱鎮定によって、大きな、まとまった反官的勢力は、江戸城下から抹消されたが、江戸府内が静穏に帰した訳ではない。
積極的に治安を乱そうとするもの、治安の乱れに乗じて乱妨な所業を行うものなどは、連日、何かの事件を起した。
上野討伐によって名声をあげ、西郷に代って官軍の軍事行動の中枢に立つようになった大村益次郎は、
――広い江戸や、その近辺で多少の擾乱があるのは已むを得ない。要は北越・奥羽を速やかに鎮定することだ。彼らが鎮圧されてしまえば、江戸やその近辺に蠢動《しゆんどう》する鼠賊どもは、気力を喪って一遍に屏息《へいそく》してしまう、
と主張し、精力的に、奥州鎮定の為の軍事行動に乗り出していた。
江戸が、官軍大総督府のお膝許であるにも拘らず、この当時、その警察力が極めてルーズであったことは、輪王寺宮公現法親王の行動によっても、明らかに推察できる。
竹林坊光映らに伴われた法親王は、三河島村を経て夕刻、上尾久村の名主江川佐十郎の屋敷に脱れ、土蔵の奥にひそんだ。
夜十時頃になってそこを出て、下尾久村の一農家の納屋に移って明方を待った。
敗残兵を探索する官兵がうろうろしているので、とても奥州路に向けて発つことは出来そうにもない。
――灯台下暗しのたとえ、いっそのこと、江戸府内に戻った方が安全ではないか、
と言う事になり、姿を変えて根岸・谷中・入谷を通り抜け、浅草の薬王山東光院に入った。
翌十七日、市谷自証院に移る。
間道など通るのは却って人に怪しまれると、光映は、大胆にも上野山下・広小路を通り、小石川・水戸邸前に出て、市谷谷町の自証院についたのだが、広小路にはまだ彰義隊らしい死体がいくつか転がっていた。
自証院の院主亮栄は、宮の行方を案じて探しにゆこうとしていたところであった。
悦んで宮をかくまう事にしたが、光映との間に争いを生じ、光映は憤然として宮と別れて去っていった。
たまたま旧幕徒士目付の河野大五郎が亮栄を訪ねてきて、
――大総督府では法親王の行方を探している。昨日など紀州家別邸を取り囲んで、銃を放って威嚇し、乱暴にも邸内に闖入して捜索したと言う。紀州中納言|茂承《もちつぐ》の正室が法親王の妹君なので、そこにかくれておられぬかと疑ったのだ、
と言う。亮栄が、
――法親王はここにおられる。何とか無事に奥州へおのがしする事はできまいか、
と相談すると、
――方法は一つしかない。品川湾に碇泊する榎本和泉守に頼んで、船で脱出する事だ、
――何とか頼む、
河野は同志数名と図って、榎本を説くと、榎本は直ちに承諾した。
二十五日、法親王は医師西川玄仲の従者に姿を変えた。帷子《かたびら》羽織に角帯、木刀を挿し、雪駄を穿《は》いて、玄仲の後につき、鉄砲洲の紀州家用達回漕問屋松坂屋に到着。
夜半、松坂屋長兵衛が小舟に法親王を乗せ、羽田沖に碇泊していた軍艦・長鯨丸に送り届けた。
榎本は開陽丸に乗っていたが、長鯨丸を誘導して、安房国館山沖まで送り、法親王は更に航海をつづけて二十八日朝、常陸国多賀郡平潟に到着、榎本から連絡を受けていた小笠原壱岐守長行の家臣に迎えられ、甘露寺村茲眼院に入った。
三十日、磐城平に至って、それまでの商人姿から僧形に戻り、六月二日、三春に着、ここで覚王院義観が会津若松に脱れていることを知り、法親王も会津に向った。
上野叛乱軍の名目上の主役である法親王も、事実上の謀主である義観・光映の両人も、こうしてまんまと江戸を脱出しているのだ。
江戸府内の警察力が、かなり粗漏であったことは明白である。
勝安房も、大久保一翁も、江戸警備の任は解かれていた。鉄太郎も亦、新政府下の江戸では何の力も持ち得なくなっている。
一方、新政府は奥羽征討に主力を注いでいる。その空隙《くうげき》は、多くの旧幕臣や浪人たちに、策動の余地を与えていた。
これは江戸ばかりではない。関東各地方に擾乱がつづいていた。
鉄太郎は、少し暇になったので、おさとの処にせっせと通ったが、六月に入ってから、妙な話を聞いた。
「愕きました。ゆうべ――」
鉄太郎の顔を見るなり、おさとが言った。
「何かあったのか」
「妙な方にお目にかかりました」
「思わせぶりをするな、誰だい、それは」
「伊庭八郎さまです」
「なに、伊庭に? どこで」
伊庭八郎は、講武所で心形刀流の剣術指南を動めていた伊庭軍兵衛の伜である。
軍兵衛は、幕末武士が柔弱になり、細身の刀に雪駄ばきで、じゃらじゃらしているのを嫌い、門弟にも固く戒めていたので、武骨な武士をみると、人々は、
――あれは伊庭道場の門弟だろう、
と言ったぐらいである。
八郎はこの父に訓育され、古風な、気骨を持つ青年だ。鉄太郎もよく知っており、一度だけだったが、おさとの処に連れて行って、一緒に飲んだことがある
八郎は、彰義隊の結成される前に江戸を去り、講武所の同志たちと共に、上州|請西《じようざい》藩主林昌之助を説いて義軍を結成した。
五月相州に入って兵を挙げたが、もうこの時はこの辺り一帯全く官軍の勢力下にある。たちまち追いつめられ、箱根の湯本で凄惨な白兵戦となった。
戦闘は午後の二時から四時間に亙って続いたが、八郎はまさしく鬼神ののりうつったかと思われるほど凄じい闘いぶりをみせた。
敵を斬ること数知れず、ついに砲弾がその左腕をふっ飛ばしたが、それにも屈せず左右の敵を切り捨て、血路を開いて熱海方面に姿を消した。
これは五月二十七日のことである。
――伊庭の百人斬り、
と喧伝され、江戸でも評判になっていた。
その八郎に、おさとが会ったと言うのだ。
前夜夜半、表戸を叩く音がするので、もしや鉄太郎ではないかとおさとが出てみると、見覚えのある八郎が立っていた。
左の袖がだらりと垂れている。
――済まぬ、しばらく中に入れてくれ、
と言う。
いかにも苦しそうだ。
とりあえず中に入れ、望むままに食物を供した。
――熱海から網代《あじろ》に脱れ、漁師の家にかくまわれて、傷の養生をしていたが、身辺が危険になったので、その漁夫に頼んで、舟で相州片瀬村まで送って貰い、それから陸路を品川まで潜行してきた、
と言う。
「よくまあ、そのおからだで――」
と、おさとは魂消《たまげ》た。
「山岡様にもお話ししておかくまいします。しばらくここで御養生なさいまし」
と言ったが、八郎は、
「いや、これ以上の迷惑はかけられぬ。一息入れることができただけでも大助かり、下谷に知った家がある。そこに行く」
と、止めるのもきかずに去って行った。
「そうか、一目会いたかったな。あいつの心形刀流|諸手《もろて》突きは古今の名手、さすがのおれも、あいつを外すのには一苦労したものだ。近頃の剣士には珍しい精気の漲《みなぎ》った刀法だったよ」
「大丈夫でしょうか、八郎さま」
「下谷――と言ったな」
「はい、下谷の知り合いの家に――と」
「知り合いには違いない。あいつに惚れている芸者の家だろう。それなら心配いらぬ、明日にも、そっと行ってみてやろう」
鉄太郎は翌日、かねて聞いていたその家を訪れてみたが、八郎の姿はなかった。
榎本の軍艦に引きとられていったと言う。
――榎本さん、誰も彼もひっかかえて、一体どうする気なのかな。
鉄太郎は元氷川の勝安房の邸を訪ねた。
伊庭八郎の話をすると、
――あいつは、ばかな奴さ、
と言う。
榎本の事に話が及ぶと、また、
――あいつは、ばかな奴さ、
と言う。
これは、勝の口癖だ。誰でも構わず、ばか呼ばわりする。
腹の中では、慶喜のことでも、
――ばかなお人だ、
と思っているかも知れない。
「勝先生に会っちゃ、みんなばか野郎ばかりだ。さしずめ私などもその一人でしょう」
「いや、違う、山岡君、あんたは違う」
「妙なお世辞はやめて下さい」
「お世辞じゃない、いつか西郷と話したことがある。あんたは全く始末におえん男だが、決してばかではない」
「何だかくさされてるのか、ほめられてるのか分りませんな」
「むろん、賞めているのだ」
「光栄の至りですな、しかし、勝先生」
「はあ」
「あなたは、余り悧巧すぎるのじゃありませんか」
些か皮肉をこめて言ったのだが、図々しい対手は平然として答えた。
「さよう、皆さん、そうおっしゃるようですな」
どうも勝のような男は、苦手だ。
鉄太郎は話題を変えた。
「勝先生は、政府出仕との噂がありますが、そう決めたのですかな」
「いや、私は駿府へ行く。まだ、徳川家の家臣ですからね」
「それを承って安心しました」
「山岡さん、あんたはどうする」
「私もむろん、駿府に移ります」
「無禄かも知れぬよ」
「覚悟の上です」
「お互いに、内職でもやりますか」
「いつ移られるおつもりです」
「上様(慶喜)を駿府にお移ししてからだ。上様を水戸においては危い。上様をかついで一仕事しようと企む奴がいないとも限らないからね」
「大総督府がそれを許可しますか」
「なかなかうむと言うまい。だがあちこちに手を廻している。毎日ここに坐って駄ぼらをふいている様でも、割に忙しいよ」
この年の梅雨期は何十年来の大雨にたたられたが、それがあがると無茶苦茶な暑さがやってきた。
連日、江戸の町はからからに乾き、埃の一粒ずつが熱気を持って、人の目と鼻と口と肌とを刺戟した。
二百七十年つづいた徳川の天下から、新しい朝廷の政権下へと言う未曾有の変化が、その人々の心をいやが上にもいらいらさせていた。
旧幕臣の駿府移住の業務は、容易にはかどらない。あらゆる方面から、苦情や陳情や、怒りや歎きが、次々に出されてくる。勝、大久保、山岡たちは、それを何とか捌《さば》こうとして暑熱の中を奮闘しつづけた。
夕刻、仕事を切り上げると、鉄太郎は品川へ向うことが多い。何となくおさとのところにいるのが、一番気が楽で、落着くような気がするのである。
もろ肌脱いで、冷酒をあおった。
おさとはその横に坐って、団扇《うちわ》を動かして風を送る。
「鉄太郎さまは、いつ、駿府へお移りになるのです?」
「江戸はもうおれたち旧幕臣の住む処じゃない。成るべく早くと思っているんだが、色々と雑務が多くてなあ」
「私はいつでも発てるように支度しております」
鉄太郎が移住するなら、自分も行くと言って、いくら止めても聞き入れないのだ。
「どうしてもゆくか。おれも無禄になるかも知れん、助けてやれない」
「御迷惑はかけません、何とかします」
「だがなあ、狭い駿府にどっと何千何万の人が押しかけてゆく。それも殆どが何の生活の保証もなくてだ。並大抵のことではやってゆけないぞ」
「覚悟しております」
「そうか」
「いずれ近い中のことでしょう」
「うむ、今、勝さんが上様を駿府にお移しするよう懸命に働いている。上様がお移りになったら、私もすぐに行くつもりだ。しかしそれは早くても、来月の半ばぐらいになるのではないかな」
と言った鉄太郎が、ふっと盃を運ぶ手を止めた。
「どうかなさいましたか」
「大事なことを忘れていた。大久保(一翁)さんから預った書類を、平岡(丹波守)さんに渡さなければならなかったのだ」
鉄太郎は立ち上った。
「これから行ってくる」
「だって、こんな時刻に――明朝になさいまし」
「いや、どうしても今日中に渡さねばならん。行く」
「夜半になってしまいます。明日朝早く、お起ししますから」
いつも鉄太郎のすることに強く反対することのないおさとが、妙にしつこく押し止めたが、鉄太郎はふり切って着換え、おさとの家を出ていった。
つい今迄話していた対手が、急にふっといなくなってしまうと、淋しいものだ。殊に今宵は泊ってくれるものと決めていた男が、さっと消えていってしまった後では、何ともやりきれない空虚《うつろ》な感じが残った。
おさとは、ぼんやり座に戻って、鉄太郎の呑み残した酒を少しずつ飲んだ。
酔えそうもない。
――どうしてあんなに急いで出て行ったのかしら。明日でもよいのに、
やはり、少し恨めしい。
――愚痴を言っても仕方がない。男の方には男のやり方があるのだ、
そう思い諦め、味気ない夕餉《ゆうげ》をすませ、床に入った。
眠るともなく醒めているともなく、うつらうつらとしている間に、何時間か経っていたらしい。
表戸の方に、かたりと音がした。
おさとは、はっと眼を開いた。
――鉄太郎さまが戻ってきて下さったのかしら、
急に嬉しくなって、いそいそと立ち上り、裾の乱れを直すと表口の土間に足を下ろした。
表戸が、あいた。
外からこじあけたのだ。
黒い頭巾をかぶった男が、おさとを押し返すようにして土間にはいってきて、後手に戸を閉めた。
「どなたです!」
おさとは愕いて叫んだ。
「静かにしろ」
男はおさとの胸倉を掴んで押した。左手に刃物の光が白く光っていた。
「騒ぐと、ためにならんぞ」
言葉づかいからみても、職にあぶれた不良の浪士らしい。
「乱暴しないで下さい。お金なら、あるだけ上げます」
「そいつは有難い。出して貰おう」
おさとは部屋に戻って、仏壇の抽斗《ひきだし》から、財布を出した。
「これだけしかありません」
男は、中味を調べた。
「三両二分か、少ねえな」
「私などが大金を持っている筈はないでしょう」
「まあいい、これでまけておいてやろう、その代り――」
男は、おさとの薄い長|襦袢《じゆばん》一枚に覆われたからだを、撫で回した。
「よして下さい、いやらしい」
「生娘じゃあるまいし、野暮なことを言うな。たっぷり愉しませてやるぜ」
「やめてッ」
おさとは表へ向って逃げようとした。
男は素早くその肩をつかんで引き戻し、床の上に押し倒した。
「世話をやかすんじゃない。おとなしく言うことを聞かねえと、命がねえぞ」
「いやッ、殺されたって厭です」
覆いかぶさろうとする男を、おさとは必死になって撥《は》ねのけようとする。
「誰か――助けてッ」
悲鳴に近い声が出た。
「静かにしねえか、畜生」
意外なはげしい抵抗に、男は怒りを爆発させたらしい。
「ぶっ殺すぞ」
「いやッ、誰か――」
もつれ合った拍子に、男の手にした刃が、おさとのはだけた胸に深くつき刺さった。
――きゃぁッ、
と高く声があがった。
男は、殺す気はなかったらしい。その凄じい声にびくっとして手を止めた。
血の匂いが鼻をつく。
――しまった、殺してしまった、
恐怖が、男を捕えた。
慌ててからだを離すと、表口から飛び出して、闇の中に姿を消していった。
入れ違いに、隣家の主人が走り出てきた。
「おさとさん――どうかしたのかい」
開け放された戸口から、中を覗き込んだ。
血まみれになったおさとが、這い出してきていた。
「今、強盗が――鉄太郎さま――」
それだけ言って、息が絶えた。
凶報が鉄太郎の許にもたらされたのは、明方である。
報らせを受けた土蔵相模から、使いを走らせたのだ。おさとが山岡の寵《おも》い者になっていたことは、店の者はみんな知っていた。
平岡丹波の邸から夜半過ぎに戻って床に入って間もなく起された鉄太郎は、
「まさか、おさとが」
と一瞬、耳を疑った。
すぐに馬を飛ばせて、品川に赴く。
おさとの遺骸は浄められて、仏壇の前に安置されてあった。
土蔵相模の主人瀬左衛門始め朋輩、近隣の人たちなどが、表の上りかまちまで足の踏み場もないほど坐っている。瀬左衛門が、
「あ、山岡様、何とも申上げようもないことになりまして」
と、まるで自分の罪ででもあるかのように、からだをすぼめて言った。
鉄太郎は人々がからだをずらせた間を通って、おさとの亡骸の前に坐った。
白布をのけると、おさとの白い顔があった。いたましい苦痛の表情を浮べている。
つい先頃、同じように不慮の死を遂げた益満の死顔をみたが、それは飄々《ひようひよう》としてとぼけたような安らかな死顔であった。おさとのそれは痛々しくゆがんでいる。
――最後に、鉄太郎さまと叫んで、息が絶えました。
臨終の場面を目撃した隣家の主人が、そう言った。
――可哀そうに、ゆうべ妙にしつこく止めたのは、虫が知らせたと言うものか、自分がいさえすれば、こんな事にはならなかったものを。
鉄太郎は、滲み上ってくる瞳の中の熱いものを辛うじてこらえて、両手を合せた。
「よりによって、こんないいひとを――何とむごたらしい――」
「どうせ、この御治世じゃ、犯人は捕まるまい。おさとさんも浮ばれないやな」
「優しくって、親切で、よく気がついて、私は姉さんのように思っていたのに」
小さな声で囁かれていることは、すべておさとが周囲の人々に愛されていたこと、彼らの哀悼が心からのものであることを示していた。
「瀬左衛門さん、おさとは鄭重に葬ってやって下さい。万端の手続きは私は不案内、よろしく頼みます。所要の費用はすべて私が引受けます。なるべく盛大に」
鉄太郎がそう言う。
「山岡様、そうして頂ければ、おさとさんも悦ぶことでございましょう」
鉄太郎は一旦そこを出て役所に赴き、夕方、また、通夜のため戻ってきた。
「鉄太郎さま」
と、肩のうしろから、囁くものがある。
おみよであった。
「おみよ、来ていたのか」
「はい、昨日から横浜へ行っておりまして、つい先刻帰ってきて、おさとさんの事を聞いて、本当に吃驚《びつくり》しました。ずいぶん親身になってお世話下さったおねえさんが」
涙が頬を濡らしている。
葬式が済み、初七日のささやかな法要も終って、参会者を送り出した鉄太郎が、仏壇の前に戻ってくると、おみよが独り、しょんぼりと坐っていた。
「おみよ、どうしたのだ。私は位牌を持って引揚げる」
仏壇にはおさとの位牌が、益満のそれと並べられてある。鉄太郎はその二つを自分の家に持って帰るつもりでいた。
「あの、鉄太郎さま、お願いがあります」
「改まって、何だね」
「私、ここの家主さんにお話しして、このお部屋を借り受けることにしました。その御位牌はここに置いていって下さいまし、私が毎日、拝ませて頂きます」
「お前が、ここに住むのか」
「はい」
鉄太郎にとっても懐かしい部屋だ。声をかければ、次の間からおさとがふいと現れてくるような気がする。
「それはいい、同じ高山育ちのお前が住んで、位牌を拝んでやればあれも嬉しかろう」
「お世話になりっぱなしで何のお返しも出来ませんでしたから、せめてもの御恩返しをしたいと思います」
横浜にいた頃は勿論、こちらに移ってからも、余り香《かんば》しくない噂を耳に入れていた女だが、そう殊勝なことを言われると、
――やはりよい家庭に育った女だ、いい処があるな、
と、改めて見直した。
「それじゃ、そう願おう。益満の分も頼む、益満も知っていたっけな」
「はい、お座敷で何度も――本当に気さくな愉しい方でした」
「私も、暇をみて、おさとと益満に会いにくる」
「是非、そうして下さいまし」
おさとの二十一日の法要のあと、また、鉄太郎とおみよの二人が、後に残った。
「早いものだな、つい昨日のように思われるのに」
「あの、おさとねえさんは、高山には御親戚の方はいないんでしょうか」
「何も聞いていない。みよりはいないのじゃないかな」
「私も、もう、高山に身内はおりません」
「高山にいた頃、おさとを知っていたんだっけ」
「いいえ、こちらに来てからです」
「高山にいた頃は、何の苦労もなくて、楽しかったな、少くも父上の生きていらした間は」
「よく宗猷寺にお出《いで》でございましたね」
「あそこの俊山和尚に野狐禅の講義を聞きに行った。尤も半分は、寺の前の家にいるお前の顔を見に行ったのだ」
「御冗談ばかり」
「いや、本当だ。お前が嫁に行ったと聞いた時、がっかりしたよ」
今は、そんなことも平気で言える。遠い少年時代の夢物語なのだ。
「嘘」
「本当だ」
「だって、おさとねえさんと結ばれたのはその頃でしょう、私、聞きました」
「お前が嫁入りして、がっかりしている時、おさとに、その――」
「御馳走さま」
「ばか」
「私もおさとねえさん位の齢だったら、何とか鉄太郎さまに近づく手だてを考えついたでしょうに――まるでねんねでしたから、そっと想っているだけでした」
「それこそ、嘘だ」
「本当です」
「そうしておこう。お互いに幼い頃の想い出の一つにしておこう」
「おさとねえさんはあんな御最期でしたけれど、考えてみれば仕合せな方です。鉄太郎さまに可愛がられて」
「あれはよくしてくれたよ、本当に」
それから五日に一度ぐらい、鉄太郎はおみよの家を訪れた。
夕刻五時過ぎにゆき、仏壇に線香をあげ、おみよと高山や、おさとについての想い出ばなしなどを三十分ぐらいして帰る。
おみよは六時過ぎには、店へ出なければならないのだ。
七月十七日、江戸を東京と改め、ここを新しい首都とする旨が宣布された。
――都を江戸に移すべきだ、
と言う議論は、早くもこの年の始め、前島|密《ひそか》らによって唱えられていたが、大久保一蔵は、
――大坂を新都とするがよい、
と主張し、木戸準一郎(孝允)は従前通り京を帝都とすべしと論じ、容易に議論がまとまらなかったが、大総督府の東下につづいて多くの者が江戸にやってきて、その規模の広大さに感心し結局、
――江戸は我国第一の大鎮《だいちん》、四方|輻湊《ふくそう》の地、よろしくここに新政府を置くべきだ、
と言うことになったのである。
まだ、東北でははげしい戦闘が行われている時であり、江戸の治安さえ充分でない時に、こうした決定を行い、且つこれを公表したのは、可なりの勇断であったと言ってよい。変革期にはこのような勇断が必要なのだ。
だが、江戸市民たちは冷い反応を見せた。
――江戸は江戸でいいや、東京なんてくそ面白くもねえ。へっ、お上で何と呼ぼうと、おいら一生江戸っ子で通すぜ、
と啖呵《たんか》を切った者もいる。
勝が内々運動していた慶喜の駿府移住も、漸く認められた。
七月十九日、慶喜は水戸を発し、二十一日銚子の波崎《はさき》から蟠竜《ばんりゆう》艦に乗り、二十三日駿河国清水港に上陸し、その夕、つつがなく宝台院に入った。
清水港には、陸路先行した精鋭隊の松岡万が、隊士五十名を率いて待ち受け、宝台院まで警衛した。
「いよいよ、鉄太郎さまも、駿府へお移りになりますのね」
おみよが聞く。
「うむ、来月、亀之助|君《ぎみ》――いや、家達|君《ぎみ》が駿府城へ初入城される。その時にお伴したいが、多分、残務の整理があるから、もう少し遅れるだろう」
「来月二日は、おさとさんの四十九日です。お店の人たちや近所の方々にも来て頂いて、心ばかりのおもてなしをしたいと思いますから、鉄太郎さまも、いらして下さいまし、お店の方は休ませて貰います」
「そうか、四十九日をお前がやってくれるか、忝《かたじけ》ない。面倒をかけるがよろしく頼む。これは少いが――」
と鉄太郎が、若干の金子を差出した。
「いいえ、今度は私にさせて下さい」
「そうはいかぬ、志は有難いが、当然私がしなければならぬ筈のものだから」
強いて、金を受取らせた。
四十九日の当夜、かなりの人が狭い家の中を埋めつくした。
おさとの思い出、駿府へ移った上様のこと、最近のすさまじい物価の値上りなどについて、にぎやかに話がはずんだが、店の者が次々に引揚げてゆき、近所の人たちも去っていった。
「色々世話をかけた。おみよ、あれも悦んでいてくれるだろう、礼を言う」
「いやですよ、そんなに改まって。さ、まだお酒はあります。もう少しお過ごしなさいまし」
「そうだな、今夜は飲みたい」
鉄太郎は、おさとの事を色々と話しながら、かなり飲んだ。
「もう、この位にしておこう」
「これからお帰りになるのじゃ大変でしょう、あちらにお床をおとりします。夜明けも間もないこと、少しおやすみなさいまし」
おみよがとってくれた床の上に、鉄太郎は転がった。
残暑は未だ強い。
釣ってくれた蚊帳の中で、鉄太郎は下帯一枚になり、すぐに大きないびきをかき出す。
何時間かたって、自分の身近かに人の気配を感じて、ふっと眼を醒ました。
いつの間にきたのか、薄物一枚のおみよが、寄り添って寝ている。
戸の隙間からはいってくる暁の光りの中で、その姿がひどく艶《なまめ》いてみえた。
――おみよ、
と、頭を起そうとすると、おみよが左手を鉄太郎の首に回して、しがみつく。
「鉄太郎さま――」
小さなからだが、覆いかぶさってきた。
鉄太郎の太い腕が、その細い腰を抱いて、くるりと仰向けにした。
おさとのからだは、みかけより豊かに肉付いていたが、おみよのそれは、小さくて痩せぎすであった。にも拘らず、それは奇妙な柔軟性と吸着力をもって、鉄太郎の大きなからだに葛《くず》のようにからみついてきた。
理性を放棄した時間が、つづいた。
やがて、鉄太郎はおみよからからだを離し、胸の汗を拭った。
「妙なことになってしまった」
少々照れ臭い面持で、言う。
「おさとねえさんの霊が、仲立をして下さったんです。十何年ぶりで想いがかなったんですもの、私、嬉しい」
鉄太郎にはそんな甘い悦びはなかった。昔の幼い恋心などはとっくに消えてしまっていた。こんな状態で初恋の女と契ったことについて、ややくすぐったい思いがしているだけのことだ。おさとに済まぬ――と言う気もしている。
――だらしのない話だ、おさとの四十九日に、その仏壇の前で――おれはよくよく色好みなのかな、
と苦笑が洩れた。
八月九日、駿河藩主徳川家達は、江戸を出発して駿府に向った。
始め、家達の領土七十万石は駿河国一円のほか遠江及び陸奥を与えられると言うことであったが、奥羽がまだ戦火が収まらぬため、駿遠のほか三河国を与えられることになっていた。
お供は側用人の溝口八十郎以下五人足らず、行列には長刀《なぎなた》一振、虎皮の投鞘《なげざや》のかかった槍一本、十文字の槍一本と言う簡略さである。
家達――側近の人たちは依然、亀之助と言う幼名で呼んでいたが――は、黒|縮緬《ちりめん》紋付の羽織に仙台平《せんだいひら》の袴をつけ、中剃りの大きい「お河童さん」のまわり髪、筆軸ほどのまげを結い、お年寄の初井に抱かれて、溜塗《ためぬり》網代の輿《こし》に乗っていた。
年をとってからも童顔で、ひどく背の低かった人である。この頃は年よりも小さく、雛《ひな》人形のように見えたと言う。
時代のめまぐるしい転変も、自分のおかれている境遇も、むろん、まだ理解できる齢ではない。
捲き上げたすだれの下から顔を出して、沿道の風景を珍しそうに見ている。
町並の家々が興味を惹いたものか、初井の顔を見上げて、
「初井、あの小さな家には、みんな人が住んでいるのか」
と聞く。
「さようでございます。町人どもが住んでそれぞれの商《あきな》いを致しておりまする」
「どれも同じようではないか、よく自分の家を間違えないものだなあ」
「まあ、上様」
初井も、輿の回りにいた御小姓頭取の伊丹鉄弥も、苦笑した。
――上様の御行列ではないか、
江戸市民の中には、まだ徳川家を将軍家のように思い、その当主を上様と呼んでいる者が少くない。慌てて土下座して、
――お痛わしい。
と、ふし拝む律義な者もいた。
だが、以前と違って、
――下に、下に、
と言う警蹕《けいひつ》の声をかける者はなかったし、家達の通行が前触れされていた訳でもない。七十万石の大名としても著しく貧相なこの行列に、特別の注意を払おうとしない者の方が多かった。
品川を過ぎた頃、錦切れをつけた官兵の一団とすれ違った。
――おい、徳川《とくせん》家の行列だぞ、
――かごに乗っているのが、亀之助とか言うのだろう。
――朝敵の巨魁の家が、潰されもせずに、ふん、運のいいことだ、
そんなことを、声高に言う奴がいた。
数年前なら、道端に土下座して土に額をくっつけていなければならなかった連中だ。
――少しおどしてやれ、
官兵の一人が、路傍の木に止まっていた鳥に向って鉄砲をぶっ放した。
家達の行列が吃驚して、何事かと思わず進行をとめると、発砲した男は、
「鉄砲が怖いか、あっはっは」
と、大声で笑った。
通りすがりに、わざと家達の顔をじっと覗き込んで、にやっと笑ってゆく奴がある。
行列に背をむけて、松の根方に向って小便をしてみせる奴もいた。
――無礼な、
と、行列の中の若い連中は歯がみした。
――我慢がならぬ、叩き斬る、
と、刀の柄に手をかけて駈け出ようとする者もいたが、年上の者が必死に抑えた。
――何事も忍耐だ、今、官軍と事を起しては、御家の一大事になり兼ねない。堪えろ、こらえろ、
若侍は、涙をぽろぽろこぼしながら、うなずいた。
八月十五日、江尻宿につくと、大久保一翁が待っていて、先導した。
府中に入り、横田町から伝馬町を経て、呉服町六丁目に入り、下魚町の方に折れて、宝台院に到着。
ここにある二代将軍秀忠の生母西郷局の霊屋に詣でた後、前月末以来、この寺内に謹慎生活を送っている前将軍慶喜に対面した。
――可哀そうに、この児もこれから苦労することだろう。自分はこの齢には、父(水戸斉昭)の許で何の心配もなく、乱暴に遊び回っていたものだが、
慶喜は、少年のつぶらな瞳をみて、そう思う。
――が、なまじいに将軍などと言う職につかぬ方が仕合せかも知れぬ、
と言う感慨もあった。
慶喜は、少年の頃から俊敏を謳われ、自らもそれを自負し、一度は将軍職について縦横の腕を揮ってみたいと念願した。
紆余曲折《うよきよくせつ》の揚句、目的を果して将軍職についたが、その結果はどうであったか。
――この少年には、平和な静かな生涯を送らせてやりたい、
自負の極めて強い人間であっただけに、この時点における慶喜の挫折感は、みじめなまでに彼を沈鬱にしていた。
慶喜に暇を告げた家達は、七間町通りに出て札之辻を通り、正午頃、追手門から駿府城に入り、元城代屋敷に落着いた。
早くからこの地に来て準備していた平岡丹波、戸川平太、河野左門、織田和泉らの旧幕臣らが、相ついでお目通りする。
勝安房、山岡鉄太郎、向山黄村らも、この日の家達を迎える為に一応、駿府城に先行してきている。彼らはしかし、残務があるので、その整理をつけるためもう一度江戸に、いや東京に戻らねばならないだろう。
旧幕臣のほとんどすべては、家達と初対面であった。
家達は、次々に面前に現れる旧幕臣らに対して、
「余は家達である。見知りおけ」
と、大人のような言葉を、やや甲高《かんだか》い子供っぽい声で繰り返した。
そう言えと、教えられたからである。
新しい駿府藩で、旧幕臣の中から、どの程度を正規の藩士として召抱え得るものか、まだはっきり決定はしていない。
この時に決っていた主な役人も、
――家老に平岡丹波、準中老に大久保一翁、幹事役に勝安房、
と言うぐらいである。あとは取りあえず、平岡や大久保が手近の者を使っていた。
家達が駿府に安着してから数日後、東京から、新しい報らせがあって、勝と山岡と向山とは、急遽、東京へ引返した。
――八月十九日、榎本和泉守が軍艦・運送船八隻を率いて、奥州へ向った、
と言う。
榎本は、家達が駿府城に安着するのを見届けると、軍艦開陽・回天・蟠竜・千代田形及び、運送船長鯨・美加保・神速・咸臨の八隻を率いて品川沖から脱出したのである。
蟠竜には旧幕遊撃隊が乗込んでいたし、長鯨には彰義隊の敗兵が二百余名も潜入していた。
榎本は脱出に際して、勝と山岡宛てに、長文の書面を残していた。
その要点は次の如くである。
――未だ奥羽の兵乱は収まらず、諸民必ずしも官軍に心服していない。官軍は朝命と称して前将軍に朝敵の汚名を与え、城地を没収してその家臣を路頭に迷わしめている。この王政なるものは決して天下の公儀ではなく、薩長ら強藩の私意にほかならぬ。われわれは真の皇国一致の基を開くため、この地を去る。われわれの志を妨げんとする者に対しては、あえて闘うつもりである――云々。
脱走後、どうするかについては、まだ明白に述べていない。奥羽連盟と手を携えて官軍と闘うか、蝦夷地開拓によって旧幕臣の窮境を救おうとするのか。この段階ではまだ結論に達していなかったのであろう。
ともあれ、榎本は旧幕臣である。その榎本がこのような挙に出たことについて、一応、官軍に対して陳弁しておかなければならぬ。
勝は、家達の名において、大総督府に対して、
――榎本らの行動は、家達の関知しないところだが、監督不行届の段、寔《まこと》に恐入る、
と言う意味の謝罪書を、提出しておいた。
脱出した榎本の艦隊は、甚だ不運であった。
天候の上からみて最悪の時期に、大洋に乗り出すことになったのだ。
二十一日、銚子沖にかかった頃から、物凄い北風が吹いてきて、大雨さえ加わり、各艦とも進退の自由を失った。
翌二十二日には、艦隊は早くもばらばらになって相互の連絡を断った。
美加保丸は銚子沿岸の暗礁にのり上げて破船。
咸臨丸は蟠竜と共に漂流し、蟠竜は伊豆の安良里《あらり》に、咸臨は駿河の清水港に吹きよせられていた。
長鯨及び千代田形は、二十四日、松島湾の寒風沢《さぶさわ》に辛うじて到達。
二十六日に回天が、二十七日に開陽が、いずれもマスト三本を折られた惨憺《さんたん》たる姿で、寒風沢に入港。
心配された神速と蟠竜とは九月になってからようやく同地にやってきた。
最も悲惨だったのは、清水港に避難した咸臨丸である。太平洋を横断してアメリカまで航海したことで著名だったこの船も、もはや老朽化していた。清水港で何とか破損した船体に修理を加えようとして岸に近づいて錨《いかり》を下ろした。
この船には脱走兵二百近くが乗っていたが、船の修理ができるまで上陸して待つことになり、艦長の小林文次郎は事情説明のために駿府に赴いた。
ところが、運が悪いことに、これを官軍側の軍艦が嗅ぎつけ、富士山、武蔵、飛竜の三艦が三保岬を回って、港内に侵入してきた。
錨を下ろしている咸臨丸を見つけると、いきなり、砲弾の一斉射撃である。
咸臨丸では副艦長の春山弁蔵が、棒の先に白い布をつけて力一杯に振り、抵抗の意思のないことを表明した。
しかし、官軍側は構わずに乱射し、更に小舟に乗込んだ兵員が咸臨丸の船上に躍り上り、陳弁も聴かず春山以下二十余人を斬殺し、海中に抛《ほう》り込んでしまった。
急を聞いて馳せ戻った艦長の小林は、捕えられて東京に送られた。
官軍側軍艦が、咸臨丸を捕獲曳航して去っていってしまうと、海上に二十数個の死体が漂っている。
――可哀そうに、
と、岸からみている人たちは眉をひそめたが、うっかり死体を収容したりして、官軍の咎めを受けては大変だと、手を出すものはいない。
次郎長――と言う男が、磯近くに打寄せられては、また波につれ去られてゆく無惨な、切傷だらけの死体をじっと見ていたが、
「死んでしまやあ、みんな仏だ。官軍も賊軍もあるものか、こんな惨《いじ》ましい姿で放っておいちゃ、人間の途に外れる。後で官軍が処罰するなら立派に受けようじゃねえか」
と、啖呵を切った。
若い者を集めて、舟を出し、死体を全部収容し、巴川べりの自宅から見える向島の一本松の下に葬った。
――清水港の次郎長
の名は東海道の博徒仲間では有名だったが、この事件で更に株をあげた。
鉄太郎がこの男と知り合いになったのも、この事件がきっかけである。
ところで、この間、奥州の戦局は、どのように展開されていたか。
五月三日に結成された奥羽二十五藩の同盟は、仙台藩を盟主とし、太政官に建白書を奉って、会津・庄内両藩のために雪冤《せつめん》運動を行おうとしたが、事態の推移と共に、今やこの同盟の目的は、協力して官軍と闘うことに集約されてきていた。
奥州口では、七月にかけて、白河城が官軍によって奪取されたぐらいで大した激戦はなかったが、北越では、長岡城の攻防をめぐって壮烈な戦闘が行われた。
長岡城主牧野忠訓は若年であり、施政一切は家老河井継之助が司っていたが、河井は恭順・抗戦両派を抑えて、厳正中正の態度をとろうとしていた。
東山道先鋒官軍の軍監岩村精一郎と言う男が、兵を長岡領内に入れようとしたので、河井は単身|小千谷《おぢや》まで行き、官軍本営に乗込んで岩村に会った。
岩村の態度は、この当時の官軍幹部の例に洩れず頗る傲岸《ごうがん》であった。木で鼻をくくったような冷笑的態度をとる。
――この土阿呆め、
河井の筋骨につき徹っている長岡武士の根性が、ぴくんと音を立てて反撃した。
――闘え、
河井は全藩に命令した。
激戦二旬を超えても官軍は、榎峠の嶮を突破することができなかったが、長駆迂回した援軍が手薄の長岡城を急襲したため、城主は城を棄てて会津に奔《はし》った。
だが、これで長岡藩の抵抗がやんだのではない。
河井は加茂に本陣を置いて、逆襲を試み、各方面で官軍を破ったばかりでなく、七月二十四日には夜陰に乗じて長岡城下に挺身隊を潜入させ、ついに長岡城を奪回した。
愕いた官軍は、黒田参謀の援軍が到着するのを待って、二十九日長岡城を包囲して総攻撃を加え、辛うじて長岡城を再度攻略。
河井は会津方面に退いたが、戦傷のため陣歿、北越諸藩の反政府軍は相次いで官軍に降った。
一方、奥羽方面では、上野から脱出してきた輪王寺宮公現法親王が、かつぎ上げられて、ひと役を果たしていた。
親王は会津若松から仙台に移ったが、ここで奥羽列藩同盟に対し、令旨《りようじ》を下した。
――薩賊が幼主をあざむき幕府を廃したことは大逆無道、千古無比、
と甚だ勢がよい。むろん、宮自身はロボットとして使われただけで、この令旨も例の義観が書いたものである。
七月に入って、官軍の行動が著しく活発化してきた。
弾薬・食糧・兵員についての準備がととのってきたためである。
七月十三日、平城陥落。
七月二十七日、三春藩、官軍に降伏。
三春藩は降伏と同時に、政府軍の先導をつとめて、二十九日、二本松城攻撃に加わった。
この時、二本松城に残っていた藩兵は僅かであり、その多くは各地に出動していた。
板垣退助の率いる土佐・薩摩・彦根・大垣・忍・館林諸藩の兵が、三春藩兵を先導として、大挙して城下に迫ってくる。
城主丹羽長国は病臥中であったが、敢然として城を枕に討死しようと決意した。しかし重臣丹羽一学以下泣いてこれを諫《いさ》め、城を脱出させた。
残った藩士は老幼を問わず死戦を覚悟する。
この戦いに加わった薩軍の野津七次(後の陸軍元帥野津|道貫《みちつら》)が、
――戊辰戦争中最大の激戦、
と記した壮烈な戦いが展開された。
二本松軍は街道口の大壇に防衛線を設け、山に沿って柵を結び、叢林《そうりん》の中にひそんで乱射し、しきりに官軍の兵を斃した。
攻めあぐんだ官軍は、兵を三分し、遠く迂回して二本松軍の背後を衝き、ここに血塗《ちま》みれの白兵戦が展開された。
激闘数刻、衆寡敵せず、二本松軍はついに潰《つい》え、官軍は城中に突入し、城兵は城に火を放って脱れた。
この戦闘において異彩を放ったのは、少年隊の奮戦である。会津の白虎隊に劣らぬ健気《けなげ》な闘いぶりをみせた。
しかもその参加者は十二歳、十三歳と言う幼い者が多く、十五歳以下の者で姓名の判っている者のみでも三十六名に上っている。
十四歳の少年成田才次郎は大壇口で防戦したが、長州藩の隊長白井小四郎が兵を率いて進んでくるのを見ると、大刀を揮ってこれに立ち向ってゆく。
白井は対手が余りに年少なので、部下を顧みて、
「子供だ、斬るな、助けてやれ」
と叫んだ。その一瞬、才次郎が躍り込んで白井の腋下を刺して斃した。
「こいつ、生捕りにしろ」
と怒って追い迫る長州兵と必死に闘う中に、銃丸が才次郎の胸を貫いた。
十三歳の岡山篤次郎も大壇口で闘ったが、敵弾二個を受けて路傍に倒れた。薩兵がその年少を憐れみ、病院に収容したが、昏睡から醒めた篤次郎は、
「残念! 鉄砲を!」
と怒号し、譫言《うわごと》にも抗戦を叫びながら息をひきとった。
こうした例は枚挙にいとまがない。
二本松軍の主将丹羽一学は、服部久左衛門、丹羽新十郎らと共に、本丸内武器蔵奉行影山の役宅で見事に自刃した。
仙台藩兵はかなりの軍兵を以て、須賀川に陣していたが、反撃して二本松城を奪回しようと言う一部の論を退け、猪苗代を経て米沢に入り、仙台に引揚げてしまった。
二本松落城の影響は大きかった。前線の崩壊は、急速に後方の戦意をむしばむ。
かねてから態度が曖昧であった相馬藩は、八月六日、列藩同盟に背いて官軍に降った。
もはや列藩が力を合せて闘うと言う体制は崩れ、各々自分の藩境を固めるのに汲々たる状況となる。
官軍参謀板垣退助と伊地知正治とは、
――賊軍の根元は会津だ。仙台や米沢は枝葉に過ぎぬ。もう一ケ月もすれば雪が降って進軍が困難となる。一日も早く会津を討伐しよう。幸に会津は兵を四境に派出し、城はかえって手薄になっている。急襲して城を直撃すべきである、
と意見が一致し、八月二十日二本松を進発した。主力は薩長土及び大垣・大村の藩兵である。石筵口《いしむしろぐち》を進んで会津街道玉の井村に進出、母成峠の会津・仙台両藩兵及び旧幕伝習隊の兵と闘ってこれを破った。
八月二十二日、官軍は進んで猪苗代を陥れ、その先峰、薩摩の川村与十郎隊は十六橋を渡って戸の口に侵入した。
白虎隊の惨劇は二十三日である。
敗兵は相ついで若松城下に逃げ戻って城に入った。
官軍は急進して城下に殺到した。
城下に住む藩士の家族の老幼婦女子で城に入る余裕がなかったものはことごとく壮烈な自刃を遂げた。
家老西郷頼母の家で、母律子、妻千恵子、妹みす子、同ゆふ子、長女細布子が刃に伏し、千恵子は死に先立って娘たづ子、常盤《ときわ》子、季子の三幼女を刺した。
そのほか西郷邸にあった親族の老幼十二名も、相ついで命を絶った。
城をめぐる攻囲戦は、それから月を超えて、ますます激烈になっていった。
米沢藩では、八月下旬頃から降伏論が強くなっていたが、姻戚関係にある土佐藩からの説得もあり八月二十八日藩主上杉斉憲は、使者を派遣して投降を願い出た。
越後口総督がこれを許したので、斉憲は城外に退いて謹慎の意を表する。
仙台藩でも米沢藩の勧誘を受けて和平論が強くなってきていたが、ちょうどこの時、榎本和泉守武揚が軍艦を率いて松島湾にはいってきた。
九月三日、榎本は城中で仙台藩士と会同し、
――奥羽は日本全土の六分の一、兵力は五万に達する、断じて闘え、
と煽動した。これに力づけられて、抗戦継続を主張する者も多い。
九月十日、大評定が開かれ激論の末、藩主伊達慶邦の裁決によって、降伏と決定。
榎本は必死になってこの藩論をくつがえそうとしたが容れられず、憤然として軍艦を率いて蝦夷地(北海道)に向う。
十五日、藩の正使は総督府の使番榊原仙蔵に降伏謝罪書を提出した。
もはや会津は全く孤立した。
十七日、総攻撃、城の内外の連絡杜絶。
二十二日、ついに若松城主松平容保は無条件降伏し、城を開け渡した。
九月八日、慶応から明治と改元された。
若松城の落城を見越して奥羽の征定に自信をもった新政府が民心一新の目的で改元したのである。
この夜、鉄太郎の家に訪れてきた村上俊五郎が、言った。
「先生、どうやらこれで新政府万歳と言うことになりそうですね」
この男、乱を好む性格である。平和が余り早くきてしまうのは愉しくないらしい。
「そう言うことだろうな」
「奥羽列藩同盟、あれだけ雁首を揃えながら、案外だらしがなかったですね」
「それは仕方がないだろう。当然の結果だと思う」
「何故です」
「薩も長も、土州も肥州も、幕末にかけて藩の体質を変えるような政治改革をやっている。人材の登用・殖産興業・軍制改革と、めまぐるしい変化が行われたのだ。ところが、東北諸藩――いや、幕府自身もそうだったがね――の、古い藩体制の本来の姿は全く変っていない。これでは勝てる筈がないな」
「そう言えばそうですね」
「東北諸藩は今でも、幕府の制度が一番よい、そのうまくいかなくなった点を手直しすればよいと考えている。西南諸藩は、早くから幕府制度ではもうとてもやってゆけない、これを打倒する以外に、日本の新しく生きてゆく道はないと考えていた。そこの違いだ」
「なるほど」
村上はちょっと不思議そうな顔をして、鉄太郎を見上げた。
村上にとっては、鉄太郎はいつでも、剣の師であり、怖るべき鬼鉄である。それがまるで自分の義兄勝安房の言いそうな事を言うのが奇妙に思われたのだ。
勝が理窟で考えることを、鉄太郎がカンで理解していることが、分らなかったらしい。
翌日、鉄太郎は品川の家で、おみよに会った。
「大体、残務も片付いたから、近く駿府にゆく」
「駿府は大変でございましょうね」
「それは大変だ。何しろ今迄四千戸しかなかった府中城下に、三万人近い人間が移ってゆくのだからね」
「みなさん、どうやって暮らしてゆかれるでしょう」
「さあ、どうなるか、何しろ物価の値上りがひどい。昨日、村上が話していたが、府中では一個五文だった鶏卵が三十文、一枚十文だった油揚が二十七文だと言う。そばは江戸でも湯銭と同じ十六文だが、府中じゃ六十文だと言う。何でも江戸より何倍かする」
「私、先生について駿府にゆきたいと思っていましたけれど、もう少し様子を見ます」
「その方がいいだろうな」
鉄太郎はあっさりそう答えた。
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揺らぐ駿府
明治元年八月、駿河府中城主として、徳川|家達《いえさと》が駿府(静岡)に来任してから、同四年七月の廃藩置県によって、再び東京に戻るまでの、まる三ケ年、駿府は大きな嵐に見舞われていたようなものであった。
幕府の直轄領として、城代が置かれ、極めて安穏な城下町を形成し、同時に東海道の最も重要な宿駅の一つとして繁栄を享楽してきたこの駿府の町は、東征官軍によって占領され、未曾有の緊張状態におかれた。
そして東征総督が江戸に去っていって、一息つくひまもなく、新しい駿河藩の政庁が置かれることになったのだ。
駿河藩は、駿河一国と、相良・横須賀・掛川・浜松領を含む七十万石である。
単なる街道の宿駅から七十万石の大藩の政庁所在地になったのであるから、目ざましい繁栄が齎《もた》らされるべきであったろう。
確かに、そうした一面はあった。
政庁を中心とする武士団の大量移住によって、人口は増大し、商売は繁昌し、多くの享楽機関が急速に発達した。
「静岡市史余録」によれば、旧幕臣の中にも高禄を喰《は》んでいた者や、富裕の者も少くなかったので、そうした連中はなかなか贅沢な暮らしをつづけたらしい。
――当地では、これを当て込んで色々の遊芸場や飲食店を開業して、一時はなかなか繁昌した。伝馬町の如きは遊郭も設けられ、法伝寺前には江戸風の湯屋ができた。この湯屋は朝湯があるし、二階には給仕女を侍《はべ》らし、表には御神燈を吊して客を呼んだ。またその付近には、吹矢店、くじ引店なども出来て、昼夜老若男女が雑沓し、まるで浅草奥山辺の光景であった。浅間社前奈吾屋神社の総門から東方馬場へ曲る角までは、川に沿うてバラック式の家が七、八軒建てられて、ここにも楊弓店、吹矢店、からくり店などが開かれ、場内の奈吾屋神社左側には動物園もできた。札の辻高札場付近の呉服町三丁目から札の辻町の片側にかけては種々の大道商人が開店した。辻講釈あり、砂文字書きあり、易者あり、読み売りあり、露店商人ありで、通行人が雲集した。その他、市中の所々には、現在のバーのような小意気な一杯屋が開業され、店口には立派な銅壺《どうこ》を置き、大提灯を左右にかかげ、市松模様か何かの意気な屋根障子をしつらえ、赤前垂の姐《ねえ》さんが愛嬌をふりまいている。こうした店は一時、大当りで、二、三年間は大いに繁昌した。
と言う状況がみられた。
だが、同時に、目を覆うような悲惨な状況も亦、この同じ時期に、この同じ駿府城下で展開されていたのである。
何故ならば、駿府で新しい生活を愉しみ得たものは、旧幕臣中、新しい駿府藩で仕事と俸給を与えられたものと、封禄に頼らなくともすんだ少数の富裕階級だけであったからだ。
大部分の移住者は、いわゆる無禄移住であった。
無禄を覚悟で江戸から駿府藩領に移ってきた旧幕臣の数は、六千五百余戸、その家族を加算すれば三万人に近かったであろう。
その五、六千人は駿府に集った。
当時、駿府の民家は市中全体でわずか四千戸。総人口二万余であろう。
二〇パーセント乃至三〇パーセントの徒食人口が急激に増大したのである。神社仏閣は勿論、できるだけ収容したし、街道沿いの民家などにも割当てが行われたが、何としても足りない。
収入のない人口であるから、新築はむろん、極めて困難である。
多くの人々は、民家の一部を借り受けたり、納屋を改造してわずかに雨露をしのいだり、数家族が押し合いへし合い同居生活をつづけなければならなかった。
辛うじて住む処を見つけたとしても、明日からの生活の為に働かなければならない。
先祖伝来の刀剣・甲冑・骨董などを売り食いしてしまうと、竹細工の内職に精を出したり、小間物・菓子などを行商して歩く。
つい先頃までは天下の直参として江戸の町を威張り返って闊歩していた旗本などが、熨斗目《のしめ》の五ツ紋に黄八丈の下着を着て、献上博多の帯をぐっと締め、尻端折《しりつぱしよ》りで小さな手車を押しながら、
「――楊子、はみがーき、あぶら、元結《もとゆい》、お菓子はよろしい――」
と、売っている。
黒糸|縅《おどし》や緋縅の鎧をつけて、清正や義経に扮し、子供対手に、
「――嬢ちゃん、坊ちゃん、買っとくれよ、買ってくれ、加藤清正・義経・弁慶、買ってくれよ、買っとくれ」
と、一文、二文の飴を売り歩く者もいる。
初めの中は、
――落ちぶれてもお武家さま、
と、多少の畏敬の念を持っていた庶民たちが、次第に、
――何だ、お武家だって禄を離れりゃ、乞食みたいなものじゃねえか、
と軽蔑するようになり、その迂遠な、
――武士の商法
を冷笑し、嘲罵するようになる。
昨日までは歯牙にもかけなかった町人百姓たちに頭を下げて、買って貰わねばならぬ屈辱に堪えかね、突然、顔面を硬直させると、
「うぬら素町人どもが図に乗りおって、武士を侮辱するか。もう堪忍《かんにん》ならぬ、ぶった切ってくれる」
と、これはいつも手放さなかった脇差に手をかけて詰め寄った者もいた。
生活苦に追いつめられた揚句には、妻や娘を芸|娼妓《しようぎ》に売るものさえ出てきた。
旧旗本のお嬢さんの中で踊りや唄の上手なものが芝居小屋に出場したのも珍しくない。
良人が病に倒れ、医療費に困った妻が、遊里に身を売ったが、お蔭で病癒えた良人が、遊里の妻の許を訪れ、そのまま夫婦心中をしてしまったと言う悲惨な事件さえあった。
明治二年一月刊行の「駿藩役名便覧」によると、駿河藩の主要役員は次の如くである。
家老 平岡丹波
中老 浅野次郎八、河野左門、服部綾雄、織田和泉、富永孫太夫、戸川平右衛門
準中老 大久保一翁
幹事役 勝安房 山岡鉄太郎
年俸禄は、家老が一千両、中老八百両、幹事役七百両。
主として働いたのは、大久保一翁と山岡鉄太郎である。
勝は、もう、
――自分の徳川家に対する責任は充分に果たした、
と考えたものか、超然としている。
腹の底では、
――おれは一駿河藩などで使われる人間じゃない、中央の新政権の中でこの自分の才能を生かせるのだ、
と自負していたのだろう。西郷以下の旧知を辿って、東京政府に、色々と工作しているように見えた。
駿府における鉄太郎の住居は、安倍郡安西方七番屋敷で、後に材木町と呼ばれた辺りであった。
賤機《しずはた》山の西に隣接して、安倍川に近い。雨期に川が氾濫すると、屋敷近くまで濁水が押しよせてきた。
東京から連れてきた家族は、義兄山岡信吉とその二児、鉄太郎の妻英子、長女松子、長男直記(駿府滞在中に二男静造が生れている)、英子の妹桂子。
信吉は生来の唖で生活能力は全くなく、全家族の生活について鉄太郎が責任を持たねばならない。むろん、この時世に、駿府藩の幹事役として七百両の年俸を得ているのだから、無禄移住をした旧幕臣たちに比べれば、著しい好運だと言えるが、生活は一向に楽ではなかった。
江戸にいた頃と同じように、絶えず誰かが転がり込んできて勝手に居候になっている。
旧幕臣で窮迫した者が、次ぎ次ぎに訪ねて来て援助を乞うて、鉄太郎は持合せた金をすべて何の惜し気もなく与えてしまう。
英子は妹の桂子を励まして、庭に菜園を作って食料の足しにする。鉄太郎も仕事を終えて帰ってくると、はだしになって食料増産に励んだ。
藩内の浜松、掛川、沼津、横須賀など十一ケ所に奉行及び添奉行が置かれたが、鉄太郎の義兄高橋泥舟(精一)や、旧師井上八郎、門弟松岡万などがその奉行役についている。
恐らく鉄太郎の推薦によるものであろう。鉄太郎は特に自分に親しい一党を推すような男ではないが、責任を以て、
――この人物ならば、
と、藩政担当の一員として推挙するためには、結局自分のよく知っている人物の中から選ぶほかはなかったのだ。そしてそれは何《いず》れも適任者である事が証明された。
鉄太郎が駿府に移ってから半年ばかり経った或る寒い夜のことである。
村上政忠(俊五郎)が訪れてきていた。と言うより、数日来、押しかけ居候として居坐ってしまっていたのだ。
――義兄の勝(海舟)が、冷淡だ、
と言って、しきりに憤慨する。
本来なら、勝のところに転がり込む筈であるのだが、
――あんな冷い男の世話にはならん、
と、怒っている。
「勝さんに迷惑をかけすぎたんじゃないのかね」
鉄太郎は、政忠の言うことを、ふむ、ふむと聞いていたが、ポツリとそう言った。
「そりゃまあ、多少は――いや、大分、迷惑をかけたことは確かだが、私にとっちゃ義理の兄だ、もう少し暖かい気持で――」
「勝さんはあんたの義理の兄には違いないが、あんたはどう見たって、順子(勝の妹)さんの良い旦那とは言えないからな」
「うむ、どうもそれを言われると一言もないが――いや、山岡先生、私一個のことを離れて考えてみてもだ、勝は旧幕臣に対して冷淡すぎる――そう思いませんか」
鉄太郎もそれは確かに感じていた。しかし、もともと勝は前将軍慶喜に対して心服していない。慶喜の方も、大坂から江戸に逃げ戻って、にっちもさっちも行かぬ段階になって初めて、
――勝、頼むぞ、
と言いだしたのだ。勝はそれまでの心理的な紛糾を一切すてて、慶喜助命、徳川家存続の為に努力した。今は、
――おれはもう、徳川家に対しては、充分のことをした、
と、思っているに違いない。
勝には、
――徳川家重代相恩の家臣、
などという意識はない。早くから封建制度そのものを否定している男なのだ。徳川家の家臣――と言うよりも、日本と言う新しい国家で、新しい任務を担うべき存在だと、自分自身を高く評価している。
駿府藩の最高顧問のような地位に据えられているが、積極的に動こうとはしていない。それが旧幕臣たちに、ひどく恨まれていた。
「まあ、勝さんには、勝さんの考えがあろう。あれだけ働いて下さったのだ。しばらく休ませてあげればよいではないか」
「そう言うもんですかなあ、どうも私には気に喰わん」
村上がそう言った時、遠くの方で、半鐘が乱打される音が、流れてきた。
「や、火事だな、少し風がある。大火にならなきゃいいが」
村上が立ち上っていち早く外に飛び出していったが、すぐに戻ってきて、異常な声をあげた。
「山岡先生、火事は宝台院方面だ」
鉄太郎も、パッと立ち上った。
宝台院には前将軍慶喜が、謹慎生活を送っている。
英子が素早く持ってきた袴をつけ、大小を差すと、鉄太郎は外に出て厩《うまや》に馳せ、馬に飛び乗った。
村上は袴の据をたくし上げて、後を追う。
――火の元は鍛冶町
と叫んでいる人々がいる。
鍛冶町ならば宝台院は目と鼻の処だ。
鉄太郎は馬腹を蹴った。
下桶屋町までくると、もう人混みで馬は危い。
飛下りて馬を民家の軒先につなぎ、火の手に向って進んだ。
「あ、山岡様」
火事場に出張していた役人が、鉄太郎の巨きな姿を見つけて走りよった。
「大丈夫か、宝台院は――」
「はい、必死に喰い止めております」
凍てついた夜空に、焔が高く吹き上り、すでに七、八軒が猛火に包まれていた。
その紅蓮《ぐれん》の焔の前を、縦横に馳せ廻って、ドスの利いた大声で、あれこれと指図している男がいた。
数十名の若い男たちが、その命令に応えて、きびきびと動き廻り、見るからにハラハラするような危い火の渦の中に飛び込んでいって、鉤《かぎ》をひっかけて塀を倒し、水桶の水をぶっかけて廻る。
「あれは何だ――町の消防組ではないようだが」
「はい、新門辰五郎の一家で――さすがに江戸仕込み、めざましく働いてくれます」
「あ、あれが新門か」
宝台院で一、二度見かけたことがある。すでに七十歳に近い身ながら、かくしゃくとした辰五郎の肩幅の広い後姿が、いかにも頼もし気に見えた。
「お、私は宝台院に行ってみる」
鉄太郎は、その場から人混みを押し分けて宝台院に行ってみると、慶喜はすでに旧代官屋敷の方に避難していた。
直ちにそこへ馳せつけた。
「上様、御無事で――」
「あ、山岡、火が出ると即刻、新門が馳せつけてくれ、ここへ移してくれた」
「よろしゅうございました。新門は只今、懸命に消火に努めておりまする」
火は十数軒を焼いて、大見文蔵宅の隣家で消し止められた。
この大見家に、新門一家が住んでいた。
――新門辰五郎
江戸浅草一帯では泣く児も黙る大親分である。
慶喜が大坂に赴いた時、辰五郎は二条城の警備消防の役を受けもって西上した。
慶喜が東下すると、直ちに江戸に戻り、慶喜が駿府に隠退すると、乾分《こぶん》数十名を率いてやってきて、慶喜の警備に当った。
辰五郎の娘が、慶喜の寵《ちよう》を受けていたと言うこともあるが、辰五郎は、
――世が世ならお目通りもかなわない上様が、自分如きものを信頼して下さる、
と言うことに、すっかり感激し、晩年のすべてを捧げて慶喜に奉仕していたのである。
翌々日、鉄太郎は、新門辰五郎を、城内の役所に呼び出した。
鄭重に、先夜の働きに対して礼を述べ、今後の事も依嘱する。
大きな肩をすぼめるようにして、神妙に頭を下げていた辰五郎が、
「火消しとして飯を喰ってきた身としては当然のことをしただけ、そんなにおっしゃって頂くと、穴があればはいりたい気持でございます」
と答えたが、頭を上げて太い眉をぴくりと動かせ、新しい提案をした。
「どうでございましょう、山岡様。差出たことを申すようですが、この駿府の町火消は少々手薄なようで――」
「いや、少々どころではない。まるでだめだ。何とかしなければと思いながら、仲々そこまで手が廻らないので困っている」
「それで、私が何とかしっかりした消防組を作ってみたいと思いますが」
「そいつは有難い。是非、頼む」
「とおっしゃられても、私はここでは他国者《よそもの》、やはりこの土地の顔役を立てた方がよいとも思いますし――」
さすがに江戸の大親分、細かいところにもよく気がつく。
「なるほど、それもそうだ。土地の親分と言えば――そうだ、清水の次郎長などはどうかな」
次郎長が清水港で砲撃されて全滅した幕府の軍艦咸臨丸の乗組員の死体を収容して手厚く葬ったことは、すでに触れたが、これを聞いた鉄太郎は次郎長に会い、こいつは良い男だと、すっかり気に入った。
次郎長の方でも鉄太郎に惚れ込み、爾来《じらい》ちょいちょい顔を出している。
次郎長は本名山本長五郎、この土地に山本姓は多いが、養父が次郎八と言ったので、次郎八の家の長五郎と言う意味で、次郎長と呼ばれたのである。
この当時ちょうど五十歳、脂《あぶら》の乗り切った時代だ。鉄太郎が仲介をして、新門辰五郎と顔を合せる。
辰五郎の方はすでに七十に近い。次郎長は年長者として、江戸の大親分として、辰五郎を立てるし、辰五郎の方は、あくまで、
――ここじゃ、私は他国者、
と言う態度をとる。
「清水の、山岡様にも申上げたが、消防の事についちゃ多少の経験もある。下地は私が拵《こしら》えるが、表立って働いて貰うのは、あんたにお願いするのが一番いいと思うが」
「とんでもねえ、新門の親分、私は消防のことなど何も知りゃしねえ、万事、親分がとりしきって下さらなきゃ――」
「いや、土地の親分衆がいるのに、あっしがそんな差出たことは」
「いやいや、下働きは私たちでやりやしょう、新門の親分、万事指図して貰いてえ」
「そいつはいけねえ。お前さんはこの土地の親分――それを差置いちゃ――」
と、互いに譲り合うのを聞いていた鉄太郎が、口を容れた。
「そう言い合っていちゃ、きりがない。どうだな、新門の方が何と言っても年上、ここは、消防の事に関する限り、新門が兄貴分、次郎長が弟分と言うことにして、扶《たす》け合うて貰えぬか」
「はい、山岡様、そうさせて頂きます」
と、次郎長が素早く鉄太郎の言葉を受け、
「新門が兄貴分、私が弟分と言うことになると、この二人の親分がいた方がいい、どうですね、新門の兄貴、山岡様をおれたちの親分にしちゃ」
「そいつはいい、山岡様、お願いします」
辰五郎が掌を拍《う》って、即座に賛成した。
「おいおい、冗談じゃない。私はまだ若輩、それに藩庁の役人だ。お主たちの親分などに担ぎ上げられてたまるものか」
鉄太郎が慌てて止めたが、二人とも耳に入れず、
「山岡様、これからは、私たちの親分ってことになりますから、よろしく」
と、勝手に決めてしまった。
辰五郎の提案した消防組は、
一、消防の事になれた新門配下の乾分を中心として、有志の鳶《とび》の者などを集めて一団とし、一番組から四番組に編成、辰五郎が自ら頭取となる、
一、各組に、まとい一、竜土水《りゆうどすい》一、高張提灯《たかはりぢようちん》一、三間梯子《さんげんばしご》一、刺股《さしこ》一、水|擔桶《たご》二、水籠数個、鳶口数十本を備えつける、
と言うものだが、消防用具はすべて旧式の駿府式を却け、江戸風のものとした。
例えば水擔桶は、桶の両手に穴を明け、樫の棒を通して荷うようになっていたし、水籠も直径一尺深さ一尺位とし、これに紙を貼り黒塗りにして渋を引き、縁には棕櫚繩《しゆろなわ》の手をつけたもの、目方が軽く破損の怖れが少く、投げつけられても消防夫を傷つけることがない。梯子なども、従来より長い三間のものを用意した。
辰五郎は堂々たる体格で弁口も立ったが、平素は口数も少く物柔かで、子供たちにもひどく親しまれる好々爺《こうこうや》の感じ。
――あれが江戸で泣く子も黙ると言われた大親分か、
と、町の人々は信じられぬような風だったが、この消防組結成以来、人々の畏敬の的となった。
一方、次郎長は町の親分衆に話をつけて、辰五郎に充分の支援を惜しまない。時々は二人で、
――あっしたちの親分
鉄太郎の許を訪れてくる。
ある時、ふらっと一人でやってきた次郎長が、若い時からの喧嘩出入り、殊に甲州の親分黒駒の勝蔵との死闘などについて、色々話をしていたが、ふっと思いついたように言い出した。
「先生、私は餓鬼の頃から喧嘩好き、からだを張って斬った張ったの五十年を暮らしてきましたが、喧嘩ってものは結局、度胸ですね」
「そうだろうな」
「あっしら剣法なんてものは習ったこともねえ。ただ無茶苦茶な喧嘩殺法だが、こん畜生! と命掛けでぶつかってゆけば、大抵、負けやしねえ。剣法の滅法強いとか言う浪人者の用心棒なんかとも、何度もやり合いましたがねえ、みんな向うが逃げちまった」
「そいつは大したものだ」
「剣法ってのは、いざ殺し合いって時、本当に役に立つもんでしょうかね、あっしの見た処じゃ、まるで役に立たねえように思う」
「それは少し違うようだな」
「そうでしょうか」
「お前さんのぶつかった対手は、本当の剣法を知らぬ連中ばかりだったのだ」
「へえ? じゃ、本当の剣法をやった人なら、あっしなど歯が立つめえとおっしゃるんですかい」
「そう言うことだ」
「そんなものですかねえ」
と言ったが、次郎長、内心納得していないことは明白である。
「どうだ、次郎長、本当の剣法を見せてやろうかな」
鉄太郎がにこにこと笑った。
「へえ、先生、お願いします」
「あそこに刀がある。どれでも好きなものをとれ、私が対手しよう」
「真剣ですかい、先生」
「むろん、そうだ」
「じゃ、私は使いなれたこの脇差にしますよ」
「私は素手でもよいが、まあ、この脇差にしよう」
「一体、どうするんで」
「お前さん、どこからでもいい、私に斬ってかかれ」
「あっしは滅茶苦茶な男だ。先生に怪我をさせるかも知れませんぜ」
「掠《かす》り傷でも負わせたら、お手柄だ」
「先生、そりゃ、ちょっと――」
言い過ぎじゃないか――と、次郎長は言いたかったらしい。
――人をバカにするねえ、
と言う怒りの色が満面に現れている。
鉄太郎はこれを無視して、庭に出た。
「さあ、来い、次郎長」
「ようし、こうなりゃ、遠慮はしねえ」
次郎長、憤然として庭に飛び下り、脇差を抜いて身構えた。
身構えると同時に、対手の胸許に、からだごと叩きつけてゆく――これが喧嘩殺法だ。その凄じい気力に、大抵の対手は圧倒されて逃げ腰になる。
この時も次郎長、いきなり鉄太郎のぶ厚い胸板めがけて脇差ごとぶつかってゆこうとした。
が、どうしたことか、足がすくんでしまって動かない。
鉄太郎は、脇差を右手にぶらりと提げているだけなのだが、その巨きな両眼が、らんらんと輝いて次郎長の全身を射すくめている。
まるで光の壁が鉄太郎の全身をつつんでいるようで、突込んでゆけば、パシーンと撥ね飛ばされてしまいそうだった。
その眼から発する異様な光りは、次郎長の眼を貫き、心臓の動きを止めてしまうような強烈さである。
――くそっ、死物狂いになりゃあ、
次郎長は必死になって、ぶつかってゆこうとするが、手足がすくみ、汗が滲んでくるばかり、どうしても身動きができない。
「だめだッ」
とうとう、その場にへたばり込んだ。
「先生、だめだ、敵わねえ、負けた」
「分ったな」
鉄太郎の眼から、光りが消えた。
座敷に上って、
「まあ、坐れ」
と、次郎長を招く。
「やられた。先生、こんな変な気になったのは初めてだ。妙だな、全く、何が何だか、さっぱり分らねえ。先生、魔法使いみてえですね」
「魔法でも何でもない。剣法だ」
「へえ、あれが剣法――だって、先生は、脇差を構えもしなかったじゃありませんか」
「その必要もなかったからさ。喧嘩殺法対手に剣を構えなけりゃならない程度の剣法だと、喧嘩殺法に負ける」
「一言もねえ、先生、上には上があるものだ。あっしが脇差を構えると、物凄い殺気が漲るなんて言われて、いい気になっていたんだが、先生には全然、通じねえ」
「いや、お前さんの殺気は凄いものだ。生《なま》なかの剣法では太刀討ちできないだろう。叩き切ってやるぞと言う気魄が全身に溢れている」
「先生の方は、何て言うのかな、近寄るな、近寄ると怪我をするぞ――って言うような妙な殺気だ。そいつに抑えられて、どうしても近寄れねえ」
「そこが違うのだ。私も二十歳前後までは、寄らば斬るぞと言う殺気。いや、こちらから叩き斬ってやるぞと言う殺気しかなかった。鬼鉄などと呼ばれたのはその頃だ」
「あっしは今、五十だ。この年まで殺傷に明け暮れて、ようやく先生の二十歳の頃と同じって訳ですかね」
「そんなところだ」
「情ねえ話だ」
次郎長が、しょんぼりした声を出した。
「本当の剣道を習わぬから、そう言うことになる」
「なるほど」
「どうだ、今から少し剣法を習ってみたら――」
「この歳で?」
「修業に年齢の制限はない」
「やりましょう、先生、教えておくんなさい」
「家にはいつも若いのが一人や二人、ごろごろしている。差当りあの連中に手ほどきをして貰うといい。連中でもそこらの剣法道場の主《あるじ》などよりは数等上だ」
「へえ、お願いします」
と、頭を下げた次郎長が、改めて首を振り、しみじみした口調でくり返した。
「それにしても、愕《おどろ》いた。先生の眼から出るあの凄じい奇妙な光りは、何ですかなあ」
「剣の道を究めると、自然に出てくる光りだ。目から光りが出るようにならなければ、一人前とは言われない」
「へえ、そんなものですかい」
鉄太郎は、傍らにあった画箋紙に、
――眼光輝キヲ放タザレバ大丈夫ニアラズ
と大書して、次郎長に与えた。
次郎長は、数日後、辰五郎に会った時、この話をした。
辰五郎が大笑いをして、
「お前さんも随分、無鉄砲な人だ。あの山岡先生に真剣で立ち向ってゆくなんて、途方もない話さ」
「新門の兄貴にゃ、それが始めから分っていたんですかい」
「私は剣法などは全く知らないが、山岡先生にゃ、どうぶつかっていったって、どうあがいたって、全然歯が立つまいと、最初から思っていましたよ」
「それが分らなかった自分を、今更、恥かしく思いますよ」
「なに、あんな人は滅多にいるものじゃない。私も上様(慶喜)のお引立を受けたお蔭で、公儀(旧幕府)のお偉方とも色々おつき合いする機会があったが、先生のような方はいないね、頭を下げているよ」
次郎長が、鉄太郎の家に転がり込んでいる弟子たちに、この後、どの位、剣法の手ほどきを受けたものか、はっきりしたことは分らない。
しかし次郎長側近の人々が口を揃えて言っていることは、鉄太郎と知合った頃から、次郎長が眼に見えて変ってきたと言うことである。
次郎長は、より柔和に、より恭謙に、より広闊になった。年齢による円熟――とばかりは言い切れぬ努力の跡が見えたと言う。その見識も一回り大きくなり、若い者に洋学の勉強をすすめたり、未開地の開拓に手をつけたりしているのである。
明治二年三月、駿河藩主徳川家達は、維新政府に、版籍奉還の上表を提出した。
すでにこの年一月、薩長土肥の四藩が版籍奉還を上奏している。従来、藩主のものとされていた封土と人民、すなわち版と籍とを、中央政権に奉還しようと言うのだ。
現政権の中核をなしている薩長土肥の四藩がこの挙に出ると、各藩は争ってこれに倣《なら》い版籍奉還の上表を捧呈する。何事もこの四藩の真似をしていれば、間違いはない。まごまごしていると、政府から睨まれるぞ――と、各藩とも戦々|兢々《きようきよう》としていたのだ。
駿河藩でも、早速この問題がとり上げられ、重臣たちが鳩首協議した。
家老平岡丹波を始め、中老浅野次郎八、準中老大久保一翁、幹事役山岡鉄太郎らが、それぞれ意見を述べたが、
――版籍奉還が実現すると、具体的にどうなるか、
と言うことさえ、はっきり掴めない。ただ薩長土肥の四藩が言い出したことなのだから、従ってそれが新政府の意図に添うものなのだから、そうするよりほかないのではないか、と言うこと位しか分らない。
「これはやっぱり、勝さんの意見を聞いて見るのが一番いいのじゃないかな」
大久保が言うと、みんなが肯《うなず》いた。
日本と言う国全体の立場に立っての見識と言うことになると、勝が断然、卓越していることは、誰もが認めている。
その上、勝は、西郷を始め新政府の人物に相識の者が多い。
勝は鉄太郎と同じく幹事役になっているが、従来の関係で、特別扱いにされていた。
何と言っても、徳川宗家が家名を保つことができたのは、勝の力に負うところが多いのだ。今後も、徳川家の為に大いに働いて貰わねばならぬと、思われている。
ところが、肝腎の勝は、駿府に来てから、超然とした態度をとり、藩政にはほとんど干与しない。どうみても、
――徳川家に尽すべきことは尽した、
と言う態度である。
東京の屋敷はそのままに残して、屡々《しばしば》そこに出掛けてゆく。新政府の人々に会って、色々の情報を得ようとしているのだと見られていたが、中には、
――なに、勝は悧巧者、新政府にうまく取入って、然るべき役職につこうと運動しているのさ、
と、穿《うが》ったような事を言う者もいる。
今日の重役会にも当然顔を出すべきであるのに何故か出て来ない。
――勝を呼びにやれ、
と言う平岡の命を受けて城を出ていった使の者が、しばらくして戻ってきて、
「安房守殿は、沼津兵学校の先生の処を訪ねておられる由、明朝御帰りとか」
と報告した。
会議は、当然、翌日に結論を持ち越した。
翌日の会議の席上、勝は、平岡の質問に答えた。
「むろん、版籍奉還の上表を奉るべきでしょうな」
「それはつまり、この駿河藩で言えば、駿河藩の土地人民は、上様(家達)のものでなくなると言うことかな」
「その通り、すべて朝廷の御直々の支配下におかれることになる」
「すると上様は、駿河藩の支配者ではなくなる?」
「さよう。しかし、朝廷から改めて当藩の行政を司り、租税を納め、藩兵を所管する役職に任じられるでしょうな」
「と、徳川家の家禄は――」
「七十万石は朝廷の収入となる。その何分の一かが、上様に与えられるだろう。藩役人もすべて朝廷の役人として一定の俸給を与えられることになるだろう」
――おかしな話だ、
みんなが、そう感じた。
苦心惨憺して、漸く七十万石の家禄を確保したばかりだと言うのに、それをとり上げられてしまう。何だか、ペテンにかけられたような感じだ。
「こんな事で愕いていてはいけない。もっともっと変ってくる」
「勝さん、それは、どう言うことだ」
「いずれ、現藩主と藩との関係は全く断絶され、中央政府の役人がやってきて、藩政庁が――その時には名称も変るだろうが――藩の行政を司る。藩兵などと言うものは一切なくなり、兵力はすべて東京政府の権力下に集中されることになるさ」
「まさか――そんな」
「世界の文明国の制度は、みなそうなっているのだ」
――世界の大勢、
と言うのが、勝の切札である。
誰もそれに反論するだけの知識はもっていない。
ともかくも勝の意見に従って、三月、版籍奉還を中央政府に申出ると、六月十七日になって、
――言上の通り聞こしめされ候こと、
と言う沙汰が下り、同日、家達は改めて、駿河藩知事を仰せつけられた。家禄はその十分の一、すなわち七万石を賜わる。
六月二十日、駿河は静岡と改称され、駿府藩は静岡藩となった。
静岡と改称されたのは、駿府すなわち駿河の府中《ヽヽ》は、不忠《ヽヽ》に通ずると言う者があった為である。当時の駿河藩が――他の諸藩も同様だが――いかに新政府の気受けを気にしていたかを語るものと言ってよい。
藩の役職も、これに伴って改称され、家老、中老、幹事役などが廃されて、大参事、少参事などとなった。大参事が平岡丹波、権大参事が浅野次郎八、大久保一翁、山岡鉄太郎ら、少参事は向山黄村、津田真一郎ら、権少参事は小林庄次郎、宮重丹下ら。
勝は、新しい政事庁から外されて、顧問格の藩政輔翼となった。
当初、権大参事の筆頭にあげられたのだが、勝は固辞した。
さし当り、藩の行政には大きな変革はない、藩主が知事になり、家老が大参事と変っても、人物は従来と全く同じなのである。
――何じゃ、版籍奉還などと大袈裟なことを言うから、何事かと思ったら、大したことではないじゃないか、
藩士も庶民も、少々拍子抜けした。
変ったことと言えば、七歳の知事様が、大参事平岡以下の役人をひきつれて、
――民情視察
のため、管内を巡視して廻ったことぐらいである。
この頃、鉄太郎の最も気にかけていた事の一つは、宝台院に閑居している前将軍慶喜の身の上であった。
慶喜の謹慎ぶりは徹底したものであったらしい。成るべく人に会わぬようにしていたし、会っても政治問題や時局批判に亘るようなことは一切口にしない。
宝台院から一歩も外に出なかったことは勿論だ。
――あれでは余りにお痛わしい。御健康にもよくない。何とか謹慎を宥免して頂かねばならぬ、
鉄太郎は、平岡や大久保に相談した。
二人は口を揃えて、
「そのことなら我々は始終考えていたのだが、やっぱり勝さんに動いて貰うよりほかないだろう。江戸開城の折、慶喜様の処遇について西郷と交渉したのは勝さんだし、今の政府に最も顔の利くのも勝だし、勝さんが懸命に働きかけてくれればよいのだが、どうもその気がないらしい」
鉄太郎も、最近の勝の動きには不満が多い。江戸開城前後の、あの張り切った情熱は全く姿を消してしまったように見える。
殊に、慶喜に対しては冷淡なように見えるのは、どうしたことか。
「では、私が勝さんに会って、膝詰談判をしてみましょう」
と、鉄太郎は、勝説得を引受けた。
その夜、鉄太郎は、勝宅を訪れた。
「勝先生、山岡一世一代のお願いがあって参りました」
端然として坐り、巨眼を勝の瞳に据えて言う。
「ほう、山岡さんが一世一代の願いとあっては無下にお断りもできまいが、先ずどのような事か、承わろう」
「宝台院におわす上様の事です」
勝は途端に、内心いやな気がしたが、さすがに顔色には出さず、
「上様のこと?」
「はい。現在の御謹慎生活、あまりにお気の毒、御宥免の御沙汰があるよう、先生の御努力をお願い致したいのですが」
勝の慶喜に対する感情は、いくたびか微妙に変化してきている。
元来、彼は第十四代将軍家茂に愛され、登用された。従って家茂に対しては、かなり強い愛情を抱いていた様だ。
慶喜とは始めから、そりが合わない。征長の役にわざわざ、単身宮島まで出掛けていって和平談判を結んできたのを、慶喜に簡単に反故《ほご》にされた時は、憤然とした。
勝も慶喜も、頗る頭の回転の速い俊敏な性格だが、それだけにかえって心理的衝突も多かったであろう。勝に言わせれば、慶喜はいざと言う時の決断心、勇猛心のない男だと言うことになる。慶喜に言わせれば、勝は才智を誇って、主家をないがしろにする不埒な奴と言うことになる。
この両者が、たった一度だけ、心を一つにして行動したことがある。
江戸開城の時だ。
この時は、慶喜が全く意気銷沈して、すべてを勝に委ねたからだ。勝も旧怨を忘れて慶喜の為に図った。しかし、勝にしてみれば、もうそれで主家に対する義理は済んだ。むしろ貸しがあると思っている。
勝には、徳川家に対する譜代の忠誠心などと言うものなど極めて稀薄であった。勝家は譜代の御家人だが、勝の父小吉は越後から来た盲人の血をひく者、小吉もその子の勝も譜代の忠誠心などないのは当然であろう。
その上、勝は旧幕時代における最初の近代人の一人であった。
ここで近代人と言うのは、封建的伝統を基礎とする思考から解放された人物と言うことである。
彼は当然、少くもその心の底では、人と人との関係を、君臣・父子などと言う立場からではなく、人間対人間として把える。
そうした場合、勝が慶喜に対して、
――人間としてはおれの方が上だ、
と考えても不思議はない。
慶喜に対して、あくまで忠誠を尽す気はなかった。
駿府に移ってきてからも、人々の予想を裏切って、徳川家に対する奉仕が極めて不活発であったのも、この思考の延長である。
一方、鉄太郎の方は徳川家譜代の臣として、伝来の忠誠心を持っている。生来激情の男だけに、主家の悲運を見ると、死力を尽してこれを扶けたいと言う気になっている。
勝からみれば、誠に単純な可愛い男と言うことになる。
慶喜の為に運動してくれと、誠心誠意頼む鉄太郎を見て、勝は、
――こう言う男のお蔭で、徳川家が二百七十年、もってきたのだ、
と、内心微苦笑した。
「山岡さん、その件は私も考えてはいるが、少々早過ぎるのではないかな。江戸開城以来、まだ一年余にしかならぬ」
「仰せの通り一年余、しかし、その一年余が、上様にとっては何十年にも思われるのではないでしょうか。同じ朝敵の我々が、こうして自由に暮らしているのに、上様のみがあの狭い寺内に謹慎を続けていられるのは、家臣として見るに忍びません。勝先生、お願いだ、東京政府の有力者に懇願して下さい。それができるのは、勝先生だけなのです。江戸開城の折にみせた先生のあの素晴らしい勇猛心を、もう一度みせて下さい。お願いします」
鉄太郎は両手をついた。
「山岡さん、手をあげて下さい。他ならぬあんたにそこまで頼まれては、いやとは言えない。一肌ぬぎましょう」
「勝先生!」
鉄太郎は涙を流さんばかりに感激し、繰返し、礼を述べて去ってゆく。
勝が、急に気を変えたのには理由がある。
――慶喜の赦免歎願
と言う恰好の良い看板を掲げて、政府の有力者を歴訪してみようと思いついたのだ。
西郷以下若手の有力者とは知り合っているが、まだ全く知らぬ者の方がはるかに多い。その連中に会って、
――勝と言う男の真価を見せてやる、
のだ。少くも世界の文明国の実情について自分ほどの知識を持っている者は政府の要路におるまい。将来の見透しについても、自分ほどの見識を持っている者はおるまい。
それを、彼らが知れば、自分に対して、
――要路への出馬
を要請するに違いない。自分の才智、見識は一徳川家の為に消耗すべきものではない。全日本の将来のために活用すべきだ。
勝の愕くべき自負心は、後年ますます露《あら》わになって、時には人の嘲笑を招くことさえあったが、この時点においては、確固としてゆるぎないものであった。
勝は、数日後、東京に向った。
先ず西郷を訪ねたのは当然である。
勝の才智と胆力とを高く買っている西郷は、勝の歎願を聞くと、人情家だけに、
――不運の主家の為に、最後まで粉骨する立派な行動、
に深く動かされ、大久保一蔵に紹介した。
大久保から木戸孝允に、木戸から三条実美に、更に岩倉具視にと紹介された。
その凡ての人々が、勝の、
――忠誠心
と、
――勝の博大な見識
に、強い印象を受けたらしい。
――慶喜もあれだけ身を慎んでいるのだ。もう赦してやってもよいだろう、
と言うことになり、明治二年九月二十八日、
――深き叡慮を以て謹慎免ぜらる、
と言う詔書が、静岡藩知事徳川家達に対して通達されることになった。
鉄太郎以下、躍り上って悦んだ。
十月十五日、慶喜は手ぜまな宝台院を出て、紺屋町の元駿府代官屋敷に移った。
平屋建、十二、三室の簡素な住居である。
後に東南隣の田圃を買収して庭をひろげ、池を穿《うが》ち築山を築いた。中央噴水に面した広間三室を突き出し、岩石樹木を巧みに配置して、高雅な庭園を設けた(現存の浮月楼はその俤《おもかげ》を止めている、但し建物は火災によって焼失、その後復旧されたものである)。
慶喜はここに、明治二十一年三月六日、西草深町に移転するまで住んだ。
慶喜が旧代官屋敷に移った夜、平岡、大久保、山岡、松岡以下の旧臣たちが集って、慶喜赦免の祝宴を開いたことは言うまでもない。浜松奉行をつとめている井上八郎も、わざわざ馳せつけてきていた。
――よかった、よかった、
と、みんなが無条件に悦んだ。
その中、一人が、
「勝さんは、どうしたのだ」
と、言い出した。
当然、列席しているべき筈の、勝の姿はみえない。
「報らせたのだろうな」
「むろんの事だ、知らぬ筈はない」
ちょっと白けた気分が漲った。
「上様を一体何と心得ている。きゃつ、思い上りも甚しい」
激情家の松岡が、突然、呶鳴るように叫んだ。
「いや、何か緊急の用件があったのだろう、そう怒るな」
傍らの者がなだめる。
「あの男はこの頃、何もしてはおらん。緊急の用件などある筈はない」
「東京へ行っているのではないのか」
「藩の政事庁に無断でか」
「うーむ、そんな筈はないな」
「あの人はこの頃、何を考えているのか、よく分らんよ」
「分っているさ、新政府に自分を売り込もうとして必死になっているのさ」
「まさか、そんな」
「いや、そうだ。みていろ、今に分る」
「信じられんな」
列座の人々が、勝について色々噂をしている時、平岡丹波が意外なことを言い出した。
「実は、諸君、勝について先般、政府から外務|大丞《だいじよう》として出仕させるように、と言う通達があった。明日にも公表する積りだったが」
「えっ」
「そうれ、みろ」
「で、どうしたのです、平岡殿」
「勝にその旨内達したところ、お断りしてくれと言うことだったので、お断りの旨言上し、許可された」
――勝が政府の任命を断った、
これは、予想しないことだった。
「当たり前だ。勝とて今この際静岡藩を見捨てられた義理ではない」
「いや、内心は勤めたかったのではないのかな」
またひとしきり、勝の行動についての憶測が行われた。
勝安房に対して、
――任外務大丞
と言う命令が来たのは事実である。
勝は慶喜の宥免を乞うために、当路の大官を歴訪し、その該博な知識によって、彼らを愕かせた。
――あれだけの人物を、静岡などに眠らせておくことはない、新政府に登用してはどうだろう、
と言う意見が出たのは当然である。
――どの分野に登用すべきか、
勝の対外知識に最も強い印象を受けていた人々は即座に、
――外務方面に、
と言うことで、意見が一致した。
――どのくらいの待遇で?
これは微妙な問題である。
徳川家の最後の代表者として、大総督府総参謀西郷と対等に折衝した人物なのだ。
――相当の待遇をせねば、
とは、一応誰もが考えた。
だが、同時に、
――旧朝敵第一号である徳川慶喜の重臣ではないか、本来なら極刑に処されても已むを得ぬ身なのだ、
と言う考え方もある。
旧幕臣で、新政府に採用された者は、これ迄にも少からずあったが、その待遇はかなり酷烈であった。
十年前ならば、土下座させたであろうような薩長土肥の軽輩が、傲然として諸官庁の中枢部にふんぞり反っている。その配下に、いや、その更に下の配下に、かつての堂々たる直参の旗本が身をかがめてこき使われている例も少くない。
――どうせ、喪家《そうか》の狗《いぬ》、残飯でも当てがわれて、細々生きてゆければいい方さ、
と、半ば捨鉢の自嘲を洩らす者もいた。
――外務大丞ぐらいではどうか、
一応、そう意見が極った。
局長級であろう。これでも可なり良い待遇のつもりである。
静岡藩庁に対して、通告が行われた。
「勝さん、こう言う通達があったが」
平岡丹波は、公表する前に勝に報らせた。勝に対する人々の反感がかなり強いことを知っていたからである。
――外務大丞!
勝は、かっと腹の底を燃え上らせたが、顔には出さず、辛うじて堪えた。
――ばかな、おれを何と思っている。大丞程度の役に、このおれを、勝安房を、使おうと言うのか。
彼自身は、自分を現政府の成上り共の誰よりも有能だと信じている。少くも西郷、木戸、大久保と同列の存在だと自負している。
――新政府でこのおれを迎えるつもりなら、参議の地位を以てするのが当然だ、
そう期待していた。
大丞では問題にならない。
「勝さん、どうします」
平岡が、返答を促した。
「お断りして頂きましょう」
勝は、吐き棄てるように言った。
平岡は、意外そうに勝を見返した。
勝が新政府の大官の許に出入していることは知っていたので、当然、この招聘《しようへい》は受け入れるものと思っていた。
「そうですか――何と言って」
「理由は適当にお考え下さい。通達はこの勝に対して行われたものでなく、静岡藩庁に対してなされたものでしょう」
勝は一礼して、さっさと退出してゆく。
平岡は、大久保と相談して、政府に対して、返書を送った。
――当藩の勝安房、このほど外務大丞に任ずる旨御通達あり、臣家達においても有難き仕合せに存じます。さりながら同人は静岡藩務について事毎に諮詢《しじゆん》して差当りの藩論を定めおる次第、片時も欠くべからざる者でございます。右の藩情を御考慮下され、外務大丞の儀免ぜられる様、伏して願い上げます。静岡藩知事徳川家達、
と言うものである。
勝の新政府勤仕はこうして不発に終った。
この間の事情を知らぬ者は、勝が外務大丞就任を拒絶したことを知ると、
――さすがは勝、
――今更、新政府に頭を下げて奉仕するような勝ではない、
――徳川家の静岡藩ある限り、勝は藩に忠誠を尽すべきは当然、
――それにしても、よく拒絶したな。おれはそんなことがあれば、真先に飛びつく男だと思っていたが、
と、とりどりに噂する。
鉄太郎は例によって最も善意に解釈した。
勝に会うと、
「勝先生、政府の招聘をお断りなされたとか、当藩の為本当に嬉しく思っております」
と、鄭重に挨拶した。
勝は、微笑した。こう言う善意に満ちた素直な男には、無邪気な小児を対手にするような途惑いを感じるのだ。勝は、鉄太郎の剛毅な精神を愛している。勝自身も、剛毅な性格なのである。
だが、勝は同時に、融通無礙《ゆうずうむげ》の才智を持っている。鉄太郎にはそれがない。むしろ、勝の目から見れば、
――愚直
に近い生一本《きいつぽん》の性格だ。
――いい男だ、
と思う。普通ならば軽蔑したかも知れぬ愚直さが、鉄太郎の場合は、剛毅の魂に支えられて、あいつはおれにない素直さを持っていると言う風に思われたのであろう。
十月に入ると、冷気が急にきびしくなる。
安倍川の水も枯れ、荒涼とした広い河原の上を鳥が舞い、時折り流木の上にとまる。
城中から戻ってきた鉄太郎が、珍しく、
「今日は疲れた」
と言った。
「何か、お城で?」
英子が、大小を袖で受けながら訊ねた。
「うむ、大谷内のつれてきた連中が押しよせてきて、てこでも動かぬ。みんなの苦しさが分るだけに、何とかしてやりたいとずいぶん走り回ったが、今の処、どうにもならぬ」
大谷内龍五郎、千五百石の旗本だ。
上野の彰義隊に加わり、黒門口で奮戦したが重傷を負うて倒れているところを、官軍に捕えられた。
入牢一年余、放免されると、
――駿府へゆくよりほかない、
と、同じ運命に遭った仲間と共に、家族をひきつれて、静岡にやってきた。
同勢、婦女子を混えて百二十六名。
――おれたちは、徳川家の為に最後まで闘ったのだ、
と言う誇りを持っている。
同時に、
――だから、駿府にゆけば、徳川家で何とか身のふり方を考えてくれるだろう、
と言う甘えもあった。
静岡についてみると、冷酷な現実が待ち受けていた。
――上様(慶喜)の御意思に反して官軍に刃向い、上様を窮地に陥れた連中だ、
静岡藩庁の人々は、そう見ているのだ。
大谷内らは、憤然とした。
――薩長の侵入に遭って一戦する勇気もなくおめおめ江戸を開け渡した卑怯者たちが、何を吐《ぬ》かす。
時勢に対する認識が全く違う。
大激論が行われた。
旧彰義隊士の中には、自棄になって、市中で暴れる者もある。
鉄太郎は必死になって抑えた。
大谷内とは旧知の仲だ。諄々と説く。
「貴公の言うことは分った。しかし、現に百数十名の者がこうしてこの地にやってきた。明日からの生活の当てもつかぬ。何とかしてくれ。まさかみんな勝手に飢死しろと言うのではあるまいな」
もともと重厚な性格の大谷内だが、百何十名の生活の責任を背負わされた形になっているので、語気ははげしい。
「出来るだけのことはする。とりあえずこの私を信じて、無茶な行為は慎しむようにして貰いたい」
「よし、お任せしよう」
鉄太郎は、街道筋の民家を説いて、大谷内一行の宿をきめ、食料その他についても、調達方を斡旋した。
藩庁としては一銭も出せぬと言う。費用はすべて鉄太郎が自腹を切った。
従来も、鉄太郎は、自分の生活は極端に切りつめ、藩から貰う俸給の大部分は、無禄移住の旧旗本の救済に費やしてきている。大谷内一行を助ける為には、借金をしなければならない。
――新門と次郎長とに、相談してみよう。どうも借金はおれの一生を、ついて廻るらしいな、
少々がっかりして戻ってきたのだ。
「先刻、中条様がお見えになりました。後刻、またお見えになるそうです」
英子が、鉄太郎の脱いだ袴をたたみながら言った。
中条金之助景昭、二千石の旗本だが、剣の上では鉄太郎の門弟格になっている。
旧幕府精鋭隊隊長として、最後まで慶喜の身辺護衛につとめた。
駿府に移住後、精鋭隊は新番組と改称されたが、俸禄は一律に五人扶持、とても食べてゆけるものではない。
その中条が訪ねてくると言うのだ。
――何とかしてくれ、
と言うのだろう。
鉄太郎は、少し憂鬱になった。毎日持ちこまれる問題はみんな、
――食ってゆけぬ、何とかしてくれ、
と言うことばかりだった。
夜になって、風が出た。
その風の中を、飄々とした感じで、中条金之助が訪れてきた。
「毎日、大変らしいですね、今日は大谷内の連中が、ごねたとか」
坐るとすぐに、中条が言った。
「いや、あの人たちには、気の毒だと思っていますが、どうにも私の力が足りなくて」
旧彰義隊士に対して、藩庁の連中はひどく冷淡である。同情して奔走しているのは、鉄太郎ただ一人と言ってよい。
――彰義隊に憎まれ、罵られていたこの人が、よくぞ、
と、中条は感心している。
「ところで、山岡さん、新番組二百余名の将来のことだが」
「はあ」
声が重かった。
「小さくなった徳川家には、もう無用の存在、この上、藩に迷惑をかけたくない。われわれ一同協議した結果、藩を離れて自活の道を講じることにしました」
思いがけぬ中条の言葉に、鉄太郎は、愕いて対手をみつめた。
「牧之原――と言うところを、御存知ですかな」
中条が、つづけた。
「金谷――の近くではありませんかな」
「そうです、金谷から相良町に至る一帯の地ですが、新番組一同であそこを開墾して、茶畑を作ろうと言うことにしたのです」
「帰農――と言うことですか」
「さよう」
「新番組の人たちは、賛成しているのですか」
「大草高重、加藤光正、相原安次郎などの幹部はすでに納得してくれました。あとの主だった連中も説得できるつもりです。一般隊員は、われわれを信頼してついてきてくれるでしょう」
恐らく、そうなるだろう。中条は部下に絶大な信頼を受けている。
「それにしても、よく武士の身分を棄てる決心がつきましたなあ」
中条と言う男が、最も純粋な武人であることを知っているだけに、鉄太郎は本当に愕き、そして感心していた。
「なに、武士の身分を棄てる――などと言う大袈裟なことではなく、ただ、三百年前の姿に戻ろうと考えただけですよ」
「三百年前の姿――」
「そうです。われわれの祖先である三河武士は、もともと三河の農民なのです。武士となり、松平家の家臣になってからも、東照宮が今川の人質になっておられた頃は、半分百姓、半分武士――いや、七分ぐらいは農民だったでしょう。三河松平の家臣だった頃の状態に戻ればよいのですよ。茶畑を耕しても、武士の魂を棄てる訳ではありません。武士の魂をもって、百姓仕事をするだけの事です」
「立派なお考えです、畏れ入った」
「ついては、山岡さん、牧之原の土地の払い下げと、多少の助成金について、何とか御考慮頂きたいのだが」
「むろん、できるだけ努力します」
力強くうなずいたが、同時に、対話の間に浮んでいた懸念を、口に出した。
「茶畑をつくると言っても、素人たちの集りで、そんなに簡単にゆくものですかな」
「その点は、充分に研究したつもりですが――まず、これを御覧下さい」
中条は持ってきた資料を示した。
――牧之原の全面積は一万五千町歩、今のところ、金谷町付近にわずかの茶園があるだけだ。しかし、地質と言い、気候と言い、茶の栽培には好適の地である。山城や近江の茶園に人をやって研究させた上、彼の地から人を呼んで実地踏査をして貰って、充分に有望と言う太鼓判を押された。
中条は、整然と説明した。
「愕いた。いつの間に、そんなことをしていたのです。少しも知らなかった」
「少し目鼻がつくまでは――自分だけの考えとしてやっていたのですよ」
鉄太郎は、翌日、直ちに中条の案を、政事庁で披露した。
平岡も大久保も、そうして珍しく来合せていた勝も、大賛成である。
藩知事徳川家達から、牧之原一千四百二十五町歩の土地が、中条以下の新番組の帰農希望者に対して与えられることになった。
中条の期待していた通り、隊員二百数十名の全員が中条と行動を共にする。
中条の思い切った行動は、多くの旧旗本に衝動を与えた。
その後、
――是非、仲間に入れてくれ、
と申込んでくるものが、八十数名に及んだ。中条は、むろん、すべてを収容した。
全員、家族ともども、牧之原に移ってゆき、掘立小屋をこしらえて、開墾の準備にとりかかる。
大谷内龍五郎でさえ、中条の潔《いさぎよ》い態度に感心し、
――自分も、いつ迄も昔の夢を固執せず、新しい時世の転変に添うようにせねば、
と考え、旧彰義隊士を説いた。
だが、この隊士たちは、大部分、どうしようもない頑固な考えの持主ばかりで、
――武士たるものが、百姓仕事など、とんでもないことだ、
――先祖に顔向けがならぬ、
などと叫んで、容易に賛成しない。
――江戸に戻る、ここは武士の居るべき処ではない、
と、憤然として東京に去って行った者もいる。
――大谷内まで我々を裏切るのか、もう世話にはならぬ、
と、姿を消してしまった者もいる。
結局、大谷内と共に牧之原に赴いて、中条の仲間に加わった者は十名前後、家族合せて三十数名しかいなかった。
少し先走るが、この開墾団について、附記しておく。
茶の栽培と言っても、収穫は数年後のことである。それまで、とりあえず食料の自給を図らねばならない。先ず麦・大豆・甘藷・大根などの栽培をするため、点在する農家の人たちを集めて、その指導を受けながら、慣れない手に鍬を持ち、鎌をふり上げ、土を耕し、種を蒔《ま》いた。
ともすれば挫《くじ》けそうになる若い連中の気をひき立てる為、中条と大草とは、自分の家の隣に六間四方の道場をつくらせ、ここで剣術を教えたりした。
この牧之原で、最初の茶摘みが行われたのは、明治六年の初夏である。
四年の苦心が、ついに実を結んだのだ。
女たちは赤襷《あかだすき》と赤前垂と紅白染分けの手拭を用意し、茶摘籠を首にかけた。
――御代は治まる、御物はつまる、なおも上様末繁昌、
宇治の茶摘唄を真似た唄声が、晴れ渡った空に明るく流れる。
出来上った茶は、横浜の商人たちが争って買入れていった。いくらでも需要はあった。
五月十五日、中条は初めてとれた香り高い新茶を壺につめて、静岡に赴き、慶喜に献上した。既に東京の千駄谷に移っていた徳川家達に対しても、新茶を献上した。こうして、後年の、
――茶の静岡
の基礎がきずき上げられたのである。
[#地付き]〈山岡鉄舟(二) 了〉
〈底 本〉文春文庫 昭和五十七年三月二十五日刊